レイン外伝
仄暗き廃坑の底で
吉野 匠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)廃坑《はいこう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)村長|屋敷《やしき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]二〇〇七年二月 吉野 匠 拝
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[#挿絵(img/ex1_000.jpg)入る]
〈帯〉
仄暗き闇の廃坑に潜むあまたの魔獣!
掃討作戦の行方は!?
人気爆発!! 剣と魔法の最強戦士ファンタジー
[#改ページ]
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。
科学文明の魔手はまだこの地を覆うことなく、廃れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。
そんな、剣と魔法が支配する世界――
サフィールの乱は収束し、シェルファは玉座に着いた。
束の間の安息を迎えるはずだったレイン達だが、今度は王都近郊のティナート村より、急な救援要請が届く。
人を寄せ付けない森のさらに奥――
そこにひっそりと忘れられた廃坑《はいこう》に、魔獣共《まじゅうども》が巣くっているというのだ!
派遣された警備隊の任務失敗を受け、レインは部下を引き連れて自ら魔獣掃討《まじゅうそうとう》の任に着く。
何かを隠そうとするかのような、村長の素振《そぶ》り……そして、魔獣《まじゅう》の巣窟《そうくつ》と化した暗い廃坑《はいこう》の奥――
そこでレイン達は、新たな謎と向き合うことになる。
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
※度量衡はあえてそのままにしてあります。
〈登場人物紹介〉
レイン:25歳だが、肉体年齢は18歳で永遠に停止
本編の主人公で小国サンクワールの上将軍。本人曰く、「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が売りの、世界最強の男」。しかし、時に隠れた優しさを見せることも。
シェルファ・アイラス・サンクワール:16歳
サンクワールの新国王。王者としての器量は未だ未知数。形式的には主従関係にあるが、そんなことは関係なくレインが大好き。
ラルファス・ジュリアード・サンクワール:25歳
本姓はジェルヴェール。レインの同僚で、サンクワール建国の祖《そ》である五家の一角。レインの良き理解者であり、親友。レイン同様、時に激しい一面を見せることもある。
セノア・アメリア・エスターハート:20歳
レインの副官で千人隊長。生粋《きっすい》の貴族だが、普段の言動とは裏腹に、根は素直で優しい。レインとは口喧嘩が多いが、そもそもレインの直属になったのは彼女自身の意志。
レルバイニ・リヒテル・ムーア:24歳
通称はレニ。レインの副官。かなり臆病《おくびょう》な性格だが、腕は確か。母親が没落《ぼつらく》貴族だった。自分の真価を認めてくれるのはレインだけ――と密かに思っている。
シルヴィア・ローゼンバーグ:3700歳以上
人間達が「霧の国」と呼ぶ、ヴァンパイア一族のマスター。人間から見ると畏怖の対象で、その力は古龍やかつての魔人をも凌ぐと噂されている。元始のヴァンパイアにしてルーンマスターの始祖でもある。
ホーク・ウォルトン:故人
かつては「風の剣聖」とまで呼ばれた、伝説の騎士。死の間際に少年時代のレインと出会い、歩むべき道を示す。
ミシェール:年齢不詳
サフィールの乱直後、ガルフォート城に現れたゴースト。レインやシェルファと関係があるらしい。
レイグル王:年齢等は不詳
大国ザーマインを統《す》べる王。5年前、前王を倒して玉座《ぎょくざ》に着いた。恐るべき力の持ち主。
[#改ページ]
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レイン外伝
仄暗き廃坑の底で
吉野《よしの》 匠《たくみ》
目次
仄暗《ほのぐら》き廃坑《はいこう》の底で
ヴァンパイア・マスター
あとがき
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[#挿絵(img/ex1_007.jpg)入る]
仄暗《ほのぐら》き廃坑《はいこう》の底で
セノアの目で見ても明らかだったが、洞窟《どうくつ》の前にはいきなり魔獣《まじゅう》がいた。
まだ距離はあったものの、間違いようもなく、しっかりそこにいた。
いかにも腹を空かせていそうな巨大な狼《おおかみ》もどきが、何匹もうろついていたのである。
しかもこの狼《おおかみ》もどき、全身が禍々《まがまが》しい紫色の輝きに覆われており、その体躯《たいく》ときたら普通の狼《おおかみ》の比ではない。
加えて、この距離でさえはっきり確認出来る、あの巨大な牙《きば》ときたら! 大きさといい鋭さといい、大の男を丸ごと噛《か》み砕《くだ》くのに十分そうに見える。
セノア達三人は、木立《こだち》の陰からそっと問題の洞窟《どうくつ》を窺《うかが》ってみたのだが、しょっぱなから魔獣《まじゅう》を見つけた途端《とたん》、レニが早速《さっそく》「ひっ」と息を呑み、セノア自身も思わず後退《あとずさ》りしそうになった。本当にそうしなかったのは、すぐそばに自分の主君たるレインその人がいて、堂々たる面持《おもも》ちで顎《あご》を撫《な》でていたからだ。
レインという男は、どんな相手を前にしても常に「どうってことない敵だな」と言わんばかりの態度を見せるのだが、普段はともかく、このような場合にはまことに頼もしく映る。お陰でセノアも、あの魔獣《まじゅう》に対して脅威《きょうい》は感じても、それが深刻《しんこく》な恐怖にまでは発展せずにいる。
セノアの自信の源《みなもと》であるレインその人が、あっけらかんと所見《しょけん》を述べた。
「いやー、ヘルハウンドじゃないか。久しぶりだな、アレを見るのは。なんだ、レニも初めてだったか?」
「……あ、有り難いことに、見たことなかったですね。出来れば、一生見たくなかったです」
青い顔のレニが返す。
ちらっと今抜けてきた森を振り返り、切ない声で進言した。
「もう見てしまったものは仕方ないですが。……将軍、やっぱりこれは警備隊の領分《りょうぶん》ですよ。自分達が関わる問題じゃないような」
「だから、その警備隊が失敗したから、俺達が来たんだろうが。早くも帰ることを考えてんなよ、おまえ。あの洞窟《どうくつ》の中から魔獣《まじゅう》を一掃《いっそう》するまで、俺達は帰れないんだっつーの。仮にも将軍と副官がセットで来てんのに、すごすごと戻れるわけなかろうが」
なかなか恐ろしいことをさらっと言い切る。レニは恨みがましい目でレインを見た。
「しかし、自分で言うのもなんですが、僕はこういう任務に全く向かないと思うのですよ、ええ。魔獣掃討《まじゅうそうとう》作戦なんて、そんな……聞くだに恐ろしい作戦」
「今更《いまさら》、もう遅いっての」
身も蓋《ふた》もないレインの言いようである。
ちなみに彼の説明によれば、魔獣《まじゅう》という呼び名は本来は魔法も使えるモンスターの総称《そうしょう》なのだが、ややこしいので下級モンスターも全部含めて『魔獣《まじゅう》』と呼ぶことが多いそうな。
あそこに棲《す》んでいるのがどの程度のモンスターかセノアは知らないが、入り口にいる恐ろしげなヘルハウンドとやらを見るに、あるいは本当の意味での『魔獣《まじゅう》』もいるかもしれない。
セノアはここぞとばかりに主張した。
「何を言われるか、レニ殿! これぞまさしく、騎士の本懐《ほんかい》ではありませんかっ。私はここにいることを名誉《めいよ》に思いますぞ。はっきりいって、やりがいのある任務です。闘志《とうし》が泉のごとく湧くのを感じますぞっ」
力強く言い切ったセノアに対し、レインとレニは、期《き》せずして複雑な表情を作った。レインなどは、新品のレザーアーマーでびしっとキメたセノアを足の爪先から頭のてっぺんまで眺め、ふか〜いため息をついた。
なんのつもりだろうか、失礼な。
「……いや、俺はおまえに関しては、別に誘った覚えはないんだがな。来んなというのに無理矢理ついて来といて、んな無駄《むだ》な闘志《とうし》を見せてもらってもなぁ」
「幾《いく》ら主君でも、その仰《おっしゃ》りようは無礼《ぶれい》ですぞっ。そもそも、『来んな』などと言うこと自体がとてもとてもとても無礼《ぶれい》――」
「あー、いいからちょっと黙れ」
無情にも、発言を封じられてしまった。
「今から、洞窟《どうくつ》の内部を探ってみる。魔獣《まじゅう》の分布《ぶんぷ》状況を把握《はあく》しとかんとな。ささっと仕事を終わらせて、とっとと戻りたいからなー」
そのまま背を向け、木立《こだち》の隙間《すきま》から見える洞窟《どうくつ》をじいっと見やるレインである。これ以上近付くと、あのヘルハウンドとやらに気配《けはい》を嗅《か》ぎつけられるらしいので、まだ距離はだいぶある。
洞穴《ほらあな》の入り口が豆粒《まめつぶ》ほどの大きさにしか見えないのに、こんな距離から中を探れるとは! さすがは将軍ですわ――セノアは密《ひそ》かに感心した。
だがしかし……すぐにふっと眉《まゆ》をひそめ、レインが首を傾げた。
眉根《まゆね》を寄せ、「おや?」などと呟《つぶや》く。
「どうなさいましたか」
気になったセノアが尋ねると、なおも洞穴《ほらあな》を眺めつつ、答えてくれた。
「妙《みょう》だな……なんか妙《みょう》な力が加わっていて、俺のエクシードが有効に働かないようだ。内部構造どころか、どんな魔獣《まじゅう》がいるのかもよくわからんなー。こりゃあひょっとすると」
思わせぶりに言葉を切る。
「ひょ、ひょっとすると、どうしました!」
エクシードとはなんですか、と訊《き》きたかったのに、レニがどきどきした顔で先に訊《き》いた。
レインは人の悪い笑みを浮かべ、答えた。
「――こりゃ、なにか想像を絶するモノ凄《すさ》まじい化け物でも中にいて、俺の力を妨害《ぼうがい》してるのかもしれんなぁあああー」
「や、やめてくださいよ、将軍。じじ、自分にはシャレにならないんですから。本気で怖いです。帰りたい……」
目に見えて震えるレニである。
セノアは声を励《はげ》まし、
「レニ殿、勇気をもって当たれば、魔獣《まじゅう》などに遅れを取りはしませぬぞ!」
「勇気ねぇ……」
レインがなぜかしみじみした口調で言った。
「勇気がありゃなんにでも勝てるのなら、誰も苦労しないわなぁ」
抗議《こうぎ》しようとしたセノアを抑えるように、さっと片手を上げる。
「待て。あのヘルハウンド共《ども》、俺達以外に何か見つけたらしい。どっかへ走り去ったぞ」
見ると、なるほど数匹のヘルハウンド達は、なぜか一斉《いっせい》に、西の方角目指して駆けて行くところだった。
あの洞窟《どうくつ》は、通称《つうしょう》「ヤラインの森」のほぼ中央にある小高い山の麓《ふもと》に開いている。山とその周囲百メートル四方くらいが、なぜか草木も生えていない荒れ地なのだ。
獲物を狩るなら森へ行くしか手がないわけで、おそらく今も、食事にでも行ったのかもしれない。
あるいは、セノア達以外の不審者《ふしんしゃ》を見つけたとか。
セノアはぐっと拳《こぶし》を握りしめた。
「チャンスではありませんか! 今のうちにさっさと中へ入りましょうぞ」
「いや、どのみち魔獣《まじゅう》の一掃《いっそう》が目的なのに、別にチャンスでもないだろう」
「あ……そ、そうでしたね」
「とにかく俺は、中の様子が探れないのが気に入らん。というわけで、ちょっと試すか」
何をですか? とセノアが問う前に、いきなりレインがさっと左手を水平に延ばした。と、その長身から真っ青な魔法のオーラが立ち上り、思わず息を呑む。
この人がルーンマスターでもあることは、セノアにも既知《きち》の事実だが、知っていてもルーンも唱《とな》えずに魔力の放出が可能なのは、やはり驚くべきことである。
感心してほれぼれと眺めていると、レインは青きオーラを纏《まと》ったまま、いかにもついでっぽい感じでぼそっと言った。
『雷《いかずち》よ、大地を揺《ゆ》るがす鉄槌《てっつい》となれ。サンダーブラスト!』
……呟《つぶや》いた声は小声に過ぎなかったのに、発動された魔法は小さいどころの騒ぎではなかった。
「ちょっ。将ぐ――」
セノアの視界の隅《すみ》にレニが大口を開けているのが見えたが(多分、止めようとしたのだろう)どのみち朋輩《ほうばい》の声は、天地が裂《さ》けそうな雷鳴《らいめい》に遮《さえぎ》られた。
レインの眼前《がんぜん》にまるで洪水のようなぶっとい光の奔流《ほんりゅう》が生じ、バリバリバリッという凄《すさ》まじい音と共に一直線に伸びる。
既《すで》に視界がホワイトアウトして全く効かなくなっていたが、それでもその剣呑《けんのん》な魔法攻撃が、問題の禿《は》げ山の中腹《ちゅうふく》辺りに命中したのは見えた気がした。
大地に微《かす》かな振動が走り、地崩れかと思うようなドーン! という音が静寂《せいじゃく》を突き破る。
セノアは途中から、あまりの光量に耐えきれず目を閉じてしまったのだが、目を開けた途端《とたん》、大きく息を吸い込んだ。
魔力エネルギーが通過した空間上には、まだ白いパルスが細かくパリパリッと走っており、さらに例の禿《は》げ山の中腹《ちゅうふく》辺りが大きく崩れている。
セノア自身、まだ青白い残光が目の前でちらついたままであり、おまけに耳鳴りまでしていた。
「いきなり、何をしますか!」
猛烈《もうれつ》に頭にきて、ばしっと抗議《こうぎ》する。
「私の目が潰れたら、どうするのですっ。ご無体《むたい》な!」
「喚《わめ》くな。そんなことになったら、俺がちゃんと責任取るさ」
――え。次の文句に備えて開けていた口を、セノアはそのまま閉じてしまった。今の発言……本気なのだろうか。思わず、レインの顔をじっと眺める。特にふざけている様子もなく、遠くの禿《は》げ山を観察しているところであり、そのせいか不覚にも胸がドキドキしてきた。
では……もし本当に目が見えなくなったら、レイン様と二人で暮らせるということにっ。
などとセノアが自分の世界に入っている間に、レインとレニの会話は進んでいる。
「セノアさんじゃないですが、いきなりどういうことです?」
「意味はあるさ、もちろん。中に魔獣《まじゅう》がどっちゃりいるなら、今の魔法攻撃に反応しないわけないだろ。――ふむ、やっぱり反応があった。ほれ、ちょっと聞いてみろ」
レインが耳元に手をかざす真似《まね》をする。
すると……例の禿《は》げ山の方――より正確には洞穴《ほらあな》の向こうから、低く不気味《ぶきみ》な呻《うめ》き声のようなものが湧き起こり、お陰でセノアも我《われ》に返った。
まるで、大陸中のありったけの魔獣《まじゅう》が、遠くから一斉《いっせい》に呻《うめ》いているような。その怨嗟《えんさ》の籠《こ》もった鳴き声に、身体が震え出しそうになったくらいだ。
「……なんですか、この声は」
「色んな種類の魔獣《まじゅう》が、一斉《いっせい》に威嚇《いかく》しているみたいだなぁ。『ふざけやがって。来るなら来てみろ、ぶっ殺してやるぜ!』みたいな」
「み、みたいな……て」
さすがにセノアもぞっとした。レニなどは既《すで》に顔つきが白っぽい。
レイン一人が実に平和そうにカラカラと笑っている。
「外からの探りじゃわからんかったが、こりゃ思ったより数が多そうだぞ。良かったな、思いっきり戦えて」
他人事のように言う。
突発的《とっぱつてき》に目眩《めまい》に襲われつつ、セノアはなぜこんなことになったのか、逐一《ちくいち》思い出していた。
そう、今回のセノア達の遠征《えんせい》は、王都から騎行《きこう》一日程度の距離にある、ティナート村という小さな村からの救援依頼《きゅうえんいらい》に端《たん》を発するのだ……
――☆――☆――☆――
「あそこに行った者は、みな死ぬるのじゃ!」
見るからに老齢《ろうれい》の村長は、いきなりそう告げた。
レインの表情はぴくりとも変化しなかったものの、すぐ隣に座っていたレニは、明らかに席上で身を引いた。顔にさっと怯《おび》えが走ったのがモロわかりである。正直なところ、セノア自身だって良い気分はしなかった。
せっかく救助《きゅうじょ》に来たのに、いきなり何を言い出すのか、この老人は。
ここは、ティナート村の村長|屋敷《やしき》である。屋敷《やしき》といっても客間と寝室と居間しかない造りであり、規模はすこぶる小さい。
それでも貧しい村内にあっては、大いに目立つ方である。ほとんどの家ではそもそも寝室などはないし、屋根も藁葺《わらぶ》きの至《いた》って貧相《ひんそう》なものだ。日乾《ひぼ》し煉瓦《れんが》の屋敷《やしき》とはいえ、ここでは村長の家は豪邸《ごうてい》である。
目尻《めじり》の辺りに、老木の年輪《ねんりん》のような深い皺《しわ》を刻《きざ》んだ老人は、古びたテーブルの向こうで難しい表情を崩さない。
挙《あ》げ句《く》、農作業で日焼けした顔をレインに向け、いま一度きっぱりと言った。
「……わしが童《わらべ》の頃から、あそこには妙《みょう》な噂がありましてな。当時、村の古老《ころう》にもよく言われたものですじゃ。『エセトよ、間違ってもあの山には遊びに行くなよ。……あそこにはこわ〜い化け物がいるでのぅううう』と」
村長は老い錆《さ》びた声でわざわざ陰気な声音《こわね》まで作ってくれた。
彼が言う『あの山』とは、ヤラインの森の奥深くにある小さな山らしいが……村長はよほどに嫌っているらしい。いや、この言い様は怯《おび》えているのだろうか。
お陰で、今の声を聞いたセノアまで背中の辺りにぞわっと来た。
反射的《はんしゃてき》に抗議《こうぎ》してしまう。
「ご老人、普通に話せばよいではないか。何故《なにゆえ》に妙《みょう》な声など出す?」
と、村長の横に座っていた家族――老人の孫娘らしき女性がにこにこと口を出した。
「おじいちゃん、だいぶボケてますからー。今朝もとっくに朝食済んだのに、『朝食はまだか!』なんて言っちゃって。嫌《いや》だわぁ〜、あははっ」
底抜けに明るい娘の笑い声に、村長のエセトは気分を害したようである。
「なにを言うか。ボケてなどおりゃあせん! そもそも、あそこが危ない場所だというのは、この村では常識じゃろうがっ」
「えー、でもあたし、子供の頃に何回か遊びに行ったけど、特に何もなかったわよ〜」
聞くなり、くわっと目を見開く老人。後退《こうたい》しまくりの白髪が逆立《さかだ》っている。
「こ、この大馬鹿者《おおばかもの》があっ」
盛大《せいだい》に唾《つば》を飛ばし、娘を叱り飛ばす。顔が真っ赤である。テーブルの上に置いた拳《こぶし》が、激情《げきじょう》でぷるぷると震えていた。
「ユリアっ。あれほどあそこには近付くなと言うたじゃろうが! 言い聞かせた当時はいつも神妙《しんみょう》な顔で頷《うなず》いとったくせに、なんということじゃ! 思えばおまえは昔っから小狡《こずる》い性格じゃったわい。叱ってものらりくらりとかわすわ、畑仕事はさぼるわ、わしの財布からこっそり金は抜くわ」
「まあまあ、内輪《うちわ》げんかは俺達が帰った後にやってくれ」
退屈《たいくつ》そうにしていたレインが、さっと割り込む。
村長と無駄《むだ》に明るい孫娘を等分に見やり、
「だいだいだな、『数ヶ月ほど前から、魔獣《まじゅう》が村にまできて家畜《かちく》を食うから困っている。なんとかしてくれ!』なんて嘆願《たんがん》をしてきたのはあんたらの方だろ? だからこうして退治に来てやったのに、いつの間にか引き留めるような話になってるのはどういうわけだ」
「わしは、屈強《くっきょう》な王都の警備隊が、大勢《おおぜい》来てくれると思うとったんじゃ。まさか若造《わかぞう》が三人ぽっちしか来んとは思わんかったですじゃ。それっぽっちじゃ、わざわざ死にに行くようなもの……年長者として、止めるのは当然じゃ!」
頑固者《がんこもの》の老人に相応《ふさわ》しく、村長は実にはっきりと言い切った。セノアは自分が腹を立てるより先に主君のレインの怒りを心配したのだが、意外にも本人は苦笑しただけだった。
「なるほど、俺達の身を心配してね。だが残念ながら、先に派遣した警備隊のヤツらは、既《すで》に失敗してるしなー。送った十五名のうち、三人が腰を抜かして五人が軽傷、おまけに一人が泡を吹いて失神《しっしん》ときた。洞窟《どうくつ》に入って僅《わず》か数時間で逃げ出し、王都まで這《ほ》う這《ほ》うの体《てい》で引き上げてきたくらいだ。よほどひどい目に遭《あ》ったんだろうなぁ。歯の根が合わないほど震えているヤツもいたし」
「情けない……」
村長は泥水を飲んだような顔で、声を絞り出す。
「なんのための警備隊だか、わからんわい」
「まあそう言ってやるな。誰もが強靱《きょうじん》な戦士になれるわけじゃない。だから、代わりにこうして俺達が来てるだろ? どのみち、魔獣共《まじゅうども》は山から一掃《いっそう》されるさ。なにせ、この俺が同行してんだから」
あまりにさらっと言われたので、村長はすぐにはピンと来なかったらしい。だが三秒ほどして孫娘のユリアと顔を見合わせ、こちらの方が上官だと勘違《かんちが》いでもしたのか、セノアに尋ねる。
……心配そうに。
「貴族様、この若者は虚言癖《きょげんへき》でもあるのかの? 腕利《うでき》きの薬師《くすし》でも探して、看《み》てもらった方が良いですぞ」
「はっはっは。薬師《くすし》に看《み》てもらって治るのか、それ」
またまた意外にも、レインは機嫌《きげん》良く笑ったが、今回はセノアの方が腹立《はらだ》たしくなった。あまりと言えばあまりな言いようだと思う。
「ご老人、無礼《ぶれい》が過ぎますぞっ。それと、口の利《き》き方にも気をつけるがよろしいっ。ここにおられるのは名誉《めいよ》あるじょうきゃばっ」
名誉《めいよ》ある上将軍《じょうしょうぐん》なのですぞ! と言おうとしたのに、テーブルの下でレインにどかっとばかりに足を踏まれ、語尾《ごび》がもつれた。痛さのあまり涙目になって呻《うめ》くと、隣席のレインが耳元で囁《ささや》いた。
「めんどくさいことになるから、いちいち俺の身分なんか明かすなって! 警備隊の助《すけ》っ人《と》でいいんだ、警備隊の助《すけ》っ人《と》でっ」
村長がいよいよ怪しむ顔で聞き返す。
「名誉《めいよ》ある『じょうきゃぱっ』? そりゃ一体、なんですじゃ。怪しい店の類《たぐい》ですかの?」
「あー、気にしないでくれ、じいさん。生粋《きっすい》のサンクワール貴族は、定期的に奇声《きせい》を上げる性癖《せいへき》があってな。女性は特にそうなんだ。突然、腰にずんと来るエロい悲鳴上げたりなさるわけで。夜中とかにやられるとたまらんよな。色んな意味で」
「それはまた――さすがは高貴な血筋というか、難儀《なんぎ》な血筋というか。なんともその……雅《みやび》なことですのぅ」
信じがたいことに本気にしたらしく、口をパクパクさせたセノアを見て、村長が眉《まゆ》をひそめた。明らかに気の毒そうな目つきである。
否定したかったのだが、レインが足をぐいぐいと踏みにじったままなので、痛みで声など出ない。
レインはそのまま、勝手に話をまとめにかかっていた。
「とにかく、俺達も任務でな。ヤバそうなら勝手に逃げるから、あんたらが気にする必要はない。せっかく来たんだし、まさか手ぶらでは帰れんさ。……行くなという忠告の他、なんか注意事項とかないのか、じいさん。そもそも、なんでいきなり洞窟《どうくつ》の中に魔獣《まじゅう》がたむろし始めたんだ?」
「いえ、正直に申し上げると、元から魔獣《まじゅう》はいたのですじゃ。昔から何匹かはあそこに居着《いつ》いてましてな。おそらくは、棲《す》みやすい環境のせいじゃろうが」
老人は遠い目になり、説明を続ける。
「でも、魔獣共《まじゅうども》は森の獣だけを襲っていたし、ここらの住人は森の奥に踏み込むのはタブー視しとったし、これまでは平和だったんですわい」
ちょっとだけ顔をしかめ、
「……まあ、『おおむね平和』という意味ですがの。なのに、ここ数ヶ月ほどでなぜか魔獣共《まじゅうども》の数がどっと増えましてな……それに伴《ともな》い、村の方にも現れるようになったんですじゃ。村人達の中には魔獣《まじゅう》と戦った経験のある者などおらんし、弱り切っておりますわい」
「なるほど……集まった原因は不明と。村人がヤラインの森に近付かない訳はなんだ? 別になんてことない森だと聞いたが」
期《き》せずして、村長と孫娘の顔がふっと曇った。セノアが観察していた限りでは村長はともかく、娘の方は終始にこにこしていただけに、ひどく違和感があった。
「いえ、森に入るだけならそんなに問題はありませんがのぅ……現にわしらも、燃料の薪《まき》を採《と》りにしょっちゅう森へ行きますわい」
やたらと歯切れの悪い口調の村長である。
「ただのぅ、森の中心――つまり奥まで踏み込むのはまずいのじゃ。昔から、あそこに行くとロクなことにならんのでな。危険と言い換えてもいいんですがその」
その時、孫娘がこっそり祖父の服の裾《すそ》を引っ張るのを、セノアは見逃さなかった。途端《とたん》に、目が覚めたような顔になり、村長が首を振った。
「……まあ、森の奥に踏み込むほど、魔獣《まじゅう》の出現率は上がりますからの。あまり遠出しないのは、そのせいもありますわい」
怪しい、とセノアは思う。
いや、人里離れた森に魔獣《まじゅう》が出るのは別に普通のことだそうなので、老人の説明には不審《ふしん》な点はない。ないが、この二人は何か隠している気がする。
自分が気付くくらいだからレインは当然|勘《かん》付いただろうと思い、セノアはレインの横顔を窺《うかが》う。
……いつもながら、何を考えているのかさっぱりわからなかった。つまり、いつも同様、不敵な表情を崩していない。
しばらく村長と娘を見比べた後、レインはついっと肩をすくめた。
「ふーん? まあいい。問題は洞窟《どうくつ》に巣くう魔獣共《まじゅうども》だろ。そいつらはどのみち、俺達が追い出してやるさ」
「だから、あそこに三人で行くなどもってのほかじゃと! こうなったらはっきり言いますが、そもそも魔獣《まじゅう》騒ぎの他にも、元々あの洞窟《どうくつ》は問題があってじゃなっ、あそこに行った者はもがっ」
なぜか孫娘のユリアが、村長の唇を手で塞《ふさ》いだ。
「……行った者はなんだ?」
レインの問いに対し、ユリアが答える。
「あ、あははっ。おじいちゃん、最近は激しくボケてますからー。夜中に何度もお手洗いに立つし晩ご飯はボケて二度食べるしぃ。嫌《いや》だわ〜、恥ずかしいわ〜」
孫娘の言いように、憤然《ふんぜん》たる表情になった村長だが、娘の方が力が強いのか、手を振り切ることは出来ない。
ふっくらした笑顔の、しかし薄緑の目だけはまるで笑っていないユリアが、早口で言う。
「そ、それではよろしくお願いしますね。ティナート村の安全のために、ぱぱっと魔獣《まじゅう》を片付けちゃってください。お願いします、お願いしますね、騎士様ぁ〜」
……額《ひたい》に汗をかきつつ、追い出すように告げるのだった。
――☆――☆――☆――
あの村長と孫娘のことを思い出し、セノアが改めて首を傾げていると、同じことを考えたのか、レニが意見を述べた。
「今更《いまさら》ですが将軍、村長のあの孫娘、なーんか隠そう隠そうとしてましたよね。今からでも戻って、ちゃんと話を聞き直した方がいいんじゃないですかねぇ。なんだか、狼《おおかみ》の巣に頭から飛び込むような嫌《いや》ぁ〜な予感がするんですが」
「馬鹿だなぁ、おまえ」
レインはしれっと返した。
「狼《おおかみ》の巣の方がよほど可愛《かわい》いって。これから行くあそこはおまえ、文字通り魔獣《まじゅう》の巣窟《そうくつ》だぞ。普通は、生きて帰れる可能性の方が少ないだろうが。念のために、遺書《いしょ》をしたためておいた方がいいぞ」
「だから、不吉なことを言わないでくださいよ、将軍。益々行く気が失せるじゃないですか」
レニがげんなりと反論する。
「本当のことを教えたまでだ。とにかく、日が暮れる前にさっさと片付けよう。そろそろ」
行くか――とでも言おうとしたらしいのだが、レインは続きを述べる前にふっと口をつぐんだ。
背後を振り返り、「どこの馬鹿か知らんが、こちらへ向かってくるヤツらがいるな」と呟《つぶや》いた。
セノアはさっと腰の剣に手を伸ばし、レニもまた、おどおどしながら双剣《そうけん》の柄《つか》をまさぐる。
しかしレインは首を振って見せた。
「いや、警戒する必要はないだろう。こりゃ……ただの人間だ」
セノアはレニと顔を見合わせ、眉根《まゆね》を寄せた。
村人は、ここへは近付かないはずではなかったのだろうか。
――待つほどもなく、細い森林道の向こうから、問題の集団が見えてきた。総勢五人、全員が武装しており、さらにはチェインメイルやらレザーアーマーやらを纏《まと》っている。どれも使い古した感じの漂う軍装《ぐんそう》で、そこそこ戦い慣れた傭兵《ようへい》といった風情《ふぜい》である。
レインが何も語らないので、二人も黙したままで一行を待つ。なぜか彼らから隠すように、レインがセノアの眼前《がんぜん》に立ち塞《ふさ》がった。なんのつもりかと思ったものの、セノア自身、特に彼らと話したい気分ではないので、抗議《こうぎ》は控えておく。
身長も体格もバラバラの彼らは、レイン達を見るなり急ぎ足でやってきた。
「おい、おまえら、さっきの閃光《せんこう》を見たか?」
リーダー格らしい若者が訊《き》いた。ぼさぼさの髪と不敵な面構《つらがま》えをした青年である。
セノア達は二人してレインを見たが、彼はまた見事にすっとぼけてくれた。
「いやぁ、俺達もいま来たところだからな。閃光《せんこう》だって? 知らないなぁ、そんなの」
「そうか……この辺りからだと思ったんで、大急ぎで見に来たんだが」
そこでやっと、若者はレイン達をじろじろ眺めた。
「ところで、おまえらも魔獣《まじゅう》退治か」
「そういうあんたらも……らしいな」
「おうよ。俺ぁトランターって名でな、中原《ちゅうげん》の方じゃ割と名前が売れてんだぜ」
無駄《むだ》に胸を反《そ》らす若者。
「南部へ来て間はないが、いきなりいい仕事にありついたモンだ。魔獣《まじゅう》退治としちゃ、なかなかの報奨金《ほうしょうきん》だったからな。ギルドで依頼《いらい》されたメンバーは他にもいると思うが、まあ俺達が一番デカい獲物をいただくぜ」
なんの話だ、とセノアが問い返すより先に、レインが当たり前のように答える。
「いいさ。俺達はおこぼれに預かれればそれでいい。大物はあんた達に譲《ゆず》る」
「嫌《いや》でもそうなるだろうさ。多分、さっきの白い閃光《せんこう》も、魔獣《まじゅう》の仕業《しわざ》だろう。魔獣《まじゅう》の中には魔法を使えるヤツもいるからな。怪我《けが》したくなかったら、せいぜいみんなの後から来るんだな」
傲慢《ごうまん》なトランターの発言に対し、まるで合唱するように他の四人が笑う――いや、一人だけセノアを見ていぶかしそうな目つきをした。
「……おい、そこの女の目、ありゃ確か」
などと言いかけた途端《とたん》、ぎらっとレインが睨《にら》む。セノア自身が答えるよりよほど早く、しかも睨《にら》まれた相手が喉《のど》を鳴らすほどの迫力があった。
「あぁん? 目がどうしたって、ギル」
「い、いや……別になんでもない。目にゴミが入ったなぁって」
レインの迫力に呑まれたらしく、ギルと呼ばれた男はセノアから目を逸《そ》らした。
「おいおい頼むぜ。これからが本番だからな。他のグループに先を越されたらたまんねー。しっかりしてくれよ」
「わかってる、わかってるよ、トランター。体調は悪くないから安心してくれ」
「だいたいおめーは――」
がやがやと話しつつ、傭兵《ようへい》の集団はぞろぞろと歩み去った。もはや、レイン達など全く興味もなくなったらしい。
「どういうことです、将軍」
セノアは早速《さっそく》、訊《き》いた。今までずっと我慢していたのである。
「依頼《いらい》がどうのと言っておりましたが……彼らも村長から依頼《いらい》されたわけですか?」
レインはなぜか、セノアではなく、レニの方を見た。
レニが肩をすくめたのを見て、にやっと笑う。
「ああ……おまえもそう思うか」
「将軍! 尋ねているのは私ですぞっ」
「わかってるって。怒るな。俺達は元々|傭兵《ようへい》だったからな。レニや俺はすぐに察《さっ》しがついたのさ」
つまりこういうことだ、とレインが解説してくれた。
「最初に警備隊に魔獣《まじゅう》退治を依頼《いらい》したけど、それは見事に失敗しただろ? だからあの村長――いやひょっとしたら、やたらとしたたかそうだった孫娘の方かな……とにかくあいつら、悪知恵《わるぢえ》を働かせたらしい。王都に再救援《さいきゅうえん》を依頼《いらい》するのと同時に、傭兵《ようへい》ギルドにも依頼《いらい》を出したのさ。もちろん、有料で。どちらでもいいから、魔獣《まじゅう》退治が成功したら儲《もう》けものだと思ったんだろう。こりゃ、他にもああいう連中が来てるだろうよ」
「無礼《ぶれい》なっ。つまりそれは、我々を信頼していないということではないですか!」
「今までの貴族政治からして、そりゃ信頼なんてされてないわな」
レインは至極《しごく》あっさりと言う。
「それは仕方ない。頼りにならなかったのは事実なんだから。これからしっかりと違いを見てもらえばいいさ」
あまりと言えばあまりな意見のレインに対し、レニが苦笑気味に返す。
「……とか言いつつ、今の彼らを止めませんでしたね、将軍」
「まぁな。俺は態度のデカいヤツは決して嫌いじゃないが、実力が伴《ともな》ってない場合は別だ。発言には、それなりに責任を持ってもらわんとな。口だけなら誰にでも言える」
世界で一番態度がデカそうなくせに、堂々と言う。と、セノアの考えを読み取ったのか、レインにぎろっと睨《にら》まれた。
「おまえ、まさか俺とあいつらを比較しているわけじゃあるまいな?」
「いえ……そんなことはありません。しかし、彼らの実力が不足というのなら、先に行かせて良かったのでしょうか」
だいたい、なんで見ただけで彼らの実力がわかるのだろう。
「調べたところじゃ、この森にはそんな強い魔獣《まじゅう》はいないようだし、大丈夫じゃないのか。そもそも、先に行って掃除してくれるなら、それはそれで助かるだろ。俺達の仕事も少しは楽になるかもしれんしな」
レニが「やっぱり!」と言いたそうな顔をしていたが、セノアは純粋に驚いた。あまりにも極悪な意見に、顎《あご》が落ちかけたくらいだ。
「さすがにそれは……あんまりな意見だと思うのですが」
「傭兵《ようへい》がギルドから依頼《いらい》を受けて仕事するんだから、俺が保護しなきゃいけない義務なんぞないね。ヤツらは商売でやってるんだしな。それに、さっきも言っただろう。俺は、実力の伴《ともな》わない大言壮語《たいげんそうご》は嫌いなんだ」
レインは平然としたものである。
「まあ、あいつらじゃ歯が立たないような魔獣《まじゅう》がいたら、俺がなんとかするさ」
「それならよいのですが……」
話がまとまったところで、とレインは大きく伸びをする。
コキコキと首など鳴らし、「俺達もボチボチ行くか」と言った。
森を抜けると、言語道断《ごんごどうだん》な唐突《とうとつ》さで草木の緑が消え去り、足下は小石混じりの荒れた大地のみになった。
所々で雑草《ざっそう》が顔を出してはいるが、なぜかこの辺り一帯を覆うほどには生えていない。伸びるそばから枯れているようだ。
ぽっかりと空いた広場のような場所の中心に、例の小高い丘というか山が鎮座《ちんざ》している。子供が砂を固めて作った山をそのまま巨大化したような見てくれであり、どうも人の手が加わっているようにも見える。
そして、例の洞窟《どうくつ》が行く手にぽっかりと口を開けていた。三人とも、なんとなく入り口の前で立ち止まり、辺りを見渡した。
……誰もいないし、何もない。
周囲を囲む森は静寂《せいじゃく》に包まれており、かなり遠くから野鳥の鳴き声がするくらいだ。ただし、この近辺からは物音一つしない。不自然なほど無音の世界だった。
唐突《とうとつ》にレインが言った。
「村長達は言わなかったけどな、この山は元々、鉱山だったんだ」
セノアが驚いて顔を向けると、ニヤッと笑って付け足す。
「俺だって下調べくらいはしてるさ。まあ、大したことはわからなかったがな」
「鉱山というと、何か貴重な鉱物でも出るわけですか。えー、この」
とレニが山を見上げて、
「――愛想《あいそ》のない山に?」
「ああ。魔法石が出る……いや、もうほとんど取り尽くされたらしいから、『かつては出た』だな」
セノアの顔を見て、レインが説明してくれた。
「魔法石っていうのはだな、文字通り、魔法の元となるマナが含まれた石のことだ。岩盤の全部じゃなくて、所々にマナを含むわけな。そこを採掘して、さらに持ち運べるように削《けず》って使うわけだ。ルーンマスターの補助アイテムとして重宝《ちょうほう》するし、そういう人種が激減した今もなお、結構な値段で取引されている」
「もしかすると、この洞穴《ほらあな》は地下に向かって掘られている――そういうことですか? つまり、見た目以上に奥行きがあるんですね」
「そういうこと。おそらく、下へ下へと掘ってあるだろうよ。なぜか地中深くなるほど、強力な魔法石が取れる可能性が高いからな」
「……そして、人間達がせっせと広げた坑道《こうどう》後に、魔獣《まじゅう》がやってきて棲《す》み着いたと」
レニが後を引き取り、顔をしかめた。
「自分達には迷惑な話ですね、全く……余所《よそ》へ行けばいいのに」
「それなんだがなぁ、どうも納得《なっとく》がいかん」
レインは微《かす》かに眉《まゆ》をひそめ、今一度、ぐるっと辺りを見渡した。
「餌《えさ》は森の獣を襲えばいいし、確かに人間の目から隠れ棲《す》むにはもってこいだ。しかし、森からだいぶ距離のある村にまで姿を見せるってのは、明らかに増えすぎだろう。種族が違えば争いも起こるだろうし、普通は増殖に歯止めがかかるんだがな。こんなトコ、何が何でも居着《いつ》くほどの魅力があるか。どう見てもショボい鉱山跡にしか見えんぞ」
レインの視線を受けたレニが首を傾げ、セノアも首を振った。だいたい、この中で最も魔獣《まじゅう》に詳しそうなのは、他ならぬレインその人なのである。彼にわからないことが、自分達にわかるはずもない。
「むう……頼りにならんヤツらだ」
主君とはいえ、失礼な放言をするレインに対し、全然別の方角から応答があった。
『それより例の噂をご存じですか、皆さん』
唐突《とうとつ》な声にぎょっとして、セノアの背筋がびしっと伸びた。何事かと思う。
レインのみは声が聞こえる一瞬前にさっと振り返ってはいたのだが、その表情には明らかに緊張が窺《うかが》える。そういうこと自体が滅多《めった》にあるものではなく、普段ならセノアはそちらの方に驚いたに違いない。
しかし、不意を突かれたのはセノアもレニも同様であり、レインに倣《なら》って一斉《いっせい》に振り向いた。
僅《わず》か数歩ほど先に、一人の少年が立っていた。つい先程《さきほど》まで、そこには確かに誰もいなかったはずで、それはセノアだけではなく、他の二人も確認していたのだ。
しかし現に彼はそこに立っていて、優しい笑みで一同を――いや、正確にはレインを眺めていた。
身長はレインよりやや低く、生気に溢れた黒い瞳と、同じく漆黒《しっこく》のつややかな髪をしている。単に端整《たんせい》というより、なにか芸術的に整った顔立ちの少年だった。
先に声を聞いていなかったら、すぐには性別の判断がつかなかったに違いない。それほど線の細い、儚《はかな》げな容貌《ようぼう》をした少年なのだ。大きな瞳だけを見ても、まるで女性のようである。
しかし、レインはそんなことはまるで気にならないのか、低い声で問うた。
「誰だよ、おまえ」
「正義の味方です……自称ですけど」
くすっと笑う少年。だがレインは、そのたわけた物言いには興味も示さなかった。
「質問を変えよう。いつから接近していた?」
セノアはぎょっとしてレインを見た。
……となると、この少年は本当にレインの意表《いひょう》を突いたのだ。そんなことが可能だとは、セノア自身、想像したこともなかった。特に、レインの強さを知ってからは。
何より、あんぐりと口を開けてレインの横顔を眺めているレニを見れば、それがどんなに有り得ないことだったかわかる。
だが肝心《かんじん》の少年は、笑って答えた。
「普通に、あそこの森を抜けて、たった今来ました……。驚かせたのなら失礼しました。おそらく、この場所のせいでしょう。殺気《さっき》だった魔獣《まじゅう》がたくさんいるし、優秀な戦士といえども感覚が狂うのですよ」
「確かに、妙《みょう》にエクシードが妨害《ぼうがい》されるのは感じていたけどな――」
エクシードとは何を指すのか、セノアには不明なのだが。
しかし素直《すなお》に賛成しつつも、レインは鋭い目で少年を観察している。まるで、彼の心底を見極めんとするような目つきである。
ただ、少年の方は何のこだわりも持っていないようだった。
防寒のために羽織《はお》っているのか、純白のマントをばさりと捌《さば》き、深々と一礼する。礼儀正しさというか、ある種の育ちの良さを感じた。
「はじめまして、皆さん。僕はメルキュールと申します。……よろしければ、皆さんのお名前も教えていただけませんか」
「……レイン」
まず最初にレインがぶすっと答え、釣られてセノアとレニも口々に名乗った。
それまでは、レインと少年のやりとりを息を詰めるように見守っていたのだ。
よろしく、などと平和な挨拶《あいさつ》を交わした後、少年はちょっと小首を傾げた。癖《くせ》のない黒髪がさらさらと流れる。
「う〜ん、どこかで聞いたお名前のような気もしますね。僕はこの地方の者じゃないけど、なんとなく」
誰も何も答えなかった。
セノアは、逆に自分から尋ねた。
「ところで、メルキュールとやら。貴方《あなた》も魔獣《まじゅう》退治に来られたのか?」
「いえ、僕はあまり戦いが得意じゃないので」
儚《はかな》げな笑みを浮かべ、予想通りの返事だった。
「今はただ、皆さんがこの洞窟《どうくつ》へ向かうのを見て、止《と》めた方がいいと思ったのです」
「例の噂がどうとか言いかけたな、さっき。それを教えてくれようとしたのか」
「その通りです」
口を挟んだレインに対し、メルキュールは神妙《しんみょう》に頷《うなず》いた。
「村長さんは、おそらく教えなかったんじゃないでしょうか。この洞窟《どうくつ》――いえこの鉱山跡の周辺で、しきりに人が消えるのを」
『人が消える!?』
セノアとレニの声が重なり、レインのみが、「神隠しでも起こってるのか?」などと述べた。
神隠し……また聞き慣れない言葉だ。レインは時折、こういう謎の名称を使う。少年もちょっと小首を傾げたが、こちらは簡単に頷《うなず》いた。
「聞き慣れないですが、意味はわかるような気がします。そう、多分そういう現象です。原因はよくわかりません。この洞窟《どうくつ》の近辺に向かったとおぼしき人達が、次々と姿を消す……そんな事件が頻発《ひんぱつ》しているんです」
「も、森の中で道に迷って行き倒れになったんじゃ? ええと、随分《ずいぶん》と深くて広い森みたいだし、ここ」
レニが遠慮がちに意見を述べる。
メルキュールは微《かす》かに首を振った。
「もちろん、村人達だってその可能性は真っ先に考えましたよ。しかし、村人全員で森中を探しても、なんの痕跡《こんせき》も見つからないんです。一人だけならまだ納得《なっとく》も出来ますけど、ここは昔から、何人もの人が忽然《こつぜん》と消えているそうです。しかも行方不明の人達は、全員がこの近辺で消息を絶ったという噂です。もちろん本人達がもういない以上、断言は出来ないですが、行方を絶つ直前に同村の住人に出会った人が幾人《いくにん》かいて、彼らは例外なく森の奥に向かうところだったと。――森の奥といえば、つまりここですよね」
「……道に迷ったのではないなら、魔獣《まじゅう》に襲われたというのはどうだろうか」
なんとなく周囲を見渡しつつ、セノアは訊《き》いてみた。
メルキュールはこれにも否定的だった。
「仮にオーガや他の魔獣《まじゅう》に襲われたとしても、死体くらいは残っているはず。そうでなくても、血痕《けっこん》くらいはあって当然ですよね。……でも、捜索隊が必死で探しても、そういうものすら発見出来ないんです」
セノアは何も言えなくなってしまった。
なにか急に体温が下がったような気がする。ちゃんと厚着して白いレザーアーマーまで纏《まと》っているのに、得体《えたい》の知れない冷気が肌に忍び寄った感じだ。
……無論、怯《おび》えているわけではない。断じてない。おそらく、この辺りは本当に気温が低いのだろう。
一人だけ全く顔色も変えないレインが、ぼそっと言った。
「一番最初の行方不明事件は、いつ起きたんだ?」
「鋭いご質問ですね」
本気で感心したのか、メルキュールは尊敬の目でレインを見返した。
「村人達の話だと、最初の行方不明事件が起こったのはおよそ五十年前ですよ」
と、それを聞いたレインが意味ありげに目を細めた。
「五十年前ね……となると、この鉱山が閉鎖した時期と重なるな」
「そうです。もちろん、偶然ではありません。鉱山閉鎖の原因は、魔法石を取り尽くしたせいだということになってますが――」
メルキュールはレイン達を見て、ちょっと苦笑した。
「おっと。本当は部外者に洩《も》らしていいことじゃないんですけどね。でも、今はあえてお教えしましょう。ここが閉鎖されたのは、この坑道《こうどう》内で次々と人が消えたからです」
「……それは、単に行方不明になったのではなく、本当にその――消えてしまった?」
引きつった顔のレニに、メルキュールは重々しく頷《うなず》く。
「最初の行方不明事件は、この坑道《こうどう》内で起きたんです。作業員の一人が消え、翌日にはいっぺんに二人が消えた……落盤《らくばん》事故のせいということになっていますが、本当はそんな甘い事件じゃない。消えた彼らは文字通り、跡形もなくこの世からいなくなってしまいました。以後、怪現象は止まることなく、ついにこの鉱山は閉鎖されたんですね。この近所には鉱山で働く人達の住む村もあったんですが、そこも廃村になっています」
「なるほど。つまりは、森の中でここが最も神隠しに遭《あ》いやすい場所だってわけだ」
レインは特にどうということのない口調で述べた。
改めてメルキュールを見やり、
「ところで、おまえはティナート村の人間じゃないんだろ? なのに、やけに詳しいじゃないか。だいたいそれほど危険だというのなら、こんな場所で何をうろうろしているんだ」
セノアは迂闊《うかつ》な自分に歯ぎしりしたくなった。そうだ、真っ先にその点を疑問に思うべきなのだ。私は本当に鈍《にぶ》い!
だが少年は、慌《あわ》てた様子は見せなかった。
「僕は確かに地元の人間じゃないですけど、親戚《しんせき》のおばさんがあの村にいるんですよ。年に何回か、サイラスから遊びに来ているんです」
天使のような笑顔を見せる。
ちなみに、サイラスというのはサンクワール北部にある小さな街の名である。
「ここに来ているのは、バイト中だからですね。ほら、傭兵《ようへい》さん達が何組も呼ばれてるじゃないですか、今。彼らを案内して、この洞窟《どうくつ》まで連れてくるのが役目なんです」
レニが「あれ?」という顔をした。
「君は、僕達を止めるつもりじゃなかったのかな。なのに、案内だって?」
うんうん、と頷《うなず》く少年。
「傭兵《ようへい》の皆さんは豪胆《ごうたん》ですから、一言二言忠告したくらいじゃ誰もあきらめませんよ。だから僕、ここへ案内するまでの道中、今の『神隠し事件』をみっちりと話して聞かせるんです。すると、何組かに一組くらいは気が変わって戻ってくれる人達もいるので。おまけに僕はバイト代が入ると。みんなが幸せになれる方法で、我ながらいいこと思いついたなぁと自惚《うぬぼ》れていたんですが、ちょっと厚かましかったですかね。あははっ」
ころころと少女のように笑う。
元が見栄《みば》えのいい少年なので、うっとりするような魅力があった。セノアの好みのタイプではないので感心しただけに止まったが、大抵の女性はぽおっとなるかもしれない。
「そうそう。言い忘れてましたけど、個人的にはその洞窟《どうくつ》――いえ、廃坑《はいこう》に入らない限り、別に危険はないと思ってるんですね、僕。まあ、魔獣《まじゅう》が襲ってくる危険はまた別ですけど」
「心配してくれているのに申し訳ないが、我々は元より魔獣《まじゅう》退治が任務なのだ。それより、貴方《あなた》は一人で村まで戻るおつもりか? 森の中は危険度が低いとはいえ、決して安全ではないと思うが」
セノアの危惧《きぐ》に、メルキュールは本当に嬉しそうな顔をした。気のせいではなく、幼児のように大きな瞳を輝かせていた。
「ありがとう、お嬢さん。貴女《あなた》は優しい人ですね。でも僕は、魔獣《まじゅう》の分布《ぶんぷ》を把握《はあく》しているから大丈夫です……ご心配、ありがとう」
「お、お嬢さん!? 何を言われるっ。私はただ、騎士の義務として」
「騎士? あれ、傭兵《ようへい》さんじゃなかったんですか」
「我々は王都から」
言いかけ、セノアは口を閉ざす。
主君たるレインが、目で強い制止をかけてきたのがわかったからだ。セノアも最近は、こういう信号に敏感になってきていた。
「事情に関しては、悪いがあまり話せないんだ、すまんな」
さしてすまなそうでもなく、レインが断る。もう既《すで》に腰に括《くく》り付けていたカンテラを外し、中へ入る準備をしていた。
「ついでに言っておくと、説得も無用だ。セノアじゃないが、これも任務でな。危険があろうとなかろうと、俺達は中へ入らないわけにゃいかんのさ」
メルキュールは何か反論しかけたが、レインの深い瞳の奥を覗《のぞ》き込み、黙って首を振った。
「そうですか……残念です。あなた達はいい人だから、怪我《けが》してほしくないのですけどね。せめて、坑道《こうどう》内ではくれぐれも気を付けて下さいね。危ないと思ったらすぐに逃げてくださいよ」
口うるさい母親のように、何度も忠告する。セノアはその気遣いに感謝して低頭《ていとう》したし、レニも同様である。それどころか、握手を求めて丁重《ていちょう》に礼を述べていた。
レイン一人が、逆にこう返した。
「おまえこそ注意しろよ……まあ、そりゃ余計なセリフってもんかな」
そう言い捨ててさっさと洞窟《どうくつ》に入るレインを、セノア達も慌《あわ》てて追った。
メルキュールのことは心配だったが、任務を放り出すわけにもいかない。
……去りゆくレイン達の後ろ姿を眺め、メルキュールはじっと立ち尽くしている。彼らの背中が坑道《こうどう》の闇の中に完全に消えてしまっても、随分《ずいぶん》と長く眺めていた。
「レインさん……か。どうやら、聞きしに勝る鋭い人らしい。近付いた時は完全に気配《けはい》を消していたのに、ちゃんと気付いちゃいましたね」
つい今し方レイン達と話した時と全く変わらず、邪気《じゃき》のない笑みを見せる。
とその時、メルキュールが背を向けたままのヤラインの森の奥から、足音もさせずに数頭の魔獣《まじゅう》が走ってきた。レイン達が最初に見たヘルハウンドが、森から戻ってきたのだ。
だが、メルキュールは魔獣共《まじゅうども》に全く気付かないのか、はたまた気付いていても気にしないのか、そのまま坑道《こうどう》奥に広がる闇を見つめたままである。
まるで暗闇の向こうにちゃんとレイン達が見えているかのように、視線を逸《そ》らそうとしない。
もはやヘルハウンド共《ども》の足音すら背後に聞こえ始めているのに、メルキュールはにこやかに立っていた……
――☆――☆――☆――
「あの少年、あのままでよろしかったのですか」
何度か振り返り、その度にまだ少年が入り口に立っているのを確かめ、セノアは危惧《きぐ》を口にする。陽光《ようこう》をバックに、黒い影のように不動のままであり、一向に立ち去ろうとしない。
だがレインは、いとも簡単に答えた。
「あいつなら平気だろ」
セノアの目を見て不審《ふしん》な思いを読み取ったのか、付け足す。
「自分で説明してたじゃないか、この辺りの魔獣《まじゅう》の分布《ぶんぷ》は把握《はあく》しているって。あれは多分、本当のことだと思うぞ。そうでなきゃ、案内役のバイトなんか出来ないしな」
「そう……ですか。それならいいのですが」
レニも何も言わないし、セノア一人が初対面の他人を心配するのも妙《みょう》だ。傭兵《ようへい》歴の長い二人が危機感を覚えないのなら、余計な心配なのだろう。
それに、レインに妙《みょう》な勘違《かんちが》いをされても困る……例えば「やけにあいつを心配するじゃないか?」などと。まあ、そっちの面では恐ろしく鈍《にぶ》い人だから、それこそ大丈夫だとは思うが。
廃坑《はいこう》内を進み始めた。
レインとセノアが前で、レニが後ろである。別に打ち合わせなどしていないが、自然とこういう形になった。隊列も決まったことだし、セノアはじっくりと洞窟《どうくつ》内を観察してみた。
想像していたよりも坑道《こうどう》は広い。その気になれば大人三人が並んで歩けるし、高さも数メートルはありそうだ。
ここが普通の意味での鉱山ではなく、魔法石の採掘場だったからだろう。普通、鉱山の坑道《こうどう》はもっと狭いと聞いている。
加えて、廃坑《はいこう》内は外よりは気温が高めで、じめっとした空気が肌に張りつくようだった。天井から雨水でも染み出しているのか、遠くの方で小さな水滴音がする。ぴちゃん……ぴちゃん……などと間隔を置いて鳴っており、それ以外は物音らしい物音は何も聞こえない。岩壁もじっとりと水分を含んでいるようで、カンテラの灯りにてらてらと照り返しを見せた。
ゆっくりと歩《あゆみ》を進めながら、レインが火を入れたカンテラで周りを順繰りに照らしている。
地面はともかく、岩壁や天井は一定間隔で丸太の枠組みによる補強が成されており、これはおそらく、落盤《らくばん》などの事故を防ぐためだと思われる。
いずれにせよ、人の手によってわざわざ過ごしやすい環境にしてあるのは間違いなく、なるほどこれなら魔獣《まじゅう》が棲《す》み着くのも当然かもしれない。
ざっと眺めてそう結論付け、セノアは緊張感を新たにした。
すると、同じように周囲を眺めていたレインが、どういうつもりかセノアにカンテラを渡して寄越《よこ》した。
「これ、おまえが持つ役な」
「な、なんで私が! 私は私で、自分のを持ってきてますぞっ」
言葉通り、セノアは背中に斜めに背負っていた革袋からカンテラを取り出すところだったのであり、うっかり受け取ってしまったレインのそれを突っ返そうとした。
しかしレインは、歩きながら今度はちゃちなブローチを寄越《よこ》し、「あ、それとこれも預かっておいてくれ。街の土産物屋《みやげものや》で買ったんだが、壊すといけないし」などと真面目《まじめ》くさって言う。
セノアは眉間《みけん》に深々と皺《しわ》を刻《きざ》んだ。
「だからっ。どうして、何故《なにゆえ》に私に預けるのです。ご自分で持っていればよろしいでしょうに!」
しかも、渡されたブローチとやらは、これがまた寒気《さむけ》がするほど安っぽい代物《しろもの》で、一応|薔薇《ばら》の花を象《かたど》っているようだったが、素人《しろうと》目に見てもめちゃくちゃ安物なのだろうなとわかる。
こんなのを土産《みやげ》にされて、喜ぶ者がいるのだろうか?
……いや、それはまあ、例外もいることはいるが。
なぜか頬《ほお》が熱くなってしまい、セノアは慌《あわ》てた。しかし次の瞬間、閃《ひらめ》いた。
「土産物屋《みやげものや》で購入したと仰《おっしゃ》いましたが、このみすぼらしいブローチは、どなたへの贈り物ですか」
「……みすぼらしくて悪かったな、おい。俺が一生懸命に選んだのに」
レインは横に並んだセノアをちらっと見て、唸《うな》った。
「だいたい、なんで猜疑心《さいぎしん》まみれの声を出すのか知らんが、相手は姫様だよ。今回は留守番してもらう代わりに、なんかお土産《みやげ》買って帰るってことで、ようやく納得《なっとく》してもらったんだ。仕方なかろう」
後ろを歩いていたレニが、それを聞いて「なんと!」と素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を上げた。
首を突き出して問題のブローチをしげしげと眺め、低く呻《うめ》く。
「これはまた……仮にも王族の姫君に贈る代物《しろもの》じゃないのでは。一体、幾《いく》らしたんです」
「ご挨拶《あいさつ》だな。他人事じゃなくて、おまえにも預かってもらう。分散しとけば被害も小さいしな」
レニにもしっかり、安物臭いペンダントを押しつける。
「両方合わせて二〇〇タランだったなぁ。値段の割には、なかなか見栄《みば》えがいいだろう、なっ?」
「『なっ』じゃありませんよ、『なっ』じゃ。これじゃ、陛下もがっかりするんじゃないで――」
言いかけ、レニは感慨《かんがい》深そうに首を振った。
「いえ、意外と大喜びするかもしれませんね。将軍が贈る限りは」
「姫様は喜んでくださるさ。元々、高級品じゃなきゃ嫌《いや》だっていう、狭い了見《りょうけん》なんか持ってない。さすがは王者の器《うつわ》だ」
嫌《いや》みったらしく述べ、レインがセノアを見た……が、驚いたように目を瞬《またた》いた。
「どうしたおい。沈んだ顔して。そんなにセンス悪いか、それ」
「いえ、別に。……そういう事情なら、お預かりします。落とすと大変ですから」
セノアは慌《あわ》てて首を振り、感情を押し殺して無理に微笑んだ。
預かったブローチを、そっとポケットの中へ仕舞《しま》う。
「そういえば、今回も『ぜひご一緒に』とご希望されていましたね、陛下は」
「うん。説得に数日かかったな」
レインは微《かす》かにため息をつく。
「他のことならともかく、いくらなんでも魔獣《まじゅう》の巣にお連れするのはな。第一、まだサフィールとの戦《いくさ》が終わったばかりで、国主が城を留守にするのはまずい。……こういう仕事は、俺達騎士の役目だろう」
そうだ、だから陛下は主城のガルフォートに残り、私はこの人と一緒にここにいる。何をうじうじと悩むことがある。セノアが自分に言い聞かせつつ歩いていると、ふと視線を感じた。振り返ると、心配顔のレニがさっとあさっての方向を見る。とてもわざとらしかった。
まさか……私の想いが勘《かん》付かれている――などということはないはずだけど。なにしろ、あの人だって何も気付いてないご様子だし。
不安を振り払うように、意識して凜《りん》とした声を出す。
「ところで将軍、もう随分《ずいぶん》歩いたのに、なにも出てきませんね」
「それはどうかな。俺にはさっきから聞こえている……色んな声が。例えばほら」
レインは歩みを止め、口元に人差し指を立てて見せた。
「声を立てずに……耳をすませてみろ」
レインの囁《ささや》きに呑まれ、セノアはじっと耳をすます。最初は相も変わらず水滴が落ちる音しか聞こえなかったが、辛抱《しんぼう》強く聞いていると、遠くから小さな小さな木霊《こだま》のような声が聞こえた。ごく微《かす》かに、だが。
これは……獣の吠え声?
小声で訊《き》くと、レインはあっさりと頷《うなず》く。
「そうだ。俺には色んな種類の魔獣《まじゅう》の吠え声が、たくさん聞こえる……本来、同じ洞窟《どうくつ》内なんだから、もっとはっきり聞こえてもいいはずなんだが……妙《みょう》な話だ。あぁー、それとエクシードの乱れも感じるなぁ。どうやら先行した他の傭兵共《ようへいども》、苦戦中らしい」
他人事のように笑ったが、そのうちちょっと眉根《まゆね》を寄せた。
「おや? 誰か下から走ってくるヤツがいる。なんのつもりか知らんが……逃げてるような」
「……逃げている? 誰かが魔獣《まじゅう》に追われていると?」
「いや……でも他の仲間は戦っているみたいだぞ。どうも、こいつ一人が逃げたような。他のヤツらの声は聞こえなくなった……エクシードもだ」
エクシードだかなんだか知らないが、よくそこまでわかるものだと感心する。しかしレイン本人は何が気に入らないのか、しきりに首を振っていた。
「しかし妙《みょう》だ。もう同じ洞窟《どうくつ》内にいるのに、相変わらずエクシードが上手く使えない。何か奇妙な『力』に邪魔《じゃま》されているような気がする」
「……そもそも、その『エクシード』とは何ですか。以前からお尋ねしようと思っていたのですが」
セノアは我慢出来ずに尋ねてみた。
レインは「そんなことを訊《き》かれてもなぁ」と言いたげな表情でセノアを見返した。
「まあ、説明したところで多分、理解出来ないだろう。魔法とはまた違った、便利な力だと思っていてくれ。……それより、二人共、ちょっと端《はし》っこによれ」
文句を言う前に、レインに押されて岩壁の方へ押しやられる。レニは既《すで》に自分から隅《すみ》っこに待避していた。
そのくせ、事情がわかっているわけではないようで「何か来るんですかっ」と緊迫《きんぱく》した声を出す。
「……いや、遁走《とんそう》しているヤツが上がってくる」
上がってくる?
すると、やはりこの洞窟《どうくつ》はずっと地下に広がっているらしい。
セノアはカンテラをぐいっと前方に突き出してみたが、洞窟《どうくつ》の濡れた地肌と一定間隔で坑道《こうどう》を補強している、丸太の枠組みしか見えない。
この程度の灯りでは、あまり遠くまで見通せないのだ。もしもこのカンテラを取り上げられでもしたら、自分の目の前に手をかざしても何も見えまい。
――じっと待っていると、ついにセノアにも聞こえた。
遠くから低く長く、男性の悲鳴が尾を引いて木霊《こだま》している。耳をすますうち、その声がどんどん接近してくるのがわかった。
「ど、どど――」
ぴしゃっとレニが自分の頬《ほお》を叩く音。
「どうしたんです、この人。凄《すご》い勢いで喚《わめ》いていますけどっ」
「俺が知るか」
レインが即答した。
「まあ、どうせすぐに本人が現れるさ」
その通りだった。
声をぐわんぐわん反響させつつ、怒濤《どとう》の勢いでこちらに接近してくる。もはや一秒ごとに悲鳴のボルテージが上がってきており、つまりそれだけこちらに近付いているということだ。
ドスドスドスッという足音も聞こえ、三人で目をこらして待つうちに、悲鳴の主が見えた。
セノアが見る限りでは、帯剣した屈強《くっきょう》そうな戦士で、見覚えもある。先行した傭兵《ようへい》達の中に、彼も混じっていたように思える。
なのに向こうはレイン達を見ても全く反応すらせず、引きつった顔で全速力で駆けてくる。
レインが率先《そっせん》して声をかけた。
「おい、どうしたっ。ちょっと事情を」
ところが相手は全然反応を見せなかった。それ以前によく通るレインの声すら耳に入らなかったようで、坂道を転がる大岩のようにレイン達の脇を通り過ぎようとした――のだが。
「人の呼びかけを無視するな、こら」
むっとしたレインが、タイミングよく片足を突き出す。相手は簡単に蹴躓《けつまず》き、べしゃっと顔面から倒れ込んだ。
「ぶベベっ!」
思いっきり不意を突かれたようで、受け身すら取れていない。あれは痛い……セノアは我がことのように口元に手をやった。
しかし彼はすぐにがばっと起き上がり、何事も無かったようにまた猛ダッシュする。端《はし》っこに待避していたセノアがちらっと見たところ、大の男が明らかに半泣きだった。
「ひぎゃあああああああああああああっ」
今の転倒で鼻血まみれになっているくせに、またもや壮絶な悲鳴を再開させ、男は一散《いっさん》に走り去ってしまう。
呆《あき》れ果てたのか、レインも今度は止めようとしなかった。
三人の間に、何とも言えない沈黙《ちんもく》が落ちる。恐怖よりも、むしろとまどいの方が大きい。何があったにせよ、あまりと言えばあまりな逃げっぷりである。
顎《あご》を落としたまま遁走傭兵《とんそうようへい》を見送ったレニが、ぎぎぃ〜っと首を巡《めぐ》らせ、レインを見る。
「……なんですか、あの人。自分より怖がりなんじゃありませんかね?」
「だから、俺に訊《き》くなよ。手に負えない魔獣《まじゅう》にでも遭遇《そうぐう》したんじゃないのか。仲間を見捨てて逃げ出すってのは情けない限りだが、生きて帰れたら、これを機会に漁師にでも転職すりゃいいさ」
淡々と言い切り、「行くぞ」と告げる。
首を傾げたまま、セノアとレニも続いた。
暗闇の中をカンテラで照らしながら歩くうちに、セノアは少しずつ不安を覚えてきた。いや、不安なら洞窟《どうくつ》に入る前からあったのだが、今は奥へ行くほど心細さが増大していく気がする。
おそらく、さっきの遁走《とんそう》男を見たせいだろう。纏《まと》っていた鎧《よろい》の年季の入り具合からして、それなりに経験値のある戦士だったろうに、あの怯《おび》えようはどうしたことだろう。
見た時だけは一種の滑稽《こっけい》さもあり、「なにをオーバーな」と内心で軽侮《けいぶ》するくらいの余裕があったのだが、男が消えた後はそんな余裕も失せた。
水滴の垂《た》れる音と自分達の足音しか聞こえない洞窟《どうくつ》内……しかも、カンテラの灯りが届く範囲はあまりにも狭く、いつ何時、どんな魔獣《まじゅう》がぬっと姿を現すかもしれない。なるべく前方が見えるように手のカンテラを突き出してはいるが、それでもはっきり見えるのは、せいぜいが数メートル先くらいまでだろう。心臓に悪いこと、おびただしい。
まだなんの魔獣《まじゅう》も出てきていないのに、セノアはもう額《ひたい》に汗をかき始めていた。
自分だけが恐怖に戦《おのの》いているのではない証拠に、背後にいるレニが生唾《なまつば》を飲み込む音が聞こえた。彼もまた、この洞窟《どうくつ》の闇に得体《えたい》の知れない何かを感じているのだ。
とその時、沈黙《ちんもく》の帳《とばり》が下りていた一行の中で、小さな歌声が響いた。なにやら古くさい上に笑止《しょうし》な恋愛物の歌で、この壮絶に音痴《おんち》な声は、もちろんレインその人である。
驚いて横目を使うと、レインはいつものように悠然《ゆうぜん》と歩きつつ、実に気持ちよさそうに歌っていた。ガルフォートの庭園を歩く時に、たまにこういう表情で歌っているのを見るが、その際とまるで変わらない態度である。
この人にとっては多分、この洞窟《どうくつ》の闇も魔獣《まじゅう》も、さしたる脅威《きょうい》ではないのだろう。いや、そもそも眼中にさえないのかもしれない。
頼もしくもあり、羨《うらや》ましくもある。自分もこの人のようになれたら、どんなに幸せだろう。技量が遙《はる》かに及ばないのはともかく、心の持ちようくらいはこの人に比肩《ひけん》したいものだ。
心細さが嘘のように減じてきたので、セノアは横目でレインの方ばかり見ていた。
しばらくして歌を中断し、独り言のようにレインが呟《つぶや》く。
「まあ、今はまだ心配する必要はないさ。どうせ強い魔獣《まじゅう》が出てくるとしたら、もっともっと下の階層だろう。最初に遭遇《そうぐう》するのは、ゴブリンとかその辺だと思うぞ」
「それがセオリーですよね、確かに」
背後からレニの声。
「だから僕も、まだ少しは余裕があるんだけどね」
散々震えまくっていたくせに、そんなことを言う。でもレインは機嫌《きげん》良く相づちなど打つ。
「そうそう。だからまだまだ気合いを入れる必要はないさ」
「そう――なんですか?」
思わず訊《き》くと、機嫌《きげん》良く頷《うなず》く。
「魔獣《まじゅう》の棲《す》む洞窟《どうくつ》ってのは、どこもそんな感じだな。強大な魔獣《まじゅう》ほど、ザコ共《ども》とは距離を置くんだ。人間でも、大物ぶった阿呆《あほう》ほど庶民と同じ所には住みたがらないだろ? アレと同じだな」
「に、人間はともかく。しかし、とにかくこの辺はまだ安心だということですね」
何気《なにげ》なく答えた後、セノアはちょっとレインを盗み見た。
まさか……今のセリフは私を安心させるために言ったのだろうか。そこまでの意味があって教えてくれた? だとしたら怒るべきだろうが、どうもそういう気分ではなかった。むしろ、感謝の意味を込めてまたレインの横顔を見やる。
しかし……肝心《かんじん》の主君は別になんの思惑《おもわく》も感じさせない表情で、また低音の聞いた声で歌を再開していた。
自分には、まだまだこの人の考えを読み取るのは、難しいようだ。
「――お。見ろ、下層に通じる穴が見える」
急にレインが指差した。
カンテラを持っていないのに、この暗闇でも普通に見えるらしい。というか、教えてもらっても、セノア達には何も見えない。
「見えませんよー、自分達は」
レニがきっちり自己主張した。
「そうか……でもすぐにわかる」
これもその通りになった。
実際、その時は何も見えなかったが、一分も歩くと突き当たりの行き止まりに達し、黒々とした穴が口を開けていた。灯りをかざすと、階段状の土段《つちだん》が下の方へと続いている。下層へと延びているようだ。
「さて、じゃあ地下二階へ行くとするか。とりあえずここまでは、遁走《とんそう》男に出会っただけだな。ラッキーと言いたいところだが……どのみち俺達は、魔獣《まじゅう》を一掃《いっそう》するのが役目だからなぁ」
「思い出させないでほしいですね。せ、せっかく気持ちが静まってきているところだったのに」
レニが渋い顔をしたが、既《すで》にレインは土段《つちだん》を下り始めている。
セノアとレニは顔を見合わせ、急いでその後を追った。
――☆――☆――☆――
階段状の段差は、思ったより下まで延びていた。随分《ずいぶん》と深い。
十メートル近く下りてやっと下の階層に着いたが、特に景色の変化などはない。
相変わらずの闇が広がり、じめじめと肌に張りつくような湿気も同じである。
ただし……全く同じではない。一つ下の階層に下りただけで、水滴の音だけではなく、人の悲鳴や魔獣《まじゅう》の咆哮《ほうこう》などが微《かす》かに聞こえる。いや、悲鳴の方は微《かす》かに聞こえるなどというレベルではない。さっきと同じくどんどん大きくなり、やがて先程《さきほど》の光景を再現するように、今度は二人の戦士が全速力で走ってきた。
『うあああああああああああーーーーっ』
なんの偶然か、彼らも二人揃って怯《おび》えきった表情であり、レイン達には目もくれない。
そのまま脇を素通りしてしまった。
さすがに慣れたのか、レニも落ち着いた声で問う。
「今度は声をかけなかったですね、将軍」
「なんか関わりになりたくない雰囲気だったからなぁ。でも、今の二人は外で出会った傭兵共《ようへいども》とは別人だったな」
『……えっ』
レニとセノアの声が重なった。
それは気付かなかった……てっきり、またあのメンバーの誰かだろうと思ったのだ。
「ということは、他にもこの廃坑《はいこう》に侵入したグループがいると?」
セノアの質問に頷《うなず》く。
「メルキュールとやらが案内人のバイトしてたくらいだからな。少なくとも複数はいるんだろうさ。村長のヤツ、どうせバレるんだから隠しても仕方ないのにな」
とか言いつつ、ふっと足を止める。
「それより、とうとう本番だぞ。最初の獲物が来る」
「ひぐっ」
レニが妙《みょう》な声を出し、セノアもあっという間に緊張を取り戻した。まさか出会わずに済むとは思っていなかったが、ついにその時が来たのだ。
しかし、最初の遭遇《そうぐう》ということもあり、この相手はさして手強《てごわ》い魔獣《まじゅう》ではないはず。
などとセノアが自分に言い聞かせていると、ズシィィンズシィィンと何とも重厚《じゅうこう》な足音が聞こえてきた。
さっき名前の挙がったゴブリンは、さして手応えのないザコ魔獣《まじゅう》だと聞いたが、こんなに腹にずしっとくる足音をさせるのだろうか。
思わず、レニと視線を交わす。
多分、同じことを考えていたのだろう、レニが震え声で言った。
「将軍……最初に出会う魔獣《まじゅう》は、大した相手じゃないって仰《おっしゃ》いましたよねええ」
レインはちょっと首を傾げ、闇の向こうを眺めていた……しれっと。
「う〜ん。確かにそう言ったが。こいつはもしかして……アレかなぁ」
などと煮え切らない返事をしている間に、もう敵が見えた。
セノアは一瞬、これは前にジョウが出して見せた、ジャイアントでは! と思ったが――よくよく見ると、顔の真ん中に眼が一つしかない。それと、この洞窟《どうくつ》内をうろついていたのだから当然だが、身長もあのジャイアントほどには高くない。ただし、無毛の頭が天井に届きそうで、少なくとも二メートル以上の身長があるのは確かだろう。
頭には、特大サイズの金属製ヘルムを被《かぶ》っていたが、肝心《かんじん》の胴体部分は布きれを巻いてあるだけである。
ただ、こいつの身体は常人《じょうじん》より遙《はる》かに横幅があり、見た目の威圧感は相当なものである。
というか、猛々《たけだけ》しく吠える声を間近に聞き、セノアは今し方まで確かにあったはずの闘志《とうし》が、どこぞに吹っ飛んだ。
「ひゃっ」
真っ先にレニが後退《あとずさ》りし、ぺったりと坑道《こうどう》の壁に背中をつける。
「ど、どこが『最初に遭遇《そうぐう》するのは、ゴブリンとかその辺だと思うぞ』ですか! これはサイクロプスじゃないですかぁーーーっ。結構、高レベルの魔獣《まじゅう》ですよっ。うわー」
「なにがうわーだ、馬鹿。だいたいおまえだって、さっきは俺に賛成してただろうがっ」
「そ、そんなことよりっ」
たまらず、セノアが割り込む。
「敵が武器を」
言ってるそばから、サイクロプスが何か黒いモノを頭上に振り上げた。
見れば、単に錆《さ》びだらけの鉄棒なのだが、あちこちがいびつな形に曲がっているのが、嫌《いや》な感じである。いかにも凶器として使い込まれていそうだ。
「将軍っ!!」
いつの間にか数歩下がっていたセノアは、レインに大声で警告したが、呆《あき》れたことにレインはまだレニと話し中だった。
「だいたいおまえは、いつも俺に責任を押しつける傾向があって――お」
頬《ほお》にびりびりと感じるほどのサイクロプスの絶叫に、レインがやっと向き直る。
魔獣《まじゅう》は既《すで》に豪快《ごうかい》に鉄棒を振り下ろしており、幸運なことに最初は威嚇《いかく》のつもりか、自分の足下を穿《うが》った。
ドガッと衝撃《しょうげき》音がして、小石と土塊《どかい》が飛び散る。どれだけ剛力《ごうりき》なのか、セノア達の足下にまで衝撃波《しょうげきは》が達し、足下がぐらっと揺れた。
ぞっとする。
あれが頭にでも当たったら、もうおしまいである。
また鉄棒を振り上げる。
今度は毛深い手でぶんぶんと左右を薙《な》ぎ払うように振りながら、前進してきた。リーチが長いので、鉄棒が岩壁に当たってガツンガツンと破壊音がする。
「しょ、将軍!」
たまらず、もう一度、呼ぶ。
レインが未だに魔剣も抜かず、ぼけっとサイクロプスを眺めていたからだ。あと二歩か三歩で間合いに入る――というところまで接近すると、サイクロプスは歩みを止め、天井を見上げるように上体を反《そ》らせ、巨大な咆哮《ほうこう》を上げた。
セノアは、その挑戦の声がなにか物理的なパワーを持ち、自分の体内にまで不可視《ふかし》のダメージを与えたような気さえした。考えすぎではない証拠に、剣を抜いたものの両足がガタガタ震え、びっしょりと冷や汗をかいている。
逃走してきた先の傭兵《ようへい》達の気持ちが、存分にわかった。途方《とほう》もなく恐ろしい! 騎士たる者が吐くべきセリフではないが、とても倒せる気がしない。逃げたいっ、今すぐにも!
忍び寄る恐怖は、一秒ごとにセノアの怯《おび》えを増大しつつある。
しかし、他ならぬ主君の存在が、セノアのやせ我慢を未だ保持してくれた。世界中の誰がそばにいようと脇目もふらずに遁走《とんそう》していたに相違ないが、レインの目があるところでそんな無様《ぶざま》なことは出来ない。断じて出来ない! そのような真似《まね》をすれば、以後私は二度とこの人に顔向けが出来なくなる。……しかし……しかし私では、こいつを倒す助力は出来ない。
それもまた、冷厳《れいげん》な事実だった。
まだ手にカンテラを持っていたのに気付き、セノアは震える手でそれを地面に置く。
「レ、レニ殿、将軍を助けて――」
と言いかけて振り向いたが、レニはまだ岩壁に張りついたままだった。だから自分は嫌《いや》だと言ったのに、とぶつくさこぼしている。
さすがに頭に血が昇った。
「レニ殿っ。なんという有様《ありさま》ですっ。仮にも千人隊長の要職にある者が」
「セノアっ」
いきなり大喝《だいかつ》された。
レインの怒鳴《どな》り声に、はっと我《われ》に返った。
「人のことはいいから、前を見ろっ。真後ろにいて、俺の動きを見ておけっ」
「は、はいっ」
汗まみれで震えていた全身に、一気に芯が戻ったようである。
一瞬にしてしゃんとなり、セノアは剣を構え直す。恐怖で揺らいでいた視界がぐっとクリアになり、細部までよく見えるようになった。
レインがサイクロプスの間合いに飛び込む。
鉄棒を振り回していた魔獣《まじゅう》は、驚いたように一つしかない眼を瞬《またた》いた。まさか、人間の方から挑戦してくるとは思いも寄らなかったのだろう。
ほんの刹那《せつな》の間だったが、普通の人間のようにポカンとした愚《おろ》かしい顔をした。それでも、反応はただの人間よりもよほど速く、自らずざざっと後退する。再び間合いを開けて、レインの頭上に鉄棒を叩き付けようと――
あいにく、そんな暇を与えるレインではなかった。閃光《せんこう》のように下方から襲った魔剣が、サイクロプスの右手を一撃で跳ね飛ばす。鉄棒を握ったままの腕がくるくると宙を舞い、耳が痛くなるような悲鳴と共に、鮮血《せんけつ》が迸《ほとばし》った。
セノアの眼前《がんぜん》で、くっきりと残っていた魔剣の青い軌跡がすうっと消えていく。
ドス……ドスドスッ
サイクロプスはそのまま、ふらふらと後退《あとずさ》ってしまう。闘争心の固まりのようなこいつも、片腕を失ったのは大きなダメージらしい。
それにしても……この血の臭い。
人間と同じ赤い色だが、臭いのキツさは人の比ではない。鼻に手をやりそうになったセノアに、レインがまた指示を出す。
「セノア、とどめだっ」
「うぇあっ」
びしっと背筋が伸びた。
単なる「指示」ではない。先程《さきほど》と同じく、肝が冷えるような力の籠《こ》もった叱声《しっせい》であり、飛び上がりかけた。
「し、しかし私では……」
「あきらめるな、馬鹿。強くなるんだろうがっ。なら、突きの構え――いや、剣を突き出して無心で走れっ。目標は敵の心臓部! 常人《じょうじん》よりずっと上にあるぞ、当然だが」
わたわたしているセノアを見て、再び怒鳴《どな》る。
「聞こえなかったのか! 走れえっ」
普段は悪戯《いたずら》っぽく光る瞳がかっと見開かれ、確かに見えない圧力を感じた。
大瀑布《だいばくふ》のようなその不可視《ふかし》のパワーは、あるいはレインの「力の波動」そのものだったのかもしれない。何にせよ、全身の骨が鳴り出すかと思うほどの叱声《しっせい》だった。
「は、はっ!」
あまりにも迫力のある怒声《どせい》に、今度こそぴょんと跳び、その勢いを保持したままセノアは駆け出す。サイクロプスより、今のレインの怒声《どせい》の方が百倍は怖かった。
「あああああああーーーーっ」
悲鳴を上げつつ、一散《いっさん》に駆ける。
瞬《またた》く間にレインの脇を通り過ぎる。まだふらふらと後退中だったサイクロプスが、霞《かす》みのかかったような一つ眼でセノアを見下ろす。微《かす》かに警戒感を露《あら》わにしたが、ぷっつりと切れてしまったセノアにはどうでもよい。
ほとんど自動的な動きで剣先を修正し、大きく斜め上方へと剣を突き出す。
確かな手応えを感じたそのまま、まだ走ろうとしゃにむに体重をかける。
長剣の柄《つか》を持った両手越しに、魔獣《まじゅう》がビクッと痙攣《けいれん》したのを感じた……一度だけ。見ると、助走をつけたお陰か剣の柄《つか》近くまで埋まっており、これなら剣先は完全に背中の方へ抜けているだろう。
……なんだか粘っこい液体が頬《ほお》に落ちてきて、セノアは我《われ》に返った。
ちらっと見上げ、正体を確かめる。――まさか、魔獣《まじゅう》の唾液《だえき》?
その感触にぞっとして、武器はそのままに慌《あわ》てて跳び退《すさ》る。まるでそれを合図にしたかのように、サイクロプスはゆっくりと後ろに倒れた。どすっという、結構大きな音がした。それっきり、まるで動かない。
怒鳴《どな》られた怯《おび》えは既《すで》に去り、じわじわと満足感が込み上げてきた。
「は、初めての戦果《せんか》だわ……」
「なにが初めてだって? もしかしてエロい話か。エロ方面のなんかだな?」
耳元で阿呆《あほう》なことを言われ、めっきり気分が削《そ》がれた。
「違いますよっ。なんでそんな馬鹿げた話になるんですっ。この私が、初めて戦いで――」
言いかけて、慌《あわ》てて口を閉ざす。
「いえ、別になんでもありません」
「わざとらしくとぼけるな、馬鹿。初めて敵を倒せたとか、そんな話だろ。そこまで言えばわかるっつーの。それより、剣を放棄《ほうき》したまま下がるなよおまえ。もしあのデカブツがまだ死なずに向かってきたら、次はどうもならんだろうが。垂《た》れてきた涎《よだれ》くらいで驚くんじゃないっ。……マイナス五十点だな」
そ、それはひ、引きすぎでしょう!
熱く抗議《こうぎ》しかけたものの、結局また抑えた。素直《すなお》に「すいません」と頭を下げる。
レインの最初の一撃がなければ、自分の攻撃などが通じたはずはないのだ。それにレインの指摘は、客観的に見ても頷《うなず》けることである。
いや……むしろ、この人は私が戦えるようにわざとああいう機会をつくってくれたのではないだろうか。
遅まきながらそこに気付き、問いかけるようにレインを見る。
全然、別のことを言われた。
「まあいい。……武器が身体の一部になるように精進《しょうじん》しろ。おまえ程度の実力じゃ、剣がなくなったらまず逃げるしか手がないしな。まあ……よくやったよ」
ぽふぽふと頭を叩かれてしまう。
私はそういう適当な扱いには我慢ならないタチである、と日頃から思っていたのだが、全然|嫌《いや》な気分ではなく、むしろレインがすぐに手を放してしまったのが惜しかった。
「ほら、顔拭けよ、顔。涎《よだれ》がまだついたままだ」
一気に思い出して、またげんなりした。
タオルを貸してくれたので、大急ぎでゴシゴシと顔を拭く。水でちゃんと洗いたいが、持参した革水筒の水を使うわけにもいくまい。
「ありがとうございます。このタオルは洗ってお返しします」
レインにお礼を述べると、今度は背後からレニの声がした。
「はい、セノアさん。カンテラ置いたままだよ」
「あっ、これはどう……も」
受け取りはしたが、のほほんとしたレニの顔を見て、ぶわっと怒りが込み上げた。
「レニ殿っ。貴方《あなた》も手伝うべきでありましょう! 最初から最後まで後ろで見ているだけって、それはあまりにも」
「セノア」
特に大声でもないのに、やたらと威圧感のある例の声音《こわね》で、レインが呼ぶ。
見ると微《かす》かに首を振り、
「レニはいいから、自分の注意だけしてろって。体力は戻ったのか?」
「はあ……もう大丈夫ですが」
「ならいい」
簡単に話を打ち切り、ぶっ倒れたままのサイクロプスを眺める。ざっと頭から足先まで眺め、
「ふぅーん」と感想を洩《も》らす。なにやら思いついたことでもあるのか、ふんふんと頷《うなず》いていた。
「よし、じゃあ行くぞ。まだまだ先は長いだろうしな」
「その前に……何か気になることでもお有りですか?」
念のためにセノアが確かめると、真面目《まじめ》くさった顔で教えてくれた。
「いや、そういやここは、場所的に好都合だよな、と」
首を傾げる発言である。
今のセリフをじっくりと咀嚼《そしゃく》してみたが、全然意味不明だった。
「そんな顔すんなよ。他にも考えたことはあるぞ。サイクロプスって、いつも単独行動してるなぁと。……集団で移動しているのを見た記憶がなかったから、多分そういう習性なんだろうな。これで納得《なっとく》いった」
「どうでもいいことだと思いますが」
意味がわからないのは同じだった。
「おまえはそう言うが、こいつらがまとめて出てきたら、だいぶ嫌《いや》だと思わんか? 俺にとっては大した違いはないが、おまえはそうもいかんだろうが。ほれ、おまえのだ」
いつの間に回収してくれたのか、セノアの剣を返してくれた。
「あ、どうも……」
「じゃあ、行軍再開だ」
言下《げんか》に歩き始める。
相変わらず、セノアが持つカンテラの灯りなど待ちもせず、率先《そっせん》して闇の中に踏み込んでいく。明らかに暗闇などは障害ではないのだ、この人にとっては。下手をすると、目をつぶっていても歩けるのではないか、とまでも思えてしまう。
それでも急いで追いつこうとしたセノアに対し、レニが後ろから謝った。
「すいませんでした、セノアさん。どうもお役に立てなくて」
本当に悪いと思っているのか疑わしい、苦笑いのような声である。それがどうしても気に入らず、セノアは振り向きもしなかった。自分も勇者には遠いが、レニのこの気弱さはどうだろう。なぜあの人は、もっと厳しくしないのだろう。これまではあまり考えなかったが、レインはレニに対して甘すぎるのではないか?
セノアはむらむらとそんな不満を持ち始めていた。
探索を再開してはっきりしたが、上の階層で一度も魔獣《まじゅう》に遭遇《そうぐう》しなかったのは、単なる幸運だったようだ。
なぜなら、二番目の遭遇《そうぐう》はほんの数分後だったからだ。今度はレインの最初の予告通りゴブリンで、魔獣《まじゅう》ランクからいえば最底辺に近い敵である。
なのにセノアは、頭でっかちで焦げ茶色をしたその魔獣《まじゅう》を見た途端《とたん》、先程《さきほど》と同じく背筋に冷たいものが走った。一度倒せば、後は慣れるはず――そう思っていたのに、全然慣れていない。むしろ、今度こそ殺《や》られそうな予感がする。それに、今度は三匹もいるのだ!
弱気は総身の震えに繋《つな》がり、たちまち怯《おび》えが兆《きざ》した。いくらなんでも情けないとは思うが、こればかりはどうしようもない。
しかし、ゴブリン達の方はセノア達を認めた途端《とたん》、しわくちゃの顔をさらに醜悪《しゅうあく》に歪《ゆが》めた。
『グギャッグギャッ』
邪悪な妖精に相応《ふさわ》しく、甲高い嫌《いや》な鳴き声で威嚇《いかく》する。三匹揃って、唯一《ゆいいつ》の武器であるかぎ爪をかざしつつ、じわじわと迫ってくる。
セノアはカンテラを足下に置いて抜剣《ばっけん》したものの、剣先がおもしろいように左右に揺れていた。
敵は自分より小柄な下っ端|魔獣《まじゅう》なのだ、しっかりしなさい、セノア! 内心でそう叱咤《しった》してみても、全然効果はなかった。さっさと逃げたくてたまらない。
「気にするな、セノア。その怯《おび》えは、おまえの弱気のせいじゃない」
「……え?」
肌で感じ取れるような邪気《じゃき》が漂う中、奇跡のように落ち着いた声。
汗まみれの顔で隣を見ると、レインはいつものしぶとい表情でニヤッと微笑んでくれた。今のセノアの瞳には、その姿が頼もしい神像ように見えた。
多分この人は、恐怖など全く感じていないのだろう。目の前の魔獣共《まじゅうども》など、単なる獲物でしかないに違いない。
しかし、「その怯《おび》えは、おまえの弱気のせいじゃない」というのはどういうことだろう。
詳しく尋ねたかったのだが、ゴブリン達がまた叫んだので、それどころではなくなった。こちらの心奥《しんおう》にどす黒い楔《くさび》を打ち込まれたような嫌悪《けんお》感の伴《ともな》う叫び声で、身も世もなく悲鳴を上げそうになる。
レニが例によって「じ、自分は背後をしっかり守りますから!」等のたわけたセリフを吐き、セノアの心細さを助長した。
一人だけいつもと変わらぬレインが、こともなげに指示を出す。
「よし。俺が右の二匹を倒すから、おまえは一番左の弱そうな一匹な」
「ひ、一人でで?」
「……なにが『でで?』だよ。おまえに話しかけてるんだから、当然そうだろうが」
「しかし」
レニ殿だっているのに……そう抗議《こうぎ》したかったが、レインはとうにダッシュしていた。
ゴブリン達が構える暇もないほどの速度で間合いに入り、大上段から魔剣|一閃《いっせん》! 右端の敵の肩口から胸の方にかけて血が噴き出すのが見えた。
ヒュン
剣風の鳴る音と共に魔剣が翻《ひるがえ》り、隣にいたゴブリンの胸を斬撃《ざんげき》が襲う。まだ愚《おろ》かしい示威《じい》行動の最中だったゴブリンは、悲鳴も上げずに倒れ込む。
実際は、セノアの目にはレインの動きはほとんど捉《とら》えられず、魔剣の残像くらいしか見えていない。かろうじて、敵の出血した場所から斬られた場所がわかるだけだ。
鮮《あざ》やかすぎてため息も出ない速攻の攻撃に見惚《みほ》れていると、レインが振り向いた。
「なにをぼけっと見てる、おい。走れっ」
「――は、はばばっ!」
ははっ、と答えるつもりが、喉《のど》に絡んだ声になった。
レインの叱声《しっせい》で怯《おび》えが吹き飛び、セノアは尻を蹴《け》飛ばされたような勢いで疾走する。ただし、レインのスピードとは比べるべくもない。唯一《ゆいいつ》残ったゴブリンは、既《すで》に驚愕《きょうがく》から立ち直っている。
仲間を倒された怒りか、「せめて一人は殺してやるっ」と言わんばかりの形相《ぎょうそう》で、かぎ爪を振り上げ、待ち構えていた。
怯《おび》えて急停止しそうになったのを見透かしたように、レインが指示を出す。
「怖がるな! そいつの動きは人間より遅い。かぎ爪だけを見てたら、おまえでもなんとかなる。他からの攻撃はない!」
「――はっ」
言われた通り、ゴブリンの手の動きを警戒しつつ、間合いに躍り込んだ。向こうはまだ手を振り上げたままであり、先に攻撃できると判断したのだ。
「はあっ」
気合いというよりヤケクソな悲鳴と一緒に、また敵の心臓を狙ってどかんとぶつかる。今度は突きを繰り出した後、さっと身体を引く余裕があった。
「グエエエエエッ」
怨嗟《えんさ》の悲鳴を最後に、ゴブリンが頽《くずお》れた。また勝てたのだ。
「……やった、またもや私の快勝ぶべっ」
ガツンと頭に衝撃《しょうげき》が来て、その場に膝をつく。レインに、魔剣の鞘《さや》でぶっ叩かれたのである。冗談ではなく、目から星が飛んだ。前にもやられたが、これは痛い……慣れるものではない。
「き、気安く叩かないでくださいっ。いきなり何をしますか! 痛いじゃないですかっ」
滲《にじ》んだ涙を拭きつつ、どっと抗議《こうぎ》する。
だが、逆にレインに厳しい顔つきで睨《にら》まれた。……じろっと。
「増長《ぞうちょう》するな、馬鹿。今のは快勝からはほど遠いぞ。全然気付いてなかったようだから教えてやるが、おまえはゴブリンのかぎ爪で背中をざっくりやられるところだったんだ! 俺が寸前で邪魔《じゃま》したんだ、俺がっ」
「そ、そうだったんですか」
「そうなんだよ! 爪に注意しろって、事前に教えただろう。最後まで気を配れよ。脇目もふらずに半眼で突っ込むな」
「すいません……確かに増長《ぞうちょう》でした」
剣を収め、たちまちしゅんとなる。
確かに、どうも話がうますぎると思った。所詮《しょせん》、自分ごときがそんな簡単に戦果《せんか》を得られるはずはなかったのだ。
「……まあいい。初心者なんだから、まだ上等な方だ。ただ、くどいほど言っておくが、自分を過大評価するのだけはやめとけ。おまえはまだ、全然そんなレベルじゃない。それを忘れないことだ」
「はい……心しておきます」
珍しく素直《すなお》な気持ちで言えた。
安全な場所でそのように言われたら絶対にむっとしただろうが、何しろ肝が冷えるような思いで連戦した直後である。いつもの空元気《からげんき》など出るはずもない。
「ほら、もういいから立て」
しょぼんとへたり込んだままのセノアに、レインが手を差し出す。
手を握るのをためらっていると、レインの方から手を伸ばして握ってきた。小柄な方でもないセノアを、軽々と引き起こす。勢い余ってこつんとレインの胸に頭をぶつけ、焦った。
「きゃっ! す、すいません……ありがとうございます」
「なにが、『きゃっ』だか。おまえ、たまに妙《みょう》に女っぽいなぁ」
この言い草には、文句なしにむっとした。
「どういう意味ですか、それはっ。将軍は私をなんだと思ってるんですっ」
「まあまあセノアさん。将軍はいつもそんな物言いですし。それより、ご無事でなによりでした」
レニがなだめるように述べ、またしてもセノアが置き忘れていたカンテラを渡してくれた。感謝するべきなのだろうが、どうもそういう気分にはなれない。
引ったくるように受け取り、じろっとのんびりした笑顔の朋輩《ほうばい》を睨《にら》む。その目つきにレニはちょっと碧眼《へきがん》を瞬《またた》いたが、おずおずと微笑み返しただけだった。セノアの怒りには気付いているようだが、弁明も反論もするつもりはないらしい。
いつもと同じく、平和そうに笑っているだけである。
普段は苦言を呈するのみのセノアだが、今やレニの弱気がひどく気に障《さわ》る。怯《おび》えを感じるのは仕方ないとしても、それを乗り越えて戦うのが騎士ではあるまいか。だいたい、大の男がなんという惰弱《だじゃく》さか!
ゴブリンに遭遇《そうぐう》した直後はレニ以上に怯《おび》えていたのを忘れ、セノアはむすーっと顔をしかめる。元々彼女は見かけを裏切る古風な考えの持ち主であり、「男子たる者は戦ってこそ値打ちがある!」と堅く信じているのだ。その基準に照らし合わせると、レニなどは駄目の駄目駄目である。
やはり主君はレニ殿に甘すぎる……そう思って振り返る。
レインはゴブリンの脇でしゃがみ込んで、じろじろと観察中だった。そういえば、サイクロプスの時も死体を眺めていたような。
「……どうかなさいましたか?」
「いや、別に。ちょっと哲学的な思索にふけっていた」
意味不明のセリフを吐き、軽やかに立ち上がる。セノアの顔を見やり、ちょっと笑った。
「なんだ、また腹を立ててたのか。飽きないな、おまえも」
「そうは仰《おっしゃ》いますが、このレニ殿の弱気は騎士としてあまりにも」
「その話はもういい」
またあっさりと遮《さえぎ》られ、セノアは大いに膨《ふく》れた。
「将軍は、レニ殿に甘すぎますぞ! それでは、本人のためにもなりますまいっ」
「そうじゃない。おまえがそいつを、全然理解してないだけだ」
きっぱりと言い返され、さらに鬱憤《うっぷん》が溜まる。なんとなく予感がしてさっと背後を見ると、レニが嬉しそうに破顔《はがん》していた。
で、振り向いたセノアを見て、うっという顔をする。
「あ、いやいやっ。勘違《かんちが》いは困るよ、セノアさん。自分はほら、将軍にどやされなくてほっとしただけだし。他意はないから、うん」
「そうは見えませんでしたぞ。いかにも、『ほれ見ろ、おまえの非難なんか全然見当|外《はず》れなんだよ。ざまぁ見ろやぐははっ。ばぁ〜かばぁ〜かっ』という笑い方でした! この目にしっかりと焼き付いておりますっ」
「むちゃくちゃを言うなぁ。それはひどい誤解だって! 真面目《まじめ》な話、傭兵《ようへい》時代の将軍との仕事を思い出して、思わず笑っただけだから」
なにをわけのわからんことをっ、と思いきや、レインまで笑い出した。
「はっは! なにを思い出したかわかるぞ、レニ。フェリアーナのダンジョンに潜った時だろ?」
「そうそう、それですそれっ。いやぁ、あの時の仕事以来、自分もちょっぴり自信がついちゃって」
――どこがだ!
「あの時のおまえの顔、いま思い出しても傑作《けっさく》だな、はっはっは!」
「そ、それはひどいですよ、将軍」
とか言いつつ、レニも一緒になって笑っている。二人ともめちゃくちゃ楽しそうであり、セノアの疎外感をガンガン高めてくれた。
「私には一向にわかりませんっ。男同士でイヤらしいっ」
長い金髪を振り乱して抗議《こうぎ》する。
「またおまえは、そういう斜め方向の誤解をする」
レインは苦笑し、いきなりセノアの肩を抱き寄せた。
「な、なんですかっ。急に」
「いや、別に。最初はただうっとうしいだけだったが、最近はおまえのそういうトコも可愛《かわい》く思えてきたなと。もうちょっと鼻にかかった声で頼む」
「なんですか、それはっ。私は名誉《めいよ》ある騎士で――」
「わかったわかった。わかったからほら、奥へ進もう。昔話についちゃ、そのうちおまえにもしてやるよ。膨《ふく》れるな」
「私は、終始冷静です!」
反論しつつも、やっぱり逆らえずにふらふらと歩き始める。肩を抱かれたのをずしっと意識してしまい、言い争う気持ちが萎《な》えるのだった。
ここで無理に話そうとすると動揺《どうよう》がバレバレなので、セノアとしては大人しく口をつぐむしかない。もうっ……私はいつになったら、この人と対等に話せるのだろう。
また下手な歌を口ずさみ出したレインを横目に、セノアは人知れず顔を赤らめていた。
――☆――☆――☆――
レインは不気味《ぶきみ》で真っ暗な廃坑《はいこう》の中を、セノアの肩を抱いたまま、機嫌《きげん》よく歩いている。小声で歌まで歌っていた。
本人にとっては「肩を抱く」ほどでもなく、単に手を乗せているレベルなのだろうが、とにかくセノア基準では密着《みっちゃく》状態も同然なのだった。非常に気になるのだった。
よってセノアは、胸が高鳴ったままの状態で黙々と歩いており、本来感じるはずの恐怖もレニへの不満も、一時的に忘却《ぼうきゃく》の彼方《かなた》へと去っていた。ただ俯《うつむ》いて歩き、レインと歩調を合わせるのみ。背後からレニの足音もしているのだが、あいにくそれも耳には入っていなかった。
もっとも、途中で幾度《いくど》か坑道《こうどう》の分岐《ぶんき》に来たのは覚えている。一番上の階層にそんなものはなかったが、基本的にこの廃坑《はいこう》は蟻《あり》の巣穴のように入り組んだ構造になっており、分岐《ぶんき》点も山のようにあるらしい。
途中、何度もそういう分かれ道に出会った。
普通なら道が二方向に分かれていれば、そこでどちらに進むか迷いそうなものだが、なぜかレインはまるで迷う素振《そぶ》りも見せず、進行方向を決めるのである。一秒も悩まない。
もしかして、足の向くまま適当に決めているのかもしれないが……あるいは、自分などには計り知れぬ判断基準があるのかもしれない。
――などと、ぼおっとなった頭でセノアは考えている。
要するにセノアには、未だにレインの思惑《おもわく》などさっぱり読み取れないのである。最初に会ったときから何を考えているかわからない人だったが、それは今も変わらないのだ。
歩き始めて十分ほどすると、レインが急にセノアの肩から手を放した。お陰で、セノアも急速に覚醒《かくせい》した。
「おー、いたいた」
レインの言いように驚いて前方を見ると――
これまでとは違い、坑道《こうどう》の奥がぼおっと光っている。
「て、敵が!」
「いや違う違う……ありゃ、何人かが奥の空洞《くうどう》に集まっているんだ。休むのにちょうどいいんだろうな」
つまり、カンテラの灯りが集まって光ってるわけな。
レインがそう断言する。
「いつものことですが、よくそこまでお分かりですね。エクシードとやらの効能ですか」
レインはちょっと瞳を見開いた。
「よく覚えてたな、その単語。いやぁたまに思うが、おまえも記憶力がいいな」
随分《ずいぶん》な言いようである。
「……もしかして、将軍は私をほんっきで馬鹿だと思ってますか」
「またそういう誤解をする。俺は真面目《まじめ》に言ったんだ」
余計に悪いではないか!
ぷりぷり怒っていると、ふっと洞窟《どうくつ》を抜けた。
――廃坑《はいこう》を抜けた!?
驚いて見渡したが、外へ出たわけではなかった。レインが予言したように、ここは大きな空洞《くうどう》だったのだ。
大部屋程度の広さがある円形の空間があり、そこから四方に道が――いや、坑道《こうどう》が分かれている。そして広間の中心に、四人ほどの戦士達が、寄り添うようにして集まっていた。レイン達の接近に気付いた途端《とたん》、全員がやたらとオーバーアクションでさっと振り向いた。
そのうちの三人までは、外で出会った傭兵《ようへい》達である。残る一人は初対面だがやはり傭兵《ようへい》っぽい外見で、あるいは両者はこの広間で出会ったところなのかもしれない。
ただ彼ら……四人が四人とも、見事なまでに強張《こわば》った表情でこちらを見ていた。全員が剣の柄《つか》を握り、今にも抜剣《ばっけん》しそうに見える。それも、闘志《とうし》満々の態度ならわかるが、もう見るからに腰が引けているのだ。
見覚えのある三人も、外で見た時は自信満々だったのに、今は見る影もない。汗まみれの顔を歪《ゆが》め、泣き出しそうな目でこちらを見ている。
レイン達だとわかると、ふっと脱力した。身体から緊張が解けるのがはっきりわかったくらいだ。
レインが四人の顔を順繰りに眺め、外で話したリーダーに声をかける。
「よう!」
「お、おぉ……」
弱々しい返答。
「さっき話した時は、仲間は五人いたと思うがな……一人は逃げてくのを見たが、あと一人はどうしたんだ」
髪の毛が逆立《さかだ》ったままのリーダー(確かトランターだったか)に聞いたが、彼は唇を震わせただけで何も答えなかった。ひどく緊張しているようにも見える。セノアが見るに、レインを無視しているのではなく、話そうとしても声が出ないのかもしれない。
これは駄目だと思ったのか、レインは初対面の中年戦士の方を見た。
「あんたは、この連中とは別口だろ? 外では見なかったはずだし」
今度はちゃんと返事が返ってきた。
「あ、ああ。ただ、俺もギルドからの依頼《いらい》で魔獣《まじゅう》退治に来たんだ。こいつらとは、ついさっき、この広間で出会ってな」
他の三人に比べれば、比較的落ち着いた態度である。
とはいえそれも冷静沈着《れいせいちんちゃく》にはほど遠く、やはり彼もキョトキョトと視線が落ち着かない。何かを警戒するような顔つきだ。加えてなんのつもりか、レインを見てちょっと首を傾げた。
「あんた……どこかで会ったことないか?」
「いや、悪いが覚えてないな。男のことは速攻で忘れる主義だ」
身も蓋《ふた》もなくレインが切り捨てる。
震えているトランターの方へまた向き直り、
「……そろそろ落ち着いただろ。話せる状態になったか?」
「あ、ああ。多分、大丈夫だ。すまん、面目《めんぼく》ない……」
震えるような長いため息をつく。
挑戦的な顔つきをした、目つきの鋭い(むしろ目つきの悪い)若者なのに、今は見る影もない。
レインは単刀直入《たんとうちょくにゅう》に訊《き》いた。
「みんなして、何をそんなにビビっている? 見た瞬間に震えているのがわかったぞ」
初対面の中年戦士も含め、四人がさっと視線を交わした。レインが辛抱《しんぼう》強く返事を待つと、最初のトランターが答える。
「つ、ついさっき……ドラゴンに出くわしちまって」
ドラゴンと聞いてセノアは驚愕《きょうがく》したが、さしものレインも多少は驚いたようだ。
声音《こわね》が鋭くなった。
「ちょっと待て! ドラゴンってどの種類だ。まさか古龍《こりゅう》じゃないだろう? あのサイズじゃ、この洞窟《どうくつ》に棲《す》めるはずないぞ」
「おまえ、最強の魔獣《まじゅう》をその目で見てきたような口ぶりだな、おいっ」
若者はたじろぎつつ、首を振る。
「もちろん、違う。リトルドラゴンだよ」
「……なんだアレか。一番弱いヤツな」
レインはたちまち関心の失せた顔になった。
「ちょっと将軍、そういう言い方は」
レニが後ろから囁《ささや》き声で忠告したが、もう遅い。
「おいっ、なにを寝言こいてるっ」
意気消沈していたトランターが、ぶわっと顔を上げた。
「最下級だろうがなんだろうが、ドラゴンの眷属《けんぞく》には違いないんだぞっ。はっきりいって、出くわした時は血の気が引いたぜっ」
「そうだそうだっ。あいつ、死ぬほどデカい鳴き声でビビらせやがったし!」
「リトルドラゴンとかのネーミングの割には、ガタイも十分デカい! 俺なんか、見た途端《とたん》に半分逃げかけてたぜっ」
傭兵《ようへい》三人が口々に喚《わめ》く。
レインの素《そ》っ気《け》ない言いように、いたく不満を覚えたらしい。
トランターは、ガミガミと続ける。
「それでも仕事だからよ、一応はみんなで突っ込んでみたけど、まるっきり歯が立たないどころか、ハルトのヤツが危うく殺されかけちまって」
「ちょっと待て!」
涼しい顔で聞き流していたレインが、初めて割り込んだ。
すっと目を細め、組んでいた腕をほどく。
セノアにはわからないが、なにか興味を引かれたらしい。
「殺されかけただと? そりゃ本当か。そう思っただけじゃないのか」
「なんでそうなるんだよっ。本当だとも! 速攻で逃げちまったマシューは別だが、残った四人はきっちり向かっていったさっ。こう見えても何年も傭兵稼業《ようへいかぎょう》をやってんだ。まさか依頼放棄《いらいほうき》するわけにゃいかないだろうがっ」
逃げたマシューとやらは、多分、セノア達が上の階層で見た男だろう。盛大《せいだい》に喚《わめ》きながら、まっしぐらに走り去ったアレだ。
しかし、それにしても――
疑問に思ったセノアは、会話に割り込んだ。
「死にかけたそうだが、貴公達を見るに、別に怪我《けが》などしていないようだが」
「はぁ、『貴公』だと? どこのお姫様だよ、ねーちゃん」
じろっとセノアを見やるトランター。
と、隣に立っていた小汚い格好の仲間が、いきなり「そうだ!」と声を上げた。
「思い出したっ。外でもちらっと思ったんだが、あんた、この国の貴族だろ?」
「ホントかよ、ギル?」
トランターが低く口笛を吹く。
「……今まで気付かなかったのか」
ねーちゃんと呼ばれて気を悪くしたセノアは、むすっと返す。
「いや、俺達やこの国の生まれじゃないんだ。ガルドシュタインの方から流れてきたんでな。……しかし……へぇ〜、ここの貴族女は美形が多いらしいが、ねーちゃんもえれーべっぴんだなぁ」
「気安くそのような呼び方を」
「あー、いいからちょっと俺に話させろ、セノア」
猛然《もうぜん》と抗議《こうぎ》しかけたのを、肩を掴《つか》んで引き戻されてしまった。
「で、殺されかけたというのを、もうちょい詳しく訊《き》かせてくれ」
「いやそれは」
釣られて答えそうになったトランターは、はっと何かに気付いたような顔になった。
「……なんでおまえに説明しなきゃいけねーんだよ、おい」
「いきなり態度がデカくなったな。さっきまで震えてたくせに、ちょっと元気が戻るとこれだ」
「なんだとおっ」
大いに気分を害したトランターは、絵に描いたような上がり眉《まゆ》をさらにぐぐっと怒らせる。しかし彼が何か言う前に、今度は中年戦士が大声を出した。
「やっと思い出したっ。あんた、オドロスの森で魔獣《まじゅう》退治してたヤツだろ。間違いない、あの時の傭兵《ようへい》だっ。雰囲気がだいぶ変わってたから、すぐにはわからんかったぜ」
一同の注目は、たちまち忘れ去られていた中年に向けられた。
いぶかしそうにレインが言う。
「あんたが言うのは、オドロス国境の『冥界《めいかい》の森』のことか? 確かに行ったことがあるが、あんたに見覚えはないぞ」
「いやいや、そりゃ無理ないと思う。あの時、あんたは一人だったが、こっちは二十人以上いたからな。おまけに、俺は老《ふ》けてこのザマだしよ」
年季が入りすぎてやや人生に疲れたような風貌《ふうぼう》の傭兵《ようへい》は、息せき切ったように話し始める。
「十年近く前だったかな、俺は北部のオドロスでギルドの仕事を受けたことがあるんだ。今日みたいに魔獣《まじゅう》退治の依頼《いらい》でよ、あそこの国境近くの森に巣くった魔獣共《まじゅうども》を排除してくれっつー内容だったな。一人じゃ絶対に無理だってんで、ギルドが集めた二十人以上の傭兵《ようへい》と一緒に森に踏み込んだんだが――」
なぜかそこで言葉を切り、ぶるっと震えた。
「あの忌々《いまいま》しい呪われた森の奥で、あんたに出会った。あの時の光景は未だに忘れられねー……俺達が到着した時、仕事はもうほとんど片付きかけてた。まだほんのガキにも見えるあんたが、たった一人であの魔獣共《まじゅうども》を」
「昔話はいい」
レインは手を振って彼の話を止めた。
「そんなこともあったかな……傭兵《ようへい》時代は明けても暮れても戦いの毎日だったんで、いちいち覚えちゃいない」
何気《なにげ》ない言い方だったが、傭兵《ようへい》達のレインを見る目がはっきり変わった。特に今まで勢いづいて怒鳴《どな》っていたトランターは、とまどったようにレインを指差す。
「……てことは、こいつって有名な傭兵《ようへい》なのか、おっちゃん?」
「口の利《き》き方に気を付けた方がいいぜ、坊や。俺が思うに、彼こそが北部で『知られざる天才剣士』って噂されてた、伝説の傭兵《ようへい》だ」
途端《とたん》に、トランター以下、三人の傭兵《ようへい》グループが愚《おろ》かしいほど驚愕《きょうがく》の表情を見せた。
ふぇーっと息を吐き出し、レインを呆然《ぼうぜん》と見やる。
「おいおい冗談だろ……彼のことなら、北部どころか中原《ちゅうげん》にまで噂が聞こえてるぞ。戦歴とか武勇伝《ぶゆうでん》の一部は、俺もよく聞いた」
「あだ名の割には、みんな知ってるんじゃないか。しょーもない話だ」
レイン一人が不機嫌《ふきげん》に顔をしかめる。
傭兵《ようへい》達がポカンと眺めているのを見て、さらにぐぐっと眉根《まゆね》を寄せた。
「おい、勘違《かんちが》いするなよ。俺がそのナントカだってのを認めたわけじゃない。だいたい、素性《すじょう》がわからんからそういう噂が立つんだろうが。ただの与太話《よたばなし》が膨らんだんだと思うぞ。伝説なんてのはそんなもんだ」
中年|傭兵《ようへい》が大真面目《おおまじめ》に頷《うなず》いた。
いよいよ強固な確信を得たように、何度も何度も。
「間違いない、やっぱりあんただ。あの時の戦士も、今のあんたと同じ返事をしたんだ。そしてあの伝説の傭兵《ようへい》じゃなきゃ、あれだけの数の魔獣《まじゅう》を一人で倒せるもんか」
――あれだけの数の魔獣《まじゅう》?
この中年|傭兵《ようへい》は、一体レインの、どのような戦いぶりを見たのだろう……唐突《とうとつ》にセノアはそう思った。
いかにも歴戦の面影があるこの中年戦士が、見るからに畏敬《いけい》の念を浮かべてレインを見ているのである。よほどの光景だったに違いないのだ。
「とにかくっ」
肝心《かんじん》のレインは、ささっと話を変えた。
「俺のことなんかどうでもいい。話を戻せ、話をっ。途中でリトルドラゴンに殺されそうになったハルトってのは、どいつだ?」
「あいつとは途中ではぐれちまったんだ」
見違えるように素直《すなお》になったトランターである。
「ハルトのヤツ、ドラゴンのブレスを一瞬の差で避けたのはいいけど、それで完全にびびっちまったんだな。脇道に飛び込んで逃げちまって。後を追うようにして俺達も逃げたんだけど、どこいっちまったんだか、全然追いつかなくて……そのうちここに出て途方《とほう》に暮れて相談してたトコだ」
「一瞬の差ねぇ……本気かどうか、微妙なところだな」
「あんたの言う意味がわからんけど。避けるのがあと一秒遅かったら、ハルトは直撃食らってたんだぜ」
「……リトルドラゴンと戦う前に、坑道《こうどう》内でどんな会話をした?」
トランターの抗議《こうぎ》に取り合わず、レインが重ねて問う。
傭兵《ようへい》達は実にいぶかしそうに顔を見合わせる。
「会話ったってなぁ……。俺達がする話といやぁ、もらった報酬《ほうしゅう》をどう使うとか、どんな女とねんごろになったとか、そういう話ばっかだろ」
「あ、でもさ」
と仲間の一人がトランターを見る。
「仕事の話もちょっとはしたよな。わいわい文句こいてる途中で、『こりゃ、俺達だけじゃ片付かないかもな』てさ。途中であんまりザクザク魔獣《まじゅう》が出てくるモンだから、すっかり弱気になっちまって」
「……弱気は余計だろ、ミッシー。第一、この辛気《しんき》くさい洞窟《どうくつ》がいけねぇんだ。とぼとぼ歩いていると、どんどん気が塞《ふさ》がっちまってよ」
「なるほどぉ。応援を呼ばれると判断したわけだな。騒ぎが広がるのを阻止しようとしたんだ。だから見逃せなかったと」
「なんのことだよ、おい」
「いや、こっちの話だ」
なにかヒントでも得たのか、レインは霧が晴れたようにすっきりした表情を見せた。
「事情はわかったから、おまえ達は――」
ふっと語尾《ごび》が消える。
カンテラの灯りに照らされた顔が、たちまちにして厳しさを取り戻した。
ちらっと右手の壁に空いた穴を見やり、
「……レニが戻らない」
「え、ええっ!」
驚いて、セノアはぱぱっと周囲を見た。
いない……確かにいない……
さっきまで自分の背後にいたはずなのに、今は完全に消えていた。
レインは、右手に口を開けた洞穴《ほらあな》の方へ走り、中の暗闇を覗《のぞ》き込んだ。
「おいレニっ」
一度だけ、よく通る叱声《しっせい》を挙げる。
しかし……返事はない。
大股で戻ってきて、吐き捨てた。
「俺としたことが、油断したもんだ」
「ど、どういうことですっ。レニ殿なら、さっきまで私の後ろにいて――」
「ああ、ずっと立ってたさ。でも、ついさっき、ぶらっとあの向こうを覗《のぞ》きに行ったんだ。妙《みょう》なことをすると思ったが、レニのことだからと安心してたんだが……」
セノアは本気でショックを受けた。
「私は、レニ殿が向こうを見に行ったことさえ、気付きませんでした」
「……俺達もだ。あんたに言われて、初めて消えてるのに気付いたぜ」
トランターの証言に、傭兵《ようへい》達はみな頷《うなず》いた。
セノアを貴族だと看破《かんぱ》した男が(確かギル)、そっと囁《ささや》く。
「そういや、昔からよくここで人が行方不明になるって聞いたぜ。聞いた時は気にもとめなかったけどよ……今は笑い飛ばす気分じゃねーや」
「ここはそういう場所なんだ。俺のエクシードでさえ、なにか妨害《ぼうがい》を受けてる。レニがふらふら歩き出した時、止めるべきだったな」
嘆息《たんそく》して、洞窟《どうくつ》の天井を仰《あお》ぐレイン。
しかしすぐに表情を改め、傭兵《ようへい》達にずばっと申し渡した。
「事情はわかったから、おまえ達は一足先に地上へ戻れ。ここはまだ二階層目だ。途中は掃除したし、ここからならまだ戻れるはずだ」
「いや……しかし仲間がまだ……」
「ハルトとやらのことなら、俺が見つけてきてやる。いいから戻るんだ。今すぐに!」
レインの断固《だんこ》とした口調に、傭兵《ようへい》達は絶句《ぜっく》していた。
――☆――☆――☆――
数分後、レインとセノアは、二人きりで暗い廃坑《はいこう》の中を歩いていた。無論、レニが一人で入ったという、坑道《こうどう》だ。
広場にいた傭兵《ようへい》達は、意外と素直《すなお》に元来た道を戻っていった。さぞかし揉めるだろうと思ったセノアの予想は、きっちり外《はず》れた。
トランターのグループも単独の中年|傭兵《ようへい》も、レインに言われるまでもなく、これ以上進む気が失せていたというのもあるだろう。しかし、トランター達は途中ではぐれた仲間を捜していたわけで、そのことも含めてレインに託してしまったというのは、このレインをよほど信頼したとしか思えない。……セノアが認識していた以上に、レインの名声(というか英雄譚《えいゆうたん》)は傭兵《ようへい》達の間にあまねく知られているようだ。
その割に彼らの誰一人として、最後までレインの名前を訊《き》かなかったのが不思議である。あの中年|傭兵《ようへい》はあるいは知っていたのかもしれないが、レインは一度も名乗らなかったし、トランター達は知らなかったはずなのだ。憧れの傭兵《ようへい》に出会えば、名前くらいは訊《き》くのが自然だろうに。
ただ一方で、彼らの気持ちもわからないではない。『知られざる天才剣士』などと呼ばれる伝説の戦士だけに、いつまでもそういう存在でいてほしかったのかもしれない。
ちらっと横目でレインを見る。
しかし主君は、厳しい表情でなにやら暗闇の向こうを見つめつつ歩いていた。ずっと遠くの、カンテラの灯りが届かない先を睨《にら》むように。お陰で、セノアは自分が恥ずかしくなった。
今は、昔話などに拘泥《こうでい》している時ではないのだった。
後ろめたさから、上擦《うわず》ったような声が出た。
「レニ殿のことだから、今頃は安全な場所に隠れているでしょう……まさか危険な目に遭《あ》っている可能性はありますまい」
実際、あのレニがわざわざ魔獣《まじゅう》に挑んでいくとは思えない。行方がわからないのが多少心配ではあるものの、怪我《けが》などするとは思えなかった。
レインもまた、頷《うなず》く。
「まあ……消えたのがおまえじゃなかったのは、不幸中の幸いってヤツかな」
これには気分を害した。
「私がレニ殿よりも頼りないと仰《おっしゃ》いますか!」
「そうは言わないが、レニとおまえじゃ戦闘《せんとう》経験値が全然違う。こんな場所で一人で放り出された時、どちらが危ないかは自明の理だろう。おまえはレニの実力をだいぶ低く見積もっているようだが、それくらいは認めてやってもいいんじゃないか?」
「まず初めにお断りしておきますが、私は別にレニ殿が嫌いな訳ではありません」
セノアはまずそこを強調しておいた。
「公平に見て、レニ殿が私より剣技の心得があるのは認めましょう。私も、朋輩《ほうばい》の訓練風景は見ていますから。しかし、あれだけ臆病な性格では、どのみち実戦で有効だとは思えませんぞ」
レインはすぐには答えず、ただ深々とため息をついた。
やや歩く速度を落とし、ふいに語り始める。
「そもそも、おまえはレニが弱気で臆病だと決めつけているようだが、それはなにをもってそう判断しているんだ?」
「普段のレニ殿を見ていたら、誰でもわかるでしょうに。将軍だってよくレニ殿に、『そこまで怯《おび》えるなよ』とか仰《おっしゃ》ってるではありませんか」
また嘆息《たんそく》する音。
「俺が本気じゃないのは、レニも俺もわかってんだって。俺のセリフをそのまま真《ま》に受けるなよ、おまえ。だいたいだなぁ――おまえはなにか、つまりエラそうに威張り腐っているヤツがいたら、そいつが無条件に強いとでも思ってんのか? んなわけないだろっ。心得があるならともかく、そうじゃない場合、人間一人の力量なんざそう大して差はない。つまり、同じ体格のヤツ同士が殴り合いの喧嘩《けんか》したら、大抵は引き分けに終わるんだ。もしくは、ラッキーパンチ一発で勝負がつく。両者の差なんて、ほとんどないわけだな。当然だ、同じ人間同士なんだから。ここまでは理解できるか?」
レインは、珍しく真面目《まじめ》な顔で長広舌《ちょうこうぜつ》を振るう。セノアは気圧《けお》されて思わず頷《うなず》いてしまった。
「なら、長々と説明しなくてもわかるだろう。やかましくて傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な態度のヤツは、大抵の場合はただ厚かましいだけだ。周りのもっと優しいヤツが、そいつに譲歩《じょうほ》しているだけのこと! 精神的に強いわけでも、肉体的に強いわけでもない。単に粗暴な性格で、他人に配慮する気がないだけなんだ。――いっとくが、俺のことじゃないぞコラ?」
ぎらんっと横目で睨《にら》まれ、セノアは慌《あわ》ててまた頷《うなず》く。実際、「それはご自分のことでは?」などと考えていたところなので、焦った。
「お、仰《おっしゃ》ることはわかりますが……」
「いや、おまえはわかってないね。レニを普段の印象で決めつける時点で、既《すで》に駄目の駄目駄目だ。日頃のレニの態度なんか、ドブにでも放り込んで忘れろ。人の真価は、非常の際に初めて発揮されるモンだ。いつものあいつは、優しすぎるだけのことだな」
「――でもっ。レニ殿は魔獣《まじゅう》が現れた時も、後ろでぶるぶる震えていましたぞ」
たまりかねて抗議《こうぎ》すると、ふふんと鼻で笑われた。
「ああ、そうだろうな。俺がいるからな。レニも安心して震えていられるわけだ」
セノアは、自分は公平な性格であると自負している。
なので、じっくりとレインの話を吟味《ぎんみ》してみたが、やはり納得《なっとく》するにはほど遠かった。
「……私には、よくわかりません」
「じゃあ、いつかわかるようになるまで、レニの件は保留しておけ。そのうちおまえにもわかる日がくるだろうから」
それよりほら、来たぞ!
いきなり言われ、セノアはぱっと前を見る。……声を失った。
あの集団は一体……なんだ?
ゆら〜りゆら〜りと身体を左右に動かしつつ、のろのろやってくる五体ほどの魔獣《まじゅう》……いや、これは魔獣《まじゅう》なのだろうか?
人間……に見えるが、着ている物も装備もボロボロである。おまけに、身体中が怪我《けが》だらけで腐敗《ふはい》した臭いが――
「あの人っ!」
セノアは先頭の一人を指差して叫んだ。
「内蔵がはみ出てますっ」
「……だから?」
レインにしれっと言われた。
「いや、『だから?』って。大変じゃないですかっ。てて、手当しないと!」
「普通だろ。何しろ、ヤツらは魔獣《まじゅう》は魔獣《まじゅう》でも、アンデッドなんだから。つまりはゾンビだな」
また足下にカンテラを置きつつ、セノアは喉《のど》の奥で悲鳴を押し殺す。
あれが……そうなのか。噂でしか聞いたことはないが、なんと――恐ろしい。それに、このたまらない臭い! 死臭なのはわかるが、アンデッドのそれは、さらにひどい臭いなのだ。
「アンデッドは、戦死者の多発した戦場とか、あるいは墓場に出没すると思っていました」
「……まあ半分は当たりだ。普通、こんな廃坑《はいこう》でウロウロすることはない――なっ」
最後の「なっ」という語尾《ごび》と同時に、レインが滑るように動く。アンデッド共《ども》が両手を振り上げて迎え撃ったが、まるで無駄《むだ》だった。ジュバッという音がしてレインが抜剣《ばっけん》、一閃《いっせん》した魔剣が二体のゾンビの首を同時に斬り飛ばす。
ぐらっと倒れるそいつらを見向きもせず、そのまま後列に突進、袈裟斬《けさぎ》りの斬撃《ざんげき》でさらに一体の頭を割る。さらに返す剣で、易々ともう一体の首を切断する。
たちまち四体が死滅してしまった……三秒もかかってない。
それはいいのだが、レインが豪快《ごうかい》に飛ばしたゾンビの頭がセノアの足下に飛んできた。濁《にご》ったゾンビの目が、恨めしそうにセノアを見上げてくれた。
「い、いやあっ」
これはさすがに堪《こら》えきれず、悲鳴が漏《も》れた。
「怖いのはわかるが、最後の一体くらいは、自分でなんとかしろっ。アンデッドは頭を破壊すれば死ぬ。――走れっ」
とうにパニックに陥《おちい》りかけていたセノアだが、レインの怒鳴《どな》り声は例によって卓越《たくえつ》した効果があった。なにか神秘的な力でも籠《こ》もっているんじゃないかと思うほどで、気付けば恐怖を振り払い、走り出している。
頭、頭を狙って切り払う……頭を狙って切り払う――
呪文のように心中で繰り返し、最後に残った一体に突っ込む。
接近すると、ゾンビが緩慢《かんまん》な動きで、セノアに抱きつくように腕を伸ばした。
『意外と力は強いぞっ。捕まる前に、剣で斬れっ』
背後からレインの叱声《しっせい》。
今回はセノアも落ち着いていた。
返事代わりに、間合いに入った瞬間、言われた通りに長剣を横殴りに叩き付ける。狙ったのはもちろん首筋で、思いっきり体重をかけた。
相手がとうに腐敗《ふはい》した死体だったからだろう、セノアの筋力でもかろうじて首を切り離すことが出来た。
イヤな体液が飛び散るのを見て、ささっと後退する。
「き、気持ち悪い……」
「そのうち慣れるさ」
レインが気楽にいい、何事もなかったように歩き出す。セノアは慌《あわ》ててカンテラを回収し、後を追った。
「先程《さきほど》、このような場所にアンデッドがいるのはおかしいと仰《おっしゃ》いましたね」
「言った。けどまあ、それを言うならこの廃坑《はいこう》自体がおかしいけどな」
「……というと?」
「おまえだって感じてるはずだぞ。この廃坑《はいこう》を歩いていると、妙《みょう》に不安な気持ちに陥《おちい》ったり、悪戯《いたずら》に恐怖心が増長《ぞうちょう》したりするだろうが」
セノアはまじまじとレインの横顔を見つめる。いつも通りの不敵な面構《つらがま》えで、どこをどう見ても不安そうには見えない。あたかも、自分の家でゆったりくつろいでいるようなのんびりした表情である。
「将軍は、全く平気そうですぞ」
「確かに俺は平気だが、この廃坑《はいこう》に人の感情を乱す歪《ゆが》みのようなものがあるのはわかる。昔からそうだったのかそれともそれが原因で廃坑《はいこう》になったのかは知らんが、エクシードの乱れからしてもそれくらいはわかるさ。――お、また下へ下りる穴があるな」
進んでいた坑道《こうどう》は行き止まりで、レインの言う通り下の階層へ下りる穴が空いている。例によって長い土段《つちだん》を下り、二人は下の階層へと至《いた》った。
再び歩き出したセノアは、人知れずほっとしていた。この廃坑《はいこう》に入ってからレインの前で無様《ぶざま》に怯《おび》えるところばかりを見せているが、それはどうも、自分の弱気のせいばかりでもないらしい。エクシードとやらがなにを指すのかは知らないが、この人がそう保証するからには、そうなのだろう。
「その歪《ゆが》みとやらに、レニ殿は惑《まど》わされたのでしょうか」
「そうかもしれないし、あるいは誘われたのかもしれない」
「……誘われた?」
「まー、俺にもまだはっきりとわかってるわけじゃないんだ。ただ、この廃坑《はいこう》の最深部に行けば、面白い物が見られるかもしれない――とは思っている。でもだいぶ邪魔《じゃま》が入りそうだな、この分だと」
謎のセリフと共に、シニカルに笑う。
セノアにはまるでわからないが、どうもレインは、この廃坑《はいこう》の謎に迫りつつあるらしい。少なくとも、なにか考えがあるのは間違いないようだ。
その辺をぜひとも訊《き》きたいところだが、はっきりしないうちは教えてくれない気がする。
しかしあきらめきれず、別方向から探りを入れてみた。
「ここが魔獣《まじゅう》の巣窟《そうくつ》になったのは、何者かの意志である――なんて仰《おっしゃ》るのじゃないでしょうね?」
レインは笑わなかった。
意味ありげな横目を使い、
「ほぉー、気付いたか?」
などと返す。
自分で持ちかけておいてなんだが、セノアは驚きのあまり足が止まりそうになった。
「本当に人為的《じんいてき》な仕業《しわざ》だというのですか……これが? 一体、誰が何のために!」
「俺も最初、そこが疑問だったんだが……段々、理由も見えてきたかな。ただ、理由がわかっても、まだ問題は残るけどな」
「――どのような問題でありましょう」
「そいつが俺達の敵か否かってことだ」
レインの返事は明確だった。
「ただどうも……向こうも同じことを考えている気がするなぁ、こりゃ」
「そこまでわかっているのなら、私にも事情を説明して――」
「話の途中で悪いが、気持ちを切り替えろ。また広場に出たようだぞ……しかも、今回待ち構えているのは、人間じゃないようだ」
レインに背後からついてくるように言われ、セノアは渋々従った。どうして、今まで通り並んで歩いたら駄目なのでしょうか、などとぶつぶつボヤきつつ、後ろからついていく。
行く手にはまた、ぼんやりした明かりが見えている。
レインはああ言ったものの――セノアが思うに、上の広場と同じく、カンテラ持参で何人かの傭兵《ようへい》が集まっているのではないだろうか。その明かりが漏《も》れている故《ゆえ》だろう。
ところが違った……全然違った。
突然|廃坑《はいこう》を抜けたと思ったら、複数の分岐《ぶんき》がある広場に出た。
ここまでは確かに同じだった――が。
村祭りが開けそうな広々とした空間の中心にいたのは、なんとでっかいドラゴンだった。
見た途端《とたん》、セノアは愕然《がくぜん》とした。
背びれのような突起が幾《いく》つも突き出た背中に、巨大な体躯《たいく》……全身が、硬そうな鱗状《うろこじょう》のもので覆われている。しかも魔法のオーラのようなぼおっとした光が、全身から滲《にじ》んでいるのである。
さっき見えた明かりは、これだったのだ。
立ち止まってしまったセノアを顧《かえり》みず、レインが相変わらずのぶらっとした足取りで広場に入る。
ドラゴンがゆっくりと首を巡《めぐ》らせて、こちらを見た……レインとセノアを。
血の色をした巨眼でじろっと睨《にら》みつけており、耳元まで張り裂《さ》けた口元から、ずらっと並ぶ牙《きば》が覗《のぞ》く。もはや、地鳴りのごとき呼吸音もはっきり聞こえる。
あの目つきを見るに、不埒《ふらち》な侵入者に対して良い感情は抱いていないらしい。
確かに、これぞ魔獣《まじゅう》だ……本物の魔獣《まじゅう》だ!
「まさか……こんな場所にドラゴンが……」
まだ動けないセノアが声を絞り出す。
あれほどの体躯《たいく》なのに、どうやってこの広場に侵入したのだ。今まで通ってきた坑道《こうどう》は、とてもじゃないが通れないはず。
痺《しび》れた頭でそんなことを考えていると、レインが振り返った。いつもの不敵な面構《つらがま》えで、ニヤッと笑う。
「そうか、見るのは初めてか。だけど、こいつはドラゴンはドラゴンでも、リトルドラゴンだぞ。そこまで驚くほどのモンじゃない」
あいにく、セノアはむちゃくちゃ驚いた。主君の語る蘊蓄《うんちく》にではなく、その傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な言いように。アレがこちらの言葉を理解していたら、どうするのだ!
というか、表情がわかりにくいが、いま巨眼が険悪に細められたような。
「将軍、本人というか本獣というか……当の敵を前にして、その言い方はないかと。しかし、この大きさでリトルドラゴンですか!」
詐欺《さぎ》ではないかと思う。
横に長いし太い尾を含めてのことだが、どう見ても五メートル以上の全長はあろう。横幅だけでも何メートルかありそうだ。
こんなのを相手に、自分の長剣が通用するとは思えない。
セノアが無意識のうちにじりっと後退すると、まるでそれを見ていたようにレインが言う。
「そうだ。今回、おまえは隅《すみ》で待機《たいき》していていい」
「な、何を仰《おっしゃ》いますか! 私だって戦うためにここへ来ているのです。無論、戦いますぞっ」
思わず出た強がりだが、応えたのはレインではなかった。なんとセノアに挑戦するかのように、当のドラゴンが吠えた。
長々と続く、挑戦の雄叫びを。
ずしんと響いた――などというなまっちょろい代物《しろもの》ではない。魔獣《まじゅう》の名が示す通り、その声には確かにある種の魔力が籠《こ》もっていた(と思う)。
魔獣《まじゅう》の雄叫びは飛来した矢雨《やあめ》のようにセノアの魂《たましい》に届き、一抹の勇気すらもどこぞに吹き飛ばしてくれた。
「……ひっ」
小さな悲鳴が漏《も》れて、ぞくっと身体が震えたが、それすらセノアは意識していなかったかもしれない。
本当に絶望的な力の差を感じると、人とはなんとモロいものか! 自分の意地《いじ》など、この程度のものだったのだ。
目の前に自然体で立つレインの黒影が、まるで奇跡のように思えた。吠え声が響き渡る中、ぴくりとも動かず、不動の壁のように突っ立っているのだ。
振り返ってかけてきた声も、ごくごく静かだった。
「ちょっとだけそこで待っていてくれ」
右手を無造作《むぞうさ》に振る。
と、隅《すみ》っこに立っていたセノアの周りに、ぼおっと輝く壁のようなものが出来た。これは……なにかの防護壁だろうか。
「しょ、将軍」
「すぐ済む、すぐ」
何を勘違《かんちが》いしたのか、レインは後ろ手に手を振ってセノアに応える。もっとも、セノア本人にも、レインを呼び止めようとした理由は判然としない。自然に漏《も》れてしまったのだ。
今やセノアは、文句も言わずレインを眺めていた。
レインは旧知の知り合いに近付くような顔つきで、すたすたとリトルドラゴンに近付いていく。
「よう! 妙《みょう》な所で出くわすじゃないか。ここは本当におまえの住処《すみか》かね。どう見ても違うよな? 誰かに召還《しょうかん》されたんじゃないのか」
ドラゴンは応えない。
ただすぐにも飛びかかれるようにか、巨躯《きょく》をやや低くして跳躍姿勢《ちょうやくしせい》を取っていた。なのに、まだレインは魔剣を抜いていない。どんどん接近してもはやドラゴンの眼前《がんぜん》にまで至《いた》ってからようやく止まる。
「魔法を使われた気配《けはい》がするな。俺には魔力の残滓《ざんし》が感じられるぞ」
思わせぶりな囁《ささや》き声。
「もうおまえにもわかっているはずだ。どうしたっておまえじゃ俺には勝てない。つまらん力試しで命を落とすのは馬鹿らしくないか……おまえもそう思うだろう?」
ところが、ドラゴンはそう思わなかったらしい。またしても地響きがしそうな吠え声を放ち、いきなりレインに向かって跳躍《ちょうやく》した。絶対に避けられそうもないタイミングで、しかも両者の距離は指呼《しこ》のうちにあった。しかしレインは驚くほど簡単に脇へ跳び、突進を避けている。
だが、この魔獣《まじゅう》は今までのどんなモンスターよりも素早かった。避けられるのを予測していたようにすぐに踏み止まり、かつ巨大な尾をぶんっと振る。
その風音がはっきり聞こえるほどだったが、レインはこれもまた避けた。今度は高々と舞い上がって一回転、広場の天井を片足で蹴《け》り、離れた場所にすたっと着地する。
最初よりずっと間合いをとったので、尾による再度の攻撃はない。それでもドラゴンは、ぱっとレインに向き直る。
次の瞬間、ごおっという妙《みょう》な音がした。
――セノアは突然、閃《ひらめ》いた。
シールドの内側から、金切り声を出す。
「将軍っ! これは多分、新たな攻撃ですぞっ。ブ、ブレスか何かが」
……全然遅かった。
喚《わめ》いている最中に、もうドラゴンはブレスを吐いていた。というか、多分そうなのだろう。一瞬目がくらんで、よくわからなかったのだ。
しかしどうなったかはすぐにわかった。
セノアにも見覚えのある、例の虹色の輝きがレインの黒影を覆い、ブレスを完全に遮断――いや吸収しつくしてすうっと消えた。
さしもの魔獣《まじゅう》がぎょっとしたように動きを止める。しかしそれも束の間だった。またもやごおっという音がして、間髪《かんぱつ》を入れず、今度は巨大な炎の固まりをぶわっと吐く。のたうちながら進む熱エネルギーは、いとも簡単にレインの身体を飲み込んでしまう。地面に弾けた高熱の余波《よは》がセノアの所にまで届き、頬《ほお》に熱を感じた。
「しょ、しょうぐ――」
また喚《わめ》きかけたセノアだが、ほっと胸を撫《な》で下ろす。
広場を埋め尽くすかと思われた炎はすぐにしゅるしゅると萎《しぼ》み消え、後にけろっと無傷で立つレインがいたからだ。
不埒《ふらち》なことにあくびなどしつつ、レインが言い聞かせる。
「……あいにくだが、熱線だろうが純粋な炎のブレスだろうが、魔力が元になっている限り、俺には効かん」
ややあってすうっと笑う。
かつてセノアが何度も見た、例の神をも恐れぬ笑い方だった。
「よもやとは思うが、おまえは本当に俺をどうにか出来ると思っていたのか? だとしたら、ここらで己《おのれ》の分《ぶん》を知っておいた方がいいぞ。仮にも龍の眷属《けんぞく》なら」
当たり前だが、ドラゴンはなにも答えなかった。しかし、どうもレインの言い草に対し、なにか感じるところがあったのは間違いないようだ。最初のように性急に飛びかかることはせず、頭を低くしてじっとレインの瞳を見つめている(ような気がする)。
喉《のど》の奥から唸《うな》り声が聞こえるのは相変わらずだが、これも当初から比べると随分《ずいぶん》と弱々しくなっているような。
そのうち、すっとレインが一歩進む。
下がりさえしなかったものの、ドラゴンは目に見えてびくっと震えた。慎重な歩みでさらにレインが一歩……今度はドラゴンも反応した。すなわち、自分も一歩下がったのだ。
シールドの内側で、セノアは驚嘆《きょうたん》した。
これは、どう見ても誤解しようがない。この魔獣《まじゅう》は確かに、レインに怯《おび》え始めているのだ。主君の言葉を借りれば、仮にもドラゴンの眷属《けんぞく》なのに!
しかし、レインその人の声はあくまでも静謐《せいひつ》である。別に威嚇《いかく》するような調子は微塵《みじん》もなかった。
「そうだ……じっとしてろ。そうすれば、俺がなんとかしてやる」
それは……どういうことだろう。
セノアの疑問をよそに、レインは既《すで》にドラゴンにあと数歩の地点まで来ている。
「そうそう、それでいい。別になにもしないから、そこを動くなよ」
ところがまさにその瞬間、ドラゴンは動いた。恐怖で我を失ったのか、もしくはなにか耐え難い衝動に突き動かされたのか――
とにかく、再度間合いに入っているレインに対し、一気に飛びかかった。
「わからんヤツだなっ。無駄《むだ》だ!」
咆哮《ほうこう》と同時に、レインは軽々と跳躍《ちょうやく》している。真上に跳んでその突進をやり過ごし、今度はなんと、ドラゴンの背中に着地。そこで片手を振り上げ、『何か』をしようとした。
しかし主君が何をしようとしたのか、セノアにはついにわからず仕舞《じま》いに終わった。というのもその刹那《せつな》、地響きを立ててドラゴンの足下が崩れたからだ。
しかも、瞬《またた》く間にざあっと広範囲にひび割れが広がり、一挙に崩れたのだ。
――ら、落盤《らくばん》!?
なんの予兆もなかったこの出来事に、それでもレインは反応していた。最後の瞬間、ためらいもなくまた跳ぼうしていた。膝を曲げて跳躍《ちょうやく》寸前なのを、セノアはちゃんと見ていた。崩れた岩盤と一緒に、ドラゴンは為す術もなく下の階層に落下しかけていたが、レイン本人は巻き込まれる気は毛頭ないらしい。
実際、余裕で安全圏に逃《のが》れられるタイミングであり、大声で警告しようとしていたセノアより、よほど早かった。
しかしその姿が――いや、ドラゴンをも含めた両者の姿が急速にぼやけていくのを見て、セノアは戦慄《せんりつ》した。
嘘よっ。気のせいに決まっているわ!
碧眼《へきがん》を瞬《またた》く。
いや待って……違う……気のせいじゃないっ。将軍の身体、向こう側が透けて見えている!!
抑制を失ったセノアは、思わず叫んだ。
「レ、レイン様っ」
「ちっ! やってくれたなっ」
レインはいつものごとく、さほど慌《あわ》てた様子は見せなかった。
自分に何が起こっているのかちゃんとわかっており、ただほんの少し予定が狂った――例えて言えば、そんな表情で舌打ちをした。
魔獣《まじゅう》と共に、もはや向こう側が透けて見えるような状態であるのに、セノアの方を見て指示を出すのも忘れなかった。
「心配はいらん! 俺に構わず、おまえは先に地上へもど」
主君の語尾《ごび》が消えた。
砂漠の蜃気楼《しんきろう》のように、その黒影が急速に薄れ、消えてしまったのだ。岩盤はまだ崩れている途中だったが、魔獣《まじゅう》もレインも下に落ちる前に消滅してしまった。
――セノアの目の前で!
――☆――☆――☆――
レインは完全に下の階層に落下する前にドラゴンの背中から跳ぼうとしていたし、実際それは簡単に成功するはずだった。下の階層へ落ちる前に、逃げられたはずなのだ。
しかし、自分の視界の中でセノアの姿が急速にぼやけていくのを見た時、レインはもはや離脱が遅きに失していたことを、認めざるを得なかった。
これは、あいつ(セノア)が消えつつあるんじゃない。
逆に、俺が消えようとしているんだ!?
「ちっ! やってくれたなっ」
エクシードを学んだレインには、その時の状況がある程度理解できたのだ。
もう声が届かない気もしたが、とっさにセノアに叫んでおく。
「心配はいらん! 俺に構わず、おまえは先に地上へもどっていろっ」
しかし、セノアが聞いたかどうかは怪しいものである。なぜなら、叫び終わる前に完全にセノアの姿が消え、かつ下の階層に落下しつつあったからだ。
――下の階層? いや、違うな。
ひらりと漆黒《しっこく》の闇の中に舞い降り、レインは唇を歪《ゆが》める。
自分の掌《てのひら》を目の前に持ってきてもなにも見えないという真の闇であり、普通はいま立っている場所がどこなのかなどわかるはずもない。
しかし、魔法以外にエクシードという超感覚を持つレインには、漆黒《しっこく》の闇といえどもさしたる障害にはならない。自分が立つ場所がやはり廃坑《はいこう》の中のどこかであること、にも関わらず、さっきまでいた広場の真下に落ちたわけじゃないこと、そのくらいは、はっきりわかっている。
ついでに――今の今まで争っていたリトルドラゴンが、跡形もなく消えていることも。あいつは別のどこかに飛ばされたらしく、現在この坑道《こうどう》にいるのはレイン一人だった。それと、落盤《らくばん》で生じた岩の欠片《かけら》が少々。……これがまた、有り得ないほど少ない。
なんとなく真上を見上げる。
エクシードの力を借りた視力で見ると、天井部分に落盤《らくばん》など起きた跡はない……全くない。単なる廃坑《はいこう》の岩盤があるだけだ。エクシードの見えざる手をさらに広げてみる。
しかし、これはやはり無理があった。ある程度までは探れるのだが、それ以上となるとなんらかの障害を受けて探れなくなる。
何者かが邪魔《じゃま》をしているせいかと当初は思ったが……あるいはこれは、この場所特有の事象《じしょう》なのかもしれない。
ただしレインは、部下のセノアと離されたのが偶然だとは思っていない。当然、そこには誰かの意志が働いている。その誰かがなんのつもりかは知らないが、この際は打っておいた布石に期待するしかない。
何しろ――
「……俺が帰れって言って、素直《すなお》に帰るタマじゃないからなぁ、あいつは」
言うまでもなく、セノアのことである。
悩みはするだろうが、結局あいつは先へ進むだろう。レインとレニを見つけるまでは、絶対に撤退などはしないはず。
とりあえず、いま出来ることは先へ進むことだけだ。
独り決めに頷《うなず》き、レインはさっさと歩き出す。カンテラの予備はあるのだが、使う気はない。レインにとっては、明かりがあってもどうせ大した差はないのである。いや、エクシードに頼る比重が大きい分、かえって肉眼より歩きやすい。
そんなわけでレインは何事もなかったように前進を再開する。
傲然《ごうぜん》と顎《あご》を上げ、鼻歌などを歌いながら――
変化はすぐにあった。
漆黒《しっこく》の闇の中に、冷たい緊張感が忍び寄るのを感じる。多分これは、普通の人間にとっては絶対的な力――いや、恐怖そのものであり、根源的な怯《おび》えに繋《つな》がるのだろう。
人は本能的に闇を恐れる。
それは、闇の中に目に見えない邪悪な「何か」を感じるからであり、気のせいだと思いつつも、怯《おび》えずにはいられないのだ。その「何か」に対して自分が無力なのを、理屈ではなく本能で悟っているが故《ゆえ》に。
そしてこの廃坑《はいこう》は、どこのどんな闇よりもタチが悪いようだ。侵入した者を、根源的な恐怖で怯《おび》えさせずにはおかないらしい。
いつの頃からか知らないが、ここは既《すで》に人間が入っていい場所ではなくなっているのだろう。
もちろんレインは、自分が全く怯《おび》えていないのを自覚している。念入りに自らの心を点検しても、恐怖の欠片《かけら》も見つけられない。遠い遠い昔、最大の恐怖を目の当たりにした時、確かにレインの中で何かが壊れてしまった。
(もはや俺は、普通人のように恐れることすら許されない)
レインは場違いな失笑を洩《も》らす。
永遠に続くと信じた優しい世界は、あの日あの時に壊れてしまった。守るべき大事な人は、遠い昔に殺された。
だから俺は、何も感じない。
感じるべき恐怖を、せいぜいプレッシャーとしてしか自覚することが出来ない。
ついさっきから廃坑《はいこう》の奥に大いなる力の波動を感じるが、それもまたレインの静かな闘争心を喚起させる役にしか立たない。
人としてはともかく、戦士としては喜ぶべきことなのだろう。常に冷静であることこそが、戦いにおける鉄則なのだから。
「誰かいるな?」
やっと鼻歌を止め、レインはそっと声に出す。
最後の点検のつもりだったが、やはり声にも動揺《どうよう》はない。今この瞬間に魔剣を抜いても、存分に戦えるだろう。
「感じるぞ……奥に感じる。おまえは誰だ、えっ? この濃密《のうみつ》な力の波動……どうやら、ただのネズミじゃないな。待っていろよ、すぐにおまえの面《つら》を拝んでやるからな」
既《すで》に前方にはうっすらと光が見える。
またしてもどこかの広場に出るようだが、しかしあの光は、カンテラの灯りではない。それは誰かの魔力のオーラそのものであり、さっきから感じていたプレッシャーの源《みなもと》なのだ。暗闇の中で、レインの口元が少しずつ綻《ほころ》ぶ。
無数の敵を歯軋《はぎし》りさせてきたふてぶてしい笑いが、いつの間にか精悍《せいかん》な顔一杯に広がっている。
――どうやらこいつは手強《てごわ》そうだ。
だが、少なくとも俺の心に恐れはない。戦う用意はいつだって出来ている。
確かな足取りで、レインは新たに見つけた広場に入った。
そいつは、広場の中心にいた。
見渡す限り、他には誰もおらず、何もない。黒いマントを羽織《はお》った男がたった一人だけ、こちらに背を向けて立っている。
レインがズカズカと中に踏み込むと、彼はそれを待っていたかのように振り向いた。
なるほど、大いなる力の波動をビンビン感じるはずである。片目を隠すほど長い前髪は鮮《あざ》やかな銀色……さらに、闇よりも深い瞳がレインを見据《みす》える。
親しいとはお世辞《せじ》にも言えないが、少なくとも知人ではある。
相手は人間じゃないが。
機先を制して、レインは先にひょいと片手を上げた。
「よう。妙《みょう》な所で会うじゃないか、レイグル」
相手は、ふっと凍てついた笑みを見せた。
「おまえを待っていた、レイン」
レインはリラックスした態度で宿敵の前まで歩き、その眼前《がんぜん》で立ち止まった。特に緊張感もなく、白い歯を見せる。
「こういう場合、握手は無用だろうな」
「当然だな。しかし、剣を抜くにはまだ早い」
「そうか?」
ちょっと肩をすくめる。
「俺達の間で、他に何をすることがある? おまえ、ちょっとは世間体《せけんてい》を考えた方がいいぞ」
レイグルの冷徹《れいてつ》な表情は揺《ゆ》るぎはしなかったが、それでも少し目を細めた。妙《みょう》なことを言うヤツだと思ったのだろう。
「わからんのなら教えてやるが……俺達みたいな美形二人がだな、こういう人気《ひとけ》のない場所で密《ひそ》かに会合を持つってのは、誤解を招きやすいんだぞ。それともおまえ、そんな趣味があるのか。なら早めにそう言ってくれ。もう少し距離を開けるから」
「……俺はともかく、おまえが美形かどうかは微妙だと思うが」
予想と違い、平然と言い返されてしまった。
今度|沈黙《ちんもく》するのは、レインの番である。
どう言い返してやるかみっちり考えていると、レイグルがあっさりと話を戻してしまった。
「それより、俺はおまえと一度話したいと思っていた」
「お話ねぇ……」
顎《あご》を撫《な》でつつ、レインはじろじろとレイグルを見やる。
「まあ、大サービスで聞いてやるよ。ただし、降伏勧告以外な」
違う、とレイグルは小さく首を振る。
神秘的な瞳を向けたまま、静かに問う。
「自分の存在は、世界の運命を変えるかもしれない――そう考えたことはないか、レイン」
「ないな、そんなの。俺はそこまで自惚《うぬぼ》れちゃいない」
即答である。
「だとしたら、自らの力を侮《あなど》りすぎだ。おまえがサンクワールに来て以来、あの国の運命を何度変えた? 一度や二度ではないぞ。おまえがいなければ、あの国はザーマイン侵攻以前に、ルナンに滅ぼされていたはずだ」
「それはどうかな。確かにほとんどの将軍は全然大したことないが、少なくともラルファスはそう簡単に倒せる相手じゃないぞ。いくら、ルナンの方が軍事的優位にあったとはいえ」
「だが、事実はそうなのだ。滅びる運命にあった」
やたらと自信ありげな断言口調で、レイグルは言い切る。
「言うまでもなく、それは俺も同じだ。俺がザーマインに来なければ、あの国も今のような在《あ》り方ではなかっただろう」
「それについて異存はない。なら話は簡単じゃないか。王位を退《しりぞ》き、引退して田舎にでも籠《こ》もったらどうだ、戦友。なに、おまえほどの才覚があれば、漁師でも木こりでもやれるさ。老後の不安があるなら、俺が勤め先を紹介してやってもいい」
レインは完璧に本気の口調だった。
「それで全てが解決する。俺の役目もなくなり、あのチビの王位も安定し、ラルファスの気苦労もなくなる。みんながハッピーになれるんだぜ」
「おまえが身を引く方が、遙《はる》かに平和に近付くかもしれないぞ」
「厚かましいヤツだな、おまえ。自分からガンガン攻めておいて、俺が悪いってか? ぶん殴っておいて、さらに金まで強請《ゆす》り取るようなモンだろ」
レイグルはじっとレインを見た。
「まだ誰にも話したことはないが、俺が戦う目的が、破壊と征服以外にあるとしたらどうだ」
さしものレインも、これには虚《きょ》を突かれた。自分とほぼ同じ高さにある真っ黒な瞳を、数秒ほど見据《みす》える。
「……これまで散々、破壊と征服を繰り返してきた男が、今更《いまさら》なにを言う。さっさと俺に占領させたら平和になるとか、そういう寝言を言いたいのか?」
「少し違うが、まあ似たようなものだ。今のザーマインの国力を持ってすれば、大陸統一はそう遠い先の話ではない。その後に平和が訪れるのなら、それもいいとは思わんか?」
「全く思わんな」
レイグルは、きっぱり否定したレインを無視した。
「だが、おまえがいるとなると話は別だ。おそらくは、おまえのみが俺を止めることができる。逆に言えば、おまえの存在こそが、戦《いくさ》を長引かせる要因なんだ」
レインは喉《のど》の奥で唸《うな》った。
随分《ずいぶん》と厚かましい話もあったものだ。
「おまえはなにか? 他人様の家にズカズカ侵入しておいて、それを誰かが止めようとしたら『おまえが邪魔《じゃま》さえしなけりゃ、俺はここだけで満足したんだ』とか堂々と吐《ぬ》かすわけか」
「的確な表現ではないが、それに近いかもしれんな」
レイグルはしれっと言い切ってくれた。
「……おまえ、俺のことをなめてないか」
「いいや、むしろ逆だな。高く評価しているからこそ、おまえと話した方がいいと思った。冷静になってよく考えてみろ、レイン。僅《わず》かな犠牲で大陸が統一され、平和が成るなら、それこそが正しい道ではないのか」
レインは笑った。
ただし、好意的な笑みにはほど遠い。
「後学のために聞かせてくれ、レイグル。おまえの言う『僅《わず》かな犠牲』ってのは、どのくらいを指すんだ? 戦死するのが総人口の半分以下なら、僅《わず》かな犠牲になるのか。それとも、三分の一くらいまでが受容範囲なわけか。あるいは四分の一までか?」
「……これは冗談ごとではないぞ」
「先に数の論理を持ち出したのは、おまえの方だろうが。俺はおまえの受容範囲を訊《き》いただけのことだ」
すっかり笑みを消し、レイグルをまっすぐに見る。
「なにか勘違《かんちが》いしてないか、おい。俺が戦っているのは、なにも世界平和のためじゃない。そんな力が自分にあると自惚《うぬぼ》れたことはないし、そもそも人間がいる限り、恒久的な平和など有り得んと思うぞ」
「その意見に賛成する気はないが、ならば問おう。おまえは一体、なんのために戦っているんだ」
「自分の守りたいヤツを守る――ただそれだけのために戦っている。おまえはわかっていると思ってたがな」
常に冷徹《れいてつ》な仮面を纏《まと》ったようなレイグルの表情が、いま初めていらだちを見せていた。
「いいや、わからないしわかりたいとも思わん。力には責任が伴《ともな》う。おまえはそれだけの力を持ちながら、そんな個人的な理由で戦っているというのか。世界を救うためにではなく、ただ誰かを守るために戦うと?」
「まー、そうだ。いやぁ、改めて他人から言われると、ちょっと馬鹿みたいだな」
のほほんとしたレインの言い草に、レイグルは信じがたいものを見るような目をした。
「正気か? そのために多くの国を敵に回し、魔族とすら敵対するのか」
「改めて言われるまでもない。おまえ、俺を色々と見くびりすぎだ。救世主の真似《まね》事をする気がない代わりに――」
凪いだ水面のように静かな声音《こわね》で、レインは答える。
「俺はいざとなれば、全世界を敵に回す覚悟が出来ている。どこから来た何様か知らんが、おまえの方はどうなんだ。くだらん質問をする前に、おまえには俺と同様の覚悟があるのか?」
返ってきたのは沈黙《ちんもく》である。
珍しく饒舌《じょうぜつ》だったレイグルは、もはや何も語らずに眉根《まゆね》を寄せていた。
「覚悟がないなら、言葉で俺を説得しようなどと思うな。小の犠牲を以《もっ》て大を救う? だから手を引けだ? そういうのを小賢《こざか》しい理屈という! 世界を救いたいならまずは自分が動けよっ」
ずしゃっと魔剣を抜いたレインを見て、レイグルは一歩下がった。
「戦いに来たのではないと告げたはずだ」
「最初から人を騙そうとするヤツにそう言われてもな。信じるのは無理ってモンだろ」
瞳を見開いたレイグルに、レインはニヤッと笑ってみせた。
「だから言っただろ、俺を見くびるなと!」
レインの踏み込みと斬撃《ざんげき》は、全く同時だった。一瞬のうちに間合いに入り、レイグルの胴を薙《な》ぐ。
しかし、もはや敵の姿はない。
レイグルは消え、魔剣は何もない虚空《こくう》を切り裂いただけに終わった。
もはやレインは、空っぽの広場に一人で立っていた。
――☆――☆――☆――
セノアの身体を覆っていたシールドは、まるで地崩れが収まるのを待っていたように、ふっと消えた。
「将軍っ」
まだ落盤《らくばん》の危険は残っていたが、セノアは構わず走り出す。広場の中央にぽっかりと出来た穴の縁に立ち、カンテラで下を照らしてみる。
……ずきんと胸に来た。
レインがいない……いや、レインどころかリトルドラゴンもいない。さらに言うなら、落下したはずの大量の土砂も全く見あたらない。穴の下には、他と同じ陰気な坑道《こうどう》があるだけだった。
「これは……どういうことだ」
呆然《ぼうぜん》と下を見つめたまま、セノアは呻《うめ》く。
主君もドラゴンも土砂も、全部まとめて消えてしまった。そんな馬鹿な! どこへ消えたというのだ。下には坑道《こうどう》しかないのにっ。
信じられぬ思いで、何度も主君を呼ぶ。
「将軍、返事をしてください! 将軍っ」
――答えはない。
「将軍! いえ、レイン様っ。どこにいるんですか、レイン様っ」
いつの間にか、こっそり胸の内で使っていた呼称を連呼《れんこ》していたが、返事がないのは同じだった。声が枯れるまで呼び続け、やっとセノアは理解した。
あの人は本当に消えてしまった。とにかく、下の階層に落ちたわけではないらしい。
「ど、どうしよう……どうすればいい……」
まっすぐ伸びた長い金髪をかきあげ、セノアは穴の周りをうろうろと歩き回る。自分がたった一人で廃坑《はいこう》内に取り残されているのを、強烈に意識し出した。今にもどこかから魔獣《まじゅう》が現れるかもしれないのだ。
こういう場合、主君に忠誠を誓う騎士としては、成すべきことは決まっている。
すなわちレインの最後の命令に従い、この呪われた廃坑《はいこう》からさっさと退去するのである。どうせ自分には何も出来ないのだから。
だがセノアは唇を噛《か》んだだけで、相変わらず穴の周りを歩くのを止めない。ドキドキする胸を押さえ、もう一度下を覗《のぞ》く。
このくらいの高さなら、回り道するよりも下へ飛び降りた方が早いだろう……もちろん、そうすることはレインの命令を無視することでもあるが。
「で、でもっ。こういう場合は例外じゃないかしら。お母様だって、心に決めた殿方を見捨てちゃいけませんていつも言ってらして――て、ああっ、私は何を言ってるのだっ。もうっ」
どんどんっ、と足を踏み鳴らす。
レニも確かに心配だが、レインが自分の眼前《がんぜん》でどこかに消えてしまったのは、セノアに深刻《しんこく》なショックをもたらした。
セノアにとってのレインとは、常に大岩のごとく不動の存在なのだった。こんな風にふっと消えてもらったりしては困るのである。
探さねばっ、と思った。
レインともあろう者が危地《きち》に陥《おちい》ったとはとても思えないし、あるいは黙って指示に従うのが筋かもしれないが、セノアはなんとしてもそうしたくなかった。嫌《いや》だといったら嫌《いや》なのだ。
考えてみれば、悩むだけ無駄《むだ》である。どのみち私の心は決まっているのだから。
「……将軍なら、こんな時にどう仰《おっしゃ》るだろう」
ぴたっと立ち止まり、セノアは唇を舐めた。
――多分、こんなセリフを吐くに違いない。
『命令無視、上等!』
一声叫び、思い切りよく下へ飛び降りた。
――そして、下で蹴躓《けつまず》いてコケた。
「い、痛いっ」
尻餅《しりもち》までついてしまい、お尻がめっぽう痛い。それでもカンテラを手放さなかったのは、我ながら上出来だった。
痛みを堪《こら》えてさっと立ち上がり、カンテラの灯りを四方八方に向ける。今のところは誰もいない……ただ暗い坑道《こうどう》が延びているだけだ。見上げれば、飛び降りたばかりの落盤《らくばん》の穴が、そのまま残っていた。つまり、セノアはレインのように消えたりはしていない。
「でも、この坑道《こうどう》のどこかにおられるのは間違いない――はず。お探しして、合流しないと。なんとかして見つけないと」
ガクガクする足を叱咤《しった》しながら、セノアは歩き出す。何の根拠もないが、「こちらが奥」だろうと思う方向に向けて。
ただ、勇んだ行軍にはほど遠く、手にした命綱《いのちづな》(カンテラ)を前に向け、あるいは後ろに向け、四方八方に気を配りながらである。
一人になって、否応《いやおう》なくここが地下世界であることを思い出した。何しろ、自分の息づかいと足音以外、ほぼ何も聞こえないのだ。地上にいる時には、ここまでの静寂《せいじゃく》はまず絶対に望めない。まさに、耳が痛くなるほどの静けさである。
そして、他にも意識せずにはおれないことがある。それは、じわじわと心に忍び寄る、恐怖心だ。こればかりはいつもの強がりでどうにかなるものではなかった。少しでも気を抜くと、すぐに足下から背筋へかけてさあっと震えが走る。いたたまれなくなり、何もかも投げ出して安全な外に向かって走り出したくなる。事実、レイン達を見つけるという強固な目的がなければ、セノアはとうにそうしていただろう。
あの人は、怖じ気づくのはおまえの弱気のせいじゃない、と教えてくれた。
今ならセノアにもなんとなくわかる。
この場所だ、場所のせいなのだ……魔獣《まじゅう》の巣窟《そうくつ》という以前に、ここには人を忌避《きひ》する何かがある。人間が来るべき場所ではないという気がしてならない。
それでも、主君を見つけるまではなんとしても――
ザッザッザッ
闇の奥で物音がした。
ぎくん、とセノアの身体が強張る。
足を止めて耳をすます。
空耳であれかしと祈ったが、それは甘い期待だった。……聞こえる、確かに前方に何かがいる。
ど、どうしようどうしよう。戦うべきか、それとも逃げるべきだろうか。
戦うといっても、主君もレニもいない今、私一人で撃退可能かどうか。
――などとセノアがおたおたしているうちに、音はどんどん大きくなってきた。足音の大きさと響き具合からして、相手が人間以外の何かなのは確かである。今や地鳴りを思わせるような派手な音まで聞こえる。
これは……もしかして呼吸音だろうか。
ぞっとして、カンテラを思いっきり前に突き出す。目を細めて奥を見ると、微《かす》かに敵の姿が見えた。輪郭を見る限り、トラを一回り大きくして、鋭い牙《きば》を付けたような生き物だった。のそのそと四つ足で歩いている。
――実は割と有名な魔獣《まじゅう》なのだが、あいにくセノアは名前を知らない。
向こうはセノアをとうに見つけていたらしく、ドスドスドスッと足を速める気配《けはい》。
ごくっとセノアの喉《のど》が鳴る。
地響きが足下にまで伝わり、明らかに敵が迫っているのがわかる。目的はセノアに間違いない。
とりあえず腰の剣に手をかけたが、すぐに手を放した。
どうしようどうしようどうし――
「グォオオオオ!」
図らずも、獰猛《どうもう》な吠え声がセノアの決心を促した。
「に、逃げるのは恥じゃないと、将軍も仰《おっしゃ》ったわ!」
回れ右して、セノアは逃げた。
何も考えずに思いっきり走った。
背後で派手な音がする。魔獣《まじゅう》が、所々で坑道《こうどう》に身体をぶつけつつ、追撃してくるのがわかった。しゃにむにセノアに追いつこうとしているわけで、むちゃくちゃ怖い。捕まったら最後、頭から丸ごと食われそうな気がする。
声を限りに悲鳴を上げながら走り、自分が落ちた落盤《らくばん》跡の下を瞬《またた》く間に通り過ぎた。背後の足音は止《や》まない。それどころかどんどん距離が詰まっている気がする。勇気を出して振り向くと、魔獣《まじゅう》のでっかい目とモロに視線が合った。もう十メートルもない! このままじゃ、絶対に追いつかれる!!
そう思った途端《とたん》、セノアの中で何かがぷつっと切れた。発憤《はっぷん》したというより、ヤケクソを起こしたという方が正確だろう。
いきなり走るのを止めて振り返った。
「いやぁーーーーーーっ!」
カンテラを放り出して抜剣《ばっけん》し、すぐそこまで来ていた魔獣《まじゅう》に、逆に襲いかかった。
驚いた魔獣《まじゅう》が急停止したが、もう間に合わない。タイミングがあまりに良かったため、避けきれずにモロに攻撃を受けた。厚い毛皮を貫《つらぬ》いて肩口にぶすっと刺さった。
ただし、致命傷《ちめいしょう》とまではいかない。
怒り狂った魔獣《まじゅう》は身体を一振りし、あっさりとセノアを振り飛ばした。
「――! きゃっ」
数メートルも飛ばされ、セノアは背中から岩壁にぶち当たり、呻《うめ》く。痛みで涙が滲《にじ》んだ。必死に起きあがろうとするが、身体が痺《しび》れていて言うことを聞かない。
パリパリパリッ
魔獣《まじゅう》の全身から、ライトニングの魔法にも似た青白い雷光《らいこう》が無数に生じていた。お陰で、坑道《こうどう》内が真昼のように明るくなっている。
動こうともがくセノアの前で、魔獣《まじゅう》は特大の雄叫びを一声上げる。
途端《とたん》に、全身の雷光《らいこう》がぶわっと巨大化し、なんとセノアに向かって放出された。
『――将軍っ』
完全にあきらめたセノアが目を閉じようとしたその時――
何か黒い影が背後から駆け抜け、セノアの前に立ち塞《ふさ》がった。
「わああああああああああっ」
バリバリバリッ
聞き覚えのある半泣きの悲鳴と、魔獣《まじゅう》の放った雷光《らいこう》が爆着するのが同時だった。セノアに当たるはずだったその攻撃を、そいつはモロに食らった。
「ああああー、死ぬぅぅぅううう痛い痛い痛いいいいいっ! もう死ぬ今死ぬううううぅぅ……てアレ」
バタバタ暴れながら悲鳴を上げていた彼が、突然動きを止めた。雷光《らいこう》のせいで影絵のようになっているが、どうも首を傾げているような。
というか、とんでもない魔法攻撃を食らったのに、全然効いてない。リトルドラゴンとの戦いの時、セノアが守られていたマジックシールドのようなものが、彼の周りを覆っている!
そろそろと彼が振り向く……つまり、レニが。
「僕、いつの間にマジックシールドなんか張れるようになったんだろう」
「……いや……私に訊《き》かれても」
セノアとしても返事に困るというものである。
「そうだよねぇ」
「レ、レニ殿、後ろっ」
セノアが警告したが、レニはちゃんと反応した。
落ち着きを取り戻したのだ。
魔法攻撃が効かないと見て突っ込んできた魔獣《まじゅう》に向かい、既《すで》に双剣《そうけん》を抜き、身構えている。
「――はっ!」
最初の一撃で魔獣《まじゅう》の喉《のど》をかき斬り、続く左手の第二撃で胴体に剣を突き刺す。
低く呻《うめ》いて魔獣《まじゅう》がどうっと横倒しに倒れた。
しばらく痙攣《けいれん》していたが、もう起きあがっては来なかった。
「ふう……た、助かったぁ……」
魔獣《まじゅう》の死を確かめ後、へなへなへな〜っとレニがへたり込んだ。
少し休んでから、セノアは落としたカンテラを回収した。
魔獣《まじゅう》の死骸を前に、レニと情報交換することにする。しかし、レニの情報に特に目新しい事柄はなかった。
「つまりさ、何かに呼ばれた気がしてあの坑道《こうどう》に入ったんだけど、気がついたら戻れなくなってたんだよね」
「戻れない……とは?」
「いや、文字通りの意味」
レニは両手を広げる。
「空気がふっと揺らいだ気がしたと思ったら、もう戻れなくなっていたな。まだ何メートルも進んでなかったのに、振り返ったら広場の入り口が見えなくなっていて」
「――まるで、別の場所に飛ばされたみたいってこと?」
そうそう、とレニが頷《うなず》く。
「それで、仕方なくどんどん歩いていたら、そのうちセノアさんの声が聞こえてきてさ」
「そうか……」
レニは控えめに言ってくれてるが、さぞかし情けない悲鳴が聞こえたのだろう。
「となると、将軍もどこかに飛ばされたと考えるべきなんだろうな」
「え、将軍がどうしたって? そういや姿が見えないけど、どこかで昼寝でも?」
「……普通、主君が見当たらないと真っ先に尋ねないだろうか? レニ殿はのんきすぎ――」
いつものように詰問しかけ、セノアは唐突《とうとつ》に俯《うつむ》いた。
一番のんきなのはこの私だ……不甲斐《ふがい》なさと恥ずかしさに、頬《ほお》が熱くなった。
まっすぐレニに向き直り、自分から頭を下げる。
せめて謝らねば。
「すまない……どうも私は、貴方《あなた》を誤解していたようだ。将軍の仰《おっしゃ》る通り、私は貴方《あなた》の上辺《うわべ》だけしか見ていなかった……」
「ど、どうしたのさ、セノアさん。なんか僕、かえって怖いんだけど」
言葉通り、レニはざざっと後退していた。
随分《ずいぶん》なオーバーアクションだが、レニに限ってはわざとではあるまい。
「なんでもいいから、私を許してほしい。これまで何度も臆病者呼ばわりしたが、それも含めて申し訳なく思う。この通りだ」
「謝る必要なんかないって。本当に僕は臆病なんだから。自分で自覚しているし、みんなも知っている。セノアさんは正しいよ」
「……みんなじゃない」
「え?」
「だから、みんなじゃないわ。将軍は、貴方《あなた》を臆病だとは思っていない。人の真価は、非常の際に初めて発揮されるもの――さっき、そう仰《おっしゃ》っていた。私と違って表面だけではなく、本当のレニ殿をしっかり見ていたのだ」
レニは困ったような顔で頭をかいていた。
ひどく照れた様子でしきりに首を振り、
「いや、やっぱり僕は臆病なんだと思うよ。でも将軍は」
「……将軍は?」
「あの人はなんていうか……不思議な人だよね。最初に会った時から、見かけ通りの人じゃないとは思ってたけど」
レニはなんだか遠い目をして微笑んでいた。
おそらく、昔のレインとのやりとりでも思い出しているのだろう。
「――レニ殿」
セノアは、ぶっきらぼうに手を出す。
「え? なにか」
「その……あ、握手してほしい。これまでのお詫びと、それから」
どう言葉にしていいかわからず、セノアが言葉を切ると、レニが笑って手を握ってくれた。力強く、上下にぶんぶん振る。
「これからもよろしく、ご同輩」
「う、うん。よろしく……本当によろしく頼む」
――☆――☆――☆――
和解したレニと相談した結果、やはりレインを探すことにした。レニはどちらかというと「外で待った方が」という意見だったが、セノアが押し切った。
二人ともレインに限っては大丈夫だと確信しており、それなら外で待っていてもいいわけだが、セノアは自分でレインを見つけたかったのである。
「それだけどさ、ほんっとに将軍が消えたところを見たの?」
行軍を再開した途端《とたん》、レニが訊《き》く。
「こんなことで嘘などついてなんになる? 本当だとも。それどころか、大量の土砂とドラゴンも一緒くたに消えてしまった。ちょうど下を通る。ほら、私はここから落ちたのだ」
問題の落盤《らくばん》があった場所に来て、セノアは坑道《こうどう》の上を指差す。小石の一つも落ちてないので気付きにくいが、上を見れば確かに穴が開いたままである。
レニが立ち止まり、見上げて唸《うな》った。
「うわー。確かにこれは……穴が開いて間がないように見えるなぁ。穴の縁が真新しいや」
「当然だ。私はそれより、レニ殿が魔獣《まじゅう》の攻撃をシールドで防いだ方が驚きだ。本当は魔法が使えるのではないか?」
「使えない使えない……僕は魔法なんかに全然全く無縁だよ」
笑って手を振り、レニは歩き出す。
「さっきの魔獣《まじゅう》は雷獣《らいじゅう》だと思うけど、本来、あいつに魔法で先制されたら、僕じゃお手上げだったはずなんだ。せいぜいが、避けるか逃げるかするしか手がないんだね」
……しかしレニは逃げようとせず、セノアをかばう方を選んだわけである。セノアとしてはレニを弱虫扱いしていた数時間前の自分を、殴り飛ばしたい気分だった。
落ち込んだセノアを見て、レニはちょっと焦った顔になった。
「いやっ。無事だったから何の文句もないんだけど。まあなんであんなのが出たのかは謎で――」
ふっとレニが口を閉ざす。
「……どうされた?」
「そうか! 僕は本当に鈍《にぶ》いなっ。付き合いが長いのに、全然気付かなかった。当然、それくらいは考えているはずなんだ」
「なんの話だ?」
レニは瞳を瞬《またた》く。
「あー……いや。確信あるわけじゃないけどね。とりあえず、今は保留しとく。外《はず》れてたら恥ずかしいし」
「なんなのだ、それは」
勝手に盛り上がり、勝手に保留されてしまった。先程《さきほど》の一件がなければ、セノアは断固《だんこ》として追求したろう。しかし今はさすがに、レニに対して遠慮があった。……まあ、いつまでも続く遠慮ではないにせよ。
「まあまあ、セノアさん。そう渋い顔をせずに。とにかく、今は最深部に行くことを考えようよ。将軍のことだから、どうせそこに来てるだろうし。万一僕らが先に着いたら、待ってたらいいしね」
「うむ。逃げた傭兵《ようへい》とやらも、途中で見つかるといいのだが」
セノアとレニは、心持ち足を速めた。
途中、レニはレインがやっていた役を引き継ぎ、率先《そっせん》して魔獣《まじゅう》と戦ってくれた。消える前と違い、セノアをかばって自分から魔獣《まじゅう》を倒す方に回ったのだ。時にセノアも多少は手助けしたが、ほとんどはレニの手柄《てがら》だったのは間違いない。
あいつは俺がいるから安心してるだけだ、と評したレインのセリフは、ここでも当たっていたわけである。
そしてさらに何十分かをかけて二階層分を下りた二人は、ついにこの廃坑《はいこう》の最深部に辿り着いた。
といっても、セノア達が「ここが終点」だと知っていたわけではない。
歩いていたら例によってどこかの広場に出て、その広場の真ん中に見覚えのある少年が立っていたのである。そう、入り口で会ったメルキュールである。
彼はセノア達を見るとくすっと笑い、ちょっとお辞儀などした。
「ようこそ皆さん。ここがこの坑道《こうどう》の終点です」
セノアはレニと顔を見合わせた。
……終点と言うが彼の背後、つまり広場の向かい側には、一カ所だけ新たな坑道《こうどう》が口を開けている。つまり、少なくともまだ先があるのだ。ちなみに、この広場はそことセノア達がやってきた道以外に、出口はない。二カ所だけである。
「メルキュール……だったな? 一体、どうやって我々の先回りをしたのだ」
セノアが首を傾げると、メルキュールは感じよく微笑んだ。
「ああ。この坑道《こうどう》内は皆さんが思うより遙《はる》かに分岐《ぶんき》が多いのですよ。お二人だって、途中で幾《いく》つも分岐《ぶんき》を見たでしょう? あなた方が通った道が最短距離、というわけじゃないのです」
セノアはまた、ちらっと朋輩《ほうばい》と視線を交わす。
「なるほど……貴方《あなた》はこの辺りに詳しかったな。しかし、なんでまた我々の先回りなどする」
「いえ、実は外で皆さんをお待ちしていたけど、いつまで経っても戻ってこないし、これはもう、迎えに行った方がいいかと思いまして。短い時間とはいえ皆さんとは話し合ったりしましたし、放っておけなくて」
よく見ると、メルキュールは最初に会った時とは違い、右手に銀色をした長い棒のような物を持っていた。まさか武器ではあるまいから、おそらく杖のつもりなのだろう。実際、その棒に寄りかかるように話している。
「最短距離でここまで下りて、それから少しずつ上に向かって探していくつもりだったのです。でも、ちょうど良かった。ここでお会い出来ましたね」
「なるほど……」
セノアはとまどいながら頷《うなず》いた。
首を傾げたくなる部分もあるが、全体としてはわからないでもない。少なくとも、理屈は通っている。通っているが――
「しかし……貴方《あなた》の後ろにはまだ先があるようだ。我々は主君とはぐれてしまったので、合流する意味でも先へ進みたいのだが」
「ああ、この先は百メートルほど行くと行き止まりなのです。レインさんのことでしたら、お二人を外に連れだした後、僕がまた探してみましょう」
「いや、そういうわけにはいかぬ。自分達の主君は自分達で探さねば」
というか、そもそも逃げた傭兵《ようへい》を保護する任務も残っているのだった。口べたなセノアはどう説明していいのか困り、レニを見上げた。
と、珍しく難しい顔つきをしたレニが尋ねた。
「……魔獣《まじゅう》を放っていた張本人は、君だね」
――沈黙《ちんもく》。
メルキュールはおろか、セノアも絶句《ぜっく》してしまった。急に何を言い出すのだ、この人は。
少年も秀麗《しゅうれい》な顔にゆっくりと苦笑を広げた。
「なぜそんなことを?」
「いや、実はだいぶ当てずっぽうなんだけどね」
レニが困ったように笑う。
「でも、返事が少し遅れたよね、今」
「それは驚いたからで」
返事を待たずにレニが続ける。
「最初から、おかしいと思うことは幾《いく》つもあったんだ。例えば、こういう場所だからある程度仕方ないとはいえ、君が将軍の意表《いひょう》を突いたこととか。ただのバイト少年に出来ることじゃない。あと、魔獣《まじゅう》達の攻撃が少し手ぬるいのもおかしいし」
「待ってくれ、レニ殿」
セノアはたまらず割り込む。
「魔獣《まじゅう》の攻撃が手ぬるい? どこがだ。私は何度も死にかけたぞ」
「いや、セノアさんから見ればそう思うかもしれないけど、サイクロプスやゴブリンは威嚇《いかく》に熱心で、積極的に向こうから攻撃しようとはしなかったでしょ? 攻撃を始めたのは、常にこちらが先に手を出してからだ。逆に言えば、戦いを放棄《ほうき》して逃げようと思えば、いつでも逃げられた」
言われ、セノアは急いで今までの戦いを振り返る。確かに……将軍はともかく、自分の攻撃が有効だったのは、今から考えるとおかしいのかもしれない。
そういえば、最初に出会ったサイクロプスは、まず鉄棒で自分の足下を穿《うが》っていた。その後も、左右の岩壁を叩きながら威嚇《いかく》していたような……
「でもっ。将軍が出会ったリトルドラゴンは、アレは絶対に本気だった。それに、さっきの雷獣《らいじゅう》なんかモロに魔法攻撃……を」
セノアの語尾《ごび》が、薄暗い広場に消える。
メルキュールの表情がふっと変わったのに気付いたからだ。
ふう、と少年は吐息《といき》をついた。
「雷獣《らいじゅう》の放ったあの魔法は、仮に直撃していても致命傷《ちめいしょう》にはなってないですよ、セノアさん。雷獣《らいじゅう》は自分で威力を調整することが出来るんです。だから、僕の命令を無視したわけじゃない。どのみち、レインさんに邪魔《じゃま》されましたけど」
「――将軍がどうしたと?」
「ああ、貴女《あなた》はまだ気付いてませんでしたか。レインさんからなにか預かっているでしょう? それが、マジックアイテムだったんです。あの人と繋《つな》がっていたわけですね」
――マジックアイテム? もしかして……あの安物のブローチのことか!
セノアが目を丸くして見返すと、メルキュールは感じよく微笑んだ。どう見ても、悪意の欠片《かけら》もない。
「ただ、ドラゴンだけは手加減ナシでしたね。彼にはがんばってもらいました。いや、噂のレインさんの力を、少し見たかったものですから」
「やっぱり、魔獣共《まじゅうども》は君が召還《しょうかん》して、ここに放っていたんだ?」
レニが静かに述べる。
もはや質問ですらなかった。
「僕が来る前から、元々、何匹かは定住していましたけどね。でも、数をどっと増やしたのは、間違いなく僕です」
ただし、と平然と続ける。
「ティナート村の家畜《かちく》を魔獣《まじゅう》が襲ったというのは、不幸な偶然ですよ。アレは僕が召還《しょうかん》したヤツじゃなくて、最初からヤラインの森に棲《す》んでいるオーガの仕業《しわざ》です。たまたまこれまで被害がなかっただけで、ここの魔獣《まじゅう》達とは全然関係ない」
「……しかし、よくそんなにたくさん操れるね。召還《しょうかん》して呪文で拘束しているわけだろ?」
「いやー、それも別に僕の実力ってわけじゃないです」
照れたように笑うメルキュール。
「そもそもここ、神隠し事件のお陰で廃坑《はいこう》になっているけど、岩盤からは未だに魔法石が採掘可能なんです。魔力の宝庫みたいなもので、魔力を使う場合、極めて有利なんですね。おまけに入り口の数匹を除いて、この廃坑《はいこう》内限定で操っていますから。外に出さない限り、コントロールは十分に可能です」
要するに、半分以上はこの場所のお陰ですね――などとメルキュールが話を締めくくる。
謙遜《けんそん》しているが、それでも並の召還士《しょうかんし》に出来ることではあるまい。そのくらいはセノアにもわかる。いや、問題はそんなことではないっ。
「一体、どういうつもりでそんなことを!」
セノアは直接疑問をぶつけた。
声に怒りが含まれるのは当然である。
「最初にお話した通りの理由ですよ。ここは危険なんです。魔獣《まじゅう》は全然関係ない、この場所自体が問題なんです」
メルキュールはふっと真面目《まじめ》な顔になる。
「事情を話せなくて悪いですけど、僕はなんとしてもここに人を寄せ付けたくない。森はともかく、この廃坑《はいこう》は絶対に駄目だ。あなた方の想像以上に危ないんですよ……この先は人間の踏み込む領域じゃないんです」
やたらと確信ありそうに断言するメルキュールに、セノアは顔をしかめる。主君でもない者に指図されるいわれはないが、少なくとも彼が本気そうなのはわかる。伊達《だて》や酔狂《すいきょう》でこんな真似《まね》はするまい。
しかし――
「しかし、将軍は先へ行こうとするよ、きっと」
相棒のレニが先に言ってくれた。
「僕がわかったくらいだ、将軍はとうに君の仕業《しわざ》だって見当をつけている」
確かに、とセノアも大きく頷《うなず》く。
「将軍は黒幕の存在をほのめかしていた。おまけに最深部に行くと断言なさっていたわ。あの方がそう決めた以上、必ずあの先へ行こうとする」
「……それなんですけどね。今は出口のない坑道《こうどう》をぐるぐる歩き回っているはずですけど、まさか永遠に迷わせる訳にもいきません。困ったことです……」
セノアは初めてメルキュールを睨《にら》みつけた。
「おまえが犯人だったのか!」
「まあ、レインさんとレニさんについては。でも、これまでに消えた人については違いますよ。誤解しないでくださいね」
「するに決まっている」
腰を落とし、セノアはぱっと剣に手をかけた。レインの名を聞いた途端《とたん》、激怒して抑制を失っていた。
「今すぐ将軍を戻せ、馬鹿っ。さもないと、斬るっ」
あまりにも激しい怒りに、かえってメルキュールがびっくりしていた。
「……そんなに怒るとは思わなかったな。心配しなくても僕がちゃんと」
メルキュールのセリフを、誰かが遮《さえぎ》った。
『いや、おまえの手を借りる気なんざないな、メルキュール。それこそ、大きなお世話だ』
黒衣《こくい》を纏《まと》った長身が、ゆっくりと背後から現れる。
セノアの脇を通り、レインその人が前に出た。
「しょ、将軍っ」
レニが素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出す。
「これは良いタイミングで……というか、よくここがわかりましたね。やっぱり、アクセサリーのお陰ですか」
「……そういうことだ。騙して悪かったが、一応の用心は必要だからな」
レインは笑ってレニの肩を叩く。
そして、じろっと少年を見やった。
――☆――☆――☆――
「これは……驚いたな。よくあそこから出て来られましたね」
メルキュールは本気で驚いているようだった。
「だから、俺をなめるなと言ったろ? あのレイグルも、おまえだろうが! 俺にまで幻覚を見せるのは大したものだが、見かけだけ変えても誤魔化せるもんか」
「……やっぱり、とうにバレてましたか。確かに甘かったようです」
少年はふうっと息を吐く。
「人をぶ男扱いした恨みも忘れてないぞ、コラ」
これには、笑うのみ。
セノア達にはなにやらわからないが、彼は既《すで》にレインとやり合っていたらしい。
「おまえ、ひょっとして魔人か」
レインの言葉に、セノアもレニもはっとして少年を見直す。しかし、彼は既《すで》に落ち着きを取り戻していた。
「貴方《あなた》は、誰かが普通人にはない力を見せたら、それが全部魔人だと思っているのですか」
「違うのならなんだよ? 普通の村人ですとか言うなよ。空間を閉じるなんて特技を見せるヤツが、そこらのその他|大勢《おおぜい》のはずがあるまい」
「どうでしょうか……。まあ、特殊な力を持っていることは認めますけど。元の世界では、僕は戦士だったんです」
元の世界……それはどういう意味だ?
セノアは全然理解出来ずにいたし、それはレニも同じようだった。ただし、レインだけは普通に頷《うなず》いていた。まるで、予想していたことのように。
「ふむ。おまえもまた、訪問者の一人ってわけな。しかも別口のようだなぁ、レイグル達とは」
「……貴方《あなた》は話が早いですね」
メルキュールがにっこりと笑う。
「世評以上に鋭い人のようだ」
「俺はちょっと特殊な経験をしてるからな。……そんなことよりおまえ、散々人で遊んでくれたが、『ごめんなさい』で済むとは思ってないだろうな、おい」
「ごめんなさい」
などと言った後、メルキュールは真面目《まじめ》な顔に戻って首を振った。
「しかし僕は、なにもでたらめを言ったつもりはありませんよ。レイグルが世界制覇の最短距離にいるのは事実なんです。最終的な平和を思えば、彼の君臨《くんりん》は必ずしも悪いことじゃない」
「なあ、おい」
レインは穏やかな笑みを見せた。
「これは当て推量だが、どうやらおまえは、ある程度未来が『見える』ようだ。その力のせいかなんか知らんが、自分では正義の味方のつもりなんだろう?」
少年は小首を傾げたが、否定はしなかった。
「……そういう存在でありたいと願っています。それがなにか?」
「おまえの目指すところが、少数の犠牲を以《もっ》て多数を生かす――というところにあるんならだ、俺としてはちょっと言っておきたいんだが」
「貴方《あなた》のお言葉なら、喜んで拝聴《はいちょう》しましょう」
「じゃあ、言ってやる」
口調がぐっと厳しくなった。
「いいか坊主、いやしくも正義の味方なら、全員を救うことを考えろ!」
大喝《だいかつ》して、レインはいきなり疾風《しっぷう》のように走る。セノアが息を呑んだ時には、既《すで》にメルキュールの身体を魔剣が縦割りにしていた。
――いや。
血まみれで転がるはずの少年は、ふっと揺らいで消えた。セノアが見たのは単なる残像であり、メルキュールは一瞬の差で跳び退《すさ》っていたのだ。
大きく間合いを開けたメルキュールは、魔剣を構えたレインを見て、苦笑した。
「さっきといい、今といい……何年ぶりかで冷や汗をかきましたよ。貴方《あなた》は想像以上に強い人だ。僕ですら、本気にならざるを得ないかもしれない」
腰を低く落とし、手にしていた棒を水平に構える。と、単なる棒だと思っていたその先端に、光が集まり始めた。白金色に輝くそれは、瞬《またた》く間に湾曲して固定化し、棒の先端を彩る。今や、ブゥゥゥゥンンという魔剣特有の音がしていた。刃渡りが、一メートルはありそうである。
三日月のように固定化した光を見て、セノアは呻《うめ》いた。あれはまるで……死神が持つ鎌のようだ。
「ふん。それがおまえの得物か? 冥界《めいかい》の王にして断罪を司《つかさど》る神、ヴァリウスが持っているとされる鎌みたいだな」
「そんな凄《すご》い物じゃないけど……銘《めい》はノーランディスといいます。僕の故郷なんですけどね」
光の大鎌《おおがま》を構えつつも、メルキュールは表情にためらいがあった。
「僕は、貴方《あなた》を説得したいんであって、戦いたいわけじゃないんですが」
「おまえが説得すべきは、レイグルの方だろうな。もっとも、あいつも他人の言葉によって動く男じゃないと思うが。ましてやおまえ自身に迷いがあるなら、なおさらだな」
メルキュールはぱっと顔を上げた。
「……やはりそうか。せめて覚悟を固めてから俺の前に出てくるべきだったな!」
言い捨て、レインが漆黒《しっこく》の残像を引きずりつつ走る。薄暗い広場の中で、振り上げた魔剣が青い光芒《こうぼう》を伴《ともな》って走る。
しかし、先制したのはメルキュールの方だった。
「スターダスト・シンフォニー!」
一声叫んで指差しただけで、彼の周りに無数の光球が生じ、それらは尾を引きつつ一斉《いっせい》にレインに殺到《さっとう》する。避ける間もなく次々に激突し、大輪の花のように閃光《せんこう》を放つ。
前に、レイグルに対してレインが使った魔法と同じだった。
「将軍っ」
セノアは思わず叫んだが、心配は無用だった。全ての光球はレインが纏《まと》う不可視《ふかし》のフィールドを突破出来ず、空しく弾けて消えてしまった。
「おまえも使えたとは驚きだが、相手が悪かったな。どのみち無駄《むだ》だ!」
「くっ」
光の大鎌《おおがま》ノーランディスと、傾国《けいこく》の剣が激突、両者の体位が瞬時に入れ替わる。双方無傷だが、ノーランディスの刃を跳ね上げ、レインの魔剣は第二撃を放っている。それも見事に避けてみせたメルキュールだが、代わりに羽織《はお》っていた純白のマントがばさっと地面に落ちた。
それを顧《かえり》みず、レインがさらに斬撃《ざんげき》を繰り出す。メルキュールの胸を切り裂いたかに見えたが、残像のみを残して消える。一瞬早く、少年は跳んでいる。驚くほど高々と跳び、一回転して天井を蹴《け》る――が。
「遅いっ」
「――つっ!」
セノア達の遙《はる》かなる頭上、つまり空中でメルキュールと交差する。レインはほとんど間を置かず、一緒に跳んでいたのだ。
ノーランディスと傾国《けいこく》の剣が再び火花を散らし、二人は絡み合うように地上に落ちる。その間も、二度ほどぱっぱっと光が散っていた。おそらく、短いその間に斬り結んでいたのだろう。
そして地上に降り立つや否《いな》や、レインは猛然《もうぜん》とメルキュールに躍りかかる。
まだ態勢を回復していない少年は、鞠《まり》のように二転三転して転がって避けたが、起きあがった時には傾国《けいこく》の剣の青白きオーラが、今度こそ彼の頭上に落ちた――セノアにはそう見えた。
実際、赤い血の雫《しずく》が飛んだのが見えたくらいだ。
しかし……両断した少年の姿は、またしても揺らぎ、すうっと消えてしまう。今度は少年が跳んだわけではなく、どこにも姿が見えなかった。
『貴方《あなた》の信念に敬意を払い、今回は僕が引きましょう』
どこからか虚《うつ》ろな声が響き、レインは顔をしかめた。
「おい、勝負はまだ途中だぞ」
『最後まで続けて、どちらかが死ぬのもまずいでしょう』
「死ぬヤツがいるとしたら、それはおまえだ」
くすっと笑う声がした。
『さあ、それはどうでしょうか。確かめたい気もしますが……それはまたの機会に。さようなら、皆さん』
「おいこらっ」
怒鳴《どな》ったものの、レインはすぐに肩をすくめ、パチンと魔剣を収めてしまう。どうやら、彼は完全に去ったらしい。
「しょ、将軍っ」
「将軍!」
レニに続き、セノアは急いで主君に駆け寄る。ぱぱっと目で確かめ、碧眼《へきがん》を見開く。黒衣《こくい》なのでわかりにくいが、あちこちに血が滲《にじ》んでいる。
「ああ、心配いらん」
察《さっ》したのか、レインは気軽に片手を振った。
「全部かすっただけだ」
「……将軍に対してかすらせるなんて、それだけでも驚きですが」
レニが喉《のど》の奥で唸《うな》る。
「自称正義の味方らしいからな。弱かったら話にならんだろう。……向こうは今頃、包帯を買いに走っているかもしれんが」
ニヤッと笑い、セノア達を見る。
「おまえ達は無事だったか」
「はい。将軍から預かったアレのお陰で」
セノアが微笑むと、レインは黙ってぽんぽんと頭を叩いてくれた。なぜか、嫌《いや》な気分でもない。
「……逃げた傭兵《ようへい》は見つかりましたか」
「見つけた。外に出るように言ったから、今頃はもう出ているだろう。多分、ここに残っているのは俺達だけだと思う」
「では、どうします?」
レニの質問に、当然のような顔でレインは返す。
「無論、終点をこの目で見るのさ」
――☆――☆――☆――
坑道《こうどう》を先へ進むと、百メートルも行かずに行き止まりとなった。
「……なんだ、あの少年の言う通り、行き止まりですよ」
レニがそう述べたが、レインは即座《そくざ》に首を振った。
「いや、よく見ろ。これは、後から塞《ふさ》いだんだ」
セノアは間近で調べてみた。……確かに、これは人為的《じんいてき》に塞《ふさ》いであるようだ。あちこちにその名残の岩の欠片《かけら》が散らばっている。
「セノア、下がっていろ」
「……ま、まさか」
大急ぎで後退し、セノアが尋ねる前に――
レインはもうやらかしていた。
「ライトニング・ソード!」
言下《げんか》に、稲妻《いなずま》を伴《ともな》う光の剣がジュバッと突き進み、土砂の山にぶち当たって大爆発を起こした。
「きゃっ」
「おわわっ」
セノアとレニは、仲良く耳を塞《ふさ》ぐ。
「無茶しないでくださいよ!」
「レニ殿の言う通りですっ。目が潰れるかと思ったじゃないですかっ」
「潰れなかったんだから、問題あるまい。それよりなぁ……おまえ達、めでたく仲直りしたんだな」
うっ、と二人して沈黙《ちんもく》すると、レインは笑いながら先を指差す。
「行くぞ……道が開けた」
見れば、積まれていた石はすっかりばらけ、もはや先へ進めるようになっている。
セノアはごくっと喉《のど》を鳴らし、レインの背中を追って進んだ。
……なにか妙《みょう》な感じだった。
空気がねっとりと肌に絡みつくようで、胸がざわざわする。レニもしきりに辺りを見渡しており、平気そうなのはレインだけだった。
「おかしいな、未だにエクシードが」
レインが何か言いかけた、その時。
ふわっと風を感じた。
セノアが思わず立ち止まると、レニとレインも同時に止まっていた。
レインが前方を見て呟《つぶや》く。
「こいつは本当に妙《みょう》だ……見ろ、いつの間にか光が見える。外だぞ」
『ええっ』
セノアとレニの声が重なった。
……本当だ、確かに光が見える。だけど、ついさっきまで、何も見えなかったのに。真っ暗闇だった前方に、いつの間にかポツンと光の点が出来ていた。
「ここは地下なのに、なんで出口が。しょ、将軍……自分は、とてつもなく嫌《いや》な予感がするんですけど」
「じ、実は私も」
レインはセノア達をちらっと見やり、唇を歪《ゆが》めた。
「そりゃマジで奇遇《きぐう》だ。俺も嫌《いや》な予感がする……おまえ達、用心しろよ」
さらに進む……外からの風の流れをはっきり感じるし、なにか妙《みょう》な臭いまでしてきた。
「なんか、変に臭うんですけど」
レニがくんくんやりつつ、顔をしかめる。
セノアも真似《まね》してみて、うえっと息を吐いた。
「本当だ……外から嫌《いや》な臭いがしますぞ」
二人してレインを見たが、反応はなかった。
レインは黙したまま、滅多《めった》に見ないような厳しい目つきでずんずん歩いている。
そのうち、光の点でしかなかった出口が徐々《じょじょ》に大きくなり、その向こうの景色が見えてきた。
信じがたいことに外は山の中腹《ちゅうふく》に当たるらしく、遙《はる》か下界の街が遠霞みに見えている。もちろんはっきり見えた訳ではないが、白っぽく高い物が立ち並び――
いや待て!
セノアは目を見張った。
街……なのか、アレは。
しかし、あんな街がどこにある。いくら遠すぎてよく見えないとはいえ、おかしくはないか……。あそこは一体、どこなのだ。
ついにレインが足を止める。
おそらく三人のうちで最も視力がいいであろう彼は、今や外を睨《にら》むように眺めていた。
「しょ、将軍?」
レニの怯《おび》えた声。
しかし、さっとレインが片手を上げる。黙れの合図らしい。
数秒経過……またふわっと風の流れを感じた。と、妙《みょう》なことにさあっと周囲の岩盤が色を変えていく。まるで全然別の何かに変貌《へんぼう》するように。そして全員が立ち止まっているのに、なぜか外を示す光の点がどんどん大きくなってきた。あたかも、洞窟《どうくつ》の出口が自ら接近するように。
レインが突然、号令を発した。
「――まだ間に合う。走れっ」
なぜか、撤退しろという意味だとはっきりわかった。後で考えても不思議だったが、セノアもレニも「どちらへ向かって走るのです?」などとは訊《き》こうとも思わなかった。
待ってましたとばかりに、くるっと背を向け、元来た道へとダッシュする。レニが悲鳴を上げていたし、セノアもいつしか喚《わめ》いていた。なんと喚《わめ》いていたのか、覚えていない。とにかくひどく怖かったのは確かだ。
嫌《いや》な臭い……この臭いから一刻も早く逃《のが》れないといけない。脳裏にあるのはそれだけである。
結局、メルキュールと争った広場に戻るまで、セノアは足を止めなかった。
――そこまで辿り着いてやっとへたり込んだ時、背後で爆発音がした。
レインが戻ってきた時、セノアもレニもまだ、呼吸を整えている最中だった。
苦しい息の下から、セノアは無理に尋ねた。
「今の……爆発音はなんです?」
「ああ。元通りにあそこを塞《ふさ》いできた。他にも先へ進むヤツがいるといけないからな」
もはや別人のように穏やかなレインである。
レニが恨めしそうに、
「訳も言わず、いきなり全力疾走させないでくださいよ。……まあ、言われなくても走っていたような気がしますけど」
「そう。走ってなきゃ、今頃は戻ってこれなかっただろうよ。俺達、危うくあっちの世界に飛ばされそうになったんだぞ」
「あっちの世界って……なんです?」
へたり込んだままのセノアの囁《ささや》き声に、レインは意味深な口調で答えた。
「……おまえもちらっと見ただろうが。あそこは一体、どこなんだ? そう思わなかったか、出口の向こうを見て」
押し黙ったセノアを見返し、レインはきっぱりと宣言した。
「こればかりはあいつの言う通りだな。確かにここは危ない。……二人とも、休憩するなら外でしろ。廃坑《はいこう》内全部が危険域だと思うぞ」
よくわからなかったが――
それでもセノアは、弾かれたように立ち上がった。
――☆――☆――☆――
レインは廃坑《はいこう》を出ると同時に、最下層の坑道《こうどう》を塞《ふさ》いだのと同じ要領で、入り口を塞《ふさ》いでしまった。
まだ外で待っていたトランター達には、「危険なのがわかったから廃坑《はいこう》ごと塞《ふさ》ぐ」とのみ説明し、首を捻る彼らを帰らせた。
そして村に戻って魔獣《まじゅう》退治の経緯を(メルキュールのことは省《はぶ》いて)説明し、同じく「廃坑《はいこう》は塞《ふさ》いだ」と申し渡した。
村長と孫娘はちらっと視線を交わしていたが、特に何も言わなかった。なぜ塞《ふさ》ぐ必要があるのか、などとは全く訊《き》かなかった。
ちなみに、村長達はメルキュールの名前など聞いたこともないようで、どうやら彼がこの村の誰かと知人というのは、偽《いつわ》りのようである。
それでも……一応任務は果たし、セノア達は馬で帰路についた。
村で一晩休むよりも、少し離れた街の宿屋に泊まる方を選んだのである。
夕暮れ迫る街道で、セノアはレインの横に馬を並べた。
「あの少年は、何者だったのですか」
ずばり尋ねる。
レインはほんの刹那《せつな》の沈黙《ちんもく》の後、答えた。
「まあ、一番近い表現で言うと、異邦人だな」
「他国の者だと?」
「その通り。ただし、おそらく俺もおまえも知らない、ずっと遠い国だろうよ」
セノアはちらっと背後を見る。
レニは眠いのか、器用にも馬上で居眠りし始めていた。もちろん、盗み聞きをしている様子などない。
「遠い国というと……あの坑道《こうどう》の奥で見たような、ですか」
「いや、多分違う。全然別の国だと思うね。まあこの先でまた出会うことになるんだろうな、あいつとは。そんな気がする。何しろ、自称正義の味方だし」
ふう、とセノアはため息をつく。
世界には、自分の知らない謎が数多くあるらしい。
「なんだかとんでもない物を見た気がします。あの光の奥に微《かす》かに見えた街は……この世界のどこにも存在しない街に見えました」
「だから言っただろ、知らない方がいいこともあると」
「確かに……そうかもしれません」
「おや、おまえらしくもないな」
レインは優しい声で返す。
「まさか、ついてきたのを後悔してるんじゃあるまいな」
「いえ、そんなことはありません。レニ殿のことが少しはわかった気がしますし……実際に戦えたのは収穫《しゅうかく》でした」
「そうか」
穏やかに微笑むレインに釣られ、セノアは思わず口にする。
「あの、将軍」
「うん?」
「いえ……なんでもありません」
いくらなんでも、訊《き》くには恥ずかしすぎた。『預かったままのあのブローチ、私がいただいてもいいですか』などとは。
どうせこの人は、あのブローチのことなどもう忘れているだろう。
ならば……別に私がもらっておいても、悪い道理はないはず。
馬上、セノアはそっと微笑んだ。
[#改ページ]
[#挿絵(img/ex1_167.jpg)入る]
ヴァンパイア・マスター
ジブリタールは小国であり、王都以外は、ほとんど荒野《こうや》と森ばかりの国である。
それ故《ゆえ》、王都の名前がそのまま国名を兼《か》ねている。
国全体の大きさも、街一つ分の大きさとさほど変わらない。本来、国を名乗るのは厚かましいかもしれない。
場所は、大陸北部地方のギリギリ南端にあり、これ以上南下すれば『乾きの海』と民衆《みんしゅう》が呼ぶ、ナシド砂漠に至《いた》る。
ちなみにその砂漠をも越えると、いよいよ大陸中央部――いわゆる、中原《ちゅうげん》へと至《いた》る。
そんな地域的特徴の故《ゆえ》に、ジブリタールには出稼《でかせ》ぎに行く予定の傭兵《ようへい》達がよく訪れる。
戦乱《せんらん》の気配《けはい》がない故郷を出て中原《ちゅうげん》の大国に出稼《でかせ》ぎに行く者、あるいはもっと先の、大陸南部にまで足を伸ばす者もいる。
小国家が乱立する南方の地は、戦乱《せんらん》の絶えない地域であり、傭兵《ようへい》達にとっては仕事に困らない場所でもあるからだ。腕の立つ傭兵《ようへい》であり、さらに良い雇《やと》い主が見つかりさえすれば、大金を掴《つか》むことも決して夢ではない。
その代わり、命を落とす危険性も高いわけだが――
その点は皆、覚悟している。
……とにかく、「覚悟している」ことになっている。
実際は、『他のヤツがみんな逝《い》っちまっても、俺だけは絶対にくたばらねーぞ、ちくしょう!』と思っているヤツが大半だったりするのだが。
しかし現実には、最初の出稼《でかせ》ぎに行って帰らない傭兵《ようへい》は全体の三割以上にも及ぶし、言うまでもなく、この稼業《かぎょう》を続ければ続けるほど致死率《ちしりつ》は上がる。
年齢を重ねて戦士としての能力が衰《おとろ》え、引退すべき時にそうしなかった者達は、まず寿命《じゅみょう》を全う出来ない。
にも関わらず、傭兵《ようへい》達の多くは最後まで傭兵《ようへい》のままであり、結局そのほとんどが、最後には『運命の日』を迎えるのだ。
そんな刹那《せつな》的な傭兵《ようへい》達が溢れる酒場……ジブリタール全体に百軒ほどありそうな小汚い店だが、今日はそこに、非常に場違いな少年がいた。
黒いシャツに黒いズボン、薄っぺらいジャケットも黒。おまけに(この地方では珍しくないが)髪まで真っ黒である。まだ少年といっていい年代だが、腰には長剣を帯びている。
ここまでなら、特にどうということはない。
少年の身で傭兵《ようへい》になる者などゴロゴロいる。
ただこの少年、周囲の傭兵《ようへい》がひたすら酒を飲んでいるのに対し、一人でガツガツと食事をとっているのだ。
店内はお世辞《せじ》にも静かとは言えず、しかも冬でも活動する(この地方特有の)緑蠅《みどりばえ》がぶんぶん飛んでいる。それらの一切を超然と無視して、少年はひたすらスープとパンに集中していた。まるで、ここ幾日《いくにち》も何も食べていなかったように。
傍《かたわ》らに置かれたグラスの中身も、酒ではなく山羊《やぎ》の乳である。
全くもって、酒場の客らしくない。
それでも、大抵の男達はさしたる関心を払わずにいた。せいぜいが「妙《みょう》なガキだぜ」的な視線で、ちらっと少年を見るに留《とど》めていたのだ。
しかし、どんな場合にも例外はある。
たまたま、中原《ちゅうげん》から故郷へ戻る途上《とじょう》の『帰還組』の傭兵《ようへい》が三人、彼のすぐそばのテーブルにいた。
彼らは無事に仕事を終え、報酬《ほうしゅう》を手にして戻ってきた安堵感《あんどかん》で、非常に浮かれていた。早い話が舞い上がっていた。
三人ともまだ比較的若く、傭兵《ようへい》としての最初の関門をクリアしたことで、天下を取ったような気になっていたのである。
無論、既《すで》に浴びるほど酒を飲み、頭の中がアルコール漬けになっていたのは言うまでもない。
ちょうど話のネタも尽きてきたところであり、三人とも『ちょいとこのガキをからかってやるか』という気になってしまった。
仲間同士でにんまりと視線を交わし、まずはリーダー格の男が声をかける。というか、いきなりいちゃもんをつけた。
「おいてめぇ、タマはついてんのかぁ。傭兵《ようへい》が酒場に来て山羊《やぎ》の乳かよ? 情けねー野郎だぜ」
男の、観客を意識したどデカい声に、店中の喧噪《けんそう》がふっと止んだ。
怯《おび》えて声が出なくなったわけではない。ここの客は全員が傭兵《ようへい》であり、喧嘩《けんか》ぐらいでいちいち怯《おび》えるヤツはいない。皆、この次の展開を期待しての沈黙《ちんもく》なのだ。
『うおっしゃあっ。喧嘩《けんか》だ喧嘩《けんか》だ! 派手にやったらんかい!!』
――こんな感じに。だが、酒場中の熱い注目を浴びた少年はといえば、その反応は鈍《にぶ》かった。ある意味、不敵でもあった。
全く食事の手を休めず、ぼそっと「俺の勝手だ」と返したのみ。相手をろくに見もしなかった。
たちまち席を蹴《け》って立ち上がる三人組。
とにかく、最終的に殴り合いに持ち込む気でいたので、これはもういい口実である。
「なんだとおっ。おめえ、俺達に喧嘩《けんか》売る気なのか、おおっ!?」
『いや、喧嘩《けんか》売ってんのはおまえらだろう?』
と観客達は思ったが、それはともかく――
実にストレートな、途中の段階を省《はぶ》いた脅し文句で凄《すご》む。もう次の瞬間には殴り合いに移るべく、三人とも身構えている。
だがこの期《ご》に及んでも、少年は落ち着き払っていた。
空になった皿にスプーンを投げ出し、悠々《ゆうゆう》とミルクを飲み干す。
ついでに、グラスめがけて飛んできた緑蠅《みどりばえ》をさっと指で摘み、明後日《あさって》の方向へ弾いた。
……この蠅はやたらと動きが素早く、そう簡単に(ましてや指で)摘める物ではないのにだ。
もし三人組が一流の傭兵《ようへい》なら、今のを見て多少は警戒しただろう。少なくとも、見かけの若さだけで判断しなかったに違いない。
だが不幸にも、彼らの中に少年の実力を的確に判断出来る者はいなかった。
先手は三人組が取った。
体格の一番大きなリーダーが大股で近寄り、いきなり少年のテーブルをひっくり返そうとした。
ここで初めて少年が動いた――というか、その身体がふっと消えた。
敵の懐《ふところ》に飛び込み、男の腕と襟《えり》を取ってバランスを崩すと、担《かつ》ぐようにして背中越しに投げたのだ。リーダーの身体が綺麗《きれい》に回転し、自分がひっくり返す予定だったテーブルに叩きつけられる。
激しい衝撃《しょうげき》に安っぽいテーブルがぶっ壊れ、男は粉々になった木片《もくへん》と共に床に転がる。どうやら目を回してしまったらしく、起きあがってこない。
店内に、低い唸《うな》り声が満ちる。
今の少年の、一連の動作を目で追えた者が、一人もいなかったせいである。彼の動きはそれほどに無駄《むだ》が無く、しかも速かった。
それに、見物していた傭兵《ようへい》達のほとんどは剣士であり、投げ技《わざ》などは見たことも聞いたこともなかったのだ。傭兵《ようへい》達の何人かは、「こいつ、得体《えたい》の知れない魔法を使いやがった!」などと思い込んだくらいである。
そうでなくて、どうしてあれほど体格差のある相手を投げられるだろう。
「き、貴様っ。卑怯《ひきょう》だろうが! 妙《みょう》な技《わざ》を使わずに、堂々と勝負しやがれっ」
「そうだそうだっ。それでもプロかよっ」
左腕に入《い》れ墨《ずみ》のある男と、口髭《くちひげ》を蓄えた男、気絶《きぜつ》したリーダーの仲間二人が、やっと我《われ》に返ってぎゃんぎゃん喚《わめ》く。
三人がかりで喧嘩《けんか》を売ったことについては、棚上げにしていた。
「……別に技《わざ》というほどのものじゃない」
めんどくさそうに少年。
「どれほど身体が大きくても、相手の重心を崩して上手く体重を移動させれば、簡単に投げられる。それを知らないと、奇妙に見えるだけだ」
懇切丁寧《こんせつていねい》な説明に対し、両者の返事は行動で成された。
悪態《あくたい》をつきながら、さっと腰に手を伸ばしたのだ。他の同業者も見ていることであり、面子《めんつ》にかけても引き下がれなくなっている。
だがあいにく、少年の動きは彼らの十倍は早かった。
右手が霞《かす》んだかと思うと、次の瞬間にはもう、皆の目に鮮《あざ》やかな魔法のオーラが焼き付いた。
抜剣《ばっけん》するなり、横一文字《よこいちもんじ》に青き閃光《せんこう》が走り、さらに少年が一歩前進、返す剣でもう一人に斬撃《ざんげき》を送り込む。
直後に、ゴトゴトッと連続で何かが落ちる音。
またしても、誰も彼の動きを正確に捉《とら》えられなかった。
攻撃の『最初』と『途中』を自分の目で確認出来た者は、店内に皆無《かいむ》だったのである。観客達が実際に見たのは、剣を振りきった状態から静かに姿勢を戻す、少年の姿のみ。一瞬静止したその姿に、誰もが息を呑む。
少年の剣技には、その道を極めつつある者に特有の、不思議な美しさがあった。観客全員が傭兵《ようへい》だけに、姿勢を見ればそれくらいはわかるのである。
そして抜剣《ばっけん》しようとしていた二人は、己《おのれ》の手が何も掴《つか》まないのに不審《ふしん》を覚え、下を向く。
両者そろって、小さく声を上げた。
長剣の柄《つか》部分がばっさり切り取られ、床に転がっている。
道理で剣を抜けないはずである。
ゴトゴトッという連続した音は、これが落ちた音だったのだ。
ブゥゥゥゥゥゥゥン
魔剣特有の、無数の羽虫《はむし》が立てるような音のみが、静まりかえった店内に響き渡る。
「すげぇ……ま、魔力チャージされた魔剣だ。生まれて初めて見た」
誰かが呟《つぶや》く。
同意するように頷《うなず》く者が多かったが、あえて声を高める者はいない。
今や店中が、彼の次の出方《でかた》を見守っていたのだ。
やっと声を発した少年は、相変わらず無愛想《ぶあいそう》だった。
まず、いかにも不機嫌《ふきげん》そうに「弱すぎるっ」と吐き捨てた。立ち尽くしたままの二人は、もはや異論《いろん》を唱《とな》えない。そんな余裕はなくなっている。
次に少年は、ちらっと下を見た。
「誰かがテーブルを弁償《べんしょう》しないといけない」
顔を上げ、入《い》れ墨《ずみ》と口髭《くちひげ》、二人の若者を順番に見やる。
睨《にら》まれた二人は、仲良く同時に壊れたテーブルを見、それから少年を見た。最後にお互いに顔を見合わせ――
数秒後、入《い》れ墨《ずみ》が代表で答える。……小さい声で。
「え〜と。あ、有り金を出せって意味……かな?」
「――いや」
パチンと魔剣を鞘《さや》に戻す音。
「テーブル代を店に弁償《べんしょう》して、転がってるそいつを連れて失せろ――そういう意味だ」
……二人とも、ささっとその指示に従った。
一分前とは別人のような素直《すなお》さであり、風のように店から消えた。
酒場の中は一時的な熱狂に包まれていた。三人組がコソコソと店を出た途端《とたん》に誰かが拍手をし、それはたちまち店中に広がった。
気性の荒いヤツもいるものの、元々は気の良い男も多い傭兵《ようへい》のこと。全員が、素直《すなお》に少年の強さを賞賛《しょうさん》したのである。
「おまえ、すげーな。大した腕だ!」
「まったくだ。俺、この道に入って五年になるけど、あんな鮮《あざ》やかな剣技、見たことないぜっ」
そのうち、若者の一人が踏み込んだ質問をした。
「あんた、名前は?」
少年は、答えるかどうか迷うように間を置き、結局は返事をした。
短く、一言だけ。
「……レイン」
男達はなにげなくその名前を呟《つぶや》き、その中の数名が首を傾げた。
どこかで聞いたような――
「思い出したっ」
また一人が手を叩く。
「ローザンヌの辺境《へんきょう》で、強盗団数十人を全滅させたのって、あんただろ!? 警備隊が駆けつけた時、全然無傷のままで、しかも涼しい顔でけろっと立ってたっていう?」
すると、どこかからびっくりした声。
「ええっ。俺が聞いた話じゃ、アザトのダンジョンで、賞金付きのミノタウロスを二秒でぶち殺したって」
「むう? ワシが旅先で聞いた噂では、ファヌージュの地下迷宮の底で、悪辣《あくらつ》な魔導師の首を一刀の下《もと》に刎《は》ねたとか」
たちまち、嘘くさいほど多数の戦歴が、山積みで男達の口に上る。その内の六割くらいが実は真実だったりするのだが、少年は特になにも話さない。
彼にとっては、いつの間にか新たな見物人が詰めかけたせいで、容易に店を出られない方が問題だった。店内は大盛況である。
ぶすっと立つ彼の周りで、皆が興奮し始める。自分の聞いた噂を、どんどん語り出す。
そのうち、「待て待てっ。俺が小耳に挟んだところじゃ、パジャの色宿で一晩の内に二十人の女を足腰立たなくさせたって(以下略)」などという根も葉もないデマが飛び始めるにつけ、ついに無視を決め込んでいた少年も遮《さえぎ》った。
「おいっ」
たちまち、シーンとなる店内。
皆、はっと少年……レインを見た。
「――悪いが、道を空けてくれ。店を出たいんだが」
店主に銅貨を投げて勘定《かんじょう》を済ませ、レインはぐるりと傭兵《ようへい》達を見渡す。
全員がなにか言いたそうな顔をしたが、邪魔《じゃま》をするほど度胸のある男はいなかった。
大人しくさあっと退《ひ》く。
入り口付近で一度立ち止まり、レインは振り返る。
群衆に向かい、いま思いついたように尋ねた。
「誰か、『霧の国』の正確な場所を知らないか?」
酒場の空気が張り詰めた。
視線をやりとりする男達の顔が、一瞬で強張る。
レインがたまたま目を向けた一人が、意を決したように忠告する。
「なんのつもりか知らんが、あそこへは近付かない方がいい。生きて帰った者はいないんだぜ。だいたいあそこは、ヴァンパイアの国で」
「その噂はもう聞いた」
レインは素直《すなお》に頷《うなず》く。
「だが、どうしても行かねばならない用事があるんだ。悪いが、知っている者がいたら、教えてほしい」
……男達はしばし沈黙《ちんもく》したが、やがて何人かが前へ出た。
――☆――☆――☆――
必要な情報は得られた――とレインは判断し、早速《さっそく》出発している。
夜が更けてから何もない荒野《こうや》で仮眠《かみん》をとり、朝、日の出と同時に再び歩く。朝食代わりのパンをかじりながら。
そして国境の大峡谷《だいきょうこく》を越えた頃――
等間隔《とうかんかく》で杭が刺さっている他、街道と呼べるような印は何もない道を、レインはいきなり逸《そ》れる。
噂で聞いた南東の方角を目指し、躊躇《ちゅうちょ》無く人間の領域を後にする。
周囲全てが完全無欠《かんぜんむけつ》の地平線の中では、目印となる道を外《はず》れると命を落とす危険があるが、レイン自身に迷いはない。
大峡谷《だいきょうこく》「The Abyss (アビス)」を境に気候は劇的に変化する、という聞き込み通り、数時間も歩くと嘘のように気温が上昇を始めた。
橋の向こう側では零下何度くらいか、というほどの冷え込みだったのに、こちらでは、進めば進むほど気温が上昇していく。
この自然の摂理《せつり》から考えると有り得ない気候の変動は、火の精霊《せいれい》がこの辺りを支配しているせいだと言われるが、本当のところは誰も知らない。
幸い、荒野《こうや》のあちこちに小規模な湖があり、今のところは飲み水に不自由はないが、そうでなければたちまち喉《のど》の渇きに苦しんだろう。
湖が点在するのは、雨期の間に降りまくった雨水が、土壌《どじょう》に吸収しきれずに溜まるせいである。地下深くが、固い岩盤層になっている故《ゆえ》だ。
ただし、さらにずっと南下してナシド砂漠に至《いた》ると、湖など跡形もなくなる。
そこまで行くと、もう完全な砂漠地帯だ。
ともあれ、レインは昼|間際《まぎわ》になり、湖の一つで小休止をとった。
周囲が完全無欠《かんぜんむけつ》の荒野《こうや》では宿などあるはずもなく、せめて身体だけは洗っておこうと思ったのだ。服を脱いでゆっくりと水の中に浸かり、砂塵を落とす。
身体にはまだ生々しい傷跡が幾《いく》つも残っており、それらが水に染みたが、レインは少し眉《まゆ》をひそめたのみである。
痛みには慣れているのだ。
しかし、ものの一分もしないうちにぱっと顔を上げ、レインは荒野《こうや》の彼方《かなた》を見た。
今度こそ顔をしかめ、急いで水から上がる。
せっかく脱いだ服をまた着込み、独白《どくはく》する。
「……こんな場所に、これほど大勢《おおぜい》が?」
数分後、レインが感知した通り、大地の向こうに微《かす》かな土煙《つちけむり》が見えた。
無論、一人で歩いてきたくらいで、あんなに目立つほど土煙《つちけむり》は巻き上がらない。当然あれは大勢《おおぜい》の、しかも騎馬部隊によるものである。
別に心当たりがあるわけでもなかったが、レインはさりげなく腰の魔剣に手をやる。
ギャロップ(早駆け)とまではいかないが、さすがに馬の移動速度は速く、どんどん土埃《つちぼこり》が接近し、やがて部隊の全容《ぜんよう》が見えてきた。
銀色の鎧《よろい》が陽光《ようこう》をまぶしく反射し、長槍の穂先《ほさき》がぎらりと輝く。きちんと旗印を押し立てた、堂々の陣容《じんよう》である。
純粋な騎士達の数は、およそ百騎程度か。
他にも彼らの後ろを、複数の荷駄《にだ》が馬でゴロゴロ引かれてついてくる。
その補給部隊をも含めると、総数はさらに増えるだろう。
当初、彼らはレインのいる湖から遠く離れた場所を走っていたのに、先頭の誰かがさっとこちらを手で示し、いきなりコースを変更した。
どうやら、レインを見つけたらしい。
馬蹄《ばてい》の音が徐々《じょじょ》に大きくなり、巻き上げられた土埃《つちぼこり》が風に乗って届くようになった。
ついにほんの鼻先まで部隊が来て、隊長らしき男の合図で軍勢《ぐんぜい》が停止する。
じろじろと観察した挙《あ》げ句《く》、その隊長を含め、三騎ほどが接近してきた。
「ここは人外《じんがい》の魔物や魔獣《まじゅう》が棲《す》む領域だぞ。こんな所で何をしている?」
レインはぶすっと返した。
「聞きたいことがあるなら、馬を降りろ。馬上からエラそうに質問するヤツに、話すことなんかないな」
隊長ではなく、そばにいた二人が表情を変えた。
「無礼《ぶれい》なっ」
「我らは、ジブリタールの騎士団ぞ!」
レインの対応は特に変わらない。
それどころか、かえって声が冷ややかになったくらいである。
「だからどうした? 俺はあの国に仕えた覚えはないぞ。そもそも国境線はもう越えた。ここはジブリタール領ですらないぞ」
「――! 礼儀を知らんヤツめっ」
よほど頭に来たのだろう。
二人の騎士は、わざわざ馬を降りて剣を抜いた。大股で近付いてくる。
止めようとしたのか、隊長が手を上げかけたが、騎士の罵声《ばせい》の方が早い。
「謝る気はないのか!」
「当然だ。間違ったことは言ってない!」
「ふざけるなっ」
手にした剣を持ち上げようとした一人を見て、今度こそ隊長が口を開いた。
「ジント、エシルっ。早まった真似《まね》は――」
だが、レインは既《すで》に動いている。
二人が剣を抜いても微動だにしなかったのだが、ジントが素早く長剣を持ち上げ、朋輩《ほうばい》のエシルもそれに習おうとしたのを見て、即座《そくざ》に反応した。
音もなく踏み込み、抜いた魔剣が風を巻いて唸《うな》る。
ヒュンッ! ギィィィン!!
一人目のジントに対し、横殴りの斬撃《ざんげき》を繰り出す。
暴風と化した魔剣の一撃は、鮮《あざ》やかに相手の長剣を切断、レインの動きは止まらず、流れるように二人目の間合いへ飛び込む。
斜め下方より、魔剣が青き半円を描き、彼の首を襲う。
エシルと呼ばれていた二人目の騎士は、まだ一歩も動いていない。
「くううっ!!」
彼が呻《うめ》いた時には、もう魔剣はビタッと静止していた。
レインの痩身《そうしん》が静止するのと、切断された一人目の剣の半分が地面に落ちるのとが、ほぼ同時である。
自分の首筋に、不吉な音と共に魔法のオーラが輝くの見やり、エシルはもはや戦意を失った。
己《おのれ》がまだ、数センチも長剣を持ち上げないうちに、レインは既《すで》に行動を終えていたのだ。
勝負にならない。
しかも――
彼の斜め前では、仲間のジントがすかっと両断された己《おのれ》の剣を眺め、同じく呆然《ぼうぜん》としている。
一瞬のうちに、二人同時に手玉に取られたわけである。百を越える騎士団の面々が、あまりの手際に息を呑んでいる。
しかしレインは他には見向きもしない。
静止したような時間の中、未だ魔剣を引かず、低い声で問いかける。
「俺には覚悟が出来ている。おまえはどうだ、エシルとやら。剣を抜いた時、覚悟があったのか?」
水のように静かな瞳で、じいっと間近からエシルの目を覗《のぞ》き込む。
「心して答えろ。イエスならこのまま首を刎《は》ねる。俺の腕なら、多分痛みは無いはずだ。だが、ノーと言うなら黙って剣を引こう。――さあ、イエスか、ノーか」
「ううっ」
三十付近の年代に見えるエシルは、レインの質問に答えなかった。あるいは、答えられなかったのかもしれない。
代わりに、冷静さを失っていなかった隊長が動いた。
自ら馬を降り、そっと声をかける。
「剣を引いてくれ、少年。確かに君の言う通りだ。馬上から質問したのは、礼を失した行為だった。この通りだ」
小さく頭を下げたのを見て、レインは初めてすっと魔剣を引く。
パチンと鞘《さや》に剣を収め、数歩間合いを取った。
と、まるでそれが合図だったかのように、レイン以外の全員がふうっとため息をつく。
隊長はやれやれと首を振り、
「ジント、エシル、下がっていろ。俺が話す」
「……はっ」
「は、はい」
二人とも顔中に汗をかいたまま、今度は素直《すなお》に引いた。
眉《まゆ》も髭《ひげ》も濃い隊長は、レインに向き直ると、意外にも楽しそうに破顔《はがん》した。
「俺の名はラスターという。……名前を訊《き》いてもいいかな?」
「……レイン」
例によってぶすっと返すレインに、ラスターはまた一つ頷《うなず》いた。
「ふむ、レインか。見事な腕だが……しかし君は無茶だな。もしも俺達全員と戦うことになったら、どうする気だったんだ」
「無論、戦うさ。抜剣《ばっけん》したのは、ただの脅しだとでも思ったのか?」
逆に聞き返すレイン。
隊長はさすがに絶句《ぜっく》した。
言葉を失ったのは、レインが本気で語っていると、本能で悟ってしまったからかもしれない。
ラスターの沈黙《ちんもく》を捉《とら》え、今度はレインの方から質問する。
「霧の国へ行く気か」
「ほぉ、知っていたか。どうやら、街ではとうに噂になっていると見える」
「ジブリタールの騎士団がヴァンパイアの国を襲撃《しゅうげき》すると、酒場の噂で聞いた」
レインは素《そ》っ気《け》なく返す。
なぜ彼らに戦《いくさ》を仕掛けるのだ、という質問は控えた。いかにレインが余所《よそ》者でも、それくらいは想像できるからだ。
レイン自身は会ったことも見たこともないが、ほとんどの国でヴァンパイアが畏怖《いふ》と嫌悪《けんお》の対象になっているのは知っている。
ましてやその膝元《ひざもと》ならば、なおさらだろう。
「……人数は本気でこれだけなのか? 後続は?」
隊長は厳《いか》つい顔に苦笑を広げた。
「重装備の騎士が百名でも、まだ少ないかもしれんな。仮にそうだとしても、今更《いまさら》どうにもならん。我々にとって、主君の命令は絶対でね」
静かに笑みを消し、レインをとっくりと見る。
「魔剣の使い手など、今の時代にはまず見ないが――。まさか、君も目的地は同じなのか」
「……だとしても、あんた達の方が先に着くだろう。こっちは歩きだからな」
暗に認めたレインの返事に、ラスター隊長は口を開きかけ、考え直したようにまた閉じた。改めて言う。
「そうだな。確かに我々の方が先に着く。もし我らが戻って来なければ……君は街へ帰るがいい。それが賢明だ」
レインは沈黙《ちんもく》をもってそれに答えた。
隊長はなおしばらくレインの瞳を見返し、それからやっと踵《きびす》を返した。
しかし、乗馬する前にもう一度振り返った。
「これは好奇心で訊《き》くんだが。君がもし我々と戦ったら、どうなったと思うね?」
レインは即答した。
「何十人かは倒せたと思うが、確かなことは戦ってみないとわからない」
背後から、騎士達の低いざわめき。
だが、先程《さきほど》のように怒りを露《あら》わにする者はいない。皆、レインの鮮《あざ》やかな剣技を見ていたからだ。
「なる……ほど。そこまでして意地《いじ》を通す理由でもあったのか?」
「もう二度と、何人《なんびと》の力にも屈《くっ》しないと決めたんだ。……それだけのことだ」
「説教などしても無駄《むだ》だろうな……君が長生きすることを祈るよ、少年」
その言葉を最後に、ラスターは馬上の人となった。
彼らが去った後、レインはある種の気配《けはい》を感じ取り、振り向く。
透き通るような白い服を着た少女が、じっとこちらを見ていた。――いつものように。
「……来ていたのか」
少し前から、自分が何か……あるいは誰かに憑《つ》かれているのを、レインは自覚している。別に旅の邪魔《じゃま》になるわけではないので放っているのだが――しかし。
ふと眉《まゆ》をひそめるレイン。
自分以外の誰にも見えない少女の姿を、しばらく睨《にら》み付けるように観察する。
相手は、どこか神秘的な表情ですうっと笑った。
「しかしこいつは……」
レインはしばらく、自分にしか見えないゴーストをじっと観察していた。
――☆――☆――☆――
レインと遭遇《そうぐう》したその翌々日も、ラスター隊長を初めとするジブリタールの騎士団は、ひたすら同じ方角を目指し、なにもない荒野《こうや》を行軍している。
補給部隊も随行しているので食料や水に不自由することはないが、行けども行けども地平線しか見えない行程に、そろそろ皆がうんざりしている。おまけに、騎馬隊ばかりとはいえ、この暑さのせいで行軍速度はあまり上がらない。
最初はそこはかとなくヴァンパイアへの畏怖《いふ》心もあったのだが、今や全員が、さっさと敵と戦うことを望んでいた。
騎士団の陣容《じんよう》を見て、この地を住《す》み処《か》とする魔獣《まじゅう》達ですら向こうから逃げてしまう。お陰で、退屈《たいくつ》極まりない。
こんなだだっ広いだけの場所は、もうたくさんである。
しかし、倦怠《けんたい》気分もこれまでだった。ついに、地平線と湖以外のものが見えたのだ。
最初に見つけたのは、先頭にいたラスターである。地平線の彼方《かなた》に見た『それ』に、彼は否応《いやおう》なく首を傾げた。
ただの陽炎《かげろう》や蜃気楼《しんきろう》の類《たぐい》かと初めは思ったのだが――
よくよく観察すると、そうではないように見える。
轡《くつわ》を並べる副官に、思わず問う。
「おい。俺の指差す方を見てくれ。あそこに、ショートパンツ姿の少女が立っているが……おまえにもちゃんと見えるか?」
「……はあ?」
いぶかしげな声を上げた副官は、しかしすぐに息を呑んだ。
信じがたい、という声音《こわね》で返す。
「み、見えます、隊長! 真っ白なマントを羽織《はお》った、ショートパンツの娘が、確かに立ってます」
「そうか、おまえにも見えるか」
ラスターは目を細めて頷《うなず》く。
二人の会話を洩《も》れ聞いた部下達が、次々と彼女に気付き、部隊を小さなざわめきが覆った。
ラスターはさっと右手を上げ、力の籠《こ》もった号令を発した。
『全軍、戦闘《せんとう》準備!!』
副官のユリウスが驚きの声を上げた。
「しかし、隊長! あの子はまだ、ほんの少女ですよ!? それに、今は真昼ですし」
「よく考えてみろ、ユリウス」
ラスターは部下達にも聞こえるように、あえて声を高める。
「こんな場所に、少女が一人でどうやって生きていける? 家はおろか、ロクに食物も無いんだぞ、この辺は。ヴァンパイアが陽光《ようこう》の下で活動出来ないのはわかっているが……用心するに越したことはない」
「た、確かに」
納得《なっとく》したように副官のユリウスが頷《うなず》く。
それを合図に、全員が戦闘《せんとう》に備えた。
騎士達は、いつでも攻撃に移れるよう長槍を片手に携《たずさ》え、十名ほどいる補給部隊は、あえて彼らと多少の距離を取る。
一応の用心のためとはいえ、訓練の行き届いた動きである。
そして……部隊は馬の足を緩め、そろそろと少女に接近する。
周囲全てが完全無欠《かんぜんむけつ》の地平線の中で、少女は美しい幻のように立ちつくしていた。
煌《きら》めく銀色をした長いツインテールの髪、その先が膝の辺りまで届くほど長い。
意志の強そうなやや切れ上がった眉《まゆ》に、ワイン色をした瞳……小作りながら、彫刻のように整った顔立ちをしている。
服装は真っ白なマントの下に、袖がふんわり広がった半袖ブラウス、そして下は素足を見せたショートパンツ姿。
髪を束ねたリボンは青色だが、後は全て純白で統一されていた。剥《む》き出しの長い足も、透き通るように真っ白である。
おそらく、十五〜十六歳辺りだろう。あるいは、もっと下もしれない。とにかく、外見上はそう見える。
殺風景《さっぷうけい》な荒野《こうや》の中で、この美少女の姿は恐ろしいほどの違和感があった。
ラスター達が少女に見とれてポカンとしていると、彼女は小さく頭を下げ、自ら話しかけてきた。
「こんにちは。やむを得ないこととはいえ、今日はあいにくの天気ですね」
……思いっきり快晴なのだが。
ラスター達は顔を見合わせたが、少女は気にした様子もない。
「このような辺鄙《へんぴ》な場所へようこそ、皆さん。なにかご用でも?」
「――いや」
ラスターは我《われ》に返り、小さく首を振る。
先日のレインの例を思い出し、自ら馬を降りた。
「用があるのは、霧の国に住むヴァンパイア達なんだがね。……君は、こんな場所で何をしているのかな」
ツインテールの少女は、その質問に対して、しばし沈黙《ちんもく》を守った。聞こえていないのだろうか、とラスターが心配になってきた頃、やっと答えが返ってきた。
「そう……ヴァンパイア達にご用、ね」
声が若干《じゃっかん》、冷たくなる。
「限りある寿命のせいか、それとも種族としての特徴なのか――。あなた達は、本当に物忘れが激しいこと。最後の遠征《えんせい》からまだ百年も経たないのに、もう過去の痛みを忘れたのね」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
しかしやがて、足下から背筋へとじんわりと衝撃《しょうげき》が走り、ラスターは彼女のセリフが意味するところを悟る。
つまり、この少女こそが――
「そんなはずはない……絶対に有り得ない」
喉《のど》を鳴らし、ラスターはようよう呟《つぶや》く。
ぎらぎら照りつける太陽を見上げ、
「昼日中《ひるひなか》に、ヴァンパイアが外を歩けるはずがないんだ」
と、彼女は歌うように言葉を紡いだ。
『よく考えてみろ、ユリウス。こんな場所に、少女が一人でどうやって生きていける?』
ラスター達の顔色を見て、くすくす笑う。
「ついさっき、あなた自身がそう言ったのではなくて、隊長さん?」
まさか……まだ何百メートルも距離があったのに、聞こえていたというのか!
ラスターは目に見えぬプレッシャーに押されたように、数歩|後退《あとずさ》った。
ワイン色の美しい瞳をひたと向け、少女が続ける。
「あたし達のことを大して知りもしないで、よくも襲撃《しゅうげき》になど来られたもの。その傲慢《ごうまん》さこそが、人間の救いがたい特徴なのかしらね」
「おまえも、彼らの仲間なのかっ」
「ヴァンパイアは、遮《さえぎ》るモノのない陽光《ようこう》の下では外を歩けない。それは事実よ」
ラスターを、そして彼の背後でざわめく部下達を全く無視し、彼女はゆっくりと純白のマントを脱ぎ捨てる。
「だけど、全てのヴァンパイアの中で、たった一人の例外がいるの……悲しい例外がね。もはや人間達は、このあたしのことさえ忘れてしまったの? かつて、あんなに色んなニックネームを付けてくれたのに」
若々しく透明な少女の声が、荒野《こうや》に響く。
「色々あるわよ。例えば――史上最強のルーンマスター、ブラッディアイ、ナイトフライヤー、クリムゾンファング……ダークビューティーなんて失礼なのもあったかしらね。数え上げたらキリがないわ。ただ――」
そこで剥《む》き出しの白い両手を、左右にすっと広げる。
低い声で一言、ルーンを唱《とな》えると、多分それがアポーツ(引き寄せ)の呪文だったのだろう――
ブンッと微《かす》かな音がして、左右の手に青き光芒《こうぼう》が満ちた。
少女の身長ほどもあるでっかい大剣が、唐突《とうとつ》に現れたのである。
魔剣特有の、ブゥゥゥゥゥゥンという音が重なる。
片方だけでも相当な重さだろうに、彼女は軽々と扱っていた。
いつの間にか、愛らしい顔に浮かべていた笑みが、跡形もなく消えている。
「ただ、あたしの本名にくっつけたニックネームが、一番有名だったかな。すなわち――」
誇らしげに名乗りを上げた。
「シルヴィア・ローゼンバーグ『The Vampire Master (ヴァンパイア・マスター)』……知らなかったのなら、覚えておくことね、隊長さん」
ラスターは喉《のど》の奥で唸《うな》った。
肌で感じ取れるほどのプレッシャーとともに、少女が巨大な魔剣を構える。
右手の剣が上段、左手の剣がやや上向きに中段に位置し、ラスターから見ると、鉄壁《てっぺき》のガードぶりである。
隙《すき》があるとすれば足下くらいだろうが、悠長《ゆうちょう》にそんなところを攻撃する前に、二振りの魔剣が襲いかかるに違いない。
本来、長剣の重量は片手で扱うには無理がある。両手で扱ってさえ、慣れないと何度か振っただけで、簡単に疲労していく。
それ故《ゆえ》、世に言う『二刀流《にとうりゅう》』などは剣技として実質的に不可能なのだが、彼女はけろりとして二振りの大剣を構えている。
――普通の長剣より遙《はる》かに長大で、重そうな剣を。
どうも、重量などはまるで問題にならないらしい。
少女――シルヴィアは、不気味《ぶきみ》なほど穏やかな声で宣言した。
「退《ひ》きなさい、人間。今なら見逃してあげる。あなた方とは違い、あたし達は戦いが好きなわけじゃないのよ」
「……そうはいかん!」
大きく飛び退《の》いて間合いを取り、ラスターは抜剣《ばっけん》した。
「おまえの名は、確かに聞き覚えがある。だが、だからと言って逃げ帰るわけにはいかんなっ。そもそも、ヴァンパイアが人を傷つけなければ、こんな事態にはならなかったんだ!」
「ご挨拶《あいさつ》だこと。あたしの目が届かないヴァンパイアは、大陸中を探しても百人に満たないわ。あたし達の国の外で吸血騒ぎがあったからといって、あなたは全てのヴァンパイアに責任を押しつける気かしら。この襲撃《しゅうげき》が正しい行いだと、本気で思っているの?」
シルヴィアの厳しい声に、ラスターは奥歯を噛《か》み締める。
「……おまえの言う通りかもしれんな。だが、それでも我らは、おまえ達を滅ぼす! おめおめと退《ひ》けんのだっ」
「主命《しゅめい》は絶対――か。でも、あたし達だって、黙って殺されてあげるわけにはいかないのよっ」
シルヴィアが言い切ったその時――
膠着《こうちゃく》状態だった両者のバランスを、ラスターの部下二人が崩した。
先日、レインに斬りかかったジントとエシルの二人が、またしても先に動いたのだ。
名誉挽回《めいよばんかい》のつもりだったのだろうが、今回もまた命令を待たずに先走った。
「隊長、ご加勢します!」
「化け物めが、ほざくなっ」
それぞれ喚《わめ》きつつ、槍を構えてシルヴィアに突っ込んでいく。ラスターが声をかける間もなく、二人は脇を走り抜けた後だった。
「……愚《おろ》かなことを」
呟《つぶや》きを最後に、シルヴィアがふわっと跳ぶ。
助走も付けず、まるで見えない翼でもあるかのように、軽々と数メートルを飛び上がったのだ。
続く、可憐な顔に似合わぬ、激しい叱声《しっせい》。
「はああっ!!」
その刹那《せつな》、ラスターは確かに見た。
か細いシルヴィアの身体が、空中で舞うように激しい動きを演じたのを。
左手の剣がジントの首筋辺りで旋回、間髪《かんぱつ》を入れずに身を捻り、右手の二の剣が遅れて来たエシルを襲う。
二騎が駆け抜けた後、シルヴィアはひらっと宙で一回転し、着地した。
「ジント、エシルっ」
ラスターが、未だ止まらぬ二騎を呼んだが……視線の先で仲良く二人の首が落ち、続いて傾いだ身体が馬からずり落ちた。
そのまま、馬だけが走り去ってしまう。
「おのれっ」
さすがにラスターもかっとなった。
愛馬に向かって走りつつ、怒鳴《どな》る。
「全軍、敵を半円に包囲せよっ!!」
指揮官の声に活を入れられ、魂《たましい》を抜かれたような顔の部下達が、一斉《いっせい》に馬を進める。
王都で何度も訓練した通り、混乱することなく半円陣を取る。十秒もかかっていない。
その間、シルヴィアは黙して見ているだけだった。
ラスターは構わず、急いで騎乗《きじょう》し、さらなる号令を出す。
「弓、構え!」
彼の号令に、部下全員が馬上からざざっと弓を構える。
「放てえっ」
ヒュンッ
次の瞬間、百に届こうかという矢が、一斉《いっせい》に飛んだ。
たった一人で立つ少女へと、風切り音と共に全ての矢が収束する。
――だが。
シルヴィアの瞳がカッと光る。同時に、光り輝く魔力のオーラが、細身の身体を覆い尽くす。
皆、時間が止まったかと思った。
彼女に到達する寸前、その一メートルほど手前で、矢がぴたりと静止したのだ。
百の矢は百の棒切れと成り果て、ただ宙に浮いている。
シルヴィアが微《かす》かに右手の剣先を振ると、虚空《こくう》に静止していた矢は一斉《いっせい》に大地に落ちた。
呆然《ぼうぜん》と見やる部隊に、嘲《あざけ》るようなくすくす笑いが響く。
「弓矢ねぇ。まさか、そんなオモチャがあたしに通用すると、本気で思っていたのかしら? だとしたら、あなた方は相当にヴァンパイアを甘く見ているわね」
笑みがふっと消えた。
「……これが最後よ。退《ひ》きなさい、人間! あたしの忍耐にも限りがあるわ」
明らかに表情に畏怖《いふ》が広がり始めた部下達を眺め、ラスターはあえて気力を振り絞った。
騎士たる者が、この程度でどうしてすごすご逃げ帰れるだろう。それにどのみち、主命《しゅめい》を無視して撤退など不可能なのだ。
「弓が通じぬなら、槍で直接攻撃するまでだっ。いかにおまえの力が強大といえど、騎士団百騎の突撃を防げるか!?」
「何もわかってないのよ、あなたは」
冷ややかな断言。
「例えば、足下で百匹の蟻《あり》が群れていたとして、あなたはそれを脅威《きょうい》と感じるの? あなた方とあたしの間には、それほどの力量差があるのよ……。いい加減に、己《おのれ》の無力さを悟ることね、隊長さん」
「笑わせるなっ。神にでもなったつもりか!」
ラスターがさらなる号令をかけようとしたその時、シルヴィアがさっと右手の魔剣を天に掲げた。
と、それまでぎらぎらと陽光《ようこう》が照りつけていた大地に、にわかに靄《もや》が生じる。靄《もや》は見る見るうちに白い霧に変化し、さあっと周囲に広がってきた。
ものの十数秒で、ミルクを溶かし込んだような濃密《のうみつ》な霧が荒野《こうや》を覆い尽くす。
その速度は普通の気象現象にあるまじき早さであり、唖然《あぜん》とするほど唐突《とうとつ》でもあった。
いや、そもそも今は快晴なのだ。霧が出るような条件下にはない!
「……どういうことだ?」
警戒の声を上げるラスターに、霧の中で煙《けぶ》るように立つシルヴィアが答える。
「別にあたし一人で相手をしてあげてもいいけれどねー。……それだと、あなた方は全滅するまであきらめないみたいだから」
彼女の声と重なるように、霧の向こうから無数の羽ばたきの音が聞こえてきた。
しかし、構っていられない。
天を仰《あお》ぎ、ラスターは絶望的な思いに捕らわれていたのだ。
「まずい、太陽が隠れた!?」
「驚くほどのことかしら。元々この辺りの気候は、人間よけのために、全てあたしが操っているのだけれど。この地方の不自然な気候を、自然現象だとでも思っていたの?」
言われ、呆然《ぼうぜん》と少女を見返す。
言葉を無くしたラスターに、微笑とともにシルヴィアが続ける。
「人間達が『霧の国』と呼ぶ我が領土内に、自由気ままに霧を生み出しているのは、このあたし。火の高位|精霊《せいれい》アータルを使役《しえき》しているのもまた、このあたしなのよ」
そして、ほら――と少女が魔剣の切《き》っ先を他へ向ける。
まず、声が聞こえた。
全てが女性の声で、笑い声である。
今や、視界を塞《ふさ》ぐほど濃い霧の奥から聞こえ、どんどん大きくなっていく。
いつしか鳥の羽ばたきのような音は止んでおり、人の笑い声に取って代わっている。
底冷えのするような笑い声に――
『ふふふ……うふふ……あはは……』
ラスターが気付き、もちろん部下達も全員がその『影』に気付いた。
「向こうを見ろっ。何人もの人影が見えるぞ!」
「あ、あの光はなんだ……」
陽光《ようこう》を完全に遮《さえぎ》った霧の奥より、次々に人影が現れる。
そして、ブゥゥゥゥンという微《かす》かな音がそこかしこに満ちていく。
新たに登場した多数の女性達の手に、光り輝く魔力のオーラがある。
顔も姿も違えど、髪だけが共通して銀髪、さらに全てが女性ばかりという部隊――彼女達は皆、今では見かけることもまれな魔剣を手に、じわじわと接近してくる。
赤い瞳に、怒りの炎を燃やしながら。
憎しみの声とともに――
『人間……人間め……どこまで私達を迫害《はくがい》すれば気が済むの……』
「この人数の全てが、魔剣の使い手とは!」
驚愕《きょうがく》に顔を歪《ゆが》めるラスターに、シルヴィアの宣言が届く。
「ルーンマスターが希有《けう》な存在に成り果てたのは、あくまで人間世界の話……。ここでは、魔法使いなんて珍しくもないのよ。なにしろ、あたしの膝元《ひざもと》だもの」
またしてもくすくす笑う声。
そのシルヴィアの周囲に、彼女の部下たるヴァンパイア達が集結する……その数は、刻々と増えつつあった。
「さて。唯一《ゆいいつ》の慰《なぐさ》めだった人数差も覆され、個々の戦闘《せんとう》力の差はもう、お話にもならず。……これでもまだ、戦いを継続するつもりかしら」
「くどいっ」
ラスターは、自らを励《はげ》ますように声を放つ。
「いい気になるな、ヴァンパイアめっ。我らが倒されれば、人間達はさらなる結束でおまえ達を追い詰めるだけのことだ!」
長槍を高々と持ち上げる。
『全軍突撃!!』
大声で決死の号令をかけ、ラスターは真っ先に飛び出した。
『全軍突撃!』
覚悟を決めたのか、部下達が一斉《いっせい》に唱和し、後に続いた。
馬蹄《ばてい》の下敷きにするような勢いで彼女に突っ込み、ラスターは渾身《こんしん》の力で槍を突き出す。
が、シルヴィアは動く――伝説のヴァンパイアが、双剣《そうけん》を手に優雅《ゆうが》に舞う。
まず右手の大剣が唸《うな》りを上げ、彼の長槍を途中から斬り飛ばす。次に、激しい叱声《しっせい》。相手が跳躍《ちょうやく》するや否《いな》や、老練《ろうれん》なラスターは身体が勝手に反応した。
考えるより先に、手が動く。役立たずの槍を放棄《ほうき》し、長剣を立てて横殴りの斬撃《ざんげき》に備えたのである。ブンッ、という風切り音が聞こえた。
巨大な魔剣が、シルヴィアの手によって存分に振り切られた。
空中で襲いかかったその二の剣を受けた途端《とたん》、ラスターの口から苦鳴が洩《も》れる。
か細い少女が片手で振った剣を、受けきれなかったのだ。
鎧《よろい》込みで、百キロを超える大柄な身体が、愛馬から簡単に弾き飛ばされた。
何メートルも飛ばされ、気がつけば大地に伏《ふ》していた。
視界がぶれている。
受けた衝撃《しょうげき》の深さに、全身の筋肉が痙攣《けいれん》している。どこか、腱《けん》が切れたようだ。
それでも立とうとして、激痛にまた呻《うめ》く。
部下達の声が遠くから響くが、返事も出来ない。
霞《かす》む目で見れば、自分の長剣はモノの見事にへし折れていた。両手も、まとめて骨折しているようだ。
「な、なんという」
――凄《すさ》まじい剣撃《けんげき》だ、と呟《つぶや》きかけたラスターの視界に、追撃するシルヴィアの姿。
双剣《そうけん》を手に軽々と虚空《こくう》を跳んで一回転し、今まさに彼の元へと舞い降りつつある。
ラスターがこの世の最後に見たものは、自らの頭上に落ちる、シルヴィアの大剣だった……
――わずか数分後。
既《すで》に勝敗は決していた。
霧の立ちこめる荒野《こうや》には、大勢《おおぜい》の騎士達が倒れ伏《ふ》し、もはや動かぬ屍《しかばね》と化している。
シルヴィアは自らが手にかけたラスターを、じいっと見下ろしている。
心配した仲間が数名、近付いてきた。
「……マスター?」
「シルヴィア様」
小さく息を吐き、シルヴィアは背筋を伸ばす。
仲間に頷《うなず》き、無理に笑顔を浮かべた。
「みんな無事かしら。こっちに被害は出てないでしょうね?」
「多少の怪我《けが》人は出ましたけど」
シルヴィアを補佐するユキが、しっとりと答える。
優しい顔立ちに控えめな笑顔を見せた。
「全員、既《すで》に回復しました」
指差した方向を見ると、確かに、肩や腹部を血で染めた女性達がいる。流した血の量から見て、普通なら到底《とうてい》助からないはずなのだが、誰もが平然と立っている。
倒れ伏《ふ》していた者も幾人《いくにん》かいたが、それぞれゆらりと立ち上がるところだった。
皆、シルヴィアの視線を受け、「大丈夫です」とばかりに首を振る。
まあ、ヴァンパイアを殺すのはそう簡単ではない。なのである意味、この結果は当然である。
自分達を根絶《こんぜつ》しようとする人間達の試みは、最初から無謀《むぼう》だったのだ。
ただ、とユキが続ける。
「戦闘《せんとう》の終盤で、敵の何人かが悲鳴を上げて逃走しました」
「逃げたのはいいわ。二度と来なければそれでいい」
「……連絡が行って、今度は大軍で来ないでしょうか?」
ユキが小首を傾げる。
別に、自分達が敗れる心配をしているのではない。
ただ彼女は、殺し合いなどしたくないだけのことだろう。
「そう、来るかもねー。その時は仕方ない……また戦うだけよ。全滅させたって、来る時は来るんだし」
肩をすくめ、シルヴィアは皆に指示を出す。
後始末《あとしまつ》をして……領地へ戻るのだ。
その時、ふっと何かを感じた。
足を止めて目を細める。霧越しに、遥《はる》か遠方からの『力の波動』を感じ取る。
ユキが、そっと寄り添う。
「……シルヴィア様、どうかなさいましたか」
「まだ距離があるけど、どうやらまた客人のようよ」
新たな『気』に意識を集中しつつ、ユキに教えてあげる。
「これは――」
感じ取った力の波動に、大きく目を見張る。
ややあって、ゆっくりと微笑した。
「どうしてどうして……人間にしては強い力を持っているわねー。今の騎士団より、この『誰かさん』の方がよほど手強《てごわ》いわ。歴戦の戦士なのかな?」
ユキは眉《まゆ》をひそめた。
「……手強《てごわ》いと仰せですか? シルヴィア様がそのように仰《おっしゃ》るのは、一体何年ぶりのことでしょう」
「心配性ね、ユキ」
くすっと笑う。
「大丈夫、あたしは負けないわよ。……どっちにしろ、相手が挑んで来るなら撃退するだけのこと。これまでと同じように」
シルヴィアのセリフが尻すぼみに消える。
「妙《みょう》ね……今、エクシード――『気』が揺らいだわ。もしかしてもう一人――二人目がいる?」
――☆――☆――☆――
「はあっ」
殴りかかってきた豪腕《ごうわん》を余裕でかわし、レインが無造作《むぞうさ》に魔剣を薙《な》ぐ。
どすどすっとなおも数歩を走る、サンド・オーク。
しかし、遅れて太い首筋に赤い線が刻《きざ》まれ、ぐらっと首が傾く。
そのまま、ごろっと落ちた。
茶色い毛だらけ身体が痙攣《けいれん》し、地響きと共に倒れる。
魔剣を鞘《さや》に戻し、レインはまた歩き始める……ただし、まだ早朝だというのに、本日の魔獣《まじゅう》退治はもう二匹目である。
ジブリタールの騎士団と別れて数日、レインの体力もさすがに底を尽きつつあった。
水だけはあるが、食料の方は既《すで》に食べ尽くしている。
唯一《ゆいいつ》の慰《なぐさ》めは、もはや迷う心配だけはない、という点か。星の位置から方角を確かめて進んでいた時と比べ、今は騎士団の馬蹄《ばてい》の後を追えばいいのである。
彼らが問題のヴァンパイア達を殺し尽くしてしまうかもしれない――という可能性をレインは全く考慮に入れていない。
問題のヴァンパイア・マスターは、ホークによると彼自身より強いという。騎士団で一番マシそうなのは例の隊長だったが、それでも彼はホークと比べようもない。
ならば、あの騎士団がヴァンパイア達を殲滅《せんめつ》する可能性など、ほぼ皆無《かいむ》のはず。
それに……昨日の昼頃、何者かが遙《はる》か彼方《かなた》から俺を探るのを感じた。あの強大な力の波動が問題の人物なら、おそらく騎士団はもう――
「負けを認めて、素直《すなお》に撤退するようなヤツらならいいんだが」
呟《つぶや》きの後、レインは足を止めた。
前方をきっと見る。
(……やはり、決着はついていたか)
静かに待っていると、敗走してきた連中がよろばい歩いてきた。
全員が馬を失っており、それどころか鎧《よろい》も脱ぎ捨ててしまっている。
しかもレインを見てもなんの反応もなく、顎《あご》先から汗を滴《したた》らせつつ、泳ぐような動きで通り過ぎていった。それぞれが大きく目を見開き、ただならぬ恐怖の色を浮かべている。正気を失いつつある顔だった。
レインは事情を訊《き》こうと口を開きかけたが、よたよた歩く彼らを見て、結局黙って見送った。
なにがあったのか、これでは訊《き》くまでもない……
――歩き続けて昼過ぎ、見慣れた馬蹄《ばてい》の跡がとうとう切れた。広範囲に渡って固い土を掘り起こした跡があり、見慣れた騎士団の馬蹄《ばてい》の跡は、そこで途切れている。
よく見れば、小さな石が等間隔《とうかんかく》で並んでいた。
そして、この濃密《のうみつ》な血の臭い――おそらく墓のつもりなのだろう、並べられた石は。
どうやら……目的地は近いようだ。
そこで、ぐらっと上体が傾ぐ。倒れそうになるのをなんとか踏み止まり、レインは首を振る。
行き倒れ寸前だが、目指す相手はもう遠くないはずだ。
再開したレインの足取りは、無意識のうちに蛇行《だこう》を始めている。灼熱《しゃくねつ》の太陽が確実に体力を削っており、今や気力だけで歩いている有様《ありさま》である。
……しかし、無理した甲斐《かい》はあった。
焼けた鉄板のような状態だった荒野《こうや》の気候が、急にふっと変わったのだ。
それは明らかな変化で、灼熱《しゃくねつ》の大気に囲まれていたはずなのに、頬《ほお》を涼風がすり抜ける。
そして、いつの間にか周りを覆い始めた霧――濃い霧のカーテン。
頭上の太陽は隠れ、ぼやけた円形にしか見えない。幾ばくもなく、その形すらも消えてしまった。ただぼんやりした薄明かりだけの世界に変わる。
そしてレインは、自分の足がいつしか草地を踏んでいることに気付く。
それだけではない。
やや距離を置いて木々が生い茂り、小さな湖もその向こうに見える。
さらにそのず〜っと向こうに……寄り添うようにして集落が見えた――気がした。
「着いた……か」
やや緊張が緩んだせいか、がくっと膝の力が抜けた。
湿った草地に至《いた》ったのを幸い、そこに座り込む。いや、へたり込んだという方が近い。
だがあいにく、のんびり休憩している時間などなかった。
霧の向こうから、密《ひそ》かな声が聞こえてきたのだ。
――☆――☆――☆――
『人間……また人間です、ユキ様……』
『信じがたいけど……そうみたいね。でも、おかしいわ。シルヴィア様の結界があったはずだけど』
濃い霧の中に、綺麗《きれい》な声が反響する。
レインが待っていると、すぐに二人の女性が姿を見せた。両名とも、飾りの全くない白い清潔な上衣と、腰にまとわりつく長いスカートを穿《は》いている。
一人は肩までの銀髪、もう一人は背中の半分までの長さの、同じく銀髪である。髪の長い方は、髪飾りもつけているが。
で、清楚《せいそ》な姿に似合わず、どちらも腰に長剣を帯びていた。
座り込んだまま、レインはじっと二人を窺《うかが》う。向こうも、あえてなにも話さない。
両者の間に、奇妙な緊張感が生じた。
と、その均衡を破るように髪の短い方が前へ出ようとし、ユキと呼ばれていた女性がそれを押し止めた。
優しい顔立ちに憂いを浮かべ、悲しそうに言う。
「……争いは好まないのです。このまま、立ち去ってくれますか?」
レインは断固《だんこ》として首を振った。
着いたばかりで立ち去る気など毛頭ないし、それにホークの友人に伝えねばならないことがあるのだ。それを説明しようとしたのだが。
突然、ユキが行動を起こした。
――どころの騒ぎではなく、猛ダッシュした。
なんとこいつは、大人しそうな外見を裏切る素早さを見せつけてくれた。
疾風《しっぷう》のように踏み込み、鞘《さや》を払って抜剣《ばっけん》、魔剣を持ち上げて攻撃態勢に入っている。
座したままのレインの頭上に、魔剣の刃が殺到《さっとう》する。
一連の動作には、全く切れ目がなかった。
「覚悟っ!」
「なめるなっ」
弱っているとはいえ、そのまま殺《や》られるほど反応は鈍《にぶ》っていない。そう期待されていたのだとしたら、心外《しんがい》である。
レインは瞬時に動いている。
密《ひそ》かに力を入れていた両足を一気に踏ん張り、後方に思いっきり身を投げる。低く飛び、無理な姿勢から片手をついて後転、ギリギリで第一撃をかわす。
しかし、ユキとやらは動じる様子を見せない。
反応も早い! 予定動作のようにすすっと間合いを詰め、流れるように第二撃に入っている。
立ち上がりかけたところへ、再度の斬撃《ざんげき》が襲いかかる。レインは無意識に反応した。青き魔法のオーラが迫った途端《とたん》、自らも魔剣を抜き、剣を合わせる。
ギィンン、バチバチッ
「――! ぐっ」
防御《ぼうぎょ》は確実に間に合っていた。
それに、確かにユキの動きは速いが、自分の反応速度はこいつの上をいく、と早々に見極めていた。しかし実際に剣と剣が激突した瞬間、レインは大きく弾き飛ばされてしまった。
重い衝撃《しょうげき》に腕の筋肉が悲鳴を上げ、一時的な痺《しび》れが来る。向こうはたおやかな女性なのに、完全に力負けしていた。
常に敵の先手を打つレインが、この時ばかりは草地をゴロゴロ転がって相手の間合いを外す。
だが、ユキは容赦《ようしゃ》しない。
ふわっと飛び、天下る怪鳥のごとく舞い降りてくる。振りかざした魔剣の輝きが、白々とした霧の中で乱反射《らんはんしゃ》した。
「――はっ!!」
ザンッ
土煙《つちけむり》を上げて魔剣が大地を削り、その振動が、避けたレインにまで伝わる。追い打ちをかけるように、もう一人の女性がこいつも魔剣を振り上げ、飛びかかってきた。
またしてもレインは、無意識のうちに動いた。とっさに、その短髪女性が、ユキと自分の間に来る位置に転がる。
遅れて参加した、二人目の剣撃《けんげき》をかわした刹那《せつな》――
立ち上がり際に、魔剣を真横に薙《な》ぐ。
相手の剣は無駄《むだ》に土を抉《えぐ》ったところであり、その剣腹《けんぷく》にヒットした。
ガシイッと嫌《いや》な音がして、短髪の剣が遠くへ飛ばされた。
「――あ、やだっ」
焦って間合いを取ろうとした短髪だが、こいつのスピードは、明らかにユキに大きく劣る。
回避行動はまるで遅く、レインは起きあがりざま、正確に相手のみぞおちに拳《こぶし》を叩きこんでいる。
くたっと短髪が崩れ落ちる。
「ニナ!」
横から回り込んだユキが、悲痛な声を上げた。どうも、レインが彼女を人質に取るか、あるいはトドメを刺す、とでも思ったらしい。
そうではなく、レインが彼女をそのままに、自分の方へ向かって来るのを見ると、意外そうな顔をした。
「なにをぼけっとしている!」
叱声《しっせい》と共に振り下ろされる、青き閃光《せんこう》。
はっとなったユキが、ぎりぎりで避ける。
しかし、すかさず手首を返し、吸い付くように間合いを詰めたレインが、さらに連続で第二撃、第三撃を浴びせる。
レインの操《あやつ》る魔剣は、寸瞬の間に変幻自在《へんげんじざい》の動きを見せた。
時には風のような剣撃《けんげき》に、あるいは雷光《らいこう》のような突きに変化し、ユキを追い詰める。
「なんという……激しい剣舞《けんぶ》っ」
攻撃に転じたレインの魔剣から逃《のが》れられず、ユキはいつの間にか守勢《しゅせい》に回っていた。
斬撃《ざんげき》を受けたその刹那《せつな》、早くも他の急所を攻められているので、剛力《ごうりき》を活かすことが出来ない。自慢のスピードもレインに及ばず、ただ攻撃を受けるのに精一杯だった。
それでも必死に片手を振り上げ、彼女は何かをしようとした。あるいは、魔法を使うつもりだったのかもしれない。
だが、レインがそうさせない。
悠長《ゆうちょう》に魔力を集中する暇などなく、手を水平に伸ばしかけた途端《とたん》、魔剣の斬撃《ざんげき》から慌《あわ》てて飛び退《の》く始末《しまつ》である。
「スピードが――いえ、私の動きが読まれているっ。あ、あなたは一体、何者なのっ!」
優勢《ゆうせい》から劣勢《れっせい》へと変化しつつある戦いに、ユキの顔にも焦りが見え始めた。レインの剣撃《けんげき》を堪《こら》えきれず、無理にも退《ひ》こうとしたその時――
一瞬の隙《すき》を捉《とら》え、今度はレインが片手を伸ばし、ユキの腕を捕まえた。
その間、未練なく魔剣を放している。
「ああっ」
懐《ふところ》に飛び込み、ユキを背負い投げに持ち込む。
剛力《ごうりき》で踏ん張る前に、既《すで》に彼女の身体は綺麗《きれい》に回転、草地に叩き付けられている。
同時にレインは、地面に落ちた魔剣を爪先で引っかけて飛ばし、右手に取り戻す。
「ううっ」
やや顔をしかめたユキが、それでもさっと半身を起こそうとしたものの……もはや勝負はついていた。
青白き魔剣を、びたっと彼女の細首に突きつけていたのだ。
「……ここまでだ」
座り込んだまま、呆然《ぼうぜん》とレインを見上げるユキ。
二人ともしばらく沈黙《ちんもく》していたが、やがてレインがぶすっと告げた。
「俺は、別にあんた達の敵じゃない。そもそもここへ来た訳は」
そのセリフを遮《さえぎ》るように、華やかな拍手の音がした。
レインの背中に、冷たいものが走る。
飛び退《の》くようにしてユキから離れ、新たに登場した『誰か』を見る。
その女性――というか女の子は、やや距離を置いた向こうに、ぽつねんと立っていた。
膝まで届く長い長い銀髪を青いリボンでツインテールにまとめており、濃い霧越しに見ても、人形のように愛らしい顔立ちだとわかる。
ただ、ユキのように大人しそうには見えない。やや切れ長の瞳といい、きりっとした眉《まゆ》といい、芯の強さを想像させる。
服装も、ユキ達のようにシックではない。
ぴったりとサイズの合った、ノースリーブの薄青いブラウスに、フレアミニの純白スカートという格好である。
すらりとした手足が、惜しみなく剥《む》き出しだった。
とはいえ、レインにとってそれらの外見特徴は、まあどうでもいいことである。一年前ならその美貌《びぼう》に大いに惹《ひ》かれたろうが、今は他にもっと気にするべきことがある。
問題は、この少女が自分の意表《いひょう》を突いた、という事実だ。
拍手されるまで、まるで気配《けはい》に気付かなかったのだ。……これほど接近されていたのに。冗談ごとではなく、故郷を出て初めての経験である。
「……シルヴィア様」
ほっとしたようなユキの声。
彼女に向け、少女――シルヴィアはねぎらうように笑いかける。
「ごめんね、ユキ。意地悪《いじわる》だと思ったけど、少し見せてもらってたわ」
ユキも微笑み返し、シルヴィアの視線を受けて、倒れたニナとやらを見る。
「そうそう、彼女を見てあげて。ただの当て身だから、まあ怪我《けが》なんてしてないでしょうけれど」
「はい、シルヴィア様」
「よろしくね」
ユキの返事に手を振って応える。
で、ワイン色の瞳がまたレインを見た。
魔剣を下段に構えたままのレインに、軽やかに言う。
「ユキを相手にあっという間に勝負を決めるなんて、やるわねー。一応あの子、ここじゃあたしの次に強いんだけど」
――て、二番手といっても、あたしと比べてあげるのは可哀相《かわいそう》だけどね。
などと付け足し、くすくす笑う。
「とりあえず、二人を傷つけずに勝負を決めたのは、大いに感心したわ。お陰であたしも、余計な手出しをせずに見ていられたし」
「……シルヴィア・ローゼンバーグ」
レインは囁《ささや》き声を洩《も》らす。
「そう、それがあたしの名前。なになに、あたしを訪ねてきたのかな?」
話しつつ、歩き出す。
胸の下で軽く腕を組み、まっすぐ背筋を伸ばした美しい姿勢で、無造作《むぞうさ》にレインのそばへと。
お陰で、レインは思わず身構えかける。
しかし、シルヴィアは特になんの反応も見せない。敵意はおろか、緊張感も露《あら》わにせず、徹底して自然体だった。じいっとレインを見つめながら、ゆっくりとその周りを一回りする。
観察する視線が、なんだかやたらに熱かった。
その顔に、徐々《じょじょ》に感動というか、感嘆のようなモノが広がる。
「う〜ん……これはこれは。正直、驚きだわね。人間という種族を、少し見直す気になったわ」
数秒ほど観察しただけなのに、シルヴィアは大仰《おおぎょう》な言い方をした。
正面に戻り、穏やかに問う。
「あなた、お名前は?」
「……レイン」
例によって、ぶっきらぼうに答える。
シルヴィアはすかさず、奇妙な質問を重ねた。
「ではレイン……あなた、見かけは十五歳くらいに見えるけど――実は、何百年かの歳を経ているの? 何らかの術で、少年の姿を保っているわけ?」
「まず言っておくが、俺はガキじゃないぞ」
レインは真っ先にそこを主張し、眉《まゆ》をひそめて質問に答えてやった。
「年齢なら、もうすぐ十六歳だ。だいたいエルフじゃあるまいし、人間は何百年も生きられないだろう」
「いえ、人間でも、場合によっては寿命《じゅみょう》を延ばすことは可能なんだけど。それよりあたしが驚くのは――」
美しいワイン色の瞳をまじまじと見張るシルヴィア。
「今のは嘘じゃないらしい、というトコかしらねー。でもそれでいて、あなたが纏《まと》った不可視《ふかし》のエクシードは、優に数百年の修練《しゅうれん》を積んだ達人ほどに練《ね》れている……これはどういうことかしら」
「あんたの言ってることは、俺にはよく理解できない。俺は魔法が使えないから、指摘したいのは『魔力のオーラ』とは別物なのだろうな」
レインは正直に首を振った。
「ただ、そのエクシードとやらが、いわゆる『気』のことなら――多少の説明は出来る。俺がそれをコントロールできているのは、あるじいさんがヒントをくれたからだ」
「――! エクシードを理解し、教えてくれる師がいたの? 今の時代じゃ、珍しい人材ね。このあたしでさえ、そんなの一人しか知らないんだけど。いえ、人間限定だけどね」
彼女の言うその一人とは、ホークのことだろうと思ったものの――
彼の話をするなら、もっと落ち着いた場所がいいと思い、レインはあえて先を続けた。
「直接、教わったわけじゃない……だがそう、師といえば師だ」
シルヴィアが小首を傾げた。
説明を求めているように思えたので、ポツポツと教えてやる。
「正確には、以前彼が『エクシード』を使った応用術を見せるのを、観察してたんだ。それ以後、俺もなるべく意識するようになった。魔法とはまた別物らしいが、戦いの役に立ちそうだしな」
こともなげに語るレインの説明を聞き、ニナのそばにいたユキが固まった。
シルヴィアですら、言葉に詰まっていた。
たっぷり間が空いてから、眉《まゆ》をひそめて確認する。
「間違っていたらごめんなさい。つまりあなたは、こう主張するわけ? その誰かさんのエクシードを元にした応用術を見て、自分も早速《さっそく》使うようになった、と」
「そうなるんだろうな……その通りなんだから」
シルヴィアは白い手を額《ひたい》に当て、可愛《かわい》い顔になんとも言えない表情を見せた。
「あたしがその道の達人じゃなければ……即座《そくざ》に嘘つき扱いしてあげるんだけど。それともあなたは、エクシード――つまり『気』を乱さずに嘘がつけるのかしら」
――こっちの方が可能性としては高そうだわ。
などと言い足し、首を振っている。
なお、例のユキは未だに固まったままポカンとレインを見上げている。
段々|居心地《いごこち》が悪くなってきたので、レインとしても多少の言い訳をする気になった。
「その戦士が言うことには、俺には希有《けう》の才能があるらしい」
補足説明のつもりだったのだが……女性二人の沈黙《ちんもく》が、余計に深まった気がする。気まずい空気が漂うこと数十秒、シルヴィアが呆《あき》れたような吐息《といき》をついた。
「要は、天才ってことね〜……。残念ながら数千年に及ぶ時を経ても、あたしは一度も見たことないわね、そんな人種。秀才クラスでさえ、ごくごくまれだった」
微苦笑を浮かべる。
「知らなかったのなら、覚えておきなさいな、レイン。エクシードや剣術、それに魔法――これらの習得に関して、楽な道なんてないわ」
そして、急に小さく呟《つぶや》く。
『剣よ、我が手に!』
直後、彼女の右手が閃光《せんこう》を発した。
ブオゥン!
その刹那《せつな》、濃密《のうみつ》な霧が確かに真っ二つに避けたように見えた。
無論、それは気のせいで――
要するに、シルヴィアが自分の右手に魔剣を出現させ、いきなり突きを繰り出したのである。
まさに稲妻《いなずま》のような速さで、だ。
だがレインは、その場から一歩も動かない。
動けなかったわけではない。彼女の動き、そして突き出された剣筋は終始見えており、最初から外《はず》れるのがわかっていたからだ。
実際、シルヴィアの魔剣は、レインの首筋をきわどくかすめて止まっている。
レインの瞳は魔剣の動きを追い、剣が静止したところでシルヴィアに視線を戻した。魔剣の動きを完全に把握《はあく》している。
様子を窺《うかが》っていたシルヴィアは、意外にも楽しそうにくすくす笑う。
「へぇ〜? 天才かどうかはともかく――あなたは確かに、大言壮語《たいげんそうご》するだけのことはあるわ。加減していたとはいえ、今のを見切ったのは大したものよ」
「さっきも言ったが、俺はあんた達の敵じゃない。とにかく、少しあんたと話したいんだが」
「まあ、いいでしょう。あたしも最初から、あなたには興味があったのよ。ただ、さっきから気になってたけど、その魔剣は――」
話しながら視線を下げ、シルヴィアが魔剣の、特に柄《つか》の辺りを観察する。
と、大きく息を吸い込む音。
輝く魔剣を改めてじいっと見つめ、そしてまたレインの顔を眺める。
最初の時より、遙《はる》かにじっくりと。
声音《こわね》が、囁《ささや》くように低くなった。
「この剣を、再び目にする日が来ようとは……そう、あなたとはぜひ話した方がいいわね」
レインが答える前に、ユキが控えめに口を挟む。
おずおずと、しかしはっきりと言う。
「ご事情はわかりませんが……本当によろしいんですか、シルヴィア様。もしこの人が、人間達のスパイだったら……」
「大丈夫よ、ユキ。元々招待するつもりだったし、それに――」
すっかり元の穏やかな表情に戻り、シルヴィアは謎のセリフを述べた。
「そういう心配はないでしょう、この子なら。なにしろ……この魔剣の所持者なんだから」
「待て」
今度はレインが割って入る。
「あんたはこの剣の素性《すじょう》を知っているようだが――。これは、単なる無銘《むめい》の魔法剣じゃないのか?」
「いいえ。多分、銘《めい》はあるわよ。『傾国《けいこく》の剣』なんて嫌《いや》な呼び方じゃなくてね」
「け、傾国《けいこく》の……剣!!」
ユキが小さく呻《うめ》く。
ヴァンパイア達にすら、この剣の噂はあまねく知られているらしい。
無意識でか、いきなり数歩ほどレインから離れる。
「そう、悪名が天下に轟《とどろ》いているわね……」
シルヴィアは、ただ哀しそうな笑みを見せるのみである。
「今は、まだ何も知らない方がいいと思うから、あたしも余計なことは言わない。ただあなただけは、その剣を嫌悪《けんお》しないでね……」
「別に、嫌ったことなんかない」
レインは即答する。
「それより、あんたは何を知って」
「さて!」
シルヴィアは急に手を叩き、沈んだ表情を払拭《ふっしょく》した。
もはや傾国《けいこく》の剣について語る気はないのか、露骨《ろこつ》に指示を飛ばし始める。
「ユキ、ニナを起こして。レインも質問はあとあと! さっさと村へ戻るわよ〜」
あたかもオアシスのように、不毛の荒野《こうや》で、ここだけに緑が広がっている。
森もあれば綺麗《きれい》な水をたたえた湖もあり、その全てに濃い霧がかかっていた。
ちゃんと住人がいるのだろう、時折、陽炎《かげろう》のようにぼんやりした人影を見た。
彼女達は、シルヴィアに気付くと真っ先に挨拶《あいさつ》するものの――
レインの姿を見ると、みな例外なく、驚いたように立ち止まってしまう。
話しかけてくる者など、皆無《かいむ》だった。
「……人間は、とことん嫌われているようだな」
レインの無遠慮《ぶえんりょ》な呟《つぶや》きに、シルヴィアは前を向いたまま肩をすくめた。
「人間の方だって、あたし達を嫌っているわよ。それも、遙《はる》かに激しくね」
「例外だってあるだろう。俺は今も昔も、特にヴァンパイアを嫌ったことなどないぞ」
「――! 嘘ですっ」
シルヴィアではなく、ユキが反論した。
大人びた彼女が、随分《ずいぶん》と感情的な声で。
レインが「嘘じゃない」と言い返すと、また首を振って否定する。とことん、人が信じられないらしい。微笑みを含んだ声で、シルヴィアがたしなめた。
「この子は大丈夫よ、ユキ。さっきも言ったでしょ――彼はあの魔剣の所持者なんだから」
だから、それはどういう意味だ?
という疑問をレインが投げる前に、彼女はまた良いタイミングで手を上げた。
「ほら、あそこがあたし達の住んでいる場所。まあ、村ね……規模は小さいけど、他にもこんな村が幾《いく》つかあるの」
言われてみれば、草深い小道が途切れ、開けた場所に出た。到着した時、遠くに見えていたのがここだろう。
周りをすっかり森に囲まれ、木造の意外に大きな家がたくさん建っている。
例によって村の中には数名の人影があったものの、レインに気付くと、全員がその場で固まってしまった。
いたのは女性ばかりだったが、人間の訪問は初めてらしい。
シルヴィアがまた、幾度《いくど》か手を叩いた。
「ほら、大丈夫だから、緊張しないの! この子は平気よ。あたしのお客さんだからね」
一応……皆はシルヴィアの宣言に頷《うなず》きはした――だが、次の瞬間、あっという間にレインの視界から消え去った。
いかにも用事があるように、それぞれの家にささっと戻ってしまったのである。
「なんだか……こっちが怖がられているみたいだな」
思わず皮肉な物言いになるレインである。
「その通りよ」
あっさりした肯定。
「例外もいるけど、ヴァンパイア達の多くは、本心では人間を恐れているの。……ひどい目に遭《あ》うからね、うっかりそっちのテリトリーに行くと」
「そうか……人間達の中にも、心の狭いヤツはいるだろうからな」
自らを納得《なっとく》させるようにレインが返すと、シルヴィアは心底愉快そうに笑う。
「じゃなくて。むしろ、自分が変わっているのだと自覚しなさいな。あなたは良い意味で、普通の人間達とは違うのよ。まあ、度量《どりょう》の大きさというか、器《うつわ》が違うのでしょうけれど」
「そんなことはどうでもいい」
レインはシルヴィアをじろっと見返した。
「ここで俺が興味あるのは、あんただけだ」
『ええっ!?』
小さな叫び声が重なった。
シルヴィアではなく、ユキとニナの二人組である。
『シルヴィア様が目的でここへ――』
これまた二人同時の声。
レインとシルヴィアを見比べ……なぜか、両名とも、頬《ほお》を染めたりしている。
「なにをわけのわからん勘違《かんちが》いを」
レインが顔をしかめるのと、シルヴィアが華やかな笑顔を弾けさせるのが、これまた同時である。
声音《こわね》に甘い響きが混じる。
「ずっと一人身だったけど、レインが相手なら考えてもいいわよ、あたしも〜。なかなか気に入ったし、この子♪」
くすくす笑うシルヴィア。
ユキとニナが黄色い悲鳴を上げる――前に、レインがさっと割り込んだ。
これ以上|無駄《むだ》話が増えるのは、たまらない。
「なんでもいいから……早く話がしたいんだが」
――☆――☆――☆――
シルヴィアの指示を受け、ユキ達は何処《どこ》かへと消えた。
よって、レインのみが彼女の家に行く。
マスターとはいえ、彼女の家は皆よりやや大きいというだけに過ぎず、要は単なる木造の屋敷《やしき》である。
いくつかの部屋と広い寝室があるのみで、別に噂で聞いたように、でっかい棺桶《かんおけ》などはなかった。
ただ、テーブルやワードローブなどの家具が全て純白で、ふかふかした絨毯《じゅうたん》は真っ青である。
なんとなく、シルヴィアの女性らしさを見た気がして、さしものレインも少し落ち着かない。
ついでに言うと、彼女が住まうせいか、部屋の中はほのかに甘い香りがした。
とりあえず、挨拶《あいさつ》代わりに述べる。
「……別に普通の部屋だな」
「まあ、あたしは特別だから」
違う意味に取ったのか、寂しげな微笑を見せるシルヴィア。
「でも他の子の家は、例外なく窓が真っ黒に塗られているわ。――絶対に光が入らないように」
客間でテーブルにつき、両手を組んで肘立てした上に顎《あご》を乗せ、正面のレインをじっと眺めている。
そんなシルヴィアからあえて目を逸《そ》らし、重ねて訊《き》く。
「黒く塗られている? ここは年がら年中、霧が立ちこめているんじゃないのか?」
「いいえ。ちゃんと晴れの日も作るわよ。でないと、作物が育たないもの」
「なるほど……この気候は、あんたのせいだったか」
言葉の意味を読み、あっさり事実を受け入れるレインに、シルヴィアは微笑みを深くする。
「ほら、クッキーどうぞ〜。あたしが焼いたのよ? こっちの飲み物の方も、心配しなくても血じゃないわ。ただの赤色したワインだから」
「いや、先に告げておきたいことがある」
レインは座したまま、居住《いず》まいを正した。
「ぜひともあんたが知っておくべきことだ」
「……大げさね、何かしら?」
シルヴィアが眉《まゆ》をひそめた。
「ホーク・ウォルトンを知っているか?」
「それは……もちろん。あたしのお友達だか……ら」
言いかけ、はっと顔を上げた。
「まさか……どこか悪くしたの、彼?」
祈るようなシルヴィアの顔に、あえてしっかりと瞳を向ける。
レインは一息に語った。
「――ホークが亡くなった」
レインとしても、いかにシルヴィアといえど、多少の衝撃《しょうげき》は受けるだろうと予想はしていた。
『彼女は、私の古くからの友人なんだよ……大切な友達だったねぇ』
かつてのホークもそう語っていたくらいである。
ならば、どんなに気丈《きじょう》そうに見えるシルヴィアでも、この知らせを聞き流せるはずがない。
だからこそ、わざわざ二人きりになってから話したわけだが――
シルヴィアの反応は、レインの予想など遙《はる》かに超えていた。
先程《さきほど》まで笑顔を見せていた表情は、すっかり凍り付き、切れ長の瞳がこれ以上ないほど見開かれている。テーブルに置いた右手も小さく震え出していて、さらに瞳の縁には見る見る涙が溜まり始めていた。
これにはレインも焦った。
見た目を裏切る、落ち着いた雰囲気の女性だと思っていたので、まさかここまでショックを受けるとは思わなかったのだ。
胸の内には強い同情の念があったが、安易に甘ったるい声をかける気にはなれない。
かえって彼女の悲しみを深めるのではないか――そう思ったからだ。
なので、仕方なく沈黙《ちんもく》を保つ。
長い時間が過ぎ、やっとシルヴィアが掠《かす》れた声を出した。
「ホークが死んだって……いつのことなの?」
「ついこの前だ……俺が最後を看取《みと》った」
シルヴィアは、務めて落ち着こうとしているようである。
大きく深呼吸をした後、スカートからハンカチを出して目元をごしごし拭く。
レインは、そんな彼女からあえて目を逸《そ》らした。自分なら、見られたくないだろうから。
「ホークは、あんたのことを『大事な友達』だと言った。あんたにとってもそうだったんだな……」
「ええ……今となっては、人間世界のたった一人のお友達だったわ」
「そうだったのか。……それなら、あんたの気持ちはわかる気がする」
ポツンと答え、やっとシルヴィアに目を戻した。
「……しばらく、席を外そうか?」
「そうね……そうしてほしいかもしれない」
初めて彼女が弱々しい声を出す。
しかしレインがすっと席を立つと、今思い出したように顔を上げた。
「待って! 先に教えて……なぜホークは亡くなったの? 相当な年齢だったし、そのせい?」
病気だった、と言いかけ、レインは首を振る。
まず一つ、はっきりさせておかねばならない。
「病んでいたのは事実だが、最後のトドメを刺したのは、この俺だ」
先程《さきほど》の沈黙《ちんもく》が衝撃《しょうげき》の深さを物語るなら、今度のそれは怒りの大きさを示しているかもしれない。
シルヴィアは一瞬、何を言われたのかわからない、という風に瞬《またた》きした後――
はっきりと表情を強張らせた。
彼女が『エクシード』などと呼ぶ『気』を集中して見れば、ある程度までは真偽《しんぎ》を見抜くことが出来る(らしい)。つまりレインが嘘をついていないと知れるわけで、ならばこの怒りも無理はなかろう。
それでもシルヴィアは尋ねた。
「本当……なの?」
ぞくりとするほど、低い声で。
ワイン色の煌《きら》めく瞳が、強い怒りで真紅に染まりかけている。まさに、ヴァンパイアの瞳だ。
「嘘は言ってない」
その途端《とたん》、小さなテーブル越しに身を乗り出し、シルヴィアはレインの首を掴《つか》んでいた。
「――! くっ」
いや、彼女の手の大きさからして、誰の首であろうと掴《つか》みきれるはずはない。
それはレインもわかっているのだが、細長い指先が自分の首にずぶりと食い込んでおり、凄《すさ》まじい激痛が襲っている。だからどうしてもそんな気がしたのだ。
おまけに避ける暇も全くなかったほどで、改めてシルヴィアの力量を知った気がする。
「もしそれが本当なら……あなたは私の敵よ、少年!」
至近からレインの瞳を覗《のぞ》き込み、宣告を下す。
レインの方は両手で彼女の右手を掴《つか》んでいるのに、外すことが出来ない。外見は十代の少女にしか見えないシルヴィアだが、あるいはその筋力は、滅びたとされる魔族達と同等の域に達しているかもしれない。
つまり、最強の魔獣《まじゅう》に勝るとも劣らない、ということだ。
たちまち息が詰まり、視界が霞《かす》み始める。
だが、レインは抵抗を続けるどころか、逆に掴《つか》んでいた両手を放した。
完全にシルヴィアに身を委《ゆだ》ねたのである。
言い訳など最初からする気はないが、仮にその手の『弁解』をしたところで、ホークを殺したのが自分であることに変わりはない。
そのことについて訂正する気は全くないのだ。
よって、彼女の怒り故《ゆえ》に殺されるのなら、甘んじて運命を受けよう――そう思った。
ところが、レインがすっかり抵抗をやめ、静かにシルヴィアを見返した途端《とたん》、彼女はふっと腕の力を抜いた。
真紅に染まっていた瞳からたちまち怒りの炎が消え、不審《ふしん》な目つきに変わる。
「あなたほどの戦士が、剣も抜かずにあきらめるはずがないわ……」
小首を傾げる。
「なにか事情があった、そうなのね? 早く気付くべきだった」
「いや、あんたの怒りは正当だ。事情もなにも、さっき話したことは全くの事実だ」
首を絞められた影響か、やや枯れた声で言い返す。
血が、首筋から肩へと流れていく。
ズキズキする痛みと共に、断続的に咳が出た。
するとシルヴィアはまた右手を伸ばし、今度はレインの首を絞めるのではなく、そっと傷に触れてくれた。
たちまちにして傷口が塞《ふさ》がり、出血が収まっていく。血の雫《しずく》までが跡形もなくなる。
不思議な、そして完璧な治療が済むと、シルヴィアは手を上げ、ぺちぺちとレインの頬《ほお》を叩いた。
今度は、ほとんど力を入れずに。
哀しそうに告げる。
「……あたしの身にもなってよ。親友が亡くなったのよ? 立場が逆なら、どんな事情があったのか余《あま》さず知りたいと思わない?」
――反論出来なかった。
全くもってその通りである。
表情を和《やわ》らげ、レインは素直《すなお》に低頭《ていとう》した。
「すまない……あんたの言う通りだな……」
小さく息を吐く。
「最初から話そう……少し長い話になるが、聞いてくれ」
ホークと出会い、彼が死に至《いた》るまでの経過を話した。
この訪問の真の理由だけは伏《ふ》せ、あとはほとんどそのままに。
三十分ほどかけて語り終えた頃には、シルヴィアは、だいぶ落ち着いていた。
いや、哀しみが消えたわけではないが、少なくともレインへの疑いと怒りは、完全に解けたようである。
ただし、怨《えん》ずるような目で不平を述べた。
「最初からそう言えばいいのに……結局、原因はそのならず者――」
「絶対に違う!」
皆まで聞かず、レインは断固《だんこ》として否定する。
「彼の最後の相手は、この俺だった。俺だったんだ! 断じて、あいつらなんかじゃないっ」
気付けばいつもの冷静さを失い、声を荒げて主張していた。
珍しく激しい感情を込めた瞳が、シルヴィアを真っ直ぐに射抜く。
「いいか、よく聞け! 誰であろうと――たとえ親友だったあんただろうと、『ホーク・ウォルトンは野盗達に殺された』などとは言わせない! あんな連中に倒されるホークじゃないぞっ」
どんっ、とテーブルを叩く。
自分でも意外なほど感情が激していた。
シルヴィアの機嫌《きげん》を損ね、ここを追い出される羽目になろうと、これは絶対に譲《ゆず》れない。
だが彼女は、機嫌《きげん》を悪くするどころか、優しく微笑んだ。
「わかったわ、レイン。よーくわかったから」
優雅《ゆうが》な物腰《ものごし》で立ち上がり、わざわざレインの横まで来る。黒衣《こくい》の肩に手をおき、囁《ささや》きかけた。
「……ありがとう。ホークの名誉《めいよ》を守ってくれるつもりなのね」
「馬鹿なっ。俺は真実を話しているだけだ。彼は野盗ごときに殺されたんじゃないっ。最後の相手はこの俺で――」
あくまでも頑固に主張しかけたレインだが、いきなりシルヴィアに抱きしめられ、さすがに黙り込んだ。
まさかそんなことをされるとは思わず、意表《いひょう》を突かれたのである。
「ありがとう……レインは優しいわね。ホークはきっと、あなたが大好きだったに違いないわ……」
「なんの話だ……」
答える声音《こわね》に、微量の動揺《どうよう》が混じる。
なんだか知らないが、いつの間にやらしっかりと上半身を抱かれており、シルヴィアの胸のふくらみや、温《ぬく》もりを直接感じる。
抗議《こうぎ》したかったのだが……彼女がまた小さく泣いているのがわかったので、結局、開いた口を閉ざした。
「ごめん……少しだけ、このままでいい?」
微妙に間を置き、レインはぼそっと返した。
「……あんたがそうしたければ」
――☆――☆――☆――
少し一人になりたいという彼女に合わせ、レインは自分も休息を取ることにした。
ユキと戦う余力があったとはいえ、だいぶ弱っていたのは事実なのだ。
予備の寝室とやらを借り、倒れ込むようにベッドに入る。
途端《とたん》に、魔法のように時間が飛んだ。
どうやら夢も見ず、途中で目を覚ますこともなく、いきなり深夜まで寝込んでしまったらしい。
目を開いてモザイク模様の天井を見つめ、屋敷《やしき》内の物音を探る。どうもシルヴィアは留守のようだった。
首を巡《めぐ》らし、サイドボードの上の機械時計を見やる。
もはや二時過ぎである。
すっかり疲労の抜けたレインは、起きあがって居間の方へ戻る。テーブルの上に、サンドイッチと飲み物、それに一枚の紙がカップの下に挟んであった。
『さっきはありがとう』
じっとその文面を眺めた後、せっかくだから食事を摂《と》ることにした……
その声は、食事の途中からレインの耳に届いていた。
どこか遠くから、むせび泣くような女の子の声が聞こえるのだ。
村内の誰かの家で子供でも泣いているのだろう、と初めは思っていた。
しかし、どれほど経とうと泣き止む気配《けはい》がない。よくよく考えてみると、子供が起きているような時間でもないのである。
ついにサンドイッチを食べ終わり、カップの中の果実酒を一気に飲み終わっても、まだ声が聞こえる。
自分の耳が良すぎるせいもあろうが、こんな時間帯に延々とすすり泣きが聞こえるというのも、いささか異常ではないだろうか。
その声は、例えば子供の拗《す》ねた泣き声にはほど遠く、心底悲しそうな震えを帯びた声音《こわね》なのだ。
「……どうせ暇だしな」
自分に言い聞かせるように呟《つぶや》き、レインは屋敷《やしき》の外に出てみることにした。
ヴァンパイアは夜になると活動を始める、と人の噂に言う。
しかし、例の小さなすすり泣きは別として、村の中はしんと静まりかえっている。
人が外を歩いている気配《けはい》もなく、コソリとも物音がしない。
霧の国、などと呼ばれる特性のためか、どうやらここの吸血鬼達は、人間と変わらぬ時間帯を過ごしているようだった。
ちなみに夜のせいか、濃い霧は既《すで》に晴れている。
とりあえず、微《かす》かに聞こえる女の子の声を頼りに、レインは悠然《ゆうぜん》と道を行く。
誰とも出会わないまま、昼間入ってきたのとは逆の、村の出口まで来てしまった。
その辺りは家や屋敷《やしき》が途切れ、納屋《なや》や牛舎《ぎゅうしゃ》などが並んでいる。
泣き声は、長屋のように大きい棟から聞こえた。なんの用途《ようと》なのかわからないが、なぜかここだけが周囲と浮いている。牛舎《ぎゅうしゃ》には見えず、かといって家でも納屋《なや》でもないようである。
入り口の段々になった所に、人がいた。
銀髪を首筋で切り揃《そろ》えた、例のニナである。レインを見た途端《とたん》、お尻を蹴《け》っ飛ばされたような勢いで立ち上がった。
それまでは、木製の段々にぐたっと座り込んでいたのに、だ。
げげっ、などと失礼な声を出す。
構わず近寄ると、しきりに腰の辺りを探り、数度目でやっと剣の柄《つか》を握った。
「ひ、昼間はちょっと、調子が悪かっただけなんだからっ。本当は強いのよ、あたしっ。そそ、それにねえっ――」
二秒ほど考え、
「あたしが叫んだら、ユキ様を始め、お姉様達がすっとんで来るわよっ。……ええと、五秒くらいでね!」
レインは即答した。
「おまえ相手なら、五秒あれば十分すぎる」
ニナはむっとして押し黙った。
言い返したくとも前回のていたらくがあり、反論出来ないらしい。
「……そもそも、昼間はおまえ達が先に斬りかかってきたんだ」
「だって! それは――」
「もういいから」
軽く手を振り、レインは彼女の背後を指差した。
「中に誰がいる? 泣き声が聞こえるぞ」
「だ、誰もいないわよっ。だいたい、人間にこんな小さな声が聞こえるはず――ああっ」
ユキやシルヴィアに比べると、どこか無邪気《むじゃき》な印象のあるニナだが、ついでにおっちょこちょいでもあるらしい。自分でバラしている。
「やっぱり、いるんじゃないか。……誰だ?」
「あんたに関係ないわよっ」
「そうか、じゃあ仕方ないな」
「えっ。あきらめてくれるの!?」
あからさまにほっとした様子のニナに対し、きっぱりと首を振った。
「いや、『仕方ないから力ずくで通る』という意味だ」
「えーーっ! そんな、ずるいっ。ユキ様が勝てなかったのに、あたしが勝てるわけないじゃないのようっ」
「……さっきと言ってることが違うぞ。なら、そこをどけ。別に中の誰かを殺そうっていうんじゃない、興味があるだけだ」
「ほ、本当? 見るだけ?」
「とりあえずはな。泣いている理由が納得《なっとく》出来たら、あっさり引き上げる」
「――うぅ。納得《なっとく》? それは……どうかなー」
汗ジトで後退《あとずさ》るニナ。
「……つまり、この泣き声はただごとじゃないってことか?」
レインの声がやや低くなる。
無愛想《ぶあいそう》その物のレインだが、女性には比較的甘いのである。もし虐待《ぎゃくたい》等の結果泣いているのであれば、そのまま見過ごす気はなかった。
シルヴィアがそんな真似《まね》をするとは思わないが、その仲間達のことまで信用したわけではない。
「そ、そんな怖い目で睨《にら》まないでよ。あなた、自分が物|凄《すご》く迫力ある男の子だっていうの、少し自覚した方がいいと思う。足が震えてくるじゃないっ」
ニナ自身が、今にも泣きそうな声で言う。
仮にもヴァンパイアに怖がられるとは。
「……わかった。では、この通り頼む」
小さく低頭《ていとう》する。
「中を見せてくれ。後は自分で判断するから」
「わかったわよ……でも、自分では判断つかないと思うよ。あたしが説明役務めるわ。……気が進まないけど」
ニナは渋々と承諾し、入り口を開けてくれた。
中に入るとまっすぐに廊下が続いており、その左側にずらっと扉が並んでいる。
問題の泣き声は優に一〇以上は並んでいる扉のうち、一番奥のモノから聞こえた。
ニナがとぼとぼと先導《せんどう》し、その扉の前まで行く。
腰に付けていた鍵束《かぎたば》を取り、一本を選ぶ。
鍵穴に入れようとして、上目遣《うわめづか》いにレインを見た。
「あのさ、ホントに見るの? あまりお勧めしないんだけど」
じろっと見返すと、たちまち素直《すなお》になった。
「はいはいっ。開ければいいんでしょう、開ければっ。もう、知らないからっ」
ぶつくさ言いながら鍵を回す。
レインは自ら手を伸ばし、扉を開ける方は自分がやった。
――部屋の中は、意外と広かった。五メートル四方くらいはあったろう。
ふかふかの絨毯《じゅうたん》が敷かれており、テーブルやベッドなどの家具もそろっている。
で、そのベッドに足を投げ出して、一人の女の子が座っていた。
どうやら泣いていたのはこの子らしく、両の頬《ほお》が涙で濡れていた。
柔らかくウェーブのかかった亜麻色《あまいろ》の髪に、薄緑の瞳をした少女で、年齢は十三〜十五歳くらいか。壁際《かべぎわ》に置かれたベッド上で、限界まで壁に身をくっつけている。レインとニナ――特にニナを見ると、凍り付いたように瞳を見開いた。
「いやっ」
掠《かす》れたような声を洩《も》らし、ぐいぐいと壁に体を押しつける。
レインは二人を等分に見比べ……最後にしんねりとニナを見た。
「……おまえを見て、怯《おび》えているようだが?」
「だから、睨《にら》まないでってば!」
ニナはささっと後退《あとずさ》りした。
「これには事情があるのよー。あんたは知らないだろうけど、この子はしばらく閉じこめておく必要があって」
「いいから、少し二人っきりにしてくれ」
話の腰を折り、レインは扉に向かって顎《あご》をしゃくった。
「説明はいらない。自分で、この子に訊《き》くからいい」
「えーーっ! それじゃ、わからないじゃん! その子だって、自分に都合のいいことしか言わないに決まってるしっ」
「この子の後で、おまえの話も聞けばいいだろう」
だいたい、とレインはニナをじろっと見やる。
「自分に都合のいい話しかしないっていうなら、おまえだってそうかもしれんじゃないか。ならどのみち、俺が判断するしかないと思うが?」
「だけどそれは――」
むっとして口を開いたニナは、だがすぐにまた閉ざした。
レインの瞳を見て、文句を言う気が失せたようである。
「わかったわよっ。どうなってもあたしは知らないからっ。まあ、あんたほどの戦士なら大丈夫だと思うけどさ――でも、後であたしに苦情とか言わないでよ。自己責任だからねっ」
わけのわからんことをくどく申し渡し、ニナはぷんぷん怒りながら部屋を出る。
そして、足音も荒く遠ざかって行く気配《けはい》。そのままこの長屋……というか棟からも出て行き、外のドアをどばんっと閉める音がした。
じっと耳をすませたが、それ以上はなんの物音もしない。どうやらニナは、彼女の言う「お姉様達」に言いつけに行かず、見張りに戻ったようである。
勝手にレインを入れてしまったので、こっぴどく怒られるのを恐れたのかもしれない。
ともあれ、そこまで確認してから、レインはやっと女の子に向き直った。
ベッドに近付き、なるべく柔らかく名乗る。
「俺の名はレイン……君は?」
「ウ、ウェンディー」
「そう……よろしく、ウェンディー」
にこっと笑って、亜麻色《あまいろ》の髪を撫《な》でてやる。
そばで見る限りは、おそらく自分より幾《いく》つか年下だろう――そう思ったからだ。
嫌《いや》がったり怖がったりする素振《そぶ》りがあれば、すぐに手を引っ込めようと決めていたが――
ウェンディーは、レインに対しては悪意を持っていないらしく、おずおずと微笑んだ。
期待を込めた瞳で見上げる。
「……レインは、あたしを助けに来てくれたの?」
「どうかな。君が望むなら助けてあげてもいいけど。……ここへ連れてこられたきっかけは?」
「よくは知らないの……本当よ! ユキっていう名の女の人が、急に迎えに来たの。お母さんもお父さんも黙って俯《うつむ》いているだけで、全然止めてくれなくて……あたし、おうちにいたかったのに」
思い出すと悲しくなったのか、ウェンディーはまたしくしく泣き出した。
レインがベッドに座り、黙って手を伸ばすと、素直《すなお》にその胸に抱かれた。
「つまり、無理矢理連れてこられたわけかな?」
ぴくん、とウェンディーの肩が震えた。
不自然なほど長い間を置き、「う、うん……多分」と返す。
「……多分?」
問い返すと、伏《ふ》し目がちにシーツを見つめたまま、ぼそぼそと答えた。
「無理に連れてこられたのは本当なんだけど、最近のあたしはおかしいから、そのせいかもしれない――と思う」
「どういう風に変なのかな」
「深夜、突然目が覚めて――」
ためらいがちに顔を上げる。
レインを見る目に、はっきりと怯《おび》えが浮かんでいた。
「目が覚めて……そこから記憶が飛ぶの。気がついたらまたベッドに寝かされているんだけど、なぜだか縛られていることとかあって。――ここに連れてこられたの、これが原因なのかな?」
切実《せつじつ》な声音《こわね》でレインに問う。
さすがに、すぐには答えられなかった。
先程《さきほど》のニナの言いようが、具体性を帯びてきた気がする。
『あんたほどの戦士なら大丈夫だと思う〜』
そのセリフの意味するところは、明らかではないだろうか。
つまりこの子は――
しかし、レインはあえて笑みを浮かべ、ウェンディーに囁《ささや》いた。
「……どうかな。不安なら、俺がついててあげようか? 眠っている間になにかあったら、ちゃんと起こしてあげるけど」
「本当っ!?」
断られるかと思ったが、ウェンディーは大喜びだった。
あからさまにほっとした顔で、何度も頷《うなず》く。
「そ、そうしてくれると嬉しいっ。レイン、そばにいてくれる? あ、でも――」
あたふたと部屋の中を見渡し、困ったような顔をする。
「……どうしよう。この部屋、ベッドってこれしかないわ」
「いや、見守っている役なんだから、俺はそこのソファーでいいって」
レインは苦笑した。
年下とはいえ、さすがにこの子と同じ部屋で眠る気はない。
「それに、俺はさっき目が覚めたばかりなんだ。眠りたくても眠れないさ」
「ごめんなさい。あの……あたしがソファーでもいいのよ?」
「いや、本当に大丈夫。だから、安心してお休み……」
腕の中のウェンディーに言い聞かせ、そっと寝かせてやる。
寝具《しんぐ》を引っ張って丁寧にかけてやると、彼女は嬉しそうに笑った。
「やっと安心して眠れそう……もしあの意地悪《いじわる》な人達が来たら、すぐに起こしてね」
「大丈夫だ……時に、ウェンディー」
レインはさりげなく尋ねる。
「この村がどんな場所か、知ってるかい?」
「ううん。……だって、連れてこられてすぐにこの部屋に押し込められたから。……なにか変わった村なの?」
「いや。俺も着いたばかりだから」
微《かす》かに首を振り、立ち上がった。
……知らないのなら、いま無理に教えることはないだろう。
「じゃあ、よく眠るといいよ。……明かりも消しておくから」
言葉通り、燭台《しょくだい》の蝋燭《ろうそく》を吹き消して回った。
すっかり闇に沈んだ部屋の隅《すみ》へ行き、レインはソファーに腰掛ける。
腕組みして静かに目を閉じた。
しばらくして、ウェンディーの声。
「あの……レイン?」
「どうかした?」
「ううん……なんでもない。ただ、お礼を言っておかなきゃと思って。……ありがとう、レイン。あたし、すっごく元気が出た気がするわ」
「いや、俺はまだなにもしてないしね。見張りだって、これから始めるところだし」
「う、うん。でも……恥ずかしいから、あたしの寝顔とかじっと見ないでね」
「わかった。だいじょうぶだから」
レインは闇の中でちょっと瞳を開き、再び苦笑する。
「ぐっすり眠るといいよ、ウェンディー……」
「うん……おやすみなさい、レイン」
すっかり落ち着きを取り戻した声で囁《ささや》き返し、以後はもう話しかけて来なかった。
なおも耳をすませていると、穏やかな寝息の音が聞こえ始める。緊張しきって眠れなかっただけであり、本当はとても眠かったらしい。
レインは再び目を閉じ、神経を研《と》ぎ澄《す》ませたまま待機《たいき》状態に入った……
異変は一時間ほど経過してから起きた。
それまでは規則正しかったウェンディーの寝息が浅くなり、身じろぎし始めたのだ。
周囲は静まりかえったままなのだが、どうしてだか彼女は目を覚まそうとしているようだ。
そばにいって様子を確かめたかったものの、「寝顔を見ないでね」と頼まれたのを思い出し、レインはソファーから動かずにいた。
すっかり夜目《よめ》に慣れた瞳で、ベッドでもぞもぞ動くウェンディーを見守る。
――と、いきなり彼女が、がばっと半身を起こした。
寝覚めの時に特有の、ぼんやりした動作ではない。まるで木陰に潜《ひそ》んでいた猛獣《もうじゅう》が、いきなり獲物に向かって飛びかかるような――そんな敏捷《びんしょう》さである。
チェック柄の可愛《かわい》い夜着のまま、ウェンディーはばばっとベッドから飛び降り、即座《そくざ》にレインの方を見る。
闇を通してさえ、はっきりわかった。
瞳が……薄緑だったウェンディーの瞳が、今は真紅に染まっている。鮮血《せんけつ》に酷似《こくじ》した、濃い色である。
レインは顔をしかめ、呟《つぶや》いた。
「――やはりか!」
その声と同時に、ウェンディーはレインに飛びかかってきた。
ベッドからはだいぶ距離があったのに、まさに瞬《またた》く間に目の前に来ていた。
この子に、ここまでのスピードと瞬発力《しゅんぱつりょく》があるとは信じがたい。しかし人間と違い、ヴァンパイアに外見の特徴などは関係ないのだろう。
さっと自分の喉《のど》に伸びてきた手を、レインはがっちりと掴《つか》む。
自然と手と手を組み合わせ、力比べの体勢に入っていた。
「君は、常人《じょうじん》からヴァンパイアに変化しかけている……そういうことか」
返事は返ってこなかった。
それどころか、聞こえているかどうかも怪しいものである。
たちまち、ぎりぎりと手に加わる力が増し、レインは顔をしかめた。
か細い腕からここまでの筋力を絞り出すとは、信じがたい話だ。
加えて、ウェンディーは可愛《かわい》い顔に明らかな殺気《さっき》を浮かべ、呻《うめ》き声を上げている。
口元から覗《のぞ》く歯のうち、犬歯《けんし》が目立ち始め、彼女がレインの喉元《のどもと》を狙っているのは明らかだった。
「なんて……パワーだっ。骨格まで強化されているのかっ」
事実、これだけの筋力を絞り出すには、彼女の腕は細すぎる。一時的に肉体能力が急上昇しているとしか思えない。
単純な力比べを回避すべく、レインは身を沈め、彼女に足払いを掛けて床に倒す。
さすがにウェンディーに格闘《かくとう》の経験などはないようで、簡単に転ばせることが出来た。
すかさず俯《うつぶ》せにし、片方の手を背中へねじり上げて固めてしまう。
普通ならここで痛みに呻《うめ》くはずなのだが――
ウェンディーは本当に人外《じんがい》のヴァンパイアに変化しているようだ。
逆に、腕を固めたレインが、思いっきり暴れる彼女を必死で押さえる始末《しまつ》である。
こんな体勢から腕に力を入れるのは不可能なはずなのに、そんな常識は通用しないらしい。
しかも、まだ自由な左手を床につけ、爆発的な力で飛び起きてしまった。
「――くそっ」
レインは簡単に吹っ飛ばされ、さっきまで座っていたソファーに叩き付けられる。
場所がそこで、幸運だった。
これが固い木造の壁だったら、無事では済んでなかったろう。
甲高い叫び声を上げて再度飛びかかってきたウェンディーを避け、レインは大きく飛び退《の》く。彼女は腕の一振りで頑丈《がんじょう》なソファーをバラバラにしてしまい、また向かってきた。
もはや、はっきりと牙《きば》が見えている。
「ウェンディー、よせっ。目を覚ませっ」
大声を出しながら、レインは魔剣を鞘《さや》ごとベルトから抜き、ベッドの上へ放った。
このまま戦闘《せんとう》を続ければ、その気が無くても反射的《はんしゃてき》に剣を抜いてしまうかもしれない。万一にも傷つける気はないので、この際、手放した方がいいと思ったのである。
ウェンディーは放った魔剣などには目もくれず、また突進してきた。
「ウェンディー、聞こえないのかっ」
唸《うな》り声が返ってきただけであり、そのまま襲いかかって来ようとする。
レインは仕方なく、身を捌《さば》いて相手の突進を避けた瞬間、彼女の首筋を手刀《てがたな》で打った。
これで効果が無ければ面倒になるところだったが、どうやら少なくともウェンディーには有効だったらしい。ふっと脱力し、彼女は床に倒れ込みそうになった。
それを抱きかかえ、ベッドに寝かせる。
やれやれと息を吐いた途端《とたん》、ニナが飛び込んできた。
「だ、大丈夫っ!?」
レインはうんざりとニナを見やり、
「……遅いぞ、馬鹿。そんなんで見張りなんか務まるのか?」
「こ、これでも、すぐに飛んできたのっ。だいたい、最初に物音がしてから、そんな経ってないじゃない!」
「なんでもいいから、ちょっとこっち来い」
まん丸な目をしたニナの手を引いて、丸テーブルの椅子に座らせる。自分も正面に座り、じいいっとニナを見た。
「――それで、誰が彼女の血を吸った? おまえか?」
「ち、違う違うっ」
わざわざ両手を使い、ぶんぶん振りまくった。
「あんた、絶対|勘違《かんちが》いしているってば。あたし達の誰も、その子の血なんか吸ってないわよっ」
「……じゃあなんでこうなった? この子は、明らかに吸血鬼に変化しかけているぞ」
低い声で問うと、ニナはすっかり元気がなくなった顔で頷《うなず》いた。
「わかってるわよ。あたしにも経験のあることだからね」
レインは眉《まゆ》をひそめ、ニナを観察する。
嘘は言ってない……絶対の自信はないが、なんとなくそんな気がする。
ということは――
「……もしかすると、ヴァンパイアとは吸血された結果にそうなるだけじゃなく――自然とヴァンパイア化する場合もあるってことか。つまり、普通人がある時期から急に変化するというわけか?」
どうやら当たりだったようである。
ニナは、驚いたように顔を上げた。
「あんた、勘《かん》がいいわね……そう、その通り。あまり知られていないけど、主にティーンの時代に、急激にヴァンパイアに変化するのね……なぜか、全員が女性なんだけど」
「全員が……?」
レインが唸《うな》ると、ニナはあっさり頷《うなず》いた。
「そうよ……知らなかった? ここだって、女の子しかいないでしょ。この辺じゃ、割と誰でも知っていることよ。ああでも――」
今思いついたように目を瞬《またた》く。
「余所《よそ》の土地に住んでいる人は、驚くかもね。ヴァンパイア全体の人数って、そんな何万人もいないし。シルヴィア様の元に集《つど》うあたし達が、唯一《ゆいいつ》のまとまった集団だと思うわ」
レインは難しい顔になり、さらに尋ねる。
「それで、ウェンディーみたいに血を吸わずにはいられなくなるのか? で、血を吸ったヤツは全員がヴァンパイアになると?」
「そうじゃない、そうじゃないわっ。誤解しないでってば」
ニナは激しく首を振った。
大仰《おおぎょう》なほどはっきりと否定する。
「じゃなくて……血を吸ったら確かに相手もヴァンパイアになっちゃうけど。でも、あたし達はよほどのことがなきゃ、吸血なんてしないのよ。少なくとも、この村にいるヴァンパイアはね。欲求は確かにあるけど……変化する期間さえ乗り越えたら、あとは我慢できるの。普通の食事だって摂《と》れるし、ここじゃみんなそうしているわよ。でも、なりかけ……あるいはなりたての頃は辛いわね、結構。あの子みたいに記憶が途切れる場合が大半だし……我慢する以前の問題だもん」
「――そうか」
レインは顔をしかめて、ちらっとベッドのウェンディーを見やる。
「だいたいわかった……いや、まだわからないことも多いが、それはいい。今は、ウェンディーの方が心配だ。彼女を元に戻す方法はないのか?」
ニナはらしくもなく、悲しそうにぽつっと言った。
「そんな方法があったら、みんな戻っていると思わない?」
「そうか……いや、悪かった」
レインは素直《すなお》に頭を下げた。
「おまえの言う通りだな……」
「あ、いえっ。そんな、謝られるほどのことじゃないけど」
ニナはかえって恐縮《きょうしゅく》したようである。
しばらく居心地《いごこち》悪そうにしていたが、やがて、レインの顔をじいっと眺め始めた。
「……なんだ?」
「う、ううんっ。別になんでもない……けど。あんた――じゃなくてレインって、今の聞いても全然平気そうね? 普通、ここまで聞いた人はあたし達を恐れるか……そうじゃなくても、嫌悪《けんお》するか気持ち悪そうな目で見るんだけどな」
「おまえの話を聞く限り、怖がるような部分はなかったと思うが」
「なんでよ……一杯あったでしょ。こんな話を聞かされたら気持ち悪くなって、ついでに恐れもするのが人ってもんだと思うわよ」
軽く笑うニナ。
「シルヴィア様の仰《おっしゃ》る通りね。自分が変わっているのを自覚してないみたい」
「……どうかな。まあ数年前に聞いたところで、別にヴァンパイア達を嫌悪《けんお》することはなかったと思うが。――今の俺は、『恐怖』って感情がすっぽり抜け落ちているからな。本当は震え上がる場面なのかもしれない……絶対の自信はないな」
重くなりかけた雰囲気を変えるつもりで言ったのだが、ニナは即座《そくざ》に反応した。
やけに目を見張ってレインを眺める。
「……恐怖を感じないの? どうしてよ!?」
「なんだ、その好奇心まみれの目つきは。……色々あって、そういう感情を忘れてしまっただけだ。おまえが関心を持つようなことじゃない」
「そんなこと言われたら余計に気になるじゃ――」
とかなんとか言いかけたニナに対し、レインは『話は終わり』とばかりに、自ら立ち上がった。
「とにかく、知りたいことはわかった。見張りに戻ってくれていいぞ」
「えぇー、なにそれ……なにそれっ。急に追い出そうとしなくてもいいじゃないっ。それに、その子の発作《ほっさ》は多分また」
「いいから出てろ。後は俺がなんとかする」
「なんともなんないわよ。……て、押さないでってば!」
「大声出すな、彼女が起きる」
「だってあんたが――」
ごちゃごちゃと抗議《こうぎ》するニナを立たせ、無理矢理、部屋の外へ出す。
ばたんとドアを閉めた。
――と思ったら、すぐにまた開く。
「今更《いまさら》あたしが、外で見張る理由はないじゃん!」
完全にスルーして、レインは問う。
「ちょうどいい、一つ訊《き》き忘れた。……血を吸われたら、必ずヴァンパイアになるのか。吸血された相手のコントロール下に置かれるわけか?」
「……え?」
意外なことを訊《き》かれた、という顔でニナは眉《まゆ》をひそめる。
「え〜……それはその人の精神力次第だって、前にシルヴィア様が仰《おっしゃ》ってたけど。でも、人間としての自我《じが》を保つのは、もの凄《すご》く苦しいらしいわよ。多分、耐えきった人なんかいないと」
「なるほど……。いや、教えてくれてありがとう」
礼を言い、今度はお願いをする。
「とにかく、今は二人だけにしてくれ。もう一度、ウェンディーと話がしたいんだ」
今度はニナも否《いな》やを言わなかった。
ウェンディーが次に目覚めたのはそれから三十分ほど後のことで、その時には、もはや普通の状態に戻っていた。
ただ、片手を胸に当て、少し苦しそうな顔つきである。
「……なんだかドキドキしている。いてもたってもいられなくなっているような。家に居た時と同じだわ」
レインをそっと見る。
「あたし、なにかした?」
「まぁね」
慎重に答え、レインはウェンディーを手招きした。
このことについては、きちんと話しておくべきだろう……
隠しておいても、どうせいつかはわかることなのだ。事情説明はニナ達に任せる、ということは考えなかった。
「少し話さないか。君が今、どんな状態に置かれているのか……とりあえずはわかったと思うんだ」
「な、なにがわかったの?」
恐る恐るベッドを降り、テーブルにやってくる。
彼女が腰を下ろすのを待ち、レインはなるべく簡潔《かんけつ》に事情を説明してやった。
「――というわけで、どうやら君は」
結論を述べかけたまま、レインは言葉を切る。
当然ながら、ウェンディーの受けたショックは尋常《じんじょう》なものではなかったようだ。
血の気を失った顔や、大きく見開かれた瞳が痛々しい。
今にもパニックに陥《おちい》りそうな様子を見てとり、レインは思わずウェンディーの手を握った。彼女は女の子とは思えない力でその手を握り返し、堪《こら》えていたものが決壊するかのように泣き出した。
「じゃあ、あたしはもう人間じゃないの? 記憶が途切れていた時って、誰かの血を吸ってたのっ」
「いや。多分、ご両親が止めていたと思うよ。筋力だって急に強くなったわけじゃないだろうし、当初は周りの人でも押さえられたんだと思う」
――それは単なる想像に過ぎないし、どのみち今ではもう、普通人では止められないだろうけれど……
という結論は、言わずにおく。
両親の手に負えなくなったからこそ、この子は今、ここにいるのだ。
「なんとか……ならない?」
さっきの自分と同じことを訊《き》く。
が、レインとしては黙って首を振るしかない。
例えばエルフに「人間になれ」と言うようなもので、元より不可能な話なのだろう。
それに……これは個人的な考えだが、ウェンディーやニナは急にヴァンパイアに変化したのではなく、最初からそういう血筋だったのだと思う。
今になって能力が発現しただけのことで、この世に生を受けた時から、運命は決定していたのではないか。
無論、両親(母親?)にもそういう因子《いんし》はあり、ただ彼らはウェンディーのように、ヴァンパイアとして目覚めるに至《いた》らなかっただけ――のような気がする。
「……この村にいるヴァンパイア達は、吸血行為などはしていないそうだ。つまり、負の特性さえ我慢できれば、人間とさほど変わりなく暮らせると思う」
「でも、ママやパパと会えなくなるわっ。昼間に外出も出来なくなる……。そう言えばあたし、最近は明るいうちに外に出ると、決まって気分が悪くなっていたの。……こんなことだったなんて!」
まだ握られたままの、ウェンディーの手がガタガタ震えていた。目に見えて動揺《どうよう》していた。
特にレインが困ったのは、彼女がまた、しくしく泣き出したことだ。
それは物|凄《すご》く悲しそうな、レインの胸を抉《えぐ》るような泣き声であり、落ち着かないどころの騒ぎではなかった。
思わず手を握ったまま立ち上がり、彼女の隣まで行く。
ウェンディーは自ら抱きついてきた。
泣き声はもはや慟哭《どうこく》となり、レインはただ黙って彼女の身体に手を回していた。お陰で、少しずつ、悲しみにくれた声が収まってきた……
その代わり、今度は吐く息が少しずつ荒くなり、ウェンディーは椅子の上で背中を丸める。身体を折り、まるで吐くかのようにぜーぜーやりはじめた。
「どうかした?」
レインがしゃがみ込んで背中を撫《な》でると、やっと少しだけ顔を上げる。
「レイン……苦しい……」
「苦しいって……どこか痛むの?」
「そうじゃないけど……ううん、わからない。でも、すごくすごく苦しい……息苦しいし……最近、よくこうなってたんだけど、いつもよりずっと辛いわ……」
確かに、ウェンディーは白い顔にじんわりと汗をかき始めており、片手で胸を押さえている。
しかも、荒い呼気《こき》の合間にやっと声を出しているようだった。
どこか悪いのかい? と言いかけ、レインは背中を撫《な》でる手を止める。
原因に思い至《いた》ったのだ。
ヴァンパイアとしての本能が、鮮血《せんけつ》を求めているのではないだろうか。
だとしたら、血を吸わない限り、今の苦しみは長く続くだろう……
もはや夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のように襲いかかってくるでもなく、ウェンディーはひたすら汗をかいて苦しんでいる。
これならまだ、思いっきり暴れてもらった方が良かったかもしれない。少なくともこんなに苦しむことはなかったはずだ。
「苦しいの……助けて……レイン」
今やウェンディーの方がレインに強くしがみついており、重病患者《じゅうびょうかんじゃ》のようにあえぎ、呻《うめ》いている。
ニナを呼ぶか、とレインは一瞬思った。
しかし、彼女――いや、彼女達がこの発作《ほっさ》をどうにか出来るなら、とっくにしていたはずだ。
呼んだところでどうにもなるまい。
なら、どうしたらいい……所詮《しょせん》は人間でしかないない俺に、一体何が出来る?
ウェンディーが呼ぶ声を聞くうち、レインはとうとう衝動にかられ、自分の親指の付け根に歯を立て、自ら傷をつけた。
これが本当に正しい行為なのか自信はない……ないが、どのみちこれ以上は見過ごせそうもない。
何も出来ない自分に我慢ならないのだ。
「……ちょっと口に含んでごらん。楽になるかもしれない」
ウェンディーの口元に指を差し出すと、彼女はよほど驚いたのか、泣き止んでしまった。
血塗られた指とレインの顔を、きょとんと見比べている。
馬鹿な勘違《かんちが》いをしたか、と最初は思った。
――しかし。
わずか数十秒で、薄緑の瞳がゆっくりと変色し始めた。
白目の部分が充血したように赤く染まり、荒い呼気《こき》の代わりに悩ましげなため息が洩《も》れた。
思わず、といった感じで傷口に顔を寄せるウェンディー。
レインがもう一度勧める前に、そっと傷口に唇をあてる。
まるで、騎士が姫君の手にキスするような仕草だった。
と、すぐにびっくりした顔でまた離れ、レインを見上げた。
「前に怪我《けが》した時、自分の血をなめたことあるけど。こんな味じゃなかったと思うわ。……いえ、味は変わってないのかな。あたしの方が変わっちゃったの?」
「……多分。でも、恥じることじゃないと思う。なにも君のせいじゃない。それで――」
しばらく迷ったが、やはりストレートに尋ねた。
「どうかな。吸わずに我慢できそう?」
「我慢……したいけど」
眉根《まゆね》を寄せ、葛藤の表情を見せるウェンディーである。
一瞬だけ止まっていた手の震えが、また戻っていた。口に含む程度では、急に元気になる――というわけにはいかないらしい。
むしろ、鮮血《せんけつ》への渇望《かつぼう》が強まったようで、霞《かす》みのかかったような瞳でレインの手の傷を見つめている。
……本人はまだ気付いていないだろうが、犬歯《けんし》が再び尖り始めていた。
我慢するのはとても苦しいのか、また呼吸も荒くなってきている。
「……耐えられそうもないなら、もっと吸ってもいいよ」
我ながら呆《あき》れたことに、レインはウェンディーの頭を撫《な》で、そう持ちかけていた。
彼女の、緩《ゆる》やかなヴァンパイアへの変貌《へんぼう》ぶりを目の当たりにしても、相変わらず恐怖を感じない。
この時ばかりは、無くしてしまった感情に感謝したかった。
「で、でもっ。そんなことしたら、レインまでヴァンパイアになっちゃうわ……」
背中を丸めて震えたまま、上目遣《うわめづか》いの目で見上げるウェンディー。
レインは笑って首を振った。
「いや、そっちはなんとかなるらしい。さっきの彼女の話じゃ、要するに俺次第だってさ。第一、牙《きば》を立てなきゃ大丈夫じゃないかな」
――ただしニナは、耐えきった人間はいないようなことをほのめかしていたのだが。
だが、それをウェンディーに教える気はない。どのみち自分は、手をこまねいて見ている気はないのだ。
こうしてこの子と関わった以上、それは出来ない。
「……ほ、ほんとうに?」
「ああ。だから、気にせずに吸えばいい」
また手を差し出す。
ウェンディーはなにも言わず、唇を震わせて我慢していたが、内なる渇望《かつぼう》には勝てないようだった。差し出された手をまたそっと掴《つか》む。
そこでさらにためらい、やっと口づけをする。傷口に、くすぐったいような感触がくる。時間経過と共により大胆に、強く吸っているようだ。そのうち、軽く甘噛《あまが》みされた。
というより、無意識のうちに歯が当たってしまったのだろう。
レインよりウェンディーの方が驚いて飛び退《すさ》った。
椅子を倒し、よろよろと後退する。両手で自分の口を押さえている。
「あ、あたし……いまっ」
何に驚いているのか察《さっ》しはついた。
ようやく彼女も、自分の異変に気付いたのだ。特に、犬歯《けんし》が鋭く尖りはじめていることに。
「大丈夫、それはまた元に戻る。今は感情が高ぶっているからそうなっているだけだと思う」
わざと何でもないような声音《こわね》を作り、微笑む。
近寄ろうと一歩進むと、その分だけウェンディーが下がる。
……とにかく、落ち着かせねばならない。
「難しいかもしれないが、慣れた方がいい。本当に、一時的なことだし」
また泣き出しそうなウェンディーの顔を見て、付け加える。
「……そもそも、俺は少しも気にしてない」
「ほんとう? そんなにひどくないの? あたしの顔、変じゃない?」
「ああ。現に俺は、特になんとも思わなかった」
とにかく嘘ではない。
少し落ち着きを取り戻したウェンディーから目を離さず、そっと手を差し伸べる。
無理にこちらから接近せず、彼女が自ら戻ってくるのを待った。
辛抱《しんぼう》強く待っているうちに、ためらいがちにウェンディーが戻り、安心したようにレインの腕に抱かれる。
レインは性懲《しょうこ》りもなく、彼女の口元にまた手を差し出した。
――☆――☆――☆――
村の(一応は)集会所ということになっている建物内で、シルヴィアはユキと額《ひたい》を寄せ合って話し合っていた。
元よりここは、気楽な集まりがある場所ではなく、そもそもの用途《ようと》はこのシルヴィーナの本陣なのである。
いわゆる、指揮所みたいなものだ。
ちなみに『シルヴィーナ』とは、この村とこの地方全て――要するに、ヴァンパイア達の領土全体を指す総称《そうしょう》である。
太古《たいこ》の昔、ヴァンパイア達が合議《ごうぎ》で付けた名で、言うまでもなく、シルヴィアの名前をもじっている。「霧の国」などという名は、人間達が勝手に呼んでいる名称に過ぎないのだ。
なにかコトが起こった時、シルヴィアは主立《おもだ》った者を集めてここで相談する。もしくは自分の決定を伝える。
基本的に仲間のヴァンパイア達は、シルヴィアの決定に異を挟むことは少ない。意見を訊《き》かれれば述べるが、最後の決定権は常に彼女に預けている。
この世界の誰よりも聡《さと》く、誰よりも強い(と信じる)マスターを、心から信頼している故《ゆえ》だ。
そのシルヴィアは、今まさにやっかいごとに向き合っていた。
大事な友人の死を聞き、心が沈んでいようと、面倒ごとは待ってはくれないのだ……
「四カ国が合同でここを攻めるわけね。その情報に間違いはない?」
テーブルに燭台《しょくだい》が一つだけ――
そんな乏しい明かりが照らす中、シルヴィアは真剣な顔でユキに問う。
腹心《ふくしん》の彼女は、例によって心配そうな顔で頷《うなず》いた。
「はい、シルヴィア様。メイが報告を持って帰ってきました。昼間は潜《ひそ》みながらの調査なので、帰還が少し遅れてしまい――」
「ああ、いいのいいの。あたしはあくまで特別だものね。本来、ヴァンパイアとはそういうものよ。気にせず、報告を続けて」
「……はい」
小さく低頭《ていとう》し、ユキは話を続けた。
「ジブリタール、オドロス、ザグレム、テッセン……いずれも、『乾きの海』周辺の小国ですが、各国の王が合議《ごうぎ》し、私達を滅ぼすことに決定したそうです。先日のアレは、様子見の先遣隊《せんけんたい》だったようですわ」
「人間ごときが、私達を滅ぼす――ねぇ。少し増長《ぞうちょう》してきたかな? また、キツいお仕置《しお》きが必要なようね……」
シルヴィアは椅子に背を預け、皮肉な笑みを見せた。
しかし、すぐに真面目《まじめ》な顔に戻る。
「でも、なんでまたロクな資源――じゃなくて、大して作物も取れないここに、いきなり遠征《えんせい》してくるのかしら。確たる理由でも?」
ユキは、自分が責められでもしたように、まつげを伏《ふ》せた。
「どうやら最近、同族達が増えつつあるようなんです。そのせいか、各国が私達に脅威《きょうい》を抱いているようですわ」
「つまり、『先に殺らねば、自分達が殺《や》られる』というわけかな。……増えた彼女達のほとんどはここに迎えるから、別に人間達に損はないんだけど」
そこで納得《なっとく》したように頷《うなず》く。
「そうか……面子《めんつ》の問題もあるのね」
「……仰《おっしゃ》るとおりですわ」
ため息をつくユキ。
「得られた情報を総合すると、彼らは愚《おろ》かにも『周辺の大国に、自分達がヴァンパイアに屈《くっ》したと思われたくない』などと考えている様子……。かつての大遠征《だいえんせい》で、シルヴィア様に惨敗《ざんぱい》を喫《きっ》したのを覚えていないようですわ。今回、先遣隊《せんけんたい》の全滅で、考え直してくれればいいのですが」
「難しいけどね。まあ、すぐに痛みを忘れるのは、人間という種族の悪癖《あくへき》よ」
二人で微苦笑を見せ合う。
とそこで、シルヴィアはいきなり眉《まゆ》をひそめ、ドアの方を見た。
「……どうなさいましたか」
「ニナと……例の新しい家族が来るみたい」
「ええっ。今は閉じこめてあるはずですのにっ」
ユキが慌《あわ》てて腰を浮かせた途端《とたん》、ノックもせずにニナが飛び込んできた。しかも背後に、涙で顔中をべたべたにした、ウェンディーも引き連れている。
「ゆ、ユキ様、大変ですっ。て――あっ、そうだっ。シルヴィア様もいたんだった」
わあ、どうしようっ、みたいな顔で仰《の》け反《ぞ》るニナ。
絵に描いたようなうろたえように、ユキの叱責《しっせき》が飛ぶ。
「マスターの前ですよっ。もう少し落ち着きなさい!」
「いいわよ、ユキ」
シルヴィア自身が止める。
「なに、どうかした?」
「その……こ、この子が」
ニナはいかにもためらいがちに告げた。
「さっきレインを吸血しちゃったって」
のどかな雰囲気が消し飛んだ。
シルヴィアはさっと立ち上がり、ユキはまなじりを吊り上げる。
「ニナっ。あなたが見張っていたはずなのに、どうしてそんなことがっ」
「そ、それはその……」
わたわたとうろたえまくり、ニナは言い訳などする。
「だって、あたしの力じゃ、レインは止められませんよぅ」
「それなら誰かを呼ぶとか――」
そこへ、ウェンディーが泣きながら割り込む。
「あ、あたしが悪いのっ。あ、あたしが我慢できなくて」
「話は後で聞くわ!」
シルヴィアは既《すで》にだいたいの状況を飲み込んでおり、もう歩き出している。
……ヴァンパイアの血の契約が発動しつつあるはず。おそらくレインは、牙《きば》さえ立てねば大丈夫と思ったのだろうが、自らの意志をもって血を提供しただけでも、掟《おきて》は有効なのだ。
いや、どのみちそれがわかっていても、あの少年は躊躇《ちゅうちょ》なく血を提供したかもしれないが。
「今は、レインがどうなっているか見るのが先よ。あなた達もついてきなさいっ」
無論、三人とも異論《いろん》なく従った。
待機棟《たいきとう》と皆が呼んでいる長細い小屋のドアは、開け放たれたままだった。
シルヴィアを先頭に、三人とも急いで中へ入った。
一番奥の部屋も、同じくドアが開いたままであり、シルヴィアは戸口で用心深く内部を覗《のぞ》いてみる。レインはすぐに見つかった。
例の魔剣を抱え込むようにして、隅《すみ》っこに座り込んでいる。
手の甲から血が流れているし、さらには小さな傷跡も見える。ウェンディーが噛《か》んでしまったのだろう。
少年は、ちゃんとこっちの気配《けはい》を読んでいたらしく、暗闇越しにゆっくりとシルヴィアを見た。
明らかに苦しみに耐えるような表情であり、顔中が汗にまみれている。
その特徴ある漆黒《しっこく》の瞳に、ほのかに赤みがかかっていた。ただし、まだ完全に色変わりしているわけではない。
彼の心が、変貌《へんぼう》しようとする己《おのれ》の身体を、未だに押さえ込んでいる証拠だった。
驚きのあまり、シルヴィアはつい声を掛けるのを忘れ、レインの顔に見入ってしまった。
数千年の時をヴァンパイアとして生きてきたが、ここまで抵抗出来た人間は数えるほどもいない。
一度吸血されれば、まず絶対に等しい確率で変貌《へんぼう》は免れない。
モノの数分で、ヴァンパイアへと生まれ変わるはずなのだ。
背後から声がした。
「ええと。せ、精神力次第なんですよね、シルヴィア様」
めちゃくちゃ責任を感じている声音《こわね》の、ニナである。
ついでにウェンディーがレインの名を呼んでわんわん泣いており、駆け出そうとするのをユキが押さえていた。
「以前、そんなことも言ったかしらね。……確かに、精神力次第ではあるのだけど」
振り向いたシルヴィアの声は、自然と小声になる。
「でも、普通は耐えきれないの、残念ながら。彼が暴れ出した時のために、あたしがついていた方がいいでしょうね」
『いや、悪いが一人にしておいてくれ』
弱ってはいたが、意外に落ち着いたその声に、シルヴィアはさっと向き直る。
まさか、今の声が聞こえていたとは思わなかったのだ。
死ぬほど苦しいだろうに、どうやらこの少年は、『変貌《へんぼう》』への渇望《かつぼう》に屈《くっ》する気はないらしい。
同じ姿勢を保ったままのレインを、シルヴィアは疑わしげな眼差《まなざ》しで見た。
「……あなたはそういうけど。現実には、ほとんどいないのよ、変貌《へんぼう》を拒《こば》めた人なんて」
「あんたが励《はげ》ましてくれたお陰で、どっと力が湧いてきたな」
唸《うな》るような返事。
皮肉を言おうとしたのもあるが、声帯が変質しかけている。
自分でもそれに気付いたのか、咳払いなどし、レインは背筋を伸ばした。
手足が震えているのはもちろん、限界を超えた苦痛のせいで呼吸が荒いが、それでもゆっくりと言う。
「大丈夫だ……どうってことない。本当だ、肉体の痛みなんか大したことないんだ。俺は慣れている。だから平気だ……」
言い分に筋道《すじみち》が通らず、ろれつも回っていない。
熱にうなされたような言い方であり、どこら辺が『だから平気だ』なのか謎である。
そのくせ、ウェンディーのことを気遣っているのか、こう付け加えた。
「これは、俺があの子にやらせたんだ。責任は俺にある……責めないでやってくれよ」
途端《とたん》に、ウェンディーの泣き声が止んだ。
まさに王子様に巡《めぐ》り会ったような感激顔の彼女を横目に、シルヴィアはため息をつく。
「……いいわ。結果はわかっているんだけど、あなたの望み通りにしてあげる。どうせ、もうどうしようもないしね」
「わかってもらえて有り難い。……悪いが、ならさっさと……外に出ていてくれないか。そこにいられると……気が散るんだが」
……声が途切れ途切れに、そして不明瞭《ふめいりょう》になっていた。
「なんでぇ?」
また背後から、ニナの声。
「あたしはこれでも心配してんだから。愛想《あいそ》なしで追い払わなくても――」
ずかずか部屋へ入ろうとした彼女を、シルヴィアはとっさに止めた。
「……私達は外へ出ていましょう」
「ええっ!? シルヴィア様までそんなっ。……放っておいてもいいんですか」
「良くないけど、あたし達に出来ることはないわ」
簡潔《かんけつ》に答え、徐々《じょじょ》に震えが激しくなっているレインには、優しく言う。
「……なにか用事があったら呼んで」
少年は、随分《ずいぶん》と時間をかけて笑顔を浮かべた。
断固《だんこ》として、自分の苦しみを認める気はないらしい。
「ああ……。悪いな……気を遣わせて」
「いいわよ」
「――て、なんの話です?」
またニナの質問。
返事は後のことにし、シルヴィアはドアを閉めた。
ニナの手を引き、他の二人には目で合図し、歩き出す。そのまま待機棟《たいきとう》を出た。
それでも用心深く距離をとり、やっとニナの手を放してやる。
膨《ふく》れっ面《つら》の彼女に、噛《か》んで含めるように言い聞かせた。
「あの少年――レインは、自分がのたうち回るところを人に見られたくないのよ。気付かなかった? 床の隅《すみ》に吐いた跡があったわ」
たちまち、うっという顔になるニナ。
剣を抱えて座り込んでいるところしか、見てなかったのだろう。
「多分、あたし達が来る直前まで、室内で転がり回っていたに違いないわ。あそこに着くまで、ずっと物音がしてたもの」
「……き、聞こえませんでした」
「あたし達の足音が聞こえた途端《とたん》、わざとらしく何でもない様子を作ってたみたいだから、そのせいでしょう。……ニナ達と違って最初から生粋《きっすい》の人間だった彼だと、そりゃ苦しいわよ。無理に変貌《へんぼう》を拒《こば》んでるみたいだし、なおさらね」
そこではっとなった。
横目でウェンディーを見たが、彼女はレインのことで頭が一杯なのか、特に動揺《どうよう》はなかった。
少しほっとして言い足す。
「それにしてもあの少年は」
――意地《いじ》っ張りな子ね、と言いかけ、しかしシルヴィアは途中で口をつぐむ。
彼が、そもそもは誰のためにああなったのかを思い出したせいだ。
人間達の中には、さもしいことにヴァンパイアの不死性に憧れ、わざわざ自分から『変貌《へんぼう》』を望む者がいる。その場合は同情する余地《よち》など微塵《みじん》もないが、あの少年はそんな輩《やから》とは違うし、そもそも長生きなど望んでいないような。
あの静かな瞳を覗《のぞ》き込んでいると、そんな人並みの欲など持っていないように思える。
今回は、純粋にウェンディーのためだったのだろう。
レインに敬意を払い、シルヴィアはわざわざ言い換えた。
「……誇り高い子なのかもしれないわね。自分の意地《いじ》を最後まで通せる者は少ないけど、彼はその数少ない一人かもしれない」
「しかし……わかりません」
と今まで沈黙《ちんもく》していたユキが言う。
「なぜそこまでして、変貌《へんぼう》を拒《こば》むのでしょう? 確かに私達は恵まれた環境にはないですが……さりとて、そうひどい生き方もしていないはずですが。もし嫌悪《けんお》からなら、それはそれで心外《しんがい》です」
「それは違うでしょう、多分」
シルヴィアはうっすらと微笑んだ。
「そんな子じゃないと思うわ。予想に過ぎないけど――おそらくあの子は、屈服《くっぷく》するのが嫌《いや》なのよ」
「『変貌《へんぼう》』への渇望《かつぼう》のことですか?」
「それだけじゃなく、この世の全てに対して……かしらね。何に対しても退《ひ》く気はない……そういう決心なのかも」
ニナの顔からすっかり不満が抜けた。ユキもちらちらと待機棟《たいきとう》の方を見やり、ため息などついている。感心しているらしい。
ただしウェンディーだけは、今の説明を聞いて余計に責任を感じたらしく、またしても目に涙を浮かべた。
気持ちはわかるのだが……シルヴィアはあえて言い聞かせる。
「難しいと思うけど、万一レインが元に戻ったら、笑って迎えてあげなさいな。その方が喜ぶわよ、きっと」
――☆――☆――☆――
その頃、レイン自身はといえば、既《すで》に外の物音に耳を澄《す》ませている余裕などはなくなっていた。
いや、さっきシルヴィアと話した時から、ほとんど余力や余裕などは残っていない。
高熱を発しており、身体の内側から火であぶられるような焦燥感《しょうそうかん》がある。神経の一本一本をじっくりと時間をかけて焼かれているような気分だ。
じっと横になっていることなど不可能であり、大声で転げ回りたい心境だった。いや、実際に転げ回るだけならやっていたのだが、もはやその体力が尽きている。
ただし、身体の震えは今も続いている。試しに掌《てのひら》を開いて目の前に持ってくると、五指全部が派手なダンサーのように震えていた。
こればかりは、意志の力でもどうにもならないのだ。
ヴァンパイア的な血筋とは無縁なせいか、変貌《へんぼう》への渇望《かつぼう》も、より激しい気がする。
ひどい苦痛のせいで、いつの間にか自分が低く呻《うめ》いているのに気付き、レインは無理にその声を押し止める。と、またしても胃液が喉元《のどもと》までせり上がり、レインは床の隅《すみ》に吐いた。これで二度目である。
一度吐くとなかなか止まらず、もはや腹の中は空っぽなのに、何度も喉《のど》を鳴らす。
『この責め苦から逃《のが》れるのは、実は簡単だ。わかっているはずだろう?』
心の中でもう一人の自分が囁《ささや》く。
拷問に等しい『これ』が始まってから、既《すで》に数度目のことだが――
もはやこの内なる声は、つい十分前とは比べようもなく大きい。
『おまえはヴァンパイアに嫌悪《けんお》など持っていない。こうして実際に彼女達に会った今となっては、なおさらのことだ。ならば、あっさり彼らの仲間になればいいんじゃないか? 素直《すなお》に「変貌《へんぼう》」を受け入れれば、即座《そくざ》に苦痛は去るぞ』
……我ながら、説得力のある声だと思う。
かと思うと、幻聴《げんちょう》に相違ないが、あの懐《なつ》かしいホーク・ウォルトンの声までした。
『力は、さらなる力によって敗れる運命にあるんだ。……ならば、退《しりぞ》いたところでなにを恥じることがあるんだね?』
セリフの前半は、確かに以前、ホークが語ったことがあったかもしれない。
しかし後半は記憶にない。
自分は、最後まであの出来事を話さなかったのだ。彼が知っていたはずはない。
がたがた震えながら、レインは唇を歪《ゆが》める。
つまり後半のセリフは、この苦痛から逃《のが》れようと、俺の心が捏造《ねつぞう》したセリフだってことだ。
「そういう卑怯《ひきょう》なヤツだ……俺は。自分を騙せるはずがないのに」
『でも、このままだとあなたは、その苦痛のせいで気が狂うわよ』
はっと魔剣を握り直す。
これは……幻聴《げんちょう》ではない!
高熱に頭が茹《ゆ》だっているせいか、奇妙に歪《ゆが》んだ視界の中、もはや見慣れた銀髪の少女の姿があった。レインの真向かいに、まるでゴーストのようにぼおっと佇んでいる。
いや、本当にゴーストに近いのだが、こいつは。
ともあれ、その碧眼《へきがん》には厳しい光があり、あたかも値踏《ねぶ》みするかのように、じっとレインを見据《みす》えていた。
凍てつく美貌《びぼう》は、にこりともしていない。
「……おまえか。いつからいた?」
『この村についてからは、時折、そばにいたわ。だいたい、あなたさっきから、考えていることを独り言にしてしゃべっていたわよ』
相手がなにか答えたのはわかるのだが、今のレインには言葉がまともな意味を成して聞こえてこない。
体内で高まる悪寒《おかん》と苦痛が全てだった。
見るともなしに正面の『彼女』を見つつ、レインは呟《つぶや》く。
「あの時、俺は最後まで抵抗した。……しかし、心の中は恐怖で一杯だった。フィーネが死ぬのも恐れていたが……自分が殺されるのも怖かった……」
『無力な人間なら、それが当然だと思うけど。それどころか多くの人間は、「自分だけは助かりたい」と思ったりするけど? あなたにそんな感情はなかった?』
「――それはない」
またもや無意識のうちに応じるレイン。
既《すで》に彼女の声は、自分の内なる問いかけと区別がつきにくくなっている。
「助かるなら一緒にか……あるいは、フィーネかだ。そう思っていたのに、俺だけが生き残ってしまった。……あれほど無力で、あれほど怯《おび》えていなきゃ、フィーネを救えたはずなんだ」
うっすらと輝く『彼女』は、まさにゴーストのように音もなく歩を進め、レインの眼前《がんぜん》にしゃがみこむ。
『その場面はあなたの記憶で見たわよ。……あたしの柄《がら》じゃないから多くは言わないけど。
あなたはどうせ、何も出来なかったと思うけどね。当時のあなたは、脆弱《ぜいじゃく》で無力な「人間」という種族の中でも、とりわけ弱い子供に過ぎなかった。
複数の敵を相手に、勝てるチャンスなど皆無《かいむ》だった。自分だけ逃げようと考えず、最後まで戦ったことで、少なくとも勇気だけは証明されている』
言い終え、『彼女』は端整《たんせい》な顔をしかめる。
いかにも「似合わないことをした」という表情だった。
しかしどのみちレインの視線は、『彼女』に向けられているようで、そのずっと遠くを見ている。要するに焦点が合っていない。
少しでも気を緩めれば変化が始まる上に、未だに得体《えたい》の知れない苦しみに身を焼かれている。今は、自分を押さえるので精一杯なのだ。
それでも、半ば反射的《はんしゃてき》に答えてはいた。
「それは……違う。違うと思う。例えそれが、針の穴を通すようなものであろうと、どんな時にもチャンスはある。絶望的な状況、なんて事態は滅多《めった》にないんだ。恐怖に我を忘れてなければ、少なくともフィーネだけは――ぐっ!」
そこでまた、巨大な苦痛の波が襲ってきたのか、レインは表情を歪《ゆが》めて歯ぎしりする。唇を噛《か》んでしまっていて、薄く血が滲《にじ》みはじめている。
それがまた、さらなる『変貌《へんぼう》』への渇望《かつぼう》に繋《つな》がったらしい。
汗で湿ったシャツの胸が、激しく上下する。
だが、見守る彼女は眉《まゆ》一つ動かさない。
むしろ、レインの限界を見極めようとするかのように、観察に余念がなかった。
『自分の無力さ故《ゆえ》に、大切な人を死なせてしまった……それがあなたの十字架なわけ?』
「……なんの話だ」
顔を覗《のぞ》き込むようにして尋ねた『彼女』にやっと再確認し、レインは問う。熱で茹《ゆ》だっているとはいえ、うろんな目つきになるのは当然である。
『……そうか。十字架がどうのなんて、あなたにはわからない言葉だったわね』
ここで、やっとレインの黒瞳《くろめ》が焦点を結んだ。自分の眼前《がんぜん》にしゃがんでいる『彼女』を見やり、呟《つぶや》く。
「なにが言いたいんだ、おまえは」
『ふぅん? 人間にしては、大変な精神力ねー。……まだ質問なんか出来たの? そろそろ限界かと思ったのに』
しゃがみ込んだままの『彼女』は、すうっと微笑んだ。
好意的な笑みというより、どこかおもしろがっているような顔である。
からからの唇を苦労して動かし、レインはなおも会話を続ける。
「つまらない抵抗をやめて、さっさと『変貌《へんぼう》』を受け入れろ。……そう言いたいのか」
『……さぁ、どうかしら』
甘い吐息《といき》のような囁《ささや》き。
『ただ、あなたに興味があるのは確かよ。狭き世界に捕らわれた人間の癖《くせ》に、あなたは面白い存在だわ。あの子が夢で見た「未来の断片《だんぺん》」を信じるなら、だけど』
謎のセリフをどこか遠くに聞きつつ、レインはまたしても発作《ほっさ》の波に襲われた。
心の深奥《しんおう》……いわば本能の部分が、何度目かの悲鳴を上げていた。
苦しい苦しい……もう持たない……とても我慢できるモノじゃない……体内に煮えたぎった油を注がれたような気分だ。
いい加減にあきらめて、ヴァンパイアになれ――自分の心がそう喚《わめ》いている。
変貌《へんぼう》を受け入れることは、そんなに悪いことか? ここで意地《いじ》を張ることに、どんな意味があるんだ!
『そんなに、屈《くっ》するのが嫌《いや》なの? 自分自身の心にさえも?』
ようやく少しだけ顔を上げると、相手は相変わらずレインを眺めていた。
小首を傾げ、
『そんな顔しないで。今のも口に出していたわよ、あなた』
「それより……おまえは一体何者だ。段々、気になって……きたな」
『息が上がってるのまで無理に我慢しなくても』
初めて、『彼女』が声を上げて笑う。
その笑い声が止むと、今度は白い手を伸ばしてレインの頭に乗せた。
驚いたことに、微《かす》かに感触がある……気がする。
頭上から、またしても甘い囁《ささや》き声。
『あたしの正体を教えてあげてもいいわよ。それどころか、その苦痛からも救ってあげられるわ。我が力をもってすれば、ヴァンパイアに変貌《へんぼう》せずに回復させられる。それだけじゃないわよ……あたし並とはいかないけど、今のあなたよりずっと強い「力」を分けてあげても――』
「断る!」
不意に、強い光を取り戻した黒い瞳を見て、『彼女』は思わず、といった感じで手を引っ込めた。
あっけにとられたような顔をする。
『……別にこれは、条件付きの申し出じゃないわ。代わりにあなたの魂《たましい》を寄越《よこ》せ、なんて言う気はないのよ』
「条件の有る無しなんか問題じゃない。誰かに救ってもらうんじゃ……意味がないんだ」
断固《だんこ》とした口調の返事を聞き、少なからずむっとしたように『彼女』は返す。
『あなた、頑固ね。冗談ごとじゃないのに。そのままだと、本当に危ないのがわからないの?』
しかし、忠告はレインの耳に届かなかった。床に座り込んでいたのだが、とうとう横倒しに倒れてしまう。
同じ姿勢を保ってられないのだ。
また派手に喉《のど》を鳴らして吐いた後、軋《きし》むようなうめき声を上げる。震える指が床を弱々しく引っ掻くが、起きあがることが出来ない。消耗《しょうもう》しきった様子である。
そもそも、人前で苦鳴を上げること自体が、普段のレインからは有り得ないことだった。
その辺の事情を知ってか知らずか、冷徹《れいてつ》に観察を続けていた『彼女』が、初めて呆然《ぼうぜん》とした表情を見せる。
それは微《かす》かな驚き……あるいは、本人は決して認めないだろうが、不安もしくは「心配」を表したものだったかもしれない。
『なにを……なにを考えてるの、あなた! つまらない意地《いじ》を張るのはやめて、あたしの手を取りなさい。さあっ!!』
今度は急いで手を差し出す。
全身がぼんやりと光っている『彼女』ではあるが、差し出された手には確かな存在感があった。
『彼女』の声音《こわね》に籠《こ》められた切迫感《せっぱくかん》に、倒れたままのレインもさすがに反応した。
ぼんやりとした瞳でゆっくりと相手を眺め、次に差し出された手を見る。
微《かす》かに首を振った。
「返事は同じだ。せっかく心配してくれてるのに悪いが……」
冷たい印象しかなかった『彼女』が、今度こそあからさまに表情を変えた。
虚《きょ》を突かれたかのように、激しい動揺《どうよう》を見せる。
返事も、『彼女』らしくもなくつっかえていた。
『お、愚《おろ》かしい人間の分際《ぶんざい》で、なにを言い出すのかしら! 心配なんかしていないっ。誰が、人間ごときの心配など!?』
「……そうか」
レインは、汗まみれの顔にほのかな微笑を浮かべた。
「それならいいんだ……。心配してもらっていたなら、申し訳ないからな。これでも感謝はしているつもりだ」
ありがとう、と小さく低頭《ていとう》する。
『……う』
喉《のど》の奥から小さな声が洩《も》れたが、『彼女』は硬直したままだった。ただひたすら、まじまじとレインを見つめている。
と、今度はレインが『彼女』の腕の辺りを掴《つか》んだ。
いつもに似ず、のろくさい動きだったのに、彼女は避けなかった。
「……今なら、触れることも出来るみたいだな」
そこでやっと、腕を掴《つか》まれた事実に気付いたのか、彼女は大きく身じろぎする。
うっすらと頬《ほお》が赤くなっていた。
『今更《いまさら》、助けてくれって言っても、もう遅いわ……』
「いや、そうじゃない。一人にしてくれって頼みたいんだ」
『なぜ? あたしを追い出すなんて、自分で命綱《いのちづな》を切るようなものよ』
その言い分を補強するように、レインの笑顔がまた苦痛に歪《ゆが》む。
しばらく間を置き、やっと声がでた。
苦しんでいる癖《くせ》に、話す内容は軽い。
「よく見るとあんた、凄《すご》い美人だからな。こんなザマを見られたくない」
『美人って……』
彼女……見るからに高慢《こうまん》そうな少女は、今や顔どころか、露出《ろしゅつ》した肌の全てが赤くなっていた。
レインから目を逸《そ》らして立ち上がり、よろよろ後退《あとずさ》る。
無意識にか、自分の胸の辺りを押さえていた。
『……す、好きにするといいわ!』
捨て台詞《ぜりふ》を最後に、ぱっと消えた。
完全に気配《けはい》が消えた室内で、レインはしばらく息を潜《ひそ》め、それからまた少し吐いた。
確かにこれは危ない。
なにより、苦しさのあまり意識を喪失《そうしつ》する恐れがある。その間にヴァンパイア化してしまうと、今まで自分自身の弱気と戦っていたのが、全くの無駄《むだ》になる。
それは、結局は自分を押さえられなかったということだ。
少し考え、レインは倒れたままの姿勢で、抱えていた魔剣を抜いた……
待機棟《たいきとう》から少し離れた広場では、シルヴィアが木製のベンチに腰掛けていた。仲間を下がらせ、自分だけが残っていたのである。
瞑目《めいもく》して意識を集中していたが、すっと目を開ける。
吐息《といき》と共に独白《どくはく》する。
「謎のもう一人の正体は、人間にあらず――か。レイン、あなたもやっかいな相手に見込まれたものね」
――☆――☆――☆――
翌朝になり、シルヴィアはやっとベンチから立ち上がった。
あの少年が、まだ生きているのはわかっている。
もはや馴染《なじ》んできた、彼のエクシードを感じるからだ。
しかし問題は、どのような状態で生きているか――だろう。
そんなの考えるまでもなく、ヴァンパイアに変貌《へんぼう》しているに決まっているのだが……
「……でも、どうかしらね。このあたしでさえ、信じたくなる。無理とわかっていても、あの子ならなんとか乗り切ったんじゃないかって」
独り言の合間に首を振る。
どうも、あの少年には不思議な魅力がある。
ウェンディーやニナ、それに例の少女……あろうことか、用心深いユキまでが、少しずつ彼に心を許し始めている。
「兵に将たる器《うつわ》の人材はたまにいるけど……。あの子はもしかしたら、その上を行く、王者の資質があるかもしれない。あたしも気をつけた方がいいかも。うっかりよろめかないように……」
それ以上は口にせず、シルヴィアはさんさんと降り注ぐ朝日の中を、ゆっくりと歩む。
今日はあえて霧を出さずにいたので、村の中に人影はない。少年を別にすれば、外を出歩けるのはシルヴィアのみである。
村|外《はず》れの待機棟《たいきとう》に到着し、シルヴィアは入り口の段差の前で足を止める。
「……不可能を可能にしているといいけど。それを期待するわ」
呟《つぶや》きを残し、中へ入った。
廊下を歩き、問題のドアを開ける。
途端《とたん》に、濃密《のうみつ》な汗と血の臭いがした。
少年……レインは、部屋の中央辺りに倒れていた。片手にはしっかり(抜き身の)魔剣を握り、その黒瞳《くろめ》は閉じられている。
なにより――全身が血まみれだった。黒衣《こくい》なのでわかりにくいが、床に流れた分を見れば、服が変色しているのは血のせいだとわかる。
無事な箇所を探す方が難しい。
周囲の床は真っ赤に彩られており、一見すると、レインの身体中の血が全部流れてしまったように見える。
というか、出血多量で死んでいる――とシルヴィアは確信した。
「そんな……エクシードは途切れてなかったはずなのに」
そこで弱々しい声がした。
「……今、何時頃なんだ?」
シルヴィアは息を呑み、急いで駆け寄った。血の海に、水死体よろしく横たわるレインのそばにかがむ。
自分の服が汚れるのも無視して、膝の上に抱き上げる。さっと身体中を点検して、眉根《まゆね》を寄せた。
「これは……剣で刺した跡じゃない!?」
「……ああ」
「虚《うつ》ろな目をして、なにが『ああ』だか! 説明しなさいっ。どうしてこんなになってるのよ。まさか、謎の彼女が!?」
緊迫《きんぱく》したその質問には反応せず、レインはぼ〜っと答えた。
「あんな状態だと、精神より肉体の方が先にへばることがあるからな……」
「――は? なにを言いたいのかしら」
聞き返したものの、レインはボソボソと先を続けるのみ。どうも、半覚醒《はんかくせい》状態らしい。
「自分の意志に反し、いつの間にか意識を失っている恐れがあった」
「ちょっと」
さすがに察《さっ》しがついた。
シルヴィアの声が呆《あき》れた響きを帯びるのは、当然である。
「……気絶《きぜつ》するのが嫌《いや》だから、自分で自分の身体をグサグサ刺していた――とか言いたいわけなの?」
「うん……意識が途切れそうな時にやると、よく効く」
腹が立つほど素直《すなお》に頷《うなず》く。
ヴァンパイアになりかけのこういう状況下でなければ、衰弱《すいじゃく》してとっくに死んでたはずである。
「魔剣で斬られるってのは未体験だったが、付与魔力のせいか、めちゃくちゃ痛いもんだとわかった。お陰で、失神《しっしん》している場合じゃなかったな」
「あなたね……自分でさらに苦痛を追加させてどうするのよっ。死にかけてるじゃない!」
叱りとばしたが、これには無反応だった。
代わりに、レインはなにやら顔をしかめて首を振り、目を何度か瞬《またた》く。
おぼつかない手付きで魔剣を持ち上げようとした。
「ば、馬鹿っ。もういいわよっ。終わってるわっ。あなたはもう乗り越えたのよ!」
「……乗り越えた? 本当か?」
不思議そうな表情で訊《き》く。
聞き流して抱き上げると、今度は遠慮がちな声がした。
「あんたの服が汚れる……」
「とうに汚れてるから同じよ。いいから、しばらく休みなさい。もう眠っても平気だから……いいわね?」
「本当か? 俺はもう眠ってもいいのか?」
「ええ。現に、瞳がいつもの状態に戻っているわ。あなたは『変貌《へんぼう》』の時期を過ぎたのよ……信じがたいことにね」
「そうか……」
それを最後に、レインは目を閉じる。
身体の力が抜けて、ぐたっとなった。ようやく、素直《すなお》に眠った――というか失神《しっしん》したようだ。
それはいいが、同時に元からか細かった呼吸が、途切れ途切れになってきた。
「……本当に出血多量で死ぬ寸前にあるし! あたしがここにいたことに、感謝してほしいわね。他の誰かの手当じゃ、もう絶対に助からないわよ」
文句を言いつつも、レインをそっとベッドに寝かせる。
呟《つぶや》きの間にも休み無く手は動いており、ズタボロになっている服を脱がせていく。
いかに魔法を極めた自分とはいえ、この状態では楽観《らっかん》できない。
早速《さっそく》、治癒《ちゆ》に入らねばならないのだ。
――☆――☆――☆――
次にレインが目を覚ましたのは、実に二日後のことである。
どうやら肉体・精神共に消耗《しょうもう》しきっていたようなので、むしろ二日で目覚めたのは、望外《ぼうがい》なことかもしれない。
シルヴィアはこの二日の間、ほとんどレインのそばについていて、彼が目覚めた時も、無論ちゃんといた。
時間は二日前と同じく早朝で、この頑固で愛すべき少年は、目を開くなり前と同じ質問をした。
「……今、何時頃なんだ?」
「まだ早朝よ」
教えてやり、くすっと笑う。
「あなた、寝起きのぼ〜っとした顔をしないのね。人間にしては覚醒《かくせい》が早いわ……それも修練《しゅうれん》のお陰かしら」
「親父が、寝惚《ねぼ》けるようなヤツは戦士に向かんと言ってな。そっちの面でもしごかれたんだ」
答えて起きあがろうとしたレインは、顔をしかめた。
剥《む》き出しの二の腕を見下ろし、
「……なんで俺は裸《はだか》になってる?」
「しょうがないわよ。あなたの服、ズタボロの血だらけだったもの。……大丈夫、脱がせたのはこのあたしだから」
「それのどこが大丈夫なんだ? だいたい、どうしてそこで舌なめずりする?」
むっつりと返し、とりあえず上半身のみ起こす。
さすがに、そのままベッドを降りるのは控えたようである。
「……で、俺の服は?」
「再生しておいたけど、たまには違うの着ない? あなた、華やかな色だって似合いそうよ。せっかく容姿《ようし》に恵まれているんだし」
「いつもの黒衣《こくい》でいい」
そこでシルヴィアは、意を決して尋ねる。
「誰かの喪《も》に服しているから?」
レインは顔を上げた。
「……いや、ただ黒が好きなだけだ」
だがその返事は、不自然に遅かった。
どうやら、密《ひそ》かな推測は当たったようである。少年はほとんど表情を変えなかったが、それでも完全に隠し通せてはいない。
この孤高《ここう》の戦士にも、少年っぽいところは残っていたのだ。
笑みを押さえ、シルヴィアは立ち上がる。
「まあいいわ。どうせ着替えは嫌《いや》がるだろうと思ってたし」
椅子に置いてあったレインの服を取ってきてやった。
「ほら。どう、見事に再生しているでしょう?」
「確かに」
頷《うなず》いてから、レインはきっぱりと言った。
「……ところで、服を着たいんだが」
「ああ、よそ向いてろってことね。……はいはい♪」
今更《いまさら》、そんなことしても同じなのだが、希望通りにしてやった。
衣擦《きぬず》れの音がして、着替え終わった気配《けはい》に振り向く。
……レインは既《すで》に例の黒衣《こくい》で床に立っており、しっかり帯剣までしていた。
やや頬《ほお》が痩けたことを除けば、最初に来た時となんら変わらない。相変わらず、深沈《しんちん》とした態度のままである。
ひどい目にあった癖《くせ》に、シルヴィアや他のヴァンパイアに対する怯《おび》えは、全く生じていない。
その瞳は、小憎らしいほど平然とシルヴィアを見返している。
希有《けう》な人間なのは確かだろう。
「どうかしら、ふらふらしない?」
「いや、なんてことない」
「それは結構。――ところでレイン、良いことを教えてあげるわ」
黙って小首を傾げる少年に、ずばり告げる。
「あなた、眠っている間にここのヒーローになっているわよ?」
「……は?」
漆黒《しっこく》の瞳を瞬《またた》く少年に、教えてやる。
「ウェンディーがお星様みたいにきらきらした瞳で、みんなに『レインがどんなに優しい人か』を布教して回っているの。現在、あなたのファンが静かに急増中……彼女の身振り手振りのおはなし、説得力があるわ」
はっきりと渋い顔をするレイン。
「それは……困る」
「困るも蜂《はち》の頭もないわよ」
途方《とほう》に暮れた様子のレインに、シルヴィアはくすくす笑って宣告する。実際、もう手遅れである。
「俺はただ――」
「はいはい。聞いてあげるから、まずは食事にしましょう。長いこと何も食べてないんだし……ね?」
提案すると、レインは思い出したように自分の腹に手を当てた。
――☆――☆――☆――
食事を終えてから、シルヴィアはレインを誘って散歩に出た。
断られるかと思ったが、レインは素直《すなお》に応じてくれた。どうも、彼自身もシルヴィアに話があるらしい。
霧は出しておらず、静まり返った村の中にまぶしい光が満ちている。まるで人の気配《けはい》が無い小道を、二人で並んで歩いた。
「ウェンディーは大丈夫か?」
「今は休んでいるけど、もう平気よ。……問題はこれからだけどね。ここの生活に、慣れてくれるかどうか」
「そう……だな。家族の元には戻れないだろうから、ここにいるのがあの子の最上の選択なんだろう。あんたの元でなら、平和に暮らせると思うし」
考え考え、レインは呟《つぶや》く。
「そう願うわ。でもあの子自身は、あなたと一緒に行きたいみたい……決意は固そうね、あれは」
レインの足が止まる。
この少年の、こんな愕然《がくぜん》とした顔は、まず滅多《めった》に見られない。
面白いので、ついでに教えてあげた。
「言わなかったかしら? この二日ずーーーーっと、『レインと一緒にいくー』と連呼《れんこ》してたわよ」
「馬鹿言えっ。そんなこと出来るもんか!」
憤然《ふんぜん》と反論された。
「あたしに言ってもねー。本人の希望だしぃ」
シルヴィアはひとしきり笑い、それからふっと真面目《まじめ》な顔に戻った。
「――さてと」
ちょうど広場に入ったのを幸い、自分も立ち止まる。
「それでは、そろそろ話を聞きましょうか。あなたがここへ来たのはなんのためかしら。最初は、ホークのことを知らせに寄ってくれたのかと思ったけど……それだけじゃないわよね?」
ずっと先延ばしになっていた質問を、やっとする。
レインは、じっとシルヴィアを見返した。
「……ああ、それだけが理由じゃない。あんたに頼みがあってきた」
「頼み? へぇ〜……あなたが誰かに何かを頼むなんて、凄《すご》く珍しいことじゃないかしら」
「……そうだな」
やや瞳を伏《ふ》せる。
「おまけに死にかけていたのを助けてもらったし、借りが増える一方だ……」
「借りならこちらにだってあるわよ。あなたのお陰でウェンディーがすっかり元気になったし、あたし達に懐《なつ》いてくれたじゃない。……とはいえ」
レインのすぐ前に立ち、手を伸ばす。
「あなたがそう言うなら、お礼をもらおうかしらね」
両手をレインの背中に回し、くすっと笑う。
そのまま心持ち背伸びして、素早く口づけをした。
意表《いひょう》を突かれたのか、向こうは全然動かなかった。まるで恋人同士のような数秒が過ぎ、シルヴィアがやっと離れると、初めてハッとした表情で唇に手を当てる。
「あなたらしくもなく、反応が遅かったわねー」
「……だから、なんでそこで舌なめずりする?」
困ったような顔で睨《にら》む。
少し頬《ほお》が赤い。
照れているのは確かなようだが……いきなり妙《みょう》なことを述べた。
「……参ったな。あんたに戦いを挑もうと思ってたのに、やりにくくなる」
「戦い? あたしに!?」
シルヴィアが自分で自分の鼻先を指差すと、レインは生真面目《きまじめ》な顔で頷《うなず》いた。
「そうだ。手加減抜きで、ぜひお願いしたいものだ」
「……それが『頼みごと』なの?」
「いや、まだあるさ。でも、もう一つは戦いの後に言おう……」
シルヴィアともあろう者が、これには驚かされた。
というか、正直、呆《あき》れた。
ここまではっきりと挑戦してくるとは。
「無謀《むぼう》なところがあるとは思ったけれど……ここまでとはね。念のために訊《き》くけど、練習試合じゃないのね?」
あっさり首を振るレイン。
「そんな遊びじゃない。あんたは俺を殺す気で頼む」
これまた、淡々と言ってくれた。
本気なのがわかるだけに、信じがたい。
「あなたはエクシード、すなわち『気』を既《すで》に身に付けている。当然、あたしのエクシードを感じ取れているはずよ。それなのになお、このシルヴィアに挑むというの? 力量差は想像がつくでしょうに」
「確かにあんたの力は強大だ。俺はまだエクシードとやらの入り口にいるに過ぎないが、それでもあんたの力は嫌《いや》というほど感じる。冗談ごとじゃなく、地の底から高峰《こうほう》を仰《あお》ぎ見るような気がする。こんな気分は初めてだ」
しかしそれでも――などとこの少年は続けるのである。
「それでも、戦ってみない限り勝負はわからない。必ず負けるとは思わない」
傲慢《ごうまん》とも言うべきセリフを吐く。
眼前《がんぜん》の少年が十数年しか生きておらず、この自分が数千年を戦ってきた戦士であることを思えば、信じがたいセリフである。
そもそもシルヴィアは、自分が相当に気が強い方だと自覚している。
売られた喧嘩《けんか》は割とあっさり買う方なのだ。
これまでも、少女っぽい外見だけを判断材料にして分|不相応《ふそうおう》な腕試しを挑んできた相手には、ことごとく思い知らせてやった。
集団戦はもちろん、無数に等しい個人戦でも、敵に後れを取ったことは一度もない。
例え相手が人間ではなく、人外《じんがい》のモンスターや、あるいは……魔族であろうと。
だが、そういう「勘違《かんちが》いした馬鹿」とレインとを一緒くたにするのも間違いだろう。
シルヴィアは眉根《まゆね》を寄せて、蒼天を仰《あお》ぐ。
……この少年が、理由もなく戦いの旅を続けているはずはない。
どうせこれまでも、強い相手を求めて来たのだろうが……そのうち、決定的な敗北を喫《きっ》して命を落とすかもしれない。
ならば、気は進まなくとも挑戦を受けるべきだろうか。
念のため、尋ねてみた。
「あなた、もしかしてこれからもずっと戦いの旅を続けるつもりかしら」
「それは無論のこと」
大きく頷《うなず》くレイン。
そこで何か思いついたような顔で言い足した。
「どうやら俺は、剣技に関して天賦《てんぶ》の才能があるらしい。故郷を出てから不敗のままだしな」
老練《ろうれん》なシルヴィアには、これが少年の仕掛けた挑発であると知れた。意味もなく、こんなあからさまな自慢をするレインではない。
こちらをわざと怒らせようというのだ。
「……でもまあ、乗ってあげようかしらねー」
独白《どくはく》し、ゆっくりと間合いを取る。
「一度、叩きのめしてあげた方がいいかもしれない。その方が、あなたのためになるでしょうから」
レインはややためらう様子を見せ、
「言い忘れたが。戦士として生きると決める前には、敗北はあった。いや、敗北以前に何も出来なかった」
その声には、聞く者を惹《ひ》きつけずにいられない深い感情と……そして、大きな哀しみが混同していた。
澄《す》んだ黒瞳《くろめ》をまっすぐシルヴィアに向け、レインは言う。
「俺の人生で、敗北はあの一度でたくさんだ……二度はいらない」
シルヴィアは不思議と心打たれていたが、あえて厳しいセリフを返した。
「……なにがあったのか、正確には知らないけれどね。でも、それはやはり傲慢《ごうまん》だと思うわよ」
穏やかな笑みを消し、代わりに年季を積んだ戦士に相応《ふさわ》しく、己《おのれ》のエクシードを高めていく。
不可視《ふかし》の、底冷えのするような闘気《とうき》が全身から沸き立ち、黒衣《こくい》の少年はちょっと瞳を見開いた。
生まれて初めてのプレッシャーにとまどいを覚えたのかもしれない。
しかし、その顔に怯《おび》えはない。全くない……皆無《かいむ》である。
彼にとっては大瀑布《だいばくふ》の水圧にも等しい闘気《とうき》だろうに、唇の端に不敵な笑みを刻《きざ》んでシルヴィアを見返す。
「有り難い。やる気になってくれたようだな」
答える前に、シルヴィアは自らの魔剣を呼び出す。
しなやかな両手にブンッと光芒《こうぼう》が満ち、たちまち青き二振りの魔剣が掌《てのひら》に収まった。
「最後にもう一つ訊《き》いておきましょう。あなたの望みはなにかしら、レイン。死すべき宿命《しゅくめい》にある人間が、あえて戦いに彩られた人生を歩む理由はなに?」
「答えは簡単だ、シルヴィア。最強……至上《しじょう》の強さと言い換えてもいい。それが俺の望みだ。誰よりも強くありたい、いかなる存在、何物にも屈《くっ》することのない男でいたい!」
声音《こわね》は低くとも、そのセリフには血を吐くような生の感情が籠《こ》もっていた。
常にクールなレインからすれば、有り得ないような激した感情が――
少年の過去に、シルヴィアの想像通りのことがあったとすれば、それは大いに同情出来ることだ。
出来るからこそ、ここはあえて彼を打ちのめす必要がある。
誰もが妥協《だきょう》しながら生きている。
対象が人であろうと他の何かであろうと、何物にも屈《くっ》せずに生きていけるはずがないのだ。
人は、死ぬまでに無数の敗北を知る運命にあるのだから。
……それが真理というもの。
その真理を無視できる存在など、一握りもいない。
この少年は確かに、驚くほど強固な自制心でもって昨晩の苦しみを乗り越えたが……果たしてそれが正しいことだったかどうか。
だからあえて、シルヴィアは甘い顔を見せない。彼には、ぜひとも戦いとは無縁の生活を送ってもらいたいから。
わざと胸を張り、ふてぶてしく言ってやる。
「最強を求めているですって? それなら、確かにちょうどいい場所に来たかもね。無謀《むぼう》過ぎて気の毒になるけど」
バラ色の唇に余裕の笑みを見せる。その笑みは、しかしすぐに消えてしまう。
代わりに、裂帛《れっぱく》の気迫と共に言い切る。
「我、無敗を誇ること三千七百年に及ぶ! あらゆる種族、あらゆる魔獣《まじゅう》は我が敵にあらず。もちろん、あなたも例外ではないわ、少年!!」
「真実は、すぐにわかる。俺を相手になお無敗を誇れるか、試してもらおう」
レインの声は、あくまでも静謐《せいひつ》である。
「あのホーク・ウォルトンは、俺にこう告げた。『君は、私の人生で出会った、最強の戦士だった』と。――あんたがそうだったとは、言わなかったぞ!」
「では、彼の正しさを証明してみせなさい、少年!」
言下《げんか》にシルヴィアは走った。
銀色のツインテールがまっすぐ後ろになびき、風が鳴る。
十分な距離が開いていたのに、スタートダッシュからレインの間合いに突入するまで、まさに一瞬である。
相手はまだ、魔剣の柄《つか》に手をかけているだけだ。
しかし、シルヴィアは目にする。
少年の間合いに突入したその時を捉《とら》え、彼の手元が光るのを。
光とは真っ青な魔剣のオーラであり、その軌跡が我が身を抉《えぐ》る前に、彼女は跳ぶ。
レインの頭上で軽々と一回転、改めて彼の後方に着地する。
振り返った時、思わず笑みがこぼれた。
「ミリ以下の単位での、完璧なる間合いの把握《はあく》! あたかも、己《おのれ》の周囲に見えない結界を持つかのように……」
懐《なつ》かしさに、声が微《かす》かに震える。
「間違いようもないわ。今のは、あのホーク・ウォルトンが極めた居合いの剣!」
向き直り、ゆっくりと双剣《そうけん》を構え直した。
「どうやら、彼に剣技を教わったようね」
レインは申し訳なさそうに首を振った。
「勘違《かんちが》いしているぞ、シルヴィア。ホークはある意味で師だが、これは教わったんじゃない。俺が勝手に見て覚えたんだ」
――絶句《ぜっく》。
聞き返さずにはいられなかった。
「本当なの? 彼が自分の剣技を完成するまでに、何年かかったか知っている?」
「……事実は事実だ」
知らず知らずのうちにため息が洩《も》れた。
なるほど、確かに恐るべき才能だ。
まだ天才だとまでは言わないが、この少年が自分で自負する以上の戦士なのは間違いない。人間に過ぎなかったホークは、さぞかし驚いたことだろう。
「……しかし、あたしは違う。断じて違うわ!」
きっぱりと呟《つぶや》く。
レインをキッと見据《みす》え、宣告する。
「我が双剣《そうけん》の舞を破り得た者は、未だに皆無《かいむ》。神速《しんそく》の居合い剣ですら、敵ではないことを教えてあげましょうっ」
身を低くして、ぶわっと駆ける。
レインが支配する間合いに再突入した途端《とたん》、恐るべき正確さで斬撃《ざんげき》が襲ってくる。しかし、その一撃はシルヴィアの一の剣が造作《ぞうさ》なく受け、弾き上げる。
そのままくるっとたおやかな身体が半回転し、軽快な足|捌《さば》きで続く二の剣を繰り出す。
あらぬ方向から来た二の剣に、レインはハッと表情を動かす。体|捌《さば》きでもってこれをかわすが、そこへシルヴィアの大きな踏み込み。
ぶんっという風切り音と共に、また一の剣がレインの頭上へ。
レインは背後に身を投げ、ゴロゴロと転がってかわした。
ドガアアアアッ
直後、シルヴィアの魔剣が大地を穿《うが》つ。
ギリギリでかすめたせいで、レインの黒髪が何本か舞った。
反動に顔をしかめるでもなく、また深々と抉《えぐ》れた地面を見もせず、彼女は再び走る。
ヒュンッ
自分の身長ほどある大剣を両手に、風を鳴らして一気に間合いを詰める。一続きの残像により、二振りどころか数十の魔剣が跳ね起きたレインに殺到《さっとう》する。
しかし、追い詰められたはずのレインは、意外にもシルヴィアの予想に反した動きをした。
飛び退《の》いたり避けたりするのではなく、自ら彼女の懐《ふところ》に飛び込んだのである。
身体がくっつくほど最接近することで、かえって長剣の死角を突こうとしたのだろう。
事実、レインの片手はシルヴィアの胸元に伸びており、無駄《むだ》のない動きで『投げ』の体勢に入ろうとしていた。
シルヴィアはふっと笑う。
敵の武器を使えなくする、という狙いは悪くない……けどね!
余裕の微笑みを残し、シルヴィアの身体がブレる。ミニスカート姿の彼女は、その刹那《せつな》、突然消えた――ように見えただろう、彼には。
その証拠に、少年の黒瞳《くろめ》がまた、驚きに見開かれている。
静止したような時間の中、シルヴィアは超スピードでレインの右手に「出現」、そのまま大きく剣を振りかぶる。
『もらったわよ!』
しかし、レインはなかなかしぶとかった。
最後の瞬間に彼女の動きに反応、シルヴィアの方を見もせず、黒影が逆方向に跳躍《ちょうやく》する。
手を突いて一回転、立ち位置に復帰する。
シルヴィアは、賞賛《しょうさん》代わりにわざと追撃を仕掛けず、待ってやった。
これであきらめてくれるとなおいい。
「この俺が先手を取られたとは……」
「あなたは確かに速いけど……あらあら」
くすくす笑いがこぼれる。
「まさか、自分が世界最速だとでも思った? 人間とヴァンパイアでは、そもそも骨格の強靱《きょうじん》さも筋力も違う。当然ながら、普通の人間より全てにおいて上よ。……それでもあなたは、完成された動きでユキ達を圧倒したから、そこは凄《すご》いと思うけれど――」
赤みを増した瞳を細める。
「あいにく、このシルヴィアを超えることは出来ない。あたしは元始《げんし》のヴァンパイアにして、最強のヴァンパイア・マスターよ。人間など、あたしの敵ではないわ」
「そもそも、あんたほどの相手に対し、目だけを頼りにしようとしたのが間違いだ」
人の宣告を簡単に聞き流して、レインは返す。
「速さは筋力だけで決まらない……すぐにそれがわかるさ」
「あなたも頑固ねぇ……。確かに、瞬発力《しゅんぱつりょく》っていうのは修練《しゅうれん》でかなりの向上が望めるけど、あたし達の場合は元々の身体能力に差がありすぎるわよ!」
言下《げんか》に、シルヴィアはまたふっとその場から消える。
もちろん本当に消失したわけではなく、身を低くして猛然《もうぜん》とダッシュしたのだ。一瞬にして周囲の景色がぐにゃっと歪《ゆが》み、己《おのれ》のみが到達しうる(と自負する)トップスピードに乗る。
身構えているレインの元へ飛び込み、すかさず一の剣を横|薙《な》ぎにする。
少年は、今度は最小限の足|捌《さば》きでもってこれをかわす。卓越《たくえつ》した「見切り」が出来る彼にして初めて可能なことだが――
……二振りの魔剣による、苛烈なまでの多重攻撃を得意とするシルヴィアには、さして問題にならない。一の剣がかわされたところで、続く二の剣が繰り出されるだけだ。それも、ほとんど時間差を置かずに。
だが、なんとこれもレインはかわして見せた。黒衣《こくい》を切り裂くほどのギリギリの間合いとはいえ、しっかりと避けたのである。迫り来る斬撃《ざんげき》が「見えている」というより、シルヴィアの踏み込みと魔剣の長さから、とっさに攻撃(の先)を予測しているようである。
――底の知れない子だこと! でも元々、この子が真価を発揮するのは攻撃に攻撃を重ねる、徹底した『攻め』の剣技のはず。……守勢《しゅせい》に徹するとなると、先は見えたわね。
そう、シルヴィアは疲れを知らない。
彼女もまた、攻めに徹した剣技を得意とするが、「双剣《そうけん》の舞」が疲労によって止むことはない。
青き魔剣の刃が敵を捉《とら》えるその瞬間まで、死の剣舞《けんぶ》は決して停止しないのだ。
「はああああああっ」
攻撃の手が休まるどころか、剣撃《けんげき》の速度は益々上がり、踏み込みはより深く、より正確になってくる。
そしてついに、シルヴィアの魔剣がレインを捉《とら》えた。
一の剣による斬撃《ざんげき》を避けたレインに対し、シルヴィアはさっと歩を進め、既《すで》に低い位置に構えていた二の剣を跳ね上げる。
レインの見切りは追いつかず、魔剣は凄《すさ》まじい勢いで少年の腹を薙《な》ごうとしていた。
「半歩遅かったわね!」
少年の微弱な筋力では、自分の剣撃《けんげき》を受けることは不可能のはずっ。
――しかし。
ギィィィン――バチバチバチッ
初めてレインが、自らの剣で攻撃を防いだ。
魔剣と魔剣が激突し、反発した魔力同士が激しいスパーク音を発する。
驚きのあまり、鍔迫《つばぜ》り合《あ》いのままシルヴィアの動きが止まった。
「人間があたしの剣を受け止めた……? しかも、骨折することもなく?」
シルヴィアはワイン色の瞳を瞬《またた》き――そして、瞬時に理解した。
「そうか……エクシードを爆発的に高めて、一時的に身体能力を上げたのね」
背中の辺りにぞくぞくする感覚が走る。
恐れなどではない。
久方ぶりにこれほどの戦士に出会ったことで、血が騒ぎ始めているのだ。
相手に大|怪我《けが》させかねないので抑えたいのだが、もはやその自信はない。
「もしかして、それもホークから『勝手に』見習ったの?」
「ああ。病の身だったホークが、一時的に元気になったのを見た。後で、『エクシード』とやらのお陰だと知ったんだ」
「……人間にしておくのは、ほんっとうに惜しいわね、あなた」
シルヴィアは、心から素直《すなお》に賞賛《しょうさん》した。
ほとんどの人間達がその存在すら知らないエクシードを、この少年はあっさりと我が物にしつつある。
しかも、単にホークが使うのを見ただけで!
「……だんだん、あたしも高揚してきたかな。でも残念ね、そこまでエクシードを高めちゃうと、もうすぐどっと反動が来るわよ。立っているのも辛くなるわ。あと、もって数分というところ――ねっ」
宣告と同時に、ぐわっと剣に力を籠《こ》める。
「――っ!」
シルヴィアの怪力を受け、レインは支えきれずに簡単に吹っ飛ばされた。
その着地点に向け、早くもシルヴィアが駆けている。
転がったレインが飛び起きるのと、彼女の一の剣が殺到《さっとう》するのが同時である。
それでも、レインは受けた。
一の剣を受けて弾き返し、直後に真横からの二の剣。
これも、歯を食いしばって剣を立てて防ぐ。
今度は双方動きが止まらず、新たな間合いを取るべく、弾かれたように離れる。
ちろっと薄桃色の唇をなめ、シルヴィアは笑う。
「なるほど、あなたは攻撃だけじゃなく、防御《ぼうぎょ》も完璧に近いわ。でも守勢《しゅせい》ばかりじゃ、あたしには勝てないわよ」
「……それは、強者の傲慢《ごうまん》だと思うぞ」
「なんですって?」
思わず、不審《ふしん》げに眉根《まゆね》を寄せてしまった。
いつもそうだが、レインは臆することなく、まっすぐにシルヴィアを見返していた。
「俺を甘く見るな、と言っている。この俺がなんの考えもなく、ただ逃げまくっていると思うのか。だとしたら、あんたの見方は甘い」
「……あたしの隙《すき》を探るため、とでも言いたいのかしら」
「少なくとも、俺が逆の立場ならそう考える」
どこまでも穏やかな口調でレイン。
「世に、完全無欠《かんぜんむけつ》の剣技など存在しない。……あんたの二刀流《にとうりゅう》も例外ではないんだ、シルヴィア」
「ふふふ……あなたのその負けず嫌いな物言い、段々好きになってきたわ」
我ながら不思議なことに、一向に腹が立たない。
それだけ自分が、レインを認め始めているということだろう。
……この少年には、確かに大言壮語《たいげんそうご》するだけの実力がある。
「でも、まだあたしを追い詰めるにはほど遠いわよ!」
シルヴィアはぐんっと加速、既《すで》に回避行動に入りつつあるレインに対し、それでも一の剣を突き出す。
最小限の足|捌《さば》きでレインが避ける。
既《すで》に、二の剣の攻撃に備えて魔剣を持ち上げようとしているのが、彼の非凡《ひぼん》な見切りを示している。だがシルヴィアは、剣撃《けんげき》の代わりにふわっと跳躍《ちょうやく》する。
一瞬、虚《きょ》を突かれたレインの眼前《がんぜん》で、か細い身体が空中でさっと翻《ひるがえ》り、回し蹴《げ》りを放つ。
「ぬっ」
まともに顔面に食らうところだったのを、レインは剣を盾代わりにして防いだ。
いびつな音と共に、剣腹《けんぷく》に痛烈な蹴《け》りが炸裂、痩身《そうしん》の少年はまたしても簡単に弾き飛ばされる。
で、シルヴィアは蹴《け》りの反動を利用してくるっと一回転、地上に降り立ち、すかさずダッシュ。少年は、まだダメージから回復していない。
今回は起きあがるのも間に合わない。
今度こそ、もらったと思った。
――突如《とつじょ》、シルヴィアの前に誰かが『出現』した。
文字通り、なんの前触れもなく。
シルヴィアと同じ真っ直ぐに伸びた銀髪で、背中を隠しきるほどに髪が長い女性である。
ただし瞳は碧眼《へきがん》で、なにやら厳しい光をたたえてこっちを睨《にら》んでいた。
「退《ひ》きなさい、ヴァンパイア。おまえに彼を殺させるわけにはいかない」
「ふふん、ついに姿を現したわね」
シルヴィアは好戦的な笑みを浮かべる。
油断なく双剣《そうけん》を構え、相手を見返す。
「あなたがなんのつもりで彼のそばにいるのか知らないけど、わざわざ出てくるなんてね。……よほど焦ったのかしら?」
向こう側が透けて見えそうなぼんやりした姿を、じろじろ見る。
彼女はミニスカート姿のシルヴィアと違い、足首まであるような裾《すそ》の長いドレスを着ていた。
「本気でこのあたしを止められると思うの。見たところ、本来の力は出し切れないようだけど?」
謎の美女――じゃなく美少女は、冷ややかに言い返す。
「……この閉ざされた世界しか知らないおまえが、よくも大言壮語《たいげんそうご》できたもの。ヴァンパイアごとき、今のあたしでも十分。侮辱《ぶじょく》の罪は死をもってあがなってもらう」
シルヴィアは意味深な笑みを浮かべた。
「ふーん。『この閉ざされた世界』ねー……村のことじゃなく、大陸全部を指しているのかしら」
笑みがさらに広がる。
「なるほど、強者の傲慢《ごうまん》か……。レインは良いことを言うわ」
その言いように、謎の少女はほんの僅《わず》かに碧眼《へきがん》を見開いたが、シルヴィアはあえて話を逸《そ》らす。
「ま、どっちでもいいわ。あたしが相手をしてあげてもいいけど、レインがうんと言わないみたい」
実際、レインは既《すで》に『彼女』の隣に歩み寄ったところだった。
「……俺を心配してくれるのは有り難いが、無用のことだ。悪いが、あんたが退《しりぞ》いてくれ。まだ勝負の途中だ」
「あなたは自分の力量も計れぬほどの愚《おろ》か者なの」
うっすらと輝く彼女は、厳しい声で言う。
「あなたはあのヴァンパイアに体力で劣り、剣技で劣り、身体能力やスピードでも劣るわ。勝負を続ければ、大|怪我《けが》では済まないかもしれないわよ」
「勝負の行方がどうあれ、それは俺自身の問題だ」
レインの口調は、彼女よりもさらに厳しい。
「それに、あんたはわかってない。……このままだと負けると決めつけているようだが、俺は敗北を喫《きっ》するつもりなど、さらさらないぞ」
いくら第三者との会話であろうと、普段のシルヴィアならここで必ず突っ込みを入れるか、あるいは抗議《こうぎ》するところである。
なのに、少年のあまりにも静かな語り口調に、思わず黙って聞き流してしまった。
レインという少年には、どうも不思議と人を惹《ひ》き付けるところがある。
それは、いきなり乱入してきた少女に対しても例外ではなかったらしい。
冷たい美貌《びぼう》に微《かす》かな迷いを浮かべ、彼女はじっとレインを見る。
「……勘違《かんちが》いしないで。あたしはあなたを観察しているだけ。自分の楽しみが減るから止めに入ったまでよ」
でも、と彼女は続ける。
「あなたは奇妙な男だわ……それだけは認めてあげてもいい。他人など徹底的に信用しないこのあたしでさえ、その言葉を信じたくなるのだから……」
光の粒子《りゅうし》で構成されたような手を持ち上げ、レインの腕に触れる。そっと。
「いいでしょう……あなたの希望通り、退《しりぞ》いてあげる。見事に勝利を収め、あたしをもっと驚かせてごらんなさい」
そのまますうっと薄れ行く彼女に、レインは思わず、といった様子で問う。
「待てっ。まだ名前を聞いてなかったぞ!」
「あたし? あたしの名前は――」
言いかけ、傲然《ごうぜん》と顔を上げた美少女は、突然言葉を切った。
初めてじんわりと微笑する。
どこか、悪戯《いたずら》っぽく。
「今のあたしは、シェルファという名前よ。覚えておいて損はないわ、レイン……」
相手が消えた後も、黒瞳《くろめ》をいぶかしげに曇らせているレインに、シルヴィアは真っ向から訊《き》いてみた。
「あなたは知っているの、彼女の正体?」
「……いや。人間じゃないことくらいしかわからんな」
予想通りの返事。
この際、教えてやることにした。
「あれは魔族……つまり魔人よ。あなた、やっかいな相手に見込まれているわね」
「魔人だと? 滅びたとされる、超種族《ちょうしゅぞく》か」
「そういうこと。……驚いた?」
なにやら顔をしかめたレインは、複雑な表情で頷《うなず》いた。
「まあ、少しは。しかしそれなら、もっと以前に正体を訊《き》いておくべきだったな」
「……なんでよ」
「そうとわかっていたら、とっくに勝負を挑んでいた」
実に悔しそうに言う。
シルヴィアは、思わず吹き出した。魔人と聞いて、すかさず「勝負を挑みたい」などと考えるのは、人間世界ではこの少年くらいかもしれない。
そもそも、人間達には世代を越えて、滅びた(とされる)魔族への恐怖が残っている。
彼らを相手に「戦って勝てる」と思う者は、まずいない。
「なるほど、あなたの強さを求める信念は、本物だわ。――では、あたしもあなたの本気に応えましょう!」
宣言と共に、シルヴィアは疾走する。
大気を切り裂き、長いツインテールの髪が後ろになびく。
ゴオッという、耳に心地よい風の音が聞こえる。
おそらく、正面にいたレインの目から見れば、この自分の姿がいきなり巨大化したように見えたかもしれない。
とっさに、目の焦点調整が追いつかなくなるほどの速さ――
そのスピードは、この世界では人間達が未だに知らずにいる領域……そこでは自分以外の相手は、全て静止しているに等しい。まさに、自分のみが君臨《くんりん》する世界である。
彼らの到達し得る限界点を、遙《はる》かに超えているのだ。
いや、いかなる種族、いかなる魔獣《まじゅう》であろうと、この自分の速さにはついてこられない。
シルヴィアが最強を誇ってきた理由は数多くあるが、その一つは紛れもなく圧倒的なスピードにある。
なのに――それなのに、レインは反応した。
流星にも似た青き斬撃《ざんげき》を、レインはすり抜ける風のように、ぎりぎりでふっとかわす。
かわした刹那《せつな》、すかさず彼の魔剣が攻撃を仕掛ける。首筋を狙ったその剣撃《けんげき》を今度はシルヴィアが避け、代わりに二の剣を繰り出そうと――
「――っ!」
いつの間にか、レインの立ち位置が変わっていた。
それが、彼が身を捌《さば》いて移動した結果だとわかるのに、一瞬、認識が遅れた。
当然である。
なぜならそれは、このシルヴィアの見切りを超えたことを意味するからだ!
おそらくこの戦いで初めて――初めてシルヴィアが大きく飛び退《の》く。そうしなければ、避けきれなかったのだ。
それでも回避が微妙に遅れ、シルヴィアともあろう者が華麗《かれい》な着地を果たせず、背中から大地に身を投げる形になる。
そのまま二転、三転して間合いを空ける。飛び起きたのはいいが、服が浅く切り裂かれていた。
それは、今までの「予想範囲内」の防御《ぼうぎょ》などではなく、明らかに「逃げ」の動作であり、シルヴィアらしくもない動きだった。
「……驚いたわね」
らしくもなく、声が少し掠《かす》れた。
この子の今の動きは、一体どういうこと!?
エクシードを全身に充実させたとしても、それが見切りの正確さにまで及ぶわけではない。
人間が本来持つ、反射神経や動体視力までがホイホイ上がるわけではないのだ。
「エクシードの充実は、あんたの剣を受けられる程度でいい。剣技を見切ることに関しては、なにもそっちに頼る必要はないんだ」
シルヴィアの疑問に答えるように、レインが言う。
「……速さは筋力だけでは決まらない、さっきそう言ったはずだぞ。ことに、剣技ではそうだ」
そこですうっと笑う。
唇の端に、実に不敵な笑みが刻《きざ》まれる。
「最初のうちはともかく。今は、あんたの動きが少しずつ見えてきた。観察してた甲斐《かい》があったな」
「そんな馬鹿な。この短時間で、そこまで見切られてたまるものですか!」
「だが、事実だ」
いともあっさりと言い返し、レインはきらっと瞳を光らせる。
不可視《ふかし》のエクシードが、少年の闘気《とうき》でぶわっと沸き立つ。
「ただし、エクシードの充実を抑えたとはいえ、このままの状態で長く戦えないのも確かだ。――今度はこちらから行かせてもらうっ」
魔剣を低く構えたまま、レインが大地を蹴《け》る。
無論、シルヴィアも受けて立つ。
「いいでしょう! この双剣《そうけん》の舞を崩せると思うなら、やってご覧なさいっ」
レインは下から斜め上へと剣を振りきり、シルヴィアはそれを一の剣で迎え撃つ。
魔剣同士が力任せに激突し、青きオーラが魔力の反発によって蛍火のように細かい粒子《りゅうし》をばらまく。
しかし、シルヴィアにはまだ「二の剣」がある。
一瞬にも満たない時間差で、第二撃が相手を仕留めるのだ。
レインの魔剣、その切《き》っ先が矛先を転じるより早く、二の剣が横殴りの暴風となって少年を襲う。
ブンッ
少年の頭上ギリギリを、二の剣がかすめる。
レインは、限界まで身を沈めてこれをかわしたのだ。
それどころか半歩踏み込み、シルヴィアの足下より、伸び上がるようにして突きを放つ。
「くっ」
大きく仰《の》け反《ぞ》ることで、魔剣の突きを避けるシルヴィア。
双剣《そうけん》の動きが刹那《せつな》の間とはいえ、止まる。
そこへ、生き物のように魔剣の軌跡を転じた、レインの斬撃《ざんげき》が襲う。
「行くぞっ」
「あたしを甘く見ないことねっ」
我《われ》にかえったシルヴィアが、神速《しんそく》の動きを見せる。
双方の魔剣が唸《うな》りを上げる。
一切の手加減なく、本気で動き、本気で剣撃《けんげき》を放ったシルヴィアに対し、さすがにレインはこれを受けきることが出来なかった。
魔剣自体はビクともしなかったものの――
エクシードを充実させてもまだ、少年の筋力では支えきれなかったのである。
真っ赤な雫《しずく》が蒼天に飛び散り、痩身《そうしん》が暴風に晒《さら》された木の葉のように吹っ飛ぶ。
いささかも勢いを減じず、レインは実に、広場の端から端まで飛ばされた。
太い木の幹に背中から激突、肺の空気を絞りだす。激しい衝撃《しょうげき》のせいで、その頭上にざあっと落ち葉が舞った。
レインの肩のやや下辺りに、生々しく斜めに傷が走っている。
シルヴィアの剣によるものではなく、彼女の剣撃《けんげき》を受けきれなかった故《ゆえ》に、押された自らの魔剣で傷付いたのだ。
しかし、まだシルヴィアの攻勢《こうせい》は続く。
ゴオッという風の音を纏《まと》い、ためらいもなくレインに突っ込む。
「はあああっ!」
まだ座り込んだままの少年の間合いに躍り込み、豪快《ごうかい》なモーションで一の魔剣を横|薙《な》ぎにする。
「――っ!」
脇へ跳ぶことで、レインは見事に避けたが、シルヴィアの魔剣は止まらず、そのまま振り切ってしまう。
メリメリメリッという音と共に、あっさりと大樹が両断される。
幹が大地に倒壊《とうかい》するより先に、軽快な足|捌《さば》きで踏み込み、さらに二の剣を振り抜くシルヴィア。レインは受けたものの、すぐにまた一の剣、そして二の剣と連続する。
青き魔剣は大地に大きな裂《さ》け目を作り、あるいはレインの身体をかすめ、攻勢《こうせい》が一瞬たりとも止むことがない。
苛烈なまでの重い剣撃《けんげき》が嵐のように吹き荒れ、レインを押しまくる。
まさに、シルヴィアの独壇場である。
レインもよく善戦してはいる。切れ目なく続く剣撃《けんげき》を時には足|捌《さば》きで避け、時には受けと、見事に反応してはいる。
しかし、自分から攻勢《こうせい》に出るまでには至《いた》らず、またしてもじりじりと押されはじめている。
五合、十合、十五合……広場を縦横無尽に走り、互いに斬り結んだものの、それは全て防御《ぼうぎょ》――普段のレインに似合わぬ、『受け』の剣技である。
そしてまたもや、双剣《そうけん》の舞がレインを捉《とら》える時が来た。
レインの突き出した魔剣が、手応えもなくシルヴィアを突き抜ける。
たおやかな身体は儚《はかな》い残像と化し、揺らぐように消えてしまう。
「――!! 跳んだのかっ」
すぐに顔を上向かせるレイン。
だが僅《わず》かに遅く、シルヴィアは急降下する飛鳥のように、上空からレインに襲いかかっている。
空中で一回転し、存分にパワーの乗った魔剣が頭上に落ちる。
「あきらめなさいっ」
「――くっ」
ギィィィン
頑丈《がんじょう》な傾国《けいこく》の剣ではっしと受ける。
衝撃《しょうげき》が手から全身に伝わり、一瞬とはいえ、痺《しび》れが来るほどの威力があった。足下がふらつき、完璧な防御《ぼうぎょ》の構えが崩される。
そこへ満を持して、着地したシルヴィアの二の剣。レインの脇腹へと吸い込まれる。
横っ飛びに跳んだレインは、しかし避け切れてはいない。
腹を裂かれ、先程《さきほど》より遙《はる》かに盛大《せいだい》な血泉《けっせん》が吹き出す。
それでもエクシードを充実させていたお陰で、素早く立つことは出来た。本来出血も止まらないところだが、見る見る出血量が減じていく。
だがこれは一時的なもので、時間切れで反動が来れば、また傷が開くことも有り得る。エクシードの充実による恩恵《おんけい》は、無限に続くわけではないのだ。
それに、もはや体力の低下はどうしようもない。
そのことを、レイン自身はちゃんと悟っていただろうし……シルヴィアも当然、知っている。
「――さて。これでわかったかしら、少年」
あえて厳しい口調を崩さず、シルヴィアは問う。
「あなたはよく戦った。でも、あたしを倒すことは出来なかった……残念ながらね」
「ああ、よくわかった」
この土壇場《どたんば》でもまだ、レインの態度は堂々たるものである。冷静さに刃こぼれが生じる様子もない。
むしろ感嘆の口調で、穏やかに答えてくれた。
「あんたを倒すためには、こっちも死に物狂いになる必要がある――それがわかった」
「……あなたね」
シルヴィアは吐息《といき》をつく。
「まだ、勝てると思っているわけかしら?」
「当然だ。あんたの双剣《そうけん》の舞は、やはり万能じゃない。俺があえて守勢《しゅせい》に回っていたのは、それを確認するためだ」
シルヴィアは、眉《まゆ》をひそめて少年を見返したが……レインはただ、ゆらりと構え直しただけだった。
「そろそろ、エクシードの反動が来る頃だ。時間も無いことだし、決着をつける時が来たな」
「……本気なのね」
「俺は最初から本気だ、シルヴィア」
深呼吸などして息を整え、レインは透き通った微笑を見せた。
「あんたは強い……あのホークよりもさらに強い。それは、あんたが抱え込んでいる哀しみのせいかもしれないけれど」
シルヴィアは思わず息を呑む。
別にそれ以上は深く追求もせず、少年は静かに促した。
「じゃあ始めよう。どのみち、次が最後だ」
「……いいわ、レイン」
シルヴィアもまた、己《おのれ》の双剣《そうけん》を構えた。
先程《さきほど》のレインの微笑に応え、にこっと笑い返す。
「戦いが終わったら、とてもとても素敵なことを教えてあげる。でもその前に――」
かっとワイン色の瞳を見開く。
「このシルヴィアの全力を持って、あなたを倒しましょう!」
その言葉をきっかけに。
まるで申し合わせたように、二人は同時に大地を蹴《け》る。
レインの、魔力のオーラで輝く魔剣が、攻撃の予備動作で後ろへ引かれる。
元々、四、五メートルほどの距離である。
目を瞬《またた》くほど刹那《せつな》の間に、互いの間合いに突入する。
「っ! しまった!!」
またもや、蒼天に鮮血《せんけつ》が舞った。
大量の血が吹き出し、何かの模様のように広がり、飛び散る。
シルヴィアの一の剣が、レインの首筋をかすめて止まっている。斜めに天を指し示し、突き出されていた。
大地を染めた血は、レインの首筋からのものだ。
ただ、続く二の剣は、持ち上げかけたままで静止している。
そちらは、間に合わなかったのだ。
対するに、レインの傾国《けいこく》の剣は切《き》っ先が正確に、彼女の心臓の上で止まっていた。
無論、わざと止めたのである。
ぽつっと訊《き》くレイン。
「……ヴァンパイアってのは、心臓を貫《つらぬ》かれても死なないのか?」
「即死には至《いた》らないけど……すぐには動けなくなる。だから――」
くすっと笑い、シルヴィアは続けた。
「認めるしかないわ。……あなたの勝ちよ、レイン。最後の瞬間にあなたの狙いに気付いたけど、もう遅かった」
「そうか……」
そう返した途端《とたん》、長身からくたっと力が抜け、レインは広場に座り込んだ。傾国《けいこく》の剣が手からぽろっと落ちる。
そのまま横倒しになる前に、双剣《そうけん》を手放したシルヴィアが、慌《あわ》てて手を伸ばす。
自分も座り込み、レインを抱きかかえるように支える。
優しい声で確かめてみた。
「……双剣《そうけん》の死角を突いたのね」
小さく頷《うなず》くレイン。
「さっきはああ言ったが、あんたの『双剣《そうけん》の舞』が鉄壁《てっぺき》の防御《ぼうぎょ》を誇っているのは確かだ。ただし、ほんのわずかにウイークポイントがある。ごくごく小さな、針の穴を通すようなものだが」
「それが死角ね。数百分の一秒、あるいは、数千分の一秒かもしれないけれど、確かに死角があった……」
今なら、シルヴィアにもわかる。
こういうことだ――
通常、相手の攻撃に対し、シルヴィアはどちらかの剣で防御《ぼうぎょ》するか、あるいは身体の方で避ける。
斬撃《ざんげき》が来た方向に応じ、一の剣と二の剣を使い分けている。右手と左手のどちらが「一の剣(第一撃)」になるのか、それはわからない。右手、あるいは左手が初手、などという決まりはない。
普通は自分が常に先制するから問題ないが、レインが相手となるとそうはいかない。戦いの最中、無意識のうちに一の剣と二の剣を使い分けているわけだ。
左手の剣か右手の剣か……それとも両方の剣を同時に使うのか――身体に染みついた戦士としての経験と本能によって、シルヴィアは瞬時に動く。
彼女には彼女の間合いがあり、それに応じて二振りの魔剣を操っているのだった。
しかし、そこに死角がある。
なまじ二振りの剣を操《あやつ》るが故《ゆえ》に、敵が(あるいは剣が)突入してきたポイントによって、ごくごく一瞬、反応が遅れるのだ。
判断の遅れ、と言い換えてもいい。
無論、普通なら問題にならないほど刹那《せつな》の間に過ぎないが……その、シルヴィア本人も意識していなかった『死角』を、レインは突いたのである。
シルヴィアは静かに息を吐く。
「なるほど、あなたは希有《けう》な才能の持ち主だわ。この短時間で、よくそこまで見切れたもの。ホークの目は確かだったわね……」
もはや立つことも出来ないらしいレインに、ねぎらいの言葉をかけてやる。
これほどの相手に敗れるなら仕方ない――そう思えてしまうのが不思議だった。
ここ数日で知ったことだが……巷《ちまた》で呼ばれ始めているらしい、『知られざる天才剣士』というのは、まさにレインに相応《ふさわ》しい呼び名かもしれない。
『地の底から高峰《こうほう》を仰《あお》ぎ見る気がする』
戦いの前に少年がそう言ったものの――
あのセリフは、実はこのあたしが言うべきだったのではないだろうか。
レインは……どことなく眠そうな様子で、シルヴィアを見返している。
また出血が始まったので、そのせいかもしれない。
急に、まるで関係ないことを述べた。
「あんた、ルーンマスターなのに最後まで魔法を使わなかったな?」
「まぁね。でもあなたも、かつて世を震撼《しんかん》させた『見えない斬撃《ざんげき》』を使わなかった。だから……おあいこよ」
納得《なっとく》したわけではないようだが……どのみちレインは、そろそろ限界らしい。
まだ吸血騒ぎのせいで身体が本調子でないところに、エクシードなどを使ったせいだろう。お陰で最後の質問は、だいぶ声が小さかった。
「……戦いが終わったら、いいことを教えてくれる、とかいう話だったが。あれは、なんのことなんだ」
「そう、それそれ。いいことっていうか、『素敵なこと』だけど」
陽気に返したものの、そこで少し口ごもる。いかにシルヴィアといえども、恥ずかしいものは恥ずかしい。
自然と囁《ささや》き声になった。
「あたしはレインが好きになった……それを言いたかったのよ。ね、素敵なことでしょう?」
――などと。
人がせっかく、密着《みっちゃく》状態で囁《ささや》いているというのに、レインはもう意識を失っていたのである……
――☆――☆――☆――
夕刻間近になって、レインは一度、目覚めた。
シルヴィアは、訊《き》かれる前に教えてやった。
「もうすぐ陽が沈むわ。……みんなが起き出すまであとちょっとね」
口を開きかけたレインは、ベッドの横に座るシルヴィアを見やり、ちょっと首を傾げた。
「ふむ……」
しばらく探るような目でシルヴィアを眺め、沈黙《ちんもく》する。
もしかして、最後の自分のセリフが聞こえていて、あの返事でもくれるのかとドキドキしたが……あいにくである。
全然違う話だった。
「妙《みょう》だな。遠くで、無数のエクシードが揺らいでいる感じがする。沸き立つような闘志《とうし》と……恐れか、これは。その両方を感じる」
「ああ、それは」
ほっとため息をつき、
「接近中の軍勢《ぐんぜい》でしょう。レインには話してなかったけど、あたし達を攻撃しに周辺の国が軍を差し向けたの。……そろそろ、戦《いくさ》準備もしないとね」
ついでに、文句もつける。
「でもレイン。あなた、こーんな美少女がそばにいるのに、目覚めた第一声がそれ? せめてねぇ、『俺達、この狭い部屋で二人っきりだよな……なあ、こっちへ来ないか』とか、そういう気の利いたセリフが出てこないの?」
治癒《ちゆ》魔法の連続行使のせいで、さしもの少年も身体に無理が来ている。
本来、目覚める時ではないようで、またしても反応が薄かった。
「軍勢《ぐんぜい》だと? あんた達を滅ぼすためか?」
「……さっきもそうだけど。あたしのセリフで一番|肝心《かんじん》な部分を聞き流すとは、いい度胸ね」
見かけ通りの少女のように膨《ふく》れつつ、一応「その通りである」と頷《うなず》く。
「ヴァンパイアは嫌われ者だから。……よくあることよ、長い歴史の中では」
と、再び夢の世界に陥《おちい》りかけているのか――
レインはひっそりと呟《つぶや》いた。
「……では、俺も戦おう」
「はい?」
シルヴィアは慌《あわ》てた。
「戦うって……相手はレインと同じく、人間よ?」
「関係ない。俺が守りたいのは攻めてくるそいつらじゃなく、あんた達だ。だから、俺も戦う」
言いたいことを言い、そのまま目を閉じてしまった。
シルヴィアの治癒《ちゆ》魔法により、レインの新たな傷は瞬《またた》く間に癒えた。
ただ、また眠り込んでから後、レインが完全に(はっきりと)目覚めたのは、もう夜になってからである。
すっきりと目を開けると、寝室の中にシルヴィアの姿はなかった。
一瞬、さっきの軍勢《ぐんぜい》の話は夢かと思ったが……すぐにそうではないと悟った。
何しろ、遠くから接近中らしい、無数の『気』を感じる。
それも、先程《さきほど》よりさらにはっきりと。
明らかに進軍中の軍勢《ぐんぜい》があるのだ……しかもこれは、千や二千の数ではない。
レインとしては、夢現《ゆめうつつ》で参戦を表明した通り、決心は全く変わっていない。
シャツとズボンは椅子の上にあったので、さっさと着替えを済ませる。まだ頭が少しぼおっとするが、これは多分、連続で治癒《ちゆ》魔法の恩恵《おんけい》を受けた影響だろう。
すぐに治まるはず。
で、テーブルに乗せてあった魔剣に手を伸ばそうと……したところが、今になって隣の気配《けはい》に気付いた。
殺気《さっき》が充満した、遠くの軍勢《ぐんぜい》の方に気を取られすぎていたらしい。
なんとなくじいっと寝室のドアを見ていると、そのうちそのドアが、そぉ〜っと開き始めた。少しずつ……少しずつ……
隣室の明かりが、細い線のようになって隙間《すきま》から洩《も》れる。
寝室の方が暗いので、誰かがそこから覗《のぞ》いているのがはっきりとわかった。
ヴァンパイア故《ゆえ》か、向こうはちゃんと夜目《よめ》が利くらしく、すぐに立ちつくしたレインを認める。
見知らぬ女の子だった。当然、目が合う。
『きゃっ! やだっ』
バタンッ、とドアが閉まった。
……今のはなんだ?
レインとしても、反応に困るところである。シルヴィアの屋敷《やしき》の中にいるのだから、まさか招かれざる客ではあるまい。
彼女ほどの戦士が、簡単に侵入者など許すはずがない。
そのうち、今度はドアの向こうからひそひそ声。
『え、起きてるのぉ!! ど、どんな感じだった?』
『う、うん。ちょっと怖そうな人だったけど、割とハンサムかも……黒瞳《くろめ》が綺麗《きれい》で素敵かも……』
『つまり、強くて優しいってことよね。やっぱり!』
『きゃあー(複数の黄色い悲鳴)』
『どうしよう? マスターは起こしちゃ駄目って言ってらしたけど、もう起きているならお話してもいいんじゃない』
『でも、恥ずかしい……』
『あなたは、早くからここへ来てたせいで、男の子慣れしていないからでしょ』
『そんなことないもん!』
『なんでもいいから、お食事を持って行こうよ。なんならあたしが――』
『抜け駆けはだめーっ(複数の声)』
……ちなみに、以上の会話のほとんどは、それぞれ別の女の子の声である。
部屋の向こうには、思ったより大勢《おおぜい》がいるようだ。
一向に進展が無いので、レインは自分から声をかけてみることにした。
「……なにか用事があるなら、入ってきたらどうだ?」
一気にざわめきがひどくなった。
『――!! 呼ばれてるわよっ。聞こえてたみたいっ』
『じゃあ、もう覚悟を決めて、いこーよー』
『ちょっと。そんなに押したらドアが――きゃああっ』
容易に展開が予想出来た。
圧力のせいでどばんっ、と再度ドアが開き――
少なくとも十人以上の女の子が、雪崩《なだれ》のように倒れ込んできた。
迫り来る敵の全容《ぜんよう》を確認し、皆に当面の指示を伝えてから、シルヴィアは家に戻ってきた。ドアを開けた途端《とたん》、明るい声が弾けた。
きゃぴきゃぴした笑い声が、屋敷《やしき》中に木霊《こだま》している。
小首をかしげ、騒ぎの元になっているらしい居間に入る。
……大勢《おおぜい》の女の子に囲まれたレインが、居心地《いごこち》悪そうに食事を摂《と》っていた。
テーブルの上には、優に十人前はありそうな豪勢な料理が並んでおり、周りに侍った女の子達が次々に(自分が作った料理を)勧めている。
『ほらほら、これも美味《おい》しいですよー』
『あ、こっちはあたしが作ったミートパイなんです〜』
『あたしのもぉ!』
……こんな調子である。
レインはスープを啜《すす》っている途中でシルヴィアに気付き、実にほっとした顔をした。
「……遅かったな」
「まあ……ね。しかしあなた達」
ぐるっと女の子の一群を見渡す。
「そりゃ、ニナに『レインに何か食べさせて』とは言ったけどね。なんなの、この人数は」
「す、すいませんっ」
当のニナが身を縮めた。
「運んでいく途中で、みんなにみつかっちゃって。それで、なぜか人数がどんどん増えて」
「ああ、はいはい。まあいいわよ……気持ちはわかるから」
そう、気持ちはよくわかる。
ヴァンパイアは孤独だ。幼少の頃には人として生活していた者も多いのに、今や人間達から忌み嫌われる存在である。
ひどい時は、元家族にすら唾《つば》を吐きかけられる場合すらある。
今度の戦《いくさ》のことも、皆にはもう伝えてある。
レインが一緒に戦うつもりらしい、ということも含めて、だ。
初めて(人間)の味方が現れたわけで、嬉しいに決まっている。
自分達のために戦うというレインに、ささやかな感謝の気持ちを表したくなったのも当然かもしれない。
……とはいえ。
よく見るとこの子達は食事だけではなく、マフラーやらお菓子やら自分の描いた絵(!)やらをどっちゃりと持ち寄っていた。全部、プレゼントのつもりらしい。
ウェンディーの布教活動が、随分《ずいぶん》と功《こう》を奏《そう》したようだ。……まあ、自分も噂を広めた一人なのだが。
ただ、ユキまでが後ろの方にいるのには驚いた。彼女は最初、だいぶレインを警戒していたのではないか?
「ちょっと、ユキ。いくら今が休息の時間とはいえ……この非常時に、あなたまでが来てたの?」
あきれた声にグサッと来たのか、俯《うつむ》いていたユキは額《ひたい》に汗などかいていた。ちなみに、両手でしっかりとクマのぬいぐるみを抱きしめている。
その選択はともかくとして……ちゃんとプレゼントを持参しているわけだ。
ウェンディーの「お話し」を聞いて、すっかり意見を変えたらしい。
「わ、私はその……。騒がしいので、少し様子を見た方がいいだろうと思いその」
「……あなた、実は惚《ほ》れっぽい性格だもんねー」
「そ、そんなことは!?」
おもしろいように真っ赤になってしまう。
この中では群を抜いて大人びた美女に見える彼女が、おろおろと言い訳するのは見応えがあったが――
まあ、可哀相《かわいそう》なので追及はそこまでにしてあげた。
代わりに、シルヴィアは背後を振り返る。
打ち合わせとだいぶ違ったが、手招きしてやった。
「ほら、お入りなさい。もうパーティーは始まってるみたいよ」
……シルヴィアの呼びかけが終わる前に、ウェンディーはもう飛び出していた。
「レイン!」
――☆――☆――☆――
陽が昇ると、シルヴィアはレインと共に村を出た。
最初から霧を出していると、敵の進軍が止まる恐れがある。わざわざ見通しの利かない霧の中へ突っ込んでくるほど、向こうも馬鹿ではないはず。
というわけで、天候を操《あやつ》るにしても、せめて敵軍の布陣を見届けてからにしよう……そういう方針なのだ。
しばらく進み、二人して何もない荒野《こうや》で立ち止まる。
レインが今出てきたシルヴィーナの森を振り返り、さらにぐるっと周囲を見渡す。
シルヴィアが見るところ、緊張も不安もまるで感じられない。
大きな戦《いくさ》に参戦する緊張感など、微塵《みじん》もなかった。
「ところで、ちょうど二人っきりだし、言っておきたい。あんたに頼みたいことが――」
セリフの途中で、シルヴィアはポケットから手紙を出し、振ってやった。
ホークが渡したらしい紹介状で、寝室で見つけたのである。
「どこに行ったのかと思ったら……やっぱりあんたか。人が悪いぞ」
「見つけたのは、あなたと戦った後よ。レインが休んでいる時に掃除していて、たまたまね」
シルヴィアは微笑む。
「あたし宛《あて》になってたから、読んでもいいかなーって。ホークったら、あなたのことをベタ褒めしているわ。彼がここまで他人を褒めるのって、初めてかもしれない」
「俺はただ、ホークの家で無駄《むだ》飯を食っていただけだ」
「……彼は、そうは書いてないわねー」
くすっと笑う。
しかし、レインが何か問いかけるような目で見ているのに気付き、シルヴィアは小首を傾げた。
「なに?」
「いや……魔法の件だが……」
「あぁ〜、そうそう。確かに手紙に書いてあったわね」
もはや自分の中では普通に決めていたことなので、意識していなかったのである。
そもそもホークの紹介状が無くても、おそらく自分は同じ結論を出していただろうと思う。
この頑固な少年が生き延びるために、魔法は必ず必要となるはず。
「いいわよ。魔法の奥義《おうぎ》をあなたに教えてあげる」
微笑をもって答える。
「ただし、そもそも才能の問題があって、仮に教えたくても初歩くらいしか無理な場合が多いけど――」
レインをじんわりと眺め、
「なぜかしらね……こと戦いに関する限り、あなたはどんな方面にでも天賦《てんぶ》の才能を見せる気がする。その強固な信念が、眠ったままで終わるはずだった才を開花させたのかもしれないわ……」
「有り難い!」
しみじみと語った部分をさっくりとスルーして、レインは破顔《はがん》する。
……ちょっと憎たらしくなったので、条件など出してみた。
「その代わり、過去に何があったのか、あたしに教えるのよ」
たちまち表情が硬くなる。
シルヴィアは気安く肩を叩き、
「そんな顔しないで。別にすぐにとは言わないわ。話せる時が来たらでいいから……」
「わかった」
ほっと息を吐く少年。
ついでに希望も述べてみる。
「ずっとここに居てくれたら嬉しいんだけど……それは嫌《いや》なんでしょうねえ」
レインはとても複雑な顔をした。
まるで、自分が既《すで》に無くして絶対に手に入らなくなった『何か』を、ひどく懐《なつ》かしむような表情である。
だいぶ間を開け、ポツンと言う。
「ここは、居心地《いごこち》が良すぎる」
「……そう」
シルヴィアはあえて明るい声音《こわね》に戻り、
「じゃあ、あたしと結ばれるのはどう? 史上最強のカップルになれるわよ」
レインの顔は、見物《みもの》だった。
ついに、この子の度肝《どぎも》を抜くことに成功したわ!
深い満足感に浸ったシルヴィアである。
「そんな顔しないで。……別に、今返事しろとは言わないから。あたしは百年や二百年、余裕で待つわよ。もちろん、あなたの寿命《じゅみょう》が延びたらの話だけどね」
「ちょっと待て……冗談じゃないのか?」
「それくらい、自分で考えなさい」
シルヴィアはさらりとかわし、続けた。
「そのうち、あたしの秘密も教えてあげる。ヴァンパイアの中で、どうしてあたしだけが特別に強いのか――とかね」
どうせ流されるだろうと思ったが、意外にも今回のレインは違った。
しっかりと頷《うなず》き、シルヴィアから目を逸《そ》らさなかった。
声音《こわね》も深く、真剣である。
「ああ、ぜひとも聞かせてくれ。……待っている」
笑みが一層深くなるのを抑えられない。
今の返事、この少年は何気《なにげ》なく言ったつもりだろうけれど――
しかし、これまでのレインを見てきた自分にはわかる。
この子はこのシルヴィアの心底に潜《ひそ》む哀しみに気付き、救いの手を差し伸べようとしてくれている。……全く無意識のうちに。
「まずいなぁ。これは真剣に惚《ほ》れてしまったわねー。笑っちゃうくらいの凄《すご》い年齢差なのに」
「……俺のさっきのセリフから、どうしてそんな言葉が出てくるんだ?」
「ああ、いいからいいから。こっちの話。こういうのこそ、聞き流してくれていいわ」
それよりほら、と遠くに顎《あご》をしゃくる。
「お客様が団体さんでお着きよ」
レインは特に慌《あわ》てるでもなく、ゆっくりと向き直った。
――☆――☆――☆――
少し風が吹き始めている。
風下にいるせいか、音の伝わるのが早い。微《かす》かな馬蹄《ばてい》の音が聞こえてきて、シルヴィアは語るのをやめた。
わずかに遅れてレインも聞こえたようで、腰の剣に手をやる。
地平線の彼方《かなた》からやってきた混成軍団は、シルヴィアとレインの姿を遠くから認め、進軍を停止した。この前の先遣隊《せんけんたい》の生き残りの報告を聞いたのか、こちらが二人とはいえ、迂闊《うかつ》に近寄ってくるような真似《まね》はしなかった。
その場で陣形を組み始める。
もちろん、シルヴィアも遊んでいるわけではない。
風の精霊《せいれい》エアリアルに命じたせいで分厚い雲が天を覆いつつあり、風向きも逆に変わった。太陽も雲の狭間《はざま》に隠れてしまい、さらに濃密《のうみつ》な霧が仕上げをする。
霧の帳《とばり》越しに、仲間を呼び始めているのだ。
羽ばたきの音が聞こえ、一人、また一人とシルヴィアの仲間が集ってくる。
自分達の眼前《がんぜん》に濃密《のうみつ》な霧の壁が出来ていくのを見て、敵は騒ぎはじめた。ただ、ぴったりとシルヴィアの背後で霧の侵食が止まっているせいか、退却するには至《いた》らない。
この霧がたった一人のヴァンパイアの仕業《しわざ》だとは、なかなか信じられないのだろう。
「……味方は何人だ?」
レインが背後を振り返り、ざわざわと整列を始めた仲間を見やった。
「動員したのは、およそ五百人くらいかしら」
「思ったより多いな」
「あの森にある村は、あそこだけじゃないからね。それに、若いヴァンパイアにも戦闘《せんとう》経験を積ませておかないと」
言葉を切り、シルヴィアはレインを見る。
あえて大きい声で尋ねた。
「――さて。この戦《いくさ》、レインはどう見るかしら?」
少年はすぐには答えず、じっと仲間を観察している。
今は、霧を洞穴《ほらあな》の壁のように皆の周りに展開させている。なので中心は密度が薄く、背後は意外と遠くまで見通しが利く。
最前列から数列程度は、ユキを初めとする歴戦のヴァンパイア達であり、全員が落ち着き払って時を待っている。だが、後ろへ行くほど年若いヴァンパイア達の列になり、彼女達はさすがに不安そうだった。中にはニナのように、やたらときょろきょろと落ち着かない子もいる。
不死身の存在とはいえ、怖いものは怖い。
実戦経験も無く、ついこの前まで普通の女の子だったとなれば、当然である。
敵の方が圧倒的に人数が多いのに、これっぽっちで本当に勝てるの? そう思ってしまうのだ。
特に、シルヴィアの『力』を本当の意味で知らない世代は、余計に心細いことだろう。
必勝の信念を持てないからだ。
レインも若きヴァンパイア達の不安を感じ取ったのか、なにやら考え込んでいる。
そして、密《ひそ》かなシルヴィアの期待に応えるように、皆に声をかけてくれた。
徐々《じょじょ》に自分に視線が集まるのを待ち――いきなり大喝《だいかつ》したのだ。
『この戦いは、もはや俺達の勝ちだ!』
大気が震えた気さえする。
まだ後ろから聞こえていたざわめきが、ぴたりと止んだ。
後列に集《つど》う初陣のヴァンパイア達はもちろん、最前列のユキでさえ、びくっと肩を動かした。眼を見張ってレインに注目する。少年は、やや声のトーンを下げて語り始めた。
「敵はこちらの地の利を無視し、自ら死地《しち》に飛び込もうとしている。もう霧の進行から逃げるのも手遅れだし、しかも見たところ、ルーンマスターなど一人もいない。
おまけにこの気候の中を遠征《えんせい》してきたせいで、戦う前から疲弊《ひへい》しきっている有様《ありさま》……俺達に不利な要素など、なに一つない!」
一拍置き、さっと右手を差し上げる。
掌《てのひら》を広げ、めちゃくちゃ自信に満ちた口調で言う。
「五分だ。戦端《せんたん》を開いて、五分で敵は崩れる。必ずだ!! 俺にはわかる、敵の運命は既《すで》に見えているっ。恐れる必要は何もないぞっ!」
ぐるっと周囲を見る。
不動の大樹のように大地に立つレインを眺めていると、全員がなぜか不思議な安堵感《あんどかん》を覚えた。
シルヴィアでさえ、「そうね、五分あればなんとかなるか」という気になっていた。
後で、我ながら驚いたくらいだ。
他の仲間も、皆食い入るようにレインを見ている。
なぜか、さっきまでの怯《おび》えた空気が完全に払拭《ふっしょく》されていた。
他の、何者が同じことを語ったとしても、こうはいかなかったに違いない……シルヴィアは素直《すなお》にそう思った。
少年は、最後は穏やかだった。
今の大喝《だいかつ》が嘘のように、再びゆっくりと皆を見渡す。それは染み入るように温かい目つきで、先程《さきほど》とは別人のようだった。
何を確認したのか一つ頷《うなず》き、また正面を向いてしまう。
こっそり尋ねてみた。
「随分《ずいぶん》と戦《いくさ》慣れしているのね?」
「自慢じゃないが――」
レインは堂々たる声で答える。
「大規模な戦《いくさ》に参加するのは、今日が初めてだ」
……本当に自慢にならない。
なら、今の超強気のセリフは、一体どこから出てきたのか。
シルヴィアがくすくす笑うと、レインはむっとした顔で、
「だが、でたらめを言ったつもりは無いぞ」
「わかってるわよ。あなたの言う通りになるわ……きっとね」
軽く背中を叩き、シルヴィアは一つ深呼吸をする。
「さて。それでは行きますか」
「……なら、まずは俺が先制しよう」
言下《げんか》に、レインが長剣を抜いた。
評判はともかくとして、まぎれもなく天下最高の名剣といえる、例の魔剣を。
青きオーラがのたうつ剣腹《けんぷく》をしばらく眺め、少年は決然と呟《つぶや》く。
「……相手に退《ひ》かせるためだ、やむを得ないな」
一瞬だけ瞑目《めいもく》し、すぐに黒瞳《くろめ》を開く。
と、まるで魔剣が少年の戦意を感じ取ったかのように、さらに眩しい輝きを放つ。
いや、実際にこの剣は、レインの力を引き出してチャージしているのだ。
ブゥゥゥゥゥン
普段は微《かす》かな音が次第に大きくなり、突如《とつじょ》としてすうっと魔剣が伸びた。レインはちょっと眼を見張ったが、それ以上の反応は見せない。
自分の身長ほどにも伸びた魔剣を、大きく構える。
シルヴィアに習うかのように、一度大きく深呼吸をして、激しい叱声《しっせい》。
「我が魔剣よ、行くぞっ!」
大きなモーションで、思いっきり振り切った。
ビュンッ
その時、ほんの一瞬ではあるが、皆が見た。
巨大な魔剣が振り切られた途端《とたん》、衝撃波《しょうげきは》がまっしぐらに走るのを。
太古《たいこ》の昔、「見えない斬撃《ざんげき》」と畏怖《いふ》された衝撃波《しょうげきは》は、瞬《またた》く間に敵陣に至《いた》り――
足下を突き上げるような激震が来た。
天が落ちたかと思うほどの轟音《ごうおん》が響き、敵陣でぶわっと土埃《つちぼこり》が上がった。敵の大軍、その前衛部隊の面々から、どっと狼狽《ろうばい》の声。悲鳴だけならともかく、足下を乱し、尻餅《しりもち》をついた者が何人もいる。なにしろ彼らの足下に並行する形で一直線に、魔剣の抉《えぐ》った亀裂《きれつ》が深々と刻《きざ》まれているのだ。
シルヴィアの背後で、喉《のど》を鳴らす音がした。
ユキの掠《かす》れた声。
「これが……これがセレステアを滅びに導いた、見えない斬撃《ざんげき》の力!? 傾国《けいこく》の剣の持ち主がレインさんで、良かったですわ」
少年は何も答えず、ただ少し頭を振った。
「大丈夫? その魔剣はあなたの力を引き出すわ……無理をすると、消耗《しょうもう》するわよ」
「てっきり、魔剣に魂《たましい》を奪われるのを心配されるかと思ったんだがな」
ちらっとこちらを見る。
シルヴィアは微苦笑を洩《も》らした。
「いいえ。消耗《しょうもう》することはあっても、取り殺される心配なんか無いわよ。むしろ、あなたは誰よりも上手く扱えると思う」
何か聞き返そうとしたレインを遮《さえぎ》るように、敵陣で次々と悲鳴が上がる。
『魔法だ、ヴァンパイア達の攻撃魔法だっ』
などと、彼らの後陣から喚《わめ》き声。
全軍に感染しつつある動揺《どうよう》が、一層ひどくなる。
霧のお陰か、レインが魔剣を振ったところを見ていたのはごく一部だったらしく、勝手に勘違《かんちが》いしているようだ。いずれにせよ、敵は失笑したくなるほどの動揺《どうよう》ぶりで、早くも最後陣が崩れ出した。
端金《はしたがね》で雇われた最下級の傭兵《ようへい》達が、もう逃げにかかっている。
契約を破棄し、以後の信頼を失うことになろうとここは逃げるべき……そう考えたらしい。
ざっと見て、レインは断定した。
「攻勢《こうせい》に出るなら、今がチャンスだ」
シルヴィアも大きく頷《うなず》く。
「あたしもそう思う。この動揺《どうよう》に付け入らなきゃね!」
片手を一振りし、ぶわっと霧の効果範囲を拡大する。
濃密《のうみつ》な霧が爆発的に広がり、たちまち敵軍を飲み込む。
同時に、真っ先にレインが疾走を始めた。
「さあ、みんな! レインだけに働かせるわけにはいかないわ。行くわよっ」
大歓声を上げて走り出す仲間を従え、シルヴィアもレインの後を追う。
――もはや勝利は確実だった。
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あとがき
ここまで読んでくださった方は、どうもありがとうございます。
これから本文をお読みになる方は、いろいろ好みもありましょうし、最初の方を立ち読みでもしてじっくり購入検討してみてください。
さて、レインシリーズとしては初めての、本編の外伝だけで構成された巻になりました。
と言っても、収められた二編の中編には、(活躍時期はそれぞれ違うとはいえ)どちらもレインが登場するのですが。
時に、新たな中編を書いていてもやっぱり感じましたが、こいつっていつも勝ってしまいますね。
おまえが勝たしているんじゃないかという声が聞こえそうですが、話の展開上、ここでは敗北するはず……いや、敗北させるべきだ――という場面においても、なぜか彼は結局、最後は負けずに終わってしまうのです。
なんとなく、私までが強固なレインの信念……例の、「この世のどんな存在よりも強く!」という強烈な思いに引きずられているような気がするほどです。
もちろん、これは主人公としては極めて不自然なことです。
人は、死ぬまでに無数の敗北を知る運命にある――とは本作中のシルヴィアの言葉ですが、それこそが冷厳な事実であり、自然なことなのでしょう。
こんなのばかり書いていたら、いつかは読者の人達に呆れられて見放されるだろう……そう思いつつも、今まで私はレインを書き続けてきました。
レイン本人と同じく、しぶとくまだこのシリーズは続いています。
だとすれば案外、セオリーを無視したこのキャラを好きでいてくださる方は、多いのでしょうか。半分……いえ、三分の二以上は、そうだといいなぁという私の願望なのですけど。
ただし、レインもいつかは一敗地にまみれる日が来るかもしれません。
先に述べたように、彼は不自然な存在であり、小説教本が厳しく戒める「こういうキャラは避けるべし」的な男なのですから。
でも結局私は、最後までレインに引っ張られたまま、という事態も有り得るのですけど。
今回もたくさんの方にお世話になりました。
この本を出すに辺り、ご助力をくださった全ての方達にお礼を申し上げます。
最後はもちろん、この本を手にしてくださったあなたに、精一杯の感謝を。
[#地付き]二〇〇七年二月 吉野 匠 拝
吉野匠(よしのたくみ)
東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「レイン(雨の日に生まれたレイン)」がネット上で爆発的な人気となり、遂に同作で出版デビュー。現在もHP上での連載は毎日更新を続行中(の予定)。
装丁・本文イラスト―MID
装丁デザイン―ansyyq design
HP「小説を書こう!」
http://homepage2.nifty.com/go-ken/
イラスト:MID
http://mid.mods.jp/
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底本
アルファポリス 単行本
レイン外伝 仄暗き廃坑の底で
著 者――吉野《よしの》 匠《たくみ》
2007年3月20日 初版発行
2007年4月15日 2刷発行
発行者――梶本雄介
発行所――株式会社 アルファポリス
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
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