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パイナップル巨人軍
喜多嶋隆
目 次
プロローグは振り逃げ
ホノルルで空振り
フライばっかり
マウイ島のかくし玉
ストライク一個25セント
そのバットを振るな
三塁線に倒れて
エピローグは滑り込み
あとがき
[#改ページ]
プロローグは振り逃げ
□
「プレイボール!」
審判役の地元少年《ロコ・ボーイ》が叫んだ。
その声が合図だったように、雲が切れていく。濃紺《のうこん》に近いハワイ・マウイ島の青空が、ゆっくりと広がっていく。
陽射《ひざ》しが、野球場にあふれる。
芝生の緑。
一塁線と三塁線の白。
ロコ・ボーイが着てるTシャツの赤。
そんなグラウンド中の色彩が、いっせいに浮き上がってくる。ポラロイド写真みたいだ。ふと、そう思った。
一回表。
おれ達ロケ隊チームの攻撃。
一番バッターは、スタイリストの麻子《あさこ》だった。一回、二回、ぶきっちょにバットを素振り。そのたびに、八八センチのバストが、ぶるんぶるんと揺れた。
ロケ隊は、口ぐちに叫ぶ。
「かっとばせぇ! 麻子!」
「バストで打て!」
「じじいどもの腰を抜かせてやれぃ!」
麻子は、ふり返る。おれ達に白い歯を見せると、
「了解ぃ!」
バッター・ボックスに入った。
少しへっぴり腰でバットをかまえる。右手と左手の握りが、一〇センチぐらい開いている。
巨人軍のじいさん達は、全員、守備位置についていた。
ピッチャーのオキタじいさんが、口をもぐりとやった。入れ歯でも噛《か》み合わせたんだろう。
キャッチャーのじいさんは、背番号7だ。
膝《ひざ》の間で、何かサインのようなものを出している。オキタじいさんが、それをじっと見る。首を横に振って、
「ノッ」
といった。
「ほら、かっこつけてないで早く投げろよ」
おれ達は野次《やじ》る。
「うるさいのっ、ボーイ」
とオキタじいさん。キャッチャーのサインをじっと見る。今度は、
「イェッ」
と短くうなずいた。ゆっくりと、投球モーションに入る。ボールが重そうだった。野球のボールなのに、まるで砲丸でも投げるみたいだ。
それでも、筋ばったオキタじいさんの手からボールが離れる。
低い。ホーム・ベースの一メートル手前で、ワン・バウンド。
「馬鹿《ばか》! 振るな!」
ロケ隊の誰かが叫んだ。が、もう遅かった。川のメダカを網ですくう。そんな動作で、麻子はバットをしゃくり上げた。バットの先が、ガリッと土を削《けず》る。
小さな土ボコリが、ハワイ独特の乾いた風に運ばれていく。
「グラウンドを掘るなよ!」
「道路工事かよ!」
と、麻子を野次るロケ隊の声。
「だってぇ……」
と麻子。バットを握ったまま体をよじる。
二球目。また、オキタじいさんはキャッチャーのサインを見る。
「イェッ」
と、首を縦に振る。投げた。高い。麻子の頭より、三〇センチは高い。
「振るな!」
また、ロケ隊の誰かが叫んだ。もちろん遅かった。
空中のトンボめがけて網を振り回す。そんなかっこうで、麻子はバットを振った。かすりもしない。ボールは、キャッチャー、審判の頭上を飛んでいく。一〇メートルぐらい後ろのヤシの樹《き》に、ゴンとぶつかった。
「振るなっていっただろう!」
「だってぇ……」
カウント2―0からの三球目。
今度は、真ん中だった。ちょうど、麻子の立派なバストの高さだ。
「振れ!」
ロケ隊の四、五人が、同時に叫んでいた。麻子のバットが、ぶうんと振られた。が、ボールの二〇センチぐらい下。空を切っただけだった。
空振りしたバットの勢いで、麻子は尻《しり》もちをついた。
同時に、ゴツンという音。キャッチャーのじいさんが、額《ひたい》でボールをうけたらしい。この巨人軍に、キャッチャー・マスクなどというものはないのだ。
じいさんは、尻もちをつく。ボールは、二、三メートル先の芝生に転がっている。ボールが当たった拍子に外れたんだろう。じいさんの眼鏡《めがね》も、芝生に転がっている。
「わしの眼鏡……」
じいさんは、あわてて見回す。まず眼鏡を見つけないと、ボールが見つからないんだろう。
「走れ!」
おれ達は、麻子に叫んだ。
「だってぇ、三振でしょ?」
「いいから走れ!」
「とにかく走れ!」
口ぐちに叫ぶ。
「振り逃げなんだから、走れ!」
振り逃げの意味が、わかったのかわからないのか。とにかく、おれ達の剣幕《けんまく》に驚いたんだろう。麻子は、立ち上がる。駆け出す。
「馬鹿! 馬鹿!」
誰かが叫んだ。
「そっちじゃない!」
もう遅かった。麻子が走っていくのは、三塁の方向だった。
「逆だぁ!」
の声も無駄《むだ》だった。八八センチのバストがぶるぶると揺《ゆ》れる。麻子は一目散《いちもくさん》に駆けていく。
「あちゃーっ」
ロケ隊の誰かが、野球帽を芝生に叩《たた》きつけた。
キャッチャーのじいさんが、やっと、眼鏡を見つけた。ひろい上げる。駆ける。二、三メートル先のボールも見つける。つかむ。一塁に投げようとする。
一塁線にランナーはいない。じいさんは、驚いた表情。口を半開き。
麻子は、もう、三塁だ。ちゃっかりとベースの上に立ってる。
「いぇい!」
と、麻子はおれ達に向けてVサイン。親指と小指を立てるハワイ式のVサインだ。
「あーあ」
ロケ隊から、ため息が上がる。
「なんなんだ、これは」
おれも、思わずつぶやいていた。
「なんの因果《いんが》で、平均年齢七五歳の巨人軍と草野球をやらなきゃならないんだ……」
空を仰いで深呼吸。
|通り雨《シヤワー》に濡《ぬ》れた芝生の匂《にお》い。
プルメリアの花の、甘酸《あまず》っぱい香り。
頭上でカラカラ揺れているヤシの葉先。
長く馬鹿馬鹿しい一日になりそうだった。
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ホノルルで空振り
□
はじまりは、約一か月前。
西麻布《にしあざぶ》スタジオのBスタ。午後七時。おれ達は、テレビ・コマーシャルの撮影をしていた。
フライパンのCFだった。油をひかなくても、まるで焦《こ》げつかないテフロン製らしい。大手化学メーカーの新製品だった。
CFコンテは、ごく単純だった。タイトルは〈フライパン・ワルツ〉。フライパンの上で、目玉焼きがワルツを踊る。そんなアイデアだった。
〈火にかけられた新製品のフライパンのアップ〉
〈玉子が、割り落とされる〉
〈半熟の目玉焼きになっても、フライパンにくっつかない〉
〈前後左右に傾くフライパン〉
〈ツーと滑り出す目玉焼き〉
〈スケーター・ワルツの音楽に合わせて、フライパンの上で踊る目玉焼き〉
最初から最後まで、フライパンのアップだけ。プロデューサーの〈できるだけ低予算で〉という要求で考えたコンテだった。
撮影の準備が、意外に手間どった。午後七時になっても、まだカメラは一フィートも回っていない。
カメラは回らなくても、腹は減る。おれは、そばにいた照明《ライト》マンに、
「飯、まだかな」
といった。とたん、スタジオのドアが開いた。制作進行係が、仕出し弁当を運び込む。
「おっし、晩飯だ。小休止!」
天井から下がってるスカイ・ライトの光量が、スッと落ちる。スタジオの空気がなごむ。
□
「はい、カントク」
制作進行が、おれに弁当を運んでくる。CFディレクターも、撮影現場では〈カントク〉と呼ばれることが多い。
弁当を開けてみる。
「こりゃなんだ……」
一瞬、口が半開きになっているのがわかる。
豚《とん》カツ弁当だった。店の名前を見た。確かに、いつもの豚カツ屋だった。が、いつもなら四、五切れ入ってるカツが、二切れだった。空いたスペースを、千切《せんぎ》りキャベツがうめている。
何かのまちがいだ。そう思って、となりのカメラマンのをのぞいてみる。やはり、二切れだった。カメラマンも唖然《あぜん》としている。
「どうしたんだよ、これは」
制作進行にいった。
「誰が、弁当頼んだんだよ」
「それは……あの……|浅P《あさピー》です」
後ずさりしながら、若い制作進行はいう。おれの剣幕が、よほどだったんだろう。
「浅Pか……」
つぶやいた。とたん、スタジオのドアが開いた。オムスビ型の頭がのぞく。つづいて、小太りの体も入ってくる。
プロデューサーの浅田《あさだ》だった。プロデューサーの頭文字〈P〉をとって〈浅P〉と呼ばれている。いまの広告代理店には、おれと同期に入った。プロデューサーとディレクターのコンビを組んで、もう五年。来年は、二人とも三〇歳になる。
「調子はどうだい」
と浅P。グレーの上着を脱《ぬ》ぐと、スタジオのソファーに放《ほう》った。
「あのなあ、浅P、これはなんに見える?」
豚カツ弁当を、おれはさし出した。
「何って、弁当だろう?」
「なんか変だろう。気がつかないか」
「変って……」
浅Pは、ネクタイをゆるめながら弁当をのぞき込んだ。
「あれ、ずいぶん質素だなあ」
涼しい顔でそういった。おれはむすっと、
「なぜ、こんなに質素なんだ?」
「おかしいなあ。店のまちがいじゃないか」
と浅P。わざとらしく、オムスビ頭をかしげる。絶対に嘘《うそ》だ。浅Pが、弁当代を削ったにちがいない。
浅Pのケチは、CF業界でも有名だった。ロケの費用を削る。スタジオ・セット費を削る。弁当代を削る。何がなんでも削る男だった。
「いくらなんでも、こりゃないぜ」
おれは、ブスッといった。浅Pは、
「ま、そういわんと。なんかの手ちがいや、手ちがい」
ふいに関西弁になる。浅Pは、関西出身じゃない。大学の四年間、関西にいただけだ。が、何か都合が悪くなると、とたんに怪しげな関西弁を使いはじめる。
〈かんにん〉〈あかん〉〈どないしょ〉そんな言葉をまき散らして、ウナギみたいにヌルヌルと逃げていく。
「な、そんな怖《こわ》い顔せんと、夜食、期待や、な、夜食、期待しとくんなはれ」
□
一時間後。撮影再開。
ライトの光量が上がる。スタッフが、持ち場につく。おれは、ストップウォッチを握ると、
「じゃ、テストいってみようか」
制作進行が、コンロに火をつける。フライパンをその上に置く。手タレの娘《こ》が、玉子を用意する。
手タレは、文字どおり、手のタレント。手や指先専門のモデルだ。
フライパンが、温まる。おれは手タレに、
「やってみてくれ」
手タレがうなずく。細く長い指が、玉子を割る。フライパンに落とした。おれは、ストップウォッチを押す。
ジュッという音。あっという間に白身がかたまっていく。おれは、ストップウォッチを横目で見ながら、
「フライパン、傾けて」
制作進行が、フライパンを傾けていく。一五度、二〇度、三〇度、四五度。目玉焼きは、ぴくりとも動かない。
「おかしいなあ」
と制作進行。フライパンを、前後に揺する。目玉焼きは、一ミリも動かない。フライパンにへばりついたままだ。
「別のやつでやってみよう」
フライパンは、三個用意してある。別のを火にかける。玉子を落とす。けど、同じだった。目玉焼きは、へばりついたままだ。
「こりゃ、欠陥商品じゃないか」
おれは、フライパンの柄《え》をつかむ。火からおろす。
「欠陥商品とはなんだ」
そんな声がきこえたのは、そのときだった。ふり向く。背広姿の男。確か、広告主《クライアント》の人間だった。宣伝部長らしい。
「ちょうどいい。あんた宣伝部の人だろう、ちょっと見てくれよ」
その男を呼んだ。宣伝部長が、こっちへやってくる。四〇代だろう。やたら仕立てのいい背広。どう見ても、生地は英国製らしい。
「欠陥とはなんだ」
「欠陥じゃないか」
おれは、目玉焼きがへばりついたフライパンをやつに見せる。
「目玉焼きが動いてくれなきゃ、撮影にならないんだよ」
宣伝部長の広い額に、青筋が浮く。浅Pが、あわてて間に入ろうとする。が、こっちにはこっちの仕事がある。
「ほら、へばりついてるじゃないか」
「そんなはずはない」
と宣伝部長。メタルフレーム眼鏡の奥で、眼がキッと光る。おれは、制作進行の手から、しゃもじをとる。フライパンのテフロンに傷をつけないための木のしゃもじだ。
しゃもじで、目玉焼きの端を突《つ》っつく。白身は、フライパンにこびりついてる。
「こんなだぜ」
白身の下へ、しゃもじをさし入れる。目玉焼きをはがそうとする。
「おいこら、動け」
目玉焼きを叱《しか》る。
「しぶといなあ」
ぐいと力を入れたときだった。目玉焼きが、ふいにはがれた。
「あ」
気がつくと、目玉焼きは飛んでいた。向かい合っていた宣伝部長の胸に、べたりと貼《は》りつく。くずれた黄身《きみ》が、背広の胸にとろりと流れはじめた。
□
「アホ! アホアホアホ!」
と浅P。ニワトリみたいにせわしなく、おれの後を追いかけてくる。スタジオの向かい側にあるコーヒー・ショップに二人で入る。
宣伝部長は、カンカンだった。
〈あした連絡する〉
といい残して帰っていった。撮影は中止だ。
「悪かったよ。でも、ついてなかったんだ」
コーヒー・ショップで向かい合うと、おれはいった。浅Pは、
「絶対に、わざとやられたと思ってるぜ、やっこさん」
「暗い性格してそうだものな」
「が、とにかく、宣伝部長だ」
「どうなる?」
「ま、あの広告主《クライアント》は、もうダメだろうな」
おれ達の広告代理店にとっては、大きなクライアントだった。
「となると、おれ達は?」
「ま、クビは確実だろうな」
「しょうがない」
そういうと、おれはアイスコーヒーをすすった。浅Pは、イスに体を投げ出すと、
「お前はいいよな。寿司《すし》屋の親父《おやじ》になりゃいいんだから」
確かに、おれの実家は神田《かんだ》の寿司屋だった。が、店はとっくに兄貴がついでる。おれの出番はない。
「まいったなあ」
「当分は目玉焼きなんか食わないぞ」
おれ達は、軽いため息。コーヒー・ショップの窓から、にぎやかな西麻布の通りをながめた。
□
「執行猶予《しつこうゆうよ》?」
ビールのグラスを持ち上げて、おれはきいた。
「ああ、執行猶予だ」
と浅P。一杯目のハイネケンを飲み干す。
あの目玉焼き事件から五日。浅Pに呼び出された表参道《おもてさんどう》のバーだ。
「あの広告主《クライアント》は?」
「もちろん、よその代理店へいったさ。新しいCFを、もうつくりはじめてるらしい」
「じゃ、当然、おれ達はクビだろう」
「それが、執行猶予だと」
きょう、制作部長に呼ばれてそういい渡された、と浅P。
「ただし、新しい仕事を一本やるのが条件だ」
「新しい仕事?」
「ああ。早い話、いまどこのチームも仕事がつまってて、引き受けられない。空《あ》いてるのは、うちのチームだけだ」
「それで、クビを執行猶予にして仕事をやらせようと」
「そういうことだ。が、この仕事のできしだいじゃ、首はつながる」
「で? スケジュールは?」
「それが……あしたプレゼンテーションなんだ」
と浅P。二杯目のハイネケンをぐびりと飲む。
「あした? プレゼン?」
プレゼンテーションは、広告主《クライアント》への企画説明だ。
「そりゃ無理だ」
「もう、引き受けてきちゃったんだよ」
「帰る」
おれは、ビールのグラスをカウンターに置く。立ち上がろうとする。
「待てよ、待ちなはれ、ぼん。短気なんだから、もう」
浅Pは関西弁になる。おれの短気でせっかちな江戸っ子気質を小馬鹿にするとき、必ず〈ぼん〉と呼ぶのだ。ニヤニヤ微笑《わら》いながら、
「な、ぼん、そんな癇癪《かんしやく》ばかり起こしてたら、このコマーシャル業界じゃ生き残れまへんで」
「生き残れなくてけっこう」
「ま、そういわんと、ぼん。わてを助けると思って」
と浅P。いつの間にか、会社のコンテ用紙をとり出している。おれの前に置く。コンテ用紙の上に、3Bの鉛筆をトンと置いて、ニッと微笑《わら》った。
□
三〇分後。結局、浅Pにいいくるめられた。3Bの鉛筆を握っていた。
新しい仕事は、台湾《たいわん》産のパイナップルだという。〈サン・グロウ〉というブランド名を売ればいいらしい。
「台湾産のパイナップルなら、欧陽菲菲《オーヤンフイフイ》が頭にパイナップルのせて唄《うた》えばいいじゃないか」
「ヤケになったらあかんよ、ぼん。クライアント様は、台湾産というのは出したくない、そういわはる」
「どうして」
「ようわからんが、台湾ラーメンならいいけど、台湾のパイナップルじゃイメージが良くないのとちゃうかしら」
と浅P。インチキ関西弁があやしくなる。
「まるでアメリカもんみたいに、イメージづけたいらしいんで」
「ふうん」
おれは、鉛筆の尻で、コンテ用紙をトントンと叩いた。アイデアを考えるときの癖《くせ》だった。
一五分考えても、何も出てこない。
「ダメだ、浅P」
「そんなこといわんで、ほら、なんでもいいから考えとくなはれ」
バーの壁をながめた。外国映画のスチール写真が、あちこちに飾ってある。
〈駅馬車〉〈カサブランカ〉〈凱旋門《がいせんもん》〉〈帰らざる河〉
その中の一枚に、ふと、眼をとめた。ジェームス・ディーンだった。〈エデンの東〉のワン・カット。豆畑に寝そべっている写真だった。
何かが、頭の隅にひっかかる。注意信号が点滅する。
頭の隅にひっかかってるものを、ゆっくりと引き寄せる。〈畑〉だった。
「そうか。パイナップル畑か」
「パイナップル畑?」
となりの浅Pが、おれの横顔をのぞき込む。
「ほら、日本人のほとんどが、パイナップル畑なんか見たことないものなあ」
「そういや、そうだ」
頭の中のスクリーン。広大なパイナップル畑を、イメージする。気持ちを集中する。まわりの音が消えた。頭の一点がポッと熱くなった。
子供の頃《ころ》遊んだ〈あぶり出し〉みたいに、CFのイメージが頭に浮かび上がる。それを、コンテ用紙に描《か》きつけていく。
〈地平線まで広がる緑のパイナップル畑〉
〈画面中央に、金髪のアメリカン・ガール〉
〈両腕で穫《と》りたてのパイナップルをかかえている〉
〈アメリカン・ガールの顔アップから、カメラ引いていく〉
〈広大なパイナップル畑が、画面に広がっていく〉
「コピーは?」
コンテ用紙をのぞいて、浅Pがきいた。
〈パイナップル畑でつかまえた〉
そして、商品名の、
〈……サン・グロウ〉
「〈ライ麦畑でつかまえて〉のもじりだ」
「いいんじゃないか。音楽は?」
〈フォスターのアメリカ民謡〉
描《か》き上げたコンテを、少し離して見る。
「できたらしいな」
「そうらしい」
二人で、コンテをながめてつぶやいた。
「このCFの主役は、パイナップル畑だな」
□
バーを出る。にぎやかな表参道の人ごみをかき分ける。いきつけの蕎麦《そば》屋に入った。
近頃《ちかごろ》、CF関係者の間では蕎麦屋が流行している。
隅のテーブル。外国からの出稼《でかせ》ぎモデルが、二本のハシをナイフとフォークみたいに使ってザル蕎麦を食べている。
「ロケ地は、どこにする」
手帳をとり出して、浅Pがきいた。
「おれが知ってる範囲じゃ、ハワイだな」
「グアムやサイパンじゃ?」
「ケチるなよ浅P。あっち方面にゃパイナップル畑なんかないよ」
「そうか、ハワイかぁ……」
浅Pは、短髪のオムスビ頭を手のひらでなでる。
「いま、六月か。ハワイの天気は安定してるかなあ」
と心配そうな顔。
「なんせ、執行猶予中だからなあ。これをしくじったら、完璧《かんぺき》にクビだぜ」
おれの前に、注文の茶蕎麦《ちやそば》が置かれた。
「なあ、きいてるのか、ぼん」
という浅Pの声をきき流す。ザルに盛られた緑の茶蕎麦をながめた。地平線に向かって、うねりながら広がるパイナップル畑のイメージが、そこにダブる。
ハワイの青空を思い浮かべながら、ハシを使いはじめる。
□
CFの企画は、広告主《クライアント》に通った。
口が達者な浅Pだ。あの一夜漬《いちやづ》けの企画も、一か月がかりと思い込ませたんだろう。
とにかく、〈執行猶予コマーシャル〉は、いやおうなく離陸だ。
三日間で、スタッフ選び、一週間がかりで制作打ち合わせ。
六月二九日。梅雨空の日本を、おれ達ロケ隊の八人は飛び立った。
□
「まもなく当機は……」
のアナウンスで目を覚ます。窓のブラインドを上げる。眼が痛いほどまぶしい青。ハワイの海だった。オアフ島の海岸線が、ゆっくりと近づいてくる。
八時一五分。JAL 072便はホノルル空港に着陸。
空は、カリカリに晴れていた。アスファルトに落ちる人の影が濃い。
一年ぶりのハワイだった。最初に税関を出たおれは、空を見上げて深呼吸。頭上では、ヤシの葉がカラカラと揺れている。
大柄《おおがら》な人影が近づいてきた。センベイみたいに陽灼《ひや》けのしみ込んだ顔。白いTシャツ。現地コーディネーターのケンちゃんだった。
〈健ちゃん〉なのか〈賢ちゃん〉なのかは知らない。ハワイにくるロケ隊の誰もが〈ケンちゃん〉と呼んでる。胸板の厚い、若い日系四世だった。
別名、〈五食のケンちゃん〉。一日五食という意味だ。
「キタムラさん!」
ケンちゃんが、おれの名前を呼ぶ。白い歯が、こっちに向かって光った。
ハムみたいに太いケンちゃんの腕。それに比べれば割りバシみたいなおれの腕《うで》。まるで腕相撲《ずもう》みたいな、ハワイ式の握手。
「|元気だった《ペヘア・オエ》?」
のんびりとしたハワイ言葉で、ケンちゃんがきく。
「|元気だよ《マイカイ・ノウ》」
うろ覚えのハワイ語で、おれも答える。
「一年見ない間に少し太ったな、ケンちゃん」
「うーん、カルア・ピッグの食べ過ぎね」
おっとりと微笑《わら》いながら、ケンちゃんは自分の腹をなでた。カルア・ピッグは、確かハワイ風豚の蒸し焼きだ。
空港の玄関。ロケ隊の連中が、つぎつぎと出てくる。
まず、浅P。
ジュラルミン製のアタッシュ・ケース片手に出てくる。そいつには、現金やトラベラーズ・チェックが入っている。ロケ隊のみんなが〈ケチの素《もと》〉と呼んでるケースだ。
制作進行つまり雑用係のポチ。
ロケ隊の中で一番若い。一八か一九だろう。名前の〈落合〉が、省略されて〈オチ〉になり、最近は〈ポチ〉になっている。
ロバみたいに、山盛りの荷物をかついだポチは、スケジュール表を口にくわえて出てきた。
カメラマンの市川。
略して〈市カメ〉と呼ばれている。きれいに刈り込んだ口ヒゲ。自称、〈CF界一のグルメ〉。当然のように肥満体だ。
カメラ・チーフ助手の香川と、セカンド助手の林。二人とも若い。
ムーヴィー・カメラには、普通、二人の助手がつく。経験の長い方がチーフ。下っ端の方がセカンドと呼ばれる。
スタイリストの麻子。八八センチのバストを揺らせながら出てくる。
身長は、それほどない。古い言葉でいう、トランジスタ・グラマーというやつだろう。スタイリストとしての感覚より陽気さでロケ隊に選ばれていることが多い。
女のスタッフが明るい性格だと、それだけでロケの雰囲気がなごむからだ。
最後に、ヘア・メイクのカマ太郎。
本名は吉太郎。だが、ヘア・メイクだから、当然のようにおカマだ。
ヘア・メイクのおカマにも、営業用のおカマと本物がある。女のモデルやタレントの髪や体を扱う仕事だから、おカマの方が都合がいい。で、おカマを自称してる〈営業おカマ〉も多い。カマ太郎も、たぶんそうだろう。
「お待たせぇ」
とカマ太郎。ピンクのサングラスをずり上げた。
「ポチ、機材の確認」
と浅P。ジュラルミンの機材のケースを、ポチが数えはじめる。
□
「やけに、にぎやかだなあ」
クルマの窓から顔を出して、浅Pがいった。
ロケ隊の乗ったヴァンは、ホノルル市街へ入ったところだった。
「ほんと。なんか、お祭り騒ぎだな」
おれも、つぶやいた。
公園で、マーチの練習をしてる連中。ダンスの練習をしてる地元少女《ロコ・ガール》たち。横断幕を通りに渡している人間。ホノルルの街に、やけに日本語が目立つ。
「どうしたんだい、これは」
ステアリングを握ってるケンちゃんにきいた。
「日系移民百年をお祝いするお祭りね」
ケンちゃんがのんびりと答えた。
「日系移民百年?」
「そう。官約移民ていって、政府が募集した移民の第一号が日本からハワイにきてから、ちょうど百年たつんだ」
「へえ。知らなかった」
「最初のグループは、千人近くいたらしいよ。〈シティ・オブ・トーキョー号〉って船できたって話」
「でも……みんな、何しにきたの?」
麻子が、調子っぱずれの声できいた。
「何って、サーフィンやりにくる移民がいるのか?」
おれは、苦笑しながらいった。
「ほとんどの日系人が、砂糖キビ畑で働いたらしいよ」
とケンちゃん。
「ふうん、砂糖キビ畑か……」
浅Pが、アクビまじりにつぶやいた。ロケ隊のヴァンは、〈祝! 官約移民百年〉と日本語で描《か》かれた横断幕をくぐって、ホノルルの中心へ。
□
「何ぃ!? 部屋がないって!?」
浅Pが、大きな声を出した。ポチをにらむ。
「ないってのは、どういうことだ!」
「ぼ、ぼくにいわれても、困りますよ」
とポチ。おろおろと、またホテルの中へ駆けていく。
ホノルル。カラカウア通り。ホテル〈サーフシティ〉の玄関に、ロケ隊はいた。ヴァンから、機材をおろしはじめたところだった。
ホテルの玄関から、ケンちゃんが出てきた。
「困ったね」
という言葉のわりには、ゆったりとした口調で、
「例の日系移民百年祭のおかげで、市内のホテル、かなり満員なんだよ。西海岸や日本から、ずいぶん人が集まってるし」
「そこをなんとかするのがコーディネーターだろう」
と浅P。オムスビ頭の額に、青筋を立てている。
「オーケーイ。ほかを捜すよ」
とケンちゃん。ハワイ暮らしの人間独特の、のんびりとした調子でいった。
□
「なかなかいいホテルねえ」
機材ケースに腰かけている麻子が、ロビーを見回していった。
さっきの〈サーフシティ〉から、三ブロック東。〈アンバサダー〉というホテルのロビー。おれ達は、機材や荷物を運び込んだところだった。
ケンちゃんは、カウンターで部屋と料金の交渉をしている。こっちへ戻ってきた。
「どうだった?」
「部屋はあるけど、料金が、ちょっと高い」
「高いっていうと?」
浅Pが、心配そうな顔でケンちゃんをのぞき込む。
「さっきの〈サーフシティ〉よりワン・ランクいいホテルだからね。ツインで百ドル。ねぎって九〇ドル」
「九〇ドルっていうと……」
浅Pは、頭の中で計算する。
「二万円、超《こ》えるじゃないか!」
また、額に青筋を立てて、
「あかん! あかん! 高過ぎる!」
関西弁まじりでわめいた。
「また、荷物積んでホテル捜しかよぉ」
「おれ達ゃ、ジプシーか」
「早く、ベッドで横になりたい!」
ロケ隊の連中から、苦情の声があがる。飛行機で、七時間半。空港で、入国手続きや機材の運搬に二時間半。みんな、ぐったりしてる。
「いっそ、砂浜にテントでも張るか、浅P」
おれも、皮肉を一発かましてやる。
「わ……わかったよ」
体中に、全員の冷たい視線を感じて、浅Pは、
「わかったよ……。よし! 清水《きよみず》の舞台から飛びおりたつもりで、ここに泊まろう!」
「大げさな」
おれは、苦笑しながらケンちゃんに小声で、
「さっきの〈サーフシティ〉といくら違うんだ」
ときいてみた。
「うーん、ツインで六ドルかな」
「たった六ドルの違いか……。さすがは、浅P」
その浅Pは、半分やけぎみに、
「ま、いいさ。ホテルが高い分、メシ代を削りゃいいんだ」
「……やばい……」
□
「え? 水着でオーディションするの?」
ケンちゃんが、眼を丸くした。
カラカウア通りがアラ・ワイ運河とぶつかるあたり。ビルの一二階にあるケンちゃんの事務所。モデル・オーディションの打ち合わせをしていた。
「水着の必要ないんじゃないの?」
CFのコンテをながめて、ケンちゃんがいった。
カラーで細かく描《か》き込まれたコンテだ。広大なパイナップル畑。画面中央に、パイナップルをかかえた金髪の美人。服は、アメリカの田舎《いなか》を想《おも》わせる、ジーンズ素材のシャツとスカート。
「これで、水着オーディション?」
とケンちゃん。
「ほら、やっぱり、プロポーションをしっかりと見ないことには、はじまらないし」
と浅P。
「そうですよ。オーディションは、水着にはじまって水着に終わるんですから」
と、制作進行のポチ。口をとがらして、
「ねえ、カントク」
と、おれにいった。
「うん……そうだな」
「早い話、水着コンテストをやりたいだけじゃない」
スタイリストの麻子がいった。
「困った男どもだ」
と、おれ達を見回す。
「まあ、いいや。ボクも、水着オーディション、大好きだし」
とケンちゃん。サラミみたいに太い指で、電話のボタンを押しはじめる。
□
「カード、もう少し上げて、トレーシー」
おれは、簡単な英語でモデルにいった。
きょう、六五人目。オーディション最後の娘《こ》だ。〈トレーシー〉と英語で描《か》いた大きなカードを、胸の前にかかげている。
後で、撮《と》ったビデオを見ながらモデル選びをやるとき、モデルの顔と名前をまちがえないためのネーム・カードだ。
「もうちょっと、カード上げて」
モニター・テレビの画面を横目で見ながら、トレーシーにいった。
モニター・テレビの画面には、トレーシーの胸から上が映っている。
「もうちょっと、カードを上に」
画面のフレームに、ネーム・カードがきちんと入った。
「はい、オーケーイ、トレーシー、カードはもういい」
ポチが、そばでカードをうけとる。
まず、正面から、ビデオに撮りはじめる。
「まず、自然な表情。カメラを見て……」
モニターと本人を交互に見ながら、おれは注文をつける。
「はい、オーケーイ。つぎは、微笑《わら》って。そう、カメラに向かって。はい、オーケーイ。つぎは、シリアスな表情……はい、オーケーイ」
正面が終わる。
「つぎは、|斜 め《スリークオーター》。そう……微笑って。はい、つぎは、横顔《プロフイル》。まず右……そう、今度は逆……そう、オーケーイ」
アップの撮影が終わる。つぎは、全身だ。
「市《いち》カメ、引いて」
カメラの市川が、ズーム・バックさせる。画面に、モデルの全身が入る。チョコレート色に灼《や》けた肌《はだ》。ピンクのビキニ。
トレーシーは、片手を腰に。片足を少し前に。微笑《ほほえ》む。モデルの決まりポーズだ。
三〇秒ほど、カメラを回す。トレーシーの全身をビデオにおさめる。モニターで、それを確認しながら、
「はい、オーケーイ! トレーシー、お疲れさま!」
市カメが、ビデオを止める。
「バンバーイ」
トレーシーは、ハワイ英語で〈じゃあ、また〉という。白い歯を見せると、オーディション・ルームを出ていく。
「やれやれ」
立ち上がる。大きくアクビ。二日間で約百人のオーディションが、やっと終わった。
「もうダメだ。女の水着姿なんか見ても、当分はピクリとも感じないな」
おれは、アクビまじりにそうつぶやいた。
□
「絶対に四七番のリサだな」
と浅P。鼻息を荒くする。
「いや、五一番のシンディがいい」
おれは、缶のプリモを飲みながら、そういった。
夜の八時半。オーディション・ルームで、モデル選びをしていた。
一一五人から、四時間がかりで二人に絞ったところだった。
意見が、分かれていた。
「五一番のシンディが、かわいい」
と、おれがいえば、
「いいや、四七番のリサの方がいい女だ」
と浅Pがやり返す。
「あのねえ、あなた達のガールフレンドを選んでるんじゃないのよ」
麻子が、苦笑い。腕組みして、おれと浅Pをにらむ。
「よおし、もう一度、ビデオを見てみようぜ」
おれは、いった。ポチが、ビデオを巻き戻す。
まず、五一番のシンディが映る。
青いビキニから、バストの谷間がのぞいている。えらく深い谷間だった。おれは、
「見ろ! この立派なバストを! パイナップルのイメージだよ」
と、浅Pにいった。
「わけのわからんこというな。女の水着なんか見てもピクリともしないなんていってたの、どこの誰かねぇ」
浅Pが、反撃してくる。
ビデオに、四七番のリサが映った。黒いワンピースの水着は、ハイレッグ型。脚のつけ根が、やたら切れ上がっている。かなり、きわどい。
「ほーら、いいじゃないか」
と浅P。画面を、くいいるように見る。
「水着の露出度で、ごまかされてるだけだぜ、浅P」
「いいや、この娘《こ》がいい」
「そうかな。おれは、絶対にシンディだ」
「いいや、リサだ」
「シンディだ」
「リサだ」
「……しょうがない。ジャンケンで決めるか」
「いいだろう……。男の対決だ」
おれと浅Pは、向かい合う。
「ジャンケン」
「ポン!」
おれはパー。浅Pはグー。おれの勝ちだ。
「なあ、ぼん、三番勝負にしよう。三番勝負」
「あきらめの悪いやつだなぁ」
「そんなこといわんと」
浅Pは、また得意の関西弁を出す。
「わかったよ」
三番勝負も、おれの勝ちだった。
「はい。じゃ、五一番のシンディさんに決定!」
ケンちゃんが、うなずきながらメモをとる。
「あーあ」
麻子が、背のびをしながら、
「馬鹿馬鹿しくて、お腹《なか》がすいたわ」
とつぶやいた。
□
「マヒマヒ?」
と、メニューをのぞき込んだ麻子。
「そう。マヒマヒが、一番うまいんだから」
わきから、浅Pがいう。
ケンちゃんの事務所から近いレストラン。モデル選びを終えて、遅い晩飯をはじめるところだった。
「なんにしようかなあ」
ハワイがはじめての麻子は、メニューをながめてつぶやいた。すかさず、浅Pがわきから、
「絶対に、マヒマヒがおすすめだよ」
〈FISH〉のところを指さして麻子にいった。
「マヒマヒって、どんな魚?」
「うーん、マヒマヒはマヒマヒさ。ハワイ特産の魚でさ。ロブスターなんかより、よっぽどうまい」
と浅P。おれと市カメは、顔を見合わせて苦笑。
マヒマヒは、日本語でいえばシイラ。珍しい魚じゃない。ごく当たり前の白身魚だ。特にうまいわけじゃない。ただ、ハワイじゃ沢山漁《たくさんと》れるんだろう。どこで食っても、安い。
「おれは、マヒマヒのフライ」
と浅P。
「じゃ、あたしもそれにする」
とつられた麻子。浅Pがニタリと微笑《わら》った。
「リブ・ステーキにしようかな」
とポチがつぶやいた。ポチも、ハワイがはじめてらしい。
「よせよせ、ハワイのステーキなんてうまくないって。マヒマヒの方が、絶対おすすめだって。ハワイまできて、マヒマヒ食わない手はないぞ、ポチ」
と浅P。メニューをながめてみる。リブ・ステーキは一三ドル。マヒマヒのフライは六ドル五〇セント。
おれは、わき腹を押さえる。笑いをこらえる。市カメも、笑いをかみ殺している。口ヒゲと太鼓腹《たいこばら》が、ヒクヒクと震えている。
□
「な……なんだってぇ!?」
浅Pが、思わず腰を浮かせた。
「パイナップル畑が使えないって!?」
飲みかけのバドワイザーを、落っことしそうになる。
モデルを決めた翌日。午後四時頃。ケンちゃんの事務所。
ロケ場所捜しから、ケンちゃんが戻ってきたところだ。
「ダメだ。この島のパイナップル畑は使えないみたい」
のんびりと、そういった。
「使えないって……どうして!?」
おれも、ケンちゃんの顔をじっと見た。
「まさか、例の移民百年祭をパイナップル畑でやるわけじゃ」
「そうじゃないの。この島のパイナップル畑ってさ、回ってみたら、デルモンテ社とドール社ばかりなんだよ」
「デルモンテとドール?」
「そう。両方とも、アメリカの大資本ね」
「そうか、わかったぞ」
と浅P。立ち上がると、
「大メーカーのデルモンテやドールの畑を、競争相手の台湾パイナップルのCF撮影なんかに使わせるものか。そういうことだろう」
「そう。大正解」
とケンちゃん。おっとりと微笑《わら》って、冷蔵庫からプリモ・ビールを出した。
「でも、当然といえば当然っぽい話よねぇ」
カマ太郎が、右の耳に金のピアスを刺しながら、そういった。
「やめてくれよ。ハワイまできて空振《からぶ》りなんて……執行猶予中だってのに」
と浅P。オムスビ頭をかかえる。
「まだ、チャンスはあるよ」
ケンちゃんが、缶ビールを飲みながらそういった。
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フライばっかり
□
「マウイ島……」
おれは、バドワイザーの缶を口からはなして、つぶやいた。
「そう。このオアフ島のパイナップル畑は、どこもデルモンテとドールの持ち物だけど、マウイ島までいけば、個人のパイナップル畑があるよ」
とケンちゃん。
「個人の畑なら、交渉しだいで借りられると思うよ」
「じゃ、マウイ島にいこう。すぐいこう」
おれは、いった。浅Pが、
「なあ、ぼん。気楽に、いこうとおっしゃいますがねえ、どうやっていくわけ?」
「泳いでいくわけには、いかないだろうなあ」
「冗談いってる場合か。とにかく、これだけの人間がマウイ島に飛べば、金がかかるんだぞ、金が」
「しょうがないだろう。ここまできちゃったんだから。それとも、パイナップル畑はダメでしたって、のこのこと日本に帰るか? 執行猶予《しつこうゆうよ》中なんだろう?」
「う……」
浅Pは、言葉につまる。
「その……マウイ島までいけば、個人のパイナップル畑は絶対にあるんだな」
と、ケンちゃんにつめ寄る。
「九九パーセント、大丈夫」
ケンちゃんは、あい変わらずおっとりと答える。
「もし、一パーセントの方に転んだら、どうするんだ」
と浅P。おれは、その肩を叩《たた》いて、
「ま、ハワイに残って観光ガイドでもやるんだな。おれも、つき合う」
□
翌朝。
ロケ隊の乗ったハワイアン航空機は、ホノルルを飛び立った。ケンちゃんを入れて、九人だ。モデルのシンディは、ロケ場所が見つかりしだい、ホノルルから呼び寄せることになった。
垂直尾翼《すいちよくびよく》にハイビスカスの花を描《えが》いた小型ジェットは、三〇分飛んでマウイ島へ。
マウイ島の玄関、カフルイ空港。ホノルルに比べると、ひどく静かだ。滑走路のわきでは、ハイビスカスの赤が風に揺《ゆ》れている。
この三、四年にいろいろな国へロケにいった。が、タラップから滑走路のコンクリートにおり立つのは、ひさしぶりの感触だった。
ケンちゃんが、空港のレンタカー事務所へ。一〇人は乗れるヴァンを借りてくる。機材を積み込む。ルート380を南西へ。
走りはじめて三〇分。窓から外をながめてた浅Pが、
「出たぁ! パイナップル畑だ!」
と叫んだ。
「あのなあ、ライオンや虎《とら》じゃあるまいし、出たはないだろう」
といいながらも、窓の外を見る。緑色の広がりが、ヴァンの窓を流れていく。窓から、顔を出す。乾いた風は、気のせいか、甘酸《あまず》っぱい果実の匂《にお》いがする。
「これで、観光ガイドにならずにすんだな」
はははと浅Pが笑った。
□
翌日。遅い午後。
「こんなことだろうと思ったよ」
と浅P。クルマの座席で、がっくりと首をうなだれて、
「やっぱり、観光ガイドか、おれの運命は……」
とつぶやいた。
マウイ島に着いた日。そして今日。マウイ島中を走り回った。が、パイナップル畑は、すべて空振りだった。広い畑は、やはり大資本のものだった。個人の畑は、みな小さ過ぎた。
一日の畑捜しを終えて、ヴァンで基地のラハイナに帰るところだった。
「なあ、ぼん。本当に、一緒に観光ガイドやるんだろうなあ」
と浅P。ヴァンの窓にひじをついていった。おれは、キョロキョロとあたりを見渡すと、
「ちょっと、とめてくれないか」
クルマのステアリングを握ってるケンちゃんに、いった。ヴァンが、路肩《ろかた》にとまる。
「おい、一人で逃げようってんじゃないだろうな」
と浅P。クルマの座席から腰を浮かす。
「馬鹿《ばか》いうな。オシッコだよ」
昼飯のとき、やけっぱちでビールをガブ飲みにした。そのビールが、出たがっていた。
ヴァンをおりる。ルート30。ラハイナまで一〇マイルの標識が眼に入る。ひっきりなしにクルマの通る国道だった。立ち小便の場所をさがして、道路のわきへ。
バナナの樹《き》が、四、五本。その奥に入っていく。掘っ建て小屋があった。農機具なんかの小屋みたいだった。小屋の壁に向かい、ショートパンツのチャックを下げた。
トタンでできた小屋に、放水。
トタンの壁に、自分の影が映っている。立ち小便をしているから、少しうつ向いた影だった。
このまま、パイナップル畑が見つからなかったら、どうしたらいい。そんな思いが胸をよぎる。ハワイにきて、もう一週間。東京の街を、ふと思う。
六本木《ろつぽんぎ》の雑踏《ざつとう》。紀《き》ノ国屋《くにや》の紙袋をかかえ、大きな歩幅で人をかき分けていくモデルの長い髪……。
おれは、頭を振った。そんな気弱になってる場合じゃないだろう。そう、自分にいいきかせる。
つまらないホームシックを振り落とすように首を振ったとたん。思わず、
「あ……」
と、つぶやいていた。
□
パイナップル畑だった。
掘っ建て小屋の向こう。パイナップル畑の緑が広がっていた。
パイナップルは、背が低い。とがった緑の葉が、パンク・バンドの髪型みたいに上に向かって突き上げている。その中心に、実が一個ずつ、きちんとおさまっている。
きれいに並んだパイナップルの緑が、地平線までつづいていた。黄色がかった実が、のんびりと午後の陽射《ひざ》しを浴びている。
放水したまま、思わず、パイナップル畑に見とれていた。あわてて、放水を終わる。振る。ホースをしまう。チャックを上げようとしたとき、
「動くな」
背中で、鋭い声がした。
□
英語だった。しゃがれた男の声だった。
トタンの壁に、影が映っている。おれの影の少し後ろ。もう一つの影だ。
「ゆっくりと、こっちを向け」
しゃがれ声が、英語でそういった。おれは、ゆっくりとふり返る。
黒い小さな穴。まず眼に入ったのは、銃口だった。小銃だった。よくわからないが、かなり旧式のものらしい。
銃をこっちに向けてる人間を見た。
じいさんだった。
日系人らしい。短く刈り込んだ髪は、ほとんど真っ白。対照的に、顔は褐色《かつしよく》だった。陽灼《ひや》けが骨までしみ込んだような褐色。どこかで見た覚えがある……。
そうだ。のしイカだった。家が下町だったから、子供の頃《ころ》、よく駄菓子《だがし》屋で買ったのしイカに、じいさんの肌《はだ》はそっくりだった。
年齢《とし》は、七〇代。八〇に近いかもしれない。
物干し竿《ざお》みたいに痩《や》せた体。色の褪《あ》せたアロハ・シャツは、ダボッと大きめ。ズボンは、カーキ色の作業ズボン。足もとは、ゴムゾウリだ。
「日本人か」
じいさんが、英語できいた。銃口は、こっちに向けたままだ。おれは英語で、
「ああ、日本人だ。あんた、日本語は?」
ときいた。
「イェッ」
と、じいさんが短く鳴いた。一瞬、そう思った。
しゃべったんじゃなく、鳥かカエルみたいに鳴いた。そんな声だった。
〈イェッ〉は、よく考えれば、〈イェス〉なんだろう。
「ユー、何してる」
日本語と英語のチャンポンで、じいさんがきいた。小銃をかまえたままだ。
「何もしてないよ」
日本語で答えた。
「何かしてる者ほど、そういうからの」
と、じいさん。鋭く、おれを見る。後ろの掘っ建て小屋を見る。どうやら、掘っ建て小屋に入ろうとした泥棒《どろぼう》とでも思ったらしい。
「ただ、小便をしてただけだ」
一ミリも動かずに、そういった。へたに動いて、引き金をひかれたらたまらない。じいさんは、おれの後ろの水たまりを見る。チャックの開いてるショートパンツを見る。
「トラクターのギャス、盗みにきたんじゃないんか」
と、じいさん。〈ギャス〉は〈ガス〉、ガソリンのことだろう。
「ちがう。そんなんじゃない。ただの立ち小便だ」
「立ち小便か……。バチ当たりの」
水たまりを見て、じいさんは吐き捨てる。
小銃の銃口は、ゆっくりと下を向く。おれは、ほっとひと息。
「これは、あんたの小屋かい?」
ショートパンツのチャックを上げながら、きいた。
「イェッ」
じいさんが、また、短く鳴いた。
「そうだったのか。立ち小便ひっかけて、ゴメン」
「バチが当たって、チンポコが腐ればいい」
と、じいさん。おれは苦笑い。気がつけば、銃口を向けられたんで、わきの下が冷たく濡《ぬ》れている。
「ちょっとききたいんだけど、この畑は、誰のものなんだ」
「畑?……ああ、パイナップル畑かの。わしらのものじゃよ」
緑の広がりを見渡して、じいさんはいった。
「わしらって……あんたの……畑?」
「イェッ」
□
「コマーシャル・フィルムの、撮影?」
じいさんが、きき返した。
「そう。テレビ・コマーシャルの撮影に、この畑を使わせてくれないか?」
簡単に事情を説明したところだった。
「畑をほじくり返したり、こわしたりは?」
「もちろん、そんなことはしない。撮影は、天気が良ければ一日で終わる。少しだけど、お礼も出せる」
「ふうむ……」
じいさんは、首をかしげる。
「とにかく、みんなに話してみないことにはな、なんともいえんの」
「みんな?」
「イェッ。この畑は、わしひとりのものじゃないからの。共同経営のっ」
「そうか。で? その仲間とは、いつ相談できる? おれ達も、会えないか?」
じいさんは、宙をながめてぼそっと、
「ファイヴ・サーティー」
といった。
「ファイヴ・サーティー? 五時三〇分?」
「イェッ。ファイヴ・サーティーになったら、近所のバーにみんな集まるからに」
「そこへ、おれ達もいけばいいのか?」
「そうじゃの。まず、ノー・プロブレムじゃと思うがの」
ノー・プロブレム……問題なしか。
「わかった。その店ってのは?」
「そこの角を右へ曲がるとある。〈マイコ・バー〉って店じゃ」
「〈マイコ・バー〉だな」
〈マイコ〉は〈舞子《まいこ》〉なんだろう。腕のダイヴァーズ・ウォッチを見た。四時だ。一時間半ある。
「じゃ、五時半に。ところで、あんたの名前は?」
「オキタじゃ。コーゾー・オキタ。で? ボーイ、ユーの名前は?」
二九にもなってボーイかよ、と思いながら、
「キタムラ。キタムラ・タダシ」
と答えた。
□
「本当に、ズラかっちゃったのかと思ったぜ、ぼん」
浅Pがいった。
「で、何してたんだ?」
「立ち小便して、銃を向けられて、パイナップル畑の交渉をしてた」
「まるで、話が見えんなあ」
と浅P。オムスビ頭を、のり出してくる。
「いま、ゆっくり話すから」
□
いったん、ラハイナの町へ戻る。スタッフをホテルでおろして、出なおした。
おれ。浅P。ケンちゃんの三人だ。ヴァンで、さっきの所へ戻る。よく見回せば、小さな町だった。村といった方が似つかわしいだろう。
ちょうど、五時半だった。
「あれか……」
ヴァンの助手席から顔を出して、おれはつぶやいた。細い赤土の道路に面して〈マイコ・バー〉はあった。
バーというより、掘っ建て小屋だった。さっき、おれが小便をひっかけた農機具小屋と、似たり寄ったりだった。
木造。トタン屋根。となりのヤシの樹にもたれかかるように、その店は立っていた。ヤシの樹がいなくなったら、そのまま倒れてしまいそうだった。
〈MAIKO BAR〉そうペンキで描かれた看板も年代ものだ。BARのBが、ほとんど消えかかっている。
店の前には、ポーチがはり出していた。道路から二段ほど上がる、低いポーチだった。ポーチの柱に、なぜか、鯉《こい》のぼりがいた。四、五〇センチの小さな鯉のぼりが三匹、たそがれの風に揺れている。
店の向かい側に、ヴァンをとめる。おりる。黄昏《たそがれ》の陽射しに、店は包まれていた。文字どおりパイナップル色の陽射しだった。
ポーチで、誰かが手を上げていた。オキタという、さっきのじいさんだった。
「キタムラ・ボーイ」
しゃがれ声が響いた。おれ達は、ポーチの階段を上がる。
「こっちへきんさい」
とオキタじいさん。ポーチに出した木のテーブルで、ビールを飲んでいた。
じいさんは、さっきよりましなアロハを着ていた。〈|極 楽 鳥 の 花《バード・オブ・パラダイス》〉の柄《がら》のアロハだった。白いズボンも、さっきの作業ズボンよりは小ぎれいだった。ゴムゾウリも、アディダスのスニーカーに変わっていた。
さっきのが仕事着。これが、よそいきなんだろう。
浅Pとケンちゃんを、じいさんに紹介する。ケンちゃんは、さすが日系四世だ。ハワイ言葉まじりのロコ英語で、じいさんとひとことふたこと。
じいさんがもう一人、となりにいた。オキタじいさんはそっちを指すと、
「これはゲンサクといって、オールド・オールド・フレンドでの」
ゲンサクじいさんの顔は、やはりのしイカ色だ。やたらレンズの厚い眼鏡《めがね》をかけてる。小さく丸い眼鏡の縁《ふち》が、夕陽《ゆうひ》に光る。
「ところで、パイナップル畑を」
と、浅Pがいいかけた。が、きこえたのかきこえないのか、
「ま、ビールでも飲みんさい。エブリバディ、坐《すわ》って、のっ」
オキタじいさんが、しゃがれ声でいった。おれとケンちゃんは、粗末な木のイスに坐る。浅Pも坐らせる。
「スリー・ビア!」
オキタじいさんが、店の中に叫んだ。相撲取《すもうと》りみたいに太ったハワイアンのおばさんが、缶のプリモとコップを持ってくる。ビールをコップに注《つ》ぎながら、
「その……パイナップル畑の」
と、また浅Pがいいかけたとたん、
「あ、ププがないの」
と、オキタじいさん。ププは、確かハワイ言葉でおつまみのことだ。
「ロミロミ、くれんかの!」
じいさんが、また叫んだ。おばさんが縁《ふち》の欠けた皿を持ってくる。ロミロミ・サーモンが、山盛りだった。鮭《さけ》の身、トマト、玉ネギを塩もみにしたハワイのローカル料理だ。ケンちゃんと一緒のときはよく食べる。
「やりんしゃい」
オキタじいさんは、おれ達にすすめる。まわりを見回してた浅Pが、
「まるで、日系じいさんの養老院だな」
と、おれの耳もとでささやいた。首を回して見る。店のドアは、開けっぱなしだ。
33回転のレコード、そんなのんびりとしたスピードで、天井の扇風機《フライ・フアン》が回っている。店の真ん中には、ビリヤード台。じいさん達が、六、七人。のろのろと玉を突いたり、ビールを飲んだりしてる。
みんな、日系人らしい。共通してるのは、のしイカ肌。それに、ぶかっと大きめのアロハだ。
「そうそう、パイナップル畑のことじゃがの」
と、オキタじいさん。ロミロミ・サーモンを、もぐもぐと噛《か》みながらいった。
おれ達は、体をのり出す。
「一つだけ、条件があるんじゃがの」
□
「ベースボールだってぇ!?」
おれは、思わず大きな声を出してしまった。
「イェッ。ベイスボゥル、のっ」
と、オキタじいさん。
「じゃ、あんたら、じいさんチームと野球をやって、おれ達が勝ったら、パイナップル畑を使わしてくれるっていうのか!?」
「イェイェッ。そういうことじゃの」
と、オキタじいさんは涼しい顔。となりのゲンサクじいさんも、うなずく。
「ノー・プロブレムっていったのは、誰だよ」
と浅P。おれの耳もとでいった。
「野球なんて、そんな面倒なことしなくても、使用料をちゃんと払うっていったじゃないか」
おれは、じいさんにいった。
「ノッ。金はいらん」
とオキタじいさん。〈ノー〉を〈ノッ〉と、やたら短く発音した。
「みんなで相談して決めたことじゃけんの」
オキタじいさんの首が、横に振られる。となりのゲンサクじいさんも、首を横に振る。頑固《がんこ》な顔が二つ。まるで地蔵《じぞう》が首を振ってるみたいだ。
「金は払う」
「ノッ。ベイスボゥル」
「畑は、荒らしたりしないから」
「ノッ。ベイスボゥル」
だんだん、いらついてきた。
「半日で終わるから」
「ノッ。ベイスボゥル」
じいさん達は、首を横に振りつづける。
〈こののしイカじじい!〉思わず、そう口に出しそうになる。〈こちとら、忙しいロケ隊なんだ。じじいの球遊びになんかつき合ってられるかよ!〉
そんな台詞《せりふ》を、いまにもおれがいいそうだったんだろう。浅Pがあわてて、
「まあまあまあ、ぼん」
と割って入る。
「とにかく、話をきかせてもらおうじゃないか」
□
「パイナップル巨人軍だって?」
おれ達三人は、同時に声を出していた。〈なんだ、そりゃ〉という台詞はぐっと飲み込んで、
「で……そのパイナップル巨人軍ってのが?」
「イェッ。わしらのチームの名前、のっ」
とオキタじいさん。シワだらけの口で、ビールを噛むようにぐっと飲んだ。
「で? ずっと長いことやってるチームなの?」
と、ケンちゃんがきいた。
「うーん、サーティーフォー・イヤーズ、のっ」
「三四年か……長いな。で、また、どうして巨人軍なの?」
と浅P。オキタじいさんは、また、ビールをもぐっと飲む。遠くを見る眼つきで、
「ウォーリーっちゅう巨人軍の選手、知っとるでしょうが」
「ウォーリー?」
「イェッ。ウォーリー・ヨナミネ、のっ」
「ヨナミネか……」
きいたことはある。浅Pと顔を見合わせる。浅Pは、
「ああ、知ってる知ってる。ヨナミネでしょ? 巨人軍の」
とC調にいう。
「あのヨナミネが、ここの出身での」
「ここって……マウイ島?」
「イェッ」
「そうか、思い出した。ヨナミネって、確かハワイの日系二世だったよ」
と浅P。今度は、調子を合わせただけじゃなさそうだ。
「そう。わしらが一世で、ウォーリーが二世じゃけんの。なんか息子《むすこ》が日本の巨人軍に入ったようで、あの頃は嬉《うれ》しかったの」
とオキタじいさん。となりで、ゲンサクじいさんもむっつりとうなずく。
「ベイスボゥルは、みんなボーイの頃からやっとったがの、ウォーリーが巨人軍に入った年に、わしらもチームをつくったのよ」
「それで、巨人軍なのか……」
「イェッ、イェッ。パイナップルをつくる人間じゃけん、わしらパイナップル巨人軍、のっ」
はじめて、オキタじいさんが微笑《わら》った。夕方の陽射しに、白髪が黄色く染まっている。
「三四年もやってるのか……成績は?」
と、ケンちゃんがきいた。
「いけんの」
「いけんってことは、ダメだってこと?」
じいさんは、うなずく。
「確か、三六三回やって、三六二敗一分けだったかの」
となりでゲンサクじいさんが、
「ノッ。三六一敗二分け、のっ」
ぼそっと訂正した。
「そうだったかの。とにかく、一度も、勝ったことがないのは、確かの。この島のベイスボゥル・チームは、みんな、アメリカンやハワイアンでの、ベイスボゥルが、ヴェリーヴェリーうまいの。わしらがヘタなんじゃなくて、ほかがうまいのよ」
ゲンサクじいさんも、
「イェッ。わしらが弱いんじゃないけんの」
ぶすっといった。
「読めたよ」
おれは、つぶやいた。オキタじいさんに、
「おれ達相手なら勝てそうだ。そうにらんだわけだな」
「イェッ。ボーイ、頭いいの」
「そんなこと、誰だってわかる。なんてじいさんだ」
悪態《あくたい》をついても、相手は無表情だ。思い出したようにぼそりと、
「そのうち勝てる、そう思ってたがの、わしらパイナップル巨人軍も、解散しよるのよ」
「解散?」
「人数が足りなくなりよるの」
「九人|揃《そろ》わなくなるのか」
「イェッ。なんせこの年齢《とし》じゃけん、毎年、仲間は減るの。いま、ちょうど九人、のっ」
とオキタじいさん。ビールをひと口。
「いまここにはおらんが、ショウキチというのがおっての」
じいさんは、手のひらに〈昌吉《しようきち》〉と書いた。
「それがほら、ホノルルの息子のところに引きとられることになったの」
「ふうん。いつ?」
「もうすぐのっ。そしたら、巨人軍は解散、のっ」
そういうじいさんの細い鎖骨《さこつ》が、アロハの襟《えり》からのぞいた。
「それまでに、一回は勝ってみたいの」
「そうか……ちょうど、そこへおれ達が飛び込んできたわけか」
「イェッ。ボーイ、かしこいの」
じいさんは、涼しい顔でいった。
「かしこいの、ボーイ」
と、またくり返す。
「馬鹿にしやがって!」
おれは、地蔵みたいなその横顔をにらみつけた。じいさんは、知らん顔。ビールを、もぐっと飲む。鳥の脚みたいに筋ばったノドが、ひくりと動いた。
「わかった。やろうじゃないか」
浅Pがいったのは、そのときだった。
□
浅Pは、おれの腕を引っぱる。ポーチの端に引っぱっていく。
何かおれがいいかける前に、
「いいか、ぼん。よく見てみろよ」
と、耳もとでささやく。
店の中。じいさん達がいる。三人が、ビリヤードをやってる。残りの三人は、ビールを飲んでる。
「あんなヨボヨボのじいさん相手なら、幼稚園の野球チームだって勝てるぜ」
なるほど。じいさん達は、みんなヨレヨレだった。全員、七〇代か、八〇を超《こ》えてるのもいるだろう。
動きが、CF用語でいう三倍のスロー・モーションだ。
「年代物《ヴインテージ》じいさんか」
おれは、つぶやいた。ビリヤードのキューを、杖《つえ》みたいにして歩いてるじいさんがいる。ビールのグラスを握ったまま、椅子で居眠りしてるじいさんがいる。
「な、これなら、どう転んでもおれ達の勝ちさ」
と浅P。
「ということは、タダでパイナップル畑が使えるってことだぜ」
「そうか……。タダね……」
浅Pは、オムスビ頭の中で、ソロバンをはじいたんだろう。なんといっても、猫にマタタビで、浅Pに〈タダ〉だ。
「これはやる手やね、ぼん」
□
ラハイナに戻るクルマの中。ステアリングを握ってるケンちゃんに、
「あの、じいさん達の変な言葉づかいは、どうなってるんだい」
ときいてみた。ケンちゃんは、のんびりとステアリングを切りながら、
「あれは、一世弁ね」
「一世弁?」
「うん。ハワイに移民してきた人って、日本の南の方の人が多かったんだよね。広島、岡山、山口、それに九州ね。で、そっちの言葉がチョプスイされてさ」
チョプスイというのは、ハワイ風中華料理で、ごちゃまぜの煮物だ。ごちゃまぜになったことを、地元の連中はチョプスイと呼んでいる。
「いろんな、南のなまりが何十年もの間チョプスイされて、ああなったらしいよ」
「なるほどね」
ラハイナの街が見えてきた。もう、七時近い。
「ああ、腹へったのっ」
おれは、じいさんの一世弁をまねしていった。
□
ラハイナは、古い街だった。
ケンちゃんによると、ハワイで一番古い街だという。その昔は、鯨漁《くじらと》りの基地だったらしい。
鯨漁りがダメになったんで、最近は、観光の街だ。鯨の絵がついたTシャツ、灰皿、コースター。鯨のペンダント。鯨のスプーン。街中が、まだまだ鯨で食っていくつもりらしい。
ロケ隊が泊まってるホテルは〈パイオニア・イン〉。ラハイナ港《ハーバー》のすぐ近く。木造の二階建てだ。古く、小さく、雰囲気のあるホテルだ。が、浅Pがここを選んだのは、ただ安いからだ。
一階のバー〈オールド 鯨《ホエールズ》 サロン〉。ロケ隊の連中が、ビールを飲んでいた。白人の男が、〈テネシー・ワルツ〉をピアノで弾《ひ》き語りしている。
「みんな、きいてくれ」
と浅P。スタッフを見回して、
「あしたのスケジュールだ」
「また、パイナップル畑捜しか?」
市カメが、うんざりしたような声を出す。
「いや。あしたは、野球だ」
□
「とはいうものの、浅P」
おれは、マルガリータを飲みながら、となりの浅Pを見た。〈パイオニア・イン〉から歩いて四、五分。ラハイナの真ん中にあるレストラン。みんなに、事情を説明したところだ。
「とはいうものの浅P、誰が野球できるんだよ」
「そういうぼんは?」
そりゃ、子供の頃、近所の空き地で草野球ぐらいはした覚えがある。が、小学校高学年からはバスケ。最近は、テニスだ。
「おれも、考えてみりゃ、このところ、野球なんてしたことないなあ」
と浅P。無責任につぶやいた。
「ポチ、スポーツは?」
ときいてみた。
「サーフィンですよサーフィン」
「カマ太郎は?」
「ジャズ・ダンスよ」
「市カメは?」
「おれの場合、食べることがスポーツでね。ま、食卓っていうフィールドを駆け回ってるわけで」
「気どってる場合かよ。香川は?」
「スキーなら、少々」
とチーフ助手の香川。
「林は?」
「バイクを少々」
とセカンド助手の林。
「うーん、撮影部も全滅か。ケンちゃんは?」
「フットボールなら少しやってたけど、野球は、やったことないね」
「そうか……麻子は?」
「え!? 私もやるのぉ!?」
「当たり前だろ。見回してみろよ。麻子も入れてやっと九人じゃないか」
「だってえ、ソフトボールもやったことないわよぉ」
「やれやれ」
おれは、ため息。ウエイトレスが、皿を運んできた。
「あれ? まだオーダーしてないのに」
「みんな忙しそうだから、オーダーしといてやったよ」
と浅P。見れば、またマヒマヒだった。フライののった皿が、みんなの前に。おれは、メニューを見た。〈魚の部〉の三番目。マヒマヒのフライ・五ドル三〇セント。メニューの中で破格に安い。おれはメニューを放《ほう》り出すと、
「あのなあ浅P。あした、じいさんどもと対決するんだぞ。こんな魚フライで、野球場を走り回れるかよ」
「そうよ、毎晩、マヒマヒのフライじゃない。これじゃ、野球やってもフライばっかりよ!」
とカマ太郎。
「せめてサーロインとかさ」
市カメがそういいかけたとき、
「こりゃうまい」
と浅P。もう、マヒマヒを食いはじめてる。
「さすがラハイナやなぁ、こりゃうまいでぇ」
また、あやしげな関西弁を使いはじめる。
「いやあ、ほんま、うまいで。食ってみなはれ、ぼん、うまいでぇ」
□
「あそこだ」
おれは、クルマの窓から指さした。ケンちゃんがうなずく。ステアリングを切る。
翌朝。九時一五分。
きのうの〈マイコ・バー〉の前を走り過ぎて二、三分。ヤシの樹の間に、野球場らしいものが見えてきた。
わきにクルマをとめる。ぞろぞろとおりる。
いかにも、ハワイの草野球グラウンドだった。金網のたぐいは、いっさい無い。陽射しが強くて雨の多いハワイだから、芝生はきれいだ。太いヤシの幹に、板が打ちつけてある。スコア・ボードらしい。
スタンドなども当然無い。一塁側と三塁側に、粗末なベンチが一台ずつ。これが、ダグアウトなんだろう。
「キタムラ・ボーイ!」
声がする。オキタじいさんが、おれに向かって手を上げた。見れば、じいさん達は、もう勢揃《せいぞろ》いしていた。
「へえ、ちゃんとユニフォーム着てるじゃない」
と麻子。なるほど。じいさん達は、いちおう、野球のユニフォームを着てる。クリーム色。胸に〈GIANTS〉の文字。紺《こん》の野球帽。マークは、〈G〉。
よく見れば、クリーム色のユニフォームじゃなさそうだ。白だった生地が、陽《ひ》に灼《や》けて黄ばんだらしい。どのじいさんのユニフォームにも、ツギを当てたあとが見える。
「揃ったかの? ボーイ」
オキタじいさんが、おれにいった。
「ああ、揃ったよ」
ヴァンからおりたロケ隊を、おれはふり返った。
ロケ隊のかっこうは、てんでバラバラだった。おおむね、Tシャツにショートパンツ。南洋ロケでの、普通のスタイルだった。麻子だけは、胸の大きく開いたタンクトップだ。
足もとは、だいたいスニーカー。ポチとチーフ助手の香川がゴムゾウリだ。
オキタじいさんと、簡単なルールを決める。
守備のポジションは、いつでも、何回でも変えられる。ただし、打撃順は、変えられない。
「ホームランは?」
「イェッ。あそこに、ブーゲンビリアがあるでしょうが」
じいさんの指さす方を見る。外野の向こう、フェンスがあるはずのところは、ブーゲンビリアの茂《しげ》みだ。ピンクの花が、陽射しに光っている。
「あの茂みにダイレクトに入ったらホームラン、のっ」
「わかった」
まず、このゲームじゃ関係ない話だろう。
「そこのお嬢さん、このベースを三塁に置いてくれんかの」
背番号8のじいさんが、そういった。いわれたのはカマ太郎だった。
無理もないだろう。髪は、女の子っぽい刈り上げ。前髪は、緑色に部分染めしてある。セルフレームの眼鏡はピンク。ショートパンツも淡いピンク。しかも、相手は生きる化石みたいなじいさんだ。
「失礼なじいさんね」
とカマ太郎。プリプリと怒りながらも、ベースを持っていく。
「ところで、チームの名前は? ボーイ」
スコア・ボードの前で、オキタじいさんがおれにきいた。チーム名の下の段には、〈パイナップル巨人軍〉と、もう書いてある。
「チームの名前は?」
「ロケ隊さ」
「ロケ隊じゃ、チーム名にならんのっ」
「そんなの、どうでもいいじゃないか」
「よくないのっ」
とオキタじいさん。
「もし、わしらが勝ったとして、誰かにきかれるでしょうが。ユー、どこのチームに勝ったの? そのとき、ちゃんといえなきゃ困るけんの」
〈アホじじい!〉そう思いながらも、
「わかったわかった」
みんなで相談する。
「相手がジャイアンツなら、当然、タイガースじゃないか」
と市カメ。みんな、うなずく。
「何タイガースにする?」
「ロケ隊タイガース」
「いいづらいな。そうだ」
おれは、ニコリと微笑《わら》って、
「マヒマヒ・タイガース」
「うん! それいい!」
と麻子。みんなで、ニヤニヤ笑いながら浅Pをながめる。
「決まったよ。マヒマヒ・タイガース」
と、オキタじいさんにいった。
「マヒマヒ・タイガース? でも、マヒマヒは魚のっ。タイガーは動物のっ。おかしいでしょうが」
「うるさいじじいだなあ。これがいま新しいの! 時代はどんどん変わってるんだから」
広告主《クライアント》をねじふせるときの台詞を、おれは思わず口にしていた。
「わかったわかった」
とオキタじいさん。白墨《はくぼく》で緑のスコア・ボードに〈マヒマヒ・タイガース〉と書いた。
「で、審判は誰がやるんだ」
「審判か。ホーム・ベースの審判ぐらいはいるの……」
オキタじいさんは、見回す。自転車にまたがった子供がいた。グラウンドの隅で、こっちをながめている。
「エーイ! ボーイ!」
じいさんが呼ぶ。子供は、こっちへくる。色が黒い。ハワイアンの子供、ロコ・ボーイだ。一〇歳ぐらいだろう。ダブダブの赤いTシャツ。少し出っ歯だ。
「ボーイ、野球の審判やってくれんかの」
「お金くれる?」
とロコ・ボーイ。出っ歯を突き出す。
「イェッ。一《ワン・》ドル《ダラー》をあげるけんの」
「二《ツー・》ドル《ダラー》」
とロコ・ボーイ。おれ達を見回す。
「イェッ。二《ツー・》ドル《ダラー》あげるけんの」
「いまくれよ」
ロコ・ボーイは、手を出す。
「がめついガキだなあ」
と浅P。鼻をぶうと鳴らした。
オキタじいさんは、ユニフォームの尻《しり》ポケットから札入《さつい》れを出す。へなっと薄い札入れだった。しわくちゃのドル札を二枚。
「待て待て」
おれは、その一枚だけとる。ロコ・ボーイに、
「あとの一ドルは、試合が終わってからだ」
ロコ・ボーイは、ぶすっとした顔。それでも、
「わかったよ」
と、ドル札をひったくる。
「準備はいいのか?」
オキタじいさんにきいた。
「待ちんしゃい。最後の一人が、いまくるけんの」
数えてみれば、じいさん達は八人だった。
八人目まで数えたとき、エンジンの音がした。ふり返る。小型トラックが走ってくる。ひどいポンコツのDATSUN。もとは、色があったんだろう。が、いまはただ錆色《さびいろ》のトラックだった。
トラックは、グラウンドのわきにとまる。
ユニフォームを着たじいさんが、運転席からおりてくる。
「あれが、昌吉のっ」
とオキタじいさん。
「ホノルルの息子に引きとられるっていう?」
「イェッ」
「息子に引きとられるって割に、元気そうだな」
近づいてくる昌吉じいさんを見て、浅Pがつぶやいた。
顔は、ほかのじいさん達と同じのしイカ色。眉《まゆ》が、やたら太く濃い。そこだけ、焼き海苔《のり》を貼《は》りつけたみたいだ。
「遅かったの、昌吉」
とオキタじいさん。昌吉じいさんは、
「イェッ。いろいろあっての」
海苔みたいなゲジ眉が、言葉に合わせてピクピクと動いた。
「九人揃ったけん、はじめるかの」
とオキタじいさん。九人は、ベンチの前に集まる。輪になる。
「盆踊りでも、はじめるのか」
おれは、つぶやいていた。じいさん達は、円陣を組む。オキタじいさんが、ひと声、かん高く叫んだ。英語だった、意味はききとれなかった。
「イェッ!」
じいさん達が、一斉《いつせい》に叫んだ。守備位置に散っていく。
ピッチャーはオキタじいさん。背番号は37だ。キャッチャーは丸眼鏡のゲンサクじいさん。背番号は7。一塁が、ゲジ眉の昌吉じいさん。
「なんか、きのうと違うと思わないか、ぼん」
浅Pが、じいさん達を見てつぶやいた。
ベイスボゥル巨人軍は、内野でボールを回していた。確かに、きのうとは印象が違う。ただ野球のユニフォームを着てるせいだろうか。
もちろん、その年齢《とし》だから動きはにぶい。が、きのうとはちがう。ビリヤードのキューを杖のようにしてたじいさん。グラス片手に居眠りしてたじいさんは、そこにいなかった。
背筋が、のびている。笑顔が見える。声が、グラウンドに響く。
「こりゃ、本気にならないとやばいかもな」
浅Pがつぶやいた。
「ま、遠慮なくやれていい。あんまり相手がヨボヨボじゃ、年寄りいじめしてるみたいで気分良くないものな」
おれは、空を見上げてつぶやいた。朝のうちに、ハワイ独特の|通り雨《シヤワー》が走り過ぎたんだろう。風は、少しだけ湿った芝生の匂いがした。
「とにかく、絶対に負けるわけにはいかないんだからな、ぼん」
「ああ。執行猶予中だしな」
一〇時一五分。
審判役のロコ・ボーイが、
「プレイボール!」
と叫んだ。二ドルの審判料にしては、大きな声だった。マウイ島の空。白い雲が、ゆっくりと切れていく。
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マウイ島のかくし玉
□
「戻ってこい!」
「早く!」
おれたちは、口ぐちに叫んでいた。
一回表のトップ・バッター麻子は、振り逃げして三塁にいた。こっちに向けて、まだVサインを出している。
キャッチャーのゲンサクじいさんも、まだ、ボールを持ってキョロキョロしてる。
「馬鹿《ばか》! 早く戻ってこい!」
「こいったらこい!」
おれ達のどなり声に驚いたのか。麻子は駆け出す。ホーム・ベースめがけて、走ってくる。
キャッチャーのゲンサクじいさんが、気づいた。さすがに驚いた表情。一塁に走ったはずのランナーが、三塁から突っ込んできたんだから、やはり驚くだろう。
ベースを一周してホームに突っ込んできたと思ったのか。よくわからないのか。とにかく、ゲンサクじいさんは麻子にタッチしようとする。
「きゃあ!」
かん高い声が響いた。麻子は体をよじりながら、
「何するのよっ。触らないでよっ」
じいさんは、麻子の体にタッチしようとする。麻子は、体をひるがえして逃げようとする。
「こら待て? 待ちんしゃい!」
「いやよ! やめてよ!」
じいさんは、麻子の肩あたりにタッチしようとした。その腕を、
「やめてっ」
麻子がはたいた。
「あ」
ゲンサクじいさんのグラヴから、ボールがこぼれた。芝生を転がっていく。
「いいぞ! 麻子! 走れ!」
「どこへ!?」
「一塁へ走れ!」
「どれが一塁よ」
「あっちだ!」
浅Pが指さす。麻子は、猛然とダッシュ。ジョギング・パンツの尻《しり》が、ぶるぶると揺《ゆ》れる。内股《うちまた》で、一塁に駆けていく。ゲンサクじいさんが、ボールに追いついた。つかむ。投げる。ワン・バウンドでボールは一塁へ。
間に合わなかった。一塁手の昌吉じいさんがボールをつかんだとき、麻子はもうベースを踏んでいた。
「いぇい!」
ロケ隊から、歓声が上がる。白いポップ・コーンが、青い空に投げ上げられる。
「ナイス・ランニング!」
「いいぞぉ、麻子!」
麻子は、一塁ベースの上。汚れてもいないパンツの尻をはたくと、
「わぉっ」
また、ハワイ式のVサインをしてみせた。
「あんなの、ありかの?」
とオキタじいさん。口を半開き。
□
二番バッターは、市カメだ。
打順に、理由はない。ただ、アミダくじで決めただけだ。
肥満体の市カメが、バットをひろう。どうやら、バットは一本しかないらしい。バッター・ボックスに入る。一回、二回と素振り。Tシャツを突き上げてる腹が、ぶるぶると震える。
「グラウンドより、土俵の方が似合ってますね」
とつぶやいたのはポチだ。となりで誰かがうなずく。皆、同じことを思っているらしい。
一球目。内角低目。市カメは振った。
ゴチッとさえない音。ぼてぼてのショート・ゴロ。ショートの真正面だ。
背番号9のじいさん。年齢《とし》だから、うまく体を沈められないんだろう。ぎこちなく、上体だけ前に倒した。
ふと、思い浮かべる。神田神保町《かんだじんぼうちよう》の朝。おれが朝帰りすると、いつも近所を掃除してる河豚鍋《ふぐなべ》屋のじいさん。上半身だけ前に倒して、ホウキとチリトリを使ってる姿だ。
案の定《じよう》、ショートのじいさんはボールをハンブル。前に、ポロリとこぼした。あわててひろい上げようとする。
「こっちのっ」
二塁手の背番号15が、二塁ベースに入っていた。
「走れ! 麻子!」
バスト八八が揺れる。勢いよく二塁に突っ込む。ショートが、ボールをひろい上げる。投げる。麻子より、一瞬早い。フォース・アウト。
打った市カメは、まだホームと一塁の真ん中辺。ヨタヨタと動いていた。動いていたとしか、いいようがない。走っていたというには、のろ過ぎた。
「走れ! ダブル・プレーになるぞ!」
市カメの腹が、たぷんたぷんと揺れる。足が、もつれている。
二塁手のじいさんが、一塁へ投げる。ショート・バウンド。昌吉じいさんは、前にこぼす。あわててひろう。あわてる必要はなかった。市カメは、一塁のかなり手前。もう、あきらめたようにのろのろと歩いていた。
ダブル・プレー。
「走れよ市カメ!」
思わず叫んでいた。
「豚! カバ! 撮影部の恥!」
と叫んだのは浅Pだ。
「そう、いうな、これでも、走って、るんだぜ」
市カメは、一塁線に坐《すわ》り込む。ぜいぜいと息を切らして、そういった。
□
ツー・アウト、ランナーなし。
三番バッターは、ケンちゃんだった。
「ホノルルまでかっとばせ!」
「ダイアモンド・ヘッドに放《ほう》り込め!」
いつもの、のんびりした調子で、
「まかしといてよ」
ケンちゃんは、バットを素振り。フォームは、まるでぎこちない。が、力がある。ぶうっ、ぶうっとバットが風を切る。
その勢いに、外野のじいさんたちは後退してかまえる。
ケンちゃんが、バッター・ボックスに。ピッチャーのオキタじいさんは、キャッチャーのサインを読む。
「無駄無駄《むだむだ》、早く投げろよ」
「うるさいのっ、ボーイ」
一球目。ベルトの高さ。コース真ん中。
「いけぇ!」
ケンちゃんが、ぶうっと振った。カーンと乾いた音、ライナー性の当たりを誰もが思い描《えが》いた。
ぼくっという意外な音。ボールは、ふらふらと上がる。小フライ。レフトだ。
「ノーッ」
とケンちゃん。バットを放り投げる。ボールは、ふらふらとレフトの前に。後退してかまえてたレフトが、ヨタヨタと前進。サードとショートも、あわてて後退。
ボールは、ふわふわと落ちてくる。三人の真ん中に、ぽとりと落ちた。
「走れ! ケンちゃん!」
ケンちゃんは、もう、ベンチに歩きかけていた。驚いてふり返る。ボールは、転がっている。ショートのじいさんは、芝に足をとられて、ひっくり返っている。
ケンちゃんは、走り出す。レフトのじいさんが、ボールをつかむ。投げる。ワン・バウンド。一塁の昌吉じいさんがつかんだ。
レフト・ゴロだった。
□
スリー・アウト・チェンジ。
オキタじいさんが、マウンドをおりてくる。
「ほれ、キタムラ・ボーイ」
グラヴをとる。おれに渡す。
うけ取った。くたびれたグラヴだった。が、大事に使われているのが、ひと目でわかった。
もう八年、CFディレクターをやっている。物を見つめる仕事だ。大事に使われている物は、瞬間的にわかる。
皮の匂《にお》い。オイルの匂い。その二つがブレンドされた空気が、鼻先をかすめる。
グラヴを左手にはめる。右の拳《て》で、ポンと叩《たた》いた。ふと、小学生の日が胸によみがえる。
ちょうど、東京オリンピックの頃《ころ》だった。東京中が、掘り起こされていた。神田あたりでも、古い家が、どんどん壊されていった。新しいビルやマンションが建ちはじめるまでの空き地は、つかの間のグラウンドになった。
張られた鉄条網《てつじようもう》をくぐる。ひっかけてセーターを破かないように、用心深く、鉄条網をくぐる。
狭いから、だいたい、三角ベースだった。いつも、ピッチャーだった。子供の頃から、わがままだったんだろう。
指先にひっかかるような軟球の感触。ゴムの匂い。デッド・ボールが、やたら多かった。
確か、小学校四年のときが東京オリンピックだった。バレーの、バスケの、陸上の、カラフルなユニフォームが、眼の前を駆け抜けた。草野球に集まる人数が、減っていった。中学生になると、近所で野球をやる仲間はもういなかった。よく草野球をやった空き地は、いま、九階建てのマンションになっている。
ポンポン。
グラヴを、右拳で叩いた。頭を振る。小学生の日を、胸から蹴《け》り出す。自分にいいきかせる。思い出にひたってる場合じゃないだろう。何がなんでも、じいさん達をやっつけるんだ。
「ポジションは、どうする?」
グラヴをはめながら、浅Pがいった。全員、集まる。おれは見回して、
「問題は麻子だな。グラヴ、はめたこともないんだろ?」
麻子がうなずく。
「外野はまずいよな。ポカやって抜けたら、長打になっちゃうもんな」
「キャッチャーも無理だよな」
「内野で。一番、楽なのは……セカンドか」
「それしかないだろう。よし、麻子、セカンド」
「で? ピッチャーは誰がやる?」
みんなで、互いの顔を見回す。
「おれ、やだ」
「おれも、しんどいもんな」
みんな、尻ごみする。空には、もう、ひとかけらの雲もない。陽射《ひざ》しがきつい。芝生に落ちるおれ達の影が濃い。気温も、ぐんぐん上がっていた。
全員、楽をしたがっていた。
「誰が投げたって同じだから、アミダにしよう」
ホーム・ベースのまわり。土の上にアミダを描く。
結局、おれがピッチャーを引いた。
「はい、カントク」
ポチが、ボールをおれのグラヴに。
「キャッチャーは、浅Pやってくれよな」
「どうして?」
「コンビだろう。それに、坐《すわ》ってりゃいいんだから楽だぜ」
「そうか。なら、やるよ」
みんな、勝手にポジションを選ぶ。
□
一塁手・市カメ。
二塁手・麻子。
ショート・カマ太郎。
三塁手・ポチ。
ライト・カメラ助手の林。
センター・同じく香川。
レフト・ケンちゃん。
□
全員、持ち場につく。おれは、ボールを握った。かなり使い込んだ硬球だった。
「ちょっと、テスト」
浅Pが、しゃがむ。グラヴをかまえる。パイナップル巨人軍には、ミットもないらしい。キャッチャーも一塁手も、普通のグラヴだ。
「それっ」
投げる。すっぽ抜けた。浅Pのはるか頭上を飛んでいく。ヤシの樹《き》に打ちつけたスコア・ボードに、ゴンと当たってはね返る。
「いいコントロールのっ、ボーイ」
オキタじいさんがひやかす。
「ふん、のしイカじじいが」
二球。三球。四球。少しずつ、まとまってくる。浅Pがとれる範囲に集まってくる。
「よし」
ロケ隊の連中を見回す。
「全員、スタンバイ、オーケーイ?」
撮影現場用語できく。
「はい! 本番いきまぁす!」
三塁手のポチが叫んだ。
□
一回裏。
パイナップル巨人軍のトップ・バッターは、ゲジ眉《まゆ》の昌吉じいさんだった。
大リーガー風に、ガムをくちゃくちゃ噛《か》んでる。素振り。一回。二回。三回。バットを振るたびに、ゲジ眉がピクリピクリと動く。
「あんまり素振りすると、くたびれてバットが持ち上がらなくなるぜ、じいさん」
「よけいなお世話のっ。カモン」
じいさんが、バッター・ボックスに入る。浅Pがグラヴをかまえる。もちろん、サインなどない。
「いくぞ、じいさん」
一球目を投げた。内角高目だった。というより、バッターの頭に飛んでいく。昌吉じいさんは、のけぞる。尻もち。ボールは、そのまま後ろへ。ネットがわりのヤシの樹にぶつかる。
「殺す気かの、ボーイ!」
「じゃ今度は、そのゲジゲジ眉を剃《そ》ってやる」
二球目。どうせ、相手は腰が引けてるだろう。少し外角を狙《ねら》う。投げる。まずい。ど真ん中だ。
昌吉じいさんが振った。コーンという音。上がった。一塁方向のファウル・フライだ。
じいさん達のベンチの方だ。高く上がった。とれる。が、浅Pは動かない。しゃがんだまま。ボールのゆくえをながめてる。
「馬鹿! とれ!」
叫びながら、走り出していた。ちらっと見る。一塁手の市カメも、まるで動いてない。しょうがない。駆け出す。
青い空から、ボールが落ちてくる。走る。走る。落下地点へ。ベンチに腰かけてたじいさん達が、逃げ出す。
走りながらグラヴを出す。指先にボールの感触。ダメだ。ポロリと落ちる。
芝に、足をとられた。のめる。転ぶ。額《ひたい》を、ガツッとぶつけた。一瞬、眼のシャッターがおりる。真っ暗になる。
□
意識がなかったのは、せいぜい一五秒。スポット・コマーシャル一本分だろう。その間に夢を見た。CFの撮影をしてる夢だ。
パイナップル畑の真ん中。モデルのシンディが立っている。両腕にかかえたパイナップル。そのまわりを、撮影スタッフが囲んでいる。浅P、ポチ、麻子。市カメが、アリフレックスのファインダーをのぞいている。
〈用意《レデイ》!〉
ストップウォッチを押しながら、おれは叫んだ。アリフレックスが、回りはじめる。ジャーッという軽快な回転音が、パイナップル畑に響く……。
「大丈夫かの?」
という声がきこえた。大丈夫か? 大丈夫さ。カメラは回ってるじゃないか。
「たいして強くは打ってないけの」
また、声が降ってきた。ゆっくりと、記憶が返ってくる。そうか。転んで、頭をぶつけたんだ。試合の途中じゃないか。そうだ。じいさんどもの巨人軍に勝たなきゃならないんだ。勝たなきゃ、カメラは回らない……。
眼のシャッターを開く。空の青さが眼に入る。視界のフレーム。その端に、ヤシの葉が揺れている。
「気がついたのっ」
視界に、顔がフレーム・インする。オキタじいさん.昌吉じいさん、のしイカ顔が二つ。
「生きてるぜ」
浅Pのオムスビ頭も、フレーム・イン。みんなで、見おろしている。
「大丈夫かの?」
「ああ」
ゆっくりと、上半身を起こす。頭が、軽くズキッと痛んだ。が、それだけだ。触ってみる。ヌルっとした感触。血らしい。
すぐそばに、木のベンチがある。転んだ拍子に、ぶつけたんだろう。右の眼尻《めじり》に、つっと血が流れた。
「おれが誰だかわかるか?」
と浅P。
「忘れたね」
苦笑しながら立ち上がる。目まいはしない。
「かすり傷さ」
「けど、消毒して薬を塗った方がいいの」
とオキタじいさん。
「うちへきんしゃい。すぐ近くだし」
「そうした方がいいですよ、カントク」
とポチ。浅Pもひとの肩に手を置いて、
「そうだよ、ぼん。頭がエイズに感染したら困るし」
「馬鹿」
浅Pの手を振り払う。麻子が、ティッシュペーパーを出していた。すばやい。さすがにスタイリストだ。そのティッシュで傷口を押さえた麻子は、
「私もつき合うわ。消毒しにいこう」
「頭の中も、ついでに消毒してくれば」
と微笑《わら》いながらいったのは市カメだ。オキタじいさんは見回しながら、
「しばらく、|休 憩《インターミツシヨン》、のっ」
□
「ほっといてくれって。病人じゃないんだから」
やたらひとの体を支えたがる麻子の手を、ふりほどく。
「ふん。短気が」
オキタじいさんの家へ向かっていた。おれ達の前を、ユニフォーム姿のじいさんが歩いている。アヒルみたいなひょこひょことした歩き方。尻ポケットからはみ出たタオルも、ひょこひょこと揺れている。
いかにも、ハワイの片田舎《かたいなか》の通りだった。木造の小さな店がつづいている。体を寄せ合って、陽射しの強さに耐《た》えている、そんな感じの商店達だ。|パン屋《ベーカリー》。食料雑貨屋《グローサリー》。その看板にも、日本人の名がつづく。〈O《オ》SA《サ》DA《ダ》〉〈SA《サ》TO《トウ》〉〈KI《キ》MU《ム》RA《ラ》〉。
かなり日系人の多い町らしい。〈O《オ》KA《カ》ZU《ズ》〉〈BEN《ベン》TO《トウ》〉……。現地語化している日本語も、店の窓ガラスごしに見える。
店が切れた。バニアンの樹がある角を、オキタじいさんは右へ曲がった。ついていく。
角から一〇〇メートルぐらい。
「ここじゃけんの」
と、オキタじいさんはいった。なるほど〈2605〉のハウス・ナンバーの下。〈OKITA〉白いプレートに黒で、そう描《か》いてある。
じいさんの風体《ふうてい》から、かなりみすぼらしい家を想像していた。が、そうでもない。アメリカン・スタイルの、小ぎれいな平屋だった。
白い板壁。緑色の屋根。二台入るガレージ。青いDATSUNが一台だけ、こっちに尻を向けておさまっている。
ガレージの屋根には、バスケット・ボールのゴールが打ちつけてある。おなじみの光景だった。
玄関のわきには、〈|虹 の 雨 の 木《レインボー・シヤワー・ツリー》。淡い黄とピンクの花が、風に揺れている。
「あら?」
麻子が小さな声を出した。指をさす。ガレージのわき。芝生に、松の木が一本植えてあった。
二メートルぐらいの松の木は、丸くきれいに刈り込まれていた。ハワイらしい家のまわりで、そこだけ日本庭園みたいだった。
松の木に、サーフ・ボードが立てかけてある。
「ユウゾウのやつ、またやりよって……」
とオキタじいさん。家の窓に向かって、
「松にサーフ・ボード立てかけちゃいかんて、いうてるっしょうが」
と大きな声を上げた。家の中からは、うんともすんとも返事がない。じいさんは、
「まったくもっ」
サーフ・ボードを、自分で動かす。ガレージの壁に立てかけた。玄関を入っていく。おれ達も、つづく。
リビングは、二〇畳ぐらい。シンプルなソファー・セット、電気スタンド。ありふれたアメリカ風リビングだった。
「そこに坐りんさい」
とオキタじいさん。おれと麻子は、ソファーに坐る。じいさんは、奥へ入る。すぐに薬箱を持ってくる。
「これが、マーキュロクローム。これが包帯の」
血は、ほとんど止まっていた。麻子が、マーキュロを塗ってくれる。少ししみる。包帯を巻こうとする。
「やめてくれよ。そんな大げさな」
「土ボコリがついてエイズになっても知らないから」
「わかったわかった」
麻子は額に包帯を巻いていく。スタイリストだから、さすがに手ぎわがいい。額の回りにクルクルと包帯を巻いていく。
「スタイリストなんかやめて、看護婦になれよ」
「憎らしいやつねっ」
後ろ頭を、ぺしっと叩かれた。手もちぶさたのオキタじいさんは、
「ウェル……麦茶でも飲むかの……」
口をもぐりと動かす。奥に入っていく。そっちが台所なんだろう。
話し声がきこえた。女の声だ。中年らしい。
「麦茶、知らんかの?」
というじいさんの声に、
「あれなら捨てましたよ」
女の声が、そっけなく答えた。
「おじいさん、また野球ですか」
女の声がつづく。声が、一段ときつい。
「イェッ。きょうは試合、のっ」
「野球なんかやめてくださいよ。子供みたいに、もう。年齢《とし》なんだし、みっともない。まわりで、なんていってると思います?」
じいさんは答えない。冷蔵庫を開け閉めする音がきこえる。
「商工会議所のエディ・田中さんにいわれましたよ。あの草野球は四四二部隊の恥だって」
娘か。孫か。嫁か。女の声は、まくしたてる。
「それに、きょうは式のある日でしょう、おじいさん」
「そうだったかの」
「そうだったじゃありませんよ。午後三時ですよ、三時。タダヒコなんて、朝からもう、大忙しですよ」
「イェッ。わかったの」
じいさんが、台所から出てくる。うんざりしたように、右手を振る。
おれ達は、玄関を出た。
「孫の嫁での」
とじいさん。きくより先に答えた。出てきた家をふり返って、肩をすくめる。
「一〇年前に日本からきよったがの、ベイスボゥルが嫌《きら》いらしくての」
じいさんは、少しだけ照れくさそうな顔をした。
「あ、いけん。忘れものじゃ」
じいさんは家に戻る。すぐに出てきた。何か袋を持っている。小麦粉とかメリケン粉の袋みたいだった。
「ライス、のっ」
おれ達が不思議そうな顔をしてたんだろう。じいさんは、そういった。
「米か……」
袋には〈國寶〉と印刷されている。
「これ、なんて読むの?」
と麻子。
「コクホーだろう。よく見ろよ」
英語で、ちゃんと〈KOKUHO RICE〉と印刷されている。
「国宝ライスか……。野球場で米を炊《た》くのか」
「ノッ。昌吉にやるの」
「昌吉って、ああ、ホノルルに引きとられる?」
「イェッ。ホノルル、うまいライスあるかどうかわからんでしょうが」
まず、よけいな心配だろうと思った。ホノルルなら、豆腐でも味噌《みそ》でも簡単に手に入る。日本レストランの飯は、日本と変わらない。
とにかく、じいさんは国宝ライスをかかえて歩いていく。
「四四二部隊とかいったけど?」
歩きながら、ぽつりときいた。
「そうかの?」
とじいさん。ひょこひょこと歩きながら、
「そんなこと、いってたかの? 近頃《ちかごろ》、耳が遠くなってしまったけんの……」
午前一一時だった。
陽《ひ》は高く昇《のぼ》っている。歩いている自分達の影が、小さく、濃い。ヤシの葉影も、くっきりと道路に落ちている。
バニアンの樹まで戻ってきた。
日系人の少年が、二、三人で何かやっていた。四つ角に、横断幕を渡している。横断幕には日本語で、
〈祝! 官約移民百年〉少し小さな字で〈四四二部隊の栄光よ永遠なれ〉と描《か》いてあった。
それぞれの下に、英語がふってある。
舞台のようなものを作ってる若者もいる。
「式とかいってたけど、何かあるわけ?」
ときいてみた。
「移民百年の祭りのっ」
とじいさん。つまらなそうにいった。横断幕をちらりと見上げると、
「さ、エブリバディ待ってるけんの」
グラウンドの方へ歩きはじめた。
□
試合再開だ。
一回裏。パイナップル巨人軍の攻撃。バッターは一番の昌吉じいさん。カウント1―1からだ。
三球目。ど真ん中を狙《ねら》う。どうせ、狙いどおりコントロールできるわけない。どっちかへ外れて、ちょうどいいだろう。
投げた。外角低目。昌吉じいさんは手を出した。コンという音。セカンド・ゴロだ。やばい。セカンドは麻子だ。
案の定、
「キャッ」
とかん高い声。転がってきたボールから麻子は逃げる。ボールは右中間に。ライトの林が、なんとかおさえた。
打った昌吉じいさんは一塁へ。
「あのなあ、逃げることないだろ」
麻子にいった。
「だってぇ、ボールがこないっていうからぁ……」
「たまにはいくの! グラヴじゃなくてバストでとれよ」
二番打者は、背番号10のじいさんだった。口をもぐりとやってバットをかまえる。
「ホームランのっ、ボーイ」
「黙れ、のしイカ。打ってみろ」
投げた。内角低目。じいさんがバットを振った。ゴツとにぶい音。キャッチャー前に転がる。じいさんは、バットを放り出して走り出す。
浅Pが、あわててボールに駆け寄る。一回、ハンブル。つかむ。誰かが、
「二塁!」
と叫んだ。浅Pは投げた。とたん、
「あかん!」
と叫んでいた。二塁ベースには、カマ太郎が入っていた。ボールは、その一、二メートル頭上を人工衛星みたいにすっ飛んでいく。センターの香川まで、ツー・バウンドで届いた。浅Pは、
「かんにん、かんにん」
ノー・アウト、一、二塁だ。
三番打者は、キャッチャーのゲンサクじいさん。2―1からの四球目を振った。三塁ゴロだ。ゆるい当たりだ。が、ゴムゾウリのポチはつまずく。あっけなくボールを逃がす。ボールは、レフトのケンちゃんがおさえる。
ノー・アウト満塁。
「いいか! つぎは必ずバック・ホームだぞ!」
四番打者は、ショートの背番号9だ。0―2からの三球目、
「くらえ!」
投げた。真ん中高目。じいさんのバットが回る。フライ。レフトだ。
「オーケィ」
ケンちゃんが前進してくる。前進。前進。ふいに、後退しはじめた。あわてて後退。後退。グラヴを出す。指先にもかすらず、ボールはワン・バウンド、ツー・バウンド。ブーゲンビリアの茂みに向かって転がっていく。
□
「やれやれ」
グラヴを芝生に投げた。一回裏のじいさん達の攻撃が、やっと終わったところだ。
スコア・ボードの前。オキタじいさんが、嬉《うれ》しそうな顔で白墨《はくぼく》を動かしている。
〈マヒマヒ・タイガース 0〉
〈パイナップル巨人軍 15〉
「15点か、コールド・ゲームにしてもいいけどものっ」
とオキタじいさん。浅Pが顔を紅潮させて、
「冗談じゃない。ここはマウイ島だろ。コールドなんてなしだ」
わけのわからないことをいった。とにかく、じいさん達は守備位置に散っていく。
15点の全部がエラーとフォア・ボールだった。じいさん達のヒットは一本もない。
おれ達は、芝生にしゃがみ込む。
「もうやめようぜ」
市カメが、うんざりといった。
「黙れ市カメ」
と浅P。
「いまやめるってことは、試合に負けるってことだ。そうすると、どうなる?」
おれが、引きつぐ。
「パイナップル畑は借りられない。撮影はできない。みんな日本に帰れない。ぶち殺されるからな。男は観光ガイドかマリファナ売り。麻子はホノルルのストリップ小屋」
「その方が楽かもな」
「うるさい。とにかく、絶対に勝つんだ」
「どうやって? じいさん達、けっこうやるぜ。いちおう、バットにボールが当たるものな」
「いや、なんとかするんだ。どんな手を使ってもな」
と浅P。宙をにらむ。
「そうだ、こうしよう。ヒット一本二〇〇円」
「二〇〇円?」
「そうだ。ヒットじゃなくてもいい。塁に出たら二〇〇円、ギャラを出す」
「に……二〇〇円? たったの二〇〇円?」
と市カメ。浅Pは、
「ちと安いか。……ほなら、二五〇円。二五〇円、ちょうど一ドルや。どない?」
関西弁をくり出す。みんなを見回す。
「あのなあ、浅P、子供の使いじゃあるまいし。桁《けた》が違うんだよ」
「う……じゃ……一〇〇〇円」
「問題外」
「……二〇〇〇円!」
「安い」
「……三〇〇〇円!」
「まだまだ」
「……四〇〇〇円!」
「もうひと声!」
「ええい! 五〇〇〇円! 持ってけ泥棒《どろぼう》!」
浅Pは、やけっぱちぎみに叫んだ。声が、ひっくり返る。完全な裏声だった。
□
二回表。15点を追いかける、おれ達マヒマヒ・タイガースの攻撃。
トップ・バッターは、カマ太郎だった。内股でバットをかまえる。
カウント2―2からの五球目。とんでもなく低いボールだ。ベースのあたりで、ワン・バウンドする。
カマ太郎は、バットをでたらめに振る。すぐにバットを放り出す。駆け出す。キャッチャーは当然パス・ボール。ボールは、後ろに転がっている。
カマ太郎は、内股で一塁へ駆けていく。
「うーむ、わざと振り逃げか……その手があったなあ」
浅Pが、腕組みしてつぶやいた。市カメも、
「どうせヒットなんか打てないんだから、悪くない手だなあ」
カマ太郎は、一塁ベースに立つ。右手の指を広げて見せた。〈五〇〇〇円!〉といってるらしい。
その緑色に染めた前髪と、片方の耳にだけ刺した金のピアスを、一塁手の昌吉じいさんが不思議そうにながめている。
□
二番手はポチだった。
カウント2―2。内角高目のボールがきた。ポチは左腕をさっと前に出す。
ボールが、Tシャツの左|袖《そで》をかすった。
南洋なれしてるロケ隊は、たいていぶかぶかのルーズなTシャツを着てる。風通しがいいからだ。
そのブカブカの袖を、ボールがかすった。
「デッド・ボール!」
ポチは叫ぶ。Tシャツの袖を指さしてアピール。審判役のロコ・ボーイもうなずく。ポチは、バットを捨てて一塁へ。一塁ベースの上で〈五〇〇〇円!〉と片手を広げてみせた。
ピッチャーのオキタじいさんは、口を半開きだ。浅Pは、ベンチで腕組みしたまま、
「うーむ、あんな手もあったか」
とつぶやいた。
□
三番手はカメラ助手の林だった。やはり、ダブダブのTシャツを着ている。
2―3のフル・カウントになった。ボールになったのは、全部外角だ。林も、チャンスがあればTシャツのデッド・ボールを狙っている。ピッチャーとしては、内角には投げられない。
オキタじいさんは深呼吸。林は、ベースにかぶさるようにバットをかまえる。
じいさんは投げた。とんでもなく外角。しかも低い。キャッチャーのゲンサクじいさんが飛びつく。とどかない。パス・ボール。
林はもう、デタラメにバットを振っていた。振り逃げ。一塁へダッシュ。
ゲンサクじいさんが、やっとパス・ボールをひろう。
ノー・アウト満塁だ。
□
バッターは浅Pだった。
バットをひろい上げる。一、二回素振り。バッター・ボックスに入る。三塁走者のカマ太郎に、
「全力でホームに走れよ! 手抜いたら、五〇〇〇円帳消しにするぞ!」
「わかったわよぉ!」
とカマ太郎。おカマの割には太い声でいった。
「さあ、いくぞ」
と浅P。バントのかまえだ。
「スクイズかの……」
とオキタじいさん。一球目を投げた。
外角低目だった。まぐれだろう。コンッとバットに当たる。ホーム・ベースの前にボールは転がる。だが短い。
キャッチャーのゲンサクじいさんが飛び出す。浅Pは一塁へ。二人の体がすれ違う。その瞬間、浅Pは後ろ足で、ゲンサクじいさんの足をちょんと引っかけた。
じいさんは、前に転ぶ。また、丸い眼鏡《めがね》が芝生に転がる。
ピッチャーのオキタじいさんが、あわてて駆けてくる。ボールをひろう。が、遅かった。カマ太郎が、両手を上げてホーム・ベースを踏んでいた。
「いぇい!」
ロケ隊から歓声が上がる。ポップコーンが、青空に投げ上げられる。
「ありゃ、守備妨害のっ」
とオキタじいさん。一塁ベースの浅Pにつめ寄る。
「ノーノー、ただのクロス・プレーよ」
と浅P。両腕を広げて首を横に振る。まるで、レフリーに反則を見つけられたプロレスの悪役だ。
引っかき回し作戦は、まずまずの成功だった。
その回、マヒマヒ・タイガースは3点を入れた。15対3。ヒットは一本もない。全部、振り逃げ、デッド・ボール、押し出しだ。
□
「嘘《うそ》でしょう!?」
麻子が大きな声を出した。二回裏。守備につく前に、おれ達は作戦会議。そこで、
「エラー一回につき五〇〇〇円、ギャラから引く」
と浅Pがいったのだ。スタッフの抗議にもとり合わない。涼しい顔で、
「ギャラがなくならないように、がんばろうぜ!」
この回のトップ・バッターは、ゲジ眉の昌吉じいさんだ。二回裏なのに、もう、三回目の打席だった。
二球目を打った。当たりは弱いゴロ。セカンドだった。
麻子が、へっぴり腰でグラヴを出す。ボールを前にこぼす。
「きゃっ、五〇〇〇円!」
と麻子。こぼしたボールをつかむ。一塁へ投げない。投げたら暴投すると思ったんだろう。ボールをつかんだまま、必死で駆けていく。
「どいてよ!」
一塁手の市カメを突き飛ばす。ランナーより一瞬早くベースを踏んだ。
「いいぞ麻子!」
の声がロケ隊から上がる。五〇〇〇円の効果はあったらしい。
二番バッターは背番号10のじいさん。
ショート・ゴロだった。カマ太郎はトンネル。
「いやっ、もう」
と足をジタバタする。キャッチャーの浅Pは、両手をバッテンに。次に片手の指を広げて見せた。〈五〇〇〇円引くぞ〉といったらしい。
一塁手の市カメが、こっちにやってきた。ピッチャーのおれと肩を組むようにして、
「ボール、貸してくれ」
と小さな声でいった。
「どうするんだ」
「かくし玉さ」
「かくし玉?」
「ああ。じいさんがベースから離れたらアウトにしてやる」
一塁走者のじいさんを、ちらっと見た。じいさんは、のんびりした顔。口をもぐもぐやりながら、空をながめている。
「オーケーイ」
じいさんからも、相手のベンチからも見られないように、そっとボールを市カメに渡す。
「じゃ、そういうことで」
と市カメ。わざと大きな声でいう。一塁ベースに戻っていく。
「牽制《けんせい》、いつでもよろしく!」
わざとらしく、グラヴをかまえるふり。そのグラヴには、ボールが入っている。
つぎのバッターは、眼鏡のゲンサクじいさんだった。
ちらちらと一塁を見る。走者のじいさんは、まだベースの上に立って口をもぐもぐやってる。
ゲンサクじいさんが、バッター・ボックスに入った。おれは、いかにもボールを持ってるようなふり。
離れろ離れろ、と一塁のじいさんを見た。が、じいさんはベースから離れない。やがて、そばの市カメに、
「ボール、ピッチャーに返さないと、ゲームはじまらないでしょうが」
ぽそっといった。
「ちっくしょう! 見破られてたか」
と市カメ。
「性格の悪いじじいだなあ」
自分のことは棚《たな》に上げてじいさんをにらんだ。
□
つぎのゲンサクじいさんには、ヒットを打たれた。
レフトのケンちゃんが、そのボールを後ろへこぼす。一塁走者のじいさんは三塁へ。打ったゲンサクじいさんは二塁へ。ランナー、二、三塁。
つぎは、背番号9の、ひょろりとしたじいさんだ。
「カントク! 牽制球、よろしく」
と三塁手のポチがいった。そっちを見る。三塁走者のじいさんは、一メートルぐらいリードをとってる。ゴロでもホームに突っ込むつもりだろう。
ポチの足が、ちょこまか動いてる。三塁ベースを、少しずつ動かしている。走者のじいさんも、パイナップル巨人軍のベンチも気づかない。
五センチ。また五センチ。そんな感じで、ポチはベースを動かす。もう、五〇センチはショート方向に動いた。グラヴをかまえる。
おれはバッターを見るふり。三塁走者のじいさんが、また一歩、リードをとった。
さっと体の向きを変える。三塁のポチに、牽制球。じいさんは、あわてて塁に戻る。滑り込んだ。が、そこにはベースがない。
じいさんの足に、ポチがタッチ。
「アウト!」
とタッチしたグラヴを上げて見せた。じいさんは眼を丸くして、
「ベースが、動いとるの」
とポチにいう。ポチは涼しい顔で、
「ベースが自分で歩くわけないでしょ。滑り込んだときに蹴《け》とばしたの。ほら、アウト。帰って帰って」
結局、その回の攻撃は無得点におさえた。
□
クルマが一台近づいてきた。
シルバー・グレイの乗用車。TOYOTAだった。このあたりを走ってるクルマにしては、まともだった。ドアもへこんでいない。窓ガラスも、ちゃんとはまっている。
三回表。マヒマヒ・タイガースの攻撃がはじまるところだった。
クルマは、グラウンドのわきにとまる。男が一人おりてきた。
三〇代だろう。日系人らしかった。背が高い。胸板が厚い。細い口ヒゲをはやしていた。
身なりもいい。白いシャツ。ニットのタイ。黒い皮靴《かわぐつ》も、このあたりじゃ、なかなかお目にかからないものだった。
男は、こっちに近づいてくる。一塁線の外から、
「おじいさん!」
と、マウンドのオキタじいさんに英語で声をかけた。
「おお、タダヒコかの」
腰のタオルでボールを拭《ふ》きながら、オキタじいさんは日本語で答えた。
麻子とおれは、顔を見合わせる。タダヒコの名前に、きき覚えがあった。
オキタじいさんの家にいったときだ。台所からきこえた、孫の嫁という女の声。〈タダヒコなんか、朝から大忙しですよ〉。これがそのタダヒコ、じいさんの孫なんだろう。
「何してるんですか、おじいさん」
タダヒコが、英語でいう。
「何って、ベイスボゥルに決まってるっしょうが」
じいさんが、日本語で答える。
「きょうは、式典《セレモニー》があるんですよ、おじいさん」
「そうじゃったかの」
「式は午後ですよ。野球なんかやめて、早く帰ってきて下さいよ。したくもあるんだから」
「そうかの」
とオキタじいさん。涼しい顔でうけ流す。
「野球なんて、いつでもできるでしょう。この大事な日に、わざわざやらなくても」
「そうもいかんの」
とじいさん。とり合わない。
「まいったなぁ」
とタダヒコ。スコア・ボードをふり返る。二回までしか得点が書いてないのを見る。
「日本の方ですね?」
と、日本語でおれ達にいった。イントネーションが、いかにも習った日本語だった。
ポテトチップスやポップコーンをつまみながら、おれ達はうなずく。
「私は、あのオキタ・コーゾーの孫です。こういうものです」
名刺をさし出した。見る。日本語で、
〈忠彦グレン 沖田〉その下に、イタリック体の英語がふってある。肩書きは、〈沖田物産社長〉とある。
「小さい会社ですが、パイナップルやサトウキビを扱っています」
名刺を裏返す。
〈官約移民百年記念祭・実行委員会副会長〉
「へえ」
ベンチに坐ってるおれの前に忠彦は立つと、
「移民百年のことは知ってますでしょう?」
うなずいてみせる。
「その記念行事が沢山《たくさん》あります。特にきょうは、私のおじいさんたちが主役なんです」
さすがに、〈祖父〉という言葉は習ってないんだろう。
「主役っていうと?」
「知っているかもしれませんが、第二次大戦のとき、四四二部隊というのがありました」
「さっき、ちらっと耳にしたけど」
「日本からきた移民の人達でできた部隊です。アメリカ軍として、ヨーロッパで戦いました」
「…………」
「四四二部隊は、みな、とても勇敢でした。いまでも、ハワイの日系人の、なんというか、心のシンボルです」
「ふうん」
「私のおじいさんをはじめ、この人達は」
忠彦は、グラウンドをふり返って、
「当時の、四四二部隊の中でも、特に勇敢だった人達なんです」
「へえ」
そうつぶやいていた。ツギだらけのユニフォームを着てグラウンドに立ってるじいさん達をながめた。
「何かの間違いじゃないのか」
と思わずいってしまった。
「間違いなんかじゃありませんよ」
忠彦は、真っ白い歯を見せると、
「私も、おじいさんが四四二の勇敢な兵士だったことに、とても誇りを持っています。だから、一生懸命、セレモニーの準備しました」
「セレモニー?」
「ええ。この機会に、四四二部隊の人達の栄誉を、あらためてたたえるセレモニーです」
〈栄誉〉〈たたえる〉そんな難しい日本語が、すらすらと出てくる。かなり練習したんだろう。
「セレモニーは、午後三時からです。ラハイナの市長もきます。日系人も、沢山集まります。みんな、おじいさん達の栄誉をたたえようとしているのに……」
忠彦は、グラウンドをふり向く。
「なんとか、野球をやめてもらえること、できないでしょうか」
「まあ、おれ達も、やりたくてやってるわけじゃないんだけどね。生活がかかってるもんで、やめるわけにもなあ」
おれは、マウンドのオキタじいさんに、
「なあ、じいさん。式に出て欲しいそうだよ。ここで、そっちは棄権《きけん》ということにして、おれ達の勝ちということで、丸くおさめないか」
「ノッ」
「だって、せっかく、じいさん達のために、人が集まるっていうじゃないか」
「ノッ。棄権なんてしない、のっ」
じいさんは、首を横に振った。
「困ったな……」
と忠彦。太い腕を組む。
「三時までには終わると思うけど」
腕時計をのぞいて、市カメがいった。いま、一一時四〇分だった。
「わかりました。また、午後になったらきます。できるだけスピーディーにやってください」
と忠彦。浅Pが、
「まあ、努力してみるけどね」
忠彦は、おれ達に白い歯を見せる。トウモロコシみたいに揃《そろ》った歯だった。オキタじいさんに、
「じゃ、三時ですよ、おじいさん!」
オキタじいさんは、孫に軽く手を上げた。わかったとも、ほっといてくれともとれるしぐさだった。忠彦は、大股《おおまた》でクルマに戻っていく。じいさんは、
「さ、試合再開のっ」
腰のタオルで、ボールをキュッキュと拭いた。
□
「四四二部隊のことは、よく、お父さんやお母さんからきかされてたよ」
とケンちゃん。のんびりと話しはじめる。
「どうして、日系人の部隊ができたわけ?」
と麻子がきいた。ケンちゃんは、Tシャツを脱《ぬ》ぐ。逞しい肩に陽射しを浴びながら、
「日系移民の人達ってのは、それはもう大変な苦労だったわけね。労働はきつい。給料は安い。で、ほら、日本とは気候も何もかも違うしでね。それでも、一九四一年の一二月までは、まだよかったらしい」
「一九四一年一二月っていうと?」
「|真 珠 湾 攻 撃《パール・ハーバー・アタツク》」
「ああそうか……故郷の日本とアメリカが戦争はじめたわけか……」
「しかも、すぐ近くの真珠湾に奇襲でしょう。それで死んだアメリカ人やハワイアンもずいぶんいたし。日本人は危ない。何をするかわからない。そんなふうに、日系移民の人達も見られたらしいよ」
「で? 収容所か何かにぶち込まれたわけ?」
「一部の人達はね。でも、ごく一部ね。だって、ハワイにとって日系人は重要な労働力だったわけだから」
「全部ぶち込むわけにはいかなかったわけだ」
ケンちゃんは、うなずいた。
「でも、彼ら日系人は、アメリカへの、そのなんていうか……右手を上げて星条旗に誓うような……」
ケンちゃんは、言葉を捜している。
「忠誠?」
「そうそう。アメリカへの忠誠を見せるために、軍隊に志願したわけ」
「日本人のアメリカ軍か……」
「そう。二世の人がほとんどだったらしいけど、このオキタさんみたいにな」
ケンちゃんはグラウンドに目を向けると、
「一世の人達もいたらしいね」
「戦争が終わったのが四〇年前だから……このじいさん達は三〇代の頃か……」
「ハワイっていう新しい土地で、自分達の場所を獲得するために、必死だったんだろうね」
ケンちゃんの日本語も、難しい内容になると、英文を訳したような調子になる。
「で、日本軍と戦ったわけ?」
「いや。日系人の部隊はヨーロッパで戦ったって話。アメリカ軍の中でも特に勇敢で、一番沢山、勲章をもらったらしいよ」
「へえ」
麻子が眼《め》を丸くする。
「確か、一九四五年か四六年に、トルーマン大統領がこういって日系人部隊に勲章を与えたんだって。〈敵軍との戦いに勝っただけではなく、偏見《へんけん》との戦いに勝った〉って」
「ふうん」
おれは、グラウンドに散ってるパイナップル巨人軍のじいさん達をながめた。
「そんな大したことをやったじいさん達には見えないがなぁ……」
「誰だって、年齢《とし》はとるのよ」
麻子が珍しく、しんみりとつぶやいた。カマ太郎が、ファースト・ゴロを打った。一塁手の昌吉じいさんは、ぽろっとハンブル。あわててひろう。その昌吉じいさんを見ていた麻子が、
「あげくの果ては、仲間と離れて子供に引きとられていくなんて、かわいそう」
と、センチメンタルにつぶやいた。それをきいていた浅Pが、
「あのなあ、そりゃ四四二部隊もかわいそうかもしれないが、ロケ隊もかわいそうなんだよなあ」
と、スタッフを見回す。
「もし、この試合に負けたら、おれ達に明日はないんだぞ。撮影のできないロケ隊なんて、ただのボート・ピープルなんだから。そのあたり、よく考えてくれよな」
ふうっと、大きくため息をついた。
「わかりやした。撮影のためにも、五〇〇〇円のためにも、かっとばしてきやす」
とポチ。バットを素振りしながら、バッター・ボックスに入る。
□
五〇〇〇円の効果か。少しは、ボールに眼が慣れてきたのか。マヒマヒ・タイガースのバットから、たまにはコーンと乾いた音が響くようになった。
振り逃げ作戦、Tシャツのデッド・ボール作戦も、あい変わらずつづける。
この三回表は、2点入れた。
裏の攻撃は、0点におさえた。
四回、五回も、同じ調子がつづく。
「なんとかなるかもしれないな」
スコア・ボードを見ながら、浅Pがつぶやいた。
五回裏を終わって、16対10。
「後半になるほど、じいさん達、くたびれてくるだろうし」
「6点差か……もう一つぐらい何かいい作戦を思いつけば、ひっくり返せるかもしれないな」
浅Pとおれが相談してると、オキタじいさんがやってきた。
「ボーイズ、ランチにしないかの?」
[#改ページ]
ストライク一個25セント
□
「昼飯か」
腕時計を見る。一二時半だった。腹はしっかり減っていた。
「じいさん達は? あの国宝ライスでも炊《た》くのか?」
「ノッ。弁当、持ってきてるけんの」
と、オキタじいさん。パイナップル巨人軍の方をふり返る。ゲンサクじいさん達が、アイス・ボックスらしい物をとり出しているところだ。
「そうか、弁当か。じゃ、おれ達も何か食ってくるか」
□
「さあて、何にするかな」
と浅P。通りを、ぐるりと見回した。ロケ隊全員、ぞろぞろとさっきの町に出てきたところだ。
短い通りだった。が、何軒か食堂らしいのはある。
〈BAN《バン》ZAI《ザイ》〉は日本食レストラン。
〈|練 氏《LINS》 |廣 東《CANTON》 |菜 館《FOODS》〉は中華レストラン。
〈MAUI《マウイ》 DELI《デリ》〉はハワイアン食堂。
「さて……」
と浅P。三軒をながめる。うまそうな店を捜してるわけじゃない。安そうな店を捜しているらしい。
「あそこがいいんじゃないですか」
ポチが〈BANZAI〉を指さした。日本食レストランは、まずまずの雰囲気だった。
「いや、ここまできて何も日本料理を食うことはないよ」
と浅P。首を横に振る。
「じゃ、リンさんの広東菜館にするか?」
と市カメ。
「いや、マウイ島の中華なんかうまくないって」
と浅P。とび抜けて汚い〈MAUI《マウイ》 DELI《デリ》〉を指さして、
「せっかくハワイにいるんだから、地元料理を食わなくちゃ」
いまにも倒れそうな食堂のドアに、スタスタと歩いていく。
□
案の定《じよう》、ひどい店だった。
ハワイアン・フードの店が全部まずいわけじゃない。が、ここはどう見ても外れだ。
むっと暑い。天井じゃ扇風機《フライ・フアン》が、だるそうに回っている。逆に元気そうなハエが二、三匹飛び回っている。
板張りのテーブルに坐《すわ》った。サモア系の太ったおばさんが、ビニール製のメニューをテーブルに放《ほう》り出す。それをちらっと見た浅Pは、
「上から二〇センチ」
と迷わずにいった。
〈上から何センチ〉というのは、海外ロケでよく使うオーダーのやり方で、特に、オードブルを頼むときに使う。横書きメニューの上から一〇センチとか二〇センチを、全部オーダーする。出てきたものを、わいわいと突《つつ》つき合ってビールを飲む。
「何くってもうまそうやないか。上から二〇センチでええな?」
浅Pの関西弁が出た。カタコト英語とジェスチャーで、おばさんにオーダーする。あきれ返って、誰も抗議しない。午前中の暑さと疲れで、抗議する元気もない雰囲気だった。
メニューを見てみる。一番高い〈フライド・フィッシュ〉が七五セント。二〇〇円足らず。
「これなら、店ごと買い占めてもいいんじゃないか」
浅Pに、そんな皮肉を投げつけるのが精一杯だ。壁にもたれて、ぬるい水を飲む。
皿は、すぐに出てきた。紙皿が一〇皿ぐらい。どれも、揚げ物だった。大まかな形で、中味に当たりをつける。
「こいつは、豚かなぁ」
市カメが、手を出す。おれも、魚らしいやつをつまむ。ひと口かじったとたん、うっと声を出した。
「マヒマヒだぜ、やっぱし」
中味より、すごいのが衣《ころも》だった。ひどく油|臭《くさ》い。それも、ポマードか何かみたいな臭《にお》いがする。しょうがない。かじったひと口は、水で流し込む。
同じ皿に手を出したポチも、情けなさそうな声で、
「やっぱり、マウイ島なんかくるんじゃなかったですねぇ」
とつぶやきながら、マヒマヒのフライを飲み込む。
「ちょっと変わった味やけど、悪くないやん」
あい変わらず、浅Pはデタラメ関西弁でいう。ぱくぱくと油臭いフライを口に入れる。その頭の上で、ハエが旋回《せんかい》している。
「おれは、パス」
紙ナプキンを、テーブルに放る。立ち上がる。
「食わないのか? ぼん」
「これなら、電柱でもかじってた方がましだよ」
店を出る。麻子もついてくる。
「すごかったわねぇ」
「ああ。寿司《すし》屋のせがれだからっていうわけじゃないが、ありゃひどすぎる」
「あら、タダシ君の家って、寿司屋だったの」
麻子は、おれの名前、北村正のタダシを呼ぶのが習慣になっていた。しかも、タダシ君と呼ぶ。二九にもなってタダシ君はないと思う。が、まあ放っておく。
「そうだよ。三代つづいた寿司屋さ」
「へえ、うちはうなぎ屋よ」
麻子は、日本橋にある店の名前をいった。有名な店だった。
「そうか、うなぎを食って育った八八センチのバストか」
麻子とは、もう一〇回近く海外ロケにきている。が、プライベートな話をするのは、はじめてだった。
足音。バタバタした子供の足音が、背中からきこえた。ハワイアンの子供が四、五人、おれ達を追い越していく。
通りの向こうが、にぎやかだった。風船を配ってる日系人のおばさんがいる。パレードでもやるんだろうか。馬の首にレイを飾ってる若い男がいる。
午前中、オキタじいさんの家へ寄ったときに見た舞台も、飾りつけられているところだった。プルメリアの花。カーネーションの花。〈四四二部隊の栄誉をたたえて〉の言葉が一文字ずつ描《か》かれたピンクのちょうちんが、風に揺《ゆ》れている。
「あのおじいさんのことなんだけどさ」
並んで歩きながら、麻子がぽつりといった。
「あのじいさんて?」
「ほら、昌吉じいさんていったっけ」
「ああ。ゲジゲジ眉《まゆ》の、ホノルルの息子《むすこ》に引きとられるってじいさんか」
「そう。なんか、気の毒だと思わない? 昔は、日系人全体のために戦争にいって、そのあげくが……」
「へえ、麻子でも、そんなこと考えるときがあるんだ」
「あ、何よ。ただバストが大きいだけの馬鹿《ばか》女と思ってたんでしょう」
「そこまでは思ってないけど……」
思わず苦笑いしながら、
「そりゃ、あのじいさん、気の毒だとは思うけど、同情はどうもなあ……」
「いけない?」
「なんていうのか、何もしてやれないのに同情するだけってのは、好きじゃない」
「何もしてやれない?」
「そうじゃないか。おれ達は、どっちみち通りがかりさ。力になれるとしても、タイアのパンク修理を手伝うぐらいがせいぜいだろう」
「そりゃ……」
「麻子が、あのじいさんのワイフがわりになるっていうなら別だけど」
「そうか……」
「かわいそうかわいそうって、口先だけでいってるのが、一番ダメなんじゃないか」
〈口に出せば出すほど、嘘《うそ》になっていくものだってあるんだ〉その台詞《せりふ》は、飲み込んだ。
突っ込んだ話をするには、陽射《ひざ》しは強過ぎた。風は、乾き過ぎていた。
「あ、帰ってきちゃった」
と麻子。話してるうちに、町はずれの野球場まで戻ってきていた。
□
「酒盛りやってるよ」
おれは、つぶやいた。三塁側の芝生に、パイナップル巨人軍のじいさん達が坐《すわ》っていた。アイス・ボックスを真ん中に、車座《くるまざ》になってる。
「ボーイ」
オキタじいさんが、こっちに声をかけた。
「こっちへきんしゃい。スシ、食わんかのっ」
「わあ、お寿司だって」
麻子がいきかける。その腕をつかむと、
「待て待て、こんなところで借りをつくっちゃ、後あとまずい」
「そんなこといってる場合じゃないでしょ。ほら、冷たいビールもあるわよ」
じいさん達の手に、バドワイザー・ライトの缶が光っている。冷たそうに汗をかいたアルミ缶だ。
「……わかったよ」
二人して、じいさん達の方へ歩いていく。
「ビール飲むかの? ボーイ」
「ごちそうしてもらったからって、野球じゃ手加減しないよ」
「オフコース、オフコース」
とオキタじいさん。アイス・ボックスからバド・ライトを二缶出す。ポンと投げる。
ビールは冷えていた。しゃべりながら、陽射しの下を歩いてきた。ノドは、ヒリヒリと乾いていた。ビールを流し込む。ノドでジュッという音がした。そう思った。
ひと息で、一二オンス缶を半分ぐらい飲む。
「スシ、食わんかの?」
とゲンサクじいさん。じいさん達はみんな、何かもぐもぐと食っている。
「コーン・スシとロール・スシがあるけんの」
とオキタじいさん。ラップにくるんだものをさし出す。麻子が不思議そうな顔で、
「コーン、スシって?」
「コーン・スシが、いなり寿司。ロール・スシってのが、関西風の太巻きさ」
ラップを開けてみる。いなり寿司と、太巻きが並んでいた。
おれ達は、オキタじいさんと昌吉じいさんの間に坐った。陽射しは強かった。が、グラウンドわきのヤシの樹《き》が、おれ達の上に大きな葉影を落としていた。
「この寿司は、あの国宝ライスかい?」
おれはきいた。オキタじいさんは、
「オフコース」
のしイカ色の眼尻《めじり》に、微笑《わら》いじわが寄る。
「国宝ライス、ナンバー|1《ワン》、のっ」
ロール・スシを食ってみる。少しゴマの入れ過ぎだったが、悪くなかった。玉子も、カンピョウらしいものも入ってる。さっきの〈MAUI《マウイ》 DELI《デリ》〉のマヒマヒ・フライが、ただの悪夢に思えてくる。
「おいしい。これ、誰がつくったの?」
麻子が、オキタじいさんにきいた。
「わしと、ゲンサクでつくったの。朝のファイヴに起きての」
「ファイヴ……朝五時か……」
「いいのいいの。年寄りはどっちみち早起きじゃけんの」
オキタじいさんは、微笑《わら》いながらショウガをつまんだ。
□
「じいさんの背番号37ってのは? 何か意味があるわけ?」
おれは、オキタじいさんにきいた。
「イェッ。知らんかの? あのウォーリー・ヨナミネの日本での背番号の」
「ふうん。そうか……」
「そうじゃボーイ、いいもの見せてやるけの」
とオキタじいさん。尻のポケットから、札入《さつい》れを出した。試合前、審判役のロコ・ボーイに一ドルやるときに見た札入れだった。茶色のビニール。へなへなに薄い。
じいさんは、腰のタオルで、寿司をつまんでた両手をていねいに拭《ふ》く。札入れを開く。何か小さな紙切れを、大切そうに出した。
かなり細かく折りたたんである。じいさんは、筋ばった指で広げていく。
新聞の切り抜きらしい。ひどく古い。紙は、黄ばむというより、茶色に近くなっている。
「ほれ」
とオキタじいさん。切り抜きをさし出す。新聞社は、
〈THE HAWAII《ハワイ》 HERALD《ヘラルド》〉
日付の〈一九五一年四月十七日〉は、漢字なのに、右から左に並んでいる。
見出しは三行。まず右から、
〈ワレー與那嶺選手〉
ワレー與那嶺《よなみね》は、ウォーリー与那嶺のことだろう。二行目、三行目の見出しは、
〈巨人軍入り受諾〉
〈月給十萬圓にボーナス付〉
そのとなりに、写真がある。
野球帽、ユニフォーム姿の与那嶺が、バットをかまえている。まだ若い。二〇代だろう。陽射しに、少し眩《まぶ》しそうな眼《め》つき。
野球帽には、マークがない。ユニフォームの文字も見えない。が、日本の巨人軍のものじゃなさそうだ。
記事を読む。えらく古い文字だった。漢字には、全部、ルビがふってある。いかにも、日系人向け新聞だ。
〈ハワイが生《う》んだ名野球選手《めいやきうせんしゆ》ワレー與那嶺君《よなみねくん》に對《たい》し日本《につぽん》プロ野球《やきう》、セントラル・リーグの讀賣巨人軍《よみうりきよじんぐん》(ジヤイアンツ)は當市《たうし》のスマイルカフエー主《しゆ》サム上原氏《うへはらし》を通《つう》じ加入《かにふ》を交渉中《かうせうちう》であつたが……〉
与那嶺が、巨人入りを承諾したという文章がつづく。
〈好條件契約〉
という小見出しの後には、
〈……契約書署名《けいやくしよしよめい》と同時《どうじ》にボーナス百萬|圓《ゑん》(米|金《きん》の約《やく》三千|弗《ドル》)を受《う》け月給《げつきふ》は十萬|圓《ゑん》(米|金《きん》三百|圓《ゑん》)で此《こ》の上《うへ》に生活費全部《せいくわつひぜんぶ》を讀賣《よみうり》が支辨《しべん》し渡日旅費《とにちりよひ》も向《むか》うが支拂《しはら》ふといふ好條件《かうでうけん》である……〉
「月給の〈米金三百圓〉は〈三百弗〉の誤字だな」
「そういうこと、ボーイ。けど、なんせサーティー・フォー・イヤーズも前のことじゃけん、月給がスリー・ハンドレット・ダラーいったら大変のっ」
三四年前の三〇〇ドル……頭をひねってもわからない。
「けど、ウォーリーの月給がどうのこうのより、わしらが嬉《うれ》しかったのは、息子みたいな二世が、日本の巨人軍に入りよったことよ」
オキタじいさんの顔がほころぶ。
「それで、自分達もチームをつくったわけか」
「イェッ。ボーイの頃《ころ》から、ベイスボゥルは好きじゃったけどの、一八《エイテイーン》でハワイにきてからは、畑仕事がきつくて、とてもとても」
じいさんは笑いながら、
「仕事の合い間に、できそこないの小さなパイナップルでキャッチ・ボールやりよったり、ショベルをバットにして打ってみたりの」
「それが、三四年前に、やっと……」
「イェッ。戦争は終わってたし、わしら日系人の暮らしも、少しは楽になってたしの。で、パイナップル巨人軍をつくりよったわけよ」
じいさんは与那嶺の記事をながめた。
「あれ? これ、娘さん?」
ふいに、麻子がいった。オキタじいさんの札入れをのぞき込んでいる。おれも、つられてのぞく。
それまで、与那嶺の切り抜きが入っていたところかもしれない。セルロイドの中に、写真が見える。ずいぶん陽に灼《や》けたモノクロ写真だった。
日本人の若い女だった。といっても、ひどく古い写真だ。日本髪。和服。どこか、写真館のような所で撮《と》った。斜めにポーズをつけた、胸から上のポートレートだった。
「ねえ、これ、娘さん?」
と麻子。オキタじいさんは、一瞬口ごもると、
「ノッ。ワイフ、の」
といった。顔が少し赤いのは、ビールのせいだけじゃなさそうだった。
「へえ!? 奥さん? じゃ、これ、もしかして、お見合い写真!?」
じいさんは、うなずく。まわりのじいさん達もニッと微笑《わら》った。
「わあ、お見合いなんていまっぽい」
と麻子。近頃、若い女の子の間では見合いが流行しはじめている。
「見合いというか……なんせ、写真花嫁じゃけんの」
とオキタじいさん。
「写真花嫁?」
「イェッ。送られてきた写真を見て、結婚相手を決めるの」
「えぇ!? じゃ、写真を見て気に入ったら、会ったりしないわけ?」
「ノッ。だって、こっちはハワイ、娘の方は日本でしょう。船で一〇日がかりの。船賃だってえらいし、会うも何もないでしょうが」
「じゃ……一回も会ったことのない相手と結婚するわけ?」
「イェッ。お互い、写真で決めよるのよ」
「ふうん。じゃ、女の人は、写真を見ただけの相手と結婚するために、船でハワイに渡ってきたの?」
「イェッ」
「まるで、お互いにカタログか何かで物を買うようなものね」
「嫁さんの通信販売か」
おれも、口をはさんだ。
「イェッ、ボーイ、そういうことの」
写真を、もう一度ながめる。
色白でぷっくらと下ぶくれの顔。お多福《たふく》を思い起こさせる輪郭《りんかく》だ。眼も、少し腫《は》れぼったく細い。当時の顔として美人なのかどうか、それはまるでわからない。
「写真っていっても、お互いにめかし込んで撮るわけだし、実物を見てがっかりすることはなかったのかなあ」
ときいてみた。
「イェッ。よくあったの」
とゲンサクじいさん。
「ホノルルの港《ハーバー》で会っても、お互いまるで相手がわからなかったりの」
ほかのじいさん達からも、笑い声が上がる。
「そういうときは、どうするの?」
「どうもしないの。ちゃんと結婚しよるの」
とオキタじいさん。ロール・スシをひと切れ、もぐりと食うと、
「ボーイ、考えてもみんしゃい。たとえば、ユーがレストランいくでしょう。で、テリヤキ、チョプスイ、サイミン、いろいろメニューがあれば、ユー、チョイスするの。もし、テリヤキしかなくて、しかもユーが空腹だったら、テリヤキ食べるでしょうが。そういうことの」
「説得力あるわねえ」
「コマーシャル業界にトレードしたいようなじいさんだなあ」
麻子と顔を見合わせる。
「いつ結婚したの?」
「うん……ナイリー・サーティワンの」
|一 九《ナインテイーン》を、じいさんは〈ナイリー〉と発音する。
「一九三一年か……」
「奥さんの名前は?」
「トメ」
「この写真そっくりだった?」
「ノッ。こんな美人じゃなかったの。これ、嘘写真のっ」
オキタじいさんは、例によって、ビールを噛《か》むようにもぐりと飲む。笑いながら、
「けど、死んだ者の悪口は、あまりいわんの」
「死んだって……」
「イェッ。もう、ファイヴ・イヤーズ前に、死によっての」
何かいおうとした麻子に、じいさんは右手を上げる。
「いいのいいの。みんな、年齢《とし》とれば死ぬの」
と明るく笑った。
「そういえば、生きとった頃は、喧嘩《けんか》ばかりしてたの」
昌吉じいさんが、オキタじいさんにいった。
「いつも、ベイスボゥルのことで、ワイフに怒られてたの」
ゲンサクじいさんも、となりでいった。
「そう。負けつづけの巨人軍じゃけんの」
とオキタじいさん。コーン・スシをつまんで、
「いつも、ベイスボゥルで負けて帰ってくるとワイフがいいよるの。ユーのベイスボゥルは猫のシッポだっての」
「猫のシッポ?」
「イェッ。なんの役にも立たん、そういうこと。死ぬまで、そういって、わしらのベイスボゥルを馬鹿にしておったの」
「けど……ベイスボゥルにいくときは、必ず、ロール・スシつくってくれてたでしょうが」
と昌吉じいさんがいった。
「そういえば、そうじゃったの……」
とオキタじいさん。ビールを、もぐもぐと飲む。眼をしばたく。
グラウンドを、乾いた風が吹いた。頭上のヤシの葉がカラカラと揺れる。じいさん達のユニフォームの上で、麻子の灼けた膝《ひざ》の上で、ヤシの葉影も揺れる。
「一曲|唄《うた》うかの」
昌吉じいさんがいった。
「いいのう」
ビールに赤くなったじいさん達の顔がうなずく。手拍子がはじまった。のんびりとしたテンポだった。
じいさん達は、唄いはじめる。
ゆこかメリケン
帰ろか日本
ここが思案《しあん》のハワイ国
物悲しいところもあるメロディーだった。が、じいさん達の唄い方は、ひたすらのどかだった。
「ホレホレ節といっての」
とオキタじいさん。手拍子を打ちながら、
「ハワイの日系人がつくった民謡の」
「ホレホレ節か……」
「ホレホレってのは、砂糖キビの葉っぱをむしりとる仕事のことの」
「きつい仕事だったんでしょうね……」
と麻子。
「でも、ホレホレなんていわれると、なんか、冗談ぽいな」
おれ達は、互いの耳もとでささやき合った。
ハワイハワイと
夢みてきたが
流す涙は
キビの中
つらいホレホレ
こらえてするよ
故郷《くに》にゃ
女房や子までいる
一塁側ベンチの前。おれ達が投げたポップコーンが、芝生に散っている。
緑の芝生に散った白いポップコーン。それを、名前を知らない小鳥が突ついている。鳥達の赤い尾が、芝生の上で、ぴょこぴょこと揺れている。
じいさん達の歌声が、グラウンドを渡る風にゆっくりと運ばれていく。
ゆこかメリケン
帰ろか日本
ここが思案のハワイ国
試合再開。
六回表。マヒマヒ・タイガースの攻撃だ。パイナップル巨人軍のポジションが、少し変わっていた。オキタじいさんが一塁へ。交代に、ゲジ眉の昌吉じいさんがリリーフしてピッチャーだ。
疲れが出はじめてたオキタじいさんに比べて、昌吉じいさんは元気だった。コントロールもかなり正確だ。
この回のトップ・バッター、ポチはボテボテのピッチャー・ゴロ。次の林は三振。あっという間に、ツー・アウト・ランナーなし。
三番手は浅Pだ。バットを素振り。なんとなく元気がない。
「どうした、浅P」
「なんか……腹の調子が、おかしくてな……」
浅Pは、左手で下腹を押さえた。グルルという音がきこえた。
「そりゃ、昼飯がいけなかったんじゃないか。あの油、やばそうだったもんな」
「いや、そんなことはない」
浅Pは、意地をはる。バッター・ボックスへ。
一球目。外角高目。振る。が、力の抜けたようなスウィングで空振り。二球目も、同じように空振り。空振りしたあと、片手で下腹を押さえる。
「浅P、どうしたんだい?」
市カメが、おれにきいた。
「なんか、腹の具合が悪いらしい」
「そりゃ、バチが当たったんだ。あんな店におれ達を引っぱり込んだバチだ」
「あのフライを、がつがつ食ってましたからねえ」
とポチ。
三球目。バットにコンッと当たった。力を抜いたスウィングが、かえって良かったんだろう。ボールは、セカンドの頭を越した。
「いけ! 浅P!」
とベンチのかけ声。だが、浅Pはのろのろと一塁へ。右手で腹を押さえて走る。やっと間に合う。センター・ゴロになる寸前だった。
一塁ベースの上。浅Pは、両手で腹を押さえている。
「浅P! そんな所でもらしちゃダメよ!」
ベンチから野次《やじ》が飛ぶ。
「〈MAUI《マウイ》 DELI《デリ》〉で下痢《げり》じゃ、冗談にもならんぞ!」
「うるさいなあ!」
浅Pもいい返す。が、声に力がない。麻子が、仕事用のバッグに手を突っ込む。トイレット・ペーパーのロールを出す。仕事道具の一つだった。それを一塁にいる浅Pに、
「これかかえて走りなさいよ」
「うるさい!」
と浅P。麻子の持ってきたトイレット・ペーパーを手ではたき上げる。白いロールが飛んで転がる。ロケ隊から笑い声。
つぎのバッターは、おれだった。
「浅P! 盗塁してもいいぞ!」
「うるさい!」
バットをかまえる。キャッチャーが、何かサインを出してる。昌吉じいさんがうなずく。ゲジ眉がピクリと動いた。
一球目。内角低目。振る。三塁線のファウルだ。二球目。ど真ん中だった。思いきり振る。うまくカンッと当たった。ボールは、芝生の上をスルスルと走る。三遊間を抜けた。
バットを投げて一塁へ。たどりついて驚いた。まだ浅Pがいる。ベースの上。少し体を丸めて立ってる。
「あれ? ヒット打ったんだけど」
「あかん……」
と浅P。オムスビ頭の額《ひたい》に、汗が流れている。
「あかん、ぼん、走ったらもらす……」
両手で下腹を押さえて浅Pはうめいた。じいさん達も、驚いた表情。ぽかっと口を開けてながめてる。
「タ、タイム……」
と浅P。下腹を押さえてベースを離れる。そろそろと、背中を丸めて歩く。
「ほら!」
麻子が、トイレット・ペーパーをパス。浅Pは、それをつかみそこねる。
「あ」
トイレット・ペーパーのロールが芝生に転がる。浅Pは、そろりそろりと体を折る。トイレット・ペーパーをひろう。
「五倍のスロー・モーションだな」
スタッフの笑い声。
「みんな……覚えてろよ……」
浅Pは、白いロールをかかえて、そろそろとヤシの樹の間に入っていく。
□
「遅いなあ、浅P」
「がんばってるんだろう」
六回表は、当然、無得点。六回裏がはじまるところだった。浅Pは、ブーゲンビリアの茂みに消えたきり。なかなか出てこない。
「遭難したのとちがうか」
と市カメが笑った。
「ねえねえ、カントク」
ポチが、おれの所へやってきた。ポケットから何か出すと、
「新兵器ですよ、新兵器」
コショウの瓶《びん》だった。
「どうしたんだ、これ」
「ほら、昼飯食ったマウイ・ゲリからいただいてきたんですよ」
〈MAUI《マウイ》 DELI《デリ》〉は、すっかり〈マウイ下痢〉になっていた。
「このコショウをですね、ボールになすりつけて投げるってのは、いい作戦じゃないですか?」
「あのなぁ、漫画の読み過ぎだよ」
「でも、やってみる手かもな」
と市カメ。
「うまく打ったじいさんがクシャミしてヨレヨレになってくれりゃ儲《もう》けものじゃないか」
「ま、それもそうだな」
おれ達は、肩を寄せ合う。じいさん達に背中を向けて壁をつくる。ボールに、パッパッとコショウをふる。
「塩もふりたくなるな」
と食い道楽の市カメ。ヤシの樹の間から、浅Pが出てきた。
□
六回裏。トップ・バッターは、レフトを守ってるじいさんだった。元気のいい素振りを三、四回。
昼のビールがきいたのか、ホレホレ節がきいたのか、パイナップル巨人軍は元気が良くなっていた。
じいさんは、バッター・ボックスでかまえる。肩を一、二度揺する。
おれは、コショウをふってあるボールを握りしめる。
「くらえ!」
投げた。が、コショウがなすりつけてあるからボールが滑った。すっぽ抜けた。頭の高さだ。
浅Pがあわてて立ち上がる、とった。とたん、すごいクシャミ。
二回、三回、四回、五回、クシャミはとまらない。バッターのじいさんは、不思議な顔をしている。
一〇回以上クシャミをして、やっととまった。浅Pは、真っ赤な顔で、
「くだらないこと考えやがって、このタコ!」
三塁のポチに、ボールを投げつけた。とたん、
「あっ……」
腹を押さえる。
「クシャミしたら、また、腹が……あ、麻子、トイレット・ペーパーはどこだ」
「赤いバッグよ」
浅Pは、グラヴを放《ほう》り出す。ベンチへ。トイレット・ペーパーをつかむ。もう一度ポチに、
「タコ!」
とどなると、ヤシの樹の間に入っていく。しばらくして、ブーゲンビリアの茂みで、大きなクシャミがきこえた。
□
ピンチだった。ノー・アウト満塁。エラーとフォア・ボールで出たじいさんが三人、ベースに立ってる。
おれは、ピッチャーズ・マウンドをおりる。浅Pも歩いてくる。
「疲れた。ピッチャー、誰かにかえてくれよ」
「誰がやったって同じさ」
浅Pは簡単にいい捨てた。
「フォア・ボールは出すなよ、ぼん」
「無理いうな」
浅Pは三、四秒考えると、
「どうだろう。あの審判のガキいるだろう」
赤いTシャツのロコ・ボーイを眼でさして、
「あいつを買収するってのは」
「さすが悪徳プロデューサー」
六回裏で、16対10。のんびりしてられるスコアーじゃない。浅Pは、ポケットに手を突っ込むと、
「よし。やってみるか」
一球目を投げた。外角低目だった。
「ボール」
とロコ・ボーイ。浅Pは立ち上がる。ふり向いて、
「あれがボールだって? どこに眼つけてるんだよ、このガキは」
ブロークン・イングリッシュでわめく。ロコ・ボーイの胸を突つく、と見せかけて、Tシャツの胸ポケットに何か落とした。硬貨だ。大きかったから、25セント玉だろう。
ロコ・ボーイは、一瞬、自分の胸ポケットを見おろす。二、三秒後、かすかに微笑《わら》った。出っ歯が陽射しに光った。
「なあ坊や、つぎからはちゃんと見てくれよな」
浅Pは、〈次《ネクスト》〉を強調した。ロコ・ボーイの肩をポンと叩く。
二球目。内角高目だった。まず、ボールだったろう。が、
「ストライク!」
物わかりのいい子供だったらしい。
「ストライクかのぉ?」
とバッターのじいさん。首をひねる。
三球目。内角低目。きわどいコース。
「ストライク!」
2―1からの四球目。真ん中高目。一〇センチはボールだろう。が、
「ストライク!」
はじめてとった三振だった。浅Pがニッと白い歯を見せる。指でマルをつくった。じいさんは、首をひねりながらベンチへ戻る。まだ、満塁は変わらない。つぎのバッターは、一番に戻って昌吉じいさんだった。
一球目。外角低目。きわどいコース。
「ボール」
浅Pが、ふり向く。ロコ・ボーイの顔を見る。
「ボール」
とロコ・ボーイはくり返した。どうやら、二五セントの効果はきれたらしい。
「わかったよ、坊や」
ロコ・ボーイの肩を叩く。硬貨を一枚、また、すっとロコ・ボーイの胸ポケットに落とす。じいさん達は気づいていない。
二球目。三球目。きわどいコースは、みんなストライクになる。またワイロが効いてきたらしい。四球目は、とんでもなくボール。
2―2から五球目。真ん中低目。かなり低い。が、
「ストライク・アウト!」
「あれがストライクか? ボーイ」
昌吉じいさんは、ロコ・ボーイをふり返る。が、ロコ・ボーイは、首を横に振る。昌吉じいさんは、ゲジ眉をピクピク動かしながらベンチへ戻る。
浅Pとロコ・ボーイが、何か小声で言葉をかわした。浅Pは、こっちへ歩いてくる。
「小銭ないか、ぼん」
「どうした。ワイロが切れたか」
「値上げしてきやがった、あのガキ」
「値上げ?」
「ああ。さっきは、バッター一人に二五セントだったのに、今度はストライク一個につき二五セントだと」
「七五セントで三振か。ま、タダでパイナップル畑を使えるとなれば、安いもんじゃないか」
ポケットをさぐる。二五セント玉が四個出てきた。じいさん達に見えないように浅Pに渡す。
「よおし、ぶちかましてやる」
と浅P。ホームに戻っていく。
ぶちかましは成功したらしい。ツー・アウト満塁からのつぎのじいさんも、見送りの三振。
六回を終わって、いぜん16対10だ。
[#改ページ]
そのバットを振るな
□
「いいか、バットなんか振るんじゃないぞ」
浅Pがそういった。七回表の攻撃に入るところ。いちおうラッキー・セヴンだから、マヒマヒ・タイガースは円陣を組んでた。
「なんで、振っちゃいけないわけ?」
と誰かがきいた。浅Pは得意げに、
「審判のガキに、ワイロぶちかましといたからな」
「いくら?」
「五ドル」
「気前いいじゃないか、浅P」
「いいよ、馬鹿《ばか》にしろよ。とにかく、これからはフォア・ボール作戦だ。バットなんか振るな。あとは、あのガキが」
とホーム・ベースをふり返った浅Pは、
「あっ……」
と叫んだ。赤いTシャツのロコ・ボーイは、いなくなっていた。かわりに、青いアロハのロコ・ボーイがいた。前の少年より太っている。
「なんだ、こりゃ」
そのロコ・ボーイのところへいく。
「あの……赤いTシャツの子は?」
「ああ、アンディなら、帰ったよ」
青いアロハの子は、けろっといった。
「帰ったぁ……?」
と浅P。口を、あぐりと開いている。
「かわりに、ぼくに審判やれってさ」
「じゃ……その、お金のことは?」
「ああ、きいてるよ。試合が終わったら、審判料の一ドルをもらっていいって」
「そのお金じゃなくて……その……なんていうか……」
「ストライクは一個五〇セント、ボールは一個四〇セント」
ロコ・ボーイは、すました顔でいう。
「えぇ!? だって、さっきは一個二五セントだって……」
「いやならいいんだけど」
「このガキ……足もと見やがって」
「無理にとはいわないけど」
「……わかったよ……じゃ、この回。ボールを二〇個ほど乱発してくれ」
「先払い」
ロコ・ボーイは、右手を出す。
「先払い?」
「そうさ。先払いなら、ディスカウントしておくよ」
「なんてガキだ……わかったよ」
浅Pは、ポケットからドル札を出す。じいさん達に見られないように、
「じゃ、ボール二〇個だから、八ドルか」
「七ドルにまけておくよ」
「ひどいガキだ」
一ドル札を七枚、浅Pはそっとロコ・ボーイに握らせる。
「やれやれ、一杯くわされたぜ」
「ケチほど騙《だま》されやすいってのは、本当なんだな」
□
それでも、買収の効果はあった。
誰が見てもストライクのコース以外は、みなボールになる。この回、トップ・バッターの香川が、フォア・ボールで出塁した。
打順は一番に戻って麻子だ。
「バットなんか振るなよ」
の声に送られてバッター・ボックスへ。昌吉じいさんがセットポジションに入ろうとしたとき、エンジン音がきこえた。
シルヴァー・グレイのTOYOTA。オキタじいさんの孫の忠彦らしかった。クルマがとまる。長身の忠彦がおりてきた。
もう一人、クルマからおりてきた。やはり若い日系人。忠彦より若いだろう。せいぜい二〇代の終わり頃。おれ達と同じぐらいか。
忠彦と同じように、ちゃんとした身なりをしていた。薄いブルーのシャツ。黒っぽいタイ。黒の皮靴《かわぐつ》をはいている。
二人は、やってくる。一塁手をやってるオキタじいさんに歩み寄ると、
「式典がはじまりますよ。あと一時間です」
二時少し前だった。
「まだ七回の。ゲームは終わっとらんの」
とオキタじいさん。そっけなくいった。忠彦は、
「そんなこといわないで、おじいさん。人がいっぱい集まってるんですよ。ラハイナの市長も、日系人商工会の人達も、マウイ中から日系人が沢山《たくさん》きてるんですよ」
「そうですよ、オキタさん」
もう一人の日系人がいった。
「みんな、オキタさん達の偉業をたたえるために、集まってるんですよ。日系人の社会的地位がこんなに上がったのも、みんなオキタさん達のおかげだから」
「とにかく、ベイスボゥルが終わるまでは、ダメの」
とオキタじいさん。無表情で一塁ベースに立っている。その姿をながめて、
「まるで地蔵《じぞう》だな」
と、思わずとなりのポチにつぶやいていた。
「野球地蔵か……」
オキタじいさんは、頑《がん》として動かない。
「そんなにダダをこねないで、おじいさん」
「お気持ちはわかりますが」
二人は、じいさんの両腕をとろうとする。じいさんは、
「何がわかるいいよるの!」
忠彦の足を、ふんづけた。
二人の腕をふりほどく。
「何がわかるいいよるの!」
とくり返した。また、口をへの字に。野球地蔵になる。
忠彦は、おれ達の方を向いて、
「なんとか、野球をやめられませんか」
「やめたいのはやまやまなんだが、なんせいろいろと事情があってね。そう簡単にはいかないんだよ」
おれは答えた。忠彦はため息をついて、
「そんな……だいの大人が、こんな草野球に……」
「こんな草野球とはなんじゃ!」
オキタじいさんが、大きな声を上げた。じいさんはグラヴを投げる。グラヴは、忠彦の後ろ頭にバグッと当たった。
□
三〇分後。結局、二人はあきらめて退散していった。グレイの乗用車が、ブーゲンビリアの向こうに遠ざかっていく。
「さ、試合再開のっ」
とオキタじいさん。グラヴを拳でポンと叩《たた》いた。
「やれやれ。困った野球じいさんだ」
とつぶやいたのは浅Pだ。
七回表の攻撃を再開。バッターの麻子は、ベンチのいいつけどおりバットを振らず、フォア・ボール。
フォア・ボールがつづく。誰もバットを振らず、この回、マヒマヒ・タイガースは3点を入れた。16対13だ。
「七ドルで3点ということは……1点二ドル三〇セント……ということは1点約六〇〇円か……」
と浅P。ワイロのコスト計算をしながら守備位置に。
七回裏。パイナップル巨人軍のラッキー・セヴン。じいさん達は、ベンチ前で円陣を組む。またホレホレ節を唄《うた》うかと思ったが、唄わなかった。何か、英語のかけ声を、オキタじいさんが叫んだ。
「なんていってるんだ」
ケンちゃんにきいてみた。
「ゴー・フォー・ブロークね」
「ゴー・フォー・ブローク?」
「そう。なんていうか……当たって砕けろってとこね。昔の、四四二部隊のスローガンだったらしいよ。ホノルルでも、一世や二世の人達は、よく使うみたいね」
「ふうん」
この回のトップ・バッターは、ゲンサクじいさんだ。一回、眼鏡《めがね》をずり上げる。バッター・ボックスで素振り。
「ゴー・フォー・ブローク!」
のかけ声が、じいさん達から上がる。当って砕けろ……か。
「勝手に砕けろ!」
投げた。ど真ん中にふらふらといった。じいさんが振る。コーンと乾いた音。高く上がった。内野フライだ。
見上げる。青空に雲が一つ。ゆっくりと頭上に動いてくる。
カマ太郎が、グラヴをかまえる。フライをあっけなく落とした。ゲンサクじいさんは一塁へ。
「|通り雨《シヤワー》がくるんじゃないか」
と、おれはつぶやいた。市カメも空を見上げて、
「くるな……」
撮影の仕事をやっていると、天気の変化にはどうしても敏感になる。
投球をやめて、深呼吸。風の匂《にお》いをかぐ。かすかに、湿った匂い。すぐ近くまで、雨がきていた。
「雨はどこだ……」
市カメと見回す。
「あそこだ」
市カメが指さした。グラウンドの西側。パイナップル畑の丘がある。緑の丘に、白いシャワーが降っていた。いま立っているグラウンドは晴天なのに、五〇〇メートル向こうの丘は降っていた。
シャワーは、近づいてくる。グラウンドのすぐとなり、学校らしい赤い屋根が濡《ぬ》れはじめる。雨が、グラウンドにきた。
灼《や》けた腕に、ポツッと一粒。
「シャワーです!」
ポチが叫んだ。これが撮影現場なら、カメラや何かの避難で大さわぎだ。
「シャワーかの」
とオキタじいさん。空を見上げて、のんびりとつぶやいた。
「しばらく、|休 憩《インターミツシヨン》の」
天気雨だった。陽射《ひざ》しは明るい。落ちてくる雨粒が、砂糖みたいに光っていた。
雨粒は、腕を濡らす。陽に灼けて火照《ほて》った肌《はだ》に、その冷たさが心地良い。が、そのままでいたら、ぐっしょりになる。雨やどりできる場所をさがす。
グラウンドのわきに、プルメリアの樹が四、五本あった。その下に駆け込む。
プルメリアは、南洋ならどこにでもある樹だった。高さは三、四メートル。白や淡い黄色の花が、いつでも咲いている。甘酸《あまず》っぱい香りの花は、レイによく使われる。
プルメリアの樹には、先客があった。オキタじいさんとゲンサクじいさんだ。
「テン・ミニッツで上がるの」
一〇分で雨は上がる。空を見上げて、ゲンサクじいさんがつぶやいた。
「ボーイ、パイナップル食べるかの?」
オキタじいさんがいった。見れば、アイス・ボックスがそばにある。蓋《ふた》を開けて、パイナップルを一個、とり出すところだった。
包丁というより、ナタに近いものをじいさんはとり出す。アイス・ボックスの上で、パイナップルをさばく。さすがに、手ぎわがいい。麻子も、となりのプルメリアから、引っ越してきた。
「ほれ」
パイナップルを一切れずつうけとる。かじる。口の中に、香りが広がる。
「おいしい……」
麻子が思わず声を上げた。
「そんなものでよかったら、いくらもあるけんの」
ゲンサクじいさんが、そういって笑った。自分達は食べない。
「あれ、じいさん達は食べないの?」
「わしら、もう、うんざりするほど食べてきたけんの」
「ハワイにきてこのかた、パイナップル、パイナップルでしょうが。もう、パイナップル人生のっ」
とオキタじいさん。珍しく笑った。
「昔、貧しかったときはの、パイナップルで生きのびたものじゃけんの」
「パイナップルで生きのびた?」
「イェッ。ほかに、食べるものがないっしょうが。食べるものいうたら、畑のパイナップルだけ、の」
「オフコース、生《なま》で食べるでしょ。飽きると、焼いてみたり、煮てみたり、一日三食、パイナップルの。それが、一年も二年も……」
「すると、白人に馬鹿《ばか》にされるのよ。おまえら、パイナップルばかり食うから肌が黄色いのか、いってね。けど、パイナップルしか食ってないから、お腹《なか》が水っぽくての。いい返す力が出んのよ。わかるかのう……あの気持ち」
おれは天気雨を見上げると、
「わかる、とはいえないなぁ」
とつぶやいた。麻子が、パイナップルをかじる手をとめた。
「わかる、なんていったら……やっぱり嘘《うそ》になるよ」
雨粒は、あい変わらず光りながら降ってくる。茶色い犬が一匹、雨に濡れてグラウンドを歩いている。おれはぽつりと、
「生まれたときから、乾いたベッドがあったよ。飢えたことなんか、もちろんない。パイナップルっていえば、食後のデザートだった。だから……なんていうかな……じいさん達の苦労を、想像してみることはできる。けど、それは、わかるってこととはきっと違うんだな……」
オキタじいさんが、おれの横顔をじっと見ている。
「わかるなんて……やっぱりいえないな……」
オキタじいさんは雨を見上げて、
「ユーは、なかなか正直の」
とつぶやいた。
「わしらにしても、わかって欲しいなんて、これっぽっちも思わんけんの。同じ苦労をしてなきゃ、わかるわけないけんの。みんな、わかったふり、の」
「わかったふり、か……」
思い出していた。さっき、孫の忠彦がじいさんを迎えにきたとき、もう一人の若い日系人から出た台詞《せりふ》、〈お気持ちはわかりますが〉……。
頭上のプルメリアが、淡く匂《にお》った。
「きょうの式ってのは、本当にすっぽかしていいのかい」
ふときいてみた。
「いいの、あんなもの」
オキタじいさんは、あい変わらずそっけない。麻子がわきから、
「だって、あんなにちゃんと準備して」
「そうだよ。じいさん達のために」
おれがいいかけると、
「ノッ」
オキタじいさんは、言葉をさえぎった。
「わしらのためなんかじゃないのっ」
「どうして……」
「孫の忠彦はの、つぎのラハイナ市議会に立候補しよるのよ」
「市議会?」
「イェッ。彼が、移民百年祭りの仕事やってるのも、そのため、の」
「……そうか……じゃ、四四二部隊のじいさん達をかつぎ出すってのも……」
「イェッ。彼にとっては、点を稼《かせ》ぐことのっ」
「…………」
「本当にわしらのこと思ったら、ベイスボゥルをやらしてくれるのが一番のっ」
オキタじいさんは、パイナップルを一切れとった。遠くをながめて、
「そりゃ、わしら、パイナップル畑で汗水たらして働いたの。四四二で、必死に戦ったの。けど、それは、こんな日のためよの」
「こんな日?」
「イェッ。こんなふうに楽しくベイスボゥルやる日のためよのっ」
ひとこと、ひとこと、スルメか何かを噛《か》むようにじいさんは話す。
「畑つくれば、暮らしが楽になりよる。そう思って一生懸命働いたの。ここで頑張《がんば》れば、日系人、馬鹿にされなくなる。そう思って戦争いったの。それもこれも、平和な暮らしのためよの。ベイスボゥル、好きなだけできる平和な暮らしのためよの……」
じいさんは、パイナップルをかじった。汁を芝生にたらしながら、
「偉いさんと並んで壇の上に立たされたり、パレードにかつぎ出されたり、そんなことのために頑張ってきたんじゃないのっ」
「…………」
「確かに、わしらヨボヨボじじいじゃけんども、そこまでもうろくしてないけんの」
ニッと白い歯を見せた。パイナップルの皮をゴミ箱に放《ほう》り込むと、
「さ、ボーイ、ベイスボゥルのっ」
おれと麻子の肩を叩いた。|通り雨《シヤワー》は、すっかり上がっていた。
□
審判少年へのワイロは、まだ効《き》いていた。
この七回裏。三振を二つとった。二つとも、もちろんインチキだ。
パイナップル巨人軍の攻撃は、とりあえずゼロに押さえた。
七回まで終わって、16対13。
残す八回、九回で、3点を追いかける。
きわどい勝負になってきた。
□
「いいアロハだねえ」
と浅P。審判のロコ・ボーイの肩を叩く。
そっと、ドル札を胸ポケットに入れる。この回のワイロだった。
八回表。マヒマヒ・タイガースの攻撃。
打順は、九番の香川だった。
「振るなよ」
「フォア・ボールだぞ」
の声がきこえなかったのか、香川は一球目を振った。
コンッとにぶい音。
ボールは、三塁線の外へ切れていく。ファール。
三塁手のじいさんが、とりそこねる。ボールは、芝生を転がっていく。それを、何かが追いかけていく。
犬だ。
茶色くて痩《や》せた犬。さっきから、野球場をウロウロしてる。野良犬なんだろう。
転がっていくボールに、犬は追いつく。ボールをくわえる。くわえて走り出す。
「いかん!」
叫んだのは、オキタじいさんだった。レフトのじいさんも、あわてて犬を追いかける。
口をいっぱいに開いて、犬はボールをくわえていた。耳をぴたりと寝かせて、走り回る。
「こいつ!」
「ノッ!」
「ボール持ってっちゃダメのっ」
じいさん達は、口ぐちに叫ぶ。追いかける。けど、犬の方が断然、すばやい。
右に左に、犬は駆け回る。じいさん達は、ただ、ヨタヨタと追いかけるだけ。犬にしてみれば、いい遊び相手に見えるのかもしれない。
じいさん達を馬鹿にするように、犬は、その間をスラロームする。野球場を駆け回る。茶色いシッポが、嬉《うれ》しそうに弾《は》ねている。
追っかけていたゲンサクじいさんが、つまずいて転んだ。
犬は、知らん顔。野球場から外へ。ヤシの樹の間へ走り込む。あっという間に、見えなくなった。
「あの犬っころ!」
とオキタじいさん。グラヴを、芝生に投げつける。
「いいじゃないか、ボールの一個ぐらい」
おれは、ベンチから叫んだ。
「よくないのっ」
とオキタじいさん。
「ボールは、あれ一個きりの」
「えぇ!?」
そういえば、確かに、いままで一個のボールしか使っていなかった。
「スペアは?」
「一個あることはあるけどの」
とオキタじいさん。自分達のダグ・アウトに。小さなボストン・バッグを開けた。
古いボールが、一個、出てくる。縫い目が破れて、皮がパクリと開いている。まるでチャップリンの靴だ。
「あーあ、こりゃひどい」
「腐ってますよね」
とり囲んだおれ達も、つぶやく。
「買ってくるしかないだろう」
とオキタじいさんにいった。
「そうじゃの」
「売ってる店はあるのかい」
じいさんは、うなずく。
「となり町じゃけどの。昌吉、トラックで、ひとっ走り、いってきてくれんかのぉ」
ふり向いていった。
「了解」
と昌吉じいさん。トラックのキーをとり出す。その背中に、
「おれも、乗せてってくれないか」
といった。
「腹がへってきた。ついでに、何かエサを仕入れたい」
コーン・スシとロール・スシをつまんだだけ。それが昼飯だった。さっきパイナップルを食ったら、よけいに腹が減ってきた。
「あ、カントク、おれにも何か頼みますよ」
とポチ。昼飯の〈マウイ下痢〉じゃ、さすがにあまり食わなかったんだろう。
「おれにも」
の声が、マヒマヒ・タイガースの連中から上がる。
「マスタードをたっぷり塗ったホットドッグをたのんます」
とポチ。
「チリドッグがいいわ」
と麻子。
「ピザを二、三枚」
とケンちゃん。
「もんじゃ焼き」
と浅P。みんな、口ぐちに好き勝手をいう。
「わかった、わかった」
おれは、左手を振りながら昌吉じいさんのトラックへ。
□
爆竹《ばくちく》みたいな音が、一発、二発。
バック・ファイアーだ。エキゾースト・パイプが、そのたびに身震いする。
昌吉じいさんの、小型トラック。やっと、エンジンが、かかった。
「乗りんしゃい、ボーイ」
と運転席のじいさん。
錆色《さびいろ》のドア。そのノブを、おれはつかんだ。力を入れる。ノブは、あっけなく折れた。
「あーあ」
「しょうがないのぉ」
と昌吉じいさん。中からドアを開けてくれる。
助手席に乗り込む。シートは、地図みたいに破れている。黄色いスポンジが、あちこちからはみ出している。
コラム・シフトの三段ギアだった。
「よっ」
小さくつぶやくと、昌吉じいさんはシフト・レバーを引く。ギリゴリと音がして、やっと、ギアが入る。
派手なバック・ファイアーを、また一発。トラックは、つんのめるように出る。
ルート30には出ないらしい。パイナップル畑の中の細い道を、走りはじめる。
「いつ、ホノルルへいくんだい」
ダッシュ・ボードに足を投げ出して、きいてみた。
「ホノルル?」
「息子《むすこ》のところへいくんだろう?」
じいさんは、一瞬、ポカンと口を開ける。
「オキタじいさんからきいたよ。ホノルルに引っ越すって話を」
「あ……ああ、そうじゃ」
「息子が、ホノルルにいるんだろう」
「あ、ああ、そういうこと、の」
と昌吉じいさん。いまひとつ、歯切れが悪い。何か、いいづらいことでもあるんだろうか。
「ホノルルの息子ってのは、何やってるんだい」
窓の外を流れていくパイナップル畑をながめて、きいた。
「息子か……」
じいさんは、五、六秒、無言。しばらく考えて、
「|パン屋《ベイカリー》の」
といった。
「パン屋か。景気はいいんだろう?」
「まあ、の」
とじいさん。ぷすっと、つぶやく。筋ばった手で、ステアリングをきつく握っている。
ホノルルの話は、あまり気乗りしないらしい。
理由は、いろいろ想像できる。
単純に、このマウイ島を離れたくない。たとえば、離れたくない誰かがいる。
「じいさん、女房は?」
ふと、きいてみた。
「昔は、いたけどの」
「やっぱり、写真花嫁?」
「イェッ」
じいさんの横顔が、うなずく。焼き海苔《のり》みたいに濃い眉《まゆ》が、ピクリと動いた。
「けど、一〇年《テン・イヤーズ》前に、ワイフは死によったの」
「悪いこと、きいたかな?」
「ノッ」
じいさんは、白い入れ歯を見せた。
パイナップル畑の向こうに、となり町が見えてきた。
□
「ちょっと、とめてくれ」
おれは、じいさんにいった。町の入口だった。〈ホット・ドッグ〉の文字が、ちらりと眼に入った。
トラックをおりる。
木造の|持ち帰り《テイク・アウト》ショップがあった。
壁の板に、メニューがペンキで描《か》いてある。
ホット・ドッグ・85セント。
デリシャス・ベントー・1ドル25セント。
|かき氷《シエイヴ・アイス》・75セント。
「ホット・ドッグを二〇本、いや」
大喰《おおぐ》いのケンちゃんの顔を思い浮かべて、
「二五本、マスタードとケチャップをたっぷりつけて」
と注文した。白いTシャツの店員は、うなずく。ホット・ドッグ用のパンを出してくる。
□
ホット・ドッグでも、二五本となると、かなり重い。
「よっ」
ホット・ドッグの紙袋を、トラックの座席に積み込む。
「野球のボールは?」
「あっちのっ」
じいさんは、トラックを出す。町のメイン・ストリートを一〇〇メートルぐらい走る。
メイン・ストリートといっても、しけたものだ。じいさん達の町と同じ。木造の店が、ひっそりとつづいている。
「ここじゃの」
一軒の店の前。じいさんは、トラックを駐《と》めた。
〈YOKOTA GROCERY STORE〉の看板が見える。
〈横田食料雑貨店〉というところだろう。
色褪《いろあ》せた黄色い板に、赤い文字。ドアなど、もちろんない。
じいさんの後について入る。
食料雑貨屋といっても、売っているのは食料品だけじゃない。
Tシャツ。帽子《キヤツプ》。ゴムゾウリ。釣《つ》り道具。そんなものが、ぎっしりと並んでいる。
「野球のボールあるかの」
と昌吉じいさん。店番をしてる男の子にきいた。
日系の男の子だった。一〇歳ぐらい。穴の開いた黄色いTシャツ。口の端にくわえているのは、匂《にお》いからするとマリファナらしい。
「あるよ」
男の子は、ぶすっと答える。カウンターの下を、ごそごそとかき回す。
「八ドル五〇セント」
ビニール袋に入ったボールを、ゴトッとカウンターに置いた。
「ロージン・バッグも、もらおうかの」
と昌吉じいさん。男の子は、同じあたりをひっかき回して、ロージン・バッグを出してきた。
「両方で一〇ドルと五〇セント」
ボールとロージン・バッグを、茶色い紙袋に入れる。おれは、
「出すよ」
一〇ドル札をカウンターに置いた。
「それじゃ悪いの」
じいさんは、もぐもぐとつぶやく。
「じゃ、五〇セントは、わしらが」
と、ユニフォームの尻《しり》ポケットから何か出す。ガマグチだった。最近じゃ、ばあさんでもなかなか持ってない形のやつだ。
じいさんは、ガマグチをパチッと開ける。硬貨を、
「一〇セント、二〇セント」
と、一枚ずつ、つまみ出す。
一〇セント玉を四枚。
五セント玉を一枚。
一セント玉を五枚。
碁石《ごいし》みたいに、カウンターに並べた。男の子は、それを数えて、
「オーケーイ」
むっつりと、うなずいた。じいさんは、ガマグチをしまう。紙袋を持つ。おれ達は、店を出る。
「エブリバディ待ってるけんの」
トラックに歩きはじめた。とたん、背中で、
「動くなよ」
という声。日本語だった。ふり向く。ピストルの銃口が、おれ達に向けられていた。
□
「な、な……」
と、昌吉じいさんはどもる。おれも、ぽかっと口を開けたまま。銃口と相手をながめた。
日系のじいさんだった。
年齢《とし》は、パイナップル巨人軍のじいさん達より少し若いかもしれない。
小太り。顔はつやつやと赤い。丸い鼻。細い口ヒゲ。血圧の高そうなタイプのじいさんだった。
ハイビスカス柄《がら》のアロハ。だぶっとしたショートパンツ。素足にナイキのスニーカー。
握っているピストルは、リボルバーだった。口径は、わからない。弾《たま》は、ちゃんと入っているらしい。
「つかまえたぞ」
と、そのヒゲじじい。昌吉じいさんの腹に、ピストルを向けて、
「やっと、つかまえたぞ、昌吉」
とくり返す。昌吉じいさんのトラックを、アゴでさして、
「この、腐りグルマを見つけて、きてみれば、やっぱりお前かの」
昌吉じいさんは、無言。何も、いい返さない。
「いったい」
といいかけたおれに、
「なんじゃ、ユーは」
ヒゲじじいの銃口が、こっちを向く。
わきの下に、汗が流れる。それでも、
「まっ昼間から、強盗かい」
といってやる。
「ふんっ」
とヒゲ。
「盗《ぬす》っ人《と》は、このじじいじゃ!」
銃口で、昌吉じいさんをさして、
「この泥棒猫《どろぼうねこ》が」
憎々《にくにく》しげに、にらみつけた。昌吉じいさんは、あい変わらず無言。
「きてもらおうかの」
ヒゲは、銃口で〈歩け〉という動作。
「逃げよったら、遠慮なく撃《う》つからの。その腐り頭を、空き缶みたいにふっ飛ばしてやる」
道路の三〇メートルぐらい先。小型トラックが駐まっている。ま新しい水色。FORDの白い文字が見える。
「それ、歩け」
銃口にうながされて、昌吉じいさんが歩きはじめたとたん、
「ショーキチ!」
フォードの窓から、叫び声。女の声だった。
一瞬、ヒゲじじいが、そっちを見た。
昌吉じいさんが、体当たり。
「うっ」
と小さなうめき。ヒゲじじいは、よろける。尻《しり》もちをつく。
昌吉じいさんは、紙袋に手を突っ込む。さっき買ったロージン・バッグをつかみ出す。ヒゲの顔に、思いきり投げつけた。
「うぷっ」
という声。ヒゲじじいの顔で、白い粉がパッと散る。
「逃げるんじゃ!」
と昌吉じいさん。駆け出す。おれも、あわててつづく。背中で、
「うぷっ! 待てこの!」
という声。ふり返る。
目つぶしをくらったヒゲじじいが、ヨロヨロと立ち上がるのが見えた。
銃声。
乾いた音が、ひとけのない道路に響く。とんでもなく方向ちがいの看板が割れた。木クズが散る。
おれと昌吉じいさんは、首をすくめてトラックに駆け寄る。
「なんなんだ!? これは!?」
「説明してる暇はないの!」
おれはドアを開ける。運転席側だった。かまわず乗る。助手席のドアを、内側から蹴《け》って開ける。昌吉じいさんが、飛び込んでくる。
「ボーイ、運転は!?」
「なんとか」
キーは、つけっぱなしだった。回す。スターターが、キルキルキルと間の抜けた声を上げる。
それでもなんとか、エンジンはかかった。
バック・ファイアーが二発。
サイド・ミラーに、フォードのトラックが映っている。
ヒゲじじいがあわてて飛び乗るのが見えた。
「急げ!」
と昌吉じいさん。
クラッチ。シフト・レバーを、ローの位置に引く。コラム・シフトなんて、教習所以来だ。が、なんとか、ギアは入る。
クラッチを合わせる。尻を蹴られたように、トラックはメイン・ストリートに飛び出す。
ブルーのフォードも、飛び出してくるのがミラーに映った。
セカンド。トップ。短いメイン・ストリートを走り抜ける。
「左!」
と昌吉じいさん。おれは左へステアリングを切る。もときた方向。パイナップル畑の中の道路だ。
アクセルを踏み込む。時速三〇マイル。四〇マイル。
〈SPEED LIMIT 30〉の黄色い標識が、ふっ飛んでいく。
町を抜けた。パイナップル畑を突っ切る一本道だ。
アクセルを、床につくまで踏む。
時速四五マイル。スピード・メーターの針は、それ以上は動かない。四〇と五〇の間で震えている。
サイド・ミラーを見る。
赤土の一本道。ブルーの小型トラックが、追いかけてくる。距離は、四、五〇メートル。トラックのフロントが、人間の怒った顔に見える。
「じいさん、いったい何やらかしたんだ!?」
思いきりきつくステアリングを握って、きいた。道路は赤土だ。ステアリングをしっかり握っていないと、すぐに、タイアをとられそうになる。
「何やったんだ!?」
昌吉じいさんの方を、ちらっと見てきいた。
「盗っ人とかいってたけど、何を盗んだんだ!?」
じいさんは無言。窓から、顔を出してふり返る。
「追いつかれるぞ!」
本当だ。ミラーの中の小型トラックは、ぐんぐん大きくなっている。もう、三〇メートルもないだろう。
「これ以上、スピードは出ないぜ」
と叫んだ。
「こっちはポンコツだ。あっちのフォードは新しい。勝負にならない」
また、差が縮まる。約二〇メートル。
フォードのごついフロント・グリルに、午後の陽射《ひざ》しが照り返している。本当に、歯をむき出して怒っている顔みたいに見える。
もう、二〇メートルはない。ヒゲじじいの顔が、ちらりと見えた。
ただ一つ助かるのは、道幅が狭いことだ。
二台すれちがうのがやっとだ。追いついても、追い越すのは楽じゃないだろう。
差は一〇メートルに。ナンバー・プレートの細かい文字まで読める。
「おっと」
おれは、ステアリングを左へ。
フォードが、追い越しをかけてきた。その鼻先をさえぎる。
フォードは、少し後退。今度は、右から追い越しをかけてきた。
「そうはいくか」
また、その鼻先をさえぎる。フォードは後退。
「そのうち、腹を立てるぞ」
といったとたん、銃声が一発。
「ヤバい!」
おれ達は、首をすくめる。
二発目。左のサイド・ミラーが、パリンッと割れた。
「タイアかタンクを撃たれたら、アウトだぞ!」
ステアリングの上で首をすくめて、叫んだ。
「クソッ」
と昌吉じいさん。まわりを見回す。
何を思ったか、紙袋に手を突っ込む。さっき買ったホット・ドッグをつかみ出す。
「くらえ!」
と、窓から投げた。
すぐ後ろのフォード。そのフロント・グラスに、ホット・ドッグは命中する。
フロント・グラスに、ケチャップの赤と、マスタードの黄が、べちゃりと広がる。
「ざまあみろ!」
じいさんは、ふり向いていった。フォードは、ワイパーを動かす。一往復で、ケチャップとマスタードは拭《ふ》きとられる。
「くらえ!」
と昌吉じいさん。二個目を投げる。今度は、はずれ。フロント・グリルに当たる。
「ほれ!」
と三個目。べちゃっと命中。
「ケチャップとマスタードを、たっぷりつけてもらって成功だな!」
ホット・ドッグが命中するたびに、フォードのスピードは落ちる。
けど、ワイパーのひと拭きで、ケチャップ、マスタードは落ちる。また、ぐんぐん追いつかれる。また、ホット・ドッグをぶつける。そのくり返しだ。
二〇個目。
フォードのワイパーに、ソーセージがはさまった。片側のワイパーが動かなくなる。
「うまいぞ!」
じいさんは、二、三個いっぺんに、
「ほれ!」
と投げつける。フォードのフロント・グラスに、赤と黄が飛び散る。スピードが、ぐんと落ちた。さすがに、前が見づらいんだろう。
二〇メートル。三〇メートル。差が開く。
「いいぞ!」
とじいさんが叫んだとたん、小さなショックがステアリングにきた。
トラックの尻が、左に振られる。後ろで、ゴロゴロといやな音。
どうやら、パンクらしい。
アクセルを戻す。が、スピードは急に落ちない。ブレーキ。失敗だった。トラックの尻が滑る。大きく右へ。道路をはずれる。
パイナップル畑は、道路より少し高くなっている。トラックは、乗り上げる。前が、はね上がる。視界が空だけになる。
落ちる。尻が、硬いシートに叩きつけられる。ステアリングで、腹を打った。殴られたように、息がつまる。一瞬、目の前が暗くなる。
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三塁線に倒れて
□
どうやら、生きていた。
ステアリングに寄りかかっていた体を起こす。動かしてみる。たいしたケガはしていないらしい。
窓の外。赤土が、ひどく舞い上がっていた。
トラックのボンネットは、大きく口を開けている。
「生きてるか」
となりの昌吉じいさんに声をかける。じいさんも、大丈夫らしい。ヨロヨロと、ドアを開ける。
おれも、ドアを押し開ける。パイナップル畑の赤土におりる。
「うぷっ」
と、昌吉じいさんの声。宙を舞ってる赤土に、おれも顔をしかめる。息をつめて、道路に走り出る。
「さすがに、悪運が強いの」
ヒゲじじいが立っていた。ピストルを、おれ達に向けている。
フォードのドアが開いた。
女が、飛びおりてきた。若い。一〇代だろう。
日系人だった。が、日本人一〇〇パーセントじゃない。ハワイアンの血が混ざっているらしい。ミルク・チョコレート色の肌《はだ》。褐色《かつしよく》がかった長い髪。
「ショーキチ!」
と叫ぶ。パイナップル畑から道路にヨロヨロと出てきた昌吉じいさんに駆け寄る。
「大丈夫!?」
と英語で叫んだ。真剣な表情で、昌吉じいさんの腕をとる。
「オールライト。心配ない」
と昌吉じいさん。それでも、彼女の肩につかまる。道路の端に、へたり込む。
道路の端。赤土の土手へ、おれも腰をおろす。
右手の甲を、スリむいていた。トラックが、畑に突っ込んだとき、やったんだろう。血が出ていた。
吸う。血は、ほんの少し、しょっぱい。おれは、
「さあて、わけを話してもらおうか」
昌吉じいさんに、いった。
「どっちでもいいから」
と、ヒゲじじいの方も見る。やつがかまえているピストルも、もう、あまり気にならない。
昌吉じいさんは、ヒゲじじいに、
「なあ、ゴサク、この若いのは、本当に何も知らんのよ」
といった。
「ただの、ベイスボゥルの対戦相手の」
ゴサクと呼ばれたじいさんは、おれをながめて、
「んむ。ま、どっちでもいいのっ。とにかく、昌吉、お前の腐り頭をふっ飛ばせば、それでいいんじゃからの」
と、昌吉じいさんにピストルを向けた。
「ちょっと待てよ」
おれは、ゴサクじいさんにいった。
「いま、このじいさんの頭をふっ飛ばされると、野球の試合にさしつかえるんだがな」
「わしには、そんなこと関係ないのっ」
ゴサクじいさん。昌吉じいさんを、にらみつける。ヒゲが、ぴくぴくと動く。
「こいつさえぶち殺せばいいのっ」
銃口を、昌吉じいさんの頭に向ける。そばに立っている少女が、
「やめて!」
英語で叫ぶ。昌吉じいさんをかばうように、前に立った。
「あのなあ」
おれは、ゴサクじいさんに、
「殺人犯になるのはあんたの勝手だが、その前に、少しはわけをきかせてくれてもいいんじゃないか」
□
「子供だって?」
おれは、思わずつぶやいていた。
「イェッ」
と、ヒゲのゴサクじいさん。
「この娘《こ》のお腹《なか》にゃ、その昌吉のベイビーがおるのよ」
銃口を昌吉じいさんに向けたまま、憎々《にくにく》しげにいった。
一瞬、とまどう。頭の回路が、混乱していた。
昌吉じいさんを見た。じいさんは、道ばたに坐《すわ》り込んでいた。ツギだらけの野球のユニフォーム。スパイク・シューズ。
パイナップル畑に突っ込んだとき、どこかにぶつけたんだろう。海苔《のり》みたいに濃い眉《まゆ》の上に、血がにじんでいる。
「このじいさんの、子供が……」
おれは、思わずつぶやく。
「イェッ。そういうことのっ」
とゴサクじいさん。昌吉じいさんは、いい返さない。無言で、赤土の道路をながめている。ということは、本当なのか。
「もう少し、ちゃんと説明してくれないか」
おれは、ゴサクじいさんにいった。
「いいだろう、ボーイ」
とゴサクじいさん。
「この昌吉をぶち殺したら、わしは自首する。そのときは、ユーにも証人になって欲しいからの」
ゴサクじいさんの太い腹が深呼吸。声も、少し落ちついてきた。
「わしは、ナカノ・ゴサクといって、ラハイナの町で日本食堂をやっとるんよ。この娘は、レニといって、わしの孫の」
レニは、昌吉じいさんのとなりに、しゃがみ込んでいる。じいさんのかすり傷を、心配そうにのぞき込んでいる。
「レニは、四分の一だけハワイアンの血が入っとる。今年で、一九になるの」
とゴサクじいさん。
レニの肌は、みごとなチョコレート色だった。半分は地。半分は、マウイ島の太陽がつくったんだろう。
すんなりと長いスネは、棒チョコを想像させる。かわいらしい丸顔は、さしずめチョコボールだろう。
対照的に、歯は真っ白だ。笑うと、チョコレート色の顔の中で、白い花が咲いたように見える。
たとえば、ハワイ産|陽灼《ひや》けオイル。そんな瓶《びん》のラベルに使うなら、ぴたりのロコ・ガールだった。ビキニスタイルで、プルメリアのレイでも首にかけたら、ハワイの観光絵葉書になるだろう。
いまは、白いタンクトップ。綿のスカートは〈|貝殻しょうが《シエル・ジンジヤー》〉の花|柄《がら》だ。足もとは、白いテニスシューズ。
ゴサクじいさんは一九といった。が、一六、七に見える。
おれは、昌吉じいさんを見て、
「……しかし、このじいさん、もう八〇近いだろう」
とつぶやいた。
「わしも、そう思って油断しとったのよ」
とゴサクじいさん。トゲだらけの視線を、昌吉じいさんに向けた。
「昌吉は、昔から店の常連だし、レニのことも、子供の頃《ころ》から知っとるの。昔からよく、盆《ボン・》踊り《ダンス》や何かに連れていってくれたのよ」
「それがどうして」
「このじじいにきけ!」
とゴサクじいさん。銃口を、昌吉じいさんの顔に向ける。昌吉じいさんは、無言。あきらめ顔で、赤土の地面を見つめている。
ゴサクじいさんはつづける。
「つい一〇日前のこと。ばあさんが、口から泡吹いて、飛んできよっての。レニのお腹にベイビーがいる、四か月だいいよるでしょうが」
肩で、ひと息ついて、
「わしゃ、びっくりたまげて、レニを問いつめたのよ。そしたら、なんと、この昌吉が犯人じゃと」
唇《くちびる》の端が震える。
「わしの頭は、キラウエアみたいに噴火したのっ」
キラウエアは、ハワイ島にある活火山だ。
「わしゃ、ピストル持って飛び出したの。ラハイナのまわりをぐるぐる捜したの。二日も三日ものっ。けど、噂《うわさ》をききつけたか、この昌吉はどこかへ姿をくらまして……」
ゴサクじいさんは、一歩、昌吉じいさんにつめ寄る。
「やっとつかまえたのっ」
銃口が、ピクピクと震える。
昌吉じいさんのコメカミに、冷や汗がひと筋。
「そうか……」
おれは、つぶやいた。胸の中の疑問符が、一つずつ消えていく。
ホノルルの息子に引きとられる。それにしては、昌吉じいさんは元気過ぎる。
「ホノルルに引きとられるってのは作り話で、ホノルルに逃げ出すつもりだったんだな」
昌吉じいさんの太い眉が、文楽《ぶんらく》人形みたいに、上下に動いた。イエスということだろう。
「なんてじじいだ」
野球の試合がはじまるとき、昌吉じいさんだけ、一人遅れてきた。どこか、姿をくらましていた所から、のこのこと出てきたんだろう。
「それも、これで、ジ・エンドのっ」
とゴサクじいさん。引き金にかけた指に力がこもる。
「やめて!」
とレニ。昌吉じいさんをかばう。自分の体を、昌吉じいさんの前に。
「まあ、ちょっと待てよ」
おれも、ゴサクじいさんにいう。
「ぶち殺したい気持ちはわかるけど、ちょっとは考えろよ。あんたが殺人犯になるのはいいが、そうなったら、レニも父親のない子供を生むことになるんだぜ」
「……ててなし子か……」
ゴサクじいさんは、つぶやいた。
「そういうこと。ま、起こったことはしょうがない。何かいい手を考えようぜ」
CFの仕事で、何か失敗をしたときによく使う台詞《せりふ》だった。
□
「結婚だって?」
ゴサクじいさんが、おれの顔を見た。
「そう、結婚させるしか手がないだろう、このさい」
おれは、いった。
「昌吉じいさんだって、レニが嫌《きら》いじゃないだろう。子供まで仕込んだんだからな」
昌吉じいさんが、小さくうなずいた。
「カッカしたあんたがピストルを持って捜し回ってる。そうきいて、この島から逃げ出そうと思ったんじゃないのか」
「……そういうことの」
と昌吉じいさん。やっと、口を開いた。
「わしじゃて、祖先は薩摩《さつま》藩の士族の。やり逃げなんぞせん」
「まあ、サツマ藩はどうでもいいけど、この娘と一緒になる気はあるの、じいさん」
「ホノルルで落ちついたら、なんとか呼び寄せるつもりじゃった」
「そうか。レニは、どうなんだろう」
おれは、英語でレニにきいた。
「このじいさんと、結婚するつもりはあるのか?」
レニのチョコレート色の顔が、ゆっくりとうなずいた。オーケーらしい。
「なら、問題ないじゃないか」
おれは、ゴサクじいさんに、
「あんたは、人を一人殺すかわりに、あと六か月したら、ひ孫を抱くことになる。その方が、少なくとも生産的ではあるわけだ」
□
「先に乗るんじゃ」
とゴサクじいさん。銃口で、おれと昌吉じいさんをうながす。
三〇分がかりで、やっと、二人の結婚をゴサクじいさんに納得《なつとく》させた。ところが、
「なら、いますぐ、結婚させるの」
といい出した。
「昌吉のやつ、いつ逃げ出すかわからんけんの。いますぐ、結婚式のっ」
昌吉じいさんは、口をとがらせて、
「けど、わしら、いま野球の試合中の」
「ふんっ、パイナップル巨人軍か」
ゴサクじいさんは鼻で嘲笑《わら》うと、
「そうじゃ、野球チームのゲンサクは神主《かんぬし》だったの」
といった。キャッチャーのゲンサクじいさんの、丸|眼鏡《めがね》の顔を、おれも思い出す。
「そうじゃ、神主じゃった。よし、野球場で、みんなに立会い人になってもらって結婚式じゃ」
ゴサクじいさんは、一人で納得する。とにかく、野球場へ戻ることになった。
昌吉じいさんのボロトラックは、もう使い物にならない。
「ありゃ、パイナップル畑の肥《こや》しの」
ゴサクじいさん。おれと昌吉じいさんに銃口を向けて、
「あれに乗れ」
と、自分のフォードをさした。
「レニ、運転するの」
レニを、運転席に上げる。おれと昌吉じいさんに、トラックの荷台に乗れといった。
レストランの仕入れ中だったんだろう。荷台には、食料品が載っていた。木箱に入った野菜。ビニール袋に入った魚。キッコーマン醤油。
昌吉じいさんは、トマトの木箱に。おれは、ジャガイモの木箱に坐る。ゴサクじいさんも荷台に上がってくる。おれ達に銃口を向けたまま、
「いけ!」
と運転席の屋根を叩《たた》いた。
「オーケーイ」
窓から、レニが手を振った。トラックは、ガタッと動き出す。
□
「わし、結婚することになった」
と、昌吉じいさんはいった。
トラックが、野球場に着いて、
「遅かったの。何してたんじゃ」
と、オキタじいさん達が集まってきたときだった。
「結婚することになったの」
と昌吉じいさん。トラックの荷台をおりながらくり返す。
「いつ決まった」
とオキタじいさん。
「ついさっきの」
と昌吉じいさん。すました顔でいう。ホウという声が、じいさん達から上がる。
運転席からレニが、荷台からゴサクじいさんがおりてくる。
パイナップル巨人軍のじいさん達は、みな、事情を知っていたらしい。
「そりゃ、よかったの」
「それがいい、それがいい」
という声が上がる。ロケ隊の連中は、あっけにとられている。
「け、結婚って、誰と誰が!?」
浅Pが、荷台からおりたおれにきく。
「まあ、事情はゆっくり話すから」
おれは、買ってきたボールをオキタじいさんに投げた。オキタじいさんが、
「さ、試合再開の」
といったとたん、
「ノッ。結婚式のっ」
ピストルを握ったままのゴサクじいさんがいった。
「結婚式ったって、ベイスボゥルの試合中の」
とオキタじいさん。
「ノッ。いま、式を挙げるの」
とゴサクじいさん。
「あと二回で終わるけん、待っておれ、ゴサク」
とオキタじいさんがなだめる。
「あと二回か……」
「イェッ。一時間はかからないの」
ゴサクじいさんは、ピストルを握ったまましばらく考えると、
「オーケーイ。いいじゃろう。けど、逃がさんぞ昌吉」
ベンチの方に歩いていこうとする昌吉じいさんの腕をつかむ。
「レニ、やつをつかまえとれ」
と、レニに英語でいう。レニに、昌吉の腕をつかまえさせる。自分も、昌吉じいさんの背中にピストルをつきつけて、
「さ、逃げるなよ」
とベンチの方へ歩かせる。
□
「うっそーおっ」
と、女子大生みたいな声を上げたのは麻子だ。
「信じられんなあ」
と浅P。パイナップル巨人軍のベンチを見た。
おれが、昌吉じいさんとレニの事情を説明したところだった。
「あのじいさん、眉なんかゲジゲジと濃くて、なんか、そんな感じがしたぜ」
といったのは市カメだ。
「それにしても、あきれたというか」
「うらやましいというか」
みんなで、昌吉じいさんの腕をつかんでるレニをながめる。
「さ、試合再開のっ」
オキタじいさんが叫んだ。
□
八回表。マヒマヒ・タイガースの攻撃。この回トップ・バッターの香川。一球目からのやりなおしだ。
「ありゃ、なんだ」
浅Pが声を上げた。
パイナップル巨人軍のじいさん達は、守備位置についていた。ピッチャーの昌吉じいさん。そのすぐ後ろに、ピストルを握ったゴサクじいさんが立っている。
「ピッチャーの助手かい」
と誰かが叫ぶ。
「ノッ。こいつが逃げないように、監視の。結婚式を挙げるまでは離れんの」
と、ゴサクじいさんが叫び返してくる。
「ま、付属品だと思えばいいか」
とケンちゃん。バットを握ってバッター・ボックスへ。浅Pが、
「今度は振るなよ!」
と叫んだ。
□
「ストライク・アウト!」
審判のロコ・ボーイが叫んだ。
「いや! もう」
と一番打者の麻子。ぷりぷりとバストを揺らせながら、ベンチに戻ってくる。
ど真ん中のストライクだった。この回トップ・バッターの香川。つぎの麻子。連続三振にとられた。
文句のつけられない、ど真ん中の球だった。いくら審判少年にワイロを握らせてあっても、これじゃ無駄だ。浅Pが、
「昌吉じいさんのやつ、急にコントロールが良くなりやがったなあ」
とつぶやく。
「原因は、あれだよ」
おれは、相手のベンチをさしていった。パイナップル巨人軍のベンチには、レニが一人で坐ってる。
昌吉じいさんがストライクをとるたびに拍手する。何か、英語で声援を送る。昌吉じいさんは、そのたびにちょっと顔を赤くする。前より、動作がテキパキしている。背筋がのびている。おれ達のベンチじゃ、
「見栄《みえ》っぱりめ」
「けど、じいさんも、やっぱり男なんだなあ」
の声。
「感心してる場合じゃないぞ」
と浅P。つぎのバッターの市カメに、
「フォア・ボールを待ってないで、かっとばせ」
と指示する。
□
おれたちマヒマヒ・タイガースのバットも、かなりボールに当たるようになった。
ツー・アウトから2点入れた。
16対15。1点差に迫る。
けど、この回はそれまで。八回裏。じいさん達の攻撃だ。
□
バッター・ボックスに歩いてくる昌吉じいさんを見て、浅Pが苦笑した。
八回裏。ツー・アウト、ランナーなし。三人目のバッターは、昌吉じいさんだった。バットを握って歩いてくる。そのすぐ後ろにはゴサクじいさん。あい変わらずピストルを持って監視している。
「つきそい付きのバッターってのも珍しいな」
と、おれは声をかけた。
「逃げられるといけんからの」
とゴサクじいさん。バッター・ボックスのすぐわきに立つ。
「かっ飛ばすからのっ、ボーイ」
と昌吉じいさん。素振りを二回、三回。
「何をいうか、クソじじい。飛ばせるのは子種だけだろう」
と、ゴサクじいさん。
一球目を投げた。外角高目。じいさんが、バットを振った。コーンッと軽い音。上がる。ライト・フライだ。
レニが歓声を上げた。昌吉じいさんは、一塁へ走り出す。
「おいこらっ」
とゴサクじいさん。あわてて、昌吉じいさんの後を追いかける。
「逃げるなっ」
「逃げるわけじゃないのっ。打ったら走るのっ」
と昌吉じいさん。後ろのゴサクじいさんに、ふり返って叫ぶ。
ライトは、カメラ助手の林だ。前進してくる。ふいに、
「あっ、ヤバ!」
今度は後退しはじめる。フライの目測をあやまったらしい。必死で後退。後退。グラヴをのばす。
落ちてきたボールは、グラヴをかする。が、キャッチはできない。芝生に落ちる。転がる。
「走れ昌吉!」
じいさん達のベンチで声が上がる。昌吉じいさんは、一塁ベースのかなり手前だった。ベンチの声で、ライトのエラーに気づく。あわてて、本気で駆け出す。
「こらっ待てっ」
追いかけるゴサクじいさんも、あわててスピードを上げる。二人して一塁ベースを回る。前後に並んで、二塁へ駆ける。
「ドジッ、ギャラなしだぞ、林!」
浅Pがどなった。林は、やっとボールに追いついた。つかむ。ふり返る。
「二塁だ!」
誰かが叫んだ。林は二塁へ送球。〈ギャラなし〉の声がきいたのか、やたらいい送球だった。ワン・バウンド。二塁に入っていたカマ太郎がつかむ。
昌吉じいさん達は、まだ、一塁と二塁の真ん中だった。
「おっと」
あわててUターン。一塁に戻ろうとする。追いかけてきたゴサクじいさんも、一緒にUターン。もつれ合って一塁へ戻ろうとする。
カマ太郎が、一塁へ投げた。市カメが捕球。
「おっとっと」
一、二塁間にはさまれた昌吉じいさん。また、あわててUターン。
「こらっ、逃げるな」
とゴサクじいさん。
「逃げてるんじゃないのっ。はさまれたのっ」
と昌吉じいさん。必死で駆ける。
ボールは、一塁と二塁をいったりきたり。はさまれた昌吉じいさんも、右に、左に。ゴサクじいさんも、ピストルを持ったまま、一緒に右に、左に。
やがて、じいさん二人の足がもつれる。芝生に転ぶ。
「御用!」
と一塁手の市カメ。昌吉じいさんの肩にタッチした。
「このボケナスが!」
と昌吉じいさん。眉をぴくぴくさせて、ゴサクじいさんにくってかかる。
「ユーのおかげでアウトになったでしょうが!」
「ふん。ユーの足が遅いの。手だけは早いくせに!」
とゴサクじいさん。ピストルをふり回して、やり返す。
「まあまあ」
カマ太郎が間に入った。
「どなり合いでも撃ち合いでも、あっちでごゆっくり。アウトなんだから、さ、帰ってよ帰って」
□
九回表。1点差を追いかけるおれ達の攻撃だ。
「いいか。どんな手を使っても、追いつくんだ」
と浅P。
「この回に限り、ヒット一本につき一万円出そう」
やたら重々しくいった。
「どうしたんだよ、浅P。昼飯のマウイ・ゲリが、ついに頭にきたかね」
と市カメが冷やかした。
「じゃ、二塁打は二万円、三塁打は三万円ですか」
とポチがきいた。
「いや、二塁打は一万三〇〇〇円。三塁打は一万六〇〇〇円」
と浅P。あくまで渋い。
□
この回、トップ・バッターは浅Pだ。バッター・ボックスに入る。かまえる。フォア・ボールは狙《ねら》わず、打っていくかまえだ。
ピッチャーの昌吉じいさんの後ろには、あい変わらずゴサクじいさん。ピストルを持って監視している。
一球目。昌吉じいさんが投げた。外角に、はずれる。
「なんてのろい球《たま》だ」
後ろで、ゴサクじいさんがいった。
「うるさいのっ」
と昌吉じいさん。二球目を投げる。かなり内角。浅Pがのけぞる。
「コントロール悪いの」
ゴサクじいさんが、ぶつっといった。
「いちいち、うるさいのっ」
と昌吉じいさん。文楽人形みたいに眉をつり上げた。
三球目。ファウル・チップ。
「あんないいコース投げたら、打たれる打たれる」
とゴサクじいさん。
「黙らんかい、この!」
と昌吉じいさん。ふり向いて、眉をひくひくさせる。
四球目。ど真ん中。浅Pが振った。当たる。ワン・バウンドでピッチャーへ。昌吉じいさんの下腹に当たった。急所だったらしい。
「うっ」
という声。昌吉じいさんは、急所を押さえる。うずくまりかける。
浅Pは、バットを捨てる。一塁に駆け出す。
ベンチから、レニが飛び出してきた。一塁に駆けていく浅Pに、くってかかる。何か、英語で叫ぶ。
昌吉じいさんにぶつけたことを怒ってるらしい。浅Pにつかみかかる。背中を叩《たた》く。
「ま、待て! お、おれは何も!」
と、あせった浅P。
「や、やめろ! い、痛!」
背中を丸めて逃げる。おれ達は大笑い。
レニは、マウンドの昌吉じいさんに駆け寄る。
「大丈夫!? 昌吉!?」
と英語できく。しゃがみ込んでるじいさんを、のぞき込む。
「だ、大丈夫の」
と昌吉じいさん。額《ひたい》に汗。それでも、白い歯を見せる。
「ありゃ痛いよ」
「急所だもんなあ」
「当分、使いものにならないぜ」
おれ達のベンチから、声が上がる。
「大丈夫の」
と昌吉じいさん。そろそろと立ち上がる。レニが、肩を貸してささえる。じいさんは、片手で急所を押さえたまま。ちょっと、へっぴり腰。ゆっくりと、ベンチへ歩いていく。
「見せて」
とレニがいった。
「見せてって、どこを?」
昌吉じいさんが、眼《め》を丸くする。
「ボールがぶつかったところよ。大丈夫かどうか、見せて」
「そ、そんなこといってもの、あそこじゃけんの」
「だから、大切な所でしょう。見せて。もしかしたら、お医者にいかなきゃならないでしょう」
「けど」
「見せて」
とレニ。昌吉じいさんの腕を引っぱっていく。
グラウンドのわきに、ハイビスカスの茂みがある。二人は、そこへ入っていく。
昌吉じいさんの、胸から上が見える。もそもそと、何かやってる。ズボンをおろしたらしい。
レニの頭が見えなくなった。しゃがみ込んだらしい。
「いいな、いいな、お医者さんごっこ」
とポチがいった。
「うるさいのっ」
と昌吉じいさん。眉をぴくぴく動かしてどなった。
□
四、五分後。点検が終わったんだろう。二人は、茂みから出てくる。
「どうだった」
おれは、レニにきいた。レニは、一瞬、頬《ほお》を赤くする。
「ポシブル」
とひとこといった。
「ポシブルってのは、可能って意味じゃないのか」
と市カメ。
「そうだなあ」
「どういうこっちゃ」
「点検だけじゃなくて、エンジンもかけてみたんだろう」
「まあ、そういうことなんだろう」
おれ達は、何となくうなずく。
「ま、とにかく、無事で何より」
「さ、試合再開のっ」
とオキタじいさん。さすがに、昌吉じいさんは、
「わしゃ、ちょっと休むけんの」
とベンチに坐り込んだ。
「休むって、じゃ、誰がピッチャーやりよるの」
とオキタじいさん。
「わしがやる」
といったのは、ゴサクじいさんだ。
「さっきから見てりゃ、ヒョロヒョロ玉ばかり投げよって、わしの方が、倍も早いの」
と、ゴサクじいさん。ピストルをベルトにはさむ。昌吉じいさんのグラヴをはめる。
「ボール、貸してみんさい」
□
「早いことは早いけど」
おれは、バットを持って苦笑した。
投球練習をしてるゴサクじいさん。早いのは、ボールじゃなくて投球動作だ。
短気で高血圧っぽい外見どおり。せかせかと、せわしなくボールを投げる、が、本人が思ってるほど、ボールは早くない。
一〇球ぐらい投げて、
「準備オーケーイ」
とゴサクじいさん。試合再開だ。
一塁ランナーは浅P。バッターは、おれだ。
「かっとばしてくれよ、ぼん」
と浅P。一塁から声をかける。
「まかせなさい」
一球目。せかせかとゴサクじいさんは投げる。外角低目。ボール。
二球目。真ん中高目。振る。当たった。が、ゴロだ。セカンド・ゴロ。駆け出す。
二塁手のじいさんが、グラヴをかまえる。その前を、ランナーの浅Pがよぎった。どう見ても、わざとだ。タイミングをはかって、前をよぎったらしい。
ふいに目の前をよぎられて、二塁手のじいさんはボールをそらす。ボールは、ライト方向に転がる。おれも、あわてて一塁に走る。浅Pは二塁を蹴《け》って三塁へ駆け込む。
「ありゃ、守備妨害のっ」
オキタじいさんと、二塁手のじいさんが、三塁ベースに立っている浅Pにつめ寄る。が、
「ノー、ノー」
と浅P。涼しい顔で、
「偶然よ、偶然」
とかわす。1点差だから、じいさん達もくいさがる。が、何をいっても浅Pは、
「偶然だってば。そんな怖《こわ》い顔してるとシワがふえるよ」
どっちみちシワだらけのじいさん達にいう。
「ほら、笑って。セイ・チーズ」
蛙《かえる》の顔に小便だ。じいさん達も、あきらめて守備位置に戻る。ノー・アウト、一、三塁だ。
□
風が涼しくなってきた。
気がつけば、陽射《ひざ》しもかなり斜光だ。グラウンドの芝生、一本一本に、くっきりとした陰影がついている。
一塁ベースに立って、おれは深呼吸。そのとたん、大きな音がきこえた。
ブラスバンドの演奏だ。町の方から、風にのってきこえてくる。時計を見た。午後三時二分過ぎ。日系移民百年祭の式典らしい。
グラウンド中の誰もが、町の方をながめる。おれのすぐとなり。一塁手のオキタじいさんも、ふり返る。
三塁ベンチ。レニの膝枕《ひざまくら》で寝っ転がってる昌吉じいさんも、首を起こす。
ブラスバンドの演奏は、まずアメリカ国歌、〈星条旗よ永遠なれ〉。つづいて〈君が代〉。
演奏が終わる。スピーカーから、日本語が流れる。誰か、偉いさんのスピーチらしい。ちぎれちぎれのスピーチが、風にのってきこえてくる。
「ふり返れば百年前、かのシティ・オブ・トーキョー号で太平洋の荒波を渡り」
「幾多の辛苦《しんく》を重ね、試練に耐《た》え」
「されど、日本人魂はキラウエア火山より熱く、志はダイアモンド・ヘッドより高く」
「第二次世界大戦における四四二部隊の活躍は」
「今日の日系人の繁栄と社会的地位の向上はめざましく」
言葉が、風にのってグラウンドの上を通り過ぎていく。
「ふあぁ」
となりで、オキタじいさんがアクビをした。
ベンチの昌吉じいさんは、レニの膝をなでている。
「さ、試合再開のっ」
ピッチャーのゴサクじいさんがいった。投球動作に入る。おれは、一塁ベースから一歩、二歩、リードをとる。浅Pも、三塁ベースをそろりと離れる。
□
コンッ。にぶい音が響いた。
「あちゃー」
とバッターの香川。内野フライだ。三塁線に上がる。
「オーケーイ」
と三塁手のじいさん。二、三歩前進。三塁線でグラヴをかまえる。ボールが落ちてくる。ふいに、浅Pが三塁を蹴った。するすると、ホームに走る。
グラヴをかまえた三塁手のじいさん。浅Pが、そのわきを駆け抜ける。二人の体がすれ違う。瞬間、じいさんの肩に浅Pの肩がぶつかる。
「あっ」
と、じいさんが声を上げる。グラヴの先端にボールが当たる。ポロリと、こぼれる。五〇センチぐらい三塁線の内側だ。
浅Pは、そのままホームへ駆ける。グリコのマークみたいに両手を上げてホーム・ベースを踏んだ。
「同点!」
マヒマヒ・タイガースのベンチで、歓声が上がる。ポップコーンが投げ上げられる。
「ありゃ、妨害のっ」
じいさん達が抗議してくる。オキタじいさんが、浅Pにつめ寄る。
「守備妨害のっ」
「何をおっしゃるウサギさん」
と浅P。すました顔で、
「ただのクロス・プレーよ、クロス・プレー」
「いや、わざとぶつかったのっ。だいたい、あんな三塁フライでホームに走る馬鹿《ばか》はいないのっ」
「そんなの好きずきやんけ。ほっといて」
浅Pはまた、インチキ関西弁をくり出す。
「いさぎようしなはれ、じいさん。ほら、同点や同点」
この回は、結局、1点どまり。16対16の同点で九回裏へ。
□
「引き分けになったら、どないするんや」
とキャッチャーの浅P。バッター・ボックスに入るオキタじいさんにいった。
九回裏。パイナップル巨人軍の攻撃も、ツー・アウト、ランナーなしだ。審判少年へのワイロがきいたらしい。二人とも三振にとった。
三人目のバッターは、オキタじいさんだ。
「引き分けたら、パイナップル畑の件はどうなるんやね」
と浅P。
「まだ、引き分けとは限らんの」
とオキタじいさん。バッター・ボックスで、素振りを二、三回。
「あきらめの悪いじいさんだなあ。どうせ三振よ、三振」
と浅P。グラヴをポンと叩いて、
「さ、片づけよう、ぼん」
「オーケーイ」
おれは、投球動作に入る。オキタじいさんは、口をもぐりとやる。入れ歯をかみ合わせて、バットをかまえる。
一球目。真ん中高目にいった。じいさんがバットを振る。コーンッといい音。
「あちゃっ」
ボールは、頭上を越えていく。左中間だ。センターの香川とレフトのケンちゃんが後退。あわてて、後退、後退、追いつかない。ボールは、芝生に転がる。
じいさん達のベンチから、歓声。全員、立ち上がる。
オキタじいさんは、一塁を蹴《け》る。二塁へ駆ける。帽子が飛ぶ。が、かまわず駆ける。
ケンちゃん達が、ボールを追う。ワン・バウンド、ツー・バウンド、ボールはブーゲンビリアの茂みに入った。
「いけぇ!」
パイナップル巨人軍のじいさん達が叫ぶ。オキタじいさんは、背中を丸めて二塁へ。
「走れぇ!」
「ゴー・フォー・ブローク!」
の叫び声。じいさん達が、腕をぶるんぶるんと回す。
「早くしろ! ケンちゃん!」
マヒマヒ・タイガースの内野から叫び声。ケンちゃん達は、ブーゲンビリアの茂みに首を突っ込んでる。茂みをかき分けて、ボールを捜してる。
オキタじいさんは、二塁を蹴った。三塁へ。
「急げ! ケンちゃん! ランニング・ホームランされるぞ!」
おれは叫んだ。ホーム・ベースを踏まれたら、サヨナラ負けだ。
オキタじいさんは、三塁へ向かっている。さすがに、スピードが落ちた。走り方が、ヨロヨロと苦しそうになる。
ケンちゃんが、やっとボールを見つけた。
「こっちだ!」
内野から叫び声。ケンちゃんは、デタラメに投げる。ワン・バウンドで、ショートのカマ太郎に。
オキタじいさんは、やっと三塁へ。三塁を、蹴った。内野から、
「突っ込まれるぞ!」
「バック・ホーム!」
の声。じいさん達から、
「走れ!」
「ゴー・フォー・ブローク!」
の叫び声。全員、腕を回している。
オキタじいさんは、必死の表情。だが、もうヨタヨタだ。アゴを出している。ひどく苦しそうに三塁線を駆ける。
駆けるというより、もう歩いてるぐらいのスピードだ。
アゴは出る。が、足は出ない。上体が、前へ泳ぐ。
「がんばれ!」
「もうちょい!」
の声がじいさん達から上がる。内野から、
「バック・ホーム!」
の叫び声。カマ太郎が、ホームへ投げる。ワン・バウンド。浅Pが捕球。
じいさんは、まだ、ホームの手前六、七メートル。
ふらふらと足を運ぶ。まるで、酔っぱらいだ。一歩。また一歩。ふらっとよろける。くずれるように、三塁線に倒れた。
レニの悲鳴が、グラウンドに響いた。
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エピローグは滑り込み
□
じいさん達が、ベンチから飛び出してきた。おれ達も、オキタじいさんの所へ駆け寄る。
じいさんは、うつぶせに倒れている。動かない。
「どうした!?」
「救急車か!?」
おれ達が触ろうとしたとたん、じいさんは、はね起きた。
あっけにとられるおれ達の間を、駆け抜ける。あっという間に、ホーム・ベースに頭から滑り込んだ。
「やった! サヨナラ・ホームラン!」
とじいさん達。
「そんな馬鹿な!!」
浅Pが叫んだ。
□
「インチキじゃない」
とオキタじいさん。ユニフォームの前についた土を払いながら、
「ちょっと転んだだけの」
といった。さすがに、息は苦しそうだ。
「転んだだけ?」
おれ達は、口を半開き。
「イェッ。転んじゃいけないというルールはないのっ」
とオキタじいさん。のしイカ色の顔が、ニッと笑った。
「そのままじゃアウトになるんで、わざと倒れやがったな」
おれは、つぶやいた。浅Pが、
「死んだふりかよ。ゴキブリみたいなマネしやがって!」
グラヴを芝生に叩きつける。
「やられたぜ」
「きったねえなあ」
自分達のことは棚《たな》に上げて、おれ達は口をとがらす。けど、じいさん達はもう、
「やったのっ」
「勝ったのっ」
と、互いの肩を抱き合ってる。涙ぐんでるじいさんもいる。
オキタじいさんは、スコア・ボードの所へいく。トータル16対17と白墨《はくぼく》で書く。ひときわ大きく書いた17が、遅い午後の陽射しに白く光った。
□
オキタじいさんは、尻《しり》ポケットから札入《さつい》れを出した。へなりとした札入れだ。そこから1ドル札を出す。
「サンキュー、ボーイ」
と、審判役のロコ・ボーイに渡す。浅Pからのワイロをさんざん稼《かせ》いだロコ・ボーイは、
「じゃあね」
白い歯を見せる。自転車で帰っていく。
じいさんは、ベンチに坐《すわ》る。札入れをじっとながめる。セルロイドの中には、女房の写真が入っている。
「とうとう、勝ったの」
じいさんは、写真に向かって、そうつぶやいた。
「さんざん馬鹿にしよったが、とうとう、わしら、勝ちよったの」
ぽつぽつと、写真に語りかける。
「17対16じゃった。いい試合だったよ。お前にも、見せたかったの」
おれは、じいさんの横顔をじっとながめていた。
「とにかく、一勝したけんの。これで、お前の所へも、胸はっていけるの……」
じいさんは、そうつぶやくと空を見上げる。眼をしばたく。となりにいた麻子が、おれの右腕を、ぎゅっとつかんだ。おれは、
「何をほざく、このじじいが」
と笑いながらいった。
「あれだけしぶときゃ、当分は、くたばらないよ」
□
「さ、結婚式のっ」
とゴサクじいさん。
「一時間も待ってやったけん、すぐやるの」
丸|眼鏡《めがね》のゲンサクじいさんに、
「ユー、神主じゃけん、やってくれ」
ゲンサクじいさんは、眼鏡の奥で眼をぱちくりさせる。
「結婚式いうても、どこで?」
「いま、ここで」
「そんな、無茶な」
「やらないとはいわせない」
とゴサクじいさん。ピストルを、ゲンサクじいさんに突きつける。
「わ、わかった。やるやる」
□
「おい、ポチ」
おれは、呼んだ。
「神主のじいさんが、何か、振るものが欲しいとさ」
「振るもの、ですか?」
とポチ。
「ほら、棒の先に何かヒラヒラとくっついてるものを振るだろう」
「あ、わかりました」
とポチ。駆けていく。すぐに、
「お待ちどお」
と戻ってきた。ヤシの葉を切ったものを持ってきた。
「こんなところで、どうでしょう」
「いいんじゃないか」
おれは、神主のゲンサクじいさんに、
「ほら」
と、ヤシの葉をさし出した。
「これじゃ、違うのっ」
とゲンサクじいさん。
「うるさいこというなよ。場合が場合なんだからさ」
「……わかった、の」
とゲンサクじいさん。ヤシの葉を両手で持って、
「それじゃ、式をはじめるけんの」
といった。
ホーム・ベースに、全員集まっていた。
おれ達マヒマヒ・タイガースが一塁側に。じいさん達が三塁側に。ずらりと並んでいる。
ホーム・ベースのところには、木のベンチが一台置いてある。神座のつもりなんだろう。
その前に、昌吉じいさんとレニが立っている。
レニの髪には、白いプルメリアの花が一輪。麻子が摘んできてやったものだ。
「じゃ、はじめるけんの」
とゲンサクじいさん。パイナップル巨人軍のじいさん達が、野球帽を脱ぐ。
「まず、修祓《しゆうばつ》の儀」
とゲンサクじいさん。
「なんだい、そりゃ」
と浅Pがきいた。
「清めのおはらい、の」
とゲンサクじいさん。
「そうならそうといえよ。わざと難しいこというなって」
と浅P。
「そうだよ。略式だよ略式」
おれ達の方から声が上がる。
「うるさい参列者のっ」
とゲンサクじいさん。それでも気をとりなおしておはらいをする。ヤシの葉先が、夕陽に光る。
昌吉じいさんは、両手を合わせて、一礼。となりで、レニが真似をする。
「じゃ、祝詞《のりと》の奏上の」
とゲンサクじいさん。
「かけまくもかしこきあまてらすおおみかみのおおまえに」
と、うなりはじめる。
おれは、ゲンサクじいさんの肩を叩いた。
「あのさ、略式なんだから、少しはしょってくれない」
「はしょる?」
丸眼鏡の向こう。じいさんの眼玉が、驚いて見開かれる。
「そうだよ。誰もわかりゃしないんだから」
「やったつもり、やったつもり」
の声が、ロケ隊から上がる。
「バチあたりな」
とゲンサクじいさん。それでも、祝詞は、かなり簡単に終わった。
「さて、三三九度はどうするかの」
ゲンサクじいさんは、あたりを見回す。当然、酒も杯もない。
「ビールでやれよ、ビールで」
ロケ隊の誰かがいった。
「それがいいよ、それが」
の声が上がる。
「ビールで三三九度かの。ま、しょうがないか」
とゲンサクじいさん。オキタじいさんが、アイス・ボックスを開ける。バドワイザー・ライトの缶をとり出す。
「それじゃ、これで」
と、うやうやしく昌吉じいさんにさし出す。
「よく冷えてるの」
と昌吉じいさん。缶ビールをプシュッと開ける。
「三回で飲み干すんじゃったかの」
口をつける。ぐいぐいと飲む。
「あ、全部飲んじゃダメのっ」
とゲンサクじいさん。昌吉じいさんから、缶ビールをもぎりとる。レニに渡す。
「三回飲みなさい」
と英語でいった。レニはうなずく。うまそうに三口飲む。缶ビールは、空になったみたいだった。
「あと、玉串|奉奠《ほうてん》、親族杯の儀とかあるんじゃがの」
とゲンサクじいさん。
「省略省略」
の声が、じいさん達からも上がる。
「式よりハートのっ」
とオキタじいさん。
全員に、缶ビールを回す。ゲンサクじいさんは、ヤシの葉を持ったまま、
「じゃ、まあそういうことで、ここにいるみんなを証人に、二人は夫婦ということになったの」
缶ビールを開ける音が、グラウンドに響く。レニが、昌吉じいさんの頬にキス。
「いいなあ、あれ」
といったのはポチだ。レニの歯が、白く光る。グラウンドを渡る風に、〈|貝殻しょうがの花《シエル・ジンジヤー》〉のスカートがふわりと揺れた。
□
「ところで、パイナップル畑の件はどうなるのかな」
と浅P。缶ビール片手に、オキタじいさんにきいた。
昌吉じいさんとレニを囲んで、ビールを飲みはじめたところだ。
「わしらが勝ったんじゃけん、ダメの」
とオキタじいさん。
「そんな……」
浅Pが、口をとがらす。オキタじいさんは、
「まだ、ボーイ達にもチャンスはあるの」
「チャンス?」
「イェッ。ほら、昌吉がホノルルいかないことになりよったでしょうが。じゃけん、また明日、ベイスボゥルの試合ができるでしょうが」
「明日?」
「イェッ。トゥモローの。今度はボーイ達が勝つかもしれんの。そしたら、パイナップル畑を撮影に使ってもいいけの」
「明日も野球かよぉ」
浅Pが、うんざりといった。
「まあ、そういうな」
おれは、その肩を叩いてなぐさめる。
「そうですよ、浅P。今度は勝てますよ」
とポチ。ビールを飲みながらいう。
「今度こそ、ロケ隊パワーを見せつけてやりましょう」
「イェッ。トゥモローの」
とオキタじいさん。もぐりと噛《か》むようにビールを飲んだ。
歌声が流れはじめた。じいさん達の歌だ。のどかなテンポとメロディー。〈ホレホレ節〉だ。
昌吉じいさんとレニを囲んで、じいさん達は唄《うた》う。レニも知っているのか、歌に合わせて唇を動かしている。
今日のホレホレ
つらくはないよ
ゆうべ届いた里だより
オキタじいさんが、何かとり出した。白い紙袋。赤と黄で印刷された文字。家から持ってきた国宝ライスだ。
「昌吉、ホノルルにいかなくなったけん、これを持たせてやることもなくなったの」
袋を開ける。
「白人《ハオレ》スタイルで、お祝いするかの」
と、ライスをひとつかみ。
「コングラチュレイションのっ」
二人に、浴びせかけた。
「まるで、花咲《はなさか》じいさんだな」
米粒を投げ上げるオキタじいさんをながめて、おれはいった。
「わしも」
と二、三人のじいさん。米粒を、昌吉じいさんとレニに浴びせかける。
ケンちゃん、市カメ、浅Pも国宝ライスの袋に手を突っ込む。
「コングラチュレーション!」
とケンちゃん。
「一九歳のカミさんかよ。うらやましいこった」
と市カメ。
「ギックリ腰でくたばれ!」
と浅P。口ぐちに何かいいながら、米粒を二人に浴びせかける。
「あんなに、顔、くしゃくしゃにしちゃって、嬉《うれ》しそう……」
と麻子。二人をながめて、ポツリとつぶやいた。
「いい年齢《とし》してニヤけて、困ったじいさんだ」
おれは、精一杯、皮肉っぽくつぶやいた。それでも、目頭がツンとする。唇をきつく結んで、空を見上げた。
投げ上げられる国宝ライス。白い米粒が、噴水のように空に散る。マウイ島の夕陽《ゆうひ》に、サラサラと光りながら散っていく。
じいさん達の唄う〈ホレホレ節〉が、たそがれの涼しい風にのって流れていく。
心からとて
我が土地はなれ
今はマウイで苦労する
ハワイ国では
時間がたより
あなた一人がわしゃたより
ゆこかメリケン
帰ろか日本
ここが思案のハワイ国
ゆこかメリケン
帰ろか日本
ここが思案のハワイ国
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あとがき
1984年・秋。マウイ島にいた。
風が、パイナップル畑を渡る朝。サトウキビ畑に陽が落ちる夕方。そんな休暇を過ごしていた。
その午後。ひとりの日系二世と話していた。胸板の厚い老人だった。
彼の口から、懐しい名前をきいた。ウォリー・ヨナミネ。ハワイ・マウイ島出身。その名前を口にしたとき、老人の眼が、一瞬、輝いた。
少年時代の記憶が、ふいに、僕の胸によみがえった。本郷の裏通り。キャッチボール。近所の空き地。三角ベース。陽ざしと草の香り。グラヴから漂う皮の匂い。指先にざらつく軟球の感触。
ひとつの野球物語が、心の中に芽を出しはじめていた。
1985年・夏。
PL学園が甲子園の決勝に進んだ日。物語を書きはじめた。僕にとってのプレイボール。少し汗ばむ指で、ペンを握った。投げるように、打つように、走るように書いた。
そして、秋。阪神タイガースのマジックが3になった日。この物語を書き終えることができた。胸の中で、試合終了のサイレンが鳴った。僕の夏が、またひとつ終わった。
いつも作者の暴投を必死にうけとめてくれる角川書店の矢口卓キャッチャー。適確なアドバイスで作者を勇気づけてくれる青木誠一郎コーチ。彼らがいなければ、9回裏まで投げつづけることはできなかっただろう。
感謝します。
1986年2月ホノルルにて
[#地付き]喜 多 嶋 隆
角川文庫『パイナップル巨人軍』昭和63年8月10日初版発行