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ポニー・テールに、通り雨
喜多嶋隆
目 次
第1話 夢のかけらをポケットに
第2話 たとえラスト・チャンスでも
第3話 ラヴ・ソングが、きこえない
第4話 水平線にセレナーデ
第5話 少しだけティア・ドロップス
ゴムゾウリ――あとがきにかえて
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第1話 夢のかけらをポケットに
カチッ。
小さな音がした。
知っている、というより、おなじみの音。
飛び出しナイフの刃《ブレード》を起こす音だ。
反射的に、あたしは呼吸をとめていた。
体は、動かさない。
神経だけを、ピンッと張りつめる。
バストにシャワーを浴びたまま、後ろの気配をさぐろうとしていた……。
午後2時。
ホノルルの東にある、小さな海岸公園《ビーチ・パーク》。
あたしはシャワーを浴びていた。
海につづく芝生に、えらく簡単なシャワー・ルームがある。
無人。無料。
背の高さぐらいの板で囲ったボロっちいシャワー・ルームが、3つ並《なら》んでいるだけ。
天井《てんじよう》なんか、当然のようにない。
シャワーを浴びながら、見上げる空は、まっ青。
ココヤシの葉が、昼さがりの風に、サラサラと揺《ゆ》れている。
口笛で〈SEA《シー》 OF《オブ》 LOVE《ラブ》〉を吹《ふ》きながら、気持ちよくシャワーを浴びていたのに……。
飛び出しナイフの音は、ドアのすぐ向こうだった。
神経を、張りつめる。耳を、すます。
誰だろう。
感化院《ガールズ・ホーム》の頃《ころ》のカタキか……。
バンド稼業《かぎよう》のライバルか……。
あたしは、ドアを見た。ベニヤ板同然の、薄っぺらさ。ノックをしただけで、こわれてしまいそうだ。
ヤバい……。
裸でいるところを襲《おそ》われるのは、あまり愉快《ゆかい》じゃない。
おまけに、この海岸公園《ビーチ・パーク》は街はずれ。いつも、ひとけがない。
強姦《レイプ》ってこともある。
こんなところでヴァージンを失《な》くすのは、もっと愉快じゃない。
あたしは、そっとかがむ。
脱いだ服の上に置いてあるドラムのスティックに、手をのばそうとした。そのとき、
「おカマかよ、お前は」
という声がした。
ムカッ。
いくらなんでも、それはないよ。
そりゃ、あたしはまだ16歳だ。
けど、ビキニでワイキキを歩けば、30秒に1回は声をかけられるっていうのに……オカマだと!?
どこの馬鹿だ!?
思わず、裸のまま飛び出すところだった。そのとき、別の声が、
「こいつ、震《ふる》えてるぜ」
といった。
どうやら、あたしに向かっていったんじゃなさそうだ。
脱いだ服をのせる棚《たな》。ヒザの高さぐらいの木の棚にのっかる。
ドアの上から、外をのぞいた。
男の子が、5人いた。
1人は、日系。13か14ぐらいの坊や。
あとの4人は、白人。あたしと同じぐらい。15か16ってところだ。
どうやら、日系の坊やを、白人のワル4人が囲んでるらしい。
白人の1人が、飛び出しナイフを握《にぎ》っている。
タカリか。ガキどうしのいざこざか。
そんなところだろう。
「このバナナ小僧《こぞう》」
と、白人の1人が左フックを、日系の坊やにおみまいした。
ビシッという音。殴《なぐ》られた坊やは、後ろにふっ飛ぶ。体を丸めて芝生に転がる。
あたしは、棚からおりた。
脚《あし》についている石けんを、シャワーで流す。す早く、タオルで体を拭《ふ》く。
ショーツをはく。ショート・パンツ。アロハ・シャツ。スニーカー……。
最後に、スティックをヒップ・ポケットにさす。
シャワー・ルームのドアを開けた。
倒れた坊やを蹴《け》りつけようとしていた白人の1人に、
「ドクター・ストップよ」
と、タオルを投げつけた。
「なんだと」
ふり向いたやつの頭。タオルが、バサリとかぶさる。
「モハメッド・アリだって、タオルが入ったらやめるわよ」
と、あたしはいった。連中をながめる。
4人とも、体が大きかった。
その割に、脳ミソは小さそうだった。
「ほう、こいつも日系《ジヤツプ》だぜ」
「おれたちのケンカに、口をはさもうってのかい」
4人が、こっちにつめ寄ってくる。
「こういうのを、ケンカとはいわないわ。ただの、弱い者いじめね」
白人の1人が、ニッと笑った。ナイフを持ってるやつ。鼻にニキビをつくったガキだ。
「ほう……この坊やを助けたいってわけか」
鼻ニキビは、ニタニタと笑う。
「お前、いい脚《あし》してるじゃないか」
あたしの体を、ながめ回す。
「坊やのかわりに、ブチ込まれたいんだろうよ」
と、別のやつがいった。
「そうか。そりゃ、いいアイデアだ」
と、鼻ニキビ。
「バナナ小僧《こぞう》にパンチぶち込むより、こいつにナニをブチ込んだ方が楽しそうだな」
飛び出しナイフを、あたしのバストの前でちらつかせる。
鼻ニキビは、スッとしゃがむ。
ナイフの刃《は》を、あたしの脚に当てた。ふくらはぎの内側から上へ、スーッと動かしていく。
「どうだ。ちびりそうか」
細い眼で、こっちを見上げる。
股《もも》の内側。ナイフの刃が、ゆっくりとなで上げていく。股のつけ根へ……。
ナイフの刃が、脚からはなれた。
「さあて、ストリップといこうか」
ショート・パンツの前ボタンに向かって動く。
「お楽しみは、それまでね」
あたしは、いった。
左手に持っていた石けんを、ナイフの刃先にブスリと刺した。
「!?」
鼻ニキビは、あっけにとられる。間抜《まぬ》けヅラ。口を、半開き。
フォークにジャガイモを丸ごとぶっ刺したようなかっこう。
「似合うわよ」
やつは、ナイフから石けんを抜こうとする。
けど、あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜いていた。
ハイハットを叩くフォーム。
三分の力。
やつの手を、ピシリと叩いた。
「あうッ」
ナイフが、芝生に転がる。
鼻ニキビは、手を押さえてうずくまる。ケガは、していないはずだ。
「このジャップが……」
と、別の1人。転がったナイフをひろう。石けんを抜く。
「クソ!」
めちゃくちゃに、切りかかってきた。
けど、たかが高校生のチンピラだ。ナイフさばきは甘っちょろい。恐くない。
あたしは、ジルバのターンみたいに体をかわす。
濡れてるポニー・テールから、水滴《すいてき》が飛び散る。陽ざしに光る。
「くらえ!」
横払《よこばら》いに、切りかかってくる。その距離を眼で測る。
体をかわしながら、スティックを振る。
軽く、パシッと叩き上げる。
相手の手から、ナイフがふっ飛ぶ。
陽ざしにキラキラと光って、シャワー・ルームの向こうへ消えていった。
「立てる?」
あたしは、倒れている坊やにきいた。
白人のワルどもは、ナイフがなくなると、急にビビった。それでも、
「このジャップどもが! 尻《けつ》のなめ合いでもやるんだな」
と、せいいっぱいの悪態をつく。芝生にツバを吐いて、ズラかっていったところだ。
日系の坊やは、|小エビ《シユリンプ》みたいに体を曲げて、芝生に転がっていた。
「動ける?」
「なんとか、ね」
坊やは、ヨロヨロと体を起こした。
胸の前に、何か、かかえ込んでいる。
大事そうにかかえ込んでいるのは、どうやら楽器ケースだった。体を丸めて、それを守っていたらしい。
あたしは、手を貸す。坊やを、立たせる。
「あんた、ミッキーだろう?」
と、坊や。ヒップ・ポケットに戻したスティックを見た。
「ねえ、そうなんだろう?」
あたしは、うなずく。
「どっかで会った?」
坊やは、首を横に振る。
「音楽をやってる連中のあいだじゃ、有名さ。感化院《ガールズ・ホーム》出身の不良でも、ミュージシャンになれるってね」
「不良は、よけいよ」
あたしは、苦笑い。
坊やの背中についてる芝生や土を、手で払ってやる。
「ずいぶん、やられたわね。あいつらは?」
「同じ学校の、ジュニアの連中さ」
と、坊や。口をとがらせて、ボソッといった。
ジュニアってのは、11年生。日本式にいえば、高校2年だ。
「あんたは、何年生?」
あたしは、坊やにきいた。
「8年生」
ってことは、日本式にいえば中学2年。
年齢《とし》は、13か14。
背も、あたしより頭半分だけ低い。
少しダブついたスニーカー。もっとダブついたTシャツ。
服が大きいというより、体が細いのだ。
度の強い眼鏡《めがね》は、まるで|7《セブン》ナップのビンの底。頬《ほお》には、ソバカス。少し出っ歯。
まあ、いじめられやすいタイプだろう。
「名前は? あるの?」
あたしは、尻《しり》の土を払ってやりながらきいた。
「ヒロシ・ヤマモト。学校じゃ、ヒロって呼ばれてる」
と、坊や。楽器ケースについた土を落としながらいった。
「ヒロか……」
「パパが、ヒロの出身なんだ」
ヒロは、ハワイ島にある町。古くからある日系人の町だ。
「だから、兄弟みんな、名前にヒロがつくんだ。一番上の兄貴が、タダヒロ、二番目の兄貴が、ヒロユキ」
「で、あんたがヒロシか。1人だけ、いやに簡単なのね」
「ぼくの分までは、名前を用意してなかったらしいんだ」
と、ヒロ。肩をすくめた。
「バナナ小僧《こぞう》なんて呼ばれて、くやしくないの?」
あたしは、いった。
バナナってのは、日系三世や四世に対する、意地の悪いアダ名だ。
バナナみたいに、外側は黄色。つまり、肌は黄色。
なのに、皮をむけば白。つまり、中味は白人まがいってことだ。
「そりゃ、くやしいさ」
「でも、あいつら、学校で一番のワルだし、体だって大きいし」
道路に落ちてたBUD《バドワイザー》の空き缶を、ヒロは蹴《け》った。
午後のダウンタウンを、あたしたちは歩いていた。
ヒロは、楽器ケース片手に。あたしは、自転車を押《お》しながら。
「ミッキー、本名は?」
と、ヒロがきいた。
「未記子《みきこ》が、ファースト・ネームよ」
「へえ。やっぱり、日本人の名前なんだ」
「そりゃそうよ。日系人だもの」
「でも、いろんな血が混ざってるだろぅ?」
「うん。ハワイアン、白人《ハオレ》、スパニッシュ……」
あたしは、指を折って数える。
片手の指だけじゃ、たりなくなる。
「ハワイアンに、スパニッシュか……」
と、ヒロ。
「それで、色が黒いんだ」
あたしの脚《あし》を、ながめていった。
「これは、陽灼《ひや》けよ」
あたしは、口をとがらせた。
もちろん、半分は地の色だ。けど、あとの半分は陽灼け。16年間、ハワイの太陽にキスされてできた色なのだ。
赤信号。
あたしたちは、立ち止まる。
〈廣氏菜館《こうしさいかん》〉というチャイニーズ食堂。そのガラスに、あたしたちの姿が映っている。
そんなに、色が黒いだろうか。
自分の姿を、ながめる。
確かに、黒い。
われながらよく伸びたと思うまっすぐな脚は、ミルク・チョコレート色。
ジャンボ・ジェットのしっぽみたいに、ヒップの位置は高い。
素足に、白いスニーカー。
麦わら色のポニー・テールが、午後の陽ざしに光っている。
「普通の日系三世や四世がバナナなら、ミッキーはパイナップルだね」
と、ヒロがいった。
「どうして、パイナップル?」
「ほら、パイナップルみたいに、外側が茶色くて」
と、ヒロは、陽灼けしたあたしの脚をさす。
「中味は、黄色」
「あたしのハートが、日本人っぽいってこと?」
「うん、そうさ」
あたしは、苦笑い。
パイナップル娘《ガール》か……。当たっているかもしれない。
それにしても、そんなに色黒かなあ……。
やっぱり、女の子だから気になる。
もう1度、チャイニーズ食堂のガラスを見る。自分の姿を、ながめる。
「あッ……」
アロハ・シャツが、大きく切れている。
アロハのわき腹が、かなり大きく切れていた。
ダウンタウンの風。潮とスパイスの香りをミックスした風が、わき腹をくすぐっている。
さっき、白人の悪ガキどもとやり合ったときだ。
ナイフで切られたらしい。
「まいったなあ……」
けど、しょうがない。
信号が、青に変わった。通りの角を、右へ。
「どこいくの?」
ヒロが、ついてくる。
「ちょっと、着がえよ」
「この店?」
と、ヒロ。店の看板を見上げてつぶやいた。
〈チャーリーズ〉
ケチで有名な中国系《チヤイニーズ》、チャーリーじいさんの古着屋だ。
あたしたちは、中へ。
キャッシャーのところには、店員が1人。若い女の子。チャイニーズだ。
あたしは、ぶらぶら、古着のアロハを見て回る。
気に入ったのが、見つかった。
淡いブルーの地。〈|極楽鳥の花《バード・オブ・パラダイス》〉が散りばめてある。
サイズも、ちょうどいい。
ヒロに、ウインク。
打ち合わせどおり。ヒロは、店員のところへ。
「あれ、見せてくれない」
キャッシャーの後ろの壁。ディスプレイしてある年代物《ヴインテージ》のアロハを指さした。
店員の子は、うなずく。丸イスを持ってきた。イスに上がる。壁にかけてあるアロハを、おろそうとする。
あたしは、す早く自分のアロハを脱いでいた。
売り物のアロハに着がえる。ボタンをかける。
店員がふり向いたときは、古いアロハをハンガーにかけ終わっていた。
「ごくろうさん」
店を出てきたヒロの頭を、ポンと叩く。
「|かき氷《シエイヴ・アイス》でも、おごってあげるわ」
と、午後のダウンタウンを歩きはじめる。
「そういえば、ミッキー」
「何?」
「凄腕《すごうで》のミュージシャンばかり集めた、スーパー・バンドをつくったってウワサだけど、いつデビューするの?」
「それがねえ……」
あたしは、軽いため息。青い空を見上げた。
今朝のことだった。
カパフル|通り《アベニユー》にあるライヴ・ハウス、〈ホノルル・コロシアム〉。
地下にあるお店のカウンター。
あたしは、朝ごはんのプラムをかじっていた。
「くたばりな、このエイズ野郎《やろう》が!」
と、店のオーナーのアントニオ。かけていた電話を、乱暴に切った。
「どうしたのよ、アントニオ。朝っぱらから、言葉づかいがお下品よ」
「ミッキーにお下品といわれちゃ、ホノルルのカサノヴァといわれたこのアントニオさまも、おしまいかね」
細い口ヒゲを、2ミリほど動かして微笑《わら》った。
「どうしたのよ」
「レコード会社だ」
と、アントニオ。電話機を、指さした。
「おれたちのレコードは、いま、出せないとさ」
アントニオは、あたしたちスーパー・バンド〈THE BANDAGE《バンデージ》〉のマネージャーだ。
いずれ、バンドの稼《かせ》ぎで、この店をプレイボーイ・クラブみたいにするという。
バニー・ガールに囲まれて、ピンク・シャンパンのお風呂で泳ぐのが夢らしい。
その夢がお下品かどうかは別にして、マネージャーとしての腕はいい。なのに、
「どうして、レコード会社がOKしないの?」
プラムをかじりながら、あたしはきいた。
「また、〈|A TO Z《エイ・トウー・ジー》〉の圧力さ」
「そうか……」
つい7か月前。
L・A《ロス》の音楽エージェンシー〈|A TO Z《エイ・トウー・ジー》〉とあたしたちは、ケンカ別れをしてしまった。
「やつらが、レコード会社のほとんどに圧力をかけてるらしい」
と、アントニオ。
陽気なやっこさんにしては珍しく、ムスッとした顔。
「そうかあ……」
〈A TO Z〉は、巨大な音楽エージェンシーだ。
予想以上に、手強《てごわ》い相手らしかった。
「いくら凄腕《すごうで》が集まってても、レコード1枚出せないんじゃなあ」
と、アントニオ。
「困ったわね」
あたしがつぶやいたとき。背中で、大きな音がした。
バーンッという音。
店のドアを、乱暴に開けた音だった。
ふり向く。おっさんが1人、立っていた。白人。40歳ぐらい。デブ。おまけに、ひどく怒《おこ》っているらしい。
すごい顔で、
「やつを出せ」
といった。
右手には、拳銃《けんじゆう》を握っている。38口径のリボルバーだった。
「銀行|強盗《ごうとう》なら、店をまちがえてるぜ」
と、アントニオ。カウンターの中でいった。
「うるさい! 冗談《じようだん》をいってる気分じゃないんだ」
と、おっさん。
「リカルドってやつを出せ!」
銃口を、こっちに向けた。
「リカルド?」
リカルドは、バンドのヴォーカリストだ。
「そうだ。メキシコ野郎《やろう》のリカルドだ」
「彼が、何かしたの?」
「ああ、間男《まおとこ》を……しやがった」
「間男!?」
あたしとアントニオは、同時に叫んでいた。
顔を見合わせる。
そうか……。
リカルドは、スパニッシュの血が入ったメキシカン。
ラテン系だ。当然のように、プレイボーイだ。
「リカルドが、間男かあ」
あたしは、思わず、吹き出してしまった。
だって……その白人のおっさんが、絵に描《か》いたような寝盗《ねと》られ男だったからだ。
「何がおかしいんだ!」
と、おっさん。顔を、まっ赤にする。銃口《じゆうこう》が、震《ふる》える。
「笑いやがって……このジャップ!」
銃声!
「やれやれ」
あたしは〈ホノルル・コロシアム〉の階段を上がる。明るいカパフル通りへ出た。
おっさんの撃《う》った弾《たま》は、酒棚《さかだな》のGIN《ジン》に命中した。
1発ぶっぱなしたら、少しは落ちついたのか。
店にリカルドがいないことを確かめると、おっさんは出ていった。
まだ、拳銃《けんじゆう》片手にリカルドを捜《さが》してるだろう。
それにしても。
店は、地下だ。銃声は、すごかった。まだ、耳がジーンとしている。
ミュージシャンにとっちゃ、大切な耳だっていうのに。
店の前。
壁に立てかけてある自転車に、あたしはまたがった。
12段変速の、スポーツ車だ。
カパフル通りを、2ブロック走る。
ハンバーガー・スタンドでとまる。注文する。
出てきたハンバーガーをかじろうとした瞬間、
「ミッキー!」
という叫び声。
同時に、タイヤの悲鳴。
ボロっちいピックアップ・トラックが、すぐ後ろで急ブレーキ!
キーボードのアキラ。
ベースのチャック。
トラックの窓に、2人の顔が見えた。
「ビリーが、大変だ!」
「ビリーが大麻《パカロロ》を!?」
ハンバーガーをかじるために開けたあたしの口。
そのまま、半開きだ。
ギタリストのビリーは、中国系《チヤイニーズ》。スカウトするまで、ホノルルのダウンタウンで大麻《パカロロ》の売人《プツシヤー》をやってた。
「それが、また、昔の商売に手を出したらしいんだ」
と、アキラ。
「で!?」
「フィリピン人たちとトラブって、いま、とり囲まれてる」
「どこで!?」
「カピオラニ公園だ」
そこなら、近い。
あたしは、自転車にまたがる。ハンバーガーをくわえたまま、走り出す。
チャックが運転するトラックも、飛び出してくる。
フル・スピード。
並んで走る。
〈そのクルマ、どうしたの!?〉
運転席のチャックに、ジェスチャーできいた。
「しっけいしてきたのさ!」
と、チャック。エディ・マーフィーそっくりの顔が、ニカッと笑った。
やれやれ……。
「あそこだ!」
助手席のアキラが叫んだ。
カピオラニ公園の端っこ。
10人ぐらいの人間がいる。
まん中に、ビリー。
それを囲んでいるのは、フィリピン人たち。チンピラらしい。
ぐんぐん、近づいていく。
〈いくわよ!〉
チャックたちに、手で合図。
自転車のスピードを、ゆるめず、フィリピン人たちの中へ、あたしは、突っ込んでいく。
やつらが、ふり向く。
くわえてたハンバーガーを、右手で握る。
最初のフィリピン人。そいつの顔に、思いきり、叩きつけた。
やつの順。ケチャップ、マスタード、玉ネギが飛び散る。
あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜いていた。
2人目。
鉄パイプを、ブンッと振り回してくる。
頭を下げて、かわす。
やつのわきを走り抜けながら、そのボディをスティックで払った。
やつは、のけぞる。
フィリピン人たちが、ひるむ。
「ビリー!」
チャックが叫んだ。ピックアップ・トラックで、突っ込んでいく。
「待ってたぜ!」
トラックの荷台に、ビリーがとび乗る。
あたしの自転車とトラックは、スピードを落とさない。
ビリーを助けると、フィリピン人たちの中を突っ切る。
通りに出る。
フル・スピードで、ズラかる。
「というわけよ」
あたしは、ヒロにいった。
フィリピン人たちをまくため、チャックたちのトラックと別れた。
自転車で、そのまま走りつづけた。
あの海岸公園《ビーチ・パーク》で、ひと休み。
シャワーで、汗を流していたのだ。
「そうだったのかあ」
と、ヒロ。|かき氷《シエイヴ・アイス》をかじりながら、つぶやいた。
午後4時。
ホノルル港《ハーバー》。第7桟橋《さんばし》。
あたしとヒロは、岸壁《がんぺき》に坐っていた。
「まったく、たいしたものよ」
あたしは、苦笑い。
「間男、クルマ泥棒《どろぼう》、大麻《パカロロ》商売だもんね」
SALEM《セーラム》を、あたしはくわえた。
「これじゃ、スーパー・バンドじゃなくて、スーパー・ギャングよ」
煙草に、火をつけた。潮とメンソールの香りを、いっしょに吸い込む。
「どうして、みんな、そんな風に?」
ヒロが、きいた。
「目標を見失ってるのね」
〈|A TO Z《エイ・トウー・ジー》〉の圧力で、どこのレコード会社からも、いい返事がこない。練習にも、熱が入らない。そんな状態が、もう1か月つづいている。
「なんとかしなくちゃ」
あたしは、唇をかむ。
「ところで、それは?」
ヒロの楽器ケースを、指さした。
「ああ、これ?」
ヒロは、楽器ケースを開ける。アルト・サックスだった。
「吹いてみてよ」
「嫌《いや》だよ。プロの前で」
「いいじゃない。もし、うまかったら、バンドに入れてあげるから」
ヒロのソバカス顔が微笑《わら》った。
「ヘタでも、笑わない?」
あたしは、うなずく。ヒロは、楽器ケースから、楽譜《スコアー》を出した。
〈YOU《ユー》 ARE《アー》 SO《ソー》 BEAUTIFUL《ビユーテイフル》〉
J《ジヨー》・コッカーが唄ってヒットさせた。きれいなラヴ・バラードだ。
ヒロは、リードをくわえる。楽譜《スコアー》を見る。
吹きはじめた。
「あんた、好きな女の子がいるでしょう」
あたしは、いった。
ヒロが、吹き終わって、〈どうだった?〉と、あたしにきいた。その返事だ。
演奏は、なかなか。この年齢《とし》にしちゃ、上出来だろう。
けど、何よりもまず、それに気づいた。
〈この子は、いま、恋をしている〉
「ね、そうでしょう」
あたしは、ヒロの顔をのぞき込む。ヒロは、口をとがらせて、
「好きな子なんて……」
「いるんでしょう」
「いないよ!」
「顔が赤いわよ」
本当に、ヒロのソバカス顔が、紅潮している。
「白状しちゃいなさいよ」
あたしが、もう少しからかおうとしたとき、
「あッ」
ヒロが、小さく声を上げた。桟橋《さんばし》の向こう。クルマが1台、近づいてくる。グレーのFORD《フオード》だった。
「パパだ……」
ヒロが、つぶやいた。
「ねえミッキー、これ、預かってくれない」
ヒロは、アルト・サックスをケースにしまう。それを、あたしに渡す。
「どうして?」
「音楽をやってるのを見つかると、パパに怒られるんだ」
「…………」
FORDが、近づいてくる。とまる。ドアが、開く。
軍服の男が、おりてきた。40代。日系人。がっしりした体格。海軍《ネイビー》だった。階級章は、大尉《たいい》だ。
「パパ」
ヒロが、彼の方に歩いていく。
「きょうの午後は、ボーイ・スカウトの集会じゃなかったのか」
大尉が、口を開いた。厳しい声。厳しい表情。
「それが、ちょっと……」
「ちょっと、どうしたんだ」
ヒロは、無言。返事が、できない。
「説明は、家に帰ってきこうか」
大尉は、まわれ、右。クルマに戻っていく。
「ここか……」
あたしは、その家の前で、自転車をとめた。
楽器ケース片手に、家の玄関に歩いていく。
ホノルル港《ハーバー》の桟橋で別れてから3日。ヒロは、アルト・サックスをとりにこない。
預かっている楽器が、あたしは気になっていた。
ワルどもに殴《なぐ》られても、抱きかかえて守ろうとしたアルトだ。どうして、とりにこないんだろう。あたしの居場所がわからないんだろうか。
楽器ケースを、開けてみた。
蓋《ふた》の裏側。小さく、住所と名前が書いてあった。
それが、この家だ。
飾《かざ》りけのない、アメリカン・スタイルの家。いかにも、軍人家族の家だ。
玄関へ。ベルを押す。
誰も、出ない。もう1度。やはり、答えがない。
留守か。
帰ろうとしたとき、
「こっちだ」
と、声がした。ふり返る。
ヒロのパパ。ヤマモト大尉だった。
家のわき。開けっぱなしのガレージ。
大尉《たいい》は、ボクシングの練習中だったらしい。
「来週、部隊の対抗《たいこう》試合があるんでね」
と、大尉。
「こんなスタイルで、失礼するよ」
ランニング・シャツ。カーキ色のズボン。胸の筋肉が、たくましい。40代の後半だろう。けど、ぜい肉など、まるでない。
「あの……ヒロは……」
「まだ、学校から帰っていない」
「そう……」
「君は、この前、桟橋《さんばし》で、ヒロシといっしょにいた子だね」
あたしは、うなずく。
楽器ケースを、無意識に、体の後ろへ……。
「かくさなくてもいいんだ」
と、大尉。手に、包帯《バンデージ》を巻きながら、
「ヒロシの楽器だね。知ってるよ」
といった。
わかってるんなら、しかたない。
「ひとつだけ、ききたいんだけど」
「何かね」
「彼が、ヒロが音楽をやるのに、なぜ反対するの?」
大尉は、包帯《バンデージ》を巻き終える。
「簡単さ。ヒロシにも、勇気ある軍人になって欲しいからだ」
ガレージの天井《てんじよう》から下がっているサンド・バッグを、思いきり殴った。
「自分が軍人であることに、私は誇《ほこ》りを持っている」
と、大尉《たいい》。
左フック。ドスッと重い音。サンド・バッグが揺れる。
「ヴェトナムで」
右フック。
「カンボジアで」
左フック。
「われながら、いつも勇敢《ゆうかん》な軍人だったと思う」
揺れているサンド・バッグを、大尉はおさえる。
「来年、長男は士官学校を卒業して、海軍に入る。次男は、士官学校に入学する。2人とも、いい軍人になるだろう。だが……」
大尉は、あたしにふり向くと、
「末っ子のヒロシは、腰抜《こしぬ》けのラッパ吹きだ」
ムカッとした。
「腰抜けは、ひどいんじゃない」
「ちがうかね」
大尉は、パンチをくり出す。
右ストレート。サンド・バッグが揺れる。
「あの日、ヒロシの顔が腫《は》れてるんで問いつめたら、白状したよ」
左ストレート。
「白人の連中に、殴《なぐ》られたこと」
右ストレート。
「君に、助けられたこと」
左フック。
「それに関しちゃ、君に礼をいわなきゃならないだろう」
「けっこうよ」
左右のワン・ツー。
揺《ゆ》れるサンド・バッグを、大尉《たいい》はおさえる。
サンド・バッグに、軽く触《ふ》れながら、
「悲しいんだ……私の息子が、女の子に助けられるなんて……」
「もしかして、あの子を、殴ったでしょう」
包帯《バンデージ》を巻いた自分の手を、大尉は、じっと見て、
「……ああ。軽く1発だがね」
あたしは、腰に手をやる。大尉を、にらみつける。
「立派な父親ね」
めいっぱい、皮肉ってやる。
「いくら憎《にく》まれてもいいさ。ケンカひとつできない、いくじなしの息子を持ってるよりはね」
「いくらいくじなしでも、あんたの子供じゃない」
「だから、悲しいんだ」
「あきれた……」
あたしは、まわれ右。ガレージを出ていく。
後ろで、サンド・バッグを殴る重い音が、また響きはじめた。
「忘れ物よ」
ヒロの後ろ頭を、ポンッと叩いた。ソバカス顔が、ふり返る。
「あれ!? ミッキー……」
あたしは、楽器ケースを彼にさし出して、
「とりにこないから、売り飛ばしちゃおうと思ったわよ」
と笑った。
ヒロの家から、歩いて5、6分。彼が通っている学校。もう、放課後らしい。
校庭の端にあるバスケット・コート。
コート・サイドに突《つ》っ立って、ヒロはバスケの練習をながめているところだった。
「ありがとう」
と、ヒロ。楽器ケースをうけとる。
「とりにいきたくても、ミッキーの住所がわからなかったんだ」
「住所はね、太平洋よ」
あたしは、ニコッと微笑《わら》った。
「いまは、都合があって、カパフル|通り《アベニユー》の〈ホノルル・コロシアム〉で寝泊《ねとま》りしてるけどね」
あたしたちは、歩きはじめた。学校の金網《フエンス》ぞいに歩いていく。
頭上。風に揺れているヤシの葉の向こう。ジェット機の編隊が、飛んでいく。海軍《ネイビー》の艦載機《かんさいき》らしい。
そうか。
真珠湾《パール・ハーバー》の海軍基地は、すぐ近くだ。
このあたり一帯、海軍のための住宅地なんだろう。 ヒロの通ってるこの学校も、兵隊の子供のための学校らしい。
〈BOMB《ボム》 GIRLS《ガールズ》〉
訳せば、〈爆弾娘《ばくだんむすめ》〉。
そんな、いさましい名前をユニフォームにつけた女子ソフトボール・チームが練習している。
あたしは、立ちどまった。
金網《フエンス》のこっちから、ソフトボールの練習を、ながめる。
ボールを打つ音。
歓声。
芝生の匂い……。
「ソフトボール・チームに、入りたかったなあ……」
あたしは、つぶやいた。
「学校にいってた頃?」
ヒロがきいた。あたしは、うなずく。
「どうして、入れなかったんだい。ケンカっ早かったから?」
「まさか」
あたしは、苦笑い。
「放課後は、バイトで忙しかったのよ」
あたしが、中学校《インターミデイエイト》に上がる頃。
パパの仕事は、完璧《かんぺき》になくなっていた。
うちの暮らしは、ジェット・コースターみたいに、ぐんぐん下っていった。
ただし、ジェット・コースターとちがうのは、下りっぱなしだったことだ。
放課後。あたしは、バイトに精を出した。
同級生が学校のプールで練習している頃、あたしは、ホテルのプールで働いていた。
友達が学校のグラウンドを駆け回っている頃、あたしは、貸しサーフ・ボード屋のバイトで、砂浜を駆け回っていた。
そうするしかなかった。
せいいっぱい、がんばった。
それなりに、楽しかった。
でも……それでも……やっぱり……。
「ミッキー」
と、ヒロの声。われに返る。
「どうしたのさ。ぼんやりしちゃって」
「なんでもないわ」
鼻の奥が、ツンッとしている。
瞳が、濡れそうだった。
あたしは、唇をかんだ。
センチメンタルなんて、似合わないよ、ミッキー。そう、自分にいいきかせた。
過ぎた日々は、過ぎた日々。
思い出すことはできても、とり戻すことはできないんだから……。
あたしは、深呼吸。
「なんか、食べにいこう」
と、ヒロに笑いかけた。
気持ちが濡れたときは、何か食べるに限る。
学校のすぐとなり。
〈HARRY《ハリー》 HONOLULU《ホノルル》〉が、店を出していた。
小型バスの移動ハンバーガー屋だ。
高校《ハイスクール》や中学校《インターミデイエイト》の生徒で、にぎわっていた。
あたしはチーズ・バーガーに、ルート・ビアー。ヒロは、普通のバーガーに、オレンジエード。
口を、大きく開ける。
チーズ・バーガーに、かみつこうと思ったとたん、
「ヒロ」
と、声がした。
ふり返る。5、6人の女の子たち。その1人が、こっちに歩いてくる。
「や、やあ、ミッシェル」
と、ヒロ。
右手にハンバーガー、左手にエードを持ったまま。
ソバカス顔が、信号みたいに赤くなってる。
「そうか……」
あたしは、ニッコリ微笑《わら》った。
女の子は、白人。
年齢《とし》は、13か14。ヒロと同じぐらい。
金髪。青いワンピース。教科書をかかえている。
ちょっと前のテイタム・オニールに似ている。なかなか、かわいい。
「彼女、同級生《クラスメート》の、ミッシェル」
と、ヒロ。赤い顔で、いった。
「こっちは、ミッキー」
「よろしく」
あたしは、ハンバーガーをくわえる。ミッシェルと握手《あくしゆ》。
「かわいいじゃない」
ヒロの耳もとで、そうささやいた。
この前。ホノルル港《ハーバー》の桟橋《さんばし》で、ヒロのアルト・サックスを聴《き》いたとき気づいた、恋愛の相手は、
「彼女なんでしょ?」
ハンバーガーをかじりながら、ヒロにささやいた。ヒロは、顔をさらに赤くして、
「彼女なんかじゃないよ」
「これからなのか。がんばりなさいよ」
ミッシェルは、ヒロの足もとを見る。楽器ケースを、指さして、
「ねえ、ヒロ。今度のパーティーで、演奏するの?」
ときいた。
「う……うん……もしかしたら」
と、ヒロ。口ごもる。頼りない返事。
〈ほら、しっかりしなさいよ〉
と、ヒロの背中を叩《たた》こうと思ったとき、
「ほう。ジャップもハンバーガーを食うのか」
背中で、声がした。
ふり返る。
白人の男の子が、4、5人。
よく見れば、この前の連中。海岸公園《ビーチ・パーク》で、ヒロを殴ってたやつらだ。
そうか。
ヒロと同じ学校の|11年生《ジユニア》だったっけ……。
「ジャップってのは、スシ・バーでタコを頭からかじるんじゃないのか」
と、あの鼻ニキビ。
ニタニタと笑いながらいった。
「まだ、こりてないらしいわね」
あたしは、軽くため息。
1歩、つめ寄ろうとする。
「おっと」
鼻ニキビは、1歩さがる。
「きょうは、やめとこう。ケンカ日和《びより》じゃないんでね」
ニタッと笑うと、
「よお、ミッシェル」
彼女の肩に、手を置いた。
「安物のハンバーガーはジャップにまかせて、ローストビーフ・サンドでも食いにいこうぜ」
と、強引に連れていく。
「おい、バナナ小僧《こぞう》」
と、ヒロにふり返ると、
「眼鏡にケチャップがついてるぜ。ネエさんに、なめてもらえよ」
と、捨てゼリフ。
本当だ。
ヒロのぶ厚い眼鏡。ハンバーガーのケチャップがついてる。
もう少しで、吹き出すところだった。
「彼女を、横取りされちゃったじゃないの」
と、あたし。
ハンバーガー屋のペーパー・ナプキンを、とってきてやる。
「だって……」
と、ヒロ。眼鏡についたケチャップを、ナプキンでふく。
「彼女を、好きなんでしょ」
「…………」
「なら、ちゃんと勝負しなさいよ」
「だって……あいつら……命知らずだし……」
「誰も、殴り合いをしろなんていってないわ。自分が得意なもので勝負すればいいじゃない」
「得意なもの?」
「そう。それよ」
足もとの楽器ケースを、あたしは眼でさした。
「ひと前で演《や》るの、はじめてなんだ」
と、ヒロ。うつむいて、ぽつりといった。
「なんだって、はじめてのことはあるわ」
たそがれの下り坂《スロープ》を、あたしたちは歩いていた。
ヤシの葉の向こう。
真珠湾《パール・ハーバー》が、夕陽《ゆうひ》を照り返している。
「で? そのパーティーはいつなの」
「来週の土曜日」
海軍基地のパーティーらしい。
転属で、かなりな数の兵隊と家族がやってくる。その、歓迎《かんげい》パーティーだという。
早い話、半分は口実。兵隊も家族たちも、パーティーが好きなのだ。
「ミッキー、ドラムを叩いてくれるかい?」
「いいわよ。で、ほかのメンバーは、集められそう?」
「うん。ピアノとベースは、同級生でなんとか」
「OK。じゃ、練習開始ね」
ヒロの背中を、あたしは叩いた。
オレンジエードを飲んでたヒロは、ブホッとむせた。
「やっぱり……」
ヒロが、つぶやいた。唇をかんで、
「みんな、ボクみたいな弱虫と演《や》るのがいやなんだ」
と、うつむいた。
翌日。午後4時。練習場の〈ホノルル・コロシアム〉。
いくら待っても、同級生のメンバーがこない。もう、1時間も待っているのに……。
「いいんだ、もう」
ヒロは、楽器ケースをつかむ。出ていこうとした。
そのとき、
「短気な坊やだなあ」
という声。
ビリーだった。
その後ろに、チャック。リカルド。そして、アキラ。
「どうだい。仕事にあぶれてる音楽屋が、4人ほどいるんだがね」
と、ビリー。
「使ってみる気はないかね」
ニッと笑った。
ヒロが、驚《おどろ》いた顔で、あたしをふり返った。
あたしは、肩《かた》をすくめる。
「ま、このさい、しょうがないか」
ヒロが、楽器ケースを開ける。
アルトと楽譜《スコアー》を出す。
ビリーが、楽譜《スコアー》をのぞいて、
「ほう。ガキのくせに、ナマイキな曲やるじゃないか」
白い歯を見せた。
「〈YOU《ユー》 ARE《アー》 SO《ソー》 BEAUTIFUL《ビユーテイフル》〉、キーは、Dだ」
と、メンバーにいった。
あたしは、ヒップ・ポケットからスティックを抜く。
ハイハットの高さを、少し調節する。
ビリーが、ギターを肩からつる。
チャックも、ベースをヒザの上に。
アキラが、電気ピアノの前に。
リカルドが、ヴォーカル・アンプのスイッチを入れた。
「|1《ワン》コーラスは、リカルドが唄う。|2《ツー》コーラス目からは、坊やが吹く」
と、ビリー。ヒロに、
「何コーラス吹いてもいいぞ、坊や。くたびれたら、ふり向いて眼で合図しろ。おれたちが引きうける」
スタンバイ、OK。
ビリーのギターが、最初のコードをさりげなく弾《ひ》く。
リカルドが、唄いはじめる。
ひさびさにきく、リカルドの唄だ。
「得意技は間男《まおとこ》だけかと思ったら、唄もいけるじゃないか」
と、チャック。まっ黒い顔から、ニカッと白い歯をのぞかせた。
|1《ワン》コーラス、唄い終わる。
リカルドが、ヒロに合図。
ヒロは、ぶ厚い眼鏡をずり上げる。楽譜《スコアー》を見る。吹きはじめた。
アキラが、鍵盤《けんばん》の上で指を動かしながら、あたしを見た。肩をすくめて、
〈なかなか、やるじゃないか〉
という表情。
「帰りたくないって……」
あたしは、思わずつぶやいた。
練習が終わったところだった。タオルで、スティックと自分の手をふいていた。
ヒロが、帰りたくないといい出したのは、そのときだった。
「ここで働かせてくれないか」
アルトをしまいながら、そういった。
「あんな……あんなパパのうちなんて、帰りたくないんだ」
と、楽器ケースの蓋《ふた》を閉めながらくり返す。
「しょうがないわねえ」
あたしは、軽くため息をついた。
バスケットボールが、足もとに転がってきた。
あたしは、それをひろう。1回だけ、軽くドリブル。走ってきた男の子に、パス。裸足のロコ・ボーイは、
「サンキュー」
と、右手を上げる。仲間のところへ走っていく。
「どうして、こんなところへきたんだい」
となりで、ヒロがきいた。
あたしたちの前は、空き地。
芝生と雑草の空き地だ。
10歳ぐらいのロコ・ボーイたちが、そこでバスケの練習をやっていた。
となりの家の、プルメリアの樹。
そして、〈FOR SALE〉の看板が、芝生に影を落としている。
「ここが、あたしの家だったのよ」
「…………」
ヒロが、あたしの横顔を見た。
「……だった?」
「ごらんのとおり」
あたしは、肩をすくめる。
「もう、何もないの」
と、微笑《わら》った。
バスケをやる男の子たちのにぎやかな歓声。
あたしは、眼を細めて空き地をながめた。
いまも、はっきりと思い出すことができる。
いま、裸足の子がボールをドリブルしているところ。そこは、キッチンだった。よく故障する、ゼニス社の冷蔵庫があった。
いま、赤いTシャツの子が駆《か》け回っているところ。
そこは、|裏 庭《バツク・ヤード》だった。
5歳のとき、ママが家を出ていってから、そこで洗濯するのはあたしの役だった。
まだ子供だったから、イスにのって、洗濯物を干していった。
芝生に坐って、風に揺れる洗濯物をながめるのが好きだった。
まっ青な空。
洗濯ロープで揺れている白いTシャツ。黄色いアロハ……。
洗濯石けんの匂いとプルメリアの香りが、鼻をくすぐる。
細いヒザにアゴをついて、ぼんやりと、将来を夢見ていた……。
そして、いま、青いパンツの子が転んだところ。
そこが、ポーチだった。
パパが、ロッキング・チェアでRUM《ラム》を飲んでいた。
そのとなり。小さい手で、大人用のスティックを握ったあたしがいた。
毎日毎日、ポーチの手すりを叩いて練習した……。
「ミッキーのパパは、事故で死んだんだっけ」
と、ヒロ。
あたしは、うなずいた。
「わかったよ、ミッキー」
ヒロがいった。
「どうして、ここへ連れてきたか」
「…………」
「どんなパパでも、いないよりはましなんだね」
出っ歯が、ニコッと笑った。
「正解よ。よくできました」
あたしも笑いながら、彼の頭を叩いた。
夕陽が、芝生の1本1本を光らせている。ロコ・ボーイたちの歓声が、風に運ばれていく。
急ブレーキ!
自転車が、キッと前にのめる。
あと1ヤードで、クルマのバンパーとキスするところだった。
土曜日、夕方。
海軍基地。
きょうはパーティーの日だから、ゲートはフリー・パス。
あたしは、自転車。ほかのメンバーは、ピックアップ・トラック。基地の中のパーティー会場にいくところだった。
燃料庫の角で、あたしはグレーのFORD《フオード》とはち合わせした。
「大丈夫《だいじようぶ》か?」
クルマの窓が開く。
顔を出したのは、ヒロの父親だった。
あい変わらず、軍服をキチッと着込んでいる。
「君は……」
と、大尉《たいい》。クルマのドアを開けた。
「どこへ? 大尉」
「ごらんのとおり、帰るのさ。1日の勤務は、終わったんでね」
「パーティーには、いかないの? 彼が、ヒロが、演奏するのよ」
大尉は、首を横に振った。
「見たくもないね」
「…………」
「私が見たいのは、息子がバズーカ砲《ほう》をかついでる姿ではあっても、腰を振りながらラッパを吹いてる姿ではない」
「勝手にすれば」
あたしは、ペダルをこぐ。2、3ヤードいって、ブレーキ。
大尉に、ふり返る。
「ひとつだけ、いわせて」
彼の眼を、まっすぐに見て、
「銃《じゆう》を握って何かに立ち向かうのに勇気が必要なように、楽器で何かに立ち向かうのにも、勇気がいるわ。種類はちがっても、勇気に変わりないと、あたしは思うわ」
大尉に、背を向ける。走り出す。
「ミッキー!」
女の子の声。
くわえ煙草でドラムをセットしていたあたしは、ふり返る。
金髪の子が、ステージに駆《か》けてくる。
あのミッシェル。ヒロが好きな子だ。
「どうしたの!?」
「彼が、ヒロが、上級生に囲まれてるの!」
「どこで!?」
「プールの裏よ!!」
あたしは、低いステージをとびおりる。パーティー会場を駆け抜ける。プールの裏へ。
地面に倒れているヒロの姿が、眼に入った。
眼鏡が、ふっ飛んでいる。
唇の端が、切れている。
「ミッキー」
と、ヒロ。
とり囲んでる連中が、ふり返った。例のやつらだった。
「ふん。やっぱり、きたか」
と、鼻ニキビ。
足もとに落ちてるヒロの眼鏡を、ニヤニヤ笑いながらふんづけた。
やつの靴の下。
眼鏡が、パリパリとつぶれていく。
あたしは、深呼吸。
「包帯を用意しとくのね」
くわえてた煙草を、指でピッと弾《はじ》き飛ばした。
やつらは、さっと広がる。
「パーティーのオードブルは」
「ロコ・ガールのサシミか」
カチッ。
カチッ。
カチッ。
カチッ。
ナイフの刃《ブレード》が4つ。たそがれの光を反射した。どうやら、全員で新調したらしい。
あたしは、深呼吸。ゆっくりと、右手を後ろへ。
「チッ!」
鼻ニキビが、かかってきた。ナイフの白い光が、胸もとへ飛び込《こ》んでくる。
かわす。
かわしながら、スティックを抜《ぬ》いていた。
フロア・タムを叩《たた》くフォーム。手首に、ビシッと叩きおろす。
うめき声。
ナイフが落ちる。
2人目!
右からきた。
かわす。
手首を下から、思いきり叩き上げる。
ナイフが、光りながら飛んでいく。
3人目!
ナイフを、横に払ってくる。
体をひるがえす。
きわどく、かわす。
ポニー・テールの先を、ナイフがかすめる。
切られた毛先が、パッと宙に散る。
夕陽に、キラキラと光る。
あたしは、地面に転がる。転がりながら、左のスティックも抜いていた。
3人目の急所を右で。
4人目の足首を左で。
つづけてひっぱたく。
2人は、同時に地面にくずれ落ちる。
あたしは、立ち上がる。
大きく、肩で息をする。
全部で、10秒はかかっていなかったろう。
「ダメだよ」
ヒロが、泣きそうな声で、
「楽譜《スコアー》が、読めないよ」
といった。
演奏まで、あと5分。たそがれの会場は、もう、人でうまっていた。
アメリカン・フットボールのグラウンド。
芝生の上には、丸いテーブル。
ビュッフェ・パーティーだ。あちこちで、ビールを飲みはじめている。
あたしとヒロは、ステージのソデにいた。ほかのメンパーは、もうステージの上。スタンバイしている。
ヒロは、いまにも泣き出しそうな顔で、アルト・サックスを握りしめている。
眼鏡をこわされた。
あのぶ厚い眼鏡がないんじゃ、楽譜《スコアー》なんて読めないだろう。でも、
「いいこと」
あたしは、ヒロの肩に手を置いた。
「楽譜《スコアー》なんかなしで、演《や》るのよ」
「楽譜《スコアー》なしで!?」
「そうよ。もう、何百回も練習してきた曲でしょう」
「でも……」
「いい。何が見える?」
「人が、見える」
「ステージのすぐ前に、ピンクの服が見えるでしょう」
「ああ。ぼやけてるけど、見える」
「あれが、ミッシェルよ。彼女に向けて、吹けばいいのよ」
「…………」
「〈YOU《ユー》 ARE《アー》 SO《ソー》 BEAUTIFUL《ビユーテイフル》〉……言葉でそういうかわりに、アルトで吹くのよ」
「…………」
「楽譜《スコアー》になんか、頼《たよ》ってちゃダメよ。まちがえたっていいの。勇気を出して、感じるままに、吹いてごらんなさい」
ヒロは、唇をかみしめている。
あたしは、1歩、ステージに歩き出す。
足をとめる。ふり返る。
ヒロの顔を、まっすぐに見て、
「人生には、楽譜《スコアー》なんてないのよ」
微笑《ほほえ》みながら、そういった。
ドラムスに向かって、歩いていく。
あたしは、タムタムの角度を、少しだけなおす。
ギターのビリー。
ベースのチャック。
キーボードのアキラ。
ヴォーカルのリカルド。
全員、スタンバイ、OK。
深呼吸、1発。
スティックを鳴らして、合図《カウント》を出す。
カチッ。(|1《ワン》)
カチッ。(|2《ツー》)
カチッ。(|3《スリー》)
カチッ。(|4《フオー》)
走りはじめる。
オープニング・テーマ。
16ビート。
アップ・テンポの|演 奏《インストロメンタル》。
|1《ワン》コーラスだけ、演《や》る。
会場の眼が、みんなステージに向く。
「レディース・アンド・ジェントルメン! グッド・イヴニング!!」
と、リカルド。
ふり向いて、眼で合図。
ビリーが、イントロを弾《ひ》く。
曲は、〈YOU ARE SO BEAUTIFUL〉。
リカルドが、唄いはじめる。
あたしたちは、バックでささえる。
|1《ワン》コーラス、唄い終わる。
アキラが、キーボードでつなぐ。
マイクを握ったリカルドが、
「さて、今夜の主役」
ステージのソデをさして、
「ヒロ・ヤマモト! オン・アルト・サックス!」
まばらな拍手《はくしゆ》。
ヒロは、出てこない。ステージのソデで、突《つ》っ立ってる。
ミッシェルが、心配そうな顔で見ている。
あたしも、リズムをキープしながら、ヒロに眼で語りかける。
〈さあ、勇気を出して!〉
やっと、ヒロは歩き出した。頼りない歩き方。コードに、つまずく。転びそうになる。
会場から、笑い声が上がる。ミッシェルは、泣きそうな顔でステージを見上げてる。
ヒロは、やっと、ステージ中央、マイクの前へたどり着く。
間奏は、流れっぱなし。いつでも、入ってこれる態勢だ。
ヒロは、あたしをふり返った。
あたしは、眼で、語りかける。
〈失敗を怖《こわ》がっちゃダメ。あんたが信じるように吹けばいいのよ〉
ヒロが、小さくうなずいた。
深呼吸。1回、2回……。アルトを、しっかりとかまえなおす。
眼を閉じた。
そう、それが正解かもしれない。
どうせ、楽譜《スコアー》が読めないんだから……。
吹きはじめた。
眼の前にいるはずのミッシェルに向かって、語りかけてるつもりなんだろう。
気持ちのこもった濃《こ》い音が、会場に流れていく。
ビリーが、ギターを弾《ひ》きながら、あたしをふり返った。
〈悪くないね〉
そんな表情で、眉をピクリと動かしてみせた。
|1《ワン》コーラス、終わる。
|2《ツー》コーラス目へ。
会場のざわめきが、ピタリととまっている。
全員が、ヒロの演奏を聴《き》いていた。
けして、うまい演奏とはいえないだろう。
けど、ひたむきな音色。ひたむきなフレーズ……。パーティー会場の全員が、じっと、耳をすましていた。
|3《スリー》コーラス。
そして、エンディング。
何かを祈《いの》るような、静かな終わり方。
音が、ふり返りふり返り、遠ざかって消えていく。
静まり返った会場。
1秒、2秒……。
そして、歓声と拍手が爆発《ばくはつ》した。
「大至急、アントニオを呼ぼうぜ」
と、ビリー。
「この坊やのための契約書を持ってこさせるんだ」
ヒロの肩を、バシッと叩いた。
全部で、5曲|演《や》った。
がやがやと、ステージからおりていくところだった。
「冗談《じようだん》でも、嬉《うれ》しいよ」
と、ヒロ。顔が、紅潮している。
「ミッキー」
「何?」
「いつか、ボクが本当にうまくなってたら、いっしょにレコーディングしたいな」
「いいわよ。ただし、あたしたちのレコードを出してくれる会社が見つかっていればの話だけどね」
「レコード会社なんて、つくればいいじゃないか」
「つくる?」
「ああ。レコード会社が見つからないんなら、自分たちでつくればいいじゃないか。ビートルズみたいに」
「…………」
「さっき、ボクに、楽譜《スコアー》になんか頼《たよ》るなっていっただろう」
「…………」
「なのに、いままでのレコード会社に頼るなんて、ミッキーらしくないよ」
ビリーが、笑い出した。
「坊やに、1本とられたな」
「なるほど……その手があったか」
と、リカルドがいった。
ヒロは、嬉しそうに、
「ビートルズがアップル・レコードだから、ミッキーたちは、パイナップル・レコードだね」
と、あたしの顔をのぞき込《こ》む。
なるほど。
パイナップル娘《ガール》だから、
「パイナップル・レーベルか……」
あたしは、つぶやいた。
「悪くないね」
チャックが、ニッと笑った。
ステージの下。
ミッシェルが、待っていた。
「ヒロ……」
2人は、向かい合う。ヒロは、彼女《かのじよ》の顔をまっすぐに見る。照れながらも、
「君のために……吹いたんだ」
といった。
ミッシェルの青い瞳に、涙があふれ出る。ヒロの首を、しっかりと抱きしめた。
あたしたちは、顔を見合わせる。
「うらやましいね」
と、チャック。
「おれも、14歳に戻りたい」
と、アキラ。
抱き合ってるヒロたちを残して、あたしたちはクルマに歩いていく。
クルマのわきに、大尉《たいい》が立っていた……。
「あんたの息子《むすこ》は、きっとプレイボーイになるわね」
あたしは、大尉にいった。
ヒロとミッシェルをふり返って、
「14歳から、女を泣かしてるんだもの」
と微笑《わら》った。
チャックたちのピックアップ。そこにたてかけてあった自分の自転車を起こす。
「その……」
と、大尉。
「何?」
「あの曲……なんていうタイトルかね」
「〈YOU《ユー》 ARE《アー》 SO《ソー》 BEAUTIFUL《ビユーテイフル》〉よ」
「そうか……」
「それが?」
「あ、いや……なかなかいい演奏だったよ」
「それだけ?」
「ああ……いい演奏だった……」
ほんの1、2ミリ。大尉の唇が微笑《わら》った。
あたしは、2、3ミリ、笑顔を、お返しする。
「じゃあね、大尉さん」
自転車に、またがる。
大尉は、制帽《せいぼう》をかぶる。ゆっくりと、敬礼をした。あたしは、親指を立てて応《こた》える。
走り出す。
スピードを上げていく。
チャックたちも、ピックアップを出す。すぐに追いついてきた。
「見ろよ」
ピックアップの運転席。チャックが、後ろを指さした。
ふり返る。
大尉《たいい》が、まだこっちに敬礼をしていた。
カチッとした制服の姿が、ぐんぐん遠ざかっていく。
やがて、チリ豆《ビーン》ぐらいに小さくなっても、大尉の右手は、こっちに向かって敬礼をしている……。
「ジャンケンだ! ミッキー」
並んで走ってるピックアップの荷台。
ビリーが、あたしに叫んだ。
「なんのジャンケンよ、ビリー」
「誰が、パイナップル・レーベルの社長になるかさ」
ビリーの白い歯が、たそがれに光った。
「…………」
あたしたちは、基地のゲートを走り抜けた。
ヤシの葉の向こう。きょう最初の星が出ている。
自分たちのレコード会社。
パイナップル・レーベル。
幻《まぼろし》だろうか……。
|25セント玉《クオーター》かと思ってひろってみたら、COKE《コーク》のフタ。
そんな、はかない夢のかけらだろうか……。
それならそれでいい。
どっちみち、ポケットは空《から》なんだ。
どんな小さな夢のかけらでも、はいっていないよりはいいじゃないか、ミッキー。
そう、自分につぶやいた。
自転車のハンドルを、きつく握る。
顔を、まっすぐに起こす。
真珠湾《パール・ハーバー》から吹くたそがれの風を切って、あたしは走っていく。
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第2話 たとえラスト・チャンスでも
「エクスキューズ・ミー」
背中で、声がした。あたしは、ふり返る。
日本人の男の子が2人。
「キャン・ユー・スピーク・ジャパニーズ?」
右側の子が、ヘタな発音でそういった。
「話せるわよ」
あたしは、日本語で答えた。
ニッコリと微笑《わら》ってあげる。
どうやら、カモらしかった。
ワイキキ海岸《ビーチ》。
午後2時。
きょうも、快晴だった。まっ青なペンキを塗ったような空。ヤシの葉が、カラカラと揺れている。
モアナ・ホテルわきにある木のベンチに、あたしは坐っていた。
ネイビー・ブルーのTシャツ。
ショート・パンツ。
白いスニーカー。
肩には、デイ・パック。
どこから見ても、典型的なロコ・ガールのスタイルで、海をながめていた。
「何か用?」
話しかけてきた男の子に、そうきいた。
「あの……ハッパ、持ってない?」
左側の子が、そういった。
「ハッパ?」
あたしは、いちおう、とぼけてみる。
「ほら、ハッパさ」
と、右側の子。
親指と人差し指で、煙草《たばこ》を吸うかっこうをした。
2人とも、観光客。金回りのいい大学生ってところだろう。
ラコステのポロ・シャツ。女の子が持つような、イタリー製の小型バッグ。
金をかけた服装のわりには、頭の悪そうな顔をしていた。
「ハッパね……」
あたしは、ちょっと考えるふり。
「あるわよ」
といってやる。
「ホント!?」
と、2人。
「いくら?」
2人同時にきいてきた。
「30ドル」
と、あたし。
「30ドルか……」
ちょっと高いなあ、という顔。
「20ドルにならない?」
と、左側の子。あたしは、4、5秒、考える。
「ま……いいわ」
と、肩をすくめる。
「こっちよ」
立ち上がる。歩き出す。男の子たちは、ついてくる。
ホテルとホテルの間の細い通路。見回す。誰も、こない。
あたしは、デイ・パックを開けた。
ビニール袋を、1つ、とり出す。葉っぱが、ひとつかみ入っている。
チリチリに乾いた、濃い緑の葉っぱ。
大麻《パカロロ》なんかじゃない。文字どおり、ただの葉っぱ。
このあたりの海辺に生えてる雑草、〈|噴 水 草《フアウンテン・グラス》〉かなんかを乾かしたものだ。
「はい、ハッパ」
あたしは、男の子に渡す。男の子は、それをジーンズのポケットに入れる。
10ドル札《さつ》を2枚。
あたしは、うけとる。
ショート・パンツのポケットに突っ込む。
「じゃあね」
男の子たちに、手を振る。歩き出す。
「こら、起きろ、ビリー」
あたしは、いった。
ABCストアー裏の駐車場。
駐《と》めてあるクルマの座席《シート》で、ビリーは眠り込んでいた。
ボロっちい、オープンのワーゲン。
ジャッキー・チェンそっくりの顔。
口を半開き。細いヨダレをたらして、居眠りしている。
「ほら、起きてよ」
あたしは、その鼻をつまむ。
「ん? ああ……」
ビリーは、眼を開ける。
「なんだ、ミッキーか。いい夢見てたのに」
見れば、ビリーのあそこは、モッコリとふくらんでいる。
「あきれた」
あたしは、モッコリの上にドサッとデイ・パックを置いた。
「う……」
ビリーは、はね起きる。
「まったく、あたしだけ働かせといて、この極楽トンボが」
「しょうがないだろう。おれは、日本語しゃべれないんだから」
それをいわれると、いい返しようがない。
この仕事のカモは、99パーセント日本人観光客だからだ。
「売れたかい?」
と、ビリー。
「まずまずね」
あたしは、ショート・パンツのポケットを叩いた。
きょうは、3時間ワイキキ海岸《ビーチ》にいて、カモは5組。120ドルの稼《かせ》ぎだった。
自分たちのレコード会社。パイナップル・レーベルをつくる。
そのための、第一歩。資金づくりだった。とはいうものの、
「やれやれ、お腹がすいたわ」
あたしは、つぶやいた。
「サイミンでも、食いにいこうか」
と、ビリー。
「OK」
あたしは、うなずく。クルマのドアをまたいで乗ろうとした。そのとき、
「ちょいと待ちな」
巻き舌の英語がきこえた。
待ちたくなかった。
けど、しょうがない。ふり返る。
男が、5、6人。フィリピーノだった。
建物と建物にはさまれた駐車場。
ひとけは、ない。
フィリピーノたちは、あたしたちを囲む。
「おまえらか、このあたりのナワバリを荒らしてるのは」
1人が、そういった。ボスらしい。
「さて、なんのことかな」
ビリーが、とぼける。
「ふん」
と、フィリピーノ。
「営業許可もなしに、パカロロ商売しやがって」
と、吐《は》き捨てた。
「あんたたちは、営業許可を持ってるわけ?」
あたしは、きいた。
「ああ」
と、ボスらしいやつ。ニヤリと笑いながら、
「営業許可は、これさ」
アロハのソデを、グイとまくった。
ハムみたいに太い腕。
刺青《いれずみ》。ドクロの刺青がしてある。
「そんなのなら、あたしだってあるわ」
あたしは、いった。
Tシャツのソデを、まくる。子供の頃《ころ》やった、予防注射のアト。
「ほら」
と、見せてやる。やつらは、一瞬、ムッとする。
「おれの営業許可は、これさ」
と、ビリーもいった。Tシャツをまくって、デベソを突き出した。
「ふざけやがって……」
と、刺青男。
「痛い思いを、してもらおうか」
手下に合図。
やつらは、身がまえる。
じりっと、つめてくる。
「あんた、相手してよ」
あたしは、ビリーにささやいた。
「ミッキー、やってくれよ」
「あたしは、お腹がすいてるの。あんた、昼寝してたんでしょう」
「わかったよ」
と、ビリー。
リラックス。けど、さりげなくカンフーのかまえ。やつらを、見回す。
「ほれ!」
2人が、同時に殴りかかってきた。
1人のパンチを、ビリーはよける。同時に、もう1人に蹴り!
相手は、ふっ飛ぶ。
「チッ!」
左から、また1人かかってきた。
ビリーは、パンチをうけとめる。
す早く、相手の顔に、3発。拳《こぶし》を叩き込む。
鼻血が、吹き出す。
地面に倒れる。
「クソ!」
と、ボスの刺青《いれずみ》男。
後ろに、右手を。
飛び出しナイフを、抜いた。
刃《ブレード》が、飛び出す。
あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜いていた。
「そんなものふり回したら、せっかくのイレズミが泣くわよ」
やつの手首を、ビシッと叩き上げた。
「ウッ」
ナイフが、飛んでいく。
午後の陽に、キラキラと光って、地面に落ちた。
「ちッ」
やつは、ナイフに駆《か》け寄る。
ひろい上げようとした。その尻《しり》に、あたしは回し蹴《げ》り。
「わッ」
やつは、ふっ飛ぶ。
駐車してあるFORD《フオード》に、顔面でキスをした。
青いエンジン・フードに、鼻血が飛び散る。
あたしは、スティックをヒップ・ポケットに戻す。
ワーゲンのドアを、跳《と》びこえて運転席へ。
エンジンをかける。
クルマを出す。
「ビリー!」
残りの2人とニラみ合ってたビリーは、動き出したクルマに跳《と》び乗ってくる。
「じゃあね!」
やつらは、手を振る。カラカウア|通り《アベニユー》に、走り出す。
カキーン!
鋭い音がした。
15番の玉が、ビリヤード台の上を走る。コーナーのポケットに、ストンと落ちた。
「勝負あったな」
チャックの黒い顔。まっ白い歯と、ピンクの歯ぐきが光る。
「15ドルの勝ちだ」
ビリヤードのキューを左手に、右手をさし出した。
「わ……わかったよ」
と、小太りの白人、もそもそと、ポケットをさぐる。しわくちゃのドル札を、引っぱり出す。
「もってけ」
チャックの右手に、ドル札を叩きつけた。
「ありがとうよ」
チャックが、ニッと笑った。
「もう、ひと勝負やるかい?」
と、相手にきく。
「もう、スッカラカンだ」
相手の白人は、チャックをにらみつける。
「この黒ん坊が」
と、吐き捨てる。カウンターの方へ歩いていった。
ダウンタウン。ビショップ通りのバー。もう、夜中近かった。
「いい腕ね、チャック」
ビールのグラス片手に、あたしはいった。
「天才といってくれてもいいぜ」
チャックの歯が、白く光った。
「ビリヤードは、もちろん、これも」
と、ベースを弾《ひ》く動作。
「それに、これも」
と、腰をヒワイに動かしてみせた。
「よくいうわよ」
あたしは、ビールを飲み干す。
「さて、帰るとするか」
と、チャック。
「もう、カモもいないようだし」
あたし、ビリー、チャックの3人は、店を出た。ダウンタウンを歩く。ワーゲンを駐《と》めてある屋外駐車場へ。
ビリーが、クルマのドアをまたいだ。そのとき、ピシャッと鋭い音がした。
駐車場の出口。薄暗《うすくら》がりで、何かが動く。人影が、5つ、6つ。
眼《め》をこらして見る。
女だった。ど派手な服と、グリーンに染めた髪。どうやら、商売女《ストリート・ガール》らしかった。
また、ピシャッと音がした。
「強情なやつだ」
という声。また、ピシャリという音。1人の女を、4、5人の女が囲んでいるらしい。
「ほら、なんとかいいなよ」
と、囲んでいる女の1人。相手の髪を、つかんだ。地面に、ひきずり倒す。別の1人が、蹴りつける。
あたしとチャックは、そっちに歩いていく。
「ちょっと、あんたたち」
あたしは、いった。
「おとりこみ中、悪いんだけどね」
やつらが、ふり向いた。
「そこでリンチやられてると、クルマが出せないんだけど」
「なんだって」
1人の商売女が、こっちをニラむ。
「リンチなんかじゃないよ」
「そう見えるけど」
あたしは、いった。
「こいつが客をかすめとったから、ちょっとお説教しているだけさ。あんた、文句あるのかい」
こっちに、くってかかる。
「やめときなよ、マリリー」
別の商売女が、ひきとめた。
「こいつ、ミッキーだよ」
「ミッキーって……あの?」
「ほら、見てごらん、あのスティック」
やつらは、ひそひそとささやく。
「ミッキーも、名前が売れてきたな」
チャックが、微笑《わら》いながらいった。
「ふんッ」
と、商売女たち。
「じゃましやがって……」
それでも、しぶしぶ、リンチをやめる。
「ミッキーだかドナルドだか知らないけど、この、小便くさい小娘が!」
と、商売女の1人。
「まだ毛も生えてないくせに、一人前の口きいて」
と、別の1人。となりで、チャックが吹き出した。
「何がおかしいのよ!?」
「だって、うまいこというなと思ってさ」
「チャック!」
あたしは、チャックのヒップをつねった。
「じゃあね、お嬢ちゃん」
商売女は、ズラかっていく。
「その黒ん坊に、おシメでもかえてもらうんだね」
と、シブい捨てゼリフ。ぞろぞろと、駐車場を出ていく。リンチされてた女は、もう、立ち上がっていた。
「大丈夫《だいじようぶ》?」
あたしは、きいた。
「ほっといてよ」
その声に、きき覚えがあった。
ビリーが、ワーゲンのライトをつけた。へッドライトに、照らし出された顔。
「雪美《シユーメイ》……」
あたしは、思わず、つぶやいていた。
「ひさしぶりね、ミッキー」
と、雪美《シユーメイ》。ヒップをはたきながらいった。
一部分、ピンクに染めた髪。
ほとんどバストがこぼれているタンクトップ。レザーのショート・パンツ。ヒールのあるサンダル。黒い網タイツ。
絵に描《か》いたような夜の女だった。
「いつか出会うと思ってたわ」
雪美の眼が、あたしを見た。大きく黒い瞳。いつも濡れているような猫眼《キヤツツ・アイ》だ。
「ケガは、ないの?」
と、あたし。
「ほっといて。誰も、助けてくれなんていった覚えはないわ」
雪美は、ピシャリといった。
「じゃ、またね、ミッキー」
と、歩き出す。
「あの」
と、チャック。
「なあに?」
雪美が、ふり向いた。
「そのうち、また、会いたいもんだね」
チャックが、ニタッと微笑《わら》った。
「あんた、タフそうだから、楽しみにしてるわ」
と、雪美。チャックに、ウインク1発。モンロー・ウォークで、青いDATSUN《ダツツーン》に。
エンジンをかける。ゆっくりと、駐車場を出ていく。
「彼女の名前は?」
チャックがきいた。
「シューメイよ」
あたしは、ダッシュボードに足を投げ出していった。
「どこでの知り合いなんだい」
「感化院《ガールズ・ホーム》よ」
「やっぱり、売春でブチ込まれてたのか? 彼女は」
運転してるビリーがきいた。あたしは、うなずく。
クルマは、深夜のカピオラニ|通り《ブルヴアード》を走っていた。
「また、もとの世界に戻っちゃったのね」
あたしは、軽く、ため息。
「そういうミッキーだって」
と、ビリー。
「ケンカで感化院《ホーム》にブチ込まれて、出てきても、やっぱり変わらないじゃないか」
黄色いHONDAを追い抜きながら、
「感化院ってのが、どれだけ税金のムダ使いかってことだな」
笑いながら、鋭いことをいった。
「まあね」
と、あたし。
「彼女、いくつだい」
と、チャック。
「確か、あたしと、同じよ」
「ってことは、16か……」
後ろのシートで、チャックがうなる。
「何か、いいたいんでしょう、チャック」
「いや、その……色っぽいなと思ってさ」
確かに。女のあたしから見ても、セクシーな娘だった。中国系のロコ・ガールには、多いタイプだった。
「あれで、ミッキーと同じ年齢《とし》とはね……」
「ほっといて」
クルマは、右折。カラカウア|通り《アベニユー》へ。
「なあ、ミッキー」
チャックが、あたしの肩《かた》を叩《たた》いた。
「彼女、いくらかなあ」
「いくらって?」
「とぼけるなよ。ほら、ひと晩、楽しく過ごしてさ」
「知ってるわけないでしょ! そんなこと」
あたしがいったとき、
「彼女は、安くないよ」
ステアリングを握ってるビリーがいった。
「2時間でも300ドルが相場だろうなあ」
そうか。
ビリーも、同じ中国系。
顔見知りでも、不思議じゃない。
「ひと晩、300ドルか……」
チャックが、つぶやいた。
「ミッキーが、1日|稼《かせ》いで120ドル。あっちは、2時間で300ドルか」
「何よ。あたしに、夜の女をやれっていうわけ?」
「そりゃ、無理だ」
ビリーが、笑い出した。
「客が、つくわけない」
「ちょっと!」
ビリーを、ど突《つ》いた。
「やめろ、ミッキー」
クルマが、ふらつく。道ばたのゴミ缶を、はね飛ばす。
「426ドルか……」
あたしは、ドル札を数え終わった。
翌日。ライヴハウス〈ホノルル・コロシアム〉。午後の練習が、終わったところだった。
「きのうの稼ぎは」
「これだけか」
みんなで、テーブルのドル札をながめる。
「パイナップル・レーベルへの道は遠いな」
缶のBUD《バド》を飲みながら、ビリーが笑った。そのとき、
「そう悲観したもんでもないぜ、諸君」
と、声がした。
ふり返る。マネージャーのアントニオだった。
光るブルーのスーツ。まっ白い靴。胸には、赤いバラを1輪。
あい変わらずのスタイルで、店に入ってくる。
「これはこれは。アカプルコの女ったらしの登場かい」
チャックがいった。
ビリーが、飲んでたビールを吹き出した。
「いいニュースだ」
と、アントニオ。
「金持ち女でも、引っかけたか」
と、チャック。
「そんなんじゃない。あの、ワイキキ・パレスで、専属バンドを募集してる」
「ワイキキ・パレスって、あの、ホテルの?」
あたしは、きいた。
「そうだ。その、ワイキキ・パレスだ」
アントニオは、まるで、自分の持ち物みたいに胸をはった。
ホテル・ワイキキ・パレス。
ワイキキ海岸のアラ・モアナ公園寄りにある。ホノルルでも、一番大きいホテルの1つだ。
「ワイキキ・パレスといや」
「よく、本国《メイン・ランド》からもミュージシャンを呼んでるじゃないか」
「そう。そこで、いま、6か月間の専属バンドを募集《ぼしゆう》してるんだ」
と、アントニオ。
みんな、一瞬、無言。
「あそこは、えらくギャラが高いってウワサだが」
と、ビリー。
「ああ。いいギャラだ」
と、アントニオ。
「それだけじゃない。客ダネがいい」
胸のバラを、キザにつまんで、
「ロスやニューヨークから、一流の連中が、やってくる」
「つまり」
「顔を売るための」
「いいチャンスだってことか」
「そういうこと」
「じゃ、早く契約《けいやく》してこいよ、アントニオ」
チャックがいった。
「その前に、オーディションだ」
と、アントニオ。
「オーディション?」
「ああ。あれだけのホテルの専属バンド募集だ。ホノルル中の音楽屋が、押し寄せてくるだろう」
「じゃ、そのピカピカの靴で、蹴散《けち》らしてこいよ、アントニオ」
ビリーが、いった。
「蹴散らすのは、諸君だ」
と、アントニオ。
「オーディションの会場でな」
2週間後。
ホテル・ワイキキ・パレス。
1階にあるレインボー・ルーム。
オーディション会場になっている、広いレストラン&バーだ。
オーディション・テープで選ばれた10組が、ここで演《や》るらしい。
午後2時。
「あーあ」
ビリーが、大あくび。
「待たせるなあ」
といった。
レストランには、ほかのバンドも揃《そろ》っていた。知っている顔も、ちらほらいる。
「早くはじめてくれないと、帰っちゃうぞ」
リカルドがつぶやいたとき、ドアが開いた。
男が、入ってきた。
白人。
30代。
少し、ラテン系が入っているだろう。フリオ・イグレシアスばりの、ハンサムだった。
仕立てのいいスーツを着ていた。
ボディガードみたいなのが2人。左右についている。
男は、大またでステージへ。
マイクの前に立つ。
「当ホテル・オーナーのロナルド・ショーです」
よく響く声でいった。
二代目《ジユニア》だとはきいていた。けど、30代で、こんなホテルのオーナーとは……。
「きょうは、オーディションにようこそ。送られた270本のテープから、ここにいる10バンドを選ばせてもらいました」
と、見回す。
「専属バンドとしての出演料《ギヤランテイ》は、6か月間で20万ドルです」
フロアーから、口笛。
「では、がんばってください」
ロナルドは、渋く微笑《びしよう》。
ステージをおりる。
オーディションが、はじまった。
「こりゃ、いただく手だね」
と、ビリー。
「もう、パカロロ商売とも、おさらばね」
あたしは、いった。
「パイナップル・レコードのマークを、考えなきゃ」
チャックが、いった。
「君が、ミッキーだね」
ふいに、声がふってきた。
顔を上げる。
オーナーのロナルドが、立っていた。左右には、あい変わらずボディガードたち。
「そうだけど……」
あたしは、答えた。
ステージの上じゃ、バンドが交代している。
あたしたちの番は、まだ先だ。
「どうして、あたしのことを?」
と、きいた。
ロナルドは、微笑《ほほえ》みながら、
「私は、君のパパを、知っているんだよ」
と、いった。
「パパを?……」
「ああ、そうだ」
「知っているって……どこで?」
「このホテルに、出演してもらったことがある」
「へえ……」
「君のパパは、いいドラム叩きだった……」
ロナルドは、また、渋く微笑《わら》うと、
「いずれ、ゆっくり、思い出話でもしよう」
あたしの肩を叩いて、
「じゃ、いい演奏を期待しているよ」
向こうへ、歩いていった。
あたしが、ボーッとしていると、音が流れはじめた。つぎのバンドが、演奏をはじめていた。
男の子が、4人。みんな、チャイニーズだった。
曲の前奏《イントロ》らしい。
見れば、リード・ヴォーカルがいない。
そう思ったとたん。後ろのドアが、開いた。
女の子が、立っていた。
細身の黒いパンツ。下着みたいな、黒いタンクトップ。細いヒール。
雪美《シユーメイ》だった。
あたしたちは、口を半開き。あっけにとられていた。
雪美は、ステージに歩いていく。
ステージの上に。
マイクを握《にぎ》る。唄いはじめた。
パンチのある声。マドンナばりの、セクシーなしぐさ。髪をふり乱して、雪美は唄う。
そうか……。
思い出した。
感化院《ガールズ・ホーム》にいるとき、雪美とは、何回か口をきいたことがある。
あたしは、日系ロコ・ガール。
彼女は、中国系ロコ・ガール。
白人の子とよりは、口をきくことが多かった。
そのうちの1回。
〈あんたも、音楽やってるんだって?〉
そう、雪美がきいてきたことがあった。いま、思い返せば、
〈あんたも〉
ってことは、こういうことだったらしい。
「やるじゃないか」
ビリーが、いった。
確かに。
雪美の唄は、悪くなかった。何よりも、まず、セクシーだ。
自分の長所を、ちゃんと知っている。そんなプロっぽさがあった。
「感心してる場合じゃないぜ」
リカルドが、笑いながらいった。
「つぎは、おれたちの番だ」
雪美の唄が、終わった。
あたしたちは、テーブルから立ち上がる。ステージの下で、雪美とすれちがう。
あたしは、雪美の眼を見た。彼女は、プイとそっぽを向いた。
そうか。
そういうことか……。
あたしは、ステージに上がる。
ビリーが、あたしのそばにきた。そっと、耳うち。
「やつらのドラム叩きが、シンバル・スタンドのネジをゆるめたぜ。気をつけろ」
「わかったわ」
あたしは、唇をかむ。
ドラム・セットへ。
シンバル・スタンドのネジは、確かに、ゆるんでいた。
そのまま叩いてたら、とちゅうでシンバルがぶっ倒れるかもしれない。
そうなれば、テンポが狂《くる》うだろう。
汚ない手、使いやがって……。
あたしは、無言。
スタンドのネジを締《し》める。ハイハットも、確かめる。
スネアの高さ。角度。タムタムの角度。自分用に調整する。
ヒップ・ポケットから、スティックを抜く。
ギターのビリー。
ベースのチャック。
キーボードのアキラ。
最後に、ヴォーカルのリカルド。
全員、スタンバイ、OK。こっちに向かって、白い歯を見せた。
さて、いくか。
ステージの下。汗をふいてる、雪美のバンドのドラム叩きに、あたしは、アカンベエ。
カン! (|1《ワン》)
カン! (|2《ツー》)
カン! (|1《ワン》)
カン! (|2《ツー》)
カン! (|3《スリー》)
カン! (|4《フオー》)
スティックを、ふりおろした。
音が、飛び出した。
「いやあ、腹がへったなあ」
リカルドがいった。
「エンチラーダでも食いにいくか」
と、背のびをした。
ワイキキ・パレスの前。オーディションを終えて、出てきたところだった。
「マルガリータでもガブ飲みして」
「前祝いとするか」
ビリーたちは、クルマに乗り込む。
「ミッキーは?」
「ちょっと、楽器屋に寄ってくるわ」
「楽器屋?」
いまの一件で、思い出した。
〈ホノルル・コロシアム〉のドラム・セット。
ハイハットのネジが、バカになりかけていた。
「それじゃ、先にいってるよ、ミッキー」
「クヒオ通りの〈テキーラ・ガーデン〉だ」
みんなは、クルマに。
あたしは、自転車に、またがる。陽ざしの中へ、走り出す。
ふいに!
クルマが、前をふさいだ!
ぼんやりと、雪美のことを考えながら走っていた。その分、一瞬、ブレーキがおくれた。
クルマのバンパーに、接触《せつしよく》。自転車ごと、ひっくり返る。
ガシャンッという音。
ヒザと肩を、いやというほど道路にぶつけた。
「あ痛ァ……」
やっと、上半身を起こす。
右脚は、自転車の下だ。
クルマのドアが開いた。
「大丈夫《だいじようぶ》か」
2、3人、飛び出してくる。1人が、あたしの後ろへ。
かかえ起こしてくれるのか。そう思った。
けど、それは、早トチリだったらしい。
ヒップ・ポケットのスティックが、サッと引き抜《ぬ》かれた。
「あッ」
思わず、声を上げる。ふり向いた。
その顔に、ナイフの刃が2本、左右からつきつけられた。
「いいカッコだな、ミッキー」
やつらの1人が、いった。
ひとけのない海岸公園《ビーチ・パーク》。砂地の駐車場。
あたしは、地面に、はりつけられていた。
大の字。両手両足を、硬《かた》い砂地にくくりつけられていた。
「いつもの、勇ましさはどうした」
やつらは、あたしを見おろす。
ニタニタと、笑う。見覚えのある顔。
そうか……。さっきのオーディションにきていた、フィリピン・バンドのやつらだった。
「あたしに、なんの用」
と、ニラみつけていってやる。
「ほう。まだ、元気は残っていたか」
と、やつらの一人。
「いや、たいした用じゃないんだ」
ニヤニヤしながら、
「ちょいと、あんたに、ケガをして欲しくてね」
「ケガ?」
「ああ。ドラム叩きが入院しちゃ、バンドは休業だからね」
そうか。そういうことか……。
「そんなにしてまで、オーディションに勝ちたいわけ?」
「当たり前さ」
そのとき、地面に震動《しんどう》が響いた。
震動が、大きくなっていく。やがて、クルマのエンジン音がきこえた。
助かった……。
誰か、駐車場に入ってきた。
赤いセダンが、とまった。ドアが、開く。4人、おりてきた。
あたしは、思わず、眼《め》を閉じた。
クルマからおりてきたのも、フィリピーノ。
この前、ABCストアーの駐車場で、ビリーといっしょにやっつけたやつらだった。
「これはこれは」
見覚えのある顔が、あたしを見おろした。
太い腕に、ドクロの刺青《いれずみ》。あたしが、ぶっ飛ばしたやつだった。右手を、白い包帯でつっている。
「よくやったぞ、兄弟」
刺青男は、フィリピン・バンドの連中にいった。どうやら、仲間だったらしい。
「あんときは、世話になったな」
と、刺青男。あたしを見おろして、いった。
「しばらくね」
あたしは、いってやる。
「ふん。そんな口きいてられるのも、いまのうちだ」
やつの眼が、凶暴《きようぼう》に光った。
「さて、そろそろ、ショーをはじめようか」
と、仲間にいう。
「はじめるって、どんなショーを?」
あたしは、きいた。
「知りたいか、ショーのプログラムを」
「まあね」
「じゃ、教えてやろう」
やつは、ニタリと笑った。
「たいしたことじゃない。お前にやられたこの傷に」
と、右手の包帯をさして、
「ちょっと、利子をつけて、お返しするってわけよ」
「別に、お返しなんていらないけど」
「まあ、そういうな。楽しいぜ」
と、刺青男。赤いセダンの屋根をぽんと叩《たた》いて、
「こいつで、お前の腕にアイロンをかけてやろうっていうんだからな」
「アイロン……」
「そう。このクルマでもって、その右腕を轢《ひ》いてやろうってのさ」
「…………」
「まあ、少しは痛いかもしれないがね」
連中の笑い声が、爆発した。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。本当に、やるだろう。
痛いなんてものじゃ、すまない。骨まで、コナゴナに砕《くだ》けるかもしれない。
「心配するな」
と、刺青《いれずみ》男。
「ゆっくりと、ゆっくりと、轢いてやるから」
また、笑い声がわき起こる。
「さてと」
やつが、クルマに乗り込む。
「覚悟《かくご》はいいか!」
エンジンをかけた。
「泣き叫ぶんなら、いまのうちだぞ!」
誰が、そんなこと。あたしは、唇をきつくかむ。
汗びっしょりの拳《こぶし》を、きつく握る。眼を、閉じた。
「さて、ショー・タイムだ」
ギアの入る音。
あたしは、全身を硬《かた》くする。ショックに、身がまえる。
そのとき!
パトカーのサイレンが、きこえた。ぐんぐん、近づいてくる。
「ヤバいぜ、ホセ!」
「クルマにゃ、大麻《パカロロ》が!」
そんな、連中の叫び声。
あたしは、眼を開けた。フィリピーノたちが、クルマに飛び乗る。ズラかっていくのが見えた。
「どうしたことかね、これは」
と、パトカーからおりてきた警官。
中年のハワイアンが2人。人のよさそうな警官たちだった。
「ビーチ・パークで、乱闘騒《らんとうさわ》ぎだという通報で、きてみれば……」
ぶつぶついいながら、あたしの手足のヒモを、ほどいてくれる。
「いったい、何があったんだね」
「何って、瞑想《メデイテイシヨン》よ」
「メディテイション?」
警官は、眼を丸くする。
「そうよ。こういうスタイルで、瞑想《めいそう》するのよ」
あたしは、とぼける。
「まあ、ヨガの修行の一種ね」
海岸公園《ビーチ・パーク》の入口。青いDATSUN《ダツツーン》が、駐まっている。雪美が乗っていた……。
「生きてるみたいね、ミッキー」
「あんたが、警察に?」
雪美は、小さくうなずいた。
「さっきのオーディション会場で、フィリピーノたちが相談してるのを、偶然、きいたのよ」
「そう……」
「誤解しないでね、ミッキー」
と、雪美。まっすぐに、あたしの顔を見た。
「これは、ただ、借りを返すためだからね」
「借り?」
「そう。この前の夜、ダウンタウンの駐車場でね」
「ああ……」
雪美が、夜の女たちにリンチされかかっていたときのことか……。
「これで、貸し借りなしよ、ミッキー」
「…………」
「ワイキキ・パレスのオーディションには、あたしが勝つわ」
雪美は、クルマのギアを入れて、
「どんな手を使ってもね」
といった。
たそがれの陽を反射するバンパー。ゆっくりと、遠ざかっていく。
「電話だ、ミッキー」
と、アントニオ。あたしは、カウンターに歩いていく。
「はい。ミッキーよ」
「ちょっとお待ちください」
と女の声。オペレーターか秘書らしかった。
「やあ、ミッキー」
と、柔らかい声。
ワイキキ・パレスのオーナー、ロナルドだった。
「オーディションの結果だがね」
「ええ……」
「2バンドにまで絞《しぼ》ったよ」
「2バンド……」
「君のバンドと、雪美のだ」
「…………」
「その件で、ちょっと相談があるんだ。君のパパのことも話したいし、ちょっときてくれないか」
「わかったわ」
|P・H《ペント・ハウス》。
そう書いてあるボタンを、あたしは押した。エレベーターは、上がっていく。
ホテル最上階の36階を過ぎる。P・Hに、ランプがつく。エレベーターのドアが、開いた。
まっ赤な絨毯《じゆうたん》だった。
ひどく厚い絨毯だ。あたしは、思わずつまずいた。2、3歩、よろける。
男の胸が、目の前にあった。
ボディガードらしい、がっちりした男だった。
「あの……ロナルドさんに」
「どうぞ」
男は、ドアを開けてくれた。やたら、豪華なドアだった。
けど、中は、もっと豪華だった。
やはり、毛足の長い絨毯。皮ばりのソファー。壁ぎわには、中国っぽい壺。黄色い蘭《オーキツド》が、山ほど放り込まれていた。
えらく豪華だけど、くつろげる部屋だった。
床から天井まで、全面ガラス。ホノルルの夜景が、広がっていた。
あたしは、窓ぎわに。
ガラスに額をくっつけて、夜景をながめる。
〈ホノルル・コロシアム〉は、どの辺だろう。
あたしの生まれ育った家は、どのあたりだろう……。
「気に入ったかい、ミッキー」
後ろで、声がした。
ふり返る。
ロナルドが、立っていた。
「夜景ってやつは、美しいけど、淋しいものだね」
ロナルドは、渋く微笑《ほほえ》んだ。
麻の半ソデシャツ。綿のパンツ。この前より、くつろいだスタイルだった。
「シャンパンでも、飲むかい?」
「もらうわ」
ロナルドは、つくりつけの冷蔵庫を開ける。
冷えたシャンパンの栓を抜く。
シャンパン・グラスじゃなくて、普通の縦長グラスに、シャンパンを注ぐ。
あたしに、渡してくれる。
ものなれた動作だった。
葉巻きと、かすかなコロンの香りが、鼻先にニアミスした。
「じゃ、乾杯」
と、ロナルド。
グラスを合わせる。
ノドが、渇いているのに気づいた。どうやら、少し緊張《きんちよう》しているらしい。
はじめて出会った、大人の男って感じだった。
頬が、かすかに熱い。
そんなの、らしくないよ、ミッキー。そう、自分にいいきかせた。
シャンパンを、くいっと飲む。ソファーに坐った。
ショート・パンツのスソが、ちょっと気になる。
スソを手でのばしながら、
「いい部屋ね」
と、明るくいった。
「ああ……だが、ひとりで住むには、ちょっと広すぎる」
「奥さんは?」
「いたけど……」
「いたけど?」
「別れたんだ。2年前にね」
「ごめんなさい」
「いや。いいんだ」
ロナルドは、渋く微笑《わら》う。
紙巻きを、くわえた。火をつける。匂いが、漂《ただよ》う。大麻《パカロロ》らしかった。
ロナルドは、ひと息、吸い込《こ》む。
「やるかい?」
あたしは、うけとった。
吸い込む。
「君のパパは、すごいドラマーだった」
と、ロナルド。
「私も、ジャズの好きな少年だったから、パパのステージに熱狂《ねつきよう》したよ」
あたしは、パカロロを返す。
「その娘の力になれるなんて、偶然とはいえ、ラッキーだ」
ロナルドは、パカロロを吸う。
また、あたしに渡す。
「力になるって?」
パカロロを吸いながら、あたしはきいた。
「もちろん、仕事のことさ」
と、ロナルド。
「そういえば、オーディションのこと……」
「ああ、そのことだが」
ロナルドは、言葉を切ると、
「もし君が、OKしてくれるなら、いますぐ、君のバンドに決めよう」
「OKって、何を?……」
「わかってるだろう? 子供じゃあるまいし」
思わず、ムセた。
パカロロの煙を、鼻と口から吐き出す。
頭が、クラッとした。
ムセると、パカロロってやつは特に効くのだ。
「そんなに驚くなよ」
と、ロナルド。あたしの背中をさすってくれながら、
「君みたいなじゃじゃ馬娘が、私は嫌いじゃない」
ロナルドの指先が、のびてきた。あたしの太モモを、スーッとなでた。
思わず、ビクッとした。
パカロロの灰が、ポロリと落ちた。
「ひとつのビジネスだと思ってくれてもいい」
ロナルドの手が、あたしの肩に。
「私は、君をバックアップする。君は、6か月間、私の恋人《こいびと》になってくれる」
肩を、抱き寄せられた。キスされそうになる。
「やめてよ!」
ロナルドの体を、押しのける。
立ち上がった。けど、目まいがする。足もとが、ふらつく。
パカロロのせいだ。えらく強い葉っぱだったらしい。
ロナルドに、手をつかまれた。腕の中へ引き戻される。
ロナルドの唇が、首筋に。手が、アロハ・シャツの中へ入ってくる。
もがく。けど、体に力が入らない。ぐったりしそうになる。
ダメだミッキー! 自分にいいきかせた。
ここでぐったりしたらお終いだ!
ロナルドの手が、ショート・パンツにかかった。
「いやよ!」
「いいじゃないか。減るものじゃなし」
そのひとことで、われに返った。
そうだ。
減るものじゃある。あたしは、ヴァージンなんだから……。
最後の力を、ふり絞《しぼ》る。ロナルドの体を、突《つ》き飛ばした。
立ち上がった。
ふらつく。立っているのが、やっとだった。
「そうか……わかったよ……」
と、ロナルド。
「君も、オヤジと同じだな。世の中ってやつが、わかってない」
と、嘲笑《わら》った。
あたしは、息を切らして、立っていた。
何か、いってやりたかった。けど、パカロロのせいで、口が、うまく回らない。
とにかく、ここからズラからなくちゃ……。
まわれ右。ドアに向かって、ふらふらと歩く。
「お客さんが、お帰りだ」
ロナルドの声が、響《ひび》いた。
エレベーターのドアが閉まる。
下りはじめる。
また、パカロロが回ってきた。
もしかしたら、ただのパカロロじゃない。
何かのドラッグが、混ぜてあったかもしれない。
エレベーターの壁に、よりかかる。
気がつけば、アロハのボタンが、全部、ちぎれ飛んでいる。右のバストが、のぞいている。
のろのろと、バストの前でシャツを縛《しば》った。
眼を閉じる。
また、エレベーターの壁にもたれかかる。
ヨロヨロと、ホテルの玄関を出た。
太いヤシが植えてある車よせのわき。小さな噴水が、つくってあった。
酔っぱらいみたいな足どりで、そこへ歩いていく。
両ヒザをつく。噴水の水を、手ですくう。パシャパシャと、顔を洗った。
頭にも、水をかける。
ホテルの客が、ときどき、立ちどまって見ている。
どう見ても、酔っぱらった不良少女ってとこだろう。けど、どうしようもない。
噴水に、顔を突っ込んだまま。肩で、息をついていた。
キッという、タイヤの音。
眼の前に、クルマがとまった。
ドアが開く。
細いヒールが、歩道を踏《ふ》んだ。
あたしは、四つんばいのまま、顔を上げた。
雪美《シユーメイ》が、立っていた……。
ヒップの近くまでスリットの入った、チャイナ・ドレスを着ている。
「その様子じゃ、ロナルドとのお楽しみは、なかったようね」
あたしを見おろして、雪美がいった。
「せっかくのチャンスを……馬鹿ね、ミッキー」
「…………」
「あんた、音楽、好き?」
「…………」
「私は、音楽が好きよ。だから、手段は選ばないわ」
と、雪美。
「いつだってラスト・チャンスのつもりで、体を張るわよ」
あたしだって、体は張るけど……。
そういおうとした。
けど、意味がちがうことに気づいた。
「女の武器だってなんだって、神様からもらったものは100パーセント使って、スターになるわ」
「…………」
「そのときは、前座に使ってあげるわよ」
雪美は、いい捨てた。ホテルの玄関をスタスタと入っていく。
月が、顔を出した。
水平線が、にぶい金色に光りはじめた。
アラ・モアナ海岸《ビーチ》。
ヤシの樹の根もとに、あたしは坐っていた。かかえた両ヒザに、アゴをついていた。
涙が出そうだった。けど、唇をかんでこらえた。
わからない……。
音楽が好きだから、手段を選ばない。
音楽が好きだから、手段を選ぶ。
どっちが正解なの、パパ……。胸の中で、つぶやいてみた。
もちろん、返事はない。かわりに、波が、砂浜に打ち寄せる音。
くり返し、くり返し、波は|4《フオー》ビートで打ち寄せてくる。
ボタンのちぎれたアロハの胸。ひんやりとした潮風が、吹き抜けていく。
3日後。
昼の12時半。
〈ホノルル・コロシアム〉の電話が鳴った。あたしが、受話器をとった。
「ミッキーだね」
ロナルドの声だった。
一瞬、電話を切ろうとした。
「待て。切るなよ、ミッキー」
「わかったわよ。狼《おおかみ》おじさん」
「専属バンドのことだが、やっぱり、君たちに頼むことにしたいんだ」
「だって……あんた……雪美と……」
「そりゃ、彼女とは、楽しい時間を過ごしたさ。ごく自然にね」
「自然に?……」
「ああ、そうさ。どこにでも転がってる、男と女のアバンチュールだ。別に、なんの約束をしたわけでもない」
「そう……」
「それより、仕事の話だ。すぐにきてくれないか」
「……わかったわ」
「こちらでございます」
ボーイが、案内する。
ホテル1階。プールサイドのレストランだ。
白いクロスをかけたテーブルが、丸いプールを囲んでいる。
もう、午後2時近く。
客は、ほとんどいない。
このホテルの客は、金持ちばかり。部屋でお昼寝の時間なんだろう。
ロナルドは、テーブルの1つに坐っていた。
となりのテーブルには、ボディガードが2人いる。
「坐らないかね、ミッキー」
と、ロナルド。
「けっこうよ」
「そうか。じゃ、さっそく仕事の話に入らせてもらおうか」
ロナルドはいった。
「私はビジネスライクな人間だからね、時間のムダ使いはしたくない」
フリオ・イグレシアス風に、ニッと微笑《わら》った。
「ビジネスライクな人間が、食い逃げしちゃよくないわね」
あたしは、いった。
「食い逃げ?」
「そうよ。あんたがいま、雪美にしようとしていることよ」
「…………」
「セックスと仕事を取り引きするのもいいわ。やり方は、人それぞれですものね。でも、食い逃げはいけないわ」
あたしは、ニコッと微笑《わら》った。
「ママに、お尻を叩かれるわよ」
と、いってやる。
「硬いことをいうんだな、ミッキー」
ウエイターが、皿《さら》を運んできた。うやうやしく、ロナルドの前に置く。ピッツァだった。
「私の祖先は、イタリーなんでね」
と、ロナルド。
ナプキンを、胸にかけながら、
「だいいち、君と雪美はライバルじゃないか」
と、いった。
「確かに、あたしと雪美は、やり方が違《ちが》うわ。でも、追いかけてる夢は同じよ」
「夢?」
「そう。音楽にかける夢よ。その夢を食い逃げする人間は、許せないわ」
「許せなきゃ、どうする」
ロナルドは、薄笑《うすわら》い。
ピッツァをつまもうとした。
「たとえば、こうね」
ロナルドの髪を、あたしはつかんだ。思いきり力を込める。やつの顔を、ピッツァに押しつけてやった。
「ギャッ」
という悲鳴。
ロナルドは、バネじかけの人形みたいに、飛び上がった。
溶《と》けたチーズ。サラミ。オニオン。アンチョビ。そんなものが、顔にへばりついてる。
「あぢぢッ!」
「熱ければ、水浴びすれば!」
やつの尻を、あたしは蹴った。
ロナルドは、もんどりうってプールに落ちる。派手な水しぶきが、上がった。
あっけにとられていたボディガードが、あたしに駆け寄ってきた。
あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを抜いていた。
つかみかかってきた1人目。
その右手を、ビシッと叩《たた》きおろす。
同時に、沈み込んでいた。
殴りかかってくる2人目。
その左足を、ピシリと払った。
2人とも、プールサイドに転がる。体を丸めて、うめく。
あたしは、立ち上がった。
スティックを、ヒップ・ポケットに戻す。歩きはじめる。
ウエイターとウエイトレスが、5、6人。
あっけにとられている。
あたしが歩いていくと、あわてて、道を開けた。
1人が持ってる|お盆《トレイ》から、あたしは杏《プラム》をとった。
それをかじりながら、プールサイドを出ていく。
2週間後。
ホノルルの街に、ひさびさの|通り雨《シヤワー》が走り過ぎた。
夕方の5時。
あたしは、ふと、街角で足をとめた。ワイキキ・パレスの前だった。
演奏《ライヴ》の案内が出ている。
〈今夜から登場!〉
〈ホノルルのセクシー・エンジェル〉
〈雪美 with チャイナ・ボーイズ!〉
そんな文字の下。雪美の写真が飾《かざ》ってある。
マイクを握って、唄っている写真だった。
あたしは、それをながめた。
〈いつだってラスト・チャンスのつもりで……〉
雪美のいったそんなセリフを、胸の中でプレイバックしてみた。
ちょっと苦笑い。
〈たとえラスト・チャンスでも、あたしには、やっぱり売り渡せないものがあるわ〉
雪美の写真に向かって、そうつぶやきかけた。
あんたには、あんたのやり方。
たとえぶきっちょでも、あたしには、あたしのやり方……。
長い長いレースが、いまはじまったばかり。そんな気がした。
アロハの胸ポケットから、SALEM《セーラム》を出す。
1本くわえる。
カシャッ。耳もとで、小さな音がした。ジッポの炎《ほのお》が、さし出された。
ふり返る。
ビリーだった。
「サンキュー」
煙草に、火をつける。煙《けむり》を吐《は》きながら、見回した。
チャック。
アキラ。
そして、リカルド……。
みんないた。
「おしいことしたよなあ」
ビリーが、つぶやいた。
「ミッキーが、ちょっとガマンして、あの狼《おおかみ》おじさんとつき合ってやりゃ」
雪美の写真を指さして、
「いま頃、ここにいるのは、おれたちだ」
チャックが、笑いながらいった。
「ひとごとだと思って!」
あたしは、チャックのヒップをひっぱたいた。
「雪美とチャイナ・ボーイズか……」
アキラが、つぶやいた。
「おれたち、ミッキーとパカロロ・ボーイズとしては」
「ビールでも飲みにいくか」
ビリーたちは、ワイワイと歩き出した。
あたしは、深呼吸。雨上がりの湿った風を、胸いっぱいに吸い込んだ。
歩き出すその前に、1度だけふり返ってみた。
雪美の顔写真……。マイクを握りしめているその表情は、少しだけ、哀《かな》しそうにも見えた。
あたしは、唇《くちびる》をかむ。
歩き出す。
ホノルルの空に、きょう最初の星が出ていた。
[#改ページ]
第3話 ラヴ・ソングが、きこえない
「おそいな……」
ビリーが、つぶやいた。
あたしも、腕時計を見た。
ダイヴァーズ・ウォッチの針は、2時17分をさしている。
約束より、17分遅れていた。
「2時半まで待とうよ」
あたしは、いった。
「それで相手がこなけりゃ、取り引きは中止ね」
あたしは、アロハの胸ポケットからSALEM《セーラム》を1本出す。くわえる。
紙マッチで、火をつけた。
薄青《うすあお》い煙草の煙が、パイナップル畑の風に運ばれていく。
自分たちのレコード会社。パイナップル・レーベルをつくる。そのための資金づくり。大麻《パカロロ》の仕事だった。
ケチなニセ物商売じゃない。今度は、本物だ。
ハワイ島の大麻《パカロロ》。
ビリーが、1ポンド当たり85ドルで買いつけてきた。
それを、1ポンド150ドルで売る。
ちゃんとした商売だ。
扱《あつか》ってるのがサトウキビやAHI《マグロ》だったら、警察署の前でも店開きできるだろう。
いま、あたしたちは、パイナップル畑のまん中にいた。
ホノルルから、北へ20マイル。
ルート99の左右に広がるパイナップル畑。
畑の中の道に、トラックをとめていた。
DATSUN《ダツツーン》の小型トラック。
ドライヴァーのチャックは、運転席だ。
野球帽を顔にのせて昼寝している。
褐色《かつしよく》の長い脚が、運転席の窓から突《つ》き出している。
一見、平和な風景だった。
「おなかすいたわ」
あたしは、つぶやいた。
トラックのバンパーに、腰かける。見渡す。
どこまでも広がるパイナップル畑。濃い緑色が、地平線までつづいている。
パトカーも、怪《あや》しいクルマも、いまのところ見えない。
あたしは、眼を細めた。
むき出しの脚と腕。強烈《きようれつ》な陽ざしが、16ビートでカリカリと叩きつけてくる。
「きのう、1曲できたぜ」
ビリーがいった。
「おれたちのデビュー曲には、いいかもしれない」
「どんなの?」
ビリーは、右手をヒップ・ポケットに。
飛び出しナイフを抜いた。
カチッと、刃《ブレード》を起こす。
「こうだ」
ビリーは、しゃがむ。
サラサラに乾いたパイナップル畑の赤土。ナイフの先で、五線を描《か》く。譜面《スコアー》を、描いていく。
あたしは、それをながめた。
譜面《スコアー》を読む。
軽く、|1《ワン》フレーズ、ハミングしてみる。
「悪くないじゃない」
と、ビリーにいった。
「問題は、ここなんだが」
とビリー。4小節目の終わりを、ナイフの先でさした。
「そうね……」
あたしも、もう1度、ハミングしてみる。
「そこの終わりは、Gまで下がった方がいいかもね」
「ミッキーもそう思うか」
とビリー。地面をながめる。左手で、ギターのフレットを押さえる動作。
頭の中で、フレーズを弾《ひ》いてみる。
「やっぱり、ここは……」
と、ビリーがいいかけたとき、トラックのクラクションが鋭く鳴った。
「お客さんらしいぜ」
とチャック。トラックの窓から、黒い顔を出していった。
チャックの視線を、あたしは追う。
パイナップル畑のかなた。赤い土ぼこり。1台のクルマが、走ってくる。シルバー・グレーのセダンだった。
こっちに近づいてくる。
「どうやら、まちがいないみたいね」
あたしは、腕時計を見た。
2時28分。
チャックが、トラックのエンジンをかけた。万が一のための用心だ。
セダンが、近づいてきた。
ドアが、開く。
おりてくる。
5人だった。
フィリピーノが2人。チャイニーズが2人。残りの1人は、コーリアンらしい。
「おそかったな」
トラックのドアにもたれて、ビリーがいった。
「帰ろうと思ったぜ」
「まあ、そういうな」
と、フィリピーノの1人。
「したくに手間どってね」
といった。
「手間どるほどのかっこうとは思えないが」
ビリーがいった。あたしは、吹き出しそうになった。
確かに。
全員、ヨレたドレス・シャツ。安っぽいズボンをはいている。
カラカウア|通り《アベニユー》のディスコだったら、入口で断わられそうな服だった。
「ムダ話はやめて、取り引きだ」
と、フィリピーノの1人。
チリチリにした髪《かみ》。口ヒゲ。こいつがリーダーらしい。
「大麻《パカロロ》を見せてもらおうか」
やつは、いった。
「金が先だ」
とビリー。腕組みしたまま、いった。
「それが」
と、チリチリ頭のフィリピーノ。
「金は、用意できなかったんだ」
肩をすくめて、ニッと笑った。
「それじゃ、売るわけにはいかないな」
とビリー。
「誰も、売ってもらおうなんて思っちゃいないさ」
チリチリ頭は、ニタッと笑う。
「タダでもらおうと思ってね」
やつの右手が、背中へ。ズボンのベルトから、拳銃《けんじゆう》を引き抜いた。
安物。38口径のリボルバーだった。
あたしとビリーは、顔を見合わせる。それほど、驚いていなかった。
「パカロロは、どこだ」
とチリチリ頭。
「自分でさがしな」
ビリーが答えた。
「さがすまでもない」
チリチリ頭は、ニヤリ。
「お前らの考えることぐらいわかるさ」
銃口で、トラックの荷台をさした。
荷台には、パイナップルがひと山、積んである。
「パイナップルをくり抜いて、パカロロをつめてある。そう、顔にかいてあるぜ」
とチリチリ頭。
手下に、眼で合図。
手下のチャイニーズが1人。トラックの荷台へ。
パイナップルをつかんだ。
「こじあけろ」
とチリチリ頭。
チャイニーズは、ポケットからナイフを出す。パイナップルに、ぐいと突き刺した。
「ん?」
とチャイニーズ。
「何も入ってないぜ!」
「そんな馬鹿な! もう1個切ってみろ!」
チリチリ頭がどなった。
手下のチャイニーズは、もう1個、パイナップルの山からつかむ。
ナイフで、ぐいぐいと切っていく。
ビリーは、耳の後ろにはさんだ煙草をとる。
「火を貸してくれないか」
と、あたしにいった。
あたしは、くわえてたSALEMをビリーにさし出す。ビリーは、それで煙草に火をつける。
お互《たが》いに、小さく眼くばせ……。
「こっちも入ってないぜ!」
と、パイナップルを切っていたチャイニーズ。まっぷたつにしたパイナップルを握ってどなった。
パイナップルの果汁が、したたり落ちる。
「そろそろ食べ頃らしいな」
くわえ煙草で、ビリーがいった。
「おれにもひと切れくれないか」
運転席の窓から、チャックが笑いながらいった。
「ちっくしょう! こいつら!」
とチリチリ頭。
「パカロロはどこだ!」
と、どなった。
パカロロは、運転席。シートの中につめてあるのだ。
「どこにかくしてある!」
とチリチリ頭。拳銃のハンマーを起こした。銃口を、ビリーに向ける。
「危ないじゃないか」
ビリーは、肩をすくめる。
「パカロロを出さないと撃つ」
「……わかったよ」
とビリー。
「出しゃいいんだろう」
くわえてた煙草を、指で弾《はじ》いた。
「こっちだ」
アゴをしゃくる。
「エンジン・ルームの中だ」
「そうか……」
とチリチリ頭。拳銃をあたしたちに向けたまま。クルマの前に歩いていく。
その瞬間。
バンッと鋭い音!
ビリーが捨てた煙草が、爆発した。
チャイナタウンのお祭りに使う爆竹がつめてあったのだ。
チリチリ頭は、反射的にふり返った。
あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックに右手をかけていた。
引き抜く。
拳銃を握っているやつの手首に、ビシッと叩きおろす。
ハイハットを叩くフォーム。
七分の力。
「アウッ」
拳銃が落ちる。
地面で暴発。
銃声が響く。
「チッ」
と、パイナップルを切ってた手下。そのナイフで、切りかかってくる。
「あんたが切れるのは、パイナップルだけね」
あたしは、軽くかわす。
「クソッ」
と、突いてくる。
また、かわす。手首を、スティックで叩き上げた。
「ウッ」
ナイフが、キラキラと光って飛んでいく。
「ずらかるぞ!」
トラックの窓から、チャックが叫《さけ》んだ。
トラックは、動き出す。
ビリーが助手席に駆け乗る。
「ちょい待ち!」
あたしは叫んだ。
手首を押さえてうずくまるチリチリ頭。その尻に回し蹴り。
あたしは、トラックに駆け寄る。
走りはじめたトラック。その荷台に、跳び乗った。
追いかけてくるチャイニーズ。その顔に、
「おみやげよ!」
パイナップルを1個、投げつけてやった。
トラックは、スピードを上げる。赤土を巻き上げて、突っ走る。
パイナップル畑のかなた。やつらのクルマもスタートした。追いかけてくる。
トラックは、ぐんぐんスピードを上げる。
あたしは、荷台につかまる。
やつらのセダンも、スピードを上げてくるのが見えた。
「もっとスピード出して!」
と叫んだ。
運転席の屋根を叩こう。そう思って、立ち上がった。
そのとたん。トラックが、弾ね上がった!大きな凹凸《でこぼこ》にはまったらしい。
あたしの体は、ふわりと浮《う》いた。
パイナップルたちといっしょに、弾《は》ね上げられる。
叫ぶ間もない。
地面に、叩きつけられていた。
気がついた。
眼を開ける。
気絶していたのは、ほんの4、5秒だったらしい。
赤土の舞《ま》っている道路。
左折したトラックが、ぐんぐん遠ざかっていくのが見える。
あたしをふり落としたのに、気づいていないらしい。
「クソ……」
ふり返る。やつらのセダンが、ぐんぐん近づいてくる。
ヤバい。
ヨロヨロと立ち上がる。
体中が、悲鳴を上げている。1歩……2歩……ダメだ。地面に、倒れ落ちる。
仰向け。
空は、いやになるほど青い。
こんな所で死にたくないなあ……。ふと、そう思った。
スーパー・スターになる夢も果たせず。
まだ16歳の若さで。
しかも、ヴァージンで……。
唇をかんだ。
やつらのセダンのエンジン音が、近づいてくる。
そのとき。
頭の上で、鋭い音がした。
ブレーキ音。タイヤの悲鳴。
顔を上げる。まっ赤なスポーツカーが、とまった。
2人乗り。オープンカー。ステアリングを握っているのは、若い女だ。
あたしは、右手の親指を立てた。
「乗せて!」
ドライヴァーは、あたしを見おろす。
「道路に寝っころがってるヒッチハイカーってのも珍《めずら》しいわね」
ドアを開ける。おりてくる。
あたしを、かかえ起こしてくれる。
助手席に、押し込んでくれる。
彼女《かのじよ》は、運転席に。
「行き先は?」
彼女がきいた。
「あいつらのこない所」
あたしは、いった。
やつらのセダンを指さす。赤土を巻き上げて近づいてくる。もう、50ヤードもない。
「知り合い?」
「借金とりよ」
「そりゃ、大変ね」
と彼女。ぐいと、ギアを入れる。アクセルを、ふみ込んだ。
ものすごい加速だった。
スピード・メーターの針が、メトロノームみたいに右に振れる。
まだ3速なのに、時速75マイル。
パイナップル畑が、後ろにふっ飛んでいく。
「離陸しそうね」
「お望みとあれば」
彼女は、ニッと微笑《ほほえ》んだ。
「名前は?」
と、あたし。
「私の名前? クルマの名前?」
「両方」
「私はセシル。クルマは、アルファロメオ」
「あたしは、ミッキーよ」
「握手したいけど、ちょっと手が離せないわね」
とセシル。
2速にシフト・ダウン。
F−1ばりのコーナリングで、左折。
タイヤが鳴く。
あたしの体は、ドアに押しつけられる。右肩が、ズキッと痛んだ。
クルマは、ルート99に出た。
白いHONDAを右から。青いFORD《フオード》を左から。ゴボウ抜きにしていく。
やつらのセダンは、ミラーの中でぐんぐん小さくなる。
見えなくなった。
「パトカーに見つかったらどうするの?」
あたしは、きいた。
「ハワイのパトカーには、まだ追いつかれたことがないわ」
とセシル。
横顔が明るく微笑《わら》った。
白人。
20代の前半。
金髪は、少年っぽいショート・カット。
ピンクと黒のビキニ。ウェストから下に、ピンクの布《パレオ》を巻いている。裸足で、アクセルをふんでいた。
「血が出てるわよ、ミッキー」
とセシル。
あたしは、左腕を見た。派手に血が流れていた。
セシルが、グローヴ・ボックスを開ける。
バンダナを1枚。黙ってあたしに渡した。
「ありがとう」
それで、左腕をしばる。
「病院にいける事情? それとも、いけない事情?」
セシルがきいた。
「どっちかっていうと、いきたくないわ」
セシルは、うなずいた。
さらに加速。体が、シートに押しつけられる。スーッと、意識が遠くなっていく……。
ドラムスの音がする……。
ブラッシ。
誰かが、ブラッシでスネアーをザッザーとなでている。
リズムが狂う。
ヘタなドラム叩きだ……。
そこで、目が覚めた。
ブラッシと思ったのは、波の音だったらしい。
あたしは、ゆっくりと眼を開いた。
白い天井が見えた。
ベッドに寝ていた。
朝らしい。グレープフルーツ色の光が、ブラインドから射し込んでいる。
首を回す。
海辺の別荘《べつそう》。そんな感じの部屋だった。
実際に、海辺らしい。波の音が、すぐ近くにきこえる。
白いシーツが、かけられていた。めくってみる。下着のショーツ1枚だけ、身につけていた。
けど、裸って感じじゃない。
体中、包帯だらけだからだ。
とくに左腕はぐるぐる巻きだ。
止血|剤《ざい》とマーキュロの匂いが、かすかにした。
体を起こそうとしたとき、
「フランケンシュタインのお目覚めね」
声がした。ドアのところに、セシルが立っていた。
「夢の中でも、借金とりに追いかけられてたの?」
微笑《わら》いながら、セシルがきいた。
「どうして?」
「さっき、眠ったまま泣いてたわよ」
あたしは、枕を見た。
確かに。
白い枕が、小さく濡れていた……。
「クセなのよ。眠ったままアクビするの」
あたしは、いった。
セシルは、うなずく。立ったまま、キウイをかじった。
今朝も、ブルーのビキニ。裸足。ウェストから下には、やはり、鮮やかなブルーの布《パレオ》を巻いている。
ぜい肉のまるでない、スポーツ選手みたいな体つき。
長い手脚。
眉にパラパラとかかっている、ショート・カットの金髪。
まっ白い歯ならびと、まっすぐに通った鼻筋が少年っぽい。
大きな瞳は、対照的に少女っぽい。
もう大人なのに、10代を感じさせる顔だった。
「とにかく、お礼をいうわ」
あたしは、いった。上半身を起こす。
背中が、ミシミシという。
それでも、ベッドからおりようとした。
「どこへいくの?」
とセシル。
「帰るの」
「そのかっこうで?」
「あたしの服は?」
「捨てたわよ」
「捨てた!?」
「だって、ボロボロで、おまけに血だらけだったわ」
まいったなあ……。それでも、
「帰る」
ベッドからおりた。
とたん。
ヒザが、ズキッと痛んだ。
「ウッ」
「ムチャはやめときなさい、ミッキー。骨折はしてないけど、体中、打撲傷《だぼくしよう》だらけよ」
とセシル。あたしのヒップを軽く手で叩いた。
「いたたっ!」
また眠った。
つぎに起きると、夕方だった。
そろそろと、ベッドから出る。体中が、ギシギシという。それでも、ゆっくりゆっくりと歩く。
「帰らなくちゃ」
部屋を出る。
となりの部屋のドアが開いている。
のぞく。誰もいない。
同じぐらいの広さ。どうやら、セシルの部屋らしかった。
クローゼットを開ける。
服が、並んでいる。
どれも、シンプルで趣味がいい。けど、都会的すぎる。あたしに合いそうなのはなかった。
籐《とう》の引き出しを開ける。
青いショートパンツと白いタンクトップがあった。それを、手にとる。体が痛かったけど、ゆっくりと身につける。
出ていこうとして、気づいた。
ドラムのスティック。
どこだろう……。
見回そうとしたとき、
「スティックなら、あずかってるわよ」
と声がした。
ベランダヘの出口。
セシルが立っていた。
片手にグラスを持っている。
「返してよ」
あたしは、いった。
あれは、死んだパパがくれたスティックだ。
「命のつぎに大切なものよ。返して」
セシルは、微笑《ほほえ》みながら、首を横に振《ふ》った。
「ダメよ。そんな体で帰すわけにはいかないもの。ちゃんとなおるまで、スティックはあずかっておくわ」
「そんな……」
セシルは、また、ゆっくりと首を横に振った。
何をいってもムダみたいだった。
しょうがない。
「電話ぐらいかけさせて。門限がうるさいから」
「とても、そうは見えないけど」
セシルは苦笑い。
「電話は、こっちよ」
あたしは、ベランダに出ていく。
広い板張りのベランダ。
前は、砂浜だ。
デッキチェアーに、あたしは坐った。
左手は、包帯でぐるぐる巻きだ。受話器を、アゴではさむ。〈ホノルル・コロシアム〉の番号を回す。
マネージャーのアントニオが出た。
「どうしたミッキー。トラックの荷台からいなくなっちゃったんだって?」
「いなくなっちゃった?」
「どこでおりたんだい」
「あのねえ……」
「とにかく、いまどこだ」
あたしはセシルに、
「ここ、どこ?」
ときいた。
「北海岸《ノース・シヨア》よ」
グラスにワインを注《つ》ぎながら、セシルがいった。あたしは、
「ノース・ショア。島の反対側よ」
と受話器にいう。
「ノース?」
アントニオは、すっとんきょうな声を出す。
「ノースで何してる。波乗りでもやってるのか?」
「バカ!」
あたしは、受話器をガチャンと置いた。
「飲む?」
とセシル。
キューブ・アイスを、グラスに入れる。白ワインを、そこに注ぐ。
「ありがとう」
あたしは、それをうけとった。
ひと口。おいしい。
水平線の左端。夕陽が沈みかけていた。
風が、涼しい。
ラジオカセットから、L《ライオネル》・リッチーの〈SAY《セイ》 YOU《ユー》 SAY《セイ》 ME《ミー》〉が流れている。
「セシルっていうと、フランス系?」
あたしは、きいた。
「祖先はね」
とセシル。
「でも、生まれたのはニューヨークよ。ミッキーは、日系?」
あたしは、うなずく。
「でも、生まれたのはホノルルよ」
「お互いに、故郷知らずね……」
セシルは、笑った。
左の耳。ダイヤのピアスが、夕陽に光った。
セシルは、テーブルに手をのばす。グラスにさしたセロリを、1本とった。セロリを、ビンに突っ込む。黒いジャムみたいなものをすくう。
それを、パリパリとかじる。ワインを飲んだ。
セロリを、もう1本とる。
黒いジャムをすくう。
「はい」
あたしに、くれた。
かじってみる。少し、しょっぱい。けど、
「おいしい。これ、何?」
「キャヴィアよ。はじめて?」
あたしは、うなずいた。
「これがキャヴィアというものなのか……」
あたしは、そのビンを、しげしげとながめた。
「ぜいたくな暮らししてるのね」
と、つぶやいた。セシルは苦笑い。
「稼《かせ》ぐからね」
といった。
「何してるの?」
「秘書よ」
「秘書?」
こんな、ノース・ショアの一軒家《いつけんや》で……。
「じゃ、ボスは?」
「ときどきくるのよ」
とセシル。
裸足の両足を、木の手すりに投げ出した。
「……わかった。愛人なんでしょう」
あたしは、いった。
セシルは、飲んでたワインを吹き出した。
「ませたガキねえ」
どなり声で目が覚めた。
時計を見る。
朝の10時45分。
また、男のどなり声がきこえた。
あたしは、そろそろとベッドを出る。体の痛みは、少し楽になっていた。
廊下《ろうか》へ出る。
どなり声は、廊下の突《つ》き当たりからきこえてくる。歩いていく。ドアを、そっと開けた。
広い部屋。スタジオみたいだった。
ガラスばりの天井。
青空が見える。
壁ぎわには、アンプ類。
16チャンネルの録音機材。電気ピアノ。ドラムセット。
逆サイドの壁ぎわには、デスクがある。
デスクには、セシルがヒップをのせていた。若い男と向かい合っている。
「誰が、おれたちをオーディションで落としたんだ!」
男がどなった。
黒いサングラス。太っている。ハワイアンらしい。
「落としたのは私よ」
とセシル。腕組みして答えた。
「テープ・オーディションは、私がまかされているわ」
「社長に会わせろ!」
「ダメよ」
セシルは唇をきつく結ぶ。首を横に振った。
「ちっくしょう!」
男が、1歩つめ寄る。
「たとえ私を殺しても、オーディションの結果は変わらないわよ」
セシルは、男の顔をまっすぐに見た。きっぱりといった。
「クソ!」
男は、マイク・スタンドを蹴《け》り倒す。
回れ右。すごい表情でスタジオを出ていく。
「とんだ|目覚まし《ウエイクアツプ》コールだったわね」
とセシル。肩をすくめる。倒れたスタンドを起こす。
「ときどきくるのよ。あの手のチンピラ・ミュージシャンがね」
といった。
「朝ごはんよ」
デスクの上からオレンジをとる。あたしに投げた。
あたしは、右手でうけとる。
「それをかじってて」
とセシル。
「あとひと仕事片づけたら、何かつくってあげるから」
セシルは、ヘッドフォンをかける。
デスクの上に積み上げられたカセット・テープ。その1本をとる。デッキに放り込む。自分でもオレンジをかじりながら、聴《き》きはじめる。
2、3分聴く。
やがて、首を横に振《ふ》る。
カセットを、デッキからとり出す。
赤い書類カゴに、ポンと放り込んだ。
どうやら、ボツらしい。
つぎのテープも、ボツ。つぎも、ボツ。
4本目は、青い書類カゴに放り込まれる。
オーディションにパスしたらしい。
1時間後。
「やれやれ」
と、セシルは立ち上がった。ヘッドフォンをはずす。
ボツのテープが20本ぐらい。
パスしたテープが、3本。
「こういう仕事だったのか」
3個目のオレンジをかじりながら、あたしはいった。
「そうよ」
とセシル。
「愛人じゃなくて残念でした」
ニコッと微笑《わら》った。
「で、雇《やと》い主はいつくるの?」
「そろそろくる頃よ」
とセシル。時計を見る。
「あ……きたらしいわ」
と、つぶやいた。
何か音がきこえる……。音は、少しずつ大きくなる。ヘリの爆音《ばくおん》らしかった。
あたしたちは、スタジオからベランダへ出る。
「ボスの到着よ」
セシルが、空を指さした。
ヤシの葉の向こう。1機のヘリが、近づいてくる。ぐんぐん、おりてくる。
家のわき。やたら広い駐車場がある。
どうやら、ヘリポートを兼ねてるらしい。
ヘリは、そこにおりてくる。
爆音。
風。
ヤシの葉が、激しく揺れる。
ブーゲンビリアの花が、ちぎれ飛ぶ。
ヘリは、着陸。
ローターの回転が、ゆるやかになる。ドアが開いた。男が1人、おりてくる。
白人。中年。
麻のスーツ。紺のネクタイが、ヘリの風に揺れる。
木の切りかぶみたいに、がっちりとした体格。
黒い髪。黒い口ヒゲ……。
あたしは思わず、
「あ……」
と声を出していた。
「友達のミッキーよ、ボズ」
セシルが、あたしを紹介した。
「ボズ・スキャナーだ。ボスと呼ぶ人間もいるがね」
彼はいった。
鋭い目つき。
あたしを、正面から見つめた。
「知ってるわ。あなたのこと」
「そりゃ、光栄だね」
ボズの目尻《めじり》が、ほんの1ミリ、お義理で微笑《わら》った。
そのクールな笑顔には、よく雑誌でお目にかかった。
ボズ・スキャナー。通称〈|氷のような《アイス》ボス〉。天才的音楽プロデューサー。そして、パシフィック・レコード社長。
|L・A《ロス》音楽産業を陰《かげ》であやつる男たちの1人……。
「よろしく、お嬢さん」
ボズは、右手をさし出す。
「包帯だらけで、ごめんなさい」
あたしも、無事な方の右手を出した。
形式的な短い握手。
ボズはもう、早足で歩きはじめていた。
「今週は、持ち込まれたテープが86本。オーディションにきたのが7組よ」
とセシル。歩きながら、ボズに報告する。
「わかった。結果は後できこう」
とボズ。大股で、スタジオに入っていく。
「音楽学校を中退したのが、19歳のときだったわ」
とセシル。
ギアを2速にシフト・ダウン。タイヤを鳴らして、右折。カメハメハ・ハイウェイに出る。
ハレイワの町まで、ワインを買いにいくところだった。
3速。4速。
ヒップを蹴られたように、アルファロメオは加速する。
「いろんな街で、弾《ひ》き語りの仕事をしてきたわ」
と、ステアリングを握ったセシル。
「まず、ニューヨーク……」
黄色いTOYOTAを追い抜きながら、つぶやいた。
「ボストン……」
サトウキビのトラックを追い抜く。
「フェニックス……」
サーフ・ボードを乗せたヴァンを追い抜く。
「ロス・アンジェルス……」
白いDATSUNを追い抜く。
「そして、ホノルル……」
目的地。スーパーの駐車場に、アルファロメオは滑り込む。
「ワイキキの小さなホテルで唄ってるときに、ボズに声をかけられたわ」
セシルは、ギアをニュートラルに。
「幸運《ラツキー》だった?」
あたしは、きいた。
「……たぶんね」
とセシル。
「ちょっとピアノと歌ができる……それだけの女の子がやれる仕事なんて、そう多くはないわ」
ホロ苦く笑った。
「少くとも、夜の女にはならずにすんだし」
セシルは、エンジンを切った。
「いつでもキャヴィアの食べられる暮らしよ」
助手席のあたしにウインク。
クルマのドアを開けず。長い脚で、またいだ。
ウェストに巻いたブルーの布《パレオ》が、ふわりと揺れた。
「用意はいいぞ、ジョー!」
ボズが、太い声で叫んだ。
銃を、両手で握っている。水平二連の散弾銃《さんだんじゆう》だった。黒い射撃用《シユーテイング》グラス。くわえた細い葉巻。
午後のベランダ。陽ざしが、まぶしい。
前に広がる白い砂浜《すなはま》。ひとけは、ない。
中年のハワイアンが立っている。家の使用人らしい。
「いきますよ、ボス!」
と使用人のジョー。フリスビーを投げるようなフォーム。何か、黒い円盤《えんばん》を投げた。LP盤だった。
レコードは、風にのって飛んでいく。
まるで、クレーだ……。
ボズはもう、ショット・ガンをかまえていた。
銃声。
LP盤は、空中で砕《くだ》けた。
コナゴナになって、砂浜《すなはま》に飛び散る。
硝煙《しようえん》の匂《にお》い。
砂浜から、海鳥が7、8羽、飛び立つ。
「先月、一番売れ残ったレコードなの」
両手で耳をおさえて、セシルがあたしにいった。
「ミッキーといったね」
ボズが、あたしにふり返った。
「君も、ミュージシャンになるんなら、覚えといた方がいい」
ショット・ガンに、新しい弾《たま》をこめながら、
「売れてこそ、レコードだ。売れ残ったものなど」
ボズは、砂浜を指さして、
「ただのクズだ」
といった。
もう、1時間近く。ボズは、LP盤を撃《う》ちつづけていた。砕《くだ》けたレコードが、砂浜中に散らばっている。
ボズが、また、銃をかまえようとしたとき、
「いい趣味じゃないわね」
水平線をながめて、あたしは、いった。
「何かいったかね」
ボズが、あたしをふり返る。じっと見た。
「いいかね。ものをいうときは、相手をまっすぐに見ていいたまえ」
「……そうね」
あたしは、ボズの眼をまっすぐに見た。
「こういうの、あたしは好きになれないわ」
「それは、まだ君がアマチュアだからだ」
ボズは、ピシャリといい放った。
「いずれ、わかるさ」
銃《じゆう》を、かまえる。
「いいぞ! ジョー!」
銃声が、また砂浜に響《ひび》きはじめる。
あたしは、手で耳をおさえる。
ボズの背中を、じっと見ていた。
カタカタカタッ。
タイプを打つ音が、響いていた。
夕方の5時。
スタジオ。
ボズは、デスクに向かっていた。両手が、せわしなく動いている。
「ボズ」
あたしは、スタジオの入口から声をかけた。
彼は、ふり返らない。タイプを打ちつづけている。
「仕事に熱中してるときは、ダメよ」
と、入ってきたセシル。
「いくら声をかけても気づかないわ」
セシルは、缶のCOORS《クアーズ》を持ってボズの方へ。
肩を叩いた。
「ミッキーが、用事らしいわよ」
ボズは、ふり返る。あたしを見た。
「それは悪かったね。仕事に没頭《ぼつとう》してて、気づかなかった」
「そうじゃないわ」
あたしは、いった。
「耳が、きこえないのね」
沈黙。
5秒……10秒……。
セシルからビールをうけとろうとしていたボズの手が、とまったまま。
「そりゃ……ハワイで最近はやってるジョークかい」
ボズが、やっと口を開いた。
「ごまかさないで」
あたしは、ボズの眼を、じっと見つめた。
「どうして……私の耳がきこえないと思うんだい、ミッキー」
「変だと思ったのは、ついさっきよ」
「さっき?」
「あなたが、レコードを撃《う》ってるときよ」
「…………」
「音楽プロデューサーにとって、耳は、何より大切でしょう。なのに、あなたは、イヤー・プロテクターもしていなかった」
「…………」
「それで、1時間以上もショット・ガンを撃ちつづけていたわ。普通なら、自殺行為よ」
「…………」
「そして、あなたはいったわね。相手の顔をまっすぐに見て話せって」
「…………」
「あなたは、相手の唇を読んでいるのね。だから、相手と向かい合わないと、言葉が読みとれないのね」
「…………」
シングル盤《ばん》1枚分ぐらいの、長い沈黙……。
やがて、ボズは、苦笑い。
「まいったね」
と、肩をすくめた。
「どうやら、君はコロンボの娘《むすめ》らしい」
あたしを、指さした。
「医者と、このセシル以外、事実を知った最初の人間ってことになる」
ボズは、両手を広げる。
「さて、どうする。業界記者に、ネタを売るかい? それとも、私をゆするかい?」
あたしは、首を横に振った。
「あたしは、ただ、事情を知りたかっただけよ」
「2年近く前のことだ」
ボズは、ぽつりと話しはじめた。
「この近くの海で、私は潜《もぐ》っていた」
海の方向を、指さした。
「スキューバ・ダイビングが、趣味だったんだ」
ボズは、COORS《クアーズ》をひと口。
「その日、潜りはじめて、10分ぐらいしたときだ。突然、サメがこっちに向かってきた。大きなホワイト・シャークだった」
「…………」
「怖かった。ダイビングの鉄則も忘れて、あわてて浮上《ふじよう》してしまった」
「…………」
「当然、潜水病《せんすいびよう》にかかった。幸い、手当てが早かったので命はとりとめた。が、聴覚《ちようかく》だけは、ついに戻らなかった」
「…………」
あたしは、小さくため息をついた。
「……それで、セシルをスカウトしたの?」
ボズは、うなずいた。
「私の、耳がわりにね」
ボズは、突っ立っているセシルを見た。
「彼女が、オーディションの予選をやってくれる」
「で……本選は?」
「そいつは、やはり、私がやる」
「どうやって?」
「資料《データ》を読むだけさ。新しいミュージシャンのね」
「それだけ?」
「ああ。それだけで、決める。契約《けいやく》するかどうかをね」
「そんな……」
あたしは、つぶやいた。
「ところが……だ」
とボズ。あたしの胸を指さして、
「その方式をとりはじめて以来、ヒット曲の確率が、驚くほど上昇したのさ」
「…………」
何かいおうとした。
けど、確かに、思い当たる。
彼のパシフィック・レコードは、この1、2年、ミリオン・セラーを連発している。
そして、凄腕《すごうで》プロデューサー、ボズの名声も……。
「人間、何が幸いするかわからない」
ボズは、ニヤリと笑った。
「音楽は、きこえなくなった。が、売れる曲、売れない曲は見分けられるようになった」
「…………」
ボズは、COORSの缶をながめる。
「しょせん、音楽なんて……」
音楽なんて……。そのつづきを、ボズはビールといっしょに飲み込んだ。
ピリン……。
高いFで、電気ピアノが鳴った。
ボズが出ていったスタジオ。
セシルは、電気ピアノの前に坐っていた。
譜面《スコアー》を、広げる。ゆっくりと、弾《ひ》きはじめた。長い指が、鍵盤《けんばん》の上を動く。
前奏《イントロ》。
D……G7……Em……Gm……。
自作のバラードらしい。
少しハスキーな声で、セシルは唄いはじめた。
4ビートで打ち寄せる
波の音
どんな貧しい人にも
きこえるわ
庭で遊んでる犬が
B♭で鳴く声
どんな幼い子供にも
きこえるわ
でも、あなたにはきこえない
たった1曲の
ラヴ・ソングが
あなたには、きこえない
間奏。
2コーラスヘ……。
8ビートで屋根を叩く
|通り雨《シヤワー》の音
どんな貧しい人にも
きこえるわ
茂みのコオロギが
G7で鳴く声
どんな幼い子供にも
きこえるわ
でも、あなたにはきこえない
たった1曲の
ラヴ・ソングが
あなたには、きこえない
最後を、くり返し《リフレイン》。
あなたには、きこえない
たった1曲の
ラヴ・ソングが
ただひとつの愛が
あなたには、きこえない
エンディング。
Am……C7……F……。
終わった。
音が、スタジオの床に、しみ込んで消えていく。セシルは、鍵盤《けんばん》に指を置いたまま。ゆっくりと、肩で息をした。
「好きなのね……彼が」
あたしは、いった。
「残念だけど……そうらしいわ」
前を見たまま、セシルはつぶやいた。
翌日。
昼前。
ノース・ショアの端にある漁港。
大きな倉庫みたいな|魚 市 場《フイツシユ・マーケツト》を、あたしとセシルは歩いていた。きょうは、ボズの誕生日らしい。で、パーティーのための買い物だった。
セシルはまず、ロブスターを1匹買った。
それをぶら下げて歩く。
「私のことふり向いてくれなんて、いわない」
歩きながら、セシルは、いった。
「でも、彼の心を、なんとかしたいわ」
セシルは、生ガキの前で立ちどまった。
「買うの? セシル」
彼女は、答えない。
並んでるカキを、じっとながめている。
「まるで、ボズね……」
セシルは、肩をすくめて、そうつぶやいた。
「ボズ?」
「そう。いまの彼は、まるでこのカキよ」
と彼女。
「がっちりと、心を閉ざしているわ。音楽にも……人間にも……」
「なるほど」
あたしも、カキをながめる。
「でも、あきらめるのは早いわよ」
あたしは、セシルにいった。
「どんなカキだって、こじ開けられるじゃない、ほら」
あたしは、指さした。
カキを売ってるハワイアンのおばさん。
ナイフみたいな道具で、上手にカキを開く。通りがかった客に食べさせている。
セシルは、軽くため息。
「私にも、あんな道具があればね……」
ホロ苦く微笑《わら》った。
「待ちな」
背中で声がした。
あたしたちは、立ちどまる。ふり向く。
太ったハワイアンが立っていた。
どこかで見た顔だった。
そうか。
この前の朝。セシルが追っぱらったチンピラ・ミュージシャンだ。
「これはこれは、お嬢さん」
やつは、ニタリと笑った。
「この前は、ずいぶん冷たくしてくれたじゃないか」
1歩、つめ寄ってくる。
腕には、サソリの刺青《いれずみ》。
昼前なのに、ひどく酒くさい。後ろには、ガラの悪いハワイアンが3、4人。仲間なんだろう。ニタニタと笑っている。
「なんとかいったらどうなんだよ」
やつは、また1歩、つめ寄ってくる。
逃げようとした。その行く手を、
「おっと」
仲間がさえぎった。
「そんなに急ぐこたあないだろう」
酒くさい息を吐《は》きかける。
さすがに、セシルは蒼《あお》ざめている。
あたしは、唇をかんだ。
まだ、体中がミシミシだった。左手も、包帯がぐるぐる巻きだ。けど、話し合いですむ相手じゃなさそうだった。
しょうがない。
セシルの腕をつかんだ酔《よ》っぱらい。その肩を、
「ちょっと」
と叩いた。
「なんだ」
やつが、あたしにふり向く。
その足もとへ、買ったばかりの生ウニを落としてやった。
ゴムゾウリばきの足へ、トゲだらけのウニが落ちた。
「ギャッ!」
と派手な叫び声。やつは、片足をつかむ。弾《は》ね回る。
「この酔っぱらいが」
片足で、ピョンピョン弾《は》ねてるその尻へ、
「頭を冷やしたら!」
回し蹴《げ》り、1発。
あたしの体中に、ズキッと痛みが走った。
それでも、やつは、つんのめる。
|青色ガニ《ブルー・クラブ》の入ってる浅い水槽《すいそう》。やつは、ザバンッと落ちた。
「ズラかるのよ!」
セシルに叫んだ。
駆《か》け出そうとした。けど、ダメだ。体が、まるでいうことをきかない。水中で動いてるみたいだ。
「ミッキー!」
セシルが、肩を貸してくれる。
必死で、マーケットの出口へ。
けど、すぐに追いつかれた。
倉庫みたいな、マーケットの出入口。
大きな扉《とびら》を、あたしたちは背に。
やつらに、とり囲まれた。
「クソ!」
どなり声がした。
水槽に叩き込んだやつが、すごい顔で駆けてくる。
全身、ズブ濡《ぬ》れ。
髪に、カニが1匹、しがみついている。
やつは、頭を、ぶるっと振《ふ》る。カニを、振り落とした。
「やりやがって、この小娘が……」
あたしを、ニラみつけた。
「ほら」
と、仲間の1人。やつに、包丁を渡した。
マーケットのどっかから、ひったくってきたんだろう。魚をさばくための包丁だった。
「こりゃいい」
と、やつ。
包丁を握って、薄笑《うすわら》い。眼が、完全にすわっている。
「さあて」
やつは、1歩、つめてくる。
あたしは、思わず右手を背中に回した。
けど、きょうはスティックを持っていない。唇をかんだ。やつを、ニラみつける。
「どこからサシミにしてほしい」
と、やつ。
「サシミにしたって、おいしくないわよ」
「そうかな」
やつは、ニタッと笑う。
「まあ、やってみなきゃわからないだろう」
包丁の刃を、あたしの頬《ほお》に当てた。
冷たい感触《かんしよく》。
「覚悟《かくご》はいいか」
包丁で、あたしの頬を、ピタピタと叩いた。そのとき。何か、飛んできた。やつの横顔に、ビシッと当たった。
「ウッ」
やつは、思わず、包丁を落とす。
飛んできたのは、はまぐり《クラム》だった。
やつらが、ふり返る。
「どうだい。大リーガー並みのコントロールだろう!」
チャックだった。
エディー・マーフィーそっくりの顔。
白い歯が光る。
ビリー。
リカルド。
アキラ。
みんないた。
「ちっくしょう」
やつらの1人が、包丁をひろおうとした。
チャックが、また、はまぐり《クラム》を投げた。
包丁に手をのばしたやつの頭に、コーンッと命中。
「ストライクッ」
「ちょっと、あんたたち」
あたしは、アルファロメオの助手席でいった。
「あっちのトラックに乗ればいいでしょう」
「気にしない気にしない」
とビリー。
「そういうこと」
とリカルド。2人して、アルファロメオに乗り込んでくる。
4人も乗れるようなクルマじゃない。けど、強引に乗り込んでくる。
ハワイアンのチンピラたちは、蹴散《けち》らした。
魚市場《マーケツト》から、家に戻《もど》るところだった。
「ま、しょうがないわね。助けてもらったんだし」
とセシルは苦笑い。クルマを出す。
チャックとアキラの乗ってるトラックが、ついてくる。カメハメハ・ハイウェイを西へ。
「セシルか……きれいな名前だね」
とビリー。
後ろから、セシルとあたしの間に首をのり出してくる。
「香水は、レール・デュ・タンか……いい趣味だ」
とリカルド。
セシルの耳もとに顔を近づけて、そっとささやいた。
「気をつけなさい、セシル」
あたしは、いった。
「触《さわ》られただけで妊娠《にんしん》するわよ」
「何年ぶりかしら、ケーキを焼いたのなんて」
とセシル。
無邪気《むじやき》にいった。
午後4時。家のスタジオ。
彼女《かのじよ》は、ケーキにローソクを立てていた。
バースディ・ケーキ。
チョコレートでつくったレコード盤が上にのっている。
そこに、〈HAPPY《ハツピー》 BIRTHDAY《バースデイ》 TO《トウー》 BOZ《ボズ》!〉の文字。
全部、セシルの手づくりだった。
あたしも、ローソクを手伝う。
「これ、悪くないぜ」
ビリーの声がした。
電気ピアノに広げっぱなしの譜面《スコアー》をのぞいている。
セシルのつくった曲。〈ラヴ・ソングが、きこえない〉の譜面《スコアー》だった。
ビリーは、ギターを肩にかける。
曲のイントロを、軽く弾《ひ》く。
アキラが、電気ピアノで追いかける。
チャックも、ベースをヒザにのせた。
「ドラム叩きがいないぜ」
とビリー。
あたしは、包帯を巻いた左手を見せた。
「まだしばらくは|お休み《オフ》よ」
リカルドが、マイクのスイッチを入れた。
「セシル……おれとデュエットしないか」
得意の低音でそういった。
そのとき、
「こういうことだったのか」
冷たい声がした。
ボズが、スタジオの入口に立っていた。
「ずいぶんと手のこんだ売り込みだな」
あたしたちを見回して、いった。
「売り込み?……」
あたしは、口を半開き。立ちつくす。
ボズは、歩いてくる。バースディ・ケーキを冷ややかに見おろして、
「セシル、君は抱《だ》き込まれたのか? それとも、最初からグルなのか?」
といった。
セシルも、口を半開き。
「ボズ……」
信じられない。そんな表情。首を左右に振《ふ》る。
「あなたは……そこまで……心が……」
セシルは、唇をかんだ。
唇をかんで、バースディ・ケーキを持ち上げる。
「ハッピー・バースディ!」
ケーキを、ボズに叩きつけた。
ボズの顔に、胸に、生クリームが飛び散る。
セシルはもう、スタジオを飛び出していた。
あたしは、追いかける。
けど、速くは駆《か》けられない。
追いついたとき、セシルはもう、アルファロメオのエンジンをかけていた。
駆け寄ったあたしに、
「あなたと会えて、よかったわ」
頬《ほお》の涙をぬぐおうともせず、セシルはいった。
「元気で」
あたしの頬《ほお》に、す早くキス。
アクセルをふみ込んだ。
クルマは、飛び出す。
少女みたいなショート・ヘアが揺《ゆ》れる。
頬の涙が、流れて、飛んだ。
タイヤの悲鳴。
後輪がスリップ。
角を曲がって、見えなくなった。
スタジオに戻った。
ボズは、ティッシュ・ペーパーで顔の生クリームをふいたところだ。
ティッシュを、ゴミ箱に放り込む。
スタジオを出ていこうとする。
あたしは、ビリーのヒップ・ポケットから飛び出しナイフを抜く。
刃《は》を、カチッと起こす。
左手に巻いた包帯を、ピッと切った。
ボズは、スタジオのドアを開けて出ていこうとしていた。
「待ちなさい」
あたしは、ナイフを投げた。
ナイフは、スタジオのドアに刺《さ》さる。ボズの顔のわき、4インチだった。
ボズの足が、さすがにとまる。
あたしは、スティックを握る。
ドラムスに叩きおろす。
気がつくと、曲が流れはじめていた。
〈ラヴ・ソングが、きこえない〉
優しくホロ苦いフレーズが、スタジオに響《ひび》きつづける。
……庭で遊んでる犬が
B♭で鳴く声
どんな幼い子供にも
きこえるわ
でも、あなたにはきこえない
たった1曲の
ラヴ・ソングが
あなたには、きこえない……
間奏。
ピアノのアキラが引きうける。
……ふと見れば、ボズの背中が揺《ゆ》れていた!
|2《ツー》コーラス目へ。
まちがいない。
むこう向きのボズ。その肩が、曲のテンポに合わせて、かすかに揺れている!
あたしは、スティックに力を込める。
叩きおろすたびに、左手がズキズキと痛んだ。
けど、唇をかんで叩きつづけた。
……たった1曲の
ラヴ・ソングが
ただひとつの愛が
あなたには、きこえない……
やがて、エンディング。
音が、ゆっくりとフェード・アウトしていく。
ボズは、むこう向きのまま。
大きく、息を吸った。
まるで、消えていく音を、胸に吸い込むように……。
そして、ボズはふり向いた。
「あなたに契約《けいやく》して欲しい。そのために書かれる曲は何千とあるかもしれないわ」
あたしは、いった。
「けど、あなたにきいて欲しい。ただそれだけのために書かれた、たぶん、最初で最後の曲ね」
「…………」
沈黙《ちんもく》。
10秒……20秒……30秒……40秒……50秒……。
ボズは、インタフォーンを押《お》した。
「ヘリの用意だ!」
地平線が、傾いた。
ヘリは、左へ旋回《せんかい》。
ルート99が、眼の下に見えてきた。
サトウキビ畑の広がり。
その中を、道路がのびている。走っているクルマのフロント・グラスが、夕陽に光る。
「大切なものを、2つ、失《な》くすところだったよ」
ルート99を見おろして、ボズがつぶやいた。
「1つは?」
あたしは、きいた。
「音楽に対するハート」
「で、もう1つは?」
「有能な秘書」
「最愛の秘書でしょう?」
ボズは、かすかにうなずいた。
眼の下。サトウキビ畑が、パイナップル畑に変わっていく。
「どこだ……」
ボズは、ルート99を見おろす。
「そろそろ、追いついてもいい頃なのに……」
あたしも、下を見おろす。
カセット・テープみたいに細い道路。コショウ粒《つぶ》みたいなクルマが動いている。青。白。グレー……。
「あっ」
あたしは、小さく叫んだ。
赤い色が、道路を動いていく。
「おりろ!」
ボズが、下を指さす。
若いパイロットは、うなずいた。ヘリは、高度を下げていく。赤いクルマに近づいていく。
「まちがいないわ」
あたしは、いった。
まっ赤なスポーツカー。
ほかのクルマと、まるでスピードがちがう。
ホノルルの方向に、突《つ》っ走っている。
「もっとおりろ!」
ヘリは、ぐんぐん高度を下げる。
赤いクルマは、どんどん大きくなる。コショウ粒から豆粒。豆粒から杏《プラム》の実へ。
セシルの金髪《きんぱつ》が、はっきりと見えた。
ヘリの爆音《ばくおん》に気づいたんだろう。
セシルは、ちらっと空を見た。
ビキニのトップ。
腰《こし》に巻いたブルーの布《パレオ》が見えた。
もう、高度は30ヤードぐらいだろう。
「クルマの前におりろ!」
ボズは叫んだ。
「おりるって!? 道路にですか!?」
ふり向いて、パイロットが叫んだ。
「違反《いはん》ですよ!」
「クビになるのと、どっちがいい!?」
ボズは叫んだ。
パイロットは、肩をすくめる。
「わかりましたよ」
ヘリは、もう、超低空飛行。アルファロメオの頭上をかすめて、追い抜く。
小さく旋回《せんかい》。
ルート99に、着陸した。
前をさえぎられて、アルファロメオは急ブレーキ。
ヘリの5ヤード前でとまった。
ヘリの爆音が、小さくなる。ローターの回転が、おそくなる。
ボズは、ヘリのドアを開けた。おりていく。
セシルも、クルマのドアを跳《と》びこす。
ブルーの布《パレオ》がフワリと揺《ゆ》れた。
裸足で、道路におり立った。
ボズと向かい合う。
「じゃまよ! どいて!」
セシルは、両手を腰に。
「この、人でなし! 鬼《おに》! |とうもろこし頭《コーン・ヘツド》! くたばりぞこない!」
マシンガンみたいに、まくしたてる。
「きいてるの!?」
「さあて……」
とボズ。
自分のコメカミあたりを指さして、
「私は、ちょっとばかり耳が遠いんでね」
ニコリと白い歯を見せた。
セシルを力いっぱい抱《だ》きしめる。
キスをした。
セシルの右手が、ボズの背中を叩く。
1発、2発、3発。
そして、ゆっくりとボズの首を抱《だ》きしめた……。
「ヤバい」
あたしは、パイロットの肩《かた》を叩いた。パトカーの青ランプが、近づいてくる。
「ズラからなくちゃ」
あたしは、親指を立てた。パイロットは、うなずく。
ヘリのローターが、また激しく回転しはじめる。
離陸。
ぐんぐん、高度を上げていく。
ノース・ショアの方向に、旋回《せんかい》。地平線が傾く。
あたしは、眼を細めた。
見おろす、ルート99。斜光《しやこう》。ボズとセシルの長い影……。
アルファロメオの赤が、夕陽に光った。
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第4話 水平線にセレナーデ
尾行《びこう》されているらしい。
そう気づいたのは、ついさっき。
アラ・モアナ|通り《ブルバード》から、カラカウア|通り《アベニユー》へ右折したときだ。
自転車のペダルをこぎながら、チラッとふり返ってみる。
30ヤードぐらい後ろ。
濃いブルーのFORD《フオード》。
やっぱり。
尾行されている……。
ホノルルは、きょうも快晴だった。
午後3時半。
道路に落ちるヤシの影が、少し長くなりはじめた時間だ。
あたしは、ダウンタウンの帰り。
楊周峰《ようしゆうほう》の楽器屋にいった帰り道だった。
とちゅう。アラ・モアナの店で、ピアスを買った。
バイナップルの形をした、小さなピアスだ。
白い貝殻《かいがら》細工。2ドル75セントの安物。それでも、あたしはごきげんだった。
自転車で|通り《ブルバード》を走る。
海からの風に、貝殻細工のピアスが揺れる。
12段の変速ギアをフルに使って、アラ・モアナを走り抜けた。
T字路。
スピードを落とす。
ふと、なにげなく、ふり向いた。
濃いブルーのクルマが見えた。
30ヤードぐらい後ろ。ゆっくり走ってくる。いくらハワイのクルマでも、走り方がゆっくりすぎる。
それに、どこかで、見覚えがあった……。
そうか。
アラ・モアナの店を出たときだ。
道路に駐《と》まっていた。
やたら濃い色のフロント・グラスに見覚えがあった。
あたしは、スピードをぐっと落とした。
ふり返ってみる。
やっぱり。クルマは、30ヤードの間隔《かんかく》をキープして尾行《びこう》してくる。
フロント・グラスは、濃いグレー。乗っている人間の顔は見えない……。
ハンバーガー屋の前で、自転車をおりる。
フィッシュ・バーガーを買う。
店を出る。
やはり、30ヤード後ろに、FORDは駐まっていた。
あたしは、左手にフィッシュ・バーガー。右手で自転車のハンドルを握《にぎ》る。
また、走り出す。
クルマも、ゆっくりとスタート。静かに、ついてくる。
相手は、内気らしい。
いま走っているのは、カラカウア|通り《アベニユー》。人通りが多いせいだろう。
あたしは、右ヘカーブを切った。
広い公園。
陸軍博物館《ミリタリー・ミユージアム》があるだけの、芝生の公園だ。
案の定。
クルマは、スピードを上げる。スーッと追いこしていく。行く手をふさぐように、とまった。
あたしも、自転車をとめた。
クルマのドアが開く。
おりてきた。
1人。2人。3人。4人。
全員、フィリピーノらしい。
「何か用?」
あたしは、フィッシュ・バーガーをかじりながらいった。
「ミッキーだな」
と、フィリピーノの1人。
「残念でした。マドンナよ。Mちがいね」
あたしは、いってやった。
「冗談《じようだん》につき合ってる暇《ひま》はないんだ」
1人が、口の端で、ニッと笑った。4人の中で、一番まともなシャツを着ていた。
フィリピーノの場合、一番いい服を着てるやつがボスだ。
たぶん、こいつだろう。
嫌《いや》な顔だった。
眉《まゆ》が、ほとんどない。吊り眼《フオツクス・アイ》。出っぱった頬骨《ほおぼね》。頬には、大きなアザがある。
「ききたいことがある」
吊《つ》り眼が、いった。
「ちょっとつき合ってもらおうか」
「いやだといったら?」
「痛い目にあうだけだ」
と吊り眼。手下に、合図。1人が、あたしの腕をつかもうとした。
「さわらないでよ、エッチ!」
やつのスネを、スニーカーで蹴りつける。
「ウッ」
やつは、しゃがみ込《こ》む。
「このガキ……」
と、やつら。
手が、ズボンのヒップ・ポケットに。
カチッ。カチッ。
馬鹿のひとつ覚えみたいに、飛び出しナイフの刃が光った。
「なあ、お嬢ちゃん」
と、別の1人。
「おれたちゃ別に、とって食おうってんじゃないんだ」
とニタニタ笑い。
「例の場所を教えてくれりゃ、それでいいのさ」
右手にナイフ。左手で、あたしの胸ぐらをつかもうとした。
「汚ない手で、さわらないでよ!」
その左手を、パシッと払いのける。
わき腹に、回し蹴《げ》り!
「グッ」
やつは、体を折る。芝生にくずれた。
「チッ」
と3人目。
ナイフを突き出してきた。
左手でフィッシュ・バーガーを持ったまま。あたしはもう、右手でヒップ・ポケットのスティックを抜いていた。
ナイフをかわす。
手首に、スティックを叩きおろす。
バス・タムを叩くポジション。五分の力。
ピシッという音。
うめき声。
ナイフが、芝生に落ちた。
あたしは、す早くふり返る。
最後の1人。ボスの吊《つ》り眼。やつは、かかってこない。冷ややかな眼で、こっちを見つめている。
「遠慮《えんりよ》しなくてもいいのよ」
あたしは、いった。
けど、遠慮したわけじゃなさそうだ。
最初から、そのつもりはないみたいだ。ひとの手の内を見る。それが目的だったらしい。
「そういうことか……」
と吊り眼。
サメみたいな冷たい瞳が、じっと、こっちを見ている。
あたしは、スティックをポケットに戻す。自転車にまたがる。
「いずれ、ゆっくりな」
薄笑《うすわら》いを浮かべて、吊り眼がいった。
「願い下げよ」
あたしは、走り出す。
背筋に、吊り眼の視線……。
カラカウア|通り《アベニユー》へ。
ほっとする。
ゆっくりとペダルをこぐ。片手でフィッシュ・バーガーをかじりながら考えた。
何者だろう。
なぜ、あたしに。
なんの目的で。
やつらのいった〈例の場所〉とは……。
バーンッ……。
思いきり、シンバルを叩いた。
曲のエンディングだった。
ギター。ベース。電気ピアノ。楽器の残響《ざんきよう》が、壁《かべ》に吸い込《こ》まれていく。
「OK」
ボーカルのリカルドが、テープのスイッチをSTOPにした。
ライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉
きょうの練習の仕上げだった。
「聴《き》いてみよう」
リカルドが、テープをプレイバック。
曲が、頭から流れはじめる。
〈君のいないホノルル〉
ビリーがつくった新曲だった。
あたしたちは、店のイスに体を投げ出す。タオルで汗を拭《ふ》きながら、曲を聴く。
2コーラス。
間奏。
3コーラス。
エンディング……。
「いいんじゃない」
あたしは、いった。全員、うなずく。
「これで、また1曲、完成と」
あたしは、つぶやく。曲名のリストに、マルをつける。
オリジナルが、24曲。ずらりと並《なら》んでいる。
「あとは、レコードを出すだけだな」
ビリーがつぶやいたとき、店のドアが開いた。
「どうしたんだい……そりゃ」
とビリー。
眼を丸くする。
店に入ってきたのは、アントニオだった。
全員、あっけにとられてアントニオをながめる。
アントニオは、全身、モノトーン。
グレーのスーツ。白いシャツ。濃いグレーのネクタイ。おまけに、黒い靴……。
「そ……葬式かい、誰かの」
思わず、アキラがつぶやいた。
そりゃそうだ。
いつものアントニオなら、白いスーツ、ピンクのシャツ、ブルーのネクタイでも涼しい顔なのに。
「いったい……」
あたしも、口を半開きでつぶやいた。
「あのなぁ」
とアントニオ。
ブスッとした表情で、冷蔵庫を開ける。
「銀行にいってきたの」
「銀行!?」
ビリーが、すっとんきょうな声を出した。
「強盗に入ったにしちゃ」
「ピストルも持ってないし」
「札束《さつたば》の入った袋もないみたいだし」
みんなで口ぐちにいう。
「あのな、金を借りにいったんだよ、金を」
とアントニオ。
「金?」
「ああ。レコード会社をつくるための資金をな」
「そうか」
あたしは、いった。
自分たちのレコード会社。パイナップル・レーベル。
「そのために……で? どうだった?」
あたしは、きいた。
「ダメだった」
とアントニオ。冷蔵庫からPRIMO《プリモ》を出す。
「ダメ?」
「ああ。金は貸してくれなかった。担保はあるのに」
「担保って?」
「この店さ」
アントニオは、ビールをグラスに注《つ》ぐ。
「この店って……アントニオ」
あたしは、いった。
「だって、ここ、借りてる建物じゃないの?」
「そうさ」
とアントニオ。
「つまらないことにこだわって」
ぶぜんといった。
「まったく、頭の硬《かた》い連中だよ」
ぶぜんとした表情のまま、ビールを飲む。口ヒゲについたビールの泡を、プッと吹き飛ばした。
「やれやれ」
みんな、ため息。
「パイナップル・レーベルヘの道は遠いな」
「あれ?」
あたしは、つぶやいた。
〈ホノルル・コロシアム〉の2階。
あたしが寝起きしている、従業員用の部屋。
ドアを開けると、ブルーの封筒が落ちていた。
あて名書きはない。
ひろう。開けてみる。カードが1枚。
〈無料御招待〉
の文字。
〈改装《かいそう》記念につき、寿司《すし》食べ放だい。本日11時AM〜3時PM〉
最後に、
〈日本料理・桜亭《さくらてい》〉
ダウンタウンの店らしかった。
「ふうん」
あたしは、タオルで髪を拭きながらつぶやいた。
朝の10時半。起きてシャワーを浴びたところだった。お腹は、すいていた。
インチキでもともと。いってみることにする。
バンドの連中にも声をかけようか……。
けど、やつらはきのう夜遊びにいった。3階でグースカ眠ってる時間だろう。
とりあえず、1人でいってみよう。
乾きかけた髪を、ポニー・テールにする。
自転車に歩いていく。
「ここか」
あたしは、自転車からおりた。
ダウンタウンの南より。ビショップ|通り《ストリート》とアラケア|通り《ストリート》の間。
〈日本料理・桜亭〉
の看板。
〈SAKURA−TEI〉
の英文。
5階建ての1階がレストランらしい。
わりに立派なドアを押す。
「いらっしゃいませ」
と、和服を着た女の店員。日本語だ。
すぐ前に、魚の泳いでる水槽《すいそう》。その向こうが、テーブル席だ。
「あの……これ……」
あたしは、カードを出した。
「あ」
と、店員。
「こちらへどうぞ」
案内してくれる。まだ、午前11時半。店はすいている。テーブル席を抜けて、奥の部屋に。
「こちらです」
V・I・Pルームみたいなところに通された。
部屋に入ったとたん、
「あっ、きましたぜ」
という男の声。ドアが、背中でバタンと閉まった。
罠《わな》だったらしい。
部屋には、男が6、7人。
全員、日本人。みんな、眼つきが鋭い。
あたしは、ふり返った。
出入口には、2人。岩みたいにゴツいやつらがドアの前をふさいでいる。
やつらの1人が、インタホーンを押した。
「釣れました」
と、インタホーンにいった。
〈釣れた〉とはなんだ!
ひとを、AHI《マグロ》やAKU《カツオ》みたいにいって……。
けど、確かに、そうだ。
こんな薄っぺらい招待券1枚。
食べ放だいのひとこと。
育ちざかりの16歳とはいえ、こんなチャチなエサで釣られるとは……。
あたしは、うつむいて唇をかんだ。
「さて」
あたしを囲んだ男の1人が、口を開いた。|相撲取り《スモウ・フアイター》みたいに巨《おお》きいやつだ。
「ミッキーだな」
太い声でいう。
1歩、近づいてきた。
「それ以上こないで!」
あたしは、やつをニラみつけた。右手を背中へ。
指先が、スティックにふれる。
「おっと……」
大男は、足をとめた。
どうやら、こっちの得意技を知ってるらしい。
まわりの連中も、さっと緊張《きんちよう》する。
いっせいに、片手を上着の胸に。
短刀を抜く体勢。
何人倒せるかわからない。けど、おとなしくやられるよりマシだ……。
あたしは、背中でスティックをそっと握った。そのとき、
「ウワサどおりだな」
背中で声がした。
出入口。
新しい男が立っていた。
若い日本人だ。
「これだけの人数を相手に、やり合おうってのか、ミッキー」
と、やつ。ニヤニヤと笑う。
「よけいなお世話よ」
あたしは、いってやった。
「あんたから片づけてあげるわ」
スティックを引き抜こうとした。
同時に、男の右手が動いた。
一挙動で|拳 銃《オートマチツク》を抜く。
空気が、裂《さ》けた。
消音器《サイレンサー》の、こもった音。
あたしの左耳。
貝殻《かいがら》のピアスが、はじけ飛んだ。
さすがに、動けない。
左の耳が、ジーンとする。
「2ドル75セントもしたのよ」
背中でスティックを握ったままいった。
「射撃《しやげき》の腕を自慢《じまん》したいわけじゃないんだが」
やつは、ニコッと微笑《わら》うと、
「あんたにケガをさせたくない。スティックを預かろうか」
消音器《サイレンサー》の銃口《じゆうこう》が、ピタリとあたしの胸をニラんでいる。
しょうがない……。
スティックを2本、いっしょにつかむ。
ゆっくりと引き抜く。
「ナカジマ、預かれ」
と、拳銃《けんじゆう》をかまえた男。
ナカジマと呼ばれたのは、例の大男だ。
のそりと、近づいてくる。
あたしは、スキをうかがう。
銃口とあたしの間に大男が立ったら、そのときがチャンス……。
けど、やつらはプロだった。
銃の火線をさえぎるようなマネはしない。
ナカジマという大男は、あたしの横に立つ。
大仏《だいぶつ》みたいな無表情で、グローブみたいな手をさし出した。
あたしは、唇をかんだ。
「あいその悪いクロークね」
せいいっぱいの悪態をつく。大男の手に、スティックを置いた。
「さあ、どうするの」
拳銃をかまえてるやつにいった。
「殴るの? 殺すの?」
「とりあえず、昼メシだ」
「昼メシ?」
「だって、メシを食いにきたんだろう? ミッキー」
やつは、ひとをからかうように笑った。あたしの足もとに落ちてる招待券を銃口でさした。
「どうした、食わないのか? ミッキー」
と、やつ。
「招待状どおり、食べ放だいだ」
ひとを馬鹿にしたような薄笑《うすわら》いを浮かべた。
別の部屋。
今度は、本当のV・I・Pルームらしい。
黒い大きなテーブル。壁《かべ》には、額に入った日本画。
あたしは、テーブルの前に坐《すわ》らされていた。向かいの席には、拳銃《けんじゆう》の腕ききの男。まわりには、手下らしい連中が4、5人。
テーブルには、料理が出ていた。サシミ。寿司《すし》。大根おろしにのったイクラ。
「毒も下剤《げざい》も入ってないぜ」
やつは、ニヤリと笑った。
あたしは、無言。やつをニラみつける。
とたん、お腹がグーと鳴いた。
「ほら、痩《や》せガマンするなって」
やつは、ちらっとふり向く。
ナカジマという大男が、テーブルにくる。
ビールをとった。サッポロの大ビンだった。
「どうぞ、ジュニア」
といって、ビールをついだ。あたしの前のグラスにもつぐ。
「ほら、毒も何も入ってないさ」
やつは、グラスを上げてみせる。ぐいとひと口飲んだ。
あたしのお腹が、またグーと鳴いた。
しょうがない。どうにでもなれだ。あたしは、ビールのグラスに手をのばした。
「まだ名前をきいてないわ」
サシミを|おはし《チヨツプステイツクス》でとりながら、あたしはいった。
「そうだったな」
やつは、ビールを飲み干すと、
「リョウイチ・ハリー・ジンノ。|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》の代表取締役《とりしまりやく》社長だ」
といった。
おはしを動かすあたしの手が、ピタリととまった。
「|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》……」
「きいたことは、あるらしいな」
「知ってるわ」
貿易会社とは名前だけ。ホノルルで最大最強の日本人|組織《シンジケート》。
別名〈神風マフィア〉〈菊のマフィア〉……。
「親父から継《つ》いだばかりなんで、みんな|J・R《ジユニア》と呼ぶけどね」
やつは、冷ややかにいった。
鯛《スナツパー》のサシミを、口に運ぶ。
その顔を、あたしはながめた。
若い。まだ、20代のまん中辺だろう。
あまり、陽に灼《や》けていない。
白っぽい麻のスーツ。渋いシャツ。ネクタイ。
サングラスもかけていないし、顔にキズがあるわけでもない。
一見、若い商社員。
けど、眼と唇が、それを裏切っていた。
眼が、やはり鋭い。
唇は、薄く、冷たそう。
時と場合によっては、平気で人を殺す。表情にそんな空気が漂っていた。
あたしは、腹をくくった。
相手の城に入った。
正体まできかされた。
ただにこにこと握手してサヨウナラというわけにはいかないだろう。
そうなると、かえって落ちついた。
ビールを、ぐいと飲む。
「じゃ、J・R。あたしを釣った、じゃなかった、招待した理由《わけ》をきかせてくれてもいいんじゃない」
「場所を知りたいんだ」
J・Rは、ズバリといった。
「場所?」
サシミをくわえたまま、あたしはつぶやいた。
きのう尾行《びこう》してきたあのフィリピーノたちも、〈例の場所〉といってた。
そのことを、簡単にJ・Rに話す。
「そうか……フィリピーノたちも……」
J・Rは、つぶやいた。
「場所って、いったいなんのことなの?」
J・Rは、あたしの眼をのぞき込んで、
「本当に知らないようだな」
「知らないわ」
「OK。じゃ、簡単に説明しよう」
「2年半ほど前のことだ」
J・Rは、話しはじめた。
「1隻《せき》の密輸船が、ホノルルに入港しようとしていた」
「どこからの船?」
「フィリピンさ」
「フィリピン?」
「ああ。ある人物の私有財産を積んでね」
「ある人物?」
「そう。いま、ハワイ中で話題の人物さ」
J・Rは、ニヤリと笑った。
「……マルコスね」
「正解」
「やつの、マルコスの得意技ってわけだ」
J・Rは、苦笑い。
「汚れた手で金をかき集めては、国外へ運び出す」
「現金で? それとも宝石か何かで?」
「おそらく、プラチナののべ棒か、スペイン金貨だろう」
「で? その船は?」
「難破して……」
J・Rは、鉢《ボウル》に入った冷ややっこに、おはしを突っ込むと、
「海底に沈没《ちんぼつ》した」
四角いおトウフを、氷水に沈めた。
「どこに沈んだの?」
氷水の中のおトウフをながめて、あたしはきいた。
「ホノルルの沖としか、わからない」
とJ・R。腕組みして、
「ところが、みんながその難破船のウワサを忘れはじめた1年後。ちょっとした事故がおこった」
「事故?」
「ああ。海軍《ネイビー》の下請《したう》けで海底をさらってたサルヴェイジ船が、偶然《ぐうぜん》にその難破船を見つけたらしい」
J・Rは、おはしを持つ。
「サルヴェイジ船は潜水夫《せんすいふ》をおろした」
おはしの先で、氷水の中のトウフをつかむ。
「30分後、大|爆発《ばくはつ》がおこった」
「大爆発?」
「ああ。難破船に爆薬がしかけてあったのか、戦争中の不発弾《ふはつだん》でも沈んでいたのか、とにかく」
おはしでつまんだトウフを、また、氷水の底へ。
「難破船は、ふたたび誰も知らない海の底だ」
と軽くため息。
「サルヴェイジ船の作業員も、全員、死んだ。ところが、その1人が、いい残したんだ」
「いい残した?」
「ああ。息を引きとるまぎわにね」
「なんて?」
「あの場所は、昔、娘とよく釣りにいった所だ。これも不思議なめぐり合わせだな。そうつぶやいて息を引きとった」
「その娘って……」
「当時、感化院《ガールズ・ホーム》に入っていた、未記子《みきこ》という不良娘だ」
あたしが持ったおはしから、AHI《マグロ》のサシミがポロリと落ちた。
1分。
2分。
3分。
あたしは、無言。氷水の中のおトウフを、じっとながめていた。
「いまとなっては、難破船の場所を知る手がかりは、それだけだ」
とJ・R。
「でも……パパが事故で死んだのは、もう1年半も前よ。なぜ、急にいま頃……」
「マルコス一派に、金が必要になったのさ」
「そうか……」
ホノルルに亡命してきた。
けど、その財産は没収《ぼつしゆう》されるっていうウワサだった。
「やつは、いま、1ドルでも欲しいだろう」
と、J・Rはいった。
「あんたたち、ジャパニーズ・マフィアも?」
「もちろん、金は欲しい。それ以上に、やつらに、1セントでも渡《わた》したくない」
「勢力争いってわけね」
「そういうこと」
とJ・R。
「フィリピンからズラかってきたゴキブリが、ホノルルにウヨウヨしてる。よけいな金を持たせるのは、愉快じゃない」
ニッと微笑《わら》った。
「どうだ、ミッキー。日本人同士、手を結ばないか」
「金は、山分けでどうだ」
とJ・R。
黄色い蘭《らん》の花を、パチリと切った。
桜亭の裏。
広い温室に、あたしたちはいた。
「あんたのパパは、もう帰ってこない。けど、こいつを生命保険の金だと思えばいい」
「保険金か……」
あたしは、つぶやいた。
「で、いくらぐらいになるの?」
「まず、最低、20万ドル」
「20万。山分けで10万ドルか」
それだけあれば、レコードが出せる。
あたしたちの、パイナップル・レーベル……。
蘭の花の間を、あたしはゆっくりと歩く。
J・Rにふり向くと、
「わかったわ」
といった。
「いい子だミッキー、で、その場所は?」
「海の上よ」
「海の上って……」
J・Rは、口を半開き。
「だって、パパと釣りにいったのなんて、4、5歳のときよ。場所なんて」
「思い出せないか」
「なんか、きっかけがあれば、思い出せるかもしれないわ」
「思い出してくれ」
J・Rがそういったとき。クルマのエンジン音。タイヤの悲鳴。思わずふり向いた。
そのとたん、
「ふせろ!」
J・Rが、跳《と》びかかってきた。
床に押し倒された。
同時に、ものすごい音。
サブ・マシンガンの発射音。
温室のガラスが割れる音。
床にふせてるあたしたちの上。
蘭《らん》の花びらが、バラバラと落ちてくる。
5秒……10秒……。
マシンガンの音が、やむ。タイヤの悲鳴。エンジン音が遠ざかっていく。きこえなくなった。
「ふーっ」
J・Rが、大きく息を吐《は》いた。
「フィリピーノのやつら」
ゆっくりと体を起こしながら、
「かなり本気らしいな」
あたしも、体を起こす。
「かばってくれたの?」
「ああ。あんたは大事な金庫の鍵《かぎ》だからな」
薄い唇で、ニッと笑った。
あたしたちの髪に、肩に、蘭の花びらがくっついている。
「やれやれ」
メチャクチャになった温室をながめて、
「野暮《やぼ》なやつらだ」
肩についた蘭を、あたしは手で払《はら》う。
「いい仕立てがだいなしね」
J・Rの上着も払ってやる。上着の胸。何か、ゴツッとした手ごたえ。
「これは?」
あたしは微笑《わら》いながら、
「拳銃《けんじゆう》? 短刀?」
J・Rの表情が、さっと変わった。
「どうしたの?」
「つまらんことに興味を持つな」
冷たくいった。
「ついてこないでよ」
あたしは、自転車をとめた。
ふり返っていった。
すぐ後ろ。黒塗《くろぬ》りのベンツ。
窓から、太った顔がのぞく。J・Rの手下、ナカジマだ。
「ついてこないでよ」
「でも、護衛しろっていうジュニアの命令ですから」
とナカジマ。
ロス・オリンピックで優勝した、日本のヤマシタっていう柔道《じゆうどう》選手によく似た顔。
「おともします」
ボソッといった。
「やれやれ」
あたしは、クヒオ|通り《アベニユー》をまた走りはじめる。
〈ホノルル・コロシアム〉に戻る。
「ボーイフレンドでもできたのか、ミッキー」
とビリー。あたしについてきたナカジマを、ニヤニヤと見ている。
「ゴエイよ」
「ゴ、エ、イ?」
チャックが、変な声を出した。あたしは、事情を簡単に説明する。
「へえ、本物のヤクザさんか」
とリカルド。
ナカジマをジロジロとながめる。
あたしは、店の奥に。
「どこへいくんですか、お嬢さん」
とナカジマ。
「トイレよ」
あたしは、手を振る。
「おい、いま、お嬢さんってきこえなかったか?」
とビリー。
「ああ、おれも、ききちがえかと思ったがな」
とチャック。
「うるさいわね!」
あたしは、PRIMO《プリモ》の空き缶をビリーたちに投げつける。
トイレヘいく。
トイレは、裏口に通じていた。
あんなデカいのにつきまとわれちゃたまらない。裏口から、そっと抜け出る。
真珠湾《パール・ハーバー》を見おろす丘。
「教えて、パパ」
小さな十字架《じゆうじか》に向かって、あたしはつぶやいた。
「どこで、釣りをしたんだっけ」
もちろん、返事はない。
午後の陽ざしが、芝生に光っている。
〈|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》〉の花束。RUM《ラム》のビン。それを、十字架の下に置いた。
「じや、またくるからね」
自転車にまたがる。
ホノルルの街に向かっておりていく。
「あれ?」
思わずつぶやいた。
自転車からおりてみる。
あたしの家があったところ。
空き地だったのに、新しい家が建っていた。
近づいていく。
グリーンのペンキを塗った平屋。
ポーチ、ガラス窓、カーテン、何もかも、ま新しい。
どんな人が住んだんだろう。
あたしは、花柄《はながら》のカーテンをながめた。そのとき、
「何してるのさ」
という声。
白人の男の子が立っていた。
「どうしたの、ジミー」
家の中で、ママらしい声。
「変な子が、うちを見てるよ」
と男の子。
「変な子で悪かったわね」
あたしは、男の子にアカンベエ。自転車にまたがる。陽ざしの中へ走り出す。
「ジュニアなら、ケワロ湾《ベースン》の方だと思いますが」
と手下がいった。
ダウンタウン。桜亭の入口。
〈魚釣りをした場所は、どうしても思い出せないわ〉
そういうためにやってきた。
「ケワロ湾《ベースン》か。ありがとう」
あたしは、手下に手を振《ふ》った。
音がした。
ハーモニカの音だった。
透明《とうめい》な音色が、風に運ばれてくる。
ケワロ湾《ベースン》。
午後4時。
あたしは、自転車を押していく。
ひとけのない岸壁《がんぺき》。
白い大型セダンが駐《と》まっている。
あたしは、近づいていく。
ハーモニカのメロディは〈THATS《ザツツ》 WHAT《ホワツト》 FRIENDS《フレンズ》 ARE《アー》 FOR《フオー》〉。
S《ステイービー》・ワンダーが吹《ふ》くイントロだった。
クルマにもたれてハーモニカを吹いている人影。
J・Rだった……。
「無用心ね」
その背中に、あたしは声をかけた。J・Rが、す早くふり向く。右手には、|拳 銃《オートマチツク》が握られている。
「ミッキーか……」
「フィリピーノじゃなくてよかったわね」
あたしは、自転車をクルマによりかからせる。
「組織のボスが、1人で、こんなところで」
J・Rは無言。
1人になる事情があったんだろう。
「そのハーモニカ……」
あたしは、つぶやいた。
あのとき。温室にマシンガンを撃《う》ち込まれたとき。
J・Rの上着の胸。
ゴツッとした手ざわり。
あれは、ハーモニカだったらしい。
「手下には見せたくない姿ってわけね」
J・Rは、皮肉っぽく微笑《わら》った。
「おれは、|裏 側《ダーク・サイド》の人間だ」
と、海をながめていった。
「それがミュージシャンごっこなんて、冗談《じようだん》にもならない」
「ミュージシャンごっこ?」
「ニューヨーク大学にいってたときだ」
とJ・R。
「笑うなよ、ミッキー。ギャングだって、近頃《ちかごろ》は大学にいくんだ」
「その頃、音楽をやってたの?」
「ああ。バンドを組んでいた」
「プロになるつもりで?」
J・Rは、首を横に振《ふ》った。
「おれは、一人息子だ。組織を継がなきゃならないのは、わかっていた」
「それじゃ……」
「4年間、夢を見ただけだ」
J・Rは、ぽつりといった。
「午後のセントラル・パークで、よく練習をしたよ」
「卒業まで、バンドを?」
「卒業の3か月前に、親父が殺された」
「それで、呼び戻されたってわけか……」
J・Rは無言。
ハーモニカを吹きはじめた。
〈MOONLIGHT《ムーンライト》 SERENADE《セレナーデ》〉
フレーズが、ゆっくりと流れていく。
「その曲、パパも好きだった」
あたしは、いった。
「パパもよく口笛で……」
といいかけて、
「あっ……」
思わず声を上げた。
「どうした、ミッキー」
「思い出したわ。パパといった魚釣り……」
J・Rが、あたしの横顔をのぞき込む。
「どこだ」
「ちょっと待って」
あたしは、空を仰《あお》いだ。
パパが口笛で吹いていた、〈ムーンライト・セレナーデ〉。
夕方の海。
魚釣り。
あの頃が、胸によみがえってくる……。
「どこで釣りをした」
とJ・R。
「沖《おき》だったわ」
「もっと何か覚えてないか」
「……よく、上を飛行機が飛んでいたわ」
「旅客機か」
「そうよ。すぐ真上を、離陸《りりく》した大型機が上昇《じようしよう》していったわ」
「いいぞ、ミッキー」
とJ・R。
「ってことは、ホノルル空港の滑走路《かつそうろ》の延長線上だな。もっと、思い出さないか」
あたしは、遠くを見た。
「そういえば……、ジェット戦闘機《せんとうき》も、すぐ真上を上昇していったっけ……」
J・Rが、ゆっくりとうなずいた。
「OK。それで解決だな」
「これで、場所がわかるの?」
「ああ」
「どうして?」
「簡単さ。そのジェット戦闘機は、となりのヒッカムから離陸したやつだ」
「あっ、そうか……」
ホノルル空港のすぐとなりは、ヒッカム空軍基地だ。
「2つの滑走路。その離陸コースが交わるところ。そこで、あんたとパパは舟を浮かべていたわけだ」
あたしは、うなずいた。
「頭いいのね」
「大学にいったからな」
J・Rは、ニッと笑った。
J・Rが、またハーモニカを吹きはじめた。
あたしは、海をながめていた。
たそがれの海面。
杏《プラム》色の反射。
|軍 艦 鳥《フリゲート・バード》が2羽、空に漂《ただよ》っていた。
5歳《さい》の日が、胸によみがえる。
たそがれのホノルル湾《ベイ》。
浮かんでいる小舟。
日系人の父と娘。
娘は、ギンガム生地の粗末《そまつ》なワンピース。ゴムゾウリ。長い髪。大きな眼。
女の子なのに、釣《つ》りが上手だった。
もともと、岩礁《がんしよう》か何かある穴場だったんだろう。魚はよく釣れた。
|赤 鯛《レツド・スナツパー》。|旗 尾 魚《フラツグ・テイル》。|蝶 々 魚《バタフライ・フイツシユ》。
バケツ一杯の魚は、晩ごはんのオカズになった。
そして、頭上をよぎって上昇していく旅客機たち。
パンナム。TWA。ノースウェスト。
「そのうち、あれに乗ってディズニー・ランドヘいこう」
という父親。
「それより、カーネギー・ホールでコンサートがききたいわ」
と、口をとがらす娘。
けっきょく、いっしょに飛行機に乗ることはなかった……。
「どうした、ミッキー」
J・Rが、あたしの横顔を見た。
鼻の奥が、ツンとする。
水平線が、ボーとにじみそうだった。
だけど、あたしは泣かなかった。唇《くちびる》をきつく結んで、たそがれの海を見ていた。
J・Rがまたハーモニカを吹《ふ》きはじめた。
〈ムーンライト・セレナーデ〉が、潮風に運ばれていく。
「いたぞ!」
叫《さけ》び声がした。巻き舌。フィリピンなまりの叫び声だった。
自転車のハンドルを握《にぎ》ったまま、あたしはふり返る。
トラックが1台、わき道から出てくるのが見えた。
ぐんぐん、スピードを上げてくる。
あたしも、自転車のハンドルを握りなおす。
暗くなりかけたカピオラニ|通り《ブルバード》。
クルマもほとんど走っていない。
あたしは、自転車のギアを2段上げた。
ペダルは重くなる。
けど、スピードは上がる。
カピオラニ|通り《ブルバード》を西へ。突っ走る。
ディーゼル・エンジンの音が、少しずつ大きくなる。
ふり向く。
トラックは、30ヤードぐらい後ろを追いかけてくる。
ヘッドライトがまぶしい。乗っている人間の顔はわからない。
カヘカ|通り《ストリート》へ右折。
トラックも曲がってくる。
あっちはエンジンつきだ。差が縮まってくる。
25ヤード……20……10……トラックの運転席が、自転車と並んだ。
どんなやつらだ。
ふり向いた、そのとたん。
トラックの荷台から、何か降ってきた。
頭の上に、広がった。
漁師の投網《とあみ》。
そう気づいたときは、自転車ごと転んでいた。
トラックが、急ブレーキ。
ばらばらと、人が跳《と》びおりてくる。
「獲《と》れたぞ!」
という叫び声。
駆《か》け寄ってくる足音。
あたしは、起き上がろうとした。けど、体中に網がからまっている。
スティックを引き抜こうとした。
けど、腕が網に引っかかっている。いうことをきかない。
「おとなしくしろ!」
ふり上げられた棒が、ちらりと見えた。
頭に、重いショック。
眼の前が暗くなっていく。
「お目覚めらしいな」
フィリピンなまりの声。
あたしは、ぼんやりと眼を開けた。
眉のない|吊り眼《フオツクス・アイ》。
右|頬《ほお》の赤いアザ。
嫌《いや》な顔が、眼の前にあった。
4日前、尾行《びこう》してきた連中のボス。
J・Rに見せてもらった資料を思い出す。
〈通称、赤アザのフェリーペ〉
〈マルコス国家警察の凄腕《すごうで》〉
〈主に政治犯の担当〉
〈拷問《ごうもん》のプロ〉
〈1か月前にマニラを脱出《だつしゆつ》。ハワイに密入国〉
愉快な情報は何もない。
頭が、ズキッと痛んだ。
触《さわ》ろうとした。けど、腕が動かない。
両手は、頭の上で縛《しば》られていた。
というより、上から吊《つる》されていた。
見回してみる。
倉庫みたいな所だった。
船外エンジン。ロープ。水槽《すいそう》みたいなもの。|浮き《ブイ》。そんなものがあちこちに積んである。
|釣 り 船《トローリング・ボート》の倉庫らしい。
赤アザの手下が10人ぐらい。あたしを囲んでいる。
この前、スティックでひっぱたいたやつもいた。
見上げる。
釣った大物を吊すフック。そこに、あたしの両手は縛りつけられていた。
両足のつま先がやっと床《ゆか》につく。そんな高さに吊されていた。
「4日ぶりだが、元気だったか、ミッキー」
と赤アザ。
ニヤニヤ笑いながらいった。
「おかげさまでね、フェリーペ」
「ほう、おれの名前を知ってるらしいな」
と、やつ。
「それなら話は早い。なぜここへきてもらったかも、わかるな」
「ディナーでもごちそうしてくれるの?」
「冗談《じようだん》をいってる時間はないんだ。教えてもらおうか、例の場所を」
「誰が、あんたなんかに」
あたしは、アカンベエをした。
赤アザは、ニタリと笑った。
「まあ、そう強がっていられるのもいまのうちだ」
やつが、何かとり出した。
釣り竿《ざお》だった。
グラスファイバーの釣り竿。その、半分から先だ。
「夜釣りにでもいくの?」
あたしは、いってやる。
「それは、魚を釣るためのものだが、それだけじゃない。釣った魚をかわいがるためにも使えるのさ」
やつが、釣り竿を握りなおした。
ヒュッ。
空気を裂《さ》く鋭い音。
ピシリッ。
音をたてたのは、わたしの腕だった。
激しい痛み。
思わず、奥歯《おくば》をかみしめた。
呼吸がとまる。
「人間ってのは、この種の苦痛には一番弱いらしい」
赤アザは、薄笑《うすわら》い。
ヒヒッという音が、唇からもれる。
どうやら、先天的なサディストらしい。
「しゃべる気になったか」
やつが、あたしの顔をのぞき込む。
あたしは無言。やつをニラみつける。
「そうか。もう少し痛い目にあいたいわけか。かわいそうにな」
赤アザが、釣り竿を握りなおした。
10分か20分。
そんなものだったろう。
けど、何時間にも感じられた。
全身、傷だらけだった。
着ているアロハは、もうボロくずだった。
「これだけ痛い目にあって悲鳴ひとつ上げないとは、しぶとい小娘だな」
と赤アザ。
「それじゃ、第2ラウンドにいこうか」
やつは、手下に合図。
手下が、水槽《すいそう》の水をバケツでくんでくる。
「ずいぶん血がにじんでるぞ、ミッキー。洗い流してやろう」
赤アザは、バケツを持つ。
「あいにく、いま、海水しかなくてな」
ニッと笑った。
「その傷だらけの体には、ちょっとしみるかもしれないな」
手下たちも、薄笑《うすわら》い。
「どうだ。しゃべる気になったか」
あたしは、唇をかんだ。ソッポを向く。
「そうか。じゃ、たっぷり味わえ」
と赤アザ。バケツを持ちなおす。
「それっ」
あたしの体に、思いきり海水をぶちまけた。
全身を硬《かた》く。歯をかみしめた。声にならない悲鳴が上がる。気が遠くなりそうだった。
それでも、なんとかもちこたえた。
苦痛が、少しずつ、少しずつ、引いていく。
「しみたらしいな」
赤アザは、へラヘラと笑う。
「そろそろ、しゃべる気になったか」
と、あたしの顔をのぞき込む。
「サノバビッチ……」
あたしは、悪態をつく。思いきり、ツバを吐《は》きかけてやった。
やつの胸。
白いシャツに、血の混じったツバが散った。
「どうやら、この手の痛い目には強いらしいな」
と、赤アザ。
「さすが、感化院《ガールズ・ホーム》出だけのことはある。じゃ、別のやり方でかわいがってやろう」
舌なめずりをした。
手がのびてくる。ショートパンツのボタンを、はずした。
「何するの!」
あたしは、叫《さけ》んだ。
「きくまでもないだろう」
手下たちも、ニタニタと笑う。その眼が、アブラッこく光っている。
赤アザの手が、ショートパンツのファスナーにかかった。
「やめてよ!」
連中の笑い声。
赤アザは、ゆっくりとファスナーをおろしはじめた。
あたしはきょう、下着をはいていない。
「やめてよ!」
赤アザの薄笑《うすわら》い。
ファスナーが、ゆっくりと下げられていく。
1インチ……。
手下たちの、ギトギトした視線。
2インチ……。
赤アザが、自分の唇をなめている。
3インチ……。
見えちゃう。
「やめて!」
思わず涙声《なみだごえ》になっていた。
4インチ……。
「しゃべるから! やめて!」
「すぐに引き上げの用意だ!」
赤アザが、手下に命令した。
手下は、ドヤドヤと倉庫を出ていく。
赤アザは、あたしにふり返る。
「もし、いまのが嘘《うそ》だったら、今度はようしゃしない。全員に輪姦《まわ》される覚悟《かくご》をしておけ」
そう吐《は》き捨てる。倉庫を出ていく。
「お前、けっこういい体してるじゃないか」
と、赤いシャツの手下。あたしの見張りに1人残されたやつだ。のそのそと近づいてくる。
「手出しすると、ボスに怒られるわよ」
と、ニラみつけてやる。
「まあ、そう硬《かた》いこというな」
やつは、ニヤリと笑う。
ボロボロになったアロハに、手をのばしてくる。
「いいじゃないか。減るもんじゃなし」
アロハの前を、ぐいと開く。
あたしは、眼を閉じた。
「ほう。なかなか……」
と、やつがいいかけたとき。
ボクッと、にぶい音。
あたしは、そっと眼を開けた。
手下が、ゆっくりと、床にくずれ落ちるのが見えた。その後ろ。ナカジマの巨体《きよたい》が立っていた。
さすがに、足がフラつく。
ナカジマに、ささえてもらう。
ヨロヨロと、倉庫の裏口を出る。
アラ・ワイ・ヨットハーバーの近くらしい。
倉庫の裏。黒いリムジンが駐《と》まっている。エンジンは、かけっぱなしだ。
ナカジマが、ドアを開けてくれる。
あたしは、乗り込む。
J・Rが、シートに深々と坐っていた。
「1時間半も待ったぜ、ミッキー」
白い歯を見せた。
「待った? 1時間半?……」
「ああ。あんたが、あんなにがんばるとは思わなかったからな」
「がんばるって……それじゃ……」
あたしは、口を半開き。
「それじゃ……あたしがつかまったのを……」
「ああ、知ってた。投網《とあみ》で魚みたいにつかまったのもね」
「じゃ……どうして……」
「作戦だ」
「作戦?」
「ああ。やつらに、難破船の場所を教える。そして、荷物を引き上げさせる。それを、おれたちがぶんどる」
「じゃ……あたしは……オトリ……」
「まあ、そんなようなものだな」
とJ・R。サラリといった。
「この、人でなし!」
あたしは、J・Rの頬《ほお》をひっぱたいた。
「おいおい、おれはギャングだぜ。そこを忘れてもらっちゃ困る」
J・Rは苦笑。
「それよりミッキー、バストが見えそうだぜ」
「あ」
あたしは、J・Rに背中を向けた。
アロハはもう、ボロくずというより糸くずみたいだった。
「ほら」
とJ・R。
肩ごしに、新品のアロハが1枚さし出された。
J・Rに背中を向けたまま。
ボロを上半身からむしりとる。
新しいアロハを着る。
RRRRR……。
ベルが鳴った。無線電話らしい。
J・Rが、受話器をとる。
短い応答。
「わかった」
J・Rは受話器を置く。
「やつらの船が、いま出ていった。いよいよ勝負だな」
ナカジマが、エンジンをかけた。
リムジンは、滑《すべ》るように走り出す。
「これ……」
あたしは、つぶやいた。
ホノルル港《ハーバー》。第7桟橋《ピア》。
快速艇《かいそくてい》が1隻《せき》。
〈U・S・COASTGUARD〉の文字。
「これ、沿岸警備隊《コースト・ガード》の……」
「そうさ。借りてきたんだ」
J・Rは、涼しい顔でいった。
「隊長が、うちの売春宿のおとくいなんでね」
手下の日本人が10人近く。桟橋《さんばし》に揃《そろ》っていた。全員、沿岸警備隊《コースト・ガード》の制服を着ている。
「武器の点検!」
とJ・R。
手下たちが、自分の武器を確認する。
自動拳銃《オートマチツク》。シーナイフ。ブラック・ジャック。
暗い桟橋《ピア》に、金属が冷たく光る。
「できる限り、拳銃《けんじゆう》は使うな。同士うちになるからな」
とJ・R。全員、うなずく。
救急用品一式《フアーストエイド・キツト》が配られる。
「やつらの船が、動き出しました!」
と、無線係の手下。
「荷物を引き上げて、帰ってくるようです」
「よし、じゃ、出迎《でむか》えにいこう」
J・Rがニヤリと笑った。
あたしは、腕《うで》時計を見た。
午前3時20分。
快速艇のエンジンが始動した。
「あれだな」
双眼鏡《そうがんきよう》をのぞいているJ・Rがいった。
「左|舷《げん》前方、10時の方向」
船と飛行機の用語がごちゃまぜだ。
それでも、手下はうなずく。舵《かじ》を切る。
暗い海面。船のたてる白い波が見えてきた。
「明りをつけろ!」
J・Rの叫《さけ》び声。
快速艇《かいそくてい》のサーチライトがパッとついた。相手の船を照らし出す。
中型の漁船。たぶん、そう見せかけた船だろう。
J・Rは、マイクをつかむ。
「こちらは沿岸警備隊《コースト・ガード》、沿岸警備隊《コースト・ガード》。停船しろ。くり返す。停船しろ」
スピーカーからの声が、夜の海面に響《ひび》いた。
漁船のスピードが落ちる。
「やつらは、まず、トボけて切り抜けようとするだろう」
とJ・R。
「こっちがニセ物だと気づかれる前に、のり込む」
自分の拳銃《けんじゆう》。ワルサーをベルトの内側から抜く。
ブローバックした。
漁船は、完全にとまった。
快速艇は、近づいていく。
30ヤード……20……10……。
相手のデッキには、船員が2、3人。平和な漁船を装《よそお》っているらしい。
船と船が、くっついた。とたん、相手のデッキでパンッという破裂音《はれつおん》。白い煙《けむり》が広がる。ジャパニーズ・マフィアが催涙弾《さいるいだん》を撃《う》ち込んだらしい。
「先発隊、突撃《とつげき》!」
の声。
いつの間にかガス・マスクをつけた手下が5人。1、2ヤード高い漁船のデッキにとび移っていく。
15分後。
「荷物が見つかりました! ジュニア!」
ナカジマの声が響《ひび》いた。
漁船のデッキ。乱闘《らんとう》はもう、峠《とうげ》をこえていた。
フィリピーノたちが、あちこちに殴《なぐ》り倒されている。
「よし、荷物を移せ!」
とJ・R。
手下たちが、キャンバス地にくるまれた荷物を、重そうに運んでいく。
あたしとJ・Rは、漁船の船尾《せんび》にいた。
「さて」
J・Rは、柔《やわ》らかいレンガみたいなものをとり出した。
プラスチック爆弾《ばくだん》らしい。
「ヘソクリは、もらっておくぜ、マルコス」
プラスチック爆弾を右手でつかむと、
「領収書がわりだ」
デッキの手すりにくっつけた。
赤と黒のコード。信管だろう。
それを、爆弾に突っ込む。
置き時計みたいなタイマーを、カリカリと回す。
1分にセット。スイッチ、ON。
針が動きはじめる。
「ズラかれ!」
あたしとJ・Rは小走り。船の前の方へ駆《か》ける。
そのとき、
「あっ」
あたしは、小さく叫んだ。
操舵室《そうだしつ》の入口あたりに動く人影……。どうやら、捜《さが》していた相手、赤アザらしい。
快速艇《かいそくてい》に乗り移るJ・Rには知らん顔。
あたしは、操舵室の方へ。出入口のドアに、そっとしのび寄る。
ドアのノブに手をかけたとたん。
ドアがバーンと中から開いた。
鉄のドアに、はね飛ばされた。
デッキに、転がる。
気がつくと、赤アザが立っていた。
「この小娘……」
吊《つ》り眼が、快速艇のサーチライトに光った。
「ひとこと、お礼がいいたくてね」
あたしは、立ち上がった。
やつの右手で、何か光った。ヤシの実なんかを割るときの山刀だった。
「ミッキー!」
快速艇のデッキで、J・Rが叫《さけ》んだ。
「急げ! あと40秒だぞ!」
赤アザが、1歩つめてくる。
「くらえ!」
山刀を、横に払ってくる。ビュッと空気を切る。体をひるがえしてかわした。
「ほら!」
山刀が、またひと振り。きわどくかわす。けど、相手の武器はリーチが長い。
山刀の刃が、ポニー・テールの先をかすめる。
切られた髪の先が、宙に舞《ま》う。サーチライトに、キラキラと光る。
「そら!」
また山刀がひと振り。そのたびに、かわしながら後ずさり。
デッキの端に、追いつめられていく。
「逃げろ! あと20秒だぞ!」
J・Rの叫び声。
赤アザとあたしの体が、激《はげ》しくクロスしている。だから、銃《じゆう》も使えないだろう。
とうとう、舳先《へさき》に追いつめられた。
跳《と》び込み台みたいな舳先。後ろは、もう何もない……。
「これまでだな」
赤アザが、ニタリと口をゆがめた。
「死ね!」
山刀を、横に払った。
あたしは、必死で跳《と》んだ。
足のすぐ下を、白い光が走った。
あたしは、空中で背中のスティックを抜《ぬ》いていた。
跳びおりざま、やつの右腕に叩きおろした。
ビシッとにぶい音。
骨を叩き折った手ごたえ。
うめき声。
赤アザの体が、デッキにくずれていく。
「ミッキー! あと5秒だ!」
の叫び声。
ハッとわれに返る。
動き出した快速艇《かいそくてい》が、舳先の下を回り込む。
「跳びおりろ!」
ナカジマの巨体《きよたい》が、ちらっと見えた。両手を広げている。
あたしは、舳先を蹴《け》った。
跳びおりる。
ナカジマの腕に抱きとめられた。
その瞬間、船尾《せんび》の爆発音が海に響《ひび》いた。
傾《かたむ》いた漁船が、遠ざかっていく。
「あと15分で沈むな」
ふり返ってJ・Rがいった。
快速艇の上では、負傷者の手当てがはじまっていた。
先制|攻撃《こうげき》の成功で、たいしたケガ人はいなかった。
ナカジマが、シーナイフを握った。ぶんどった荷物の、キャンバス地を切り裂《さ》いていく。
にぶい光が、ちらりとのぞく。
ナカジマは、大きな手でつかみ出す。
プラチナののべ棒だった。
誰かが、ヒューッと口笛を吹いた。
ホノルル港の桟橋《さんばし》。
「積み終わりました、ジュニア」
手下がいった。
「よし、すぐ出ろ。沖《おき》のドンパチをききつけて、そろそろ警察が動き出すだろう」
手下たちはピックアップ・トラックに乗り込む。
岸壁《がんぺき》を出発する。
あたしとJ・Rは、薄明《うすあか》るくなってきた海をながめていた。
「ああ、お腹がすいたわ」
あたしがつぶやいた、その瞬間《しゆんかん》!
背中で足音!
ふり向く。
突っ込んでくる人影。
刃物の光。
ベルトの拳銃を抜こうとしたJ・R。
その体に、ぶつかる人影。
嫌《いや》な音がした。
J・Rは、倒れる。
フィリピーノらしい人影は、す早く体をひるがえす。
転がるように駆《か》け去っていく。
「|J・R《ジユニア》!」
あたしは、駆け寄った。
倒れたJ・R。その胸に、ナイフが刺《さ》さっている。
「やられたな……」
と、つぶやいた。
「しゃべっちゃダメよ!」
「いいさ。どうせベッドで死ぬガラじゃない」
「J・R……」
「なあ、ミッキー」
「何……」
「キスしてくれないか」
「キス?……」
「ああ。いいだろう?」
「でも……」
「頼《たの》む」
「……わかったわ……」
あたしは、そっと、かがみ込む。
J・Rの唇に、キスをする。
「ケンカに比べると、キスはずいぶん下手《へた》なんだな」
J・Rがいった。
普通の声だった。
あたしは、顔をはなす。
J・Rは、ニヤニヤと微笑《わら》っている。
何か変だ。
J・Rは、ゆっくりと起き上がった。
胸のナイフを、自分で引き抜いた。
片手を、上着の内ポケットに。
ハーモニカをとり出した。
木の部分に、ナイフの刺《さ》さったアトがあった……。
「J・R……あんた……」
「ヒヤッとしたぜ」
やつは、涼しい顔でそういった。
その頬《ほお》を、あたしは思いきりひっぱたいた。
「きょうは、2回も叩かれたな」
とJ・R。
「お袋《ふくろ》以外の女にひっぱたかれたのは、これがはじめてだ」
頬をさすりながら、ニッと笑った。
J・Rは、ハーモニカをながめて、
「きょうのところは、幸運の女神が微笑《ほほえ》んでくれたってわけだ」
と、つぶやいた。
「これで最後よ。つぎは、のたれ死にね」
あたしは、ブスッといった。
「きげんが悪いんだな」
「当たり前でしょ。あんたに失《な》くされたものが、2つもあるわ」
「2つ?」
「1つは、気に入ってた貝殻《かいがら》のピアス」
「もう1つは?」
「ファースト・キス」
「そうか……」
J・Rは、うなずく。
「それで、下手《へた》だったわけだ」
「ほっといて」
あたしは、岸壁《がんぺき》を歩きはじめる。
J・Rも、ぶらぶらと歩き出す。
並んででもなく。
離れてでもなく。
あたしとJ・Rは、歩いていく。
J・Rは、ハーモニカを吹きはじめた。
ナイフが突き刺さったせいだろう。ハーモニカは、調子っぱずれな音がした。
ちょっと|哀しげ《ブルージー》な〈ムーンライト・セレナーデ〉が、海面に流れていく……。
あたしは、唇をそっとかんだ。
ひんやりとした潮風は、体中の傷口に。J・Rの吹くセレナーデは、胸に。ヒリヒリとしみていく。
ホノルル湾《ベイ》の夜が、明けようとしていた。
[#改ページ]
第5話 少しだけティア・ドロップス
曲のエンディング。
スネア・ドラムとタムタムで、
♪(SPAM!)
♪(SPAM!)
♪(SPAM!)
♪(SPAM!)
最後はシンバルを、
♪(JAAAAN……)
と叩いて終わる。
左右のシンバルが揺れる。
残響《ざんきよう》が、ゆっくりと、店の壁とフロアに吸い込まれていく。
「いまの1発は」
とチャック。
「なかなかよかったぜ」
とアキラ。
ガヤガヤといいながら、ステージをおりる。
ライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉。
夜中の0時過ぎ。
きょう3回目のステージが終わったところだった。
あたしは、スティックの汗をタオルで拭《ふ》く。スティックを、ヒッブ・ポケットに刺す。タオルで手の汗も拭きながら、カウンターへ。
スツールに、ドサッと坐《すわ》る。
「ビールをおくれ」
と、アントニオにいった。
ノドが、カラカラだった。
「はい、お疲れ」
とアントニオ。
缶のPRIMO《プリモ》を、あたしの前に置いた。
ひと息に飲み干す。
ノドが、ジュッと音をたてる。
「ふーっ」
全員、笑顔を見合わせる。
「悪くないよね、いまの曲」
と、チャックがいった。
あたしは、ビールを飲みながらうなずいた。
いま、ラストに演《や》った曲。
ビリーが、つくった曲だ。
ミディアム・テンポ。S《ステイービー》・ワンダーばりのメロディ・ラインだった。まだ、歌詞はついていない。当然、タイトルもない。
「いい歌詞がつけば、おれたちのデビュー曲にはピタリかもな」
とアキラ。
全員、うなずく。
「いい詞をたのむわよ」
あたしは、リカルドにいった。
バンドの中じゃ、作詞は、リカルドがナンバー|1《ワン》だ。
自称〈マイクを握った詩人〉だという。
「了解」
とリカルド。
ビールを飲みながら、あたしに答えた。
けど、視線は、まるでちがう方を向いてる。
カウンターの端《はし》。
1人で飲んでる白人の美人。
その横顔を、リカルドは見つめている。
「やれやれ」
あたしたちは、苦笑い。ため息。
「そんな顔するなよ」
とリカルド。
「恋は、歌の原料だからな」
と、つぶやいた。
「原料かよ」
チャックが苦笑いしたとき、店のドアが開いた。
巨《おお》きな体が、入ってきた。
紺《こん》のスーツにつつまれた巨体《きよたい》。
ナカジマだった。
ジャパニーズ・マフィア〈|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》〉の社員。
というより、若きボス、|J・R《ジユニア》のボディ・ガードだ。
少しすいてきたホノルル・コロシアムの店の中。ナカジマは、のしのしと歩いてくる。
大きな花束を持っていた。まっ赤なバラの花束だった。50本位は、あるだろう。
けど、ナカジマは、それを片手で持ってやってくる。
「はい」
と、あたしにさし出した。
「J・Rからです」
ぼそりといった。
「これはこれは」
とビリー。
「近頃は、日本のマフィアも、洒落《しやれ》たことをやるんだな」
とリカルド。ニヤニヤと微笑《わら》う。
「とにかく、ありがとう」
あたしは、うけとった。
花束に、白い封筒《ふうとう》がついていた。
開けてみる。
カードが1枚。
それに、小切手が1枚。
カードを、読む。
〈この前の仕事の分け前だ。
うけとってくれ。
[#この行2字下げ]まだ、フィリピン人のゴキブリどもがうろついているようだから、用心するように。
[#地付き]J・R〉
それだけの、簡単な伝言だった。
つい2週間前。
マルコス一派のかくし資産から、プラチナののべ棒をぶんどった。
それを、換金《かんきん》したんだろう。
あたしは、小切手を手にとった。
ハワイ・ナショナル・バンク振出《ふりだ》しの小切手だった。
頭に、数字の1。
つぎに、5。
あとに、|0《ゼロ》がズラリと並《なら》んでいる。
見たこともない数の0だった。
「……15万ドル……」
とアントニオ。
誰かが、ピューッと口笛を吹いた。
「卒倒《そつとう》しそうだぜ」
とビリー。
「こりゃ、マルコス一派もくやしがるだろうな」
とチャック。みんな、うなずく。
マルコスは、ヒッカム空軍基地から、ホノルル郊外の屋敷に移ったらしい。
とはいうものの、財産のさし押さえがはじまっていた。
いま、連中は、1ドル、1セントでも欲しいだろう。
「ミッキーのことも、ハワイ中、血まなこになって捜してるんだろうな」
とチャック。
ナカジマも、うなずいて、
「充分に気をつけてくれと、ジュニアからのことづけです」
ぼそりといった。
「わかったわ。気をつける」
あたしは、ナカジマに笑いかけた。
「何か飲むかい? ヤクザさん」
とアントニオ。カウンターの中から、ナカジマにいった。
「いや、けっこうです。自分は、仕事中ですから」
とナカジマ。
「じゃ、これで」
と、あたしに一礼。回れ右。店を出ていった。
「さあて」
あたしたちは、小切手をながめた。
「いよいよ」
「パイナップル・レコードの」
「スタートか」
と顔を見合わせる。
「まずは、乾杯だな」
とアントニオ。もう、店じまいの準備をはじめる。
「あ痛た……」
あたしは、ゆっくりと眼を開けた。
朝の光が、まぶしい。
ズキズキと痛いのは、頭だった。
どこだろう……。
見回す。
ホノルル・コロシアム2階の、自分用の部屋だった。
あたしは、床に、寝っ転がっていた。
お腹の上には、丸太がのっていた。
と思ったら、チャックの脚《あし》だった。
顔を回す。すぐわきに、ビリーの顔があった。
どうやら、飲み過ぎたらしい。
10回目の乾杯から後は、よく覚えていない。
頭の中で、ウォツカとテキーラが、ジルバを踊《おど》っていた。
ムニャムニャという声。
となりのビリーだ。手が、あたしのバストをさわろうとした。
「何すんのよ!」
その手を、ピシャリと叩く。
「あ!? ん!?」
ビリーは、目を醒《さ》ます。
「なんだ、ミッキーか」
「悪かったわね」
「いい夢見てたのに」
「もう朝よ」
あたしは、お腹の上のチャックの脚を、よいしょとどかす。バス・ルームに入る。
熱いシャワーを5分。
冷たいシャワーを3分。
やっと、少し気分がなおった。新しいアロハ、ショーツ、ショートパンツを着る。
11時半だった。
店におりていく。
口笛がきこえた。マネージャーのアントニオだった。鏡に向かって、髪をなでつけている。
「ごきげんね、朝から」
その後ろ姿に、あたしは声をかけた。
「おはよう、ミッキー」
アントニオは、ふり返った。
「あ……」
あたしは、思わず、口を半開き。
まっ白いジャケット。青いシャツ。淡《あわ》いピンクのタイ。
全部、ピカピカの新品だった。
「アントニオ……そのかっこう……」
「似合うだろう?」
とアントニオ。クルリと回って見せた。
「それ……もしかして……」
「そう。いまさっき、新調してきたのさ。ほら、これからレコーディングの打合せなんかで、人と会うことも多いしさ」
細い口ヒゲが、ニッと笑った。
「心配するなよ、ミッキー、15万ドルあるんじゃないか」
とアントニオ。
小切手を、銀行に持っていった。その足で、買い物にいったんだろう。
なんという、す早さ……。
「さすが、ラルフ・ローレンは仕立てがいいなあ」
とアントニオ。
口笛を吹きながら、また、鏡の前で1回転。
「あ痛ぁ……」
あたしはまた、カウンターで頭をかかえてしまった。
「おかしいなあ……」
あたしとアントニオは、首をひねった。
カラカウア|通り《アベニユー》の、レコーディング・スタジオ。
スタジオとミキサーの予約をしにきた。
けど、断わられた。当分の間、スケジュールがぎっしりだという。
断わられたのは、もう、3つ目だった。
「ホノルル中のスタジオがいっぱいだなんて」
「なんか、変ねえ」
あたしたちは、首をひねりながら、午後の通りを歩く。
「もしかしたら」
「どっかからの圧力ってことも考えられる」
どっかから。
正確にいうと、|L・A《ロス》の巨大《きよだい》音楽エージェンシー〈|A TO Z《エイ・トウー・ジー》〉からの圧力……。
充分に、考えられる。
「よし、一番でかい所に当たってみよう」
とアントニオ。
「モアナ・スタジオね」
「そういうこと」
カピオラニ|通り《ブルバード》とカラカウア|通り《アベニユー》のぶつかるあたり。
通りに面して〈|MOANA STUDIO《モアナ・スタジオ》〉の看板があった。
ハワイで一番古く、大きな音楽スタジオだった。
ハワイアン・ミュージックの名盤が、何枚も、ここから生まれた。
腕のいいミキサーも、ハワイじゃ一番多いはずだった。
モアナ・スタジオは、想像していたより、ずっと近代的だった。
6階建て。
ガラスとアクリルの建て物。
1階の受付にいく。
受付は、白人女だった。
「あの、ボスに会いたいんだけど」
あたしは、いった。
「社長のジェフ・フリードマンですか。|お約束《アポイント》は?」
白人女は、あたしをジロリと見て、いった。
「してないわ」
「それじゃ、無理ね」
冷たく、そういった。
「でも……急ぐ用なんです」
「皆さん、そうおっしゃるのよ」
と白人女。馬鹿にしたような薄笑《うすわら》い。
「あたしのは、本当に急ぐ用なんです。お腹の赤ちゃんのことで……いますぐ、ボスに……」
と、ぶちかましてやる。
さすがに、白人女の表情が変わった。
「ボスは、きょうは、休暇《きゆうか》です」
「釣りね」
「いえ、ゴルフです」
白人女は、ポロリと口を滑《すべ》らせた。
「あ、アラ・ワイのコースだったわね」
「いえ、ワイアラエの……」
「ありがとう」
あたしは、アントニオの背中を、
「いこう」
と叩く。ビルを急ぎ足で出る。
ホノルルの東。
ワイアラエのカントリー・クラブ。
J《ジエフ》・フリードマンは、練習グリーンにいた。
パットの練習をしていた。
歩いていくあたしと、アントニオの影が、グリーンにのびる。
やつは、顔を上げた。
「私の子供をつくったってのは君かね」
といった。
30代の後半。がっちりした体。白人とハワイアンの混血だろう。金のかかったスタイルをしていた。
「情報が早いのね」
あたしは、いった。
「ゴルフ場にも、電話ぐらいあるからね」
やつは、パットの手を休めてあたしをながめた。
「さて……ドラム叩きの女の子と寝たおぼえはないが……」
といった。
「あたしのことを?」
「ああ……知ってるさ。ミッキーだね」
やつは、ニッと微笑《わら》った。
「そろそろくる頃だとは思ったよ」
パットをする。はずれた。
「時間を節約するためにいうと、録音スタジオとミキサーの件なら、無駄《むだ》だよ」
「無駄?」
「ああ。君たちのバンドに貸すスタジオもなければ、君たちの仕事をするミキサーもいないってことだ」
「誰が、決めたの?」
「私さ」
と、やつ。
「私が決めたってことは、ハワイじゃ、それがルールってことさ」
やつは、自信たっぷりにいった。
「もし、破る人間がいたら、ハワイじゃ、もうレコード関係の仕事ができなくなる」
たぶん、本当なんだろう。
あたしは、唇をかんだ。
「で……それをあなたに決めさせたのは、ロスね」
やつは、答えない。
ってことは、イエスなんだろう。
「ひとつだけ、覚えておいた方がいい、ミッキー」
と、やつ。パットを狙《ねら》いながら、
「いま、ハワイのレコード関係者の、99パーセントが、ロスの資本で働いてるのさ」
「じゃ、残りの1パーセントは?」
「失業している」
やつは、ニッと笑った。
パット。はずれた。
お金もうけほどには、ゴルフは上手《うま》くないらしい。
「おじゃまさま」
あたしは、やつにいった。唇をかんで、背を向けた。
「ラルフ・ローレンの上着が泣くわね」
あたしは、アントニオにいった。
ダブル・バーガーを、ガブリとかじった。
カラカウア|通り《アベニユー》の、バーガー・キング。
午後3時。
ホノルル中の録音スタジオを、全部回った。
すべて、断わられた。
「まいったなあ」
とアントニオ。新しいネクタイを、ゆるめると、
「スタジオはまだしも、問題は、ミキサーだな」
あたしも、ハンバーガーを食べながらうなずいた。
なんせ、はじめてのレコーディングだ。腕のいいミキサーが絶対に欲しかった。
「けど……この調子じゃ……」
と、あたしがつぶやきかけたとき、
「ま……待て!」
アントニオが、ふいにいった。
「|虎 の 耳《イヤー・オブ・タイガー》?」
あたしは、思わずいった。
「何それ。漢方薬?」
「まさか。ニックネームさ、人間の」
とアントニオ。
「伝説的なレコーディング・ミキサーのニックネームさ、それが」
「虎の耳か……」
あたしは、つぶやいた。
そうか。
ハワイのいい伝えじゃ、虎は、一番耳のいい動物ということになっている。
「なるほど……」
シェイクを飲みながら、あたしはうなずいた。
ミキサーは、耳が命の仕事だ。
そのニックネームとしちゃ、最高級のものだろう。
「おれも、きいた話なんだが」
とアントニオ。
「そのミキサーは、ハワイアン・ギターの音を、音まで聴《き》き分けたってことだ」
「16分の1……」
あたしは、つぶやいた。
そうか。
普通のギターなら、フレット1つが音だ。
けど、ハワイアン・ギターは、フレットを押《お》さえない。スライドさせるだけだ。
いくらでも、微妙《びみよう》な音が出る。
それにしても、音なんて……。
「それが、できたって話だ」
とアントニオ。
「だから伝説のミキサーなんだがね」
アントニオは、あたしの胸を指さして、
「たぶん、あんたのパパ、銀色《シルバー》サムのレコーディングもやったことがあるはずだ」
「……で、どこにいるの? その〈虎の耳〉は」
「ああ。ウワサによると、10年ぐらい前にモアナ・スタジオを引退して、ルート83沿いの小さな町に引っ込んでるってことだけど」
あたしは、もう、立ち上がっていた。
「このあたりかな」
あたしは、ブレーキをふむ。黄色いボロ・ワーゲンのスピードを落とす。
オアフ島の東海岸。
カネオヘ湾《ベイ》。
ルート83沿いに、その小さな町はあった。
町というより、村だろう。
のんびりと、ヤシの葉が風に揺れている。
教会は、グリーンのペンキ塗り。
ハワイアンの子供たちが、ローラー・スケートで滑っていく。
店が、1軒あった。
村で1軒の店らしい。
食堂だった。
〈POKI《ポキ》ママの食堂《キツチン》〉そんな看板が、おそい午後の陽ざしを照り返していた。
木造りの、簡単な店だった。
低いポーチ。アミ戸の入口。OPENのカードが揺れている。
「とりあえず、入ってみようか」
あたしとアントニオは、アミ戸を押した。
「いらっしゃい」
太ったハワイアンのおばさんが、読んでいた雑誌から顔を上げた。
これが、POKI《ポキ》ママなんだろう。
あたしは、店を見回した。
食堂。
|お惣菜屋《テイクアウト・シヨツプ》。
バー。
それを全部兼ねた店らしい。
天井で扇風機《フライ・フアン》がゆっくりと回っている。
ガラス・ケースの中。お惣菜《そうざい》がいろいろ並《なら》んでいる。
POKI《ポキ》が多い。
POKIは、生の魚と海藻《かいそう》を、ショウユやチリ・ペッパー・ソースであえたもの。
一番ポピュラーな、ハワイアン・フードだ。
AHI(マグロ)のPOKI。
AKU(カツオ)のPOKI。
TAKO《タコ》のPOKI。
日本風の玉子焼きやキンピラなんかも並んでいる。
ハワイアンのおばさんが、水を持ってきた。
「なんにするの?」
とおばさん。
「ちょっと、ききたいんだけど」
あたしは、ストレートに切り出した。
「〈虎の耳〉って、きいたことない?」
「虎《タイガー》?」
おばさんは、不思議そうな顔。
「虎のポキなんて、おいてないよ」
太った体をゆすって笑った。
30分後。
あたしたちは、ホノルルに向かってワーゲンを走らせていた。
手がかりは、まるでなかった。
そんな人間のウワサなんて、きいたこともない。食堂のポキ・ママは、そういった。
「でも、もし、引退してあの村に引っ込んだんなら、昔のニックネームなんかとはエンを切ってるはずよね」
ステアリングを握って、あたしはいった。
「でも、もし、見つけられたとしても、ただのヨボヨボかもしれない」
とアントニオ。
「でも」
とあたし。
「いまは、それに賭けてみるしかないわね」
BUD《バド》のトラックを追い抜きながらいった。
「おや、きのうの、あんた」
食堂に入っていったあたしを見て、ポキ・ママはいった。
翌日。
昼少し前だった。
あたしは、カウンターに坐る。
「AHI《マグロ》のポキとプリモをちょうだい」
おばさんは、うなずく。
あたしは、店を見回した。きのうと同じ。客は、いない。
「おまちどお」
皿《さら》にのったPOKI。
それにビールが、あたしの前に出てきた。
POKIは、好きな食べ物だ。特に、ここのはおいしい。店名にしているだけのことはある。
12時10分過ぎ。
クルマの音が近づいてくる。
店の前にとまる。
おじさんが1人、入ってきた。ハワイアンだった。常連らしい。
「やあ、ママ」
といって坐る。その前に、タコのPOKIとサイミンが出てきた。
おじさんは、ゆっくり食べはじめる。
12時25分。
また、クルマがとまる。
若いハワイアンの男だった。
AKU《カツオ》のPOKIと、日本風のイナリを食べる。
10分おきぐらいに、つぎつぎと客が入ってくる。
「やれやれ」
とおばさん。
カウンターの向こうで、お皿を洗いはじめた。
1時40分。ランチ・タイムが終わったところだ。
合計15人ぐらいの客が、出入りした。
もう、1人もいない。
「あんたの捜《さが》している人は、見つかりそうかい?」
とおばさん。
スポンジを使いながらいった。
「見つかったわ」
2本目のPRIMO《プリモ》を開けながら、あたしはいった。
「見つかった?」
「うん。いま、あたしの眼の前にいるわ」
あたしは、いった。
「おばさんが、〈|虎 の 耳《イヤー・オブ・タイガー》〉なのね」
ポキ・ママの手から、皿がガシャンと落ちた。
「何をいうのかと思えば、この子は」
と、ポキ・ママ。
流しから、お皿をひろい上げた。プラスチックだから、割れなかったらしい。
「食堂のおばさんをつかまえて、馬鹿なことを」
お皿を、また洗いはじめる。
「とぼけちゃいやよ」
あたしは、ポキ・ママをじっと見た。
50歳は軽くこえているだろう。
おばさんとも、おばあさんともいえる。
善良そうに太った顔が、少し動揺《どうよう》していた。
「なぜ、そんなことをいうんだい」
お皿を洗いながら、ポキ・ママはいった。
「クルマの音で、お客が誰だか、わかるのね、おばさんは」
あたしは、いった。
彼女の手が、ピタリととまった。
当たりらしい。
「はじめは、不思議だったわ。お客が入ってくるとほとんど同時に食べ物のお皿が出るんだもの」
と、あたし。
ビールを、ひと口。
「みんな常連客だから、近づいてくるクルマの音で、おばさんにはわかるんでしょう?だから、その客の食べ物を用意できるんでしょう」
「…………」
ポキ・ママは、しばらく無言。
「毎日のことだもの。慣れよ」
「でも……」
同じTOYOTAが、3台もあった。
その1台1台のエンジン音を聴《き》き分けるなんて、
「普通の人間には、とてもできないわ」
あたしは、
「ね、教えて。そうなんでしょう」
と、彼女を見つめた。
「……まいった子だねえ……」
ポキ・ママは、苦笑。
「別に、かくすほどのことじゃないけど」
また、手を動かしはじめると、
「そう。10年ちょっと前までモアナ・スタジオで仕事をしていたよ」
「〈虎の耳〉?」
彼女は苦笑い。
「そんな風に呼ばれたこともあったねえ……」
と、遠くをながめた。
「フラダンサー?」
あたしは、思わずきき返した。
「そうよ。これでも、18歳の頃はフラダンスをやってたの」
とポキ・ママ。
「で?」
「太り過ぎでクビになったの」
体をゆすって豪快《ごうかい》に笑った。
午後3時。
あたしと彼女は、海岸にいた。
店は、午後休み。
村はずれの小さな桟橋《さんばし》で、エメラルド・グリーンの海をながめていた。
「で、クビになってどうしたの?」
「しょうがないから、裏方に回ったのさ」
「それで、スタジオの仕事を?」
ポキ・ママは、うなずいて、
「結果的には、それが幸いしたんだけどね」
あたしも、うなずき返す。
「たまたま、天才的な音感があったのね、ママには」
「天才的は大げさだけど、とにかく、仕事には恵《めぐ》まれたね」
「で? いまは?」
「ごらんのとおりさ」
彼女は、太い腕を広げる。
「亭主は、死んだ。息子も娘も独立した。で、生まれた村に帰って、のんびりとした食堂のおばさんさ」
ニッと、白い歯を見せた。
「もう1度だけ、ミキサーの仕事に戻ってみる気はない?」
あたしは、ズバリときいた。
「あんた……ドラム叩きだっけ?」
あたしは、うなずいた。
ミュージシャンだと最初からわかると警戒《けいかい》されるので、いま、スティックは持っていない。
あたしは、ポツリポツリと説明する。
デビュー盤《ばん》を録音したいこと。
資金は、なんとかできたこと。
だけど、ミキサーが見つからないこと。
モアナ・スタジオのボスに、突きはなされたこと。
正直に話した。
「ジェフか……」
ポキ・ママは、つぶやく。
「力になってあげたいけど……やっぱり、無理だね」
といった。
「どうして?」
その横顔を、じっと見つめた。
「引退したからさ」
「どうして、引退したの?」
彼女は、青い水平線をながめた。
「いくら長もちするアンセリウムの花だって、いつか、しおれるだろう。それが、自然なんだよ」
ポツリと、いった。
「それと同じさ」
ポキ・ママは、立ち上がる。
「ほら、元気出して」
あたしが、あんまり、ショボくれてたんだろう。
厚い手で、あたしの肩を叩く。
「ほかを当たってごらんよ」
といった。太った体を揺すりながら、村の方へ帰っていく。
30分は、ぼんやりと海を見ていた。
立ち上がる。
帰ろうとした。桟橋《さんばし》の上に、人影!
「ひさしぶりだな、ミッキー」
赤アザのフェリーペだった。手下が、6、7人いる。
「どうしたミッキー、この顔を忘れたか?」
とフェリーペ。
「どっかで会ったかしら?」
「ふん、おれの腕は、お前さんをよく覚えてるとさ」
やつは、ニタッと笑った。右腕は、包帯でつってある。
手下が、バラバラとあたしを囲む。
「こいつ、棒っきれ持ってませんよ」
と手下の1人。
「よし、とっつかまえろ!」
かかってきた。
右からの1人目に、回し蹴《げ》り。やつは、のけぞる。
けど、逆から、1発、鳩尾《みぞおち》にくらった。
思わず、うずくまる。
3人いっぺんに、かかってきた。
「スティックがなけりゃ、ただの小娘だな」
とフェリーペ。
あたしを見おろして、憎々《にくにく》しそうにいった。カミソリで切ったみたいに細い眼が、残忍《ざんにん》そうに笑う。
あたしは、両手首と両足首を縛《しば》られていた。
マグロみたいに、桟橋に転がっていた。
足首を縛ったロープは長くのびている。
「泳ぐのは好きか、ミッキー」
フェリーペが、いった。
「きょうは、気分じゃないわね」
「まあ、そういうなよ。天気はいいし、海は青いし」
フェリーペは、ニッと笑う。手下に合図。
体が、持ち上げられる。
フワリと浮《う》く。
ザバッと、海に放り込《こ》まれてた。
鼻がツンとする。
体が沈む。
けど、両手両足を縛られている。
ただ、もがくだけ。
顔が、水面に出ない。息ができない。
苦しい!
苦しい!
苦しい……。
ゴボゴボと、海水を飲む。
意識が、遠くなっていく……。
「気がついたか」
フェリーペの顔が、見えた。
どうやら、天国じゃない。
ただ、桟橋《さんばし》に引き上げられただけらしい。
「ウッ」
桟橋に転がったまま、思いきり海水を吐く。
連中の笑い声。
「水を吐いたついでに、吐いてもらおうか」
フェリーペがいった。
「プラチナを、どうした!?」
「……アフリカに……寄付したわ」
水を吐きながら、いってやる。
「ふん! しぶといじゃじゃ馬娘だ」
とフェリーペ。
靴で、あたしのヒップを蹴《け》る。
また、海に放り込まれた。
ぼうっと眼を開く。
まだ、天国じゃない。
フェリーペの冷たい眼が、見おろしていた。
体をエビみたいに丸めたまま。
あたしは、ゴボゴボと水を吐きはじめた。
ムセる。
苦しさで、涙も、ふき出る。
また、連中の笑い声。
「おいしいか、海の水は」
フェリーペがいった。
「……塩がきいてて……いい味よ」
といってやる。
「ふん!」
とフェリーペ。あたしの腹を軽く蹴った。
「ウッ」
また、あたしは海水を吐きはじめた。
涙で、フェリーペの顔がにじむ。
「まだ泳ぎたりないらしいな」
とフェリーペ。
「放り込め。今度は、もっと長くだ」
あたしの体が、また持ち上げられようとした。そのとき、
「そこまでだよ」
という声。
ポキ・ママだった。
拳銃《けんじゆう》を持っていた。
たぶん、38口径の自動拳銃《オートマチツク》。
けど、体が大きいから、拳銃はオモチャみたいだった。
「村の子供が、教えてくれたのさ」
ポキ・ママは、いった。
あたしを、ピックアップ・トラックに乗せて走り出してからだった。
桟橋《さんばし》は、もうかなり遠ざかっていた。
あたしは、まだ、口がきけない。
彼女がまだ左手に握ってる拳銃を見た。
「去年、強盗《ごうとう》に入られてね、それ以来、置いてあるのさ」
とポキ・ママは苦笑い。
運転しながら、拳銃をグローヴ・ボックスに放り込んだ。
あたしは、何か、お礼をいおうとした。
とたん、また、海水が胃から噴《ふ》き出す。
クルマの窓から首を出して、水を吐く。
意識が、遠くなっていく。
ぼんやりと、眼を開ける。
夜らしい。
どこかの砂浜らしい。
あたしは、体を丸めて、毛布にくるまれていた。
もそもそと、体を動かしてみる。
毛布の下は、裸だった。
思わず、一瞬、体を硬《かた》くする。
見回す。
眼の前に、たき火があった。ポキ・ママが、木をくべていた。
あたしのアロハ、ショートパンツ、下着のショーツが、火にかざして乾かしてある。
「気がついたかい?」
彼女がいった。
あたしは、毛布にくるまったまま、うなずいた。
夜空を、飛行機の灯が動いていた。
軍用機らしかった。
どこの基地からの飛行機だろう。
「ほら」
ポキ・ママが、平たいビンを渡してくれた。RUM《ラム》のビンだった。
ひと口飲む。お腹に、ポッと火がついた。
「ミッキー……」
ポキ・ママがいった。
「あんた、もしかして、銀色《シルバー》サムの娘じゃないかい?」
「…………」
あたしは、小さくうなずいた。
「やっぱり……」
ママは、たき火を突《つ》ついた。小さく、火の粉が上がる。
「さっき、服を脱がしてて気づいたよ」
「…………」
「お尻に、小さなヤケドのアトがあるだろう」
あたしは、うなずいた。
「あれはね、録音スタジオでやったのさ」
「スタジオで?」
「ああ。……あんたが、まだ、2歳ぐらいの頃だったろうねえ」
彼女は、たき火に、新しい木をくべた。
「あんたのパパはね、よくスタジオにあんたを連れてきたものさ」
「…………」
「子供だったあんたは、誰かが置いた煙草の火の上に坐っちまってね」
「……それでヤケド……」
さすがに、覚えていない。
「あんたの泣き声で、録音が|1《ワン》テイク、NGになったよ」
ポキ・ママは、白い歯を見せた。
「けど……あまり泣かない子供だったねえ、あんたは」
「…………」
「ドラムスを習いながら、よく叱《しか》られてたけど、めったに泣かなかったねえ」
「意地っぱりなのよ」
あたしは、つぶやいた。
「なぜ、さっき、銀色《シルバー》サムの娘だって、ひとこといわなかったんだい?」
とポキ・ママ。
「そういった方が、私の気持ちが動くとは思わなかった?」
正直いって、少しは迷った。
「確かに、あたしはパパの娘よ。けど……」
「けど?」
「……ミュージシャンとしては、あたしはあたしだものね」
彼女の歯が、たき火に白く光った。
「この意地っぱり娘が」
あたしの頭を、軽く突ついた。
「けど……本当にそうだねえ。親子といっても、プロとしては、他人だものね」
たき火が、パチッとはぜた。
5秒……10秒……。
「よし、わかった」
ポキ・ママは、きっぱりといった。
「ミッキー、あんたのレコーディングを、手伝わせてもらうよ」
「モアナ・スタジオのボスは、どうするかしら」
あたしは、いった。
「ジェフかい?」
とポキ・ママ。RUMをひと口。ビンをあたしに渡《わた》す。
「怒るだろうねえ、あの性格だから」
「よく知ってるの?」
RUMに口をつけながら、あたしはきいた。
「ああ、よく知ってるよ。息子だからね」
あたしは、思わず、RUMでムセかえった。
「驚いたかい、ごめんごめん」
とポキ・ママ。
あたしの背中をさすってくれる。
「モアナ・スタジオは、私がつくったのさ、30年前にね」
と、彼女。
「そして、この10年で大きくしたのは、息子のジェフ」
「そうだったの……」
「でも、ジェフは、スタジオを大きくしたかわりに、このハワイのレコード業界を、ロスの植民地みたいにしようとしている」
「…………」
「このままじゃ、このハワイからもう、本当にいい音楽は生まれないだろうね」
あたしも、うなずいた。
「いくら引退したからって、見るところは見てるだろう」
ポキ・ママは、RUMのビンをとる。
「あの食堂で、ただボーッとポキをこねてるだけだと思ったら、大まちがいだよ」
いたずらっ子みたいに、ニッと笑った。
「とにかく、音楽にかかわる1人のプロとしちゃ、私はあんたの味方さ」
RUMを、クイッと飲む。
「……やっと決心したよ。音楽成金のジェフと、その〈エイ・トゥ・ジー〉っていうエージェンシーに、宣戦布告してやろうじゃないか」
「……気にしなくて、いいんだよ」
ポキ・ママは、受話器に向かっていった。
「みんな、家族も生活もあるんだし、しょうがないよ」
と彼女。
「じゃあね、ボブ」
受話器を、置いた。
ふーっとため息。
2日後。
夜の10時。
〈POKIママの食堂〉
ママは、昔なじみの録音スタジオに、片っぱしから電話していた。
いまので、10本目ぐらいだろう。
全部、ダメだった。
断われた。
「しょうがないね」
ポキ・ママは、冷蔵庫からPRIMOを2缶《かん》出す。
AKU《カツオ》のPOKIも、1皿《さら》出してくる。
「ま、クヨクヨしてもしょうがない」
あたしたちは、POKIをつまみながら、ビールを飲みはじめる。
1缶目のPRIMOが空になる頃。
エンジン音が近づいてきた。
ポキ・ママは、耳をすます。
「誰《だれ》だろう? いつもの客じゃないね」
ヘッドライトが、店の前でとまった。
ドアが開く。
太った白人のおっさんが1人、入ってきた。
「やあ、ジョージ」
とポキ・ママ。
さっき電話してた相手。録音スタジオのオーナーの1人らしい。そのおっさんは、カウンターに坐る。
「バドをくれないか」
「いいともさ」
ポキ・ママは、冷蔵庫から缶のBUD《バド》を出す。
「さっきの電話は、すまなかった」
と、おっさん。
「スタジオは、やっぱり貸せなくてね」
と、ビールを飲みながらいった。
「いいんだよ、気にしなくて」
「けど……まあ……その……なんだが……」
おっさんは、急に口ごもる。
「おれも最近、ビールを飲むと、よく忘れ物をするようになってね」
「…………」
「今夜あたりは、自分のスタジオの鍵《かぎ》なんかを、どこかへ忘れそうな気がするんだ」
「…………」
「まあ……もし、そうなったら……鍵をひろった人間に……その……スタジオをひと晩無断使用されても……ま、こいつは仕方ないわけで……」
おっさんは、もごもごという。
立ち上がる。
ビールの代金1ドル75セントを、ポケットから出す。
カウンターに置く。
硬貨《コイン》といっしょに、鍵が1つ、カウンターに転がった……。
「そんなわけで……まあ……ごちそうさま」
ちょっと頬《ほお》を赤くする。
片手を振る。
店を出ていく。
エンジン音が、遠ざかる。
ポキ・ママは、おっさんの置いていった鍵を手にとった。
「ありがとう、ジョージ」
と、鍵にキス。
「さあ、バンドマンに連絡《れんらく》だよ、ミッキー」
あたしは、電話に飛びつく。
ホノルル・コロシアムの番号を回す。
ビリーが出た。
「ミッキー、新曲の歌詞ができてるぜ」
「ちょうどよかった。いまから、レコーディングよ」
「レコーディングって……どこで!?」
「どこだっけ?」
あたしは、ポキ・ママにきいた。
「ベレタニア|通り《ストリート》の〈コーラル・スタジオ〉」
と彼女。
そのまま、ビリーにいう。
「楽器を持ってすぐにいって。あたしたちも、いますぐ出るから!」
「尾《つ》けられてるね」
とポキ・ママ。
ステアリングを握っていった。
ピックアップ・トラックにとび乗って、食堂を出てきたところだった。
あたしも、ふり返る。
ヘッドライトが2つ。
何か獣《けもの》の眼みたいに、暗闇《くらやみ》に光っている。
距離は、約40ヤード。
フィリピーノたちだろうか。
「曲がってみて!」
あたしは、ポキ・ママにいった。彼女は、スピードを上げた。時速45マイル。
ガス・ステーションの角が、近づく。
彼女は、ステアリングを右へ切った。相手も、曲がってくる。
「もう1回!」
食料雑貨屋《グローサリー》の角を左へ。やっぱり、尾《つ》いてくる。黒いセダンだった。
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。
「どうやら、デートの申し込《こ》みじゃないらしいわね」
相手が、スピードを上げた。
距離がつまる。35ヤード……30ヤード……25ヤード……。
セダンの助手席。白い包帯が、ちらっと見えた。
まちがいない!赤アザのフェリーペ。嫌《いや》らしい細い眼が、こっちをにらみつけている。
「しつこいやつらだね」
とポキ・ママ。太い腕《うで》で、ステアリングを切る。
「このまま、スタジオまで連れていくわけにはいかないわね」
ふり向いたまま、あたしはいった。
「そうだ」
グローヴ・ボックスを開けた。ポキ・ママの38口径を、つかむ。ブローバックしようとする。
「弾《たま》が入ってないよ!」
彼女が叫んだ。
しょうがない。拳銃《けんじゆう》を戻す。
黒いセダンとの距離は、また、つまる。
20ヤード……15ヤード……。
かなり派手なステアリングさばきで、ポキ・ママは、右に左に、夜の道路を曲がる。
バニアンの樹が、TACO《タコ》 BELL《ベル》の店が、窓の外をふっ飛んでいく。
カーブで開いた差が、すぐに直線で縮まる。
敵も、かなりフル・スピードを出している。
「あっちはセダンなんだから、しょうがないね」
と彼女。
ミラーの中のセダンをにらみつけた。
「ねえ、荷台に積んでるのは何の!?」
あたしは、きいた。さっきから、荷台の荷物が、右に左にガタガタと動いている。
「食堂で使うものよ!」
「何?」
「お米とか! お酢とか! サラダ油《オイル》とか!」
「サラダ油か……」
ちらっと、ひらめく。
ポキ・ママに耳うち。
「とにかく飛ばして!」
ポキ・ママは、うなずく。アクセルを踏《ふ》み込む。
あたしは、助手席の窓から、体をのり出す。
風が、すごい!
下を見ないようにする。
上半身が、窓から出た。ヒップまで、出た。
荷台に移ろうとしたとき、銃声《じゆうせい》! セダンの窓から、青い光。
敵も今夜は、拳銃まで用意してきたらしい。
あたしは、首をすくめる。的《まと》を小さくする。
荷台に、手をかけた。
風で、息が苦しい。
時速70マイル以上出ているだろう。手を滑《すべ》らせて落ちたら最後だ。
歯をくいしばる。
また、銃声。耳もとに、衝撃波《しようげきは》! 弾《たま》がかすめた。
ヤバかった。
ピックアップは、左ヘカーブ。体が、放り出されそうになる!
こらえる。手が、しびれる。ヤバい……。
セダンが、一瞬、視界から消えた。
いまだ! 力をふり絞《しぼ》って、荷台へ跳《と》び移った。荷台に、四つんばいになる。
今度は、右ヘカーブ。
体が、荷物といっしょに、荷台を転がる。
やっと、体勢をたてなおす。
荷台を見回す。
あった!
左右に揺れ動いてる荷物の中に、サラダ油。木箱に入って、大ビンが5、6本。
「フルスピード!」
あたしは、運転席の屋根を、ガンガン叩《たた》いた。
ピックアップのスピードが、また少し上がる。
やつらのセダンが、少し遅《おく》れた。
運転手《ドライバー》にわめいてるフェリーペの顔が、ちらっと見えた。
小さな四つ角が、近づいてきた。
角は、パイナップル会社の倉庫だ。
左へ、急カーブ。
ふり落とされそうになる。こらえる。体をたてなおす。
サラダ油の箱をつかむ。全力で持ち上げる。
「くらえ!」
荷台から落とした。
ビンの割れる音!
油が、アスファルトにひろがる。
うまくいきますように! あたしは、祈《いの》った。
セダンが、カーブを曲がってきた!
アスファルトの油に突っ込む。
右に、ふらつく! 横滑《よこすべ》りをはじめた! うまくいった!
ドライバーが、あわててハンドルを切るのが見えた。
逆効果だった。
今度は、左に尻《しり》を振《ふ》る。消火栓《しようかせん》に、尻をガツンとぶつけた。
道路の逆側に滑っていく。
横滑りしているクルマのドアが開く。
人間が、1人、2人、道路にふり落とされる!
セダンは、ヤシの樹に、ズシンッと横腹をぶつけてとまった。
ぐんとスピードを落としたピックアップの荷台から、あたしは跳《と》びおりた。
セダンから、人影がはい出してくる。
1人……2人……3人……。
ふいに、腹に響《ひび》く爆発音《ばくはつおん》。
周囲がパッと明るくなる。
セダンのタンクが爆発した。
オレンジ色の炎《ほのお》が、クルマとヤシの樹を包む。
ガソリンの燃える臭《にお》い。植物の焦《こ》げる臭い。
道路には、5、6人、転がっていた。
1人だけ、立ち上がった。包帯で、片腕をつっている。どうやら、ボスのフェリーペらしい。
立ちのぼる炎を背に、ヨロヨロと立ち上がった。
「この前は、塩水をたっぷり飲ませてくれたわね」
あたしは、やつをにらみつけていった。
「お返しは、サラダ油よ。あんたたち脂《あぶら》っこいフィリピーノにはピタリでしょ」
「この小娘……」
フェリーペは、凶悪《きようあく》な表情であたしをにらみつけた。
「これにこりて、おとなしく売春宿でもやってるのね」
あたしは、いい捨てる。
ケガ人を相手にしても、しょうがない。
あたしは、やつにクルリと背を向けた。
ピックアップに歩きかける。
「ミッキー!」
ポキ・ママの叫び声が、背中の足音にダブッた!
やつが、かかってきたらしい。
あたしは、沈み込む。
ヒップ・ポケットのスティックを、もう抜いていた。
ふり向きざま、横に払う。
あたしの頭上を白い光が走ったのと、やつのスネをビシッと払ったのが同時だった。
「ウグッ」
こもったうめき声。
片ヒザをついたあたしのすぐわきに、ナイフがカチャッと落ちた。
そして、ゆっくりと、やつの体が、アスファルトにくずれ落ちた。
あたしは、立ち上がる。
スティックを戻す。
遠くで、サイレンがきこえた。
泡《あわ》を吹いてるやつの体をまたぐ。ピックアップに早足で歩く。
ベレタニア|通り《ストリート》。
〈コーラル・スタジオ〉の前に、メンバーはもうきていた。
「待ったぜ、ミッキー」
とビリー。
「ちょっと手間どっちゃってね」
あたしは、みんなに白い歯を見せた。
ポキ・ママが、鍵《かぎ》を出してスタジオのドアを開ける。
ドヤドヤと入っていく。
1階が、オフィスと駐車場。
2階がスタジオ。
小さいけれど、設備がいい。
スタジオの南と東は、ガラスばりだった。
東の空が、かすかに明るくなっている。
「さあ、ハリーアップ!」
楽器を、スタジオに運び込む。
ポキ・ママは、機材のスイッチ類をパチパチとONにしていく。
足音がした。
ハワイアンのおっさんが2人、スタジオに入ってきた。エンジニアらしい。
「手伝おうか、ママ」
「おや、あんたたちかい」
ポキ・ママは、ふり向くと、
「そりゃ嬉《うれ》しいけど、私の息子にクビを切られるよ」
といった。
「確かに、ザ・バンデージってバンドはブラック・リストにのってるけど、この連中は違《ちが》うみたいだね」
と、おっさんの片方。みんなを見回した。
「ああ、違うね」
とビリー。
「おれたちは、ビートルズっていうんだ」
ニッと笑いながらいった。
「そうかい。じゃ、そっちのポニー・テールのネエさんは?」
「オリビア・ニュートンジョンよ」
あたしは、ニコッといった。
「そうかい、そうかい。本人がいうんだから確かだ」
「じゃ、ま、問題ないな」
おっさんたちは、肩をすくめる。マイク・スタンドをセットしはじめた。
「じゃ、軽くテストを1発もらおうか」
と、ミキシング・コンソールを前にどっしりと坐っているポキ・ママ。
「曲名は?」
ときいた。
「〈少しだけティア・ドロップス〉」
リカルドが、ヴォーカル・マイクで答えた。
この前まで、インストロメンタルでやってた曲だ。
このタイトルは、はじめてきいた。
歌詞も、もちろん、はじめてきく。
「いつでもいいよ」
とポキ・ママ。
「じゃ、軽くいくわよ」
あたしは、スティックで合図《カウント》を出す。
曲のイントロが滑り出す。
B。
B♭。
A。
Dm7。
G7。
リカルドが、唄いはじめた。
もし君が家を出るなら
朝の5時がいい
そして
少しだけなら泣いてもいいよ
乾いた朝の風が
濡《ぬ》れた頬《ほお》を
乾かしてくれるだろう
少しだけティア・ドロップス
涙が乾いてしまうまで
僕がそばにいてあげる
|2《ツー》コーラスに入る。
もし君が
誰かにグッパイをいうなら
午後3時がいい
そして
少しだけなら泣いてもいいよ
明るい午後の陽ざしが
濡れた頬を
乾かしてくれるだろう
少しだけティア・ドロップス
涙が乾いてしまうまで
僕がそばにいてあげる
間奏。
C。
B♭。
E♭。
A♭。
C。
G7。
|3《スリー》コーラスヘ。
もし君が
どこかへ歩き出すなら
夕方の5時がいい
そして
少しだけなら泣いてもいいよ
青いたそがれが
濡れた頬《ほお》を
かくしてくれるだろう
少しだけティア・ドロップス
涙が乾いてしまうまで
僕がそばにいてあげる
|くり返し《リフレイン》。
少しだけ
ほんの少しだけティア・ドロップス
涙が乾いてしまうまで
僕らがそばにいてあげる
そしてエンディング。
C。
B♭。
E♭。
A♭。
C。
音が、スタジオの壁に吸い込まれて消えていった。
いい曲だった。
泣いてしまった。
みんなに見られないように、顔を横に向ける。スティックを持った右手で、そっと頬をぬぐった。鼻を、グスッとやった。
とたん。
「こら! ドラムス」
ヘッドフォンに、ポキ・ママの声が飛び込んできた。
「スタジオで、鼻なんか、かむんじゃないよ」
ハイハットのマイクに、しっかりひろわれてたらしい。
「ミッキー、あんた、子供の頃にも1回、泣き声でNG出してるんだからね」
ガラスの向こう。ミキシング・ルームで、ポキ・ママの丸い顔が笑ってる。
「それから、ギターの坊や」
と彼女。
「2弦《げん》が、ちょっと高いね」
「え!? ほんと?」
とビリー。
音を出して、じっと聴《き》く。
「あ、ホントだ。地獄耳《じごくみみ》」
苦笑いしながら、チューニングしなおす。
「それから、ベースの黒ん坊」
ポキ・ママは、テキパキと指示していく。
あの、食堂にいた姿とは、まるで別人みたいだった。
最後に、
「ミッキー、あんたのスネアが、えらく硬い音なんだけどね」
といった。
いいたいことは、よくわかった。
〈あんたのパパに比べて〉なのかもしれない。
〈パパだったら、そんな音は嫌《いや》がるよ〉なのかもしれない。
けど、
「いいわ、これで」
と、あたしはいった。
ガラスの向こう。
ポキ・ママの顔が苦笑い。ゆっくりとうなずいた。
あたしと彼女の眼が合った。
1人のミュージシャンとして、父親とちがう道を歩きはじめた娘。
1人のミキサーとして、息子と闘《たたか》わなければならなくなった母親。
皮肉なめぐり合わせのレコーディングだった。
ポキ・ママは、コンソールを操作している。
その眼は、少しだけ悲しそうだった。
いま、ハイハットを調節している、あたしの眼も、同じだろうか……。
けど。
センチメンタルになるんじゃないよ、ミッキー。
あたしは、自分にそういいきかせた。
人生は、ただ1度。
〈|録りなおし《リテイク》〉はきかない。プレイバックもない。1度きりの演奏だ。
走るしかない。
「じゃ、いこうか」
ポキ・ママの声がヘッドフォンから響いた。
「1発で録《と》るのかい?」
と、ビリーがきいた。
あたしも、各パート別に録《と》るのかと思っていた。
「文句は、録った音を聴いてから、いってもらおうか」
とポキ・ママが笑った。
窓の外が、明るくなってきた。
淡《あわ》い朝の光が、ドラムスのリムに、ギターの弦《げん》に、ひんやりと反射する。
スタジオのランプが、青に変わった。ここじゃ、〈録音中〉が青ランプらしい。
「諸君、スタンバイはいいかな」
と彼女。
メンバー、1人1人と眼が合う。
ビリー。
チャック。
アキラ。
リカルド。
そして、ミキシング・ルームのアントニオ。
あたしは、深呼吸。窓の外を見た。
ヤシの葉の向こう。
夜明けの空が、青みをましていた。
天国のパパは、苦笑いしているだろう。
あきれてるかもしれない。
あたしは、胸の中でつぶやいた。
怒ってもいいわ、パパ。
あきれてもいい。
でも、聴《き》いていて。これが、あなたの娘のファースト・レコーディングよ。
「〈少しだけティア・ドロップス〉……テイク|1《ワン》」
ポキ・ママの声が、ヘッドフォンから響いた。
マザー・テープが、ゆっくりと回りはじめた。
合図《カウント》は、2本のスティックを鳴らす。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
あたしは、祈《いの》るようにスティックを振《ふ》りおろした。
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ゴムゾウリ――あとがきにかえて
一年中、ゴムゾウリで過ごせたら、どんなにいいだろう。
よく他人《ひと》にきかれること。なぜ、南洋が好きなのか。暑い土地に旅することが好きなのか。
答えは、ごく単純。ゴムゾウリ暮らしができるからだ。
自由で、少し投げやりな、ゴムゾウリ気分にひたりたくて、南の島へ旅しているのだ。
〈夏〉という季節も、ゴムゾウリそのものではないか。
もしゴムゾウリがなければ、それは〈夏〉とは呼びたくない。ただ暑いだけの二か月にすぎない。
当然、ゴムゾウリの似合う女の娘《こ》も好きだ。意外に少ないけれど、いることはいる。
これまでに何人か、そんな娘《こ》たちと出会い、あるいは風のように、すれちがってきた。
湘南
確か、大学二年のときだったと思う。
葉山・一色《いつしき》海岸でバイトをしていた。よくある、ヨシズばりの海の家だ。
同級生の家《うち》が、その一軒をやっていた。僕らの仲間四、五人、そこで働いた。
その夏。
海岸道路をへだてて、確か〈浜屋〉というラーメン屋がオープンしていた。
そこで、久美《くみ》ちゃんという大学生の娘《こ》が、やはりバイトをしていた。地元の娘だったと思う。
肩までのストレート・ヘアー。やせ型。少し色が浅黒かった。のびのびとした手脚は、当時、人気のあったカトリーヌ・スパークという女優を思わせた。
毎日、僕らは、その店に寄った。久美ちゃんは、よく笑い、よく働いた。エプロンからのびた長いスネに、黄色いゴムゾウリがよく似合っていた。
つぎの夏も、僕らは一色海岸にバイトにいった。〈浜屋〉はあった。が、久美ちゃんの姿は見えなかった。結婚したというウワサをきいたのは、もう夏の終わりだった。
GUAM
はじめての海外ロケだった。
ロケハンの最中。
小さな防波堤で、釣りをしている少女を見かけた。
十二、三歳。貧しげな服。少し曲がった竹の釣り竿。小さなポリバケツ。
脱いだゴムゾウリを防波堤のへりに並べて、そこに、少女は腰かけていた。そのぐらい、ゴムゾウリは大きかったし、彼女のヒップは小さかった。
僕がバケツをのぞくと、少女は、まっ白い歯を見せて微笑《わら》った。バケツの中に、魚は一匹もいなかった。
「釣れそうかい」
と僕はきいた。僕のヘタな英語が通じなかったのだろう。彼女は、
「家出《ランナウエイ》」
と答えた。チャモロなまりの英語で、確かに、ランナウェイとつぶやいた、と思う。
もう、夕方だった。
HAWAII
午後のクヒオ通りを、自転車で駆け抜けていくロコ・ガールを見た。
小麦色の肌。
背中には、デイ・パック。
典型的なロコ・ガールだった。
赤いジョギング・パンツからのびた彼女の長い脚は、裸足だった。
自転車は、変速ギアつきのスポーツ車。そのドロップ・ハンドルに、ゴムゾウリが通してあった。
タオル地でできたハナオの部分。そこをかわかすためだったのかもしれない。
何か、別の理由があったのかもしれない。
唇をきつく結んだ横顔は、あっという間に走り過ぎていった。
ゴムゾウリで思い出す風景は、明るく乾いて、少しだけ悲しい。
角川文庫『ポニー・テールに、通り雨』昭和62年5月25日初版発行