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ポニー・テールは、ふり向かない
喜多嶋隆
目 次
第1話 ロンリー・ハート海岸
第2話 ダウン・タウン・メモリー
第3話 さよならベイ・ブルース
第4話 悲しいほどバラード
第5話 ロング・ロング・グッドバイ
第6話 イエスタディズは通り雨
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第1話 ロンリー・ハート海岸
ふいに、オシッコがしたくなった。
あたしは、パイナップル畑に入っていく。
道路から50ヤードぐらい。
見回す。動くものは、何もない。西側は、DELMONTE《デルモンテ》社のパイナップル畑。ちょっとくすんだグリーンが、地平線までつづいている。
あたしは、カット・オフ・ジーンズをおろす。畑の中にしゃがんだ。
SHOOT!
乾いた赤土に、気持ちよく吸いこまれていく。今シーズンのDELMONTE《デルモンテ》は、きっとDOLL《ドール》より豊作だろう。
終わる。
紙がないのに気がついた。
アロハ・シャツの胸ポケットをさがす。四つに折った紙が出てきた。
さっき、手続きが終わって出てくるとき、感化院《ガールズ・ホーム》の教官がくれた紙だ。
〈何かあったら、すぐ電話するように〉
その下に、感化院《ガールズ・ホーム》と自宅の電話番号。
うまいぐあいに、紙質が悪くてやわらかい。
くしゃくしゃともむ。拭《ふ》く。立ち上がる。
乾いた風が、パイナップル畑を吹いた。紙が、舞い上がった。背の低いパイナップル畑。その上を、紙飛行機みたいに、どこまでも地平線に向かって飛んでいく。
カット・オフ・ジーンズのチャックを上げた。
あたしは、小さなデイ・パックを左肩にかけた。
口笛で〈ミー・アンド・ボビー・マギー〉を吹きながら、道路に戻る。
午後1時。陽射《ひざ》しがまぶしい。
ちぎれ雲の影が、パイナップル畑の上をゆっくりと動いていく。
道路に面して、DELMONTEの看板が突っ立ってる。
看板には、穴があいていた。小さな穴が、いくつも。通りがかりのクルマから、ショット・ガンで撃ったあとだ。
看板によりかかる。北の地平線まで、一直線につづく道路をながめる。
1台、きた。
半マイルぐらい先に、クルマのバンパーが光る。
近づいてくる。白いTOYOTAだ。あたしは右手を出す。親指を立てる。
TOYOTAは、スピードをゆるめなかった。時速70マイルぐらいで、突っ走ってくる。
クルマの窓から、なんか飛んできた。思わず背中を丸める。右手で頭をガードする。
ガーンッと音がした。
クルマは、あっという間に走り去る。クルマが巻き上げた赤土で、ひどくムセた。
あたしのすぐわき、DELMONTEの看板に命中したのは、OLYMPIA《オリンピア》の空き缶だった。
悪態を吐く。足もとにころがった空き缶を、蹴《け》り飛ばした。もう、TOYOTAは見えなくなっていた。
15分後。2台目が、きた。
今度は、つかまえてやる。カット・オフ・ジーンズを、ぐいッと引っぱり上げる。自慢のヒップが、半分ぐらいはみ出る。
小型トラックだった。また、右手を出す。
青いCHEVROLET《シボレー》の小型トラック。かなりボロだ。
20ヤードぐらい過ぎて、トラックはとまった。あたしは、デイ・パックを肩に走っていく。
窓から顔を出したのは、白人のおっさんだった。
「ハイ、ゼア」
「どこまでいきたい」
「ホノルル」
「OK。乗りな」
あたしは、錆《さび》かけたドア・ノブを引く。助手席に乗りこむ。
「俺《おれ》あ、ハンクだ」
「未記《みき》子よ。みんなミッキーって呼んでるけど」
ミッキーなんてニック・ネームは好きじゃない。まるで男の子だ。ハワイアン・ネームのレイラニで呼ばれたかった。
けど、もう10年ぐらい、ミッキーで通ってた。
あたしのフル・ネームは、ひどく長い。読み上げてたら、終わるまでにホノルルに着いちゃうだろう。
おっさんは、ひどく色白で、ひどく太ってた。まるで、ゆで玉子だ。
あたしは、ゴムぞうりを脱ぐ。シートにもたれる。素足を、ダッシュ・ボードにのせた。
褐色の脚を、おっさんはチラッと見た。
ギアを入れながら、
「あそこから出てきたのか」
アゴで、バック・ミラーをさした。
パイナップル畑の逆サイド。東側の丘のまん中。ぽつんと、赤い屋根の建て物が見える。観光客が見たら、のどかなハイ・スクールかなんかに見えるだろう。
けど、それはあたしが出てきたばかりの感化院《ガールズ・ホーム》だった。
答えるかわりに、カー・ラジオのスイッチを足の指で押した。
E《エミルー》・ハリスの唄が、雑音まじりに流れる。カントリー・バラードだ。バック・ミラーの中で、赤い屋根がどんどん小さくなる。
「何してブチこまれた」
「もう、忘れたわ」
「そんなに長く入ってたのか」
「あそこで生まれたような気がするわ」
おっさんは、腹をゆすらせて笑った。
「年齢《とし》はいくつだ」
「15よ」
これは、本当だ。
「チョプスイか」
「まあね」
チョプスイってのは、チャイニーズ・フーズのひとつ。ゴチャゴチャのいため料理だ。
いろんな国の血が混じってることを、チョプスイ・ガールっていう。ハワイのスラングだ。
「いくつ混じってる」
あたしは、指を折りながら、
「ジャパニーズ。ハワイアン。アメリカン。スパニッシュ……それに」
「それに?」
「豚肉《ポーク》」
おっさんはまた、腹をブルブルとゆすって笑った。
「週に1回、あそこを通るんだが、お前さんみたいな〈出たて〉をよくひろうよ」
「そう」
おっさんは、勝手にしゃべりつづける。
「その、尻《しり》にさしてる棒はなんだい」
ヒップ・ポケットにさしたドラムスのスティックを、アゴでさした。
まったく、おせっかいなおっさんだ。いやんなってきた。けど、つぎのクルマをひろうのも、めんどうだ。
「これは〈おはし《チヨツプ・ステイツクス》〉よ。そんなことより、煙草《たばこ》持ってない」
おっさんは、胸のポケットからKOOLを出した。
あたしは、1本くわえる。硫黄《いおう》マッチを、ダッシュ・ボードですった。硫黄の臭いが飛んでから、煙草に火をつける。
1年ぶりだ。さすがに、ちょっと、クラッとする。
フーッと煙を吐く。煙は、クルマの窓に吸いこまれて流れ出ていく。
曲が、D《ドリー》・パートンに変わった。
「あれ!? どうしたの」
クルマが急にとまった。ついウトウトしてたあたしは、目を開けた。
トラックは、広大なパイナップル畑の小道に入ってた。何もないところだ。
おっさんは、もうクルマをおりてる。
パンクでもしたのか。あたしも、クルマのドアを開けておりてみた。
おっさんは、荷台にもたれて煙草をふかしてる。
「どうしたの」
「なあ。ものは相談だが」
おっさんは、あたしのバストあたりをジロジロ見て、
「20ドルで、どうだい」
「20ドルって?」
「とぼけなくてもいいんだ」
おっさんは、ニッと笑った。ヤニでまっ黄色になった歯をむき出す。まるでトウモロコシだ。
「どうせ売春でブチこまれたんだろう。ホノルルに帰るまでの間にひと稼ぎってのも、悪くないと思わないか」
「売春!?」
冗談じゃない。
誰《だれ》が、そんなセコいことやるもんか。こう見えたって、あたしは保証書つきのヴァージンだ。
「じゃ、倍の40ドルでどうだ。この前ひろったのは20だったが、お前なら40ドル出してもいい」
おっさんは、あたしの体中をながめ回す。
確かにあの感化院《ホーム》には、売春でつかまった娘《こ》も多い。このおっさんは、いつもこんな風にしてきたんだろう。
ムカついてきた。
「くたばりな! この白豚が」
あたしは、おっさんの足もとに、ツバを吐きかけた。
「そうかい」
おっさんはニタニタ微笑《わら》ってる。いつの間にか、右手に拳銃《けんじゆう》を握ってる。
あたしは、そのリヴォルヴァーを、チラッと見た。
案のじょう、サタデイ・ナイト・スペシャルってニック・ネームで通ってる安物だ。チンピラがドラッグ・ストアに押しこむには、ピタリのやつだ。
「どうせズベ公なら、ズベ公らしくしなって」
おっさんは、銃口を、あたしのバストに向けた。
「脱ぎな。すぐ終わるから」
すぐ終わるとは、ケンソンしたもんだ。
胸の中でため息をつく。正直、恐くはなかった。
感化院での袋叩《ふくろだた》きにくらべたら、どうってことはない。
ただ、暴発が心配だ。なんてったって安物の拳銃だ。
「いくらサタデイ・ナイト・スペシャルだって、この距離なら当たるわよね」
あたしは、いってやった。
「なんだと」
おっさんの目が、一瞬、びびった。
「撃ってみたら」
おっさんは、またニタッと微笑った。
「やけに強がるじゃないか。このイカれたロコが」
どうやら、そのひとことが、よけいだった。
〈ロコ〉ってのは、もともと〈ローカル〉からきてる。〈原地の子〉とか、〈土地っ子〉とか、そんなニュアンスのハワイアン・イングリッシュだ。
あたしは、拳銃との距離を目で測る。
とどく……。
パイナップル畑を、気まぐれのように風が吹く。赤土が、さっと舞い上がった。
あたしは、チラッと左を見た。
おっさんも、つい、つられて見る。
瞬間、あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを1本、引き抜いていた。
手首のスナップだけで、拳銃を握った右手首を打った。
ビシッと、にぶい音がした。
ハイハットを、思いきりひっぱたく。そのぐらいの力だった。
〈ロコが……〉
吐き捨てるようなそのひとことがなかったら、もう少し手かげんしたのに。
拳銃が、落ちた。
うめき声を上げて、おっさんはしゃがんだ。
2オンスたらずの軽いスティックだ。あの手ごたえなら、骨折はしてない。けど、ヒビぐらいは入ってるかもしれない。自業自得だ。
ころがった拳銃を、さッとひろう。
手首をおさえて、しゃがみこんだおっさんの顔に、銃口を向けた。
「やめてくれ! 暴発したら、どうする!」
むくんだ顔から、血のけが引いていく。
ひどい話だ。さっきまで、ひとに向けてた拳銃じゃないか。
そうか。
なんせ、感化院を出てきたばかりの、イカれたロコ・ガールだ。パイナップル畑で撃ち殺されてたところで、警察も、そう真剣に調べないだろうなァ。
あたしは、唇をかんだ。
つけっぱなしのカー・ラジオが、〈テネシー・ワルツ〉をやってる。
「ぶち殺したいところだけど」
銃口を向けたまま、
「40ドル」
「40ドル?」
「そう。さっきいってた40ドルで、なかったことにしてあげるわ。一発ぶちこむか、一発ぶちこまれるか。似たようなものよ」
銃口を、おっさんの腹に向けた。
「ためし射ちしてもいいのよ。そのお腹の脂肪だったら、防弾チョッキのかわりになるかもね。人間防弾チョッキか……。テレビに出られるかもしれないわ」
引き金に力を入れるふりをする。
「や、やめろ!」
おっさんは、尻《しり》をついて地面をあとずさりしていく。
「わかった。40ドルだな」
「カードはダメよ。キャッシュで40ドル。プラス州税《タツクス》4パーセント」
おっさんは、左手をポケットに突っこんだ。ドル札を出す。
全部まとめて、ひったくる。
50ドル以上あった。10ドル札3枚と5ドル札2枚。ぴたり40ドルとる。残りを、シャツの胸ポケットに押しこんでやる。
地べたに坐《すわ》りこんだおっさんにかまわず、トラックに飛び乗った。エンジンは、かかりっぱなしだ。
ギアを入れる。窓から、
「ヒッチ・ハイクするなら、くれぐれも気をつけるのね」
ウインク一発。
Uターンして道路に戻る。
ルート99だった。
ホノルル方向に、ハンドルを切る。
カー・ラジオのボリュームを上げる。
ワヒアワの町が、ミリタリー・リザヴェイションが、窓の外を流れ過ぎていく。
クラッチをふむたびに、ヒップ・ポケットで、スティックがゴリグリする。
おっさんの手首をひっぱたいた感触が、よみがえる。
またやったのか……。教官の声が、どっかからきこえてくる。
まだ、1年しかたってないのに。
あれは、よく乾いた日だった。
午前中、一発、|通り雨《シヤワー》が走り過ぎただけだ。サラサラした風が、ヤシの葉を揺らしていた。
午後の授業を、あたしはさぼった。バイトがあるからだ。
|かき氷屋《シエイヴ・アイス》だ。
氷、かき氷機、シロップなんかをつんだ屋台を、自転車で引っぱっていく。気の向いたところで店を開く。
売り上げの25パーセントが、バイト料になる。
その午後。カピオラニ公園の前で、あたしはかき氷屋を開いてた。
夕方までに、70ドルぐらいの売り上げがあった。
あと10ドルで、80ドル。25パーセントだから、20ドルのバイト料か。そんな計算をしていた。
4、5人の客がきた。
白人だ。みんな若い。体格もいい。夕方なのに、もう酔っぱらってるみたいだ。
「4つだ」
1人がいった。
「シロップは、なんにする」
「そうだなァ。レインボーがいい」
レインボーってのは、文字どおり、虹みたいに何色ものシロップをかけたやつだ。あたしは、4つ作った。
うけとった連中は、そのまま、かじりながら歩きだした。
「ちょっと」
「なんだよ」
「お金」
「金?」
「そうよ。お金、払ってよ」
4人の中で、いちばん酔っぱらった感じのやつが、あたしをにらんだ。あたしも、負けずににらみ返す。
ラコステのシャツを着たそいつは、へラヘラと笑う。仲間に、
「おい、金だとさ」
仲間も、ニヤニヤ笑ってる。
「この、ロコのガキが、金がほしいんだと」
「くれてやれよ、チャーリー。貧乏人をからかうのは、悪いくせだ」
「OK、OK」
そのラコステは、ショーツのポケットに手を突っこむ。
|25セント玉《クオーター》をいくつか、あたしの足もとにチャリンッと投げた。
唇をかんで立ってるあたしに、
「どうした。ひろわないのか。欲しいんだろう」
連中はヘラヘラ笑ってる。1人が、
「おい、チャーリー。このロコのガキ、ジャップの血が入ってるぜ」
「なら、カンフーでも使ってみろ」
ラコステが、あたしのポニー・テールを引っぱった。
つぎの瞬間。あたしは、ラコステの顔に、ツバをかけていた。
「やりやがった」
4人は、かき氷を地べたに叩きつける。あたしを囲む。
「いいかい、おじょーちゃん。俺達はU・H(ハワイ大学)のボクシング部だ」
あたしは、ゆっくりと、うしろに手を回した。
「それがどうしたの」
スティックが、ヒップ・ポケットにさしてある。いつでも練習できるように。それと、こんなときのためだ。
8歳から、ダウン・タウンで働いてきた。こんな風にして、自分の身を守ってくるしかなかった。
その日は、金属製のスティックを持っていた。
むくのアルミだ。10オンスはあるだろう。手首《スナツプ》を強くするためのトレーニング用だ。
〈ロコのガキが〉
せせら笑うようなその言葉が、体を熱くする。
ロコのどこが悪い。あんたら白人の、どこがえらいんだ。
パパの声がきこえる。
〈スティックでケンカはするな。ただし、プライドを傷つけられたときは、別だ〉
あたしは、スティックを引き抜いていた。
左だ。
ラコステが、殴りかかってくる。
ハイハットを叩くフォームで、その腕をビシッと叩いた。骨の折れる手ごたえがした。
正面から蹴りこんでくる。
その足首を、スネア・ドラムを叩くフォームでひっぱたいた。
3人目が、フックを顔面に飛ばしてきた。反射的に、タムタムを叩くときのスナップで、その手首を叩いた。
ふり向く。最後の1人の顔面。トップ・シンバルを叩くフォームでひっぱたいた。
あっという間に、鼻血が白いポロ・シャツに吹きかかる。
あたしは、スティックを手に、ぼんやりと立っていた。4人は、まわりにへたりこんでいる。やがて、サイレン。
人垣の向こう、点滅するパトカーの青ランプが見えてきた。
留置場の窓。
細い鉄格子の向こうに、ブーゲンビリアの花が見えた。
ひどく鮮やかな赤ピンクが、ラストに叩いたやつの鼻血を思い出させた。
ハワイアンの警官がやってきた。
「ミッキー、昼メシだ」
きのう、あたしを連行した中年の警官だ。
「さっき、おやじさんがきたよ」
「誰の」
「お前のさ」
「そう」
警官は、鉄格子にヒジをつく。あたしを見おろす。
「お前が、銀色《シルヴアー》のサムの娘だったとはなァ」
パパの名前は、サム。髪が銀色に近いんで、シルヴァー・サムって呼ばれてた。
鉄格子の下から入れられた、プレート・ランチをとろうとした。きのう、ケンカの最中に打ったヒザが、ズキッと痛んだ。
「おやじさんの演奏は、若い頃《ころ》、よく聴きにいったよ」
「そう」
「とにかく、伝説のドラマーだった。ヤシの樹みたいなぶっとい腕で、チャイナ・タウンの爆竹みたいなドラム・ソロをやるんだ」
「…………」
「とにかく、たいしたもんだった。よく、クラブの入口に長い列ができてたよ」
その頃を、あたしはしらない。雰囲気も、しらない。
あたしが物心ついた頃、この島じゃ、もう誰もジャズなんて聴いてなかった。
パパの仕事は、あっという間になくなり、ママは、家を出ていった。
ママの出ていった日の夜。
庭じゃ、虫がシーシーとよく鳴いてた。
あたしは、4、5歳だった。古ぼけたラジオから流れてた曲は、いま思えばシカゴだった。
子供だったあたしは、それでもシカゴの演奏に合わせてヒザをゆすってた。
パパは、ラジオのスイッチを乱暴に切った。
4ビート・ジャズの世界でしか活躍できなかった。サーフ・ボードに乗ったまま波を逃がしたみたいに、時代の流れにとり残された。
不器用な自分への腹立たしさが、大きな背中に漂っていた。今になって、あたしはそう思う。
静かな夜だった。
熱帯魚の水槽にエサをやっているパパのうしろ姿は、ひどく寂しそうだった。
「それは、ちょっとちがうかもしれないなァ」
警官が、ぽつりといった。
あたしは、食べかけてたプレート・ランチから顔を上げた。
ハワイアンの警官を見上げた。
彼は、窓の外を見ていた。ブーゲンビリアの色が、その横顔にまで照り返している。
「おやじさんは、4ビート・ジャズしかできなかったんじゃない」
「…………」
「それしか好きになれなかったんじゃないか………たぶん」
「…………」
「考えてもみろ。ポピュラー。カントリー。ハワイアン。このホノルルだけだって、音楽をやる店が何百あると思う。あれだけの腕だ。仕事をしようと思えば、いくらだってあったはずだ」
あたしは、おはしでつまんだテリヤキを、じっと見つめた。
「音楽ってのは、女みたいなもんだ。どんどん新しいのとつき合える男もいる。けど、おやじさんみたいに、ひとりの相手にとことんつき合っちまう、不器用な男もいる」
「それが、落ちめの年増《としま》女だったら」
と、あたし。
警官はニヤリと微笑うと、
「誰もみんな、いつか落ちめの年増女になる」
「…………」
「ミッキー、お前さんにも、いつかわかる」
警官は、鉄格子の間から、煙草を1本さし入れてくれた。
「パパ、何かいってた」
「いや」
警官は、首を横にふった。
「ただ」
「ただ……」
「4人とも、スティックの一撃で骨折したってきいて、ちょっと満足そうだったよ」
パパらしい話だ。
「骨折か……。あの人たち、ボクシング部だったんでしょ」
あたしは、ちょっと胸が痛んだ。4人のうち2人は、腕を叩き折ってる。
「なあに、4人とも補欠さ。どうせ、学生時代だけの遊びだ。たいして心配することはない。それより、自分のことでも心配しろ、ミッキー」
あたしは、消した煙草を、窓から捨てた。
「どうなるの」
「2ヵ月前にも、ドラムのスティックでケンカしてるな」
ダウン・タウンだった。フィリピーノのごろつきにからまれた。1人にケガをさせてる。
「2回目だし、あの、金属のスティックってのは、凶器ととられてもしかたがない」
「で?」
「たぶん、感化院《ガールズ・ホーム》いきだろうなァ」
「そう」
ホームじゃ、ドラムスの練習はできるんだろうか。
あたしは、窓の外をぼんやりとながめた。
ブーゲンビリアが風に揺れている。誰かが、口笛でB《ボズ》・スキャッグスの曲を吹いている。
感化院《ガールズ・ホーム》に送られる前の日。パパが面会にきた。
「元気か」
「このとおり。それよりパパ、下着、毎日とりかえるのよ」
「ああ」
「それと、缶づめのスープは、直接火にかけちゃダメよ」
「ああ」
そんな、つまらないことしか話さなかった。
最後に、
「お前、やっぱり、ロック・バンドをやってくつもりなのか」
「うん」
「どうしても、か」
あたしは、唇を結んで、首をタテにふった。
「勝手にしろ」
いい捨てる。パパは席を立った。一度もふり向かず、面会室を出ていった。
パパを見たのは、それが最後になった。
トラックのスピードを上げる。
H1に入った。ホノルルの街は近い。
ラジオの感度が、どんどん良くなる。98ロックFMに合わせる。
真珠湾《パール・ハーバー》が、右に見えかくれする。海の匂いはひさびさだ。窓からの風を、あたしは胸いっぱい吸いこんだ。
H1をおりる。市内へ。
アラ・ワイの運河を渡る。ホノルルの中心部だ。
クヒオ通り。ABCストアーの前に駐車した。入る。ひんやりとしたスーパーの匂いも、ひさびさだ。
とりあえず、買い出しだ。
ポケットからお金を出してみる。さっき、おっさんから巻き上げた40ドルを入れると、100ドル近くある。ちょっとしたもんだ。
カゴを取って、スーパーの中をウロウロする。なぜか、嬉《うれ》しい。
すぐうしろ。日本人の娘《こ》が、3、4人。キャッキャッと笑いながら、食料品をカゴに放りこんでる。
最近ふえた、コンドミニアムを借りてる娘《こ》たちだろう。
1年前なら、インネンつけて100ドルも巻き上げてやるところだ。
けど、とりあえず自分の買い物だ。
まず、ビール。PRIMO《プリモ》を6缶。
パパイヤを3個。
そうだ。今夜は、テリヤキのサンドイッチをつくろう。
豚肉。パン。ソイ・ソース。
アルファルファをひと袋。マヨネーズ。玉子を1ケース。ベーコンひとかたまり。
レジに並ぶ。
自分の番がきた。太ったロコのおばさんが、玉子をカゴから出した。
あッ。その瞬間、思い出した。
うちにはもう、冷蔵庫もないんだ。
半年前。パパからホームにきた手紙を思い出した。
〈借金とりがきた。うち中の電気製品を、みんな持ってっちまった。
冷蔵庫も、テレビも、オーブンも、何もかもだ。
でも、心配しなくていい。あしたからの働き口が見つかった。海軍《ネイビー》の下請け会社だ。サルヴェイジの仕事だ。ちょっとキツそうだけど、なに、力仕事なら、まだ自信がある。〉
その手紙を出した3日後。仕事中、不発弾の爆発で、パパはあっけなく死んだ。
レジスターを打つ音に、ハッと顔を上げた。
「待って」
太ったレジのおばさんは、変な顔であたしを見た。
カゴの中を見つめてるあたしを、ジロジロとながめる。
「どうしたの。マネー、ないの」
半分日本語できいてきた。うしろに並んでる客たちも、妙な顔をしてる。
あたしは、顔を上げた。
カゴの外に出てる玉子とアルファルファをつかむ。カゴに戻す。
並んでる客たちを突き飛ばすように、売り場に戻る。
食料品をひとつひとつ、棚に戻していく。
だんだん、冷静になる。
自分にいいきかせる。
いいじゃないか。そんなこともあるさ、ミッキー。
ここは、ハワイだ。裸だって暮らせる島だ。
オーブンがなくったって、太陽がある。
ラジオがなければ、口笛を吹けばいい。
PRIMOを1缶と、SALEMを1箱だけ。紙袋を持って、店を出る。
トラックから、デイ・パックを出す。トラックは、キーをつけたまま、ほっぽり出しておく。
デイ・パック肩に、明るい午後のクヒオ通りを歩き出した。
空腹だ。歩いてるうちに、〈TACOBELL《タコ・ベル》〉を見つけた。左手にビール。右手にチキンのタコスを2個持って、バス・ストップに歩いていく。
シューッと音がする。
〈THE BUS〉とどてっ腹に書いた市バスのドアが開く。
タコスをかじりながら、あたしはバスをおりた。
50ヤードぐらい歩く。
バニヤンの樹がある。その角を左へ曲がる。
ずっと遠くに、ダイアモンド・ヘッドが見える。ゆるい登り坂。どっちかといえば、貧しいハワイアンの家が多い。
アンディーの家の角を右へ。3軒目が、あたしの家だ。
なんだろう。
家の前庭に、何か立ってる。看板だ。白い横長の看板。
〈FOR SALE〉
の文字が、目に飛びこんでくる。その下に、不動産会社の名前と電話番号。
看板の影が、芝生に長くのびている。
そんな……。
缶ビールとタコスを両手に、あたしは立ちつくしていた。
ローラー・スケートの音がする。アンディーの弟が滑ってくる。
「ヘイ、ゼア、ミッキー」
通り過ぎようとするチビの腕をつかまえた。
「ねェ、これ、どうしたの」
あたしは、自分の家をアゴでさした。
「どうしたって?」
チビは、なまいきそうに口をとがらす。
「3ヵ月ぐらい前だったよ」
「3ヵ月」
「そうさ。いろんな人がきて、出たり入ったりしてた。みんな処分してったって」
あたしは、チビの腕をはなす。
芝生の前庭を横切る。ポーチに上がる。
玄関のドア。すぐわかった。鍵は、新しいやつにかえてある。
裏に回った。キッチンのドアは、X形に板が打ちつけてある。
ぐいっと引っぱると、板はミシミシとはがれた。もともとボロ家だから、釘もたいしてきかないんだろう。
アミ戸も開ける。中に入る。ホコリッぽい臭い。
何もなかった。
こっけいなほどみごとに、空き家になっていた。缶切りひとつ、残っていない。
たそがれの陽が、がらんとした床に射しこんでいる。
ポーチに戻る。
風が少し涼しくなっていた。あたしは、ポーチの手すりにヒジをついた。
ぼんやりと、手すりをながめる。木に、ペパーミント・グリーンのペンキを塗った手すりだ。
1ヵ所だけ、ペンキがはげている。そっとさわってみる。そのあたりだけ、少しへこんでいる。
思い出すまでもない。それは、あたしが子供だった頃、ドラム叩きの練習台にしたところだ。
その頃の自分の姿を、いまでも簡単に思い出すことができる。
いつも、ギンガム・チェックの野暮ったいシャツかワンピースを着ていた。ギンガムの生地が、きっと一番安かったんだろう。
いつも裸足だったような気がする。
まだ手は小さかった。でも、なまいきにROGERS《ロジヤース》の大人用スティックを握ってた。
背の高い丸イスに腰かけて、何時間でも、ここを叩いていた。
頭の中に、いまも、たどたどしいスティックの音が響いてくる。
〈トントン! トトン! トトン! トン! トントントン! ットトン トン!〉
デッキ・チェアーが1つだけ、ポーチにほうってある。
アルミのパイプ。ビニールをはった古いやつだ。半分、こわれかけてる。きっと、処分し忘れたんだろう。
そのデッキ・チェアーに、あたしはごろりと横になった。
着がえの入ったデイ・パックを、枕《まくら》にする。いまはもう、これがあたしの全財産だ。
頭のうしろで腕を組んだ。
見上げる空は、きれいなグラデーションになっている。下の方は、かすかな夕焼け。上にいくほど、濃いブルーになる。
風にカラカラ揺れているヤシの葉のシルエット。その向こうに、きょう最初の星が出ている。
疲れが出た。
いつの間にか、あたしは眠っていた。
夢の中で、ドラムスを叩いてた。曲はなんだかわからない。けど、すごくいい感じでドライヴしてた。
客席の一番うしろに、パパがいた。
夢の中でも、パパは苦虫をかみつぶしたような顔をしてた。あたしがロックをやってるのが、気にくわないらしい。
ニワトリの鳴き声で目が覚めた。
このあたりじゃ、まだニワトリを飼ってる家も多い。
あたしは、デッキ・チェアーから体を起こした。丸まって眠ってたんで、ちょっと体が痛い。
5時頃だろう。
そろそろ、東の空が明るくなりかけている。1回、背のびをした。明け方のひんやりした空気を、胸いっぱい吸いこむ。
デイ・パックを背中に背負う。
1度だけ、手すりのへこみを、そっとさわった。
ポーチをおりる。〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉が、ちょっと濡《ぬ》れている。軽い通り雨でもあったらしい。
ひんやりと濡れた芝生を横切る。
もう二度と帰ることのない家かもしれない。
14年間暮らした家は、なんだかとても小さく見えた。
〈マイ・ライフ〉を口笛で吹きながら、歩き出した。
バスーストラを通り過ぎる。まだ、パスの走ってる時間じゃない。
白い大きな家の前で、ふと足をとめた。かなり立派な家だ。
ガレージの壁に、自転車が1台、よりかからせてある。
近づいてみる。スポーツ・タイプだ。鍵《かぎ》はかかっていない。
あたしは、まわりを見回した。夜明けの道路には、誰もいない。
自転車にひょいとまたがる。走り出す。
12段変速だ。走りやすい。サドルの位置は、かなり高い。けど、あたしは脚が長いから、まだ余裕があるぐらいだ。
朝の空気を体にうけて、海の方に走る。
小さな海岸公園《ビーチ・パーク》に出た。自転車ごと中へ入る。
太いヤシの樹《き》のわき。シャワーのポールが立っている。シャワーを浴びることにした。
見回す。誰もいない。着ているものを全部脱ぐ。
シャワーのコックをひねる。水が、勢いよく吹き出す。痛いぐらいだ。
もう、陽が射してる。冷たくはない。気持ちいい。
10分ぐらい。頭からシャワーを浴びまくる。
新しいパンツとアロハを身につける。
そうだ。洗濯しよう。デイ・パックから、石けんを出す。脱いだアロハとパンツを、シャワーで洗濯する。
絞る。
ヤシの樹に、自転車をたてかけてある。パンツはハンドルに。アロハはサドルにかけて乾す。
あたしは、芝生に腰をおろした。
陽射しが、1分ごとに強くなる。髪も、アロハも、パンツも、どんどん乾いていくのがわかる。
パパのお墓は、真珠湾《パール・ハーバー》が見おろせる丘にあった。
WHITE《ホワイト・》 RUM《ラム》の瓶を持って、あたしは自転車をおりた。
パパは、RUMが好きだった。よく、ココナッツ・ジュースなんかに混ぜて飲んでた。
パパのお墓の前で、あたしは立ちどまった。
質素なお墓だった。
なんの飾りけもない小さな十字架が、ぽつんと立っている。
午後の陽射しが、十字架の小さな影を芝生に落している。
あたしは、RUMの瓶を、十字架に立てかけた。
そうだ。花を持ってくるのを忘れた。
パパが好きだった、庭の〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉でも切ってくるんだった。
見回す。4つ先のお墓に、ポインシアナの花束が置いてある。まだ新しい。
あたしは、そいつをしっけいする。パパの十字架の下に置いた。
〈借りもので、ゴメンね〉
胸の中で、そうつぶやく。
午後の墓地は、静かだった。鳥の声だけが、ときどききこえる。
もう、話すこともない。あたしは、黙って十字架を見おろしていた。
ポインシアナの赤が、西風に揺れた。
港の香りがする。
ケワロ湾《ベースン》は、すぐそこだ。
あたしは、自転車をとめた。潮風を胸に吸いこみながら、店の看板を見上げた。
〈ONO CAFE〉
くたびれた店だ。店の壁に自転車をたてかける。自転車の重さで、店が倒れたらどうしよう。そんな気にさせるぐらい、古びた建て物だ。
ONO《オノ》は、ハワイの言葉で〈うまい〉を意味する。
オーナーの名前が、エディ・重治《シゲハル》・小野《オノ》。
ONOと小野。2つをひっかけた店名だ。
ドアを開ける。店は、ガランとしていた。客は、1人もいない。生ガキとポップ・コーンの匂《にお》いがする。
エディは、カウンターの中にいた。
かがみこんで、何かしてる。レモン・スライスでも作ってるんだろう。左右に髪が残ったハゲ頭で、すぐにエディだとわかる。
近づいていく足音に、エディは顔を上げた。
2、3秒の空白。
「ミッキー……」
つぶやくと、カウンターを出てきた。夢遊病者みたいに、3、4歩あるく。せまい店だから、もう、あたしの目の前にいた。
「ミッキー」
エディは、あたしを思いきり抱きしめた。安物のローションが匂う。
「ミッキー……いつ出てきた」
エディは、日本語でいった。
「きのうよ」
エディは、あたしの体をはなした。
「ユー、元気そうだ」
日系二世だけに、日本語に、ときどき英語がまざる。
「エディ、また太ったわね」
「ああ。180ポンドをこえちまった」
「ねェ、坐らせて。朝から、自転車のこぎっぱなしよ」
「オール・ライト。いいとも」
あたしは、カウンターに坐る。エディは、カウンターの向こうに入った。
エディは、パパの現役時代、同じバンドでギターを弾いてた。仕事仲間で、親友でもあった。
あたしの顔を、正面からじっと見る。
「1年見ない間に、またキレイになった」
「おだててもダメよ。おみやげを持たせてくれるほど、感化院《ガールズ・ホーム》は親切じゃないもの」
「ウソじゃない。ほら、見てごらん」
エディは、体をどけた。
酒棚のうしろは鏡だ。I・W・HARPER《ハーパー》と|OLD CROW《オールド・クロウ》の瓶の間に、あたしの顔が映ってる。
1年前より、ちょっと頬《ほお》の肉が落ちたかもしれない。それだけ黒目がちの瞳《ひとみ》が大きく見える。日系ロコ・ガールの顔としちゃ、まあまあ。
エディはまた、正面からあたしを見た。
「どうだった」
「どうって?」
「ホーム暮らしは、つらかったか」
「楽なものよ。あれで、ディナーにワインがつけばいうことないわ」
エディは、白い歯を見せた。
「何か飲むかい」
「うーん、いつものやつがいいわ」
「OK」
エディは、CAMPARI《カンパリ》を、グラスに5分の1ぐらい入れた。そこに、ビールを注ぐ。CAMPARI & BEER。
自分には、GIN & TONIC《ジン・トニツク》だ。
あたしたちは、カチッとグラスを合わせた。
ちょっとオレンジがかった赤。透き通ったグラスを、窓の陽にかざしてみる。
なつかしい色だ。ホロ苦く、かすかに甘い。
「何か、聴くかい」
ジューク・ボックスに歩きながら、エディがいった。
「Cの18」
「OK」
エディは、何曲分か、ボタンをカチャカチャと押した。
静かな店の中。イーグルスの唄う〈デスペラード〉が流れはじめる。
「ファーザーの墓には、いってきたかい」
あたしは、煙草に火をつけながら、うなずいた。
「しけた墓だったろう」
「…………」
「でも、あれが、せいいっぱいだった」
そうか。パパのお墓は、昔のバンド仲間がつくってくれたんだった。
「みんな、ピーピーしててね」
エディは、ちょっとはずかしそうだ。
「そんなことないわ。エディ、本当にありがとう。お墓があるだけだって、ちょっとしたものよ。あの、ガンコおやじが」
「…………」
「女房には逃げられ、娘は8歳から働きっぱなし。最後は、1セントも残せずグッド・バイ。立派なもんよ」
「まァ、そういうなよ、ミッキー」
エディは苦笑いすると、
「あんたのファーザーは、サムは、ひとつだけ、たいした財産を、あんたに残した」
「財産?」
「そう、ドラム叩きってやつさ」
「…………」
「俺は、ミッキー、あんたがブチこまれるちょっと前、カパフル通りにある店で、偶然、あんたのバンドが演《や》ってるのを聴いたよ」
「…………」
「ほかのメンバーは、正直いって、アマチュア・レベルだった」
エディは葉巻をくわえる。
「けど、あんたのドラミングだけは、すごかった」
「…………」
「ちっちゃい頃からサムが教えてたのはしってたよ。だが、あれほどだとは思わなかった。とても、ティーン・エイジャーの、しかも女の叩くドラムスじゃない」
「でも……パパは死ぬまで反対だったわ。あたしが16ビートの曲なんかやるのに。あたしの演奏なんか、一度も聴きにこなかった」
目の前のコップに、プルメリアの花が一輪。あたしは、その花びらを、指先で突ついた。
「ミッキー、ユーにあげるものがある」
エディは、葉巻をくわえたまま奥に入っていった。
あたしは、窓の外をながめた。|通り雨《シヤワー》が窓ガラスを濡らしてる。
「これさ」
目の前に、エディがコトッと置いた。
ドラムスのスティックだった。新品だ。
「事故で死ぬ2、3日前、サムが、あんたのために注文したものだ」
「…………」
スティックは、パパが〈棒っきれ〉って呼んで嫌ってたタイプ。いってみればロック向きのやつだ。
パパが使ってたスティックは、全体に細身だ。先端《チツプ》に向かって、すんなりと先細りになっていく。スタンダードなジャズ向きのやつだ。
あたしは、チップの近くまで、ほとんど同じ太さのを使ってる。その方が、まず音にパワーが出る。
昔は、パパのタイプのスティックを使ったこともあった。でも、何回か、リム・ショットで叩き折った。
小さい頃からトレーニングしたあたしの力には、もうパパの細いスティックは向かなくなっていたのだ。
「サムが死んで1カ月後に、届いたんだ」
エディが、スティックをさし出す。
握る。
軽くふってみる。
いいバランスだった。
すぐにわかった。ダウン・タウンにある楊周峰の楽器店で作らせたものだ。いつも、パパの特注スティックを作ってる店だ。
重さも、太さも、あたしの手やパワーにピタリだ。最高のヒッコリーでできている。
けど、あの昔かたぎな職人の楊が、よくこういうタイプのスティックを作ったもんだ。
まん中辺に、Mのマーク。
「そのMは、ミッキーのMさ」
エディが、2杯目をつくりながら、いった。
「あんたがホームから出てきたら、祝いにやるつもりだったんだよ」
曲が、カラパナに変わった。
あたしは、黙ってスティックをながめていた。
「そういえば、ミッキー」
「ん?」
あたしは、顔を上げた。
「あい変わらず、ポニー・テールなんだね」
「……うん」
「覚えてるかい」
「何を」
「サムが、ユーにドラム叩きを教えてるときさ。必ず、あんたはポニー・テールだった」
「ああ、あれね」
あたしがドラムを叩くのに、。パパはあまり乗り気じゃなかった。
けど、教えてくれるとき、必ずポニー・テールにさせた。
「よくいわれたわ。手打ちになるな。手先だけで叩くな。手先だけで叩くのは、口先だけで生きてくのと同じだ。体全体でリズムをとれってね」
「で、ポニー・テールか」
「そう。ドラムを叩いてるとき、いつも、ポニー・テールの先っぽが、うしろの首筋に当たるように。そうしていれば、手打ちにならない。いつも、全身でリズムをとれる」
「いいコーチだ」
「そうしてるうちに、ポニー・テールしか似合わなくなっちゃった」
あたしは苦笑いした。
目の前のプルメリアが、淡く匂《にお》った。
「あと10年、いや15年若かったら、俺もミッキー、あんたと同じステージに立ちたかったよ。いま、ギターをこのタイコ腹に乗せたら、きっとフレットも見えないだろうなァ」
エディの安葉巻は、とっくに消えている。
「悲しいことだが、時間ってやつだけは、とり戻せない。たとえ金を払ってもね」
エディは、手に持ったGORDON《ゴードン》の瓶を見ながら、
「このジンなら、飲まなきゃ減りゃしない。……けど、人生って酒は、毎日毎日、ようしゃなく、こぼれて落ちて減っていく」
「…………」
「飲みたい、と思ったときは、もう残ってなかったりすることもある」
エディは、あたしの目を正面から見た。
「だが、ミッキー」
「…………」
「あんたには、まだ夢を迫っかける時間がある」
ジューク・ボックスの曲が、C・C・Rの〈雨を見たかい〉に変わった。
店を出る。
|通り雨《シヤワー》は、走り過ぎていた。雨上がりの、甘い匂いがする。
ダイアモンド・ヘッドの方向に、二重《ダブル》の虹《にじ》がかかっている。
あたしは、自転車にまたがった。
ケワロ湾《ベースン》には、つぎつぎとトローリング船《ボート》が帰ってくる。入れかわりに、観光客用の〈サンセット・クルーズ〉の船が出港していく。
ゆっくりと、海岸沿いに走る。
胸の中で、さっきエディのいったことをプレイ・バックしてみる。
「いいか、ミッキー。本当のMICKEY《ミツキー》 MOUSE《マウス》になっちゃいけない」
レモンをスライスしながら、エディはつぶやいた。
「天国で、ファーザーが悲しむからね。MICKEY MOUSEは、いけないよ……」
MICKEY MOUSEってのは俗語《スラング》で、クズとか、くだらないものって意味になる。
よく、兵隊の使うスラングだ。
「ケンカするのも、しょうがない。ユーのファーザーも、ケンカ早かったからね」
エディは、レモンを切る手をとめると、
「おかげで、俺たちのバンドは、ずいぶん仕事を失《な》くしたものさ」
苦笑い。あたしの胸を指さして、
「もし音楽をとったら、あんたはただの不良少女、感化院帰りのロコ・ガールだ。が、2本のスティックを握ってる限り、ミュージシャンヘの夢を捨てない限り、少くとも、クズやゴミじゃない」
こうもいった。
〈最高のプロフェッショナル・バンドをつくるんだ〉
〈どんな国籍の、どんなやつでもいい。とにかくスゴ腕のプレーヤーだけを一本釣りで集めるんだ〉
できるだろうか。
ホームにブチこまれてた頃から、漠然とは考えていたことだ。
でも、本当に、できるだろうか。
アラ・モアナの海岸に出た。自転車をおりる。押して歩く。
海岸は、好きだ。
ここの砂浜も、好きな場所のひとつだ。
孤独だなあ、と感じたとき、ひとりで何か考えたいとき、よく、くる。
たそがれ。
太陽は、あと1インチで水平線にジュッとつくあたり。
観光客のいなくなった砂浜。砂の起伏が、夕陽にくっきりとした陰影になっている。
老人と犬が1匹、波打ちぎわをゆっくりとジョギングしている。
あたしは、コンクリートに坐った。砂浜と遊歩道の間にある、低いコンクリートのフェンスだ。
フェンスに坐って、ぼんやりと砂浜をながめる。
1人と1匹が、ゆっくりと走り去った。LIFE GUARDの連中も、引き上げていった。
ヒップ・ポケットから、さっきのスティックを出してみる。
目の前に、ゴミ缶がある。ドラム缶に、ピンクのペンキを塗ったやつだ。そのヘリを、軽く叩いてみる。
いい音がした。
カンカン、ッカカン!
カンカン、ッカカン!
ちゃんとスティックをふるのは、1年ぶりだった。
カンカン、ッカカン!
カンカン、ッカカン!
うしろの首筋に、ポニー・テールの先っぽが当たる。
カンカン、カカカン!
カンカン、カカカン!
パパの作ってくれたスティックは、完璧《かんぺき》だった。
ゴミ缶が、ボーッとかすむ。思わず、涙があふれているのに気づいた。
ポニー・テールが、首筋に当たる。水平線が、ボーッとにじむ。
涙が、頬にこぼれていく。
〈泣いてるんじゃない。ただの|通り雨《シヤワー》だ。どうせ海風が乾かしてくれるだろう〉
あたしは、唇をかんで叩きつづける。ただひたすら、ゴミ缶を叩きつづける。
カンカン、カカカン!
カン、ッカカン!
カンカン、カカカン!
カン、ッカカン!
カカカン! カカカン!
カカカン! カカカン!
カカカン! カカカン!
砂浜には、もう誰もいない。風が涼しくなっていた。
[#改ページ]
第2話 ダウン・タウン・メモリー
パン!
鋭い音がした。
スネア・ドラムの皮《ヘツド》が破れた。
大きく裂けたヘッドに、右のスティックが突き刺さった。
午後2時。
もう、3時間もドラムスを叩いてたことになる。きょうの練習は、終わりにしよう。
あたしは、スネア・ドラムのヘッドをはずす。
新しいヘッドと交換する。
ボルトを、一本一本締めていく。
右回りでも、左回りでもない。対角線上に向かい合ったボルト同士を、少しずつ締めていく。
ヘッドが、だんだん張りつめていく。ボルトのきしむ音がする。
カパフル通りのライヴ・ハウス、〈ホノルル・コロシアム〉。
コロシアムってのは大げさな名前だ。けど、ホノルルじゃ、かなり立派なライヴ・ハウスだろう。
この店じゃ、感化院《ガールズ・ホーム》にぶち込まれる2年ぐらい前から、レギュラーで出演してた。
店は、ガランと静まりかえっていた。
昼間だから、もちろん誰もいない。地下室独特の、ひんやりとした空気。ちょっと、カビくさい。
ボルトを七分目ぐらいまで締めたとき、
「また破ったのか」
店の入口で声がした。
赤いシルクのベストに口ヒゲの男が、ニヤニヤと微笑《わら》いながら立っている。
この店のオーナーのアントニオ。スペイン系のハワイアンだ。
「いつもより1音半ぐらい高めにチューニングしたからね」
立ち上がる。バス・ドラムの上に置いたスポーツ・タオルをとる。
汗を拭《ふ》きながら、カウンターに歩いていく。
「自分のヴァージンを破るまでに、何枚のヘッドを破るやら」
アントニオ得意の下半身ジョークだ。
すれちがいざま、あたしのヒップをスルリとなでた。
その手を、ピシャリと叩《たた》く。大きく破れたヘッドを、アントニオの頭にかぶせる。
タオルを首にかける。スティックを、カット・オフ・ジーンズのヒップ・ポケットにさす。
カウンターのスツールに、ドサッと坐《すわ》った。
「何か飲むかい」
カウンターの向こうに回りながら、アントニオがきいた。
「ビールがいいわ」
「OK」
アントニオは、冷蔵庫からCOORS《クアーズ》を2缶出す。
缶からノドへ、直接、ビールを流し込む。
「フーッ」
息をついたあたしの前に、
「ほら、ミッキー」
アントニオが、カセット・テープを20本ぐらい、ガサッと置いた。
「先週から頼まれてたやつだ。やっと集まった」
「ありがとう」
「ホノルル中で、いちおう弾けるリード・ギターのやつは、だいたい入ってる」
アントニオは、現役のトランペッターでもある。つまり、音楽がわかる。
「OK。聴かせて」
カセット・デッキのスイッチを、アントニオはONにする。
まず、メンバー選びの1人目。リード・ギター弾きだ。
スピーカーから、曲が流れはじめる。
1人目。
ダメだ。アマチュア・レベルだ。
2人目。
テクニックが、やっぱり幼稚だ。
3人目。
まずまずだ。けど、リズムの乗りが決定的に悪い。
4人目。
テクニックだけで弾いてる。
ハートが、まるで感じられない。指先が器用に動くだけだ。
本人がうまいと思ってるだけに、こういうのが一番まずい。
最後のテープが終わった。
2缶目のCOORSは、すっかり空になってる。
「いないものねェ」
「まあなァ」
アントニオは、3缶目のビールを出した。
「そのテープは、何?」
とあたし。
酒棚の上に1本だけ置いてある。ケースなし。裸で、酒瓶の間に立てかけてある。
「これかい?」
アントニオが手にとる。何も書いてない黒いカセット。
「誰《だれ》かの忘れ物じゃないか。それとも、俺《おれ》のいないときに売り込みにきて、置いていったか。どっちにしても」
テープのホコリを、フッと吹き払う。
「かなり前のやつだぜ、こりゃ」
アントニオは、テープをデッキに放り込んだ。
ライヴらしい。
拍手に重なって、ミディアム・テンポのロック・バラードが流れはじめる。
あたしは、3缶目のCOORSを開けた。ひと口飲む。手が、ピタッととまった。
空き缶を捨てようとしたアントニオの右手も、とまっている。
インストロメンタルの演奏らしい。
はじめて聴くメロディ……。オリジナル曲みたいだ。
リリカルだ。けど甘すぎないテーマが、力強く流れていく。
「誰だ、こりゃ」
アントニオが、空き缶を持ったままつぶやいた。
心のこもった、いい曲だ。
それ以上に、いいギターだ。
テクニックよりも何よりも、奏法が独特だ。
特に、高音部が凄《すご》い。
「こんな高い音、よく出せるなァ」
まだ、アントニオがつぶやいた。
リード・ギターは、ぐんぐん高く昇りつめていく。
テーマから、アドリブヘ飛び込む。
たぶん、一弦の、しかもネックの根本あたりのフレットで弾いてるんだろう。
けど、無理が感じられない。
余裕たっぷり。しかもホットに、最高音部で暴れ回る。
テーマに戻る。
最初のテーマを、|1《ワン》オクターブ高いキーで弾きはじめた。
スリリングで、しかもハートのある演奏だ。
あたしとアントニオは、じっと耳をすます。
やがて、エンディング。
ワッと爆発する拍手。
その上を、どこまでも高く高く、昇りつめていくギター。まるで、風に乗ったハングライダーだ。
拍手とシンバルの余韻が、フェード・アウトされていく。
あたしたちは、耳をすまして2曲目を待った。けど、テープに入ってるのは、その1曲だけだった。
「フーッ」
アントニオが、軽くため息をついた。
「悪くないね」
肩をすくめる。口ヒゲの下から、白い歯を見せた。
「でも、どこの誰だかわからなきゃ」
「ちょっと待て」
とアントニオ。
テープを巻き戻す。
「アタマんとこで、誰かの声が入ってたみたいだ」
テープを最初から回す。アントニオは、ボリュームを、ぐっと上げた。
拍手。
「おっと、ここだ」
もう1回。
拍手の間に、かすかに声がきこえる。司会者か。ちょっと、しゃがれた声。
「シンシアのテーマ」
曲名の紹介だろう。言葉の最後には、もう演奏のイントロがかぶってる。
「これは……」
アントニオは、耳をすまして、もう1回聴く。
「わかった」
あたしに向かってニヤッと微笑った。
「こいつあ、チキータの声だ」
「チキータ?」
「そう。ニック・ネームさ」
「チキータ・バナナみたいに長い顔してるの?」
「いや、日系三世なんだ」
「そうかァ」
あたしは、つぶやいた。
ハワイじゃ、日系三世や四世のことを、よくバナナにたとえる。
皮、つまり肌は黄色。けど、中をむけば白。つまり、考え方やなんかは、まるで白人。そういうことだ。
「チキータは、確か、ダウン・タウンに演奏をきかせる店を持ってたはずだ。うまくいけば、この曲を演《や》ってるギター弾きもわかるかもしれない。あしたまでに、当たっとくよ」
「ありがとう」
あたしは、アントニオの頬《ほお》にキスをした。
「それはそうと、ミッキー」
「何?」
アントニオはニヤニヤと、
「どうせヴァージンをくれてやるなら、共通の仕事を持った男がいいと思うんだがなァ。たとえば、俺みたいに」
カウンターの後ろの鏡に向かって、髪をなでつける。男性用のコロンがプンと匂《にお》う。
「昔、ママがいってたわ」
「何て?」
「音楽を仕事にしてる男とはつき合うな」
「どうして」
「いつの日か、必ずこう叫ぶはめになる。〈私と音楽の、どっちが大切なの!〉」
「あんたのパパは、伝説のドラマー、銀色《シルヴアー》のサムだったっけなァ」
あたしは、うなずいた。
「で、ママは、そう叫ぶはめになったかい?」
「ママは、ギャーギャーと叫ぶのが好きじゃなかったのね、きっと」
あたしは、スツールをおりた。
「黙って、家を出ていったわ。でも、心の中じゃ、いまでも叫んでるかもしれないけどね……」
アントニオに投げキスしながら、出入口のドアを押した。
まぶしい。目を細める。
暗い地下から出てきたからだ。
店の前に置いてある自転車に、あたしはまたがった。
陽射《ひざ》しの中に走り出る。
いい天気だった。
まっ青な空に、ヤシの葉が揺れてる。
ケワロ湾《ベースン》のバイトには、まだちょっと時間がある。
帰ってきたトローリング船《ボート》の、魚の血なんかで汚れた甲板《デツキ》を洗うバイトだ。もう10日ぐらいやってる。
ちょっと遠回りだけど、マノアの住宅街を走る。
自転車は、12段変速だ。
ギアを、3段上げた。ペダルが、急に重くなる。
けど、そのまま走る。
足のトレーニングだ。
ドラム叩きの半分近くは、足だ。
何時間でも、正確に、パワフルに、バス・ドラムとハイ・ハットのペダルを踏みつづけていられなきゃならない。
感化院《ガールズ・ホーム》にぶち込まれてた1年間で、ちょっと脚力が落ちた気がする。
ペダルを、力いっぱい踏む。
だんだん、スピードが上がってくる。
住宅街の白いガレージが、ヤシの樹の並木が、ぐんぐん後ろに流れていく。
ポニー・テールを風になびかせて、あたしは、まぶしい午後の住宅街を走り抜けていく。
頭の中に、さっき聴いた、ギターのハイ・トーンが響いていた。
「ミッキー」
誰かが、肩をゆする。
ゆっくりと目を覚ます。目の前に、エディの顔があった。
朝の光が、店の窓から射し込んでいる。
あたしは、エディの店で寝泊りさせてもらってた。
店の奥に1つだけ、半円形の4、5人用シートがある。そこで、ちょっと体を曲げて眠ってた。
「おはよう、エディ」
エディが、タオルをさし出した。
「目尻《めじり》が、濡《ぬ》れてるよ」
「……そう」
右手の甲で目尻をぬぐう。
かすかに濡れてる。
ちっちゃい頃《ころ》から、人前じゃ絶対に泣かない子供だった。
いつも、唇をかみしめて、こらえてきた。その分、夢の中で泣いた。朝、起きると、よく目尻が濡れていた。
「電話だよ」
エディは、キャッシャーのところにある電話機を、アゴでさした。
「いま、店のドアを開けたら鳴ってた。アントニオからだ」
「ありがとう」
きのうの甲板《デツキ》洗いはキツかった。よっぽどグッスリ眠りこけてたんだろう。
あたしは、裸足で電話に歩いていく。
「もしもし」
「やあ、ミッキー。例のギター弾きのことがわかった」
アントニオの陽気な声が、受話器から響く。
「そう」
「名前は、ビリー・リー。チャイニーズだ」
「チャイニーズ……」
「そうだ。だが、やつはもう、ギターを弾いてない。理由は、わからんがね」
「で、いま、何やってんの」
「売人《プツシヤー》さ」
「売人《プツシヤー》……!?」
「ああ。大麻《パカロロ》の売人だ。ダウン・タウンじゃ、ちょっとした顔らしい」
エディが、冷蔵庫から魚を出している。
きのう、あたしがバイトをした船でもらってきたAHI《アヒ》だ。AHIってのは、ハワイの言葉で、マグロの一種だ。
ブツ切りにしたAHIとセロリをまぜる。ドレッシングをかける。
ロコ風の朝ごはんを、エディはつくってくれている。
「ダウン・タウンか……」
あたしは、受話器を持ったままつぶやいた。
昼下がり。
ダウン・タウンは静かだった。ヤシの葉先が、陽射しに光る。その向こうに、アロハ・タワーが見える。
海寄りに、小さいけれどチャイナ・タウンがある。
潮の中。かすかにスパイスと油の匂いがする。
レイをつくっている店の前で、あたしは足をとめた。
開けっぱなしのドア。っていうよりドアがない。中じゃ、3、4人のチャイニーズのおばさんが働いてた。
テーブルの上で、ピンクと白のプルメリアを編んでいる。
首を突っ込む。おばさんの1人が、顔を上げた。
「ハイ、ゼア」
おばさんは、目だけでうなずいた。
「ビリーの倉庫、知ってる?」
花を編む手を休めずに、
「3軒先の路地を入った突き当たり」
表情を、ピクリとも動かさずにいった。
「ありがとう」
3軒先は、中国野菜や果物なんかを並べてる店だ。
細い路地がある。どんどん入っていく。
古びた倉庫が、あった。
扉が、かなり大きく開いてる。
豚が、ぶら下がってた。
屠殺《とさつ》された豚だ。さかさまに、ずらっとぶら下がってる。
「ビリーは、大麻商売のかくれミノに、肉のおろし屋をやってる」
今朝、アントニオからきいた話を思い出す。
「豚や鶏《チキン》の腹に、大麻《パカロロ》をつめて運ぶんだろうよ」
アントニオは、そういって陽気に笑った。
中で、男たちの笑い声がする。
入る。ぐいッと豚を押し分ける。
4、5人のチャイニーズが、テーブルを囲んでた。
粗末なテーブル。その上に、中華模様のドンブリが置いてある。中にダイスを投げては、のぞき込んでる。
テーブルの上には、小銭とシワクチャのドル札が数枚。
入ってったあたしに、男たちは気づいた。
ダイスを投げたり、小銭をやりとりする手を、とめた。
みんな若い。ティーン・エイジャーだろう。
「何か用かい」
1人が、チャイニーズなまりの英語できいた。
「ビリー、いる?」
「へえ、このジャップ、英語しゃべるぜ」
みんなが笑った。
「ちっとも、おかしくないわ」
あたしは、アロハの胸ポケットからKOOL《クール》を出す。
くわえる。マッチで火をつけた。
「ほう」
ナマズヒゲをはやしたやつが、立ち上がった。
「なまいきな口きくじゃないか。このガキが」
「チンピラ相手にしてるほどヒマじゃないの。ビリーは、いるの、いないの」
ナマズヒゲの目つきが、ちょっと鋭くなった。
「いいやがって」
ヒップ・ポケットに手がのびる。
何か出した。
カチッという音。
案のじょう、飛び出しナイフの刃が光った。
あたしは、マッチを吹き消す。
ナマズヒゲは、ニヤニヤ微笑《わら》いながら、ゆっくり近づいてくる。
腰の高さで、ナイフをブラブラさせる。
「ちっとは、口のきき方ってのを教えてやろうか」
「どうでもいいけど、そのオモチャで、自分の手を切らないようにするのね、坊や」
あたしは、マッチの軸をピッと指で弾いた。
「なんだとォ」
ナマズヒゲが、ナイフを持ちなおそうとした。
あたしは、さッと、左手でヒップ・ポケットのスティックを抜く。
フォーマル・グリップ。手首を返す。やつのナイフを、下から上へ弾き飛ばした。
ナイフは、クルクル回りながら、7、8ヤード向こうまで飛んでいった。木のフロアに転がる。
右手で、もう1本も抜いていた。
すぐわきにぶら下がってる豚の足を、ビシッ! と叩いた。フロア・タムを叩くフォームだ。
骨を叩き折られた豚の足は、皮一枚で、ブラリと下がった。
「こうなりたくなかったら、やめとくのね」
煙草《たばこ》を、くわえたままだ。
一瞬、ポカンとしてた連中も、あわてて立ち上がる。
カチッ、カチッ、カチッ。飛び出しナイフの刃が光る。
連中は、左右に広がった。
「いっとくけど、ケンカしにきたわけじゃないのよ」
「黙りな! こいつ、リノの手先かもしれない。逃がすな!」
ナマズヒゲが叫んだ。
後ろで、扉のしまる重い音がした。
連中は、じりッと間合いをつめてきた。
あたしは、煙草を床に捨てる。スニーカーで踏み消す。スティックを、握りなおす。
ふいに、
「おお、アチアチ」
とんでもなく間のびした声がした。
二階へ通じる鉄の階段。
両手でドンブリを持った男が、おりてきた。
湯気のたつドンブリを、大事そうにかかえておりてくる。
「おお、アチアチ!」
男は、テーブルにそっとドンブリを置く。フーッと息をつく。ドスッと坐った。
「やめときなって」
象牙《ぞうげ》の〈おはし《チヨツプ・ステイツクス》〉を持ちながら、いった。
「お前ら、ホントにその豚みたいにされちまうぞ」
連中が、男をふり返った。
「いいから、みんな、ナイフをしまえよ。そいつは、リノの手先なんかじゃない」
「だって、ビリー」
とナマズヒゲ。
「あんた、感化院《ホーム》帰りのミッキーだろう」
ビリーと呼ばれたそいつは、あたしをジロッと見た。
「なんだ、知り合いだったのか」
と連中。
「知り合いじゃない。けど、ウワサはきいたことがある。そう見えても、ハワイ一のドラム叩きって話だ」
象牙のおはしを、ビリーは指先でスティックみたいにふってみせた。
みんな次つぎにナイフの刃をたたむ。あたしも、スティックを、ヒップ・ポケットにさした。
「それより、アメリカン・セキュリティのあたりで、リノの手先がウロウロしてるって電話が入った。お前ら、いって見てこい」
「もし見つけたら?」
「ただ追っぱらうだけでいい。いま、もめごとはマズい。警察に目をつけられたくない」
「OK」
連中は、ドヤドヤと倉庫を出ていった。
「あんたが、ビリーね」
「ああ。いまのゴタゴタは俺があやまる。なんせ、大きな仕事をひかえてるんで、みんな気が立ってる。フィリピーノのやつらが狙《ねら》ってるらしいし」
ビリーは、湯気のたつ麺《めん》をズルズルとすすり込みはじめた。
まだ若い。|20歳《はたち》そこそこだろう。
ブルース・リーといいたいとこだけど、そんなにカッコ良くはない。
同じチャイニーズなら、ジャッキー・チェンの方が近い。
そう、ドジな役をやるときのジャッキー・チェンに、ちょっと似ている。
「食うかい。うまいぜ」
ビリーは、ドンブリをさし出す。
あたしは、首を横にふった。
「で、用件は?」
「あんたの腕を買いにきたの」
「腕? 豚の足なら売るけど、俺の腕じゃなァ……。たいしたスープも出ないぜ」
「まじめな話よ。あんたのギターの腕」
「ギターか……」
ビリーは、関心なさそうにおはしを動かす。
「あんたの演ってたテープを、偶然に聴いたわ。〈シンシアのテーマ〉って曲よ」
一瞬、ビリーの手が、ピタッととまった。
3、4秒して、またおはしを動かしはじめる。
「そんなことも、あったなァ……」
ビリーは、つぶやいた。
「どうして、ギター弾きなんか、さがしてる」
「バンドをつくるからに決まってるじゃない」
「バンド?」
「そうよ」
あたしは、倉庫の中を、ぶらぶら歩く。
豚肉のとなりに、ずらりとぶら下がってる肉は、ダックみたいだ。
「プロフェッショナル・バンド」
「…………」
「超一流の凄腕《すごうで》ばかり集めた、プロフェッショナル・バンド。世界のマーケットに打って出られるような、ね」
ビリーは、黙っておはしを動かしつづける。
「あんたがギターをやめてるってことは、きいてるわ」
倉庫のすみに、ガラクタが置いてある。
ペンキの缶。ボロきれ。古雑誌。
そのすみに、ギター・ケースが立てかけてある。
「まだ、ギター持ってるんじゃない」
あたしは、なにげなく、ギター・ケースに手をのばそうとした。
瞬間、
「そいつにさわるな!」
ビリーが叫んだ。
風をきる音。
ギター・ケースに、ナイフが刺さった。
ハード・ケースに突き刺さったナイフは、ブルブルとふるえている。
あたしのアロハの右ソデが、2インチぐらい、ザックリと裂けていた。
ポーン。ポーン。
乾いた音がする。
アラ・モアナ公園のテニス・コート。日本人の観光客らしいグループが、ボールを打っている。
歓声。拍手。
あたしは、それを横目に、ゆっくりと自転車を走らせていた。
考えごとをしていた。
なぜ……なぜ……ビリーは、ギターを弾かなくなった。
あれだけの腕を持ちながら、なぜ……。
ジョギングしてる2人の白人が、すれちがいざま、あたしに口笛を浴びせた。
けど、鮮やかに光るグリーンの芝生をながめて、ゆっくりと自転車を走らせる。
〈ホノルル・コロシアム〉のドアを開けた。
「よお、ミッキー。ちょうどいいところへきた」
とアントニオ。
テーブル席に、4人。若い男が坐ってる。3人の足もとには、ギター・ケースが置いてある。
たぶん、オーディションでもうけにきたバンド屋だろう。
日系。中国系。サモア系。とりまぜだ。
身なりが貧しいところだけが、共通してる。
「ところで、だ」
とアントニオ。
「オーディションをする前に、条件がひとつ」
連中を見回して、いった。
あたしは、勝手に冷蔵庫からCOORSを出す。
「ビリー・リーのことを話してくれないか」
4人とも、いっせいにアントニオを見た。
「なぜ、ビリーはギターをやめた」
缶ビールを開けようとしてたあたしの手も、ピタリととまった。
「ミッキー、この連中は、以前にビリーと組んでたんだ」
そういうわけか。
「教えてくれ。なぜ、ビリーはギターを弾かなくなった」
4人の表情が、硬い。
「どうした。なぜ、いえない」
「…………」
全員、黙りこくってる。
「その話は……しないことになってる」
丸い眼鏡をかけた、中国系のやつが、ボソッといった。
「ビリーとの約束だ」
「そうかい……。オーディションをうけたくないってんだな」
とアントニオ。
「仕事がほしくないんだな」
「仕事は……ほしいさ」
と丸眼鏡。
「けど……」
「けど?」
「約束は、約束だ」
ギター・ケースをつかむ。
4人とも、ゆっくりと立ち上がる。出ていこうとする。
「OK。じゃあ、いってやろうか」
その背中に、アントニオがいった。
「お前らが、ヘタだったからだ」
4人の足が、ピタッととまった。
「どうだ。図星だろう」
アントニオが、追い打ちをかける。
「お前らとビリーじゃ、演奏のレベルがちがいすぎる。で、ビリーは、いやけがさした」
ドアの方を向いてる丸眼鏡の、きつく握ったこぶしが、小きざみに震えてる。
「そりゃ、どヘタなメンバーと組んでりゃ、誰だって」
「ちがう!」
丸眼鏡が、叫びながらふり向いた。
顔が、ゆでたロブスターみたいにまっ赤だ。眼鏡の奥で、目がギラギラと光ってる。
「ちがう! 俺たちは……一流だ」
「……そうかい。じゃ、話してくれたっていいだろう」
アントニオは、ロング・サイズの煙草をくわえた。
「お前らからきいたことは、口が裂けたってビリーにゃいわない。なァ、ミッキー」
あたしも、小さくうなずいた。
「七弦ギター!?」
あたしもアントニオも、同時につぶやいた。
「そうだ。7本、弦が張れるように、特別に作らせたギターだ」
と丸眼鏡。
「そうかァ……」
頭の中の〈?〉マークが、ひとつ、消えかけていく。
「一弦の上にもう1本、ビリーは弦を張ってた」
「ゼロ弦ってわけか」
「まあね」
「だから、あんなに高い音が出るのか。しかも、変にひずまないで……」
アントニオがつぶやいた。
あのハイ・トーンの演奏も、それなら、わかる。
「たとえば一弦ならAのポジションでも、ゼロ弦を弾けば、4フレット高いC#の音が出る」
丸眼鏡が、フレットを押さえる手つきをしながらいった。
とにかく、変則的なチューニングだってことは確かだ。
「でも、一弦より細い弦なんて、ないでしょう」
あたしは、きいた。
「確か、アニー・ボールの〈スーパー・スリンキー〉。0.08mmのやつだ」
「でも、一弦には変わりないわ」
「ああ。だから、ものすごく強く張ってた」
「けど、そんなに張力《テンシヨン》をかけたら、まともに弾けないだろう」
とアントニオ。
「ビリーだから、弾けたんだ。あいつは、ガキの頃から拳法《カンフー》をやってた。おかげで、指がひどく強かったんだ」
「…………」
「ビリーのギターを、誰かが借りて弾いてみたことがあったよ」
「そしたら?」
「軽くチョーキングしたとたん、指の皮がピッと」
「ピッと?」
「切れちまった」
「そうだろうなァ」
「けど、それが……」
「それが?」
「ノドが、乾いた」
と丸眼鏡。
「こりゃ、気がつかなかった」
「いいわ。あたしがやる」
冷蔵庫を開ける。
COORSを1本ずつ、あたしは連中にほうった。
丸眼鏡は、ビールをひと口飲む。
「ビリーにゃ、恋人《ステデイ》がいた。シンシアってニック・ネームで、髪の長い、かわいい娘《こ》だった」
「〈シンシアのテーマ〉……」
アントニオが、つぶやいた。
「……そう。あの曲も、ビリーが彼女のために書いたやつだった」
あたしは、FMチューナーのスイッチをONにした。
〈アンチェインド・メロディ〉が、低く流れはじめた。
丸眼鏡は、天井をぼんやりと見る。
ひとりごとみたいに話しつづける。
「シンシアは、自分の家でやってるチャイニーズ・レストランを手伝ってた。仕事が終わった夕方……演奏に出かけるビリーと、よくダウン・タウンを歩いてた」
「……よく覚えてるよ」
サモア系が、つぶやいた。
「いつも、ギター・ケースを下げてたビリー。その腕につかまって、マウナケア通りを歩いてくる、シンシアの長い髪が風に揺れて……」
FMが〈ひき潮〉に変わった。
丸眼鏡は、ぐいっとビールを飲む。
何か、ふっ切れた。そんな感じで、話し出した。
「あれからもう、2年になるかな」
「…………」
「その日、ビリーは、新しい曲の練習をしてた」
あたしは、KOOLに火をつけた。
「ふいに、キンキンに強く張ってたゼロ弦が、ぶっち切れた。切れた弦はピーンと弾けて、運悪く、ビリーの手もとをのぞき込んでた彼女の……シンシアの左眼に刺さった」
「…………」
あたしの仲間でも、切れた二弦で、頬をスパッと切ったギター弾きがいた。
ありえることだ。
「で?」
「いろいろ手をつくしたけれど、ダメだった。はたから見たんじゃ、わからない。けど、シンシアのきれいな左眼は、完全に失明した」
アントニオのため息が、かすかにきこえた。
「そして、ある日、シンシアは、ダウン・タウンから姿を消した」
「………どうして………」
あたしは、つぶやいた。
「彼女は……シンシアは、打ちのめされたビリーを見てるのに、耐えられなかったんだと思う‥‥たぶん」
「…………」
「彼女は、確かに、片眼の視力を失くした。……けど、ビリーの心についた傷の方が、もっと大きかったのかもしれない」
「俺も、たぶんそうだと思う。眼は2つある。けど、ハートのスペアってやつはないからね」
サモア系が、つぶやいた。
「朝っぱらから大麻《パカロロ》びたりになってるビリーを見てるのに、彼女は、耐えられなくなったのか……」
「水中眼鏡でサンゴ礁をのぞくみたいには、人の心は、のぞけない。深すぎて……」
丸眼鏡は、あたしの目を正面から見た。
「けど……とにかく、シンシアはいなくなった。それ以来、ビリーは、ギターを弾かない」
アントニオの指先から、長くのびた煙草の灰が、ポロッと床に落ちた。
「話すことは、もうないよ」
丸眼鏡は、飲み干したCOORSの缶を、ぐいと握りつぶした。
4人とも、ぞろぞろと出ていこうとする。
「来週から、これるか。火・木の週2回。一日|3《スリー》ステージだ」
とアントニオ。
丸眼鏡が驚いた顔で、
「オーディションは、しないのか」
「さっき、自分でいっただろう。俺たちは、一流だって」
「…………」
「自分で一流だっていえるバンドに、オーディションする必要はない。ちがうかい?」
アントニオは、ニヤリと微笑う。丸眼鏡の肩を、ポンと叩いた。
岸壁に飛び上がる。
思りきり背のびをした。
シャワーを浴びたばかりの髪を、風が乾かしていく。
甲板《デツキ》洗いのバイトは楽じゃない。けど、ひとつだけいいこともある。
大きなトローリング船には、シャワーがある。仕事が終わった後、それを使わしてもらえるからだ。
きょうの日当15ドル。
それを、カット・オフ・ジーンズのポケットにねじ込む。
たそがれの岸壁を歩きはじめた。
パッパッ!
クラクションが鳴った。
ふり向く。赤錆《あかさび》だらけのステーション・ワゴンがとまってる。
運転席から、ビリーが顔を出した。
「よお、仕事は終わりか」
「そうよ」
「晩メシ、おごってやるよ」
「どうしたの。気持ち悪いわ」
「いや、その……この前は、あんたのアロハを破ったし……まあ、いいじゃないか。乗れよ」
「いいけど」
あたしは、肩をすくめた。
ホノルル港に近い、シーフード・レストラン。
あたしとビリーは、窓ぎわの席にいた。港の灯が見える。
FROZEN《フローズン・》 DAIQUIRI《ダイキリ》が、テーブルに置かれた。
「何に乾杯するの」
「畑に」
「畑?」
「そう。俺の畑だ」
「大麻《パカロロ》畑ね」
「ああ。ホノルル中の売人《プツシヤー》の、誰も知らない、俺だけの畑」
「ふうん」
「それも、あと一カ月で収穫できる。最高級の品質のやつだ」
「〈コナ・ゴールド〉?」
「いや。同じBIG《ビツグ》 ISLAND《アイランド》(ハワイ島)だけど、もっともっと、信じられないぐらい、質のいいやつだ」
「だから、フィリピーノなんかに狙われるわけね」
「そういうわけだ。全財産を、投資した。しかも、葉っぱは、ぐんぐん育ってる。あと1ヵ月で、俺は金持ちだ」
「じゃ、前祝いってわけね」
「畑に」
「あと1ヵ月に」
「乾杯」
グラスを合わせた。
「そんなにお金をもうけて、何に使うの」
あたしは、きいた。
「とりあえず、ニューヨークにいく」
「ニューヨーク?」
「そう。雪の、ニューヨークだ」
ビリーは、静かにつぶやいた。
「ミッキー。あんた、ニューヨークにいったことはあるか?」
「ないわ」
「本物の雪ってやつを見たことがあるか?」
あたしは、エビのしっぽをくわえたまま、首を横にふった。
「そう。雪のニューヨークだ。まっ白い雪のつもった街を、毛皮を着て歩くんだ」
ビリーは、大きな声で、ウエイトレスを呼ぶ。
7杯目のFROZEN DAIQUIRIを注文する。
飲みすぎだなァ、とあたしは思った。ちょっとロレツが回りづらくなってる。
ビリーは、ニューヨークのことを話しつづける。
うつろな相づちを打ちながら、あたしは、窓の外をながめた。
ホノルル空港から飛び立ったジェット機の赤い灯が、点滅しながら、ゆっくりと左に動いていく。
思い出していた。
アントニオの店で、あの中国系の丸眼鏡が、ポツリポツリとしゃべった話だ。
〈いなくなったシンシアから、1通だけビリーの家に葉書《ポスト・カード》が届いた〉
〈ニューヨークの雪景色の葉書《ポスト・カード》だった。この街で元気にやってるから、心配するな。……それだけ。住所は、なしだ〉
ビリーは、7杯目のDAIQUIRIを、ぐいぐいと飲みながら話しつづける。
あたしは、唇をかんで窓の外をながめていた。
ピアノの弾き語りが〈ウィズアウト・ユー〉をやっている。
「だいじょうぶだってばよ」
ビリーが、あたしの手を払いのける。
でも、足は、かなりふらついている。
駐車場の端。ビリーのクルマが駐《と》めてある。
「ええと……カギ穴は……」
ビリーが、運転席のドアを開けたとき、後ろに人のけはいがした。
ふり返る。
5、6人はいた。薄暗い。けど、フィリピーノらしいことはわかった。
「なんだ、お前ら」
「なあ、ビリー。ちょっとつき合ってくれないか」
1人が、スゴんだ声でいった。
「散歩にゃ絶好の夜だしなァ」
と、もう1人。
「ふん、リノか。クラゲみたいに切りキザまれて、中華皿にのっかりたいってわけだ」
ロレツの回らない声で、ビリーがいった。
ビリーは、ヒップ・ポケットの飛び出しナイフに、手を回そうとする。
のろい動作だ。
瞬間。
あたしは、ビリーに体当たりした。運転席の中に突き飛ばした。
さッと右手で、スティックを引き抜く。
左だ。
ナイフの刃が光った。とっさに体をそらす。胸の前を、光が走る。
その手首を、思いきり叩いた。ビシッ! と骨を叩き折った手ごたえ。
正面!
さッと体を沈める。頭の上を、チェーンらしいものが通りすぎる。
左手でスティックを引き抜きざま、急所を叩き上げた。
グエ! と頭の上で声がする。
背中を蹴《け》られた。
アスファルトに転がる。けど、スティックは、はなさない。
革靴の先が、飛んできた。
とがった先端が、あたしの腹に叩き込まれる寸前、転がりながら、そのスネを右で叩いた。
「!!」
声にならないうめき声。
男の体がつんのめる。あたしの体を飛びこして、顔から倒れた。
エンジンの音がする。
タイヤの悲鳴。
「ミッキー!」
ビリーが叫んだ。
急回転したクルマのドアが、バーンと開いた。
あたしは、頭からシートに飛び込んだ。
つかみかかろうとしたやつの顔を、右足で蹴った。後ろにのけぞる姿が、ちらっと見えた。
クルマは、ダッシュする。
S字にふらつきながら、猛然とスピードを上げる。
表通りへ。
「ビリー!」
あたしは、思わず叫んだ。チャイニーズ・フードの屋台に突っ込む!
ビリーの握っているハンドルを、思いきり右に引いた。
驚いて飛びのく人影。バーンと軽いショック。
フロント・グラスに、いろんなものがふってくる。
焼飯。ナルト。ソイ・ソース……。
そのまま、大通りへ。
信号を無視して、4ブロックぐらい突っ走る。
バック・ミラーを見て、ビリーはやっとスピードを落した。
夜ふけの大通りには、何も走っていない。
あたしは、横から、ワイパーのスイッチを入れた。
キー。キー。
ワイパーが、フロント・グラスの汚れを押し流す。
緊張が、ほどけた。
思わず、あたしたちは、ゲラゲラと笑いはじめた。
焼きソバの束が、ワイパーにからまって、左右に動いている。まるで、掃除に使うモップみたいだった。
「あうッ」
あたしは、声を上げた。
ヒジの傷口に、RUM酒をぶっかけた。感電したみたいに、ひどくしみた。
でも、消毒に使えるのは、これぐらいしかない。
右ヒジと左ヒザを、とくにひどくスリむいていた。
血がまじって薄いピンクになったWHITE RUMが、ステンレスの上を流れていく。
もう誰もいないエディの店。
あたしは、カウンターの中で、傷口をRUMで洗っていた。
ビリーは、シートにもたれて、ぐったりしてる。カウンターの端のボロTVを、ぼんやりと見てる。
「俺のせいで、迷惑をかけたな」
「まあ、しょうがないわ」
スニーカーを脱ぐ。
左ヒザに、RUMをかける。
「あうッ」
また、声が出る。
きっと、天国じゃパパが怒ってるだろうなァ……。
〈また、スティックでケンカして。そのぐらい自業自得だ!〉
最初の一撃がおさまると、だいぶ楽になった。
痛みが、熱っぽさに変わっていく。
ポケットから、黄色いバンダナを出す。包丁で、2つに裂く。ヒジとヒザの傷口をしばる。
氷を、グラスに。WHITE RUMを注ぐ。
ひと口。
「そんな強い酒飲むと、血がなかなか止まらないぜ」
とビリー。
それも、正解だ。
ダウン・タウンで、あのての仕事をしていくには、若くても、それなりの修羅場《しゆらば》を経験しているんだろう。
「中から消毒するのよ」
つぶやくと、もうひと口。
「しかし、あれだけやられりゃ、フィリピーノのやつらも、当分は手を出してこない」
「あと、1ヵ月ね」
「そう。俺の勝ち」
「雪の、ニューヨークね……」
テレビの画面が、ザッと乱れた。
チャンネル4。KITV。
臨時ニュースみたいだ。
「なんだ……ありゃ」
ビリーが、体を起こした。
「ちょっと、ボリューム上げてくれ」
あたしは、ボリュームを上げる。
画面がチラついている。ひどく古いTVだ。あたしは、TVの横をひっぱたいた。
ニュース・キャスターの顔が映る。
デスクに坐ってるキャスターの後ろ。何か赤いものが動いてる。
雑音まじりに、キャスターの声がきこえる。
〈今朝、噴火をはじめたハワイ島南東部のキラウエア火山は〉
〈流れ出た溶岩はさらに〉
〈ヒロの町でも住民の避難が……〉
画面が、切り替わった。
黒い中に、オレンジ色が吹き上がっている。
キラウエアは、ときどき噴火する活火山だ。が、今度の噴火は、かなり大きいみたいだ。
「キラウエア……」
ビリーが、うわごとみたいにつぶやいた。
カウンターに手をつく。くいいるように画面を見つめる。
「キラウエア……」
あたしは、ビリーの横顔を見た。
「どうしたの」
「俺の、俺の畑は……キラウエアのすぐ麓《ふもと》にあるんだ」
「…………」
また画面が切り替わった。
ヘリからの撮影らしい。帯みたいに流れる、オレンジ色の溶岩。
「俺の畑が……俺の畑……」
ぼうぜんとつぶやくビリー。
画面いっぱいに映ってるオレンジ色の溶岩を、あたしも、ただ見つめていた。
夕陽《ゆうひ》が水面に照り返している。
ケワロ湾《ベースン》の防波堤。
ビリーのボログルマに、あたしたちは寄りかかっていた。
トローリング船の〈ティナ・レイ〉が、入港していく。
オーナーのジョージが、大きなマヒマヒを持ち上げてみせる。あたしも、手を上げてこたえた。
ポケットから、KOOLを出す。
「俺にも、1本くれないか」
ビリーがいった。
この前、ビリーといったレストランの紙マッチを、ビリーに渡す。ビリーは、両手で包むように、煙草に火をつけながら、
「なくしちまった」
とつぶやいた。
「何もかも、きれいさっぱりだ」
キラウエアは、まだまだ盛大に噴火している。
流れ出した溶岩が、もう海岸線までとどいたって話だ。
「ダイスやマージャンとちがって、なかなか勝てないもんだなァ、人生ってのは」
「今度、大麻《パカロロ》畑に投資するときは、火山のないところにするのね」
「セカンド・チャンスがあれば、の話だがね」
ビリーは、白い歯を見せた。
「投資する金なんか、もう|25セント玉《クオーター》一枚、残っちゃいない」
「…………」
カモメが1羽、頭の上に漂ってる。
ビリーは、肩ごしにふり返った。ダウン・タウンの方向だった。一瞬、遠くを見る目になる。首を戻す。
「さて」
クルマの窓から、手を突っ込む。
「いつから練習をはじめる」
「練習?」
「そう、バンドの練習」
ニヤリと微笑った。
「俺たちのバンドのさ」
クルマから、ギター・ケースを出す。
「ミッキー、あんた、いってたね」
「なんて」
「世界のマーケットに通用するバンドって」
「そうよ」
「確か、ニューヨークにゃ、|M・S・G《マジソン・スクエア・ガーデン》ってのが、あったっけなァ」
「…………」
「そこに出られるぐらいのバンドか?」
あたしは白い歯を見せた。
「当たり前じゃない」
煙草を、海面に弾き飛ばした。
「|M・S・G《マジソン・スクエア・ガーデン》なんか、超満員にするぐらいのバンドよ。あたしたちの演奏が、ニューヨーク中に響きわたるぐらいの、ね」
「気に入った」
ビリーは、しゃがむ。
ギター・ケースを開く。片ヒザをつく。ギターを、そっと、とり出した。
オフ・ホワイトのギター。
レスポール・ジュニアに似た、オーソドックスな形。美しいソリッド・ボディ。
かすかに幅広のネックに、7本の弦……。
あたしは、思わず〈シンシアのテーマ〉のワン・フレーズを、口笛で吹いていた。
ビリーは、ギターのネックを握りしめる。
一瞬、祈るように目を閉じた。
ほんの、一瞬……。
防波堤に、小さな波が当たる音がした。
「そのリボンは?」
ギターのネックの3フレット目あたり。
黒いリボンが、きっちりとひと巻き、結ばれていた。
結び目は、小さく、硬い。
「ああ……これか」
ビリーは、あたしの顔を見上げた。
「ただの……おまじないさ」
ヒップ・ポケットから、飛び出しナイフを抜く。
刃を起こす。
ゆっくりとした動作で、ナイフの刃先を、黒いリボンに当てた。
ピッと切った。
たそがれの海風に乗って、リボンはふわりと飛んでいく。
夕陽の水面を、どこまでも飛んでいく。
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第3話 さよならベイ・ブルース
ガクン!
飛行機が揺れた。
一瞬、落ちる。また、フワッと持ち上げられる。
前の方で、食器かなんかの落ちる鋭い音。子供の泣き声。
スチュワーデスが、フラつきながら小走りに駆けていく。
飛行機は、まるでワイキキ・ビーチの観光用カヌーみたいに、上下に揺れる。
|P・A《パン・ナム》の811便。
夜中にホノルルを発《た》って、朝早くグアムに着く便だ。
あたしとビリーは、ちょっとビックリして、ヒジかけをつかんでいた。
2人とも、ジャンボ・ジェットに乗ったのははじめてだった。
こんなに揺れるものとは、知らなかった。
「恐いんでしょう、ビリー」
「恐いもんか。さっきのメシのまずさに比べたら、こんなもの」
そりゃ、機内食なんて、うまいわけない。
「まあ、ミッキーは感化院《ガールズ・ホーム》のまずいメシを、1年もくってきたわけだから、なんでもうまいだろうけど」
「何いってんのよ。毎日、チョプスイばっかり食べてるビンボー人が」
「ミッキーがチョプスイくったら、ともぐいじゃないか」
あたしとビリーは、馬鹿馬鹿《ばかばか》しい軽口を叩《たた》き合いながら、恐怖感を吹き飛ばそうとしていた。
ガクガクンッ!
機体は、また、ジェット・コースターみたいに落ちた。
機体のきしむ音がする。耳の奥がツーンとする。高度を下げてるんだろうか。
「それにしても」
「揺れるなァ」
〈ハリケーン〉
〈着陸できない〉
そんな言葉が、機内のどっかからきこえてくる。
死にたくない。ふと、そう思った。
感化院《ホーム》で、ひどいリンチにあったときでさえ、そうは思わなかった。
けど、いま、あたしにはやることがあった。
スーパー・バンドを組んで、世界のマーケットにうって出る。
15年の短い人生で、はじめて見つけた夢だ。
今回も、そのための旅だった。
グアムにいるはずの、キーボード・プレーヤーをつかまえる。一本釣りでスカウトする。
旅費は、ライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉のオーナー、アントニオが出してくれた。
アントニオは、いい人間だ。けど、けしてお人好しじゃない。
あたしたちのスーパー・バンドができたら、彼がマネージメントしてもうける。
そういう了解ができていた。
とにかく、ハリケーンぐらいで犬死にするわけにはいかない。
「しかし」
とビリー。
「もう、とっくに着いててもいい頃《ころ》だぜ」
腕時計を見る。
確かに。
予定通りだと、もうグアムの税関をパスしててもいいぐらいの時間だ。
「これはやっぱり」
ビリーが何かいいかけたとき、アナウンスがはじまった。
パーサーらしい人間の声。ちょっと緊張してる。
「グアム島上空が、ハリケーンにおおわれているため、当機は急きょ、サイパン空港に向かいます」
そんな内容のことを、2度くり返した。
機内がザワつく。
「サイパンかァ」
とあたし。
「でも、グアムとサイパンじゃ、目と鼻の先だしな」
「無理して突っ込まれるよりは、ましか」
たまに、空軍《エア・フオース》出身のパイロットにはいるらしい。
悪条件の着陸ほどはりきるクレージーが。
たぶん、〈頭上の敵機〉のグレゴリー・ペック、B24の操縦桿《そうじゆうかん》を握ったヒーローになっちゃうんだろう。
機体が、ゆっくりと右に傾く。
サイパンに向かって、大きく旋回しているらしい。
朝6時30分。
サイパン空港は、ひどく平和だった。
昇ったばかりの朝陽が、滑走路に、人間たちの長い影を引いている。
あたしは、いつものデイ・パックひとつ。
ビリーも、小さなショルダー・バッグだけだ。
ガタガタと運ばれてくる、トランク類を待ってる必要はない。
最初に、税関を通る。
「そりゃ、なんだい」
係員が、あたしのカット・オフ・ジーンズの、ヒップ・ポケットを指さした。
「ドラムスを叩くスティックよ」
「へえ、ミュージシャンなのかい」
「まあね」
「スターかい」
「いずれ、ね」
チャモロ人の係員は、人なつっこい笑顔を見せた。
「楽しいヴァカンスを」
「ありがとう」
といっても、せいぜい1日か2日。それでグアムのハリケーンは通過するだろう。
空港の建て物を出る。
「あーあ、空気が甘いなァ」
ビリーがいった。
あたしも、背のびする。朝の空気を、胸いっぱい吸い込む。
確かに、空気が甘い。
ハワイに比べて、ほんの少し、風に湿りけがある。
風の中に、花と草の匂《にお》いがする。
「しかし、みごとに、なーんにもないところだなァ」
とビリー。
広びろとした空港の前には、何もない。
かすかに揺れるヤシの葉のグリーン。
ブーゲンビリアのピンク。
空の青。
透明な陽射《ひざ》し。
それだけだ。
ホノルル空港とちがって、えらく静かだ。
目の前に、バスがとまった。
航空会社が、ホテルをとってくれている。
そこまで乗せていくという。
軽くエア・コンのきいたバスに、あたしたちは乗り込んだ。
811便は、すいていた。1台のバスに、全員乗れた。
客のほとんどが、アメリカ人だ。
ヴァカンスでグアムにいく人間か、軍人の家族みたいだ。
「ほんと、まるで、いなか」
走り出して、またビリーがつぶやいた。
「あんた、ゴミためみたいなチャイナ・タウン育ちだから、そう思うのよ」
家がちらほら、ヤシの樹《き》の間に見える。
だいたい平屋で、小さい。
同じ貧しい家でも、あたしの住んでた家とは、ちょっと型がちがう。
ハワイアンの家は木造が多い。
この島じゃ、コンクリート・ブロックみたいなもんでできた家が多い。
小さな家の庭に、白いプルメリアが咲いてる。
窓ガラスに、ヒジをつく。
ふと、思い出す。
いまはもう没収された、ホノルルの家。
庭に〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉のある小さな家のことを……。
ふいに、クラクションが鳴った。
オフ・ホワイトのコンバーチブルが、バスを追いこしていく。
幌をかけたコンバーチブルは、かなり疲れたアメ車だ。
バスと並んで走る。
運転席から、男が顔を出した。
黒人だ。
あたしたちのバスを運転してるチャモロ人も、窓を開ける。
2人は、並んで走りながら、なんか大声でしゃべってる。
道は広い。スピードは遅い。走ってるクルマなんて、ほかに1台もない。
2人は、愉快そうにジョークを飛ばし合ってる。
黒人の歯が、白く光った。
「あッ」
あたしは、小さく叫んだ。
「ちょっと、ビリー」
ビリーは、となりで居眠りしかけてる。その肩をゆする。
「どうした。メシか」
「そうじゃないの。ちょっと見て。ほら、あれ」
コンバーチブルから、顔を出してしゃべってる黒人を、あたしは指さした。
「あれって?」
「ほら、よく見てよ」
「どれ」
「あの黒人、もしかして、チャックじゃない? ベース弾きの」
「ん?」
ビリーも、体を乗り出す。
黒人は、まだ窓から顔を出して、バスの運転手としゃべってる。
若い。
黒人にしては、通った鼻筋。まっ白い歯。確かに、チャック・バードに似てる。
「そういえば」
ビリーも、うなずく。
チャック・バード。
16歳ぐらいで、〈ホワイト・チップス〉ってバンドを組んだ。
ホワイト・チップスってのは、サメの種類だ。
背ビレの先っぽが、まっ白い。
まるで、ギターのピックみたいだ。
サンゴ礁をウロウロしてるサメだ。人を襲うことは、まず、ない。
確かメンバーは、全員が黒人。バンド・ネーム通り、白いピックでギターを弾いてた。
〈ホワイト・チップス〉は、いいバンドだった。ホノルルでも、五本の指に入ってた。
LPも、2、3枚は出したはずだ。
とくに、チャックのベースが凄《すご》い。
ベース・ギターって楽器は、もともとリズム楽器に近い、とあたしは思う。
いくら譜面《スコア》を正確に弾けても、ダメ。
本能的なリズム感が悪くちゃ、いいベーシストじゃない。
たとえば、バンド仲間で、ディスコに遊びにいく。
一番ディスコ・ダンスがうまいのは、たいていベース弾きか、ドラム叩きだ。
だから、ベーシストは黒人がいい。
とくに、チャックの乗りは、ズバ抜けてよかった。
ピックでベースを弾くのも、チャックの場合は正解だ。
ニュー・ウェイヴの連中なら、けっこういる。けど、チャックは、16ビートからスロー・バラードまで、ピックから弾《はじ》き出す、硬質《ソリツド》な低音で曲をささえていた。
あたしが感化院《ホーム》にぶち込まれた頃《ころ》、〈ホワイト・チップス〉は、まだ活躍してた。
2、3回、ステージを聴いた。
チャックの黒い指先で踊る、白いピック。
あの硬質《ソリツド》で歯切れのいい低音は、忘れられない。
けど、感化院《ホーム》を出てきたら、〈ホワイト・チップス〉は解散してた。
チャックの消息も、わからなかった。
もし、あれがチャック本人だったら、
「ハリケーンのおかげで、とんだひろい物かな」
ビリーが、つぶやいた。
バスの運転手に大きく手を振ると、黒人は顔を引っ込めた。
クルマのスピードを上げる。
コンバーチブルは、あっという間に小さくなる。
曲がって見えなくなる。
サイド・シートに、誰《だれ》か坐《すわ》ってた。
「ちがうよ」
チャモロ人の運転手は、首を横にふった。
「彼の名前は、ジムだよ」
「ジムなんていうの」
「知らないよ」
チャモロ人は、肩をすくめた。
「ただのジムよ」
「仕事は?」
「シゴト?……さあ、ボク、わからない」
ちょっとスペインなまりの巻き舌英語。これが、チャモロ英語なんだろうか。
「住んでるところは?」
「ああ、それならわかる。このホテルから近いよ」
「地図を描《か》いてくれる?」
「いいけど」
運転手は、ホテルのカウンターで地図を描きながら、
「カレ、ひとり暮らしとちがうよ」
「誰と暮らしてるの」
「オンナのヒト」
「どんな?」
「ブロンド・ヘアーの、アメリカンよ」
「ふうん」
あたしたちは、グアム行きの便をキャンセルした。
そこのホテルを、とりあえず2泊、予約した。
「何、ニヤけてるのよ」
ビリーのわき腹を、ヒジで突ついた。
ビリーは、飲んでたカクテルを、吹き出しそうになる。
〈サイパン・サンセット〉って名前の、甘ったるいやつだ。
ステージじゃ、バンドが演《や》ってた。
女ばっかりの、ロック・バンド。全員、フィリピーノだろう。
テニス・ウェアより短いスカート。かなり長い脚。
なかなかの美人ぞろいだ。
ちょっとメイクが濃すぎる。けど、とりあえずビリーは楽しそうだ。
店の名前は〈チェリーズ〉。
ホテルのかたまってる海岸から、歩いても4、5分。マリン・ドライヴに面していた。
日本人の経営らしい。
薄暗く、ケバケバしい店内。
天井で回っている、古くさいミラー・ボール。
店は、すいていた。
チリチリ頭に野球帽《キヤツプ》をかぶったチャモロ人の客が4、5組。
けだるそうに、ビールを飲んでいる。
「やっぱり、まちがいだったのかなァ」
ビリーが、つぶやいた。
午前と午後の2回。
チャックらしい黒人の家にいってみた。
ネーム・プレートは、確かに〈ジム・ブラウン〉となっていた。
ヤシの樹の間にポツンとある、小さな平屋だった。
コンクリート・ブロックで組んだ家。
淋《さび》しいぐらい質素な家だ。
2回とも、かなり長くベルを鳴らした。けど、誰も出てこない。
あの、オフホワイトのクルマもない。留守らしかった。
「ま、しょうがないわよ。またあした、いってみよう」
あたしは、いった。
「ああ」
ビリーは、体でリズムをとりながら、カクテルをストローですすった。
「女にしちゃ、けっこうやるじゃないか。ドラムス以外は」
アゴで、ステージをさす。
バンドは、映画〈フラッシュ・ダンス〉のテーマ曲を演ってた。
ドラムスは、ひどくへタだ。
リズムが走る。逆にモタついてテンポを食う。
それのくり返しだ。
けど、唄《うた》、ギター、ベースは、なかなか。
「ん?」
ビリーが、体を乗り出した。
「まてよ」
じっと、ステージの上を見てる。
「そうかァ」
「どうしたのよ」
あたしは、ビリーのシャツのソデを引っぱった。
「ダミーだよ」
「ダミー?」
あたしも、ステージで演《や》ってる娘《こ》たちを見た。
「ほら、よく、指の動きを見てろ。リード、サイド、ベース。3本のギターは、みんなダミーだ」
照明は、赤っぽくて暗い。
ミラー・ボールの反射でチカチカする。あたしは、目をこらした。
さすが、ビリーはギター弾きだ。よく気がついた。
「ほんと、ダミーだ」
ステージの上じゃ、楽器を弾いてるフリをする。
本当に楽器を弾いてるのは、ステージの裏にいるプレーヤー。それを、あたしたちの仲間じゃ、ダミーっていってた。
フィリピーノの娘《こ》たちは、ルックスと唄で選んだんだろう。
それらしく、ギターを弾いてるフリをする。せいぜいセクシーな身ぶりで唄ってればいい。
彼女たちのギターから、コードはアンプにのびている。
でも、たぶん、ギター・マイクはOFFになっている。
ステージの裏で弾いてる本職がいる。
そのギターから、アンプの裏側に、コードがつながっているんだろう。
ただし、ドラムスだけは、ダミーがきかない。
で、あんなドタバタしてるにちがいない。
この手のクラブじゃ、よくあることだ。
別に、驚くほどのことじゃない。
けど……。
「どうした」
ビリーが、あたしの横顔を見た。
「黙って」
ステージの上。美人のフィリピーノたちが、セクシーな振りで唄ってる。
あたしは、音を聴いていた。
べースの音だ。
この、ソリッドで、歯切れのいい音は……。
ビリーも、やっと気づいたみたいだ。
「このベースは」
体の奥から、ムズムズとわき上がってくる記憶がある。
ドアを、勢いよく押した。
トイレの前を通り過ぎた突き当たり。
このあたりだ、と見当をつけたドアだ。
入口に、誰かいた。かまわず、押しのける。
あたしは、大股《おおまた》で部屋に入っていった。
当たりだった。
プロらしい人間が3人、ギターを弾いていた。
殺風景な部屋。
かすかに、ペンキとニンニクの臭いがする。
リード・ギターは、白人。
サイド・ギターは、フィリピーノ。
そして、ベース・ギター。
だらしないかっこうでイスの背に寄りかかって、バスの窓から見た黒人が、ベース・ギターを弾いていた。
ベースは、黒いFENDER《フエンダー》。
ヒザにひろげた譜面《スコア》。
褐色の指先には、まっ白いピック。
ピックは、まるで蝶《ちよう》の羽みたいだ。軽快に、弦の上を跳《は》ね回ってる。
プレーヤーは、3人とも無表情だ。
淡々と弾いている。
〈フラッシュ・ダンス〉のテーマが、薄い壁ごしにきこえる。
モニターの必要もない。
すぐとなりが、ステージなんだろう。
「なんだ、てめえらは」
後ろで、声がした。日本語だ。
ふり返る。
さっき、あたしが押しのけたやつらしい。
ゆっくり見回す。日本人が、全部で3人。
ヤクザ風っていうんだろう。
ハワイでも、最近見かけるようになった。短い髪。黒っぽいアロハ。白のゴルフ・パンツ。
「なんだよ、てめえらは」
まだアゴにニキビの残ってるチンピラが、くり返した。
「その、ベース弾きに用事よ」
「ベース弾き?」
ニキビは、チラッとふり返った。
鋭い目つきで、
「てめえら、いったい、どこのモンだ」
「どこって……ハワイよ」
あたしは、肩をすくめた。
「なんだとォ。なめやがって、このガキが」
ニキビは、アロハのスソに手を突っ込む。
ベルトの内側から、拳銃《けんじゆう》を引き抜いた。
38口径か、45口径か。わりと大型の自動拳銃《オートマチツク》。ミリタリー・モデルだ。
たぶん、軍からの横流れだろう。
ニキビは、銃口を、あたしに向けた。拳銃を扱いなれてる感じじゃない。
ほかの2人も、立ち上がる。
あたしとビリーを囲んだ。
ビリーは、あたしと背中合わせになる。
肩が、軽く触れる。
ビリーは、体の力を抜いてる。
けど、いつでも、突きや蹴《け》りをくり出せるかまえだ。
あたしは、落ちついた声で、
「それをぶっぱなすのはいいけど、とりあえず、安全装置をはずすのね」
拳銃になれてない人間には、これが一番いい。
一瞬、ニキビが握った拳銃に気をとられる。
あたしは、さッと右手を後ろに。
ヒップ・ポケットから、スティックを引き抜く。
スティックの先を、銃口に突っ込む。
スティックは、先端から1インチぐらい、銃口に入った。
「なにしやがる」
「ハワイか、グアムか、とにかく射撃場で練習したとき、きいたでしょう。銃口に土がつまっただけでも、銃ってのは破裂《バースト》するものよ」
「!?…………」
「その口径だったら、まず、あんたの右手はバラバラね。ウソだと思ったら、引き金をひいてみなさい」
「う……」
「安全装置をはずすのが先だけどね」
奇妙なかっこうで、あたしたちは、にらみ合った……。
ギター弾きたちは、知らん顔で、ピックを動かしてる。
「クソッ!」
ニキビが、左手で安全装置をはずそうとした。
そこが、アマチュアだ。
なれた人間なら、安全装置は、握った右手の親指ではずす。はずした瞬間には、もう引き金をひいている。
ニキビの左手が、安全装置をさぐる。
一瞬のスキ!
あたしは、銃口からスティックを抜いた。
ニキビの手を、ビシッと叩き上げる。
拳銃は、弾《はじ》き上げられる。部屋のすみまで飛んでいく。
「ヤローツ」
右だ。
殴りかかってくる。ビリーは、体を沈める。すばやい突きが、男の腹に入った。
男は、腹をおさえてくずれ落ちる。
「チッ! カラテか!」
左だ。
もう1人が、ビリーの腰に、しがみつく。
ビリーの体が押された。あたしにぶつかった。
あたしは、思わずよろけた。
そこへ、正面のニキビが、右足で蹴ってくる。
左肩を、とがった靴で蹴られた。
コンクリートの床に、ころがる。
もう一度、蹴り込んでくる。きわどくかわす。
ニキビの右足が、空を切る。
あたしは、さッと手をのばす。軸足の左足首を握る。思いっきり引っぱる。
軸足をすくわれたニキビの体は、一瞬、宙に浮く。ドサッと背中から落ちた。
あたしは、立ち上がる。
ビリーが、腰にかじりついてるやつの顔を、ヒザで蹴り上げる。体が起きる。
「チョオッ!」
胸をめがけて、跳び蹴り。
男の体はふっ飛ぶ。
サイド・ギターを弾いてるフィリピーノのところまで、飛んでいく。
男とフィリピーノは、からみ合って、後ろ向きにひっくり返る。
「これじゃ、出演交渉はムリね」
あたしは、スティックをヒップ・ポケットにさした。
「ああ。とりあえず、ズラかろう」
あたしとビリーは、ドアから飛び出す。
午後3時。
インター・コンチネンタル・ホテル1階の〈マタオ・バー〉。
客は、あたしとビリーだけ。
観光客はみんな、プールやサンゴ礁見物にいってる時間だ。
あたしたちは、カウンターに坐ってた。
チャモロ人のバーテンと白人のウェイトレスが、のんびりとしゃべってる。
庭の方は、全面ガラスだ。
薄いグリーンのカーテンに、ヤシの葉影が、揺れている。
3時を、15分過ぎた。
入口のドアが開いた。あたしたちは、同時にそっちを見る。
黒人が、ゆっくりと入ってくる。
短めのカーリー・ヘアー。
赤いタンク・トップとショーツ。
光沢のあるまっ赤なタンク・トップとショーツは、褐色の肌によく似合ってた。
少年ぽさを残した、筋肉質の体。
大学のバスケット・ボール選手。そんな感じだった。
黒人は、あたしたちのわき、カウンターのスツールに横坐りする。
「これを置いてったのは、あんたたちだね」
ポケットから、ホテルのメモ用紙を出す。
〈大切な話がある。あした午後3時。インター・コンチネンタル・ホテルのバーで会いたい。ハワイの仲間より、チャックヘ〉
きのうの夜、彼の家のドアにはさんでおいたメモだ。
「やあ、ディヴ、俺にゃジンのオン・ザ・ロックスをくれないか」
黒人は、チャモロ人のバーテンにいった。
あたしたちに向きなおる。
「いかにも。俺は、チャック・バードだ」
「あたしは」
「知ってるよ。そのポニー・テールと、ヒップ・ポケットのスティックですぐわかった。銀色《シルヴアー》のサムの娘、ミッキー。ハワイで一番ケンカっぱやいドラム叩き。そして、あんたは」
ビリーを指さして、
「ビリー・リー。チャイナ・タウン出身の、クレージーなカンフー・ギタリスト」
「それじゃ、話は早い」
とあたし。
「あたしたちが、なんであんたに会いたがったか、わかるでしょう」
「ああ。凄腕ばっかり集めたバンドをつくるんだってウワサだな。先月、ホノルルから稼ぎにきた|唄い手《シンガー》にきいたよ」
「ふうん」
「太平洋は狭い。このホテルのプールと、いいとこ勝負じゃないか。なあ、ディヴ」
チャックは、ニッと白い歯を見せた。
「とにかく、話は早い」
「そう。話は早い。つまり、俺《おれ》にゃ関係ないってことだ」
「関係ない?」
あたしとビリーは、同時にいった。
「どういうこと? チャック」
「つまり、こうだ」
チャックは、GINをひと口。
「俺は、この島じゃ、ジムで通ってる。さらに、だ」
また、GINをひと口。
「俺は、この島の生活に100パーセント満足してるってことだ」
「100パーセント満足?」
あたしは、いった。
「あんな仕事してて、100パーセント満足? あんたほどの腕の人間が?」
「あんな仕事でも、この島で暮らすにゃ、じゅうぶんなギャラになる」
チャックは、LARKを1本くわえる。
「それに」
「それに?」
煙草《たばこ》に火をつけながら、
「きいたかもしれんが、俺は女と暮らしてる」
「女と暮らそうと豚と暮らそうと、あんたの勝手よ。でも、それが、どうしたっていうの」
「つまり、彼女との暮らしにゃ、この島しかないってことさ」
「ははあ」
そうか。
「つまり、あんた、女に骨抜きにされたってわけね」
「骨抜きかァ」
チャックは、苦笑いした。
「ほんのちょっとでもいいから、その女に会わせてくれない? チャック」
「いいとも。簡単さ、ミッキー。君のうしろにいるよ」
あたしとビリーは、ふり向いた。
白人のウェイトレスが、あたしたちを見ていた。
氷が、グラスの中でカチャリと鳴った。
チャックは、GINのグラスを持つ。スツールをおりる。
ゆっくりと、ウェイトレスのとなりに立った。肩を抱く。
「わかったかい。こういうことさ」
「…………」
「紹介するよ。マギーだ」
「あ、ああ……どうも」
あたしとビリーは、ポカンとして二人を見比べた。
マギーは、30歳ぐらいだろう。
ちょっと麦わら色がかった金髪。大きな青い目と口は、ジェーン・フォンダに、どことなく似てる。
白人にしちゃ、かなり陽灼《ひや》けしてる。美人といえないこともないだろう。
チャックは、ニヤリと微笑《わら》うと、
「まあ、ちょっとばかり説明が必要なようだな」
カウンター席に、坐りなおす。
「ジンを、もう1杯だ」
「駆け落ちってほどのもんじゃない」
チャックは、2本目のLARKに火をつける。
「たとえば、の話だ」
ぽつりと、
「ハワイに、ひとりのベース弾きがいたと思ってくれ」
バーの天井を見上げる。
「ある夜更けのことだ。ベース弾きは、ステージを終えて、店のカウンターに坐った。カウンターには、ひとりの白人女が坐ってた。確か、ドライ・シェリーを静かに飲んでた」
あたしも、煙草に火をつける。
「ベース弾きと彼女は、最初から気が合った。もちろん、男と女として、ね」
チャックは、ちょっとテレ微笑いする。
「考えてみれば、運命的な出会いかもしれなかった」
「…………」
「彼女は、毎晩のように、ベース弾きの演《や》ってるその店にくるようになる。ふたりは、あっという間に燃えていく。ほら、ハワイなんかで、サトウキビ畑に、重油をかけて燃やす、あれみたいなもんだ」
「…………」
「ただ、ちょっとした問題がないわけじゃなかった。彼女は、ベース弾きより10歳ぐらい年上だった。そして、結婚していた」
GINの氷が、午後の陽射しに光る。
「男と女に、年齢《とし》の差なんて関係ない。わかるだろう」
チャックは、あたしとビリーの胸を指さす。ニヤリと微笑う。
「さて、彼女の家庭だ」
あたしは、2杯目のWHISKY & SODAに口をつけた。
「毎晩、その店にやってくるぐらいだから、彼女の結婚生活は、うまくいってなかった。ふたりの仲が熱くなっていくほど、亭主との関係は、ますます冷たくなっていく」
「…………」
「ふたりが知り合って3ヵ月目だ。彼女は、かなり強引に、亭主に離婚を認めさせた」
GINをまたひと口。
「けど、ハワイはもう、ふたりにとって住みやすい土地じゃなくなってた」
「…………」
「彼女の別れた亭主は、ハワイの実業界じゃ、かなりの大物だった。つまり、ベース弾きの仕事をとり上げるぐらい、〈|赤しょうが《レツド・ジンジヤー》〉の花を一輪つむより、簡単だったってことだ」
「…………」
「それに、いくらハワイだって、考えてもみろ」
あたしの胸を指さして、
「若い黒人と、年上の白人女が腕を組んで歩くにゃ、それほど愉快な土地じゃあない」
「で……この島へきたわけか」
ビリーが、つぶやいた。
チャックは、GINのグラスに口をつけたまま、小さくうなずいた。
確かに、そうだろう。
このふたりには、暮らしやすい島だろう。
「でも、逃げたことに変わりはないわ」
あたしは、チャックの目を、正面から見た。
「シッポを巻いて、逃げ出したのよ。しかも、自分のやりたいことを捨てて」
ダメでもともと。いいたいことは、いってやる。
チャックは、スツールをおりた。
かすかに微笑みながら、
「どういわれても、かまわないさ」
マギーの肩を抱いて、
「俺たちはもう、1組のピアスみたいなもんさ」
半分は自分にいいきかせるように、チャックはいった。
〈ピアスも、最近じゃバラして1個だけでするものよ〉
そう、まぜかえしてやろうと思った。けど、やめた。
まぜかえせない。いや、まぜかえしたくない、ひんやりと静かな空気が、そこには漂っていた。
黒い肌と、黒い髪。
白い肌と、金髪。
チャックとマギーの後ろ。
薄いグリーンのカーテンに、ヤシの葉のシルエットが、ゆっくりと揺れている。
ベルを押す。
誰も出てこない。オフ・ホワイトのクルマは、ガレージにあるのに。
あたしは、庭へ回った。
軽いビッコをひきながらだ。
ヤクザとの小ぜり合いで、ヒザのお皿を打ったらしい。
歩くと、ズキズキ痛む。
ちょっとはげかけた芝生。ブルーのホースがのびている。
鮮やかなピンクのブーゲンビリア。
その下に、錆《さび》ついた自転車が捨ててある。
デッキ・チェアーに、誰か寝てる。
声をかける。
起き上がったのは、マギーだった。
「ああ、ミッキーね」
感じのいい笑顔を見せる。
ジェーン・フォンダ風の口から、白い歯をのぞかせる。
「ホテルのバーにいったら、休みだっていうから」
「そう」
マギーは、チェアーに上半身を起こした。
ビキニ姿。
全身に、サンタン・オイルを塗ってる。
胸もとには、かなりのソバカス。
「でも、きれいに灼けてるのね」
あたしは、いった。
「どうして熱心に陽灼けするか、わかる?」
とマギー。ちょっとハスキーな声だ。
「そう……たとえば、チャックの肌の色に近づけるため」
マギーは、笑った。
「チャックがきいたら、喜ぶわね。でも、ちがうのよ」
あたしは、芝生にあぐらをかいた。
「ホントはね」
マギーは、いたずらっ子みたいに微笑うと、
「肌の小ジワを、ごまかすため」
サンタン・オイルのキャップをとる。
「後で、ツケがどっと回ってくることは、わかってるんだけどねェ」
オイルを、腕に塗る。
「あなたたち、東洋系の肌が、うらやましいわ」
あたしは、芝生をプチプチとむしりながら、
「あたしは、白い肌になりたい」
お互いに、苦笑いし合った。
「チャックに会いにきたの?」
「別に、そういうわけじゃないの」
本当だった。
チャックの心を変えさせるのは、もうあきらめた。
「グアム行きの飛行機が、きょうも飛ばないの。あっちにハリケーンが居坐ってるらしくて……」
「そう」
マギーは、オイルを脚に塗りながら、
「そうだ、ミッキー。あなた、プリン、好き?」
「プリン?」
「そう。カスタード・プリン」
「好きよ」
「じゃあ、食べていかない。チャックの分が、冷蔵庫で昼寝してるから」
「そういえば、チャックは?」
「朝っぱらから、ちょっと口ゲンカしてね。プイッと、どっかへいったわ。たぶん、チャモロの友達と、昼間からカードね」
マギーは、立ち上がる。
「こっち」
あたしたちは、家に入った。
リビングは、当然、広くない。
貝殻でできた、電灯のシェード。
小さな貝を組み合わせた壁飾り。
いかにも安物のソファー・セット。
キッチンに入る。
ちょっとくたびれたゼニス社製の冷蔵庫を、マギーは開けた。
冷えたプリンを、テーブルに出す。
「はい」
「ありがとう」
かなり大きなプリンに、あたしはスプーンを入れた。
なかなか、おいしい。
まだママが家にいた、子供の頃を、ふと思い出す。
マギーも、テーブルに坐った。
前に、化粧品のビンを何本も並べる。灼けた肌の、アフター・ケアーらしい。
ガーゼやなんかを使って、何種類もの化粧品を、顔に塗ったり拭《ふ》きとったり。
「以前、ホノルルにいたときのことよ。ハウス・キーパーのおばさんが、面白い皮肉屋でねェ」
マギーは、手を動かしながら、
「ある日、私の寝室を片づけながら、こういったわ。〈化粧品の数って、年齢に比例するんですねェ〉って」
大きな青い瞳《ひとみ》を、クリッと回した。
「当たってるだけに、キツかったわ」
あたしも、つられて笑う。
なんとなく、マギーを好きになりはじめたのは、プリンをごちそうされたせいだけじゃなさそうだ。
「それじゃ、ミッキー。あなた、きょうはヒマなわけ?」
スプーンをくわえたまま、あたしはうなずいた。
「ドライヴでも、いこうか」
とマギー。
ターン!
乾いた音が、砂浜に響いた。
5個並んだOLYMPIAの空き缶。左端の1個が、ふっ飛んだ。
マギーは、2個目の缶に狙《ねら》いをつける。
距離は、5〜6ヤード。
撃つ。
乾いた銃声。今度は、はずれた。
島の南側。人気《ひとけ》のない、小さな湾。
バーベキュー用に、コンクリート・ブロックが、コの字型に積み上げてある。
ビールの空き缶は、その上に並べてあった。
3発目。命中。
硝煙の匂いが、風に乗って鼻をくすぐる。
小型の22口径だから、命中率は高い。
8発撃ちつくして、マギーは空き缶を、5個全部ふっ飛ばした。
「モヤモヤしてるときは、これが一番ね」
微笑いながら、あたしに自動拳銃《オートマチツク》を渡す。
クルマのボンネットに、弾の入った箱が置いてある。
ウインチェスター社の22口径。
山猫の絵がついた紙の箱だ。
拳銃のマガジンを抜く。箱から1発ずつ、マガジンにつめていく。
つめ終わる。ブローバック。
両足を、軽く開く。かまえる。左手を、フォローする。
引き金を、そっと絞る。
軽いショック。右端の缶が、ふっ飛んだ。
つぎつぎ、缶をふっ飛ばしていく。
5発とも、命中した。
「うまいわね、ミッキー」
「ホノルルの射撃場で働いてたことがあるの」
「フォート・ストリート・モール?」
「そう」
ボンネットによりかかってたマギーは、飲み干したビールの缶を、
「発射《フアイアー》!」
ポーンと空中に投げ上げた。
片手撃ち。さすがに、はずれた。
「別れる!?」
あたしは、ビールを飲みかけてた手を、ピタッととめた。
「別れるって……マギー、誰と!?」
「チャックに決まってるじゃない」
マギーは、OLYMPIAをグイと飲んだ。
午後の水平線は、キラキラと光っている。
あたしたちは、ボンネットに坐って、ビールを飲んでた。
カー・ラジオは、B《ビリー》・ポールの〈ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ〉をやってる。
「急に決めたわけじゃないの」
とマギー。
「この島にきて、もう1年になるわ。そう……1ヵ月ぐらい前から、本気で考えてた」
「でも……どうして」
「…………」
「チャックヘの熱がさめたの?」
マギーは、首を横にふった。
「なかなか、うまくいえないけど……」
「ミュージシャンとしてのチャックヘの」
「そんなんじゃないわ」
マギーは、笑った。
「私は、音楽には、まるでアマチュアよ。チャックがいいベーシストだってのも、誰かにきいたんだし……。あなたたちが、ここへきたんだって、偶然だものね」
雲の影が、海の上を動いていく。
「年齢《とし》の差?」
あたしは、ズバリときいた。
「…………」
マギーは、流れていく白い雲をながめる。
「たぶん……そうなのね」
空をながめて、マギーは、ひとりごとみたいに、いった。
「ここは、静かでいい砂浜よ。誰もこないし」
「そうね」
「この島に落ちついてすぐ、私とチャックは、この湾を見つけたわ。私の仕事が休みの日、たいてい月曜日なんだけど、毎週遊びにきた。バーベキューの材料を持ってね。ここを〈|月曜の湾《マンデイ・ベイ》〉なんて呼んだものよ」
「楽しかった?」
「そりゃ、もうね。まるで、ティーン・エイジャーみたいに、食べて、笑って、泳いで……」
マギーは、TRUEを1本くわえる。火をつけながら、
「でも、いつの日からか、この湾にくる回数が減ってきた」
「どうして?」
マギーは、ビキニのブラとボトムの間、わき腹の肉をつまんでみせた。
少し、ぜい肉がつきはじめていた。
苦笑いしながら、
「馬鹿な話だけど、昼間、チャックの前で水着になるのが、恐くなりはじめてたのね。それに気づいた夜は、一睡もできなかったわ」
マギーは、煙を吐きながら、
「誰かに、本気で愛されるなんて、本当に難しいわ」
「…………」
「でも、愛されつづけるのは、その百倍も難しいわ」
マギーは、あたしの目を見る。
「笑ってもいいけど……私、恐いのね。あんなに生き生きしてたふたりの関係が、枯れていくのを、見てるのが」
「…………」
「……ある日、パパイヤの樹《き》に虫がついてるのに気づく。やがて、グリーンの葉っぱが、茶色くなっているのに気づく。ついに、腐った実が、ポトリと落ちる。それを、この明るい太陽の下で、じっとながめてなきゃいけない。それが、恐いのよ」
苦笑いしながら、マギーは、
「きっと……臆病なのね」
つぶやいた。
裸の肩に、ポツンと一粒。
あたしたちは、空を見上げた。
「|通り雨《シヤワー》がくるわ」
「幌《ほろ》をかけなくちゃ」
クルマは、オープンにしてあった。
2人で、クルマに幌をかぶせる。
|通り雨《シヤワー》が落ちてきた。
天気雨だ。
雨粒は、陽射しにキラキラと光る。
あたしたちは、クルマに乗り込んだ。
「とりあえず、戻りましょうか」
マギーが、イグニション・キーを回す。
キルキルキルキル……。
スターターが、間抜けた音をたてる。けど、エンジンはかからない。
もう一度。
キルキルキルキル……。
もう一度。
キルキルキルキル……。
「ふーッ」
マギーは、ハンドルに両ヒジをついた。その上に、アゴをのせる。
水平線をながめて、ぽつりと、
「こんなサンゴ礁の小さな島じゃ、クルマも錆《さび》やすいのね」
あたしに白い歯を見せると、
「でも、愛情は、もっと錆やすい」
「まるで、誕生日だなァ」
チャックが叫んだ。
「オーイ、白ワインをもう1杯!」
チャモロ人のウェイターを呼びつける。
ウェイターは、踊ってる人の間をぬって、あたしたちのテーブルに近づいてくる。
その夜遅く。
チャックとマギー、ビリーとあたしの4人は、ハイアット・ホテルのディスコで騒いでた。
よく飲んだ。よく笑った。
チャックは、ごきげんだった。
いろんなディスコ・ダンスのステップで踊ってみせた。
けど、彼は知らない。
これが、マギーとの最後の夜だってことを……。
あした、マギーは、出ていく。
身のまわりの荷物だけ持って、あの小さな家を出ていく。
「ほら、踊ろうぜ、マギー」
チャックは、マギーの腕を引っぱって、ダンス・フロアに出ていく。
ピークは過ぎている。客は、かなり減ってきていた。
ディスコは、半分、屋外だ。
ひんやりとした風が、吹き抜けていく。
白人のバンドが、陽気に〈ミッドナイト・マジック〉を演《や》ってる。
チャックの体が、バネじかけみたいに飛びはねる。
曲が終わった。パラパラとした拍手。
「では! 今夜の、ラスト・ナンバー」
スロー・テンポのイントロが、流れはじめる。
〈男が女を愛する時〉
テーブルに坐ってたハネムーナーたちも、何組か、フロアに出てくる。
抱き合って、スロー・ダンスを踊りはじめる。
テーブルに頬《ほお》づえをつく。
あたしは、チャックとマギーを、じっと見ていた。
日本人のハネムーナーたちの間で、ふたりは踊っている。
とりわけ体を寄せ合って、踊っている。ゆっくりと左右に揺れながら……。
チャックの肩の上。マギーの顔が、こっちを向いている。
顔が、うつ向いている。ふさふさの金髪がかかって、顔がまるで見えない。
マギーの手は、チャックの背中に回されている。
アロハ・シャツの背中を、両手でしっかりとつかんでいた。その手が、小きざみに震えている。
アロハに描かれているハイビスカスの花に、シワが寄っている。
曲が、ゆっくりと盛り上がっていく。
マギーは、荷物を持ち上げようとした。
ふいに、
「どこへいくんだ」
鋭い声がした。
マギーも、あたしも、ビリーも、びっくりしてふり返った。
チャックが立っていた。
「チャック……」
マギーが、つぶやく。
「友達の家でポーカーじゃなかったの?」
「やつは、朝、足をウニに刺されて、うなってたよ」
「どこから、入ったの」
「キッチンの方からさ。腹がへったからね。そしたら、リビングの方から、あんたたちの話し声がきこえた」
チャックの目は、怒りで光っていた。
「チャック、きいてくれる?」
マギーが、いいかけた。
「何をきくっていうんだ。マギー、君は、出ていこうとしてる。俺《おれ》と君が、1年暮らしたこの家をだ」
チャックの右手には、拳銃が握られていた。
きのう、あたしとマギーが、空き缶をふっ飛ばして遊んだ自動拳銃《オートマチツク》だ。
「やめなさい、チャック」
あたしは、ヒップ・ポケットにさしたスティックに、手をのばそうとした。
「あんたらにゃ、関係ない!」
チャックは叫ぶ。あたしに銃口を向けた。
安全装置は、はずしてある。
チャックは、銃口を、マギーに向ける。
「なぜ……マギー……」
「わけは、そこに置いてある手紙に書いてあるわ」
「…………」
「じゃ、私は、いくわ……」
マギーは、荷物を持った。
「いっちゃダメだ!」
チャックが叫んだ。
銃口が、マギーの胸を狙ってる。その先が、小きざみに震えてる。
ヤバい。と、あたしは思った。
「じゃあ、チャック、元気で……」
マギーは、ゆっくりと背中を向けた。
「いくんじゃない! マギー!」
チャックは、叫びながら、引き金をひいていた。
銃声は、響かなかった。
弾は、入っていなかったらしい。
マギーは、ふり返らない。玄関を出ていく。
拳銃が、ゴトッと床に落ちた。
チャックは、頭をかかえる。ソファーに、くずれ込む。
「彼を見てて!」
ビリーに叫ぶ。
あたしは、玄関を飛び出した。
マギーは、エンジンをかけたところだった。あたしは、助手席のドアを開ける。
「空港まで、いっしょにいくわ」
サイド・シートに滑り込む。
マギーは、クルマを出しながら、
「助かるわ。帰りは、これを運転して、チャックのところまで戻ってくれる?」
あたしは、うなずいた。
「チャックには?」
「あなたにいったことを、そのまま話してくれればいいわ。手紙にも、ちゃんと書いてあるし」
マリン・ドライヴを、南へ。
幌をはずしたコンバーチブルを、マギーは空港に走らせる。
「ミッキー」
「何?」
「後ろ向きだったし、チャックの叫び声でわからなかったんだけど」
「…………」
「チャックは、引き金を、ひいた?」
「……ひいたわ」
「そう」
「でも……弾が入ってないのは、知ってたんでしょう? マギー」
マギーは、ハンドルを握ったまま、首を横にふった。
かすかに、苦笑い。
「きのうの午後、ほら、空き缶を撃って遊んだでしょう。最後、マガジンの弾を撃ちつくしたかどうか、覚えてなかったわ」
「……それじゃ、もし、弾が残ってたら……」
いくら22口径だって、あの距離じゃ助からないかもしれない。
「もしそうだったら、私は、世界一幸せな女で死ねたかも、ね」
「で……いまは」
「ちょっとだけ幸せな女」
「…………」
「とにかく、彼は、引き金をひいたんですものね」
「そう……あなたをいかせないために」
マギーは、じっと前を見ている。
チャモロの子供を乗せたスクール・バスを、加速して追い抜く。
「5分だけ、寄り道ね」
ハンドルを切った。わき道に入る。
曲がりくねった道は、きのうの小さな湾に出た。
バーベキュー用のブロックが、ぽつんと積み上げられてある、小さな砂浜。
クルマを、とめる。
「〈|月曜の湾《マンデイ・ベイ》〉とも、お別れね」
マギーが、つぶやいた。
午後の陽が、白い砂をまぶしく光らせている。
搭乗開始のアナウンスが、はじまった。
マギーは、ショルダー・バッグを肩にかける。
足もとに置いてあった、電灯のシェードを持つ。
貝殻でできた安物のシェードだ。
「変なものね。こんなものに、愛着があるなんて」
マギーは、シェードを顔の前に持ち上げた。苦笑いする。
「この島でチャックと暮らしはじめるとき、はじめて買ったのが、これだったわ」
「…………」
あたしは、マギーの肩に額をつけた。
涙があふれてくる。
「何よ、ミッキー。泣きたいのは、こっちなのに」
マギーは、あたしの肩を抱いた。
「チャックを、よろしくね」
あたしは、小さくうなずいた。
「あの子には、すぐに立ち直れる若さがあるわ。それに、ベースを弾く才能もあるそうだし」
「…………」
あたしは、顔を上げた。
「マギー、これから、どうするの?」
「とりあえず、ネブラスカに寄るわ」
「ネブラスカ?」
「そう。ネブラスカのいなか町に、妹が住んでるから。でも」
「でも……?」
「たとえどこで暮らしてても、あなたたちのレコードが出たら、まっ先に買うわ」
マギーは、ハンカチを出す。
「ほら、涙を拭《ふ》いて」
ハンカチを、あたしの手に渡すと、
「じゃ、元気で」
くるりと背を向けた。
ゆるい下り坂の通路を、搭乗ゲートにおりていく。
あたしは、送迎ロビーの端まで歩いていく。
手すりに両ヒジをつく。
ガラスも何もはまっていない。
滑走路から吹き抜ける風が、涙を乾かしていく。
マギーが、ゲートを出ていく。くっきりとした午後の影を引いて、DCー10にゆっくりと歩いていく。
1年前。
マギーがこの空港におりたった日も、こんなにまぶしい晴天だったろうか。
あたしは、ハンカチを握りしめた。
サイパンの風は、湿った土と花の匂いがした。
タラップに足をかけるとき、一度だけ、マギーはふり返った。
ほんの、一瞬。
まぶしそうに目を細めて、送迎ロビーの方を見た。
何かをさがすような視線……。
ゆっくりと顔を戻す。マギーは、タラップを一段一段登っていく。
手に持った貝のシェードが、陽射しに光った。
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第4話 悲しいほどバラード
キーン……。
窓ガラスの外。
着陸した|C・O《コンチネンタル》のボーイング727が、鋭いエンジン音を響かせて、エプロンに近づいてくる。
グアム国際空港。
午後3時。
「元気、出すのよ」
あたしは、いった。
「そりゃ、元気のないやつにいうセリフだ」
とチャック。
「俺《おれ》は元気さ。なんなら、カール・ルイスの幅飛びみたいに空を歩いてみせようか」
黒い顔から、まっ白い歯をのぞかせる。
けど、元気ぶるだけ、その裏に痩《や》せガマンが感じられる。
そりゃ、しょうがないだろう。
あのマギーが、サイパンから出ていって、まだ5日。
「チャックのやつ、飛行機のドアでも開けて、飛びおりたりするとヤバいからなあ」
ビリーもいっしょに、ホノルルに帰ることになった。
あたしたち3人は、アイランド・エアーっていう、小さな飛行機でサイパンから飛んできた。
彼ら2人は、ここグアムで乗りかえて、ホノルルヘ帰る。
あたしは、ここでおりる。
「あれ、そうじゃない?」
|C・O《コンチネンタル》562便の搭乗案内が、アナウンスされはじめる。
チャックとビリーの乗る便だ。
「ミッキー、ひとりで、だいじょうぶかい?」
とビリー。
「なに、この島だって、ホノルルにくらべりゃ、きっと豚小屋みたいに平和なものよ。じゃ」
あたしたちは、ロコ・スタイルの握手。
まず腕ずもうみたいに。つぎは、指ずもうみたいに握手をする。
「ギターとベースで、せいぜい練習しといてね」
「OK」
手を振りながら、チャックとビリーは、ゲートに歩いていく。
「何しにきた」
チャモロ人の係官は、じろっと、ひとの顔を見た。
「何って、潜水艦基地を爆破しにきたようにでも見える?」
入国審査《イミグレーシヨン》の窓口。
うるさそうなやつだ。
「日系か」
「そうよ」
「ひとりか」
「そうよ」
係官は、ひとのパスポートをめくる。
「滞在の目的は?」
「人に会うためよ」
正確にいうと、人をさがすためだ。
係官の肩ごしに、空間をながめる。2週間前のホノルルを、思い出していた。
よく晴れた水曜日だった。
午前中で〈ホノルル・コロシアム〉で、ビリーと軽い音合わせをした。
ドラムスとギターだけだけど、かなりエキサイトした。
お腹がすいた。
昼メシを食べにクヒオ通りに。
昼間っから、小ぎれいな身なりのゲイたちが、腰に手を回し合って歩いてる。
いつもの〈ローズ・カフェ〉に入る。
ビリーは、ウォークマンをかけていた。
ホノルル中で、ちょっと目立つキーボード・プレーヤーの、オーディション・テープを聴いてる。
ふいに、ビリーの手がとまった。
フォークから、スパニッシュ・オムレツのきれっぱしが、ポトッとテーブルクロスに落ちた。
「きたないわねェ、ビリー」
でも、大ボリュームで聴いてるビリーにゃ、きこえやしない。
「ちょっと、これ」
ウォークマンのヘッドフォンを、あたしによこす。
かける。
「ん?」
あたしも、フォークをピタリととめた。
ビリーと、目が合う。
「…………」
「…………」
曲は〈スティル〉だった。
唄なし。インストロメンタル。
L《ライオネル》・リッチーの唄い方より、少しアップテンポ。
電気ピアノのトリオだ。
悪くない。歯切れが、いい。それでいて、リリカルだ。
ヘタな装飾音が、まるでない。必要最小限の音で、胸に語りかけてくる。
「誰《だれ》?……これ」
あたしは、ヘッドフォンをはずす。
カセット・テープを出した。
「シュガー・フィールズ……」
テープには、確かに、〈シュガー・フィールズ〉となぐり書きしてあった。
「すぐ、アントニオのやつに電話だ」
ビリーが、ナプキンを、ポンとテーブルに放った。
目の前に、ポンとパスポートが放られた。
「ほら」
あたしは、われに返った。
チャモロ人の係官が、ひとの顔を見て微笑《わら》ってる。
「いっていいよ」
「そう」
「このところ、フィリピンやコリアやジャパンから、売春にくる人が多いからね。女ひとりの旅行者には、気をつけてるんだ」
と係官。
「おあいにくさま」
あたしは、パスポートをとると、税関へ。
あのオーディション・テープを聴いた2、3日後。
アントニオが、情報を持ってきた。
〈シュガー・フィールズ〉ってのは、1年ぐらい前、ホノルルのクラブで活躍してたバンドだ。
ちょうど、あたしが感化院《ガールズ・ホーム》にぶち込まれてた頃《ころ》らしい。
あのテープだけを残して、解散したという。
問題のピアニストはアキラ・サトウ。日系人だ。
サトウだから、砂糖。で砂糖畑《シユガー・フイールズ》。そんなところだろう。
つい最近、グアムの店でピアノを弾いていた。
まだいるかどうかは、わからない。
そんな情報だった。
ロビーには、日本人の観光客がいっぱい。
ちらほら、米軍の人間と、その家族。
あたしは、ふと、独特の匂《にお》いをかいでいた。
米軍があるところに必ず漂う、火薬のような匂い。
にぎやかに笑い合ってる日本人観光客には、実感がないかもしれない。
けど、この島は、きのうまでいたサイパンとは、はっきりとちがう。
同じようにヤシの葉が揺れ、ブーゲンビリアが咲き乱れていても、ここは米軍の島なのだ。
B52が山ほどいる、アンダースン空軍基地。
海軍基地に、潜水艦基地。
ようするに極東《フアー・イースト》ネットワークの中心。たぶん、1万人近い米軍がいるだろう。
ここの基地から、父親の転属でハワイにきた娘《こ》が、そういってた。
空港の玄関を出る。
ハリケーンが、いったばかりだ。熱い風には、かなりの湿り気がある。
なだらかな斜面にひろがる、アガニアの街。
その向こうは、海だ。
玄関の前には、チャモロ人たちが、たむろしていた。
「タクシーかい」
ブーゲンビリアの植え込みに坐《すわ》ってるチャモロ人の中から、おっさんが1人、立ち上がってくる。コリアンらしい。
あたしは、うなずく。おっさんのボロボロのムスタングに乗ろうとした。
「あっ、そっちのドア、開かないから、ダメ」
おっさんは、逆側のドアを開けてくれた。
「荷物は?」
「これだけよ」
肩にひっかけたデイ・パックと、ヒップ・ポケットにさしたスティック。
あたしの荷物は、それだけだ。
「魚雷亭《トーピドー・レストラン》」
あたしは、行き先をいった。
陽射《ひざ》しの強さに、打ちひしがれた。
そんな感じの、フラットな街並みが、窓の外を流れていく。
方向がちがう!
はじめてのグアムだけど、なんとなくカンでわかった。
「どこいくの!?」
コリアンのおっさんは、黙って、建物のわきにタクシーを入れた。
安っぽい色のペンキで塗った貝殻細工の店。そのわきの、空き地だ。
あたしは、クルマをおりた。
ホコリッぽい空き地。人気《ひとけ》は、ない。地面が、陽射しに白くまぶしい。
おっさんも、クルマをおりる。
「〈魚雷亭〉じゃないじゃない」
「なあ、お嬢さん。ものは、相談だが」
おっさんは、ズルがしこそうな目つきで、
「俺の知ってる店を、紹介してやるよ」
「店?」
「そう。グアム中で、一番高級なマッサージ・パーラーだ」
「マッサージ・パーラー!?」
マッサージ・パーラーってのは、早い話、売春宿だ。
「そうさ。お前さんなら、けっこう、いい金とれると思うけど」
おっさんは、カット・オフ・ジーンズからのびたあたしの脚を、いやらしい目つきでながめ回す。
脂っこい視線。たぶん、焼き肉の食べ過ぎだろう。
「馬鹿《ばか》にしないでよ。こう見えても、あたしはドラム叩《たた》きよ」
「いや、わかってるから」
おっさんは、ニタニタ微笑《わら》う。
クルマの窓に手を突っ込む。バナナを1本出す。皮をむきながら、
「みんな、ミュージシャンとか、ダンサーとか、そんなビザで入ってくるんだ。そんなに突っぱらなくても」
おっさんは、バナナをかじろうとした。
さッと、ヒップ・ポケットのスティックに手をのばす。
抜く!
スナップをきかせる! 鋭く、横に払う! シンバルをひっぱたくフォーム。
ヒュッ!
目の前を、風が通り過ぎたんで、一瞬、おっさんは、きょとんとする。
やがて、目の前のバナナが、まん中から、ポロリと落ちた。
おっさんは、目玉をひんむいた。
「いい。よくききなさい」
スティックの先で、おっさんの、ちょっと出た腹をつつく。
「あんたのジュニアが、そのバナナみたいになるのがいやだったら、さっさと〈魚雷亭〉の場所をいいなさい」
おっさんは、ひどくビビッた顔で、
「あ、あっち」
いま通り過ぎた方向をさす。
「あ、あっちへ、半マイルぐらいだ……」
「そう。今度、客を乗せるときは、もうちょっと気をつけるのね」
ゴムぞうりをはいたおっさんの右足を、スニーカーで、ギュッとふんづける。
「イタッタッタッ」
おっさんは、右足をつかんで跳びはねる。
知ったことか。
スティックを、ヒップ・ポケットにさす。
くるりと背を向けると、歩き出した。
〈魚雷亭〉は、ピンクに塗られたコンクリート・ブロックの平屋だった。
店自体は、かなり広そうだ。
まわりには、ブーゲンビリアの植え込み。
日本語で〈魚雷亭〉。その下に〈TORPEDO《トーピドー》 RESTAURANT〉の英語。
確か、オーナーは日本人のはずだ。
青いネオンで、〈SEA FOOD & MUSIC〉。
ネオンは、まだついていない。
遅い午後の陽射しが、看板に光っている。
ドアを押す。
動かない。まだやってないみたいだ。
あたしは、フーッと息を吐く。デイ・パックを足もとにおろした。
あのおっさんめ! 半マイルどころか、暑い道を1マイル近く歩かされた。
さすがに、汗だくだ。
裏口に回ってみる。
ドアを押す。開かない。表に戻る。
あたしは、ピタッと足をとめた。
地面に置いてあるデイ・パックのそばに、少女が1人立っていた。
少女は、日本人らしい。
まわりを、キョロキョロと見回す。サッとデイ・パックをつかむ。走っていこうとする。
おっと! 感心してる場合じゃない。
あたしも、ダッシュ。
30ヤードぐらい走って、その子をつかまえた。駐車スペースのわきの芝生。
粗末なワンピースの、エリ首をつかまえる。
まだ11歳か12歳だろう。少女は、足をバタバタさせる。
「あたしのデイ・パックに、なんか用?」
「落ちてたから、警察に届けようと思ったのよ!」
少女は、うまい英語でわめいた。
「へえ。それにしちゃ、ずいぶん急ぐのね。警察は、24時間営業よ」
スキをみて、少女は右足でひとのスネを蹴《け》ろうとした。
かわす。
このガキめ!
逆に、左足をすくってやる。少女は、芝生に、ドサッと尻《しり》もちをついた。
「さあ、どうするの。警察に届けるんなら、いっしょにいってあげるけど」
少し、おどかしてやる。
少女は、フテくされた顔で、あたしを見上げる。
そのとき、
「何してんだ、エミー」
後ろで声がした。
若い男が、立っていた。
日本人だ。
よく灼《や》けた顔。黒い口ヒゲとアゴヒゲ。
アロハ・シャツ。潮で色が褪《あ》せた、青いサーフ・トランクス。
がっちりとした体格は、熊《くま》みたいな感じだ。
「あんた、この子の?」
「あ、ああ。兄だ」
「ふうん」
あたしは、手を腰に当てる。
「ずいぶん、いい教育してるのね」
やつを、にらみつけてやった。
足もとにころがってるデイ・パックを見て、やつも、どういうことかわかったらしい。
つかつかと歩いてくる。
少女のエリ首をつかむ。立たせる。
頭を、手で叩いた。
「また、やったのか」
「ゴメン」
少女は、口をとがらせてつぶやく。
「今度は、もっとうまくやるわ」
兄貴は、両手をひろげて、空をあおぐ。
あたしは、思わず吹き出しそうになった。
「あの」
と兄貴。
「なんとか見のがしてくれないだろうか。……まだ、子供だし」
「子供じゃないわ!」
少女が、わめいた。
「いいから、黙ってろ!」
兄貴が、少女の尻をピシャと叩いた。
あたしは、吹き出しそうになりながら、兄妹のやりとりを見てた。
「まあ、いいわ。今度だけは、見のがしてあげる。でも」
「でも?」
「もうちょっと、かっぱらう物の品さだめを教え込んどくのね」
あたしは、デイ・パックをひろい上げる。
この中は、着がえと煙草《たばこ》。それに歯ブラシだけだ。
「わかったよ」
兄貴《あにき》は、ニッと微笑う。
「ありがとう」
ヒゲの間から、白い歯を見せる。
「俺は、アキラ・サトウ。この店の音楽マネージャー兼ピアノ弾きだ」
「ミッキーよ」
あたしたちは、握手した。
がっしりと太い指。これは……ピアノを弾きこんだ人間の指だ。
「日本人かい?」
「日系ハワイアンよ」
「ドラムを叩くのか」
ヒップ・ポケットにさしたスティックに、アキラは目をとめた。
「そう。もし、仕事があれば、と思って、この店にきてみたの」
スーパー・バンドの話は、しばらくふせておこう。
このアキラの、背景を知るのがまず先だ。そう思った。
「そうか……ドラムスか。ちょうど、いいなあ」
アキラは、トランクスのポケットから鍵《かぎ》を出す。
店のドアを開けながら、
「俺のトリオのドラム叩きが、あと1週間でマニラに帰っちまうんだ」
店に入る。妹もついてくる。
「交代でステージをやってるバンドのドラム叩きを借りるかな。そう思ってたんだけど」
店は、かなり広かった。
「さっきの、こいつの件で借りもあるし。もしよかったら」
店の奥のステージをさす。
「ちょっと、叩いてみてくれないか」
「オーディションね」
「そんな大げさなもんじゃないよ」
アキラは、微笑いながらカウンターに入る。
冷蔵庫から、COORSの缶を出す。
あたしは、1フィートぐらいの低いステージに上がる。
かなりくたびれたドラム・セットがある。
ドラムを叩くのは、10日ぶりぐらいだ。
スネアのスタンドを、いじる。スネア・ドラムを、1インチぐらい低くする。
フェースを、少し、右下がりに。これは、あたしのクセだ。
シンバルの角度を、少しなおす。
手のうちを全部見せるのは、やめようと思った。
セッティング、OK。
ヒップ・ポケットから、スティックを抜く。
タタンッタタンッ! バス・ドラのペダルをふむ。
GO!
タッタタ、ッタタタ!
タッタタ、ッタタタ!
ベーシックな8ビート。ミディアム・テンポ。
おやッ、という顔のアキラ。
缶ビールを飲む手を、とめる。
8ビートに変化をつける。
バス・ドラムを、少し変則的に。
左手のスネアも、少しひっかけぎみにアクセントを入れる。
つぎは、早い4ビート。
左で叩くスネアは、かなり変則的に。
ロールでしめくくる。
トップ・シンバルを叩いてブレーク!
最後は、うんと早い16ビート。
ポニー・テールが揺れる。首筋に当たる……。
ッタッタッタッタ!
シンバルを2枚ともバーンッと叩く。フロア・タムでロールして、しめる。
END。
オカズを入れたりソロをやったりっていうテクニックは見せなかった。
ゆっくりとした拍手。
アキラは、カウンターにヒジをついて、
「たいしたもんだ。いまやってるドラム叩きより、よっぽどリズム・キープがしっかりしてる」
あたしは、カウンターに坐る。
「女の娘《こ》だと思って、見くびってたんでしょう」
アキラは、苦笑い。
「まあね」
あたしの前に、COORSを置いた。
「俺たちは、ここに住んでる」
とアキラ。
〈魚雷亭〉のすぐわき。ヤシの樹《き》の間に、小さな家がある。
「そこのソファーでよかったら」
リビング・ルームのソファーをさして、
「ここに泊まっててもいいよ。どうせ、俺と、こいつだけだし」
妹の頭を軽く叩く。
家の前は、すぐ海だ。アガニア湾から、風が吹いてくる。
「OK。そうさせてもらうわ」
あたしは、デイ・パックを、ソファーに放り投げた。
パッパッ!
外で、クラクションが鳴った。
アキラが、窓を開ける。
「やあ、シルビア」
ベンツの450SLが、駐《と》まってる。
金髪の若い女が、運転席から手をふった。
20歳ぐらい。かなり美人だ。
「じゃあ、ちょっと出かけてくる」
アキラは、ゴムぞうりを、スニーカーにはきかえる。
「デート?」
口をとがらす妹。
アキラは、その額を指で叩くと、あたしに、
「じゃ、勝手にやっててくれ。冷蔵庫にゃ、少しは食いものもある」
アキラは、そういい残すと出ていった。
走り去るクルマを見送って、
「恋人?」
あたしは、妹にきいた。
「さあね」
彼女は、皮肉っぽく肩をすくめて見せた。
肩にかかるストレート・ヘアー。黒い瞳《ひとみ》は、ピンボールみたいによく動く。リスみたいな2本の前歯。
よく見れば、なかなか、かわいい子だ。
「エミー。絵美子だからエミーよ」
「ミッキー。未記子だからミッキーよ」
あたしたちは、握手した。
「ちょっと、シャワーを浴びるわ」
あたしは、シャワー・ルームにいく。
頭のてっぺんから、シャワーを浴びる。
「兄さんの恋人、なかなか、キレイなのね」
シャワー・ルームから、大きな声でいう。
「あたしは、そうは思わないけど」
とエミー。
どうやら、兄貴の恋人を気に入ってないらしい。
あたしは、バス・タオルを巻いて出ていく。
「それに、まだ恋人じゃないみたい」
「ふうん」
濡《ぬ》れた髪を、ポニー・テールにする。
「空軍《エア・フオース》の中尉と、はり合ってる最中よ」
「中尉?」
「そう。アンダースン基地のね」
「へえ」
あたしは、新しいアロハとサーフ・トランクスをはく。
冷蔵庫から、冷えたCOORSを1缶出す。
裸足で庭に出る。
芝生の庭に、木でつくったテーブルとベンチがある。
テーブルに坐る。ベンチに足を投げ出す。
ビールを飲みながら、夕方の海をながめる。
エミーも、出てきた。
ルート・ビアーの缶を持ってる。
ひどく安物のワンピースは、背中にホツレがある。
「もう少しマシな服を、兄貴に買ってもらったら」
「ほっといて。自分の稼ぎで買うんだから」
「自分の稼ぎ?」
「そう。午前中はいつも、熱帯魚|捕《と》りの仕事よ」
「熱帯魚捕りか……」
「そう。親切なチャモロのおばさんの手伝いでね。ちょっとした稼ぎになるわ」
エミーは、ルート・ビアーをぐいと飲んだ。
あたしは、ふと、思い出していた。
自分の子供時代。
貧しい日系ロコの少女の姿は、いまでも簡単に思い描くことができる。
5、6歳の頃。あたしは、ウニ捕りのバイトをしてた。
子供だったから、パンツ1枚で海に潜る。捕ったウニは、近所のチャイニーズのおじさんのトラックで、ダウン・タウンのレストランまで売りにいく。
オアフ島の海岸線を走る、小型トラックの荷台。
夕陽《ゆうひ》を浴びて、そこにしゃがんでる、目だけ大きな少女。
このエミーと同じ。粗末なワンピースからのびた、細くて長いスネ。
足もとは、ゴムぞうりだった。
しっかりと両手でかかえた、金属のバケツ。
ちょっと錆びたバケツだ。捕《と》りたてのウニが中で動く。
ウニのトゲがバケツにさわる、ガサガサという音まで、はっきりと思い出すことができる。
「エミーは、いくつ」
ふと、あたしは、きいた。
「11よ」
とエミー。
「17か18になったら、マネージャーをやるの」
「マネージャー?」
「そう。兄貴の、ね。ピアノ弾きとして、売り出すのよ」
「ふうん」
「聴いたことないでしょうけど、兄貴のピアノは、いいわ。本当よ」
「…………」
「いつの日か、ラジオから、兄貴のピアノが流れるの……いつの日か」
たそがれの水平線を見ながら、エミーはつぶやいた。
ワッと、笑い声が上がる。
夜7時過ぎの〈魚雷亭〉。
ステージ前のテーブルの10人ぐらいが、やけに盛り上がってる。
Tシャツやなんかを着てる。けど、兵隊だろう。
たぶん、海兵隊《マリーン》。
大声でわめいたり、ビールのひっかけ合いをやったり。
ステージじゃ、バンドがやってる。
フィリピン・バンドだ。
男と女のヴォーカルが〈エンドレス・ラヴ〉を唄《うた》ってる。
でも、目の前じゃ、兵隊たちがバカ騒ぎしてる。
しらけた顔で唄い終わる。
ふいに。
あたしの横にいたエミーが、つかつかと、兵隊たちの方に歩いていく。
「ねェ、ちょっと、あんたたち」
兵隊が、いっせいにふり向いた。
「もうちょっと静かにしてくれない」
とエミー。
「みんな迷惑してるのよ」
兵隊たちを、にらみつける。
「へえ!」
兵隊の1人が、笑いながら、
「このガキが、静かにしろとさ」
みんな、大声で笑う。
「はいはい、わかりましたです」
そいつは、ふざけて左手で敬礼すると、
「ふざけるんじゃない! ジャップのガキが!」
毛むくじゃらの手で、エミーの胸ぐらをつかむ。
「ほら、とっとと日本へ帰れ!」
思いきり、突き飛ばした。
エミーは、カウンターに坐ってるあたしの足もとまで、ころがってきた。
あたしは、スツールをおりる。
エミーを抱き起こす。
「だいじょうぶ?」
エミーは、うなずいた。
けど、頬《ほお》にスリ傷ができてる。
あたしは、エミーをスツールに坐らせる。
ゆっくりと、やつの方に歩いていく。
「ほほう、今度は、少し大きなお嬢ちゃんかい。それもまた、日本人」
まわりを見回して、
「おい、ここは真珠湾《パール・ハーバー》か?」
同じグループの兵隊たちが、どっと笑った。
「じゃ、ご期待どおり」
あたしは、テーブルからグラスをとる。
「真珠湾攻撃《パール・ハーバー・アタツク》よ」
グラスのビールを、やつの顔にかけてやった。
店の中が、シーンと静まり返った。
やつは、ニヤニヤ笑いながら、手で、顔をなでた。
「ほう……そうかい」
薄ら笑いを浮かべると、
「お嬢ちゃん。そのかわいい顔が、どうなってもいいらしいね」
じりッと間合いをつめてくる。
体が、でかい。あたしの目が、ちょうど、やつの胸毛の高さだ。
あたしは、ヒップ・ポケットに手を回す。
がっしりした、毛むくじゃらの腕には、ドクロの刺青《いれずみ》。
つぶれた耳。曲がった鼻筋。
元ボクサーだろう……。
予想どおり。
右フックが飛んできた!
体を沈めてかわす!
もう、右手で、スティックを引き抜いていた。
やつの右フックが、流れる! 体が泳ぐ!
その右手首を、ひっぱたいた! 骨を叩き折るほどじゃないだろう。けど、
「ウッ!」
やつは、うめいた。
反射的に、左も飛ばしてくる!
また、かわす!
流れた左フックの手首も、ひっぱたく!
ハイハットを叩く感じだ!
「ウグッ」
やつは、痛みに、顔をゆがめる。
体がくずれかかる。
あたしはもう1本も抜く。スティックの先端《チツプ》を、やつの鼻の穴に突っ込んだ。
(あとで、よく洗わなくちゃ)
やつの体を、ぐいぐいと、のけぞらせる。
両方の鼻の穴に、棒を突っ込まれてるから、やつの顔は、いやでも上を向く。
「あんな子供に暴力を使って、はずかしくないの!? アイダホでもどこでも、とっとと帰れ! このイモ!」
やつの腹を、右足で蹴とばした。
もんどりうって、やつはフロアにころがる。
仲間が、いっせいにイスから立ち上がった!
2人が、テーブルの上に手をのばす!
RUM酒のビンだ! 武器にするつもりだ!
一瞬早く、あたしはスティックをふりおろす!
ビンの首《ネツク》に、右のスティックを斜めにふりおろす!
パリーン!
首《ネツク》が、砕け飛ぶ!
左のスティックを、真横に払う!
もう1本のネックも、砕け飛ぶ!
握ろうとした、ビンのネックを砕かれて、やつらは、一瞬、ひるむ!
それでも、右から、ナイフの刃が突き出された! きわどく、かわす!
光が、眼の前を走る!
その手を、左のスティックで叩き上げた!
「ウッ」
カーンと弾かれた飛び出しナイフは、木の天井《てんじよう》に突き刺さって、ブルブルと震える。
「このガキが!」
全員が、あたしを、とり囲む。飛び出しナイフの刃が、つぎつぎと光る!
全部で、何人だろう!?
顔を動かさず、あたしは頭数を数えた。
やっつけられるだろうか……!?
大勢を相手にするときは、まず、壁を背に……。でも、遅すぎた。
すぐ後ろで、ナイフの刃を起こす音がした。
やつらは、じりッじりッと、つめてくる!
海兵隊《マリーン》らしく、ケンカなれしたナイフのかまえ……。わきの下を、汗が流れる。
そのとき、
「やめろ!」
入口の方で鋭い声がした。
全員、ふり向く。
金髪の将校が、入口のところに立ってた。
空軍《エア・フオース》の制服だ。階級章は、中尉だ。
背が高い。27か28歳ぐらい。
R《ロバート》・レッドフォードを少し細おもてにしたみたいな、なかなかのハンサム。
「中尉……」
やつらの1人が、つぶやいた。
「みんな、ナイフをしまうんだ」
金髪の中尉は、ゆっくりと歩いてくる。
後ろには、3、4人の部下をしたがえて。
やつらは、しぶしぶナイフの刃をたたむ。
中尉は、倒れてる毛むくじゃらを見おろす。連中に、
「お前たち、清掃班だろう。こいつを、さっさと片づけろ」
きっぱりと命令した。
やつらは、すごすごと店を出ていく。2人がかりで、毛むくじゃらに肩を貸して連れていく。ボーイが、テーブルのまわりを、片づけはじめる。
中尉は、あたしに、
「第3爆撃師団のジム・パーカー中尉だ。部下が、迷惑をかけてすまなかった」
いかにも、士官学校出身。成績優秀。そんな感じの、しゃべり方だ。
「もう少し、おぎょうぎを教えといてほしいわね」
あたしは、カウンターに戻る。
バンドが、また、静かなバラードをやりはじめた。
店の中に、また、なごやかさが戻る。
「エミー、血が出てるわ」
あたしは、エミーを洗面所に連れていく。
顔を洗ってやる。
あいつの鼻の穴に突っ込んだ、スティックのチップスも、石けんをつけてよく洗う。
カウンターに戻る。
ちょうど、フィリピン・バンドの演奏が終わったところだった。
「おい、やるぞ」
パーカー中尉が、微笑いながらテーブルを立った。
ゆったりとした足どり。
部下らしい2人と、ステージヘ。
中尉は、電気ピアノの前に坐る。部下の1人は、ベースを。もう1人は、ドラムスの前に坐る。
客の中から、拍手がきこえる。
この店の名物なんだろう。
演奏が、はじまった。
ワン・フレーズ聴いて、かなりできる、と思った。
フュージョンのナンバー。B《ボブ》・ジェイムスかなんかの曲だろう。
中尉のピアノは、アマチュアのレベルじゃない。
たぶん、正式な音楽教育をうけたにちがいない。
アドリブに入る。
K《キース》・ジャレットばりの、凝ったパッセージを、楽々と弾きこなす。
テーマに戻る。
エンディング。
拍手。
「中尉、アンコール!」
隅《すみ》のテーブルの水兵たちから、かけ声が飛ぶ。
そのとき、
「つまらん演奏だ」
と誰かがいった。
みんな、ふり返る。
アキラが、立っていた。
ポケットに両手を突っ込んで、となりには、例のシルビアがいる。
「おや、バンド屋さんの登場か」
中尉は、ステージの上で、ニヤッと微笑った。白い歯が、スポット・ライトに光る。
「私の演奏が、つまらん演奏だと?」
「ああ、くだらんねェ」
とアキラ。
中尉は、ステージをゆっくりとおりてくる。
「やあ、シルビア」
彼女の頬に、軽くキス。
「それじゃ、君の演奏の方が、マシだっていうのか」
と中尉。
「少なくとも、あんたのお遊びよりはね」
「ほう……お遊びといわれちゃ、引っ込んでいられないなあ」
シルビアを間に、男同士の火花が散る。
「このシルビアとの件もあるし、どうだい、この辺で、結着をつけるってのは」
「いいだろう」
とアキラ。
「私は、正直いって、君が目ざわりだ」
「正直にいってくれて、ありがとうよ」
「それじゃ、ピアノ弾き同士、勝負はピアノでつけようじゃないか」
「悪くないね」
「よし。今度の土曜日、3日後だ。この店で、演奏する」
「で?」
「拍手の多かった方が勝ち。負けた方は、シルビアから、いさぎよく手を引く。それでいいね? シルビア」
シルビアの、きれいな横顔が、うなずいた。
「いいだろう。3日後だな」
「ああ、泣いても笑っても3日後だ」
中尉は、シルビアの腕をとる。
「さあ、送っていこう」
部下をひき連れて、店を出ていく。
〈ハーバー・ライト〉のエンディング。
フロアで、スロー・ダンスを踊ってた連中が、軽く拍手する。
アキラは、電気ピアノから立ち上がる。
ステージをおりてきた。
演奏が、レコードに変わる。
アキラは、カウンターにやってくる。
あたしのとなりに坐った。
「ビル、スコーピオンを1杯くれないか」
バーテンダーに叫ぶ。
「それに、シュリンプのフライを、ひと山だ」
そろそろ、本当のことをいう頃だ。
「ねェ、アキラ」
「ん?」
「あたし、本当は、仕事しにグアムにきたんじゃないの」
「わかってたさ」
「わかってた!?」
「ああ、最初からね。それだけドラムスの腕がよかったら、こんなヘンピな島に、仕事さがしにくるわけがない」
「…………」
「それに、さっきのカンフー映画ばりのアクションで、わかったよ」
「アクション?」
「ああ。……ホノルルからきたバンドマンの誰かにきいたことがある」
「何を」
「ひどくケンカっ早くて、ドラム叩きのうまいロコ・ガールがいるってね。たしか、日系の」
「…………」
「スティックで、ドラムのフェースを叩くより、人間を叩いてる回数の方が多いって話だ」
「それはデマよ」
「でも、とにかく、あれは君だったんだ」
そこまでわかれば、話は早い。
スーパー・バンドの話を、あたしはした。
アキラは、小エビのフライをつまみながら、きいてる。
「その、メンバーさがしのウワサも、どこかできいたなあ」
「太平洋は、せまいわね」
「せっかく、ここまできてくれたのは嬉《うれ》しいが、たぶん、ムダあしだったな」
「どうして? あんたほどの腕を持ってて、こんなシケた島で」
「そのシケた島が、好きなんだ」
「…………」
アキラは、MARLBOROに火をつける。
10秒ぐらい。目を細めて、店を見回す。
「あれを見てみろ」
フロアで、スロー・ダンスを踊ってる連中をさした。
「彼らのために演奏するのが、俺は好きだ」
フロアじゃ、いろんな人種の男と女が、抱き合って踊ってる。
「いくらヴェトナムが終わっても、人間ってやつは、なかなか幸福になれないらしい」
「…………」
「あの二人を見ろ」
水兵と、フィリピーノの若い女が踊ってる。
「あのケリーは、今週いっぱいで、あの、マッサージ・パーラーの女と別れる。艦隊が、長い航海に出るんだ」
「…………」
「あいつらを見ろ」
すみのテーブル。
白人の中年男と中年女が、黙ってカクテルを飲んでる。
「あのアーサーは、エイビスの社員だ。本土《メイン・ランド》でヘマをやって、この島にとばされてきた。妻子を残してね」
「…………」
「ところが、この島で彼女と……、大尉の奥さんとできちまった。皮肉なもんだ。仕事をがんばるほど、帰る日が早くなる。彼女の亭主だって、いつ転属になるかわからん」
アキラは、SCORPION《スコーピオン》をぐいと飲んだ。
「いくら太陽が明るくても、この島じゃ、人生はいつも微笑《ほほえ》んでくれるわけじゃない。その逆の方が多い」
「ハワイだって……同じだわ」
あたしは、つぶやいた。
「しかし、このシケた島じゃ、もっともっと、ハローとグッドバイが背中合わせだ」
わからなくもない。
「何といわれてもいいが、そんな連中のために、ピアノを弾くのが、俺の性に合ってる」
「…………」
「例の中尉のピアノを見ろ。やつのは、頭と」
アキラは、自分の頭をさして、ニヤリと笑う。カウンターの上で、ピアノを弾く動作。
「指先だけで弾いてるのさ。……なぜ、わざとあんなに複雑なコードを弾く。わかりづらいフレーズを弾く……ありゃ、ただの鑑賞用だ。ガラス細工の飾りものだ」
アキラは、煙を吐くと、
「俺のピアノは……実用品だ。ハートの中の寂しさや傷に塗る、マーキュロみたいなものさ」
ニコリと微笑《わら》った。
「でも……レコードにしたら、もっともっとたくさんの人のハートに、マーキュロを塗れるわ」
あたしは、いった。
「そうかもしれん……」
アキラは、煙のゆくえをながめて、
「突然の話だし、少し考えさせてくれないか」
「いいわ」
あたしは、微笑った。
「とにかく、土曜には、あの中尉殿と勝負しなけりゃならん」
「勝てる?」
「わからんが」
アキラは、小エビのフライを口に放り込むと、
「とりあえず、土曜は、ミッキー、君がドラムを叩いてくれないか」
「家は、ジョージア州よ」
とエミー。
あたしとエミーは、タウン・ハウスで買い物をしてた。
タウン・ハウスは、グアムで一番広いショッピング・センターだ。
「どうして家を出たの」
サッスーンのシャンプーをカゴに入れながら、きいた。
「子供が家を出るのに、たいした理由はいらないわ」
「そうね……。でも、エミー、学校は?」
エミーは、ゴムぞうりをペタペタと鳴らしながら、
「カンサス・シティー……フェニックス……デンバー……ソルトレイク……ホノルル……いろんな土地を、兄貴と旅してきた」
あたしたちは、キャッシャーを通って、駐車場に出た。
「学校なんかいかなくても、生きていけるわ。学校にいってる子なんかより、いろんなことを知ってるもの。ロープの結び方も、砂地からクルマを出す方法も」
「それに、盗みもね」
あたしは、エミーのTシャツをめくった。
チョコレートが、バラバラと地面に落ちた。
ハーシーの板チョコだ。
「さあて……なんて兄貴にいおうかしら」
エミーは、半分泣きベソをかきながら、
「お願いだから、兄貴にはいわないで。心配させたくないの。そのかわり、1枚あげるから」
ハーシーを1枚、さし出す。
あたしは、苦笑いする。
「しょうがないわねェ」
チョコレートをかじりながら、アキラから借りたクルマに歩いていく。
たそがれの駐車場。風。プルメリアの匂い。
アスファルトに、あたしの長い影と、エミーの短い影……。
パーカー中尉の演奏が、終わった。
わき上がる拍手。
さすがに、うまい演奏だった。うまいだけじゃない。
聴き手を酔わせるツボを、こころえている。
兵隊からも、チャモロ人の客からも、長い長い拍手。
「さて、お手なみ拝見」
と中尉。
あたしたちは、ステージに上がった。
カウンターの端に、シルビアの金髪が見える。
「セッティング、OK」
とあたし。
フィリピーノのベースも、うなずく。
「じゃあ、いこうか」
アキラは、電気ピアノに向かう。ちょっとかがみ込む。
むぞうさなイントロ。
〈ジョージア・オン・マイ・マインド〉
わが心のジョージア。
|1《ワン》コーラスは、ピアノのソロだ。
|2《ツー》コーラスの頭から、ベースとドラムスが入る。
アキラのピアノは、驚くほどシンプルだ。
一度だけ音合わせしたときより、もっと、音を省略してる。
アキラは、目を閉じて、ピアノにかがみ込んでいる。
簡潔で、歯切れのいいバラードが、指先から弾《はじ》かれ、店の中に流れていく。
「人生いろいろあるさ」
「元気を出せよ」
そんな飾りけのない言葉で、胸の奥まで語りかけてくるような、温かい音だ。
〈ハートにつけるマーキュロ〉
アキラのいった言葉が、実感としてわかる。
あたしも、シンバルは叩かない。
ハイハットで、リズム・キープしていく。
シンバルのジャンジャンした音より、ハイハットのカシッカシッとした音が、この演奏には似つかわしい。
サビのフレーズ。
ピアノ・ソロだ。
あたしも、ベースも、手をとめる。
アキラは、鍵盤にかがみ込む。
目は、閉じたまま。
思い出すように、祈るように、温かい音を弾き出していく……。
最初のコーラスに戻る。
あたしとベースが入る。盛り上がっていく。
〈ジョージア……ジョージア……〉
アキラは、口の中でつぶやきながら、エンディングヘ……。
最後まで、簡潔な音で、しめくくる。
あたしは、そっと、静かに、シンバルをロールして……END。
スピーカーからの、残響が、消えていく。
2、3人の、パラパラした拍手。
あとは、沈黙。
10秒……20秒……30秒……。
やがて、アキラは、ピアノから立ち上がる。
あたしに、肩をすくめてみせる。
「……そうか……俺の負けか」
ステージをおりる。
シルビアに軽く手をふる。店を出ていこうとした。
その背中に、
「待て」
中尉が、いった。
アキラは、立ちどまる。
中尉は、フロアに視線を落として、
「本当は……私の負けだ」
と、つぶやいた。
アキラは、ゆっくりとふり返る。
「どうして? あんたの方が、断然、拍手が多かった」
「あれは……あれは……インチキだ」
「インチキ?」
「そう。いま、この店にいる客のほとんどは、私が買収したんだ」
「…………」
「負けたくなかったからね……買収したんだ」
中尉は、ポツリといった。
「けど、みんなを見ろ」
客のほとんどが、うつむいてる。
4分の3ぐらいの兵隊も、残りのチャモロ人も。
スポット・ライトの逆光でよく見えなかった。
けど、よく目をこらせば、かなりの客が涙を浮かべていた。
セーラー服のソデで、目をぬぐってる水兵もいる。
「私も」
中尉は、目頭をぬぐうと、
「柄にもなく、泣かされたよ。……とにかく、私の完敗だ」
「なぜ……」
アキラは、つぶやく。
「白状しなくても、いいものを」
中尉は、顔を上げる。
「こう見えても、名誉あるアメリカ軍人だし、それ以前に……」
アキラを正面から見ると、
「ひとりのピアニストだからね」
「…………」
アキラのヒゲ面から、白い歯がこぼれた。
「そのフレーズは、あんたのピアノより、いかしてるな」
中尉の腕を、軽く叩いた。
中尉の顔からも、白い歯がこぼれる。
シルビアが、アキラに歩み寄ってきた。アキラの腕を、とろうとする。
アキラは、体の向きを変える。シルビアと向かい合うと、
「残念だけど、テンビンにかけられるほど、俺の体重は軽くないんでね」
シルビアのわきを通りすぎると、カウンターに。
「おい、ビル」
バーテンを呼びつける。
「この空軍のダンナに、ウイスキーを1杯おごるってのはどうだい」
「悪くないですね」
と、チャモロ人のバーテン。
酒棚のバーボンに手をのばす。
アキラと中尉は、バーボンのグラスを合わせた。アキラは、ひと息に飲み干すと、
「そうと決まりゃ、気分なおしに、もう1曲やるか」
ステージに上がってくる。
ピアノに坐る。
〈ヘイ・ジュード〉を、むぞうさに弾きはじめる。
あたしとベースが、軽くサポートする。
こんなポピュラーな曲を、ノー・テクニックで、どうしてこんなにソウルフルに弾けるんだろう……。
〈俺の音楽は、実用品だ〉
そういいきった表情を思い出す。
なんの迷いもない、爽《さわ》やかなフレーズが、みんなの胸にしみ込んでいく。
灼けた砂浜に、|通り雨《シヤワー》が走り過ぎるみたいだ。
エンディングにかかったとき、店の外で銃声がした。
「大変だ! エミーが撃たれた!」
誰かが、店の入口で叫んだ。
気がついたら、駆け出していた。後ろで、ハイハットが、スタンドごと倒れるすさまじい音がする。
店を飛び出る!
駐車場だ。
ヘッド・ライトに照らされて、あの白っぽいワンピースが見える!
クルマのわきに、エミーは倒れていた。
そばに、男が5、6人。海軍の制服。1人は、拳銃を下げて、ぼうぜんとしている。
「この子が……クルマの窓から何か盗もうとしてたんだ……逃げるから、威嚇のつもりで、地面を撃った……」
まわりの誰かに説明してる。
手前のコンクリートに当たって、跳ねかえった弾が、エミーに命中したのか!?
「エミー!」
あたしとアキラは、しゃがみ込む。
「早く! 救急車だ!」
誰かが、叫んでる。
仰向けのエミー。その手を、とった。
「すぐに、救急車がくるわよ」
けど、その背中から、黒いシミがコンクリートにひろがりはじめてる。
「エミー!」
アキラが、頭を起こそうとする。
「動かしちゃダメよ!」
あたしは、ポケットから出したバンダナを、エミーの頭に敷いた。
エミーは、目を開いた。
「痛む!?」
「だいじょうぶ……」
小さな声で、エミーは答えた。
「あたし……死ぬのかなあ……」
「そんなことないわ。しゃべっちゃダメ」
「救急車はまだか!」
エミーの手を握ったまま、アキラは叫んだ。
「そうね……死んだら……兄貴のマネージャー……できないものね……」
エミーは、アキラに微笑いかける。
「わが心のジョージア……とってもよかったわ……とっても……」
長いまつ毛が、細かく震える。
「思い出すわ……ジョージアの家の……グレープフルーツの樹……いま頃……」
言葉が、かすれて、フェード・アウトしていく。
最後に、大きく息を吸う。彼女は、目を閉じた。
質素で、小さな十字架だった。
〈エミコ・サトウここに眠る〉
とだけ、刻まれている。
十字架は、アガニア湾を見おろす丘に立っていた。
みんな、もう帰った。
アキラとあたしの二人だけ。小さな十字架を、見おろしていた。
あたしは、太モモに、白い包帯を巻いていた。
エミーが撃たれた瞬間、飛び出すとき、ハイハットのエッジで、ザックリと切った。
8針、縫った。
「あのバカ……天国でも、盗みをやってなきゃいいが……」
アキラが、ぽつりとつぶやいた。
十字架のわきには、ピンクのブーゲンビリアが植えられていた。
あたしは、唇をかむ。
十字架の下に、ビッコをひきながら1枚のチョコレートを置いた。
ハーシーの、板チョコだ。
チョコレートを置くとき、こぼれた涙が、茶と銀のパッケージに、ポトリと落ちた。
「あの子は、そのチョコレートが好きだった……」
とアキラ。
「でも……俺にはもう、何もしてやれない」
午後の陽射しが、水平線に光る。
青いミクロネシアの海は、涙でかすかに、にじむ。
「お笑いだな……ひとのハートに、マーキュロを塗るなんて」
「…………」
「自分の妹ひとり、まともにできなくて……。なあミッキー…」
「何?」
「俺たちは、音楽で何ができるんだ……いったい……」
あたしは、唇をかんだまま、水平線をながめる。
「そんな難しいことは、わからないわ。……でも、あたしは、突っ走ってみるだけ」
「突っ走ってみるだけ……か。悪くないね。その突っ走る仲間に……俺も入れてくれるかい」
「もちろん……あんたの演奏がラジオから流れるのが、あの子の夢だった……」
「そうだったっけなあ。自分がマネージャーになって、俺をスターにするって、いつもいってた……」
青い空を、雲がゆっくりと動いていく。
「レコード・アーチストになんかならない。そう、心に決めてた。けど」
「けど?」
「人生ってやつを、ほんの少し、プレイ・バックしてみるのも、悪くない。ふと、そう思ったよ」
アキラは、十字架のところに、しゃがみ込む。
ハーシーの板チョコをながめて、
「ミッキー……」
「何?」
「もし、俺たちのレコードが出て、印税が入ったら、こんなチョコレート、いくらも買えるよな」
「……そう……トラック一杯も、二杯も……ね」
アキラの背中が、小きざみに、震えている。
後ろ向きのまま、
「そうか……トラック一杯の、チョコレートか……」
そう、つぶやいた。
アガニア湾から吹く風が、アロハのスソをめくって過ぎた。
ハーシーのパッケージに、ブーゲンビリアの影が揺れている。
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第5話 ロング・ロング・グッドバイ
ブーッ!
ハイジャック防止装置が、不きげんな声を上げた。
「もう一度通って」
と係員。
防止装置を、また通る。
ブーッ!
まただ。
ホノルル空港、朝の10時。
出発《デイパーチヤー》のゲートに向かう客は、まだ少ない。
「おかしいなあ」
と係員。
あたしの、ただ一つの荷物、デイ・パックは、ベルト・コンベアを通過して、もう、向こう側に出てる。
「ちょっと、両手を上げて」
大柄な係員が、あたしを見おろす。
女の係員は、ちょうど留守なのか。
やれやれ。あたしは、ホールド・アップしてみせる。
「何も、かくしてないわよ」
あたしの言葉は、無視。係員は、アロハ・シャツの上から、体をさわった。
「何すんのよ」
係員は、ニヤニヤ笑いながら、ひとのウエストからヒップをさわろうとした。
「いやらしいわね!」
かがんだやつのエリ首を、あたしはつかむ。グイッと立ち上がらせる。
股《また》の急所に、ヒザ蹴《げ》り。
「ムグッ!」
ハワイアンの係員は、白眼をむいた。
そこをおさえて、あたりを跳《は》ね回る。
先に通ったアントニオが、笑いながらふり向いてる。
「どうした、アンディ」
年かさの係員がやってきた。
あたしは、腕組みする。その年かさの係員をにらみつける。
「ここは空港なの? それともマッサージ・パーラーなの? はっきりしてちょうだい」
係員は、微笑《わら》いながら、
「お嬢さん。犯人は、そのヒップにさしてる棒っきれだと思うがね」
そうか。
カット・オフ・ジーンズのヒップ・ポケットにさしてあるスティック。
練習用のスティック。むくのアルミ。1本で10オンスはあるだろう。
感化院《ホーム》を出て、まだ2ヵ月。
パワーが、まだ戻っていない。スナップを鍛えるための練習《トレーニング》用スティックだ。
ちょっとでもヒマがあれば、こいつで、ところかまわず叩《たた》く。ガンガン叩く。
「これか」
あたしは、アルミのスティックを、ヒップから抜いた。
「そりゃ、なんだい」
と年かさの係員。
「ドラムスのスティックよ。練習用だから金属でできてるの」
係員は手にとると、
「いちおう、預かっておくか」
「なんで!?」
あたしは、口をとがらせた。
「これは楽器よ。凶器じゃないわ。〈おはし《チヨツプ・ステイツクス》〉にはなっても、ハイジャックなんかできっこないじゃない」
「でも」
いい争いしてると、アントニオが、
「ミッキー。お話し中だが、あと5分で飛行機が出ちゃうんだけどねェ」
「じゃ、いいわ。預かっておいて」
スティックを、紙袋に入れる。便名と名前を書く。
「じゃ、ひと足先にいってるからね」
空港まで送ってくれたビリーに、手を振る。ちょうど週末だった。飛行機の席がない。ビリーたちは、明日一番の便でくる。
「酒と女だけは、用意しといてくれよ!」
ビリーが、叫んだ。
親指と小指を立てる。ハワイアン・スタイルのサインをして笑った。
あたしとアントニオは、ゲートに歩き出す。
「なあ、いかしてるだろう」
ガラスに映る自分の姿を見て、アントニオがいった。
きょうのアントニオは、いつもよりさらにキザだ。
明るい青のスーツ。しかも、光沢のある生地。ピンクのシャツにストライプのタイ。
スペイン系独特のウエーヴした髪は、整髪料でベッタリ。
細い口ヒゲ。おまけに、右手にはアタッシェ・ケースときたもんだ。
「なあ、ミッキー、なんに見える?」
「結婚サギ師」
「そりゃないだろう」
あたしたちは、笑いながら飛行機に乗り込んだ。
窓の下を流れる滑走路が、どんどんスピードをましていく。
フワリ、と離陸。
|W・A《ウエスタン・エアー》の552便は、珍しく時間どおりに|L・A《ロス》に向かって飛び立った。
すぐに、オアフ島の海岸線も見えなくなる。
雲海の上に出る。
まぶしい。
きのうは、なかなか寝つかれなかった。けっきょく、眠ったのは2、3時間。
窓の陽《ひ》よけを、3分の2ぐらいおろす。
陽よけに、頭をもたせかける。ぼんやりと、3日前のホノルルを思い返していた。
P・Aからの残響が、壁に吸い込まれるように消えていく。
いい演奏だった。
「フーッ」
全員、満足そうに白い歯を見せて笑い合う。
ギターのビリー。
ベースのチャック。
キーボードのアキラ。
そして、あたしだ。
アキラといっしょにグアムから帰って、もう10日。
カパフル通りのライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉で、毎日5、6時間は練習してる。
メンバーの息も、チーム・ワークも、ほとんど完璧《かんぺき》に仕上がってきた。
「プレイ・バックしてみようか」
とビリー。
「OK」
チャックが、カセット・デッキを操作する。
あたしは、スティックをヒップ・ポケットに。スポーツ・タオルを首にかけて、客席におりる。
すぐに、スピーカーから音が出てきた。
曲は、ビリーのオリジナル。練習をはじめて3日目の曲だ。
めいめい勝手に、客席に坐《すわ》る。演奏のプレイ・バックに、耳をかたむける。
午後3時。
ひんやりとした地下室の空気が、汗を、ゆっくりと乾かしていく。
演奏が、昇りつめていく。
〈メンバー集めは、成功した〉
聴きながら、あたしは思った。
イメージどおりのバンドになろうとしていた。
メロディ。パワー。歯切れの良さ。すべて、文句のつけようがない。
超弩級《ちようどきゆう》のバンドが、生まれようとしていた。
「悪くないね」
ゼロ弦を張りかえながら、ビリーが白い歯を見せた。
「あとは」
長い脚をテーブルにのせて、
「すごいヴォーカリストがつかまりゃ、スーパー・バンドのでき上がりか」
チャックがいった。
「しかし……」
あたしは、テーブルの上をながめて、つぶやいた。
「なかなか、いないものね」
テーブルの上は、カセット・テープの山だ。
150本はあるだろう。いろんなバンド、いろんなヴォーカリストのテープだ。
もう4日間で、全部聴いた。
けど、この中に、あたしたちの欲しいヴォーカリストはいない。
5人目。ポーカーでいえば5枚目。勝負を賭《か》けるカードは、この中には、ない。
ときどき、直接、オーディションにくるのもいた。
不思議なものだ。
スーパー・バンド結成のウワサは、あちこちに流れていた。
音楽をやってる連中独特の、嗅覚《きゆうかく》と情報網だろう。
3日前は、サン・フランシスコから、4ビート・ジャズを唄《うた》う女性シンガーがやってきた。
ジャズは、ジャンルちがいだ。その娘《こ》は、アントニオがカラカウア通りのクラブに紹介してやった。
「きのうきたやつも、けっさくだったなあ」
とアキラ。
きのうの練習中。若い男の子が押しかけてきた。
黒い皮のパンツ。赤とブルーに染めたテクノ・ヘアー。
鎖をガチャガチャやりながら、セックス・ピストルズの曲をがなりはじめたときは、あたしもビックリした。
ナイフかなんかふり回されないよう、おだやかに説得して帰した。
あたしたちがめざすのは、パンク・ロックじゃない。
ドラム叩きのあたしにいわせると、
〈R《ローリング》・ストーンズを超えるパワー〉
ギターのビリーにいわせると、
〈イーグルスを超えるメロディ〉
キーボードのアキラにいわせると、
〈W《ウイリー》・ネルソンを超えるハート〉
黒人ベーシストのチャックにいわせると、
〈コモドアーズを超える熱さ〉
そして、マネージャーのアントニオにいわせると、
〈ビートルズを超える収入〉
ということになる。
「いっそのこと」
チャックが、FENDERのネックを、タオルで拭《ふ》きながら、
「新聞広告でも出したらどうだい。ドカーンと、〈シンガー求む〉ってさ」
ドアが開く音。
「どうやら、その必要はなさそうだな」
店のオーナーでもあるアントニオが、軽快な足どりで入ってきた。
「どうしちゃったの? アントニオ」
吹き出すのをこらえて、あたしはきいた。
細身のジーンズ。スニーカー。ペパーミント・グリーンのTシャツ。手には、ウォークマン。
いつものフォーマルなダンディぶりとは、えらくちがう。
「なんか、おかしいかい」
とアントニオ。
「いや。似合うよ、アントニオ」
とビリー。
「そのままローラー・スケートでもはいて、クヒオを歩いたら、きっと素敵な彼氏が声をかけてくるだろうなあ」
「ほっといてくれ」
アントニオは、ビリーの頭を叩くと、カウンターの中へ。
「これを聴いてみろ」
ウォークマンから出したテープを、店のデッキに。
「今朝、|L・A《ロス》から届いたばかりだ」
「ロスから?」
「そう。知り合いの音楽屋からだ」
テープを巻き戻す。
冷蔵庫から、COORSの缶を出す。つぎつぎと、休憩してるあたしたちにパスした。
「OK」
スイッチ、ON。
あたしたちは、冷たいビールを飲みながら、テープを聴く。
最初から、軽いノイズ。あんまりいい録音じゃない。
どっかの店のライヴみたいだ。
イントロ。かなりへタくそ。
曲は、S《ステイービー》・ワンダーの〈スーパースティション〉。
ヴォーカルが、入る。
「!?」
おや。という表情のビリー。
チャックも、ビールを飲む手を、ピタリととめた。
「…………」
エンディング。拍手。カンパツを入れず2曲目へ。
B《ビリー》・ポールの〈ミー・アンド・ミセス・ジョーンズ〉。
アース・ウインド&ファイアの〈ゲッタウェイ〉。
黒人の歌がつづく。4曲……5曲……。
どれも、自分流に唄いこなしている。
最後は、M《マイケル》・ジャクソンの〈ビリー・ジーン〉。1、2年前の曲だ。
口ヒゲにビールの泡をつけたまま、アキラは目を閉じて聴いている。
曲と拍手が、ゆっくりとフェード・アウトされていく。テープのノイズだけが残る。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
アントニオも含めて、5つの沈黙。
10秒……20秒……。
カチッ。
90分テープの、A面が終わった。
あたしは、ゆっくりと立ち上がる。
カウンターの端にある電話をとった。アントニオの前に、置く。
「ロスに、長距離《ロング・デイスタンス》ね」
「やあ、ペドロか。俺だ、アントニオだ」
相手が出たらしい。話しはじめる。
やがて、
「何!? ロスにいない? いないってのは、どういうこったい」
そこから、アントニオは急にスペイン語になった。
巻き舌、早口でまくしたてる。
店の紙コースターに何か書き散らしながら、まくしたてる。
「わかった。ともかく、ありがとう」
電話を切る。
ボールペンで書き散らしたコースターから、顔を上げる。
「ヴォーカリストの名前は、リカルド。スパニッシュの血の入ったメキシカンだ」
「メキシカン……」
「心配するな。アメリカ生まれだし、市民権もちゃんとあるらしい。ただ……」
「ただ?」
「ロスで唄ってたらしいが、ここ半年ばかりロスにいない」
「っていうと?」
「サン・ディエゴだ」
「サン・ディエゴ?」
「そうだ。サン・ディエゴのクラブで唄ってるって話だ」
「なんで、サン・ディエゴなんかに?」
「それは、俺《おれ》にはわからんし」
電話機を指さすと、
「友達のペドロにもわからんそうだ」
アントニオは、ボールペンの先でカウンターをコチコチ叩きながら、
「直接、当たるしかなさそうだな。それも、できるだけ早く」
メモがわりのコースターを、指にはさんで、
「やつの、ペドロの話だと、ロスの大物プロデューサーとコンタクトがとれるかもしれない」
みんなを見回す。
「ロスにも、もう、このバンドのウワサが流れてるらしい」
アントニオは、2缶目のCOORSを出しながら、
「とにかく、|秒読み《カウント・ダウン》は、はじまった」
「いよいよ、本土《メイン・ランド》上陸よ」
パパのお墓に、あたしは話しかけた。
出発の前日。
真珠湾《パール・ハーバー》を見おろす丘を、海からの風が吹き渡っていく。
午後の、まぶしい陽射《ひざ》し。十字架の影が、鮮やかなグリーンの芝生にのびている。
名前も知らない小さな鳥が、芝生をうろついている。
小鳥のまっ赤な尾が、十字架の影に出たり入ったりしている。
「じゃ、いってくるわ」
きっぱりと、いった。
話すことは、もう、何も出てこない。
十字架に、背を向ける。
自転車に、またがる。
向かい風の中へ、あたしは走り出した。
トップ・ギア。
ポニー・テールをなびかせ、坂道を、ホノルルの街に下っていく。
軽く、肩をゆすられた。
いつの間にか、眠っていたらしい。
「いやな夢でも見たのか」
とアントニオ。
気づくと、目尻《めじり》に涙がたまっている。
「なんでもないわ」
|W・A《ウエスタン・エアー》のペーパー・ナプキンで、目尻をぬぐう。
アントニオが、黙って窓の外をさした。
大きな街が見える。
ロス・アンゼルスだ。生まれてはじめて見る、本土《メイン・ランド》の海岸線。
552便は、どんどん高度を下げていく。
「じゃ、がんばって、アントニオ」
「騒動をおこすんじゃないぞ、ミッキー」
「あんたこそ、悪い女にひっかからないようにね」
アントニオに手を振る。
ロス・アンゼルス空港のロビー。ここで、アントニオと別れる。
アントニオは、ロスの音楽プロデューサーとのコンタクトに。
あたしは、サン・ディエゴに飛んで、ヴォーカリストのリカルドをピック・アップする。
なんとしてもリカルドをつかまえて、ロスで合流する。
あたしは、デイ・パックひとつを肩にかけた。サン・ディエゴ行き715便に乗り込んだ。
週末を、サン・ディエゴやティファナで過ごす。そんな観光客で、満員だ。
離陸。
海岸線を南へ。30分ぐらいで、サン・ディエゴが見えてきた。
たそがれのサン・ディエゴは、どことなくホノルルに似ていた。
海岸。大きな港。ヨット・ハーバー。背の高いホテル。
沖には、鉛色の軍艦が停泊している。
誰《だれ》かに、きいたことがある。サン・ディエゴは、アメリカで一番大きい海軍第Π艦隊の基地だ。
飛行機の窓から見おろす軍港は、真珠湾《パール・ハーバー》に、やはり似ている。
暮れていく海。
レモン・イエローの帆をはったヨットが、ハーバーに帰っていく。
パーム・ツリーの葉先をかすめるように、715便は着陸。
ブレーキ。ガリガリガリと、激しい振動。もうパーティーをはじめてる団体の観光客たちから、陽気な拍手と歓声。
飛行機の降り口で、預けておいたスティックをうけとる。ヒップ・ポケットにさす。
荷物はデイ・パックひとつだから、バゲージ・クレームは素通り。
空港の玄関に出る。
港のある街独特の空気を、胸いっぱいに吸い込む。
風の匂《にお》いは、ホノルルより少し乾いていた。
タクシー乗り場へ。
メキシカンの運転手が、ドアを開けてくれる。
「〈クラブ闘牛士《エル・マタドール》〉へやって」
陽気な運ちゃんは、
「お嬢さん、〈闘牛士《エル・マタドール》〉へ何しにいくの?」
どうやら、観光客には見えないらしい。
そうかもしれない。
どう見ても15か16歳。ポニー・テール。アロハ・シャツ。ジーンズを切ったショート・パンツ。スニーカー。肩にかけたデイ・パック。
「〈闘牛士《エル・マタドール》〉、いいクラブ。でも、何しにいくの?」
スペイン語なまりの巻き舌で、運ちゃんはまたきいた。
「牛を殺しにいくのよ」
「ノー、ノー、牛は、殺すより食べるものよ」
「わかったから、前を向いて運転して。まだ死にたくないからね」
「シー、シー、お嬢さん、今夜はサン・ディエゴに泊る?」
「もちろん」
「だったら、あしたティファナで観光しない?」
「ティファナ?」
「そう。楽しいよ。銀の物、安い。皮の物、安い。このタクシーで1日回って、100ドルでOKよ」
そうか。
サン・ディエゴからだとメキシコとの国境線は目と鼻の先。確か12マイルぐらい。
国境をこえれば、ティファナの街だ。
運ちゃんは陽気な口笛で、〈国境の南〉かなんかを、吹きはじめた。
店の前に着いた。
「ティファナ、いく気になったら、ぜひ電話ね」
おつりといっしょに、運ちゃんはネーム・カードをひとの手に握らせる。
「銀の物、安い。皮の物、安い。1日100ドル、OKよ」
運ちゃんに手を振ると、あたしは〈クラブ闘牛士《エル・マタドール》〉に入っていった。
時間が、まだ早い。
店はすいていた。
あたしは、長いカウンターに坐る。MARGARITA《マルガリータ》を注文した。
かなり広い店だった。
全体をメキシコ風、というよりスペイン風につくってある。
白い壁に貼《は》られた、闘牛のポスター。闘牛士のかぶる帽子。いろんな種類の剣。スペイン風の絵皿や壺《つぼ》。
異国情緒が売りものの店なんだろう。
いかにもわざとらしく、板についてないのは、ご愛嬌《あいきよう》だ。
そんな雰囲気にふさわしい客が、ざわざわと入ってきた。
アメリカ人の中年の観光客たちだ。
ロスや、サン・フランシスコや、とにかく西海岸のあちこちから、どっと南下してきた白人たちだ。
店が、陽気なおしゃべりであふれはじめる。
低いステージに、スポット・ライトが落ちた。
メキシコ人のバンドが、にぎやかなイントロをはじめる。
トランペット2本。ピアノ。ギター。ドラムス。ベースのかわりに、ギターラと呼ばれる楽器を使っている。
ウッド・ベースを小さくして、うんと寸づまりにしたようなやつだ。それを、ギターみたいに肩から下げて弾いている。
拍手。
スポット・ライトの中。まっ白いタキシードの、若い男が登場した。
リカルドだ。
唄いはじめた、最初の|1《ワン》フレーズでわかった。
リカルドは、余裕たっぷり。スペイン語で、今夜の1曲目を唄い上げる。
拍手。歓声。
「ようこそ《ブエン・ベニーダ》」
スペイン語で、ひとこと。あとは、英語だ。
「素敵な夜でありますように!」
カンパツを入れず、バック・バンドがイントロを出す。
メキシコだか、スペインだかの曲を3、4曲。
ぶっつづけて、J《フリオ》・イグレシアスのメドレー。
客席が、盛り上がっていく。
ビッグ・ヒット・ナンバー〈ビギン・ザ・ビギン〉がはじまると、客がどっとフロアに。
陽気に踊りまくる観光客たちを横目に、あたしは、いったん店を出た。
すぐ近くのモーテルに、チェック・インした。
とりあえず1泊分の25ドル45セントを、前払いする。部屋に入る。
ベッドに、ドスンと体を投げ出す。
安っぽい花柄の天井を見上げて、ぼんやりと考えた。
あれだけのハートと、テクニックと、パワーを持ったヴォーカリストが、なぜ?
なぜ、あんな安っぽいステージに立っている……。
ウトウトしていた。
目を覚ます。
午前2時半。ちょうど店も終わる頃《ころ》だろう。
あたしは、また、〈クラブ闘牛士《エル・マタドール》〉のドアを押した。
店は、終わっていた。
ライトが明るい。それだけに、店の安っぽさが、あからさまだ。
まっ昼間のワイキキ・ビーチに出てきた、コリアン・バーの女。そんな感じだ。
1つのテーブルで、4、5人のメキシカンが飲み食いしてる。仕事を終えた従業員だろう。
太ったのが1人、席を立つ。ゆっくりと歩いてくる。
「店は終わったよ」
「リカルドに用事よ」
「リカルド?」
「そう。歌手のリカルド」
「ほう」
メキシカンは、ひとの体を、ジロジロと見回す。
眼が赤く濁ってる。息が酒臭い。
テーブルの上のTEQUILA《テキーラ》は、ほとんどカラになっている。
「リカルドになんの用だ」
ニヤニヤ微笑いながら、やつはいった。
「本人じゃなきゃ、話せないわ」
「へえ。リカルドのやつ、モテるこった。こんないかしたセニョリータが、こんな時間に用事だとはなァ」
テーブルの連中も、ゲラゲラと下品な笑い声を上げる。
「リカルドなら、もう帰ったよ。いま頃は、きっと女の腹の上だろうよ」
また、下品な笑い声が、ガランとした店に響く。
「あんな若造よりも」
やつは、ひとの体、特にカット・オフ・ジーンズからむき出しの脚を、なめるようにながめると、
「どうだい。俺とつき合っちゃ」
ぐいと、体を寄せてくる。
玉ネギとポマードの臭いが、ムッと鼻をつく。
「ひと晩中、天国|旅行《ツアー》をさせてやるぜ」
テーブルの連中の笑い声に、気をとられた。
カチッという音がした。
と思ったら、飛び出しナイフの先が、あたしのアゴの下につきつけられてた。
ナイフを使わせたら、一番てごわいのはメキシカンだ。
そんな話を、感化院《ホーム》にいた頃、きいた覚えがある。
〈どうして?〉
〈メキシコじゃ、拳銃《けんじゆう》が高くて買えないんじゃない〉
その友達は、肩をすくめた。
冷たいナイフの刃が、あたしのアゴにさわっている。
ヒヒヒと、デブのメキシカンは笑った。
ナイフで、ひとのアゴを持ち上げる。顔がうわ向く。
スティックを使うには、近すぎた。ナイフの先は、あたしのノドから、1インチもないだろう。
「今夜のレイト・レイト・ショーは、ジャパニーズのストリップといくか」
ナイフが、サッとふりおろされる。
アロハのボタンが、3つ、ちぎれて落ちた。
刃先は、あたしのウエスト近くまでおりて、とまった。
アロハのボタンは、あと1つ。
シャツの前が、フワッと開きかける。
「ほう、いいバストしてるじゃないか」
やつの眼が、チカッと光った。大麻《パカロロ》もやってるみたいだ。
深呼吸。
「あんたのお腹の方が、立派よ」
やつが、顔を上げた。
脂ぎったその顔に、ツバを吐きかけてやった。
一瞬、ひるむ。
その太い腹に、蹴り。やつは、2、3歩よろける。
「このガキが!」
顔をまっ赤にして、突っかかってくる。
鋭くナイフが突き出される。
スティックを抜きながら、左に体をかわす。
右わき腹すれすれに、ナイフが走る。
フロア・タムを叩くフォーム。
アルミのスティックだ。手加減して、手首に叩きおろす!
それでも、ビシッと重い手ごたえ。
骨が折れたかもしれない。それも自業自得だろう。
「ウゲッ」
うめいたそのアゴに、回し蹴り!
ドドドッと勢いよくよろけて、やつの体はテーブルをひっくり返す。
TEQUILAのビンが飛び、皿が割れる。
テーブルにいた連中は、ハエみたいに、もう散っている。
後ろ! ふり向く!
陶器の壺を、ひとの頭にぶつけようとしている! シンバルを思いきり叩くように、壺に一撃。
すごい音がして、壺はコナゴナに! 破片が、体中にふりかかる。
そいつの腹を、スティックで払う。
「グッ」
肋骨を折った手ごたえ。
体を二つに折って、そいつはくずれ落ちる。
「やりやがって」
一番背の高いやつが、壁ぎわにいく。壁にかけてある剣をとった。
闘牛に使うやつだろうか。それなら、切れない。刺すだけだろう。どっちにしても、どうせ飾りものだ。
「ふん……このイエロー・モンキーが」
こいつが、一番ケンカが強そうだ。
頬《ほお》の刀キズ。残忍そうな目。
剣をぶら下げて、やつはジリジリと間合いをつめてくる。
あたしは、わきのテーブルから、テーブルクロスをサッとはがす。
「くたばれ!」
やつが剣をひと振り!
あたしは、闘牛士みたいにテーブルクロスをひるがえす。
ヒュッ!
テーブルクロスが、まっぷたつに切れた。
どうやら、剣は飾りものじゃなかったらしい。
また、ひと振り!
チーン!
スティックでうけてかわす。
やつは、ビュンビュンと振り回してくる。かわしながら、後退。
呼吸が乱れる!
体をひるがえしたとき、頭の近くを、剣がうなって過ぎた。
褐色がかった髪が、パラパラと散った! ポニー・テールの先っぽを、刃がかすめたらしい。
落ちていたタバスコのビンを、ふんづけた。体のバランスをくずす!
剣が飛んでくる!
かわしきれない! ウエストのあたりで、ガチーン! という音。
ヒップ・ポケットにさしてあった、もう1本のスティックに、剣の刃が当たったらしい。
ヤバかった! アルミのスティックじゃなかったら、やられてただろう。
けど、バランスをくずしたまま、フロアに転ぶ!
剣がふりおろされる! 体をひねる! 耳のわき。フロアに剣先の当たる音!
とっさに、もう1本のスティックも抜く!
つぎの一撃! スティックをX型にクロス。チーンッとうけとめる! 顔のまん前だ。
また、やつは剣を大きく振り上げる!
サッと起きる。ヒザをつく。正面からきた!
かわしながら、やつのスネをスティックで払った。ガキッと重い手ごたえ。骨を叩き折っただろう。
「!!」
声にならないうめき。やがて、大きな体が、ドッとフロアに倒れた。
あたしは、ゆっくりと立ち上がる。
男が3人、口から泡を吹いたり、うめいたりして床に転がってる。
ほかの連中は、さっさと逃げたらしい。
「薄情なのね」
あたしは、つぶやいた。
左腕から、血が流れている。壺の破片か、それともこの剣先だろう。
転がってるTEQUILAのビンを、消毒用にしっけいする。
スティックをヒップ・ポケットにさすと、店を出た。
ビンの底に1インチぐらい残ってるTEQUILAを、傷口に注ぐ。
しみる。思わず顔がゆがむ。
天国じゃ、またパパが怒ってるだろうなあ……。
〈スティックは楽器だ! ケンカの道具じゃない!〉
傷口の痛みが、火照りに変わっていく。
どっと、疲れが出た。
ベッドにダウン。10《テン》カウント数えるまでに、眠りに引きずり込まれていた。
〈フラミンゴ・イン〉は、お粗末なモーテルだった。
本物のフラミンゴが見たら、きっと腹を立てるだろう。
コンクリートの壁が、淡いピンクに塗ってある。フラミンゴと名づけた理由は、それだけだろう。
5号室のドアをノック。
不きげんな返事がきこえる。なかなか出てこない。
また、ノック。
「わかった、わかった。いま、いくから」
あたしは、まわりを見回した。せまい中庭。〈珊瑚樹《コーラル・ツリー》〉の赤い花に、午後の陽射しが光っている。
ドアが、開いた。
「リカルドね」
「ああ」
「話があるの」
「仕事中なんだ」
リカルドは、皮肉っぽく微笑った。
パンツ1枚の裸。厚い胸に、汗が光っている。
リカルドとドアのすき間。ベッドの上に、女の長い髪が見える。
シーツから出た、裸の肩……。
「そんな仕事ばっかりしてると、体に良くないわ」
リカルドは、陽気に笑った。
「それもそうだな。ちょっと待っててくれ。何か着てくる」
「あたしは」
「知ってるよ。ミッキーだろう」
リカルドは、あたしのヒップ・ポケットから突き出してるスティックをさした。
「太平洋は、せまい。まして、音楽屋の世界は、もっとせまい」
あたしたちは、港通《ハーバー・ドライヴ》りを歩いていた。
ハワイじゃ見かけない太いヤシの樹《き》が、並木になってる。
「きのうは、派手にやったらしいな」
リカルドは、ニッと微笑った。
「やつらのことなら、心配ない。ゴロつきだし、しかもメキシコからの密入国者《バツク・スウエツト》だ」
「バック・スウェット?」
「そう。密入国だから、まともなルートは通れない。夜、国境線の川をザブザブと渡って、こっち側にやってくる」
「濡《ぬ》れネズミで?」
「そう。だから、|濡れた背中《バツク・スウエツト》さ」
リカルドは、またニッと微笑う。
Tシャツを中から押し上げてる胸の筋肉。太い首。がっしりとした鼻。
歌手っていうより、ボクサーかなんかに見える。
メキシコ出身の、若い、四回戦ボーイ。
「そうだなあ……子供の頃から、体を使うアルバイトばかりしてたからなあ」
〈クラブ闘牛士《エル・マタドール》〉の前にきた。
「一杯おごるよ」
開けっぱなしの入口を入る。
小柄なメキシコ人のおじさんが、ガランとした店を掃除していた。
「やあ、パブロ。この人に」
「ビール」
「それと、俺にはジンジャエール」
「お酒、ダメなの?」
「ああ。一滴もね」
リカルドは、微笑いながらカウンターのスツールに坐った。
「パブロは、この店のオーナーなんだ」
「そう。あんたが3人ほど病院送りにしてくれたおかげで、これさ」
パブロは、ホウキをカウンターの端に立てかける。
リカルドは、肩をすくめてニヤリと微笑った。
「で、用事ってのは」
「それも、わかってるよ」
リカルドは、しゃべりかけたあたしの前に、片手を上げた。
「ロスの情報屋が知らせてくれた」
それなら、話は早い。
「すごいバンドが、できるそうだな」
注がれたBUD《バドワイザー》を飲みながら、あたしはうなずいた。
「俺が、そのバンドに入るのはいい。が、一つだけ条件がある」
「条件?」
「っていうより、頼みごとだな」
「結婚式!?」
「そう、結婚式のパーティーで、唄わなきゃならん。しかも、国境の向こう側だ」
「もっとくわしく話して」
2缶目のBUDを、あたしは自分で注いだ。
「よし。最初から話そう」
リカルドは、カウンターにヒジをついた。
「もう、2年も前の話だ。俺は、ロスにいた。ライヴ・ハウスで唄ってた。あれは、オルベラ街。メキシコ人の街だ」
遠くを見る目つき。
「ある日、1人のメキシコ娘が、友達と店にきた。俺は一目|惚《ぼ》れした。そして、相手も、ね」
ジンジャエールをすする。
「それが、もし、同じオルベラ街の肉屋の娘なら、この話はハッピー・エンドになっただろう。けど」
「けど?」
「彼女は、ロシータは、U・C・L・Aの学生だった。しかも、〈山猫結社《ガトー・サルバツヘ》〉の娘だった」
「ガトー・サルバッヘ?」
「そう。メキシコ人なら、その名前は、あまり大声じゃいわない」
「…………」
「つまり、イタリー出のマフィアがあり、フランスにはユニオン・コルスがあるように、メキシコには〈山猫結社《ガトー・サルバツヘ》〉がある」
「……ってことは」
「そういうことさ。ロシータは、その頭《カピタン》の、ひとり娘だった。大学の4年間だけ、身分をかくして、つまりおしのびでロスで学生生活を送ってたわけだ」
「へえ」
「恋人になってすぐ、ベッドの中でそのことをきかされた。俺の目の前は、まっ暗になったね」
リカルドは、白い歯を見せた。
「U・C・L・Aの4年間だけが、人生のフリー・タイム。卒業したらすぐ、メキシコに帰る。12歳から決まってた男を、養子にもらう。そして、いずれは父のあとを継ぐ……たとえハリケーンの方向は変えられても、あの人生は変えようがないだろうなあ」
「…………」
「俺もメキシコ系だけに、それは痛いほどわかった」
「悲劇ね」
「いや」
リカルドは、明るく微笑いながら、
「それならそれで、いいと思った」
「ふうん」
「結婚イコール幸福じゃない。……たぶん、それがわかる年齢《とし》になってたんだろうなあ」
リカルドは、表通りをさして、
「見てみろ。夫婦がみんな幸せなんてのは、道を歩いてるスペイン人をさして闘牛士だっていうようなものだ」
あたしも、つられて笑う。
「とにかく、ロシータがU・C・L・Aにいるあと1年半、幸せなら、それでいいと思ったよ」
「で? 幸せだった?」
「もちろん」
リカルドは、少しだけ、テレる。
「卒業の翌日、ポキッと枝が折れるみたいに、彼女は俺の前からいなくなった。メキシコに帰ったんだろう」
「…………」
「それはそれでいい。覚悟してたからね。でも」
「でも?」
「一つだけ……一つだけ、はたさなくちゃならない約束がある」
「約束?」
「そう。彼女の結婚パーティーで、俺が唄うっていうね」
「…………」
「彼女は、ロシータは、俺の歌が好きだった。だから、これだけは絶対に破れない約束だ」
ジンジャエールのグラスを、リカルドは握りしめる。
「いっしょにメキシコにいって、彼女の結婚パーティーで演奏してほしいわけ?」
リカルドは、うなずいた。
「俺の仲間のバンドマンは、みんな密入国者だ。何千ドルつんでも、国境はこえたがらないだろう」
「なるほどね」
それなら、たいして難しい話じゃない。
が、
「リカルド」
カウンターの中でグラスを磨いてたパブロが、
「もうひとつだけ、いい忘れてることがあるんじゃないか」
いやにはっきりと、いった。
「ひとをダマすのは、よくないよ」
とパブロ。
「……そうだな」
リカルドは、握りしめたグラスを見つめて、5秒……10秒……。やがて、
「国境線を一歩こえたら……俺は、おたずね者だってことだ」
「おたずね者!?」
海からの風が、ペーバー・ナプキンを揺らして吹いた。
決心したらしく、リカルドは話しはじめた。
「ロシータがメキシコに帰って1ヵ月目。彼女の誕生日だった。俺は、国境をこえた」
「…………」
「別れの言葉も、いわずじまいだったからね」
「そして?」
「彼女の家は、ラミレス家は、ティファナの郊外にあった。丘の上にある。大きな屋敷だ。が、どうやら俺と彼女のことが感づかれてたのか、警戒が、いやに厳重なんだ」
「…………」
「屋敷の用心棒はもちろん、警官もウロウロしてた」
「警官?」
「そう。ラミレス家といや、あのあたりじゃ大統領よりも力があるからな」
「で?」
「だが、広い屋敷だ。俺は、うまくもぐり込んだよ。月の明るい夜だった」
「…………」
「彼女の部屋のベランダに登ろうとしたとき、1人のポリ公に見つかっちまった」
2缶目のBUDを、あたしは飲み干す。
「つかみ合いになった。俺は、ナイフで、やつの脚を刺した。そして、殴り倒して逃げた」
「…………」
「そのポリ公ってのが、ティファナの警察署長だった。後でわかったことだがね」
あたしは、SALEMをくわえて火をつけた。
「不名誉な話さ。警察署長が殴り倒されて、犯人に逃げられたとあっちゃ」
「そうでしょうね」
「以来、そのフェルナンドって署長は、リカルドを目のカタキにしてるってわけだ」
パブロが、つけ加える。
「3日後の結婚式にゃ、たぶん、手ぐすねひいて待ってるだろう。リカルドが、国境をこえてくるのをな」
「けど、いくらなんでも、そんな日に俺がのこのこと出ていくとは思わないだろう」
「いや」
とパブロ。
「フェルナンドってのは、ウワサによると、蛇みたいにしつこいやつらしい。歓迎の準備は、ぬかりないと思うぜ」
煙草《たばこ》の煙が、風に流れていく。
「で、あんたの気持ちは?」
「……正直いって、せめてもう一度、一度だけでも、ロシータに会いたい。約束どおり、彼女の前で唄ってやりたい……」
それで心の空白に、ピリオドが打てるってわけか……。
「だが、そんなわけで、いっしょにいってくれるバンドなんて、いるわけもないし」
そのとき、
「ここにいる」
店の入口で声がした。
ビリー、チャック、アキラの3人が、入口に立っていた。
ビリーとチャックは、片手にギター・ケース。
「話は、全部きいたよ」
ビリーは、ケースから七弦ギターを出す。肩にかけて、ステージに上がる。一発|演《や》るつもりらしい。
アキラも、ピアノの前に坐る。
チャックが、ベースのコードをアンプにつなぐ。
あたしも、ニヤリと微笑うと、スティックを抜いた。ドラムスの前に坐る。
前ぶれもなしに、ビリーが弾きはじめた。
〈シンシアのテーマ〉だ。
全員、演奏になだれ込む。
何回演っても、いい曲だ。
あっという間に、エンディングがやってくる。
ビリーは、最後に1コーラスを、くり返した。
アンプからの、残響が消えていく。
ステージからおりながら、ビリーがいった。
「このバンドでよかったら、いつでもつき合う」
「できた」
リカルドが、店に入ってきた。
翌日の午後。〈クラブ闘牛士《エル・マタドール》〉。
あたしたちは、ガランとした店でビールを飲んでた。
「詞ができたよ」
とリカルド。
きのう聴いた〈シンシアのテーマ〉に、一発で惚れたらしい。
ひと晩がかりで、詞をつけてきたんだろう。
「OK、やろう」
みんな、楽器のスタンバイをする。
|1《ワン》、|2《ツー》、|3《スリー》、|4《フオー》、イントロ……。
リカルドは、唄い出す。
〈まだ覚えているだろうか
あの街角のバーガー・スタンド
マスタードはつけないでといった
君の笑顔
故障ばかりしていた
俺のシボレー
ダウン・タウンの午後を
濡《ぬ》らしていく|通り雨《シヤワー》
どんなレコードにも
必ず終わりがくるように
45回転で駆け抜けたふたりの時間から
いま針を上げよう
二度とは帰らないあの日々に
ロング・ロング・グッドバイ〉
|2《ツー》コーラスへ。
1年半の思い出を、リカルドはカラッと乾いたトーンで唄っていく。
そして、
〈……ロング・ロング・グッドバイ……〉
さりげないエンディング……。
「悪く、ないね」
アキラが、ボソッといった。
「恋は、メキシカンでさえ詩人にする、か」
とビリー。
みんなの白い歯が、光った。
「バカでっかいクルマ、借りたものね」
あたしはいった。
ダッヂのコンバーチブル。5人乗っても、まだまだ余裕がある。
新車みたいだ。
メタリックの部分に、南カリフォルニアの透明な陽射しが反射してる。
助手席のチャックが、カーラジオのチューニングを合わせる。
早口のスペイン語。陽気なマリアッチ。
1マイル走るごとに、ラジオの音が大きくなる。
国境に近づいていた。
さすがに、広い。
スペイン風の白い塀が、どこまでもつづいている。
ラミレスの屋敷は、アロハ・スタジアムよりも広そうだ。
夜中の2時。
あたしは、ひとりでクルマのハンドルを握ってた。
偵察だ。屋敷のまわりを、ゆっくりと2周。
戻ろうとしたとき、尾行されはじめたのに気づいた。
バック・ミラーの中。ヘッドライトが、細かく揺れている。
スピードを上げてみる。落としてみる。
けど、ヘッド・ライトは、ピタリと同じ間隔でついてくる。
きたか……。
ティファナの街へ。昼間は、観光客でごったがえす街も、ひどくガランとしてる。
消火栓によりかかった酔っぱらいが1人……。
信号ストップ。
バック・ミラーを、しっかりと見る。相手が1人なのを確認する。
ティファナの中心部を通り抜ける。
泊ってるモーテル〈エル・トリート〉へ。
自分の部屋の前に、クルマを駐《と》める。
駐車場に入ってくる尾行車は無視。部屋に入った。
2、3分後、ドアにノック。
チェーンをかけたまま、ドアを開ける。
「|こんばんは《ヴエノス・ノーチエス》、|お嬢さん《ボニータ》。警察です」
すき間から、警察手帳が見える。
「ちょっといいですか」
ドア・チェーンをはずす。
でっぷりと太った制服のポリ公が、入ってきた。
軽く、左脚をひきずっている。
濃い口ヒゲ。丸いけど鋭い目が、部屋を見回す。
案のじょう、拳銃を抜きながら、やつはいった。
「リカルドはどこだ」
「罪もない観光客にピストルを向けたら、タダじゃすまないわよ」
やつは、ニヤニヤと微笑う。
左手で、ポケットから何か出す。あたしに向かって放った。
片手でキャッチ。小さなビニール袋に入った、まっ白い粉だった。
どうやら、小麦粉や砂糖じゃないみたいだ。
「罪もない観光客が、なぜ、そんなものを持ってる」
やつは、またニヤリと微笑って、
「というわけで、この場でしょっ引くこともできる。抵抗したら、残念だが、射殺することもできる」
銃口を、あたしのバストに向けた。
「さて、リカルドはどこだ」
「リカルドなんて、きいたこともないわ」
「……やれやれ」
やつは、胸のバッジを、左手ではずす。ハーッと息を吹きかける。制服の胸でこする。ひとの前に突き出しながら、
「銀だ」
といった。
「純銀だ」
口をとがらせて、
「特別製だ。署長だからな」
鼻の穴をふくらませる。
「それを……あのリカルドの野郎が……」
相手との距離を、あたしは目で測る……。
手でおもちゃにしてたビニール袋を、ポロッと落とした。
やつが、一瞬、気をとられた。
右手を後ろに! やつの死角で、スティックを引き抜いた。
拳銃を、下からビシッと叩き上げる!
拳銃が、宙に! 左手で、サッとつかむ!
ほんの一瞬のできごとだった。
やつは、茫然と、自分の手を見る。あたしは、拳銃を右手に持ちかえた。
38口径のリヴォルバーだ。
銃口を、ぶよぶよと太った腹に向ける。
「へタなまねはしないことね。腹を撃たれて死ぬのは、ひどく苦しいらしいから。手錠!」
腰の革ケースから、手錠を出させる。
「もしかして、これも純銀?」
やつの後ろに回る。後ろ手に、手錠をかける。
銃口で小突いて、イスに坐らせる。
丸っこい目が、ズルがしこそうに光る。
「なあ、ものは相談だが」
「いいわよ」
「……1000ドルでどうだ」
「1000ドル?」
「そう、1000ドルで、やつを売らんか」
「安いのねェ」
「そんなことあるものか。1000ドルあったら、女が何十回買えると思ってるんだ」
「警察署長らしくない、いいぐさね」
「そうだ……署長なんだ……」
やつは、急にシンミリとなって、
「30年かかった……」
「…………」
「小学校しか出てない人間が、署長のイスに坐るまでに、30年だよ。……長かった……」
やれやれ。おどし。買収。つぎは、泣き落としか。
その間も、やつの目は、抜けめなく動き回る。
あたしが居眠りでもすると、ヤバい。
洗濯ロープを出す。やつの体を、ぐるぐるとイスに縛りつける。
やっと観念したらしい。おとなしくなった。
窓の外が明るくなってきた。
あたしは、洗面所で顔を洗う。
出発のしたくを、はじめる。
「なあ」
と署長。
「何?」
「ひとつだけ、きいていいか」
真顔だ。
「何?」
「なぜ、リカルドはやってきた」
「…………」
「危険をおかして……結婚しちまう女のところへ」
やつは、頭を振りながら、
「わざわざ、国境をこえて、やってきた……」
「……約束よ」
やつのドロンとした眼が、あたしを見上げた。
「ロシータとの約束を、はたすためよ」
「約束か……」
やつは、口の中でブツブツいう。
「あんたにとっちゃ、宇宙人みたいなもんでしょうね」
あたしは、ニッと微笑いながら、
「ただ一曲を唄うために、国境をこえてくる人間なんてね」
バス・タオルを縦に裂く。
それで、やつにサルグツワをかませる。
「ごゆっくり、署長さん」
投げキッス一発。部屋を出る。
モーテルのオフィスに。病人が寝てるから、午後3時まで起こさないで。そう頼んで、超過料金を払う。
結婚式は10時頃終わり、すぐにパーティーがはじまる。
署長のフェルナンドが自由になる頃には、あたしたちは、もう、国境線のはるかかなただ。
クルマのところに、みんな揃《そろ》っていた。
「どうした、ミッキー。眼が、はれぼったいぞ」
とビリー。
「ひと晩中、署長さんとつき合っちゃってね」
「署長?」
「わけは後で説明するから、ほら」
クルマに、ギター・ケースやなんかを積み込む。
大きなアクビをしながら、あたしはコンバーチブルのドアをまたいだ。
10時半。
屋敷の裏口にクルマを駐める。
用心棒らしいのが1人、突っ立ってる。
いつでも殴り倒せるように、スティックを右手に持って、歩いていく。
あたしたちのギター・ケースやなんかを見て、
「バンドか」
「そうよ」
「そのケースを開けてみろ」
ビリーとチャックが、ギター・ケースを開けてみせる。
「よし。ステージは、プール・サイドだ」
鉄の扉を開けてくれる。
どうせ、夜までつづくパーティーだ。何バンドも入るんだろう。
ゆるい坂道を登っていく。軽快なマリアッチがきこえてくる。
プール・サイドに出た。もうパーティーがはじまってる。
着飾ったメキシコ人。ちらほら、白人。
ステージじゃ、いかにもメキシコらしいマリアッチ・バンドが演ってる。
大きなプールの向こう側。横長のテーブル席。
まん中に、花嫁と花婿。
ロシータの表情には、まだ美少女の面影が残っている。
ときどき、きつく結ぶ唇。芯《しん》は、かなり強そうだ。
彼女は、まだリカルドに気づかない。
20分ぐらいで、マリアッチが終わった。
知らん顔で、あたしたちはステージに上がる。リカルドは、まだアンプの陰だ。
〈エンドレス・ラヴ〉からはじまって、ラヴ・ソングを4、5曲。
インストロメンタルで演る。
そして、イントロ。
リカルドが、ゆっくりとステージに上がる。
唄いはじめる。
〈まだ覚えているだろうか
あの街角のバーガー・スタンド
マスタードはつけないでといった
君の笑顔……〉
プール・サイドは、にぎやかだ。誰も、歌なんか聴いてない。ただひとりをのぞいて。
ロシータは、気づいた。
黒い瞳《ひとみ》が、遠くから、じっとリカルドを見つめている。
〈故障ばかりしていた
俺のシボレー
ダウン・タウンの午後を
濡らしていく|通り雨《シヤワー》
どんなレコードにも
必ず終わりがくるように
45回転で駆け抜けたふたりの時間から
いま針を上げよう
二度とは帰らないあの日々に
ロング・ロング・グッドバイ〉
間奏。
ビリーのギター・ソロが、流れはじめる……。
プール・サイドの、誰も気づかない。
けど、リカルドとロシータの視線は、ピンと一直線につながっている。
誰かが、ロシータの前にワイン・グラスをさし出した。が、彼女は気づかない。
彫りの深い鼻筋。キッと結んだ形のいい唇。黒い瞳。長いまつげ。
その胸の中に、どんな思い出がプレイ・バックされているのか……。あたしには、わからない。
ビリーのギターが、ぐんぐん昇りつめていく。
!!
思わず、ハイハットを叩く手もとが、狂うところだった。バス・ドラは、一発ミスした。
パーティーの人ごみの外。あの署長が立ってる! まわりには、5、6人の警官!
いま、11時半。
何か手ちがいが起きた! ヘマをやらかしたのかもしれない!
手のひらに、汗がにじむ。わきの下にも……。
ギター・ソロが終わる。
2コーラスへ。
〈まだ覚えているかい
あの街角のテレフォン・ボックス
|10セント玉《ダイム》ひとつが見つからなくて
ふたりで道路をさがしたね〉
リカルドは淡々と唄う。けど、聴く人には、ハートがこもっているのがわかるだろう。
〈君のつくるサニーサイド・アップは
いつも黒こげ
たそがれのマリナ・デル・レイで
ながめたL・Aサンセット
どんなレコードにも
必ず終わりがくるように……〉
ロシータの黒い瞳が、リカルドを見つめている。
ウエディング・ドレスの白。ブーゲンビリアの赤……。
プールの青い水に、陽射しがまぶしく反射している。
〈……二度とは帰らないあの日々に
ロング・ロング・グッドバイ
二度とは帰らないあの日々に
ロング・ロング・グッドバイ……〉
曲が、静かに終わる。
シンバルでロールして、しめくくる。
ビリーとチャックは、アンプからジャックを引き抜く。
ギターを、ケースにしまう。
ステージをおりたリカルドに、メキシカンの使用人が、
「あの……お嬢さまが、あの歌を大変気に入られて、ぜひこれを、と」
白い花束を渡した。
ステファノティスの花。コサージュみたいだ。
リカルドは、黙ってうけとる。
あたしたちは、ゆっくりと裏口へ。
署長のフェルナンドと、警官たちが待ちかまえている。
リカルドは、署長と向かい合った。
「彼女の前で手錠をかけなかったのが、せめてもの気持ちかい」
「なんだと!?」
署長は、怒ったように、
「わけのわからんことをいって。このバンド屋が。仕事が終わったんなら、とっとと帰れ。こっちは忙しいんだ」
あたしたちに、背を向ける。部下をひき連れて歩いていく。
プール・サイドの方から、陽気な歓声が上がった。
国境の検問所《ゲート》が、ぐんぐん小さくなっていく。
ルート5を北へ。
乾いた風に、ポニー・テールがなびく。
「そういえば、きょうのギャラを、もらいそこねたなァ」
ティファナで買ったタコスをかじりながら、ビリーがいった。
みんな、笑った。
グリーンに白の行先案内板《サイン・ボード》。LOS ANGELESの文字が、頭の上を通り過ぎていく。いよいよ……。
鼻先で香りをかいでいたコサージュを、リカルドはポーンと放り上げた。
南カリフォルニアの青空に、白い小さな花が散っていく。
[#改ページ]
第6話 イエスタディズは通り雨
「見ろよ」
ビリーが、指さした。
あたしたちが走ってる、サンセットBLVD《ブルヴアード》のかなた。
巨大な看板《ビル・ボード》が、カリフォルニアの夕陽を照り返している。
M《マイケル》・ジャクソンのビル・ボードだ。
パッチリとした瞳《ひとみ》が、あたしたちに微笑《わら》いかけている。
ビル・ボードは、ゆっくりと頭の上を過ぎていく。
首を回す。
「1年後のいま頃《ごろ》は」
とチャック。
「あの、ビル・ボードで微笑ってるのは、おれたちだな」
「もう、そのあたりだ」
ハンドルを握ってるリカルドが、つぶやいた。
ここに住んでたリカルド以外、|L・A《ロス》は、はじめてだ。
「あれだ」
右側に、〈CAFE SUNSET GARDEN〉の文字が見えた。
ガラスばりの店。
店の前に、ダッヂのコンバーチブルを駐《と》める。
あたしは、ドアをまたいで歩道におりた。
「あ、あーッ」
思いきり、背のびをする。
国境の南、ティファナから3、4時間。
ルート5を、走りっぱなしだった。
リカルドが、太い腕でクラクションを鳴らす。
しばらくして、ドアが開いた。
アントニオが、出てきた。両手を広げて、こっちに歩いてくる。
「スーパー・バンドの諸君。ようこそ、ロス・アンゼルスヘ!」
大げさな動作で、あたしを抱きしめた。
男性用コロンが、プンと匂《にお》った。
「わかった、わかった」
あたしは、アントニオの腕をほどく。
リカルドを紹介する。
ふたりは、握手。アントニオは、何か早口のスペイン語でジョークをいう。
リカルドの肩を叩《たた》く。
陽気な笑い声が、サンセットBLVD《ブルヴアード》に響いた。
「それにしても」
とチャック。
ニヤニヤ微笑いながら、アントニオのまわりをまわる。
「いつの間に、アメリカン・ジゴロになった」
みんなで、アントニオのスタイルをながめた。
「ちょっとしたもんだろう」
とアントニオ。
「ああ。かなりのもんだ」
とビリー。
やっぱり、ニヤニヤ微笑《わら》っている。
あたしも、ツマ先から頭のてっぺんまで、アントニオの姿をながめる。
これでも、ハワイを出発したときよりは、マシになったんだろうか。
まっ白いスリー・ピース。
細かい水玉のシャツ。
ライト・ブルーのタイ。
靴まで、まっ白だ。
「まぶしくて、眼がつぶれそうだぜ」
とチャック。
アントニオは、クルリと一回転。ポーズを決めてみせる。ひとこと、
「トラボルタも、裸足《はだし》で逃げる」
「あのなあ」
とビリー。
「最近のトラボルタは、もう、そんなカッコしないんだ」
「とにかく、全身で975ドルだ」
アキラが、口笛を吹いた。
「心配になってきた。おれたちの晩メシは、だいじょうぶなんだろうな」
「その革靴は、ステーキにゃ硬そうだし」
「ま、とにかく」
とリカルド。
「レストランの駐車係ぐらいには、見えるよ」
〈サンセット77〉のテーマ・ソングを口ずさみながら、アントニオにクルマのキーを放った。
キーが、ロスの夕陽に光った。
ブーン……。
残響が、消えていく。
「OK!」
ヘッド・ホーンの中で、ミキサーの声が響いた。
「一度、プレイ・バックしてみよう」
ガラスの向こう側。
アントニオが、手であたしたちを呼んでる。
午後1時。
ビバリーBLVDにある貸しスタジオ。
あたしたちは、デモ・テープを録音していた。
あたしは、ヘッド・フォンをはずす。フロア・タムの上に置いた。
立ち上がりながら、スティックを、ヒップ・ポケットにさす。
ぞろぞろと、ミキシング・ルームに。
「ほら、お疲れ」
アントニオが、冷えたCOORSをみんなにくばる。
思い思いに、足を投げ出す。
缶ビールのプル・トップを開けながら、スピーカーからの音をきく。
〈ロング・ロング・グッドバイ〉が、流れはじめる。
〈君のつくるサニーサイド・アップは
いつも黒こげ……〉
プレイ・バックに合わせて、リカルドが、低く口ずさむ。
|2《ツー》コーラスが終わる。
間奏。
「ん?」
口ヒゲのミキサーが、軽く首をひねった。
ギターが、昇りつめていく。
ミキサーが、一度、テープをとめた。プレイ・バックしなおす。
間奏を、ききなおす。
ミキサーは、じっと、耳をかたむける。
間奏が終わったところで、またテープをとめた。
「ちょっと、あんたのギターを見せてくれないか」
ビリーにいった。
「いいよ」
COORS片手に、スタジオに。
「そうか……」
ビリーの七弦ギターを手に、ミキサーはつぶやいた。
「何か問題か」
心配そうな顔で、アントニオがのぞき込む。
「いや。問題というほどじゃないが」
ミキサーは、
「ここのマザー・テープならいいんだが」
16チャンネルのミキシング・マシンをさして、
「もし、売り込み用に、カセット・テープに入れるとなると……」
しばらく考えて、
「この、どえらい高音が、ひずむかもしれない」
といった。
「そんなことか」
アントニオは、ミキサーの肩を叩くと、
「心配しなさんな」
ちょっと自慢そうに、
「何十本も、カセットのデモ・テープを、あちこちにバラまくようなバンドとは、バンドがちがう。マザー1本で充分だ」
「そうか。なら、問題ない。それと」
ドラム・セットに歩いていく。
マイクを、調整する。
「ちょっと叩いてくれないか」
あたしは、スタンバイする。
ミキサーは、ミキシング・ルームに。
「バス・ドラを、たのむ」
「OK」
ペダルを、あたしは、ふんだ。
タン! タン!
乾いた音が、スタジオに響く。
「OK。じゃ、シンバル」
叩く。
「OK。じゃあ、スネア」
4、5発、ひっぱたく。
「しばらく、叩きつづけてくれないか」
「わかったわ」
左を、マッチド・グリップに。ベーシックな16ビートを叩く。
ガラスの向こう。
ミキサーが、助手と2人で相談してる。
「OK。サンキュー」
こっちに入ってくる。
マイクをこまごまと調整しはじめた。
「おれも、かなり長いことミキサーをしてきたが、これほどアタックの鋭いドラミングも、ひさびさだよ」
前面のヘッドをとっぱらったバス・ドラに、手を突っ込んでマイクをいじりながら、
「昔、一つだけ、そんなバンドと、出会ったことがある」
「なんてバンド?」
「シカゴさ」
テイク|2《ツー》。
間奏のブレイクで、スネアのヘッドを破った。
「REMO《レモ》の最高級を、3、4枚用意しといて」
シンバルの音をひろうマイクに、あたしは微笑いながらいった。
「ミッキー」
ミキシング・ルームから、アントニオの渋い声。
「心配することないわ、アントニオ。あんたのシャツ1枚よりは、安いわよ」
みんな、ニヤニヤ微笑う。
「おい、ミッキー。いまきいたら、そのシンバルは、ZILDJIAN《ジルジヤン》の最高級品だ。頼むから、ブチ割ったりしないでくれ」
「気をつけてはみるけどね」
テイク3《スリー》。
とちゅうで、ピアノの音が消えた。
ストップ。
「ん? どうした」
とミキサー。
鍵盤《けんばん》にかがみ込んだアキラが、
「のキーが、ぶっこわれたらしい」
貸しスタジオの楽器は、くたびれていることも多い。
「この電気ピアノは、タッチがヤワすぎる」
アキラの力強いタッチには、不足らしい。
「もう少しマシなやつはないか」
「わかった。ほかのスタジオを、さがしてみよう」
ミキサーが立ち上がる。
「やれやれ。今夜のメシは、フライド・ポテトだなあ」
とアントニオ。
「975ドルが、ケチなこというなよ」
チャックのまっ黒い顔から、白い歯がのぞく。
みんなの笑い声。
それでも、テイク4《フオー》からは、順調にいった。
ミックス・ダウン。
録音したそれぞれのパートの、音質を調整する。
音量のバランスも、決めていく。
緊張した指先が、ミキシング・ボードの上を走る。
午後6時。
やっと、全部がOKになった。
「お疲れ」
楽器ケースを下げて、あたしたちはスタジオを出ていく。
「…………」
坐《すわ》りっぱなしのミキサーは、宙をながめたまま、軽く手を振った。
ほとんど、放心状態。
ふり返る気力も、残ってないみたいだ。
たそがれのラ・ブレアAVE《アヴエニユー》。
あたしたちは、のんびりと北へ歩いていた。
汗ばんだ肌に、ひんやりと乾いた風。
「あ」
ギター・ケースを下げたビリーが、空を指さした。
空は、淡いブルーから濃いブルーへ。
下から上へ、きれいなグラデーションになっている。
風に揺れるパーム・ツリーのかなた。
GOOD YEARの飛行船が、東から西へ動いていく。
銀色の船体が、きょう最後の陽射《ひざ》しに、輝いている。
「ロスだなあ」
チャックが、つぶやいた。
みんな、空を見上げる。西の空へ消えていく飛行船をながめる。
ふいに、クラクションが鳴った。
「ミッキー!」
叫び声がする。
あたしは、通りを見回した。
オフ・ホワイトの、ワーゲンBEATLE《ビートル》がいた。
窓から、手が振られている。
淡い夕陽に、逆光だ。
「ミッキー!」
また、叫び声。
眼をこらす。
まん中分けの長い髪。切れ長の、澄んだ目……。
「スヌ! もしかして、スヌ……」
いったときには、もう駆け出していた。
「ミッキー!」
BEATLEのドアが、勢いよく開く。
スヌが、飛び出してきた。
抱き合う。
しっかりと、抱き合う。
しばらくは、言葉が出ない。
鋭いクラクション。
BEATLEは、はじに寄せてない。道路のまん中。ドアも、開けっぱなし。
すぐ後ろ。キャット・フードの配達トラックが、クラクションを鳴らしてる。
大きなトラックに描かれた猫の顔も、夕陽をあびて怒ってるみたいに見える。
けど、運転席のおっさんは、すぐにあきらめた。
少しバック。回り込んで走り去る。
「ミッキー……顔を見せてよ」
「スヌこそ」
まだ、4、5ヵ月しかたっていないだろう。
最後に〈グッド・ラック〉をいったのは、たしか水曜日。
オアフ島の空が、よく晴れた水曜日の朝。
感化院《ガールズ・ホーム》の庭だった。
スー・朝美・サントス。
感化院《ガールズ・ホーム》でのニック・ネームは〈スヌーピー〉。略せば〈スヌ〉。
感化院《ホーム》では、みんなニック・ネームで呼ばれていた。
それが、ならわしになっていた。
教官たちの言葉でいう、〈更生〉。つまり、出ていったときのためらしい。
まあ、大人の刑務所みたいに、番号で呼ばれるよりは、マシだろう。
感化院《ホーム》に入ってる娘《こ》たちは、二種類に分かれていた。
売春でブチ込まれた娘《こ》たち。いわゆる軟派。
この娘《こ》たちは、たいてい女のニック・ネームで呼ばれていた。
もう一種類。
あたしみたいに傷害とか、いろんな暴力。それに、大麻《パカロロ》とかの麻薬。これは、まとめて硬派。
たいてい、男のニック・ネームで呼ばれていた。
しかも、ニック・ネームは、漫画からとったのが多い。
あたしは、未記子だから〈ミッキー〉。
彼女は、スーだから〈スヌーピー〉。
単純なものだ。
スーも、チャイニーズ、ジャパニーズ、ハワイアン、白人《ホワイト》、いろいろまざったチョプスイ・ガールだ。
けど、あたしが、まず日系ロコに見えるのに対して、スヌは、やっぱりチャイナ系ロコに見えた。
ブチ込まれた頃も、同じだった。
同じ東洋系だった。
あたしたちは、仲が良かった。
どっちかがリンチにあいそうになると、二人して闘った。
そしてスヌは、あたしより2ヵ月早く、感化院《ホーム》を出ていった。
みんなに、スヌを紹介する。
「やあ」
「どうも」
ビリーだけは、
「知ってるよ」
ニッと微笑った。
そうか……。
スヌは、あたしと、ほとんど同じ年齢《とし》。15か、16。ビリーは、|20歳《はたち》と少し。
でも、同じチャイニーズ系。仕事も、同じ。
スヌは、大麻《パカロロ》の売買で、ブチ込まれたのだ。
ホノルルのダウン・タウンで、スレちがったこともあったんだろう。
「じゃ、おれたちは」
「豪華なフライド・ポテトを食いにいくから」
「ごゆっくり」
「わかったわ。またあとで」
みんなは手を振って、クルマを駐めた方に歩いていく。
スヌは、BEATLEを、道路の端に駐めた。
あたしたちは、並んでボンネットによりかかった。
「でも、ビックリしたわ」
スヌは、アロハのポケットから、SALEMを出した。さし出す。
あたしは、1本くわえると火をつけた。
「おたがいさまよ」
「ミッキーが感化院《ホーム》を出た2週間ぐらい後かなァ。ロスにいるって、手紙を書いたのよ」
「…………」
「でも、受取人不明で、戻ってきたわ」
あたしは、SALEMの煙を、ゆっくりと吐いた。
「家は、ね……没収されちゃったの」
「そうだったの……」
眼の前の家。
鮮やかな芝生のグリーンが、たそがれの逆光に、光る。
一瞬、あたしは思い出していた。
〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉のあった、あの小さな家。
ドラムスの練習でヘコミのできた、木の手すり……。
眼の前を、ローラー・スケートの子供たちが、シャーと通った。
われに返る。
「どうして、ロスにきたの」
スヌが、きいた。
「話せば、長くなるわ」
「どのぐらい?」
「全部話し終わる頃には、おばあちゃんになっちゃうわ」
「いいわよ。時間は、たっぷりあるし」
あたしとスヌは、BEATLEに乗り込んだ。
たそがれのラ・ブレアを北に走りながら、ぼんやりと思った。
何ごとにも敏捷《びんしよう》で、気が短かったあたし。
どことなく、トロいところのあったスヌ。
ミッキー・マウスと、スヌーピー。
うまいネーミングだったかもしれない。
フォンフォンフォン!
サイレンを響かせて、パトカーが東へ走っていく。
すっかり陽の落ちた、サンタモニカBLVD。
フェアファックスAVE《アヴエニユー》とぶつかるあたり。
道路に面した駐車スペースに、スヌはBEATLEを駐めていた。
「そうだったの。やっぱり、バンドを組んで……」
あたしが、ほとんど話し終わる頃、若い男が、クルマに近づいてきた。
白人。Tシャツに、ジーンズ。
サイド・ミラーに、プラスチック製のスヌーピーが、ぶら下げてある。
男は、それを、チョンと突ついた。
運転席のスヌに、
「……左ききのバズにきいてきたんだが」
「バズ?」
「そうだ」
男は、運転席をのぞき込むように、
「大麻《グラース》を少し、分けてくれないか」
どうやら、サイド・ミラーのスヌーピーが、看板がわりらしい。
「グラース?」
「そうだ。グラースだ」
「なんのこと? あんたの話が、まるで見えないわ」
スヌは、男の顔を見上げる。
「金は、ある」
男は、ジーンズのポケットに手を突っ込む。丸めた10ドル札の束を、ひっぱり出した。
「グラースだ、お金だって、いったいなんの話。こっちは、あしたのテストのことを話してるのに」
とスヌ。
「あっちいってよ。変な人ねェ」
「……そうか……」
男は、あきらめた顔。
ドル札を、ポケットにねじ込む。ゆっくりと歩いていく。
「あれは、ダメ。私服のおまわりよ」
とスヌ。
SALEMを、くわえた。
「スヌ……まだ、同じ仕事してるの」
スヌは、足でカー・ラジオのスイッチを入れた。
〈南カリフォルニア地方。あしたの天気は、晴れのち……〉
ぽつりと、つぶやくように、
「なんの身よりもない家出娘《ランナウエイ・ガール》にできることは、それほど多くないわ」
明るく、
「でも、心配しないで」
煙を吐きながら、
「いま、このクルマにだって、ヤバいものはなーんにも積んでないから。クルマをバラバラにしても」
ニコリと笑うと、
「|紙巻き《ステイツク》一本、出てこないわ」
「そう……今度は、つかまらないようにね」
「ありがとう。でも、最近は」
スヌは、ため息まじりに、
「レーガンになってから、取り締まりも厳しくなるし……イタ公の連中が」
「イタ公?」
「そう。イタリー系移民の若いのがタチが悪くて。ナワバリを荒らすのよね」
「ふうん」
「失業率も、高いからねェ……」
「それはそうと、何か食べにいかない」
「いいわね。チャイナ・タウンでもいって」
スヌが、ふいに言葉を切った。
「ウワサをすれば、きたみたいよ」
「何が」
「イタ公」
3、4人の人影が、駐車場に入ってくる。
暗くて、あまりよく見えない。
男だ。近づいてくる。
ゆっくりと、クルマのまわりを囲む。
「おい、何か臭わないか」
1人がいった。
「臭うなあ」
「何の臭いだ。こりゃ」
「ニンニクの臭いじゃねェかな」
「クセえなあ」
「もしかしたら、チャイニーズがウロウロしてるのかもな」
挑発してくる……。
「ミッキー」
スヌが小声で、
「うん?」
「フォーメーション番号《サイン》、覚えてる?」
「だいたいね」
〈フォーメーション番号《サイン》〉ってのは、組んでケンカしなけりゃならないときの、暗号だ。
感化院《ホーム》の中で、あたしたち東洋系は少数派だった。
いつも、大勢を相手に、やり合わなきゃならなかった。
どうしても、奇襲攻撃で、先手をとるしかない。
そのための作戦を、いくつも考えた。
それぞれの作戦に、番号《サイン》をつけた。
アメリカン・フットボールの攻撃《オフエンス》を、マネしたわけだ。
「0755」
スヌが、小さくいった。
「……了解」
あたしは、ヒップ・ポケットに手をのばす。
スティックを、引き抜く。
スヌのヒップ・ポケットにさした。
ゆっくりと、ドアを開ける。
スヌの、すぐ後ろ。
アロハ・シャツのスソをつかむようにして、出ていく。
おびえた娘《こ》が、もう1人の後ろにかくれるようなかっこうだ。
実際、知らなければ、そう見えるだろう。
スヌのヒップ・ポケットにさしたスティックも、2人の間で、まわりからは見えにくい。
「ほう。おじょうちゃんが、今夜は2人かい」
スヌの前。
立ちはだかったイタ公は、かなりでかい。
オリーブ・オイルでいためたマカロニみたいに、油ぎった顔。
太い腕。刺青《いれずみ》らしいのが、チラッと見えた。
「女は女らしく、売春でもしてりゃいいものを」
まわりが、ゲラゲラ笑う。
「あんたたちこそ、オカマで稼ぐのがお似合いよ」
「いうじゃねえか。このニンニク娘が! ハワイでも、中国でも、とっとと帰れ!」
「よけいなお世話よ」
スヌは、両手を腰に。
「あんたこそ、イタリーに帰るのね。といっても、できることといえばゴンドラ漕《こ》ぎと、間男ぐらいのものでしょうけど」
「なんだとォ!」
マカロニ野郎が、1歩、つめてきた。
スヌが、素手なんで、横っ面を張ろうとした。
いまだ!
あたしはもう、スヌのヒップから、スティックを引き抜いていた。
太い腕が、ブンッとふり回される!
瞬間、スヌは体を沈める!
スヌの顔のかわりに、あたしのスティックが待っていた。
右手!
トップ・シンバルを叩くフォーム!
七、八分の力だ。
スナップだけで、ひっぱたく。
ビシッ!
いい音がした。けど、骨折するほどの手ごたえじゃない。
それでも、
「ウッ」
うめき声。
その急所を、スヌがヒザで蹴《け》り上げた。
「!!」
声にならない。
やつは、地べたにくずれ落ちる。
あたしはもう、左のスティックも引き抜いていた。
ふり向きざま!
殴りかかってきたやつの右フックを、左スティックでひっぱたく!
握りこぶしを、もろに叩いた。
「ギャッ!」
やつは叫んで体を折る。指の2、3本は、骨折したかもしれない。
スヌが、蹴りをくらうのが見えた。
スヌの体は、あたしより細い。
腰を蹴られて、クルマのドアにぶつかる。
そこに、殴りかかろうとする!
バック・スウィングしたその右腕を、上からひっぱたいた。
スネアでも叩くようなフォーム。
「!!」
うめき声。
やつの髪を、スヌがつかんだ。そのまま、ボンネットに叩きつける!
額をぶつける音!
やつは、跳《は》ね返る。そのまま地面に転がった。
「だいじょうぶ!? スヌ」
「うん。なんとか」
スヌは、肩で息をしてる。
駐車場には、イタ公が3人、転がっている。
「もう1人いたはずだけど」
「逃げたんじゃない」
「しかし、さすがワーゲン」
スヌは、ポンネットをボンと叩くと、
「じょうぶなものね」
「パトカーでもくると、めんどうよ」
「OK。退散!」
クルマに飛び込む。
エンジンをかける。
道路へ。
BEATLEのかん高いエンジン音が、サンタモニカBLVDに響く。
「ミッキー、あんたも、変わらないわね」
「おたがいさまよ」
笑い声が、風にちぎれて飛んでいく。
「ホントかい!?」
ビリーが、すっとんきょうな声を上げた。
持ってたコーヒー・カップを、落としそうになる。
「信じられんなあ」
とリカルド。
夕方の6時半。
メルローズAVEの〈|MELTING POT《メルテイング・ポツト》〉。
練習を終えたあたしたちは、屋外のテーブルで、ひと息ついていた。
アントニオが、かけつけてきたのは、そのときだった。
「すごいニュースがあるんだ」
「何?」
「当ててみろよ」
「あんたが妊娠した」
「もう子供を産んできた」
「四つ子だった」
アントニオは、ドスッと坐りながら、
「バカなこといってるんじゃない。いいか。よくきけ。あの〈|A・TO・Z《エイ・トウー・ジー》〉と、契約できそうなんだ」
〈|A・TO・Z《エイ・トウー・ジー》〉……。
きいたことは、ある。
「信じられんなあ」
と、またリカルドがいった。
ロスに長いだけあって、リカルドが、いちばんくわしいだろう。
「〈A・TO・Z〉って、音楽エージェンシーでしょう」
とあたし。
「ああ。ロスでも、いま、いちばん成功してるエージェンシーだ」
リカルドは、いった。
「契約したミュージシャンは、ほとんどスターにすると、いいきってる」
アントニオは、胸をはる。
「どうやって、売り込んだんだ」
とチャック。
「どうってことはない」
アントニオは、キザな手つきで、上着の内ポケットから、シガレット・ケースを出す。
何か、キング・サイズの煙草《たばこ》を1本。シガレット・ケースの上で、トントンと叩いて、
「あのデモ・テープと……おれの、顔さ」
「ホントに、冗談じゃないんだろうな」
とリカルド。
「あしたになれば、わかる」
アントニオは、金ばりのライターで煙草に火をつける。デュポンかダンヒル。そんなところだろう。
「午前11時に、重役が、メンバー全員に会いたいとさ」
どうやら、本当らしい。
離陸が、近いってことか……。
みんな、ふと、黙り込む。
暮れていく空。
カリフォルニア・ブルーの空に揺れる、パーム・ツリーのシルエットをながめる。
それぞれの胸を、吹き抜ける風があるのかもしれない。
ビリーには、ニューヨークのどこかで暮らしているはずのシンシアのこと……。
チャックには、ただひとり、ランプ・シェード片手にサイパンから旅立っていったマギーのこと……。
アキラには、海を見おろすグアムの丘に眠っている妹のこと……。
リカルドには、国境の南で、結婚生活をおくっているだろうロシータのこと……。
そして、あたしには、一組のスティックだけを残して死んでしまったパパのこと……。
「……そうだ」
アントニオが、つぶやいた。
「あした、〈A・TO・Z〉にいくときまでに、バンド・ネームを決めなきゃ」
「……いい名前があるわ」
あたしは、いった。
「ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」
「滑って転ぶなよ」
ビリーが、ニッと微笑いながら、アキラの背中を突ついた。
それぐらい、フロアは、磨き込まれていた。
ウィルシャーBLVDの5460.
〈A・TO・Z〉のロビーだ。
チャックが、キョロキョロと見回す。
壁には、ゴールド・ディスク、プラチナ・ディスクが、ずらり。
「どうぞ、こちらへ」
若い女が、アントニオにいった。
後について、あたしたちは長い廊下を、ぞろぞろと歩いていく。
「こちらで、お待ちください」
ドアの1つを、開けた。
あたしたちは、中へ。
まっ白い、会議室のような部屋だ。
ハイ・テックな、イスとテーブル。
あたしたちは、思い思いにイスに坐る。
2、3分で、ドアが開いた。
白人の男が、早足で入ってきた。
30代のまん中辺。ひと目で、最高級品とわかる、明るいグレーのスーツを、ピシッと着こなしている。
レコード会社の人間というより、IBMか何かのロビーをさっそうと歩いていそうだ。
アントニオのまっ白いスリー・ピースが、ますますジゴロ風に見えてくる。
「企画部長のダンです」
あたしたち全員と、キビキビした握手。
紳士的で、にこやかな表情。けど、眼の光は、鋭い。
「さて」
彼は、あたしたちと向かい合って坐る。ファイルを広げた。
「2日後の会議で決定しますが、おそらく、あなたがたを、来月の最有力新人として、売り出すことになるでしょう」
アントニオがツバをのむ、ゴクリという音がきこえた。
ミスター・ダンは、少し表情をやわらげると、
「ま、その前に、私たちのやり方を簡単に説明しましょう」
言葉を切る。
「私たちが、なぜ、ミュージック・ビジネスの世界で成功しているか……。ごく単純です」
あたしたちを見回して、にこやかに、
「正しい戦略をたてて、新人を送り出すからです。実力のあるミュージシャンを選ぶ。その、どこがセールス・ポイントかを正確につかむ。そして、イメージづくり」
ボールペンを右手で持つと、
「ミサイルみたいに、狙《ねら》いをさだめて。ズドンッ」
ニコリと微笑って、
「音楽市場《マーケツト》に、発射します。よくレコード会社でやるように、カンだけに頼ったり、思いつきでミュージシャンを売り出すんじゃない。プロジェクト・チームをつくり、最新鋭のコンピューターも使います」
アントニオに向かって、
「それはそうと、来週の〈ハリウッド・ボウル・コンペティション〉に、エントリーしているんでしたね」
「ええ」
とアントニオ。
〈ハリウッド・ボウル・コンペ〉は、ロスのロック系FM局が主催してる新人音楽祭だ。
「それほどのビッグ・イベントではないが、それでも、優勝すればちょっとしたものだ。デビューには、悪くない」
ミスター・ダンは、ボールペンで、ファイルの表紙をトンと叩くと、
「OK。まず、そこで優勝しましょう」
といった。
「優勝しましょうったって……」
とアントニオ。
ちょっと、とまどった表情。
「スーパー・バンドだって、いってたじゃないですか」
ダンは、ちょっと、いたずらっ子みたいに微笑った。あたしたちのデモ・テープを手にとると、
「確かに、すごい実力だ。それに」
真顔に戻って、
「私が優勝しましょうといったら、まず、あなたたちは優勝する。私たちには、それだけの力があるということです。〈|A・TO・Z《エイ・トウー・ジー》〉という社名は、ダテじゃない。さて」
ファイルを開くと、
「日系、中国系、黒人《ブラツク》、メキシコ系か……この合衆国《ステイツ》で活躍するには、悪くない。そして……ドラムスが、女性か。これも、悪くない……なんせ、ウーマンズ・パワーの時代ですからね」
ダンは、あたしに、ウインクしてみせた。
「ミッキー、だったね」
あたしは、うなずいた。
ポニー・テール。ノー・メイク。古着のアロハ。カット・オフ・ジーンズという、あたしの姿をながめて、
「もちろん、全員にスタイリストはつけます。が、君には、メイク・アップ・アーチストもつけよう」
ダンは、ファイルに何か書き込む。
「ミッキーは、ハワイ・オアフ島出身……で、最終学歴は?」
「学歴?」
「いや。最後にいた学校さ」
「ガール」
感化院《ガールズ・ホーム》といいかけた瞬間、
「ガール・スカウトです」
アントニオが、叫ぶようにいった。
「さあ、ビバリー・ヒルズに、家さがしにいこうぜ」
ビリーがふざけて、背の高いチャックの背中におぶさった。
〈A・TO・Z〉を出たところ。
「たのむぜ、みんな」
とアントニオ。
「とくに、ミッキー」
「え?」
あたしは、バス・ストップに歩きかけたところだった。
「どこへいく?」
「友達と、待ち合わせよ」
「友達って、あの、感化院《ホーム》の友達か?」
とビリー。
「そうよ」
「彼女、ちょっとかわいいじゃないか」
「おれも、賛成だ」
とチャック。
「とにかく、おれたちから、よろしくとな」
「OK」
「……いいか、ミッキー」
アントニオは、あたしの肩を抱くと、
「いま、いちばん大事なときなんだ」
アントニオのいいたいことは、よくわかった。
「〈A・TO・Z〉で売り出したミュージシャンは、みんな、まっとうな連中ばかりだ。もし仮に、R《ローリング》・ストーンズがあそこのオーディションをうけてたら」
「一発で落ちてたでしょうね」
「そういうこと。悪気でいうんじゃないが、当分の間、感化院《ホーム》出身は、オフ・レコだ」
「了解」
アントニオの頬にキスすると、あたしは陽射しの中へ歩き出した。
「イエスタディズかァ」
ちょっと古ぼけた感じの店がまえを、あたしは見上げた。
〈YESTERDAYS〉……。
「さ、入ろう」
とスヌ。
あたしたちは、二階へ。
通りに面したベランダに坐った。
「〈イエスタディズ〉って店名も好きだけど、ハンバーガーも、おいしいわよ」
だから、いこう。そう、スヌがいったのだ。
ウエスト・ウッドの落ちついた通りが、眼の下にあった。
透明な陽射し。
U・C・L・Aの学生たちが、自転車で走り過ぎていく。
ジョギングしている中年の夫婦。
COORSとハンバーガーが、あたしとスヌのランチだった。
ハンバーガーは、本当においしかった。
「約束を、はたせたわね」
ハンバーガーをかじりながら、スヌがいった。
感化院《ホーム》にブチ込まれているとき、心の底から、食べたいと思うもの。
それは、フランス料理でも、ロブスターでもない。
不思議なことに、ただのハンバーガーだ。
〈そりゃ、単なるビンボー性さ〉
いつか、ビリーにからかわれたことがある。
そうかもしれない。
でも、本当なんだから、しょうがない。
スヌが感化院《ホーム》を出ていく、あの水曜日の朝。あたしたちは、約束した。
〈シャバで再会したら、必ずハンバーガーを食べにいく〉
「陽射しが、気持ちいいわ」
あたしたちは、ベランダの手すりに、足をのっけた。
ジョギング・パンツからのびたスヌの脚も、あたしと同じぐらい長い。
その左モモに、2インチぐらいのキズあとがある。
「そのキズ……」
「ああ、これ? ほら、ジニーたちのグループとやり合ったときの」
あれは、畑つくりの時間だった。
油断してたあたしは、白人のグループに、スコップで殴り倒された。
いちばんのワルだったジニーが、缶ヅメのフタ、ギザギザのフタで、襲いかかってきた。
あたしをかばおうとしたスヌは、ジニーとやり合って、モモをザックリと切られた。
「けど」
スヌは、微笑いながら、
「キズあとってのも、しばらくつき合うと、これはこれでかわいいものよ」
SALEMの煙を吐きながら、
「男とちがって、ふいに荷物まとめて逃げ出したりしないしね」
店の中から、ザ・クレスツの〈シックスティーン・キャンドルス〉が、低く流れはじめた。
「|通り雨《シヤワー》……」
スヌが、つぶやいた。
天気雨だ。
細かく淡い雨つぶが、サーッと走り過ぎていく。
「カリフォルニアにも、|通り雨《シヤワー》があるのね」
「ハワイと、同じよ」
U・C・L・Aの学生たちが、ウインド・ブレーカーのフードをかぶって、早足で歩いていく。
ほんの、3、4分で、|通り雨《シヤワー》は走り過ぎた。
また、透明な陽射し。
歩道を滑っていく、ローラー・スケートの子供。
「ねェ、海岸にいってみない」
とスヌ。
「賛成」
ふと思えば、しばらく海を見ていない。
「10分も走れば、サンタモニカ海岸《ビーチ》よ」
「ずいぶん長い桟橋ね」
あたしは、いった。
「サンタモニカ桟橋《ピア》」
とスヌ。
道路から入れる桟橋《ピア》が、砂浜を突っ切って海へ。まっすぐに、のびている。
かなり古い桟橋だ。
あたしたちは、ゆっくりとピアを歩いていく。
ピアが、海に出る。
ところどころに、釣り糸をたらしてる人がいる。
「おい、こら、パク」
ひとりの頭を、スヌはポンと叩いた。
パクと呼ばれた男は、ふり向く。
若いチャイニーズだった。
「仕事仲間のパクよ。これは、感化院《ホーム》の友達で、ミッキー」
「やあ」
「よろしく」
「どお、パク、釣れてる?」
スヌは、わきに置いてあるバケツをのぞき込む。
名前も知らない小さな魚が、3、4匹。
「ダメだねェ」
とパク。
「これじゃ、晩のオカズはムリね」
「ところでスー、この前はイタ公たちを痛い目にあわせたらしいじゃないか」
「しかけてきたのは、向こうよ」
「でも、当分は気をつけた方がいいよ」
「そうね。ありがとう。また、夜に」
「OK。それまでにゃ、カジキでも釣っとくよ」
パクは、あたしにも、人のいい笑顔を見せた。
パクに、手をふる。
ピアを戻る。
木の手すりにヒジをついて、砂浜を見おろす。
陽は、そろそろ傾きかけていた。
バレーボールのネットが、ひとけのない砂浜に、長い影を落としている。
白人の家族が1組、砂浜で遊んでいた。
赤いTシャツ、ショート・パンツのパパ。
同じようなかっこうのママ。
子供が2人。
10歳ぐらいの女の子。ちょっと年下の男の子。そして、犬が1匹。
あたしたちは、並んで、それをながめていた。
手すりにヒジをついてたスヌが、
「ねェ、ミッキー」
「何?」
「うらやましくない?」
「何が?」
「ああいうの」
「…………」
「あたし、本当に本当のこといって、ちゃんとした家に、生まれたかった」
「…………」
「もう一度、人生をやりなおせるんなら……あそこで遊んでる子みたいな、あんな少女時代を、過ごしたかった……」
スヌの頬には、いつの間にか涙がつたっていた。あたしは、少し驚いていた。
泣き笑いしながら、
「……ママのつくったチェリー・パイ……サマー・キャンプ……クロスワード・パズル……ピーター・ラビットの絵本……誕生日のケーキ……どれひとつ、あたしには、なかったわ」
〈イエスタディズ〉のペーパー・ナプキンで、スヌは涙をふいた。
「……いわないで」
あたしも、唇をかんで、涙をこらえていた。
「|過ぎた日々《イエスタデイズ》の嫌なことは、みんな通り雨。すぐに晴れるさ……そう自分にいいきかせて、やってきたんだから」
「そうか……そうね。そう思わなきゃ、やっていけないか……」
スヌの手から、ペーパー・ナプキンが飛んだ。風に乗って、漂っていく。
「もう、泣きごとは、いわないわ」
とスヌ。
「テープとちがって、人生ってのはどっちみち、プレイ・バックできないんだから」
あたしは、いった。
「ただ、走りつづけるだけ……」
頭の上で、カモメの鳴き声がする。
風が、少しだけひんやりとしてきた。
「これは、これは」
「誰? これ」
「驚いたなあ」
みんな、あたしを見て、口々に勝手なことをいった。
ウィルシャーBLVDのスタジオ。
最初の貸しスタジオとは、ずいぶんちがう。豪華なスタジオだ。
メイク・アップ・アーチストは、さすがにいい腕をしていた。
鏡を見せられたとき、自分でも信じられなかった。
ポニー・テールだった髪は、まん中分け。ゆるいウェーヴ。
「ロコ・ガールらしさは、少し残しておいたわよ」
と、メイクの人。
「まるで、O《オリビア》・ニュートンジョンになった気分ね」
ちゃんとしたお化粧をするのなんて、生まれてはじめてだった。
「とにかく、いかしてるよ」
とビリー。
「あんたたちも、悪くないわよ」
メンバー全員、特注のコスチューム。ハワイアン・ジゴロというコンセプトだって話だ。
シルク地のスーツ。ハワイアン・プリントのシャツ。
いちばん似合ってるのは、プロポーションからしても、肌の色からしても、黒人のチャックだ。
あたしのコスチュームも、同じデザインの女性モデルだ。
〈ハリウッド・ボウル・コンペ〉の当日。
ちょうど正午。
コンペティションは、午後3時開始。5時までつづく。
「いいかい」
とミスター・ダン。
「もうすぐ、音楽雑誌の記者とカメラマンがくる。このスタジオでの、練習風景から、コンペ。そして優勝まで、ピッタリ、マークする。サクセス・ストーリーの、幕|開《あ》きというわけだ」
話してるうちにも、記者とカメラマンらしいのが、ドヤドヤと入ってきた。
「じゃあ、練習いこうか」
とアントニオ。
それぞれ、ポジションにつく。
軽く、おっぱじめる。
〈ロング・ロング・グッドバイ〉を、2、3回、演《や》る。
演ってる最中、どんどん撮影が始まる。
顔の近くで、ストロボが光る。
かまわず、叩きまくる。
けど、いまひとつ、調子が出ていないのがわかる……。
自分が、自分じゃないみたいだ。
具体的な問題も、あった。
まず、靴。
スタイリストにはかされた革靴には、低いけど、ヒールがついていた。
やっぱり、スニーカーか、ゴムぞうりじゃないと、具合悪い。
思いきって、ペダルがふめない。
ミスター・ダンに相談する。
「やっぱり、それで演《や》ってくれないと」
「だって、ドラム叩きの足なんて、見えないわ」
「ステージに登場するとき、おりるときはどうする。それに、優勝したミュージシャンは、ステージまん中で、トロフィーをうけとるんだ。スニーカーじゃ、まずいだろう」
「…………」
「それと、お尻《しり》が滑るわ」
「滑る?」
「そう」
はかされてるパンツは、シルク地だ。
いつものカット・オフ・ジーンズと、えらくちがう。
スタイリストが、首を横に振った。
「それは、しょうがないなあ」
ダンは、子供にいいきかせるように、
「なあ、ミッキー、別に、イスから滑り落ちるわけじゃないだろう」
「それはそうだけど……」
「じゃあ、いいね。練習のつづきだ」
また2、3回、演《や》る。
わかった。
いちばんのちがいは、髪だ。
いつもは、ポニー・テール。
パパが考えた練習方法。
ポニー・テールの先が、首筋に当たる。
当たっていれば、体全体で、リズムに乗れているってことだ。
けど、このヘア・スタイルじゃ、それが、わからない。
ダンは、にこやかに、記者と話してる。
ポニー・テールのことなんて、いっても、完璧《かんぺき》にムダだろう。
あたしひとりのために、ブチこわすことはできない。
唇をかんで、練習をつづける。
10秒に1回ぐらい、ストロボが光る。
「ミッキーさん、いますか」
受付の人間がスタジオをのぞいたのは、午後1時半。
「あたしだけど」
「あの、面会の方なんですけど」
「面会?」
「ええ……それが、ちょっと……」
「ちょっと?」
「ちょっと変なんですが……」
「変?」
「ええ、ちょっと……」
「とにかく、いくわ」
練習を中断。
ロビーに出ていく。
「パク……!?」
ロビーのソファー。
ぐったりと、もたれているのはパク。この前、サンタモニカ・ピアで出会った、スヌの仕事仲間だった。
「どうしたの!? その顔」
パクの顔は、紫色に腫れ上がっている。
「とにかく、中へ」
肩を貸して、スタジオの廊下に入れる。
廊下にあるソファーに、坐らせる。
「殴られたのね」
パクは、うなずいた。
ビリーやチャックも、出てきた。
「誰に!?」
「イ、イタ公ども……さっき、仕入れの最中を襲われて……」
「で!? スヌは!?」
「……スーは、やつらに……」
「つかまったの!?」
パクは、無言でうなずいた。
ボディ・ブローも、くらってるんだろう。
話すのが、苦しそうだ。
「で、やつらは、スヌを、どこへ!?」
「ラ……ラ・シェネガにある……〈シシリアンBAR〉」
「〈シシリアンBAR〉ね」
パクは、首をタテに振った。
「ケ……ケイサツにもいけないし……あんたしか……」
「わかったわ。とにかく、楽にして」
パクを、ソファーに寝かせる。
「君たちの出番は4時頃だから、あと30分ぐらいで、出発だよ!」
スタジオの出入口から、ダンの声。
あたしは、窓ぎわに立った。
唇をかんで、空を見上げる。
スヌは、いま頃、リンチにあっているかもしれない……。
〈パパ……〉
あたしは、天国のパパに向かってつぶやいた。
〈どうすればいいの……いま、スヌを助けにいけば、音楽祭がパーになるだけじゃないわ。感化院《ホーム》やなんかのこともバレて、たぶん、デビューもNGになる。どうすればいいの……〉
青い空。
パーム・ツリーの葉だけが、風に揺れている。
それは、オアフ島の、感化院《ホーム》から見上げたヤシの葉を、思い出させた。
1分……2分……。
あたしは、唇を、きつく、かむ。
デイ・パックを、つかむ。
REST ROOMに、入っていった。
シルクのステージ衣装を、脱ぎ捨てる。
いやらしい白い靴も、ポンッと脱ぐ。
デイ・パックから出した、アロハとカット・オフ・ジーンズを着る。
スニーカーのヒモを、しっかりとしめる。
鏡に向かう。
石けんで、顔をゴシゴシと洗った。
きらびやかなメイクが、ほとんど、とれた。
素顔。
デイ・パックから、太いゴムヒモを出す。
髪を、きっちりとポニー・テールに結んでいく。
最後に、金属スティック。トレーニング用の、アルミむくのスティックを出す。
カット・オフ・ジーンズの、ヒップ・ポケットに、ゆっくりとさした。
バーンッと、REST ROOMのドアが開いた。
アントニオだ。
「あんた、おカマになったの? ここは、女性用よ」
「な、何をしようっていうんだ!? ミッキー」
「たいしたことじゃないわ。ちょっと用事ができただけ」
「何もかも、パーにしたいのか!? そのコスチューム」
「あんたが着れば」
シルクのコスチュームを、アントニオに投げる。
コスチュームは、アントニオの頭にバサッとかぶさる。
REST ROOMのドアを押す。
「少しは、利巧になれ!」
「利巧になれたら、音楽なんかやってないわ」
スタジオの廊下。
ミスター・ダン。
音楽記者。
それに、カメラマンが立っていた。
「どこへいくのかね」
とダン。
あたしは、ダンと向かい合った。
「あなたには、あやまるわ」
「…………」
「けど、感化院《ガールズ・ホーム》の親友を、助けにいかなきゃならないの」
「すべてを失くしても、かい」
「生まれつき、失くすものなんて、たいして持ってないわ」
「トップ・ミュージシャンへの道が、ひどく遠回りになるよ」
「寝ざめの悪い人間になるよりは、いいわ」
「……若さ、かい」
「……たぶん、損な性分なのね」
ダンは、あたしに背を向けた。
窓の外を見ながら、
「……元気で……」
「ありがとう」
あたしも、ダンに、くるりと背を向けた。
大股《おおまた》で、廊下を歩いていく。
ロビーを横切る。
玄関を出た。
ダッヂのコンバーチブルが、駐まっていた。
ビリー……。
チャック……。
アキラ……。
そして、リカルド……。
みんな、自分の服に着がえていた。
「おじょうさまは、どちらへ?」
とビリー。
「イタ公どもに、殴り込みをかけるんだろう?」
アキラが、いった。
「そんな面白いことを、ひとりじめしようなんて、ズルいと思うが、なあ」
とチャック。
みんなの歯が、白く光った。
あたしも、つられて、苦笑い。
リカルドのがっしりした手が、イグニション・キーを回す。
V8エンジンが、ひと声、吠《ほ》えた。
「あれだな」
とリカルド。
〈シシリアンBAR〉の、安っぽい入口が見えた。
「いくぜ!」
リカルドは、急ハンドル!
まっすぐに、突っ込む!
ドバーンッ!
ベニヤ板同然のちゃちな入口は、こっぱみじんにふっ飛んだ。
細かい木片が、ふりそそいでくる。
ダッヂのボンネットは、3分の1ぐらい、店に突っ込んでいた。
あたしは、ボンネットに飛び上がる!
木片と、くずれた漆喰《しつくい》をかいくぐって、店の中へ!
案のじょう、ちゃちな店だ。
まん中に、ビリヤード台。
放心したような顔のイタ公が4、5人。ビリヤードのキューを持って、突っ立ってる。
「このマカロニ野郎! スヌを、出しなさい!」
「…………」
にらみ合い。
6秒……7秒……。
「スヌッてのは、こいつのことかい」
奥のドアが開いた。
スヌを楯《たて》に、マカロニ野郎が出てきた。
スヌの腕を、後ろでねじ上げてるんだろう。おまけに、右手にはナイフ。
太い腕には、女のヌードの刺青《いれずみ》。油ぎった顔。
この前、叩きのめしたやつだ。
まだ、右手首に包帯を巻いてる。
「これは、これは。この前のおじょうちゃん」
やつは、ニタニタと笑いながら、
「また会えるとは、嬉《うれ》しいね」
急に、スゴんだ声で、
「変なマネしてみろ。こいつのノドを、かっ切ってやる!」
スヌの片眼には、青アザができていた。けど、しっかりと立っている。
まだ、ひどいダメージは、うけてないみたいだ。
「ミッキーとかいったな」
「そうよ」
「自分から殴り込んでくるとは、いい度胸だ。この前は、ガキだと思って油断したが、今度は、ようしゃしない」
「それで?」
「どうせまた、棒っきれを持ってるんだろう。出せ!」
ナイフを、スヌの首につきつける。
あたしは、ヒップ・ポケットから、スティックを抜いた。
「ほう、今度は金属か。その、ビリヤード台に置け。そっとだ! そして、はなれろ!」
いわれたとおりにする。
「よし。もう、これで、いい。さあ! やっちまえ!」
イタ公たちが、ビリヤードのキューを握って、迫ってくる。
ボンネットの上のビリーたちも、動けない。
ふいに、銃声!
店の外だ!
一瞬、みんな気をとられる。
つぎの瞬間、
「ギャッ」
と叫び声!
スヌが、イタ公の足を、思いきりふんづけたらしい。
イタ公は、ひるむ!
ナイフを握った手を、スヌはパッと払う!
転がるように、駆けてくる!
ビリヤード台のスティックをつかむ!
「パス!」
あたしに、投げる!
スティックを空中でつかむ!
チンピラの握ったキューが、ふりおろされかかっていた!
ふり向きざま、スティックで叩き上げる!
パキーンッ!
キューが、顔の上で砕けた。
ビリーが、ボンネットからジャンプ!
イタ公の1人に、跳び蹴りをくわせるのが見えた。
つぎつぎと、7、8本のキューを砕き散らす。
2、3分の乱闘で、子分たちは片づいた。
5人とも、口から泡を吹いたり、体を丸めたり。床に転がっている。
残るは、1人。マカロニ野郎だ。
ジリッと1歩つめる。
やつは、ナイフを握って、後ずさり。
「ものは相談だが、その」
ズルがしこそうな眼が、キョロキョロと動く。
「あんたに、相談する権利なんかないわ」
また1歩、あたしはつめる。
「でも、どうせ入院するんだから、病院の予約ぐらいはさせてあげる」
カウンターの電話をさして、
「さあ、電話しなさいよ」
しばらく、ためらう。
「あんたに、もう、勝ち目はないのよ」
マカロニ野郎は、受話器を、ゆっくりととった。
ダイアルを、回す。
「……ああ、入院の予約をしたいんだが……名前? ロベルトだ……何科か!?」
やつは、あたしを見た。
「まあ、外科だってことは確かね」
あたしは、自分の左腕を見おろした。
アロハの肩口が、ザックリ破れて、腕に血が流れている。
ふいに!
「ミッキー!」
スヌの悲鳴!
パッと顔を上げる!
マカロニ野郎が、受話器をナイフに持ちかえて、突っかかってくる瞬間だった!
悲鳴が、0・5秒おくれたら、病院いきは、あたしだったろう。もしかしたら、墓場いき。
きわどく、かわす!
鼻先を、白い光が走り抜ける!
ヒザをつきながら、やつのスネを払った。
骨を、叩き折った手ごたえ。
ゆっくりと、あたしの後ろで、やつが床に転がる地響き。
あたしは、立ち上がる。転がったマカロニ野郎を、ふり返る。
大きく、肩で息をした。
受話器は、まだ、はずれたままだ。
スティックを、ヒップ・ポケットにさす。
受話器を、とる。
「患者は、脚の骨折」
それだけいうと、受話器をゆっくりと戻した。
店の外へ出る。
アントニオの顔が見えた。
「ミッキー! 無事だったか?」
「あんたも、きてくれたのね」
「当たり前さ。マネージャーじゃないか」
「そういえば、あのとき、店の外で拳銃《けんじゆう》ぶっぱなしたの、あんた?」
「拳銃?」
アントニオは、目を丸くすると、
「おれは、こう見えても、天下のヤサ男さ。そんな危いもの……そういえば」
ふり返って、
「いま乗ってきた、あの、ボロ・ムスタング、ここに着いたとたん、バック・ファイヤーをおこしたがね」
「そうか」
あれは、バック・ファイヤーだったのか……。
「無事みたいね」
スヌと、顔を見合わせる。苦笑い。
「ミッキー、腕の血、ひどいわ」
「スヌ、あんた、それでも感化院《ホーム》帰りでしょう。このぐらいの血でビビッちゃ、だらしないわよ」
リカルドが、バックでダッヂを道路に出した。
昼間は閑散としてるラ・シェネガBLVDも、そろそろ人だかりがしてきた。
「さあ、パトカーがくる前にズラかろう!」
とアントニオ。
「ズラかるって、どこへ」
「ハリウッド・ボウルさ」
「ハリウッド・ボウル!?」
「そう。コンペは、まだ終わってない」
「出るつもりなのか!?」
「そうとも。5時までにステージに上がれば、いいそうだ」
とアントニオ。
「あきれた」
あたしは、つぶやいた。
「あきれついでに、やってみるか」
とビリー。
アントニオは、腕時計を見る。
「いま、4時45分だ。ぶっ飛ばせば、15分で着けるかもしれない」
「おい! おれはまだ死にたくない!」
とアキラ。
「このまま、離陸するんじゃないか!」
チャックが、叫んだ。
「エイビスにゃ悪いが、このクルマも、これでスクラップだな」
といいながら、リカルドは、またアクセルをふみ込む。
サンタモニカBLVDを、右折。
タイヤが、悲鳴を上げる!
「ホイール・キャップが1個、転がってったみたいだぜ」
ビリーが、くわえ煙草でいった。
「どうせスクラップなら、もういいんじゃない」
あたしは、いった。
ベコベコに浮いたボンネットからは、白い煙が吹き出している。
時速100マイルで、サンタモニカBLVDを東へ。
「つかまったら、完全に免停だな」
とビリー。
「問題ないさ」
ハンドルを握った、リカルドが笑った。
「免許《ライセンス》は、とっくに切れてるんだ」
みんな、笑った。
「ま、ケガ人を運んでることだし」
メンバー全員、どっかしら、切り傷やスリ傷を負っていた。
スピードを落とさず、ハイランドAVEを左折!
丘の上に、ハリウッド・ボウルが見えてきた。
「ついてるぞ!」
と、先に着いてたアントニオ。
「参加バンドが多くて、のびてるらしい」
いま、5時15分。
「出番は、ラストにしてもらった。2、30分はある」
「とりあえず、ミッキーの腕に手当てだな」
控え室へ。
もう、演奏を終わったバンドの連中だろう、入ってったあたしたちを見て、ギョッとしてる。
全員、服はボロボロ。
あたしは腕から、ビリーは頬から、派手に血を流してる。
「ヴェトナムだと思えば、カスリ傷さ」
「アントニオ! 包帯!」
あたしは、アロハのソデを、引きちぎった。
傷口は、腕の外側。
動かしてみる。
だいじょうぶだ。筋肉や骨は、やられていない。
「止血だけしておけば、いいわ!」
止血剤を、ふりかける。
スヌが、包帯をぐるぐる巻いてくれる。
「カッコ悪いなあ、デビューだってのに」
ビリーが、ブツブツいいながら、頬《ほお》に大きなバンソウコウを貼《は》ってる。
みんな、どっかしらに包帯を巻いていた。
「あと、2組で、出番です!」
係員が、飛んできた。
「ところで、バンド・ネームは?」
と係員。
あたしは、みんなを見回して、
「どうかしら。〈ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド〉もいいけど、長ったらしすぎる気がするし」
「そうだなァ」
「この姿にふさわしい名前で、THE BANDAGE(包帯)ってのは」
「いいね」
「勇ましくて」
「悪くない」
「OK。バンド・ネームは、THE BANDAGEだ」
アントニオが、係員にいった。
「じゃあ……グッド・ラック」
スヌが、スティックを渡してくれる。
「みんな、指は動く?」
「OK」
とビリー。
「問題なし」
とチャック。
「いけるだろう」
とアキラ。
「あと1組です! スタンバイしてください」
と係員。
「じゃ」
「一発、ぶちかますか」
みんな、ぞろぞろと出ていく。
あたしも、立ち上がる。
最後に、控え室を出た。
スティックを右手に、長い通路を、ゆっくりと歩いていく。
一歩一歩、ふみしめるように……。
あと、数ヤードで、ステージ・サイドに出る。
会場の熱気が、もう伝わってくる。
一瞬、あたしは立ちどまる。
ここ数ヵ月の日々が、後ろにある。ふと、そんな気がした。
けど、あたしは、ふり向かなかった。
ゆっくりとした足どりで、光の中へ歩き出していた。
風が、アロハのスソを揺らせた。
南カリフォルニアの、乾いた風だ。
たそがれの陽射しが、シンバルに、ドラムスのリムに、淡く反射している。
ハリウッド・ボウルは、屋外だ。
ほとんど、満員。
半円形の観客席には、2万人近い客が入っているだろう。
ドラム・セットの調整をする。
スネアの高さ。
フェースの角度。
タム類も、フェースの角度。
シンバルの高さ。角度。
ハイハットの間隔。
みんなも、それぞれの楽器を、チューニングしている。
軽く、|1《ワン》コーラス、叩いてみる。
タンタン! ンタタン!
タタン! タン!
タッタッ! ッタタタッ!
タッタッ! ッタタタッ!……。
ポニー・テールの先が、首筋に当たる……。
天国じゃ、パパが渋い顔をしてるかもしれない。
ゴメン! でも、あたしは、走りはじめるわ。
「では、今年のコンペティション、最後のバンド!」
司会者の声が、P・Aから響く。
「THE BANDAGE!」
歓声……。
拍手……。
口笛……。
BANDAGEか……。
思えば、この15年、包帯とは縁が切れなかった。
そんな気がする。
失敗ばかり……。
ケンカばかり……。
失望ばかり……。
いつも唇をかみしめてきた15年。
でも、いいじゃないか。
スヌと、あのサンタモニカ・ピアで話した言葉が、胸をよぎる。
〈過ぎ去った日々《イエスタデイズ》は、通り雨……〉
チャックが、ベースのフレットから、ゆっくりと顔を上げた。
黒い顔の中。歯が、まっ白に光った。
アキラが、かがみ込んでいた鍵盤《けんばん》から、視線を上げた。
ビリーが、祈るように額をつけていたギターのネックから、首を起こした。
あたしに、微笑いかける。
最後に、リカルド。
あたしに、ふり返ると、マイクを握る手に力を込めた。
全員、スタンバイ、OK!
走り出す前の、一瞬の空白……。
あたしは、空を見上げた。
暮れかけていく、南カリフォルニアの青空。
ひんやりと乾いた空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
スティックを、握りなおす。
パパが、人生の最後につくってくれたスティック……。
小さく入ったMのマークが、たそがれの陽射しに光った。
スタートの合図《カウント》は、フロア・タムのリムを叩く。
カン! (|1《ワン》)
カン! (|2《ツー》)
カン! (|1《ワン》)
カン! (|2《ツー》)
カン! (|3《スリー》)
カン! (|4《フオー》)
スティックを、あたしは思いきり振りおろしていた。
角川文庫『ポニー・テールは、ふり向かない』昭和60年10月25日初版発行