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プールサイドで踊ろう
喜多嶋隆
目 次
泣くな、セカンド・ガール
再会のビーチ
ディスコに、さよなら
プールサイドで踊ろう
あとがき
[#改ページ]
泣くな、セカンド・ガール
□
「いやあ、まいった、まいった」
という声がした。
きき覚えのある声だった。クルマにもたれ、フライド・ポテトをかじっていた僕は、そっちを見た。
CMプロデューサーの石川が、空港の建物から出てきたのが見えた。
ハワイ。
ホノルル国際空港。
午前10時半。
空港の玄関は、にぎやかだった。いまは、3月。そろそろ、ハネムーンのシーズンだった。いま、日本人の新婚さんが、ぞろぞろと空港玄関に出てくる。彼らの多くが、そろいのポロシャツを着て、首にはレイをかけていた。
そんな新婚さんたちをながめながら、僕は、そろそろ到着するロケ隊を待っているところだった。
最初に玄関に出てきたプロデューサーの石川は、僕の顔を見ると、
「まいった、まいった」
をくり返した。
「どうしたんですか? ずいぶん時間がかかったみたいだけど」
と僕は訊《き》いた。
「どうもこうも、税関がやたら厳しくてさ。こっちがロケ隊だとわかると、やたらしつこく荷物を調べるんだよ」
と石川。頬《ほお》をふくらませ、
「まいっちゃったよ」
と言った。
僕は、それをきいて、胸の中でうなずいていた。
税関がロケ隊に厳しくなったのは、理由がある。2、3週間前のことだ。タチの悪いロケ隊のスタッフが、撮影機材に大麻《パカロロ》をしのばせて、ハワイから持ち出そうとしたのだ。
それ以来、ホノルル税関は、ロケ隊に対して厳しく、神経質《ナーバス》になっているらしかった。
僕は、そんな事情を石川に説明する。
説明しながら、彼のスーツケースを、クルマに積み込んだ。
ほかのスタッフは、まだ、出てこない。税関でひっかかっているらしかった。
□
僕のことを少し話しておこうと思う。
僕の名前は、ケン・タナベ。27歳。ハワイ生まれの日系四世だ。日系人といっても、外見は、普通の日本人だ。
言葉も、英語と日本語の両方を話せる。
生まれ育ちがハワイだから、多少、のんびりしたところはある。考え方も、ちょっとアメリカナイズされているかもしれない。
けれど、それ以外は、普通の日本人と変わらないと自分では思っている。
僕は、ロケのコーディネーターという仕事をしている。
日本からやってくるロケ隊のコーディネーターだ。
コーディネーターといっても、その仕事内容は幅広い。
まず、ロケ隊が泊まるホテルの世話から、仕事ははじまる。それから、ロケ全体の世話をするのだ。
スタッフと一緒に、ロケハンに走り回る。ロケ場所が決まったら、そこの撮影許可をとる。
ハワイのタレントやモデルを使う場合は、オーディションの設定からモデル選びまで、手伝う。
さらに小道具や何かが必要になったら、それを手配する。
そして、もし体の具合が悪くなったスタッフがいたら医者に連れていく。
エトセトラ……。
とにかく、ロケ隊がハワイに着いてから、ロケが終わってハワイを出発するまでの、すべての世話をするのが、僕らコーディネーターの仕事なのだ。
僕がこの仕事に入ったのは、ほんの偶然からだった。
U・H(ハワイ大学)に通っているときに、あるコーディネーターの事務所にバイトでやとわれたのだ。
コーディネーターの仕事をはじめてすぐに、僕は、この仕事を気に入ってしまった。
海外ロケというものが、もともと、面白い仕事だった。同じロケは二度となく、ロケそのものが、ひとつのドラマだった。
毎回、ちがう企画。ちがうスタッフ。ちがうロケ現場……。それは、変化にとんでいて、面白かった。
ひとつのロケ隊がきては、ドラマを残してハワイを去っていく……。ロケはいつも、出会いと別れの物語だった。
僕は、この仕事を楽しんでいる自分に、気づいていた。
はじめてバイトで入ったコーディネーターの事務所で、4年間、仕事をした。大学を卒業しても、そのまま、コーディネーターの仕事をしていた。
そして、25歳になったとき、自分で、コーディネーター事務所をつくった。事務所の名前は、自分の名前をとって、〈オフィス|KEN《ケン》〉とした。
いちおう独立はしたけれど、以前にいた事務所から回ってくる仕事を中心にやっている。
〈オフィス|KEN《ケン》〉をはじめて、いま、2年がたった。仕事の方は、なんとか順調にやっている。
そしていま、僕はまた、新しいロケ隊の連中を出迎えに、ホノルル空港にきていた。
□
「遅いなあ……。税関でひっかかってるのかなあ……」
と、プロデューサーの石川がつぶやいた。
彼は、今回のロケ隊で、ただ一人、僕が以前から知っているスタッフだった。ほかのスタッフとは、初対面ということになる。
石川は、心配そうな表情で、空港の出入口を見ていた。その髪は、かなり薄くなっている。
石川と僕は、もう、4年ぐらい前からのつき合いだった。石川は、30歳代の半ばだろうか。予算とスケジュールを仕切るプロデューサーとしては、若い方だろう。
やがて、ロケ隊のスタッフが、空港の玄関を出てきた。
「オーイ、こっちこっち!」
と石川。スタッフたちの方に叫んだ。
スタッフは、それぞれの荷物を持って、ぞろぞろとこっちに歩いてくる。僕は、
「お疲れさま」
と言いながら、彼らを出迎えた。
運転手のエドと一緒に、彼らの荷物をクルマに積み込みはじめた。クルマは、15人ほど乗れる大型のヴァンだ。
男性のスタッフが5、6人。いかにもタレントらしい若い娘《こ》が1人。スタイリストらしい女性。ヘア&メイクらしい女性……。
みんな、ぞろぞろとヴァンに乗り込んでいく。
そして、最後に、撮影部らしいスタッフがやってきた。
コマーシャルのロケ隊では、カメラマンとその助手たちは、まとめて〈撮影部〉と呼ばれていた。
カメラマンらしい中年の男。そして、助手らしい若い男。それぞれ、ジュラルミンの機材ケースを持って歩いてくる。
その後ろから、若い女の子が1人、重そうなジュラルミンの機材ケースを持って歩いてくるのが見えた。
女の子は、中肉中背。白いポロシャツに、スリム・ジーンズをはいていた。
彼女が持っている機材ケースは、かなり重そうだった。女の子としては中背の彼女にとって、それは、かなり重そうだった。
ちょっと、ふらつきそうになっている。
僕は、彼女の方に小走りでいった。
「手伝うよ」
と言った。
けれど、彼女は、
「大丈夫。ひとりで持てるわ」
と言った。きっぱりとした言い方だった。
眼と眼が合った。
彼女の黒眼がちな瞳《ひとみ》は、意志が強そうな光をたたえていた。
〈大丈夫。ひとりでやらせて〉
と、その瞳が言っていた。
僕は、手伝おうとしてさし出した手を引っこめた。彼女は、よろけそうになりながらも、一生懸命に機材ケースを運んでいく。
彼女は、クルマにたどり着いた。
運転手のエドが、その機材ケースをうけ取る。ヴァンに積み込んだ。
やがて、すべてのスタッフと機材がヴァンに乗った。僕は、ヴァンの助手席に乗り込んだ。
エドが、ギアを入れ、ゆっくりとクルマを出した。クルマは、空港の建物をはなれ、フリー・ウェイの方に走りはじめた。
ホノルルは、快晴だった。
明るい陽射《ひざ》しが、降り注いでいた。
窓から入ってくるカラッとした風が、僕が着ているアロハのソデをパタパタとはためかせている。
僕は、さっきの女の子のことが、ちょっと気になっていた。重い機材ケースを運んでいた女の子のことだ。
僕は、アロハの胸ポケットから、1枚の紙を取り出した。たたんであるその紙を、広げた。
それは、スタッフのリストだった。
今回のロケ隊のスタッフ。その全員の名前が、ずらっと並んでいた。僕は、そのリストを、じっと見た。
あった。
〈撮影部〉。その中に、1人だけ、女の名前があった。
寺田和美。そう書かれていた……。
僕は、さっきの彼女の表情を思い出していた。〈大丈夫。ひとりでやらせて〉と言っていた瞳。
まっすぐにこっちを見つめていた、黒眼がちな瞳……。
僕は、スタッフ・リストの中の〈和美〉という名前を、眼を細め、じっと見つめていた……。
□
30分後。
僕らは、ホテルのロビーにいた。ワイキキ・ビーチに面したSホテルのロビー。これから、ロケ隊が泊まるホテルだった。
ハワイアンのホテルマンが、のんびりと、チェック・インの手続きをやっている。
僕らは、その間に、立ったまま自己紹介しあっていた。プロデューサーの石川が、スタッフたちを僕に紹介していく……。
コマーシャルの演出をするディレクターは、秋山という名前だった。
そして、タレントはN子。まだ10代の娘《こ》だった。アイドル顔というのだろうか、丸ポチャの顔立ちをしていた。
タレントのマネージャーは、小太りの中年男だった。
スタイリストとヘア&メイクは、女性。2人とも、ベテランの年齢だった。タレントの機嫌をとる役もかねているようだった。
〈撮影部〉は、全部で3人だった。
カメラマンは、松本。ごつい体つきをした中年男だった。スタッフに厳しそうな雰囲気のカメラマンだった。
たとえて言えば、鬼軍曹。そんな感じだった。
カメラのチーフ助手は、倉田。やせて背が高い。まだ20代の終わり頃だろう。
そして、カメラのセカンド助手が、和美だった。彼女は、たぶん、まだ20代の中頃《なかごろ》にちがいなかった。
撮影現場でのライティングをうけもつ〈照明部〉は、今回のロケ隊では3人だった。3人とも、30代というところだろう。
プロデューサーを助ける役の制作進行は、まだ20代の男だった。
それが、日本からやってきたロケ隊のすべてだった。全体には、若い連中が多いロケ隊だった。
僕は自己紹介をした。
そこで、やっと、チェック・インの手続きがととのった。スタッフたちは、エレベーターで、それぞれの部屋に上がっていった。
□
「問題は天気だなァ……」
とプロデューサーの石川。
腕組みをして言った。
午後2時。ホテル1階にあるコーヒー・ラウンジ。
メイン・スタッフと僕は、絵コンテをまん中に、打ち合わせをやっていた。
プロデューサー。制作進行。ディレクター。カメラマンの松本。それに照明のチーフの若林という顔ぶれだった。
テーブルには、テレビ・コマーシャルの絵コンテが広げられていた。絵コンテとは、コマーシャルの各カットを簡単なイラストで描いたものだ。
今回のコマーシャルは、新発売されるオレンジ・ジュースのコマーシャルだった。
絵コンテは、こんな内容だ。
〈まっ青な海をバックに〉
〈タレントのN子、はつらつとした水着姿〉
〈元気に、けれど不器用に、体操のポーズをとる〉
〈さか立ち(失敗)〉
〈Y字バランス(失敗)〉
〈側転(これも失敗)〉
〈N子、ハアハアと息をつきながら、商品の缶ジュースを手にする〉
〈そこへNA(ナレーション)――青春は、ノドが乾く――〉
〈N子、商品をグイグイと飲み干す〉
〈最後に商品カット(海バック)〉
〈そこへ商品ロゴ|C・I《カツト・イン》。そして、NAで商品名と新発売!〉
まあ、簡単に言うと、こんな内容のコマーシャルだ。
どちらかといえば、平凡な企画だけれど、これはこれでいいのだろう。新発売のジュースだから、15秒のスポット・コマーシャルがオン・エアの中心になる。15秒のスポットには、あまり複雑なコンテは向かない。シンプルな企画の方がいいのだ。
このコンテでは、N子のはつらつとした表情が撮《と》れれば、まず、成功だろう。
もちろん、青い海と明るい陽射《ひざ》しは、絶対に必要だ。
「天気の方は、まあ、神だのみしかないなァ」
と僕は言った。
常夏《とこなつ》といわれるハワイでも、天気がくずれることはある。特にこの2、3週間、曇ったり雨が降ったりすることが多い。
「それもそうだけど、N子の陽灼《ひや》け、どうしようか」
と、ディレクターの秋山が言った。
「N子、いまはなまっちろいから、少し陽灼けさせないとダメだろうなあ……」
プロデューサーの石川が言った。
「じゃ、撮影用の水着をつけさせて、ホテルのプールサイドで陽灼けするように指示しよう」
と石川。メモしながら言った。
「けど、あまり急に陽灼けさせると、まっ赤になっちゃうから、4、5日はかけないとダメだろうなァ」
と僕は言った。
スタッフたちは、うなずいた。
「じゃ、その4、5日の間に、ロケハンと、商品カットの撮影をするようにしよう」
石川が言った。
また、みんなうなずいた。
タレントのN子がいなくても、商品カットの撮影はできる。そっちを先行して撮《と》るのが正解だろう。
「じゃ、いま決めたスケジュールは、今夜の夕食のときに、スタッフ全員に知らせることにしよう」
と石川が言った。
制作進行が、うなずきながらメモを取っている。
□
「何をモタモタしてるんだ!」
カメラマンの松本が、太い声で叫んだ。
「あっ、はい!」
という声。和美だった。
ムーヴィー・カメラ用の三脚をかついで、砂浜を歩いてくる。けれど、ムーヴィー用の三脚は、かなり重い。和美は、ふらつきながら、三脚をかついでくる。
商品カットの撮影が、はじまろうとしていた。
午前10時。
アラ・モアナ・ビーチ。
砂浜で、撮影の準備がすすんでいた。
砂の上に、撮影台がセットされる。その上に、きれいなアクリル板が敷かれる。そして、アクリル板の上に、商品の缶ジュースが、置かれた。
「カメラは、ここだ」
と松本。砂浜の一ヵ所を指さした。
「はい」
と和美。三脚をかついで、カメラ位置まで運んでこようとする。けれど、砂浜に足をとられ、よろけた。
三脚をかついだまま、転んでしまった。
とたん、
「何やってるんだよ! ドジ!」
と松本の声が飛んだ。
和美は、顔についた砂を払うのも忘れ、立ち上がる。三脚をかつぎなおす。カメラ位置まで運んだ。
手伝ってやろうかと、僕は思った。
けれど、いまここで手伝うことは、かえって彼女のプライドを傷つけると思った。手伝わないことにした。
やがて、カメラは三脚にセットされ、チーフ助手の倉田が絞りをいじくりはじめた。
コマーシャルの場合、カメラマンには2人の助手がつくことが多い。
一番目の助手は、〈チーフ〉と呼ばれる。チーフは、カメラマンの片腕になって、カメラ操作をするのだ。
露出を測る。それによって、カメラの絞りを決める。そして、毎秒何コマでカメラを回すのかをセットする。
そんな大切な作業を、チーフは任されている。
そして、二番目の助手は、〈セカンド〉と呼ばれる。
セカンドは、カメラに関するいろいろな雑用をすべてやるのだ。早い話、カメラの雑用係といえないこともない。
カメラマン。チーフ。セカンド。
その上下関係は、絶対的なものだ。〈撮影部〉は、ロケ隊の中でも、最も上下関係が厳しいだろう。
セカンドを何年か経験し、チーフに昇格する。チーフをまた何年か経験し、一本立ちのカメラマンになる。
ムーヴィー・カメラマンの世界は、そんな風に構成されているのだ。
そして、僕が知る限り、ムーヴィー・カメラの助手で女というのは、和美がはじめてだった。
砂浜では、撮影準備がすすんでいた。
商品の缶ジュースの位置が、正確に決められる。制作進行が、缶ジュースに、霧吹きで水を吹きつける。缶が汗をかいたように見せかけるためだ。
ファインダーをのぞいていたカメラマンが、ファインダーから眼をはなす。カメラの後ろにいる和美に、
「バッテリー・コード! ぼやぼやするな!」
と叫んだ。
「はい!」
と和美。あわててバッテリー・コードをカメラにつないだ。
□
「セカンドも、大変だなあ」
僕は、弁当を突つきながら和美に言った。
撮影準備はととのったものの、空が晴れてくれない。砂浜の上空を、雲がおおいつくしていた。
昼になったので、昼食にすることにした。昼食は、弁当だ。それぞれ、砂浜のあちこちに座って弁当を広げはじめた。
和美は、ひとり、ジュラルミンの機材ケースに腰かけて、弁当を広げようとしていた。
僕は、そのとなりに腰かけた。
さっきからどなられっぱなしの和美を、少しでも元気づけようと思ったのだ。弁当を広げながら、
「大変だなあ」
と言った。
和美は、ちょっと苦笑した。その苦笑は、自分自身に向けられたもののようにも見えた。
「しかたないわ」
と和美。
「セカンドなんだから……」
と言った。
確かに、セカンドは、楽じゃない。
カメラ関係の雑用をすべてこなさなければならない。当然のように、カメラマンからどなられることも多い立場だった。
けれど、そんなセカンドを経験しなければ、チーフには昇格できないのだ。しかたないといえば、しかたない。
僕は、和美と並んで、弁当を突つきはじめた。
きょうの弁当は、〈ジップ・パック〉だった。ハワイでは人気のチェーン店〈ジッピーズ〉でつくっている弁当だ。
〈ジップ・パック〉は、日本式の弁当によく似ている。
おかずは、4種類。白身魚(マヒマヒ)のフライ。チキンの唐揚げ。焼き肉。ミート・ローフ。
そして、白いご飯には、青ノリのふりかけがかかっている。ボリュームもあるし、なかなかうまい。これだけの内容で、5ドル35セントだ。
僕は、ジップ・パックを突つきながら、和美と言葉をかわした。
和美は、けして口数は多くないけれど、暗くはなかった。話し方は、さっぱりしている。けれど、そっけないというのではなかった。
飾りけのない言葉が、ぽつり、ぽつりと、かわされる。
「セカンドになって、何年?」
僕が訊《き》いた。
「3年と10ヵ月」
和美が答えた。
この世界に入って3年と10ヵ月ということは……彼女の年齢《とし》は、20代の中頃《なかごろ》ということになるのだろう。
僕は、頭の中で、そんな計算をしていた。
「あ……。わたしの年齢《とし》を、計算してるでしょう」
と和美が言った。ちょっと微笑《わら》っていた。
「正解」
と僕は答えた。
「計算なんかしなくてもいいわ。わたし、いま、24よ」
和美は言った。
「24か……」
「……そう……。普通なら、花嫁修業でもしている年齢《とし》なのにね」
と和美。ちょっと苦笑しながら言った。
「花嫁修業か……」
僕はつぶやいた。マヒマヒのフライを、かじった。
「わたしには、もう、遠い話ね……」
「でも……後悔してるようには見えないけど?」
僕は言った。
「そりゃ……夢みたいなものがあるから……」
つぶやくように、和美は言った。
「……夢っていうと、一本立ちのカメラマンになるっていうことかな?」
僕が訊くと、彼女は、小さくうなずいた。そして、ミート・ローフをかじった。その眼が、遠くを見ていた。
「……美術大学の学生だったときのことよ……。ある日、映画館にいったの」
「映画館?」
「そう……。そこで、映画の前に、何本かコマーシャルが流れたの……。その1本を見たとたん、電気に感電したみたいになったわ……。化粧品のコマーシャルだったんだけど、その映像の美しさに、すごいショックをうけた……。それはそれは、ひどいショックだったわ……」
「寝込むほどのショック?」
彼女は微笑《わら》った。
「寝込みはしなかったけど、熱に浮かされたみたいになったわ……。そして、2ヵ月後には、大学を中退して、この世界に入ったの」
と彼女は言った。
僕は、うなずきながらきいていた。
彼女の話をききながら、ジップ・パックを突ついていた。アラ・モアナ・ビーチを渡るサラリとした風が、着ているTシャツのソデを揺らせていた。
□
結局、その日、天気は回復しなかった。曇り空がつづいていた。商品カットの撮影は、翌日に回すことになった。遅い午後の砂浜で、僕らは機材の片づけをはじめた。
□
翌日。午前10時。
また、商品カットの撮影準備がはじまった。
きょうは、よく晴れていた。
撮影は、うまくいきそうだった。撮影台やアクリル板がセットされる。カメラもセットされる。
「じゃ、テストでカメラ回してみようか」
とカメラマンの松本が言った。そのときだった。
「あっ!」
と和美の叫び声がした。
□
「フィルムを忘れた!?」
とカメラマンの松本。
「すいません! ホテルの部屋に、ケースごと忘れてきました!」
と言ったのは和美だ。その顔が蒼《あお》ざめている。フィルムの管理は、セカンドである彼女の役目なのだ。
「この馬鹿!」
と松本は叫んだ。
「すいません! すぐに取ってきます!」
と和美。
僕はもう、エドからクルマのキーをうけとっていた。クルマに走る。エンジンをかける。走ってきた和美が乗った。スタートさせた。
アラ・モアナ・ビーチから、スタッフが泊まっているSホテルまでは、せいぜい10分というところだ。
「きょう1日中、天気がいいみたいだから、そんなに心配するなよ」
クルマのステアリングを握って、僕は言った。けれど、和美は、硬《かた》い表情のまま、じっと前を見つめている。
□
30分後。
僕と和美は、フィルムを持って撮影現場に戻ってきた。撮影準備は、かなり進んでいた。和美は、素早い動作で、カメラにフィルムをセットしていく。
その和美を、松本がにらみつけている。
「まあまあ。きょうは、ずっと天気がいいみたいだし、そんなにカリカリしなくてもいいんじゃない」
とプロデューサーの石川が松本に言った。確かに、ホノルルの空は、晴れ上がっている。頭上には雲ひとつない。
作業をしている和美の額《ひたい》に、汗のしずくが流れていた。
□
ん?
僕は、思わず胸の中でつぶやいていた。
ふと、足をとめた。
商品カットを撮《と》り終わった、その日の夜だった。夕食のあと、僕は、石川の部屋で軽く酒を飲んだ。飲みながら仕事の話を少しして、石川の部屋をあとにした。
ホテル1階にあるプール。そのプールサイドを通って、ワイキキ・ビーチの砂浜に出ようとした。
ビーチを軽く散歩して帰ろうと思っていた。
夜のプールには、エメラルド・グリーンのライトがついている。けれど、泳いでいる人間はいない。
どこからか、プルメリアの花の匂《にお》いがしていた。かすかに甘い香りが、夜の風の中に感じられた。
僕は、こんな夜のプールサイドが好きだ。
ゆっくりとした足どりで、歩きはじめた。そのときだった。
人影に気づいた。
プールサイドには、デッキ・チェアーがずらりと並んでいる。そのチェアーの1つに、誰かが座っているのに、僕は気づいた。
プールサイドは、薄暗い。
けれど、ホテルの建物からもれてくる明かりで、座っているのが和美だとわかった。
僕は、ゆっくりと、そっちへ歩いていった。
やがて、彼女のそばに立った。
「座ってもいいかい?」
と訊《き》いた。彼女は、無言でうなずいた。僕は、彼女と並んで、デッキ・チェアーに腰かけた。
彼女は、黄色い半ソデのポロシャツを着ていた。ブルー系のショートパンツをはいていた。
片手に、たたんだバンダナを握っているのが見えた。
「どうした」
と僕は訊いた。彼女は、
「ちょっとね……」
と、つぶやくように言った。その声は、鼻声だった。どうやら、泣いていたらしい。それが、薄暗い中でもわかった。
「さっきのことで、落ち込んでるのか?」
僕は、思いきって訊いてみた。
彼女は、ゆっくりと、しかし、はっきりとうなずいた。
「……フィルムを忘れてしまうなんて、最低……。つくづく、自分が嫌になったわ」
と言った。
「あんまり気にするなよ。誰にだって、失敗はあるんだから」
とりあえず、僕は言った。けれど、それは、あまりに決まりきったなぐさめのセリフだった。
なんの効果もないだろう……。
僕は、言葉をさがしていた。何か、彼女を元気づけられる言葉を……。
つぶやくように、彼女が口を開いた。
「……やっぱり……撮影の仕事って、男の仕事なのかなァ……」
と言った。
なんと答えていいかわからず、僕は、しばらく無言でいた。
「女だって、男の人と同じようにできるんだって、ずっとそう信じてやってきたんだけど……ちょっと、自信がなくなっちゃった……」
彼女は言った。
「やっぱり……女じゃ、この仕事は無理なのかなァ……。半年ぐらい前から、そんな風に思えてしかたないの」
と彼女。小声で言った。その声に、力がなかった。かなり、気持ちがダメージをうけているらしかった。
「わたし……もしかしたら……今回のロケを最後に、撮影の仕事をやめるかもしれない……」
彼女は、ひとことひとことを噛《か》みしめるように言った。
「……やめる?……」
彼女は、うなずいた。
「ムーヴィー・カメラの仕事をあきらめて……何か、別の仕事を捜すかもしれないわ……」
と言った。
「そう決めてしまうのは、まだ早いんじゃないのか?」
と僕は言った。
彼女の肩を、そっと抱いた。彼女の体が、こっちに傾いてきた。彼女の頭は、僕の肩にのせられた。
僕はうまい言葉を見つけられず、無言でいた。無言で、彼女の肩を抱いていた。彼女の頭を、自分の肩にのせていた。
プールの水面に、花びらが1枚、落ちた。
エメラルド・グリーンのライトが入っているプールの水面。ブーゲンヴィリアのピンクの花びらが1枚、フワリと落ちた。
小さな花びらは、かすかな風に、ゆっくりと水面を動いていく。広大な海を漂う小舟のように、水面に揺れている。
頼りなさそうに見えるその小さな花びらは、まるで、いまの和美のようだと、僕は思った。
小さく、頼りなく、風に揺れている一片の花びら……。僕は眼を細め、それをじっと見つめていた。
ホテルのカクテル・ラウンジから、ピアノ・トリオが演奏する〈|Without You《ウイズアウト・ユー》〉が、風に乗って、静かに流れてきた。
僕は、じっと、和美の肩を抱いていた。
プールの水面で、ブーゲンヴィリアの花びらが揺れていた……。
□
「島の西海岸か……」
僕は、地図をながめてつぶやいた。
プロデューサーの石川の部屋。僕らは、撮影場所を決める打ち合わせをしていた。2日間のロケハンを終えたところだった。
ロケハンの結果、撮影場所の候補は、島の西海岸ということになった。プロデューサーの石川も、ディレクターの秋山も、西海岸がいいという。
彼らの狙《ねら》いは、よくわかった。
オアフ島は、東海岸より西海岸の方が海の色が濃いブルーなのだ。東海岸が遠浅でエメラルド・グリーンなのに対し、西海岸は、濃いブルーをしている。
濃いブルーを背景《バツク》にした方が、オレンジ・ジュースのCMとしては、カリッと抜けのいい映像が撮《と》れるだろう。
僕は、うなずきながら、オアフ島の地図をながめた。
フリーウェイ、H1を西へ走り、ルート93に入る。ルート93は、オアフ島の西海岸を走る道だ。
カヘ海岸。ナナクリ海岸。マイリ海岸。そしてマカハ海岸。濃いブルーの海が、つづいている。
「しかし……このあたりで撮影するとなると、警官が必要になるな」
と僕は言った。
「警官?」
とプロデューサーの石川。
「ああ。このあたりの海岸は、あまり治安が良くないんだ」
僕は言った。
それは本当だった。この辺は、海はきれいなブルーをしているけれど、あまり治安の良くない土地だった。
以前も、このあたりで撮影をしていたロケ隊の連中が、撮影機材をかっぱらわれたことがあった。
ときどきあることだ。
そういう場所でロケをするとき、僕らは、警官を雇うことにしている。本物の警官が、ポリス・カーに乗って、やってきてくれるのだ。
彼ら警官にとっては、ごく気軽なアルバイトということになる。警官にそばにいてもらえれば、僕らロケ隊も安心して仕事ができるということになる。
「オーケイ。警官の手配は、まかせてもらっていい」
と僕は言った。手帳にメモする。
□
「よお、ケン」
と警官のジェフ。僕の向かい側に座ると、ニッと白い歯を見せた。
朝の10時。
ワイキキのはずれにあるレストラン〈エッグ・パラダイス〉。玉子料理が中心のレストランだ。観光客は少なく、地元《ローカル》の客が多い。
僕とジェフは、この店で待ち合わせをしたのだ。
ジェフは、ホノルル市 |警 察《ポリス・デパートメント》の巡査部長だ。もう、40歳近いだろう。やや太りぎみの白人だ。
ジェフを待つ間、僕は朝食を食べていた。
目玉焼きを3個。目玉焼きは、両面を軽く焼いたもので、地元では〈テイク・イージー〉と言う。
つけあわせは、|ポルトガル産《ポツチギー》ソーセージ。これは、香辛料をきかせたソーセージだ。太いソーセージを輪切りにして火であぶってある。たっぷりと山もりになっている。
ジェフは僕の朝食を見ると、
「かねがね、不思議に思っていたんだがね、ケン」
と言った。
「何が?」
と僕。
「お前さん、そんなに大喰《おおぐ》いなのに、どうしてそんなにスリムでいられるのか、そいつが不思議でしかたないんだがな」
とジェフは言った。僕は、ポッチギー・ソーセージをかじりながら、
「心が清らかだからね」
と言った。ウインクしてみせた。
「まあ、言いたいことを言ってろ」
とジェフ。チャイニーズのウエイトレスに僕と同じものを注文した。おまけに、デザートにチェリー・パイまでオーダーした。
「チェリー・パイは、やめといた方がいいんじゃないのか? また太るぜ」
僕は、でっぷりとせり出しているジェフの腹をながめて言った。
「ほっといてくれ。どうせ、おれは心が清らかじゃないからな」
とジェフ。薄いコーヒーを、がぶりと飲んだ。
「ところで用件はなんだ」
「警官のアルバイトが必要なんだ。明後日《あさつて》、島の西海岸で撮影をやる予定になっているんだ」
「警官は何人必要だ」
「それほど大がかりな撮影じゃないから、1人で充分だ」
僕は言った。ジェフは、うなずいた。
「いま、誰なら来てもらえる?」
「誰でも。このところ、事件が少なくて、市警は平和なんだ。みんな退屈してるよ。誰がいい。ポールか? ケリーか? ロバートか? それともマリーか?」
ジェフは言った。|目玉焼き《テイク・イージー》を、フォークで突つきはじめた。
「マリーか……」
僕は、つぶやいた。マリーは、女性警官だ。まだ若い。20歳代の終わり頃だろう。何回か、ロケ現場の警備に頼んだことがある。
「マリーか……」
僕はまた、つぶやいた。ぼんやりと、あることを考えていた。
「マリーがいいのか?」
とジェフ。
「ああ」
「何か理由があるのか? 女性警官がいいという理由が」
「ないこともない」
「よければ、話してくれよ」
僕は、コーヒーをひと口、飲んだ。
「ロケ隊の中に、珍しく女のカメラ・スタッフがいるんだ。ところが、彼女は、いま、いろいろと悩んでいるんだ」
「世の中、悩みは多いさ。それで、彼女はなんで悩んでいるんだ」
「簡単なことだ。ムーヴィー・カメラの仕事は、女の自分には向かないんじゃないかと考え、悩んでいるんだ」
僕は言った。
「なるほど」
とジェフ。ポッチギー・ソーセージを口に放り込んだ。
「マリーのような女性警官の姿を見れば、彼女の気持ちも少しは勇気づくかもしれないと思ったのさ」
「なるほどな……。しかし、ロケ隊のコーディネーターってのも大変な仕事だな。そこまでスタッフの面倒を見なきゃいけないとはな」
「こいつは、仕事の範囲をちょっとこえて、個人的な問題なんだ」
僕は言った。ジェフは、かすかにニヤリとした。
「美人なのか、そのカメラ・スタッフの娘《こ》は」
と言った。
「なかなか美人だけど、そんなことは、あまり関係ない。どんな女の子でも、落ち込んでいるなら、力になってやりたい」
僕は答えた。ジェフは、白い歯を見せ、ニコリとした。
「なるほど。お前さん、確かに、心が清らかだな」
と皮肉たっぷりに言った。僕は、ジェフの皮肉をきき流す。皿の上の目玉焼きを、フォークですくった。
□
「オーケイ。じゃ、荷物をおろそうか」
プロデューサーの石川が言った。
午前9時半。オアフ島西海岸のナナクリ・ビーチ。その海沿いにある駐車スペース。
スタッフを乗せたヴァンが着いたところだった。
ロケが、はじまろうとしていた。スタッフは、それぞれに荷物を持って、ビーチに歩いていく。
空はよく晴れていた。青というより紺に近いような空が、頭上に広がっていた。
順調にいけば、メイン・カットの撮影は、きょう1日で終わるだろう。
ヴァンから、撮影機材がおろされた。そのときだった。ルート93を、1台のポリス・カーが走ってくるのが見えた。
ポリス・カーは、スピードを落とす。ゆっくりと、ビーチの駐車スペースに入ってくる。ヴァンのとなりに駐《と》まった。バンパーが、朝の陽射《ひざ》しを反射した。
ゆっくりと、ドアが開く。
マリーが、おりてきた。
マリーは、身長170センチぐらいだろう。白人としては中背だった。少し麦藁《むぎわら》色がかった金髪は、後ろで、きっちりとまとめている。
美人といえないこともない。特に、瞳《ひとみ》の色がきれいだ。オリビア・ニュートンジョンのように、澄んだ青い瞳だった。
けれど、いま、その瞳は、レイバンのサングラスにかくされている。
制服だった。紺の半ソデシャツ。同じ紺のスラックス。腰のベルトには、ホルスターに入った拳銃《けんじゆう》。そして手錠。左腕には、銀のバッジが光っている。
マリーは、僕の姿を見つけると、
「ハイ、ケン」
と言って白い歯を見せた。僕らは、腕ずもうみたいなハワイ式の握手をした。それを、まわりのスタッフが見ていた。
警官を雇うとはきいていても、それが女性警官なんで、スタッフのみんなも少し驚いているようだった。
□
午前中の撮影は、順調に進んだ。
N子の、いきいきとした表情が、何カットか撮《と》れた。
12時半。昼食の時間になった。
マリーも、僕らスタッフと一緒に、昼食を食べた。昼は、ロースト・ビーフのサンドイッチだった。
「彼女、女なのにどうして警官になったのか、きいてみてくれないか」
とディレクターの秋山。僕に言った。単純に興味を持ったらしかった。
僕は、秋山の質問を英語になおしてマリーに訊《き》いた。マリーは、肩をすくめる。
「たいした理由は、ないわ」
と言った。ちょっと、いたずらっ子のような表情をする。
「しいて言えば、映画の〈ダーティー・ハリー〉に憧《あこが》れたからかしら」
と言った。僕は、それを日本語に訳した。スタッフの連中から、笑い声が上がった。マリーも一緒になって笑いながら、サンドイッチをかじっていた。
□
ジャーと回っていたムーヴィー・カメラが、止まった。ディレクターの秋山とカメラマンの松本が、うなずき合った。
「はい! このカット、オーケイ!」
「お疲れさま!」
の声が砂浜に響いた。
午後4時15分過ぎ。この日、最後のカットの撮影が終わったのだ。緊張していた現場の空気が、急になごやかなものに変わった。
現場の片づけがはじまった。
□
「現像所に?」
僕は、和美に訊《き》きなおした。彼女は、うなずいた。
「このまま、フィルムを現像所に持っていきたいんだけど」
と言った。
そうか……。撮《と》ったフィルムを現像所に持っていくのは、セカンドである彼女の役目らしかった。
「そうか……」
と僕はつぶやいた。大型のヴァンは、スタッフや機材を乗せて、このままホテルに帰ることになっていた。
僕は、4、5秒考えた。そして、思いついた。マリーのポリス・カーを使わせてもらえばいいのだ。僕は、マリーに声をかけた。事情を説明した。
「もしかまわなかったら、現像所を回ってくれると助かるんだけどな」
と言った。マリーは、うなずいた。
「もちろん、なんの問題もないわよ」
□
結局、僕は和美について、現像所までいくことにした。ヴァンは、運転手のエドにまかせた。
僕と和美は、マリーのポリス・カーに乗り込んだ。ハワイのポリス・カーは、白とブルーに塗られている。そのポリス・カーの後部《リア》シートに、僕らは乗り込んだ。
「こいつに乗る機会なんて、そうしょっちゅう、あることじゃないぜ」
僕は和美に言った。運転席のマリーが、白い歯を見せて、クルマを出した。ポリス・カーは、スタッフを乗せたヴァンとは別れて、走り出した。
ルート93を南へ下る。ゆっくりと走りはじめた。
走りはじめて10分もしたときだった。ふいに、ポリス・カーの無線が、かん高く鳴りはじめた。
□
無線は雑音まじりで、かん高い。言葉がききとりにくい。それでも、マリーにはわかるらしかった。
僕にも、相手がしゃべっている言葉の断片はきき取れた。
〈スーパーマーケット〉
〈ナイフ〉
〈男〉
そんな言葉のきれっぱしは、ききとれた。
マリーは、無線のマイクをつかんだ。
「こちら615。現場に急行します」
と言った。
つぎの瞬間、ポリス・カーのスピードが、急に上がった。そして、サイレンがけたたましく鳴りはじめた。
マリーは、前を見て運転したまま、
「ちょっと寄り道させて!」
と僕らに叫んだ。
「何があったんだ!?」
僕は訊いた。
「スーパーマーケットの前で、男がナイフをふり回してるらしいわ。そのスーパー、ここから近いのよ!」
マリーが叫び返した。
ポリス・カーは、時速80マイルぐらいまでスピードを上げていた。ルート93を南へ突っ走る。黒いキャディラックを、青いトヨタを、白のムスタングを追い抜いて走っていく。
ものの5分も走らないうちに、道路の左側にスーパーマーケットらしい建物が見えてきた。アメリカン・スタイルの大きなスーパーだ。
マリーはステアリングを左に切った。対向車線を横切る。タイヤが、キキッと悲鳴を上げた。
スピードを落とさず、クルマはスーパーの広い駐車場に突っ込んでいった。そのまま、スーパーの出入口に向かう。
スーパーの出入口のあたりに、人垣ができているのが見えた。
マリーは、その人だかりの中へ、ポリス・カーを入れた。人垣が左右に分かれた。
マリーは、ポリス・カーのサイレンを切った。エンジンは切らない。まだ、ほかのポリス・カーは、きていなかった。
スーパーの出入口に、男が1人、立っていた。出入口の付近の壁にもたれるようにして立っていた。
男は白人だった。30歳ぐらいだろうか。汚れたジーンズをはき、長ソデシャツのスソを、だらしなく外に出していた。無精ヒゲをはやしている。
その体が、前後左右にふらついている。眼は血走っている。ひどく酒に酔っているか、麻薬中毒《ジヤンキー》なのかもしれない。
右手に、ナイフを握っていた。ナイフを握って、あたりをにらみつけていた。
やじ馬は、男を遠まきにしていた。みんな地元の人間らしい買い物客だ。息をひそめ、おそるおそる、遠まきにして男を見ていた。
マリーは、
「ちょっと待ってて」
と僕らに言い、ポリス・カーをおりた。
〈ちょっと待ってて。コークを1本買ってくるから〉
というような気軽な口調だった。
マリーは、男の方に歩きはじめた。やじ馬が、左右に道をあけた。マリーは、ゆっくりとした足どりで男に近づいていく。
15メートル……10メートル……7メートル……。
男から5、6メートルぐらいのところまで近づいた。
「ナイフを捨てなさい!」
とマリーは言った。男は、焦点のさだまらない眼でマリーをにらみつける。その体は、前後左右に揺れている。
マリーは、また2、3歩、男に近づいた。
「そのナイフを捨てなさい」
と言った。男が、何か叫び返した。そして、ナイフをふり上げ、マリーにかかっていった。
僕のとなりで、和美がハッと息をのむのがわかった。
男は、何かわめきながらマリーに切りかかっていく。けれど、その動きはのろかった。
マリーは落ち着いていた。ナイフを握っている男の右手を、両手でつかんだ。男の手を、ぐいとひねった。男の手から、ナイフが落ちた。マリーは、力をゆるめなかった。右手をひねったまま、男を地面に倒した。
男は、あっけなく、うつぶせに倒れた。マリーはもう、腰につけていた手錠をつかんでいた。男の両手を、背中にもっていく。後ろ手に手錠をかけた。
あっという間の出来事だった。何か、格闘技の型を見せられたような感じだった。それほど、マリーの動きは落ち着いていて、ムダがなかった。
男に手錠をかけ、マリーは立ち上がった。そのとき、ポリス・カーが2台、スーパーの駐車場に走り込んでくるのが見えた。
□
10分後。男は、別のポリス・カーに乗せられて連行されていった。マリーも、僕らが乗っているポリス・カーに戻ってきた。
「すごいな」
と僕が言うと、
「仕事だもの」
マリーは、こともなげに言った。その声にはなんの気負いもなかった。クルマのギアを入れた。
□
30分後。現像所に着き、和美はフィルムを現像に出した。
「あなたたちをホテルに送っていく前に、ちょっと署に寄っていい? 警察署はすぐそこだから」
とマリー。僕はもちろん、かまわないと言った。フィルムを現像に出してしまえば、もう、急ぐことはない。
マリーはポリス・カーを3分ほど走らせ、ホノルル警察に着いた。僕らをポリス・カーからおろした。
「ちょっと待ってて。もうこれで非番になるから」
マリーは言った。警察署に入っていった。
□
10分ほどして、マリーは、警察署から出てきた。けれど、一瞬、僕には、それがマリーだとはわからなかった。
後ろからまとめていた金髪は、ほどいて、肩までたらしている。淡いピンクのワンピースを着て、ヒールをはいていた。
そして、マリーは、子供を連れていた。3、4歳ぐらいの男の子だった。ジーンズをはき、黄色いTシャツを着ていた。
「息子のロイよ。警察の中にある保育所であずかってもらってるの」
マリーは言った。息子のロイは照れて、マリーの後ろにかくれるようにしていた。
警察署の裏手に回っていく。そこには、彼女のものらしいホンダ・アコードがあった。彼女は、息子を助手席に、僕らを後部《リア》シートに乗せ、クルマを出した。
確か、マリーは未婚の母だという話を、きいた覚えがある。僕は、そのことを、走るクルマの中で、日本語で和美に話した。
15分ほど走る。アコードは、Sホテルの玄関に着いた。僕と和美は、クルマをおりた。
「送ってくれて、ありがとう」
僕はマリーに言った。マリーは、
「どうってことないわよ。寄り道しちゃって、ごめんなさい」
と白い歯を見せた。僕と和美と握手をすると、クルマを出した。クルマの助手席で、息子のロイが僕らに手を振っているのが見えた。アコードのテール・ライトが遠ざかっていく。
□
「まいっちゃったなあ……」
和美が、つぶやくように言った。
すべての撮影が終わった日の夜だった。
ホテルのレストランで、簡単な打ち上げパーティーが開かれていた。みんな陽気だった。僕と和美は、とちゅうでパーティーを抜け出した。ホテルの前の砂浜を、ゆっくりと歩いていた。
波が、静かに、砂浜に打ち寄せていた。風は、まだ、昼間の熱さを残していた。
「まいっちゃったって……マリーのことか?」
僕は和美に訊《き》いた。和美がうなずくのが、暗さの中でもわかった。
「あんな風に、男まさりの危険な仕事をして……でも、それを自慢するわけでもなく……しかも、仕事をはなれたら、立派にひとりの女で、しかも母親で……」
と和美。
そこまで言って、言葉を呑《の》み込んだ。言葉を呑み込んだまま、しばらく、無言でいた。
「それに比べたら、わたしなんか」
「…………」
「ちょっとしごかれたぐらいで、めげちゃったりして……ほんとに、甘ったれてたのね……」
和美は言った。
「でも……そんな風に、自分のことを客観的に考えられるだけ、えらいと思うぜ」
僕は言った。本当にそう思ったのだ。
「そんな風に考えるきっかけを与えてくれたのは、このハワイと、あなたよ。……ありがとう」
和美は言った。僕の方に身をのり出す。僕の頬《ほお》に、短いキスをした。
僕は、和美の肩を抱き寄せた。
長いキスをお返しした。
やがて、和美は、唇をはなす。
「このつづきは、つぎのロケにきたときね……」
と言った。
「つぎのロケって……撮影の仕事をやめるんじゃなかったのか?」
僕は言った。
「やめないわよ……。決めたの。絶対にやめないわ。一本立ちのカメラマンになってやるの、必ず……」
和美は言った。僕は、うなずいた。
「がんばれよ」
「ありがとう。がんばるわ」
と和美。その声は静かだったけれど、力がこもっていた。
僕らは、腕を組んだまま、ゆっくりと砂浜を歩いていた。どこかのホテルから、ハワイアン・ミュージックが流れてきていた。さざ波が、砂浜に打ち寄せていた。見上げる空は、濃紺だった。ヤシの葉が、黒いシルエットで揺れている。ヤシの葉の彼方に、星が1つだけ見えた。
□
翌朝。10時。
ホノルル国際空港。出発ロビー。
ロケ隊は、荷物のチェック・インをしていた。僕も手伝っていた。スーツケースや、ジュラルミンの機材ケースを、つぎつぎとチェック・インしていく。
和美も、テキパキと働いていた。その表情が、晴れている。動きが、いきいきとしている。
1個、重そうな機材ケースがあった。和美は、それを運ぼうとしていた。僕が手伝おうとすると、
「大丈夫」
と和美は言った。澄んだ色の瞳《ひとみ》が、まっすぐに僕を見た。そして、
「仕事だもの」
と明るい声で言った。機材ケースを持ち上げる。航空会社のカウンターに運んでいく。その足どりは、しっかりとしていた。
吹き抜けになっている出発ロビー。風が吹き渡っていく。
カラッとしたハワイの風。かすかに海の匂《にお》いのする朝の風……。働いている和美の、髪を束ねている青いバンダナが、フワリと揺れた。
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再会のビーチ
□
「おや、先客か……」
とプロデューサーの三浦。陽射《ひざ》しのまぶしさに眼を細めて、つぶやいた。
オアフ島東海岸。カイルア・ビーチ。
午前10時。僕らのロケ隊は、カイルア・ビーチに着いたところだった。
スタッフが乗ったヴァンから一番先におりたのが、プロデューサーの三浦だった。
三浦は、ヴァンからおりると、眼の前の砂浜をながめた。そして、
〈先客か……〉
と、つぶやいた。
僕も、気づいていた。砂浜に、ほかのロケ隊らしい人の姿があったのだ。
50メートルぐらい先。白い砂浜の上。10人ぐらいの人影が見えた。反射《レフ》板を持っている人の姿がある。三脚と、ムーヴィー・カメラらしいものも見える。
そして、動いている人の姿は、みな、日本人らしかった。
たぶん、いや、間違いなく日本のロケ隊だろう。
僕は、それほど驚いていなかった。
ここカイルア・ビーチは、砂浜が白くて美しい。たぶん、オアフ島の中でも一番きれいなビーチのひとつだろう。
そして、ここの海は遠浅だ。海の色は、青みがかったエメラルド・グリーンに見える。やはり、美しさではオアフ島でも有数だろう。
海と砂浜が美しい。
当然のように、ここは、コマーシャルの撮影によく使われるのだ。
だから、ほかのロケ隊がいたところで、僕は、ほとんど驚かなかった。ここでロケ隊同士が鉢合わせすることは、これまでにも何回か、あった。
そして、ロケ隊同士が鉢合わせしたところで、特になんのトラブルも起きたことはなかった。
カイルア・ビーチは、広いのだ。
白い砂浜が、長くつづいている。
ロケ隊が鉢合わせしたところで、場所のとり合いということにはなりそうもなかった。
それでも、
「どこのロケ隊かな……」
とプロデューサーの三浦は言った。僕と並んで、先客のロケ隊の方に歩いていった。
あっちのロケ隊から20メートルぐらいまで近づいた時だった。
「三浦さんやないか!」
と、関西なまりの声がきこえた。
あっちのスタッフの中。ひときわ太った中年男が、右手を上げていた。僕と並んで歩いていた三浦が、
「よお、時田ちゃんか!」
と言った。
僕も気づいた。プロデューサーの時田だった。僕は、1年ほど前に一緒に仕事をしたことがある。典型的な関西人だった。細かく予算を削るので少し困ったことを覚えている。
三浦と時田は、よく知っている間柄らしかった。
「しばらくぶり、かな?」
と三浦。
「この前、銀座で会ったやないか。まだ1ヵ月もたってへんで」
と時田。
2人は、短く握手をかわした。時田は、僕を見て、
「よお、ケンちゃん」
と言った。白い歯を見せた。1年ぶりに会った時田は、また少し太ったようだった。僕も、
「おひさしぶり」
と、あいさつを返した。
僕らのロケ隊のヴァンから、ぞろぞろと、スタッフがおりてくる。こっちにやってくる。
時田たちのロケ隊は、全員で10人もいない。小規模なロケ隊だった。
僕らのロケ隊は、全部で16人だった。
僕らのロケ隊のカメラマン、広中が、
「よお、榊《さかき》ちゃん!」
と声をかけると、向こうのカメラ助手の榊も、
「ああ、広中さん!」
と手を上げた。
2つのロケ隊のスタッフ、何人かが顔見知りだった。これも、ロケ現場ではよくあることだ。コマーシャルのスタッフは、フリーの人間が多い。そして、そんなフリーの人間同士の横のつながりは多いようだ。
砂浜の上。
握手をするスタッフとスタッフ。肩を叩《たた》きあうスタッフとスタッフ……。向こうの仕事も、一時、中断してしまった。
同時に、太陽が雲にかくれてしまった。かなり大きな雲だった。
「しょうがないなァ……。ひと休みか」
という声がした。
向こうのロケ隊のディレクター、小田切だった。
小田切は、ストップ・ウォッチを持ったまま、空をあおいだ。そして、
「当分、ダメだな……」
と言った。
小田切は、30歳ぐらいだろうか。痩《や》せて、褐色に陽灼《ひや》けしていた。元スポーツ選手。いまはどこかの大学の陸上部のコーチ。たとえていえば、そんな雰囲気の男だった。
小田切は、ストップ・ウォッチを手に、ぶらぶらとこっちに歩いてくる。ショートパンツに、グレーのTシャツを着ていた。彼は僕の顔を見つけると、
「よお、ケンちゃん」
と言った。陽灼けした顔の中で、白い歯が光った。
「ひさしぶりだな」
小田切は僕に言った。僕は、うなずいた。この小田切と一緒に仕事をしてから、7、8ヵ月がたっているだろう。
「相変わらず、よく灼けてるなあ。仕事さぼって波乗りばっかりやってるんだろう」
小田切が僕にいった。
「そういう小田切さんだって」
と、僕は言いかけて、言葉を呑《の》み込んだ。
小田切の視線だ。
彼の視線が、僕を素通りして、僕の斜め後ろの誰かを見ていた。その表情が、さっきまでとは違っていた。
表情が、かたまってしまっている。そして、僕の斜め後ろの誰かを、じっと見つめていた。
僕は、ふり返って見た。
そこに立っていたのは、掛川美樹だった。僕らのロケ隊のスタイリスト、美樹だった。
美樹も、小田切のことを、じっと見つめていた。
「…………」
「…………」
お互いに、数秒の沈黙。やがて、美樹が口を開いた。
「ひさしぶり……」
と言った。ちょっと緊張したような声だった。小田切は、小さくうなずいた。
「ああ……。ひさしぶり……」
と言った。小田切の声も、硬《かた》かった。
「……元気、みたいね……」
美樹が言った。ちょっと無理やりつくった感じの微笑を浮かべていた。小田切は、また、小さくうなずいた。そして、
「そっちも……」
と言った。
つぎの言葉は、どちらからも出なかった。小田切と美樹は、2人とも無言……。お互いの肩のあたりを見ていた。
その時、
「小田切さーん!」
という声。向こうのロケ隊のカメラ助手が叫んでいる。
「ちょっと、カメラのぞいてみてくれませんか!」
とカメラ助手。小田切は、
「ああ!」
と、ふり返って叫んだ。美樹に向かって、
「じゃ……」
と言う。回れ右。自分のロケ隊の方へ帰っていった。
□
「さっきのあれ、ちょっと妙でしたね」
僕は、プロデューサーの三浦に言った。
15分後。
僕らのロケ隊も、クルマから機材をおろして、撮影の準備をしはじめたところだった。
「さっきの?」
と三浦。僕は、うなずいた。
「小田切さんと、美樹ちゃん」
僕は言った。
「ああ、あれか」
三浦は言った。胸ポケットから煙草を出す。セーラム・ライトだった。1本出してくわえる。使い捨てライターで、火をつけた。
「小田切と美樹は、恋人だったんだよ」
煙を吐き出しながら、三浦は言った。
「恋人だった?……」
「ああ……。もう、4、5年も前のことだと思うけどな……。あいつら、恋人同士だったんだ。確か、一緒に住んでたこともあったんじゃないかな……」
三浦は言った。
「で……ふたりは、別れた?」
「まあ、そういうことだな。くわしい事情は、おれも知らんよ。……とにかく、ふたりは別れた」
と、三浦。眼を細め、煙草をくゆらしている。セーラムの煙が、ゆったりと砂浜に流れていた。
「その頃の小田切は、バリバリの若手ディレクターでな……。感性が鋭くてキラキラしてたよ。美樹も、一人立ちしたばかりのスタイリストで、生き生きと仕事をしてたな……」
と三浦。
「似合いのカップルだと、おれも思ってたんだがね……。何がどうなったのか、ふたりの関係は、つづかなかったらしい」
と言った。
「まあ……たいした理由がなくても、男と女ってやつは別れるものだからな……」
三浦は言った。煙草の煙に、眼を細めている。
きいた話だと、三浦には離婚歴があるという。そんな三浦が言うと、言葉にリアリティーが感じられた。三浦が指にはさんでいるセーラムから、灰がポロリと落ちた。三浦は、それに気づかず、水平線を見つめていた。
□
「ダメだな……。昼飯にしよう」
と三浦が言った。
12時30分。
頭上を大きな雲が、いくつも流れていた。太陽は、雲に入ったり出たりをくり返している。そのたびに、砂浜に陽《ひ》が射したり曇ったりする。晴天が、10分以上つづかないのだ。これでは、撮影にならない。
「お昼です!」
と制作の若いスタッフ。みんなに叫んだ。
僕らのロケ隊は、それぞれの持ち場からはなれる。昼飯のために集まってきた。
砂浜と駐車場の間に、1本の大きなバニヤンの樹がある。僕らのロケ隊も、向こうのロケ隊も、荷物をその木陰に置いてあった。
僕らのロケ隊は、そのバニヤンの木陰で、弁当を広げはじめた。きょうの弁当は、日本食レストラン〈よしつね〉のトンカツ弁当だ。
しばらくすると、向こうのロケ隊も、撮影をあきらめたらしい。ぞろぞろと、バニヤンの木陰に入ってきた。
向こうも、制作が弁当を配りはじめた。
2つのロケ隊は、1つの木陰で、昼食をはじめた。
向こうの弁当は、シャケの塩焼きがメインの弁当だった。こっちのトンカツ弁当より、だいぶ安いと僕は思った。たぶん、プロデューサーの時田がケチったんだろう。
それでも、2つのロケ隊は、なごやかに昼食をつづけていた。
小田切と美樹は、離れたところに座っている。言葉もかわさないし、お互いを見ようともしていない。
「そっちは、どんな絵《コンテ》を撮《と》るんだい」
こっちのプロデューサー三浦が、向こうのプロデューサーの時田に訊《き》いた。
「こっちか? シンプルなもんや」
と時田。ポケットから、たたんだコンテのコピーを出した。広げて見せた。僕も、のぞき込んだ。
向こうは、エアコンのコマーシャルらしかった。
〈青い海をバックに、サラリとしたドレス姿のモデル、バイオリンを持っている〉
〈バイオリンを弾《ひ》くモデル〉
(撮影現場では弾いてるふり。バイオリンの音は、後からダビングする)
〈海をバックに流れる、華麗なバイオリン。美しいモデルの表情……〉
〈NA《ナレーシヨン》――きれいに生きよう……〉
〈商品カット。エアコン(スタジオ撮影)〉
〈NA《ナレーシヨン》――この夏も、きれいな冷房、おとどけします〉
〈商品ロゴ、|C・I《カツト・イン》。商品ナレーション〉
そんなコンテだった。
感覚派の小田切らしい企画だと、僕は思った。
砂浜にモデル1人。あとはセットも何もなし。そんなシンプルな撮影なので、向こうのロケ隊は、10人たらずの小編成ということらしい。
「そっちは、どんな絵《コンテ》や」
と時田が三浦に訊いた。
「こっちは、だいぶにぎやかだぜ」
と三浦。たたんだコンテのコピーを広げて時田に見せた。
こっちのは、ドレッシングのコマーシャルだった。新発売される、シーフード・ドレッシングのコマーシャルだった。
〈青い海。白い砂〉
〈野菜やシーフードを盛った|お盆《トレイ》を頭上にのせた外人モデル、3人〉
〈サンバのリズムにのって、ステップをふんでいる〉
〈NA《ナレーシヨン》――シーフード・サラダを、もりもり食べよう〉
〈できあがったシーフード・サラダのカット〉
〈ドレッシングの商品カット。商品ロゴ、|F・I《フエード・イン》〉
そんな内容のコンテだった。
「なるほどな」
と時田。シャケ弁当をぱくつきながら、うなずいた。
□
「月面宙返り!」
とカメラ助手の元木。プールサイドから、デタラメなフォームでプールにダイビングした。
空中で前転。そのまま、背中から水に落ちた。
バシャンッと大きな音。水しぶきが上がる。まわりにいたスタッフたちから、笑い声が上がった。
午後4時30分。ホノルル。
僕らのロケ隊が泊まっているYホテルのプールサイド。ロケ隊のスタッフたちは、プールサイドで遊んでいた。
カイルアでの撮影は、午後3時であきらめた。午後になっても、太陽が出たり入ったりのくり返しなのだ。
1時間かけてホノルルに帰ってくると、空はよく晴れていた。
よくあることだ。
カイルアは、オアフ島の東海岸。ホノルルは、南海岸。天気は、かなりちがうことが多い。たいていの場合、ホノルルの方が天気がいい。
きょうも、そうだった。
ホテルに戻ったスタッフたちは、プールに出て、泳いだり、飛び込んだりして遊んでいた。
プロデューサーの三浦が、プールサイドに出てきた。
「今夜の晩飯は、景気づけに、ステーキ・ハウスにのり込むぞ」
と三浦。スタッフたちに言った。ステーキ好きのスタッフからは、歓声が上がった。
僕のとなりで、
「ステーキか……」
と美樹がつぶやいた。乗り気でない、そんな口調だった。
「ステーキ、あんまり好きじゃないの?」
僕は美樹に訊《き》いた。彼女と仕事でつき合うのは、今回がはじめてだった。食べ物の好みは、わからない。
「あんまりねェ……」
と美樹。苦笑まじりに言った。その表情からすると、どうも、ステーキは苦手らしい。
「オーケイ。じゃ、もう少しさっぱりしたものを出すレストランに、連れていくよ」
僕は言った。こういうことも、コーディネーターの仕事の1つだ。ときどきあることだった。
□
「へえ……。これがヴェトナム料理のお店……」
と美樹。珍しそうに、店の中を見回した。
僕と美樹は、ダウンタウンにあるヴェトナム・レストランに入ったところだった。〈リトル・サイゴン〉という店だった。
ヴェトナム料理は、中華料理などに比べても、かなりあっさりしている。野菜も、たくさん使う。
そのあたりが、美樹には合っているだろうと思って、この店にやってきたのだ。
店の中は、小ざっぱりしていた。ところどころに、観葉植物が置いてある。清潔で明るかった。
僕は、ヴェトナム語と英語で書かれたメニューをながめ、適当にオーダーした。
そして、近くのリカー・ショップで買ってきたクアーズを開けた。
たいていのヴェトナム・レストランが、酒類《リカー・》販売許可《ライセンス》を持っていない。ビールやワインを飲みたい客は、自分で買ってきて持ち込むことになっている。
僕は、クアーズの|6缶《シツクス》パックから2缶とる。美樹と自分のグラスに注いだ。軽くグラスを合わせ、
「お疲れさま」
と乾杯した。
□
「わたしと小田切さんのこと……きいたでしょう?」
美樹が言った。2缶目のクアーズを飲みはじめた時だった。
「ああ……。三浦さんから、ちょっときいたよ」
僕は答えた。自分のグラスに、クアーズを注いだ。
美樹は、うなずいた。グラスに口をつけた。クアーズをひと口飲んだ。しばらく、無言でいた。やがて、口を開いた。
「皮肉なものね……。こんなところで再会するなんて……」
と言った。
「もっと別なところで再会すると思っていた?」
「まあね……」
と美樹。微笑《ほほえ》みながら言った。
「別れたといっても、2人とも同じ広告業界で仕事をしているんだから……いずれ、どこかで再会するとは思っていた」
「…………」
「……たとえば、麻布《あざぶ》あたりのスタジオとか……。それとも、六本木《ろつぽんぎ》や青山《あおやま》の街《まち》で、ばったり会うとか……そんなことを想像してたわ」
「…………」
「それが……ハワイのカイルア・ビーチで再会するとは……。人間同士って、不思議なものね……」
相変わらず微笑みながら美樹は言った。
美樹は、確か、僕と同じ年の27歳だったはずだ。同じ年齢という気軽さからか、ごく自然に話していた。
「立ち入ったことかもしれないけど、どうして別れることになっちゃったんだい」
と僕は訊いた。
僕から見ても、小田切と美樹は似合いのカップルのように思えたからだ。2人の間に何があったのか……。興味があった。
美樹は、またしばらく無言でいた。
やがて、クアーズのグラスに口をつけた。ノドを湿らすように、ビールをひと口、飲んだ。
「……まあ、ひとことで言ってしまえば、お互いの自己主張が強すぎたってことかしら……」
美樹は、口を開いた。
「自己主張か……」
僕は、つぶやいた。
「5年前のあの頃……小田切さんは、20代の半ばだった……。若手のディレクターとして、注目を浴びはじめた頃だったわ。……わたしの方は、短大を中退してスタイリストの道に入って3年目だった……。やっと、一本立ちのスタイリストとして仕事ができるようになった、そんな時期だったわ」
「…………」
「はじめて小田切さんと会ったのは、仕事の現場だったけど、その時の彼は、まぶしいほどはりきっていた。なんに関しても、強気でね」
「…………」
「彼から見たわたしも、たぶん、それに似ていたと思う。何に対しても、怖《こわ》いもの知らずというか、なんというか……」
と美樹。少し苦笑した。
「そういう時期の人間って、たいていがそうだと思うけど、彼もわたしも、生意気ざかりっていうか……まあ、早い話、自己主張のかたまりだったのね」
苦笑したまま、美樹は言った。
いまの美樹には、強すぎる自己主張も、生意気さも感じられない、と僕は思った。
それが、5年間の年月ということなのかもしれなかった。
「わたしと彼は、お互いのそんなところに惹《ひ》かれて、つき合うようになって……しばらくは一緒に住んだりもしたんだけど……」
と美樹。言葉|尻《じり》を呑《の》み込んだ。
「一緒に暮らすようになってしばらくすると……お互いの自己主張の強さが原因で、ぶつかることが多くなってきちゃったの」
「ぶつかる?……」
「そう……。ささいなことでも、お互いの主張がゆずれなくてね……。すぐに口論になっちゃって……」
と美樹。また、微苦笑した。
「部屋にかけるリトグラフのこと。夕食にどこへいくかということ……。そんな細かいことまで、意見がぶつかるようになっちゃってね」
「…………」
「そんな口論ばかりが、しばらくつづいたある日、わたしは、荷物をまとめて、彼と住んでいた部屋を出たわ……。それ以上、ふたりの関係をズタズタにしたくなかったのね」
「愛情が残っているうちに、別れたっていうことかな?」
「そうねえ……。愛情がとことん失われてしまう前に、別れたってことは確かね。ふたりの間柄がボロボロになる前に別れた方がいいと思ったの」
「それで、正解だった?」
僕は訊いた。美樹は、しばらく黙っていた。無言で、何か考えていた。瞳《ひとみ》が、遠くを見ていた。そして、
「さあ……」
と、つぶやいた。
「それは、よくわからないわ……。あの時、きっぱりと別れて正解だったのかどうか……よくわからないわ」
「…………」
「でも……人生のほとんどのことって、何が正解なのか、よくわからないものだもんね……。しかたないわね」
美樹は言った。微笑みながら言った。
その時だった。小柄なヴェトナム女性のウエイトレスが、料理の皿を、僕らのテーブルに運んできた。
□
眼の前には、大きな皿があった。皿には、いろいろなものがのっかっていた。
まず、茹《ゆ》でた小エビ。春雨。生の野菜が何種類か。レタス。ミント。名前を知らない野菜もあった。
そして、ライス・ペーパーが、あった。ライス・ペーパーとは、米でつくった薄皮だ。餃子《ギヨーザ》の皮などより、ずっと薄い。半透明の皮だ。直径15センチぐらいの円形をしていた。火が通っていて、そのまま食べられるものだ。
そのライス・ペーパーに、いろいろなものをくるみ、ピリッと辛いタレにつけてかじる。とてもポピュラーなヴェトナム料理だった。
僕は、ライス・ペーパーを1枚、手にとった。
そこに、いろいろなものをのせる。エビ。春雨。レタス。ミント。そして、ライス・ペーパーを丸めて、くるんだ。
辛いタレにちょっとつける。がぶりとかじった。
「こうやって食うんだ」
と美樹に言った。美樹は、うなずいた。
ライス・ペーパーを、1枚とる。その上に、具をのせた。ライス・ペーパーで、くるむ。それを、タレにつける。口に運ぼうとした。
けれど、薄いライス・ペーパーが破れてしまった。
ライス・ペーパーが破れ、中身が、皿の上にこぼれ出てしまった。美樹は、笑いはじめていた。
「失敗ね」
と、笑いながら言った。
皿の上にこぼれたエビや春雨を、ながめた。そして、つぶやくように言った。
「まるで、昔のわたしと彼みたい。……バラバラ……」
と言った。ちょっとホロ苦く笑った。店のオーディオから、E《エリツク》・クラプトンの唄《うた》うバラードが低く流れていた。
□
翌日、午後1時。
カイルア・ビーチ。
きょうも、2つのロケ隊は、少しはなれたところで撮影をしていた。晴天だけれど、風の強い日だった。
僕らのロケ隊は、ちょうど、ランチ・タイムの休憩に入ったところだった。
あっちから、向こうのプロデューサー、時田が歩いてくるのが見えた。時田は、こちらのプロデューサー、三浦のところにきた。
「ちょっといいかな」
と言った。三浦が、うなずいた。
「ちょっと相談なんやけど……」
と時田。話を切り出した。
時田の相談とは、こうだ。早い話、スタイリストの美樹をちょっと貸してほしいという。美樹に、向こうの撮影を手伝ってほしいというのだ。
風が強く、モデルに着せているドレスが、バタバタしすぎるのだという。
カメラに写らない裏側でドレスを絞りたいのだけれど、向こうのロケ隊にはスタイリストがいないという。
「こんな簡単な撮影やし、服は一種類だから、スタイリスト、連れてこなかったんや」
と時田。
なんとか、美樹に手伝ってほしいという。
「ほんの10分ですむ仕事なんや。なんとか、たのむわ」
と時田。三浦に言った。
三浦は、5、6秒考える。
「いまはちょうど休憩だし、10分や15分なら、いいんじゃないか。どう?」
と言って、美樹を見た。
「わたしなら、いいですけど」
と美樹は言った。
「オーケイ。じゃ、ちょっと手伝ってやってくれ」
と三浦。美樹は、うなずく。仕事道具の入ったタックル・ケースを持つと立ち上がった。僕も、美樹と一緒に歩きはじめた。
□
「なるほど……。これは、ちょっとね……」
と美樹は言った。
向こうのロケ隊の現場だ。
モデルが着ているのは、やわらかいシルクのドレスだった。それが、強い風にはためいている。そのはためきかたがきつ過ぎるのだ。
「このバタバタを、少しおさえること、できんやろか」
と時田。
「カメラに写らない向こう側で、ドレスを少し絞れば、なんとかなると思うけど……」
と美樹は言った。
さっそく、道具箱を持って、モデルの後ろに回った。ドレスの後ろを、安全ピンでとめはじめた。
10分たらずで、作業は終わった。
美樹は、モデルからはなれる。時田や小田切のいる方にやってきた。
「こんなもので、どうかしら」
と言って、時田と小田切を見た。時田は、
「いいんやないか」
と言った。小田切を見る。
「どうや、ディレクターさん」
と訊《き》いた。小田切は、じっと、モデルを見ている。
「もう少し、ドレスを絞った方がよくないか?」
と言った。美樹を見た。
はじめて、小田切と美樹の眼が合った。
美樹は、モデルに視線を移した。
「そうねえ……。でも、このぐらいは、ドレスが風に揺れていてもいいと思うんですけど……」
と言った。
それほど強い言い方ではなかった。提案するといった感じの言い方だった。
小田切は、腕組み。モデルの方をじっと見ている。1分……2分……。やがて、
「そうかもしれないな……」
と言った。小さく、けれど、はっきりとうなずいていた。そして、
「そうだな……」
と言った。今度は、大きく、うなずいた。
「オーケイ。これでいこう」
と言った。まわりにいたスタッフが、素早く動きはじめた。
□
「さっきは、ケンカになるかと思ったよ」
と僕は言った。
「さっき? わたしと小田切さん?」
と美樹。
「そう。ドレスをもう少し絞るかどうかっていうとき……。ケンカになるんじゃないかと、心配したよ」
僕は言った。
夕方の5時。
ロケ隊が泊まっているYホテル。そのプールサイドにあるバー。
僕と美樹は、バーのカウンターで、たそがれの1杯を飲んでいるところだった。僕は、プリモ・ビアー。美樹は、カンパリ・オレンジを飲んでいた。
太陽は、水平線に近づいていた。
グレープフルーツ色の陽射《ひざ》しが、プールサイドにあふれていた。デッキ・チェアーの影が、長くのびていた。もう、泳いでいる客は、いない。
すぐ眼の前のワイキキ・ビーチにも、人の姿は少なくなっていた。海水浴客たちが帰った後の砂浜。置き忘れられたコークの空き缶が、夕陽を照り返している。黒い犬が、1匹、波打ちぎわを歩いていた。
僕は、ビールをひと口、飲んだ。美樹も、カンパリ・オレンジのグラスに、口をつけた。
「わたしも、あの時は、口論になるかと思ったわ」
と美樹。
「でも、とにかく……感じたことをそのまま言ってみたの」
と言った。
「でも……小田切さんは、口論しようとしなかった……。君の意見を、とり入れた……」
「そうね……」
と美樹。うなずきながら言った。
「わたしも、あの時は、ちょっと意外だったわ」
「小田切さんが、君の意見をとり入れた時?」
「そう……。昔の……5年前の彼なら、きっと、自分の意見を言いはって、わたしと口論になっていたと思うわ」
美樹は言った。カンパリ・オレンジを、ひと口、飲んだ。バーのラジオが、ケニー・Gの〈Song《ソング・》 Bird《バード》〉を流しはじめた。
「丸くなったのかな? 小田切さん」
僕は、つぶやいた。美樹は、しばらく考えていた。
「丸くなったっていうより、包容力がでてきたってことかもしれないわね……」
と、つぶやくように言った。
「そうか……。5年だものな……」
「そう……。5年……」
「長いな……」
「長いわ……。意地っぱりな男の子と女の子が、ちょっと大人になるには、充分なほど長いわ……」
美樹は言った。
眼を細め、水平線を見つめていた。そのショートカットの前髪が、海からの風に、かすかに揺れていた。彼女が手にしているグラスのふちに、夕陽が光っていた。彼女は、じっと水平線を見つめていた。ケニー・Gのソプラノ・サックスが、ゆったりと流れていた。風が、涼しくなりはじめていた。
□
30分後。
僕は、Yホテルの玄関を出ていこうとしていた。
夜の7時半から、ホテル1階のレストランで、ロケの打ち上げをやることになっていた。その前に、自分の部屋に戻って、シャワーを浴びてこようと思ったのだ。
僕は、ホテルの玄関を出る。駐《と》めてある自分のクルマに歩いていく。
クルマのそばに、誰か立っているのに気づいた。近づいていく。小田切だった。どうやら、僕を待っていたらしかった。
「やあ、ケンちゃん」
と小田切。陽灼《ひや》けした顔の中で、白い歯を見せた。僕も、笑顔を返した。
「小田切さんたち、いつ帰るんですか?」
と僕は訊《き》いた。
「撮影が終わったから、明日の朝の飛行機で帰るよ」
と小田切。僕は、うなずいた。
「ちょっと、頼みたいことがあるんだ」
小田切は言った。ジーンズのポケットから、1枚の紙きれを取り出した。
「これを……美樹に渡してほしいんだ」
と言った。
「ただ渡せばいいのかな?」
「ああ……。おれからだと言って……。それでわかるはずだ」
と小田切。その表情が、一瞬、少年のようにはにかんだ。
僕は、うなずきながら、2つ折りになっているその紙きれを受け取った。
「了解」
と言った。小田切に軽く手を振る。自分のクルマに歩いていく。クルマのキーを出し、乗り込んだ。
エンジンをかける前に、いまの紙きれを広げてみた。8ケタの番号が書いてあった。どうやら、東京の電話番号らしい。僕は、その紙をアロハの胸ポケットに入れた。エンジンをかけ、クルマを出した。
□
満月が、夜空に出ていた。
さざ波が、砂浜に打ち寄せていた。ささやくように小さな波の音が、リズミカルにきこえていた。
夜の10時過ぎ。
僕と美樹は、ホテルの前のワイキキ・ビーチをゆっくりと歩いていた。
ホテル1階のレストランでは、まだ、ロケ隊の打ち上げパーティーがにぎやかに開かれていた。僕は、タイミングを見はからって、美樹を外に誘ったのだ。
美樹は、ゆっくりと歩きながら、月夜を見上げた。そして、
「ワイキキ・ビーチも、夜は静かね……」
と、つぶやいた。夜の空気を胸に吸い込んで歩いていた。どこかのホテルから、カントリー&ウエスタンの曲が、かすかにきこえてきていた。
僕は、アロハの胸ポケットから、紙きれを取り出した。小田切に頼まれた紙きれだった。立ち止まり、
「これ……」
と言って、紙を美樹にさし出した。
「これ、何?……」
「小田切さんから、君に渡してくれって……」
「彼から?」
僕は、うなずいた。
「さっき、ホテルの玄関で渡されたんだ。君に手渡してくれって」
と僕は言った。
「へえ……」
と美樹。紙きれを受け取りながら、つぶやいた。美樹は、紙きれを開いてみる。月明かりで数字は読めるだろう。
「電話番号みたいだね」
「そう」
美樹は、考えた。じっと、その電話番号を見つめている。1分……2分……。じっと、その紙を見つめている。
波は相変わらず、リズミカルに砂浜に打ち寄せ、ささやくような音が、風に乗ってきこえてきていた。
やがて、彼女は顔を上げた。
そして、紙きれを破きはじめた。
2つに破き、4つに破き、8つに破いた。そして、空中に放り投げた。ちぎれた紙きれは、白い花びらのように風に乗って飛んでいく。飛び散っていく……。
「……いいのかい?」
僕は訊いた。
彼女は、うなずき、
「いいのよ」
と言った。
「……彼の部屋の電話番号は、この5年間、忘れたこと、なかったわ……。しっかりと、心の中にきざみ込まれているわ……」
と、つぶやくように言った。
そういうことなのか……。僕は、無言でうなずいた。
僕と美樹は、また、ゆっくりと歩きはじめた。
ヤシの葉が、頭上で揺れていた。風に揺れるヤシの葉は、カラカラという音をたてていた。
僕は、シルエットで揺れているヤシの葉を見上げた。ヤシの葉の彼方、飛行機の灯が1つ、ゆっくりと動いていく。点滅する赤い灯が、ゆっくりと東の方向に動いていく。僕は、眼を細めた。
小田切と美樹の第二章は、どんな物語になるのだろう……。僕はふと、そんなことを考えていた。
どこかのホテルから、スティール・ギターのメロディが、風に乗って流れてきていた。僕らは、ゆっくりと歩きつづけた。
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ディスコに、さよなら
□
「ねえ、ケンちゃん」
と僕の耳もとで声がした。ふり向く。モデルの明実《あけみ》がいた。
午後2時。
カピオラニ公園の芝生の上。
コマーシャルの撮影が、ちょっとした休憩に入ったところだった。ピンクのワンピース姿の明実が、僕のすぐ後ろに立っていた。
「なんだい」
僕は、明実に訊《き》いた。
「あのさ……。今夜、ディスコに連れていってくれない?」
と明実は言った。
「ディスコか……」
「ケンちゃん、地元の人だから、いいディスコ、よく知ってるんでしょう?」
と明実。僕は、ちょっと苦笑いした。僕自身、あまりディスコは好きじゃない。もともと、騒々しい場所が好きじゃないのだ。
けれど、仕事上、そうばかりも言っていられない。ロケ隊の中には、ディスコ好きなスタッフもけっこういる。そういう連中をディスコに連れていくのも、コーディネーターの仕事の1つだった。
「まあ、何軒かは、知ってるディスコ、あるけど……」
僕は明実に言った。
「よかった。じゃ、連れていってくれるわよね」
と明実。
「考えておくよ」
僕は言った。ディスコにいくのは、別に、かまわない。けれど、プロデューサーにひと声かけておく必要があるだろうと思ったのだ。
僕は、プロデューサーの中里の方へ歩いていった。中里は、ディレクターの佐藤と、何か打ち合わせをしていた。コンテを広げて、何か打ち合わせをしているところだった。
□
今回のクライアントは、フィルム・メーカー。つまり、新発売されるカラー・フィルムのコマーシャルだった。
こんなコンテだった。
〈美少女モデル、いろいろなポーズをつけて、カメラを見ている〉
〈芝生の上。ワンピース姿で、すましたポーズ〉
〈砂浜で、タンクトップ姿。ちょっとコミカルなポーズ〉
〈プール・サイドで水着姿。ちょっとセクシーなポーズ〉
〈BGMに≪きれいに撮《と》ってね≫とくり返すCMソング流れる〉
〈モデル本人のNA《ナレーシヨン》――きれいに撮ってくれなきゃ、嫌《いや》!〉
〈男性ナレーターのNA《ナレーシヨン》――きれいに撮るなら〇〇フィルム〉
〈商品カット。商品ロゴ、|C・I《カツト・イン》〉
そんな、シンプルなコンテだった。モデルの明実は、確かいま19歳。300人近いモデル・オーディションで選ばれたという。手足が長く、笑うと八重歯が可愛らしい娘《こ》だった。
プロデューサーの中里とディレクターの佐藤は、コンテをながめて何か打ち合わせをしていた。
その打ち合わせが終わったところで、僕は中里に声をかけた。
「なんだい、ケンちゃん」
と中里。
「明実ちゃんが、ディスコにいきたいって言うんだけど、連れていっていいですか?」
僕は訊いた。
「ディスコか……。まあ、しょうがないだろうな……。若いんだから、発散したいんだろう」
と中里。苦笑まじりに言った。
「ただ、あんまり遅くならないようにしてくれよ。翌日、モデルの顔が腫《は》れぼったいんじゃ、撮影にならないからな」
と言った。僕は、うなずいた。
それにしても、明実と2人でディスコにいくのは、あまり面白くなさそうだった。ほかのスタッフも誘うことにした。
カメラ助手の2人に声をかけた。チーフ助手の小野田と、セカンド助手の高橋だ。2人とも若い。
声をかけると、2人とも、のってきた。
□
その夜、9時過ぎ。
僕とカメラ助手の2人は、ホテルのロビーにいた。ロビーで、明実と待ち合わせをしていたのだ。
約束の9時を15分ほど過ぎた時だった。
小野田が、
「あれ、もしかして明実か?」
と言った。僕と高橋も、そっちを見た。高橋が、
「うわァ、すっごい……」
と言った。
むこうから歩いてくる明実は、確かに、すごかった。すごいボディコンシャスな服を着ているのだ。
スカートは、やっとヒップをかくしている長さしかない。全体に、体の線をもろに出した服だった。胸もとも大きく開いている。耳には、大きめの金のピアスが光っていた。
メイクも、昼間とは、まるでちがう。昼間は、どちらかというと、素顔に見えるような少女っぽいメイクだった。けれど、いまは、きれいに大人のメイクをしていた。
「色っぽいなァ……」
小野田が、思わずつぶやいた。
ボディコンの服も、大人っぽいメイクも、それなりに似合っていると僕は思った。そのあたりは、さすがにモデルだ。
明実は、僕らの方にやってくる。ニコリとした。
「お、待、た、せ」
と言った。明実のつけている香水が、僕らの鼻先をくすぐった。
□
2時間後。
僕らは、クヒオ通りのディスコ〈レッド・パンプス〉にいた。
ここは、主に観光客に人気のある店だ。といっても、いまは平日だ。客の入りは七分といったところだった。
明実は、小野田と高橋を、かわりばんこに相手にして踊っていた。僕は、ジン・トニックをゆっくりと飲みながら、それをながめていた。
しばらく明実と踊っていた高橋が、テーブルに戻ってきた。かわりに小野田がダンス・フロアに出ていった。
「いやあ……。まいっちゃったよ」
と高橋。バンダナで顔の汗をふいている。
「どうした」
「どうしたもこうしたも、ケンちゃん」
高橋は言った。
「明実ちゃん、チークになると、やたら、体をくっつけてくるんだもん。おまけに、あんな服でしょ。こっちは、もう、興奮しちゃいますよ」
と言った。高橋は、まだ23歳か24歳のはずだ。
「あんなに密着されると、なんか、おれに気があるのかと思っちゃいますよね」
と高橋。
「とにかく、おれらみたいな青少年には、体に悪いっすよ」
と笑いながら言った。
僕は、ダンス・フロアーの方を見た。ちょうど、スローなナンバーが流れていた。チーク・タイムだ。
明実は、小野田とチークを踊っていた。確かに、高橋が言うとおり、体をやたら密着させている。逆に、小野田の方がぎこちない動作でチークを踊っていた。
どうしてだろう……と僕は考えた。
明実が、小野田や高橋に気があるとは考えづらい。
ということは……ただ、遊び半分に挑発しているんだろうか……。そうかもしれないし、ちがうかもしれない。僕には、よくわからなかった。
フロアーに、R《リチヤード》・マークスの〈|Now And《ナウアンド・》 Forever《フオーエバー》〉が流れていた。明実と小野田の体が、ゆっくりと揺れていた。
□
「え? 今夜もですか?」
と高橋。カメラのバッテリー・コードを手に持って言った。
2日後。
アラ・モアナ・ビーチでの撮影中だった。
明実が、今夜もディスコにいきたいと言う。それで、僕は、小野田と高橋に声をかけたのだ。
「今夜って……。だって、昨日《きのう》も一昨日《おととい》もディスコいったじゃないですか。きょういけば3日連続ですよ」
と高橋。
「それでも、とにかく、明実はいきたいんだとさ。どうする?」
僕は、小野田と高橋に言った。
「おれたちは、今夜はやめとくよ。こう連日じゃ、体がもたないもの。ケンちゃん、明実の相手、してやってよ」
と小野田。そばで、高橋もうなずいている。
「そうか……。しかたないな……」
僕は、つぶやいた。
ヘア&メイクの人に髪をいじってもらっている明実のところへいった。
「撮影部の2人は、今夜は参加しないってさ。今夜はやめにしないか?」
と明実に言った。
「嫌よ。今夜もいくの。ケンちゃん、連れていってくれるでしょう? もし連れていってくれないなら、1人でいっちゃうから。ねえ、いこうよ。ねっ」
と明実。
僕は、苦笑しながらうなずいた。夜のつき合いもコーディネーターの仕事のうちだ。しかたないだろう。
□
「ちょっと疲れた。ひと休みしないか」
僕は、ダンス・フロアーで明実に言った。もう5曲もつづけて踊った。さすがに、少し疲れた。
「何よ、ケンちゃん。もうバテちゃったの」
と明実。ケラケラと笑いながら言った。今夜の明実は、かなり酒を飲んでいる。フローズン・マルガリータを3杯は飲んだだろう。
「あたしは、まだまだ大丈夫よ」
と明実。
「じゃ、あたし、ひとりで踊ってるから、いいわよ」
と言った。
僕は、うなずいた。ダンス・フロアーに明実を残し、テーブルの方へ歩いていった。自分たちのテーブルに戻った。
そのときだった。
「ケンじゃないか!」
という声がした。ふり向く。ジョージ・中川が立っていた。U・H(ハワイ大学)時代の同級生だった。日本人と白人のハーフだ。大学を卒業してからは、ホテル関係の仕事についたはずだった。
「しばらくぶりだなあ、ケン」
とジョージ。僕らは、腕ずもうみたいなハワイアン・スタイルの握手をした。
「今夜は、プライベートか?」
とジョージ。
「いや。ロケ隊の世話さ。モデルの娘《こ》がディスコにきたいって言うもので」
僕は答えた。
「それにしても、ひさしぶりだなあ……」
僕とジョージは、つもる話をしはじめた。
□
「ところで、お前さんが連れてきたディスコ・クイーンは、どこにいるんだ」
話が一段落したところで、ジョージが訊《き》いた。
「フロアで踊ってるよ」
僕は言った。ダンス・フロアーに視線を移した。けれど、そこに明実の姿は見えなかった。
さっきまでは、そこのフロアーで踊っていたのに、姿が見えない。おかしい……。
「ちょっと失礼」
僕はジョージに言った。席を立った。ダンス・フロアーを見渡した。けれど、やはり、明実の姿はなかった。
僕は、ダンス・フロアーにおりた。ぐるりとひと回りしてみた。やはり、明実の姿は見えない。
もう1回、ディスコの中を回ってみた。けれど、どこにも明実はいなかった。
僕は、ディスコの出入口にいった。出入口の係をやっているハワイアンの男は、顔なじみだった。
「日本人の娘を、見なかったか?」
僕は、巨《おお》きな体のハワイアンに訊いた。
「日本人の娘? どんな……」
「スラリとしていて、髪が長い。赤い服を着ている。ボディコンシャスな、まっ赤な服を着ている」
「ああ、あの派手な娘か」
とハワイアン。
「それなら、白人《ハオレ》の男と出ていったぜ」
「白人の男と? いつ!?」
「つい、いまさっき」
ハワイアンは言った。
「サンキュー」
僕は、やつに言った。駆け足でディスコを出た。ディスコの裏手にある駐車場に向かって走った。
ディスコの建物の裏側。30台ぐらい駐《と》められる青空駐車場がある。僕は、駐車場を見回した。
いた。
15メートルぐらい先。白人男が、明実の肩を抱くようにして、クルマに乗せようとしていた。
白人男は、まだ若い。20代の中頃《なかごろ》だろう。髪を刈り上げ、派手なスーツを着ていた。がっちりした体格をしていた。
クルマも、派手なしろものだった。ブルー・メタリックのカマロだった。
男は、クルマの助手席のドアを開ける。明実をそこに乗せようとしていた。明実は、かなり酔っているらしい。体が、ふらついていた。
僕は、早足でそっちに向かった。
「ちょいと待ちな」
英語で、男に言った。
クルマに明実を乗せようとしていた男は、僕を見た。
「なんだ、お前は」
と言った。
「その娘のパートナーさ」
僕は言った。
「なんだとォ……。じゃましようってのか、この野郎」
と男は言った。駐車場の明かりに、その眼がギラリと光った。
つぎの瞬間、やつは、パンチをくり出してきた。ふいだったので、よけるのが間に合わなかった。やつのパンチが、軽く僕の頬《ほお》をかすめた。
僕は、後ろによろけた。駐めてあるクルマに、背中をぶつけた。
「ケガしたくなけりゃ、引っ込んでろ!」
と男は言った。僕は、体勢をたてなおした。
「そういうわけにはいかないんだ。その娘を返してもらおうか」
と言った。
「チッ」
と男は舌打ちした。身がまえた。
僕も身がまえる。相手との距離を測った。相手のパンチのスピードも威力もわかっている。たいしたことはない。僕はリラックスして身がまえた。
「くらえ!」
男が叫んだ。つぎの瞬間、右パンチをくり出してきた。鋭くもなんともないパンチだった。
僕は、スッと沈み込む。相手のパンチをかわした。体を起こしながら、相手のボディに左フックを叩《たた》き込んだ。うまく入った。
「グェッ」
と、うめき声。男は、両手で腹を押さえた。体を前に折った。
相手の顔面にもう1発入れようかと思った。けれど、相手は、もう、地面に片方のヒザをついている。ボディにくらった1発がよほど効いたのか、ゼイゼイと荒い息をしている。もう、戦闘不能だろう。これ以上殴るのは、後味がよくない。
僕は、近くに立っている明実の方にいった。
「さあ、帰ろう」
明実の肩を抱いて言った。
□
20分後。
僕らは、ホテルのプールサイドにいた。ロケ隊が泊まっているSホテルのプールサイドだ。
僕と明実は、並んでプールサイドを歩いていた。明実は、まだ酔いがさめていないらしく、足もとが少しふらついていた。
「感謝してくれとは言わないけど、教えてくれないか。なぜ、あんな初対面の相手とドライヴしようとしたのか」
僕は言った。
「だって……彼、親切そうだったし……優しそうに声をかけてくれたから……」
と明実。酔いを含んだ声で言った。
「親切に声をかけてくる相手なら、誰のクルマにも乗るのか?」
僕は言った。
明実は、しばらく黙っていた。そして、口を開いた。
「何よ、えらそうに言っちゃって……」
と言った。
「あの人が親切に声をかけてきてくれて……2人だけでパーティーしようっていうから……だから、ついていったのに……あなたがじゃまをしたのよ」
と明実。
「あなたが、じゃまをしたのよ。せっかく楽しもうと思っていたのに……。あなたなんか……あなたなんか……」
明実は、せっぱつまったような声で言った。右手を上げる。僕の頬《ほお》をひっぱたこうとした。
ひと晩に2発も叩《たた》かれるのはゴメンだ。
僕は、明実の右手を、ぱしっとつかんだ。
明実の体を、抱き上げた。
「ちょっとは頭を冷やしたらどうなんだ」
と言った。明実を、プールに放り込んだ。
ザバンッという音。水しぶき。
そして、明実のわめき声がした。
けれど、僕はほったらかしておいた。いま明実を放り込んだところは、深さ1.2メートル。胸ぐらいの深さのところだ。おぼれる心配はない。
「何するのよ!」
という叫び声。プールの水面からきこえた。
「少しは頭が冷えたか?」
僕はプールのへりに立って言った。
□
5分後。
明実は、プールサイドのデッキ・チェアーに座っていた。まだ、全身、濡《ぬ》れたままだ。
僕は、プールサイドのすみにあるタオル・ハウスから、バスタオルを1枚持ってきた。それを、明実にさし出した。
明実は、タオルで、顔をふきはじめた。
そして、その肩が、小きざみに震えはじめるのが見えた。
明実は、泣きはじめていた。肩を震わせて泣きはじめた。バスタオルに顔を押しつけて、泣きはじめた。
僕は、明実のとなりに腰をかけた。明実の肩に手を置いた。何も言わず、明実の肩を抱いていた。
何分か、そうしていた。
やがて、明実は、しゃくり上げながら、
「……ごめんなさい……」
と、つぶやきはじめた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
と、何回も何回もくり返している。
何か、憑《つ》き物が落ちたように、さっきまでとは態度がちがっている。
僕は、じっと、明実の横顔をながめていた。明実は、タオルに顔を押しつけ、しゃくり上げるようにして泣いていた。
「……ごめんなさい……自分がわがままだってことは、わかってたの……。まわりを困らせてるって……わかってたの」
「…………」
「でも……こんなことできるの、いまだけだから……」
と明実。しゃくり上げながら言った。
「いまだけ?……いまだけって、どういう意味だい」
僕は訊《き》いた。
「だって……女の子が、まわりからちやほやされるのなんて、若い時だけだから……」
「若い時だけ、か……」
「そうよ。女の子が、まわりからちやほやされて……大事にされて……わがままをやっても許されるなんて……若いうちだけだから」
「…………」
「だから……いまのうちに……遊べるうちに遊んどかなけりゃ……。すぐに、オバサンになっちゃって……オバサンになっちゃって……誰も、相手をしてくれなくなるんだから」
「…………」
「もうすぐオバサンになっちゃって……誰も、かわいいとか、きれいとか言ってくれなくなっちゃうんだから……。だから……だから……」
と明実。
しゃくり上げながら、くり返している。
僕は、それをききながら、なるほど、と胸の中でうなずいていた。明実の思いが、わかったと感じていた。
いままでの明実のふるまいの理由がわかったと思った。
〈女の子が、まわりからちやほやされるのなんて、若いうちだけ〉
〈すぐにオバサンになっちゃって、誰も相手をしてくれなくなる〉
〈だから、いま、遊べるうちに遊んでおかなければ〉
明実の胸にあるのは、どうやら、そんな思いらしかった。そんな思いが、明実をこんな行動に走らせているらしい。
ちょっと困ったな、と僕は思った。
いま明実が心にかかえている思いに対して、強くそれを打ち消す言葉が見つからないような気がしたのだ。
なんと言ったら、明実の考えを変えることができるのだろうか……。そんな言葉が、あるのだろうか……。僕には、わからなかった。
僕は、じっと、明実の肩を抱いていた。
やがて、風が涼しくなってきたのを感じた。
「とにかく、部屋に帰って、服を着がえろよ。風邪《かぜ》をひくぜ」
僕は言った。明実は、素直にうなずいて立ち上がった。僕らは、プールサイドからホテルの中へ入っていった。
□
「おっ、ジャガーか……」
とプロデューサーの中里が言った。
翌日。午後1時。
僕らロケ隊は、カハラにいた。
カハラは、ホノルルの東側にある。大きな家が多い、高級住宅地だ。プールがある家は珍しくない。テニス・コートがある家もある。そんな住宅地だった。
僕らは、1軒の家に着いたところだった。
この家のプールを借りて、撮影することになっていた。
移動用のヴァンを、玄関の前に駐《と》めた。スタッフが、ぞろぞろとヴァンをおりてくる。
家のわきにある屋根つきのガレージに、クルマが2台入っていた。1台は、ジャガーのセダン。もう1台は、アルファ・ロメオのスポーツカー、スパイダーだった。
そのガレージを見て車好きのプロデューサー中里は、
「ジャガーか……」
と声に出したのだ。
僕は、家の玄関に行った。玄関のドアには、メモ用紙が貼《は》りつけてあった。日本語で走り書きがしてあった。
〈ジョギングにいってます。入って、撮影をはじめていてください。ヒロコ〉
と書いてあった。
「このヒロコってのは?」
中里が訊《き》いた。
「この家の主人で、僕とは昔からの友人で……」
僕は言った。
ヒロコとは、僕が大学生だった頃からの知り合いだ。この家のプールも、何回か、撮影に使わせてもらったことがある。
きょうも、僕は、ヒロコから家の鍵《かぎ》をあずかっていた。
その鍵を使って、玄関を開けた。スタッフは、ぞろぞろと広いリビング・ルームに入ってくる。
天井の高いリビング・ルームがあって、そこを抜けると、プールのある庭に出られる。スタッフたちは、珍しそうに家の中をながめている。
「クルマもいいけど、家もいいなあ……」
中里が、つぶやいた。
確かに、いい家だった。ただ広く豪華というのではなく、インテリアの趣味がいいのだ。
「その……ヒロコさんていったっけ……。この家の主人っていうのは、どういう人なんだい」
と中里が訊いた。
興味を持って当然かもしれない。
僕は、簡単に、彼女のことを説明した。
名前は、ヒロコ・ケリー。4分の3は日本人で、4分の1だけ白人の血が入っている。年齢は、僕より11歳上だから、38歳だろう。いまのところ独身。
ヒロコは、画家だった。
ハワイ独特の花や、海岸の風景を主に描《か》いている。20代の頃は売れなかったらしいけれど、30歳頃から、メジャーな画家になっていった。
いま、あちこちのホテルのロビーなどに、彼女の描いた絵がかけられている。ポスト・カードになっている絵も何枚かある。
そんなところが、彼女の略歴だった。
「まあ、もうしばらくしたら本人が帰ってくると思う。すぐに実物が見られるよ」
と僕は言った。
□
「ハイ、ケン」
という声がした。プールサイドにいた僕は、ふり向いた。ヒロコだった。リビングを通り抜け、プールサイドに出てくるところだった。
「やあ、ヒロコ」
と、僕は片手を上げて答えた。ロケ隊のスタッフも、手を止めて彼女を見ていた。
ヒロコは、ジョギング・スタイルをしていた。青いぴっちりとしたジョギング・パンツ。白いタンクトップ。髪はポニー・テールにまとめている。ジョギング・パンツと同じ青のヘア・バンドをしていた。ニューバランスのジョギング・シューズを履いていた。
スポーツをつづけているせいか、彼女の体には、ひとかけらの贅肉《ぜいにく》もついていない。美しいプロポーションをしていた。
僕は、ロケ隊のスタッフに彼女を紹介した。彼女は、スタッフひとりひとりと笑顔で握手をかわした。
「ずいぶん長くジョギングしてたんだなァ」
と僕は言った。
僕らがこの家に着いてから、もう、1時間以上たっている。
「きょうはかなり走ったわ。ほら、ホノルル・マラソンが近いから」
とヒロコ。
そういえば、彼女は、毎年、ホノルル・マラソンに出場しているのだ。そのことを、僕はまわりのスタッフに説明した。
「今年は、なんとか3時間30分を切りたいから、がんばってるの」
ヒロコは言った。ニコリと白い歯を見せた。
「じゃ、ちょっとシャワーを浴びてくるから、どうぞ、お仕事をつづけてて」
とヒロコは、僕らに言った。またニコリと白い歯を見せ、家に入っていった。
その後ろ姿を、スタッフのみんなが見ていた。
「いい女だなァ……」
と中里が思わずつぶやいた。ヒロコの後ろ姿をじっとながめている。
「ねえねえ、ケンちゃん」
とカメラ助手の小野田が小声で言った。
「彼女、いくつだって言ったっけ?」
と言った。
「彼女の年齢《とし》? 38だよ」
と僕。
「わあ……信じらんないなァ……」
と小野田。彼女が入っていった家の方をながめて言った。
「28だって言われても、信じますね」
小野田は言った。
僕も、苦笑まじりにうなずいていた。確かに、ヒロコは若かった。生活が充実しているからだろう、と僕は思っていた。おまけに、ヒロコは気持ちも若かった。結局のところ、人間の年齢を決めるのは、そういうことなのかもしれない。ヒロコと会うたびに、僕はそう感じていた。
それに、ハワイという土地のせいもあるだろう。ハワイでは、人はみな、人生を楽しむために生きているとも言えるだろう。楽しく生きていくことが最優先なのだ。
年齢《とし》相応なんてことも、ハワイではあまり言わない。50歳の建築家がサーフィンをやっている。70代で、まっ赤なスポーツカーに乗っている男もいる。60歳近くで、トライアスロンに挑戦している女性もいる。それらは、けして肩ひじはってやっているのではなく、ごく自然だった。それが、ハワイという土地柄なのだ。
僕自身、30歳になろうと、40歳になろうと、50歳になろうと、サーフィンをやめようとは思わない。やめる理由がないからだ。
とにかく、ここはハワイなのだから……。
□
「カット!」
の声が、プールサイドに響いた。つづけて、
「お疲れさま!」
の声が響いた。
午後4時半。最後のカットの撮影が終わったのだ。これで、今回のロケのすべての撮影が終わったことになる。現場の張りつめた空気が、ふっとゆるんだ。
撮影部のスタッフが、カメラをばらしはじめた。照明部のスタッフも、反射《レフ》板の片づけをはじめた。
「それじゃ、このあとは、打上げパーティーに突入しますか」
とディレクターの佐藤が言った。きょうの撮影が終わったら、このプールサイドを借りて、バーベキュー・パーティーをやる予定になっていた。
□
「はい、このロブスター、焼けてるわよ」
とヒロコ。ロブスターを皿にのせる。スタッフの1人に渡した。
午後5時。プールサイドの一画。
バーベキュー・パーティーが、はじまったところだった。ヒロコは、|極楽鳥の花《バード・オブ・パラダイス》がプリントされたサマー・ドレスを着ていた。ジョギング・スタイルの時とはちがい、きれいに化粧もしていた。オレンジ系の口紅が、サマー・ドレスによく似合っていた。
ヒロコは、器用な手つきで、ロブスターやホタテ貝や肉をバーベキュー・グリルで焼いては、ロケ隊のスタッフにサービスしていた。
ヤシの葉ごしの淡い夕陽《ゆうひ》が、プールサイドに射していた。スピーカーからは、 S《ステイービー》・ワンダーの曲が低く流れていた。
「こりゃ、最高の打ち上げだな」
とプロデューサーの中里が言ったときだった。
1人の白人男が、プールサイドに姿をあらわした。
「ライアン!」
とヒロコが言った。ライアンと呼ばれた男は、笑顔で歩いてくる。ヒロコの頬《ほお》に、短いキスをした。
ヒロコは、僕らスタッフに、ライアンを紹介した。
「ボーイフレンドのライアン」
と言った。そして、ライアンにわからないように日本語で、
「ボーイフレンドの1人」
とつけ加え、いたずらっ子のように笑った。
「ちょっとよさそうなワインがあったから持ってきたよ」
とライアン。白ワインを1本、ヒロコにさし出した。
ライアンは、とてもハンサムな男だった。まだ30歳ぐらいだろうか。栗色《くりいろ》がかった金髪。青い瞳《ひとみ》。身長は180センチぐらい。俳優のトム・クルーズにちょっと似ていた。
やがて彼もバーベキューの手伝いをはじめた。ここでしょっちゅう手伝いをやっているらしく、慣れていて手ぎわがよかった。
ヒロコは、バーベキューをしばらくライアンにまかせると、ワインをグラスに注いで飲みはじめた。
デッキ・チェアーに座ってロブスターをかじってる僕らスタッフに、
「楽しんでる?」
とヒロコは、声をかけた。
「もちろんさ」
僕は答えた。グラスを上げて見せた。
□
「どうしたんだ」
僕は明実に言った。
「さっきから、黙り込んじゃって……どうしたんだ」
と明実に訊いた。
いま、僕と明実は、プールサイドの端にいた。デッキ・チェアーに腰かけ、手にはフローズン・ダイキリの入ったグラスを持っていた。
さっきから、明実は無口だった。いつもは陽気にはしゃぐ娘なのに、なぜか、黙り込んでいた。
「気分でも悪いのか?」
僕は訊いた。
明実は、微笑《わら》いながら首を横に振った。
「そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「なんか……自分の馬鹿さかげんに、いやになっちゃって……」
明実は言った。
「…………」
僕は何も言わず、明実の横顔を見た。
「19かける2は、38よね」
と明実。
「ああ……そうだ……」
僕は言った。なんのかけ算だろう……。
「あたしが19歳で、その2倍の38歳がヒロコさん……」
と明実がつぶやいた。
僕は、うなずいた。明実の言っている意味がわかった。
「そういうこと……。君の年齢を倍にすると、ヒロコの年齢になる……」
「たいした年の差よね……」
「ああ……。たいした年の差だ」
僕は微笑《わら》いながら言った。
「19歳の2倍の38歳……。君の言葉で言えば、オバサンの年齢だな」
「……そう……オバサンの年齢……」
と明実。
「でも……でも……彼女……オバサンじゃない……」
と言った。
「ああ……オバサンじゃない……」
うなずきながら、僕は言った。ヒロコは、じっと、プールの水面を見ていた。
「あたし……なんだか誤解していたみたい……」
「誤解?」
「そう……。誰でもみんな、25歳をすぎるとオバサンになっちゃうんだって、誤解してたみたい」
「そりゃ、確かに誤解だな」
僕は言った。
「25歳でオバサンになっちゃう人もいる。けれど、オバサンにならない人もいる。いくつになっても、オバサンにならない人もいる。ヒロコみたいにね」
と言った。
「ほんと……そうなのね……」
と明実。
「つまり、こういうことだと思うんだ。オバサンになる自由もあるし、オバサンにならない自由もあるってこと」
僕は言った。
「ほんと……そうなのね……。そのことが、きょう、すっごくよくわかったわ……」
と明実。
「何がなんでもオバサンになっちゃうんだって思ってたあたしって、まるで馬鹿みたい。やんなっちゃう」
明実は言った。ちょっと苦笑した。
「でも……」
「でも?」
「ヒロコさんを見てると、なんだか勇気がわいてくるわ……」
「勇気?」
明実は、うなずいた。
「かっこいいなあ、とも思うし……負けるものか、自分もああいう38歳になってやるんだ、とも思うし……」
明実は言った。
「そうだよ。負けずに、がんばればいいんだよ」
僕は言った。明実は、うなずいた。
「そうね……。あたしだって……あの年齢《とし》になった時、〈いい女だなァ〉って言われるようになってやる……」
と言った。
「そうさ、がんばれよ」
僕は言った。
フローズン・ダイキリを、ひと口飲んだ。プールの向こう側では、まだ、バーベキュー・パーティーがつづいていた。にぎやかな笑い声がきこえる。
たそがれがせまっていた。夕陽は沈み、空は、赤みを残したブルーに変わっていた。ヤシの葉が、シルエットで揺れていた。風が、少し涼しくなりはじめていた。ヤシの葉の彼方、飛行機の赤い航行灯が1つ、点滅しながら西の方に動いていた。
「ねえ、ケンちゃん」
明実が言った。
「うん?」
「あした、お休みよね」
「ああ」
あしたは、撮影の予備日だ。撮影が順調に終わったので、あしたは、全員、休日《オフ》ということになる。
「あした、連れていってほしいところがあるんだけど」
と明実。
「ディスコ?」
僕は言った。
「ちがうわよ。ディスコはそろそろ卒業よ。いきたいところっていうのはフット・ロッカー」
明実は言った。フット・ロッカーは、スポーツ・シューズの専門店だ。ホノルルでは有名な店だ。
「フット・ロッカー?」
「そう……。ジョギング・シューズを買うの。つき合ってくれるでしょう?」
明実は言った。明るい声で言った。
「ああ……いいよ」
微笑《ほほえ》みながら、僕は答えた。
空を見上げた。明るいブルーから濃紺へ、グラデーションになっている空。星が2つ3つ、出ていた。明日も晴れそうだと僕は思った。
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プールサイドで踊ろう
□
「ねえ、ちょっと」
僕は声をかけられた。
読んでいた新聞〈ホノルル・アドバタイザー〉から顔を上げた。
ホノルル国際空港。朝の10時。
顔を上げた僕の前に、日本人のおじさんが立っていた。
おじさんは、ペンギンのマークがついたゴルフ用のシャツを着ていた。けれど、かなり太っているので、胸についたペンギンのマークまで横拡がりに太ってしまっている。
「あんた、岡本征一のロケ隊を待ってるんでしょう」
とペンギン・シャツのおじさんは言った。
僕は、うなずいた。
「ああ、そうだけど」
と言った。今回のロケ隊のタレントは、確かに岡本征一という男だった。ハワイにいる僕はあまりよく知らないけれど、日本ではかなり人気のあるタレントらしい。
「あのさ、岡本征一たち、いつになったら出てくるのかなあ」
とペンギン・シャツのおじさんが訊《き》いた。
よく見れば、おじさんは、マイクのようなものを握っている。
おじさんの後ろには、ビデオ・カメラをかついだカメラマンや助手がいる。
どうやら、このペンギン・シャツは、テレビの芸能レポーターというものらしかった。
「ねえ、いつになったら出てくるのかなあ」
ペンギン・シャツが、また訊いた。
「さあ……わからないなあ……」
僕は正直に答えた。僕にしても、もう、1時間以上も、ここで待っているのだ。
「たぶん、出入国審査《イミグレーシヨン》が混んでるんじゃないかな」
僕は言った。あたりを見回した。
よく見れば、同じような芸能レポーター風の人間が何人か、あたりをウロウロしていた。
「みんな、岡本征一を待ってるのかな」
僕は、ペンギン・シャツに訊いた。
「そりゃそうさ」
ペンギン・シャツは言った。
「あの、岡本征一が、何か事件を起こしたわけ?」
「あんた、知らないの?」
とペンギン・シャツ。僕は、うなずいた。
「事件というかなんというか、ほら、これよ」
ペンギン・シャツは言った。たたんで持っていた雑誌を、広げて見せた。その薄っぺらい雑誌は、写真週刊誌らしかった。
ペンギン・シャツが開いたページ。大きな見出しがあった。
〈岡本征一に深夜の通い妻!?〉
と印刷されていた。
そして、モノクロの写真があった。どこか、マンションの玄関らしい。暗くて、ぼんやりした写真だった。
人影が写っているのがわかる。けれど、写真は暗く、粒子も荒れている。人影は、女であることしかわからない。
僕は、記事をひろい読みした。早い話、こういうことだ。
〈あの岡本征一(26歳)のマンションに、ときどき姿をあらわす謎《なぞ》の女性がいる〉
〈その女性は、朝帰りすることもある様子〉
〈けれど、その正体は、いまだつかめていない〉
〈デビュー以来、清潔なイメージで人気を得ていた岡本征一にとって、はじめて、恋人の影〉
〈はたして、そのお相手は誰?〉
そんな内容の記事だった。
僕は、それを読み、
「へえ」
と言った。雑誌を、ペンギン・シャツに返した。あまり、興味の持てる話ではなかった。それより、ホノルルはきょうも快晴だった。もし仕事がなければ、波乗りをするのもいい。弁当を持ってビーチ・パークにいくのもいい……。そんなことを、僕は、ぼんやりと考えた。
「あんた岡本征一のロケ隊のコーディネーターだよね」
ペンギン・シャツが確認するように言った。僕は、アクビをしながら、うなずいた。
「あのさ、お小遣い稼ぎしたくない?」
とペンギン・シャツ。
「小遣い稼ぎ?」
「そういうこと。あのね、岡本征一が、もし、誰か、恋人みたいな女性と接触することがあったら、教えてほしいんだ。500……いや1000ドル出すよ」
ペンギン・シャツは言った。
僕は、苦笑した。
「いまのところ、小遣いには困ってないよ。ママからたっぷりもらってるからね」
と言って、はぐらかした。けど、ペンギン・シャツはくいさがる。ポケットから名刺を出し、無理やり、僕に渡した。
「ねえ、たのむよ。ぼくらはPホテルに泊まってるからさあ、何かあったら、すぐに連絡してよ、ねっ」
ペンギン・シャツが言った。そのときだった。
「出てきたぞ!」
という声がした。
空港の玄関から、人が出てくるのが見えた。あたりにいたレポーターやカメラマンが、そっちに向かって走り出した。
CMプロデューサーの光村《みつむら》の顔が見えた。
僕は、ペンギン・シャツの名刺を、ビリッと破いた。近くにあったゴミ箱に捨てた。光村の方に手を振った。
「こっちです」
「おお、ケンちゃん。お待たせ!」
と光村。陽灼《ひや》けした顔から、白い歯をのぞかせた。
ディレクターの坂本。カメラマンの相原。照明チーフの井戸田……。なじみの顔が、つぎつぎとあらわれた。
ロケ隊のスタッフたちは、つぎつぎと、空港の玄関から出て、僕のいる方に歩いてくる。僕と、運転手のエドは、彼らを出迎える。荷物を、大型のヴァンに積み込みはじめた。
タレントの岡本征一は、スタッフの最後に出てきた。
ベージュのスラックス。黒いラコステのポロシャツ。サングラス。顔には、グレーの野球帽《キヤツプ》をかぶっていた。
そばに、マネージャーらしい女性がついていた。
岡本征一は、早足でこっちに歩いてくる。そこへ、レポーターたちが殺到していった。
岡本征一にマイクを向け、カメラを向け、質問をぶつけた。
「例の女性のことなんですけど」
とレポーター。歩く岡本征一と並んで歩きながら、マイクを向けた。岡本征一は、
「何も話すことはありません」
と、そっけなく言った。あとは、レポーターたちを無視。スタスタと歩いてくる。その征一に向かって、スチール・カメラのシャッターが何回も切られた。
「やれやれ」
とプロデューサーの光村。
「めんどうなロケになりそうだな」
とディレクターの坂本。
レポーターたちに追いかけられている征一をながめて、つぶやいた。
レポーターたちは、クルマのところまでついてきた。征一とマネージャーがヴァンに乗り込むと、窓からマイクをさし込もうとした。
僕はヴァンの助手席に乗り込むと、運転手のエドに、
「やってくれ」
と言った。エドは、うなずく。ヴァンを出した。ゆっくりと発進した。ペンギン・シャツはじめ、レポーターたちの姿が、遠ざかっていく。
走りはじめたクルマの中。征一は、スタッフたちに向かって、
「どうも、迷惑をかけちゃって」
と言って一礼した。
僕は、〈おやっ〉と思った。その征一の態度が、芸能人らしくなかったからだ。
このコマーシャルの仕事をしていると、芸能人とつき合うことも多い。彼ら彼女たちの多くが、自己中心的で、スタッフへの気づかいなどない人種だった。
だから、いまの征一の態度に、僕は〈おやっ〉と思ったのだ。
征一は、野球帽《キヤツプ》をぬいで、窓の外をながめていた。サングラスをかけたままなので、表情はほとんどわからない。クルマは、フリーウェイ、H1に入っていた。右手に、ワイキキのホテル群が見えてきた。
□
「全部で4本か……」
僕は、眼の前のコンテをながめてつぶやいた。
午後2時。スタッフが泊まるTホテルのコーヒー・ラウンジ。
メイン・スタッフが集まって、打ち合わせをしていた。
プロデューサーの光村。制作進行の所沢。ディレクターの坂本。カメラマンの相原。照明チーフの井戸田。
みな、僕にとってはなじみの顔ぶれだった。
タレントの岡本征一は、疲れたので部屋で休んでいるという。その代理で、マネージャーの女性が打ち合わせに出ていた。
マネージャーの彼女は、初対面の僕に名刺をくれた。〈吉沢信子〉という名前だった。
吉沢信子は、20代の後半だろう。26歳の岡本征一より少し年上のような感じがした。すらりと背が高かった。167センチぐらいだろうか。学生時代は何かスポーツをやっていた、そんな雰囲気を持っていた。
長い髪を後ろでまとめている。質のいいものだけれど派手には見えないニットのワンピースを着ていた。マネージャーという仕事がら、あまり目立つことをさけているように見えた。
「そう、撮《と》らなきゃならないCMは、全部で4本ある」
プロデューサーの光村が言った。僕は、あらためて、テーブルに広げられたコンテをながめた。
クライアントは、ビール会社。つまり、缶ビールの夏キャンペーンだった。
企画のコンセプトは、〈ふたりのビール〉だという。男女ふたりで飲む缶ビールということらしい。
その2人を演ずるのは、岡本征一と、ごく普通の女性モデルだった。
女性モデルは、さっき見たところ、くせのない美人だった。くせがない分、個性がないともいえる。けれど、このキャンペーンの主役は岡本征一だから、それでいいんだろう。
コンテは、4本。
岡本征一とモデル嬢のカップルが、出会ってから結婚するまでが、描かれている。
1本目は、〈出会い編〉。
美しい芝生の広がる公園。
サッカー・ボールで遊んでいる征一。
ボールをうけそこない、ボールは、コロコロと転がっていく。
そのボールをひろい上げるモデル嬢。
眼と眼が合って……。
というような映像だ。15秒のスポットCMが中心だから、コンテも、〈ストーリー〉というより、〈男と女のワン・シーン〉という内容で企画されている。
「この〈出会い編〉は、カピオラニ公園がいいだろうな」
と僕は言った。カピオラニ公園は、ワイキキの東に広がっている公園だ。芝生が美しく、広い。ロケの許可もとりやすい。
「カピオラニ公園ですね」
と若い制作進行。スケジュール表に書き込んでいく。
2本目のコンテは〈ヨット編〉だった。
知り合った2人が、ヨットで休日を過ごしている。
ハーバーに舫《もや》ったヨットの上で、2人で、甲板を洗っている。
ヨットを洗う水しぶき、美しく陽射《ひざ》しに輝く。
楽しそうな表情の2人……。
コンテには、そんな風に描《か》かれていた。
「これは、アラ・ワイのヨット・ハーバーがいいだろう」
と僕は言った。アラ・ワイは、このオアフ島で一番大きなヨット・ハーバーだ。撮影に貸してくれるヨットも、心当たりがある。
3本目のコンテは〈ビーチ編〉だった。
きれいな海をバック。
砂浜でたわむれている2人。
そろそろ、恋人同士の雰囲気……。
コンテには、そう描《か》かれていた。
「海の色は、どっちかといえば、エメラルド・グリーンがかった色がいいな」
とディレクターの坂本が言った。
「となると、ラニカイあたりがいいだろうなあ」
僕は言った。ラニカイ・ビーチは、島の東側にある。遠浅で、海の色はエメラルド・グリーンをしている。
そして、最後、4本目のコンテは〈ウエディング編〉だった。
いよいよ結婚式をむかえた2人。
教会から出てくるところ。
周囲の人から、ライス・シャワー、つまりコメ粒が浴びせられる。
照れながらも、嬉《うれ》しそうな表情の2人……。
コンテには、そう描かれていた。
「心当たりの教会が3つほどあるんで、ロケハンする必要がありますね」
僕は言った。こういう撮影に使わせてくれる教会は、僕の知る限り、3つある。それをロケハンして、ディレクターとプロデューサーが決めればいいのだ。
□
「問題は、あのレポーターの連中だなあ……」
プロデューサーの光村が、腕組みしてつぶやいた。
「こんなことになって、本当にすみません」
とマネージャーの吉沢信子が言った。
「いやまあ、起きてしまったことはしかたがないよ」
とディレクターの坂本。僕を見て、
「いくらあの連中だって、CMの撮影を妨害するようなことはしないだろう」
と言った。僕は、うなずいた。
「まあ、連中も、そこまではしないでしょう。もしそんなことになったら、僕がなんとかしますよ」
と僕は言った。
光村は、波乗りでできた僕の腕の筋肉を見て、
「けど、暴力はいかんよ、暴力は。あとで大問題になるから」
と言った。僕は、苦笑した。
「はいはい、わかりました」
□
「それじゃ、テストいこうか!」
ディレクターの坂本が叫んだ。スタッフが、それぞれの持ち場についた。
午前11時。カピオラニ公園。
〈出会い編〉の撮影が、はじまっていた。
空は、よく晴れていた。コーラウ山脈の方にも、雲はない。きょうは、ずっと晴天がつづくだろう。
公園の芝生が、明るい陽射しに、生き生きと輝いていた。
ハワイは、芝生が美しい土地だ。暖かく、陽射しは豊かだ。おまけに、程よく雨が降る。そのせいで、ハワイでは、よく花が育ち、芝生は美しい。ハワイの人々がおおらかなのは、そんな花や芝生の美しさのせいかもしれないと、僕は思っていた。
いま、その美しい芝生の上で、撮影が進んでいた。
転がってきたサッカー・ボールを、モデル嬢がひろい上げる。そして、ボールを追いかけてきた岡本征一と眼が合って……。
そんなカットの撮影が、はじまっていた。
ストップ・ウォッチを握ったディレクターの坂本。ファインダーをのぞいているカメラマンの相原。レフ板をかまえている照明部の井戸田。そして、助手たち。スタイリストとヘア・メイクの女性スタッフ……。
みんな真剣な表情で仕事をしていた。
芸能レポーターの連中は、はなれたところから、撮影をながめている。
いまのところ、仕事中の征一にマイクを向けようとするレポーターは、いない。僕は、ほっとひと息ついた。
普通、撮影がはじまってしまえば、僕は、あまり、やることがないのだ。
僕は、仕事中のスタッフたちから、少しはなれた。芝生に置いてあるジュラルミンの機材ケースに腰かけようと思った。
見れば、そこに、マネージャーの吉沢信子がいた。
そう、マネージャーというのも、撮影がはじまってしまうと、あまりやることがなくなるものだ。
信子は、機材ケースに腰かけて、手を動かしていた。よく見れば、のんびりとケン玉をやっているのだ。
「ケン玉か……」
僕は、つぶやいた。信子のとなりに腰かけた。
「あなた、ハワイ育ちなんでしょ? ケン玉なんてよく知ってるわねえ」
微笑《ほほえ》みながら、信子が言った。
「ハワイ育ちっていっても、移民してきた日系人だから、うちには、ケン玉やメンコがあった。子供の頃は、それで遊んだよ」
と僕は言った。
「そっか……」
と信子。
「うちは、東京の下町だったから、近所に駄菓子屋があってね……。やっぱり、子供の頃は、ビー玉やケン玉で遊んだわ……」
「下町って、どのあたり?」
「神田《かんだ》。わかる?」
「なんとなく……。東京は、2回ほど行ったことがあるから」
僕は言った。
僕と信子は、ぽつりぽつりと言葉をかわしはじめた。彼女は、ケン玉をやりながら、話をしていた。その手先をながめて、
「上手だな」
と僕は言った。
彼女は、確かに、ケン玉が上手だった。糸のついた玉は、確実に、皿にのっかっていった。落とすことが、ほとんどなかった。
「マネージャーって、とにかく、待ち時間の多い仕事でしょう。いやでも上手になっちゃうわよ」
と彼女。かすかに苦笑しながら言った。そしてまた、ヒョイと玉を皿にのせた。
「マネージャーになったきっかけは、なんだったの?」
僕は訊《き》いた。
「芸能界に興味があったとか?」
「いいえ。全然」
と彼女。声を上げて笑った。
「芸能界になんて、まるで興味がなかったわ……。この仕事に入ったのは、ほんの偶然よ」
と言った。
「偶然?……」
「そう。女子大生のとき、バスケット部にいたのね。あまり強くないバスケット部だったけど」
「…………」
「3年生のとき、合宿の費用がたりなくなって、バイトをさがしたの。それが、たまたま芸能プロダクションの電話番だったの」
「へえ……」
「大学を卒業するまで、そのプロダクションで雑用のバイトをしていて……。4年生の終わり頃、正社員にならないかって言われたの。マネージャーとして、仕事をしないかって」
「見込まれたんだ」
僕は言った。彼女は、ちょっと苦笑した。
「運動部でやってきたから、体力はあるだろうと思われたんじゃない、きっと」
と言った。
「わたしも、普通のOLをやるのは退屈そうだなと思っていたから、結局、マネージャーとして就職することにしたの。もう5年も前のことだけど……」
彼女は言った。
大学を卒業して5年……。ということは、27歳の僕とは、ほぼ同じ年齢《とし》ということになる。
「で、マネージャーを5年やってきての感想は?」
「……そうねえ……。仕事は動きがあって面白いから、半分は、よかったと思ってるわ」
「残りの半分は?」
「失敗したと思ってるわ」
と彼女。苦笑まじりに、白い歯を見せた。
「女子大時代の友達、みんな、大企業に勤めて、そこで相手を見つけて、どんどん結婚していっちゃうんですもの……」
「うらやましい?」
「正直言って、ちょっとね……」
つぶやくように、彼女は言った。しばらく無言でいた。やがて、
「むずかしい年頃《としごろ》なのね。いまのわたしの年齢あたりって……」
と言った。僕も、うなずいた。なんとなく、わかる気がした。まぶしい陽射《ひざ》しに、眼を細めた。
□
「タラコのオニギリ?」
僕は、思わず訊《き》き返していた。信子は、
「そう。どうしても、タラコのオニギリなんだって」
と言った。
ロケ3日目の夕方だった。
スタッフたちは、カピオラニ通りにあるステーキ・ハウスに夕食にいくことになっていた。
ところが、岡本征一は、ステーキを食べないという。そのかわり、部屋でタラコのオニギリを食べたいという。
マネージャーの信子が、そのことを僕に相談にきたのだ。
「彼、胃が疲れてるらしいわ。例の写真週刊誌のこともあったし……。あれで、けっこう、神経が細いところもあるから、胃にきちゃったらしいの」
「そうか……。それで、ステーキじゃなくてオニギリか……」
僕はつぶやいた。
「わがままを言ってごめんなさいね」
と信子。
「まあ、そういう事情ならしかたないさ。じゃ、タラコのオニギリをテイクアウトできるところを捜すとしようか」
僕は言った。彼女と一緒に、ホテルを出た。僕が足として使っているワーゲンで、ホノルルの街《まち》へ出た。
心当たりの店を、回りはじめた。
ところが、なかなか、オニギリを手に入れることはできなかった。ホノルルの和食屋で多いのは寿司屋だ。それに、シャブシャブの店もけっこうある。高級な懐石料理の店も、少しはある。けれど、庶民的なオニギリをやっている店というのが、意外にないのだ。
10軒近く回って、やっと、目的のオニギリを手に入れることができた。
僕らは、テイクアウトのオニギリを持って、駐《と》めてあるクルマに戻った。クルマに乗り込むと、
「あ、そうだ」
と信子が言った。
「何?」
「征一が、ビデオを借りてきてくれっていってた。部屋でひとりで観《み》るんだって」
「了解。レンタル・ビデオ屋なら、いくらでもある。少なくとも、タラコのオニギリよりは楽に見つけられるはずだ」
僕は言った。ワーゲンのイグニションを回した。
□
「ずいぶん、渋いものを観るんだなあ……」
僕は、クルマのステアリングを握って言った。
レンタル・ビデオ屋でビデオを借りて、ホテルに戻るところだった。
信子が借りてきたビデオは、古いフランス映画だった。主演は、確か、ジャン・ギャバンだ。
「これが、征一のリクエストなのよ」
と助手席の信子。
「それにしても、渋いな……」
と僕は言った。信子は、しばらく無言。走り過ぎていくホノルルの街をながめていた。街は、たそがれから夜に表情を変えていくところだった。ネオンが光りはじめていた。
「彼……征一……きっと、勉強のつもりで、このビデオを観《み》るんだと思うわ」
信子が言った。
「勉強?」
僕は訊いた。彼女は、
「そう……。演技の勉強」
と答えた。
「征一は……大学生だった頃に、モデルとしてスカウトされてデビューして……それから、アイドルっぽい人気で、いままできているでしょう」
「…………」
「だから、演技の勉強も、ほとんどしたことがないの」
「…………」
「でも……もう26歳だし……ただアイドル的な人気だけじゃやっていけなくなる年頃《としごろ》だし……それじゃ本人も不満らしいし……。だから、そろそろ、本格的な俳優としてやっていく方向を考えているんだと思うわ」
「……なるほど……」
「わたしはもちろん賛成だし、事務所としても、賛成してるわ。あとは、本人のやる気しだいね」
信子は言った。僕は、うなずきながらクルマのステアリングを握っていた。
□
「はい! カット!」
ディレクターの坂本が叫んだ。ジャーッと音をたてて回っていたムーヴィー・カメラ、アリフレックスのマークUが、ピタリと止まった。
午後2時。アラ・ワイのヨット・ハーバー。
〈ヨット編〉の撮影が、おこなわれているところだった。
撮影用に借りたのは、32フィートのクルーザーだった。クルーザーは、|浮き桟橋《ポンツーン》に舫《もや》われていた。
征一とモデル嬢は、クルーザーの上にいる。カメラマン、助手、ディレクターたちは、浮き桟橋の上にいて、カメラをクルーザーに向けていた。
「いまの表情、なかなかよかったよ」
とディレクターの坂本。征一に言った。
ちょっとはなれた所で撮影を見ていた僕は、となりにいる信子に、
「きのう観《み》たビデオが、さっそく効果をあらわしたのかな?」
と冗談半分に言った。
「そうだといいけど」
信子も、微笑しながら言った。
「じゃ、押さえに、あと4、5テイク撮《と》っておくか!」
とディレクターの坂本。征一たちとスタッフたちに言った。
いま撮っているのは、征一とモデル嬢が、デッキ・ブラシで、クルーザーの甲板を洗っているシーンだった。ホースから飛び散る水滴が陽射《ひざ》しに光る。楽しそうな表情の2人……。そんなシーンだった。
「それじゃ、このカット、テイク8、いきます!」
と制作進行が叫んだ。征一とモデル嬢が、デッキ・ブラシとホースを持って位置につく。カメラマンの相原が、アリフレックスのファインダーに眼をつける。ディレクターの坂本が、ストップ・ウォッチを握る。現場の空気が、ピンと張りつめる。
「用意!」
坂本が叫んだ。アリフレックスが、ジャーッと軽快な音をたてて回りはじめた。
□
「フィルム・チェンジです!」
とカメラ助手が叫んだ。テイク10まで撮《と》ったところだった。
「フィルム・チェンジです。ひと休みしてください」
と制作進行。ピンと張りつめていた現場の空気が、ふっとゆるんだ。
征一が、クルーザーから浮き桟橋に移ってきた。ヘア&メイクの女性が、征一の額《ひたい》に浮き出た汗を、スポンジで押さえている。
そのときだった。
「ちょっといいですか!」
という声がした。
あの芸能レポーターの一団だった。
きょうも、レポーターやカメラマンは3組ほど、撮影現場にきていた。少しはなれた所から、撮影を見ていた。
その一団が、ドヤドヤと征一の方に押しよせてきた。マイクを握っているレポーターが、顔のメイクをなおしている征一のところに押しかけようとしていた。
僕は、素早く動いた。
レポーターたちの前に、立ちふさがった。
「ちょっといいですか!」
というレポーターに、
「よくないよ」
と言った。マイクを握ったレポーターは、
「え!?」
と、思わず間抜けな声を出した。それは、空港で僕に声をかけてきたペンギン・シャツのレポーターだった。
「きこえなかったの?〈いいですか〉って言うから〈よくない〉って言ったのさ」
僕は、レポーターたちの前に立ちはだかって、そう言った。
「見てのとおり、いまは、撮影中なんだ。あんたたち、失礼だとは思わないのか」
僕はペンギン・シャツに言った。
「でも……いまは休憩みたいだし、ちょっとだけ、話をきかせてくれりゃいいんだよ、ちょっとだけ」
とペンギン・シャツは言った。
僕は、ペンギン・シャツを真正面から見た。
「本人が、何も話すことがないって言ってるんだから、いいだろう、それで」
と言ってやった。僕は、相手の眼を、じっと見すえた。顔を近づける。
「これだけ話してわからないのなら、あんた、ひと泳ぎするはめになるぞ」
と僕は言った。
「ひと泳ぎ?」
とペンギン・シャツ。いま僕らが押し問答しているのは、浮き桟橋の上だ。幅1.5メートルぐらいの浮き桟橋で、その両側は水だ。
「お、おい……君は、私たちを海に落とそうっていうのか?」
とペンギン・シャツ。おびえた声で言った。
「ことと次第によっちゃ、そういうことになるな。まあ、この暑さだから、ひと泳ぎして頭を冷やすのもいいか」
と僕は言った。Tシャツのソデをさらにまくり上げ、腕の筋肉を見せた。
ペンギン・シャツたちは、じりじりと後ずさりしはじめた。レポーター、カメラマンたちは、浮き桟橋を、じりじりと後ずさりしていく……。どうやら、突撃レポートは、あきらめたらしい。
やがて、
「フィルム・チェンジ、終了しました! お待たせしました!」
とカメラ助手が叫んだ。スタッフたちは、また、自分の持ち場に戻る。僕も、その場を立ち去ろうとした。
そのとき、征一と眼が合った。征一は小声で、
「どうもありがとう。迷惑かけちゃって、すまない」
と僕に言った。僕は、軽く微笑《ほほえ》んでみせた。〈気にしない、気にしない〉と眼で言った。歩きはじめた。撮影が再開されようとしていた。
□
「こっちは、クイーンのスリーカードね」
とカメラ助手の辻本。カードを広げてみせた。
「ちぇっ、スリー・カードか」
僕は、自分のツー・ペアーをポイと放り出した。もう1人のカメラ助手、原も、
「ちぇっ、やられた」
と言って、カードを放り出した。
「悪いねえ」
と勝った辻本。テーブルの上のドル札を、ガサガサとかき集める。
僕らは、ポーカーをやっていた。
カメラのチーフ助手の辻本。セカンド助手の原。その2人の部屋で、ポーカーをやっていたのだ。
夕食が終わってから、部屋に戻ってポーカーをはじめた。白熱したやりとりがつづき、あっという間に時間は過ぎていった。
いまはもう、午前5時近い。
それでも、僕らはポーカーをやめなかった。
きょうは、撮影はオフ。つまり、中休みというスケジュールになっていた。だから、僕らは1日中、眠っていてもいいのだ。そんな理由《わけ》で、僕らは徹夜でポーカーをやっていたのだ。
さらに、3ゲームやった。けれど、僕は勝てなかった。ツキの女神に見はなされたらしい。
腕のダイバーズ・ウォッチを見る。もう、朝の5時15分だ。そろそろ、疲れがたまってきていた。
「オレはもうやめるよ」
僕は言って、カードを置いた。
□
彼らの部屋から、そっと出る。
5時15分といっても、まだ、ホテル全体が寝静まっていた。僕は、足音をしのばせて、ホテルの廊下を歩きはじめた。
そのときだった。
10メートルぐらい先で、部屋のドアが開くけはいがした。人影が、部屋から出てくるのが見えた。
女だった。薄いブルーのニット。ローファーを履《は》いている。ストレートな髪が、肩にかかっている。
信子だった。
彼女は、いま出てきた部屋のドアを、そっと閉めた。歩き出そうとした。その彼女に向かい、小声で、
「おはよう」
と僕は言った。
彼女の体が、ビクンッと大きく震えた。
彼女がいま出てきた部屋は、1207号室。岡本征一の部屋だった。
□
「そうか……彼の部屋から朝帰りしていた女性ってのは、君だったのか……」
僕は、ワーゲンのステアリングを握ってつぶやいた。
「誰にも言わないでくれるわよね」
と信子。助手席で言った。
「もちろん。これも、職業上の守秘義務ってやつかもしれないな。とにかく、誰にも言わないから、安心していい」
僕は、ステアリングを握って言った。
僕が運転するクルマは、早朝のホノルルを走っていた。
腹が減ったので、何か食べにいこうとすると、信子も、一緒にいきたいと言い出したのだ。
僕は信子を乗せて、クルマを走らせていた。まだ朝早いホノルルには、走っているクルマもほとんどない。空気が、かすかにもやっている。信号の色が、あざやかににじんで見えた。
「さて……夜遊びのあとの朝食には、何がいいかな……」
僕は、つぶやいた。
「まかせるわ」
と信子。僕は、うなずいた。チャイナ・タウンにいくことにした。ステアリングを左に切った。ベレタニア|通り《ストリート》を西に向かって走りはじめた。
□
ホノルルのダウンタウンは、ワイキキから西に向かってひとっ走りした所にある。そのダウンタウンの一画に、チャイナ・タウンはあった。
チャイナ・タウンの朝は早い。
まだ6時だというのに、あちこちの菜館《レストラン》からは、食べ物の匂《にお》いが流れ出していた。麺《めん》を茹《ゆ》でる湯気が、通りにまで漂いはじめている。
チャイニーズたちの朝は、もう、はじまっているのだ。
僕は、マウナケア|通り《ストリート》のパーキング・メーターにクルマを駐《と》めた。信子と一緒に、早朝のチャイナ・タウンを歩きはじめた。
目ざす、菜館《レストラン》は、もう開いていた。
僕らは、開けっぱなしの出入口から、中に入った。
店の中は、どちらかといえば殺風景だ。レストランというより、食堂といった方が正しいだろう。けれど、この店の味はチャイナ・タウンで一番だと、僕は思っている。
僕らは、窓ぎわのテーブルについた。
すぐに、この店の娘である麗琴《リーツイン》が、メニューを持ってやってきた。麗琴は僕の顔を見ると、
「ハイ、ケン」
と言った。きれいな歯並びを見せて微笑《ほほえ》んだ。メニューを2つ、僕らのテーブルに置いていった。
僕は、〈食譜《MENU》〉と印刷されているメニューを広げた。いつも注文するものは決まっているのだけれど、メニューを広げるのがクセになっていた。
信子も、メニューに眼を走らせている。メニューは、漢字で書いてあり、英語の説明がついていた。
□
「あなたは、シュリンプ・ワンタン・ヌードルでしょう?」
と麗琴。僕に言った。僕は、微笑《ほほえ》みながらうなずいた。
シュリンプ・ワンタン・ヌードル。それは僕の好物メニューだった。漢字では〈蝦肉雲呑麺〉と書く。エビ入りのワンタンを浮かべた麺だ。麺はごく細い香港麺《ホンコンめん》で、スープはシーフード味だ。
信子は、オカユを注文した。
肉団子の入ったオカユだ。漢字では〈爽滑肉丸粥〉と書いてある。
注文をとり終わると、麗琴はキッチンの方に消えていった。
僕は、ほどよい熱さのお茶を、ひと口飲んだ。ひと晩中、ウイスキーを飲みながらポーカーをやった。ヒリヒリとした胃に、お茶が心地良かった。
「彼とは、いつ頃から?」
僕は訊《き》いた。問いつめる口調ではなく、世間話の口調で訊いた。
信子は、しばらく無言でいた。茶碗《ちやわん》を、両手で包むように持って、お茶をひと口飲んだ。そして、話しはじめた。
「いまから1年ぐらい前のことよ」
「…………」
「彼が……征一が……仕事のことで、ちょっといきづまっちゃって、悩んでるときがあってね」
「…………」
「わたしは、マネージャーだから、もちろん、彼の相談にのったわ……。毎晩のように、彼の相談にのって、いろいろと話をしたわ」
「そのときの悩みっていうのは?」
僕は訊いた。
「彼、その頃、テレビ・ドラマに出演していたの。準主役のいい役だったんだけど、どうしても、ラヴ・シーンがうまくいかなくてね……」
「ラヴ・シーンが、うまくいかない?……」
信子は、うなずいた。
「結局、相手役の女優さんと、ウマが合わなかったのね……。だから、ラヴ・シーンになると、演技がギクシャクしちゃってね……」
「へえ……」
「でも、プロのタレントなんだから、ちゃんとやりなさいって、わたしは言いきかせたわ。そして、わたしが相手役になって、台本《ほん》読みをくり返したの」
「…………」
「彼の部屋で、ラヴ・シーンの台本読みをやっているうちに……とうとう、こういうことになっちゃったの」
信子は言った。
「演技の練習が、本物になっちゃったってわけか……」
「……まあ、そういうことね。でも……」
「でも?」
「いまから思い返せば、はじめて出会ったときから、わたしたち、男と女として惹《ひ》かれていたんだと思う……」
「つまり、油に、火がついたってわけか……」
「まあ、そんなところね」
と信子。苦笑しながら言った。僕の麺と彼女のオカユが、運ばれてきた。
□
「これから、どうするつもりなんだい」
僕は、ハシを握って訊《き》いた。細い麺を、口に運んだ。
信子も、レンゲでオカユを口に運んでいる。オカユをひと口食べては、窓の外をながめている。
「……彼は……征一は……わたしたちのことを、おおっぴらに発表したがっているわ」
「おおっぴらにする? ってことは、結婚も考えているってこと?」
僕は訊いた。
「どうやら、そうみたい」
と信子。オカユに入っている肉団子を、口に運んだ。
「で、君の方は?」
「……そりゃ……わたしも彼のことを愛しているから……彼がそう思ってくれるのは嬉《うれ》しいわ……。でも……」
「でも?」
「どう考えても、この恋愛はダメよ。先が見えないわ……」
つぶやくように、信子は言った。
「なぜ?……」
「……なぜって……彼は、まだまだ人気が上昇しているタレントよ。そんな彼がマネージャーと恋愛関係にあるなんてバレたら、人気はどうなると思う?」
「…………」
「いま、彼の人気をささえてるファンの中心は若い女性よ。彼が、年上の女マネージャーと恋愛してるなんて知ったら、そういうファンの娘《こ》たちは、はなれていくにちがいないわ」
「そうか……」
僕は、つぶやいた。シュリンプ・ワンタンを1個、口に運んだ。
「ということは……少なくとも人気が安定するまでは公表できないってことか……」
「そういうことね……。でも、彼は若いし、何年も先まで気持ちが続くなんて、確率20パーセント以下よ……」
と信子。軽くため息をついた。
「彼の熱も、そのうち、さめるわよ……わたしとのことも、いずれ、過去の出来事になるわよ、きっと」
と言った。
「わたしが願うのは、ささやかなこと……。わたしという、1歳年上の女との恋愛が、彼にとって、いい経験になってくれればいいなと……それだけを思っているわ。……それ以上、望むことはないわ……」
信子は言った。
薄明るい朝の光が、店の窓からさし込んできていた。やや蒼《あお》みをおびた朝の光は、ステンレスのコショウ入れに反射していた。窓の外。マウナケア|通り《ストリート》を、紺のピックアップ・トラックが、ゆっくりと通り過ぎていく。
「……マネージャーってのは、陰の存在に徹しなければ、いけないのよね……」
信子は言った。それは、自分自身に言いきかせているようにも感じられた。僕は、無言でハシを動かしていた。
□
「征一とケイコちゃん、もうちょっと近づいてくれるかな」
とディレクターの坂本が言った。
午後1時過ぎ。オアフ島東海岸のラニカイ・ビーチ。
いま、〈ビーチ編〉の撮影がはじまっていた。
坂本が〈ケイコちゃん〉と呼んだのは、征一の相手役のモデルのことだ。
征一とモデルは、2人とも水着姿だった。征一は競泳用の水着。彼女は、ややハイレグになったワンピースの水着をつけていた。
2人は、砂浜に立っていた。太陽は、ほとんど真上だ。白い砂に、2人の影は、濃く、小さい。
照明部のスタッフが、反射《レフ》板を持って、2人の周囲にいた。真上からの太陽光を反射させ、2人に当てていた。
〈青い海をバックに、抱き合うようにしている2人〉
〈顔を見合わせ、笑い合っている〉
〈3倍のスローモーション撮影〉
コンテにはそんな風に描《か》かれているシーンを、いま、撮影しようとしていた。
「もうちょっと体を近づけて」
とディレクターの坂本。2人に指示する。
「この〈ビーチ編〉では、2人はもう、恋人になっている設定なんだから、もっと体を近づけていいんだ。わかるね」
と坂本。
征一は、うなずく。モデルの肩を抱くようにした。
「そうそう、そんな感じ」
坂本の声が、撮影現場に響いた。
僕と信子は、少しはなれたところにいた。機材ケースに腰をかけ、撮影をながめていた。30メートルぐらいはなれたところには、芸能レポーターの一団がいた。しつこいハエのような連中だ、と僕は思った。
きょうも、天候は安定しているようだった。ゆったりとしたペースで、撮影は進んでいた。僕と信子は、それをながめていた。
信子は、また、ケン玉をやっていた。ゆっくりとリズミカルに玉をあやつり、皿にのせたり戻したりしていた。
「いいよいいよ、そのポーズ」
とディレクターの坂本。征一とモデルは、白い砂の上で、抱き合うようにしている。それだけ見ると、本物の恋人のようだった。
「ああいうの見てて、妬《や》けることってないのかな?」
僕は、ふと、信子に訊《き》いた。
信子は、しばらく黙っていた。やがて、口を開いた。
「妬けるって……ああいう撮影を見てて?」
「そういうこと」
「そんな……そんなこと、あるわけないじゃない。タレントの共演者にマネージャーが嫉妬《しつと》するなんて、そんな馬鹿な……」
信子は言った。
「それじゃ、マネージャーとしてじゃなく、ひとりの女としては?」
僕は訊いた。
「それも、同じよ……。あれは、あくまで仕事だもの。それに対して嫉妬なんてしないわよ」
信子は言った。言いながら、相変わらず、ケン玉をやっている。
玉は、リズミカルに、3つある皿にのっては、宙に浮いている。
その信子の手もとが、狂った。玉は、目的の皿にのらず、ポロリと落ちた。
「あっ……やっぱり、心が動揺してる」
僕は笑いながら言った。
信子は、苦笑いをする。
「意地悪な人」
と言いながら、白い歯を見せる。笑いながら、僕の腕をつねった。
□
「え? モデルが倒れた?」
僕は、思わず訊《き》き返していた。
朝の9時。ホテルのロビー。
これから撮影に出発しようと、スタッフがロビーに集まったときだった。きょうは、最後のコンテ〈ウエディング編〉を撮《と》る予定になっている。
「ケイコちゃん、きのうの撮影で日光に当たり過ぎちゃったらしいんです」
と若い制作進行が言った。
「きのうの夜中から、熱を出しちゃって……。朝になれば熱は引くかと思ってたんだけど、やっぱりダメです」
「ダメって、どのぐらいダメなんだよ」
とプロデューサーの光村。
「まだ熱が高くて、ベッドの中でうなってますよ。とても、撮影なんて無理です」
制作進行が言った。
「まいったなあ……」
と光村。僕の方を見た。
「どうしよう、ケンちゃん」
と言った。
「どうっていっても、もう、エキストラは集めちゃったしなあ……」
と僕はつぶやいた。
〈ウエディング編〉は、結婚式を終え、教会から出てくる2人のシーンだ。その2人にライス・シャワーをかける役のエキストラを30人ほど、もう集めてある。
エキストラたちはもう、撮影現場の教会に集合しているだろう。
「まいったなあ……」
とプロデューサーの光村。頭をかかえて言った。
そのときだった。
「解決方は、1つしかないよ」
とディレクターの坂本が言った。スタッフみんなが、坂本の方を見た。
□
「ピンチヒッターを立てる!?」
光村が、訊き返した。坂本は、うなずいた。
「そういうこと。ケイコの代役を立てるしかないだろう」
と言った。そして、ポケットから、たたんだコンテをとり出し、広げた。コンテには、こう描《か》かれていた。
〈結婚式をあげ、教会を出てきた2人。後ろからのカット〉
〈出むかえる人々から浴びせられるコメ粒。美しく陽射《ひざ》しに光る〉
〈花嫁の方をふり向いて見る征一。嬉《うれ》しそうで、同時に少し照れた横顔〉
〈グラスに缶ビールが注がれる〉
〈征一が、グラスのビールを飲み干すカット〉
〈商品カット(テーブルに置かれた缶ビール)〉
〈商品ロゴ、|F・I《フエード・イン》〉
そんな、CMのコマ割りになっていた。
「つまり、この〈ウエディング編〉では、女性モデルの顔は写さなくてもいいんだ。あくまで、後ろ姿でいいんだ」
とディレクターの坂本。
「だから、この花嫁役はケイコである必要はない。彼女と背かっこうが似ていれば、それでいいんだ」
と言った。
「そうか……」
プロデューサーの光村が、つぶやいた。
「で、代役は、どうするんだ」
光村は、坂本に訊いた。坂本は、ゆっくりと、まわりにいるスタッフ全員を見回した。そして、口を開いた。
「さっきから、どうしようかと考えていたんだが……この代役ができるのは、君しかいない」
と坂本。
彼が指さしたのは、信子だった。
□
そうか……と僕は思った。
信子は、モデルのケイコと同じぐらい身長がある。スタイリストやヘア&メイクの女性は、どちらかというと小柄だった。
髪の長さやヘア・スタイルも、信子とモデルのケイコはよく似ていた。
ウエディング・ドレスを着た後ろ姿なら、まず、どっちがどっちだか、わからないだろう。
「うん……。いけるかもしれない。いや、いけるよ」
光村が言った。
それから、押し問答がはじまった。もちろん、信子は代役を辞退している。それを、ディレクターとプロデューサーが説得する。
けれど、押し問答は、あまり長くつづかなかった。
辞退する信子の方には、これといって決定的な理由がなかった。
逆に、彼女が代役をやることは、いま、CMづくりにどうしても必要なことだった。
「これも、マネージャーの仕事の1つだと思って、たのむよ」
と光村。信子に言った。
結局、信子は押し切られた。代役をやることになった。僕らは、急いでヴァンに乗り込み、教会に向かった。
□
2時間後。
ホノルル郊外にあるカトリック教会。
撮影の準備が、進んでいた。教会の玄関には、カメラがセットされていた。玄関の前では、30人のエキストラが、待機していた。
僕は、教会の中にある小部屋に入っていった。そこは、結婚式をやる花嫁の控え室に使われる部屋らしかった。
部屋には、信子がいた。
彼女は、ウエディング・ドレス姿で、窓ぎわにたたずんでいた。もう、着つけや何かはすべて終わったらしく、スタイリストもヘア&メイクの女性もいなかった。彼女は、ひとりだった。
「…………」
僕は、何も言わず、眼でうなずいた。うまい言葉が見つからなかった。僕が言葉をさがしていると、彼女の方から、
「けっこう似合うでしょう?」
と口を開いた。
僕に向かって、カラリとした笑顔を見せた。それは、かなり努力した結果の笑顔に感じられた。
僕は、彼女の言葉に、うなずいた。そして、
「皮肉なことになっちゃったな……」
と言った。
今度は、彼女がうなずいた。
「……こんな形で、ウエディング・ドレスを着ることになるなんて……本当に皮肉ね……」
彼女は言った。
窓から、外をながめて言った。
やや薄暗い控え室。その窓の外は、逆に、まぶしいほど明るかった。窓の外は、教会の中庭だった。中庭に、人の姿はない。静まりかえっていた。きれいに刈り込まれた芝生のグリーン。その芝生の一画に、ブーゲンヴィリアの茂みがあった。鮮やかなピンクのブーゲンヴィリアの花が、かすかな風に揺れていた。
彼女は、静まりかえった中庭を、じっとながめていた。まぶしさに眼を細めるようにして、じっとながめていた……。
僕は、彼女の胸のうちを思った。
征一との恋は、しょせん、ハッピーエンドにならないものと決意していた。
通り雨のように、過ぎ去っていく恋愛だと、心に決めていた。
それなのに……たとえ撮影の代役とはいえ、ウエディング・ドレスを着て征一の花嫁をやることになってしまった……。
いまの信子の気持ちは、どれほど複雑なものだろう……。それを思うと、僕も、胸がしめつけられるようになった。
つい、
「切ない気分?……」
と、彼女に訊いてしまった。
10秒ほど無言でいた彼女は、やがて、ぽつりと言った。
「かなり切ない気分ね……」
と、つぶやくように言った。
ふと見ると、彼女は、右手で、眼がしらをそっと押さえた……。涙がにじんでいるらしかった。
けれど、彼女は、それ以上、涙を流したりはしなかった。じっと、眼がしらを押さえたままでいた。
どのぐらい時間がたっただろう。
彼女が、口を開いた。
「でも……わたし……ちゃんと代役をやるわよ」
と、しっかりとした声で言った。
彼女が僕の方を見た。その表情には、微笑《ほほえ》みがあった。正確に言うと、泣き笑いといった感じの笑顔だった。
「だって、マネージャーですもの……。タレントのためのお仕事なら、ちゃんとやらなくちゃね……」
彼女は言った。半分は自分に言いきかせるような、そんな口調だった。
その声に、湿っぽさはなかった。このハワイの風のように、カラリとしていた。
僕は、切ない気持ちを、心のすみのロッカーに押し込む。彼女に向かって、出来る限り明るく微笑《わら》ってみせた。
そのときだった。ドアの外で、
「撮影のスタンバイ、できました!」
という声がした。制作進行の声だった。
「はい、いまいきます」
はっきりとした明るい声で、彼女は答えた。
□
「それじゃ、こういうことにしよう」
とディレクターの坂本。
「そう何回もコメ粒をまくわけにいかないから、リハーサルなし。1回目から、カメラを回していこう」
と言った。
教会の玄関。撮影の準備はととのっていた。
征一と信子が、並んで立っている。2人を後ろから撮影するために、撮影部がスタンバイしている。ムーヴィー・カメラのアリフレックス・マークUが、2人の後ろ姿に向けられていた。
2人が歩いていく道の両側には、エキストラが待ちうけている。日本人と白人が半々になっている。若者。中年。老人。子供もいる。
照明部のスタッフが、大きな反射《レフ》板を持って、周囲をかためていた。
さらにその周囲には、芸能レポーターの連中が待機していた。
ディレクターの坂本は、ストップ・ウォッチを手に、頭上を見上げた。太陽はほぼ真上。まぶしく照りつけている。雲にかくれる様子は、ない。
「じゃ、いってみようか!」
坂本は叫んだ。現場の空気が、ピンッと引きしまる。
「本番! いきます!」
制作進行が叫んだ。
信子が、征一の腕にそっと手をかけた。
本番前の、息づまるような一瞬……。そして、
「テイク|1《ワン》! 用意!」
の声。アリフレックスが、ジャーッと回りはじめた。
「はい!」
坂本が叫んだ。
征一と信子は、ゆっくりと歩きはじめた。いま結婚式をあげたばかりの2人として、ゆっくりと、教会の玄関から歩きはじめた。
左右にいるエキストラの連中から、コメ粒が、投げられる。宙を舞ったコメ粒は、ライス・シャワーとなって、2人の頭上にふりそそぐ。
ライス・シャワーは、ハワイの陽射《ひざ》しをうけて、キラキラと輝いている。美しい光景だった。
5、6メートル歩いたところで、2人は、足を止めた。ここで、征一が花嫁にふり向いて微笑《ほほえ》みかける、そういう段どりになっていた。
征一は、ゆっくりと、信子にふり向いた。
3、4秒、彼女の顔を見た……。
つぎの瞬間だった。思いがけない出来事が待っていた。
□
信子にふり向いた征一は、信子を抱きしめたのだ。
ゆっくりとした動きだった。けれど、ゆるぎのない動作だった。征一は、両腕で彼女を抱きしめたのだ。
そんな予定には、なっていなかった。
征一は、ただ、彼女に微笑みかけるだけのはずだったのに……いま、両腕で力強く彼女を抱きしめていた。
ディレクターの坂本は、あっけにとられて、ポカンとしている。
まわりにいるほかのスタッフも同じだった。
カメラは、そのまま、回りつづけている。
エキストラたちには、事情がわかっていない。征一が花嫁を抱きしめるコンテだと思っているらしい。
エキストラたちは、さらに盛大に、ライス・シャワーを、征一たちの上に降らせる。笑顔で拍手をしている。
征一は、眼を閉じ、彼女を抱きしめたままでいた。信子も、力強く抱きしめられて、動けないままだった。
たっぷりCM1本分、15秒ぐらい過ぎたときだ。
「カット! カット!」
と、われに返った坂本が叫んだ。
同じようにポカンとしていたカメラ・スタッフも、はっとわれに返る。ジャーッと回っていたアリフレックスが、止まった。
エキストラたちも、ライス・シャワーを降らせるのを、やめた。それでも、征一は彼女を抱きしめたままでいた。
「何してるんだ! 征一」
坂本が叫んだ。
そこまできて、あたりに待機していた芸能レポーターの連中も気づいた。何か、予定外の出来事が起こったことに気づいた。
芸能レポーターたちは、ドヤドヤと、征一たちの方に駆け寄った。ビデオ・カメラをかついだカメラマンたちも、あわてて追いかける。
芸能レポーターたちに囲まれた征一は、彼女を抱きしめていた腕をほどいた。そして、自分に向けられている何本ものマイクをながめた。
やがて、口を開いた。
「……この撮影がすべて終わったら……みなさんに発表したいことがあります……」
きっぱりとした口調で、そう言った。
□
プールサイドに、たそがれがせまっていた。
撮影スタッフが泊まっているTホテル。そのプールサイドに、僕はいた。プールサイド・バーのスツールに腰かけていた。
プールサイド・バーは、円形のカウンターがあり、中でバーテンダーがカクテルをつくっている。
円形カウンターの周囲にも、10個ほどのテーブル席があった。
カウンターにも、テーブル席にも、半分ぐらいの客がいた。客のほとんどは、白人だった。
このTホテルは、日本人観光客が少ない。有名タレントの征一がいるということで、僕は、スタッフ全員の宿泊をここに決めたのだ。このホテルなら、征一がロビーで日本人観光客にサインぜめにあうということもないだろう。
僕は、ひとりでプールサイド・バーのスツールに腰かけていた。ジン・トニックを飲んでいた。
すべての撮影は終わった。明日の朝、ロケ隊は日本に帰る。僕にとっては、ひとつの仕事にピリオドを打つことになる。
僕は、ゆっくりとしたペースで、ジン・トニックを飲んでいた。
ふと、
「となり、いいかな?」
という声がした。ふり向く。征一が立っていた。シャワーを浴びてきたらしく、さっぱりとした顔つきをしていた。
さっぱりとした顔つきの理由は、ほかにもあるのかもしれなかった。今日の午後、撮影が終わったあと、征一は、信子とのことをすべて、レポーターたちに話したのだ。
かくし事がなくなった……。
そのせいで、征一は、さっぱりとした表情をしているのかもしれなかった。
「いま頃、レポーターの連中は大忙しだろうな……」
僕は言った。連中は、さっき撮《と》ったインタビュー・ビデオを東京に送るのに大忙しだろうと思った。
征一は、苦笑しながらうなずいた。
ハワイアンのバーテンダーに、
「フローズン・ダイキリ」
と注文した。征一は、グラスにささっているストローを抜く。グラスに唇をつけ、ぐいとひと口飲んだ。
「オレのことを、馬鹿な男だと思うかい?」
征一が訊《き》いてきた。
僕は、小さく、ゆっくりとうなずいた。
「ああ……馬鹿な男だとは思うよ」
と言った。そして、
「だけど……馬鹿な男ってのが、オレは嫌いじゃないんでね……。その一杯は、オレがおごらせてもらうよ」
と言った。
征一に向かって、ニコリと白い歯を見せた。
征一も、微苦笑まじりに、白い歯を見せた。
「……それにしても、これからの仕事に、支障はないのかな?」
僕は訊いた。
「もちろん、多少はあるだろう。けど……婚約者がいたということでなくなるような人気なら、もともと、たいした人気じゃないと思う」
征一は言った。
「これからは、結婚していようとなんだろうと、そんなことに関係なく評価されるような、そういう俳優をめざすつもりだ」
征一は言った。その言葉は、淡々としていたけれど、一種、自信のようなものが感じられた。
僕は、ジン・トニックのグラスを片手に、うなずいた。そのとき、
「お待たせ」
という声がした。
信子だった。薄いブルーのサマー・ドレスを身につけて、白い貝殻《かいがら》のイヤリングをつけていた。
どうやら、征一と、このバーで待ち合わせをしていたらしい。信子は、ちょっと考え、ストロベリー・ダイキリを注文した。
信子はいつも、素顔に近い化粧をしていた。
それがいまは、きれいなピンク系の口紅をつけていた。そのピンクは、ブルーのサマー・ドレスによく似合った。
いま、このひとときは、征一のマネージャーではなく、恋人だということなのだろう……。
前に置かれたストロベリー・ダイキリに、信子は、そっと口をつけた。
□
プールサイドに、音楽が流れはじめた。D《デイオンヌ》・ワーウィックのバラードだった。
あたりが、たそがれの色に染まりはじめていた。太陽は水平線に沈み、空には、淡いグレープフルーツ色が残っている。そのグレープフルーツ色をバックに、ヤシの葉がシルエットで揺れている。
プールには、エメラルド・グリーンのライトがついた。水面が、鮮かな色に輝きはじめていた。
南洋の1日で、最も美しい時間だった。
何組かの白人客が、プールサイドでスロー・ダンスを踊りはじめていた。
若いカップル。かつて若かったカップル……。みんな、流れる曲に合わせ、スロー・ダンスを踊っていた。
「オレたちも踊ろうか」
征一が信子に言った。信子の返事もきかず、スツールから立ち上がった。カクテルに頬《ほお》を染めた彼女は、征一のあとについていく。
やがて、ふたりは、プールサイドで踊りはじめた。
踊るといっても、静かなスロー・ダンスだった。お互いの体に手を回し、曲に合わせてゆっくりと揺れていた。
征一の背中は、ピンと伸びていた。
信子の腕は、やさしく征一の肩に置かれていた。
僕は、彼らのスロー・ダンスをながめていた。
これから、日本で待ちうけているさまざまな出来事に、ふたりは、どう立ち向かっていくのだろう……。そのことを、僕は、ぼんやりと考えていた。
風が吹いた。
太平洋を渡ってきたカラリとした貿易風が、そっと、バーを吹き抜けていく……。僕の眼の前で、バーの紙ナプキンが、フワリと揺れた。D・ワーウィックが、愛について歌っていた。空に、きょう最初の星が出ていた。
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あとがき
今年の3月、ハワイにいた。
雨の多いシーズンはそろそろ終わる頃で、よく晴れた日がつづいた。僕と友人は、クルマに弁当を積み込んでは、北海岸《ノース》に行った。ビッグ・ウェーヴはもう過ぎ去って、4、5フィートの波がハレイワの海岸に打ち寄せていた。地元の少年や少女が、器用に波乗りの練習をしていた。僕と友人は、弁当のジップ・パックを突つきながら、それをながめていた。
そんなのんびりとしたある日。
夜ふけ。
僕は、ひとりで部屋にいた。
26階のヴェランダで、ホノルルの夜景をながめていた。カンパリ・オレンジの入ったグラスを手に、風に吹かれていた。
ホノルルの夜景は美しく、風は、タルカム・パウダーのようにサラサラとしていた。
そして、グラスをときどき口に運びながら、僕は思い出していた。
こんなふうに、グラス片手にホノルルの夜景をながめていた夜ふけがあった……。
それは、ずいぶん前のことになる。やはり3月だったと思う。
その日は、小説の新人賞の選考会がおこなわれる日だった。僕が応募した小説も、なぜか候補作になっていた。
その頃、僕はテレビ・コマーシャルのディレクターをやっていた。新人賞の選考がおこなわれるその日も、コマーシャルのロケでハワイに来なければならなかったのだ。
選考の結果は、ハワイ時間の深夜、電話で知らされることになっていた。
夕食後、スタッフと別れ、僕はひとり自分の部屋に戻った。確か、18階の部屋だったと思う。
僕は、ホノルルの夜景をながめながら、一杯飲みはじめた。あまり強い酒を飲むと眠ってしまうので、カンパリ・ソーダか何かを、ゆっくりと飲みはじめた。ラジオからは、E《エルトン》・ジョンのバラードが低く流れていた。
不思議と気持ちは落ち着いていた。
自分から応募した作品なのだから、新人賞を受賞したいという気持ちは当然あった。
けれど、それと同時に、書きたいものが書けたのだから、候補になっただけでも充分に満足だという気持ちも、心のすみにあった。
新人賞の応募作を書きはじめる時、僕の心の中には、ある迷いがあった。それは、こういうことだ。
たとえば、テレビ・コマーシャルは企業のイメージを上げたり、商品を売る目的のために存在する。
ところが、小説はどうだろう。小説は、なんの目的のために世の中に存在するのだろう……。
そんな素朴な疑問が、どうしても心の中から消えなかった。もやもやとした気分がつづいて、なかなかペンが握れなかった。
そんなある日。
雲の切れ間から陽が射すように、ある思いが胸の中をよぎったのだ。その思いとは、
〈読者を元気づける〉
ということだ。
〈一編の小説を読むことによって、読者が少しでも元気づけられれば、その小説は世の中に存在する意味があるのではないか〉
そう考えると、いっぺんに肩から力が抜けて楽になった。
僕は、ペンを握った。
上手でなくてもいいから、読後感のいい小説を……。とにかく、読者が元気づけられるような小説を……。
それだけを考えて、ペンを走らせた。
1ヵ月後、ひとつの青春小説が書き上がった。上出来かどうかはわからないけれど、とにかくそれは、自分が書きたかった小説そのものだった。書き上げたあとに、思い残すことは何もなかった。
だから、選考会の結果を待つ間も、比較的、気持ちは落ち着いていた。
ホノルル時間で深夜の1時頃、電話のベルが鳴った。幸運にも、受賞の知らせだった。僕はひとり、グラスを手にヴェランダに出てみた。ホノルルの夜景が、祝福してくれているように見えた。
あれから、かなりの月日が流れた。
僕は、何十冊かの青春小説を書いて世の中に送り出してきた。
けれど、基本的な部分、つまり、〈自分の小説で読者を元気づけることができたら〉という思いは、全く変わっていない。
特に今回の小説集『プールサイドで踊ろう』には、そんな思いが色濃く出ているように感じている。読後感の良さだけは、作者として保証できると思う。
僕が言うまでもなく、人生は、失望や、迷いや、悩みに満ちあふれている。そんな人生の、ほんのひとときでも、僕の小説であなたが元気づけば、作者としては嬉しい。
さて、今回も、角川書店編集部の大塚菜生さんとはダブルスを組んでの作業でした。お疲れさま。
そして、この本を手にしてくれたすべての読者のあなたに。THANK YOU! また会えるときまで、少しだけGOOD BYEです。
[#地付き]初夏の葉山にて 喜 多 嶋 隆
角川文庫『プールサイドで踊ろう』平成6年7月25日初版発行
平成7年8月20日4版発行