[#表紙(表紙.jpg)]
ビリーがいた夏
喜多嶋隆
目 次
1 泥棒ビーチ
2 3ドル25セントで救われて
3 うちが〈朝一食堂〉だった頃
4 気分はスロー・バラード
5 勝手に泳げ
6 セミが鳴いていたあの日
7 告白はエア・メールで
8 たそがれの黒い瞳
9 クジラは、ビートルズが好きかもしれない
10 灯台は遠いけれど
11 海のビリー・ザ・キッド
12 18歳未満お断り
13 ファースト・キスは霧の中
14 密 漁
15 夢追い人に、バラードを
16 さよならの虹
エピローグ
あとがき
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1 泥棒ビーチ
あたしは、生まれてはじめて盗みをはたらこうとしていた。
砂浜にたたずんでいる、その外人の後ろに、そっと近づきはじめた……。
湘南。
葉山・一色《いつしき》海岸。
いまは、5月の前半。
ゴールデン・ウィークが終わったところだ。
海水浴シーズンは、まだ先だ。砂浜では、海の家の建築もはじまっていない。そのせいで、一色の砂浜は、ガランと広く見える。
俳優のいない舞台みたいにガランとした砂浜。午後の陽射しが斜めにさしていた。
遠浅の海に、磯《いそ》がポツリポツリと顔を出している。その磯の近くに、小船が浮かんでいた。
それは、地元の漁師の船だ。年寄りの漁師が、船べりから水中メガネで水の中をのぞきこんでいた。
漁師は、サザエを獲《と》っているのだ。
サザエを見つけると、先が三叉《みつまた》になった長いモリでサザエを突いて海から上げる。
このあたりでは〈見突《みづ》き〉と呼ばれている漁のやり方だった。
漁師は、海の中をのぞきこむのに熱中している。砂浜での出来事になんて、まるで気づかないだろう。
あたしは、また1歩、その外人の後ろに近づいていった……。
□
この日、あたしが一色海岸にきたのは、ほんの偶然だった。
学校から家に帰り、セーラー服を脱ぎ捨てた。カバンを放り出した。
煙草が吸いたかった。けど、家で煙草を吸うと母親がうるさいんで、外に出ることにした。
細身のジーンズをはいた。熱帯魚の柄のプリント・シャツを着た。綿のスタジアム・ジャンパーをはおった。スタジアム・ジャンパーのポケットに、SALEM《セーラム》とライターを入れた。
コンヴァースのバスケット・シューズをはく。家を出た。
家から一番近くにある一色海岸に向かった。松林の間の細い道を砂浜に向かっていく。
両側を塀《へい》にはさまれた石段を10メートルぐらいおりると、目の前に海が広がった。
いまは、午後4時。
かなり傾いた陽射しが、海に光っていた。
サラリとした初夏の風が、あたしのポニー・テールを揺らして過ぎた。
ガランとした砂浜。小さな波が、リズミカルに打ち寄せていた。波打ちぎわを、黒い犬が1匹、うろうろと歩いていた。それは、近くの釣り船宿〈長五郎丸〉の飼い犬だった。
あたしも、ゆっくりと砂浜を歩きはじめた。
歩きながら、セーラムを1本くわえた。ちょっと立ち止まる。ライターの火を両手でおおって、煙草に火をつけた。
また、歩きはじめた。
そのときだった。
砂浜にいる外人に気づいたのだ。
男だった。斜め後ろからなので正確にはわからないけど、わりと若い。金髪を短かめに刈っている。
長袖《ながそで》のボタンダウン・シャツ。その袖を、ヒジのところまでまくり上げていた。ジーンズをはいていた。
がっちりした体格をしていた。雰囲気からして、兵隊のようだった。
この葉山あたりには、アメリカ兵が多い。近くの横須賀《よこすか》基地《ベース》に勤務しているアメリカ兵が、よく、このあたりに家やマンションを借りて住んでいるのだ。
砂浜には、材木や鉄骨が積み重ねてあった。
もうしばらくすると、この砂浜で、海の家の建築がはじまる。その材木は、海の家をつくるためのものらしかった。
積んである材木に、外人は腰かけていた。ぼんやりと海をながめていた。
あたしの視線は、外人のわきに置かれているものに止まっていた……。
それは、どうやら、楽器ケースらしい。
トランペット? いや、ちがう。もう少し大きい。サキソフォンか、トロンボーンだろう。
もう3年ぐらい前、あたしが大人たちの言う〈まともな女の子〉だった頃、中学校のブラスバンドに入っていた。アルト・サックスを吹いていた。
だから、楽器ケースの大きさや形で、だいたい、中の楽器が予想できた。
サックスにしても、トロンボーンにしても、どっちでもいい。とにかく、売り飛ばしてお金になればいいのだ。
あたしは、煙草をくわえたまま、外人をながめた。
そっと後ろから近づいて、あの楽器ケースを持ち去ることは可能だろうか……。
さいわい、下は砂浜だ。足音はしないだろう。
なんとかなる。あたしの胸の中で〈GO!〉のサインが出た。
あたしは、くわえたまま短かくなった煙草を、指で足もとに捨てた。バスケット・シューズで、踏み消した。
外人の方に、そっと近づいていこうとした。
そのとき、砂浜をゆっくりとジョギングしてくる人影が見えた。あたしは、足を止めた。
走ってくるのは、外人の女だった。
あたしも、顔だけは知っている。この近所に住んでいる白人のおばさんだった。
確か、彫刻家だということだった。
湘南には、アメリカ兵も多いけれど、外人の芸術家もけっこう住んでいる。
その白人のおばさんは、あきらかにダイエットのためにジョギングしていた。あたしが見た感じでも、10キロは贅肉《ぜいにく》がついている。
おばさんは、やたら派手なウェアに身を包んでいた。
青いジョギング・パンツ。ピンクのTシャツ。金髪に白いヘア・バンドをしている。
そんな派手なかっこうなのに、ドタリドタリとした重そうな足どりでジョギングしてくる。
あたしは、公衆トイレのかげにかくれた。
おばさんは、海をながめている外人男の前を、走り過ぎる。たぶん知り合いじゃないんだろう。ちらっと顔を見ただけだった。
おばさんのぴっちりしたTシャツの下で、お腹の贅肉が、たぷんたぷんと揺れていた。
その太いお腹を見ていたあたしは、ふと、親友の智子《ともこ》のことを思っていた……。
□
智子が、妊娠していることに気づいたのは、2週間ぐらい前だった。
相手は大学生だという。今年の1月あたりからつき合いはじめた相手らしかった。あたしは直接に会ったことはないけれど、話にはきいていた。
妊娠に気づいた智子は、当然、相手の大学生に、そのことを言った。
相手は、鼻で笑って、
〈誰の子供だか〉
と言ったという。まるで、絵にかいたような展開だ。
そりゃ、智子は、まじめな女子高生とはいえないだろう。
あたしと同じで、学校もさぼる。煙草も吸う。ときには、ケンカもする。
けど、男女関係には、いちずだ。同時に何人もの男とつき合うような娘じゃない。
早い話、相手の大学生は、責任のがれをしようとしている最低野郎らしい。
さすがに、智子も、子供を堕《おろ》す決心をした。
けど、堕すにはお金が必要だ。相手の大学生にそれを言っても、のらりくらりと逃げてばかりいるという。
智子は、自分で少しのお金はつくった。といっても、手術にかかる費用には、かなり足りない。
その話をきいたあたしも、なんとかしようと思った。少しでもお金をつごうできればと思った。
けど、ダメだった。
バイトにいけば、すぐに雇い主の大人とケンカをしてしまう。(たいていの場合、むこうが悪いのだけれど)
おまけに、うちの母親は、徹底的にあたしに冷たい。小づかいなんて、ほとんどくれない。
とても、何万円というお金なんて、つくれそうにもない。
胸の奥が痛かった。何もできない自分がもどかしかった。
そんな時だ。砂浜に楽器ケースを置いて海をながめている、この外人男を見つけたのだ。
□
ジョギングのおばさんは、ゆっくりと遠ざかっていった。葉山御用邸の前を通り過ぎ、姿が見えなくなった。
すぐ近くの磯でサザエの見突きをしていた漁師も、小船をこいでどこかへ行ってしまった。
いまだ。
砂浜にいるのは、外人男とあたしだけだ。いまがチャンスだ。
あたしは、公衆トイレのかげから出ていった。そっと足音をしのばせて、外人男の後ろに近づいていく……。
あと30メートル……。20メートル……。男の斜め後ろから近づいていく……。
見れば、男は、缶コーヒーか何かを持っていた。それを飲みながら、ぼんやりと海をながめていたらしい。
あたしは、さらに近づいていく。
あと10メートル……。
体をかがめる。かがめたスタイルで、そっと男の後ろに近づいていく。
あと7メートル……。5メートル……。もう、男が持っている缶コーヒーのラベルまで読める。
3メートル……。2メートル……。1メートル……。
あたしは、左ヒザを砂浜についた。右手をそっと楽器ケースにのばす。
だいじょうぶだ。男はまだ、気づいていない。
楽器ケースの把手《とつて》を、つかんだ。ゆっくりと、こっちに引き寄せてくる……。
OK。
あたしは、楽器ケースを、自分の足もとまで引き寄せた。それを持ち上げた。立ち上がる。そっと回れ右。ずらかろうとした。
そのとき。
足もとで何か小さな音がした。
砂浜に落ちていたビニールのコップか何かを、踏みつぶしてしまったらしい。
外人男が、気づいた! ふり向いた!
あたしはもう、楽器ケースをつかんで駆けだしていた!
外人男が何か叫んだ。追いかけてくる!
あたしは、全速で走った!
けど、楽器ケースを持ってるんで、スピードが出ない。
20メートルぐらい行ったところで追いつかれた!
外人男が、あたしの片腕をつかんだ。
「待て!」
驚いたことに、やつは日本語で叫んだ。
〈待て〉と言われて待つバカはいない。あたしは、ふり向く。外人男のスネを、バスケット・シューズで蹴《け》った。
「ウッ!」
相手が声を上げた。あたしの腕をつかんでいた相手の手がはなれた。
あたしは、また走りだした。
相手も追いかけてくる。
あたしは楽器ケースを持ってるんで、やっぱり、スピードが出ない。
また20メートルぐらいいったところで追いつかれてしまった。
外人男の両手が、あたしの肩をつかんだ。
あたしは、とっさにヒジ鉄をくらわせた。
まぐれ当たりで、相手の腹に入った!
やつは、何か、うめき声を上げた。お腹《なか》をおさえた。
あたしは、また、走りだした。
けど、ちょっと息が切れはじめていた。
なんせ、足もとは走りづらい砂浜だ。おまけに荷物を持っている。走るのは、かなりしんどいのだ。
それでも、全力で走る!
相手も、あきらめずに追いかけてくる!
30メートルぐらいいったところ。相手は、あたしの腰にタックルをかけてきた! ラグビーみたいなタックルだった。
あたしと相手は、もつれ合って砂浜に転がった。
あたしは、顔から砂浜に突っ込んだ。思わず、
「ウプッ!」
と声を上げた。
顔中、砂だらけなのは、わかっていた。けど、いまはそんなことにかまってる場合じゃない。逃げなくちゃ。
あたしは、起き上がろうとした。
でも、ひどく息が切れていた。苦しい……。
砂浜に上半身を起こすのが、せいいっぱいだった。
砂浜に座り込んだかっこうで、ただ、ハアハアと荒い息をしていた。もう、砂浜を走る力は残っていなかった。
相手も似たようなものだった。
砂浜に両ヒザをついて、ハアハアと息をしていた。
「あきらめるんだな」
相手が日本語で言った。少し英語っぽいけど、かなり上手な日本語だった。
「そのケースを持って逃げられやしない。あきらめるんだな」
相手が言った。
それは、正しいと思えた。おたがいの走るスピードが同じだとしても、こんな楽器ケースを持って逃げ切るのは、無理だろう。
あたしは観念した。
「好きにして」
と言った。
「あたしを警察に突き出すなら、葉山警察はすぐそこよ」
と言った。どっちみち、不良呼ばわりされてきたこの3年間だ。いまさら、警察につかまることは怖くない。
高校も、そろそろ退学のしどきだろう。
OK。
あたしは、胸の中でうなずいた。
「警察に突き出すんなら、早くして」
と相手に言った。
外人男は、ちょっと考えている。そして、
「警察に突き出すのは、あとだ」
と言った。
「あとって……なんのあと?」
あたしは、きいた。
「事情《わけ》をきいた、そのあとだ」
相手は言った。
「わけ?……」
「ああ……。この金持ち国のニッポンで、君みたいな若い女の子が盗みをはたらこうとするには、何かわけがあるはずだ。それをきいて、警察に突き出すかどうか、決めるよ」
彼は言った。
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2 3ドル25セントで救われて
「妹が?」
あたしは、きき返した。相手の横顔を見た。
「ああ。故郷の町に、妹がいるんだ」
彼は言った。
あたしと彼は、海に面した駐車場にいた。一色海岸のはしっこ。砂浜から石段を5メートルほど上がったところに、駐車場がある。
20台ぐらい駐められる公営の駐車場だ。夏場はもちろんクルマがぎっしりだけど、いまはまだ、ガランとしている。
1台だけクルマが駐まっている。それは、彼のクルマらしかった。黄色いホンダ・アコード。かなりボロボロのクルマだ。
あたしと彼は、そのクルマのボンネットに並んで腰かけていた。目の前には、たそがれ近い海が広がっていた。
彼は、フレディと名のった。
「故郷は、アメリカのデトロイトってところだ。自動車づくりで有名な街だ」
フレディは言った。
あたしは、なんとなくうなずいた。その街の名前に、きき覚えがあった。
「ところが、アメリカの自動車産業は、このところまるでダメでね……。デトロイトの街全体がひどい不景気にみまわれているんだ」
「…………」
「ぼくの父親も、自動車会社に勤めていたんだけど、クビになった。当然、家は苦しかった」
「…………」
「あれは、ぼくが海軍《ネイビー》に入る少し前だから、19歳のときだ。妹は、16歳だった。妹のやつ、街の店で3ドル25セントのネックレスを万引きしてつかまっちまった」
「…………」
「たった3ドル25セントだぜ。それでも、妹は警察にしょっぴかれて……ぼくが引きとりに行ったよ」
「…………」
「警察に行くと、妹は泣いていたよ。初犯だったから、2時間ほどして釈放されたけど、その2時間のあいだ、ずっと泣いていたよ」
「…………」
あたしは、小さく、うなずいた。
そんなことがあったんで、このフレディは、あたしをすぐに警察に突き出さなかったらしい。ごつい体をしていても、心は優しい人間なのかもしれない。
そして、どうやら、3ドル25セントのネックレスが、あたしを助けてくれたらしい。
あたしは、フレディを見た。
年歳《とし》は、20代のまん中辺だろう。金髪を短かくカットして、横分けにしている。アゴや、鼻がボクシング選手みたいにごついけれど、青い眼は、優しそうだった。
優しい眼をしたボクサー。そんな感じだった。
□
「さて、じゃ、君のことをきこうか」
フレディが言った。
あたしは、このフレディに本当のことを話そうかどうしようか、迷っていた。けど、結局、話すことにした。
理由その1。
ここでケンカでもして警察に突き出されたら、あたしはともかく、智子が困る。あたしがブチ込まれてしまったら、お金もつくれないし、だいいち、相談相手もいなくなってしまう。
よく考えたら、それは、まずい。
理由その2。
このフレディが、けっこういい人間みたいだということ。
それで、あたしは、ちゃんと話してもいいかなという気になった。
「名前は?」
フレディが、きいた。
「湘《しよう》」
「ショウ?」
「そう。湘南の湘」
うなずきながら、あたしは答えた。
この名前は、ひどくいいかげんにつけられたものだった。
うちで主導権を握っている母親は、どうしても男の子がほしかったらしい。
でも、最初にできたのが女の子だったんで、がっかりしたらしい。
母親が入院していたのは〈湘南産婦人科〉という病院だった。その病院の頭文字をとって、あたしは〈湘〉と名づけられた。ひどいものだ。どれほど、期待されていない子供だったかわかる。
だいいち、湘なんて名前じゃ、男か女か、よくわからない。実際に、よくまちがえられたものだった。
あたしがジャジャ馬娘に育ったのは、この名前のせいもあると思う。
「苗字《みようじ》は?」
とフレディ。
「佐藤」
「佐藤湘か……。悪い名前じゃないよ」
フレディは言った。
「高校生だろう?」
「3年になったばかり」
「ってことは、18歳か」
「まだ17」
あたしは答えた。今度の8月で、18歳になる。あたしがそう言うと、フレディは、うなずいた。
「家は、この近くか?」
「そう」
「生まれてから、ずっと?」
「そう」
フレディは、また、うなずいた。そして、あたしの横顔を見た。
「OK。じゃ、事情《わけ》をきかせてもらおうか。君みたいな若い娘《こ》が、盗みをはたらこうとしたわけを」
とフレディ。
あたしは、小さく、ゆっくりとうなずいた。ぼつりぽつりと話しはじめた。親友の智子のこと。智子がどんな娘《こ》で、どんなふうに大学生の男の子とつき合いはじめたか。そして、妊娠してしまって……。
ごくあっさりと、あたしは話した。10分もかからなかったと思う。
「という、おそまつな事情なの」
あたしは話のラストに、そう言った。フレディは、ときどきうなずきながら話をきいていた。あたしが話し終わると、
「……なるほど」
と、つぶやいた。
「そういう事情で、この楽器を盗もうとしたわけか……」
と言った。あたしは、うなずきながら、
「そのアルト・サックスを盗んで売り飛ばそうと思ったわけ」
と言った。いまはもう、この楽器ケースの中身がアルト・サックスだと確信していた。楽器ケースは、それぞれの中身によって微妙に大きさと形がちがう。これは、まちがいなくアルト・サックスだ。
フレディは、〈おやっ〉という表情。あたしの方を見た。
「こいつがアルト・サックスだと、よくわかったなァ……」
と言った。
「中学生のとき、ブラスバンドに入ってたの。だから……」
「ブラスバンドか……。そこで、なんの楽器を?」
フレディが、きいた。
「……アルト・サックス」
あたしは答えた。事実をありのままに答えただけだ。
「そうか……」
とフレディ。うなずきながら、
「それで、この楽器ケースの中身がわかったわけか……」
「そういうこと。でも、楽器はなんでもよかったの。とにかく、売り飛ばしてお金になれば、よかったの」
あたしは言った。
海は、夕陽の色に染まりはじめていた。はるか沖。小型のヨットが6、7艇《てい》、グループになって北の方に動いていく。
あれは、大学のヨット部のものだろう。1日の練習を終えたヨット部のディンギーが、森戸《もりと》海岸に帰っていくんだろう。
あたしとフレディは、シルエットで動いていくヨットを、ながめていた。
「で、どうするの? あたしを警察に突き出すの、突き出さないの?」
あたしは、きいた。
フレディは、微笑《ほほえ》みながらゆっくりと首を横にふった。
「警察に突き出すのは、やめておこう」
と言った。
「同情なら、しなくてもいいのよ」
あたしは言った。フレディはかすかに苦笑して、
「同情じゃないさ」
と言った。
「……あの、妹の一件以来、どうも警察ってやつが好きになれなくてね……」
フレディは、あい変わらず苦笑したまま言った。
「それに、同じアルト・サックスを吹く人間を警察に突き出す気にはなれないなァ……」
とフレディ。つぶやくように言った。ぼんやりと海を見ている。いま、漁師の小船が1艘、沖を走っていく。蛸《タコ》ツボでもかけにいくんだろうか。
「それにしても、君もドジだな」
微笑《わら》いながら、フレディが言った。
□
「ドジ?……」
「ああ……そうさ。どうせ盗むんなら、もう少し高く売れそうな物を狙えばいいのに、よりによって、こんなボロの安物を狙うなんて」
フレディは言った。
あたしは、フレディのわきに置いてあるアルト・サックスのケースを見た。そのケースは、確かに古びている。あちこちにキズもあった。
「中身のアルト、安物なの?」
あたしは、思わずきいてしまった。フレディは、微笑《ほほえ》みながらうなずいた。
「18歳のとき、アルバイトでためた金で買ったんだ。しかも、中古品をね」
「中古品?」
「ああ……。教会のバザーに出ていた中古品さ」
フレディは言った。楽器ケースを手に取る。ゆっくりとした動作で、ケースを開けた。アルト・サックスを取り出した。
ネックやマウスピースは取りつけず、アルト本体だけを、あたしにさし出した。あたしは、そのアルトを手に取ってみた。
もとは濃い金色だったんだろう。けど、いまは、かなり色が落ちてシルバーがかった渋い金色になっている。
といっても、くたびれた感じはしない。しっかりと手入れされつづけてきたのがわかる。ベル。U管。細かいキーのひとつひとつまで、ていねいに磨き込まれていた。
メーカー名が、小さく刻み込まれていた。セルマーとかの有名なメーカーじゃない。〈GOOD《グツド・》 TONE《トーン》〉と書いてある。〈良い音色《トーン》〉。なるほど、わかりやすいネーミングだ。メーカー名のわきに〈Detroit《デトロイト》〉っていう文字が小さく刻んである。
たぶん、このフレディが生まれ育ったデトロイトって街の小さな楽器メーカーが、このアルト・サックスをつくったんだろう。
あたしは、その、よく手入れされたアルトをながめていた。ふと、
「プロなの?」
とフレディにきいた。フレディは、しばらく考えている。やがて、
「プロと言えなくもないし、むずかしいところだなァ……」
と言った。
「っていうと?」
「つまり……ぼくはいま、いちおう海軍《ネイビー》の人間なんだ。19歳で入隊して、もう6年間、ネイビーにいる」
あたしは彼の年齢《とし》を計算した。いま25歳。学校では落ちこぼれの不良でも、そのぐらいの計算はできる。
「ぼくの所属している第7艦隊は、横須賀をベースにしているから、もう5年以上、横須賀にいることになる」
とフレディ。
それで、日本語が上手な理由がわかった。
「少年だった頃から、プロのミュージシャンになるのが夢だった」
「…………」
「でも……とりあえず海軍に入って、あちこちを回ってみようと思った。いろんな経験をしながら、音楽の腕を磨いてみようと思ったんだ」
フレディは、ぽつりぽつりと話しつづける。
「君も、一度は楽器を手にした人間だからわかると思うけど……音ってのは、その人間のそのままが出てきてしまうんだ」
「…………」
「悲しいときには悲しい音が出るし、ハッピーなときはハッピーな音が出る。潔《いさぎよ》い人間は、潔い音を出すし、卑《いや》しい人間は卑しい音を出す」
「…………」
「つまり、音には、吹いている人間そのものが出てきてしまうと思うんだ」
あたしは、なんとなくうなずいた。
「だから、いろいろな土地に行き、いろんな人生経験をつむことも大事だと思って、ネイビーに入ったんだ」
「…………」
「ぼくが乗ってるのは大きな巡洋艦だから、艦《ふね》の中にもいくつかバンドがあって、最初は、そのバンドで吹いていた」
「…………」
「そうこうしているうちに、基地の外にも遊びに出るようになって、横須賀や横浜の店にも顔なじみになった」
「…………」
「飛び入りでその店のバンドに入って吹いているうちに、レギュラーでやらないかって言われて、週末は、そこで吹くようになったんだ」
「……なんていうお店?」
「横須賀のドブ板通り、知ってるかい?」
あたしは、うなずいた。
「あの通りの、〈汐入《しおいり》駅〉よりにある〈GG HOUSE〉っていう店だ」
「〈GG〉は、なんの略?」
「さあね」
フレディは、苦笑しながら肩をすくめた。
「とにかく、その店じゃ、ぼくに吹かせてくれて、ギャラもくれる。ギャラをもらってる以上、セミプロとも言えるわけだ。もちろん、たいしたギャラじゃないけどね」
「…………」
「ぼくにとっては、ギャラがどうこういうより、人前で演奏できることの方が大切なんだ」
あたしは、うなずいた。それは、なんとなくわかる。
「まあ、そんなわけだから、セミプロとも言えるし、まだアマチュアだとも言えるしね……」
とフレディ。あたしは、うなずきながら手に持っていたアルト・サックスをフレディに返した。
「ちょっと吹いてみてくれない?」
と言った。このフレディが、どんな音を出すのか、ちょっと興味があった。
3、4秒の間があって、フレディはうなずいた。
「OK。君を感動させることができるかどうかわからないけど、ちょっと吹いてみよう。きょうは、どっちみち練習するつもりでここに来たんだしね」
とフレディ。アルトにネックやマウスピースをつけ、組み立てはじめた。
「よく、海岸で練習するの?」
「ああ……。海岸で音を出していれば、とにかく他人の迷惑にはならないしね。火曜と木曜は軍の勤務が早く終わるんで、海岸に行っては練習してるんだ」
フレディは言った。アルト・サックスを組み立て終わる。首にかけた。
フレディは、マウスピースに口をつけた。唇で、リードを少し湿らせる。そして吹きはじめた。
スタンダード・ジャズだった。ミディアム・バラードだった。きき覚えはあるけれど、曲名は思い出せなかった。
フレディは、眼を細め、リラックスした感じで吹いていた。夕陽が、アルト・サックスに反射していた。
海に面した駐車場に、アルトの音が流れつづけている。
フレディの音は、厚みがあり、温かかった。その体つきと同じで、温かく、人を包み込むような音だった。
あたしは、思わず眼を閉じていた。
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3 うちが〈朝一食堂〉だった頃
眼を閉じて、アルト・サックスの音を聴《き》いていた。
そうしていると、自分がアルトを吹いていた中学生の頃が、頭の中にフラッシュ・バックしてくる。
あの頃……。
あの頃は、いつも陽射しにあふれていたような気がする。
そして、あたしは、ただただ元気なだけの湘南ローカル・ガールだった。
いつも陽に灼《や》けていた。いつも自転車を走らせていた。そして、いつも笑っていた。
そんな日々が、あたしの胸によみがえっていた。
あたしは、眼を閉じて、フレディの吹くアルトに耳をすませていた。
やがて、フェード・アウトしていくように、曲が終わった。
あたしは、そっと、眼を開けた。フレディを見た。フレディは、サックスのリードから唇をはなしたところだった。
拍手したりするのは、あまりにわざとらしいんでやめた。大げさなほめ言葉を口にするのも照れくさいんでやめた。あたしはぽつりと、
「けっこう、よかった……」
とだけ言った。
フレディは、ほんの少し微笑《ほほえ》んだ。
かすかに、うなずいた。
海は、かなり暮れかけてきていた。太陽はもう、向かい側の伊豆半島に沈みかけている。夏ミカン色の夕陽が、あたしたちの正面から射していた。フレディが持っているアルト・サックスに、クルマのバンパーに、あたしたちの横顔に、夕陽は照り返していた。
大学生たちのヨットも、もう、姿はない。さっきまで砂浜をウロウロしていた長五郎丸の犬も、いない。そろそろ夕食をもらいに帰ったんだろう。
フレディが、腕時計を見た。
「行かなくちゃ」
と言った。
「デート?」
あたしは、当てずっぽうに言った。けど、フレディは、
「まあね」
と、うなずいた。アルト・サックスからマウスピースをはずす。片づけはじめた。
「相手は日本人?」
「いや。アメリカ人さ」
「彼女、同じ兵隊さん?」
「いや。でも、基地《ベース》の中で働いてる娘《こ》さ」
とフレディ。分解したサックスを、ケースにおさめた。ケースの蓋《ふた》を閉めた。
「じゃ……また」
あたしは言った。クルマのボンネットから、ポンと飛びおりた。フレディも、ボンネットからおりる。クルマのキーを、ポケットから取り出した。
「それじゃ、デート、がんばって」
あたしは言った。フレディは、苦笑まじりにうなずいた。クルマのドアを開けた。ところどころに錆《さび》の浮き出たアコードは、2、3回せき込むような音をたて、やっとエンジンが始動した。
アコードは、ゆっくりと駐車場を出ていく。あたしは手を振った。フレディは、クラクションを短かく鳴らして応《こた》えた。そして、海岸通りに出ていった。
□
フレディのクルマを見送ると、あたしは海岸通りを歩きはじめた。両手をスタジアム・ジャンパーのポケットに突っ込んで、歩きはじめた。
4、5分も歩くと、真名瀬《しんなせ》の港が左にあらわれる。いまは釣り船が中心の小さな港だ。
港のわきには、かなり広い駐車場がある。釣り船の客や、夏は海水浴客がクルマを駐める駐車場だ。
そのとなりには、コンビニエンス・ストアがある。もう薄暗くなってきているので、コンビニの看板にも明かりがついている。ここが、あたしの家だ。
あたしの家は、もと、食堂だった。けど、3年前からコンビニに変わっていた。
店の裏手に家がある。一見小ぎれいだけど安っぽいつくりの2階家だ。
あたしは家に入った。リビング・ダイニングには誰もいない。弟は、進学塾に行っている時間だった。母親は、近くの家でオバサン仲間と〈フランス料理教室〉をやっているんだろう。いつものことだ。
あたしは、店の方に回った。従業員出入口から入る。
父親とバイトの男の子が、店番をしていた。父親は、あたしの顔を見ると、ただ無言でうなずいた。ニキビ面のバイトは、棚の品物を数えている。
あたしは、自分の夕食用に、棚からオニギリを3つ、取った。智子と一緒に食べることを思いついて、さらに2つ、取った。
オニギリを5つ、カウンターに持っていった。父親はうなずく。黙って、オニギリを店のビニール袋に入れた。
あたしは、それを持つ。父親の顔も見ないで店を出た。
□
「おい、万引きしちゃうぞ」
あたしは、店番をしている智子に声をかけた。居眠りしていた智子は、ハッと眼を開けた。
あたしの家から、海岸通りを4、5分歩くと〈リカー・ショップ中野〉はあった。智子の家だ。
昔は〈中野酒店〉だったのが、いまやリカー・ショップ。だけど、売っているものは何も変わらない。
智子は、店の奥にいた。レジの向こうに座っていた。正確に言うと、座って居眠りをしていた。
智子は、眼を開け、あたしを見た。
「湘か……」
眠そうな声で言った。
「欲しいものがあったら、なんでも万引きしてって」
と、アクビまじりに言った。あたしは、そのアクビの息をかいで、
「あんた、また飲んでるのね」
と言った。智子の息は、あきらかに酒の臭《にお》いがした。
「飲んでるんじゃなくて、商品のテストよ」
「テスト?」
「そっ。新製品のテストをしたの」
と智子。すぐそばにある空き缶を手に取って見せた。なんとかピーチ・フィズって描《か》かれてある空き缶だった。いかにも甘ったるそうな缶入りカクテルだった。
「やめなよ、こんなお酒。悪酔いするわよ」
あたしは言った。
「あんた、晩飯は?」
と智子にきいた。智子は、まだぼんやりした眼つきで、首を横に振った。
「じゃ、海でも行って食べよう」
あたしは、持ってきたビニール袋を見せて言った。
「食欲なんてないけど、海はつき合う」
と智子。のろのろと立ち上がった。レジのわきにある電話機を取った。内線らしいボタンを押す。
「出かけるから」
とだけ言った。返事もきかずに受話器を置く。ガラスばりの冷蔵庫を開ける。
「甘ったるいカクテルの口なおしをするか」
と言った。バドワイザーのレギュラー缶を4つ、ビニール袋に入れた。
「店番は?」
「誰か出てくるわよ」
と智子。缶ビールの入ったビニール袋を下げて歩きはじめた。あたしと並んで、海岸通りを歩きはじめた。
□
パッ。パッ。
斜め後ろで、クルマのクラクションが鳴った。ヘッド・ライトが近づいてくる。どうやら軟派小僧の乗ったクルマらしい。
ドアが少しへこんだソアラが、スーッとあたしたちの方に寄ってくる。助手席の窓が開いて、若い男が上半身をのり出してきた。
「ねえ、彼女たち」
と言った。
「何?」
ふり向いて、あたしは言った。相手は、あたしの顔を見ると、
「やばい、湘だ」
と言った。
「ずらかれ!」
と運転しているやつに言った。ソアラは、急加速。海岸通りを走り去っていった。
「誰? あれ」
智子がきいた。
「去年の花火のときに、長五郎丸から落ちたやつよ」
「ああ……あいつか。落ちたんじゃなくて、あんたが落としたんじゃない」
と智子。思い出したらしい。
去年。8月のはじめ。逗子《ずし》海岸の花火大会の夜。
葉山・真名瀬の港から、何|艘《そう》も船が出た。沖から花火見物をするために、大型の釣り船が出るのだ。
あたしや智子は、知り合いの長五郎丸に乗せてもらって沖へ出た。その船には、地元の若い連中が大ぜい乗っていた。その中の1人が、あたしに抱きついて無理やりキスをしようとしたのだ。
あたしは、ヒジ鉄をくらわせ、そばにあったポリバケツでぶん殴った。
相手はふらついて、そのまま海に落ちて濡《ぬ》れネズミになった。それだけのことだ。
「あの馬鹿か」
「そう。あの馬鹿」
あたしたちは、ゲラゲラと笑いながら、海岸通りを歩いていく。
□
「ねえ」
あたしは、並んで座ってる智子に、
「あんた、このところ、飲み過ぎなんじゃない?」
と言った。
「ああ……わかってる……」
缶ビールを手に、智子はつぶやいた。
あたしたちは、防波堤にいた。
真名瀬港の防波堤にいた。港を波から守るための防波堤。そこに座っていた。
あたしは、この場所が好きだ。
朝早く。たそがれ時。そして夜。この防波堤に座っていると、なぜか気分がいい。
理由は、深く考えたことがない。海に突き出した防波堤にたたずみ、海風に吹かれていると、嫌《いや》なことも少しは忘れられそうな気がしてくるのだ。
いまも、そうだ。夏前の少しひんやりとした海風が、頬《ほお》をなでていた。
もう、あたりは真っ暗だ。ほとんど正面に裕次郎灯台が点滅している。海の中に立っている小さな灯台。その明かりが、3秒間隔で点滅していた。
右側に見える明かりは葉山マリーナ。もう少し左に逗子マリーナ。そして、海岸道路134号の灯が、ネックレスみたいにつながっている。
灯は、ずっと水平につづいている。鎌倉の|由比ケ浜《ゆいがはま》。七里ケ浜。そして江《え》の島《しま》へ。光が細く長くつづいている。
空には、星が出ている。ささやかだけれど、いくつか、星が見える。
静かだった。きこえるのは、防波堤に寄せる波の音だけだ。ジャプッ、ジャプッという小さな波の音だけが、きこえていた。
あたしと智子は、防波堤に座って、そんな夜の海をながめていた。缶のバドワイザーを飲んでいた。
「わかってる……」
智子が、つぶやくように言った。
「飲み過ぎだってことは、わかってる」
と言いながら、智子はゲップをした。
「でも……飲まなきゃ、やってられないのよ」
「……そりゃ、わからないこともないけど……」
あたしは、つぶやいた。
この1年ほどで、智子は、4、5回も男づき合いに失敗している。
もともと、あたしと智子は幼な友達だった。中3の頃から、2人とも学校をさぼったり、ケンカをしたりするようになった。鎌倉にあるK女子学園に2人だけで殴り込みをかけたのは、高1の秋だった。
そんな智子が少しずつ変わったのは、約1年前。高2になった頃だった。
早い話、男に目覚めてしまったらしい。つぎつぎと恋人らしいものをつくった。けど、いつもくだらない相手ばかりだった。
細身のあたしに比べると、智子はバストやヒップに肉づきがいい。その体めあての男の子ばかりが、ハエのように智子に寄ってくるのだ。
何回か寝ると、決まって、男の方から逃げていく。そんなことがつづいた。
そのたびに、智子の酒量はふえていった。もちろん、自分の家が酒屋だってのも、良くないんだろう。
「17かそこらで、アル中ってのは、あんまり笑えないよ」
あたしは言った。
「まあねェ……」
「それに、あんた妊娠……」
と言いかけて、あたしは言葉を呑《の》み込んだ。
「いいよ、本当の事なんだから。でも、どっちみち堕《おろ》す子供なんだし……」
智子が言った。また、缶ビールをグイと飲んだ。
「それで……相手との話し合いは、どうなってるの? 堕すお金、少しは出してくれそうなの?」
あたしは、きいた。
「明日の夕方、また会って話すことになってるんだ」
と智子。あたしは、うなずく。
「絶対に強く出なきゃダメよ。せめて堕すお金ぐらい、きっちり出させなきゃ」
と言った。智子も、ビールの缶を片手にうなずいた。
□
「ほら、少しは食べなさいよ」
あたしは、ビニール袋からオニギリを2個取り出した。1個を智子に渡した。自分でも1個手に取る。セロファンの包みを開けはじめた。
手品みたいなしかけの包みをほどく。海苔《のり》を巻いたオニギリが手の中に出現した。巻いてある海苔は、一見、パリパリしている。けど、ひと口かじると、その安っぽさがわかる。味も香りもひどく薄く、まるでグリーン色の紙みたいだった。
それでも、あたしは空腹だったんで、オニギリをかじった。
〈シャケオニギリ〉と包みには印刷されていたけど、シャケの身なんて、ほとんど入っていない。そのかけららしい物が、かすかに入っていたような感じだった。
しょせんコンビニのオニギリじゃないか。あたしは、自分にそう言いきかせる。缶ビールで流し込んだ。
ポケットからセーラムのパッケージを出した。1本くわえる。ライターの炎を両手で囲んで火をつけた。深く吸い込んだ。
メンソールの香りと潮の匂《にお》いを、胸深く吸い込んだ。
煙をゆっくりと吐き出しながら、眼を細めた。ああ……このオニギリ、自分の家に似ているなあと思った。
一見ちゃんとしているけど、中身はスカスカ。
そんなところが、まるで自分の家みたいだなあと、苦笑まじりに思っていた。
□
あたしの家は、食堂だった。
名前は〈朝一食堂〉。文字どおり、朝一番からやっているんでつけた店名らしい。
うちのある場所は、港のそばだ。朝早くから人が集まってくる。漁師。釣り船屋の人たち。そして釣り船のお客たち。
そんな人たちが、早朝から集まってくる。うちは、そんな人たちに温かい朝食を出していた。
眼の前の相模湾でとれた魚を使ったメニューだ。アジ。サバ。ヒラメ。カワハギ。そんな魚たちを使ったメニューは、お客に人気があった。包丁を握っている父親の腕も良かったんだろう。
あの頃の朝が、あたしは好きだった。
目を覚ますと、下から魚を焼く匂《にお》いがしてくる。ネギを刻む音がしている。
朝から海に出る漁師や釣り船の人が、朝ごはんを食べながら海の話をしていた。
その日の天候。風。潮。魚群……。
船の人たちが大声でかわすそんな海の話をききながら、あたしは朝のしたくをするのが毎朝のことだった。
弟はテレビっ子だったけれど、あたしは外で遊ぶのが好きだった。ごく自然に、漁師や釣り船の人たちに可愛《かわい》がられるようになった。
みんな、男の子みたいだったあたしに、いろんなことを教えてくれた。
魚の釣り方や蛸《タコ》の獲《と》り方をはじめ、海についてのいろんなことを、あたしはおぼえていった。
小学生の頃の夏は、一日中、水着でいたような気がする。いつもヒザをすりむいたりしていたけど、幸福だった。頭の上には、いつも、青空があった。ふり向けば、大峰山(あたしたちはトンビ山と呼んでいる)の上に、ソフト・クリームみたいな夏雲がこんもりと、もり上がっていた……。
父親も元気に食堂をやっていた。
〈店は小さくても、湘南で一番おいしい魚を出すのはうちさ〉が、父親の口ぐせだった。
そんな父親の後ろ姿が、あたしは好きだった。
けど……そんな幸せな日々にも、終わりが近づいていた。
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4 気分はスロー・バラード
それは、あたしが中学2年の時だった。
あたしと3つちがいの弟を、名門の私立中学に入れると、母親が主張したのだ。
うちの母親は、もともと、見栄っぱりな女だった。家が〈食堂〉をやっていることも、ずっと嫌だったらしい。
たまたま、弟の雅之《まさゆき》は小学校の成績が良かった。
母親は、弟を逗子にある名門の私立に入れると言い張った。その私立から、東京の一流大学に入るのが、湘南ではエリート・コースだった。
もちろん、父親は反対したらしい。けど、母親の言い分は、こうだった。
〈私は雅之に、こんな小さな食堂を継《つ》がせたくはないの〉
〈チャンスさえあたえれば、雅之は一流商社員でも外交官でも、なれる資質があるのよ〉
〈あなたは、自分の子供が可愛《かわい》くないの?〉
そんなことを母親は強硬に主張し、父親とやり合っていたのを覚えている。
結局、母親が主張を通して、雅之は私立を受験することになった。父親が押し切られたのだ。
私立を受験するとなると、まず、問題はお金だった。その逗子の名門校は、お金がかかることでも有名だった。
そのまま〈朝一食堂〉をやっていては、とても無理だった。父親は、新鮮な魚を出来るだけ安く、客たちに出していた。良心的な経営だった。けれど、それだけに、あまり儲《もう》かってはいないようだった。
ちょうどその頃、コンビニエンス・ストアにしないかという話が持ちかけられていた。相手のプランどおりにいけば、食堂をやっているより、かなり儲かるらしかった。
もめにもめたあげく、やはり、母親が押し切った。食堂は閉店して、コンビニにすることに決まった。
〈朝一食堂〉最後の日。
その夜のことは、よく覚えている。
近くの漁師や釣り船の人たちが、お酒を下げて飲みにきた。みんな閉店をおしんで、酔っぱらっていった。
夜ふけ。
最後のお客が帰ったあとの店。父親は、ひとり、調理場にたたずんでいた。そして、もう二度とつけることのないコンロの火を、そっと消した。その後ろ姿を、あたしはじっと見ていた。
父親の肩は、小刻みに震えていたような気がした。
あたしは、父親の後ろ姿に、無言で叫んでいた。
〈あれだけ愛してたお店を、なぜ捨てられるの!?〉
〈湘南で一番の店だっていうプライドを、なぜ捨てられるの!?〉
そう叫んでいた。
高3になったいまなら、つらかっただろう父親の立ち場も少しはわかる。けど、中3のあたしは、ただひたすら、父親に失望していた。
翌週。
食堂兼住居だった建て物はとり壊された。コンビニと、その裏に自分たちの家が建った。一見小ぎれいだけど、ひどく安っぽい家だ。
でも、そんな家が、じつは母親が望んでいたものだったらしい。電話にもトイレのドアにも、気持ち悪いフリフリのカバーがつけられ、居間には安っぽいシャンデリアが吊《つ》り下げられた。
母親は食堂の〈おかみさん〉から〈奥様〉に、望みどおりの変身をとげた。
漁港の人たちとは、あまりつき合わなくなった。かわりに、東京に通っているサラリーマンの奥さんや、別荘族とつき合うようになりはじめた。
プロのシェフを呼んで、あちこちの家でフランス料理教室を開いたりしはじめた。完全な〈ザアマスおばさん〉になっていた。
父親は、ほとんど死んだサバのような眼をして、コンビニをやっていた。赤と白のへんちくりんな服を着て、しなびた野菜やインスタント・ラーメンを売っていた。
あたしは、母親はもちろん、そんな父親にもムカついていた。
好きだったブラスバンドもやめた。学校をさぼるようになった。煙草を吸いはじめた。
何かに当たり散らさなければやってられない気分だった。
この頃からのあたしは、舵《かじ》を失なったヨットみたいなものだったのだろう。ただ、やみくもに、ただジグザグに、突っ走りはじめていた。
高1で2回、停学をくらった。高2で3回、停学をくらった。
今度何か問題を起こしたら、つぎは退学だろう。もちろん、怖くもなんともない。失《な》くすものなど、何もない。
あたしは、セーラムを吸い終わると、指先でピッとはじいた。小さな赤い火が、海に落ちていった。
智子は、2缶目のバドワイザーをゆっくりと飲んでいた。波は、あい変わらずリズミカルに防波堤を洗っていた。
□
翌々日。
あたしが学校から帰ると、家では例のフランス料理教室が開かれていた。近所のザアマスおばさん達5、6人が、プロの料理人らしい人を囲んでいた。
母親は、台所のゴキブリを見るような眼であたしを見た。あたしも、丸めた新聞紙で叩《たた》かれる前にずらかることにした。
部屋でジーンズに着がえ、外に出ていく。
背中におばさん達の声がきこえる。うちの母親が、このテリーヌがどうのこうのとしゃべっていた。
何がテリーヌだ。すかしちゃって。この前まではサバの味噌煮《みそに》をつくってたくせに。あたしは胸の中で毒づいていた。
毒づきながら家を出た。足は、自然に一色海岸に向かっていた。
きょうは少し雲が多い。淡い陽射しが砂浜にさしていた。砂浜を歩きはじめると、アルト・サックスの音がきこえた。
□
「やあ、湘」
フレディは、手を止め、あたしに白い歯を見せた。あたしも、かすかに微笑《ほほえ》んで、うなずいた。
ヨット・パーカーのポケットに両手を突っ込んだまま、フレディと並んで材木に腰かけた。
「さえない顔してるな」
フレディが言った。あたしは、小さくうなずいた。
「あの、妊娠してる友達のことかい?」
とフレディ。あたしはまた、小さくうなずいた。
智子はきのうの夕方、相手の大学生と会ったという。相手は、赤ん坊を堕《おろ》すお金を出すという。
〈けど、そのあとに、なんて言ったと思う?〉
と智子は言った。
〈なんて?〉
と、あたし。
〈お金は出すから、もう一度やらせろだって〉
〈……で?……〉
〈相手の顔にコーヒーをぶっかけて帰ってきたわよ〉
智子は言った。ついさっき、学校の屋上できいた話だ。
「そいつは、ひどい話だな……」
話をきき終わったフレディは、つぶやいた。あたしは、ポケットからセーラムを出す。くわえる。火をつけようとした。けど、なかなかつかない。腹を立てているのが、自分でもわかっていた。
やっと火がついた。メンソールの香りを、深く吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す。少しは気分がほぐれてきた。
あたしの横顔を、フレディがじっと見ていた。そして、
「吹いてみないか」
ぽつりと言った。
□
「吹く?……」
あたしは、きき返した。フレディを見た。
「ああ。気分がムチャクチャするときは、でかい音を出すのが一番だよ」
とフレディ。〈ムシャクシャ〉をちょっとまちがえたけど、明るい声で言った。自分が持っているサックスをちょっと持ち上げてみせた。
「ちょうど、新品のマウスピースとリードがあるんだ」
フレディは言った。かたわらの楽器ケースを開けた。確かに新品らしいマウスピースとリードを取り出した。
「楽器屋に注文しておいたのが、きのう届いたんだ」
フレディは言いながら、締金《リガチヤー》でリードをマウスピースに取りつけた。それをサックスのネックに差し込んだ。
「ほら。いいから、気分転換に吹いてみろよ」
と言った。アルト・サックスを、あたしにさし出した。
なぜこのときに楽器を手にしたのか、あたしはあまりよく覚えていない。
とにかく、アルト・サックスを受け取っていた。
吹くかどうか、別に決めてはいなかったけれど、とにかく、サックスを両手で持っていた。
心地良い重量感。そして、渋く美しい金属の輝き……。
あたしの中に、中学生の頃がよみがえっていた。毎日、アルトを吹いていたあの頃が、よみがえろうとしていた。
いいじゃないか。
ひさびさに吹いてみても。
自分自身に、そう言いきかせていた。ミスしようがメチャクチャだろうが、聴いているのはフレディとカモメだけだ。
OK。
あたしは、うなずいた。
「じゃ、ちょっとだけ、吹かせて」
と言った。サックスのストラップを、首にかけた。ストラップの長さを調節した。
キーに触れてみた。軽く動かしてみる。どのキーも、なめらかに、でも確実な手ごたえで動く。よく手入れと調整をされている楽器だと、すぐにわかった。
そっと、唇でリードに触れてみる……。
ま新しいリードに独特の感触が、舌先に伝わってくる。
あたしは、肩の力を抜いた。息を大きく吸い込む。
。
思いっきり音を出してみた。
けど、失敗。
キーッというヒステリックな音が飛び出した。
あたしは、思わず笑ってしまった。笑うしかなかった。
また、サックスを持ちなおす。気持ちをたてなおす。
リードに唇をつけた。体の力を抜き、息を吹き込んだ。
の音が、きれいに出た。OK。
今度は、思いきり息をため込んで、吹いた。のロング・トーン。うまくいった。澄んだ音がのびていく。砂浜に響きつづける……。
つぎは、音階を吹いてみた。
思ったよりうまくいった。指使いも完全に覚えていた。
|1《ワン》オクターブ上も吹いてみる。最高音部はちょっと苦しくなる。けど、なんとか、きれいな音が出た。
さあ、何か曲を吹いてくれよ。そんな眼で、フレディがあたしを見た。
何を吹こう……。あたしは考えた。
ブラスバンドで吹いていたマーチじゃ、あんまりだ。
それより、自分勝手に吹いていた曲のどれかがいい。
決めた。あれにしよう。
あのバラードにしよう。
あたしは、アルト・サックスをしっかりと持ちなおした。キーの上に指を置いた。
眼を閉じた。
深呼吸ひとつ……。
吹きはじめた。
〈|We're AII AIone《ウイア・オール・アローン》〉。B《ボズ》・スキャッグスが唄《うた》ったスロー・バラード。昔から好きな曲だ。
〈私たちは、みな孤独〉そのタイトルも好きだった。
あたしは、眼を閉じたまま、吹きつづけた……。
□
終わった。
あたしは、最後の音を、静かに吹き終わる。すべての思いを込めて、吹き終わる。軽く肩で息をした。そっと、眼を開けて、海を見た。しばらく、眼を細めて海を見ていた。
やがて、となりのフレディを見た。
フレディは、じっと黙っている。黙って、海を見つめている。
その横顔は、ちょっと怒ってるようにも見えた。
あたしは心配になって、フレディの横顔を見ていた。
フレディは、ぽつりと、口を開いた。
「……なんて音を出すんだ……」
と言った。
□
「なんて音?……」
あたしは、思わずつぶやいていた。
フレディは、うなずいた。
「ぼくは、日本語がそれほどうまくないから、そうとしか言えない」
「…………」
「……つまり……ぼくが言いたかったのは……なんて切ない音を出すんだっていう……そういうことなんだ……」
「なんて切ない音?……」
フレディは、ゆっくりとうなずいた。
「ああ……君は、とても、限りなく。切ない音を出す……。これは……これだけは、言える」
とフレディ。あたしの顔を見ず、海を見つめたまま、言った。
それだけ言うと、しばらく黙っていた。やがて、
「もう2、3曲、吹いてくれないか」
と言った。
あたしは、うなずいた。サックスを持ちなおす。
また、バラードを吹きはじめた。
〈|You Are So Beautiful《ユー・アー・ソー・ビユーテイフル》〉
今度は、かなり落ちついて吹けたような気がする。
フレディは、じっと、あたしの演奏に耳をすましていた。
3曲目。〈|I'm Not In Love《アイム・ノツト・イン・ラヴ》〉。これも好きな曲だ。
もう、アルトの指使いには完全に慣れていた。ほかのことは忘れ、ただ、吹くことに熱中していた。
頬《ほお》が、少し熱くなっていくのがわかった。
4曲目。〈|Without You《ウイズアウト・ユー》〉。あたしは眼を閉じ、ただひたすら、スロー・バラードを吹きつづけていた。フレディが、じっと耳をすましていた。
□
翌週。火曜日。夕方。
あたしはまた、一色海岸に行った。
フレディは、もう、来ていた。いつものように、材木に座って海をながめていた。アルト・サックスはケースに入れたまま、わきに置いてあった。
フレディは、最初に会った時みたいに、缶コーヒーをゆっくりと飲んでいた。
あたしがとなりに座ると、
「やあ、湘」
と、白い歯を見せた。
「床屋に行ったのね」
あたしは言った。フレディの髪が、いつもよりさっぱりと刈り込まれているのに気づいたからだ。
「トコヤ?」
とフレディ。どうやら、その日本語がわからないらしい。
あたしは、近所にある床屋の店を思い浮かべた。そのドアに描いてある英語を思い出す……。そうだ。
「バーバー」
と言った。発音が正しいかどうか、まるでわからない。指をハサミみたいにして、髪を切る動作をした。それでフレディもわかったらしい。
「そう。髪をきれいにしたんだ」
微笑《ほほえ》みながら、そう言った。
「どうしたの? またデート?」
あたしがきくと、フレディは、首を横に振った。
「そうじゃないんだ」
と言った。その表情が、少し硬い。
「どうしたの? 何かあったの?」
あたしは思わず、きいた。フレディは、じっと水平線を見ている。そして、
「しばらく、日本を離れることになったんだ」
と言った。
「日本を……離れる?……」
「ああ……」
「軍の任務?」
「ああ……ちょっと遠くに行くことになってね」
フレディは言った。
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5 勝手に泳げ
「軍の任務で、遠くへ……」
あたしは、もう一度、つぶやいた。確か、フレディは、大きな巡洋艦の乗務員だと言っていた。
アメリカはいま、どこかと戦争しているだろうか……。あたしは、頭の中で思いめぐらしてみた。
「イラクとか、あっちの方に行くの? それとも……カンボジアとか、そっちの方?……」
あたしは、きいた。フレディは、しばらく無言でいた。
「それは、言えないことになってるんだ」
と、つぶやいた。
「そうか……」
そうかもしれないなァ……と、あたしは思った。軍の任務なんだから、そうペラペラと民間人に話すわけにはいかないんだろう。それが当然だと、あたしは納得した。
「じゃ……当分、戻ってこられないの?」
あたしは、きいた。
フレディは、ゆっくりと、うなずいた。
「多分……かなり長い任務になると思う」
と言った。
「そこで、君に、ひとつ、頼みがあるんだけど」
とフレディ。
「頼み?」
あたしは、フレディの横顔を見た。
「ああ。ぼくがいない間、こいつをあずかっていてほしいんだ」
とフレディ。かたわらにあるアルト・サックスのケースを、ぽんと叩《たた》いた。
「…………」
「湘も知ってると思うけど、楽器ってやつは、使わないで置いとくと、くたびれていっちゃうんだ」
あたしは、うなずいた。
「ときどき手入れをして、しょっちゅう吹いてやってないと、楽器は、なんていうか、やつれていっちゃうんだよ」
「わかるわ……」
あたしは、つぶやいた。
「だから……ぼくがいない間、このアルト・サックスをあずかっていてほしいんだ。手入れして、吹いてやってくれないか」
フレディは言った。
あたしは、ちょっと考えた。けど、断わる理由がなかった。
「頼むよ」
とフレディ。
「……わかったわ……。あずかる」
あたしは言った。
「助かるよ。やっぱり、楽器は好きな人に持っててもらうのが一番だからね」
とフレディ。缶コーヒーを口に運んだ。
「……そうか……日本を離れちゃうのか……」
あたしは、つぶやいた。はるか彼方の水平線を、じっとながめた。フレディとせっかく知り合ったばかりなのに、少し残念な気がした。けど、やっぱり、彼は軍の人間だ。任務ならしかたないんだろう。
「すぐに帰るよ」
とフレディ。
「それに、手紙を書くから、住所を教えてくれないか」
あたしは、うなずいた。フレディがさし出したメモ帳に、ローマ字で名前と住所を書いた。
「それで、いつ出発するの?」
「明日」
「明日?……」
「ああ……。急だけど、軍の任務ってのはそんなものでね……。しかたないんだ」
とフレディ。さすがに、ちょっと沈んだ顔をしている。そりゃ、観光旅行に行くんじゃないから、ウキウキした気分にはなれないのはわかる。
「じゃ……出発の準備もあるから、これで行くよ」
とフレディ。立ち上がった。あたしも立ち上がった。
「気をつけてね。絶対に、手紙、書いて」
「ああ、書くよ」
あたし達は、短い握手。そして、フレディは砂浜をゆっくりと歩いていった。
□
その夕方。あたしが楽器ケースを持って家に帰っても、母親は、まるで気づかなかった。リビングの電話で、仲間のザアマスおばさんとしゃべっている。弟は、パソコンに熱中している。
あたしが象を連れて帰っても、誰も気づかないだろう。
□
翌日。夕方。
あたしは、さっそく、アルト・サックスを持って一色海岸に行った。フレディに頼まれたんで、楽器に空気を吸わせる目的もあった。
けど、それだけじゃない。
思いきり音を出していると、モヤモヤしている気分が晴れるような、そんな気がすることも確かだった。
あたしは、楽器ケースを片手に、一色海岸に行った。
けれど、砂浜は、きのうまでとは様子がちがっていた。
海の家の建築が、はじまっていた。工事の人が何人もいた。材木や鉄骨を動かしたり、工具を使って土台をつくりはじめたりしていた。砂浜には、電動ノコギリの音や人の声が響いている。とても、楽器の音を出してみるような雰囲気じゃない。
一色海岸は、あきらめた。
あたしは、いつもの防波堤に行くことにした。
□
防波堤に、人の姿はなかった。
あたしは、楽器ケースを片手に下げて歩いていった。いまは4時半を過ぎている。港は、静かだった。この港の釣り船は、4時頃にはみんな帰ってくる。お客をおろし、船は、船だまりにズラッと並んで舫《もや》われている。
森戸の磯《いそ》の、さらに沖。小型のヨットがいくつも動いていくのが見える。あれは、大学のヨット部の連中だ。1日の練習を終えて、ヨットを上げるために森戸の海岸に戻っていくのだ。
きょうは風が強い。防波堤の高い所にいると、細かい波しぶきが飛んでくる。
あたしは低い方におりることにした。
この防波堤は、高さが2段になっている。高い方にいると、広々とした外海がながめられる。そして、低い方は、港の内側に面している。この低い方にいると、外海からの風や波しぶきをあまりうけないのだ。
防波堤の低い方には、漁師の使う漁具なんかが、ところどころに置いてある。小船を舫《もや》うための太く短かい鉄柱が、いくつか立っている。この鉄柱はビットと呼ぶらしい。
あたしは、そのビットの1つに腰をおろした。ビットは、腰かけるのにはちょうどいい高さだった。上がマッシュルームみたいな丸みをおびているので、腰かけても痛くはない。
あたしはビットに腰かけると、楽器ケースを開いた。アルト・サックスをとり出した。組み立てはじめた。
その時、エンジン音がきこえた。
あたしは、ふり向いた。防波堤の先端を回って、小船が港に入ってくるのが見えた。小型の船外機をつけた伝馬船《てんません》が、あたしのいる方に近づいてくるのが見えた。
乗っているのは、1人だった。若い男らしかった。1人で伝馬船を操って、防波堤に近づいてくる。どうやら、この防波堤に船をつけるつもりらしかった。
船が、エンジンをスローにして近づいてくる……。
乗っているのは、あたしと同じ年齢《とし》ぐらいの男の子だった。17とか18とか、そんなものだろう。
見たことのない顔だった。
このあたりの釣り船や漁師の顔は、ほとんど知っている。けど、この顔に見覚えはなかった。
小船はエンジンを中立《ニユートラル》にした。それまでの惰性をうまく使って防波堤に近づいてくる。船を扱いなれているのが、よくわかった。
その男の子は、深く陽灼《ひや》けしていた。チョコレート色の陽灼けが、肌にしみ込んでいた。
まだ5月で、この陽灼け……。とても、遊びで海に出ている人間のものじゃない。
男の子は、グレーのウエット・スーツを着ていた。顔は細いけれど、肩幅が広く、首も太かった。
茹《ゆ》でる前のソーメンみたいにまっすぐな髪が、パラパラと額にかかっていた。沖縄あたりの人間みたいに、眉《まゆ》が濃かった。
小船の上には、プラスチックのケースがあった。中にはサザエやアワビが20個ぐらい入っていた。
船の上には、水中メガネや、〈磯鉄《いそがね》〉と呼ばれている道具があった。磯鉄は、磯についているアワビやトコブシをはがすための漁具だ。
どうやら、この男の子は、素|潜《もぐ》りでアワビやサザエを獲《と》ってきたところらしい。髪も、まだ濡《ぬ》れていた。
男の子は、小船の舫《もや》い綱を持つ。船首から、身軽に防波堤に跳《と》び上がってきた。あたしのすぐそばだ。
あたしが腰かけてるビットに、舫い綱をくくりつけるつもりらしい。あたしに、
「どけよ」
と言った。そのぶっきらぼうな言い方に、あたしはムッとした。
「どけよとは何よ」
あたしは言った。
「うるさいなあ。こっちは急いでるんだ」
相手は言った。
「ほら、どけ」
と言いながら、ビットに座ってるあたしの肩をドンと押した。
あたしは、思わずバランスをくずした。よろけて、尻《しり》もちをついた。持っていたアルト・サックスが防波堤に転がった。
相手は、知らん顔。ビットに舫い綱をくくりつけようとしていた。
あたしは、素早く立ち上がっていた。ビットに綱をくくりつけようとしてかがんでいる相手。
その尻を、後ろから思いきり蹴《け》った!
相手は何か叫び声を上げた。つんのめる。そのまま海に落ちた。サバンッという水音が響いた。知ったことじゃない。勝手に泳げ。あたしは、アルト・サックスをひろい上げた。
組み立てているとちゅうだったんで、本体とネックが別々に転がっていた。あたしは、それをひろい上げる。
壊《こわ》れていないかどうかは、よくわからない。
とにかく、楽器ケースにしまいはじめた。
海に落ちた相手は、自分の伝馬船《てんません》にはい上がるところだった。
あたしは、アルト・サックスをケースにしまう。ケースを片手に持つ。スタスタと歩きはじめた。
後ろで、
「バカヤロー!」
という叫び声がきこえた。あたしは、ふり向かなかった。
□
家に帰って、楽器を取り出した。壊れていないかどうか、点検した。幸い、壊れてはいない。キズもついていない。あたしは、
「ゴメン……」
とアルト・サックスにつぶやきかけた。乾いた布で拭《ふ》いて、ケースにしまった。
□
「あんた、このままにしておく気?」
あたしは智子に言った。
「くやしいと思わないの?」
と言った。
智子の家の酒屋。その店の中だ。夕方なので、智子は店番をしていた。あたしは、積んであるビールのケースに腰かけて話していた。
話は、もちろん、智子を妊娠させた大学生のことだ。
「そりゃ……くやしいとは思うけど……」
と智子。
きょうはまだ、お酒を飲んでいないみたいだった。
あたしが何か言おうと思った時、店の電話が鳴った。智子が取る。
「あっ、カラさん?」
と言った。カラさんというのは、この近くでバーをやっている人だ。どうやら、お酒の注文らしい。
「ビール1ケースに、カンパリ1本。それにホワイト・ラム2本。ジャック・ダニエル2本ね」
と智子。メモを取っていく。電話を切った。
智子は、注文の酒を出してくる。ビール以外は、ダンボールのケースに入れていく。あたしも、手伝う。
「OK」
と智子。店の内線電話で、
「カラさんの店に配達いってくる」
と言った。
あたしも手伝って、お酒を3輪自転車に積み込む。海岸道路に出た。
□
カラさんの店は、あたしの家と智子の家の間にある。海岸通りと真名瀬の港にはさまれるようにして立っていた。
漁師小屋にペンキを塗ったような店がまえだった。
けど、店で出す魚は、正真正銘、獲《と》れたての地魚なんで、味のわかる客には人気がある。地元の人間はもちろん、横浜あたりから、わざわざ来る客もいるくらいだ。
店の名前は、〈カラカラ・バー〉という。人をおちょくったような名前だ。カラさんの名前からとったらしい。
海岸通りに面した店先。〈KARA KARA〉と描かれた木の看板が潮風に揺れている。そのローマ字の下に、小さく〈カラカラ・バー〉と日本語が描かれていた。
あたし達は、店のドアを開けた。
カウンターの中で、カラさんが顔を上げた。智子とあたしを見ると、
「よお、葉山の不良娘どもか」
と言った。白い歯をニッと見せた。
カラさんの本名は、唐沢《からさわ》。もう、50歳を過ぎているだろう。体は細く小柄だ。髪は短かく刈り、よく陽灼《ひや》けしていた。
カラさんは、元漁師だった。
漁師にも、いろいろ専門があるけれど、カラさんは、潜りでアワビやサザエを獲《と》るのが得意だったらしい。若い頃は、1日で30枚、40枚というアワビを獲っていたという。
その頃は、当然、金まわりがよく、大きなアメ車に乗って、金髪の恋人がいたらしい。
ところが、潜りすぎで、肺を悪くしてしまい、漁師をやめた。金はなくなり、アメ車も、外人の恋人も失《な》くしてしまった。本人に言わせると、
〈残ったのは、この店だけよ〉
ということになる。
〈陸《おか》に上がった漁師なんて、死んだも同然だからな〉
と、苦笑まじりにカラさんは言う。
けれど、その眼は、まだ死んでいない。不敵な光をたたえている。
若い頃は、荒っぽいこともやったらしく、左の頬《ほお》には大きな痕《きず》がある。本人は、アワビ獲《と》りの最中につくった痕だという。けれど、あたしもよく海に潜るからわかる。それは、潜りでつくるような痕じゃない。どう見ても、刃物で出来た痕だった。カラさんがニッと微笑《わら》うたびに、その痕も一緒に動くのだった。
いま、カラさんはカウンターの中で手を動かしていた。
皿を1つ、カウンターのこっちに置いた。
「飛び魚の刺身をつくってみたんだ。試しに食ってみな」
と言った。あたしと智子がカウンター席に座ると、
「ほい」
と、眼の前に冷えたビールの大瓶が置かれた。
「なんか、飲みたいって顔をしてるぜ」
とカラさん。ニッと白い歯を見せた。
あたしと智子は、顔を見合わせた。カラさんは元漁師だから、口は悪い。けど、他人《ひと》の気持ちがよくわかる。そのことには、あたしはいつも感心していた。
あたしは、
「じゃ、遠慮なく」
と言って、カウンターについた。飛び魚のお刺身は、鰺《アジ》を少し淡白にした感じで、おいしかった。ビールは、ほどよく冷えていた。
店のラジオは、米軍向けのFENにチューニングしてある。いまは、W《ホイツトニー》・ヒューストンの歌が、静かに流れていた。
窓からは、夕方の陽射しが入ってきていた。陽射しは、ビールのグラスで揺れていた。
□
あたし達が、1本目のビールを飲み終えた時だった。
店のドアが開いた。
あたし達は、何気なくふり向いた。店の入口に立っていたのは、あの男の子だった。きのう、あたしが防波堤から海に落とした、あの相手だった。
男の子は、ジーンズにゴムゾウリ。手に、サザエがいくつか入った網袋《ネツト》を持っていた。
あたしを見ると、
「あっ」
と言った。
あたしはもう、立ち上がっていた。カウンターにあるビール瓶をつかんでいた。空き瓶のネックをつかんでいた。
相手は、顔を赤くしていた。あたしをにらみつけて、せまってこようとしていた。
あたしは、ビール瓶を握って身がまえた。
その時、
「やめろ」
カラさんの声が響いた。相手の動きが、ピタリと止まった。
「やめとけ、哲」
カラさんは言った。低いけど、力のこもった声だった。哲と呼ばれた相手の動きが、止まっていた。
「何があったか知らないが、オレの店でいざこざを起こすのは許さない」
カラさんは言った。ピシャリと言った。
かたまったように突っ立っていた相手が動いた。
手に持っていたネットを、ゴトンとカウンターの上に置いた。そのまま、回れ右。店を出ていった。
□
「そうか……きのう、あの哲を、海に放り込んだのは湘だったのか」
とカラさん。愉快そうに笑った。自分も、グラスに注《つ》いだビールを、グイと飲んだ。
「哲の野郎、きのうここに来るなり、さんざんわめいてたよ」
「わめいてた?」
「ああ。防波堤で、ガキに突き飛ばされて海に落ちたって」
カラさんは言った。
「それはちがってるわ」
あたしは言った。
「まず第一に、あたしはガキじゃない。もうすぐ18になるんですからね」
カラさんは苦笑。
「わかったよ。きいておこう」
と言った。
「それに、あたしは、あいつを突き飛ばしたんじゃないわ」
「じゃあ?」
「蹴《け》り飛ばしたのよ」
あたしは言った。カラさんはまた笑い声を上げた。
あたしは、誤解されないように、くわしく説明しはじめた。
フレディとの出会い。そして、アルト・サックスをあずかったこと。それを吹こうと思って、きのう、防波堤に行ったこと……。
「そうか……。そこで、哲とやり合っちまったわけか……」
とカラさん。ニヤニヤしながら言った。
「で、あの哲って、どこの誰なの?」
あたしは、きいた。
「誰も何も、お前さん、ずっと昔に会ってるはずだぜ」
カラさんは言った。
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6 セミが鳴いていたあの日
「え?……」
あたしは、思わずビールのグラスをとめた。
「ずっと昔に会ってる?……」
と、つぶやいた。カラさんを見た。カラさんは、うなずいた。
「ああ……たぶん会ってるはずだ」
と言った。
「会ってるって、どこで……」
「このあたりさ」
「このあたり?」
カラさんは、うなずいた。飛び魚のお刺身をひと切れ、口に放り込む。ビールをグイと飲んだ。
「長五郎丸、あるだろう?」
とカラさん。あたしは、うなずいた。長五郎丸は、この港に何軒かある釣り船屋の1つだ。あたしが、一番仲良くしている釣り船屋だった。
「長五郎丸に、昔、親戚《しんせき》の子が遊びにきてたの、覚えてないか?」
「親戚の子?……」
「ああ……。湘も、まだ幼稚園にいってる年頃だったかなあ……。夏休みになると、鎌倉の腰越《こしごえ》から親戚の男の子が遊びにきてたんだ」
「長五郎丸に?」
「そう。長五郎丸に。それが、あの哲さ。もちろん、当時はあいつも坊主頭のガキだったけどな」
「…………」
「ただ、哲のやつ、ガキの頃から潜《もぐ》りだけはうまかったな、漁師のせがれだけあって」
とカラさん。
「そういえば、湘。その頃、お前さんと哲のやつ、一緒に潜ってたんじゃないかな……。湘が足の裏にウニのトゲを刺したかなんかして、哲がそれを抜いたりしてたのを見たおぼえがあるぞ」
とカラさん。
そのとき、あたしは、
「あ!」
と声に出していた。
□
思い出していた。
まず胸によみがえったのは、セミの鳴き声だった。
ミーン、ミーン、ミーンというアブラゼミの鳴き声が、頭の中によみがえってきた。そして、子供だった夏のワン・シーンが、心の中のスクリーンに映し出されていた。
いまもそうだけど、夏の葉山のBGMはセミの声だ。
葉山という地名どおり、海岸町だけれど山がせまっている。海岸沿いの別荘地にも、木々は多い。だから、あたしたちにとっての夏は、セミの声ではじまるのだ。
たとえば8月の午後。釣り船に乗って海の上にいても、セミの声がきこえることがある。
森戸海岸や一色海岸の沖に船がいると、陸地でセミが鳴いているのがきこえる。陸から海に吹く東風だったり、船がエンジンを切っていれば、セミの声はなおさらよくきこえるのだった。
あの男の子とのワン・シーンにも、アブラゼミの鳴き声があった……。
カラさんが言うとおり、あたしはその頃、幼稚園にいっていたと思う。その頃すでにジャジャ馬で、しかも、海が好きだった。
近所の漁師や釣り船屋の人たちと、よく海で遊んだ。特に長五郎丸の人たちと仲が良かった。
そういえば、長五郎丸に、あたしと同じ年齢《とし》ぐらいの男の子が遊びにきてたことがあった。
確か、いつも、夏休みだった。男の子は、長五郎丸の親戚《しんせき》で、家は、やはり、相模湾《さがみわん》で漁師をやっているって話だった。
男の子は、真夏の何日か、長五郎丸に泊まっていった。あたしとも、よく一緒に遊んだ。
釣りをした。潜ってサザエやトコブシを獲《と》った。蛸《タコ》を獲るカゴをあちこちにしかけたりもした。男の子は、漁師の子供らしく、釣りも潜りも上手だった。
そんなある日の午後。あたしは、足の裏にウニのトゲを刺してしまった。ムラサキウニというウニの鋭いトゲだった。
トゲは、刺さって、折れてしまっていた。うまく抜き出すのは、難しそうだった。
あたしとその男の子は、防波堤にいた。黄色い午後の陽が、防波堤にあふれていた。セミの声が、うるさいほどよくきこえた。
男の子は、あたしを腹ばいにさせた。そして、足の裏に自分の歯を当てた。
「ちょっと痛いかもしれないけどガマンしろ」
そんな意味のことを言った。
そして、足の裏に歯をたてた。足の裏の皮を少しと、ウニのトゲをかじり取った。
痛かった。
あたしは、思わず涙を流していた。
「取れた。もうだいじょうぶだ」
男の子は、そう言ったと思う。
「でも、薬はつけといた方がいい」
男の子が言い、あたしはうなずいた。ゴムゾウリをはき、歩きはじめた。トゲを抜いた方の左足は、ズキッとした。あたしは、少し足をひきずりながら、自分の家に歩いた。男の子も、一緒にきてくれた。
〈朝一食堂〉に入ると、客はいなかった。父親が新聞を読んでいた。
父親は、話をきくと、あたしの傷口に薬を塗ってくれた。そして、男の子には、カキ氷をつくってあげた。
確か、氷レモンだったと思う。氷もシロップも、大盛りだった。男の子は、
「どうも」
とだけボソッと言うと、嬉《うれ》しそうにスプーンを動かしはじめた。あたしは、そのみごとな食べっぷりをながめていた。
〈朝一食堂〉にはクーラーがなくて、窓は開けてあった。その窓から、セミの声がよくきこえていた。ラジオが小さなボリュームでかかっていた。甲子園の高校野球の中継だった。氷レモンの黄色と、スプーンのカチャカチャいう音は、いまも覚えている。
それから何回か、男の子は〈朝一食堂〉にご飯を食べにきた。長五郎丸の人たちと一緒だったこともあり、ひとりだったこともあった。
あたしの父親は、いつも、男の子のは大盛りにしてあげていたようだった。
そんな夏が、3回ぐらいあった。
けど、ある時から、夏になっても男の子はこなくなった。
あたしは、その子のことをしだいに忘れていった。
お互いに名前も知らなかった。顔さえ、忘れていった。もちろん、相手にしても同じだろう。
□
「あの男の子が……」
あたしは、つぶやいた。
「思い出しただろう?」
とカラさん。あたしは、うなずいた。2本目のビールをグラスに注《つ》いだ。
「でも……あの男の子が、どうしてここにいるの?」
あたしは、カラさんにきいた。
「あいつん家《ち》は、腰越で漁師をやってたんだ。といっても、母親は若死にして、オヤジだけががんばってたんだけどな」
「…………」
「ところが、この前の冬、そのオヤジも事故で死んじまって」
「事故? 海で?」
「いや、それが馬鹿馬鹿しい話なんだが、どっかのオバサンが運転してたクルマに轢《ひ》かれて死んじまったらしい」
「クルマで……」
「ああ……。で、とりあえず、哲はこの春に高校を卒業して、親戚《しんせき》の長五郎丸にきたんだ」
「きたっていうと?」
「長五郎丸のオヤジが、うちにこいって哲に言ったらしい。腰越にいたって、あの年齢《とし》でひとりじゃ、漁師も釣り船もできないんだから、うちにこいって言って、哲のやつを説得したらしい」
とカラさん。
「じゃ、あの子、釣り船もやってるの?」
「いや。本人は漁師をやるつもりらしいな」
「漁師を?……」
あたしは、つぶやいた。意外だった。
このあたりの釣り船屋も、昔はみんな漁師だった。けど、収入が安定してる釣り船につぎつぎと変わっていったのだ。
釣り船と漁業の両方をやってるところもある。中には専業の漁師をつづけている人もいる。けど、もう、そんな専業漁師の数は少ない。
「あの哲は、客の顔色を見たりするのが嫌らしいんだ。それで客相手の釣り船より、漁師をやるつもりなんだろうな」
カラさんは言った。
「もう、蛸《タコ》ツボをかけたり、アワビをはがしたり、はじめてるよ」
とカラさん。海で生活している人間は、〈アワビを獲《と》る〉とは言わず〈アワビをはがす〉と言うのだ。
「はがしたアワビやサザエなんかを、近所の店に売っては、小遣い稼ぎをはじめてるよ。うちにも、このところ毎日、持ってきてる」
とカラさん。哲がカウンターの上に置いていったサザエを眼でさした。ネットの中には、かなり大きなサザエが6、7個入っていた。カラさんは、それを手に取る。
「けっこう、いい腕をしてるな」
とつぶやいた。サザエを冷蔵庫に入れた。
〈そうか……〉
あたしは、胸の中でつぶやいていた。
きのう、哲と防波堤で出会った時……。哲の伝馬船には、アワビやサザエが積んであった。
あれは、あちこちの店に売りにいくためのものだったんだろう。だから、急いでいたにちがいない。
あたしがそのことを言うと、
「ああ、そうだろうな」
とカラさんが言った。
「哲にしてみりゃ、収入がかかってるんだから、まあ、大目に見てやれよ」
とカラさん。
「嫌よ」
あたしは言った。
「いくら仕事だからって、他人《ひと》に対してやっていいことと悪いことがあるわ。まして、女を突き飛ばすなんて、最低よ」
と言った。
カラさんは、カウンターの中でニヤニヤしている。あたしのとなりじゃ、智子が、早くも3本目のビールを飲みはじめていた。FENが、M《マライア》・キャリーの唄《うた》う〈|I'll Be There《アイル・ビー・ゼア》〉を流しはじめた。
□
2日後。遅い午後。
あたしは防波堤にいた。アルト・サックスを吹いていた。
気持ちのいい午後だった。あたしは、思いきり海風を胸に吸い込み、アルトを吹いていた。
〈|Your Song《ユア・ソング》〉
〈|From A Distance《フロム・ア・デイスタンス》〉
そんなバラードを吹いていると、少しは心の中に風が通っていくような気がした。家のことも、学校のことも、見えない明日のことも、忘れられるような気がした。
4、5曲吹いて、ひと息ついた。
アルト・サックスのリードから唇をはなす。フーッと大きく息を吐いた。そのときだった。人の気配を感じた。
ふり向く。
あの哲が、突っ立っていた。
□
哲は、ウエット・スーツを着込んでいた。
グレーのウエット・スーツだった。よくサーファーたちが着ているような蛍光色の派手なウエット・スーツじゃない。肩に、1本だけオレンジのラインが入っている。あとは渋いグレーだった。
そのウエット・スーツも、あちこちにつくろったあとがある。いかにも使い込んだものだった。
片手にシュノーケルのついた水中メガネと磯鉄《いそがね》を持っていた。髪が濡《ぬ》れている。どうやら、潜りをやってきたところらしい。
あたしは、座ったまま、哲を見た。
ちょっとにらみつけるような表情になってしまっているのが、自分でもわかった。哲も、数秒、あたしを見ていた。そして、
「お前……あの〈朝一食堂〉の娘だったんだってな」
と言った。
「カラさんから、きいたよ」
と哲。あたしは、無言。小さく、うなずいた。
「この前は……突き飛ばしちゃって、悪かった……」
哲は言った。〈急いでたから〉とか、そんな言い訳がましいことは言わなかった。
「…………」
あたしは無言でいた。哲は、右手に持ってたスーパーの白いビニール袋を、あたしにさし出した。
「これ……」
とだけ言った。あたしが手を出さないんで、ビニール袋をコンクリートの上に置いた。そして、回れ右。歩き去っていった。
あたしは、しばらく、哲の後ろ姿を見送っていた。
哲の姿が見えなくなると、あたしは、すぐそばに置かれたビニール袋を手にとってみた。中には、かなり大きなサザエが4つ入っていた……。
□
「ほう……哲のやつがこれを?」
とカラさん。ビニール袋に入ったサザエをながめて言った。笑いながら言った。
サザエを家に持って帰ってもしょうがないんで、カラさんの店に持ってきたところだった。
「哲にとっちゃ、これは収入源なんだし、それをくれたってことは、けっこう気持ちがこもってるんだろうな」
とカラさん。
「まあ、この前の防波堤でのことは、許してやんなよ」
と言った。
「なんせ、学費の一部をくれたってことだからな」
「学費の一部?」
「ああ。哲からきかなかったのか?」
「何も。あいつ、ただ、〈これ……〉って言ってビニール袋を置いていっただけだから」
「あいつらしいな……」
カラさんは、苦笑しながら言った。
「とにかく、話はこいつを食いながらにしようぜ」
カラさんは、サザエの入ったビニール袋を持った。
あたしとカラさんは、店の裏口から外に出た。店の裏は、真名瀬の入り江だ。石段を下ると、砂浜におりられる。
そこに、カラさんはいつも七輪を置いてあった。サザエやトコブシを自分用に焼くための七輪だ。
カラさんは、七輪に炭を入れ、手ぎわよく火を起こした。焼きアミをのせ、そこにサザエを置いた。
あたしは店からビールやお皿を持ってきた。カラさんと2人、流木に腰かけて、サザエを焼きはじめた。
たそがれ近い空に、カモメとトンビが漂っていた。淡い陽射しが、低い位置からさしている。あたし達や七輪の影が、ひとけのない砂浜に長くのびている。
やがて、サザエがジュージューといいはじめた。あたし達は、その身を皿に取り出す。ショウユをかけ、かじりついた。
熱いサザエをひと口かじっては、冷たいビールを飲んだ。
ひと息ついたところで、カラさんが口を開いた。
「哲のやつは、大学にいくつもりなんだよ」
「大学?」
カラさんは、ビールのグラスを手に、うなずいた。
「ああ……あいつ、水産大学にいくつもりらしいんだ」
「水産大学……」
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7 告白はエア・メールで
カラさんは、うなずいた。
「哲のやつは、本気で水産大学にいくつもりらしい。それで、あんなに毎日海へ出て、金を稼いでるのさ」
「学費をためるために?」
「もちろん。あいつは、長五郎丸の家族と住んでるんだから、住みかと飯には困らないわけさ。だから、ああして稼いでる金は、大学の学費にするつもりらしい」
とカラさん。サザエのキモのところを、ガブリとかじった。
「でも……」
あたしは、グラスを運ぶ手を止めて、つぶやいた。
「なぜ水産大学にいくのかって?」
とカラさん。あたしは、うなずくかわりに、ビールのグラスを見つめていた。
「なんでも、哲の話だと、知恵のある漁師になりたいんだそうだ」
「知恵のある?」
「ああ……」
カラさんは、うなずいた。
「オレも自分でやってたからわかるけどな……漁師なんて、けっこう、何も考えてないやつが多くてさ」
「…………」
「先のことなんてあんまり考えないで魚を獲《と》るもんで、見てみろ、毎年どんどん魚が減っていくじゃねえか」
「…………」
「アジだって、サバだって、タイだって、昔はもっと獲れたものさ。何倍ってほどな……。ところが、いまはひどいものさ」
「…………」
「おまけに、釣り船が使うコマセさ。あんなにドバドバと海にぶち込んじゃあ、いけない。いくら相模湾が広いからっていったって、水も汚れるし、魚がすんでる根が腐っちまう」
「…………」
「それでもみんな、その日の稼ぎが必要だから、海をコマセだらけにしちまうんだな。先のことも考えずによ」
「…………」
「哲の言う、知恵のある漁師ってのは、そこのところを考えられる漁師ってことじゃないのかな。オレは、そう思うんだけどな」
「…………」
「ま、とにかく、そういうことを考えられる若い漁師がいるってのは、いいこったよ。オレも、眼が黒いうちは、うまい魚やアワビを食ってたいもんな」
とカラさん。よく灼《や》けた顔から、ニッと白い歯を見せた。ビールをグイッと飲んだ。
あたしは、無言でいた。カラさんが言った話を、胸の中でくり返していた。サザエの焼ける匂《にお》いが、砂浜に漂っていた。
□
翌日の放課後も、あたしは防波堤でアルト・サックスを吹いていた。
あのフレディと出会うまで、放課後はよく智子といた。2人でつるんでは、遊んでいたものだった。
けど、このところ、智子は毎日のように、彼氏と会っていた。智子を妊娠させた相手の大学生だ。
いまじゃ、彼氏と呼ぶのはもう間違いかもしれない。別れ話のまっ最中なのだから……。
とにかく、相手から、子供を堕《おろ》すお金を出させることが大事だった。相手の家は、工務店か何かを経営していて、そこそこ、お金はあるらしい。出そうと思えば出せるのだ。
相手がどんな最低野郎でも、いや、最低野郎だからこそ、きっちりとお金を出させて責任をとらせるべきだ。
あたしはそう言って智子を勇気づけた。智子は、きょうも、その大学生と会って交渉している。
あたしは、ひとり、防波堤に来ていた。
楽器ケースを開け、アルト・サックスを取り出した。アルトは、金属だからひんやりと冷たいのだけど、手に持つと、なぜか温かい気持ちにさせてくれた。
やはり、あたしは、サックスを吹くのが好きなのかもしれない。
楽器を組み立てる。リードにそっと唇をつける。軽く音を出してみる。いいだろう。あたしは、思いつくまま、バラードを2、3曲、吹いた。
ふと、リードから唇をはなす。後ろに人の気配を感じた。ふり向く。
哲が立っていた。
きょうはウエット・スーツ姿じゃない。首まわりののびたTシャツ。色の落ちたジーンズ。裸足《はだし》に、黒いゴムゾウリをはいていた。
あたしと哲は、しばらく無言で向かい合っていた。やがて、あたしが口を開いた。
「きのうは……サザエ、ありがとう」
哲は、ちょっとうなずいた。
「きょうは、潜りにはいかないの?」
哲は、首を横に振った。
「きょうは、潮が濁ってて、ダメだ。……しょうがないから、タコの籠《かご》をかけにいくんだ」
と言った。
あたしは、首を回して見た。防波堤には、哲の伝馬船《てんません》が舫《もや》ってあった。その上には、蛸《タコ》獲りに使う籠が積んであった。
最近は、漁師の蛸獲りにも、蛸壺《つぼ》じゃなくて、籠が使われることが多い。周囲がナイロンのネットでできている四角い籠だ。この籠の中にエサの魚を入れておき海に沈める。
エサにつられて籠に入ってきた蛸は、出られないような仕組みになっている。この籠は、たためるので場所もとらず、扱いも楽らしい。小さな船でも、何十個という籠を沖まで運べる。
いま、哲の伝馬船にも、折りたたんだ籠が積み上げられてあった。
あたしは、視線を哲に戻した。
「お前……大きくなったな……」
と哲。
「この前のときは、ぜんぜんわからなかった」
と言った。あたしは少し苦笑い。
「だって……あの頃は、幼稚園にいってたんだもの。いまは、もう高3よ」
と言った。
「それに、食堂の娘だもん。残り物食べて大きくなったのよ」
あたしは、苦笑したまま言った。
「そう言うあんただって、大きくなったじゃない」
「オレは……漁師の息子だから、アジやサバ食ってでかくなった」
哲が言った。
あたしたちは、同時に苦笑していた。2人の間の空気が、ふっとなごんだ。
「あの頃のこと、覚えてる?」
あたしは、きいた。哲は、しばらく考えていた。そして、うなずいた。
「お前んちで食わせてもらったカキ氷とさ、それと、アジのフライがうまかったの、覚えてるよ」
と言った。
「…………」
「お前んち……食堂、やめちゃったのな……」
哲は、ぽつりと言った。
「12年か13年ぶりにきてみたら……コンビニに変わっちゃってるんで……引っ越しちゃったのかと思った……」
あたしは、無言でいた。かわりに、
「でも……なんで、12年も13年も、こっちにこなかったの?」
と、きいた。
「ああ……。ここにきてた頃はおフクロが生きてたんで遊びにこれたんだけど……あのあと、おフクロが死んじゃって……オレは、夏休みでも、漁や家の手伝いやんなきゃならなくなってさ……それで……」
「…………」
あたしは、ただ、うなずいた。
2人とも、黙ってしまった。うちが食堂をやめたこと。哲の母さんが死んだこと。お互いに、あまり触れたくないところに話がいってしまったからだ。
哲は、自分の伝馬船《てんません》に視線を移した。
「じゃ……オレ……籠《かご》、かけてくるから……」
哲は言うと、防波堤の低い方へ飛びおりた。伝馬船に乗り込む。エンジンをかける。やがて、伝馬船は、防波堤を回り込んで、沖に向かった。
防波堤を回り込むとき、哲は、あたしに向かって、一度だけ、手を振った。あたしも、同じように、一度だけ手を振った。
哲の伝馬船は、南の方向に、白い航跡を残して走っていった。
□
伝馬船のエンジン音がきこえなくなり、やがて、その姿も見えなくなった。一色の沖か秋谷《あきや》の沖に向かったらしい。
あたしは、また、アルト・サックスを持ちなおした。
リードに、そっと唇をつけて、吹きはじめた。
〈|Your Song《ユア・ソング》〉
〈|When A Man Loves A Woman《ウエン・ナ・マン・ラヴズ・ア・ウーマン》〉
〈|Hey! Jude《ヘイ! ジュード》〉
そんな3曲を吹いた。リードから唇をはなして、ひと息ついた。
もう、たそがれが近い。太陽は、向かい側の伊豆《いず》半島に沈みかけている。雲が、夕陽を下からうけて薄い赤紫色に染まっている。風はない。夕凪《ゆうな》ぎだった。
あたしは、ふと、海面を見た。
防波堤から20メートルぐらい先の海面。小魚の群れが、いっせいにジャンプしているのが見えた。
2、3センチの小魚が、同時に何十匹も水面からジャンプしている。たぶん、大きな魚から逃げようとしているんだろう……。イワシの子供らしい小魚たちは、夕陽をうけてキラキラと銀色に光っていた。
海の中に、何がいるんだろう……。黒鯛《クロダイ》かスズキ……。
あたしは、そんなことを思いながら、またアルトを持ちなおそうとした。
そのとき、すぐそばの海面で何かが動いたような気がした。正確にいうと、海面がもり上がったような気がしたのだ。
思わず、そっちを見た。確かに、海面は、そこだけ波立っていた。
こんな防波堤の近くで、しかも水面までくる魚といったら、ボラの群れ……。あるいは、イナと呼ばれているボラの子供が、何十匹も群れになって水面で騒いだのかもしれない。
防波堤の足もとは、かなり深くなっているから、もっと大型の魚が近づいてくることもあるだろう。
いまは、漁師や釣り人が〈夕まづめ〉と呼ぶ時間帯。魚がさかんにエサをあさる時間だ。大型の魚が、エサの小魚をあさりに海面まできたとしても不思議じゃない。
あたしは、そう思って、また、アルトのリードに唇をつけた。
その数日後、とんでもないものと出会うはめになるとは知らずに……。
□
翌週。月曜日。
学校から帰ると、郵便ポストに航空郵便《エア・メール》がきていた。あたし宛《あ》て。あのフレディからのものだった。
少し厚みのある封筒だった。封を切ってみる。便箋《びんせん》4枚に、ボールペンで書いてあった。全部、左に傾斜した英語で書かれている。
情けないことだけど、あたしに読めたのは、出だしの1行〈|Dear Show《デイア・シヨウ》〉だけだった。
どうしよう……誰に読んでもらおうか……。
あたしは、そのエア・メールを手に、ぼんやりと考えた。
そうだ、カラさんがいる、と思い出した。
カラさんが、英語をしゃべれるし、読むことができるのを、あたしは知っていた。店にきた横須賀のアメリカ兵としゃべっているのを、きいたことがある。
ある時は、英語の雑誌を読んでいるのを見たことがある。やはりアメリカ兵が店に置いていったアメリカ版の〈プレイボーイ〉か何かだった。まだ店を開けていない時間だった。カラさんは、カウンターの中で、ビールのケースに腰かけて、熱心にその英文の雑誌を読んでいた。
あたしがカウンターの中をのぞき込んで、〈エッチな雑誌、見てるんでしょう〉と言うと、カラさんは照れたようにニッと笑った。そして、その雑誌をバサッと放り出した。
けど、あたしはよく覚えている。カラさんが開けていたページは、ヌード・グラビアなんかじゃなく、文字ばかりのページだった……。
でも、そんなふうに英語ができることを、カラさんは港の連中に知られないようにしているみたいだった。インテリに見られてケムたがられることが嫌なんだろう。あたしは、そう思っていた。だから、カラさんが英語の雑誌を読んでたってことは、誰にも言わないでいた。
そうだ。
それがいい。
カラさんに、この手紙を訳してもらおう。あたしはジーンズ・スタイルに着替えると、カラさんの店に行った。
まだ、4時前。開店には早い。
カラさんは、アジをさばいていた。頭を落とし、刺身にするための下ごしらえをしていた。
カラさんに言わせると、すぐに〈アジのたたき〉と言う客は、〈魚オンチ〉ということになる。
新鮮なアジなら、あんなふうにトントンとこま切れにする必要もないし、包丁を入れるだけ味が落ちるという。
〈新鮮なアジは、刺身。刺身で食えないアジは、出さない〉というのが、カラさんの方針だった。
包丁を使ってアジの頭を落としていたカラさんは、入っていったあたしを見ると、
「よお」
とだけ言った。ニッと白い歯を見せた。
あたしは、カラさんの仕事が一段落するのを待って、事情を説明しはじめた。
「で、これが、その手紙」
と言って、エア・メールをカウンターの上に置いた。そして、訳してくれと頼んだ。
カラさんは、手を洗いながら、あたしの話をきいていた。うなずきながら、きいていた。手を洗い終わると、
「わかった……」
と言った。アジを冷蔵庫に入れる。カウンターの上から、エア・メールをとった。便箋《びんせん》を広げ、読みはじめた。
あたしは、カラさんの視線を追っていた。カラさんの視線は、横に、文字を追っていく。2、3分で手紙を読み終わった。
「ふーん……」
と、つぶやいた。あたしは身をのり出し、
「ねえ、どんな中身なの? 彼は、いま、どこにいるの?」
と、きいた。
「うーん……。ひとくちで言える内容じゃないから……こいつはちゃんと文章にした方が良さそうだな」
カラさんは言った。
近くにあった新聞の折り込みチラシに手をのばした。裏がまっ白なチラシを1枚、とった。逗子駅前の家具屋のチラシだった。
カラさんは、ボールペンをつかむ。手紙を見ながら、チラシの裏にボールペンを走らせはじめた。意外に細かい字で、びっしりと書いていく……。
10分たらずで終わった。
「まあ、こんなところだな。どうでもいいところは、ちょっとはしょってるけど」
とカラさん。チラシをあたしにさし出した。自分はビールを出して飲みはじめた。あたしは、カラさんの訳したフレディの手紙を読みはじめた。
[#ここから2字下げ]
『親愛なる湘へ。
まず最初に、君にあやまらなくちゃならないことがある。
軍の任務でどこかにいくと湘に言ったけれど、あれは嘘《うそ》だったんだ。
じつは、最後に湘と会った翌日、ぼくは軍を退役した。そして、故郷のデトロイトに帰ったんだ。だから、この手紙はデトロイトで書いているんだ。
驚かせてすまないけど、別れるときには、ああ言うしかないと思った。
デトロイトでは、コンピューター会社の修理部門に勤めはじめた。もう、勤めはじめて1週間になる。
そう、ぼくは音楽の道をあきらめたんだ。
[#ここで字下げ終わり]
そこまで読んで、あたしは深呼吸をした。カラさんが、前にグラスを置いて、ビールを注《つ》いでくれた。あたしはうなずくと、ビールをひと口飲んだ。味がしなかった。また、手紙を読みはじめた。
[#ここから2字下げ]
1年ぐらい前から、なんとなく感じていたことなんだ。
自分は、結局、セミ・プロで終わる程度のミュージシャンじゃないかとね。
確かに、そこそこ上手な演奏はできる。
ちょっと器用にアドリブをこなすことはできる。
温かみのあるいいプレイだと、ほめてくれた人もいる。
でも、誰も〈すごい〉とは言ってくれなかった。自分でも、自分の演奏を〈すごい〉と感じたことはなかった。
でも、本当のプロってのは、ほどほど上手とかそんなんじゃなくて、やはり、きいた人間に〈すごい〉と感じさせるものなんじゃないかと思う。
ぼくには、そんな、すごい演奏をするための何かが欠けているような気がしていたんだ。
簡単に言ってしまえば、上手なアマチュアにすぎないんじゃないか。そんなふうに感じていたんだ。
そろそろ、自分の才能に見切りをつけようと思っていた。湘、君と出会ったのは、そんなときだったんだ。
[#ここで字下げ終わり]
あたしは、また、大きく息を吐いた。グラスのビールでノドを湿らす。読みつづけた。
[#ここから2字下げ]
湘、君がぼくのアルトを吹いたことがあったね。
あのときぼくは〈切ない音〉とか言ったと思うけど、じつは、心の底から、震えるのを感じてたんだ。
つまり、君の演奏が〈すごい〉ってことに、鳥肌が立つのを感じていたんだ。君は感づいたかどうか知らないけどね。君の演奏は、本当に、すごかった。
きいてる人の心を揺さぶるすごさがあった。
これは、嘘《うそ》いつわりない、ぼくの感じたままだ。
確かに、テクニックなら、ぼくの方が上かもしれない。
でも、そんな問題じゃないんだ。
君の出す音は、君の吹くフレイズは、限りなく切なくて、限りなく美しい。
人の心を揺さぶる〈何か〉があるんだ。何百人というミュージシャンの演奏をきいてきたぼくが言うんだから確かだよ。
演奏をきいている人の心を1本の樹にたとえれば、ぼくが演奏しても、せいぜい、枝先の葉を揺らすぐらいだ。
けれど、湘、君が演奏すると、樹はその幹から揺さぶられて、枝から果実がボトボトと落ちるかもしれない。
たとえて言えば、それほど、ぼくと君の演奏には違いがあるんだ。
あのとき、ぼくは本当に決心したんだ。プロのミュージシャンになることをあきらめようとね。
そして、君こそ、プロの道をすすむにふさわしいと思った。
だから、あんな嘘《うそ》をついて、アルト・サックスを君にあずけた。
ぼくはもう二度と、アルトを手にする気にはならなかった。故郷の街に帰って、週末だけどこかのバーで仲間と演奏するなんて、そんなハンパなことはしたくなかったんだ。
だから、あのアルト・サックスは、君にあげたんだ。安物だけれど、手入れだけはよくしてあるから、可愛《かわい》がってほしい。
もし君がプロへの道を進む気になったら、この手紙の最後に、ぼくが知っている横浜と横須賀の店のリストが書いてある。どの店でも、ぼくのことを言えば、演奏はきいてくれるはずだ。
健闘を祈る。
ぼくの方はといえば、もう、きちんとした勤め人さ。
横須賀で出会った彼女(ジェーンっていう名前のブロンド美人だ)を故郷に連れて戻った。来月には結婚する予定だ。
そして、平凡で平和な生活がはじまる。でも、それはきっと、ぼくにふさわしい人生なんだと思う。
いつか、いつの日か、ラジオから君の演奏が流れてくることを祈っているよ。
それじゃ。また時間ができたら手紙を書くよ。グッド・ラック!
心より。フレディ』
[#ここで字下げ終わり]
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8 たそがれの黒い瞳
もう一度、読みなおした。
けど、中身が変わるわけはなかった。あたしは、カラさんの細かい字を、じっと見つめていた。
「ほら」
とカラさん。あたしの前のグラスに、ビールを注《つ》ぎたしてくれた。
「……ありがとう……」
あたしはうなずいて言った。グラスを口に運んだ。フレディのエア・メールの方を、また、手にとってみた。
確かに、封筒には、デトロイトの住所が書いてあった。
あたしは、青いボールペンで書かれたその住所を、意味もなくながめていた。
そして、立ち上がった。
「訳してくれて、ありがとう」
とカラさんに言った。努力して、かすかに微笑《ほほえ》んだ。
「ちょっと、海の風を吸ってくる」
と言った。カラさんは無言。あたしの眼をじっと見て、小さく、ゆっくりとうなずいた。あたしは、エア・メールをジーンズのヒップ・ポケットに入れた。カラさんの店を出た。
□
楽器ケースを持ち、防波堤に来た。
ケースからアルト・サックスを出し、組み立てた。防波堤に腰かける。リードに唇をつけた。
きょうも、海は凪《な》いでいた。たそがれ近い海風は暖かく、Tシャツから出ている腕をなでていく。
江の島が、少しかすんで見える。気温が上がって水蒸気がたちのぼり、海がもやっているのだ。江の島がもやって見えるようになると、もう、夏だ。
あたしは、夏の匂《にお》いがする海風を吸い込む。吹きはじめた。
〈|Song Bird《ソング・バード》〉
そして、
〈|Without You《ウイズアウト・ユー》〉
ウィズアウト・ユーを吹いていると、ふいに、押さえ切れない感情がこみ上げてくるのを感じた。
なんで……。
なんで、みんな、自分の夢を捨てちゃうんだろう。
うちの父親にしても、そうだ。日本一の魚食堂になるっていう夢を、なんで捨てちゃったんだろう。
そして、フレディ。
あんなに好きだったはずの音楽を、一流ミュージシャンになるって夢を……どうして捨てちゃったんだろう。
もちろん、それぞれの理由を、頭では理解できる。
でも、心では理解できない。
大人になるってことは、夢を捨てるってことなんだろうか……。
胸がつまった。あたしは、吹くのをやめた。涙が出そうだった。
アルト・サックスを持ったまま、唇をきつくかみしめていた。
ただ、ひたすら、悲しかった。
悪いとは思っても、フレディに対して腹が立っていた。とにかく、腹が立っていた。
あたしは、サックスを首にかけているストラップをはずした。〈フレディの馬鹿!〉と叫ぶかわりに、サックスを海に放り投げようとした。
そのときだった。
すぐに目の前の海面が、もり上がったのを見た!
□
一瞬、流木だと思った。
去年の春、どこか外国の貨物船が、大量の材木を沖で海に落としてしまったことがある。その材木が湘南の海に流れてきたのだ。
材木は直径約1メートルで長さは10メートル近くあった。それが、あちこちの砂浜に打ち上げられて大騒ぎになった。
砂浜に打ち上げられたのも困るけれど、もっと困るのは海に漂っている材木だった。そんな大きな流木と衝突したら、小さな漁船やモーターボートはひとたまりもないだろう。
大きな釣り船だって、まともにぶつかれば危ない。
当時、海に出る人たちはみな、かなり用心していたようだった。
そんな大きな流木が目の前に現れたと、あたしは、一瞬、思った。
けど、ちがう。それは生き物だった。動いている。
イルカ!?
そう思った。
この相模湾でも、イルカはときどき姿を見せるらしい。クルーザーや釣り船のそばまで寄ってくるって話は、きいたことがある。
あたしは、放り投げようとしたアルトを手に、その生き物をじっと見た。
けど、イルカじゃないみたいだった。口先が突き出していない。頭はずんぐりとしている。
そして、ずんぐりとした頭の両側に、眼があった。
頭は、グレーだった。かなり白っぽいグレーだった。眼は、黒くて丸かった。その丸い眼が、水面からあたしを見上げていた。
あたしは、ほとんど確信していた。
それは、間違いなく、クジラだった。
あたしは、魚や海の生き物が好きなんで、よく近くにある江の島水族館にいく。水族館では、イルカだけじゃなく、小型のクジラも飼われていた。あたしは、子供の頃から、イルカやクジラが泳ぐ姿を見るのが好きだった。その江の島水族館のクジラもよく見てきた。
だから、まず、間違いない。それは、クジラだった。
もちろん、種類なんかは、わからない。けど、潜水艦みたいにずんぐりした頭の形。海面から出ている背ビレ。やはり、それはクジラだった。
あまり大型のクジラじゃない。頭と背中しか見えないからわからないけど、せいぜい、体長は3、4メートルというところだろう。仔《こ》クジラなのかもしれない。
あたしは、茫然《ぼうぜん》として、そのクジラを見ていた。
クジラの黒く丸い眼も、じっと、あたしを見上げていた。海面に静止して、じっと、こっちを見つめていた。
その黒い瞳《ひとみ》は、物静かで、ちょっと淋《さび》しげだった。何かを訴えかけるような瞳だった……。
あたしは、思い出していた。何日か前。やはりこの防波堤。あたしがアルト・サックスを吹いていたときだ。海面が波立っていたことがあった。
あれは、もしかしたら、このクジラだったのかもしれない。ボラの群れや黒鯛じゃなくて、このクジラが水面の下にいたのかもしれない。
あたしは、放り投げようとしたアルトを片手に、クジラの瞳をじっと見つめていた。
なんとなく、その丸い瞳が訴えていることがわかるような気がした。不思議なことだけど、そんな気がした。
楽器を海に放り投げようとしたあたしに、〈そんなことをしちゃダメだよ〉と言っているように思えた。
〈楽器を投げ出したりせずに、もう1曲吹いてくれないか〉と、その瞳が言っているような気がした。
あたしは、アルト・サックスをストラップにかけなおした。持ちなおす。リードに唇をつける。
ちょっと考え、〈|We're All Alone《ウイア・オール・アローン》〉を吹きはじめた。眼を閉じ、心を込めて吹いた。
最後のロング・トーンを、息がつづく限り吹きつづけた。
終わった。大きく息を吸い込みながら、眼を開けた。
クジラは、まだ、目の前の海面にいた。その尾が、海面から上に出た。平べったい尾。それが、バシャリと海面を叩《たた》いた。まるで、人間が拍手をするように……。
そうだ。きっと、このクジラは拍手をしてくれたんだ……。
そう思ったとき、遠くからエンジン音がきこえた。釣り船の〈潮騒丸《しおさいまる》〉が、沖からこっちに近づいてくるのが見えた。
クジラにも、エンジン音はきこえたんだろう。クジラは、一瞬あたりを見て、そのグレーの体をひるがえした。海の中へ、体をひるがえして消えた。
あとには、大きな水の渦だけが残った。あたしは、その渦を、じっと見つめていた……。
□
どのぐらいボーッとしていたんだろう。正碓には、わからない。
ふいに、風が顔を叩いた。
ときどき吹く一瞬の強風《ブロウ》が、頬を叩くようにして過ぎた。あたしは、ハッとわれに返った。
目の前の海面を見た。けれど、もう、何もいなかった。
ブロウが吹いて過ぎた海は、ただ、静かな夕凪ぎだった。ゼリーのようになめらかな海面に、夕陽が照り返しているだけだった。
いまさっき見たあれは、幻覚だったんだろうか……。
あたしは、胸の中でつぶやいてみた。
けど、絶対に間違いない。あれは、確かに、クジラだった。
でも……そんなこと、他人《ひと》に言っても信じてもらえないだろうなあ……。あたしはそう思いながら、のろのろと、アルト・サックスを分解した。ケースにしまった。
楽器ケースを持って立ち上がった。防波堤を、歩きはじめた。
向こうから、歩いてくる人影が見えた。それは、哲だった。ジーンズにゴムゾウリで、ペタペタとコンクリートの防波堤を歩いてくる。
あたしを見ると、
「よお」
と言った。あたしも、うなずき返した。
「これから船を出すの?」
「いや。今日の漁は、とっくに終わった」
哲は言った。〈じゃあ、どうしてこの防波堤に?〉と、あたしの眼が言ったんだろう。
「あの……カラさんの店に寄ったら、〈湘が落ち込んでるみたいだから、ちっと、元気づけてやってこいよ〉って言うもんでさ……」
と哲。ちょっと照れたように言った。
「そっか……」
あたしは、うなずきながら言った。
あたしと哲は、並んで歩きはじめた。
「そう落ち込んでもいないけど……カラさんから、理由《わけ》、きいた?」
「いや。ほとんど」
と哲。
しょうがないんで、あたしはごく簡単に話しはじめた。
フレディとの出会いから、さっききた手紙のことまで、ごく簡単に話しはじめた。
□
「そうか……」
と、話をきき終わると、
「いろいろあるなあ」
と、つぶやくように言った。あたし達は、真名瀬の砂浜をぶらぶらと歩いていた。
しばらく、無言で歩いていた。小さな波が、ポチャポチャと砂浜に打ち寄せていた。
あたしは、迷っていた。例のクジラのことを、哲に話そうか、どうしようか、迷っていた。
だけど、あれはやはり幻じゃない。あたしは、思い切って話してみることにした。
「……あんた……秘密、守れる?」
と、あたしは切り出した。哲が、あたしを見た。
「秘密?……」
「そう……」
哲は、また視線を前の砂浜にもどす。
「ことによるけど、たぶん、守れる」
と言った。
あたしは、ゆっくりと、うなずいた。そして、ぽつりぽつりと話しはじめた。
何日か前、防波堤でアルト・サックスを吹いていたら、すぐそばの海面が波立ったこと。そして、さっき、やはりアルトを吹いていたら、目の前にクジラが顔を出したこと。
あたしは、誇張をせず、ありのままに話した。
哲は、黙ってきいていた。
けれど、目の前にクジラがあらわれたと言ったときには、さすがに驚いた顔をした。
「クジラかァ……」
と、つぶやいた。
話し終わったあたしは、
「そう……。あれは、間違いなくクジラだった……」
と、つぶやいた。あたし達は、しばらく無言で砂浜を歩いていた。
「イルカなら、ときどき、沖で見かけるし……昔は、この相模湾にもクジラがいたって話を、年寄りの漁師にきいたことがあるよ」
哲は言った。
「相模湾にクジラがいた?」
「ああ……。昔は、かなりな数のクジラが相模湾にも入ってきてたって話だ。捕鯨もしてたらしい」
「へえ……」
「でも……それもずいぶん昔の話らしいからなァ……」
と哲。
「沿岸でも深いところなら、もちろんいまでもクジラはいるだろうけど……こんな内湾の、しかも岸の近くとなるとなァ……」
つぶやくように言った。
そして、ふいに、
「あ……」
と、声を出した。
[#改ページ]
9 クジラは、ビートルズが好きかもしれない
「どうしたの?……」
あたしは言った。思わず、立ち止まっていた。哲も、立ち止まっている。じっと、何か、考えている雰囲気だった。
あたしはまた、
「どうしたの……」
と言った。
「ああ……」
哲は、つぶやく。心の中にある何かを確かめている、そんな感じだった。やがて、ぽつっ、ぽつっと話しはじめた。
「オレ……きのう、キスの乗り合い、やったんだよ」
「きのう……。日曜日か……」
あたしは、つぶやいた。哲が〈キスの乗り合い、やった〉というのは、キス釣りの乗り合い船の船長をやったということだろう。
きのうは、日曜で乗り合いにくる客も多い。哲の長五郎丸でも、いつもより多く船を出したんだろう。そうなると、船長もたりなくなってしまう。で、あまり釣り船が好きじゃない哲も、乗り合い船の舵を握ったんだろう。
「それで?……」
「ああ……。あれは、午後1時頃だったかなあ……。オレは、釣りのポイントを探して、森戸の沖にいたんだ」
あたしは、うなずいた。森戸は、このすぐとなりの海岸だ。
「そう……15メートルぐらいの深さだったかな……。オレは、魚探をつけて、キスのいそうなポイントをさがしてたんだ」
と哲。
魚探とは、魚群探知機のことだ。船の底から超音波を出して、海の中にいる魚の群れや、海底のデコボコをさぐる機械だ。
「魚探をつけっぱなしにして、15から20メートルぐらいのところを流してたんだけど……ふいに魚探に映ったんだよ」
「映ったって……何が」
「すごい大きな反応」
と哲。魚探を使う人間は、水中の魚のことを〈反応〉と言うのだ。
「大きな反応?」
「ああ……」
「大きいって、どのぐらい……」
「正確にはわからないけど、5メートル近いんじゃないかな。中層にいたよ」
「…………」
「でも、この辺にゃ、そんな大きな魚はいないから、イワシの群れかなんかだと思ったんだ」
「イワシの群れなんかでも、そんなふうに魚探に映ること、あるの?」
「ああ……。群れが濃いと、まるで、でかい魚みたいに映ることはある」
哲は言った。
「だから、その時はてっきり、小魚の群れだと思ったんだけど……」
あたしと哲は、顔を見合わせた。しばらく、沈黙。
「もしかしたら……そいつが……」
「あの、クジラかもしれない?」
「可能性は、あるな」
哲は言った。
□
空に、一番星が出ていた。
陽が沈んだばかりの空。下の方は、夕焼けの夏ミカン色。上にいくにしたがって、紫色になっていく。きれいなグラデーションを描いていた。
空の上の方、紫色が濃くなっていくあたり。プツッと針で突ついて開けた穴みたいに、星が1つだけ光っていた。
あたしと哲は、そんな空をながめていた。砂浜に上げてある小さな漁船の船べりに腰かけて、広大な空をながめていた。
「オレ……いま、海のこと、いろいろ勉強してるんだけど」
哲が、ぽつりと言った。あたしは、うなずいた。
「水産大学にいくんだってね。カラさんにきいたわ」
「ああ……。そんなこともあって、海や魚のこと、いろいろ勉強しはじめてるんだけど」
「…………」
「いつか、クジラのことも少し読んだんだ」
「…………」
「その本の中に、クジラやイルカは、音や音波に敏感だっていうことが書いてあったな」
あたしは、うなずいた。
「イルカが、レーダーみたいに自分で音波を出すってのは、なんかで読んだことがあるわ」
「ああ。そういうこと。だから……」
と哲。そこで1回、言葉を切った。
「……そのクジラが姿を見せたってのは、湘が吹いてたサックスのせいだったのかもしれないぜ」
「…………」
「そのサックスの音をききつけて、沖から、防波堤に近づいてきたのかもしれないぜ」
「…………」
あたしは哲の言葉をききながら、あのときのことを思い出していた。確かに、クジラは、あたしの演奏を聴いていたような、そんな気がする。
もちろん、想像にすぎないけれど……。
「もし、そうだとしたら……あしたも、湘があそこでサックスを吹けば、そのクジラ、近寄ってくるかなァ」
哲が、きいた。
「……わからないけど、可能性はあるかもしれない」
あたしは言った。
「クジラ、見たい?」
哲は、無言でうなずいた。ゆっくりと、大きく、うなずいた。
□
翌日。午後4時半。
あたしと哲は、防波堤にいた。哲は、漁を終え、アワビやサザエを売りさばいてきた後だった。
海は凪いでいる。けれど、空には雲があった。雲のあい間から、陽射しがスポットライトのように海に降りそそいでいた。
あたしは、アルト・サックスをケースから出した。組み立てた。リードに唇をつけた。
吹きはじめた。
〈|I'll Be There《アイル・ビー・ゼア》〉からはじめて、3曲ほど、バラードを吹いた。
4曲目。何を吹こうか、考えているときだった。
「あ」
となりで、哲が思わず声を出した。小声だった。けれど、哲が息をのんだのが感じられた。
あたしも、ハッとして顔を上げた。
すぐ目の前の海面。おだやかな海面が、もり上がった。
そして、グレーの丸い頭が、海面から姿をあらわした。頭から左右に海水が流れ落ちた。クジラの頭は、完全に水面にあらわれた。
まったく、この前と同じクジラだった。
よく見れば、グレーの頭には、ひっかき傷みたいなものがたくさんある。その傷は、白っぽいので、クジラの頭全体は、かなり白っぽく見える。
丸太ぐらいある頭に、黒く丸い瞳があった。山ブドウの実みたいに丸い瞳だった。その瞳が、防波堤の上の、あたし達を見上げていた。じっと見上げていた。
「まいったなァ……」
となりで、哲が言った。あとは絶句している。
あたしは、黒くて丸いクジラの眼を見つめた。その眼は、この前と同じように〈もう1曲、吹いてくれよ〉と言っているみたいだった。いや、あたしはそう、確信していた。不思議なことかもしれないけれど、クジラと気持ちが通じているような気がした。
別に、テレパシーとか、そんなたいしたものじゃない。ただなんとなく、クジラの眼が訴えていることが感じられるような、そんな気がしたのだ。
あたしは、アルト・サックスを、しっかりと持ちなおした。
大きく息を吸い込んだ。
リードに唇をつける。吹きはじめた。
ケニー・Gの名曲〈|Song Bird《ソング・バード》〉を、ゆったりとしたテンポで吹きはじめた。
音が、ゆっくりと海に流れ出していく……。
クジラは、じっとしていた。じっと、こっちを見つめていた。
たぶん、いや、きっと、演奏を聴いているのだ。
あたしは、思いきり心を込めて吹いた。海風を胸いっぱいに吸い込んで、それをアルト・サックスに吹き込んでいった……。
やがて、曲が終わった。
あたしは、リードから、そっと唇をはなした。
海を見た。
クジラは、1度、頭を水に潜らせた。
そして、その尾が、水面に出た。T字型をした尾びれが、水面にあらわれた。
平べったい尾びれは、バシャンッと、1回、水面を叩いた。
あたしと哲は、顔を見合わせた。
「……いま、あいつ……拍手したんじゃないか?……」
つぶやくように、哲が言った。あたしも、うなずいた。
人間が手を叩くように、平べったい尾びれで水面を叩いたのかもしれない……。
あたしは、また、クジラを見た。クジラは、こっちを見ていた。黒い眼が、じっとこっちを見ていた。
「もしかしたら、もう1曲って言ってるのかしら……」
あたしは、つぶやいた。
「……たぶん、な。吹いてやれよ」
と哲。あたしは、うなずいた。
ちょっと考える。ビートルズ・ナンバーの〈|Let It Be《レット・イット・ビー》〉を吹きはじめた。
自己流のアレンジで、ゆっくりと吹いていく……。やがて、吹き終わった。
やはり、クジラは1度水に潜り、尾びれで水面を叩いた。
今度は2回、バチャッ、バチャッと水面を叩いた。
「やっぱり、拍手してるみたいね……」
「ああ……しかも、いまのは2回だった」
「ってことは」
「ビートルズが好きなクジラなのかな」
哲が言った。
そのとき、沖の方でカン高い音がした。
ジェット・スキーの爆音だった。キンキンとした爆音が、近づいてくる。水しぶきを上げて走ってくるジェット・スキーが見えた。
たそがれ時、ひとっ走りしているジェット・スキーヤーだろう。
その音をききつけると、クジラは、ゆっくりと身をひるがえした。
大きなしぶきは立てず、水の中へ姿を消していった。あとには、渦だけが海面に残っていた。
水面の渦は、直径3メートルぐらいになり、2メートルになり、1メートルになり、洗面器ぐらいの大きさになり、そして消えた。
あとは、ただ静かな夕凪ぎの海面……。
走ってきたジェット・スキーも、30メートルぐらい沖で大きくターンすると、また南の方に走っていった。
あたりは、静まり返った。あたしと哲は、
「フーッ」
と深い息を吐いた。
「確かに……見たよね……いまの」
あたしは言った。
「ああ……」
「確かに……クジラだったよね」
「ああ……」
と哲。まだ、少しぼんやりとした声で言った。
「やっぱり、幻覚じゃなかったんだ……」
あたしは、つぶやいていた。
□
30分後。
あたしと哲は、一色海岸に面した駐車場にいた。駐車場に駐めた軽トラックの荷台に座っていた。
軽トラックのドアには〈長五郎丸〉と描かれていた。漁具や何かを運ぶためのトラックだった。
いまも、荷台には丸めたアンカー・ロープが載せてあった。あたし達は、その、ロープの束に腰かけていた。
夕陽を浴びて、哲は、1冊の本をめくっていた。それは、クジラやイルカに関する本らしかった。
「それ、いつ買ってきたの?」
あたしがきくと、
「今朝」
とだけ哲は答えた。熱心に本のページをめくっている。何も言わず、本のページをめくっている。ただ黙々とめくっている。
やがて、
「これかもしれないな……」
と哲はつぶやいた。開いているページを、指さした。あたしも、そのページを見た。
見開きページに、クジラの一種類が紹介されていた。
〈ハナゴンドウ〉と書かれていた。そばに小さな文字で〈ハクジラ亜目〉と書かれている。それは、学問上の分類なんだろう。
哲が、文章をひろい読みしてくれる。
「ええと……体長は約3メートルから、最大で4メートル……」
「温帯から熱帯にかけて、幅広く分布する」
「ええ……〈日本の太平洋岸沖に、もっともひんぱんに出現する種の1つである〉。とさ」
哲は言った。
「ここまでは、ドンピシャだなあ……」
と哲。あたしも、うなずいた。さっき見たクジラの大きさを思い浮かべていた。
最初にクジラに出会った時は、ただ驚きの方が大きかった。あまり、ちゃんとクジラの大きさを確かめるなんてできなかった。
けど、今日は、かなり落ち着いていた。
クジラの頭から尾びれまでの長さを、だいたい目測することができたと思う。
約3メートルから4メートル。そんなところだろう。
ということは、この本に出ているその〈ハナゴンドウ〉という種類と、ぴたり一致する。
哲は、本のそのページを、目をこらして読みつづけている。ふと、何か、つぶやいた。
「何? どうしたの?」
あたしは、哲にきいた。哲は、ページの1カ所を指さした。そのところを読み上げはじめた。
「〈仲間の歯による引っかき傷が白くなって全身に残るので、老いた個体ではかなり白く見える個体がある〉だってさ」
と哲。
あたしは、あのクジラの姿を思い浮かべていた。グレーがかった頭、その一面に、白い引っかき傷みたいのがあった。
「あいつの体、引っかき傷みたいのだらけで、ずいぶん白っぽかったよなァ」
哲が言った。
あたしは、うなずいた。
「ってことは、かなり年寄りのクジラってことなのかなァ……」
と、つぶやいた。
「そうかもな」
と哲。あたしは、また、うなずいていた。
確かに、あのクジラの体は、一面に傷だらけだった。素人の目で見ても、若いクジラって感じはしない。どっちかといえば、逆に、年寄りのクジラって感じだった。
それに、あの瞳だ。
あの、山ブドウの実のような黒い瞳……。それは、物静かで、どこか悲しげにも見えた。
もちろん、それは、あたしの勝手な思い込みかもしれない。けれど、とにかく、あたしにはそう見えた。
いろんな海。いろんな経験。いろんな出会い。いろんな別れ。
そういう年月を過ごしてきた……そんな者の持つ瞳のような気がしてならなかった。
けど、それはただの思い込みにすぎないんで、あたしは言葉にしなかった。胸の中にしまっておいた。
「……でも、クジラって、群れになって行動するんじゃないの?」
あたしは哲にきいた。
哲は、本のページを目で追っている。
「〈通常50頭以下で行動するが、ときとして100頭以上の群れを作ることがある〉って書いてあるなァ」
「……やっぱり、群れで行動することが多いんだ……」
「そうみたいだなァ……」
「ってことは」
「あいつ……はぐれ者ってことになるのかな?」
哲が、つぶやいた。
そうかもしれない……。何かの理由で群れから離れてしまった、年寄りのクジラ……。そうなのかもしれない。あの、どことなく悲しげな瞳を思い浮かべて、あたしはふと、そんなことを考えていた。
そのとき、哲のお腹がグルルルと鳴った。
□
「よく食べるわね」
あたしは、オニギリを頬ばっている哲に言った。
出てくる時、うちのコンビニから持ってきたオニギリだ。哲はもう、4つ目をかじっていた。
「体がもとでの仕事だからな」
とだけ哲は言った。5つ目のオニギリに手を出した。あたしもつられて、オニギリを手にとった。ゆっくりとセロファンをはがしはじめた。
「哲……本当に漁師になるの?」
ふと、きいてみた。哲は、オニギリを頬ばったまま、無言でうなずいた。
「悪いか?」
と哲。あたしは、首を横に振った。
「でも……若い連中、みんな釣り船の方をやりたがるじゃない」
と言った。哲は、オニギリをかじる手を、ちょっと止めた。
「他人《ひと》に釣らせるより、自分で魚獲《と》る方が面白いからな……だから、漁師」
哲は、ボソッと言い切った。また、オニギリをむしゃむしゃとかじりはじめた。
「そっか……漁師か……」
あたしは、つぶやいた。オニギリを持ったまま、海をながめた。
雲の下端から、夕陽が顔をのぞかせていた。海は一面、夏ミカンの色に光っていた。あたしの顔も、哲の顔も、そんな夕陽色に染まっていた。
飛行機の爆音がした。
見上げる。たそがれの空。ジェット機らしい。チカチカと赤い灯を点滅させながら北西の方向に飛んでいく。
たぶん、厚木の基地に飛んでいく米軍のジェットだろう。ぐんぐん、シルエットは小さくなっていく。
「湘は……サックス吹きになるのか?」
ふいに、哲が言った。
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10 灯台は遠いけれど
「…………」
あたしは、無言。あまりに突然で、あまりにストレートな言い方だから、めんくらってしまったのだ。
しばらく考えて、
「別に……アルト・サックスを仕事にしようとは思ってないけど……。それに、プロになれるかどうかなんて、わからないし……」
あたしは言った。
「でも、とりあえず、客はいるじゃないか」
「客?」
「そう。あの、クジラ」
と哲。灼けた顔から、ニッと白い歯を見せた。
「とにかく、あのクジラが湘の演奏を聴いていたことは確かだぜ」
「まあ……そうかもしれないけど……」
あたしは、つぶやいた。
「おまけに、拍手までしてた」
「まあ、ね……」
あたしは微笑みながら言った。タラコのオニギリをかじった。
哲は、何か言いたそうだった。あたしは、哲の横顔を見た。
「あのさ……カラさんが訳したあの外人の手紙……。オレ、見せてもらったんだ」
「ああ……。フレディからの手紙ね……」
「あそこに書いてあっただろう? 湘の演奏はすごい。プロになれるって……」
「…………」
「それを読んだ時は、正直言って、バカバカしいと思ったよ。ガキの頃の湘しか知らなかったしな。おまけに女で、サックスのプレーヤーなんて、てんでバカバカしいと思ったよ」
「…………」
「でも……さっき、じっくり湘の演奏を聴いて……ちょっと驚いた」
「驚いた?」
オニギリを持ったあたしの手が止まった。
「ああ……。特に、ケニー・Gの曲、吹いただろう? あれ聴いて、えっと思ったよ。こいつ、もしかしたら、けっこうすごいんじゃないかって……ちょっと驚いたよ」
哲は言った。
あたしも、逆に驚いていた。
あの時は確か、曲名もプレーヤーも、言ったおぼえはない。
「哲……ケニー・Gなんて、知ってたの……」
思わず言ってしまった。
哲は、笑いながら、
「バカにするもんじゃないよ」
と言った。
「漁師といやあ、ゴム長はいて、カラオケで演歌がなりたててると思ってるんじゃないのか?」
「…………」
「ほれ見ろ、ナイキだぞ」
と哲。はいているスニーカーの片方を上げてみせた。
「おまけに、FM横浜だって、J‐WAVEだって聴いてるんだ。ケニー・Gぐらい知ってるぜ」
「へえ……。じゃ、音楽にはうるさいんだ……」
「いや、うるさいってほどじゃないけどな……。船の上で休憩してる時なんか、よく、小型のラジオでFM聴いてるよ」
「ふうん……」
「そんなに感心するなって」
「ゴメン、ゴメン」
笑いながら、あたしは言った。
「とにかく、オレ、素人だけどさ、湘の演奏、もしかしたら、すごいんじゃないかと思ったよ。で、プロになる気はないのか、きいたんだ」
哲は言った。
「…………」
あたしは、無言。ちょっとだけ、うなずいた。食べ終わったオニギリのセロファンを丸めてビニール袋に放り込んだ。
オレンジから紫色に変わっていく、たそがれの海と空をながめた。
明日のことは、何も見えない。
将来なんて、霧の中だ。
でも、そんな霧の中に、小さな灯りが見えはじめていたことは確かだった。
フレディとの出会い。そして、アルト・サックスとの再会……。
ひさびさにアルト・サックスを吹いたあの日……。あそこで、何かが変わった。それは確かだ。
霧の中を、ただジグザグに走る船みたいだったあたしの前……遠くの灯台みたいな、ぽつんと小さな灯が見えてきたことは本当だった。
アルト・サックス・プレーヤー。
ミュージシャンへの道。
いまのあたしに、それは、ただの夢でしかないだろう……。
でも、1カ月前までのあたしには、そんな〈ただの夢〉すらなかった。たいした意味もなく学校をさぼって煙草をふかしている、そんな不良娘にすぎなかったのだから。
どんなに遠くても……。
どんなに小さくても……。
いま、あたしの前に、ささやかな希望の灯台が見えはじめたのだろう。たぶん……。
あたしは、唇をきつく結んで、沖を見つめていた。
海からの夕風が、Tシャツのソデを揺らせて過ぎた。
□
「えェ!? それって、あんまりじゃない!」
あたしは、思わず智子に言ってしまった。
高校の屋上。昼休みだ。
あたしと智子は、屋上で話をしていた。智子を妊娠させた相手の大学生のことだ。
このところ、智子はその大学生と交渉をしていた。せめて子供を堕《おろ》すためのお金を出させる、その話し合いをしていたのだ。
もたもたしていると、堕せる時期も過ぎてしまう。
そのこともあって、智子は一生懸命に話し合いをしていた。
「でも……やっぱり、ダメだった」
と智子。屋上に出るなり言った。
「ダメだったって……一銭も出さないってこと?」
あたしがきくと、智子は、蒼白い顔でうなずいた。
「……結局、絶対にその相手の子供だっていう証拠がないんだもん……。ほかの相手とだって寝ただろうって言われると、そうじゃないっていう証拠なんて、出せないじゃない」
と智子。
「でも、それってあんまりじゃない!」
あたしは思わず言ってしまったのだ。
「なんてやつ……」
あたしは、つぶやいた。
「そんな目にあって、くやしくないの?」
と智子に言った。
「そりゃ、くやしいけど……」
と智子。持っていた紙袋から、昼食のパンならぬ缶チューハイを取り出した。プシュッと開け、グッとひと口、飲んだ。
「やれやれ……」
あたしは、ため息。缶チューハイをやけ飲みしてる智子をながめた。
「あんた、それで、気持ちがおさまるわけ?」
あたしは智子に言った。
「おさまるわけ、ないじゃない」
と智子。
「もう、お金なんてどうでもいいから、とにかく、思い知らせてやりたいわよ」
と言った。
「じゃ、思い知らせてやろうじゃないの」
「どうやって……。ぶっ飛ばす?」
「そんなんじゃ、あんまり面白くないわ。なんかこう、一生忘れられないような目にあわせてやろうじゃない」
「どんな目……」
「それは、これから考えるわよ」
あたしは言った。
□
2日後。午後3時過ぎ。
あたしは、哲の運転する軽トラックに乗って、横浜に向かっていた。哲に事情をくわしく話して、協力してもらうことにしたのだ。
軽トラックは、横浜横須賀道路を北へ走る。
いい天気だった。M《マイケル》・ジャクソンのテープをかけながら、突っ走った。
港南台のランプで高速道路をおりた。智子が描いてくれた地図を見ながら、一般道を走っていく。ゆるい登りだ。やがて、
「あそこ」
指さして、あたしは言った。行く手の丘の上。大学らしい建物が見えてきた。
コンクリートの建物が、いくつか並んでいる。これが、智子の相手がいっている大学なのだ。
派手に宣伝しているけど、伝統も何もない三流の私立だ。金持ちの馬鹿息子や馬鹿娘たちがいく大学だった。
大学の敷地には門がなく、建物や並木道だけが広がっていた。誰でも出入りできるようになっている。
あたし達は、智子の書いた地図を見ながら、大学の構内に入った。頭の中身はともかく身なりだけはいい学生たちが、ぞろぞろと歩いている。
「そこを右」
あたしは言った。哲はステアリングを右に切る。〈6号館〉と書かれた建物の角を曲がると、目的の場所だった。
20台ぐらい駐まれる駐車場があり、駐車場に面して、カフェテリアがあった。
駐車場には、7、8台のクルマが駐まっている。哲は、軽トラを駐車場の端に駐めた。
あたしは、クルマをおりた。
いま、智子と相手の大学生は、そこのカフェテリアで話をしているはずだ。
なんでも、今日がその大学生の誕生日なのだという。
〈別れるのはかまわないけど、最後、誕生日にプレゼントを渡して別れたいの〉
と智子に言わせ、相手と会う約束をさせたのだ。逗子の駅前で買ったつまらないプレゼントを智子には持たせてある。
いま、カフェテリアで、智子はそれを相手に渡しているだろう。
あたしは、ガラスばりのカフェテリアの方を見た。
窓ぎわの席に、智子と相手がいた。相手はこっちに背中を向けている。サマー・ブレザーの背中と、きれいに刈り込まれた髪型だけが見えた。
そして、やつのクルマは、この駐車場に駐めてあるはずだった。あたしは見回した。
すぐに見つかった。
智子からは、〈赤いオープンカー〉としかきいていなかったけど、赤いオープンは1台きり。駐車場の一番目立つあたりに置いてあるフェラーリだった。
あたしは、そっちにゆっくりと歩いていく。よく磨き込まれたまっ赤なフェラーリをながめた。
もう夏が近いんで、幌はかけていない。シートはすべて皮ばりだった。
大学生らしくない高級車が駐まっているその駐車場でも、さすがにそのフェラーリは目立っていた。
こんな高いクルマを親に買ってもらっているくせに、子供を堕すためのお金を出せないなんて、もちろん、嘘八百だ。
やはり、根性が腐り切った野郎であることは、間違いなかった。
あたしは、フェラーリに歩み寄る。見物しているように、近づいていく。その、ぐっと低い運転席をのぞき込んだ。
クチャクチャと噛んでいたチューインガムを、とり出す。イグニション・キーをさし込む穴に、チューインガムをぎゅっとつめ込んだ。
そ知らぬ顔で歩いていく。
ガラスばりのカフェテリアの方に行く。智子が、チラリとあたしを見た。
あたしは、親指を立てて〈OK〉の合図をした。軽トラの方に戻った。
10分ほどして、智子と相手が、カフェテリアから駐車場に出てきた。
相手の大学生は、青いサマー・ブレザーに白いコットン・パンツをはいていた。ピンクのポロ・シャツのエリを立てている。
髪は、今風に、きれいに刈り上げられている。ヴィトンの男性用ポーチを持っていた。
身なりは洒落《しやれ》ているけれど、どう見ても中身の感じられない、脳ミソの軽そうな軽薄顔をしていた。
真名瀬の砂浜で風に揺れている干しワカメみたいにペナペナした男だった。
よりによってこんな男と……。あたしは胸の中で〈智子のドジ〉とつぶやいていた。
哲が、軽トラのエンジンをかけた。ギアをバックに入れた。
大学生は、フェラーリに歩いていく。運転席に乗り込んだ。智子は、クルマの近くに立っている。
大学生は、キーをさし込もうとして、穴をふさいでいるチューインガムに気づいたらしい。そのあたりをのぞき込んでいる。
あたし達の軽トラは、バックでフェラーリに近づいていく……。荷台の後ろをギリギリまでフェラーリの運転席に寄せてとめた。
あたしと哲は、ドアを開けて軽トラをおりた。そして、軽トラの荷台に跳び上がった。
大学生は、ふさがれたキーの穴をのぞき込んでブツブツと文句を言っていた。そのせいで、すぐそばにいったあたし達の軽トラにはまるで気づかない。
「チックショー……」
と大学生。キーのさし込めない穴をのぞき込んで言った。
そして、やっと、すぐわきにある軽トラに気づいた。顔を上げた。
あたしは、軽トラの荷台から、下の大学生に向かって、
「ハロー」
と言った。大学生は、フェラーリの低い運転席から、あたしを見上げた。
あたしと哲は、荷台に積んであるポリバケツに手をかけた。ゴミ出し用の、大きなポリバケツだ。中には、コマセがいっぱいに入っている。
コマセというのは、釣り船で使う〈撒《ま》きエサ〉のことだ。このコマセは、イワシのミンチだ。イワシを内臓もろともドロドロのミンチにしたものだ。
長五郎丸で、きょう1日使ったコマセの残りが、ポリバケツに入っていた。
朝から陽射しをうけていたコマセは、もう、腐りかけていた。魚の内臓も入ったミンチだから、腐りかけたその臭いはすごかった。
あたしと哲は、全身の力を込めて、ポリバケツを持ち上げた。ポリバケツいっぱいだから重かった。けど、全力をふりしぼって、持ち上げる。
あっけにとられて見上げている大学生に、
「ハッピー・バースディ!」
あたしは言った。
そして、ぶちまけた。
正確に言うと、流し込んだって感じだった。ポリバケツいっぱいのドロドロを、やつの頭上に流し込んだ。
その瞬間、
「ヒ!」
と、悲鳴らしいものがきこえた。やつの悲鳴だった。
けど、それも、すぐに消えた。頭上からコマセを流し込まれ、悲鳴も、かき消されたのだろう。
一気に、ぶちまけ終わった。
あたしも、
「…………」
哲も、
「…………」
智子も、
「…………」
もちろん、大学生も、
「…………」
コマセまみれになったやつの口のあたりだけが、パクパクと開いている。もちろん、全身、ドロドロのコマセまみれだ。コマセは、フェラーリの狭いシートを埋めつくしている。
大学生の足首は、シートの床にたまったコマセにかくれている。
やつは、ステアリングを握ったまま、かたまってしまっている。まるでコマセ色の銅像みたいに……。
そのうち、異臭があたりに漂いはじめた。クサヤを焼いたときに似ているけど、もっとすごい臭いが、プーンと漂いはじめた。
たまたま駐車場に出てきた3、4人の若い連中が、こっちを指さして何かヒソヒソと言葉をかわしている。
その連中も、漂ってきた臭いに顔をしかめる。女子大生らしい娘《こ》は、ランセルのバッグからハンカチを出して鼻に当てた。
見物人は、10人以上にふえていた。
みんな、臭いがすごいんで、遠まきにしている。あっけにとられた顔をしている。コマセ車と化したそのフェラーリを、遠まきにして、顔をしかめている。
智子は、やつに向かって、
「バイバイ!」
と言った。こっちに駆けてくる。軽トラの運転席に3人乗りをする。哲は、アクセルを踏み込む。
あたし達は、走り去った。
□
「これで、彼も、いちやく大学の有名人ね」
あたしは笑いながら言った。
「まあ、心に残る誕生日になったことは確かだな」
軽トラのステアリングを握って哲が言った。あたし達の軽トラは、逗葉新道を葉山に向かって走っていた。
「ああ、これでさっぱりした」
智子が、ふっ切れた声で言った。
「へたにお金なんかもらうより、この方が良かった」
と言った。
開けてある窓から、初夏の風が抜けていく。あたし達の笑い声が、風にちぎれて飛んでいく……。
□
「あのさ……」
あたしは、ぽつりと口を開いた。
「ん?」
となりで哲が、つぶやいた。釣りのリールをいじくる手を止めて、あたしの方を見た。
夕方の5時過ぎ。
あたしと哲は、防波堤にいた。
あたしは、アルト・サックスを手にしていた。2曲ほど吹いたところだった。となりじゃ、哲が釣り道具の手入れをしていた。
「なんだよ……」
と哲。手を止めたまま、きいた。
「あのさ……この前、あたしにきいたじゃない……。サックス吹きにならないのかって」
「……ああ……きいた」
と哲。ボソッと言った。また、スピニング・リールをいじくりはじめた。リールのハンドルをクルクルと回しながら、
「やる気になったのか?」
と言った。あたしは、しばらく無言でいた。
「ダメでもともとで……やってみようかなあって……ちょっと思ったんだ」
哲がリールを巻くチチチッという音が、ピタリと止まった。
[#改ページ]
11 海のビリー・ザ・キッド
「…………」
哲はまた、あたしの横顔を見ていた。あたしは、アルト・サックスのキーを1つ、カタカタと動かした。
「そんな大げさなことじゃないんだけど……アルト・サックスでお金が稼げたならなあって、思うんだ」
あたしは言った。
「智子の子供堕すのにも、お金いるしね。少しは、あたしも助けてあげたいし……」
哲は、うなずいた。
「でも……」
あたしは、つぶやいた。
「でも?」
「……やっぱり、不安はあるんだ……。本当にプロになれるかどうかって……」
つぶやくように、あたしは言った。哲も、ゆっくりとうなずいた。
そして、哲は言った。
「不安はわかるけど、もう、お客さんが来てるぜ」
「お客さん?」
あたしは、顔を上げた。哲が水面を指さした。
そこには、クジラがいた。
いつ姿を現わしたんだろう。丸っこいクジラの頭が、海面にあった。黒い眼が、じっとあたし達を見つめていた。
たぶん、さっき吹いた2曲をききつけて、やって来たんだろう。
「1曲、吹いてやれよ」
哲が言った。あたしは、うなずいた。サックスを持ちなおす。ビートルズの〈Yesterday《イエスタデイ》〉を吹きはじめた。
□
吹き終わった。あたしは、そっと、リードから唇をはなした。
クジラは、また、尾で拍手をしてくれた。つやつやとした平べったい尾びれが、海面に現われ、バシャバシャと2回、海面を叩いた。
「そうだ……」
あたしは、つぶやいた。
「このクジラに名前をつけてあげない?」
と哲に言った。
「名前?」
「そうよ……。サックス・プレーヤーとしてのあたしにとって、最初のお客さんなんだから……ただの〈クジラ〉じゃかわいそうよ」
「そうか……名前なァ……」
と哲。
「頭が丸っこいから丸太郎」
と言った。あたしは哲の肩を手の平で叩いた。
「そんないい加減なんじゃなくて、ちゃんと考えてよ」
「じゃ、年寄りだから、丸|兵衛《べえ》」
「やだもう! もっとかっこいい名前! カタカナかなんかで」
「カタカナかァ……」
と哲。しばらく考えて、
「ビリーってのは、どうだ?」
と言った。
「ビリー?」
「ああ。ビリー・ザ・キッドから思いついたんだ。このクジラって、傷だらけで……あっちこっち放浪してるみたいだし……なんか、ビリー・ザ・キッドって感じがするんだけどな」
と哲。
「オレのセンスじゃ、そのぐらいしか思いつかないよ」
「ビリーか……。悪くないかも、ね」
うなずきながら、あたしは言った。
「じゃ、あたし達の間じゃ、ビリーって呼ぼう」
「了解」
「じゃ、ビリー。もう1曲、吹くから、聴いててね」
あたしは、海面のクジラに言った。アルト・サックスを持ちなおした。
□
水曜日。午後。
あたしは、昼から学校をサボッた。アルト・サックスを手に、横須賀に行った。
サックスの仕事さがしのためだ。
ジーンズのヒップ・ポケットには、あのフレディからの手紙が入っていた。あの手紙の最後にあった店のリスト。それを1つ1つ回ってみるのが、まず近道だろう。
フレディは〈ぼくのことを言えば、演奏は聴《き》いてくれるはずだ〉と書いていた。その言葉を頼りに、店を1つ1つ、回ってみよう。
あたしは、そう思って、まず横須賀にやって来たのだ。
とりあえず、出会った頃、フレディが演奏してたっていう〈GG HOUSE〉に行ってみようと思った。
〈GG HOUSE〉は、いわゆる〈ドブ板通り〉にあった。〈ドブ板通り〉は早い話、米軍基地の前のバー街だ。
その昔は、ずいぶんにぎわっていたって話だ。1970年頃。アメリカがまだヴェトナム戦争をやっていた頃の話だ。あたしはまだ、生まれていない。
ひさしぶりに来たドブ板通りは、さらに、ガランとしていた。
まだ午後だってこともあるけれど、歩いているアメリカ兵の姿も、ほとんどない。
以前アメリカ兵向けのバーだった店も、ほとんどが閉店するか、日本人相手の店に変わってしまっている。
あたしは、ドブ板通りを京浜急行〈汐入駅〉の方へ歩いていった。ガランとした午後の通り。野良猫らしいブチ猫が、道ばたでアクビをしている。
〈GG HOUSE〉という看板が見えた。あたしは、そっちの方に歩いていった。
近づいていくと、店の外にいる人の姿が見えた。作業服を着た男が、3、4人で何かやっている。
なんと、店の看板をはずしているところだった。
ハシゴに登った作業員が、看板の〈G〉を1つ、はずした。
ひとりのオバサンが、通りに立ってその作業をながめていた。髪を赤っぽく染め、ジーンズに、黒いTシャツを着ていた。
「あの……」
あたしは、そのオバサンに声をかけた。
「何?」
オバサンは、ふり向いた。薄い色のサングラスをかけていた。
「このお店の経営者の方、いますか?」
あたしは、きいた。
「古い方? 新しい方?」
オバサンは言った。
「え?……」
「古い方の経営者か、新しい方の経営者かって、きいてるの」
「…………」
「古い方ならここにいるし、新しい方は、明日あたり来るだろうよ」
とオバサン。
「じゃ、あなたが……」
「そう。今日までの経営者」
「じゃ、店は……」
「見ての通りさ。きのうで閉店したわよ」
オバサンは言った。そう話している間にも、看板の〈G〉がもう1つはずされ、ただの〈HOUSE〉になってしまった。
「こうドル安がつづいたんじゃ、兵隊さんたちも、基地《ベース》の外に遊びに出てこなくなっちまったからねェ……しかたないよ」
オバサンは、カラリと言った。つとめてカラリとしゃべっている。そんな感じだった。
「じゃ、新しいお店は……」
「なんでも、日本人相手のカラオケ・バーになるって話だよ」
オバサンは言った。あたしをジロリと見た。
「で、あんたは?」
「いえ、ただ通りがかっただけで……」
あたしは、モゴモゴと言った。
「どうも」
とオバサンに言う。歩きはじめた。
通りの曲がり角。あたしは足を止めた。一度だけ、ふり向いて見た。オバさんは、腕組みをして、はずされていく看板を見上げていた。〈HOUSE〉の〈H〉の文字が、はずされていく。オバさんの後ろ姿は、じっと、動かなかった。その影だけが、ドブ板通りに長くのびていた……。
□
「そっか……。でも、しょうがないよね」
と智子。3輪自転車を押しながら言った。
夕方。
あたしと智子は、並んで海岸通りを歩いていた。智子は、カラさんの店にお酒を配達しにいくところだった。
あたし達は、カラさんの店〈カラカラ・バー〉のそばまできた。そのときだった。
「あいつらだ!」
叫び声がきこえた。
□
タイヤの鳴る音!
1台のライトバンが、あたし達を追いこして急ブレーキをかけた。
〈徳島工務店〉とどてっ腹に描《か》いてあるライトバンだ。4つのドアが開く。男たちが、バラバラと飛び出してきた。
あたし達を指さしてわめいているのは、あの、コマセまみれになった大学生だった。
あとの3人は、グレーの作業ジャンパーを着ている。全員、髪型はショート・パンチだった。
そうか……。あの大学生の家が工務店を経営してるって話は、きいた覚えがある。
ショート・パンチの3人は、いかにもガラが悪かった。暴走族上がりの作業員って感じだった。肩をいからせて、こっちに歩いてくる。
3人の後ろで、大学生がキャンキャンとわめき散らしていた。
パンチの3人が近づいてくる。あたしは、妊娠している智子を、後ろにかばった。かばうと同時に、背中で、ビールのケースから1本抜いた。瓶のネックを握った。
パンチの3人は、あたし達を囲むようにして立った。一番体のでかいやつが、あたしと向かい合った。いきがって、ツマ楊枝を口にくわえている。
そのパンチは、楊枝をくわえた唇を、ニッとゆがめて薄笑いを浮かべた。ずいぶん練習したらしいすごみ方だった。
「お前ら、うちの坊っちゃんに、たいしたこと、してくれたらしいな」
すごみながら、パンチは言った。
「それほどたいしたことしてないから、気にしなくてもいいのよ」
あたしは言った。
背中で、ビールのネックを握りしめた。
「へらず口をききやがって、このガキが……」
とパンチ。
「ちっと、顔かせや」
と言った。あたしにぐいと近寄る。あたしのシャツのエリをつかんだ。
すごみをきかそうとして、近寄り過ぎた。それが、やつの失敗だった。
あたしは、握ったビール瓶を、下から振り上げた。ちょうど、やつの股間を、下から直撃した。
それほど力は入れていない。けど、当たり所がよかった。
「グェ!」
こもったうめき声。やつの口が、パクパクとする。くわえてたツマ楊枝が、ポロリと落ちた。
やつは、股間を両手で押さえる。うめき声を上げながら、しゃがみ込んだ。
「このガキ!」
「やりゃがって!」
と残りの2人。血相を変えて、あたしにかかってこようとした。あたしは、ビール瓶を握りなおしてかまえた。
そのとき、
「待ちな」
低い声がした。
□
カラさんだった。
いつの間にか、店の裏口から出てきたらしい。カラさんは、刺身包丁を持っていた。〈蛸《タコ》びき〉と呼ばれる関東型の刺身包丁だ。その刃を、大学生の顔につきつけていた。
かかってこようとした2人の動きが、ピタリと止まった。
「ひとの店の前で、騒々しいやつらだ」
とカラさん。刺身包丁を大学生の顔に当てたまま言った。
その蛸《タコ》びきは、カラさん愛用の物だった。特注でつくらせたという。普通より少し長い。その刃は、磨ぎすまされ蒼《あお》く光っている。すごみのある包丁だった。
パンチの2人も、大学生も、凍りついたようになっている。特に、包丁をつきつけられている大学生は、顔が引きつっている。
カラさんは、包丁で、大学生の頬をピタピタと叩いた。
「ほう……こりゃ、アブラのよくのった白身じゃねえか」
と言った。確かに、大学生は男のくせに色白で、ぽっちゃりした顔をしていた。
「そうか。イワシのコマセを山ほど食って太っちまったか。まるで、養殖ハマチだな」
と言った。また、大学生の頬をピタピタと叩いた。大学生の顔に、ドッと汗が流れはじめていた。
カラさんは、3人の男たちをジロリと見て、
「そのチリチリ頭のお兄さん達も、覚えといてもらおうか。この娘たちに何か手出しをしようってんなら、それなりの覚悟を決めてきてもらおうか」
と言った。
「なんせ、漁港の人間は気が荒いんでね」
と言った。ニッと白い歯を見せた。刃物を握ったカラさんがそう言うと、まるで本職のヤクザみたいだった。
3人のパンチは、あきらかにたじろいでいた。カラさんは、また、包丁で大学生の頬をピタと叩く。
「このハマチを刺身にされたくなかったら、クルマに戻りな」
と言った。3人のパンチは、一瞬、顔を見合わせる。じりじりと後ずさり。ライトバンに乗り込んだ。
「それじゃ、ハマチの背開き!」
カラさんは言った。包丁を握りなおす。大学生の後ろに回る。ズボンの背中に、包丁をさし込む。
ピッ。
いい音がした。大学生のコットン・パンツとベルトが、一気に切り裂かれた。ズボンは、やつの足もとまでずり落ちた。やつは、何か、小さな悲鳴を上げた。
「とっととうせろ!」
とカラさん。大学生の背中をドンと押した。
大学生は、足首にズボンをからませたまま2、3歩よろける。ズデッと転んだ。あわてて起き上がる。
切り裂かれたコットン・パンツを、たくし上げる。そのままのへっぴり腰でライトバンに走っていく。
ライトバンに乗り込むとき、
「バカヤロ!」
とかん高い声で叫んだ。お座敷犬がキャンッと吠えたみたいだった。ライトバンは、タイヤを鳴らして走り去った。
□
「ああ……やっぱり、ここっていいなァ…」
智子は言った。夜の海風を胸に吸い込んだ。
あたしと智子は、防波堤にいた。コンクリートに腰かけて、缶コーヒーを飲んでいた。
きょうは雲があるらしく、星も月も出ていない。そのかわり、少し沖にある灯台の明かりが、やけにはっきりと見えた。
裕次郎灯台だ。海の中に立っているスマートな灯台で、3秒間隔で点滅している。
メインの灯台から少し離れて、小さな灯台がある。この灯台は、その2つでひと組みなのだ。
その2つの灯台の間が、安全に通れる水路ということらしい。
大きい方のメインの灯台は白く、小さい方は赤く、点滅している。
あたし達は、無言でその灯台の明かりをながめていた。風の暖かさや匂いは、もう、真夏だった。
「そういえば、この頃、煙草吸わないんだね」
智子が、あたしに言った。あたしは、うなずいた。
「……やっぱり、サックス、本気でやろうと思ってさ……」
「プロに?」
「なれればね……。だから」
「煙草、やめたんだ……」
あたしは、うなずいた。管楽器をやるために、煙草がいいはずはない。
「そうか……。かなりマジなんだ……」
と智子。あたしは、うなずいた。3回ぐらい、うなずいた。
「そういえば……あんた、最近、酒飲まないじゃない」
あたしは、智子に言った。この何日か、智子が飲んでるところを見たことがない。酒の匂いもさせていない。
「お酒……ちょっと、やめてるんだ……」
智子は言った。あたしは驚いて、智子の横顔を見た。
「……どうしたの、いったい……」
智子は、しばらく黙っていた。そして、ぽつりと言った。
「子供……産もうと思うんだ」
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12 18歳未満お断り
「産む!?」
あたしは、思わずきき返していた。
「産むって……お腹の子供を?」
智子の横顔を見て、きき返していた。
「そう……。産んでみようかと思うんだ……」
智子は言った。
「……だって……あんなやつとの間にできた子供……」
あたしが言いかけると、智子は首を横に振った。
「あんなやつ、もう関係ないわ」
と言った。
「これは……あたしだけの子供よ」
「でも……」
あたしは、つぶやいた。
「やばいかなァ……」
と智子。
「やばいっていうか……堕そうと思ってたあんたが……どうして産む気になったのか……そこがわからないんだけど……」
あたしは言った。
智子は、しばらく無言。そして、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「あんまりうまく言えないんだけど……ようするに、なんか、手ごたえが欲しいんだと思う……」
「手ごたえ……」
智子は、うなずいた。
「そう……自分が生きてる手ごたえが欲しいんだよね、きっと」
「…………」
「学校さぼって……酒や煙草もひととおりやって……男とも何人かつき合って……でも……よく考えると、ただそれだけなんだよね」
「…………」
「これで10代が終わっちゃって……結局……はっきりとした手ごたえってのが何ひとつ残らないような気がするんだ」
「…………」
「あんたは、アルト・サックスっていう、しっかりした目的があるからいいけど……あたしには何もないしね」
「…………」
あたしは、そこまで無言できいていた。
「もし産んだとして、学校は?」
「そんなのシカトだよ。だいたい、産まれる予定は来年の3月頃だしね」
「でも……秋になると、お腹、大きくなってきちゃうんじゃないの?」
「そうなったら、マタニティ・セーラー服でもつくろうか」
と智子。笑いながら言った。あたしも、つられて笑ってしまった。
「どっちみち、お腹が大きくなれば学校にはバレるし、退学《クビ》になるだろうけど、そんなの関係ないよ」
智子は言った。きっぱりと言った。
「あんた、けっこう、強くなったね」
「そう?」
あたしは、うなずいた。ただ、ぐだぐだとお酒ばかり飲んでた智子に比べると、いまの智子は、ひとまわり強くなったように見えた。
「まあ、開きなおったってことかなァ」
と智子。
あたしは、うなずいた。それもいいかなと思いはじめた。産んだ子供が、智子の生きがいになれば……それで、智子がしっかりしてくれれば、それもいいかなと思いはじめていた。
いまの智子は、フラフラと海を漂っている小船みたいなものだ。
子供が、その小船にとっての錨《いかり》になってくれれば、結果的にはいいのかもしれない……。
あたしは、そんなふうに思いはじめていた。ゆっくりと、缶コーヒーを飲んだ。
「……あの灯台……親子みたいだね……」
智子が、つぶやくように言った。缶コーヒーを持った手で、沖の裕次郎灯台をさした。
「親子か……」
あたしは、苦笑まじりに言った。
背の高いメインの灯台。そして、比べると〈豆灯台〉っていう感じの小さな灯台。
メインの灯台がポッと白く光ると、豆灯台がポッと赤く小さく光る。
それは、確かに、親子みたいにも見えた。特に子供を産む決心をした智子には、そう見えるんだろう……。
あたしは灯台を見つめた。
「あたしも、子供産むの、がんばるからさ……湘も、サックス、がんばりなよ」
智子が言った。あたしは、うなずいた。何回も、何回も、うなずいた。
あたしと智子は、無言で夜の海をながめていた。白と赤の親子灯台が、チカッ、チカッと光りつづけていた……。
□
翌週。火曜日。
あたしは、学校が終わると、家で着がえ、横浜に向かった。もちろん、アルト・サックスの仕事を見つけるためだ。
楽器ケースを片手に、JRの関内駅でおりた。繁華街の方に歩きはじめた。
フレディが手紙に書いてくれたリスト。その中の店にいってみるつもりだった。
にぎやかな伊勢佐木町を通り過ぎる。あたしは、フレディの書いてくれた住所を見ながら歩いていく。末吉町……末吉町……。
やがて、店は見つかった。川沿いの道路に面していた。〈Bird《バード》〉と、小さな看板が出ていた。看板のわき。地下へおりていく階段があった。
少し急な階段を、あたしはおりていった。右側に木のドアがあった。〈準備中〉のプレートがかかっていたけど、ドアを押した。
想像していたより、店は広かった。板張りの床。木のテーブルが7、8と、カウンター。生演奏をきかせるバーって感じの店だった。
いま、木のイスはみな、テーブルの上にのせられている。開店準備もはじまっていない。そんな感じだった。
カウンターに、男が1人いた。
中年。口ヒゲ。血色がよく、少し太っていた。白いシャツの上に黒いヴェストをはおっていた。いかにも、店の人間らしかった。出前らしい天ザルを食べていた。
□
「そうか……あのフレディの……」
と、その男。ソバをズズッとすすると言った。きけば、この店の店長だという。
あたしは、事情を話し終わったところだった。
「あの……とりあえず、演奏を聴いてもらうだけでも……」
あたしは言った。店長は、エビの天プラをかじる。ソバをすする。
「そりゃいいんだけど……君、まだ高校生だろう?」
あたしは、うなずいた。店長は、渋い顔をしている。
「ダメ?……」
「うーん……。あのフレディの紹介だから、演奏を聴いてあげたいんだけど……」
「だけど?……」
「ほら、うちの場合、店がはやるのは夜中になってからだし……。その場合、高校生の女の子を出演させてたとなるとねェ……」
「まずい?」
「うーむ……。そうなんだよねェ。近頃は、けっこう警察もうるさくなってるから……やっぱり、まずいなあ……」
と店長。ソバを食べ終わり、ハシを置いた。
「悪く思わないでほしいんだけど、ヘタすると、営業停止をくらうんでねェ……」
「そうかァ……」
あたしは、唇をかんだ。
「まあ、そうがっかりしないで」
と店長。元気づけるように、口ヒゲの下で白い歯を見せた。
「いま、高3?」
あたしは、うなずいた。
「じゃ、高校を卒業したら、もう一度、来なさい。そしたら、ちゃんと演奏を聴いてあげるから」
店長は言った。
あたしは、うなずいた。礼を言うと、店を出た。階段を上がり、地上に出た。夏の陽射しが、眼に痛かった。あたしは、眼を細め、楽器ケースを片手に、歩きはじめた。
□
たそがれ。
あたしは、防波堤に座っていた。アルト・サックスを組み立てる。吹きはじめた。
〈|Fly Me To The Moon《フライ・ミー・トウ・ザ・ムーン》〉
〈|On The Beach《オン・ザ・ビーチ》〉
3曲目、
〈|Sea Of Love《シー・オブ・ラブ》〉
を吹き終わったときだった。目の前に、クジラのビリーが姿を現わした。いつものように、海面に頭を出し、あたしを見上げていた。
「仕事……ダメだった……」
あたしは、ビリーに話しかけた。
ビリーの黒い瞳が、じっとあたしを見つめていた。その瞳は、〈元気を出せよ〉と言ってくれているように思えた。
いや。きっと、そうだ。そう言ってくれてるにちがいないと、あたしは思った。
それもそうだ。まだお店を2つ、回ってみただけじゃないか。仕事がないからといって、落ち込んだりしてちゃいけないんだ。
あたしは、自分にそう言いきかせた。
元気を出さなくちゃ。
たとえ1人、いや1頭でも、ここに熱心な観客がいるんだから、がんばらなくちゃ……。
アルト・サックスを持ちなおした。ビートルズ・ナンバーの明るい曲、
〈|With A Little Help From My Friend《ウイズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンド》〉
を吹きはじめた。テンポのいいマーチ調で吹きはじめた。
吹き終わると、ビリーが盛大に尾っぽで拍手をしてくれた。尾びれがたてた水しぶきが、キラキラと夕陽に光った。
□
夏休みに入った。
あたしは、楽器ケースを手にしては、お店に行った。フレディが書いてくれたリストの店に行ってみた。
けど、道は遠かった。
鎌倉の〈|Red Pepper《レツド・ペツパー》〉っていう店では、18歳未満だからと、女の子だからという理由で、やんわりと断わられた。
横浜の〈|Sea Side《シー・サイド》〉っていう店も同じだった。
横須賀・中央駅近くの〈JunK《ジヤンク》〉って店でも同じだった。
女の子。
高校生。
18歳未満。
そのことが、カベになっていた。
どの店でも、フレディの紹介だというと、冷たくあしらわれはしなかった。けれど、女子高生だということが、どうしても問題になってしまうのだった。結局、まだ1度も、演奏は聴いてもらえずじまいだった。
そんなあとは、葉山に戻ってきて、防波堤に行った。2、3曲吹くと、必ずビリーが姿を見せた。海面から、あたしの演奏を聴いていてくれた。尾びれで拍手をしてくれた。
それにささえられて、あたしは、夢を抱きつづけることができた。そう思う。
□
「元気出せよ」
となりで、哲が言った。
あたしはその日、藤沢にある〈Dom《ドム》〉っていう店に行ってきた。フレディのリストにのっていた店だ。
やはり、結果は同じだった。〈女の子〉と〈18歳未満〉がカベになって、演奏は聴いてもらえなかった。
葉山に帰ってきて、海でひと泳ぎした。ちょうど沖から戻ってきた哲も、海パンになって海に飛び込んだ。
ひとしきり泳いだ。漁港のコンクリートの上で、甲ら干しをしていた。真夏の午後の陽射しが照りつけていた。
すぐ後ろのトンビ山は、濃い緑。その上に、白い夏雲がこんもりと、もり上がっていた。
シーシーシーシーとセミが鳴いていた。
「演奏聴いて、ダメだって言われたわけじゃないんだから、がっかりすることないじゃないか」
仰向けのまま、哲が言った。
「まあ、ね……」
「18歳未満の女の子を、夜中まで使っちゃいけないってのは、しょうがないよなあ……」
哲が言った。
「……でも、もう、18歳未満じゃなくなるんだから……」
あたしは言った。
「18歳未満じゃなくなる?」
哲が体を起こした。競泳用のパンツをはいた哲の体には、水泳選手みたいにムダのない筋肉がついていて、同時に、しなやかだった。コーヒー色に灼けていた。あたしは、まぶしくて、ちょっと眼をそらした。
「そうか……。湘の誕生日、8月だったよなあ」
「そう。哲がこっちに来てた子供の頃も、あたしの誕生日だっていうんで砂浜で花火したことあったじゃない」
「あった」
哲は、うなずいた。
「で、誕生日、何日だっけ」
「明日」
「明日?……そうか……」
と哲。また、仰向けになった。漁に使うゴムの浮標《ブイ》を枕がわりにして、空を見上げた。
頭上。まっ青な空に、カモメが1羽、風に漂っていた。カモメの白い翼が、陽射しに透けて見えた。翼は、トレーシング・ペーパーみたいに半透明に見えた。
「そうか……誕生日か……」
と哲。何か考えているような表情をしている。
「いいのよ、何も気を使ってくれなくて」
あたしは言った。
「そりゃ……オレはたいしたことできないけど……」
と哲。まだ何か考えている。やがて、
「そうだ」
と体を起こした。
「鯛《タイ》を釣りにいこう」
と言った。
□
「鯛?」
「そう……。めでたい誕生日なんだから、でかい鯛を釣って食おうぜ。この前、長五郎丸のオヤジに鯛のポイントをきいたんだ」
哲は言った。
鯛か……。へたにチャラチャラしたアクセサリーをもらう誕生日より、鯛のおカシラつきの誕生日の方が、いいかもしれない。漁港の娘らしくて……。
あたしは、そう思った。
「オーケー、行こう」
あたしは言った。ひさしぶりに海の上に出てみたい気分でもあった。
□
翌日。午後2時。
あたしと哲は、伝馬《てんま》船で港をはなれた。
鯛釣りは〈朝まづめ〉と〈夕まづめ〉といって、早朝と夕方がいいらしい。哲の話によると、特に最近は〈夕まづめ〉に当たりがあるという。
で、きょうも夕方を狙うことにしたのだ。
哲が舵を取り、真名瀬の港を出ていく。暑いけれど、快晴ではない。雲が早く動いている。
「前線が近づいてるのかもしれないな……」
西の空を見上げて、哲は、つぶやいた。船外機の回転数を上げた。
15分ぐらい走って、ポイントに着いた。
あたりに、ほかの船はない。哲は、釣りの道具を出した。
鯛用のかなりごつい竿。リールも、相当大きい。ABU《アブ》の7000番だった。しかけは、単純な片テンビンしかけだ。
哲は、鉤《はり》にエビを刺すと、しかけを海に入れた。
「コマセ、使わないんだ……」
あたしがきくと、哲は、うなずいた。
「コマセは、フェラーリにまくだけ」
と言った。ニコリと白い歯を見せた。
しかけは、スーッと海の中に沈んでいく。やがて、底に着いて道糸がゆるんだ。哲はもう、リールを巻きはじめていた。しかけを、底から6、7メートルぐらい上げて止めた。
「さて……」
「大きな鯛、釣ってよ」
「まかせとけ」
竿を握って、哲は言った。
□
それは、ポイントに着いて1時間ぐらいした時だった。哲の持っている竿の先が、クッと動いた。
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13 ファースト・キスは霧の中
哲の横顔が、ふいに緊張した。
竿先をじっと見つめる。リールのハンドルに手をかけた。
いま、海の底で、魚がエサをかじったんだろう。けれど、まだ、ガブリとは呑《の》み込んでいない。
哲は待つ。3秒……5秒……10秒……。まだ、つぎの当たりはない。
「これだけ用心深いってことは、大物かもしれない」
哲が小声で言った。
つぎの瞬間、竿先がクククッと動いた! 哲はもう、竿を大きくしゃくり上げていた。
竿が、弓型にしなった! 竿全体がブルブルとふるえている!
かかった。しかも、
「でかいな」
哲は言った。声は落ち着いている。けれど、体全体、緊張している。必死で竿をささえている。
「4、5キロはあるかもしれない」
リールに手をかけて哲は言った。若いけれど、哲も漁師のはしくれだ。引きの強さで、魚の大きさがわかるのだ。
「やばいな……」
「道糸が切れそう?」
「いや。道糸は6号だから大丈夫だろうけど、その先のハリスが細い。よっぽど慎重に上げないと切られるな」
ハリスっていうのは、釣り糸の一番先についている部分のことだ。魚に糸を見破られないように、ハリスは細めにしておくのが普通だ。
哲は、ゆっくりと、慎重にリールを巻いていく。5、6回リールを巻くと、逆に魚があばれて下に突っ込む。リールが逆転して糸が出ていく……。竿は、丸く曲がってふるえている。
「こんなのがかかるんなら、ハリス、太くしときゃよかった」
魚の引きに耐えながら、哲は言った。それでも、糸が切れるギリギリのところで、がんばっていた。
リールを何回か巻き上げる。
魚が下に突っ込む。
そのくり返しが、つづいた。
どのぐらい時間がたっただろう。竿先が、思い切り海に引き込まれた。魚が勝負をかけてきたらしい。
哲は、竿を握ってふんばった。
つぎの瞬間、竿先がはね上がった! 糸が切れたのだ。
哲は、後ろによろけそうになった。
「ちっくしょう……」
と、本当にくやしそうに言った。あたしの誕生日がどうこういうより、大物を逃がしたことが、漁師としてよほどくやしかったらしい。
ゆっくりとリールを巻く……。しかけが上がってくる。やはり、テンビンの先のハリスが切れていた。
「しょうがないわよ」
あたしは、哲をなぐさめた。それでも、哲はハリスの切れめあたりをじっと見ていた。
「それより、すごい霧……」
あたしは言った。
いつの間にか、海に霧が出ていた。それも、あたしが経験したことのないほどの濃霧だった。
ミルクを薄めて流したような霧が、船のまわりにたちこめていた。風はなく、霧はほとんど動かない。視界は、10メートルか15メートルというところだろう。
ほとんど、船のまわりしか見えない。
「まずいな……」
周囲を見回して、哲が言った。空を見上げる。霧が濃いんで、太陽の位置もわからない。
「やばいな……。これじゃ、帰れないな」
と哲。
「この船に磁石《コンパス》は?」
「そんなもの、ついてないよ」
哲は、周囲を見回しながら言った。
「どうするの?」
「ムダにガソリンを使わずに、霧が晴れるのを待つしかないけど、やばいのは衝突だな」
「衝突?」
「ああ。でかい船にぶつかられたら、こんな伝馬《てんま》、ひとたまりもないからなァ」
「こういう時は、どうするの?」
「音響信号」
「それって?」
「早い話、汽笛《ホーン》を一定の間隔で鳴らすんだけど、この伝馬にはホーンもついてないし」
「…………」
「最後の手段は、鍋やフライパンを叩いて自分の位置を知らせる注意信号にするんだけど、それもないなァ」
船の中を見回して、哲は言った。
「なんか、音の出るもの……」
と言いかけて、楽器ケースに目を止めた。
「ああ、それがあるじゃないか」
と言った。
あたしは、アルト・サックスを持ってきていた。鯛釣りってのは、プロでも難しい釣りだ。釣りがまるでダメだったら、海の上でサックスの練習をしようと思っていたのだ。
「そいつを、吹いてくれよ」
哲が言い、あたしはうなずいた。楽器ケースからサックスを出し、組み立てた。
「何を吹いてもいいけど、2分以上、休まないでくれ」
「わかった」
あたしは、リードに唇をつけた。なんでもと言っても、やはり、ちゃんとした曲を吹きたかった。
〈|Baby, I Love Your Way《ベイビー・アイ・ラヴ・ユア・ウエイ》〉を吹きはじめた。
□
そろそろ、薄暗くなりはじめた。
霧は、まるで晴れない。
もう、10曲は吹いただろう。とりあえず、ほかの船に衝突されてはいない。けれど、
「どっちに流されてるのかも、わからないなァ……」
と哲。周囲の海面を見回して言った。
「遭難しそう?」
「…………」
哲は無言。唇をかんで、周囲を見回している。いつどこに岩礁が現れるか、わからないのだ。
船にぶつかられなくても、流されて岩にぶつかれば、アウトだ。
あたしは、腕時計を見た。さっき、吹き終わってから、もう、2分たっている。リードをくわえた。P《ポール》・マッカートニーの〈|My Love《マイ・ラヴ》〉を吹きはじめた。
|1《ワン》コーラス吹いた。そのときだった。
右舷。4、5メートル先の海面が、もり上がった。
□
岩礁!?
とっさにそう判断した哲が、舵を左に切ろうとした。
けれど、海面に現れたのは、クジラのビリーだった。ビリーの頭が、海面から現れたのだ。
「ビリー……」
あたしは、リードから唇をはなしてつぶやいた。
ビリーは、海面に丸い頭を出す。いつものように、黒い瞳がこっちを見ている。
そうか……。あたしは、胸の中でつぶやいた。
この、アルト・サックスの音を聴いて、泳いできたんだ。それしか考えられない。
あたしは、ビリーの黒い瞳を、じっと見つめた。
「ねえ、ビリー。葉山の港の方向を教えて」
と言った。
クジラにしてみれば、ビリーという呼び名も、もちろん、あたしの言葉が理解できるとは思えない。
けど、とにかく、あたしには、そう言うしかなかった。ダメでもともとだ。テレパシーなんて信じないけど、こっちの気持ちが、もし通じたら……。
あたしは、祈るような気持ちでビリーの瞳を見つめた。
やがて、ビリーは、尾びれで海面を1度、バシャリと叩いた。
そして、体をひるがえした。ゆっくりと、泳ぎはじめた。
哲はもう、船外機の回転を上げていた。ビリーの後をついて、船を走らせはじめた。
ビリーは、濃霧の海を、ゆったりと泳ぎはじめた。いくら小型でも、やはりクジラだ。グレーの背中を見えかくれさせて、悠々と悠々と泳いでいく。その姿は、限りなく頼もしかった。
□
どのぐらい走っただろう。
「ん!」
哲が声を出した。行く手を見ている。あたしも、そっちを見た。濃霧と夕暮れで、青白い海面の彼方。
チカッ。小さく何か光ったような気がした。眼をこらす。
チカッ。また、光った。
あたしは、思わず、心の中でカウントしていた。きっかり3秒後、また、チカッと光った。
「裕次郎灯台だ!」
哲が、声に出した。舵を少し左に切って、灯台の方向に船を向けた。
灯台の光は、しだいにはっきりとしてきた。もう、間違いない。葉山の裕次郎灯台だ。
哲が、エンジンの回転を落として、船のスピードをスローにした。
「助かったな」
哲が、つぶやいた。
「よかった……」
あたしは言った。気づくと、哲の胸に体をあずけていた。哲の片手が、あたしの肩を抱いていた。
見渡せば、ビリーの姿は、もう、なかった。
「いなくなっちゃった……」
あたしは、つぶやいた。
ふと、哲の方を見上げた。
思わぬ近さに、哲の顔があった。陽に灼けた顔の中で、澄んだ眼が、こっちを見つめていた。じっと見つめていた。
「助かったんだね……」
あたしは、つぶやいた。哲が、あたしの眼を見つめたまま、ゆっくりと、うなずいた。
顔と顔が、ゆっくりと近づいていく……。そして、あたしは眼を閉じた。
哲のキスは、ちょっとぎこちなく、唇は、しょっぱい潮の香りがした。
ただ一度の18歳の誕生日。鯛も、ティファニーのネックレスもなかったけれど、神様はあたしに、ファースト・キスというプレゼントをくれたのだった。その夜は、なかなか寝つけなかった。
□
快晴の日がつづいた。
あたしは、毎日、海で過ごした。
アルト・サックスについては、あせらないことにした。確かに、高校を卒業してからでも、遅くはない。
いまは、とにかく、練習することだ。
どんなに泳いで疲れていても、夕方の練習は欠かさなかった。防波堤で、最低2時間はアルトを吹いた。
もちろん、いつも、ビリーが聴いていてくれた。
あたしにとっては、それが、かけがえのない心のささえだった。
いつかプロとしてステージに立つ日を夢見て、あたしは夏を駆け抜けていった。
□
その日も、暑かった。
あたしは、1日中、森戸海岸で過ごした。
友達が、森戸にある海の家でバイトをしている。夏のピークなんで、バイトの人手がたりないというので、あたしは手伝いにいった。
海の家を手伝い、ときどき、海に入って泳いだ。
午後4時に終わった。森戸から、海岸通りを歩いて、帰るところだった。
カラさんの店に近づいた時だった。点滅する赤い灯が見えた。そして、ピーポーという救急車のサイレン!
救急車は、スピードをまして、あたしのわきを走り過ぎていった。その中にいたのは、もしかして智子の母さん!?
チラッとしか見えなかったけど、智子の母さんだったような気がする。あたしは、ただ、その救急車を見送っていた。
ふいに、
「湘!」
という声。ふり向く。カラさんだった。
「あの救急車……」
「智子だ」
「智子!? どうしたの!?」
「まあ落ち着け」
とカラさん。あたしの肩に手をかけた。
「オレのバーに酒を配達しようとして、その途中で、具合が悪くなったんだ」
「具合が!?」
「ああ。オレが見つけたときは、道ばたにしゃがんでた。酒を積んだ3輪車のわきにしゃがんで、苦しそうにしてた」
「3輪車……。あのドジ……」
あたしは、つぶやいた。
「妊娠してるんだから、3輪自転車をこいだりするのはやめろって言っといたのに……」
カラさんは、うなずいた。
「あの娘《こ》の妊娠は知ってたから、すぐに救急車を呼んで、家にも連絡したんだ。いま、母さんがついて救急車で行ったよ」
「見たわ」
あたしは、救急車が行った方向を見た。
「行き先は?」
「たぶん、桜山にある救急病院だと思う」
カラさんは言った。
「だが、いま、湘は行かない方がいい」
「…………」
「智子の親が、湘のことをよく思ってないのは知ってるよな」
あたしは、うなずいた。智子の親にとって、あたしは、ただの悪友なのだ。つるんで悪さをやってる仲間としか思われていないのは、あたしも知っていた。
「たぶん、命に別条はないと思うから、オレが病院に行ってくる。湘は店番しててくれないか」
とカラさん。あたしは、うなずいた。それが正解かもしれないと思った。
カラさんは、店のわきに駐めてある自分のパジェロに走っていく。
□
あたしは、カラさんの店で待った。誰もいない店で、じっと待っていた……。
1時間以上たっていたと思う。店のドアが開いた。
哲だった。サザエを入れたネットをぶら下げて、入ってきた。じっと座ってるあたしを見ると、
「どうしたんだ……」
と言った。
あたしは、哲に事情を説明した。哲は、無言できいていた。ちょうどあたしが話し終わったとき、店の電話が鳴った。
あたしは、さっと受話器を取った。
「湘か」
「あ、カラさん」
「ダメだったよ……」
「ダメ?……」
「ああ……。流産した」
「…………」
「だが心配するな。母体は、智子は、命に別条ない。用心して、何日か入院することになるかもしれないけどな」
「……そう……」
「いまは、本人も薬とショックでボーとしてるし、親は気が立ってるから、湘は来ない方がいいな。1日2日したら、見舞いに来てやれよ」
「……わかった……」
「じゃ、オレも、これから、そっちに帰るから」
とカラさん。電話を切った。
あたしは、受話器をそっと置いた。心配そうな顔をしてる哲に、いまの電話を説明しはじめた。
話してる途中で、涙声になりそうになった。哲が、あたしを抱きしめてくれた。強く抱きしめてくれた。何も言わずに……。
つけっぱなしのFENから、W《ホイツトニー》・ヒューストンのバラードが低く流れていた。
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14 密 漁
翌々日。
智子の親がいなそうな時間を狙って、あたしは病院に行った。
お見舞いに何を持っていこうか、考えた。酒……それはいくらなんでもやめた。花を持っていくってガラでもない。結局、スイカを買って持っていった。
病室のドアを開ける前に、できるだけ明るい表情をつくった。ドアを開け、
「よう」
と言った。
智子は、思っていたより元気そうだった。ニッと微笑うと、
「ドジこいちゃった……」
と言った。
「まあ、しょうがないわね」
「こういうめぐり合わせになってたのかも……」
と智子。個室じゃないんで、あまり話はしなかった。2人でスイカを食べ、あたしは帰ってきた。
□
5日後。智子は退院した。
翌日。たそがれ時。あたしと智子は、近くの森戸海岸で会った。
智子は顔の血色も良く、足どりもしっかりしていた。半アル中だった以前よりしっかりしているぐらいだ。
あたしが、いつもの防波堤に行こうかと言うと、やめておくと智子は言った。
あそこからだと、もろに裕次郎灯台が見えてしまう。あの親子灯台を見るのが、いまの智子にとってはつらいのだという。
あたしはうなずいた。
智子と並んで、たそがれの森戸海岸を、ぶらぶらと歩きはじめた。
もう、海水浴客はみな帰り、海の家も店じまいをした。貸しパラソルも、デッキ・チェアーも片づけられた。アルバイトたちが砂浜のゴミを片づけ終わった。砂浜には、人影がなかった。
薄曇り、あたりは、そろそろ蒼く暮れていくところだった。
あたしと智子は、砂浜に並べてある貸しボートに腰かけた。手に缶コーヒーを持っていた。
頬をなでて過ぎる風。それは夏の風なのだけれど、1週間前とは微妙に肌ざわりがちがう。
夏のピークを少し過ぎた季節の風だ。暖かい風の中に、かすかだけれど、ひんやりとした秋の匂いがする。
海のそばで暮らしているとよくわかるのだけれど、本当の真夏は、こうして一瞬のうちに過ぎ去っていくのだ。
あたし達は、貸しボートに腰かけ、暮れていく海と空をながめていた。白っぽかった曇り空が、暮れていくにしたがって、青みをましていく。正面より少し右の葉山マリーナに、明かりがついた。
「残念だったね、子供……」
あたしは、ぽつりと言った。智子は、小さくうなずいた。
「でも……これはこれでよかったんじゃないかって思うんだ……」
と言った。
「ほら、5日も病院のベッドで寝てたじゃない。そうすると、いろんなこと考えるわけよ。今度のことについても」
「…………」
「結局、子供はダメだったけどさ……とにかく、産んでみようと思った、そのことが自分にとってすごく大きかったみたい」
「…………」
「以前だったら、とにかく、しんどいことからは逃げてたわ……。なんとかお金を用意して、うまく子供を堕してたと思うんだ」
「…………」
「でも……産んでみようって思った自分に対してさ、けっこう、われながら驚いてるの。へえって感じで」
「…………」
「自分自身をちょっと見なおしてやりたい気にもなった。〈意外にガッツあるんじゃない〉って、自分で自分の肩を叩いてやりたい気にもなったわ」
「…………」
「それでわかったんだけど……」
「何?」
「結局、なんかこう、手ごたえが欲しかったんだよね。ただなんとなく生きてるんじゃないっていう、具体的な手ごたえ」
「…………」
「今回の子供のことで、それがはっきりわかった……。もしかしたら、湘がアルト・サックスに本気になってるのを見てて、そう思ったのかもしれない。自分にも何か、はっきりとした目的が欲しいんだって」
「…………」
あたしは無言できいていた。小さな波が、ピシャッ、ピシャッと砂浜に打ち寄せていた。
「まあ、あたしのことは、そう心配しないで。また何か、つぎの〈手ごたえ〉を見つけるから」
智子は言った。
あたしは、うなずく。ポケットからSALEM《セーラム》を出して、1本くわえた。ライターで火をつけた。今日ばかりは、吸いたい心境だった。
「そうそう、子供の葬式をしてやらなくちゃね」
と智子。
「ほら、サックス吹きが煙草なんか吸ってちゃダメでしょ」
と言った。あたしの口から、セーラムをもぎとった。
飲み終わった缶コーヒーの缶を、砂浜に置いた。その口のところに、縦《たて》に煙草をさした。
「これで、お線香がわりね」
智子は言った。缶に立っているセーラムから、煙がたちのぼっている。
「生まれなかった子供のために、何か1曲吹いてよ、湘」
と智子。あたしは、ゆっくりとうなずいた。持っていた楽器ケースからアルト・サックスを出した。組み立てた。
しばらく考えて、リードに唇をつけた。
J《ジヨン》・レノンの〈Imagine〉
ゆったりと吹きはじめた。
薄暗いたそがれの砂浜。セーラムの火が、ぽつんと赤い。うっすらとした煙が、かすかな風に漂っていく。
智子は、眼を閉じていた。あたしは心を込めて吹きつづけた。砂浜に、メロディが流れていた……。
□
翌週。水曜日。夕方。
防波堤にいたあたしは、思わずふり向いた。防波堤の岸寄りの方で、何かもめている。
アルト・サックスをケースから出そうとしていた手を止めた。
防波堤の低い方、港の内側に向いた所で、何人かの男がもめていた。あたしは、開けかけた楽器ケースを閉じる。そっちに歩いていく。
見れば、1人の年寄りを、3、4人の男たちがとり囲むようにしていた。
「ふざけんじゃねえよ、このジジイ!」
という叫び声がきこえた。
とり囲まれてる年寄りは、よく、ここで見かける人だった。60代の後半だろうか。よく、夕方、ここで小物釣りをしている。
いつも、くたびれたポロ・シャツとズボンをはいている。黒いゴム長をはいている。折りたたみ式のイスを持ってきて、それに腰かけて和竿を握っていた。小さな鉤《はり》がいくつもついている〈サビキ〉というしかけで、小アジやイワシを釣っている姿を、よく見かけた。
近くに住んでいる、定年退職した年寄り、そんな感じだった。いつも、ひっそりと静かに釣りをしていた。
それにひきかえ、とり囲んでるやつらは、めいっぱい騒がしく、ガラが悪かった。
そいつらにも、見覚えがあった。
連中は、チンピラだった。どこかの組の下っ端なのかもしれない。
近頃は、チンピラたちも、金を稼ぐのが大変らしい。このあたりの海へ来て、密漁をしているのだ。
一般の人間には獲《と》るのが禁止されているアワビやサザエを、密漁しているのだ。
このあたりの磯場やテトラの周辺で連中が密漁してるのを、去年あたりからよく見かける。
あたしは、そいつらの方に近づいていった。チンピラたちは、
「なんとか言ったらどうなんだよ、ジジイ!」
と、からんでいる。
どうやら、年寄りが防波堤に置いてあった釣り道具に、チンピラの1人がつまずいたかなんかしたらしい。
それで、インネンをつけてるみたいだった。
「ケッ! この小汚ねえジジイが!」
とチンピラの1人。年寄りのそばにあるポリバケツを蹴った。バケツが転がり、入っていた小アジが防波堤に散らばった。
あたしは、防波堤の高い方から低い方に飛びおりた。
「ちょっと! あんた達!」
と言った。チンピラ達が、ふり向いた。
そのとき、哲の伝馬船が港に入ってきた。哲は、防波堤にひょいと跳び上がってきた。あたしの方に歩いてきた。
「なんだよ、テメエらは」
とチンピラ。あたしと、そばにきた哲に言った。
「人にきく時は、自分の方から名のるものよ」
あたしは言った。チンピラは、ペッとツバを吐いた。
「オレらは、この辺で遊んでた海水浴客だよ。文句あるんか」
と、すごんだ。
「あっ、そう」
あたしは言った。となりにいる哲が持っているモリをつかんだ。先が三つ叉になっているモリ。それで、やつらの1人が持っているビニール袋を突いた。
スーパーの袋らしい白い袋。それを、思いきり突いた。
袋が破れた。中から、アワビとサザエが、バラバラと転がり出た。
哲の眼が、鋭く光った。あたしは、
「海水浴客にしちゃ、ずいぶんいいおみやげ、持ってるじゃない」
と言った。
連中は密漁をしょうちでやっているんで、獲ったものを不透明な袋にかくし持っていたのだ。
「これは立派な県条例違反だから、警察で言いわけをするのね」
あたしは言った。
「警察にたどり着く前に、漁協の連中にぶっ殺されなきゃの話だけどな」
と哲が言った。低い声で言った。
連中は、じりっと後ずさりをはじめた。さすがにやばいと思ったんだろう。
「チッ」
と連中の1人。また、ツバを吐く。連中は回れ右。小走りで、道路の方にずらかっていった。
□
「だいじょうぶ?」
あたしは、年寄りの釣り人に言った。防波堤に散らばった小アジをひろうのを手伝いはじめた。
「いや、すまないね」
と、その年寄り。
防波堤には10センチぐらいの小アジが散らばって、ピチピチとはねていた。あたしも手伝って、それをつかまえる。海水を入れなおしたポリバケツに小アジを戻した。
哲は、チンピラが落としていったアワビやサザエを、密漁の証拠品として漁協の方へ持っていったところだった。
小アジは、全部、ポリバケツに入った。
「よくここで釣ってますよね」
あたしは言った。
「いやあ、これが唯一の楽しみでね」
と、その年寄り。笑いながら、
「孫なんかには、〈サビキじいさん〉と呼ばれていますよ」
と言った。
「〈サビキじいさん〉?」
あたしも、きいたとたん思わず笑い声を上げてしまった。〈サビキしかけ〉で釣りをしているから〈サビキじいさん〉というのが、おかしかった。
「お嬢さんも、よく熱心にサキソフォンの練習してますねえ」
と、サビキじいさんは言った。
「学校のクラブ活動かなんかで?」
「いや……そういうわけじゃなくて……」
あたしは、ちょっと口ごもった。いいや、どうせ相手が相手だ。
「あの、プロになるのが夢で、練習してるの」
あたしは言った。
「そうですか……。そりゃえらい……」
と、サビキじいさん。また、釣りのしかけを海に入れながら言った。
「あの、サックスの音、うるさい? 釣りのじゃま?」
「いや。これだけ離れてるから大丈夫ですよ。ちょうどラジオがわりになっていい。遠慮なくやってください」
とサビキじいさん。
あたしは、うなずいた。
「じゃ」
と手を振る。楽器を置いてある防波堤の先の方に歩きはじめた。
この日も、吹きはじめて3曲目で、ビリーが姿を現わした。熱心にあたしの演奏を聴いてくれた。
□
「どうしたの、智子」
あたしは、思わずきいた。
夏休みもそろそろ終わろうとしている日。午後3時。
あたしは、ビールを一杯飲みたくて、カラさんの店に行った。〈準備中〉のプレートがかかっていたけれど、かまわずドアを開けた。
カウンターの中に、カラさんと、智子がいた。
しかも、智子は、何か、カクテルみたいなものをつくっていた。
「何してるの、智子」
あたしは、きいた。
「うちの、新しいバーテンダーさ」
カラさんが言った。
「バーテンダー?」
「見習いだけどな、まだ」
カラさんは、そう言うとニヤッと微笑った。智子は、シェーカーに、ラム酒やジュース類を、計りながら入れている。
入れ終わると、今度は、氷を入れた。シェーカーに蓋をして、振りはじめた。その振り方は、まだ、あまりサマになっていない。
それでも、けっこう真剣な表情でシェーカーを振っている。
「いったい、どうしたっていうの?」
あたしがきくと、
「本気でバーテンダーになる気らしいぜ」
カラさんが言った。あたしは、智子を見た。
「そう。酒屋の娘がバーテンダーになるって、自然だと思わない?」
シェーカーを振りながら、智子は言った。
「どうも、本気みたいね……」
あたしは、つぶやいた。
「もち」
と智子。
「近頃は一流の店でも女のバーテンダーがふえてるっていうから、いいと思うぜ」
カラさんが言った。
「この年齢《とし》からはじめりゃ、ものになるかもしれないよ」
とカラさん。あたしは、半信半疑でなんとなくうなずいた。
「だけど……バーテンダーが商売物をガブガブ飲んでちゃ、ダメなんじゃないの?」
あたしは言った。
「大丈夫、大丈夫。こうやってひっきりなしにお酒の匂いかいでると、そんなに飲もうと思わないものよ、不思議に」
智子は言った。
シェーカーを振り終わる。縦長のグラスに、カクテルを注いだ。
「どうぞ、ためしてみて」
とカラさんに言った。
「オレはもういいよ。さっきからもう6、7杯も飲んでるんだから……。湘に飲ませろよ」
確かに、カラさんは珍しく赤い顔をしている。智子は、あたしの前に、グラスを置いた。
黄色いカクテルだった。あたしは、ひと口、飲んでみた。
「……ふうん……。けっこういけるじゃない」
と、つぶやいた。
「〈イエロー・バード〉っていうカクテルさ」
とカラさん。
「カラさんのオリジナル?」
「いや。カリブ海で流行《はや》ってるローカル・カクテルだね。日本のカクテル・ブックにゃ、あまりのってないけどな」
カラさんは言った。
「ふうん……」
あたしは、うなずきながら、その〈イエロー・バード〉を、またひと口飲んだ。そして、
「ねえ、カラさん」
と口を開いた。
「なんだい」
「カラさんは、どうしてそんなに外国のことにくわしくて、英語が読み書きできたりするの?」
あたしは、きいた。一度はきいてみたいことだったのだ。
「……どうってことじゃないよ」
「でも、ききたいなァ。もし、かまわなかったら」
あたしは、ねばった。
「…………」
カラさんは、しばらく無言でいた。やがて、
「まあ、いいか。お前さんたちになら」
と言った。ちょっと遠くを見る眼つきになった。
「……あれは、確か、オレが24か25の頃だった……」
と話しはじめた。
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15 夢追い人に、バラードを
「ある日のことだったよ。なんかの雑誌を見てて、その貝に出会っちまったんだよ」
とカラさん。
「貝?……」
「ああ……。雑誌にカリブ海の旅行記がのっててさ……その中に、コンク貝っていうのが写真入りで出てたんだ」
「コンク貝?……どんな貝?」
「巻き貝の一種なんだけど、そりゃでかくて、きれいなんだ」
「大きいの……」
「ああ。ありゃ、ラグビー・ボールぐらいあったんじゃないかな……。それの内側はきれいなピンクでさ……。しかも、すごくうまいって書いてあったな」
「へえ……」
「で、そのコンク貝ってのが、カリブ海じゃたくさん獲れるらしいんだ……。オレは、何日もその貝やカリブの風景が写ってるページをながめてすごしたよ。そして、決心したんだ」
「決心?」
「うむ。カリブ海に渡って、こんな貝を獲《と》る生活をしようって」
「…………」
「ところが、カリブ海のその辺の島々ってのはイギリス領が多いんで、まず、英語が話せなくちゃ、てんでダメだってわかってさ」
「…………」
「アワビ獲りで稼いで、外人娘を恋人にしたんだ」
「そうか……」
「金髪娘とおつき合いしながら、英語の読み書きを覚えたわけよ。金はかかったけど、それなりに楽しかったよ」
とカラさん。ニヤリとした。
「ところが、アワビ獲りで稼ごうとがんばり過ぎて、とうとう、肺を壊しちまってな」
「…………」
「肺を壊して潜れなくなったアワビ獲《と》りの漁師なんて、ガラクタ同然よ。外人娘は、さっさといなくなったね」
カラさんは、苦笑した。
「まあ、それだけの、つまらない話さ」
と言った。ラジオをつけた。
「ああ。甘いカクテルばっか飲んでたから、口なおしするか」
とカラさん。冷蔵庫からビールを出した。グラスに注ぎ、ぐいっと飲んだ。
「でも……いま、そのことを後悔してる?」
思いきって、あたしはきいた。カラさんは、首を横に振った。
「後悔はしてないな。少なくとも、人生に一度、はっきりとした夢を持って、そいつを追っかけたんだからな」
とカラさん。またビールをひと口。ニヤリとした。
「オレも極道な生活をしてきたし、えらそうなことは言えないけど……夢ってのは、とにかく追っかけてみることが大事なんじゃないかな」
「…………」
「実現できるできないも大切だけどな……とにかく、一度でも本気で夢を追っかけてみるってことは、悪かぁないよ」
カラさんは、あたしの眼を見て言った。
カラさんの瞳には、どこか少年のような輝きがあった。その瞳の奥には、いまも、コンク貝のピンクとカリブ海のブルーが映っているのかもしれないと、あたしは思った。
ラジオのFENが、カーリー・サイモンの唄う〈|As Time Goes By《アズ・タイム・ゴーズ・バイ》〉を低く流していた。
カラさんの持っているグラスが、そのバラードに合わせてゆっくりと揺れている。時の過ぎゆくままに……と、カーリー・サイモンが唄っている。優しく唄っている。あたしは、じっと耳をすませていた。
□
店を出る。
夕陽が、黄色く海岸通りを照らしていた。セミの声が、シーシーというアブラゼミから、ツクツクボーシに変わっていた。
ああ、夏もそろそろ終わるんだなあ。あたしは、そう思った。楽器ケースを手に、防波堤の方に歩いていく。
角を曲がったところで、哲とばったり会った。
「湘、さがしてたんだ」
「どうしたの?……」
「ちょっと、やばいことになった」
哲は言った。
□
「やばいこと? 何?……」
「この前の、密漁やってたやつら、覚えてるだろう?」
「あのチンピラたち?」
「ああ。あの連中が、クジラの、ビリーのことをかぎつけたらしいんだ」
「ビリーのことを……」
哲は、うなずいた。
「ついさっき、オレは、タコ獲《と》り用のカゴを修理するんで、そこにある小屋の陰にいたんだ。そしたら、小屋のわきで、連中が話してるのが、きこえたんだ」
「どんな?」
「やつら、こりもせずに、防波堤のそばの磯で、密漁をやってるらしいんだ。そのうちの1人が、クジラを見たと仲間に話してるんだ」
「クジラを……」
「ああ。夕方、防波堤の先端あたりにいたって言ってた。ってことは、湘のサックスを聴きにきてたんじゃないかな」
「たぶんね」
あたしは、唇をかんだ。ビリーの姿を誰にも見られないように、気をつけてはいたんだけど……。
「まずいわね」
「ああ。連中は、クジラを獲《と》ろうと相談してた」
「獲る……」
「うむ。いま、クジラの肉はすごくいい値段で売れるらしいんだ。だから、小型のクジラだろうとなんだろうと、獲っちまおうって、そんな相談をしてた」
「……どうしよう……」
「とにかく、いくらやつらでも今日は何もできないはずだ。防波堤に行ってみよう」
哲は言った。あたし達は、防波堤に歩いていった。
密漁のチンピラたちの姿は、なかった。ただ、夏の終わりの海が広がっていた。
「いままで、サックスの音がきこえないのにビリーが姿を見せたことはないよな?」
「たぶん、ないと思うわ」
「じゃ、とにかく、ここでサックスを吹かないことだ。そうすれば、ビリーは、現れない。ビリーが現れなきゃ、連中だって、何もできやしないさ」
哲は言った。あたしは、
「それにしても、心配ね」
と言った。
「ああ……。明日から、夕方になったらここで見張った方がいいかもな」
と哲。あたしは、大きくうなずいた。
□
翌々日。
心配は現実になった。
夕方、あたしと哲は防波堤の先端に立って見張っていた。4時を過ぎた頃、哲が、
「ん!」
と言った。あたしも、哲が見ている方を見た。南の方向。100メートルぐらい沖。1艘のボートがゆっくりと近づいてくる。
哲は、双眼鏡を眼に当てた。
「やつらだ……」
と言った。ボートは、船外機つきのモーター・ボートで、哲の伝馬よりかなり大きい。哲の伝馬が5メートルぐらいで、むこうは7、8メートルあるだろう。船外機も、むこうの方がかなり大きい。
「100馬力は、あるな、あの船外機は」
「こっちは?」
「40馬力」
やつらのボートは、50メートルぐらい沖で止まった。
「たぶん、クジラが姿を現わすのを待ちかまえてるんだな……」
双眼鏡を握ったまま、哲が言った。
「でも……やつら、あのボート、どこかで手に入れてきたのかしら……」
「船籍標がついてないところをみると、どっかの河につないであるやつを盗んできたのかもしれないな」
と哲。あたしに双眼鏡を渡した。あたしも双眼鏡をのぞいた。
やつらのボートには、確かに船籍標がついていない。船籍標ってのは、エンジン付きのボートには必ずつけておかなきゃいけない登録ナンバーで、クルマのナンバー・プレートと同じ意味のものだ。
それがはがしてあるってことは、確かに、盗んできたボートなのかもしれない。
このあたりの河には、無断で浮かべてあるボートも多い。そんなボートの中から、手頃なやつを盗んできたのかもしれない。
「あっ……」
双眼鏡を握ってたあたしは、つぶやいた。ボートの船首の方に、チンピラが立っている。その手には、モリが握られていた。
「モリを用意してる」
あたしは言った。双眼鏡を哲に渡した。それをのぞいて、哲は舌打ちをした。
「モリに、コードがつないであるな」
「コード?……」
「ああ……。たぶん、あのモリをクジラに打ち込んだら、高圧電流を流すつもりなんだろう。バッテリーらしい物も見えるな」
双眼鏡をのぞいて、哲は言った。
「汚ないやつら……」
あたしは、つぶやいた。
「とにかく、見張ってるしかないな」
と哲。あたしは、アルト・サックスを吹かず、防波堤で見張りをつづけた。日暮れになると、やつらのボートも、どこかへ姿を消した。
□
翌日。やはり、サックスを吹かず、見張りをつづけた。ビリーは、姿を見せなかった。
そんな日が、3日つづいた。
4日目。午後4時過ぎ。
あたしと哲は、あい変わらず防波堤の上にいた。やつらの船も、あい変わらず少し沖にとまっていた。きょうは風も潮もほとんどないんで、やつらはエンジンを切って船を海に浮かべていた。
4時半頃になった。
「やつら、そろそろあきらめないかしら……」
あたしがつぶやいた、その時、
「ん!?」
哲が声を上げた。沖を指さした。あたしも、そっちを見た。
真夏に比べると潮が澄んだ海。何かが海面を動いてくる! 背ビレ。そして、グレーの背中が見えた。ビリーだ! 沖の方から、こっちに近づいてくる!
やつらの船でも、気づいた気配! 何か叫ぶ声。そして、エンジンを始動する音がきこえた。
哲はもう、防波堤の低い方に飛びおりていた。あたしも後を追う。防波堤の低い方に舫《もや》ってある伝馬に跳び移った。哲が船尾でエンジンをかける。あたしは舫い綱をといた。
哲は船を反転させる。船外機の回転を上げる。船首がグイと上がる。かん高いエンジン音。加速していく。
防波堤の先端を回って外海に出た。あたしは、船首にいた。片ヒザをついて、行く手を見た。
ほとんど正面から、ビリーが近づいてくる。左側から、やつらのボートが走ってくる。
哲は船をさらに加速させた。ビリーと、やつらの船の間に突っ込む気らしい。
近づいてくるエンジン音に、ビリーは、泳ぐスピードをゆるめた。そこに向かって、やつらのボートは走っていく。ボートの先端に、モリを握ったやつが立っている! 磨ぎすましたモリの先端が光っている。
こっちの伝馬は、やつらのコースをさえぎるように突っ込んでいく。
2つの船の距離が、ぐんぐん近づいていく。30メートル! 20メートル! 10メートル!
船首でモリを握ってるやつが、こっちに、
「バカヤロー! どけ!」
と叫んだ。
こっちの船は、やつらの船首をかすめるように突っ込んでいく!
あたしは、船のオールを握っていた。船外機が故障した時に船を漕ぐためのオール。その1本を両手で握っていた。船首に立った。
船と船のへさきがいきちがう。5メートル! 3メートル! 2メートル!
敵は、あたしに向かってモリを突き出してきた。あたしはヒザを曲げる。体を沈める。すぐ頭上を、やつのモリがかすめた。
あたしは沈み込みながら、オールを横に振った。バットみたいに振った。当たった。敵のわき腹にオールが入った!
敵は、もんどりうって倒れた。こっちの船は、相手の船首をかすめて走り過ぎた。30メートルほど、走り過ぎた。
あたしは、周囲を見回した。ビリーの姿は見えない。たぶん、船のエンジン音に驚いて海中に潜ったんだろう。
やつらの船が、方向を変えた。こっちに向かってくる。
「追っかけてくるわ!」
あたしは叫んだ。哲も、ふり向いて、うなずいた。船のコースを少し左に変えた。
やつらの船は、スピードを上げて追いかけてくる。30メートルぐらいあった差が、ちぢまりはじめた。
「これ以上、スピード出ないの!?」
あたしは叫んだ。哲は、無言でうなずいた。
葉山の沖には、名島という島がある。島といっても大きな磯ぐらいのものだ。メインの名島とその周辺に、小さな磯が顔を出している。
哲は、その名島の方に船を向けた。名島の南側を通ってさらに沖に出ていくコースだった。
やつらのボートは、さらにスピードをまして追いかけてくる。いまは20メートルぐらい後ろだ。このままだと、追いつかれるだろう。向こうの船には、4人乗っている。
差は15メートルにちぢまった。もうやつらの表情がわかる。歯をむき出して、何か叫びながら追いかけてくる。
哲は、落ち着いていた。コースを少し右に変えた。名島を右に見て、一直線に走る。
あたしは、ふり向いた。そのとき、やつらの船が、ガクンと揺れたのが見えた。やつらの船は、急にスピードを落とす。やがて、ほとんど動かなくなった。
「どうしたのかしら!?」
「ペラをやられたのさ」
と哲。
「ペラ?」
「ああ。船外機の一番下についてるプロペラを、岩にぶつけたんだ」
「…………」
「あそこには、暗礁があるんだ。この潮時《しおどき》だと、オレの船がギリギリでその上を通れるんだ」
「…………」
「やつらの船は、吃水《きつすい》も深いし船外機もでかいから、その分、プロペラも海面から深いところにあるんだ」
「そうか……」
「オレの船のプロペラがギリで岩の上をかすめたけど、やつらのプロペラは当然、岩にぶつかった」
「で、止まったわけね」
「ああ。ペラが変形したか、へたすると完全にぶっ壊れただろうな」
哲は言った。船のスピードを、少しゆるめた。もう、かなり沖に出ていた。名島から、かなり離れた。夕凪ぎの海には、ほかの船もいない。
「やれやれ」
あたしは、Tシャツのソデを引っぱって、顔の汗をふいた。
「でも……アルトも吹かないのに、なんで、ビリーは防波堤に近づいてきたのかしら……。いままでは、曲がきこえないと姿を見せなかったのに……」
あたしは言った。
哲は、しばらく無言。船の舵を握っている。やがて、ぽつりと口を開いた。
「もしかしたら、サヨナラを言いにきたのかもしれないな」
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16 さよならの虹
「サヨナラを?……」
あたしは思わず哲を見た。
「ああ……。腰越にいた時、古株の漁師にきいたことがあるんだ。イルカやクジラは、夏、相模湾あたりにきても、秋になって水温が下がりはじめると、暖かい方の海に帰っていくって」
「…………」
「もちろん、種類にもよるだろうけどな」
「じゃ、ビリーも……」
「それはよくわからない。けど、サックスの音がきこえないのに防波堤に近づいてきたってのは、もしかしたら、湘の姿を見つけたからだと思うんだ。ってことは、もしかしたら……」
哲がそこまで言いかけた時、船のわきの海面で、ザバッという水音がした。
そっちを見た。あたしは、思わず叫んでいた。
「ビリー!」
□
それは、確かに、ビリーだった。
長い背びれ。グレーの背中。確かに、ビリーだった。
あたし達の船と並んで、ゆったりと泳いでいた。
「よかった……。無事だったんだ……」
あたしは、つぶやいた。ビリーは、船のわきにぴたりとついて、悠々と泳いでいた。
□
それから、どのぐらい走っただろう。
「このあたりまでだなあ」
と哲が言った。
「これ以上いくと、帰りの燃料がなくなっちゃうな」
哲は言った。
「ここ、どのあたり?」
「もう、相模湾の出口だよ」
と哲。船をスローにし、そして止めた。
ビリーは10メートルぐらい行き過ぎると、体を反転させて戻ってきた。船べりにきた。丸い頭を海面に出し、あたし達を見た。
その瞳を見て、あたしは感じていた。やはり、哲の言う通りだ。ビリーは、暖かい海に帰ろうとしているのだ……。そのことを、あたしははっきりと感じた。
「また来年、暖かくなったら」
と言いかけた哲を、あたしは止めた。
「もう、来なくていいわよ、ビリー」
と優しく言った。
「こんな、危険できたない人間の近くの海なんか、来なくていいわよ。安全で快適な南の海で、長生きしてね……」
あたしは言った。海面から見上げているビリーの姿をじっと見つめた。
山ブドウの実のような黒くて丸い瞳。優しく、ほんの少し悲しげな瞳。そして、遠かったこれまでの旅をものがたるような、細かい傷だらけの頭と体……。
あたしは、それをじっと見つめた。永遠に心の中に刻み込むように……。
「じゃあね、ビリー」
あたしは言った。手を振った。
その意味がわかったのか、やがて、ビリーはグレーの体をひるがえした。ゆっくりとひるがえした。
南の方に向かって泳ぎはじめた。その傷だらけの背中は、悠々としていて、誇りのようなものさえ感じさせた。
船から30メートルぐらい離れた時、ビリーは、潮を吹いた。
一度だけ、勢いよく、潮を吹き上げた。
「虹……」
哲が、つぶやいた。
ビリーが吹き上げた潮に、夕陽が当たって、そこに虹がかかっていた。くっきりとした、きれいな虹だった。けれど、すぐに、消えた。
ビリーは、悠々と、南の方をめざして泳ぎ去っていった。あたしと哲は、いつまでも、それを見送っていた。
□
「どうした。……泣いてるのか?」
哲が言った。葉山に向かって、戻りはじめてしばらくした時だった。あたしは、あふれ出る涙を、どうしても、こらえられなかった。哲に背中を向け、手の甲で涙をぬぐった。
哲は、エンジンを止めた。あたしの肩に手をかけ、ふり向かせた。その広い胸にあたしを抱きしめた。
ちょっと体をはなすと、哲は、あたしの涙を指でふいてくれた。
ふいてくれながら、
「前にも、こんなことがあったな……」
と、つぶやいた。
「前?」
「子供の頃。湘が足の裏に刺したウニのトゲを、オレが抜いただろう」
「そうだったわね……」
「あの時も確か、湘の涙を、オレがふいたんだよ」
「そうだったっけ」
「そうだった……」
哲が言った。眼と眼が合った。そして、あたしは、きつく抱きしめられた。抱きしめられながら、空を見上げた。
たそがれの空には、まだ、青さが残っていた。その青さの中に、白い月が出ていた。9月はじめの上弦の月が、細く、くっきりと出ていた。
あたしと哲のぎこちない初体験はゆっくりと揺れる船の上だった。あたしは、細い月を見上げて、〈ああ……もう女の子じゃなくなったんだなァ〉と思った。
□
翌週。木曜日。夕方。
あたしは、楽器ケース片手に、防波堤に向かって歩いていた。海を渡ってくる風は、ひんやりと涼しく、完全に秋だった。
防波堤の一番手前。
また、あの〈サビキじいさん〉が釣りをしていた。黒いゴム長をはいて、和竿を握っていた。
あたしは、その後ろで立ち止まる。
「釣れます?」
と言った。サビキじいさんは、ふり向く。微笑んで、
「ああ……お嬢さんか……」
と言った。じいさんのわきのポリバケツには、このあたりで〈トウゴロウ〉と呼ばれるイワシの一種が6、7匹泳いでいた。
「そうだそうだ」
サビキじいさんは言った。竿を置く。使い古した釣り道具箱を開けた。
そこから取り出したのは、なんと、携帯電話だった。
じいさんは、電話のアンテナをのばし、プッシュ・ボタンを押した。やがて、相手が出たらしい。
「ああ、わしだ。柏木か? いまどこだ。……逗子インターの近く? それならちょうどいい。すぐに来い」
それだけ言うと、じいさんは電話を切った。相手はクルマに乗っているらしい。
サビキじいさんは、また、釣りをはじめた。
バケツのイワシがちょうど10匹になったとき、クルマのとまる音がした。防波堤に近い道ばたに、グレーのジャガーが駐まった。
お洒落なスーツを着た男が2人、クルマからおりてきた。1人は40代で、もう1人は若く、20代だろう。40代の方は、口ヒゲをはやしていた。
2人は、こっちに早足で歩いてくる。
口ヒゲの方が、サビキじいさんに、
「困りますよ、社長」
と言った。
「この忙しいのに釣りばっかり……」
そう言いかけた口ヒゲに、
「まあ、黙りなさい」
とサビキじいさんは言った。その言い方は、堂々としていて、ウムを言わさない雰囲気だった。
サビキじいさんは、あたしを見た。
「じつは、私は、ちょっとした会社をやっておって、こいつらは社員なんだがね……。どうも、セコセコとしていていけない。ひとつ、お嬢さんのサキソフォンをきかせて、気分をなごませてやってくれんかのぅ」
と言った。
「それは、別に、いいけど……」
あたしは言った。どっちみち、練習するために、ここにやって来たのだ。
じいさんがイワシを釣っているのを見物しながら、もう、アルト・サックスは組み立ててあった。
あたしは、リードに唇をつけた。ごく気軽に、〈|I'm Not In Love《アイム・ノツト・イン・ラヴ》〉を吹きはじめた。
サラリと吹いた。吹き終わった。
意外に真剣な表情でじっと聴いていた口ヒゲの男が、
「社長……」
と言った。サビキじいさんは、口ヒゲを見ると、ニヤリとした。
「なぜお前たちを呼んだか、わかっただろう?」
と言った。口ヒゲは、じいさんの耳もとに顔をよせる。
「あ、あの……この娘さん……いったいどこの……」
と小声でセカセカと言っている。
「どこも何も、この漁港の娘さんだよ」
「漁港の?」
「ああ」
「じゃ……まだどこのプロダクションにも所属は……」
「漁協には所属してるかもしれないがね。自分できいてみなさい」
サビキじいさんは、口ヒゲに言った。
口ヒゲは、上着の内ポケットから、名刺を取り出した。あたしに向かって、うやうやしくそれをさし出した。
「あの……私、こういう者で」
と言った。あたしは、その名刺をうけ取った。
〈BASS《バス》プロモーション プロデューサー 柏木修一〉
そう印刷されていた。
バス・プロモーション……。きき覚えがあった。確か、コンサートを主催する会社じゃなかったっけ……。しかも、大物ばかりをあつかう、業界ナンバー|1《ワン》の会社じゃ……。
あたしは、半分ぼんやりとした頭で、そのプロデューサーの話をきいていた。
〈とにかく一度、オフィスの方へ〉
〈契約については……〉
そんな言葉のきれはしが、頭のすみを通り過ぎていく。
若い方の男が、サビキじいさんにヒソヒソと話している。
「社長……よくあんな娘《こ》を見つけましたね……」
などという声がきこえる。
「わしだって、いつも小物ばかり釣ってるわけじゃない。たまには大物を釣るってのが、これでわかっただろう」
サビキじいさんは言った。そして、愉快そうに笑った。
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エピローグ
1年が過ぎた。
その午後、あたしはボールペンを握って手紙を書いていた。
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『親愛なるフレディ。
元気ですか?
そちらデトロイトも、もう夏ですか? こっちは、そろそろ夏のピークをむかえようとしています。』
[#ここで字下げ終わり]
あたしは譜面《スコア》の裏に走り書きをしていた。どっちみち、後でカラさんに英訳してもらってフレディに出す手紙だった。
[#ここから2字下げ]
『去年の初夏、一色の海岸ではじめて出会った時のこと、覚えていますか? 早いもので、あれからもう1年以上たつんですね。
この1年、いろいろなことがありました。あたしにとっては、嵐みたいな1年でした。
そして……ビッグ・ニュースがあります。
驚かないで、フレディ。あたし、プロとしてステージに立つことになったの!
あと5時間したら、あたしにとってのファースト・ステージがはじまるのです。
この手紙は、いま、その控え室で書いています。
場所は逗子マリーナ。フレディも知ってるでしょう? あそこのガーデン・プールに特設のコンサート会場をつくって、4千人のお客を入れるの。そして、1週間ぶっつづけのコンサートが、これからはじまろうとしています。
コンサートの主役は、日本人の男性シンガーソング・ライターです。
名前を書いても、たぶんフレディは知らないでしょうけど、このところ、すごい勢いで人気が上昇している実力派シンガーです。もう、アルバムを3枚も出しています。
あたしは、そのコンサートのメンバーとしてステージに立つわけです。8人のバック・バンドの中で、女はあたし1人です。
バック・バンドといっても、歌の間奏で、8小節のソロが3回もあって、しかも、シンガーの人が衣装を変えている間には、24小節のソロを吹くことになってるの。
どうしてこういうチャンスが訪れたかについては、また、ゆっくり手紙を書くね。
あっ、いま、進行係の人が呼びに来ました。これから、最終リハーサルがはじまるの。
じゃ……。あの日、フレディが渡してくれたアルト・サックスを手に、あたしは生まれてはじめてのステージに立ちます』
[#ここで字下げ終わり]
そこまで書いて、あたしはボールペンを置いた。控え室の外で、
「最終リハーサル、はじまります。よろしく!」
という声がしていた。
あたしは、アルト・サックスを手に、立ち上がった。
まだ、リハーサルなんで本番用の衣装は着ていない。パイナップル柄のシャツ。白いサブリナ・パンツ。そして、やはりまっ白いスニーカーという姿だ。
控え室を出る。コンサートの関係者《スタツフ》が、忙しく動き回っていた。
目の前に、あのサビキじいさんがいた。きょうは、バス・プロモーションの社長らしく、いい仕立てのサマー・スーツに身を包み、白髪まじりの髪もきれいにとかしている。
黒いゴム長のかわりに、イタリー製と思われる靴をはいていた。
あたしを見て、優しく微笑った。
「初日は、マスコミや音楽業界の関係者もいっぱい来るから、せいぜい、連中をびっくりさせてやりなさい」
と言った。あたしの腕を、ポンと叩いた。あたしは、うなずいた。歩きはじめた。
プロデューサーの柏木さんがいた。
「リラックス、リラックス。この6カ月、あれだけ激しくトレーニングしてきたんだ。何も心配しないで、思いっきりやれ!」
と柏木さん。口ヒゲの下で白い歯を見せた。
智子とカラさんがいた。2人とも、関係者用のバックステージ・パスを首にぶら下げている。
あたしと智子は、プロ野球の選手みたいに、手のひらと手のひらをパシッとぶつけた。
智子はいま、横浜Pホテルのバーで見習いをやっている。
「ステージ終わったら、冷たいダイキリでも用意しといて」
あたしは智子に言った。笑顔と笑顔をかわした。
「有名になっても、オレの店に来なくなったら、承知しないぞ」
とカラさん。あたしのオデコを、コツッと叩いて笑った。
あたしは、ステージ・サイドに歩いていった。そこに、哲がいた。あい変わらずコーヒー色に灼けている。哲もいまや、水産大学の1年生だ。あたしを、じっと見た。
「いよいよだな……」
「…………」
あたしは、うなずいた。眼と眼が合う……。ちょっと照れくさいんで、空を見上げた。
「晴れてよかった……。コンサートの初日だもんね……」
と、つぶやいた。そのとき、
「あっ」
と哲が声を上げた。
「何?……」
「ほら、ビリーだ」
哲は、空を指さして言った。あたしも、そっちを見た。
「…………」
本当だった。晴れわたった空。クジラの形をした雲が、ぽっかりと、浮かんでいた。少し斜いた午後の陽射しに、クジラ雲は、薄いオレンジ色に染まっている。
この夏、ビリーは湘南に姿を現さなかった。たぶん、南の海でのんびりと泳いでいるのだろう。あたしはそう思って安心していた。同時に、ほんの少し、淋しさも感じていた。けれど、
〈来てくれたのね、ビリー……〉
あたしは、胸の中でつぶやいた。空の上のビリーをじっと見上げた。胸が熱くなった……。
〈あなたが元気づけてくれたおかげで、あたしは今日、はじめてのステージに立つことができるのよ。ありがとう……〉
そして、
〈見守っててね……〉
と、ビリーに語りかけた。
やがて、トランシーバーを持った進行係の人が、
「それでは、リハ、はじめます」
と言った。
あたしは、哲にふり向く。〈いってくるわ〉と、親指を立てて合図した。微笑みながら、哲がうなずいた。
あたしは、ステージ・サイドに上がった。そこに、バンドのメンバー達がいた。みんな、あたしに笑顔を向けている。
「じゃ、オープニングのリハーサルをやります。名前がアナウンスされたら、手を振りながら、つぎつぎにステージに出てください」
と進行係の人。あたしを見て、
「レディ・ファーストだから、湘がトップ。いいね」
と言った。あたしは、うなずいた。
深呼吸……。客席を見おろした。
まっ青なプールに、ヤシの影が映って揺れている。プールの周囲につくられた観客席には、まだ、誰もいない。コンサート前の緊張と期待感だけが、漂っていた。
そして、|秒読み《カウント・ダウン》……。進行係の人が、ストップ・ウォッチを見ている。
やがて、P・Aからアナウンスが響いた。
「佐藤湘! ON! サックス!」
のアナウンスが、広い会場に響きわたった。
あたしは、空の上のビリーに向かって、大きく、手を振った。
そして、背筋をのばし、光あふれるステージに、最初の1歩をふみ出していた。
[#地付き]END
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あとがき
こういう小説に、もっともらしいあとがきは必要ないと思う。読み終わって、〈面白かった〉とか、〈ちょっとジーンとした〉とか、〈少し元気が出た〉とか感じてもらえれば、それで充分なのだと思う。小説の内容について作者がごちゃごちゃと説明しても、なんの意味もないだろう。
この物語は、夏の終わりに書きはじめて、冬のはじめに書き終えた。正確に書くと、1992年の9月1日に1行目を書きはじめ、12月4日に最後の1行を書き終えた。もちろん、その間に雑誌の原稿を書いたりもしているのだけれど、この小説を書くためにペンを握ったのは、間違いなくその3ヵ月間だ。
この3ヵ月間、作者である僕が、どんな音楽を聴き、どんな酒を飲みながらペンを走らせたのかということを、思いつくまま、データのように書いてみようかと思う。作者のつまらない苦労話などより、その方が、小説の書かれた背景が見えて面白いかもしれない。
●この3ヵ月間、よく飲んだ酒。
ビール。(主にバドワイザー。暑かった頃は生ビール)ワイン。(国産ワインの白が中心。中国産白ワイン〈長城〉も気に入ってよく飲んだ)ウイスキー。(ジャック・ダニエルが多い。普通はロックで、初冬の海の上ではホットにして)
●この3ヵ月間の服装。
暑い頃は、上はアロハかポロ・シャツ。下はショートパンツ。秋になってから、下はジーンズ・オンリー。上にはおるものはヘリー・ハンセン製のものが多い。
●よくテーブルにのった食べ物。
生活の場が海辺なので、圧倒的に魚介類が多い。
刺身。(アジ。イワシ。黒鯛。石鯛。イナダ。コチ。カワハギ。など、数えきれず)
シイラのバター焼き。(自分の船で釣ったものを海の上でさばいて、塩コショウで味をつけシンプルに)
冬になると鍋物《なべもの》。(やはり自分たちで釣ったカサゴ、カワハギ、ムツなど)
●よく聴いた音楽。(のごく一部)
M《マライア》・キャリー〈|I'll Be There《アイル・ビー・ゼア》〉
スウィングアウト・シアター〈|Am I The Same Girl《アム・アイ・ザ・セイム・ガール》〉
J《ジヨーン》・ジェット〈雨を見たかい〉
M《マイケル》・ボルトンの曲、いろいろ。
古いボサノバ(S《スタン》・ゲッツなど)
竹内まりや〈Quiet Life
シンプリイ・レッド〈Stars《スターズ》〉
●買い物。
8月に自分の船を持ったので、船用品や釣り道具が多い。ロープ類。航海用ハンド・コンパス。釣り竿。リール。ルアーなど、いろいろ。猫を5匹も飼っているので、缶づめのキャット・フード、トイレ用の砂などもよく買ったなァ……。
まあ、こんなところで、小説の書かれた背景が少しでも想像してもらえるでしょうか。
なお、鯨に関する資料として『鯨とイルカのフィールガイド』(東京大学出版会)を参考にさせてもらいました。ここに記して感謝します。
約1年前から共に構想を練ってくれた角川書店編集部の大塚菜生さん、素敵なカバー・イラストを描いてくれたペーター・佐藤氏、湘南における海の仲間たちにも、ここで感謝します。
それでは、すべての読者の方へ、ありがとう! そしてまた、つぎに会える日まで、少しだけGOOD BYE!
クリスマスの葉山にて
[#地付き]喜 多 嶋 隆
角川文庫『ビリーがいた夏』平成5年1月25日初版発行