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ポニー・テールは、風まかせ
喜多嶋隆
目 次
第1話 オンリー・ユーが、風にちぎれて
第2話 幸せを「赤の16」に賭けて
第3話 ハーバー・ライトが眼にしみて
第4話 グッド・ラックがいえなくて
第5話 シンデレラになれなくて
あとがき
[#改ページ]
第1話 オンリー・ユーが風にちぎれて
♪
「パパ、16歳になったわ」
小さな十字架《じゆうじか》を見おろして、あたしはいった。もちろん、ひとりごとだ。
返事《へんじ》のかわりに、風が吹いた。
真珠湾《パール・ハーバー》から吹いてくる朝の風が、ゆるやかな丘《おか》を渡っていく。
見上げる青空。ヤシの葉先《はさき》が、カラカラと揺《ゆ》れていた。
ひんやりと乾《かわ》いた風は、むき出しの脚《あし》を、なでて過ぎる。少し涼《すず》しい。
あたしは、カットオフ・ジーンズのポケットに、両手を突っ込んだ。男の子みたいなしぐさ。パパが嫌《きら》いだったしぐさのひとつだ。
アロハのソデが、かすかに揺《ゆ》れる。
あたしは、朝の水平線をながめた。
ケーキも、ローソクもない誕生日《たんじようび》。
でも、いいじゃないか。胸《むね》の中でつぶやいた。
とにかく、シャバにいる。
15歳の誕生日は、感化院《ガールズ・ホーム》の中だったんだから……。
雲が、切れた。
朝陽《あさひ》に、芝生《しばふ》が輝きはじめる。鳥のさえずりがきこえる。
あたしは、大きく息《いき》を吸《す》った。
ひさしぶりの、ハワイの空気。海と、花と、陽《ひ》なたの匂《にお》いをブレンドした、ハワイ特製の空気だ。
懐《なつ》かしさと安心感が、わき上がる。旅の疲れが、少しは出たか……。
しょうがない。きのう、西海岸《ウエスト・コースト》から戻《もど》ったばかりだ。
「パパ、ごめん」
十字架《じゆうじか》に、つぶやきかけた。
「ロスじゃ、また失敗《しつぱい》をやらかしたわ」
♪
4日前。
|L・A《ロス・アンジエルス》。ハリウッド・ボウル。
新人|音楽祭《コンペテイシヨン》のステージに、あたしたちは立っていた。
参加バンドのラストだった。
思いきり、ドライヴした。いい演奏《えんそう》だったと思う。
曲の終わり近く。2万人の観客席は総立《そうだ》ちになった。
やがて、エンディング。
ブーンという残響《ざんきよう》がP・Aから消えても、歓声《かんせい》と拍手《はくしゆ》はおさまらない。
あたしは、ドラム・セットから、ゆっくりと立ち上がる。
うっすらと額《ひたい》にかいた汗《あせ》を、カリフォルニアの風が乾《かわ》かしていく。
2本のスティックを右手で握《にぎ》る。それを振って歓声《かんせい》にこたえながら、ステージ・サイドヘ。
歩いていくあたしたちの背中に、司会者《しかいしや》の声がきこえた。
「お知らせがあります」
歓声《かんせい》にかき消されそうな声が、P・Aから響《ひび》く。
「ただいま演奏《えんそう》した〈THE BANDAGE《バンデージ》〉は、エントリー手続きに、手ちがいがあったため、オープン参加となります」
司会者は、くり返す。
「オープン参加です。賞《しよう》の対象とはなりません」
あたしは、それほど驚いていなかった。メンバーみんなも、同じらしい。
予想できたことだ。
「クソ! 〈|A・TO・Z《エイ・トウー・ジー》〉が手を回しやがったな」
と、マネージャーのアントニオが吐《は》き捨《す》てた。
デビュー寸前で、あたしが感化院《ホーム》出身だってことがバレた。
その結果、巨大音楽エージェンシー〈A・TO・Z〉のデビュー作戦を、メチャクチャにした。
ロスいや全米の音楽界を支配している巨大な象を、あたしたちは怒らせてしまったらしい。
手は素早《すばや》く打たれたらしい。象の動きは、す早かった。
けど、観客は、それじゃおさまらない。
歓声が、激しいブーイングとヤジに変わる。
P・Aから響く司会者の声も、もみ消される。
「BANDAGE《バンデージ》!」
「BANDAGE!」
「BANDAGE!」
ブーイングは、あたしたちへのコールに変わっていた。
「BANDAGE!」
「BANDAGE!」
ビリーが、ニヤリと微笑《わら》った。
会場をふり返って、
「おれたちを呼んでるぜ」
と、いった。
「どうやら、そうらしいな」
とチャック。黒い顔から、白い歯がこぼれる。
「せっかく、ここまできたんだ。1曲だけ唄《うた》って帰るってのも、しゃくだな」
リカルドがいった。
「OK。やろう」
と、あたし。
「ステージ|乗っ取り《ジヤツク》!」
もう、メンバー全員、ステージに飛び出していた。歓声《かんせい》が爆発《ばくはつ》する。
「何するんだ!?」
叫んで立ちはだかろうとした司会者《しかいしや》のヒップを、あたしは回《まわ》し蹴《げ》り。司会者は、
「わわッ!」
悲鳴《ひめい》を上げて、ステージ下へ。総立《そうだ》ち、ギュウギュウづめの観客《かんきやく》の上にころげ落ちた。
位置につこうとするメンバーにも、係員《かかりいん》が駆《か》け寄《よ》る。
ヒョロッとした係員の胸に、ビリーが跳《と》び蹴《げ》り。
太った係員は、アキラが背負《せお》い投げ。
係員たちを、つぎつぎと客席《きやくせき》に放り込む。
「OK! ミッキー!」
リカルドが、マイクを握《にぎ》って叫《さけ》んだ。
同時に、あたしはスティックを振りおろしていた。
ダッダッ! ッダダダッ!
ダッダッ! ッダダダッ!
ビリーのギターが、飛び込んでくる。
音合《おとあ》わせ用の練習曲《れんしゆうきよく》、L《ライオネル》・RICHIE《リツチー》の〈オールナイト・ロング〉。
もう、誰《だれ》もとめられない。
総立《そうだ》ちの客席から、地響《じひび》きのような手拍子《てびようし》。
練習用の曲から、アップ・テンポのやつばかり、2曲、3曲、4曲、ぶっつづけに演《や》る。
思いきり、突っ走る。
ロスの空に、歓声《かんせい》と手拍子が突き抜ける。
♪
「ごめん」
あたしは、いった。
「みんな、あたしのせいだもんね」
必死でズラかってきたモーテルの部屋《へや》。
みんな、手にはCOORSの缶《かん》。タオルで汗《あせ》をふきながら、ノドに流し込む。
「いや、痛快《つうかい》だったぜ」
とビリー。みんな、涼しい顔でうなずいた。アントニオまで、
「なに、〈A・TO・Z〉だけが、音楽エージェンシーじゃなし」
サバサバした顔で、ビールを飲んでる。
「しかし、ロス一帯の音楽屋仲間じゃ、しばらくの間、俺《おれ》たちはWANTED(おたずね者)だな」
とビリー。みんな、白い歯を見せる。
「なに、みんな、すぐに忘れるさ」
とリカルド。
「音楽屋連中とかマスコミなんて、そんなものだ」
足で、冷蔵庫《れいぞうこ》を開ける。新しいCOORSを出した。
「ほとぼりがさめるまで、どのぐらいかな」
とアキラ。
「いいとこ3か月……6か月もありゃ充分だろうな」
ビールのプル・トップを開けながら、リカルドが答える。
「それまで、どうする?」
アキラがいった。
「ホノルルにいったんズラかろう。やることはいっぱいある」
とアントニオ。
「まず、オリジナル曲の準備《じゆんび》だ」
「ああ、そうだな」
ビリーが、ガラにもなく、まじめな顔でうなずいた。
あたしたちTHE BANDAGEのオリジナル曲は、まだ1曲。
「ウワサだと、ビートルズが本格的にデビューしたとき、もう150曲は書きためてたって話だ」
みんな、黙《だま》ってうなずく。
「……それはそれとして」
チャックが、背のびしながら、
「腹がへったな」
また、みんなうなずく。マネージャーのアントニオを見る。
「よし。じゃ今夜は、最高級の」
とアントニオ。
「ハンバーガーだ」
♪
「そんなわけで」
あたしは、パパの十字架《じゆうじか》につぶやきかける。
「しばらくは、ホノルルにいるわ」
たまには花でも、といいかけて、ふと気づいた。十字架の後ろに、何か置いてある。
近づいてみる。
もう、しなびている。けど、それは花束《はなたば》らしかった。
手にとってみる。
〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉……パパの好きだった花だ。
薄《うす》いイエローと、もっと薄いワイン色の入りまじった、淡《あわ》い花。
それがしなびて、ドライ・フラワーみたいになってる。
あたしが住んでた家。もう、とっくに没収《ぼつしゆう》されてしまった、あの小さな家の庭にも、この木があった。
ドラム叩《たた》きの仕事がない日。そんな日がほとんどだったけれど、パパは、この花を一日中ながめていた。
ポーチに出した、ロッキング・チェアー。
ひどく安物の、両切り煙草《たばこ》。
半インチぐらいにも短くなった煙草《たばこ》をくゆらせて、パパはこの花をながめていた。
薄青い煙。そのせいか、けむたそうに細めた眼《め》。
どんな思いがパパの胸をよぎっていたのか。あたしには、もうわからない。
そういえば、パパが死んで、もう1年を過ぎる。
2週間ぐらい前。あたしがカリフォルニアを駆け回ってた頃《ころ》が、ちょうど1年目。
誰かが、この花を置いていったんだろう。
しなびた花束を、そっと戻《もど》す。
ふと、思った。あの家に寄ってみようか。
子供だったあたしが、ドラム叩《たた》きの練習台にしたポーチの手すり。木の手すりにある、小さなへこみ。もう1度、さわってみたい。そう思った。
「じゃあ、またね」
とつぶやく。十字架の前を、はなれた。
ヤシの樹《き》に、自転車がよりかかっている。ドロップ・ハンドル。12段ギアのスポーツ車。感化院《ホーム》を出た。その翌日、かっぱらった自転車だ。
サドルに、またがる。
ウォークマンのヘッドフォーンをかける。スイッチ、ON。
流れる曲はWHAM。
トップ・ギア。朝陽《あさひ》を浴《あ》びて、あたしはホノルルの街《まち》へ走り出した。
♪
道をまちがえた。一瞬《いつしゆん》、そう思った。
けど、まちがいない。3軒先は、アンディーの家。
けど、あたしの住んでた家はなかった。もののみごとに、消えていた。
自転車から、おりる。芝生《しばふ》の前庭《まえにわ》に、自転車をバタッと倒す。あっけにとられて、ながめた。
不思議《ふしぎ》な光景《こうけい》だった。まるで、手品《てじな》だ。
四角く、芝生《しばふ》の茂《しげ》っていない場所。そこが、家のあったところだ。たぶん、そのはずだ。
いまはもう、柱1本、物干《ものほ》しロープ1本、落ちていない。きれいに整地《せいち》されている。
ぼんやりと、佇《たたず》む。
考えてみれば、無理もない。
もともと、ひどいボロ家だった。ブチ壊《こわ》されて、なんの不思議もない家だ。
ただ1本。見覚《みおぼ》えのある木が、庭の端《はし》に立っていた。
〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉……。
あたしは、ゆっくりと木に近づいた。
枝には、淡《あわ》い色の花がいっぱいに咲《さ》いていた。その一画《いつかく》だけが、昔と変わらずに。
もっと近づく。手のとどく高さの枝先に、切られたあとがあった……。
そうか。
パパの十字架に置いてあった花束は、たぶん、この枝から切ったんだろう。けど、誰《だれ》が……。
クルマのとまる音。ふり返る。
トラックが、駐《と》まった。ボディに〈WILSON & SON’S Co.〉と書いてある。
男が2人、おりてきた。2人とも、白人。がっちりとした体格。青いツナギの作業服《さぎようふく》を着ている。
2人は、近づいてくる。
片方は、|電動ノコギリ《チエーン・ソウ》を持っている。
「ちょいと、お嬢《じよう》ちゃん」
1人が、あたしに、
「そこをどいてくれないか。じゃまなんだ」
と、いった。ガムを、クチャクチャとかんでいる。
「何するの」
「何って、この木を切り倒すのさ」
つまらなそうな顔で、|電動ノコギリ《チエーン・ソウ》を持ったやつがいった。
「切り倒すって……」
「そう。ここにゃ、新しい家が建《た》つんでね。どいたどいた」
1人が、あたしの肩《かた》を押しのけようとした。
「やめてよ」
そいつのスネを、あたしは蹴《け》りつけていた。
「ウッ」
やつは、うめく。しゃがみかける。
「何しやがる。この、ジャップのガキが!」
あたしに、つかみかかろうとする。
ヒップ・ポケットにさしたスティックに、手をのばした。瞬間《しゆんかん》、後ろからつかまれた。
もう1人のやつの太い腕が、羽がいじめにしてくる。
「何だ!? この小娘《こむすめ》は」
上半身の自由がきかない。足をバタバタさせる。
羽《は》がいじめにしてるやつのスネに、右足が当たった。とたん、
「チッ!」
すごい馬鹿力《ばかぢから》で、投げ飛ばされた。落ちたところに、ちょうど自転車があった。
ガツ!
自転車のどっかに、頭をぶつけた。一瞬《いつしゆん》、まぶたの奥に火花《ひばな》が散る。背中も、ぶつけたらしい。息がつまる。
遠くで、男たちの笑い声。やがて、電動ノコギリの金属音《きんぞくおん》。
のろのろと、あたしは体を起こす。四つんばいになって、顔を上げる。
ノコギリが、〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉に、くい込んでいくのが見える。
木が揺《ゆ》れる。花が、パラポロと落ちる。あっけないほど簡単に、木は切り倒されていく。
「ほら、そっちに倒れるぞ!」
男たちの、笑い声。
「勝手に、下敷《したじ》きになれ!」
木が、ゆっくりと倒れてくる。芝生《しばふ》の上。ころげて、よける。
すぐわきに、木が、重い音をたてて倒れてきた。
両手で、頭をガードする。散った花びらが、体と自転車の上にふりそそいできた。
♪
「エーイ、ゼア!」
ブーゲンビリアの垣根《かきね》の上。フランキーの黒い顔がのぞいた。
「ミッキー、どうした」
バスケット・ボールみたいな顔から、白い歯がのぞく。
フランキーは、ロコ・ボーイ。あたしの、幼友達《おさなともだち》だ。
「どうしたい、そのかっこうは」
「自転車で、ころんだのよ」
あたしは、フランキーに笑いかけた。たしかに、ひどいさまだ。
自転車のペダルかどこかでつくったんだろう。左モモには、大きなスリ傷《きず》。
頬《ほお》からも、少し血が出ている。アロハには、大きなカギざき。おまけに、あちこちが、土まみれだ。
「入んなよ」
とフランキー。
プナホ高校《ハイスクール》に近い高級住宅。ゴードンっていう人の屋敷《やしき》だ。
フランキーは、バイトで、ここのハウス・ボーイをやってる。
「家の人は?」
「ああ。きょうも留守《るす》さ」
とフランキー。どうやら、庭掃除《にわそうじ》の最中《さいちゆう》だったらしい。
「プールに入れてくれない」
あたしは、いった。
「シャワーがわりに、泳《およ》ごうってんだな」
フランキーは、ニッと笑うと、
「いいよ。おれは、これからアラ・モアナまで買い物にいくところさ」
「ありがとう」
あたしは、庭に入る。庭には、楕円《だえん》形のプールがあった。
フランキーが、クルマで出かけていく音がする。
ボロボロの服を脱《ぬ》ぎ捨《す》てる。プールのまっ青な水面に、ザブリと飛び込んだ。
スリ傷《きず》が、少し、しみた。けど、水の冷《つめ》たさが気持ちいい。
仰向《あおむ》けに、水に浮かぶ。ゆっくりと動いていく白い雲をながめる。
元気出せよ、ミッキー。自分にいいきかせる。
砂浜《すなはま》も、芝生《しばふ》も、気が向いたところが、自分のホテルだ。
チェック・イン自由。
ルーム・チャージ無料。
チップなし。
〈ユー・アー・ザ・サンシャイン・オブ・マイ・ライフ〉を口ずさみながら、ゆっくりと泳ぎ回る。
ポニー・テールにでも、くっついていたのか。
レインボー・シャワー・ツリーの花びらが1枚、青い水面に漂《ただよ》っている。
♪
〈ONO《オノ》 CAFE〉のドアを押した。
エディ・小野《おの》は、ひとり。カウンターの中で、〈|はまぐり《クラム》〉の身をむいていた。
午後2時半。客は、1人もいない。ケワロ湾《ベースン》の|船乗り《クルー》たちも、トローリングに出ている頃《ころ》だ。
「やあ、ミッキー」
「ハイ、エディ」
あたしは、カウンターに坐《すわ》る。
「何か飲むかい」
「何か飲まして」
エディは、手を洗う。CAMPARI & BEERを、つくりはじめた。
ラジオから、D《ダイアナ》・ロスの唄《うた》うバラードが流れている。
「バンドの連中《れんちゆう》は?」
「さっきまで、ここで昼メシを食ってたがね」
とエディ。
「ビリーは、大麻《パカロロ》を仕入れにダウン・タウン。チャックとリカルドは、映画《えいが》」
「映画?」
「ポルノさ」
エディは、ニヤリと微笑《わら》う。腰《こし》を前後に動かすしぐさ。
「まったく、あいつら」
「ま、たまにゃ、息抜《いきぬ》きもいいじゃないか」
あたしの前に、CAMPARI & BEERのグラスが置かれた。
「でも、あの日系の、アキラってのは、曲をつくるんだとかいって、〈ホノルル・コロシアム〉にいったよ。まじめなやつだね」
あたしは、うなずく。グラスに口をつけた。SALEMを1本くわえる。火をつけて、
「ねェ、エディ。パパのお墓に、花束《はなたば》を置いた?」
「花?」
エディは、目を丸くする。
「そりゃ、おれはユーのパパとは、兄弟《きようだい》みたいな間柄《あいだがら》だった。が、花束なんて洒落《しやれ》たことはなァ……」
「それもそうねェ」
CAMPARI & BEERを飲みながら、あたしは、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「じゃ、誰《だれ》なのかしら。家《うち》の庭にあった木から花を切って、パパの十字架《じゆうじか》に……」
「ふうん」
エディの瞳《ひとみ》が、キラッと光った気がした。
「どうしたの」
「いや、何も」
「心当たりが、あるんでしょう、エディ」
「いや」
「かくしたってダメよ。すぐ順に出ちゃう性格なんだから」
曲が、S《ステイービー》・ワンダーに変わった。
「白状《はくじよう》しないと、デマをバラまいちゃうぞ」
「デマ?」
「そう。この店で食べたカキで、食当たりしたって。ケアロ湾《ベースン》中に、いいふらしちゃうから」
「まってくれよ、ミッキー」
エディは、苦笑《にがわら》い。
「いっちゃいなさいよ。心当たりを」
エディは、汚《よご》れてもいないカウンターを、セカセカと拭《ふ》く。コメカミに、アブラ汗《あせ》。
「その……」
「その?」
「その花を置いたのは……もしかしたら」
「もしかしたら?」
「あんたの……ママかもしれない」
♪
思わず、グラスを落《お》っことすところだった。
「ママって……」
そんなこと……口に出かかった言葉を、飲み込んだ。
あたしが、まだ子供だった頃、ママは家を出ていった。
物心ついたあたり。たぶん、5歳|頃《ころ》だ。
以来、あたしはパパと暮らしてきた。ママの顔さえ、もう、ほとんど覚えていない。
自分には、もともと母親なんていないんだ。そう思って、生きてきた。
「でも、ミッキー」
エディは、冷蔵庫《れいぞうこ》からOLYMPIAを出しながら、
「ユーだって、キャベツ畑《ばたけ》でとれたわけじゃあるまい」
「そりゃそうだけど……」
言葉に、つまった。心にひっかかるものがあるからだ。
パパは、男っぽい性格で、テレ屋でもあった。レインボー・シャワー・ツリーの花が好《す》き。そんなこと、家族しか知らないかも……。
「おれだって、はじめてきく話だぜ」
とエディ。ビールを、ゆっくりと飲みながら、
「ママが、昔、|唄い手《シンガー》だったのは、知ってるだろう」
あたしは、小さくうなずいた。
日系人《につけいじん》相手のクラブで、唄《うた》っていたらしい。パパと出会ったのも、そんな頃《ころ》だったって話だ。
うっすらとした記憶《きおく》がある。
どこかのクラブ。
たぶん、音楽仲間のパーティー。パパが、ドラムを叩《たた》いていた。
小さかったあたしは、ママに抱《だ》かれて、ステージの上。
ママは、何か唄《うた》っていた。かなり、|しゃがれ声《ハスキー・ヴオイス》。鼻をくすぐる、安香水《やすこうすい》。
曲は……。
「〈オンリー・ユー〉だったよ」
エディが、つぶやくように、いった。
「ママの、得意《フエイバリツト》なナンバーだった……よく覚えてるよ」
あたしに微笑《わら》いかけると、
「そのとき、ギターを弾《ひ》いてたのは、おれだったからね」
2缶目のOLYMPIAを出しながら、
「ミッキー、ユーも、もう子供《こども》じゃないし、別にかくすほどのことじゃないけど、ママは、いまも唄《うた》いつづけて生活してるらしい」
「…………」
あたしの指先から、煙草《たばこ》の灰が、ポロリと落ちた。
「……どこで?」
声が、少しかすれた。
「おれも、他人《ひと》からきいた話なんだが、米軍基地のクラブを、渡り歩いてるらしい」
「米軍基地……」
「ああ、そういうウワサだ」
「ドラム叩《たた》きのパパを捨てたくせして、また音楽の仕事に……」
エディは、無言《むごん》でうなずくと、
「ママは、家を出ていったとき、確か、20代のまん中。日系人の中でも、なかなかの美人だった」
ビールを、ゆっくりと口に運びながら、
「白人の金持ちでもつかまえて、すぐに再婚《さいこん》するだろう。おれたちは、そんなウワサをしてたものさ。だけど……」
「だけど?」
「本人が思ってたほどには、生き方が、上手《じようず》じゃなかったのかもしれんなァ」
「唄《うた》と同じね」
「ああ……」
きょうのCAMPARI & BEERは、少し苦《にが》い。あたしは、2本目のSALEMに火をつけて、
「ママの消息《しようそく》を、もっと知りたければ?」
「…………」
エディは、あたしの瞳《ひとみ》を、じっとのぞき込む。
「心配しないでよ。もう子供《こども》じゃないって、いったのは誰?」
「そうだったなァ」
エディは、苦笑《にがわら》い。人のいい日系ハワイアンの顔。ハゲ頭に、窓から入る午後の陽《ひ》が光る。ラジオが、R《リチヤード》・ティーの軽快《けいかい》なピアノを流しはじめた。
♪
〈BAR OF THE RISING SUN〉
〈朝陽《あさひ》の当たるバー〉か。
あたしは、看板《かんばん》を見上げた。
店の名前とは逆《ぎやく》。きょう最後の赤っぽい夕陽《ゆうひ》が、看板に照り返している。
金属でつくった文字は、かなりくたびれていた。
BARのRは、右に30度ぐらい傾いていた。
SUNのSなどは、ほとんど横に、寝《ね》っころがっている。
ダウン・タウン。ビショップ通り。たそがれの街《まち》は、かすかに潮《しお》の匂《にお》いがした。
あたしは、自転車を店の壁にたてかける。ゆっくりと、木のドアを押した。
入る。
ツンと、鼻をつく匂《にお》い。甘《あま》ずっぱい、おなじみの匂い。大麻《パカロロ》だ。
夕方。とはいっても、外はまだ明るい。店の暗さに、なかなか眼《め》がなれない。
10人分ぐらいのカウンター。テーブルが、いくつか。眼を細めて、店の中を見回す。
ふいに! 鼻先を、河かがよぎった。
カッと小さな音。音のした方に、ゆっくりと首を回す。
顔の1インチわき。木のドアに、ダーツ・ゲームの矢が刺《さ》さっていた。
カン高い笑い声。そっちに首を回す。
眼《め》が、なれてきた。
店のまん中のテーブル。4、5人の男たちが坐っている。
みんな白人《はくじん》。中年のやつらだ。
今度は、反対側! 耳のすぐわきで、ヒュッと空気がふるえた。
ドアに矢の刺《さ》さる音。
さっきより大きな笑い声。
「うまいぞ、ジム」
カン高い歓声《かんせい》。男たちの眼は、酔いにチカチカと光っている。
酒じゃない。大麻《パカロロ》。もしかしたら、コークも……。
「標的《ひようてき》は、ジャップ!」
「いや、ありゃ、ヴェトコンだぜ」
「おれにもやらせろ」
別の男が、矢の束《たば》を握《にぎ》る。
あたしは、右手を、そっと後《うし》ろに。ヒップ・ポケットにさしたドラムスのスティックを握る。
「ほれ!」
矢が飛んできた! あたしはもう、スティックを引き抜いていた。
顔の前。飛んできた矢を、カツーンと弾《はじ》きとばした。
「おッ、味《あじ》なマネするぜ。このガキは」
2本目の矢も、正面《しようめん》。スティックでパシッと叩《たた》き落とす。
3本。4本。
いくらやっても、同じことだ。木のフロアに、矢が散らばっていく。やつらの眼が、据《す》わってきた。
「この、ヴェトコンが」
つぶやくと、1人が立ち上がった。瞳《ひとみ》が、アブラっこく光っている。
ほかのやつらも、ゆっくりと立ち上がる。
全員、体が大きい。海兵隊《マリーン》タイプ。もしかしたら、特殊部隊《グリーン・ベレー》。
あたしは、深呼吸《しんこきゆう》。ちょっとホコリっぽい店の空気を、吸い込む。
だいじょうぶだ。落ちついている。
「あたしは、ヴェトコンじゃないわ」
「ほう、英語がしゃべれるのか」
「サージャント・ライオンに会いにきただけよ」
「ここにいるのは、みんな軍曹《サージヤント》さ」
乾《かわ》いた笑い声。けど、バカ笑いじゃない。
4人が、横に広がる。ゆっくりと、あたしを囲《かこ》んでくる。
1人の手が、腰にのびた。シー・ナイフの刃《は》が、冷《つめ》たく光る。
2人、3人、4人……ナイフを抜いてきた。よく訓練された握《にぎ》り方だ。
何をいっても、ムダだろう。酔《よ》っぱらいとは、ちがう。
全員、頭はハイになってる。けど、闘争本能《とうそうほんのう》だけは鋭《するど》い。そいつが、〈|麻薬びたり《ジヤンキー》〉のやっかいなところだ。
あたしは、左手も後ろへ。もう1本のスティックを、引き抜く。
ジリッ、ジリッと、やつらがつめてくる。
あたしは、左のスティックを、マッチド・グリップに握《にぎ》りなおす。
たぶん、いっせいに、かかってくるだろう。
落ちつけ。勝ち目のあるなしは考えるな。
自然体《しぜんたい》。頭の中を、カラにする。反射神経《はんしやしんけい》だけが、頼《たよ》りだ。
ホノルル港《ハーバー》の方から、かすかな汽笛《きてき》。それが合図《あいず》のように、右端《みぎはし》のナイフが、ひらめいた。
ふみ込みながら、体を沈《しず》める。頭上を、白い光が走る!
そいつの腕を、右のスティックでビシッと叩《たた》き上《あ》げる! たぶん折れた。
同時に、左からかかってきたやつの胴《どう》を、左のスティックで払う!
肋骨《ろつこつ》を叩き折った手ごたえ。
あたしはフロアに、ころがった!
地面《じめん》にころがった人間には、ナイフを使いづらい。真剣勝負《しんけんしようぶ》のセオリーだ。
3人目のスネを、右のスティックで、ビシッと横に払《はら》う!
そいつがフロアにくずれると同時に、あたしはヒザをついて立ち上がる!
せいぜい3秒間。
そのぐらいのやりとりだったろう。
4人目のデブは、5、6ヤード先。眼《め》に、驚きと恐怖感《きようふかん》があふれていた。
1歩、やつは後退《こうたい》。あたしは、1歩つめる。
「〈軍曹《サージヤント》〉は、どこ」
と、きいた。
「サージャント・ライオンって男は、どこにいるの。こいつらみたいに、なりたくなかったら」
スティックで、フロアにくたばってる3人をさすと、
「いいなさい」
「クソッ!」
やつは、ナイフをふり上げる! 投げつけてきた! ナイフは、肩口《かたぐち》あたりに飛んできた。軽くよける。シンバルを叩くフォームで、カシッとそれを弾《はじ》く。
ナイフは、フロアの端《はし》まで、ころがっていく。
「そう。しばらく入院したいってわけね」
あたしは、また1歩、つめた。そのとき、
「そこまでだ」
落ちついた声が、店に響《ひび》いた。
♪
店の奥。カウンターの端《はし》に、小柄《こがら》な男が、もたれかかっていた。
やはり、白人。中年《ちゆうねん》。
レイ・バンのシューティング・グラス。右手には、自動拳銃《オートマチツク》。たぶん、38口径《こうけい》あたり。
「勝負《しようぶ》ありだな」
4人目のジャンキーに、やつは、いった。あたしに銃口《じゆうこう》を向けたまま、
「こいつらを、病院《びよういん》に連れてけ」
やつは、鋭《するど》くいった。
4人目は、のろのろと仲間《なかま》を助けはじめる。
「あんたみたいな腕《うで》ききがいたら、米軍も、ヴェトナムで恥《はじ》をかかなかったものを」
やつは、あたしに向かっていった。
口の端で、ニッと微笑《わら》った。
「サージャント・ライオンに、なんの用だ」
「ききたいことがあるの」
「ききたいこと?」
「〈オールド・B〉って呼ばれてた、女性シンガーのことよ」
「〈オールド・B〉か……」
やつは、つぶやく。
黄色いレイ・バンをはずす。カウンターに置く。
「で? 〈オールド・B〉が、どうした」
「その前に、あんたは、誰《だれ》?」
「おれか?」
やつは、自動拳銃《オートマチツク》の安全装置《サム・セーフテイ》をかける。カウンターに置く。
「あんたがさがしてる、ライオン軍曹さ」
やつは、グラスを出す。氷を2、3個。酒棚から、VODKAをとる。グラス半分ぐらいまで、注《つ》ぐ。
「頼《たの》むから、そのスティックで、ひっぱたかないでくれよ」
ライオン軍曹は、ニカッと微笑《わら》う。
「こいつを飲み終わるまでは、な」
あたしも、緊張《きんちよう》をほどく。
スティックを、カットオフ・ジーンズのヒップに、戻《もど》した。
「あんたの手下《てした》?」
運び出されてく連中を、あたしはアゴでさした。
「いや」
軍曹《サージヤント》は、首を横に振る。VODKAを、ぐいと飲む。
「しかし、連中が手荒《てあら》なマネをしたのは、あやまる。とにかくおれの店だからな」
VODKAを、ふた口で飲《の》み干《ほ》す。
「やつらは、病人なんだ」
「病人?」
「ああ」
「でも、元気いっぱいに、ナイフを振り回したわ」
軍曹《サージヤント》は、2杯目のVODKAをグラスに注《つ》ぐ。
「心が、病気なんだ」
「…………」
軍曹は、フロアから、ダーツ・ゲームの矢を1本ひろう。
「ヴェトナム……カンボジア……」
壁にかけた丸いコルク・ボードの的に、矢を投げる。
矢は、ボードの端《はじ》っこに、力なく刺《さ》さった。
「最前線に2年もいると、生き残ったやつの半分は、あれだ」
また、VODKAを、ぐいと欽む。
「なぜ、この店に〈BAR OF THE RISING SUN〉ってつけたか、わかるか?」
あたしは、首を横に振った。
「朝までやってるからさ。いくら眠りたくても眠れない連中が、毎朝、7時8時まで、飲んでる」
「…………」
「みんな、おれと同じ。インドシナ戦線から除隊《じよたい》してきた人間さ」
軍曹は、おだやかに、けど少し苦い笑顔《えがお》を見せた。
「あんた、思ってるね。なぜ、おれが、こんなチビのおれが、サージャント・ライオンなんて呼ばれてるかって」
あたしは、うなずいた。
「名前が、ライアンだからさ」
軍曹《サージヤント》は、微笑《わら》いながら、3杯目のVODKAをグラスに注《つ》いだ。
軍曹は、軽く片足をひいていた。
誰かに、似《に》ている。優《やさ》しそう。だけど、人の心を正確に見抜きそうな瞳《ひとみ》。
そうか……ダスティン・ホフマン。
確か、〈真夜中《まよなか》のカウボーイ〉って映画で、薄汚《うすよご》れたイタリー移民《いみん》の役をやったときの、ダスティン・ホフマンだ。
「で? 〈オールド・B〉が、どうしたって?」
「彼女には、1人だけ、娘がいたわ。10年前に別れた……」
「ああ……きいたことがあるな。それが?」
「あたしの、友達《ともだち》なの……」
「そういうことか」
軍曹は、深呼吸《しんこきゆう》。
「ここは、空気が悪いな」
4杯目のグラスを持つと、
「屋上《おくじよう》にいこうか」
♪
「いいながめね」
あたしは、海からの風を、胸いっぱいに吸《す》い込《こ》んだ。
つい20分前。命のやりとりをしたことなんか、ウソみたいだ。
3階の屋上《おくじよう》。向こうに、ホノルル港《ハーバー》が広がっている。
海は、薄《うす》いブルーに暮れかかっていた。雲は淡《あわ》いピンク。
アロハ・タワー。レストラン。倉庫《そうこ》。浮かんでる船。あちこちで、灯《ひ》がともりはじめている。
軍曹《サージヤント》、正確にいうと元軍曹は、あたしと並んで港をながめる。
あたしの方が、頭ひとつ、高い。
「そうか……〈オールド・B〉にも、あんたぐらいの娘がいたんだなァ」
軍曹は、つぶやいた。
「とにかく、おれの知ってることだけを話す。それで、いいかい」
あたしは、うなずいた。
ポケットから、煙草《たばこ》を出す。SALEMは、さっきの乱闘《らんとう》でクシャクシャだ。
よじれ曲《ま》がった煙草を、くわえる。オイル・ライターの炎《ほのお》が、潮風《しおかぜ》に揺《ゆ》れた。
「〈オールド・B〉は、兵隊みんなから好《す》かれてた」
軍曹《サージヤント》は、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「シンガーとしては、それほど上手《うま》くはなかった。ハスキー・ヴォイスを通りこして、ダミ声だった。けど、好かれてた。たぶん、カラッとした性格のせいだな」
あたしは、ハッカの香《かお》りと海の匂《にお》いを、いっしょに吸い込んで、
「どうして、〈オールド・B〉って呼ばれてるの」
と、きいた。
彼女には、ママには、亜記子《あきこ》ってファースト・ネームがあるはずだ。
軍曹は、少しの間、無言《むごん》。暮れていく空を、見上げる。カモメが6、7羽、のんびりと漂《ただよ》っている。
「〈B52〉って、知ってるか」
「爆撃機《ばくげきき》でしょ」
「ああ。〈オールド・B〉の〈B〉は、〈B52〉の〈B〉」
「…………」
「ひとくちに〈B52〉といっても、いろいろある。たとえば、〈B52−G〉といやあ、新型《しんがた》だ」
軍曹は、右手のひらを、水平にのばすと、
「空中|給油《きゆうゆ》なしで、グアムから本土《メイン・ランド》まで、飛んでいける」
「…………」
「ところが、〈オールド・B〉っていえば、古い型の〈B52〉。兵隊《へいたい》のスラングだが、航続距離《こうぞくきより》が短く、ポンコツに近いやつだ」
「それが、なぜ、彼女《かのじよ》のニック・ネームに?」
「彼女も、ステージじゃ、えらく航続距離が短かった」
「…………」
「いつも、ステージのラストまで、たどりつかない。とちゅうでメロメロになっちまう」
「…………」
「ラスト・ナンバーは、いつも〈オンリー・ユー〉なんだが、それをきいたやつは、あまりいない」
「なぜ、とちゅうでメロメロに?」
「酒さ」
軍曹《サージヤント》は、左手のグラスを、かざしてみせた。
VODKAの中の氷《こおり》が、淡《あわ》い夕陽《ゆうひ》に光っている。
「おれも、他人《ひと》のことはいえないが、彼女の酒量は、すごかった」
「…………」
「ステージで唄《うた》いながら、ボトル半分から1本は、あけてたようだ」
「どうして、そんなにお酒を?」
「さあ、わからんねェ」
軍曹は、口をとがらせてニッと微笑《わら》った。
小さな顔が、ネズミみたいになる。
「兵隊ってのは、自分が生き残るのだけに、精一杯《せいいつぱい》だ。他人の庭の芝生《しばふ》まで、刈《か》ることはできないからな」
「…………」
「だが、1度だけ、酔った本人からこんな話をきいたことがあるなァ……」
軍曹は、グラスを口に運ぶ。氷が、乾《かわ》いた音をたてた。
「たぶんあんたも知ってるだろうが、彼女は家を捨てた。亭主《ていしゆ》と、その一人娘《ひとりむすめ》を置いてね」
「…………」
「彼女が家を出ていく、そのとき。まだ小さかった娘が、こういったそうだ。〈いってらっしゃい〉ってね」
「…………」
覚えていない。
「思わず、言葉につまったそうだよ。けっきょく、何もいえずに家を出てきた。とにかく、心の一部を、置き忘れてきた。そんな感じだったらしい」
あたしは、空を見上げた。
最初の星が、小さく光っている。
「いまの彼女は、燃料切《ねんりようぎ》れ、失速状態《しつそくじようたい》で、フラフラと太平洋《たいへいよう》をさまよってるボロボロの〈B52〉。ま、たとえれば、そんなところだ」
「…………」
「あんたの友達だっていう、彼女《かのじよ》の娘に、こういっといてくれ」
軍曹の眼が、あたしをじっと見つめた。
「〈オールド・B〉に、はっきりと〈サヨナラ〉をいってやれ。〈グッド・バイ〉、〈くたばれ〉、なんでもいいからってね」
「…………」
「たったひとことの〈サヨナラ〉が、彼女の心の荷物を少しは軽くすることができるだろう」
港を出ていく船が、長い汽笛《きてき》を響《ひび》かせた。
「〈オールド・B〉の消息《しようそく》は?」
「たぶん、調《しら》べられるだろう」
軍曹は、
「しかし、ドジな話だよなあ」
と、つぶやいた。
「別れの言葉をいいそびれるなんて……〈航行地図《フライト・マツプ》〉を忘れて飛び立つより悪い」
VODKAを飲《の》み干《ほ》すと、
「兵隊なら、軍法会議《ぐんぽうかいぎ》ものだぜ」
ホロ苦く、微笑《わら》った。
♪
スパンッ! フロア・タムのフェースが、破れた。演奏《えんそう》ストップ。
「おい、ミッキー、またかい」
とアントニオ。
「きょう、もう3枚目じゃないか」
両手を広げて、天井《てんじよう》を仰《あお》ぐ。
フェースは、REMO《レモ》の最高級だ。
「1枚いくらだと思ってるんだい」
「ケチなことは、いいっこなしよ」
あたしは、フェースを交換《こうかん》しながら、アントニオに微笑《わら》いかけた。
「いずれスーパー・スターになったら、あんたも、たっぷり稼《かせ》げるんだから」
「それまでに、楽器代とメシ代で破産《はさん》だよ」
とアントニオ。冷蔵庫《れいぞうこ》から、COORSを出して、みんなに配《くば》る。
午後3時。カパフル通りのライヴ・ハウス、〈ホノルル・コロシアム〉。客は、いない。
新しいオリジナル曲の練習中だった。
「いい手がある」
肩からギターをおろして、ビリーがいった。
「ドラムのフェースのかわりに、アントニオのツラの皮を張る」
「悪くないね」
とチャック。みんなの笑い声。練習の緊張感《きんちようかん》が、やわらいでいく。
〈けど、やっぱり、破り過ぎる……〉
新しいフェースを張り、ボルトを締《し》めながら、あたしは思った。
ドラムのフェースなんて、それほど破れるものじゃない。
けど、楽器ってやつは、正直《しようじき》だ。プレイヤーの心に乱れがあると、あっけなくフェースが破れたり、ギターの弦《げん》が切れたりする。
あたしの心にある乱れは、もちろんママのことだ。
迷い。とまどい。同時に、腹立《はらだ》たしさも、わき上がる。
いまさら……。
いまさら……。
プールの水面に顔を出して、水を弾《はじ》き飛ばす。そんなときみたいに、鋭く頭を振った。
最後のボルトを、キュッと締《し》める。
「お待たせ! 練習再開」
♪
カン!
カカン! カカン!
カンカンッ カカカン!
とめた自転車にまたがって、あたしはハンドルを叩《たた》いていた。
カンカン! カカカカ!
カンカン! カカカカ!
深夜2時。アラ・モアナ海岸公園《ビーチ・パーク》の駐車場《ちゆうしやじよう》。ひとけは、ない。
海が、かすかな月明かりに光っている。
カカカン! カカカン!
カカカン! カカカカ……。
かなり、疲れてきた。これで、眠れるかもしれない。スティックを、ヒップ・ポケットにさした。
瞬間《しゆんかん》!
ポニー・テールをつかまれた。思いきり、後ろに引き倒された!
顔から、コンクリートに落ちた! 頭の中で、火花《ひばな》が散る。鼻の奥がツンとする。
額《ひたい》に手をやる。ヌルッとした感触《かんしよく》。
ゆっくりと、見上げる。
3人の人影《ひとかげ》。月明かりで、連中の顔は、わかった。
できれば、こんなところで会いたくなかった連中。
ジニーたちだ。
感化院《ガールズ・ホーム》にブチ込まれてた頃《ころ》、いつもやり合ってた白人のロコ・ガール。かなりなワルたちだ。
「誰かと思えば」
「これはこれは、ミッキーじゃない」
「あい変わらず、貧乏《びんぼう》ったらしいナリをしちゃって」
3人とも、ニヤニヤ微笑《わら》ってた。
「あら、ミッキー、血が流れてる」
ジニーは、PRIMOのビンを持ってた。その中味《なかみ》を、あたしの顔に、ふりかける。
頭に、顔に、胸に、ビールがふりそそいでくる。連中の笑い声が、ひとけのない駐車場に響く。
カラになったPRIMOのビンを、ジニーはさか手に握《にぎ》った。武器にするつもりだろう。
ほかの2人も、ビールのビンをさか手に握った。
3人とも、ニタニタ微笑《わら》い。
3対1。絶対に、負けるはずはない。そんな顔だ。
感化院《ホーム》の中なら、そうだったろう。あたしのスティックは、とりあげられていたから。
けど、いまはちがう。
あたしは、ゆっくりと立ち上がる。
カットオフ・ジーンズの、ヒップ・ポケット。さしてある2本のスティックの、コリッと硬《かた》い感触《かんしよく》。
ジニーが、1歩、つめてきた。あたしは、そっと右手を後《うし》ろに。
左にいる赤毛《あかげ》も、ジリッとつめてくる。
ボスのメンツにかけて、まず、ジニーがしかけてくるだろう。
予想どおり! ジニーの握《にぎ》ったビンが、顔をめがけてブンッと飛んできた。
あたしはもう、右手でスティックを抜いていた。
シンバルを叩《たた》くフォーム! ジニーの手首《てくび》を、ビシッとひっぱたいた。
うめき声。
赤毛《あかげ》がつっかかってきたときには、左手にも、スティックを握っていた。
フォーマル・グリップ。ビンを握ったヒジを、叩《たた》き上げる。
悲鳴。コンクリートに落ちたビンの割れる音。
3人目。正面《しようめん》から、ビンを振りおろしてきた!
左に、よける。
空を切ったその右手首を、ひっぱたく。フロア・タムを叩く感じだった。
小さな悲鳴《ひめい》。体が、くずれ落ちる音。あっけなかった。
クルマのライト。
パトカーかもしれない。
スティックを、ヒップ・ポケットに。素早《すばや》く、自転車にまたがる。
駐車場《ちゆうしやじよう》を飛び出す。
ひとけのない海岸道路を、2、300ヤード突っ走る。
ふり返る。誰も、追っかけてこない。スピードを、落とす。
ちょっとやりすぎた、と思った。ビンだけを、叩《たた》き落とせばよかった。できることだった。
けど、ジニーの手首《てくび》は、かなり強くひっぱたいた。ヒビぐらい入ってるかもしれない。
なぜ、手かげんできなかった……。イラつくんじゃない、ミッキー。
自分につぶやきながら、自転車を走らせる。
流れる血が、頬《ほお》をつたっていく。
♪
青い灯《ひ》が、チカチカ点滅《てんめつ》している。パトカーの灯だ。
2台、3台、4台……。あたしは、驚いて自転車からおりた。
ダウン・タウン。午後3時。
〈BAR OF THE RISING SUN〉は、パトカーに囲《かこ》まれていた。
自転車を押して、人垣《ひとがき》の中へ。見物してるチャイニーズのおっさんにきいた。
「なんかあったの?」
「いや、麻薬《まやく》の手入《てい》れさ」
おっさんは、つまらなそうにいった。
あたしは、人垣の一番前へ。
やがて、サージャント・ライオンが、出てきた。警官に、左右の腕をつかまれている。
手首には、手錠《てじよう》。がっちりとした警官にはさまれた軍曹《サージヤント》は、さらに小さく見えた。
彼は、あたしに気づいた。目の前で、立ちどまった。
「その包帯《ほうたい》は、どうした」
「ころんだのよ」
「そうか……」
軍曹は、苦く微笑《わら》うと、
「……〈B52〉は、フィリピンに飛んでいったらしい」
と、いった。左右の警官には、何のことか、さっぱりわからないだろう。
「そう……ありがとう」
「元気でな」
「軍曹《サージヤント》も……」
警官に押されて、軍曹はパトカーに。1度も、ふり返らなかった。
小さな体が、パトカーに乗り込んでいく。
サイレン。
青ランプを点滅《てんめつ》させながら、パトカーはビショップ通りを南へ。ホテル通りの角《かど》を曲《ま》がって、見えなくなった。
「フィリピン……」
小さな声で、あたしはつぶやいていた。
♪
「いくらいるんだ」
エディ・小野は、いった。
〈ONO CAFE〉
「なぜ、わかるの」
エディの前に坐《すわ》った。
「あたしが、出かけるって」
エディは、ジャガイモの皮をむきながら、
「そりゃ、ミッキー、ユーの顔に書いてあるよ」
と、いった。
「そう」
あたしは、ラジオのスイッチを入れた。
「しんどい旅になるかもしれないよ」
とエディ。あたしは、無言《むごん》でうなずいた。
「兵隊ってのは、どこでも、気持ちが荒れてるものだ」
エディは、あたしの前にOLYMPIAを置きながら、
「危《あぶ》ない目にも、遭《あ》うかもしれない」
「わかってるわ」
あたしは、ビールをひと口。
「持ってくかい」
カウンターに、22口径《こうけい》の自動拳銃《オートマチツク》が、ゴトッと置かれた。あたしは、首を横に振った。
「なんとか、やってみるわ。これがあるもの」
ヒップ・ポケットにさした、2本のスティックに、そっとさわった。
死んだパパが残してくれた、2本のスティック……。
「じゃあ、せめて」
ペーパー・ナプキンにくるんだものを、エディはさし出す。お金だろう。
「……ありがとう。借《か》りるわ」
そっとふれたエディの掌《て》は、温かかった。
雑音《ざつおん》まじりのラジオが、W《ウイリー》・ネルソンの〈オーバー・ザ・レインボー〉を流している。
♪
ケワロ湾《ベースン》に、たそがれがせまっていた。
あたしは、岸壁《がんぺき》に腰をおろした。
額《ひたい》に巻いた包帯《ほうたい》。包帯のあまりで、ポニー・テールを束《たば》ねていた。
〈サムライ〉
〈ティナ・レイ〉
〈マヒマヒ〉
〈ケープ・コッドU〉
トローリング船《ボート》が、つぎつぎと帰ってくる。そして、あたしは、あしたの朝、旅に出ていく。
ただひとことの〈グッド・バイ〉をいうために……。
暮れていく空を、あたしは見上げた。
くだらないことだろうか。馬鹿馬鹿《ばかばか》しいことだろうか。
でも、しょうがない。上手《じようず》に生きられないのは、親ゆずり。
十字架《じゆうじか》のかげでしなびていた〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉の花。太平洋を失速しながら漂《ただよ》っている、オンボロの〈B52〉。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。唇をかんで、涙をこらえた。
エディのくれた包みを出す。ペーパー・ナプキンを開ける。
ドル札を、カットオフ・ジーンズのポケットにねじ込んだ。
ヒザに置いた、楽譜《がくふ》ノート。その上に、ペーパー・ナプキンを広げる。
フェルト・ペンで、置き手紙を書いていく。
〈2、3週間、ホノルルを留守《るす》にします。
心配しないで。
ビリーへ。大麻《パカロロ》を吸いすぎないように。
チャックへ。食べ過ぎちゃダメよ。
アキラへ。いい曲を書いておいてね。
リカルドへ……〉
もう、言葉が、出てこない。
たそがれの空。カモメが1羽。
〈オンリー・ユー〉の|1《ワン》フレーズを、口ずさんでみる。
声は、かすれて、風に運ばれていく。
やはり、あたしもハスキー・ヴォイスなんだろうか……。
ひんやりとした潮風《しおかぜ》が、ペーパー・ナプキンの端をめくって過ぎた。
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第2話 幸せを「赤の16」に賭けて
♪
「ちょっと、あんたたち」
あたしは、ふり返る。両手を腰にあてて、
「表に出なさいよ」
日本語で、いってやった。おっさんたち2人は、ビックリしている。
「このネエちゃん、日本語しゃべるぜ」
1人が、眼玉《めだま》を丸くして、いった。
マニラ国際空港《こくさいくうこう》。午後2時半。あたしは、入国審査《イミグレーシヨン》の列に並んでいた。
さっきから、すぐ後《うし》ろの2人が、勝手《かつて》なことをいってる。
2人とも、日本人。いかにも、観光客《かんこうきやく》。フィリピンに、女あさりにきた、おっさんだろう。
顔が少し赤い。飛行機の中ででも、飲んできたらしい。
〈お、日本人のネエちゃんだよ〉
1人が、相手をヒジで突ついた。
〈でも、見ろよ〉
と相棒《あいぼう》。2人で、あたしが持ってるパスポートをながめる。
日本のパスポートより、少し小さい。パスポート番号がパンチされた、ダーク・ブルーの表紙《ひようし》。UNITED STATES OF AMERICAの文字。
〈アメリカ人だぜ〉
〈日本人みたいな顔してるのによ〉
〈でも、いい尻《しり》してるなあ〉
〈シー〉
〈ガイジンだろ。わかりゃしないよ〉
〈それもそうか〉
〈尻もいいけど、脚《あし》もいいぜ〉
2人して、カットオフ・ジーンズからのびた脚を、じろじろ見てるらしい。
〈このネエちゃん、もしかしたら、プロだぜ〉
〈こんなに若いのに?〉
〈なんせ、フィリピンだから〉
〈それもそうか〉
〈いまのうちに、今夜の予約しとくか〉
〈予約って英語は〉
〈ええと、リ……リ……リザーブじゃないか〉
背中に浴《あ》びせられる、ヒワイな笑い。
〈ちょっと、あんたたち〉
あたしがふり返ったのは、その時だった。つぎの、
〈表《おもて》に出なさいよ〉
は、よく考えたらチンケだった。
表に出るために、あたしたちはイミグレーションの列に並んでるんだから。
けど、とにかく、アタマにきてた。にらみつけてやる。
おっさんたちの眼玉《めだま》は、まん丸《まる》。ワイキキ・ビーチで残飯《ざんぱん》を突ついてる間抜《まぬ》け鳥だ。けど、
「おネエちゃん、やっぱり日本人!?」
1人が、しつこくいった。後は、酒の勢いで、
「そんなコワい顔しないで」
「どうせ今夜はヒマなんでしょ」
「いいバストしちゃって」
「どう? ひと晩、3万円、いや4万」
こいつら! 右手が、ヒップ・ポケットにさしたスティックにのびた。
引き抜こうとしたその腕を、誰《だれ》かが押さえた。頭の上で、
「やめといた方がいい」
落ちついた声が、英語でいった。
♪
渋《しぶ》いネクタイの結《むす》び目《め》が、目の前にあった。
かなり背の高い白人。金髪《きんぱつ》を7対3に分けた中年男が、あたしを見おろしていた。
麻《あさ》のスーツ。左手には、アタッシェ・ケース。一見して、ビジネス・マン。
「じゃましないでよ」
あたしは、いった。
「ケンカもいいが」
やつは、あたしの右腕をつかんだまま、
「ここじゃ、やめた方がいい」
と、いった。アゴで、まわりをさす。あたしも、フロアを見回した。
なるほど、制服だらけだ。
いやに、ものものしい。銀色のバッジ。拳銃《けんじゆう》のグリップなんかが、蛍光灯《けいこうとう》に光っている。
「もし騒《さわ》ぎでもおこしたら」
と、やつ。
「ひと晩泊められるか、ゴッソリと罰金《ばつきん》をふんだくられる」
あたしを見おろして、ニヤリと微笑《わら》った。
そうかもしれない。制服の連中の眼つきは鋭く、みんな、抜け目なさそうだ。
「OK」
あたしは、抜きかけたスティックを、ヒップ・ポケットに戻《もど》す。
「コワいネエちゃんだなあ」
「あんな棒《ぼう》でひっぱたかれたら、かなわんぜ」
「いこう、いこう」
おっさんたちは、あっちの列に移っていく。
「フィリピンまできて、日本人とヤルこたあないもんな」
最後まで、憎《にく》まれ口《ぐち》。
「くたばれ!」
あたしは、やつらの背中に向けて、チューインガムをプッと吐《は》き飛《と》ばした。
「元気のいいことだ」
と、白人の中年男。
「ほっといてよ」
やつの手を、ふりほどく。
「おせっかい」
「じゃあ、おせっかいついでに、教えてあげよう」
ビジネス・マンは、微笑《わら》いながら、
「入国審査《イミグレーシヨン》を、すんなりパスするための、特別|保証人《ほしようにん》」
「保証人?」
「そう」
「誰《だれ》?」
「彼さ」
やつがとり出したのは、なんと5ドル札《さつ》だった。
エイブラハム・リンカーンが、クソまじめな顔で、まん中におさまってる。
牧師《ぼくし》づら。教師づら。どっちみち、絶対に好きになれないタイプの顔だ。
「けど、とにかく、彼が、万事うまくやってくれる」
やつは、またニヤリと微笑《わら》う。
少しヨレヨレの5ドル札を、パスポートの間にパタンとはさんだ。
順番がきた。
やつは、ウインク1発。イミグレーションのカウンターに歩いていく。
係官は、無表情《むひようじよう》でパスポートを開ける。
ひどく、つまらなそうな顔。
残ったスパゲティをゴミ箱に。そんな表情で、5ドル札をカウンターの下に滑《すべ》り落とした。
あい変わらず、つまらなそうな表情。けど、やたらスラスラと、ボールペンを走らせる。
スタンプを、ガシャンと押した。
ビジネス・マンは、あたしをふり返る。
また、ウインク1発。イミグレーションを出ていく。
「ネクスト」
係官が、右手であたしを呼んだ。
♪
あたしは、リンカーンの世話になるのはやめた。
ワイロがどうのこうの、じゃない。
リンカーンの顔が、感化院《ガールズ・ホーム》の院長に、ちょっと似《に》てたからだ。
ふん。あんたらの世話になんか、なるもんか。
あたしは胸をはって、イミグレーションのカウンターに。パスポートを、出す。
中年のフィリピーノは、パスポートを開《ひら》いて、
「ミキコ……日系人《につけいじん》か」
あたしの顔を見た。
「日系ハワイアンよ」
「16歳……学生かい?」
あたしは、首を横に振った。
「ミュージシャン」
「ミュージシャン?」
褐色《かつしよく》の顔が、あたしを見つめた。
ミュージシャン。ダンサー。そんな仕事が、この国に入るにゃ、一番、疑われやすいんだろう。
何か月か前。グアムに入るときも、売春婦《プロフエツシヨナル》にまちがわれたことがある。
「どんな、ミュージシャン」
係官は、あたしを見つめる。黒い瞳《ひとみ》が、じっと見つめる。しょうがない。
「ドラム叩《たた》きよ」
あたしは、ヒップ・ポケットからスティックを引き抜いた。軽く、指先で握《にぎ》る。
カンカンカカカンッ! カカンッ カン!
カンカン ッカカン! カンンッ カン!
カウンターを、叩《たた》きはじめた。
「こんな、仕事よ」
係官の顔から、まっ白い歯がこぼれた。大きな口を開けて笑いながら、
「OK、OK、わかった、わかった」
褐色《かつしよく》の太い指が、細いボールペンを握る。鋭い眼つきが、急に、人のいい表情に。ボールペンを走らせながら、
「私の娘も、歌を唄《うた》ってるんだ」
「歌?」
「そう。歌だ。ピアノを弾《ひ》きながら、唄うんだ。そりゃ、うまいもんだ」
スタンプを、ガシャンと押した。
「歌だ」
パスポートを、あたしにパサッと放ると、
「いいもんだ」
ニッと微笑《わら》った。
「サンキュー」
あたしは、パスポートをうけとる。口笛《くちぶえ》で〈マテリアル・ガール〉を吹きながら、陽射《ひざ》しの中へ出ていく。
♪
キ――――ッッッ!
眼の前で、クルマがつんのめった。ものすごい急ブレーキ。DATSUNのタクシーだ。
いくら日本車が丈夫《じようぶ》だって、これじゃ、すぐにポンコツだろう。
「乗んなよ」
若いフィリピーノの顔が、窓からのぞいた。まだニキビの残ってそうな、坊《ぼう》やだ。
ま、いいか。あたしは、クルマのドアを、自分で開けた。乗りこむ。
とたん! タイヤが叫《さけ》び声をあげた。
タクシーは、ヒップを蹴《け》られたみたいに飛び出す。あたしの体も、思いきりシートに放り出される。
「まるで、インディ500ね」
あたしは、笑いながらいった。
「そうさ。しっかりつかまってなよ」
と運ちゃん。トラックや、団体ツアーの送迎《そうげい》バスをゴボウ抜きにしていく。
空港前のゴミゴミを、あっという間に抜けた。
「まだ、いき先をいってないんだけど」
「あ、そうだな」
運ちゃんは、
「どこ、いくんだい」
ルーム・ミラーの中で、ニッと微笑《わら》った。
「兵隊のよく集まる店」
「兵隊!?」
「そう」
「フィリピンの? アメリカの?」
「アメリカの兵隊。で、演奏《ライヴ》をやってる店を教えて」
「OK。……そうだなあ」
運ちゃんは、3、4秒考えると、
「それじゃあ、ファックだな」
「ファック!?」
「ファックっていっても、あんたの考えてるやつじゃない」
運ちゃんは、ニッと微笑《わら》って、
「ファックはファックでも、エフ、エイ、ケイだ」
「F・A・K?」
「そう。〈FIRST《フアースト》 AID《エイド》 KIT《キット》〉さ」
ああ……〈救急《きゆうきゆう》用具一式〉のことか。
「そういうこと。〈ホセのカジノ〉って名前が本当なんだが、兵隊たちは、みんな〈F・A・K〉って呼んでる」
「どうして」
「簡単《かんたん》さ。急いで必要なものが、みんな揃《そろ》ってる」
「必要なもの?」
「そう。酒。女。ダンス。それに、ギャンブルだ」
運ちゃんは、大きな声で笑った。
クルマは、海岸沿いの通りに出ていた。たぶん、ロハス大通り。
左右には、太いヤシの並木。ヤシの葉先《はさき》は、遅い午後の陽《ひ》に輝いている。
「どけ! このノロマ」
運ちゃんは、急ハンドルを切った。乗り合いのジープニーを、追い抜く。
ジープニーは、よく写真《しやしん》でみるように、極彩色《ごくさいしき》に塗《ぬ》りたくられていた。
中古ジープを改造《かいぞう》したやつだ。ボンネットには、なぜか、金属製《きんぞくせい》の馬が、何頭もついている。
「ほら! このポンコツが!」
また、急ハンドル。
豚《ぶた》を積《つ》んだトラックは、右から。観光客を乗せたバスは、左から。激しくスラロームして、抜き去っていく。
牛の群《む》れを駆け抜ける番犬。そんな感じだ。運転《うんてん》するのが、よっぽど嬉《うれ》しいらしい。よく見れば、
「このDATSUN、新車ね」
「そうさ。あんたが、はじめての客だ」
最初で最後の客にならなきゃいいけど。
キャデラックの鼻先《はなさき》を、強引《ごういん》にかすめて右折《うせつ》。
すぐに、急ブレーキ。タイヤの絶叫《ぜつきよう》。また、思いきりつんのめる。
「ここさ」
「ありがとう」
とにかく、無事《ぶじ》に着いたらしい。
あたしがドアを閉《し》めたとたん! タイヤを鳴らして、DATSUNは飛び出していった。
あっという間に、ま新しく光るバンパーは、曲《ま》がって見えなくなった。
気がつけば、お金を払《はら》い忘れてた。
♪
〈JOSE《ホセ》’S CASINO《カジノ》〉
ピンクのネオンは、まだついていない。白い壁が、陽射《ひざ》しを照《て》り返《かえ》している。
ドアは、ない。入っていく。
店は、とっくに営業《えいぎよう》してるらしい。ひんやりと涼しい。かなり強く、エア・コンをきかせている。
天井《てんじよう》で、ゆっくり回るフライ・ファン。汗《あせ》が、ゆっくりと乾《かわ》いていく。
スロット・マシーンの音。ルーレットの玉が、弾《は》ねる音。
けど、意外に静かだ。まだ、夕方だからだろう。だんだん、眼がなれてくる。
それほど広い店じゃない。
ルーレット・テーブルが、3台。ブラック・ジャックのテーブルが、やはり2、3台。
右の壁に並んだスロット・マシーン。酒を飲むためのテーブル。ダンス・スペース。その奥のステージに、いまは誰もいない。
スピーカーから、タガログ語の曲が流れている。
ひんやりした空気を、思いきり吸い込む。
カジノっていうやつに入るのは、生まれてはじめてだった。なんでもあるはずのホノルルにも、これはない。
奥のカウンターへ。客は、ほかにいない。
スツールに坐《すわ》ると、肩《かた》からデイ・パックをおろした。
「やあ」
初老《しよろう》のフィリピーノが、ゆっくりと歩いてきた。目の前に、コースターを置く。
「何か飲むかい」
「ビール」
「OK」
フィリピーノのおじさんは、ニコリと微笑《わら》う。グラスに、ビールを注《つ》いでくれる。
やたら、ノドが乾いていた。そのせいか、ビールが、おいしい。
「おいしいビールね」
「こいつかい?」
「なんてビール」
「サン・ミゲール」
おじさんは、ビンのラベルをこっちに向けた。SAN MIGUEL。きいたことは、ある。
「東南アジアじゃ、一番うまいビールさ」
確かに。アワが細《こま》かい。味は、スッキリしている。
「けど、近頃《ちかごろ》のフィリピーノ、あまり飲まないね」
おじさんは、少し淋《さび》しそうな顔。
「みんな、アメリカのビールばかり飲みたがる。バドワイザー、クアーズ、ミラー……」
ビンに残った半分を、あたしのグラスに注《つ》ぎながら、
「手のとどく所に、こんなおいしいビールがあるのに、みんな、バド、ミラー、クアーズ……」
おじさんの英語には、かなりスペインなまりがある。Rの発音が、やたら巻《ま》き舌《じた》だ。
「逆に、アメルィカンの兵隊、サン・ミゲールばかり、喜んで飲んでるよ」
微笑《わら》いながら、
「肌《はだ》がキメ細かくて、性格サッパリ。まるでフィリピン娘みたい。そういってね」
「皮肉《ひにく》なもんね」
「よく、ことわざでいうじゃないか。〈他人の芝生《しばふ》は、キレイに見える〉」
おじさんは、微笑《わら》いながら葉巻《はま》きをくわえた。
「ところで」
あたしも、SALEMをくわえて、
「オーナーのホセは、いる?」
「いるよ」
「どこに」
「あんたの目の前さ」
おじさんは、紙コースターを1枚、顔のわきに持っていく。
「なるほどね」
紙コースターは、白地に赤の柄《がら》。まん中に、オーナーの似顔絵《にがおえ》がついている。
ちょっと、でっぷり。せまい額《ひたい》。オール・バックにした銀髪《ぎんぱつ》。鼻の下には、やはり銀髪まじりのチョビヒゲ。
人の好さそうな似顔絵は、本人によく似ていた。
コースターの中のホセは、右手で4枚のカード。※[#ハート白、unicode2661]※[#スペード白、unicode2664]※[#ダイヤ白、unicode2662]※[#クラブ白、unicode2667]のA《エース》をひろげている。
左手で持ち上げたトレイには、カクテル・グラスらしいものが描いてある。
酒とギャンブル。店の売りものをそのまま絵にした、のどかなデザイン。
丸いコースターのまわりを、〈JOSE’S CASINO〉の小さな文字が、ぐるりと、とり囲んでいる。
「そう。あんたがホセ」
「そういうこと。あんたは?」
「未記子《みきこ》、ミッキーよ」
カウンターをはさんで、あたしたちは握手《あくしゆ》。
「で、私に用事かい?」
ホセは、葉巻きに火をつけながら、きいた。
「人をさがしてるの。女の人」
「私もさ。こりゃ、偶然《ぐうぜん》ってもんだ」
ホセは、葉巻きの煙を吐きながら笑った。
「まじめな話よ」
「そうか。悪かった」
「〈オールド・B〉ってニック・ネームで呼ばれてる、日系人のシンガーよ。ファースト・ネームは、亜記子《あきこ》」
ホセは、自分用にSAN MIGUELを出しながら、
「ああ……。知ってるもなにも、5か月前まで、この店で唄《うた》ってた」
「亜記子って名前よ」
念を押す。
「ああ。まちがいない。なんせ、この国にゃ、アキノって名前の闘士がいたからね」
ビールを、ひと口。
「アキノ。アキコ。まちがいないよ」
煙の向こう。笑顔《えがお》が、少しだけホロ苦い。やっかいな国情を、ちらっと感じさせた。
「彼女が、また、フィリピンにきた。そういうウワサなんだけど」
「……とすれば、この店にも、仕事にくるかもしれんなあ」
ホセは、チョビヒゲについたビールのアワを、舌《した》でなめると、
「あと5日。6月12日は、フィリピンの独立記念日だ。街中《まちじゆう》、お祭り騒ぎだし、店もにぎわう。その日には必ず間に合うように、女性シンガーが1人くるはずなんだが」
「それが……」
「彼女がアキコかどうかは、よくわからない」
あたしのグラスに、2本目のSAN MIGUELを注ぎながら、
「ミュージシャンの手配《てはい》は、おおむねエージェントまかせなんだ」
「そう。あと5日か……」
5日ぐらいなら、待てる。
「で? 彼女に、用事かい」
あたしは、小さくうなずくと、
「そう。用事。ちょっとした、ね」
ステージに、バンドが上がった。いつの間にか、窓の外は薄暗い。
インストロメンタルで、〈ユー・アー・ソー・ビューティフル〉が流れはじめた。
♪
「日本人?」
ルーレット・テーブルから顔を上げて、彼女はきいた。
フィリピーノ。でも、確実にヨーロッパの血が入ってる。
直線的な鼻筋《はなすじ》。栗色《くりいろ》の前髪は、眉《まゆ》にかかるぐらいにそろえてある。
淡《あわ》いブルーの大きな瞳《ひとみ》が、あたしを見上げる。
そのルーレット・テーブルに、いま、客はいない。
あたしは、さっきから、チップをきちんとそろえてる、彼女の手さばきをながめていた。
その視線《しせん》に気づいて、彼女は顔を上げたんだろう。微笑《ほほえ》みながら、
「日本人?」
また、きいた。あたしは、うなずくと、
「ディーラーなの?」
彼女にきいた。彼女も、手を動かしながら、うなずき返した。
白いシルクのシャツ。ボウ・タイ。まっ赤なベスト。
年齢《とし》は、20歳ぐらいだろう。ものなれたプロの手つきで、チップを整理している。
突っ立ってるあたしに、
「運だめしでも、してみる」
彼女は、いった。
「勝負《しようぶ》するほどのお金、ないわ」
と、あたし。
「1ドルから、賭《か》けられるのよ」
大きな瞳が、微笑《ほほえ》んだ。
「1ドルか……」
THE BANDAGEの連中も、ホノルルで遊んでるにちがいない。
少しは、ハネをのばすのも、いいか。
さっきは、タクシー代も、トクしたことだし。この旅の運だめしに、
「じゃ、10ドル」
あたしは、ポケットから、ドル札《さつ》を出した。
「OK。じゃ、これ」
|25セント玉《クオーター》より、ちょっと大きいぐらいのチップが10枚、あたしの前に置かれた。
まわりが貝《かい》でできている。いかにも、フィリピンだ。
まん中は、ピンクのプラスチック。〈$1〉の文字が、刻《きざ》まれている。
「賭《か》け方がわかんないわ」
「じゃ、これ」
ディーラーの彼女は、紙のカードを渡してくれた。賭け方や、賭け率の表だ。
「へえ」
ちょっと驚いた。ずいぶんいろんな賭け方が、あるもんだ。
〈赤〉と〈黒〉。
〈1から12〉〈13から24〉〈25から36〉。
〈タテの1列〉
〈ヨコの1列〉
〈2つの数字にまたがって〉
〈4つの数字にまたがって〉
まだまだある。どうせ、運だめしだ。数字に一点賭けすることにした。
「1から……36か……」
ちょうど、16歳になったばかりだし、
「赤の16に」
10枚のチップを全部重ねて、16の上に置いた。彼女の瞳《ひとみ》が、キラッと光った。そして、ニコッと微笑《わら》った。
「じゃ、いくわよ」
ルーレットを、回す。
銀色のマニキュアを塗《ぬ》った細い指先が、白い小さな玉を、スッと滑《すべ》らせる。
玉は、ゆっくりと回転しながら滑り落ちていく。
1回、2回、弾《は》ねる。白い玉は、赤に落ちた。回転が遅くなる。番号は、16だった。
「赤の16。ビギナーズ・ラックね」
彼女は、微笑《わら》いながら、チップの山をあたしの前に置いた。
「もっとやる?」
あたしは、首を横に振った。
「運だめしは、1回こっきり」
彼女は、鼻にシワをよせて笑うと、
「お利巧《りこう》さんね」
右手で、店の入口をさす。
「あそこのキャッシャーで、ドルにでもペソにでも替《か》えられるわ」
といった。
歓声《かんせい》。アメリカ兵たちが、ドヤドヤと入ってきた。店は、急に、にぎやかになりはじめた。
♪
「どうだね、ミッキー」
あたしの前に立ったホセが、
「サン・ミゲールを、工場ごと買いしめるってのは」
太い腹をゆすって、笑った。あたしが、ルーレットで勝ったのを見てたらしい。
「考えとくわ」
カウンターに両ヒジをついて、あたしは笑い返した。
バンドは、あい変わらずインストロメンタル。スロー・バラードを演《や》ってる。
店は、水兵たちでいっぱいだ。けど、意外に静かだ。
「ヴェトナムも終わったし、このところしばらくは」
ホセがいいかけたとたん!
悲鳴《ひめい》と、グラスの割れる音。ハイハットが、スタンドごと倒れる音。演奏《えんそう》が、とまった。
「クソー あいつら」
ホセが、カウンターを飛び出る。あたしもいっしょに、ステージの方に。
ステージ前。ダンス・フロアで、3、4人の男たちが暴《あば》れていた。
水兵じゃない。若いチャイニーズたちだ。バンド・マンを殴《なぐ》ってる。
逃げおくれたんだろう。1人が、袋叩《ふくろだた》きにあってた。
「このへタクソが!」
「ろくに踊《おど》れもしないぜ」
フロアに倒れた1人を、3人がかりで、蹴《け》りつけている。
店員の1人が、とめに入ろうとした。とたん、
「よけいなおせっかい、するんじゃない!」
チャイニーズの1人が、その頭に回《まわ》し蹴《げ》り。カンフーのフォームだ。
店員は、ふっ飛ぶ。テーブルの上に転《ころ》がる。また、皿とグラスの割れる音。
「やめろ!」
出ていったホセに、
「ふん、きたか、クソじじい」
一番ガッチリしたやつが、毒《どく》づく。
「くたばりな!」
拳《こぶし》を、ホセの顔面に。
ビシッという音。ホセは、よろけてフロアに倒れる。
チャイニーズたちは、今度は、ホセを囲む。袋叩《ふくろだた》きにする気だろう。
鼻血を流してうずくまってるホセ。1人が、その背中を蹴《け》ろうとした瞬間。
一瞬早く、あたしは、その尻を蹴り上げた。たぶん、急所にも届いた。
やつは、
「ウグッ」
股《また》を押さえる。白眼《しろめ》。よろけながら、うずくまる。2人が、あたしに向きなおった。
「このジャップ……」
「ガキのくせしやがって」
1人が、つめてくる。アロハのエリ首を、つかもうとした。
その急所を、今度は正面から、ヒザ蹴《げ》り!
「ゲッ」
最初のやつと同じ。股《また》を押さえて、白眼を出す。うずくまりかけたその胸に、キックー発。
やつは、5、6ヤードふっ飛んで、のびた。
「このォ……」
残る1人。顔色が、変わった。眼《め》が、凶暴《きようぼう》に光る。
カンフーのかまえ。
「小娘だと思って、油断してりゃ」
ジリッと、1歩つめてくる。
あたしは、右手を、そっと背中に。スティックの先が、指にふれた。
カンフーの基本技《きほんわざ》は、知っていた。バンドの休憩《きゆうけい》時間に、ときどきビリーから教《おそ》わっていた。
また1歩、やつはつめてきた。くるだろう。
予想どおり! ハッと叫びながら、正拳《せいけん》が顔面に!
あたしはもう、右手でスティックを引き抜いていた。
かわした拳《こぶし》の内側。手首《てくび》を、ビシッと叩《たた》き上げてやった。
「!!」
折れてはいないだろう。けど、やつの顔は、痛みにゆがむ。
しゃがみかけたその尻に、回し蹴り。やつは、顔から、フロアにくずれ落ちた。
まるめた背中。口からは白い泡《あわ》。
あたしは、スティックをヒップ・ポケットに戻《もど》す。
もう、ホセが、店員にかつぎ起こされている。タオルで鼻血《はなぢ》を押さえて、
「こいつらを、つまみ出せ」
店員たちが、3人のチンピラを、引きずり出す。立ち上がったホセは、あたしを見つめて、
「そうか……」
とつぶやいた。
♪
「ウワサは、きいてたよ」
とホセ。タオルにくるんだ氷で、鼻血《はなぢ》はもう、とまっていた。
「ホノルルでナンバー|1《ワン》のドラム叩《たた》き。しかも、スティック・ファイトのえらく手ごわいポニー・テール・ガールか……」
店にはもう、平和が戻《もど》っている。
「とにかく、めんぼくない。ちょうど、ボディ・ガードのジョーが休みの日で。やつら、それを知ってたな」
「あいつら、何?」
「たぶん、鴻《こう》の手先だろう」
「鴻?」
「ああ」
「華僑《かきよう》?」
「まあ、そんなところだ。商売《しようばい》がたきさ。親父《おやじ》の代からのね」
「向こうも、カジノ?」
「いや。売春だ」
「違法?」
「違法といえば、お互いさまだが」
ホセの目尻に笑いジワ。
「この国じゃ、違法か合法かを決めるのは、役人へのワイロだ」
褐色《かつしよく》の顔に、不敵《ふてき》な微笑《わら》いがひろがる。海賊《かいぞく》のキャプテン。そんな感じだ。
「協定を結べば?」
「何回かは、やってみたが」
苦笑《にがわら》い。
「老酒《ラオチユウ》とサン・ミゲールは、しょせん混《ま》ぜて飲めない」
♪
明け方の5時半。
店員が、ホセに報告しにきた。
ドラム叩《たた》きが、肩をネンザしたという。さっき、袋叩《ふくろだた》きにあったのは、どうやら、ドラム叩きだったらしい。
ホセは、肩をすくめると、
「どうやら、あんたを雇《やと》うしか、手がなさそうだな」
「ギャラは、高いわよ」
「ひと晩、100ドル、プラス」
「プラス?」
「サン・ミゲールの飲みほうだい」
思わず、笑った。
「どうせ、アキコを待ってる間、あと5日はヒマなわけだし」
「それも、そうね」
それに1日でも、ドラム叩きは休まない方がいいに決まってる。
「じゃ、話は決まった」
「とりあえず、契約《けいやく》の後の方」
「後の方?」
「サン・ミゲールの飲みほうだい」
カラになったグラスを、あたしはさし出した。
「ああ、わかった、わかった」
ホセは笑いながら、カウンターの中へ。窓の外が、明るくなりはじめていた。
♪
思わず、足をとめた。
ロハス大通り。午後4時過ぎ。
マニラ湾《わん》に面した遊歩道《ゆうほどう》を、あたしはぶらついていた。
風にはもう、昼間の暑さはない。ひんやりと、乾《かわ》きはじめている。
岸壁《がんぺき》に、長い髪のフィリピーノがたたずんでいた。きのう、ルーレットのディーラーをやってた彼女だった。
サラッとした、花柄《はながら》のワンピース。仕事中は束《たば》ねていた髪も、肩にたらしている。
彼女は、じっと沖《おき》をながめていた。片手を額にかざして、水平線をながめていた。
横顔を、夕陽《ゆうひ》が照らす。
海風。髪と、ワンピースのスソが、ふわりと揺《ゆ》れた。
あたしは、また歩き出した。彼女に近づいていく。気がついた。
「ああ、あんたね」
「何を見てるの?」
「……夕陽《ゆうひ》よ」
太陽は、かなり水平線に近づいていた。はるか遠く。停泊《ていはく》してる軍艦《ぐんかん》らしいシルエットが、2つ、3つ。
「マニラの夕陽は、世界一。そういう人も多いわ」
彼女は、つぶやいた。
「ミッキーだったわね」
あたしは、水平線をながめたまま、うなずいた。
「レティシアよ」
握手《あくしゆ》。
「きのうは、ありがとう」
あたしは、いった。
「ありがとうって?」
「〈赤の16〉に、玉を落としてくれたでしょ」
「わかっちゃった?」
レティシアは、白い歯を見せた。
誰かにきいたことがある。プロのディーラーってのは、狙《ねら》った番号に、ほとんど正確に玉を落とせる。
「幸運《ラツク》にしちゃ、できすぎだもんね」
と、あたし。
「……でも、どうして?」
「そうねェ」
レティシアは、大きな瞳《ひとみ》で空を見上げると、
「あんたが、あんまりビンボーたらしいかっこうしてたから」
いたずらっぽい眼で、微笑《わら》いかけた。
あたしは、自分のかっこうを見おろした。
古着のアロハは、かなりボロ。カツトオフ・ジーンズも、相当に色が褪《あ》せ落ちている。無理もないか……。
でも、ポケットには、エディが貸してくれたドル札《さつ》が、かなりある。
見かけほどには、ビンボーじゃないのよ。そういおうかと思った。けど、やめた。かわりに、
「1杯おごるわ」
レティシアのソデを引っぱった。
♪
「誰かを待ってる眼《め》だったわ」
あたしは、いった。
「この、マセガキが」
とレティシア。
「ガキじゃないわ」
あたしは、CAMPARI & SODAを飲みながら、やり返す。
あたしたちは、海に面したフィッシャーマンズ・バーに坐《すわ》っていた。
「誰を待ってるの? 水兵?」
あたしは、きいた。
レティシアは、しばらく無言《むごん》。KENTの箱から、1本出す。
「どうせ、どこかのおせっかいが、しゃべっちゃうでしょうね」
煙草《たばこ》をくわえると、
「私が待ってるのは……〈赤の16〉」
マッチで火をつけた。
「〈赤の16〉?」
「そう。彼のことよ」
「どうして?」
レティシアは、ちょっと眼を細めると、
「彼が、賭《か》けるのが、いつも〈赤の16〉だったからよ。しかも、あんたと同じ一点がけ」
「いつも……」
「そう……でも、あんたみたいに、気前のいい賭け方じゃないの」
苦笑《にがわら》いしながら、
「1ドル・チップを、1枚、また1枚……」
テーブルの上に、チップを置くしぐさ。
「その賭け方が、兵隊仲間でもとび抜けてカッコ悪くてね」
あたしも、つられて笑った。
「ある日、気の毒になって、〈赤の16〉に玉を落としてあげたわ」
「それが、はじまり?」
レティシアは、無言《むごん》で、うなずいた。
「……なぜ、彼は〈赤の16〉に?」
あたしは、きいた。
「なんの意味も、ないわ」
とレティシア。
「ただ、偶然《ぐうぜん》、〈16〉の前に坐《すわ》ったのね。後できいたことだけど」
苦笑《にがわら》いしながら、
「ただ、……それだけのこと」
消えたマッチを海に捨てた。歌を低く口ずさむ。タガログ語らしい。意味は、わからない。
「あたしの〈16〉へも、それで?」
「ってわけじゃないけど、ちらっと思い出したことは確かね」
レティシアは、COORSをひと口、飲んだ。
「で、彼は、いま?」
「除隊《じよたい》して、本国《メイン・ランド》に戻《もど》ってるわ」
「なにをしに?」
「離婚《りこん》しに」
彼女は、皮肉《ひにく》っぽく微笑《わら》った。CAMPARI & SODAが、夕陽に赤く透《す》けた。
「とんだ馬鹿女《ばかおんな》だと思ってるんでしょう。このおマセが」
「そんなことないけど、彼は、いつ帰ってくるの?」
「……タイム・リミットは、そろそろ、過ぎるわ」
吐《は》く煙といっしょに、レティシアは、ぽつりとつぶやいた。
「そういえば、ミッキー」
「ん?」
「あんたも、待ってるのよねェ」
「そう。〈オールド・B〉」
「ああ、彼女。……あんたのママね」
グラスを運ぶ手が、さすがにとまった。
「どうして、そう思うの」
「誰だってわかるわよ。声のトーンが、そっくりだもの」
「そう……」
あたしは、CAMPARI & SODAを、ひと口。
「でも、あと4日」
「4日?」
「そう。6月12日まで待って、会えなかったら」
「会えなかったら?」
「さっさと、ハワイに帰るわ」
「思い切りがいいのね」
「女の娘《こ》だもん」
レティシアは、明るく笑いながら、
「気に入ったわ」
短くなったKENTを、指で海に弾《はじ》き飛《と》ばした。
「私も、その賭けに、相乗《あいの》りする」
「相乗り?」
「そう。私も、あと4日だけ待つわ。それで、彼が帰ってこなかったら」
「こなかったら?」
「フィリピンに、サヨナラね」
「……で、どこへ?」
レティシアは、COORSを飲《の》み干《ほ》す。
「私だってプロよ。どこの国でも、カジノさえあればやっていけるわ」
水平線をながめて、
「私の家に、昔からのことわざがあるの」
「どんな?」
「絶対に笑わないって、約束できる?」
あたしは、うなずいた。
「じゃあ、いっちゃおうかな」
「いっちゃいなさいよ」
「こういうの。〈思い出じゃ、あしたの豚肉《ぶたにく》は買えない〉」
やっぱり、あたしは吹き出した。赤いCAMPARIの雫《しずく》が、白いスニーカーに飛び散る。
「ほら、笑った」
「ごめん、レティシア」
でも、けっきょく、2人して笑いころげた。
頭の上じゃ、カモメが4、5羽、漂《ただよ》っている。COORSのアルミ缶《かん》に、夕陽《ゆうひ》が光る。
「4日後の、フィリピン独立記念日までに、どっちか片方の賭《か》けだけが当たっても、うらみっこなしよ」
とレティシア。
「OK」
ペーパー・ナプキンで、スニーカーのCAMPARIを拭《ふ》きながら、あたしは答えた。
ラジオが、L《リンダ》・ロンシュタットの唄《うた》う〈夢見る頃を過ぎても〉を流している。
♪
ジーン……。曲のエンディング。
まだ震動《しんどう》してるシンバルを、そっと指ではさむ。震動が、とまる。
休憩《インターミツシヨン》だ。
あたしは、スティックを、ヒップ・ポケットに。ステージをおりる。カウンターへ。
「お疲れ、ミッキー」
ホセが、ビールを出してくれる。
軽いステージだ。汗もかかない。けど、ビールはうまい。
「レティシアといっしょに、賭けをしたんだって?」
ホセがいった。
「レティシアが、いったの」
「ああ」
ホセは、新しい葉巻《はま》きのセロファンをむきながら、
「彼女にやめられたら、すぐに新しいディーラーを、さがさなくちゃならんしなァ」
葉巻きの吸《す》い口《くち》を切る。
「レティシアの彼は、もう、帰ってこないと思う?」
あたしは、SALEMに火をつけながらきいた。
ホセは、細い葉巻きをくわえて、小さくうなずいた。
「ミッキー、あんたのママはわからん。が、レティシアの彼は、まず、戻《もど》ってはこないだろう」
「…………」
ホセは、葉巻きに火をつけると、
「そんな男と女のエンディングを、もう何百回となく見てきたよ」
けむたそうに、目を細めて、
「レティシアにだって、それは、わかってるんだろう。ただ……」
「ただ?」
「もやい綱《づな》をぶっちぎるための、きっかけが欲しかったにちがいないね」
ホセは、独特の苦笑《にがわら》い。
「いいのさ。あの娘《こ》には、まだ旅が似合う」
「で…………」
「頭が痛いのは、ただひとり。あわれな、ホセじいさんさ」
肩をすくめて、
「腕のいいディーラーには、やめられる。鴻《こう》の一家とは、ますますトラブル、トラブル」
グビリと、ビールを飲んだ。
あたしは、ルーレット・テーブルをふり返った。レティシアの後ろ姿。テキパキと動く手先。
「たとえ、彼が戻《もど》ってこなかったとしても、レティシアに魅力《みりよく》がなかったわけじゃない」
ホセが、つぶやく。
「昔、誰かがいったよ」
前に置いたビールをながめて、
「サン・ミゲールは、サッパリしてるだけに、味も忘れやすい」
♪
誰かが、肩をゆすってる。
「起きなさいよ、ミッキー」
また、小さくゆする。ゆっくりと目を開ける。レティシアの顔があった。
ロハス大通りの、1本裏道。
リサール公園に近い自分の部屋《へや》。ホセが借りてくれた小さなホテルの、ベッドだった。
「ミッキー、ドアの錠《じよう》もかけないで寝ちゃうなんて」
とレティシア。
そうか。きのうは、ちょっと飲み過ぎた。
独立記念日の前夜祭。RUMを、いろんなジュースで割って飲んだ。旅の疲れも、少しは出たのかもしれない。
フラフラと、部屋に帰って、ベッドに倒れ込んだ。
「目尻《めじり》に、涙がたまってるわ」
とレティシア。
夢を見ていた。ホノルルの街《まち》を見おろす丘《おか》。パパのお墓に、話しかけている夢だ。
〈もしかしたら、あした、ママに会うわ〉
〈なんていえば、いいの〉
もちろん、答えはない。ただ、プルメリアの匂《にお》いの風が吹く。
ビリー。チャック。アキラ。リカルド。アントニオたちの顔が、よぎっては消えた。
夢は、そのあたりまでしか、覚えていない。
〈しっかりしろ、ミッキー〉
自分にいいきかせる。
〈ホーム・シックなんて、柄《がら》じゃない〉
目尻《めじり》をぬぐいながら、
「ちょっとアクビしただけよ」
少しだけ、頭がふらつく。
「どうしたの、レティシア」
あたしは、眼《め》を丸くした。
「そのかっこう」
レティシアは、すごくきれいな青いドレスを着ていた。
「独立記念日のパレードを見にいくのよ」
レティシアは、あたしを起き上がらせると、
「きのう、いったじゃない」
完全に、覚えてない。酔っぱらってたんだろう。
「ほら、顔を洗って」
レティシアに背中を押されて、洗面所に。冷たい水を、めいっぱい出す。ジャブジャブと、顔を洗う。
だんだん、目が覚《さ》めてくる。ポニー・テールを、きっちりと結びなおす。
「さあ、お出かけよ」
「OK」
あたしたちは、部屋を出る。小さな中庭《パテイオ》に。
パティオを通って、表に出るようになっていた。
見上げる空は、青い。もう、昼頃だろう。陽射《ひざ》し。白い壁。ちょっと、まぶしい。
フィリピーノの警官が2人、パティオに入ってくるのが見えた。1人が、あたしに、
「ホセの店で、ドラムスを叩いてる人かね」
といった。うなずく。
「傷害《しようがい》の訴《うつた》えが出てるんだが、ドラムスのスティックを、ちょっと見せてくれないか」
ヒップ・ポケットから抜いたスティックを、2本ともその警官に渡した。
ヤバい! と思ったときは、もう遅かった。
やつは、後ろにいたもう1人に、サッとスティックをパス。
指を丸めて、ピーッと口笛を吹いた。
4、5人のチャイニーズが、バラバラッとパティオに飛び込んできた。
あたしたちを、とり囲む。警官たちは、後ろにさがって見物らしい。
右腕を包帯《ほうたい》でつったやつが、あたしの正面に。
「これはこれは、お嬢さんたち。独立記念日おめでとう」
急に、スゴみをきかせて、
「この顔を、忘れちゃいまいな」
あたしを、にらみつける。ホセのカジノで、ラストに叩《たた》きのめしたやつだ。
「この小娘《こむすめ》が……よくきけ」
「きいてるわ」
「おれの右腕にゃ、ヒビが入った。急所を蹴《け》られた相棒は1人、まだ入院してる」
「どうりで、街が静かだと思ったわ」
「こきやがって」
包帯野郎《ほうたいやろう》は、後ろに眼で合図《あいず》。
ひときわ背の高いチャイニーズが、ズッと前に出てきた。
ゆるいカンフー・パンツ。黒いシューズ。
シャツを、バッと脱《ぬ》ぎ捨《す》てる。みごとな筋肉が、陽射しをはね返す。もし仲間だったら、心強いだろうに。
凶暴な顔にも、上半身にも、あちこちにキズあと。
やつは、無表情で、右手を背中に。何か、とり出した。ガチャリという鎖《くさり》の音。ヌンチャクだった。
♪
わきの下を、ひや汗が流れる。口の中が、カラカラになる。
ブラス・バンドが、近づいてくる音……。
「さあて、いよいよ記念日のパレードだ」
包帯野郎《ほうたいやろう》が、カン高く笑った。
「いくら泣き叫んでも、誰にも、きこえやしない」
ブラス・バンドの行進は、ロハス大通りを近づいてくる。まして、ここは中庭《パテイオ》だ。やつのいう通りだろう。
「思いきりブチのめせ。カタワにしたって、かまうもんか!」
ヌンチャク野郎《やろう》が、ニョと微笑《わら》った。ゾッとするような表情。
つぎの瞬間《しゆんかん》! 風をきって、ヌンチャクが飛んできた。
きわどく、よける。鼻先を、ヒュッという音がかすめた。
つぎは頭!
あわてて首をすくめる。すぐ頭の上。空気が、ヒュンッと切《き》り裂《さ》かれる!
肩《かた》に。顔に。ボディに。すごいスピードで、ヌンチャクは襲《おそ》いかかってくる。
あたしはただ、逃げ回るだけだ。包帯野郎の笑い声。
「あの棒っきれがなけりゃ、タダの小娘だな」
よけそこねて、尻もちをつく。
小さな花壇《かだん》。まわりをサンゴのかたまりが囲《かこ》ってる。
そのサンゴの1つ。ソフト・ボールぐらいのやつを投げつける。
ヌンチャクが、ひと振り。サンゴの白いかたまりは、クッキーみたいに砕《くだ》け散った。
地面《じめん》に転《ころ》がる!
ヌンチャクは、どこまでも襲ってくる。肩口に、頬《ほお》に、痛みが走る!
転《ころ》がりながら、茂みの下へ。
ようしゃなく、ヌンチャクは振り回される。
ブーゲンビリアのピンクが、パッと飛び散る! 枝が、バキバキッと叩《たた》き折《お》られる!
やっと、立つ。
背中に、硬《かた》い感触《かんしよく》。とうとう、壁ぎわに追いつめられた。しかも、コーナー。
「何かいい残すんなら、いまのうちだぜ」
と包帯野郎。息が……上がって……何も……いうどころじゃ……ない……。
体を硬く。衝撃《しようげき》に、そなえる。眼を閉じそうになった。瞬間!
「ミッキー!」
スティックが1本、ヌンチャク野郎の頭ごしに飛んできた! 右でつかむ!
ヌンチャクが飛んでくる!
沈《しず》み込みながら、スティックを叩《たた》き上げる。狙《ねら》いは、ただ1か所。股間《こかん》。
入った! 手ごたえ。
同時に、壁に叩き込まれたヌンチャクの音。片ヒザをついたあたしの体に、壁の破片《はへん》がふり注《そそ》ぐ。
やつは、棒立ち。右手に握《にぎ》ったヌンチャク。白眼《しろめ》をむいて、大木みたいに立っている。
あたしは、立つ。やつの右手首に、思いきり、スティックを振りおろした。
ビシッと、叩き折った手ごたえ。白眼をむいて棒立ちだったやつは、
「グッ……」
とうめいて、ゆっくりとくずれ落ちた。
♪
立っていられるのが、不思議《ふしぎ》なぐらいだった。
「しっかり!」
レティシアが、肩でささえてくれる。
気がつけば、チャイニーズたちの姿はない。のびてるヌンチャク使いだけ。ズラかったんだろう。
「誰が……スティックを……」
「彼よ」
ホセが、駆け寄ってくる。
「間に合ってよかった。遅いんで迎えにきたところで……」
「どうやって、スティックを?」
「やつらの倍、ワイロを払った」
ホセは、ケロッといった。
なるほど。中庭《パテイオ》の端。さっきの警官たちが、しわくちゃのペソ札を数えてる。
「この野郎は」
ホセは、ヌンチャク使いを見おろすと、
「鴻《こう》のナンバー|1《ワン》ボディ・ガードだ」
ポケットから、またペソ札を2、3枚出す。警官に渡す。
1人が、思いきりホイッスルを吹いた。しばらくすると、若い警官が3、4人、パティオに入ってきた。
ホイッスルを吹いた警官は、ヌンチャク使いを指さすと、
「家宅侵入罪《かたくしんにゆうざい》だ」
ホセは、100ペソ札を、また1枚渡す。
「傷害罪だ」
また、100ペソ。
「強姦未遂《ごうかんみすい》もだ」
また、100ペソ。
「ええ……とにかく、しょっぴけ」
若い警官たちが、ヌンチャク使いを引きずって、パティオを出ていく。
ワイロ警官も、ホセに軽く手を振ると、出ていった。
「やれやれ」
「あれだけ罪《つみ》が重《かさ》なれば、当分は出てこないわね」
「いや。鴻《こう》がもっとワイロをつめば、夕方にでも、出てこれるさ」
とホセ。
「けど、当分は使いものにならんだろうな」
あたしは、溜息《ためいき》。
「とにかく……」
パティオのまん中。小さな噴水《ふんすい》に、しゃがみ込んで、あたしは顔を洗いはじめた。
♪
「たいしたケガじゃないわ」
と、あたし。
自分の部屋《へや》。上半身|裸《はだか》になって、レティシアにマーキュロを塗《ぬ》ってもらってた。
感化院《ガールズ・ホーム》の袋叩《ふくろだた》きの、いいとこ3分の1。
肩口、腕、背中に、スリ傷《きず》が4、5か所。頬《ほお》にも、1か所。
「ちょっとカッコ悪いけど、ステージにも立てそうよ」
「ドラムを叩《たた》くの!?」
「だって、独立記念日の夜じゃない」
♪
2枚のシンバルを、同時に叩いた。
フロア・タムで、ロール。しめくくる。最後の曲が、終わった……。
ギター弾《ひ》き、ベース弾き、サックス吹きなんかと握手《あくしゆ》。ステージを、おりる。
ルーレット・テーブルに歩いていく。レティシアのわきに。
「あたしの賭《か》けは、どうやら、はずれたみたいよ」
「そういえば、女性歌手はこなかったわね」
チップを積み上げながら、レティシアは、いった。
店の紙コースターを、あたしはレティシアに見せた。
裏側に、走り書き。さっき、ホセが渡してくれたやつだ。
「〈オールド・B〉は、進路を変えて、ヨコスカ・ベースに飛んだ。理由は、たぶんギャラ」
レティシアは、ルーレットを回しながら、小さな声で読んだ。
「ヨコスカって?」
「日本よ」
「そう……」
また、旅だ。玉は、〈黒の6〉に落ちた。
「私の方も、タイム・アップね」
朝の5時まで、あと2分。閉店《へいてん》時間だ。テーブルに坐ってた最後の水兵が、ゆっくりと立ち上がった。
♪
店には、もう、誰もいない。
「はい」
SAN MIGUELを1本ずつ、ホセは、あたしとレティシアにさし出した。
「サヨナラ・サーヴィスさ」
「あい変わらず、ケチなのね」
あたしたちは、ビンをうけとる。笑い声。
ホセの頬に、両側からキス。なでつけた銀髪《ぎんぱつ》は、葉巻きの匂いがした。
ホセの眼は、ちょっと、うるんでいる。あたしも、泣き笑いになりそうだ。
「さて」
涙があふれ落ちないように、そっと、床《ゆか》に置いたデイ・パックをとった。
レティシアも、小さなショルダー・バッグを肩に。あたしたちは、出入口に歩いていく。
自分のルーレット台の前で、レティシアは、ちょっと立ちどまった。
「バイバイ……」
小さく、つぶやいた。
ルーレットを、ゆっくりと回す。しなやかな指先が、玉を台の中に滑《すべ》らせる。
そのまま、台に背を向けた。振り向きもせず彼女は店の表へ。玉は、〈赤の16〉に落ちただろうか……。
「フーッ」
涼しい朝の空気を、胸いっぱい吸い込んだ。
「じゃ」
「|独立記念日、おめでとう《ハツピー・バースデイ・トウー・フイリピン》」
SAN MIGUELのビンをカチンと合わせて、乾杯《かんぱい》した。ラッパ飲みしながら、歩き出す。
「レティシア」
「うん?」
「いずれ、あれを曲にするわ」
「あれって?」
「ほら。あんたの家のことわざ。〈思い出より、豚肉〉……だっけ」
「ちがうってば。〈思い出じゃ、あしたの豚肉は買えない〉」
「似たようなもんじゃない」
「ちがうじゃない」
笑い声が、夜明けの街《まち》に響《ひび》く。
ロハス大通りに、出た。ガランとした大通りを渡る。遊歩道《ゆうほどう》を、海岸沿いに歩く。
レティシアは、のんびりと口笛を吹きはじめた。
〈オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート〉
あたしと同じ。女なのに、口笛《くちぶえ》がうまい……。
あたしも、軽く合わせる。ふたり、口笛のテンポに合わせて、遊歩道を歩いていく。
「いずれ、スーパー・スターになったら、ロールスにでも乗ってカジノにいくわ」
「また、勝たしてあげるわよ」
レティシアは、微笑《ほほえ》みながら、海をながめた。
前に、ここで出会ったときと同じ。片手を額《ひたい》にかざして、明けていく水平線をながめた。 水平線に、軍艦《ぐんかん》のシルエットは、もうなかった。
あたしは、ポケットから1枚のチップを見つけた。
両替《りようが》えし忘れた、ルーレットのチップ。貝とプラスチックの、1|$《ドル》チップだ。じっと、見つめる。
エンジン音……。ヤシ並木《なみき》を、青いFORDのトラックが近づいてくる。
「空港まで、あれをヒッチ・ハイクしよう」
とレティシア。
「OK」
あたしは、右腕をのばして、親指を立てた。トラックが、スピードをゆるめる。
あたしは、手の中のチップを、指で弾《はじ》いた。
ピンクの1$チップは、朝陽《あさひ》に光りながら、海に落ちていく。
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第3話 ハーバー・ライトが眼にしみて
♪
「このオカマ野郎《やろう》が!」
右手で、スティックを引き抜く。ひと振り。エビのテンプラを、叩《たた》き上げた。
やつが、気どって握《にぎ》った|割りバシ《チヨツプ・ステイツクス》の先から、エビが、ふっ飛んで消えた。
♪
つい30分前。成田空港の入国審査《イミグレーシヨン》。
ALIENS(外国人)とランプのついた窓口に、あたしは並んでいた。
ファースト・ネームは、未記子《みきこ》。顔も、一見、日本人。でも、やっぱり、アメリカ国籍《こくせき》なんだ。
ふと、そんなことを感じながら、窓口にパスポートと入国カードを出す。
窓口の係官。青いユニフォーム着たやつの眼《め》が、キラッと光った。入国カードから眼を上げる。
「搭乗地《とうじようち》は、マニラか」
あたしの顔を、ジロッと見る。2秒……3秒……。入国カードにスタンプを押さず、
「あそこの部屋《へや》に、寄ってくれるかい」
と指さした。その先に、ガラスばりの部屋がある。
フィリピンで、何か伝染病でも発生したんだろうか。そんなことを考えながら、その部屋へ。
部屋の入口じゃ、別の係官が、待ちかまえていた。
40代。ネクタイに、白い半ソデシャツ。メタル・フレームのキザな眼鏡《めがね》。
「中へ」
と、英語でいった。
♪
「そこに坐《すわ》って」
と、やつ。あたしは、イスに坐る。
「パスポートと入国カード」
いわれたとおりに、出す。
やつは、ひとのパスポートを、めくる。入国審査《イミグレーシヨン》のやつとちがって、ゆっくりと、めくっていく。
「未記子・レイラニ……」
あたしの名前を、読み上げていく。
「ロスに……マニラ……サイパン……」
スタンプの押してある地名も、ぶつぶつと読み上げていく。
「日本語は、しゃべれる?」
と、英語できいた。口調《くちよう》とはうらはらに、冷たく鋭《するど》い視線《しせん》。
「まるで、ダメ」
と、あたしは英語で答えておいた。めんどうな質問《しつもん》をされるのが、イャだったからだ。
「そうか」
やつは、つぶやく。あたしのかっこうを、上から下まで、ながめる。
この手の仕事をしてるやつ独特の、イヤミったらしい視線だ。
ポニー・テール。古着《ふるぎ》のアロハ。カットオフ・ジーンズ。白いスニーカー。
そして、ヒップ・ポケットにさした、ドラムのスティック。あい変わらずのスタイルだ。
ひととおりながめると、やつは立ち上がる。そばの受話器をとる。
「ああ、私だが」
日本語で、
「また、1匹、ひっかかったらしい」
と、いった。
サノバビッチ! 日本語がわからないと思い込んで。
タコやマヒマヒじゃあるまいし、1匹とはなんだ。あたしは、完全に頭にきてた。
そいつのエリート面《づら》を、にらみつける。が、やつは、動じない。
「生まれは?」
英語できいてくる。
「眼がついてるんでしょ。ハワイって字が読めないの」
いってやる。
「ふん。年齢は、16歳……か。航空券《エアー・チケツト》を出して」
あたしは、床《ゆか》からデイ・パックをとる。航空券を、出す。
「荷物《にもつ》は?」
手荷物タッグが、あたしの航空券には、1枚もついてない。
「荷物は、これだけ」
床に置いたデイ・パックを、指さした。
やっぱり。やつは、そんな表情。ひややかな視線《しせん》を、また、あたしに向けると、
「いつから、こんな商売《しようばい》やってるんだ」
と、いった。
♪
こんな商売!? 胸の中でつぶやく。けど、もう、ピンときていた。
何回もまちがわれてきた。
若い女。ひとり旅。ショートパンツ・スタイル。
早い話、商売女《プロフエツシヨナル》と思われてるらしい。
まず、イミグレーションの窓口で、粗《あら》いアミにかける。で、この取調べ室が、第2の検問所《ゲート》。
そういうことらしい。
ウワサどおり。ほかの国に比《くら》べて、日本の玄関は、警戒が厳しい。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。唇をかんで、ガラスの外をながめた。
イミグレーションを通っていく、観光客の列をながめた。
「黙秘《もくひ》ってわけか」
やつは、薄笑《うすわら》い。
「失礼します」
ドアが開いた。若い係官が、|お盆《トレイ》を運び込んできた。やつの晩メシらしい。
もう、そんな時間だった。
「また、ソバか」
やつが、日本語でいう。
若いやつは、ソバの丼《ボウル》を、テーブルに置く。あたしをチラッと見ると、部屋を出ていった。やつは、丼《ボウル》のフタをとる。ソバの匂《にお》いが、鼻をつく。
グーグー眠ってて、機内食《ランチ》を食べそこなった。お腹《なか》が、鳴った。
「日本じゃ、誰《だれ》が待ってる」
割りバシを握りながら、やつがきいた。入国カードの滞在先《たいざいさき》、空白の欄《らん》を、指でトントンと突ついて、
「ええッ。これは、どういうことだ」
やつは、両足を、丸いゴミ缶《かん》にのせる。だんだん、言葉が乱暴になってくる。
あたしが、黙《だま》ってる。で、99パーセント、クロと決めたんだろう。
やつは、ソバをひと口、すすった。空腹も、重なって、あたしは爆発寸前だった。
「どうせ、チンピラの手配師《てはいし》でも待ってんだろう。この共同便所が」
エビのテンプラをおハシでつまむと、やつは日本語でつぶやいた。
限度をこえた。
あたしだって、〈共同便所〉の意味ぐらい知ってる。その言葉の薄汚《うすぎた》なさも。
もう、ヒップ・ポケットのスティックを、引き抜いていた。
「このオカマ野郎《やろう》が!」
やつが食おうとした、エビのテンプラ。それを、下からパシッと叩《たた》き上げた。
一瞬《いつしゆん》、やつは、気づかなかった。カラのおハシを、口に持っていこうとした。
エビがないのに、気づく。ポカンとした表情。
「あれ?……テンプラは?」
「飛んでったわよ!」
日本語で、浴《あ》びせかける。
ゴミ缶にのせてたやつの両足を、思いきり、すくいあげていた。イスごと、やつは後ろに引っくり返る。もちろん、ソバの丼《ボウル》を持ったままだ。
頭とシャツに、テンプラ・ソバがぶっかかる。
♪
毛布《もうふ》の中で、あたしは体を丸めた。
留置場《りゆうちじよう》の硬《かた》いベッド。シュリンプみたいに丸まって、あたしは、ヒザをかかえた。
エビをひっぱたいたおかげで、自分がエビになってしまった。
ドジ! バカ! マヌケ! あたしは、唇《くちびる》をかむ。自業自得《じごうじとく》だ。天国じゃ、パパがそういってるだろうなあ。
〈スティックを、またケンカの道具に使って〉
パパが怒ってる顔が、眼《め》に浮かぶ。
ごめん、パパ。でも、この短気は、パパゆずりなんだから。胸の中で、そうつぶやいた。
つぶやきながら、毛布をアゴまで引き上げた。
7月。
いくら日本だって、もう夏だろう。けど、コンクリートの留置場《りゆうちじよう》は、肌寒《はださむ》い。まして、ショートパンツにアロハ1枚だ。ただ、体を丸めて、唇をかむ。
ホノルルのTHE BANDAGEの連中を、思い浮かべる。
ちゃんと、練習してるだろうか。ちゃんと、曲をつくってるだろうか。
あやしいものだ。
ビリーは、大麻《パカロロ》。リカルドは、女。チャックは、酒。
みんな、デタラメやってるにちがいない。
けど、そんなことより、ハワイの、あの陽射《ひざ》しが恋しかった。
カラッと熱い陽射しの下で、ぐいぐいと飲むPRIMO。
ダメだ。そんなこと、留置場で思い出しちゃいけない。頭から、追い払う。
でも、イメージは、北海岸《ノース・シヨア》の波みたいに、つぎからつぎへと押し寄せてくる。
3段重ねのスペシャル・バーガー。ダメだ。
タバスコをたっぷりかけたチリ・バーガー。あっちいけ。
必死に、頭の中から蹴《け》り出す。
それにしても、安いものばかりしか、出てこない。育ちとはいえ、少し悲しかった。
頭の中に押し寄せてくる、食べ物の波と格闘《かくとう》してるうちに、ウトウトと眠りに落ちていた。
♪
ガチャガチャ。留置場《りゆうちじよう》の鉄格子《てつごうし》を開ける音。
「そこのショートパンツ」
あたしのことらしい。
「出ていいよ」
初老の警官が、手まねきする。廊下《ろうか》を歩きながら、
「死刑? それとも、釈放《しやくほう》?」
初老の警官は、笑いながら、
「どうやら、後の方だ」
と、いった。
「ハワイに、照会《しようかい》したんだ」
「ごくろうなことで」
「返事が、やっと、いまきた」
「なんて?」
「早い話、この娘は、いささか乱暴であり、取扱い注意ではあるが、売春《ばいしゆん》の前歴はナシ」
警官は、ニッと微笑《わら》った。
「まあ、空港の係官が〈共同便所〉なんていったのも、良くなかった」
「当たり前よ」
警官は、人のいい笑顔《えがお》。
「悪く思わんでくれ。連中にしても、人を疑うのが仕事だしな」
カウンターに。あたしの荷物《にもつ》が、もう、出ていた。
「そのリュック・サックの中味も、いちおう確認《かくにん》してくれ」
リュック・サックじゃなくて、デイ・パック。そういおうかと思った。
けど、いかにもイナカっぽい警官の顔を見て、やめた。
「確認するほどのもの、入ってないわ」
「でも、いちおう、きまりだから」
「わかったわ」
デイ・パックに、手を突っ込む。
着がえのアロハ・シャツ2枚。ソックス3足。ショーツ4枚。歯ブラシ1本。
アルミ|むく《ヽヽ》の、練習用スティック。パパがくれた、Mマークのスティック。
「それに、これだ」
紙袋から、お金とパスポート。パスポートには、もう入国のスタンプが押してある。
「これから、どこへいくんだい」
と警官。
「ヨコスカ」
「横須賀? 何しに?」
「ママに会いに」
お金をポケットにねじ込みながら、答えた。
「そうかい」
荷物あずかりの書類に、受け取りのサイン。ミッキーのM。それをマルで囲んだだけのサインだ。
スティックを、ヒップ・ポケットにさす。デイ・パックを、肩にかける。
「じゃあ、気をつけてな」
という警官に手を振る。外へ出た。
♪
まぶしい。あたしは、眼を細めた。しばらくは、何も見えない。
いくら日本でも、やっぱり夏なんだ。陽射《ひざ》しは、カリカリと、裸《はだか》の脚《あし》を叩《たた》く。
少しウエットな空気。でも、気になる程じゃない。
やっと、眼がなれてきた。警察署の玄関《げんかん》から、あたしは歩き出す。
酒屋があった。しめた。ビールが飲める。けど……。
後ろをふり向く。
いくら日本のポリスがうるさくても、ビールを飲んだぐらいじゃ、つかまらないだろう。
でも、あたしは、いちおう未成年だ。ビール1本で留置場に逆戻《ぎやくもど》りじゃ、まるでバカだ。
キョロキョロと、まわりを見回す。ポリスもパトカーも、いない。
酒屋に首を突っ込む。クーラーで、BUDWEISERが冷えていた。
「いらっしゃい」
と、おばさん。
「これ、ちょうだい」
「はい。バドワイザーね」
おばさんは、クーラーから出すと、
「280エン」
ポケットからお金を出して、突然、気づいた。あたしが持ってるのは、ドルとセントだけだ。
♪
それでも、いちおう、5ドル札《さつ》をそっと出してみる。
「これじゃ、ダメ?」
「何? これ? ドル!?」
おばさんは、あたしの顔を見て、
「あんた、日本人だろ?」
「そりゃ、まあ」
「何、寝ボケてんのよ」
笑いながら、
「ダメダメ」
バドワイザーを、クーラーに引っ込めてしまった。
あきらめる。唇《くちびる》をかんで、歩きはじめる。
入国審査《イミグレーシヨン》から警察に直行《ちよつこう》だった。|両替え《エクスチエンジ》してるヒマなんて、なかった。
不親切! 連中に腹を立てながら、歩道を歩く。
ってことは、電車もバスも乗れないってことだ。
ええい、なんとかなるだろう。自分を元気づける。
ヒッチ・ハイクでヨコスカまでいってやれ。いけば、米軍|基地《きち》がある。なんとかなるさ。クルマの流れに、右手をさし出す。
♪
1時間後。ゲンナリして、あたしはガード・レールに腰かけてた。
ハワイで誰かにきいたのを、忘れてた。日本じゃ、ヒッチ・ハイクって習慣《しゆうかん》は、ほとんどないんだ。
困った……。ぼんやりと、見回す。
ふと、1台のバイクを見つけた。
ドライヴ・イン・レストランみたいな店の、駐車場《ちゆうしやじよう》だった。
ホンダのバイクだった。けど、あたしが見てたのは、そのナンバー・プレート。横須賀《よこすか》ナンバーだ。
持ち主にきけば、ヨコスカへのいき方を教えてくれるかもしれない。
あたしは、バイクのそばへ。あまり大きくない。せいぜい250ccぐらいだろう。ふいに、
「あたしのバイクに、なんか用?」
背中で声がした。
♪
女の娘《こ》が、立ってた。
「あんたが、持ち主?」
「そうよ。あっちから見てたけど」
彼女は、ガラスばりのレストランを指さすと、
「ひとのバイクを、食べちゃいそうな顔してたわ」
ニッと微笑《わら》った。
実際、お腹《なか》はへっていた。バイクでもトラックでも、かじりつきたい気分だった。
「バイクが好きなの?」
「そうじゃなくて」
あたしは、簡単にわけを説明した。説明しながら、相手をながめた。
年齢《とし》は、あたしと同じぐらい。細身《ほそみ》のジーンズ。短めのカーリー・ヘアー。純粋《じゆんすい》な日本人じゃない。そう感じた。
カーリー・ヘアーも、天然《てんねん》みたいだし、日本人にしちゃ、ヒップの位置が高すぎた。
「そう。空港で暴《あば》れたの」
彼女は、白い歯を見せると、
「そりゃ、ケッサクね」
ヘルメットをかぶりながら、
「いいわ。横須賀《よこすか》まで、乗せてってあげる」
といった。
「空港まで人を送りにいって、どうせ帰るところよ」
「いいの?」
「ガソリン代を半分もらうわ」
「しっかりしてるのね」
「当熱」
あたしに、ヘルメットを渡す。
「いらないわ」
「ハワイじゃいいでしょうけど、日本じゃ、ヘルメットなしで走れないの」
「不便《ふべん》ね」
あたしも、ヘルメットをかぶりながら、
「あんた、どっかの血が混《ま》ざってる?」
ときいた。
「あんたと同じで、混《ま》ざってるわよ」
エンジンをかけながら、
「黒人《ブラツク》が、半分ね」
予想どおりだった。バイクの後ろに、またがる。
彼女が、何かいった。エンジンが、かかってる。しかも、ヘルメットごし。きこえない。
「何!?」
叫ぶ。
「あんまり強く、お腹《なか》につかまらないで!」
と彼女。
「どうして!」
「ニンシンしてるの!」
♪
潮風《しおかぜ》が、ハンバーガーの包み紙を、パタパタとはためかす。
あたしたちは、フェリー・ボートのデッキにいた。
あたしの右手にはコーク。左手には、ハンバーガー。
ハンバーガーは、ハワイのよりおいしかった。
走ってくる途中のバーガー・ショップで買った。お金は、彼女に借りた。
「横須賀《よこすか》に着いたら、基地《ベース》の中で|両替え《エクスチエンジ》してきてあげるから」
彼女は、快く470エン貸してくれた。
成田《なりた》から4時間半ぐらい。カナヤという小さな港《ハーバー》まで、走った。そこで、このフェリーにバイクごと乗った。
ヨコスカのあるミウラ半島まで、トーキョー湾《ベイ》を、突っ切るらしい。
午後2時。あい変わらず、陽射しはカリカリ。
トーキョー湾は、もちろんキレイじゃない。けど、予想してたよりは、ずっとマシだった。
潮風《しおかぜ》も、変なニオイはしない。涼しく、前髪《まえがみ》を揺《ゆ》らせていく。
「信じるかどうか知らないけど」
あたしは、流れていく海面を見おろして、
「サンタモニカの海も、こんな色よ」
と、いった。彼女は、眼を丸くする。
マイケル・ジャクソンの妹。なんとかジャクソンを、日本人っぽくしたみたいな顔だ。
「どうしてかしら」
と彼女。
「海が、つながってるからじゃない」
2秒後、あたしたちは笑いころげていた。
「ところで、あんた、名前は?」
彼女が、きいた。
「ミッキーよ。日本語で書くと……」
風でパタパタしないように、ペーパー・ナプキンを押さえる。
かじっていたフレンチ・フライの先に、ケチャップをつける。
ナプキンに、ケチャップで〈未記子〉と書いた。
「あんたは」
「レッド」
「レッド?」
「うん。あんたのミッキーと同じでニック・ネーム。ほら、髪が」
自分のカーリー・ヘアーをさして、
「少し赤っぽいでしょ」
そういえば、確かに。
「で、レッド。本名は」
彼女も、フレンチ・フライにケチャップをつけると、〈令子《れいこ》〉とペーパー・ナプキンに書いた。
「まるで、どっかのお嬢様《じようさま》ね」
彼女は、うなずく。
「いまでも、自分の名前じゃないみたいよ」
手をはなす。ペーパー・ナプキンは、カモメみたいに飛んでいく。
「ニンシンは、何か月?」
SALEMをくわえて、あたしはきいた。
「3か月ぐらい」
と彼女。
「さっき、空港へ送っていったのが、相手でしょう」
「どうして、わかったの」
レッドは、また、眼を丸くする。
「あんたの貸してくれたヘルメット、男の化粧品の匂《にお》いがしたわ」
「まるで、コロンボね」
「で? ニンシンは、ハッピー・エンド? それとも、アンハッピー?」
「もちろん、ハッピー・エンドよ」
レッドの歯が、白く光った。
「結婚《けつこん》するの?」
彼女は、うなずいて、
「ひと足先に、本国《メイン・ランド》へ戻って、あたしに旅費を送ってくるわ。それよりミッキー、あんたは何しに日本にきたの」
ごくサラッと、身《み》の上話《うえばなし》をする。
「そう。ママにサヨナラをいうために……」
「まあね」
向こう側の半島が、近づいてきた。
「〈オールド・B〉か。きいたような気がするわ」
とレッド。
「とりあえず、うちに寄ってみなさいよ。ママが、ライヴを演《や》る店を経営《けいえい》してるの」
♪
「〈|赤かぼちゃ《レッド・パンプキン》〉……変な名前ね」
バイクをおりて、あたしはいった。ヘルメットを、ぬぐ。背筋《せすじ》をのばす。
クリハマという港《ハーバー》に上陸。また30分以上走った。さすがに、少し疲れた。
「うちのママも、髪が少し赤いのよ」
〈RED《レッド》 PUMPKIN《パンプキン》〉の看板《かんばん》を見上げて、レッドはいった。
ヨコスカ基地《きち》のゲート前。兵隊向けの店が並んでる。
〈ドブ板通り〉と書かれた街《まち》のはずれに、〈レッド・パンプキン〉はあった。
「レッドは、それでわかったけど、パンプキンは?」
「ママを見ればわかるわよ」
レッドは、店のドアを押す。
「ママ。お客」
出てきたおばさんを見て、思わず吹き出すところだった。
♪
確かに、〈かぼちゃ《パンプキン》〉だった。
その黒人のおばさんは、とにかく太ってた。
タテとヨコと、どっちが太いか。まあ、〈かぼちゃ〉に手脚《てあし》。
「ミッキーよ」
「ああ。レッドのママだよ」
「じゃ、ミッキー、あたしは|両替え《エクスチエンジ》してくるからね」
あたしの100ドルを握《にぎ》ると、レッドは飛び出していった。
「まったく、寄りつかないんだから、あの子は……」
おばさんは、太いしゃがれ声でいった。カウンターの向こうに入ると、
「何か飲むかい、ミッキー」
「じゃ、ビール」
「OK」
おばさんは、冷蔵庫《れいぞうこ》を開けると、
「日本のビール? それとも、バド、シュリッツ、ハイネケン?」
「じゃ、バド」
おばさんは、うなずく。BUDの12オンス缶《かん》を、出す。
おばさんは派手《はで》なスタイルだった。
チョウみたいな型の、ピンクのスモーク・グラス。ピンクのイヤリング。やっぱりピンク系の、光るドレス。でも、褐色《かつしよく》の肌《はだ》には、それが似合《にあ》っていた。
おばさんは、完全な黒人。レッドのパパが、きっと日本人なんだろう。
あたしは、スツールに坐る。用件を切り出した。きき終わると、
「アキコねえ。きいたことが、あるねえ」
腕組みして、
「うん。最近、ゲートわきの〈CLUB ALLIANCE《アライアンス》〉で唄《うた》ってたんじゃなかったかな」
カウンターの電話をとる。ダイアルを回す。
「ああ、ゲイリーかい。パンプキンのママだけど。あんたのクラブで日系人のシンガー……ええと」
あたしに、
「名前なんだっけ」
「ニック・ネーム〈オールド・B〉。本名は、亜記子《あきこ》」
彼女は、そのまま、相手に伝える。
「ああ、そう。唄ってた……」
過去形だ……。
「そう……」
あたしに、
「2日前まで、唄ってたって。いまの居場所は、わからないって」
「調《しら》べられるかしら」
「ねえ、ゲイリー、いま、本人がどこにいるか調べられる?……そう……」
「多少、日数をかければ、調べられるだろうって」
あたしは、うなずく。
「じゃ、調べて、連絡ちょうだい」
ママは、電話を切る。
スレちがいか……。あたしは、ビールのゲップと溜息《ためいき》を、いっしょに出した。
「で、あんた、どうするの」
「しばらく、どっか安いところへ泊《と》まるわ」
ヒップが、少し痛い。
スティックをヒップ・ポケットにさしたまま、バイクで走ったからだろう。
スティックを、カウンターに置く。
「あんた、ドラム叩《たた》きなのかい」
とママ。
「いちおうね」
「じゃ、連絡を待ってる間、うちで仕事していきなよ」
「同情は、けっこうよ」
「同情なんかじゃないよ」
ママは、ステージを指さして、
「いま、ピアノとアルト・サックスだけで演《や》ってるのさ」
小さなステージには、電気ピアノ。なるほど。隅《すみ》のドラム・セットには、白い布《ぬの》がかけてある。
「きょう、ちょっとした巡洋艦《じゆんようかん》がドックに入ったって話だ。しばらくは、客も多いよ」
ママは、煙草《たばこ》をくわえると、
「ギャラは安いけど、メシつき。寝るのは」
店のソファーを指さして、
「そこでよければ、夏だし、2階にゃ、シャワーもあるよ」
ソファーで寝るのは、なれっこだ。
きのうの夜は、留置場《りゆうちじよう》のコチコチ・ベッドだった。それに比べりゃ、まるでスウィート・ルームだろう。それに、
「ただボーと待ってても、しょうがないわね」
あたしは、白い歯を見せる。
「OK。話は決まった」
とママ。
「あたしのことは、〈ママP〉って呼んどくれ」
「そのPは?」
「もちろん、パンプキンのPさ」
巨《おお》きな体をゆすって、〈ママP〉は笑った。
♪
「はい」
レッドが、日本円を渡してくれる。
たそがれのリブ板通りを、あたしたちは歩いてた。歩きながら、お金を数える。
「レッド、ちょっと少ないんじゃない」
あたしは、いった。
「1割《わり》は、手数料《てすうりよう》よ」
とレッド。
「銀行で|両替え《エクスチエンジ》したって、手数料は、とられるんだから」
それはそうだけど、
「しっかりしてるのね」
あたしは、苦笑《にがわら》い。お金を、ポケットにねじ込んだ。ふいに、
「豚《ぶた》が歩いてるよ」
後《うし》ろで声がした。
♪
ふり返る。ティーン・エイジャーの娘《こ》が、3人。
3人とも、セーラー・カラーの制服《ユニフオーム》を着てる。けど、スカートたけが、えらく長い。
「黒豚《くろぶた》と白豚だよ」
と、1人がいった。
「あたしたちのこと?」
レッドに、きく。
「そうみたいね」
3人が着てるのは、高校《ハイ・スクール》の制服だろう。けど、スカートに突っ込んだ両手。黄色く染《そ》めた髪。ようするに、不良高校生なんだろう。
「日本じゃ、ツッパリっていうの」
と、レッドが耳うちする。
「ああいう髪は、ハワイじゃ、|トウモロコシ頭《コーン・ヘッド》。つまり、バカってことよ」
あたしは、いった。きこえたらしい。
「いってくれるじゃないか。ええ」
3人が、近寄ってくる。どっちみち、最初からカラんでくるつもりだったんだろう。
「そっちの、サーファーっぽいネエちゃん」
1人が、あたしにいった。
「サーファーっぽいって、何?」
レッドに、きく。
「とにかく、あんたのことよ、ミッキー」
「そう。おまえのことだよ」
1人が、男みたいな口をきいた。
「ナマイキな顔しやがって」
と相手。
「汚《きた》ない髪しちゃって」
と、あたし。
「なんだって!」
「おまけに、眉《まゆ》を描《か》き忘れてるわよ」
と、いってやった。3人とも、眉が、ほとんどない。
「ツッパリやがって」
3人が、囲んでくる。両手は、ゾロッとしたスカートの中だ。
「やつら、カミソリでかかってくるわよ」
レッドが、そっと耳うち。
スカートの中に、何か武器をかくしてる。それは、カンづいてた。
あたしは、右手をそっと後ろに。ドラムのスティックまで、2、3センチ。
「豚のコマ切れといくか」
3人は、ジリッとつめてくる。
「くるわよ」
と、背中合わせのレッド。
「ほれ!」
1人が、右手で突っかかってきた。レッドのいったとおり、指先で、何かの刀《は》が光る。
軽く、かわす。
もう、ヒップ・ポケットのスティックを、引き抜いていた。
トップ・シンバルを叩《たた》くフォームで、その手首《てくび》をひっぱたく。
5分の力。
相手は、プロのヤクザでも海兵隊《マリーン》でもない。ただの、いかれたハイ・スクール・ガール。つまり、ガキだ。
骨折《こつせつ》もしない。ヒビも入らない。その程度の力加減《ちからかげん》だ。
小さく、うめく。片側にガム・テープを貼《は》ったカミソリの刃《は》が、道路に落ちた。
左から、2人目が、かかってくる。
かわす。顔のわきを、光が走る。
相手は、よろけた。その手首に、スティックを叩きおろす。フロア・タムを叩くフォームだ。
また、カミソリの刃《は》が落ちる。
3人目! 蹴《け》りを飛ばしてきた。
けど、ゾロッとしたスカートだ。トロい蹴りだ。
あたしは、かわしながら、左手で、スティックを抜いていた。
フォーマル・グリップ。宙《ちゆう》に浮いたその足首に、ピシッと叩きおろした。
スネア・ドラムに、リム・ショット。そんな感じだ。
「イタタ!」
3人目も、へたり込む。全部で、5秒か6秒だった。
「さあ、どうするの」
あたしは、いってやった。
「これ以上やるんなら、あんたたち、入院することになるわよ。学校がサボれるから、それもいいか」
足首を叩かれた3人目を、前の2人が、かかえ起こす。
「オトシマエは、きっちりつけてやるからな!」
女とは思えない捨てゼリフ。あたしを、にらみつける。3人は、ズラかっていく。
「ミッキー、あんた強いのね」
とレッド。さすが、黒人系。眼を丸くするたびに、白眼《しろめ》が目立つ。
「自分の身ぐらいは、守らなくちゃね」
スティックを、ヒップ・ポケットに。
「でも、どうしてカラまれたの」
「いちおう、混血《こんけつ》だからよ。でも、連中にとっちゃ、何か理由があればいいわけ」
「混血がカラまれるんなら、ホノルルの街なんか、毎日、血の雨ね」
♪
「こりゃ、かなりだ」
ドラム・セットの布《ぬの》を、めくったところだった。ひどいボロだった。
シンバルは、べコベコ。ハイハットもゆがんで、うまく合わさらない。
ドラムス類の金属部分も、サビだらけだ。
「ま、音が出りゃいいか」
シンバルの角度、高さ。スネア、ハイハットの高さ。タム類の角度なんかを、自分用に調整する。
ヒゲ面《づら》のピアノ弾《ひ》きも、軽いパッセージを弾いて、音のバランスを調整《チユーニング》。
午後9時。〈レッド・パンプキン〉。せまい店は、満員《まんいん》だった。
客の全員が、黒人。そういう店なんだろう。
電気ピアノも、調整が終わったらしい。ふいに、拍手《はくしゆ》がわき上がる。
驚いた。アルト・サックスを持って出てきたのは、なんと〈ママP〉だった。
太った体を、光沢《こうたく》のあるドレスに包んで、ステージに。アルト・サックスが、ひどく小さく見える。
「ようこそ、〈レッド・パンプキン〉へ!」
みんな、知ってるんだろう。拍手《はくしゆ》と口笛《くちぶえ》。
〈ママP〉は、あたしとピアノ弾《ひ》きに、軽くウインク。いくよ、という合図《サイン》だろう。
〈WHEN A MAN LOVES A WOMAN〉
〈男が女を愛する時〉を、ふいにおっぱじめた。
2小節目《しようせつめ》から、シンバルとスネアで、フォローする。ピアノも、スッと入ってくる。
あたしにとっては、何も難《むずか》しいことはない。ドラムスを叩《たた》きながら、じっと、〈ママP〉の音を聴《き》く。
正直いって、外見は、へんちくりんだ。
ビヤ樽《だる》みたいな黒人のおばさんに、ヒラヒラ・ドレス。
太いO脚《きやく》をふんばって、小さなアルトを吹いてるんだから。
けど、音は、いい。パンチもある。感情《ハート》も、こもってる。黒人だから、リズムの乗りは抜群《ばつぐん》だ。
とりわけ圧倒的《あつとうてき》なのは、音のパワーだ。
この体だから、当然か。あたしは、胸の中で苦笑《くしよう》。軽快《けいかい》に、スティックをさばく。
P《パーシー》・スレッジ。
O《オーテイス》・レディング。
B《ビリー》・ポール。
J《ジヨージ》・ベンソン。
S《スティービー》・ワンダー。
さすがに、黒人の曲ばかりがつづく。
ラスト・ステージの、ラスト・ナンバー。〈ハロー・ドーリー〉だ。
にぎやかに、演《や》る。
|2《ツー》コーラス目。〈ママP〉は、サックスを口から離す。太い声で、唄《うた》いはじめた。拍手《はくしゆ》と歓声《かんせい》。
「エーイ、サッチモおばさん!」
そんな、かけ声が飛んでくる。〈ママP〉は、乗りまくる。
「ワン・モア・タイム!」
「ワン・モア・タイム!」
しめくくりの|1《ワン》コーラスを、けっきょく、5回もリフした。
♪
「お疲れさま」
閉店したのは、もう夜ふけの3時半だった。
「ユウちゃん、片づけ、適当でいいよ」
とママ。ユウちゃんは、悠二《ゆうじ》。若いけれど、マジメな従業員だ。
この店に勤めて、6年になる。さっき、ニキビ面で、テレくさそうにそういった。
あたしたちは、ガランとした店の、まん中のテーブルに。
「さて、お疲れさまの1杯をやろうかね」
と〈ママP〉。
「それじゃ」
と、ユウジがバーボンを出してくる。
「また、一番高いハーパーを出してきて」
と〈ママP〉。
「まいったなァ」
ユウジは、頭をかきながら、
「見えないのに、わかっちゃうんだから」
「見えない……!?」
思わず、あたしは〈ママP〉を見た。
♪
「あんた、気がついてなかったの?」
とママ。
「意外に、トロいんだねえ」
微笑《わら》いながら、
「こう見えても、立派な盲目さ」
太い声で、いった。
そうか……。それで、店の中なのに、スモーク・グラス……。
「そういうこと。女レイ・チャールズ」
ママは、I・W・HARPERを、自分のグラスに注ぎながら、
「レイ・チャールズは、ちょっと古いか。じゃ、スティービー・ワンダーだね」
バーボンを、笑いながら、ひと口。
〈パートタイム・ラヴァー〉を、鼻唄《はなうた》しはじめた。
あたしも、ハーパーのオン・ザ・ロックスを、ひと口。
「でもね」
と〈ママP〉。
「あんたたち、普通《ふつう》の人間より、あたしにゃものが見えるんだ」
バーボンを、ストレートでやりながら、
「たとえば、ミッキー……」
あたしに、
「気を悪くしたらゴメンよ。あんた、パパ、いないね」
ズバリと、当てた。
「気なんか悪くしないわ」
あたしは、微笑《わら》いながら、
「でも、当たってる。パパは天国よ。どうして、わかるの」
「そりゃ、わかるさ。パパがいる娘が、ひとりでママさがしになんかくるものかい」
「……アキコが、あたしのママだって、わかった?」
「あんたが、この店に入ってきたあのときに、すぐわかったよ」
「どうして?」
〈ママP〉は、ニコリと微笑《わら》うと、
「インスピレーションさ」
指で、コメカミを叩《たた》いてみせた。
ラジオのFENが、B《ベツト》・ミドラーの〈ザ・ローズ〉を流しはじめた。
「でも……」
と、あたし。
「眼が不自由で、不便なことって、ない?」
〈ママP〉は、微笑《わら》いながら、
「まるで、ないね」
首を横に振る。
「たぶん……見えない方が幸《しあわ》せなことが、世の中に多すぎるんだろうね」
店に、〈ザ・ローズ〉が、低く流れている。
♪
「ミッキー」
誰かが、肩をゆする。
「ああ?」
眼を半開き。
「寝ボケちゃって、もう」
レッドだった。時計を、見る。朝の10時半。
ヨコスカで過ごして、もう1週間以上。ソファーの寝ごこちにも、慣《な》れた。ぐっすりと眠っていた。
「ほら、起きなさいよ、ミッキー」
レッドが、ひとのポニー・テールを引っぱる。
あたしは、のろのろとソファーに体を起こす。
「こっちは、毎晩3時4時まで、ドラム叩《たた》いてるんだから、もう……」
「海に泳《およ》ぎにいかない?」
とレッド。
「泳ぎに?」
眼をこすりながら、あたしはいった。
「いやんなるぐらい、いい天気よ」
とレッド。ブラインドごしの陽射《ひざ》しでも、それは、わかる。
「海かァ……」
悪くないなあ。
「でも、水着《みずぎ》がないわ」
ハワイじゃあるまいし、裸《はだか》で泳げる海岸なんて、ここにはないだろう。
「あたしのを、1枚貸したげる。じゃ、バイクに朝メシ食わせてくるから、したくしておいて」
レッドは、勝手《かつて》にいい捨てる。店を飛び出ていった。
♪
「朝っぱらから、騒々《そうぞう》しいこった」
〈ママP〉が、のっそりとおりてきた。新聞と、封筒《ふうとう》を、郵便受《ゆうびんう》けからとってくる。
「ああ、これは……」
封筒《ふうとう》を手にとっただけで、
「レッドのフィアンセからだね」
と、いった。のぞいて見る。確かに、本国《メイン・ランド》からのエア・メールだった。
「レッドに、渡しといておくれ」
とママ。
「…………」
「いいんだよ」
あたしが何かいいかけた。それを、手でストップさせて、
「わかってるの。フィアンセのことも、あの子のお腹《なか》にベビーがいることも」
2階に上がりながら、
「本国《メイン・ランド》行きの旅費《りよひ》か、航空券かもしれないね。とにかく」
あたしにプラプラと手を振ると、
「あの子に、渡しといとくれ。あたしゃ、もうひと眠りだ」
♪
「あんた、もしかして、ヴァージンでしょう」
レッドが、いった。
ミウラ半島の、先の方。松林に囲まれた、小さなビーチ。有料のシャワー・ルーム。
裸《はだか》になって、水着に着替えてるところだった。ひとの体を、ジロッと見て、
「そのボディ・ラインは、まだヴァージン。そうでしょう」
「ほっといて」
「ほら。当たりね」
あたしも、レッドの浅黒い体をジロッと見てやる。
「お腹《なか》、まだ出てないのね」
「そりゃ、まだよ、出てくるのは」
「泳いだりして、だいじょうぶなの?」
「水につかる程度ね」
水着になったレッドが、
「あんた、何してるの!?」
「何って、洗濯《せんたく》よ」
脱《ぬ》いだアロハ、カットオフ・ジーンズ、ショーツなんかを、あたしは、しゃがんで洗ってた。
「いま洗濯すれば、帰るまでに乾《かわ》くでしょう」
「あきれた」
♪
「やめてよ、ミッキー!」
海から上がってきたレッドが、叫《さけ》んだ。
「何してんのよ! カッコ悪い」
ビーチ・マットに、あたしは洗濯物《せんたくもの》をひろげていた。
ハワイじゃ、砂浜に敷くのは中国ゴザかタオルだ。けど、日本じゃ、ナイロンのシートを敷くらしい。そこに、あたしは、洗ったものをひろげていた。
「無料の乾燥機《かんそうき》よ」
自分は、バス・タオルの上に寝っころがる。
「いっしょにくるんじゃなかった、まったく」
「イヤなら、離れてれば」
あたしは、ニコッと微笑《わら》った。
♪
「やっぱり」
とレッド。
「旅費《りよひ》だったわ」
封筒《ふうとう》を開けて、つぶやいた。あたしたちは、砂浜に寝そべっていた。
「よかったね、レッド」
彼女は、無言でうなずく。同封されてる短い手紙を読んでる。
「すぐに、飛んでこいって」
「そう……」
あたしは、くわえたSALEMに火をつけた。
頭の上。レッドの小さなラジオから、G《グレン》・キャンベルの〈恋はフェニックス〉が流れている。
ゆったりとした曲が、まぶしい砂浜に漂《ただよ》っていく。
「そういえば、フェニックスなんだ」
とレッド。
「何が?」
「彼の故郷《くに》が」
「じゃ、フェニックスで結婚式?」
「たぶん、ね。でも、彼は造船技師《ぞうせんぎし》だから、住むのはサン・フランシスコあたり」
「ふうん」
「西海岸なら、あたしみたいな人間にも、きっと住みやすいわ」
レッドは、陽射しに眼を細めると、
「この前のツッパリのことでもわかるみたいに、この国じゃ、やっぱり混血《こんけつ》の人間は住みづらいわ」
「ふうん」
ハワイ育《そだ》ちのあたしには、正直いって、実感がない。でも、やっぱり、そうなんだろう。
「ねえ、レッド、お腹すかない?」
「すいた」
「なんか、食べよう」
少しでもシリアスな気分になったら、とりあえず、飲み食いだ。
♪
「あれ、おいしそうね」
となりのテーブルで、家族連れが食べてる丼《ボウル》を、あたしは眼で追った。
砂浜にある、急ごしらえの食堂。あたしとレッドは、とりあえずビールを飲んでた。
「あれはね、親子丼《おやこどんぶり》っていうのよ」
「ふうん」
ホノルルにも、たいていの日本食はある。カツ丼《どん》も、牛丼も、ある。でも、親子丼ってのは、知らなかった。
「高い?」
と、あたし。
「バカね。高いわけないじゃない」
「よし、いってみよう」
食堂のおばさんに、注文《ちゆうもん》する。
「それに、ビールを追加《ついか》!」
コップのビールを、レッドは飲《の》み干《ほ》すと、
「そうか……ママは、知ってたか」
「そう。あんたが、本国《メイン・ランド》で結婚するつもりなことも、ベビーのことも」
「ママには、かくせないのよね。あの、カンの鋭さだから」
レッドは、煙草《たばこ》の煙を吐《は》きながら、
「でも、あたしは、いくわ。ママなんか、おっぽり出して」
半分は、自分にいいきかせるように、きっぱりとつぶやいた。
あたしは、歌のきれっぱしを口ずさむ。
替《か》え歌《うた》。以前、感化院《ガールズ・ホーム》で流行《はや》った替え歌だ。
元歌《もとうた》は、D《デイーン》・マーチンの〈エブリバディ・ラヴ・サムバディ〉
そのLOVEを、LEAVEに替える。
訳《やく》せば、〈みんなが、誰かを、置き去りに……〉
冗談《じようだん》半分。レッドの前で、口ずさむ。
「ふん、だ」
レッドは、ソッポを向く。
「当てつけがましく」
ブスッとして、
「あんだだって、大きなこといえないんだからね、ミッキー」
あたしに向きなおると、
「けっきょく、あんた、置き去りにされた娘《こ》じゃない」
あたしたちの前に、丼《どんぶり》が置かれた。あたしたちは、割《わ》りバシをとる。
「ごらんなさいよ」
レッドは、ドンブリをさすと、
「鳥でさえ、こうやって親子でドンブリになってるのに、あんたなんか何よ」
おハシで鳥肉をつまむと、
「親に置いてかれた、ただのグシャグシャ玉子《たまご》じゃない」
3秒後、あたしたちは、笑いころげていた。お腹をかかえて、笑う。
けど、いつの間にか、泣き笑いになりそうな自分に、あたしは気づいた。
胸に、こみ上げてくるものがある。鼻の奥が、ツーンとする。
ホカホカの丼に、顔をふせる。おハシを動かしながら、ごまかす。
けど、1度あふれはじめた涙は、とまらない。頬《ほお》をつたって、ドンブリに落ちる。
「泣いてるの? ミッキー」
「笑いすぎただけよ」
おハシを持った右手で、頬《ほお》をぬぐう。親子丼を、乱暴にかき込む。
レッドの声も、つまってきた。
やはり、胸を突き上げる思いがあるんだろう。
置き去りにする。される。どっちみち、別れることに、変わりはないのだから。
レッドが、鼻をすすった。乱暴《らんぼう》に、丼《どんぶり》をかき込む。
明るい砂浜。カラフルなパラソル。家族連れやカップルの歓声《かんせい》がきこえる。
食堂のおばさんが、不思議《ふしぎ》そうな顔で、あたしたちを見ていた。
顔をふせっぱなしで親子丼を食べてる、混血《こんけつ》っぽい2人の娘……。
「カッコ悪いよ、ミッキー」
「1週間ぶりのゴハンで、感激してるコジキみたいね」
「鼻の頭に、ゴハン粒《つぶ》がついてるよ、ミッキー」
「あんたのアゴにも」
それでも、やたら涙でしょっぱい親子丼を、あたしたちは、かき込みつづけた。
♪
「ほら、ぶっ飛ばして!」
後ろで、レッドが叫《さけ》んだ。
2人で、10本のビールを空《あ》けた。半分以上は、レッドが飲んだ。
しょうがない。帰りは、あたしがバイクを転《ころ》がすことにした。
「エンジン、スタート!」
缶《かん》ビール片手に、レッドがどなる。
「OK、OK」
エンジンをかける。
「ところで、ミッキー。あんたバイク動かせるの」
「このぐらいのなら、ハワイで乗ってたことがあるわ」
「OK。まかせる!」
レッドは、完全にでき上がってる。
「つかまって!」
クラッチをつなぐ。松林を抜ける。すぐに、舗装《ほそう》道路に。スピードを上げる。
「ねえ、ミッキー!」
後ろで、レッドがどなった。
「何!?」
「もしかして、右側を走ってるんじゃない!?」
「そうか!?」
ハワイのつもりだった。
「だから、正面からクルマがくるのか!?」
衝突《しようとつ》寸前で、左にかわす。
「ちゃんと、前見て走れ!」
遠ざかる対向車に、レッドがどなった。
「ダメだ、こりゃ」
♪
「これで、6万、浮いたわ」
とレッド。
あたしたちは、旅行代理店《りよこうだいりてん》から出てきたところだった。中華《ちゆうか》航空の安い便を、レッドは見つけた。
「機内食は、毎回、ギョーザよ」
と、からかう。
「でも、6万は、大きいわ」
「ドレスでも買うの?」
「NO。ため込む」
「あい変わらず、しっかりしてること」
「おっと」
レッドが、足をとめた。
この前痛めつけたツッパリ・グループがいた。7、8人。道をふさいでる。
向かい合った。リーダーらしい大柄なショート・カットが、1歩出てきた。
「この前は、うちの連中をハタいてくれたそうだね」
「アンコール?」
あたしは、右手を、スッと後ろへ。
「ここじゃ、まずい」
とツッパリ。
「すぐに、おまわりを呼ばれる」
なるほど、人通りのある道路だ。
「じゃあ?」
「明日、朝の4時。三笠《みかさ》公園で、ケリをつけよう」
「OK」
レッドに向かって、
「もしズラかったりしたら、おフクロの店を叩《たた》きつぶすからな。そのつもりで」
♪
「兵隊が、飲み代のツケに、置いてったやつらしいわ」
とレッド。刃渡《はわた》り20センチぐらいのシー・ナイフを、出してきた。ジーンズの背中に、サヤごとおさめる。
あたしも、アルミ|むく《ヽヽ》のスティックを、ヒップ・ポケットに。
朝の4時半。〈ママP〉は、寝たばかりだ。もしかしたら、寝ていないかもしれない。
そっと、〈レッド・パンプキン〉を出る。
レッドは、小さなデイ・パックを肩にかけてる。
「やつらと決着つけたら、そのまま空港行きよ。……さよなら、赤かぼちゃ」
表通りで、バイクのエンジンをかける。
ふたり乗り。4、5分で三笠《みかさ》公園に着く。
連中は、もう待ちかまえていた。薄暗い中に、7、8人の影。
ショート・カットのリーダーは、バイクにまたがっていた。
レッドは、バイクをとめた。おりようとする。
その瞬間《しゆんかん》、その背中のシー・ナイフを、あたしは後ろから引き抜く。
レッドの首筋につきつける。
「そっと、バイクをおりて、レッド」
「何するの」
あたしは、バイクの運転席《シート》にまたがる。ナイフは、レッドの首につきつけたまま。
「とりあえず、あたしが勝負《しようぶ》するわ」
「…………」
「フェリーの上でいつか食べた、ハンバーガーの借《か》りを、まだ返してなかったからね」
敵のリーダーに、どなる。
「1対1で、勝負をつけようじゃない! それとも、サシじゃ怖《こわ》い!?」
「バカいうんじゃないよ!」
やっぱり、ガキだ。簡単にのってきた。
ケンカは、とりあえず人数。その大原則を忘れて、ツッパってきた。
「もし、あたしが勝ったら、〈レッド・パンプキン〉にも、誰にも、手出しをしない」
「OK」
「もし、あんたが勝ったら」
「心配無用。あんたは、もう口がきけなくなってるから」
連中から、笑い声が上がる。
「やられたら、カタキはとってよ」
レッドの体を、軽く押しのける。バイクのエンジンをふかす。
「いくわよ」
アルミ|むく《ヽヽ》のスティックを、1本、口にくわえる。
あたしは、ポニー・テール、ノー・ヘルメット。
敵は、フル・フェイスのヘルメット。右手には、鉄パイプ。
「くたばりな」
向こうが、クラッチを合わせた。こっちも、飛び出す。
1速……2速……。アクセルを全開。耳もとで、朝の風がうなる。
公園のまん中で、すれちがう。
10メートル!
7メートル!
3メートル!
敵の鉄パイプが、水平に振られる!
スティックを振るゆとりはない。頭をふせる。
すれちがった瞬間、ポニー・テールの先を、鉄パイプがかすった。
30メートルずつ、いき過ぎてUターン。とまる。
「いまのは、ほんのリハーサル。次は、本番だよ」
と敵。
ヘルメットの中で、ニヤッと微笑《わら》うのが見えた。
こっちはスティック。あっちは鉄パイプ。敵の武器の方が、断然《だんぜん》、リーチが長い。
まともじゃ、勝負《しようぶ》にならない。
手に、うっすらと汗。なんとかしろ! ミッキー。自分に、いいきかせる。
「さあ、病院へ一直線!」
と敵。飛び出してくる。
こっちも、クラッチをつなぐ。飛び出す。
口にくわえたスティックを、右手で握《にぎ》る。
ぐんぐん、相手が近づいてくる!
40メートル!
30!
20!
10!
5!
すれちがう瞬間《しゆんかん》、頭をふせる。
スティックを、相手の前輪に投げつける。
すぐ頭の上を、鉄パイプの走り過ぎるうなり。
同時に、敵の前輪が、金属スティックをくわえ込んだ音!
ふり返る。
前輪が一瞬ロックしたバイクは、横滑《よこすべ》り。
タイヤの悲鳴《ひめい》。転倒《てんとう》。
ライダーの体は、放り出される。
朝もやに火花《ひばな》を散らして、バイクは20メートルぐらいアスファルトを滑《すべ》る。やがて、とまった。
あたしは、バイクをおりる。くの字に曲がったアルミのスティックを、ひろった。
ゆっくりと歩いていく。
やっと、上半身を起こした敵のリーダー。その足もとに、カランと放る。
「朝の体操は、終わりよ」
♪
「300万、あるわ」
紙袋を、レッドはさし出した。
羽田空港。国際線出発ロビー。
「これを、ママに?」
「そう。渡しといて」
「あれだけしっかりしてりゃ、たまるはずか……」
「ほんの、序の口よ。本国《メイン・ランド》の生活が軌道《きどう》に乗ったら、たっぷり仕送りするからって、いっといて」
「了解《りようかい》。じゃ、元気で」
「そのうち、どっかで会うわよ」
「機内食のギョーザ食べ過ぎると、フィアンセに逃げられるよ、レッド」
国際線でも、中華《ちゆうか》航空だけは、羽田《はねだ》から飛ぶらしい。
「もしかしたら、窓から、横須賀《よこすか》の街《まち》が見えるわね」
レッドは、ぽつりと、つぶやいた。
♪
「グアム……」
あたしは、〈ママP〉の言葉を、リフレインしていた。
「そう。あんたのママは、〈オールド・B〉は、グアムヘ飛んだらしい」
夜9時。あたしと、〈ママP〉は、ヨコスカ湾《ベイ》の岸壁に佇《たたず》んでいた。|港の灯《ハーバー・ライト》が見渡せる、長い岸壁だ。
「きのう、巡洋艦《じゆんようかん》が出ていった」
「…………」
「きょうは、レッドが出ていった」
「…………」
「そして、ミッキー、あんたも、すぐに出ていく」
「…………」
「横須賀《よこすか》の街も、やっと静かになるねえ」
〈ママP〉は、太い声でつぶやいた。
岸壁に、小さな波が打ち寄せる音。風は涼しく、ちょっと潮《しお》の香りがした。
あたしは、SALEMに火をつける。
泳ぎにいったとき、レッドと話したことを、ポツリポツリと話す。
ひと区切り、きき終わると、
「いいんだよ」
と〈ママP〉は、いった。カラッとしたトーンで、
「子供ってのは、いつか、親を置き去りにする日がくるものさ」
「…………」
「あたしだって、そうやってきたし、ね」
「…………」
「あのレッドだって、いつの日か、いまお腹にいるベビーに、置いてきぼりをくわされるのさ」
「…………」
そうか。言葉が出ない。
あたしは、深呼吸《しんこきゆう》。ハッカ煙草《たばこ》と潮の香りを、胸いっぱいに吸い込む。
「その日が、楽しみだね」
と〈ママP〉。
「子供に出ていかれちまったレッドとふたり、ゆっくりと、バーボンでも飲むさ」
微笑《わら》いながら、
「その楽しみのためにも、せいぜい、しぶとく長生きしなくちゃね」
「…………」
「おや……飛行機か……」
〈ママP〉が、つぶやいた。あたしも、空を見る。
はるか遠く。ドックのクレーンのかなた。赤い航行灯が1つ。点滅《てんめつ》しながら、ゆっくりと動いていく。
「どうして、わかったの?」
爆音《ばくおん》なんか、絶対にきこえる距離じゃない。
「前にもいったじゃないか、ミッキー。あたしには、なんでも見えるんだよ」
「…………」
動いていく赤い灯《ひ》を、あたしは無言で見つめた。
もしかしたら、レッドの乗った飛行機……。そうかもしれない。ちがうかもしれない。
〈ママP〉が、ゆっくりと楽器のケースを開く。
「さて、今夜は店も休みだし……」
アルト・サックスのリードを、軽くなめると、
「楽器にもたまには潮風《しおかぜ》を吸わせてやるとするか」
さりげなく、吹きはじめる。
陽気な〈ハロー・ドーリー〉。
太い体を、軽くゆすりながら、吹いていく。
〈ママP〉の横顔を、あたしは見た。ふっくらとした頬が、濡《ぬ》れている。そんな風に見えた。
本当に濡れてるのか……。海面からの照り返しか……。
赤い航行灯は、少しずつ、小さくなる。やがて、見えなくなった。
海面で、ハーバー・ライトが揺《ゆ》れていた。
〈ハロー・ドーリー〉が、ヨコスカ湾《ベイ》に流れつづける。
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第4話 グッド・ラックがいえなくて
♪
「あのォ……」
通りかかった白人のスチュワーデスを、呼びとめる。
「何?」
彼女は、ニッコリと微笑《わら》った。
「それが……」
あたしは、眼の前の機内食《ランチ》を指さすと、
「これ……おかわり、ダメ?」
と、きいた。
♪
|C・O《コンチネンタル》500便。朝の11時に、東京を飛びたった。
時差《じさ》をたしても、午後の3時|頃《ごろ》には、グアムに着く飛行機だった。
わりに、すいていた。
ボーイング727の、シッポの方。ガランとあいた席の窓ぎわに、あたしはポツンと坐《すわ》ってた。
雲の海。白く光る一面の雲を、ぼんやりとながめていた。
雲は、いろんな形に姿を変える。
ポッコリ。
丸く盛り上がったひとつは、レッドとヨコスカの街で食べたワタアメを思い出させた。
ググググ……。おなかが、鳴った。
朝から、何も食べていない。成田《なりた》でも、何も食べなかった。
お金がない。気づいたのは、成田で、エンをドルに|両替え《エクスチエンジ》したときだ。
エンを使うのは、はじめてだった。ドルとのレートが、まるで頭に入ってない。
空港の銀行窓口。渡されたドルは、ひどく少なかった。
飛行機のキップを買ったら、ほとんど残ってなかったらしい。
こんなことなら、レッドのママに、少し借りてくるんだった。けど、もう遅い。
まあ、なんとかなるさ。とりあえず、節約だ。ハラをへらしたまま、飛行機に乗った。
♪
「おかわり?」
スチュワーデスは、眼を丸くした。
「ダメ?」
スチュワーデスは、腕組み。苦笑《にがわら》い。
「ちょっと待ってて」
前の方に、歩いていく。少しして、
「はい」
新しい機内食の|お盆《トレイ》を、持ってきてくれた。
「ついてたわね」
と彼女。
「グッスリと眠り込んでる新婚さんが2組いて、あまってたわ」
機内食のトレイを、交換《こうかん》してくれる。
若い女の子の、ひとり旅。それで、同情してくれたのかもしれない。
「でも、ムダになるよりは、いいわね」
彼女は、苦笑《にがわら》いしながら、
「私も、この路線を4年間飛んでるわ。機内食をおかわりしたのは、あなたが2人目よ」
「2人目?」
あたしは、フォークやナイフの入ってるセロファンを破りながら、
「前の1人って?」
「|相撲取り《スモウ・フアイター》」
♪
さすが、食べきれなかった。鶏肉《チキン》が残った。けど、
「保存食《ほぞんしよく》、保存食」
お皿《さら》にかぶさってたアルミ・ホイルで包む。
「カゼをひくわよ」
と、さっきのスチュワーデス。
アロハ1枚。カットオフ・ジーンズ。むき出しの脚《あし》をながめて、
「はい」
と、毛布《もうふ》を出してくれる。
「ありがとう」
ホイルに包んだチキンを、デイ・パックに放り込む。安心して、眠る。
♪
カリッ。陽射しが、軽快な16ビートで裸《はだか》の脚《あし》を叩《たた》く。
4時近い。けど、陽射しはまだオーブンみたいに熱かった。
グアム空港。玄関《げんかん》を出たところ。
あたしは、突っ立っていた。
かなたに広がってる、アガニアの街《まち》。カラカラと、風に揺《ゆ》れるヤシの葉。ブーゲンビリアの、ピンク。
約1年ぶりのグアムだった。
「フーッ」
思いきり、深呼吸《しんこきゆう》。
|通り雨《シヤワー》でも、あったんだろう。風は、湿《しめ》った土と、花の匂《にお》いがした。そして、ほんの少し、潮の香り。
潮の香りを吸い込むと、必ず、おなかがすいてくる。
デイ・パックに、手を突っ込む。ホイルに包んだチキンを出す。チキンを出しながら、考えた。
とりあえず、どこか安いモーテルに泊まる。ハワイに、電話する。お金を、送ってもらう。うん、それでいいじゃないか。
チキンを、カプッとくわえた。
♪
「!!」
泥棒《どろぼう》! と、叫ぶつもりだった。
けど、口にチキンをくわえてる。声にならない。
10ヤードぐらい、わき。
アメリカ兵が、1人。置いたスーツ・ケースに、腰かけてた。迎えのクルマでも、待ってるらしかった。
その足もと。青いビニール袋を、褐色《かつしよく》の手が、スッと持ち上げた。若いフィリピーノだ。
フィリピーノは、そのまま、小走り。兵隊は、気づいてない。
コソ泥は、あたしの前を走り過ぎようとした。サッと、左足を出す。引っかかった。コソ泥の足が、もつれる。ドサッと、転《ころ》んだ。
手から、荷物がはなれる。
「ちッ」
やつは、素早《すばや》く、立ち上がる。
「このガキ!」
右手が、後ろに。カチッと、小さな音。飛び出しナイフの刃《は》が、光った。
なれたナイフさばき。
「くらえ!」
ひと振り。眼の前を、光が走る。反射的に、よけていた。
右手が、背中に。ヒップ・ポケットのスティックを、抜こうとした。
「ん!」
その瞬間《しゆんかん》、くわえてたチキンが、ポロリと落ちた。
「あ」
思わず、そいつに気をとられた。マズった。
ヒュッと、空気を切り裂《さ》く音。
左腕。ヒジの少し上に、鋭い感触《かんしよく》。1秒後、痛みに変わる。
「くたばれ!」
すかさず、突いてくる。
ヘビの舌《した》。そんな素早さで、ナイフが飛びかかってくる。
けど、あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを抜いていた。
右に、体をかわす。ナイフを握《にぎ》った手首に、スティックを振りおろす。
ハイハットを叩くフォームで、ビシッと叩《たた》きおろした。
「うッ」
骨に、ヒビぐらい入ったかもしれない。コンクリートに、カシャッという音。ナイフが、落ちた。
「クソッ」
やつの左手が、それにのびる。
「そうは、いくか」
ナイフを、左足で、ふんづける。やつの眼が、あたしを見上げた。
「よくも、やってくれたわね」
右ヒザ蹴《げ》り。やつのアゴに、決まった。体が、のけぞる。
「くたばるのは、あんたよ」
のけぞった顔に、回し蹴り。やつは、4、5ヤードふっ飛んだ。もんどりうつ。
ヨロヨロと、起き上がる。右手をおさえて、
「クソッ。おぼえてろ! このジャップが! 今度あったら」
「左手も、なでてあげるわね」
♪
「だいじょうぶか!?」
アメリカ兵が、駆けつけてきた。やっと、気づいたらしい。
「逃げ足の早いやつだ」
フィリピーノのコソ泥は、ゴキブリみたいな素早さで、ズラかったところだ。
「油断《ゆだん》ならないなあ」
アメリカ兵は、ビニール袋をひろい上げながら、
「近頃《ちかごろ》、この島にもフィリピーノの失業者が多くてね」
笑顔《えがお》を見せる。
「とにかく、ありがとう」
あたしの腕を見ると、
「ケガしてるじゃないか」
左腕。確かに、血が流れている。
「かすり傷よ。たいしたことないわ」
それより、
「あーあ」
おっことしたチキンを、あたしは見おろした。
兵隊は、苦笑《にがわら》い。よく見れば、日系人だ。
「よし。お礼に、メシでもごちそうするよ」
クラクション。青いステーション・ワゴンが、滑《すべ》り込《こ》んでくる。
「エーイ、ケンジ!」
窓から、太い腕が振られてる。
♪
「なれてるなァ……」
助手席から、ちょっとからかうような声。
走り出したステーション・ワゴンの中。さし出された包帯《ほうたい》を、
「自分で、やるわ」
あたしは左腕に巻いていた。
「米軍に入って、もう10年近くになるが、包帯の巻き方ひとつで、キャリアがわかる」
「何のキャリアが?」
「ケンカさ」
「そりゃ、まァ……」
右手と口を使って、包帯をピッと裂《さ》く。結ぶ。でき上がり。
「おれは、ケンジだ」
「ミッキーよ。未記子がファースト・ネームだけど、みんなミッキーて呼ぶわ」
あたしとケンジは、握手《あくしゆ》。
「日系人?」
あたしは、きいた。
「ああ、日系ハワイアンだ。フル・ネームは、ケンジ・アンディ・吉永」
淡いブルーの制服。胸には、〈U・S・AIR・FORCE〉の文字。
けど、顔は、まるで日系人だった。
口ヒゲ。日本で教わった、〈サーファー風〉ってやつだ。
確かに。サーフ・ボードをかかえて北海岸《ノース・ショア》を歩いていても、似合《にあ》いそうな顔。
年齢《とし》は、20代の終わり頃だろう。
「こいつは、D・J」
「やあ」
運転席から、黒い顔がふり返った。太った黒人だった。
「よろしくな、ミッキー」
まっ黒い顔から、白い歯がのぞく。やはり、淡《あわ》いブルーの制服。
「D・Jっていうと?」
「ディスク・ジョッキーさ。放送局のな」
「へえ。空軍に、放送局があるの」
「もちろん。基地《ベース》の中にゃ、なんでもある」
とD・J。
「世の中にあるものなら、およそなんでもな」
ニッと、白い歯を見せると、
「配備《はいび》されてないものといやあ、ストリート・ガールぐらいさ」
D・Jの笑い声が、にぎやかに響く。
「おい、前を見てろよ」
とケンジ。
道は、広い。対向車《たいこうしや》も、いない。けど、ステーション・ワゴンは、はみ出して、ヤシの樹《き》にぶつかりそうになった。
「ふっと、悪い悪い」
きわどく、よける。
「で、名前は」
ステアリングを握《にぎ》ってる黒人D・Jに、きいた。
「D・J」
「D・Jは、仕事でしょ」
「でもって、名前も、ディック・ジェイスン軍曹」
「へえ、D・Jか……生まれつきの」
「そういうこと」
また、ぶっとい笑い声。
「ほら、ふり向くなって、D・J」
とケンジ。チャモロ人の乗ったDATSUNのトラックと、うなりをあげてスレちがった。
♪
「おれの妹ってことにしとけばいい」
とケンジ。
アンダースン空軍基地のゲートが、近づいてきた。
「娘でもいいけど」
「やめてくれよ」
クルマは、ゲートでとまった。
「やあ、ケンジ」
制服にベレー帽の白人兵が、片手を上げた。
「ちょっときてくれ、ミッキー」
ケンジといっしょに、クルマをおりる。オフ・ホワイトの、小さな建物《ボツクス》に。置いてある簡単な書類にケンジは、〈MIKIKO YOSHINAGA〉と、書き込んでいく。
「年齢《とし》は?」
ケンジが、耳もとできいた。
「|20歳《はたち》よ」
「ウソつけ」
「16」
今度は、本当の年齢《とし》をいってやる。
「OK。これで、フリー・パスだ」
クルマに、戻る。
「いこうぜ、D・J」
基地の中へ。芝生《しばふ》の手入れが、急に良くなる。左右は、ヤシの並木《なみき》。
「ハワイからの帰り?」
ケンジに、きいた。
「ああ。休暇でね。どうして、わかる」
「それよ」
ケンジのヒザの上。
透明《とうめい》なビニール袋に入ってるのは、|首飾り《レイ》。プルメリアやカーネーションをつないだレイだ。たぶん、ホノルル空港で買ったんだろう。
そのレイは、一瞬、ハワイを思い出させた。
SALEMを、アロハの胸ポケットから出す。鮮《あざ》やかな芝生のグリーンに、眼を細める。
くわえた煙草《たばこ》の煙が、クルマの窓から流れ出ていく。
♪
「わッ」
あたしは、両耳をおさえた。ジェット戦闘機の編隊が、超低空で飛び過ぎた。
「歓迎《かんげい》のあいさつだぜ」
と、ステーション・ワゴンによりかかったD・J。
だだっ広い滑走路《かつそうろ》のわきに、あたしたちはいた。
運転席で、カリカリッという音。よく見れば、無線機がついてる。
「はい、こちらD・J」
黒い手が、クルマの中へ。無線のマイクをとった。
「もともと、無線士なんだ」
それをアゴでさして、ケンジがいった。
「こちら、D・J。こちら、D・J」
「こちら、虎鮫《タイガー・シヤーク》」
無線から、キンキンした声が響く。
「よお、ボブ」
とD・J。
「いま、ふっ飛んでいったやつだ」
ケンジが、遠ざかる編隊を指さす。
「D・J、そこにいるいかしたポニー・テールはどうした。配給されたのか」
とパイロット。
「そうだ、ボブ。ハワイから着いたばかりの、新型機だ」
とD・J。あたしに、ウインクしてみせる。
「性能は、いいのか」
とパイロット。
「ああ。立派なバストが、左右に装備されてる。あんたのバルカン砲《ほう》より、性能は良さそうだ」
「バカ」
スティックで、D・Jの頭をポコッと叩く。
「待ってろ。すぐ、おりていく」
とパイロット。
「申請書《しんせいしよ》を、ケンジに出せ」
「ケンジ・ヨシナガか。どうしてだ」
「やつの妹だ」
「そうか。よろしくいってくれ。後で1杯おごるからってな」
カリカリカリと、別の音。
「こら! D・J、また遊んでるな!」
「いかん、管制塔《かんせいとう》が、割り込んできた」
とD・J。
「何度いったらわかるんだ、このバカタレが。後で司令部まで出頭しろ!」
D・Jは、ニッと微笑《わら》うと、
「イエッサー!」
管制塔の方向に、敬礼《けいれい》のマネ。無線に、
「というわけだ」
「おれのミサイルも磨《みが》いとくからって、そのポニー・テールにいっといてくれ」
とパイロット。
「ニヤけてると、ミグに撃ち落とされるぞ、ボブ」
「了解《ラジヤー》。じゃ、後でな」
無線は、プツッと切れた。
「平和なもんだ」
D・Jは、笑いながら、無線のマイクを運転席に戻《もど》す。
もう、5時だ。あたしたちの影が、滑走路《かつそうろ》に長い。
ジェット戦闘機が、1機、着陸した。さっきの編隊とは、型がちがう。
滑走路の端で、Uターン。ゆっくりと、近づいてくる。精悍《せいかん》な機体。
「〈Fー15イーグル〉だ」
とケンジ。
明るいグレーの機体は、陽射しをうけて、銀色に光る。機首の下には、おきまりの鮫《さめ》の顔が描《か》いてある。
風防を開いて、戦闘機は近づいてくる。すぐ前で、停止。
キーンというエンジン音が、低くなる。金属のハシゴが、かかる。
パイロットが、おりてくる。こっちに、歩いてくる。
「紹介しよう、ミッキー」
とケンジ。パイロットは、ヘルメットを脱《ぬ》ぐ。
「恋人の、エンジェルだ」
みごとな金髪《ブロンド》が、パラッと肩までたれた。
♪
「ハイ、 ミッキー」
ちょっとハスキーな声で、彼女はいった。あっけにとられてるあたしと、握手《あくしゆ》。
「さっき、上空《うえ》でボブが騒いでたポニー・テールが、あんたね」
あたしのポニー・テールを、微笑《わら》いながら指で弾《は》ねた。
「きこえてたか」
とD・J。
「もちろんじゃない」
彼女のまっ白い歯が、夕陽《ゆうひ》に光った。
かなりの美人。キャンディス・バーゲンの20代。そんな感じだった。
「お帰りなさい、ケンジ」
ふたりは、キス。
「いい休暇《きゆうか》だった?」
「もちろん」
ケンジは、ビニール袋からレイを出す。彼女の首に、かける。
「ありがとう。きれいね」
彼女は、レイの端《はし》を顔にもっていく。プルメリアの匂いを、かぐ。
ツナギのパイロット服に、レイは意外に似合った。
「ちょっとしたリンドバーグね」
金髪《きんぱつ》とレイが、滑走路の風になびいた。
♪
「なんか鳴いたぜ」
とD・J。
「カエルかな」
鳴いたのは、あたしのおなかだった。
彼女の家の庭。バーベキュー・パーティーだった。
といっても、4人だけ。芝生《しばふ》の庭に、バーベキュー・セットを持ち出していた。
ブーゲンビリアの茂みじゃ、シーシーという虫の声。青さの残った夜空に、ヤシの葉のシルエット。
けど、あたしは、風景どころじゃない。
「そうか。ミッキーは、空腹なんだっけな」
ケンジは、笑った。彼女とふたり、仲良くバーベキューを焼いてる。
「さっきは、すごいアクションだったものな」
とケンジ。コソ泥との立ち回りを、彼女とD・Jに話してきかせる。
「そりゃ、すごい。まるで、ジャッキー・チェンだな」
とD・J。丸い眼をむく。
♪
「そうか……ドラム叩《たた》きなのか」
とD・J。
「なぜ、この島へ?」
とケンジ。
BUD LIGHTの缶を手に、ごく簡単に、わけを話す。
「そう……小さな頃に家を出てったママと会うために」
と彼女。えらく、同情してる。
なんせ、空腹だ。そのせいで、よほど、声に力がなかったのかもしれない。
「よかったら、この家に泊まれば」
と彼女。
「それがいい」
とケンジ。
「うん、ママの足どりは、調べてやるから」
とD・J。みんなで、口ぐちにいってくれる。
「でも、同情はゴメンだわ」
「同情じゃない。友情さ」
とケンジ。あたしは、ただ、
「うん」
と、うなずくだけ。とにかく、ハラヘったよォー
♪
RRRRR……。4回目のコール。
出た。ハワイだ。
「はい、ホノルル・コロシアム」
アントニオの声だった。電話は、かなり近い。バックには、なつかしい店のざわめき……。
「ミッキー! いま、どこだ」
「グアムよ」
「グアムか……いつ、帰ってくる」
「たぶん、もうすぐ」
「そうか……みやげは、いらんからな」
思わず、受話器を落っことしそうになる。
「あのねえ、アントニオ。観光旅行じゃないのよ」
「わかってるって。冗談《じようだん》、冗談。みんな、心配してるんだから」
「どうだか……」
わかったもんじゃない。
「元気そうじゃないか、ミッキー」
バーベキューを、おなかいっぱい食べた。とりあえず、声は元気なんだろう。
「他人《ひと》の家の電話だから、用件だけ、いうわ」
彼女の家の電話だった。
「軍資金《ぐんしきん》を、送ってくれる」
「どのくらい」
「うん……とりあえず500ドル」
「土地でも買うのか」
「アントニオ」
「わかった、わかった。で、どこあてに送ればいい」
そうか……。彼女を呼ぶ。
「ねえ、ここの住所は!?」
「〈アンダースン空軍基地・エンジェル〉で着くわよ!」
と彼女。
「あのね」
「きこえたよ」
とアントニオ。
「えらく、声が美人だったな」
さすが、自称《じしよう》〈ホノルルのフリオ・イグレシアス〉。
「ちょっと、かわってくれよ」
「バカ」
♪
「エンジェルって、本名?」
あたしは、きいた。
「まさか」
と彼女。
「いくら親バカだって、そんな名前は、ちょっとねェ」
苦笑《にがわら》いしながら、J《ジヤツク》・ダニエルのオン・ザ・ロックスを、口に運ぶ。
昼間のパイロット服から一変。淡いピンクのサマー・ドレスを着てる。
あたしたちは、庭につづくベランダにいた。涼しい風が、肌《はだ》をなでていく。
「エンジェルってのは、ただのニック・ネームよ」
そうか。
「女パイロットだからね」
「そういうこと。マッハ2・5で、ふっ飛んでいく天使《エンジエル》……あんまり、ロマンチックじゃないわね」
あたしも、つられて笑った。
「エンジェル」
庭の方で、
「散歩に、いかないか」
ケンジが、呼んだ。彼女は、グラスをテーブルに置く。
「そこのソファー・ベッドは、自由に使っていいわ。毛布《もうふ》は、そこの扉《とびら》よ」
「デート?」
「まあね」
彼女は、親指を立ててみせる。よくパイロットやなんかが使う、〈GO〉とか〈OK〉のサインだ。
ケンジの白いシャツと、エンジェルのピンクが、砂浜の方に消えていく。
あたしは、リビング・ルームのソファー・べッドに、仰向《あおむ》けになる。
小さな〈?〉が、胸の中に残った。なんだろう……。
けど、疲れが出た。あっという間に、眠りこけていた。思いきりドラムを叩いてる夢を見た。
♪
ガバッと、はね起きた。
ものすごい音。ブザーの音が、響いていた。
リビングとベッド・ルームの間。壁についてる青い電話機だ。
ブザーは、早いテンポでわめきつづける。まるで、シンバルの連打《ロール》だ。
「はい」
エンジェルが、受話器をとった。何もしゃべらず、受話器を戻《もど》す。ブザーは、鳴りやんでた。
「緊急発進《スクランブル》よ」
「スクランブル!?」
「99%、訓練ね」
しゃべりながら、エンジェルは、素早《すばや》くTシャツをかぶる。スニーカーを、はく。
「もし、本物だったら?」
「撃ち落とされないように、祈ってて」
手を振る。飛び出していく。クルマの爆音が、遠ざかる。
♪
「さあて、諸君!」
D・Jの太い声が、響く。
「ジェイスン軍曹のD・Jも、そろそろラスト・スパート! きょうは、あと3曲だ」
テーブルのヘリに、太い腹を押しつける。
ブームから下がってるマイクに、D・Jはまくしたてる。
えらく早口。けど、よく響く低音だから、耳ざわりじゃない。
アンダースン放送局。かなりボロっちい建て物は、丘《おか》の上にあった。
コンクリートの平屋《ひらや》。北と西が、ガラスばりになってる。
北側には、飛行場。西側には、ヤシの葉と、かなたの水平線。
いちおう、頭の上に〈ON AIR〉の赤ランプがついてる。
「さあて」
とD・Jがしゃべりかけたところへ、ノイズが入った。カリッカリッという音。
「おや」
D・Jは、スイッチ類の1つを押す。
「そちら、D・Jか?」
ノイズまじりに、男の声が飛び込んできた。
「そうだよ。こちら、D・J」
「おれだよ」
「どこの、〈おれ〉かね」
「〈飛びフグ〉のジョージだ」
「ジョージか。いま、どこにいる」
D・Jは、そばに立ってるあたしに、
「〈飛びフグ〉ってのは、飛行機のニック・ネームでね」
といって笑った。
「D・J、下にあんたのボロ小屋が見えるぜ」
と無線《むせん》の声。
「行きか? 帰りか?」
「帰りだ? 熱帯性低気圧とデートにいってな、いま、ご帰還してきたところさ」
「どうだった!? 熱帯性低気圧は」
「まだウブでな。かわいいもんさ。軽くキスしてきた」
「まだ、おりないのか」
「滑走路《かつそうろ》で、パーティーでもやってるんじゃないか。あと5分は、旋回《せんかい》してろとさ」
「どれ」
D・Jは、双眼鏡《そうがんきよう》を眼に当てる。滑走路をながめて、
「病人でも出たらしい。ナイチンゲールが、離陸《りりく》するところだ」
双眼鏡を、あたしに渡してくれる。
ながめる。垂直尾翼《すいちよくびよく》に赤い十字をつけた中型機が、滑走路に出ていくところだった。
「正式にゃ〈Cー9〉って機だが、病院機なんで、通称《つうしよう》ナイチンゲール」
D・Jが、あたしに教えてくれる。
「ジョージ、旋回《せんかい》してるのも退屈《たいくつ》だろう。1曲かけてやろうか」
「頼《たの》む」
「何がいい」
「B《ビーチ》・ボーイズがいいな」
「了解《りようかい》」
「それに、メッセージを頼む」
「OK」
「ワイフにだ。晩メシには、クラム・チャウダーを忘れるな」
D・Jは笑いながら、
「了解! きいたかい? 〈飛びフグ〉ジョージの奥さん、晩メシのクラム・チャウダー、忘れるなとさ」
レコードを、ターン・テーブルに。
「OK、ジョージ、B《ビーチ》・ボーイズだ」
シングル盤《ばん》に、針を落とす。〈サーファー・ガール〉が、流れはじめた。
「あいつだ」
D・Jが、指をさす。
「〈WCー130〉っていって、台風追跡機《タイフーン・チエイサー》なんだが、愛称〈飛びフグ〉」
なるほど、フグだ。ずんぐりとしたプロペラ機が、ゆっくりと滑走路の方へ飛んでいく。
♪
「やれやれ」
D・Jは、背のびをする。
「あとは、こいつにおまかせだ」
デッキに放り込んだカセットから、おしゃべりと曲が流れていた。あたしは、スタジオを見て回る。
「楽器があるのね」
ドラム・セット。電気ピアノ。ギター・アンプなんかが、置いてある。
「ああ。本土《メイン・ランド》から、ときどきミュージシャンが立ち寄るんだ。すると」
スタジオを見回して、
「ここで、ライヴを一発ってわけ」
「なるほどね」
スタジオのすみ。LP盤が、乱雑《らんざつ》に積み上げてある。ヤシの葉ごしの夕陽が、当たっている。
「いかんなァ。レコードがベコベコになっちまう」
D・Jは、LP盤の山を、片づけはじめる。
「手伝うわ」
あたしも、手を貸す。2、30枚のLPを、かかえ上げた。
「あ……」
思わず、つぶやいていた。
♪
「これは……」
持ち上げたレコードの下。1枚の古いLPがあった。胸の中の〈?〉が、消えていく。
〈KENJI《ケンジ》 YOSINAGA《ヨシナガ》 TRIO《トリオ》〉
手にとったLPのタイトルを、口の中でつぶやく。
〈ジャズ・ピアノの若き天才、ハワイからデビュー!〉
帯には、そんな英文コピー。
ピアノを前に、ケンジがこっちを見ているジャケット写真。
かなり、若い。ヒゲが、ない。だから、気づかなかったんだろう。
このジャケットは、何回か、〈ホノルル・コロシアム〉でも見たことがある。
ジャズは、畑《はたけ》がちがう。けど、このLPには、よく出会った。
ロックやポピュラーのヒット曲も、3、4曲入ってるからかもしれない。
「このレコード……」
D・Jに背を向けたまま、
「聴《き》きたいんだけど」
と、あたしはいった。
「やめておけ。つまらない」
背中で声がした。
ふり返る。スタジオの入口に、ケンジが立っていた。
♪
「別に、かくしてたわけじゃない」
ケンジは、微笑《ほほえ》んだ。
「D・J。エンジェル。ほかにもいるよ、おれがピアノ弾《ひ》きだったことを知ってる人間は」
ギター・アンプに、ケンジは腰かけた。その肩に、夕陽とヤシの葉影《はかげ》が揺《ゆ》れている。
「だが、とにかく、過ぎたことだ」
「…………」
その顔を、あたしは、じっと見つめた。
ケンジは、皮肉《ひにく》っぽく微笑《わら》って、
「ミッキー……君も、ききたいんだね」
煙草《たばこ》を、制服の胸ポケットから出しながら、
「なぜ、天才少年といわれたピアニストが、音楽をやめたか」
あたしは、うなずいた。
「きくまでは動かない。そんな顔だな」
とケンジ。
「ミッキー。君はこの前いったね。〈同情なんか、ゴメンだ〉って」
「いったわ」
「そうだ。同情されるほど、イヤなものはない。誰だってね」
KOOLをくわえると、
「もし、つまらない同情なんかしないって誓《ちか》えるなら、話そう」
「……誓うわ」
あたしは右手を上げた。ケンジは、吹き出しそうな顔。
「OK、OK。君なら、誰かからきき出しちゃうだろう。それなら、自分で話そう」
ケンジは、立ち上がると、
「買い物でも、しながらね」
♪
「基地《きち》の中じゃ買えないワインがあるんだ」
とケンジ。ステーション・ワゴンのステアリングを握《にぎ》っている。
あたしは、助手席《じよしゆせき》だ。
クルマは、ゲートを出る。夕陽のルート1を南へ。アガニアの街へ向かう。
「あのレコードを出して、すぐだった。空軍に入ったのはね」
ケンジは、淡々《たんたん》と話しはじめた。
「兵役?」
「そう。たかが2年だ。そんなプレスリー気どりで、制服を着たんだ」
カー・ラジオからは、S《ステイービー》・ワンダーの唄う〈フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ〉。
「ある日のこと。演習《えんしゆう》があった。攻撃用ヘリの上から、機銃《きじゆう》を撃《う》ったんだ」
信号ストップ。
「こういうやつさ」
両手で、ステアリングを握《にぎ》る。腕をのばすと、
「ガガガガガ……」
そのマネをしてみせた。
「だが、ミッキー」
ケンジは、肩をすくめると、
「……人間の手ってのは、ときには、えらく脆《もろ》いシロモノなんだな」
「…………」
「弾《たま》を、撃《う》ちつくした。が、右手の指がこわばって、機銃をつかんだままなんだ」
思わず、息がとまった。
「神経のどこかが、壊《こわ》れちまったらしい」
「…………」
「仲間の手を借りて、やっと右手をほどいた。が、それで、ジ・エンド……ひとつの夢が、終わった」
カー・ラジオが、C・C・Rの古い曲に変わった。
「3か月ぐらいで、日常生活には、何の不自由もなくなった。が、このヤクザな右手が」
ケンジは、右手でクルマのシフト・レバーをポンと叩く。
「鍵盤《けんばん》の上を駆け回ることは、二度とできなかった」
♪
「こいつも、いくか」
パパイヤを、ケンジはとる。カゴに放《ほう》り込《こ》んだ。
タウン・ハウス。だだっ広いスーパーだ。あたしたちは、並んで歩いてた。
「若きピアノ弾《ひ》きは、失意のどん底にいた」
とケンジ。
「そこで出会ったのが、美しい女パイロット?」
と、あたし。
「よくわかったな。ガキのくせして」
「ガキじゃないわ」
あたしは、ブンむくれる。
「何よ、オトナぶっちゃって」
スタスタと、歩いていく。本気で怒ってるわけじゃなかった。
けど、ちょっとでも同情した顔を見せないためには、むくれてる方が楽そうだ。
「まあ、そう怒るなって」
ケンジが、追いついてくる。また、並んで歩く。
「当時、彼女はパイロット訓練生《くんれんせい》だった」
レモンを2個、カゴに放り込む。
「恋人になるまでに、1か月とかからなかったよ」
キウイを、5個。
「元ピアニストは、兵役《へいえき》を終えても、軍に残った」
「仕事は、楽しい?」
「地上勤務だが、それなりに面白《おもしろ》い」
アーティ・チョークを、3個。
「だいいち」
ビネガーを、1ビン。
「心強いことに、軍ってやつは、絶対に倒産《とうさん》しない」
チリ・ソースを、1ビン。
「そうか……」
あたしは、つぶやいた。
プレーヤーとしてはダメでも、音楽関係の仕事につくことはできたろう。
でも、それは逆に、つらい……。
「いっそ、まるで関係ない世界でやりなおす方が、正解だったのね」
「ああ……当たりだ」
「ちょっとは、見なおした?」
チャモロ人の家族と、すれちがう。パパが、赤ん坊を抱《だ》いてる。ふり返って見てるケンジに、
「子供、欲しい?」
「ああ。おれも、来年は30になる。そろそろ、な」
「赤ん坊、エンジェルに似《に》ればいいね」
「憎《にく》たらしい不良娘だな」
笑い声が、ひんやりと涼しいタウン・ハウスに響いた。
♪
背中で、音がした。
カチッという、おなじみの音。ナイフの刃《は》を起こす音だ。
タウン・ハウスの駐車場《ちゆうしやじよう》。たそがれ。あたしは、クルマのボンネットに坐《すわ》ってた。
両足は、フロント・バンパーに。くわえ煙草《たばこ》で、たそがれのガランとした駐車場をながめていた。
ケンジは、スーパーの中。
〈エンジェルに頼《たの》まれてたスパイスを、1つ買い忘れた〉
と、戻っていったところだ。
ナイフの音は、1つ、2つ、3つ、4つ……かなり、人数がいる。
ふり返らない。くわえ煙草《たばこ》のまま、そしらぬ顔。
けど、五感は、背後に集中する。いつでも跳《と》べる体勢……。
空気が、動いた! 上だ。サッと、首をすくめる。
ポニー・テールの先を、何かが、かすめた。
体をひるがえす。あたしはもう、ボンネットを、跳《と》びおりていた。
ナイフの刃が、ポニー・テールの先を、かすったんだろう。
細かい髪の毛。ちょっと褐色《かつしよく》がかった毛先《けさき》が、夕陽に光りながら、パラパラと散っていく。
「へえ。ヘアー・サロンの出前《でまえ》ってわけか」
と、いってやる。
5、6人。フィリピーノ。右腕を包帯《ほうたい》でつったやつが、
「こ、こいつだ。このジャップのガキだ!」
空港でひっぱたいたコソ泥《どろ》だった。
「変な棒っきれ振り回すから、気をつけろ」
やつらは、ジリッとつめてくる。だだっ広い駐車場の端だ。誰も、見てない。
「OK。じゃ、晩メシ前の運動ね」
くわえてたSALEMを、指で弾《はじ》き飛ばす。
「チョ!」
左から。1人目が、突っかかってきた。夕陽に、ナイフの刃が光った。
あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜いていた。
体をかわす。スネアーを叩《たた》くフォーム。手首を、ビシッとひっぱたく。
うめき声。
右から、2人目がきた。ふり返りざま、その鼻っぱしらを、ひっぱたく。
シンバルを、思いきり叩く。そんなタッチだ。
「ギャッ」
やつは、尻もち。ナイフをはなして、鼻をおさえる。Tシャツに、鼻血《はなぢ》が飛び散る。
「さあ、つぎは、誰?」
左のスティックも、引き抜いた。
「クッソォ」
と、ボスらしいフィリピーノ。
手が、シャツの下へ。ズボンの内側にはさんだ拳銃《けんじゆう》を、引っぱり出す。
リボルバー。5連発。38口径《こうけい》あたり。米軍からの、横流れだろう。
「この小娘《こむすめ》が……」
銃口《じゆうこう》が、あたしを、にらみつける。
「5発あれば、1発ぐらいは当たるかもね」
とはいってみたものの、楽しい光景じゃなかった。
ひっぱたくには、距離がありすぎる。拳銃なら、本当に当たるかもしれない。
「さあて、くたばってもらうか」
20ドルでも、人を殺す連中だった。ちょっと、ヤバい……。
やつの舌《した》が、いやらしく唇《くちびる》をなめる。引き金に、力が入る。輪胴《シリンダー》が、回りかける。その瞬間。
「ウグ!」
という、うめき声。アスファルトに、重い音。手から、拳銃が落ちた。
やつは、白眼《しろめ》をむく。
股《もも》。急所に、靴《くつ》が見える。後ろから、蹴《け》りを入れられたらしい。
フィリピーノの体が、ゆっくりと前に。ドサッと、くずれ落ちた。
若いチャイニーズが立っていた。ビリーだった。
♪
「こいつは……」
とケンジ。スーパーの紙袋を手に、つぶやいた。
駐車場には、フィリピーノが6人。魚市場《フイツシユ・マーケツト》のマヒマヒみたいに、転《ころ》がっている。
立ってるのは、あたし、ビリー、それにチャックだ。
「フィリピーノの大漁《たいりよう》だな」
とビリー。
「でも、こいつら骨ばかりでマズいぜ」
とチャック。
「とにかく」
あたしは、ビリーとチャックを、クルマに押し込む。
「お腹《なか》がすいたわ。帰りましょう」
♪
「ビリーよ」
走るクルマの中で、ケンジに紹介《しようかい》する。
「ダウン・タウン出身。カンフー使いのギタリスト」
「やあ」
「ベース弾《ひ》きのチャック」
「よろしく」
「ビリーは、カンフーを使うのか。チャックは、何を使うんだい」
「腰さ」
チャックの黒い顔から、白い歯とピンクの歯ぐきがこぼれる。
カー・ラジオのR&Bにあわせて、ヒワイに腰を前後させる。
「ベースと女は、腰で弾くんだ」
「まったく」
チャックの頭を叩《たた》く。
「いつ、着いたの?」
「ついさっきさ」
とビリー。
「よく、あたしを見つけたわね」
「簡単さ。どっかでケンカやってないか。そう、オマワリにきいたら、教えてくれた」
「よくいうわ」
「相変わらず、元気なこった」
とチャック。
「ところで、おフクロとは会えたか?」
あたしは、首を横に振った。
あと2、3日で、D・Jのところへ情報が入ることになってた。
「もう、ヴァージンは捨てたか」
とビリー。
「勝手に想像して」
「じゃ、そうしよう」
何を想像するやら。
「あとの連中は?」
ピアノ弾きのアキラ。ボーカルのリカルド。それに、アントニオの姿もない。
「とちゅうで、飛行機が落ちた。おれたちだけ、泳いできた。あいつらは、鮫《さめ》に食われた」
とビリー。ニッと微笑《わら》うと、
「とりあえず、軍資金は、アントニオのやつから、ふんだくってきた」
ショートパンツのポケットを、ポンと叩いた。
「どうやら、グアムにゃ、安くて楽しいマッサージ・パーラーがあるっていうし」
「バーカ」
基地のゲートが、見えてきた。
「ビリーもチャックも、また、弟にするの?」
「ああ」
とケンジ。
「急に、家族がふえたわね」
「よくあることさ」
♪
コーン。
乾《かわ》いた音が、響いた。白いボールが、転《ころ》がっていく。
土曜日の午後。あたしとエンジェルは、芝生《しばふ》の上にいた。基地の中にある、草野球場だ。
いるのは、あたしたちだけ。芝生のグリーンが、陽射しをうけて、眼に痛いほど鮮やかだ。
Tシャツ。ジョギング・パンツ。NIKEのスニーカー。
そんなかっこうのエンジェルは、左手にグラブ。
ごく近い距離から、スロー・ボールを投げてくる。
あたしは、ハーフ・スウィングで、それを打ち返す。
ボールは、正確に、エンジェルの足もとに転がっていく。
「うまいのね、ミッキー」
「これでも、感化院《ガールズ・ホーム》のチームじゃ、4番打者《だしや》だったわ」
あたしは、バットを握《にぎ》りなおしながらいった。
♪
「動くって!?」
思わず、あたしはつぶやいた。
「なんていったの?」
「動くっていったのよ」
「動くって……エンジェル……」
「そう。彼の右手の指は、動くのよ」
ボールを、空振《からぶ》りしそうになった。
「どういうこと? 教えて」
「…………」
エンジェルは、ボールを握《にぎ》りなおしながら、
「……あれは、約1年前だったわ」
ポツリ、ポツリと話しはじめた。
「その夜、予定されてた偵察飛行《ていさつひこう》が、中止になったの。あたしは、自分の家で着がえて、彼の、ケンジの家へ歩いていったわ。デートね」
ニコッと微笑《わら》う。
「驚かしてやろうと思って、ベランダの方へ回ったの」
ゆっくりと、ボールを投げてくる。内角高目。コーンと、打ち返す。
「彼は……デスクに向かって、タイプ・ライターを叩《たた》いてたわ」
「…………」
「家族への手紙かなんかだと思うけど、とにかく、あたしはビックリ」
エンジェルは、青い瞳《ひとみ》を丸くすると、
「彼は、両手で、タイプ・ライターを叩《たた》いてたわ。右手の指も、えらく早く動いてた」
「…………」
外角低目。コーンと、打ち返す。
「あたしは、そのまま、家に帰った。で、翌日、仲のいい軍医からきき出したわ、彼の指のことを」
「…………」
「何も知らない軍医は、簡単に教えてくれたわ。〈右手は、一時的な神経マヒさ。とっくに完治してるよ〉」
「ってことは?」
「あたしと知り合った頃《ころ》は、本当に右手の指が動かなかったのね。でも、いまは、|問題なし《ノー・プロブレム》」
「…………」
「彼は、〈弾《ひ》けない〉んじゃなくて〈弾かない〉のよ」
♪
ワッと少年たちの歓声《かんせい》が上がった。
草野球場《くさやきゆうじよう》。リトル・リーグの試合が、はじまってた。
あたしとエンジェルは、観客席《スタンド》。パイプと板の、ごく簡単なスタンドで、それをながめてた。
赤いユニフォームの〈REDS〉と、黄色いユニフォームの〈EAGLES〉の試合だった。
「どうして……彼は、弾《ひ》かないの?」
あたしは、きいた。
「たぶん、……あたしが悪いのね」
エンジェルは、ホロ苦く微笑《わら》う。
「あたしが、彼を、骨披きにしちゃったのね」
〈REDS〉のピッチャーが、投げた。バッターは、空振《からぶ》り。〈REDS〉の内野手たちから、歓声とヤジ。
エンジェルのいった意味は、よくわかる。
「いまの彼にとっちゃ、ピアノを弾くより、エンジェルとふたりでシチューをつくる方が大切なのね……」
〈REDS〉のピッチャーが、また投げた。〈EAGLES〉の背番号15が打った。
ショート・ゴロ。黄色いユニフォームが走る。タッチ・アウト。歓声。口笛《くちぶえ》。
「でも、このままズルズルと、音楽から離れていったら、彼は、一生、後悔《こうかい》するわ」
エンジェルは、つぶやいた。タウン・ハウスでのことを、あたしは話した。
「ケンジ、子供が欲しいっていってたわ」
「あたしが、ききたいのは……」
とエンジェル。
「あたしがききたいのは、赤ん坊のウブ声より何より、彼のピアノよ」
♪
「転属《てんぞく》!?」
あたしは、きき返した。
「そう、転属よ」
とエンジェル。
「あたしが一緒《いつしよ》にいる限り、彼は、音楽の世界へ戻《もど》らないわ」
「それで……」
「半年前に決心して、転属願いを出してたの。それが、やっとおりたわ」
「どこへ、転属?」
「フィリピンのクラーク基地」
「で……いつ発《た》つの?」
「たぶん、4、5日後」
リトル・リーグの試合は、〈REDS〉の攻撃になっていた。
「彼には、それを?」
「寸前に話すわ」
「うまく、話せる?」
「わからない」
エンジェルは、首を横に振った。きれいな金髪が、ふわりと揺れる。
「でも……」
彼女は空を見上げると、
「とにかく、決めたわ」
きっぱりと、いった。
「また……単独飛行《ソロ・フライト》よ」
|通り雨《シヤワー》が、近づいてきた。グリーンの芝生《しばふ》。木のスコア・ボード。ヤシの葉。みんな、細かい雨粒《あまつぶ》に、濡《ぬ》れていく。リトル・リーグの少年たちも、引き上げていく。
「帰る?」
と、あたし。エンジェルは、空を見上げたまま、
「濡《ぬ》れるのも、たまにはいいわ」
といった。
「濡れて困るようなかっこうもしてないし」
〈でも、あたしは、この服《ふく》しか……〉
そう思ったけど、口には出さなかった。
空は、明るい。雨粒《あまつぶ》は、遅《おそ》い午後の陽射しに光る。
「世の中に、恋なんてなけりゃ楽なのにね」
見上げたまま、エンジェルが、つぶやいた。
その横顔が、雨に濡れている。何十個もの雨粒が、流れ落ちていく。そのひとつやふたつは、涙なのかもしれない。けど、それは、誰にもわからない。
あたしも、空を見上げた。深呼吸《しんこきゆう》。|通り雨《シヤワー》は、かすかに海の匂《にお》いがした。
♪
「プッ」
ビリーが、吹き出した。
「おーい、きてみろよ」
ベランダにいるチャックとケンジを呼ぶ。
エンジェルの家。たそがれ。男3人は、昼間|釣《つ》ってきた鯛《スナツパー》を、ベランダでサバいているところだった。
「これはこれは」
とチャック。眼《め》を丸くして、あたしの姿をながめ回す。
午後、|通り雨《シヤワー》でズブ濡れになった。アロハやカット・オフ・ジーンズは、乾燥機《かんそうき》の中だ。
あたしは、エンジェルに借りた服を着ていた。水色のサマー・ドレスだった。
スカート姿なんて、何年ぶりだろう。
「あら、似合《にあ》うわよ」
とエンジェル。お姉さんぶって、いろいろ世話をやいてくれる。
髪飾《かみかざ》り。ハイビスカス型のイヤリング。淡《あわ》く口紅《くちべに》までつけたのに……。
「うーむ」
と、腕組みしたビリー。チャックも、
「その……なんというか」
2人で、ニヤニヤ微笑《わら》いながら、
「カラカウア|通り《アベニユー》の、ストリート・ガールというか」
「ダウン・タウンの、ストリッパーというか」
「さもなきゃ、クヒオ|通り《アベニユー》のオカマなんて感じも……」
「おい、ヤバいぜ、ビリー……」
「この顔は……」
「このまっ赤《か》な顔は……」
「怒ってるぜ……」
「逃げろ!」
あたしは、脱《ぬ》いだパンプスを、
「ええい!」
ビリーに投げつけた。ビリーの頭をかすめたパンプスは、
「はい、フライド・チキンだよ」
と部屋《へや》に入ってきたD・Jの頭に、パコンッとぶつかった。
♪
「すごいピザね……」
と、あたし。
「うーん」
エンジェルも、苦笑《にがわら》い。
鯛《スナツパー》は男たちにまかせて、あたしとエンジェルは、キッチンにいた。
焼く前のピザ・ベース。えらく、いろんなものがのってる。サラミやオニオンは、いい。けど……。牛肉。七面鳥《ターキー》スライス。ピクルス。アボカド。パイナップルまでのってる。
「豪華《ごうか》は豪華だけどねえ……」
あたしたちは、ピザを見おろして腕組《うでぐ》み。
「ほら、あと4、5日で出発じゃない」
と小声でエンジェル。
「冷蔵庫《れいぞうこ》の中味が、気になっちゃって」
腕組みしたまま、
「やっぱり、女ね」
ホロ苦く笑った。
♪
「大変だ……」
あたしは、つぶやいた。殴《なぐ》られたみたいに、目がさめる。
きのうは、夜中まで飲んで騒《さわ》いだ。もう、昼近い。
リビングのテーブルの上。淡いブルーのメモ用紙。走り書き。
〈台風《タイフーン》が近づいているため
出発が急に早くなりました
きょう飛びます
彼への≪グッド・ラック≫は
けっきょくいえませんでした
さようなら
[#地付き]エンジェル〉
そういえば……。朝方、電話のコールをきいたような気がする。あれは、夢じゃなかったんだ。
乾燥機《かんそうき》から、アロハとパンツを出す。あわてて、着る。
ケンジの家へ、走っていく。ベランダから、中へ。ソファーで、ビリーとチャックとD・Jが寝てた。
「ケンジは!?」
「ああ? キッチンじゃないか」
ビリーが、寝ボケ声を出す。
キッチンへ。コーヒーの匂い。ケンジが、フライパンを持って何かやってた。
「どうしたんだい、ミッキー、あわてて」
「これ」
エンジェルのメモを、彼に渡す。ケンジの顔色が、スッと変わった。
「そういうことか……」
と、つぶやく。火にかけたフライパン。ベーコンを乱暴《らんぼう》に放り込んだ。
「何があった」
背中で、D・Jの声。
「どうした、ケンジ」
「どうってことはないさ」
ケンジは、口の端で嘲笑《あざわら》うと、
「朝っぱらからふられた男が、ベーコンを焼いてる。それだけのことだ」
「ちがうわ!」
あたしは、早口で、洗いざらいぶちまけた。
「エンジェルは……あなたを愛してるから……もう一度音楽をやって欲しいから……この島を出ていくのよ!」
後ろで、ビリーやチャックもきいてる。
フライパンの中。ベーコンが、焦《こ》げていく。チリチリと、丸まっていく。煙が、上がる。
ケンジの肩が、細かく震《ふる》えている。
「クソ!」
ケンジは、壁の電話機に駆け寄る。あわただしく、ダイアルを回す。
「何やってる……」
つながった。
「管制塔《かんせいとう》!? ケンジ・ヨシナガだが、エンジェルの機は!?……滑走路《かつそうろ》に出ていくところ……」
受話器を、ガチャンと戻《もど》す。
「チクショウ!」
その肩を叩《たた》いて、
「とにかく、いくんだ!」
とD・J。
♪
アンダースン放送局に、飛び込む。D・Jが、双眼鏡《そうがんきよう》をつかむ。
「あれだな……」
あたしたちも、窓ぎわに。
肉眼《にくがん》でも、見える。はるか遠く。広大な滑走路の端。ジェット戦闘機が1機、ゆっくりと動いていく。
小さな戦闘機は、なんだか心細そうに見えた。
「自分で、操縦《そうじゆう》していくの……?」
あたしは、つぶやいた。
「ああ」
とD・J。
「同じ型の戦闘機でも、1機ずつ、みんなクセがちがう。転属《てんぞく》するとき、パイロットはたいてい、自分の愛機を飛ばしていくんだ」
しゃべりながら、D・Jの黒くて太い指は、スイッチ類をパチパチとONにしていく。
確かに、台風が近いんだろう。雲が、低い。ヤシの葉が、かなり揺《ゆ》れている。
滑走路の端。戦闘機は、とまった。
「離陸の許可を待ってるんだな。すぐに、飛ぶだろう」
とD・J。
ケンジは、頭をかかえて、
「……どうすりゃいい……」
とつぶやいた。
「……何をするにも、もう遅《おそ》すぎるわ。彼女にしてあげられる、ただ1つのことは」
あたしは、電気ピアノを眼《め》でさすと、
「それね」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
10秒……20秒……。ケンジは、ゆっくりと立ち上がる。
「そうだったな……」
電気ピアノに、歩いていく。スイッチを、1つずつONにしていく。
あたしも、ドラム・セットに。スネアーの高さ。シンバルの角度。みんな、自分用に調整《ちようせい》していく。
ビリーは、ギターを。チャックは、ベースを。それぞれ、肩にかける。
アンプのスイッチ、ON。アンプが、軽くブーッとうなる。
D・Jは、マイクに向かう。
「こちら、ディック・ジェイスン軍曹。〈Fー15〉のエンジェル、きこえるか!?」
2度、3度、くり返す。カリカリッという音。
「D・J! また無線《むせん》に割り込みやがって!」
管制塔からだろう。
「おや、ポールじゃないか」
とD・J。
「こいつは、割り込みじゃない。緊急《きんきゆう》連絡だ」
「緊急連絡?」
「そうだ」
D・Jは、あたしたちにウインク。かまわず、しゃべりつづける。
「いいか、エンジェル、無線はオープンにしといてくれ」
D・Jのぶっとい声が、スタジオに響く。
「連絡事項。彼はまた、ピアノを弾《ひ》くそうだ。くり返す。彼はまた、ピアノを弾くそうだ。以上。フライトの安全を祈る」
D・Jは、あたしたちに、
「さあ、いこうぜ」
ケンジが、うなずいた。ひとこと、
「〈ウィズアウト・ユー〉」
あたしたちを見回して、
「キーは、E」
ビリーも、チャックも、軽くうなずく。
あのLPに、入ってた曲だ。スロー・バラードの原曲を、歯切《はぎ》れのいい8ビートで演《や》ってた。あたしは、スティックを、握りなおす。
「いくわ」
フロア・タムのリムを叩いて、合図《カウント》を出す。
カン! (|1《ワン》)
カン! (|2《ツー》)
カン! (|3《スリー》)
カン! (|4《フオー》)
出る。
歯切れのいいタッチ。リリカルなメロディ。あのLPと同じ音が、流れはじめた。指が、力強く鍵盤《けんばん》の上を走る。ハイハットとスネアーで、フォローする。
「動き出したぞ」
とD・J。
戦闘機《せんとうき》が、スピードを上げていく。離陸。
脚《あし》を引っ込める。機首を上げる。ぐんぐん、上昇《じようしよう》していく。すぐに見えなくなった。
曲が、盛り上がっていく。
あたしは、ブーム・スタンドについたマイクを、顔の前に。D・Jに、眼で合図《あいず》。
D・Jが、スイッチを入れてくれる。マイクに向かって、
「エンジェル、ミッキーよ。きこえる? この音が、きこえる? きこえたら、応《こた》えて!」
応答は、ない。
「きこえたら、応《こた》えて!」
やはり、応答はない。曲は、エンディングにさしかかる。
ふいに、頭上《ずじよう》で、爆音《ばくおん》! ガラスが、ふるえる。
「見ろ!」
とD・J。
西側の窓。あたしたちの上をかすめて、戦闘機が飛んでいく。エンジェルの機だ。
低い雲の間から、スポット・ライトみたいな陽が海面に落ちていく。
ヤシの葉が、大きく揺《ゆ》れている。そんな空に、ジェット戦闘機は飛び去っていく。
「あ……」
誰かが、つぶやいた。
戦闘機が、翼《つばさ》を振った。2回……そして、3回……。
「了解《ラジヤー》の合図《あいず》だな」
とD・J。
銀色の翼《つばさ》が、西の空に消えていく。
ケンジの指先から、〈ウィズアウト・ユー〉が響きつづける。
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第5話 シンデレラになれなくて
♪
パーッパパパ!
クラクションが、で鳴《な》った。
耳ざわりな音だ。あたしは、無視《むし》する。
♪
グアム空港。午後4時。
アキラとリカルドを、ピック・アップにきたところだ。
連中は、ハワイから飛んでくる。そろそろ、着く頃《ころ》だ。
ビリーとチャックは、空港の中へ2人を迎えにいった。
あたしは、クルマの番だ。
空港の玄関に駐《と》めた、DATSUNのトラック。運転席。
両足は、ハンドルの上。ドラムのスティックで、自分のヒザを、軽くピタピタと叩《たた》いていた。
また、クラクション。やたら短気な音だ。
この島じゃ、クラクションの音なんて、まずきかれない。鳴らす必要がないからだ。
もし、鳴らすとすれば……。ふり返ってみる。やっぱり、日本人だった。
♪
「おい、ネエちゃん」
ガラの悪い声。あたしが日本人なんで、日本語できた。
黒地に、どっ派手《はで》な柄《がら》のアロハ。まっ白いズボン。坊主刈《ぼうずが》り。絵にかいたようなチンピラ。
ホノルルでも、なかなか、お目にかからないタイプだった。
やっぱり、いるんだなあ。あたしは、感心して、やっこさんの顔をながめた。
「おい、ネエさん」
「あんたみたいな弟、持ったおぼえないけど」
日本語で、いってやる。
「なんだとォ、このガキィ」
やつは、眼《め》をつり上げる。
「この、きったねえトラック、どけろ」
「どうしてよ」
「どけりゃいいんだよ」
やつは、スゴむ。
「ケガしたくなけりゃな」
あたしは、窓から顔を出す。後ろを見る。チンピラにお似合《にあ》いの、下品《げひん》なクルマ。まっ白なリムジンが、どんと駐《と》めてある。
あいつを、ここに駐めようっていうんだろう。
けど、ここはフリー・パーキング。早い者勝ちだ。
「どかないわ」
あたしは、いった。カー・ラジオから流れるM《マイケル》・ジャクソン。その軽快《けいかい》な16ビートに合わせて、スティックで裸《はだか》のヒザを叩きながらだ。
「なんだとォ……」
と、やつ。皮の靴《くつ》で、トラックのドアを蹴《け》った。ムカッとしった。
「このガキィ!」
窓から、腕を突っ込んでくる。あたしのアロハ・シャツ。エリ首を、つかんだ。
「表へ出やがれ!」
ちょうど、カー・ラジオの曲がブレークする。そのタイミングに合わせて、スティックを振った。
※[#四分音符、unicode2669]《ビシッ》
左手。手首のスナップだけ。
シンバルを叩《たた》いてブレークする。そんな感じで、やっこさんの腕をひっぱたいた。
ごく、軽く。それでも、
「うッ」
と、うめく。エリ首から、手がはなれる。
トラックのドアを、あたしはバーンと開けた。ドアは、やつの体をはね飛ばす。やつは、後ろに、よろける。歩道に尻《しり》もちをついた。
あたしは、運転席から、とびおりる。
「表へ出たわよ」
♪
「なにしてやがる」
太い声がしたのは、そのときだった。
歩道に尻《しり》もちをついたチンピラ。その上の方から、声は落ちてきた。あたしも、視線《しせん》を上げていく。
巨《おお》きな男だった。何かの選手だろう。
日本人。身長は、190センチぐらい。頭は、ツルツル坊主《ぼうず》。まるで、タコ入道《にゆうどう》だ。
チンピラのエリ首を、タコ入道は引っぱり上げる。
「こ、こりゃ……」
とチンピラ。引っぱり起こされながら、
「ク、クルマは、あっちです」
このタコ入道が、チンピラの客だったのか。
タコ入道の後ろ。同じような男たちが、3、4人いる。
みんな、日本人。体が、巨《おお》きい。眼つきが鋭い。
チンピラは、あたしを、にらむ。
「ちッ」
足もとへ、ツバを吐《は》く。
「こっちへ」
男たちを、リムジンヘ案内していく。
タコ入道が、一瞬、あたしを見た。凶暴《きようぼう》な視線《しせん》。ツルツル頭のキズあとが、陽射しを照り返した。巨体が、リムジンに乗り込んでいく。
あたしは、肩をすくめる。M《マイケル》・ジャクソンの曲に合わせて、口笛《くちぶえ》を吹きはじめる。
空港の玄関《げんかん》から、みんなが出てきた。アキラが、手を振る。リカルドの歯が、白く光る。
♪
「やあ《エスタス・ビエン》! ミッキー!」
リカルドが、陽気なスペイン語で叫《さけ》ぶ。あたしの体を、大げさに抱《だ》きしめた。
キー・ボードのアキラ。ヴォーカルのリカルド。これで、THE BANDAGE《バンデージ》は、全員そろったことになる。
「アントニオは、やっぱり、こなかったのね」
マネージャーのアントニオは、ホノルルに残っている。
「新しい女でも、ホノルルにできたらしい」
とリカルド。笑いながら、クルマの荷台《にだい》にバッグを放り上げる。
「本当のところ」
とアキラ。
「やっこさんなりの計画があるらしい」
「計画?」
「ああ。何か、作戦を練ってるよ」
「どうせ、たいしたことないわね」
「おれも、そう思うがね」
アキラも、笑いながら、トラックの荷台に乗ってきた。
「で? どこへいく?」
「とりあえず、〈魚雷亭《ぎよらいてい》〉にいってくれないか」
とアキラがいった。
「〈魚雷亭〉……わかったわ」
運転席のビリーとチャックに、あたしは、どなった。
窓から出てる、チャックの黒い腕。その指が、OKのサインをつくった。
♪
「2か月見ない間に、少しは大きくなったかな」
とリカルド。あたしのアロハの胸もとから、バストをのぞこうとする。
「バカ」
あたしは、胸もとをおさえて、
「パイナップルじゃあるまいし、そう簡単にふくれるわけ、ないでしょ!」
「かくすところが、あやしい」
とリカルド。陽気な笑い声を上げる。そういえば、
「〈魚雷亭〉に用事?」
アキラにきいた。
「ああ」
アキラは、ヒップ・ポケットから、手紙を出す。あたしは、うけとる。開いた。えらく細かい字。
「こりゃ、ダメだ」
走る小型トラックの荷台だ。
「とても、読めないわ。内容は?」
「〈魚雷亭〉のオヤジからなんだが、店がヤバいらしいんだ」
とアキラ。
「ヤバい? だって……」
1年前だ。〈魚雷亭〉の音楽マネージャーをやってたアキラ。彼を、キー・ボード・プレーヤーとしてスカウトしに、あたしはグアムにきた。
「あの頃《ころ》、〈魚雷亭〉、すごくはやってたじゃない」
客の大半は、米軍。地元《ロコ》の人間も、少し。とにかく、毎晩、満員だったのに……。
「それが、どうもマズいらしい。SOSが、出てることは確かなんだ」
とアキラ。
「とにかく、いってみよう」
走り過ぎるアガニアの街《まち》をながめた。
「それはそうと、ママの消息《しようそく》は、つかめたのか?」
リカルドが、あたしにきいた。あたしは、首を横に振る。
アンダースン空軍基地《エア・フオース・ベース》の友達、黒人のD・Jが、調べてくれている。
「そろそろ、わかるはずなんだけど」
あたしは、つぶやく。
傾《かたむ》いた太陽は、ヤシの葉先《はさき》に触《ふ》れるあたり。
プルメリアの花。湿《しめ》った砂浜。潮風《しおかぜ》。そんな香りをカクテルにした、たそがれの空気を、胸に吸い込んだ。
♪
「着いたぜ」
運転席の窓から、チャックの顔がのぞく。まっ黒い顔から、白い歯がこぼれた。
〈TORPEDO《トーピドー》 RESTAURANT〉の看板《かんばん》。その下に〈魚雷亭〉の日本語が並んでる。
〈SEAFOOD & MUSIC〉の青いネオンが、南の島のたそがれに、にじんでいる。
あたしたちは、トラックをおりる。〈OPEN〉の札《ふだ》がかかってるドアを押す。アキラが、まず、入っていく。
まだ、5時過ぎだ。
ガランとした店の中。小柄《こがら》なおじさんが、ホウキを動かしていた。
チャモロ人。白い髪。おじさんというより、おじいさんだろう。
「アキラ……」
と、じいさん。その手から、ホウキが離れた。乾《かわ》いた音をたてて、床《ゆか》に転《ころ》がる。
「ダグじいさん……」
2人は、抱《だ》き合《あ》う。
「元気だったか……」
「ああ……」
じいさんの眼に、涙がにじんだ。
「音楽屋の連中から、ウワサは、きくよ、アキラ」
「ああ」
アキラは、あたしたちをふり返ると、
「紹介《しようかい》するよ。ザ・バンデージの凄腕《すごうで》たちだ」
「やあ」
「どうも」
「よろしく」
「たのむわ」
あたしたちは、チャモロ人のダグじいさんと、あいさつ。その褐色《かつしよく》の手と、握手《あくしゆ》する。
「あんたが、ウワサのミッキーか……」
握手《あくしゆ》したまま、じいさんは、あたしの顔をながめる。
あたしも、初対面《しよたいめん》だった。
1年前。1週間ぐらい、この店でドラムを叩いた。けど、その頃《ころ》、このじいさんは姿を見せなかった。
「あの頃、店は、アキラにまかせときゃよかったからなあ」
と、じいさん。
「それが、いまじゃ……」
と、肩を落とす。
「どうしたんだい」
アキラが、じいさんの落としたホウキをひろう。
「どうしたも、こうしたも」
じいさんは、力なくホウキを動かしながら、
「プレーヤーが、いなくて」
「プレーヤー?」
「ああ……あのキー・ボードも、ドラムスも、もう1か月間、ホコリをかぶったままさ」
あたしは、ドラム・セットに歩いていく。本当だ。ハイハットの上。うっすらと、ホコリがつもってる。
「どうしたの!? いったい……」
♪
「九竜《クーロン》連合?」
あたしは、きき返した。
「そう、九竜《クーロン》連合」
きいたことがない。
「新しいシンジケートだからな」
と、ダグじいさん。
「日本の暴力団と、香港のギャングが手を結んだんだ」
じいさんは、ポツリポツリと話す。
「日本でも、最近、法律が厳しくなって、なんといったかなあ、あのマッサージ・パーラーを」
「ソープ・ランドさ」
とアキラ。
「そうそう。そのソープ・ランドの経営《けいえい》がキツくなった。当然、暴力団は資金に困る。香港《ホンコン》は香港で、あと12年で中国にもどされる。ギャングとしても、海外にシンジケートをつくらなきゃならない」
「それで……グアムへ進出?」
「そういうことさ」
と、じいさん。
「マッサージ・パーラーをつくるための人間たちは、日本から。金は、おおむね香港《ホンコン》からやってくる」
「そういえば」
とアキラ。
「それらしい看板《かんばん》が、アガニアの街《まち》にふえたと思ったぜ」
じいさんは、うなずく。
「九竜《クーロン》連合に買収《ばいしゆう》された店も、多いよ。すごい勢いだ」
ジンジャエールで、じいさんはムセると、
「午前中まで、貝殻細工《かいがらざいく》を並べてた店が、午後からは、突然、マッサージ・パーラーさ」
「貝で商売することに、変わりないがな」
とビリー。得意の下半身《かはんしん》ジョークを飛ばす。
「あの連中も、もしかしたら」
と、あたし。さっき、空港で小ぜり合いしたやつらのことを話した。
「たぶん、そうだな」
と、ダグじいさん。
「日本で食いつめた元プロレスラーなんかが、九竜《クーロン》連合に雇《やと》われてるよ」
「そうか」
あの、巨《おお》きな男たちは、プロレスラーくずれか……。
「で? この店は、いつマッサージ・パーラーに?」
とビリー。ニッと微笑《わら》う。
「よしてくれよ、冗談《じようだん》でも」
と、ダグじいさん。
「だが、連中は、この店に眼をつけたんだな?」
とアキラ。じいさんは、うなずく。
〈魚雷亭〉は、ヒルトンやコンチネンタルなんかのホテル街から近い。
しかも、海沿いの一軒家だ。マッサージ・パーラーには、絶好だろう。
〈SEAFOOD & MUSIC〉と印刷《いんさつ》されたメニューをさして、ビリーが、
「女の体が、シー・フードかどうか。これが問題だ」
「ビリー」
あたしは、にらみつけると、
「チョン切るわよ」
♪
「そりゃひどい」
とチャック。グラスのワインを、ぐいと飲《の》み干《ほ》した。
3か月で、合わせて7バンド。いやがらせにあって、グアムからズラかったらしい。
ギタリストが、指を折る。ドラム叩きが、足をネンザする。キー・ボード・プレーヤーが、夜道《よみち》で袋叩《ふくろだた》きにあう。女性ヴォーカルが、強姦《ごうかん》される。
「そんなアクシデントが、連発だ」
と、ダグじいさん。
「やつら、九竜《クーロン》連合に買収されなかった音楽屋は、みんな、やられた。ビビって、誰《だれ》も、この店に出演しない」
新しいワインを抜くじいさんの手が、怒《いか》りで震《ふる》えてる。
「バンドが入ってなきゃ、客はこない」
確かに。もう6時近いってのに、客は、1組もいない。
「この1か月、ずっと、こうだ。おかげで、1万ドル近い借金も、できちまった」
と、じいさん。
「だが、おれたちがきたからには、もう、OKだ」
とチャック。
「強い強いドラム叩《たた》きもいるしな」
「そうだ、ミッキー」
ビリーが、あたしを見てニヤニヤ。また、よからぬことを考えてるにちがいない。
「その、九竜シンジケートの手先に強姦《ごうかん》されないように」
あたしの前に、ワインのコルクを置くと、
「こいつで、あそこに栓《せん》をしとけよ」
フォークを、あたしはもう、右手に握っていた。ビリーのヒップを、突ついてやる。
「ギャッ」
♪
「アキコ!?」
あたしは、思わず、きき返していた。思わぬ名前が、ダグじいさんの口から出た。
「アキコって……」
「女性シンガーさ」
と、じいさん。
「日系人のね」
「もしかして、兵隊たちから〈オールド・B〉ってニック・ネームで呼ばれてる人?」
「そうだよ」
と、じいさん。それは、99パーセント、あたしのママだ。
「あんたたちのバンドと、彼女が交代《こうたい》で出てくれりゃ、客は入るんだが」
「その、アキコって女性シンガー、グアムにいるの?」
そうたずねる声が、震《ふる》えるところだった。
「ああ、いるよ」
と、じいさん。
「ほかの店に、出てるがね」
アキラが、何かいいかけた。〈黙《だま》ってて〉と、あたしは、眼でいった。
とりあえず、ダグじいさんやバンドのみんなを巻き込んでもしかたない。
これは、あたしひとりの問題だ。
♪
「脱《ぬ》いで」
顔も上げずに、支配人のおっさんはいった。
「ヘ!?」
思わず、すっとんきょうな声を出してしまった。
「脱《ぬ》いでみろ」
おっさんは、ぶっきらぼうに、またいった。
金髪。口ヒゲ。テーブルに新聞をひろげて、ホット・ドッグを食べるところだった。
翌日。午後4時半。アガニアの街はずれ。
〈珊瑚天国《コーラル・ヘヴン》〉そんな、恐ろしい名前の店だ。
名前のわりには、どうってことのない店だった。
「どうした」
支配人《しはいにん》のおっさんは、顔を上げた。
「日本人か」
あたしを、ジロッとながめて、
「若いな」
と、いった。
ガランとした店を、見回す。ステージの形で、わかった。ストリップもやる店だった。
ってことは、どうやら、ストリッパーの応募《おうぼ》とまちがわれたらしい。
「胸が、ペタンコだな」
おっさんは、ボソッという。
「とにかく、脱いでみろ」
眼が、いやらしく光った。ホット・ドッグを、かじろうとする。
ヒップ・ポケットのスティックを、あたしはもう、引き抜いていた。
鋭いスナップ。ひと振り。ビュッと、空気が切れる音。
おっさんの目の前。かじろうとしたホット・ドッグ半分が、消えていた。
デスクに広げた新聞。その上に、ホット・ドッグの片割れは落ちていた。
レーガン大統領《だいとうりよう》の顔の上に、ソーセージがへばりついている。
おっさんの口は、半開き。ホット・ドッグとあたしの顔を、交互《こうご》にながめる。
「ひとを見て、モノをいうのね」
スティックを、おっさんの鼻先につきつけて、
「ストリップをやるほど、色気《いろけ》はないわ。自慢じゃないけどね」
ニコッと微笑《わら》った。
「シンガーのアキコは、どこ?」
スティックを、ヒップ・ポケットに戻《もど》す。
「ア、アキコ……? 彼女に、用事だったのか」
と、おっさん。まだ、顔中のネジが、はずれてる。
「か、彼女は、いるが……」
「どこ?」
「あ、あの廊下《ろうか》の、突き当たり……」
「サンキュー。ヨダレがたれてるわよ、支配人さん」
おっさんに、ニッと微笑《わら》いかける。
奥へ、ずんずんと歩いていく。トイレの前を、左へ。
廊下。突き当たりに、オフ・ホワイトのドアがある。
歩いていく。手のひらが、軽く汗ばんでいる。
そりゃ、そうだ。あのドアの向こうに、ママがいる。11年前に、家を出てったママがいる。
落ちつくんだ、ミッキー。自分に、いいきかせる。
いまのあたしを見ても、まず、ママはわからないだろう。
11年前。あたしは、5歳だった。
顔は、パパに似て、ほとんど白人。髪も、金髪に近かった。
いま、あたしの顔は、まるで日本人。髪も、麦ワラ色がかった褐色《かつしよく》だ。
まず、ママは気づかないだろう……。
廊下《ろうか》を、突き当たる。木のドアに、〈ノックすること〉口紅《くちべに》みたいなものでそう描《か》いてある。
深呼吸《しんこきゆう》。ノック、3回。
「……どうぞ」
少しハスキーな、女の声。あたしは、ドアを押し開けた。
一瞬《いつしゆん》、まぶしさに、眼を閉《と》じる。そこは、外の駐車場《ちゆうしやじよう》だった。
♪
びっくりした。
2秒……3秒……。やっと、眼の絞《しぼ》りを、外の風景に合わせる。
駐車場。ヤシの樹《き》が、3、4本。その向こうは、砂浜だ。
夕陽が、海面をサーモン・ピンクに染めている。
ペパーミント色のコンバーチブルが1台。こっちにヒップを向けて駐《と》まっている。
ボンネットの上に、人の姿。むこう向きに、ボンネットに腰かけて、海をながめている。
白いコットン・シャツ。ジーンズ。
女だった。たぶん、彼女だろう。
右手には、グラス。左手には、半分に切ったレモン。
ボンネットの上に、透明《とうめい》なボトル。GORDONのジンが、夕陽に透《す》けている。
「飲むんだったら、グラスを持ってらっしゃい」
彼女は、いった。従業員の誰かだと、思ったんだろう。
返事がないんで、彼女はふり向いた。
「おや……」
一瞬、不思議そうな表情。
「あの……」
いいかけたあたしに、
「ここは、〈くたびれ《オールド》アキコ〉の楽屋《がくや》よ」
逆光《ぎやつこう》の中で、目尻《めじり》が3ミリ、苦笑した。
♪
〈カントリー・ガール〉
ヒット中のバラードが、カー・ラジオから流れている。
「飲む? お嬢《じよう》ちゃん」
彼女は、GORDONのボトルを、あたしにさし出した。黙って、うけとる。
彼女と並んで、ボンネットにもたれかかる。
やはり彼女は、あたしのことを、まるで気づいてない。
ふと、思えば。あたしだって、ママの顔が、わからない。
11年は、やっぱり、長い。5歳の記憶は、もう、虹《にじ》の彼方《かなた》だ。
ママが、家を出ていった翌日。パパは、ママの写真を焼き捨てちゃった。
その日から、ママの顔を知らずに、あたしは育ったことになる。
あたしは、ジンのキャップを回した。ひと口、ラッパ飲み。透明な香りが、ツンと鼻に抜ける。
ママは、レモンを、かじる。グラスのジンを、ひと口飲む。
フーッ、と息をついた。
「夕方は、やっぱり、ジンねえ……」
ママの髪は、まっ黒だった。
背は、あまり高くない。あたしより、10センチは低い。
古い言葉でいうと、トランジスタ・グラマーなんだろう。
まだ、女としては、しっかり現役《げんえき》。
30代のまん中だから当然だけど、そんな雰囲気《ふんいき》が、全身に漂《ただよ》っていた。
「ところで、お嬢《じよう》ちゃん」
「ミッキーよ」
あたしがミッキーって呼ばれはじめたのは、10代になってからだ。ママは、知らないだろう。
「そう。ミッキーか……ジンを1杯やりにきたの?」
「まさか。用事よ」
アロハの胸ポケットから、SALEMを出した。1本、くわえる。
曲が、K《ケニー》・ロジャースに変わった。
♪
「〈魚雷亭〉が?」
とママ。
「そんなことに……」
海をながめたまま、つぶやいた。
あたしは、わけを話し終わったところだった。
夕陽は、もう半分、水平線に沈没《ちんぼつ》してる。
漁船《ぎよせん》だろうか。クルーザーだろうか。たそがれの海に、船のシルエットが、1つ。
空には、カモメが7、8羽、漂《ただよ》っている。
「声がつぶれて唄《うた》えないのに、ダグじいさん、黙って100ドルのギャラをくれたことがあったわ」
とママ。
空に漂うカモメたち。船のマストに、とまっている2、3羽……。
「このあたりを渡り歩いてる音楽屋にとっちゃ、ダグの店は、まるであの船よ」
K《ケニー》・ロジャースのバラードが、風に流れていく。
「OK、わかったわ。あしたから〈魚雷亭〉で唄《うた》わせてもらう。ダグじいさんに、そう伝えて」
「でも、この店との契約《けいやく》は?」
と、あたし。ズルそうな支配人の顔を、思い浮かべる。
「まかせといて」
とママ。グラスのジンを、飲み干した。
♪
紙ヒコーキが、ステージに飛んでいく。ママの右手が、つかんだ。
それを投げた空軍の連中から、歓声《かんせい》が上がる。
紙ナプキンかなんかのヒコーキだろう。ママは、それをながめて、
「さすが、空軍《エア・フオース》ね。航続距離《こうぞくきより》が長いわ」
といった。空軍のユニフォームが、ワッと、わく。
〈珊瑚天国《コーラル・ヘヴン》〉ママの、|2《ツー》ステージ目だ。
客席は、米兵たちでいっぱい。あたしは、カウンターでひとり、TEQUILA & TONICを飲んでいた。
「それじゃ、基地に、ご帰還《きかん》よ」
ママは、紙ヒコーキに、色っぽくキス。空軍の兵隊たちの方へ、投げ返した。
ワッという歓声。空軍の連中から、手がのびる。
「高射砲!」
海軍《ネイビー》の連中の席から、ポップ・コーンがバラバラと飛んでいく。
「でしゃばるなよ、ジョージ!」
と空軍。
「うるせえ!」
と海軍。仲が悪いらしい。
「早く帰ってアミの修理《しゆうり》でもしろよ、この漁師《りようし》が!」
と空軍。
「キサマこそ、ママのおっぱいでも空中給油してもらったらどうだ!」
海軍が、やり返す。曲のイントロが、間に割り込む。
〈フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン〉
あと一歩で、しゃがれ声。そんなハスキー・ヴォイスで、ママは唄《うた》いはじめた。
|3《スリー》コーラス目。
海軍の兵隊が1人、フラフラと立ち上がった。左手に、VODKAのボトル。かなり、酔《よ》ってる。
〈フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン〉は、どっちかっていうと空軍の曲なんだろう。
海軍の酔っぱらいは、フラフラと、低いステージに上がっていく。
空軍の連中から、ブーイング。ポップ・コーンが、飛ぶ。
酔っぱらいは、ママのマイクに、手をのばそうとした。
ママは、さっとかわす。酔っぱらいを、ヒップで突き飛ばした。
海軍の酔っぱらいは、空軍の席へ、転《ころ》げ落ちる。
「このやろう!」
空軍の連中が、酔っぱらいを投げつける。
海軍の席で、テーブルがひっくり返る。J《ジヤツク》・DANIEL, Sのボトルが飛ぶ。イスが飛ぶ。誰《だれ》かが、誰かを殴《なぐ》った。
あっという間に、乱闘になった。
支配人が、オロオロと叫ぶ。が、もう、とまらない。
グラスが飛ぶ。ステーキが飛ぶ。兵隊が飛ぶ。
誰かが、テーブルを投げた。ピアノが、ひっくり返る。あたしの頭の上。支配人が飛んでいく。
つかみかかってきた兵隊。そいつを、あたしは左フックで殴《なぐ》り飛ばした。
「こっちよ、ミッキー!」
ママが、あたしの手をつかんだ。ぐいぐいと、引っぱっていく。
廊下《ろうか》へ。
「これで、この店も当分は休業ね」
とママ。
「あしたからは、〈魚雷亭〉よ」
突き当たりのドアを、バーンと開ける。外へ。
「どこへいくの?」
「帰るのよ」
クルマが、待っていた。赤いテール・ランプの方へ、あたしたちは走っていく。
乗り込んで、あたしは気づいた。これは、パトカーじゃないか!?
♪
「何すんのよ!」
あたしは、叫《さけ》んだ。足をバタバタさせる。
けど、チャモロ人の警官は、ビクともしない。鉄格子《てつごうし》の中へ、あたしを放り込んだ。
「まあ、ゆっくりしていきなよ、ジャジャ馬《うま》さん」
ママも、鉄格子の中へ入ってきた。
「うーん、疲れた」
と背のび、一発。
「今夜のさし入れは、レアよ」
と、ママはチャモロ人の警官にいった。
「いつも焼き過ぎるんだから」
警官が、白い歯を見せて微笑《わら》った。
「ミッキー、あんたは?」
「…………」
「ステーキよ。レア? ミディアム? ウェルダン?」
♪
「ひとつきいてもいい?」
フォークを動かしながら、あたしはいった。
「いいけど?」
とママ。ナイフで、ステーキを切っていく。
「どうして、ここに住んでるの?」
あたしは、きいた。
「ブチ込まれたからに、決まってるじゃない」
「ブチ込まれたって……何したの?」
「酔っぱらい運転。それにスピード違反よ」
ママは、ステーキを口に放り込むと、
「120マイル」
「120マイルで、突っ走ったの?」
「ううん。120マイルのオーバー」
♪
「それも、さし入れ?」
あたしは、きいた。
ママは、簡易《かんい》ベッドの下から、ギターを引っぱり出した。
「まあね」
壁によりかかって、
「留置場《りゆうちじよう》暮らしも、退屈《たいくつ》だしね」
パランと、ギターの弦《げん》を鳴らした。
「どのぐらい、ブチ込まれてるの?」
「もう、2か月かな」
「唄いにいくときは?」
「毎日、保釈《ほしやく》があるのよ。好きなだけね」
ママは、白い歯を見せた。
「まるで、ホテルね」
「ルーム・チャージもチップもとられないだけ、ホテルよりましかもしれない」
笑いながら、ギターを弾《ひ》きはじめた。
♪
コードはG……。
「ミッキー、あんた、いくつ?」
「16よ」
Am……。
「私にも、娘がひとり、ハワイにいるわ。あんたと、同じぐらいの年齢《とし》の」
「へえ」
D7……。
「未記子《みきこ》って名前よ。トウモロコシみたいな金髪で、やせて、眼だけが大きくて……」
「知ってるわ、その娘なら」
G7……ミス・タッチ。
「その……ホノルルで、音楽仲間だったわ。同じ、ドラム叩きだったの」
「……そう。あんたも、ドラムをやるの?」
あたしは、うなずく。右手に持ったフォークで、テーブルの端をコンコンと軽く叩いた。
「未記子は……元気だった?」
あたしは、うなずく。
「母親のことを……何か、いってなかった?」
あたしは、首を横に振った。
「彼女は、未記子は、ボーイ・フレンドと遊ぶのに忙しかったから」
ウソつけ。
とにかく、
「そんな話まで、するヒマがなかったわ」
あたしは、微笑《わら》いながらいった。
これでいい。あたしは、胸の中でつぶやいた。
いくら、家を飛び出したからって、娘まで、15歳の誕生日《たんじようび》を感化院《ガールズ・ホーム》で迎えたなんてママが知ったら……。
いや、知らせちゃいけない。
あたしは、はまぐり《クラム》みたいに、口を閉じた。塩《しお》なんかかけられても、絶対に口を開くものか……。
「そう。未記子は、元気だったか……」
ママの肩から、ほんの2、3ミリ、力が抜けた。その指が、ギターのフレットを押さえる。
G。
A7。
D7。
G。
〈ペイパー・ムーン〉を、口ずさみはじめた。
鉄格子《てつごうし》のはまった、大きな窓。
月が出ている。ヤシの葉が、銀色の光を照り返して揺《ゆ》れている。
〈ペイパー・ムーン〉を、ママは、しゃがれ声で唄いはじめた。
あたしは、フォークでテーブルを叩く。カチカチと叩いて、リズムをとる。
窓の外。ブーゲンビリアの茂みで、虫の声がバック・コーラスをつけている。
♪
「ごきげんじゃないか」
太い声がした。
鉄格子《てつごうし》の向こう。警官が、1人、立っていた。
白人。中年。がっちりとした体格。制服からすると、かなりエラそうだ。
あたしとママは、留置場セッションをやめる。
「やあ」
警官は、あたしに微笑《わら》いかける。
「署長のポパイだ」
あたしは、右手のフォークで敬礼《けいれい》のマネ。
「ポパイってニック・ネームの出どころは、そのアゴね」
署長は、微笑《わら》いながら、うなずいた。
たいしたアゴだった。大きなアゴが、まず、うなずく。それに、顔がくっついてくる。そんな感じだった。
署長のポパイは、中に入ってくる。ママの肩を抱《だ》く。2人は、軽くキス。
「この警察は、キスのさし入れもするの」
あたしは、皮肉《ひにく》ってやる。
「いいのさ」
ポパイは、ニッと微笑《わら》う。
「フィアンセだからな」
あたしに、ウインクしてみせた。
♪
鳥の声で、目が覚《さ》めた。朝だった。
窓の外は、まぶしい青空。ヤシの葉が、カラカラと揺《ゆ》れている。
署長が、やってきた。
〈出ていいよ〉と、手で合図《あいず》。
ママは、毛布《もうふ》をかぶって眠っていた。あたしは、鉄格子《てつごうし》を出る。
「釈放《しやくほう》?」
「ああ」
ポパイ署長《しよちよう》は、ドラムのスティックを返してくれる。
それを、ヒップ・ポケットに。警察を出る。
「送っていくよ」
ポパイ署長が、パトカーのドアを開けた。あたしは、助手席に。
「朝メシでも、どうだい、ミッキー」
「ポリ公に、おごられる筋合《すじあい》はないわ」
署長は、肩をすくめる。パトカーを、出した。
「マ……」
ママ、じゃなかった。
「彼女とは、アキコとは、どこで出会ったの?」
「留置場さ」
「120マイルのオーバー?」
署長は、うなずく。
「ほとんど歩けないほど酔ってるのに、クルマをふっ飛ばしてたんだ。生きてるのが、不思議なぐらいだ」
署長は、コーン・パイプを、口の端にくわえた。ますます、ポパイになる。
「どうして、結婚を?」
ルート1を、右折。
「彼女には、してやれることが、たくさんある」
信号ストップ。
「私は、1回だけ結婚したことがあるんだ」
署長は、マッチをすった。
「前のワイフは、完璧《かんぺき》すぎた」
コーン・パイプに、火をつける。
「給料袋を持って帰る以外、私には、してやれることが、何もなかった」
青信号。
「それはそれで、淋《さび》しいものだったよ」
ルート1を、北へ。
「同情と愛情は、ちがうわ」
あたしは、ズバリといった。署長は、しばらく無言《むごん》。
「だが、同情からはじまる愛情ってやつもある」
パトカーは、〈魚雷亭〉の前に滑《すべ》り込んでいく。
「曲が、とちゅうで転調《てんちよう》するみたいにね」
♪
「コンサート?」
あたしは、いった。
「そうだ」
とアキラ。
「とにかく、このままじゃ、どうしようもない」
テーブルの上をさした。
20ドル札《さつ》。10ドル札。1ドル札。それぞれ、3、4枚。
|25セント玉《クオーター》が、5、6枚。淋《さび》しく、寝《ね》っ転《ころ》がっている。
〈魚雷亭〉の裏。あたしたちが泊まってる、小さな家。
アガニア湾《ベイ》に面した芝生《しばふ》の庭で、昼ごはんの最中《さいちゆう》だった。
〈魚雷亭〉の客は、少しずつ、戻《もど》ってきていた。
「けど、1万ドルの借金となるとなあ……」
とチャック。
「コンサートだよ!」
とアキラがいったのは、そのときだった。
ながめていたビルボード誌。1枚の写真《しやしん》を、指さした。
〈U・S・A・フォー・アフリカ〉アフリカを援助《えんじよ》するための、チャリティーだ。
S《スティービー》・ワンダー。
M《マイケル》・ジャクソン。
L《ライオネル》・リッチー。
スター・プレーヤーたちが、コンサート風に録音《ろくおん》している写真だった。
「おれたちだって、1万ドルぐらいは、なんとかなるんじゃないか」
「ええと、チケットを1枚5ドルとして、2千人か」
「場所は?」
「こんな天気なんだから」
アキラは、空を見上げる。グアムは、きょうもピーカンだ。
「屋外コンサートでいいさ。野球場でも、スペイン広場でも」
「D・Jに頼《たの》めば、米軍の人間が、どっとくるわよ」
と、あたし。
「あちこちのバンドに声かけて」
「一日中《オール・デイズ》のコンサートなら」
「2千人ぐらい、わけないか」
「やる手だろうな」
♪
「!!」
何か、裂《さ》けた! カーテンか、何か! 一瞬、そう思った。
すぐに、人間の悲鳴《ひめい》だと気づいた。
あたしは、COORSの缶《かん》をほっぽり出す。店に飛び出していく。
ウエイトレスのチャモロ娘が、フロアに倒れてる。悲鳴《ひめい》は、彼女だろう。手で、頬《ほお》をおさえてる。
フロアに散らばったグラス類。
「上等じゃねえか」
と日本語。
「おれたちに、唄わせねえってのか」
九竜《クーロン》連合のやつらだった。大男が、2、3人。あたしが空港でぶっとばしたチンピラもいる。
ザ・バンデージは、|休 憩《インターミツシヨン》だった。みんな、外の空気を吸いにいってる。
大男は、ステージへ。ステージには、ママがいる。
「おれたちの歌を、きかせてやろうってのによ」
どうやら、カラオケ・バーのつもりらしい。
「ほら、マイクを貸せよ」
とプロレス屋。
「いやなこった」
ママは、両手を腰に。プロレスラーを、にらみつける。
「ほう、元気なオバサンじゃねえか」
大男は、ステージに上がろうとする。あたしは、その背中に駆け寄る。
肩を叩く。ふり向いた。その急所に、ヒザ蹴《げ》り。
相手がデカいから、ちょうどいい高さだった。
「うッ!」
やつは、うめく。
その瞬間《しゆんかん》! 後ろで、空気が動いた。
イスが、ふり回される! 反射的に、沈み込む。頭の上で、うなり。木のイスが、ブンッと通り過ぎた。
イスは、急所をおさえている大男の頭に激突。同士うちだ。
木のイスは、バラバラになる。大男は、急所をおさえたまま、フロアにくずれる。1人、片づいた。
ふり向く。
つぎは、イスをふり回したやつ。あのタコ入道だった。
「へへへ」
と、薄笑《うすわら》い。
「お嬢《じよう》ちゃん、ケガしたいんだね」
つかみかかってくる。
右手を、ヒップ・ポケットに。
指が、カラぶり! スティックが、ない。飛び出してきたんで、忘れたんだ。
このドジ!
とっさに、テーブルの酒ビンをつかむ。タコ入道の頭に、叩きつける。
ビンは、コナゴナに。ツルツルの頭から、血が流れ出す。けど、やつは平気だ。
「ヒヒヒ」
と笑う。ハムみたいにぶっとい腕で、つかまれた。
「ほれ」
肩の上に、持ち上げられる。
手足を、バタバタする。けど、ビクともしない。
「このガキ、ドラム叩きだったな」
とプロレスラー。
「やってみろ!」
投げ飛ばされた。ドラム・セットに、激突《げきとつ》。眼の奥で、火花が、はじける。
「ほら、どうしたネエちゃん」
タコ入道が、前に立ちはだかる。
「起きろよ」
右手に、BUDWEISERの12オンス缶。その中身を、あたしの頭にぶっかけた。
「ビールは、うまいか」
そのとき、サイレンの音。近づいてくる。
「ズラかれ!」
と連中の1人。
「ちったあ、思い知ったか」
九竜《クーロン》連合のやつらは、捨てゼリフを吐《は》いて、ズラかっていく。
「血が!」
ママが、あたしのそばに駆け寄る。
ハイハットのエッジかなんかで、切ったんだろう。右腕から、派手に血が流れている。
♪
「きょうは、朝から保釈《しやくほう》?」
と、あたし。
「まあね」
微笑《わら》いながら、ママは家に入ってきた。
朝の10時。アガニア湾《ベイ》に面した家。
あたしは、キッチンで卵《たまご》を割ろうとしていた。
けど、右腕を包帯《ほうたい》で吊《つ》ってる。きのうは、5針も縫ったからだ。左手だけじゃ、うまく卵を割れない。
「貸してごらんなさい」
と、ママ。フライパンの上に、卵を落とした。
♪
「バンドの連中は?」
「まだ、寝てるんじゃない」
「そう」
とママ。
「お皿《さら》は?」
「アルミの使い捨てが、そこにあるわ」
「フォークは?」
「割りバシが、一番上の引き出しにあるわ」
「割りバシ?」
「そう、使い捨てのね」
「合理的というか、なんというか」
ママは、肩をすくめる。あたしの前に、アルミ皿を置く。
「失敗《しつぱい》みたいね」
といいながら、|目玉焼き《サニー・サイド・アツプ》を皿にのせた。
「ちょっと、失敗みたいね」
卵は、2個。うまくいけば、本当に、目玉みたいになる。
けど、2つとも、黄身《きみ》が割れちゃってる。ぐじゃぐじゃだ。
2つの目玉は、なんだか、泣いてるみたいだった。
あたしは、左手で、苦労しながらCOORSの缶《かん》を開けた。
ふと、思い出していた。子供心にも、覚えている。ママは|目玉焼き《サニー・サイド・アツプ》をつくるのが、ヘタだった。いつも、パパが文句《もんく》をいっていた。
〈それでも、女か!〉そんなパパの声を、いまも覚えている。
「どうしたの、ミッキー」
とママ。
「卵をながめて、考えごと?」
「ううん」
あたしは、首を振る。割りバシを使いはじめた。
けど、左手じゃ、うまくいかない。目玉焼《めだまや》きのひとかけらを、落っことした。
「ほら、貸してごらんなさい」
ママは、おハシをつかむ。
「はい」
目玉焼きを、ひと口。あたしの口に入れてくれる。COORSを、ゴクリ。
「不思議なものねえ」
とママ。
「こうして食べさせてると、ミッキー、あんたが本当の娘みたいな気がするわ」
「気のせいよ」
あたしは、笑ってみせた。
「未記子《みきこ》は、あたしみたいな不良娘ではないもの」
また、目玉焼きを、ひと口。COORSを、ゴクリ。
チャックのボロラジオから〈デスペラード〉が流れている。
「どうしたの、ミッキー」
あたしは、ふいに、立ち上がっていた。
「トイレよ」
駆け出す。裏口から、外へ。誰もいない裏庭。ヤシの樹に額《ひたい》をくっつけて、思いきり泣いた。
♪
アガニアの街角《まちかど》。昼下《ひるさ》がり。あたしは、足をとめた。
「ひどいポスターね」
コンサートのポスターが、貼《は》ってある。たぶん、ビリーが描《か》いたんだろう。
〈ミクロネシア音楽祭〉
〈9月14日(土)正午から〉
〈スペイン広場にて〉
〈入場料 5ドル〉
これだけの中に、7つの誤字《ごじ》があった。
「でも、チケットは売れてるんでしょう」
とママ。あたしは、うなずいた。
「なんとか、ダグじいさんの借金は、返せそうよ」
ブティックのドアを押した。
♪
「白じゃないの?」
思わず、あたしはいった。
試着室《しちやくしつ》から出てきたママは、ブルーのドレスを着ていた。
「結婚式だっていうのに」
ママと署長の結婚式は、今度の土曜日。コンサートの日の朝だ。
ママにいわせると、〈式なんか、軽くやっつけて〉コンサートに出る。
「どうして、白じゃないの?」
あたしは、ドレス姿のママに、またいった。
「はじめての結婚式じゃないしねえ」
とママ。
「それに……」
「それに?」
「もし、また、結婚がうまくいかなくてさ、歌を唄うハメになっても」
ママは、ドレスを見おろして、
「スソをちょっと切れば、ステージ衣装《いしよう》になるでしょ」
♪
「何か、心配ごと?」
あたしは、きいた。
ブティックの帰り道。ダグじいさんに借りたFORDが、オーバー・ヒートした。
あたしは、スタンドにクルマを入れた。オイルと水だ。チャモロ人のスタンド・ボーイが、のんびりと手を動かす。
あたしとママは、木のベンチに。汗をふきながら、7UPを飲んでいた。
「心配? 結婚が」
あたしは、きいた。
「娘の未記子が……」
「彼女が?」
「なんていうかしらね。もし、ここにいたら」
「…………」
あたしは、7UPを、ぐいと飲んだ。青い空に、眼を細める。
「彼女の、あの性格だったら、きっと、こういうんじゃない」
「…………」
「おめでとう、ママ」
「…………」
あたしは、SALEMをくわえた。
「本当に、そういってくれると思う?」
あたしは、うなずく。うなずきながら、煙草《たばこ》に火をつけた。ハッカの香りを、胸いっぱいに吸い込んだ。
重いデイ・パックを、やっと肩からおろした。そんな気がした。
♪
「アントニオ、声がボッキしてるぜ」
受話器を握《にぎ》ったビリーが、からかう。
「ニンニクの食い過ぎじゃないのか」
〈魚雷亭〉コンサート前夜。あたしたちは、曲の仕上げをしていた。
ひと息ついてると、ホノルルのアントニオから電話が入った。
「帰ってこいとさ」
と、受話器片手のビリー。
「大きなコンテストだと」
あたしたちを、見回す。
「わかった、わかった。そんな大声出すなよ」
ビリーは、受話器を耳からはなす。向こうじゃ、アントニオが、わめいてるんだろう。
「わかったよ。あさっての日曜、飛んで帰るよ。新曲? ああ、すごいやつができてるぜ」
ビリーは、ニヤリと微笑《わら》う。あたしの方へ、受話器をさし出す。
受話器の2インチ先で、あたしはシンバルを、1発、叩いた。
「どうだ、パンチのある曲だろう。何? コマクが破れた? そりゃおめでとう。ミッキーのヴァージンなんて、まだ破れないってのに」
あたしの投げたスティックを、ビリーはヒョイとよけた。
♪
「ステージより、アガるわね」
と、ママは苦笑い。
「キレイだよ」
と、父親役のダグじいさん。似合《にあ》わないタキシードを着込んで、ニコニコしてる。
教会。結婚式まで、あと30分だ。
「ミッキーさん」
牧師《ぼくし》の1人が、あたしを呼んだ。
「電話です」
廊下《ろうか》の電話へ。チャックだった。
「どうしたの!?」
コンサート会場のスペイン広場で、最後のセッティングをしてるはずだ。
「やつらだ。九竜《クーロン》連合の連中が、殴《なぐ》り込みをかけてきやがった!」
「わかった。すぐいくわ!」
受話器から、ガラスの割れる音が響いた。
あたしは、受話器を叩きつける。唇《くちびる》を、かむ。あたしがいなくても、結婚式は、やれる。
アルミむく。練習用の金属スティックを、ヒップ・ポケットにさした。
花ムコの方の控《ひか》え室《しつ》へ。したくをしてるポパイ署長に、
「教会の人が、パトカー、動かしてくれって」
やっこさんから、キーをうけとる。表へ飛び出す。
パトカーに、駆けていく。乗り込む。スタート。
そのとき、ママが、クルマの前に飛び出してきた。
「何があったの!?」
「なんでもないわ!」
クルマを出そうとする。
「ウソ!」
ママは、ボンネットの前から動かない。
「轢《ひ》くわよ!」
「やりなさいよ!」
人だかりがしてきた。ヤバい。
「何があったのよ、ミッキー!?」
早口で説明する。
「だから、どいて!」
「わかったわ」
ママは、助手席に飛び込んできた。
「何するのよ!?」
「私もいくわ」
「いくって……これから結婚式なのよ! 花嫁《はなよめ》なのよ!」
ママは、あたしの顔を、正面から見て、
「花嫁である以前に、ひとりのミュージシャンよ」
ポパイ署長が駆けてくるのが、バック・ミラーに見えた。
あたしは、アクセルをふみ込んだ。ヒップを滑《すべ》らせて、パトカーは飛び出す。
♪
アガニアの街《まち》が、ふっ飛んでいく。
なんせ、こっちはパトカーだ。サイレンも鳴らしてる。
チャモロ人のトラックが、黄色いスクール・バスが、左右に道をあける。
「あのヤクザども……」
ママは、唇《くちびる》をきつく結んだ。シートの下に、手をのばす。
散弾銃《シヨツト・ガン》を、とり出した。12ゲイジぐらい。連発式のやつだ。
ダッシュ・ボードを開ける。弾《たま》が、山ほどある。ママは、なれた手つきで、ショット・ガンに弾をこめていく。
♪
「きたな、小娘《こむすめ》」
タコ入道が、前に立ちはだかった。
「きょうは、手かげんしない。カタワにしてやる」
黄色い歯を見せて、
「ヘヘヘヘ」
と笑った。
スペイン広場。コンサートの観客たちは、遠まきにして、ながめてる。
タコ入道の足の下。〈ミクロネシア音楽祭〉の横断マクが、くしゃくしゃにふみつけられている。
「さて、どこの骨から、へし折るかな」
ヒヒヒと薄笑いを浮かべて、やつは、1歩つめてきた。
確かに、巨《おお》きい男だった。やつのツルツル頭で、太陽がかくれた。
あたしは、深呼吸《しんこきゆう》。右手を、後ろへ。
残忍《ざんにん》そうな眼が、カッと見開いた。
「くらえ!」
右の拳《こぶし》が、ブンッと飛んでくる。まるで、グリズリーの一撃。まともにくらったら、骨が砕《くだ》けるだろう。
あたしはもう、右のスティックを引き抜いていた。
タムタムを叩くフォーム。やつの手を♪《バシ》とひっぱたいた。
「ウッ」
と、思わずうめく。
もう、左のスティックも引き抜いていた。※[#三連の八分音符]で連打《れんだ》する!
「グッ……」
さすがに、怪物《かいぶつ》も、ヒザをつきかける。そのアゴを、
「動物園に帰れ!」
左のスティックで、叩き上げた。タコ入道は、ゆっくりとくずれ落ちる。
肩で、大きく一呼吸。
「!!」
芝生《しばふ》の上を、影が走った。
左後ろ! 空港でやっつけたチンピラが、突っかかってくるところだった。
体をひねる。きわどかった。バストの1インチわきを、冷たい光が走った。
匕首《あいくち》だった。
泳いだやつの右腕。その手首に、思いきり、スティックを叩きおろした。
「ギャッ」
チンピラは、大げさな声を出す。匕首《あいくち》を落として、芝生に転がる。
匕首を、あたしは蹴り飛ばした。
「ミッキー!」
叫び声。ママだった。ふり返る。
クルマが、こっちに突っ走ってくる! 九竜《クーロン》連合の白いリムジンだった。
轢《ひ》き殺す。そんな走り方で、リムジンは芝生の上を突っ走ってくる。
青いものが、あたしの前に飛び出した。ママだ。
青いウエディング・ドレス姿。両足を開く。
ママは、ショット・ガンをかまえた。
突っ走ってくるリムジンに向けて、ショット・ガンをぶっぱなしはじめた。
1発! 芝生が弾《は》ねる。
2発! フロント・グリルが飛び散る。
3発! サイド・ミラーが、ふっ飛ぶ。
4発! ライトが砕《くだ》ける。
5発! ボンネットが開く。
6発! タイヤがバーストする。
リムジンは、尻《しり》を振りはじめた。そのまま、突っ込んでくる。
「危ない!」
あたしは、ママを突き飛ばす。もつれて、芝生に転《ころ》がる。
耳のわきを、タイヤが走り過ぎる。
ハンドルをとられたまま、リムジンは暴走。ヤシの樹に、衝突《しようとつ》した。
フロントから、景気《けいき》よく水が吹き出しはじめた。
♪
「なんとか」
「生きてるらしい」
あたしたちは、ステージの上で白い歯を見せ合った。バンデージの連中も、重傷のはいない。
「見ろよ」
とチャック。
観客たちが、ぞろぞろと広場に入ってくる。さっきのアクションを、映画の撮影《さつえい》とでも思ったのか。ステージのまわりに、笑顔《えがお》が集まってくる。
「けっこうな見せ物だったらしいな」
ビリーが、苦笑《くしよう》。
「ヤケっぱちで、1発やるか」
ギターを、肩から吊《つ》った。
「あーあ」
とママ。ハイヒールの片方を脱《ぬ》いだ。
ヒールが折れてる。脱いだハイヒールを、一瞬、ながめて、
「シンデレラに、なりそこねたか……」
ホロ苦く微笑《わら》いながら、ポンと放った。
ボロボロになったウエディング・ドレスで、空を見上げた。
まっ青な空から、天気雨《シヤワー》が降りはじめた。
♪
「すごい人だな」
とビリー。広場の芝生は、あっという間に人でうまっていく。
正午《しようご》。陽射しは強い。天気雨《シヤワー》の粒《つぶ》が、空中でキラキラ光っている。
あたしは、ドラム・セットに坐《すわ》った。ハイハットの間隔《かんかく》を、少しだけなおした。
ママは、マイク・スタンドの前。じっと、空を見上げている。
かすかなサイレンが、近づいてくる……。
やがて、パトカーが3台、広場のまわりにとまった。
ゆっくりと、ドアが開く。ポパイ署長の姿。署長は、パトカーのマイクを大きなアゴに当てる。
裸足《はだし》でステージに立ってるママに、
「アキコ、君を逮捕《たいほ》する」
「なんの罪《つみ》?」
ステージのマイクで、ママが答えた。声が、P・Aから響く。
「フィアンセを、すっぽかした罪だ」
「罪は重いの?」
「ああ……刑期は……一生だ」
署長は、ニッと笑った。
♪
「…………」
ママは、ステージに立ちつくしている。
あたしの位置から、顔は、見えない。けど、肩が、少しだけ震えているのがわかる。
その肩に、語りかける。
〈目玉焼き《サニー・サイド・アツプ》は、うまくつくるのよ……〉
ビリーが、あたしを見た。準備OKの合図《あいず》だ。
チャックが、うなずく。
アキラが、指を立てた。
リカルドが、白い歯を見せた。
あたしは、スティックを、握りなおした。
深呼吸《しんこきゆう》。一瞬、空を見上げる。
揺《ゆ》れるヤシの葉。ミクロネシアン・ブルーの空。
頬を伝う天気雨《シヤワー》は、ほんの少し、しょっぱかった。
カッ。
カッ。
カッ。
カッ。
ビリーが、つま先で、軽くカウント。〈オンリー・ユー〉のイントロを、弾《ひ》きはじめる。
|1《ワン》コーラスは、ギターの前奏。ママのための、アレンジだ。
ビリーの高音が、空へ抜けていく。イントロが、登りつめる……。
Am……。
A7……。
D7……。
G7……。
ママの右手が、マイクを握《にぎ》りしめる。あたしは、スティックを振り上げる。
秒読み《カウント・ダウン》。
4!
3!
2!
1!
スティックを、振りおろした。
音が、爆発《ばくはつ》した。
シンバルから弾《はじ》け飛んだ雨粒《あまつぶ》が、陽射《ひざ》しに光った。
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あとがき
いつも小説を叩《たた》いている。そんな気がする。
叩くがおかしければ、叩き出す、か。とにかく、小説を書くとかしるすとか、そんな優雅《ゆうが》なスタイルじゃない。それは確かだ。
いま、僕の手に1組のスティックがある。ドラムを叩くスティックだ。
メーカーはROGERS。やや細身《ほそみ》。かなり傷だらけだ。先端《チツプス》に近いところの傷は、シンバルのエッジでできた傷だろう。何を叩いたのか、思い出せない傷もある。
1つだけ、新しい傷がある。
この物語を書いている最中《さいちゆう》のこと。ラジオから流れるFENにあわせて、机《つくえ》のヘリを、カン! カン! と叩いてできた傷だ。
〈泳ぐように、走るように、書いていきたい〉。小説誌の新人賞をもらったとき、受賞の言葉にそう書いた。その気持ちに変わりはないが、さらに〈叩くように〉も、つけ加えなければならないだろう。
トロピカル不良少女ミッキーの冒険も、2冊目。角川書店編集部の矢口卓青年には、迷惑のかけっぱなしだ。彼とのダブルスでなかったら、このストーリーは生まれなかっただろう。
最後に、この本を手にしてくれたすべての読者の方々へ。とにかく、僕は今夜も、カン! カン! カン! と物語を書いています。また会えるときまで、少しだけグッド・バイ。
[#地付き]喜多嶋 隆
角川文庫『ポニー・テールは、風まかせ』昭和62年4月10日初版発行