[#表紙(表紙5.jpg)]
ポニー・テールは、ほどかない
喜多嶋隆
目 次
第1話 星空にオン・エアー
第2話 トースターが淋しそう
第3話 タバスコが泣かせた
第4話 たそがれに、KISS ME
第5話 S席は、空の上
ありがとう、エブリバディー!
――あとがきにかえて――
[#改ページ]
第1話 星空にオン・エアー
♪
「声を出すな」
耳もとで、男がささやいた。
あたしのノドに、冷たい感触《かんしよく》。
ナイフの刃《ブレード》……。
どうやら、愛のささやきじゃないらしい。
「もし声を出したら、お前がこの世で出す最後の声になる」
落ちついて、静かな声だった。
♪
午後4時。
ホノルルからルート63を北東へ約10マイル。
カネオヘ湾《ベイ》のはずれ。海に突《つ》き出している小さな桟橋《ピア》の上だ。
あたしは、海から上がったところだった。
競泳用の水着。右手には、頭からはずした水中マスクとシュノーケル。左手には、網《ネツト》の袋《ふくろ》。
網《ネツト》の袋には、ウニが入っていた。いま、漁《と》ってきたばかりのウニだ。
粗《あら》いネットから突き出したウニの黒いトゲが、ゆっくりと動いている。
今夜、パーティーがある。
あたしたち〈THE《ザ》 BANDAGE《バンデージ》〉のファースト・シングル盤《ばん》が、売り切れた。
もちろん、すぐに再プレスして発売する。
そのお祝いのパーティーだ。
ビッグ・チャンスをくれた|J・R《ジユニア》。それにバンド仲間たち。彼らとのパーティーだ。
みんなに漁れたてのウニを食べさせてあげよう。そう思って、2時間近くがんばった。
ウニは、かなり漁れた。
あたしは、ネットの袋を持ち上げる。ウニを、ざっと数える。
……4、5、6、7、8、9、10、11、12……。
数えているうちに、ふと、思い出が胸をよぎった。
6、7歳の頃《ころ》。ウニ漁りは、あたしのお小遣い稼《かせ》ぎだった。
いや、ときには、パパとあたしのパン代になることもあった。
パンツ1枚で、海に潜《もぐ》った。バケツいっぱいになるまで、ウニを漁った。
夕方。
近所のチャイニーズの漁師が、船で漁ったカニを、箱《はこ》につめてダウン・タウンのレストランに売りにいく。
その小型トラックの荷台。しっかりとバケツをかかえて坐《すわ》っていた日系人の地元少女《ロコ・ガール》。それが、あたしだ。
つらくも、みじめでもなかった。
お金がない。それを恥《は》ずかしいとは、その頃からすでに思わなかった。
〈人間が本当にみじめになるのは、夢《ゆめ》を失《な》くしたときだけだ〉
パパにいわれたその言葉を、小さな胸の中でくり返していた。
たそがれの海岸線。走っていく、DATSUNの小型トラック。濡《ぬ》れた髪《かみ》を、風が乾《かわ》かしていく。
かかえた金属のバケツが、夕陽の色に染まっていた……。
そんな思い出が、一瞬《いつしゆん》、心のスクリーンに映っていた。
思わず、油断していた。
後ろにしのびよる人のけはいに、気づかなかった。
「もしヘタに動いたら、0.1秒で、ノドをかっ切る」
背中の声がいった。
「わかったら、小さくうなずけ」
「…………」
ヘタにも何も、動きようがなかった。
ノドにピタリと当てられているナイフの刃《ブレード》。大きくうなずいたら、それだけでノドをかっ切りそうだった。
あたしは、かすかに、うなずいてみせた。
「よし、いい子だ。ゆっくりと、こっちを向け。ゆっくりとだ」
♪
向かい合った。
白人男。30代の前半か、まん中……。髪を坊主刈《ぼうずが》りにしているせいか、年齢《とし》が読めない。
背は、あまりあたしと変わらない。けど、がっしりしていた。トレーニングで身についた筋肉だ。
白いTシャツ。カーキ色のショート・パンツ。裸足《はだし》。
休暇《きゆうか》中の海兵隊員《マリーン》。そんな雰囲気《ふんいき》だった。
裸足……。そうか……別に泳ぐためじゃない。あたしの背中に、そっとしのびよるためだ。
プロだ……。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。
あい変わらず、ナイフはあたしのノドもとにキスしている。
青く冷たい眼が、あたしを見た。感情のない眼だった。
落ちついた、というより退屈《たいくつ》したような声で、
「いいか。きかれたことにだけ答えろ」
と、いった。
「ミッキーか?」
「……ドナルド・ダックよ」
あたしは、答えた。相手は、微笑《わら》いもしない。何の感情も、顔に出さない。
やつの片手が、ショート・パンツのポケットに。
小さな写真をとり出した。葉書《カード》の半分ぐらいのプリント。
どうやら、あたしの写真らしい。
相手の眼が、一瞬《いつしゆん》、その写真にいく。あたしが本人かどうか確認するためだろう。
その一瞬を、あたしは逃《に》がさなかった。
持ってたウニの袋《ふくろ》。それを、やつの足に落としてやった。
「!?」
声にならないうめき。ネットから突《つ》き出したトゲが、足の甲《こう》に刺《さ》さっただろう。
ノドから、ナイフが離《はな》れる。
敵の腹。思いきり蹴《け》った!
やつは後ろに倒《たお》れる。
あたしは、そばのデイ・パックに駆《か》けよる。デイ・パックから突き出してるドラムのスティックを2本ともつかむ。
ま新しいスティック。それを、かまえる。
やつも、体勢をととのえていた。訓練されて、しかも場数をふんだ身のこなしだ。
右手に、ゴムの柄《え》のナイフ。
ジリッと1歩つめてくる。あたしは、1歩後退。
けど、後ろは、あまりない。桟橋《ピア》の端《はし》だ。
やつの右手が、ひらめいた!
ヒユッ!
鋭《するど》い刃《ブレード》が、横に払《はら》われる。
あたしは、左のスティックを振《ふ》る。
やつの手首をひっぱたこうとした。けど、狙《ねら》いがズレた。
ナイフとスティックがぶつかり合う。
パシッ。
乾《かわ》いた音。
スティックが、ナイフに叩《たた》き切られた音だった。
|握り《グリツプ》から約2インチ先は、もう何もなかった。
「37ドルもする特注品なのよ」
あたしは、いった。
けど、相手は無表情。ロボットみたいに、襲《おそ》いかかってくる。
また、ナイフの光が走る。
ノドもと!
襲いかかってくる!
サッと首をそらす! きわどくかわす。
今度は、狙《ねら》いをはずさなかった。
ナイフを握《にぎ》ったやつの右手。その手首を、スティックで叩《たた》き上げた。
ビシッ!
いい手ごたえ。
ナイフが、手から飛んだ!
キラキラと回転しながら、海に落ちた。
「さあ、つぎはどうする? 包丁でも出すの?」
あたしは、いった。やつは、右手首を左手で押《お》さえて1歩後退。
エンジン音……。
桟橋《ピア》に、船《ボート》が近づいてくる。|釣り船《トローリング・ボート》が帰ってきたんだろう。
やつは、体をひるがえす。走り出した。
桟橋から岸へ。駐《と》めてあったグレーのセダンにとび乗る。
エンジンは、かけっぱなしだったらしい。セダンは、タイヤを鳴らしてとび出す。あっという間に見えなくなった。
ナンバーなんか読んでもしょうがない。どうせ、盗《ぬす》んだクルマだろう。
あたしは、肩《かた》で大きく息をついた。
叩き切られたスティックを、ひろい上げる。ついきのう、ダウン・タウンの楊《ヨウ・》周峰《シユウホウ》の楽器店でうけとったやつだ。
あたしが感化院《ガールズ・ホーム》を出たとき、死んだパパがつくっておいてくれたスティック、Mのイニシャルの入ったあのスティックは、大事にしまってある。
いまのあたしの腕力《パワー》と練習量だと、最低、1週間に|2本《ワンセツト》は必要だった。
職人かたぎの楊周峰に、いつも5セットまとめてつくってもらっていた。
特に硬《かた》いヒッコリー材のスティック。
いま叩き切られたのも、そんな出来たての1本だった。
♪
「ほう、こいつは……」
と|J・R《ジユニア》。2つに叩《たた》き切られたスティックを手にとる。スパッとした切り口をじっと見る。
眼つきが鋭《するど》くなる。
夜の7時。J・Rの経営する日本料理店《ジヤパニーズ・レストラン》〈桜亭《さくらてい》〉。
その広いV・I・Pルームだ。
今夜のJ・Rも、オフ・ホワイトの麻《あさ》のスーツ。渋《しぶ》いストライプのタイをしめている。
一見、若い日本人商社員。けど、その実は、日系人|組織《シンジケート》の若きボス。
〈菊《きく》のマフィア〉と呼ばれているハワイ最大のシンジケートの頂点に立つ男なのだ。
「こいつは、ただ者じゃないな」
とJ・R。そばのインタフォンのスイッチを押《お》す。
「至急、調べろ」
と配下の人間に指示する。
「ここ数週間にハワイに入った要注意人物の中で、やたら鋭いナイフを使う男だ。白人で、年齢《とし》は30代」
インタフォンを切る。J・Rは、あたしたちに向きなおる。
「宴会《えんかい》をやってるうちに、調べもつくだろう。はじめよう」
テーブルには、刺身《さしみ》や寿司《すし》、それに、あたしが漁ってきたウニなんかが並《なら》んでいた。
「そんじゃ、いくか」
とビリー。PRIMO《プリモ》のグラスを上げる。
全員で乾杯《かんぱい》。AHI《アヒ》(マグロ)やAKU《アク》(カツオ)の刺身におハシをのばす。
「ちなみに、数字を報告しよう」
とJ・R。メモをとり出すと、
「わがバニアン・レコード14店で売れた、君たちのファースト・シングル盤《ばん》は4万8千枚」
と、いった。チャックが、口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。
「つぎのプレスの手配は、もうすんでる」
と、マネージャーのアントニオ。
「何枚、オーダーした」
とJ・R。
「ええと、3万枚」
「5万枚にしてほしい」
J・Rは、いった。アントニオに、5本の指を広げて見せた。
「そりゃいいが……」
とアントニオ。あたしの顔を見た。
「いいんじゃない。売ってくれるお店側が、ああいってるんだから」
微笑《わら》いながら、あたしは、いった。PRIMOをグイとひと口。
「それと、早く、LP《アルバム》制作の準備に入ってくれ」
とJ・R。
「もう、アレンジをはじめてるよ。来月には、レコーディングに入れる」
と、キーボード・プレーヤー兼アレンジャーのアキラ。J・Rが、うなずく。
あたしは、眼の前のウニを、スプーンですくおうとした。
「おいミッキー。命を助けてくれたウニを食っちゃっていいのかい?」
とチャック。笑い声がテーブルに響《ひび》いた。
♪
ドアが開いた。|J・R《ジユニア》のボディ・ガード、ナカジマがノシノシと入ってくる。
「ジュニア、さきほどいわれた条件に該当《がいとう》するのは、これしかいませんでした」
とナカジマ。コピーを1枚、J・Rに手渡《てわた》した。
「こいつか?」
とJ・R。それをあたしに見せた。
パスポートの写真らしいものが、拡大されてあった。
コピーだから、写真は荒《あ》れている。けど、まちがいない……。
忘れようにも忘れられない顔だった。
「こいつよ」
あたしは、おハシで、やつの顔写真をさした。
「そうか」
J・Rは、写真の下にタイプで打たれているデータを読む。
「名前は、マックス・ロギンス。通称〈切《き》り裂《さ》きマックス〉。38歳。18歳で海兵隊《マリーン》に志願。ヴェトナムの最前線にも、自ら望んで送られる。殺したヴェトコンの数は、少なくとも200人」
「…………」
「ヴェトナム戦争終結、退役後は、フリーランサーの殺し屋として仕事をつづけている。
主な武器は、ヴェトナム当時からナイフ。炭素鋼を磨《みが》き上げた特別製のシー・ナイフを使用。殺された200人のヴェトコンも、ほとんどが一撃《いちげき》で、首を切断されていた」
「…………」
さすがに、あたしの腕《うで》にも鳥肌《とりはだ》が立った。
「やっかいなお客さんらしいな」
とJ・R。コピーを、テーブルに放《ほう》った。
「まるで殺人マシーンだな」
とビリー。
「|殺し屋《ヒツトマン》っていうより|切り屋《カツトマン》か」
とチャック。でも、誰《だれ》も笑わなかった。
「やっぱり、〈|A・TO・Z《エイ・トウー・ジー》〉が雇《やと》ったのかしら」
あたしは、つぶやいた。
「いや。もうそんなロスの一|企業《きぎよう》のしわざじゃなく、本土《メイン・ランド》の音楽産業の裏側《ダーク・サイド》の手がのびてきたってことだろうな」
とJ・R。
「音楽産業の裏側《ダーク・サイド》っていうと?」
「もちろん、マフィアさ」
J・Rは、きっぱりといった。
「ってことは、本土《メイン・ランド》のマフィアが、その殺し屋を……」
あたしは、PRIMOのグラスを持ったまま、つぶやいた。
「99パーセント、まちがいないだろう」
とJ・R。
「……しかし……」
とビリー。
「いくら、あんたがバニアン・レコードのチェーン店を14つくって、おれたち地元バンドのレコードが5万枚売れたとしても、本土のマフィアが……」
「いや。それだけじゃない」
とJ・R。
「っていうと?」
あたしは、グラスを持ったまま彼を見た。
「うちは、もうすぐ、FM局を買収するんだ」
J・Rは、いった。
♪
「FM局を!? 買収する!?」
あたしは、思わずビールをこぼしそうになった。
J・Rは、静かにテーブルを見回した。
「つまり、うちの組織《シンジケート》も、本格的に音楽産業に進出するってことだ」
と、いった。
「その第一段階《フアースト・ステツプ》が、14店のバニアン・レコード・チェーン。そして、第二段階《セカンド・ステツプ》が、FM局の買収ということだ」
「…………」
「いまのところ、本土《メイン・ランド》からの圧力で、たとえば君らの曲も、ハワイの全ラジオ局からシャット・アウトされている。ところが、こっちがラジオ局を持ってしまえば、問題はなくなる。1日中、君らの曲をかけていられる」
「…………」
「君らだけじゃない。このハワイにいる才能ある連中を、つぎつぎと売り出すことができる」
J・Rは、微笑《ほほえ》みながらいった。
「いつか、あなたがいってた、本土《メイン・ランド》の音楽産業への挑戦《ちようせん》ね」
あたしは、いった。J・Rは、うなずく。
「独立戦争といってもいいかもしれない」
とJ・R。
「しかし……なんのために……」
ビリーが、つぶやいた。
「もちろん、ビジネスさ」
J・Rは、ズバリといい切った。
「このハワイには、若くて才能のあるミュージシャンが、山ほどいる。しかし、彼らがいま、どんな仕事をしているか」
「…………」
「本土からの観光客たちのためにプレスリーのものまねで〈ブルー・ハワイ〉を唄《うた》っている。つまり、音楽的には、まだ、ハワイは、アメリカの植民地にすぎない」
「…………」
「しかし、いずれ、君らをはじめとするハワイ出身のミュージシャンの曲が、全米ヒット・チャートにつぎつぎに入るのも夢《ゆめ》じゃない」
とJ・R。軽くウインクして見せた。
「そして、そのハワイ出身のミュージシャンたちの裏側には、すべてうちのシンジケートがいる」
「……なるほど……」
とビリー。
「大麻《パカロロ》なんかより危険は少なく、利潤《りじゆん》は大きい」
J・Rは、いった。ビリーが、大きくうなずいた。
「そうか……。しかも、あと数年のうちに大麻《パカロロ》が合法化されるっていうウワサ。あれが本当だとすれば……」
とビリー。つづける。
「大麻《パカロロ》が全米各地で大っぴらにつくられてみろ。一番|打撃《だげき》をうけるのは、大麻《パカロロ》でもうけてるこのハワイの組織《シンジケート》ってことだ……」
「そういうこと」
とJ・R。みんなを見回して、
「そんな日のためにも、音楽産業への進出はぜひ急ぎたい。まあ、君たちも、おれのビジネスの持ち駒《ごま》の1つってことになるがね」
クールに、いった。
「逆におれたちは、そんなことはどうでもいい。曲が演《や》れて、レコードが売れりゃね」
とチャック。みんな、うなずく。
「よし、話はまとまった。じゃ、本格的なパーティーをはじめようか」
とJ・R。インタフォンを押《お》した。
「パーティーだ」
と、ひとこと。部屋に音楽が流れはじめる。
ドアが開いた。派手なドレス姿の女の子たちが10人ぐらい、にぎやかに入ってくる。白人。
日系。チャイニーズ。ハワイアン。いろいろいる。みんな、えらい美人だった。
「うちのV・I・P接待要員さ」
とJ・R。ビリーやチャックたちに向かってウインク。
「まるで、ジェームズ・ボンドになった気分だな」
とリカルド。早くも2人の娘《むすめ》の肩《かた》を抱《だ》いて、ニカニカと白い歯を見せた。
♪
V・I・Pルームは、ドンチャン騒《さわ》ぎになっていた。
つき合いきれない。
あたしは、そっと部屋を出た。ブラブラする。
バーに出た。建物の中庭に面して、小さなバーがあった。
コロニアル風のインテリア。籐《とう》でできたソファーやカウンターのスツール。
中庭には、ブーゲンビリアと|赤しょうが《レツド・ジンジヤー》。月の光を浴びて、葉が光っている。
もう誰もいない。そう思って入っていった。
けど、1人、いた。
カウンター。端《はし》のスツールに、女の人が1人|坐《すわ》っていた。
上品な紫《むらさき》色のムームー。きちっと後ろにまとめた髪《かみ》。
ミセスTだった。
この〈桜亭《さくらてい》〉の女性マネージャー。でも、それは表向きの顔。
実は、J・Rの母親……。側近の人間と、あたししか知らないことだ。
ミセスTは、ふり向いた。
「いらっしゃい、ミッキー」
と微笑《ほほえ》んだ。
「1杯、つくってあげるわ」
あたしは、うなずく。籐《とう》のスツールに腰《こし》かけた。
ミセスTは、カウンターの中へ入る。
「注文は何? ミッキー」
ミセスTは、あたしの前に紙コースターを置いた。
「ダイキリ? マルガリータ? それとも、バーボンか何か?」
あたしは、しばらく考える。そして、
「|J・R《ジユニア》の本心」
と、いった。
「ジュニアの……本心?」
とミセスT。不思議そうな顔。
「冗談《じようだん》よ。たとえば、そんなカクテルがあったら、飲んでみたい。ふと、そう思っただけ」
あたしは、いった。
〈君たちは、おれのビジネスの持ち駒《ごま》の1つ〉
そういい切ったクールで冷静な顔。あの奥《おく》にかくされた本心をのぞいて見たい。
そう思ったのは、本当だ。
ミセスTは、しばらく無言。やがて、
「わかったわ……。つくってあげましょう」
と、いった。
♪
「はい、お待ちどおさま」
とミセスT。あたしの前に、グラスを置いた。
「あなただけにつくった、特別製のカクテルよ」
ストンと縦長のグラスだった。
不思議な色のカクテルだった。
上半分は、青みがかったペパーミント・グリーン。下半分は、淡《あわ》いピンク。
その2色が、ほとんど混ざり合っていない。比重の問題なんだろう。
「これが……ジュニアの本心?」
ミセスTは、うなずいた。
「飲んでごらんなさい」
と、ストローを渡《わた》してくれた。
カクテルのCHICHI《チチ》なんかに使う、短いストローだ。
あたしは、ストローをグラスに入れる。
上半分のペパーミント・グリーンの部分を飲んだ。
なんのお酒がカクテルされているんだろう。ドライなペパーミントの味と香《かお》り……。
「それが、冷徹《れいてつ》な事業家としての、組織《シンジケート》を率いる者としての、ジュニアの心……」
とミセスT。あたしは、うなずいた。
下半分のピンクの部分を飲もうとした。けど、いま持ってるストローじゃ、短くて、とどかない。
ミセスTは、微笑《わら》いながら、
「彼の周囲にいるほとんどの人間は、その短いストローしか持っていません」
と、いった。
そうか……。ほとんどの人間は、J・Rの心の、上半分しか知らない。そういうことなんだろう。
「でも、あなたには、はい」
とミセスT。長いストローを、あたしにくれた。
あたしは、それを、そっと、カクテル・グラスに入れる。
下半分の、淡いピンクの部分。ひと口、飲んでみる。
甘酸《あまず》っぱい味と香り……。
何がカクテルされているんだろう……。
「ここにミックスされてる彼の本心は?」
あたしは、ミセスTにきいた。
「いろいろあるでしょう。たとえば、その1つは、あなたの髪《かみ》に結んである、ハンカチ……」
とミセスT。微笑《ほほえ》みながら、いった。
あたしは、カウンターの向こうにある鏡を見た。
あたしのポニー・テールに結んである、青いハンカチ。
それは、J・Rのものだ。
つい2か月前。あたしたちのレコードが発売される日。
〈こいつが、おれの夢《ゆめ》だと思って〉
そうつぶやいて、J・Rが結んでくれたハンカチ。
J・Rが、もし、組織《シンジケート》の跡取《あとと》りでなかったら、追いかけていたかもしれない音楽への夢……。
それをたくして、そっと、あたしのポニー・テールに結んだ青いハンカチ……。
「彼の気持ちは、痛いほどわかります」
とミセスT。淡々《たんたん》と、いった。
「姿形だけの美しい娘《むすめ》たちなら、いくらでもいます」
ミセスTは、苦笑い。パーティーをやっているV・I・Pルームの方を指さして、いった。
「さらに、育ちの良さと知性を合わせ持った婚約者《フイアンセ》も、彼にはいます」
「…………」
「でも、自分の一番大切なものを、彼は、あなたにたくしたのかもしれませんね」
「……でもなぜ……」
あたしは、つぶやいた。
「それは、彼があなたを……」
とミセスT。言葉を、ふっと飲み込んだ。微笑《びしよう》……。
「そんなことより」
ミセスTは、インタフォンをとった。V・I・Pルームにつないだらしい。マネージャーの声で、
「社長を」
と、いった。すぐにJ・Rが出た雰囲気《ふんいき》。
「バンドの方々のお相手は娘さんたちにまかせて、ミッキーを送っていかれたらどうですか」
とミセスT。簡単なJ・Rとのやりとり。インタフォンを置いた。
「15分後、正面|玄関《げんかん》のリムジンでJ・Rが待っています」
あたしに、いった。ミセスTは、中庭をながめる。
「今夜は、月がきれいよ。彼とドライヴしながら、お帰りなさい、ミッキー」
あたしは、しばらく無言。
「1つだけ、きいてもいい?」
ミセスTに、いった。彼女は、うなずく。
「どうして、そんな風に、あたしとJ・Rを……」
あたしは、つぶやくようにいった。彼に婚約者《フイアンセ》がいることを十二分に知りながら……。
今度は、ミセスTが、しばらく無言。やがて、
「あなたたちには、あまり時間がないからです」
と、いった。
♪
「時間が……あまり……ない……」
あたしは、つぶやいた。
ミセスTは、酒棚《さかだな》からGINのボトルをとる。グラスに、大きめの氷を1個。そして、ジンを注ぐ。
手を動かしながら、
「これから、J・Rとあなたがやろうとしていること、本土《メイン・ランド》の音楽産業全体を敵に回すということは、想像以上に危険な賭《か》けよ」
「…………」
「もしそれが成功すれば、J・Rは、ただの2代目から本当に組織《シンジケート》のボスとして誰からも認められ……」
とミセスT。言葉を切ると、
「婚約者《フイアンセ》と、盛大《せいだい》な式を挙げるでしょう」
「…………」
「そして、もしその賭《か》けが失敗すれば……」
とミセスT。GINをグラスに注ぐ手を、一瞬《いつしゆん》、とめると、
「あなたとジュニア、どちらかが相手のお墓に花束《はなたば》を置くことになるでしょう」
と、いった。
「…………」
「どちらにしても、あなたたちには、あまり時間がないでしょうね」
「…………」
あたしは、ゆっくりと、うなずいた。
ミセスTは、GINのオン・ザ・ロックを、口に運ぶ。
「人生の真実ってやつは、いつも、こういう味がするのね」
と、つぶやいた。
「ドライ・ジンの味?」
「そう……。乾《かわ》いていて、少し苦い……」
とミセスT。そのグラスの中で、氷が、かすかに鳴った。
バーのラジオが、D《デイオンヌ》・ワーウィックのバラードを流しはじめた。
♪
玄関《げんかん》前に駐《と》められた、黒いリムジン。
歩いていくあたしに、ナカジマが、後ろのドアを開けてくれる。
乗り込む。J・Rが、ゆったりと坐《すわ》っていた。
「バンドの連中は?」
「リカルドは、白人の娘《むすめ》とテキーラの飲ませっこをしてる。チャックはテーブルの上でブレーク・ダンスを踊《おど》ってる。ビリーは、パンツ1枚になってチャイニーズの娘と」
「わかったわかった」
あたしは、苦笑い。
「ほっとくしかないわね」
ナカジマが、運転席に坐る。リムジンは、夜更《よふ》けのホノルルに滑《すべ》り出す。
♪
「ところで、FM局を買収するって、どの局を?」
あたしは、J・Rにきいた。
「KBKBさ」
とJ・R。
「K……B……K……B?」
あたしは、思わず、ききなおした。
「それって、もしかして、93FMQのとなりにある……」
「ああ」
とJ・R。腕組《うでぐ》みしたまま、
「もしかしなくても93.5MHZ《メガヘルツ》のあれさ」
と苦笑い。
93FMQってのは、正式な局名はKQMQ。確か、93.1MHZ。ロックをガンガンかける、若い連中に人気の局だ。
そのとなりに、KBKBってのが、確かにあったような気がする。
いつも、古くさい曲ばかりかけている。
93FMQをM《マイケル》・ジャクソンとすれば、そのわきに突《つ》っ立ってる救世軍のおじいさんみたいな局だ。
「あんな局を……」
いいかけたあたしを手で制して、
「局名と電波だけ買って、番組《プログラム》は、180度変えるさ」
と、J・R。
「新しい局をつくる申請《しんせい》を半年以上前に出したんだが、認可がおりないんだ。もしかしたら、本土《メイン・ランド》からの圧力がかかってるのかもしれない」
「……そうか……」
「それで、しかたなく中古品を買収することにしたんだが……」
とJ・R。
「このオーナーってのが、なかなか、売りたがらなくて」
「お金の問題?」
「いや。充分《じゆうぶん》過ぎる金額を提示してるんだけど、なんせ、ガンコなじいさんで……」
「じいさん?」
「ああ。白人のじいさんなんだが、放送局のあるビルを持ってて、どうもKBKBは自分の趣味《しゆみ》でやってるらしいんだ」
「趣味?」
「ああ。夜中の12時前つまり1日の最後は、いつも自分の弾《ひ》き語りで終わるのさ」
「へえ、自分の弾き語り……」
J・Rは、腕《うで》のローレックスを見る。
「ああ、ちょうど、はじまる時間だ。ナカジマ、かけてくれ」
ナカジマの太い首が、運転席でうなずいた。ラジオをチューニングする音……。
やがて、スピーカーから声が流れはじめた。
「それでは、今夜も、愛するワイフと、子供たちに、この曲を捧《ささ》げます」
という声。年寄りの英語だ。
そして、ピアノが流れはじめた。
古い曲。ジャズのスタンダード・ナンバーのイントロだ。
曲名は知らない。
けど……。
あたしは、思わず耳をすました。
体の奥《おく》の方で、何かを感じた。
どこか……きき覚えがある……。
じいさんの声が、唄《うた》いはじめた。
ピアノのタッチにも、声にも、やはり……きき覚えがある……。
なんだろう……。どこでだろう……。いつきいたんだろう……。思い出せない。
「ねえ、ジュニア。今度、このおじいさんの所に交渉《こうしよう》にいくのは?」
「3日後だ」
「オーケー、そのとき、いっしょに連れていってくれない」
「そりゃいいけど……」
♪
「へえ、このビル……」
あたしは、見上げて、つぶやいた。
ダウン・タウンのビショップ|通り《ストリート》。海寄りにある15階建てぐらいのビル。
想像してたほど古びてはいない。
この最上階に、KBKBがあるらしい。
J・R、ナカジマ、手下が4人。それにあたしの7人でエレベーターを上がっていく。
手下が4人……。もし相手があまりネバったら、お得意の脅《おど》しをかけるつもりかもしれない。
♪
KBKBのロビー。
「いくら出されても売らんよ」
と、オーナーのじいさん。太い腕《うで》を組んで、いった。
名前はミスター・ジェニングス。年齢《とし》は60代だろう。
「わしには、このビルもある。子供たちもみんな立派に事業をやってる。金なんか、1セントもいらん」
といい捨てた。
「あんたみたいな若い者にKBKBを渡《わた》せば、どうせ、ギャーギャーとわめき散らすような曲ばかりかけるんだろう。髪《かみ》を赤く染めてトサカにした連中の曲なんかを、私の局から流させるものか」
とジェニングス。わめき立てる。
手下の2人が、スッと前に出ようとした。J・Rは、それを手で制して、
「ミスター・ジェニングス、われわれはパンク・ロックの局をつくるつもりはないんだ」
と、いった。
あたしは、ロビーの中を、見回した。
ふと、壁《かべ》にかかってる1枚の写真に目をとめた。立ち上がる。
額に入ったモノクロ写真。かなり古い。
どこかのジャズ・クラブの中。楽器を持った男たちが、記念写真におさまっていた。
アップライト型のピアノ。その前にいるのは、どうやら、まだ40代のミスター・ジェニングスらしい。
そうか……。やはり、元ジャズマンだったのか……。
ジェニングスは、写真をじっと見てるあたしに気づいた。
「どうだ、見てみろ。当時、ホノルルで最高のジャズバンドだ。君らなどにはわからんだろうが」
とジェニングス。自慢《じまん》げに、
「最高のクラリネット。最高のベース。そして、最高のドラムス……」
「知ってるわ」
あたしは、静かにいった。
「知ってる?」
「あたしのパパだもの」
♪
「き……君が、あの〈銀色《シルヴアー》サム〉の娘《むすめ》……」
とジェニングス。口をパクパクさせる。
「じゃ、未記子《ミキコ》……」
あたしは、うなずいた。
「あのヨチヨチ歩きだったミキコが……こんなに大きく……」
とジェニングス。あたしのつま先から、ポニー・テールの先までながめる。
「ヒヨコだって、いつか鶏《にわとり》になるのよ」
あたしは、微笑《わら》いながらいった。
そうか……。
子供の頃、よくパパの仕事場につれていかれた。
そこで、ジェニングスのピアノや歌をきいていたのだ。
ジェニングスは、しばらくあたしをながめていた。そして、
「あの……サムが事故で死んだとき、君は……」
「感化院《ガールズ・ホーム》にいたわ」
あたしは、はっきりといった。
「そうか……」
とジェニングス。しみじみと、あたしをながめる。ヒップ・ポケットにさしたスティックを見た。
「ミキコ……君も、ドラムスを?……」
あたしは、うなずいた。
「そうか……。ヨチヨチ歩きの頃から、いつも、スティックをオモチャにしてたものなァ」
とジェニングス。
「彼女の率いるバンドが、私のつくるFM局から出る最初のスターになる予定なんだ」
とJ・R。
「ミキコが、バンドを?」
あたしは、うなずく。アロハの胸ポケットから、カセットをとり出した。
「これを聴《き》いてくれる? あたしたちの曲よ」
と、ジェニングスに渡《わた》す。
「ご心配なく。パンクじゃないから」
あたしは、ニコリと微笑《わら》った。
♪
〈少しだけ、ティア・ドロップス〉が、終わった。スタジオのスピーカーから、残響《ざんきよう》が消えていく。
ジェニングスは無言。じっと、うつむいている。J・Rが、静かに口を開いた。
「これが、ハワイから生まれようとしている新しい音楽だ。こういう曲をどんどんかけるFM局をつくりたい。また、1週間後に話し合いにくる」
とJ・R。立ち上がった。
あたしたちは、スタジオから出ていこうとした。そのとき、
「もう、その必要はない」
背中で、ジェニングスの声がした。J・Rが、ふり返る。
「わかった……。君の話をうけよう」
とジェニングス。静かに顔を上げた。
J・Rとジェニングスは向かい合う。
「じゃ、KBKBを売ってくれるんだね?」
とJ・R。
「誰が売るなんていった」
とジェニングス。
「KBKBは、君にあげよう」
「…………」
「いっただろう。金なんか、1セントもいらないと。若いのに忘れっぽい男だな」
とジェニングス。白い歯を見せた。
♪
「新しいDJ集めや何やら、準備が必要だから、開局は6週間後に決めた」
とJ・R。リムジンのシートにもたれていった。
土曜日の夜中だ。
「DJ集めか……」
「ああ。妨害《ぼうがい》が入るに決まってるから、極秘に集めなきゃならん」
「とりあえず1人だけ、いいDJを知ってるわ」
「一人?」
あたしは、腕《うで》のダイバーズ・ウォッチを見た。
「あと1時間で、そのDJの番組がはじまるわ」
♪
深夜2時きっかり。
ジニーの声が、リムジンのラジオから流れはじめた。
「AMの750KHZ?」
とJ・R。運転席のラジオをのぞいてつぶやいた。
「海賊《かいぞく》放送局なのよ」
「……海賊放送局……DJはジニー……」
とJ・R。頭の中のコンピューターが作動しはじめたらしい。やがて、
「わかった。こいつは、あの、おたずね者のジャンクの妹だな」
「正解よ」
ジニーの兄貴は、ジャンク。盗品《とうひん》売買のプロで、ホノルル市警のおたずね者だ。
ジニーのロコ・ガールらしい口調のDJが、軽快に流れはじめる。しばらくそれをきいていたJ・Rは、
「この放送局に案内してくれ、ミッキー」
「いますぐ?」
「ああ。よそにとられないうちに、スカウトしなきゃならん」
♪
ジニーの家に着いた。
1時間だけの海賊放送は終わっていた。
ヤシの木の間の、小さな家。
あたし、J・Rは、裏口から入っていく。
ジニーは、台所《キツチン》にいた。きゃしゃな体に、ちょっとヨレたTシャツ。ショート・パンツ。ゴムゾウリ。
明日売りにいくサンドイッチをつくっていた。
「ミッキー」
と、白い歯を見せた。あたしといっしょに入ってきたJ・Rに気づく。
「紹介《しようかい》するわ、ジニー。彼は、今度開局する、あるFM局のオーナーよ」
「FM局?」
あたしは、事情を簡単に説明した。
「その局のDJに、あたしを? ちゃんとしたFM局のDJに、あたしが?……」
とジニー。眼が輝《かがや》く。
「ああ。嫌《いや》とはいわせない」
とJ・R。微笑《わら》いながら、何か紙をとり出した。
「毎日、夜中の0時から2時まで君がDJをやる。ギャラは、この契約書《けいやくしよ》に書いてある通りだ」
とJ・R。ジニーは、契約書を見た。
「500ドル……月に?……」
「いや、週にだ」
とJ・R。契約書を指さした。
「ど……どうしよう、ミッキー」
とジニー。さすがに、まだ14歳だ。眼を丸くして、あたしを見た。
あたしは、ジニーの肩《かた》を抱《だ》く。
「どうもこうもないわよ。契約すればいいだけよ」
微笑《ほほえ》みながら、いった。J・Rが、上着の内ポケットからペンを出す。
「ここにサインをしてくれ」
「……でも……あたし……サインなんて1度も……」
とジニー。
「それじゃ、こうね」
あたしは、ジニーの左手をつかむ。その親指に、サンドイッチ用のケチャップをつける。それを、契約書に押《お》しつけた。
「こんなもんでどう?」
「OK。契約成立だ」
とJ・R。大きな手で、ジニーのきゃしゃな右手と握手《あくしゆ》。
♪
「おっ、はじまる時間だ」
とアキラ。店のラジオをONにした。
1週間後。夜中の2時。
あたしたちは〈ホノルル・コロシアム〉で練習していた。新しいLP《アルバム》に入れる予定の曲だ。
「やあ《ハウ・ゼア》、みんな元気? こちらはKJKJ」
ジニーのDJが、はじまった。みんな、休憩《きゆうけい》。PRIMOの缶《かん》を片手にラジオに耳をかたむける。
「ところで、みんなに楽しんでもらってきたこのKJKJも、あと4回で終わることになったの」
とジニー。
「でも、がっかりしないで。その翌週から、なんと、あたしの声がメジャーなFM電波にのって、みんなのところに届《とど》くのよ。すごいでしょう」
声が、はずんでいる。
「そのFM局は、新しくなるKBKB。93FMQのとなりよ。いままでのKJKJどおり、ハワイ出身のミュージシャンの曲をガンガンかけるわ」
ジニーは、ひと息つくと、
「……あたしも、とうとう、ちゃんとしたDJになれたの……喜んで……」
と、いった。
いまの言葉だけは、兄のジャンクに向けてだった。ホノルルのどこかに潜《もぐ》っている、おたずね者のジャンクに向けて伝えた。あたしは、そう思った。
カラパナの曲が、流れはじめた。
♪
翌週の夜中。
あたしたちは、クルマでジニーの家に向かっていた。KJKJの最終回まで、毎回、番組の中で生演奏をするためだ。
1時頃、ジニーの家についた。いつもどおり、裏口から入る。
「ジニー、きたわよ!」
と呼んだ。けど、返事がない。
「おかしいなあ」
あたしは、家の中にどんどん入っていく。といっても、小さな家だ。
台所《キツチン》。小さな居間。そして、放送機材の置いてある部屋……。
「!?」
あたしは、息をのんだ。ジニーが、うつぶせに倒《たお》れていた。
部屋の中には、レコードやカセットが散らかっている。誰かともみ合ったんだろう。
そして、ジニーの体の下から、血が床《ゆか》に広がっていた。
「ジニー!?」
あたしは、駆《か》け寄る。ジニーの体を抱《だ》き起こす。
青いギンガムのワンピ―ス。その前が、血まみれだった。
左の腕《うで》から、かなり出血していた。
「ジニー!」
あたしは、心臓に耳を当てた。まだ、脈はある。
そのとき、エンジン音! タイヤの悲鳴! ビリーが、窓に走る。外を見た。
「グレーのセダンだ。白人男が運転してた」
クソ……。あの〈切《き》り裂《さ》きマックス〉にちがいない。
あたしたちのクルマの音をきいて、ズラかったんだ。
「とにかく病院よ!」
あたしは叫《さけ》んだ。ジニーを抱き上げた。
♪
「どうなの!? 助かるの!?」
あたしは、その太った医者につめ寄った。
「出血がひどい。輸血が必要なんだが」
「なら、早くして!」
「それが、あの子の血液型は特殊《とくしゆ》なんだ」
「特殊?」
「ああ。RHマイナスの、しかも〈ラージF〉といって、何万人かに1人の確率でしかいない変異型なんだ」
「…………」
あたしは、医者の顔をじっと見た。
「じゃ……」
「うちの病院には、RHマイナス〈ラージF〉の血液はない。いまホノルル中の病院に問い合わせてるが、おそらくむずかしいだろう」
「じゃ、どうすればいいの!?」
あたしは、医者のエリもとをねじ上げた。医者は、苦しそうに、
「あの子に近親者はいないのか」
「近親者?」
「ああ。この場合親とか兄弟《きようだい》とか。近親者なら、まず同じ血液型だから、輸血できるんだが」
「…………」
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。ジニーに両親はもういないって話だ。いるとすれば……。
あたしはもう、廊下《ろうか》を走り出していた。
♪
ジニーの家にクルマを走らせる。
午前2時10分過ぎ。いつもなら、KJKJの放送がはじまっている時間だ。
あたしは、家に駆《か》け込む。放送機材をONにする。マイクに向かう。
ジャンク……きいてて……。祈《いの》るような気持ちで、話しはじめた。
「ジャンク、きいてる? 妹のジニーが事故にあったの。あなたの血液が必要なの。1分1秒を争う状態なの。きいてたら、すぐにきて」
この放送は、警察もきいているはずだった。けど、しょうがない。
「ベレタニア|通り《ストリート》の聖《セント》トーマス救急病院よ。もう1度いうわ……」
♪
15分間、同じことをくり返した。
クルマにとび乗る。病院に戻《もど》った。
ジニーは、ベッドに寝《ね》かされていた。腕《うで》には、点滴《てんてき》の針。鼻と口には、酸素を送るマスク……。
病室には、ビリー、アキラ、リカルドがいた。
「この子の兄さんが、くるかもしれないわ」
あたしは、医者にいった。
「しかし、急がないと……」
と医者。心電図を見て、
「心臓が、かなり弱ってきている」
本当だった。グリーンの波の振幅《しんぷく》が、あたしが出ていったときよりかなり小さい。ときどき、不規則に乱れる。
「しっかりするんだ、ジニー」
アキラが、ジニーの耳もとでいった。
チャックが、病室に入ってきた。
「表にパトカーがきてるぜ、3台も」
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。やっぱり、警察も、さっきのをきいてたんだ。
「ジャンク……くるかな」
チャックが、つぶやいた。そのとき、
「当たり前じゃないか」
太い声がした。
チャックの後ろ。ジャンクが立っていた。
褐色《かつしよく》の肌《はだ》。厚い胸。太い腕《うで》。ロコらしい|貝殻しょうが《シエル・ジンジヤー》の柄《がら》のアロハ・シャツ。
ジャンクは、ジニーのベッドに歩み寄る。
「早くしろ!」
医者をふり返って、どなった。
♪
あたしは、ひと息つきに廊下《ろうか》に出た。
制服の警官が2名。それに、ブルドッグ……ホノルル市警のクラプトン刑事《けいじ》がいた。看護婦と話している。
「輸血は終わったのか?」
「彼の方からの採血は、いま終わりました」
「じゃ、逮捕《たいほ》できるか?」
「かなり大量に採血しましたから、しばらくは安静です」
と、婦長らしいおばさん。
ブルドッグのやつは、ムッとした顔。
「いますぐ連れていきたい。2年以上も追っかけて、やっとつかまえた男なんだ」
と、いった。婦長らしいおばさんは、
「ダメです。最低1日は安静です」
と、岩みたいに硬《かた》い声でいった。
「……しょうがないな」
とブルドッグ。制服警官たちに、
「やつの病室の入口をかためておけ」
と指示した。
♪
ジニーヘの輸血が、はじまった。
かすかに上下する薄《うす》い胸。
閉じられたままのまぶた。
医者と看護婦の間で、短くかわされる専門用語。
〈がんばって。死んじゃダメ……〉あたしは、胸の中で、思わずジニーにつぶやきかけていた。
♪
肩《かた》を、ゆすられた。
ぼんやりと、眼を開ける。明るい……。
ブラインドごしの陽ざしが、病室にさし込んでいる。
どうやら、病室のイスで寝込《ねこ》んだらしい。あたしを揺《ゆ》すったのは、ハワイアンの看護婦だった。
「もう、だいじょうぶよ」
と看護婦。
「峠《とうげ》は、3時間ほど前にこしたわ」
と、いった。あたしは、壁《かべ》の時計を見た。午前11時。窓の外が明るくなる頃から、あたしは居眠《いねむ》りしはじめたらしい。
あたしは、ジニーを見た。
あい変わらず、眼は閉じたままだ。酸素マスクもつけている。
けど、胸の上下動が、きのうよりしっかりとしている。心電図の波も、振幅《しんぷく》が大きく、規則的になっている。
「あなたの仲間は、ひと眠りしに、さっき帰ったわ」
と看護婦。
「あなたも、ちゃんと眠ったら?」
あたしは、うなずいた。立ち上がる。
ジニーの病室を出る。少し先の病室。入口に、制服警官が2人立っている。ジャンクの病室だった。
あたしは、歩いていく。警官に、
「彼と話していい?」
と、きいた。警官は、顔を見合わせる。
「じゃ、5分だけだぞ」
1人が、いった。
あたしは、病室に入る。ジャンクは、ベッドの上で眼を開けていた。
「ジニーは、助かったわ」
「ああ……さっき、医者にきいたよ」
とジャンク。微笑《ほほえ》んだ。
「ミッキー、1つだけ、頼《たの》みごとがあるんだが」
「何?」
「ジニーに輸血するために、オレが逮捕《たいほ》されたことを、本人に知らせないで欲しいんだ」
「…………」
あたしは、うなずいた。
「わかった……。やってみるわ」
そのとき、病室のドアが開いた。短い白衣姿の男が2人、入ってきた。
「ジャンク、警察病院に移送する」
と男の1人。
病室に車輪つきの担架《たんか》が持ち込まれる。制服警官と4人がかりで、大柄《おおがら》なジャンクを担架に移す。
「ミッキーだな」
と白衣の1人。あたしは、うなずいた。
「事情|聴取《ちようしゆ》が必要なんだ。一緒《いつしよ》にきてくれ」
「命令?」
「ああ」
あたしは、肩《かた》をすくめる。ジャンクの担架《たんか》について、病室を出ていく。
♪
ホノルル市警の救急車に、ジャンクの担架を乗せる。あたしも、担架のわきに坐《すわ》る。
白衣の男たちも、後ろに坐る。
「やってくれ」
と運転手にいった。救急車は、走り出す。救急病院の前庭から、ベレタニア|通り《ストリート》へ。
「ああ……お腹《なか》がすいたなァ」
あたしは、つぶやいた。
「ハンバーガーならありますが」
と助手席の男。ふり向いてバーガー・キングの袋《ふくろ》を、さし出した。
J・Rのボディ・ガード、ナカジマだった。
♪
「あ……あんた……いったい……」
あたしは、口をパクパクさせた。
「迎《むか》えにいってこいというジュニアの指示で」
とナカジマ。
「だって……この救急車……」
「ちょっと借りたんです」
ナカジマは、珍《めずら》しく白い歯を見せた。どうやら、手荒《てあ》らなことをやったにちがいない。
白衣の男たちも、白衣を脱《ぬ》ぎ捨てる。シャツのわきの下に、拳銃《けんじゆう》を吊《つ》っていた。
ジャンクも、不思議そうな顔をして見ている。
男たちは、白衣のかわりにスーツの上着を着込む。どこかで見た顔だった。たぶん、J・Rの〈桜亭《さくらてい》〉だ。
ウァード|通り《アベニユー》との交叉点《こうさてん》近く。J・Rのリムジンが駐《と》まっていた。
あたしとナカジマは、救急車をおりた。救急車は、そのまま走り去る。
「ジャンクは、どこへ連れていくの?」
あたしは、ナカジマにきいた。
「とりあえず、ジュニアの屋敷《やしき》です」
とナカジマ。
あたしは、リムジンのドアを開けた。J・Rがカー・テレフォンをかけていた。
あたしが乗り込むと、すぐ、電話を切った。
「大切なDJが助かって、とにかくよかった」
とJ・R。
「やったのは、あの〈切《き》り裂《さ》きマックス〉よ」
J・Rは、うなずいた。
「いま、やつの居場所がわかった」
「どこ?」
「郊外《こうがい》のカリヒにある一軒家《いつけんや》を借りているらしい。これから、ご訪問する。つき合う
か?」
「もちろん」
あたしは、いった。
ナカジマが、リムジンの運転席に坐《すわ》る。助手席にも、1人、手下がいる。
リムジンは、走り出す。
J・Rは、上着の下から拳銃を引き抜《ぬ》いた。ブローニングの自動拳銃《オートマチツク》だった。マガジンを抜く。弾丸《だんがん》を点検する。マガジンを戻《もど》す。ブローバックする。安全装置《サム・セフテイ》をかける。ホルスターに戻した。
助手席の手下も、武器を点検している。こっちは、サブマシンガンだ。
♪
「ここでとめろ」
とJ・R。リムジンは、とまる。
目的の家より、少し手前らしい。
「クルマの音に気づかれて逃《に》げられたらまずい」
とJ・R。
あたしたちは、リムジンをおりる。
100メートルぐらい先に、1軒《けん》の屋敷《やしき》がある。
あたしたちは、静かに歩いていく。
門は開いていた。ピンクのブーゲンビリアが、門のわきに咲《さ》いていた。
ごく普通《ふつう》の一軒家《いつけんや》だ。
「敵はプロ中のプロだ。気をつけろ」
とJ・R。拳銃《けんじゆう》をわきの下から引き抜く。安全装置《サム・セフテイ》をはずす。
ナカジマも、45口径のコルト・カバメントを、上着の下から抜く。
そっと、門を入る。
ガレージに、クルマが1台。あの、グレーのセダンだった。
敵は、屋敷の中にいる……。
「おれとナカジマは、表から入る。お前は裏に回れ」
とJ・R。サブマシンガンを持った手下が、家の裏に回る。
静まり返っていた。
J・Rとナカジマは、家の玄関《げんかん》に立つ。
ナカジマが、玄関のドアを蹴《け》った。ドアが、バーンと開く。
中から撃《う》ってくる様子はない。
J・Rとナカジマは、拳銃《けんじゆう》を手に、家に入っていく。
あたしは、庭の方に回っていった。
右手は、後ろに。いつでもスティックを抜《ぬ》けるかまえ。
庭を歩いていく。
だ円形のプールがあった。青い水が、眼にまぶしい。
あたしは、プールサイドに。あたりを見回した。
徹夜《てつや》でジニーのそばにいた。やはり、その疲《つか》れが出たんだろう。
カンがにぶっていたらしい。
その一瞬《いつしゆん》だった!
何かが、落ちてきた!
落ちてきたんじゃない。とびおりてきたんだ!
ヤシの木から、とびおりてきた。
あたしの背後だ!
ふり向く余裕《よゆう》もなかった。
首筋に冷たいものが押《お》しつけられていた。
「動かない方がいい」
きき覚えのある声が、耳もとでいった。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。
頭上……。不注意だった。
敵がジャングル戦のエキスパートだってことを忘れていた。
逆襲《ぎやくしゆう》の可能性は、あるだろうか……。
右手の指先で、背中のスティックをさぐる。
「おっと、変なマネはやめな」
後ろの声が、いった。
「大事な人質を、いま殺したくはない」
ノドもとに、ナイフがピタリと吸いつく感触《かんしよく》。後ろに回した右手を、グイとつかまれた。
そのとき、
「あっちです!」
ナカジマの声。
3人が、プールサイドに出てきた。
「おっと、そこで止まりな」
あたしの背中で、切《き》り裂《さ》きマックスがいった。
距離《きより》約30メートル。
J・Rたちは、立ち止まった。
「それ以上、1歩でも近づいてみろ。この小娘《こむすめ》の首が、胴体《どうたい》から離《はな》れるぜ」
と、やつの声。すぐに耳もとできこえた。
どうやら、あたしの体を完全に楯《たて》にしているらしい。
ナカジマ、それに手下の表情に、さすがに動揺《どうよう》が走る。
J・Rは、じっと、あたしを見た。
というより、あたしの後ろにかくれているやつを見たんだろう。
「さすがのジャパニーズ・マフィアも、手も足も出せまい」
と、耳もとの声。
「この小娘のノドをかっ切られたくなかったら、武器をプールに投げ捨てろ」
と、切《き》り裂《さ》きマックス。
1秒……2秒……3秒……4秒……5秒……。
J・Rの手が、動いた。
武器を捨てるためじゃない。銃口《じゆうこう》が、スッと上がる。
何も、いわなかった。
表情も、変わらない。
むぞうさに、引き金を絞《しぼ》った。
衝撃波《しようげきは》!
銃声!
耳がキーンッとしびれた!
あたしの右|腕《うで》を背中でつかんでいるやつの手が、ビクッと震《ふる》えた。
そして、静寂《せいじやく》。
4秒……5秒……6秒……。
ノドもとから、ナイフがゆっくりと離《はな》れる。
プールサイドのタイルに、ナイフがカチャッと落ちた。
背中であたしの腕をつかんでいたやつの手から、力が抜《ぬ》けた。離れる。
やがて、あたしの後ろで水音。
重いものが水に落ちた音がした。
あたしは、ゆっくりと、ふり返った。
やつは、プールに浮《う》いていた。青い水面。仰向《あおむ》けに浮かんでいた。
眉間《みけん》のまん中に、赤黒っぽい穴。
もう、何も見えない青い眼が、空を向いていた。
見開いた両眼には、あきらかに驚《おどろ》きの表情……。
頭の後ろから、血がゆっくりと水中に広がっていく。
J・Rが、歩いてきた。
チラリと、やつを見る。
そして、あたしの耳に触《ふ》れた。
自分でも、耳たぶに触ってみる。
弾《たま》が、わずかにかすったんだろう。耳たぶの端《はし》が、かすかに火ぶくれになっている。
「腕《うで》が落ちたな」
J・Rは、右手のブローニングに安全装置《サム・セフテイ》をかけながら、つぶやいた。
拳銃《けんじゆう》を、わきの下に戻《もど》した。
♪
「どうしてジャンクを助けてくれたの?」
リムジンに戻りながら、あたしはきいた。
「あれは、使える男だ」
とJ・R。リムジンのドアをナカジマが開ける。乗り込みながら、
「ホノルル市警に渡《わた》すにゃ、おしい」
とJ・R。リムジンのシートに深く体を沈《しず》める。静かな声で、
「ビジネスさ」
と、いった。リムジンが、ゆっくりと動きはじめた。
♪
1か月後。
8月31日。金曜日。夜中の11時40分。
あたしたちは、KBKBのスタジオにいた。
ミスター・ジェニングスは、ピアノの前に坐《すわ》っている。
今夜は、特別だ。ドラム・セットにはあたし。ベースを肩にチャック。ギターを肩《かた》にビリー。みんな、スタンバイしている。
ガラスの向こうには、リカルド、アキラ、アントニオ。それに、ジニー、J・R、ナカジマ。
機材の前に坐ったディレクターが、合図《サイン》を出した。
ジェニングスが、顔の前に突《つ》き出したマイクに語りかけはじめる。
「一輪のプルメリアの花が散っても、すぐにまた新しい蕾《つぼみ》が花開きます。時の流れとは、そういうものです。古いKBKBはあと20分で終わりますが、同時にまったく新しいKBKBが生まれます」
みんな、静まり返っている。
「新しいKBKBに、神の祝福と……みなさんの応援《おうえん》を」
ジェニングスは、言葉を切った。
「……では、愛するワイフ、子供たち、そして私をささえてくれたすべての友人たちに、最後の曲を捧《ささ》げます……」
とジェニングス。あたしをふり返って見た。
あたしは、うなずく。
スティックとスティックを鳴らして、静かに合図《カウント》を出す。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
イントロが、スタジオに流れはじめた。
〈|As Time Goes By《アズ・タイム・ゴーズ・バイ》〉のイントロだ。
やがて、ジェニングスは唄《うた》いはじめた。
♪
曲が、静かに終わった。
あたしたちは、立ち上がる。
ディレクターが、〈蛍《ほたる》の光〉のレコードを流しはじめる。
あたしたちは、スタジオから出ていく。
拍手《はくしゆ》。そして、大きなバラの花束《はなたば》が、ミスター・ジェニングスに渡《わた》された。
「あと1分です」
とディレクター。
「さあ、あんたの出番よ」
あたしは、ジニーにいった。
ジニーは退院して1週間。まだ、片|腕《うで》を包帯で吊《つ》っている。
「いよいよはじまるのね……」
とジニー。かなり緊張《きんちよう》している。あたしは、その細い肩《かた》に手を置いた。
「ほら、いつもKJKJでやってたのと、何も変わらないのよ」
ジニーが、あたしを見た。そして、うなずいた。
「ジャンクも、どこかで聴《き》いてるわ。がんばって」
あたしは、ジニーの肩をポンと叩《たた》いた。
ジニーは、ガラスの向こうへ。DJマイクの前に坐《すわ》った。
「はい、10秒前」
ディレクターの声が響《ひび》いた。
壁《かべ》の大型時計。その秒針が、カチッ、カチッと、9月1日午前0時ジャストに近づいていく。
5! 4! 3! 2! 1!
テープが回りはじめた。
最近あたしたちが録《と》ったばかりの、KBKBのためのテーマ曲。
|早い《アップ》テンポのインストロメンタルだ。ビリーのギターが、軽快に走る。
曲が流れはじめて15秒。ゆっくりと、音が絞《しぼ》られていく。
そして、ジニーの元気な声が、流れはじめた。
♪
「ここにいたのか」
後ろで、声がした。あたしは、ふり返った。
J・Rが歩いてくる。
KBKBのあるビルの屋上。
あたしは、コンクリートの手すりにヒジをついていた。ホノルルの夜景をながめていた。
午前1時50分。
ジニーの、プロとしてはじめてのDJが、そろそろ終わる頃だ。
「彼女は、元気にやってるよ。心配ない」
とJ・R。
あたしは、うなずいた。
「ハワイの女の子は、強いのよ」
微笑《わら》いながら、いった。
空を見上げた。
そびえ立っているKBKBのアンテナ。その先端《せんたん》には、ヘリコプターのための赤い認識灯が、ゆっくりと点滅《てんめつ》している。
さらに、その上。一面の星空だった。
「不思議ね」
「何が?」
「この星空に、あたしたちの曲が電波に乗ってオン・エアーされていくなんて……」
あたしは、つぶやいた。J・Rが、うなずく。
コンクリートの手すりに何かをコトリと置いた。
グラスが2つ。
片手には、シャンパンのビンを持っていた。
J・Rは、シャンパンの栓《せん》を抜《ぬ》いた。乾《かわ》いた音が響《ひび》いた。
2つのグラスに、シャンパンが注がれる。
「とにかく、サイは投げられた。いよいよ本土《メイン・ランド》と戦闘《せんとう》開始だ」
とJ・R。あたしは、うなずいた。
シャンパンのグラスを、カチッと合わせた。
口に運ぶ。
いよいよ、戦闘開始……。そのひとことが、ミセスTの言葉を思い出させた。
〈あなたたちには、あまり時間がないでしょうね〉
確かに……。
そうなんだろう。
こうしてJ・Rと乾杯《かんぱい》する日が、あとどれぐらいあるんだろう……。
ホノルル港《ハーバー》の方から、風が吹《ふ》いた。
J・Rの渋《しぶ》いネクタイとあたしのアロハのソデが、フワリと揺《ゆ》れた。
シャンパン・グラスに、星空が映っていた。
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第2話 トースターが淋しそう
♪
「え!? 女の子のヴォーカル?」
あたしは、思わずいった。
おハシを動かす手を、とめた。
「ああ、そうだ。ザ・バンデージにも、女性のヴォーカルが欲しい」
と|J・R《ジユニア》。あたしをまっすぐに見ていった。
♪
J・Rの経営するジャパニーズ・レストラン〈桜亭《さくらてい》〉。
その1階。中庭に面したバーに、あたしとJ・Rはいた。
お昼の12時過ぎ。バーに客は入れていない。
テーブルには、ロール・スシつまり太巻き寿司《ずし》がのっていた。
さすがにJ・Rのお昼ご飯だ。その辺の安食堂のやつとはちがう。
玉子焼きをはじめ、いろんなものが、海苔《のり》とライスの中にロールされている。
PRIMO《プリモ》を飲みながら、あたしたちは、それを食べはじめようとしていた。
「女のヴォーカルって……」
おハシをとめたまま、あたしはつぶやいた。
「別に、リカルドのヴォーカルが悪いっていうんじゃない。というより、やっこさんの歌は超《ちよう》一流だろう」
とJ・R。
「しかし、女性のヴォーカルが入った方が、バンドとしての魅力《みりよく》に幅《はば》が出る」
「そりゃ……」
「女の子にしか唄《うた》えないタイプのラヴ・ソングが、1枚のLP《アルバム》の中に1曲や2曲入っていた方がいいと思わないか?」
「まあ……」
「それに、リカルドと女のヴォーカルのデュエットってのも悪くない」
あたしは、うなずいた。
確かに。いま、デュエット曲は、ロック、ポップス界の大きな流れになっている。
M《マイケル》・ジャクソン。D《デイオンヌ》・ワーウィック。L《リンダ》・ロンシュタット……。みんな、最近、デュエット曲を大ヒットさせている。
「でも……いいヴォーカルの娘《こ》、いるかしら?」
あたしは、つぶやいた。
「それが、いるんだ」
とJ・R。ニコリと微笑《わら》った。
「ジュニアが、見つけたの?」
「ああ。そういうことだ。まあ、きいてみるかい」
とJ・R。席を立った。歩きながら、
「若いし、ルックスもいい。これは掘《ほ》り出し物だ」
とJ・R。
壁《かべ》ぎわにいく。カセット・デッキのスイッチを入れた。
スピーカーから音が流れはじめた。
キー・ボードのイントロ。
静かなイントロ……。いまヒットしているティファニーの〈Could've Been〉だ。
そして、歌が流れはじめた。
最初は、鼻歌みたいに。
だんだん、きちんと歌いはじめる。
あたしは、おハシをピタリと、とめたまま……。
「どうだい。きき覚えのあるヴォーカルだろう?」
とJ・R。あたしは、うなずいた。
きき覚えはある。
当たり前だ。自分の声なんだから。
♪
J・Rは、カセットをとめた。
「どうだい。音程もしっかりしてる。感情表現も豊かだ。いいヴォーカルだと思うがね」
といいながら、テーブルに戻《もど》ってくる。
あたしは、思い出していた。
確か、1週間ぐらい前。録音スタジオ。
本土《メイン・ランド》からの圧力がかかってる貸しスタジオを、J・Rが札束《さつたば》と拳銃《けんじゆう》で強引にとった。
あたしたちは、そこでLP《アルバム》に入れる曲の練習をしていた。
その休憩《きゆうけい》時間。キーボードのアキラが、ティファニーのヒット曲を弾《ひ》きはじめた。
それに合わせて、あたしが遊び半分に唄《うた》った。
思い出せば、そのスタジオのミキシング・ルームにJ・Rも立ち会ってた。
その場でテープを回して録《と》ったんだろう。
「どうだい。やってみないか」
とJ・R。
あたしは、しばらく無言。PRIMOのグラスを口に運ぶ。
頭の中が少し混乱していた。
「まあ、突然《とつぜん》の話だしな。飯でも食いながら考えるのも悪くない」
とJ・R。おハシを手にとる。
♪
「何してるの?」
あたしは、J・Rにきぃた。
J・Rは、おハシでロール・スシを突《つ》ついていた。
輪切りにされたロール・スシ。そこから、何か引っぱり出そうとしている。
カンピョウだった。それだけを、引っぱり出そうと苦心している。
「カンピョウ、ダメなの?」
「ああ。こいつだけは食えないんだ」
とJ・R。真剣《しんけん》な表情でおハシを使っている。
その動作と、ピッチリ着込んだ麻のスーツが不似合いだった。
あたしは笑いながら、
「平気で人を殺すジャパニーズ・マフィアにも、苦手な相手があったとはね」
「なんとでもいえ」
とJ・R。カンピョウを引っぱりながら、ブスッといった。
そのときだった。バーのドアが開いた。
ボディガードのナカジマが、ノシノシと入ってきた。
何か鉢植《はちう》えの花を持ってる。プレゼントらしい。セロファンに包まれて、リボンが結んである。
「なんだ」
J・Rは、カンピョウとの戦いから顔を上げた。
「州議会のロナルド・吉沢《ヨシザワ》氏から、いま届《とど》きました」
とナカジマ。
見れば、花は黄色の蘭《らん》だった。
そういえば、J・Rには、蘭を育てる趣味《しゆみ》があった。
「州議会議員か……。どうせ、アロハ・ウィークの寄附金《きふきん》集めの根回しだろう」
とJ・R。
そうか……。今年も、もうそんな季節なんだ……。
アロハ・ウィークは、9月後半から10月|下旬《げじゆん》まで。ハワイ州をあげてのお祭りだ。
いろんなパレードやフェスティバルがつづく。
観光客集めにもなるけど、州の出費も大きいんだろう。
「どうします、この花」
とナカジマ。
「とにかく、その辺に置いといてくれ」
「はい」
とナカジマ。蘭《らん》の鉢《はち》を、近くのテーブルに置く。バーを出ていく。
「蘭っていえば、婚約者《フイアンセ》は元気?」
あたしは、つとめてさりげなくきいた。
J・Rの婚約者、中津川蘭《なかつがわらん》とは、しばらく会っていない。
「ああ、元気だ。レイの女王《クイーン》コンテストの候補に選ばれたとかで、準備が大変らしい」
とJ・R。
「レイの女王《クイーン》コンテストか……」
あたしは、つぶやいた。それは、アロハ・ウィークのビッグ・イベント。いってみれば、ミス・ハワイを選ぶようなものだ。
「彼女なら、候補になるでしょうね。優勝するかもね」
あたしは、いった。本心から、そう思った。けど、やっぱり、少しうらやましかった。
それが声に出たんだろうか。J・Rが、あたしを見た。
あたしは、あせって視線をそらした。蘭の鉢を、なにげなくながめた。
ふと、気づいた。
「ねえ、あの蘭、ちょっとしおれかけてるんじゃない?」
J・Rも、そっちを見た。
「ああ。そういえば……変だな」
あたしたちは、席を立つ。鉢のそばに歩いていく。
「蘭って花は、もともと強い花なんだがなあ」
といいかけたJ・Rを、
「しっ、黙《だま》って」
あたしはさえぎった。
耳をすます。
何かがきこえる……。
なんだろう……。鉢の近くに、耳を近づける。
かすかに、きこえる……。時計の秒針の音……。
チ、チ、チ、チ、チ……。
J・Rの表情に緊張《きんちよう》が走る。あたしたちは、凍《こお》りついた。
やがて、時計の音が、少しずつ早くなる。
1秒刻みじゃなくなってくる。
チチチチチチ……。
「離《はな》れろ!」
J・Rが叫んだ。
同時に、あたしの腕を引っぱった。
あたしたちは、ダッと駆《か》ける!
中庭に飛び出す!
ブーゲンビリアの植え込みに倒《たお》れ込む!
その瞬間《しゆんかん》!
衝撃音《しようげきおん》!
ホノルル・マラソンのスタート合図の大砲《たいほう》。あれを、部屋の中でぶっ放されたような音が響いた。
衝撃波が全身にきた!
耳が、キーンとなる。
♪
何秒ぐらいふせたままでいただろう……。
そっと、顔を上げる。
あたしの体の上。J・Rが、おおいかぶさっている。
とっさに、あたしを守るために……。
あたしは、下から、
「だいじょうぶ?」
と、きいた。アラミスのコロンが、かすかに香《かお》った。
J・Rは、そっと眼を開けた。小さく、うめいた。
うめきながら、ゴロリと仰向《あおむ》けになった。
「だいじょうぶ!? どこか、やられたの?」
あたしは、その顔をのぞき込んだ。
「……わからん……。気つけに、何か強い酒をひと口、くれないか」
あたしは、うなずいた。立ち上がる。
バーの中は、ひどいことになっていた。
イスもテーブルも、こっぱみじんだ。
カウンターの中の酒ビンも、みんな砕《くだ》けている。
1本だけ、GIN《ジン》が無事だった。GORDON《ゴードン》だった。
あたしは、それをつかむ。J・Rのそばに戻《もど》る。しゃがみ込む。
「ジンでいい?」
「ああ……」
と仰向けのJ・R。うっすらと眼を開けて。
「口移しで頼《たの》む……」
と、いった。
あたしは、一瞬《いつしゆん》、とまどった。
けど、すぐに、GINのキャップをとる。ひと口、含《ふく》む。
J・Rの頭を、少し、持ち上げる。
口移しで、GINを飲ませた。
J・Rは、フーッと息をついた。
そして、
「ゴードンか……。タンカレーの方が好みだったんだが」
と、いった。
やけに、しっかりした声だった。眼も、パッチリと開いている!
「…………」
あっけにとられてるあたしには、おかまいなし。
J・Rは、しっかりと立ち上がった。
「……いまのは、お芝居《しばい》!?」
「とんでもない。ハードなジンとソフトな君の唇《くちびる》が、おれを生き返らせてくれたのさ」
とJ・R。ニッと白い歯を見せた。
また、やられた……。
「こ……この……。本気で心配したのに!」
あたしは、右手をふり上げた。J・Rを、ひっぱたこうとした。
「怒《おこ》った顔がかわいいぜ、ミッキー」
とJ・R。ニコリとしながら、曲がったネクタイをなおす。
さすがに、心の中の怒りの風船が、シューと音をたててしぼんでいく。
J・Rは、
「やれやれ」
といいながら、上着の肩《かた》を手で払《はら》った。
メチャクチャになったバーを見渡《みわた》す。
「たいしたプレゼントだな」
と、つぶやいた。
ナカジマや、ほかの部下たちが4、5人、飛び込んでくる。
「だいじょうぶですか!? ジュニア」
「ああ。おそらく時限|装置《そうち》つきのプラスチック爆弾《ばくだん》だろう。徹底《てつてい》的に調べろ」
「はい」
と部下たち。キビキビと動きはじめる。
「さて、ロール・スシも吹《ふ》っ飛ばされちまったし、どこかに昼メシを食いにいかなきゃならないな」
とJ・R。あたしにふり向いて、いった。
♪
けっきょく、カピオラニ|通り《ブルヴアード》とカラカウア|通り《アベニユー》の交わる近くの〈カピオラニ・コーヒー・ショップ〉にいった。
|牛の尾《オツクス・テイル》のスープと|焼き飯《フライド・ライス》を食べた。
店を出る。リムジンに乗り込む。
走りはじめてすぐ、カー・テレフォンが鳴った。J・Rがとる。
何か、報告をきいている。
やがて、J・Rは受話器を置いた。
「爆弾《ばくだん》や信管の破片から、あれをプレゼントしてくれたやつがわかったよ」
「早いのね」
「ああ。日本の警視庁の鑑識《かんしき》から、腕《うで》ききを2人ほど引っこ抜《ぬ》いてある」
「で? 結果は?」
「州議会議員の名前は、もちろんデタラメだ。あの鉢《はち》爆弾をつくったのは、爆破工作のプロだ」
「プロ……アメリカ人?」
「国籍《こくせき》、年齢《ねんれい》、本名、いっさいわからない。〈爆弾屋《ボンバー》〉っていう暗号名しかわからない。
フリーランスのテロリストだ」
「フリーランスか……」
「中東やインド洋周辺の爆弾テロのうちの、いくつかが、こいつの仕事だと推測されているが、まだ、1度もシッポをつかまれていないそうだ。かなりな腕ききだな」
とJ・R。リムジンのシートに、深く坐《すわ》りなおす。
「やっぱり、本土《メイン・ランド》の組織《シンジケート》から送り込まれたのかしら?」
「まず、間違《まちが》いないだろう。ミッキーも、バンドのメンバーも、充分《じゆうぶん》気をつけろ。玄関《げんかん》マットの下に地雷《じらい》をしかけるぐらいのことは軽くやってのけるやつらしい」
あたしは、うなずいた。
「KBKBも、警備した方がいいんじゃない?」
「そうだな。今夜から、部下を置こう」
とJ・R。
「そういえば、これからジニーと会うとかいってたな」
「そう。アラ・モアナで買い物をすることになってるわ」
「じゃ、これをミッキーから渡《わた》しといてくれ」
とJ・R。〈|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》〉の封筒《ふうとう》を内ポケットから出した。
「D・Jのギャラ1か月分だ」
あたしは、うなずく。封筒をうけとった。アラ・モアナ・|S・C《シヨツピング・センター》が見えてきた。
♪
「こ……これ、いくら入ってるの!?」
とジニー。封筒の中をのぞいて、思わずいった。
「4週間分だから、2000ドルじゃないの?」
「に……2000ドル!?」
とジニー。眼を丸くした。
〈1週間に500ドル〉その条件はきいていても、実際にお金を見ると、さすがにビビるんだろう。
なんといっても、まだ14歳だ。
「ね、ねえ……ミッキー、これどうしよう……」
とジニー。ぶ厚い封筒を持って、あたしを見上げた。
あたしは、ジニーの肩《かた》を抱《だ》く。
「じゃ、教えてあげるわね」
あたしは、いった。
「そのうちの100ドルだけ使って、何か買うの。欲しかった服でもなんでもいいけど、記念にね」
ジニーは、うなずいた。
「で、残りは、あそこに預けるの」
あたしは、指さした。
|S・C《シヨツピング・センター》のすぐとなり。|ハワイ銀行《バンク・オブ・ハワイ》がある。
「あんたもこれから、高校にいって、もしかしたら大学にもいくかもしれないでしょ。お金は、大切よ」
あたしは、ジニーの肩を叩《たた》いた。
「さもないと、あたしみたいに、授業料なしの感化院《ガールズ・ホーム》にいくはめになるわよ」
苦笑いしながら、あたしはいった。ジニーは、小さくうなずいた。
「OK、ジニー。じゃ、何か気に入ったものがあったら買おう」
あたしとジニーは、2階のショッピング・モールを、ぶらぶらと歩きはじめた。
♪
ジニーが、ふと立ちどまった。
1軒《けん》の店の前だ。ショーウインドをながめている。
あたしも、立ちどまった。
ショーウインドのガラスに、2人のロコ・ガールが映っていた。
背の高い方は、もちろん、あたしだ。
日系。ポニー・テール。|蝶 々 魚《バタフライ・フイツシユ》の柄《がら》のアロハ・シャツ。ショート・パンツ。チョコレート色の脚《あし》に、NIKE《ナイキ》のテニス・シューズ。
頭ひとつ背の低い方は、ジニーだ。
ハワイアンの血が濃《こ》く入った顔。長い髪《かみ》は、まん中分け。首のあたりがのびた赤いTシャツ。ヒザ下までのスリム・パンツ。足にはゴムゾウリ。
あたしは、ジニーの横顔を見た。
そして、気づいた。
ジニーが見てるのは、ウインドに映ってる自分たちじゃない。ウインドの中にディスプレイされている服だ。
男物のブティックだった。〈Kramer's《クレイマーズ》〉。特に、体の大きいメンズの店だ。
ウインドには、半|袖《そで》シャツがディスプレイされていた。
オフ・ホワイトとブルーの、洒落《しやれ》たストライプだった。
ジニーは、それをじっと見ている。
「ジャンクに?」
あたしは、きいた。ジニーは、小さくうなずいた。
まだじっと、そのシャツを見ている。
「あのサイズなら、大きな兄貴にも着られるわね……」
ぽつりと、ジニーがつぶやいた。
「でも……」
そういいかけて、ジニーは言葉を切った。|魚 市 場《フイツシユ・マーケツト》の店員が、サシミのかたまりをストンと切るように。
そして、残りは、心の中の冷蔵庫にしまい込んだらしい。
あたしたちは、また、歩き出した。
1度だけ、ジニーは、そのシャツをふり返って見た。
ほんの2秒……3秒……。やがて、彼女は、あきらめて歩き出した。
ショッピング・モールのベンチに坐《すわ》っている黒人のラジカセから、W《ホイツトニー》・ヒューストンの〈Saving All My Love For You〉が流れていた。
♪
「ミッキーか」
受話器から、J・Rの声。
「まだ爆弾《ばくだん》でやられちゃいないらしいな」
「いまのところはね。ところで、あの、あたしがヴォーカルをやるってことだけど……」
「決心がついたか?」
受話器を握《にぎ》って、あたしはうなずいた。
「やってみるわ」
「そうか」
「で、そのかわりといっちゃなんだけど、1つ、お願いがあるの」
「ひと晩いっしょにっていうんなら、いつでもいいぜ」
とJ・R。あたしは、受話器を握って苦笑い。
「ジニーの兄貴のジャンクなんだけど、居場所、知ってるんでしょ?」
「ああ……。この前の一件以来、うちの組織《シンジケート》と取引き関係ができたからな」
「ジニーを会わせてあげたいんだけど」
「…………」
「ほんの1時間でもいいから」
「……わかった。とにかく、ジャンクに連絡《れんらく》をとってみよう」
「よろしくね」
あたしは、受話器を置いた。
営業の終わった〈ホノルル・コロシアム〉のカウンターだ。
カウンターの中のアントニオが、
「おれも、ミッキーがヴォーカルをやればいいのにと、思っちゃいたんだ」
と、いった。
メンバーのみんなも、うなずく。
「ってことは、おれとのデュエットもあるわけだな」
とリカルド。COORS《クアーズ》の缶《かん》を右手に、あたしの肩《かた》に左手を回した。
「ってことは、お互《たが》いの息が合わなくちゃいけないってことで」
「何がいいたいのよ」
「つまり、その、男と女がいいチームワークを組むためには、1つのベッドに入るのが一番いいと思うんだが」
とリカルド。左手で、あたしのウエストを抱《だ》いた。抱くっていうより、なでた。
「ほっといて」
あたしは、いった。同時に、リカルドのわき腹にヒジ鉄!
「ウップ!」
とリカルド。口に含《ふく》んでたビールを、床《ゆか》に吹《ふ》き出した。
「あーあ、汚《きた》ねえなあ」
とチャック。
あたしは知らん顔。自分のPRIMOをグイと飲む。
そういえば、やけにビリーが静かだ。
こういうときには、必ずあたしをからかいにくるのに。
カウンターの端《はし》で、何か書いてる。店のペーパー・ナプキンに、何か書いてる。
あやしい……。
「ビリー、何書いてるのよ」
あたしは、いった。
「いやあ、ミッキーのためのオリジナル曲をね……」
とビリー。ニヤニヤして、ペーパー・ナプキンをチャックに見せる。
チャックも、ニヤニヤしながらそれを読んでる。
「こら! 見せろ!」
あたしは自分のスツールをとびおりる。チャックの手から、ペーパー・ナプキンをひったくる。
歌詞のようなものが書いてあった。
タイトルは〈Just A Virgin〉。マドンナの〈Like A Virgin〉のもじりらしい。
歌詞は、予想どおり。
破れるのはいつだって
ドラムスの皮《フエース》ばかり
あたしはまだ
悲しいヴァージン・ガール
誰か早く現れて
太くて硬《かた》い
そのスティックで
あたしのヴァージンを
破いて欲しい
そこまで読んだとき、ビリーがスツールをおりた。
そろそろと、あたしの後ろをすり抜《ぬ》けていこうとするけはい。
「こら! ビリー!」
あたしは、ふり向いた。
同時に、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜いていた。
ビリーの頭を、真上からひっぱたこうとした。
けど、さすがビリーはカンフー・ファイターだ。
そばにあった店の掃除《そうじ》用のホウキをつかむ。
パシッ!
ホウキの柄《え》で、あたしのスティックをうけた。
「そう怒《おこ》るなって」
「このチンピラが!」
あたしは、スティックを横に払《はら》った。
ビリーは、ジャンプ。スティックをかわして、テーブルにとび上がる。
そのまま、後ろに宙返り。着地。店の出口にズラかっていく。
店のドアをす早く開けて、
「おやすみ、エブリバディ!」
と姿を消した。
「まったくもう……」
あたしは軽くため息。ビリーが書いたペーパー・ナプキンを丸める。ゴミ箱《ばこ》に放《ほう》り込んだ。
「自分で詞を書いてみたらどうだい」
リカルドが、いった。
「まずい所があったら、なおしてやるからさ」
とリカルド。あたしは、小さくうなずいた。
♪
1週間後。
土曜日の午後。
あたしはワーゲンを運転して、〈ホノルル・コロシアム〉を出た。みんなで使ってるポンコツ寸前のワーゲンだ。
カパフル|通り《アベニユー》からベレタニア|通り《ストリート》へ入る。西へ走る。
15分ぐらいで、中学校《ジユニア・ハイ》の前に着いた。ジニーが通ってる学校だ。
学校の前で、ジニーは待っていた。彼女をピックアップする。
「本当に、兄貴に、ジャンクに会えるの?」
とジニー。少し緊張《きんちよう》している。
「まかせときなさい」
あたしはアクセルをふみ込んだ。ベレタニア|通り《ストリート》を、さらに西へ。
♪
「尾行《びこう》されてるわ」
ジニーが、いった。
「わかってる」
あたしは、うなずきながら答えた。
ジニーを乗せてから約5分。グレーのFORDが、30メートルぐらい後ろを走ってくる。
右折、左折を、2、3回くり返してみる。
バックミラーから、FORDの姿は消えない。
「警察ね」
あたしは、つぶやいた。ジニーも、うなずく。
「3日に1回は、学校の帰りを尾《つ》けられるわ」
とジニー。
尾《つ》けてるのは、たぶん、ホノルル市警のブルドッグ。ジャンクを執念《しゆうねん》深く追っかけてる刑事《けいじ》だ。
「どうするの、ミッキー」
「心配しないで」
あたしは、ワーゲンをとめた。公衆電話の前だ。FORDも、40メートルぐらい後ろにとまる。
あたしはクルマをおりる。電話器に歩いていく。
J・Rのリムジンの番号を押《お》した。
すぐに出た。
「おまわりさんがついてくるわ」
「いまどこだ」
とJ・R。あたしは、あたりを見回す。
「マッキンレー高校《ハイ》の近くよ」
「OK。じゃ、ベレタニアとカピオラニがぶつかるT字の近くに〈ハイビスカスQ〉っていうビリヤード屋がある」
「知ってるわ」
「あの店の前でクルマをおりて、店に入れ。そのまま、裏口から出るんだ。裏は駐車場《ちゆうしやじよう》になってるから、そこへ迎《むか》えにいく」
「了解《りようかい》」
♪
〈ハイビスカスQ〉の前に、ワーゲンを駐《と》める。パーキング・メーターに|25セント玉《クオーター》を放り込む。
ジニーと2人、〈ハイビスカスQ〉に入る。
入るとき、チラリとふり返る。
一方通行のベレタニア|通り《ストリート》。向こう側に、FORDがとまるのが見えた。
あたしたちは、ビリヤード台の間を素通り。
裏口から出た。
J・Rのリムジンが駐車場のまん中にとまっていた。エンジンはかけっぱなしだ。
あたしとジニーは、それに乗り込む。
「じゃ、いってくれ」
とJ・R。運転席のナカジマがうなずく。リムジンは、ゆっくりと動き出した。
そのときだった。
爆発音《ばくはつおん》!
ズシンと、お腹《なか》に響《ひび》いた。
「何あれ?」
「表通りだな」
とJ・R。ナカジマに、
「かまわないから、表通りに回れ」
リムジンは、駐車場《ちゆうしやじよう》から裏通りへ。裏通りから、ベレタニア|通り《ストリート》に出ていく。
「あ……」
あたしは、思わず声を上げていた。
まず目に入ったのは、黒い煙だった。
〈ハイビスカスQ〉の前。黒い煙が、漂《ただよ》っている。
そして、あたしが駐めたワーゲンは、影《かげ》も形もなくなっていた。
大通りに、いろんな破片が散らばっていた。
タイヤの残がいが1つ、燃えている。
パーキング・メーターは、ぐにゃりと曲がっている。
人が、ザワザワと通りに出てくる。FORDからおりたブルドッグともう1人が、
「みんな下がれ!」
と叫《さけ》んでいる。
「長居は無用だ。いけ」
とJ・R。リムジンは、現場から遠ざかっていく。
「フーッ」
あたしは、ふり返ったまま大きく息を吐《は》いた。さすがに、わきの下に汗《あせ》がにじんでる。
「3分|遅《おそ》かったら、アウトだったな」
とJ・R。あたしは、うなずいた。
「あのクルマは、どこに置いてあった、ミッキー」
「〈ホノルル・コロシアム〉の裏の駐車場よ」
「それじゃ、敵も自由に爆弾《ばくだん》をセットできたわけだな」
「そういうことね」
あたしは、うなずいて、
「まあ、ポンコツ屋に持っていく手間は、はぶけたけどね」
♪
リムジンは、あたしの予想を裏切ってH1に入った。
盗品《とうひん》の売買。そんな仕事|柄《がら》、ダウン・タウンの周辺にジャンクのかくれ家はあるんだろうと思っていたのに……。
リムジンは、H1を走る。真珠湾《パール・ハーバー》をぐるりと回っていく。
パール・シティを過ぎたところで、H1からおりた。ホノルル郊外《こうがい》の道路を、しばらく走る。
やがて右手に、中古車屋の看板が見えてきた。〈MALMAT USED CAR〉。派手な看板が、陽《ひ》ざしを照り返している。
店の前には、ズラリと中古車が並《なら》んでいる。
クルマのフロント・グラスに貼《は》られた価格カード。
〈'81 TOYOTA $8千900〉
〈'83 MATSUDA $1万2千800〉
〈'80 VW・GOLF $7千900〉
どこにでもある光景だった。
リムジンは、中古車屋に入っていく。オフィスの前でとまった。ナカジマを残して、3人ともおりる。
オフィスから、男が出てきた。青いツナギを着た若いハワイアンだった。
「62年のサンダーバードを捜《さが》してるんだが」
J・Rが、いった。
「色は?」
相手がきいた。
「ペパーミント・グリーン」
「……わかりました。こちらへどうぞ」
と若い男。
どうやら、いまのが合言葉だったらしい。
ツナギの若い男について、あたしたちはオフィスの裏に回る。
大きな建物があった。1階は、自動車の修理工場になっていた。
いまも、修理工らしい男が2人、HONDAの下にもぐり込んでいる。
あたしたちは、その奥《おく》へ入っていく。
鉄の階段があった。ツナギの男について、階段を登る。
上がりきったところにドアがあった。男はドアを開ける。あたしたちも入っていく。
中は広かった。一階の修理工場とは、まるでちがう。
高級アンティック・ショップ。そんな感じだった。
床《ゆか》にはカーペット。ずらりと並《なら》んだ食器|棚《だな》や飾《かざ》り棚。その中には、銀の食器類、燭台《しよくだい》、置き時計なんかが並んでいる。
「あっちです」
とツナギの男。奥《おく》を指さした。
一番奥に、大きなマホガニーのデスクがある。
そこに、ジャンクが坐《すわ》っていた。電話をかけている。近づいていくあたしたちに、気づいた。
「じゃ、その件はまた明日電話する」
とジャンク。受話器を置いた。立ち上がる。デスクのこっちに、ゆっくりと歩いてくる。
「さあ」
あたしは、ジニーの肩《かた》を押《お》した。
ジニーは、ためらいがちに、1歩……2歩……。
3歩目からは、駆《か》け足。
ぶつかるように、ジャンクの胸の中へ。
小柄《こがら》なジニーの体を、大きなジャンクが包むように抱《だ》きとめた。
言葉は、ない。
ジニーの肩が、小刻みに上下している。
ジニーの頭を抱きしめたジャンクのがっしりとした手も、ほんの少し震《ふる》えている。
ジャンクが指名手配されて、別れて暮《く》らすようになって、もう2年以上。
いまの思いは、本人たちにしかわからないだろう。
あたしは、J・Rの腕《うで》を引っぱった。
〈2人だけにしておいて〉
眼で、J・Rにいった。J・Rもうなずく。
あたしたちは、広い倉庫の中を歩きはじめた。
家具。電気製品。貴金属。ありとあらゆるものが置いてある。みんな盗品《とうひん》なんだろう。
拳銃《けんじゆう》、機関銃、驚《おど》いたことに、バズーカ砲《ほう》らしいものまである。
「軍からの盗品さ。こんなに揃《そろ》ってるのは、ハワイでも珍《めずら》しいがね」
とJ・R。あたしは、うなずいて、
「この前ジャンクを助けたのは、この密売ルートを確保するためね」
と、いった。木箱《きばこ》につまった手榴弾《パイナツプル》の1個を手にとった。ずしりと重い。
「まあ、それもある」
とJ・R。並《なら》んでるライフル銃をながめて、
「なんせ、商売道具だからな」
と、苦笑い。
あたしは、手榴弾を木箱に戻《もど》す。さらに奥に歩いていく。
倉庫のすみ。ガラクタっぽいものばかり並《なら》んでいた。
壊《こわ》れかけてる芝刈《しばか》り機《き》。やたら古いテレビ。そんなものばかり、積み上げられていた。
戻《もど》ろうとしたあたしの足がとまったのは、そのときだった。
♪
トースターだった。
ステレオの上に、積み上げられていた。
丸っこい、古い型のトースター。|G ・ E《ゼネラル・エレクトリツク》社製だ。
まさか……。
あたしは、近寄ってみた。
2枚のトーストが、同時にポンと飛び出してくるタイプのやつだ。
手にとって、じっと見る。
逆サイドも見る。
10秒……20秒……30秒……。
頭の中が、まっ白になる。
たぶん、おそらく、きっと……いや、完全に間違《まちが》いない。
それは、あたしの家にあったトースターだった。
タイマーの目盛《めも》りの近く。
ミッキー・マウスのシールが貼《は》ってある。
確か、あたしが10歳ぐらいの頃《ころ》。チョコレートのおまけにもらったシールだった。
ミッキー・マウスの右足の先だけ、シールが欠けている。
それも、よく覚えている。なんせ、毎朝使ったものだ。
ステンレス製のサイドの部分。小さいけど鋭《するど》いへこみがある。
これは、13歳の頃だ。
ロック・ドラムスをやりはじめたあたしを、パパが叱《しか》った。
いい争って、あたしはダイニング・キッチンを飛び出した。
そのとき、足をトースターのコードに引っかけた。
トースターは、ダイニング・テーブルから転げ落ちた。
そこに、鉄のバーベルがあった。
あたしが腕力《パワー》をつけるための、小型のバーベルが、床《ゆか》に転がっていた。
トースターは、バーベルの角にぶつかって、へこんだ。
そのときのへこみに、間違いない。
あたしは、トースターを持ったまま、その場に立ちつくしていた。
あたしが感化院《ガールズ・ホーム》に入っている間に、パパは事故で死んだ。
借金が、沢山《たくさん》あった。
あたしが感化院《ホーム》を出てきたとき、家も家財道具も、すべて州によって処分されていた。
家財道具は、ひと山いくらで競売にかけられたって話だ。
その中に、このトースターも入っていたはずだ。
それが誰の手に渡《わた》り、いまこうして盗品《とうひん》の山の中にあるのか。あたしには想像のしようもない。
船から捨てられた空きビンがどこかの砂浜《すなはま》に流れつくように、このトースターも、この倉庫に流れついた。それだけのことなんだろう。
あたしは、トースターをじっとながめた。
ステンレスに、自分の顔が映っていた。
いまにも泣き出しそうな顔だった。でも、それはきっと、ゆがんだステンレスのせいだ……。
♪
「どうした、ミッキー」
ふいに、背中で声がした。ふり向く。
ジャンクだった。
「そんなトースターながめて、どうしたんだい」
あたしは、ハッとわれに返る。笑顔をつくる。
「ああ……これ……ちょっとアンティックで渋《しぶ》いなと思って……」
「そんな物でよけりゃ、持ってってくれ」
とジャンク。
「いいの?」
「もちろん。そいつは、何かといっしょに、まとめて持ち込まれたんだ。どうせ捨てようと思ってたところだ」
「そう……。じゃ、もらうわ」
あたしは、ジャンクに微笑《わら》いかけた。
♪
「ミッキーに、アンティックの趣味《しゆみ》があったとはな」
とJ・R。あたしの横顔をながめていった。
帰りのリムジンの坐席《ざせき》。あたしのヒザには、トースターがのっていた。
J・Rは、何か気づいたんだろうか……。
その視線が、あたしの横顔とトースターに注がれている。
1人になりたかった。
「あ、この辺でいいわ。散歩しながら帰るから」
あたしは、いった。
「じゃ、ヴォーカルの練習、がんばれよ」
というJ・Rに手を振《ふ》る。リムジンをおりた。
ワイキキ海岸《ビーチ》のはしっこだった。
砂浜《すなはま》沿いの道を、あたしは歩きはじめた。
たそがれのワイキキ。いろんなものをかかえた人が歩いている。
サーフボード。エアーマット。ラジカセ。デッキ・チェアー。
でも、トースターをかかえて歩いているのは、あたし1人だった。
ときどき、人がふり返って見た。
けど、かまわず歩きつづけた。
♪
その夜は、一睡《いつすい》もできなかった。
トースターをじっとながめて、坐《すわ》っていた。
気がつくと、もう、窓の外が明るくなっていた。
トースターを、かかえる。〈ホノルル・コロシアム〉2階の自分の部屋を出る。
店のキッチンに、おりていく。
お腹がすいていた。ひさびさに、このトースターでパンを焼こう。そう思った。
誰もいないキッチン。
8枚切りのホワイト・ブレッドを出す。
トースターのコンセントをさし込む。
パンを、トースターに入れようとした。
そのとき、気づいた。
あたしは、パンを2枚、トースターに入れようとしていた。
ごく自然に、そうしていた。
このトースターを使うときは、いつもそうだった。
あたしとパパの2人分。同時にポンッと飛び出してくる2枚のトースト。
それが、毎朝のことだった。
けど、いまはもう……。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。自分にいいきかせる。
感傷的になるんじゃないよ、ミッキー。
元気だけがとりえのロコ・ガールじゃないか。
気をとりなおす。
パンを1枚、トースターに放り込んだ。タイマーをセットした。
キッチンのラジオをつける。KRTRにチューニングする。朝にガンガンのロックは気分じゃない。ソフト・ポップスのKRTRが、やはりいい。
ラジオが、B《ビリー》・ポールのバラードを流しはじめた。
キッチンは、半地下だ。窓から入る朝の明るさが、トースターの丸みに淡《あわ》く光る。
カタンッ。
トーストが、飛び出した。
並《なら》んでる2枚分の出口から、1枚だけ飛び出した。
あたしは、こんがり焼けたトーストをつかむ。
冷蔵庫から、バターを出す。
トーストに塗《ぬ》りはじめた。ゆっくりと、バター・ナイフでのばしていく……。
曲が変わった。
E《エルトン》・ジョンのデビュー曲〈Your Song〉。静かに流れはじめた。
ハワイでは、こういう名曲はいつまでもラジオから流される。
あたしが子供だった頃も、この曲はよくキッチンのラジオから流れていた。
それをききながら、あたしは、2枚のトーストにバターを塗っていた。
そうだ……。パパは、ミュージシャンだったわりに、ひどく不器用だった。
トーストにバターを塗らせると、いつもトーストをデコボコにしてしまう。
かわりに、パパの分まであたしがバターを塗ってあげた。
子供だから、手が小さかった。トーストをうまくは持てなかった。けど、ていねいにバターをのばしていった……。
いまはもう、あたしの手はトーストをしっかりと握《にぎ》れる。けれど、パパのトーストにバターを塗ることは、もう、ない……。
E《エルトン》・ジョンの曲が、盛《も》り上がっていく。
気がつくと、涙《なみだ》がにじんでいた。
涙の粒《つぶ》が、眼から頬《ほお》へ。そして、トーストの上に、ポタリと落ちた。
それでも、トーストにバターを塗りつづけた。
2粒目の涙が、バターの上に落ちた。
そして、3粒……。4粒……。
誰もいないキッチン。あたしは、しゃくり上げながら、バター・ナイフを動かしつづけた。
♪
店のカウンター。
お皿《さら》には、食べ残した、トーストの半分。
飲み残したアイス・ティー。
あたしは、カウンターにヒジをついていた。
前には、レシートの紙。
その裏に、生まれてはじめての詞を書きはじめた。
1行。
また、1行。
ゆっくりと、考えながら書きつけていく。
1時間ぐらい書きつづけた。
さすがに、眠《ねむ》けが襲《おそ》ってきた。
あたしは、カウンターに突《つ》っぷす。
ボールペンを握《にぎ》ったまま、眠りの中に落ちていった。
♪
話し声で、目を覚ました。
声は、リカルドだった。
「このC#mからハモった方がいいんじゃないのか」
「OK。そうしよう」
答えたのはアキラだった。
「間奏、あと8小節長くしてくれよ」
とビリーの声。
あたしは、うっすらと眼を開けた。
あたしが寝《ね》ているのは、店のソファーだった。
誰かが、ここに運んでくれたらしい。
壁《かべ》の時計を見る。
午後3時半。ずいぶん寝てしまった。
あたしは、ノロノロと体を起こす。
「おう、起きたか」
とチャック。
「練習をはじめる時間だぜ」
とビリー。
そうだ。毎日、午後3時から、新しいLP《アルバム》に入れる曲の練習をするスケジュールになっていた。
あたしは、ソファーから立ち上がる。みんなの方に歩いていく。
「きょうはどの曲やるんだっけ」
眼をこすりながら、きいた。
「新曲さ」
とアキラ。譜面《スコア》を、あたしにさし出した。
あたしは、それを見た。
!?
「こ……これ……」
思わず、つぶやいていた。
それは、あたしが今朝、レシートに書いた詞だった。それが、譜面《スコア》になっていた。
〈ロンリー・モーニング〉 っていうタイトルまでついてる。
「できたてのホヤホヤさ」
とアキラ。あたしにウインクしてみせた。
「トースターの唄《うた》だから、焼きたてのホヤホヤかな」
と、ビリー。ギターを肩《かた》に吊《つ》る。
「とにかく、早くやろうぜ」
とチャック。ドラム・セットのところに、マイク・スタンドを置く。
「このマイク……」
あたしは、思わずきいた。
「マイクがなきゃ唄えないだろう、ミッキー」
とチャック。
「ほら」
とアキラ。タムタムの上に、譜面《スコア》のコピーを1枚置いた。
「いちおう、こんなメロディだ」
とアキラ。
キーボードで、サラリと弾《ひ》いた。あたしは、うなずいた。ドラム・セットに坐《すわ》る。
ブーム・スタンドにくっついたマイクが、目の前にある。
「じゃ、とにかく1回やってみよう」
とアキラ。あたしに向かって、
「テンポは、コパトーンの4番だ」
と、いった。
コパトーンの何番っていうのは、あたしたちがいつも使ってる符牒《サイン》だ。
コパトーンの|陽灼け《サンターン》オイルは2番から12番まである。
それに合わせて、曲のテンポを12段階に分けてある。
〈コパトーンの何番〉といえば、それだけで、全員にわかる。
4番は、L《ライオネル》・リッチーの〈Say You Say Me〉より、かすかに早いバラード・テンポだ。
あたしは、うなずく。顔の前のマイク。その角度を少しなおす。
スティックを鳴らして、合図《カウント》を出す。
イントロが流れはじめた。アキラのキーボードと、チャックのベースだ。
B7。
E。
Em。
B9。
G#m。
F#。
あたしは、スティックでリズム・キープしながら、唄《うた》いはじめた。
鳥の声がきこえる
夜明けのキッチン
あたしは孤《ひと》り
ヒジをついている
眼の前には使いなれたトースター
2人用のトースターなのに
いまはただ1枚の
パンを焼いている
あの人はもういない
トースターが淋《さび》しそうに
ただ1枚のパンを焼いている
リカルドが、ここからデュエットしてくれる。
ロンリー・モーニング
あの人はもう帰ってこない
ロンリー・モーニング
それでも太陽はまた
ダイアモンド・ヘッドから
昇《のぼ》るから
また、あたしのソロに戻《もど》る。
この朝食を終えたら
あたしはいくわ
あのドアを開けて
朝の光の中ヘ
歩きはじめるわ
どこまでも……
そして、間奏。ビリーのギターが、ゆったりと、揺《ゆ》れて流れる。
そして、リフレイン。
ロンリー・モーニング
あの人はもう戻《もど》ってこない
ロンリー・モーニング
それでもハイビスカスは
きょうもまた
花を開くから
この朝食を終えたら
あたしはいくわ
あの自転車にまたがって
朝の風の中ヘ
走りはじめるわ
どこまでも……
キーボードのエンディング。
終わった。
誰《だれ》も、何もいわなかった。チャックが、店のペーパー・ナプキンを1枚とる。むこうを向いて鼻をかんだ。
♪
「ミッキー、電話だ」
とビリー。
「誰から?」
「マフィアの若大将」
あたしは、受話器をとった。
「仕事の用件なんだが」
とJ・R。
「アロハ・ウィークのフェスティバルで、演奏して欲しい」
「フェスティバルって?」
「〈レイの女王《クイーン》コンテスト〉だ」
「……それって、あの……」
〈J・Rの婚約者《フイアンセ》の蘭《らん》が出る?〉と、思わずきくところだった。
「ハワイ中にテレビ中継《ちゆうけい》されるから、いい|宣 伝《プロモーシヨン》になる。主催者《しゆさいしや》側のOKはもう出ている。ぜひ、演《や》ってくれ」
「…………」
断わる理由がなかった。
「わかったわ」
♪
10日後。
コンテストの会場は、カピオラニ公園の中につくられていた。
芝生《しばふ》に、ステージが特設してある。
立派なステージだった。背景には〈LEI QUEEN'S CONTEST〉の文字。金モールで飾《かざ》られている。
舞台《ぶたい》づくり。照明。P・A(音響《おんきよう》)そして、テレビ中継《ちゆうけい》。いろんなスタッフが、忙《いそが》しく準備していた。
やたら、J・Rの部下たちが目につく。
ナカジマがいた。
「警備?」
「ええ。爆弾屋《ボンバー》のための警戒です」
とナカジマ。片手に、トランシーバーを持っている。
「充分《じゆうぶん》用心しろと、ジュニアからの伝言です」
「彼は?」
「大事な商談があって、たぶんテレビで見てると思います」
とナカジマ。
あたしたちのところへ、係員がやってきた。
「あの、コンテストの手順を説明したいんですけど」
♪
ステージの上。ポリネシアン・ダンサーたちが練習していた。
たくましい男たちが、山刀を振《ふ》り回して踊《おど》っていた。
「まず、彼らのポリネシアン・ダンスで開幕します」
と、進行係らしいおじさん。
「そして、12人の候補者たちが、つぎつぎに登場します。その後、審査員《しんさいん》による審査になるわけですが、その間が、あなた方の演奏です。時間は、約15分です」
「3曲だな」
とビリー。
ステージじゃ、ポリネシアン・ダンスのリハーサルが終わった。
「ザ・バンデージのみなさん、リハーサルは?」
「いらないわ」
あたしは、微笑《わら》いながらいった。
♪
「ミッキー」
という声。ふり向く。バンドのみんながいた。
「ほら、これ」
とチャック。あたしの首に、レイをかけてくれた。
白いプルメリアの簡単《シンプル》なレイ。この会場近くの売店で売ってた。
プルメリアのレイは、ハワイじゃ安い。一番たくさん咲《さ》いてる花だからだ。これは、確か1ドル45セントだった。それにしても、
「どうしたの? あたしは別に、コンテストに出るわけじゃないのよ」
「そうじゃなくて……」
とチャック。
「ほら。|歌 手《ヴオーカリスト》としては、きょうがミッキーのデビューだからさ……」
とビリー。ちょっと照れながら、いった。
「……ありがとう……」
あたしは、うつむいていった。顔を上げる。
「せめて音程をはずさないようにがんばるわ」
みんなに、笑いかけた。
♪
「あと1時間で、客入れです。準備急いでください」
進行係のアナウンスが、会場に響《ひび》いた。
あたしは、ステージに上がった。
あたしたちの楽器はもうセットされている。
バス・ドラムが、気になった。きちんとステージに固定されているだろうか。
固定のし方が悪いと、ペダルをふんで演奏しているうちに、バス・ビラは、前の方に動いていってしまうのだ。
あたしは、ドラム・セットに歩いていく。イスに坐《すわ》る。
バス・ドラの。ヘダルをふんでみようとした。そのとき、首にかけたレイから、プルメリアが1輪、ポロリと落ちた。
さすが、1ドル45セントの安物だ。
あたしは、かがみ込む。落ちた花をさがす。
バス・ドラのぺダルのそばに、花びらは落ちていた。
しゃがむ。花びらをひろおうとした。
ん?
なんだろう……。
細いコードが、チラリと見えた。
P・A装置《そうち》のコードだろうか。
あたしは四つんばい。ペダルのところを、のぞき込んだ。
!?
思わず、脈拍《みやくはく》が早くなる。
ウォークマンのイヤホーン用ぐらいの黒くて細いコード。そして、簡単な金属のしかけが、ペダルの下にセットされていた。
あたしは、そっと立ち上がる。コードのいき先をたどる。
コードは、ステージの後方にのびている。ステージの下に回っている。
あたしは、ステージの下にもぐり込む。
コードの先に、何かが見えた。
ステージの床《ゆか》に、何かガムテープでくっついている。近寄る。
すぐに、わかった。いつか、J・Rのところで見たことがある。プラスチック爆弾《ばくだん》とその信管だった。
そうか……。
あたしが、バス・ドラのペダルをふんだとたん、スイッチがONになる。こいつが爆発する。
これだけの量の爆弾なら、ステージ全体が吹《ふ》っ飛ぶだろう。たいした見ものだろう。
あたしは、唇《くちびる》をかんで、それを見つめた。
♪
「あ、ちょっと」
ドラム・セットのわきに立って、あたしは声を出した。
P・Aの人が、こっちにくる。
「このマイク・スタンド、ドラム叩《たた》くのにちょっとじゃまなんだけど、角度を変えてもらえないかしら」
あたしが唄《うた》うためのマイク・スタンドを指さしていった。
P・Aは、うなずく。そばでマイク・スタンドのセッティングを変えはじめる。
あたしは、さりげなくドラム・セットに坐《すわ》った。
両足を、ペダルに置く。左足で、ハイハットのペダルをふんだ。
パシャッと、ハイハットが鳴る。
P・Aが、ハッと顔を上げた。
つづけて右足。バス・ドラのペダルをふもうとした。
とたん! P・Aは身をひるがえした!
あたしは、かまわずペダルをふんだ。
ドスッ。
バス・ドラの音が響《ひび》いた。
P・Aは、ピタリと足をとめた。
「そんなにあわてて逃《に》げる必要ないわ。爆弾の信管はもう引っこ抜《ぬ》いてあるから」
あたしは、いった。
相手は、ゆっくりとふり向いた。
白人。40歳ぐらい。眼鏡《めがね》をかけている。
スピルバーグをぐんと痩《や》せさせて陰気《いんき》にしたような雰囲気《ふんいき》。
この男が、ドラム・セットのまわりでマイクや何かをセットしていたのを覚えていた。
「P・Aの人間にまぎれ込んで……あんたが爆弾屋《ボンバー》ね」
あたしがいったとたん、敵はダッと駆《か》け出した。
追う!
敵は、ステージをとびおりる。
ステージの裏に!
追う!
ステージ裏の芝生《しばふ》。ポリネシアン・ダンサーたちの道具が置いてあった。
やつは、そこから何かつかんだ。
山刀だった。
刃《ブレード》の長さ50センチぐらい。陽ざしに、ギラリと光った。
やつは、ふり向く。追いついたあたしと、向かい合う。山刀をかまえる。
あたしも、右手を後ろに回す。
やつは、1歩、つめてきた。
「くらえ!」
刀をま横に振《ふ》った。
あたしは、上半身をそらす。
ビュンッ!
アゴの下を、刃先《はさき》がかすめた。きわどかった。
やつは、また1歩、つめてくる。
今度は無言。
刀を斜《なな》めに切りおろしてきた!
あたしは、上半身をひねる。刀をかわす。
右手で、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜《ぬ》いていた。
刀を握《にぎ》った、やつの右手首。
スティックを叩《たた》きおろした。
バス・タムを叩くフォーム。八分の力。
ビシ!
にぶい音。
声にならないうめき。刀は、芝生《しばふ》に落ちる。
「SHIT《クソ》!」
と、やつ。
右足の蹴《け》りを飛ばしてきた!
あたしは、芝生に転がる!
上を、靴《くつ》先が走り過ぎる。
転がりながら、あたしはスティックを横に払《はら》った。
敵の左足首!
ビシリ!
重い手ごたえ。骨を折ったかもしれない。
敵は、もんどりうつ。
芝生に倒《たお》れた。左足首を押《お》さえてうめいている。
あたしは、立ち上がった。
足音。
ナカジマと部下たちが駆《か》けてきた。
「爆弾屋《ボンバー》よ」
あたしは、やつを見おろしていった。
ナカジマは、うなずく。
「警察がくる前に連れていけ」
と指示。部下たちが、やつを引きずるように運んでいく。近くに駐《と》めてあるヴァンに押し込むのが見えた。
ナカジマが、トランシーバーに向かって、
「Bを発見。排除《はいじよ》した。通常|警戒《けいかい》体制に戻《もど》れ」
と指示している。あたしも、スティックをヒップ・ポケットに戻した。
♪
コンテストがはじまった。
軽妙《けいみよう》な白人司会者の紹介《しようかい》で、つぎつぎに12人の候補者がステージに現われる。
白人。ハワイアン。チャイニーズ。ポリネシアン。コリアン。フィリピーノ。
みんな色とりどりのムームー姿。思い思いの凝《こ》ったレイを首にかけている。
さすがに、美女ぞろいだ。
1人出てくるたびに、芝生に坐《すわ》った観客たちから拍手《はくしゆ》と歓声が上がる。
そして最後、12番目に、蘭《らん》が出てきた。
シルクのムームーは淡《あわ》いピンク。首にかけたレイは、濃《こ》い紫色《むらさきいろ》の蘭でできていた。見たこともないような、きれいなレイだった。
大輪の花が咲《さ》いたような笑顔。
背筋をのばして、蘭はステージ中央に歩いてくる。
観客たちから、すごい拍手。歓声。ため息まできこえる。
ほかの候補とは、比べものにならない。
司会者が、蘭にマイクを向ける。英語で、
「きくところによると、あなたの日本語の名前、ラン・ナカツガワのランは、蘭《オーキツド》のことだそうですねえ」
「ええ。そうなんです」
と蘭。優雅《ゆうが》に答えた。きれいな英語だった。
「そうですか。それで、この素晴らしい蘭のレイをかけているわけですね。これは、ご自分でつくったんですか?」
「いいえ。婚約者《フイアンセ》がプレゼントしてくれました」
「婚約者ですか」
と司会者。おどけた表情で、
「いやあ、うらやましい。こんな美女と結婚《けつこん》する男性がこの世の中にいるなんて」
と、いった。
♪
「さて、それでは厳正な審査《しんさ》の結果が出るまで、いかした演奏で楽しんでもらいましょう」
と司会者。
あたしたちは、ステージに出ていく。
「わがホノルルから生まれた噂《うわさ》のニュー・スター! ザ・バンデージ! 拍手《はくしゆ》を!」
司会者が叫《さけ》んだ。会場から、拍手と歓声が上がる。
あたしは、ドラムスの前に坐《すわ》った。
スティックを2本まとめて左手に握《にぎ》っていた。
右手で、首にかけたレイをつまむ。ちょっと鼻に近づける。
プルメリアが、淡《あわ》く匂《にお》った。
1ドル45セントの安物。
でも、それは、バンドのみんなの気持ちがこもったレイ。
しかも、命まで救ってくれたレイだ。
深呼吸……。甘く、ちょっと切ないプルメリアの香《かお》りを吸い込む。
メンバー全員、こっちに眼で合図した。準備OK。
あたしは、スティックを握《にぎ》りなおす。合図《カウント》を出す。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
イントロが滑《すべ》り出した。
ゆっくりと盛《も》り上がっていく。
そして、あたしは、力いっぱい唄いはじめた。
……トースターが淋《さび》しそうに
ただ1枚のパンを焼いている……
天国のパパに、きこえているだろうか。
あっちでも、不器用なパパはトーストをデコボコにしてバターを塗《ぬ》っているんだろうか。
ふと、そんなことが頭のすみをかすめた。
午後のカピオラニ公園。
海の方から、涼《すず》しい風が吹《ふ》いた。
唄《うた》ってるあたしの胸もと。プルメリアの白が、フワリと揺《ゆ》れた。
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第3話 タバスコが泣かせた
♪
パンッ!
鋭《するど》い音が、背中で響《ひび》いた。
あたしと並んで、広い庭をながめていた|J・R《ジユニア》。
その右手が、上着の下に!
わきの下から、拳銃《けんじゆう》を引き抜く。
ふり向きざま、もう自動拳銃《オートマチツク》の安全装置《サム・セフテイ》をはずしていた。
♪
パンパンパンッ!
乾《かわ》いた音が、つづけざまに響いた。
パーティー用のクラッカーの音だ。
そして、歓声。拍手《はくしゆ》。
1階のラウンジで、パーティーがはじまったらしい。
「フーッ」
とJ・R。ため息。
「やれやれ……」
と苦笑い。安全装置をかける。拳銃を、わきの下のホルスターに戻《もど》す。
「神経|過敏《かびん》になってるんじゃない?」
あたしは、微笑《わら》いながら言った。
土曜日の夕方。
ホノルル郊外《こうがい》。
実業家ダニエル・中津川《なかつがわ》の屋敷《やしき》。
娘《むすめ》の蘭《らん》のためのパーティーが、はじまるところだった。
1週間前の〈レイの女王コンテスト〉で、蘭はみごとに優勝した。
ミス・ハワイになったようなものだ。
それを祝うパーティーだった。
中津川家とJ・Rの身内。それに日系人の有力者たちが集まっていた。
「屋敷の回りは、あなたの手下がかためてるんでしょ?」
あたしは、J・Rにきいた。
「もちろん」
「それでも、心配?」
「臆病《おくびよう》なたちなんでね」
とJ・R。ニッと白い歯を出して見せた。
「それに、相手が相手だからな」
「相手? 本土《メイン・ランド》のマフィア?」
J・Rは、うなずくと、
「この前とっつかまえた、あの爆弾屋《ボンバー》、やつを締《し》め上げて吐《は》かせたんだが、雇《やと》い主はやはり本土《メイン》のシンジケートだった」
「…………」
「それは予想どおりなんだが、さらに楽しくない情報も入ってる」
「楽しくない情報?」
「つまり、まだまだ、新しいお客さんがやってくるらしい」
とJ・R。
「お客さん?」
「ああ……。凄腕《すごうで》のプロが雇われたって噂《うわさ》だ」
「凄腕のプロ……」
「もしかしたら、もう、このハワイに入ってるかもしれない」
とJ・R。
「つぎからつぎと、まるで、北海岸《ノース・シヨア》に打ちよせてくる波ね」
あたしは、いった。肩《かた》をすくめた。
「それだけ、向こうも本気になってるってことだ。とにかく、気をつけろ、ミッキー」
「わかったわ」
ラウンジの方から、音楽が流れはじめた。
蘭《らん》が、客たちに囲まれていた。
明るいパープルのドレス。白い肌《はだ》。紅い唇《くちびる》。
黒いタキシードの中で、文字どおり、大輪の蘭が咲《さ》いているみたいだった。
「ほら、油断してると、婚約者《フイアンセ》がほかのハンサムにとられちゃうわよ」
あたしは、J・Rのヒジを突《つ》ついた。
♪
「あら、ミッキーじゃない」
背中で明るい声がした。
ふり向かなくてもわかる。蘭だ。彼女は、声までも華《はな》やかだ。
あたしは、ひとり、プールサイドにいた。
右手に缶《かん》のPRIMO《プリモ》。左手に、火のついたSALEM《セーラム》。
デッキ・チェアーの1つに、腰《こし》かけていた。
「どうしたの、こんなところで」
と蘭。
シャンパン・グラス片手に、あたしのそばに立った。並《なら》んで、プールをながめる。
「外の方が気持ちいいから」
あたしは、答えた。
「ああいうパーティーが、あんまり好きじゃないのね」
と蘭《らん》。
あたしは、正直にうなずいた。
「しかも、こんなかっこうじゃね」
あたしは、つけ加えた。自分のスタイルを見おろした。
古着のアロハ・シャツは、かじき《マーリン》の柄《がら》。
色の落ちたジーンズ。白いテニス・シューズ。
たとえレコードが100万枚売れても、これがあたしのフォーマル・ウェアなのだ。
「そんなことないわよ」
と蘭。
「そんなスタイルが似合う10代が、うらやましいわ」
と、いった。明るい声には、皮肉も裏も見えない。
「そんなポニー・テールの似合う年頃《としごろ》が……」
と蘭。あたしをながめて、
「あら……」
と、つぶやいた。
「そのハンカチ、もしかして、彼の、ジュニアのね」
と、いった。
あたしのポニー・テールの根もと。巻いてある青いハンカチ。
確かにこれは、J・Rが巻いてくれたものだ。
風に揺《ゆ》れるハンカチの端《はし》。〈|R ・ J《リヨウイチ・ジンノ》〉の頭文字《イニシアル》が小さく入っている。
何かいおうとしたあたしを、蘭が、さりげなくさえぎって、
「いいのよ。別に説明しなくても」
と優しくいった。
蘭は、プールの水面をながめる。
3秒……4秒……5秒……。
「ジュニアの気持ちの一部分があなたにあることは、知っているわ」
と、明るくいった。
♪
「…………」
あたしは、無言。何を言っていいか、わからなかった。
蘭《らん》の声に、トゲのかけらも感じられなかった。
蘭が、プールの水面から顔を上げた。
端正《たんせい》な横顔が、庭の薄《うす》明かりにくっきりと見えた。
やがて、
「男のハートなんて、誰《だれ》かがひとりじめできるものじゃないわ……」
と、つぶやいた。微笑《わら》いながら、
「牛1頭を、1人じゃ丸ごと食べられないのと同じことだと思うの」
「…………」
「牛1頭を丸ごと独占《どくせん》しようとして、苦しんでいる女の人をずいぶん見てきたわ……」
「…………」
「少くとも、私は、そんなことは望まない。特に、ジュニアに関しては、ね」
「優しいのね」
「それがわかる年齢《とし》になってしまったってことかしら」
と蘭。声の中に、少しだけカンパリをたらしたようなホロ苦さ……。
「……でも、ご心配なく」
あたしは、つとめて明るくいった。そして、
「ジュニアのハートを牛1頭とすれば、サーロインやフィレやT《テイー》ボーンは、みんなあなたのところにあるんだから」
と、蘭にいった。
「もし、あたしのところにあるとしても、しっぽ《テール》のところだけよ」
あたしは、笑いながらいった。自分のポニー・テールを片手で弾《は》ね上げて見せた。
蘭も、ただ、優しく笑っている。
「それはともかく……」
ふと、言葉を切る。ラウンジの方から、音楽が風にのって漂《ただよ》ってくる。
レコードだろう。E《エミルー》・ハリスの唄《うた》う〈Save The Last Dance For Me〉。
〈ラスト・ダンスは私に〉が、低く流れてくる。
蘭は、それに耳を傾《かたむ》けている。
「結局、女の気持ちは、あの歌ね」
ポツリと、つぶやいた。
どこかへ寄り道しても、最後、自分のところへ帰ってくれば……。
そういうことなんだろう。
「……でも、それって、淋《さび》しくない?……」
あたしは、小さくいった。
「……でも、そう思わなければ、もっと淋しくなるわ……」
蘭《らん》も、静かに答えた。
あたしは、かすかに、うなずいた。
風が、吹《ふ》いた。
蘭のドレス。あたしのアロハ。同時にフワリと揺《ゆ》れた。
シルエットで揺れているヤシの葉。その向こう。
夜空を、飛行機の認識灯が動いていく。
点滅《てんめつ》しながらゆっくりと右へ動いていく赤い灯。
たぶん、マウイ島あたりからホノルル空港に帰る、国内線だろう。
あたしと蘭は、無言。
いつまでも、その赤い灯を見つめていた……。
♪
2日後。
クヒオ|通り《アベニユー》にある〈ONO《オノ》スタジオ〉。
J・Rの顔で借りた日系人経営の録音スタジオだ。
あたしたちは、LP《アルバム》の録音に入ろうとしていた。
きょう録《と》る予定の1曲目は、〈ロンリー・モーニング〉。
あたしが作詞して、あたしが唄《うた》う曲だ。
軽く、2、3回|演《や》ってみる。
悪くない。けど、
「ミキサーがいないなあ」
とアキラがつぶやいた。
確かに。スタジオの助手《アシスタント》はいるけど、かんじんのミキサーの姿がない。
「また、本土《メイン・ランド》からの圧力で」
とリカルドがいいかけたとき、ミキシング・ルームの重いドアが開いた。
ゆっくりと開くドア。
太った体に青いムームーを着て、のしのしと入ってきたおばさん。
POKI《ポキ》ママだった。
あたしは、ドラムスのイスから立ち上がっていた。
後ろで、イスが倒《たお》れる。かまわず、駆《か》け寄る。
「ポキ・ママ!」
「やあ、ミッキー!」
ハムみたいに太い腕《うで》が、あたしを抱《だ》きしめた。
「ポキ・ママ……」
と、ささやく声。スタジオの若いアシスタントたちだ。
伝説のミキサー。〈|虎 の 耳《イヤー・オブ・タイガー》〉とニックネームされるほどの聴覚《ちようかく》。
1/16音まで聴《き》き分けるといわれたポキ・ママの名前は、彼らも知っているらしい。
あたしたちのデビュー・シングル、〈少しだけティア・ドロップス〉の録音以来だ。
「しばらくぶりだね、ミッキー」
とポキ・ママ。
褐色《かつしよく》の顔から、白い歯がこぼれる。
ハワイアン独特の、人なつっこい笑顔。
「もっと、よく顔を見せておくれ。この不良|娘《むすめ》が」
ポキ・ママは、あたしの体を少しはなす。
「あのシングル盤《ばん》がえらく売れてるっていうから、シルクのドレスでも着てるかと思ったけど」
と、あたしの全身をながめて、
「あい変わらず、男の子みたいなスタイルだねえ」
と笑った。
後ろで、バンドのメンバーがニヤニヤしてる。
「それにしても、どうしてポキ・ママがここに……」
あたしは、いった。
「どうしてもこうしても、つい3日前のことさ、若い日系人の男がヤクザっぽい連中をひき連れてリムジンでやってきて」
「若い日系人……リムジン……」
J・Rにちがいない。
「顔を借してくれじゃなく、耳を借してくれといったよ」
ママは、楽しそうに笑った。
「早い話、ザ・バンデージのLP《アルバム》を録音するから、ミキサーをやってくれとさ」
「で?」
「あたしが返事をする前に」
「札束《さつたば》を出した?」
「いや。もしそんなことされたら、追っ払《ぱら》うところだけど」
とポキ・ママ。
「3日後の午後1時、クヒオの〈ONO《オノ》スタジオ〉にきてくれ。それだけいうと、さっさと帰っていったよ」
「へえ……」
「さあ、そんなことより、仕事だよ」
とポキ・ママ。
あたしの肩《かた》を、ドスッと叩《たた》いた。
若いスタジオのアシスタントたちに、
「ほら、坊《ぼう》やたち! マイクのセッティングしなおしだよ!」
アシスタントたちは、はじかれたように立ち上がる。
バタバタと、ママの指示で動きはじめた。
♪
「おや、ミッキー。あんたが唄《うた》うのかい?」
とポキ・ママ。
ガラスの向こう。ミキシング・ルームでいった。
あたしの顔の前に、マイクがセットされるのを見ていた。
「そういうことになっちゃってね」
あたしは、マイクを通して答えた。
「そりゃ楽しみだね」
とポキ・ママ。ミキシング・コンソールの前に、どしりと坐《すわ》った。
あたしのマイクをセットしてるアシスタント。その背中に、
「坊《ぼう》や! その娘《こ》の声にゃ、ノイマンじゃなくてゼンハイザーを用意しな!」
ポキ・ママの声が響《ひび》いた。
「は、はい!」
とアシスタント。あわててマイクをとり替《か》える。
ポキ・ママの前。ミキシング・コンソールの上に譜面《スコア》が広げられた。
ポキ・ママは、それをながめる。
「〈ロンリー・モーニング〉か……」
と微笑《わら》いながら、タイトルを読む。けど、眼は、もう鋭《するど》く譜面の上を走りはじめていた。
♪
テストを2回|演《や》った。
「オーケー。じゃ、1発|録《と》ってみようか」
ポキ・ママの声が、スタジオに響いた。
みんな、うなずく。
「ミッキー、|1《ワン》コーラス目の〈He Is No More〉(あの人はもういない)の〈He〉が少しフラットするのに気をつけて」
「了解《りようかい》」
あたしは、ガラスの向こうのポキ・ママに、親指を立ててみせた。
「それじゃ、いこうか。テイク|1《ワン》」
とポキ・ママ。コンソールを、太い指が操作する。
あたしを見て、うなずいた。
あたしも、うなずき返す。軽く深呼吸。
合図《カウント》。スティックとスティックを合わせる。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
ゆったりとしたバラード。前奏《イントロ》が流れはじめた。
♪
最後のフレーズ。エンディングの残響《ざんきよう》が、ミキシング・ルームの床《ゆか》に吸い込まれていく……。
いま録《と》ったばかりの〈ロンリー・モーニング〉をプレイバックした。みんなで聴《き》いていた。
「うーむ」
と、腕組《うでぐ》みしたチャック。
「いいんだけど」
と、壁《かべ》によりかかったチャック。
「何か、ひと味たりない気がするな」
と、アレンジ担当のアキラ。自分が書いた譜面《スコア》をながめてつぶやいた。
「なんだろう……」
とアキラ。
「ミッキーの唄《うた》の色気」
とビリー。ニタニタしながらいった。
「あのねえ」
「ジョーク、ジョーク」
とビリー。ニタニタしながら後ずさり。
アキラも苦笑い。譜面をながめて、
「ま、そういう問題じゃなくて、何か、ひと味、コーラスとか管楽器とかを足すってことだろうなァ」
と、いった。
「まあ、こいつはオレの方で考えておくよ」
とアキラ。
「オーケー。じゃ、〈ロンリー・モーニング〉は後回しにして、ほかの曲から録っていこうぜ」
とビリー。あたしたちは、立ち上がった。
♪
「ミッキー、あんた、好きな人がいるね」
とポキ・ママ。
チキンのタコスを頬《ほお》ばりながら、いった。
あたしは、思わず、飲んでたアイス・ティーでむせるところだった。
♪
夕方の6時。
カピオラニ|通り《ブルヴアード》の〈タコ・ベル〉。
録音を終えたあたしとポキ・ママは、軽い晩ごはんを食べていた。
ハワイの6時は、まだ明るい。
外のテーブルに、タコスとアイス・ティーを広げていた。
「いったい何よ」
あたしは、ポキ・ママにいった。
「突然《とつぜん》、そんなこといって」
と、口をとがらせた。プラスチックのカップに入ったアイス・ティーを、またひと口。
「さっき、あんたの唄《うた》うのを聴《き》いててわかったのさ」
とポキ・ママ。タコスを胃におさめながら、
「さっきのって……〈ロンリー・モーリング〉?」
ママは、うなずいた。ゆっくりと、2個目のタコスを手にとる。
太い手首。銀のブレスレットに、きょう最後の陽《ひ》ざしが光る。
「ずいぶんと沢山《たくさん》の唄い手の声を録ってきたよ」
「…………」
「自然、声を聴いただけで、唄い手の気持ちがわかるようになったよ」
「……で?」
ママは、ニコリとして、
「いまのあんたには、好きな相手がいる。……だろう?」
「…………」
あたしは、無言。アイス・ティーを、ストローでひと口。
「でも、その恋《こい》は、とても難しいんだね……」
とママ。
「〈|長く曲りくねった道《ロング・アンド・ワインデイング・ロード》〉……」
ポツリと、そういった。
あたしは、無言。
サーモン・ピンクにたそがれていくホノルルの空を見上げた。
ビートルズのメロディが、胸の中のラジオから流れはじめる。
「でも、それはそれ。がんばるしかないね」
とポキ・ママ。3個目のタコスを手にとりながら、
「ロング・アンド・ワインディング・ロードが|いき止まり《デツド・エンド》とは限らないんだから」
と、いった。
「…………」
|通り《ブルヴアード》を、風が渡《わた》っていく。
アイス・ティーのカップの中で、ストローがカラリと揺《ゆ》れた。
♪
3週間後。
〈ONOスタジオ〉。録音の最終予定日だった。
残すは1曲。〈ロンリー・モーニング〉だけだ。
「アレンジは、変えたの?」
あたしは、アキラにきいた。アキラは、自信ありげにうなずいた。
「ま、とにかく、1回|演《や》ってみよう」
とアキラ。あたしたちは、それぞれの位置につく。
ギターのビリー。ベースのチャック。キーボードのアキラ。ヴォーカルのリカルド。そして、ドラムスのあたし。
それぞれの間には簡単なしきりがある。
ドラムスのあたしから、ベースのチャックとキーボードのアキラは見える。
けど、ほかの2人は、しきりにかくれて見えない。
きょうのスタジオは、そんなレイアウトになっている。みんな、ポキ・ママが決めたものだ。
音のバランスを計算して決めたんだろう。
「じゃ、いくよ」
とポキ・ママ。ガラスの向こうでいった。
「それじゃ、〈ロンリー・モーニング〉、テスト!」
の声が、スタジオに響《ひび》いた。
合図《カウント》。あたしは、スティックを握《にぎ》りなおす。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
前奏《イントロ》。キーボードとギターで静かに出る。
B7。
E。
Em。
B9。
G#m。
F#。ここで、ドラムスとベースが入る。
フロア・タム。そして、シンバル。あたしは、きっちりと力強く叩《たた》く。
そして、正確にリズム・キープしながら唄《うた》いはじめた。
……眼の前には使いなれたトースター
2人用のトースターなのに
いまはただ1枚の
パンを焼いている
あの人はもういない
トースターが淋《さび》しそうに
ただ1枚のパンを焼いている
ここから、リカルドとのデュエット。
ロンリー・モーニング
あの人はもう帰ってこない
ロンリー・モーニング
それでも太陽はまた
ダイアモンド・ヘッドから
昇《のぼ》るから
そして、また、ソロに戻《もど》る。
この朝食を終えたら
あたしはいくわ
あのドアを開けて
朝の光の中ヘ
歩きはじめるわ
どこまでも……
そして、間奏。ビリーのギターが、ゆったりと8小節。
ここまでは、いままでどおりだ。
と思った瞬間《しゆんかん》!
ききなれない音が、耳に飛び込んできた。
ハーモニカ!
透明《とうめい》な音が、流れはじめた。
間奏のコード展開。
そのコードのうねりにのって、ハーモニカのメロディが漂《ただよ》っていく。
まるで、風の中を自由に翔《と》んでいくカモメのように……。
あたしは、スタジオを見回した。
姿は見えない。けど、はっきりとわかる。このハーモニカは、J・R……。
この透《す》き通って、少しだけ悲しげな音色とフレイジングは、J・Rだ……。
あたしは、アキラを見た。目が合う。アキラは、ニヤリと微笑《わら》った。
どうやら、予定どおりらしい。
やがて、間奏のクライマックス……。
キーボードとギターにサポートされて、ハーモニカは、高音に……。
逆光の空に急上昇《じようしよう》していくカモメ。そんな感じで、ハーモニカはどこまでも昇りつめていく。
最後に翼《つばさ》をひと振《ふ》り。
間奏が終わった。
|くり返し《リフレイン》の唄《うた》い出し。あたしは出遅《おく》れた。
ハーモニカに気をとられていたのだ。
ロンリー・モーニング
あの人はもう戻《もど》ってこない
やっと、リカルドの唄に追いつく。
唄《ヴオーカル》のバックで、J・Rのハーモニカが、きこえる。
要所要所で、さりげなくサポートしてくれる。
ロンリー・モーニング
それでもハイビスカスは
きょうもまた
花を開くから
この朝食を終えたら
あたしはいくわ
あの自転車にまたがって
朝の風の中ヘ
走りはじめるわ
どこまでも……
どこまでも……
エンディング。
キーボードとハーモニカがからみ合いながら、ゆったりと静かに終わる……。
音色が、空気に溶《と》け込んで、見えなくなった……。
あたしは、しばらく、スネアー・ドラムに視線を落としていた。
やがて、顔を上げる。深呼吸……。
アキラのそばに、J・Rが立っていた。
どこかの、しきりの向こうで吹《ふ》いていたんだろう。手には、いつものハーモニカを持っている。
「紹介《しようかい》しよう。この曲のゲスト・プレーヤーだ」
とアキラ。J・Rを親指でさした。
「マフィアは廃業《はいぎよう》?」
あたしは、いった。
「きょうは、休業だ。S《ステイービー》・ワンダーと呼んでくれ」
とJ・R。かすかに微笑《わら》った。
あたしも、白い歯を見せる。
「W《ホイツトニー》・ヒューストンよ」
と答えた。
「これなら、グラミー賞はいただきだね」
チャックが、ニッと笑った。
♪
テストを、さらに2回。
そして、本番。
J・Rのハーモニカは、正直、涙《なみだ》が出るほどよかった。
めいっぱい、ハートがこもっていた。
3コーラス目は、ハーモニカにささえられて思いきり唄《うた》う。
最後の|くり返し《リフレイン》。本当に、涙がにじみそうになった。
けど、けんめいにこらえて唄った。
唄い終わった。
音が、ゆっくりとフェード・アウトしていく。
あたしは、そっと顔を上げた。
ガラスの向こう。ポキ・ママが、白い歯を見せた。
小さく、だけど、はっきりとうなずいた。OKの合図だった。
あたしは、ゆっくりと、ドラムスのイスから立ち上がる。
笑顔で、スタジオの出口に歩いていく。
出口で、J・Rと顔が合った。
「これがやりたくて、レコード産業に進出したわけね」
笑いながら、J・Rのヒジを突《つ》ついた。
J・Rは、無言。かすかに苦笑しながら、ハーモニカを上着の内ポケットに戻《もど》した。拳銃《けんじゆう》とちがって、安全装置はかけなかった。
♪
「こりゃ、シングル・カットしても売れるな」
とマネージャーのアントニオ。
ミキシング・ルームのソファーにもたれていった。
〈ロンリー・モーニング〉のプレイバックを聴《き》き終わったところだった。
みんな、アントニオの言葉にうなずく。
「金張りのベンツでも予約しといたらどうだ」
とビリー。派手なスーツのアントニオをからかう。
「どうせなら、泡風呂《ジヤクージー》つきのベンツにしてくれ」
とチャック。
「さらにシャンパンと美人がついてれば、いうことないな」
とリカルド。
笑い声が、ミキシング・ルームに響《ひび》く。
そのときだった。ミキシング・ルームの電話が鳴った。
ポキ・ママが壁《かべ》の電話をとる。
「あんたにだよ」
受話器を、J・Rにさし出した。J・Rはソファーを立つ。受話器を、耳に当てる。
その横顔が、スッと緊張《きんちよう》した。
簡単で落ちついた言葉のやりとり。けど、その裏に、ただごとではないけはい……。
「わかった。いま、スタジオを出る」
とJ・R。電話を切る。
「ちょっと急用ができた。失礼」
と全員を見回す。す早く、ミキシング・ルームのドアに。
ドアの内側に立っていたボディガードのナカジマが、重いドアをさっと開ける。
あたしも、J・Rを追いかけて、スタジオの廊下《ろうか》に出た。
早足で玄関《げんかん》に歩くJ・R。あたしは、小走りで追いつくと、
「何があったの」
J・Rは、無表情。ひとこと、
「蘭《らん》が、誘拐《ゆうかい》された」
と、いった。
♪
リムジンのドアを開けるナカジマ。あたしも、J・Rといっしょに乗り込む。
走り出すなり、J・Rはカー・テレフォンをとった。報告のつづきをきいているらしい。
3分ぐらいで、電話を切った。
「誘拐《ゆうかい》って、どこで」
あたしは、きいた。
「アラ・モアナ・|S・C《シヨツピング・センター》の1階|駐車場《ちゆうしやじよう》だ」
とJ・R。
「買い物からクルマに戻《もど》ったところを襲《おそ》われたらしい」
「……撃《う》ち合い?」
「いや。蘭《らん》のボディガードも運転手も、殴《なぐ》り倒《たお》されている」
とJ・R。リムジンのシートに深くもたれる。腕組《うでぐ》み。
「ほんの数秒の出来事だったらしい。……この手ぎわのよさは、プロの仕事だな」
J・Rは、落ちついた声でいった。
リムジンは、クヒオからダウンタウンに向かっている。
また、カー・テレフォンが嗚った。J・Rがとる。今度は、かなり長い。
切った。
「どうやら、敵の正体がわかりかけた」
「正体?」
「ああ。ヨーロッパのテロリスト・チームらしい」
「テロリスト・チーム!?」
J・Rは、ゆっくりとうなずく。
「V・I・Pの誘拐で荒稼《あらかせ》ぎしている連中だ。10日ほど前に、ロス経由でハワイに入ってる」
「ロス経由……」
「正確なデータは、すぐに届《とど》くだろう。そして、敵の要求も」
とJ・R。腕組みしたままいった。
あたしは、流れ過ぎていく|通り《ブルヴアード》をぼんやり見た。
「蘭が……」
と、つぶやいた。
「心配するな」
とJ・R。
「敵がプロだけに、人質の身は安全だ。大切な切り札《ふだ》だからな」
と、いった。じっと、正面を見ていた。
♪
翌日。午前11時。
あたしは、〈|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》〉のオフィスに入っていった。
ピリピリとした空気が、オフィス中にはりつめていた。
J・Rの部屋。ナカジマや、数人の部下がいた。
「敵からの要求は?」
「いまさっき、電話できた」
とJ・R。デスクの向こうでいった。
「どんな?」
「ザ・バンデージのLP《アルバム》のマザー・テープを渡《わた》すことだ」
「……マザー・テープって……きのう録音を終わった……」
「ああ……そうだ」
「で、返事は?」
「この先3日間、KBKBでバンデージの曲を1回も流さない。それが、OKの返事で、それから先のことは、また連絡《れんらく》してくるそうだ」
「……ってことは……やっぱり本土《メイン・ランド》からの……」
J・Rは、うなずいた。
「100パーセントまちがいないな。本国イタリーのマフィアから力を借りたことも考えられる」
「でも……」
あたしは、つぶやいた。
「マザー・テープっていったって、コピーはとれるし……録音しなおすことだって難しくないんだし……」
J・Rは、また、ゆっくりとうなずいた。
「そのとおり。本当の狙《ねら》いは、マザー・テープなんかじゃないな」
「……ってことは……」
「たぶん、おれか君の首だろう。人質とテープを交換《こうかん》する瞬間《しゆんかん》を狙ってね」
とJ・R。あたしも、うなずいた。
部屋のドアが開いた。部下が1人、入ってきた。写真とタイプで打った紙を何枚か、デスクに置いた。
テロリストたちの資料らしい。
「イタリー人が5人に、フランス人が1人です。全員、ニセのパスポートで入国していますが、写真は本物です」
「よし。写真をコピーして全員に渡《わた》せ。24時間体制で、しらみつぶしに捜査《そうさ》するんだ」
「はい」
部下たちは、キビキビと部屋を出ていく。
「組織《シンジケート》を動かすなって要求は、きていないの?」
あたしは、J・Rにきいた。
「もちろん、きてるさ。だが、そんな要求をきいてたら、敵の思うツボだ。やつらは、こっちをなめてかかってくるだろう」
「……蘭《らん》の身が危険になったとしても?」
J・Rは、窓の方を向いた。
「おれは、蘭の婚約者《フイアンセ》である以前に、組織のトップだ。そして、こいつはもう、シンジケート対シンジケートの戦いだ」
あっちを向いたまま、J・Rは、いった。
感情を押《お》さえた声だった。
「敵の要求をのむふりはする。が、こっちにはこっちのやり方がある」
「先制|攻撃《こうげき》?」
「ああ……。神風マフィアだからな」
♪
「すごい電話よ」
とジニー。|かき氷《シエイヴ・アイス》を食べながら、いった。
「なぜ、バンデージの曲をかけないんだって、抗議《こうぎ》の電話ばっかり」
あたしは、うなずいた。
あたしとジニーは、カラカウア|通り《アベニユー》を歩いていた。
この3日間、KBKBからバンデージの曲は1回もかかっていない。
いままで1時間に1、2回はかかってたんだから、確かに文句はくるだろう。
「でも、もう少しよ」
あたしは、ジニーにいった。
それにしても、誘拐犯《ゆうかいはん》たちは、どこに潜伏《せんぷく》しているんだろう……。
FMのKBKBがきける範囲《はんい》だから、そんなに遠いはずはない。せいぜい、ホノルルの郊外《こうがい》だろう。
J・Rの部下たちも、まだ、手がかりをつかんでいないらしい。
何か、手ががりをつかむ手はないんだろうか……。
カラカウア|通り《アベニユー》の人ごみをながめて、あたしは、胸の中でつぶやいた。
ぼんやり歩いてたあたしは、交叉点《こうさてん》で人とぶつかった。
「ごめんなさい」
ぶつかった相手は、がっちりとしたハワイアンの男。ジニーの兄貴、おたずね者のジャンクに、ちょっと似ていた。
その瞬間《しゆんかん》、頭の中で、何か注意信号が光った。
「あっ……」
あたしは、通りのまん中に立ち止まった。
♪
「どうしたの、ミッキー」
「ねえ、ジニー。兄貴のジャンクに、連絡《れんらく》はつく?」
あたしは、きいた。
この前、J・Rの力で再会して以来、この兄妹には秘密の連絡ルートができたらしい。
「電話なら……」
「いいわ。教えて」
ジニーは、ポケットから小さなアドレス帳を出す。
〈J〉じゃなく〈B〉の項《こう》。電話番号が並《なら》んでいる。
いざというときを考えて〈J《ジヤンク》〉の項には書いていない。
たぶん、ブラザーの〈B〉……。
「毎月、電話番号を変えてるのよね。今月は、これよ」
「オーケー」
あたしたちは、PHONEボックスに入った。
♪
「よお、ミッキーか」
受話器から、ジャンクの太い声。
「ねえ、ちょっと教えて欲しいんだけど」
「なんだい」
「指名手配されてかくれ家《が》に潜《もぐ》ってるとき、一番不自由するのって、何?」
「……そりゃ、エサだなあ……」
「食べ物か……。で、どうするの?」
「自分じゃ外に出られないから、誰かに買ってきてもらうか、さもなければ出前《デリバリー》のピッツァかBENTO《ベントー》だな」
「出前《デリバリー》か!」
あたしは、思わず受話器を握《にぎ》りしめた。
「でも、そういうお店って、手配書なんかが回らないの?」
「回るらしいけど、出前のバイトが、いちいちそんなもの見やしないよ、このハワイで」
とジャンク。太い声で笑った。
「わかったわ。ありがとう」
あたしは、す早く電話を切った。
そうか……。出前《デリバリー》か……。
このホノルルで、デリバリーしてくれるのは、ピッツァ屋とベントー屋の2つだ。
しかも、誘拐犯《ゆうかいはん》たちはイタリー人!
あたしは、小走り。とめてあった自転車にまたがる。
「どこいくの、ミッキー!」
後ろで、ジニーの叫《さけ》び声。
♪
あたしは、軽くため息をつきながら、ドアを押《お》した。
ホノルルで、出前《デリバリー》をやっているピッツァ屋。もうこれで7軒《けん》目。〈|TONY'S《トニーズ》〉って店だ。
さすがに、少しくたびれてきた。
ニキビ面《づら》の若い白人が、1人でカウンターの中にいた。
「注文は?」
「あの……注文じゃないんだけど」
「っていうと、デートのお誘《さそ》いかな?」
とニキビの坊《ぼう》や。
「残念でした」
「じゃ、なんだい」
「ききたいんだけど、このところ、毎日のように注文する出前のお客いない?」
「それが、どうしたのさ」
「知りたいのよ。タダとはいわないわ」
あたしは、たたんだ20ドル札《さつ》をチラリと見せた。
「ああ、いるよ、そんな客」
20ドル札をチラリと見て、その坊やはいった。
♪
「それ、どこ?」
あたしは、つとめて押さえた声でいった。20ドル札を、カウンターに出した。まだ、渡《わた》さない。
「ダイアモンド・ヘッドの向こう側の屋敷《やしき》さ」
「住所は?」
「君、どうして、そんなこと知りたいのさ」
あたしは、答えるかわりに、20ドル札をさし出した。坊やは、うけとる。
す早く、ポケットに入れた。そして、
「KAIKOO《カイコー》プレイスの、確か3691」
と、いった。
「毎日のように、注文がくるの?」
「ああ……しかも」
「しかも、何?」
あたしは、2枚目の20ドル札をチラつかせた。
「ちょっと変わった客で、まるで姿を見せないんだ」
「姿を見せない?」
「ああ……。いつも、インタフォンを押《お》して玄関《げんかん》先に置いてくるだけなんだ」
「代金は?」
「玄関の郵便ポストに入ってて、それをもらってくるんだ。……ありゃ、誰か大物が屋敷《やしき》にいるなあ」
「ありがとう」
あたしは、2枚目のお札《さつ》を、坊《ぼう》やに渡《わた》した。
電話のベルが鳴った。坊やがとる。
坊やは、受話器を手でおさえると、
「噂《うわさ》をすれば、そのお客だ」
と、いった。
相手の注文を、復唱しながらメモしていく。
18インチのピッツァを4枚。セヴンナップ……コーク……ルート・ビア……フルーツ・ヨーグルト・サラダ……。
思わずドキッとした。
フルーツ・ヨーグルト・サラダは、確か、蘭《らん》の好物だった。
間違《まちが》いない……。
坊やは、電話を切る。
「ねえねえ、頼《たの》みがあるんだけど」
あたしは、いった。
「1回だけ、その出前、やらせてくれない?」
「やらせるって……」
「お願いよ。じつは……」
あたしは、声を小さくして、
「その屋敷に、あのS《シルベスタ》・スタローンが、おしのびできてるらしいのよ」
と、いった。
「スタローンって、あのロッキーの!?」
「そう。ランボーの彼よ。おしのびでヴァカンスらしいの」
「そうか……彼はイタリー系だしなあ……」
「あたし、彼の大ファンなの。だから、せめてサインがもらいたくて」
「うーん……でも……」
と坊や。
「お願いよ。1回だけ、出前やらせて」
あたしは、いった。今度は、100ドル札《さつ》を出して見せた。
坊やの表情が、変わった。5秒……10秒……。
「ま、いいか。どうせ、おれ、今週でこの店やめちゃうんだし」
「ありがとう」
100ドル札を、彼の手にパシッと置いた。
♪
「もしもらえたら、おれにもサインよろしく」
と坊《ぼう》や。
「あんたの名前は?」
「ボブ」
「了解《りようかい》。じゃあね」
あたしは、坊やに手を振《ふ》る。〈TONY'S〉って派手に描《か》いてある出前のヴァンを、スタートさせた。
ピンクと白のストライプの前かけ。同じストライプの帽子《キヤツプ》をかぶって、ヴァンを走らせる。
♪
〈ホノルル・コロシアム〉の裏に、ヴァンを駐《と》めた。
す早く、自分の部屋に上がる。アルミ|むく《ヽヽ》のスティックを、ヒップ・ポケットにさす。
裏口から出る。ヴァンに戻《もど》る。
思わず、足がとまった。
ヴァンの前。
ビリー。チャック。リカルド。アキラ。みんな、立っていた。
「これはこれは、商売がえかい? ミッキー」
とビリー。
「これは、あの……」
あたしは、口ごもった。
「ヘタな弁解をしてるヒマはないんだろう」
とチャック。
「ジニーから、きいたよ」
とリカルド。
「あの、おしゃべり娘《むすめ》が……」
あたしは、つぶやいた。
「人質の奪還《だつかん》作戦か」
「そんな面白いこと、ひとりじめしようなんて、ズルいぜ」
「バンド仲間への裏切りだと思わないか」
と、みんな。ニヤニヤしている。
「でも……ヘタしたら、命がけよ……」
あたしは、いった。
「そうきいちゃ」
「なおさら」
「つき合わないわけにゃ」
「いかないな」
と、みんな。歯が白く光った。
「……わかったわ。押《お》し問答してる時間はないの。いきましょう」
あたしは、うなずいた。ヴァンのドアを開ける。
「でも、ジュニアにまかせなくていいのか?」
とアキラ。あたしは首を横に振《ふ》った。
「彼が知ったら、武装《ぶそう》して総|攻撃《こうげき》をかけるでしょうね。そんなドンパチになったら、かえって蘭《らん》の命が危いわ」
「わかった」
とアキラ。
「でも、あんたは残って、あたしたちが出て30分したら、ジュニアに連絡《れんらく》して」
あたしは、アキラにいった。
ここから、敵の屋敷《やしき》まで、ぜいぜい20分。J・Rの部隊が着く頃には、決着がついているだろう。
「わかった。KAIKOO《カイコー》プレイスの3691だな」
とアキラ。
あたしは、運転席に。チャックが助手席に乗り込む。
「こりゃいいや」
とチャック。シートに放《ほう》ってあるエプロンと帽子《キヤツプ》を身につける。
ビリーとリカルドは、ヴァンの荷台にピッツァと一緒《いつしよ》に乗る。
タイヤを鳴らして、スタート!
♪
カピオラニ公園が、後ろに飛んでいく。ダイアモンド・ヘッドを、海側から回り込んでいく。
窓からの潮風に、ポニー・テールが激《はげ》しく揺《ゆ》れる。
ステアリングを握《にぎ》っているあたしの横顔を、助手席のチャックが見ている。
「何を見てるの?」
「恋敵《こいがたき》を助けるために命をはる間抜《まぬ》けな小娘《こむすめ》」
とチャック。ニッと黒い顔から白い歯を見せた。
「たまたま、そういうめぐり合わせになっただけよ」
あたしは、答えた。チャックは、またあたしを見た。
「今度は、何見てるのよ」
「損なクジばかりひいてるドジな小娘」
とチャック。またニッと笑った。
あたしは、チラリとチャックを見返した。
「何見てるんだよ」
「その小娘につき合う馬鹿《ばか》な黒ん坊《ぼう》」
チャックの笑い声が、風にちぎれて飛んでいく。
目的の屋敷《やしき》が、近づいてきた。
♪
「ここか……」
あたしは、ヴァンのスピードを落とした。
KAIKOO《カイコー》プレイスの3691。
屋敷の並《なら》ぶ高級住宅地の中でも、一番海に近い。
たぶん、庭が海につづいているんだろう。
アメリカン・スタイルの大|邸宅《ていたく》だった。
白い門を入る。徐行《じよこう》しながら玄関《げんかん》へ。
玄関の前ギリギリに、ヴァンをとめた。
はり出している玄関の屋根にかくれて、屋敷の窓からは死角になる。
それでも、帽子《キヤツプ》を深くかぶりなおす。運転席からおりる。
チャックも、助手席から。
ビリーとリカルドは、後ろのドアから、す早くおりる。
配達のピッツァや飲み物を、後ろからおろす。
玄関の前に置く。
あたしは、インタフォンを押《お》した。
「はい」
何か、なまりのある低い男の声。
「〈TONY'S〉です。いつも通り、ここに置いときます」
あたしは、インタフォンに、いった。
「ああ」
インタフォンが、プツンと切れる。
あたしは郵便ポストから、代金を出す。リカルドに、
「クルマを運転して、帰ったように見せかけて」
と、小声でいった。
リカルドは、うなずく。ヴァンの運転席に上る。
あたしとチャックは、〈TONY'S〉のエプロンをはずす。
帽子《キヤツプ》も脱《ぬ》ぐ。ヴァンの助手席に放りこむ。
ゆっくりと、ヴァンは、門を出ていく。
帰っていくヴァンを窓から見届《みとど》けたんだろう。やがて、玄関が、ゆっくりと開く。
あたしたちは、サッと、左右にかくれる。
若い男が、出てきた。
イタリー人。黒いTシャツ。デニムのジーンズ。
置かれたピッツァの箱《はこ》を、男は持ち上げようとした。
そのとき、チャックの長い腕《うで》がのびた。
手には、電気ベースの1弦《げん》が握《にぎ》られている。
弦が、男の首にヒョイとかかる。
ギュッと締《し》める!
「!?」
声にならないうめき。
後ろから長身のチャックに締められて、男の体がのび上がる。
そのみぞおち。
ビリーの蹴《け》り! カンフーのヒザ蹴りが入った!
男の体が、一瞬《いつしゆん》ひきつる。
すぐにダラリとなった。
チャックが、ベースの弦をはなす。男の体は、玄関《げんかん》にくずれ落ちる。
「アディオス」
チャックが小声でいった。
あたしたちは、男の体をまたぐ。玄関から中へ!
玄関ホールには、誰もいない。
けど、すぐに、物音がきこえた。
足音。そして、イタリー語らしいしゃべり声。
2人だ。
あたしたちは、サッと左右に。
足音が、近づいてくる。玄関ホールに入ってくる。
1人目の男。そいつの足を、ビリーの片足がひっかけた。
相手は、つまずく。前のめり!
倒《たお》れるより早く、チャックの長い脚《あし》が飛んだ!
腹に蹴《け》りが入った! 1人目は、もんどりうって倒れる。
2人目が、さっとふり向いた。
あたしと向かい合う。
右手が、ジャンパーの下に!
あたしの右手はもう、ヒップ・ポケットのスティックを握《にぎ》っていた。
8ビート、1拍《ぱく》分、待つ。
相手が、拳銃《けんじゆう》を引き抜《ぬ》いた!
こっちに向けられる寸前の一瞬。
スティックを、ふりおろした!
敵の手首! ビシッとにぶい音!
「ウッ!」
拳銃が、手から飛ぶ!
床《ゆか》に落ちた瞬間、拳銃は暴発した! 耳がしびれる。
手首を左手で押《お》さえて、前のめりになった敵。
その太い首筋に、スティックで、もう1発!
ガシッ!
かなり重い手ごたえ。
敵は、ゆっくりと前のめり。
大理石の床《ゆか》に倒《たお》れた。動かなくなった。
がっしりとしたイタリー人だった。
暴発した拳銃《けんじゆう》を、チャックがひろう。
25口径の自動拳銃《オートマチツク》だった。
「ぶっそうだな」
とチャック。白い歯を見せる。
足音!
玄関《げんかん》ホールにおりてくる階段の上。
カーキ色のTシャツの男。
手には、小型のマシンガンのようなもの!
たぶん、イングラムっていう連射銃だ!
あたしたちに向けて、ぶっぱなしはじめた!
あたしは、横っ飛び!
床に転がる!
上から、壁《かべ》材や木の破片がバラバラと落ちてくる。
頭をかかえる! ヤバい!
左腕《うで》のすぐわき。大理石が砕《くだ》け散った!
腕に、痛み!
そのときだった。
ふいに、銃声がやんだ……。
顔を上げる。
階段の上。
男の腕から、イングラムが吹《ふ》っ飛んでいた。
Tシャツの右|肩《かた》に、黒っぽいシミがひろがっていく。
男は、ゆっくりと、前のめり。
階段を転げ落ちる。踊《おど》り場まで落ちて動かなくなった。
見れば、床《ゆか》に腹ばいになったチャックが、さっきの25口径を両手でかまえていた。
銃口から、かすかな煙《けむり》……。
「射撃《しやげき》なんか、いつ覚えたんだい」
とビリー。立ち上がりながら、いった。
「いまさ」
とチャック。肩をすくめた。
「いま?」
あたしも立ち上がりながらきいた。
「ああ。生まれてはじめて射ったんだ。けっこう当たるもんだなァ」
とチャック。不思議そうに、右手の拳銃をながめる。
「とにかく、急げ!」
とビリー。
あたしたちは、階段を駆《か》け上がる。
階段の上で、敵の1人とはち合わせ!
シー・ナイフを突《つ》き出してきた!
先頭のビリーが、かわす!
相手の腹に、
「ハッ」
とカンフーの正拳《せいけん》! 入った!
拳《こぶし》を引くと同時に、回し蹴《げ》り!
敵の側頭部に当たる!
敵は、吹《ふ》っ飛ぶ!
手すりをこえる! 1階のフロアに転落!
大の字にのびる。動かなくなった。
「あと1人だ!」
あたしたちは、駆ける。
2階の部屋のドア。つぎつぎに蹴り開けていく。
いない! いない! いない! いない!
最後の1部屋。廊下《ろうか》のつき当たり。
寝室《しんしつ》らしい。
「ここね」
と、あたし。ドアノブをひねる。錠《じよう》がかかっている。
「まかせておけ」
とチャック。25口径の銃口《じゆうこう》を、錠に向ける。
1発! 2発! 3発!
ドアノブあたりは、コナゴナになる。
あたしは、深呼吸。
力と息をためる。
肩《かた》から、ドアに体当たり!
あっけなくドアは開いた。
体を丸める! 部屋に転がり込む!
銃声は、ない。
広い寝室だった。
窓の外は、ベランダ。バラの花が咲いている。
その窓ぎわに、蘭《らん》がいた。
男に、腕《うで》をつかまれていた。
♪
あたしは、ゆっくりと立ち上がった。
蘭は、ピンクのブラウスに白いスカート。
さすがに顔は蒼《あお》ざめている。けど、しっかりと立っていた。
その細い右腕。がっしりとした男の左腕がつかんでいた。
たぶん、このテロリスト・チームのリーダーなんだろう。男は、タフで残忍《ざんにん》な顔つきをしていた。
短く刈《か》った髪《かみ》。レイ・バンの射撃用《シユーテイング》グラス。
イタリー人。30代の後半だろう。
外人部隊出身。そんな雰囲気《ふんいき》だった。
完全に戦闘《せんとう》服だ。
迷彩《めいさい》色のシャツとズボン。黒いワークブーツみたいなものをはいていた。
男は、何か、背負っていた。
カーキ色の四角いズックだ。
「あまり動かない方がいい」
男は、低い声でいった。イタリーなまりの英語だった。
「オレの背中には、この屋敷《やしき》ごと吹《ふ》き飛ばせるほどのTNT火薬がある」
と男。
あたしたちは、ハッと、男の右手を見た。
何か、スイッチのようなものを握《にぎ》っている。
そこから、2本のコードがのびていた。
赤と青の2本のコード。それは、背中の火薬につながっていた。
「このスイッチを軽く押《お》すだけで、ジ・エンドだ」
と男。
テロリストらしく、落ちついた声でいった。
スイッチは、赤と青のコードの接点らしい。
2本のコードがつながって電流が通じた瞬間《しゆんかん》に爆発《ばくはつ》する、シンプルなしくみらしい。
あたしたちの動きが、凍《こお》りついた。
「お前たちもアマチュアとしてはよくやった」
と、やつ。
「だが、プロとの差は、これさ」
と男。右手のスイッチを少し持ち上げて、
「われわれは、いつでも死ぬ覚悟《かくご》ができている。それが、最後の勝負を分けるのさ」
やつは、薄《うす》い唇《くちびる》の端《はし》で、かすかに嘲笑《わら》った。
「さて、その拳銃《けんじゆう》や棒っきれを捨ててもらおうか。少しでも変な動きをしたら、スイッチを押《お》す」
「…………」
5秒……6秒……7秒……。
あたしの後ろで、ゴトリという音。
チャックが、拳銃を捨てた音らしい。
あたしは、唇をかんだ。
「さあ、そこのお嬢《じよう》ちゃんも、棒っきれを捨てな」
「……わかったわ……」
あたしは、右手のスティックを、床《ゆか》に捨てた。
「こっちに蹴《け》れ」
と敵。
あたしたちは、拳銃《けんじゆう》とスティックを、男の方に蹴《け》った。
「よしよし、ききわけのいい子だ」
やつが、また薄笑《うすわら》い。
そのときだった。
やつのすぐ後ろ。ベランダに出るガラスばりのドアが、スッと開いた。
ドアのすきまから、ハサミ!
植木や花を切るハサミだ。
そのハサミを握《にぎ》った手が、スーッとのびてくる。
背中の火薬からのびているコード。
その青い方を、パチンッと切った。
その音に、やつが、ハッとふり向く。
リカルドだった!
ハサミを持ったまま、リカルドは男にニヤリと笑いかけた。
「悪いな、プロのじゃまをして」
とリカルド。
男がひるんだ!
蘭《らん》が、男の手をふりほどく! こっちに駆《か》けてきた。ビリーが、抱《だ》きとめる。
男が、何か叫《さけ》んだ。
イタリー語の悪態《あくたい》らしい。
やつは、役立たずになった右手のスイッチを放り出す。
腰《こし》から、軍用ナイフを抜《ぬ》いた。
あたしと向かい合う。
「切り刻まれたいのか、この小娘《こむすめ》」
と男。その右手で、ナイフが冷たく光った。
あたしは無言。1歩、つめる。
敵は、こっちが丸腰だと思っている。
けど、あたしの右手は背中へ。2本目のスティックに手をかけていた。
「死ね!」
と敵。ナイフを突《つ》き出してくる!
白い光が、ノドもとに飛んでくる!
あたしはもう、スティックを引き抜いていた。
ナイフをかわしながら、スティックを振《ふ》る!
シンバルを叩《たた》くフォーム。
思いきり、スナップをきかせる!
ビシリ!
やつの手首を、ひっぱたく!
手から、ナイフが吹《ふ》っ飛ぶ。
「ウッ」
右手首を左手で押《お》さえた男。その左スネ。
あたしは片ヒザをつきながら、スティックで横に払《はら》った!
ガシッ!
にぶい音。スネの骨は、たぶん折れた。
「グッ!」
男のうめき声。
眼が白く裏返っている。
ゆっくりと、カーペットに倒《たお》れる。
口から白い泡《あわ》。
手足が、4、5回ピクピクと痙攣《けいれん》する。そして動かなくなった。気絶したらしい。
♪
「どうやら、片づいたらしいな」
とリカルド。ベランダから、部屋に入ってくる。
「珍《めずら》しいところからご登場だな」
とビリー。
「なんせ、玄関《げんかん》を通らず2階の寝室《しんしつ》に入るのが、長年のクセでね」
とリカルド。ニッと笑った。
「わかったよ、そうか……」
とチャック。
「そうやって、間男ばかりしてきたんだな、この色事師が」
とリカルドにいった。
「おいおい、みんなの命を助けたんだぜ。色事師はないだろう」
とリカルド。
「そのハサミは?」
と、あたし。
「ああ、これか」
とリカルド。右手のハサミを見て、
「そこのベランダにあった。バラの手入れでもするためのものだろう」
と、いった。気絶してるテロリストのお腹《なか》の上に、ポイと投げ捨てた。
「見ろよ。マフィアの王子様がヘリに乗って登場だ」
とチャック。窓の外をさした。
ヘリの爆音《ばくおん》……。
ビリーにもたれかかっていた蘭《らん》が、ハッと顔を上げた。
7、8人乗りの中型ヘリが、海の方からぐんぐん近づいてくる。
庭のヤシ。その葉が、回転翼《ローター》の風で台風《ハリケーン》のように揺《ゆ》れる。
ヘリの窓から、J・Rの顔が、チラリと見えた。
ヘリは、芝生《しばふ》の庭に着陸した。
J・Rを先頭に、拳銃《けんじゆう》やマシンガンを握《にぎ》った男たちが、バラバラとおりてくる。
♪
蘭《らん》の体が、フラリと揺《ゆ》れた。
倒《たお》れそうになる。それを、J・Rが抱《だ》きとめた。
両|腕《うで》で、しっかりと抱き上げた。
「すぐに警察が押《お》し寄せてくる。すぐにズラかれ!」
とJ・R。あたしたちに叫《さけ》んだ。ヘリのエンジン音がすごい。
「もちろん!」
あたしは、J・Rに叫び返す。
蘭を抱いてヘリに歩きはじめたJ・Rが、ふり向いた。
「ミッキー!」
「何よ!」
「バンドの名前、〈グリーン・ベレー〉に変えたらどうだ!」
J・Rは、一瞬《いつしゆん》、白い歯を見せた。
「考えとくわ!」
J・Rたちは、ヘリに乗り込む。
あたしたちは、玄関《げんかん》のヴァンに走る。
ヴァンがカハラ|通り《アベニユー》に出てすぐ、ヤシの葉の向こうに飛び去るヘリが見えた。
♪
「ジョーンズさん、悪いね」
とビリー。
ピッツァの紙箱《かみばこ》を、テーブルに置いた。
たそがれ。
アラモアナ公園のマジック・アイランド。アイランドといっても海に突《つ》き出した芝生《しばふ》の公園だ。
その木のテーブルで、あたしたちは、ピッツァの箱を広げた。
もちろん〈TONY'S〉のピッツァだ。
本来、あの屋敷《やしき》に届《とど》けたあと、配達することになっていたピッツァが、ヴァンの中に残っていた。
〈カハラ|通り《アベニユー》4487 ミスター|JONES宛《ジヨーンズあ》て〉と書いた紙が、箱の上に貼《は》りつけてある。18インチのピッツァだ。
それを、ありがたくいただくことにした。
ビリーが、ピッツァにタバスコを振《ふ》る。
|酒 屋《リカー・シヨツプ》で買ってきた缶《かん》のPRIMOで、
「作戦の成功とLP《アルバム》の無事完成に」
乾杯《かんぱい》。
8つに切れ目の入ってるピッツァ。そのひと切れを、あたしはとった。
かじろうとする。
となりで、チャックがニタニタと微笑《わら》っている。
「何よ」
ピッツァ片手に、あたしはチャックにいった。
「ドジなやつだなと思ってさ」
とチャック。微笑いながらあたしのピッツァの上を指さした。
「あ……」
そうか……。
あたしがとったひと切れには、具《トツピング》がほとんどのっていない。
たまたま、むぞうさにとったのに……。
「まあ、そういう損な星の下に生まれたんだな」
とチャック。シュリンプやマッシュルームがたっぷりのったひと切れをとる。
「ほら、めぐんでやるよ」
と、シュリンプを1匹《ぴき》、あたしの方にのせようとした。
「同情は、けっこうよ」
あたしは、プイといった。
あっちのテーブル。同じようにパーティーをやってる連中のラジカセから、カントリー・ウェスタンが流れていた。
E《エミルー》・ハリスの唄《うた》声だった。
ふと、エミルーの唄う〈ラスト・ダンスは私に〉が、胸をかすめる。
あのパーティーの夜のことを思い出す。
〈女の気持ちは、あの歌……〉そういった蘭《らん》の言葉。やはり、正しいのかもしれない。
いま頃、J・Rの腕《うで》に抱《だ》かれているだろう彼女のことを、ふと思い浮《う》かべる。
それに比べて、あたしにあるものは……。
誰かのハートの、しっぽ《テール》。
そして、何ものっていないピッツァのひと切れ。
損な星の下か……。
チャックの言葉を、胸の中でつぶやいてみる。
ピッツァを、ひとかじり。
タバスコが、ピリピリッと当たり散らす。
「ビリー、タバスコのかけ過ぎよ」
あたしは、いった。
鼻の奥《おく》が、ツーンとする。涙《なみだ》がにじむ。
〈TONY'S〉のペーパー・ナプキンで、そっと目尻《めじり》をぬぐった。
見上げるたそがれの空。
淡《あわ》いパイナップル色に染まった雲が、少しにじんで見えた。
E《エミルー》・ハリスの澄《す》んだ唄《うた》声が、風に乗ってどこまでも漂《ただよ》っていく……。
[#改ページ]
第4話 たそがれに、KISS ME
♪
「れ!?」
チャックが、声を出した。
クルマのブレーキをふみつけた。
乗ってるあたしたち全員、つんのめる。ビリーがかじってた|かき氷《シエイヴ・アイス》に顔を突《つ》っ込んだ。
♪
すぐ後ろのTOYOTAも、急ブレーキ。
けたたましいクラクションが、夕方のカラカウア|通り《アベニユー》に響《ひび》く。
「わかったよ。うるせえなあ」
とチャック。
また、クルマをスタートさせる。
「まったくもう……」
とビリー。顔や服に飛び散った|かき氷《シエイヴ・アイス》を、とり出したバンダナでぬぐう。
「もうちっとマシな運転できないのかよ! この黒ん坊《ぼう》が」
とビリー。
「悪い悪い。……といってもなあ」
とチャック。
「ほら、これ」
と、カー・ラジオを指さした。
チャックに教えられるまでもない。あたしも、気づいていた。
カー・ラジオから流れているのは、あたしたちの曲〈ロンリー・モーニング〉。
先週ON SALEになったファーストLP《アルバム》に入っている。
|J・R《ジユニア》のレコード・チェーン店〈バニアン・レコード〉での売れ行きは、すごい。
〈ロンリー・モーニング〉をシングル・カットする話も持ち上がっている。
けど、いまチャックが驚《おどろ》いたのは、そんなことじゃない。
いま〈ロンリー・モーニング〉を流しているのは、J・RのFM局KBKBじゃない。
KQKQ。ヒット曲を中心にかける若い連中向けのAM局だ。
「こりゃ驚いたなあ」
「どういうことだ、こいつは」
みんな、口ぐちにつぶやいた。
本土《メイン・ランド》からの圧力で、あたしたちの曲はハワイ中の放送局から閉め出されていた。
それが……いったい……どうして……。
あたしも、胸の中でつぶやいた。
カー・ラジオから流れる自分の歌をききながら、走り過ぎるホノルルの街をながめた。
♪
「しかし、でかいクルマはやっぱりいいなあ」
後部《リア》シートで、リカルドがいった。
あたしたちが乗っているのは、シボレーのコンバーチブル。
先週、買った。
もちろん、中古だ。けど、これはあたしたちが買ったはじめてのクルマだ。
いままで乗ってたのは、すべて盗品《とうひん》。
ビリーにいわせると〈道路に落ちてた〉。
つまり、盗んできたクルマだ。
たとえ10年前の型でも、クルマを買えるようになったんだ……。
あたしは、ふと、物おもいにふける。
「その|通り《ブルヴアード》を右だぜ」
ビリーが、運転してるチャックにいっている。
あたしたちは、シーフード・レストラン〈オクトパス・ガーデン〉に向かっていた。
実業家ミスター中津川《なかつがわ》の招待だった。
娘《むすめ》の蘭《らん》の危機を、あたしたちが救った。そのお礼ということで、ミスター中津川がごちそうしてくれることになっていた。
店が、見えてきた。海に面して建っている。コロニアル風のどっしりとしたレストランだ。
「高級な店なんだから、ウエイトレスの|お尻《ヒツプ》なんかなでちゃダメよ」
あたしは、ふり向いてリカルドやビリーにいった。
♪
「よお、きたな」
とJ・R。
海の見える大きなテーブル。みんな、もう坐《すわ》っていた。
J・R。ミスター中津川。品のいいミセス中津川。そして娘の蘭。
もう1人、女の子がいた。
10代だろう。あたしと同じぐらいかもしれない。
蘭とは対照的に、よく灼《や》けていた。
ゆるくウェーヴした髪《かみ》も、少しトウモロコシ色になっている。波乗りでもしているんだろう。
「ああ、紹介《しようかい》しよう」
とJ・R。
「蘭の妹で、レイだ」
と、いった。
「こんにちは」
と彼女。明るく、はっきりとした声でいった。
灼けた顔で、まっ白い歯が光った。
「レイって、首にかけるレイ?」
あたしがきくと、
「日本語で、こう書くのよ」
と彼女。テーブルに指で〈玲〉と書いてみせた。
「ミッキーとは同じ年齢《とし》だ。せいぜい仲良くしろよ」
とJ・R。あたしに、いった。
「そりゃいいや」
とビリー。
「ミッキーに、ケンカや万引きのやり方を教えてもらうと……」
最後の〈いい〉をいう前に、あたしのヒジ鉄がビリーのボディに入った。
軽くうめきながら、ビリーは席に坐《すわ》る。
「妹さんがレイだと、もしかして弟さんが腰《こし》ミノだったりして」
とチャック。笑いながら、フラダンスの振《ふ》りをしてみせた。
ミスター中津川も苦笑。
「いや、残念ながら息子はいなくてね」
バンドのみんながあんまりデタラメをいうんで、マネージャーのアントニオがとりつくろうように、
「妹さんには、はじめてお目にかかりますが」
と蘭にいった。
「東京とハワイをいったりきたりで」
と蘭。
「サーフィンの季節にならないと、ハワイに帰ってこないんですよ、もう」
と、ママのミセス中津川。
そうか……。北海岸《ノース》に、そろそろいい波がくる季節なんだ。あたしは、ビールのグラスに口をつけながら思った。
♪
「やっぱり、そうか」
とJ・R。うなずきながら、いった。
さっききいたカー・ラジオ。KQKQから流れてた〈ロンリー・モーニング〉のことを話したところだ。
「ついきのうも、ほかの局で君らの曲を流してたという情報が入ってる」
とJ・R。ふり向く。立ってひかえているボディガードのナカジマに、
「そうだったな」
ナカジマは、うなずく。
「FM局のKOOJです」
と、いった。
「どういうことなんだろう」
ときくアントニオに、
「とうとう、地すべりを起こしはじめたらしいな」
とJ・R。
「つまり、ハワイの放送局にとって、確かに本土《メイン・ランド》の音楽産業からの圧力はこわい。しかし、地元の人間のリクエストを無視することもできない」
J・Rは、シャンパンをひと口飲むと、
「局の人気が落ちれば、スポンサーも逃《に》げていくからな」
といった。
「早い話、どの局もその板ばさみで、シーソーみたいに揺《ゆ》れていたわけさ」
「じゃ、あたしたちの曲をかけはじめたってことは?」
と、あたし。
「もう、ほかの局も、ハワイにおける君らバンデージの人気を無視することが不可能になってきたってことだ」
とJ・R。あたしたちを見回して、いった。
「クルマ、ロールスにするんだったかな」
とチャック。あたしに小声でいった。
J・Rは、あたしを正面から見て、
「こいつは勝利への大きな前進だが、同時にひと回り大きな爆弾《ばくだん》をかかえるようなものだ」
「爆弾?」
「ああ。本土《メイン》のシンジケートも、ますます本気で刺客《しきやく》を送り込んでくるだろう。油断したら、あっという間に」
とJ・R。
握《にぎ》ってる魚のナイフで、自分の首をかっ切るしぐさをして、
「やられちまうだろう。気をつけろ」
と、いった。
「わかったわ」
あたしは、うなずく。シュリンプを、フォークで突《つ》ついた。
♪
「ファースト・コンサート!?」
あたしは、思わずきき返してしまった。
「ああ、そうだ」
とJ・R。ロブスターのハサミをもぎりながら、
「もう、そのタイミングだ」
と、いった。
「2か月後だ。会場もおさえた」
「会場って……」
「ワイキキ・シェルだ」
「ワイキキ・シェル!?」
ビリーが、思わずきき返した。
ワイキキ・シェル……。ハワイで音楽をやる人間なら、誰もが夢《ゆめ》に見るコンサート会場だ。
カピオラニ公園の端《はし》にある。
客席は、野外だ。ステージには、文字どおり、貝《シエル》の形をした屋根がついている。
数えきれないほどのスター・プレーヤーたちが、そのステージに立った。
あたしも、何回、いや何10回か、客席に坐《すわ》った。
そのステージに、自分が立つなんて……。
「どうした。ワイキキ・シェルじゃ不満か?」
とJ・R。
「まさか」
あたしは、首を横に振《ふ》った。J・Rは、バンデージのメンバーを見回す。
「いまのレコード売上げや人気からして、客の入りに心配はない。自信を持って準備してくれ」
と、いった。みんな、飲み食いしながらうなずく。
「成功するといいね」
とミスター中津川。
「成功させてみせます」
とJ・R。
「そして、そのコンサートが成功すれば、私の音楽産業への進出も成功したという証明になります」
ミスター中津川が、うなずく。
「いよいよ君も、二代目《ジユニア》じゃなく、一人前のボスになるわけだね」
J・Rは、黙《だま》ってかすかに微笑《ほほえ》む。そして、
「お嬢《じよう》さんとの正式な婚約《こんやく》は、そのときまで待っていただきたいのですが」
と、いった。
「もちろん、いいよ。男は、まず仕事だ。とにかく、がんばってくれ」
とミスター中津川。
あたしは、マルガリータのグラスを口に運ぶ。
2つの思いが、胸の中にあった。
その1。J・Rと蘭《らん》は、まだ正式に婚約していなかったんだ……。
その2。でも、あたしたちのコンサートが成功したら、ちゃんと婚約するんだ……。
マルガリータが、ほんの少しホロ苦い。
♪
「ミッキー、じゃなかった未記子《みきこ》君」
とミスター中津川。あたしに声をかけた。
ひさびさに日本語名を呼ばれて、あたしはちょっとあわてた。フォークから、カニの肉がポロリとお皿《さら》に落ちた。
「それにしても、この前は娘《むすめ》を助けてもらってありがとう」
とミスター中津川。
「なんと礼をいっていいか、わからないよ」
「いえ、そんな……」
「お礼に何かしたいのだが、何がいいかね。きくところによると君はなかなかの意地っぱりだそうだから、変に押《お》しつけがましいプレゼントはできないしね」
とミスター中津川。微笑《わら》いながら、いった。
「なんでも、遠慮《えんりよ》なくいってくれないか」
ビリーが、あたしの耳に口を近づけて、
「ロールス」
と、ささやいた。それは無視。
あたしは、自分のお皿《さら》を見つめた。10秒……20秒……30秒……。
「じゃ、1つだけお願いしたいことがあるんだけど」
と、ミスター中津川にいった。
「なんだい?」
「あの……娘のレイさんを、半日だけ貸してもらえませんか?」
あたしは、いった。
♪
「レイを……貸す……」
とミスター中津川。ポカンとした表情で、
「そりゃ、いったい……」
レイも、お皿から顔を上げた。あたしを見る。
「何か事情がありそうだな。話してくれるんだろう?」
とミスター中津川。優しく、いった。
あたしは、うなずく。ポツリ、ポツリと、話しはじめた。
♪
1週間前だった。
ホノルル・コロシアムの電話が鳴った。とったアントニオが、
「ミッキーにだ。国際電話みたいだ」
と、受話器をさし出した。うけとる。
「はい」
「ミッキー?」
その声は……あたしは、思わず両手で受話器を握《にぎ》りしめた。
そのハスキー・ヴォイスは……ママだ。
「ミッキーでしょう?」
「そ、そうよ」
あたしは、相手をなんと呼ぼうか、一瞬《いつしゆん》考えた。とりあえず、ママのファースト・ネームで、
「亜記子《あきこ》さんね」
と、いった。
♪
「ママは、あたしが5歳のときに、家を出ていったの」
あたしは、ミスター中津川に向かっていった。
事情を、簡単に話す。
古いジャズにこだわって仕事をなくしていったドラム叩《たた》きのパパ。
そんなパパとの暮《く》らしを捨てて、歌手だったママは家を出ていった。
失意のまま、パパは事故で死んだ。あたしが、暴力ざたで感化院《ガールズ・ホーム》に入っている15歳のときだった。
そのパパのお墓に置かれている|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》の花を見つけたのは、あたしがいまのバンドを組んだ頃《ころ》だった。
花を置いたのは、ママだ。そう、パパの古いバンド仲間が教えてくれた。
ママは、あちこちの店で歌いながら、太平洋を流れ歩いているらしい。
あたしは、ただひとことの〈さよなら〉をママにいうために旅に出た。
グアム島で、ついに出会った。
けど、あたしが娘《むすめ》だとは名のれなかった。感化院《ホーム》にぶち込まれるような子があなたの娘だとは、どうしてもいえなかった。
グアムの潮風。
その中でかわされた会話のきれっぱし。
〈娘がひとり、ハワイにいるわ。未記子って名前よ〉
〈……知ってるわ、その子なら。音楽仲間だったから〉
〈未記子は、元気だった?〉
〈心配ないわ。未記子は、あたしみたいな不良娘ではないもの〉
そして、ママはグアムの警察署長と再婚《さいこん》した。
♪
「じゃ、君のママは、ミッキーと娘の未記子が同一人物だとは、いまも知らないわけだ」
とミスター中津川。
あたしは、うなずく。
「あたしがミッキーって呼ばれるようになったのは、ママが家を出た何年もあとだし、あたしの顔かたちも、5歳の頃とずいぶん変わったから……」
ミスター中津川も蘭《らん》たちも、うなずく。
「で、ママはグアムで幸せに暮《く》らしているのかい?」
あたしは、うなずく。
「そうだと思うわ。とうとう、あっちで永住権をとるって話だから」
「永住権?……」
あたしは、うなずく。また、電話でのやりとりを思い出していた。
♪
「永住権をとる?」
「そうなのよ、ミッキー」
「じゃ、結婚生活はうまくいってるのね」
「まあね」
ママは、ちょっと照れたような調子でいった。
「で、こっちで永住権をとるために、そっちに1度いかなきゃならないのよ」
とママ。
そうか……。グアムはアメリカの勢力|圏《けん》といっても、確か北マリアナ連邦《れんぽう》っていうことになっている。
永住するには、移民局かどこかお役所での手続きが必要なんだろう。
「で、いつくるの、亜記子さん」
「10日後よ」
とママ。
「それで……ちょっとミッキーにお願いがあるんだけど……」
「何? なんでもいって」
ママは、10秒ぐらい無言。
「……その……娘《むすめ》の未記子に会いたいんだけど……」
「会う?」
「いや、会うなんてことじゃなくて、元気な姿を、チラリとでもいいから見たいんだけど……」
とママ。
「今度ハワイにいったら、もう二度といくことがあるかどうかわからないし……心残りがないように……」
「…………」
あたしも、5秒ぐらい無言。そして、
「……わかったわ」
と、いった。
「なんとか、未記子と会えるように、やってみるわ」
「……ありがとう。でも、本当に、チラッと見るだけでいいのよ。いまさら、母親だなんて名のれるわけもないし」
「…………」
しばらく、言葉が出てこない。やっと、
「……了解《りようかい》」
とだけいえた。
♪
「というわけなの」
あたしは、話し終わった。ミスター中津川が、うなずく。
「その先は、わかった」
とJ・R。
「彼女に、レイに、未記子になりすましてもらいたいんだな」
あたしは、うなずいた。
「ほんの2、3時間でいいの。しかも、名のり合うわけじゃないから、ごく普通《ふつう》の高校生っていう感じでいてもらえばいいの」
「とりあえず、不良|娘《むすめ》になってなければ、ママは安心してグアムに帰れるわけだ」
とJ・R。
「そういうこと。どうかしら」
あたしは、ミスター中津川にきいた。
彼が何かいおうとする前に、
「お安いご用よ」
とレイが答えた。
「どっちみち、波乗りしてる以外の時間はヒマだし」
とレイ。父親の方も見ずにいった。ニコッと、親指を立ててOKのサイン。
♪
「そういえば、インタビューの申し込みがきてるんだが」
とJ・R。
店の玄関《げんかん》に歩きながらいった。
「インタビュー?」
「ああ。ニューヨークの出版社から出てる〈|ON STAGE《オン・ステージ》〉っていう音楽雑誌だ。知ってるだろう?」
もちろん、知ってる。アメリカでも、最もメジャーなロック&ポップス誌の1つだ。
「そこから、ザ・バンデージの特集をしたいと、バニアン・レコードの方に連絡《れんらく》があったんだ」
「あの〈ON STAGE〉から……」
「いよいよ、バンデージもメジャーになってきたな」
とJ・R。
「もちろんOKを出しておいた。2、3日中に取材の人間がくるはずだ」
「わかったわ」
「写真も山ほど撮《と》るそうだから、せいぜいキレイに写るようにしとけよ、ミッキー」
「OK。今夜からミルクのお風呂《ふろ》にでも入るわ」
「背中を洗ってやろうか?」
とJ・R。あたしの耳もとでささやいた。
「未来のフィアンセにきこえるわよ」
あたしは、微笑《わら》いながらいった。J・Rの腕《うで》を軽くつねった。
店を出る。自分たちのシボレーに歩いていく。
♪
3日後。
お昼少し前。
〈ON STAGE〉の人間が、ホノルル・コロシアムにやってきた。
赤毛の美人と、中年男だった。2人とも白人だ。
「記者のパメラよ」
と赤毛の美人。名刺《カード》を出した。
「そして、こっちがカメラマンのボブ」
と中年男を紹介《しようかい》する。
「やあ、よろしく」
とカメラマンのボブ。名刺《カード》を出すかわりに、あたしたちと握手《あくしゆ》。
「さて」
とパメラ。スケジュール・ノートをとり出すと、
「2か月後に発売になる号で、10ページの特集をしたいの」
と、いった。
「10ページも……」
あたしは、思わずつぶやいた。
「ハワイから出たひさびさのスーパー・グループとしてね」
とパメラ。
「約1週間かけて、インタビューと撮影《さつえい》をしたいんだけど、いいかしら?」
「もちろん。協力は、おしまないよ」
マネージャーのアントニオが答えた。
「よかった。ぜひいい特集にするわ」
とパメラ。
「じゃ、さっそくなんだけど、メンバー1人ずつのインタビューをはじめていいかしら」
あたしたちは、うなずいた。
ちょうど、午前中の練習を終えたところだった。
「あたしは、ちょっとこれから用事があるんだけど」
と、あたしはいった。空港に、ママを |迎え《ピツク・アツプ にいく時間だった。
「OK。じゃ、バンド・リーダーのミッキーは、後でゆっくりとインタビューするとして、ヴォーカルのあなたからはじめましょうか」
とパメラ。リカルドに、いった。
「いいとも」
とリカルド。
相手が美人なんで、ニタニタしながら、
「なんでもきいてくれ。なんなら、2人だけで一杯《いつぱい》飲みながら話そうじゃないか」
と、パメラに、にじり寄る。
「あ、あの……まあ、一杯は後にして、とりあえずここでインタビューを」
とパメラ。後ずさりしながら、小型のテープレコーダーをとり出す。
あたしは苦笑いしながら店を出た。
陽《ひ》ざしに、眼を細める。ママを歓迎《かんげい》するように、ホノルルの空は快晴だった。
シボレーに歩いていく自分の影《かげ》が、アスファルトに濃《こ》い。
♪
空港の手前で、クルマをとめた。
レイを売るスタンドが並《なら》んでいる。一番左の店。チャイニーズのおばさんがやっている店に歩いていく。
|真紅の《レツド》プルメリアとペパーミント・カーネーションで編んだレイにした。8ドル50セントもふんぱつした。
♪
空港の玄関《げんかん》。
あたしは、ビニール袋《ぶくろ》に入ったレイをぶら下げて立っていた。
着陸予定時間から30分して、ママは玄関に出てきた。
小ざっぱりしたブルーのパンツ・スーツ。車輪のついた小型のトランクを持っていた。
ママは、あたしを見ると、白い歯を見せて大きく手を振《ふ》った。
あたしも小走り。
軽く、抱《だ》き合う。
「〈いらっしゃい〉? それとも〈お帰りなさい〉? どっちがいいのかしら」
あたしは、いった。
ビニール袋から、レイを出す。ママの首にかけた。プルメリアの赤が、服のブルーによく似合っていた。
♪
「ダンナさんは一緒《いつしよ》じゃなかったの?」
クルマに歩きながら、あたしはきいた。
「署長だから、なかなか休みがとれなくてね」
とママ。
あたしは、うなずきながらシボレーのトランクを開けた。ママの荷物を入れる。
ママは、空を見上げている。深呼吸……。
「やっぱり、グアムとは空気の匂《にお》いがちがうわね」
と、つぶやいた。
♪
「元気そうね、ミッキー」
助手席で、ママがいった。
「お互《たが》いにね」
アクセルをふみ込みながら、あたしは答えた。
クルマはH1に入っていた。
本当に、ママは元気そうだった。
アルコールびたりだったあの頃とは、まるでちがう。
肌《はだ》がピンと張っている。瞳《ひとみ》がにごっていない。
「何日ぐらいいられるの?」
「役所での手続きや何かに最低1週間はかかるらしいから、10日ぐらいはいる予定よ」
あたしは、ステアリングを握《にぎ》ってうなずいた。
「それだけいられれば、例の未記子のこともなんとかなると思うわ」
と、いった。ママは、しばらく無言。
「あの……電話でもいったように、チラッと元気な姿を見るだけでいいんだからね。絶対にあの子には気づかれないようにね」
「……わかってるわ。心配しないで」
クルマは、ホノルルの中心に近づいていく。
「ところで、ホテルはどこをとったの?」
「ハレクラニよ」
「ずいぶん豪勢《ごうせい》ね。無理したんじゃないの?」
「馬鹿《ばか》にしちゃダメよ、ミッキー。警察署長の給料《サラリー》ってのは、ちょっとしたものなんだから」
とママ。明るい声が、フリーウェイの風にちぎれて飛んでいく。
♪
「いい部屋ね」
あたしは、見回していった。
ハレクラニの6階。海の見える部屋だった。
冷蔵庫の上に、ミニ・バーがある。ミニチュアのお酒がズラリと並《なら》んでる。
「一杯《いつぱい》やらない?」
あたしは、きいた。
「5時前はやらないの」
とママ。トランクを開けながらいった。
「…………」
あたしは、その横顔を思わず見た。
あの頃は、まっ昼間からジンをグイグイと飲んでいたのに……。
「といっても、ノドが乾《かわ》いたわね」
とママ。冷蔵庫を開ける。
ジンジャエールを2本、とり出した。
「はい、ミッキー」
あたしも、ジンジャエールのビンをうけとる。2入で、ベランダに出た。
午後の水平線が、まぶしく光っている。
「じゃ、再会に」
乾杯《かんぱい》した。
ジンジャエールのビンが、コチンと音をたてた。
冷たさが、ノドを落ちていく。生まれてこれまでで一番おいしいジンジャエールだった。
♪
「すごい人気ね」
記者のパメラが、いった。ホノルル・コロシアムの中を見回す。
店の中は、客でごったがえしていた。それでも入れない客たちが、外で待っている。
夜の7時30分。
きょう最初のステージがはじまるところだった。
「LP《アルバム》が出て以来、ずっとこんなよ」
あたしは、いった。
「まあ、ゆっくり聴《き》いていって」
あたしはパメラにいう。ステージに向かって歩いていく。
ステージに照明が当たる。客たちの歓声。口笛《くちぶえ》。
あたしは、ヒップ・ポケットからスティックを抜《ぬ》く。ドラムスのイスに坐《すわ》る。
ほかのメンバーも、スタンバイ、OK。
あいさつも何もなし。あたしは、スティックを鳴らして合図《カウント》を出した。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
イントロが流れはじめる。
〈少しだけ、ティア・ドロップス〉のイントロが、盛《も》り上がっていく。
リカルドが、唄《うた》いはじめた。
きょうは、やけに思い入れたっぷりな唄い方だった。
理由は、すぐにわかった。
パメラだ。カウンターにもたれてステージを見ているパメラ。
彼女に向かって、リカルドは唄っている。
〈この女たらしが〉あたしは、胸の中で苦笑い。
曲の間奏。リカルドは、パメラに向かってステージから投げキス。
〈やれやれ〉
あたしは、苦笑しながらスティックを動かす。
カメラマンのボブのストロボが、あたしたちに向かってつづけざまに光る。
♪
午後1時。ハレクラニ・ホテルのロビー。
約束《やくそく》の時間ジャストに、ママはおりてきた。
きょうは、これから、パパのお墓に送っていくことになっていた。
ママは、珍《めずら》しく、サングラスをかけている。
あたしの顔を見るなり、
「すごいのね、ミッキー」
と、いった。
「すごいって」
「これよ」
とママ。見れば、あたしたちのファースト・アルバムを持っている。
「きのう、レコード屋で見つけたのよ。すごく売れてるみたいじゃない」
「まあ……」
あたしは、少し照れる。
「さあ、いきましょう」
とホテルの玄関《げんかん》に歩きはじめた。
♪
「未記子とは、連絡《れんらく》がとれたわ」
ステアリングを握《にぎ》って、あたしはいった。
「……そう……」
とママ。
「彼女、いま、州の奨学金《しようがくきん》でカイザー高校《ハイ》に通っているの」
あたしは、つくり話をはじめた。
「音楽は、もう、趣味《しゆみ》にしちゃって、将来はハワイ大学にいくっていってたわ」
「……へえ……大学に……」
とママ。
「2、3日中には会えると思うわ」
「…………」
「心配しないで、グアムから遊びにきたあたしのおばさんということにでもして、偶然《ぐうぜん》みたいに紹介《しようかい》するから」
あたしは、いった。ママは無言でうなずいた。
♪
真珠湾《パール・ハーバー》が遠くに見える。
丘《おか》の上の墓地。
「ここで待ってるわ」
あたしは、クルマの運転席でいった。
「1人で、ゆっくりと話してきたら」
ママは、
「わかったわ、ミッキー」
クルマをおりる。
アンセリウムの花束《はなたば》を持って、ゆっくりと歩いていく。
パパの好きな|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》は、いま花を咲《さ》かせる季節じゃない。
ママは、パパのお墓の前に立った。
うつむいた後ろ姿が、遠くに見えた。
ママは、花束を、小さな十字架《じゆうじか》に立てかけた。
芝生《しばふ》に片方のヒザをついて、十字架を見つめている。
何かお墓に話しかけているのか、あたしからは見えない。
小柄《こがら》なママの肩《かた》。薄《うす》いピンクのシャツに、午後の陽ざしが揺《ゆ》れている。あたしは、じっとそれを見つめていた。
♪
「この長い脚《あし》を、しっかりと撮《と》ってくれよな」
とチャック。
黄色い消火|栓《せん》に片足をかけてニッと白い歯を出した。
「わかった、わかった」
とカメラマンのボブ。苦笑いをしながら、レンズを交換《こうかん》する。
ホノルル・コロシアムの前の路上。チャックの撮影《さつえい》中だった。
バンド全員でいる写真は、たっぷり撮《と》った。これから、1人ずつの撮影だという。
きょうは、ダウンタウン・ヒーローというイメージでチャックを撮るらしい。
「飛び出しナイフは持たないのか?」
ビリーが、わきからひやかす。
「うるさいなあ、もう」
とチャック。ビリーに、
「お前んときこそ、チャイナタウン・ヒーローってイメージで、焼き豚《ぶた》丸ごと1匹《ぴき》かついで撮るんだな」
と毒づく。
見物してるアキラやアントニオの笑い声をききながら、あたしはシボレーのドアを開けた。エンジンをかける。
♪
パイナップル畑の中。道路がまっすぐにのびている。
DELMONTEの看板が、後ろにふっ飛んでいく。
あたしは、オアフ島の南から北へ走っていた。行き先は、北海岸《ノース・シヨア》だ。
やがて、左側の丘の中腹。赤い屋根の建物が見えてきた。
一見、高校《ハイスクール》みたいな建物。それは、あたしがぶち込まれていた感化院《ガールズ・ホーム》だ。
ここを通らなくても、ノース・ショアにはいけた。
けど、最短|距離《きより》だから、この道路を選んだ。ただそれだけのことだ。
感化院《ホーム》の赤い屋根が、午後の陽ざしに光っている。庭のヤシが、乾《かわ》いた風に揺《ゆ》れている。
あたしは、時速60印マイルをキープ。感化院《ホーム》が、窓の外を過ぎていく。
カー・ラジオが、古いカントリー・ウエスタンを流している。
♪ こぼしちまったウイスキーは
もう飲めない
去っていった恋人《こいびと》は
もう二度と戻《もど》ってこない
それでも俺《おれ》は気にしない
きのうなんてクソくらえだ
終わっちまったことは
ゴミ箱《ばこ》に放り込んで
俺はまた馬にまたがるんだ
きのうなんてクソくらえだ
強がりだと笑ってもいいぜ
何度でも言ってやる
きのうなんてクソくらえ!
しゃがれ声のカントリー・シンガーが、ガンガンと唄《うた》っている。
あたしはまっすぐ前を見てアクセルをふみつづける。ミラーの中で、赤い屋根が遠ざかっていく。
♪
道路が、ゆるい下りになっていく。
風の中に、海の匂《にお》いが、かすかにする。
そして、サトウキビ畑のかなたに、海が見えてきた。いく筋もの白い波が、はっきりと見える。ノース・ショアだ。
♪
「レイ!」
あたしは、叫《さけ》んだ。クルマから手を振《ふ》った。
彼女も気づいた。
サーフ・ボードをかかえていない右手を振ってみせた。
日本人には珍《めずら》しく、ハイレッグの水着をつけている。
ほとんど|地元っ子《ローカル》に見える。
サンセット・ポイント。
ずらりと並《なら》んでるノースの|波乗り《サーフ》ポイントの中でも、一番|端《はし》に近い。
レイは、男の子といっしょだった。同じようにボードをかかえている。白人だった。
レイと彼は、ボードをかかえたまま、軽くキス。
彼の方は、右に歩いていく。レイは、あたしの方に歩いてくる。あたしは、クルマからおりた。
「さがした?」
とレイ。あたしは、微笑《わら》いながらうなずく。
「ハレイワ・ポイントから、しらみつぶしにね」
と、いった。
「きょうは、ここにいい波がきてるのよ」
とレイ。海から上がったばかりなんだろう。髪《かみ》も体も濡《ぬ》れている。
「例の、ママの娘《むすめ》になりすます件でしょう?」
とレイ。あたしは、うなずいた。
「何か食べながら、打合わせしましょう」
とレイ。ボードを、自分のクルマの後部《リア》に積み込む。
♪
あたしとレイは、ハレイワの防波|堤《てい》に坐《すわ》っていた。
海をながめながら、ホットドッグをかじっていた。
打合わせは、ものの10分で終わった。
2日後の日曜日。青空市《スワツプ・ミート》に出かける。そこで、偶然《ぐうぜん》のように2人を会わせる。それだけだ。
あたしがママに話した未記子のことを、レイは暗記する。
「ええと、州からの奨学金《しようがくきん》で、カイザー高校《ハイ》の11年生。誕生《たんじよう》日は5月9日ね」
「そう。よくできました」
あたしたちの笑い声が、防波堤に響《ひび》く。
「そういえば、さっきキスしてたの恋人《こいびと》?」
あたしは、きいてみた。
「そう。こっちのね」
レイは、カラッといった。
「こっちってことは、日本にもいるわけ?」
レイは、うなずく。
「そりゃ、日本とハワイをいったりきたりだから、2人必要でしょう」
「まあ……ねえ……」
あたしは、つぶやいた。レイは、ダイエット・ペプシをひと口飲む。
「女の子だもん。いっぱい恋して自由に生きなくちゃ」
とレイ。笑いながらいった。
「私は、姉さんみたいに、親の決めた相手となんて絶対に結婚《けつこん》しないわ」
「……姉さんとジュニアのこと……親が決めたの?……」
「半分はね」
「でも……姉さん自身だってジュニアのこと、好きなんでしょう?」
「好きだとは思うけど、恋《こい》してはいないと思うわ」
とレイ。
「恋か……」
あたしは、つぶやいた。
レイは、ホットドッグをがぶりと半分かじる。中から、ソーセージだけが全部抜《ぬ》けてしまった。
レイは、苦笑い。
中味のなくなった、半分だけのパンをながめて、
「恋のない結婚《けつこん》なんて、これと同じね」
と、つぶやいた。
すぐ近くで釣《つ》りをしてる男の子。そのそばにいる彼の犬に、パンをポイと投げた。犬が、しっぽを振《ふ》って食べはじめた。
♪
「緊張《きんちよう》しなくてもいいのよ」
あたしは、助手席のママにいった。
日曜日。朝の10鴇時。
アロハ・スタジアムの青空市《スワツプ・ミート》に、クルマを走らせていた。ママの口数が少ない。
「未記子には絶対にバレやしないから、だいじょうぶよ」
あたしは、いった。アロハ・スタジアムの駐車場《ちゆうしやじよう》にシボレーを滑《すべ》り込ませる。
スタジアムの駐車場は、細かく番号で分けられている。
レイとの待ち合わせは、E―3。
いた。
青いHONDA。レイは、クルマにもたれて立っていた。
白いポロシャツ。ピンクのショート・パンツ。白いテニス・シューズ。
あたしは、レイに手を振る。となりにクルマを入れた。
おりる。
「お待たせ、未記子」
あたしは、いった。いっしょにクルマをおりてきたママを、紹介《しようかい》する。
「あの……グアムから遊びにきてるあたしのおばさんなの。一度スワップ・ミートが見たいっていうから連れてきちゃった」
「こんにちは」
とママ。
「はじめまして、未記子です」
とレイ。ニコリと白い歯を見せた。
「じゃ、ぶらつこうか」
あたしたちは、青空市《スワツプ・ミート》の中を歩きはじめた。
♪
「レイ!!」
呼ぶ声がした。
青空市《スワツプ・ミート》の人ごみの中。男の子が、こっちにやってくる。
スタイルや灼《や》けぐあいからして、レイの波乗り仲間らしい。
レイは気がつかないふりをしようとした。けど、相手は追いついてくる。
「待てよ、レイ!」
ヤバい……。バレる……。
♪
そのときだった。
「ちょっと、ハンク」
とレイ。その男の子と向かい合う。
「レイ、レイって勝手につめて呼ばないでよ。私にはちゃんとレイラニって名前があるんですからね」
両手を腰《こし》に当てていった。
「わかった?」
とレイ。男の子の鼻先に指をつきつけていった。
「さ、こんな人ほっといていきましょう」
レイは、あたしとママの腕《うで》を引っぱる。
ポカンとしてるハンクって男の子を置きざり。スタスタと歩き出した。
あたしは、ホッとした。
レイが、未記子つまりあたしのハワイアン・ネーム〈レイラニ〉を覚えててくれて助かった……。
「ねえ、いまの男の子、いいの?」
あたしは、レイの耳もとでささやいた。
「いいのいいの。どうせ、大麻《パカロロ》ばかりやってる、いかれサーファーなんだから」
とレイ。ささやき返す。
あたしたちは、また、青空市《スワツプ・ミート》を歩きはじめた。
レイは、14金のピアス。あたしは、古いジャズのレコード。ママは、パイナップル型の木皿《きざら》を買った。
♪
「じゃ、私はバイトがあるんで、これで帰るわ」
とレイ。
あたしたちは、クルマのところに戻《もど》ってきていた。
「日曜日なのにバイトなの?」
とママ。
「弁護士さんの覚え書きを家で清書《タイプ》するバイトなの」
とレイ。
「最近はドラムを叩《たた》かないで、タイプライターのキーばかり叩いてるわ」
と、いった。
「でも、その方が、大学の学費もちゃんと稼《かせ》げるしね」
とレイ。打合わせどおりに、ママに話す。ママは、うなずいた。
「じゃ未記子さん、きょうはつき合ってくれてありがとう」
とママ。
「こちらこそ。楽しかったわ。おばさまも、ハワイを充分《じゆうぶん》楽しんで帰って」
とレイ。2人は、握手《あくしゆ》。
「じゃあ、またね、ミッキー」
レイは、自分のHONDAに乗り込む。あたしも、シボレーのドアを開けた。
♪
昼下がりのバーは、すいていた。
砂浜《すなはま》に面した店〈SHORE BIRD〉。
ハレクラニのすぐ近くにある、レストラン・バーだ。
あたしとママは、砂浜に面した席に坐《すわ》った。砂浜をながめるようにカウンターをつくってある。
あたしたちは、海に向かって並《なら》んで坐った。吹《ふ》き抜《ぬ》けの店を、潮風がスルーしていく。
ウエイトレスが、注文をとりにきた。
ママは、お酒のメニューをながめる。
「飲むの?」
「……そうね……。きょうだけは特別だからね……」
「いいんじゃない」
あたしは、いってあげた。
「じゃ、フローズン・ダイキリ」
とママ。
「あたしも同じもの。それに、ダブル・バーガー。食べるでしょう?」
あたしは、ママにきいた。ママも、うなずく。
「じゃ、ダブル・バーガーも2つですね」
とウエイトレス。
♪
「本当に、きょうはありがとう、ミッキー」
とママ。
「お安いご用よ。未記子とは、どっちみち、スワップ・ミートにいく約束《やくそく》になってたんだし」
あたしは、ダブル・バーガーを手にしていった。
ダブル・バーガーに、かじりつく。海をながめながら、食べる。
「ほら、ミッキー、ケチャップがついてるわよ」
とママ。
店のペーパー・ナプキンを1枚とる。あたしの右の口もとをふいてくれる。
ママは、かすかに苦笑い。
「ミッキーも、そろそろ年頃なんだから、気を使ったら?」
と、いった。
「気を使うって、何に?」
「何って、身だしなみとか、おしゃれとか」
「身だしなみか……」
あたしは、つぶやく。
「だいたい、あなた、鏡もクシも持ってないんじゃない?」
あたしは、ダブル・バーガーをかじりながら、うなずいた。
「あきれた女の子ね」
とママ。
自分のハンドバッグを開ける。
「お礼といっちゃなんだけど、これ、あげるわ」
と、何かとり出した。
コンパクトだった。外は真鍮《しんちゆう》らしい。何か、花の絵が彫《ほ》られている。
開けてみる。片側の白粉《おしろい》は、カラだ。もう片側は、鏡になっている。
「その鏡で、ときどき顔を見たら?」
とママ。
あたしは、鏡に顔を映してみる。また、ハンバーガーのケチャップが口もとについていた。
あたしは、苦笑い。ペーパー・ナプキンで口もとをふく。
「これ、本当にもらっていいの?」
コンパクトを持って、あたしはいった。
「もちろん。親せきのおばさんからの、ささやかなプレゼントよ」
ママは、微笑《わら》いながらいった。
♪
「家を出たこと、後悔《こうかい》したこと……ない?」
あたしは、思いきって、ママにきいた。
ママは、さすがに無言。
フローズン・ダイキリをひと口。水平線をながめる。
1分……2分……。
「主人や娘《むすめ》の未記子には、心から悪かったと思ってるわ……心から……」
ママは、ポツリといった。
「でも……」
と、言葉をさがしている。
店のスピーカーから、スタイリスティックスの古い曲が流れている。〈今がすべて〉……。あたしとママは、その曲をききながら、ダイキリを飲む。
「許されないことをしたと思うけど……1度してしまったことは、もうとり戻《もど》せないのよね……」
とママ。
「……今が、すべて?」
あたしは、ダイキリを片手にきいた。
ママは、また、しばらく無言。
「誤解されると困るんだけど……過ぎた日のことを悔やんでも何もはじまらないし……明日のことを心配してもしょうがないし……」
とママ。ひと息つくと、
「とりあえず、今を全力で心のままにやってみるしかないんじゃない?……」
と、いった。
あたしは、うなずいた。そして、ああ、やっぱり親子なんだなあと悲しいほど思った。
店に、スタイリスティックスのファルセット・ヴォイスが流れつづける。
海からの風が、|勘定書き《チエツク》の端《はし》をめくって吹《ふ》き抜《ぬ》けていく。
♪
「ミッキー、きょう、撮影《さつえい》だろう?」
アントニオが、いった。
コンサートのための練習が一段落したところだ。
〈ON STAGE〉の取材。1人ずつの撮影のラストは、あたしの番だ。
「どこで撮《と》るっていってたっけ?」
あたしは、ドラムセットから立ち上がりながらきいた。
「ミッキーはやっぱり海のイメージだから、ビーチで撮るっていってたぜ」
とアントニオ。メモをとり出す。
「ええと、サンディ・ビーチの端《はし》で、午後2時から撮影だ」
あたしは、腕《うで》のダイバーズ・ウォッチを見た。
午後1時5分過ぎ。
サンディ・ビーチなら40分もあれば着く。充分《じゆうぶん》間に合うだろう。
「じゃ、いってくるね」
あたしは、店を出ようとした。
「|通り雨《シヤワー》がきそうだぜ」
とビリー。
なんせ、クルマはコンバーチブルだ。いちおう幌《ほろ》はついてるけど、古い型だから、もう錆《さ》びついて出てこない。
とちゅうで雨に降られたらビショ濡《ぬ》れだ。
「ほら」
とビリー。ウインド・ブレーカーをあたしに投げた。
薄《うす》いコットンのウインド・ブレーカー。バンドのメンバーお揃《そろ》いでつくったやつだ。
背中に〈THE《ザ》 BANDAGE《バンデージ》〉の文字。前に、それぞれの名前がプリントされている。
しかも、色ちがいだ。
あたしのは、ペパーミント・グリーン。好きな色だ。
「サンキュー」
あたしは、ウインド・ブレーカーをつかむ。店を出る。
ウインド・ブレーカーをはおりながら、クルマに乗る。
誰も見てないときは、ドアなんか開けない。ヒョイとドアを飛びこえて運転席に坐《すわ》る。
♪
ブレーキ。
サンディ・ビーチの一番|奥《おく》にパーキングした。
平日だから、さすがにひとけはない。
広いビーチ。遠くに人影《ひとかげ》が2つ。
記者のパメラと、カメラマンのボブらしい。
あたしは、エンジンを切る。おりる。
〈そうか……〉
きのうママにいわれたことを思い出す,
〈身だしなみ、身だしなみ〉
ママがくれたコンパクトを出す。鏡に顔を映す。
きょうは、ケチャップもマヨネーズもついていない。
〈ま、いいんじゃない〉
あたしは、鏡の中の自分にいった。コンパクトを閉じる。彼らの方に歩きはじめた。
♪
「どこで撮《と》るの?」
あたしは、きいた。
「やっぱり、海をバックに立ってるのがいいなあ」
とカメラマンのボブ。あたしは、海を背に立った。
ボブは、カメラをとり出す。
「そうだなあ……ミッキー、両手で、ポニー・テールに結んであるハンカチを持ってくれないか?」
とボブ。
「ハンカチを結び終わったって感じで」
あたしは、うなずく。両手で、ハンカチの端《はし》を持った。J・Rが結んだ青いハンカチだ。
「これでいい?」
「ああ。じゃ、1枚いくよ」
とボブ。あたしにカメラを向けた。指が、シャッター・ボタンにかかる……。
つぎの瞬間《しゆんかん》。
ドゥッ! 鋭《するど》く、こもった音!
衝撃波《しようげきは》!
あたしの左耳。貝殻《シエル》のピアスが、破け散った!
♪
一瞬《いつしゆん》、何が起きたのかわからなかった。
5秒……10秒……。
やっと、事態がわかってくる。
ボブのカメラ。そのレンズの先から、かすかに薄《うす》い煙《けむり》が漂《ただよ》っている。
あれは、カメラじゃない! カメラ型の銃《じゆう》なんだ!
「おっと、動かない方がいい」
とボブ。カメラをかまえたままいった。そのレンズは、あたしの胸に向いている。
そうか……。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。
いまボブが持ってるカメラのレンズは、やけに長い。
それが、銃身《じゆうしん》と消音器《サイレンサー》になってるんだろう。
そして、ファインダーで狙《ねら》いを定めて、シャッターを切ると弾《たま》が飛び出す。
認めたくはないけど、よくできたしろものだった。
「25口径だが、狙《ねら》いは、いまデモンストレーションしたとおり正確だ」
とボブ。
「1ミリでも動いたら、撃《う》つ」
あたしの胸にレンズを向けたまま、いった。
あたしの両手は、頭の上。ポニー・テールのハンカチを持ったままだ。
確かに、動けない……。
手がヒップ・ポケットのスティックにとどく前に、確実に撃たれるだろう。
「あんたたち……ニセ物だったのね」
あたしは、いった。時間かせぎだった。
「ごらんの通りよ」
とパメラ。ボブの横で、薄笑《うすわら》いを浮《う》かべていった。
「いったい、誰に雇《やと》われてきたの?」
「ムダな質問だな」
とボブ。
「時間かせぎなら、なおさらムダだ」
ボブの薄い唇《くちびる》が、冷たく嘲笑《わら》った。
「さっきもいったように、狙いは正確だ。1発で心臓を撃ち抜《ぬ》いてやる」
とボブ。
「苦しまないで死ねるのが、せめてもの思いやりよ」
パメラが、嘲笑《わら》いながらいった。
「それじゃ、さよなら、ミッキー」
とボブ。その指が、動いた。
ドゥッ!
あたしの体は、ゆっくりと後ろにのけぞって倒《たお》れた。
♪
「あっけなかったな」
とボブの声。
「ホノルル一の不良少女といっても、やっぱり小娘《こむすめ》ね」
とパメラの声。
眼を閉じて倒《たお》れてるあたしの耳にきこえる。
何が起こったのか、あたしにはわかっていた。
アロハの胸ポケット。そこにたまたま入れた真鍮《しんちゆう》のコンパクトが、弾丸《だんがん》をとめてくれたんだ。
そんなものが胸ポケットにあるなんて、上にウインド・ブレーカーをはおってるから、敵にはわからなかったんだろう。
「さて、早いとこ死体を片づけるか」
とボブの声。
砂《すな》をふんで近づいてくる足音。
やつの手が、あたしの肩《かた》をつかんだ。
とたん! あたしは弾《は》ね起きた!
もう、右手はヒップ・ポケットのスティックを握《にぎ》っていた。
引き抜《ぬ》く!
ボブのスネ。
思いきり横に払《はら》う!
ビシッ!
たぶん折れた。
ボブの眼玉は、いまにも飛び出して落ちそうだった。
口が、パクパクとあえぐ。
あたしは、立つ。
「あんまりあっけなくちゃ、申しわけないでしょ」
カメラを持ってるボブの右手。
スティックを振《ふ》りおろす!
思いきりスネアを叩《たた》くフォーム。
ピシッ!
ボブの手から、カメラが落ちる。
そして、ゆっくりと、ボブは砂浜《すなはま》にくずれ落ちた。もう、気絶していた。
あたしは、ハッとふり向いた。
パメーフを忘れていた。
遅《おそ》かった。
ショルダー・バッグから、パメラは拳銃《けんじゆう》をとり出した。
す早い、手なれた動きだった。
小型の自動拳銃《オートマチツク》。消音器《サイレンサー》のついた銃口が、ピタリとあたしの顔を狙《ねら》っている。
距離《きより》は7、8ヤード。スティックで飛びかかるには遠すぎる。
「胸に、何か入れてたのね」
とパメラ。
「動いたら、1発で顔を吹《ふ》っ飛ばすわよ」
パメラは、冷たい声でいった。
「せっかく1発で楽に死ねたのに」
「…………」
「私はボブみたいに思いやりのある|殺し屋《ヒツトマン》じゃないわ。気の毒ね、ミッキー」
「まず1発目で、そのスティックを持ってる右ヒジ。2発目で、左ヒジ」
「…………」
「そして、右ヒザ。左ヒザ……。早くとどめをさしてくれと泣き叫《さけ》ぶことになるのよ。かわいそうにね、ミッキー」
パメラは、静かにいった。赤い舌が、唇《くちびる》をなめる。
どうやら、サディスチックな性格の殺し屋らしい。
あたしの両手。わきの下。冷たい汗《あせ》が、にじむ。
「じゃ、はじめましょうか」
とパメラ。銃口《じゆうこう》が、ゆっくりと動いた。あたしの右|腕《うで》あたりを狙《ねら》って……。
その瞬間《しゆんかん》だった。
1発の銃声が、砂浜《すなはま》に響《ひび》いた。
♪
パメラの右手が、弾《はじ》かれたように動いた。
拳銃《けんじゆう》が、宙に舞《ま》った。砂浜に落ちる。
パメラは、片ヒザをついた。
左手で、右手を押《お》さえる。指のすき間から、血があふれ落ちる。
あたしは、銃声のした方をふり向いた。
あたしのクルマのとなり。黒いリムジンが駐《と》まっていた。
男が4人、こっちに歩いてくる。
遠目でもわかる。先頭はJ・R。ライフル銃らしいのを持っている。
J・Rたちが、30ヤードぐらいまで近づいてきた。
「ちっ」
とパメラ。動いた!
左手で、拳銃をひろう! かまえようとした。
J・Rの右手。ライフルの銃口が、スッと上がった。
ライフルは、M16。ヴェトナムのジャングルで活躍《かつやく》した、軽量ライフルだ。
J・Rは、M16を片手|撃《う》ち。むぞうさに、引き金を絞《しぼ》った。
銃声!
パメラの左手から、拳銃が吹《ふ》っ飛んだ。
J・Rは、M16をかまえたまま、ゆっくりと歩いてくる。
「日本には、いいことばがあってね」
ニッと微笑《わら》うと、
「何事も、あきらめがかんじん」
と、いった。
♪
「どうして、助けに?」
あたしは、J・Rにきいた。
「なんのことはない。本物の〈ON STAGE〉から、さっき、取材の申し込みがきたのさ。それで、すべてバレた」
とJ・R。
「やつらには、とんだ計算ちがいだったな」
と、いった。手下たちに運ばれていくボブとパメラをふり返った。
あたしは、スティックをヒップ・ポケットに戻《もど》す。
アロハの胸ポケットから、コンパクトをとり出した。
真鍮《しんちゆう》に、弾丸《だんがん》がめり込んでいた。開けてみる。
ひしゃげた弾丸の先端《せんたん》。鏡は、みごとにヒビ割れていた。あたしは、それを、じっと見つめた。
〈ありがとう、ママ〉と胸の中でつぶやいた。
♪
「じや、クルマで待ってて」
あたしは、J・Rにいった。1人で、リムジンをおりる。
ハレクラニ・ホテルの玄関《げんかん》に入っていく。
あした帰るママのために、J・Rが、自分の大型ヨットに招待することになっていた。
たそがれのホノルル沖《おき》をクルージングしながら一杯《いつぱい》やる。そんな予定になっていた。
あたしは、ホテルのロビーを見回す。待ち合わせ時間なのに、ママの姿はまだ見えない。
♪
「え!? チェックアウトした!?」
あたしは、思わず大きな声できき返した。
「ええ。つい1時間ほど前に、チェックアウトされました」
と、ホテルのフロント。
「もしかして、ミッキー様ですか?」
「そうだけど」
「あ、これをことづかっております」
とフロント。封筒《ふうとう》を、あたしにさし出した。
ホテルの封筒だった。あたしは、急いで開ける。ロビーに立ったまま、読みはじめた。
〈ミッキーヘ……いや、未記子へ。あなたが私の娘《むすめ》の未記子だということは、ハワイに着いてすぐに知りました。だって、あなたたちのレコードの裏に、メンバー全員のフル・ネームが印刷されていたから〉
あ……あたしは、思わずつぶやいた。
〈そんな抜《ぬ》けたところが、いかにも私の娘だと思いました。でも、それを知った日は、朝まで涙《なみだ》がとまりませんでした〉
そうか……それで、あの、パパのお墓にいった日、サングラスを……。
〈あなたがセッティングしてくれたすべてに感謝しています。でも、あなたのお芝居《しばい》を見ているのがつらくて……1日早いけれど、帰ります〉
あたしは、深呼吸……。
〈私を許してくれとはいいません。いや、口がさけてもいえません。でも、あなたと過ごしたこの10日間は、幸せでした。あのフローズン・ダイキリとダブル・バーガーの味は、一生忘れないでしょう〉
便せんを持つ手が、小きざみに震《ふる》える。
〈もう二度とハワイの土をふむことはないかもしれませんが、グアムの空の下で、いつもあなたのことを想っています。体に気をつけるのよ……
亜記子〉
あたしはもう、走り出していた。
♪
「どうしたんだ、ミッキー!」
とJ・R。
「急いで! 空港へ!」
あたしはリムジンに飛び込みながらいった。リムジンは、急発進。
ママの手紙を、J・Rに渡《わた》した。J・Rは、す早く手紙を読む。
「ママの乗る航空会社は?」
「コンチネンタルよ」
J・Rは、カー・テレフォンをとった。空港にかける。すぐに切る。
「離陸《りりく》まで15分か……」
と、つぶやいた。すぐに、また電話をとる。部下に電話しているらしい。
「あと15分後に飛ぶグアム行きのコンチネンタルをとめろ」
と、いった。
「空港に電話して、爆弾《ばくだん》をしかけたといえばいいんだ。2、3時間は離陸がのびる」
とJ・R。部下に指示している。
その肩《かた》を、あたしは、つかんだ。
「いいの。やめて……」
と、いった。
♪
「いいのか?……」
とJ・R。あたしは、うなずいた。
「……もし、空港で顔を合わせても……なんていったらいいかわからないし……」
あたしは、つぶやいた。
「こんな風に別れるのが……あたしたちには……一番いいんだと思う……」
あたしは、ポツリといった。
やがて、J・Rが、ゆっくりと、うなずいた。
♪
ホノルル港《ハーバー》。第5桟橋《ピア》。
あたしとJ・Rは、桟橋の端《はし》に立っていた。
ここからは、離陸していく飛行機がよく見える。
「あれだな……」
J・Rが、指さした。
たそがれの空。コンチネンタル航空のジャンボが、ゆっくりと高度を上げていく。
あたしたちの前を、右から左へ飛んでいく。
ママは、たぶん、ホノルルの街を窓から見ているだろう。
もしかしたら、あたしたちのレコードをヒザの上に置いて……。
ジャンボの認識灯が、点滅《てんめつ》しながら動いていく。
その赤い灯が、涙《なみだ》で、ぼんやりとにじむ……。
飛行機は、ゆっくりと、確実に遠ざかる……そして、見えなくなった。
あたしは、ママがあのバーでいった言葉を思い返していた。
〈明日のことを心配してもしょうがない〉
〈とりあえず、今を全力で心のままにやってみるしかないんじゃない?〉
とりあえず、今を全力で、心のままに……。
胸の中で、くり返した。
J・Rが、あたしの前に立っていた。
「ほら」
と、あたしのアゴを軽く持ち上げる。
自分がしめている渋《しぶ》いストライプのネクタイ。それで、あたしの頬《ほお》の涙をふいてくれる……。
「ネクタイ、ダメになっちゃうわよ。ハンカチ、持ってないの?」
「……君のポニー・テールに結んであるじゃないか」
「……ほかのは?」
「もう持たないことにしたのさ」
とJ・R。ポツリといった。
「…………」
あたしは、そっと、J・Rの首に腕《うで》を回した。
〈とりあえず、今を、心のままに……〉
胸の中で、また、つぶやく。
J・Rのアゴのあたりを見つめて、
「KISS ME」
と、いった。
J・Rの腕が、あたしのウエストを抱《だ》きしめる。
キス……。
8小節ぐらいの長いキス……。
岸壁《がんぺき》を洗う波の、ささやくような音。海鳥の鳴き声。
風が涼《すず》しくなってきていた。
[#改ページ]
第5話 S席は、空の上
♪
「おい、ミッキー」
とビリー。
「バストが少し大きくなったんじゃないか?」
ポスターをながめて言った。
♪
カピオラニ|通り《ブルヴアード》。
駐車場《ちゆうしやじよう》を囲むへいに、あたしたちのポスターが貼《は》られていた。
ファースト・コンサートのポスター。
メンバーのまん中に、あたしがいる。ピッチリとしたタンクトップを着ている。
「やっぱり、マフィアの若大将にもんでもらって、大きくなったんじゃないのか?」
とチャック。
「黙《だま》りなさい」
あたしは、チャックをニラみつけた。
|J・R《ジユニア》とは、まだ、そんな間柄《あいだがら》になっていない。
それにしても、本当にバストが大きくなったんだろうか……。
あたしは、ポスターに顔を近づける。
自分のバストあたりを、グッとながめた。
「ほら、やっぱり気になるんだろう」
とビリー。
後ろから、あたしのヒップをなでた。
「ビリー!」
あたしは、パッとふり返った。
その瞬間《しゆんかん》!
銃声《じゆうせい》!
大通りに響《ひび》いた!
♪
「ふせろ!」
とリカルド。
あたしたちはもう、アスファルトにふせていた。
いちばん遅《おく》れたのは、叫《さけ》んだ本人のリカルドだ。
1秒後。タイヤの悲鳴!
カピオラニ|通り《ブルヴアード》の向こう側。1台のセダンが、急発進!
グレーのFORDだった。ナンバーを読むひまもない。タイヤを鳴らしながら、角を曲がっていった。
あたしたちは、ゆっくりと立ち上がった。
「通りのむこうに駐《と》めたクルマの窓から、撃《う》ちやがったんだな……」
とチャック。
あたしは、うなずく。しかも、狙《ねら》われたのは、あたしだった。
顔の近くに、衝撃波《しようげきは》を感じた。
あたしは、ポスターを見た。
ポスターの、自分のバスト。小さい穴が開いていた。弾丸《だんがん》の穴だ。
さっき、あたしがのぞき込んでいた場所だ。
狙《ねら》われたのは、あたしの頭だろう。狙いはピタリ。
「もし、おれが、ミッキーのヒップをなでなきゃ、やられてたな」
とビリー。
確かに、そうだ。ビリーにヒップをなでられて、鋭《するど》くふり向いた。
その瞬間《しゆんかん》、狙撃《そげき》されたのだ。
1秒、いや、0.5秒タイミングがずれていたら、あたしの頭は撃《う》ち抜《ぬ》かれていただろう。
きわどかった。
あたしは、ポスターを見た。
自分の左のバストに開いた小さな穴……。
「マフィアの若大将に連絡《れんらく》した方がいいんじゃないのか」
とチャック。
あたしは、うなずいた。
幸い、昼下がりの大通りには人影《ひとかげ》もない。誰《だれ》かが騒《さわ》ぎ出すけはいも、まだない。
OKAZU《オカズ》屋の主人らしい日系人のおじさんが1人、店の外に出て、こっちを見ているだけだ。
あたしは、近くの電話に歩いていく。
♪
20分後。
J・Rのリムジンと、もう1台のセダンが、大通りに駐《と》まった。
セダンから部下が2人。そして、リムジンからJ・Rがおりてきた。
J・Rは、きょうもキッチリしたスタイル。白い麻《あさ》のスーツだ。
薄《うす》いブルーのシャツ。細かい鳥の柄《がら》の入った、渋《しぶ》いネクタイをしめている。
「ここよ」
あたしは、ポスターを指さした。事情は、電話で簡単に説明してある。
「心臓のどまん中か」
とJ・R。苦笑い。
「まるで、射撃《しやげき》の練習用の|標 的 紙《ターゲツト・ペーパー》だな」
ポスターをながめて、いった。
J・Rは、大通りを見回して、
「向こうに駐《と》めたクルマから撃《う》ったとすれば、まずライフルだな……」
と、つぶやいた。
「弾《たま》は、貫通《かんつう》していませんね」
と部下の1人。
「この板べいの中にとまってますね」
「わかった。とり出せ」
とJ・R。部下たちは、セダンのトランクから、何か道具を出してくる。
板べいから、弾丸《だんがん》をほじくり出しはじめる。
すぐに、ライフル弾が1個、出てきた。
J・Rは、それを手にとる。弾は、ほとんど、ひしゃげていない。
「これなら、撃ったライフルを割り出せるな」
とJ・R。
弾丸を、部下にポンと投げる。
「大至急だ」
「はい」
と部下たち。セダンに乗り込む。走り去る。
♪
〈|For Once In My Life《フオー・ワンス・イン・マイ・ライフ》〉のメロディが、岸壁《がんぺき》に流れていた。
J・Rのハーモニカだ。
ケワロ港《ベースン》の岸壁。駐めたリムジンのドアによりかかって、J・Rはハーモニカを吹《ふ》いていた。
あたしも、J・Rと並《なら》んで、たそがれの海をながめていた。
いま、J・Rの部下が、ライフルの割り出しをやっている。あたしたちは、その結果を待っていた。
S《ステイービー》・ワンダーのフレージングで吹いている、J・Rのハーモニカ。
その音が、とぎれた。
「ん?」
とJ・R。ハーモニカをながめる。もう1度、同じフレーズを吹いてみる。
Fの音が出ない。
「故障?」
「どうやら、そうらしい」
とJ・R。
「なら、腕《うで》のいい楽器屋を教えてあげるわよ」
あたしはいった。
「きちんと修理してくれるわ」
ダウンタウンの楊周峰《ヨウ・シユウホウ》の店。その住所を、J・Rに教えた。
「サンキュー。いい娘《こ》だ」
とJ・R。あたしの肩《かた》を抱《だ》く。
「それはそれとして、ハーモニカが吹《ふ》けないんで、唇《くちびる》が淋《さび》しがってる」
といった。あたしのアゴを、軽く持ち上げる。
キス……。
3秒……4秒……5秒……。
J・Rの腕が、ギュッと、あたしの体を抱きしめた。
あたしも、J・Rの首に腕を回した。
そのときだった。
リムジンの中で電話が鳴る音。
あたしたちは、唇を離《はな》した。
運転席のナカジマが、電話をとる。手ぶりで、〈電話です〉とJ・Rにいった。
「やれやれ。商売道具とはいえ、気のきかない電話だ」
とJ・R。リムジンのドアを開ける。受話器をとった。
2、3分話す。切った。
「ライフルの持ち主、わかった?」
「いや」
とJ・R。首を横に振《ふ》る。
「とりあえず、ハワイ州で登録されているライフルじゃない」
「…………」
「これから、アメリカ全土のライフルを調べる」
「そんなこと、できるの?」
「ああ。FBIには、仲のいい人間がいるんでね」
とJ・R。ニッと白い歯を見せた。
「たぶん、1週間もあれば、結果がわかるだろう」
J・Rは、あたしの肩を抱いた。
「敵は本気だ。とにかく、気をつけろ」
「それは、ミュージシャンとしてのあたしに対しての心配? それとも……」
あたしは、つぶやいた。
J・Rは、一瞬《いつしゆん》、無言。そして、答えるかわりに短くキスをした。
頭上では、海猫《うみねこ》たちが風に漂《ただよ》っていた。
♪
1週間後。昼過ぎ。
あたしは、J・Rの経営する〈桜亭《さくらてい》〉にいた。
遅《おそ》めの昼ごはんを、J・Rと食べようとしていた。
「わかったよ」
とJ・R。BUD《バドワイザー》を飲みながらいった。
「わかった?」
「ああ。例の、ミッキーを狙撃《そげき》したライフルの素姓《すじよう》だ」
「……誰の?」
「正確には、わからない。しかし、これまで何回か殺人に使用されている」
「殺人?」
「ああ。あるテロリスト・チームの手による殺人だ」
「テロリスト・チーム?」
「うむ。名前は〈プロジェクトZ《ジー》〉。|裏 側《ダーク・サイド》の世界じゃ、有名なチームだ」
「〈プロジェクトZ《ジー》〉……」
〈プロジェクトA〉っていうアクション映画は知っている。
けど、Zとは……。
「いろんな組織《シンジケート》が、最後の手段として使う破壊《はかい》工作と殺人のチームだ」
そうか……。
それで、アルファベットの最後のZ……。
「それだけ、凄腕《すごうで》のチームってことさ」
とJ・R。
あたしは、うなずいた。
確かに。この前の狙撃にしても、
「君が助かったのが、とんでもない幸運《ラツキー》だからな」
とJ・R。
そのとき、ナカジマが部屋に入ってきた。
「〈楊周峰《ヨウ・シユウホウ》〉の店から、修理ずみのハーモニカがいま届《とど》きました」
とナカジマ。ビニール袋《ぶくろ》に入ったハーモニカを渡《わた》す。
「そうか」
J・Rは、袋からハーモニカを出す。吹《ふ》いてみようとした。
その瞬間《しゆんかん》。
あたしの頭の中で、注意信号が光った。
「待って!」
思わずいった。
J・Rは、手をとめた。
あたしは、
「おかしいわ……」
と、つぶやいた。
「おかしいって、何が……」
とJ・R。ハーモニカを口のそばでとめてきいた。
「だって、楊《ヨウ》の店は、彼ひとりでやってるのよ。修理ずみの楽器を届《とど》ける人手なんて、あるわけないのに……」
あたしはいった。
立ち上がる。
「ちょっと貸して」
と、ハーモニカをとる。それを、ながめる。
一見、見なれたJ・Rのハーモニカ。
あたしは、部屋のすみに歩いていく。
熱帯魚を入れた水槽《すいそう》。そこに、ハーモニカを、ボチャッと落とした。
5秒……6秒……7秒……。
魚たちの動きが、おかしくなった!
|蝶 々 魚《バタフライ・フイツシユ》が、痙攣《けいれん》しはじめた。ほかの魚たちも、激《はげ》しく痙攣する。つぎつぎと、水面に浮《う》かびはじめる。
30秒とは、かからなかっただろう。
10匹《ぴき》ぐらいの熱帯魚が、全部、水面に浮かんだ。最後の1匹が、ピクリとも動かなくなった。
♪
「フーッ!」
とJ・R。大きく息を吐《は》いた。
「青酸か何かか……」
と、つぶやいた。水槽の底にあるハーモニカをながめて、
「こいつに口をつけてたら、ジ・エンドだったな」
あたしは、うなずいた。
「とにかく、礼をいっておこう」
とJ・R。
「ハーモニカが届《とど》いたときに、たまたま、あたしがいたのが、幸運《ラツキー》だったのね」
J・Rは、うなずいて、
「お互《たが》い、1度ずつ命びろいをしたわけだ」
といった。
「やつらが、楊周峰《ヨウ・シユウホウ》を抱《だ》き込んだのかな?」
「まさか楊がそんな連中に抱《だ》き込まれるとは思えないけど……電話で確かめてみたら?」
♪
J・Rは、電話を切る。
「おれのハーモニカは、まだ、楊の店に入院中だ」
「やっぱりね……」
あたしは、つぶやいた。
「そのハーモニカを届《とど》けたのは、どんなやつだったの?」
J・Rは、後ろにひかえてるナカジマにふり返った。
「サングラスをかけた若い男で……これといった特徴《とくちよう》はなくて……」
とナカジマ。
「ただ金でやとわれたチンピラかもしれんな」
とJ・R。
「いずれにしても、敵がこっちの動向をひどく正確につかんでることは確かだな」
といつだ。
「逆に、その〈プロジェクトZ〉ってやつらの動きは、つかめてないの?」
あたしは、きいた。
「それが、不思議なんだが」
とJ・R。BUDをひと口。
「空港や港の入国管理局《イミグレーシヨン》に、完璧《かんぺき》な網《あみ》を張ってあるんだが、情報はゼロなんだ」
「ゼロ……」
「ああ……。それだけの破壊《はかい》工作の経歴を持つプロが、しかも、1人や2人じゃない」
とJ・R。
「何かしらの情報が、こっちのレーダーに引っかかるはずなんだが、不審《ふしん》な人物がこのハワイに入った形跡《けいせき》がないんだ」
「…………」
「しかし、おれたちはもう、2度も命を狙《ねら》われている」
とJ・R。
「そのシッポをつかませないっていう事実だけでも、連中の腕《うで》がわかるな」
J・Rは、ナカジマにふり返ると、
「ホノルル中の情報屋に動員をかけろ」
といった。
「金はいくら使ってもかまわん」
「はい」
とナカジマ。部屋を出ていく。
「ま、とりあえず、幸運の女神に乾杯《かんぱい》だな」
とJ・R。あたしたちは、ビールのグラスを上げた。
♪
「いよいよ、ここで演《や》るんだな……」
とビリーが、つぶやいた。
ワイキキ・シェルの会場を見回した。
昼下がり。あたしたちは、ファースト・コンサート会場のワイキキ・シェルにきていた。
下見だ。
いま、野外ステージにも客席にも、人の姿はない。まぶしい陽《ひ》ざしだけが、射《さ》している。
あたしたち〈ザ・バンデージ〉のメンバー全員、ステージに佇《たたず》んでいた。
「この広い客席が、満員になるのね……」
あたしは、つぶやいた。
「ああ・ハワイ中から、客がやってくるんだ」
とビリー。
「何百、いや何千っていう客に、おれたちの演奏をきかせてやるわけか」
チャックがいった。
そして、ふと、全員、黙《だま》った。
あたしには、わかった。
いくら、何千という客がここにきたとしても、一番きて欲しい人は、いないのだ。
天国にいるアキラの妹、エミー……。
メキシコにいる、リカルドのかつての恋人《こいびと》、ロシータ……。
チャックの恋人だったマギーは、ネブラスカ州のどこかに……。
ビリーの恋人だったシンシアは、たぶん、ニューヨークに……。
そして、あたしのパパは……。
あたしは、まぶしい陽ざしに、眼を細める。顔を上げた。
ハワイの青空が、元気を出せよと笑いかけている。
乾《かわ》いた風が、センチメンタルになるなよとささやいている。
「さあ、本番でミスらないように、練習よ」
あたしは、せいいっぱい元気な声でいった。
「ああ」
とビリー。
「ここが成功したら、いずれは、|M ・ S ・ G《マジソン・スクエア・ガーデン》だもんな」
といった。
全員、うなずいた。
♪
「やっぱり、ミッキーはアロハがいいわよ」
とジニー。
「やっぱり、そう思う?」
ジニーは、うなずいた。
遅《おそ》い午後。
あたしとジニーは、クヒオ|通り《アベニユー》を歩いていた。
話していたのは、ファースト・コンサートに着る服のことだ。
全員、自分の好きなスタイルでいくことに決めていた。
「やっぱり、あたしはアロハか……」
あたしは、つぶやいた。同時に、チラリとふり返った。
気づいていた。
さっきから、尾《つ》けられていた。どうやら、2、3人の若い男だ。
30メートルぐらい後ろを、さりげなく尾《つ》けてくる。
あたしたちは、1軒《けん》の店の前で立ちどまった。
小さな古着屋だった。アンティックのアロハが、ウインドーにディスプレイされている。
昔《むかし》のハワイアンがカヌーをこいでいる絵のプリントだった。
あたしは、ウインドーの前に立つ。そのアロハをながめるふり。
本当は、ガラスに映る背後を見ていた。
男たちが、1人……2人……3人……。ウインドーのガラスに映る。
あたしの後ろで、立ちどまった。
「何か用?」
あたしは、ふり向かずにいった。
♪
「後ろのあんたたちにいってるのよ」
ウインドーを見たまま、あたしは、いった。
「デートの申し込み? それとも、たかり?」
あたしは、ゆっくりとふり向いた。
男たちと向かい合った。
3人とも、20歳ぐらい。フィリピーノ。
しけた身なりをしていた。
大麻《パカロロ》と飛び出しナイフに、お金を使い過ぎたんだろう。
どう見ても、チンピラだった。
「用があるなら、早くいって」
あたしは、いった。
「こっちは忙《いそが》しいんですからね」
「フン」
と、やつらの1人。
「ネエちゃん、いい脚《あし》してるじゃないか」
と、別の1人。
「おれたちと、ちょいと遊びにいかないか?」
と3人目。
「冗談《じようだん》にもならないわよ」
あたしは、両手を腰《こし》に当てる。
「家に帰って、豚《ぶた》かニワトリとでも遊んだら?」
と、いってやった。
「なんだとォ……」
と、右側の1人。あたしをニラみつける。
けど、最初に手を動かしたのは、まん中のやつだ。
右手が、スッと、後ろに。
やつらの後ろに駐車《ちゆうしや》しているワーゲン。
そのウインドーに、やつの動作が映っている。
ヨレたジーンズのヒップ・ポケットから、何か出した。
たたんだままの飛び出しナイフだった。
「へらず口を叩《たた》きやがって……」
と左側のやつ。
その瞬間《しゆんかん》! まん中のやつが動いた!
飛び出しナイフの刃《ブレード》が、バチッと起きる。
同時に、突《つ》きかかってきた。
あたしはもう、身がまえていた。
ナイフを、右によける!
よけながら、右手でヒップ・ポケットのスティックを抜《ぬ》いていた。
ハイハットを叩《たた》くフォーム!
やつの手首に。
ビシッ!
にぶい音!
敵の手から、ナイフが飛んだ。アスファルトに、カチャッと落ちた。
「うっ……」
と、右手首を左手で押《お》さえる。うずくまる。
「クソッ……」
と、左右の2人。
同時に、ナイフを抜《ぬ》いた。
バチッ! バチッ!
刃《ブレード》が、飛び出す。
「やりやがって……」
と、右のやつ。眼が、チカッと光る。たぶん、大麻《パカロロ》のせいだ。
眼より少し鋭《するど》く、ナイフの刃が陽ざしに光る。
あたしは、ジニーを背中にかばう。
身がまえる。
右。左。どっちが先にかかってくるだろう……。
あたしは、深呼吸……。
自然体……。
きた!
同時だ!
右と左から、突《つ》きかかってきた!
あたしはもう、左手で2本目のスティックを抜いていた。
右で、フロア・タム。
左で、タムタム。
同時に叩《たた》くフォーム!
スティックを、ふりおろす!
ピシッ!
右は、敵の手首に!
ナイフが、吹《ふ》っ飛ぶ!
左は、手首をはずした!
ナイフの先端《せんたん》近く。
カッとスティックが叩く。
ナイフは、手から離《はな》れない。
突《つ》きをかわされて、左のやつは泳いだ。
その手首。
あたしは、右のスティックを叩きおろした!
スネアを叩くフォーム!
ビシッ!
同時に、うめき声。
ナイフは、クルクルと回転。
道路に転がった。
♪
3人とも、右手首を押《お》さえて、あたしをニラみつける。
「どうするの? いまなら、まだ左手でフォークは持てるわよ」
あたしは、いった。
「つづきをやると、今夜のディナーに苦労することになるけど、どうする?」
そのときだった。
「ミッキー!」
と、ジニーの声。
左|端《はし》のやつだ! 道路に落ちたナイフを左手でひろおうとした!
2歩!
あたしは、ナイフを蹴《け》飛ばした。
「あきらめの悪いやつね!」
相手のお尻《しり》に、思いっきり、右の回し蹴り!
やつは、つんのめる。
U・S・|MAIL《メール》のボックスに、ガツンとぶつかった。
頭を押《お》さえて、へたり込んだ。
♪
「やれやれ……」
あたしは、つぶやいた。
やつらが、ずらかっていったところだ。
「とんだドラムスの練習ね」
あたしは、スティックを、ヒップ・ポケットに戻《もど》す。
「ひさびさに運動したら、お腹《なか》がすいたわね。タコ・ベルでもいこう」
と、ジニーの肩《かた》を叩《たた》く。クヒオを歩きはじめた。
♪
「起きろ、ミッキー!」
という叫《さけ》び声。ドアの外できこえた。
「起きろ! 大変だ!」
その声は、マネージャーのアントニオだ。
部屋のドアを、ドンドンと叩く。
「何よ、もう……」
あたしは、ベッドから、のろのろと起き上がる。
枕《まくら》もとの時計を見る。
朝の10時。
「きょうの練習は午後からでしょう」
あたしは、ドアに歩いていく。
「どうしたの? イランでも攻《せ》めてきたの?」
と、ドアを開ける。
「その方がちっとはマシだ」
とアントニオ。
「こいつを見ろ」
と、新聞をさし出した。
〈ホノルル・バックストリート〉
見たことはある。どっちかといえば、スキャンダル紙だ。
有名人や芸能人の私生活やトラブルをすっぱ抜《ぬ》く。
下品だ。けど、それなりに読者はいるんだろう。
ときどき、手にしてるのを見かける。
「ほら、これだ!」
とアントニオ。その1ページを指さした。
「え!?……」
さすがのあたしも、思わず絶句してしまった。
♪
〈人気ミュージシャン クヒオで大乱闘《らんとう》!!〉
ぶっとい見出し文字が、半分|眠《ねむ》っていた頭を、ガーンと叩《たた》いた。
見出しの下。2枚の写真が載《の》っている。
1枚目。あたしが、右手のスティックで、フィリピーノの手首をひっぱたいた瞬間《しゆんかん》。
うっ……。
あたしは、思わず胸の中でうなった。
写真は、トリミングされている。フィリピーノの手から落ちたナイフは、切られている。写っていない。
これじゃ………まるで、素手の相手をスティックでひっぱたいたように見える。
そして2枚目の写真。
ナイフをひろおうとしたフィリピーノのお尻《しり》を、あたしが蹴《け》った瞬間。
これも、トリミングされている。
道路に落ちているナイフは、写真に入っていない。
そして、読みたくもない記事。
〈昨日午後4時|頃《ごろ》、クヒオ通り……〉
〈人気|上昇《じようしよう》中のグループ≪ザ・バンデージ≫のリーダーでドラマーのミッキーことミキコ・レイラニ……〉
〈路上ですれちがったフィリピン人青年3人と、ささいないい争いから乱闘《らんとう》に……〉
何が、すれちがったフィリピン人青年だ!
ささいないい争いだ!
けど、記事はつづく。
〈スティックで殴《なぐ》られたフィリピン人青年たちは……〉
〈全治2週間ほどのケガを……〉
〈しかし、し返しを恐《おそ》れた青年たちは警察にも訴《うつた》え出ず、その場から姿を消して……〉
あたしは、新聞をギュッと握《にぎ》りしめた。
何が、し返しを恐れてだ!
警察に訴え出られるはずもないのに。
そして、記事の後半。
あたしが、傷害事件で感化院《ガールズ・ホーム》に入っていたことが、こと細かに書いてある。
ちっくしょう……。
あたしは、新聞をニラみつけた。
寝《ね》ボケ頭でも、わかる。
罠《わな》だったんだ。
あのフィリピーノたちは、きっと、はした金で雇《やと》われた連中だろう。
そして、道路の向こうから、誰かが望遠レンズで狙《ねら》っていたんだ。
まちがいない。
あたしが感化院《ホーム》に入れられる前後のことなんか、かなり時間をかけなきゃ調べられないような内容だ。
計画的な罠だったんだ。
「クソ……」
あたしがつぶやいたとき、下の部屋で、電話がうるさく鳴りはじめた。
♪
「いやあ、まいったぜ」
とチャック。
〈ホノルル・コロシアム〉に入ってくるなりいった。
「表は、すごいぜ。新聞、雑誌、テレビにラジオ。もう、うじゃうじゃ」
チャックは、いった。
「ここに入るまでに、30人ほど投げ飛ばしてきたぜ」
ニッと白い歯を見せる。買ってきたフライド・チキンの紙箱《かみばこ》を、テーブルに置いた。
30人投げ飛ばしたってのはジョークにしても、外は、確かに大騒《おおさわ》ぎらしい。
フライド・チキンの紙箱は、かなりひしゃげている。
「やれやれ。ま、とにかく、リッチな昼食にするか」
とリカルド。フライド・チキンの箱を開けた。
そのとき、また電話が鳴った。
「やれやれ、またかよ」
とアントニオ。
「おれが出よう」
とビリー。受話器をとる。裏声で、
「はい、こちら、ゲイバー〈|バラの尻《ローズ・ヒツプ》〉よ」
と、いった。
いままでとは、ちがうやりとり。ビリーは、
「マフィアの若大将からだ」
と、あたしに受話器をさし出した。
「いつからゲイバーになったんだ」
とJ・R。笑いながらいった。
「冗談《じようだん》いう元気もないわ」
あたしは、ため息まじりに答えた。
「大騒《おおさわ》ぎか?」
「もちろんよ。店は、包囲されてるわ」
「マスコミか……。ま、それだけ、君らも有名になったってことさ」
「呑気《のんき》なこといってないでよ。ランチを食べにも出られないんだから」
「そうか……」
とJ・R。
「そりゃひどいな……。わかった、救援《きゆうえん》にいこう」
「どうやって?」
「裏口にクルマをつける。男の子のかっこうでもして飛び出してこいよ。ゲイバーらしくていいぜ」
とJ・R。笑いながら、いった。
♪
「こんなもんでいいかな」
あたしは、いった。
チャックから借りた大きめの野球帽《やきゆうぼう》に、ポニー・テールを押《お》し込む。男っぽいサングラスをかける。
あとは、いつものスタイル。アロハにショート・パンツだ。
「ま、ポニー・テールが見えなきゃ、一瞬《いつしゆん》はごまかせるだろう」
とアントニオ。
「いやあ、もう、どこから見ても男の子だよ」
とビリー。ニタニタしている。
「よくいうわよ」
あたしは、ビリーのお尻《しり》を叩《たた》く。
店の裏口ヘ。そっと、開ける。
打ち合わせの時間どおり。J・Rのリムジンがとまるのが見えた。
あたしは、裏口を飛び出る。リムジンに走る。
遠くで、
「あっ! あれだ!」
という声。駆《か》けてくる足音!
けど、あたしはもう、リムジンに飛び込んでいた。
ドアを閉めるより早く、リムジンはスタート!
♪
「こいつも、たぶん、〈プロジェクトZ〉のしわざだろうな」
とJ・R。リムジンのシートで、腕組《うでぐ》みしながらいった。
「狙撃《そげき》や爆破《ばくは》といった荒技《あらわざ》だけが、破壊《はかい》工作じゃないってことだ」
「…………」
「弾丸《だんがん》に硬頭弾《ハード・ノーズ》と軟頭弾《ソフト・ノーズ》があるようなものだな」
J・Rは、いった。
確かに、そうだ。このスキャンダルという軟頭弾《ソフト・ノーズ》は、その性能を発揮して、みごとにあたしの心の中をグチャグチャにしてくれた。
あたしは、サングラスと野球帽《やきゆうぼう》のまま、流れていく風景を見ていた。無言……。
♪
「着いたぜ」
とJ・R。あたしは、われに返った。
リムジンは、鉄の門を入ろうとしていた。
オアフ島の西側。マカハよりさらに北にいったあたりだろう。
大きな屋敷《やしき》だった。
コンクリートのへいの上。有刺鉄線《ゆうしてつせん》が張ってある。
「ここ……ジュニアの家?」
「ああ。別荘《べつそう》だ。ここでしばらく、のんびりするんだな」
とJ・R。リムジンからおりながら、いった。
あたしも、おりる。
大きな母屋。きれいな芝生《しばふ》の庭。ブーゲンビリアの茂《しげ》み。プルメリアの樹。
プールの向こうに、別棟《べつむね》がある。母屋と同じで、ポリネシア調をとり入れた、がっしりとした建物だ。
母屋から、太ったハワイアンのおばさんが出てきた。
「ここをきりもりしてもらってるマーサだ」
とJ・R。
「お客さんを別棟へ」
「かしこまりました」
とマーサ。あたしに、ニコッと白い歯を見せる。芝生《しばふ》の庭を歩いていく。
別棟《べつむね》に、
「どうぞ」
と、あたしを案内する。
別棟は、ゲスト・ルームなんだろう。高級ホテルのスウィートぐらいの広さだった。
リビング。ダイニング・キッチン。バー。バス・トイレも、広い。天井《てんじよう》では、フライ・ファンがゆったりと回っていた。
あたしは、やっと、サングラスをはずした。
♪
「どうした、ミッキー」
後ろで、声がした。J・Rだった。母屋の方から歩いてくる。
たそがれ近く。あたしは、プール・サイドにいた。
野球帽《やきゆうぼう》をかぶったまま。デッキ・チェアーに坐《すわ》っていた。両ヒザをかかえて、ヒザにアゴをくっつけていた。
「元気ないじゃないか」
とJ・R。
「だって……」
あたしは、うつむいたまま、
「あの事件のせいで、ファースト・コンサートがダメになったら……ほかのメンバーたちにも……」
と、つぶやいた。
「そうか……」
「じゃ、いまさっき入った悪いニュースを知らせよう」
「悪いニュース?」
「ああ。ファースト・コンサートのチケットは、さっき売り切れた」
「売り切れた!? だって、悪いニュースって……」
「つまり、おれの席もとれなくなっちまったってことさ」
とJ・R。ニッと微笑《わら》った。
「で……でも、どうして……あんなスキャンダルがあったのに……」
あたしは、つぶやきながら立ち上がった。
「別に、なんの不思議もないさ」
とJ・R。
「客は、牧師さんの話をききたいんじゃなくて、君らの演奏をききたいんだからな」
「…………」
「あのスキャンダル記事は、どうやら、逆に宣伝になったらしい」
「…………」
「きょうの午後になってから、あっという間に、残りの2千枚が売り切れたんだからな」
「……本当に?」
「そんなつまらない嘘《うそ》をいうもんか」
とJ・R。
あたしと向かい合う。あたしの頭から野球帽《やきゆうぼう》をとった。
パラリと、ポニー・テールが首筋に触《ふ》れた。
「というわけで、おれの席さえ、なくなっちまった」
「でも、ハーモニカで、ステージに立たないの?」
J・Rは、苦笑い。
「まあ、考えておこう。いずれにしても、これが結んである限り……」
とJ・R。
少しゆるんだポニー・テールの青いハンカチを、キュッと結びなおして、
「おれは、君といっしょに、ステージに立っている……」
と、いった。
眼と眼が、合った。
「コンサートは成功させてみせる」
とJ・R。
「……そして、彼女と、婚約《こんやく》するのね……」
気がついたら、あたしは、口に出してしまっていた。
「……たぶん。……仕事だからな……」
とJ・R。
あたしは、うなずいた。8小節ぐらいの沈黙《ちんもく》……。
「その後で、こんなことをいうと、図々しい男だと思われそうだが……」
「図々しい人だとは、とっくに思ってるわよ」
「そうか……」
とJ・R。苦笑い。
あたしのアゴに指先で、触れて、
「あしたの朝まで、いっしょにいたい……」
と、いった。
16小節ぐらいの沈黙……。
やがて、あたしは、ほんの3ミリ、うなずいた。
「でも……」
「でも?」
「優しくしてくれなくちゃ、嫌《いや》よ」
「……わかった……」
とJ・R。そっと、あたしの唇《くちびる》にキスをした。
♪
あたしは、ビニール袋《ぶくろ》いっぱいのプルメリアの花を持ってバス・ルームに入った。
広い庭で摘《つ》んできたプルメリアだ。
お湯をはったバス・タブに、プルメリアを浮《う》かべた。バス・タブ一面に、白い花が浮かぶ。バス・ルーム全体に、甘《あま》く、ちょっと切ない香《かお》りがあふれる。
あたしは、服を脱《ぬ》いだ。プルメリアのお風呂《ふろ》につかった。
一面のプルメリアに、体がかくれる。
さすがに、いつもバス・ルームで口ずさむ〈|All My Loving《オール・マイ・ラヴイング》〉は出てこなかった。
♪
バスから上がる。
脱いだ服をまた着るのは嫌だ。バス・タオル1枚だけを、体に巻く。
バス・ルームを出た。リビングに、いく。
J・Rは、窓の外を見ていた。あたしのけはいにふり向く。
あたしは、一瞬《いつしゆん》、ハッとした。体を硬《かた》くした。
J・Rは、ニコリと微笑《わら》う。
「冷えたシャンパンが、お待ちかねだ」
と、いった。
銀のクーラーから、シャンパンを出す。あまり音をたてずに、栓《せん》を抜《ぬ》いた。
男っぽいストレート・グラスに、シャンパンを注ぐ。
「じゃ、ハワイで一番のじゃじゃ馬娘《むすめ》に」
とJ・R。
「ハワイで一番図々しい人に」
と、あたし。
「乾杯《かんぱい》」
グラスが、乾《かわ》いた音をたてた。
♪
3杯《ばい》目のシャンパンを、あたしは飲み干した。
グラスを、テーブルに置く。
後ろから、J・Rに抱《だ》きしめられた。
「いい香《かお》りだ……」
とJ・R。
あたしは、首だけ、ふり向く。軽いキス……。
J・Rは、そっと、あたしを抱き上げた。
「じゃ、ハネムーンだ」
とJ・R。
ゆっくりとした足どりでベッド・ルームヘ運んでいく。
シーツの上に、おろされた。
|赤しょうが《レツド・ジンジヤー》の花柄《はながら》のシーツだった。
J・Rは、ゆっくりと上着を脱《ぬ》いだ。
自動拳銃《オートマチツク》を、ホルスターごと、肩《かた》からはずす。
「拳銃《けんじゆう》をはずすところ、はじめて見たわ」
ベッドに寝《ね》たまま、あたしは、いった。
「心配ないさ。こいつがなくても」
とJ・R。拳銃とホルスターを、サイド・ボードに置くと、スラックスのベルトをはずしながら、
「こっちに、|44 口 径《フオーテイー・フオー》マグナムがあるからな」
ニッと、白い歯を見せた。
「そんなこといって、じつは22口径だったりして」
あたしは、いった。ジョークをいわないと、ひどく緊張《きんちよう》しているのがバレてしまいそうだった。
服を脱いだJ・Rが、そっと、あたしの裸《はだか》の肩にキスをした。
「ちょっと、震《ふる》えてるぜ……」
とJ・R。
「くすぐったかっただけよ」
あたしは、いった。声は、なんとか震えなかった。
バス・タオルの前が開かれる……。
何かいおうとした。けど、声にならなかった。あたしは、そっと、眼を閉じた。
リビングのステレオから、L《リンダ》・ロンシュタットの唄《うた》う〈|Love Me Tender《ラヴ・ミー・テンダー》〉が低く流れていた。
♪
そっと、頬《ほお》に触《ふ》れる手……。
あたしは、うっすらと、眼を開けた。
朝らしい。
あたしの右頬は、J・Rの裸の胸にもたれている。
左の頬。その目尻《めじり》のあたりを、J・Rの指がぬぐう……。
「頬が濡《ぬ》れてるぜ」
とJ・R。
「朝の|通り雨《シヤワー》よ……」
あたしは、そっと、つぶやいた。
カーテンの外は、明るくなっている。ヤシの葉影《はかげ》が、ベージュのカーテンに揺《ゆ》れている。
「1つだけ、教えてくれる?」
あたしは、J・Rの胸にもたれたまま、いった。
「男の人と、メイク・ラヴして、いっしょのべッドで目覚めたとき、なんていえばいいの?」
「そいつは、ふた通りあるな」
とJ・R。
「1つ目は?」
「アンコール」
とJ・R。あたしは笑いながら、その胸を、拳《こぶし》で軽く叩《たた》いた。
「じゃ、もう1つは?」
「|朝 食《ブレツクフアースト》」
とJ・R。すぐそばで、白い歯を見せた。
「じゃ、その後の方にするわ」
あたしは、いった。
「了解《りようかい》」
とJ・R。あたしの唇《くちびる》に、短く優しいキス……。
ベッドから、起き上がる。サイド・ボードのホルスターと拳銃《けんじゆう》を、裸《はだか》の肩《かた》に吊《つ》る。
その上に、オフ・ホワイトのバス・ローブをはおった。
「ほら、君のだ」
と、J・R。薄《うす》いピンクのバス・ローブを、あたしに投げた。おそろいのデザインだった。J・Rはベッド・ルームの電話をとった。母屋にかけているらしい。
「ああ、マーサか、おはよう。朝食を頼《たの》む」
あたしも、ベッドから出る。バス・ローブをはおる。薄くて肌《はだ》ざわりのいいタオル地だった。
壁《かべ》にかかった鏡を見る。自分と向かい合う。
男を知ると顔が変わるって、よくいう。けど、鏡の中の顔は、いつも通りだった。
たぶん、1回や2回じゃダメなんだろう。
「卵は、どうする?」
ふり向いて、J・Rがきいた。
「|目玉焼き《サニーサイド・アツプ》」
ほどけたポニー・テールを、ゴムで結びながら、あたしは答えた。
「ベーコンの焼き具合は?」
「レア」
ポニー・テールに、J・Rのハンカチを結びながら、答えた。
♪
さっとシャワーを浴びる。
バス・ローブ姿でリビングに出ていく。J・Rの姿がない。
「こっちだ、ミッキー!」
という声。プール・サイドの方できこえた。
プール・サイドのテーブルに、バス・ローブ姿でJ・Rは坐《すわ》っていた。テーブルには、朝食がセットされていた。
あたしも、バス・ローブのまま、向かい合って坐る。
鳥の声。蒼《あお》みがかった朝の陽ざしが、斜《なな》めに射している。まだ涼《すず》しい。
白いテーブル・クロスの上。目玉焼き。ベーコン。ホワイト・ブレッドとライ・ブレッド。ストロベリー・ジャム。パパイヤ・ジャム。グアバ・ジュース。コーヒー。
テーブルのまん中には、アンセリウムの花が飾《かざ》られていた。
「まるで、ロイヤル・ハワイアン・ホテル並《な》みね」
あたしは、いった。ハインツのケチャップをとる。目玉焼きにかける。
口笛《くちぶえ》が、きこえた。
プールの掃除人《そうじにん》が、歩いてきた。
「いま、掃除していいですか?」
と、若い白人の掃除人。
「ああ、かまわない」
とJ・R。パンにジャムをぬりながら、いった。
掃除人は、仕事をはじめる。
長い竿《さお》の先についたネット。それで、プールに浮《う》いた葉や花をすくう。プールの底に沈《しず》んだゴミや葉もすくい上げる。
「ああいう連中、だいじょうぶなの?」
あたしは、きいた。
「ああ。屋敷《やしき》の入口で、ナカジマが厳重なボディ・チェックをするからな。針1本、持ち込めないさ」
とJ・R。
「それに、あの道具も、屋敷のものだし」
J・Rは、のんびりといった。コーヒーをポットからカップに注ぐ。
あたしは、目玉焼きを突《つ》つく。なんとなく、プールの掃除人をながめていた。
どこといって、怪《あや》しい雰囲気《ふんいき》のある男じゃない。
白いTシャツ。青いショート・パンツ。口笛《くちぶえ》でB《ボズ》・スキャッグスの曲を吹《ふ》きながら、ネットを動かしている。
プール掃除《そうじ》の仕事は、このハワイじゃけっこういい収入になる。プロの掃除人も多い。
あたしも、バイトでその手伝いをやったことがある。
あたしが気になったのは、その男の手さばきだ。
自分が手伝ったことがあるから、わかる。その男は、あまり、上手じゃない。覚えたて。そんな感じだ。
プールに背中を向けてるJ・Rには、見えないだろう。
掃除人は、プールのこっち側に回ってきた。こっちに背を向けて、ネットを動かす。プールの底をすくっている。
何か、重い物をすくい上げたように、竿《さお》がしなった。
葉っぱやゴミで、あんなにサオがしなるだろうか……。あたしの頭は、めまぐるしく働く。
ナカジマが厳しくボディ・チェックしたといってた。けど、それは、今朝のことだ。
もし、万が一、プールの底にあらかじめビニール袋《ぶくろ》にでも包んだ武器が沈《しず》めてあったら……。
掃除人は、プールのへりに片ヒザをつく。
背中しか見えない。けど、ネットから、何かとり出すような動き……。
鳥の声が、ふと、やんだ。
フォークを動かすJ・Rの手も、一瞬《いつしゆん》、とまった。
つぎの瞬間。
自動拳銃《オートマチツク》をブローバックする音!
「ジュニア!」
あたしが叫《さけ》ぶより早く、J・Rの右手が動いていた。
スローモーションのように、よく覚えている。
J・Rは、席を蹴《け》る! あたしをかばうように動く!
バス・ローブの胸もとに、右手が滑《すべ》り込む。拳銃《けんじゆう》を抜《ぬ》く。安全装置《サム・セフテイ》をはずしながら、体をひるがえす。
掃除人も、こっちをふり向く。その右手には、自動拳銃《オートマチツク》!
2発の銃声!
同時に響《ひび》いた!
掃除人の体が、弾《はじ》かれたように、後ろに吹《ふ》っ飛ぶ。額から血の筋をひきながら、プールに落ちた。
ザバンッという重い水音。
J・Rの体は、ゆっくりと後ろにくずれてくる。
あたしは、うけとめようとした。ささえきれない。もつれるように、プール・サイドに倒《たお》れた。
仰向《あおむ》けに倒れたJ・R。バス・ローブの胸もとが、赤く染まっていく。
「……朝食に鉛《なまり》の弾《たま》をくらうとはな……」
とJ・R。
「しゃべっちゃダメよ!」
「いいんだ。どっちみち助からない。大切なことをいい残したままくたばりたくない」
「助かるかもしれないでしょう」
「おいおい、おれはプロのギャングだぜ。そのぐらいわかるさ……」
とJ・R。ちょっと苦しそうに、セキ込んだ。
むりやり、笑顔をつくってみせる。
「……あの世ってやつにいったら……君のオヤジにいっとくよ……」
「…………」
「あんたの娘《むすめ》を……本気で、好きだったとね……」
「…………」
「……キスしてくれないか……」
とJ・R。
「いままで、さんざん、この手で君をだましてきた……けど……こいつは本当に最後だ……」
J・Rの声が、弱々しくなる。
あたしは、その上にかがみ込む。
そっと、キス……。
唇《くちびる》を、はなした。
J・Rは、あたしを見上げた。その左手が、あたしの髪《かみ》にのびてくる。
ポニー・テールに結んだ青いハンカチ。その端《はし》に、そっと触《ふ》れた。
「……おれの夢《ゆめ》を……よろしく……」
そして、手が、ゆっくりと、くずれ落ちた。
眼が、そっと、閉じられた。
そのあと、あたしが何を叫《さけ》んだのか、いまはもう、覚えていない。
♪
J・Rのお葬式《そうしき》には、いかなかった。
いや、いけなかった。いろんな人に、特に、蘭《らん》と顔を合わせることはできないと思った。
葬儀の日。日系人実業家の死として、テレビやラジオのニュースでも流していたらしい。
あたしは、1日中、岸壁《がんぺき》に坐《すわ》っていた。
ホノルル港《ハーバー》の岸壁。はじめて、J・Rとキスをした場所だった。
ただ、ぼんやりと、波の音をきいていた。
風に漂《ただよ》う海猫《うみねこ》を、ながめていた。
♪
お葬式から6日目。
あたしは、はじめて、J・Rのお墓にいった。
広い高台にあった。遠くには、水平線が見える。
芝生《しばふ》に、白い大理石の横長のお墓。RYOICHI《リヨウイチ・》 HARRY《ハリー・》 JINNO《ジンノ》と、英文で刻まれていた。
遅《おそ》い午後だった。鮮《あざ》やかなグリーンの芝生の1本1本が、影《かげ》を引いていた。
あたしは、お墓の前に、レイを置いた。
白いプルメリアで編んだレイだ。
そして、レイの上に、J・Rのハーモニカを、そっと置いた。
楊周峰《ヨウ・シユウホウ》の店に預けっぱなしになっていたやつだ。きのう、あたしがとってきた。
ハーモニカの銀色に、午後の陽ざしが光る。
いまにも、J・Rの吹《ふ》くメロディが、きこえてきそうだった。
けど、もう、それはあり得ないんだ。
もう、J・Rはいない。そのことが、はじめて実感として、胸にきた。
はじめて、涙《なみだ》が、あふれ出してきた。もう、とまらない。
しゃくり上げても、しゃくり上げても、涙は出てくる。
あたしは、芝生に坐る。両ヒザをかかえる。そこに、おでこをつけて、泣きつづけた。
♪
どのくらいたっただろう。
やっと涙が、底をついた。あたしは、のろのろと立ち上がった。
そのとき、後ろに、人のけはい。
ふり向く。ミセスTと、J・Rの部下たちがいた。
ミセスTは、あたしと向かい合った。
「やはり、あなたがハリーのお墓に花を置くことになりましたね」
とミセスT。
あたしの肩《かた》を、そっと抱《だ》いた。あたしは、ミセスTの肩に、額を押《お》しつけた。
ミセスTの手が、あやすように優しく、あたしの背中をなでる。
あたしは、顔を上げた。
「大ぜいで、お墓まいり?」
「報告よ」
「報告?」
「そう。これから、敵を叩《たた》き潰《つぶ》しにいくから」
「敵って、あの〈プロジェクトZ《ジー》〉?」
ミセスTは、うなずいた。
「敵の居場所がわかったの?」
ミセスTは、また、ゆっくりとうなずいた。
見れば、彼女は黒いパンツ・スーツ姿。
ほかの連中も、まっ黒なスーツに身をかためている。殴《なぐ》り込みのスタイルなんだろう。
「あたしも、いくわ」
「…………」
ミセスTは、あたしの眼をじっと見た。軽く微笑《わら》いながら、
「とめてもムダでしょうね」
と、いった。
♪
「クルーザー?」
あたしは、思わず、ミセスTにきいた。走るリムジンのシートだ。
「そう。やつらの基地は、沖《おき》に停泊《ていはく》したクルーザーだったわけです」
とミセスT。
「たぶん、本土《メイン・ランド》からやってきて、そのまま、入国手続きをしていないらしいわ」
そうか……。それで、情報網《じようほうもう》に引っかからなかったわけか……。
「小型のスピード・ボートで上陸しては、テロ活動を行なっていたわけ」
とミセスT。
「……やっと、それがわかったの」
クルマは、ルート80から、さらに細い804に右折した。
♪
「これって、もしかして、ジェット・ヘリ?」
あたしは、つぶやいた。
ルート804からさらに入った山の中の空き地。
同じカーキ色のヘリが2機。
どうやら、ヴェトナムあたりで活躍《かつやく》してたタイプのジェット・ヘリらしい。
「軍からの横流しよ」
とミセスT。
あたしたちは、ジェット・ヘリに乗り込む。
「すぐに出撃《しゆつげき》します」
とミセスT。マイクに向かっていった。
「ミセスTが、ボスを引き継《つ》ぐの?」
あたしは、きいた。
「ちゃんとした後継者《こうけいしや》が育つまでは、私が、シンジケートの指揮をとります」
ミセスTがそういい終わらないうちに、ヘリのエンジンが爆音《ばくおん》をたてはじめた。
♪
さすがに早い。
あっという間に、2機のジェット・ヘリはコーラウ山脈をこえる。
陸地が切れる。カイルア湾《ベイ》が、眼の下を飛び去っていく。
「あれです」
とナカジマ。指さした。
海の色が、薄《うす》いグリーンから深いブルーに変わるあたり。白いクルーザーが停泊《ていはく》している。
ミセスTは、マイクを握《にぎ》る。
「降下!」
2機のヘリは、クルーザーに向かって高度を下げていく。
小さな点みたいだった船が、しだいに大きくなっていく。
「2号機、ロケット砲《ほう》発射用意」
とミセスT。
ヘリは、クルーザーに向かって、突っ込んでいく。
「発射《フアイヤー》!」
あたしたちの少し前を飛んでいる方のヘリから、白い煙《けむり》。
ロケット砲が、つづけざまに2発、発射された。
ロケット砲は、白い煙を引いて飛んでいく。
つづけざまに、クルーザーに命中した。
白い光! 轟音《ごうおん》! 赤い火柱!
その火柱の上を、あたしたちのヘリは飛び過ぎた。
大きく、旋回《せんかい》する。
もう、クルーザーの姿はなかった。海上には、黒煙《こくえん》。海面に散ったゴミのような破片。そして、油。
ミセスTは、菊《きく》の花束《はなたば》をとり出した。開けたヘリの窓から、むぞうさに、それを投げた。
「帰還《きかん》します」
とマイクを通していった。大きく、息をついた。
海面をふり返ってるあたしに、
「私の仕事は一段落したけど、今度はミッキーの番ね」
ミセスTは、いった。
「コンサート?」
ミセスTは、うなずく。
「それを成功させるのが、天国のハリーヘの何よりのプレゼントよ」
といった。
あたしは、ゆっくりと、うなずいた。
♪
「客入れ、完了《かんりよう》しました!」
と係員。控《ひか》え室のドアを開けて、
「あと10分で開演します。いいですか?」
と、いった。あたしは、
「了解」
と答えた。
ケースから、パパにつくってもらったスティックを出した。
小さく〈M〉のマークが入ったスティック。ひさびさに手にした。かなり傷だらけだ。
けど、あたしはそれを握《にぎ》る。立ち上がる。
またドアが開いた。ビデオ・カメラをかついだ男と、マイクを握った女の人が入ってきた。
きょうのコンサートは、あとでテレビに流されるという。
「ステージ前に、ひとことだけ、インタビューしていいですか?」
と女のキャスター。
「いいわよ」
カメラが、あたしに向く。手持ちのライトが当てられる。
「ミッキーといえば、そのポニー・テールがトレードマークなんだけど、その髪《かみ》型を変えるつもりは、いまのところありません?」
とキャスター。
あたしの前に、マイクをさし出した。
「これを変えるつもりは、ないわ」
あたしは、答えた。
「いつまで?」
とキャスター。
「さあ……」
あたしは、微笑《ほほえ》みながらいった。
「じゃ、そろそろ、ステージの時間だから」
と、控《ひか》え室を出ていく。
言葉にはしなかった。けど、自分では、わかっていた。
あたしが、このポニー・テールをほどくことはないだろう。
少くとも、何かを追い求めて走っている限り……。
あたしは、ゆっくりとした足どりで歩いていく。
ステージのそでに出た。
メンバー、全員いた。それに、アントニオ、ジニー、ミセスT……。
たそがれ近いワイキキ・シェル。
客席は、ぎっしりとうまっていた。熱っぽさが伝わってくる。
やがて、進行係が、あたしたちに合図した。
開演の合図だ。
野外ステージだから、幕なんか、もちろんない。1人ずつ、出ていくことになっていた。
まず、チャック。ステージに出ていく。
客席から、歓声。拍手《はくしゆ》。口笛《くちぶえ》。
つぎに、ビリー。
アキラ……リカルド……。つぎつぎに出ていく。
最後に、あたしも、出ていこうとした。それを、リカルドが手でとめる合図。
リカルドは、マイクを握《にぎ》る。
「コンサートをはじめる前に、ひとこと、きいてください」
と、いった。客席の歓声がやむ。静まり返る。
リカルドは、ゆっくりと話しはじめた。
「1人の少女がいました」
あたしは、思わずドキリとした。こんなこと、打ち合わせてなかった。けど、リカルドは話しつづける。
「少女は、小さい頃から音楽が好きでした。そして、ミュージシャンになる夢《ゆめ》を抱《だ》きつづけていました」
客席は、
「…………」
と静まり返っている。
「夢を持った人間は、数限りなくいるでしょう」
「…………」
「でも、その少女がほかの人とちがっていたのは、どんなつらい目にあっても、その夢《ゆめ》を捨てなかったこと」
「…………」
「そして、夢を夢で終わらせないために、全力で走りつづけたことです」
「…………」
「そして今夜、その少女の夢が、1つ、実現しようとしています」
「…………」
「このステージに立っている僕《ぼく》らメンバーに、いや、出会ったすべての人たちに、愛と勇気を与《あた》えてくれた彼女に……拍手《はくしゆ》を」
とリカルド。静かに、しめくくった。
2秒後。激《はげ》しく熱い拍手と歓声……。
あたしは、一瞬《いつしゆん》、どうしていいかわからず、立ちつくしていた。
「さあ、がんばって」
とジニー。あたしの背中を押《お》した。
アントニオが、白い歯を見せた。ミセスTが、
「いってらっしゃい」
と微笑《ほほえ》みかけた。
あたしは、ゆっくりと、ステージに歩き出した。
♪
ドラムセットの前に、坐った。
ハイハットの間隔《かんかく》を、少し、なおす。
ビリーが、近寄ってきた。
あたしの前に突《つ》き出たマイク。その角度を、ちょっとなおした。
「唄《うた》えるかい?」
ビリーは、小声できいた。
「なんとかね」
あたしは、白い歯を見せた。
「がんばれよ。……パパとマフィアの若大将が、S席できいてるぜ」
とビリー。
「S席?」
「ああ……。あそこさ」
とビリー。ヤシの葉のかなた、まだ青さを残した空をさした。
「…………」
あたしは、小さく、うなずいた。
深呼吸……。空を見上げた。
〈パパ……あなたの娘《むすめ》のファースト・コンサートよ〉
胸の中で、そう、つぶやいた。
そして、両手を髪《かみ》に。
ポニー・テールに結んだ、青いハンカチを、J・Rの夢《ゆめ》を、きっちりと結びなおした。
パパとJ・Rは、天国でポーカーでもやっているだろうか……。
〈あんまりパパを負かしちゃダメよ、貧乏《びんぼう》なんだから〉
あたしは、空の上のJ・Rに向かってつぶやいた。
スティックを握《にぎ》る。
チャックが、ふり返って白い歯を見せた。
アキラが、うなずいた。
ビリーが、親指を立てた。
最後に、リカルドがふり向いてウインクした。
全員、スタンバイ、OK。
あたしは、〈M〉マークのスティックを握りなおす。
合図《カウント》。2本のスティックを合わせる。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
1曲目は、〈ロンリー・モーニング〉。
前奏《イントロ》はアキラのキーボードとビリーのギター。静かに流れはじめる。
B7。
E。
Em。
B9。
G#m。もり上がっていく……。
F#。ベースとドラムスが入る。
あたしは、フロア・タムとシンバルを叩《たた》く。
そして、唄《うた》いはじめた。
鳥の声がきこえる
夜明けのキッチン
あたしは孤《ひと》り
ヒジをついている
眼の前には使いなれたトースター
2人用のトースターなのに
いまはただ1枚の
パンを焼いている
あの人はもういない
トースターが淋《さび》しそうに
ただ1枚のパンを焼いている
ここから、リカルドがデュエットしてくれる。
ロンリー・モーニング
あの人はもう帰ってこない
どうしても、J・Rのことを思ってしまう。胸が、しめつけられる。
ロンリー・モーニング
それでも太陽はまた
ダイアモンド・ヘッドから
昇《のぼ》るから
また、あたしのソロに戻《もど》る。
この朝食を終えたら
あたしはいくわ
あのドアを開けて
朝の光の中ヘ
歩きはじめるわ
どこまでも……
そして間奏。ビリーのギターで8小節。
レコードだと、この後はJ・Rのハーモニカだ。
けど、いまはビリーが弾《ひ》きつづける。ビリーは、眼を閉じて、弾きつづける……。
気づくと、あたしは|2《ツー》コーラス目を唄《うた》っていた。
ロンリー・モーニング
あの人はもう戻ってこない
唄《ヴオーカル》のバックでささえてくれるハーモニカの音色は、もうきこえない。
涙《なみだ》が出そうだった。
ロンリー・モーニング
それでもハイビスカスは
きょうもまた
花を開くから
あたしは、自分にいいきかせた。女の子だもん、泣くものか……。泣くものか……。泣くものか……。
この朝食を終えたら
あたしはいくわ
あの自転車にまたがって
朝の風の中ヘ
走りはじめるわ
どこまでも……
どこまでも……
最後の|くり返し《リフレイン》。あたしは、涙《なみだ》をこらえて唄《うた》いつづける。
雲の間からもれる、きょう最後の陽ざしが、シンバルに光る。
ひんやりとした海風が、ポニー・テールに結んだ青いハンカチをフワリと揺《ゆ》らせて過ぎた。
[#改ページ]
ありがとう、エブリバディー!
――あとがきにかえて――
僕がはじめてスティックを握ったのは、7歳だった。
全員が鼓笛隊に参加する。そんな小学校だった。なぜ打楽器を選んだのか。もう覚えていない。たぶん、本能的なカンだろう。
若葉の頃、はじめて手にしたスティックは、7歳の手には重かった。けれど、すぐに使いこなせるようになった。
6年間、小太鼓を叩いた。かなり複雑なリズム・パターンやロールもこなした。
中学2年。|8《エイト》ビートと出会ってしまった。ビートルズの「抱きしめたい」。ベンチャーズの「ダイアモンド・へッド」。夢中になった。レコードはすり切れて、しょっちゅう針がとんだ。それでも聴きつづけた。
高校生になると、軽音クラブに入った。けれど、クラブの仲間数人と、8ビートばかりやっていた。
昼休み。校舎の裏。なれない手つきで煙草を吸う。そして、スティックでゴミ箱をカンカン! と叩いた。
そして放課後。誰もいなくなった教室。たそがれの陽ざしが、ドラムセットに反射していた。「ワイプ・アウト」を完璧に叩きたくて、何回も手のマメを破いた。
大学生になった。本格的にバンドを始めた。
R&Bの曲が多かった。R&B独特の、歯切れのいいリズムが好きだった。O《オーテイス》・レディング。S《ステイービー》・ワンダー。サム&デイヴ。テンプテイションズ……。
その頃は、生バンドを入れる店が多かった。演《や》る場所はかなりあった。4年間を駆け抜けた。悔いはなかった。卒業しても楽器にしがみつこうとは思わなかった。
広告の世界に入った。コピー。写真。そしてCFへ。仕事が広がっていく。ロケに駆け回るようになった。
そんなある時。ふとしたきっかけで、小説誌の新人賞に応募した。
やはり、広告では描ききれない。けれど描きたい。そんな何かが、心の中にあったのだと思う。その思いの強さが小説に力を与えたのか、新人賞を受賞してしまった。
少しずつ、小説の依頼がくるようになった。書きたいことは、あった。けれど、書くための文体が、まだ見つからなかった。
着なれたシャツのような自分だけの文体。それが、見つからなかった。
広告の仕事と小説をかけもちでこなしていた。まだ、プロの作家になれるとは思わなかった。
そんなある日。CFのロケでハワイにいた。
その日のことは、よく覚えている。
よく晴れた日の午後。4時頃だと思う。ロケハンに疲れた僕らは、アラ・モアナ公園の芝生で休んでいた。
音がきこえてきた。
きき覚えのある音だった。僕は、ふり返って見た。
20メートルぐらい先。シンプルな木のテーブルとベンチ。そのべンチに、1人の少女が坐っていた。坐っているというより、日本の縁台のようなベンチにまたがっていた。
白人。16歳ぐらい。金髪は、むぞうさな真ん中分け。黄色いショートパンツ。少しエリののびた青いTシャツ。
少女は、スティックを握っていた。自分がまたがっているベンチを叩いていた。基本的なリズムの練習をしているらしかった。ハイスクールのアマチュア・バンドのメンバー。そんな感じだった。
カンカン! カンカン!
カンカン! カンカン!
カカン! カカン!
カカン! カカン!
乾いた音が、風にのってくる。少女は、うつむいて叩きつづける。海からの風が、彼女の金髪とTシャツのソデを揺らす。
カンカン! カカン!
カンカン! カカン!
気がつくと、16歳の日が、胸の中によみがえっていた。校舎の裏でゴミ箱を叩いた感触が、戻っていた。その瞬間、心の中を、スッと風が通り過ぎた。そうだ。叩くように書けばいい。
R&Bのように。ハイハットを叩くように。バスドラムをふむように書けばいい。
センテンスは、当然、短くなる。飾らないですむ。小説にスピードが出る。
自分の文体を見つけた。いや、自分の中にあった文体に気づいた。そう思った。
東京に帰った。1本の電話が、角川書店からかかってきた。
数日後。昼下がり。Pホテルのバー。角川の矢口青年は。少し右肩を下げてスッと入ってきた。打ち合わせは、簡単だった。バンドのメンバー同士、ワン・ステージの前に演《や》る曲目を打ち合わせるのに似ていた。
僕はまた、ペンというスティックを握った。そして、叩いた。ときには16ビートで。ときにはバラードのように。書きつづけた。
ミッキーは、もう、物語の主人公ではなく、僕の妹になってしまっていた。
僕もまた、ミッキーといっしょに、ホノルルの街を駆けた。笑った。ときには涙した。
成功にはまだ遠い。けれど、ポケットにはひとかけらの夢。そんなミッキーの姿は、小説家としての僕自身の姿でもあった。
単行本5冊分。長いといえば、長い。けれど、僕には、あっという間だった。いつも夏がそうであるように、気づくと、終わろうとしていた。
そして、ラストの1曲が、いま、終わった。
僕は、ドラムセットの前から立ち上がる。共演してくれたすべての編集者、イラストレーターヘ、そして、ステージのラストまで応援してくれた読者の方々へ、心から、
「THANK YOU!」
そして、
「SEE YOU AGAIN!」
[#地付き]1988初秋
[#地付き]喜多嶋隆
角川文庫『ポニー・テールは、ほどかない』昭和63年10月25日初版発行