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ポニー・テールに、罪はない
喜多嶋隆
目 次
第1話 サンドイッチに涙をこぼして
第2話 ハロウィンが怖かった
第3話 パイナップルに罪はない
第4話 神様のミステイク
第5話 さよならシックスティーン
喜多嶋隆をよりよく知るための29の質問
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第1話 サンドイッチに涙をこぼして
♪
「パパ……元気?」
あたしは、小さな十字架《じゆうじか》に向かってつぶやいた。
十字架に向かって〈元気?〉ってのも変だけど、それが正直な気分だった。
もちろん、返事はない。
まぶしい陽《ひ》ざしが、十字架の影《かげ》を芝生《しばふ》に落としてるだけ。
真珠湾《パール・ハーバー》を見おろす丘《おか》。風は少しだけ海の匂《にお》いがした。
「パパ……あたしのレコードよ」
あたしは、1枚のシングル盤《ばん》をとり出した。
「とうとう、つくったわ」
あたしは、レコードをじっと見た。
45回転のドーナッツ盤。ラベルには、パイナップルの絵。そして、曲名。
A面が〈少しだけ、ティア・ドロップス〉。
B面が〈ロング・ロング・グッドバイ〉。
両方とも、あたしたちのバンド、ザ・バンデージのオリジナル曲だ。
レコードの袋《ふくろ》はブルー。一面に、黄色でパイナップルが描《か》いてある。
それがビニール袋に入ってるだけ。ジャケットなんかはついていない。
シンプルできれいなレコードだった。
「気にくわないかもしれないけど、聴《き》いてみてね」
あたしは、パパの十字架にいった。レコードを、そっと十字架に立てかけた。
もう、話すことはない。
「じゃ……またくるわ」
あたしは、十字架に手を振《ふ》る。
風が吹《ふ》いた。レコードのビニールが、少しだけ揺《ゆ》れた。
あたしは、自転車にまたがった。12段変速のスポーツ車。感化院《ガールズ・ホーム》から出た日に盗《ぬす》んだ自転車だった。
ペダルを、ゆっくりとふむ。
背筋をのばす。前だけを見て、加速していく。
十字架の並《なら》んだ丘からホノルルの街へ、ポニー・テールをなびかせて走っていく。
♪
「パイナップル・レコード?」
と、レコード屋のおっさん。眼《め》を丸くしていった。
カパフル|通り《アベニユー》にある小さなレコード屋。
あたしたちのレコードを置いてもらおうと、持ってきたところだ。
「新しくできたレコード会社なの」
あたしは、ダンボール箱《ばこ》をかかえていった。ダンボールの中には、レコードが30枚入っている。
「パイナップル・レコードねえ……」
と、おっさん。
「何か、きいたことがあるなァ……」
と、カウンターの下を見た。小さなメモが、いっぱい貼《は》ってある。
「あ、そうか」
おっさんは、メモの1枚を見て、いった。
「ダメだ」
「ダメ?」
「ああ。ダメだ。そのレコードは、うちには置けないよ」
おっさんは、いった。
「どうして!?」
あたしは、口をとがらせた。
「どうしても、こうしても、ダメなんだ」
と、おっさん。首を、扇風機《せんぷうき》みたいに左右に振った。
「…………」
あたしは、唇《くちびる》をかんだ。そうか……。ロスの大資本の手が、ここにも回ってるらしい。
スパイ小説の言葉でいえば、〈ロスの|長い手《ロング・ハンド》〉が、このホノルルにまで届いているってことだろう。
「わかったわ」
あたしは、いった。まだ扇風機みたいに首を振ってるおっさんに背を向ける。
ダンボール箱をかかえて、店を出た。
♪
「やれやれ……」
あたしは、額の汗《あせ》をバンダナでふいた。
カピオラニ|通り《ブルバード》。午後4時。また、レコード屋で断わられたところだった。
この3日間で、40軒《けん》ぐらいのレコード屋を回った。
けど、1軒として、あたしたちのレコードを置いてくれるところはなかった。
ノドが乾《かわ》いた。ジュース・スタンドでもないかなあ……。あたしは、通りを見回した。
目の前を、男の子が1人、スケート・ボードに乗って通りかかった。
赤いTシャツを着た、白人の男の子だった。
あれ!?
男の子は、レコードを片手に持っていた。あたしたちのレコードだ!?
「ちょっと!」
あたしは、男の子を呼びとめた。
「そのレコード……どうしたの?」
「買ったのさ」
「買った!?」
「ああ……買わされたのさ」
と男の子。口をとがらせた。
「買わされた……」
「そうさ。黒人とチャイニーズの不良に買わされたんだ」
「黒人とチャイニーズの不良?」
「ああ……だって、買わないとスケート・ボードをとり上げるっていうんだもん」
と男の子。
「どこで買わされたの……」
「あっち」
と男の子。
「|1《ワン》ブロック向こうの、|CHOP・SUI《チヨプ・スイ》屋の裏さ」
「ありがとう」
あたしは、歩き出そうとした。
「そっちに、いかない方がいいよ」
と男の子。
「無理やり、レコード買わされるから」
「わかったわ」
あたしは、苦笑い。男の子に手を振《ふ》る。歩き出した。
♪
「安いもんだろう?」
ビリーの声がきこえた。
「こんないいレコードが、たったの3ドル50だ」
これはチャックの声だった。
チョプ・スイ屋、つまり中華《ちゆうか》食堂の裏。小さな駐車場《ちゆうしやじよう》。ビリーとチャックがいた。
ハワイアンの男の子が1人。ビリーとチャックにはさまれていた。
「だって……お金ないよ」
と男の子。おそるおそるいった。
「本当にないのかい?」
とビリー。
「どれ、調べてやる」
チャックが、男の子をおさえる。ビリーが、男の子のサーフ・パンツを脱《ぬ》がせる。
「やめてくれよ」
と男の子。下半身まる出しで、いまにも泣きそうだ。
ビリーは、脱がせたサーフ・パンツをさかさにして振った。
1ドル札《さつ》が2、3枚と、|1セント玉《ペニー》が4、5枚、ポケットから地面に落ちた。
「ほーら、あるじゃないか」
とチャック。
「ウソをついちゃダメだよ。そのトウガラシみたいに小さなムスコ、ちょん切るぞ」
とビリー。男の子は、もうベソをかいている。
「ちょっと、あんたたち!」
あたしは、2人の背中に声をかけた。
♪
「ほら、泣かないで」
あたしは、男の子にパンツをはかせる。お金をポケットに押《お》し込《こ》んでやる。
「兄さんに、いいつけてやるからな」
と男の子。ベソをかきながらビリーたちにいった。バタバタと駆《か》けていく。
「あーあ、もう1枚売れるところだったのに」
ビリーが、男の子の後ろ姿を見送りながらいった。
♪
「だって、しょうがないじゃないか」
とビリー。|いなり寿司《コーン・スシ》をつまみながらいった。
「置いてくれるレコード屋がないんだから、自分たちで売るしかないじゃないか」
とチャック。|太巻き《ロール・スシ》を口に放り込みながらいった。
ダウンタウンにあるオカズ屋。テイクアウトもできる日本食堂だ。あたしたちは、すみのテーブルで晩ごはんを食べていた。
「だからって、あれはないわよ」
あたしは、PRIMO《プリモ》を飲みながら、2人にいった。
「あれじゃ、押し売りじゃない」
「まあ……そういういい方もできるかな」
とビリー。ケロッとした顔でいった。
「まったくもう……」
あたしは、立ち上がった。ライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉で演奏する時間だった。
「あれ?」
とチャック。立ち上がりながらつぶやいた。
「これ……」
と、ラジオを指さす。KKUAが、かかっている。ロックばっかり流しているAM局だ。
流れているのは、新曲らしい。どこかで、きいたことのある唄《ヴオーカル》だった。
「これ……雪美《シユーメイ》じゃないか?」
とビリー。
あたしは、うなずいた。
感化院《ガールズ・ホーム》でいっしょだった。そしていまは、ミュージシャンとしてのライバル。
|猫 眼《キヤツツ・アイ》のチャイニーズ・ガール、雪美《シユーメイ》だ……。
曲は、ディスコ調。ちょっと鼻にかかった雪美の声がセクシーだ。
曲がフェード・アウトされていく。D・Jが、早口でしゃべりはじめる。
「みんな、きいてたかい? ホノルルが生んだニュー・スターの唄声《うたごえ》を。今月の10日に発売された〈雪美・ウィズ・チャイナボーイズ〉のデビュー曲〈彼女《かのじよ》はキャッツ・アイ〉だ。さあ、みんなレコード屋にいこう。もう1度、曲名をいうよ……」
ビリーが、
「ついにデビューしたのか」
と、つぶやいた。あたしも、うなずく。
セクシーな体。コネクション。すべてを使って、チャンスをつかんだんだろう。
それはそれでいい。彼女には、彼女のやり方。あたしには、あたしのやり方……。
と、いってはみたものの、
「うらやましいなあ……」
ビリーが、つぶやいた。もちろん、あたしも同じ気持ちだ。
「おれたちの曲も、ラジオで流してくれればなあ」
チャックがいった。
「あした、いってみようよ」
あたしは、歩きながらいった。
「ダメでもともとだしなァ」
とビリー。ボロ・ワーゲンのドアを開けながらいった。
「とにかく、押《お》し売りよりはマシよ」
あたしは、自分の自転車にまたがりながらいった。
♪
「オーケイ、あずかっておくよ」
と、D・Jのロナルド。あたしたちのレコードをうけとった。
カラカウア|通り《アベニユー》にあるAM局、KKOK。2階の調整室だ。
「聴《き》いてみてよかったら、ラジオで流させてもらうよ」
と、日系人のロナルド。調子よくいった。
♪
「どう思う?」
あたしは、ビリーにきいた。KKOKを出てきたところだった。
「うーん……」
とビリー。腕組《うでぐ》み。カラカウア|通り《アベニユー》を見渡《みわた》しながら、
「ありゃ、口先だけだな。絶対に、かけてくれないよ」
と、いった。
「おれも、そう思うよ」
とチャック。
「ミッキーはどう思う?」
「たぶん、ダメね。ロスからの圧力が、かかってるわ」
あたしは、いった。SALEM《セーラム》をくわえる。火をつける。
「聴いてもくれないでしょうねェ」
煙草《たばこ》の煙《けむり》とため息を、いっしょに吐《は》き出した。
♪
キング|通り《ストリート》にあるFM局、KCOO。あたしたちは、デスクのある部屋に通された。
「これ……」
と、さし出すレコードを、
「あ、そこに置いといて」
D・Jらしいハゲの白人がいった。デスクの上を眼《め》でさした。
あたしは、レコードをデスクに置く。部屋を出ていく。
廊下《ろうか》から、ガラスごしに中が見えた。ちょっと背のびして見た。
ハゲの白人は、レコードを手にとってみる。ラベルを読む。
4秒……5秒……。そばのゴミ箱《ばこ》に、ポイと放り込《こ》んだ。
「このうすらハゲ!」
あたしは、ドアを足で蹴《け》った。中に飛び込む。
「なんだと思ってるのよ!」
ハゲの胸ぐらをつかんだ。やつは、眼をまん丸にしてる。ハゲ頭には汗《あせ》……。
「まてまて」
左右から、ビリーとチャックがあたしの腕《うで》をつかんだ。
「こんなやつ、相手にしてもしょうがないよ」
とビリー。
「それもそうね」
あたしは、ハゲの胸ぐらを放した。ゴミ箱からレコードをとり返す。スタスタと部屋を出ていく。
♪
「やっぱり、自分たちで売るしかないね」
とチャック。いま出てきたKCOOをふり返っていった。あたしは、
「きょう、何曜日?」
とビリーにきいた。
「土曜」
「ってことは、あしたは青空市《スワツプ・ミート》のある日か……」
「そうだ。スワップ・ミートっていう手があったじゃないか」
とチャック。
「あしたは早起きね」
あたしは、少し元気になっていった。
♪
「ハラへったなあ……」
チャックがいった。
アロハ・スタジアム青空市《スワツプ・ミート》。広い駐車場《ちゆうしやじよう》に、何十、何百って店が出ている。
あたしたちは、朝の7時から店を出していた。
ダンボール箱《ばこ》に入ったレコード。箱に、文字を描《か》いてある。
〈話題の新曲! 少しだけ、ティア・ドロップス=r
〈ホノルル出身のスーパー・バンド! ザ・バンデージ〉
〈きょうに限り3ドル20セント〉
ラジカセから、曲を流していた。A面とB面の2曲を、ぶっつづけに流していた。
けど、まだ1枚も売れない。4時間で1枚も、だ。
「ハラへったよ」
と、ビリーもいい出した。地面にしゃがんだまま、
「なんか買ってきてくれよ、ミッキー」
あたしを見上げていった。
「しょうがないわねェ……」
というものの、あたしだって空腹だった。さっきから、お腹の虫が16ビートで鳴いていた。
見回す。向かい側に、食べ物屋が2つ、店を出している。
右側は、フィリピン人だ。何か、焼き豚《ぶた》みたいなものを売ってる。
〈|特別な豚《スペシヤル・ポーク》〉、って看板に描《か》いてある。
チンピラっぽいフィリピン人が3人。焼いた豚をナイフで切りながら売ってる。
けど、あまり売れていない。まずいんだろう。
左側は、サンドイッチ屋だ。ハワイアンの女の子が1人で売ってる。
女の子は、12歳《さい》か13歳ぐらい。いかにもロコ・ガールだ。ミルク・チョコレート色の肌《はだ》。麦わら色の長い髪《かみ》。まん中分け。
〈|LOCAL MOTION《ローカル・モーシヨン》〉Tシャツ。ショート・パンツ。ゴムゾウリでサンドイッチを売ってる。
〈JINNYS《ジニーズ》〉って、ベニヤ板に赤いペンキで描いてある。ジニーの店ってことだろう。
七面鳥《ターキー》のスペシャル・サンドが2ドル45セント。
何枚もパンや七面鳥のハムを重ねた、ぶ厚いサンドイッチだ。それは、よく売れていた。
100個ぐらいあったのが、もう、半分はなくなっていた。
「ミッキー、なんか食い物」
とチャック。
「わかったわかった」
あたしは、ジニーのサンドイッチ屋に歩いていく。
「|こんちは《ハウ・ゼア》」
ハワイアンの女の子と、笑顔であいさつ。
「よく売れてるのね」
「あたしのサンドイッチは、おいしいから、このあたりじゃ有名なのよ」
と、女の子。黒くて大きな眼《め》が、かわいらしい。
「うちのレコードだって、いい曲なのになァ」
と、あたし。自分の店をふり返って、
「売れないのよねェ」
と、ため息。
「でも、あたしはもう、曲を覚えちゃったわよ」
と、女の子。そうか……。ずっと、ラジカセから流しっぱなしだった。
「いい曲ね、本当に」
彼女は、チョコレート色の顔から白い歯を見せた。
「ありがとう。ところで、サンドイッチ、くれない」
「いくつ?」
「3つ」
女の子は、3つ、紙袋《かみぶくろ》に入れてくれる。お金を払《はら》おうとすると、
「いいわよ」
「だって、悪いわ」
「いいって」
と、女の子。お金をうけとろうとしない。
「じゃ……ありがとう」
あたしは、紙袋をうけとる。
「ミッキーよ」
「ジニーよ。そこに描《か》いてあるとおり」
と、女の子。ベニヤ板の看板を指さして、白い歯を見せた。
♪
悲鳴! 女の子の悲鳴だった。
午後4時。スワップ・ミートの店は、ほとんど店じまい。ガランとしている。
あたしたちの売れ残りレコードも、ボロ・ワーゲンに積んだ。
ビリーたちが、運転して帰っていった。あたしも自転車で帰ろうとしたところだ。
悲鳴のきこえた方にいってみる。
アロハ・スタジアムの出入口。誰《だれ》もこないところだった。
女の子が1人。何人かの男に囲まれていた。女の子は、サンドイッチ屋のジニーだ。
男たちは、となりで商売してた〈|特別な豚《スペシヤル・ポーク》〉のフィリピン人たちだ。
フィリピン人は3人。1人が、ジニーの両腕《りよううで》をつかまえている。
「だからいってるだろう。お前さん、おれたちの客をとったんだよ」
「お前がとなりで商売してたおかげで、こっちはあがったりだ」
「だから、少しだけ、売り上げの分け前をもらおうってのさ」
と、フィリピン人たち。
「誰が、あんたたちなんかに、分け前をあげるもんですか」
とジニー。
「そうはいかない」
と、くわえ煙草《たばこ》のフィリピン人。ニヤニヤしながら、ジニーの両足首をつかんだ。
「それ!」
と、ジニーをさかさまに持ち上げた。
悲鳴!
小柄な体が、宙ぶらりんになる。麦わら色の髪《かみ》が、たれ下がって揺《ゆ》れる。ジニーは、両手をバタバタさせる。
ショート・パンツのポケットから、お金がジャラジャラと落ちた。
「ほう、ずいぶん稼《かせ》いだじゃないか」
とフィリピン人。ジニーを乱暴に地面におろした。
ジニーは、アスファルトに散らばったお金に駆《か》け寄る。
「これはあたしが働いて稼いだのよ!」
「うるさい、このガキが!」
とフィリピン人。お金をひろい集めようとしたジニーの小さなお尻《しり》を、靴先《くつさき》で蹴《け》った。
ジニーは、小犬みたいに地面に転がった。
「そこまでね」
あたしは、フィリピン人たちに声をかけた。
♪
「ほう、これはこれは」
と、フィリピン人の1人。
「レコード屋のおネエちゃんか」
ショート・パンツからのびたあたしの脚《あし》を、ニヤニヤとながめる。
「あんたたち、その豚《ぶた》をかついで、さっさとフィリピンに帰ったら」
そばに置いてある売れ残りの焼き豚を指さして、あたしはいった。
〈|特別な豚《スペシヤル・ポーク》〉って文句のわりには、たっぷりと売れ残っていた。
「ふん、このジャップが!」
と、フィリピン人の1人。
「いきがった口ききやがって」
あたしのアロハのエリをつかんだ。ぐいと引き寄せる。やつの口から、ニンニクが臭《にお》った。
「レディに失礼よ」
あたしは、右ヒザをやつの急所に! 入った!
「グェ!」
うめき声。やつは白眼をむいた。両手で急所をおさえる。地面にしゃがみ込《こ》んだ。
「こいつ……」
と、残りの2人。左右に広がった。身がまえる。
1人が、焼き豚を切ってたナイフを握《にぎ》った。
もう1人は、焼き豚を刺《さ》していた長い金串《かなぐし》を握《にぎ》った。ジリッとつめてくる。
路地裏できたえた身のこなしだった。
あたしは、右手を背中へ。ヒップ・ポケットにさしてあるドラムスのスティックに手をかけた。
とたん!
右のやつが動いた! 包丁みたいに長いナイフを、ビュッと横に払《はら》う。
あたしは、沈《しず》み込む! かわす!
頭のすぐ上を、ナイフの白い光が走り過ぎた。
ヒュッと空気を切る音! 弾《は》ねたポニー・テールの先に、ナイフの刃《は》が触《ふ》れた。
切られた毛先が、パッと宙に舞《ま》った。金色がかった褐色《かつしよく》の髪《かみ》が、花火みたいに散る。
たそがれの陽に、キラキラと光った。
散った毛先が地面に落ちる前に、あたしはスティックを引き抜《ぬ》いていた。
相手のスネを、横に払った。ビシリッという手ごたえ!
「ヒッ」
やつは、スネをかかえて地面に転がった。
「その手つきで切れるのは豚《ぶた》だけね」
あたしは、立ち上がりながらいった。
そのとき! アスファルトにのびた影《かげ》が動いた!
残る、1人が、後ろから突《つ》っ込《こ》んできた。
きわどかった。夕陽《ゆうひ》の影が長くのびていなければ、やられるところだった。
やつは、金串を突き出してきた!
あたしは、体を右にひねった。
金串が、アロハのわき腹に刺《さ》さった! アロハの生地を、突き抜《ぬ》けた。
あたしは、スティックをふりおろした。
金串を握《にぎ》ったやつの手首。五分の力で、ひっぱたく。ピシッという音。
「ウ!」
という、うめき声。
骨折はしないだろう。けど、ヒビぐらいは入ったかもしれない。
自業自得《じごうじとく》だ。やつは、金串《かなぐし》をはなす。手首を押《お》さえて地面にくずれ落ちた。
♪
「やれやれ」
あたしは、穴のあいたアロハのわき腹をながめた。
「あと1インチで串焼きになるところだったわ」
と、ジニーに笑いかける。
下を見る。アスファルトに短い毛がパラパラと散っていた。いまさっき立ち回りの最中、ナイフで切られた毛先。ポニー・テールの先っぽだった。
ポニー・テールに、罪はないのに……
「かわいそうに」
あたしは、つぶやく。ポニー・テールの先っぽを軽くつまんだ。
「あんた……感化院出のミッキーね……」
地面に倒《たお》れたまま、ジニーがいった。
「どうやら、そうらしいわね」
あたしは、地面に散らばったジニーのお金を集めてやる。
「立てる?」
ジニーは、うなずく。立ち上がろうとした。
小さく声を上げた。顔をしかめる。足首をネンザでもしたらしい。
あたしは、手を貸してやる。立ち上がらせる。ジニーは、あたしの肩《かた》ぐらいの背たけだった。
「家はどこ?」
「この近くよ」
「オーケイ。じゃ、いこう」
あたしは、ジニーを自転車の後ろに乗せた。自分もサドルにまたがる。
「しっかりつかまって」
力いっぱい、ペダルをこぎ出す。
♪
「ここよ」
1軒《けん》の家の前で、ジニーがいった。
アロハ・スタジアムの北。わりに貧しいハワイアンの家が多いあたりだった。
ジニーの家も、小さくささやかだった。
木造りの1階家。全体に、グリーンのペンキが塗《ぬ》ってある。玄関《げんかん》のわきには、ブーゲンビリアがピンクの花をつけている。
「あれは何?」
あたしは、上を指さしてきいた。
家から、すぐ近くにあるヤシの樹に、電線みたいなものがのびている。
電線は、ヤシの樹のてっぺん近くまでいって、何本も先のヤシまでのびている。
まるで、ヤシの樹が電信柱だ。
「電気|泥棒《どろぼう》をしてるのよ」
ジニーが、いった。
「電気泥棒?」
「そうよ。近くの電柱から、電気をいただいてるの」
「ふうん、考えたわねェ」
「うちじゃ、電気代はタダよ」
とジニー。白い歯を見せる。
「じゃ、ミッキー。助けてくれてありがとう」
「サンドイッチのお礼よ」
あたしは、ジニーの肩《かた》を叩《たた》いた。ジニーは、少し足をひきずりながら、家の玄関に歩いていく。
♪
(SPAM!)
(SPAM!)
(SPAM!)
(SPAM!)
(BAAAN!)
最後は、シンバルを叩《たた》いてしめくくった。曲のエンディングだった。
土曜の夜中。2時。〈ホノルル・コロシアム〉。きょうラストのステージが終わった。
「やれやれ」
あたしは、スティックをヒップ・ポケットにさす。
メンバー全員、ステージをおりる。汗《あせ》をふきながら、カウンターに。
「お疲《つか》れさん」
と、マネージャーのアントニオ。あたしたちに、ビールを配る。
「あ、そうだそうだ」
とアキラ。ビール片手に、店のラジオをチューニングする。
AMの750KHZあたり。KIKIとKKUAの間にチューニングした。
「何か面白い |局《ステーシヨン》 があるのかい」
リカルドが、のぞき込んできいた。
「海賊《かいぞく》放送らしいんだけど、悪くないぜ」
「海賊放送?」
「ああ。たぶん、そうだ。でも、いいローカル・ミュージックをやるんだ」
とアキラ。ダイアルをそっと回した。ラジオから、曲が流れはじめた。ハワイアン・ソングだった。
「土曜の夜中、2時から3時の1時間しかやらないんだ」
とアキラ。ラジオに耳をすます。やがて、曲が終わった。
「みんな、きいてる? こちらKJKJ」
女の声が、そうアナウンスした。
「あッ」
あたしは、思わず声を出していた。持ってたPRIMO《プリモ》を落とすところだった。
「この声は……」
ちょうど1週間前。スワップ・ミートでサンドイッチを売っていたジニーだった……。
♪
あたしは、〈ホノルル・コロシアム〉を飛び出した。
ビリーのボロ・ワーゲンを借りる。夜中のカパフル|通り《アベニユー》に走り出す。
走りながらも、カー・ラジオでジニーのD・Jを聴《き》いていた。
ジニーの話し方は、けしてスムーズじゃないけど、独特の温かさがあった。
本当に、自分が好きな曲を、みんなに聴《き》かせたい。そういう、プロにはない素朴《そぼく》さが気持ち良かった。かける曲は、ハワイのミュージシャンのものばかりだ。
ジニーのD・Jを聴きながら約20分。彼女《かのじよ》の家に着いた。
裏に回る。
|裏 庭《バツク・ヤード》に面したドアは開いていた。そっと入る。
声がきこえた。D・Jをやっているジニーの声だった。
あたしは、奥《おく》に入っていく。廊下《ろうか》に、明りがもれていた。ドアは、開けっぱなしになっていた。
ジニーの部屋らしい。開けっぱなしの入口から、そっと、のぞいた。
ジニーは、こっちに背中を向けていた。マイクに向かって、しゃべっている。
彼女の前には、機械があった。放送用の機材なんだろう。
けど、それほど大げさなものじゃない。せいぜい、普通《ふつう》のコンポーネント・ステレオぐらいだ。
ジニーのわきには、ターンテーブル。そして、壁《かべ》にはレコードが並《なら》んでいた。
「それじゃ、来週のこの時間まで、少しだけグッドバイね」
とジニー。
「こちらはKJKJ。|ありがとう《マハロ》」
最後は、ハワイの言葉でしめくくった。
エンディング・テーマなんだろう。セシリオ&カポノの曲が流れはじめた。
あたしは、開けっぱなしのドアを、軽くノックした。ジニーが、ふり向いた。マイクのスイッチを切りながら、
「くると思ったわ、ミッキー」
白い歯を見せて微笑《わら》った。
♪
「それほど不思議な話じゃないわ」
とジニー。コーヒーをいれながら、ポツリポツリと話しはじめた。
「あんまりお金持ちじゃないハワイアンの女の子が1人。7歳《さい》の誕生日《たんじようび》に兄貴からもらったトランジスタ・ラジオを宝物のようにして育ったの」
「…………」
「女の子にはきれいなドレスもパーティーもなかったけど、ある小さな夢《ゆめ》だけは持っていた」
「夢?」
「そう。このラジオから流れてるようなD・Jを、いつか自分もやるんだって夢よ」
「なるほどね」
コーヒーをすすりながら、あたしはうなずいた。
「そして、女の子が12歳になったある日、夢の第一段階《フアースト・ステツプ》は実現したの」
とジニー。眼の前の放送機材を見た。
「でも……これだけ揃《そろ》えるの、大変だったでしょう」
あたしは、きいた。
「タダ同然よ」
「タダ?」
「そう。兄貴が、ジャンク屋をやってるのね」
「ジャンク屋っていうと……」
使い古しやクズを扱《あつか》う仕事だ。
「これはみんな、捨てられてた物ばかりよ」
とジニー。笑いながら、放送機材を指さした。
確かに。
本物の放送局にあったみたいにピカピカじゃない。かなりくたびれたものばかりだった。
「そうか……」
あたしは、つぶやいた。
「ヤシの樹に張ってあった電線……あれがアンテナだったのか……」
ジニーは、コーヒーを飲みながらうなずいた。
「でも、いい兄貴なのね」
ジニーは、また、ゆっくりとうなずいた。
「両親は?」
「……いないの……」
とジニー。ポツリといった。コーヒー・カップに視線を落とす。
あたしは、それ以上きかなかった。きかなくても、だいたいのことは思い描《えが》けた。
「ねえ、ミッキー」
ふいに、ジニーが顔を上げた。つとめて明るく、
「うちの兄貴、高校じゃ、フットボールのスターだったのよ」
と、いった。ターンテーブルのわきに置いてある写真立てを、あたしに見せた。
どこか、学校のグラウンド。ジニーと兄が写っていた。
兄は、フットボールのユニフォーム姿。ヘルメットをわきにかかえている。
がっしりとしたハワイアンだった。兄の肩《かた》より背の低いジニーが並《なら》んでいた。
ちょっとまぶしそうに眼を細めて、カメラに笑いかけていた。
「頼《たよ》りになりそうな兄貴ね。名前は?」
「ジャンク屋だから、みんなにジャンクって呼ばれてるわ」
「……そうか……〈KJKJ〉の〈J〉は、1つがジニーの〈J〉で、もう1つが」
「そう。ジャンクの〈J〉よ」
とジニー。ニコリと笑った。
「で……兄貴のジャンクはいまどこ?」
あたしは、きいた。見たところ、家の中には誰《だれ》もいないみたいだった。
「兄貴はね、仕事で遠くにいってるの」
「じゃ……あんた、1人で暮《く》らしてるの?」
「そうよ」
ジニーは、笑顔でうなずいた。
「でも、心配ないわ。土曜日はアラ・モアナ公園、日曜日はスワップ・ミートで、サンドイッチを売って稼《かせ》いでるから」
「そうか……」
「学校だってちゃんといってるし、服だってレコードだって買えるのよ」
「あたしが13歳だった頃《ころ》より、ずいぶんとマシだわ」
あたしは笑いながらいった。
「そうそう、サンドイッチの準備しなくちゃ」
ジニーは、立ち上がった。
そうか……。明け方の4時だった。あと3、4時間でスワップ・ミートがはじまる。
「あたしも手伝うわ」
♪
あたしとジニーは、台所《キツチン》でサンドイッチをつくりはじめた。
ジニーの使うマヨネーズは、少ししょっぱかった。塩味をきかせてあるらしい。
「これが、サンドイッチ屋〈JINNYS《ジニーズ》〉の味の秘密なのね」
「そうよ」
とジニー。
「この味にはね、悲しい悲しい物語《ストーリー》があるのよ」
「ストーリー?」
「そう。ある日、あたしが落第点をとって、泣きながら自分の昼食のサンドイッチをつくってたの」
「それで?」
「涙《なみだ》がサンドイッチにこぼれたわ。でも、その塩味がおいしくてね」
ジニーは、ユーモラスに眼玉《めだま》を回した。
「それ以来、あたしのつくるサンドイッチは、少し塩味がきいてるってわけ」
ジニーは、肩《かた》をすくめてみせた。
「……なるほどね……」
あたしは、玉ネギをスライスしはじめた。包丁を使いながら、ふと思った。
落第点で泣いたってのは、たぶん嘘《うそ》だろう。そのぐらいで涙をこぼす娘《こ》じゃない。
もっと別の涙だったのかもしれない。何かもっと悲しい出来事……。
けど、それはきいてもしょうがないことだ。あたしは、黙《だま》って包丁を動かす。
♪
「あれ?」
あたしは、声を出した。台所《キツチン》の窓から、外をのぞいていた。
家の前の道路。あたしが乗ってきたワーゲンが駐《と》めてある。その後ろに、パトカーがとまった。
警官が2人、おりてきた。ワーゲンの中をのぞく。ナンバー・プレートを読んでいる。
「おかしいなあ……。駐車違反《ちゆうしやいはん》のはずないのに……」
あたしは、サンドイッチをつくる手をとめていった。
1人の警官は、パトカーの無線で連絡《れんらく》してる。もう1人は、こっちを見ている。
「どうしたのかしら。海賊《かいぞく》放送やってるのがバレたのかしら」
あたしは、ジニーにきいた。
「たぶん……そうじゃないわ……」
ジニーも、手をとめていった。
「張り込《こ》みしていたのよ」
「張り込み? どういうこと……」
ジニーは、サンドイッチ・パンを持ったまま、軽くため息。
「ミッキーだから、本当のこといっちゃうけど……兄貴のジャンクは、警察に追われてるの」
「警察に……」
「そう。仕事で、ちょっとしたトラブルがあってね」
「じゃ、それで?」
あたしは、道路のパトカーを指さした。
「そう。しょっちゅう、家のまわりに張り込んでるわ」
「そうだったのか……」
警官の1人は、まだ無線のマイクを持ってる。もう1人は、両手を腰《こし》にあてて、こっちを見ている。
「でも……あいつら、ムダ足よ」
ジニーがいった。
「兄貴は、絶対に家になんか近づかないわ。頭がいいから」
「どこにいるか知ってるの?」
ジニーは、首を横に振った。
「でも……ホノルルのどこかには、いるわ。そして、毎週、あたしの声をラジオで聴《き》いてるはずよ」
そうか……。あたしは、包丁を握《にぎ》ったまま、胸の中でつぶやいた。
警察に追われて、ホノルルのどこかに潜《もぐ》っている兄。
真夜中に、1人でマイクに向かっている妹。
2人をつなぐのは、眼に見えない750KHZの電波だけ……。
あたしは小さくため息……。また、手を動かしはじめた。サンドイッチを重ねていく。
ライ麦パン……。
七面鳥《ターキー》のスライス……。
|玉ネギ《オニオン》……。
七面鳥《ターキー》……。
ライ麦パン……。
七面鳥《ターキー》……。
指先についたマヨネーズを、あたしは、ちょっとなめてみた。ジニーのマヨネーズは、舌にしょっぱく、少しだけ悲しい味がした。
♪
キッ。自転車にブレーキをかけてとまる。
午前11時半。
カピオラニ|通り《ブルバード》とカラカウア|通り《アベニユー》のぶつかるあたり。〈カピオラニ・コーヒーショップ〉の前だ。
コーヒーショップという名前がついてても、ここは食堂だ。
サイミンや、|牛の尾《オツクス・テイル》の中華《ちゆうか》スープがおいしい。地元《ローカル》の人間には人気のある店だった。
あたしは、自転車をおりた。
店の前に、黒いリムジンが駐《と》まっていた。クジラみたいに大きなやつだ。
表向きは〈|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》〉の社長、じつはジャパニーズ・マフィアの若きドン、|J・R《ジユニア》のクルマだった。あたしは、店に入る。奥《おく》のテーブルに、J・Rはいた。
テーブルについて、オックス・テイルの中華スープを飲んでいる。
わきに、ボディ・ガードのナカジマがいる。あい変わらず無表情で突《つ》っ立っている。
「よお、ミッキー」
J・Rが、顔を上げた。いつも通り、麻《あさ》のスーツをピシッと着込《きこ》んでいる。
日本の有能な商社マンって感じだった。
「珍《めずら》しいこともあるな。ミッキーの方から連絡《れんらく》してくるなんて」
とJ・R。
「調べてもらいたいことがあるのよ」
あたしは、J・Rと向かい合って坐《すわ》った。
「調べてもらいたい?」
「そう。ジャンクって呼ばれてる若いハワイアンのことよ」
「ジャンク……」
「どうやら、あなたと同じような、|S・C《シヨツピング・センター》〈ダーク・サイド〉の仕事をしているらしいの」
「なるほど。おれみたいな人間でも、たまには役に立つことがあるってわけだ」
とJ・R。
「くわしい話は、昼メシを食いながらきこう」
チャイニーズのおばさんが、メニューを持ってきた。
♪
1時間後。店を出た。
「腹ごなしに、ちょっとドライヴだ」
とJ・R。
「ひと回りしてるうちに、調べがつくだろう」
ナカジマが、リムジンのドアを開けた。
「乗れよ、ミッキー。別に、強姦《ごうかん》したりしないから」
「よくいうわよ」
あたしは、笑いながらリムジンに乗り込《こ》んだ。ゆっくりと、リムジンは走り出す。
「ガラスを、全部、防弾《ぼうだん》にして、ボディを装甲車《そうこうしや》なみの鉄板にしたら、300キロも重くなったよ」
とJ・R。苦笑いしながら、
「加速が悪くなって、まるで、カメだ」
確かに、リムジンはゆったりとしたスピードで、カラカウア|通り《アベニユー》を走りはじめた。
J・Rは、胸ポケットからハーモニカをとり出した。
S《ステイービー》・ワンダーの〈PLACE《プレイス》 IN《イン》 THE《ザ》 SUN《サン》〉を、のんびりと吹《ふ》きはじめた。
♪
30分後。リムジンの無線電話が鳴った。J・Rがとる。
「うむ……」
とJ・R。相手の話をきいてるだけ。5分ぐらいで、
「わかった」
と、受話器を置いた。
「どうだった?」
「……ジャンクってのは、若いが、ちょっとした顔らしい」
「顔?」
「ああ。最初は、ジャンク屋つまり中古品を扱《あつか》ってたんだが、そのうち、盗品《とうひん》をさばく仕事に手を広げはじめた」
「盗品をさばく……」
「うむ。その仕事じゃ、いまはナンバー|1《ワン》らしい」
「じゃ……」
「当然、指名手配中だ。ホノルル市警でも、一番、手錠《てじよう》をかけたがってるやつの1人だそうだ」
「そうか……」
あたしは唇《くちびる》をかむ。通り過ぎていくカラカウアをながめた。
「彼《かれ》に、連絡《れんらく》とれるかしら?」
「キング通りの〈SAMS《サムズ》〉ってガラクタ屋なら、やつに連絡がとれるかもしれない」
「ありがとう」
クルマは、〈カピオラニ・コーヒーショップ〉の前に戻《もど》ってきていた。
「手荒い連中だから、用心しろ」
「わかったわ」
「それと、ミッキー」
「何?」
「おれのダブルベッドのとなりは、まだ空《あ》いてるんだが」
とJ・R。
「考えておくわ」
あたしは、J・Rの頬《ほお》に短いキス。リムジンをおりた。
♪
「え? 兄貴に連絡がとれるかもしれない?」
とジニー。
「もしかしたらね」
|かき氷《シエイヴ・アイス》をかじりながら、あたしはいった。
あたしとジニーは、アラ・モアナ公園の木陰《こかげ》を歩いていた。
「会いたい? 兄さんに」
ジニーは、小さく、うなずいた。その表情は、やはり、まだ子供だ。
「もうすぐ、誕生日《たんじようび》だったわね」
ジニーは、|かき氷《シエイヴ・アイス》をかじりながらうなずく。
「今年の誕生日は1人っきりだって、覚悟《かくご》してたけど……」
〈もし会えるものなら〉と、その眼《め》がいっている。
「でも、あたしのまわりにはいつも警察がうろついてるし、危いわ。やっぱり、ダメよ」
とジニー。真剣《しんけん》な表情でいった。
「そこは、うまくやるわ」
あたしは、ジニーの肩《かた》を叩《たた》いた。
♪
〈SAMS《サムズ》〉は、クルマの解体屋だった。ポンコツのクルマから、使える部品をはずす商売らしい。
赤|錆《さび》だらけのクルマが、積み上げてある。その間を、あたしは入っていく。この中には、盗難車《とうなんしや》もずいぶんありそうだった。
ふいに、
「どこへいくんだ」
という声。若い白人が2人、前に立ちはだかった。2人とも、太い腕《うで》に刺青《いれずみ》をしていた。
「立ち入り禁止って書いてあっただろう」
と、右の刺青男。
「英語、わからないわ」
あたしは、日本語でいってやった。
「なんだと、このガキが」
「どうやら、解体して欲しいらしいな」
と、やつら。あたしの体をながめて、ニタニタと笑う。
「どの部品《パーツ》から解体してやろうか、ディヴ」
と、左のやつ。
手に持ったドライバーで、あたしの体をさして、
「このプリンとしたヒップからいこうか、それとも、この長い脚《あし》からいってみようか」
「やっぱり、このバストがいいぜ」
と、右のやつ。
あたしは、ノーブラだ。Tシャツをツンッと突《つ》き上げてる乳首を、やつは指さす。
「このネジから、いってみるか」
左の乳首を、指でつまもうとした。
その手首を、あたしはつかんだ。グイとひねる。ビリーに教わった、中国|拳法《けんぽう》の技で投げた。
やつは、もんどりうつ。地面に転がった。土ボコリが、舞《ま》い上がった。
「こいつ……」
と、もう1人の刺青。身がまえる。
カチッという音。飛び出しナイフの刃《ブレード》が、午後の陽《ひ》ざしに光った。
あたしも、右手を後ろに。スティックに手をかけた。そのとき、
「何してる」
という声。
♪
ふり返る。チャイニーズのじいさんが立っていた。白髪《はくはつ》。黒っぽいアロハ。痩《や》せていた。
「あんたは?」
じいさんが、あたしにきいた。
「サムに会いにきたの」
「サムはわしだが……」
そうか……。
「あなたに会えば、ジャンクに連絡《れんらく》がとれるってきいたの」
「誰《だれ》にきいた」
サムの眼が、鋭《するど》く光った。
「〈|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》〉の|J・R《ジユニア》よ」
あたしは、いった。サムじいさんは、無言。10秒……20秒……あたしをじっと見ていた。やがて、
「こっちへ」
と、いった。
♪
「1時間後。カラカウアとベレタニアのぶつかる角にある公衆電話にいきなさい」
と、サムじいさん。
「わかったわ」
あたしは、回れ右。
「ところで、お嬢《じよう》ちゃん、名前は?」
「ミッキーよ」
サムは、うなずく。何回も、何回も、うなずきながら、あたしを見ていた。
♪
RRRRR! 公衆電話のベルが鳴った。あたしは、受話器をとった。
「ミッキーかね」
サムじいさんの声だった。
「そうよ」
「その通りをダウンタウン方向に|1《ワン》ブロックいった角に、公衆電話がある。そこへいきなさい」
また、公衆電話か……。でも、このややこしい連絡《れんらく》方法が、安全|装置《そうち》ってことなんだろう。
「わかったわ」
あたしは、受話器を置く。自転車にまたがった。
♪
RRRRR!
あたしは、受話器をとった。
「ミッキーか?」
若い男の声だった。
「ジャンクね」
相手は無言。YESなんだろう。
「あんたの妹が……ジニーが、ちょっとでも会いたがってるわ。3日後の彼女《かのじよ》の誕生日《たんじようび》に」
相手は無言。
「きいてるの? ジャンク」
「ああ」
また、無言。たっぷり、シングル盤《ばん》の片面は終わる時間だけ、ジャンクは黙《だま》っていた。
やがて、
「午後5時に、アラ・ワイ|通り《ブルバード》とシーサイド|通り《アベニユー》がぶつかるところ」
と、いった。そして、電話は切れた。
♪
3日後。
午後4時45分。
あたしは、アラ・ワイ|通り《ブルバード》を自転車で走っていた。アラ・ワイ通り《ブルバード》は、アラ・ワイ運河《カナル》に沿った道路だ。
幅《はば》60メートルぐらいの運河に沿って、えんえんとのびている。
運河には、小さい魚がたくさん泳いでいる。|通り《ブルバード》は、ヤシの並木《なみき》だった。
ジニーの姿が、遠くに見えてきた。
道路の端《はし》に立って、運河の水面をながめていた。あたしは、ジニーに手を振《ふ》ろうとした。
とたん!
思わず、急ブレーキをかけるところだった。
|通り《ブルバード》に駐車《ちゆうしや》しているセダンの中。男が2人。じっと前を見ていた。この暑いのに、上着を着た男が2人だ。
まちがいなく警察だ!
そのわきを、走り過ぎる。さりげなく、見回す。
|通り《ブルバード》の向こう側にも、地味なセダンが駐車している。男が3人、乗っている。しゃべるわけでもなく、ジニーの方を見ていた。
|通り《ブルバード》にずらっと駐車してるクルマの5、6台に、男たちが待機していた。
あたしは、ジニーに近づいていく。
「あ、ミッキー」
ジニーが、ふり向いた。
「騒《さわ》いじゃダメよ」
あたしは、ジニーの耳もとでささやいた。
「そこいら中に警察がいるわ」
見回そうとするジニーの腕《うで》をつかんだ。
「どうして……」
ジニーが、ひきつった声を出した。
「たぶん、あんたを尾行《びこう》したのね」
ジニーが、体をこわばらせた。
「どうしよう……」
いま、4時57分。あと3分……。あたしは、唇《くちびる》をかむ。
いまジャンクが現れたら、袋《ふくろ》のネズミだ。けど……どうしたらいいんだ。
あたしは、唇をかんで見回した。4時59分を過ぎた。
30メートルぐらい向こう。クルマから男が2人、おりた。クルマのわきに立つ。腕時計をチラリと見た。
あたしのわきに、汗《あせ》が流れ出した。ジャンク、こないで……。張り込《こ》みに気づいて……。
そのとき! ピーッという鋭《するど》い口笛《くちぶえ》が、運河に響《ひび》いた。あたしとジニーは、ふり返る。
運河の向こう岸。若い男が1人、立っていた。
「ジャンク!」
ジニーが叫《さけ》んだ。
クルマから、男たちがバラバラと飛び出してきた。
「やつだ!」
「あそこだ!」
叫び声が、飛びかう。けど、相手のジャンクは向こう岸だ。どうすることもできない。
「ジャンク!」
ジニーが、叫びながら手を振《ふ》った。ジャンクも、片手を上げて答える。
たくましい褐色《かつしよく》の体に、赤いTシャツを着ていた。
ジャンクは、何か持っていた。アメリカン・フットボールのボールらしい。
それを、右手に握《にぎ》る。バック・スウィング。フットボールのクォーター・バックのフォームだ。
そして、投げた! ボールは、たそがれの空を飛んでくる。ゆるやかな放物線《ほうぶつせん》。
1秒……2秒……3秒……。待ちかまえているジニーの両|腕《うで》に、ボールは吸い込《こ》まれた。
「ナイス・キャッチ!」
あたしは、思わず叫んだ。ジニーがうけとったボールには、〈HAPPY《ハツピー》 BIRTHDAY《バースデイ》!〉と、白で書いてあった。
「サンキュー!」
ジニーが、叫びながら手を振る。
ジャンクも、手を振って答える。一瞬《いつしゆん》、歯が白く光った。そして、体をひるがえした。
「追いかけろ!」
と、警官たち。クルマに飛び乗る。走り出す。
けど、向こう岸までは、えんえんと回り道だ。どうやっても、追いつくはずはない。
「いまのうちに、あたしたちもズラかろう!」
ボールを抱《だ》きしめているジニーを、あたしは自転車の後ろに乗せた。
全力でペダルをこぎはじめる。
♪
「バースデー・カードじゃなくて、バースデー・ボールってわけね」
あたしは、ジニーの家に入りながらいった。
「ね、すごかったでしょう! 兄貴のロング・パス」
とジニー。眼を輝《かがや》かせながらいった。冷蔵庫から、サンドイッチの材料をとり出す。
あたしたちは、夕ごはんをつくりはじめた。もちろん、七面鳥《ターキー》のスペシャル・サンドだ。
♪
「サンドイッチをつくってると、ふと思うわ」
とジニー。パンにマヨネーズを塗《ぬ》りながらいった。
「何を思うの?」
「人生が、サンドイッチみたいならいいなって……」
「サンドイッチみたい?」
「そう。たとえば、つらいことが起こる」
といって、ライ麦パンを1枚、ジニーは手にのせた。
「でも、つぎに、いいことが起こる」
といって、七面鳥《ターキー》を1枚重ねた。
「また、嫌《いや》な目にあう」
といって、パンを1枚。
「でも、すぐにいいことが起こる」
といって、七面鳥《ターキー》を1枚。つぎつぎに重ねていく。でき上がったスペシャル・サンドイッチをながめて、
「せめて、こうならいいのにね……」
とジニー。ポツリと、つぶやいた……。
あたしは、ジニーの細い肩《かた》をそっと抱《だ》いた。自分でつくったサンドイッチを、ひと口かじってみる。つけ過ぎたマスタードが、ツンと鼻に抜《ぬ》けた。
♪
「WAAAAAOOOW!」
チャックが、ウルフマン・ジャックみたいな叫《さけ》び声を上げた。すれちがうクルマの連中が、驚《おどろ》いてふり返る。
土曜日。
夜半過ぎ。
あたしたちは、ボロ・ワーゲンでタンタラスの丘《おか》を登っていた。屋根のないワーゲンに5人。ぎゅうぎゅうづめに乗ってる。チャックの体なんか、ほとんどクルマの外だ。
「オーケイ、着いたぜ」
と、ステアリングを握《にぎ》っているビリー。クルマをとめた。あたしたちは、クルマをおりる。
眼《め》の前には、ホノルルの夜景が広がっていた。
ズラッと並《なら》んでいるホテルたち。ヤシの樹。その向こうに海。水平線が、月明かりに光ってる。
「あ」
アキラが、腕《うで》時計をのぞいていった。
「ミッキー、ラジオ」
あたしは、うなずく。カー・ラジオのスイッチをON。750KHZにチューニングする。
ザーという雑音。やがて、
「こちら、KJKJ」
ジニーの声が、ラジオから流れはじめた。
「みんな元気? あたしも元気よ」
ラジオから流れるジニーの声は、カラッと晴れていた。
「今夜の1曲目は、すごく素敵な曲よ。じゃ、いくわね。タイトルは〈少しだけ、ティア・ドロップス〉バイ・ザ・バンデージ」
ビリーが、ヒューッと口笛《くちぶえ》を吹いた。曲が、カー・ラジオの小さなスピーカーから流れはじめた。
生まれてはじめてラジオできく自分たちの曲だった。
あたしは、ワーゲンのドアにもたれて、耳をすましていた。
A♭。
C。
G7。
もし君が
どこかへ歩き出すなら
夕方の5時がいい
そして
少しだけなら泣いてもいいよ
青いたそがれが
濡《ぬ》れた頬《ほお》を
かくしてくれるだろう
少しだけティア・ドロップス
涙《なみだ》が乾《かわ》いてしまうまで
僕《ぼく》がそばにいてあげる
最後のくり返し《リフレイン》。
少しだけ
ほんの少しだけティア・ドロップス
涙が乾いてしまうまで
僕らがそばにいてあげる
C。
B♭。
E♭……。
あたしは、唇《くちびる》をきつく結んで、ホノルルの街を見つめていた。
立ち並《なら》ぶホテルの灯《ひ》が、少しにじんで見えた。
[#改ページ]
第2話 ハロウィンが怖かった
♪
「動くんじゃないよ、お嬢《じよう》ちゃん」
耳もとで、声がした。巻き舌。フィリピンなまりの英語だった。
右の頬《ほお》に、ヒヤッと冷たい感触《かんしよく》……。だれかが、キスしている。
あたしは、ゆっくりと目を開ける。頬《ほお》にキスしているのは、シー・ナイフの刃《は》だった。
♪
油断していた。ウトウトと、居眠《いねむ》りをしていた。
午後3時。オアフ島の東。マカプー・ポイントの近くの海岸。
砂浜《すなはま》が、何マイルもつづいている。ひと気は、ない。
砂浜の端《はし》に駐《と》めたワーゲン。そのドアにもたれて、あたしは坐《すわ》っていた。
きのうは、ほとんど徹夜だった。バンドの連中と、新曲のアレンジをやってた。
その疲《つか》れが出たんだろう。つい、居眠りをしはじめていた。
近づいてくる足音には、まるで気づかなかった。
「ピクリとでも動いたら」
と、フィリピンなまりの英語。
「そのかわいい顔を、ハムみたいにスライスしてやるからな」
と、いった。
あたしは、目玉だけ動かして見た。若いフィリピーノが3人。あたしを囲んでいた。
見覚えのある顔。そして、こんな場所では出会いたくない顔。〈赤アザのフェリーペ〉の手下たち、つまりマルコス一派のやつらだ。
「しばらくぶりだな、ミッキー」
あたしにナイフをつきつけてるやつが、いった。不精《ぶしよう》ヒゲをのばして、おまけに出っ歯だった。
「おれたちの顔を忘れちゃいまいな」
ニタッと笑った。
勝ち目はあるだろうか……。あたしは、必死で考えた。
スティックは、デイパックの中。デイパックは、クルマのトランクの中だ。
あたしの気配をさっしたのか、
「おっと、動くんじゃないよ」
と、別の1人。尻《しり》のポケットから飛び出しナイフを抜《ぬ》いた。
パチッと、刃を起こす。あたしのアゴに、刃先をつきつけた。
貧乏《びんぼう》ったらしいシャツのわりには、よく切れそうなナイフだった。
「ゆっくりと、両手を前に出せ」
出っ歯が、いった。あたしは、両手を前に。
3人目のやつが、ポケットからバンダナを出した。それで、あたしの両手首を縛《しば》る。
血が止まるぐらいきつい縛り方だった。
「ほら、立てよ」
あたしは、いわれたとおりにする。一瞬《いつしゆん》のスキをうかがいながら……。
「さて、教えてもらおうか、ミッキー」
「教えるって、何を?」
「おれたちから横取りしたプラチナの行方にきまってるじゃないか」
「エイズ基金に寄付したわ」
「ほう」
と出っ歯。ニタニタしながら、
「しばらく会わないうちに、冗談《じようだん》がうまくなったな」
と、いった。あとの2人もへラヘラと笑う。
いまだ! あたしは、右足で砂を蹴《け》り上げた。
「ウプッ!」
砂をくらって、出っ歯がひるむ。その肩《かた》に、あたしは体当たり。突《つ》き飛ばす。
思いきり、駆《か》け出した。5メートル! 10メートル! 15メートル!
けど、両手が前で縛られてる。ひどく走りづらい。バランスをくずす。
前のめりに、砂浜《すなはま》に転んだ。やつらが、すぐに追いついてきた。
「あい変わらず元気な小娘《こむすめ》だ」
と出っ歯。あたしのポニー・テールを、ぐいとつかんだ。
「どうやら、よほど走りたいらしいな」
ポニー・テールをつかんだまま、引っぱり起こす。
♪
「何するのよ」
あたしは、いった。
「たっぷり走らせてやろうってのさ」
と出っ歯。ニッと笑った。
やつらが乗ってきたらしいジープが、砂浜にあった。軍の放出品らしい。
ジープから、ロープがのびている。
ロープは、長さ6、7メートル。端《はし》は、あたしの手首を縛ったバンダナに結びつけてある。
やつらは3人ともジープに乗った。エンジンが、かかる。
「もう1度きくぜ、ミッキー」
後ろのシートに坐った出っ歯が、こっちをふり向いていった。
「プラチナは、どうした」
あたしは、思いきり舌を出してやった。
「そうか」
出っ歯は、運転席のやつに手で合図。
「やれ!」
ジープが動き出した。たるんでたロープが、すぐにピンと張る。
あたしの両手は、グッと引っぱられる。しかたなしに小走りになる。
「その調子なら、ホノルル・マラソンにも出られるぜ」
と出っ歯。こっちを見て笑った。だんだん、ジープのスピードが上がってくる。
波打ちぎわを、100メートル……200メートル……300メートル……。
息が、切れてくる。足が、遅《おく》れそうになってくる。
ダメだ! 転んだら、ロープで引きずられる。必死で足を動かす。
また、ジープのスピードが上がった。もう、マラソンなんてものじゃない。ほとんど全力|疾走《しつそう》だ。
400メートル……500メートル……。
アゴが上がる。足がもつれる。よろける。ヤバイ。まずい。ダメだ。転ぶ!
ふいに、ジープのスピードが落ちた。ヨロヨロと歩く。息をつく。
「どうした。もうグロッキーか?」
と出っ歯。
「いつもの元気はどうした」
歯をむき出して笑った。運転してるやつに手で合図。
また、ジープのスピードが上がる。また、引っぱられる。
100メートル……200メートル……300メートル……。
息が……苦しい! 足が動かない! 右ヒザが、カクッと折れる。砂浜に転がった。
トローリングのエサみたいに、波打ちぎわを引きずられはじめた!
砂に顔を突《つ》っ込《こ》まないように、必死でアゴを上げる。
アロハ・シャツの胸に、砂が! 口の中にも砂が!
もう、何がなんだかわからない。
小石や貝がらの散らばった砂浜《すなはま》を、ただ引きずられていく。
シャツの前が、ひきちぎれた! 胸に灼《や》けつくような痛み!
あたしは、力をふり絞《しぼ》って体を反転。仰向《あおむ》けになる。背中とヒップが熱い。フライにされてるみたいだ。
やつらの笑い声とエンジン音が、少しずつ遠くなる……。
♪
どのくらい気を失っていただろう。
5分……10分……。そのぐらいのものらしい。
眼を開ける。いやになるほど青い空。ヤシの葉先。
「気がついたか」
頭の上で声がした。首を起こす。連中が、見おろしていた。あたしは、そろそろと上半身を起こす。
痛みを感じる余裕《よゆう》は、まだない。いろんな種類の痛みが、後でどっと押《お》し寄せてくるだろう。
「いいかっこうだぜ、ミッキー」
と出っ歯。
「できそこないのフラダンサーってとこだな」
と別の1人。あたしは、自分の姿をながめた。確かに、そのとおりだった。
フラダンサーのレイのかわりに、シャツが首からぶら下がっていた。
ワカメみたいになったシャツの切れっぱしが、首のあたりにひっかかっていた。上半身は、それだけ。
フラダンサーの|腰ミノ《グラス・スカート》のかわりは、破れたショート・パンツだ。
ズタズタに裂《さ》けたショート・パンツが、やっと、腰《こし》のまわりにまとわりついていた。
体中、擦《す》り傷だらけだった。
けど、傷は見ないことにする。人間は、自分の傷口《ダメージ》を見ると、戦闘《せんとう》意欲を失《な》くすものだ。
「どうだ。しゃべる気になったか」
と出っ歯。あたしの顔をのぞき込んだ。
「ふん!」
やつの顔に、あたしは砂まじりのツバを吐《は》きかけてやった。
「……そうかい」
と出っ歯。ソデで顔をふきながら、ニッと笑った。
「それじゃ、しょうがない。かわいそうだが、第2ラウンドといくか」
あたしのポニー・テールをつかむ。引っぱり起こす。あたしは、ヨロヨロと立ち上がった。
「これからは、もうちょっと痛いぜ」
あたしは、その先の砂浜《すなはま》を見た。瞬間《しゆんかん》、全身に鳥肌《とりはだ》が立つ。
ここから先は、砂浜といっても砂じゃない。砕《くだ》けたサンゴの破片でできた浜だった。
白いギザギザの破片が、どこまでも陽《ひ》ざしに光っている。顔から、血が引いていくのがわかる。
「こりゃ、キツそうだな」
と運転席のやつ。
「軽く引きずっただけで、その残りの衣装《いしよう》なんかちぎれて真《ま》っ裸《ぱだか》だ」
と出っ歯。ヒヒヒと笑った。
「だが、恥《は》ずかしがることはないさ。あっという間に、全身、血まみれになるだろうよ」
「まっ赤なウェットスーツってわけだ」
と、やつら。ゲラゲラと笑った。たぶん、連中のいうとおりだろう……。あたしは、唇《くちびる》をかんだ。
「さて、いくか」
やつらは、ジープに乗り込《こ》む。ギアが入る。
「がんばるんだな、ミッキー」
ジープがゆっくりと動き出した。ロープが、張る。両手が引っぱられる。
あたしは、やっとの思いで足を動かしはじめた。けど、鉛《なまり》みたいに重い。
裸足《はだし》に、サンゴの感触《かんしよく》。歩いているだけでも痛い。この上を引きずられたら……。
ジープのスピードが上がってくる。必死で足を動かす。右左右左右左右……。
ヨロける。ヒザがくずれ落ちそうになる。がんばるんだ! 自分に叫《さけ》ぶ。
スピードが、ゆっくりと上がってくる。やつらが、ニヤニヤと見ている。
足が重い! 息が苦しい!
走るスピードになってきた。
ダメだ! 足がついていかない! 前のめりになる!
ダメだ! ダメだ! ダメだ! あたしは、眼《め》をつぶる。
ヒザから、前に倒《たお》れた! その瞬間《しゆんかん》、ジープの鋭《するど》いブレーキ音がきこえた。
♪
「なんだよ、この女」
という声。やつらがジープをおりる物音。あたしは、上半身をそっと起こした。首をのばす。
ジープの斜《なな》め前。女が1人、立っていた。
若い。まだ、19か|20歳《はたち》だろう。東洋系らしい。長い髪《かみ》。白いシャツ。ジーンズ。
「じゃましようってのかい、ネエさん」
と、やつら。彼女《かのじよ》を囲む。
「ちょっといい女だからって、遠慮《えんりよ》はしないぜ」
「こっちにも、やらなきゃならない仕事があるんでね」
と出っ歯。
「どけよ」
右手で彼女の肩《かた》を突《つ》こうとした。
彼女が、かすかに動いた。それだけで、出っ歯の右手はカラぶり。宙に泳ぐ。
と同時。彼女の左手が動いた。早い、正確な動き。左|拳《こぶし》の甲が、出っ歯の横っ面を打った。
カラテの裏拳《うらけん》だった。ビシッという音。出っ歯は、なぎ倒《たお》されるように砂浜《すなはま》に転がった。
「こいつ……」
と残りの2人。同時に右手が動いた。ヒップ・ポケット。ナイフの柄《え》に手がのびる。
けど、彼女の方が早かった。右足の回し蹴《げ》りが飛ぶ。2人目の後頭部に入る。
「グッ」
くらったやつは、前にくずれる。
その瞬間《しゆんかん》! 3人目が動いた! 彼女の左から突《つ》っ込《こ》む! ナイフの刃《は》が陽《ひ》ざしに光る!
「危い!」
あたしは、叫《さけ》んでいた。
彼女がふり向いた。反射的に沈《しず》み込む。片ヒザをつく。
ナイフの刃が、彼女の頭上を走った。
彼女の右手が動いた! 突きが、相手の鳩尾《みぞおち》に入った!
「ウゲッ」
3人目の手から、ナイフが落ちる。それを追いかけるように、体が砂浜にくずれ落ちた。
彼女は、ゆっくりと立ち上がる。深呼吸。
フィリピーノが落としたナイフをひろい上げる。あたしの方に歩いてくる。
両手を縛ってるバンダナを、ナイフでピッと切った。
「助かったわ。新しいタイプの人命救助《ライフガード》?」
あたしは、肩《かた》で息をしながらいった。
「ただのおせっかいよ」
彼女の歯が白く光った。あたしの体をかかえ起こす。
「歩ける?」
「やってみるわ」
♪
「ミッキーよ」
ゆっくりと歩きながら、いった。
「シャリーよ」
と彼女《かのじよ》。あたしに肩を貸してくれながら、いった。
「さっきのは、カンフー?」
「そんなようなものね」
「ってことは、チャイニーズ?」
シャリーは、うなずいた。
「ミッキーは、日系?」
「そんなようなものよ」
やっと、クルマにたどりついた。シャリーのクルマは、ペパーミント・グリーンのカルマンギアだった。
「それにしても、ひどいかっこうね」
とシャリー。
確かに。あたしは、裸《はだか》同然だった。ダウンタウンのストリッパーだって、もう少し品のいいかっこうをしているだろう。
「何か……服は……」
シャリーは、自分のクルマをのぞく。けど、タオル1枚ない。
「困ったわね」
とシャリー。
「あ、あれでいいわ」
あたしは、いった。駐車場《ちゆうしやじよう》の端《はし》にゴミ缶《かん》がある。ゴミ缶の中には、黒いポリ袋《ぶくろ》が入っている。あたしは、それをのぞいた。幸い、中はカラだ。
あたしは、黒いポリ袋を引っぱり出す。袋の3か所に穴を開ける。
ポリ袋を、頭からかぶる。3か所の穴から、首と両手を出す。
突然《とつぜん》のどしゃ降りなんかのとき、地元《ローカル》の人間がよくやる手だった。シャリーが苦笑しながら、
「ま、黒は今年の流行だしね」
といった。
「さ、乗りなさい、ミッキー。手当てをしなくちゃ」
♪
「学生?」
あたしは、きいた。シャリーは、カルマンギアのステアリングを握《にぎ》ってうなずく。
「U・H(ハワイ大学)?」
シャリーは、首を横に振《ふ》った。
「大学は、本土《メイン・ランド》。ちょっと用事で帰ってきてるの」
クルマは、ホノルルの中へ入っていく。クヒオ|通り《アベニユー》からカイオル|通り《アベニユー》へ右折。
7階建てのアパートメントに、シャリーはクルマを突《つ》っ込《こ》んだ。
♪
「ここよ。入って」
2階の端のドアを、シャリーは開けた。
「おじゃまします」
着ているポリ袋をガサゴソいわせながら、あたしは入っていく。
キッチン、リビング、ベッド・ルームが2つの、小ぎれいなアパートメントだった。
「その素敵なドレスを脱《ぬ》いで、シャワーを浴びなさい」
とシャリー。あたしはうなずく。バス・ルームに入る。
シャワーの一撃《いちげき》は、ひどくしみた。歯をくいしばってガマンする。
体中の傷から血がにじんでいる。足もとのバス・タブに流れるお湯は、ピンクに染まっていた。
♪
「あっ、いかなくちゃ」
あたしは、いった。シャリーに薬を塗《ぬ》ってもらってるところだった。
「いくって、どこへ?」
マーキュロのビンを持って、シャリーが眼《め》を丸くした。
「ステージの時間なの」
「ステージって……このガキっぽい体で脱ぐわけ?」
ショーツ1枚のあたしをながめて、シャリーがいった。
「ちがうわよ。バンド」
「バンド?」
シャリーの眼の中で、好奇心《こうきしん》がチラリと光った。
「これでも、プロよ」
マーキュロだらけの体で、あたしは胸をはった。
「こんな傷だらけじゃ、無理よ、ミッキー」
「いかなきゃならないのよ」
ジニーの海賊放送局KJKJのおかげで、あたしたちの人気は少しずつ上がってきている。
毎週、D・Jのジニーがあたしたちの曲をかけてくれる。ついでにライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉の名前もラジオでいってくれる。
店は、このところ急に混みはじめてきた。みんな、あたしたちの演奏めあての客だ。
「いかなくちゃ」
「ダメよ。いくんなら、そのかっこうでいくのね」
とシャリー。
「そんなこといわないで……お願いだから、なんか服を貸して」
「ダーメ」
「……そう……ならいいわ」
あたしは、そばに捨ててあった黒いポリ袋をとった。
「どうするの、ミッキー」
「また、これを着ていくの。裸《はだか》よりはマシでしょ」
あたしは、ポリ袋《ぶくろ》を頭からかぶろうとした。
「わかったわよ、ミッキー」
とシャリーは苦笑い。
「じゃ、とにかく、包帯ぐらいは巻いて」
♪
「おい、なんのマネだい」
とチャック。店に入っていったあたしを見て、いった。
シャリーに借りたTシャツ、ショート・パンツ。両|腕《うで》と両|脚《あし》は、包帯がグルグル巻きだった。
「透明《とうめい》人間の仮装《かそう》か、ミッキー」
と、ビリーがひやかす。
「ハロウィンにゃ、まだ10日もあるっていうのに」
とリカルド。
「ほっといて」
あたしは、いった。透明人間っていうよりはドラキュラみたいにギクシャクとドラム・セットに歩いていく。
♪
C……。
B♭……。
E♭……。
〈少しだけ、ティア・ドロップス〉の間奏。フロア・タムの※[#二連の八分音符、unicode266b]を、あたしはミスした。
リードをとってるギターのビリーは気づかない。
キーボードのアキラが、さすがに気づいた。あたしをチラッと見る。白い歯を見せた。
ベースのチャックも、あたしをふり返る。〈珍《めずら》しいな〉という表情で、ニッと微笑《わら》った。
今夜のステージ、2回目のミスだった。それでも、曲は盛《も》り上がる。
エンディング。客席から拍手《はくしゆ》。厚みのある拍手だ。
あたしたちは、ステージの上で顔を見合わせる。
手ごたえが、少しずつ大きくなってきている。そんな気がした。
|休 憩《インターミツシヨン》だ。タオルで汗《あせ》をふきながら、ステージをおりる。
カウンターに坐《すわ》る。マネージャーのアントニオが、あたしたちの前にビールを置いた。
「みんな、見ろよ」
といって、指さした。
店は、客が入れかわる時間だった。出ていく客の半分ぐらいが、レジのわきに積んであるレコードを買っていく。
A面が〈少しだけ、ティア・ドロップス〉。B面が〈ロング・ロング・グッドバイ〉。
あたしたちのはじめてのシングル盤だ。見ている間に、レコードの山が低くなる。
「ジニーの放送局のおかげね」
ビールを飲みながら、あたしはいった。アキラが、となりでうなずく。
「アラ・ワイのハーバーに、手頃《てごろ》なヨットが売りに出てたぜ」
とチャック。
「たったの20万ドルだったが、予約しとこうか」
「おれは泳げないんでね、できたら自家用ジェットにしてくれないか」
とリカルド。
「それもいいがとりあえず、新しい弦《げん》が1本欲しいんだけどな」
ギターをヒザにのせて、ビリーがいった。みんな笑いながらビールを飲む。
「ところで、うちの包帯|娘《むすめ》はどうしたんだと思う?」
とチャック。わざとあたしにきこえるような声で、リカルドにいった。
さっきの、あたしのミスのことをいってるんだろう。
「さて、何かあったんじゃないか」
とリカルド。
「たとえば、ついに男を知ったとか……」
みんな、ニヤニヤしてあたしを見る。
「ってことは、あのグルグル巻きの包帯は、キスマークをかくすためか」
とチャック。目玉を大きくしていった。
「それじゃ、相手はタコか」
とリカルド。笑い声が爆発《ばくはつ》する。あたしは、みんなの冷やかしを無視。グイッとビールを飲む。
ミスの原因は、わかっている。
全身の擦《す》り傷のせいじゃない。気になることがあるのだ。
あの、チャイニーズ・ガール、シャリーのことだ。
何か、胸の中で信号が点滅《てんめつ》している。初対面のはずなのに、どこかで会っているような気がする。
それに、あの、ペパーミント・グリーンのクルマも、どこかで見たような気がしてならない。もちろん、確信は何もない。
チャイニーズ系のロコ・ガールなんて、ハワイじゃ珍《めずら》しくもない。
ペパーミント・グリーンのカルマンギアってのも、よく走ってるクルマだった。
それでも、やっぱり、気になる……。あたしは、SALEM《セーラム》の煙《けむり》をゆっくりと吐き出した。
となりじゃ、ビリーがギターの弦《げん》を張りかえている。
七弦ギターの最高音。ゼロ弦に、0・08ミリの〈スーパー・スリンキー〉を張っている。
弦に、ゆっくりとテンションをかけていく。ピックで弾《はじ》きながら、チューニングしていく。
J《ジヤツキー》・チェンによく似た顔が、そんなときだけは、やけに真剣《しんけん》だ。
あたしは弾かれる〈スーパー・スリンキー〉の音に、じっと耳をかたむけていた……。
♪
「あの……J……じゃなかった、社長に会いたいんですけど」
あたしは、自分の名前をいった。
「ミスター・ジンノですか?」
と、受付の日系人女性。あたしは、うなずいた。
「お約束《やくそく》は?」
「あ、さっき電話で」
受付|嬢《じよう》は、うなずく。インタホーンをとる。
3日後。午前11時45分。ダウンタウンのビジネス街。
キング通りに面して建っている〈オリエンタル・コーポレイト・ビルディング〉。27階建てのピカピカのビルだ。
この24階から最上階の27階までが、〈|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》〉だ。
表向きは日系の貿易会社。実は、ジャパニーズ・マフィアの本拠地《ほんきよち》だ。
「どうぞ、そちらのエレベーターで27階へ」
受付嬢が、いった。
受付のあるこの24Fから、最上階の27Fまで専用エレベーターがあるらしい。
あたしは、それに乗った。エレベーターは、音もなく上昇《じようしよう》。27Fで、ドアが開いた。
|J・R《ジユニア》のボディ・ガード、ナカジマの巨体《きよたい》が立っていた。
「社長がお待ちです」
とナカジマ。あたしの前に立って、歩きはじめる。
通り過ぎるドアの中から、ときどき、タイプやテレックスを打つ音がきこえる。
ごく普通《ふつう》の商社のワン・フロアーって感じだった。ただ、やたら、右に左に曲がりくねった廊下《ろうか》だった。
「迷子になりそうな廊下ね」
あたしは、ナカジマの巨大な背中にいった。
「自分も、ときどき迷うことがあります」
とナカジマ。
「どうして、こんな風に……」
「いざというときのための用心なんですが」
とナカジマ。
そうか……。万が一、襲撃《しゆうげき》されても、簡単に社長室に突入《とつにゆう》されないため……。
廊下の一番|奥《おく》。何も書かれていないドアの前で、ナカジマが、
「こちらです」
と、いった。自動ドアが、左右に開く。あたしは、部屋に入った。
普通の会社の重役室って感じだった。マホガニーのデスクに、J・Rがいた。
サンドイッチを食べながら、新聞に目を通していた。
「よお、ミッキー」
J・Rが、顔を上げた。あい変わらずだ。キチッと分けた髪《かみ》。明るいグレーのスーツ。渋《しぶ》いストライプのタイ。有能な商社マンって感じだった。
「どうした、そんな顔して」
とJ・R。あたしが意外そうな表情をしてたんだろう。
「ギャングの親分《ドン》としちゃ、昼から血のしたたるステーキでも食いながら機関銃《マシンガン》でも磨《みが》いてるのが似合いか?」
自分の左手のサンドイッチを見て、J・Rがいった。
「そういうわけじゃないけど」
あたしは、苦笑い。
「それよりミッキーの方がものものしいじゃないか。金属のスティックなんか持って」
とJ・R。
「どうして、アルミのスティックってわかるの?」
スティックはヒップ・ポケットに刺《さ》してある。J・Rからは見えないはずなのに……。
「便利なものがあってね」
とJ・R。デスクの端《はし》に置いてある小型テレビを指さした。あたしも、のぞいて見る。
不思議な映像がうつっていた。レントゲン写真のような映像。どこかで見たような……。
そうか。空港の、手荷物チェックのX線モニターだ。
いま、画面には、男の人影が2つ。
いろんな金属の影が、透けて映っている。ネクタイ・ピン。ボールペン。硬貨。腕時計……。
「これ、エレベーターの中ね」
あたしは、いった。J・Rがうなずく。
27階へ上がる専用エレベーターの箱が、X線を使ったチェック装置《そうち》になってるらしい。
「ぶっそうな道具を持ったお客さんが訪ねてこないとも限らないんでね」
とJ・R。苦笑しながら、いった。そして、
「おれの親父《おやじ》は、社長室で撃《う》ち殺された」
と、つけ加えた。
♪
「その包帯はどうした。犬にでも噛《か》まれたか」
とJ・R。あたしはうなずいて、
「平べったい顔をした犬にね」
と、いった。
「フィリピーノか……」
とJ・R。あたしは、3日前のことを簡単に話す。
「そういえば、うちの倉庫も、きのう、フィリピーノたちに襲《おそ》われた」
コーヒーを飲みながら、J・Rがいった。
「どうして、連中、そんなに盛《も》り上がってるわけ?」
「本国のフィリピンが、またキナ臭《くさ》くなりはじめたからな」
とJ・R。デスクの上の〈ホノルル・アドバタイザー〉紙を指さした。
「キナ臭い?」
「ああ。エンリレ国防相ってやつが、アキノ政権に対してクーデターを画策してるってのが、もっぱらのウワサだ」
「エンリレってのは、元マルコス派の人間でしょ?」
「そうだ。古狸《ふるだぬき》のマルコスとしちゃ」
「落ちついていられないわけね」
「うむ。陰《かげ》でエンリレを援助《えんじよ》してるって情報もある」
そうか……。
「うまくいけば、自分の立場と力がとり戻《もど》せるかもしれないと思ってるんだろうな」
とJ・R。窓の外を指さした。マルコスがいるという屋敷《やしき》のある方向だった。
「あきらめの悪いやつね」
「女房《にようぼう》に尻《しり》を叩《たた》かれてるんだろ」
とJ・R。苦笑しながら、
「とにかく、マルコス一派としちゃ、1セントでも金が欲しいところだろう」
「じゃ……」
「あのプラチナの一件じゃ、連中、腹わたが煮《に》えくり返ってるだろうな」
J・Rは、あたしの顔を正面から見て、
「くれぐれも気をつけろ」
と、いった。
♪
「ところで、用事があるんだろう?」
とJ・R。
「ヤクザがサンドイッチを食ってるところを見物にきたわけじゃあるまい」
コーヒーを飲み干しながら、いった。
「クルマのナンバーから、持ち主がわかる?」
「ああ。わからないこともない。ナンバーは?」
あたしは、ナンバーを書いた紙きれを、J・Rに渡《わた》した。シャリーのクルマのナンバーだ。J・Rは、デスクの電話をとる。
「コンピューター室を」
と、いった。
「コンピューターまであるの?」
「ああ。警察のコンピューターと直結してる」
J・Rは、用件を電話でいう。切る。
「すぐにわかるだろう」
と、あたしに向きなおる。
「で? このナンバーは? ミッキー」
あたしは、説明しはじめる。
「あたしのバンドに、ビリーっていうチャイニーズのギタリストがいるわ」
J・Rは、うなずく。
「ビリー・リーか。ホノルル1の大麻《パカロロ》の売人《プツシヤー》だな」
「どうして知ってるの?」
「以前、商売でつき合ったことがある。で? そのビリーがどうした」
あたしは、簡単にわけを話す。
ビリーにシンシアというニックネームの恋人《こいびと》がいたこと。
ある日、ビリーのギターの弦《げん》が切れた。切れた弦が刺《さ》さって、シンシアの左眼が失明したこと。
その事故に苦しんでるビリーのそばから離《はな》れるため、シンシアがホノルルから姿を消したこと。ニューヨークから、ビリーあてに、1枚の|葉 書《ポスト・カード》がきたこと。
あたしは、話し終わった。
「で、このクルマの持ち主が、そのシンシアかもしれないと?」
あたしは、うなずいた。
「なんの確信もないんだけど、ただの直感よ……」
「女の直感ってやつは、へたなマシンガンより怖《こわ》いことがあるからね」
J・Rはいった。電話のベルが鳴った。J・Rが受話器をとる。メモにペンを走らせる。
「クルマはレンタカーだ」
「レンタカー……」
「借り主は、シャリー・フォン。20歳《さい》。免許《ライセンス》はハワイ州の発行。レンタル料金《フイー》は、3週間分|前払《まえばら》い済み。いまわかるのは、ここまでだね」
「……ありがとう」
あたしは、軽くため息をついた。
「本人に直接きいてみたらどうだ」
とJ・R。
「それができるぐらいならね……」
あたしは、つぶやいた。デスクの上のテレビを、ぼんやりと見た。
秘書らしい女の影《かげ》。ブローチ、ヘアピン、ブラジャーのホックなんかの影が映っていた。
「人の心の中が映るX線|装置《そうち》があればいいのにね……」
♪
「先にいってるからな、ミッキー」
とチャック。
「これが終わったら、自転車でいくから」
あたしは、ドラムスの手入れをしながらいった。
土曜日。午後。バンドのメンバーと、アラ・モアナ公園でバーベキューをやることになっていた。
みんなは、肉や野菜を持ってクルマに乗り込《こ》んでいった。それを見とどけると、あたしは店の3階へ上がった。
バンドのメンバーや従業員は、店の2階と3階に住んでいる。
ほかの連中とちがって、ビリーはダウンタウンに家がある。けど、ふだんはここに寝泊《ねと》まりしていた。
ビリーの部屋のドアを、あたしはそっと開けた。錠《じよう》はかかっていない。
えらく散らかっている。
ジーンズが、脱《ぬ》いだ形のままベッドに放ってある。中にはパンツが入っていた。
壁《かべ》には、ヌンチャクとエキスパンダーが、かけてある。
テーブルには〈男子漢〉ってタイトルの中国語のメンズ・マガジン。ヌード写真のページが開いてあった。
クロゼットを開ける。使い古したスーツケースがあった。開けてみる。譜面《スコアー》がバサッと入っていた。
スーツケースのポケットをのぞく。スナップ写真が何枚か入っている。
ビリーが少年時代のもの。家族と写ってるもの。ポケットの一番|奥《おく》。1枚の葉書が入っていた。
手にとってみる。
あたしが捜《さが》していたものだ。
絵葉書《ポスト・カード》。ニューヨークのセントラル・パークの雪景色だ。
少し左に傾《かたむ》いた文字。青いインク。〈この街で元気にやっています。心配しないでください〉
そして、小さく、〈Cynthia《シンシア》〉のサイン……。
「ちょっと借りるわね」
あたしは、つぶやいた。葉書を持って部屋を出る。
♪
「あら、ミッキー」
とシャリー。部屋のドアを開けていった。
「これ、ありがとう」
あたしは、洗濯《せんたく》してたたんだTシャツとショート・パンツをさし出した。
この前、シャリーに借りたものだ。シャリーは、それをうけとる。
「入って。何か飲んでいきなさいよ」
あたしは、うなずいた。部屋に入る。
「冷蔵庫にビールがあるわ。勝手にやってて」
とシャリー。Tシャツとショート・パンツを片づけに、ベッド・ルームに入っていった。
あたしは、部屋を見回した。何か、シャリーの書いたものを捜す……。
あった。
キッチンのすみ。オーブンのわきに、メモ紙がマグネットでとめてある。薄《うす》いブルーのメモ紙に走り書き。買い物のリストらしい。
あたしは、ポケットから葉書を出す。文字を比べる。
左に傾《かたむ》いた、丸っこい文字。どうやら、同じ筆跡《ひつせき》らしい……。そのとき、
「満足した? 探偵《たんてい》さん」
という声。ふり向く。シャリー、いや、シンシアが立っていた。
♪
「バレるとは思ってたけどね」
とシンシア。苦笑い。
「よかったら、わけを話してくれない?」
あたしは、いった。シンシアは、うなずく。
「スーパーで買い物しながらでいいでしょ?」
メモ紙をオーブンのわきからはがす。
♪
「兄貴の結婚式《けつこんしき》があるんで、ニューヨークから戻《もど》ってきたのよ」
とシンシア。買い物のカートを押《お》しながらいった。
〈FOOD《フード》 LAND《ランド》〉に、あたしたちは入っていく。
「ある夜、ラジオを聴《き》いて驚《おどろ》いたわ」
とシンシア。
「ラジオ?」
「そう。KJKJっていう局よ」
「あ……」
ジニーの海賊《かいぞく》放送局だ。
「ふいに、ビリーのギターがラジオから流れてきたんだもの。驚くわよ」
とシンシア。パパイヤをカートに入れる。
「ライヴ・ハウスの名前も、ラジオでいってたでしょ?」
シンシアは、うなずく。玉ネギを選びはじめる。
「店に聴《き》きにこようとは、思った?」
「……5回か6回、〈ホノルル・コロシアム〉の前まではいったわ」
シンシアは、玉ネギを持ったままつぶやいた。
「でも……結局、入れなかった……」
カートに入れかけた玉ネギの1個を、棚《たな》に戻した。
「ビリーに会うのが怖《こわ》い?」
と、あたし。シンシアは、しばらく無言。
「……いま、ビリーに会ったら……閉じかけてた彼《かれ》の傷口を開くことになるかもしれない。また朝から酒びたりの生活に追い返すことになりかねないもの」
「…………」
「それだけは、できないわ」
とシンシア。きっぱりと、いった。
「じゃ、結局、〈ホノルル・コロシアム〉にはこなかったの……」
「最後に前までいったとき、あなたとビリーが話しながら出てくるのが見えたわ」
「…………」
「ビリーは店の中に戻《もど》って、あなたはクルマに乗って走り出した。それで、あたしは追いかけていったわ」
「そうか……」
あの、フィリピーノたちに痛めつけられた日か……。
「どこかで、ごく自然にあなたと話して、ビリーの様子をきけたらと思ってね。まさか、あんなことになるとは思わなかったけど」
シンシアは、笑いながらハインツのケチャップを棚からとった。
「それで、謎《なぞ》がとけたわ」
と、あたし。
「謎?」
「そう。あのカルマンギアを、どこかで見たような気がしてたの。そういえば、バックミラーの中と、とちゅうで寄ったガス・ステーションだったのね」
「そういうこと。尾行《びこう》するつもりじゃなかったんだけどね」
「でも、おかげで助かったわ。あそこでシンシアがきてくれなければ、あたしはこうなってたもの」
羽をむしられて並んでる丸ごとの七面鳥《ターキー》を、あたしは指さした。
「でも、ミッキー」
「何?」
「なぜ、私のこと、感づいたの?」
「あの、砂浜《すなはま》でフィリピーノたちとやり合ったときよ」
「あのとき?」
「そう。最後の1人が、シンシアの左からかかってきた。あれだけカンフーができるのに、あのときは危なかった」
「…………」
「もしかして、左の眼《め》が不自由なんじゃないかって、後になって思ったの。それがヒントよ」
「そうだったの……」
シンシアは、微笑《わら》いながら豚肉《ぶたにく》をカートに入れた。
「ビリーの演奏を、聴《き》きたい?」
あたしは、シンシアにきいた。
「そりゃ」
とシンシア。
「無理だとわかっててもね……」
マヨネーズの棚《たな》をながめて、つぶやいた。
♪
「そうだ!」
あたしは、いった。思わず声が大きくなっていた。
「どうしたのよ、ミッキー。驚《おどろ》くじゃない」
とシンシア。アーティチョークを選びながらふり向いた。
「ハロウィンよ」
スーパーの店内に飾《かざ》られてるカボチャのお面を指さして、あたしは、いった。
今年も、あと3日でハロウィンだ。
「それがどうしたの?」
とシンシア。
「ハロウィンの夜は、うちの店でも仮装《かそう》してパーティーをやるわ。そのときにくればいいのよ」
「くればって……」
「仮装しちゃえば、シンシアだってビリーにはわからないわ」
「そうか」
「ビリーに知られずに、演奏を聴けるわ」
「その手があったわね……」
♪
「似合うわよ」
シンシアがいった。あたしに、帽子《ぼうし》をかぶせてくれる。
10月31日の金曜日。ハロウィンの日。
シンシアの部屋。あたしとシンシアは、鏡の前でコスチュームをつけていた。
ハロウィンの日は、大人《おとな》も子供も、思い思いの扮装《ふんそう》をするのだ。
シンシアは、快傑《かいけつ》ゾロ。黒いシャツとズボン。マントと帽子も黒。おまけに、黒いマスクを眼にかける。
「これなら、誰《だれ》だかわからないでしょうね」
鏡を見て、シンシアがいった。
あたしの扮装は、ピーターパンだ。シンシアが、衣装《いしよう》を借りてきてくれた。あたしは、ポニー・テールの髪《かみ》を上げる。帽子の中に押《お》し込《こ》む。帽子は、鳥の羽根のついたやつだ。
「かわいいピーターパンね」
とシンシア。
「少しメイクもしたら」
と化粧《けしよう》道具を持ってくる。口紅を、あたしに塗《ぬ》ってくれる。
「ついでに眼もね」
シンシアは、マスカラをとり出した。
「つけ方わかる?」
あたしは、首を横に振《ふ》った。シンシアが、やってくれる。
「どうしたの、ミッキー。黙《だま》り込んじゃって」
「……思い出してたの」
「何を?」
「……小さかった頃《ころ》、ハロウィンが怖《こわ》かったわ」
「おバケの仮装した人たちが怖かったの?」
「ちがうの」
「じゃ、何が?」
ハロウィンの日。子供たちは仮装して、近所の家を回る。そして、キャンディをもらうのだ。みんな、袋《ふくろ》いっぱいのキャンディをかかえて家に帰ってくる。
「でも……あたしはダメだったの」
「ダメって?」
「あんまり、キャンディが集まらなかったの」
「どうして?」
「日系人だったから」
「…………」
白人の子にならドサッとくれるキャンディも、あたしには、ほんの少し。
「それでも、もらえればいい方よ」
ドアを開けてくれない家も多かった。
いまでも、その情景は思い出すことができる。
ハロウィンのたそがれ。インディアンか何かの簡単な仮装をした日系人の少女が、住宅地の道を歩いている。
手に持った大きなビニール袋。
「親が持たせてくれる袋は、大きくて……」
その袋の底に、少しだけのキャンディ。
「家に帰らずに、ずっと歩いてたわ」
「どうして?」
「だって、娘《むすめ》のそんな姿を見たら、日系人の母親が悲しむでしょう」
「…………」
「だから、日が暮《く》れてから家に帰るの。〈キャンディは好きじゃないから、近所の子にあげてきたわ〉っていってね」
絶対に嘘《うそ》をつかない子だった。けど、ハロウィンの日だけは、別だった。
いま思い出しても胸がヒリヒリする。ツンと、こみ上げてくるものがある。
あたしは、眼をしばたいた。
「まばたきしちゃダメよ」
マスカラをつけてくれてるシンシアがいった。そういうシンシアの目尻《めじり》も、少しだけ濡《ぬ》れていた。
♪
扮装《ふんそう》が、でき上がった。あたしは、スティックをベルトの背中に刺す。万が一の用心だ。
シンシアと、表へ出る。夜の通りは、にぎやかだった。仮装《かそう》した人間たちであふれていた。
あたしたちは〈ホノルル・コロシアム〉のあるカパフル|通り《アベニユー》に向かって、クヒオを歩きはじめた。
フランケンシュタインの仮装をした人とすれちがう。
スヌーピーのぬいぐるみをかぶった人が、通りを渡《わた》っていく。
ドラキュラが、ハンバーガーをかじっていた。
サムライの扮装をした白人が、テイクアウトのピザを買っている。
ピザ屋の女店員も、芸者の扮装をしていた。
アラブ人の扮装をした男が、ニセのお札《さつ》をバラまいていた。
カウボーイと騎兵隊《きへいたい》が、決闘《けつとう》のマネをしていた。
ピーターパンのあたしと快傑《かいけつ》ゾロのシンシアは、肩《かた》を並べて歩いていく。
向こうから、白雪姫《しらゆきひめ》のかっこうをした女の子が歩いてくる。
あたしに近づいてくると、頬《ほお》にキスをした。童話の主人公同士ってことだろうか……。
「ミッキー、男の子に見られたんじゃない」
とシンシア。
「まさか」
と、あたしは口をとがらせた。でも、本当にそうかもしれない。
今度はスパイダーマンのマスクをかぶったのがやってくる。
ピーターパンのあたしを見ると、スパイダーマンは、オモチャの短剣《たんけん》を抜《ぬ》こうとした。
どうして助かったのか、いまでもよくわからない。
一瞬《いつしゆん》、スパイダーマンのマスクの下から出っ歯が見えた。それがなかったら、やられていたろう。
あたしは、反射的に短剣をかわしていた!
頭の上。
ビュッと風を切る音!
ピーターパンの帽子《ぼうし》。そこについてる羽根が、切られて散った!
短剣は、オモチャじゃなかった!
スパイダーマンは、短剣をかまえなおす。あたしも、身がまえた。
通り過ぎる人たちは、あたしたちのことを決闘ごっこだと思っているらしい。
出っ歯の間から、シュッと息を吐《は》く音。
短剣が横に払《はら》われる!
あたしは沈《しず》み込む。かわす。
つづけざまに、短剣が突《つ》き出された!
あたしは、右手で背中のスティックを引き抜いていた。
ハイハットを叩《たた》くフォーム!
相手の手首に叩きおろした!
ピシッという手ごたえ。
短剣が、道路に落ちる。
左のスティックも抜いた。
スパイダーマンの首筋を、ビシリと横にひっぱたく!
「グッ」
こもったうめき声。
相手は、ゆっくりとくずれる。倒《たお》れる前に抱きとめる。
シンシアと2人で、ズルズルと引きずっていく。ひと気のないわき道に、気絶したやつを引きずっていく。スパイダーマンのマスクをひっぱがす。
「やっぱり……」
この前、あたしをジープで引きずった出っ歯のフィリピーノだった。
「危ないところだったわね」
とシンシア。
「こんなことなら、顔のかくれる仮装にするんだったわ」
あたしは、いった。でも、いまさら、しょうがない。
スパイダーマンを、道ばたのゴミ箱《ばこ》に頭から放り込《こ》む。
ゴミ箱から突き出してる両足はほっといて、早足で歩き出す。
♪
アラ・ワイ|通り《ブルバード》に出た。
アラ・ワイ運河《カナル》沿いのヤシ並木《なみき》を歩いていく。さすがに、人は少ない。
向こうから、人影《ひとかげ》。3つ……4つ……5つ……6つ……。こっちに歩いてくる。
音楽がきこえる。M《マイケル》・ジャクソンの〈スリラー〉だ。
男たちが6人。よく黒人が着る、派手なシャーク・スキンのスーツ。
みんな、グロテスクな死霊《ゾンビ》のゴムマスクを、すっぽりと頭にかぶってる。
1人が、大きなラジカセを肩《かた》にかついでいる。音楽は、そこから流れている。
全員、リズムをとりながら歩いてくる。
M・ジャクソンかぶれの黒人たちに見せかけてるつもりなんだろう。
けど、黒人にしちゃ脚《あし》が短かった。おまけに、リズム感がひどく悪かった。
6人は、近づいてくる。
4メートル……3メートル……2メートル……1メートル……。
すれちがいざま、1人がナイフで切りかかってきても、あたしは驚《おどろ》かなかった。
もう、背中のスティックを引き抜《ぬ》いていた。
ナイフをかわす!
同時に、スティックで相手の手を叩《たた》き上げていた。
ナイフが、宙に飛ぶ!
月明かりに、キラキラと光る。運河の水に落ちて消えた。
2人目! ブラック・ジャックで殴《なぐ》りかかってきた!
きわどく、かわす!
あたしは、相手のゴムマスクに手をかける。グイッと回転させる。
眼《め》の穴が後ろに回る。やつは何も見えなくなって、一瞬《いつしゆん》、うろたえる。
その腹に回し蹴《げ》り!
入った! 相手は道路に転がる。
3人目が、ナイフをふり回してきた!
かわす!
つづけざまにナイフを払《はら》ってくる!
あたしは、スティックを口にくわえる。
ジャンプ!
駐車《ちゆうしや》してるTOYOTAの屋根に跳《と》び上がる。
もう1度!
あたしの足首めがけて、ナイフを横に払ってきた!
あたしは、跳ぶ! 足の下を、ナイフの光が走り過ぎる!
空中で、スティックを握《にぎ》る。
跳びおりざま、相手の腕《うで》に叩きおろす!
「ヒッ」
という悲鳴。
相手は、腕を押《お》さえてうずくまる。
あたしは、ふり向いた。
シンシアの足もとに、2人、倒《たお》れていた。
残るは1人。大柄《おおがら》なやつだ。
ゴムマスクは不利だと気づいたのか、やつはマスクを頭からはずした。
出っぱった頬骨《ほおぼね》。薄《うす》い眉《まゆ》。ナイフで切り裂《さ》いたような細い眼。頬にある大きなアザ。
マルコス一派の拷問屋《ごうもんや》〈赤アザのフェリーペ〉だ。
死霊《ゾンビ》のゴムマスクより、よほど不気味な顔だった。
「この小娘《こむすめ》が……」
とフェリーペ。サメみたいな眼で、あたしをニラみつけた。
やつの右手が、もう動いていた。
上着の胸へ滑《すべ》り込む!
あたしは、地面を蹴《け》った!
飛び込《こ》み前転!
やつの足もとに転がり込む!
スティックで、やつの股間《こかん》を叩《たた》き上げていた。
睾丸《こうがん》を叩きつぶした手ごたえ。
「グェッ!」
やつの動きが、凍《こお》りついた。
1秒……2秒……3秒……4秒……5秒……。
上着の胸に入ってるやつの右手から、拳銃《けんじゆう》が落ちてきた。
あたしは、よける。
顔のすぐわきに乾《かわ》いた音。
道路に落ちたのは、消音器をつけたワルサーPPKだった。
あたしは、立ち上がる。
フェリーペの細い眼は、白く裏返っている。口は半開き。
くずれかかるやつの体を、思いきり蹴り飛ばす。
やつは、もんどりうって、運河に落ちる。
重い水音。
暗い水面で、白い水しぶきが咲《さ》いて消えた。
「忘れものよ」
あたしは、死霊《ゾンビ》のゴムマスクを運河に放り投げた。
♪
「待ってたぜ、ミッキー」
パーティーの人ごみの向こうで、チャックが手を振《ふ》った。
〈ホノルル・コロシアム〉は、仮装《かそう》の若い連中で一杯《いつぱい》だった。
ステージの上。メンバーがチューニングをはじめている。みんなも仮装していた。
リカルドは、闘牛士《とうぎゆうし》。アキラは日本の殿様《とのさま》。
ビリーは、日の丸のハチマキをしてカラテの衣装《いしよう》を着てる。カラテ・キッドのつもりらしい。チャックは、バスケのユニフォームみたいなものを着てる。
頭のてっぺんを、まっ平らにデップでかためている。
「何よ、その仮装は」
「カール・ルイス」
「ずいぶん、安上がりね」
あたしは笑いながら、ドラム・セットのチューニングをはじめた。客席で、シンシアが見ている。
♪
※[#四分音符、unicode2669](SPAM!)
※[#四分音符、unicode2669](SPAM!)
※[#三連の八分音符](SPAM!)
※[#二分音符](JAAAN……)
あたしは、2枚のシンバルを思いきり叩《たた》いた。
今夜ラストの曲〈ロング・ロング・グッドバイ〉のエンディングだった。
拍手《はくしゆ》。口笛《くちぶえ》。あたしは、深呼吸。ドラム・セットから立ち上がった。ビリーが、ギターを肩《かた》からおろす。
「さあ、飲むぞ!」
と叫《さけ》ぶ。ステージから飛びおりた。
飛びおりたところで、つまずいた。2、3歩、よろける。
近くにいた客の1人が、サッと手をさしのべた。
仮装《かそう》したシンシアだった。
「こりゃ、どうも」
とビリー。一瞬《いつしゆん》、相手を見る。そして、J《ジヤツキー》・チェンによく似た笑顔を投げかけた。
けど、その相手が誰《だれ》なのか、ビリーは気づかない。
誰《だれ》かに肩を叩かれてビリーは、ふり返る。そのまま、人ごみの中へ……。
♪
店の中は、ドンチャン騒《さわ》ぎになっていた。あたしとシンシアは、店を出た。
仮装のまま、カパフル|通り《アベニユー》を歩きはじめる。もう、夜更《よふ》けだ。
宇宙飛行士とバニー・ガールが、ヤシの樹の陰《かげ》でキスをしていた。スーパーマンが、パーキング・メーターにもたれて酔《よ》いつぶれていた。
「いつ、ニューヨークに戻《もど》るの?」
あたしは、きいた。
「あしたの飛行機よ」
とシンシア。
「あした、か……」
あたしは、つぶやいた。
「今度、ビリーと会うのは?」
「彼の心の傷が、完全に治ったときね」
とシンシア。
「それまでは……」
「それまでは?」
シンシアは、何か答えようとした。けれど、言葉をのみ込んだ。
「……とにかく、ビリーをよろしくね」
あたしは、小さく、うなずいた。
信号は赤。あたしは、SALEM《セーラム》をとり出す。自分に1本。シンシアにも1本。
紙マッチをする。シンシアが、黒いマントで風を防ぐ。
1本のマッチで、あたしたちは煙草《たばこ》に火をつけた。
シンシアは、細く長く、煙《けむり》を吐き出した。星空を見上げる。
「ニューヨークは、もうすぐ雪ね……」
と、つぶやいた。信号が〈WALK《ウオーク》〉に変わった。あたしたちは、ゆっくりと道路を渡《わた》りはじめた。
1986年のハロウィンが、終わろうとしていた。
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第3話 パイナップルに罪はない
♪
「どうした、ミッキー」
とJ・R《ジユニア》。テーブルの向こうからきいた。
「どうしたんだ、うわの空で」
「あ……」
あたしは、J・Rの顔に視線を戻《もど》した。
「ちょっと、考えごとをしてたの」
と、いった。
けど、本当は考えごとなんかじゃない。気をとられていたのだ。
J・Rのななめ後ろのテーブルに坐《すわ》ってる男。ジャケットのわきの下が、不自然にふくらんでいた。まるで拳銃《けんじゆう》でも吊《つ》ってあるように……。
♪
金曜日。午後7時。
ホノルルの西、パール・シティにあるレストラン〈|ハリーの魚市場《ハリーズ・フイツシユ・マーケツト》〉。ロブスターで評判の店だ。
あたしとJ・Rは、2人で晩ごはんを食べていた。
〈給料日だから、メシでもおごるよ〉J・Rが、そう電話してきたのだ。
〈給料日? ギャングなのに?〉ここへくるクルマの中で、あたしはきいた。
〈ああ〉とJ・R。
〈おれも、いちおう|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》の社長としての給料を会社からとるのさ〉
ニッと白い歯を見せて、
〈近代経営だからな〉と、いった。
♪
「ミッキーでも、考えごとなんてするんだな」
とJ・R。生ガキをお皿《さら》にとりながらいった。
「失礼ないいぐさね」
あたしは、口をとがらせた。さりげなく、例の男を見た。
J・Rの右ななめ後ろのテーブル。中国系の男が2人。向かい合って坐《すわ》っている。
1人は20代。もう1人は、30代ってところ。2人とも、いい身なりをしていた。
身なりがよくなければ、あたしも、わきの下のふくらみに気づかなかったろう。
こっちを向いてる30代の男。パリッとしたジャケットを着ていた。
仕立てがいいだけに、ほんの少しのふくらみが目についたのだ。
中国人《チヤイニーズ》たちは、低い声でしゃべりながら食事をしていた。
こっちを見ているけはいは、ない。
老酒《ラオチユー》の輸入の相談でもしながら、シュリンプを食べている。そんな平和な風景に見えないこともない。
気のせいだろうか……。ボディ・ガードのナカジマを呼ばなくても、いいだろうか。
ナカジマは、店の中にあるバーにひかえていた。
♪
「ミッキー、プレゼントがあるんだ」
ふいに、J・Rがいった。
「プレゼント?」
「ああ」
J・Rは、小さな箱《はこ》をあたしにさし出した。
「クリスマスにゃ、ちと早いけどね」
きれいに包装《ほうそう》されて、赤いリボンがついていた。あたしは、包装をほどく。
出てきたのは、ネックレスだった。渋《しぶ》い銀のネックレス。
サクランボぐらいの大きさの、銀色のパイナップルがついていた。
「かわいい……」
あたしは、それをながめた。
「嬉《うれ》し泣きしてもいいんだぜ」
とJ・R。
「ほら、覚えてないか。はじめて会ったとき」
「覚えてるわ」
はじめて会ったとき、J・Rはあたしのピアスを22口径でふっ飛ばした。
あれは、パイナップルの形のピアスだった。
「あれのかわり?」
「それもあるし、パイナップル・レーベルのレコード完成祝いでもある」
あたしは、うなずいた。
「ありがとう」
ネックレスを、首にかける。パイナップルが、アロハの胸もとにぶら下がる。
「男の人に、こんなものもらったの、はじめてよ」
いってから、しまったと思った。J・Rは、ニヤニヤ微笑《わら》い。
マズった……いうんじゃなかった。あたしは、うつむく。お皿《さら》の生ガキをフォークで突《つ》つく。
♪
2人の中国人のテーブルに、ロブスターが出てきた。
ウェイターが、白い|前かけ《エプロン》を持ってきた。2人の首に、それをかける。まるで床屋《とこや》だ。ロブスターを出すときの、店のサービスらしい。
2人は、ロブスターを手で食べはじめる。
あたしは、さりげなく、それを見ていた。
白いエプロンで、彼らの胸はかくされている。けど、両手は、熱心にロブスターのカラをむしっている。
考え過ぎだろうか……。
「こっちも、ロブスターを持ってきてもらうか」
J・Rが、いった。ウェイターに、手で合図する。ウェイターが、うなずいた。
J・Rは、銀のバケツから白ワインを出す。ワインは、ほとんど空だ。
「もう1本もらうか」
とJ・R。残りをあたしのグラスに注《つ》ぐ。
そのとき、中国人の1人が、ロブスターを食べる手をとめた。
右手を、エプロンの下に入れた。注意していなければ、煙草《たばこ》でもポケットから出すように見えただろう。
こっちを向いてるJ・Rは、まるで気づかない。
エプロンの下で、男の手が動く。はじめてJ・Rを見た。エプロンの前が、ゴツッと出っぱる。
出っぱりは、J・Rの背中を向いている。その瞬間《しゆんかん》! あたしは、イスを蹴《け》った。
「危い!」
J・Rの肩《かた》を、思いきり突き飛ばした。
銃声《じゆうせい》!
何かの割れる音!
あたしの右手はもう、背中のスティックに! ジーンズのヒップ・ポケットから引き抜《ぬ》く!
中国人が、立ち上がる。エプロンをパッとめくった。
右手の拳銃《リボルバー》!
J・Rを狙《ねら》うか、あたしを狙うか。銃口が迷った。それが、分かれ目だった。
あたしは、やつの足もとへ飛び込《こ》む!
手首を、スティックで叩《たた》き上げた!
ピシリ!
拳銃が、手からはなれる。宙にふっ飛ぶ。
もう1人の中国人も、イスを蹴る。拳銃を抜く。
けど、こっちはエプロンが逆にじゃまをした。拳銃をかまえる動作が、もたついた。
J・Rが、ワインのビンをつかんでいた。
空ビンの首《ネツク》を握《にぎ》る。横に払《はら》う!
中国人の顔に叩《たた》きつけた。
相手は、横にふっ飛ぶ。床《ゆか》に転がる。
あたしは、立ち上がる。
はじめに拳銃を飛ばされた中国人が、やけっぱちでかかってきた。
カンフーの中段前蹴り!
イタリー製らしい靴先《くつさき》が、あたしの胸もとへ飛んできた。
左へかわす!
トップ・シンバルを思いきり叩くフォーム。
足首にスティックを叩きつけた!
ビシッ! いい音がした。相手は、もんどりうって床に転がる。
♪
「ケガはないですか、J・R」
と、ボディガードのナカジマ。中国人の1人を床にねじふせていった。
顔をビンで殴《なぐ》られたもう1人は、鼻血を出して気絶していた。
「しかし、考えたなあ、エプロンの下から銃《じゆう》を向けるとは」
とJ・R。こげ穴のあいた中国人のエプロンを見て、苦笑。
「ロブスターを食べるのも命がけね」
あたしは、いった。
「血が出てるぜ、ミッキー」
とJ・R。あたしは、うなずいた。
肩口《かたぐち》だ。J・Rを狙《ねら》った弾《たま》が、かすったらしい。アロハのソデに、血がにじみはじめていた。
「たいしたことないわ」
あたしは、いった。ズキズキと熱くなりはじめていたけど、平気な顔をした。
「とにかく手当てしなくちゃな」
J・Rがいいかけたとき、警官がドヤドヤと入ってきた。
♪
「痛むか?」
J・Rが、きいた。
「だいぶ良くなったわ」
あたしは、白い歯を見せる。J・Rのリムジンに乗り込む。
病院での手当てが終わったところだ。
止血剤《しけつざい》をつけたり、包帯を巻いたりされながら、刑事《けいじ》の質問に答えた。
廊下《ろうか》では、J・Rも話をきかれているだろう。
連中がプロの|殺し屋《ヒツトマン》だったのは、一目瞭然《いちもくりようぜん》だった。
レストランには、目撃者《もくげきしや》もたくさんいた。とりあえずの事情|聴取《ちようしゆ》は、簡単に終わった。包帯を巻き終わったと同時に、あたしは解放された。
「さて、命の恩人にどんな礼をするかな」
走り出したリムジンの座席で、J・Rがいった。
「これをくれたばかりじゃない」
胸に下がった銀のパイナップルをつまんで、あたしはいった。
「それより、ロブスターを食べそこなったし、運動もしたし、お腹《なか》がすいたわ」
「それもそうだな」
とJ・R。運転席のナカジマに、別の店の名前をいった。ナカジマの大きな頭がうなずく。
「ボディ・ガードの人数をふやしたら? J・R」
「ああ。目立つのをさけて、わざとナカジマ1人にしといたんだが」
J・Rは、腕組《うでぐ》み。
「こうキナ臭《くさ》くなってきたんじゃ、考えた方がいいらしいな」
「でも……誰《だれ》が、あの殺し屋たちをさし向けたの?」
「背後関係はこれから調べるが、たぶん、香港《ホンコン》方面だろう」
「香港……」
「そうだ。香港は、あと11年で中国に返還《へんかん》されることになってる」
「そうだったわね……」
中国になったんじゃ、
「シンジケートのやつらも、生きていけないだろうな」
「ってことは?」
「用意のいいやつらのことだ。シンガポールやこのホノルルに、もう続々と進出しはじめてるのさ」
「そうか……」
「やつらだってチョプ・スイ屋をやりにホノルルにきたわけじゃない。|S・C《シヨツピング・センター》〈ダーク・サイド〉の仕事をやるのにじゃまなものは、消しておきたいだろうな」
なるほど。で、ジャパニーズ・マフィアの親玉であるJ・Rを狙《ねら》った……。
「まず、そう見て間違《まちが》いないだろう」
とJ・R。
「フィリピーノの連中が少し静かになったと思ったら、つぎはチャイナか……」
腕組みしたまま、いった。きょうのJ・Rは、渋《しぶ》い麻《あさ》のスーツを着ていた。
「一番いいスーツを着てきたのさ。デートだからな」
とJ・R。
「穴を開けられなくてよかったわね」
J・Rは、苦笑。うなずいた。目的のレストランが近づいてきた。
「ま、生きてるうちに、せいぜいうまいものを食っておこう」
J・Rが、つぶやいた。
♪
1週間後。土曜日の午後。
あたしは、アラ・モアナ公園にいた。ジニーのサンドイッチ屋を手伝っていた。
ヤシの樹の下に、簡単な台。そこに、山盛《やまも》りの手作りサンドイッチ。
ヤシの幹にうちつけてある、ベニヤ板の看板。
〈JINNY'S〉〈SANDWICHES〉〈2$45¢〉と、書いてある。
週末だから、ピクニックしてる人も多い。サンドイッチは、順調に売れていた。
「これなら、来年はOKね」
あたしは、ジニーにいった。ジニーは、来年、インターミディエイト、つまり中学校に進む。そのためのお金を、サンドイッチ屋でためているって話だった。
「きょうは、もう70ドルか」
売り上げを数えて、ジニーがいった。
「あ、おつり銭がなくなっちゃったわね」
あたしは、いった。
「両替《りようが》えしてくるわ」
自転車にまたがる。
♪
近くのアラ・モアナ・|S・C《シヨツピング・センター》でドル札《さつ》を硬貨《コイン》に変える。公園に戻《もど》った。
店に、ジニーの姿が見えない。空き家になっていた。どこいったんだろう……。あたしは見回す。
声がきこえた。短い、悲鳴みたいな声だった。公衆トイレの方らしい。
あたしは、そっちに歩いていく。
また悲鳴。今度は、はっきりときこえた。小走りになる。
トイレの裏だ。ハイビスカスの茂《しげ》みに囲まれた場所がある。まわりからは、|目かくし《ブラインド》になっている。
あたしは、そっとのぞいた。
ジニーが、倒《たお》れていた。まわりに3人、男の子が立っていた。
3人とも白人。13か14ぐらい。このあたりでよく見る不良|坊主《ぼうず》たちだ。
「よこせよ、その金」
と、不良の1人。ジニーにいった。
「嫌《いや》よ!」
と、倒れてるジニー。売り上げの入ったビニール袋《ぶくろ》をつかんで、
「これだけは、嫌よ!」
と、いった。
「強情なガキだな」
と、不良の1人。ニタリと笑って、
「きょうは暑いから、シャワーでも浴びさせてやろうか」
と、いった。ショート・パンツのチャックをおろす。ムスコを出す。
「そりゃ、いいや」
と、ジニーを囲んだほかの2人。同じようにムスコを出す。
「ほら、ゴールデン・シャワーだ」
と、倒れてるジニーに、オシッコをかけようとした。そのとき、
「オシッコは、ちゃんとトイレでするものよ」
あたしは、ゆっくりと、いった。
♪
連中が、ふり向く。
「げっ……ミッキー……」
と、口を半開き。
「トイレがこんなにそばにあるのに、おぎょうぎが悪いのね」
あたしは、
「バチが当たって、その粗末《そまつ》なムスコが曲がっちゃうわよ」
と、いってやった。
「逃《に》げろ!」
と連中。調子にのってパンツをおろしてた不良が、つんのめる。むき出しのその尻《しり》を、
「うせろ!」
あたしは、思いきり蹴《け》とばしてやった。
♪
「だいじょうぶ?」
あたしはジニーを抱《だ》き起こした。あんまり、だいじょうぶじゃないみたいだ。顔に青アザが3つ。手足に、スリ傷がいくつもある。けど、それ以上のケガはしてないらしい。
「きょうは店じまいにして、帰りましょう」
ジニーが、うなずいた。
♪
「ほら、出てきなさいよ」
マーキュロのビンを持って、あたしはいった。ジニーの家。バス・ルームだ。シャワーを浴びたジニーは、
「恥《は》ずかしいなあ」
と、カーテンで体をかくしてる。
「ほら、女同士だから気にしない、気にしない」
と、バスから引っぱり出す。全身をタオルで拭《ふ》いてやる。あちこちにスリ傷があった。白いタオルに、ポツポツと赤い血がにじむ。その1つ1つに、マーキュロを塗《ぬ》ってやる。
「さっきは、気持ち悪かったわ」
とジニー。
「何が?」
「ほら、あの不良たちの、あれ……」
「あれって? ああ……」
ムスコのことか。
「はじめて見たの? 男の子の」
「ちゃんと見たのはね」
とジニー。
「すごく小さかった頃《ころ》、兄貴のを見たことはあるけどね」
ジニーは、ため息。
「男と寝《ね》るってことは、あんなものが、入ってくるのか。やだなあ……」
と、つぶやいた。
「まだ毛も生えてないのに、そんな心配しなくていいのよ」
あたしは、笑いながらいった。
「ミッキーは、好きな男の子、いるの?」
「さあ、ねえ……」
「じゃ、キスしたことは?」
「うーん……1度だけ」
「どうだった?」
「別に……悪いものじゃないわよ」
「ってことは、やっぱりその相手が好きなんだ」
J・Rの顔を、思い浮《う》かべる。
「さあ……どうなんだろう……」
「ふうん」
とジニー。口をとがらせて、
「でも、16にもなってキスが1度だけなんて、オクテなのね」
と、いった。
「いやなガキね」
あたしは、苦笑い。ジニーの小さいお尻《しり》をペシッと叩《たた》いた。
♪
「今夜、遅《おく》れないでね」
出ていくあたしに、ジニーがいった。
「うん、わかってる」
今夜、店でのステージが終わったら、バンドのメンバー全員でここにくる。
ジニーの海賊放送局KJKJで、夜中の2時から生演奏をすることになっていた。
「1時|頃《ころ》には、くるわ」
あたしは、服を着ているジニーにいった。
♪
夜中の12時半。
ライヴ・ハウス〈ホノルル・コロシアム〉。きょうのラスト・ステージが終わったところ。
「おっ、売れてるじゃないか」
とチャック。ベースを肩《かた》からおろしながら、いった。
売れてるってのは、レコードのことだ。レジのわきに積んである、あたしたちのシングル盤《ばん》が、どんどん減っていく。今月に入って、300枚は売れた。
メジャーなレコード会社から見れば、ちっぽけな数字だろう。けど、
「毎日、売れる枚数がふえていくってのは、気持ちいいな」
とビリー。ステージをおりながらいった。あたしたちは、カウンターに。マネージャーのアントニオが、冷えたビールをポンポンと放る。
「見ろよ」
とアキラ。出入口の方を指さした。リカルドが、美人と話していた。
どうやら、彼女《かのじよ》が買ったレコードにサインをしてあげたらしい。
リカルドは、お得意のスマイルで、
「もし時間があるなら、これから君のハートにもサインをしてあげたいんだけど」
と、誘《さそ》っている。やれやれ……。あたしは、歩いていく。
「お話し中、悪いんだけどね、色男さん」
と、リカルドの肩を叩《たた》いて、
「エイズの治療《ちりよう》にいく時間よ」
と、いった。金髪《きんぱつ》美人は、ビックリした顔。
「それじゃ」
と、帰っていく。
「おいおい、ミッキー」
とリカルド。
「忘れたの? これから生放送よ」
「あ、そうか」
後ろで、みんなが笑っている。
♪
「ミッキー、バス・タムをもう1度叩いてくれる?」
とジニー。
「オーケイ」
あたしは、バス・タムを1発、DOM! と叩いた。
「了解《りようかい》」
ヘッドホーンを耳にあてて、ジニーがいった。
午前1時過ぎ。ジニーの家。
あたしたちは、楽器と小型のアンプを持ち込《こ》んで、演奏の準備をしていた。
ビリーがギターを、チャックがベースを、チューニングしている。
ジニーは、それを聴《き》きながら、テキパキとマイクをセッティングしていく。
キーボードを軽く弾《ひ》きながら、アキラがジニーの姿を見ている。
そうか……。あたしも、ふと、思い出していた。
あのグアム島の丘《おか》に眠《ねむ》っている、アキラの妹の絵美子《エミー》のことを。同じぐらいの年齢《とし》だった……。
「準備オーケイ」
ジニーが、いった。あたしは、われに返る。時計の針は、2時1分前。
「じゃ、オープニング・テーマから、生演奏でお願い」
とジニー。あたしたちは、うなずく。
ビリーは、ギター・アンプに腰《こし》かけて。チャックは、壁《かべ》にもたれて。リカルドは、PRIMO《プリモ》でノドを湿らせながら、待つ……。
やがて、10秒前。
ジニーが、機材のスイッチをONにした。赤いランプがつく。ジニーは、あたしに、親指を立ててGOの合図。
あたしは、うなずく。スティックを鳴らして、カウントを出す。
カチ!(|1《ワン》)
カチ!(|2《ツー》)
カチ!(|1《ワン》)
カチ!(|2《ツー》)
カチ!(|3《スリー》)
カチ!(|4《フオー》)
音が、厚く、ゆっくりと流れ出す。
B。
B♭。
A。
Dm7。
G7。
リカルドが、唄《うた》いはじめる。
もし君が家を出るなら
朝の5時がいい
そして
少しだけなら泣いてもいいよ
乾《かわ》いた朝の風が
濡《ぬ》れた頬《ほお》を
乾かしてくれるだろう
〈少しだけ、ティア・ドロップス〉が、世界一小さなスタジオに流れていく。
窓の外。ネイビー・ブルーの夜空に、ヤシの葉が揺《ゆ》れていた。
♪
尾行《びこう》されている。ふと、そんな気がした。
午後4時。アラ・モアナの北。ケアウモク|通り《ストリート》。
あたしは、タワー・レコードから出てきたところだった。
さがしていたレコードは、見つからなかった。自転車を押《お》して、通りを歩いていく。
やっぱり……。後ろに、視線を感じる。背中のうぶ毛がさか立つような感触《かんしよく》……。
信号を渡《わた》るとき、チラリとふり返ってみた。別に、怪《あや》しい人影《ひとかげ》は見えない。
あたしは、スタンドで|かき氷《シエイヴ・アイス》を買った。かじりながら、さらに1《ワン》ブロック歩く。
1軒《けん》の店の前で、立ちどまった。ブティックだった。
自転車を、立てかける。ショー・ウインドをのぞき込《こ》む。
服をながめるふり……。ガラスに映ってる背後に神経を集中する。
20秒……30秒……40秒……。人影が、視界に入ってきた。男が2人。ジャケットを着ていた。
この通りは、地元《ローカル》の人間が多い。裸足《はだし》で歩いている人間はいても、ジャケットを着てる人間は珍《めずら》しい。
あたしは、|かき氷《シエイヴ・アイス》を左手に持ちかえる。ショー・ウインドをのぞくふり。
男たちが、ゆっくりと近づいてきた。あたしの背後に、近づいてくる。すぐ後ろにきた。
1人の手が、ジャケットの胸もとに滑《すべ》り込む。
あたしは、さっとふり向く!
持ってた|かき氷《シエイヴ・アイス》を、相手の顔に叩《たた》きつける。男の顔で、赤青黄の氷が砕《くだ》け散る。
もう1人も、あわてて手を胸もとに!
あたしはもう、ヒップ・ポケットのスティックを引き抜《ぬ》いていた。
胸もとに滑り込んだ相手の右手を、ビシリと叩く。2人とも、後ろによろける。
|かき氷《シエイヴ・アイス》をぶつけた方は、道路に尻《しり》もちをついた。
ジャケットの下から、右手が出る。
持ってたのは、38口径じゃない。どうやら、警察手帳らしい。
♪
「公務執行妨害《こうむしつこうぼうがい》で連行してもいいんだぞ」
と、相手はいった。
「どうぞ。勝手にやれば」
あたしは、いった。
「ふうむ、ウワサどおりの勇ましい娘《むすめ》だ」
と相手。ハンカチを出す。顔とシャツの胸もとを拭《ふ》く。
|かき氷《シエイヴ・アイス》の色が、シャツやネクタイに飛び散っていた。
1《ワン》ブロック南へいったところの〈タコ・ベル〉。店のテーブルに、あたしたちは向かい合っていた。もう1人は、店の外。駐《と》めたクルマの中にいる。
「ミッキー、だね」
相手が、わざとらしくいった。
「ひとの名前をきくときは、まず自分から名のるものよ」
あたしは、いった。
「そうか」
と、相手は苦笑い。
「ホノルル市警のクラプトン刑事《けいじ》だ」
と、いった。
「みんなは、ブルドッグと呼ぶがね」
と、つけ加えた。
「わかるわ」
あたしは、いった。確かに、ブルドッグに似ていた。白人。年齢《とし》は、50ぐらいだろう。かなり太っている。頬《ほお》の肉がたるんで、たれている。
「けれど、ひとが私をブルドッグと呼ぶのは、外見のことだけじゃない」
と、ブルドッグ刑事。
「1度くいついたら、死ぬまではなれないからだ」
と、いった。
♪
「本当に、食わないのかね」
と、ブルドッグ。テーブルに、食べものを並べる。
タコス。タコ・サラダ。ブリトー。それに、スプライトのL《ラージ》サイズ。
「おまわりさんにおごられる趣味《しゆみ》はないの」
あたしは、いった。
「そうかい。じゃ、失礼するよ」
とブルドッグ。チキンのタコスに、かじりつく。
「ところで、そろそろ、用件に入ってもいいんじゃない?」
あたしは、いった。
「タコスをごちそうしてくれるために、声をかけたわけ? 用事がないんなら、帰るわ。家庭教師がくる時間なの」
ブルドッグは、タコスを口にほおばって、
「いいだろう。用件に入ろう」
タコスを飲み込むと、
「リョウイチ・ハリー・ジンノっていう日系人の男を知ってるね?」
と、いった。あたしは、うなずく。
「貿易会社の社長ね」
「そして、〈菊《きく》のマフィア〉と呼ばれる日系シンジケートの親玉《トツプ》だ」
「へえ」
あたしは、眼《め》を丸くする。
「そんな有名な人だったの。今度、サインもらわなきゃ」
「トボけるわけか」
やつは、ニッと笑う。
「じゃ、ジニーって娘《むすめ》は、どうだい?」
「…………」
「そう。ジャンクって呼ばれてる逃亡中《とうぼうちゆう》の兄がいる、ハワイアンの女の子だ」
「…………」
そうか……思い出した。この前……ジニーの誕生日《たんじようび》……。
兄のジャンクが姿を見せたときだ。彼を逮捕《たいほ》するために張り込《こ》んでたポリスたちの中に、このブルドッグもいた……。たるんだ頬《ほお》をブルブルとふるわせて部下に叫《さけ》んでいたっけ……。
「あれは、失敗だった。やられたよ」
とブルドッグ。
「だが、やつのことをあきらめたわけじゃない。なんせ、1度くいついたら、はなれない性分《たち》なんでね」
「で?」
「ついにつきとめたよ、ジャンクが潜《もぐ》ってるアジトをね」
「……で?……逮捕したの?」
ブルドッグは、首を横に振《ふ》った。
「まだだ。ふみ込んで手錠《てじよう》をかけようと思えば、いつでもできるがね」
「なぜ……」
「君と、取り引きをしたいからだ」
♪
「取り引き?」
「ああ、そうだ」
とブルドッグ。ブリトーをかじりながら、
「ハリー・ジンノ、つまり俗に|J・R《ジユニア》と呼ばれてる君の友達のことでね」
「J・Rの?」
「うむ」
「どんな?」
「これは確かな情報なんだが、近いうちに、やつが大量の大麻《マリフアナ》を本土《メイン・ランド》に送り出すらしい」
「航空貨物《カーゴ》で?」
「まさか。船に決まってるさ」
「それだけわかってるんなら、いいじゃない」
「だが……一番かんじんな、日時と船に積み込む場所がわからない」
「……で?」
「君に、さぐってほしい。J・Rと親しい君なら、できるだろう」
「…………」
「そのかわり、ジャンクには手を出さない」
ブルドッグは、いった。そうか……。それが、取り引きってことなのか……。
「確かに、盗品屋《とうひんや》のジャンクもぶち込《こ》みたいやつではある。が、何百万ドルっていう大麻《マリフアナ》とじゃ、比べようもない」
とブルドッグ。口の端《はし》に、チリ・ソースがついてる。
「汚い手を使うのね」
あたしは、つぶやいた。
「世の中をきれいにするためだ」
とブルドッグ。
「話は、これだけだ。情報がつかめたら、ここに電話をくれ」
ブルドッグはペンを出す。店のペーパー・ナプキンに電話番号を書いた。
「私か、キャラハンっていう刑事《けいじ》を呼んでくれればいい」
ペーパー・ナプキンを、あたしの前に置く。やつは、立ち上がった。
「ああ、それと、期限は5日間。今週の金曜までだ。それが過ぎたら、ジャンクを逮捕《たいほ》する。いいね」
とブルドッグ。〈タコ・ベル〉を、出ていく。
あたしは、じっと坐《すわ》っていた。胸もとにさがっている銀色のパイナップルに、そっと触《ふ》れてみた。
店の出入口から、夕方の風が入ってくる。
電話番号を書いたペーパー・ナプキンが、フワリと揺れた。
♪
その夜、9時。〈ホノルル・コロシアム〉
あたしは、スネアの※[#三連の八分音符]を、またミスした。
〈おや?〉そんな顔で、マイクを握《にぎ》ったリカルドがふり向いて見た。
考えごとをしていたのだ。なんとか、いい手はないだろうか……。
たとえば、ジニーの海賊《かいぞく》放送を使って、ジャンクに知らせる。
けど、つぎの放送は土曜。まだ6日もある。
しかも、土曜の夜中の2時〜3時と、放送の時間は決まってる。
それ以外の時間に、ジャンクがジニーのKJKJにダイアルを合わせることはありえないだろう。ダメか……。
♪
「おい、アキラ」
チャックが、アキラのヒジを突《つ》ついた。
「どうやら、うちのドラム叩《たた》き、恋《こい》をしてるらしいぜ」
と、いった。ステージの|休 憩《インターミツシヨン》だ。
あたしは、カウンターにヒジをついて坐っていた。前には、口をつけていないビール……。
「どうやら、こりゃ、本物らしいな」
カウンターの中で、アントニオもいった。みんなで、笑った。
「ふん」
あたしは、ソッポを向いた。それどころじゃないってのに……。
RRRRR……。電話が鳴った。アントニオがとる。
「ミッキーにだ」
受話器をさし出した。
「誰《だれ》から?」
「いとしのマフィアからさ」
アントニオは、片眼《かため》をつぶってみせた。あたしは、受話器をとる。J・Rだった。
「ちょっと出てこれないか。いい話があるんだが」
バンドの連中が、きき耳をたててる。
「あと|1《ワン》ステージで終わるわ」
「じゃ、終わったら、店にきてくれ」
「〈桜亭《さくらてい》〉ね」
「ああ。じゃ、後で」
あたしは、受話器を置いた。まわりのみんなが、あたしの顔を見てる。
「ひとの顔で映画でもやってるの?」
あたしは、プイッといった。ビールのグラスをとった。
「はい、おつまみ」
とアントニオ。あたしの前に、お皿《さら》を置いた。お皿には、ピンクの錠剤《じようざい》が山盛《やまも》りだ。
「何よ、これ……」
「避妊薬《ピル》さ」
とアントニオ。
「ピ……」
「だって、デートなんだろう、今夜」
「そりゃ、飲んどいた方がいいな」
わきから、ビリーが口を出す。
「なんせ、ヤクザは実弾射撃《じつだんしやげき》が得意技だからな」
みんな、ゲラゲラと笑う。
「まったく……」
あたしは、錠剤をつかむ。
「なんてやつらなの」
錠剤を、バラバラとアントニオに投げつけた。
「冗談《じようだん》だよ、頭痛の薬だってば」
アントニオが逃《に》げていく。
♪
「よお、ミッキー」
と|J・R《ジユニア》。受話器を耳にあてたまま、いった。
ダウンタウンの〈桜亭〉。J・Rがやってる日本食レストランだ。
店の奥《おく》のV・I・Pルーム。鹿《しか》を描いた大きな日本画を背に、J・Rは坐《すわ》っていた。テーブルには、シャブシャブの鍋《なべ》が出ていた。
J・Rが、電話を切った。
「遅《おそ》い晩ごはんなのね」
あたしは、いった。
「ああ。いま、大きな仕事をひかえてるんで、忙《いそが》しいのさ」
とJ・R。ネクタイはしてるけど、スーツの上着は脱《ぬ》いでいる。シャツも腕《うで》まくり。確かに忙しそうだった。
「傷は、よくなったみたいだな」
この前、撃《う》たれたときのカスリ傷のことだろう。
「とっくに、治ったわ。もう、ドラムを叩《たた》いても平気よ」
「そうそう、ドラムで思い出した。呼んだのは、バンドのことなんだが」
とJ・R。
「君らのレコードを置いてくれる店が見つかりそうなんだ」
「そりゃ、嬉《うれ》しいけど」
あたしがいいかけたとき、また電話が鳴った。後ろにひかえてたナカジマがとった。
「ジュニア、船の連中からですが」
「なんだ」
「時間と場所の最終確認です」
「土曜の明け方4時。ケワロ湾《ベースン》の南|岸壁《がんぺき》だ」
とJ・R。あたしは、ドキッとした。ナカジマが、それを電話の相手に伝える。
「貿易?」
あたしは、きいた。
「ああ。コナ・ゴールドを、ロスに出荷するのさ」
とJ・R。コナ・ゴールドってのは、ハワイ島産の大麻《パカロロ》の銘柄《めいがら》だ。
「ふうん、そんなもの船に積むのに、いちいちいくわけ?」
あたしは、さりげなくきいた。
もしJ・Rが現場にいかないのなら、大麻《パカロロ》を押《お》さえられるだけですむ。
「現場には、いちいちいかないさ、これでも社長だからな」
J・Rは、ニヤリとした。
♪
「どうすればいいの?」
あたしは、十字架《じゆうじか》に向かってつぶやいた。真珠湾《パール・ハーバー》を見おろす丘《おか》の上。パパのお墓だ。
「どっちを選べばいいの?」
ジャンク。そして、J・Rの大麻《パカロロ》。どっちを選べばいいんだろう……。
もちろん、返事はない。午後の陽《ひ》ざしが、十字架の影《かげ》を芝生《しばふ》に落としているだけ。
白いハトが1羽、芝生の上を歩いている。
あたしは、立ち上がる。プルメリアの樹にたてかけた自転車に歩いていく。
またがる。自転車を走らせはじめた。
♪
キィィィッ! タイヤの悲鳴!
あたしは、ハッと、自転車のブレーキを握《にぎ》った。つんのめる!
眼の前に、トラックのバンパー!
ヤバかった。向こうが急ブレーキをかけてくれなければ、ぶつかっているところだ。
トラックの窓ガラスが下がる。
「危いじゃないか!」
ハワイアンのおじさんだった。トラックは、古いTOYOTAだ。
相手が女の子なんで、おじさんも、どなるのをやめる。
「ちゃんと前を見て走らないと」
「ごめん……」
あたしは、いった。おじさんに、手を振《ふ》る。
自転車のサドルに、またがりなおす。カピオラニ|通り《ブルバード》を、走りはじめる。
♪
ジニーの家の前だった。玄関《げんかん》をノックする。返事は、ない。
あたしは、家のわきへ。|裏 庭《バツク・ヤード》に回る。
ジニーは、裏庭にいた。洗濯《せんたく》をしていた。タライにしゃがみ込んで、手で洗っていた。
「ああ、ミッキー」
と、顔を上げて微笑《わら》った。
見れば、洗濯機が家の裏口に置いてある。錆《さび》だらけでボロっちいけど、まだ動くみたいだった。
「使わないの? あれ」
洗濯機をさして、あたしはいった。
「Tシャツだからね」
とジニー。タライの中を見て、いった。あたしは、うなずいた。
ハワイで、あたしたちが買うTシャツは、素材が悪い。日本あたりからの輸入ものに比べれば安いけど、弱い。
洗濯機で洗っていると、すぐにのびたり破れたりしてしまう。
だから、あまり裕福《ゆうふく》じゃないハワイの女の子は、みんな手で洗濯するのがうまい。
ジニーは、口笛でカラパナの曲を吹きながら、手を動かしていた。
シャボン玉が2つ3つ、午後の陽《ひ》ざしに光りながら、裏庭を漂《ただよ》っていく。
干すのを、あたしも手伝う。ヤシの樹。|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》。その2本の樹に、ロープをはる。そこに、Tシャツを干していく。
「あれ……これ、どうしたの?」
あたしは、いった。ジニーのにしては、やたら大きなTシャツだった。
「ジャンクのよ」
ジニーが、いった。
「ジャンクの?……」
「そう。たまには洗わないとカビがはえるからね」
とジニー。
「いつ帰ってきてもいいように、ときどきは洗濯《せんたく》してるのよ」
と、いった。
Tシャツを干し終わる。
ジニーの小さいTシャツが7枚。端《はし》っこに、大きなTシャツが1枚。胸に〈OAHU《オアフ》〉とだけプリントされてる赤いTシャツだった。
あたしは、SALEM《セーラム》をとり出す。くわえる。火をつけた。午後の陽ざしが、まぶしかった。眼を細める。唇《くちびる》を、軽くかむ。
ヤシの葉先が、風に揺《ゆ》れている。|虹の雨の木《レインボー・シヤワー・ツリー》の花が、風に揺れている。
洗濯バサミでとめられた8枚のTシャツが、風に揺れている……。
♪
ジニーの家を出る。自転車で走り出す。
公衆電話の前で、とまった。卵型のケースに入った電話機。そこに歩いていく。
深呼吸を1つ、2つ……。
ポケットから、ペーパー・ナプキンをとり出す。|25セント玉《クオーター》も1個出す。
受話器をとる。番号を回す。呼出音が2回。
「はい、クラプトン刑事《けいじ》」
ブルドッグの声だった。
「ミッキーよ。……わかったわ」
「メモする。待ってくれ」
2秒後、
「よし、いってくれ」
「土曜の明け方4時。場所は、ケワロ湾《ベースン》の南|岸壁《がんぺき》」
「まちがいないな」
あたしは無言でうなずいた。
「そのかわり、ジャンクには手を出さないでしょうね」
「約束《やくそく》しよう」
あたしは、受話器を戻《もど》した。
また深呼吸。自転車のハンドルを握《にぎ》って、手のひらが汗《あせ》ばんでるのに気づいた。
♪
金曜の夜中。っていうより、土曜の午前2時。
J・Rの大麻《パカロロ》が船積みされるまで、あと2時間。
あたしは、〈ホノルル・コロシアム〉から出てきた。
歩道に置いてあった自転車に手をかけた。とたん、
「その自転車は、君のかい?」
という声。ふり返る。
男が2人。1人は、見覚えがあった。この前、ブルドッグといっしょにいた白人の刑事だ。
こっちは、やたら細い。胡瓜《キユーカンバ》みたいな顔をしていた。
「この自転車は、あたしのだけど」
「そうか」
とキューカンバ。
「じゃ、ちょっとつき合ってもらおうか」
「どうして」
「駐車違反《ちゆうしやいはん》さ」
「駐車……違反?」
「ほら、よく見てみろ。消火栓《しようかせん》の前じゃないか」
「だって……」
といいかけたあたしの両|腕《うで》を、2人で、ぐっとつかむ。そばにとめてあったパトカーに、押《お》し込《こ》まれた。パトカーは、走り出す。
「そうか……わかったわ……」
わたしは、いった。
「最後のドタン場で、あたしが裏切って、|J・R《ジユニア》に連絡《れんらく》したりしないように……」
「そういうことだ。感化院《ガールズ・ホーム》出にしては、頭がいいな」
とキューカンバ。
「2時間たったら、自由にしてやるよ。ま、それまでは、われわれと市内見物でもしてるんだね」
キューカンバは、へラヘラと笑った。
「よけいな心配ね」
あたしは、いった。
「ジャンクを逮捕《たいほ》しなければ、あたしも取り引きの約束《やくそく》は守るわよ」
「ジャンクか……」
とキューカンバ。ニタニタと、笑う。
「何がおかしいのよ」
「いや、ね。ジャンクを逮捕したくても、われわれにはできないのさ」
「……できない? どうして……」
「やつの居場所がわからないからさ」
「だって……」
あたしは、口を半開き。
「じゃ、あのとき……ブルドッグがいったのは……あれは」
「捜査《そうさ》上の方便ってやつさ」
とキューカンバ。
「そんな……」
それじゃ、あれはハッタリ……。
「あたしをダマしたのね……」
「捜査に協力願うためさ」
とキューカンバ。冷ややかにいった。
「ひどい……」
あたしは、茫然《ぼうぜん》とつぶやいた。
「ま、これで、ギャングの大麻《パカロロ》ルートが1つ潰《つぶ》れるんだから、めでたいことだ」
キューカンバは、いった。
「あのブルドッグのやつ……」
あたしは、
「でも……なぜ、そこまでしてJ・Rのことを……」
と、つぶやいた。
「ま、そう悪く思うな。彼《かれ》にも彼なりのわけがあるんだから」
「わけ?」
「ああ……」
とキューカンバ。KENT《ケント》をくわえると、
「5年前のことだが、彼は、かわいがってた若い部下を大麻ルートの捜査中に亡《な》くしたんだ」
「…………」
「以来、シンジケートがらみの捜査になると、やっこさん、ものすごい執念《しゆうねん》を燃やすんだ。その部下を死なせたことが、30年の刑事《けいじ》生活でただ1つの失点だからな」
「でも……」
5年前といえば、まだ、J・Rはシンジケートのボスじゃない。ニューヨークで大学にいっていたはずだ。
「でも、ブルドッグにとっちゃ、シンジケートの人間はみな同じなんだ」
とキューカンバ。
「AHI《アヒ》(マグロ)もAKU《アク》(カツオ)も、みな魚であることに変わりはない」
と、つぶやいた。
♪
鋭《するど》く、カリッという音。パトカーの無線が鳴った。
〈J・Rが、オフィスを出ました。リムジンで、ケワロ湾《ベースン》方向に向かうもよう〉
金属質の声が、そういった。
J・Rが、ケワロ湾に向かう!? 積み込《こ》みの現場にはいかないはずだったのに……。
あたしの体は、こわばっていた。心臓が、アップテンポになる。わきの下に、汗《あせ》が流れはじめる。どうして……J・R……。
「こりゃ、大捕《と》り物になるな」
とキューカンバ。少し上ずった声でいった。
無線が、つぎつぎに指令と応答を流しはじめた。
〈ホノルル市内の全パトカーに告ぐ、全パトカーに告ぐ〉〈ケワロ湾《ベースン》周辺に待機せよ〉
〈狙撃《そげき》隊の出動はどうしますか!?〉〈出動|要請《ようせい》せよ〉
〈沿岸警備隊《コースト・ガード》には!?〉〈市警本部長の指示を待て〉
〈道路|封鎖《ふうさ》の準備にかかれ〉
〈ルート92の封鎖は、パトカー662と697。ワード|通り《アベニユー》の封鎖は、パトカー711と753〉
ちぎれちぎれの応答が、無線から響《ひび》く。どうしたらいいんだ……。あたしは唇《くちびる》をかむ。
♪
「ちょっと、オシッコ」
あたしは、いった。
「オシッコ?」
とキューカンバ。
「ガマンできないのか」
あたしは、首を横に振《ふ》った。
「どっか、トイレのあるところにとめてよ」
と、口をとがらせる。
「とめてくれないと、このシートの上でもらしちゃうから」
「わかったわかった」
とキューカンバ。ちょうど、カピオラニ公園が見えてきた。
「あそこにとめろ」
と、運転してる警官にいう。
♪
「のぞいちゃ、嫌《いや》だからね」
あたしは、いった。
公園の公衆トイレ。WOMENの方に入っていく。入口じゃ、キューカンバが見張りをしている。あたしは、トイレの中を見回した。どこにも、逃《に》げられる穴はない。
しょうがない。あたしは、思いきり、悲鳴を上げた。
「どうした!?」
キューカンバが、飛び込《こ》んでくる。あたしは、出入口のすぐわきにかくれていた。
右足を、スッと出す。飛びこんできたキューカンバ。その足をひっかけた。
やつは、もんどりうってタイルの床《ゆか》に転がる。
「ごくろうさん」
あたしは、トイレを飛び出した。全力で駆《か》け出した。
後ろで、キューカンバの叫《さけ》び声。けど、かまわず全力|疾走《しつそう》。
駆ける! 駆ける! 駆ける! 駆ける! 駆ける! 駆ける! 駆ける! 駆ける!
カピオラニ公園を、駆け抜《ぬ》ける。
公園の端《はし》のテニスコートまで、たどりついた。
しめた! コートの金網に、自転車がたてかけてある。
ドロップ・ハンドルのスポーツ車だった。錠《じよう》はかけてない。
「ちょっと借りるわ」
あたしは、またがる。全力でペダルをこぎはじめる。
♪
ケワロ湾《ベースン》。南|岸壁《がんぺき》。静まり返っていた。
あたしは、フルスピードで走っていく。ずらっと並んでる桟橋《さんばし》。船のマスト。オイルと魚の臭《にお》い……。
いた! 7、8人の男たちが、動いていた。
幅《はば》3メートルぐらいのコンクリートの桟橋。停泊《ていはく》してる漁船みたいな中型船。
作業着の男たちは、木箱のようなものをいくつか動かしている。その中に、白っぽいスーツ姿! J・Rだった。
あたしは、ブレーキ!
「J・R!」
自転車をとびおりる。駆けていく。
「ミッキー!?」
「逃《に》げて! ここは、袋《ふくろ》のネズミよ!」
そういった瞬間《しゆんかん》!
あたりが、昼間みたいに明るくなった。サーチライト。それに、クルマのライトだ。三方から、こっちに向けられていた。
「動かないように」
スピーカーを通した声。
「完全に包囲されている。動かないように」
♪
「おやおや、これはすごい数だな」
とJ・R。あたりを見回して、いった。
まぶしくて、あまりよく見えない。けど、パトカーは10台以上。警官も、30人ぐらいはいるみたいだった。1人、ゆっくりと歩いてきた。ブルドッグだった。
「リョウイチ・ハリー・ジンノだね」
「そうだが」
「大麻取締法違反《たいまとりしまりほういはん》の現行犯で逮捕《たいほ》する」
ブルドッグは、いった。
「そうか……逮捕か……」
とJ・R。肩《かた》をすくめる。
「J・R……」
といいかけたあたしに、
「いいんだよ。何もいわなくて」
とJ・R。
「だが、これで当分は会えないな。お別れに、キスさせてくれ」
と、いった。
「……わかったわ……」
J・Rは、あたしのアゴを少し持ち上げる。
キス……。長いキスだった。唇《くちびる》をはなす。あたしは、ため息をついた。
「おいしかった」
J・Rが、ささやいた。そのとたん、
「クラプトン刑事《けいじ》!」
という、叫び声。若い警官だった。
「なんだ」
「つ……積み荷が!」
「積み荷がどうした!」
「中が、ちがいます!」
「ちがう!?」
「大麻《マリフアナ》じゃなくて、バナナです!」
♪
「なんだと!?」
とブルドッグ。木箱《きばこ》の1つに走り寄る。蓋《ふた》をひっぱがす。手を突《つ》っ込《こ》む。
つかみ出したのは、バナナの房《ふさ》だった。
「どの箱も、中身はバナナでした」
と、部下の警官。ひきつった声でいった。
「おやおや」
とJ・R。
「月夜の晩にバナナを出荷しちゃいかんという法律でもあったかな」
といって、ブルドッグを見た。
「この……小僧《こぞう》が……」
ブルドッグの右手、握《にぎ》り拳《こぶし》がブルブルと震《ふる》えている。頬《ほお》の肉も、ブルブルと震えている。
「お前ら……いつか……絶対にぶち込んでやるからな……」
J・Rとあたしに、そういい捨てた。左手に持ったバナナの房を、岸壁《がんぺき》に叩《たた》きつける。回れ右。部下の警官たちを乱暴にかき分けていく。
♪
「やれやれ」
とJ・R。ブルドッグが投げたバナナの房をひろい上げる。1本、もぎる。皮をむく。
岸壁から、警官隊が引き上げたところだった。
「うまい」
バナナをかじって、J・Rがいった。
「でも……どうして……」
あたしは、つぶやいた。
「これで、予定どおりなのさ」
「予定どおり?」
「ああ。そろそろ、謎《なぞ》ときをしてやってもいいだろう」
J・Rは、駐《と》めてあるリムジンに歩いていく。ドアを開ける。
中には、何十本っていうカセット・テープ。その1本を、J・Rはカー・ステレオに入れた。スイッチ、ON。人の声が流れはじめた。
〈そりゃ、飲んどいた方がいいな〉
という声。きき覚えがある……。ビリーだった。すぐに、
〈なんせ、ヤクザは実弾射撃《じつだんしやげき》が得意技だからな〉
そして、何人かの笑い声。ざわめき……。
〈なんてやつらなの〉あたしの声がした。何か、パラパラいう音。
〈冗談《じようだん》だよ、頭痛の薬だってば〉とアントニオの声。
「これ……」
「そう。〈ホノルル・コロシアム〉の1《ワン》シーンさ」
とJ・R。
「で……でも……どうして……」
あたしは、口をパクパクさせた。そして、
「あ!?」
と、叫《さけ》んだ。胸もとに下がってる、銀色のパイナップルをつかんだ。
「こ……これ……もしかして……」
「そう。もしかしなくても、超《ちよう》高性能ワイヤレス・マイクさ」
J・Rがいった。
♪
「すごいもんだろう。その鎖《チエーン》が、アンテナになってるんだ」
とJ・R。
「技術者《エンジニア》に作らせるのに、5千ドルもかかったしろものだ」
と、いった。
「じゃ、この2週間……あたしは、マイクをつけっぱなしでいたわけ?」
「そういうこと。君の24時間は、すべてきかせてもらったよ」
J・Rは、カセット・テープの山を指さした。
「でも……どうして……」
「まあ、事情を話せば、こうだ」
J・Rは、バナナをかじりながら、
「大量の大麻《パカロロ》をロスに出荷したかったんだが、どうも、ホノルル市警のあの刑事《けいじ》がうるさく、さぐりを入れてきていたんだ」
「…………」
「同時に、やつらが君の周りをかぎ回ってるっていう情報も入った」
「…………」
「やつらが、おれに親しい君を利用して何かしかけてくるのは充分《じゆうぶん》に予想できた。だから、こっちは逆にそれを利用してやろうと思ったわけだ」
「それで……このマイクを……」
「ああ。それで、やつらが打ってくる手が、全部つつ抜《ぬ》けになった。ジャンクまで引っぱり出した汚い取り引きのこともね」
「それじゃ、あたしは、マイクをつけたオトリだったわけね……」
「まあ、そんな顔するなよ」
とJ・R。
「あとは、簡単さ。君に、わざと出荷の日時と場所を教える。君は、迷った末、それをあのブルドッグに知らせる」
「じゃ……あの情報は、デタラメ?」
「日時は正確だが、場所がちがう」
とJ・R。
「市警の連中がこのケワロ湾《ベースン》に集まってたとき、荷物は、あっちのカパラマ港《ハーバー》から安全に悠々《ゆうゆう》と船積みしたよ。すべて作戦どおりだ。いま頃《ごろ》はもう」
J・Rは水平線を指さして、
「はるか沖《おき》だな」
と、いった。
「おかげさまで、仕事は大成功だ」
とJ・R。あたしは、その顔をニラみつける。
「なんて男なの……」
おまけに、またドサクサにまぎれて、ひとにキスをしたりして……。
「おいおい、そんな怖《こわ》い顔するなよ」
と、バナナを頬《ほお》ばったJ・R。後ずさり……。
「人でなし!」
あたしは、J・Rの頬《ほお》を、思いっきり平手打ち!
バシ! J・Rの口から、バナナが飛び出した。
♪
「まあ、そう怒《おこ》るなって」
J・Rがいった。
「ほっといてよ」
あたしは、自転車を押して、岸壁《がんぺき》をずんずん歩いていく。J・Rが、ついてくる。
「君だって、迷ったとはいえ、おれの情報を警察《サツ》に売ったわけだしな」
とJ・R。
「そりゃ……」
それをいわれると、確かにつらい。あたしは、立ちどまった。
「だって……あれは、どうしようもなかったんだもの。ジャンクが……」
「わかってる」
とJ・R。
「だから、仲なおりしようぜ。チャイナタウンのチョプ・スイ屋で朝メシでも食って」
あたしは、ため息と深呼吸を同時にした。
「しょうがない……」
ふくれっ面のまま、つぶやいた。ふと、胸のパイナップルに気づいた。それをはずす。
海に放り投げようとした。けど、思いとどまる。
このパイナップルに罪があるわけじゃない。
それに……たとえなんであっても、生まれてはじめて男からプレゼントされたものなのだ。
あたしは、それをアロハの胸ポケットに落とした。
「しかし……この2週間で、君のことがいろいろわかったよ」
とJ・R。
「いろいろって?」
「たとえば、シャワーを浴びるときはいつも、口笛《くちぶえ》で〈ALL《オール》 MY《マイ》 LOVING《ラヴイング》〉を吹《ふ》くとか」
そうか……何もかも、マイクできかれてたんだ。
「それに……」
「それに?」
「ときどき、夢《ゆめ》の中で泣くとか」
「…………」
あたしは、明けていく海をながめた。
「カゼをひいて、鼻をすすってたのよ、それは」
と、いった。
ひんやりと乾《かわ》いた朝の海風が吹いた。J・Rのネクタイが、フワリと揺《ゆ》れた。
あたしのアロハも、揺れた。胸ポケットで、銀のパイナップルと鎖《チエーン》が、かすかな音をたてた。
あたしは、自転車を押《お》しながら。J・Rは、バナナをかじりながら。ゆっくりと、岸壁《がんぺき》を歩き出す。
ホノルルの空が、淡《あわ》いサーモン・ピンクの朝焼けに染まりはじめていた。
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第4話 神様のミステイク
♪
トントンッ。あたしは、そのメキシカンの背中を叩《たた》いて、
「ちょっと」
と、いった。ゴリラみたいな巨《おお》きな背中が、ふり向いた。
「なんだよ」
ふり向いた顔も、ビゲゴリラだった。
「なんだよ、このガキ」
スゴんだセリフが、チリ・ソース臭《くさ》かった。
♪
夜11時。〈ホノルル・コロシアム〉今夜4回目の|休 憩《インターミツシヨン》だった。
あたしは、演奏を終えてステージをおりた。スティックをヒップ・ポケットに刺《さ》す。カウンターに坐《すわ》った。SALEM《セーラム》をくわえる。火をつける。
「はいよ」
とアントニオ。缶《かん》のPRIMO《プリモ》を、あたしの前に置いた。
「ありがとう」
あたしは、缶ビールを開けようとした。そのとき、
「いいじゃないかよ」
という声。やたら巻き舌。スペイン語なまりの英語だった。
あたしは、ふり返った。店のテーブル。女の客が、1人で坐《すわ》っている。
その両わきに、メキシカンの男が2人。どうやら、しつこくからんでいる。
「いいじゃないかよ。少しぐらい、つき合えよ」
とメキシカン。女の客は、逃《に》げられないでいる。
日系人みたいだった。20代の前半。美人だ。高そうなドレスを着ていた。
身なりのよさからすると、日本からの観光客だろうか。
けど、この店は、まず観光客のくる店じゃない。
「待てよ、おい」
とメキシカンの声。席を立とうとした女の客。メキシカンが、その腕《うで》をつかんだ。
バンドの連中は、外の空気を吸いにいってる。
あたしは、カウンターのスツールから立ち上がった。くわえ煙草《たばこ》。缶ビールを持ったまま、歩いていく。トントンッ。メキシカンの背中を叩《たた》いた。
♪
「これはこれは」
とメキシカン。
「また日本人か」
と、いった。女の客の腕をはなす。あたしをニラみつけると、
「しかも、尻《けつ》の青い小娘《こむすめ》かよ」
巻き舌で、いった。メキシコなまりってだけじゃない。舌が、もつれている。
おまけに、眼《め》がチカチカと底光りしている。どうやら、大麻《パカロロ》をやってるらしい。
「何か用かい」
もう1人のやつが、いった。こいつの眼も、パカロロ光りしている。
「出てってよ」
あたしは、いった。
「出ていけ?」
「そ。迷惑《めいわく》なのよ。出てって」
「本気かよ」
やつは、ニタリと笑った。しゃべるたびに、口の端《はし》にくわえてるツマ楊枝《ようじ》が動く。
「ロバに乗って、国境のあっちに帰ったら」
あたしは、いってやった。
「このガキ……」
相手の眼が、狂暴《きようぼう》に光った。一歩、せまってくる。
あたしも、さりげなく身がまえる。けど、ヒップ・ポケットのスティックを抜《ぬ》くほどのことじゃないだろう。
「ぶっ殺してやる」
毛むくじゃらな腕《うで》が、のびてきた。ひとつぶん、待つ。引きつける。
持ってた缶《かん》ビールのプルトップを、あたしはクイッと起こした。
プシュッ!
白い泡《あわ》が吹《ふ》き出す。あたしにつかみかかった相手の顔を、下から直撃《ちよくげき》!
あらかじめ、缶を振《ふ》っておいたのだ。
「ウプッ」
顔を泡だらけにして、相手はひるむ。ヒゲが、泡でまっ白だ。
「時期おくれのサンタね」
あたしは、いった。
「こいつ!」
とメキシカン。メチャクチャに殴《なぐ》りかかってきた。首をすくめてかわす。
ヒザ蹴《げ》り! 入った! 相手の急所だ。
「ウグッ」
やつは、眼をむく。しゃがみ込《こ》む。
背中で、何かスペイン語の悪態。もう1人が、かかってくる!
あたしは、半歩右へ! かわす!
左腕でヒジ打ち! うまく入った!
後ろからかかってきた相手の鳩尾《みぞおち》に入った。
「フゲッ」
なさけないうめき声。
メキシカンは、腹を押《お》さえる。体を折る。店のフロアにくずれる。
「お昼寝《シエスタ》ね」
あたしは、くわえ煙草《たばこ》のまま、いった。
♪
「ありがとう」
と、日本人の客。きれいな英語でいった。
「どういたしまして」
あたしは、微笑《わら》い返す。
「これでも、いちおう従業員だしね」
といいながら、相手を見た。年齢《とし》は、22か23ぐらい。えらい美人だった。
ゆるくウエイヴをかけた髪《かみ》。カラをむいた茹玉子《ゆでたまご》みたいに白い肌《はだ》。
まっ赤なハイビスカスが、大輪《たいりん》の花を開いた。そんな感じの美人だった。
服は、いかにもディオール。テーブルに置いてある小粋《こいき》なセカンド・バッグはイタリア製っぽい。ピアスは、ダイヤだろう。
とにかく、あたしが触《さわ》ったこともないようなしろものばかりだった。
「演奏、楽しかったわ、ミッキー」
と彼女《かのじよ》。勘定《チエツク》のドル札《さつ》を2、3枚、テーブルに置いた。
「どうして、あたしの名前を?」
立ち上がった彼女に、あたしはきいた。
「|J・R《ジユニア》にきいたのよ」
「J・R?………彼《かれ》の、知り合いなの?」
「婚約者《こんやくしや》よ」
彼女は、微笑《ほほえ》みながらサラリといった。
♪
さすがに、驚《おどろ》いた。思わず、くわえ煙草《たばこ》を落とすところだった。
「婚約者……」
彼女は、うなずいた。
「最近、彼がよく会ってる娘《こ》がいるっていうウワサなんで、心配して見にきたわけ」
と彼女。
「でも、安心したわ」
ニコリと笑った。
「あなたが、かわいらしいお嬢《じよう》さんなんで」
と、いった。
「お嬢さん……」
あたしは、口を半開き、あっけにとられていた。
「それじゃ、またね、ミッキー」
あたしの鼻先を、シャネルらしい香《かお》りがニアミスした。彼女は、店を出ていく。
あたしは、ハッとわれに返った。
「ちょっと!」
追いかけて、店を飛び出す。
彼女は、クルマに乗り込《こ》むところだった。新しいタイプのポルシェだった。
「待ってよ!」
あたしは、駆《か》けていく。けど、クルマのエンジンがかかる。
パワフルなエンジン音が、夜中のカパフル|通り《アベニユー》に響《ひび》いた。ポルシェは、タイヤを鳴らしてスタート。テール・ランプが、あっという間に小さくなっていく。
♪
あたしは、店に戻《もど》った。バンドの連中が、ガヤガヤと話してる。
もちろん、いまの一件をサカナにしてるに決まっている。
「お嬢さんが帰ってきたぜ」
とチャック。
「ほっといてよ」
あたしは、口をとがらせた。
「〈かわいらしいお嬢さん〉のひとこと、ずいぶん効いたみたいだぜ」
とビリー。チャックのヒジを突《つ》つく。連中は、ゲタゲタと笑う。
「それにしても、いい女だったなあ」
とリカルド。
「あのチェリーみたいな赤い唇《くちびる》。グレープフルーツみたいなバスト」
「そして、|西 瓜《ウオーター・メロン》みたいなヒップ」
「かじってみたい」
とリカルド。いまにもヨダレをたらしそうな表情だ。
「おい、ミッキー」
とチャック。
「あの娘《こ》がライバルじゃ、勝負にならないよ。あきらめな」
「あきらめるって?」
「あの、マフィアの若大将さ」
「あのね」
あたしは、チャックに向きなおる。
「いっときますけど、あたしとJ・Rは別に何も」
「いいからいいから」
とチャック。ニタニタと笑っているばかり。
「まったくもう」
あたしは、カウンターに坐《すわ》る。
「ほら」
とカウンターの中のアントニオ。あたしの前に、グラスを置いた。バーボンのオン・ザ・ロックだった。
「何よ、これ」
「何って、やけ酒さ」
「やけ酒?」
「そう。遠慮《えんりよ》なく一気にやれよ」
「ほっといて……」
♪
「痛《いた》ッ……」
あたしは、思わず頭を押《お》さえた。
ゆっくりと、眼を開ける。天井《てんじよう》……自分の部屋の天井だった。
どうやら、ベッドに寝《ね》ているらしい。窓からは、陽《ひ》ざし。角度からすると、朝なんだろう。
ベッドに、体を起こす。
「ウ……」
上半身を起こしただけで、フラフラする。頭全体が、お酒のボトルになったみたいだ。中で、ウイスキーがポチャポチャと揺《ゆ》れている。そんな気分だった。
「クソ……」
少し飲み過ぎた。認めるのはくやしいけど、やっぱり、あのことがショックだったんだろうか。オン・ザ・ロックの10杯《ぱい》目から先は、覚えていない。
「やれやれ……」
シャワーでも浴びれば、少しは気分が良くなるかもしれない。ベッドを出ようとした。
ふいに! 何か、手ごたえ……。
なんだ……。触《さわ》ってみる。人間だった。となりに、誰《だれ》か寝ていた!
♪
「誰よ!?」
シーツを、めくった。
なんと! 寝《ね》ているのはビリーだった。上半身は裸《はだか》。パンツ1枚で寝ている。
「ビリー!」
あたしは、思わずベッドから飛び出した。
「……なんだよォ……」
とビリー。
「寝かしといてくれよォ……」
と向こうに寝返りをうつ。
「起きてよビリー!」
その体をゆすった。
「うるさいなァ、ミッキー……」
「起きてよビリー!」
「なんだよォ」
「あたしたち……もしかして……いっしょに寝たの?」
「そうだろう」
「そうだろうって……じゃ……」
「じゃ……なんだよ……」
うるさそうに、ビリーはいった。
「あたしに……何かした……?」
「何かって、なんだよ」
「その……男と女がベッドでやること……」
「したかもしれないなあ」
とビリー。
「おれだって、酔《よ》っぱらってたんだ。よく覚えてないよ」
めんどくさそうに、ビリーはいった。
「そんな……」
あたしは、口をパクパクさせた。自分の姿を、見おろす。ダブダブのTシャツを着ていた。めくってみる。下着のショーツは、はいていた。でも……。
「したから、どうだってんだよ」
とビリー。
「バンド仲間じゃないか」
と、いった。
「そんな……だって……あたし……」
「そうか」
とビリー。
「ミッキーは、ヴァージンだったのか」
枕《まくら》もとのKOOL《クール》をとる。1本くわえて、火をつけた。
でも……。もしロスト・ヴァージンしてるなら。
「あそこが痛いとか、かゆいとか、あるはずよね?」
「そんなことわからないさ」
とビリー。
「ミッキーはいつも自転車乗ってるし、足をふり回してケンカばかりしてるし、痛いのかゆいのなんて、とっくにエンがないかもな」
無責任に、ビリーは、いった。けど、そういわれてみれば確かに……。
「失《な》くしたら失くしたで、いいじゃないか、そんなもの」
とビリー。KOOLの煙《けむり》といっしょに、言葉を吐《は》き出した。
「なんていいぐさよ!」
あたしは、ビリーをにらみつけた。
「誰《だれ》か、プレゼントしたい相手でもいたのかよ」
とビリー。
「だって……そりゃ……いつか……好きになった相手に……」
「ふうん。ミッキーでも、普通《ふつう》の女の子みたいなこと考えるんだな」
ビリーは、ニヤニヤ微笑《わら》い。
「お願い、ビリー。思い出してよ」
あたしは、ビリーの腕《うで》をつかんだ。
「やっちゃったか、やっちゃわないか」
「うーん……」
とビリー。煙草《たばこ》の煙をフーッと吐く。
「そうだ」
「なに!?」
「ロスト・ヴァージンしたかしないか、見分ける方法があるって、昔のガールフレンドにきいたことがある」
「どんな!?」
「オシッコの角度が、変わるんだってさ」
「オシッコの!? 角度!?」
「ああ。ヴァージンじゃなくなると、15度ぐらい上向きにオシッコが飛ぶんだってさ」
あたしはもう、ヨロヨロと歩き出していた。
バス・ルームに入る。ショーツをおろす。トイレに坐《すわ》る。もともと、満タンだった。
「用意《レデイ》」
息をとめる。
「発射《GO》!!」
オシッコは、元気よく飛び出る。けど……。
「どうだ!?」
とビリー。ドアの外で叫《さけ》んだ。
「わからないわ……」
のぞき込んだまま、あたしはいった。だいたい、そんな角度なんて注意して見たことないし……。
「見てやろうか」
とビリー。
「バカ! やめて!」
あわてて、ドアを押《お》さえる。そのうちに、オシッコの勢いは、どんどん弱くなる。
「あ……」
しょぼくれて……終わった。
「どうだった」
とビリー。
「ダメだ。わからない……」
あたしは、つぶやいた。坐ったまま。
「どうしよう……」
両手で、顔をおおった。
「ククククク……」
ドアの外で、ビリーの声がきこえた。最初は泣いてるのかと思った。ちがう……。どうやら、笑ってるらしい。
「何がおかしいのよ」
ビリーは、クククククと笑いつづけている。腹をかかえているみたいだ。
「ウソっぱちだよ」
とビリー。
「ウソっぱち!?」
「当たり前じゃないか。オシッコの角度なんて」
とビリー。声が、ククククとひきつっている。
「ウソっぱちって……じゃ……」
「安心しろよ。酔《よ》っぱらったミッキーをベッドに運び込んで、おれも酔ってたから寝込《ねこ》んだだけさ」
「…………」
「だいたい、おれの立派なモノに貫《つらぬ》かれたら、1週間はヒーヒーとガニ股《また》で歩くハメになるさ」
とビリー。また、ククククと笑った。あたしはもう、立ち上がっていた。
思わず、ショーツをおろしたままドアを開けるところだった。
あわてて、ショーツを上げる。そばにあったボディブラシの柄《え》をつかむ。ドアを、バーンと開いた。
「このろくでなし!」
逃《に》げ出そうとしたビリーを、木のボディブラシで殴《なぐ》りつけた。
♪
「痛《い》ってえなあ、もう」
とビリー。
「見ろよ。コブになってるぜ」
と、頭の後ろをなでた。
「あと2つ3つ、コブを追加してあげましょうか」
あたしは、フライパンを持ったままビリーにいった。ポッチギー、つまりポルトガル・ソーセージを冷蔵庫から出す。店のキッチンで、朝食をつくりはじめたところだった。
「今度あんなこといったら」
あたしは、ポッチギー・ソーセージを1本つかむと、
「ご立派なあんたのモノを、チョン切って」
親指ぐらいの太さのポッチギー・ソーセージをビリーの前に突き出す。
「こうしてあげるわ」
ソーセージを、熱くしたフライパンに放り込んだ。
「わかったよ」
ビリーがいったとき、電話が鳴った。ビリーが、受話器をとる。
「ああ、ミッキーなら、いま、おれのムスコをチョン切るってわめいてるけど」
とビリー。受話器をあたしにさし出した。
「誰《だれ》よ」
「マフィアの若大将」
とビリー。ウインクしてみせた。あたしは、フライパンを持ったまま受話器をつかむ。
「ああ、J・R?」
「いまの、ビリーだろう。なんか変なこといってたけど」
「気にしないで。頭がエイズなのよ。で?」
「仕事の話だ。きてくれないか」
「いいけど……」
「OK。20分後に、迎《むか》えをやるよ」
♪
きっかり20分後。ナカジマの運転するリムジンがきた。乗り込む。
クルマは、すぐにH1に入る。空港の方向に走りはじめる。
♪
15分後。リムジンが、とまった。
ホノルル空港のすぐ近く。いろんな会社の格納庫が立ち並《なら》んでるあたりだ。
ナカジマが、クルマのドアを開ける。あたしは、おりた。
目の前に、格納庫が1つある。黄色いペンキで〈ANCHOR《アンカー・》 TRADING《トレーデイング》〉って書いてある。J・Rの会社の格納庫らしい。
「どうぞ。こちらへ」
とナカジマ。格納庫のわきの小さなドアを開けた。あたしは、鉄のドアを入った。
とたん! サブマシンガンの銃声《じゆうせい》がお腹《なか》に響《ひび》いた。
♪
あたしは、両手で耳をふさいでいた。4、5秒で、マシンガンの音はやんだ。
あたしは、耳から手をはなす。それでも、耳がジーンとしている。
「よお、ミッキー」
マシンガンを持ったJ・Rが、ふり向いた。イヤー・プロテクターをはずす。
そうか……。
「ここ、射撃《しやげき》練習場ってわけね」
「ああ。ヘリの格納庫兼新しい火器の試射室ってわけだ」
「うまく考えたわね」
「ああ。ここなら、マシンガンを撃《う》ってても、外からじゃ、飛行機の修理でリベットでも打ってるぐらいにしかきこえないだろう」
とJ・R。マシンガンを、手下に渡す。
「もうちょっと反動が少なくならないものかな」
と、武器担当らしい手下と話している。
あたしは、見回した。格納庫の端《はし》。土のうが積み上げてある。
その前には、警察やCIAが射撃練習に使うのと同じ型の標的紙《ターゲツト・ペーパー》。
作業台の上には、サブマシンガンが3丁。ライフルが7、8丁。自動拳銃《オートマチツク》が20丁ぐらい並《なら》んでいる。
「イランでも攻撃《こうげき》しにいくわけ?」
あたしは、いった。
「いや。相手は香港《ホンコン》さ」
とJ・R。ニヤリと微笑《わら》った。
きょうも、R《ラルフ》・ローレンって感じの麻《あさ》のスーツを、ピシッと着込《きこ》んでいた。
「香港?」
「ああ。香港マフィアの連中も、いよいよ本格的にハワイに乗り込《こ》んでくるらしい」
「香港マフィア?」
「ああ。九竜《クーロン》連合っていうシンジケートだ」
九竜連合……。きいた覚えがある。
「なんせ相手はチャイニーズだ。さぞかし脂《あぶら》っこい作戦で攻《せ》めてくるにちがいない」
J・Rは、苦笑い。
「ジュニア」
と、手下の1人。ドアから入ってきた。
「タキシードの試作品が、仕上がってきました」
手下は、ハンガーにかけたタキシードを持っていた。
「よし。さっそくテストしてみよう」
とJ・R。手下は、タキシードを土のうの前に持っていく。
J・Rは、作業台から自動拳銃《オートマチツク》を1丁とった。あまり大きくない。22口径だろう。
弾倉《だんそう》に弾《たま》が入っているのを確かめる。ブローバック。
拳銃《けんじゆう》を、タキシードの胸に向ける。距離《きより》は、3、4メートル。むぞうさに撃《う》った。銃声が、キーンと格納庫に響《ひび》く。
手下が、タキシードを点検する。
「OKです。貫通《かんつう》していません」
そうか……。
「防弾タキシードってわけね」
あたしはいった。J・Rは、うなずく。
「臆病《おくびよう》なもんでね」
「ついでに、赤いバラの手榴弾《しゆりゆうだん》もつくったら?」
「悪くないね。考えておこう」
J・Rは、ニッと笑った。
「これを見せるために、あたしを呼んだわけ?」
「そうだった。仕事の話だ」
とJ・R。22口径を手下に渡す。
「38口径、45口径、それにライフル銃のテストもしといてくれ」
と、手下にいい残す。あたしの肩《かた》を叩《たた》いて、
「それじゃ、いこうか」
♪
格納庫の裏へ出る。ヘリが1機、置いてあった。パイロットは、乗っている。
J・Rの姿を見ると、回転翼《ローター》がゆっくりと回りはじめる。
ナカジマが、助手席に乗る。あたしとJ・Rは、後ろの座席《シート》に坐る。シートベルトをしめる。
「やってくれ」
とJ・R。パイロットが、うなずく。
ローターの回転音と震動が、ぐんぐん大きくなる。ヘリは、スッと地面をはなれた。
♪
「ケンジ・オサノって知ってるだろう」
J・Rが、あたしの耳もとでいった。小佐野賢治……。きいたことはある。
「ワイキキにホテルをたくさん持ってる人でしょ」
「ああ。黒幕《フイクサー》だ。大物のね」
「それが?」
「死んだんだ、つい最近」
「へえ。そうなると、ハワイは影響《えいきよう》されるわけ?」
「ホテル関係の日系資本は、かなり揺《ゆ》れ動いている」
とJ・R。ヘリの外を指さした。眼の下。ワイキキ・ビーチが広がっていた。
「あのホテルのいくつかは、経営者が変わったり、売りに出されたりしているよ」
「へえ……」
「そのタイミングを狙《ねら》って、うちの会社でもホテルを1つ経営することになったんだ」
「ホテルを?」
「ああ。ある日系の資本家と共同だけどね。ホテルを1つ買った」
「どこ?」
「貿易風《トレード・ウインド》ホテル」
知っている。ホノルルの東のはずれ。ダイヤモンド・ヘッドのふもとにある。
古くて由緒《ゆいしよ》あるスペイン風の建物だ。
「あそこをねえ……」
あたしは、つぶやいた。
「おいおいミッキー。そんなにおかしいかい?」
「だって……ひとの財宝を横どりしたり、大麻《パカロロ》を密輸したり、そんなことばかりやってるんだと思ってたけど」
「たまにはカタギの事業もやるのさ」
とJ・R。
「いろんな意味で、表向きの顔も必要なんだ」
と、いった。
「ホテルは、いつオープン?」
「10日後だ。初日は、盛大《せいだい》なオープニング・パーティーをやる。ハワイの日系実力者のほとんどを招待する」
「菊《きく》のマフィアの力を示すためね」
J・Rは、うなずいた。
「そのパーティーで演奏してくれないか」
「……いいけど、なぜあたしたちが?」
「理由は2つある。その1。一流のバンドじゃなきゃまずい。その2。素姓《すじよう》のはっきりしたバンドじゃなきゃ困るんだ」
「素姓?」
「ああ。当日は、政界財界の人間が山ほど集まるんだ」
「つまり、テロが怖《こわ》いわけね」
「そういうこと。もちろん、うちのシンジケートのフルパワーで厳重な警備をするがね」
あたしは、うなずいた。
「ギャラは、はずむよ」
「パーティーは、夕方から?」
「ああ。でも、準備があるから朝からきて欲しいんだ」
ホテルが、見えてきた。
海に面したスペイン風の白い建物。青く陽ざしを照り返している、ひょうたん型のプール。ヘリは、ホテルの庭にぐんぐんとおりていく。
♪
ヘリをおりる。
まだ、ローターがゆるく回っている。腰《こし》をかがめて、建物の方に歩いていく。
4、5人の人間が待っていた。まん中に、若い女。
「ようこそ、|J・R《ジユニア》」
と、白い歯を見せた。あたしは、思わず声を出すところだった。
J・Rの婚約者《こんやくしや》と名のった、あの女だった。
♪
「彼女は、中津川蘭《なかつがわらん》」
とJ・R。彼女《かのじよ》をあたしに紹介《しようかい》する。
「このホテルを共同で経営する実業家の方のお嬢《じよう》さんだ」
と、いった。
「これがミッキー」
彼女に、あたしを紹介する。蘭は、明るく微笑《ほほえ》んだ。しょうがない。あたしも、
「よろしく」
と、いった。短く握手《あくしゆ》。
「父が待ってますわ」
と蘭。
「そうか。じゃ、先に打ち合わせしよう」
「それじゃ、のちほど」
と蘭。あたしは、J・Rといっしょに歩きはじめた。
「彼女とは、知り合って長いの?」
さりげなく、きいてみる。
「彼女のパパとは、もう10年ぐらいになるけど、彼女はハワイの家と東京の学校をいったりきたりだったから、ときどきしか会ってなくてね」
さすがに、婚約者かどうかは、きけなかった。
建物に入るところで、J・Rがふり向いた。
蘭が、プールサイドにいた。Tシャツをパッと脱《ぬ》ぐ。かなりハイレッグでセクシーな水着をつけていた。
ヘタなモデルなら裸足《はだし》で逃《に》げ出しそうなみごとなプロポーション。蘭は飛び板の方に歩いていく。
ピューッ。J・Rが、微笑《わら》いながら口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。蘭は、ふり向く。〈やあね〉という感じの笑い顔。
2、3回飛び板の上で弾《はず》みをつける。優雅《ゆうが》なフォームで、青い水に飛び込《こ》んだ。
♪
「ねえ、チャック」
砂で山をつくりながら、あたしはいった。
「あたしって、色気ない?」
「え……」
とチャック。腕《うで》に塗《ぬ》ってたサンタン・オイルを落としそうになった。
日曜の午後。アラ・モアナ海岸《ビーチ》。あたしたちは、日光浴をしていた。
「色気か……」
とチャック。砂浜《すなはま》に坐《すわ》ってるあたしをながめた。あたしは、競泳用の水着を着ていた。
「そうねえ……」
とチャック。となりでコミック・マガジンを読んでるビリーに、
「なあビリー」
と声をかけた。
「ミッキー、色気あるか?」
ビリーは、腹ばい。スパイダーマンの漫画《まんが》から顔も上げず、ブッと1発、オナラをした。
「な……なんてやつ!」
あたしは、立ち上がる。砂を払《はら》う。
「どこいくんだよ」
「買いにいくのよ、色っぽい水着を!」
♪
「う……」
あたしは、声を出してしまった。
アラ・モアナ・|S・C《シヨツピング・センター》のお店。水着の試着室。
〈一番セクシーなやつ〉といって、店員に持ってきてもらったビキニを着ていた。
すごかった。とくに下半身《ボトム》が、すごかった。
お尻《しり》の方は、ヒモだけ。気前よくまる出しだ。前だって、面積は子供の手のひらぐらい。
あたしは、あんまり毛深い方じゃない。それでも、ヘアーがはみ出さないのが奇跡《きせき》に思えた。
試着室は、三方が鏡だ。自分の姿が映っていた。
確かに、セクシーにはちがいない。何も着てないより、男を喜ばせるかもしれない。
けど……これで人前に出るのか……。
「うーむ……」
鏡に囲まれて、思わず、汗《あせ》がダラダラと全身に吹《ふ》き出してくる。
「どうしたんだよ」
とチャック。カーテンを開けようとした。
「ダメ!」
あたしは、あわててカーテンを押《お》さえる。
「どう?」
と、店員の女の子も声をかけてくる。
度胸だよ、ミッキー。あたしは、自分にいいきかせる。
J・Rが好きだろうと嫌《きら》いだろうと、とにかくスゴスゴと引き下がるのはイヤだろう?
「こ、これ……もらうわ」
あたしは、カーテンの外にいった。声が、かすれていた。
♪
「こりゃすごい警備だ」
とアキラ。自分のキーボードを運びながらいった。
パーティー当日。朝9時。〈貿易風《トレード・ウインド》ホテル〉の玄関《げんかん》だ。
それらしいスーツ姿の男たちが、20人ぐらい、玄関をかためていた。
あたしたちは、楽器を運び込《こ》む。
「ちょっと」
と、警備をしてる男の1人。アキラに、
「その中は?」
と、いった。
「中も何も、こいつはキーボード。電気ピアノだよ」
「開けてみてくれ」
「そんなムチャいうなよ。開きゃしないぜ」
「開けなきゃ通せない」
そのとき、
「ああ。彼《かれ》らはいいんだ」
という声。J・Rだった。手下は、うなずく。あたしたちは、楽器をロビーに運び込む。
♪
「ミセスTだ」
J・Rがいった。
女の人が、あたしたちの前に立っていた。日系人。50歳《さい》ぐらいだろう。
渋《しぶ》い色の和服を、ピチッと着ていた。|茶 道《テイー・セレモニー》か何かの先生みたいな雰囲気《ふんいき》だった。
あたしは、思い出した。J・Rの経営する和食レストラン〈桜亭《さくらてい》〉。あそこで会ったことがある。女支配人って感じで仕事をしていた。
「しばらくぶりね」
あたしとミセスTは、握手《あくしゆ》をした。
「ミセスTには、きょうのパーティーの細かいことをとりしきってもらってる」
とJ・R。
「よろしく」
とミセスT。スペイン風のロビーに、その和服はよく似合っていた。
見れば、働いてる若い娘《こ》たちも、みんな和服だった。
「日系人の集まるパーティーだからな」
とJ・R。その後ろで、
「ねえ、J・R」
という声。蘭が立っていた。
「父が、ちょっと用事があるそうよ」
と蘭。
「わかった。いまいくよ」
とJ・R。ミセスTに向かって、
「じゃ、あとはまかせるよ」
「わかりました、社長」
とミセスT。蘭は、J・Rといっしょにエレベーターの方に歩いていく。
「じゃ、みなさんはこちらへ」
とミセスT。
「楽屋がわりに使うお部屋を用意してあります」
ルームキーを持って歩き出した。1階の廊下《ろうか》を歩いていく。
「ミセスTのTは、何の頭文字?」
並《なら》んで歩きながら、あたしはきいた。
「貴枝《たかえ》なんですけど、こっちの人には発音しづらいらしくてねえ」
とミセスT。
「いつの間にか、そう呼ばれるようになってしまって」
おだやかに微笑《わら》った。本当に、お茶の先生って感じだった。
「さ、ここがミッキーの部屋で、そちらが、男の方たちのお部屋」
と、部屋のドアを開ける。いい部屋だった。
「部屋はいいけど、女はついてないのか」
となりの部屋の入口で、リカルドがいってるのがきこえた。
♪
「さてと……」
あたしは、あたりを見回した。さいわい、誰《だれ》もいない。お昼少し前。ホテルの中庭。
楽器とP・A装置《そうち》のセッティングを終えたところだった。
バンドの連中は、早目のランチにいってる。目の前のプールにも、誰《だれ》も泳いでいない。
そろそろ、J・Rがステージのセットを見にくる時間だ。
あたしは、深呼吸を1発。
アロハとショート・パンツを脱《ぬ》いだ。プールサイドのデッキチェアーに放った。
下は、買ったばかりのあの過激《かげき》なビキニだった。
さあ……見ておれ。あたしは、つぶやいた。悩殺《のうさつ》してやるからね、J・R。
もう1度、自分のスタイルをながめた。そして、
「あ……」
と、つぶやいた。
ビキニのブラ。乳首が透《す》けていた!
試着室じゃ気づかなかった。けど、この陽ざしの下だと、まるでちがう。
黄色いビキニの生地は、ひどく透けている。乳首が、しっかり見えちゃってる。
ってことは……。あたしは、下《ボトム》の方ものぞき込んだ。
ヤバい……。あそこのヘアーが、はっきりと透けて見える!
あたしは、脱ぎ捨てた服の方へ戻《もど》ろうとした。そのとき、J・Rの姿が見えた!
どうしよう! あたしは、あたりを見回す。そうだ! とっさに、目の前のプールに飛び込《こ》む。
「よお、ミッキー。泳いでるのか」
J・Rが、プールサイドにやってきた。
「そ……そうよ」
あたしは、泳いでるふり。
「ステージのセッティングが終わったから、ひと泳ぎよ」
J・Rは、プールサイドのデッキチェアーに坐《すわ》った。こっちを見おろす。
「なあミッキー。今夜の曲目のことなんだが」
とJ・R。あたしを見おろして話しはじめた。
けど、あたしは話どころじゃない。
透けて見えないように、透明《とうめい》なプールの水をバシャバシャと手でかき回す。
「何してるんだ、ミッキー」
「立ち泳ぎの練習よ」
そのとき、
「あら、ここだったの」
という声。蘭の声だった。パンツスタイルの蘭が、歩いてくる。
「あら、ミッキーもいっしょだったの」
と蘭。あたしに小さく手を振《ふ》る。
「ねえ、お昼にしましょうよ、J・R」
と蘭。見れば、紙包みを持ってる。
「サンドイッチつくってきたのよ」
と、J・Rのとなりに坐る。包みの中味を、小さなテーブルにひろげはじめた。
「ミッキーも、サンドイッチ食べる?」
と蘭。
「いいわ。まだお腹すいてないから」
「そう。残念ねえ」
と蘭。あたしは、泳ぎはじめた。クロールだ。なるべく水しぶきが立つように泳ぐ。
♪
「ミッキーは、泳ぐのが好きなのねえ」
と蘭。感心したようにいった。
あれから、30分近く。あたしは、プールの中でバシャバシャやりつづけていた。
出るに出られないのだ。
「こっちのエッグ・サンドも食べてみてよ、J・R」
と蘭。あたしの前で、ピクニックをくりひろげている。
あたしは疲《つか》れてきた。立ち泳ぎに変える。というより、プールの水に首までつかっているだけだ。いくら昼間でも、プールの水は冷たい。体が、冷えてきた。
「ほら、唇《くちびる》にマヨネーズつけちゃって」
と蘭。J・Rの唇を、紙ナプキンでふく。J・Rは苦笑い。
「ミッキーは、本当にいらないの?」
と蘭。
「いいのいいの。あたしのことは気にしないで」
無理やり、笑顔をつくってみせる。
「きょうは暑いから、水の中が気持ちよくて」
と、プールサイドの2人にいった。
けど、本当は逆。体が冷えて、歯がガチガチと鳴っていた。
プールから飛び出そうにも、脱《ぬ》ぎ捨てた服は、はるかかなたのデッキチェアーだ。
冷えて、トイレにもいきたくなってきた。歯は、ガチガチと鳴りつづける。
泣きたかった……。
♪
「やれやれ。ひどいめにあった」
あたしは、つぶやきながら熱いシャワーを浴びる。15分ぐらい、浴びつづける。
シャワーを出ると、アロハとショート・パンツを着る。部屋を出た。
ロビーわきの〈|竹の間《バンブー・サロン》〉っていうバーに入る。
J・Rが、テーブルで手下たちと何か打ち合わせをしていた。
あたしは、カウンターに坐《すわ》った。ミセスTが、やってきた。あたしの肩《かた》に手を置いて、
「何か飲む? ミッキー」
「泳いで体が冷えちゃったから、コーヒーにラムをたっぷり入れて」
ミセスTは、おだやかに微笑《ほほえ》む。ウエイターに、あたしの注文を伝える。
すぐに、ラム酒入りコーヒーが運ばれてきた。
あたしは、ひと口すする。ホッと息をついた。
その瞬間《しゆんかん》だった。鋭《するど》い叫《さけ》び声が、静かなバーに響《ひび》いた!
♪
叫び声は、ミセスTだった。
ふり向く!
何か、黒い人影《ひとかげ》! テーブルのJ・Rに向かって、突《つ》っ込《こ》むところだ。
ウエイターだった。手に握《にぎ》ったナイフが、チラッと見えた!
間一髪《かんいつぱつ》、J・Rはふり向く。ナイフをかわす。
白い光が、空を切った。J・Rは、イスを蹴《け》った。かまえる。
ウエイターは、身をひるがえす。
バーの入口へ、ダッと駆《か》けた。ズラかるつもりだ。
その前をふさぐように、スッと人影が動いた。和服姿のミセスTだった。
その顔めがけ、ウエイターは、ナイフを横に払《はら》った。
その手首を、ミセスTがつかんだ。一瞬《いつしゆん》の気合い!
ウエイターの体は、空中で1回転。ドッとフロアに落ちた。
その首筋。ミセスTの手刀がビシリと打ちおろされた!
ウエイターは、グタッとのびる。
合気道か何かなんだろう。一瞬の出来事だった。
J・Rと同じテーブルにいた男たちが、のびたウエイターのまわりに駆《か》け寄る。
「あのナイフさばきは、香港《ホンコン》からのお客さんらしいな」
J・Rがいった。肩《かた》で大きく息をついている。
「おかげで命びろいをしたよ、ミセスT」
とJ・R。
「連れていけ。背後関係を吐《は》かせろ」
手下たちが、ウエイターに化けた|殺し屋《ヒツトマン》をひきずって出ていく。
♪
「とんだところを見せてしまいましたね」
とミセスT。ちょっと乱れた和服のスソをなおしながら、いった。
〈|竹の間《バンブー・サロン》〉には、もう誰《だれ》もいなかった。
「合気道ね、いまのは」
あたしは、きいた。
「ほんのまねごとです」
とミセスT。かすかに苦笑してみせた。
「さすが、シンジケートの人ね」
あたしは、いった。
「っていうより、さすがJ・Rの母親っていった方が正確かしら」
♪
髪《かみ》の乱れをなおしていたミセスTの手が、ピタリととまった。2秒後、
「何、とっぴょうしもないこというんですか、ミッキー。驚《おどろ》くじゃありませんか」
また、手が動きはじめる。
「とっぴょうしもないことかしら」
あたしは、いった。
「当たり前ですよ。私が、社長の母親だなんて」
「社長か……でも、さっきはそういわなかったわ」
「さっき?……」
「そう。さっき、|殺し屋《ヒツトマン》がJ・Rを刺《さ》そうとしたときよ」
「…………」
「あのとき、ミセスTは〈ハリー〉って叫《さけ》んだわ」
J・Rのフルネームは、リョウイチ・ハリー・ジンノ。
「とっさの瞬間《しゆんかん》に、〈社長〉じゃなく、息子《むすこ》の本名を叫《さけ》んだんじゃない?」
「そんなこと、なんの証拠《しようこ》にも」
「それにJ・RとミセスTは、声が似ているわ」
「声?」
「そう。はじめから、なんとなくそう思ってたわ。あたしは、これでもミュージシャンよ。耳は確かなつもりよ」
「ミッキー、いつまでもそんなたわごとをいってると怒《おこ》りますよ」
「たわごとかどうか、ナカジマか誰《だれ》かにきいてくるわ」
あたしは、〈|竹の間《バンブー・サロン》〉を出ていこうとした。
「お待ちなさい、ミッキー」
背中で、ミセスTの鋭《するど》い声。
「困った子だこと」
「ただ、本当のことを知りたいだけよ」
「わかったわ……」
とミセスT。軽くため息。
「いかにも。私は、リョウイチ・ハリー・ジンノの母親よ」
♪
ミセスTは、カウンターに入る。
「パーティー客がきはじめたら、1杯も飲めないから、軽くお腹を温めておきますか」
ホワイト・ラムのオン・ザ・ロックを2杯《はい》つくる。
「組織《シンジケート》のトップに立つ者にとって、一番の弱点、つまりアキレス腱《けん》は、なんだと思う、ミッキー」
あたしの前に、グラスを置きながら、ミセスTはいった。あたしは、無言。
「それは、家族よ」
とミセスT。
「…………」
「家族を狙《ねら》われたり人質にとられたりする可能性は、トップの決断や勇気にブレーキをかけることもあるわ」
そうか……。それで、母親を従業員にカモフラージュして……。
「そして、これは、私への彼《かれ》の気づかいでもあるわけ」
とミセスT。
「こうしておけば、私はまず安全ですからね」
「なるほど……」
「あなたは、年齢《とし》のわりに修羅場《しゆらば》をくぐってきた娘《こ》らしいから、わかるわね」
あたしは、うなずいた。
「J・Rが考えた作戦?」
ミセスTは、うなずいた。
「ニューヨークの大学にやっただけのことはあったわね」
とミセスT。
「母親としては、それでいいの?」
あたしは、きいた。
「もちろん。私が彼にしてやれる最大のことは、彼のアキレス腱にならないことですからね」
ミセスTは、グラス片手に微笑《わら》った。そのとき、ナカジマが〈|竹の間《バンブー・サロン》〉に入ってきた。
「さっきの|殺し屋《ヒツトマン》が吐《は》きました」
「何を」
「もう1人、従業員に化けた|殺し屋《ヒツトマン》が送り込《こ》まれているそうです」
「どんな男ですか」
「中国人《チヤイニーズ》という以外、わかりません」
ミセスTは、時計を見た。
「客がくるまで、あと1時間ね」
「全員、厳戒体制に入っています」
「わかりました」
ナカジマは、出ていく。
「あたしも、バンドの連中にいってくるわ」
あたしも、出ていこうとした。
「使う?」
とミセスT。小型の自動拳銃《オートマチツク》をカウンターの上に出した。
「いいわ。これがあるから」
あたしは、ヒップ・ポケットのスティックを叩いてみせた。
♪
「ん」
あたしは、思わず足をとめた。
ホテル1階の廊下《ろうか》。向こうから歩いてくるコックの顔に、見覚えがあった。
小柄《こがら》な東洋人……。いつ、どこで出会ったんだろう……。
「あッ」
そうか……。グアムだ。ママを捜《さが》しにグアムにいったときだ。
あのときやり合ったギャングたち。あれは確か、九竜《クーロン》連合じゃなかったか……。そうだ、絶対にそうだ。いま歩いてくるやつは、その1人だった。
あたしは、柱の陰《かげ》に身をかくした。
やつは、|殺し屋《ヒツトマン》は、何くわぬ顔で歩いてくる。通り過ぎる。
あたしは、さりげなくその後をつける。
やつは、廊下の端《はし》まで歩いていく。濃《こ》いグリーンの鉄のドアがある。やつは、左右を見る。そしてドアを開ける。入っていった。
あたしも、そのドアに歩み寄る。〈機械室〉と書いてあった。
ドアを、そっと開ける。階段が、地下におりていた。それを、ゆっくりとおりていく。
おりたところに、また鉄のドアがあった。重い鉄のドアを、ゆっくりと押す。ドアは、かすかにきしみながら開いていく。そっと、中に入る。
蛍光灯《けいこうとう》がついていた。確かに、機械室だった。かなり広い。
配電盤。背の高さぐらいもある自家発電のモーターらしいもの。そして、縦横に走っている鉄パイプ。あたしは、ゆっくりと入っていく。
人影《ひとかげ》は、見当たらない。
3歩……4歩……5歩……6歩……7歩……。身がまえながら歩く。
8歩……9歩……10歩……11歩……。
部屋のまん中まできたとき、ふいに蛍光灯が消えた! まっ暗になった!
誰《だれ》かが、スイッチを切ったんだ。ってことは、この部屋に、誰かいる……。
あたしは、見回した。もちろん、何も見えない。
誰が……どこに潜《ひそ》んでいるんだろう……。冷や汗《あせ》が、どっと吹《ふ》き出すのがわかる。
相手には、こっちの場所はわかっている。
この場にいたら、やられるだけだ。
あたしは、そっと歩きはじめた。
1歩……2歩……3歩……。ふいに、何かにつまずいた!
よろける。転びそうになる。音をたててしまった!
つまずいたのは鉄パイプだろう。ダメだ。動けば動いたで不利になる。
相手は、部屋の中を手にとるように知っているにちがいない。だから電気を消したんだ……。
あたしは、闇《やみ》の中で立ち往生してしまった。わきの下に、汗が流れる。ヒップ・ポケットのスティックに右手をかける。神経をはりつめる。
待つ。10秒……20秒……30秒……。
せいぜいシングル盤《ばん》1枚分の時間が、LP1枚分ぐらいの長さに感じられる。
どのぐらいたっただろう。はりつめた神経が、悲鳴を上げはじめた。
その瞬間《しゆんかん》!
あたしは、スティックを抜《ぬ》いた!
右後ろの闇《やみ》を切った!
ピシッ! 確かな手ごたえ!
沈《しず》み込《こ》む!
ヒザをつきながら、スティックを横に払《はら》った!
ビシリ!
スネを払った手ごたえ!
こもったうめき声。
床《ゆか》に人間が倒《たお》れるにぶい音。
あたしは、2、3歩さがる。ためていた息を思いきり吐《は》いた。
♪
手さぐり。壁《かべ》のスイッチを押す。蛍光灯《けいこうとう》がついた。
肩口《かたぐち》に、ピリッとした痛み。さわってみる。
アロハが、破れている。ヌルリとした感触《かんしよく》。血が流れていた。
きわどかった。あと1インチで、やられていただろう。
中国人《チヤイニーズ》が、倒れていた。左手で、右手首を押《お》さえている。
手首の骨も、右足首の骨も、折れているかもしれない。そんな手ごたえだった。
「この小娘《こむすめ》……」
やつが、あたしをニラみ上げた。
「あとちょっとで、首をかっ切ってやれたのに……」
うめきながら、いった。
「なぜ……おれが後ろにしのび寄ったのがわかった……」
あたしは、やつを見おろして、
「臭《にお》いよ」
と、いった。
「臭い?……」
「ナイフで切りかかられる寸前に、ニンニクの臭いがしたわ」
「そうか……それで……」
やつは、くやしそうにあたしをニラみつける。
「仕事の前のギョーザは、禁物ってことね」
あたしは、いった。
「クソ……」
やつの右手が、ピクピクと震《ふる》える。細身のナイフが、ポロリと床《ゆか》に落ちた。
♪
「痛む?」
とミセスT。あたしの肩《かた》に包帯を巻いてくれながら、いった。
「だいじょうぶよ。筋は、はずれてるらしいわ」
あたしは、答えた。
3階にある、ミセスTの部屋。あたしは、上半身|裸《はだか》で手当てをうけていた。
窓から、そっと外をのぞいた。見おろす中庭。J・Rと蘭が、プールサイドに並《なら》んで立っていた。ぞくぞくと到着《とうちやく》するパーティーの客にあいさつをしている。
「あの2人……結婚《けつこん》するの?」
あたしは、思いきってきいた。
「そうなるのかもしれないわね」
とミセスT。
「私にも、くわしいことはわからない。一従業員ですからね」
と微笑《わら》った。
「あ、こうじゃないわね」
あたしの肩に巻いてる包帯をまちがえたらしい。ほどいて、巻きなおす。
「彼《かれ》は、ハリーは、冷静|沈着《ちんちやく》な戦略家よ」
とミセスT。話を、つづける。
「彼女《かのじよ》との結婚も、彼の長期計画の1つかもしれない」
「そうか……」
「結婚といっても、彼の立場にとっては仕事の1つですからね」
あたしは、うなずいた。
「でも……」
ミセスTは、言葉を切った。
「でも?」
「彼の計算ちがいがもしあるとすれば……」
ミセスTは、小さくため息。
「ミッキー、あなたと出会ってしまったことかもしれないわね」
「…………」
「出会わない方がよかった人間同士を、出会わせてしまった……神様のミステイクね」
「…………」
あたしは、たそがれていく窓の外を、じっとながめた。
「……どうなるのかしら」
と、つぶやいた。
ミセスTは、しばらく無言。そして、
「出会ってしまったものは、もう、元に戻《もど》せないわね」
と、いった。
「包帯は巻きなおせても、時間というものだけは巻き戻せないものね」
静かに、そうつぶやいた。包帯を、キチッととめた。あたしは、無言。ゆっくりとアロハを着込《きこ》む。
♪
たそがれの中庭。大理石のプールサイド。
着飾《きかざ》った日系人たちでいっぱいだった。カクテルを片手に、笑い合っていた。
あたしは、ステージに上がる。バンドの連中は、もうステージにいた。
「遅《おそ》かったな、ミッキー」
ギターのチューニングをしながら、ビリーがいった。
「ちょっと遊んでたのよ」
ビリーは、あたしの姿を見た。肩口《かたぐち》の破れたアロハをながめて、
「処女膜《しよじよまく》を破らずに、シャツばかり破って」
ニヤニヤしながら、いった。
「お黙《だま》り」
その頭を、スティックでコツッと叩《たた》く。ドラムセットのチェアーに坐《すわ》った。深呼吸……。
青みを残した空。ヤシの葉が、海からの風に揺《ゆ》れている。ステージをはじめる時間だった。あたしは、最後にシンバルの角度をなおす。全員に、眼で合図。スタンバイ、OK。
スティックを鳴らす。
カチッ。(|1《ワン》)
カチッ。(|2《ツー》)
カチッ。(|3《スリー》)
カチッ。(|4《フオー》)
前奏が滑《すべ》り出す。1曲目は、〈男が女を愛する時〉。|J・R《ジユニア》のリクエストだった。
G。
D。
F#。
Em……。
プールサイドの人たちが、スローダンスを踊《おど》りはじめる。
蘭が、J・Rの腕《うで》を引っぱるのが見えた。2人は、踊りはじめる。
蘭は、ラベンダー色のドレス。J・Rは、タキシード。あのタキシードは、たぶん防弾《ぼうだん》なのだろう……。
踊りながら、J・Rはこっちを見た。あたしの眼を、じっと見ている。
こっちに背中を向けてる蘭は、気づかない。リカルドが、唄《うた》いはじめる。
When a man loves a woman
can't keep his mind on nothing else
He'd change the world
for the good thing he's found…….
あたしは、ふと、見上げた。
3階の窓。ミセスTのシルエットが、窓の中にあった。J・Rを、蘭を、そしてあたしを、じっと見おろしていた。
彼女《かのじよ》がいった言葉を、あたしは思い出していた。
神様のミステイク……。
胸のあたりが、チクリと痛んだ。けど、痛んだのはナイフの傷だ。そう思い込《こ》むことにした。
曲は、|2《ツー》コーラス目に入る。
J・Rの腕は、蘭の背中に回されている。そして、眼はあたしを見つめている……。
あたしは、視線をJ・Rからはずした。目の前のシンバルを見つめる。スティックさばきに集中する。
ラベンダー色のドレスとタキシードが揺《ゆ》れている。シンバルも揺れている。曲が、ゆっくりと盛《も》り上がっていく。
あたしは、顔を、まっすぐに前に向けた。唇《くちびる》を、きつくかんだ。力いっぱい、シンバルを叩《たた》きつづける。
空に、きょう最初の星が出ていた。
[#改ページ]
第5話 さよならシックスティーン
♪
カンカンカカン!
ココンコン!
あたしは、プルメリアの花を、ドラムのスティックで叩《たた》いていた。
♪
アラ・モアナ海岸《ビーチ》。
午後5時。夕陽《ゆうひ》が、あと3インチで水平線にとどく頃《ころ》だ。
砂浜の端《はし》に、ごく簡単な木のテーブルとベンチが置いてある。あたしは、そのベンチにまたがって坐《すわ》っていた。
眼の前のベンチには、広げたビニールのラップ。その上には、摘《つ》んできたプルメリアの白い花が5、6輪。あたしは、そのプルメリアをスティックで叩いていた。
お洒落《しやれ》のためだ。
プルメリアを叩いていると、いい匂《にお》いの雫《しずく》が出てくる。それを、オーデコロンのかわりにつける。あまり裕福《ゆうふく》でないハワイのロコ・ガールのお洒落なのだ。
ちゃんとした道具で花を絞《しぼ》る娘《こ》もいる。でも、あたしにはスティックがある。花を叩いていれば、同時に練習にもなるのだ。
カンカカカカン!
コンコンコココン!
熱心に叩きつづける。そのとき、砂浜《すなはま》に長い影《かげ》がのびた。
人影が2つ。後ろにしのび寄ってきていた……。
♪
敵だろうか……。
あたしは、ふり向かず、手を動かしつづける。
マルコス一派のやつらだろうか。それとも、九竜《クーロン》連合の連中だろうか。
あたしは、神経を背中にはりつめる。いつでも動ける体勢。
2つの人影が、近づいてくる。立ちどまった。あたしは、身がまえる。待った。3秒……4秒……。
「あのォ……」
と、間の抜《ぬ》けた日本語がきこえた。
♪
あたしは、ゆっくりとふり返った。軽薄《けいはく》そうな男の子が2人。
2人とも、|20歳《はたち》ぐらい。日本人。服装《ふくそう》や陽灼《ひや》けぐあいからして、観光客らしい。
「何?」
あたしも、日本語で答える。
「あのォ……君、こっちにホームステイできてるの?」
と、1人の男の子。
「ホームステイ?」
あたしは、思わずきき返してしまった。どうやら、日本からの留学生とかん違《ちが》いしてるらしい。
「ね、ホームステイなんでしょ?」
と、もう1人の男の子。めんどうだから、
「ま……まあね」
と答える。ムダ話を、2、3分。
「あの……もし今夜ヒマだったら、どっかいいディスコに案内してくれない?」
と男の子たち。めんどうだ。早く追っぱらうに限る。
「いいわよ。じゃ……クヒオ通りの〈ローズ・ガーデン〉って店がいいわ」
「オーケイ。じゃ、何時に?」
「うーん、8時」
「了解《りようかい》。じゃ、あとで」
と男の子たち。
〈ローズ・ガーデン〉は、〈フラズ〉にかわって、近頃《ちかごろ》ナンバー・ワンのゲイ・スポットだ。こないあたしを待ってる間に、金髪《きんぱつ》のエイズ男たちに迫《せま》られても、知ったことじゃない。
カンカンカン! また、スティックを動かしはじめる。
とりあえず、敵じゃなくてよかった。
けど……この数日、どうも変だ。背中に視線を感じることがある。尾行《びこう》されてる気配を感じることもある。
10日前の、あの一件以来のことだ。
♪
それは、金曜の午後だった。〈ホノルル・コロシアム〉で、新曲の練習をしていた。
電話が鳴った。午後2時だった。
「ミッキーにだ」
とアントニオ。あたしは、受話器をとる。
中年男の声だった。キモ・ルーニーと名のった。ハワイアンらしい発音だった。
「じつは、今度、新しくレコードのチェーン店を開くことになって」
と相手。
「あんた方のプライベート・レーベルの盤《ばん》も、ぜひ置かせてもらおうという相談なんだけど」
タオルで汗《あせ》をふいてた手が、思わずとまった。
「できれば、すぐに相談したいんだけど、きてもらえるかい?」
「も……もちろん。どこへ?」
「ベレタニア|通り《ストリート》とユニバーシティ|通り《アベニユー》の角。工事中の店だ」
「了解《りようかい》。10分でいくわ」
♪
自転車に急ブレーキ! おりる。
確かに、工事中の店があった。かなり大きな店だ。
店の前の駐車場《ちゆうしやじよう》。ハワイアンのおじさんが立っていた。
「ミッキーだね」
褐色《かつしよく》の顔で、白い歯が光った。
「私はキモ・ルーニー。キモと呼びすてにしてくれ」
あたしたちは、握手《あくしゆ》。キモは、40代のまん中辺。太った体に、〈|赤しょうが《レツド・ジンジヤー》〉の柄《がら》のアロハ。白いズボン。ADIDAS《アデイダス》のスニーカーをはいていた。
「この店って、もしかして〈ライズ・レコード〉だったんじゃないの?」
あたしは、きいた。キモは、うなずく。
「そう。確かに〈ライズ〉だった。来月からは、改装《かいそう》して〈バニアン・レコード〉っていうチェーン店になる」
「バニアン?」
バニアンは、ハワイ独特の樹の名前だ。
「じゃ……買収したわけ?」
キモは、うなずく。
「チェーン店、全部?」
「ああ。ここが本店で、あと13店ある」
「それを全部?」
「そういうこと」
「あなたが、買収したの?」
「いやいや。私は、マネージメントをまかされてるだけさ。オーナーは、別にいる」
「オーナー?」
「ああ。ミスター・カトーっていう人だ」
「カトー? 日系人?」
キモは、うなずいた。
「日系人のレコード・チェーン店か……。それで、あたしたちのレコードを置いてくれることに?」
キモは、また、うなずく。
「この前、貿易風《トレード・ウインド》ホテルのオープニング・パーティーで君たちの演奏をきいたという話だ」
「あのパーティー……」
「それでえらく惚《ほ》れ込《こ》んで、ぜひ、新しいチェーンで売り出したいと」
「でも、あたしたちのレコードは」
あたしは、いいかけた。キモは、大きく厚い手のひらであたしの言葉をさえぎる。
「わかってるよ。ロスの音楽エージェンシー〈ATOZ《エイ・トウー・ジー》〉からの圧力がかかってるっていうんだろう」
「…………」
「それは、かまわない。っていうより、それだからこそ、うちの店で売り出そうってことなんだ」
「でも……なぜ……」
「つまり、これは、ロスの、いや本土《メイン・ランド》の音楽産業への挑戦《ちようせん》なのさ」
「挑戦?」
♪
「知ってるだろうけど、ハワイのレコード産業ってのは、いまや本土《メイン・ランド》の植民地みたいなものだ」
とキモ。
「独立運動じゃないが、そんな圧力に反旗をひるがえそうってのが、ミスター・カトーのやろうとしてることなんだよ」
「独立運動……」
そうか。
「つまり、その旗印としては、ロスににらまれてる君らのレコードがふさわしい」
「なるほど……」
あたしは、うなずいた。
「あたしたちにとっちゃ、涙《なみだ》が出るほど嬉《うれ》しい話よ。でも、そんなことしてだいじょうぶなの?」
「だいじょうぶじゃないさ」
とキモ。ニッと、白い歯を見せた。
「妨害《ぼうがい》は、もうはじまってるさ。見てごらん」
と、工事中の店を指さした。
「雇《やと》った人間の半分は、きょうもこない」
確かに。店の中で内装《ないそう》をやってる人間は、えらく少なかった。
「が、とにかく、来月にはオープンするつもりだ。そして、新しい流通経路でホノルルの街にレコードが流れはじめる」
とキモ。
「そのミスター・カトーって、どういう人なの?」
「秘密さ。まだね」
キモは、人さし指を唇《くちびる》に当てた。
「なんせ、かなり厳しい妨害や嫌《いや》がらせも予想されるからね」
「そうか……。身の安全のためね」
「そういうこと」
「で……あたしたちは何をやればいいの?」
「オープニングの日には、ここにステージを組んで派手にデモンストレーションをやってもらいたい」
「そりゃいいけど……」
「どうした」
「でも……そのミスター・カトーっていう人、どうしてそんなにあたしたちのことを……」
「気に入ったのさ、君らの演奏を」
「レコードを置いてもらうために、何か条件は?」
「別に、ないさ」
とキモ。
「オープニングの3日前までに、レコードを納品してくれればいい」
♪
さっそく、店に帰ってメンバーに知らせた。
「そうか……。ついにレコードが発売か」
と、素直に喜んだのはアキラだ。
「倉庫に積んであるあのレコードの山が、ついに売れるのか……」
とアントニオ。もう、眼《め》が$《ドル》マークになっている。
「でも、そのミスター・カトーってのは、なんか足長おじさんみたいなやつだなあ」
とチャック。
「足長じゃなくて、単に鼻の下の長いおじさんだったりして」
と、まぜ返したのはビリーだ。
「レコードは売ってやるから、ミッキー、君のその体が欲しい! なんてさ」
と、あたしにせまるマネ。
「もしそうなったら、もちろん、喜んでパンツを脱《ぬ》ぐんだぞ」
といったのはリカルドだ。
「いまどき、ヴァージンなんて、なんの価値もないんだからな、ミッキー」
「リカルド」
あたしは、ジロッとリカルドを見た。
「唄《うた》ってるとき、後ろからナイフを投げつけられたいの?」
「ヤバ……」
とリカルド。あたしのとなりから逃《に》げていく。
♪
そんなことがあってから、もう10日。いつも、誰《だれ》かの視線を感じるようになっていた。
気のせいだろうか……。プルメリアをスティックで叩《たた》きながら、あたしは思った。でも、やっぱり気になる。
とりあえず、ミスター・カトーがどんな人間なのか知ることだろう。
|J・R《ジユニア》にきけば、かなりくわしく調べてくれるだろう。
「よし」
あたしは、決心した。
叩いたプルメリアの花。そこから出た雫《しずく》を、指先につける。
首筋に。胸に。手首に。甘酸《あまず》っぱい南の島の香《かお》りが、体をつつむ。
あたしは、スティックをヒップ・ポケットに刺《さ》す。立ち上がった。公衆電話に歩いていく。
♪
玉子型のシェルに入った電話機。|25セント玉《クオーター》を放り込む。|錨 貿 易《アンカー・トレーデイング》の番号を回す。J・Rを呼んでもらう。
「よお、ミッキー」
「ちょっと調べてもらいたいことがあるの」
「なんだ」
「この前の、あなたのホテルのオープニング・パーティーにきてた人のこと」
「どんな人間だ」
「電話じゃちょっと……」
「そうか。ちょうどよかった。あしたの土曜、蘭《らん》の誕生日《たんじようび》パーティーなんだ」
蘭……。J・Rの婚約者《フイアンセ》……。
「彼女《かのじよ》の家で、ちょっとしたパーティーをやるんだけど、ぜひきてくれ。彼女も喜ぶ」
「でも……」
「できたら、バンドのメンバーと楽器をいっしょにつけてきてくれ」
あんまり意地になって断るのも変だ。
「……わかったわ」
あたしは、いった。
「じゃ、パーティーのバンド屋としていくわ」
「OK。プールもあるから、水着持参で」
「了解《りようかい》」
電話を切った。誕生日か……。胸の中で、つぶやいた。
あたしの誕生日も、もうすぐ。5月のはじめだ。蘭とは同じ牡牛《おうし》座生まれらしい。
同じ星座だと、男の好みが似るってことは、あるんだろうか……。
♪
「こりゃすごい」
とビリー。
「もしかして、これはプレスリーの屋敷《やしき》か」
クルマの窓から首を出して、いった。
午後2時。ホノルルの東、カハラ。
もともと、高級住宅地だ。けど、蘭の家はとび抜《ぬ》けて大きかった。
〈ダニエル・中津川《なかつがわ》〉日本語と英語でそう彫《ほ》られた金のプレートが、午後の陽《ひ》ざしを反射している。門柱の上からは、防犯カメラが見おろしている。
あたしたちのヴァンは、門を入っていく。チャックが、防犯カメラにわざとらしくニッと笑いかけた。
しばらく走ると、玄関《げんかん》。J・Rのリムジンが、車よせのわきに駐《と》まっている。
「こちらへどうぞ」
メイドに案内されて、ぞろぞろと中庭に歩いていく。
蘭の父親、ダニエル・中津川が、あたしたちを出迎《でむか》えた。
日系人の実業家。貿易風《トレード・ウインド》ホテルを、J・Rと共同で経営している。
「やあ、よくきたね、ミッキー」
と、ダニエル・中津川。
背が高い。クルミみたいな色に陽灼《ひや》けした顔。白髪《しらが》まじりの髪《かみ》。
前のハワイ州知事、ジョージ・有吉《ありよし》にどことなく似ていた。渋《しぶ》いシルクのアロハを着ている。
「あっちにいるよ」
と、指さした。
中庭にあるプールサイド。J・Rと蘭がいた。J・Rは、あい変わらず麻《あさ》のスーツ。
蘭は洒落《しやれ》たココア色のビキニ。色白だから、よく似合っていた。
「ミッキーもバンドのみんなも、思いきり遊んでいってね」
と蘭。ハイビスカスが咲《さ》いたみたいな笑顔。
「夕方、気が向いたら、1曲やってくれ」
とJ・R。メイドが、あたしたちに飲み物を持ってくる。シャンパンだった。
テーブルには、きれいなオードブルが並《なら》んでいる。
「あんまりがっついちゃダメよ」
あたしは、小さな声でメンバーにいった。
「おれとしては、あっちの方をごちそうになりたいんだがな」
とリカルド。眼で水着の蘭をさしてニッと笑った。
♪
「こんなときでも、めかしこんでるのね」
あたしは、J・Rにいった。スーツの胸を指さした。
ダニエル・中津川も、蘭の友人たちも、ラフなスタイルだった。
「アロハ一枚じゃ、商売道具をかくせないんでね」
とJ・R。わきの下を、軽く叩《たた》いてみせた。
そうか……。こんなときでも、拳銃《けんじゆう》を吊ってるんだ……。
「臆病《おくびよう》なたちなんだ」
J・Rは、ニッと白い歯を見せた。
♪
「これ、何?」
あたしは、いった。だ円形のプール。赤いリボンが、張ってある。
青い水の上。十字に張った赤いリボンが、風に揺《ゆ》れている。
「つまり、これが、お父上から蘭への今年のバースデー・プレゼントなのさ」
とJ・R。
「これが!?」
「ああ。飛び込《こ》みの好きな彼女のために、新しくつくらせたらしい」
「プールが……プレゼント……」
あたしは、思わず、口を半開き。確かに、5メートルぐらいの飛び込み台があった。
「そろそろ、テープカットをしてもいいんじゃないか」
とJ・R。蘭がうなずく。飛び込み台に上がっていく。
「それじゃ、パパ、ありがとう」
と蘭。飛び込み台の上で、父親に手を振《ふ》った。
きれいなフォームで、飛び込み台を蹴《け》った。リボンが交叉《こうさ》してるプールのまん中に、飛び込む。
水しぶきが、陽《ひ》ざしに光る。切れたリボンが、水面で揺《ゆ》れる。プールサイドの人たちから、口笛《くちぶえ》と歓声が上がった。
♪
「ねえ、ミッキーも泳がない?」
水の中で、蘭がいった。
「う……うん……」
アロハの下に着てる着古した競泳用の水着が少し恥《は》ずかしかった。
「ミッキー、泳ぐの好きだったじゃない」
と蘭。貿易風《トレード・ウインド》ホテルでのことを思い出してしまった。
「それはそうなんだけど……」
心の中で、苦笑い。
「じゃ、いらっしゃいよ。このプール、水中スピーカーがついてるのよ」
「わかったわ」
思いきって、アロハとショート・パンツを脱ぐ。プールに飛び込む。
本当だ。水に入ると、L《ライオネル》・リッチーの曲がきこえてきた。
水面に、仰向《あおむ》けに浮《う》かぶ。〈STILL〉が、耳に優しく響《ひび》く。晴れた空。鯨《くじら》の形をした雲が、ゆっくりと動いていく。
あたしは、ふと思い出していた。自分が過ごしてきた誕生日《たんじようび》のことだ。
プールどころか、パパには、Tシャツ1枚買ってくれるお金もなかった。
それでも、よかった。
自分のものは自分で買うんだ。物心ついたときから、そう思っていた。だから、誕生日も、いつも働いていた。
6歳《さい》の誕生日。海でウニをとっていた。
8歳の誕生日。レイを編んでいた。
11歳の誕生日。カピオラニ|通り《ブルバード》で、新聞を売っていた。
12歳の誕生日。オアフ市場《マーケツト》で、魚を売っていた。
13歳の誕生日。アラ・モアナの港《ハーバー》で、ヨットの甲板《デツキ》を洗っていた。
14歳の誕生日。クヒオ|通り《アベニユー》の店で、ドラムスを叩《たた》いていた……。
働いていなかったのは、15歳の誕生日だけ。感化院《ガールズ・ホーム》の庭で、空を見上げていた。
あたしは、ゆっくりと背泳ぎをはじめた。ツンと眼《め》がしみる。きっと、プールの水のせいだ……。
♪
「ねえ、バスタオル貸してくれる?」
プールから上がって、あたしは蘭にいった。
「いいわよ。私もシャワーを浴びて着替《きが》えるところだから」
と蘭。
「部屋にどうぞ、ミッキー」
あたしは、蘭の後をついて、2階にある彼女《かのじよ》の部屋に上がっていった。
♪
「これ、化粧室?」
あたしは、思わずきいた。
「そうよ」
と蘭。束《たば》ねていた髪をほどきながら、いった。
えらく広い化粧室だった。いまあたしが住んでる部屋より広い。
床と壁《かべ》は、大理石らしい。見たこともない化粧品《けしようひん》が、ずらりと並《なら》んでいた。
「これ……何?」
何か不思議な道具を、あたしは手にとった。ハサミみたいだけど、ハサミじゃない。それを動かしてみる。指先を、ちょっとはさんでみる。
「それはね、まつ毛をカールさせるためのものよ」
と蘭。やってみせる。
「なるほど」
あたしは、感心。並んでるビンの1つを手にとる。どっかを押《お》したとたん、
「わっ」
白いものが飛び出してきた。顔にかかった。クリームみたいなものらしい。
蘭が、ふり向いて笑っている。あたしは、ティッシュで拭《ふ》く。
何が飛び出すかわからないから、化粧品をいじくるのは、やめにした。
「ミッキーも、もう少し大人《おとな》になれば、こういうものを使う楽しさがわかるわよ」
と蘭。〈シャネルの19番〉を手にとる。
あたしだって、プルメリアのコロンを……といいかけたけど、やめた。
「はい、バスタオル」
蘭が、白いタオルを出してきた。
「いま東京にいってる妹のよ」
「ありがとう、借りるわ」
広げてみる。スヌーピーの絵がついていた。
♪
ポン! シャンパンの栓《せん》を抜《ぬ》く音が響《ひび》いた。
夜の10時。広い居間は、どんちゃん騒《さわ》ぎになっていた。
リカルドが、ちゃっかりと、蘭とダンスを踊《おど》っている。
ふと見回せば、|J・R《ジユニア》の姿がない。あたしは、グラス片手に立ち上がる。庭へ出ていく。
プールサイド。夕方、あたしたちはここで4、5曲|演《や》った。楽器は、そのまま置いてある。
そこに、人影《ひとかげ》……。誰《だれ》かが、キーボードのイスに坐《すわ》っていた。
あたしは、そっちに歩いていく。
J・Rだった。人さし指1本で、キーボードの鍵盤《けんばん》を叩《たた》いている。
B♭……G……D♭……。音が、ポツリポツリと響《ひび》く。
真珠《しんじゆ》のネックレスがちぎれて、バラバラになって……。そんな感じで、ちぎれた音が風に運ばれていく。
あたしは、その背中をながめた。ふと、思った。
音楽への道をあきらめて、マフィアの跡目《あとめ》を継《つ》いだ。それでも、胸の中から消し去れない何かがあるんだろうか……。
置き忘れてきてしまった思いが、あるんだろうか……。
あたしは、J・Rの背中に声をかけようとした。
それより先に、手に持ったグラスの中で氷が鳴った。
J・Rが、サッとふり向いた。さすがに、右手は上着の下に滑《すべ》り込《こ》んでいる。
「ミッキーか……」
「あたしが殺し屋だったら、J・Rはもう死んでるわね」
あたしは、指を拳銃《けんじゆう》みたいに突《つ》き出す。ニコリと微笑《わら》った。
♪
「電話でいってた、話ってのは?」
とJ・R。
「そうそう。あたしたちのレコードが、とうとう発売されることになったのよ」
「本当か」
あたしは、事情を説明した。
「そりゃよかったじゃないか。で?」
「そのミスター・カトーがどんな人なのか、知りたいと思って」
「なるほど……」
J・Rは、腕組《うでぐ》み。
「あのパーティーには、何百人って客がきてた。カトーっていう人間の2人や3人はいるだろう」
「調べられる?」
「ああ。もちろん。だが……カトーっていうのは本名じゃないかもしれないな」
「そうか……」
カトーなんて、アメリカでいえば、トムとかジムとか、そんな感じで使われる名前なのかもしれない。
「とにかく、調べてみよう」
「頼《たの》むわ。それはそうと、あなたの婚約者《フイアンセ》がうちのバンドのドンファンと踊《おど》ってるわよ」
J・Rは、苦笑い。
「それもいいだろう」
と、いった。
♪
3日後。J・Rから電話があった。
「あのパーティーにきてたカトーっていう人物は2人いる。1人はハワイ州議会の議員で、もう1人は製糖会社の社長だ。2人とも、レコード業界に進出するような人物じゃない」
「じゃ、まだ、わからないの?」
「ああ。ずいぶん慎重《しんちよう》に姿をかくしているようだ。身の安全のためにね」
「そんなに危ないの?」
「うむ。工作員がロスからこのホノルルに送り込まれてるようだ」
「工作員?」
「プロの殺し屋さ」
「なんのために」
「もちろん、そのバニアン・レコードの妨害《ぼうがい》さ。場合によっちゃ、ミスター・カトーの正体をつきとめて消せという命令をうけてるかもしれない」
「そんな……たかが、レコード店のオーナーを……」
「だが、連中は、そう思っていないだろう。たかが14の店でも、それが引き金になるかもしれない」
「引き金?」
「ああ。本土《メイン・ランド》の植民地だったハワイのレコード業界全体が、いわば独立運動を起こす、その引き金になりかねないってことさ」
「そうか……」
「それを叩き潰《つぶ》すためなら、人間の1人や2人、平気で消すだろう。ミッキーも、気をつけろ。君らのバンドが、バニアン・レコードのいわばシンボル・マークだからな」
「わかったわ。で、その殺し屋はどんなやつ?」
「〈アイス〉っていう暗号名《コード・ネーム》しか、わかっていない」
「〈アイス〉……」
氷か……。
「かなりの凄腕《すごうで》らしい。気をつけろ」
「了解《りようかい》」
「ミスター・カトーのことが何かわかったら、すぐに連絡《れんらく》する」
♪
「店のオープンは、5月9日の土曜日だ」
とバニアン・レコードのキモ。5月9日……。あたしの誕生日《たんじようび》だ。
「どうした、ミッキー」
「いや、別に」
「当日は、夕方の5時から、この店の前でデモンストレーションの演奏だ」
「わかったわ」
「それと、写真を撮《と》らなきゃならん」
「写真?」
「ああ。各店にディスプレイするための写真さ。君たちのね」
「そうか」
「さっそく、撮影《さつえい》の手配をしよう」
とキモ。フランクフルトみたいに太い指で、電話のプッシュボタンを押《お》しはじめる。
♪
「おいビリー、鏡貸せよ」
とリカルド。クシで髪をなでつけてるビリーにいった。
「変わりゃしないって」
と、ビリーから鏡をとり上げる。自分の顔を映してみる。
午後3時。陽《ひ》ざしのまぶしいカピオラニ公園。
あたしたちの撮影だった。
〈|貝殻しょうが《シエル・ジンジヤー》〉の柄《がら》のアロハを、全員着ている。それぞれ、微妙《びみよう》な色ちがいになったアロハだ。
あたしは、いつもどおりショート・パンツ。ほかのメンバーは、オフ・ホワイトのズボン。
ヤシの樹を背景に、芝生《しばふ》の上に立っていた。
あたしがまん中。右に、ビリーとチャック。左に、アキラとリカルドだ。
「その左端《ひだりはし》の人、ちょっと表情が硬《かた》いんだけど」
と、ヒゲ面のカメラマン。
いわれたのは、アキラだ。マジメなアキラは、さっきから緊張《きんちよう》している。
「じゃ、リラックスするために、何か飲み物でも飲んでもらおうか」
とカメラマン。助手が、アイスボックスから飲み物を出す。
あたしは、ジュースの缶《かん》をうけとった。ルアウパンチ。まっ赤なミックスジュースだ。
「自然な感じで飲んでくれる? 適当にバシャバシャ撮《と》るから」
とカメラマン。あたしたちは、それぞれ、缶を開ける。
あたしも、冷えたルアウパンチを飲もうとした。口に持っていく。
そのとたん!
ビシッ! という音。手に小さな衝撃《しようげき》!
持ってる缶に、穴が開いていた! 中身が吹き出す。
撃《う》たれたんだ!
あたしは、芝生にヒザをつく。体を小さくする。
ほかのメンバーも、気づいた。サッとしゃがむ。
見回す。
どこからか、消音器《サイレンサー》つきの銃《じゆう》で撃ってきたらしい。
すぐ近くに人影《ひとかげ》はない。まわりには、ブーゲンビリアの茂《しげ》み。ヤシの木立ち。バニアンの樹。
どこの物陰《ものかげ》から狙《ねら》ってきたにしろ、かなりな距離《きより》だ。
もし拳銃《けんじゆう》だとすると、かなりな腕前《うでまえ》だろう。
撃とうと思えば、あたしの頭なんか、軽く穴を開けられただろう。
わざわざ、缶を撃った……。つまり、警告ってことらしい。
あたしは、手に持った缶をながめた。
撃ち抜かれた2か所の穴から、中身が吹《ふ》き出している。
まっ赤なルアウパンチが、芝生《しばふ》に吹き出していく。まるで、血のように……。
♪
「発射された銃を割り出すんだ」
とJ・R。穴の開いた空き缶《かん》を、ナカジマに渡《わた》した。ナカジマは、部屋を出ていく。
午後1時。J・Rの経営する和食レストラン〈桜亭《さくらてい》〉。そのV・I・Pルームだ。
「すぐに分かるだろう」
とJ・R。
「昼メシまだなんだろう、食えよ。ミッキー」
あたしは、うなずく。テーブルにのったAHI《アヒ》(マグロ)の刺身《さしみ》に、おはしをのばす。
20分後。部屋の電話が鳴った。J・Rがとる。ものの10秒で切る。
「あの缶を撃《う》ったのは、ベレッタっていう25口径の拳銃《けんじゆう》だ」
「警察の鑑識なみね」
「こういうことなら警察より早い。ホノルル市警の腕ききを3人ほど引っこ抜《ぬ》いてあるからね」
J・Rは、微笑《わら》いながらいった。
「ベレッタっていうのは?」
「小型で持ち歩きやすい。優秀《ゆうしゆう》な拳銃だ。敵は、かなりなプロだな」
「…………」
「ベレッタに消音器《サイレンサー》か……。アメリカ人のプロとしちゃ、珍《めずら》しいタイプだ」
「〈アイス〉っていう呼び名以外、わからないの?」
「ああ。情報|網《もう》のどこにも引っかかってこないんだ。このベレッタの件で、かなり調べやすくなった。とにかく、用心しろ、ミッキー」
「防弾《ぼうだん》アロハでもつくってもらおうかしら」
ビールを飲みながら、あたしはいった。
♪
火曜日。午後。
あたしは、ルート72沿いの小さな砂浜《すなはま》にいた。泳いでいた。
怪《あや》しい人影《ひとかげ》は、見えない。思うぞんぶん泳いだ。
午後5時。そろそろ帰る時間だ。今夜も〈ホノルル・コロシアム〉でのライヴがある。
あたしは、海から上がった。デイパックを肩《かた》に、砂浜のシャワー・ルームに入った。
ちゃんとしたコンクリートづくりの公衆《パブリツク》シャワー。WOMENの方に入る。
壁《かべ》に、シャワーが5つ並んでいる。逆側に、ベンチが置いてある。
誰《だれ》もシャワーを浴びていない。白人の女の人が1人だけ。着がえをしていた。
あたしは、ベンチに、デイパックを置いた。スティックや服の入ってるデイパックだ。
水着を脱いで裸《はだか》になる。シャワーの方へ歩いていく。シャワーのコックをひねろうとした。そのとき、
「ミッキーね」
という声。ふり向く。
着がえをしていた女の人が、バッグから何か出すのが見えた。消音器《サイレンサー》のついた拳銃《けんじゆう》だった。
「待ってたわ」
銃口が、あたしの胸に向けられていた。
♪
頭の混乱がおさまるまで、30秒はかかった。
相手を、すみずみまで見る。そうすることで、少しは落ちつける。
カーリー・ヘアーは赤毛。鷲《わし》鼻。B《バーブラ》・ストライザンドをうんと冷酷《れいこく》にしたような顔だった。
黒いTシャツ。オリーヴ・グリーンのジーンズ。NIKE《ナイキ》のスニーカーをはいていた。
ボディビルでもやってそうな、筋肉質の体つきだった。
「あんたが、〈アイス〉ね……」
あたしは、いった。相手は、かすかにうなずいた。それにしても……。
「女だとは思わなかった。そう顔に書いてあるわよ」
とアイス。
「ホノルル・ナンバーワンの不良少女も、油断したわね」
アイスは、あたしのデイパックをアゴでさした。
スティックの入ったデイパックは、アイスのすぐわき。ベンチの上だ。
とても、飛びつける距離《きより》じゃない。まるで、地球の果てみたいな気がした。
「もう、勝負はついたのよ、ミッキー」
とアイス。
「両手を、頭の後ろで組みなさい」
あたしは、バストとあそこを手でかくしていた。
「女同士じゃない。恥《は》ずかしがることないでしょ」
アイスが、冷たくいった。外科医のようなトーンの冷たさだった。
〈氷《アイス》〉の呼び名は、ここからきたんだろう……。あたしは、両手を頭の後ろで組んだ。
♪
「いいかっこうね」
とアイス。あたしをながめて、いった。
あたしの両手首は、細いロープで、上にあるシャワーの蛇口《じやぐち》に縛《しば》りつけられていた。
両足は、肩幅《かたはば》より広く、床《ゆか》を走ってる鉄パイプに縛りつけられていた。
「これなら、得意の蹴《け》り技も出せないでしょう」
とアイス。
蹴りどころか、動かせるのは首だけだ。
「早く用件に入ってくれない」
それでも、あたしは強気にいった。
「家に帰って宿題やらなきゃならないんだから」
アイスが、唇《くちびる》の端《はし》で嘲笑《わら》った。
「ヘラズ口も、ウワサどおりね」
と、いった。
「OK。じゃ、ムダ話はやめて本題に入るわ。いい子だから教えてほしいのよ、ミスター・カトーのことを」
「……ミスター・カトー?」
あたしは、きき返した。
「きいたこともないわ」
「そう……トボけるのね……」
とアイス。
「あんたみたいなかわいい子をいじめたくないけど」
軽くため息。
「しょうがない、ちょっと痛い目にあってもらうわ」
「…………」
「でも、殴《なぐ》ったり蹴ったりはしないわ。あんた、その手のことには筋金入りらしいからね」
とアイス。笑いながら、
「安心なさい。ちょっとしたプレゼントをあげるだけだから」
「プレゼント?」
「そう。この2週間あんたを見てて考えついたプレゼントよ」
そうか……。ここしばらく、背中に感じてた視線は……。
あたしは唇をかんでアイスをニラみつけた。
「プレゼントって何よ」
「ピアス」
アイスは、あたしの耳を見ていった。あたしは、金の輪のピアスをしていた。
「もっとお洒落《しやれ》なやつをつけてあげるわ」
とアイス。バッグから何か出した。アメラグのボールぐらいもある石だった……。
♪
「心の準備は、どう?」
とアイス。あたしのすぐわきでいった。
アイスは、手で石を持っていた。石は、細いヒモでくくられている。ヒモは、あたしのピアスに結びつけられていた。
「さて、そろそろ手がくたびれてきたから、この石を放すわよ」
アイスは、いった。
「どうなると思う? ミッキー」
考えたくもなかった。
「たぶん、その耳たぶがちぎれるでしょうね。しかも、ゆっくりと、ゆっくりと……」
アイスが、かん高い笑い声を上げた。生まれつきのサディスト。殺し屋にはピタリの性格なんだろう。
「そんな痛い目にあう前に、しゃべっちゃったら? ミスター・カトーのこと」
「知らないものは知らないわ」
「そう……。じゃ、しかたないわね」
汗《あせ》が、ふき出してくるのがわかる。
「本当に、知らないのね?」
「知らないわ」
あたしは、歯をくいしばる。激痛《げきつう》に耐《た》える準備。いっそ失神できたら……。
「じゃ、せいぜい楽しむのね」
アイスが、石を放した!
♪
アイスの笑い声……。あたしは、ゆっくりと眼《め》を開けた。
腰《こし》のあたりに、石がぶら下がっていた。痛みはない。
そうか……。よくイタズラで使う、つくりものの石だったんだ。
「オシッコちびりそうな顔してたわよ、ミッキー」
ピアスのヒモをほどきながら、アイスがいった。
「いずれ、|かき氷《シエイヴ・アイス》にしてやる……」
あたしは、その顔をニラみつけて、いった。
「せいぜい、強がってなさい」
とアイス。ゆっくりと、拳銃《けんじゆう》を出した。25口径のベレッタ。
消音器《サイレンサー》の銃口とアイスの眼が、あたしに向けられる。
「その体つきじゃ、あんた、まだヴァージンね」
「ほっといて」
「じゃ、今度は、本当に痛い目にあってもらうわ」
アイスは、薄笑《うすわら》いを浮《う》かべる。あたしの前で、片ヒザをついた。
ベレッタを、ゆっくりとあたしの股《また》に近づけてくる。
「何するのよ!」
「拳銃と初体験ってのは、どうかしら」
とアイス。拳銃が、あそこに近づいてくる。
「そんな!」
暴れようとした。けど、ダメだ。両足首は、しっかりとパイプに縛《しば》りつけられてる。足は閉じられない。
ウインナー・ソーセージぐらいの太さの消音器《サイレンサー》が、あそこに……。
ヒヤッと冷たい! 金属の感触《かんしよく》!!
「やめてよ!」
「しゃべれば、やめるわよ」
消音器《サイレンサー》の先が、押《お》しつけられる。
「嫌《や》!」
「しゃべればいいのよ」
アイスは、薄笑い。
「かわいそうに。消音器《サイレンサー》と初体験なんて」
「そんな……」
「でも、妊娠《にんしん》の心配だけはないわ」
先端《せんたん》が、グイと押《お》し分けてくる。
「やめて! お願い!」
涙声《なみだごえ》で叫《さけ》んだ。
「しゃべりなさい」
「知らないのよ!」
金属の冷たい感触。グイグイと押し入ってこようとする。
ああ神様……。ギュッと眼を閉じた。
そのとき、話し声がきこえた。女の子たちのにぎやかな声。近づいてくる。
「ちッ」
アイスが舌打ち。あそこから消音器《サイレンサー》がはなれる感触。
「きょうはここまでね、ミッキー」
アイスは、拳銃《けんじゆう》をバッグに放り込む。
「ミスター・カトーには、絶対に消えてもらうわ」
冷ややかに、いった。シャワー・ルームを出ていく。
入れかわりに、サーファーの娘《むすめ》が3人入ってきた。あたしの姿を見て、息をのむ。
「追いはぎにあったのよ」
あたしは、いった。
「とにかく、これ、ほどいてくれる?」
♪
「女の殺し屋か……」
とビリー。ビールをグイと飲んだ。〈ホノルル・コロシアム〉のカウンター。
「おれなら、ベッドの上で返り討ちにしてやるんだがね」
とリカルド。
「せいぜい、ジュニアを喰《く》いちぎられないようにするのね」
あたしは、ビールを飲みながらいった。
「あそこに歯のはえてそうな女だったわ」
と、いった。
「ところで、ミッキーのヴァージンは、だいじょうぶだったのかい」
とリカルド。
「痛くなるまでは突《つ》っ込《こ》まれなかったから、だいじょうぶだと思うけど……」
「いや、それは、わからない」
とリカルド。ニヤニヤしながら、
「オシッコの角度を調べた方がいいんじゃないか?」
と、いった。
「!?」
あたしは、ビリーを見た。ビリーも、ニヤニヤと笑ってる。
「ビリー! みんなに話したのね! あのこと」
「いやあ、その……」
「なんてやつ!」
あたしはビリーのエリ首をつかもうとした。ビリーは、カウンターのスツールから飛びおりる。出入口から逃《に》げていく。
♪
5月9日。土曜日。あたしたちザ・バンデージのレコードが発売される日。
あたしと|J・R《ジユニア》は、〈フィッシャーマンズ・ワーフ〉にいた。
ケワロ湾《ベースン》をながめるレストランバーだ。
店中、海だらけだった。釣《つ》り道具。ヨットの道具。ダイビング用品。そんなものが、壁《かべ》や天井《てんじよう》にいっぱい飾《かざ》られている。
天井には、大きなカジキ。5メートルぐらいもあるカジキのはく製《トロフイー》が、ロープで吊《つ》られていた。
「レコード発売、おめでとう」
「ありがとう」
あたしたちは、フローズン・ダイキリで乾杯《かんぱい》した。
午後4時半。ハンパな時間だから、店に客はいない。
ボディ・ガードのナカジマは、店の外。リムジンに乗って待っている。
あたしとJ・Rは、カウンターに並《なら》んで坐《すわ》っていた。
酒ビンが並んでる、その向こうは海だ。ケワロ湾《ベースン》のたそがれが広がっている。
2杯《はい》目のダイキリを、バーテンがあたしたちの前に置いた。
バーテンは、気をきかせて、奥《おく》に入っていく。あたしたちだけになった。
「店の前でデモンストレーション演奏やるのは?」
J・Rがきいた。
「5時よ」
あと30分だ。
「これを飲んだら、いくか」
J・Rがいった。グラスに手をのばした。
その瞬間《しゆんかん》! あたしは、J・Rの肩《かた》を突《つ》き飛ばした。
前に並んでる酒ビン。そのホワイト・ラムのビンに、人影《ひとかげ》が映ったのだ。
カーリー・ヘアーの赤毛。何かをかまえるのが、チラリと見えた。
J・Rを突き飛ばしたと同時に、こもった音! 消音器《サイレンサー》で消された銃声《じゆうせい》だった。
あたしも、カウンターのスツールからとびのく。
床《フロア》にヒザをついたJ・R。胸もとから拳銃《けんじゆう》を抜《ぬ》いた。けど、どこかを撃《う》たれたらしい。動作がにぶい。
ドッ!
消音器《サイレンサー》つきベレッタの銃声。
J・Rの手から、拳銃が飛んだ。
「J・R!」
あたしは叫《さけ》んだ。同時に、カウンターの中に飛び込《こ》んだ。J・Rも、転がるように飛び込んでくる。
2人とも、荒《あら》い息。
J・Rの右手からは、血が流れている。上着のわき腹にも、血がにじんでいる。
「ちっくしょう……」
あたしは、カウンターの上にチラッと顔を出した。ベレッタをかまえたアイスの姿が見えた。
とたん、ドッ! という銃声。
すぐ後ろで酒ビンがパリーンッと砕《くだ》け散る。ガラスの破片が、降ってくる。
あたしは、頭をかかえた。
「まずいな」
とJ・R。
この銃声じゃ、外にいるナカジマにはきこえないだろう。何か武器になるものは……。あたしは、見回した。
「観念するのね」
アイスの冷たい声が、響《ひび》いた。
ゆっくりと歩いてくる足音……。死神の足音だ。
「もう逃《に》げられないんだから、立ち上がりなさい」
とアイス。
「……わかったわ……」
あたしは、いった。
「立つから、撃《う》たないで」
ゆっくりと、立ち上がる。
3メートルぐらい前に、アイスが立っていた。
白いジャンプスーツ。オレンジ色のベルト。25口径のベレッタをかまえている。
「もう1人は?」
とアイス。
あたしは、カウンターの中で倒《たお》れてるJ・Rの方を見た。
それにつられて、アイスの視線もあたしから動いた。
その瞬間《しゆんかん》!
あたしはもう、炭酸《ソーダ》ガンをつかんでいた。
|G ・ S《ガス・ステーシヨン》でクルマのタンクにガソリンを入れるあれを小型にしたようなやつだ。
引き金を絞《しぼ》る。
プシューッ! 炭酸《ソーダ》が、吹《ふ》き出す! アイスの顔を直撃《ちよくげき》!
叫《さけ》び声! アイスはよろける!
あたしは、床《ゆか》を蹴《け》った。カウンターに飛び上がる。そのまま、アイスにかかっていく。
右足で回し蹴り!
やつの右手を蹴った。ベレッタが、ふっ飛ぶ。
あたしは右手を背中へ! ヒップ・ポケットのスティックを抜《ぬ》こうとした。
その瞬間、相手の蹴りが飛んできた。腹にきた!
グッ……。一瞬、眼の前が暗くなる。体が、前にのめる。
ポニー・テールを、つかまれた。
ヒザ蹴りが飛んできた!
頬《ほお》が、ガツッと突《つ》き上げられた!
あたしは、後ろにふっ飛ぶ。
テーブルを2つ倒《たお》した。床《フロア》に、後頭部をぶつけた。
頭を振《ふ》って立ち上がる。
アイスは、向こうの壁《かべ》に走る。壁に飾《かざ》られてるシー・ナイフをつかんだ。
投げてくる!
訓練されたフォームだった。
ナイフが、飛んでくる! きわどく、右によける。
つぎのナイフが飛んでくる! 左によける。
壁に飾られてるナイフは、まだ10本近くあった。
まずい。飛びかかるにも、距離《きより》がありすぎた。
3本目のナイフ!
きわどく右にかわす。ナイフは、あたしの肩口《かたぐち》をかすめて、後ろの壁に刺《さ》さった!
あたしは、壁からナイフを抜く。
壁ぎわにピンと張ってるロープを、ナイフで切った。
それは、天井《てんじよう》からカジキを吊《つ》ってるロープだった。
4本目のナイフを投げようとしたアイス。
その頭上! 巨大《きよだい》なカジキが落ちてきた!
重い音が響《ひび》いた!
そして、静かになった。
♪
あたしは、歩いていく。
アイスは、うつぶせ。ナイフを握《にぎ》ったまま、カジキの下じきになっていた。気絶してるらしい。
あたしは、カジキのはく製に手をかけた。動かした。
思ったより軽い! そう気づいた瞬間《しゆんかん》、アイスの右手がパッと動いた!
ナイフの刃《は》が光った。
左足のモモに鋭《するど》い痛み!
気絶なんかしていない!
アイスは、もう、立ち上がっていた。フェイントだったんだ!
「くらえ!」
ナイフを、突《つ》き出してくる。
あたしは、体を右に開く。同時に、背中のスティックを引き抜《ぬ》いていた。
シー・ナイフの刃が、体のわきを走り過ぎる。
その手首。
スティックを思いきり叩《たた》きおろしていた。
ピシッ!
骨を折った手ごたえ!
「ゲッ」
と、うめき声。
あたしはもう、体を沈《しず》めていた。
片ヒザをつきながら、スティックを横に払《はら》う!
アイスのスネを、思いきり叩いた!
ビシリッ!
折ったかもしれない。
アイスの眼が、白く裏返っている。
3秒……4秒……5秒……。
その体が、ゆっくりと床《フロア》にくずれ落ちた。
♪
「だいじょうぶですか!? ジュニア!」
ナカジマが、店に飛び込《こ》んできた。
「ああ……ヤバかったがな」
とJ・R。フロアに倒《たお》れてるアイスを眼でさす。
「本土《メイン・ランド》からのお客さんだ。トランクに放り込んどけ」
「わかりました」
ナカジマは、アイスを肩《かた》にかかえる。ノシノシと、店を出ていく。
「R《ラルフ》・ローレンに穴を開けやがって」
J・Rがいった。スーツのわき腹には、25口径の穴。弾《たま》は、わき腹の肉を浅くえぐって貫通《かんつう》していた。
右手のひらは、弾がかすっただけだ。
「また、君に助けられたな」
とJ・R。あたしは、J・Rの胸のポケットから、ハンカチーフをとり出す。それで右手の傷を縛《しば》ってあげる。
「運が良かったのよ。そこの酒ビンに感謝しなさい」
あたしは、いった。そして、
「あなたがミスター・カトーだったのね」
と、つぶやいた。
♪
「なぜ……そう思う」
とJ・R。
「簡単なことよ。殺し屋のアイスは、いまさっき、あなたを狙撃《そげき》したわ」
「…………」
「酒ビンにアイスの姿が映ってあたしが突《つ》き飛ばさなきゃ、あなたは心臓を撃《う》ち抜《ぬ》かれてたわ、きっと」
「でも……だからって……」
「あたしといっしょの人間を誰《だれ》かれなく狙《ねら》うほどドジじゃないでしょ、あれだけのプロだもの」
あたしは、いった。
「ミスター・カトーの正体をつきとめたのね、きっと」
「…………」
J・Rは、軽くため息。
「……わかったよ」
ポツリと、いった。
「いずれわかることだ。いかにも、ミスター・カトーの正体は、おれさ」
♪
「どこへいくんだミッキー!」
後ろで、J・Rの声が響《ひび》いた。あたしは、店を出ていこうとしていた。
「とまれ!」
あたしは、立ちどまる。ゆっくりと、ふり向いた。J・Rが、左手に拳銃《けんじゆう》を握《にぎ》っていた。
「左じゃ当たるかどうか分からないが、このまま出ていくんなら、撃《う》つぜ」
と、いった。
「もし、おれが助けてレコードを発売しないかといったら、君はおそらくNOというだろう。ホノルル一の意地っぱりだからな」
とJ・R。
「……でも……あたしには意地しかないのよ」
J・Rの顔をまっすぐに見て、あたしは、いった。
「……あたしには、お金もないわ。家もないわ。誕生日《たんじようび》にプールをつくってくれるパパもいないわ」
「…………」
「でも……とにかく自分の力だけで生きてきたわ……。それだけが……それだけが……ただ1つのプライドだったのに……」
涙《なみだ》が出そうだった。でも、唇《くちびる》をきつく結んでこらえた。
1分……2分……3分……。心の中の波が、ゆっくりとおさまってくる。
「……わかったよ、君の気持ちは……」
J・Rが、ポツリといった。
「レコードのことは、どうしようと君の自由だ。だが、1つだけ、おれの頼《たの》みをきいてくれないか?」
「頼み?」
「ああ」
「ヴァージンは、あげないわよ」
思わず、いってしまった。
「そんなことじゃないよ」
とJ・R。苦笑い。
「……おれの夢《ゆめ》を……いっしょに連れていってくれないか」
「夢?」
「ああ。もしおれがヤクザの息子《むすこ》じゃなかったら、追いかけていたかもしれない夢だ」
そうか……。音楽への夢ってやつか……。
「いっしょに連れていっても、たいしたじゃまにはならないさ」
とJ・R。拳銃《けんじゆう》をそばのテーブルに置く。
右手の傷を縛《しば》っていたハンカチーフをほどいた。
青いハンカチ。少し血がにじんでいる。J・Rは、それを細く折りたたむ。ニッと微笑《わら》うと、
「いいかい。こいつが、おれの夢だと思って」
あたしに近づいてくる。ゴム輪だけで束《たば》ねている、あたしのポニー・テール。そこに、青いハンカチを結んだ。
「おれの夢は、君にもなかなか似合うぜ」
「洗濯《せんたく》できる夢ね……」
あたしは、いった。
「さあ、バンドの連中が待ってるぜ、ミッキー」
「あなたには、医者が待ってるわ」
♪
リムジンが走り出した。
J・Rの出血は、とまっている。けど、クルマがカーブを切ると、少し苦しそうだ。
「肩《かた》を借りていいか」
とJ・R。
「いいわよ」
J・Rの頭が、あたしの肩にのった。
「いい匂《にお》いだな。どこのコロンだ」
「アラ・モアナ海岸《ビーチ》」
♪
「ずいぶん集まったな」
クルマの外をながめて、J・Rがいった。
ベレタニア|通り《ストリート》とユニバーシティ|通り《アベニユー》の角。〈バニアン・レコード〉の店の前に着いた。
駐車場《ちゆうしやじよう》は人で、ごった返していた。ハワイ大学が近いせいか、若い連中が多い。その一角だけ、お祭りみたいだった。
「じゃあね」
あたしは、J・Rの頬《ほお》に短くキス。
「お医者で、たっぷり痛い目にあうのね」
クルマを、おりた。これから先、J・Rの世話をするのは、あたしじゃないんだ。ふと、そう思った。
クルマのドアを、閉めた。ふり向かず、歩きはじめた。
♪
「遅《おそ》いじゃないか、ミッキー」
とキモ。
「もう、予定の時間を20分も過ぎてる」
と、いった。
「ごめんなさい。ちょっとクルマが混んじゃって」
あたしは、キモにウインク1発。ステージサイドにいるバンドのメンバーの方に歩いていく。さっき、アイスにやられたモモの傷が、ちょっと痛い。歩き方が、ぎこちなくなる。
「おい、チャック」
と、ビリー。缶《かん》のPRIMO《プリモ》を飲みながら、チャックをヒジで突《つ》ついた。2人で、ヒソヒソ話。リカルドも、話に首を突っ込《こ》む。ニタニタと微笑《わら》ってる。
「ちょっと、あんたたち」
あたしは、リカルドの耳をつかんだ。
「なんか、あたしのことをコケにしてたでしょう」
と、耳を引っぱる。
「いや……その……ビリーが、さ」
「ビリーが?」
「ミッキーのあのガニ股《また》の歩き方は、きっとロスト・ヴァージンしてきたんだろうって」
「……それだけ?」
「相手は、25口径だろうか、38口径だろうか、バズーカ砲《ほう》だろうかって」
「ビリー……」
あたしはニラみつける。ビリーは、
「ま……まあ、そんな怖《こわ》い顔するなよ。ほら、これやるから」
と、缶のPRIMOをさし出す。
「さ、演《や》ろうぜ。客も待ってることだし」
と、ステージに上がっていく。
「まったく……なんてやつらだ……」
あたしは、つぶやく。PRIMOを飲もうとした。
ふと、気づく。そうだ。きょうは、誕生日《たんじようび》なんだ……。
ケーキも、プレゼントも、何もなかったけど、誕生日なんだ。
17回目の誕生日も、やっぱり働いていた。
ま、それもいいか。
ふと見れば、店のウインドに、あたしたちの写真が貼《は》ってある。
〈ついにレコード・デビュー! ホノルル出身のスーパー・バンド! THE《ザ》 BANDAGE《バンデージ》!!〉
と、ウインドにスプレーの描《か》き文字。その下。4人のメンバーに囲まれて笑ってる自分。
〈ハッピー・バースデー・ミッキー〉あたしは、自分に向かって、そうつぶやきかけた。
PRIMOの缶を上げる。グイとひと飲み。冷たいビールが、ノドを滑《すべ》り落ちていく。
♪
肩《かた》の高さぐらいの仮設ステージに、あたしは上がった。ステージのまわりは、若い連中でいっぱいだった。
ほかのメンバーは、自分の楽器をチューニングしてる。
あたしも、ドラムセットのイスに坐《すわ》った。ドラムスの角度を、なおそうとした。そのとき、赤いものが目に飛び込んできた。文字だった。
左のタムタムの皮《フエース》に〈HAPPY〉。
右のタムタムに〈BIRTHDAY!〉。
手前のスネアーに〈TO MICKEY!〉。
右上がりの跳《と》び弾《は》ねた文字は、ビリーか……、チャック……。あたしは、顔を上げた。
〈さあ、いくぜ、ミッキー〉そんな表情で、ビリーがふり向いた。ニッと笑った。
〈準備、OK〉そんな表情で、アキラがあたしを見た。
〈1発、ぶちかまそう〉そんな表情で、チャックが白い歯を見せた。
〈いつでも、いいぜ〉そんな顔で、リカルドが親指を立てた。
あたしは、ヒップ・ポケットからスティックを引き抜《ぬ》いた。スネアーの角度を、少しなおす。
皮《フエース》にかかれた〈HAPPY〉〈BIRTHDAY!〉〈TO MICKEY!〉の文字が、涙《なみだ》でにじんだ。
空を見上げる。深呼吸……。
青さを残した空。シルエットで揺《ゆ》れるヤシの葉。
あたしは、胸の中でつぶやいた。
〈パパ……あなたの不良娘は……17歳《さい》になったわ〉
ベレタニア|通り《ストリート》を渡《わた》るたそがれの風。
ポニー・テールに結んだ青いハンカチ。J・Rが結んだ青いハンカチが、ふわりと揺れた。
〈こいつが、おれの夢《ゆめ》だと思って〉そんなJ・Rの言葉が、胸の中をよぎっていく。
あたしは、スティックを握《にぎ》りなおした。
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|1《ワン》)
カチッ (|2《ツー》)
カチッ (|3《スリー》)
カチッ (|4《フオー》)
ヤシの葉が映ってるシンバルに、力いっぱいスティックを振《ふ》りおろした。
[#改ページ]
喜多嶋隆をよりよく知るための29の質問
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
Q 一日はどのように始まりますか
A うーんと……仕事部屋(2階)の窓を開けて、となりの高校の、まだ誰もいないテニスコートをながめる。コップ1杯の冷たい水を飲みながら。気分しだいではW《ウイリー》・ネルソンなど聴きながら……。
Q 体は鍛《きた》えていますか
A テニスやスキーや自転車は好きだけど、あくまで楽しいからやるわけで、健康とかいうダサいことは考えたことがないなあ……。
Q 頭は鍛えていますか
A ときどき、頭突きで釘《くぎ》を打ちます、ハハハ。
Q 一日のアルコール摂取量は
A ビール1杯から、ジン1本まで。
Q 一日の仕事の量と時間は
A 1行から、400字づめ70枚まで。
Q ベスト・ミュージシャンは
A うーん、むずかしいなあ。ベストなんて決められるほど長い人生をまだやってないけど、とりあえず、いま好きなのは〈ザ・ジェッツ〉というグループです。
去年の10月、ハワイにいたときに、たまたまライヴを聴いたんです。K《ケニー》・ロジャースのコンサートの前座で出ていて、とってもよかった。しかし、カントリー・ウェスタンのケニーの前座が、こういうロックグループってのは笑っちゃうね。このデタラメさってのは、僕は好きだなあ。マジメな日本人には、うけ入れられにくいところだろうけどね。とにかく、ジェッツはおすすめです。
Q ベスト・アルバムとベスト・チューンも
A そのジェッツの〈キュリオシティ〉。(ジェッツのアルバムはまだこれ1枚)
その中の〈You Got It All〉を聴きながら、たそがれの雲をながめていると泣ける。
Q もっとも愛する土地《エリア》というと
A やっぱり、ハワイかな……。この本が本屋さんに並ぶ頃、はじめてタヒチにいっているので、あるいはタヒチになるかも……。
Q 好きなBARを教えてください
A サンセット・ビーチ・バー(グアムにも、ハワイにも、湘南《しようなん》にも、つまりどこにでもあります。)
Q 好きなHOTELも
A ココナッツ・ホテル(つまり、ヤシの木にもたれて朝まで過ごす)。タックス、チップ、いっさいなし。ウェイクアップ・コールは、朝の潮風。
Q 64歳の時、何をしているでしょう
A 南の島で、カジキ釣りのトローリング・ボートの船長をしていたい。
Q 電話番号をいくつ憶《おぼ》えていますか
A え!? ……ほとんど、ゼロだなあ……。記憶力がよかったら、小説家になんかなってないもんねー。
Q 最近、いつ海を見ましたか
A ついきのう。
Q 今までに何回引越しましたか
A 3、4回。東京生まれ東京育ちだし、めんどうくさがりだから、なるべく引越したくない。
Q 今までにBEERを何《リツトル》呑みましたか
A わかんないよ、そんなの
Q 童貞を喪くした日のことを憶えていますか
A 部屋にO《オーテイス》・レディングの〈ドッグ・オブ・ザ・ベイ〉が低く流れていたことだけ覚えている。
Q 信頼できる友人は何人いますか
A 多くもなく、少なくもなく。
Q みた夢は憶えているほうですか
A 夢の中で小説のストーリーを考えて起きてすぐ書くことはよくある。っつーことは、憶えているんだなあ、けっこう。
Q とりあえず、今いちばん欲しいものは
A ブルック・シールズ
Q 最近の買物で、「これぞ」というものは
A 自転車(イタリー製ロードレーサー)。フレームはチネリ。タイヤはピレリー。パーツはカンパニョーロ。へたなクルマはこれで追い抜ける。
Q 今までに何回ぐらい泣きましたか
A 子供の頃は、わりによく泣いた。
Q 今までに何人ぐらい泣かせましたか
A 大人になってからは、わりによく泣かせた。
Q 一日が24時間30分だったら
A 30分よけいに寝られる。
Q 一日が23時間30分だったら
A 一日に書く原稿が2枚ほど減る。
Q 来世も小説家になりたいですか
A 来世、なりたいものはいろいろあります。たとえば、麻布で暮らすシティ派の猫とか、グアムにいる昼寝派のナマコとか、プレイボーイ(米国版)のピンナップ・ガールを撮るカメラマンのレンズなどなど。小説家は、その中に入ってないみたい。
Q 一日はどのように終りますか
A むにゃむにゃと終る。
Q この質問はくだらなかったですか
A 〈あとがき〉を書くより楽でいいよ。
Q これから何をしますか
A 飼ってる5匹の猫のためにキャット・フードの缶を開ける。
Q いつも、愛と勇気をありがとうございます。では、読者に向けて「さよなら」のメッセージをください。
A この本を手にしてくれてありがとう。これからも、僕の妹のミッキーを応援してください。
あ……それと、ウワサによると僕の小説の女性読者には美人が多いらしい。読んでいるうちに、どんどん美人になるというウワサもあります。男性読者は、ガールフレンドにぜひ読ませよう。
では、See You Soon!
[#ここで字下げ終わり]
ありがとうございました―――編集部
角川文庫『ポニー・テールに、罪はない』昭和62年7月25日初版発行