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ブラディ・マリーを、もう1杯
喜多嶋隆
目 次
1 トム・クルーズは、のけぞった
2 ワイキキ・ビーチの危険
3 14歳の夏、バーボンを飲んだ
4 いくら泣いても、あなたはいない
5 さらば、制服の日々
6 パットじいさん
7 石頭は、ボストンからやってきた
8 探《さが》しものはなんですか?
9 マグロに誘われて
10 彼女の名前はエミー
11 Tバックはダメよ
12 尾行
13 朝から500gのステーキ
14 クレージュが似合っていた
15 まぶしい朝帰り
16 チャックは開きっぱなし
17 <|涙のしずく《テイア・ドロツプ》>が泳いでいた日
18 キスは、あまり上手《うま》くない
19 愛の缶づめ
20 いつの日か、ジップ・弁当《パツク》を2人で……
あとがき
[#改ページ]
[#1字下げ]1 トム・クルーズは、のけぞった
「ヘイ、ベイビー」
と、その金髪男。
「どうだい、今夜、おれとひとつのベッドでいい夢を見ないか?」
と、わたしに向かってニヤニヤしながら言った。その陳腐《ちんぷ》なセリフに、わたしは思わず吹き出しそうになった。グラスに注いでいたマルガリータを、もう少しでこぼすところだった。
ハワイ。ホノルル。午後4時。
ワイキキ・ビーチに面して建っているプルメリア・ホテル。
そのビーチサイド・バーで、わたしはいつも通りバーテンダーの仕事をしていた。
このホテルのプールは、ワイキキ・ビーチに面している。そのプールサイドの一番ビーチよりに、バーはあった。
プールサイドの宿泊客も、もちろんくる。
ビーチから入ってくる客もいる。
いつも、水着やTシャツの客たちでにぎわっている。そんなバーだ。
丸い形のカウンターがある。カウンターのまわりには、テーブル席が10ほどある。いつも2、3人のウェイトレスが、テーブルの間を身軽に動き回っている。
わたしは、女だけれどバーテンダーなので、カウンターの中にいた。
同僚でハワイアンのキモと2人で、オーダーをさばいていた。
きょうも、ホノルルは快晴だった。まっ青な水彩絵具で塗ったような空が、広がっていた。
その男が、やって来たのは、午後の3時半頃だった。
ビーチから、このバーに入ってきた。背が高い金髪の若い男。自信ありげな大股で歩いてくる。
ちょうど、カウンター席は、がら空《あ》きだった。男は、マルガリータをつくっていたわたしのまん前に座った。わたしが手を止め顔を上げると、
「やあ」
と言った。白い歯をニッとむき出すようにして、自信満々な笑顔を見せた。そして、
「約束どおり、来たぜ」
と言った。
「約束?」
わたしは訊きなおした。わかっていたのだけれど、とぼけてみた。胸の中で、〈チッ〉と舌打ちしていた。
その男に声をかけられたのは、2日前だった。
仕事が休みの日だった。わたしは、友達の信江《ノブ》と一緒に、アラ・モアナ・ビーチ公園《パーク》にいた。
わたしは、このところ、ボディ・ボーディングという波乗りの一種にこっている。仕事が休みの日は、だいたい、ボードにのっかって海に出ている。
けれど、その日、波はなかった。
朝早くから、あちこちのビーチを回ってみた。けれど、どこのビーチでも波は|まっ平ら《フラツト》。
ボードで乗れるような波は立っていなかった。
しょうがないので、のんびりと1日を過ごすことにした。友達の信江《ノブ》を呼び出した。海に面したアラ・モアナ・ビーチ公園《パーク》の芝生で弁当を食べていた。
カパフル|通り《アベニユー》にあるオカズ屋で買ってきたプレート・ランチだ。
冷たい|BUD《バドワイザー》ライトを飲みながら、おハシを使っていた。
このオカズ屋の玉子焼きは、特においしい。わたしが、そのひと切れをおハシでつまんだ時だった。
「ハロー、ジャパニーズ・ガール」
という声がした。
芝生に座って弁当を広げていたわたしたちは、そっちを見た。
若い白人が2人、すぐそばに立っていた。
2人とも、金髪。背が高く、がっしりとした体をしていた。その体格を見せびらかすように、ショートパンツ1枚で、上半身は裸だった。
彼らは、わたしたちと向かい合って芝生に座る。いろいろと話しかけはじめた。
言葉使いからして、ハワイの人間じゃない。それは、すぐにわかった。
白人にほとんど興味のないわたしが相手をしないので、白人に少しは興味のある信江《ノブ》が話相手をしはじめた。
彼らは、カリフォルニアから来た大学生だという。夏休みで、ハワイに遊びに来ているらしい。大学では、アメリカン・フットボールの選手なのだという。
「西海岸の大学じゃ、ナンバー|1《ワン》のクオーター・バックさ」
と1人が自慢げに言った。そいつは、
「ダグと呼んでくれ」
と言った。たぶん、ダグラスをつめた呼び方なんだろう。
彼ら2人は、いろいろとノブに話しかけている。それをきいているうちに、わたしは、だんだん、ムカついてくるのを感じた。
理由は簡単だ。やつらが、あまりに自信たっぷりで、自慢げだからだ。
カリフォルニア。
大学生。
アメラグのスター。
それだけ言えば、ノブやわたしが、うっとりと瞳をうるませるとでも思っているらしかった。
確かに、彼らに瞳をうるませる女もいるだろう。
金髪。青い眼。背が高く、胸板は厚い。そして、2人とも、まずまずのハンサムだった。
さぞかし、カリフォルニアの大学じゃ、もてているんだろう。女なんか、よりどりみどり。そんな自信が、態度に出ていた。
自分たちが、ニコリとして声をかければ、日系の地元《ローカル》ガールなんていちころさ。そう思っているのが、ありありとわかった。
やってられない。わたしは、やつらを無視して、プレート・ランチを食べつづける。
そのうちに、ダグと名のった方が、わたしに興味を示しはじめた。わたしが気のない返事をしていると、ノブが、
「彼女、ワイキキのプルメリア・ホテルでバーテンダーをやってるの」
と言ってしまった。わたしは、
「ノブ!」
と言ったけど、もう遅い。ダグというやつは、ニヤリとした。
「そうか、プルメリア・ホテルか……。じゃ、近いうちに行くよ。いいな、ベイビー」
と言った。
〈何が、いいな、ベイビーだ〉
わたしは、胸の中でつぶやいた。プレート・ランチを食べつづけた。
そしていま、そのダグという大学生は、わたしが仕事をしているビーチサイド・バーにやって来た。
自分のかっこ良さを意識した、映画《ムーヴイー》スターもどきの動作で、カウンターのスツールに腰かけた。かけていたサングラスをはずす。わたしに向かって、
「やあ」
と言った。〈おれは、トム・クルーズだ〉と言わんばかりの笑顔を見せて、
「約束どおり、来たぜ」
と言った。わたしは、マルガリータをつくりながら、
「約束?」
と訊き返した。
「忘れたのかい? ほら、2日前、アラ・モアナのビーチ・パークで会ったじゃないか」
「……ああ……」
わたしは、うなずいてみせた。手を動かしながら、
「思い出したわ。あんたは、確か、ダック……」
と言った。
「|ダック《あひる》じゃない。おれは、ダグだ」
と、やつ。あたしのおちょくりに、少しムッとした口調で言った。けれど、自信満々なその態度は、くずれない。
わたしは、ダグにはかまわず仕事をつづけた。
「女のバーテンダーとは、珍しいよな」
とダグ。ニヤニヤしながら、わたしを見ている。どうやら、わたしの胸もとを見ているらしい。
うちのバーのユニフォームは、カジュアルだ。
上は、渋い色調のアロハ・シャツ。エリもとは、ボタン・ダウンになっている。下は、ベージュのショートパンツ。足もとは白いスニーカーというスタイルだ。
わたしは、いつも、シャツの第2ボタンまではずしている。
かなり、胸もとは開く。けど、その方が風通しがいいので、いつもそうしていた。
前かがみになって仕事をしていると、かなり胸の谷間が見えるのも、わかっていた。
ダグは、カウンターごしに、そんなわたしの胸もとを見ていた。ニヤニヤしながら……。
「ところで、いい話があるんだ」
とダグ。
「今夜、カハラにある友達の別荘で、パーティーをやることになってるんだ。来ないか?」
と言った。
〈カハラ〉という所と〈別荘〉という所を強調した言い方だった。カハラは、ホノルルの東にある高級住宅地だ。
「プールサイドにバンドを入れてやる本格的なパーティーなんだ。きっと最高だぜ」
ダグは言った。わたしは、かまわず、できあがったマルガリータをグラスに注ぐ……。
「ヘイ、ベイビー」
とダグ。
「パーティーが終わったら、おれが泊まってるコンドミニアムで、ふたりだけの後半戦をやろうじゃないか。どうだい、今夜は、ひとつのベッドでいい夢を見ないか?」
と、ほざいた。まるで、トム・クルーズ気どりだ。
わたしは、そのセリフに吹き出しそうになりながら、マルガリータをグラスに注ぎ終わった。ウェイトレスのジェニーが、それをテーブル席に運んでいく。
つぎのオーダーは、スコッチのオン・ザ・ロック……。わたしは、氷を砕くためのアイス・ピックを手にした。
「なあ……おれの話を、きいてるのか?」
とダグ。
「きこえてるわよ。それで、オーダーは?」
わたしは、ダグの顔を見て言った。
「オーダー?……」
「そうよ。ここはバーなの。見ればわかるでしょう。何を飲むの?」
わたしは言った。ダグは、まだ、ニヤニヤ微笑《わら》いをやめない。
「冷たいんだな、ベイビー。でも、そこが可愛いぜ」
とダグ。
「おれは、1度、日本人の娘《こ》とつき合ってみたいと思っていたんだ」
と言いながら、身をのり出してきた。右手をのばしてくる。わたしの頬に触れようとした。その時だった。
「そこまでね」
わたしは、ピシャリと言った。ダグの手が、止まった。
わたしは、そばにあった丸ごとのレモンを左手でつかんだ。それを、ポーンと上に投げあげた。ホノルルの青い空に黄色いレモンが鮮かに浮かんだ。
ダグの視線もレモンを追っている。やがて、レモンは落ちてきた。
わたしはもう、右手のアイス・ピックを持ちなおしていた。指先でクルリと回し、持ちなおしていた。
落ちてきたレモン。
そのどまん中を、アイス・ピックが下から串刺しにした。
プッと小さな音。果汁がピッと飛んだ。
レモンは、きれいに串刺しになる。アイス・ピックの先が、2インチ(約5センチ)ほど出ている。
わたしは、その鋭いアイス・ピックの先端を、ダグの鼻先に突きつけた。
ダグは、口を半開きにしている。
「いいこと。このレモンみたいになりたくなかったら、回れ右して出ていくのね」
わたしは言った。
「あんたみたいなガキに飲ませるベビー・ミルクは、ここには置いてないの。とっとと、うせて」
と言ってやった。
ダグは、半開きだった口を、パクパクとやっている。そして、のけぞった。
「お……おれは……何も……その……」
「うせて。5秒以内に」
のけぞっているやつの鼻先にアイス・ピックをつきつけたまま、わたしは言った。
ダグの額《ひたい》に、汗がひと筋……。
「わ……わかったよ……」
と言いながら、ダグは、カウンターからはなれていく。ゆっくりと、後ずさりしていく……。後ずさりしていたダグは、何かにつまずいて、尻もちをついた。
あわてて立ち上がる。回れ右。小走りで、ビーチの方へ姿を消した。
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[#1字下げ]2 ワイキキ・ビーチの危険
「ハハハ」
と笑っている声がする。ふり向く。
同僚のバーテンダー、キモだ。キモが、大きな腹をゆすって笑っている。アロハ・シャツの下で、ハワイアンらしい|ビール腹《ビア・ベリー》が揺れている。
わたしは、レモンをアイス・ピックから引き抜いた。キモに向かって、それをポンと投げた。
「仕事しなさいよ」
「わかった、わかった」
とキモ。レモンをスライスしはじめた。その時だった。バーの電話が鳴った。キモが、レモンを切る手を止めて電話をとった。何か話している。やがて、切った。
キモは、わたしを見た。
「麻里《マリー》、あんたに連絡だ」
と言った。わたしの名前は、麻里《まり》。だけれど、ハワイでは当然のように、麻里《マリー》と呼ばれている。
「連絡って、誰から?」
「2階のジム」
とキモ。〈2階のジム〉と呼ばれているのは、ジム・ハサウェイ。このホテルのエグゼクティヴ・マネージャー。つまり、総支配人のことだ。総支配人のオフィスが2階にあるんで、ホテルのみんなから〈2階のジム〉と呼ばれているのだ。(従業員の中には、ほかにもジムが何人もいる)
「〈2階のジム〉がなんだって?」
「ブラディ・マリーを2杯、ジムのオフィスに持ってきてほしいってさ」
「ブラディ・マリーを?」
「ああ。しかも、あんたに直接持ってきてほしいってさ」
キモは言った。
「わたしが直接?……でも、どうして?……」
「おれは知らないよ。ジムがそう言ったんだ」
とキモ。肩をすくめて言った。
10分後。
わたしは、2杯のブラディ・マリーをつくった。それを|お盆《トレイ》にのせ、バーを出た。
歩いていくとちゅう、全身の映る鏡がある。そこで、一瞬、立ち止まった。自分の姿をチェックしてみる……。
わたしは日系五世だ。けれど、ほかの国の血は入っていないので、顔は全く日本人だ。
しょっちゅう海に出ているので、チョコレート色に陽灼けしている。口紅は、ピンク系。きょうは、イルカの形をした18金のピアスをつけている。
前髪は、眉にかかる長さ。肩まである髪は仕事中なので、後ろで束ねてある。
身長166センチ。体重53キロ。陽灼けした手脚は、長い方だと自負している。
25歳なりの色香があると、自分では思いたい。けれど、初対面の相手からは、よく、何かのスポーツのインストラクターかと訊かれる。
まあ、しかたないだろう。
わたしは、チェックを終える。鏡の前からはなれた。
階段を使って、2階に上がった。ジムのオフィスにいく。ドアを軽くノックした。
「どうぞ」
という声。わたしは、ドアを開けた。
誰かお客がいるのかと思っていた。けれど、オフィスにはジムしかいなかった。
ジムのオフィスに入るのは、2度目だった。この前は、このホテルに雇われる時だった。
広々としたオフィスには、夕陽があふれていた。ジムは、ひとり、デスクにお尻をのせたラフなかっこうでいた。わたしにふり向くと、
「やあ、麻里《マリー》」
と言って微笑《ほほえ》んだ。
ジムは、わたしたちと同じようなボタン・ダウンのアロハ・シャツを着ていた。ネクタイはしめていない。上に、薄いブルーのサマー・ジャケットを着ていた。これだけの大ホテルの総支配人としては、くだけたスタイルだろう。けれど、これが、ジムのスタイルなのだ。
ホテルの従業員たちに、自分を気安く〈ジム〉と呼ばせること。
そして、このカジュアルな服装。
みんな、ジム本人が決めたスタイルなのだ。
「どこへ置く? ジム」
わたしは、トレイにのせた2杯のブラディ・マリーを指さして訊いた。
「ああ、ここに置いてくれ」
とジム。ソファー・セットではなく、デスクの上を指さした。わたしは、|お盆《トレイ》ごと、デスクの上に置いた。
「夕方から2杯も飲むの?」
わたしは、ジムに訊いた。ジムは、微笑みながら、首を横に振った。
「1杯は、私。もう1杯は、君だ」
と言った。
「わたし?」
「ああ……そうだ……。1杯やりながら相談したいことがあるんだ。それで、わざわざ、君に持ってきてもらったわけだ」
ジムは言った。ブラディ・マリーのグラスに手をのばした。わたしにも、〈1杯、やれよ〉と眼で示した。
わたしは、うなずく。グラスを手にとった。
わたしとジムは、窓ガラスに向かって、並んで立っていた。ガラスの向こうには、黄昏《たそがれ》のワイキキが広がっていた。
砂浜の観光客たちも、もう、かなり少なくなっていた。
ガランとした波打ちぎわを、茶色い犬が歩いている。海水浴客が落としていったポップ・コーンを、白いハトが口ばしで突ついている。
海は、パイナップル色に染まっている。沖には、サンセット・クルーズの船が、何艘か出ている。あの船の上でも、わたしたちと同じように、カクテルのグラスを手にした観光客たちが、夕陽の海をながめているのだろう。
ジムは、グラスに口をつけた。そして、
「いつもながら、うまい」
と言った。
「これなら、ブラディ・マリーと呼ばれるわけだな」
と、わたしの方を見て言った。
確かに、わたしがいちばん得意なカクテルは、このブラディ・マリーだ。そして、名前が、麻里《マリー》。いつからか、〈ブラディ・マリー〉と呼ばれることも多くなった。けど、わたしにとっては、どうでもいいことだ。
勝手にしやがれ、だ。
わたしも、ひと口、ブラディ・マリーを飲んだ。ジムの横顔を見た。ジムは、まだ、たそがれの海をながめている。
個人的な相談ごとだろうか……と、わたしは思った。
ジムに関して知っていることは、あまり多くない。
白人。ハワイ生まれ。|奥さん《ワイフ》は、日系人。このホテルにくる前は、マウイ島にある日系資本のホテルでマネージャーをやっていた。いま、確か、40代の後半。
いわゆる|〈引き抜き〉《ヘツド・ハンテイング》で、このホテルにやってきた。
40代で、これだけのホテルの総支配人の地位をまかされる、ということは、かなり仕事ができるということだろう。
わたしがジムに関して知っていることは、それぐらいのものだ。
わたしは、ゆっくりとグラスに口をつけながら、ジムが話を切り出すのを待った……。
「……いろいろと考えたんだが、やはり、君に頼むのが一番いいと思ったんだ」
とジムは口を開いた。
「頼むっていうと、腰ミノをつけてバーでフラダンスのショーをやるとか?」
「まさか」
とジム。苦笑した。ブラディ・マリーを、またひと口飲んだ。ひと息ついた。
「じつは、このところ、盗難事件がつづいているんだ」
「……盗難?……」
「ああ……。日本人観光客ばかりが被害にあっている」
「被害っていうと、ホテルの部屋で?」
「いや。ビーチだ」
「ビーチ……」
「そうだ。ビーチでやられている。現金、アクセサリー、腕時計、そんなものを盗まれている」
「ビーチでの置き引きね……」
わたしは、つぶやいた。
「ときには、ビーチに持っていったバッグからホテルのキーを盗まれ、部屋を荒らされた事件もあった」
「このホテルのお客が?」
と、わたし。ジムは、うなずいた。そして、
「共通していることは1つ。被害者が、全員、日本人だということだ」
と言った。わたしは、ゆっくりとうなずいた。特別に驚いてはいなかった。
「昔から、日本人観光客は、よく狙われていたわよね……」
「ああ」
とジムもうなずいた。
「日本人の観光客にとっちゃ、ワイキキ・ビーチは、ひどく安全な場所に思えるらしい。砂浜は日本人だらけだし、一見、平和そのものだからな」
と言った。
確かに、そうだ。日本人は、現金や高価な時計を持ってワイキキ・ビーチに出かけて、盗難にあうケースが多い。
以前は、何百ドルも盗まれたりする事件もあった。
最近では、さすがに、腹巻きに何百ドルも入れてワイキキにくる日本人のオジサンはいなくなった。
それでも、ビーチでの盗難事件はなくなったわけじゃない。いまも、ある。
ロスやシカゴに比べれば、ホノルルは凶悪犯罪の少ない街だろう。けれど、ちょっとした事件は数限りなく起きている。
ハワイには、世界中から、いろいろな人間が集まってくる。甘い夢を抱いてやってくる連中も多いだろう。そんな人間の多くが、夢破れ、あげくのはてにチンピラになったりする。もちろん、地元《ローカル》のチンピラだっている。
そういう連中にとって、金持ちで警戒心の少ない日本人は、絶好のカモなのだ。
そのことは、昔もいまも、あまり変わらないだろう。
わたしは、そのことをジムに言った。
「まあ、そういうことだな……。ところが」
とジム。ブラディ・マリーを、ひと口飲んで、ノドを湿らす。
「この3、4カ月、特に、日本人を狙った盗難事件がふえているんだ」
「この3、4カ月……」
わたしは、つぶやいた。
「ああ……。この3カ月半ほどで、1年分ぐらいの盗難事件が起きている」
とジム。
「一件一件の被害は、たいした額じゃない。最近の日本人は、大金を持ち歩かなくなったからね。しかし……件数は、やたら多いんだ」
「…………」
「これはなんとかしなくては、と私は思いはじめていた。1カ月前からだ」
「…………」
「だからといって、〈盗難に注意〉と貼り紙を出すのも考えものだ。私たちとしては、〈安全なワイキキ・ビーチ〉のイメージは、こわしたくないからね」
「…………」
「そこで、誰かを使って、極秘に犯人をつかまえようと考えたわけだ」
ジムは言った。わたしは、うなずき、
「保安係《セキユリテイー》のヘンリーがいるじゃない」
と言った。このホテルの保安係は、元警官のヘンリーだ。
「おいおい、麻里《マリー》」
とジム。苦笑いをした。
「ヘンリーじいさんは、もう68歳だぜ。しかも、血圧が高いんだ。彼に炎天下のそんな捜査なんてできるわけないだろう」
と言った。
確かに、そうだ。保安係のヘンリーは、いわば失業対策で、このホテルに雇われているようなものだ。1日のほとんどの時間、保安係の部屋で居眠りをしている。
確かに、ヘンリーに、そんな仕事は無理だろう。
「そこで、私が考えた作戦が、君を使うってことなんだ」
とジムは言った。
「わたしを?……」
「そうだ。君だ、麻里《マリー》」
とジム。グラス片手に、まっすぐ、わたしを見た。
「君が、このホテルに勤める前、ホノルル市警の警官だったことは知っている。そこで、市警にいる友人に、君のことを訊いてみたんだよ」
「…………」
「君が、市警に勤めていた間、どんな仕事っぷりだったのか、電話で友人に訊いてみたんだ」
「…………」
「そしたら、君は、相当に優秀な警官だったということがわかったんだ」
「…………」
「仕事熱心で、勇気もある。犯罪者の逮捕歴も、かなり。1度は、スーパーに入った強盗と撃ち合ったこともあるというじゃないか」
「…………」
「これは、君に、このトラブルの解決を頼むしかないと、私は決心した」
とジム。
「なんのかくしだてもせずに言えば、そういう事情で、いま、君に来てもらったってことなんだ」
と言った。
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[#1字下げ]3 14歳の夏、バーボンを飲んだ
ここで、わたしの25年間の人生について、少し話しておこうと思う。
わたしのフル・ネイムは、沢田麻里。ホノルル生まれの日系五世だ。兄弟《きようだい》はいない。ひとりっ子だ。
パパの方針で、家では日本語を話していた。外では、英語で話すことが多かった。その結果、両方とも話せるようになった。
わたしのパパは、ホノルルのダウンタウンで、1軒のバーをやっていた。自分の苗字をそのままつけて、〈サワダ・バー〉という店名だった。
〈サワダ・バー〉は、ダウンタウンのはずれにある、どちらかというとささやかで静かな店だった。
店の建物じたい、かなり古ぼけていたし、やってくる常連客も、年寄りが多かった。
もう仕事を引退《リタイア》した日系人。
ダウンタウンの店を子供に引き継がせた中国人やヴェトナム人。
そして、海での仕事を終えたあとの白人。
いずれにしても、年寄りの客が多い店だった。
店は、毎日、正午になると開く。
店が開くと、仕事をリタイアした日系人や中国人のおじいさんたちが、1人、2人とやって来る。
彼らは、1本のビールを2時間ぐらいかけて飲みながら、ぽつり、ぽつりと世間話をしていた。
昔の苦労話。
子供や孫の自慢話。
本土《メイン・ランド》の大リーグの状況。
ハワイで来週おこなわれるカヌー・レースの予想。
そんな、のどかな会話がかわされている、のどかな店だった。ビール1本で何時間座っている客がいても、パパは嫌な顔ひとつしなかった。
彼らの会話のじゃまにならないように、ゲーム・マシーンも置いたりしなかった。ごく低いボリュームでラジオをかけていただけだ。
そんなパパの優しい仕事ぶりを見て、わたしは育った。
ビールをちびちび飲んでいる年寄りたちの、シワだらけの顔が、窓からの夕陽に染まる時間になると、ちょっとちがうタイプのお客たちが、店にやってくる。
近くのケワロ湾《ベースン》の人たちだ。
ケワロ湾は、観光船の港であり、同時にトローリング・ボートの港だ。トローリング・ボートは、だいたい、夕方の4時頃には、港に帰ってくる。
その船をおりた中年や初老の船長《キヤプテン》たちが、〈サワダ・バー〉にやってくる。
彼らが店に入ってくると、海の香りも一緒に店に入ってくるように感じられたものだ。
店の中には、キャプテンたちの、低いけれど力のこもったしゃがれ声があふれはじめる。
キャプテンたちは、ダイキリやマルガリータやバーボンを飲みながら、その日のトローリングの成果を報告しあうのだった。
50ポンドの|AHI《アヒ》(マグロ)が1匹釣れた。
10ポンドの|AKU《アク》(カツオ)を山ほど釣った。
300ポンド近い|MARLIN《マーリン》(カジキ)をハリにかけたけれど、結局、逃げられた。
そんな、きょうの成果を、陽に灼けたキャプテンたちは報告しあいながら、お酒のグラスを重ねていく。
中には、その日釣れたマグロの大きな切り身を持ってきてくれるキャプテンもいた。
そういう時、パパは包丁を握って上手に刺身をつくった。そして、店のみんなに出していた。
〈サワダ・バー〉は、ささやかな店だけれど、そんな、なごやかな店でもあった。
わたしは、物心ついた時から、その店のお客たちの中にいた。(住まいが、店の2階にあったせいもある)
8歳の時。はじめてビールを飲んだ。
11歳の時。はじめてフローズン・ダイキリを飲んだ。
14歳の時。はじめてバーボン&ソーダを飲んだ。この時は、さすがに酔っぱらったのを覚えている。
酔っぱらって、日系人のおじいさんとジルバを踊って、ひっくり返った。気がつくと、もう翌朝で、ベッドの中だった。
いま思えば、その頃のわたしは、このバーのマスコットのようなものだったらしい。
お客たちから、よくお酒をすすめられた。
パパは、それを苦笑いしながら見ていた。わたしが飲み過ぎそうになると、さりげなく止めてくれたものだった。
パパは、ただ人がいいだけの主人《オーナー》ではなく、バーテンダーとしての腕もよかった。
手ぎわよく、さまざまなカクテルをつくっていった。わたしは、そんなパパの働く姿を見ているのが好きだった。
そして、15歳。
高校《ハイ・スクール》に通いはじめた頃から、わたしは、カウンターの中に入ってカクテルをつくるようになった。
それまでも、グラスを片づけたり、店の掃除をしたりは、していた。
けれど、15歳の夏、わたしはバーテンダーの仕事を本格的に手伝うようになった。
パパの仕事をずっと見ていたので、覚えるのは早かった。
あっという間に、よく注文されるカクテルは、全部つくれるようになった。
ちょうどその頃、父が右手を痛めてしまった。生ビールの重い樽を運ぶ時に、右腕が下敷きになってしまったのだ。ヒジの骨を複雑骨折してしまった。
当分、右腕が不自由なパパにかわって、わたしが主にカクテルをつくるようになった。
ハイ・スクールが終わると、すぐに飛んで帰る。毎日、午後3時頃から夜中まで、わたしは店で働いた。
わたしがいちばん得意なカクテルは、ブラディ・マリーだった。
ブラディ・マリーは、ウオッカとトマト・ジュースでつくるシンプルなカクテルだ。
けれど、シンプルなカクテルほど難しい、というのがセオリーだ。
ブラディ・マリーも例外ではない。他人《ひと》よりうまくつくろうとすると、ひどく難しいカクテルだ。
ウオッカをトマト・ジュースで割る。
そこへ、タバスコを1、2滴たらすバーテンダーもいる。ウスター・ソースを入れることもある。セロリのステックを入れるのも、よくある手だ。
パパは、コショウをひと振り、入れていた。
それはそれで悪くなかった。けど、わたしは、ひと工夫すれば、もっと良くなるような気がしていた。
ある日、同級生のメイ・リーという娘《こ》の家に立ち寄った。
メイ・リーは中国系だった。家は、ダウンタウンで、香辛料と干したホタテ貝や何かを売っている店だった。
彼女に言わせると、コショウなら、ミクロネシアのポナペ島産のが世界一で一番いいらしい。
さっそく、小さなビニール袋に入ったものをくれた。
そのコショウを碾《ひ》いてみると、確かに、香りも味も、まるで普通のものとはちがう。濃厚なのだ。
わたしは、そのポナペ島のコショウを、さっそくブラディ・マリーに少し入れてみた。
ひと口飲んで、驚いた。
これは絶対にいけると思った。
翌日から、そのコショウ入りのブラディ・マリーを店で出しはじめた。
お客の評判は、すごくよかった。またたく間に、うちの看板カクテルになってしまった。わざわざ、ブラディ・マリーを飲みにやって来るお客まであらわれるようになった。
その頃からだ。
わたしが、〈ブラディ・麻里《マリー》〉と呼ばれるようになったのは……。
とにかく、店は以前にもまして繁盛していた。パパもニコニコしていた。
わたしは、学校の勉強とバーテンダーの仕事でひどく忙しかったけど、苦しいとはこれっぽっちも思わなかった。
陽気なお客たちに囲まれて、とにかく幸せだった。
けれど、そんな幸福な日々にも、終止符が打たれる時がやって来てしまった……。
それは、水曜日の午後だった。
よく晴れて、暑い日だった。わたしは、学校が終わると家に向かっていた。とちゅう、|かき氷《シエイヴ・アイス》を買った。カップに入ったイチゴ味のシェイヴ・アイスを食べながら、家に向かって歩いていた。
家のそばの角を曲がったとたん、赤い回転灯がいくつも光っているのが眼に飛び込んできた。うちの店の前だった。
救急車と、ポリス・カーが3台、駐まっていた。
通りに人だかりができていた。制服警官が数人、急がしく動き回っていた。わたしの心臓の鼓動が速くなった。
救急隊員らしい人たちが、店から誰かを運び出してくるのが見えた。
車輪つきの担架に乗せられて、救急車に運び込まれようとしているのは、パパだった。体には布をかけられているけれど、眼を閉じた横顔は見えた。
わたしの手から、シェイヴ・アイスのカップが落ちた。
イチゴのまっ赤なシロップに染まったシェイヴ・アイスが、道路に飛び散った。
わたしは、何か叫びながら、救急車めがけて駆け寄っていた。
わたしを乗せた救急車は、走り出した。
救急隊員たちは、パパの鼻と口のところにプラスチックのマスクを当て、酸素を送り込んでいた。
パパは、眼を閉じたままだった。わたしが必死で呼びかけても、まぶたは動かなかった。
救急隊員から、切れ切れにきいた話だと、店に強盗が入ったらしい。
そしてパパは、強盗に撃たれたという。
至近距離で撃たれたらしい。弾は、肺のあたりを貫通しているということだった。
病院に着く。
すぐ、集中治療室に運び込まれた。7、8人の医者や看護婦が全力をつくしてくれた。
けれど、1時間後、パパは息を引きとった。
死因は、出血多量だった。一度も意識をとり戻さず、天国へ旅立ってしまった。
茫然としているわたしの肩に、初老の刑事らしい人が、そっと手を置いてくれた。何も言わずに……。
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[#1字下げ]4 いくら泣いても、あなたはいない
「ご家族は?」
と、その刑事らしい人。わたしに訊いた。わたしは、首を横に振った。
「家族は、いないの……」
と、つぶやくように言った。
わたしのママは、わたしが2歳半の時、離婚して家を出ていった。
〈私とママは、結婚後しばらくしてから、仲たがいがだんだんひどくなっていってなァ……〉
とパパがわたしに話してくれたことがある。あれは、わたしがまだ7、8歳の頃だったと思う。
〈結局、性格が合わなかったんだろうなァ……〉
〈子供でもできれば、少しはよくなるかと思ったけれど、やっぱりダメだった……〉
〈最後は、おたがいに、愛情のかけらも残っていないことに気づいて、納得し合って別れたんだ〉
パパは、そう言った。ジン・トニックをゆっくりと飲みながら、わたしに話してくれた。
わたしは子供だったけれど、その時のパパの表情や、言葉ひとつひとつは、いまもよく覚えている。
「そうか……父ひとり娘《こ》ひとりで暮らしていたのか……」
と、その刑事。同情した表情で、わたしを見た。
確かに、その通りだった。父の両親は、とっくに亡くなっている。すごく遠縁の親戚ならマウイ島にいるらしいけれど、わたしは会ったことがない。
この18歳になるまで、わたしには、パパしか家族はいなかったことになる。
それも、もう終わりだ。
わたしは、唇をきつく結んで、病院の床を見つめていた。不思議なことに、涙は出てこなかった。
まだ、パパが死んだという実感がわいてこないのだ。
ハリスと名のったその刑事が、事件のあらましを話しはじめた。
午後2時半頃だという。野球帽をかぶった若い白人男が、突然、店に入って来た。カウンターの中にいたパパに拳銃を向け、
「レジの中の金を全部出せ!」
と叫んだという。
店には、日系の老人が2人、ビールを飲んでいた。彼らは、びっくりして石のようになっていたという。
パパは、レジを開けてお金を出そうとした。けれど、ケガをした右手がまだ自由に動かないので、もたついた。強盗は、ヒステリックに、
「早くしろ!」
と叫んだ。つぎの瞬間、パパを撃ったという。
強盗は、カウンターをのりこえてレジを開け、お金をわしづかみにした。札をポケットにねじ込むと、店から飛び出して行ったという。
お客の老人たちの話だと、強盗は、眼が血走っていたという。
「犯人は麻薬中毒《ジヤンキー》の可能性が高いと、われわれはにらんだ」
とハリスという刑事。
「そこで、すぐ、目撃者の老人2人を警察に呼んで、麻薬中毒で前科のある白人のリストを見せた」
「…………」
「すぐに、老人たちは1人の男の写真を指さしたよ。犯人はこの男だと……。ダン・マッキニーというやつだった。以前からの麻薬中毒《ジヤンキー》で、前科4犯だ。まあ、札つきだな」
「…………」
「たぶん、やつは麻薬が切れた状態で、強盗に入ったんだろう。目撃者の話だと、かなり錯乱状態だったらしいからね……。10ドルでも20ドルでも、とにかく、麻薬を買う金がほしかったんだろう……」
「…………」
「もうハワイ中に指名手配してある。テレビでも、やつの顔写真が流されている。つかまるのは時間の問題だろう」
ハリス刑事は言った。わたしは、無言できいていた。
翌日。午前11時。犯人のダン・マッキニーが死体で見つかった。
ルート99沿いのパイナップル畑で、撃ち殺されていた。畑に散水にやってきた作業員が見つけたらしい。
「心臓に3発、正確に撃ち込んでいる。プロの仕事だな」
とハリス刑事。電話で言った。
「殺《や》ったのは、たぶん、麻薬シンジケートの連中だろう。ダン・マッキニーが逮捕され、麻薬の売買ルートがあばかれるのを恐れて、やつの口をふさいだってことだろうな」
「…………」
わたしは、黙って、ハリス刑事の電話をきいていた。まだ、自分の身に起こったことが、実感できなかった。
パパのお葬式には、たくさんの人が来てくれた。ほとんどが、店のお客たちだった。トローリング船《ボート》のキャプテンたちも、仕事を休んで来てくれた。
パパのお墓は、タンタラスの丘に登る中腹につくられた。ホノルルの街が見渡せる墓地だった。よく晴れた日だった。日系の老人が、わたしの両側に立って体をささえてくれた。けれど、わたしは泣きくずれたりしなかった。じっと、唇を結んで、棺《ひつぎ》が埋葬されるのを見つめていた。
昔から、人前では泣かない子供だった……。
パパは、もういない。
そのことが実感として押しよせて来たのは、1週間ほどしてからだった。
その日、わたしは、パパの部屋の整理をしていた。
本棚の片づけをしている時だった。並べられた本の奥から、額《がく》に入った写真が出てきた。
葉書ぐらいの大きさのカラー写真。茶色い木の額に入っていた。写真は、かなり色があせていた。
それは、結婚披露パーティーの時の写真らしかった。
まだ若かったパパは、白いタキシードを着ていた。そして、並んで写っているのは、ママだろう。ウエディング・ドレスを着て、笑顔を見せていた。
ママの写真を見るのは、生まれてはじめてだった。
離婚した時に、写真は1枚残らず持っていってしまった、とパパにきかされていた。
だから、わたしは、ママの顔を知らずに育ってきた。
けれど……こうして、1枚だけ大切そうに、パパはふたりの写真をとっておいたのだ。
〈結局、性格が合わなかった〉
〈最後は、おたがい愛情のかけらも残っていないことに気づいて、納得し合って別れた〉
パパは、わたしにそう言った。
けれど、それは100パーセントの真実じゃなかったのかもしれない。
もしかしたら、パパのママに対する思いは、残っていたのかもしれない。けど、ちょっと無理をして、わたしにはそう言っていたのかもしれない。
色あせたその写真をながめて、わたしはそう思った。
1時間後。
わたしは、たそがれ近いホノルル港《ハーバー》の岸壁にいた。船のロープを巻きつける柱《ビツト》に腰かけ、海をながめていた。
夕陽が、アロハ・タワーを照らしていた。ちょっと古めかしいスペイン風のアロハ・タワーが、夕陽の色に染まっている。
いま、岸壁にはつながれている船もいない。ガランとして、ひとけがなかった。
頭上には、カモメが5、6羽、風に漂っていた。
この岸壁は、わたしとパパの思い出の場所だった。
パパの唯一の趣味は、釣りだった。釣りといっても、トローリングみたいに大物を狙うんじゃない。
岸壁でのささやかな小物釣りだ。
わたしがまだ子供だった頃。店が休みの日。パパはよく、この岸壁にわたしと一緒にやって来た。
そして、パパは釣りをはじめるのだった。
カクテルをつくるのに比べれば、釣りの腕はいまいちみたいだった。よくエサをとられては、舌打ちをしていた。
それでも、小さな魚は、まずまず釣れた。
カラフルな|〈蝶々魚〉《バタフライ・フイツシユ》や、ピンクの小さな|〈鯛〉《スナツパー》が水から上がってくる。
ポリバケツの中で泳いでいるそんな魚たちをながめるのが、わたしは好きだった。
釣りを終えると、パパは魚たちを海へ帰してやった。
たたんだ釣り竿と、空のバケツを持ち、わたしたちは夕陽に照らされて、ゆっくりと家に向かったものだった……。
わたしは、ひとり、ビットに腰かけ、そんなことを思い出していた。
ふと、家から持ってきた、あの額に入った写真をとり出してみた。
じっと、ながめた。
パパは、別れたママに、心を残していたのかもしれない。
けれど、それを胸にじっと閉じ込めて、生きてきたのかもしれない。
わたしが成長するのだけを楽しみに、毎日毎日、黙々と働いてきたのかもしれない……。
けど……わたしが高校の卒業パーティーに出る、そのドレス姿を見ることもなく殺されてしまうなんて……あんまりだ。
その瞬間、わたしの胸に、悲しみがどっと押し寄せてきた。
ノース・ショアの大波のように、悲しみがわたしに襲いかかってきた。
わたしは、写真の入った額を思いきり胸に抱きしめた。
前かがみになり、激しく、泣きはじめていた。
それまで張りつめていた心の中の糸が、プツンと音をたてて切れたみたいだった。もうパパはいない。そのことが実感として押し寄せてきた。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、いくら泣きつづけても、涙は止まらなかった。
体中を震わせて、わたしは泣きつづけた……。
それから1週間ほどたつと、わたしの気持ちは少し落ち着いてきた。
いつまでも泣いているわけにはいかなかった。
店をどうするかという問題がある。そして、わたしが高校を卒業する日も近づいてきた。
わたしが店をついだらどうか、と言ってくれる人もいた。
やろうと思えば、やれるだろう。
けれど、わたしは、その気にはなれなかった。この〈サワダ・バー〉には、パパとの思い出があまりに色濃く残っている。
店にいるだけで、つらい気持ちになってしまう。
結局、店は他人《ひと》にゆずることにした。
ちょうど、店の常連客の1人が、店を引きとりたいと言ってきた。
ボブというトローリング船《ボート》のキャプテンだった。もう、そろそろ、船上での仕事はつらい年齢になってきたので、陸《おか》に上がりたいという。
話は、まとまった。
ボブは、店の内装はそのままにして、店名だけ変えて営業すると言った。
わたしは、引っ越すためカピオラニ通り《ブルヴアード》にアパートメントを借りた。
〈サワダ・バー〉最後の日。
わたしは、得意のブラディ・マリーを2杯つくった。ボブとグラスを合わせた。
「この店、よろしくね」
「ああ……大事にするよ」
わたしとボブは、ブラディ・マリーを飲み干した。短く固《かた》い握手をした。そして、わたしは店を出た。
眼を細め、遅い午後の陽ざしの中へ歩き出した。二度と来ることのない店かもしれなかった。けど、一度もふり返らなかった。唇をきつく結んで、ホノルルの街に歩き出した。
パパが死んでからずっと、考えていたことがあった。
それは、警官になることだ。
理由は簡単だ。
パパを殺した犯人が憎かった。発作的に人殺しをしてしまう、そんな凶悪犯が憎かった。同時に、そんな凶悪犯の影にいる犯罪組織も憎かった。
自分の手で、そんな連中を叩きつぶしてやりたいと思った。
そうすることで、天国にいるパパが、少しは喜んでくれそうな気がした。
高校を卒業する3週間前。わたしは、警官になることを決意した。
そして、卒業すると警察学校に入った。
学校での成績は、優秀だった。
もともと、ジャジャ馬娘だったから、格闘技や逮捕術は、すべてA。
射撃も、すべてA。
卒業する時の成績は、トップから3番目だった。もちろん、女としてはナンバー|1《ワン》だ。
卒業と同時に、ホノルル市警に勤務することになった。
ハワイアンのベテラン警官と組んで、ポリス・カーで街を走り回る生活がはじまった。
一見、平和なホノルルだけれど、事件はたえまなく起こっていた。ポリス・カーの無線は鳴りっぱなしだった。
もちろん軽犯罪が多いのだけど、中には、緊張させられる場面もあった。
けれど、どんな場合でも、わたしは冷静に犯人に立ち向かうことができた。同僚に言わせると、〈女にしとくのはもったいないほどの度胸〉なのだという。
わたしにとって最大の事件は、警官になって3年と2カ月目に起きた。
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[#1字下げ]5 さらば、制服の日々
火曜日の夜だった。
ドール|通り《ストリート》にあるスーパーに強盗が入ったと無線がまくしたてた。
わたしたちのポリス・カーは、そのスーパーのすぐ近くを巡回していた。すぐにサイレンを鳴らして急行した。1、2分で着いた。
わたしたちの車がスーパーの前の駐車場に突っ込んでいくと、スーパーの出入口から、犯人たちが撃ちまくってきた。
わたしと同僚は、ポリス・カーのドアを開ける。
セオリー通り、開いたドアを盾《たて》にして、拳銃で応戦しはじめた。
相手が人質をとっているかどうか、わからなかった。こっちは、やたらに撃つわけにはいかなかった。
とにかく、犯人たちに足どめをくわせて、援軍が到着するのを待つしかなかった。
相手は、めちゃくちゃに撃ちまくってきた。たぶん、M16ライフルだろう。それをフル・オートにして、機関銃みたいに撃ちまくってきた。
同僚のハワイアンが、うめき声を上げた。足を押さえ、うずくまっている。
どうやら、足を撃たれたらしい。
同僚は、なんとか、ポリス・カーの中にはいずりこんだ。
その時だった。
スーパーの出入口から、男が2人、ライフルを乱射しながら走り出してきた。
出入口から20メートルぐらいはなれた所に、1台のセダンが駐まっていた。犯人たちの車だろう。
エンジンをかけ、スモール・ライトをつけているのに、わたしは気づいていた。運転席には人影が見えた。
スーパーから走り出てきた男たちは、そのセダンに走りこむ。
セダンのヘッド・ライトが点《つ》いた。同時に、タイヤを鳴らしてスタートした。逃げる気だ。
わたしは、ポリス・カーのドアに両ヒジをつき、拳銃をかまえた。狙いをさだめ、走るセダンの右前輪を撃った。
2発。つづけざまに撃った。
当たったらしい。
セダンの前輪がバーストした。車は、狂ったように蛇行しはじめた。
そして、駐車場に立っているアーク灯の鉄柱に激突した。
重く鋭い衝突音!
セダンの前は、ぐしゃりと潰れた。エンジン・フードは、くの字に浮き上がってしまった。ラジエター・グリルのあたりから、白い湯気が吹き出していた。
わたしは、ドアのかげから飛び出した。セダンの方に駆け出した。
セダンの左後部ドアが、開いた。
よろけながら、男が1人、出てきた。片手に、M16ライフルを握っていた。
男は、よろけながらも、わたしにライフルを向けようとした。
距離20メートル。
わたしはもう、38口径のチーフス・スペシャルをかまえていた。
ためらわなかった。引き金をひいた。
男の左肩が、突き飛ばされたように動いた。同時に、右手のライフルが火を吹いた。
きわどい瞬間だった。
連射されたライフル弾は、わたしの頭上を飛び去っていく。
男は、ライフルを連射しながら、ゆっくりと後ろに倒れた。
すぐに連射は止まった。
わたしは、男のそばに駆け寄った。やつの左肩にわたしの弾が当たったらしい。シャツが血で染まりはじめていた。
わたしは、M16ライフルを足で蹴り飛ばした。
拳銃をかまえたまま、セダンの中を見た。
ドライバーは、ステアリングに頭をぶつけて気絶していた。もう1人の強盗も、顔中血だらけにして気絶していた。衝突のショックだろう。
わたしは、ホッと息を吐いた。
かまえていた拳銃を、下におろした。その時、数台のポリス・カーが、スーパーの駐車場に走り込んでくるのが見えた。
〈女性版ダーティー・ハリー!〉
それが、翌日の新聞の見出しだった。
数日間は、市警の英雄《ヒーロー》だった。署長賞と、ちょっとしたボーナスももらった。
それからしばらくは、わたしの警官生活の中で一番いい時期だっただろう。
けれど、いいことというのはつづかないものだ。
強盗との撃ち合いから8カ月ほどたったある日。ミッチャムという警部からデートに誘われた。
ミッチャムというのは、白人だけれど、ワイフは日系人だ。どうやら、日系の女が好きらしい。
署内でも、時どき、わたしの体をじろじろとながめていることがあった。
わたしにとって、ミッチャムは、なんの魅力もない中年男だった。2度デートに誘われたけれど、きっぱりと断わった。
それから2週間後。
わたしは、なんの予告もなしに交通課に転属させられてしまった。
いくら抗議してもムダだった。交通課が人手不足だというのが、上司の説明だった。それ以上、何も説明されなかった。
こういう流行の言葉をわたしは嫌いなのだけれど、はっきり言えば、ミッチャムによるセクシャル・ハラスメントであることは確かだった。
翌日から、わたしは交通課の仕事につかされた。
同じ女性警官と組んで、ピッツァの配達《デリバリー》にでも使いそうな小さな車で、街中を回る。
そして、駐車違反の車を見つけては、ナンバーをメモし、違反のチケットを切るのだ。
それが、仕事のすべてだった。
それでも、1週間は、がまんしてその仕事をつづけた。つづけながら考えた。
あのミッチャムは、卑怯なセクハラ野郎だけれど、署内では実力者の1人でもある。署内での地位は、がっちりとかためている男だ。
そこで、当然の結論。
わたしが、この馬鹿馬鹿しい交通課の仕事から解放される日は、当分やってこない。いや、永遠にやってこないかもしれない。
交通課に回されて10日目。
わたしは、退職を決意した。
午後4時半。青いシボレーのワイパーに、最後の違反チケットをはさんだ。
署に戻る。
直属上司のデスクに、警察手帳。拳銃。手錠などをつぎつぎと置いた。あっけにとられている上司に、
「じゃあね」
と言うと、ロッカー・ルームに入った。
脱いだ制服は、ゴミ箱に放り込んだ。自分のジーンズとアロハを着る。ロッカーの私物を小さなバッグにつめ込んだ。
署のオフィスをスタスタと出ていく。
仲の良かった同僚には、笑顔で手を振った。
ドアのところに、あのミッチャムが立っていた。驚いた表情で、わたしを見ていた。
わたしは、ミッチャムと向かい合った。何も言わず、ヒザがしらでやつの急所を蹴り上げた。
やつの悲鳴。
「失礼、警部」
わたしは言った。しゃがみ込んでるやつにはかまわず、早足で出ていった。4年間勤めたホノルル市警を後にした。たそがれ近い街に歩き出した。ふり返らなかった。
それから1カ月ぐらいは、のんびりしていた。
しばらくごぶさたしていたブギー・ボードを引っぱり出した。友達の信江《ノブ》とあちこちのビーチに行っては、波に乗った。
波のない日は、1日中、ビーチ・パークの芝生で、ミステリー小説を読んで過ごした。
わたしが主に好きなのは、女性探偵が活躍するストーリーだ。
最近、気に入っているのは、|S《サラ》・パレッキーの書く〈ウォーショウスキー・シリーズ〉だ。
そんな探偵小説を芝生に広げ、腹ばいになって、1日中のんびりと過ごしていた。
けれど、2カ月近くなると、それにもあきてきた。貯金もかなり減ってきた。
仕事をすることにした。
ホノルル・アドバタイザー紙を芝生に広げ、求人広告をながめはじめた。
求人広告をながめはじめて3日目。プルメリア・ホテルの求人広告が眼についた。
プルメリア・ホテルは、ワイキキ・ビーチに面した大ホテルだ。そこで、スタッフを募集していた。
〈日本語の話せるスタッフ募集〉
とあった。マネージャー。フロント係。ページボーイなどと職種が並んでいる。その中に、バーテンダーというのもあった。
特に男女の性別は書いていない。
わたしは、プルメリア・ホテルに電話をかけてみた。相手の返事は、とりあえず来てみてくれということだった。
翌日。指定された午後4時。
わたしは、プルメリア・ホテルに行った。フロントの女性に声をかけると、2階にある|〈総支配人〉《エグゼクテイヴ・マネージヤー》の部屋に行ってくれという。
2階に上がり〈エグゼクティヴ・マネージャー〉とプレートのついているドアをノックした。
「どうぞ」
と男の声。英語だった。わたしはドアを開けた。見ると、中年の白人男が、なんと握り寿司を右手に持って立っていた。
「入って」
と、その白人男。片手にマグロらしい握り寿司を持ったまま、明るい声で言った。
見れば、デスクの上には、握り寿司がワン・セットのっかったお皿が置いてあった。
「ちょっと待ってくれ」
と彼。今度は上手な日本語で言った。マグロの寿司に、ちょっとショウユをつけ、口に放り込んだ。寿司を食べなれた動作だった。
彼は、マグロの寿司を食べ終わる。おしぼりで、手を拭いた。
「エグゼクティヴ・マネージャーのジム・ハサウェイだ。ジムと呼んでくれ」
と言った。きびきびとした動作でわたしに右手をさし出した。短く固い握手をした。ジムは、デスクの上の寿司を眼でさす。
「新しく雇う料理人の腕前をチェックしてるんだ」
と言った。
「地下1階に、日本料理店を新しくオープンするんでね」
とジム。わたしは、うなずく。持ってきた履歴書をジムにさし出した。
ジムは、それを立ったまます早く読んでいる。
わたしは、ジムをながめた。40代の後半というところだろう。太ってはいない。少し陽灼けしている。健康そうだった。ボタン・ダウンのアロハ・シャツを着て、グレーのスラックスをはいていた。ネクタイはしめていない。カジュアルなスタイルだった。
ジムは、わたしの履歴書を読み終える。微笑みながら、わたしを見た。
「面白い経歴だ」
と言った。そして、イスの背にかけてあるサマー・ジャケットをとり、はおった。
「それじゃ、1杯やるとするか」
と言った。わたしと一緒に部屋を出た。
並んで歩きながら、ジムは簡単に説明してくれた。
ここ数年、プルメリア・ホテルの業績は悪化しているという。
「理由は、簡単。日本人観光客が減っているからだ」
とジム。2階から階段をおりながら言った。
「このホテルはアメリカ資本なもので、日本人観光客に対するサービスに、あまり力を入れないでやってきた」
「…………」
「そのせいで、日本人観光客をほかのホテルにとられていき、業績はどんどん悪くなっていった」
「…………」
「なんせ、日本人観光客が1日に使うお金を平均すると、白人観光客の3.2倍という統計も出ているんだ」
「…………」
「そんないいお客である日本人へのサービスがいまひとつじゃ、ホテルの経営が苦しくなっても当然というものだ」
「そこで、あなたが、雇われた?」
ジムは、うなずいた。
「私は、マウイ島にある日系資本のホテルでマネージャーをやっていたんだが、引っこ抜かれてね」
とジム。苦笑まじりに言った。
「それで、順調?」
「いまのところはね。私がやろうとしていることは、ごく簡単なことだから」
「ごく簡単なこと?」
「ああ。1つは、日本語の話せるスタッフをふやすこと。2つ目は、日本人観光客がリラックスできるように、スタッフの服装や対応をカジュアルにすることだ」
ジムは言った。
確かに。見れば、フロントにいるスタッフたちも、あまりカチッとした服装はしていない。
みな、ボタン・ダウンのアロハ・シャツ。ノーネクタイだ。職種によって、アロハの色や柄が変わっているぐらいのものだ。
わたしとジムは、プールサイドに出た。砂浜に面したプールサイドだ。
その、一番砂浜よりに、ビーチサイド・バーがあった。
まだ、客は少ない。カウンターの中では、太ったハワイアンのバーテンダーが働いていた。
「なんでもいいから、得意なカクテルを1杯つくってくれ」
とジム。わたしに言った。実技テストということらしい。
わたしは、うなずいた。ジャケットを脱ぐ。カウンターの中に入った。
使いよさそうなバーだと、ひと目でわかった。わたしはもう、スミノフのウオッカを手にとっていた。
よどみない手さばきで、ブラディ・マリーをつくった。こうなることを予想していたので、ポナペ島のコショウも持ってきていた。
それをひと振り。ステアーして、ジムの前にトンッと置いた。
ジムは、ブラディ・マリーに口をつけた。ゆっくりと、ひと口、飲んだ。そして、わたしに、ニコリと白い歯を見せた。
「週給650ドル。あしたからでもきてくれ」
と言った。
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[#1字下げ]6 パットじいさん
そんなわけで、わたしはこのプルメリア・ホテルで働きだした。ビーチサイド・バーで働きはじめて、もう6カ月になる。同僚たちも気楽な連中だし、仕事は順調だった。
ところが、まさか、ホテル探偵のような仕事を頼まれるとは、いまのいままで思ってもみなかった。
「どうだろう」
とジム。わたしは、われに返った。
「ビーチでのコソ泥をつかまえてくれないだろうか」
とジムは言って、わたしを見た。
「せっかくいい思い出をつくろうと思ってハワイにやってきた人が、嫌な思い出を持って帰るのはかわいそうだろう?」
とジムは言った。ハワイ育ちの人間にとっては、効果的なセリフを言った。わたしたちハワイで生まれ育った人間の多くは、この島々を愛しているのだ。
そこをつかれると弱い。
どうしよう……。わたしは考えていた。
ジムは、さらにたたみかけてくる。
「この捜査をやっている間は、もちろん、通常のバーの仕事からは離れて、フリーに動いてもらう。そして」
「…………」
「週給を800ドルにふやそう」
と言った。これは、カウンター・パンチだった。
わたしは最近、クルマを替えたのだ。
それまで乗っていたのは、69年型のマスタングという、とんでもなく古いしろものだ。
それでも愛着を持って乗っていた。けれど、3カ月前、ルート72の路上でエンジン・ルームから火を吹き出してしまった。
やっと消火はしたものの、もう、廃車にするしかなかった。
かわりに買ったのは、チェロキー・スポーツ。メタリック・ブルーの車だ。これなら、ブギー・ボードだろうがボーイフレンドの4、5人だろうが、積み込んで走り回れる。
それはいいのだけれど、新車を買ったので、毎月のローンがかなりの支払いになる。
〈週給800ドルにふやす〉のひとことは、効《き》いた。そして、わたしは根本的に冒険好きな性格でもあった。20秒ほど考え、
「オーケイ。引きうけるわ」
と返事をしていた。
「そうか。やってくれるか」
とジム。白い歯を見せた。
「じゃ、やり方はすべて君にまかせるから、自由に捜査してくれ」
と言った。ブラディ・マリーを飲み干した。
翌日。午前中だけは、バーテンダーの仕事をした。
昼過ぎ。わたしは、フローズン・マルガリータをつくり終える。カウンターの上に、トンッと置いた。
「じゃあね」
と同僚のキモに言った。
「ちょっと、野暮用を片づけに行ってくるわ」
と、わたしは言った。キモは、〈2階のジム〉から説明をうけているので、
「がんばってな、麻里《マリー》」
と言った。褐色の顔の中で、歯が白く光った。太い親指で〈GO!〉のサインを出して見せた。
わたしは、そのままカウンターを出る。テーブルの間を抜け、砂浜《ビーチ》に出て行った。
午後のワイキキ・ビーチは、あい変わらず混みあっていた。
持にいまは7月。観光のトップ・シーズンに突入したところだ。
まっ白い太った体を、ピンク色に灼き、トドのように寝っ転がっているアメリカ人のおっさん。そして、おばさん。
よほど陽灼けしたくないのか、体も顔もタオルでおおっている日本人の娘《こ》。(まるで死体のようだ。元警官だったわたしは、ついそう思ってしまう)
そして、手をつなぎ合って歩いているTバック水着のゲイの2人。
さまざまな人たちが、午後のワイキキ・ビーチで時を過ごしていた。その中でも、やはり、日本人の比率は高い。
サーフライダー・ホテルの前あたりまで来て、わたしの足は止まった。
不思議な機械を持って、砂浜を歩いている白人の老人がいる。
老人が持っているのは、1.5メートルぐらいの棒の先に円盤のついたものだ。円盤は、フリスビーぐらいの大きさだった。
老人は、その棒の先についている円盤を、砂浜の上にすれすれに動かしながら歩いていた。まるで、床に掃除機をかけるようなスタイルだ。
それは、金属探知機なのだ。
そして、老人はヘッドフォンをつけている。
砂浜の上を動いている円盤が、砂の中にある金属を感知すると、細いコードを通じ、ヘッドフォンにピーッという信号音が流れるしくみらしい。
もとをたどれば、軍隊が地雷を発見するために開発した機械らしい。
それがいまでは、|〈宝さがし〉《トレジヤー・ハンテイング》マシーンとして軽くあつかいやすいものにつくり変えられ、レジャー用品として売られている。
といっても、ワイキキ・ビーチで使っているのは、わたしの知る限り、この老人だけだ。
老人は、70歳ぐらいだろうか。
金髪だったろう髪も、いまではまっ白だ。その上に、紺色の野球帽をかぶっていた。
陽灼けした顔。きざみ込まれた深いシワ。
着ているTシャツも、ショートパンツも、色|褪《あ》せたものだった。穴のあいた、アディダスのスニーカーをはいている。
老人は、砂浜のまぶしさに眼を細め、金属探知機を動かしていた。
円盤が、ゆっくりと、砂浜の上を動いていく……。
やがて、老人の足が、ピタリと止まる。金属探知機に反応があったのだろう。
老人は。腰のベルトにつけていた金属のコップを手にとる。反応があったあたりの砂を、コップですくい上げた。
そのコップの底は、アミ目になっているのだ。早い話、ザルのようなものだ。砂粒は、アミの目から、ざーっとこぼれていく。
何か、金属のものがあれば、コップの底に残るというしくみになっているのだ。
老人は、いま、コップから砂をこぼし終わる。コップの底をのぞき込む。そして、とり出したのは|25セント玉《クオーター》だった。
その|25セント玉《クオーター》を、老人は、腰のベルトにくくりつけた布袋に入れた。
また、金属探知機を操作しながら、ゆっくりと、海水浴客の間を歩きはじめた。淡々とした表情で、歩いていく。
その足どりは、ゆっくりだけれど、しっかりしていた。
何人かの観光客が、老人を見ている。主に白人だ。あわれむような目で老人を見ている男もいる。あんなことまでしないと生活できないのか、というあわれみの視線だ。あきらかに軽蔑したような目で見ている中年女もいる。
けれど、老人は、淡々とした表情で砂浜を歩きつづける。
ふと、立ちどまる。老人は、わたしに気づいた。
「やあ、麻里《マリー》」
と言った。
「ハイ、パットじいさん」
と、わたしは右手を上げてあいさつした。
わたしと、このパットじいさんとは、かなり前からの顔見知りなのだ。
パットじいさんは、探知機を動かしていた手を止める。ヘッドフォンをはずした。
わたしは、パットじいさんと向かい合った。
「どお? 調子は」
と言って、金属探知機を眼でさした。
「あんまり、よくないねェ」
とパットじいさん。シワだらけの顔に、苦笑いが広がる。
「ここんとこ、ビンのキャップとか、缶のプルトップとか、そんなものばっかりが多くて、ダメだねェ……」
パットじいさんは言った。
「ところで、どうだい。バーテンダーの仕事の方は、もう慣れたかい?」
と、わたしに訊いた。
「まずまずね。これから、だんだん、お客がふえてきそうだから、忙しくなるかもしれないけど」
「そうか……。もう7月だもんなァ……」
とパットじいさん。陽射しのまぶしさに眼を細めた。
「それじゃ、がんばってね」
と、わたしは言った。パットじいさんに、白い歯を見せた。パットじいさんも、笑顔を見せた。
「麻里《マリー》も、仕事に精を出すんだよ」
と言った。わたしたちは、腕ずもうみたいなハワイ式の握手を短くかわした。そして別れた。
パットじいさんは、またヘッドフォンをはめる。金属探知機を使いはじめた。ビーチで日光浴している観光客の間を、ゆっくりと歩きはじめた。
わたしは、さらに、ワイキキ・ビーチを東の方へ歩いて行く。
やがて、ワイキキ・ビーチに面しているホテルがとぎれる。そこのところに|交 番《ポリス・ボックス》が1つある。わたしは、そのポリス・ボックスに向かって歩いて行った。
このあたりは、ワイキキでも、一番、観光客の多い所だ。特に、日本人観光客は多い場所だ。
ここの交番で、ちょっと、最近の情報をきいてみようと思ったのだ。
わたしは、ポリス・ボックスに近づいて行った。
いつもは、テリー・キムラという日系人の警官がいるのだけど、いま、姿は見えない。テリー・キムラは、ベテランで、日本語もペラペラだ。親切なおじさん警官だった。
いま、ポリス・ボックスの外で誰かと話しているのは、若い白人の警官だった。
制服。ベルト。拳銃のホルスター。みんなピカピカの新品だ。
たぶん、新人の警官なんだろう。
その警官は、やはり白人の中年男と何か話している。わたしは、近づいていった。
どうやら、中年男は、ポリス・ボックスの電話を貸してくれと言っているらしかった。
「車がそこで故障しちまったんだ。レッカー車を呼びたいんだ。ちょっとぐらい電話を貸してくれてもいいだろう」
と中年男。汗をかきながら言っている。
「公衆電話なら、すぐそこにあるだろう」
と若い警官。
「そこの公衆電話を使おうとしたら、故障してやがるのさ。だから、こうして頼んでるんだよ」
と中年男。
「ダメだね」
と若い警官。
「ポリス・ボックスの電話は、公衆電話じゃないんだ。公衆電話なら、ほかにもいくらでもあるだろう」
と言った。ピシャリとした冷たい言い方だった。わたしは心の中で、〈こりゃダメだ〉と思った。この若い白人警官は、警察学校を出たばかりの新米で、おまけに、かなりゆうずうのきかない石頭らしい。
その警官と言い争いをしていた中年男は、とうとう、プッツンと切れてしまったようだ。
「わかったよ、このコチコチのわからず屋が。もう、お前さんなんかには頼まないよ。ほかの公衆電話をさがすよ」
と言った。歩き去ろうとして、1度、ふり向いた。若い警官を指さす。
「お前たちの給料は、このオレたちの税金から出てるんだぞ。そこのところを、よく考えるんだな。この〈|いかれ頭《コーン・ヘツド》〉!」
と言い捨てる。
ぷりぷりと怒ったまま、スタスタと大通りの方へ歩いて行った。
中年男の姿が見えなくなる。わたしは、その若い警官に声をかけた。
「あの……テリー・キムラさんは、いない?」
と訊いた。警官は、わたしをジロリと見た。
青くて強情そうな眼が、わたしを見た。ここはハワイだというのに、やつの肌はまっ白だった。ヒゲの剃りあとが青黒い。
神経質そうな男だから、夕方にはもう一度、ヒゲを剃るんだろう。
もみあげも、きちんとカットされている。髪の毛一本の乱れもない。ハワイではなく〈本土《メイン・ランド》〉育ちの人間かもしれない。
こいつは、たぶん、毎朝、歯を磨いたあと、銀色のバッジもワックスをつけて磨いてくるにちがいない。わたしは、そう思った。
「キムラ巡査は、いま、パトロール中だよ」
と、その警官。あい変わらず、冷たい視線でわたしを見つめ、
「で、君は、キムラ巡査に何か用なの?」
と言った。
わたしは、シャツの胸ポケットから、ホテルの社員証をとり出し、やつに見せた。
「わたしは、ここで、主に保安関係《セキユリテイー》の仕事をやっているの」
と言った。やつは、社員証を見て、
「なるほど。プルメリア・ホテルの……」
と、つぶやいた。
「仕事上のことで、ちょっと訊きたいことがあったんだけど……」
と、わたしは言った。やつは、社員証をわたしに返す。
「オレは、ヴィンセント。1週間前から、ここに配属になった。オレでわかることなら、話をきいてあげてもいいけど」
と言った。
〈配属になって1週間〉ときいて、わたしは、少しうんざりした。
たった1週間目のど素人じゃ、相談してもしかたない。
そうも思った。けど、とりあえず、ムダを承知で話をしてみてもいいかとも思った。
いちおう、話してみることにした。話しはじめた。
最近、特にふえているビーチでの盗難のことだ。簡単に話し終わった。
「どお? このポリス・ボックスにも、被害届、出ていない?」
と、そのヴィンセントに訊いた。ヴィンセントは、うなずいた。
「確かに、多いな。オレは、いま、早朝から午後3時までの勤務だけど、この1週間で、15件の被害届けが出ている」
「それは多いわね……」
わたしは、つぶやいた。そこで、ヴィンセントは、かすかにニヤリとした。そして、
「しかし……オレはもう、犯人の目ぼしをつけているんだ」
と言った。
「犯人の目ぼし?……」
[#改ページ]
[#1字下げ]7 石頭は、ボストンからやってきた
「ああ、そうさ」
とヴィンセント。ちょっと自慢そうに言った。
「で、その、あなたが目ぼしをつけた犯人ってのは、何者?」
わたしは訊いた。ヴィンセントは、ちょっともったいをつける。わざと、コホンとセキをしてみせた。
「君みたいな、一般人に話すのは、ちょっとまずいんだが……」
「わたしは、これでもホテルの保安関係者《セキユリテイー》よ。ただの一般人とは違うわ。遠慮しないで話してみてよ」
わたしは言った。ヴィンセントは、うなずく。
「それもそうだな。じゃ、教えよう。オレが目ぼしをつけた犯人とは」
「…………」
「あの、金属探知機を持って砂浜をうろうろしているじいさんさ」
と言った。
「あ……あのパットじいさん!?……」
わたしは、思わずきき返してしまった。
「あのじいさん、パットっていう名前なのか?」
とヴィンセント。
「そうよ」
「君は知り合いなのか?」
「ま、まあ……。あのおじいさん、このワイキキの名物みたいなものだから……」
「ふうん……。それにしても、怪しい。どう見ても怪しいと、オレはにらんでいるんだ」
ヴィンセントは言った。
「ああやって金属探知機を持っていれば、砂浜をうろうろしていても、怪しむ人間も少ない。つまり、好きなように金品を物色することができる」
「…………」
「日本人は無用心だから、ちょっとした金や時計なんかを、置きっぱなしにして、海に入ったりしてしまう。そのすきに、あのじいさん、知らん顔をして盗みをはたらいている。オレは、そうにらんでいるんだ」
とヴィンセント。自信満々な表情で言った。
「それに、見てみろよ、あのじいさんのボロボロのかっこう。ありゃ、相当、金に困ってるにちがいない。盗みでもなんでもやりそうじゃないか」
ヴィンセントは言った。
その時、〈あっ、こいつは、やっぱりハワイ育ちの人間じゃないな〉と、わたしは確信した。ハワイという大らかな土地で育つと、こういう考え方はあまりしなくなる。
服装や、乗っているクルマで、人間を判断しなくなるのだ。
たぶん、このヴィンセントは〈本土《メイン・ランド》〉で育った人間だ。しかも、東海岸《イースト・コースト》の方で育った人間だろうと、わたしは思った。ハワイにやって来たのは最近にちがいない。
まあ、そんなのは、どうでもいいことだ。
わたしは、
「あのパットじいさんが盗みをはたらいてるっていう推理は、ちがうわよ」
と言った。ヴィンセントは、わたしをジロリと見た。
「誰が君の意見をきいた」
と言った。
「誰も、君の意見なんかきいてない。これは、オレの、警官としての職業的なカンなんだ。君なんかにわかってたまるか」
とヴィンセント。〈警官としての〉というところをやたら強調した。
〈新米のくせに、よく言うよ〉と、わたしは内心で苦笑いをしていた。
「とにかく、あの、パットっていうじいさんを徹底的にマークして、現行犯でとっつかまえてやるんだ」
とヴィンセント。力《りき》んだ声で言った。このワイキキに配属されて1週間。早くも手柄をたてようと、鼻息を荒くしているようだ。
〈まあ、勝手にすれば〉わたしは、心の中でつぶやいた。
「それはそうとして、今度、ビーチでの盗難の被害届けが出たら、連絡くれないかしら」
わたしは言った。ヴィンセントは、5秒ほど考える。
「ああ、いいよ」
と、あっさりと言った。
「本物の警官の仕事ぶりってやつを、見せてやるよ」
と言った。そうか……。いまのは、親切心で言ったわけじゃない。警官としての自分の仕事っぷりを、〈たかがホテルの保安係〉に見せつけてやる。そういうこんたんがあって言ったらしい。
それでも、とにかく、
「じゃ、すぐに連絡ちょうだい」
と、わたしは言った。ホテルの電話番号と自分の名前をメモして、渡した。
わたしは立ち去ろうとして、ふと、足を止めた。ヴィンセントにふり向いた。
「ところで、あんた、どこの生まれ育ち?」
と訊いた。
「ボストンだけど。それが何か?」
「いえ、別に、いいの」
わたしは言った。クルリと回れ右。歩きはじめた。
3日後だった。午後2時半頃。警官のヴィンセントから電話がきた。
いま、盗難の被害届けが出たという。
「すぐに飛んで行くわ」
わたしは、電話を切った。ホテルを出て、小走りでポリス・ボックスに向かった。
3、4分で着いた。
ポリス・ボックスの中。ヴィンセントが、女の日本人観光客2人と話をしている。
2人とも若い娘《こ》だった。
女子大生か、OLか、そんなところだろう。
1人は、髪をショートカットにしている。もう1人は、長い髪を後ろでまとめている。2人とも、上手に化粧していた。水着の上に、クレイジー・シャツのTシャツをかぶっている。ビーチ・サンダルをはいている。
Tシャツから出ている太ももは、少しピンク色に灼けている。ハワイに来て2、3日目と、わたしは読んだ。
ヴィンセントは、ジェスチャーをまじえた日本語で、女の子たちと話をしていた。ヴィンセントの日本語は、かなりたどたどしかった。
話せることは話せるのだけれど、ひどく苦戦している。
このポリス・ボックスに配属されるのは、日本語が上手な警官のはずなのに……。
とにかく、ヴィンセントと女の子たちの間では、あまり正確に話は通じていなかった。
「ああ、君。ちょうどよかった」
とヴィンセント。わたしを見て言った。
「彼女たちの日本語、よくわからないところがあるんだけど、なんか、方言なんじゃないかな」
ヴィンセントは言った。わたしは、その女の子たちに、
「盗難にあったんですって?」
と日本語で訊いた。ショートカットの娘《こ》が、主に話しはじめた。
すぐにわかった。関西弁なのだ。
正確に言うと、関西弁まじりの標準語というところだろう。
たとえば、関西出身の娘《こ》が、東京の大学に入るために上京して半年目。そんな感じなのだろう。
わたしは、彼女たちから話をききはじめた。ところどころで話を止め、ヴィンセントに通訳してやる。
事件《こと》のあらましは、こうだ。
彼女たちは、5泊7日のパック・ツアーで来ている。シェラトン・ホテルに泊まっている。
きょう、2人は昼頃からワイキキ・ビーチで日光浴をしはじめた。
そして、ついさっき、何か飲み物を買おうと思って、バッグの中を見たら、お金と時計を入れた小さなポーチがなくなっていたという。
ショートカットの娘《こ》が、そう説明しながら、自分のバッグを指さした。
それは、いわゆるトート・バッグと呼ばれる形のバッグだった。ハワイでも持っている人を見かける。けれど、最近は日本で流行しているらしい。日本人観光客が、よくビーチに持ってきている。
トート・バッグは、早い話、キャンバス地の布袋に、持つためのベルトをつけたものだ。ひどくシンプルな形のバッグだ。
このトート・バッグには、閉じるためのチャックも何もついていない。口は開けっぱなしなのだ。
ビーチで使うのには便利かもしれない。けれど、盗みをはたらこうという人間にとっても、便利なものかもしれない。
「で、お金はどのぐらい?」
わたしは、ショートカットの娘《こ》に訊いた。
「そやなァ……。50ドルぐらいやったかなァ……」
と、その娘《こ》。しばらく考えている。
「そやそや。50ドルと、小銭が少しやった」
と言った。昼頃、このビーチに着いてすぐ、近くにあるホットドッグ・スタンドで、チリ・ドッグとコークを2人分、買った。その時に、残りのお金をざっと勘定してみたという。それが50ドルと小銭だったらしい。
「50ドルの内分けは?」
「ええ……20ドル札が2枚と、10ドル札が1枚……。確か、そやった」
自分でうなずきながら、ショートカットの娘《こ》は言った。そばで、ヴィンセントがメモを取っている。
「で、時計は?」
「カルチェの四角っぽいの」
とショートカットの娘《こ》。
「で、その、お金と時計の入ったポーチを、ホットドッグ・スタンドやどこかへ置き忘れた可能性は?」
わたしは訊いた。彼女たちは、顔を見合わせる。
「たぶん、ないと思うわァ……。うち、ビーチにマットを敷いて、Tシャツを脱いでから、時計をはずして、あのポーチに入れたのよく覚えてるし……」
とショートカットの娘《こ》は言った。それから、バッグはビーチに置きっぱなしだという。
「じゃ、バッグの中のポーチをいつ盗まれたか、心当たりは?」
わたしは訊いた。2人は、また顔を見合わせる。
「海に入るときも、交代で入ってたしなァ……。荷物のそばを離れたことは、なかったはずなんやけど……」
「そやそや。1度も、荷物から離れたことは、なかったんよ」
と、もう1人の娘《こ》。
「でも…………」
とショートカットの娘《こ》。
「2人とも、顔にタオルかけて、ウトウトしたことはあったやないの」
と言った。
「顔にタオルをかけてウトウト……」
わたしは訊き返した。わたしがいつも思う、〈死体のような状態〉で、居眠りをしていたらしい。
ヴィンセントも、その話をきくと、身をのり出してきた。
「どのぐらいの間、居眠りをしていたんだ」
とヴィンセント。わたしがそれを通訳してあげる。
「1時間ぐらいやったなァ……」
と彼女たち。ヴィンセントの眼が、鋭く光った。
「君たちが居眠りした前後、例の金属探知機を持ったじいさんが、あたりをうろうろしていなかったか?」
とヴィンセント。わたしは、気が進まなかったけれど、それを訳した。彼女たちは、顔を見合わせる。
「金属探知機?……」
と1人がつぶやく。
「あ、ああ……それって、掃除機みたいなやつで、先が円盤になってるやつ?」
と、ショートカットの娘《こ》。わたしは、うなずいた。
「ああ……。それを持った外人のおじいさんなら、うちらの近くにいたわ。何やってるんやろうって、不思議だったから、よく覚えているわ」
「それは、いつ頃?」
「そやなァ……。うちらが、ウトウトしはじめる少し前やったと思うわ」
彼女は言った。わたしは、それを、ヴィンセントに訳した。そのとたん、
「やっぱりか!」
とヴィンセント。手帳をパタンと閉じた。
「オレが目ぼしをつけたとおり、やっぱり、やつが犯人だ。居眠りをしている彼女たちのバッグから、金と時計を盗んだんだ」
と言った。
「早とちりはやめてよ」
と、わたし。
「早とちりかどうか、やつを連れてきて調べれば、すぐにわかることさ。素人は、引っ込んでいろ」
とヴィンセント。彼女たちには、
「ここで待ってて」
と日本語で言う。ビーチの方に小走りで駆けて行った。
5分後。ヴィンセントは、パットじいさんを連れてきた。わたしは、
「これはちょっとした誤解なの」
とパットじいさんに必死で言った。ヴィンセントは、わたしを無視。
「その、腰につけてる袋の中身を、見せてもらおうか」
と、パットじいさんに言った。
「この袋か? たいした物は入っとらんよ」
とパットじいさん。
「なんでもいいから、その袋を開けてみろ」
とヴィンセント。強い口調で言った。もしかしたら配属されて早々に手柄をたてられるかもしれない。そんな欲のはった表情をしている。
「じゃ、まあ……」
とパットじいさん。腰のベルトにくくりつけた布袋をはずす。袋の口を開けた。中身を、デスクの上に出した。
[#改ページ]
[#1字下げ]8 探《さが》しものはなんですか?
ガチャガチャという音。
パットじいさんは、袋の中身をデスクの上に出した。ヴィンセントが、身をのり出す。
出てきたのは、さまざまなガラクタだった。ビンのキャップ。缶のプルトップ。何か、よくわからない金属の破片。丸まった針金……。
そんなものばかりだった。1個だけ、|10セント玉《ダイム》があった。
「!?…………」
ヴィンセントは、そのガラクタたちを見て、驚いた表情をしている。
「そんな馬鹿な!」
と言って、パットじいさんの手から袋をひったくった。袋を引っくり返してみる。けど、空《から》だった。50ドルも、カルチェの時計も出てこない。
「……こんなはずはない! ポケットかどこかにかくしてるんだろう」
とヴィンセント。
「きちんとポケットの中まで調べてやる。こっちにこい」
と言って、パットじいさんを、奥の部屋に連れていった。
10分もしないうちに、パットじいさんとヴィンセントは奥の部屋から出てきた。パットじいさんは、いつも通りの淡々とした表情。逆に、ヴィンセントの方は、がっくりとした顔つきをしている。パットじいさんの身体検査をしても、何も出てこなかったらしい。
「だから、私はたいした物は持ってないと、言っただろうが」
とパットじいさん。静かに微笑《ほほえ》みながら言った。ヴィンセントの方は、血走った眼つきをしている。
「そ……それにしても……この|10セント玉《ダイム》はなんだ。これは砂浜でひろったものだろう! ということは、拾得物だ。ということは、われわれ警官に届けるべきものだ!」
などと、かなり血迷ったセリフを吐いた。その時だった。
「やあ、パットさん」
と、おだやかな声がした。
わたしたちは、ふり向いた。
そこに立っていたのは、テリー・キムラだった。日系人のベテラン警官で、温かい性格のおじさんだった。テリー・キムラは、パトロールから帰ってきたところらしく、額にかすかに汗をかいていた。
「これは、パットさん、どうしたんですか。それに、麻里《マリー》も……」
とテリー・キムラ。
「あっ、あの……キムラ巡査は、この老人とお知り合いなんですか?」
とヴィンセント。自分の上司に対しては、急にていねいな言葉使いになった。
「ああ……知り合いだよ」
とテリー・キムラ。
「で、何があったんだね」
とヴィンセントに訊いた。
「あの……それがですね……」
とヴィンセント。血走った眼つきのまま、あわてて説明しようとした。けど、あせりまくって支離滅裂だ。
そこで、わたしがテリー・キムラに説明をしはじめた。3分ほどで、いままでのいきさつを、テリーに説明した。テリーは、うなずきながらきいている。
きき終わったテリーは、ヴィンセントに向きなおった。落ち着いた口調で、
「君はまだ新人だし、犯人をつかまえようと、はやる気持ちも、わからないじゃない。けど、このパットさんは、盗みをはたらくような人じゃない」
と言った。
「し……しかし……」
とヴィンセント。口をパクパクさせる。
「確かに、ああやって金属探知機を持って砂浜を歩いているのを見れば、君などが不審に思うのも無理はない。けれど、パットさんは、ひろったお金は全部、寄附してくれているんだ」
とテリーは言った。
「寄附?……」
とヴィンセント。
「ああ、そうだ。そこに箱があるだろう」
とテリー。眼でさした。デスクのすみに、〈エイズ救済募金〉と書かれた透明なプラスチックの箱があった。中には、|25セント玉《クオーター》、や|10セント玉《ダイム》が、かなり入っていた。
「あのお金のほとんどは、パットさんが入れてくれたものなんだ」
テリーは言った。
「君はここに配属されてまだ1週間だし、毎日、午後3時で勤務が終わりになるから知らなくてもしかたないだろう」
「…………」
「けど、このパットさんは、4時頃になると、その日、砂浜でひろった小銭《コイン》をみんなこの箱に入れていってくれるんだ」
とテリー。ヴィンセントに言った。ヴィンセントは、不思議そうな顔をしている。納得ができないという表情で、パットじいさんを見た。
「じゃ……あんたはいったいなんで……」
と訊いた。
「金をひろうためじゃなけりゃ、なんのために、あんたは、ああやって……」
と、パットじいさんに訊いた。
「…………」
パットじいさんは、しばらく静かに微笑んでいた。そして、口を開いた。
「|宝さがし《トレジヤー・ハンテイング》だよ」
と言った。
「宝さがし?……」
とヴィンセント。ポカンと口を半開きにしている。
「……そう……これは、私にとっては……宝さがしなんだよ……」
とパットじいさん。微笑みながら、つぶやくように言った。ヴィンセントは、まだ、わけがわからないという表情をしている。そのヴィンセントに、ニッと微笑《わら》いかけると、
「まあ……年寄りの道楽ととってくれてもかまわないし……老人にとってのスポーツの一種と思ってくれてもけっこう。そういうことなんだ……」
と、パットじいさんは言った。
その時だった。黒いキャディラックのリムジンが、スーッと、歩道に寄ってきて駐まった。運転席から、金モールのついた制服を着た若い白人がおりてきた。運転手らしい。
運転手は、早足でこっちにやってくる。まっすぐに、パットじいさんの前にやってきた。パットじいさんに、
「お迎えにあがりました、社長《プレジデント》」
と礼儀正しい姿勢で言った。
「うむ」
と、パットじいさん。運転手は、パットじいさんから、金属探知機をうけとる。早足でそれをクルマのところに持っていく。リムジンのトランク・ルームに入れた。
「それじゃ、私は、これで」
と、パットじいさん。わたしたちに微笑みかけ、軽く手を振った。
そして、リムジンに向かって歩きはじめた。運転手が、リムジンのドアを開けて待っている。
パットじいさんは、悠々とした身のこなしで、リムジンの後部《リア》シートに乗り込んだ。ドアを閉めた運転手は、てきぱきと運転席に乗り込んだ。
クジラのように大きな黒いリムジンは、スーッと動き出す。遅い午後のカラカウア|通り《アベニユー》にゆっくりと走り出した。走り去るリムジンの後ろ姿を、わたしたちは見送った。
「いったい、あのじいさん……何者なんですか?……」
とヴィンセント。テリー・キムラに訊いた。
「わしも、正確には知らんのだよ」
とテリー。
「わかっているのは、食品関係の大きな会社の社長であるということ。会社の経営は、もう、息子にまかせてあるということ。そして、毎日のように、ああして、金属探知機を持って砂浜を歩いている……。それぐらいのことしか、わしも知らん」
とテリー。
「なあ、そうだよなァ」
と、わたしに言った。わたしは、うなずいた。
「そう……。わたしが知っているのも、その辺までね」
「でも……そんな金持ちなのに、なぜ、あんなことを毎日のように……」
とヴィンセント。つぶやくように言った。
「さあ……」
とテリー。
「本当に、ただの趣味だったりしてね」
と、わたしは笑いながら言った。けど、内心では、そう思っていなかった。趣味でやるにしては、あれは、それほど面白くなさそうだった。
金持ちなんだから、もっと楽しい趣味は、ほかにいくらでも見つけられるだろう。
体を動かすためといっても、ほかにいろいろなスポーツがある。
ハワイは平均寿命が長い土地だ。
パットじいさんぐらいの年齢の老人は、みんな元気だ。金持ちはヨットでのクルージングやトローリング。庶民だって、ゴルフのパブリック・コースでクラブを振っている。
バイクのハーレーを乗り回している71歳の人を、わたしは知っている。
68歳で、毎日のように波乗り(もちろん、ロング・ボードだけど)をやっている老人も、知っている。
だから、スポーツとして、金属探知機を動かしているというのも、いまひとつ、うなずけない話だ。
それに……。
パットじいさんが、あれをやっている表情は、かなり真剣なのだ。わたしは、彼の姿を見るたびにそう思う。
気楽にやっているように見える。けれど、その瞳には、かなり真剣な色が漂っているのだ。
知らない人から見れば、小銭《コイン》を1セントでも多くひろうため、と思えるだろう。けれど、そうではない。
とすると……。あのパットじいさんは、もしかしたら、本当に何か、彼にとっての〈宝もの〉を探しているのかもしれない……。わたしは、そう思うことが、最近よくある。どっちにしても、彼が何を探しているのか、謎だ。
いずれ、わかるのかもしれないけれど……。
「あの、ちょっと」
と、わたしは声をかけた。
さっき、50ドルと時計を盗まれた女の子たちだ。彼女たちは、テリー・キムラに被害届けを出し、ポリス・ボックスから立ち去ろうとした。
「あの……ちょっと訊いてもいいかしら」
わたしは言った。彼女たちは、立ち止まって、うなずいた。
「さっきの被害のことなんだけど……タオルを顔にかけて居眠りしていた時以外、スキがあったって覚えはない?」
わたしは訊いた。
彼女たちの話からして、当然、タオルをかぶって居眠りしている間に盗難にあった可能性が高いだろう。けど、それ以外に、
「何か、なかった? たとえば……誰か話しかけてきたとか……」
と、わたしは訊いた。彼女たちは、顔を見合わせる。ちょっと考えている。そして、1人の娘《こ》が、
「そういえば……話しかけてきた人、いたやん」
と言った。
「ああ、ああ……。あの、ナンパ野郎ね」
ともう1人の娘《こ》。
「ナンパ野郎って?」
「あのォ……日本人の男の子が2人、声かけてきたんよ。いかにもナンパって感じで……」
「どんな人たち?」
「ええと……|20歳《はたち》ぐらいかなァ……。2人とも、ホノルルの学校に留学してるって言ってたわ」
「留学生か……。で、学校はどこだって?」
「それは、確か、きかなかったと思うわ……」
「そう……。で、どんな人たちだった?」
「ええと……1人は、わりに背が高くて、まあまあカッコよくて……長めの髪をチャパツにしてたわ」
「チャパツか……」
わたしは、つぶやいた。チャパツという言葉は、日本から来た友達にきいたことがある。チャパツ、イコール、茶髪。つまり、髪を茶色や金色に染めていることを言うらしい。
「で、その、まずまずカッコいいチャパツと、もう1人は?」
わたしは、訊いた。
「もう1人は、かなり太ってたわ。顔もあんまり良くないんだけど、こっちの人の方がおしゃべりで面白かったわ」
「おしゃべり?……」
「そうそう。とにかくよくしゃべって、笑わせてくれるんよ。まるで、吉本興行の芸人さんみたいな人やったわ。なあ」
とショートカットの娘《こ》。もう1人に言った。
「そやな。面白かったなァ」
と、もう1人の娘《こ》も、あいづちをうった。
「で……その2人は、あなたたちと向かい合って話してたの?」
「いや。1人ずつ、うちらの両側に座ってしゃべってたわ」
とショートカットの娘《こ》。
「そうか……。で、その時、あなたたちのバッグは、どこに置いてあったの?」
「バッグは……ええと……すぐ後ろに置いてあったと思うわ」
「ふーん……」
わたしは、つぶやいた。心の中で、小さく注意信号が点滅した。
[#改ページ]
[#1字下げ]9 マグロに誘われて
わたしの胸の中に、ひとつの光景が浮かび上がった。
ビーチにいる2人の娘《こ》。そこへ、同じ日本人の男の子が2人、声をかけてくる。男の子は、女の子たちの両側に、1人ずつ座ってしゃべりはじめる。
片方の太った男の子の方が、しゃべりが上手で面白い。当然、女の子たちは、2人とも話の面白い方の男の子を見ている。
女の子たちの注意がそっちにいっているすきに、もう1人の男の子が、女の子のバッグの中を、そっとさぐって……。
あり得ない筋書きではない。いちおう、頭に入れておく必要があるだろう。
「それで、その男の子たちとは、どうしたの?」
わたしは、彼女たちに訊いた。
「ええと……その太った男の子のおしゃべりにも、うちらがだんだんあきてきて、しらけはじめたんで」
「その、おしゃべりの男の子も、さすがにダメだと思ってきたみたいで……そのうち、〈じゃ〉って言って、立ち上がってどっかに行ったわ」
と彼女たち。
「彼らのナンパは失敗ってわけね」
「だってェ……ハワイまで来て、わざわざ日本人の男の子とつき合うのも馬鹿みたいだし……ねえ」
とショートカットの娘《こ》。クスクスと笑いながら言った。
わたしも、なんとなく、うなずいた。
「話、ありがとう。盗《と》られたもの、見つかるといいわねェ」
と彼女たちに言った。手を振って、別れた。
プルメリア・ホテルに戻る。
ビーチサイド・バーに入った。バーから〈2階のジム〉に電話を入れた。ジムはすぐに出た。わたしは、簡単に、さっきの被害者のことを話した。
「うちのホテルのお客で被害にあった人で、まだ泊まってる人、いるかしら?」
わたしは訊いた。もしいたら、日本人の男の子2人にナンパされなかったかどうか、訊いてみようと思ったのだ。ところが、
「それが、もういないんだ。最後に被害にあったお客も、3日前にチェック・アウトしている」
とジム。
「そうか……」
わたしは、ため息まじりにつぶやいた。
これが、日本人が被害者になった場合の難しいところだ。
ホノルル市警で仕事をしていた頃から、よく突き当たる壁なのだ。
つまり、日本人観光客は、滞在日数が短い。4泊6日とか、せいぜい10日以内のお客がほとんどだ。
だから、犯罪の容疑者をとっつかまえても、被害者はもう日本に帰ってしまっていることが多い。容疑者の確認ができない、ということになってしまうのだ。
よほどの凶悪犯罪でない限り、そういう事情で、犯人をぶち込めないという事は、よくあった。
けれど、日本人の休暇が、急に長くなるとは思えない。
これは、どうしようもないことなのかもしれない。そう考えるしか、しかたないだろう……。
わたしは、受話器の向こうのジムに、
「わかったわ。とりあえず、いろいろがんばってみるから」
と言った。電話を切った。
グルン、グルン……。
洗濯機の中で、Tシャツやタンクトップが、ゆっくりと回っている。
家に帰ると、洗濯物がたまっていることに気づいた。わたしは、さっそく、Tシャツ類を洗濯機に入れ、洗剤の〈|TIDE《タイド》〉を放り込んだ。
洗濯機を一番ゆるやかなスピードで動かしはじめた。
なんせ、アメリカ製のTシャツ類は、品質が悪いものが多い。ガンガン洗濯機を回し、おまけに乾操機にかけたりしたら、すぐに着られなくなってしまう。
わたしは、洗濯機の中でゆっくりと回っているTシャツをぼんやりと見ていた。見ながら、考えていた。
さっきの被害者のことだ。
やはり、ナンパしにきた男2人を当たってみるべきだろう。とりあえず、ほかに手がかりらしいものはないのだから……。
しかし……。と、また考え込んでしまった。
あの広いワイキキ・ビーチで、その2人を捜すのは、ひどく大変だろう。
なんせ、太った男の子と、茶髪《チヤパツ》の男の子なんて、いくらでもいそうだ。あの、日本人で混雑したワイキキ・ビーチで、そんな2人をどうやって見つければいいんだろう……。
そこまで考えたところで、洗濯機の回転が止まった。タイマーが、ゼロに戻っていた。
わたしは、Tシャツ類をとり出す。手で軽く絞った。それを、ベランダ、ハワイの言葉で言うラナイに持っていった。
1枚ずつ、ていねいに干しはじめた。
まだ、陽射しは残っている。それに、ハワイは風が乾いているから、ひと晩中、洗濯物を干しておいても大丈夫だ。
わたしの部屋は、12階にある。海も見える。海岸線に並んだヤシの樹。その向こうに、パイナップル色に光る夕方の海が見えた。
サラサラと音がするような乾いた風を髪にうけながら、わたしは、Tシャツやタンクトップを干していく……。
その時、ふと、何か、食べ物を焼いている匂いが漂ってきた。
となりの部屋のラナイだ。
男の人が、バーベキュー・グリルで何かを焼いていた。バーベキュー・グリルの網に何かをのせ、1人で焼いていた。
若い日系人の男だった。
となり同士なので、ラナイで何回も顔を合わせたことがある。はじめて顔を合わせた時から、〈やあ《ハイ》〉とあいさつをかわした。
ハワイでは、人はみな、そんな風にフレンドリーだ。
いま、バーベキューをやってるその日系人の彼は、わたしの視線に気づいた。そして、いつも通り、
「やあ」
と言った。よく陽灼けした顔の中で、白い歯が光った。わたしも、Tシャツを干す手を止め、笑顔を見せた。
「おいしそうね。何焼いてるの?」
「|AHI《アヒ》(マグロ)。いっぱいあるんだ。食いにこないか?」
と彼は言った。マグロのすごく大きな切り身に、何かタレを塗りつけて焼いているらしい。そのタレが、バーベキュー・グリルの炭に落ちて、ジュッと音をたてる。香ばしい匂いが、風にのって、こっちの方に漂ってくる。
その匂いをかいだとたん、わたしは、ものすごい空腹感におそわれた。
考えてみれば、きょうの昼は、ろくなものを食べていなかったのだ。
〈ほら、遠慮してる場合じゃないでしょ〉と、自分の中で、もう1人の自分が言っている。わたしは、ラナイから身をのり出すようにして、
「本当に、いってもいいの?」
と訊いた。
「もちろんさ。とても1人じゃ食いきれないほどあるんだ。こいよ」
と彼。明るい声で言った。ごく無邪気で、なんの下心も感じられない口調だった。
「じゃ、おじゃまするわ」
わたしは言った。最後のTシャツをす早く干す。部屋の中に戻った。
洗面所の鏡で、身だしなみをチェック。髪にさっとブラシを通す。とれかけていた口紅を、つけなおした。これぐらいは、相手が男だろうと女だろうと、最低限のマナーだろう。
部屋を出ようとして、気づいた。何か、手みやげを持っていかなくちゃ……。
冷蔵庫を開けてみる。玉子。ベーコン。バター。パパイヤが半分……。ろくなものは、ない。
しかたない。お酒でも持っていくことにしよう。
ビールはもちろんあるだろうから……。さて、何にしよう。さっき彼は、
〈1人じゃ食いきれないほど〉
と言っていた。ということは、1人……。男が1人でいる部屋に、ブランデーなんか持っていくのは、ちょっとまずいような気がする。なんか、状況が色っぽくなり過ぎるようで……。
わたしは、カウンターのすみに並んでいるお酒のビンをながめて考えた。そして、結局、ジン・トニックでいくことにした。ゴードンのジン。そして、トニック・ウォーターを3本ほどかかえる。裸足《はだし》のまま部屋を出た。
ノックを3回。すぐにドアが開いた。
「やあ」
と彼。ニコリとして言った。彼も裸足だった。ハワイ育ちだと、わかった。
「これ……ジン・トニック」
「おっ、いいね。後で飲もう」
彼は言った。トニック・ウォーターを、冷蔵庫に入れた。冷蔵庫の中に、マグロらしい大きな切り身が入っているのが見えた。冷蔵庫を閉じると、彼は向きなおった。
「タケシ。タケシ・マツモト。よろしく」
と自己紹介した。
「わたしは、麻里《まり》・沢田」
と言ったとたん、彼はニヤリとした。
「そして、またの名を〈女性版ダーティー・ハリー〉」
と言った。
「……知ってたの!?」
「ああ……。あの日の新聞を見た時は驚いたものだよ。君が女性警官だとは知っていたけどね」
「……どうして、わたしが警官だと?」
「このアパートメントを借りる時、不動産屋に言われたんだ。〈おとなりが女性警官だから安心ですよ〉ってね」
「なんだ。そういうことだったの……」
わたしは、つぶやいた。彼、タケシはラナイに出ていく。バーベキュー・グリルの上のマグロをひっくり返して、タレを塗っている。
わたしは、部屋の中を見回した。
部屋のつくりは、わたしの部屋とまったく同じだった。ドアを入ってすぐにキッチンがある。キッチンとリビング・ルームを仕切るように細長いカウンターがある。そこで簡単な食事ができるようになっている。
カウンターの向こうは、そう広くないリビング・ルームだ。そのリビングから、ラナイに出られるようになっている。
右側にドアがある。その奥には、バス、トイレがあり、ベッド・ルームがあるんだろう。
男の部屋としては、わりに、すっきりと片づけられている。
リビング・ルームの壁には、トローリングに使うようなごつい釣り竿が立てかけてあった。リビングの丸いテーブルの上にも、釣り道具らしいものがいくつか置いてある。釣りが趣味なんだろうか……。
やがて、タケシは、ラナイから戻ってきた。
「あれは、遠火でじっくりと焼いてるから、まだ時間がかかるんだ。それまで、ビールでも飲んでいよう」
とタケシ。冷蔵庫を開けた。とり出したのは、ポキだった。
ポキというのは、ハワイ独特の料理だ。
小さくブツ切りにした生《なま》の|AHI《アヒ》(マグロ)や|AKU《アク》(カツオ)を使う。それ以外にも、タコやなんかを使うこともある。
そういう魚介類のブツ切りを、ショウユで味つけをする。ラー油を少し入れる場合もある。そして、海草やきざんだ万能ネギを加えて、あえれば、出来上がりだ。
東洋人やハワイアンには人気のある料理だ。お酒のつまみにもなるし、ご飯にのせて食べてもいい。生の魚を使うのだけれど、ハワイで生まれ育った白人の中には、けっこうこれを食べる人もいる。
タケシは、ポキをリビングのテーブルに置いた。プリモを2缶出してきた。グラスに注いだ。
「じゃ……きょうもきれいな夕陽に」
と言って、わたしたちは乾杯した。太陽はもう、水平線のすぐ近くまできていた。パイナップル色の陽射しが、ほとんどま正面から、部屋にさし込んでいた。
タケシの顔も、たぶんわたしの顔も、パイナップル色に染まっている。
オーディオからは、ピーター・ムーン・バンドの曲が低く流れていた。わたしは、割りバシでポキをひと口、食べた。おいしかった。身は、やはりマグロらしかった。
「釣りが趣味なの?」
わたしは訊いた。
「趣味っていうより、仕事なんだ」
「じゃ……漁師?……」
「ちがうよ」
とタケシは、苦笑い。
「これでも、トローリング|船の船長《ボート・キヤプテン》なんだ」
「へえ……。そんなに若いのにキャプテン……」
わたしは、つぶやいた。タケシは、せいぜい20代の終わり頃。28歳とか29歳ぐらいだろう。口ヒゲをはやしているので、30歳過ぎに見えないこともないけれど……。
「そうか……。キャプテンか……」
わたしは言った。確かに、タケシはすごく深い色に陽灼けしていた。毎日のように海に出ている人間の色だ。
腕も太く、胸板も厚かった。全体に、がっしりした体つきをしていた。
眉が濃い。昔、沖縄あたりからハワイに移民してきた家系なのかもしれないと思った。
ハワイの日系人には、沖縄出身者が多い。
「キャプテンていっても、雇われキャプテンで、船の|持ち主《オーナー》は、ほかにいるんだけどね」
とタケシ。プリモ・ビアーを飲みながら言った。
「それでも、キャプテンといえば立派なものよ。このマグロも、きょうトローリングで釣ったの?」
「ああ。80ポンドぐらいのマグロが3本も釣れてね。釣った白人のお客はいらないっていうから、船員《クルー》とオレで1本ずつ持って帰ってきたんだ」
そうか……。80ポンドといえば、約32キロだ。
「80ポンドのマグロじゃ、1人で食べきるわけにはいかないわね……」
わたしは、つぶやいた。そして、なんの深い意味もなく、
「独身なの?」
という言葉が、口をついて出ていた。
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[#1字下げ]10 彼女の名前はエミー
「ああ……いまは独身さ。ごらんの通り」
とタケシ。
「〈いまは〉っていうと?」
「離婚したんだ」
タケシはカラリと言った。わたしが何か言おうとすると、右手を上げて、〈いいんだ、何も言わなくて〉という感じで苦笑した。
「そうか……。じゃ、いまは優雅な独身生活ってわけね」
「優雅かどうかはわからないけど、気楽であることは確かだな」
とタケシ。あい変わらずカラリとした口調で言った。ポキを口に放り込み、ビールをグイと飲んだ。焼いているマグロの様子を見に、ラナイに出て行った。
わたしは、なにげなく、部屋の中をながめた。
壁には、トローリング船《ボート》のキャプテンらしく、海図が貼ってある。そのところどころに、赤のボールペンで書き込みがしてある。たぶん、トローリングのポイントなんだろう。
部屋のすみには、小さなコーナー・テーブルが置いてある。
そのテーブルの上にも、釣りのリールなんかが置いてある。
そして、リールのとなりに、写真立てがあるのに気づいた。葉書ぐらいの小さな写真立てだ。
わたしは、その写真立てに近づいてみた。
女の子の写真が入っていた。7、8歳の女の子だ。日米のハーフらしい。黒い髪を両側で束ねている。
髪は黒いけれど、顔立ちを見れば、あきらかに白人の血が混ざっていることがわかる。
女の子は、青いTシャツ、白いショートパンツ姿だった。どこかのビーチ・パークの芝生で撮ったらしい。ちょっとはにかんだような笑顔で、カメラを見ていた。
そのキリッとした眉は、タケシに似ていた。
わたしがじっとその写真を見ていると、タケシがラナイから戻ってきた。
「あなたの娘?」
「……ああ……。エミーっていうんだ」
うなずきながら、タケシは言った。自分から、
「母親と暮らしているんだ。ビッグ・アイランド(ハワイ島)でね」
と言った。
「養育権は、彼女の方に?……」
「ああ……。裁判になったんだが、みごとに負けたよ。弁護士の腕が違いすぎた」
「弁護士の腕?」
「ああ……。彼女の家は、大金持ちなんだ。だから、こういう子供をとり合う裁判を専門にやってる、腕ききの弁護士を、わざわざニューヨークから呼んできたんだ。オレの方は、ホノルルのごく普通の弁護士さ」
「…………」
「相手の弁護士は、こう主張したよ。オレの仕事は、夜明けに出かけて、帰るのは夕方だ。その間、娘の世話はどうするんだ、とね。裁判をやったのは4年前だから、娘はまだ4歳だった」
「…………」
「それに比べ、裕福な母親の家で暮らせば、なんの心配もない。4歳の娘にとって、どっちが幸せか、議論の余地もないでしょう、と相手の弁護士は言った」
「…………」
「完全に、勝負ありさ。もともと、勝ち目のない裁判だったのかもしれない……」
とタケシ。ビールのグラスを手に、苦笑した。
「4年前……。それから娘さんとは一度も会わず?」
タケシは、うなずいた。
「母親が、毎年クリスマスにエミーの写真を1枚、送ってくる。オレの方からは、エミーの誕生日にバースデー・カードを送る。それだけが、話し合いで決めたことなんだ」
とタケシは言った。
「そう……」
わたしは、つぶやいた。こういう時、へたになぐさめるような事を言っても意味がないのは、わかっていた。タケシは、新しいビールをとりにキッチンにいった。わたしは、エミーの写真を、じっと見ていた……。
「へえ……。じゃ、警官はもうやめたんだ」
とタケシ。割りバシを持ったまま言った。
「半年以上も前にね」
わたしも、割りバシでマグロを突つきながら答えた。
タケシとわたしは、バーベキュー・グリルで照り焼きにしたマグロを食べはじめていた。照り焼きのタレは、ショウユをベースに、ちょっとピリッとする香辛料を入れてあるらしく、とてもおいしかった。
「料理、上手なのね。さっきのポキもおいしかったし」
わたしは言った。
「トローリング船《ボート》の仕事をしてると、自然に魚料理を覚えるのさ。ほら、トローリング船《ボート》をチャーターする客ってのは白人の金持ちが多いだろう。連中は、マグロやカツオなんかをあんまり食べないから、釣るだけ釣っといて、記念写真を撮って、魚はオレたちにくれることが多いんだ」
とタケシ。
「だから、魚料理は、いやでも覚えちゃうよ」
と言ってかすかに苦笑した。グラスを口に運んだ。
お酒はもう、ビールからジン・トニックに変わっていた。タケシが、わたしを見た。
「でも……あれだけの活躍をした〈女性版ダーティー・ハリー〉が、どうしてホノルル市警をやめたんだい」
「……その、〈女性版〉ってところが問題だったのよね」
わたしは、ジン・トニックのグラスを片手に言った。そして、説明しはじめた。
わたしが市警をやめることになったいきさつを、かいつまんで話した。きき終わったタケシは、
「そうか……。警官《オマワリ》の世界ってのも、映画で観るのとちがって、けっこう、陰湿なんだな……」
と言った。わたしは、笑いながら、
「そりゃ、〈ダーティー・ハリー〉や〈ビバリーヒルズ・コップ〉と現実は、大ちがいよ」
と言った。今度は、わたしが苦笑した。ジン・トニックを、ひと口、飲んだ。
空はもう、たそがれの色に染まりかけている。水平線のあたりには、まだパイナップル色が残っている。それが、上にいくにしたがって、ピンクがかってくる。さらに上の方にいくと淡いブルーへ……というグラデーションを見せている。
ホノルル国際空港から離陸したらしいジャンボ・ジェットが1機、赤い航行灯をチカッ……チカッ……と点滅させながら、東の方に動いていく。たぶん本土《メイン・ランド》に行く飛行機だろう。
ラナイから入ってくる風も、いくらか涼しくなってきていた。
わたしたちは、マグロと一緒にバーベキュー・グリルで焼いたマウイ|玉ねぎ《オニオン》を食べながら、ジン・トニックを飲んでいた。
ハワイでも、特にマウイ島でとれるこの玉ねぎは、甘みがあって、おいしい。
焼いた玉ねぎに、ちょっとピリッとしたリー・ペリンのソースをかけて食べていると、いくらでも、お酒が飲めるような気がする。実際に飲める。
「それじゃ、いまは、何を?」
とタケシが訊いた。
わたしは、プルメリア・ホテルでバーテンダーをやっていることを話した。
「そうか……。それで、さっき、ジン・トニックをつくるのを見てたら、手つきがよかったわけだ」
「まあ、そういうこと」
わたしは微笑《わら》いながら言った。
「バーテンダーの仕事は、楽《ハツピー》? 大変《ハード》?」
とタケシ。
「普通はまずまず楽なんだけど……いま、ちょっと、めんどうなことを頼まれちゃって……」
つぶやくように、わたしは言った。
「めんどうなこと?……」
とタケシ。わたしは、ぽつりぽつりと、いまやっているビーチ泥棒さがしについて話しはじめた。
ジン・トニックの酔いが、口を軽くしたのかもしれない。それに、タケシは、このことにはまるで関係のない人なので、気軽に話せたということもある。
タケシは、ジン・トニックを飲み、うなずきながら、話をきいていた。きき終わると、
「そりゃ大変だ。あの広くて混雑したワイキキで泥棒を見つけるなんて、大海原で1匹のカジキを釣るより大変かもしれないな」
と言った。
トローリング船《ボート》のキャプテンらしいたとえだと、わたしは思った。
その時、タケシが手でいじくっている物に、気づいた。
「それ、何?」
と、わたしは訊いた。
「ああ……。こいつは、トローリングの道具さ」
とタケシ。その彼が持っているのは、模型の飛行機みたいなものだった。
「こいつは、ティーザーっていって、これを釣り糸につけて海面を引っぱるんだ」
「ティーザー……」
「そう……。早い話、オトリだな」
「オトリ……」
「うん。こいつを海面で引っぱると、両側の翼が、派手な水しぶきをたてるんだ。その水しぶきが、魚たちの注意をひく、つまり、気をひくんだな」
「へえ……」
「そこで、魚たちは、このオトリがたてる水しぶきにひき寄せられてくる……。すると、その後ろに、釣り鉤《ばり》のついた餌《えさ》があるってしかけなんだ」
「ふーん」
「で、魚は、その餌にかじりついて、鉤にかかるっていう寸法なんだ」
「なるほどね……」
「このオトリのたてる水しぶきの良しあしで、釣れるか釣れないか、大きな差が出るから大変なんだ」
とタケシ。手に持っているティーザーをながめる。
「だから、どのトローリング船《ボート》でも、このオトリには工夫をこらしているんだ。オレもいま、こいつを改造中でね」
タケシは言った。
「そうか……。大変なのね、トローリングって……」
「まあ……。どれだけ、よその船より釣れるかどうかで、お客がくるかこないかが決まっちゃうしな……」
とタケシ。わたしの相手をしながら、そのティーザーをいじくりはじめた。ペンチやナイフや、見たこともない道具を使って、ティーザーの改造をはじめた。
わたしは、それをじっと見ていた。
タケシの真剣な表情。そして、ごつい指が動くのをながめていた。タケシの手は、陽灼けして、ところどころに仕事でつくったらしい傷|痕《あと》があった。
自分でも最近気づいたのだけれど、わたしは、男が手を動かして仕事をしている姿が好きらしい。
最初は、パパだ。
パパは、バーの主人でバーテンダーだったから、1日中、手を動かしていた。
缶を開ける。ビンを開ける。氷を砕く。カクテルをシェイクする。レモンをスライスする……。
そんな風にして働いているパパの姿が、わたしは子供の頃から好きだった。
そして、自分も、バーテンダーの仕事をやることになったのだけれど……。
ホノルルは、大きな街だから、ビジネスマン風の人も多い。電話機とファックスでお金をもうける人たちだ。
プルメリア・ホテルにも、そういうお客はやってくる。
2カ月ぐらい前のこと。30歳ぐらいの日本人が、4、5日つづけて、わたしの働いているビーチサイド・バーにやってきた。
そのお客は、わたしを気に入ったらしく、バーにくると必ず、わたしの前に座った。そして、いろいろと話しかけてくる。
そのお客は、不動産の売買や、リゾート開発のコンサルティングを仕事にしていると言った。
イタリー製と思われる上等なサマー・スーツを着て、金ばりのロレックスをはめていた。
そして、バーでビールを飲みながらも、せわしなく携帯電話をかけまくっていた。
切れ切れに耳に入ってくる内容は、確かに土地やコンドミニアムの売買、それにリゾート・ホテルをつくる契約がどうのこうのということだった。
そのお客は、電話を切ると、
「いまの電話1本で、200万ドルの金が動くかもしれないんだ」
と、 わたしに言った。 どうやら、 そういう仕事をしていることを、 自慢したかったらしい。
そのお客から、2度ほどデートに誘われたけれど、断わった。
彼は、日本人としては背も高かったし、顔も、まずまずハンサムだった。
けれど、わたしは彼に魅力を感じなかった。
結局は、その人の生きる流儀みたいなものに、魅力を感じなかったんだと思う。
電話でしゃべりまくり、不動産を売買する。そんな生き方のスタイルに、男としての魅力を感じなかったんだろう……。
それなら、たとえささやかでも自分の体と手を使って仕事をしていた、パパのような人間の方が、わたしにとっては好感が持てる。
そして、いま、わたしは、トローリング用のティーザーを改造しているタケシを見ていた。陽灼けしたごつい手で、ペンチやドライバーを使っている、真剣な横顔を、じっと見つめていた。
オーディオから流れる曲が、カラパナに変わっていた……。
「あっ、そうか……」
わたしは、思わずつぶやいていた。
その夜。タケシにマグロのお礼を言い、自分の部屋に戻ってきた。少したまっていたキッチンの洗いものをはじめた時だった。
「そうだ……。その手があったんだ……」
お皿とスポンジを持ったまま、わたしはつぶやいていた。
[#改ページ]
[#1字下げ]11 Tバックはダメよ
わたしが思いついたのは、泥棒さがしのやり方だ。
さっき、タケシが手にしていたトローリングの|ティーザー《オトリ》。あれが、ヒントだ。
そうだ……〈オトリ〉という手があった……。わたしは、胸の中でつぶやいていた。
ワイキキ・ビーチをウロウロとしたところで、泥棒の犯行現場に、つごうよくぶつかるわけがない。
それなら、〈オトリ作戦〉というやり方があった。ホノルル市警にいた頃から、〈オトリ捜査〉というのは、よく使われる手だった。特に、売春や、麻薬売買の検挙には、よく使われる方法だった。
そうだ。
自分が日本人観光客に化《ば》けて、ワイキキ・ビーチで日光浴をしているふりをすればいいんだ。そして、例の、太った男の子と、チャパツの男の子の2人組を待ちかまえる……。それは、悪くない手だろう。
それには、もう1人、日本人の女の子が必要だ。
わたしがいますぐに思いつくのは、親友の信江《ノブ》しかいない。
けど、信江《ノブ》はいま、仕事をしているはずだった。ホノルル郊外のパール・シティにあるレストランで働いているはずだ。まあ、とにかく、電話をかけてみるしかないだろう。
わたしは、タオルで手を拭く。カウンターにある電話のプッシュ・ボタンを押した。ノブは、すぐに出た。
「麻理《マリー》か」
「あのさ、あんたいま、毎日、仕事してるんだよね」
わたしは、すぐに用件を切り出した。
「きのうまではね」
とノブ。
「きのうまで?」
「そう。店がつぶれちゃったの」
「つぶれちゃった……」
わたしは、思わずつぶやいた。ノブが働いていたのは、日系三世のシノダさんという人がやっていたいい日本食レストランだった。だし巻き玉子や、キンピラゴボウ、それに〈|太巻き《ロール・スシ》〉なんかがおいしい、家庭的なレストランだった。
「けど、すぐ近くに、大きな日本食レストランができちゃったのよ」
とノブ。
「大きなレストラン?」
「そう。なんでも、日本の大きな商社がつくった店らしいよ。駐車場は、だだっ広いし、メニューも山ほどあるらしくてさ。うちのレストランのお客さん、みんな、そっちにいっちゃったのよ」
「へえ……。それで、シノダさんの店は、閉店か……」
「そう……。大資本には勝てないねェ……」
とノブ。ちょっとしんみりした口調で言った。わたしも、ちょっと、ホロ苦い気分だった。
いま、同じようなことは、ホノルルやその周辺のあちこちで起きている。
いろんな国、特に日本の大資本が進出して、大きなショッピング・センターやレストランをつくる。そして、昔からささやかに営業していた小さな店は、つぶれていく……。
そういうことだ。進出してくるのが、日本企業だけに、日系人のわたしたちは、かなり複雑な気持ちにさせられる。
それはともかく、
「じゃ、あんた、いまは失業中なんだ」
と、わたしは訊いた。
「そういうこと」
とノブ。たいしてがっかりした様子じゃない。
「じゃ、3、4日、わたしにつき合ってくれない?」
「つき合うって?……」
そこで、わたしは、事情を説明しはじめた。
「なるほど……」
とノブ。わたしの説明をきき終わってつぶやいた。
「つまり、日本人観光客のふりをして、ボサーッとしてりゃいいのね」
「そういうこと。バイト代はたぶん出せないけど、ご飯は全部、めんどう見るよ。夜は、毎日、いいレストラン行こう」
わたしは言った。そういう経費は使っていいと〈2階のジム〉が言っていたのを思い出したのだ。
「いいレストランっていうと?」
「たとえば、〈ニックス・フィッシュ・マーケット〉」
「よし決めた」
ノブは、笑いながら言った。
「どっちみち、1、2週間は遊んでいようと思ったところだしね」
とノブ。
話は、決まった。
「ところで、日本人観光客のふりっていうと、どんなかっこうをしていきゃいいの?」
「とにかく、あんたが最近着てる水着、ありゃダメよ」
わたしは言った。ノブがこのところ着ているのは、完全なTバック。お尻が細いヒモだけのやつだ。いくら最近の日本人が大胆でも、あそこまではいかない。
「あれじゃなくて、ほどほどハイレグの水着、着てきて」
「わかったわよ。じゃ、7、8年前のやつを引っぱり出してくるから」
とノブ。笑いながら言った。
「ほら、ほどほどのハイレグ」
と水着姿のノブ。わたしの部屋に入ってくるなり、クルリとひと回りしてポーズをつけた。
翌日。午前11時半だ。ノブは、水着姿で地下駐車場から上がってきたらしい。わたしは、
「ほら、水着の上に、これをかぶって」
と、クレージー・シャツのTシャツをノブに渡した。日本人にすごく人気がある、猫の絵がついたTシャツだ。
わたしは、〈ほどほどのハイレグ〉の上に、ABCストアーのTシャツをかぶった。
「だっさーい」
とノブ。
「いいの。典型的な日本人観光客なんだから」
わたしは言った。
ショートパンツと、ちょっとヒールのあるサンダルをはく。ショートパンツに、ヒールのサンダルをはいても、ノブはもう、〈だっさーい〉と言わなかった。あきらめた顔でながめている。
わたしは、チャックのしまらない、つまり手を突っ込んで中身を盗みやすいショルダー・バッグを肩にかけた。ビーチに敷く、中国製のゴザをノブに持たせる。ABCストアーで99セントで売っているやつだ。
「オーケイ」
と、わたしは言った。これで、〈オトリ〉の完成だ。
わたしとノブは、部屋を出た。エレベーターで地下駐車場におりる。ノブのトヨタは駐車場に置いておいて、わたしのチェロキーに乗り込んだ。
とちゅう、ジッピーズに寄って、ジップ・弁当《パツク》を買った。プルメリア・ホテルの従業員用駐車場にクルマを入れた。
ワイキキ・ビーチに出る。
「さあ、いこう」
わたしたちは、陽射しのまぶしいビーチを歩きはじめた。
「馬鹿ねえ、何やってるのよ」
わたしは、言いながらノブの肩を突ついた。ワイキキ・ビーチのど真ん中。わたしとノブは、中国製のゴザを敷いた。Tシャツを脱いで、水着になったところだった。
ノブは、なんと地元の新聞〈ホノルル・アドバタイザー〉をバッグから出して広げようとしていた。
「何してるのよ。そんなもの読んでたら、観光客に見えないでしょう」
わたしは、ノブの肩を突ついて言った。
「あ、そうか……」
とノブ。わたしは、自分のバッグからCDウォークマンを出した。それをノブにさし出した。
「これ、聴いてて」
と言った。ビーチにいる日本人のかなり多くがウォークマンを聴いているのを、わたしは知っていた。
そして、自分用には、日本の本の専門店〈文々《ぶんぶん》堂〉で買った、日本の女性週刊誌をとり出した。
そして、決め手は、陽灼けどめオイルだ。
「何それ……」
とノブ。
「これを、熱心に塗りまくるのよ。そうすれば、日本の観光客に見えるんだから」
わたしは言った。陽灼けどめオイルを、手にとり、手脚に塗りはじめた。ノブは、あきれた顔をして、それをながめている。
「それだけ灼けちゃってんのに、いまさら陽灼けどめもクソもないと思うんだけどねえ……」
とノブ。
「いいのいいの。これやってれば、観光客に見えるんだから」
わたしは言った。こうやっているいまだって、泥棒がわたしたちを見ているかもしれない。自分がオイルを塗り終わると、オイルをノブに渡した。
「ほら、あんたも塗って」
「わかった、わかった」
とノブ。体にオイルを塗りはじめた。
そんなやりとりをしながらも、わたしは、周囲に注意をはらっていた。昼近いワイキキ・ビーチは、あい変わらず混雑していた。
白人より、日本人観光客の方が少し多い感じだった。いちゃいちゃとオイルの塗りっこをやっている日本人カップルは、たぶん新婚さんだろう。
あい変わらず、体にも顔にもタオルをかけて、死体のような姿で寝っ転がっている日本人の娘《こ》もいる。
あんなことをするなら、水着でビーチに出てきたりしなければいいのにと、わたしは、おせっかいにも思ってしまう。
髪を短く刈った若い白人男たちが4、5人、波打ちぎわでアメラグのボールを投げ合っている。彼らは、雰囲気からして、真珠湾《パール・ハーバー》に停泊している海軍《ネイビー》の連中だろう。
わたしは、女性週刊誌を読むふりをしながら、そんな、ビーチの光景に、注意を払っていた。
こちらの準備は、オーケイ。あとは、魚がかかるのを待つだけだ。
「ねえ、彼女たち」
という声がきこえた。すぐ近くできこえた。わたしは、ハッとして、雑誌から顔を上げた。
わたしたちから7、8メートルはなれたところに、日本人観光客らしい娘《こ》が2人でいた。そこに、若い日本人の男が2人、声をかけにきたところだった。
けれど、男の子たちは、2人とも、ヒョロリと痩せていた。例の、デブとチャパツではない。しかも、男の子たちは、女の子たちと向かい合って砂浜に腰かけた。あれじゃ、女の子のバッグに手を出すわけにはいかない。早い話、ただのナンパだ。
はずれ。わたしは、また、雑誌を読むふり……。
「あきらめよう。タイムアップだ」
わたしは言った。そろそろ、ビーチの海水浴客が減りはじめる頃だった。1日目は、カラ振りだ。まあ、しかたない。わたしとノブは、敷いていたゴザをたたむ。バッグを肩にかけ、歩きはじめた。とちゅうで、パットじいさんと出会った。パットじいさんは、あい変わらず、くたびれた服を着て、金属探知機をゆっくりと動かしていた。
わたしに気づくと、
「やあ、麻里《マリー》」
と言って笑顔を見せた。
「きょうは、仕事は休みかい?」
「ま、まあね……」
わたしは答えた。
「がんばってね」
と、パットじいさんに手を振る。また、ノブと並んで砂浜を歩きはじめた。ノブが、ぽつりと口を開いた。
「あのおじいさん、すごい金持ちなんだよね……」
と、確認するようにわたしに訊いた。
「そうらしいね」
「じゃ、なんで、あんなことやってるのかなァ……。不思議だよね」
「わたしも、そこまではよく知らないんだ」
わたしは歩きながら、つぶやいた。チラリと、パットじいさんの方をふり向いた。
少し海水浴客の減りはじめたビーチ。パットじいさんは、いつも通り、淡々とした表情で歩いていた。金属探知機を、砂浜すれすれに動かしながら、ゆっくりと、ゆっくりと、歩いていた……。
その夜は、ノブと約束どおり、高級レストラン〈ニックス・フィッシュ・マーケット〉に行った。フローズン・ダイキリを飲み、メイン・ロブスターにかじりついた。
店の中は、白人のカップル客が多かった。
「やっぱり、カップル客が多いねェ」
とノブ。ロブスターをかじりながら言った。この店には、はじめて来たらしい。わたしも、店の中を見回した。頬よせあって何かささやいている白人の男と女をながめる。
「ところで、アンディ、どうしてるの?」
わたしは、ノブに訊いた。ノブには、アンディというハワイアンの恋人がいる。アンディは、ハワイ大学で建築デザインを専攻した人だった。
ところが、彼の能力をいかせる仕事がないらしい。
建築デザインが必要なホテルやビルは、ほとんど、アメリカ本土の資本か、日本の資本でつくられる。
そうなると、建築デザインも、アメリカ人か、日本人がやることになってしまう。
ハワイアンのアンディには、そんな仕事のチャンスさえ回ってこないということになる。
しかたなく、アンディは、ホテルのボーイをやったり、観光客のためのガイドをしたりして、生活費を稼ぐはめになってしまっている。そんな生活にも、だんだん、嫌気がさしはじめたらしく、このところ、よく仕事を変わっていた。
「アンディ……また、仕事やめちゃったのよ」
とノブは言った。
「いま頃、家で大麻《パカロロ》でも吸ってるんじゃない?」
と言った。それ以上、アンディの話はしたくないみたいだった。
「それより、あんたの方はどうなのさ」
と、ノブはわたしに訊いた。
「わたし?……」
「あのホテルでバーテンダーやってれば、いい男、引っかかるでしょう」
「ダメダメ。ろくなのがこないって」
「そうか……。じゃ、いまのところは恋人なし、か……」
「……まあ、ねえ……」
わたしは、つぶやいた。その時、近くで、|AHI《アヒ》(マグロ)という言葉がきこえた。ウエイターとお客の会話だった。そのマグロという言葉をきいた時、わたしは、ふと、タケシのことを思い浮かべていた。陽灼けしたごつい手で、トローリングの道具をつくっていた彼のことを、ふと思い浮かべていた。
けれど、それ以上、いまはまだ、何も深く考えないようにした。とりあえず、フローズン・ダイキリをグイと飲む。ロブスターの身にかじりついた。
翌日。午前11時から2時まで。
同じようなことをやったけど、ダメだった。男の子が声をかけてくる様子はない。
ノドが乾いたといって、ノブがホットドッグ・スタンドに何か買いにいった。帰ってくるなり、
「ダメだよ、麻里《マリー》」
と言った。
「ダメ?」
「そうさ。いま、ちょっと離れたところからあんたを見てたんだけど、やっぱり、日本人観光客には見えないよ」
「どうして」
「はっきり言って、陽灼けしすぎてる。そんなに灼けてる観光客、いないよ。どう見ても、ローカル(地元の人間)だよ」
とノブ。わたしは、自分の姿をながめてみた。水着は、おとなしめのハイレグで、悪くない。けど、確かに、水着から出ている手や脚《あし》は、ミルク・チョコレート色に深く灼けている。これは、観光客の灼け方ではない。
「それじゃ、泥棒は寄ってこないよ」
とノブ。
「そうかもね……」
わたしは、つぶやいた。しばらく考える……。1、2分考えて、ひらめいた。
「そうだ。いい考えがある」
「?」
「死体作戦」
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[#1字下げ]12 尾行
「死体作戦?……」
とノブ。
「そう。あれよ、あれ」
わたしは言った。近くにいる日本人の娘《こ》たちを眼でさした。死体のように、顔から体まで、全面にタオルをかけて寝っ転がっている娘《こ》たちだ。
「ああやってれば、陽灼けしてるの、わからないでしょう」
わたしは言った。バッグからタオルをとり出す。何か文句を言いたそうなノブに、
「何も言わないで、ほら」
とタオルをかけさせる。わたし自身も、寝っころがる。体にはバスタオルを、顔にはハンドタオルをかけた。
「オジョーサン、ハッパいらない?」
という日本語のささやきが耳もとできこえた。顔や体にタオルをかけて、1時間もたった頃だ。ついウトウトと居眠りをしそうになったところだった。
「いいハッパあるよ」
また、そばで声がした。声の調子からして、どうやら、白人の大麻《パカロロ》売りらしい。わたしは、〈しょうがないなァ……〉と心の中でつぶやきながら、顔のタオルをとって起き上がった。そのとたん、相手が、
「あんたは!」
と声を上げた。見覚えのある顔だった。
市警をやめる少し前に、わたしが逮捕したやつだった。
ギリシャ人だった。自分は、あの大富豪のオナシスと遠縁にあたると本人がほざくので、取り調べ中、署内のみんなが〈オナシス野郎〉と呼んでいたやつだ。(本名が、やたら、長くて覚えづらい名前だったこともある)
そのオナシス野郎は、元は船員だった。ギリシャ船籍の貨物船に乗って、ハワイにやってきた。
ところが、ハワイが気に入ってしまい、船をおりてしまった。とはいっても、ろくな仕事につけるはずはない。結局は、下っ端のチンピラになってしまった。
砂浜に打ち寄せられる空きビンや流木のように、このハワイにたどり着いてしまった人間の1人だ。
わたしがやつを逮捕したのは、麻薬取引きの現場だった。もう1人のチンピラに、コカインを売ろうとしていたところだった。
わたしと同僚が、やつらを逮捕しようとすると、1人のチンピラはあきらめた。
けれど、このオナシス野郎は、走って逃げようとした。
わたしは、拳銃を抜かず追いかけた。つかまえられる自信があった。
50メートルほど走って、やつに追いついた。やつは、破れかぶれで殴りかかってきた。
わたしは、やつのパンチを軽くかわす。やつのわき腹に、ヒジ打ちを叩き込んだ。
かすかなうめき声。やつは、腹を押さえてかがみ込んだ。わたしは、その後ろに回り込む。やつの股間を蹴り上げた。
「ヒッ」
やつは悲鳴を上げ、道路に転がった。わたしは、す早く手錠をかけた。
「あ……あんたはあの時の……」
とオナシス野郎。まさか、このワイキキ・ビーチで再会するとは思ってもいなかったんだろう。だらしなく、口を半開きにしている。
やつは、実刑を1年近くくらったはずだ。ということは、出所していくらもたっていないにちがいない。
「あんた、今度は大麻《パカロロ》売りなんかしてるのね……」
わたしは言った。やつは、わたしを見て、
「じゃ、あんたは……」
「もちろん、オトリ捜査よ」
と、わたしは言ってやった。やつは、わたしが警察官をやめたことを知らないはずだ。やつは、逃げ出そうとした。わたしは、オナシス野郎のアロハ・シャツのエリ首をつかむ。ねじ上げた。
「逃げてもムダよ。あちこちに警官が張り込んでいるんだから」
わたしは、ハッタリをかませた。
「かんべんしてくれよ。たかが、大麻《パカロロ》じゃないか」
とオナシス野郎。ギリシャ人らしく鼻が高くて、けっこう立派な顔立ちをしているだけに、哀顔する姿は物悲しい。
「かんべんしてあげてもいいけど、ひとつ、質問に答えてくれる?」
「質問?」
「そう。このあたりで、日本人の娘をナンパしてる2人組の若い男、見かけたことない?」
「若い男って、日本人か?」
「そう。1人は太ってて、1人は髪を茶色に染めてる2人組よ」
わたしは言った。オナシス野郎は、天を仰ぐ身ぶり。
「おいおい。そんなナンパしてる日本人の若い男なんて、このワイキキ・ビーチにゃ、掃いて捨てるほどいるさ。そりゃ、ムチャな質問だよ」
と言った。よく考えれば、それもそうだ。訊いたわたしがバカだった。
「わかったわ」
わたしは、やつのエリ首をはなした。
「とっととうせて」
と言った。オナシス野郎は、2、3歩、後ずさり。砂浜につまずいて、よろける。立ちなおり、ダッと逃げ出していった。
「釣れるには釣れたけど、とんだ雑魚《ざこ》か……」
わたしは、つぶやいた。
「ねえ……ジップ・弁当《パツク》も、そろそろあきたね……」
と割りバシを使いながら、ノブがつぶやいた。
オトリ捜査をはじめて3日目。その昼過ぎだった。
わたしとノブは、いつも通り、ジーピーズで買ったジップ・弁当《パツク》を食べていた。
ジップ・パックは、地元じゃすごく人気のある弁当だ。5ドル35セント。鶏のカラ揚げ。魚のフライ。焼いたビーフなんかがつまっている。ご飯にはふりかけがかかっている。
値段のわりにはボリュームがあるし、おいしい。それでも、
「さすがに、3日連続はつづけ過ぎたかもね……。明日は何か別のにしよう」
わたしは言った。魚のフライをかじろうとした。その時だった。
割りバシを持っているわたしの手がピタリと止まった。
15メートルほどはなれた所で日本人の女の子が2人で日光浴をしている。
そこへ、日本人の男の子が2人、近づいてきた。1人は太っていて、もう1人は髪を茶色に染めていた。
男の子たちは、女の子に何か声をかける。そして、話しかけながら、女の子たちの両側に腰かけた。女の子たちと並んで、腰かけた。
わたしは、じっと、その光景を見ていた。
太った男の子の方が、かなりなテンポで女の子に話しかけている。
話している内容までは、きこえない。けど、太った男の子の話しが面白いんだろう。女の子たちは時どき、笑い声を上げている。
女の子2人は、太った子の方を見ている。完全に、そっちに注意をそらされている。
そのうちに、茶髪《チヤパツ》の男の子が、女の子のバッグをチラチラとながめはじめたのに、わたしは気づいた。
バッグは、女の子たちの後ろに置いてある。その女の子たちは、太った子の話に完全に注意をそらされている。
チャパツの男の子は、やはり、チラリ、チラリと、女の子たちのバッグを見ている……。
どう考えてもおかしい。わたしは、そう思った。
女の子の横顔をながめたり、ボディをながめたりするのならわかる。けど、女の子のバッグをながめるっていうのは、どう考えてもおかしな話だ。
わたしは、かじりかけた魚のフライをす早く食べてしまう。
いつでも飛び出せるように、少し残っている弁当をビニール袋に放り込んだ。
あのチャパツの子は、女の子のバッグに手を出すのだろうか……。わたしは、緊張して、15メートル先を見ていた……。
けれど、チャパツの子は、バッグをながめるだけで、手を出そうとはしなかった。
よく見れば、女の子たちのバッグは、2つとも、チャックのしまるタイプのバッグだった。そして、チャックがしまっていた。
もしかしたら、そのせいで、手を出さないのかもしれない。
いくらなんでも、チャックを開けるのは、危険《やば》すぎる……。そう思ったのかもしれない。
わたしは、それでも、彼らをじっと観察していた。
男の子は、2人とも|20歳《はたち》前後だろう。せいぜい、21か22というところ。
よく陽灼けしている。少しダブッとした、いま流行《はや》りのサーフ・パンツをはいている。そして上はTシャツ。メーカーは、クイック・シルバーだ。
太った子は、セル・フレームの眼鏡をかけている。顔も、どちらかといえば、三枚目タイプだ。
チャパツの子は、それに比べれば、スラリとしている。やや長めの茶髪《チヤパツ》は、サラサラとしている。
顔立ちも、まずまず。平均的な男の子より、少し整っているかもしれない。
よくビーチでナンパしている男の子に多いバカ面《づら》でもない。
ただ、その視線に落ち着きがなかった。女の子とバッグを、チラチラとながめている……。
20分後。男の子たちは、〈じゃ〉という感じで立ち上がった。女の子たちに手を振って、立ち去ろうとしている。わたしはノブに、
「待ってて。ちょい尾行してくる」
と小声で言った。水着の上にTシャツをかぶる。立ち上がった。
彼ら2人は、ビーチをブラブラと歩きはじめた。わたしは、少し離れて、尾行しはじめた。尾行するのは、簡単だった。彼らは、尾行されているのに気づいていない。それに、ここは、曲がり角も何もないビーチだから、見失う恐れは、まったくなかった。
結局、それからあと、彼ら2人は、4組の女の子たちに声をかけた。同じように、女の子たちの両側に座る。太った子がマシンガンのように話し、女の子たちを笑わせる。そして、チャパツの子は、女の子たちのバッグに視線を走らせていた。必ず……。
けれど、チャパツの子は、1度も女の子のバッグに手を出そうとはしなかった……。
4時15分。モアナ・ホテルの前の砂浜。
彼ら2人は、軽く手を振って別れた。
わたしは、チャパツの方を尾行しはじめた。
チャパツは、ビーチ沿いにのびているカラカウア|通り《アベニユー》の方に歩きはじめた。わたしは、30メートルぐらい離れて尾行していく……。
チャパツは、カラカウア|通り《アベニユー》を渡った。
カラカウア|通り《アベニユー》には、ビーチからホテルに戻る観光客がゾロゾロと歩いていた。
そんな観光客たちの間を、チャパツはぶらぶらと歩いていく。
やがて、1つのパーキング・ビルに入っていった。カラカウア|通り《アベニユー》から、そう遠くない。5階建てのパーキング・ビルだ。
ワイキキに来るときは、ここにクルマを駐めるんだろう。
わたしは、パーキング・ビルの出入口を見張れる場所に立った。〈ホノルル・アドバタイザー〉の自動販売機にもたれかかって、待った。
3分ほどで、1台のクルマが、出入口に向かってスロープをおりてきた。
ポルシェの911だった。チャパツが運転していた。まだ新車だと思えるシルバー・メタリックのポルシェは、出入口にある料金所で一時停止した。
チャパツが、料金所で金を払っている。金を払いながら、係員と何か軽口をたたき合っている。
チャパツは、係員に手を振り、ポルシェをスタートさせた。走り去っていく。
わたしは、ポルシェの後ろ姿を見送りながら、心の中で〈ビンゴ!〉と叫んでいた。
収穫は大きい。やつがいつもクルマを駐めるらしい場所がわかった。そして、何より、やつのクルマのナンバーがわかった。
わたしは、すぐに近くのABCストアーに入った。ボールペンを買った。そのレシートの裏に、記憶したクルマのナンバーを、忘れないように書きとめた。
ワイキキ・ビーチに戻る。
居眠りしているノブを起こす。
「ありがとう」
「うまくいったの? 尾行は」
わたしは、うなずいた。
「もう、退屈なオトリ作戦は終わりよ。明日からは、わたし1人でやれるから」
と言った。荷物を片づけはじめた。
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[#1字下げ]13 朝から500gのステーキ
部屋に戻る。すぐに、カウンターの電話機にいく。プッシュ・ボタンを押した。
ホノルル市警にいた頃の同僚、トロイの家にかけた。トロイは太ったハワイアンで、気のいいオジサンだった。いまもよく、彼の家のバーベキュー・パーティーに招《よ》ばれる。
電話には、ワイフが出た。
「あら、麻里《マリー》。トロイなら、きょうは非番なんだけど、いつもの庭師《ガーデナー》のバイトにいってるの。そろそろ、夕方だから、帰ってくるはずなんだけど」
とワイフ。
トロイは、非番の日、庭師のバイトをやっている。
非番の日、つまり休みの日にアルバイトをやる警官は、けっこういる。警官の給料は、もともとあまり高くない。
おまけに、ハワイ州は、生活必需品の物価が、全米でも1、2を争うほど高いからだ。
警官の安月給じゃ、なかなか大変だ。
それに、トロイには子供が5人もいる。生活費は、かかるだろう。そんなわけで、トロイは休みになると、拳銃をハサミに持ちかえ、庭師の仕事をやっている。
わたしは、トロイが戻ったら電話をくれるように頼んだ。電話を切るとシャワーを浴びて、体を拭く。きょうも陽灼けしてしまった全身に、アロエ・クリームを塗っていると、電話が鳴った。裸だったけれど、かまわず電話に出た。トロイだった。
「やあ、麻里《マリー》。元気か?」
とトロイの太い声が響いた。
「どうした。庭師を雇うほど広い屋敷を持った男でもつかまえたか?」
「そんなんじゃなくて、頼みたいことがあるの?」
「なんだい」
「クルマのナンバーから、持ち主を調べてほしいの」
「ふうむ……」
「簡単でしょう? ちょっと朝早く署に行ってコンピューターをいじれば、1分ですむでしょ?」
「まあな……」
と、トロイ。4、5秒、考える。
「わかった。ほかでもないお前さんの頼みだ。引きうけよう。ナンバーを言いな」
わたしは、ポルシェのナンバーを言った。
「了解。明日の朝一番に調べておく」
「あんた……それが朝食?……」
わたしは、テーブルにつくなり言った。
朝の9時半。キング|通り《ストリート》にあるレストラン〈ヤムヤム・カフェ〉。
トロイは、500グラムはありそうなステーキにかじりつこうとしていた。わたしを見ると、褐色の顔からニッと白い歯を見せた。
「朝食は、ちゃんとすませて家を出てきた。こいつは、いわば、昼飯までのおやつだな」
と言った。ステーキを切り、がぶりとかじった。
わたしは、ただ、あきれて見ていた。
「うまい。さすが、サーロインだ。どうせ、あんたが払ってくれるんだろう?」
「もちろんよ。それにしても、また太ったわね、トロイ」
「太ったじゃなく、たくましくなったと言ってくれ」
「はいはい。そのうち、日本の相撲部屋からスカウトがくるかもね」
苦笑しながら、わたしは言った。
「まあな……。そんなことより、例のクルマの持ち主」
と、トロイ。制服の胸ポケットから、メモ用紙を取り出した。わたしに渡した。数行のメモを、わたしは読んだ。
名前は岡本|芳明《よしあき》。
年齢20歳。国籍は日本。
ビショップ語学学校の生徒。
つまり、日本から語学学校に留学にきている男の子らしい。
住所は、ウァード|通り《アベニユー》にあるアパートメントだ。
約1カ月前に、駐車違反で罰金をくらっている。
「どうした。年下の男に興味がわいたのか?」
と、トロイ。
「そんなんじゃないわよ。とにかく、ありがとう。ゆっくり食べてて」
わたしは、トロイに笑顔を見せ、立ち上がった。テーブルにある請求書《チエツク》を持つ。店のレジに歩いていく。
店を出ると、クルマで、岡本芳明のアパートメントに向かった。
15分ぐらいで着いた。わたしは、そのアパートメントを見上げて、内心、〈ヘえ……〉と思っていた。
かなりな高級アパートメントだった。20階建てぐらいだろう。どの部屋にも、広いラナイがついていた。
地下駐車場への入口がある。
わたしは、かまわずクルマごと入っていった。もしはち合わせしたところで、岡本芳明は、わたしが何者か知らないのだから……。
ゆるいカーブのスロープをおり、地下駐車場に入った。
そこで、わたしは、また、胸の中で〈ほう……〉と、つぶやいていた。
広い駐車場は、高級車の展示場みたいだった。メルセデス。メルセデス。BMW。ジャガー。フェラーリ。キャディラック。メルセデス……。
そんな中に、岡本芳明のポルシェもあった。
ということは、彼はまだ、部屋にいる。わたしは、外で張り込むことにした。
わたしのチェロキーは、切り返さず、1回でUターンしてしまった。それほど、ゆとりのある広さの駐車場なのだ。
スロープを上がって、地上に出た。
アパートメントの玄関と、地下駐車場の出入口、両方を見張れる場所に駐車した。エンジンは、かけっぱなし。カー・ラジオはFMのKRTRにチューニングした。サングラスをかけ、シートにもたれ、待った。
午前中の、まだ若々しい陽射し。ヤシの樹の影が、白い建物に映って揺れている。KRTRが、|M《マライア》・キャリーの唄う〈|I'll Be There《アイル・ビー・ゼア》〉を流しはじめた時、ホノルル名物の通り雨《シヤワー》が降りはじめた。
塩の粒みたいにサラサラした雨の雫《しずく》が、明るい陽射しにキラキラと光る。
シャワーは、20分ぐらいで通り過ぎた。U・H(ハワイ大学)の方向に、くっきりとした虹がかかっていた。
ホノルルは、別名〈レインボー・シティ〉とも呼ばれている。
そして、わたしが、心の底からホノルルを美しいと思う瞬間は、こんな時だ。
わたしは、目の前のアパートメントや、ヤシの樹や、青空をながめて、ふと考えていた。
この高級アパートメント。そして、ま新しいポルシェ……。芳明は、金持ちのお坊っちゃんなんだろうか。
もしそうなら、ビーチで泥棒をするというのは、おかしな話だ。
もしかしたら、わたしは、とんだ勘《かん》ちがいをしているのかもしれない。……けれど、女の子たちのバッグを見ていた芳明の視線は、不自然なものだった。
やはり、自分の勘を信じよう。
大切なのは、自分を信じることだ。迷わないことだ。わたしは、胸の中で、そうつぶやいていた。
12時を過ぎた。まだ、岡本芳明は出てこない。
わたしは、空腹を感じはじめた。助手席に置いてあるデイ・パックから、紙袋を出した。
中には、家でつくってきたサンドイッチが入っている。七面鳥《ターキー》の薄切りでつくったサンドイッチだ。
助手席の床に置いてある小さなアイス・ボックスから、缶入りのグァバ・ネクターをとり出す。昼食をはじめた。
すぐに食べ終わった。FMから流れる|B《ボビー》・コールドウェルを聴きながらグァバ・ネクターを飲んでいると、地下駐車場からポルシェが出てきた。岡本芳明が運転している。
わたしは、す早く、ネクターの缶をアイス・ボックスに戻した。クルマのセレクターをDレンジに入れた。
ポルシェは、予想どおり、ワイキキの方向に走り出した。
たぶん、あのパーキング・ビルにいくだろう。わたしはそう読んだ。見失う恐れはない。ポルシェから50メートルぐらいはなれて、尾行しはじめた。
少し道路が混んでいたので、ワイキキに着いたのは30分後だった。予想通り、ポルシェは、この前と同じパーキング・ビルに入っていった。
わたしも、少し間を置いて同じパーキング・ビルに入った。
ポルシェは、2階の駐車スペースに入れようとしていた。わたしはそこを走り過ぎ、3階に上る。
す早く、空きスペースに入れた。デイ・パックを肩にかける。小走りで、階段をおりた。
パーキング・ビルを出ると、ちょうど、芳明が通りに歩き出したところだった。
芳明は、ゆっくりとした歩き方で、ワイキキ・ビーチの方向へ歩いていく。
きょうも、ダブっとしたサーフ・パンツをはいている。ローカル・モーションのTシャツを着ている。どこにでもいる若い連中の1人に見える。
カラカウア通りを渡った。もう、目の前は、ワイキキ・ビーチだ。
ビーチにヤシの樹が並んでいる。その1本に、芳明の相棒の太った男の子がもたれていた。ここで待ち合わせらしい。
芳明は、そいつの肩をポンと叩いた。
2人は、ビーチをゆっくりと歩きはじめた。わたしは、かなり距離をおいて尾行しはじめた。
15分後。
芳明たちは、1組の娘《こ》たちに声をかけた。きのうと同じように、女の子たちの両側に座る。
わたしは、30メートルぐらい離れたところから、彼らを見張っていた。
デイ・パックから出したタオルを砂浜に敷き、日光浴のふりをして、彼らを見張っていた。
すべては、きのうと同じだった。
太った男の子の方が、ペラペラと女の子たちに話しかける。女の子を笑わせる。芳明は、女の子たちのバッグに、チラチラと視線を走らせる。
すべて、同じだった。
やがて、芳明たちは、立ち上がる。女の子たちに手を振って歩き出した。わたしも、敷いていたタオルをたたむ。手に持ち、尾行をはじめた。
芳明たちは、つぎつぎと女の子たちに声をかけていく。
ほとんどの場合、2人組の女の子。たまには、3人組の女の子。
芳明は、必ず女の子のバッグに視線を走らせる。けれど、手を出そうとしない。ながめているだけだ。
もう、女の子のバッグに手を出すのは、やめたのだろうか……。
それとも、わたしの間違いで、芳明は、ただ、女の子のバッグのデザインに興味のある若者なのだろうか……。
そんなことも思いはじめた頃だった。
午後の3時だった。
芳明たちは、きょう6組目の娘《こ》たちに声をかけ、両側に座った。太った子が女の子たちの注意を引きつける。
芳明の視線が、女の子の後ろにあるバッグに……。それは、チャックのない型のトート・バッグだった。
そして、芳明の手が、すっと、そのバッグにのびた。
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[#1字下げ]14 クレージュが似合っていた
芳明の手は、さりげなく、トート・バッグにのびた。
バッグは、横になって置いてあった。芳明は、そのバッグの口をそっと開けた。中を見ている。
わたしの位置からも、バッグの中が見えた。
皮のお財布が入っているのがチラリと見えた。
芳明がそのお財布をつかみ出したら、わたしは飛びかかっていって、現行犯でとっつかまえてやろうと身がまえた。
けど……芳明は、そのお財布をつかもうとはしなかった。
ほんの数秒、バッグの中を見て、手を引っこめてしまった。
わたしは、ホッと息を吐いた。
体の緊張をほどいた。
やがて、芳明たちは立ち上がる。女の子たちに、〈じゃ、また〉と言い、歩きはじめた。
わたしは、尾行しながら考えていた。
やっぱり、芳明は、女の子のバッグに手を出した。開けて中を見た。
しかし、中にあったお財布には手を出さなかった。
だから、もし、あそこでわたしが芳明をとっつかまえようとしても、〈オレ、何もしてないよ。なんの証拠があって〉と言われたら、それまでだ。
芳明が、女の子のバッグから、金品を盗み出すところまでいかなければ、とっつかまえるわけにはいかない。
けど……バッグを開けてみたということは、いつか、中から盗み出すということだろう。
それまで待つしかない。
わたしは、覚悟を決めた。警官だった頃から、長い張り込みには慣れていた。
それから、芳明たちはさらに2組の娘《こ》たちに声をかけた。けれど、芳明は、バッグに手を出さなかった。
4時少し前。
芳明たちは、ビーチ沿いにあるスタンドでシェイヴ・アイス(かき氷)を買い、食べはじめた。
どうやら、きょうのナンパは終わりらしい。
わたしは、ちょっと離れた砂浜に立ち、さりげなく、芳明たちをながめていた。
近くで、パットじいさんが、いつものように金属探知機を動かしていた。パットじいさんは、わたしに気づいた。
肩にデイ・パックを引っかけ、ビーチ・タオルを持っている。そんな姿を見て、
「やあ、麻里《マリー》。きょうも、ホテルの仕事は休みかい?」
と訊いた。
「まあ、そうなの」
わたしは、ちょっとあいまいに答えた。
「そっちは、どう?」
とパットじいさんに訊いた。
「ダメだね……。あい変わらず、ガラクタばっかり……」
パットじいさんは、そう言って苦笑した。顔のシワが深い……。
その時、芳明たちが別れるのが遠くに見えた。
「じゃ、がんばってね」
わたしは、パットじいさんに微笑いかけた。手を振り、歩き出した。
芳明は、いつものパーキング・ビルに歩いていく。わたしは、急がなかった。どうせ、芳明は1度、自分のアパートメントに帰るだろう。そう思った。
予想した通り。30分後。芳明のポルシェは、彼のアパートメントの地下駐車場におさまっていた。
わたしは、午前中と同じ場所に、クルマを駐めた。アパートメントの玄関と、地下駐車場の出入口、両方が見張れる場所だ。
きょうは、もうしばらく、芳明の行動をさぐろうと思っていた。
エンジンをかけっぱなしで、待った。クーラー・ボックスから、グァバ・ネクターの残りを出し飲んだ。
FMのKRTRから流れるケニー・Gを聴きながら、待った。なぜか、ケニー・Gは、たそがれに似合うと思った。
6時15分。
芳明のポルシェが、地下駐車場から出てきた。わたしは、尾行をはじめた。
ポルシェは、時速30マイルぐらいで、ゆっくりと走っていく。フリー・ウェイには入らなかった。
ウァード|通り《アベニユー》を北へ。キング|通り《ストリート》を右折。東へ向かう。
かなり走って、左折。プナホ高校《ハイ》の方に走っていった。
プナホ高校《ハイ》と、U・H(ハワイ大学)の間ぐらいにある高級アパートメントの前に、ポルシェは駐まった。一方通行の道路だ。
わたしは、ブレーキを踏んだ。
芳明が、ポルシェからおりてきた。
昼間とは、別人のようにめかしこんだスタイルだった。薄いブルーのサマー・ジャケット。オフ・ホワイトのスラックス。茶色のスリップオン・シューズ。渋いストライプのネクタイまでしめている。
芳明は、アパートメントの入口にいく。オートロックのパネルの前に立った。わたしはもう、双眼鏡を取り出していた。
芳明は、オートロックのプッシュ・ボタンを押した。わたしは、双眼鏡で見ていた。904号室だった。
904号室との応答があり、やがて、ガラスのドアは開いた。芳明は、ドアからロビーに入っていった。
芳明がエレベーターに乗ったのを確かめ、わたしはクルマをおりた。アパートメントの入口に早足でいった。
入口のわきに、郵便受けがあった。904号室には、〈キヨミ・ヨコタ〉という名前が刻まれていた。
わたしは、すぐにクルマに戻った。このアパートメントの住所と部屋番号をメモした。
7、8分して、芳明が出てきた。女の子と一緒だった。
若い日本人の娘《こ》だった。たぶん、19か|20歳《はたち》というところだろう。
クレージュと思われる色調のワンピースを着ていた。よく似合っていた。双眼鏡で、顔を見た。かなりな美人だった。
そして、自分が美人であることを、よく知っている、そんな表情をしていた。
芳明が、白人もどきの動作で、ポルシェの助手席のドアを開けた。ヨコタ・キヨミは、ポルシェに乗り込む。かがんだ時、ダイアモンドらしいペンダント・ヘッドが、夕陽にキラリと光った。2人が乗ったポルシェは、たそがれの通りにゆっくりと走り出した。
30分後。
ポルシェは、レストラン〈ジョン・ドミニス〉の駐車場に入っていった。
〈ジョン・ドミニス〉は、ケワロ湾《ベースン》に面した超高級レストランだ。わたしは、まだ、1度も入ったことがない。
ガイド・ブックによると、海が一望できるロケーションにあり、シーフードは抜群だという。
芳明とヨコタ・キヨミは、店に入っていった。
これから、最低でも1時間半は出てこないだろう。
わたしは、クルマをUターンさせた。長い張り込みになるかもしれない。こちらも、腹ごしらえが必要だ。ダウン・タウンにクルマを向けた。
「ロースト・ダックと、シュリンプ・ワンタン・ヌードル」
わたしは中国人のウェイトレスに注文した。
ダウン・タウン。ノース・ホテル|通り《ストリート》。中華料理の〈明園《ミンエン》〉。いかにも〈中華食堂〉といった店がまえだし、値段も安い。けれど、味は、文句のつけようがない。
わたしは、警官をやっていた頃から、週に1回は来る店だった。
すぐに、ロースト・ダックと、エビ入りワンタンの入った麺が出てきた。
ロースト・ダックは、メニューの中国語では〈明爐火鴨〉と書く。
鴨の肉を皮ごとローストしてある。皮はパリッとして、身はやわらかくジューシーだ。ほどよく、中国料理のスパイスがきいている。
ワンタン・ヌードルは、中国語では〈蝦肉雲呑麺〉。塩味のスープに、細い香港麺が泳いでいる。味のベースはシーフードだ。匂いをかいだだけで、ヨダレが出てきそうだった。
けれど、そうのんびりも食べてはいられない。仕事中だ。
わたしは、かなり早いテンポで食べ終わる。トイレを借り、キャッシャーで、お金を払った。
払ったお金は、たぶん、〈ジョン・ドミニス〉のオードブル1人分より少ないだろう。
すぐにクルマに戻り、〈ジョン・ドミニス〉に向かった。
着く。芳明のポルシェは、まだ、駐車場にいた。わたしはひと息ついて、カー・ラジオのスイッチを入れた。オールディーズ専門のKIKIにチューニングした。
「|Only You《オンリー・ユー》……」
わたしは、カー・ラジオから流れる、ザ・プラターズの〈|Only You《オンリー・ユー》〉に合わせ、歌詞を口ずさんでいた。
その時、店のドアが開き、芳明とヨコタ・キヨミが出てきた。
ポルシェが走りはじめても、わたしはあわてなかった。どちらかのアパートメントにいくだろう。楽しいデートの仕上げとして……。
両方とも、オートロックつきの高級アパートメントだ。けれど、芳明のアパートメントの方がより高級だし、部屋も広そうに思えた。たぶん、そっちにいく……。
わたしは、充分に距離をおいてポルシェを尾行していった。
思った通り、ポルシェは芳明のアパートメントに向かった。15分後。ポルシェのテール・ライトは、地下駐車場に吸い込まれていった。
わたしは、また、アパートメントの玄関と駐車場の出入口、両方を見張れる場所にクルマを駐めた。
ライト類は消したけれど、エンジンは切らなかった。張り込みにそなえて、ガソリンは満タンにしてある。
何時間、2人が部屋ですごすのか、それを見とどけようと思った。それによって、2人の関係がかなりわかる。
芳明についての情報は、少しでもよけいに知っておいた方がいい。後で、彼を締め上げる時のためにも……。
長い張り込みになるかもしれなかった。もしかしたら徹夜になるかもしれない。
わたしは、カー・ラジオのチューニングを変えた。ゆったりとしたオールディーズのKIKIでは、眠くなってしまうかもしれない。
ロック専門の93FMQにチューニングした。こっちは、にぎやかにボン・ジョヴィをやっていた。オーケイ。わたしは、ヘッド・レストに頭をもたれかけ、待った。
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[#1字下げ]15 まぶしい朝帰り
結局、徹夜になってしまった。
朝の8時45分。
アパートメントの玄関に、タクシーが1台駐まった。チャイニーズが経営している〈アロハ・キャブ〉だ。
玄関に駐まって、待っている。どうやら、無線で呼び出されたらしい。わたしは、ヘッド・レストにもたれていた頭を起こした。
5分ほどして、芳明とヨコタ・キヨミが玄関から出てきた。
彼女の方は、当然、昨夜と同じ服装だった。玄関を出ると、ちょっとまぶしそうな表情をした。
双眼鏡で見る。きれいにお化粧はしているものの、まぶたがはれぼったい。美人がだいなしだ。
芳明の方は、Tシャツにショートパンツ、それにスニーカーというスタイルだ。
彼女がタクシーに乗り込もうとした時、2人は短いキスをした。どちらかというと、芳明の方からしたキスだった。
芳明が、タクシーの運転手にドル札を渡すのが見えた。彼女のアパートメントまでの料金がわかっている。ということは、こういう朝帰りをよくやっているということだろう。
ドアが閉まり、タクシーは走り出す。
芳明は、タクシーに向かって手を振っていた。タクシーが見えなくなるまで、手を振っていた。
やがて、タクシーが角を曲がって見えなくなる。
芳明は、眼をこすった。さすがに眠そうな顔だ。そして、アパートメントの玄関に入っていった。
もしかしたら、ひと晩中、ベッドでお楽しみだったのかもしれない。なんといっても、若いのだから……。
わたしは、ゆっくりと、クルマを出した。自分のアパートメントに向かった。
頭は、冴《さ》えていた。
ひと晩の徹夜だと、その朝は、かえって頭が冴えてしまう。
わたしだって、まだ若いのだと思いたい。25歳とは、そんな年頃なのかもしれない……。
ステアリングを握って、考えを簡単に整理していく。
芳明には、ヨコタ・キヨミという美人の恋人がいる。熱愛中に見える。彼の方が、より多く彼女に夢中になっているようにも見える。
そして、泥棒の件は、まだ〈?〉が残る。芳明は、女の子のバッグを開けておいて、なぜ、中にあったお財布に手を出さなかったんだろう。
そこまで考えた時、自分のアパートメントに着いた。地下駐車場に入った。
ちょうど、少しはなれたパーキング・スペースに駐まっているトーラス・ワゴンから、タケシがおりてきたところだった。
「どうしたの? 仕事は」
自分のクルマをロックしながら、わたしは訊いた。
「朝の6時に海に出たんだけど、お客が2人とも船酔いしちゃってな。トローリングは中止。早上がりしたんだ」
とタケシ。わたしたちは、エレベーターに乗った。
「そっちは?」
「徹夜仕事の朝帰りよ」
「朝食は?」
「朝食どころか……」
わたしは、そこまで言って、ひどく空腹なのに気づいた。ノドも乾いていた。
「マグロのサラダならあるけど、食うか?」
とタケシ。わたしは、ニコリとしてうなずいた。マグロ1匹のまるかじりでもいい気分だった。
12階に上がった。自分の部屋には寄らず、タケシの部屋にいった。1分1秒でも早く、何か食べたかった。
タケシは、冷蔵庫から大きなボウルを出してきた。かけてあるラップをとった。
中には、マグロのサラダが入っていた。
ブツ切りにしたマグロの刺身。それに、レタスとチコリがまぜてある。何かドレッシングがかかっているようだった。
「夕方、仕事から帰ったら食おうと思って、きのうつくっておいたんだ」
とタケシ。中ぐらいのお皿に、マグロ・サラダを山盛りにして、わたしの前に置いた。
つづけて、缶のプリモ・ビアーを、トンッと置いてくれた。わたしは、
「ありがとう」
と言った。言ったときには、もう、フォークを持っていた。マグロ・サラダを口にほおばった。
おいしかった。マグロの身は、ほどよく脂《あぶら》がのっていて、よく冷えていた。ドレッシングは、玉ねぎをたっぷり使ったオニオン・ドレッシングだった。とにかく、おいしかった。
わたしは、マグロ・サラダをひと口食べては、ビールをぐいと飲んだ。タケシが苦笑いしながら、わたしの食べっぷりを見ている。
「飢えたホワイト・シャークより迫力があるな」
と言った。自分も、サラダを食べ、ビールを飲みはじめた。
わたしは、1皿目のサラダを食べ、ビールを1缶半飲んで、やっとひと息ついた。
「おいしい……」
しみじみと、つぶやいた。
タケシが、2皿目のサラダを盛ってくれた。わたしは、ゆっくりと食べはじめた。
食べながら、ぽつりぽつりと話しはじめた。きのう、ビーチで芳明が女の子のバッグを開けたこと。
けれど、お財布には手を出さなかったこと。
そして、昨夜から今朝にかけてのお熱いデートのこと。
ビール片手に、タケシに話した。
「女の子のバッグを開けておいて、財布に手を出さないってのは、確かに変だな……」
とタケシ。わたしが感じているのと同じことを言った。そして、ラナイのかなたに広がる海を見ていた。
海は、午前中の陽射しを浴びて、濃いブルーだった。くっきりとした水平線をながめて、タケシが、つぶやいた。
「もしかしたら、そいつ、大物狙いだったりしてな……」
「大物狙い?……」
わたしは、訊き返した。
「ああ……。トローリングの客でも、ときどきいるんだ。大物狙いのやつが。50ポンドや80ポンドのマグロを何匹も釣るよりも、何百ポンドもある|マーリン《カジキ》を釣りたがる客が、いるんだ」
とタケシ。
その時、わたしの胸の中でも、注意信号がチカチカと点滅しはじめていた。
そうなのかもしれない……。タケシの言うように大物狙いなのかもしれない……。
けれど、ビーチ泥棒にとって、大物とは……。わたしは、じっと考えた。
5分ほど考えたところで、ふと、思い出した。
〈2階のジム〉が、いつか言っていた。ホテルの鍵《キー》をビーチで盗まれ、部屋に入られた被害があった。そう言っていた。
「ちょっと電話貸して」
わたしは、言いながら、もう立ち上がっていた。カウンターにある電話機のプッシュ・ボタンを押す。プルメリア・ホテルにかけた。
〈2階のジム〉は、総支配人室にいた。
「やあ、麻里《マリー》。どうした」
と、いつもの快活な声。
「ねえ、うちのホテルのお客がビーチでキーを盗まれて、部屋に入られたことがあったって言ったでしょう?」
「ああ」
「その時の被害って、大きかったの?」
「うむ。かなり大きかったと思う」
とジム。何か、資料をさがしている気配。やがて、資料が見つかったらしい。
「ああ……。その時の被害は大きかったな。お客も不用心で、部屋に貴重品を置いといたんだな……。どうやら、水商売をやってる女の2人連れだったらしい。現金が800ドル。指輪やネックレス、腕時計などが、合計で約1万ドル相当だ。ほかの被害者に比べて、ケタちがいに大きい」
と言った。
「で……その被害って、いつのこと?」
「つい最近だ。麻里《マリー》に探偵仕事を頼む、ほんの少し前のことだ」
「そう……」
わたしは、つぶやいた。胸の中の注意信号は、さらに派手に点滅しはじめていた。
「ありがとう。また、何か進展があったら報告するわ」
と言って電話を切った。
まちがいない……。たぶん、まちがいない……。
芳明は、その時に味をしめてしまったのだろう。
当然かもしれない。女の子のバッグを開けて物を盗む、その危険《やば》さは、いつも同じだ。どうせ危い橋を渡るなら、獲物の大きい方がいいに決まっている。
しかも、わたしが捜査をはじめた頃から、警察もさすがにパトロールを強化しはじめた。
テリー・キムラをはじめ、制服警官が2人で組んで、ビーチをパトロールする、そんな姿をよく見かけるようになった。
制服警官のパトロールは、泥棒に対してプレッシャーをかけることになる。
それで、芳明たちは、あの関西弁の娘《こ》たちあたりを最後に、ビーチで金品を盗むのをやめにしたんだろう。
どうせ危険をおかすなら、大物狙い。
つまり、ホテルのキーだ。
部屋のキーをフロントに預けるのを面倒くさがって、持ってビーチに出る客は、かなり多い。そして、ビーチでキーを盗まれても、本人たちがホテルに戻るまで、そのことには気づかない。
その間に、しのび込んで、部屋を荒らすことができる。
芳明は、キーを盗むことに的《まと》を絞ったのではないか……。その推測は、かなりな確率で当たっているような気がする。
そして、1度味をしめた以上、必ず、またやるだろう……。わたしは、水平線を見つめて、そう思った。
ビールを、ぐいと飲んだ。
気づくと、わたしは居眠りしていた。
徹夜。そして、マグロ・サラダを山盛りで2皿。ビールを4缶、飲んだ。眠くなって当然かもしれない。
眠気が急に襲ってきた。スーッと、引き込まれるように、テーブルに突っぷしそうになった。タケシが、わたしの体を、そっと、そばのソファーに運んでくれたのがわかった。意識が遠のいていく。眠りに落ちる。わたしは、夢の中でもカクテルをつくっていた。
ふと目覚めた。
わたしは、タケシの部屋のソファーで寝ていた。気づくと、体に薄いウインド・ブレーカーが、かかっていた。タケシがかけてくれたらしい。
壁の時計を見る。もう午後3時。5時間ぐらいも眠っていたことになる。部屋には、午後の陽が射しこんでいた。ラナイから、かすかに潮の香りのする微風が入ってきている。ラジオからは、|E《エルトン》・ジョンの唄うバラードが低く流れていた。
わたしは、体を起こしながら、タケシの方を見た。タケシは、テーブルで何か手を動かしていた。見れば、ナイフを使って、木彫りをしていた。彫っているのは、何かの魚だ。手のひらより少し大きい、木彫りの魚だった。
タケシは、わたしが目を覚ましたのに気づいた。
「よお、起きたか」
と言って、陽灼けした顔の中で、白い歯をニコリと見せた。
「おかげさまで、ぐっすり眠ったわ。何つくってるの?」
「ごらんの通り、魚さ」
とタケシ。ほとんど完成しかけた木彫りをわたしに見せた。
「娘のエミーの誕生日が近いんだ。今年は、カードだけじゃなく、こいつも贈ってやろうと思ってね」
とタケシ。ちょっと照れたように、また白い歯を見せた。
「バタフライ・フィッシュね……」
わたしは、つぶやいた。その平べったい木彫りの魚は、|〈蝶々魚〉《バタフライ・フイツシユ》だった。
バタフライ・フィッシュは、ハワイでは、ポピュラーな熱帯魚だ。平べったい形。鮮かな色調から〈蝶々魚〉と呼ばれているらしい。パパの小物釣りでも、よく釣れた。
そして、バタフライ・フィッシュには、たくさんの種類があり、それぞれ特徴のある模様をしていた。パパは、1匹釣り上げるたびに、それぞれの名前を教えてくれたものだった……。
タケシは、また、手を動かしはじめた。木彫りの仕上げをはじめた。チョコレート色に陽灼けしたごつい手が、ナイフを握り、小さな木彫りをつくっていた。その肩に、黄色みがかってきた遅い午後の陽が当たっていた。
ラジオから流れる曲が、いつしか、女性コーラスに変わっていた。美しいコーラスが、バラードを唄っていた。曲は〈|To Know Him Is To Love Him《トウー・ノウ・ヒム・イズ・トウー・ラヴ・ヒム》〉。〈彼を知ることは、彼を愛すること〉……。わたしは、その曲をじっと聴いていた。タケシの指先を見つめていた。
朝の9時半。
カチッ。
小さな音が、わたしの部屋に響いた。拳銃に、弾をつめた弾倉《クリツプ》をさし込んだ音だ。
芳明をとっつかまえる。その時に、彼が抵抗しないとは限らない。芳明は、ヒョロリとした男の子に見える。けれど、意外にカラテの達人だったりするかもしれない。何が起こるか、わからない。
用心のために、拳銃を持っていくことにした。25口径のベレッタ。護身用に置いてある、軽くて小型の拳銃だ。
わたしは、平べったいベレッタを、ショートパンツのヒップ・ポケットに入れた。アロハ・シャツのスソで、ヒップをかくした。これで、外見からは拳銃を持っていることは、わからない。
準備、オーケイ。部屋を出た。
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[#1字下げ]16 チャックは開きっぱなし
その日、ついに、芳明がホテルのキーに手を出した。
それは、午後の3時少し前だった。
芳明と太った男の子は、いつものように日本人の女の子たちに声をかけ、両側に座った。
女の子たちは、2人組み。典型的な観光客だった。ややハイレグのビキニ。中国ゴザを敷いて、日光浴をしていた。
いつも通り、太った男の子がペラペラと話しかけ、女の子たちの注意をひく。そして、芳明は、女の子の後ろにあるバッグに視線を走らせる。
その女の子のバッグを見て、わたしは思わずドキリとした。芳明に近い方の娘《こ》のバッグは、半透明のビニール・バッグだった。
チャックは、開けっぱなしになっている。そして、バッグのすみに透《す》けて見えるのは、ホテルのキーだった。うちのホテルのキーなので、ひと目でわかった。
〈不用心すぎる……〉わたしは、胸の中でつぶやいていた。
半透明のバッグ。中にホテルのキー。おまけに、チャックは開きっぱなし。それじゃ、盗んでくれと言ってるようなものだ。
実際に、芳明の眼つきが、いままでと違う。透けて見えているキーに、視線をじっと注いでいる。
手を出すだろう……。
わたしは、立ったまま、見つめていた。同時に作戦を考えていた。
キーを盗んだら、芳明のやつは、当然、それを使ってホテルの部屋に忍び込んで、金品を物色するだろう。
その瞬間を、とっつかまえるのが、最も決定的でいい。相手にあたえるショックも大きいだろう。
決めた。その手でいくことにした。
わたしは、立ったまま、じっと、芳明の動きを見つめていた。その時、すぐそばで、
「やあ、麻里《マリー》」
という声がした。パットじいさんだった。
いつも通り、金属探知機を手にしている。
「何を、そんなに真剣な顔で見てるんだい」
とパットじいさん。
「シッ……あの、髪を茶色にしてる、日本人の男の子、見てて」
わたしは、ささやくような声で、パットじいさんに言った。
「茶色の髪って……あの、ブルーのTシャツを着た男の子かい?」
パットじいさんも、わたしの耳もとでささやいた。わたしは、うなずいた。
「そうよ」
と言った。つぎの瞬間、芳明の右手が、スッと動いた。バッグの中に、手が忍び込む。キーをつかみ出す。自分のショートパンツのポケットに入れた。
ものの5秒とかかっていないだろう。
「見てた? いまの」
わたしは、パットじいさんに訊いた。
「ああ……。ありゃ、コソ泥だなァ……」
とパットじいさん。うなずきながら言った。
「いざっていう時は、証人になってね」
わたしは、パットじいさんに言った。その時、芳明たちは立ち上がった。女の子たちに手を振って、歩きはじめた。
「じゃ、コソ泥をつかまえてくるわ」
わたしは、パットじいさんに小声で言った。芳明たちを尾行しはじめた。
芳明たちは、何か話しながら歩いていく。やがて、右と左に別れた。
芳明は、プルメリア・ホテルの方にスタスタと歩きはじめた。わたしは、30メートルほどはなれて尾行していく。
プルメリア・ホテルが近づいてきた。芳明は、ビーチサイド・バーのところから、プールサイドに入っていく。プールサイドから、1階ロビーへ……。わたしも、スタスタとついていく。距離をつめていく。
1階ロビーのすみに、エレベーター・ホールがある。8基のエレベーターが動いている。
いま、エレベーター・ホールには、6、7人の白人客がエレベーターがおりてくるのを待っていた。
芳明は、エレベーター・ホールで立ち止まった。わたしも、客のふりをして、彼の斜め後ろあたりに立った。
芳明の右手が、ショートパンツのポケットに入る。ホテルのキーを、とり出した。
キーには、白いプレートがついている。プルメリアの花の色と同じ白。このホテルのイメージ・カラーだ。
そのプレートに、部屋番号が刻まれている。芳明は、その部屋番号を見た。〈1039〉。その数字が、わたしにも見えた。
チンッと音がして、エレベーターのドアが1つ開いた。客が4、5人おりてくる。待っていた白人客と芳明は、そのエレベーターの方に歩いていく。
わたしは、そっと回れ右。エレベーター・ホールを後にした。
芳明がキーを使って部屋に入り、ドアを閉じると、ドアは自動的にロックされる。そこで、彼は金品をさがしはじめるにちがいない。
そのタイミングを狙った方がいいだろう。
わたしは、フロントに行った。1039号室のマスター・キーをとって、早足で、エレベーター・ホールに向かう。
とちゅうで、エバとすれちがった。
エバは、〈記念写真サービス〉の女の子だ。このホテルの最上階にある高級レストランで主に仕事をしている。
そのレストランに来たお客たちの記念写真をポラロイドで撮《と》る。そして、お客たちに無料でプレゼントする。〈2階のジム〉がはじめた、お客へのサービスだ。
まだ時間が早いので、エバは、ブラブラとロビーを歩いていた。
わたしは、エバに声をかけた。
「ああ、麻里《マリー》」
「あのさ、ちょっとそのポラロイド貸してくれる? すぐに返すから」
「いいわよ。どうぞ」
とエバ。わたしに、ポラを渡してくれた。わたしは、ポラを手に、エレベーターに乗り込んだ。ストロボのボタンを押し、10階に上がっていく……。
チンッと音がして、10階に着いた。わたしは、早足で廊下を歩く。1039号室の前に立った。
もう、ポラロイドのストロボは充電オーケイだ。
わたしは、マスター・キーをさし込む。そっと、ドアノブを回した。どんな小さな音もしないように、細心の注意をはらって、ゆっくりと、ゆっくりと、ドアを開けていく……。
ドアが20センチぐらい開いたところで、中が見えた。そこは、リビング・ルームになっている。
芳明の姿は、どうやら、リビングにはない。
たぶん、奥のベッド・ルームで、お金や貴金属をさがしているんだろう。
わたしは、ドアから、リビングの中にそっと入った。また、音をたてないように用心しながら、ドアをそっと閉めた。
わたしはスニーカーをはいている。床には、カーペットが敷かれている。足音は、ほとんどたてずに、奥へ入っていく……。
リビングと奥のベッド・ルームの間は、通路のようになっている。右側がクローゼットで、左側がバス・ルームだ。
わたしは、足音をしのばせて、奥へ入っていく。バス・ルームの前を通り過ぎる……。そこは、ベッド・ルームだ。
1039号室は、かなりランクの高い部屋なので、ベッド・ルームも広い。そこに、ツイン・ベッドが入っている。
芳明は、いた。
こちらに、背を向けている。コーナー・テーブルに置いてあるカルチェのバッグ。それを開けたところだった。わたしは、芳明にポラロイドを向けた。そして、
「ハロー」
と言った。
芳明が、驚いてふり向いた。その瞬間、わたしはポラのシャッターを切っていた。
パシャッという音。ストロボの光。
芳明は、唖然《あぜん》とした顔をしていた。
ハッと気づいて、動こうとした。けれど、わたしはもう、ポラをベッドの上に置き、右手で拳銃を引き抜いていた。
「動かないで。これは、オモチャじゃないのよ」
と言った。芳明の動きが、ピタリと止まった。わたしは、彼に拳銃を向けたまま、
「観念するのね、岡本芳明君」
と言った。自分の名前を言われて、芳明はさらに驚いた表情になる。口を半開きにしている。
「自己紹介しなくちゃね。わたしは、このホテルの保安《セキユリテイー》を担当している沢田麻里。まあ、ホテル探偵だと思ってくれればいいわ」
「…………」
「あんたが、ビーチでそのキーを盗むところも目撃したわ。ほかに目撃者もいるわ。そして、この証拠写真もあるし、もう、あきらめるのね」
わたしは言った。
芳明は、口を半開きにしたまま、ヘナヘナとくずれた。くずれ落ちるように、床に両ヒザをついた。その視線がうつろだ。
「オ……オレは、どうなるんだ……」
と、うつろにつぶやいた。
「まあ、警察のやっかいになるしかないでしょうね」
と、わたしは言った。
〈警察〉という言葉をきいたとたん、芳明は、ハッと顔を上げた。
突然、ダッと、逃げ出そうとした。わたしのわきを突破して、逃げ出そうとした。
わたしは、落ち着いて、相手の動きを読んでいた。
拳銃を握っていない左手をカラテの手刀にする。芳明の首筋を打った。
五分の力だった。
それでも、芳明は、もんどりうって転がった。ちょうどそこにあったテレビの台に頭をぶつけた。頭をかかえて、カーペットの上に転がる。したたかに頭を打っただろう。
わたしは、彼の前に回った。
「逃げようとしてもムダよ。あんたの住所も、みんなわかってるんだから。もう、これまでよ。ゲーム・イズ・オーヴァー。わかった?」
と言った。
やがて、気づくと、芳明は泣きはじめていた。
ヒッヒッと、しゃくり上げるようにして、泣きはじめていた。
はいつくばって、泣きながら、立っているわたしの片足首を両手でつかんだ。そして、
「け……警察だけには連れていかないでくれ……」
と言った。
「オ……オレの親父は……日本で中学校の教師をしてるんだ……。オレが犯罪者になったら、きっと、学校をやめなきゃならなくなる……だから……お願いだから、警察だけは……」
と芳明。しゃくり上げながら言った。
「それなら、こんなことしなけりゃいいでしょう」
わたしは、芳明を見おろして言った。
「……しょうがなかったんだ……。やつらに脅《おど》されて……」
わたしの足首を握って、芳明は言った。
「やつら? やつらって誰のことよ」
と、わたしは訊いた。けど、芳明は答えない。ただ、しゃくり上げているだけだ。
そんな芳明を見おろしながら、とりあえず事情をきいてみようかと、わたしは考えはじめた。
もちろん、芳明を警察に引き渡すのは簡単だ。
けれど……と、考え込んでしまった。
この数年、ホノルル市警は、ふえつづける外国人の犯罪に対してひどく厳しくなっている。
芳明も、場合によっては実刑をくらうかもしれない。見せしめのために、事件を新聞に公表されるかもしれない。
そうなれば、日本にいる芳明の親にだって影響がおよぶことは充分に予想できる。まして、学校の教師であれば……。
それと、もう1つ。
芳明の言った〈やつらに脅されて〉というのが気になる。その〈やつら〉とは誰なのか……。気になる。
とりあえず芳明の事情を、きいてみよう。
わたしは、そう考えはじめていた。芳明を警察に突き出すのは、それからでも遅くない。
「わかったから、立ちなさいよ」
わたしは言った。
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[#1字下げ]17 <|涙のしずく《テイア・ドロツプ》>が泳いでいた日
「オレ……中学生の頃からハワイ留学に憧れてて……。高校に入ったらすぐにバイトはじめて……けっこう、金|貯《た》めたんだ」
と芳明。ぽつり、ぽつりと、話しはじめた。かなり、平静をとり戻している。
遅い午後のワイキキ・ビーチ。西側。
リーフ・ホテルの前の砂浜に座って、わたしと芳明は話していた。
「高校を卒業して、また1年ぐらい働いて、やっと、2年間留学できるだけの金を貯めたんだ。それで……こっちにきて……」
「ビショップ語学学校に入った」
わたしは言った。芳明は、うなずいた。
「オレのことみんな知ってるんだな……」
「そうよ。かなり調べたからね。それで……どうしたの?」
「こっちにきて、しばらくは普通に暮らしてたんだ。わりと狭い部屋借りて、自転車で学校通って……普通にやってたんだ……。けど……」
「けど?……」
「クラスの中に、金持ちの派手な連中がいて……」
「金持ちの?」
「……ああ……。親から毎月30万とか40万とか送ってもらってる連中がいて……」
と芳明。わたしは、それをきいても驚かなかった。
日本のバブル経済がはじけたとはきいているけど、いまもまだ、そういう親はいるらしい。ちょっとした会社の経営者あたりが多いという。
「で……オレも……いつの間にか、そういう連中と仲間になってて……一緒になって遊んでると、けっこう楽しくて……」
と芳明。
甘い蜜《みつ》の味を知ってしまったということなんだろう。
「そんな仲間の中に、1人、かわいい娘《こ》がいたんだ」
「ヨコタ・キヨミ……」
わたしが言うと、芳明は、さすがに驚いた表情をした。けど、それも、すぐに平静に戻った。
「オレは……彼女のことを好きになった。自分の彼女にしたくなった。でも、彼女はスーパーをいくつも経営してる家の娘で……」
「金持ちの娘……」
「ああ……。自転車で通ってるような男とつき合うような娘《こ》じゃないんだ、キヨミは……」
「それで、あなたは、どうしたの?」
「……とにかく金が欲しくて……。そうしてるうちに、仲間がいい話を教えてくれたんだ」
「いい話?」
「ああ……。アメックスのカードで、かなりな金が借りられるっていう話で……オレ、それにのったんだ。アメックスの普通のグリーンのカードなら持ってたから」
と芳明。
「それで、借りたの?」
「ああ……。アメックスのカードとパスポートを持っていって、書類にサインしたら、かなりの金額を貸してくれて……」
「それで、ポルシェとあの高級アパートメントを?」
芳明は、うなずいた。
「ポルシェは、それを頭金にしてローンで買って、あのアパートメントに入って……」
「で、彼女を恋人にすることができたのね?」
芳明は、また、うなずいた。
「ああ……。そこまではよかったんだけど……」
「だけど……とんでもない利子を払わされることになった……」
わたしは言った。芳明は、驚いた表情でわたしを見た。
「なぜ、それを?……」
「いいから、先を話して」
「あ、ああ……。ある日、男が2人やってきて、3カ月分の利子としてこれだけ払えと言うんだ。それが、はじめにきいてた利子とは全然ちがう金額で、すごく高いんだ。でも……サインした書類をよく読むと、その高い利子になってて……」
「はじめ借りる時には気づかなかった?」
「ああ……。日本語の上手な白人の男が、口頭で利子を言って……しかも、オレは、アメックスがやってるものとばかり信じてたから安心して借りたんだ……」
わたしは、小さくうなずいた。ため息をついた。
「それは、アメックスとは、全く無関係の高利貸しなのよ」
と言った。
わたしが警察にいた頃、すでに問題になっていた。
アメリカン・エクスプレスのカードを提示させてお金を貸すから、いかにもアメックスがやっているように見える。けれど、実際には、アメックスとは全く関係ない。
関係ないどころか、ロスに本拠地を持つ巨大な犯罪組織《シンジケート》がやっている闇金融なのだ。
アメリカン・エクスプレスをもじって、〈|地獄の超特急《ヘルス・エクスプレス》〉と、俗に呼ばれている。非合法《イリーガル》な高利貸しだ。
このホノルルでも、すでにかなりな数の被害者が出ている。
「でも……そのことに気づいた時は、もう遅かった」
と芳明。
「それに……キヨミに逃げられたくないから、車もアパートメントも手ばなしたくなくて……」
「高い利子を払いつづけた……」
「ああ……。でも、しばらくすると、それが払えなくなってきて……」
と芳明。そこで、声をつまらせた。
「それで、ビーチで泥棒をはじめたのね」
「……ああ……」
「あの太った子と組んで」
「あっ、でも、あいつはちがうんだ。あいつは本当にナンパしてるつもりなんだ。あいつ、口は達者だけどあんまりもてないから……」
「それで、あんたは、あの子を相棒に選んだわけね?」
芳明は、うなずいた。
「あいつは、自分が、泥棒の片棒をかついでるなんて知らないんだ。これは本当だ。だから、あいつは何も犯罪をおかしてるわけじゃないんだ」
と芳明。懸命に友達をかばう。
もしこんなことがなければ、この男の子は、そんなに悪くないやつなのかもしれないと、わたしは感じた。
「で、利子の支払いは、どうなってるの?」
わたしは訊いた。
「かなりな金額が、たまってる……。きのう、男たちがきて、脅かされた。まるでギャングみたいな白人の男たちだった……」
と芳明。つぶやくように言った。
それで、わかった。芳明は、あせっていたのだ。ビーチで小金を盗むより、ホテルの部屋に忍び込んで、大金を盗《と》ろうと思ったのだろう……。
わたしは、うなずきながら、夕方のビーチをながめた。
金髪の子供が、さっきまで、砂で城のようなものをつくっていた。
その金髪の子供は、いまさっき、親と一緒に帰っていった。砂浜には、その子がつくった砂の城だけが残った。
いまは、満ち潮らしい。波が少しずつ、上がってくる。
砂の城も、波に洗われはじめていた。その、下の方から、崩れはじめていた……。
いまの芳明の生活も、ちょうど、この砂の城のようなものだ、と、わたしは感じた。
そして、こうも思った。
芳明は、確かに、おろかな若者だ。
ビーチ泥棒でもある。
けれど、同時に、一種の被害者なのかもしれない。
日本のバブル経済の滓《かす》と、アメリカの犯罪組織に、両側から押しつぶされそうになっている、一種の被害者なのかもしれない……と、わたしは思った。
ほんの少しだけれど、この、おろかな男の子に同情する気持ちになっていた。
警察に突き出すのは、簡単だ。けれど、そうしたら、この男の子は一生を棒に振ることになるかもしれない。
そこまですべきかどうか……わたしは、少しためらっていた。
ただし、彼が泥棒をした事実に変わりはない。
なにか、警察に突き出さずに、この芳明にお灸《きゆう》をすえる手はないものだろうか……。わたしは、そのことを、考えはじめていた。たそがれの海をながめながら、考えはじめていた。
海に面したレストラン・バー〈ショア・バード〉から、ステーキを焼く匂いや、夕方の1杯をやる人たちの笑いさざめく声が、風にのって漂ってきていた……。
「それで、その男の子は、警察に突き出さなかったわけか……」
とタケシ。わたしと並んで歩きながら訊いた。わたしは、うなずいた。
「どうしたらいいか、わたしも2、3日考えてみたかったから……。その芳明を警察に突き出すのは、いつでもできるし……」
と、わたしは言った。
翌日。午後3時。
わたしとタケシは、アラ・モアナ・|S・C《ショッピグ・センター》を歩いていた。タケシから、〈娘のエミーに出すカードを選ぶのにつき合ってくれないか〉と頼まれたからだ。
わたし自身も少し買い物があったから、タケシと一緒にアラ・モアナにやってきたところだった。
とちゅうのクルマの中で、きのうの芳明とのやりとりを話した。タケシは、うなずきながら、きいていた。
「なるほどな……」
とタケシ。いま並んで歩きながら、つぶやくように言った。
「もしオレが麻里《マリー》の立ち場だったとしても……やっぱり、迷うだろうな。その坊やを警察に突き出すかどうか」
「やっぱり、そう思う?」
「ああ……」
タケシは、つぶやいた。
その時、ちょうどカードを売っている店の前にきた。わたしたちは、店に入っていった。
〈バースデー・カード〉のコーナーを見る。たくさん並んでいた。
「どんなのがいいかなァ……。これなんか、どうだろう」
とタケシ。1枚のカードを手にとった。
「それじゃ、ちょっと子供っぽいんじゃない? 8歳になってたら、けっこう、おませかもよ」
わたしは言った。タケシは、苦笑いしながら、
「そうだな……。どうも、エミーが4歳の子供だった頃のイメージが、頭からはなれなくて……」
と言った。そうか……と、わたしは思った。タケシの頭の中では、娘のエミーは、まだ、別れた時の、4歳のままなのだ……。
わたしの胸は、チクリと痛んだ。
けど、つとめてカラリと明るく、ふるまった。ちょうど8歳の娘《こ》が喜びそうなカードを、タケシと一緒に選びはじめた。
〈ん……〉
わたしは、胸の中でつぶやく。足を止めた。
カードを買って、店を出てきた。そこで、わたしはトイレにいきたくなったのでタケシに、〈ちょっと待ってて〉と言いトイレに入った。用をすまし、出てきたところだった。
タケシは、アーケードにあるベンチに腰かけて待っていた。
〈お待たせ〉と言って、そっちに行こうとした。けれど、その時、〈ん……〉とつぶやいて、わたしの足は止まってしまった。
タケシの横顔が、いやにシリアスだ。じっと、前の方を見つめている……。
わたしは、タケシの視線を追っていった。すると、1組の親子連れがいた。
ローカル(地元)の親子連れらしい。白人のパパと娘だった。2人とも、ショートパンツにビーチサンダルというふだん着だった。
娘は、7、8歳だろうか。金髪を肩までのばしている。歩きながらソフトクリームを食べたらしく、口のまわりに、ソフトクリームがついていた。
パパは、しゃがみ込んで、それを拭いてやっていた。くしゃくしゃのバンダナで、娘の口のまわりを拭いてやっていた。娘が、何か言って笑った。そして、パパも何か答えて笑っていた。
タケシは、その光景を、じっと、見ていた……。わたしが声をかけるのをためらうほど、じっと、その光景を見つめていた……。
どこにでもある平凡なパパと娘の光景……。でも、いまのタケシには、けして手に入らない、そんな光景なのだ。
わたしの胸は、しめつけられそうになった。じっと、佇んでいた。
やがて、白人のパパと娘は、手をつないで歩いていった。遠ざかり、姿が見えなくなった。
数秒して、タケシは、やっと、われに返ったようだった。わたしは、
「お待たせ!」
と声をかけ、彼の方に歩いていった。
「あら、かわいいじゃない」
と、わたしは言った。タケシが手にしている木彫りの熱帯魚を見て言った。
アラ・モアナで買い物をしたあと、わたしたちはタケシの部屋に行った。たそがれのラナイにテーブルを出し、カンパリ・ソーダを飲みはじめたところだった。
タケシが持っている木彫りの〈蝶々魚《バタフライ・フイツシユ》〉には、色が塗られていた。それを見て、わたしは、
「ティア・ドロップね……」
と言った。それは、数あるバタフライ・フィッシュの中でも〈|涙のしずく《テイア・ドロツプ》〉と呼ばれる種類の魚だった。
体の色は、全体に鮮かな黄色だ。そして、体のわきに、涙のしずくのような形の、黒っぽい模様が1つある。それで〈|涙のしずく《テイア・ドロツプ》〉と名づけられた魚だった。
木彫りのティア・ドロップには、すごくていねいに色が塗られていた。本物みたいだった。
「いい誕生日のプレゼントね……」
わたしは言い、タケシは、小さく、うなずいた。そして、カンパリ・ソーダを、ぐいと飲んだ。
「娘のエミーが、この魚を好きでね……」
「ティア・ドロップを?」
「ああ……。その頃、住んでいた家に、水槽があって、小さな魚を飼ってたんだ。みんな、オレが仕事のあい間に釣ってきた魚だけどね」
「…………」
「その魚たちの中でも、特にティア・ドロップがエミーのお気に入りでね。たぶん、一番きれいな色をしてたからだと思う。よく水槽のガラスに顔をくっつけては、ながめてた。オレにむかってふり向いては、〈ティア・ドロップ〉と言って、ニコリとしたものだった……」
とタケシ。サラリとした口調で言った。
けれど、それは、かなり努力してサラリと言っている。そのことが、わたしにはわかった。
「母親と一緒に家を出ていく日も、出ていく寸前まで、ティア・ドロップを見ていたよ……」
「……で、そのティア・ドロップは?」
「オレも、その家を出て、このアパートメントに引っ越してくることが決まってたから、魚たちはみんな海に返して、水槽は友達にやったよ」
「そう……」
わたしは、つぶやいた。つぶやいて、カンパリ・ソーダを飲んだ。ライムのスライスを入れたカンパリ・ソーダは、心にホロ苦かった。
娘のエミーと一緒に、水槽のティア・ドロップをながめていた……。それは、タケシにとって最も幸せな瞬間だったのかもしれない。
けれど、もう、二度とかえらない瞬間……。二度と、取り戻せない瞬間なのだ。
4年たって8歳になった娘にも、あの瞬間を忘れてほしくないから……。それで、彼は、この木彫りのティア・ドロップをつくって送ろうとしているのだろう。
たぶん、まちがいない……。
わたしは、テーブルに置かれた、ティア・ドロップをながめた。
タケシはいま、テーブルで、バースデー・カードに文字を書いていた。淡々とした表情で、〈誕生日おめでとう〉の文字を書いていた。
その表情は淡々としているけれど……きっと、心の中では〈|涙のしずく《テイア・ドロツプ》〉が降っているにちがいない……。
そう思うと、わたしは、たまらない気持ちになった。わたしは、パパを失った娘であり、タケシは、娘を失ったパパなのだ……。
わたしは、後ろから、タケシの両肩に、そっと手を置いた。
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[#1字下げ]18 キスは、あまり上手《うま》くない
ボールペンを動かしていたタケシのごつい手が、一瞬、止まった。
けど、また、動きはじめる。〈エミー〉の最後の〈Y〉を書き終わった。ボールペンを置いた。
わたしは、後ろから、彼の首に腕を回した。そのわたしの腕に、彼の手が重ねられた。彼の手は、がっしりとしていて、温かかった。
わたしたちは、しばらく、そうしていた。
もう、陽は沈んでいた。空の下の方にはパイナップル色が残り、上にいくにしたがって、濃いブルーになる。
海岸沿いのヤシの樹は、もう、シルエットだ。
ホノルルの街は、たそがれに染まりはじめている。クルマの赤いテールライトが、|大通り《ブルヴアード》をゆっくりと流れていた。
タケシはゆっくりと、立ち上がった。わたしの方に向きなおった。わたしの両手は、まだ、彼の首に回したままだった。
彼の腕が、わたしの体を抱きしめた。
ゆっくりと、けれど力いっぱい、抱きしめた。
タケシの胸は、ポロシャツの綿《コツトン》と、石けんの匂いがした。
やがて、唇と唇が近づいていく……。ちょっとぎこちなく、唇が触れた。おたがいに、あまりキスは上手でないのがわかった。
それでも、唇と唇が重ねられた。カンパリとライムの香りがする短いキス。そして、長いキス……。
そっと、唇をはなした。
タケシが、わたしを部屋の中に連れていくだろうと思った。
そして、このまま、いくところまでいってもいいと、わたしは思った。
けれど、タケシは、じっと、わたしを抱きしめているだけ……。動こうとしない……。
どうしよう……。こういうラヴ・シーンにあまりなれてないわたしは、迷ってしまった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
でも、心の中で〈女は勇気〉とつぶやく。タケシの耳もとで、
「中へ入る?」
と、ささやいた。けど、タケシは、まだ、動かない。しばらくすると、彼は言った。
「いや……。ここで、飲んでいよう」
と言った。おだやかで温かい声が、直接、体に伝わってくる。
わたしは、そっと、タケシから体をはなした。タケシも、わたしの体に回していた腕をほどく。テーブルの上のカンパリ・ソーダを手にした。
「誤解されないように言っておくけど、オレは、麻里《マリー》が好きだ」
と言った。カンパリ・ソーダを、ひと口飲んだ。
「だけど……今夜、麻里《マリー》と、そうなっちゃうっていうのは、なんか……反則《フアウル》って気がするんだ……」
「反則?……」
「ああ……。わかりやすく言えば、なんか、自分が、ずるいやつに思えちゃうんだ」
とタケシは言った。かすかに苦笑しながら、また、グラスに口をつけた。
「いまのオレって、すごく同情を買う立ち場にいると思う」
「…………」
「だから、今夜、麻里《マリー》を抱いちゃうってことは、その同情を利用したようなやましい気持ちになっちゃうんだ」
「…………」
「たとえそうじゃなくても、そんな風に自分で感じられちゃうってのは、なんか、嫌なんだ。つまらない、こだわりかもしれないけどな」
とタケシ。カンパリ・ソーダのグラスを手に、ホノルルの街をながめている。わたしは、ゆっくりと、うなずいた。
「わかるわ……その気持ち」
と言った。タケシは、ニコリと白い歯を見せた。そして、
「いずれ、心の中になんのやましさもない時に、ゆっくりと恋人になろうぜ、オレたち……」
と言った。わたしも、微笑《ほほえ》みながら、うなずいた。わたしとタケシは、カンパリ・ソーダのグラスを手に、ラナイの手すりにヒジをつき、暮れていくホノルルの街をながめていた。空に、細い三日月が出ていた。
翌日。午後。
わたしは、ワイキキ・ビーチにパトロールに出てみた。
まさか、芳明がまたナンパをしているとは思わなかった。けれど、気になるので、ブラブラとビーチを歩いてみた。
いちおう、ワイキキの端から端まで歩いてみた。芳明の姿は、なかった。
わたしは、プルメリア・ホテルに戻ろうとした。午後4時過ぎだった。ビーチ沿いにのびているカラカウア|通り《アベニユー》を歩いていた。
ふいに、タイヤの悲鳴がした。クルマが急発進する音だった。わたしは、思わずふり返った。
グレーのセダンが、勢いよくカラカウア通りに走り出すのが見えた。ガラスが濃いスモークになっていて、乗っている人間は見えない。ナンバーも読みそこねた。
そして、歩道に体を丸めて転がっている人影が見えた。いま走り去ったクルマから、放り出されたらしい。
そのTシャツの柄に見覚えがあった。芳明のものに似ていた。
道路に、体を丸めて転がっているその人影に、わたしは駆け寄った。
茶色に染めた長めの髪。ヒョロリとした手と脚《あし》。まちがいなく、芳明だった。片方の足にだけ、ナイキのスニーカーをはいていた。
「どうしたの! 芳明!」
わたしは、芳明の肩に手をかけた。その体をゴロリと仰向《あおむ》けにした。
芳明はひどい姿になっていた。顔の下半分は、血まみれだった。鼻血。そして、口の中からも血が流れていた。
左眼のまわりが、紫色に腫《は》れ上がっている。ほとんど、眼がふさがっている。
ゼーゼーと、苦しそうな息をしていた。
体も、あちこち、痛めつけられているらしかった。
「しっかりして!」
わたしは、芳明の上半身を起こして言った。芳明は、
「ウッ」
と、うめき、苦しそうに顔をゆがめた。
いきかう観光客が、不審な顔をして、芳明を見ていく。立ち止まる人もいる。いずれ、人だかりができてしまうだろう。
そうなったら、すぐに警官がやってくる。
けれど、それは、まずい、と、わたしは思った。いま芳明を痛めつけた連中は、あの〈|地獄の超特急《ヘルス・エクスプレス》〉、つまり犯罪組織《シンジケート》の人間にちがいない。
このことで、警察ざたになると、まずいことになる。
どうしよう……。わたしは、あたりを見回した。その時、
「どうしたんだ、麻里《マリー》」
という声がした。すぐそばに、大きなリムジンが駐まっていた。その窓ガラスがおりて、パットじいさんが顔を出していた。
パットじいさんは、きょう1日の〈宝さがし〉を終えて、帰るところなんだろう。
パットじいさんは、リムジンの窓から、
「友達か?」
と、わたしに訊いた。芳明のことだろう。わたしは、うなずく。
「どこかで手当てしたいんだけど」
と言った。
「わかった。乗りなさい」
とパットじいさん。運転手に何か言った。制服の運転手が、す早く、おりてきた。わたしと運転手は、芳明を両側からささえ、リムジンに乗せた。
そして、ゆっくりと、リムジンは走りはじめた。
「私の家でいいかな?」
とパットじいさん。わたしは、
「もし、かまわなければ……」
と言った。芳明のケガのぐあいを調べはじめた。
最初に見た印象ほど、ひどいケガはしていないようだった。病院にかつぎ込む必要はなさそうだ。
痛めつけたやつは、やはりプロだ。その辺を計算して痛めつけたらしい。
「だいじょうぶ。たいしたことないわよ」
わたしは芳明に言った。とりあえず、丸めたティッシュペーパーを鼻の穴に突っ込んで、鼻血を止める。
リムジンは、クジラのようにゆったりとした走りで、ホノルルの街を出ていく。
郊外にある高級住宅地、カハラの方に向かっていた。
ピュー。
わたしは、思わず口笛を吹いてしまった。
パットじいさんの家のリビングに入ったところだった。
金持ちとはきいていたけど、これほどだとは思わなかった。
カハラの高級住宅地。テレビ・カメラのついている門を入ると、そこが屋敷の敷地だった。ヤシの樹の中に、テニス・コートが2面あるのが見えた。
まわりにバンカーのあるゴルフの練習用グリーンも見えた。整備されたグリーンの芝に、ピンが立っている。ピンの旗《フラツグ》が、風に揺れている。
練習グリーンのとなりに、広いコンクリートの空き地がある。それは、ヘリポートらしかった。
やがて、屋敷の玄関に着く。大きな扉《ドア》を入ると、エントランス・ホール。そして、リビング・ルームだ。
リビング・ルームは、100人ぐらいのパーティーなら楽に開けそうな広さがあった。
全体に、趣味のいいアール・デコ調で統一されていた。イタリー製らしい皮ばりのソファーが、うまくレイアウトされている。部屋のすみには、バーがあった。
部屋の片側は、全面ガラスになっている。ガラスはいま、半分、開いている。外には、かなり大きな卵型のプールがあった。
もう、たそがれなので、プールには、ブルー・グリーンの水中ライトがついている。
わたしと運転手は、芳明を左右からささえて、洗面所に連れていった。
芳明は、わたしたちが背中をささえていれば、なんとか立っていられた。自分で、のろのろと顔を洗い、口をすすいだ。
口をすすぐと、血の混ざったピンク色の水と一緒に、歯が1本、コロンと落ちた。
「……あのさ……」
と芳明。顔をしかめながら、か細い声で言った。口をきくと、どこかが痛むんだろう。「何?……」
「あの……殴《なぐ》られた時に、小便ちびっちゃったらしくてさ……。濡《ぬ》れてて気持ち悪いんだ。なんか、貸してもらえるかな……」
芳明は、か細い声で言った。見れば、Tシャツにも血がついている。
「わかったわ。パットじいさんに頼んであげる」
30分後。リビング・ルーム。
芳明は、ソファーに横になっていた。貸してもらったTシャツとショートパンツを身につけ、横になっていた。
ひどく腫《は》れている左眼に、氷水の入ったビニール袋をあてていた。鼻には、丸めた脱脂綿をつめて、鼻血を止めている。
口の端の血は、もう、かたまりはじめていた。消毒はすませてあるから、あとは放っておいた方がいい。
顔は、全体に腫れている。けれど、3、4日もすれば、腫れはひくだろう。
「そうか……。この若いのが、この前のコソ泥なのか……」
とパットじいさん。バーのスツールに腰かけて言った。
「そういうわけなの。いま、事情を説明するわ」
わたしはパットじいさんに言った。バーのカウンターに入った。
「そろそろ、1杯やるにはいい時間でしょう?」
「ああ、麻里《マリー》は、それのプロだったな……。じゃ、何か1杯つくってもらおうかな」
「何にする?」
「じゃ、ドライ・マティニを、オン・ザ・ロックで」
「了解」
わたしは言った。手を動かしはじめた。カクテルをつくりながら、ぽちぽちと、芳明の事情を話しはじめた。
ドライ・マティニを、パットじいさんの前に置いた。そして、自分用にはハイネケンをグラスに注いだ。芳明に向かって、
「口の中の消毒用に何か飲む?」
と訊いた。
「いや……いい」
と芳明。小さな声で答えた。
わたしは、ハイネケンを飲みながら、話のつづきをはじめた。パットじいさんは、ドライ・マティニをゆっくりと飲みながら、話をきいていた。
1杯目のドライ・マティニが空になる頃、わたしは芳明の事情を話し終わった。パットじいさんは、
「そうか……。彼女が自分から逃げていくのが怖くて、それで盗みを……」
と、つぶやいた。芳明の方を、ふり向いた。
「バカなやつだって、笑ってるんだろう」
と芳明。弱々しい声で言った。パットじいさんは、かすかに苦笑いした。
「あんたみたいな大金持ちに、オレの気持ちがわかってたまるか」
と芳明は言った。パットじいさんは、あい変わらず、マティニのグラスを片手に、微苦笑している。
「まあ、そう言わなくてもいいじゃないか。私だって、昔から金持ちだったわけじゃない。君と同じぐらいの年頃は、一文なしだったよ」
と言った。
芳明は、不思議そうな表情で、パットじいさんを見ている。いつも、ヨレヨレのスタイルで、金属探知機を使い、小銭をひろっているパットじいさん。
こんなに大金持ちのパットじいさんが、なぜ、あんなことをやっているのか……そのことが不思議なんだろう。
それは、わたしも同じだった。
思いきって、訊いてみることにした。
「ねえ、パットさん」
わたしは口を開いた。
「なんだい、麻里《マリー》」
「パットさん、こんな大金持ちなのに、なぜ、ワイキキ・ビーチであんなことをやっているの?」
「あんなことって、宝さがしのことかい?」
「そう……」
わたしは、うなずいた。そして、
「よかったら、わけを教えてくれない?」
と言った。
「もし、よかったらでいいんだけど……」
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[#1字下げ]19 愛の缶づめ
パットじいさんは、じっと無言でいた。
マティニのグラスを手に、10分ほど無言でいた……。
やがて、考え込んでいる表情が、ふと、なごんだ。わたしを見た。微笑《ほほえ》んでいた。
「こんな話……他人《ひと》にしてもしかたないと思っていた……。ずっと、そう思っていた……。しかし……」
「しかし?……」
「麻里《マリー》がそう言うなら、話してもかまわないよ……。それほど、隠しだてするほどのことじゃないからね」
とパットじいさんは言った。
2杯目のマティニを、くいっとひと口飲んだ。
しばらくして、ぽつり、と口を開いた。
「あれはもう……50年近く昔のことになる……」
と話しはじめた。その瞳は、過ぎ去った遠い日々を見つめていた。
「太平洋戦争が終わった直後だった。私は、陸軍《アーミー》を除隊して、激戦地のヨーロッパ戦線から故郷のハワイに帰って来た」
「…………」
「当時の私は、まだ、|20歳《はたち》をちょっと過ぎた若造だった。5人兄弟の末っ子で、家はもともと、貧乏だった。ハワイに帰って来ても、何をしようというあてもなかった。仕事もなく、金もなく、ただ、ぼんやりと過ごしていた」
「…………」
「そんなある日の午後、私は、ワイキキ・ビーチで、ぼんやりと海をながめていた。その頃のワイキキは、まだ終戦から日が浅いんで、それほどにぎやかではなく、のんびりとしたものだった」
「…………」
「私が海をながめていると、すぐ近くで、何か探《さが》しものをしている娘がいたんだ。白人の若い娘で、砂浜で何かを探していた」
「…………」
「私は〈何を探しているんだい〉と、その娘にたずねた。すると、〈きのう、家族でワイキキ・ビーチに遊びに来たんだけど、その時に、指輪を失くしてしまった〉と、その娘は言った。たいした値段の指輪じゃないのだけれど、自分で働いたお金で初めて買ったもので、彼女にとっては大切な指輪なのだという」
「…………」
「その日、私も一緒に探してみたけれど、なかなか見つからなかった。翌日、私は、地雷を発見するために使う金属探知機を、陸軍《アーミー》の友人から借りてきて、それで、ワイキキ・ビーチを探しはじめた。もちろん、彼女も一緒にね」
「で……その指輪は?」
わたしは訊いた。
「3日間、金属探知機で探し回ったけど、結局、見つけられなかった。空き缶や、ビンのキャップばかり、ひろい集めてしまってね。なんのことはない、3日間かけて、ワイキキ・ビーチの掃除をしたようなものさ」
「…………」
「彼女の指輪は見つけられなかったけれど、わたしと彼女の間には、その……恋が芽ばえていたんだな、その3日間で」
とパットじいさん。わたしは、うなずいた。
あかの他人の指輪を、3日間も一緒に探してくれた人の優しさに、彼女が心をうたれたとしても、なんの不思議もないと思えた。
「わたしと彼女は、つき合うようになり、あっという間に恋人へと発展していった。結婚も考えるようになった」
「…………」
「そうなると、私としても、このまま無職でいてはいけないと考えた。彼女のために、なんとかしなければいけないと思った」
「…………」
「その時、あの日、ワイキキ・ビーチでひろってしまった空き缶のことが頭をかすめたんだ」
「空き缶?」
「ああ……。さまざまな空き缶が集まったけれど、なぜか、その中にパイナップルの缶がなかったことに気づいたんだ。ハワイで一番多くとれる果物なのにね」
「…………」
「当時のハワイでは、パイナップルは、生でそのまま売られるか、せいぜい、ビニール袋につめられて売られていたんだ」
「…………」
「でも、それを缶づめにすれば、シーズン・オフにも売れるし、本土《メイン・ランド》や外国へ輸出もできる。私は、そう考えた」
「…………」
「そして、わずかな貯金で、自分の家の裏庭に、小さな缶づめ工場をつくったんだ」
「…………」
「それからは、必死で働いたよ。昼夜なくね……。やがて、初めて自分の工場でパイナップルの缶づめをつくることができた時、彼女と結婚した」
「それからは順調?」
「いやいや」
とパットじいさん。苦笑いしながら、首を横に振った。
「それからは、もっともっと大変だった。それでも、私はがんばったよ。妻のためにね……。妻に、少しでも楽をさせたいって思って、歯をくいしばって、がんばった」
「…………」
「…………」
「そのかいあってか、だんだん、大きなパイナップル会社との契約がとれはじめたんだ」
「…………」
「はじめは私ひとりだった従業員も、長男が産まれる頃には5人になり、長女が産まれる頃には、30人になっていた」
「…………」
「それからも、いろいろな浮き沈みはあったが、結局、私の会社は、ハワイで一番大きな、パイナップルの缶づめ会社になった。いまでは、パイナップル以外のものもたくさん扱っている」
とパットじいさん。淡々と語った。
その時、制服を着たメイドが、大きな皿にのせたキャビアとスモーク・サーモンを持ってきた。わたしは、
「それで……奥さんは?」
と訊いた。
「…………ガンで死んだよ、10年前に」
とパットじいさん。わたしが何か言おうとすると、片手を上げて、それをとめた。〈同情してくれなくていいよ〉という感じで、微笑んでいた。
「私と妻には、数えきれないほどのいい思い出がある。事業が成功してからは、世界のあちこちを旅して回ったしな」
「ただ……」
「ただ?……」
「私には、1つだけ、心残りなことがある。それは、あの指輪のことだ。50年前……ワイキキ・ビーチで見つけることができなかった、妻の指輪のことだ」
「…………」
「私も、そう遠くないある日、天国に招《め》されるだろう……。そして妻と再会した時に、〈ほら、見つけてきたよ〉といって、その指輪を渡したいんだ」
「……それで、いまも、あの金属探知機で……」
わたしは、つぶやいた。パットじいさんは、微笑みながら、うなずいた。
「それが、妻にしてやれる最後のことだからね……」
と、おだやかに微笑みながら言った。わたしは、ただ、黙って、うなずいていた。
15分ほどした時だった。
「でも……じいさんが一生懸命に働いたのも、オレが泥棒をしてまで金を稼ごうとしたのも、結局は、女のためってことで……。似たようなものじゃないか」
ソファーに横になっている芳明が、口を開いた。
パットじいさんは、3杯目のマティニを片手に、芳明を見た。
「似たようなものかもしれないが、はっきりとした違《ちが》いはあるんじゃないかな」
と、おだやかな声で言った。
「私の場合は、〈妻のため〉というのが、すべてのはじまりだった。妻に少しでもいいものを食べさせてやりたい。妻に少しでもいい服を買ってやりたい。それだけだった。自分のことなど、何も考えずに、がんばったよ」
「…………」
「けど……君の場合は、どうかな? さっききいた話から察《さつ》すると、君は、まず自分がかわいいんじゃないかな?」
「…………」
芳明は、ハッとした表情で、パットじいさんを見た。パットじいさんは、落ち着いた声で話をつづける。
「〈美人の彼女がほしい〉、〈彼女に自分を愛してほしい〉、〈彼女に逃げられたくない〉……。それは、みんな、自分の欲望が中心になっていることのように思えるんだ。誰のためでもなく、まず自分のためだったんじゃないかな? どうだろう……」
とパットじいさん。微笑したまま、あくまでもおだやかな口調で言った。
芳明は、ひとことの反論もできなかった。うちのめされたように、じっと、床を見つめていた。
やがて、パットじいさんは、苦笑い……。そして、
「もういいじゃないか。他人《ひと》に、お説教めいた話をするのは好きじゃないんだ」
と言って、お皿のキャビアに手をのばした。
「うむ……悪くない。麻里《マリー》も、どうだい」
1時間後。
わたしと芳明は、パットじいさんに見送られて、屋敷を出た。わたしたちの乗ったリムジンは、ゆっくりと屋敷から遠ざかる。玄関に立っているパットじいさんの姿が、小さくなっていく……。
パットじいさんは、あの広い屋敷に、メイドや運転手とだけ住んでいるという。
長男は会社の経営に忙しく、ホノルル中心部にあるコンドミニアムに、家族と住んでいる。長女は、結婚し、マウイ島に住んでいるという。
遠ざかるパットじいさんの屋敷を、わたしは、じっとふり返っていた……。
やがて、リムジンは屋敷の敷地を出た。
ふと、となりにいる芳明が口を開いた。
「オレって……」
と、つぶやいた。その手には、ちびって濡らしてしまった自分のショートパンツと、鼻血のついたTシャツが握られていた。
「オレって……最低だな……」
芳明は、つぶやいた。
「最低?……」
「ああ……。最低野郎さ……」
芳明は、吐き捨てるように言った。
「さっき、あのじいさんに言われたこと……よく考えれば図星なんだ。オレの本心をのぞき込んでみればね」
「…………」
「〈美人のキヨミを自分の恋人にしたい〉。そして、〈まわりに見せびらかして、うらやましがられたい〉。オレが思ってたのは、そんなことだけさ。キヨミを幸せにするなんて、ほとんど考えたことも、なかった……。ほんと、最低……」
と芳明。わたしは、小さくうなずいた。
「でも……それに気づいただけでも、いいんじゃない?」
と言った。芳明は答えなかった。じっと、窓の外を見つめていた。
[#改ページ]
[#1字下げ]20 いつの日か、ジップ・弁当《パツク》を2人で……
それから2週間が過ぎた。
午後のカラカウア|通り《アベニユー》を、通り雨《シヤワー》が走り過ぎていった。ほんの2、3分のシャワーだった。また、まぶしい陽射しだけが降りそそぎはじめた。
わたしは、休憩時間にウールワース・デパートまでいって、口紅を1本買った。
雨上がりのカラカウア|通り《アベニユー》を歩いて、プルメリア・ホテルに戻ろうとしていた。
キュッとブレーキ音がした。
ふり向くと、自転車にまたがった芳明がいた。芳明は、ちょっと錆《さ》びの出た自転車にまたがっていた。自転車をおり、わたしと向かい合った。
「元気みたいね……」
と、わたしは言った。
もう、顔の腫《は》れは引いている。左眼のまわりに、かすかな青アザ。そして、唇の端には、バンドエイドを貼っていた。
「ああ……おかげでね……」
と芳明。ちょっと照れたように微笑《わら》った。
「ポルシェは、どうしたの?」
わたしは、芳明の自転車を見て訊いた。
「ああ……売り払った。アパートメントも、引っ越した。以前みたいな小さな部屋にね。それで、借金を返した」
「きれいに清算できたの?」
「ああ……なんとかね……」
「よかったじゃない」
わたしは言った。見れば、芳明の表情が明るい。以前は、どこか翳《かげ》りのようなものが顔に漂っていた。それがいまは、ワイパーでひと拭きしたように消えていた。ふっ切れたということだろう。
「で、彼女は?」
わたしは訊いた。
「さあね……」
と芳明。微笑《ほほえ》みながら言った。
「こんな自転車に乗ってるオレの前に、2人分のジップ・弁当《パツク》を持った彼女が現れたりすれば、話としては上出来かもしれないけど、現実はそううまくいくもんじゃないんだ。そのぐらい、わかってるよ」
芳明は言った。
「あら、2週間でずいぶん大人になったのね」
「からかうなよ。これでも、けっこう本気でいろいろ考えたんだからさ」
と芳明。さっぱりした笑顔を見せた。
また、自転車にまたがった。立ち去ろうとする芳明に、わたしは言った。
「あんた……ポルシェなんかより、自転車の方が似合うわよ。本当に」
芳明は、自転車にまたがったまま、わたしを見た。
「今度は、ジップ・パックを一緒に食べてくれる、そんな彼女を見つけるのね」
わたしは言った。芳明は明るい笑顔を見せ、うなずいた。2度、うなずいた。
「じゃあ」
と言って、ペダルをふむ。陽射しの中に走り出した。
わたしは、芳明と別れると、通りからワイキキ・ビーチに入っていった。ビーチを歩いて、ホテルのプールサイド・バーに戻ろうとした。
プルメリア・ホテルが近づいてきた時、パットじいさんの姿が見えた。
パットじいさんは、いつも通り、くたびれた服と帽子《キヤツプ》を身につけ、金属探知機を、ゆっくりと動かしていた。
まわりの視線は全く気にせず、淡々とした表情で金属探知機を動かしていた。
50年前、妻が失《な》くした指輪を探すために……。
その時、わたしは思った。
もしかしたら、50年前の指輪など見つかる可能性はほとんどない。そのことを、パットじいさんは充分にわかっているのではないだろうか……。
けれど、亡くなってしまった最愛の女性に対して、いま自分がやってあげられることは、これしかないから……。パットじいさんは、ああしていまも、指輪を探しているように見える……。
そして、いま彼が砂浜でひろい上げているのは、幸福だった日々の断片なのかもしれない……。
わたしは、ふと、そんな風に思った。
パットじいさんは、わたしに気づく。
「やあ、麻里《マリー》」
と笑顔で片手を上げた。わたしも、
「がんばってね」
と明るい声で言った。パットじいさんに大きく手を振り、プルメリア・ホテルのビーチサイド・バーに入っていった。
カウンターに入り仕事をはじめて、30分ぐらいした時、バーの電話が鳴った。同僚のキモがダイキリをつくっている最中なので、わたしがとった。
「はい、ビーチサイド・バー」
「麻里《マリー》か!」
その声は、タケシだった。
「タケシ? いまどこ?」
「海の上さ。ホノルルのずっと南、約20マイル」
「海の上から電話がかけられるの?」
「もちろん。船には無線だけじゃなく携帯電話も積んでるからな」
受話器から、タケシの力強い声が響く。
「きょうはマグロがいっぱい釣れたんだ。船に乗ってる全員で分けることになった。これから港に向かうところだけど、今夜、また、マグロのバーベキューってのはどうだ?」
「もちろん! お招《よ》ばれするわ」
わたしは答えた。
その時、ビーチにいるパットじいさんの姿が遠くに見えた。あの広大な屋敷で、ひとり、キャビアをつまんでいるパットじいさんの姿を、わたしは想った……。
「ねえ、タケシ」
「なんだい」
「1人、友達を連れていってもいい?」
「ああ、もちろんさ。男かい? 女かい?」
「男性よ。それも、すごく魅力的な」
「おいおい」
「心配しないで。じゃ、後で」
「オーケイ」
電話を切った。ふっと息を吐いた。
バーのスピーカーから、セシリオ&カポノが唄う〈|We're All Alone《ウイア・オール・アローン》〉が低く流れていた。
わたしは眼を細め、遠い水平線を見つめた。
We're All Alone. わたしたちは、みな孤独……。そうなのかもしれない。そして、それを知っているからこそ、他人《ひと》に対して優しくなれるのかもしれない、と思った。
わたしの前にいるお客が、空になったグラスを、トンとカウンターに置いた。わたしは、われに返った。
お客は、品のいい初老の白人だった。微笑《ほほえ》みながら、
「ブラディ・マリーを、もう1杯」
と言った。
「了解《イエス》」
わたしは、ニコリとして答えた。もう、テキパキと働きはじめていた。
遅い午後のビーチサイド・バー。お客は、まだ少ない。かわりに白いハトが、テーブルの下でポテト・チップスのかけらをつついていた。海からのおだやかな貿易風が、バーをそっと吹き抜けていく。カウンターに飾ってあるピンク色の蘭の花が、かすかに揺れた。〈We're All Alone〉が、ゆったりと流れていた。
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[#1字下げ]あとがき
僕は、南洋の島々にくわしい作家ということになっているらしく(自分では、たんなる南洋好き≠セと思っているけれど)、よく、南の島々に関するインタビューをうける。
そんな時にまず訊かれるのが、〈どこの島が一番好きですか?〉という質問だ。〈タヒチあたりですか? それともセイシェルあたりですか?〉と、インタビュアーの人は身をのり出してくる。
そこで僕が、〈一番好きなのは、ハワイです〉と答えると、インタビュアーの人は、〈え?〉という顔になることが多い。
ふり返ってみれば、確かに、いろいろな島へ行った。
グァム、サイパンをかわきりに………バハマ。ジャマイカ。タヒチ。ニューカレドニア。プーケット。モルディブ。セイシェルetc………。そして、ミクロネシアのポナペや、クック諸島のラロトンガという、わりと珍しい島にも行った。
それらはみな美しい島々だった。
けれど、僕にとって〈一番好きな島〉は、やはりハワイなのだ。
僕は、作家になる以前、広告制作の仕事をしていた。だから、最初にハワイを訪れたのも、コマーシャルのロケでだった。
ロケとなると、さまざまな形で地元《ローカル》の人とつき合うことになる。
地元のスタッフを使う。モデルを使う。警官とつき合う。現地の家や庭を借りる。長い滞在になることもあるので、顔見知りもふえてくる………。
僕とハワイのつき合いは、そんな風にしてはじまった。つまり、観光客としてハワイの飾りたてた〈表玄関〉から入ったのではなく、|〈裏庭〉《バツク・ヤード》、あるいは〈勝手口〉から入って行ったようなものだ。
そうして、地元の人々と本音《ほんね》でつき合ってみると、ハワイはとても興味深い土地だということに気づきはじめた。
僕にとって面白いのは、ハワイの〈人間〉であり〈生活〉だ。
この島々は、アメリカの州の1つであり、同時に太平洋の交叉点でもある。そして、多くの人々にとっては〈夢の土地〉なのだ。
アメリカ本土から、カナダから、ヨーロッパから、オーストラリアから、東洋の国々から、夢を抱《いだ》いた人々がハワイにやって来る。昔も、今も………。
当然、そこには、さまざまな人生が展開される。
夢と挫折《ざせつ》。
出会いと別れ。
再会、そして、また別れ。
島を去っていく人。見送る人………。
そんなドラマがくり返されているのが、このハワイという島々なのだ。たとえば、ホノルルのダウン・タウンの街角や、ワイキキの通りに面したレストランに座ってながめていると、そんな〈|人生の瞬間《スライス・オブ・ライフ》〉が、風のように僕の前を通り過ぎていく。
人生には、成功より失敗や挫折の方が多いと僕は思う。けれど、このハワイでは、たとえ悲しい出来事が起きても、けして暗かったり重かったりはしない。
通り雨《シヤワー》のように、すぐに走り去り、その後には、虹が、かかる………。
たとえ涙を流しても、明るい陽射しと、サラサラと乾いた風が、すぐに乾かしてくれる………。
そんな風に思える土地は、このハワイしかないだろう。
そのハワイを舞台に、僕はいま新シリーズを書きはじめた。
これは、ホノルルに生まれ育った1人の、〈地元娘《ローカル・ガール》〉の生き方を描いた青春小説であり、恋愛小説であり、ホノルルという美しい街を舞台にした、ちょっと変わった探偵小説でもあります。
もう読み終えた方にはわかると思いますが、いままでの僕の小説に比べて、〈誰かを愛することは?〉というテーマに、より深くこだわって書きました。
たそがれのカラカウア|通り《アベニユー》に射すパイナップル色の温かい陽ざしが、読者のあなたに届けば、作者としては嬉《うれ》しい。
さて、近況です。
そうそう。この角川文庫の担当者がかわりました。ずっとがんばってくれていた大塚菜生さんにかわって、今度は、鶴町昭さんというバリバリの男性です。
鶴町さんの何がバリバリかというと、知る人ぞ知るアメリカの4WD車〈タイフーン〉に乗っているのです。
僕もたまたま、クルマを〈チェロキー〉にかえたので、作家と担当編集者がともにアメリカ製4WD車というコンビになってしまいました。〈タイフーン〉が4300cc、〈チェロキー〉が4000cc。2人合わせて〈8300ccのコンビ〉ということになります。なんか、パワフルでしょう?(クルマにくわしくない人には、関係ないか。ま、いいや)
最後に。
世田谷区給田の奈津子さん、角川あてのお手紙にあった、〈もうこの作品達は死ぬまで持ちつづけていますよ。引っ越ししても、結婚しても、絶対に持っていきますね〉という言葉、とても嬉しかった。
僕にとっては、読者のこういうお便りが、どんな批評や賞よりも嬉しいものなのです。
それでは、すべての読者の方々に、ハワイの優しい風が届きますよう。また会える日まで、少しだけグッド・バイです。MAHALO!
[#地付き]クリスマスの葉山にて   喜 多 嶋 隆
角川文庫『ブラディ・マリーを、もう1杯』平成7年1月25日初版発行
平成7年12月15日5版発行