[#表紙(表紙.jpg)]
ツイン・ルームから海が見える
喜多嶋隆
目 次
あの虹《にじ》にグッドバイ
最後のシングル・ナイト
ポケットいっぱいの潮風
イエスタデイ
マスタードが目にしみる
クロールを、もう1度
あとがき
文庫版あとがき
[#改ページ]
あの虹《にじ》にグッドバイ
□
「おい、どうした」
僕はふり向いた。オアフ島あちらこちらの波情報を流しているラジオを指さすと、
「サーフィンでもはじめるのか?」
とバーテンダーの芳《フオン》に言った。
□
ハワイ。ホノルル。午後2時、南十字星《サザン・クロス》ホテルのプールサイド。
すいていた。デッキ・チェアーには、白人の観光客が5、6人。泳いでいる客もいない。僕は、プールサイド・バーのカウンターにもたれて、のんびりとプールを見渡していた。透明な陽ざしだけが、プールの青に、はじけていた。
気がついたのは、そんなときだった。フォンが、ラジオのチューニングを変えていたのだ。
プールサイド・バーのラジオは、普通、FM局のKRTRにチューニングしてある。KRTRは、ソフト・ロック専門の局だ。選曲もバラード調のものが多い。バーで流すには悪くない。
けれど、いまフォンがチューニングしている局はKQMQ。地元の若い連中が93FMQと呼んでいる局だ。ロックのヒット曲を中心にかける。そして、曲の間に、よく波情報を流す。オアフ島全体の波情報や天気予報を、サーファーに向けて流すのだ。当然、若いサーファー連中には人気の局だ。が、
「いったい、どうしたんだ」
僕は、包丁でレモンをスライスしているフォンに、微笑《わら》いながら、
「そのまな板でサーフィンでもやろうってのか?」
と言った。
「フン!」
とフォン。からかわれたもので、鼻で返事をした。手を動かしながら、
「あさっては|休み《オフ》だから、船で釣りにいこうと思ってるんだ」
と、ぶっきらぼうに言った。
「釣りか……」
僕は、つぶやいた。フォンは、よく魚釣りにいく。釣ってきた魚を、上手に料理する。僕も1度、フォンのアパートメントで食べたことがある。観光客向けの魚マヒマヒ(シイラ)なんかでも、中国人《チヤイニーズ》のフォンが料理すると、極上《ごくじよう》の中華料理になるのだ。
「からかって悪かった。いい魚が釣れたらごちそうしてくれよ」
微笑《わら》いながら言う僕に、
「ま、考えとくよ」
とフォン。そのとき、RRRRR! バーの電話が鳴った。フォンがとる。
「ケンジ、あんたにだ」
僕は受話器をとる。ホテルのオーナー社長、Mr.ヤマザキだった。
「ああ、ケンジか、いまプールサイドをはなれられるか?」
「もちろん。いま、泳いでいる客はゼロです」
僕は言った。事実だった。こういう時も、たまにはある。ヴァケイションの季節とハネムーン・シーズンの合い間なのだ。
「じゃ、いますぐ私の部屋にきてくれ」
とMr.ヤマザキ。
「了解」
□
僕は社長室の前に立った。ノックを3回。返事を待たずにドアを開けた。
Mr.ヤマザキは、デスクの向こうにいた。あいかわらずダンディーだ。紺のブレザー。ボタンダウン・シャツは、白のオックスフォード地。青いニット・タイにはR《ラルフ》・ローレンのマークが入っていた。
「じゃ、紹介しよう。彼がうちのプールの監視員《ライフ・ガード》兼|保安係《セキユリテイ》のケンジ・マツモトだ」
とMr.ヤマザキ。日本語で言った。さすがに、ホテル探偵とは言わず、保安係と言った。日本人が2人、ソファーから立ち上がった。1人は、中年男。もう1人は、若い娘だった。
「CFプロデューサーの芝崎さんと、制作進行の草柳さんだ」
とMr.ヤマザキ。やはり日本語で言った。
「よろしく」
と2人。僕に軽く頭を下げる。
「まあ、君も坐って」
と、Mr.ヤマザキ。僕に言った。僕らはソファー・セットに坐る。
僕は、見るともなく2人を見た。プロデューサーの芝崎という方は、40代の終わり頃だろうか。がっしりとした体格。硬そうな口ヒゲ。ジーンズ。カーキ色のTシャツ。CFプロデューサーというより、どこかスポーツ・チームの鬼コーチという雰囲気だった。
制作進行の草柳という娘《こ》は、まだ20代の前半だろう。スリム・ジーンズ。白いテニス・シューズ。〈STAFF《スタツフ》〉とプリントされた黄色いTシャツ。同じ黄色のバンダナで髪を束ねている。こちらは、スポーツ・チームの女子マネージャーという雰囲気だった。
□
「うちのプールで、CFの撮影を?」
僕は訊《き》き返した。
「ああ。そうなんだ。それで、君にきてもらったわけだ」
とMr.ヤマザキ。
「この人たちは〈ヌーベル〉という東京のCFプロダクションのスタッフで、きょうの昼過ぎに、うちにチェック・インしたんだ」
と言った。
「まあ、ごく簡単に説明するとこうだ」
とMr.ヤマザキ。
「スタッフ総勢18人がうちに泊まる。そのかわりというか。プールに客のいなくなった夕方、あそこを撮影に使いたいということだ」
と日本語で言った。
「どうだろう、ケンジ。いま、プールから客のいなくなるのは、何時頃かな?」
Mr.ヤマザキは、僕に訊《き》いた。
「うーん……いまは特に客が少ないから、午後4時頃には、プールサイドから、ひとけがなくなるんじゃないかな……」
僕も日本語で答える。Mr.ヤマザキは、プロデューサーの芝崎を見た。
「午後4時というのは、どうですかな?」
「これから、陽《ひ》の長さも含めてロケハンしますが、どっちみち夕方を狙《ねら》った撮影だから、まず大丈夫だと思います」
と芝崎。僕に向かって、
「こんなコンテなんです」
と、カラーコピーらしいコンテを広げた。
〈たそがれのプールサイド〉〈白いタキシードの男性モデル(白人)、赤いカクテル・ドレスの女性モデル(日本人)、スロー・ダンスを踊っている〉〈踊っている2人の手には、ワイン・グラス〉
「これが、メインの絵柄《ビジユアル》です。つまり、新発売されるワインのCFなわけです」
と芝崎。僕は、うなずく。
「陽《ひ》が落ちた直後のプールサイドで、美しいたそがれの情景を撮りたい。だから、プールの水中に灯を入れてもらいたいんですが、可能ですか?」
芝崎は訊《き》いた。
「それはお安いご用だ。プールの水中灯はいつでもつくし、必要とあれば水中にクジラでもサメでも泳がせましょうか?」
と僕。芝崎は声を上げて笑った。
「いや、それはけっこう。しかし、ホテルの方々が気難かしくなくて助かった」
と言った。制作進行の草柳という娘《こ》も、白い歯を見せて微笑《わら》った。僕らは、さらにコンテを間に打ち合わせをつづける。カメラ・アングルを考えると、プールサイドに低い足場《イントレ》を組む必要がありそうだった。モデルたちに当てるライトも必要だった。
「その辺の機材は、すべて私たちが機材レンタル屋で用意します」
と芝崎。
一番ロング・ショットになると、背景の海と空がカメラ・フレームに入る。
「きれいな夕焼けの空が欲しいんだよなァ」
と芝崎。僕は微笑《わら》いながら、
「それだけは、レンタル屋でも貸してくれないから、運しだいということになるなあ」
と言った。
「とにかく、ねばり強く、何日でも待つつもりだ」
芝崎は言った。
□
翌朝。9時。まだ客の出てくる前のプールサイド。
「あのォ……」
という声。僕はふり返る。制作進行の娘《こ》が立っていた。Tシャツにショートパンツ姿だった。足もとには、きのうと同じテニス・シューズをはいていた。日本人にしては長い脚が、よく陽灼けしていた。
「あ、君は草……」
と言いかけた僕に、
「あっ、草柳|朝美《あさみ》です。でも、アサミでいいんです。ロケ隊のみんなもそう呼んでますから」
と彼女。僕はうなずいた。
「で?」
「あの、プールサイドを磨くブラシ、ありますか?」
とアサミ。
「もちろん、あるけど……」
「撮影の前に、ここ、きれいにしときたいんです」
とアサミ。僕は、プールサイドを見渡した。コンクリートのプールサイドには、よく見れば確かに汚れがついている。客たちがこぼした飲み物やアイスクリームのあとだ。普通は気にならない。が、撮影となると、問題は別なんだろう。
「オーケー、ブラシを出してこよう」
僕はアサミに言った。整備用具の倉庫から、デッキ・ブラシ2本とホースを出してくる。
「暇だから、僕も手伝おう」
と言った。デッキ・ブラシの1本をアサミに渡した。
□
「制作進行ってのは、こんなことまでやるのか?」
デッキ・ブラシを動かしながら、僕は言った。ホースで水をまいたプールサイド。アサミと並んで、デッキ・ブラシでコンクリートを洗っていた。
「これじゃ、まるで雑用係だな」
と微笑《わら》いながら言う僕に、
「まさに正解」
とアサミ。まっ白い歯を見せて笑った。デッキ・ブラシの柄を握って動かしながら、
「名前は制作進行といっても、実は、なんでも屋なの」
と言った。
「撮影現場の掃除や片づけはもちろん、お弁当を手配してスタッフに配って、お茶をいれて、陽に灼《や》け過ぎたスタッフがいたら背中にアロエを塗ってあげて」
「気にくわないスタッフだったら塩を塗ってやるとか?」
「あっ、それいいアイデア」
とアサミ。声を上げて笑った。カラッと気持ちのいい笑い声だった。
「で、いつまでも雑用係のまま?」
僕は、訊《き》いた。彼女は首を横に振る。
「もちろん、ちがうわ。制作進行は、ディレクターになるための、まあ修業みたいなもので……」
「CFディレクターか……」
僕は、つぶやいた。
「こうやって、ロケの場数をふんでいくうちに、スタッフやタレントの使い方を覚えていくの」
とアサミ。
「そして、いずれはCFディレクターになる……」
「まあ、夢だけど……」
アサミは、つぶやいた。
「遠い夢? わりに近い夢?」
僕は、訊いた。彼女は、しばらく手を止める。デッキ・ブラシの柄にアゴをつく。
「順調にいけば、4、5年でディレクターの卵になれるんだけど……」
と、つぶやいた。そこで、ふと、言葉をのみ込んだ。デッキ・ブラシの柄にアゴをつけたまま。じっと遠くをながめていた。何か、事情がありそうだった。が、それ以上きいてもしかたない。僕は、プールサイドにホースで水をまきはじめた。
□
「さあて、これでよし」
僕は言った。1時間後。プールサイドのコンクリートは、ずいぶんきれいになっていた。これなら、撮影にも問題ないだろう。
「どうも、本当にありがとう。手伝ってくれて」
とアサミ。ホースを丸めながら僕に言った。
「気にしない気にしない。きれいに写った方がプールも嬉《うれ》しがるだろうし」
僕は言った。彼女は、プールサイドを見渡す。
「これで、いつでもカメラが回せるわね」
と言った。
「それはいいけど……」
と僕はつぶやいた。
「天気がどうかな……」
と空を見上げた。今朝から、空の雲ゆきがおかしい。快晴ではない。厚みのある雲が、ゆっくりと空を動いていく。雲は、ホノルルの北にあるコーラウ山脈にかかっている。山の方は、もう雨が降りはじめているかもしれない。風が、かすかに重い。湿り気を含んでいる。
常夏《とこなつ》の島ハワイといっても、365日が快晴というわけではない。低気圧が近づいている気配を、僕は肌で感じていた。
僕はアサミとプールサイド・バーにいく。フォンに、
「どうだい、天気予報は」
と、訊《き》いた。フォンは、あまりさえない顔。
「どうやら、あしたの釣りはダメみたいだ」
と言った。
「FMQの天気予報がそう言ってるのか?」
「ああ、熱帯性低気圧が近づいてきてる。天気はくずれるね」
とフォン。肩をすくめた。
□
フォンの言ったとおり。その日の午後から、ホノルルの街にも雨が降りはじめた。
いわゆる|通り雨《シヤワー》ではない。本格的な雨が、降ったりやんだりしている。ホノルル上空から、コーラウ山脈まで、厚いグレーの雲がおおいつくしている。
「あーあ、こりゃダメだ。待ちだな」
とCFプロデューサーの芝崎。空を見上げてつぶやいた。ロケ隊のスタッフも全員あきらめ顔。昼間からレストランでビールを飲みはじめた。
□
「あの、ちょっと……」
とアサミ。プールサイドにいた僕に声をかけた。雨が降りつづいて、もう4日目。いま、雨粒は落ちていない。が、空一面にあい変わらずグレーの雲。すぐに降り出しそうな気配だ。
「どうした」
「あの……スタッフの人が、時間つぶしにマリファナを調達してきてくれないかって……」
とアサミ。
「あなたなら、ちゃんとした、質のいいやつを手に入れてくれそうなんで……」
と言った。僕は苦笑。
「制作進行さんも大変だな」
と言った。見回せば、プールサイドには客ひとりいない。
「わかったよ。調達してきてやるよ」
「あの、私もいきます」
とアサミ。財布らしいものをつかんでついてくる。
□
「どうだい、これで120ドルなら安いもんだろう」
と、太ったハワイアンの売人《プツシヤー》。ニッと大粒の歯を見せた。クヒオ|通り《アベニユー》の1本裏通り。ショッピング・センターの地下駐車場だ。
僕は、ハワイアンのさし出したビニール袋をつかむ。中から、大麻《パカロロ》つまりマリファナをひとつまみ出す。ポケットから、小さなパイプを出す。そこにパカロロをつめる。ハワイアンのデブに、それをさし出した。
「喫《す》ってみろよ」
と言った。
「え?……」
とハワイアン。
「喫ってみろって言ってるのさ。自信の商品なんだろう?」
僕は言った。売っている本人に、まず喫わせてみる。質の悪いパカロロを売りつけられないためのABCだ。ホテルの探偵になる前、ホノルル市警に勤めていた頃に覚えた事だった。
「どうした。喫わないのか?」
僕は言った。ハワイアンは、パイプを持っているだけ。火をつけようとはしない。
どうやら、
「程度の悪いモノらしいな」
と僕は言った。ハワイアンは、僕をにらみつける。小錦っていう日本のスモウ・ファイターに似ていた。アサミが、僕の後ろにかくれる。
「こいつ!」
とハワイアンのデブ。ハムみたいな片腕をのばす。こっちのエリ首をつかもうとした。右へ。かわす。やつの太い腹へ、ヒジ打ち! 入った。
「ウッ!」
とハワイアン。白眼をむく。駐車場のコンクリートにうずくまる。僕は、片手に持っていたパカロロのビニール袋をながめる。
「商売は相手を見てやるんだな。そこいら辺の観光客と一緒にするな」
と、やつを見おろして言った。ビニール袋を、やつの足もとに放る。
「120ドルどころか、12ドルでもお断わりだね」
と言い捨てる。アサミの肩を押す。駐車場を出ていく。
□
2時間後。やっと、まともなパカロロを手に入れることができた。
ハワイ島産のコナ・ゴールドとまではいかないが、まずまずの質だろう。僕らは、アラ・モアナ海岸《ビーチ》にワーゲンを駐《と》めていた。
「スタッフたちに持っていく前に、ちょっと味見といくか」
僕は言った。ちゃんとした巻き紙を出す。きっちりと硬く、パカロロを巻く。火をつける。ゆったりと、胸に吸い込む。
「ほら」
と、巻いたパカロロをアサミにさし出した。彼女は、一瞬、ためらう。たぶん、初体験なんだろう。それでも、おそるおそる手を出す。細い紙巻きを、唇に近づける。
「肺の奥まで吸い込んで、しばらく止めておくんだ」
僕は教える。そのとおりに、彼女はやってみる。最初の1、2回はむせる。けれど、3回目からはうまく喫《す》えるようになった。アラ・モアナ海岸《ビーチ》をながめて、僕らはクルマの座席でパカロロを吸いつづけた。
□
「夢の話?……」
とアサミ。ビーチに打ち寄せる波をながめてつぶやいた。
「ああ……。プールサイドを磨いてたときに話してくれた、CFディレクターになるって夢さ」
クルマのシートに深くもたれて、僕は言った。カー・ラジオのKRTRがC・C・Rの〈雨を見たかい〉を流している。こんな天気への当てつけだろうか。
「順調にいけば、4、5年でディレクターの卵になれるって、君は言ったけど、なんか、頼りない言い方だった」
僕は言った。
「やっぱり、そう思った?……」
とアサミ。しばらく、無言。カー・ラジオからさらに2曲流れて過ぎた。やがて、
「私ね……結婚することになってるの」
アサミは言った。明るい声だった。パカロロが少し効いているらしい。
「結婚か……いつ?」
「ええと……半年後よ。でも、結納《ゆいのう》は、もうすぐなの」
「ユイノウ? そいつは、なんだい」
僕は訊《き》いた。僕の血は日本人だけれど、ここハワイで生まれ育った。ユイノウというのは、はじめてきく言葉だった。
「うーん……簡単に言うと、正式に婚約しますっていう儀式ね」
「へえ……そんなものがあるんだ……」
僕は、つぶやいた。
「で、もうすぐっていうと?」
「1週間後よ」
「1週間後?」
「そう。だって、本当なら、きょうあたり、日本に帰ってるはずなんだもの」
「そうか」
「でも、あと1週間も降りつづくなんて、まず、ないわよね」
「ああ。たぶん」
「……ということで、今回のロケが、私の最後の仕事になるわけ」
「結婚したら、仕事をやめるのか……」
「だって、そりゃ……この仕事は徹夜やロケの連続だもの」
「彼が、仕事をやめろって?」
アサミは、うなずいた。
「彼は普通のサラリーマンだし、そう言うのが当然だと思うわ」
「仕事に未練は?」
「もちろん、あったわ。たぶん、いまもあるかもしれない……でも」
「でも?」
「決めたことだし、彼を愛してもいるし……それに……」
アサミは言葉を捜している。
「ディレクターへの道は不確実だけど、結婚生活はまず安定しているってこと?」
僕は言った。彼女は答えなかった。ということは、当たりなのかもしれない。けれど、〈決めたことだし〉という言葉には、どこか無理をしている響きがあった。たぶん、心が揺れているのだろう、と僕は思った。仕事と結婚の選択……。アサミは、バラード3曲分、無言。やがて、
「とにかく、この仕事はきちんとやり終えていくわ。最後の仕事だもの」
と言った。ワーゲンのフロント・グラスから空を見上げて、
「それにしても、意地悪な空ね……」
と、つぶやいた。
□
低気圧の意地悪は、さらにつづいた。たっぷり5日間、雨と曇天がつづいた。5日目の夕方。ホテル1階のレストラン。プロデューサーの芝崎とアサミが、言い争いをしていた。
「帰れって言ってるだろう。お前の飛行機は、もう予約してあるんだから」
と芝崎。
「嫌です。とにかく、あした雨が上がってカメラを回せれば、あさって朝の飛行機で帰れるし、そうすれば、結納《ゆいのう》にも間に合うんですから」
とアサミ。
「もしあしたも雨だったらどうするんだ」
「そんなこと、私自身の問題です。とにかく、プロとしてここで現場を投げ出すわけにはいかないんです!」
とアサミ。芝崎に向かって言い捨てる。回れ右。レストランから出ていく。
□
1時間後。
プールサイド・バーにいる僕のとなりに、アサミが坐った。その表情が硬い。
「東京に電話したのか?」
僕は、訊《き》いた。図星だったらしい。
「彼は、なんて?」
「もしあした雨だったら結納《ゆいのう》に間に合わないからのばしてくれって言ったら、すごく怒って……」
「そりゃそうだろうなァ」
「もし結納に帰ってこなけりゃ、結婚はご破算にするって……」
「で?……どうするんだ……」
「賭《か》けてみるわ、あしたの天気に」
とアサミ。動いていくグレーの雲を見上げた。
「だって、もう9日間も降ってるんですものね。そろそろ、雨雲のタンクも空《から》になるわよねェ……」
と、つぶやいた。
□
翌日。笑い出したくなるほど、みごとな雨だった。雨というより、スコールに近い。温かく大粒の雨が、プールサイドに叩《たた》きつけていた。僕は、シャワーがわりにプールサイドに出た。スイム・パンツ姿になる。プールを3往復、泳ぐ。プールサイドに上がる。温かいスコールを浴びつづける。
プールへの入口に、アサミが立っていた。Tシャツ、ショートパンツ姿で、突っ立っている。やがて、アサミはプールサイドに出てくる。あっという間に、ズブ濡《ぬ》れになる。髪。顔。Tシャツ。みんなズブ濡れだ。
「賭《か》けは、はずれたな」
僕は言った。アサミは、うなずく。
「仕事をやめるなって、ハワイの空が言ってるのね……」
と、つぶやいた。眼を閉じる。空を仰いだ。じっと、顔を仰向けにしている。動こうとしなかった。額に、頬《ほお》に、雨粒が流れ落ちていく。その中に彼女の涙が混ざっているのかどうか、僕にはわからない。かすかに彼女の肩が震えているように見えた……。プールサイドのコンクリートを、スコールが叩きつづけていた。
□
翌日。午後3時。
10日ぶりの太陽が顔を出した。きのうのスコールが長雨のエンディングだったらしい。頭上の雲が、幕を引いたように切れた。まぶしい陽《ひ》ざしが照りつけてくる。ブーゲンヴィリアの葉先についた雨粒が、水晶玉のように光る。
フォンは、プールサイド・バーを開店する準備をはじめる。僕も、ライフ・ガードのウインド・ブレーカーをはおる。プールサイドを見回りはじめた。
ロケ隊のスタッフが、プールサイドに出てきた。芝崎とディレクターらしい男が、空を見上げて、何か相談している。カメラを回せるかどうかの相談だろう。
アサミが、僕のそばに歩いてきた。その表情は、さっぱりしていた。僕は、晴れ渡っていく空を見上げて、
「このハワイの空は、なんて言ってる?」
とアサミに訊《き》いた。彼女は、白い歯を見せる。
「つぎのロケにもまた来いよって言ってるわ」
と言った。僕は、うなずく。後ろでフォンが、
「虹だ」
と、つぶやいた。僕らは、ふり返る。ホノルルの北側。ハワイ大学の方向に、大きな虹が、かかっていた。僕やフォンは、虹を嫌というほど見ている。けれどアサミは、
「わあ……」
と、つぶやく。その虹を、じっとながめている。
どんどん天気が良くなってくる。それにつれて、虹の色は薄くなっていく。
「……あの虹って……私の結婚みたい……」
アサミがつぶやいた。
「……ほんの一瞬だけ、眼の前にあらわれて……すぐに消えていった……」
と、微笑《ほほえ》みながら、つぶやいた。消えていく虹に向かって、彼女は、
「さようなら……」
と、小さな声で言った。軽く手を振った。それに答えるように、虹の色はあせて消えていった。僕も、消えていく虹を、じっとながめていた。ふいに、
「撮るぞ!」
芝崎の叫び声が、プールサイドに響いた。
スタッフたちが、いっせいに動きはじめる。足場《イントレ》を組むスタッフ。照明機材を運ぶスタッフ。真剣な顔で打ち合わせをはじめるディレクターとカメラマン。プールサイドの空気が、ピンとはりつめる。
僕は、プールサイド・バーのカウンターにもたれる。キビキビと動く撮影スタッフ達をながめていた。その中には、もちろんアサミの姿があった。
折りたたんだコンテを、ショートパンツのヒップ・ポケットに突っ込んでいる。イントレのフレームになる鉄パイプを、重そうに運んでくる。プールサイドに置いた。体を起こす。額の汗をぬぐう。
ほんの一瞬、アサミはふり返った。虹が出ていた方向をふり返った。
もちろん、虹はあとかたもない。ただ、コーラウ山脈が夕陽の色に染まっている。眼を細めて、彼方《かなた》を見つめているアサミ。彼女の髪を束ねているバンダナ。その黄色を、海からの乾いた風が揺らせて過ぎた。
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最後のシングル・ナイト
□
「見ろよ、ケンジ」
とバーテンダーの芳《フオン》。小声で僕に、
「こぼれそうだぜ」
と言った。
□
南十字星《サザン・クロス》ホテル。
そのプールサイド・バーのカウンター。ヒジをついていた僕は、フォンの視線を追う。きょうも、まぶしいハワイの陽《ひ》ざしが、プールの水面に照り返している。
いま、1人の娘《こ》が、プールから上がってくる。白人。グラマーな娘だった。おまけに、やたらに生地を節約したハイレグのビキニをつけている。グレープフルーツぐらいはありそうなバスト。その片方が、いまにもビキニのブラからはみ出しそうだ。
フォンが〈こぼれそうだぜ〉と言ったのは、そのことらしい。僕は苦笑い。視線をプールサイド・バーに戻す。バーテンダーのフォンに、
「こぼれそうなのは、そっちじゃないのか」
と言った。
白人娘に気をとられながらグラスにビールを注《つ》いでたフォン。そのグラスから、ビールがあふれそうになっている。
「おっと!」
とフォン。だが、ビールの泡は、グラスからたっぷりとあふれる。カウンターにこぼれる。
「やれやれ」
とフォン。そのときだった。RRRRR! プールサイド・バーの電話が鳴った。フォンがとる。
「探偵さん、あんたに。ボスからだ」
とフォン。受話器を僕にさし出した。
□
「ケンジか、私の部屋まできてくれないか」
と、ホテルのオーナー、Mr.ヤマザキ。いつもの落ち着いた声で言った。
「臨時のボーナスでも?」
と言う僕に、軽く苦笑しながら、
「いや、ちょっと気になる報告が、サムから入ってるんだ」
とMr.ヤマザキ。
「了解」
僕は受話器を置いた。
「どうした。イラクの潜水艦でも攻めてきたのか?」
とフォン。ビールを注《つ》ぎなおしながら言った。
「さあね」
僕は言った。グラマーな白人娘にチラリと視線の投げキス。ホテルの建物に入っていく。
□
Mr.ヤマザキの|社 長 室《プレジデント・ルーム》。
ノックを3回。返事もきかずに、ドアを開けた。デスクの向こうにはMr.ヤマザキ。
きょうも、ダンディーだ。仕立てのいい麻のスーツ。レジメンタル・ストライプのタイ。薄いブルーのシャツはボタンダウンだ。
デスクの近くに、客室係のサムが立っていた。サムは、ハワイアンだ。太った体を、ホテルの制服に押し込んでいる。
「気になることっていうのは、これなんだ、ケンジ」
とMr.ヤマザキ。2枚の宿泊カードを僕にさし出した。僕は手にとって見る。宿泊客の名前を読む。1枚は、タケシ・ヨコタ。もう1枚は、ミナコ・ヨコタ。
「きょうチェック・インした新婚さんらしいんだが、別々にシングル・ルームをとってるんだ」
とサム。
「私もずいぶん長いことホテルマンをやってきたが、新婚さんが別々にシングルをとるなんてのは、きいたことがない」
と言った。
「日本人には、何かこう……特別な習慣でもあるのか?」
サムは、僕に訊《き》いた。
「まさか」
僕は、微笑《わら》いながら言った。
「しかし、確かに、変といえば変だな」
と宿泊カードをながめる。2人とも、もちろん同じ住所。ヨコハマだ。Mr.ヨコタの職業はフリー・ジャーナリスト。ワイフの方はNON《なし》。宿泊予定は、7泊。特に不審な点はない。
「事情はわからないが、いちおう要注意だな」
とMr.ヤマザキ。
「きょうからは、日本でいうゴールデン・ウイークってやつで、うちにも日本人の宿泊客が多い」
Mr.ヤマザキは、僕とサムを見て、
「くれぐれも、トラブルのないように頼むよ」
と言った。
□
RRRRR! また、プールサイド・バーの電話が鳴った。フォンがとる。
「ケンジ、サムからだ」
カウンターにもたれてプールサイドを監視していた僕は、ふり向く。受話器をとる。
「ケンジか、例の新婚さんが、そっちに出ていくぞ」
とサム。ロビーのカウンターからの電話らしい。
「彼の方はヒゲ面《づら》。黒いTシャツだ」
と言った。そのヨコタという新婚さんがプールサイドに出てきたら教えろと、サムに頼んであったのだ。
「わかった」
僕は、受話器を置く。間もなく、それらしい2人がプールサイドに出てきた。
ごく普通の|新婚さん《ハネムーナー》だった。彼の方は黒いTシャツにブルーのスイム・パンツ。彼女の方は、彼と色ちがいのピンクのTシャツに、ジョギングパンツ。
彼の方は、背が高い。がっちりしている。フリー・ジャーナリストという職業柄か、口ヒゲとアゴヒゲをはやしている。30歳ぐらいだろうか。
2人は、Tシャツを脱ぐ。水着になった。彼女の方は、花柄のおとなしいデザインの水着。25歳前後だろう。おっとりとしたお嬢さんタイプに見えた。
2人は、デッキ・チェアーに坐る。陽灼《サンターン》けオイルを、体に塗りはじめた。僕はフォンに、
「マイタイを2つ、つくってくれ」
と言った。
□
「はい、できたよ」
と、フォン。カウンターにマイタイを置いた。
「どこのお客?」
と訊《き》くウエイトレスのレニーに、
「いや、これはいいんだ」
僕は言った。トレイにマイタイをのせる。自分で、例の新婚さんのところへ持っていく。
「きょうチェック・インされたハネムーンの方ですね」
と彼らに言う。
「これは、ホテルから、ハネムーナーの方へのウェルカム・サービスです」
とマイタイを彼らのテーブルに置く。
「こりゃ、どうも」
とMr.ヨコタ。
「ありがとう」
とMrs.ヨコタ。
「僕はケンジ・マツモト。日系人の従業員です。プールの監視員《ライフ・ガード》をかねて日本人客の世話係もやってます。何か問題があったらすぐ言ってください」
僕は言った。さすがに、ホテル探偵だとは言わない。
彼らは、うなずく。僕はプールサイド・バーに戻っていく。プールサイドには、確かに日本人客が多い。連休のせいだろう。女子大生風のグループ。家族連れ。特にトラブルの種になりそうな客はいないように思えた。のだが……。
□
そのトラブルが発生したのは、翌朝だった。
僕はフロントのある1階ロビーに入っていく。サムが、あわてて僕を呼んだ。
サムは、女子大生風の日本人客2人と話していた。僕が歩いていくと、小声で、
「泥棒らしいんだ」
と言った。
□
「泥棒?」
僕は、思わず訊《き》き返した。女子大生風の2人。その1人が、話しはじめる。2人は、デラックス・ツインに泊まっているらしい。リビングとベッドルームが別々になっている広い部屋だ。今朝、眼をさましたら、リビングの方が荒らされていたという。
「盗《と》られたものは?」
「いまのところわかっているのは、現金が40ドルほどと、指輪……」
「指輪? 高価な?」
「いえ。2万円ぐらいのものだけど……」
と女子大生風の1人。
「計200ドルってところか……。わかった。とにかく、部屋にいってみよう」
僕は言った。サムと一緒に、彼女たちの部屋に上がっていく。
□
「こりゃ、プロだな……」
現場を見て、僕はつぶやいた。
彼女たちの1500号室。入ったところにあるリビングルーム。ほとんど、荒らされていない。ソファーに置いてあるハンドバッグ。その中身だけが、ソファーに散らかっている。TC、つまりトラベラーズ・チェックには手をつけていない。TCは、本人じゃないと、現金化できないからだ。
「足のつかない現金と指輪だけを盗《と》っていったんだ。プロだな」
僕は、英語でサムに言った。日本語で、
「寝てたとき、ドアのチェーンは?」
と女子大生風の1人に訊《き》いた。
「それが……錠をかけてあるんで、チェーンは忘れちゃって……」
と彼女。
「そうか……。じゃ、たぶん深夜から明け方の間に、キーを開けてそっと入ったんだな」
僕は言った。キーのあたりを見る。無理やりこじ開けたようなあとはない。鍵穴《かぎあな》のまわりにもキズはない。
「かなり腕のいいプロのしわざだな」
僕は彼女たちに言った。
「被害が少なくてよかったが、とりあえず、警察を呼んでおこう」
と受話器をとる。|H ・ P ・ D《ホノルル・ポリス・デパートメント》、つまりホノルル市警にかける。僕が市警に勤めていた頃の同僚、ハワイアンのキモを呼び出す。しばらくしてキモが出た。
「珍しいな、ケンジ」
とキモの太い声。僕は、用件を話す。来てくれと言った。
「おいおい、ケンジ」
とキモ。
「いま、ホノルル市警がどれだけ忙しいか、わかってるのか?」
「わかってるよ。ゴールデン・ウイークで押し寄せてくる日本人のトラブルだろう」
僕は言った。自分も、去年の今頃は、紺の制服を着てそんなトラブルにてんてこまいをしていた。
「いいか。きのうの夜は、ほとんど徹夜だ」
とキモ。
「|売 春 婦《ストリート・ガール》に睡眠薬を飲まされてあり金全部やられたオッサン。アラ・モアナ公園《パーク》で白人に強姦《ごうかん》されそうになった女の子。ニセのマリファナを喫って頭がどうにかなっちまって、ABCストアのガラスをぶち破った男の学生。……みんな日本人だ」
キモは、まくしたてた。
「そんな、200ドルぽっちのコソ泥事件で、いちいち出向けるかよ。被害届けだけでも出しにこいよ」
とキモ。僕は苦笑いしながら、
「いくら200ドルぽっちでも、うちのホテルにとっちゃ信用問題だからな」
と言った。キモに小声で、
「そういえば、賭《か》けビリヤードの貸しが、まだ、だいぶあったよなァ」
「…………」
キモは、しばらく沈黙。
「……わかった……いくよ」
と言った。僕は電話を切る。彼女たちに、
「いま、警察がくるから」
と言った。キモは、すぐにやってきた。といっても、おざなりにあたりを見回しただけだ。
「まあ、現金と指輪じゃ出てこないな」
とアクビまじりに言った。
「お客が部屋にいる間の盗難だから、ホテルが賠償することになるだろう」
と、現場にきていたオーナーのMr.ヤマザキ。日本語で彼女たちに言った。
「それはそれとして、寝るときも必ずドア・チェーンはかけておいてくださいね」
とMr.ヤマザキ。うなずく彼女たち。キモは被害届けをうけとると、〈|ビールっ腹《ビアー・ベリー》〉を揺らせてさっさと帰っていった。
□
「よく現金を部屋に置いておく日本人の部屋を狙《ねら》ったってことは、あらかじめ、めぼしをつけておいたのかもしれない」
とMr.ヤマザキ。廊下を歩きながら、
「ってことは、宿泊客の中に犯人がいることも考えられると?」
僕は言った。
「ああ……。なんせ、この1週間、ホテルの中はごった返している。くれぐれも注意してくれ」
とMr.ヤマザキ。
□
翌日。午後3時。ホテルのプールサイド。例の新婚さん、そのワイフだけが出てきた。Mrs.ヨコタは、しばらく日光浴していた。やがて、プールサイド・バーにやってきた。
「やあ」
僕は、カウンターにヒジをついたまま微笑《わら》いかける。
「ご主人は?」
「なんか、きのう、陽《ひ》に当たりすぎて疲れたとかで、部屋で寝てるわ」
彼女は、おっとりと言った。よくハワイにくるにぎやかで軽薄な女子大生やOLたちとは、少しタイプがちがう。中流以上の家で育った娘。そんな感じがした。彼女は、バーのスツールに坐る。
「ビールでも、もらおうかしら」
とフォンに言った。
□
「あ……」
とウエイトレスのレニー。Mrs.ヨコタの顔を見ると、思わず小声を出した。あとは、素知らぬ顔。カウンターからカクテルをトレイにのせて持っていく。レニーも、知っているのだ。彼女たちが、新婚なのに、シングルを2つとっていることを。
「……話題になってるのね……」
とMrs.ヨコタ。ぽつりと、僕に言った。
「話題?」
カウンターにもたれて、僕は言った。
「新婚さんなのに、シングル・ルームを2つとってるお客がいるってこと」
「…………」
僕は、しばらく無言。
「やっぱり、みんな好奇心はあるしね」
と言った。
「もしさしつかえなかったら、その理由《わけ》を教えてくれないかな」
と彼女に言った。
□
「理由が、わからない?」
僕は、訊《き》き返した。
「そうなのよ」
と彼女。1杯目のプリモ・ビアーを飲みながら、
「彼の希望で、そうなったの」
と言った。
「イビキが雷みたいにすごいからって彼は言うんだけど……」
「そのイビキをきいたことは?」
彼女は、首を横に振った。
「もっとも、一緒に泊まるのなんてはじめてだけど」
と彼女。ちょっと頬《ほお》を赤くした。
「お見合い?」
彼女はまた、首を横に振った。
「出会いがしらのつき合いよ」
「出会いがしら?」
「そう……。私が自分のクルマを運転して生け花にいこうとして、小さな交叉点《こうさてん》に通りかかったところで、彼の乗ったバイクとぶつかったの」
「大事故?」
「いいえ。彼は、ヒジを軽くすりむいただけで、私も、クルマのヘッドライトを割っただけ」
「で、そこからつき合いがはじまったわけか」
彼女は、小さくうなずいた。
「長いつき合い?」
「……1年近くかな……」
「いいつき合い?」
「ええ……彼はジャーナリストとしての仕事に情熱を持ってるし、あのとおり、たくましく頼りになるし……」
「じゃ、問題は、ベッドルームのことだけだ」
僕は、つい訊《き》いてしまった。彼女も、ついうなずく。
「日本に帰ってから住むマンションでも、ベッドルームは2つあるの」
と言った。どうやらビールが、口を軽くしているらしい。
「別々のベッドルーム?」
僕は思わず訊き返した。
「そう……フリー・ジャーナリストっていう仕事柄、寝たり起きたりが不規則だからって……」
「ふうん……」
とつぶやく僕に、
「……あの……変なこと想像しないでね」
彼女は言った。ちょっと頬《ほお》を赤くして、
「男と女ですから、やるべきことはちゃんといたしてるわよ」
と言った。
「……じゃ、その後、お互いの部屋に引き上げるわけだ」
「まあ……そういうことね」
と彼女。
「やっぱり、そんなにイビキがすごいのかしら」
彼女は、ポツリとつぶやいた。
「まあ、あり得るね」
僕は、微笑《わら》いながら言った。日本語のかなりわかるレニーが、近くできき耳をたてている。
□
「また、泥棒!?」
受話器を握って、僕は小さく叫んだ。Mrs.ヨコタが部屋に引き上げていった夕方の5時過ぎだ。サムからの電話が、プールサイド・バーにかかってきた。
「また日本人客だ。とにかくきてくれ、ケンジ」
とサム。
□
今度は、527号室。ごく普通のツイン・ルームだ。ドアが開いている。サムが、日本人のオジサンと話していた。けど、オジサンはカタコト英語。サムはカタコトの日本語。ほとんど、話が通じていない。あらためて、僕が事情を訊《き》く。この午後。オジサンはゴルフに出かけていたという。
「で、いま帰ってきたら、これさ」
とオジサン。スーツケースを指さした。スーツケースは、|はまぐり《クラム》のようにあっさりとこじ開けられていた。物色したようなあとがある。
「盗まれたものは?」
「いまわかるところじゃ、現金が2000ドルかな」
「2000ドルか……」
僕は、つぶやいた。受話器をとる。まず、Mr.ヤマザキへ。そして、ホノルル市警にかける。
□
「これ以上、被害が出るとまずいな」
とMr.ヤマザキ。
「旅行代理店なんかを通して、悪い噂が流れる恐れがある」
Mr.ヤマザキは、僕の肩を叩《たた》くと、
「特別手当てを出すから、24時間体制で警備に当たってくれないか」
僕は、うなずく。ロビーで右と左に別れる。
□
「なあ、ケンジ」
とフォン。
「怪しいと思わないか」
と言った。僕としゃべりながら、プールサイド・バーのあと片づけをしている。
「怪しいって?」
「ほら、あの、例の新婚さん」
「新婚さん?」
「ほら、シングル・ルームを2つとってる日本人の新婚さん」
「ああ……あれか……」
僕は、つぶやいた。たそがれていくホノルルの空を見上げて、
「あの、ダンナの方が窃盗犯《せつとうはん》じゃないかっていうんだろう?」
とフォンに言った。
「ああ……だって、最初の盗難は夜中だろう。ってことは、あの新婚さん、別々の部屋にいたわけだ」
「うん」
「で、きょうの午後の盗難のときも、ダンナの方は自分の部屋で寝てたっていうし」
とフォン。
「わざわざ、別の部屋をとったってのは、それが目的だったんじゃないのか?」
そばから、レニーが、
「表向きはジャーナリスト、じつは泥棒か……」
と言った。
「どう思う? ケンジ」
とフォン。
「うん……。そいつは、もう、とっくに考えたよ」
僕は言った。本当のことだ。最初の盗難のとき。そのことは、ふと、頭のすみをかすめた。どう考えても、新婚で2つの部屋は不自然だからだ。
「あのダンナの方、ハネムーンにきてるのに、あまり楽しそうじゃないし……」
とフォン。僕は、うなずいた。それも当たっている。彼の表情は、普通のハネムーナーに比べて、どことなく明るくない。美人で気だての良さそうなワイフなのに……。けど、
「とにかく、今夜は徹夜で警備だ。元気の素《もと》をくれよ」
と、微笑《わら》いながらフォンに言う。
「なんにする?」
「ジン・トニックをダブルで」
□
夜の9時過ぎ。僕は10階の廊下を歩いていた。見回りだ。この時間帯、客はディナーに出かけていることが多い。盗難が発生しやすい時間だ。昼間はいている|波乗り《サーフ》パンツを、長いジーンズにはきかえた。ウインド・ブレーカーのポケットには手錠。用心のため、22口径のオートマチックもジーンズの内側に突っ込んである。
日本人の客が多い階を、重点的に巡回する。この10階も、そうだ。あの新婚さんたちも、この階に泊まっている。しかし……ただ巡回していて、うまく盗難現場にぶつかる可能性は低い。
〈それでも、いいのさ〉とMr.ヤマザキは言った。〈保安関係《セキユリテイ》の人間が巡回してる。そのことだけで、犯人も仕事がやりづらくなるからな〉そんなMr.ヤマザキの言葉を思い浮かべながら、角を曲がった。そのとたん。思わず、足がとまった!
□
20メートルぐらい先のドア。1人の白人が開けようとしていた。
最初、自分の部屋のドアを開けようとしているのかと思った。けど、ちがう。細い金属を、鍵穴《かぎあな》にさし込んでいる。中年の白人男。いかにも観光客風。だが、鋭い眼つき。ときどき、左右を見る。体は巨《おお》きい。綿のジャケット。ジーンズ。ケッズのスニーカーをはいていた。
僕は、廊下の角に身をかくした。7、8秒後。鍵が開く音。男は、ドアをそっと開ける。部屋に入っていこうとした。僕はもう、廊下の角から飛び出していた。
男が気づく。体をひるがえす。廊下を駆け出した!
「逃げてもムダだ!」
英語で叫びながら追う。もう、22口径を抜いていた。たかが窃盗犯を撃つつもりはなかった。必要なら威嚇《いかく》射撃するだけだ。
白人男は逃げていく。
廊下に、ルーム・サービス用のワゴンがあった。食べ終わった皿やグラスがのったワゴンが、部屋の外に出してあった。やつは、そのワゴンをこっちに向けて押した。全力で駆けていた僕の前に、ワゴンがじゃまをする。左ヒザを、ワゴンにぶつけた。一瞬、体のバランスをくずす。
犯人は、そのまま全速で駆けていく。
その先はエレベーター・ホールだ。ちょうどエレベーターからおりてきた人影が2つ。あの日本人の新婚だった。
犯人は、2人を突きとばして逃げようとした。が、新婚の男の方が、とっさに気づいたらしい。犯人の腕をグイとつかんだ。犯人は、英語で何かわめく。2人は、もみ合う。
つぎの瞬間、新婚の男が、重心を下げた。犯人の腕をつかんだまま。一本背負い! みごとに決まった。犯人の体は1回転。廊下に叩《たた》きつけられた。僕はもう、追いついていた。倒れてる犯人に22口径を向ける。
「あきらめるんだな」
と言いながら、後ろ手に手錠をかけようとした。そのときだった。犯人の片手が、奇妙なものをつかんでいた。黒い不思議なもの……。
僕は、思わずふり向いた。犯人がつかんでいたのは、どうやら、カツラらしかった。もみ合って投げられるとき、思わずつかんだんだろう。新婚の彼の頭からとれたカツラを、犯人はしっかりとつかんでいたようだ。
□
「2つのシングル・ルームをとった原因は、それだったわけか……」
僕は、つぶやいた。テーブルに置かれたカツラをながめた。警察が犯人を連れていった後。新婚の男の部屋。僕らは、Mr.ヤマザキがさし入れてくれたシャンパンを飲みはじめていた。
「じつは、そういうことなんだ」
と新婚のMr.ヨコタ。カツラを指さして、
「さすがに眠るときはつけておけなくてね」
と言った。
「なるほど……。新居にベッドルームが2つあるのも、そのためだったのか」
と僕。彼は、うなずく。
「あきれただろう?」
と彼。ワイフに向かって、
「まさか、こんなだったとは」
と言った。
「こんなって?」
「こんな頭さ」
と彼。自分の薄い頭髪をさして、
「こんなじゃ、一緒に暮らす気になんてならないだろう?」
と言った。4、5秒後だった。
「何を言ってるのよ」
彼女が、落ちついた声で言った。
「私は、あなたの髪と結婚したわけじゃないわ」
「じゃ……関係ないのかい?」
「もちろんじゃない」
と彼女。微笑《ほほえ》みながら、
「俳優のジャック・ニコルソンみたいで、それなりに素敵よ」
と言った。その場をつくろうためでもない、同情も感じられない、透明な声だった。
彼が、大きなため息……。
僕は、シャンパン・グラスを置いた。
「これ以上、あなた達のじゃまするのは野暮《やぼ》だから」
と言う。立ち上がる。出ていこうとした。その僕の背中に、
「あの……」
とMr.ヨコタ。
「このシングル・ルームをキャンセルして、ダブルの部屋に変えられるかな?」
と言った。
「やってみよう。なんせ窃盗犯をつかまえてくれたんだから、最高のデラックス・スイートに移れるように、オーナーに言ってみるよ」
僕は言った。部屋を出る。エレベーターで10階からおりていく。ガラスばりのエレベーターから、ホノルルの灯が見渡せた。エレベーター内のBGMに、〈|Are You Lonesome Tonight《アー・ユー・ロンサム・トウナイト》〉が低く流れている。
彼の長いシングル・ライフも、今夜で本当に終わったのかもしれない。僕はふと、そんなことを思った。ゆっくりとおりていくガラスばりのエレベーター。エルヴィスのバラードを聴きながら、僕はホノルルの街の灯を見つめていた。
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ポケットいっぱいの潮風
□
「こないで!」
鋭い声がした。ワンピースの水着をつけた日本人の女の子だった。歩いていく僕を見上げて、
「それ以上、こっちにこないで!」
と言った。
平和なプールサイドの空気を破って、女の子の声が響き渡った。
□
南十字星《サザン・クロス》ホテル。午後3時。その日はあまり混《こ》んではいなかった。僕は、いつものようにプールのまわりにいた。監視員《ライフ・ガード》の仕事をやっていた。つい5分前のこと、白人の夫婦が、プールサイドから、ロビーの方へ出ていった。僕とすれちがいざま、
「あのデッキ・チェアーが故障してるよ」
と白人の亭主が言った。僕はうなずいた。アルミのパイプでできているチェアーの1個が、確かに故障しているのだ。背もたれの角度調節がうまくできなくなっている。修理担当の人間に言ってあるのだけれど、まだやってくる様子はない。
しょうがない。自分で修理することにした。僕は、保安の部屋にいく。ペンチとドライバーを引っぱり出す。故障しているデッキ・チェアーに歩いていく。そのときだった。故障しているチェアーのすぐとなりにいた女の子が、
「こないで!」
と言ったのだ。声が真剣だった。せっぱつまっていた。僕は、思わず足をとめた。
ペンチ片手に、その女の子を見た。女の子は、プールサイドに片方のヒザをついていた。少し驚いた表情の僕に、
「ごめんなさい、大声出しちゃって」
と言った。
「たいして大声じゃなかったけど……何か?……」
「あの……このあたりに、コンタクト・レンズを落としちゃって……」
彼女は言った。
□
「なんだ、そんなことか」
僕は、微笑《わら》いながら言った。
「ソフト・コンタクトなんだけど、それでも、踏みつぶされたら困るから……」
と彼女。僕はうなずく。
「捜すのを手伝おう」
□
10分後。コンクリートにへばりついていたコンタクト・レンズを僕が見つけた。
「どうもありがとう」
と彼女。嬉《うれ》しそうに言った。
「これ、よく落ちるの。うまく眼に合っていないみたい」
彼女は、コンタクトを指先にのせてつぶやいた。|20歳《はたち》ぐらいだろう。髪は、ショートカット。直線的で少年っぽい眉《まゆ》。逆に、頬は色白で女の子らしい曲線を描いている。体つきは、どちらかというとスリムだ。紺白ストライプの水着が、よく似合っていた。
「どうも、本当にありがとう」
彼女は、また礼を言った。コンタクトを洗って、入れなおすためだろう。プールサイドのレスト・ルームに歩いていった。僕は、デッキ・チェアーの修理をはじめた。
□
2、3分後。彼女は戻ってきた。僕が修理しているデッキ・チェアーのとなりに腰をおろした。置いてあったビニールのバッグからコンパクトをとり出す。コンパクトの鏡で自分の眼をじっと見る。コンタクトの具合を確かめているらしい。
「調子は?」
チェアーの修理をしながら、僕は訊《き》いた。
「もう大丈夫みたい。ありがとう」
と彼女。微笑《わら》いながら言った。コンパクトを閉じる。バッグにしまう。
「友達は?」
ペンチを使いながら、僕は訊いた。彼女の仲間たちのことだ。
「みんな、免税店にいってるわ」
と彼女。
「……免税店か……」
僕は、苦笑い。チェアーの修理をしながら、きのうの午後を思い出していた。
□
きのう。昼過ぎ。僕はプールサイド・バーでグァバ・ジュースを飲んでいた。そのとき、
「あのォ……」
という声が背中できこえた。ふり向く。日本人の女の子が4人いた。見覚えがあった。チェック・インのとき、手伝ってあげた。着いたばかりの宿泊客だった。4人とも年齢《とし》は20歳ぐらい。ツイン・ルームに2人ずつ。確か8泊の予定。季節がら、短大の卒業旅行だということだった。
「あのォ……」
と、4人の中の1人。ガイド・ブックをさし出すと、
「免税店と、このあたりのお店にいく道を教えてほしいんですけど」
と言った。僕はガイド・ブックを見る。その子の言う〈このあたりのお店〉とは、みんな高級店。ルイ・ヴィトン。シャネル。カルチェ。ハンティング・ワールド。そんなブランド店ばかりだ。その手の店は、主にカラカウア|通り《アベニユー》にかたまっている。僕は、簡単に道順を教えてあげた。
「どうも」
と、ガイド・ブック片手の女の子。やがて、4人のうちの3人は、買い物に出ていった。1人だけ、プールサイドに残った。デッキ・チェアーに寝転がる。日光浴をしながら、何か本を読みはじめた。いま思えば、それがこのコンタクト・レンズの子だった。仲間からは、〈カズコ〉と呼ばれていた。
「君は? 免税店には?」
僕は、訊《き》いた。彼女は、カズコは微笑《わら》いながら首を横に振った。
「こんなに陽《ひ》ざしと風が気持ちいいのに、そんな所、いく気にならないわ」
と言った。僕も微笑いながらうなずいた。
「それに……」
と彼女。そばに置いてある分厚い本を手にとると、
「みんなとちがって、私は、もうすぐ新学期だし」
と言った。
「新学期? 短大を卒業するのに?」
「でも、私は、また学校に入るの」
「学校?」
チェアーを修理する手をとめて、僕は訊《き》いた。
「そう」
「どんな学校? 専門学校?」
彼女は、カズコはうなずいた。そして、
「獣医の学校に行くの」
と言った。
「獣医の……」
「そうなの。犬猫病院のお医者になるためにね」
「犬猫病院?」
彼女は、うなずいた。
「父が犬猫病院をやってるの」
「で、君が跡継ぎ?」
「本当は弟が継ぐはずだったんだけど、どうしても商社マンになるんだっていって、大学の商学部に入っちゃったの」
と彼女。かすかに苦笑い。
「で、君が? 病院を?」
彼女は、また、うなずいた。
「まあ、犬や猫は大好きだからいいんだけど、これから本格的な勉強をはじめなきゃならなくて……」
「……大変みたいだな……」
「でも……せっかく父がつづけてきた病院をつぶすわけにはいかないもの」
と彼女。白い歯を見せた。それが、ついきのうのことだ。
□
「よお」
ふいに、英語で声をかけられた。デッキ・チェアーの修理を終えて戻るところだ。
「この色男」
きき覚えのある声だった。ふり向く。ハリーが、プールサイド・バーのスツールに坐っていた。
「まじめに働いていると思ってりゃ、かわいい女の子とおしゃべりかよ」
とハリー。僕は、
「それ以上何か言ったら、こいつでその舌を引っこ抜くぞ」
と、ハリーの顔の前にペンチをつきつけた。そして、5秒。沈黙が、破ける。笑い声。僕とハリーは、腕ずもうみたいなハワイ式の握手。
「半年ぶりか」
「いや、8カ月だ」
と、笑顔を見せ合う。
ハリー・ミッチャム。U・H(ハワイ大学)時代からの友人だ。完全な白人。陽気でパーティー好きなところから〈ダーティー・ハリー〉ならぬ〈パーティー・ハリー〉とあだ名されていた。
家はカリフォルニア。U・Hには鯨《くじら》の生態研究という口実できていた。けれど、本当の目的は、ウインド・サーフィン。正確に言うと、ボード・セイリングのためだ。大学のキャンパスにいる倍の時間は、海に出ていただろう。3年生のときに、ハワイ州の学生チャンピオンになった。翌週には、大学をやめてプロになっていた。
が、ウインドのプロといってもけして楽なものじゃない。大会の賞金で食えるわけはない。ボードやセイルのメーカーとの契約料も安い。結局、素人相手のインストラクターをやりながら、大会を転戦して回ることになる。ハリーも、そんな生活をつづけている。この前ハワイを出ていくときは、マイアミで開かれる大会に出場すると言っていた。
「マイアミは、どうだった?」
と僕。
「3位」
「まずまずだな」
「しかし、賞金はまずまずどころじゃなかった。スズメの涙さ」
「で?」
「ずっと、ホテルで客に教えて給料をもらってた」
「で? 女の客にサービスし過ぎてクビになったか?」
「まさか」
とハリー。苦笑い。
「なあ、ケンジ。言っとくが、おれの方から客の女を誘ったことなんて1度もないんだからな」
「わかったよ」
僕も笑いながら、並んでスツールに坐った。
ひとことで言えば、ハリーは女にもてるのだ。スポーツ選手だから当然だけれど、筋肉質で長身。金髪。よく澄んだ青い眼。俳優のトム・クルーズに似たハンサムな顔立ち。そして、ウインド・サーフィンのプロ。これでもてなきゃ、どうかしているだろう。しかし、いわゆるプレイボーイじゃない。いまのところ、女より一流のプロになることの方に夢中らしい。
「で、プロとしてのランキングは上がったか?」
僕はハリーに訊《き》いた。バーテンダーの芳《フオン》が出してくれたアイス&ウォーターを飲む。
「まだまだだが、2週間後には、かなり上がる予定だ」
「2週間後?」
「マウイ島で大会があるんだ」
とハリー。
「そうか……で、ひさびさにハワイに来たわけか」
「そういうこと。知り抜いたハワイの波と風だからな。勝つチャンスは充分だ」
とハリー。近くのデッキ・チェアーにいる白人娘が、ハリーにホットな視線を送っている。が、それにはおかまいなし。
「マウイにいく前、しばらくホノルルにいたい。セイルの修理もあるし、ひさしぶりに仲間にも会いたいしな。お前のアパートメントに泊めてくれ」
とハリー。
「ソファーで寝ることになるぜ」
「屋根がありゃいいさ」
ハリーはニッと微笑《わら》った。ふいに、プールサイドをふり向くと、
「ところで、さっきお前がしゃべってた日本人の娘《こ》、学生か?」
ハリーが訊《き》いた。僕は、胸の中でニヤリとした。ハリーは、昔から日本人が好きなのだ。特にガールフレンドは、日系人や日本からの留学生が多かった。本人に言わせると、白人娘は積極的過ぎてうんざり。ひかえ目な日本人といると、気持ちが落ちつくのだという。当然、ワイキキのディスコで遊びまくっている尻《しり》の軽い日本娘はダメ。ハリーに言わせると、あれは黒い眼をしたヤンキー娘ということになる。
「ああいう知的な娘《こ》が、いいなあ」
とハリー。デッキ・チェアーで専門書を読んでるカズコをふり返って見た。
「なあ、教えろよ、ケンジ。彼女、学生なのか?」
僕は、うなずく。
「犬猫病院のお医者さんの卵だとさ」
「犬猫、かァ……」
「そういうこと。お近づきになりたきゃ、スヌーピーかガーフィールドにでも化けていくんだな」
微笑《わら》いながら、僕は言った。
□
RRRRR! 夕方の5時。プールサイド・バーの電話が鳴った。フォンがとる。受話器を僕にさし出す。
「あんたにだ、ケンジ」
受話器をとる。フロントのエディからだ。
「どうした」
「客から、盗難の連絡が入ってるんだ」
「盗難?」
「ああ。624号室で、日本人客だ。とにかくいってみてくれ」
「わかった」
僕は受話器を置く。エレベーター・ホールに早足で歩いていく。
□
「あれ?」
部屋に入って、思わずつぶやいた。624号室。日本人の女の子が4人いた。あのカズコとその仲間たちだ。
「ああ、君たちか……」
という僕に、
「あの……あなた、プールの救助員じゃ……」
とグループの1人。
「実はプールの監視員《ライフ・ガード》と保安係《セキユリテイ》を兼ねているんだ」
僕は言った。部屋の中を見回しながら、
「ところで、どこで何を盗《と》られたんだい」
と、彼女たちに訊《き》いた。きのう、僕に免税店への道順を訊いた娘《こ》が、
「ローレックスの時計とカルチェの指輪が、いま帰ってきたらなくなってたの」
と言った。僕は、チラリとドアの錠を見る。こじ開けられた様子はない。部屋は6階だ。ベランダから入るのは不可能だ。
「きのう買ったばかりなのに……」
と、その娘《こ》。
「いくらドアに鍵《かぎ》がついていても、貴重品はホテルのセィフティ・ボックスに入れるようにガイド・ブックに書いてなかったかい?」
と僕が言った。そのとき、
「あっ……」
と小声で叫んだのはカズコだった。ローレックスとカルチェの娘《こ》に向かって、
「ヨシミ、きのうの夜、それ、フロントのセィフティ・ボックスに預けなかった?」
と言った。
「あーっ……」
□
「やっぱり!」
とカズコ。
「あった!」
と、ヨシミという娘《こ》。急いでフロントにおりて、セィフティ・ボックスを開けてみたところだ。ローレックスもカルチェも、ちゃんと入っていた。預けた本人が、度忘れしていただけだ。
「よかったァ!」
と、買い物仲間の3人。彼女たちは、きょう買った貴金属類も、セィフティ・ボックスに入れる。よかったよかったと言いながら、エレベーターに歩いていく。僕の方には、ひとことも言葉をかけずに。さすがに、カズコが1人、戻ってきた。
「どうも、お騒がせしちゃって」
と言った。頭をコクッと下げた。
「いや、いいさ。これも、仕事だからね」
僕は、微笑《わら》いながら言った。
□
「どうした、ハリー」
僕は、首だけふり向いて訊《き》いた。午後1時。プールサイド。ハリーがロビーを抜けてこっちに歩いてくる。
「練習に行ったんじゃなかったのか?」
「ダメだ。きょうは風が弱過ぎる。練習にならない」
とハリー。プールサイド・バーのスツールに坐った。そのときだった。
「あのォ……」
という声。カズコの声だった。僕とハリーは、同時にふり向いた。水着姿のカズコが、プールから上がってくる。こっちに歩いてくる。
「あの……またまた、お騒がせで本当に申し訳ないんですけど」
とカズコ。もじもじとして言った。
「コンタクトをプールの中に落としちゃって……」
「プールの中?」
カズコは、うなずく。
「顔を水につけないように平泳ぎをしてたんだけど、ポロッと水の中に落ちちゃって……」
と言った。
「了解」
と僕。となりにいるハリーを見る。眼で〈さあ、チャンスだぞ〉と言う。そばにあったシュノーケルとマスクをハリーに渡す。
「こいつは、これでも、学生時代はライフ・ガードのバイトをやってた男でね」
僕はカズコに言った。
「さあ、がんばってこい」
とハリーの背中を叩《たた》く。ハリーはTシャツを脱ぐ。マスクとシュノーケルをつける。
「わかったよ」
と言いながら、プールに飛び込んだ。
□
15分後。プールの青い水面が破れた。潜っていたハリーが、ザバッと顔を出した。水しぶきの中で、大きな歯が白く光った。10回目ぐらいの潜りで、やっとカズコのコンタクト・レンズを見つけたらしい。水面にかかげたハリーの指先。ソフト・コンタクトが、陽《ひ》ざしに光った。カズコが、何か日本語で歓声を上げた。
□
「熱心だなァ」
とフォン。マイタイをつくりながら言った。僕も、プールサイド・バーのスツールに坐ったまま、ふり向く。プールサイドのデッキ・チェアー。カズコとハリーが仲良く話し込んでいる。フォンが熱心だと言ったのは、ハリーのことだ。英語がカタコトのカズコに、一生懸命、話している。超ハイレグの白人娘が、やっかんだ視線を投げつけても、ハリーは気づきもしない。カズコの眼を見つめて話している。やがて、ハリーがこっちにやってきた。
「ちょっと、ウインドを彼女に教えてくる」
「きょうは風が弱いんじゃないのか?」
「大会の練習用にはね。初心者に教えるには、ちょうどいい。クルマ、貸してくれ」
「ああ。せいぜい、優しくしてやるんだな」
僕は、ハリーに小さくウインクした。クルマのキーを投げてやった。ハリーの後からついていくカズコに、
「友達は?」
と、訊《き》いた。
「3人とも、きょうはアラ・モアナ・ショッピングセンターに買い物だって」
とカズコ。僕は、苦笑。カズコに、
「がんばって」
と手を振った。
□
夕方。ハリーとカズコはプールサイドに帰ってきた。
「ウインド・サーフィンの初体験は、どうだった?」
と訊く僕に、
「風が、気持ち良かったわ……」
とカズコ。
「腕は、ちょっと疲れたけどね」
と言った。カラリと微笑《わら》った。
□
翌日も、翌々日も、カズコの仲間3人は1日中ショッピングに走り回っていた。ハワイ全体を買ってしまいそうな勢いだ。カズコは、毎日、ハリーにウインド・サーフィンを教わっていた。夕方帰ってくるたびに、カズコの肌はミルク・チョコレート色が濃くなっていく……。そして、彼女とハリーの1週間は、あっという間に過ぎ去っていった。
□
「なあ、ケンジ。きょうは夜までクルマを使わせてくれないか」
とハリー。僕の部屋で朝食のパパイヤを食べながら言った。
「彼女と、カズコとデートか?」
「ああ。彼女のラスト・ナイトなんだ」
「そうか……。あした帰っちゃうのか」
スクランブル・エッグを食べながら、僕はつぶやいた。
「ああ。クルマならいいぜ。なんなら朝まででもな」
僕は卵にケチャップをかけながらハリーに言った。
□
僕がたきつけたわけでもないだろうが、ハリーが帰ってきたのは、もう夜明けの5時だった。ハリーがソファーにドスンと倒れ込む音に目を覚ますと、窓の外は、もう明るくなりはじめていた。僕はまた、ウトウトと眠りはじめた。
□
朝の9時過ぎ。僕は、クルマに乗り込もうとした。
ソファーでイビキをかいて眠ってる朝帰りのハリーはそのままにして、ホテルに出勤しようとした。ワーゲンのイグニションを回した。そのとき、誰かの叫び声! ハリーだった。Tシャツをかぶりながら駆けてくる。
「どうした!? ハリー」
「大変だ! 遅れる!」
「遅れるってなんだ」
「カズコだ! 空港まで見送りにいく約束になってるんだ!」
「飛行機は?」
「確か、 |N ・ W《ノース・ウエスト》 の021便だ」
「そりゃ10時ジャストに飛ぶやつじゃないか。彼女たちはもう、空港でチェック・インしてるぞ」
「とにかくぶっ飛ばしてくれ! 彼女の住所も電話番号もきいてないんだ!」
とハリー。僕の肩をゆすった。
□
ワーゲンのアクセルを床までふみ込む。空港に向かうH1を突っ走る。9時35分に空港に着いた。ハリーと出発ロビーに飛び込む。駆ける。ホノルル空港は、見送りの人間も出発ゲートまで入れるようになっている。僕らは、金属探知機も小走りで駆け抜ける。|N ・ W《ノース・ウエスト》 021便の出発ゲートに向かって突っ走る。
□
「いた!」
ハリーが叫んだ。出発ゲート前の広い通路。女の子が4人いた。彼女たちだ。カズコの姿も見える。青いコットンの半袖《はんそで》シャツ。ホワイト・ジーンズ。白いテニス・シューズ。肩に、デイ・パックをかけている。
「カズコ!」
走りながら、ハリーが叫んだ。カズコが、ほかの3人が、ほとんど同時にふり向いた。
「間に合った……」
とハリー。カズコと向かい合う。肩で息をしている。僕は、20メートルぐらいはなれて2人を見守る。グループの女の子たち3人も、2人から離れた。
ハリーとカズコは、向かい合う。ハリーが、息をととのえながら、彼女に何か言っている。カズコが小声で何か答えている。小さく首を横に振るのが見えた。また何か言うハリー。首を横に振るカズコ……。やがて、ハリーが僕の方に歩いてきた。さえない表情……。
「どうした?」
「教えてくれないんだ」
「教えてくれない?」
「ああ……住所も電話番号もね……」
とハリー。唇をかむ。
「せめて、お別れのレイでも買ってくるよ」
ハリーは言った。021便は、10分ほど出発が遅れているらしい。ハリーは、早足でレイの売店の方に歩いていく。僕は、カズコの方に歩いていった。
「いいのかい?」
とカズコに訊《き》いた。
「このまま終わりにしちゃっていいのかい?」
カズコは、小さく、けれどはっきりとうなずいた。
「本当にいいんだね。ハッピーエンドじゃなくて」
と訊く僕に、カズコは首を横に振った。やがて、ぽつりと、
「これって、ハッピーエンドなの……」
と言った。
「ハッピーエンド?……」
「そうよ……私にとっては」
とカズコ。
「……最高の1週間だったんですもの……」
と言った。きれいに陽灼《ひや》けした顔の中で、歯が白く光った。
「…………」
やがて、僕もゆっくりとうなずいた。
彼女の思いが、わかった。これから獣医になり家業を継ごうとしている彼女。一流のプロをめざし、世界を転戦していくハリー。2人のめざす道は、あまりに違う。たとえホロ苦い別れであっても、いま、最高の状態でグッドバイを言うのは、正解なのかもしれない。
「ハリーには、惚《ほ》れていなかったのかい?」
「好きよ。でも……」
「でも?」
「これでいいと思うの」
「強いんだな……」
「強くなんかないわ。きっと、飛行機が離陸したら泣くわ。だけど……」
とカズコ。深呼吸をすると、
「素敵なおみやげがあるし……」
と言った。
「おみやげ?」
「……そう……ハワイの潮風よ。ここに入っているの」
とカズコ。シャツの胸ポケットを指さした。
ポケットに潮風か……。それは同時に、ポケットの奥にある胸をさしているのかもしれない。何年、いや何10年たっても変わることなく、ハリーと過ごしたハワイの潮風は、彼女の胸の中を優しく吹き渡っていくのだろう……。
プルメリアのレイを持って、ハリーが大股《おおまた》で歩いてきた。レイを、そっとカズコの首にかける。抱きしめて、頬《ほお》に長いキス……。やがて、飛行機への搭乗がはじまった。ハリーが、抱きしめていたカズコをはなす。指先と指先がはなれる。
「じゃ……」
とカズコ。何かをたち切るように言った。
「グッド・ラック……」
とハリー。カズコの眼を見つめてつぶやいた。
搭乗ゲートをくぐっていく乗客の最後に、彼女たち4人。前の3人は、両手いっぱいに高価な免税品の入ったビニール袋。一番最後のカズコは、左肩にかけたデイ・パックだけ。けれど、一番ぜいたくなおみやげを持ってハワイを去っていくのは、彼女かもしれない。僕は、ふと、そう思った。
搭乗ゲートに姿を消す寸前。カズコは、1度だけふり向いた。明るい笑顔。僕らに向かって右手を振った。その青いシャツの胸もとで、プルメリアの白いレイがかすかに揺れた。
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イエスタデイ
□
「おい、こら! フォン!」
と言う声。
「何やってるんだ、このドジ」
太い声が響いた。南十字星《サザン・クロス》ホテル。そのプールサイド・バー。マイタイをつくっていた芳《フオン》のすぐ後ろだ。
□
フォンの後ろに立っていたのは、ヨシだ。
本名はヨシムラ。だが、ホテルの従業員はみな、略して〈ヨシ〉とか〈Mr.ヨシ〉とか呼んでいる。日系人。飲食部門の責任者。つまり、ホテルの中じゃ役員クラスだ。従業員の中でも、もちろん最古参。このホテルがオープンしたときからいるという。小太り。頭はスベスベにハゲていた。ガンコな性格で、一部の従業員には怖がられている。
「まったく、何やってるんだ」
とヨシ。フォンをにらみつけた。
フォンは、〈まずい〉という表情。首をすくめる。プールサイドのチェアー。さっきから、グラマーなフィリピーノの娘《こ》が体にオイルを塗っている。フォンは、それに気をとられながらマイタイをつくっていた。いつものことだけれど、ホワイト・ラムの量をかなりまちがえている。たまたま、そこへヨシが通りかかったのだ。
もちろんホテルの中じゃ彼はお偉方だ。めったに客のいる所には出てこない。何かの用事でプールサイド・バーを通りかかったんだろう。
「お前もう、何年、バーテンダーやってるんだ」
とヨシ。彼は、バーテンダーからはじめて飲食部門の責任者になったという話だ。当然、酒に関しては厳しくなる。
「そんなことばかりしていると、皿洗いに回すぞ」
とヨシ。フォンは、ただただ首をすくめる。頭をかいている。そばにいた僕は苦笑い。そのときだった。プールサイド・バーの電話が鳴った。お説教されているフォンにかわって、僕がとる。ホテル玄関にいるベル・ボーイからだ。
「ちょっときてくれないか、ケンジ」
「どうした」
「日本人の客とタクシーの運転手がもめてるんだ」
「わかった。すぐいく」
□
小走り。ロビーを突っ切る。クルマ寄せに出ていく。
もめているのは、タクシーの運転手とカップルの客だ。客の方は、日本人の新婚さんらしい。お揃《そろ》いのポロシャツ。ジーンズ。あまり旅なれていない感じだった。運転手は白人だ。中年。長いモミアゲ。いかにもタチの悪そうなやつだった。
「何かトラブルが?」
僕は日本語で客の方に訊《き》いた。
「あの……ウァード・ウェアハウスから乗ったときに13ドルって言ってたんだけど、ホテルに着いたら30ドルだってこの運転手が……」
と新婚さんのダンナの方。なるほど……僕は胸の中でうなずいた。金をぼるために、よくやる手だ。13《サーテイーン》。そして30《サーテイ》。英語の苦手な日本人相手に、不良タクシーが、わざとまちがえさせるのだ。僕は白人の運転手に英語で、
「あんたが乗せるときに13《サーテイーン》ドルって言ったって、彼らは言ってるぜ」
と言った。やつは案の定、
「そりゃ彼らのききちがいだ。おれは30《サーテイ》ドルって言ったんだ」
と開きなおる。
「そんなことは、どうでもいい」
僕は言った。こんなやつを、まともに相手にしてもはじまらない。
「ウァード・ウェアハウスからここまでで30ドルとろうなんて、虫がよすぎるんじゃないか? 13ドルでも高い」
僕はピシャリと蚊を叩《たた》きつぶすように言った。
「あんた、いったいなんだよ……」
と白人の運転手。ちょっとすごんだ声で言った。僕は、ウインド・ブレーカーにプリントされている〈南十字星《サザン・クロス》ホテル〉の英文ロゴをさして、
「ごらんの通り、このホテルの者さ」
つぎにウインド・ブレーカーの裏を返して、そこにつけてある星型のバッジを見せる。
「しかも、保安《セキユリテイ》部門の人間でね」
と言ってやる。
「このホテルに勤める前は、ホノルル市警にいた。あんたの前科を調べるぐらいは朝メシ前だし、営業停止にするぐらい朝メシを食いながらやってみせようか?」
「……わ、わかった……」
と、やつ。額に汗を浮かべる。僕は日本人の新婚さんに、
「その距離なら10ドルで充分だ」
と言った。ダンナの方が、
「ほ、本当にいいんですか?」
と言いながら、10ドル札を1枚出した。僕はそれをうけとる。運転手に、
「ほら」
と、10ドル札を投げるように渡した。
「ひとことでも文句を言ったら、そいつも返してもらうぜ」
と言ってやる。運転手は観念した表情。そそくさと、自分のタクシーに乗り込む。走り去る。
「どうも」
という新婚さんに、
「まあ、メーターを倒さないようなタクシーからは、すぐにおりること」
僕は言った。
「最近じゃ、あの手の不良タクシーは減ったから、あんまり心配しなくてもいいですけどね」
僕がそう言ったときだ。ホテルのクルマ寄せに、クジラが入ってきた。一瞬、そんな印象を与えるほど黒く大きなリムジーンだった。なれているドアマンも、さすがに口笛を吹く。
リムジーンは、玄関正面に駐《と》まる。助手席から若い白人がおりてくる。スーツを着ていた。若い男は、素早くリムジーンの後部ドアを開ける。なれた動きだった。葉巻きをくわえたマフィアの大物が出てきたら、さぞかし似合うだろう。が、後部《リア》シートからゆっくりとおりてきたのは、日本人だった。
ヤクザ風でもない。悪徳不動産屋風でもなかった。中年の後半とも呼べる。初老とも呼べる。そんな年頃だった。中肉中背。髪には、白いものが混ざっている。仕立てのいいサマー・ウールのスーツ。渋いストライプのタイをしめていた。日系の大企業の重役。ひとことで言えば、そんな印象だった。
リア・シートから、部下らしい若い白人がもう1人おりてくる。トランクから、ハリバートンのスーツケースが何個もホテルに運び込まれていく。日本人の紳士は、ゆったりとした足どりでホテルのロビーに入っていく。さっきの新婚さんたちも、立ち止まってそれをながめている。
□
そろそろか……。と思ったとたん、プールサイド・バーの電話が鳴った。フォンがとる。
「ボスからだ。部屋にきてくれとさ」
僕はうなずいた。さっき到着した日本人客のことだろう。彼が何者なのか、社長室に向かいながら考えた。日本から送られてくるテレビも、よく見ている。けれど、有名な政治家や実業家の中に、彼の顔はなかった。とすると……。〈?〉を残したまま、社長室に入る。デスクの向こうにはMr.ヤマザキ。そして、ソファーには客室係のサムがいた。
「見たかケンジ、あのリムジーンを」
とサム。僕は微笑《わら》いながらうなずいた。
「ハワイにもあんな立派なリムジーンがあったとはなァ」
サムは言った。Mr.ヤマザキも苦笑い。
「もうわかると思うが、いまきてもらったのは、その客のことだ」
と僕に言った。
「いったい何者なのかな?」
Mr.ヤマザキは、宿泊カードを手に、
「彼の名前は、ロジャー・キムラ。アメリカ全土に展開しているレストラン・チェーンのオーナー社長だ」
「レストラン・チェーン……」
「そうだ。本人はあまりマスコミに姿を見せないらしいが、資産からいえばロッキー・青木なんかより上らしい」
とMr.ヤマザキ。サムがヒューと口笛を吹いた。
「ハワイにきた目的は?」
僕は訊《き》いた。
「いちおう観光ということになっているが、新しいレストランを出店する準備かもしれない。まあ、うちのホテルにはあまり関係ないな」
とMr.ヤマザキ。
「ただし、やはりV・I・Pだから、君たちもそれとなく注意を払っておいてくれ」
僕とサムは、うなずいた。
「で、部屋と滞在日数は?」
と、訊く僕に、
「もちろん、ペントハウスの貸し切りさ。部下の2人も含めてね」
とサム。
「宿泊予定は、10日間ということになってるな」
と言った。
□
「頼むから、持ってってくれよ」
とバーテンダーのフォン。僕に言った。午後3時過ぎ。プールサイド・バー。きょうは、ウエイトレスのレニーが休んでいる。野球チームに入っているレニーはヒジにデッド・ボールをうけたとかで、この2日間、バイトを休んでいる。プールサイド・バーは、てんてこまいだった。フォンは、自分でつくったカクテルを自分でチェアーに寝そべっている客に運んでいた。それでも、間に合わない。
「わかったよ」
僕は言った。トレイにソルティ・ドッグを1杯のせる。
「で? 届け先は?」
「あそこの、ほら、億万長者の日本人」
とフォン。眼でさした。例のMr.キムラだ。デッキ・チェアーで日光浴をしている。部下2人は、1列後ろのチェアーにいる。
僕は、Mr.キムラの所へ、ソルティ・ドッグを運んでいった。Mr.キムラは、年齢《とし》のわりに若々しかった。もともとよく陽《ひ》に灼《や》けている。体つきも締まっている。何かスポーツをやっているんだろう。Mr.キムラのわきに、僕はグラスを置いた。彼が顔を上げる。
「ああ、君か」
と日本語で言いながら、伝票にサインをした。5ドル札を1枚、チップとして渡そうとした。
「いや、いいんです」
僕は言った。自分のTシャツの十字マークを指さして、
「本業はこのプールの監視員《ライフ・ガード》で、ウエイターじゃないから」
と言った。
「ライフ・ガードか……」
とMr.キムラ。
「ついでに、保安《セキユリテイ》の仕事もやるわけだ」
と言った。サングラスをはずして僕を見た。
「…………」
「おとといの午後、腕前は拝見したよ」
とMr.キムラ。微笑《ほほえ》みながら言った。柔らかいが、したたかな微笑《わら》いだった。
「おとといの午後?」
「私がホテルに着いたときさ」
「ああ……あのとき……」
「私のリムジーンの前に、ほら、日本人のハネムーナーを乗せてきたタクシーがいて、彼らのトラブルが解決するまで、私のリムジーンは玄関につけられずに後ろで待ってたわけさ」
「そうでしたか……」
「退屈しのぎに、君がタクシーの運転手をあしらうところを見物してたんだ」
「なるほど……それで僕がセキュリティも兼ねた人間だと」
「そういうこと」
とMr.キムラ。ソルティ・ドッグに口をつけながらニコリと微笑《わら》った。
□
「頼みごと?」
僕は訊《き》き返した。
「ああ、そうなんだ」
とMr.キムラ。
「同じ日系人だからというわけじゃないが、君ならうまくやってくれそうな気がしてね」
と言った。
「それは全くわからないけど、どんな用件なのかな?」
僕は訊いた。Mr.キムラは、10秒ほど考える。やがて、
「恋人を世話してほしいんだ」
と言った。
□
「恋人ってことは、その……ハワイ滞在中だけの?」
僕は、訊《き》き返した。
「そういうこと。私も男なものでね」
とMr.キムラ。目尻《めじり》にシワを寄せて、
「たまには羽をのばしたいと思うんだ」
と軽く苦笑い。
「ということは、お金でなんとかなる女の子ってことですね?」
ズバリと僕は訊いた。
「まあ、そういうことなんだが、いわゆる|商 売 女《ストリート・ガール》じゃ嫌なんだ」
とMr.キムラ。それはそうだろう。
「お金はたっぷり払うし、私のペントハウスで寝泊まりしてくれればいい」
僕は、うなずいた。
「で、お金って、どのくらい?」
「そう……1日あたり1000ドルってところでどうかな?」
とMr.キムラ。僕は思わず言葉につまった。そして、
「妹をマウイ島から連れてきたいぐらいだけど……」
と微笑《わら》いながらつぶやいた。
「でも……それほど出すからには、相手への希望もあるわけでしょう?」
Mr.キムラは、軽くうなずく。
「希望といっても、いくつもないよ。若い白人娘で、もちろん美人な方がいい」
「それなら、なんとかなりそうだ」
「ただ1つ、これだけはっていう条件があるんだ」
「条件?」
「ああ……肩のあたりにまでたれる金髪で、内側にカールさせていること」
「金髪……内側にカール……」
僕は、つぶやいた。5、6秒考えると、
「もしかしたら、ちょうどいい娘《こ》がいるかもしれない」
と言った。心当たりがあった。ミリーという娘《こ》だ。モデル・クラブに所属している。けれど、あまり売れていない。さすが街には立たないけれど、金で男とつき合うこともあるらしい。もちろん、誰とでもいうわけじゃない。気に入った相手で、しかも金持ちの場合だ。友人のサトシが、ときどきそんな世話役をやっていた。
「いちおう心当たりがあるから、連絡してみましょう」
僕はMr.キムラに言った。
自分の仕事に戻る。ふと考えた。なぜ、こんなことを引きうけたんだろう……。結局、2つの理由に思い当たった。理由その1。Mr.キムラが〈女を世話してくれ〉と言わず〈恋人を世話してくれ〉と言ったこと。理由その2。Mr.キムラが、どう見ても紳士であること。女を買うことを目的に東南アジアや、たまにはこのホノルルへ遊びにくる日本人の中年男たちとは、あきらかに違っている。
もしうまくいけば、ミリーにとっても、いい収入になるだろう。1週間で半年分の収入になるかもしれない。コーンフレークだけだった朝食に、パパイヤと〈|目玉焼き《サニーサイド・アツプ》〉がつくかもしれない。
□
翌日。午後1時。さっそくホテルのレストランで2人をひき合わせた。
ミリーもMr.キムラが気に入ったらしく、話はその場で決まった。もしお互いに気に入らなければ、昼食の1時間以内に席を立って帰る。そういう手順にしておいた。結局、2人とも2時間以上、笑い話をしながら昼食の席についていた。僕はとちゅうで席をはずし、自分の仕事に戻った。
□
その日の夕方。ミリーはMr.キムラのペントハウスに引っ越してきた。ただ美人の金髪娘にしか見えないから、誰も変な顔はしない。2人の楽しそうな姿が、ホテルのあちこちで見られるようになった。
□
1週間目だった。Mr.キムラとミリーは、プールサイドにいた。僕はプールサイド・バーのカウンターにもたれて、プールをのんびりと監視していた。ミリーが、プールサイド・バーにやってきた。僕のすぐとなりで、
「ジンジャーエールと、ソルティ・ドッグ」
ミリーはフォンに注文する。フォンがうなずく。仕事をはじめる。僕はそれとなく、
「うまくいってる?」
とミリーに訊《き》いた。ミリーは白い歯を見せる。
「もちろん。楽しいわよ、彼って最高に素敵!」
「あっちの方も?」
「あっちって?」
「……ほら……夜の……ベッドの上のこと」
「あ、ああ……そんなのなしよ」
とミリー。
「なし?……」
僕は思わず訊き返した。
「そんなの、まるでなし。頬《ほお》にお休みのキスをするだけよ」
とミリー。
「……そうか……」
少しは予想していた。
「じゃ、まるで親子みたいなもんだね」
「そうね……。彼、家族のことだけは何もしゃべってくれないけど、ときどき淋《さび》しそうだし、あたしが子供がわりなのかしら……」
とミリー。
「はい、できたよ」
とフォン。グラスを2つ、バーのカウンターに置いた。そのときだった。
「やっぱりここだったのか!」
と言う声。
□
男が立っていた。若い。白人。巨《おお》きい。デブと言える。Tシャツ。ショートパンツ。ゴムゾウリ。腕にサソリの刺青《いれずみ》がへばりついていた。ミリーが、僕の後ろにサッとかくれた。耳もとで、
「恋人きどりで追いかけてくるやつなの」
と言った。
「お前……金持ちのジャップにへばりついてるって噂《うわさ》は本当だったんだな」
とサソリデブ。ミリーにせまってくる。ミリーは僕の背中にかくれている。当然、男は僕の方にせまってくることになる。
「おい、あんた」
おれは、やつを正面から見て言った。
「僕も日系人なんだが、それを承知でジャップと言ってるんだろうな」
「なんだとォ」
とサソリデブ。顔が茹《ゆ》でたように赤くなる。
「どかないと痛い目にあうぜ」
サソリデブは言った。僕のエリもとをつかんだ。その瞬間。僕はスニーカーのかかとで、やつの足の甲を思いきり踏みつけた。
「グッ」
とサソリデブ。ゴムゾウリの足を踏みつけられてうめく。うずくまりかける。その、スイカを2つ並べたような尻《しり》に回し蹴《げ》り! やつは前にのめる。プールサイド・バーのスツールを2つ倒した。そのとき、
「やめるんだ」
Mr.キムラの声が響いた。
□
「だいじょうぶか」
とMr.キムラ。ミリーの肩を抱いた。ミリーは、うなずく。サソリデブは、僕とフォンがホテルの裏口から放り出したところだ。
「生ビールの樽《たる》より重かったな」
フォンが言ったときだ。
「キムラ……もしかして、キムラじゃないのか……」
と、つぶやくような声。僕らはふり向く。飲食部門の責任者、ヨシが立っていた。
□
「あなたが? ここの従業員だった?」
Mr.キムラに思わず僕は訊《き》き返した。
「ああ……そうなんだ……」
とMr.キムラ。
「もう、23年も前のことになるから、いまじゃ、わかるのはこのヨシぐらいのものだろうがね」
と言った。僕らは、プールサイド・バーで話していた。たそがれが近づいていた。
「別にかくす必要もないが、23年前、私はそこにいたのさ」
とMr.キムラ。カウンターの中。フォンが立っているところを指さした。
「そこで、バーテンダーを?」
「ああ……|20歳《はたち》からの4年間ね」
「その後は?」
僕は訊《き》いた。Mr.キムラはしばらく沈黙。
「……青年らしい野心もあったし、外の世界も見たかったから、このホテルをやめてロスに渡ったよ……」
とMr.キムラ。
「……で、成功か……」
僕は言った。Mr.キムラは少し照れた表情。
「とても言えないような苦労もあったが、まあとにかく、23年間でいちおう成功者になることができた。運もよかったんだな、きっと……」
と苦笑い。
「ハワイに帰ってきたのは、23年ぶり?」
ミリーが訊《き》いた。Mr.キムラはうなずく。
「やはり、一度は捨てた土地だしね」
「……でも、未練はあった?」
とミリー。Mr.キムラはぽつりと、
「未練っていうより……1つだけ置き忘れた思い出があってね……」
と言った。わきからヨシが、
「ああ……彼女のことか……」
と、つぶやいた。
「彼女……?」
とミリー。ヨシはMr.キムラの横顔を見る。
「話してもいいか?」
「……ああ……かまわない」
とMr.キムラ。ヨシは、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「……キムラが本土《メイン・ランド》にいってから、23年間でこのホテルのオーナーは3回変わっているんだ」
「…………」
「キムラがいた当時、オーナーの娘がいてね……大学生だった……」
つぎの言葉は僕にも予想できた。
「キムラは彼女に恋していたんだが、なんせ、日系人で下っ端のバーテンダーと白人の社長令嬢だ。それ以上説明しなくてもわかるだろう?」
Mr.キムラがわきから、
「早い話、私の片想《かたおも》いで、彼女には洟《はな》もひっかけられなかったんだが……どうしても忘れられなくてね」
「かわいいお嬢さんだったものなァ」
とヨシ。思い出す表情で、
「金髪を内側にカールさせて、それが潮風に揺れて……」
と言った。
「そうか……」
僕は、言いながらMr.キムラを見た。
「で、金髪をカールさせた娘を見つけてほしいと言ったわけか……」
Mr.キムラは、うなずく。ミリーに、
「悪いことをしたかもしれないね。昔、惚《ほ》れてた人の身がわりをさせたりして」
と言った。
「そんなことないわ」
とミリー。
「そんなかわいいお嬢さんに似てたなんて光栄よ。おまけに、いいアルバイトになったし」
と答えた。ハワイの人間らしく根っから陽気なのだ。
「で、そのオーナーの娘は?」
僕は、ヨシに訊《き》いた。
「キムラがこのホテルにいるうちに婚約して、キムラがロスに渡ってすぐに結婚したよ」
とヨシ。そうか……。そういうことなのか……。僕は、胸の中でうなずいた。
「彼女が結婚して2、3年後かなァ……。彼女のパパがこのホテルを売却して確かカナダに移り住んだはずだけど、私にもはっきりはわからない……」
とヨシ。みな、ふと、黙り込む。ヨシが、その沈黙を破るように、
「そうだキムラ。あのオリジナル・カクテルをつくってくれよ」
と言った。
「あのカクテル?」
とMr.キムラ。
「ほら、いつもキムラがこのバーでお嬢さんにつくってやってたあれ」
とヨシ。
「ああ……あれか……」
「なんて言ったっけ、あのカクテルの名前」
「……イエスタデイ……」
とMr.キムラ。静かな声で言った。
「あの頃ちょうど流行《はや》ってたビートルズの曲からつけたんだ」
Mr.キムラは言った。眼が、遠くを見ている。
「お嬢さんは、あれがえらく気に入ってたなあ……」
とヨシ。
「あたしも……飲んでみたいな、そのカクテル……」
ミリーが言った。
□
「しょうがない。やってみるか」
とMr.キムラ。みんなの声に背中を押されて立ち上がった。カクテル〈イエスタデイ〉をつくることになったのだ。
「もう23年もつくってないんだから、うまくできるかどうかわからないがね」
とMr.キムラ。ブレザーを脱ぐ。スツールに置く。シャツの腕をまくった。カウンターの中に入っていく。フォンが、端に寄る。Mr.キムラは、カウンターの中を見回す。
「ずいぶん変わったなァ……」
と、つぶやいた。
23年間。オーナーも3回変わった。建物の改装もあっただろう。Mr.キムラは、バーの中を見回しながら、ゆっくりと手を動かしはじめる。何かをかみしめるように、ゆっくりとした動作でカクテルをつくっていく……。
僕は、となりのスツールを見た。Mr.キムラのブレザーがスツールに置いてある。いかにも高価なサマー・ウールのブレザー。その金ボタンが、ハワイの夕陽《ゆうひ》を照り返していた。成功者としてのMr.キムラ。高価なクルマも服も、小型のジェット機も持っているというけれど、一度も結婚していない。そのことを、僕はミリーからきいていた。もしかしたら、人生で一番求めていたものだけは、手に入れられなかったのかもしれない。僕は、ふとそう思った。
同時に、若々しい彼の横顔をながめた。23年前に置き忘れてきた恋をどうしても忘れられない。そんなピュアな心が、彼をどこか少年のように見せているのかもしれないとも思った。
やがて、僕の前にもグラスが置かれた。細身のストレート・グラス。淡いパイナップル色。ひと口、飲んでみる。〈|過ぎた日《イエスタデイ》〉という名のカクテルは、柑橘《かんきつ》系の香りが漂い、かすかに甘く、そしてホロ苦かった。
たそがれのプールを、海風が渡ってくる。風は、ひんやりと涼しかった。Mr.キムラの着ているシルクのシャツ。そのエリが、かすかに揺れた。どこからか、あのビートルズ・ソングがきこえてきたような気がした。
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マスタードが目にしみる
□
ピピピッ。ピピピッ。僕の背中で、電気虫が鳴いた。
本物の虫ではない。ポケット・ベルのことだ。仕事仲間の芳《フオン》が、ジョークで電気虫と名づけた。僕は、
「やれやれ……」
と、つぶやく。左手を、女の子の肩からはなす。ジーンズの後ろにつけたポケット・ベルのスイッチにその手をのばした。
□
ホノルル。アラ・モアナ海岸《ビーチ》。
夜の9時。僕は、最近知り合った地元娘《ロコ・ガール》とデートしていた。彼女の名前はデビー。100パーセント、白人。U・H(ハワイ大学)の3年生だ。
僕らは、カピオラニ|通り《ブルヴアード》のタイ料理屋で夕食をすませた。アラ・モアナ・ビーチまでやってきた。並んで海をながめていた。かすかに、打ち寄せる波の音。水平線に反射する月明かり。僕は左手で彼女の肩を抱いていた。日米友好のムードは、盛り上がろうとしていた。そんなときだった。野暮《やぼ》な電気虫が、じゃまをしてくれた。
「やれやれ」
もう1度、僕は口に出した。ジーンズの後ろにつけたポケット・ベル。そのスイッチを操作した。24時間、いつでも連絡がとれるように、最近つけて歩くようになったポケット・ベルだ。発信音が止まった。僕は彼女に、
「ちょっと電話をかけてくる」
と言った。ふり向く。15メートルぐらい後ろ。砂浜に沿った道路に電話が立っていた。卵型の殻《シエル》に入った電話機。|25セント玉《クオーター》を入れる。南十字星《サザン・クロス》ホテルの業務用番号を押した。フロントの電話が鳴っている音。電話に出たのはサムだった。
「ケンジか」
「ああ。何事だ。アラブ・ゲリラにでもホテルが乗っとられたのか」
僕は言った。
「機嫌が悪いんだな、ケンジ」
「当然だろう。デート中なんだ」
「そりゃ申し訳ないが、社長があんたを呼べと言うんでね」
とサム。
「わかったよ。で? 何かトラブルか?」
「ああ。レストランで、日本人の客が酔っぱらってもめてるんだ」
日本人客。酔っぱらい……。僕は、軽くため息。
「わかったよ……。すぐ行く」
「どのぐらいで来れる?」
「いまアラ・モアナだから、せいぜい10分」
僕は言った。電話を切る。デビーに、
「悪いけど、ホテルから呼び出しなんだ」
「呼び出し?」
とデビー。
「ああ。ちょっとしたトラブルらしくてね」
「でも、ケンジ……あなたプールの監視員《ライフ・ガード》なんでしょう? こんな時間に仕事?」
とデビー。彼女には、ただのライフ・ガードだと僕の仕事を話してある。ライフ・ガードを兼ねた探偵だとは言っていない。
「たぶん、酔っぱらった誰かがプールに落ちたんじゃないかな」
僕は言った。苦笑い。
「申し訳ないけど、デートはおあずけだ。送っていくよ」
僕はデビーに言った。クルマのドアを開けた。
□
ワイキキのバス停《ストツプ》で彼女をおろす。そのまま、ホテルに向かう。タイヤを鳴らして、ホテルの従業員用パーキングに突っ込む。ロビーに入っていく。カウンターにいたサムに、
「どこのレストランだ」
と訊《き》いた。南十字星ホテルには、レストランが4つある。
「〈ブルー・ラグーン〉だ」
とサム。〈ブルー・ラグーン〉は、最上階にある高級レストランだ。
「わかった」
僕はサムに言う。エレベーターに早足で歩く。
□
「なめてんのかよ!」
そんな大声。レストランの外から、すでにきこえた。僕は、レストランに入っていく。マネージャーのエドが突っ立っていた。
「どうした」
「あれさ」
と蝶《ちよう》ネクタイ姿のエド。まん中辺のテーブルを眼でさした。日本人の男性客。5、6人。30代から40代だろう。全員、ポロシャツにゴルフ・スラックスのようなスタイル。ヤクザ者ではなさそうだ。けれど、かなり酔っぱらっている。ゴルフで灼《や》けたらしい顔が、酒でまっ赤になっている。
「カラオケがないって言って怒ってるんだ」
とエド。英語で僕に言った。
「宿泊客か?」
「いや。ちがう」
エドは言った。僕はうなずく。彼らのテーブルに歩いていく。このレストランでただ1人、かたことの日本語が話せるウエイターが相手をしていた。
「カラオケが置いてないってのは、どういうことなんだよ!」
と日本人客。
「お前、おれたちをなめてるんだろう」
とウエイターにせまる。困った顔のウエイター。僕は、その間に割って入った。日本語で、
「失礼」
と、その酔っぱらいに向かう。
「ここには、カラオケはありません。そんなに唄《うた》いたいのなら、街にあるカラオケ・バーを教えますから、そっちへどうぞ」
と言った。相手の赤くにごった眼が僕を見た。
「そっちへどうぞってのは、どういうことだよ」
「早い話、ほかのお客さんの迷惑になるから出て行っていただきたいということです」
僕は落ちついた声で言った。
「出ていけだとォ……テメエはなんだよ」
と相手。酒くさい声ですごむ。僕は、ウインド・ブレーカーの内側をチラリと見せる。保安《セキユリテイ》のバッジを相手に示して、
「このホテルの保安係です」
と言った。
「保安だとォ……この若造が」
と相手。右手をのばす。僕が着ているウインド・ブレーカー。そのエリもとをつかんだ。ねじ上げようとする。その手首を、僕は両手でつかんでいた。逆に、グイとねじる。格闘技の関節技だ。
「痛《いた》ッ」
と相手。体が大きくよろける。テーブルに額をぶつけた。
□
結局、それ以上のトラブルにはならなかった。〈なんなら警察を呼びましょうか〉のひとことも効いた。酔っぱらい達は、金を払ってレストランを出ていった。
□
「あの、失礼ですが」
という声。僕の背中できこえた。
翌日。午前11時半。ホテルのロビー。僕はサムと軽口を叩《たた》き合っていた。そのときだ。ふり向く。日本人の中年女性が1人、立っていた。50歳代半ばだろうか。初老と言ってもいい。白いもののまざった髪は、きれいにまとめられている。オフ・ホワイトのワンピース。紺の薄いカーディガンをはおっている。小型のセカンド・バッグ。上品で趣味のいい身なりだった。ホテルのキーを持っていた。
「何か?」
と訊《き》く僕に、
「あの……もしさしつかえなかったら、15分ほど時間をいただけないかしら」
と、その婦人。いまのところ、プールサイドには、なんのトラブルもなさそうだった。
「かまいませんが」
と僕は答えた。
□
ホテル1階のコーヒー・ラウンジ。僕と、その婦人は向かい合った。
「門倉《かどくら》といいます。きのうから、ここに泊まっています」
と、その婦人。自分から名のった。テーブルに置かれたキー。その部屋番号を、僕は見た。1400号室。最高ランクの部屋だ。確かに。服も、さりげなく身につけているアクセサリーも、高級なものだった。
「僕はケンジ・マツモト。このホテルのライフ・ガードや保安の仕事をしています」
彼女は、うなずく。微笑《ほほえ》みながら、
「昨夜は、最上階のレストランで、お手並みを拝見したわ」
と言った。
「そうか……」
僕は、つぶやいた。あの酔っぱらいを追い出したときだ。レストランの窓ぎわのテーブル。この婦人が、1人で食事をしていた。それを思い出した。
「こちらには1人で?」
と訊《き》く僕に、彼女はうなずく。
「主人は、仕事が忙しくてね」
と、微笑《ほほえ》みながら言った。
「なるほど。じゃ、1人で優雅なヴァカンスか」
「……と言いたいところなんだけど……」
とカドクラ夫人、言葉尻《ことばじり》をにごす。テーブルのコーヒーを口に運んだ。
□
「娘さんを、捜しに?」
思わず、僕は訊き返した。カドクラ夫人は、ゆっくりとうなずく。
「突然そんな話をしてもなんでしょうから、順を追って説明します」
とカドクラ夫人。またコーヒーをひと口。静かな口調で話しはじめた。
「私どもは、小田原でかなり手広く呉服屋をやっています」
僕は、うなずいた。夫人の品の良さと落ちつきは、そんな立場に似つかわしいと思えた。
「うちには、3人の子供たちがいます。長女。長男。そして、末娘です」
その口調で、わかった。
「いま問題になっているのは、その末娘ですね?」
カドクラ夫人は、小さくうなずいた。
「綾子《あやこ》といって、いま23歳です」
「で、彼女は、いまこのハワイに?」
「ええ……」
□
「かけ落ち?」
僕は言った。ジンジャーエールのグラスを運ぶ手が、ピタリととまった。
「そうなんです……」
とカドクラ夫人。しばらく無言。コーヒー・ショップの外。まぶしいハワイの海をながめる……。また、ぽつりぽつりと話しはじめる。
「子供たち3人の中でも、綾子は特に活発な子でした。高校の頃から、よく近くの海で水上スキーをやっていました」
僕は、軽くうなずきながら話をきいていた。
「あの子がはじめてハワイにきたのは、確か大学2年のときだと思います。大学の水上スキー部の仲間と一緒にきたはずです」
「…………」
「あの子は、1回でハワイを気に入ってしまったのね……。帰ってくるなり、興奮して、海や風やハワイの人たちのことを話していました」
「…………」
「それからは、年に3回はハワイにくるようになって……」
とカドクラ夫人。言葉をちょっとため込む。
「やがて、こっちに恋人ができたらしいの」
「恋人……」
「……ええ……。確か日系三世の若者だとか」
「…………」
「それから、ハワイに滞在する日数がどんどん長くなっていきました」
「その日系三世の彼は、学生?」
「いえ。何か、その、飲食業をやっているらしいんだけど、それ以上は何も綾子が言わないんで……」
「当然、親としては心配になった?……」
カドクラ夫人は、うなずく。
「主人が怒ってハワイ行きのお金を出さなくなると、綾子は自分でアルバイトしたお金でハワイに……」
僕は、腕組みしてうなずいた。
「どうせ、いかれたハワイのチンピラに引っかかってるんだろうって主人が怒って……綾子との間がどんどん険悪になっていって……」
「そして、かけ落ち?……」
カドクラ夫人は、うなずく。
「かけ落ちっていうより、綾子が家を出ていったのね」
「家出か……お父さんは?」
「綾子は綾子なりに何かに賭《か》けて出ていったんだろうが、その賭けに負けても、二度とこの家のしきいはまたがせないと、強硬に言いはって……」
「なるほど」
僕は、軽くため息。
「それは、いつのことですか?」
「約1年前」
「彼女からの電話や手紙は?」
カドクラ夫人は、首を横に振った。
「綾子は小さい頃から意地っぱりだったから、当然そうなるとは思っていたけど、やはり、心配で……」
僕は、うなずいた。カドクラ夫人は、手に持っていたシルクのハンカチをぎゅっと握りしめた。
「どんな相手と、どんな暮らしをしているのか、ちょっとでもわかれば……そう思って私ひとりでハワイに……」
「なるほど……。で、僕にその綾子さんを捜して欲しいと?」
「ええ……あなたなら、あまり大げさじゃなく、綾子のことをつきとめてくれるんじゃないかと思って……」
「しかし……」
僕は言葉を切ると、
「その相手に関して、何か手がかりはあるんですか?」
と、訊《き》いた。
「以前に1度、国際電話がきて、彼の苗字《みようじ》は確かタムラだったと……」
「タムラ……年齢《とし》は?」
「綾子より2つ上って言ってたから、いま25歳だと思うけど、それ以上は何もわからなくて……」
とカドクラ夫人。
「タムラっていうファミリー・ネームの日系三世で25歳か……」
僕は、つぶやいた。
「それだけじゃ、とても無理?……」
カドクラ夫人は、訊いた。真剣な表情。僕の顔をじっと見た。
「とにかく、ホテル内の仕事とちがうんで、ボスに相談してみます」
僕は言った。
□
「ふむ……」
と社長のMr.ヤマザキ。腕組みをしてつぶやいた。1時間後。ホテルの社長室だ。
「で、そのタムラっていう男のことは、つきとめられそうなのか?」
「市警にいた頃の知り合いが市庁の戸籍課にいるから、たぶん数日あれば」
僕は言った。Mr.ヤマザキはうなずく。カドクラ夫人の宿泊カードを、じっとながめる。
「1400号室に10泊か……言ってみれば上客だな」
と言った。
「こういう客は、大切にしなくちゃならない」
と微笑《わら》いながら、
「いいだろう。やってみてくれ」
と僕に向きなおった。
「了解」
部屋を出ていこうとする僕の背中に、
「そのかわり、ポケット・ベルは絶対に忘れないようにな、ケンジ」
とMr.ヤマザキの声。
□
ホノルル市の戸籍課で、まるまる1日がかり。それらしい男が2人、浮かび上がった。とりあえず、1人目から、かかってみることにした。
□
翌日。夜の8時過ぎ。ホテルの保安《セキユリテイ》ルーム。僕は、メモをながめた。1人目。田村勇三郎。25歳。ダウンタウンのキング|通り《ストリート》で〈パープル・クラブ〉っていうバーをやっている。店の住所を見る。ホノルルでもかなり治安の悪いあたりだ。僕はデスクの引出しを開けた。22口径の自動拳銃《オートマチツク》を出す。Mr.ヤマザキには悪いけれど、ポケット・ベルをジーンズの後ろからはずす。そこへ、22口径を突っ込む。上にウインド・ブレーカーをはおる。ホテルを出た。
□
〈パープル・クラブ〉は、文字通りパープルな店だった。ドアもパープル。ドアを開けても、パープル。紫色の照明に、すべてが照らされていた。低いボリュームで、マドンナの曲が流れている。まだ、夜が早い。客は、まだ1人もいないらしい。店の女らしいのが3、4人、ボックス席でサイミン、つまりハワイ流のラーメンをすすっている。僕は、カウンターにいく。フィリピーノのバーテンダーに、
「バド・ライト」
と注文する。バーテンダーは無言でうなずく。僕の前に、ビールとグラスを置いた。ついでという感じで、ピスタチオの入った小さなボウルを置いた。僕は、グラスにビールを注《つ》ぎながら、
「ミスター・タムラに会いたいんだが」
と言った。
「ミスター・タムラ?」
「ああ。確か、この店のボスだと思うが」
3、4秒して、バーテンダーが、
「ああ、タミーか」
と言った。
「タミー?……」
思わず僕が訊《き》き返したときだった。
「あたしに、何か用?」
僕の背中で、低い声がした。
ゆっくりと、ふり向く。まず目に入ったのは、ラメを一面に散りばめたロング・ドレスだった。ヒールの高さを入れなくても180センチ。そのぐらい大柄な女、いや、オカマらしいのが立っていた。〈|西洋もやし《アルフアルフア》〉みたいな金髪のカツラ。まっ赤な唇。
「あんたが、田村勇三郎?」
彼、いや彼女はうなずく。微笑《ほほえ》んで、
「店の客やみんなはタミーって呼んでるけどね」
と彼女。ちょっとしゃがれた低い声で言った。
「で、あたしに何か用?」
「いや。その、ダウンタウンで一番の美人だってきいたんでね。一目、顔を見ようと思って」
僕は言った。これ以上、用はない。
「一目会えれば、よかったんだ」
僕はグラスのビールを飲み干す。5ドル札を1枚置く。店の出口に歩いていく。その背中に、
「今度、ゆっくり遊びにいらっしゃいよ」
とタミーの声がきこえた。僕は苦笑いしながら店のドアを開けた。歩道に寝っ転がってる酔っぱらいをまたいで、自分のクルマに歩いていく。
□
翌日。午後3時。ホノルルの東。|9th.《ナインス・》 |通り《アベニユー》あたりを走っていた。住所を書いたメモを見ながら、ゆっくりとワーゲンを走らせていた。2人目。田村・ケニー・芳明の家が、このあたりのはずだった。きょうも、ホノルルは快晴。まぶしい陽《ひ》ざしに眼を細めて、ゆっくりと1軒ずつ見ていく……。
□
「ん?」
僕は、思わずつぶやいた。ブレーキをふんでいた。ごく平凡な1軒の家のわき。トレーラーが駐《と》められていた。見覚えのあるトレーラーだった。そして、見覚えのある男が、ホースからの水でトレーラーを洗っていた。
トレーラーは、ホットドッグの屋台《スタンド》だった。まっ白いボディ。ペパーミント・グリーンで〈TA《タ》MU《ム》 TA《タ》MU《ム》 DOG《ドツグ》〉と描かれている。トレーラーのわきに、大きく窓が開くようになっている。それが、店の窓口になるのだ。トレーラーの前には、それを引っぱる四輪駆動のチェロキーが駐めてある。
僕は、家の住所を見た。まちがいない。家の前にも〈Y・TAMURA〉という表札。そうか……。彼が、2人目の田村だったのか。僕は、胸の中でつぶやいていた。
〈TA《タ》MU《ム》 TA《タ》MU《ム》 DOG《ドツグ》〉は、地元《ローカル》の人間には人気のホットドッグ・スタンドだった。平日は北海岸《ノース・シヨア》のサンセット・ビーチあたりに店を出している。僕も、サーフィンの合い間に、よく立ち寄った。この屋台のホットドッグは、まず、パンがおいしい。軽く、オーブンであぶってある。それが、ほかと違う。そのパンに、茹《ゆ》でた太いソーセージをはさむ。そしてたっぷりのケチャップとかなり辛いマスタード。少し手間がかかるけれど、とにかく、おいしい。いつもサーファー達が列をつくって買っていく。
タムラが、僕に気づいた。
「やあ」
と、トレーラーを洗う手を止めた。僕も笑顔を返す。ワーゲンを駐《と》める。おりる。
「あんたか」
とタムラ。お互いに名前は知らないが、顔は知っている。
「最近はあまり北海岸《ノース》で見かけないな」
「ちょっと忙しくてね。サーフィンやってる時間が減ったよ」
タムラは、うなずく。灼《や》けた厚い胸。がっしりとした体格。口ヒゲの下から、白い歯がのぞいた。
「どうして、ここへ?」
「偶然通りかかったんだ。で、このトレーラーを見つけてね」
僕は言った。〈TAMU TAMU DOG〉の文字を見上げた。タムラだからTAMU TAMU。そういうわけらしい。
「きょうはもう店じまいかい?」
「ああ。あしたはスワップ・ミートだから、その準備でね」
とタムラ。そうか……。あしたは土曜日。土日の2日間、アロハ・スタジアムの広い駐車場でスワップ・ミートが開かれる。早い話、誰でも店を出せる青空市だ。
「スワップ・ミートは、もうかるかい?」
「そりゃね。やっぱり、平日の5倍はいくね」
とタムラ。口ヒゲの下で、また白い歯を見せた。そのときだった。家から、日本人の娘が出てきた。ゴムゾウリ。ショートパンツ。LOCAL《ローカル》 MOTION《モーシヨン》の文字《ロゴ》つきTシャツ。ストレートな髪は、まん中分け。手も脚も、タムラと同様、よく灼《や》けていた。
「ああ紹介するよ」
とタムラ。
「ワイフのアヤコだ」
と言った。彼女は僕を見る。|通り雨《シヤワー》の後の陽《ひ》ざしのような明るい笑顔を見せた。僕らは、腕ずもうのようなハワイアン・スタイルで短く握手。
「ちょっとプロパンの調子を見てくるわ」
と綾子。タムラに言う。トレーラーの中に入っていった。僕はタムラと、とりとめのない世間話をはじめた。
□
「そう……。飲食業のようなものって、ホットドッグのスタンドだったの……」
とカドクラ夫人。
「どうします。あしたでも、見にいきますか?」
僕は、訊《き》いた。南十字星ホテルのロビー。ソファーに坐ったカドクラ夫人は、1、2分考えると、
「ええ。せっかくきたんだから、ちょっとでも見ていくわ」
と、うなずきながら言った。
□
「あれだな」
僕は言った。指さして見せた。
翌朝11時。スワップ・ミートの会場。地元の人間と観光客でにぎわっている。そのまん中辺。ひときわ人だかりがしている。白いトレーラー。〈TAMU TAMU DOG〉の文字が見えた。
トレーラーの窓が大きく開けられている。それが店頭だ。綾子が働いていた。ストレートな髪を、まっ赤なバンダナで後ろに束ねている。タムラと2人、忙しく働いていた。店の前には、かなりな人だかりができている。その注文をききながら、手ぎわよく動き回っていた。パンを焼く。ソーセージを茹《ゆ》でる。ケチャップとマスタードをかける。綾子の額に、汗の小さな粒が光っている。ときどき、タムラと白い歯を見せて笑い合っている。
「そう言えば、あの子……小さい頃から、体を動かすのが好きだったわ……」
カドクラ夫人が、つぶやいた。じっと、働いている綾子をながめている。
「そうだ。あの子の店のホットドッグを、買ってきてくれない?」
とカドクラ夫人。僕に言った。
□
「はい、お待ちどおさま」
僕は言った。ホットドッグ2つとアイスティーのカップを2つ、両手で持っていた。僕とカドクラ夫人は、店から少し離れる。木陰に腰かける。ホットドッグをかじった。
「どうです。おいしいでしょう?」
ひと口かじって、僕は言った。カドクラ夫人は、小さくうなずいた。しばらく、無言でいた。やがて、ペーパー・ナプキンで、そっと目頭《めがしら》をぬぐった……。
「おいしいけど……ちょっと、マスタードが辛過ぎね。ツンときちゃって……」
と、静かにつぶやいた。また、ペーパー・ナプキンでそっと目頭をぬぐった。
□
夜7時。僕とカドクラ夫人は、ホテルのプールサイド・バーにいた。
「本当に、彼女に会っていかなくていいんですか?」
カドクラ夫人は、小さくうなずいた。
「いいの、これで」
はっきりと言った。
「じゃ……何か伝言とか、お金とか……」
「それも、いまの綾子には必要ないでしょうね。もちろん、お金なんかうけとらないだろうし」
とカドクラ夫人。軽く微笑《ほほえ》むと、
「作家の誰かの言葉にあったでしょう。〈勝者には何もやるな〉……」
と言った。
「……ヘミングウェイ……」
僕はつぶやいた。そして、
「……彼女が勝者だと?」
カドクラ夫人は、ゆっくりとうなずいた。
「さっきのホットドッグのお店で、あなたも見たでしょう? あの2人……」
「…………」
「あんなに生き生きと、仲良く働いていて……」
「…………」
「あの子は、あの子なりの勝負に出て、そして勝ったのね……」
カドクラ夫人は、つぶやいた。
「……でも、これから先も勝ちつづけられるかどうか、わからない」
と言った。僕は、カドクラ夫人の横顔をじっと見た。整った初老の横顔が、しばらく無言でいた。
僕は言った。
「一生、あんな小さなホットドッグ・スタンドでパンを焼きつづけるとか、何かが起きて、あのスタンドだってダメになるかもしれない」
と言った。
「それでも、いいじゃない」
とカドクラ夫人。
「たとえ一瞬でも、あの子は勝ったんだから」
と言った。
「……私みたいに、最初に見合いした相手と、ろくにデートもせずに結婚して……つまり、なんの勝負に出ることすらしなかった人間から見れば、綾子がうらやましいぐらいよ」
とカドクラ夫人。かすかにホロ苦く微笑《わら》った。彼女は、空を見上げた。青さを残したホノルルの空。ヤシの葉がカラカラと風に揺れている。どこか近くのホテルから、甘く切ないハワイアン・ソングの演奏が風に乗ってきこえてくる。カドクラ夫人は、深呼吸。
「もう二度とくることがあるかどうかわからないけど、いい所ね、ここは……」
と言った。僕に向きなおる。
「そうそう。お礼に何か1杯おごらせてくれる?」
僕は、微笑《わら》いながらうなずいた。カウンターの中のフォンに、
「ウオッカ・ライムを」
と言った。
「じゃ、私にも同じものを」
とカドクラ夫人。フォンがうなずく。スミノフのボトルをとった。仕事をはじめる。
プールの水中に、エメラルド・グリーンの灯が入った。水面に、プルメリアの花が1輪、揺れていた。
[#改ページ]
クロールを、もう1度
□
「ねえねえ、あれ、そうじゃない?」
という声。僕の近くできこえた。パック・ツアー風の日本人の娘《こ》が4人、ヒソヒソと話している。
「やっぱり、そうだよ」
「ねえねえ、サインもらいにいこうよ」
という声がきこえる。
□
1月3日。午前10時。南十字星《サザン・クロス》ホテルのプールサイドだ。
正月のハワイだから、当然、ホテルは満室だ。けれど、短い休みをめいっぱい走り回る日本人の観光客たちは、朝食をすませてホテルを飛び出していった。プールサイドに残ったのは、のんびりと本や雑誌を広げている白人の客だけ。そんな時間帯だった。
僕は、いつも通り。監視員《ライフ・ガード》と描かれたTシャツにサーフ・パンツ。サングラス。プールサイド・バーのカウンターにもたれて、バーテンダーの芳《フオン》とムダ話をしていた。視線だけは、さりげなくプールサイドに向けていた。
「ねえ、やっぱり、サインもらおう」
とパック・ツアー風の娘《こ》たち。プールサイドを歩いていく。デッキ・チェアーの1つに、日本人の女性がいる。そのそばに、日本人の男が立って話している。男は、スイミング・スタイルではない。ゴルフ・スラックス風のパンツに、ポロシャツ。薄いスモークのサングラスをかけていた。
「あのォ……」
と日本人の娘《こ》たち。その男に向かって、
「サイン、もらえますかァ?」
と言った。何か、手帳のようなものをさし出す。男は、サングラスの奥でかすかに苦笑い。それでも慣れた様子で、女の子のさし出した手帳にボールペンを走らせた。
「どうもありがとうございました」
と、女の子たち。ふり向きながら、プールサイドを出ていく。
「あれは、何者?」
とバーテンダーのフォン。英語で僕に訊《き》いた。
「俳優さ、日本の」
「有名なのかい?」
「まずまずじゃないか」
僕は答えた。実際、それほどくわしくは知らない。日本のテレビ番組は、けっこうハワイでもオン・エアーされている。レンタル・ビデオで、日本のテレビ番組を見ることもできる。日本の芸能週刊誌も、1週間遅れで本屋に並んでいる。日本の芸能界のことは、その気になればほとんど日本と変わりなく知ることができる。ただ、僕がその気にならないだけだ。
そのKという俳優は、何回かテレビで見たことがある。30歳前後の二枚目俳優だ。10代の頃から、芸能界で仕事をしていたらしい。Kに関して知っていることと言えば、そのぐらいだ。
正月のハワイは、日本からの有名人も多い。この南十字星《サザン・クロス》ホテルにも、何人か泊まっている。年末、僕はホテル・オーナーのMr.ヤマザキに呼ばれた。正月、うちに泊まる有名人のリストを渡された。
「有名人だからといって特別扱いする必要はないが、いちおう注意は払っておいてくれ」
とMr.ヤマザキ。
「芸能人や何かがトラブルを起こすと、すぐマスコミにホテルの名前も書きたてられるからな」
僕に向かってニッと笑ってみせた。僕は、リストを見た。歌手が、家族連れで3組。プロ野球の選手が、やはり家族連れで2組。そして、Kの名前があった。ミスター・アンド・ミセスK。どうやら、夫婦で来るらしい。2ベッドルームに応接のついたスペシャル・スイートに1月12日まで。
「芸能人のヴァカンスにしても、長いなァ」
と言う僕に、
「なんでも、1月2日からはハワイでテレビドラマのロケをやるらしい」
とMr.ヤマザキ。
「ほかの撮影スタッフは、別のホテルに泊まって1月9日までドラマのロケ。10日から12日までは、夫婦して何かの広告に出るんで、そのロケ隊がくるっていう話だ」
「忙しいことだ……」
僕は、苦笑い。そのリストをながめた。10日前のことだった。
□
観光客の娘《こ》たちにサインをしてやったKのところへ、日本人の若い男がやってきた。身なりからして、ドラマのスタッフらしい。
「ロケバスきました。よろしく」
とKに言う。Kは、うなずく。デッキ・チェアーのワイフに何かひとこと。スタッフと一緒に、ホテルを出ていった。
□
1時間後。デッキ・チェアーに寝ていたKのワイフが立ち上がった。年齢《とし》は、まだ20代の真ん中辺だろうか。スンナリとしなやかな体。シンプルなワンピースの水着は、チョコレート色。髪は、ショートカット。少女っぽさをどこかに残した顔つきだった。
彼女は、プールのへりまで歩いていく。誰も泳いでいないプールに、むぞうさに飛び込んだ。
瞬間、僕は、おやっと思った。飛び込み方が、素人ばなれしていた。体の力は抜いている。けれど、美しいフォームだった。青い水面。水しぶきは、ほとんど立たない。そのまま、3、4メートル先に彼女は浮き上がる。ゆったりとしたクロールで泳ぎはじめた。僕も学生時代からライフ・ガードをやっていたからわかる。それは、本格的に水泳をやった人間の泳ぎ方だった。プールを2往復。彼女は、水から上がった。タオルで髪を拭《ふ》きながら、プールサイド・バーの方に歩いてきた。僕のとなりにくると、
「パイナップル・ジュースをもらえる?」
と日本語でフォンに言った。フォンがうなずく。
□
「どこで覚えた泳ぎですか?」
僕は、彼女に言った。彼女は僕を見る。すぐにホテルの従業員だとわかったらしく、微笑《ほほえ》みながら、
「小学生のときから、水泳をはじめたの」
と言った。
「小学生か……」
「高校のときまでは水泳部の選手で、インターハイにも出たわ」
「そりゃハンパじゃないな。大学時代は?」
「大学では、もう選手をやるつもりはなかったから、スイミング・スクールでコーチのバイトをやってたの」
「……あっ、わかった……」
僕は、つぶやいた。
「もしかして、そのスイミング・スクールで、彼と知り合った……」
僕は、Kの名前を言った。彼女は、ジュースを飲みながら、いたずらっ子のように笑った。
「当たり」
「やっぱり、そうか……」
「彼が、役の上でどうしても泳ぐ必要ができて、私のいたスイミング・スクールに、やってきたの」
「で、コーチをしているうちに水泳以外のつき合いもするようになった?」
「まあ、そんなところね」
と彼女。微笑《ほほえ》みながら、
「芸能界で育った彼には、私みたいなタイプの女の子が珍しかったんじゃない?」
と言った。
「で、結婚は?」
「私が大学を卒業すると同時だから……3年前かしら」
ということは、彼女の年齢《とし》は25歳前後……。
「子供は?」
「いないわ」
と彼女。また、鼻にシワをよせて笑うと、
「あなた、もしかして芸能レポーター?」
と、訊《き》いた。僕も笑いながら、
「じつは、そうなんだ。何をかくそう、こいつが、かくしマイクでね」
と、首に下げた救助員《ライフ・ガード》用のホイッスルをつまんで見せた。
□
「芸能人でいっぱいのハワイですが、こちらホテルのプールサイドにいらっしゃるのは、俳優のKさんご夫婦です」
と本物の女性レポーター。マイクを握って言った。翌日。夕方。ホテルのプールサイド。テレビ番組のインタビューだ。白人観光客たちが、珍しそうにながめている。
「ええと、Kさんは、なんとお正月から某テレビ局のドラマのロケだとか」
「ええ、そうなんです」
と、Tシャツ姿のK。プールサイドに僕らが用意したテーブル席にワイフと坐っている。
「ご主人が仕事をしている間、残されて淋《さび》しいですねェ」
とレポーター。ワイフにマイクを向ける。
「いいえ。私は泳ぐのが好きですから、プールさえあればいいんです」
「なーるほど。で、テレビドラマの収録が終わると、つぎはご夫婦で広告の撮影だとか?」
「ええ、そうなんです。某コーヒー会社のテレビ・コマーシャルと雑誌広告で、ワイフと……」
とK。彼女の肩を抱いて見せた。
「おやおや、それでなくても暑いハワイを、ますます暑くしそうなKさんご夫婦です」
とレポーター。わざとらしいつくり笑い。
「ところで、ドラマの撮影スタッフとは別のこのホテルに泊まられているのには、理由があるとか……」
と、Kにマイクを向けた。
「ええ……3年前、ハネムーンで泊まったのがこのホテルだったもので」
とK。
「そうか、思い出のホテルってわけですねェ」
とレポーター。大げさな表情で、
「もう、嫌になっちゃうほどアツアツなこのプールサイドなんです。私も、どこかでいい男、見つけようかなァ」
レポーターのおどけた声が、キンキンと響く。
□
「ああ……」
「どうも……」
僕とKのワイフは、笑顔を見せ合った。翌日。午前10時。プールサイド。Kは、きょうもドラマのロケに出ているらしい。彼女は1人だった。
「遊びで水泳の競争でも、いかがかな?」
僕は言った。
「あっ、やりましょうか」
と彼女。表情がパッと明るくなった。
「オーケイ。じゃ、いっさい手かげんなしで」
「望むところよ」
と彼女。僕は、Tシャツを脱ぐ。スイム・パンツになる。本格的に泳ぐのは、ひさしぶりだった。僕らは、プールのへりに立った。
「じゃ、3往復で勝負」
「了解」
と彼女。誰も泳いでいない水面を見つめた。
「用意……GO!」
僕らは、同時にプールのへりを蹴《け》った。
□
タッチ! 顔を上げる。彼女が、白い歯を見せて笑っている。僕も、笑いながら、
「負けたな」
と言った。ほんの|1《ワン》ストローク半、彼女の方が早くゴールした。僕らは、プールのへりにつかまる。息をととのえる。
「でも……あなたも早いわ」
と彼女。
「私、これでも、インターハイで3位に入ったことがあるのよ」
「僕も、ハワイ大学の頃は、救助員《ライフ・ガード》のバイトをやってたから」
と言った。ライフ・ガードをやるための資格は、かなり厳しいのだ。
「とにかく、面白かったわ」
彼女が言った。そのとき、
「ケンジ!」
という叫び声。フォンの叫び声が、プールサイドに響いた!
□
「かっぱらいだ! ケンジ」
とフォン。僕はもう、プールの底を蹴《け》っていた。ザバッと水から上がる。
走る人影! チラリと見えた!
若い。白人だ。Tシャツ。ショートパンツ。ゴムゾウリ。小さな女物のバッグを握って駆けていく! コーラル・ピンクのビーチバッグ。彼女のものだった! やつは、プールサイドからワイキキ・ビーチへ! 走り出ていく!
僕は追う!
砂浜を、やつは駆ける! 一瞬、ふり返る! 追いかけてくるこっちを見た!
ビーチのすみにズラリと立てかけてある、レンタル・サーフボード。その一番端を、やつは押し倒した。並んでるロングボードが、ガラガラと倒れてくる!
僕は背中を丸める。その下をくぐる! 頭と背中、ボードが当たる! が、ひるまず! 追う!
並んでいるホテルの一番端、モアナ・ホテルの前を過ぎる。ちょっとしたビーチ・パークのようになっている所を駆け抜ける! その先は、カラカウア|通り《アベニユー》だ。大通りの人ごみに逃げ込もうとしたんだろう。通りに走り出る寸前、やつはまた、ふり向いた。追ってくる僕を見る。それが、やつの失敗だった。
駆けながら、ふり向いた。
つぎの瞬間! やつは、ヤシの木の1本に激突した!
□
やつは、ヨロヨロと起き上がる。鼻血を流している。
どこかで見覚えのある顔だった。そうか……2年半前、ホノルル市警に勤めている頃だ。誰かに挙《あ》げられてブチ込まれてきた。白人のチンピラ。置き引きやかっぱらい専門の雑魚《ザコ》だ。
「あきらめな」
僕は言った。やつと向かい合う。
「うるさい!」
やつは、やけっぱちで殴りかかってきた。
かわす! 殴りかかってきたやつの右腕をつかむ。後ろにねじ上げる。左手で、やつの後ろ髪をつかむ。
「ヤシの木とキスするのが好きらしいな」
僕は言った。やつの顔面を、ヤシの幹にキスさせてやる。ゴツ! にぶい音。やつは、ズルズルと地面にへたり込む。
カラカウア|通り《アベニユー》に駐《と》まっているポリス・カーから、制服警官が駆けてくる。観光客で混《こ》むシーズンは、いつもそこに駐まっているポリス・カーだ。
小走りでやってきたのは、市警にいた頃からの顔なじみ、ハワイアンのキモだ。
□
「あっ、血が出てる」
と彼女。僕の顔を見て言った。指でさわってみる。確かに。額に、ヌルリとした感触……。倒れてきたサーフボードが当たったんだろう。
「ほんのカスリ傷さ」
と僕。バーテンダーのフォンから紙ナプキンを2、3枚もらう。それを額に当てた。
「それより、ちょっと警察まで被害届けを出しにつき合ってくれないか」
僕は彼女に言った。白人のチンピラは、とっくにキモたちがしょっ引いていった。が、正式な被害届けが必要だった。
「でも、あのバッグには、たいした金額の物、入ってないし……」
と彼女。
「いや、金額の問題じゃなくて」
と僕は苦笑い。
「こいつは、いちおう立派な犯罪だから、あの泥棒野郎をぶち込むために、君の被害届けが欲しいんだ」
「あ、そうか……」
と彼女。うなずく。
「わかった。警察にいくわ。いま、着がえてくる」
「あっ、それと、IDカード(身分証明書)がわりに、パスポートを持ってきてくれるかな?」
僕は言った。
「……わかったわ」
□
ホノルル市警察署《ポリス・デパートメント》。
僕らは、被害届けをつくっていた。犯人は、前科6犯のチンピラだ。目撃者も山ほどいる。なんの問題もない。彼女は、被害届けに、バッグとその中身を書いていく。確かに。プールサイドに持っていくだけのものだから、金目の物は何もなかった。キモは、彼女のパスポートを開く。生年月日や何かを、書類に書き込んでいく。
「美由紀《ミユキ》か……」
僕は、パスポートをながめてつぶやいた。はじめて、彼女の名前を知った。
年齢《とし》は、やはり25歳だった。
「しかし、皮肉だよなァ」
とキモ。サラミ・ソーセージみたいに太い指でボールペンを動かしながら、
「市警に勤めてた頃は、スリの1人も挙《あ》げなかったケンジが、やめてから、泥棒をつかまえるとはなァ」
と僕に言った。僕は、苦笑い。
「なんせ、給料がちがうからな」
と、はぐらかす。
「ほら、早く書けよ。こっちは、早く昼メシを食いにいきたいんだから」
僕は言った。ずんぐりと丸いキモの肩を叩《たた》いた。
□
「さあて、何を食うかな?」
僕は、ノビをしながら言った。午後1時少し前。ホノルル市警を出てきたところだった。
「いまの件のお礼もあるし、私におごらせて」
とミユキ。
「……わかった……。じゃ、ホノルルで一番ぜいたくなランチにしよう」
僕は言った。自分のボロ・ワーゲンに歩きはじめた。
□
「これが、ホノルルで一番ぜいたくなランチ?」
ミユキが言った。
「ああ、そうさ」
僕は答える。ジップ・パックの蓋《ふた》を開ける。
ミユキと僕は、アラ・モアナ公園にいた。鮮やかなグリーンの芝生。そこに、木製のテーブルとベンチがある。その1つに腰かけていた。ときどき、アラ・モアナ海岸《ビーチ》の方から潮風が吹く。テーブルの上で、紙ナプキンが揺れる。テーブルの上の葉影も揺れる。テーブルの上にあるのは、ジップ・パック。〈ジッピーズ〉というファーストフード店で売っている弁当だ。フライド・チキン。焼いたビーフ。魚のフライ……そんなものが、ハワイ風にどっさりと入っている。それに、白いゴハン。僕ら地元《ローカル》の人間には、人気のある弁当だ。僕は、紙袋から冷えたBUD《バドワイザー》 LIGHT《ライト》の缶を出した。道路や砂浜で酒を飲むのは、ハワイでは基本的には許されていない。が、こういう公園では、まず誰も文句を言ったりしない。
「とりあえず、ノドが渇いた」
僕は言った。ミユキとビールの缶をゴチッと合わせて乾杯。ジップ・パックを突つきはじめる。しばらくして、
「おいしい……」
ミユキがつぶやいた。ふと、海の方を見る。風を胸に吸い込む。
「芝生の上で物を食べたなんて、何年ぶりかなァ……」
とミユキ。はいていたローファーを、ポンと脱いだ。素足で芝の感触を味わっている……。
「確かに、これは、ホノルルで一番ぜいたくなランチね」
と言った。
□
「なぜ、理由《わけ》をきかないの?」
とミユキ。ハシを動かしながら僕に言った。
「理由《わけ》って、何の?」
「さっき、警察で見たでしょう、私のパスポート」
「ああ……」
「気づいたでしょう? 私の名前」
「ああ……」
フライド・チキンをかじりながら、僕は言った。確かに。変だった。彼女のフルネームは、山本美由紀。Kとは、まるで苗字《みようじ》がちがう。そのパスポートの発行は、約3カ月前だった。
僕は、ビールをひと口。
「じゃ、3つだけ訊いていいかい?」
「いいわよ」
「じゃ、まず、その1。正式に結婚していた?」
「いたわ」
「じゃ、その2。離婚した?」
「したわ。4カ月前に」
「じゃ、最後の質問。離婚の理由は?」
「…………」
ミユキは、しばらく無言。
「性の不一致?」
「それはあんまりないけど……」
とミユキ。微笑《わら》いながら言った。
「じゃ、性格の不一致?」
「それは多少ね。でも、どんな夫婦にもそれってちょっとはあるものでしょう?」
「そうなんだろうな。結婚したことがないから、わからないけど」
僕は言った。
「あえて言えば、性格じゃなくて生活の不一致かしら」
「生活の不一致?……」
□
「前にも言ったように、彼は10代から派手な芸能界にいたから、スイミング・クラブでコーチをやってるような、私みたいなスポーツ・ガールが珍しかっただけなんだと思う」
とミユキ。
「愛情というより、ほとんど物珍しさだったのね……」
と、つぶやいた。
「なるほど……」
「私にも、ある時期までは芸能人としての彼がまぶしかったわ。結婚して、しばらくはね……」
「その、ある時期以後は?」
「彼との生活がギシギシと言いだしたの」
「ギシギシ?……つまり、生活の不一致ってやつがやたら気になりだした?」
ミユキは、うなずく。遠くを見る……。
「うわべ最優先の彼との生活が、嫌になったのね……」
と言った。
「私は、金持ちでもなく、貧乏でもなく、ごく普通に、大学時代はバイトでお小遣いを稼いで、のびのびとやってきたわ。いつもスニーカーやスリップオンやホワイト・ジーンズをはいて、渋谷の人ごみを歩くのが好きだった。歩きながらフレンチ・フライを食べたりとか……」
とミユキ。ニコリと白い歯を見せた。
「…………」
「でも、彼と結婚して、ガラリと変えさせられたの」
「たとえば?」
「そう……たとえば、マンションのゴミ捨て場にいくのにも、きちんとメイクをしてサン・ローランを着ていかなきゃまずいみたいな……」
「わかるけど、そのかわり得る物もあるわけだろう? たとえば家は?」
「広尾に4LDKのマンション……」
「クルマは?」
「ジャガー……」
「そりゃ、ほとんどの女の子が夢見るような暮らしじゃないのかな?」
「……じゃ、私は、その〈ほとんど〉の中に入っていないのね……。だって、おネギ1本買いにいくのにハイヒールはいていく生活なんて、本当の自分じゃないもの。心の居心地が悪いの……」
僕は、ビールを飲みながら、うなずいた。〈心の居心地が悪い〉か……。わかる気がした。
自分自身、ホノルル市警をやめたのも、結局はそういうことだった。あの頃は、本当の自分じゃなかった。
「どうしようもない生活の不一致って、あるんだなあと思ったわ……。同時に、とり返しがつかないほど心が離れてしまっている自分たちに気づいたの。私にとっては見栄をはっているだけと思える暮らしが、彼にとっては最も自然な暮らし方だし、最も大切にしたい暮らし方だったの……。どんどん、ズレがひどくなって、会話が減って……喧嘩《けんか》すらしなくなって……」
「で、離婚?」
ミユキは、うなずいた。
「でも、わかるように、彼はそれをかくそうとしてるわ。ドラマのスタッフと別のあのホテルに泊まったのも、それを感づかれないためでもあったのよ」
「2ベッドルームの部屋をとったのも、それでか……」
「そう……。もう夫婦じゃないんだもの」
「なるほどね……で、いつまでかくしておこうと?……」
「来週ロケ隊がくるコーヒーの広告キャンペーンがあるでしょ?」
「夫婦で出るってやつか」
「そう。そのキャンペーンが終わるまでって、彼に無理やり言われてるんだけど」
「だけど?……」
「もう愛情も何もなくなった人と一緒に、夫婦のふりをするなんて……不器用な私にできるかどうか……」
ミユキは、つぶやいた。BUD《バドワイザー》の缶を持ったまま、遠くを見た。水平線から吹く風が、彼女の前髪をかすかに揺らせた。
□
4日後。朝9時。
「まいったなァ……じゃ、827から832号室まで、キャンセルか」
とフロントのサム。スタッフの女の子とドタバタやっている。僕がフロントの前を通りかかったときだ。
「どうした、サム」
「どうしたもこうしたも、日本のロケ隊が部屋をキャンセルしてきて」
「ロケ隊?」
「ああ。明日くるはずのコマーシャルのロケ隊さ」
とサム。そのときだった。Kが、エレベーターからおりてくる。もう、すでにチェック・アウト済みらしい。荷物は、マネージャーらしい男が持っている。玄関に駐《と》まっているリムジーンに、Kは乗り込んでいく。硬い表情だった。そして、ミユキは一緒にいなかった……。Kを乗せたリムジーンは、ホテルの玄関から走り去って行った。磨き込んだリムジーンのバンパーが、朝の光を反射した。すぐに見えなくなった。
僕は、プールサイドに出ていく。
ミユキは、そこにいた。チョコレート色の水着で、水泳の準備体操をゆっくりとやっていた。
「ダンナ、1人で帰っていったぜ」
「ダンナじゃないわ、もう4カ月も前から」
とミユキ。
「……あの、夫婦で出る広告の仕事、断わったんだな……」
ミユキは、小さくうなずいた。
「彼には、3日前に言ったわ……。4時間どなられて、2発ひっぱたかれたけど……首を横に振りつづけたわ」
とミユキ。白い歯をニコリと見せた。やはり、少し無理しているような笑顔だった。
「まだ当分、このホテルに?」
「あと3、4日いて、気分転換して、日本に帰るわ」
とミユキ。
「きょうからルーム・チャージは自分で払うんだから、安いシングル・ルームに、いま移してもらったのよ」
と微笑《わら》った。
「そうか……」
僕は、ひと呼吸置く。
「日本に帰ったら?」
と訊いてみた。ミユキは、まぶしい空を見上げる。
「そうね……また、スイミング・スクールのコーチでもやることにするわ」
と言った。カラリとふっ切れた顔だった。表情に一片の雲もかかっていない。晴れ渡っている。
僕は、うなずいた。
「大変そうだけど……」
「そうでもないわよ」
とミユキ。
「本当の自分に戻るだけだもの。水泳が少し得意で、かなりそそっかしくて、フレンチ・フライとオムライスの好きな、元の自分に戻るだけだもの」
と言った。空を見上げる。ホノルルの空は、きょうも快晴だ。ヤシの葉がカラカラと揺れている。ミユキは、眼を細める。揺れるヤシの葉先をながめつづけている。
「皮肉なものだな……」
僕はつぶやいた。
「ハネムーンにきたホテルで、結婚生活のジ・エンドを迎えるなんて」
とミユキに言った。ミユキは、僕を見た。
「……ジ・エンドなんて言わないで」
微笑《ほほえ》みながら、
「……新しい生活のスタートだもの……」
と、つぶやいた。
「それもそうか……」
□
ミユキは、プールのへりに立った。ひと泳ぎするつもりらしい。青い水面をじっと見つめる。深呼吸……。その背中に、
「用意……スタート!」
と、僕は声をかけてやった。
ミユキは、肩の力の抜けたきれいなフォームで水に飛び込む。誰もいないプール。ゆったりとしたクロールで泳ぎはじめた。
もしかしたら、その瞳《ひとみ》からは涙がこぼれているのかもしれない。けれど、いまは、すべて水しぶきに濡《ぬ》れている。陽《ひ》ざしにキラキラと輝いている。
ミユキは、クロールで泳ぎつづける。フォンが、プールサイド・バーを開ける準備をはじめた。僕は、まぶしさに眼を細める。プールサイドをながめた。
出会い。別れ。再会。そして、また、別れ……。そんなプールサイドの物語が、きょうもくり返されていくのだろう……。南十字星《サザン・クロス》ホテルの1日が、はじまろうとしていた。
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あとがき
すでに読み終えた方にはおわかりだと思いますが、これは6編からなるラヴ・ストーリー集です。
舞台は、ホノルルにあるリゾート・ホテル。そのプールサイドで、ベランダで、ツイン・ルームでくり広げられる恋の物語です。
出会い。別れ。そして再会…………そんな人生の一瞬を、オアフ島の風のようにカラリと描いてみました。
それぞれのストーリーには、日本人の女の子や女の人が登場します。(第4話の『イエスタデイ』だけは例外ですが)
こういう物語を書いていて一番楽しいのは、自分好みの、というより自分の理想に近い女性を描けることです。だから、ここに登場する女性たちにはみな、作者である僕個人の理想や夢が散りばめられているのかもしれません。
ストーリーの中には、主人公の彼女たちがホロ苦い思いを味わうものもあります。一見、アンハッピーエンドに見える物語もあるでしょう。けれど、いくら一見アンハッピーでも、それは確かなハッピーエンドなのだと僕は思っています。
なぜなら、いくらホロ苦い思いをしたとしても、彼女たちはしっかりと〈自分を生きている〉からです。自分の意志で樹の枝からもいだ果実だから、たとえそれが酸っぱくても、心のどこかで納得できるのではないでしょうか。
他人がとってきてくれる甘い果実を、ただ要領よく待っている、そんな女性が多い時代だから、僕はあえてこういうストーリーを書いているような気もします。
この登場人物たちの中に、読者のあなたにどこか似た人がいたらいいなと、いま僕は思っています。
この短編集が完成するために、天山出版の石井幸雄、西澤尚昭、両氏の手をわずらわせました。ここで感謝します。
1990年 初夏
[#地付き]喜 多 嶋 隆
[#改ページ]
文庫版あとがき
僕はいま、この原稿を海辺で書いている。湘南の葉山にある仕事場。その窓ぎわにいる。大きめのテーブルを、海に面したガラスにくっつけて、その上に原稿用紙を広げている。
テーブルの上には、あちこちから持ち帰ってきた物たちが置いてある。カリブ海のバハマで、原地の少年からもらったコンク貝。インド洋のセイシェルで買ってきた木彫りの魚。そんな物が、適当に置いてある。
広いガラスの向こうはベランダで、その先には、冬の海が広がっている。太陽は、沈みかけている。海は濃いパイナップル色に染まっている。30フィートぐらいのヨットが、葉山マリーナに帰っていくのが、シルエットで見える。
空は、上にいくにしたがって濃いブルーになっている。かなり上の方は、もう夜の色に変わっている。
そんなグラデーションの空を、飛行機の航行灯が1つ、左から右へ、動いていくのが見えた。
赤い灯が、ぽつんと1つ。点滅しながら空を動いていた。このあたりは、民間機のコースではない。いま右の方へ飛んでいくのは、たぶん、横須賀基地から厚木基地あたりに向かう米軍のジェット機だろう。
僕は、籐の椅子にもたれかかる。頭の後ろで両手を組んで、ぼんやりと、飛行機の灯を見ていた。
ふと、思い出していた。こんな風に、米軍機の灯を見ていた黄昏《たそがれ》があった。
その日、僕はグアムにいた。
広告の仕事をしながら、すでに小説を書きはじめていた頃だった。広告の撮影でグアムにきていた。
撮影がはじまって5日目あたりの夕方。僕は1人でホテルのバーにいた。
撮影の仕事は、チームを組んでやる作業だ。そんな仕事を何日か続けていると、ふと、1人になりたくなる事がある。
その時が、きっと、そんな気分だったんだろう。
4時頃に撮影を終え、ホテルに帰った。シャワーを浴び、新しいアロハに着替えると、僕は、ホテルのプールサイドにあるバーにおりて行った。
プールサイドは広く、芝生の庭につながっていた。その、プールサイドと芝生のさかい目あたりに、屋外バーがあった。カウンターだけのバーだ。八角形か六角形のカウンターがあり、フィリピーノのバーテンダーが中にいた。
バーのスツールにかけると、海や空が見える。海風が、カウンターの上のペーパー・ナプキンを揺らせていく。そんなバーだ。
僕は、バーに歩いていく。
バーに、いま、客は1人しかいなかった。プールで泳いでいる客がひと休みしに来るには少し遅い。夕食前の一杯を飲みに客が来るには少し早い。そんな時間だったんだろう。
太陽は、水平線に近づいていた。灰皿の影が、カウンターの上に長くのびていた。
僕は、先客からスツール1つあけた所に腰かけた。席はガラあきだったけれど、そのあたりの位置が、とりわけよく海が見えるからだ。
先客は、アメリカ人の中年男だった。スツールに腰かけた僕と眼が合うと、〈やあ〉という感じで笑顔を見せた。
僕も笑顔を返す。すでに顔なじみになっているバーテンダーに、ジン・トニックを注文した。
30分後。僕と、アメリカ人は、ポツリポツリと話しはじめていた。彼も1人で、話し相手が欲しかったようだ。
彼は、40代の後半だろうか。がっしりした体をラコステのポロシャツで包んでいた。金髪は短かめに切ってあり、よく陽に灼けていた。
一見したところ、盛りを過ぎたプロ・ゴルファーという雰囲気だった。
僕が彼の職業をきくと、
「パイロットさ」
と彼は答えた。
「パイロット? 空軍の?」
僕は訊《き》き返した。ここグアムには、アンダースン基地という大きなアメリカ空軍の基地がある。
「いや。少し前までは空軍にいたが、いまはコンチネンタル・ミクロネシア航空にいるんだ」
「ということは、もしかしたら日本から僕らが乗ってきたジャンボ・ジェットを操縦していたかもしれない?」
「もしかしたらね」
彼は微笑みながら言った。ピスタチオを口に放り込む。グラスの中身を飲み干した。おかわりをバーテンダーに注文した。どうやら、ダイキリのオン・ザ・ロックを飲んでいるらしい。
「空軍にいた頃は、戦争に?」
僕は、訊《き》いた。彼は、うなずいた。
「ヴェトナム」
そして、
「B52」
とだけ、つぶやくように言った。
「ヴェトナムか……」
「ああ……。何十回となく、爆撃に出たよ……」
「危なかったことは?」
「そりゃ、戦争だからね……。北からのミグ戦闘機は、次からつぎと襲いかかってきたな」
「それでも、撃ち落とされなかった……」
彼は、うなずいた。そして、
「だから、いま、こうしてダイキリを飲んでいられる」
と言った。ニッと微笑《わら》う。スツールから立ち上がった。どうやら、トイレらしい。ホテルの建物の方に歩いて行った。
その足どりが、少しふらついていた。確かに、かなり早いピッチで飲んでいた。
「かなり酔ってるみたいだな」
僕はバーテンダーに言った。
「ああ……。でも大丈夫さ。家が、この近くにあるんだ」
バーテンダーは、レモンをスライスしながら答えた。そうか。コンチネンタル・ミクロネシア航空のベースは、このグアムだ。
「それにしても、よく飲むなあ……」
僕は、ジン・トニック片手に言った。
「飲みたくなる理由がいろいろあるらしいよ」
とバーテンダー。うつ向いてレモンを切りながら言った。
「理由?」
「……ああ……。なんか、ワイフとうまくいってないって話だね」
「ワイフと?……」
「そう。彼にきかされたところによると、離婚しようかどうか、迷っているって事だよ」
「ふうん……離婚か……」
「ああ……。パイロットだから、家をあけ過ぎたのかもしれないね」
バーテンダーがレモンを切りながら、そう言ったとき、戻ってきた彼が、スツールに腰かけた。
彼は、バーテンダーが言った言葉の最後の方をきいたらしい。
「私の事かい?」
と言った。苦笑まじりの笑顔を見せた。僕とバーテンダーは、なんとなくうなずいた。
何か言いかけようとした僕に、
「いいんだ」
と彼は片手を上げる。そして、バーテンダーに、
「もう1杯」
と言った。空になったグラスを押し出した。そして、
「勇気の素《もと》を、もう1杯……」
と、つぶやくように言った。きっと、僕が少し意外な表情をしていたんだろう。彼は僕を見て、
「何か、おかしかったかい?」
と訊いた。
「いや……。勇気の素っていうのが、なんとなくね……」
「おかしいかい? しかし……ワイフと離婚の話に決着をつけるための勇気が、必要なんだ」
彼は、苦笑しながら言った。
「けど……ヴェトナムで戦ってきたあなたみたいな人が、いまさら勇気だなんて……」
僕は言った。
彼は、しばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと首を横に振った。
「……いや……違うんだ……」
と、つぶやくように言った。しばらく考えている。そして、口を開いた。
「北ヴェトナムを爆撃しに行くための勇気と、こういう勇気とは……種類の違う勇気なんだ……」
「…………」
「戦争のさなかでの勇気なんて、勇気というよりはむしろ狂気に近いものだし、B52には、何人もの戦友が乗っている。少なくとも孤《ひと》りじゃない」
「…………」
「しかし……実人生の中で、ただ孤《ひと》りで何かを決めなければいけない……そんなときに持たなければならない勇気は……それとは、種類の違う勇気なんだ」
彼は言った。
「種類の違う勇気?……」
「そう……。もしかしたら、北ヴェトナムに爆撃にいくよりも、一見ささやかだけれど実は大変な勇気かもしれない……」
彼は、つぶやくように言った。
バーテンダーが、彼の前にダイキリを置いた。彼は、そのグラスを手にとる。夕陽にかざすようにした。そして、
「そんなささやかな勇気と、大いなる潔《いさぎよ》さを」
と、何かに向かってつぶやいた。グラスの中身を、グイとひと息に飲み干した。
「それじゃ、いい仕事を」
と僕に言う。バーテンダーに片手を上げる。スツールから立ち上がる。少しだけ背筋を伸ばすようにして、歩き去って行った。
僕は、ひとり、ゆっくりと、ジン・トニックを飲みはじめた。
胸の中で、いま彼が言った言葉を思い返していた。
ささやかな勇気と、大いなる潔さ。
胸の中で、つぶやいていた。黄昏の中、アンダースン空軍基地に帰るジェット機が、シルエットで見えた。シルエットの中で、航行灯が点滅していた。バーテンダーは無言でグラスを洗っていた。
いま、仕事場から飛行機の航行灯を見ながら思い返しているのは、その彼の言葉だ。
結局のところ、僕がこの短編集で書きたかったことも、そういうことなのだろう。
ささやかな勇気と、大いなる潔さ。
そのことなのだろう。大統領の決断でもなく、司令長官の英断でもなく、ごくありふれた人々のことを書きたかったのだ。
たとえどんな平凡な人生にも、ターニング・ポイントは、ある。
出会い。恋。結婚。別れ。再会。
そんな場面で、人が持たなければならない勇気と潔さ……。そのことを書きたかったのだと思う。
各短編の主人公が主に女性であるのは、作者の僕が男であるからでしょう。
単行本のあとがきにも書いたように、やはり僕は、こういう女性に会いたいのです。小さいけれど重い勇気と、ちょっとホロ苦い思いを味わう、そんな覚悟と潔さを持った女性に会いたいのだと思います。せめて小説の中ででも……。
この短編集の文庫化にあたっては、角川書店編集部の大塚菜生さんのお世話になりました。いやはや、お疲れさまでした。
そして、イラストレーターの沢田としきさんにも、感謝します。
最後に、この本を手にしてくれたすべての読者の方に、限りなくTHANK YOU! また会いましょう。
[#地付き]喜 多 嶋 隆
角川文庫『ツイン・ルームから海が見える』平成4年2月10日初版発行