レイン6
大戦勃発!
吉野 匠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)自《みずか》らの正体
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大戦|勃発《ぼっぱつ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]二〇〇八年二月 吉野 匠 拝
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〈帯〉
人気爆発!! 剣と魔法の最強戦士ファンタジー
シリーズ50万部突破!
[#改ページ]
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。
科学文明の魔手はまだこの地を覆うことなく、廃れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。
そんな、剣と魔法が支配する世界――
最強の敵、レイグル王がついに動く!
魔族であり、魔人である自《みずか》らの正体を国民に明らかにし、彼は歴史上初めて、魔族の王としてザーマインに君臨《くんりん》することとなった。
ザーマインの民は、レイグル王を受け入れたのだ。
これにより、レイグルは後顧《こうこ》の憂《うれ》いなく、世界制覇の野望に乗り出す。仲間の魔族とそしてザーマインの国軍を率い、突然の侵攻《しんこう》を開始した。
一方サンクワールにも、かつての旧敵が侵攻《しんこう》してくる。彼らはいつの間にかザーマインと手を結び、サンクワールに牙を剥《む》いたのだ。
しかし、レインの目は既《すで》に宿敵と同じく、広く天下の動向を見据えている。
遙《はる》かなる戦場で、レインが戦う!
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
※度量衡はあえてそのままにしてあります。
〈登場人物紹介〉
レイン:25歳だが、肉体年齢は18歳で永遠に停止
本編の主人公で小国サンクワールの上将軍《じょうしょうぐん》。本人曰く、「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が売りの、世界最強の男」。しかし、時に隠れた優しさを見せることも。
シェルファ・アイラス・サンクワール:16歳
サンクワールの新国王。形式的には主従関係にあるが、そんなことは関係なくレインが大好き。最近、急に人格が変貌《へんぼう》する時がある。
ラルファス・ジュリアード・サンクワール:25歳
本姓はジェルヴェール。レインの同僚で、サンクワール建国の祖《そ》である五家の一角。
ギュンター・ヴァロア:年齢不謙……外見は20歳そこそこ
常に苦い表情を崩さない、レインの股肱《ここう》の臣《しん》。寡黙《かもく》で有能な男。主に諜報《ちょうほう》や工作担当。
レルバイニ・リヒテル・ムーア:24歳
通称《つうしょう》レニ。レインの副官。かなり臆病《おくびょう》な性格だが、腕は確か。母親が没落《ぼつらく》貴族だった。
セルフィー:17歳
騎士志願の貧乏少女。しかし芯《しん》は強く、レインもセルフィーを認めつつある。
ガサラム:55歳
かつて名のある騎士だった。レインの少年時代に遭遇したきっかけで、彼の旗下《きか》に。
シルヴィア・ローゼンバーグ:3700歳以上
ヴァンパイア・マスター。元始のヴァンパイアにして、ルーンマスターの始祖《しそ》でもある。
ノエル:120歳前後
超強気な魔人少女。魔族の中では若いが、上位魔人として魔界でも一目置かれている。
アーク:21歳
レイファンの大将軍。かつては小さな傭兵《ようへい》団のリーダー。レインをライバル視している。
フェリス:21歳
孤児院《ホーム》時代からのアークの相棒。いつも笑顔だが、いざという時、頼りになる男。
ケイ:21歳
アーク達の仲間。いつもアークに厳しく皮肉ばかり言うが、しかし常にそばにいる。
ジョシュア・フォルタール・ハッシュ:15歳
知恵と美貌《びぼう》が武器の少年。シェルファに取り入ろうとしている。
ロイ:年齢不詳だが、外見上は30代くらい
謎の組織に雇われた名だたる傭兵《ようへい》。かつてレインが探し求めていた「強敵」の一人。
レイグル王:年齢等は不詳
大国ザーマインを統《す》べる王。5年前、前王を倒して玉座《ぎょくざ》に就《つ》いた。恐るべき力の持ち主。
ヴィンター・フォン・ブルームハルト:年齢不詳
全ての魔族を統《す》べるトップスリーの一人。複数の名を持つ得体の知れない男。
フィーネ:故人
レインのかつての恋人であり、将来を誓った仲だった。凶刃《きょうじん》に倒れて死去。
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レイン6
大戦勃発!
吉野《よしの》 匠《たくみ》
目次
プロローグ レイグル王の優雅な休日
第一章 ノエルの決断
第二章 | 姫 王 《プリンセスロード》の部隊、創設
第三章 ドラゴンスレイヤーへの道
第四章 大戦|勃発《ぼっぱつ》!
第五章 シェルファ誘拐
第六章 戦士の国、ファヌージュ
第七章 この時代には!
エピローグ 森の中の小さな小屋にて
あとがき
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プロローグ レイグル王の優雅な休日
たった一人の男のために王都中が、いや、国中が沈黙《ちんもく》の帳《とばり》の中にあった。
ザーマインの王都を走る大通りを、騎乗《きじょう》で悠然《ゆうぜん》と進むその男――
数年前、先王グラヴィスの圧政に付け入り、革命派を率いて力で玉座《ぎょくざ》を奪い、新たな王者となったレイグルである。
租税《そぜい》の軽減や、煩雑《はんざつ》な法を簡素化して民衆に受け入れやすくする……これらの善政《ぜんせい》のお陰で、軍内部の評判はともかく、民衆の支持はそれなりにあったはずだ。
……むしろ、静かな人気があったといってよい。
しかし、好意的だった市民達も、さすがに今は自分達の王を見る目が変わっている。
喝采《かっさい》を贈る者はおろか、彼の馬に近寄る者さえ皆無《かいむ》だった。
銀髪|黒瞳《くろめ》の王を眺める市民達の目は……ただひたすら恐怖と嫌悪《けんお》に満ちている。
それも無理はない。
古代の聖戦を伝える書物、伝承、エルフを代表とする、超長寿種族達の記憶――それらの全てが、たった一つの真実を教えているからだ。
すなわち――
『魔族とは、全ての人間の敵なり……ゆめゆめ、忘れるなかれ』
そして昨日、王自身がザーマイン国中に布告《ふこく》を出したのだった。
『我は、魔人なり』と。
民の見る目も変わるはずである。
さらに数日を待たずして、レイグルが魔族であり魔人だという事実は、全大陸を駆け巡るだろう。
しかし、馬上から自分の治める王都を行くレイグルの表情は、実に静かなものである。先の布告《ふこく》など忘れたような顔で、ただ悠然《ゆうぜん》とメインストリートを進んでいる。
元よりレイグルは、なにか火急《かきゅう》の用があって城を出たわけではない。気まぐれで王都に繰り出しただけなのだ。
あえて理由を述べるとするなら、先に布告《ふこく》した事実が民衆にどんな影響を与えたのか、それを自分の目で確かめに来たのである。
王の身でありながら、一人の護衛《ごえい》も連れずに。
レイグル自身が、護衛《ごえい》の必要を全く認めなかった故だ。
なおしばらく大通りを進んだレイグルは、急に馬を止めた。果物店と酒場の間を通る狭い道へ、首を巡らす。
突然、王が進路を変えたので、その方向にいた数名が飛び退《すさ》るようにして避けた。
その直後、彼らの顔に『しまった!』という表情が浮かぶ。迂闊《うかつ》な反応を見せて、王の激怒《げきど》を誘ったかと思ったのだ。
以前ならそんな心配はしなかったろうが、相手が人ではなく、『魔人』となると別である。
だが、そんな小市民などには目もくれず、レイグルは黙《もく》したまま通り過ぎる。
急ぐでもなく馬を進め、一分も行くと、現場に出た。レイグルが感じた「不審《ふしん》な気配《けはい》」の源《みなもと》、という意味である。
そこは道がやや大きく広がっており、見るからに傭兵《ようへい》らしき風貌《ふうぼう》の男が三人と……少女が一人いた。ただし、レイグルは人間の年齢を判別するのは苦手であり、あるいは彼女は、もう成人なのかもしれぬ。人間に関心を持った所で、どうせ向こうはすぐに世を去る運命にある。ならば、滅多《めった》に興味など持てるものではない。
ともあれ、問題の少女は男共に囲まれ、今まさに連れ去られるところだった。
背を向けていた男達は彼女の身体にべたべた触るのに忙しく、誰も王には気付いていない。
真っ先に少女がレイグルを認め、濡れたような黒瞳《くろめ》を見開いた。
唇が戦慄《わなな》き、救いを求めて大声で叫ぶ。とはいえ、それでもかなりか細い声だったが。
その声はレイグルの基準に照らし合わせても美声といえ、しかも大陸全土で使う共通語ではなかった。彼女はザーマインの民ではなく、この近隣諸国の民でもなかったのだ。
「うるせー、静かにしろっ」
早速殴《さっそくなぐ》ろうと手を上げた男を、仲間が止めた。何気《なにげ》なく振り返り、自分達の王を見つけたせいだ。
瞬時《しゅんじ》に静まりかえり、三人とも息を呑《の》む。手を放されたのを幸い、少女は走って道の端に逃げた。
壁を背にして双方を見比べる。
すぐさまレイグルに駆け寄らなかったのは、彼があまりにも不吉な雰囲気《ふんいき》を纏《まと》っていたからだろう。いや、同じ不吉な予感を、男達も共有していた。
馬を降りてゆっくりと接近してくるレイグルを迎え、三人とも一斉に跪《ひざまず》く。
ぼさぼさの髪が目立つ頭を低くし、しきりに恭順《きょうじゅん》の意を示す。
だが、彼らの前に立ったレイグルの問いかけは、簡潔《かんけつ》にして冷淡である。
「……事情を聞こう」
荒《あら》くれ男三人は、文字通り震え上がった。
言い訳したいのだが、とっさに出てこない。
何より、涙目で肩を震わせる少女の存在を前に、気の利《き》いた言い訳など思いつくはずもない。
誰がどう見ても、流民《りゅうみん》の少女をどこかへ引っ張り込もうとしていたところだし、実際、そうしようとしていたのだった。
無論《むろん》、その意図《いと》は説明するまでもない。
「申し開きは無いか……それも良かろう。おまえ達は特に間違っていない。俺も、その行動自体を責めようとは思わん。今の法は、おまえ達には息苦しいのだろう」
意外なレイグルの言葉を聞き、男達はおろか、話せないとはいえセリフの断片くらいは理解出来たのか、少女までもが唖然《あぜん》とした。
皆、王が本気で口にしたのかを窺《うかが》い、どうやら本気らしいと悟《さと》ると、早速《さっそく》、図に乗った一人が立ち上がった。
釣られて仲間二人も立ち、皆で下卑《げび》た笑みを浮かべる。
たちまちにして、揉《も》み手でもしそうな雰囲気《ふんいき》が出来上がっていた。
「さ、さすがに陛下でさ。俺達の国に、こんな流民《りゅうみん》のガキは必要ありやせん。お任せ頂ければ、こってりと下民《げみん》の礼儀を教え――」
ふいに風切《かぜき》り音《おん》がした。
そこにいた三人が三人とも、何が起こったのかまるで理解出来なかった。
代表で話していた一人がぶつっと言葉を切ったかと思うと、レイグルがなぜか抜剣《ばっけん》して魔剣を斜め上に構えている。
なんの冗談だ、と誰もが思った。
しかし、何事があったのかは、すぐに知れた。すなわち、揉《も》み手せんばかりの追従《ついじゅう》を述べていた男の首が、唐突《とうとつ》にころっと転がったのだ。
派手《はで》に噴き上がる鮮血《せんけつ》に、残りの二人は「ひっ」と魂《たましい》の吹き飛びそうな悲鳴を上げた。
ごとん、と倒れた死体に一瞥《いちべつ》もくれず、レイグルは平静な声で続ける。
「――しかし、国王の定めた法が気に入らんというのなら、その王を倒すしかあるまい。その後で、おまえ達の手で新しい秩序《ちつじょ》を築くといい。誰も文句《もんく》は言わん……ここはそういう世界だ」
そこで、闇よりも深い黒瞳《くろめ》を細める。
「無論《むろん》、あくまでも俺を打倒出来たら、の話だがな」
ブゥゥゥゥゥゥゥン
無数の羽虫が立てるような音を伴う、真紅《しんく》の魔剣をひっさげ、レイグルがすっと一歩を踏み出す。
その身に冷気を纏《まと》ったような、不吉な闘気《とうき》を漂《ただよ》わせて。
生き残り二人のうち、一人が物も言わずに踵《きびす》を返した――いや、返そうとした。
しかし、レイグルの踏み込みの方がずっと速い。正に風のように追いすがる。
黒影《こくえい》がぶんっとブレたかと思うと、即座に微《かす》かな剣風《けんぷう》が鳴る。
そして、残像が緩《ゆる》やかに元の立ち位置に戻っていく。
逃げようとした男は、実に胴体《どうたい》を真っ二つに横割りにされ、倒れた。
両断された死体が噴き出す鮮血《せんけつ》のお陰で、広いとはいえない路地に、むっとする臭気《しゅうき》が漂《ただよ》う。
生き残った一人の顔には、既《すで》に血の気《け》がなかった。今更ながらに魔族の怖さを知っても、もう遅い。それでも男は、最後の望みにかけた。
崩れるようにどさりと跪《ひざまず》き、平伏《へいふく》しながら許しを請《こ》うたのだ。
路上に額が付くほど頭を下げ、
「罪を認めます! どうか、どうかお許しをっ、いえ、お慈悲《じひ》をっ」
と呟《つぶや》き始める。
何度も何度も……相手の慈悲心《じひしん》を誘うために。
大柄な身体がガタガタ震えており、凍った路上に冷や汗が滴《したた》る……後から後から。
レイグルは物も言わずにまた歩を進め、魔剣を振り上げた。
壁際《かべぎわ》で惚《ほう》けたように立っていた少女が何か小さく叫んだが、レイグルの表情は全く動かない。
そのまま魔剣を振り下ろし、無造作《むぞうさ》に男の頭を割った。
死の気配《けはい》を感じ、相手が顔を上げる間もなかった。
「おまえの行動が一番無益だ……愚《おろ》か者」
死後|痙攣《けいれん》を起こしている死体に、淡々と吐《は》き捨てる。
パチンと魔剣を鞘《さや》に戻すと、やっと少女を見た。
彼女はいつの間にかへたり込んでおり、大きく瞳を見開いている。長い睫毛《まつげ》が、驚愕《きょうがく》に震えていた。多分、彼女の人生において、これほど容赦《ようしゃ》のない男を見たことがなかったのだろう。
レイグルはじいっと震える娘を見やり……普段の彼がまず絶対にしないことをした。
左手で軽く印を結び、手を振るように横に動かす。
「……俺の話す言葉がわかるな?」
ぴくんと少女が動き、びっくりしたように顔を上げた。
目が瞬《またた》き、一心にレイグルを見る。
レイグルがもう一度、「わかるな」と問うと、何度も頷《うなず》く。
「ならいい。……このように、俺には人に無い力がある。おまえが望むなら、それを分けてやる。二度とあんな男共に怯《おび》えることは無くなるだろう。それとも――」
じっと耳を傾けている少女の目を、真っ向から覗《のぞ》き込む。
「このまま立ち去りたいか? あるいは生きていくのが辛《つら》く、もう死を望むか? どれでも好きな道を選べ。去るなら黙って見送ろう……死にたいなら俺が苦痛のないように殺してやる。だが、俺に従うならおまえに力を与えてやるぞ……」
そのまま、口を閉ざす。
レイグルにとって、もはや言うべきことは無かったのだ。
そもそも彼自身が、自分の気まぐれにいささか驚いていた。
人気のない路上に沈黙《ちんもく》が落ち……やがて、少女はこくんと喉《のど》を鳴らした。
……彼女は、ためらいがちではあるものの、レイグルに小さな手を伸ばしたのである。
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[#挿絵(img/06_017.jpg)入る]
第一章 ノエルの決断
蒼天《そうてん》より降りてきたド派手《はで》な男を見て、デューイとサラは態度を豹変《ひょうへん》させた。
まずサラが、一瞬で腕を通常形態に戻し、相棒を見た。既《すで》に声音《こわね》は醒めきっている。
「退《ひ》くわよ、デューイ」
「私も今、そう提案しようと思っていた所だ」
デューイは難しい顔で頷《うなず》いた。
ちらっとヴィンターを、そしてシルヴィアを値踏《ねぶ》みするように見やり、盛大《せいだい》に唇を歪《ゆが》める。
「余計な客人が増えすぎた」
わざとらしい笑みをレインに向ける。
「……命拾いしたようだな、人間」
レインは冷笑をもって応えてやった。
「は? そりゃ新手のギャグか? むかぁ〜しから、背中を見せて逃げるのが喧嘩《けんか》に負けたヤツ、と相場《そうば》が決まっている。寝言は日記にでも書いておけ」
貴族然としたデューイの顔からすっぱりと笑みが消え、全身から憎悪《ぞうお》のオーラが立ち上るようだった。サラが鋭《するど》い声で「デューイ!」と声をかけ、やっとレインから視線を外す。
黙って漆黒《しっこく》の翼を広げる。
低い声で言い捨てた。
「……挑発には乗らん。我らはこれでも、幾多の戦いをくぐり抜けている。絶対の勝算が無ければ戦わんよ」
サラと共に、最後にじろっとレインを見る。
「君の無礼《ぶれい》については、後日必ず礼をするがね……」
でっかい声でヴィンターが口を挟《はさ》んだ。
「あー、いやいや。みんな僕を忘れてもらっちゃ困るなぁ。この貴公子たる僕が登場しているのに、勝手に話を進めないように。いいね?」
誰も聞いていなかった。
デューイとサラの二人の魔人は、既《すで》に大きく翼を広げて飛び立った所であり、ヴィンターなどには一瞥《いちべつ》もくれなかった。風切《かぜき》り音《おん》のみを残し、とんでもないスピードで空の彼方《かなた》へ消えた。目線を上げた時には、もう豆粒みたいな大きさになっている。
本当に撤退《てったい》してしまったようだ。
と、胸を張って立っていたノエルが、いきなりふらっとよろめいた。レインがさっと手を伸ばして支えてやる。
「……傷、まだ治す途中だったな。座るといい、すぐに続きを始めるから」
「いや、いいんだ。放っておけば大丈夫だと思う……」
「まあ、そう言うな。元々は俺がつけた傷だしな……治させてくれよ」
誰もデューイ達のことには触れなかった。ただしヴィンターは、ノエルがその場に座ると、いそいそとそばにやってきた。
いかにも鼻の下が伸びた顔をしている。
目線は、羽織《はお》った上着の端から覗《のぞ》くノエルの肌に、しっかりと固定されていた。
「そうそう、女の子の柔肌に傷などあるのは、人類の――いや魔人類の損失だよ、君ぃ〜。なんなら、彼らを追っ払ったこの僕がサクッと治してどぼひゅっ」
……語尾《ごび》の妙なセリフは、彼の本意ではない。
胸元を覗《のぞ》こうとしたヴィンターを、ノエルが物も言わずにぶっ飛ばした故だ。
このきりっとした外見の少女の筋力は尋常《じんじょう》ではなく、片手を使っただけなのに、ヴィンターは驚くほど遠くまで吹っ飛んでいた。
知らない者が見れば、この少女が弱っているというのが信じられなかったろう。
ヴィンターは砂塵《さじん》の舞う路上で派手《はで》にバウンドした後、潰《つい》えた――のだが。
ものの十秒ほどでけろりと起き上がる。
……誰も自分に注目していないのを見て、大いに憤慨《ふんがい》した。
「待ちたまえよ、君達っ。普通、人が瀕死《ひんし》状態にあるのに、少しは心配しないかねっ」
ずかずかと、レイン達の元へ戻ってくる。
その頃にはちょうどレインの治療も終わっており、皆が立ち上がる所だった。
ヴィンターにとって一番|肝心《かんじん》のノエルは最初からそっぽを向いており、一応彼の方を見たのは、レインとシルヴィアのみである。
「むむっ」
レインはさらっとスルーして、ヴィンターはシルヴィアに注目する。
特に、ミニスカートからすらっと伸びた、目にもまばゆい白い両足などに。
「これはこれは……こちらも、負けず劣らず美しいお嬢さん。どこかでお会いしましたかな?」
シルヴィアは、腰の辺りにずんっとくる、痺《しび》れるほど魅力的《みりょくてき》な微笑《びしょう》を見せた。
「それって、よくある『お誘い』の手口かしら。あたしヴァンパイアだけど、いいの?」
「なんの! 僕ぁ人種によって差別などしないタチだよ、君ぃ。君さえよければ、すぐにもめくるめく桃源郷《とうげんきょう》の彼方《かなた》へご案内しようじゃないかねっ」
両手を広げて、「いつでもウェルカム」の意志を表す。
次に大仰《おおぎょう》に一礼し、シルヴィアの手を取った。
そのまま気取ってキスしようとしたが――寸前で当の彼女に足を踏まれた。
「ほあたっ!?」
頭のテッペンまで一気に痛みが突き上げた。
体感的には、体重十トン以上のドラゴンに踏まれた感じで、破壊力があった。先程ノエルに食らった、肘鉄《ひじてつ》もどきの比ではない。さしものヴィンターも、痛みに口をパクパクさせるのみ。自分の足がまだ原型を保っているのが不思議である。
「き、君っ。僕だから良かったが、普通なら魔人クラスでもヤバかったよ、今のはっ」
右足を抱えてぴょんぴょん飛びながらも、抗議せずにはいられなかった。
「ごめんねー。あたしこれでも古いタイプの人だから、思わず操《みさお》を立てちゃうのよね」
などと述べ、横目で黒服男の方を見る。
なんと、ここでも余計なライバルか! と憤懣《ふんまん》やるかたない思いがしたが……レインその人は、シルヴィアよりヴィンターをじっと見ていた。
いや、見ていたどころではなく、いきなり大きく踏み込み抜剣《ばっけん》した。
「悪いが、ちょっと試させてもらう!」
「――は、はいぃぃぃ?」
そう、襲《おそ》いかかってきたのだ、こいつは。
ヴィンターの眼前《がんぜん》に、真《ま》っ青《さお》な魔法のオーラが流星のように迫る。抗議の悲鳴など放つ暇もなく、ヴィンターは思わず横っ飛びに避けようとした。
――のだが、相手の第一撃は呆れるほど簡単に方向を変え、正確にヴィンターを追尾してきた。しかも敵は、こちらの動きに合わせて間合いを詰めている!
泡を食って、今度は大きく跳ぶ――が。
レインその人も、ほとんど間を置かずに長身を躍動《やくどう》させている。同じ方向へ跳んできたのである。
間合いが遠のくどころか、かえって近くなったくらいだ。
着地と同時に、魔剣はまたしてもベクトルを変え、横殴《よこなぐ》りの斬撃《ざんげき》となって襲《おそ》いかかってくる。ヒュン、という嫌な音がはっきり聞こえた。
ヴィンターが知る限り、魔界においてもここまで反応の良いヤツは少ない。
「――ちょっちょっ! 僕は徒手空拳《としゅくうけん》だよ、君っ」
大声で抗議したお陰か、やっと相手の追撃が止《や》んだ。攻撃に攻撃を重ねる、驚くほどアグレッシブな剣技だが――それより。
「いきなりなにすんだね、君はっ」
ヴィンターはガミガミと怒鳴《どな》りつけてやった。
「僕の素晴らしい反射神経でさらりと避けたものの、当たってたらどう責任を取るつもりかねっ」
当然の抗議をレインは涼しい顔で聞き流し、魔剣を収めた。
「……ふん、勝負あったな」
やたらめったら嬉しそうなノエルの声。
「勝負あった? 何を馬鹿《ばか》な……こう見えても僕は、魔界では一目も百目も置かれる強者――」
大演説をぶとうとしたヴィンターは、自分の首筋にたら〜っと何かが流れるのを感じ、黙り込んだ。顔をしかめて手を首にやり、目の前へ持ってくる。思った通り、血がついていた。薄い切り傷なのであっという間に完治《かんち》して跡形も無くなったろうが、ヴィンターが愉快な気分じゃなかったのは言うまでもない。
じっとりとレインを見据え、確認してみる。
「まさか君、これでこの僕に勝った――なんて、脳内|妄想《もうそう》全開中じゃあるまいね?」
レインではなく、くびれたウエストに手を当てたノエルが指摘した。
「誰がどう見てもおまえの負けだろう? トップフォーだというから少しは期待したのだが……」
煌《きら》めく銀髪をかきあげ、軽蔑《けいべつ》の目で見る。凛々《りり》しい美少女風の彼女にそのように言われると、さしものヴィンターもことのほか応えた。
せっかく格好《かっこう》良く助《すけ》っ人《と》に登場したというのに。
「むむ! これはまた心外なっ。くどいようだが僕は」
言いかけ、レインがまた、間近で自分を観察しているのに気付く。
「まだなんか用かねっ。先刻の無礼《ぶれい》をわびる気なら、少し遅いよっ」
「いや、そんな気は全然ないんだが」
レインはきっぱりと言い切り、首を傾《かし》げる。
「しかし、おまえには何か裏があると思う……。さっきので勝負がついたとは、俺だって思ってないさ」
「そうか? こいつはこんなモノだろう?」
無情にもノエルが決めつけたが、大変珍しいことに、ヴィンターは彼女を無視した。
初めて……本当に初めて、つくづくとレインを見返す。
「……どうして裏があると思うんだ?」
引き締まった精悍《せいかん》な顔が、にやっと笑った。
気安げに肩を叩く。
「お得意の口調を忘れているぞ、ヴィンターとやら。力を隠す気なら、ボロを出さないようにしないとなー。カマをかけた甲斐があったようだ」
ヴィンターはわざとらしく咳払いをし、自《みずか》らレインと距離を取った。
この男は、どうも得体が知れない。
おそらくは当てずっぽうだと思うが、なるほど、あのレイグルがこいつを特別視しているのは、伊達《だて》ではなさそうだ。
だが、別にヴィンター自身がレインを恐れたわけではない。
一人でうんうんと頷《うなず》き、独白する。
「……所詮《しょせん》は人間に過ぎないねっ。この僕が本気になるには値《あたい》しないさっ」
「あなた、魔界のトップフォーの一人なの」
とこれはシルヴィア。
いつの間にかそばに来て、レインと一緒にヴィンターを眺めていた。
「いや、お嬢さん。その質問は実にいいね!」
びしっと彼女を指差す。
「そう、この僕はまさに全魔族達を統《す》べる指導的立場の魔人さっ。今はトップフォーじゃなくて、トップスリー……すなわち、三強だけどねっ。言っとくが、胃薬じゃないよっ」
ぶしゃしゃっ!
と喉《のど》の奥まで見せて派手《はで》に笑う。馬鹿《ばか》ウケである(本人だけ)。
しかし他の三人には全然ウケず、またしても咳払いする羽目になった。
「ごほん。まあ、ノエル君はともかく、君らにはわからんシャレだったね。あまりにも高尚《こうしょう》すぎて」
「いや、わかるさ」
生《なま》意気《いき》にもレインが言い返した。
唇の端を吊り上げ、ふっと笑う。
「異世界の薬品の名前と掛けたんだろ? 言わせてもらえば、あまりセンスのいいシャレじゃないな」
……今度こそ本当に意表《いひょう》を突かれ、ヴィンターは仰《の》け反《ぞ》るほど驚いた。
同族たるノエルも衝撃《しょうげき》を受けたと見え、真っ黒な瞳でまじまじとレインを見ている。
「な、なんで話について来られるんだね、君っ」
「……もう飽きるほど言ったセリフだがな。魔人というか魔族達の最大の弱点は、自分達が特別な存在だと思っている点だ。考え違いは改めた方がいいぞ」
けろりとして述べるレイン。
さらに追求しようとしたものの、ヴァンパイア娘のシルヴィアがさりげなく割り込み、レインの横腹にそっと触れた。
「レインも座って。……肋骨《ろっこつ》、何本か罅《ひび》が入っていると思うわ。怪我《けが》も治さないと」
「……唾《つば》でもつけときゃ治るさ」
「そんなこと言わないで。……あたしにも何かさせてよ」
彼女は強気な性格だと踏んでいたヴィンターだが、その予想とは違い、随分《ずいぶん》と慈愛《じあい》に満ちた、優しい声だった。
自分に向けられた声ではないのが、いたく不本意だったが。
「あんたは昔から世話好きだったな」
意外にも、素直《すなお》に腰を下ろすレイン。
見下ろすヴィンターを見上げ、機先《きせん》を制す。
「人の事情を訊く前に、まずおまえが説明しろ。ガルフォートからこっち、ずっと俺達の戦いを眺めていたようだが。おまえは一体、どんな立場なんだ?」
「ぬ! 君、気付いていたのかね」
内心で舌打ちする思いだった。
この男はほんっとうに油断《ゆだん》ならないっ。
良いタイミングで(女の子達の)助《すけ》っ人《と》に入ったと思ったのに、この黒服男に監視を知られていたとは。俄然鋭《がぜんするど》い目つきで睨《にら》み付けてきたノエルを見て、ヴィンターはナンパの失敗を悟《さと》った。
……今更だが。
「ま、まあそれはアレだね、僕にも僕の都合《つごう》というモノがあってだね」
黒服男はじろじろ見返した挙げ句、デカい態度で返した。
「都合《つごう》ねぇ……だいぶ怪しいが……まあ、好きにするがいいさ。俺の邪魔《じゃま》にならないうちは、無理にいがみ合う気もないしな」
「……いきなり斬り掛かっておいて、『いがみ合う気はない』とか、よく平気で言えるね君ぃ」
イヤミはさらりと聞き流され、相手は軽く肩を揺《ゆ》すって立ち上がる。ヴァンパイア娘の治癒《ちゆ》魔法は想像以上に高度なレベルにあるらしく、黒服男はもはや平気で立っていた。普通、こういう魔法を使われた後は眠気や脱力感に襲《おそ》われるはずなのだが、そんな様子は皆無《かいむ》である。
認めるのも癪《しゃく》だが、彼が魔族並――あるいはそれ以上にタフなのは間違いない。
「さて、引き上げるか」
「そうした方がいいわ」
含み笑いなどする、ヴァンパイア娘。
「あの子……じゃなくてあなたの美姫《びき》が、物凄《ものすご》く心配そうだったわよ。あたしにしがみついて、一緒についてこようとしたくらいだもの」
「なんと、『美姫《びき》』と言ったかね、今っ! ただの姫じゃなくて、『美』が付くわけかねっ」
ヴィンターはくわっと目を剥《む》いた。今までのことは既《すで》にどうでもよく、脳内を「美姫《びき》」という言葉が縦横無尽《じゅうおうむじん》に駆け巡っている。何が大事といって、これほど大事なことはない。
遠くでノエルも顔を上げた。
「その姫君の話を、細大漏《さいだいも》らさずじっくり聞こうじゃないかっ。特に、性格と外見とスタイルについて! よもや、五十がらみの美女とかいうオチではあるまいねっ」
大気が震えるほどの音量で叫んだが、三人とももはや取り合わない。徐々に、ヴィンターという男に慣れてきたせいもある。
レインが離れて立つノエルの方を見やり、手を差し出した。
「……一緒に来るか?」
まじまじと目を見張るノエルである。
予想外だったようで、返事が遅れていた。
「どういう意味だ?」
「いや、そう訊かれると困るが」
本気で困ったように頭を掻《か》いている。
『不埒《ふらち》なっ。僕の真似《まね》をしてナンパかねっ!』
などと猜疑心《さいぎしん》まみれのヴィンターから見ても、作為的《さくいてき》な兆候《ちょうこう》は見受けられない。
「特に意味はない。腹が減っただろうし、メシでも食うかと……まあ、それくらいの意味だ」
「おまえは……奇妙な男だ」
ノエルは実に複雑な表情をした。
「おまえと私は、ついさっきまで殺し合いをしていたのだぞ。そんな相手を食事に誘うのか? 魔界では、敗者は勝者に踏みにじられる存在だというのに」
レインは真面目《まじめ》くさって頷《うなず》いた。
「わかるわかる……最近は怪しい趣味が増えているからなぁ。むしろ、踏まれるのが大好きとか」
笑ったのはシルヴィアだけで、ノエルは意味が分からず首を傾《かし》げていたし、ヴィンターはひたすらむっとしていた。
つっと肩をすくめるレイン。
「――今のは忘れてくれ。俺はそういうのは気にしないだけの話だ。まあ、無理には勧めないさ」
未練なく背を向けてしまう。
シルヴィアがレインに寄り添い、いよいよ転移する寸前、今度はノエルが呼び止めた。
「ま、待てっ」
「……どうした?」
ヴァンパイア娘とレインが、そろって振り向く。
だが、ノエルは困惑したような顔で自分の指先を見ていた。何故《なにゆえ》に手を伸ばしたのか……それがわからずにいるようだ。
――恋愛道の達人(自己判断)たるヴィンターの眼から見れば、これはかなり見え見えの兆候《ちょうこう》なのだが。
不幸中の幸いか、気付いているのは自分とシルヴィアのみのようだった。ヴァンパイア娘が「また余計なライバルがっ」と声にせずに唇を動かしているのに、レインは普通に「やっぱり腹ごしらえするか?」などとボケた返事をしているからだ。こう見えて、ヴィンターは唇の動きを読むことが出来るのである。
ヴィンターにとっての忌々《いまいま》しい数秒が過ぎ、ノエルは結局、首を振った。
「――いや、いい。迷惑をかけた……そう言いたかったのだ。……呼び止めてすまない」
俯《うつむ》いた白い頬《ほお》に、うっすらと朱が差している。
軽く片手を上げるレインを見やり、ヴィンターは一つだけ確信した。
このレインとやらは、僕の敵になりそうだ。……色んな意味で。
――☆――☆――☆――
「それで、ノエルという人はどうしたのですか?」
しきりに服の上からぺたぺたと身体を触りつつ、シェルファが尋《たず》ねる。
レインが怪我《けが》をした話をしたり、あるいはその現場を実際に見たりすると、後で必ずあちこちに触ってくるのがシェルファの癖《くせ》である。
今も、「怪我《けが》など二秒で治った。そもそも俺は、最強かつ不死身なのである」と何度もレインが保証しているのに、無意識のうちに手が動いている。
自分で無事を確かめねば、気が済まないらしい。……触ってわかるものでもないと思うのだが。
いずれにせよ、誰かが入ってきてこの光景を見たりすると、激しく誤解《ごかい》するだろう。
誰がどう見ても、ベッドの上でイチャイチャしているようにしか見えない。何しろこのチビは、今この瞬間、俺の膝《ひざ》の上にいるのも同然であって。
普通に並んで座っていたはずが、いつの間にかそんなことになっているのだった。
外はとうに暗くなっており、いまレインは、ガルフォート城内のシェルファの私室の奥にある寝室にいる。
シルヴィアと帰還した後で皆にノエルとの戦いの顛末《てんまつ》を話し、夕食を摂《と》り、やっと落ち着いたところへ、今度はシェルファにせがまれて部屋に来ているわけだ。
「最後に見た時は、なんだかポツンと突っ立ってたな。もう元の仲間の所に戻る気もないみたいだったが」
先の質問にレインが答えると、身体をまさぐっていたシェルファの手が止まった。
間近で真《ま》っ青《さお》な瞳が仰いでいるのに気付き、首を傾《かし》げる。
「……なんだ?」
「その魔人さんのこと……心配なんですね」
仮定ではなく断定なのが、そこはかとなくシェルファの心中を物語っている気がしてならない。
入浴直後の洗髪したての金髪に手を乗せ、レインはペシペシ叩く。
「いや、心配するトコまではいかないさ。そこまでヤワいヤツじゃないし。それよりおまえ――」
今度はぐらぐらと頭を揺《ゆ》すってやる。
こいつは髪を洗う時、バラのエッセンスが混じった何かを使っているらしく、ふんわりとバラの芳香《ほうこう》がした。
「俺の気のせいかもしれないが、最近、少し嫉妬《しっと》深くなってないか」
「だって」
純白のガウンを羽織《はお》ったシェルファは、実に味わい深い表情を見せた。
触ってもらって嬉しいのか微笑《ほほえ》んでいるが、同時に、いわゆる「拗《す》ねている」のもちゃんと表情に表れている。
「レインの周囲には、いつの間にか女性がたくさん集まっている気がしてなりません……わたくしは、ずっとおそばに居られませんのに」
「おまえといる時間が一番多いと思うがな」
レインは笑って立ち上がった。
「刺激的な日だったから、疲れただろう? 早めに寝てゆっくり休むといい」
じゃあ後はよろしく――的な感じでささっと立ち去ろうとしたところが、いきなりシャツを掴《つか》まれてつんのめりそうになった。こういう時だけ素早さを発揮するのが、このチビだよな、とつくづく思ったりする。
「……なんだよ。ちゃんとあの後のことは教えてやっただろう? 魔族達のことなら、今は他に詳しいことは何もわかってない」
違います、という風に首を振るシェルファ。
上目遣いの拗《す》ねた瞳をしており、ほんの少しだけ頬《ほお》も膨らませている。
「……うぅー」
喉《のど》の奥から出したような声音《こわね》。
「おまえの場合、呻《うめ》き声ですら可愛《かわい》らしく聞こえるなー。こりゃもう、天賦《てんぷ》の才能かもしれんぞ」
感心して褒《ほ》めてやったが、シェルファはごまかされなかった。
「昼間、『手を放したら、後で優しく抱きしめてじっくりとキスしてやる』って言いました!」
その約束の履行《りこう》をドキドキしながら待っていたのに、帰っちゃったらだめです。
シェルファはそう主張する。
「そういえば……約束したな。――て、なんか創作部分が多くないか? そこまで言ったか、俺?」
「……ほとんどそのままです」
「ほとんどねー。正直だな、おまえ」
思わず微苦笑が洩《も》れる。
なんだかんだ言いつつも、レインは立ったまま腰を屈《かが》めていく。約束は約束である。
シェルファが慌《あわ》ててぴんと背筋《せすじ》を伸ばし、姿勢を正す。にわかに緊張したのか、小さな手をきゅっと拳《こぶし》に固めている。
上向けた美しい顔がみるみる紅潮《こうちょう》し、大きな瞳が閉じられていく。薄桃色《うすももいろ》の唇をほんの僅《わず》かに開き、シェルファがその瞬間を待つ。
――☆――☆――☆――
翌朝、レインは今度はラルファスの私室にいた。
以前から計画中だったシェルファの直属軍のことで、話し合いの必要があったのだ。
レインやラルファスは確かに彼女の臣下《しんか》ではあるが、だからといって二人が率いる兵士までもがシェルファの臣下《しんか》とはならない――それがこの国の不文律《ふぶんりつ》である。
レインの部下はあくまでも彼を主君としているのであり、厳密《げんみつ》な意味ではシェルファに命令権は無い。無論《むろん》、ラルファスの部隊においてもしかり。
つまり……現状、シェルファは国王の癖《くせ》に一兵卒も率いていないわけで、早急になんとかする必要があるのだった。
特に、今はザーマインの再|侵攻《しんこう》がいつあるかわからないことだし。
「――そういう時ではあるけどな」
無遠慮《ぶえんりょ》にもラルファス愛用の机に腰を下ろし、レインはタダ酒のグラスを呷《あお》る。
「問題は起こるわけだ、やっぱり」
「新規に徴募《ちょうぼ》した兵を補充し、軍の再編は済んだのだろう?」
「済んだが、そこで問題が生じた」
「なるほど」
真面目《まじめ》なラルファスは一杯だけ付き合ったグラスを机に置き、椅子《いす》に身体を預ける。
なにやら愉快そうな顔でレインを見た。
「たまには私も知恵者の真似《まね》事《ごと》などしてみるかな。……その問題とやらを当てて見せよう」
「ほぉー、わかるか?」
微笑《びしょう》と共に頷《うなず》き、友人はずばり指摘した。
「陛下のことじゃないか、問題は」
「……当たりだ」
渋い顔で息を吐《は》く。
歌うようにラルファスが続けた。
「いかに直属軍とはいえ、当面、誰かが陛下の補佐をしなければならない。そして陛下は、その『誰か』に、ある特定の人物を強固《きょうこ》に推薦《すいせん》している。国内のパワーバランスを考慮《こうりょ》するおまえとしては、少し困った。……そういうことじゃないか」
じろっと友人を見返すレインである。
「やけに正答率がいいじゃないか。おまえ、さては姫様の回し者だな、この裏切り者が」
ラルファスは声を上げて笑った。
白い歯が眩《まぶ》しい。さぞかしたくさんの貴族女性を夢中にさせていることだろうとレインは思う。
「おまえは、おそらくは誰よりも鋭《するど》く聡《さと》い男だ、レイン。だがある特定の分野では、恐ろしいまでに鈍《にぶ》いな」
「おまえにだけは言われたくないぞ」
唸《うな》り声を上げるレインに、ラルファスはごく簡単に述べる。
「おまえが補佐すればいい。元々私は、そう進言するつもりだった。悩む必要はあるまい」
「……おまえはそう言うが、おまえの部下はどうだ? 例えばナイゼルとか」
友人の顔を見て、今度はレインが笑う。
「ご指摘の通り、俺は鋭《するど》いんでね。知りたくなくてもわかってしまうのさ」
「――らしいな」
ラルファスは素直《すなお》に認めたものの、顔色を変えるほどでもなかった。
「そちらは、私が説明するさ。この際、陛下の望むとおりにして差し上げるといい。それが臣下《しんか》たる者の務《つと》めだ」
続いてレインが何か答えようとした時、ノックの音がした。
立ち上がろうとしたラルファスを抑え、レインは自《みずか》らドアを開く。
予想通り相手はギュンターで、いつものように一礼した後、ボソボソと報告をしてくれた。
内容的には単なる経過報告だったので、ねぎらいの言葉をかけてギュンターを下がらせる。
飲みかけのグラスを取りに戻ると、ラルファスがじっとレインを見ていた。
「なにか問題でも?」
「いや……今のところはまだ問題というほどじゃない。前に思った通りのことが始まっているだけだ。問題が起きるとすればこの後――だな」
「具体的には、どうしたのだ?」
眉《まゆ》をひそめるラルファスに、レインは簡単に答えてやる。
「レイグル王が自分の正体をぶちまけたんで、その後の経過を聞いてた」
「――! いつのことだ?」
ラルファスは早くも腰を浮かせかけた。
レインの顔を見て、とりあえずは座り直す。
「ザーマインの臣民《しんみん》に正式な布告《ふこく》が出たのは、ほんの数日前だな。当然、将軍以上の武官には、それ以前に知らされていたようだ。ただし――」
グラスを机に置き、レインはさらっと続ける。
「あそこの将軍クラスは、あいつの正体を知った途端《とたん》にほとんどが反逆《はんぎゃく》に回り、結果として殺されちまった」
「よくもそこまで正確な情報を掴《つか》めるものだ」
感心したようにラルファスが返す。
マジックビジョンのことは知っているはずだから、これはおそらく、諜報《ちょうほう》能力のことを指した賞賛《しょうさん》だろう。
将軍達が殺された直後に、実はもうレインはその情報を掴《つか》んでいたのだが……それを話すと、連絡の不備をラルファスに指摘されそうである。
今のギュンターの報告は、あくまでもその後の経過報告なのだ。
ちなみに、別に情報を隠していたわけではなく、単に教えるのを忘れていたのである。レインとしては、普通に予想していた事態なので。
しかし友人にとってはそうでもなかったようで、ザーマイン国内の動揺《どうよう》について色々訊かれた。
請《こ》われるままに、将軍達の粛清《しゅくせい》から新たな魔族達の参入にいたるまでの経緯を詳しく教えてやる。
「――てことで、強力な敵が増えたと。仲間の魔族達についてはザーマイン国内でも情報が錯綜《さくそう》中だったが、ノエルと出会った以上、これも確定情報になった」
「そうなるな。しかし……また魔人が増えたか。やっかいなことになった」
珍しく嘆息《たんそく》などするラルファス。
「一体、彼ら魔族達はどこから来たのだ。これまで噂《うわさ》にも上らなかったのは、少し奇妙だと思うが」
レインはあえて話題を逸《そ》らすことにした。
その問題については、おそらく聡明《そうめい》なラルファスでさえ理解し難いだろうからだ。
「それより俺としては、さらに新たな展開を予想しているんだが」
「……敵が討《う》って出る、そう言いたいのか」
「さすがにおまえは話が早い。まさにそう言いたいわけだ。ザーマインにとって、サンクワール攻略戦の痛手は、大したモノじゃない。むしろ、これまで大人しくしていたのが不思議なくらいだ。だが、これでじっとしてた理由もわかった」
「もはや準備が整い始めた……か」
「普通なら国内の動揺《どうよう》が激しい上に、将軍に任命した魔人達と兵士の連携《れんけい》を考え、しばらくは遠征《えんせい》などしないんだが」
一拍置き、はっきりと言い切る。
「あいつは、そういう定石《じょうせき》など無視する男だと思うね。むしろ、もういつ出陣してもおかしくない」
「そんなに早く?」
「ああ。……みんな、まさかと思っている。だからこそ、あいつはやると思う。実際、複数の魔人が配下についてるなら、別に出来ない話じゃない。戴冠式《たいかんしき》を思い出してみろ、ヤツは『過去の聖戦で戦ったのは、自分達より遙《はる》かに劣る下《した》っ端《ぱ》だ』みたいなことを吐《ぬ》かしやがっただろう? あれはハッタリじゃないと思うぞ。実際、ノエル一人でこのガルフォートに突貫《とっかん》してきたくらいだ」
お陰で宮殿の一部がぶっ壊されたしな、と他人事のように続けるレイン。
ラルファスの表情がずんと暗くなったのを見て、言い添えてやる。
「そうだな。まあ、魔族共の方は俺がどうにかするさ」
蠅《はえ》を追いはらうような気安い言い草に、ラルファスは苦笑せざるを得ない。
「おまえが言うと、実に簡単に聞こえるな」
「姫様を守るという点を無視すれば、本当に簡単な問題さ。勝つか負けるか……あるいは生きるか死ぬか。つまるところ、戦《いくさ》はそれだけだ」
ラルファスの表情が微妙に厳しくなった。
うわミスったなぁ、などとレインが思っても、もう遅い。
「そういう言い方はよせ、レイン。陛下を守ることは当然として、自分自身の生命も軽視してもらっては困る。おまえはこの国に必要な人材なのだ」
「そうか? 俺は治世《ちせい》の能臣《のうしん》タイプじゃないと思うぞ。非常時向きと評せば、ちょっとはマシに聞こえるが」
「治世《ちせい》の能臣《のうしん》とは、あまり聞かない表現だな」
友人は探るようにレインを見上げてきた。
「それはひとまず置くとして。もしやおまえ、魔族達がどこからやってきたのか、なにか知っているのではないか? 先程もあえて話を逸《そ》らしたようだが、いつかは話してもらいたいものだ」
なかなか鋭《するど》い突っ込みを入れたラルファスに対し、レインはただ微笑《びしょう》するに留めた。
――☆――☆――☆――
陽が落ちた後も、ノエルはセレステアの廃墟《はいきょ》に留まり続けている。
オアシス跡とはいえ、砂漠地帯のこと、夜は大変な冷え込みなのだが、魔族の一人たるノエルにはなにほどのこともない。肌を切り裂くような夜風も、涼風《りょうふう》のようなものである。
ただし……心中はかなり傷ついていたが。
今更魔界に戻る気もしないし、かといってレイグルと和解するつもりもない。つまり、今のノエルは帰る場所が無いのだった。先程まではヴィンターがそばでちょろちょろしていたが、ノエルが徹底して無視していると、脈無しと見たのかどこかへ飛んで行ってしまった。
だから、今は本当に一人である。
風の音だけを耳にずっと立っていると、なんとなくこの世界に自分だけしか残っていないような気になる。
いや、元々レイグル達と一緒だった時にも、ノエルはずっと一人も同然だったのだ。同じ魔人の彼らといてさえ、魔族としての仲間意識など全く感じなかった。フィランダーとだけは少し仲が良かったが、それとて、せいぜいたまに話すくらいのものだ。
フィランダーに別れの挨拶《あいさつ》をしにいくか……そうも思ったが、どうにも億劫《おっくう》だった。
会う気がしないのではなく、あの卓越《たくえつ》した戦士に、今更どんな顔をして会ったらいいかわからなかったのだ。
魔族の一人であること、それも上位魔人であること――そのプライドと自分の力に対する信念を失った今、あの男との縁は切れたと見るべきだろう。弱者には容赦《ようしゃ》ないのが魔族である。
「……我ながら情けない……私ともあろう者が、とうとう宿無しか」
乾いた声で笑う。
その笑い声は、すぐに暗い夜空に吸い込まれてしまった。
肩にひっかけた服が、突風にはためき、揺《ゆ》れた。
お陰でまた、あの男を思い出した。
……いや、それは正確な表現ではなく、ノエルはずっとレインのことを考えていたのだ。
単なる人間の、しかも男のことを考えるなど、ノエルとしてはかつてなかったことだった。
「……服を返しに行かねば」
ポツッと独白する。
このシャツは借りた物なのだから、当然、返さねばならない。レインは私に、「もう敵じゃない」と言った。ならば、別に返しに行っても問題はないはずだ。
……回りくどい思案の末、そう結論付ける。
途端《とたん》に、心がふわっと軽くなった。
この気分をどう評すべきか。
わくわくと胸が躍《おど》り、自然と顔が綻《ほころ》んでいる。いつの間にか、滅多《めった》に見せない微笑《びしょう》など浮かべていた。それに気付き、自分で驚いたくらいだ。
「……ま、まだ会ったばかりなのだ。彼の強さは尊敬に値するが、しかしだからといってこの私が」
独り言のように呟《つぶや》く。
無論《むろん》、それに答える者はいない。
――ただし、心の奥でもう一人のノエルがしっかり答えていた。
『プライドを捨て、静かに自分の心と向き合ってみるがいい。……答えは明らかだろう? 今どうするべきか、どこへ行きたいのか、誰よりも自分自身が知っているくせに』
馬鹿《ばか》なっ、と思う。
男など問題にもしてこなかった私が、よりにもよって『人間の男』にだと!?
私は魔族の一人で、相手は人間だぞ!
しかし、内なる声は黙らない。
それしきの反論は、歯牙《しが》にもかけなかった。
『たかが人間とおまえは言うが、しかしレインの力はおまえを凌駕《りょうが》した……好意を持ってなにがおかしい?』
かあっと頬《ほお》が熱くなった。
慌《あわ》てて左右を見渡し、誰もいないのを確かめたほどだ。どぎまぎして、胸が苦しくなってきた。なにか、大声を出してそこら中を走り回りたい気分である。しかし、我ながら説得力があると思ったのは確かだ。
実に回りくどい思考を積み立て、ノエルはやっと自分の気持ちに素直《すなお》になりかけていた。
それでもまだ往生際《おうじょうぎわ》悪く、うろうろと真っ暗な道を歩く……ぐるぐると同じ場所を。
そのままさらに三十分ほども無駄《むだ》な運動を繰り返し、ついに決断した。
「ええいっ、理由はどうでもいいっ。とにかく今の私は、レインに会いたい! だから会いに行くっ。それでいいし、それだけだっ!!」
決断した途端《とたん》、わあっと叫びだしたいほどの歓喜が押し寄せた。
こんなことなら、最初からついていけばよかった――そう思ったくらいだ。
思い立ったら、もはや時間などは関係ない。
ノエルの背中がきらっと光り、漆黒《しっこく》の翼が現れる。そのまま、ばんっと大地を蹴《け》って飛んだ。一気に数百メートルほど上空に昇り、そこから一路、南を目指す。
……さらに二分後、やっと自分が『転移』出来ることを思い出し、ノエルの姿はその場から消えた。
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[#挿絵(img/06_049.jpg)入る]
第二章 | 姫 王 《プリンセスロード》の部隊、創設
レインという男は、夜は比較的早くから床《とこ》に入り、たっぷりと八時間以上は睡眠を取っている――とガルフォート城の多くの者は思っているし、本人もそう公言してやまない。
現に城内巡回の衛兵達は、レインが夜中に自分の部屋に入るのを何度も見ている。もちろん、一度自室に戻ったが最後、通常は朝までそのドアが開かれることはない。
……普通、彼が部屋に戻った途端《とたん》、剣を掴《つか》んでいきなり窓から外へ出ている、などとは思わないものだ。
広大な規模を誇る王城ガルフォートの中で、なぜか衛兵の巡回が無い場所が幾つかある。
レインが毎夜訪れる「ある場所」も、そんな警備の死角の一つだ。
そこは宮殿別棟の屋上であり、四隅は螺旋階段のある塔になっているが、そこを含めて夜の衛兵巡回は無い。
表向きの理由は二つほどある。
まず、そこの真下が広大なサロンになっており、貴族達が激減した今では、あまり使用されていない場所であること。
次に、ここの屋上が、宮殿本棟と並んで、城内で最も高い位置にあること。
空から降ってでもこない限り、賊《ぞく》がそんな場所を侵入経路に選ぶことはないだろう。
よって衛兵達も、深夜の巡回は真下のサロンまでしか来ない。そもそも「そのようにせよ」と命令されてもいる。
ところが、その命令を下した張本人のレインは、毎晩のようにそこを訪れているのだった。
自室で寝ているように見せ、実は毎晩のように朝まで修練《しゅうれん》を積んでいるのである。
これは、今まで誰も知らずにいたことだが……それも今宵《こよい》までだった。
何千回目かの素振《すぶ》りの途中で魔剣を止め、レインは塔の方を見る。
待つこと数分、純白のガウンを羽織《はお》ったシェルファが姿を現し、レインを見るなり、一心に走ってきた。
「――見つけました!」
声が弾《はず》んでいる。
思わず笑ってしまった。
「いや、隠れんぼじゃあるまいし、『見つけました』は無いだろう」
「かくれんぼってなんですか?」
他に誰もいないので、シェルファは遠慮《えんりょ》がない。そのままレインの懐《ふところ》に飛び込んできた。
父親に対する幼児のような遠慮《えんりょ》のなさで、ぎゅっと抱きつく。
「遊びの一種だ……この辺じゃないような遊びかもだが」
満足そうなシェルファの金髪を、手でかき混ぜてやる。
「しかし、おまえの感覚、日に日に鋭《するど》くなるな」
「わかりますか」
興奮《こうふん》したように、大きな瞳をきらきらさせるシェルファ。
「少し前まで、レインが城内にいるのを『なんとなく感じる』だけでした。でも今はもう、どの辺にいるのかまで正確にわかります。簡単に捜せるようになって、嬉しいです!」
この姫君は、自分の超感覚がとぎすまされていく驚きより、『レインを見つけやすくなりましたわ!』という喜びの方がデカいようである。
「そうか……やっぱりな」
レインの寂《さび》しそうな笑顔に、シェルファが小首を傾《かし》げる。表情が曇りかけたので、何でもないという風に笑ってやった。
「こっちの話だ。それよりおまえ、今は眠っている時間じゃないのか?」
「そうですけど、眠る前にレインの位置を確かめたら、お部屋じゃなかったので……。だから、捜してみました!」
元気よく答える。
他人とは滅多《めった》に話さないシェルファも、レインが相手だと別人のような一面を見せる。
今もにこにこと、「衛兵さんが二つ下の階にいて、わたくしを見つけてびっくりしてました」と熱心な口調で教えてくれた。
「なるほど。で、どう言ってやったんだ」
「眠れないので、お散歩していると。……それから、一人になりたいので見に来ないでくださいとお願いしておきました」
――ね、上手く言い訳したでしょう? どうか褒《ほ》めてくださいなっ。そんな表情でレインを見上げている。
レインは苦笑して「上手く言い逃れたな、うん」と褒《ほ》めてやった。実際はあまり上手くもないが、それを教える必要もない。
「ふふふ……でも、衛兵さんの気配《けはい》もわかるから、今度からは誰にも会わずに来られると思います」
早速《さっそく》、次からの計画など立てている。
「おまえなら出来るだろうさ。しかし、俺は地味《じみ》な修練《しゅうれん》の最中だから、一緒にいても楽しいことなんかないぞ。眠った方が良くはないか?」
「そんなことないです。レインを見ている方が幸せです」
うー、と可愛《かわい》い声で唸《うな》るシェルファである。
しかし、修行の邪魔《じゃま》をするのは本意ではないようで、結局は妥協《だきょう》した。
「……では、せめて今日はおそばに。今度から、なるべく我慢《がまん》しますわ」
「そうだなぁ……それも向こう次第だろうと思うな」
えっ、と瞳を瞬《またた》くシェルファに、レインはニヤッと笑ってみせる。
「エクシード……つまり『気』を読む超感覚を身に付け出したとはいえ、まだ気配《けはい》を消したヤツの存在までは掴《つか》めないみたいだな。俺から見りゃ、まだまだ修行が足らんぞチビ」
レインはふいに、無数の星が煌《きら》めく夜空を見上げる。
予想通り、遙《はる》かなる上空に黒点のように浮かんでいる何かを見つけ、手を振ってやった。
「あいつの視力なら、これでも見えるはずだが」
やはり、ちゃんと伝わったようである。
魔力シールドを解除してやると、それを待っていたかのように、黒い翼を持つ少女が舞い降りてきた。
「……よう、また逢ったな」
レインの軽い挨拶《あいさつ》に対し、ノエルは実にぎこちなく頷《うなず》いた。
「忘れ物……という雰囲気《ふんいき》じゃないな、どうも。どうした? なにか言いたいことでもあるのか」
レインが問いかけると、ノエルは曖昧《あいまい》に頷《うなず》く。ただし、すぐにはなにも言わず、しばらく屋上を見渡していた。
そのうち、ポツンと言う。
「……ここは私が破壊したはずだが、もう直っているな」
「ああ、俺が魔法で戻した」
あっさり頷《うなず》くレイン。
「石大工の仕事を増やしてやってもよかったんだが、こういうのは、放っておくとそれだけ嫌な記憶が残るからな。綺麗《きれい》さっぱり戻すに限る」
「そ、そうか……」
バツが悪そうにそっぽを向くノエル。
レインとシェルファは互いに顔を見合わせた。レインは本気で、何の用事でノエルが来たのか計《はか》りかねていたが、シェルファはそうでもないらしい。いきなり話しかけた。
「あの……ノエルさん?」
「……なんだ」
意外そうな顔でノエルが見る。
意表《いひょう》を突かれたのはレインも同じだが、姫君の次のセリフに我知らず微笑《ほほえ》んだ。
シェルファは、おずおずとこう言ったのである。
「よろしければ、しばらくこのガルフォートに滞在なさいませんか」
ノエルの顔が目に見えて明るくなった。
――☆――☆――☆――
朝食を終えたレインがシェルファの私室を訪れると、彼女は既《すで》に準備を終えていた。
今日は、襟《えり》の部分がレースで飾られた薄青のドレスで決めており、王冠の代わりに宝石をちりばめた銀製のティアラで髪を飾っている。
「おお、いつものことだが、おまえほどドレスアップが映えるヤツはいないな、うん。やっぱり地がいいからだろう」
シェルファの要望で、今日の護衛《ごえい》はレイン一人である。周りに第三者がいないのをいいことに、レインの物言いは気安い。
「ありがとうございます……式典に参列するのは気が重いですが、レインに褒《ほ》めてもらえたのは嬉しいです」
控えめにシェルファが微笑《ほほえ》む。
今日は国王シェルファの直属部隊《ロイヤルガード》が正式に発足《ほっそく》する日であり、彼女は国王として自分の部隊を閲兵《えっぺい》する立場にある。
といっても、単に臣下《しんか》の前で簡単な挨拶《あいさつ》を述べるだけなのだが、例によって緊張しているらしかった。
「まあ、そう固くなるな。どうせまだ名前だけで、ちゃんとした人数は揃ってないしな。兵も将も」
「兵士さんの多くは、徴募《ちょうぼ》で集められたと聞きました。皆さん、本当にご納得《なっとく》済みなのですか」
レインは苦笑した。
「なんだそりゃ? もしかしてアレか、『私のために働く人なんかいないだろう』とか思ってたわけか、チビ」
シェルファは無言で俯《うつむ》く。
本当にそう考えていたらしい。
この姫君は幼少の頃のひどい待遇《たいぐう》のせいか、「どうせ私は邪魔者《じゃまもの》なのです」などという、強固《きょうこ》な思い込みがあるようだ。
他人には何も期待しないということで、王族としては良い根性だともいえるが――
そうなった経緯を考えると、レインとしては一抹《いちまつ》の寂《さび》しさを覚える。無理もないことだと思うのだが、だからこそ、余計になんとかしてやりたいのだ。
「……その心配は逆の方向に外れているね」
「逆、ですか」
小首を傾《かし》げるシェルファに、真面目《まじめ》くさって頷《うなず》いてやる。
「そうとも。各地で徴募《ちょうぼ》の触れを出したら、なんと余裕で二万を超える応募があったぜ」
シェルファは、ただでさえ大きな瞳をさらに見開く。さすがに驚いたらしい。
レインはニヤッと笑い、
「信じられるか、チビ。そいつら全部、おまえのためにどっと集まってきたんだぞ。こっちとしては、選ぶのに大変だ」
「まさか、もうその二万人が集まっているのですか」
「いや、だからまだ選んでいる最中。今はとりあえず選んだ千ほどだな。指揮官クラスになれそうなのは少ないが、兵力としてはそのうち充実するはずだ」
「……レインが、私の代理で部隊にいてくれるのですよね」
そこが最も肝心《かんじん》な所なのです、という口調で、シェルファがレインの腕に触れる。
レインはシェルファをそっと抱き寄せ、しっかりと保証してやった。
「そうしてくれってことだからな。お望み通りにしたさ。いわば俺は、上将軍でありながら、おまえの部隊の副官ってことにもなるな」
「……良かったです」
シェルファが見るからにほっとした顔を上げる。上目遣いの瞳がきらきら光っていた。
「レインがいてくれるのは、百万の軍勢《ぐんぜい》を得るよりもずっと嬉しいことですわ」
「馬鹿《ばか》。そういう恥ずかしいセリフを、臆面《おくめん》もなく言うなって」
「でも、本当のことですから。これでも、抑えていますのに」
くすっと笑う。
自分もレインの身体に腕を回す。囁《ささや》き声で問う。
「また戦いが始まりそうですけど……わたくし達、勝てますよね?」
本来は主君が臣下《しんか》に尋《たず》ねるセリフではないが、シェルファにそういう意識はない。
彼女にとってのレインは、恋人でもあり憧《あこが》れの人でもあり友人でもあり父でもある。要するに、シェルファにとっての全てなのだった。
レインは淡々と答えた。
「ザーマインの国力は大陸一だ。軍事力は強大で、指導者にも優《すぐ》れ、時の勢いにも乗っている。あいつが大陸統一を果たすのは、歴史の必然ってヤツかもな」
だが、とレインは続ける。
黒瞳《くろめ》に静かな闘志《とうし》を込め、シェルファの碧眼《へきがん》を見やる。
力の波動を感じたのか、シェルファがぶるっと震えた。
「だが、俺がそうはさせない。必ず歴史の流れを変えてみせる」
シェルファは微笑《ほほえ》みをもって応えた。
「レインがそう言うのなら、わたくしも信じますわ」
「そうなってほしいね。……じゃあ、そろそろ行くか」
宮殿を出て、二人で城内の一角にある剣技場に向かう。裏口に近付くと、既《すで》に多数のざわめきが聞こえた。
とうに新米《しんまい》兵士達が待っているらしい。
ちなみにここは、セルフィー達の登用試験が行われた場所でもある。
言い含めておいたので裏には誰もおらず、あとはレイン達が颯爽《さっそう》と入場するだけである。……いや、この場合レインはどうでもよく、シェルファがしずしずと入場するのだ。
ドレス姿のシェルファは、どうもまた緊張しているようだった。
「わたくしが一軍の将を務《つと》める時が来るなんて、思いもしませんでした……」
「何を今更。おまえはこれまでだって、俺やラルファスの上に立つ指揮官だったろう」
「それは……名目上はそうですけど、実際の兵士さん達は、みんなレイン達の部隊でしたし」
レインはシェルファの肩に手を置き、真《ま》っ青《さお》な瞳を覗《のぞ》き込んでやる。そうするとなぜかシェルファは、いつも落ち着きを取り戻すのである。
今も、見る見る緊張が抜けていくのがわかった。
「少しずつ慣れたらいいさ。俺だってそばにいるしな。……そうだな、まず今日は一つだけ覚えるといい」
「はい!」
返事の後、いそいそとドレスのあちこちをまさぐるシェルファ。
「……なにやってんだよ」
「わ、忘れないように、どこかに記録しておこうと」
思わず笑みがこぼれた。
無論《むろん》、この子は真剣なのである。ギャグのつもりは微塵《みじん》もあるまい。
「馬鹿《ばか》、おまえの記憶力なら余裕だ。いちいちメモ書きなんかいらん」
レインはシェルファの金髪に手を乗せ、
「指揮官の心得、その一だ。『苦しい時にも、それを表情に出すな』」
「……悩んではいけないということですか」
「まさか。悩むのも迷うのもいい。だが、それを自分の臣下《しんか》――将兵達に悟《さと》られるなってことさ。やせ我慢《がまん》でもいいから、何があっても平然と構えていろ。それだけで、下の者からすりゃ心強いんだよ」
シェルファは瞬《まばた》きもせずにレインを見つめている。
なんだか、小さい女の子が憧《あこが》れの英雄《えいゆう》を見るような目つきだった。
「レインが決断する時、迷いはないのですか?」
「……さあ、どうかな。おまえはどう思う?」
レインは笑ってかわした。
「レインのことはいつもじっと見てますけど、何かの決断を下す時、最初から予定していたように見えます。迷いがあるようには全然見えません」
きっぱり言い切り、しみじみと付け加える。
「わたくしも、レインのように強くて頼もしい指揮官になりたいです。同じ高みには昇れなくても、少しでも近付きたい……」
レインは余計なことは言わず、ただこう答えた。
「おまえなら、きっといい指揮官になれるさ」
そのセリフを最後に、シェルファのために扉を開いてやった。
低いざわめきが感嘆《かんたん》の声に変化していく。
皆、自分達の指揮官が来るのを待ち焦《こ》がれていたようだ。
その指揮官がこの国の王自身ともなれば、期待が大きいのも当然である。
おずおずと入場するシェルファに続き、レインがぶらっと入る。
途端《とたん》に、不躾《ぶしつけ》な視線が今度はレインにどっと集まる。本人が完全に無視しているので誰もなにも言わないが、彼らが不審《ふしん》を持ち始めるのも時間の問題だろう。
部隊結成の式典に、余所《よそ》の部隊の将軍が一緒に入って来るはずがないのだ。ただし今はまだ、
「護衛《ごえい》の意味でついているのだろう」と、みんなそう思っているかもしれない。
シェルファが、一段高く設えた壇上《だんじょう》の、その中央へと進む。片隅に立っていた警護兵が大きく息を吸い込み、高らかな声で「国王陛下の御成《おなり》!」と叫んだ。
それを合図に、場内にいた全員がその場に跪《ひざまず》く。
レインもまた例外ではなく、これはこの国におけるシェルファの身分が確立したことを示している。サンクワールの国制では、上将軍の上に立つ者は大将軍と国王の二人のみ。
貴族の爵位《しゃくい》は別として、軍制上、丞相《じょうしょう》といえども上将軍への命令権はない。
大将軍が空位の今、レインに命令を下せるのは、国内で唯一、シェルファだけなのである。
――という理屈《りくつ》を皆に示すため、レインはわざと自《みずか》ら率先《そっせん》して片膝《かたひざ》をついたのである。
本来、こういうことをシェルファが喜ばないのは知っているが、今回は形式を重んじる方を優先した。
しかし、シェルファ本人にはそういう事情はわからない……というか、わかりたくないのだった。
彼女はレインが跪《ひざまず》くのを見るや否や、光の速さで「皆さん、お立ちください」と呼びかけた。皆が低頭する間もあればこそ、だ。
全員、そっとシェルファを窺《うかが》いつつ、大人しく立ち上がった。一拍だけ間を置き、レインも口の端に笑みを刻み、立ち上がる。
ざっと場内を見た。
最前列に「自称勇者」のアベルがいる、ファルナもいれば晴れて神官長になったフェルトもいる。
その背後にはずらっと、徴募《ちょうぼ》に応じて馳《は》せ参じた一般兵士や、レインやラルファスの部隊から引き抜かれた古参《こさん》の騎士などが並んでいる。
ちなみに騎士達については、元の主君であるレイン達の命令というか説得によって移ってきた者がほとんどであり、なにも彼らが主君を見捨てた訳ではない。
素人《しろうと》の兵士や成り立ての騎士だけで戦《いくさ》を行えるはずがなく、これはやむを得ない処置なのだ。
ともあれ、場内には控えめなざわめきが戻っており、シェルファが振り返ってレインを見やる。
レインは一つ頷《うなず》き、いきなり一喝した。
「全員、静粛《せいしゅく》に!」
びっくりするほどよく通る声で、皆が嘘《うそ》のようにぴたっと押し黙った。
元々ほぼ静寂《せいじゃく》が保たれていた場内が、針の落ちる音が聞こえるほど静まりかえる。
レインはその呼吸を捉《とら》え、
「サンクワールの第一軍――すなわち国軍本隊の最高指揮官として着任なさった、姫様のお言葉がある!」
その瞬間、アベルがはっとしたようにレインを見たのが印象的である。それまではぼ〜っと茹《ゆ》で上がった顔で、シェルファの顔ばかりを見ていたのだ。
口を開いて何か言いかけたが、さすがに場を心得たようで、また閉ざした。
こりゃ一悶着《ひともんちゃく》あるかもな、とレインは思う。何食わぬ顔で虚空《こくう》に目をやっているが、アベルの変化は見逃していない。
――シェルファが、柔らかく話し始めた。
「みなさま、どうか楽な姿勢でお聞きください。……この度、先の戦《いくさ》で離散してしまった、第一軍の再編成が成りました。これも全て、わたくしの家に仕えてくださる、忠実な人達のお陰です……」
ちらっとレインを見る。
ボクには誰のことかさっぱりですが? と言いたげな涼しい顔の彼に、シェルファの口元が綻《ほころ》びかけ、かろうじて耐えた。
名残惜しそうに視線を正面に戻し、つらつらと挨拶《あいさつ》を続ける。
その内容は謙虚《けんきょ》な姫君に相応《ふさわ》しく、力強さには欠けるものの、聞き入る者達を良い気分にさせるまずまずの内容だった。
――とレインは思う。
今回は直接の臣下《しんか》となる彼らに、「よし、陛下のためにがんばるぞ!」という気分になってもらわねば困るのである。
その観点から言えば悪くない。
などと一人で頷《うなず》いていると、いきなり異変が起きた。
異変というのは、シェルファが「では最後に、わたくしの部隊で補佐役を務《つと》めてくださる、レインをご紹介します」と述べた途端《とたん》に起こった。
「お待ちください、陛下!」
凛《りん》とした声が響く。
シェルファの挨拶《あいさつ》の間、天界に召されたような顔でほれぼれと聞き入っていたアベルが、ここで初めて声を放ったのだ。
場内にざわつきが戻った。主君の話を遮《さえぎ》るという大それたことをやらかした故か、アベルは今更ながらに気後れした顔になる。
しかし、疑問を抑えることは出来なかったと見え、寸刻《すんこく》の空白の後、続けた。
「そこにおられるレイン様は、たしか上将軍の身分のはず。それに、自《みずか》らの部隊をお持ちの指揮官でもあり、アステル地方の領主でいらっしゃいます。それがどうして、陛下直属の部隊で補佐役を務《つと》めることに?」
皆が綺麗《きれい》にレインの方を見た。
アベルの指摘は、礼を欠く言い方なのは別として、ここに集《つど》う全員の疑問を代弁していたからだ。
古来よりの暗黙の不文律《ふぶんりつ》としては、「王は至高《しこう》の座にして、国内最大最強勢力を保持する領主である」となっている。前王の直属部隊が壊滅《かいめつ》したことにより、これまでのシェルファはその原則に外れていたことになる。
なにしろ文官は別として、武官としてはレインとラルファス以外に一兵も持たなかったのだから。
例外的に領地に派遣されていた警備兵はいたものの、これはあくまで民を取り締まるための存在にすぎない。戦《いくさ》に従事する兵士ではないのだ。
保持する領土は今なお広大とはいえ、武力を持たない王ほど危ういものはないだろう。
これまでそれが問題にならなかったのは、残っていた上将軍二人が、いずれも王の座に全く野心を持たなかったお陰だ。
もしも彼らがそれなりに野心家だったとしたら……シェルファは今頃、かなり違った運命を辿《たど》っていたはずである。
これらのことを、成り立ての将兵達は漠然とわかっていたし、だからこそアベルの疑問は形としては無理もない。
『領地持ちの上将軍が補佐役って、そんな地位に据えたら、こいつが謀反《むほん》でも起こしたら終わりだろ?』
――と、皆こう思ってしまうのだった。
しかし、ことレインに関する限り、シェルファがそのような心配をするはずもなく、よって彼女にはそもそも、アベルの指摘がよくわからなかった。
なのでちょっと小首を傾《かし》げて、「戦《いくさ》ごとに疎《うと》いわたくしの代理として、レインには実際の采配《さいはい》をふるってもらうつもりですわ」などと、正直すぎることを述べてしまった。
アベルが余計に顔をしかめたのは、当然の成り行きである。
「……お言葉ですが陛下、ご無礼《ぶれい》を承知で申し上げます。上将軍は陛下の臣とはいえ、地方を治める施政権《しせいけん》を持つ領主でもおありです。それをご承知の上でのご判断でしょうか?」
「もちろんです。……それがどうかしましたか?」
本気で聞き返すシェルファを視界の隅に見て、さすがにレインも天井を眺めている場合ではなくなった。
「あー、こほん。私から説明しましょう」
割り込んで、シェルファに彼の危惧《きぐ》を説明してやる。それはごく当然の心配である、とも付け加えたが、シェルファはあまり納得《なっとく》していないようだった。
「……アベル様」
いつもより声が固い。
「レインを知らないあなたには無理もないことですが、彼に玉座《ぎょくざ》に対する野望などはありません。そのような危惧《きぐ》は無用ですわ」
「し、しかしっ。僕は陛下の御《おん》ためを思って」
「あー、待て待て。ちょっと待て」
主君に熱弁を振るいかけたアベルを押し止める。
「おまえの心配は無理もなかろうが。しかしだ……本当にそれは、姫様のためを思ってか? もう一度、自分の心と向き合ってみろ」
「……どういう意味でしょうか」
尖《とが》った声で返し、アベルは剣呑《けんのん》な目つきでレインを睨《にら》む。
若さ故か、自分の感情をコントロール出来ずにいるようだ。
「つまりこういうことだ。仮におまえが俺の立場にいたとしてだ。で、姫様から副官着任の要請《ようせい》を受けたとする。そうなったらおまえ、身を慎《つつし》んで辞退するか? 自分なら問題無いと思ってないか?」
見栄えのいい青年は、明らかにたじろいだ。
ここで「もちろん僕なら辞退します!」と即答すれば、見上げたものだったのだが――
彼は、良い意味でも悪い意味でも正直者であった。
しばしのためらいの後、「僕は自分を知っていますから」などと苦しい返事をする。
レインは、「なるほどなるほど」とにこやかに笑い、頷《うなず》く。
「なら、おまえの指摘はただの私情だな。それ以外の何物でもない」
「し、しかしっ」
「いいから、もう少し待て」
片手を上げて、アベルを止める。
「どうやら正直なヤツらしいから、俺も正直に話そう。……この場合、おまえは誰が副官に着任しようと気に入らないと思うし、それはまあ、わからんでもない。だからといって、そっちの都合《つごう》に合わせてやるわけにもいかん。今の時点でおまえの力不足は明らかで、とてもじゃないが俺の代わりが務まるとは思えないからな。だから単純な話、おまえの選ぶ道は三つしかない」
真面目《まじめ》な顔で、淡々と告げる。
「このまま抜けるか、それとも納得《なっとく》して引っ込むか。あるいは……自分こそが副官に相応《ふさわ》しいと、いつか証明するか――だな」
「ぼ、僕は別に自分が副官になるなどと」
ばっさり話の腰を折るレイン。
「本当にそうか? ここまで正直に話したんだ。今更、自分を偽《いつわ》るなって。一足飛びにそうなれるなら、ちょっとなりたいなぁ〜と、今思っただろう?」
碧眼《へきがん》を見据える。
別にレインに他意はなかったのだが、アベルの動揺《どうよう》はさらにひどくなった。苦しそうな顔で汗をかいているだけで、返事は無い。
無論《むろん》、返事が無いことが、最大の返事ということになる。
アベルは内心で、余計な口を出したのを死ぬほど後悔していたかもしれない。対して、レインは爽《さわ》やかに笑い、壇上《だんじょう》を降りて気安くアベルの肩を叩く。
「ほら、な。煩《わずら》わしい理屈《りくつ》を抜くと、意外と人生は単純なんだよ」
やっとアベルが顔を上げた。
「……副官に相応《ふさわ》しいか証明してみせろと言いましたね。それは本気ですか?」
「そりゃ本気だが」
レインはため息をつき、黒髪をかきあげた。
アベルの意図《いと》が読めたからだ。
「俺の話、ちゃんと聞いてたか? 『いつかは証明しろ』と言ったんだ。今じゃない。今は無謀《むぼう》すぎる」
「なぜです? まだ僕は、あなたに負けたことはないですよ」
アベルの身体に芯《しん》が戻った。
というか、無駄《むだ》な闘志《とうし》が湧いてきたようである。こりゃミスったかな、とレインは思った。
これだから、男の説得は嫌いなのだ。
「おまえなぁ」
嘆息《たんそく》しつつ、ちょっと声のトーンを下げる。
アベルだけにしか聞こえないように、囁《ささや》いてやった。
「年長者からの忠告ってヤツをしてやろう。……気をつけろ、アベル。おまえは姫様の信頼を失いかけている」
アベルの反応は絶大だった。
素《す》っ裸《ぱだか》で冷水風呂に放り込まれたとしても、ここまで顔色が変わることはなかったに違いない。
おまけに反射的にシェルファの方を見やり、姫君のじと〜っとした視線とぶつかって、追加ダメージまで受けていた。
――さもありなん。日頃から女性の賞賛《しょうさん》に慣れ切っている色男としては、このような視線に耐性《たいせい》があるはずもないのだ。
すかさず、言葉を重ねるレイン。
「な、危ないだろう? 信頼ってのは大切だぞ。一度失ったら、取り戻すのは容易じゃない。特に、姫様の場合はそうだ」
アベルの肩が面白いように震える。
びしっと言い返して形勢を挽回《ばんかい》したいだろうが、さりとてシェルファの意に背《そむ》いている現状に変わりはなく、都合《つごう》よく上手い言い訳などが出てくるはずもない。
そこまで器用なら、最初からこのような窮地《きゅうち》に陥《おちい》りはしないのである。
よってアベルは、「し、しかし……僕は確実に勝てる自信があります!」などと、強弁《きょうべん》する方を選んだ。レインはもっともらしく顎《あご》を撫《な》でる。
「ふむ。つまり、勝てる自信はあると? 果たしてそうかな……」
「っ! 僕は」
――その瞬間、アベルの瞳に魔剣の輝きが灼《や》きついた。
レインの手が霞《かす》み、瞬《またた》くほどの速さで青き光芒《こうぼう》が走る。禍々《まがまが》しい魔法のオーラを自分の喉元《のどもと》に見下ろし、アベルは自然と喉《のど》を鳴らした。
皮膚ギリギリで、傾国《けいこく》の剣が止まっている。
彼自身はなんの用意もしておらず、ただ呆然《ぼうぜん》と魔剣を眺めるのみ。
「ふ、不意打ちなど、ひ、卑怯《ひきょう》ではっ」
熱く抗議しかけたアベルに、レインは魔剣を収め、しれっと告げる。
「本当に強いヤツは、不意打ちにだって備えているもんだ。特に、そういうのが予想される時にはな。つまり、おまえが悪い」
前へ出てさらに憤然《ふんぜん》と抗議しようとしたアベルを、今度は深みのある女性の声が遮《さえぎ》った。
「その辺りにしておきなさい、少年」
レインを除き、皆がぎょっとして壁際《かべぎわ》を見る。そこにはいつの間にか、純白のマントに長いツインテールの銀髪を伸ばした少女が立っており、おもしろそうな顔でレイン達を眺めていた。
「この私ですら、レインには勝てなかったのよ。そこを考えなさいな」
注目を一身に集めた少女は、外見に似合わぬ凄《すご》みを声に滲《にじ》ませた。
彼女は、先の大会で全勝街道をひた走っていたシルヴィア・ローゼンバーグその人なのだが、周囲の誰も、シルヴィアがそこに立っていたことに気付かなかったのだ。無論《むろん》レインは知っていたが、シルヴィアが気配《けはい》を消していたので、あえてそちらを見ないようにしていたのである。こんなの面白いとも思えんが、見物をしたいならさせてやるか……そう思ったので。
それはともかく、シルヴィアの――いわば『圧倒的』と評するのも控えめなほどの強さを、先の大会でほぼ全員が目にしている。その彼女の発言だけに、全員、今度は別種の驚きを持ってレインを見直す。
レイン本人は、さりげなく髪などかき上げていた。
口を半開きにするアベルにレインは、「そろそろ列に戻ったらどうだ?」と忠告してやった。
若者は、今度は素直《すなお》だった。ふらふら〜っと元の位置に戻っていく。彼にとって、シルヴィアに完敗を喫《きっ》したことは、手痛い記憶となって残っているようだ。その彼女がレインに敗れていると聞いて、燃えさかっていた戦意が跡形もなく鎮静《ちんせい》したのかもしれない。
いやー、お陰で収拾《しゅうしゅう》がついた。
そのような感謝を込め、レインがシルヴィアに片手を上げ――ようとしたところで、新たな挑戦者が登場した。
「では、私が試させていただいてよろしいでしょうか」
今度は猛《たけ》り立つ若者の声音《こわね》ではなく、分別のある穏やかな女性の声である。
その女性、大人びた美貌《びぼう》を持つファルナは、落ち着いた物腰でレインと視線を合わせ、一礼した。
「……おまえも副官志望者か?」
レインが密《ひそ》かに予想したように、ファルナは首を振った。手入れの良い金髪が微《かす》かに舞う。
「いいえ、レイン様。私はそのような重任に相応《ふさわ》しい器《うつわ》ではありません。ただ――」
春の雪解けのように、微《かす》かな笑みが跡形もなく消えてゆく。
アベルと同じ――しかし、アベルより大きな碧眼《へきがん》に静かな決意を込め、言い切る。
「ただ、陛下の名代として指揮をお執《と》りになるレイン様の、実力の一端《いったん》に触れたいのです……このような機会でもなければ、私の身分では剣を合わせることは叶いませんでしょうから」
練習したようになめらかに告げ、また低頭する。
レインは少し考え、固唾《かたず》を呑《の》んで見守る周囲の新兵共を見やり、次にシェルファを振り返った。
「……式典は半ば終わっていますし、ちょっとお時間を頂いてよろしいですか、姫様?」
シェルファは愛らしい仕草で小首を傾《かし》げ、ファルナとレインを見比べた。
すぐに頷《うなず》く。
「もちろん、構いませんわ。……この際、レインの実力を皆さんに見てもらう方がいいかもしれません」
セリフはともかくとして、シェルファはなにやらファルナに興味を持ったらしい。
考え込むようにファルナを眺めていた。
レインもファルナをちらっと見やる。
部隊の結成式なので、もちろん彼女は制服着用の上、帯剣している。ただ、最初のようにレインと目を合わせることはなく、今はあくまでも伏し目がちだった。ただし、シェルファの視線が気になったのか、壇上《だんじょう》の方を何度か窺《うかが》っていた。
「許可も出たし、いいだろう。――おい、前列から後ろはちょっと場を開けろ。これからちょろっと試合をする」
実に気安い言い方だったが、全員が慌《あわ》てて後ろへ下がった。
ぽっかりと空いた場所に、レインはファルナと向き合って立つ。
まだ特に魔剣に手もかけない。
「いつでもいいぞ、ファルナ」
「……試合とはいえ、真剣のままでよろしいでしょうか」
「いいさ」
あっさりと首肯《しゅこう》する。
「殺すつもりでかかってきてくれ。それくらい本気でなけりゃ、試合にもならん」
「……お言葉に甘えさせていただきます、レイン様」
ファルナがやっと顔を上げた。
……秀麗《しゅうれい》な顔に、微笑《ほほえ》みが戻っている。碧眼《へきがん》がまっすぐにレインを射抜いた。
ファルナが剣を抜いて構えたまさにその瞬間、いきなりどんっとレインの姿が巨大化を遂《と》げた。
それは本当に有り得ないほど唐突《とうとつ》な変化で、日頃は冷静なファルナでさえ、一瞬「なにか悪しき魔法で変化したかっ」などと勘違いしたほどである。
それでも彼女が回避行動を取れたのは、微《かす》かに聞こえた風切《かぜき》り音《おん》のお陰だ。
閉鎖された空間内で風の音が聞こえるはずなどない。可能性としては、敵が猛スピードでダッシュしてきているからに他ならない。
敵が巨大化したのではないっ。
単に、恐ろしいまでのスピードで走り込んで来ているのだ!
ファルナは先の大会においてレインが戦う場面を目撃しており、そのスピードについて十分に認識していたのにも関わらず、意表《いひょう》を突かれた訳である。
瞬時《しゅんじ》にそこまで悟《さと》ったファルナは、同時に自《みずか》らの頭上に真《ま》っ青《さお》な光芒《こうぼう》が走るのを目にする。レインはとうにファルナの間合いに突入しており、既《すで》に例の名高い魔剣が襲《おそ》いかかってきている。
『後ろへ跳ぶ――いえ、もう間に合わないっ。かといって、左右どちらに逃げても駄目《だめ》! それならっ』
思考の末にではなく、一瞬の直感により、ファルナは動いた。避けるのではなく、自《みずか》らも前進したのだ。身を低くしてこちらから懐《ふところ》に飛び込めば、敵の斬撃《ざんげき》は無効になるはずっ。
しかし、今度は眼前《がんぜん》に真っ黒な蹴《け》り足が見えた。こちらの意図《いと》が読まれ、新たな攻撃が来たのだ。
鳩尾《みぞおち》を狙った膝蹴《ひざげ》りだと理解し、ファルナは左手でガードする。
バシッと手に衝撃《しょうげき》と痛みが弾《はじ》けたが、思ったよりその威力は弱い。
だがそれは、フェイントに過ぎなかったらしい。
ほっとする間もあらばこそ、ファルナはひょいと伸びてきた片手に引き寄せられ軽々と身体が浮いていた。
「あうっ」
派手《はで》な音がして、思わず声が洩《も》れた。
自分が投げられたのだとわかったのは、既《すで》に剣技場に叩き付けられた後のことだ。本能的に受け身を取れたからまだしも、そうでなければ昏倒《こんとう》していたはずである。
まさか、片手で投げ技を使うとはっ。
受け身を取ったにも関わらず、ほんの一瞬、視界が霞《かす》んだ。意識が暗闇《くらやみ》に引きずりこまれそうになるのを懸命《けんめい》に堪《こら》え、ファルナは遅まきながら転がって追撃をかわそうとする。
……その必要はなかった。
レインはあたかも最初から不動を保っていたかのように、元の位置でだらっと剣を下げてファルナを見ていた。今の激しい攻撃が嘘《うそ》のような静かな目つきで。
もちろん、本当に動いてなかったはずもない。投げた後ですっと身を退《ひ》き、こちらが立ち直る時間をくれただけである。それでもファルナは、油断《ゆだん》なく目を配ってそっと立つ。
同時に、声には出さず呻《うめ》く。
『この人は……本当に強いっ!』
故郷にあっては、ファルナも「数十年に一人の天才」などと言われたものだが、何が天才かと思い知った。本物の天才とは、おそらく目の前にいる男のことだろう。
敵とはいえ、その点は認めざるを得ない。
「……もう少し、お願い出来ませんか」
もはや最初の勝負はついていたが、とにかく頼んでみる。
あっさり了承された。
「俺は構わないさ」
「感謝します……」
ファルナが小さく低頭すると、途端《とたん》にほおっというため息のようなざわめきが辺りに満ちた。それまで戦いに集中しきっていて、観客など全く意識していなかったファルナは、少し驚いた。
ちらっとシェルファの方を見たが、この若き君主はレインをじいっと見つめている最中であり、特にファルナには注意を払っていない。
レインを見る目つきときたら、憧《あこが》れの英雄《えいゆう》を見るうら若き乙女そのままである。まあ、その通りの構図かもしれないが。
……さっきの視線は気のせいだったようね。
安心して、再び眼前《がんぜん》の敵に集中する。
未《いま》だ放さずにいた剣を構え、やや両膝《りょうひざ》を曲げ、いつでも反応出来る体勢《たいせい》を保って、ファルナはじわりじわりと前進する。
その間、ファルナは懸命《けんめい》に考えている。
どんな天才であろうと、万能では有り得ないはず。必ず、どこかに付け入る隙《すき》があるわ。例えば……例えばそう、この人の剣技は攻撃に攻撃を重ねるという、著《いちじる》しい特徴がある。もちろんそれを可能にする完璧な見切りとスピードがあってのことだけど、攻撃のみに偏《かたよ》るというのなら、それを逆手《さかて》に取れば!
そこまで考えた時、レインが世間話のように言った。
「随分《ずいぶん》と攻撃に偏《かたよ》った剣技だ、なんて考えているかな、今?」
ぎょっとして、ファルナの足が止まった。
最初に先手を取られた時より、今の方がよほど愕然《がくぜん》とした。
レインは魔剣を肩に担《かつ》いだくつろいだ姿勢で、緊張感もなさそうにこちらを眺めている。精悍《せいかん》な顔には悪戯《いたずら》っぽい笑みが微《かす》かに浮かんでいた。
「安心しろ。別に怪しい術でおまえの考えを読んだ訳じゃない。ただわかっただけだ……おまえはある程度強いから、かえって読みやすいんだよ」
「ある程度、ですか」
苦笑して問い返すと、レインは大《おお》真面目《まじめ》な顔で頷《うなず》いた。
「気にするな。俺のいう『ある程度』は、世間一般じゃ相当に強いってことだ。そういうヤツの考えることってのは、つまりは『いかに相手を倒す隙《すき》を見つけるか』に尽きるからな。俺の攻勢《こうせい》を見て、おまえがどう考えるかは予想出来るってことだ」
「……恐れ入ります」
「いや、これはアドバイスのつもりでな。戦いの最中に必死《ひっし》で考えているうちは、まだまだだなと言いたいんだ。例えば、『攻撃ばかりする単純|馬鹿《ばか》だから、そこに付け入っちゃえー』なんて思案してるようじゃ、全然|駄目《だめ》だね。話にもならんね。まさかとは思うが――おまえ、俺がその辺りを全く考慮《こうりょ》してない、なんて甘っちょろいことを期待してるんじゃあるまいな」
ファルナが言葉もなく見返すと、レインは今度こそニヤッと笑った。
その笑い方と来たらもう、この先、生涯《しょうがい》忘れないのではないかというほどで、ふてぶてしさと傲慢《ごうまん》さを絵に描いたようである。
「ほらな? 本当に強いヤツっていうのは、なかなか油断《ゆだん》ならんモンだろう?」
返事の代わりに、ファルナは思い切ってダッシュした。
走り出したその瞬間、ファルナの視界内から見物人の姿は消え、レイン一人しか見えなくなった。碧眼《へきがん》には既《すで》に迷いも気負いもなく、獲物《えもの》を狙う狼《おおかみ》のように純粋《じゅんすい》な闘志《とうし》のみがある。
手にした剣はまだ低い位置――いわゆる下段《げだん》にあり、先に攻撃に入る気配《けはい》はない。
対するにレインの動きは、例によって恐ろしく素早い。
今回は自分から間合いを詰めることこそしなかったが、ファルナの疾走《しっそう》と同時に魔剣が反応して剣先が動き、かつ彼女が己《おのれ》の間合いに入ったまさに「その瞬間」を狙い、いささかの遅延《ちえん》もなく斬撃《ざんげき》を振り下ろす。見物人達のほとんどは単に光の軌跡《きせき》しか見えなかったが、見る者が見れば、そのタイミングや見切りのあまりの正確さに唸《うな》ったはずである。
しかし今回のファルナは、慌《あわ》てて剣を合わせるようなことはしなかった。
代わりに、あらかじめ腰に伸ばしていた左手に鞭《むち》を掴《つか》み、それをビシュッと伸ばしたのだ。
ファルナの武器は、なにも長剣だけではない。普段は腰に巻いていて目立たないが、この鞭《むち》もまた、ファルナにとっては大きな武器となる。
今、ファルナが手首を捻って繰り出した鞭《むち》は、まるで意志を持つ蛇のようにレインの魔剣に伸び、見事にその柄《つか》に絡《から》みついた。
同時にファルナは転がるように横に飛んでいる。際どいところで魔剣が体を掠《かす》めたが、とにかく目的は達成した。
満足感に浸《ひた》るのは後のこととして、ファルナはそのまま一転して鞭《むち》の幅一杯に間合いを開け、立ち上がる。幸い、レインはまだ次の攻撃に入ろうとはしていない。
すかさずサッとばかりに手の鞭《むち》を引き絞る。
レインは小憎らしいほど冷静なままであり、眉毛《まゆげ》一本動かす様子はない。しかし、これで彼の魔剣を封じたことは確か――のはずだ。
「……油断《ゆだん》なさいましたね、レイン様」
白い頬《ほお》に汗の筋を付けつつも、ファルナは瞳の輝きを隠せない。
ギリギリと手元の鞭《むち》を引き寄せつつ、
「最初に必ず先制の攻撃が来ると知れていれば、いかに神速のスピードを誇るとはいえ、打つ手はありますわ」
周りを確認する余裕も出てきた。
真っ先にシェルファの方を見ると、この| 姫 王 《プリンセスロード》はレイン以上に落ち着き払っており、にこにこと笑っている。彼が敗北することなど、夢想だにしていないのがありありとわかる。思わず眉《まゆ》をひそめる。
レインが追い打ちをかけてくれた。
「いやぁ、わかってないなぁおまえ」
柄《つか》に絡《から》まった鞭《むち》を外す努力もしようとせず、不敵な笑みを見せている。ファルナがギリギリと引き寄せようとしているのに、まるで数千キロもある石造りの神像のように微動《びどう》だにせず、愉快げに見返していた。
「色々と計算違いをしているぞ。まず第一に、俺とおまえじゃ筋力が違いすぎる。そんな相手の得物《えもの》に、鞭《むち》なんか絡《から》めたって逆効果だ。この場合、俺の武器が封じられたんじゃなくて、おまえ自身の動きが制限されてるんだ。第二に、俺が本気で罠《わな》にハマったと思っているのが甘い」
ファルナが目を見開くと、しれっと教えてくれた。
「少しは疑えよ……わざと隙《すき》を見せたとは思わないのか? おまえのセリフじゃないが、相手が何を狙っているかわかってりゃ、逆にそこに付け込むだろうが? 別に侮辱《ぶじょく》する気はないが、俺が本気ならもう勝負はついているね。それから第三に」
「……まだあるんですか」
「まだまだあるが、めんどくさいからあと一つだけな」
にこやかに返された。
「第三に、仮に本当に武器を封じたとして、それだけじゃ俺には勝てない――絶対にな」
言下《げんか》に、レインの姿が消失する。
ファルナも今度は、即座に気付いた。本当に消えたのではなく、単に身を低くして走り込んできただけっ。目の捕捉《ほそく》が速度に追従《ついじゅう》出来ず、消えたように見えている!
しかし、どのみちファルナの対応は間に合わなかったろう。なぜならレインがいきなり魔剣を手放したせいで、鞭《むち》を引き絞っていたファルナは体勢《たいせい》を崩してよろめいていたからだ。
よもや向こうが自《みずか》ら武器を放棄《ほうき》するとは予想外であり、ファルナは他愛《たあい》なく体勢《たいせい》を崩す。
相手が相手だけに、この遅れは絶望的だった。
姿勢を回復する間もあらばこそ、レインが躍《おど》り込んできた。同時に、ファルナの喉《のど》にレインの右手が食い込む。そのまま人間離れしたパワーでファルナごと跳躍《ちょうやく》、軽々と何メートルも跳んで、遙《はる》か後ろの壁にドカンッとぶつけられた。
「――! っ」
余程上手くぶち当てたと見えて、骨折まではしなかったが……またもや頭がくらっとなった。
いつの間にか持っていた剣はどこかに弾《はじ》き飛ばされ、利《き》き腕が壁に押さえつけられている。さらに両足の間にはレインの膝《ひざ》が分け入り、密着状態のまま、全ての動きが封じられていた。
左手に握った鞭《むち》だけは無事だが、この体勢《たいせい》ではどのみち操れない。敵とくっついていては、鞭《むち》はモノの役に立たないのだ。
喉《のど》に掛かった手に微妙に力を込め、レインの黒い瞳がファルナの目を覗《のぞ》き込む。……ごくごく至近から。
「おまえの負けだ、ファルナ。俺の武器を封じることにこだわりすぎた……それが敗因だな」
「……そのようですわ、レイン様。でも、どのような戦法をとろうと、尋常《じんじょう》に勝負する限り、今の私では勝てませんね」
――そう、今は……まだ。
ファルナの密《ひそ》かな思いとは裏腹に、レインはあっさりと頷《うなず》く。
「次はもう少しがんばれ」
「……は?」
いささかどきっとして目を瞬《またた》くと、逆に訊かれた。
「いやだから、試合だ試合。今後、二度と俺と練習する気がないのなら別だが」
「あ……いえ。すいません、またよろしくお願いします」
うむ、などと尊大に返事をしたレインが、なぜかやや仰《の》け反《ぞ》った。
何事かと彼の背後を見ると、いつの間にか王女が来ていて、拗《す》ねた顔でレインの服を引っ張っているのだった。
二人にしか聞こえない、小さい声で曰《いわ》く。
「……いつまでもくっついていたら、ダメです」
なんとわかりやすい……思わず笑いかけたファルナである。
よけいに頭に響くので、堪《こら》えたが。しかし、レインの右手に、絡《から》め取っていたはずの魔剣がふっと転移してくるのを見て、ささやかな笑みは凍り付く。
……これは一体?
「ああ、まあそう驚くな。これはこういう魔剣なんだ。つまり、俺の武器を封じるなんて二重の意味で無駄《むだ》ってことだな」
レインは笑顔で全然説明にならないことを言い、シェルファに対しては「いや、これは単なる事故ですよ」などと釈明《しゃくめい》している。後のためにもっと詳しく訊きたかったものの、今度はそこへ黒いマントの男がつかつかと寄ってきて、ファルナは開きかけた口を閉ざした。
いつの間にやってきたのか、彼はシェルファをも無視してレインの元に近寄り、その耳元になにやら囁《ささや》きかけている。
レインは驚く様子もなく聞いていたが、シェルファの方を見た時には、すっかり真面目《まじめ》な表情を取り戻していた。
「……どうしました、レイン?」
「式典の方はこれで終わりとしときましょう。ちょっとやっかいごとが持ち上がったようです」
無言で小首を傾《かし》げるシェルファに、さらりと告げる。
「レイグルのヤツが、とうとう動き始めたようですねー。大変ですな、こりゃ」
……少しも大変そうな声音《こわね》ではなかった。
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第三章 ドラゴンスレイヤーへの道
その森は、レイファンの住民達に畏怖《いふ》を込めて『聖域』と呼ばれている。
聖域……つまり、人が足を踏み入れる場所ではない、という意味だ。
レインが「レイグル王動く」の報に接したちょうどその頃、レイファンの大将軍アークは、この聖域に来ていた。
場所はレイファンとガルドシュタイン、さらにザーマインの三国と国境を接しており、レイファンから見ると北西に位置する。
名前の由来は、元々レイファン生まれではないアークにすら、容易に察することが出来る。
すなわち、ここは龍の住まう場所だからだ。
それも単なる龍族《りゅうぞく》ではない。
大まかに分けて七種いるとされる龍族《りゅうぞく》の頂点に位置する、いわゆる古龍《こりゅう》である。あまりにも絶対数が少ないためか、それとも神々に近いとされる彼らへの命名など傲慢《ごうまん》だと皆が思ったせいか、正式名称は最初からない。古龍《こりゅう》というのは、単なる通称《つうしょう》に過ぎないのだ。
しかし、彼らが龍族《りゅうぞく》最強であり、なおかつあらゆる魔獣《まじゅう》を凌駕《りょうが》する王者の中の王者であることを疑う者は、少なくともこの大陸にはいない。かつて存在したという魔族達とは違い、恐れだけではなく畏怖《いふ》の対象でもある絶対的存在、それが古龍《こりゅう》なのだ。
彼らに関連した伝承は幾多もあるが、巷間《こうかん》に流布《るふ》する最も有名なものは、間違いなく「ドラゴンスレイヤーの伝説」だろう。確たる証拠も文献も残ってないのにも関わらず、『龍を独力で倒せば、その力の全てを得ることが叶う』と根強く噂《うわさ》されている。
噂《うわさ》の真偽《しんぎ》はともかく、ここでいう龍とは、もちろんこの最強の魔獣《まじゅう》を指す。ただし、吟遊《ぎんゆう》詩人の歌にはたまに登場するものの、本物のドラゴンスレイヤーなどがかつていた試しはない――とされている。
そう、アーク自身もそう思っていたのだ。
――あの男に出会うまでは。
「そもそも、ガキの頃に『んな伝説、ありえねー』と思い込んじまったのが、俺らしくもねー過《あやま》ちっつーヤツだ」
吐《は》いた息が白くなるような冷気の中、アークはでっかい声で独白した。
「もっと早く、挑戦すべきだったわな。トカゲ野郎《やろう》を倒すっつーイベントによおおっ。……だがまあいい」
しきりに頷《うなず》きながら、
「この、アーク様の英雄《えいゆう》伝説第二章は、ここから始まるぜ!」
無駄《むだ》にデカい声でばしっと言い切る。
いい大人のセリフには遠く、いわば十代のガキ大将が喚《わめ》きそうなセリフだが、本人は大《おお》真面目《まじめ》である。目の前には針葉樹が林立する深い森があり、問題の『聖域』をついに前にして、意気は益々盛んなのだった。その証拠に、今にも雪が降りそうな曇天《どんてん》なのに、寒さなどこれっぽっちも感じていない。むしろ、体中が熱いくらいである。
しかし、アークの後ろに並んでいたケイとフェリスは違う意見らしかった。
「おまえの言い草を聞いていると、骨まで凍えてくる……色んな意味で。第二章がどうしたって? エピローグの間違いだろ。共同墓地の予約を済ませておけば良かったな。墓碑銘《ぼひめい》は『底抜けの大《おお》馬鹿《ばか》、ここに眠る』で決まりだ」
華奢《きゃしゃ》な優男《やさおとこ》のケイがそう酷評《こくひょう》すれば、フェリスもまた明るい声で同意する。
「チーフのセリフって、他人事として聞いてるとゲラゲラ笑えていいけど、自分にも関係あると思うと、全然笑えないねっ。寒いね、寒いねっ」
「うっせえ!」
アークは振り向いて唾《つば》を飛ばした。
「うわっ、汚なっ」
飛び退《の》いたフェリスに構わず、ガミガミと反論する。
「誰もついて来いなんてゆってねーんだよ! 俺がトカゲ野郎《やろう》をぶっ殺して黄金の凱旋《がいせん》を果たすまで、大人しく留守番してりゃいいんだっ。なんでまたゾロゾロついてくるっ」
「……遺憾《いかん》ながら、おまえがレイファンの大将軍だからだ」
陽も差してないのに、相変わらず黒影石《こくえいせき》から削りだしたサングラスをしっかりかけたケイは、むっつりと言い返した。背中で結んだ長い赤毛を神経質に弄《いじ》り、不機嫌《ふきげん》丸出しの声である。
「いいか、大将軍って役職はな、普通はこんなトコに一人で遠征《えんせい》してきたりしないんだ。でも、どうしても行くというのなら、放ってもおけないじゃないか! だいたい、ドラゴン退治だと? 世の中をナメてんのか、おまえ。ドラゴンにガシガシ踏まれて断末魔《だんまつま》の悲鳴を上げるのがオチだ。いや、むしろ踏まれて地べたの赤い染《し》みになって死ね、死んでしまえっ」
棘《とげ》だらけの言い分にむむっと押し黙ったアークに対し、フェリスがまた割り込む。
……ニコニコと。
「今のを訳すとね、ケイはつまりこう言いたいわけ。『ボク……アークが心配だからそばから離れないよ。お願いだから追い払わないで』と」
「うえぁっ」
ぶるっとアークが震えた。
「こ、声音《こわね》まで作って猫なで声を出すなよ、気色悪ぃ!」
「全くだっ。だいたいボクはそんなこと、これっぱかしも思ってないぞ!」
妙なところで気の合うアークとケイに対し、フェリスはただゲラゲラ笑って応じた。黙っていればそれなりに美少年に見えるのに、ほとんど黙ることがないのが、このフェリスという男である。
「まーまー、二人とも、抑えて。どうせもうここまで来たからには、ドラゴンに会わないとチーフも納得《なっとく》しないでしょ。突っ立って言い争いしたって寒いだけだし、さっさと進もうよ」
「おまえはそう言うがな、フェリス」
アークはうんざりと、仲間二人のさらにずずっと背後を見やる。田舎道《いなかみち》を塞《ふさ》ぐようにして十数名はいる、男女の群れを。
「あの集団も引き連れて行く気かよ。なんのために連れて来たんだ、アレ」
めんどくさそうにケイが答えた。
「道中説明しただろう。補給部隊だよ、補給部隊。食料や色んな装備品を持ってきてもらっている。高山に登る時と同じだと思え。ドラゴンが森のどこにいるか不明な以上、この程度の準備は当然だ」
「……そんなモンかぁ? ここは森だし、山登りとは全然違うと思うけどなぁ。第一、こいつらって全然力持ちそうに見えんしよ」
顔をしかめたアークの視線の先には、いかにも非力そうな男女の集団が立っていた。
確かに、多少の荷物を各自が持っているものの、平服を着た彼らはとても力仕事に向いているようには見えないのだった。むしろ、スプーンより重い物は持ったことがなさそうなたおやかな女性や、果ては老人まで混じっている。
しかし、ケイはあっさり返した。
「いいんだよ、これで。大荷物を力自慢《ちからじまん》の男数名で運ぶのも、小分けした荷物を大勢で運ぶのも、どちらも同じことだ」
その言い草に、なぜかフェリスが今にも笑い出しそうな表情を作り、アークと目が合うなり慌《あわ》ててそっぽを向いた。妙なヤツだとアークは思ったが、いちいち問い質すのも面倒だし、なにより今は先を急ぐ身である。
「……まあいいや。とにかく行くぜ。行って、ちゃっちゃとトカゲ野郎《やろう》をぶち倒してくれるわ」
鼻息も荒く、森に向き直ったアークだが――今度は、まるで聞き覚えのない声が制止をかけた。
「愚《おろ》か者ども! 待てっ」
「――あ?」
アークが平和な顔で振り向くと、数名の男女が怒髪天《どはつてん》を衝《つ》く勢いで、怒鳴《どな》りながら走ってくるところだった。ポカンと見守るうちにアーク達の前に至り、挨拶《あいさつ》抜きで次々と叱声《しっせい》を浴びせてくる。
「一体、何の真似《まね》だ、おまえ達っ。ここがどういう場所かわかっているのか!」
「神龍《しんりゅう》様をお騒がせするなんて、許されることではないわっ」
「人間が入っていい場所ではないのだぞ、ここはっ」
……短気なアークには珍しく、すぐには怒鳴《どな》り返さなかった。粗末《そまつ》な麻の衣服を着た彼らが、実に異様な集団に映ったからである。口調がヤバいというか、目つきがヤバいというか。すなわち、あまり関わり合いになりたくない。昔からアークは、こういう人種が苦手なのである。
今も汗ジトで後退《あとずさ》り、ケイに囁《ささや》きかけた。
「なぁ、なんなんだ、こいつら? 神龍《しんりゅう》様がどうのとかゆってんぞ? なんかヤバくないかぁ」
「おまえに言われては、彼らもたまったものではないな」
ケイは小声で言い返し、それからなにか思いついたように小さく頷《うなず》いた。彼らに向き直り、今度は普通の声音《こわね》で話す。
「思い出しましたよ。確かこの地方には、古龍《こりゅう》を神とあがめる人達がいるとか。あなた方のことでしたか」
「別に我らだけのことではない。神龍《しんりゅう》様に畏敬《いけい》の念を持つ者は、他の地方にも大勢いよう。今回はたまたま、我らが気付いただけのことだ」
皆を代表してか、一人が前へ出た。最初に怒鳴《どな》った相手であり、半白の髪をしたとうに壮年を過ぎた男である。目つきが険しく、かなり怒っているのがわかる。
「おまえ達――特に、頭に布など巻いたそこの男は、我々を危ない者を見るような目つきで見ているが、誤解《ごかい》しないでいただきたい。我々は狂信者の集団などではない。ただただ、神龍《しんりゅう》様を敬い、尊敬しているだけだ」
空気を読まないアークが、無邪気《むじゃき》に返した。
「いや、尊敬て……相手はただの魔獣《まじゅう》だろ? でっかいトカゲ野郎《やろう》に過ぎないわけでよ」
「ば、馬鹿者《ばかもの》がっ」
真っ赤な顔になった男は、先程のアーク顔負けに盛大《せいだい》に唾《つば》を飛ばした。
「相手は神にも等しいお方だぞっ。卑《いや》しい人間の分際で、何を言うか! ただ本能のみで生きているそこらの魔獣《まじゅう》と、神龍《しんりゅう》様を一緒にするなっ」
「いや……卑《いや》しいて。俺ぁ、そういう考え方は嫌いだな」
アークは困ったように頬《ほお》をぽりぽりかいた。
「魔獣《まじゅう》は魔獣《まじゅう》、人は人だろ。綺麗《きれい》事《ごと》を言っても仕方ないわな。お互いに分かり合える存在じゃないわけで。俺にとっちゃ、ただの倒すべき敵だし」
「おまえは何も理解していないのだ。よいか、神龍《しんりゅう》様は――あ、こらっ」
皆まで聞かずにアークが背を向けたのを見て、男は追いすがろうとする。アークは一度だけ振り返り、断固《だんこ》とした口調で言った。
「止めるなっ。俺は絶対にドラゴンスレイヤーになるんだっ。止めようとするヤツはぶっ飛ばす!」
「ド、ドラゴンスレイヤーだとっ。そんな馬鹿《ばか》げた理由でここに来たのか! 昔はともかく、今は邪悪《じゃあく》な古龍《こりゅう》など存在しないのだっ。それこそ、無謀《むぼう》なだけではなく無用なことだっ」
それを聞き、アークはちょっと目を見開いた。しかしあえて問い返さず、断固《だんこ》として森へ足を向ける。
「……なんでもいいから、追ってくるなよ。警告はしたからな。後から殴《なぐ》られて文句《もんく》は言うなっ」
「おいっ。待てと」
「――失礼」
走り出そうとした男の前に、ケイが立ち塞《ふさ》がった。
「お気持ちはわかりますが、言い出したら聞かないヤツなので。……申し訳ないが、後のことは我々に任せていただきたい。ああなると、誰にも止められないのですよ」
同時にケイは、荷物持ちとして連れてきた一団に目配《めくば》せする。ケイの意を受けた男女数名がさっとアークと男達の間に壁を作り、彼らがそれ以上は追って来られないようにしてしまった。
ケイはさらに、配下の一人の肩を叩き、小声で命じておく。
「数時間ほど足止めできればいい。間違っても手荒なことはしないように」
「――御意《ぎょい》」
返事を聞いた後、ケイとフェリスもまた、先に行ったアークを追う。背後から怒声《どせい》やら悲鳴やらが聞こえてきたが、二人とも二度と振り向かなかった。
「おい、まさかヤツらに乱暴な真似《まね》をするつもりじゃないだろうな?」
追いついてきたケイに、アークが横目を使う。
「……見損なうな。そんなことを命じるボクだと思うか」
「ならいいんだ。いくらおかしな連中だからって、いきなりぶっ飛ばすのも悪いしなー」
アークは落ち葉を踏みしめつつ歩き、からっとした声音《こわね》で言う。もはや半分以上、さっきの連中のことは忘れかけている。これから戦うドラゴンのことで、頭が一杯なのだった。
「だけどさぁ、考えようによっては、僕らより、あの人達の方がまともかもねぇ。止めるのが普通でしょ」
ぶらっと後ろからついてきているフェリスが、蒸し返す。
ケイも即座に賛同した。
「全くだ。我々の方が度し難い馬鹿《ばか》なんだ。というか、おまえが大《おお》馬鹿《ばか》だ、アーク」
「けっ。なんとでも言ってくれ。俺ぁ、一度決めたことは変えねーよ!」
「……おまけに頑固《がんこ》だし。なんでこんなヤツのためにボクが」
まだぶつくさ言うケイを完全にスルーし、アークはただ急ぐ。奥深い森のどこに最強の魔獣《まじゅう》がいるのか定かではないが、見つけるまでは絶対に帰らない覚悟《かくご》である。
ケイやフェリス、それに荷物持ちを十数名も引き連れ、アークはひたすら森の奥へ突き進む。
――優に一時間以上は歩いただろうか。
ところどころに雪が残る森の中はしんと静まり返っていて、人の気配《けはい》はおろか、ロクに野鳥の姿さえない。獣道《けものみち》に近いような小道を通っている三人だが、今のところは危険な魔獣《まじゅう》には一切、出会っていない。
大気はあくまで清浄《せいじょう》でひんやりとしており、こういう森にありがちな、湿っぽい腐葉土《ふようど》の臭いはほとんどしない。頭上を眺めれば、枝を張った木々が一部空を覆っているが、あまり陰気《いんき》な印象はなかった。
三人とも、体力的にはまだまだ余裕だったが、辛気《しんき》くさい森の景色に早くも飽きたのか、フェリスがいきなり言った。
「ドラゴンスレイヤーってのになると、ルーンマスターじゃなくても魔法が使えるようになるんだよねぇ」
「おうよ」
アークはにんまりと頷《うなず》く。
「魔法が使えるようになったらしめたもんだわな。もうあの黒服|野郎《やろう》にもデカい面《つら》はさせねー」
「魔法が使えたからって、それでどうにかなる相手じゃないでしょ」
「ああっ?」
アークの目つきを見て、フェリスは慌《あわ》てて話を変えた。
「いやっ、別にあの人のことはどうでもいいんだけどさぁ。そうじゃなくて、確か魔法には、ペネトレーションとかいう透視系の術もあったよねぇ。だとしたら、女の子の裸とか見放題だなぁと」
「なにいっ」
アークがくわっと目を剥《む》き、初めて足を止めた。
「そういうことはもっと早く言えよ、フェリスぅ〜っ。ちくしょう、今この瞬間、俺はめちゃくちゃやる気が増大したぜ!」
「あははっ。でしょでしょっ。これ教えてあげたら、チーフは絶対に張り切ると思ったんだぁ」
「あたぼーよ! ようし、トカゲ野郎《やろう》をぶち倒したら、その足で一番近い街に繰り出すかー。なるべく、美人の多い街な!」
眉《まゆ》をひそめて聞いていたケイが、突如《とつじょ》、爆発した。
「おまえ達、自分が恥ずかしいとは思わんのか!」
アークとフェリスは顔を見合わせた。
「……んなこと言われてもよ」
「ねぇ? 男なんてそんなもんだよ」
「情けないことを! そんな性根《しょうね》でドラゴンなんか倒せるわけが――なんだ?」
荷物持ちの一人がふいにケイに駆け寄ってきた。随分《ずいぶん》と緊迫した顔で、そっと耳打ちする。
「なにっ」
聞いた途端《とたん》、ケイの顔にもさっと緊張が走った。
「もう……なのか。間違いなく感じたのだな?」
「おいコラ」
アークはむっとして口を挟《はさ》んだ。
「自分達だけで盛り上がってんじゃねーよ。なんかあったのか? なんで大将軍の俺がスルーされて、おまえに報告が行くんだっ。しまいには喚《わめ》くぞっ」
「……もう喚《わめ》いてるだろうが。なにかあったわけじゃない。ただその」
ケイはちょっと考え、
「この辺りから、既《すで》にドラゴンの目撃例があるそうな――今、そう教えてもらったんだ」
「おまえ今、『間違いなく感じたのだな』とかゆってなかったかぁ?」
「……気のせいだ」
「まあいいけどよ。しかし、俺ぁまた、トカゲ野郎《やろう》は、森の一番奥の奥にいるもんだと思ってたぞ」
「ボクもだが。しかし、彼らの情報は確かだ」
「なんで荷物持ちをそんなに信頼してんだ。やっぱなんか隠してるな、おめー」
「二人とも、静かにしなよ!」
フェリスが珍しく、ぴりっとした声で割り込んだ。
「……何か聞こえないかい? そ、そばにでっかい滝でもあるんじゃないかな。微《かす》かにゴーゴーゆってるよ」
「馬鹿吐《ばかぬ》かせ! ここは山じゃなくて平坦な森だぜ? こんなトコに滝なんかあって――」
次の瞬間、アークにも聞こえた。
確かに、なにか音がする……滝?
いや、違うだろう。なんだかやたらと重厚な、遠雷《えんらい》みたいな音だ。
「これはもしかして」
いつもは冷静なケイが、やや動揺《どうよう》の窺《うかが》える声音《こわね》で言う。
「……息吹《いぶき》の音か……ドラゴンの?」
「なにぃ!」
アークはがばっとケイに向き直る。
「マジか! つーことは、もうすぐそばにドラゴンがいるってことか」
「ボ、ボクにだってわかるもんか! しかし、古龍《こりゅう》は魔獣《まじゅう》の中でもかなり巨大な体躯《たいく》だと聞く。このぶっとい音が息吹《いぶき》きだとしても驚かない――待てっ、どこへ行く、アークっ」
ケイの話が終わらないうちに走り出したアークは、振り返りざま哄笑《こうしょう》する。
「わははっ。分かり切ったこと訊くんじゃねーよ、ケイっ。もちろん、これからトカゲ野郎《やろう》に特攻《とっこう》するのよ!」
「ば、馬鹿《ばか》っ。さっきの人もちらっと洩らしていたが、一昔前までは人間と見るやすぐに襲《おそ》いかかってきた古龍《こりゅう》もいたと聞いてるぞっ。せめて、もっと敵情を探ってから……うう、もう遅いか」
ケイが話している間に、アークは消えていた。恐ろしく素早い。
遙《はる》か前方に、木々の間を駆け抜けていく背中が一瞬だけ見えた。
「くっ。こうなったら僕らも追うしかないっ」
悲壮《ひそう》な声を出すケイに、フェリスは後頭部で腕組みなどして明るく返す。
「そうそう、いつもの展開だよね。魔法使い部隊の人達って体力あるのかなぁ。みんなの息が続くトコに、問題の龍がいてくれるといいんだけどねぇ」
ケイはぎょっとした顔でフェリスを見た。
「……気付いていたのか」
「当たり前でしょ。チーフじゃあるまいし、そりゃわかるって」
フェリスは軽やかに言い、自分もアークを追いかけて走り出す。もちろん……ケイと、それから密《ひそ》かに後を慕っていた部下達も、慌《あわ》てて続いた。
猛然《もうぜん》とダッシュしていたアークは、目の前にうっとうしく連なっていた針葉樹林の向こうに光を見た。
「おおっ」
迷わず、その光に向かって突進する。全く迷うことなく、白い光の中に飛び込む。
――視界が開けた。
いきなり柔らかい光が辺りに満ち、アークは自分が開けた場所に出たことがわかった。
直径一キロはあるだろうか? 不思議なことに、この部分だけ松やジュラなどが生えておらず、円形をした草原になっているのだ。しかし、アークにとって、そのような些末《さまつ》なことはどうでもよく、ただ至近に見えた黒い巨大な物体に目を奪われた。
鱗《うろこ》まみれの巨大な生き物……目こそ閉じられているが、頭部はあらゆる魔獣《まじゅう》の中でも最大級にデカく、口元には寒気を催すような鋭《するど》い牙が覗《のぞ》く。寝そべったその姿は、優に二十メートルくらいの全長がありそうだった。折りたたまれた背中の翼が、こいつの呼吸ごとに微《かす》かに震えている。
見つけた、こいつだっ。
アークは確信した。
これほど間違いようのないヤツも珍しい。こいつだ、こいつこそが最強の魔獣《まじゅう》だ!
「うっしゃああああ。行くぜ、トカゲ野郎《やろう》。俺はおまえに挑戦するぜえええっ」
走りながら長剣を抜く。
敵は未《いま》だに動かないが、ただし上下に動いていた背中の翼は止まった。目が覚めたらしい。ドラゴンはゆっくりと瞼《まぶた》を開け、迫り来るアークを見た。
真っ赤な瞳が、確かにアークを認識し、細められた。
しかし、闘争心《とうそうしん》に充《み》ち満ちたアークは、怯《ひる》まずに駆け続け剣を振り上げている。
「うおおおおおおっ」
敵まであと数メートルを残し、アークは高々と跳躍《ちょうやく》した。陽光にぎらりと剣腹《けんぷく》を光らせ、微動《びどう》だにしないドラゴンの頭部に振り下ろそうと――
そこで、初めてドラゴンが動いた。
といっても、単に自分目掛けて落下してくるアークを見上げただけなのだが、その刹那《せつな》、かっと真紅《しんく》の瞳が光った。
「お? おわあああああーーっ」
アークは不可視《ふかし》の力に打たれ、易々《やすやす》と飛ばされた。
ドラゴンの目が光っただけで、不可視《ふかし》の力に空中でぶん殴《なぐ》られでもしたように、軽々とふっ飛ばされたのだ。
広場を走った分をきっちり空中で逆行し、長身が一際《ひときわ》太い松の木に背中からぶち当たる。
「あだあっ」
痛みに喚《わめ》いたが、当たったのが空中だったために、今度は下へと落下する。
その真下に、遅れてやってきたケイが走ってきて、この惨事《さんじ》に気付いた。
とっさに避けようと身体が動きかけたケイだが、しかし踏み止まった。……健気《けなげ》にもアークを受け止めようとしてそれを果たせず、結果、二人は一緒になって大地にひしゃげた。
「ぶべっ」
「い、痛いっ」
身体に特大の重しのように乗っかったアークをどかそうと、ケイはジタバタする。恩知らずにもアークはそのまま跳ね起き――ようとして、ケイの胸に一瞬だけ掌《てのひら》を乗せた。
「おろ。なんだ今の? なんか柔らかいモンが手に。おやつのパンかなんかか?」
「やかましいっ、いいからとっととボクからどけ、このスカタンっ」
真っ赤になって激怒《げきど》したケイが、ようやっとアークを振り落とす。外れて飛んだサングラスを素早く拾ってかけ直す。
「おまえは一体、何を考えているんだっ。いきなりドラゴンに特攻《とっこう》かけるヤツが――」
しかしアークは聞いていない。
打撲の痛みをきっぱりと無視して、再度の疾走《しっそう》に入ったところだった。
「ああ、この馬鹿《ばか》!」
ケイの叱声《しっせい》がアークの背中に叩き付けられた直後、ケイの意見に賛同するかのように、アークはまた無形の力にどやしつけられ、飛ばされた。今度はドラゴンに近寄ることもできず、さっきぶち当たった松の隣の木に激突《げきとつ》する。
呻《うめ》き声を絞り出し、頭を振っている。さもありなん。一度ならず二度までも、不可視《ふかし》の力によってぶっ飛ばされたのである。さすがのアークもすぐには動けないようだった。
これを見たケイは、すかさず決断した。
「今だっ。みんな、打ち合わせ通りに頼むっ。アンチ・マジックフィールドに限界があることはわかっているっ。一点|突破《とっぱ》でフィールドを突き破れ!」
「ははっ」
なにやら、大勢の声がケイの背後で唱和《しょうわ》した。痛みに呻《うめ》くアークが見れば、ケイの言うところの「荷物持ち」達がぞろぞろと広場に出てくるところである。ざっと数十人はおり、全員がそれぞれローブを羽織《はお》っている。
彼らはケイの合図に従い、すぐさま全員がルーンの詠唱《えいしょう》に入った。
「ああっ!? こ、こらあああっ。そいつら、魔法使いだったのかよ!」
今頃気付いたアークが喚《わめ》く。
しかし、まだダメージから復活は遠く、起きあがるには至らない。
「そう、その通り。おまえは知らなかっただろうが、我が国の隠れた魔法使い部隊だ。彼らでまずドラゴンに集中攻撃をかけ、それから最後におまえがトドメを刺せばいい」
「それじゃあ、ドラスレ伝説のルールを破ってるだろっ。つーか、まるで俺が悪人じゃねーか!」
「うるさいな。なにが『ドラスレ伝説』だ、勝手に略すなっ。そんな伝説上のルール、関係ないに決まっているだろう。勝てば問題ないさ、当然」
とか言いつつ、本当にルールが存在しないのかどうかについては、実はケイにも確証はない。
ただ、それを言うならそもそも「ドラゴンスレイヤーの伝説」についても、ケイとしてはだいぶ懐疑的《かいぎてき》なのだが。レインという存在を知ってもなお、ケイは疑いを捨て切れてはいない。
そんな得体の知れない伝説より、今の彼はアークの助力というか救助が第一であり、その他のことは全て些事《さじ》だと思っている。
今はアークを救うことに全力を尽くす!
それだけを考えているのだった。
味方全員をシールドが覆い、さらにガタガタと喚《わめ》くアークを無視するように、魔法使い達の攻撃呪文が完成した。
「ライトニング!」
複数の声が重なる。
練習でもしたのか、数十人のルーンマスター達の攻撃は、完全に一致していた。狙いもまた、同じ場所である。まずは最も的を外しにくい、面積の大きい横腹の部分を狙った。発動された複合魔法は空中で重なり合い、渦《うず》のように回転して火花をまき散らし、あたかも青白い巨大な槍《やり》のようになって突進、ドラゴンを目指す。
それでも敵は全く動かなかった。
目を開けているので、ケイ達のやりように気付いているのは間違いない。しかし傲慢《ごうまん》なまでの無関心さで、ただ目を細めて迫り来る攻撃を見守るのみ。
――結果は、ケイ達を蒼白《そうはく》にさせるに十分だった。
あと少しで命中という時になって、「バシュッ」という音と共に、半透明の障壁《しょうへき》が敵の周囲に出現し、全ての魔法攻撃を飲み込み、一瞬だけ虹色に変色して消えてしまう。
残光すら残らなかった。
大量の魔法使い達による一点|突破《とっぱ》は、完膚《かんぷ》無《な》きまでに吸収されつくしてしまったのである。
この期《ご》に及んでまだ寝そべったままのドラゴンを見やり、ケイの唇がわなわなと震える。
「……冗談だろう? 遙《はる》かなる昔から、レイファンで訓練され、受け継がれてきたルーンマスター部隊だぞ。かつての戦《いくさ》では、何度も切り札《ふだ》的役割を果たしてきたといわれているのに。それでもアレを突破《とっぱ》できないのか!」
ケイに答えるように、どこからか厳粛《げんしゅく》な声がした。
『去るがいい!』
「なんだ? 今のは誰だ」
きょろきょろするケイは、しかしぎくっと身体を強張《こわば》らせる。
遙《はる》か向こうにいるドラゴンが、ゆったりと起きあがったのだ。
「た、立ち上がった!」
ケイ達が身構え、フェリスに助け起こされたアークが「逃げろ、ケイっ」と喚《わめ》く。
しかし、全ては遅きに失した。
――またもや反撃が来たのだ。
今度はドラゴンがやや口を開けた。わっとばかりに及び腰になった一同に向け、ぶわっと衝撃波《しょうげきは》が放たれる。
「――! アークっ」
悲鳴を上げたケイ、それにアークとフェリス、そして彼らと自分達をシールドでガードしていた魔法使い達――皆に等しく災厄《さいやく》が訪れた。
マジックシールドなど、薄紙一枚ほどの役にも立たなかった。あらかじめ張っていたシールドは衝撃波《しょうげきは》によって瞬時《しゅんじ》に破られ、全員が宙を舞った。
木々の間を、皆が紙くずかなにかのようにゴロゴロと飛ばされる。アークのようにまたもや木の幹に激突《げきとつ》して呻《うめ》く者、あるいは地面に顔から突っ込む者……惨状《さんじょう》は様々だが、踏み止まった者は皆無《かいむ》だった。
――これは駄目《だめ》だ! 撤退《てったい》しないとっ。
ケイは早々に結論を出した。
元より、ケイとしては、こんな無益な戦いには反対なのだ。
しかしアークは、未《いま》だに闘志《とうし》を失ってはいない。身体中が痛いのは事実だが、奇跡的にまだどこも骨折などしていないし、魔法など使いくさった彼らがまとめてぶっ飛ばされたのは、かえって好《こう》都合《つごう》だったとさえ思っている。
性懲《しょうこ》りもなく木の幹に背中からぶち当たり、十秒ほど呻《うめ》いたものの、動けるようになると、さっと起きあがった。
ばばっと辺りを見渡し、仲間の無事だけを確認する。ちなみに魔法使い部隊の面々は一際《ひときわ》遠くに飛ばされており、悲鳴や呻《うめ》き声がここまで聞こえていた。
でもまあ、とりあえず死人だけは出てないだろうと見極め、アークは蒼白《そうはく》な顔のケイに指を突きつけた。
「おいっ。おめーはもう、余計なことはすんなっ。怪我《けが》するぞ」
ケイの驚愕《きょうがく》した表情は、まさに見物だった。
ズレたサングラスを直すのも忘れ、まじまじとアークを見返す。
「……おまえ、まだあきらめてないのか!」
「当たり前だ、馬鹿《ばか》野郎《やろう》!」
即答である。
「男がいったん決めたことをなぁ、そう簡単に翻《ひるがえ》してたまるかってんだよおっ」
「いやいやっ。今回に限っては、絶対に翻《ひるがえ》した方がいいよ、うん。もうさぁ、あきらめて帰ろうよ、ねっ」
二人の中間に転がっていたフェリスが、むっくりと起きあがって懇願《こんがん》した。口調と違い、さすがの彼も顔が真剣である。
「うっせえ! まだ勝負はついちゃいねー。俺は戦うっつったら戦うんだ!」
止められないうちに、アークはまた走り出した。その瞬間、また謎の声が聞こえた。
『疾《と》く去れ!』
今度は、大気に不気味《ぶきみ》な音が走り、一瞬だけ烈風《れっぷう》が吹き抜けた。
「ぬおっ」
さしものアークも、足を止める。
――これもドラゴンの攻撃なのだろうが、いきなりアークの周囲で、太い幹の木々がメシメシと音を立て、傾いていく。
「おうおうっ」
自分の方に倒れてきた松を、アークは慌《あわ》てて避ける。見れば、アークの頭部よりちょっと上の部分で松が両断され、それぞれあらぬ方向へ倒れていくところだった。
自分の周り限定とはいえ、数十本単位で倒れていくのだ。お陰で、広場までの視界が綺麗《きれい》に開けてしまった。もちろん、例のドラゴンもはっきり見えた。名だたる古龍《こりゅう》は今やアークを――アークだけをじっと見据えている。
まさかとは思うが……さっきからの声は、こいつだろうか? ちらっとそう思い、アークはすぐに首を振った。
そんな馬鹿《ばか》な!
自分から話せる魔獣《まじゅう》など、聞いたこともない。たとえ相手が、魔獣《まじゅう》の頂点に立つ古龍《こりゅう》とはいえ。
アークは警告を無視して、またもや走り出す。背後から例によってケイやフェリスの止める声が聞こえたが、全く耳に入らなかった。
「今度こそ覚悟《かくご》しやがれ、トカゲ野郎《やろう》っ」
途端《とたん》に、明確な殺気《さっき》を感じ、アークは高々と飛んだ。直後、彼の真下で草原の草花がざざっと大揺《おおゆ》れに揺《ゆ》れる。どうせ例の衝撃波《しょうげきは》が来たのだろうが、アークは見事かわしたわけである。
「はっ! ざまぁ――」
勝ち誇りかけたアークだが、しかし着地の直後、いきなりその身体が持ち上がった。
「わっ、わわっ。ちょっと待てこら! ちゃんと避けたのにそれはねーだろうっ。んなのもアリかよっ。汚ねーぞ!」
敵の悪辣《あくらつ》さを弾劾《だんがい》したが、無駄《むだ》だった。無形の力によって数メートルほど上空に持ち上げられ、次に恐ろしい勢いで大地に叩き付けられた。
それはもう、蠅《はえ》のようにベシャッと。
下が柔らかい土と草だったのが、不幸中の幸いである。半ば身体が大地に埋まっても、まだ意識を失わずにいられたのだから。
へろへろになっていたアークは、それでもなお、半身を起こそうとする。しかし今度は、遙《はる》かなる天空の彼方《かなた》で、神の怒りのごとく青白い光が弾《はじ》ける。
刹那《せつな》の間を置き、雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いた。それも、ちょっとやそっとの音ではない。天が裂《さ》けたかと思うほどの轟音《ごうおん》であり、アークが喚《わめ》く間もあらばこそ、周囲にドカドカと雷が落下した。一抱《ひとかか》えもありそうな青白い稲光《いなびかり》が乱舞し、草原に幾つもの大穴を穿《うが》つ。アークが思わず頭を抱えたほど、それは激しい落雷だった。
大気に一種のきな臭さが漂《ただよ》い、掘り返された膨大《ぼうだい》な土砂《どしゃ》がそこらに飛び散りまくる。先程のルーンマスター達の攻撃など、これに比べれば春風のように優しいといえる。
そして始まった時と同じく、攻撃は唐突《とうとつ》に止《や》んだ。気付けばアークは、特大の雷が穿《うが》った無数の穴に周囲を囲まれ、呆然《ぼうぜん》としていた。これがまた、綺麗《きれい》にアーク本人を避け、その周囲にだけ落ちている。
アークはなんとなく、あの黒服男(レインのこと)がメテオなんちゃらとかいう魔法を使った時のことを思い出した。あれを使われた直後はこれよりもっとひどい有様《ありさま》だったが、とにかく似ているのは間違いない。お陰で、恐れよりも腹立たしさが勝った。
すっくと立ち上がり、遠くの龍を怒鳴《どな》りつける。
「おいっ。イカサマな手を使うんじゃねーよ! 正々堂々と勝負しやがれってんだあっ」
即座に返事が来た。
『汝《なんじ》の言う正々堂々とは、いかなるものを指すのか?』
例の重々しい声が返す。
何かアークの脳内に響くような不思議な声であり、普通に人がしゃべる声では有り得ない。
『人間がエクシードと呼ぶ能力も魔法も、私が元から備えている力に過ぎぬ。何故《なにゆえ》に弾劾《だんがい》されるのかわからぬし、そもそも汝《なんじ》がいきなり私に襲《おそ》いかかってきたのだ』
「おろ?」
アークはきょとんとした。
びしっと指差していた腕を下ろし、小山のようにそびえ立つドラゴンを見返す。……まじまじと。
「おめー……しゃべれたんか?」
『つまらぬことを言うヤツだ。人間ですら話せるのだ……我らが話せぬと、どうして思う? もっとも――』
ドラゴンは幾分、穏やかに続けた。
『我らの声帯と汝《なんじ》らのそれは構造が違う故、人間と同じように発声するのは難しい。私の声は、厳密《げんみつ》には汝《なんじ》達の心に向けて発しているのだ』
「えー……いや、そうなのか」
ぽかんと返し、アークは目を瞬《またた》く。ついでに、ふらふらと相手に歩み寄り、その眼前《がんぜん》にまで来た。別に頭の中で声は聞こえるし、特に会話するのに不自由はないが、離れていると話しにくいのである。
そこへ、やっと仲間が駆けつけて来た。
「アーク!」
「チーフ、まだ生きてるぅ〜?」
「アーク、ここはいったん退《ひ》こう、なっ」
ケイが懸命《けんめい》に説《と》き、腕に触れてきたが、アークは手で押し止めた。
「待てって! 今、驚愕《きょうがく》の事実と向き合ってるところなんだからよ。こいつが俺達と同じように考え、生きているとすると、俺ぁ早まったかもしれねー」
アークの言いように、ドラゴンは呆れたように鼻息を吹いた。
『汝《なんじ》は一体、なんのつもりで私を襲《おそ》ってきたのだ。愚《おろ》かにも、ドラゴンスレイヤーの伝説などに惑《まど》わされてきた有象《うぞう》無象《むぞう》ではないのか?』
「おうよ、確かに狙いはそれだ! 『有象《うぞう》無象《むぞう》』の意味はわからんけど」
ケイとフェリスが同時に目で合図したのに気付かず、アークは無駄《むだ》に胸を張る。
「けどなぁ、別に惑《まど》わされたわけじゃねーぞ。俺にとって必要な力だから望んだまでよ」
『……やはり愚《おろ》か者には違いないではないか』
心に直接語りかけてきているとはいえ、アークには唸《うな》るような声に聞こえた。
「なんだよ、その呆れまくった声はよ……俺はなぁ、これでも龍退治は人様のためにもなると思って」
『しばし待て!』
真っ赤な目がぎろっと動いた。
『私は、自分が襲《おそ》われぬ限りは人間に力を振るったことなどないし、これからもそんな気はないぞ。汝《なんじ》はいかなる理由をもって、私を倒せば人間のためになる――などと思うのだ?』
「うっ……いやそれは……」
珍しくアークはたじたじとなった。
全ての魔獣《まじゅう》は人間にとって敵――そういう明快な信念をもって生きてきたアークにとって、その問いかけはかなりぐさっときたのである。太陽が西から昇ってきたような衝撃《しょうげき》である。
「でもほれ……俺ぁホームの母さんに、小さい頃からよく聞いてたぞ。ドラゴンが人間を襲《おそ》う話とかよ。実際俺も、リトルドラゴンが人間に重傷を負わせた事件を何度も聞いたぜ」
『人間も、聖人《せいじん》君子《くんし》ばかりではあるまい。中にはむごい行いをする者もいるはずだ』
ドラゴンの返答は、あたかも諭《さと》すようだった。
『リトルドラゴンごとき木《こ》っ端《ぱ》と我らを比べるのは笑止《しょうし》だが、それはまあよい。……して、汝《なんじ》はそれだけを見て、全てのドラゴンに判断を下すのか。人間はそこまで浅薄《せんぱく》な生き物か』
「う……いや、それは……」
『そもそも、真に我が同胞《どうほう》といえる仲間で、自《みずか》らの意志で人間の敵に回った者など、数えるほどしかおらぬ。ほとんどの仲間は、人間達とは距離を置いて静かに暮らしているのだ……この私のように』
アークは一瞬で元気を取り戻した。
「よし、それだっ。その悪辣《あくらつ》なドラゴンを教えろ! 俺がいってスカッと倒してやるから」
『……汝《なんじ》には呆れ果てる。いま私の力の一端《いったん》に触れたばかりなのに、まだドラゴンを倒せるなどと思うのか』
その意見に、ケイとフェリスはすかさず反応した。
「全くだ! おまえは本当に大《おお》馬鹿《ばか》だ、この人――というかこの方の言う通りだ、馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》」
「うわー、ついに古龍《こりゅう》にまで、チーフのお茶目さが知られちゃったなぁ。あっはっは!」
「うっせええっ」
仲間に唾《つば》を飛ばしてから、アークはふんっと鼻息を荒くする。
「俺はまだ、全力を尽くしてねぇ。簡単にあきらめる気はねーよ!」
『接近することも適《かな》わず、まともな戦いにならないのが、既《すで》に私達の力量差を物語っているとなぜ思わぬ? 私がもし本気だったら、汝《なんじ》はもうこの世にはおらぬ』
むうっという顔になり、アークは完全に沈黙《ちんもく》してしまった。
元々は傭兵《ようへい》として戦いに生きてきた彼のこと、もちろん相手の正しさは嫌というほど思い知っているのだ。ただ今の今まで、「|あいつ《レイン》に負けたくねー」という意地のせいで、正常な判断力を狂わせていただけで。
沈黙《ちんもく》したアークを見据え、ドラゴンは小さく首を上下に動かした。まるで頷《うなず》くように。
『……ふむ。まるっきりの愚《おろ》か者ではなかったようだな。ならば念のために教えておこう。汝《なんじ》は魔法使いではないな? 見たところ、剣士であろう』
アークは反射的に頷《うなず》く。
『ならば、もはや戦うまでもない。仮に奇跡が起こって汝《なんじ》が私に接近し得たとしても、その鋼《はがね》の武器では、我が身体にさしたる傷は負わせられぬ。直撃しようと、掠《かす》り傷にもなるまいし、それもすぐに回復してしまう。魔力チャージされた剣ならまだしも戦えようが、それとて決定的な手段になるとは思えぬ。つまり事実上、どのような手を使おうと、汝《なんじ》に私を倒す術《すべ》はないのだ。もっとも、人間全てが等しく、私の敵にはなり得ぬが』
「いや、それだけは嘘《うそ》だ!」
アークが初めて反論した。
「現に俺は、ドラゴンスレイヤーに出会ってる。人間だってアンタを倒せるヤツはいたっ」
今度はドラゴンが沈黙《ちんもく》する番だった。
ややあって、面白そうに問い返す。
『それはもしかすると、喪服《もふく》を着ていたあの男のことか』
「喪服《もふく》だぁ? あの黒ずくめは、あいつの趣味じゃねーのかよ」
『おそらく違うだろう。あのしんと静まりかえった深い瞳に、大きな哀しみが窺《うかが》えた。見てはならぬものを見て、もはや引き返せぬ道を歩み始めた男の目だったな。人間に出会って不覚にもプレッシャーを感じたのは、あの男が初めてだった……そうか、あの男がいた。確かに彼は人間の例外だ』
「な、なんか……」
とフェリスが口を挟《はさ》む。
「一部を除いて、僕らの知ってる人とだいぶ違うような気もしたりして……その人の名前、レインさんで合ってるよねぇ、おじさん?」
最強の魔獣《まじゅう》を気安く「おじさん」呼ばわりしたフェリスを、ケイはおろかアークまでがたまげて見やったが、古龍《こりゅう》は特に機嫌《きげん》を損ねた様子はない。
『無論《むろん》、そうだ。レイン――それがあの男の名前だった。私は彼と話したことがある』
「あいつ、おまえを倒しに来たんか! でもって、やっぱりやられたのかっ」
何かを期待するようなアークに、古龍《こりゅう》はあっさりと返す。
『いや。彼はただ、私に質問しただけだ。村を襲《おそ》い、人を殺して回る龍がいると訊いたが、どこにいるか知らないか――と』
「……で、おじさんは止めなかったの?」
『止めはせぬ。止めたところで行くのがわかってしまったからな。それに私は、あの男のエクシードを感じ、その可能性を認めたのだ』
顔を見合わせる三人を見やり、続けた。
『彼以前に、我々を倒した人間はいなかった。我らには忌まわしい言葉だが……本当の意味での「ドラゴンスレイヤー」など、それまでは存在すらしていなかったのだ。しかし、あるいは彼なら、その最初の人間になるやもしれぬ――私はそう思ったのだ』
衝撃《しょうげき》に彩《いろど》られる面々には気付かず、ドラゴンは思い出を語るようになおも話す。
『人間達は長い長い間、この忌《い》まわしい掟《おきて》を知らずに来た。人が知るべきではない掟《おきて》なのだし、それでよかったのだがな。……人間達のいう「ドラゴンスレイヤーの伝説」が洩《も》れたのは、ほんの数百年前に我が同胞《どうほう》が語った故だ。私の友でもあった彼は、頻繁《ひんぱん》に力試しに来る愚《おろ》かな人間に向かい、こう諭《さと》したのだ。「人間達よ。万一にも私を倒せば、おまえ達に大いなる災《わざわ》いが訪れるぞ。いい加減にあきらめるがよい」と。友は人間を止めるつもりでそう教え、彼らを諭《さと》そうとした。しかし、我が友はまだ人間という種族を見くびっていたのだ。言い換えれば、その邪悪《じゃあく》さを甘く見ていたとも言える』
ドラゴンはまたゴオッという音を立て、鼻息を吹いた。
『諭《さと》された人間のうち、誰かがこう尋《たず》ねた。「その災《わざわ》いとはどのようなものだ?」と。我が友はもちろん、教えてやった。以来、人間の愚《おろ》かな挑戦はかえって激しさを増したのだ。それでも、最近はだいぶ減っていたが』
「災《わざわ》い? ドラゴンスレイヤーの伝説については私も知っていますが……どの辺りが災《わざわ》いなんです?」
ケイが恐る恐る訊く。
『災《わざわ》いだとは思わぬか? 人の寿命《じゅみょう》を越えて永遠を生き、人にあらざる力を我が物とする――これはミュールゲニア創世の昔、冥界王《めいかいおう》が定めた掟《おきて》だそうだが、私が人間の立場なら、そんなものは望まん。その力によって自《みずか》らの運命を狂わされるのが、わかりきっているではないか。それに……いや、これは言わずにおこう』
ドラゴンは途中で話を打ち切ってしまう。
途端《とたん》に、フェリスがのんきに言った。
「えー? 僕なら結構、憧《あこが》れるけどなぁ。そういう力、ほしいよね。魔法も使えて、ペネトレーションも使えてウハウハだしさー」
『若者よ、汝《なんじ》の言うことは私にはよくわからぬ。わからぬが、おそらく汝《なんじ》の考え方こそが、人間達にとっての「普通」なのだろう』
苦々しい声が皆の頭の中に響いた。
『孤独《こどく》に生きてきた我々は、人という種族について深く知ることもなくこれまできた。それが為に、あのような悲劇を生んだのだ』
ドラゴンの声に悲壮《ひそう》さが混じる。
三人が無言で問いかけると、ドラゴンはその悲劇を教えてくれた。
『つまらぬ伝説が広まった後、我らに挑む人間は益々増えた……何十年経とうが何百年経とうが、彼らは無謀《むぼう》な挑戦を止めようとはしなかった。そのことに怒り、最初に掟《おきて》のことを教えた我が友は、明確に人間の敵に回ったのだ』
「わかった! いや、わかりました……あの事件はあなたのご友人のことでしたか」
ケイが興奮気味《こうふんぎみ》の声を出した。
アークは横目で彼を見やり、
「どういうことでぇ?」
「さっき、おまえに教えようとしたんだがな。ここへ来る前、ボクは古龍《こりゅう》について色々と調べたんだ。その結果、人間を襲《おそ》う古龍《こりゅう》など、歴史上ほとんどいなかったことがわかった。ただし、例外もあった。その例外のうちの一匹が――」
ケイは眼前《がんぜん》のドラゴンを見て言い直す。
「いや一人が、おそらくレイン殿が倒したドラゴンらしい。もう数年前のことだが、度々《たびたび》村を襲《おそ》い、大勢の人間を殺したと。この森ではなく、もっと北の方の森を住処《すみか》としていたそうだが」
『……おそらく、汝《なんじ》のいう同胞《どうほう》こそが、我が友であろう』
ドラゴンの声は苦しそうだった。
『私は止めようとしたが、もはや我が友は長年に渡る人間への怒りに燃え、忠告を聞こうとはしなかった。最後に会った時はきっぱりと、「人間など滅《ほろ》びてしまうがいい。いや、この私が滅《ほろ》ぼしてくれる!」と言い切った。誰かが止めなければ、本当に人間全てを滅《ほろ》ぼしていたかもしれない』
「その誰かがあの黒服男だった、つーわけか」
アークは難しい顔で返す。
ついでに、最も気になることを尋《たず》ねた。
「そのドラゴンって、強かったんか?」
ストレートな質問に、ドラゴンはだいぶ呆れた顔をした……ようにアークには見えた。
『強弱など我らの間では問題ではない。しかしそう……少なくとも我が友を上回る力を持つ同胞《どうほう》は、まずいなかっただろう』
「……あんたよりも強かったんか?」
『私の力が彼より上だったのなら、私は力に訴えてでも、友を止めていただろうな』
穏やかにドラゴンは言う。
一同の間に、またもや静かな衝撃《しょうげき》が走った。目の前のドラゴンだって、自分達が束になっても勝てなかった……どころかまともに戦いにもならなかったのだ。
ずんと暗くなった三人には気付かず、古龍《こりゅう》は言う。
『レインは我が友を倒してしまったが、人を殺して回ればその報いを受けるのは当然だし、倒さねばレインの方が殺されていただろう。だから私は、彼を憎む気にはなれぬ。汝《なんじ》と同じく力を求めていたが、彼に邪気《じゃき》がないのは明白だったしな。……だが、惜しいことだ。あれほどの人間でさえ、力に捕らわれるのが愚《おろ》かしいことだと気付かぬのか』
「なにが愚《おろ》かしいんでぇ?」
アークはいきなり反論した。
「俺ぁ、はっきりとあいつの敵だがなぁ、それでも強さを求めるのが悪いことだとは思わねぇ。考えてみろ! あいつに力がなければ、今頃あのサンクワールって国は滅《ほろ》んでいたかもしれねぇだろうが。口だけじゃ、国は守れねーんだよおっ」
ドラゴンが説明してほしそうに見えたので、アークは珍しく気を利《き》かせ、教えてやった。レインが今なにをしていて、どういう立場にいるのかを。
『ふむ……そうか。かつて出会った時は、国のために戦うような男には見えなかったが、人も変わるものだな』
「いやー、国のために戦ってんじゃないでしょ、あの人」
フェリスがあっさりと否定する。
「多分、あのお姫様のためだよ。まあ、そっちの方がやる気でるよねぇ」
「……なんで俺を見ながら言うんでぇ?」
「いやぁ、別に。あははっ」
『いずれにせよ』
とドラゴンがアークを見る。
『そういう事情なら、確かに力は必要かもしれぬな。若者よ、すまぬ。私の言い様は一方的だったかもしれぬ』
「あ、いや……」
元々、単純といっていいほど一本気で素直《すなお》なアークは、たじたじとなった。冷静に考えれば、自分の方こそ相手に謝るべきである。
「いや、こっちこそ悪かった。俺、魔獣《まじゅう》は人間の敵だとしか思ってなかったんで。あんたみたいな例外もいるって初めて知った……ええと、俺はアークっていうが、あんた名前は?」
『私の名前は人間には発音しにくいのだ。そうだな……呼びやすく、セラフとしておこう』
「あー……じゃあ、セラフ。俺もちゃんと謝る。あんたに斬り掛かったのは、全面的に俺が間違っていた。本当に悪かった……この通りだ、許してくれ」
アークは勢いよく頭を下げる。
まだ自分が剣を持っていたのに気付き、慌《あわ》てて鞘《さや》に戻した。
ほっとした空気が周囲に満ちる中、改めて尋《たず》ねる。
「んで。昔みたいに邪悪《じゃあく》なドラゴン野郎《やろう》はいねーのか? いたら教えてくれ」
アーク以外の全員が、ため息を洩らした。
ドラゴンまでごおっと息を吐《は》いていた。
『あいにく、私は寡聞《かぶん》にして知らぬ。この森に住む同胞《どうほう》は穏やかな者ばかりだ。そもそも汝《なんじ》、まだ我々に勝てると思っているのか。だとすれば、既《すで》に無謀《むぼう》を通り越しているぞ』
アークが何か言う前に、フェリスが気安く尋《たず》ねた。
「さっきみたいに集団戦に持ち込むのはアリかなぁ? それなら、万単位で押しかけるとか、方法はありそうだよね」
ドラゴンは巨眼でじいっとフェリスを見据えた。
『太古の昔より、人間は全ての生物の中で最もモロく、最も不自然な種族なのだ。衣服を纏《まと》わねば気候の変動に耐えることもできず、おまけにルーンの詠唱《えいしょう》なくして魔法の行使も適《かな》わない……冥界王《めいかいおう》ヴァリウスは、そのような弱き人間達に同情してこの掟《おきて》を定めたそうだ。神の御心《みこころ》がいかなるものか私にはわからぬが……掟《おきて》は掟《おきて》だ』
フェリスは軽い口調で促《うなが》す。
「えー、つまりズルは駄目《だめ》ってこと?」
『何を期待しているのか知らぬが、大軍ならどうにかなるなどと思わぬ方がよい。それに、私が心の底から敗北を認めない限り、汝《なんじ》の望む力など手に入るまいよ』
「なんだぁ……後半部分を先に言ってよ」
どこまで本気なのか、フェリスはいたく失望した表情になった。
しかし、アークはまだあきらめない。
「倒したヤツがいるんだから、なんとかなるはずだ!」
頑固《がんこ》に述べる。
その点、全く絶望していない。
『……レインを知る以上、私も人間には不可能だと言い切れぬが、今のおまえでは千人がかりでも無理だろう。第一、忌《い》まわしきドラゴンスレイヤーなど、歴史上、たったの二人しか存在しないのだ。悠久《ゆうきゅう》の歴史の中で、たった二人……この少なさを思えば、あきらめた方がよかろうな』
このドラゴン退治は、アーク達にとっては驚愕《きょうがく》の連続だった。
しかし最大の驚きは、まさにドラゴンのこの一言だったろう。何を驚いているのかわからぬ……そんな風に一同を見返すドラゴンに、ケイが囁《ささや》くように訊いた。
「お尋《たず》ねしたいが、レイン殿以外のドラゴンスレイヤーとは、誰なのです?」
『知らなかったのか。……レインは史上最初のドラゴンスレイヤーだが、彼の後にもう一人だけそういう者がいる。その者の名は』
その名前とやらを聞き、三人とも顔を見合わせた。
『もっとも、あの者は少し事情が違うと聞くが』
ドラゴンがそう付け加えたのに、ショックのあまり三人とも聞き逃してしまった。
しばしの沈黙《ちんもく》が続いた後、やっとケイが聞き返そうとした。
「知らない名ではありますが、ボクの聞き間違いでなければ、つまりその二人目とは」
しかしケイは、途中で口をつぐんでしまう。
森を抜け、彼の腹心《ふくしん》の一人が走ってくるのに気付いたからだ。血相《けっそう》を変えているところから見て、よほど重大な「何か」があったのだろう。
「……なんだ? 本国でなにかあったのか」
ケイの呟《つぶや》きに、アークとフェリスがはっと顔を上げた。
――☆――☆――☆――
周知の通り、クレアは目が見えない。
ただし、それはあくまで肉体的な意味であり、実際にはエクシードのお陰で別段、生活するのに不自由はない。むしろ、時にはエクシードに頼らずに真の闇の中に我が身を置き、その感覚を楽しんでいるほどだ。――もっとも。
闇の中に意識を沈めるのは、クレアにとっては危険も伴う。ふとした弾《はず》みに、思い出す必要のないことまで思い出してしまうからだ。
……それも、鮮《あざ》やかな映像を伴って。
今まで葬《ほうむ》ってきた魔族や魔獣《まじゅう》、そして非業《ひごう》の死に倒れた家族や仲間……気を許すと、すぐにそういう記憶が闇の底から浮上してくる。
いつの間にかその記憶に己《おのれ》の身を重ね、ぶつぶつと独白している時すらある。
そんな時のクレアは、別人のような表情になり、声すらはっきりと変わる。何も知らない第三者が見れば、「何か悪しきものに憑《つ》かれている!」と思われるかもしれない。
しかしクレアの場合、皮肉なことにそのような場面でさえ、仲間達の尊敬の元になっていたりする。彼らにとっては「宗主《そうしゅ》様が、何か偉大な神のごとき存在とコンタクトしておられるのだ!」ということになるらしい。しかし事実はそんな上等なものではなく、クレアはもちろん、そんな噂《うわさ》は常に否定している――いや、していた。
なぜ過去形かというと、姉のタルマがある時、「噂《うわさ》なんか放っておけばいいじゃん。それでみんなが勝手にクレアをそんけーしてくれるんなら、別に損にはならないしさ」などとアドバイスしてくれたので、それ以後、ぷっつりと積極的に否定することを止めたのだ。
……クレアが率いるこの集団は、実にクレアの神秘性とカリスマ性が大きな比重を占めている。そのことは、彼女自身も自覚しているのだ。実際、力量の面から言っても、彼女と他のメンバーとでは巨大な差がある。
つまり、この集団には至高《しこう》の存在たるクレアが君臨《くんりん》しているものの、今のところ明確な補佐役、言い換えればナンバーツーが存在しない。クレアとしては姉にその立場を期待しているのだが、タルマ本人には全くその気がないようである。
というわけで、クレアは気が進まないながらも、自分が神聖視されるくらいは我慢《がまん》しようと思ったのである。組織の統制上からも、その方がいいだろうと。
しかし幸い、今日のクレアは完全にリラックスしていた。
珍しく巫女姿《みこすがた》ではなく、単なる地味《じみ》なドレス姿で、お茶を楽しんでいる。
新しい拠点であるこの屋敷で、瞑想《めいそう》する場所として定めた粗末《そまつ》な部屋に籠もり、一人の時間を過ごしていたのである。
立場が立場だけに、部屋といっても地下室で、窓すらないのだが、どのみちクレアにとっては窓があろうとなかろうと大差ない。落ち着けるかどうかが問題なのだ。
このところ、あまりにも色々なことが起こりすぎた。たまにはこういう日があってもいい……珍しく穏やかな気分でそんなことを思っていたのだが、あいにく一人の時間はそこまでだった。
いち早く気配《けはい》を悟《さと》り、クレアはノックの前に述べた。
「鍵は開いてますよ、ロイさ――」
言い終わる前に、勝手にドアが開いて、ロイが入ってくる。
クレアはそっとため息をついた。
「……ああ。あなたはノックなどに無縁でしたね。そういうのは女性の身としては少し困るのですが。もし私が着替えなどしていたら、どうなさるおつもりですか」
「どうもなさらねーよ」
剛毅《ごうき》なロイは、無精髭《ぶしょうひげ》など撫《な》でてにんまりと笑った。
「それこそ大歓迎だね。手間が省《はぶ》けていい」
「……なんの手間やら。いえ、教えてくださらなくてもいいです」
嬉しそうに答えようとしたロイに、気怠《けだる》げに片手を振る。
「これでも私は身持ちが堅い方なので、余計なことは考えないでください。そもそもあなたは、私の好みではありません」
冷ややかに告げ、素《そ》っ気《け》なく席を勧めた。
「どうぞ。立っていられると話しにくいです」
「いや、別に長話に来たんじゃないがな」
とか言いつつ、ロイは旅装《りょそう》のまま、どっかとばかりに座った。テーブル越しに、クレアをじろじろと眺める。気の弱い女性なら、その視線だけで警備隊の詰め所に走り出したろうが、あいにくクレアはなんの反応も見せない。
ただ焦点を結ばない目をロイにあて、たしなめただけである。
「あまり情欲に満ちた目で、誰彼構わず見ない方がいいですよ。そういうのは嫌う女性が多いですから。――それで、ご用件は?」
「……相変わらず、愛想《あいそ》のねー女だな、おめーは」
わざとらしく顔をしかめ、ロイはぐてっと椅子《いす》にもたれる。
「男をやる気にさせるのは、女の仕事だろうがよ」
「あなたはお金で雇われた傭兵《ようへい》だと思いますが? なぜ雇い主の私が、大金を払った上、媚《こ》びを売らないといけないのです」
「おめー、ホントに十七かおい」
さすがのロイも顔をしかめた。
「私はまだ十六歳です。しかも、なったばかりです」
きっちりと訂正を入れ、クレアは滝のように流れる髪を背中に払う。
「ご用件は?」
「わかったわかった。用件はだな、教えてやりに来たんだ。ヤツを殺しに行ってくるぜ、てな」
「その気になってくださいましたか」
物騒《ぶっそう》な物言いにも、クレアはまるで動じない。長い睫毛《まつげ》が彩《いろど》る切れ長の瞳は、相変わらずどこか遠いところを見ているようであった。
「……これで、事態が進展するといいのですけれど」
「進展の方はしらねーが。俺がその気になったからには、レインは近々確実に死ぬな。それだけは約束しといてやる」
「……だといいんですけど」
「心外な言い方だね」
ロイは眉《まゆ》をひそめる。
「この狂信団体の中で、おめーだけは俺の力を認めていると思ってたんだが」
「我々は狂信団体じゃないですが……まあ、ここで議論はやめましょう。でもええ、私はあなたの強さを知っています。ひょんなことから、その切り札《ふだ》的能力を見ましたからね」
「……見ても普通は理解できないはずなんだがなぁ。まあ、おめーは確かに端倪《たんげい》すべからざる女だ。見破ったヤツはこれまでいねーってのに」
忌々《いまいま》しそうにロイが言う。
能力を把握されたのが、本気で意外だったらしい。
「そう、私はロイさんの能力を知っています。知っているからこそ、レインさんも対抗できないだろうと思ったのですが」
「ですが、なんだよ」
「――ですが、レインさんのこれまでがこれまでなので。あまり楽観すべきではないのかもしれない、そう思い始めています。……いかに、不死身と噂《うわさ》されるあなたでも」
「馬鹿《ばか》らしい。一体どうやって対抗できるってんだ。そんな方法があるのなら、俺が教えてもらいてーな」
ロイは嫌な笑いを浮かべ、クレアを見た。
「おめーの本音はわかってる。俺とヤツが相打ちになればいいと思ってんだろうが。なにせ、俺だっておまえから見りゃ敵みたいなもんだからな。他のヤツらは気付いてないようだが」
「気付いてなくて幸いです」
クレアは静かに返す。
「知られていたら、私でさえ仲間を押さえるのは骨だったでしょう。私達は、あなたのような人達まで相手にしていられないのです。――特に今は」
「はっ!」
ロイは鼻を鳴らし、唾《つば》でも吐《は》きたそうな顔をした。実際、クレアが見ていなければ吐《は》いていただろう。
……そうしない代わりに、ロイはいきなり身を乗り出し、クレアの顎《あご》を手で掴《つか》む。クレアはあえて避けず、彼の好きなようにさせてやった。まだ目くじらを立てるほどの無礼《ぶれい》ではない……今のところはまだ。
「随分《ずいぶん》とはっきり言ってくれたもんだな、姫さんよ。段々、おめーの吠え面《づら》が見たくなってきたぜ」
「具体的には、どのように? 戦いを挑むとでも言うのですか」
「それも悪くないが……男が女に要求するのは、もっと他のことだろう。なぁ?」
「……あなたの年齢からして、もっと大人の女性の方が相応《ふさわ》しいのでは」
「まぁな。でも、おめーは見かけも態度も大人っぽいし、別に構わんさ。何より、性格を別とすりゃ、実にいい女だ。欲をいえば、もう少し胸と腰にボリュームがあるといいんだがな」
ロイは大《おお》真面目《まじめ》でそう言った。
何事も開けっ広げな男だけに、自分の欲望を隠す気もないらしい。クレアが抵抗しないのをいいことに、この場で狼藉《ろうぜき》に及ぶ気になったらしかった。実際、髭面《ひげづら》が少しずつクレアの顔に接近している。
「……それはお断りしますと申し上げたはずですよ。先程も言った通り、私は誰彼なく身を任せる気はありません」
すっと片手を上げ、ロイの手首を掴《つか》む。クレアの手のサイズからして全然ロイの手首を掴《つか》み切れてないのだが、至極《しごく》あっさりと自分の顎《あご》にかかっていた手を外した。
「――むっ」
ロイは顔をしかめ、椅子《いす》に座り直して自分の手首を撫《な》でた。そこにはくっきりと、細長い指の形が痣《あざ》となって残っている。
「おいおい、すげー馬鹿力《ばかぢから》だな。俺じゃなきゃ、手首が砕けてるぞ。おめーもドラゴンスレイヤーかなんかかよ」
「残念ながら、大外れです。ドラゴンなど、見たこともありませんわ」
澄《す》まし顔で返し、申し渡した。
「お話しがそれだけなら、もうお引き取りください。今度は報酬の受け渡しの時にお話ししたいものです」
「……つまり、とっととレインを殺してこいってことだな」
クレアは唇の端を僅《わず》かに綻《ほころ》ばせ、返事の代わりとした。
「まあ、いいだろう。楽しみは後にとっとく方だからな」
気分を切り替えたのか、ロイの顔からはすっかり欲望が消えていた。元のしぶとい面構《つらがま》えに戻り、未練なく立ち上がる。
「チャンスを見つけ次第、あいつをぶっ殺してやるぜ。そして、おめーを安心させてやろう。ただしだ――」
ロイの顔から笑みが消え、ぎらっとクレアを見た。
「今度会った時は、是《ぜ》が非《ひ》でも俺のものにしてやる。俺は、女にナメられるのも振られるのも嫌いでな」
「となると、今度会う時があったとして、少々|物騒《ぶっそう》なことになりそうですね」
クレアの返事は、この期《ご》に及んでも淡々としていた。
「だな。しかし俺に勝てるつもりかよ、姫さん。いっとくが、おめーが手駒《てごま》にしてる信者共なんざ、全員でかかってきても俺の相手にならんぜ。悲鳴でも上げた方が気が利《き》いてら」
「ご心配なく。自分の身くらい、自分で守れますから」
細面《ほそおもて》の顔にすうっと笑顔が広がる。
茫洋《ぼうよう》とした瞳でロイを見上げたまま、クレアは囁《ささや》いた。
「そんな時が来ないことを祈りますよ、ロイさん。なにより……あなた自身のために」
ふふふ……とついに声を出してクレアは笑う。あたかも、幼児が大人に向かって無益な抵抗をするのを見て笑うかのように。
ロイは今度こそ本当に、べっとばかりに床に唾《つば》を吐《は》き捨てた。
「今のうちに言ってろ」
捨てぜりふと共に背を向ける。
「そうそう、あなたに忠告することがありました」
「なんだよ」
ロイはめんどくさそうに答え、振り返りもせずにドアを開けようとしている。
クレアは構わず告げた。
「世に、万能の能力などないのです。彼を相手にする時、それを忘れないでください。……朗報《ろうほう》を待っていますよ」
返事は、叩き付けるようにドアを閉める音だった。
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第四章 大戦|勃発《ぼっぱつ》!
漆黒《しっこく》の甲冑《かっちゅう》の群れが、次々と城外へと流れていく。
軍勢《ぐんぜい》の規模の割には恐ろしく静かな行軍であり、私語に現《うつつ》を抜かす者など誰もいない。馬の蹄《ひづめ》が石畳を打つ音と、甲冑《かっちゅう》が擦《す》れ合う音がまばらに響くだけだ。
黒い鎧《よろい》を全身に纏《まと》う騎士達は頭部まですっぽりと壺型《つぼがた》の兜《かぶと》に覆われており、まるで冥界王《めいかいおう》ヴァリウス配下の死神達が行軍しているかのようである。
フェイスガードまで下ろすと、顔がほとんど隠れてしまい、誰が誰だか全くわからなくなる。兜《かぶと》の隙間《すきま》から時折、白い呼気《こき》が洩《も》れ見えるのが、この軍勢《ぐんぜい》が生者の群れである唯一の印だった。
いや、鎌《かま》の代わりに長槍《ながやり》を携えているだけで、実際彼らはこれから敵を滅《ほろ》ぼしに行くのだ。死神とさして変わりないのかもしれない。
そんな騎士達の行軍を、彼らの主《あるじ》が自室から見下ろしている。
凍てつく瞳には感情の欠片《かけら》も窺《うかが》えず、そして片眼を隠すほど長い前髪は、鮮《あざ》やかな銀の色である。
……人間、あるいは魔族を問わず、魔法を頻繁《ひんぱん》に使う者は、なぜか歳を経るにつれて髪の色が銀色に変化していくことが多い。人間達がマナと呼ぶ、魔法の源《みなもと》を使いすぎた副作用の一種だろうと言われている。
実際、その男――仮にレイグルと名乗っている彼は、長きに渡り戦いの日々を生きてきたのだ。
そして今、彼はこの大陸の歴史上初めて、魔族の主君として人間達を統《す》べている。もちろん、玉座《ぎょくざ》に就《つ》いて以来ずっとそうだったわけだが、正式な布告《ふこく》をしたことで、今や支配を受ける側も彼の正体を知ったのだ。
「俺は魔族ではあるが、別にこれまでと違う方針で国を治める気はない。この国を富ませ、最終的には大陸全土を統一するのが目的だ。……言い方を変えれば、俺のやり方はこれまでと何も変わらない。それでも不満がある者は、黙って国を去るがいい。いずれ、敵として戦うまでだ」
いっそ、清々《すがすが》しいとさえ言えるような宣告《せんこく》だった。国内が激震に見舞われたのは、言うまでもない。上将軍達のほとんどはその場で反逆《はんぎゃく》して返り討《う》ちに遭い――国中へ宣告《せんこく》が成された後、騎士達のうち二割が城を去った。
しかし意外なことに、国民の動揺《どうよう》は少しずつ収まりつつあった。宣告《せんこく》が成された当初は狼狽《ろうばい》し、恐怖に怯《おび》えていたが、今はもう落ち着いている。
一つには布告《ふこく》の後、具体的に何も起こらなかったせいもある。いや、その日のうちに城内で新たな戦《いくさ》の触れは出されたという噂《うわさ》があるが、それはまあ、強国ザーマインにとってはいつものことである。
振り返って見れば、ザーマインが国土を持つ大陸北西部は、あの覇権《はけん》戦争の折り、もっとも被害の少ない場所だった。
覇権《はけん》戦争は大陸中を巻き込む大戦だったとはいえ、メイン舞台はあくまで中原か、もしくはその周辺国と当時の主立った国だったのである。幸か不幸か、あの時代はザーマイン建国以前であり、僻地《へきち》に過ぎないこの辺りに、魔族は侵攻《しんこう》さえしてこなかったのだ。この大陸中で、魔族に対する恐怖心は一番薄い。
それに、『俺は魔族であり魔人だ』とレイグルが告白したのみで、いきなり彼が恐怖政治を始めた訳でもない。むしろ、街中で出くわした無法者《むほうもの》達を懲《こ》らしめ、他国の女性を救い出したりしたくらいである。
余談だが、レイグルは特になんの計算もしていなかったが、偶然起こったこの一件の噂《うわさ》はすぐに王都を駆け巡り、彼の評判を大いに助けた。
「俺のやり方はこれまでと何も変わらない」
その言葉通り、厳格《げんかく》に無法者《むほうもの》を処断《しょだん》してのけたのである。
元々レイグルの施政《しせい》は、他国にはともかく、自国の民衆にとっては非常に穏やかなものだった。租税《そぜい》は歴代の王より遙《はる》かに軽く、しかも国内の治安回復ぶりは比べものにならない。
彼の定めた法を破る者には一片《いっぺん》の情けもかけなかったが、その法も、そもそも一般民衆を縛《しば》るものではないのだ。普通の民が眉《まゆ》をひそめる、窃盗《せっとう》や殺人や放火……そういう罪こそが断罪の対象となる。罪人に与える罰が少々厳しすぎるのではないか、という声も出てはいたが、一般|庶民《しょみん》にとってはその逆よりはよほどマシなのである。
特に、レイグルが貴族達をも容赦《ようしゃ》なく処罰《しょばつ》の対象としたことが、皮肉にも民の信頼を得る結果になっていた。彼は、己《おのれ》の定めた法を破る者に対しては、何者をも特別扱いしなかったのである。いや、むしろ法を犯す貴族に対しては特に厳しい処罰《しょばつ》を下してきたくらいだ。
レイグル以前の王はそうではなかった。
身内である貴族には大いに甘く、国民に対してはひどく冷たかった。彼らを搾取《さくしゅ》の対象としか考えていなかったのだ。租税《そぜい》が払えなければ女子供まで奴隷《どれい》として引き立て、売り飛ばしたりもした。
――その悪夢は既《すで》に遠い。
他国でこそ恐れられていたが、新しい王を、ザーマインの民は決して嫌ってはいなかったのである。むしろ、民衆にこそ支持されていたといえる。
その民衆達が真っ先に態度を露《あら》わにした。
つまり、王の宣告《せんこく》以後も平常心を持って日々を送ることで、無言のうちに魔族の王を認めたのだった。
――今のところ、内乱の可能性は低い。
国内の状況を素早く見て取り、レイグルは予定通り行動を起こした。国内に戦時動員をかけてから、二十日後のことである。
今回の主な敵は……ザーマインの東に国境を接する国の一つ、ファヌージュである。
ただし、同時に侵攻《しんこう》すべき目標が、他にもあるが。
レイグルが室内に向き直ると、それを待っていたかのように、恭《うやうや》しく二人の仲間が低頭した。相変わらず貴族趣味な格好《かっこう》のデューイと、光沢《こうたく》のある黒いサテン地ドレスを着たサラである。
ちなみに、そこには大男のフィランダーもいるのだが、彼はそのまま静かに突っ立っていた。
「それでは、我々はこれから人間共を指揮して、敵地に向かいます」
ピンと尖《とが》った髭《ひげ》を蓄えたデューイがそう挨拶《あいさつ》すれば、サラも微笑《ほほえ》みと共に言う。
「どうか吉報《きっぽう》をお待ちください、レイグル様」
……敵を前にした時とは全く違うしおらしい声音《こわね》であり、媚《こ》びさえ含んでいるようである。いつものことなので、誰も驚きはしないが。
「……国内情勢をもう少し見極めてから、俺も向かおう。それまで頼んだぞ」
「まあ、レイグル様ご自身が……。それでは、嫌でも張り切らざるを得ませんね」
「うむ。おまえには期待している、サラ」
「はい! ああ、はいっ。ありがとうございます!」
「しかし、自分達で暴れた方が早い気もしますな、どうも」
陶然《とうぜん》としたサラの顔を横目で見つつ、デューイがぽつんと述べた。
「そうもいかん。今この世界には、かつてのジョウ・ジェルヴェールを凌駕《りょうが》する敵|共《ども》がいる。我々がそういう手段に出れば、向こうも同じ手を使うかもしれないしな」
「レイグル様は、先の大戦にも参加されていたのですか?」
サラが驚いたように訊いた。
「イエスともノーとも言える。勝手に参加しようとした途端《とたん》に、撤収《てっしゅう》する羽目になったのだ。ついこの前と同じく、な」
皮肉な笑みを洩らすレイグルである。
話を逸《そ》らすかのように、
「俺がこの世界の事情に詳しいのは、ここに来てから随分《ずいぶん》と調べたからだ。敵と戦うためには、まず敵を知らねばならん」
珍しく、フィランダーが話に加わった。
「――おまえは今、『ジョウ・ジェルヴェールを凌駕《りょうが》する敵|共《ども》がいる』と言った。敵|共《ども》というからには、レイン以外にも強敵がいるということか?」
「いる。誰がそうかは、すぐにわかる。だがどのみち、最大の障害があの男なのは間違いない。ヤツは明らかに敵の中心――いわば、核となっているのだ。まずはあの男について知っておいてもらいたい」
ここでレイグルは、隣室の扉の方に目を向けた。と、それが合図だったのか、紙束を持った一人の女性が、音もなくドアを開けて入ってきた。
彼女はレイグルが先日、街中で助けた女性であり、もちろんそのことについてはデューイ達も知っている。しかし……最初に見た時とは明らかに違う彼女に、デューイとサラは息を呑《の》んだ。
「この力の波動……レイグル様、この者に力をお与えなさいましたか」
女性というより少女の年代の彼女を、デューイはじろじろと見やる。それは興味本位からだったが、隣のサラの視線は至極《しごく》冷たい。
「そうだ。名は、ソフィアという」
レイグルの視線を受け、漆黒《しっこく》の髪と黒い瞳を持った彼女は、三人に向かって軽く低頭した。そして一番近くにいたデューイに、持っていた紙束を渡す。
「……これは」
「読んでみるがいい、デューイ。あの男の戦歴について調べさせたのだ。知られざる天才剣士と呼ばれた、かつてのことも含めてな」
それを聞き、フィランダーが自《みずか》らデューイのそばにきた。覗《のぞ》き込むようにしてデューイの手元を見る。サラもレイグルへの礼儀のためか、一応は横から覗《のぞ》き見していた。
しかし、紙を次々とめくって読んでいくうちに、三人の顔が等しく驚きに彩《いろど》られていった。
「この男……ドラゴンはおろか、魔界より迷い出た鬼神やソウルイーター、果てはバーサーカーとまで戦っているようですが。いくらなんでも、これは調査した者の間違いではありませぬか?」
デューイの唸《うな》るような声に、レイグルは微《かす》かに笑った。
「いや、確実な情報だ。次元の壁を越える力を持つ魔獣共《まじゅうども》と戦い、しかも倒している。他にも無数の強敵と戦っているようだな。まだ生きているのが不思議だとは思わんか? たかが十年やそこらの間に、よくもここまで力をつけたものだ」
「確かに。――しかしまあ、どうせ我らが死を与えることに」
「戦ってみたいものだ、この男と」
突然、フィランダーがそう言った。
皆が一斉に見たが、特に気にする様子もなく、微笑《びしょう》していた。そして重ねて言う。
「なるほど、あのノエルを負かしただけのことはある。人間にしてはやる」
紙をめくるデューイの手が止まり、あからさまに顔をしかめた。
「君、気分が悪くなるから、あの女の名は出さないでくれないか!」
「全くだよ。ホントに胸クソが悪いったら! 今度会ったら確実にぶち殺して内臓を――」
デューイに続いて悪態《あくたい》をついたサラが、思わずに口元に手をやる。レイグルの方を見て赤くなり、俯《うつむ》いてしまった。
しかしレイグルはにこりともしない。
「フィランダー、おまえの望む機会も、そのうち訪れよう。俺がわざわざ皆にそれを見せたのは、あいつを甘く見るなと言いたかったからだ。もしも機会が訪れたら全力で戦い、殺すがいい。ノエルの一件を教訓としろ。手加減など、夢にも考えないことだ」
「……それでいいのか?」
不思議そうにフィランダーが聞き返す。
「こいつだけは、おまえ自身で倒したいものと思っていたが」
レイグルはすうっと微笑《ほほえ》んだ。
ただし、温かい笑みにはほど遠く、見る者の背筋《せすじ》をぞくっとさせるような、凍てついた微笑《ほほえ》みである。
「おまえ達に倒されるようなら、あいつもそれまでの男だったということだ。俺が相手をするまでもない」
「……なるほど。おまえらしい言いようだ」
フィランダーは苦笑して頷《うなず》く
無礼《ぶれい》な、などと怒りはしない。フィランダーだけではなく、サラもデューイもだ。
彼らはレイグルの力をよく知っているのである。
「我々も心しておきます、レイグル様」
デューイが一礼する。
サラの返事はさらに過激だった。
「なんなら、あたしがこれから赴《おもむ》き、こいつを殺してきましょうか、レイグル様?」
「いや、それには及ばぬ。どうせ放っておいても、そのうち向こうから現れる。……ヤツは俺を倒すつもりでいるからな」
サラとしては滅多《めった》にないことだったが、異論を唱えた。
「しかし、人間の分際であの男は生《なま》意気《いき》ですわ。我々だけならまだしも、レイグル様を軽視しているようにも思えます。この際、己《おのれ》の分《ぶん》というものを思い知らせてやりたいのです。もちろん、あのノエルにもです! あいつらが逃げてしまえば追うのも難しく――」
「……サラ」
レイグルがゆっくりと歩み寄り、サラの銀髪に触れた。
思わず目を見開いたサラを、じっと見つめる。
「俺達は一つの世界を丸ごと手に入れようとしている。それは、世界を渡る力を持つ魔族といえども、成し得たことがない。……多少の敵が現れるのは、むしろ当然のことだと思わんか」
「……はい」
ぽ〜っとした顔でサラは返す。
日頃の超傲慢《ちょうごうまん》なサラを知る者からすれば驚くべき光景だった。
「今はおまえの成すべきことをしろ、サラ。レインは絶対に逃げない……なぜならあいつは、魔族など恐れていないからだ。必ず、俺との決着をつけにくる。俺を止め、動き始めた歴史を変えようとするだろう」
ここでレイグルはまた笑った。
さも楽しそうに。
「それがあいつの長所でもあり、短所でもある。俺を信じろ、サラ。あの男は必ず俺達の前に立ち塞《ふさ》がる」
「どうしてあたしがレイグル様を疑いましょう。わかりました、その時を待ちますわ」
レイグルは小さく頷《うなず》き、身を翻《ひるがえ》す。
サラがその背中に手を伸ばしかけ、慌《あわ》てて下ろした。
レイグルはまた三人に向き直り、彼らしく端的《たんてき》に命令を告げた。その一言はこの後、彼に従う魔族達の間で語り草となったほど、明快なものだった。
「さあ始めよう……全世界を俺達のものにするために」
真っ先にサラが深々と腰を折った。
「――ただレイグル様の御為《おんため》に!」
デューイがサラに倣《なら》って一礼する。
「戦果をご期待ください」
フィランダーだけは、黙《もく》したまま頷《うなず》く。
――世界は未《いま》だ知らずにいるが。
このレイグルの号令により、ここに事実上、大陸全土を巻き込む第二次|覇権《はけん》戦争……あるいは、第二次聖戦が勃発《ぼっぱつ》したのだった。
ただし、かつての大戦とは決定的な違いもある。
過去の魔軍が下《した》っ端《ぱ》クラスとはいえ一応は魔族のみで構成されていたのに対し、レイグル率いるザーマイン軍の主力は、あくまで人間である。
言い換えれば、ザーマインの民はレイグルを初めとする魔族を史上初めて、完全に受け入れたのである。
魔族の三人が去った部屋で、ソフィアはようやく緊張を解いた。フィランダーやデューイはともかく、サラのあの視線がとてもとても気になっていたのである。
なにしろ、隙《すき》を見せれば殺されそうな迫力が込もっていたのだ。気にするなという方が無理だ。
「もうおまえは、なにも恐れることはない……そう教えたはずだ」
レイグルがふいに言った。
ソフィアの心中に芽生えた怯《おび》えなど、とうにお見通しだったらしい。
「もはやおまえの力は、あのサラをも上回る。俺の力を分け与えたからには、それも当然のことだが」
「……まだ、そのような実感が湧きません、マスター」
「しかし、事実だ。もはやおまえは人間ではない。上位魔人並の力を持ち、俺と同じく悠久《ゆうきゅう》の時を生きる者だ」
「マスターの生あるうちは、ですね」
「俺は簡単には死なん。それに仮に俺が死んだとて、おまえは元の人間に戻るだけだ……不満か?」
レイグルはソフィアの前に立ち、その顎《あご》に手をかけた。そっと上向かせる。
叱責《しっせき》しようとする意図《いと》でも、あるいは愛情表現などでもなく、単にソフィアが俯《うつむ》いていたから目を見ようとしたのだろう。……この方は、そのように何事も直線的なのだ。
ソフィアは意識して主《あるじ》と目を合わせ、微笑《ほほえ》んだ。
「いいえ。どうせ私は、飢《う》えて死ぬか売り飛ばされるかする運命だったのです。マスターには感謝こそすれ、不満などありません」
「おまえは自分で運命を選んだのだ、ソフィア。俺もそれに応えよう」
「……一つ、お尋《たず》ねしていいですか」
「言ってみろ」
ソフィアはこくんと喉《のど》を鳴らした。
微《かす》かに震える身体に鞭打《むちう》ち、至近から見つめるレイグルの漆黒《しっこく》の瞳を覗《のぞ》き込む。
「マスターの望みは、本当にこの世界を征服することなのですか」
「全ての人間、全ての領土を支配するのが、俺の成すべきことだ」
そこで何かを思い出したように、
「もっとも、どのような状況下であろうと、俺に従わない者も確かにいるがな」
何がおかしいのか、レイグルは唇の端に笑みを刻む。すぐに消えてしまったが、笑みには違いなかった。
「……俺の望みなど、今や国中が知っている。なぜあえて訊く? 征服が目的ではないと思ったのか。ならば、おまえの勘違いだ」
「わかりません……でも、マスターがこの国を治めるやりようを拝見していると、必ずしも侵略だけが目的ではないように思えます」
「妙なことを言うヤツだ。俺は今も、侵略のための軍を出したばかりだ。疑問の余地など、どこにもないはずだぞ」
しばし沈黙《ちんもく》し、レイグルは少しだけ言葉を和《やわ》らげた。
「まあいい。他のヤツはいざ知らず、少なくとも、おまえには尋《たず》ねる権利くらいはある」
淡々としたレイグルの返事に、ソフィアは伏せかけた視線を上げた。
「……何を期待しているのか知らんが、俺はただ、おまえの立場を教えてやっただけだ」
レイグルはソフィアの顎《あご》から手を放し、マントを捌《さば》いて振り返った。
「いつまで盗み聞きしているつもりだ? 名乗り出るのを待ってやろうと思ったが、あまりに厚かましいと、即座に殺すぞ」
「――えっ」
ソフィアは驚いて部屋を見渡す。しかし、どこにも人の姿などない。そもそもこの部屋は、レイグルの好みに相応《ふさわ》しく、最低限必要な家具しか置いてないのだ。隠れる場所など初めからない。
しかし……それはソフィアの早計《そうけい》だった。あたかも見えないドアを開けるように、何も無い空間に突然しなやかな腕が見え、そして全身が現れる。
瞬《またた》く間に、ソフィアとさして変わらぬ年代の少年が、部屋に「出現」した。
長い棒のような物を持った少年は、二人に向かって一礼した。
「あなたにもバレましたか。どうも最近、戦士としての自分に自信を失いかけてきましたよ。……はじめまして、レイグルさん。僕の名は」
レイグルが後を引き取った。
「メルキュール、か。レインが廃坑《はいこう》で会った男だな」
端正で、しかも優しそうな顔つきの少年は目を丸くしたが、すぐに微笑《ほほえ》んだ。
「なるほど、レインさんがあなたを探っているように、あなたもまた、あの人を探っているわけですね。情報が早い」
「俺は、一度我が敵と認めた男を、甘く見るつもりはない。とはいえ、おまえについては名前以上のことは知らぬがな。……俺になんの用だ」
「用というほどでも……」
メルキュールはあくまで笑顔である。
「ご挨拶《あいさつ》程度だと思ってくだされば有り難いです。レインさんにも言いましたが、僕は自称『正義の味方』でしてね。そういう立場の者としては、あなたという人に興味が湧くわけです。なぜならあなたは――」
少年の笑みが唐突《とうとつ》に消える。
囁《ささや》く声は、完全に本気だった。
「あなたは、世界を手中にする人ですから」
「くだらぬな」
ソフィアが内心で予想した通り、レイグルの返事は実に簡潔《かんけつ》だった。
「おまえは二つの意味で間違っている。まず、正義の味方なら、名乗る暇も惜しんで俺に斬り掛かるべきだ。第二に、未来が定まったものだと思っているのなら、それはおまえの傲慢《ごうまん》だ」
「……僕に未来を見る力があったとしても?」
レイグルは文字通りの冷笑を浮かべた。
「真に未来が見えるのなら、何も俺のところに来る必要などない。それとも、おまえの言う未来とは、些細《ささい》なことで変わる程度のものか? ならば、そもそも予知というのもおこがましかろう」
「ああ、なんか予想通りですね。そういえば、レインさんにも言われましたよ」
メルキュールは吐息《といき》をついた。
「あなたは、他人の言葉によって動く男ではない、と」
「あいつの見立ては正しい。もっとも、あいつも人のことを言えた義理ではあるまいが」
レイグルは喉《のど》の奥でくっくっと笑った。
彼が声を立てて笑ったことに、ソフィアは密《ひそ》かに驚く。普段の彼は、笑うとしてもせいぜい、ごく微《かす》かに頬《ほお》を緩《ゆる》ませる程度なのである。ソフィアはまじまじとレイグルの横顔を眺めたが……しかし主《あるじ》は、もう元のにこりともしない顔に戻っていた。
「先に言っておいてやる。俺もおまえの忠告など無用だ。俺の配下になるというのなら取り立ててやってもいいが、そうでないのなら去るがいい」
「わかりました。僕もレインさんの時みたいに斬り合いになるのはご免です。ですが、これだけは言わせてください」
無表情そのもののレイグルに、メルキュールは懸命《けんめい》に言う。
「あなたの戦いに口を挟《はさ》む気はありませんが、どうかその途上において、犠牲は最小限に食い止めるようにしてください……試みることは可能なはずです」
「忠告はいらぬと言ったぞ。おまえもなにか勘違いしているようだな。俺の行く道はごくごく簡単なものだ。立ち塞《ふさ》がる敵はことごとく倒し尽くし、全てを手に入れる。ただそれだけのこと。これほどわかりやすい戦《いくさ》もあるまい」
その返事を最後に、レイグルは腰の剣に手をかけた。もはや話し合いは無用、という意思表示である。メルキュールもまた、緊迫した顔で持っていた棒を斜めに構えたが……それ以上の行動は起こさなかった。
ソフィアが見ている間に、その姿がすうっと薄れていく。
「いいでしょう。僕は今しばらく、第三者の立場に徹《てっ》し、介入は控えましょう。ただし、最後まで何もせずにいる気はありません。決心がついたその時は、どちらかの側に立って戦うことになるでしょう……」
語尾《ごび》が溶け込むように掠《かす》れて消え、既《すで》にメルキュールの姿はなかった。
今の今まで気を張っていたソフィアは、深々と息を吐《は》いた。いつ戦いになるかと、気が気ではなかったのである。
もちろん、レイグルが負けるなどとは思いもしていないが、いざ戦いになった時、自分がしもべに相応《ふさわ》しい行動をとれるか心配だったのである。より具体的に言えば、「自分はちゃんと戦えるのか」ということだ。
なにしろソフィアは、これまでの人生で誰かに手を上げたことすら皆無《かいむ》だったのだから。その不安を押し隠すように、ソフィアはレイグルを見やる。
「マスター、あの方は何者なのでしょう」
「魔族ではあるまい。おそらく、あいつも他の世界のアウトサイダーなのだろう」
「アウトサイダー……ですか? いえ、他の世界というのも、初めてお聞きしましたけれど」
「先程も言った通り、おまえには尋《たず》ねる権利がある」
いつもそうだが、レイグルは例の迷いなき瞳でソフィアを見つめ、ゆっくりと話し始めた。
彼女にとっては驚愕《きょうがく》すべき世界の真実を。
――☆――☆――☆――
サンクワールではレインの諜報《ちょうほう》活動のお陰で、レイグルが軍に動員をかけたその日には、もうその情報が伝わっていた。
ただし、「果たして敵がどこに軍を向けるのか?」については、実際にレイグルが軍を動かすまで謎だった。なぜなら彼は、自分の配下達にも、今回の敵をなかなか明らかにしなかったからだ。
サンクワール国内では、一応は敵の南進を想定し、シェルファの名の下に動員令を下したが――その二十日後には肩すかしを食らうことになった。ザーマイン本隊は、なんと東へ馬首《ばしゅ》を向けたからだ。
その情報がもたらされた時、一部の例外を除き、皆に一種の弛緩《しかん》というかほっとした空気が満ちたものである。ザーマインの東には幾つかの小国があるものの、とにかく現時点では自分達は関係ないわけだ。
だがその時、レインだけはこっそりシェルファにこう助言した。
「動員令は解除せずにおいた方がいい。どのみち、必要になるはずだ」
もちろんシェルファは、レインの言葉を信じた。その進言に従い、動員令を解除しなかったのである。
実際、レインの予言は、翌日には現実のものとなった。
かつての仇敵《きゅうてき》、旧ルナンの地において軍が編成され、突然の南下を始めたというのである。入ってきた情報によると、その軍勢《ぐんぜい》を構成するのは、ルナンの旧将軍達であるという。
どうも彼らはザーマインの誘いに応じてその援助を受け、いつの間にか勢力を盛り返していたらしい。その報を受けた時、レインやラルファスはともかく、サンクワールの他の騎士達は大いに憤慨《ふんがい》した。
『なんという節操《せっそう》のないヤツらか! ザーマインは自分達の国を滅《ほろ》ぼした仇敵《きゅうてき》だろうに、恥知らずにも彼らの走狗《そうく》と成り下がるとはっ。一体全体、きゃつらはどの面《つら》下げて我々の前に出てくるのだ!』
……皆の憤《いきどお》りは憤《いきどお》りとして、サンクワールはまたもや、戦乱に巻き込まれたわけである。
ところで今回、実際に北進して敵軍を迎え撃つ役目は、レインと決まった。なぜなら当のレインが「全軍で動かず、王都にもそれなりの兵力を置いた方がいい」と主張したからである。
なぜでしょう? とシェルファが尋《たず》ねると、レインは難しい顔でこう述べた。
「俺がレイグルなら、複数の場所に攻撃を仕掛ける。手元にそれだけの兵力があるんだから、その方が効率的だ。既《すで》に二正面作戦を取っているが、まだ攻撃目標を増やす予定かもしれん。だから俺達も、それを考慮《こうりょ》に入れて動く必要がある」
ラルファスもレインの意見に賛成し、もちろんシェルファもその進言を採用した。ただし彼女はレインの意見ならなんでもかんでも聞き入れたわけではなく、「じゃあちょっと俺がルナンをシメてくるから、おまえは王都で留守を守ってくれや、なっ!」とレインから気安く言われた時、光の速さでこう返した。
「いやです」
……その後、それはもう長い長いやりとりが続き、結局レインが根負けして、シェルファも同行することになったのである。
全ての面において謙虚《けんきょ》であり、他人の意見に耳を傾けるのがシェルファの美点だが、レイン関係ではいきなり王者の我《わ》が儘《まま》を見せるのだった。
明日には王都を進発《しんぱつ》するという晩、シェルファは例によって例のごとく、レインを捜しにいこうとしていた。
彼女は、レインが城内のどこにいようとわかる……はずだったのだが、時として嘘《うそ》のようにレインの気配《けはい》を感じなくなる時がある。それはおそらく、彼本人が気配《けはい》を絶っているせいなのだろうとシェルファにもわかっている。しかし、戦《いくさ》前のゴタゴタでそれでなくてもレインの顔を見る機会がめっきり減っており、シェルファとしてはひどく寂《さび》しい。
軍議の時にはさすがにレインと話すこともあるけれど、シェルファにしてみれば、レインが彼女に敬語を使うようなああいうやりとりは、到底《とうてい》「お話し」しているとは言えないのである。
気配《けはい》を絶っているからには、レインには今わたくしに邪魔《じゃま》してほしくないご用があるのでしょう――とシェルファもそうわかっている。わかっているがもはや我慢《がまん》の限界であり、シェルファは「気配《けはい》が窺《うかが》えないなら、自分の足と目で探します」とばかりに、部屋を出てしまった。
しかし出た途端《とたん》、廊下の向こうから見慣れた顔がやってきて、さすがのシェルファも立ち止まってしまう。
まじまじとメイド服姿の少女を眺めた。
「リエラ……さん?」
「王女様! いえっ、陛下っ」
喜び勇んで小走りに駆けてきたのは、紛れもなくリエラであり、去年シェルファがガルフォートを出奔《しゅっぽん》した時、途中まで同行した少女だった。
「陛下っ。よかったぁ……ご無事で」
リエラは、まるで時間があの時に戻ったかのように、ほろほろと泣いていた。抱きついてきそうな勢いだったが、辛《かろ》うじてシェルファの前で止まる。
「リエラさん、実家の方にお戻りになったのだとばかり――」
「はいっ。戻りましたとも。陛下のお陰で……村の入り口で降ろして頂いたあの時、すぐに家に帰りました。それからずっとうちにいたのですけど」
一拍置き、にこ〜っと笑う。
「有り難いお誘いを受け、恥ずかしながら、戻ってきました!」
「……ええと、お誘いと言いますと?」
「上将軍様の使いがわざわざ村に来て、『また城に戻り、陛下の身の回りのお世話をする気はないか?』とお誘いくださったのです。あたし、一人だけ逃げたみたいで王女さ――いえ、陛下に合わせる顔がなかったのですけど、その嬉しいお誘いに飛びついてしまいました」
「待ってくださいな」
罪悪感混じりの告白を、シェルファは慌《あわ》てて遮《さえぎ》る。
「上将軍というと……どちらでしょうか」
「レイン将軍がお使いをくださりました。立場上、陛下には同じ年頃のご友人が少ないので、できればまたおそばでお仕えしてほしい――とのことでした。もう戻れないと思っていたので、とっても嬉しいお誘いでした、はい!」
「まあ……レインが」
シェルファは頬《ほお》に手を当て、輝くばかりの笑顔を浮かべた。リエラとの再会の喜びも多少はあるが、それよりレインが自分のために細《こま》やかな配慮を見せてくれたのが、とてもとても嬉しかったのである。わたくしのことを考えてそこまで――というわけだ。
その笑顔をどう勘違いしたのか、リエラも釣られて泣き笑いの顔になった。
「あたしも陛下にまたお会いできて、とーっても嬉しいですっ」
「あ、ありがとうございます……あの」
ちょっと迷った末、シェルファは今出てきたばかりのドアを手で示す。
「ここでお話しするのもなんですし……その、どうぞ中へ」
「まあ……よろしいんですか!」
リエラはめちゃくちゃ嬉しそうな顔をした。
――仕方ありません、レインはまた後で探しましょう。
常にレイン優先のシェルファも、そう思わずにはいられない笑顔だった。
メイドに相応《ふさわ》しく、部屋に招かれた身なのに、リエラはシェルファのために率先《そっせん》してお茶の用意をした。もちろんシェルファも手伝い、二人でテーブルを整える。相手はしきりに遠慮《えんりょ》したが、自分だけ何もしないのは心苦しい。
それはともかく、甲斐甲斐しく動く最中、リエラがしきりに自分をちらちら見るのに気付き、シェルファは小首を傾《かし》げた。
「……あの、わたくしの顔になにかついていますか?」
「いえっ。とんでもないですっ。新雪みたいに真っ白なお肌で……その……素敵です」
はあ? とシェルファは碧眼《へきがん》を瞬《またた》く。
たまに、そのようなお世辞《せじ》を揉《も》み手で述べる高位の文官や武官がいるが、彼らのほとんどは男性である。そういえば、同性からそのように褒《ほ》められた経験はあまりなかったかもしれない。
シェルファ付きの女官達は自《みずか》らの身分を考慮《こうりょ》し、ほとんど彼女に話しかけてこないのである。ただし、女官達同士がかしましくおしゃべりしているのは、たまにシェルファも聞いている。他人が想像する以上に耳がいいので、彼女達が聞こえないと思っていても、ちゃんと聞こえてしまうのだった。ただし、聞こえてもそれは大抵、シェルファの関心の薄い殿方の話題か、ロクでもない怪談話だったりするけれど。
かつて唯一、まともに話し相手となっていたのは、このリエラくらいだったろう。なのに、彼女とは仲良くなりかけた頃に、あの戦騒動《いくさそうどう》で離れてしまっていたのである。
「でも……リエラさんはわたくしなどより、よほどお美しいと思いますが」
実際にそう思っているシェルファが大《おお》真面目《まじめ》でそう返すと、リエラは危うく紅茶ポットをテーブルから落としかけた。
「じょ、冗談ではありません! あたしと陛下ではそもそも」
どどっと捲《まく》し立てかけたリエラは、しかしシェルファの顔を見て目を丸くする。
「……お世辞《せじ》じゃなくて、本気でそう仰《おっしゃ》っているのですね、陛下」
「はい、もちろんですわ……わたくし、自分の容姿にはまるで自信がなくて……もっと綺麗《きれい》だったら――」
きっとレインも、頻繁《ひんぱん》にわたくしと一緒に過ごしてくれるでしょうに――というセリフを、シェルファは危うく飲み込む。
いずれにせよ、そのセリフだけで相当にまずかったらしく、リエラはなんとも言えない酸《す》っぱい顔つきをした。
「陛下じゃなければ、大いにそのお言葉を疑うところですが……でも、陛下は本気でいらっしゃるのですね……はああ」
ため息などつく。
シェルファを見つめる表情が、なぜかひどくもどかしそうである。
「あたし、あれ以来、陛下に憧《あこが》れていたんです。陛下はとてもお美しいし、それにいざという時の決断力もおありだし。それからそれから……とてもお美しいし」
陶然《とうぜん》と同じセリフをくり返し、恥ずかしそうに微笑《ほほえ》む。
「廊下でお見かけした時、危うく陛下に抱き付きそうになりました。懐かしくて、それに……再会出来たのが嬉しくて」
また、大きくため息をつく。
なんだか途方もなく哀しそうに告白するので、珍しくシェルファは自分から言ってあげた。
「あの……なんでしたら今から改めて抱擁《ほうよう》の挨拶《あいさつ》をやり直してもよろしいですけど? そんなの、いらないですよね?」
リエラは「いらない」とは言わなかった。
「えっ。いいんですか! そんな恐れ多いことっ。平民のあたしが、陛下に抱き付くなんてっ」
とか言いつつ、物凄《ものすご》く嬉しそうに目を輝かすリエラである。黒い瞳がキラキラしていた。シェルファは「挨拶《あいさつ》好きな方なのですね、リエラさんは」などと微笑《ほほえ》ましく思った。
「挨拶《あいさつ》をするのに、平民も貴族もないと思います」
ほのかに笑い、両手を広げる。
「男性なら何があろうと、たとえ天地が裂《さ》けようと断じてお断りしますが、リエラさんは女性ですから。構いませんよ、わたくしなどでよろしければ」
「で、では……お、お言葉に甘えまして……」
緊張した顔でそおっとリエラが近づいてくる。途中で一度|躓《つまづ》きそうになったりしている。
シェルファは自《みずか》ら歩み寄り、リエラを抱きしめた。いかに相手が例外的な仲良しメイドとはいえ、人見知りするシェルファには少し抵抗もあったのだが、あえてしっかり抱きしめる。
シェルファの方がわずかに背が高いので、リエラを包み込むような形になった。
「お帰りなさい、リエラさん。また貴女に会えて、嬉しく思いますわ」
「……う。そんな恐れ多い……仰《おっしゃ》りよう」
見上げたリエラの顔が、感激で半泣きだった。
わたくしなどと「ご挨拶《あいさつ》」しただけで、そんなに喜んでくださるなんて。
さすがにシェルファも少し嬉しかった。そういえば、レイン以外の誰かと抱擁《ほうよう》などするのは、絶えてなかったことである。というか以前のザーマイン侵攻騒動《しんこうそうどう》で、同じくこのリエラと抱き合った時以来である。
「それより、さあ。せっかく入れたお茶ですもの、冷めないうちに頂きましょう」
「はい、陛下!」
お茶の後で、レインにもこのことをお話ししましょう……リエラさんを呼んでくれたお礼もしないといけませんわ。
――シェルファは早速《さっそく》、そう決めたが。
すっかり感激したリエラは、その晩、なかなかシェルファを放してくれなかったのである。
シェルファがリエラとお茶していたその頃、セルフィーは自室で待機中《たいきちゅう》だった。友人のユーリは、出陣前には帰宅すると言って出かけたきり、まだ戻っていない。なので、いつものようにユーリが部屋を訪れることもなく、セルフィーは一人でぼおっと過ごしていた。
本来は出陣前日ともなればそんな場合ではないのだが、セルフィーやユーリはレイン付きの見習い騎士ということになっており、特にやることがないのである。なにしろ、ここ数日はレインの所在さえはっきりしない上、彼自身が「ああ、今から張り切ることないだろ。いいから休んでろよ」などと投げやりに言うので。
というわけで、ユーリは喜んで城を抜け出してしまい、セルフィーは一人で待機《たいき》しているわけである。
「なんならセルフィーも一緒に来る? 妹に紹介してあげるわよ」
そんなセリフでもって彼女に誘われたりしたが、セルフィーは笑って辞退した。ユーリの気遣いは嬉しかったが、家族団らんを邪魔《じゃま》してはいけないだろう。
しかし……正直に言えば、「いいなぁ」と思う。とても羨《うらや》ましい。帰る家があるというのは、なんて素晴らしいのだろう。わたしには、帰る家も迎えてくれる人もいないのだ。
「お父さんが生きていたらなぁ」
思わずぽつっと口に出てしまい、セルフィーは目を瞬《またた》く。急に切なさが込み上げ、思わず泣きそうになってしまった。慌《あわ》ててゴシゴシと目を擦《こす》り、セルフィーは思い切りよく立ち上がった。
……こんな時に起きていると、ロクなことを考えないわ。明日は凄《すご》く早いんだし、もう休むことにしましょう。
パジャマを出してきて、早速《さっそく》着替えを始める。途中でノックの音がした。
セルフィーは背を向けたまま、
「は〜い。開いてるわよ、ユーリ」
ドアが開く音がした。
「やっと帰ってきたのね。……妹さんと楽しく過ごせた?」
「――ふむ」
あれ、と思ったセルフィーである。
ユーリの声とは似ても似つかないような。
――じゃなくてっ。
スカートを脱ぎかけたまま、セルフィーはそおっと振り返る……強張《こわば》った顔で。
最悪の予想通り、そこにレインその人を見つけ、どっと血の気《け》が引いた。彼は腕組みなどして、実に真面目《まじめ》な顔でセルフィーを眺めていたのだ。
「ひゃんっ!」
セルフィーは器用にも走りながらスカートを引き上げようとして――足がもつれて倒れてしまう。倒れたまま、それでもなんとかぐいぐいとスカートを元に戻す。即座に立ち上がろうとして、また横倒しに倒れてしまった。実に三十秒以上もかかり、やっと服装を整えることに成功した……焦《あせ》っていたせいか、やたらと時間がかかった。
背後で厳粛《げんしゅく》な声が指摘する。
「……今日はピンクか」
「わ、わざわざ仰《おっしゃ》らなくてもっ」
「いやぁ、そう慌《あわ》てなくていいぞ……別に俺の目なんか意識しなくても、落ち着いて着替えればいい。見守っててやるから」
「いえええっ。それはその……やっぱり恥ずかしいですから」
大急ぎで呼吸を整え、セルフィーはやっと振り返る。
レインは既《すで》に鏡台《きょうだい》の椅子《いす》を持ってきて、椅子《いす》の背中を正面にして逆向きに座っていた。すっかり観客モードでセルフィーを見物していたわけである。
「なにも真剣に見物しなくてもっ」
「そうは言うが、おまえはいつも俺の前じゃ下着見せてくれるじゃないか。今度もまたそうかと」
「冗談じゃありませんっ。いつも恥ずかしい失敗ばかりして、わたし……自分で自分が情けなくて」
「馬鹿《ばか》をいえ。見てる俺が喜んでんだから、おまえも喜べばいいさ」
「いえっ。なかなかそこまでの心境までには」
やっと、少しだけ落ち着いてきた。
曖昧《あいまい》に笑い、セルフィーはちらっとレインを見る。
「時に……わたしに何かご用でしょうか? 武闘会《ぶとうかい》の時の賭《か》け事の件なら、お金はユーリが全部、払い戻したらしいですけど」
「賭《か》け事……?」
レインは少し考え、苦笑して首を振った。
「ああ、あれな。別にそんなのは構わないさ。俺、そういうことで叱りつけるようなタイプじゃないだろ」
「そ、そうですねっ。……それでは、どのような……その」
ふにゃふにゃと語尾《ごび》が消える。
セルフィーとしてはレインに来てもらって嬉しいのだが、相手はなにしろ、主君兼初恋の人である。そばにいるだけでドキドキするし、やたらと胸が苦しくて、何を話したらいいかわからないのだった。
こういうチャンスにこそ、明朗《めいろう》活発な面を存分に見せ、使える女の子だというのを証明するべきかと思ったりもするが……しかし肝心《かんじん》のレインが、大人しいタイプの女性を好む可能性もある。
そんなことをくどくど考えていると、セルフィーはてきめんに自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》るのだった。
全く……嫌な女の子だわ、わたし。自分を偽《いつわ》ってどうするっていうんだろ。
考え込んでいるうちに、当のレインが話しかけてきた。
「なあ、おい」
「は、はいっ!」
「……いや、別に気をつけの姿勢を取らんでもいいけど」
レインは椅子《いす》に座ったまま、笑った。
「突っ立ってないで、ちょっと座れよ……そこのベッドでいいから」
「ベ、ベッドですかっ」
セルフィーはまた、むやみやたらと焦《あせ》る。
レインは単に自分の眼前《がんぜん》にベッドがあるからそう言ったのだろうに、わたしは何を焦《あせ》っているのか。棒を飲んだような歩き方でなんとか前進し、言われた通りにベッドに座った。自然とレインその人と向き合うことになる。
「……なんか緊張してんなぁ。俺といると、やっぱり気詰まりか」
レインが哀愁漂《あいしゅうただよ》う笑顔で言った。
ぱっと目を見開き、セルフィーはぶんぶん首を振った。
「いえいえいえっ。そうじゃなくて……わたしは元々、緊張癖《きんちょうへき》がありまして。だからその……レイン様じゃなくても、誰が来ても緊張するんです、本当ですっ」
一息に捲《まく》し立てる。
レインはただ微笑《ほほえ》んだのみであり、またじんわりと時間が過ぎる。
しばらくして、またいきなり訊かれた。
「最近、どうだ? 上手くやってるか。誰かにいじめられているとか、そういうのはないか?」
これには意表《いひょう》を突かれた。
「わたし、ですか? お陰様で、毎日が充実してますけど……暇な時は、いつも素振《すぶ》りとかしてますし」
言いつつ、段々嫌な予感がしてきたセルフィーである。もしかしてこの人は、とてつもなく悪いニュースを持ってきたのだろうか。
「あのぅ……わたし、何か致命的《ちめいてき》な失敗でもしましたか」
「まさかなー。そういうのじゃない。……ただ、前にちょっと言ったと思うが、騎士を辞めて普通の生活に戻る気がないかどうか、訊きに来た」
ふいにセルフィーの視界がぶわっとぼやけた。ぐしっと顔が半泣きになり、必死《ひっし》で堪《こら》えつつも涙がこぼれそうになる。
慌《あわ》てて俯《うつむ》いた。
「……わたし、お邪魔《じゃま》なんですね」
我ながら悲壮《ひそう》な声が出た。
「おいおい、なんでそんな話になる?」
心底驚いた声を出し、レインが立ち上がる。つかつかと歩み寄り、いきなりセルフィーの前にしゃがみ込む。下から顔を覗《のぞ》き込むようにして話しかけてきた。
「違う違うっ。こりゃ、先にユーリにも持ちかけてた話で、別におまえだけに言ったわけじゃない。他のヤツにもしばしばそう勧めてるんだって、俺は」
「……本当、ですか?」
「本当だって! なんで俺が積極的におまえを追放すんだよ。理由がないだろうに」
下から見上げる視線が、凄《すご》く真剣である。
セルフィーは手でゴシゴシと目元を拭い、レインから目を逸《そ》らした。
「わかりました……すいません、また勘違いで。あのぅ」
「どうした?」
「……今、変な顔になっちゃってて恥ずかしいですから、あまり見ないでください」
レインは無言のまま離れていった。
ああっ!! また余計なことを言って気を悪くさせたかもっ。
セルフィーはいたく後悔したが、それは考えすぎだった。
急に肩に何かが乗り、びっくりして顔を上げると、レインがベッドの毛布をかけてくれたところだった。……セルフィーの身体に巻き付けるように丁寧に。
「この部屋は冷えるからな。ちょっとこれ巻いてろ。……ていうか、見習い騎士といえど、全員に暖炉《だんろ》付きの部屋をあてがったはずだがなぁ、俺」
「あ、あれはレイン様の指示でしたか……すいませんっ。わたしてっきり、レニ隊長の指示かと」
「いや、別に誰の指示でもいいんだが……遠慮《えんりょ》したのか、もしかして」
「……ま、まだなんの働きもしてないですし、贅沢《ぜいたく》だと思ったのでその」
レインを見上げ、慌《あわ》てて付け足す。
「それにわたしは、寒さには強いんです。本当ですっ。ちょっとした寒さだと下着だけで眠っていることもありますし――て、ああっ」
また余計なことを言ってしまい、セルフィーは身もだえしたい気分に陥《おちい》った。わたし、この人の前では変な失敗ばかりしてるっ。
しかしレインは元の椅子《いす》に座り、端的《たんてき》に言っただけだった。
「じゃあ、今度は指示じゃなくて命令だ。寒さに強くてもいいから、遠征《えんせい》から帰城した後は、ちゃんと正規の部屋に移れ」
「――ということは、ここにいてもいいんですよね、わたし」
上目遣いに、セルフィーは主君に確認する。レインは珍しく、困ったような表情で見返した。
「追い出す気はないと言ったぞ。だがな、俺としてはおまえやユーリには真っ当な生活に戻ってほしいのも事実だ」
ふうっと息を吐《は》き、天井を見上げる。
しばらくそのまま沈黙《ちんもく》し、やっと続けた。
「多分、今後の戦いはかなり厳しいものになると思う。敵を褒《ほ》めるわけじゃないが、レイグルは決して無能な男じゃない。それどころか、指揮官としては相当に優秀なヤツだ。あいつが、数の優位さを活かした単なる物量作戦で来るならまだしも、状況次第では、俺が警戒している手を使ってくるかもしれない。まあ、その手を使われるとしても、まだ少し先の話だとは思うが」
レインの言い様は、どこか達観《たっかん》していた。
話を聞いていて、セルフィーは密《ひそ》かに感嘆《かんたん》した。おそらくこの人は、まだ緒戦《しょせん》にも入っていないこの段階で、敵のあらゆる出方を予想しているに違いないのだ。
「け、警戒している敵の手って、例えばどんなのですか?」
レインはしばらく押し黙り、ぼそっと返した。
「具体的には言わんが、兵力に頼る方法じゃない。むしろ、それより遙《はる》かに効果がある。まあ、その場合の準備もしてはいるけど」
「教えていただけないのは残念ですが、それを聞いてほっとしました……」
本気で胸を撫《な》で下ろすセルフィーを見て、レインはちょっと笑った。しかし、たちまち真面目《まじめ》な表情に戻ってしまう。
「傭兵《ようへい》同士ならその場限りの金勘定で済むんだが、おまえは金のためにここにいるわけじゃない。それくらいは俺にもわかるさ。ユーリはまだしも、自分が死なないように細心の注意を払うだろうが、どうもおまえは危なっかしい。俺の見ていないところで、ぱたっと逝《い》きそうだ」
「……ユーリ、妹がいるそうですから」
思わず口に出してしまい、セルフィーはどきっとする。そういえば、これは秘密なのだった。というか、ついさっきも「妹さんと楽しく過ごせた?」なんて口を滑らせてしまったような。
「い、今の間違いです、間違いっ。本当は弟さんですね、はいっ」
「安心しろ、俺は最初から知ってる」
ニヤッとレインが笑った。
「別に、あいつだけを念入りに調べたわけじゃないぞ。軍の指揮を執《と》る者として、最低限の調査くらいはやってるってことだ」
「そ、そうだったんですか……」
セルフィーは大いにほっとした。
「ユーリには内緒にしとけよ。なんかあいつ、俺が自分の妹に手を出すと思ってるみたいだからな。よっぽど俺が、女好きで手の早い男だと思っているみたいだ」
レインは声を上げて笑う。
釣られてセルフィーも笑顔になった。そう、ユーリはだいぶ誤解《ごかい》していると思う。最近になり、セルフィーはそう確信している。この人は、世間の噂《うわさ》ほど女好きではないような気がする。世評など、アテにならないものである。
「でも……そういうことなら、わたしのこともご存じなんですね」
「記録上のことだけな」
レインはあっさり認めた。
「でもな、そんなのは紙に書かれた単なる文字だ。実際に何があったのかは、いつかおまえが話してくれると、ずっと期待してるんだがな」
セルフィーはまた泣きそうになり、慌《あわ》てて気を張って堪《こら》えた。
「そ、そうでしたか……すいません、わたし、どうも鈍《にぶ》くて。あの、お話ししてもいいんですけど、わたしのお願いも聞いていただけますか。そういうの、厚かましいとは思いますけど」
レインが口を開けた瞬間、さっと告げる。
「前借りじゃないですよ、条件は!」
む、という顔でレインが見返した。
「それじゃないなら、汗をかくようなことだな。肉体的なスキンシップというか」
「いえええっ、それでもなく。その……」
ごくっと喉《のど》を鳴らし、
「レイン様の過去に何があったか、教えてもらえませんか」
これまではどこか悪戯《いたずら》っぽい顔つきだったレインだが、はっきりと表情を変えた。その違いは、あまりにも明らかだった。
「……ここへ来る前まではずっと傭兵《ようへい》やってたが、そんな話を聞きたいのか?」
声がいきなり用心深くなっている。
やはり間違いない、とセルフィーは確信した。前々からずっと思っていたのだ……この人には、何か戦う理由があるのだと。
いつも黒衣《こくい》を纏《まと》っているのも、きっと意味のあることに違いない。ずっとレインに注目していただけに、セルフィーはかなりのレイン通になっている。笑っている時でもどこか寂《さび》しそうな顔や、暇な時にふっと遠いところを見るような目つきをするところ、それにふとした弾《はず》みで見せる、深い哀しみの表情……そういうレインをずっと見てきただけに、セルフィーは心の底から思う。
――世間が思うようなレイン像ではなく、わたしは本当のこの人を知りたい、と。
だからセルフィーはまっすぐにレインを見つめ、頭を下げた。
「聡《さと》いレイン様は、既《すで》にわたしがどのようなことを知りたがっているのかおわかりのはずです……違いますか?」
「う〜ん……困ったな。なんで知りたいんだ、そんなの? 楽しい話じゃないんだが」
「レイン様はわたしの主君ですし……で、ですからその……」
せっかく気を張って見返していたのに、セルフィーは他愛《たあい》なく目を逸《そ》らしてしまった。まさか、好きな人のことだから、とも言えないではないか。
幸い、それ以上は特に突っ込まれず、レインは渋い顔で考え込んでいる。セルフィーが何も言わずに待っていると、根負けしたように答えた。
「わかった……その代わり、おまえも自分の親父《おやじ》さんのことを話してくれ。交換条件といこう」
きっぱりと述べ、レインはびしっとセルフィーを指差した。
「よし、まずはおまえからだ。順番な、順番」
「わ、わたしからですかっ!」
そんな、持ちかけたのはわたしなのにずるいですっ……とは言えないのが臣下《しんか》の弱み、あるいは惚れた者の弱みである。
「いえ……あらましをご存じなら、そこに付け加えることなんてあまりないんですけど」
ううっ、と呻《うめ》きながらも、セルフィーは俯《うつむ》いて話し始めた。
言うまでもないことですが、街の治安は平民を主戦力とする警備隊が担《にな》っています。わたしの父は、この王都リディアに配置された警備隊メンバーの一人でした。
庶民《しょみん》達は、警備隊の一般兵士はともかく、指揮官クラスは全員が騎士か騎士見習いだと思っていますが――ご存じの通り、平民出と貴族出とでははっきりと区別……というか、差別されていました。
今は改善されてますが、当時、平民出身の隊員がなれるのは、せいぜい下級警備隊員のまとめ役である「隊長補佐」まで。隊長や分隊指揮官になるには、それなりの身分、言い換えれば血筋が必要です。
それでも一応、隊長補佐以上は「正騎士」ということになっていますけれど、実質的にはそうではありません。王都から隊長として派遣された純粋《じゅんすい》な騎士ならともかく、警備隊内で成り上がった平民の「隊長補佐の騎士」なんて、警備隊だけでしか通用しない呼称です。
――庶民《しょみん》出の隊員にもやる気を出させために制定した、いわば幻想のようなものです。
父は昇進を重ね、その隊長補佐までいきました。平民出の父がなれるのはここまでです。
でも父は最初、それで十分に満足していたんです。「警備隊の中だけとはいえ、騎士は騎士。隊員達をまとめ、街を守る役目には違いない。これはこれで重大な使命だ」って。
だけど、その父の上に立つ隊長は、あいにく理想などは持たない人でした。その人の家は貴族とはいえ傍流《ぼうりゅう》に過ぎず、警備隊などに配置された自分の運命を常に嘆いていたそうです。
実質的に部隊をまとめていた父ともいつも対立し、何かといえば父に辛《つら》く当たっていたようです。今から思えば、それはおそらく無能な自分と比べた嫉妬《しっと》の裏返しなのだと思いますが、まだ小さかったわたしはそこまで察することは出来ませんでした。
ただ、いつも疲れ切って帰宅する父が、頭を抱えて嘆いていたのを覚えているだけです。「なぜあんな人が騎士になれる? 陛下にもお目通りを許されるような、ちゃんとした正騎士にっ。世の中は間違ってる……俺が平民じゃなく、正規の騎士になれるような身分だったらなぁ」というのが、その頃の父の口癖でした。
――そして、セルフィーが十五歳になる直前、あの事件が起きたのだった。
その日、予定の時間を過ぎても父が帰らないのを心配したセルフィーは、まんじりともせずに起きていた。
しかしついにその晩、父は戻ってこなかった。
翌朝になり、見覚えのある数名がセルフィーの家を訪れた。それは警備隊の一般兵士であり、父の部下達だったのである。
嫌な予感に身を強張《こわば》らせるセルフィーに向かい、彼らは蒼白《そうはく》な顔でこう告げた。
「……あなたのお父さんはもう戻らない。殺人の罪で既《すで》に処刑されたんだ」
自分がなんと答えたのか、セルフィーは覚えていない。その場で泣き崩れ、我に返ったのはだいぶ後だったからだ。
後で皆に聞いた話や、父が残した手紙などから、事情はだいたいわかった。
警備隊の隊長だったその男は、その晩、酒場で庶民《しょみん》と言い争いになった。その場は人目もあり、自分を押さえた彼だが、落ち目とはいえ、そこは堪《こら》え性のない貴族である。結局、店を出た喧嘩《けんか》相手をこっそりつけ、夜道で斬ってしまったのだ。
……店で言い争っていたのは、店主を初め、多くの客が見ている。もちろん、たとえ一方的に悪いとしても、当時、貴族が庶民《しょみん》を斬った罪で罰せられることはなかった。一応の釈明《しゃくめい》は必要だが、どのような釈明《しゃくめい》をしようと、そのまま通るのである。それが当時の貴族というものだった。
しかし彼は、このことで自分の経歴に傷が付くのを恐れた。
『平民ごときと喧嘩《けんか》に及び、剣を汚すなど……やはり、警備隊に飛ばされるようなヤツはどうしようもない』
そのような陰口を叩かれるのをいたく恐れた。そうなれば、もはや主城への復帰など不可能である。彼は悩んだ末、この一件を簡単に解決する名案を思いついた。セルフィーの父を呼びつけ、こう命じたのだ。
「おまえが罪を被れ。隊長たる私の名誉《めいよ》を守るため、止めた私を振り切り、おまえが先走ってあいつを斬った――そういうことにするんだ。これなら、おまえの名誉《めいよ》も私の名誉《めいよ》も守れる。なぁに、おまえだって、せいぜいが百日程度の謹慎《きんしん》で済むはずさ」
もちろん、セルフィーの父は断った。
「事実がどうなのかは、私も貴方《あなた》も知っていることだ。そのような嘘《うそ》をついてなんになりましょう」
――と。しかし、隊長は嫌な笑いを浮かべてこう言い返した。
「ならば、おまえの部下の誰かに身代わりをさせる。本人の意志は関係ない。言っておくが、抗議など無駄《むだ》だぞ。……宮殿にいる大臣は私の説明は信じても、おまえの弁解などは聞きもせんさ」
話を続けるセルフィーの声が、掠《かす》れ始めていた。
「……父としては、命令に従うしかありませんでした。だって、そうしないと大切な自分の部下が殺されちゃいますから。――そう、父はその後の結果もちゃんとわかっていたんです。命令を聞いた結果がどうなるか……百日の謹慎《きんしん》なんて嘘《うそ》だってことも含めて」
ベッドに座ったセルフィーは、絨毯《じゅうたん》を見つめたまま、まだ顔を上げられずにいる。涙はとうに枯れ果てているとはいえ、思い出すのはやはり辛《つら》いのだ。
「わたしは……強くて優しくて心の広い父が大好きでした。誰がなんと言おうと、本物の騎士とは、父のような人のことを言うのだと思います」
ややあって、静かに言い切った。
「だからわたしは、騎士になりたかったんです。かつての貴族騎士のような名ばかりの騎士ではなく、父のような本物の騎士に」
しばらくの沈黙《ちんもく》を経て、レインが言った。
「……俺は記録上のことしか知らなかったが、なるほど、そんなからくりだったのか」
悔しそうな声音《こわね》で続ける。
「その馬鹿《ばか》貴族が、もはや死んでいるのが残念だ。まだ生きてるのなら、俺が今から行って首を刎《は》ねてやるんだが」
セルフィーはやっと顔を上げた。
彼らしくもなく強張《こわば》った顔をしているのを見て、胸がいっぱいになった。
「……ご存じでしたか」
「そりゃ調べたからな。そいつはその直後に軍に復帰し、ルナンへ遠征《えんせい》してすぐに戦死した。因果は巡るもんだ。今度は自分より格上の貴族に捨て駒にされ、戦場に置き去りにされたようだな」
「……らしいですね。父の昔の部下さんが、わざわざ知らせてくれました。かえってよかったのかもしれません。……もしあのままだと、わたしは怨念《おんねん》に取り憑《つ》かれていたかもしれませんから」
頷《うなず》きつつ、セルフィーの声はどうしようもなく震える。レインが憤怒《ふんど》の表情を湛《たた》えているのが、なにか奇跡のように思えた。他人のために本気で腹を立てる者はまれなのだ。
セルフィーはもう何度目になるかわからないが、「ああ、この人は優しい人だなぁ」と思ってしまう。そしてそんなことを考えると、またどうしようもなく泣けてくるのだった。
「……レイン様、わたしのために怒ってくださってるんですね」
今度はレインが絨毯《じゅうたん》に目を落とした。
「ただの偽善《ぎぜん》だ。今更腹を立てても始まらんからな」
実に面目なさそうだった。
「それよりおまえ、そういうことがあったのに、よくあの試験に来たな。他国へ仕官の道を探そうとは思わなかったのか」
「今まで通りのサンクワールだったら、それはそうしたと思います。でも、時代が変わりつつあったし、それに募集したのはレイン様じゃないですか。レイン様は貴族でもなんでもありませんし」
まだ納得《なっとく》のいかなそうなレインに、セルフィーは穏やかに続ける。
「それに、父の部下さん達だって、まだ警備隊でがんばっているんです。あの人達が未《いま》だに王都を守ろうとがんばっているのに、わたしだけうじうじしていられません。そんなの、ただの意気地なしじゃないですか」
レインはしばらく沈黙《ちんもく》を保っていたが、そのうち、徐々に染《し》み入るように優しい微笑《びしょう》を見せた。
「……そうか」
立ち上がり、わざわざセルフィーの前に来て、髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「よくわかった。おまえには当分、職を辞せとは言わんことにする」
「と、当分じゃなくて、ずーーーっと仰《おっしゃ》らなくてもいいですから」
堪《こら》えきれずに笑み崩れつつも、セルフィーはしっかり抗議する。思い切って顔を上げ、思い出させてあげた。
「……じゃあ、次はレイン様の番ですよ」
途端《とたん》に眉根《まゆね》を寄せたレインに向かい、両手を祈るように合わせ、懇願《こんがん》する。
「どうか教えてください。……わたしは、どうしても知りたいんです」
レインはあきらめたようにため息をつき、了承してくれた。
そして、セルフィーに過去の出来事を語り始めたのである。
――☆――☆――☆――
風防《ふうぼう》付きの燭台《しょくだい》が、石造りの歩廊《ほろう》をゆらゆらと照らしている。
夜更けのガルフォート城内は、明かりといえばそのような頼りないものばかりであり、しかも完全に闇に閉ざされた場所も少なくはない。
かつてのゴースト騒ぎはもはや忘れられかけているが、それでもこの広大な城を、夜更けにうろつこうという者は少ない。端的《たんてき》に言えば、せいぜいが見回り兵士くらいである。
しかし今、冷え切った歩廊《ほろう》を銀髪の少女が散策していた。いつものように水着かと思うような薄着ではあるが、彼女も一応は場所柄を考え、漆黒《しっこく》のマントを羽織《はお》っている。夜勤の兵士でさえ怯《おび》える夜更けのガルフォート城内にあって、少女の足取りは実に軽快だった。傲然《ごうぜん》と顔を上げたその姿にも、怯懦《きょうだ》の影すらない。
彼女……つまりノエルは、未《いま》だにサンクワールに残留している。別にいつ去ってもいいわけだし、実際、人間に紛れている不自然さを思い、最初の数日間は何度もそうしようとした。
しかし、その度になにかもやもやした気持ちが兆《きざ》し、ガルフォート城を去れずにいる。今やノエルは、この国にしばらく残留しようかと考えているのだった。……自分でも、この心変わりが不思議ではあったが。
ただ、タイミングからして、今は最悪の時期に当たるかもしれない。なぜなら、ノエルがガルフォートを再訪問した翌日、早くも「レイグル王が軍に動員令を下す!」の報がもたらされたからだ。
これは、実はノエル自身にも意外な知らせだった。レイグルは自《みずか》らの正体を国民に布告《ふこく》したばかりだと聞くし、軍の動員をかけるにしても、もう少し国内情勢を見極めてからになるだろう――そう思っていたのである。
ただしあのメンバーの中では、ノエルはあくまで新参《しんざん》である。フィランダーは知らないが、デューイやサラが昔からレイグルと懇意《こんい》だったのは間違いなく、となると、以前からそういう予定だったのかもしれぬ。
もっとも、多少の驚きはあったものの、ノエルはそれを聞いても「ほぉ? 意外とあいつも手が早いな」と思ったのみだが、あいにく、人間達の反応は違う。
ノエルに対する風当たりが益々強くなったのは、言うまでもない。皆に紹介された時もたいがい疑わしい目を向けられたが、今後はさらに警戒心が強まるだろう。
――しかし、さすがにレインは他のヤツらとは度量が違うし、あのラルファスもなかなかの男だ。
認めるべき相手は素直《すなお》に認めるノエルは、この二人のお陰で、やや人間への評価を改め始めている。
ノエルがここに到着した晩のことである。あの日、シェルファが休むのを待ち、彼女はレインと少し話しをした。
彼の部屋で差し向かいで座り、腹を割って話したのである。
レインはまずこう告げた。
「しばらくここに滞在するなら、問題は一つだ。おまえの正体を皆に正直に告げるか、それとも一応は隠しておくかだ。自分で選ぶといいぞ」
「私は……」
その時、ノエルはレインへの遠慮《えんりょ》もあり、かなり迷っていた。言うまでもなく、自分の正体を隠しておいた方が、彼の立場的にはいいのだ。……そのくらいのことは、人間に疎《うと》いノエルにもわかる。しかしノエルは、これまで同様、結局は自分の信念に従った。
高々と顔を上げ、レインに答えたのである。
「レイン、私は自分が魔族であることに誇りを持っている。今までそうだったし、これからもそうありたいと願っている。故に、今になって自《みずか》らを偽《いつわ》ろうとは思わない。しかし、おまえの立場もわかる……もしも私の滞在がおまえにとっての不都合《ふつごう》なら、遠慮《えんりょ》なくそう言ってくれ。私はすぐにここを去ろう」
レインの態度は、ノエルの意表《いひょう》を突いた。
「では、そうしてくれるか」と言われるだろうと思っていたのが、あっさりと外れた。
「良い返事だ」
レインはまず、実に楽しそうに笑った。
即座に立ち上がり、酒瓶《さかびん》とグラスを持って席に戻る。だんっとばかりにそれらをテーブルに乗せ、こう続けた。
「何か勘違いしているようだが……俺の立場など、考慮《こうりょ》する必要はない。考慮《こうりょ》すべきは姫様の立場だろうが、しかしこの程度でガタガタいうヤツは、最初から姫様の味方には相応《ふさわ》しくない」
そう断定し、やや口調を和《やわ》らげた。
ポロッと本音を洩らすように、
「……他人がどう思おうと、人は己《おのれ》の信念に従って生きるべきだ。おまえは正しいさ」
そう言いつつ、だばだばとウィスキーをグラスに注ぐ。
「俺からはそれだけだな。酒はどうだ……いける? ならまあ、一杯やれよ」
この男はただ強いだけではない、私が信じるに足りる……あの晩、ノエルは心底、そう思ったのである。裏切りが日常茶飯事の世界で生きてきた彼女にとっては、まことに驚くべきことである。
レインについてはまだある。
彼はここ二十日ばかりの滞在中、彼女に魔族のことを一切、訊かないのである。ノエルの戦士としての常識からして、これは少々、有り得ないことだった。
レインが敵を敵とも思わぬ傲慢《ごうまん》な男ならともかく、彼女の見るところ、決してそうではない。むしろ彼は、情報の入手にはことの他、熱心に見える。ほとんどリアルタイムでザーマインの情報を入手し、分析しているのが、その証拠である。
何日も考え、ノエルはこの件について自分で答えを出した。――要するに彼は、私に対して気を遣っているのだろう、と。
実際ノエルは、仲間のことを訊かれた時のことを思い、少々気が重かったのである。別に彼らに対してなんの義理もないが、それでもだ。裏切りが常の世界にあって、ノエルはだいぶ例外的な存在なのだ。
ところがレインには、そのようなノエルの気持ちがわかるらしく、うるさいことは一切、訊いてこなかった。見かけの豪放磊落《ごうほうらいらく》さに似合わず、よほど細かい気遣いが出来る男らしい。……ノエルはそう思った。
というわけで、彼女はレインに対し、さらに評価を高めたのだった。
そしてもう一人、ラルファスのことである。
レインとシェルファが、最初にノエルのことを紹介した日、それはもう、たっぷり三十秒は部屋中が静まりかえった。その後、決壊した堤防《ていぼう》のように、次々と異を唱える声が満ちたものである。
追放すべきというのならまだしも、即刻殺すべきだ――という極端な意見もあったくらいだ。
立場が逆なら、ノエル自身も弾劾《だんがい》したに相違なく、彼らの気持ちもわからぬではない。とはいえ、反射的に腹が立ったのはどうしようもないが。
しかしあのレインが、異論などどこ吹く風とばかりに涼しい顔で聞き流しているので、その剛毅《ごうき》さを見習い、ノエルも大人しくしていたのである。
レインの態度からして、意見をまとめる妙案でもあるのだろう……と考えたせいもある。妙案というか、その後の変化は確かにあった。
一渡り反対意見が出た後、レインと並ぶ重臣《じゅうしん》たるラルファスがやおら立ち上がり、こう述べたのだった。
「私は陛下とレインを支持する。もちろん、私は陛下の臣下《しんか》であり、支持して当然だというのもある。しかし、理由は他にもある。……いま、あえて皆に訊こう。我らは一度敵に回った者を、最後まで憎むべきなのか? 彼女が魔族だろうと人間だろうと、この問題の本質は変わらない。もはや我らに敵対する意図《いと》がないというのであれば、何故《なにゆえ》に彼女を拒否せねばならない? それとも、味方であろうとそうでなかろうと、魔族は見つけ次第に首を刎《は》ねるべき――皆はそういう意見なのだろうか? だとすれば、かつて侵攻《しんこう》してきた無慈悲《むじひ》な魔族と我々の間に、どれほどの差があるというのだろう」
静かに話を終え、ラルファスが周囲を見渡すと、たちまち反対意見を唱えた者は目を逸《そ》らしてしまった。この一件で、ノエルはラルファスに対しても、「なかなかの男だ」と密《ひそ》かに感心したものである。
――まあ……もうしばらくここに留るか。
レインとラルファスの人となりを見て、ノエルはそう決心することとなった。
いわゆる客人|待遇《たいぐう》の彼女は、今回のルナン戦にもフリーな立場である。
しかしレインが行くと聞き、急遽《きゅうきょ》ノエルも同行しようかと思い始めている。
「……なにしろ、この私を負かした男だからな。いかに人間とはいえ、興味は尽きないわけだ」
独り言のようにぽつっと述べる。
それはノエルらしくもなく言い訳のような口調だったが、彼女はまだそこまで自覚してはいない。ただし、次に洩らした独り言にはさすがに自身でも違和感を覚えた。
「……それにしても、見つからんな」
む、と顔をしかめ、ノエルは暗い歩廊《ほろう》で立ち止まる。見つからない? 誰がだ? そこまで考え、ようやくノエルは、先程から自分がなんとなくレインを捜していたのに気付いた。散歩のつもりだったが、無意識の目的があったわけである。
ちょっとショックだったものの、ノエルはすぐに首を振った。
確かにここに来る直前には、「私は彼に惹《ひ》かれたのだろうか」と思いもした。しかし、冷静に考えればそれは単純に過ぎよう。完敗を喫《きっ》したことで、私があの男を深く認めてしまった――ただそれだけのことだ。第一、まだ会ったばかりなのに、好きも嫌いもあるものか、馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しい。
しばしば、出会ったばかりの相手を「とにかく気に入らん!」という理由で叩きのめすこともあるノエルなのに、あろうことかそのように自分を納得《なっとく》させていた。
「……まあ、酒の相手にいいからな、あいつは。しかし、今日はさすがに日が悪かろう」
自分で結論を出し、気が進まないながら、部屋に戻ろうとする。しかしその時、前方に小さな明かりが見えた。どうやらカンテラの明かりらしく、ノエルが黙って見守るうちに、少しずつ接近してきた。純白のガウンの腰紐《こしひも》に刀など差したそいつは、歩みがかなりトロい。武器を所持している癖《くせ》に、怖くてたまらないのか、ガタガタ震えながら歩いているようである。
そしておよそ数メートルの距離まできた時、小さな悲鳴が上がった。
「きゃっ!」
もちろんノエルは、早くから相手の正体に気付いている。しかし向こうはそうではなかったようで、ノエルがぶっきらぼうに「私だ、ノエルだ」と教えてやるまで、壁際《かべぎわ》にひっついて小鳥のように震えていた。つい今まで随分《ずいぶん》と眠そうだったのに、一瞬で目が覚めたらしい。
「ノ、ノエルさん……でしたか」
細々と息を吐《は》く音。
このガルフォートの支配者たるシェルファは、怯《おび》えきった震え声を出した。
「そうだ。少し散歩でもと思ってな」
一応は答えてやったが、ノエルの表情は冷ややかである。もちろん、城主だろうが国王だろうがシェルファに対して敬語を使う気などはない。
魔族であり魔人である彼女の基準からすれば、この少女のような支配者などは有り得ないのだ。ノエルの故郷で、もし庇護《ひご》者《しゃ》の存在もなくこの少女が放り出されたら、おそらくは十分もしないうちに凄惨《せいさん》な運命に見舞われるに違いない。肉の一切れくらいが残ればマシな方だろう。
人間の風習でノエルの理解を超える事柄は幾つもあるが、これは格別である。
こいつの美貌《びぼう》だけは私も認めよう。しかしなぜこんな、ただ美しいだけの少女が、一国の主《あるじ》としてまかり通るのだ。私なら、この細首を素手でねじ切ることも容易《たやす》いのに。
無論《むろん》、ノエルはそう思うだけで実行には移さない。本音を言えば、なぜかシェルファの素《そ》っ首《くび》をぶち落としたい欲求も多少はあるのだが、我慢《がまん》している。自分を信じてくれたレインを、裏切るようなことはすべきではない。
なので、ノエルはシェルファを殺すどころか、まだ少々|怯《おび》えた顔の彼女に、ぶっきらぼうに訊いてさえやった。
「こんな時間にどこへ行く気だ? 城中とはいえ、戦時《せんじ》に一人歩きは危険だろう……私が送ってやってもよいぞ」
「いえ……多分、目的はノエルさまと同じなのですけど」
「……なんだと?」
くびれた腰に当てていた片手を思わず外し、ノエルはようやく眼前《がんぜん》の少女を注視する。十センチ以上の身長差があるので、見下ろすような目線になった。
「なぜおまえが、私の行き先など知っている。単なる散歩だと言ったはずだが」
「だって、ノエルさまはレインを捜していたのでしょう? わたくしもそうなんです」
「な……に」
まず滅多《めった》にないことだが、ノエルは眼前《がんぜん》の少女に多少の脅威《きょうい》を覚えた。こいつ、不可解な術でも使ったのかと思ったのである。そうでなければ、ここまであっさり看破《かんぱ》できるはずがない!
当のシェルファは、瞬《またた》く間に表情を変えた。
一瞬、「ああっ、失敗しましたわ!」と言わんばかりの顔を見せ、次に困惑の表情に代わり、最後にノエルの顔を見て青ざめた。
「あ、あのっ。勘違いしないでください……ただそう思っただけなので。ノエルさんもレインのことが」
言いかけ、ぶんぶんと首を振る。
「いえっ。な、なんでもありませんっ」
ノエルを見る目は、ウサギのように無力だった。どうも今し方感じた脅威《きょうい》は、単なる買い被りだったらしい。
それはそれとして、いま何を言いかけたのか、ひどく気になるが。
「……まあいい。確かに、酒でも一緒に飲むか、とは思っていた。それだけだ」
「そ、そうですか。それでは……わたくしはこれで」
そそくさと立ち去ろうとするのを、ノエルはとっさに呼び止めた。
「待て!」
「……はい?」
そおっと振り返ったシェルファに尋《たず》ねようとして、ノエルはふと口を閉ざす。このようなことを訊いてどうする、と遅まきながら考えたのだ。
しかし、以前から疑問に思っていたのも事実であり、やはり訊くことにした。
「……おまえから見て、レインとはいかなる男なのだ」
どうせ、「単なる臣下《しんか》です」とでも言うのだろう――ノエルはそう考えていたのだが。あいにく、シェルファの返事は全然違った。
この少女君主はいきなり、輝かんばかりの笑顔を見せた。
なにやら誇らしそうに断言する。
「レインは、この世界の誰よりも強く、そして誰よりも優しい人ですわ」
――おやすみなさい、ノエルさま。
最後にそのように付け足し、シェルファは楚々《そそ》とした歩き方で遠ざかっていく。
なんなのだ……あいつは?
数秒ほどガウンの白い背中を見送り、ノエルはようよう肩をすくめる。強さを認めるのは当然だが……優しいだと? くだらんことを言う女だ。やはり、ただの軟弱《なんじゃく》な女か。
鼻を鳴らして身を翻《ひるがえ》した――が。
どこからか、冷酷《れいこく》極まりない声がした。
『レインに手を出すのは許さない』
「――! なにっ」
ぱっと振り返る。
誰もいない……ただ、シェルファの白い背中が遠くに見えるだけだ。軟弱《なんじゃく》な姫君に相応《ふさわ》しく、彼女は相変わらずしずしずと歩いており、ちょうど歩廊《ほろう》の角を曲がろうとしていた。
あそこから話しかけたはずはない。それならもっと大きな声でないと無理だ。いや待て……そもそも今の声、肉声だっただろうか。ノエルが立ちつくしていると、闇の中でゆっくりとシェルファが振り向いた。
その瞬間、ぞくっと背筋《せすじ》にきた。ノエルほどの戦士が、反射的に一歩下がっていた。
なんだ……この大いなる力の波動は……レインにも匹敵するぞ!
シェルファの笑顔は相変わらず消えてはいない……しかし、その笑顔の本質が、さっきとはまるで違うように見える。いま彼女の美貌《びぼう》に浮かんでいるのは、ブリザードが吹きつけるような冷酷《れいこく》な微笑《びしょう》だった。
こちらを見る碧眼《へきがん》もしかり。ウサギどころか、狼《おおかみ》ですら目を逸《そ》らしたくなるかもしれない。
『私からもおやすみを。ノエル……よい夢をね』
ふふふ……あははははっ。
魔界ですら滅多《めった》に聞けない冷えた笑い声を残し、今度こそシェルファは角を曲がって消えた。
――背中にじっとりと汗をかいたノエルを残して。
――☆――☆――☆――
セルフィーと遅くまで話していたレインは、自室に戻って鍵を開けようとした途端《とたん》、声をかけられた。
「……レイン」
あいつにしては静かな呼び方だなぁと思い、レインは不審《ふしん》を覚えて振り返る。予想通り、すぐ後ろに婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだシェルファが立っており、いきなり背伸びするように両手でレインの首を抱いた。それはいいが……そのままためらいもなく口づけをしてくる。
いささか驚いたレインとそのまま十数秒も口づけを交《か》わし、やっと身体を離す。その前に一瞬、耳元で囁《ささや》かれた。こればかりは、いつもの優しい声音《こわね》で。
「愛しいレイン……無限の感謝をあなたに捧げるわ。私のために、いつもありがとう」
レインはシェルファの瞳を覗《のぞ》き込んだ。
しかし、ちょうどシェルファの顔からは急速に笑顔が消え、代わりに驚愕《きょうがく》の表情が取って代わるところだった。
ぼぼっと、一瞬で白磁《はくじ》の肌が真っ赤に染まってしまう。
「そ、そんなっ」
ぱっと自分の口を両手で押さえ、レインを見上げた。
「わたくし今……じ、自分からレインにするなんて……は、はしたないことを」
レインは間を置かず、軽やかに笑った。
「本来、とうに寝ている時間だからな、おまえは。だいぶ寝ぼけてたんじゃないか? まあいいさ、たまには。いつも俺からばかりだからなぁ」
今度は自分からシェルファを抱き寄せ、お返しのキスをしてあげた。シェルファが好む、固い抱擁《ほうよう》付きで。
姫君は強張《こわば》った身体からたちまち力を抜き、ぐったりと身体を預けてきた。
唇を離した時には、既《すで》に不審《ふしん》の表情は消えていた。
「そうですね……本当に、とてもとても眠かったです。でも、このところずっとレインと会えなかったから、どうしても夜が明ける前に会いたくて」
いやいや、つい一昨日も顔合わせてるだろうが――とは言わず、レインは黙って主君の背中を撫《な》でてあげた。そうすると、シェルファがいたく安心するのを知っているからだ。
しかし、レインの顔からはいつしか笑顔が消えていた。
……とうとう表面に現れ出したか。
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第五章 シェルファ誘拐
ルナン旧臣《きゅうしん》のアムルを初めとする諸将《しょしょう》は、サンクワールの国境間近に陣を張り、敵を待ちかまえていた。
積極的に王都攻略を狙えるだけの兵力はあるのだが、将軍クラスを含めた全軍の士気が今ひとつ奮《ふる》わず、進撃よりも地の利を活かして戦うべし――という消極的な戦法を取る他なかったのである。
無理もない、とアムルは思う。
サンクワールには例のあいつがいるのだ。ラルファスもかなり手強い相手だが、それ以上にあの男はまずい……なにしろルナンの将軍達のほとんどは、彼に一度ならず敗れているのである。逆に言うと、勝てた試しがない。不名誉《ふめいよ》ながら、アムル自身もまた、その一人だった。
今も、とりあえずの本陣として接収《せっしゅう》した屋敷の中で諸将《しょしょう》が軍議の最中だが、誰も彼もさえない顔色である。というのもつい先日、「上将軍レイン、一万の軍勢《ぐんぜい》と共に王都を進発《しんぱつ》。現在、こちらに向かって北上中」との物見報告が入ったところである。
その時、アムル達は顔を見合わせて呟《つぶや》いたものだ……あいつだあいつが来た、と。
将も兵も例外なく、せめて他の誰かであれかしと願っていたが、あいにく彼が迎撃《げいげき》に当たるらしい……あのレインが。
「我々の備えは万全です」
一人だけ気炎《きえん》を揚げている若者が、なおも得意気《とくいげ》に話していた。
円陣に席を配置した中央で、あたかも主君のように両手を広げ、身振り手振りを交えて自説を展開している。
「兵力は敵の二倍を数え、兵糧《ひょうろう》も十分……対して敵はどうでしょう? 到着直後は、おそらくは疲労のあまりすぐには戦えますまい。兵糧《ひょうろう》や補給物資の輸送ルートも、きちんと確保しているか怪しいものです。この戦《いくさ》、我らが有利です。この地に長く敵を引きつけ、利なしと見て敵が退《ひ》く瞬間に追撃をかけ、大いに叩きましょう。それで、必ずや勝てます」
力強く言い切り、一同を見渡す。
諸将《しょしょう》は皆、そっと互いの顔を見比べた。アムルには、朋輩《ほうばい》が何を考えているのか手に取るようにわかった。臆病者《おくびょうもの》のそしりを受けるのはご免なので口には出さないが、全員が例外なく、こう思っているのだ。
「他の誰かなら、おまえの言う通りになるかもしれん。しかし、敵はあのレインだぞ」と。
今まで演説などしていた若者は、将軍の一人であるウェルナーの奥方と遠縁に当たるらしいが、それにしてもただの流れ者に過ぎない。
サンクワールに個人的な恨みがあるのは事実であり、しかも彼が極めて明晰《めいせき》な頭脳の持ち主なのも認めてもよいが、軍の運命を任せるには危うすぎるだろう。
沈黙《ちんもく》が落ちる中、アムルは仕方なく重い口を開いた。
「……若者よ」
「私の名前はジョシュアです、アムル将軍」
金髪|碧眼《へきがん》のジョシュアは、慇懃《いんぎん》な態度で腰を折った。
「では、ジョシュアよ。おまえの意見はよくわかった。確かにウェルナーが推薦《すいせん》するだけのことはある」
一応は持ち上げてやり、アムルは表情を改めた。
「意見は意見として聞いておこう。後は我々だけで軍議を続けるので、済まぬが席を外してくれ」
ジョシュアの顔に微《かす》かな……ほんの微《かす》かな失望が浮かび、しかしすぐに笑顔に取って代わる。
「わかりました、アムル将軍」
声音《こわね》も、非常に恭《うやうや》しいものだった。
その切り替えの速さは見上げたものだが、不満を隠し切れていないのが、若さというものだろう……聞けば、この少年はまだ十代だという。
ともあれ、ジョシュアはアムルを初めとする諸将《しょしょう》に一礼し、自分を推薦《すいせん》してくれたウェルナーには重ねて一揖《いちゆう》し、後は黙って部屋を出て行った。
十分に足音が遠ざかってから、アムルはウェルナーを見た。
「……ウェルナー殿。あの者は、本当に信用出来るのですかな」
不機嫌《ふきげん》そうなウェルナーは、ちらっと戸口を見てから答えた。
「サンクワールを憎んでいるのは間違いない。それは前にも言った通りだ。どうやらあの国で一度は招聘《しょうへい》されながら、王女に諫言《かんげん》などして追い払われたようだな。しかし、サンクワール側では、少なくともヤツの能力は認めていたようだ。敵が認めるくらいだから、才能はあるのだろう」
「……敵の間諜《かんちょう》だという可能性は?」
他の将軍が尋《たず》ねる。
「調べた限りでは、その可能性はない。諫言《かんげん》して追い出されたのも、事実のようだ。もちろん、はっきり味方だとわかるまでは、自由行動など取らせんさ。……フェイはやたらと認めておったが、わしとて油断《ゆだん》はしておらん」
ウェルナーはなぜか顔をしかめた。
ちなみに、フェイというのは彼の奥方であり、つまりジョシュアを強く推薦《すいせん》した本人である。
この様子だとウェルナー自身も、奥方に泣きつくようにして頼まれたのかもしれない。あの若者はもしかしたら、手回しよく奥方を丸め込んでいたのかもしれぬ。……色々な手管《てくだ》で。
アムルが密《ひそ》かにそんな邪推《じゃすい》をしてしまうくらい、あのジョシュアは美少年なのである。
「まあよい」
アムルは首を振って邪念《じゃねん》を追い払った。
「どのみち我々は、再興《さいこう》の為に戦う他はないのだ……もっとも、勝ったところで危ういのは変わりないが」
余計なことを言ったせいか、諸将《しょしょう》の中でも血の気《け》の多いことで知られるギャレットが、くわっと目を見開いた。
「武名の高いアムル殿の言葉とも思えん。あの若造《わかぞう》の軍略《ぐんりゃく》などはどうでもよいとして、戦う前からそのような弱気では困る!」
ギャレットはたまたまレインと直接ぶつかった経験がなく、お陰でルナンでは数少ない、彼に敗北を喫《きっ》していない将軍である。なので一応、まだ戦意は萎《な》えていないようだった。
ただし、レインと一戦した後、その士気を保っていられるかどうかは怪しいものだが。
皮肉な思いを口には出さず、アムルはただ低頭した。
「これはすまぬ。……わしとしては、かき集めた軍勢《ぐんぜい》の中に、借り物の兵力があることを憂《うれ》いたつもりだったのだ」
アムルの言葉に、さすがのギャレットもそれ以上は何も言わなかった。彼の部隊はまだしも旧部下達が中心の構成だが、アムルを初めとする他の諸将《しょしょう》の部隊は、かなりの割合で借り物の兵力なのである。
……つまり、大国ザーマインが快く貸してくれた軍勢《ぐんぜい》、というわけだ。
野に下っていた時に、「こちらとしてもサンクワールを牽制《けんせい》していただけると助かるし、我々が兵をお貸ししようではないか」という密使の誘いを受け、飛びつきはしたものの、警戒心を捨てきれずにいるのはなにもアムルだけではない。
サンクワールに勝利したあかつきには、条件付きで旧ルナンの地を返そう――との保証はもらったが、履行《りこう》されるかどうか知れたものではない。
ここにいる全員が、大なり小なり、ザーマインの本心を危ぶんでいるのだ。
――☆――☆――☆――
国王であるシェルファ自《みずか》らが同行し、実質的にレインが指揮統率する軍勢《ぐんぜい》は、刻々とルナン軍を目指している。
もはや一両日中には敵地に到着するだろうという日の晩、ルナンの陣所《じんしょ》を一人の兵士がうろついていた。
安っぽいレザーアーマーに身を固めたその姿はまさに下《した》っ端《ぱ》兵士のそれだが、不機嫌《ふきげん》極まりない仏頂面《ぶっちょうづら》を見る者が見れば、正体は一目瞭然《いちもくりょうぜん》である。
すなわち、レインの命を受け、変装して敵陣に潜入したギュンター・ヴァロアその人だった。
彼はこっそりと一仕事を終えた後、ギャレット将軍の陣所《じんしょ》に移動している。そして早くも、ギャレットが寝所としている大テントの付近にまで接近していた。
夜の闇に紛れ、入り口の兵士の至近まで接近すると、そこで小さくルーンを唱える。後は、魔法で意識を縛《しば》られ、瞬《まばた》きもせずに屹立《きつりつ》する見張りの前を堂々と通り、寝所に侵入した。
途端《とたん》に、豪快《ごうかい》ないびきが出迎える。
ギュンターは、ギャレットにアシマルの葉から作った薬を嗅がせてより深い眠りに誘った後、テント内を見渡し、仮備えのテーブルを見つけて歩み寄った。
むっつり顔でせわしなく動き、何をするのかと思えば、せっせと酒席の用意を始めた。テーブルの上にきっちり、二人分の簡素な食事と酒を用意していったのである。あたかも、これから客人を迎えるような体裁で。
ギャレットは、まだ小一時間は目が覚めないはずであり、作業を邪魔《じゃま》する者はいない。
テーブルを整える間、ギュンターには彼なりの並々ならぬこだわりでもあるのか、カップやら皿やらの配置を不機嫌《ふきげん》そうに眺め、何度も微妙に直したりした。一ミリのズレも見逃さず、彼の好みにグラスや酒瓶《さかびん》を配置していく。
それでもごく短い時間で支度を終えると、ギュンターは即座にテントを出た。足早にそこから距離を取る。振り返って小さくルーンを唱え、人形のように固まった見張りに手を振った。
効果は即座にあり、目が覚めたように見張り兵士達が瞬《まばた》きをする。一瞬、いぶかしげな表情が彼らの顔に浮かんだが、それもすぐに消えてしまった。
一つ頷《うなず》き、ギュンターは今度は、ギャレットの陣所《じんしょ》の外周を、じっくりと歩き回り始めた……あたかも何か、あるいは誰かを捜すかのように。
ところでその時、ジョシュアはいつものように深夜の散歩の最中だった。
軍師《ぐんし》志願としてここに来たのはいいものの、彼も実戦は初めてであり、長滞陣《ながたいじん》などには慣れていない。眠れない夜を幾晩か過ごした後、やっと寝る前に陣所《じんしょ》を歩き回ることを覚えた。毎晩同じ時間にこうしていれば、他の者には彼が率先《そっせん》して見回りをしているように見えるだろうし、そしてジヨシュアはほどよく疲れ、良い気分で眠れる。一挙両得《いっきょりょうとく》なのだった。
……とはいえ、彼はまだ完全に将軍達の信頼を得た訳ではない。
よって、せいぜいが現在身を寄せているウェルナー将軍の陣所《じんしょ》を、散歩のつもりでうろうろするしかないのだった。
ともあれ、真面目《まじめ》な顔を作ってせっせと歩き回っていたジョシュアは、隣のギャレットの陣所《じんしょ》付近に来たところで、ふと足を止めた。
暗闇《くらやみ》の中、方々にある陣所《じんしょ》の篝火《かがりび》を避けるように、闇を縫《ぬ》って歩く男を見つけたからだ。ジョシュアはとっさにさっと身を低くし、近くに積んであった飲料水の樽《たる》の影に身を隠す。
用心深い彼のこと、もちろん帯剣はしている。その長剣の柄《つか》に手をかけたまま、しばらくじいっとその黒影《こくえい》を見据えた。辛抱《しんぼう》強く待つうち、そいつは周囲を確認しつつ、こちらに近寄ってきた。
ジョシュアは慎重にタイミングを計り、ぱっと樽《たる》の影から飛び出す。すかさず叱声《しっせい》を浴びせてやった。
「そこで何をしているっ」
大当たりだった。
そいつは立ち止まることも弁解することもなく、いきなり身を翻《ひるがえ》して逃走しようとしたのだ。剣技にいささかの自信があるジョシュアは、さっと回り込み、抜剣《ばっけん》した。やむなしと見たか、向こうもずしゃっと剣を抜く。
恐怖などは感じず、ジョシュアは自《みずか》ら手柄《てがら》を立てる幸運に酔っていた。
闇を通し、任務をしくじった間抜けな間諜《かんちょう》の顔を見る。
一瞬、虚《きょ》を衝《つ》かれた。
「おまえっ、いや貴様はっ。謁見《えっけん》の間で王女のそばにいた男か!」
返事は、一陣の風にも似た斬撃《ざんげき》だった。腕に覚えのあるジョシュアでさえ辛《かろ》うじて受けたくらいで、恐ろしく速い剣撃《けんげき》だった。
ギンッという音と共に火花が散り、一瞬、ギュンターの顔が鮮明《せんめい》に浮かぶ。
うっかり素足で毛虫でも踏んづけてしまったような渋い顔であり、最後に見た時と同じく、恐ろしいまでに不機嫌《ふきげん》そうだった。
世の中で最も会いたくないのは、おまえである! と言わんばかりの目つきをしている。
「ふ、ふんっ。不手際だな、間諜《かんちょう》! この僕に見つか――うおっ」
ぶわっと一気に踏み込まれ、喉元《のどもと》に不吉な赤みを持つ剣先が一気に伸びてきた。冷や汗をかきつつ身をさばく。途端《とたん》に敵は鮮《あざ》やかな手際で手首を返し、第二撃を放ってきた。なんとか長剣で逸《そ》らしたが、その勢いと力に手がじぃぃんとなった。
ぱっと動いて身を入れ替え、両者は再度、対峙《たいじ》する。
ジョシュアは飛び退《の》くように、敵はあたかも舞うように優雅な足捌《あしさば》きで。
落ち着き払い、まだまだ余裕がありそうな相手と違い、ジョシュアの方は既《すで》に青息吐息《あおいきといき》である。認めがたいことだが、内心では大いに焦《あせ》り始めている。
――こいつはまずい!
一人で捕まえて手柄《てがら》にしようと思ったけれど、このままだとこっちがやられそうだ。最初に会った時も思ったが、こいつは相当に出来る!
「ジョシュア殿、でしたか? 運がなかったですな」
見透かしたように、ぼそっと敵が言った。
「予定外のことですが、ついでですから、ここで貴方《あなた》も倒しておきましょう。今更ですが、お覚悟《かくご》を」
実にめんどくさそうに付け足す。
「どうせ誰にも届けられないので、遺言《ゆいごん》はご無用に願います」
ゆらっとギュンターが剣を持ち上げる。
刀身は真っ黒な癖《くせ》に、なぜか薄赤い輝きを放つ魔剣を。
不機嫌《ふきげん》そうなその表情と相まって、肝が冷えるような迫力があった。
その瞬間、ジョシュアは決断した。
くそっ、ふざけたヤツだ。ついでで殺されてたまるかっ。命をかけてまで手柄《てがら》を立てるのは馬鹿《ばか》げている! 今はとにかく生き延びる手だ。
自分も剣を構えると見せ、ジョシュアは思いっきり叫んだ。
「曲者《くせもの》だ、ここに曲者《くせもの》がいるぞーーーっ」
叫んだその時、さすがの敵も一瞬、表情を歪《ゆが》めた。逃走するか、それともジョシュアを斬り捨てるか、迷いが生じたのだろう。
ジョシュアはその隙《すき》に乗じた。
「もらったぞ!」
敵の間合いに飛び込み、袈裟斬《けさぎ》りの一撃を見舞う。
「ぬっ」
ギュンターはギリギリで背後に跳んだが、避けきれずに胸を切り裂かれた。手応えからして、あいにくレザーアーマーのみを斬ってしまったらしい。
「待てっ」
思わぬ素早さで遁走《とんそう》するギュンターを、慌《あわ》てて呼び止める。もちろん、向こうは振り向きもしなかった。
「ええいっ、見回りの兵はまだか!」
剣を大地に叩き付けようとして、ジョシュアはふと手を止めた。
さっき敵が跳躍《ちょうやく》したところに、何かが落ちている。自分が放った剣撃《けんげき》で二つに裂かれているが……これは、密書か?
十数分後、先に密書を読んだジョシュアは、遅れて駆け付けた兵と共にウェルナーの元に急ぎ、彼にそれを手渡した。
こっそり調べたところ、現にギュンターの逃走を見た兵がいたので、ウェルナーもジョシュアの言葉を信じた。
密書の内容は簡潔《かんけつ》であり、「約定通りによろしく頼む」と書かれていただけである。しかし、これを持っていたギュンターがギャレットの陣所《じんしょ》のそばをうろついていたのが問題なのだ。ウェルナー自身に覚えがないとなれば、当然、敵はギャレットが目当てだったはずである。
急遽《きゅうきょ》、彼以外の諸将《しょしょう》が集められ、不意打ちのごとくギャレットの寝所を訪れた。もちろん、時を置かずにこの一件を詰問するためである。
ギャレットその人はなぜか頭痛がするような顔でベッドから身を起こしたところであり、朋輩《ほうばい》の突然の訪問に驚いていた。
……待ち人の代わりに来たのが朋輩《ほうばい》では、それは驚くだろう。
何しろ、寝所には誰かを迎えるかのごとく、酒席が用意されている。もちろんごくささやかなものではあるが、彼がこの夜更けに何者かを待っていたのは間違いない。ここで、なにがしかの密談をするつもりだったのだろう。
無論《むろん》、そのことと先程のギュンターの発見とは、鮮《あざ》やかに重なるわけである。
……とにかく、不審者《ふしんしゃ》を見つけたジョシュアの中では。
「見張りにも聞くといい、わしは知らんっ。なんの覚えもないぞっ。酒席の用意などしたこともないわっ」
などと蒼白《そうはく》な顔でがなり立てるギャレットだったが、さすがに彼の言葉を素直《すなお》に信じる者はいなかった。
いや、ただ一人アムルだけは、「これはもしや、レインの| 謀 《はかりごと》では?」と疑っていたのだが、彼一人がギャレットを庇《かば》おうと、もはやどうにもならなかった。
なぜなら、その場にはザーマインから派遣された軍監《ぐんかん》もいたからだ。
ジョシュアは余計な知恵が回るらしく、この一件を軍監《ぐんかん》にも報告していたのである。
その軍監《ぐんかん》の強い要望で、ギャレットの部隊は直ちに拘束された。どれだけ裏切り者がいるか不明ということで、将も兵も見境なく、だ。
こうなると他の兵士達に隠し通すのも不可能となり、当然ながら、ギャレットの裏切りは全軍に知られるところとなった。結果として、ルナン軍の将兵達は大いに動揺《どうよう》した。一番|動揺《どうよう》したのは将軍達だったが。
――その後、まことしやかな噂《うわさ》も流れた。
そもそもギャレットは無実であり、誰かに嵌《は》められたというのである。その誰かが敵将のレインであるというのなら、まだ救いようがあったかもしれない。
しかしどこから広まった噂《うわさ》なのか、これを囁《ささや》く者は必ずこう結ぶのである。……今回の戦《いくさ》は危うい。なにせ、本物の裏切り者が他にいるんだ。いざ戦いが始まれば、きっと何かが起きるぞ。張り切って突撃《とつげき》した途端《とたん》、背中から斬られる可能性もあるやもしれん……と。
くだらんことを! と豪快《ごうかい》に笑い飛ばす者は少なく、聞かされた者は皆、うそ寒い顔つきでそっと辺りを見渡したものである。
うろたえていたのは将軍達も似たようなものだったが、ただ一人、アムルのみはこの状況を憂《うれ》い、さらには陣中におけるレインの間諜《かんちょう》の存在も疑った。これは意図的《いとてき》に広められた流言《りゅうげん》ではないか、と思ったのだ。
即座に、つまらない噂《うわさ》を最初に流した者を見つけようとしたが、もはや誰も彼もが同じような噂《うわさ》を聞いており、元を辿《たど》ることなど不可能になっていた。
それどころか、アムル自身が微妙な立場に追い込まれた。というのも、大騒動《おおそうどう》の夜が明け、疲れ切って寝所に戻ると、なんと枕元にきちんと折り畳んだ手紙が置いてあったのである。
慌《あわ》てて中身を確かめてみれば、超下手くそな字でこう書いてあった。
『ザーマインに協力して俺達と戦うのが、本当に復興《ふっこう》の道といえるのか。単にヤツらに踊らされているだけだとは思わんか? おまえの気性《きしょう》は知っているから、仲間を裏切れとは言わん。せめてよく考えてみてくれ』
文面はそれだけだった。全く、いつ置かれたのか油断《ゆだん》も隙《すき》もない。
……これを書いたのはレインだ。
相手の筆跡《ひっせき》などは知らなかったが、アムルは直感により、真実を見破った。
見破ったが……眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》を刻んで沈思《ちんし》した結果、彼はこの密書のことを誰にも洩らさないことにした。
ギャレットが拘束された直後であり、全軍が疑心《ぎしん》暗鬼《あんき》に陥《おちい》っているところでもある。こんなことを報告すれば、彼自身の立場もどうなるか知れたものではない。
それに……短い文章ではあったが、レインの指摘は確かにアムルの心に響いたのである。
なぜなら、今のルナン軍には核となる指揮官がいない。本来ならば王族の生き残りを奉《ほう》じて戦うべきなのに、それもしていない。兵を貸してくれたザーマインが、それだけは頑として認めなかったからだ。ザーマイン軍はルナンの旧王族全員を、リアグルの宮殿に人質として幽閉《ゆうへい》しているが、今のところ、釈放する気は全くないらしい。
仮にサンクワールに勝てたとしても、人質が彼らの手元にある以上、約束の履行《りこう》も怪しいものだ。
ザーマインの狙いは、要するに我々を体よく使い捨てることにあるかもしれない。ルナンの旧勢力がサンクワールとやりあって共倒れになれば、彼らにとっては万々歳なのだ。
元からその危惧《きぐ》は頂いていたのだが、レインの指摘により、アムルはいよいよ疑いを強めたのである。
――こうして、ルナン軍の柱とも言うべきアムルもまた、心に迷いを生じることとなった。
敵と戦う以前に、ルナン軍にはもう暗雲が立ち込めていたのである。
ギャレットの事件があったその二日後、ついに敵の部隊が到着し、ルナン軍の前面に展開した。兵力は物見の報告通り一万程度であり、数だけで比較するなら、ルナン軍はまだ、彼らの二倍を超えている。
……中身は敵将に怯《おび》える敗残兵《はいざんへい》と、借り物の軍勢《ぐんぜい》ではあるが。
翼を広げたような布陣《ふじん》のルナン軍に対し、サンクワール軍は素早く陣形を組んでいく。
左翼前陣に布陣《ふじん》したアムルは、サンクワール王家の旗の横に、黒地に白く染め抜かれたフェニックスの軍旗を見つけ、顔をしかめた。
旗印が変わったことは知らなかったが――付近に一人だけ黒ずくめの男がいれば、嫌でも正体が知れる。
甲冑姿《かっちゅうすがた》が当然の軍勢《ぐんぜい》で、あの男は死ぬほど目立つのである。
……やはり、あいつか。
アムルは首を振り、意気の上がらない自軍を見渡す。兵も将も、凍り付いたようにレインの方を見ていた。嫌な記憶のあるヤツが多いのだろう。
「レインだ……あいつが来た……あの苛烈《かれつ》な男が」
囁《ささや》きが野火《のび》のように広がっていく。
一人だけ元気のいいジョシュアが、どこか遠くでがなり立てる声が聞こえた。
「怯《ひる》むことはない! この堅陣《けんじん》と兵力を見て、寡兵《かへい》で突っ込んでくる馬鹿《ばか》はいない。敵が策の多い男だというのなら、なおさらのことだっ。ヤツらの退却を待って追撃をかければ、必ず我々が勝つ!」
……愚《おろ》か者め。
アムルのしかめっ面《つら》はいよいよひどくなった。
おまえは、レインという男を知らないのだ。
――☆――☆――☆――
旧ルナン軍に比べ、サンクワール軍の士気は実に高かった。
国王が同行しているので、兵士達の全員が彼女の目を意識していたためもある。なにしろ現国王は、国内はおろか近隣諸国にも「史上最も可憐《かれん》な王」との誉《ほま》れ高い、若干《じゃっかん》十六歳のシェルファ・アイラス・サンクワール陛下なのだ。
すぐ後ろでそういう人が見ているというのに、ここで張り切らないでいつ手柄《てがら》を立てるんだよ!
と男|共《ども》は誰しも思うのだった。実際、シェルファは行軍中はほとんど馬車の中にいたが、今はさすがに最後陣で騎乗《きじょう》の人となっている。
もちろん、士気が高いのはそればかりでもない。着任当時からそうだが、だいたいにおいてレインやラルファスが直接指揮を執《と》る場合、他の将軍達とは明らかに差が出た。特にレインの場合、その軍勢《ぐんぜい》の士気は総じて高かった。
まず、レインが直接指揮の戦《いくさ》では未《いま》だに敗戦を記録したことがない、というのが大きい。戦《いくさ》となれば、数多い下《した》っ端《ぱ》兵士達が最も気にするのは指揮する将軍の能力であり、その戦歴である。敗戦ばかり重ねる将を信頼する兵士は少ない。
この点、レインは全く申し分なかった。彼が直接指揮を執《と》る限り、兵士達は戦《いくさ》が始まる前から、
「この方と共にある限り、俺達は必ず勝つ!」と強く思い込んでしまう。一兵卒に至るまで、必勝の信念を持って戦《いくさ》に臨《のぞ》めるわけだ。
さらには、指揮官の癖《くせ》にレインは戦《いくさ》が始まると自《みずか》らが先頭に出て突撃《とつげき》することが多く、その揺《ゆ》るぎない背中を見ていると、後に続く兵士達の大いなる励《はげ》みになるのだ。自然と自《みずか》らも死力を尽くして戦うことになる。
レインを先頭にして突撃《とつげき》してくる軍勢《ぐんぜい》は、敵軍から見れば悪夢のように映ることがままあり、生き延びた敵兵達の語り草となっているほどである。そしてもちろん、レインに無数の武功《ぶこう》を立てさせてきた最大の功労者《こうろうしゃ》は、いま対陣している旧ルナン軍なのである。
サンクワール軍……というかレイン軍がやる気満々なのは、ある意味で当然であった。
当のレインは、本陣にて槍《やり》一本を肩に担《かつ》ぎ、敵陣をじいっと観察していた。
その横にはレインと同じく平服のギュンターが並び、ぼそぼそと報告を行っている。全部聞き終わり、レインは大きく頷《うなず》いた。
「ご苦労だった。いつものことだが……おまえのお陰で、だいぶ楽になった」
「有り難きお言葉」
ギュンターは馬上で恭《うやうや》しく低頭し、何処《いずこ》かへ去っていった。
レインはしばし彼を見送り、それからまた戦場に目を戻す。
平原ながら、本陣をやや高い場所に置いたので、敵陣の様子はよく見える。
「……青二才め。いかに数と堅陣《けんじん》に寄ろうと、負ける時は負けると知らんな?」
誰のことを指して述べたのか、レインは呟《つぶや》きを洩らした。さらに一渡り敵陣を見渡してニヤッと笑うと、徒歩《とほ》でクリスのそばに来たノエルが話しかけてきた。
「この戦い、もはや見えたな」
レインは微笑《ほほえ》んだのみだが、特に否定はしない。ただ左隣にいた副官のレニは、「ええっ」と妙な声を上げた。
ノエルを見ないようにしながら、
「しょ、将軍? 向こうはあの数だし、あの堅陣《けんじん》です。ここはアレですね、持久戦ですよね?」
今度はレインも答えた。
わざとらしいレニを槍《やり》で突こうとしつつ、「こいつぅ、わかってる癖《くせ》にー」などと明るく言ってやる。当のレニは悲鳴を上げてのけぞっていたが。
「わっ。突くんなら、穂先《ほさき》じゃない方でやってくださいよっ。怪我《けが》するじゃないですか!」
「あー、悪い。今のは本気で間違えた」
レインはにこやかに返し、
「それはそうと、おまえの質問だが。――当然、本陣を残して後はいきなり全軍|突撃《とつげき》だ。後ろも振り向かずに、しゃにむに突撃《とつげき》な。死ぬ気で行くぞ」
「いや、死ぬ気で突撃《とつげき》て……んな無茶な。なにか納得《なっとく》のいく理由があるんでしょうねええ?」
なぜか、皆に聞こえるほどデカい声で訊いたレニに、レインはこれまたよく通る声音《こわね》で言い切った。
「理由は簡単だ。敵がそうしてほしくないと願っているからだ。せっかくだから、敵の嫌がることをしてやるさ」
補足するように説明した。
「見りゃわかる。借り物のザーマイン軍はともかく、中核を成すルナン軍は戦意が薄い」
「いや、しかしですね」
などと言いかけたレニを遮《さえぎ》り、レインは簡単に命令した。
「いいから、先陣に行ってろ。俺もすぐに行く」
あからさまに肩を震わせた副官が行ってしまうと、レインは次にセノアとガサラムを見て、同じく声をかけた。
「本陣の警護は頼むぞ」
「はっ」
セノアは威勢のよい返事だったが、ガサラムの声は少し元気がなかった。もちろん、レインには理由もわかっている。自分の故郷であるファヌージュが危ういせいだろう。ザーマイン本国を進発《しんぱつ》した敵本軍は、今もファヌージュを目指して行軍中のはずだからだ。
遠い異境の地にあって、ガサラムはだいぶ気を揉《も》んでいるようである。
「ガサラムっ。おまえの心配はわかる。だが、それについては俺も考えていることがある。後で相談に乗るから、今はこの戦いに集中しろ。いいな」
重ねて声をかけると、ガサラムはぱっと顔を上げた。ゆっくりと苦笑を広げる。
「俺としたことが……隠し切れてませんでしたかね」
頭を掻《か》きつつ、ガサラムは深呼吸した。
「わかりました。ちょいと気分を切り替えますぜ。みっともないところはもう見せません……安心してくだせぇ」
レインは笑顔で頷《うなず》き、次に急拵《きゅうごしら》えの直属部隊に囲まれた、シェルファのそばに馬を寄せた。皆の視線のせいか、実に居心地悪そうだったシェルファは、レインがそばに来るとあからさまにほっとした顔を見せた。
「レイン!」
思わず、といった感じで手を伸ばしかけ、危ういところで下ろす。こういうところは、幾《いく》ら注意しても直らない彼女である。
レインは意識して真面目《まじめ》な顔を作った。
「レニと話してたのがお耳に届いていたかもしれませんが、俺は今からちょっと敵陣に突撃《とつげき》してきます」
あっけらかんとした言いように、こちらをチラチラ振り返っていたアベルが目を丸くしていた。
対照的に、シェルファのそばで警護に就《つ》いていたシルヴィアは、それを聞いてくすっと笑った。
シェルファは一瞬だけシルヴィアに目をやり、こちらは絵に描いたような心配顔で尋《たず》ねてきた。
「また先頭に立つのですか……もう止めはしませんけど、気をつけてくださいね。間違っても怪我《けが》などしないように。危ないと思ったら、すぐに後退してくださらないと駄目《だめ》です。それから――」
俺のお袋かよおまえは、というくらいの長い長い注意事項を辛抱《しんぼう》強く聞いてやり、レインはお得意のふてぶてしい笑みでもって応えた。
「臣下《しんか》へのいたわり、誠に有り難く。では、ちょっと行ってきますんで」
「気をつけてください、本当に。……クリス、レインをお願いね」
クリスにまでそんな頼み事をするシェルファだった。クリスはクリスで、頭を撫《な》でられたお礼か、小さく嘶《いなな》いて応えた。
レインは最後にもう一度低頭し、今度はシルヴィアとノエルの二人に声をかけた。
「つーわけで、後は頼む。姫様の警護、よろしくな」
目を向けると、ノエルはむっつりとただ頷《うなず》いた。いかにも気乗り薄な様子だが、レインは彼女を全く疑っていないので、(相手のやる気は別として)問題はない。そのうち馴染《なじ》んでくれるだろうと思って――いや、期待している。
一方シルヴィアは、返事の代わりにいつもの姿勢のよい歩き方で近寄り、こちらは遠慮《えんりょ》なくレインに「ちょっと降りてくれない?」などと頼んだ。
レインが言う通りにしてやると、彼女はためらいもなく手を伸ばしてきた。
乱れた黒いシャツの襟元《えりもと》を軽く直し、それが終わるとつま先立ちになって、そっとレインを抱きしめた。互いの頬《ほお》と頬《ほお》とを軽く合わせる。周囲から……特にシェルファの方から息を呑《の》む音などがしたが、本人は至って平然としたものである。
「まあ、相手があれじゃーね。あんまり注意する必要もないとは思うけど。一応の用心はしてよね。あたしのためにも」
あたしのためにも、の部分にヤケに力を入れるシルヴィアである。周囲の驚きやら視線やらが、もはやシャレにならないレベルに達していたが、シルヴィアはまあこういう女性なので、もちろんレインは驚かない。
彼女にとっては抱き付くくらいは挨拶《あいさつ》のつもりなのだろう……おそらくは。
なので、笑って「俺より姫様のことを頼んだぞ」と返すに留《とど》めた。
そして自《みずか》らも先陣に向かうべく、レインはクリスに騎乗《きじょう》して立ち去った。
今の短いやりとりのせいで、ノエルはレインを見送るより、シェルファとシルヴィアに目を奪われてしまった。
この二人の今の様子を見るに、男女関係には極めて鈍《にぶ》いノエルの目から見ても、どうもレインと何かありそうだった。というか、あからさまに怪しいような気が。
しかもシルヴィアはもちろんのこと、いかにもなよなよした外見のシェルファでさえ、どこか得体の知れない部分がある。それは、夜の歩廊《ほろう》で経験済みである。魔族たるノエル流に言い換えれば、
「この女、実力を隠しているのか?」となる。
そのシェルファは、シルヴィアの「熱い抱擁《ほうよう》」を見て、自《みずか》らも真似《まね》しようとでも思ったのか、慌《あわ》てて馬を降りたりした。あいにく、気づかずにレインが騎乗《きじょう》して去ってしまい、がっかりした顔をしている。ノエルの目で見てさえ、その表情の変化は一目瞭然《いちもくりょうぜん》である。
――全くもって気に入らない。
そして今、レインとやたらと親密なところを見せつけたシルヴィアの方は、ノエルの基準で見ても侮《あなど》りがたい力を持っているのにも関わらず、なんのつもりか力の波動を弱っちい人間並に抑え、すまし顔でシェルファのそばに佇《たたず》んでいる。
ノエルと同じく、いやそれ以上に懸命《けんめい》な目で、シェルファもじぃいいいっとシルヴィアの横顔を眺めているのにも関わらず、シルヴィアはたまに視線を合わせても笑顔を見せるのみで、別段、先程の件について言い訳するでもない。
――全くもって気に入らない。
気に入らないことばかりだが、レインに頼まれた以上、あの| 姫 王 《プリンセスロード》の警護は務《つと》めるつもりだった。
ノエルにしては矛盾《むじゅん》した行動だが、自分を信じて主君の警護を頼んできたレインに、実は少し――いや、だいぶ感動もしていた。
立場が逆なら、乱暴でがさつで容赦《ようしゃ》のない性格の私など、一体誰が信じる? 逆に、「主君を殺されるのでは?」と警戒するのが当然なのだ。だがレインは、そのような疑いなど全く持っていないらしい……それが、ノエルの琴線《きんせん》に触れたのだった。
なのでノエルは、気が進まないながらも、むっつりとシェルファのそばに突っ立っている。
アベルとかいう金髪がさっきから厳しい目でこちらを見ているが、あんな木《こ》っ端《ぱ》はどうでもよろしい。
――ノエルはアベルをこっぴどい目に遭わせたことを、もはやすっきりと忘れているのだった。
遙《はる》か前方の先陣より、レインの命令が聞こえた。
「先陣、攻撃準備! 狙いは翼陣形の中央、敵の本陣だっ。あの陣形の弱点は核となるそこにある! 他には目をくれるなっ。しゃにむにそこを攻めろっ」
一呼吸置き、大気を揺《ゆ》るがすような号令。
「先陣、突撃《とつげき》せよ! 俺につづけぇーーーっ!!」
声だけを聞けば、さほど大音量ではないのだろう、実は。しかしその叱声《しっせい》には、明らかに敵味方を問わずに注目させてしまう不思議な力があり、それはノエルですら例外ではなかった。
シェルファやシルヴィアばかりを睨《ね》め付けていたのに、一気にそちらに目がいってしまったくらいである。
騎馬部隊の最先頭にレインその人がおり、騎乗《きじょう》した白馬がまた、ノエルが呆れるほど速い、速いっ。全軍を置き去りにして、レイン一人が突出《とっしゅつ》している。当然、こういう無茶をやらかすと普通は真っ先に死ぬのだが、そうはならない。
放たれた矢は、レインの突撃《とつげき》速度が速すぎて全て狙いを外し、待ちかまえる騎馬部隊にまで動揺《どうよう》が伝染する。レインが長槍《ながやり》を振りかざし、怒濤《どとう》のごとき勢いで敵陣に突っ込むと、わっとばかりに敵兵共が退《ひ》いた。
やや遅れて、そこへレインの部下達が喊声《かんせい》を上げながら突っ込んでいく。
それはあたかも、溶けたバターにナイフを入れるような容易さであり、彼の強さを知るノエルですら唸《うな》ってしまう。あの男、よい場所に攻撃を集中する! 指揮官としてもなかなかのものだな、と素直《すなお》に感心した。
真っ先に敵左翼前陣の部隊が、潮が退《ひ》くように戦場を離脱し始めた。ただし潰走《かいそう》ではなく、あくまでも静かに、そして整然と。明らかに敵指揮官のなんらかの判断だろう。
そこはサンクワール軍があえて避けていた陣地《じんち》なので、痛手を受けたせいではないはず。怯懦《きょうだ》か……あるいは何かの計略かもしれない。
とはいえ、計略にしても事前にレインが仕掛けたものなのは間違いない。なぜなら、その左翼前陣が崩れたのを見た敵軍が、一斉に動揺《どうよう》したからだ。綺麗《きれい》な翼陣形は、もはや崩れ始めている。
「アムル将軍があっ。アムル将軍が退却なさるっ」
敵兵の悲鳴のごとき声が、ノエルには確かに聞こえた。
戦局は早くも急展開を迎えていた。
当然ながら、シェルファを初めとして、サンクワールの本陣付き兵士達も全員、レインの動きに注視していた。
――そして、見えざる敵は、まさにその瞬間を狙っていたのだ。
それは突然だった。
ノエルの心中で、戦士としての直感がけたたましく警報を発した。
『危ないぞ、周りを見ろっ』と。
勘に従い、さっとシェルファの方に目を戻すと、生《なま》意気《いき》にも既《すで》にシルヴィアが動いていた。
「甘いわよっ!」
今まで彫像化《ちょうぞうか》していたのが嘘《うそ》のような神速で、ぶわっと回し蹴《げ》りを放っている最中だった。
他人から見れば虚空《こくう》を旋回《せんかい》したようにしか見えない蹴《け》り足が、何かもやっとしたモノを両断した。
次の瞬間、誰かが転移してきた。
そいつは確かに、いきなり出現した。
「おっとー! あぶねーあぶねーっ。ははっ」
無精髭《ぶしょうひげ》の大男が、ダガー(短剣)片手に敏捷《びんしょう》に飛び退《の》いたところだった。
シルヴィアとノエルを除き、未《いま》だに虚《きょ》を衝《つ》かれたままの中、大男は気楽に笑う。
「そこの姫王さんを見て、こりゃ絶好の機会だから――と思ったんだがな。なかなかうまくいかねーもんだ」
「貴様っ」
ノエルがすぐさま手に光剣を生じさせ、シルヴィアはさりげなくシェルファを庇《かば》うように立つ。
おまけに、完全に意表《いひょう》を突かれていたシェルファの部隊も、「曲者《くせもの》めっ」と呼ばわりつつ、ようやく男に迫りつつある。
しかしそいつは、悠然《ゆうぜん》と構えたまま少し後退《あとずさ》ったのみである。逃走の機会を逸したと見たのか、逃げようともしない。
「貴様……私の眼前《がんぜん》で、よくもナメた真似《まね》をしてくれた。いい度胸だ、はらわたを引きずり出してくれる」
ノエルの声音《こわね》は当然、完全に本気である。
溢《あふ》れんばかりの魔力のオーラが洩《も》れだし、全身を輝かせ始めている。
シルヴィアがおっ被せるように、「そうよ。あたしが真っ先に気付いたから良かったものの」とかさりげなく主張したりして、怒りがさらに上乗せされた。
ツインテール女を睨《にら》んでやったが、シルヴィアはノエルの方を見もしなかった。
厚かましい刺客《しかく》が、シルヴィアに言った。
「いやー。そこの黒マントのねーちゃんはありあまるほど力の波動を出しまくってたからちゃんと警戒してたが……まさか、おめーみたいなのがまざってるとは。あえて力を抑えていたらしーな。参ったね、はは」
男のセリフに、ノエルはようやく腑《ふ》に落ちた。そうか……それであの女はわざと。
勘に障《さわ》るヤツだ!
密《ひそ》かにノエルが怒りを燃やしている間に、「ただの木《こ》っ端《ぱ》」である金髪のアベルが、張り切って突っ込んでいった。
「おのれ、僕の陛下に対してっ」
全く手加減ナシで振り下ろされた魔剣を、刺客《しかく》は身体をただ半歩ずらしたのみで、鮮《あざ》やかにかわして見せた。
「まだ本気になるまでもねーなぁ」
「――くっ」
男の手にしたダガーが煌《きら》めき、アベルの首筋に赤い筋を刻む。ギリギリでかわしたものの、次に男の蹴《け》り足が霞《かす》み、アベルは今度こそ蹴《け》り飛ばされた。
「弱いヤツは、いいから引っ込んでいろ! かえって邪魔《じゃま》だ、愚《おろ》か者っ」
そう叫んだノエルなのに、その叫び声が終わらぬうちに、さらに数名の兵士がまとめて刺客《しかく》に飛びかかった。
しかし、結果は無惨《むざん》だった。
敵はまだ腰の長剣も抜かず、ただダガーのみで迎え撃ったのに、三名もの兵士が、ことごとく血煙《ちけむり》と共に倒れ伏す。全員、喉《のど》を真一文字に裂かれている。
シェルファが小さく悲鳴を上げた。
「チビ!」
振り返ったレインの顔に大いなる危惧《きぐ》が浮かんでいるのを、追いついたレニは確かに見た。
――本陣で何かあったんだ!
直感でそれを悟《さと》る。でなければ、この人がこんな場面で呆然《ぼうぜん》とするはずがない。
動きの止まったレインに向け、ここぞとばかり突き出された敵の槍《やり》を払いつつ、レニは叫んでいた。
「行ってください、将軍! こ、ここは自分達がなんとか――おわっ」
叫んでいる途中で敵に体当たりされそうになり、レニはセリフを飲み込む。
落ち着け、落ち着け……僕に将軍の真似《まね》は出来ないが、しかし手伝うことは出来る……今までだってそうしてきたんだっ。
同じセリフを心中で繰り返し、レニは重ねて叫ぶ。――ヤケクソの声で。
「早く行ってくださいっ。自分の気が変わらないうちに!」
視界の隅で黒い影が動き、何か声が聞こえたが……レニは敵とやり合うのに夢中だった。
というか、こんな場面で気を抜くほどの度胸はないっ。
呻《うめ》き声と共に兵士達もやや退《ひ》き、ようやくノエルが歩を進めようとした。
「ふん。雑魚《ざこ》を相手にして楽しいか? 私もそこの金髪と同じように扱えるかどうか、試してみるがいい!」
「まあ待てよ。俺はなにも、そこの姫さんを殺す気はなかったんだぜ?」
刺客《しかく》が今頃になって弁解した。
一応は足を止めたノエルに、
「ただなぁ、噂《うわさ》に聞いてた以上の美形だったんで、ちょっと誘拐して、一晩だけ楽しもうかと思ってな。で、後は依頼主に引き渡すと。こういう計画だったんだ」
ノエルが激怒《げきど》したのは当然である。
元々、その手の欲望を見せる男には、必要以上に厳しいのである。
「余計に悪いっ。そういう腐った男は、この私が殺す!」
しかし飛びかかる前に、刺客《しかく》はさっと手を振った。ノエルと、それからやや前へ出たシルヴィアに向かって。
すると二人の周囲をそれぞれ囲むようにシールドが出現し、ノエルとシルヴィアを閉じこめた。さらに男は身軽に跳躍《ちょうやく》し、あろうことか、シェルファの数メートルほど先に着地を果たした。
「ほい、これで終わり」
仕上げに両手を広げると、今度は男とシェルファを取り囲むように、半透明のシールドが出現した。
「きゃっ」
白馬を降りていたシェルファは、刺客《しかく》の出現に後退《あとずさ》った――が、背後はシールドでそれ以上は逃れようがない。
「くそっ、魔法使いかっ。しかし、ルーンの詠唱《えいしょう》がなかったぞ!」
駆け付けようとする朋輩《ほうばい》のセノアを抑えつつ、こっそり刺客《しかく》の背後に近寄っていたガサラムが呻《うめ》いた。
「ははは。慌《あわ》てとるなー。ま、後は姫さんを頂いてさっさと引き上げるだけだ。悪く思うな、おめーら」
勝手なことを言った刺客《しかく》だが、すかさず響いた破壊音に笑みが多少|強張《こわば》る。
ノエルもシルヴィアも即座に、しかも引き裂くような強引さでもって、シールドをぶち破ってしまったのである。まずはノエルが、漆黒《しっこく》のマントを脱ぎ捨てて吐《は》き捨てる。
「貴様、とことん私を甘く見ているようだな。この程度の小細工《こざいく》で私を出し抜いたと思っているなら大間違いだ、人間! 楽には死なせんから、そう思えっ」
シルヴィアも珍しくノエルに同意した。
「まったくだわ。後でレインに、余計な言い訳をする羽目になっちゃったじゃない。この償いはしてもらわないとね」
その瞳は、既《すで》に綺麗《きれい》なワイン色から、白目までも染め抜いた真紅《しんく》の色に変わりつつある。この刺客《しかく》は確かに、彼女を本気にさせたのだった。
不気味《ぶきみ》なほど静かな足取りで迫る二人に、刺客《しかく》は顔をしかめた。
「おいおい……とんでもねー女どもを侍《はべ》らしてんな、レインってのは。聞いてねーぜ、こんなの。割り増し料金もらわねーと、やってられねぇ」
さすがに笑みは消えていたものの、まだ男は余裕を失ってはいない。
シルヴィアとノエルの位置を確認し、とっさに覚悟《かくご》を決めた。二人にとっちめられるより先に、シェルファに飛びかかろうとしたのだ。しかしその刹那《せつな》、思わぬ人物から叱声《しっせい》が飛んだ。
「下がりなさいっ!」
その叱声《しっせい》は、刺客《しかく》はおろか今の今まで周囲で無駄《むだ》な大騒ぎを演じていた兵士達をも、ぴたっと黙らせた。いや、シルヴィアとノエルの二人でさえ、今にも走り出そうとしていたのに、はっと声の主を見た。
声の主とは、意外なことについ今し方まで恐怖に満ちた表情で震えていたシェルファその人であり、別人のように厳しい表情で刺客《しかく》の男を見据えている。
か細い両腕で自分の身体を抱いていたのが、今はぴしっと背筋《せすじ》を伸ばし、威厳《いげん》すら感じさせた。遠くでやっと立ち上がったアベルが彼女を見て、「陛下……なんと凛々《りり》しい」などと陶然《とうぜん》と囁《ささや》いたくらいだ。
ノエルはガルフォート城での出来事を思い出し、目を細める。
――この女、また奇妙な変化を遂《と》げたのか? いや、しかし今は、あの晩のような桁外れの力の波動を感じないが。
見守るノエル達には一瞥《いちべつ》もくれず、シェルファはただ、常に腰に帯びていた刀をすらりと抜く。構えもなにもなく、ただ片手で刀を保持し、びたりと刺客《しかく》に向けた。
今度は、刺客《しかく》やノエル達にのみ聞こえる声で宣告《せんこく》した。
「……わたくしに触れていい殿方はレインのみです。下がりなさい!」
「なにを言い出すかと思えば、ただのヤケクソか。いきなり別人でも入ったのかと思ったぜ。だが……違うな」
無精髭《ぶしょうひげ》の刺客《しかく》は、肩をすくめた。
「悪いがなぁ、姫王さんよ。触らないことには、おめーを誘拐できねーしな。というか、ここはおめーを盾《たて》にして、出直す手だ。今から今晩を楽しみにしてな!」
シェルファはゆっくりと微笑《ほほえ》んだ。
もはや表情には一片《いっぺん》の恐怖もなく、碧眼《へきがん》が嬉しそうに光っている。
「貴方《あなた》の言うことはよく意味がわかりませんが、いずれにせよ、ご希望には添えません。だってほら? レインが来てくれましたもの」
あたかも、彼女のセリフにタイミングを合わせたかのようだった。
風切《かぜき》り音《おん》と共に、天より長い槍《やり》状の物が飛んできて、シェルファと刺客《しかく》を覆ったマジックシールドに直撃した。そのままあっさりとシールドをぶち抜き、大地にぐさりと刺さる。
蛍火《ほたるび》のような光をまき散らし、最後のシールドが消滅《しょうめつ》した。
「いきなりなんだ!」
未《いま》だにダガーを手にしていた刺客《しかく》は唸《うな》った。
見れば、自分とシェルファの中間に突き刺さったそれは槍《やり》などではなく、長さ三メートルはあろうかという、長大な魔剣だった。青き光芒《こうぼう》を放つ魔剣が、男がシェルファへ接近するのを阻むかのように屹立《きつりつ》している。
そして雲一つない空に一瞬影が差し、今度はクリスに乗ったレインが降ってきた。そう、まさしく降ってきたとしか言いようのない登場の仕方であり、レインは兵士達の人垣をクリスで易々《やすやす》と飛び越え、舞い降りたのである。
黒衣《こくい》のせいで目立たないが、既《すで》に敵兵の血をだいぶ吸ったせいか、上衣は目に見えて湿っている。
レインがクリスから降りると、長大な魔剣――つまり傾国《けいこく》の剣は刺さっていた大地から瞬間移動し、その右手に収まった。レインはさらにぶんっと魔剣を一振りし、あっさりと刀身を元のサイズに戻す。
じろっと刺客《しかく》を睨《にら》んだ。
「おい、人が先頭に立って戦っている間に、随分《ずいぶん》と勝手な真似《まね》をしてくれたな。例の女の手下か、貴様」
「まーな。ただし、雇われだけどよ」
皆が注視する中、刺客《しかく》は至極《しごく》簡単に頷《うなず》いた。
「顔合わせは初めてになるかな。俺の名はロイだ。おめーほどの知名度はないかもしれんが、元|傭兵《ようへい》なら、小耳に挟《はさ》んだことくらいはあるだろ?」
レインは僅《わず》かに顔をしかめた。
「知ってるさ……俺は一時、おまえを捜していたこともある」
「ほう? あの女が言うことにゃ、おめーは昔、知られざる天才剣士と呼ばれていた伝説の傭兵《ようへい》だそうだが……そんなヤツに捜してもらえるたー、俺も出世したもんだ」
「おまえこそ、不死身だとかいう噂《うわさ》を聞いたがな……あれはただの誇張《こちょう》か?」
「ああ、そりゃ真実味のある噂《うわさ》かもしれんぜ」
にんまりとロイが笑った。
周囲で十重《とえ》二十重《はたえ》に囲む兵士達など、まるで眼中にないような態度である。
「ほぉ? ならば俺が、死体にして噂《うわさ》の真偽《しんぎ》を試してやろう」
宣告《せんこく》の直後、レインは即座に動いた。静止状態から、爆発的な瞬発力にものを言わせて敵の眼前《がんぜん》に躍《おど》り込む。周囲の仲間が目を瞬《またた》いた時には、鮮《あざ》やかな残光を伴い、魔剣がロイの身体を横薙《よこな》ぎにしていた。
しかし、ロイの姿はまたしも消えた。
傾国《けいこく》の剣は、何もない空間に軌跡《きせき》を残しただけである。
「むっ」
レインは剣を振り切った姿勢から大きく跳躍《ちょうやく》し、その場を離れた。素早く辺りを見て取る。……しかし、いない。もはやロイの姿は何処《どこ》にもなかった。
代わりに、シェルファが胸に飛び込んできたのである。
レインは何よりもまず、戦闘《せんとう》継続中の戦場を振り返った。幸いにして、旧敵たるルナン軍は予想通り総崩れの有様《ありさま》であり、レインの後退による影響はあまりない。敵の有力な将軍の一人、アムルが早々に撤退《てったい》してくれたのが助けとなったようだ。
さすがに、面白いように敵|陣地《じんち》を蹂躙《じゅうりん》していた味方の攻撃はやや鈍《にぶ》ったが、それとて、もはや戦局を左右する決定打には成り得ないはず。敵将の幾人かは逃したが、もはやサンクワール軍の勝利は動かないだろう。
呟《つぶや》きが洩《も》れる。
「ただ……一人、めんどくさいヤツがいたんだがなぁ。逃げられちまった」
どさくさに紛れて未《いま》だにレインに抱き付いていたシェルファが、小首を傾《かし》げた。
「どなたでしょう?」
「あ〜、例のジョシュアとかいう若者ですよ。姫様に取り入ろうとした」
「あの人が、ルナン軍に?」
あからさまに眉根《まゆね》を寄せたシェルファに、さようです、とレインは頷《うなず》く。そっとシェルファを引き離した。
「返り血がつきます。とにかく、ご無事で何よりでした。……お怪我《けが》もないですね?」
「……たった今、心が少し傷つきました」
シェルファが唇を尖《とが》らせたが、レインは咳払いで答えた。仲間がどんどん集まりつつあるのだ、今は。直後に歩み寄って来たシルヴィアが、微妙な目でレインとシェルファを見比べてから報告してくれた。
「真っ先に主張しておくけど、別にレインが飛んでこなくても、あの厚かましい男は、あたしがなんとかしてたわよ?」
……報告というか、強い自己主張だった。
レインは苦笑し、
「わかってる。ノエルだっていたんだし、その辺は疑っていない」
遅れてやってきたノエルが、それを聞いてちょっとばつの悪い顔をした。
「いや……反撃が遅れてしまったからな。宣告《せんこく》通り、この手で殺してやろうとこだわり過ぎたようだ」
ノエルらしい、物騒《ぶっそう》な返事である。
「いいさ。みんな無事――とは行かなかったが、とにかく姫様は無事だった」
絶命した兵士を見やり、レインはため息をつく。
どっと集まってきた仲間を見渡し、
「誰か、あいつの接近に気付いたヤツは?」
順番に見ていき、レインは最後にシルヴィアに目を留める。
「あたしが気付いた時には、もう直前だったわね……それも、あいつを見た訳じゃないわ。ただ気配《けはい》を感じて反応したのよ、あたしは」
「あんたほどの戦士が直前まで気付かないってのは、ちょっと妙だな……まあ、転移してきたなら、仕方ないのかもしれないが」
あんたじゃなくてシルヴィアって呼んでくれなきゃ、などと訂正を入れる彼女に無意識に頷《うなず》き、レインは考え込む。
あいつには何か妙な切り札《ふだ》がある感じだ……不死身のロイ……なぜ不死身なのか、そこら辺を見極めないといけないだろう。
「あのぉ」
下級兵士の一人が、おずおずと話しかけてきた。レインの配下ではなく、新設した親衛隊の兵士であり、つまりはシェルファの本隊付き兵士だった。
レインが促《うなが》してやる。
「どうした? 遠慮《えんりょ》なく、なんでも言ってみろ」
「は、はいっ。……彼は先程、ロイと名乗っていましたが」
大人しそうな顔の若者は、少し困ったようにレインを見た。
「しかし私は、あの人に見覚えがあるんです。あいつ、俺と同じ村出身の、デニスっていう名の傭兵《ようへい》ですよ。ロイなんて名前じゃないです」
全員の注目を浴びたせいか、若者はややうろたえたように説明した。
「顔見知り程度ですが、見間違えるはずはないです。私が子供の頃、故郷では彼が自警団のメンバーとして活躍《かつやく》していたんですから。私が村を出る前、彼も傭兵《ようへい》としての食い扶持《ぶち》を探しに中原へ旅だったはずなんですが……」
「間違いないか?」
「は、はい! ですがあいつ、私の方を見ても、全然反応もしませんでした。あいつだって、私の顔は覚えているはずなのに」
少し考え、レインはその兵士を安心させるように肩を叩いてやった。
「よく話してくれた。奇妙な話だが、俺もおまえの見間違いだとは思わん。何か理由があるんだろう……探れるだけ探ってみよう」
「はっ。お役に立てず、申し訳ありません」
真っ赤な顔で、若者は頭を下げた。
参考になればと、自分の故郷の名も明かしてくれた。
さて……これが何かのヒントになればいいが?
遠くで味方の勝《か》ち鬨《どき》を聞きつつ、レインの心は一人、晴れなかった。
まだルナン軍は壊滅《かいめつ》したわけではなく、逃れた敵軍を追わねばならないが、先行きに大きな不安ができたのである。
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[#挿絵(img/06_253.jpg)入る]
第六章 戦士の国、ファヌージュ
シャンドリスの北方は、かつては少数部族が支配する土地であったが、しかし彼らはもはやこの地を去り、今は暫定的《ざんていてき》にシャンドリス領となっている。
――ただし、勝ち気で強気なフォルニーアでさえ、絶対に手を出そうとしない場所が、この地のさらに北にあった。
それは、周辺の民が「魔物の森」と呼ぶ広大な森林地帯であり、位置的には西の旧ルナンと東のフェリアーナに挟《はさ》まれた場所に当たる。
古来より、そこは魔獣《まじゅう》達の棲《す》む場所として知られ、「全ての魔獣《まじゅう》の故郷」とさえいわれている。
同じ森林地帯でも、例えば聖域と呼ばれる地域なら、一部の者には「古龍《こりゅう》の住まう神聖なる場所」として崇《あが》められている。しかしこの魔物の森は、逆に呪われた場所としてあまねく知られている。人間やエルフなどの人型種族達が決して寄りつかず、仮に迷い込んでも、滅多《めった》に生きて出られないのが、その理由だ。
ミュールゲニアには一般人が決して踏み込まない場所が何カ所かあるが、この森は間違いなく、その最たる地域といえるだろう。
太古の昔、魔族達が突然、どこからともなくこの大陸に侵攻《しんこう》してきた時、人々は最初、「ヤツらは魔物の森に潜《ひそ》んでいたのではないか?」と噂《うわさ》したくらいである。なんの信憑性《しんぴょうせい》もないので、今ではさすがにこの説を信じる者は少ないが、そういう噂《うわさ》が流れるほどに、この森は人間が寄りつかない場所なのだ。
人ではなく魔獣《まじゅう》が支配する領域たる世界に、好んで足を踏み入れる者はいない。
しかし今、その魔物の森の中央に、天から一人の女性がすうっと降りてきた。
派手《はで》なドレス姿に、漆黒《しっこく》の翼を背中に広げた彼女は、レイグルの配下たるサラである。
ファヌージュへの行軍の途上にあったサラだが、レイグルの別命を受け、急遽飛来《きゅうきょひらい》したのだった。
森に降り立ったサラは、ゆっくりと薄暗い周囲を見渡す。……魔獣《まじゅう》の気配《けはい》がひたひたと押し寄せてくるのを感じ、にんまりと笑った。
「なるほど、これはいいわ。レイグル様もお喜びになるだろう」
喉《のど》の奥で含み笑いを洩らし、背中の翼を消す。代わりに両腕を天に差し上げ、力強く叫んだ。
「さぁ、あたしの元に集まるのよ、可愛《かわい》い魔獣《まじゅう》達。魔界ほど活《い》きのいいのは望めないだろうが、その分は数で補《おぎな》えばいいさね!」
そのセリフが終わらぬうちに、サラの身体が眩《まばゆ》い魔力のオーラに包まれていく。それを見て、既《すで》に眼前《がんぜん》まで接近を果たしていたヘルハウンド数頭が、一斉に鳴いた。しっぽを後ろ足の間に挟《はさ》み、この凶暴《きょうぼう》な魔獣《まじゅう》がいかにも怯《おび》えたように。
サラの魔力に身体を縛《しば》られ、精神ごと鷲掴《わしづか》みにされて支配を受けつつあるのを感じ、彼らは思わず恐怖の鳴き声を上げたのだった。
この世界の召喚士《しょうかんし》などとは比較にもならない桁外れの魔力で、サラはたちまち魔物の森の多くの魔獣《まじゅう》を支配下に置いてしまった。
「ふふふ……いいわよおまえ達、なかなかの戦力になりそうじゃないさっ」
サラは力を集中しつつ、笑みを広げる。
「さあ、このシケた森を出て、存分に力を振るうがいいわ。人間達に、もはや時代が変わったことを教えてやりな!」
サラの呼びかけに答えるかのように、森全体が大きくざわめいた。それは名だたる魔獣《まじゅう》達が一斉に走り出した足音であり、そして咆吼《ほうこう》する声だった。
己《おのれ》の成したことに満足したサラは、また翼を広げ、さっさと帰還してしまった。
――☆――☆――☆――
シャンドリスの主城サダラーンでは、フォルニーアが右腕と頼むジョウ・ランベルクに、今後の相談をしていた。
正式な軍議ではなく、いわば個人的な会見であり、フォルニーアの私室での密談である。
これはしばしばあることで、口さがないメイドの一部からは、「もしやお二人でいけないことをなさっているのでは?」などと噂《うわさ》されることさえある。
お陰で、フォルニーアに古くから仕える執事《しつじ》の一人が、この噂《うわさ》を彼女に報告し、メイド達を処罰《しょばつ》するように進言したこともあった。
しかしフォルニーアはその時、笑って「捨て置けばよい」と述べたのみである。よって、今でも宮中ではその手の噂《うわさ》に事欠かないのだった。
そして今日、明るい日が差す私室に、フォルニーアはまたもやジョウを呼びつけている。政策の相談というかただのお茶会というか、ともかく話し合いをしていたのである。
「……レイグルが動いたそうだが?」
中原産のウイスキーを一口|煽《あお》り、フォルニーアがテーブルの向こうのジョウをちらっと見る。
いつものことだが、二人の話し合いはまず、フォルニーアが主題となる話題をさりげなく持ち出し、それについてジョウが答えることでどんどん広がっていくのである。
そして今、フォルニーアの関心はザーマインにあった。
ジョウが軽く低頭した。
「はい……ある意味では、今回の遠征《えんせい》は当然でしょう。ファヌージュはザーマインと西の国境を接していますが、さらに東側にはテセトがあります」
フォルニーアは得たりとばかりに頷く。
「攻めるのに都合《つごう》がよい……というわけか」
「いかにも。そしてもし、『戦士の国』とまで呼ばれていたファヌージュが蹂躙《じゅうりん》されれば、あの周辺は後は小国ばかり……おそらく大陸北方地域は、こぞってザーマインになびくでしょうね」
「……あの国には、ファヌージュの危機を常に救ってきた、守護三騎士がいると聞くが?」
「私も噂《うわさ》は聞いたことがあります。……ファヌージュの三騎士といえば、北方では有名だそうですから。見かけは若いという話なのに、もう数十年も噂《うわさ》になっていますね」
フォルニーアは軽く頷《うなず》き、また酒を一口飲む。ずばり訊いた。
「で、それを踏まえておまえに問う。ファヌージュはザーマインを防げるか?」
「……難しいところです」
ジョウはグラスに手もつけず、ぽつんと答えた。
「彼《か》の国は現国王のフェルナンド殿を初め、名だたる騎士が煌星《きらぼし》のごとく揃っております。かつて海を渡ってやってきた戦士団が作った国でもあり、強国といえましょう。しかし……今のファヌージュには、残念ながら策を立てることに長《た》けた人物がいません」
「力のみということか?」
「私はなにも、彼らが愚《おろ》か者揃いだ、と申し上げているのではありませんよ」
ジョウはわざわざそう断りを入れた。
「しかし、兵力は上手く運用してこそ、有効な武力に成り得るのだと私は思います。その視点から見れば、今のファヌージュでは楽には勝てますまい……ましてや、あのレイグルが相手ならば」
二人の間に沈黙《ちんもく》が広がった。
あの男の途方もない力は、フォルニーアもジョウも、嫌というほど思い知らされたばかりである。
思い出して楽しいはずがないのだ。
フォルニーアは首を振り、彼女らしく明快に言った。
「よし。この際、ファヌージュは落ちると仮定しよう。おまえが危ぶむ時は、大抵|駄目《だめ》だからな……。問題はその先だ。ザーマインの侵攻《しんこう》を止められず、中原の国々までもが陥落《かんらく》することになれば、いよいよ我がシャンドリスも他人事ではいられなくなる。まだ幾《いく》らか時間は残されていようが……。そこで、第二の質問だ。……レインはどこまでアテにできる?」
ジョウは首を傾《かし》げ、主君を見返した。
「仰《おっしゃ》る意味がよくわかりませんが」
お気に入りの真紅《しんく》のドレス姿のフォルニーアは、思わず苦笑した。スリットの入ったドレスの足を組み替え、椅子《いす》にもたれかかる。
「これはすまぬ……質問が性急すぎたな。つまり、私はこう問いたいのだ。サンクワールを実質的に動かしているのは、シェルファ殿というよりは、レインだ。あの国は今、レインの方針で動いているといっても過言《かごん》ではあるまい。我らは今、そういう国と同盟関係にあるが、この同盟とやら、どこまでアテにできるのかを訊きたいのだ。あの男は我が国が最も危ない時、きちんと同盟を履行《りこう》する気があるだろうか?」
「フォル様はどうなのです?」
ジョウは傲然《ごうぜん》と顔を上げて返す。
「失礼なヤツだな、おまえは。私は一度|交《か》わした約束は破らぬぞ」
心外である、という思いを込めた返事に、ジョウは大きく頷《うなず》いた。
「レインも同じですよ、フォル様。あの男もまた、そういう面では非常に義理堅い男だと思います」
「……自分の主君であった先王には、救いの手を差し伸べなかったようだが」
「ダグラス王は、ルナンとの戦《いくさ》が片づけば、レインを殺すつもりだったようです」
なぜそれを知っているのかと不審《ふしん》を抱くフォルニーアに、「情報を集めるのも私の役目ですから」と内情に詳しい理由を説明し、ジョウは続ける。
「彼はレインの力を利用していただけに過ぎず、レインもまた、それをよく知っていました。加えてダグラス王は、かつて友人のラルファスをも見捨てる所行《しょぎょう》があったと聞きます。おそらくは、二人とも邪魔《じゃま》になっていたのでしょうね。……君主の資格なしとレインが判断したとしても、不思議はありますまい」
遙《はる》かな昔、ジョウが語ってくれたことを、彼女は今更ながらに思い出した。
「君臣《くんしん》の絆《きずな》は一方的なものではありません。主君の行い如何《いかん》によっては、臣下《しんか》の者が愛想《あいそ》を尽かすことも有り得ます……フォル様、ご自身が玉座《ぎょくざ》に就《つ》かれた時、どうかそれをお忘れなきよう」
当時、文武両道《ぶんぶりょうどう》に渡ってフォルニーアの師でもあった彼は、噛《か》んで含めるようにそう言い聞かせたものである。
フォルニーアは微笑《びしょう》した。
「よくわかった。いささかレインに甘い見方のような気もするが、ひとまず置こう。しかしジョウ、おまえは重大な可能性を無視していないか?」
沈黙《ちんもく》をもって促《うなが》すジョウに、フォルニーアは一番の危惧《きぐ》を指摘してやる。
「我らとの同盟以前に、あのレインがサンクワールを乗っ取るかもしれぬ。……あの男にはそれだけの力がある。それともおまえは、その可能性すら皆無《かいむ》と見るのか」
ジョウは意表《いひょう》を突かれたような顔で目を瞬《またた》いた――が、次の瞬間、軽やかに笑った。
本気で予想だにしていなかったらしい。
「彼には野望などありませんよ。そういう意味での野心は皆無《かいむ》だと断言できます」
「……なぜそう思う? 歴史上、己《おのれ》の力に溺《おぼ》れて身を狂わせた例は幾《いく》らでもあると思うが」
「私とフォル様では、レインを見る目に大きな差がありますが……。それはともかく、別の視点から考えてみましょう」
ジョウはあくまで穏やかだった。
しかし、その指摘は大胆である。
「実に簡単な証拠が目の前にあります。もし、あの男に地位や領土の野心があるとするなら、今現在、彼は上将軍の地位などには甘んじておりますまい」
「……ほう? 後学《こうがく》のために聞いておこう。では、万一あれが野心の男だったなら……今頃、どのような地位にいると見るか。サンクワールの玉座《ぎょくざ》に座っていると?」
ジョウの返事は簡潔《かんけつ》だった。
「いえ。彼にもし本物の野心があれば、今頃は、少なくとも天下の半分は手中にしているでしょう」
結局、意表《いひょう》を突かれたのはフォルニーアの方だった。しばらく呆れた目つきで信頼するジョウの顔を眺め、言葉にもならなかったほどである。
「それはいくらなんでも買い被りだと思うが……私は前におまえの忠告を聞き流して、痛い目を見たからな」
フォルニーアはやや不満そうに頷《うなず》いた。
「よかろう。では、レインの本心は疑うまい。しかし、同盟の件に関しては、まだ私には一抹《いちまつ》の不安がある。……サンクワールに危機が訪れれば、我らは誠意《せいい》を持って彼らに助力する。仮に今|要請《ようせい》があれば、すぐに軍を出して共にルナンを粉砕《ふんさい》してやろう。同盟とはそういうものだと私は考えているし、それはいい。しかし逆の場合、果たしてどうかな? サンクワールは本当に、我らの助けとなってくれるのか」
ジョウはなにか言いかけたようだが、ノックの音に邪魔《じゃま》され、席を立った。
「フォル様、失礼します。なにか報告が来たようです」
覗《のぞ》き窓から相手を確認し、ジョウがドアを開ける。相手はジョウの部下であり、動揺《どうよう》の窺《うかが》える顔で捲《まく》し立てるように報告していた。
「……わかった。すぐに手を打つ。ご苦労だった」
「はっ」
部下が立ち去るのを待ちかね、フォルニーアは即座に訊いた。
「なにがあった、ジョウ」
「……北の砦《とりで》からの報告ですが、魔物の森の魔獣《まじゅう》が一斉に南下を始めたようです」
「なにっ。それは一体、どういうことだ!」
新たな酒瓶《さかびん》に手を伸ばしかけていたフォルニーアは、たちまち険しい声音《こわね》になった。
南下ということは……つまり、この王都を目指しているということではないか!
「現段階では、まだ原因はわかりません。これが人為的な現象なのかどうかも。しかし当然ながら、放置しておく訳にはいきませんね。魔獣《まじゅう》の数は、数千に及ぶそうですから」
内容の割にやたら落ち着いたジョウの言いように、フォルニーアは顔をしかめる。
どのような危機にも冷静さを失わないのはジョウの大いなる美点だが。
しかし、すぐに笑顔を取り戻した。素晴らしい名案を思いついたのだ。
「そうか! それは大変ではないかっ。この際、同盟したばかりのサンクワールに援軍を求めよう!!」
「……フォル様」
ジョウは頭痛がしたような顔でフォルニーアを見返した。
「彼らを試す、ちょうど良い機会だとお思いのようですね。しかし彼らは今、ルナンと戦っている最中ですよ」
「固いことを言うな。どうせルナンなど、レインには弱敵に過ぎまい。我々の方がよほど窮地《きゅうち》だぞ」
言いつつ、芝居っ気たっぷりに呻《うめ》く。
「魔獣《まじゅう》の大量南下とな? ううむ、これは危ないっ。我が国の大いなる危機である! ジョウ、早速《さっそく》サンクワールに援軍を求めよ」
言葉とは裏腹に、フォルニーアは満面の笑みでジョウに命じたのである。
――☆――☆――☆――
レニが探し回ってやっとレインを見つけた時、彼は陣所《じんしょ》から離れた森の中で、魔剣を片手に立ちつくしていた。
それだけなら、別にレニも驚かない。
この主君は時折、付き合いの長いレニですら理解できない行動を起こしたり、意味不明な用語を口走ることがしばしばあるので。ただし、そのレインがレニの接近に気付いて振り返り、いきなり魔剣を振り上げた時は、さすがのレニも不審《ふしん》を覚えた。
なんですかいきなり? と声をかけようとしたのに、レインは無言で、レニ目掛けてびしゅっと魔剣を振り切ったのである。
……他の長剣ならともかく、遠隔攻撃すら可能な、傾国《けいこく》の剣を。
夕闇の中で大気の鳴動《めいどう》する微《かす》かな音を聞き、レニは身を強張《こわば》らせる。
そして、自分の腹部《ふくぶ》にざわりとする触感《しょっかん》が走ったのを機に、レニは頭を抱えた。
「うわあっ」
微《かす》かな予感通り、めりめりっと背後で音がする。
恐る恐る振り返れば、一抱《ひとかか》えもあるぶっとい木がゆっくりと倒れていくところだった。……明らかに今のレインの攻撃、すなわち悪名高き「見えない斬撃《ざんげき》」によって両断されたのだ。
「ちょっと、将軍! なにすんですかっ。今、確かに自分の腹を衝撃《しょうげき》が通過していきましたよっ。間違いなく感じたですっ」
「そうかー、うんうん」
なにがうんうんなのか知らないが、レインは嬉しそうに頷《うなず》いた。
「いやいや。どうも俺、この魔剣にだいぶ慣れてしまったようでな。そりゃまあ、何年も使ってるんだから当然だが」
「……つまり?」
「つまり、俺の意志により忠実に、より正確に攻撃出来るようになった。これまでと違って、途中に何かあろうと関係なし。その気になりゃ、邪魔者《じゃまもの》がいても透過して、遠くの目標だけを斬れる」
感に堪《た》えないっという声で、
「いやぁ、今更だがすげーな、この剣。ただし、俺のようなヤツが使ってこそ、だが」
――いや、そんなことより。
黙って聞いていたレニは、自分の全身にどっと汗が噴き出すのを感じた。冗談抜きで、足が震えたくらいだ。
「そんなの、自分で試さないでくださいよっ。失敗して、自分が輪切りになったらどうすんですか!」
「馬鹿《ばか》、自信もないのにこんな物騒《ぶっそう》なこと、するわけないだろ?」
レインは爽《さわ》やかな笑みを見せた。
「事前にちゃんと、何度も実験してみたって。おまえでもう三回目だ」
三回っ。たった三回ですか! 自分の寿命《じゅみょう》は今、確実に十日は縮みましたよっ
そう喚《わめ》きたいのを、レニはぐっと堪《こら》える。今更、愚痴《ぐち》っても始まらない。この人は昔からこうなのだ。
「それだけじゃないぞ……俺はこの魔剣の、隠された能力を見つけた」
ぽつっとレインが述べる。
とっとと用件を述べようとしたレニが、無視できないセリフだった。
「能力? 遠隔攻撃以外にですか」
「……この前、廃坑《はいこう》で魔獣《まじゅう》退治をやったろ」
レインがなぜか遠い目をして言った。
どう繋がるのかわからないが、レニは素直《すなお》に頷《うなず》く。
「ええ。いつものことですが、エラい目に遭いましたね……主に自分が。それで、あそこがどうかしましたか?」
「いや、いいんだ」
知りたかったのに、レインは勝手に話を打ち切ってしまう。
レニとしては、もどかしいことこの上ない。そもそもレインは、最近やたらと影で動いているようなのだ。他国の王……特にガルドシュタインやレイファンの王と頻繁《ひんぱん》にマジックビジョンで連絡を取っているようであり、これもまたなんのためなのか謎である。
レニにも秘密にされているのだ。
「なんというか、最近の将軍は暗躍《あんやく》してますねぇ。一体、何を企《たくら》んでるんです? まあ、恐ろしげなことなら聞きたくないですが」
「何が暗躍《あんやく》だ。考えすぎだ、おまえ。ただ、ちょっとした保険のつもりさ」
レインは一笑に付す。
しかし……その笑みは儚《はかな》く消えた。今までのふざけた表情が消え、小さく吐息《といき》をつく。
深い湖のような瞳で、手にしたままの魔剣を見つめた。
「不思議だな、しかし。どうしてなんだ……なんで俺なんだ? 他に強いヤツも大勢いるだろうに、こいつはどうしてあの時、俺を選んだんだろう」
普段のレインに似合わず、切実な感情が込められた声音《こわね》だった。レニも知らないが、レインは傾国《けいこく》の剣を手に入れた時のことを思い出しているらしい。
もちろん、語りかけたところで、魔剣は何も応えはしない。ただ、いつもより僅《わず》かに輝きを増したのみである。
代わりに、レニが教えてやった。
「事情は全然わかりませんが、多分、将軍にしか出来ないことがあるからですよ。その剣が将軍にしか使えないのも、おそらくそのためだと思いますね」
レインがさっと見たので、レニは先に断っておいた。
「あー、自分が何か知っているわけじゃないですよ? でも、仮に自分が誰かに何かを託《たく》したい、いや託《たく》す必要があったとしたら……やっぱり将軍に頼むと思いますね。将軍ならなんとかしてくれる……そう思いますよ、きっと」
話しているうちに恥ずかしくなってきたので、レニはさっさと話を結んだ。
「弱気な自分が未《いま》だに将軍と一緒にいるのは、心のどこかでそういう確信があるからでしょうね。英雄《えいゆう》にはなれなくても、せめてその英雄《えいゆう》を手伝うことは出来るわけで。そういうのって、嬉しいじゃないですか。表面に出なくても、自分も役に立てるわけで。やりがいがあると思ってますよ……今も昔も」
「俺は英雄《えいゆう》にはなれないし、なる気もない」
レニが思った通り、レインは即答した。ただ、そこでほのかな笑顔を浮かべる。
ごくごくたまにレインが見せる、どこかはにかむような笑みだった。
「だけど、おまえが英雄《えいゆう》役をやりたいっていうなら、止めないぞ。喜んで助けてやるし、立場だって変わってやる。今までおまえがそうしてくれたように、今度は俺が力を貸すさ」
冗談ではないですっ、とレニが抗議する前に、レインは素早く話題を変えてしまった。
「それで、用件はなんだ。ファルナも?」
「えっ」
慌《あわ》ててレニが振り向けば、確かに木立《こだち》の影にファルナもいた。凛々《りり》しい鎧姿《よろいすがた》の彼女は、呼ばれておずおずと前へ出てきた。
「……失礼しました。立ち聞きするつもりはなかったのですが」
風に流される金髪を手で押さえ、ファルナは伏し目がちに頭を下げた。
「いいさ。別に、盗み聞きしにきたんじゃないんだろ。用事があったんじゃないか?」
「あぁ、ファルナさんも頼まれたんだ、将軍捜し」
レニは気を利《き》かせて代わりに答えた。
「将軍の姿が消えたんで、陛下が心配しているんですよ。捜してくださいって言われて、随分《ずいぶん》と森の中を歩きました」
最後は愚痴《ぐち》になったが、意外にもファルナが首を振った。
「いえ……確かに私もレイン将軍を捜すように命じられた一人ですが、今は新たに将軍にご用が出来ています」
「……というと?」
レインは落ち着いて問い返す。
「ルナン旧臣《きゅうしん》のアムル殿が陣所《じんしょ》を訪ねてこられました」
別に驚いた様子もなく、レインはすぐに歩き始めた。
「そうか。……そろそろ来る頃だろうと思っていた」
レインが陣地《じんち》に戻った後、陣所《じんしょ》にしていた大テントの中で、シェルファとアムルの会見が行われた。
先にレインからアムルの人となりと、それから今回の戦《いくさ》の転機となった撤退《てったい》とを知らされていたシェルファは、もちろんアムルに対してなんら含むものはない。
穏やかに礼を述べ、それなりの褒美《ほうび》も取らせようとしたが、アムルは頑として受け取らず、「つまらぬ戦《いくさ》を始めてしまい、申し訳ありませぬ」と謝罪《しゃざい》の言葉を口にしただけであった。
陛下の旗下《きか》に加わったらどうか? というレインの誘いに対しても、アムルは笑って首を振った。
「今後の戦いに、私ごとき敗残《はいざん》の身がなんの役に立てるだろう……」
悄然《しょうぜん》と去っていくアムルの背中を見送ったシェルファが、心配そうにレインに尋《たず》ねた。
「あの方……随分《ずいぶん》と気落ちしていらっしゃるようですが、この敗戦のせいでしょうか?」
残っていた衛兵に合図して下がらせてから、レインは教えてやった。
「……ルナンの元王族は、まとめてザーマインに幽閉《ゆうへい》されているからなぁ。アムルがもし、ザーマインに刃《やいば》を向けたら、報復措置としてその王族達が殺される。あいつの立場じゃ、戦いたくても戦えないわけだ。気落ちするのも、ある程度は仕方ない」
「まあ……」
シェルファの声には同情と、それから隠しきれない嫌悪感《けんおかん》が込もっていた。戦《いくさ》で、敵の王族達を人質に取ったり処刑したりするのは常道《じょうどう》とはいえ、到底《とうてい》、納得《なっとく》できるものではない。それにシェルファ自身、戦《いくさ》を重ねれば、そういう運命も有り得るのだ。
「ところでなぁ、話は変わるが」
レインはシェルファの肩に手を置き、さらに悪いニュースを告げた。
「ガルフォートからマジックビジョンで連絡が届いた。シャンドリスが援軍を求めているらしい」
「フォルニーア殿が!」
シェルファは驚き顔でレインを見返した。
「あの方が援軍を望むなんて、よほどの事態なのですか」
「……どうかな」
レインはいきなり南下を始めた「魔物の森」の魔獣《まじゅう》の一件を教えてやった。
「あいつは迎え撃つつもりらしいが、援軍は自分達が困っているからというより――」
レインは自然と渋い顔つきになった。
「サンクワールの誠意《せいい》を試しているんだろうな、多分。ちゃんと同盟を履行《りこう》する気があるのかどうか」
説明がめんどくさいので省《はぶ》いたが、サンクワールというよりこの俺を試しているのだろう――と、レインにはそこまで読めている。
ジョウはあまりレインに疑いを持っていないようなので、そのようなことは考えまいが、あのフォルニーアなら考える。サンクワールの国政方針を決めているのはどうせレインだろう。ならば、こいつが信頼できる男かどうか、見極めねば――というわけだ。
意識しないまま、独白していた。
「……女狐《めぎつね》め、勘違いしてやがるな。俺は別に、この国を動かしてるわけじゃないぞ」
「なるほど、それでわかりました」
シェルファは霧《きり》が晴れたような表情で微笑《ほほえ》んだ。
「でも、フォルニーア殿の『レインを試そう』というお考えは、ある意味で当然ですわ。だってわたくし、レインの進言する策を全面的に信用していますもの。それだけわたくしに対して影響力があるわけですから、当然の疑いでしょうね」
レインは胡乱《うろん》な目つきで、座したままの主君を見下ろした。
何をあっけらかんと言っとるんだ、こいつ。
「……今の俺の独り言から、一瞬でそこまでよくわかったもんだな。しかし、俺はおまえに強制したことは一度もないぞ。今回だって、おまえが自分で決めるんだよ! どうする、シャンドリスに救援を出すのか」
「ガルフォートを守る、ラルファスさまの判断にお任せします」
シェルファは即答した。
「限りある兵力でどうするべきなのか、あの方なら最善の判断をしてくださるでしょう」
「……ふむ」
レインの一瞬の表情を見て、シェルファは嬉しそうに笑った。
「レインならそう考えるだろうと、思ったんです。ほら、当たったでしょう?」
「生《なま》意気《いき》だぞ、おまえ」
仮にも主君なのに、レインは遠慮《えんりょ》なく手を伸ばして、シェルファの片頬《かたほお》を何度かぐいぐい引っ張ってやった。もちろん、加減はしたが。
やっと手を離すと、シェルファはちょっと涙目で、しかし微妙に嬉しそうな顔で自分の頬《ほお》をさすった。
少し小声になり、また尋《たず》ねた。
「それで……今日|襲《おそ》ってきた人のことですけど。……あの人は一体、誰なのでしょう」
狙われた時のことを思い出したのか、シェルファはレインに一層、身を寄せてきた。
「傭兵《ようへい》世界じゃ、だいぶ名のある男でな。フリーの傭兵《ようへい》なんで、おまえを狙う一団に雇われたらしい。そういえば――」
レインは部下の報告を思い出した。
「随分《ずいぶん》と凛々《りり》しい態度だったそうじゃないか。大したものだ……アベルなんか、今にもおまえの足にすがりついて泣き出しそうだったらしいな」
今度こそ、シェルファは肩を震わせた。
「や、やめてください……今、想像してしまいました」
他にも思い出したことがあると見え、顔に不安がよぎる。
「最近のわたくし、たまに自分が自分じゃないように思える時があるんです。時折、ふっとめまいがしたりしますし……昔からそういうことはありましたが、なんだかそうなる機会が増えてきたようなんです」
「襲《おそ》われた時もそうなった?」
「いえ。あの時は普通……だったと思います。でも、普段のわたくしらしくないなぁとは思いましたけれど」
「そうか」
レインはことさら、なんでもないような声を出す。
「めまいの方がひどくなるようなら、俺がなんとかしてやるさ。それより今は、刺客《しかく》の方が問題だな。まだルナン軍が壊滅《かいめつ》したわけでもないのに、またあんなことがあったらまずいしな」
「……今そうしているように、レインがいつもおそばにいてくだされば」
シェルファは大いなる期待を湛《たた》えた目でそう述べた。
「シルヴィアとノエルの二人が……いや、片方でもいればまず大丈夫なんだが」
などとレインが反論すると、シェルファはなんとも微妙な表情になった。
「なるべくはいるよ、なるべくは」
レインは笑って言ってやった。
外から声がかかった。
「あの〜、お茶をお持ちしました」
「入ってくれ!」
シェルファ付きメイドのリエラが入ってきたのを機に、レインは話を切り上げた。
この子にも友人を、というつもりで彼女を呼んだのだが、今のところ、それは上手くいっているようだった。人嫌いのシェルファには珍しく、リエラを忌避《きひ》してはいないらしい。
リエラに後を任せ、レインがテントを出ると、付近の警戒と警護を頼んでいたシルヴィアがやってきた。
時刻が夜ということもあり、いつもにも増して生気に溢《あふ》れた弾《はず》むような歩き方である。
「お疲れ様。……今後の方針は?」
「うん。明日にはルナンの残党を追う。理想を言えば、早めに片付けたいな。本国でも問題が起きてるし」
答えつつ、レインはなんとなく周囲を確認する。さりげなく目を配り、付近に異状がないかチェックしていた。
「自分が命じたことを忘れたの? 刺客《しかく》騒ぎの直後、あたしが結界を張ったじゃない。そう簡単には近づけないわよ」
シルヴィアの言いように、レインは思わず額に手を当てた。
苦笑が洩《も》れてしまう。
「そうだな……わかってるけど、ついな。今までずっと、なんとなく俺が魔法担当ってことになってたからなぁ。そうだ、今はシルヴィアがいる。有り難いことだ……随分《ずいぶん》と楽になるな」
シルヴィアは目を丸くした。
「う〜ん。昔の無愛想《ぶあいそ》なあなたを知る者としては、驚きだわね。でも、悪い気はしないけど」
婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》むシルヴィアに、レインは肩をすくめて見せた。
「人は変わるものだろう。……姫様の警護を頼んだついでに、もう一つ頼みがあるんだが」
レインはシルヴィアを促《うなが》し、篝火《かがりび》に照らされた陣所《じんしょ》を離れ、暗い林の方へと歩き出す。双方、闇の中でも目が利《き》くので、全く不自由はない。
「いいわよ、なんでもやりますとも。ただし、レインの身が危うくなりそうなこと以外、ね」
「どうかな……そういう用事じゃない」
断言しかけ、レインは言い直す。
「ないと思う」
「怪しいものねぇ」
軽やかに笑い、シルヴィアはさりげなく腕を絡《から》めてきた。
「なになに? 言ってご覧なさいよ」
レインは絡《から》み合った自分の腕を、困ったように見下ろす。
……訊かないでおこうと思っていたが、気付けば口にしていた。
「ちょっと話が変わるが、来てくれたのは有り難いが、どうしてまた?」
「以前から来る気はあったけどね。……でも、あなたがそういう助力を嫌う人なのはわかってたから、遠慮《えんりょ》してただけ」
シルヴィアはあっさり明かした。
「だけど、もう遠慮《えんりょ》している場合でもないでしょう。そろそろあたしの力が必要になるんじゃないかと思ったの」
「昔は俺も、自分一人で何でも成し遂《と》げてみせると思っていたんだが」
レインはススキの生《お》い茂《しげ》る小道で立ち止まり、嘆息《たんそく》した。
「今はそうは思わない。どれほどの力があろうと、一人で出来ることには限りがある」
シルヴィアがくすっと笑ったの見て、レインはまた苦笑した。
「おかしいか、俺がそういうことを考えるのは」
「そうじゃないわ。ただ、あなたは自分で言うほど変わってないのに――そう思ったからよ。あなたの本質は何も変わってないわよ、レイン。今だって、最後には誰の力も借りず、自分の手だけで決着を付けようと考えているくせに……隠してもあたしにはわかるわ」
黙って聞くレインに微笑《ほほえ》みかけ、
「昔と違うのは、戦うステージが大きくなったってトコくらいでしょうね。ステージが違うんだから、そりゃ戦い方も変わるでしょう。それだけよ」
「前に、誰かが似たようなことを言ったな、それ。中身は全然変わってねー、みたいなことを」
「いいじゃないの、無理に変わらなくても。あたしはそういうレインが好きよ。たまに見せるどこかずっと遠くを見るような目も、頑固《がんこ》な癖《くせ》に繊細《せんさい》で優しいところも、傲慢《ごうまん》そうに見えて実は謙虚《けんきょ》なところも……数え上げたらキリがないけど、全部好きよ」
シルヴィアは背伸びして、レインの頬《ほお》に素早くキスをする。
「美人に接吻《せっぷん》されると、実に良い気分だ」
「本気で言ってくれてるのなら、いいんだけどねー」
「……嘘《うそ》なんかついてないぞ」
レインが顔をしかめると、シルヴィアはほのかに微笑《ほほえ》んでかわした。
「いいのよ、わかってるから。誰彼なく靡《なび》くような人だと、それはそれで嫌だし、うん」
再び歩き出しながら、シルヴィアは少し寂《さび》しそうに付け足す。
「幸いあたしは、必要とあれば何百年でも待てるもの。あなたという人を理解した時から、長期戦は覚悟《かくご》してるのよ。我ながら呆れるけど、仕方ないわ……好きになっちゃったんだし」
さすがのレインも、どう答えたものかわからなかった。しばし沈黙《ちんもく》し、結局は思ってもみなかったことを言ってしまう。
「頼み事の前にだな……わざわざ来てくれた礼がしたいんだが、なんか望みとかないか?」
雲間に月が隠れ、ほとんど闇に等しくなった小道で、シルヴィアはまた立ち止まった。
綺麗《きれい》に澄《す》み切ったワイン色の瞳が、悪戯《いたずら》っぽく光る。
「本当にあたしが望むことを要求すると、困るのはレインだと思うけど?」
「……いや。当然ながら、俺が異論なく実現可能なヤツな。というかだな、そこは察するんだよ、年長者なんだし!」
「異論なくねぇ……はいはい」
なんだやっぱり、という顔でシルヴィアは夜空を仰いだ。しかしすぐに艶《あで》やかな唇がほぐれ、笑みを刻んだ。
「じゃあ、真面目《まじめ》に働いてるご褒美《ほうび》に吸血させてよ。血の契約を粉砕《ふんさい》したあなたなら、もう吸血鬼化の心配もないし、遠慮《えんりょ》なく味わえるもの」
「ああ、それならいい。好きなだけやってくれ」
「……いいの?」
「もちろん。別にこれが最初でもないし。俺にはわからんが、吸血すると力が湧くんだろ」
「まぁね。相手にもよるけど、レインはプラーナ、つまり生命力が桁外れに強いから、とりわけね」
解説しつつも、シルヴィアのワイン色の瞳は、既《すで》に透き通るような薄赤から、白目も含めて、濃い血のような真紅《しんく》に変わりつつある。犬歯《けんし》も、急速に伸び始めていた。
自分の両肩に手をかけ、伸び上がるように首筋に唇を寄せるシルヴィアを、レインは場違いにも、
「間近で見ると綺麗《きれい》な瞳だな」などと思いつつ眺めている。
吸血しやすいようにレインが少しかがんでやると、シルヴィアは嬉しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「レインって、誰よりもあたしのことを知ってるくせに全然怖がらないし、特に畏怖心《いふしん》も持たないわよね。あなたの前だと、なんだか自分が普通の女の子になったような気さえするわ……そんなわけないのに」
笑って言い返してやった。
「その力は別として、俺は本当にあんたを普通の女の子だと思ってるが」
「……そうね。うん、そういう人よね、あなた。さっきも言ったでしょ。だからあたしは、レインが好きなのよ」
微《かす》かにシルヴィアの声が震える。
自分で自分のセリフに照れくさくなったのか、首筋に歯を立てる直前、シルヴィアは冗談めかして囁《ささや》いた。
「楽にしてね。大丈夫、痛くしないから♪」
一応は真面目《まじめ》な顔で立っていたのに、レインは思わず声を上げて笑ってしまう。
ススキの穂《ほ》が風にそよぐ中、二人の身体がしばし重なった。
――☆――☆――☆――
ザーマインがファヌージュ侵攻《しんこう》の目的で軍を送り出したことは、もはや北方諸国はおろか、大陸全土に知れ渡っている。
ファヌージュの王都ヴァンヘイムで侵攻《しんこう》の報を聞いたフェルナンド王は、早速《さっそく》使者を出した。
「宣戦布告《せんせんふこく》もなしに軍を送り出すとは何事かっ。それとも、目的は他にあるのだろうか? 納得《なっとく》いく説明をお聞かせ願いたい!」
と厳しく詰問したのである。
往復に時間がかかったものの、返事は一応、あったことはあった。ただし、書面で成されたその返答は極めて短く、「降伏《こうふく》して、無駄《むだ》な流血を回避するがいい」と書いてあっただけである。
フェルナンド王はまだ三十代後半の若さであり、戦士の国の頂点に立つだけに、血気盛んな人物である。この地方の住民達と同じく黒髪|黒瞳《くろめ》ではあるが、祖先の血筋か肌の白さが際だち、身長は群を抜いて高い。しかもその見かけ通り、性格は極めて好戦的であった。もちろん、強国ザーマインの侵攻《しんこう》を聞いても、玉座《ぎょくざ》で震えたりする男ではない。
それどころか、フェルナンドはその返事を一読した瞬間、書面を床に叩き付け、足で何度も踏み潰した。紙がびりびりに破けて跡形も無くなるまで、何度も何度も。
ようやく気が済むと、広間に集う重臣《じゅうしん》達を前に、決然と言い放ったものである。
「俺は玉座《ぎょくざ》に就《つ》いて早二十年になるが、これほど他国に侮辱《ぶじょく》を受けたことはないぞっ」
鞘《さや》を払い、腰に帯びた長剣を抜き放つ。
配下の騎士や文官達を見渡した。
「我らの祖先は、かつて異国の戦士だった。それが新天地を求めて大船団と共に大海原《おおうなばら》を渡り、この大陸に至ったっ。以来、数えきれぬほどの苦難と三百年の年月を重ね、ようやく今日《こんにち》、『大陸北方に勇猛《ゆうもう》なる戦士の国あり』とまで言われるほどになったのだ! そんな我らに、こともあろうに降伏《こうふく》しろだと!?」
一拍置き、長剣を高々と差し上げた。
「見損なってもらっては困るっ。誰が降伏《こうふく》などするものか! 魔族だか魔人だか知らぬが、我らを屈服《くっぷく》させるのは容易《たやす》くないと教えてやろうではないかーーっ」
「おおおおおーーーーっ!!」
帯剣していた者は、その場で全員が剣を抜き、王に唱和《しょうわ》した。かつての魔族|侵攻《しんこう》の時代など知らない彼らは、魔人であるレイグルをさほどに恐れず、その士気は極めて高い。
話し合いが通じぬのなら、もはや剣で語るのみっ、とばかりに全員が覚悟《かくご》を決め、ザーマインを迎え撃つ準備を始めたのである。
――ところで、この時期のファヌージュは、ザーマインの無礼《ぶれい》な使者ばかりではなく、他の複数の国からも使者の来訪を受けていた。
それは、ファヌージュと友好な関係を維持しているガルドシュタインとレイファンであり、さらには南方の小国からまで使者が来ていた。
それらの使者達の手紙を一読した後、フェルナンドは彼には珍しく、渋い顔で随分《ずいぶん》と考え込んでいた。そして長考《ちょうこう》の末、フェルナンドは彼らの申し出に対してはなんら返事を与えなかったのである。
いざ戦う覚悟《かくご》が定まると、フェルナンド以下、ファヌージュ騎士団《きしだん》の面々は動きが素早かった。
この国は他国と違い、君主たる王の権限が圧倒的に強い。武官文官を問わず、全ての騎士、全ての兵士は王直属の臣下《しんか》であり、他に主人を持たない。例えば、サンクワールのように「陪臣《ばいしん》」などという立場の者はいないのだ。
ファヌージュ軍の中核は、無数の騎士団《きしだん》の集合体である。およそ三百年前、彼らの祖先が海を渡ってこの大陸に上陸した折、部族長達がそれぞれ騎士団《きしだん》を作ったのが元となっている。
もちろん、今は当時よりもずっと騎士団《きしだん》の数も増え、各|騎士団《きしだん》の隊長やその上の部隊長などがいるわけだが、皆が一人の例外もなく王の私兵なのだ。その為、王の命令は素早く実行される。
瞬《またた》く間に戦《いくさ》準備を終え、騎兵九千、歩兵二万の軍勢《ぐんぜい》が主城アルデンヌを進発《しんぱつ》し、西へ向かった。籠城《ろうじょう》などせず、積極的に戦うことを選択したわけであり、その覇気《はき》は、ザーマインを恐れる周囲の小国とは一線を画している。
ただし、フェルナンドとその騎士達は確かに敵を恐れてはいなかったが、頭の痛い問題が皆無《かいむ》でもなかった。
というのも――ファヌージュの西はザーマインに至るが、東へ目を向けると、パジャとテセトという二つの国と国境を接している。
このうち、問題は新興国《しんこうこく》テセトの方で、この国のカリオンという中年の王は元来|臆病《おくびょう》であり、強国に頼って生きるのをよしとする人物なのだ。とにかく、二度ばかり本人と会見したことのあるフェルナンドは、固くそう信じている。
現に、ザーマインがこれほど勢力を拡大する以前は、テセトは明確にファヌージュ寄りだった。毎年、こちらが頼みもしないのに使者を寄越し、ご機嫌《きげん》伺いなどしてきたのである。
しかし最近は徐々に方針を変え、ザーマインに擦《す》り寄っているとの風聞《ふうぶん》がある。それだけならまだしも、ここ半年ばかりの間、ザーマインの密使が頻々《ひんぴん》とテセトを訪れているとも聞く。
テセトは位置的に、ファヌージュのように当面の危機に直面しているわけでもなく、よもやこの戦いが終わる前に降伏《こうふく》などはすまいが、それにしても気になることは間違いない。
もしカリオン王がレイグルと同盟など結べば、ファヌージュの本軍が王都と主城を留守にしている間に、テセト軍が東から挟撃《きょうげき》してこないとも限らない。
神経質かつ臆病《おくびょう》な王なのでまさかとは思うが、フェルナンドも多少の心配はしていた。
しかし、その危惧《きぐ》は一応消えた。
フェルナンドが王都を出る直前、カリオン王が使者を寄越し、こう申し出たのだ。
「この度のこと、私としても胸を痛めております。当然ながら、我が国ももはや安穏としてはおられぬ立場です。戦《いくさ》に先立ち、フェルナンド王の快勝を心から願っておりまする。――つきましては、兵糧《ひょうろう》その他のご要望があれば、喜んでご援助したく……」
以下、くどくどとフェルナンドの快勝を願う文章が続いていた。あたかも、懇願《こんがん》するような必死《ひっし》さで。
「臆病《おくびょう》なカリオンらしい。本当に何か頼まれ事をされぬよう、わざとギリギリのタイミングを選んだな」
フェルナンドはこの書簡《しょかん》を読み、そう判断した。まあ、彼の性格と立場からすると、こんなものだろう。ファヌージュが敗れれば、次は隣の自分の国かもしれないと馬鹿《ばか》でもわかる。
ザーマインの反応を思えば兵を出す訳にもいかないが、言葉だけでも応援しておこう、とそう思ったに違いない。
「ふん。厚かましく激励《げきれい》だけですませ、自分は玉座《ぎょくざ》で震えながら運命を待つつもりか。噂《うわさ》に違《たが》わぬ小心者めっ。心配せずとも、おまえなどに頼る俺ではないわ!」
フェルナンドは一笑に付し、それきりテセトとカリオン王のことを忘れた。
そして、意気揚々と戦場に向かったのである。
フェルナンド王率いるファヌージュ騎士団《きしだん》が西の国境に到着した時、ザーマイン軍の姿はまだ見えなかった。
ザーマインの王都リアグルの位置と、国土の馬鹿《ばか》馬鹿《ばか》しいほどの広さから考えて、これは別に不思議でもなんでもない。敵がファヌージュに到着するには、今しばらくの時間が必要なのだ。よってここで軍を停止し、敵が攻め寄せてくる前に強固《きょうこ》な陣地《じんち》を構築するのが常道《じょうどう》である。
しかし、覇気《はき》に溢《あふ》れるフェルナンドは、そのような「待ちの戦術」を採ろうとしなかった。国境線で迎え撃つのが普通とはいえ、それはいかにも敵を恐れているようで面白くない。第一、「どうせ籠城《ろうじょう》か、あるいは国境にて待ち構えているだろう」と決めつけているザーマインの鼻をあかすためにも、ここはあえて強気の戦《いくさ》をするべきではないか!
彼らしくそのように考え、フェルナンドは部隊を引き連れてそのままザーマイン本土に逆侵攻《ぎゃくしんこう》した。国境線を突破《とっぱ》し、自分から敵を迎撃《げいげき》しに向かったのである。
ぽつぽつと小規模な森や湖のみが点在する荒野を駆け抜けること、さらに数日。フェルナンドは、ついにザーマインの先鋒《せんぽう》を捕捉《ほそく》した。
物見が戻り、緊張した声でこう伝えたのだ。
「陛下にご報告! 敵本隊、騎兵二万に歩兵一万五千、総数およそ三万五千っ。約五キロ先にて行軍中。我が軍は、間もなく敵と遭遇《そうぐう》しますっ」
「ご苦労っ」
物見をねぎらった後、フェルナンドは集まった騎士達を見渡し、わざと豪傑《ごうけつ》笑いをしてみせた。
「はははっ! さすがのザーマインも、無限の兵力があるわけではないようだ。数ヶ月前のサンクワールでの敗戦が堪《こた》えているらしいが、思ったより兵数は少ないぞ。五千程度の差など、差のうちに入らんわっ」
実際は六千ないし七千の兵力差があるし、ザーマインの方が、騎兵の数で遙《はる》かに圧倒している。それは明らかに大きな力の差となるのだが、フェルナンドを初め騎士達は、そういう些末《さまつ》なことは一切気にしなかった。
フェルナンドは、臣下《しんか》の騎士達を大いに激励《げきれい》した。
「首は取り放題だ。皆の者、励《はげ》め!」
力強くそう命じた。
特に、二人の騎士を呼び立て、大いに激励《げきれい》した。
「ベルトラン、スティーブ! このところ戦《いくさ》の機会に恵まれなかったが、ついに出番だ。守護三騎士の力、今回も存分に発揮してくれ」
「ははーーっ。必ずやご期待にお応えしますっ」
主君に名指しされた二人は、馬上から恭《うやうや》しく低頭する。三騎士と言いつつ、実際に名を知られているのはなぜか二人しかいないが、それがどうしてなのかは、王であるフェルナンドと本人達しか知らない。
低頭した彼らは、フェルナンドの部下にしては細面《ほそおもて》の美男子で、しかもまだ二十代にも見える。
もっとも、彼らが見かけ通りの年齢でないことは、フェルナンドが一番よく知っているが。
この辺りは「レムタージュの荒野」と呼ばれており、すぐ南はもはやナシド砂漠の最西域に当たる。起伏の多いその荒野の向こうに、ついにザーマインの本隊が現れた。
将も兵も、甲冑《かっちゅう》は全て黒で統一というザーマイン軍は、見た目にも非常に目立つ。大地そのものをひたひたと暗黒に染め上げるかのように、連なる丘の後から後から、真っ黒な軍勢《ぐんぜい》がやってくる。
さすがに、とうの昔にファヌージュ軍に気付いており、今は徐々に全軍が停止しつつあるところだった。定石《じょうせき》通り、これから矢戦に入り、その後、ゆるゆると大軍をぶつけようというのだろう。
初陣《ういじん》より変わらぬ、銀の甲冑《かっちゅう》を纏《まと》ったフェルナンドは、「今こそ好機!」と思った。
見たところ、よほど後陣にいるのか、噂《うわさ》の魔族共の姿もない。ましてや、レイグルなどは旗印さえも見えなかった。
「横着者《おうちゃくもの》めっ。数を頼んで自《みずか》らは高見の見物か! 戦《いくさ》をナメてもらっては困るっ」
怒声《どせい》と共に吐《は》き捨て、フェルナンドは長槍《ながやり》を天に突き上げた。
「者ども、今ぞっ。遠来の客に、熱い歓迎をしてやれえっ」
その直後、彼|自《みずか》らが敵陣目指して駆け出した。
「おお、見よっ。陛下が先陣をお切りになるっ。皆の者、陛下に続けっ。遅れをとれば末代の恥だぞっ」
「おおおおーーーっ」
全軍が一斉に復唱した。
その怒声《どせい》は敵陣を雷鳴《らいめい》のように打ち、一瞬とはいえ、その動きを止めたほどである。
流れを止めつつある黒き奔流《ほんりゅう》に向かい、銀色の甲冑《かっちゅう》の群れが一斉に押し出された。しかも、脇から歩兵の群れまで突撃《とつげき》を始める始末である。
フェルナンドにすれば、これはいつものやり方とそう変わらないのだが、初めて相対するザーマイン軍から見れば、常識外れの戦法である。
「こいつら、ついにヤケを起こしたか! 全員が死兵となって突撃《とつげき》してくるとはっ」
指揮官クラスを含め、皆がそう思ったほどだ。
実際、フェルナンド王以下、猛々《たけだけ》しく喚《わめ》きながら突進してくる彼らは、実に恐ろしげに見えた。ファヌージュ軍はだいたいが強面《こわもて》の男ばかりなのだが、その全員の顔が、今は八割増しで凶暴《きょうぼう》になっている。
ザーマイン軍はせっかく矢戦に備えて弓隊が準備していたのに、その弓隊を含め、全軍が動揺《どうよう》した。大波のように動揺《どうよう》が伝わり、黒い甲冑《かっちゅう》の群れがざざっと僅《わず》かに後退する。
それでも、弓隊の一部は敵の進撃を迎え撃とうと、一斉に矢を放ちはした。しかし、内なる動揺《どうよう》が矢の狙いに現れ、命中率は目を覆わんばかりである。
ファヌージュ軍がまた、戦士の集団に相応《ふさわ》しく、実にしぶとい。矢の雨が降り注ぐ中、フェルナンドはもちろん、誰一人として馬の足を緩《ゆる》めない。隣で仲間が倒れようが、自分の腕を矢が掠《かす》めようが顧《かえり》みず、上体を鞍《くら》に伏せ、しゃにむに突撃《とつげき》してくる。結果的に、矢の射程《しゃてい》を瞬《またた》く間に駆け抜けてしまった。
そして、まだ陣形すら整っていないザーマイン軍の中に、凄《すさ》まじい勢いで突入を果たした。
狼狽《ろうばい》しつつも応戦しようとした騎士の首を剛槍《ごうそう》で斬り飛ばし、フェルナンドは哄笑《こうしょう》した。
「これが、仮にも天下を狙う強国の力かっ。ザーマイン、恐れるに足らずっ。皆、斬って斬って、斬りまくれえっ」
怒濤《どとう》の勢いで攻め寄せたファヌージュ軍は、早くも先陣を引き裂いて第二陣に至ろうとしている。
これを見たザーマイン軍の騎士隊長の一人が、怒声《どせい》と共にフェルナンドに長槍《ながやり》を突き出そうとした。
「小癪《こしゃく》なっ。弱小国の王ごときに、我がザーマインが――」
「無礼者《ぶれいもの》めっ」
叱声《しっせい》が飛んだ。
セリフの途中で、二人の間に誰かが躍《おど》り込んできたのだ。細身の身体に申し訳程度のレザーアーマーを纏《まと》い、黒髪を振り乱した若者である。そのままでも相当以上に人目を惹く若者だが、なぜか乗っている馬を含め、全身が薄く輝いている。
彼が純白の輝きを放つ長剣を一閃させると、敵の槍《やり》が半ばから切断された。そのまま返す刀で、今度は敵の首を無造作《むぞうさ》に跳ね飛ばす。
敵の騎士隊長が退《ひ》く暇もないほどの鮮《あざ》やかな攻撃であり、フェルナンドは破顔《はがん》した。
「おおっ、スティーブっ。来たか!」
「はいっ。弟もすぐに参ります」
そのセリフが終わるや否や、主従の横を誰かが単騎《たんき》駆け抜け、どよめく敵陣に挑みかかっていた。
「ファヌージュの守護三騎士が一人、ベルトラン見参っ。名のある将は相手になろう!」
高々と名乗りを上げ、当たるを幸い、敵の騎士達を長槍《ながやり》で薙《な》ぎ倒す。
兄と同じく全身を輝かせたその姿を見やり、ザーマインの陣中にさざ波のように動揺《どうよう》が走った。
「ファヌージュを守る、守護三騎士!? こいつらがそうか!」
「名乗った通りだっ。我が剣を防げると思うのなら、かかってくるがいい!」
既《すで》に及び腰の敵先陣で、ベルトランはまさに暴れまくっている。その進路上では敵の腕が飛び、血飛沫《ちしぶき》が上がり、そして首まで宙に舞う。
背後に置き去りにされたフェルナンド王とスティーブは、顔を見合わせて苦笑した。
「我らも続こう。このままだと、ベルトランに見せ場を全部持って行かれそうだぞ」
「御意《ぎょい》。……弟のヤツ、遅れてきた癖《くせ》にちと態度がでかいですな」
二人は笑顔を見せ合い、そして敵騎士達が逃げ惑《まど》う先陣を駆け抜ける。その背後から、さらにファヌージュの騎士達が次々と斬り込んでいった。
特に、守護三騎士のスティーブとベルトランの戦いぶりは、まさに人間離れしていた。ひたすら前へ前へと馬で押し出し、多少の攻撃など、最初から避けもしない。そして実際、突き出された槍《やり》や剣は、二人の身体に傷一つ付けることが出来ないのだった。
しかも、二人の背後ではフェルナンドや他の将兵達が暴れまくっており、ザーマイン軍の傷口をどんどん拡大していく。
駄目《だめ》押しに、ザーマイン軍の横腹をファヌージュ軍の歩兵が衝《つ》き、もはや陣形を整え直すのは不可能となった。
「駄目《だめ》だっ。とても防ぎきれぬっ」
騎士隊長の誰かの悲鳴がきっかけとなり、ザーマイン軍は完全に浮き足だった。
先陣から第三陣まで、ファヌージュ騎士団《きしだん》の突撃《とつげき》にずたずたに切り裂かれ、どっと後陣へ逃げ込む。そしてこれが、緒戦《しょせん》の勝敗を決定的なものとした。敗走してきた味方を見て、まだ戦っていない後陣にまで動揺《どうよう》が広がり、全軍に怯懦《きょうだ》が伝染したのだ。
ザーマイン軍は全面的な潰走《かいそう》に移り、西へ西へと逃れ始めている。
「はははっ。どちらが弱敵ぞ!」
フェルナンドは快勝に気を良くし、腹の底から笑った。
「ううむ。この戦《いくさ》、ガサラムにも見せてやりたかったぞ。あいつめ、屋敷を捨ててどこに行ったのやら……」
思わず洩《も》れた呟《つぶや》きに、フェルナンドは首を振る。今は、目の前の戦《いくさ》に集中することだ。
声を励《はげ》まし、号令した。
「よしっ。全員、このまま追撃に移る! 二度と我が領土を侵そうなどとは考えないようにだっ」
勝ち戦《いくさ》に奢《おご》ったファヌージュ軍は、休む暇もなく即座に追撃に入った。
敵兵の黒い背中を追い、これまた西へと。
日が傾き始める頃には、ファヌージュ軍は相当以上に敵地の奥深くまで踏み込んでいた。
最初に敵と遭遇《そうぐう》した地点が既《すで》に敵地の真《ま》っ直中《ただなか》だったが、今や補給部隊や歩兵部隊を置き去りに、騎馬隊のみが突出《とっしゅつ》し、敵を追いまくっている。
また、敵のザーマイン軍が実に見事な逃げっぷりだった。追いつくと見せてはさらに馬を飛ばし、引き離されるかと思えば、疲れたのか馬足《ばそく》が緩《ゆる》む。……いわば、敵騎士達の背中は常にファヌージュ軍の目の前にあるわけで、追わずにはいられないのだった。現実に、最後方の敵部隊には何度も追いつき、その度に敵騎士共の首級《しゅきゅう》を取っている。
このような現状なので、もちろんフェルナンド王も、追撃命令を撤回《てっかい》しはしない。
いい加減、ファヌージュ軍も疲れ始めた時、守護三騎士のスティーブが、フェルナンドに進言した。
「陛下、この辺りで軍を停止させ、後方の部隊と合流を計りましょう。敵の逃げよう、いささか不審《ふしん》です。なにか策があるやもしれません」
全身を覆っていた輝きももはや消えており、今のスティーブは、外見上は普通の騎士と変わりない。馬を止めたフェルナンドは、忠実な臣下《しんか》の顔を見返し、不承不承|頷《うなず》いた。
「ふむ? 完勝を逃したようで残念ではあるが、おまえの進言ももっともだ。引き返すかどうかはともかく、一旦、軍をまとめよう」
しかし、実にこの瞬間を持って、運命はファヌージュにはっきりと牙を剥《む》いたのだった。
「陛下ぁー!」
後方より砂塵《さじん》を上げて近づく伝令を見て、フェルナンドは眉《まゆ》をひそめた。
「今頃、なんだ? 何があった?」
馬を寄せてきた騎士に、フェルナンドは慌ただしく問う。
「報告しますっ。テセトのカリオン王、東の国境線を突破《とっぱ》して我らが王都ヴァンヘイムへ進軍中とのこと! つい先程、アルデンヌ(ファヌージュの主城)より帰還|要請《ようせい》の早馬が来ましたっ」
「なんだとっ!」
フェルナンドは激怒《げきど》した。
「おのれ、カリオンっ。殊勝《しゅしょう》な書簡《しょかん》は、俺を油断《ゆだん》させるためだったか!」
呪い文句《もんく》を吐《は》いたが、今更どうしようもない。思えば、ザーマイン軍の見事な逃げっぷりは、フェルナンドを本国から遠く引き離し、テセトに攻撃のチャンスを与えるためだったのかもしれない。
つまり、ザーマインとテセトは、最初からグルだったのだ!
スティーブがすぐに進言した。
「テセトのカリオンめに思い知らせるためにも、今はまず、本国に無事にお戻りになることです。もはや、部隊をまとめてから、などと言ってる場合ではありませぬ。すぐさま反転して、帰還しましょう。その途上で兵を収容していけばよろしいかと」
「うむっ。では早速《さっそく》――」
新たな号令を発しようとしたが、今度は追討軍《ついとうぐん》の先陣を切っていたベルトランが、急ぎ戻ってきた。
「フェルナンド陛下、兄上っ」
二人を呼ぶ声には、もはや先程までの余裕がない。
「ベルトラン、いかが致したっ」
「ご覧ください、ザーマイン軍がっ」
フェルナンドもスティーブも、何事かと遙《はる》か前方を見る。
――ベルトランが何を言いたいのか、即座にわかった。
今まで一心に敗走していた敵軍が、なぜか逃走をやめ、次々と馬首《ばしゅ》を巡らしつつあるのだ。急速に士気を回復しつつあるらしい。
「なんだ……なぜ、今頃になって反撃しようなど……と」
フェルナンドの語尾《ごび》が、儚《はかな》く消えた。
三人の、いやここに集うファヌージュの騎士達全員が、地鳴《じな》りのような音を聞いたからだ。それは明らかに、ザーマイン軍が敗走していた方向から聞こえた。
「これは……馬蹄《ばてい》の音か? しかも大量に来るぞ」
音の正体はすぐに明らかになった。
苦々しげに呻《うめ》くフェルナンドの目に、丘を越えて押し寄せる新手の軍勢《ぐんぜい》が、はっきりと見え始めている。
大地を覆い尽くすかのようにひたひたと行軍してくる部隊は、全員が漆黒《しっこく》の鎧《よろい》を身に纏《まと》っており、どう見てもザーマインの援軍に他ならない。緑の丘を黒く染め変えるように、静かに、そして整然と行軍してくる。
あるいは、敵は最初から二段構えの作戦を立てていたのかもしれず、となるとこの新手は、敵の後詰《ごづ》めということになるだろう。
普通は、兵力を一カ所に集中することを考えるはずで、時間差をつけての後詰《ごづ》めなど有り得ない。最初にぶつかった軍勢《ぐんぜい》が敗退した後、のこのこ戦場に後詰《ごづ》めが現れても意味がないからだ。
しかし、現にフェルナンドは今、敵の策に乗せられてしまっている。全ては最初の勝利に満足せず、敵を深追いしてきたせいだが、お陰で今、窮地《きゅうち》に陥《おちい》っている。
テセトの侵攻《しんこう》といい、この二段構えの軍勢《ぐんぜい》といい、本当にこれが一貫した策だというなら、敵はフェルナンドの反応を読み切っていたことになる。
「……おのれ、小癪《こしゃく》な」
「陛下、あの旗印をっ」
フェルナンドがスティーブが指差した方を見ると、将軍達の旗印の中に混じり、一際巨大な旗が翻《ひるがえ》っていた。
それは、このミュールゲニア大陸の中央に長大な魔剣が貫き通っている図柄であり、まさにレイグル王の旗印に他ならない。
あの図柄は、レイグルの世界制覇の野望を示しているのだ。
「レイグルっ、ヤツが来ているのか」
スティーブが早口で述べた。
「何よりもまず、退《ひ》きましょう、陛下っ。ヤツらに思い知らせてやる為にも、ここは退《ひ》かねばなりませぬ!」
「くっ……」
一声|呻《うめ》いたものの、フェルナンドも決して愚《おろ》か者ではない。このような状況で戦うことに利などなく、退《ひ》く他はないとわかっている。
「よし、皆の者、よく聞けっ。我々はこれより、本国に撤退《てったい》する。敵は大軍だ、今なら振り切れる可能性は高いっ。疲れているだろうが、急いで撤退《てったい》するぞっ」
もちろん、異を唱える者はいなかった。
だが、敵の罠《わな》はさらに狡猾《こうかつ》だった。
急いで撤退《てったい》する途中、フェルナンドは自分達が来た東の方角に、砂塵《さじん》が上がっているのを見た。近づくにつれ、戦闘《せんとう》の剣撃《けんげき》の音まで聞こえる。
フェルナンドより先に、ベルトランが言った。
「まさか……我らの後続部隊が襲《おそ》われているのでは」
三人は顔を見合わせたが、可能性としては他に考えようがない。よもやテセトの軍勢《ぐんぜい》がもうここまで来たはずはないだろうし、やはりあれも、ザーマインの援軍なのだろう。
「しかしっ。どこに潜《ひそ》んでいたのだ、敵は!」
「……追撃の途中、小規模な森が幾つもありました。敵はあらかじめ、そのような場所に少しずつ兵力を配置しておいたのでは? 我らが追撃した時、背後を塞《ふさ》ぐために」
答えるスティーブの顔は、既《すで》に死を覚悟《かくご》していた。もしも彼の指摘が正しいのなら、ファヌージュは完全に死地に入っていることになるわけで、それも当然である。
「埋伏《まいふく》の陣《じん》……そこに飛び込んでしまったか」
馬を駆りつつ、フェルナンドは左右の味方を見る。皆、覚悟《かくご》の窺《うかが》える表情で自分を見つめていた。
フェルナンドは声を絞り出した。
「是非もないっ」
しかしいつまでも絶望することなく、騎士達に改めて号令した。
「皆の者、進めっ。後続の味方を救い出し、なんとしても敵の包囲を突破《とっぱ》するのだ! 俺は最後まであきらめはせんっ」
「おおおーーーーっ!」
彼に応える声は、なおも力強さを失ってはいなかった。
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第七章 この時代には!
サラとデューイ、それにフィランダーの三人は、馬首《ばしゅ》を並べ、追撃から撤退《てったい》に転じたファヌージュ軍を丘の上から眺めている。
そのうち、レイグル王その人が、ソフィアを連れて馬を寄せてきた。
「……策は当たったようだな」
フィランダーは相変わらずファヌージュ軍の方を眺めていたが、サラとデューイは心からの尊敬を込めて頭を下げた。
「敵を領土内深くに誘い寄せ、その後、掌《てのひら》を閉じるように包囲網《ほういもう》を狭《せば》めていく……見事な策ですわ、レイグル様」
サラの賞賛《しょうさん》の言葉に、レイグルは淡々と応える。
「相手があの、武勇自慢《ぶゆうじまん》のフェルナンドだから使えた手だ。他の誰か……例えばレインが相手だとすれば、この策はそもそも用をなさず、緒戦《しょせん》の敗北で戦いは終わっていただろう」
二人とも、反論はしなかった。
「レイグル様はレインを買い被っておられるのだ」とは思っていても、あえてそれを口にしようとは思わないのだ。
そのレイグルは、サラ達に簡潔《かんけつ》に命じた。
「追撃の手を緩《ゆる》めず、まずはフェルナンド以下、守護三騎士とやらの首を頂こう」
「……降伏《こうふく》は勧めなくてよろしいのですか?」
サラが上目遣いで尋《たず》ねる。
もちろん敵に哀れみを感じているわけではなく、殺してよいという保証をもらいたいのである。
「ヤツらは降伏《こうふく》などすまい。……兵士達はともかく、指揮官クラスはな。声だけはかけてやってもよいが、まず無駄《むだ》だろう」
そう言うと、レイグルはサラではなくデューイに目を向けた。
「魔人が何人も追うほどの価値はあるまい。今回はデューイ、おまえに任せる」
「御意《ぎょい》。……少しは私も働こうと思っていたところです」
デューイは低頭する。そして、がっかりした様子のサラを見やり、破顔《はがん》した。
「そんな顔をせずともいいだろう、サラ。君はまだ、魔物の森から戻ったばかりだろうに」
「……そりゃそうだけどさ」
肩を落としたサラにもう一度笑いかけ、デューイは手綱《たづな》を握り直す。
フィランダーはともかく、サラとデューイの戦意は十分高い。口髭《くちひげ》をしごきつつ、デューイは一礼した。
「ではレイグル様、しばしお待ちを」
レイグルは小さく頷《うなず》いたのみである。
ソフィアと並んだまま、眼下の戦場をじっと見下ろしていた。
――☆――☆――☆――
同じ頃、レインはルナンの残存勢力をほぼ一掃していた。
援軍に来ていたザーマイン軍も北へ向けて去り、今はサンクワール軍のみがこの地にある。
全軍に一時の休息を許したレインは、副官のガサラムをこっそり呼んだ。
「……さて。約束通り、おまえの心配をどうにか出来るか考えてみよう」
「戦局は、どうなってますかい?」
陣地《じんち》の隅に呼び出されたガサラムは、よほど気になっていたと見え、息せき切って尋《たず》ねた。
「マジックビジョンを使える間諜《かんちょう》は少ないんで、この情報にはあくまでズレがあるが」
レインはそう断りを入れ、
「最新の情報では、ファヌージュは緒戦《しょせん》で勝利を収めた。そのまま追撃に入り、逆にザーマインを追っているらしい」
「ははっ。そうですか、じゃあ」
明るくなりかけたガサラムを、レインは目で抑えた。
「これはおそらく、罠《わな》だ。もちろん、俺がそう思うだけだが、フェルナンド王の勇猛《ゆうもう》さを逆手《さかて》に取られるかもっておまえの心配は、当たっていると思うぞ。今後――いやこの瞬間にも、戦局は劇的に変化しているかもしれない。あいつが指揮しているなら、そう簡単に負けるはずがないんだ」
そんなはずはない、とは言わず、ガサラムは表情を引き締めた。
「……では、やはり」
「今更かもしれないがな。しかし、悪あがきする価値はあるかもしれん。なんなら、俺だけでもいいんだが」
「冗談じゃねーですぜ。将軍だけに損な役目を押しつける気はありませんぜっ」
「わかったよ。俺だけじゃまずいのも確かだしな」
レインは笑って了承した。
「話はまとまった?」
ころはよしと見たのか、シルヴィアが早速《さっそく》、レインに近づいてきた。
「ああ、話はついた。……頼めるか、シルヴィア?」
「世話になりますなぁ」
レインはともかく、ガサラムは本当に申し訳なさそうに頭を下げる。
「任せなさい。でもね――」
くすっとシルヴィアが笑う。
「やるなら早くした方がいいわよ。姫君が、そろそろレインの悪巧《わるだく》みに気付き始めてるもの。あなた、もうすぐ本陣に呼ばれるわよ、きっと。ていうか、別になにもなくても呼ばれると思うけど」
「そりゃまずいな」
レインはこっそり周囲を見渡す。
本陣にいるシェルファもだが……それ以前に、ユーリやセルフィー、そしてファルナといった面々が、見ていないふりをしつつ、じっとレイン達を窺《うかが》っている。わざわざ陣地《じんち》の隅っこに来ているのに、全然意味がない。
ユーリなどは指まで差してセルフィーに何か述べており、非常によろしくない状況だった。
というか、「怪しいからレニ隊長かセノア隊長を呼んだ方がいいかもね」などと吐《ぬ》かすのが聞こえていたりする。
「吹けば飛ぶような下《した》っ端《ぱ》の癖《くせ》に、とんでもないなあいつ。……じゃなくて、ホントにセノアが来やがったし」
本陣の方から足早にやってくる美人副官を見た途端《とたん》、レインは決断した。
結界もあるし、何よりもシェルファのそばにはノエルがいてくれる。少しくらいなら、ここを離れても大丈夫だろう。
「よし、人目のない所でやらかすぞ。目標は、前方に見える木立《こだち》の中っ。全員、ずらかれっ」
レインの号令と同時に、食い逃げ犯もたじろぐスタートダッシュで、三人は一斉に走り出した。
「しょ、将軍っ。どこへおいでになるおつもりですっ。陛下がお呼びになって」
などと後ろからセノアが喚《わめ》いていたが、無論《むろん》、三人とも無視である。
「あぁー、聞こえない聞こえなーい! あはははっ」
呼吸も乱さずに走りつつ、シルヴィアが笑っていた。
「こういうのって楽しいわねぇ。わくわくするわ」
挙げ句、シルヴィアは悪のりして「きゃー、あたし、レインに誘拐されちゃう〜♪」などと芝居っ気たっぷりに叫んだりする。陣中の半数以上に聞こえたに違いない。
「おいおい、すげー真面目《まじめ》な場面なんだぞ、今は」
とか言いつつ、レイン本人が一番げらげら笑っているのだった。
いい歳した三人は、セノアの眼前《がんぜん》で悪ガキのように遁走《とんそう》したのである。
「なぜ私から逃げますか!」
怒り狂ったセノアが、後を追って木立《こだち》の中に飛び込んだが……どこへ逃げたのか、三人の姿はもうそこらには見当たらなかった。
しばらく無闇に辺りを駆け回り、ぷりぷり怒ってレインを捜し回ってから、セノアはもちろん、この一件をシェルファに報告した。シルヴィアのふざけた悲鳴も含めて、全てだ。
「今少し、周辺を捜してきますっ」
そう言い置き、怒ったように退出したセノアを見送った後、シェルファは胸の鼓動が激しくなるのを感じた。
これは絶対に何かある……そう思ったからだ。
「ガサラムさまとシルヴィアさまを連れてどこへ? レイン……どうしてわたくしには話してくださらなかったのです」
胸を押さえながら悲嘆《ひたん》に暮れていると、意外にも横から返事が来た。
「……おまえの身を案じてのことだろう。別にあいつに他意はあるまい」
シェルファは座したまま、驚いてノエルを見上げた。そういえば、陣所《じんしょ》代わりのこの大テントには、ノエルもいたのだった。
「ノエルさんは事情を知っているのですか!」
いつになく懸命《けんめい》なシェルファに、ノエルは肩をすくめた。
「さぁな。訊こうと思ったが、私は単なる余所者《よそもの》だ。余計な首を突っ込む気はない。私はおまえの警護を頼まれたので残っているだけだ」
「でも、何か胸騒《むなさわ》ぎがしますっ」
シェルファが頑固《がんこ》に言い募《つの》ると、ノエルは少し眉《まゆ》をひそめた。
実のところ、シェルファには確かにある種の勘の良さがあるが、こういった場合の胸騒《むなさわ》ぎにはあまり深い意味はない(ことが多い)。レインが近くにいないか、あるいは急にどこかへ出かけた場合、シェルファはいつだって胸騒《むなさわ》ぎがするのである。簡単に、「動揺《どうよう》」と言い換えてもいい。
しかし、新参《しんざん》のノエルにそんな事情はわからない。懸命《けんめい》なシェルファの顔を見ているうちに、彼女まで微妙に態度が変わってきた。
考え考え、ぽろっと洩らす。
「……まあ、いかにあの二人とはいえ、当然ながら危険はあるが」
「やっぱり。ノエルさんは行き先をご存じなんですね! すぐにわたくし達も後を追いましょうっ」
すがりつかんばかりのシェルファを見て、ノエルは目を瞬《またた》く。
「しかし……私はおまえの警護を頼まれているのだ。信頼を裏切る訳にはいかない」
「それなら二人で行けばいいじゃないですか。わたくしの警護も同時に出来ますものっ」
コトがレイン関係とあって、シェルファは一歩も後に退《ひ》かなかった。
ノエルですら、たじたじとなったほどである。
「そ、それは名案かもしれないが、だが私とて、彼らの現在の正確な位置までは知らない。そもそも私の転移の術は、過去に行ったことのある場所にしか使えないのだ」
「だいたいの見当がついているのなら、まずそこに跳んで、そこから先はレインの力の波動を頼りに見つければいいですっ」
シェルファの必死《ひっし》の説得工作は功《こう》を奏《そう》した。
ややあって、ノエルはきりっとした顔一杯に、ゆっくりと笑顔を広げたのだ。
「なるほどな……おまえ、なよなよした見かけの癖《くせ》に、なかなか良いことを言う」
次の瞬間、ノエルは彼女らしく即断した。
「いいだろう。私もこんなところで突っ立っているより、戦場の方が好きだ。私の腕に掴《つか》まるがいい。今からすぐに跳ぶぞ」
「はいっ」
喜色満面《きしょくまんめん》でシェルファがノエルの腕に掴《つか》まる。と、二人の背後から声がした。
「それで、私はどこに掴《つか》まればよろしいですかな?」
シェルファはおろか、ノエルまでが驚愕《きょうがく》して振り向いた。さすがに寸前で気配《けはい》は感じたものの、ギリギリまでわからなかったのだ。
「いきなり、なんだっ」
「ギュンターさま!」
声を上げた二人に向かい、ギュンター・ヴァロアその人が、年季の入った執事《しつじ》顔負けの優雅な一礼をする。
「私も、なにかしらレイン様のお役に立てることがあるやもしれませぬ。仮になんの役にも立たずとも、主君の大事とあれば看過《かんか》出来ませんな。ついでもありましょうし、共にお連れいただこうかと愚考《ぐこう》した次第……」
「なにが愚考《ぐこう》だっ。貴様、いつから聞いていたっ」
ノエルの詰問には一ミリほど肩をすくめたのみで済ませ、ギュンターは実に嫌そうな顔でノエルのウエストを見下ろした。
いかにも、「ちっ。本当は気が進まねぇ」と言いたそうな表情である。
「……では、失礼して私はノエル様の腰の辺りに」
「待てっ。私の身体に気安く触れるな! 殺されたいかっ」
伸ばされた手からさっと距離を開けたものの、ノエルもギュンターとは初対面ではない。この男がレインの忠臣《ちゅうしん》であることくらいは、既《すで》に知っている。
顔をしかめつつも、結局は同行を承知した。
「ええい、おまえも腕だ、私の左腕に掴《つか》まれっ。余計なところに触ると、手をへし折るっ」
「心しておきましょう」
うるせー、俺様にごちゃごちゃ吐《ぬ》かすんじゃねえっ!
……そう言わんばかりの渋い面構《つらがま》えで、ギュンターは頷《うなず》いた。
――☆――☆――☆――
ファヌージュ軍は壊滅《かいめつ》の危機に瀕《ひん》していた。
守護三騎士たるスティーブとベルトランの力と、それにフェルナンド王の巧みな指揮でなんとか崩れずにいるが、もはやファヌージュに帰還することは絶望的である。
国境線まで、普通に行軍しても数日はかかる距離なのだ。敵を甘くみず、セオリー通りに国境で迎え撃っていれば別だったろうが、こうなっては仕方ない。
フェルナンドは、自《みずか》らの甘さが招いた窮地《きゅうち》に歯がみしていた。しかし今は、そのような泣き言を並べる暇も惜しい。
「先行の物見より報告! 新たな敵軍が前方で待ち構えているそうですっ」
伝令が告げる悲鳴のような声に、フェルナンドはついに決断した。
突破《とっぱ》しても突破《とっぱ》しても、新たな敵勢が前方から現れる。四方全てが埋伏《まいふく》の陣《じん》ではないか、と思うほどである。
この調子では、帰路にどれだけの敵兵が潜《ひそ》んでいるか、見当もつかない。
思い切った手を打つなら、今しかないのだ。
「全軍、止まれっ」
不審《ふしん》を覚えつつも、馬足《ばそく》を緩《ゆる》めた味方に対し、フェルナンドは決然と命じた。
「これより、軍を二手に分かつ。一隊はこのまま俺が率いてファヌージュを目指し、もう一隊は守護三騎士が率いて、南へ向かえ」
「南……これは異なことを」
三騎士のベルトランが、眉《まゆ》をひそめた。
「帰還する以外、我らにどんな道があると仰《おっしゃ》いますか。そもそも、俺は陛下と離れる気などありませぬ」
ベルトランに賛同する声が、周囲の将兵から次々と聞こえた。
しかし、フェルナンドはあえて声を励《はげ》ます。
「駄目《だめ》だっ。現実を見よ。我が軍は明らかに壊滅《かいめつ》しかけている。このまま本国を目指して、無事に辿《たど》り着けると思うか。ここは、なんとしても生き残ることを考えねばならん。二手に分かれれば、例え片方が倒されても、ファヌージュ軍は残る! ヤツらに逆襲《ぎゃくしゅう》するにしても、まずこの窮地《きゅうち》を乗り切らねばならんのだ。わかってくれ!」
王の必死《ひっし》な声に、騎士団《きしだん》の面々はたちまち静まりかえった。彼らも凡庸《ぼんよう》な騎士ではないだけに、現状はよくわかっているのだ。
それに、この王がここまで懇願《こんがん》口調で語るのは、絶えてなかったことである。
「一つ、お尋《たず》ねしたいのですが」
今まで黙っていたスティーブが、フェルナンドを静かに見つめる。
「一隊は南へと仰《おっしゃ》いましたが、南の何処《どこ》へ向かえと仰《おお》せですか」
「……ガルドシュタイン、もしくはレイファンだ。場合によっては砂漠や聖域を渡る行程になろうが、それでも向かわねばならん。幸い、敵は我々が南へ向かうなどとは予測もしていないはず」
息を呑《の》む味方を、フェルナンドは見渡す。
「各国の王とは、既《すで》に話がついている。……いや、俺は返答していないが、少なくとも『いざという時はいつでも軍勢《ぐんぜい》を受け入れよう』との手紙をもらっている」
全員、そっと顔を見合わせた。
それはつまり、彼らはフェルナンドの敗北を予期していたということでは。
「最初に話を持ちかけたのは、ガルドシュタインですか?」
スティーブのさらなる質問に、フェルナンドは首を振った。
「ガルドシュタインでもレイファンでもない。提案した者は他にいる。マジックビジョンとやらを使い、以前からこの二カ国と話を付けていたそうだ」
「なるほど」
深々と息を吐《は》き、スティーブは苦笑した。
「どのような人物か詳しく伺《うかが》いたいものですが、今はそれどころではありません。このスティーブ、陛下のご命令を謹《つつし》んで承りましょう」
「わかってくれたか!」
フェルナンドはようやく笑顔を見せた。
「ただしっ」
スティーブはきっとフェルナンドを見据えた。
「少し配置を換えて頂きたいのです」
――無事に二手に分かれはしたが。
しばらくするとやはり、背後から追っ手が迫ってきた。しかも、今度の部隊はこれまでと違うようである。
乗馬ズボンを穿《は》き、貴族衣装に身を包んだ男が混じっているのだ。鎧《よろい》も纏《まと》わないその姿は、漆黒《しっこく》の軍勢《ぐんぜい》の中で大いに目立っていた。
――なるほど、あれが魔族の一人か?
スティーブは振り向いてそいつを見た途端《とたん》、そう直感した。どうやら、こっちの部隊を選んで正解だったらしい。
ともあれ、どうせ先へ進んでも新たな敵が待ち構えているのである。それに、自分達が乗る馬は長時間に及ぶ過酷《かこく》な撤退《てったい》で疲れ切っており、どのみち追撃してくる敵を振り切れはしない。
スティーブは瞬時《しゅんじ》に決断し、部隊に停止を命じた。
「見たところ、数だけは大したことなさそうだ。なんとしても我々が防ぎ、少しでも別働隊を遠くへ逃がすのだ!」
「おおーーっ!」
全員、もはや死を覚悟《かくご》したのか、晴れ晴れとした顔でスティーブに応えた。
そして号令と同時に、守護三騎士の一人たるスティーブの身体が、またもやレザーアーマーごと輝きを放ち出す。味方の注目を一身に浴び、スティーブは長槍《ながやり》を構える。
「行くぞっ。私に続けっ」
砂塵《さじん》を巻き上げ、全軍が一体となってザーマインの追撃部隊に襲《おそ》いかかる。敵は、スティーブ達がこの期《ご》に及んで逆襲《ぎゃくしゅう》してくるとは思わなかったのか、一瞬|虚《きょ》を衝《つ》かれ、浮き足だった。おまけに、まばゆいオーラで輝くあの男は、明らかに守護三騎士の一人ではないか!
「守護三騎士が一人、スティーブ! お相手致すっ」
短く名乗りを上げ、スティーブは風車のように長槍《ながやり》を振り回し、敵を造作《ぞうさ》もなく刈り取っていく。
もちろん、ザーマイン軍も反撃している。しかし、彼らの槍《やり》はスティーブのレザーアーマーを貫くことが出来ず、剣も固い鉄板を斬りつけるような手応えがして、用をなさない。かえって自分の手が痺《しび》れ、剣も派手《はで》に刃こぼれする始末である。
全身を覆うあの輝きが、ヤツを一切の攻撃から守っているのだ、というところまではわかる。しかし、どうしてもそのガードを突破《とっぱ》出来ない。
「どうしたっ。これが天下を狙う強国ザーマインの実力か!」
疲れ切っていたファヌージュ軍も、一時的に勢いを盛り返した。
「スティーブ様に続けーーーっ」
「そうだ、みんながんばれ!」
敵軍の中にあり、スティーブの戦いぶりは凄《すさ》まじかった。彼の行くところ、敵騎士の血で大地が染まり、悲鳴の後には必ず首や腕が飛んだ。
たまらず、騎士隊長が叫んだ。
「囲めっ。こいつを皆で囲んで――」
「甘いなっ」
スティーブがぶんっと豪快《ごうかい》に槍《やり》を振り切る。取り囲もうと密集しつつあったザーマイン騎士達の首が、腕が、胸が――それぞれ切り裂かれ、新たな血泉《けっせん》が吹き上がる。
ザーマイン軍に動揺《どうよう》が走り抜けたその時、高々と声が上がった。
「よし。そいつは私が倒しておこう」
ざざっと敵軍が道を空ける中を、例の貴族衣装の男がゆっくりと馬を寄せてきた。一応、腰に剣を帯びているが、武装といえばそれくらいである。
「……ついに出たか。貴様、魔族の一人か?」
「そういうことだ」
綺麗《きれい》に整えられた髭《ひげ》を持つ男は、スティーブの眼前《がんぜん》で優雅に一礼した。
「私の名はデューイ。レイグル様に未来を託《たく》す者の一人だ」
「そうか、それはちょうどいい」
スティーブは、彼には珍しく、凄惨《せいさん》な笑みを浮かべる。
「守護三騎士の一人として、ファヌージュの未来のために、この際は一人でも魔族を減らしておく!」
セリフの途中で、唸《うな》りを上げて輝く長槍《ながやり》が突き出された。まさに必殺の勢いに満ちており、銀の閃光《せんこう》のようにデューイを襲《おそ》った。
「――ぬっ」
槍《やり》は、間違いなく敵に突き立った。
本来なら易々《やすやす》と胸板を貫くはずが、穂先《ほさき》の半ばで止まっていたが。……それでも、デューイの上衣には血が滲《にじ》んでおり、傷を負わせたのは間違いない。
――しかし。
デューイは最初と同じく微笑《びしょう》しており、少し首を傾《かし》げたのみである。
「ほぉ? さすがに守護三騎士などと呼ばれるだけのことはある。人間がこの私に怪我《けが》をさせただけでも、大したものだよ。褒《ほ》めてあげよう」
次の瞬間、デューイは自分で槍《やり》を引き抜き、スティーブからもぎ取って遠くへ投げ捨ててしまう。地面に落ちた槍《やり》はたちまち輝きを失った。
デューイは平然とスティーブの真横に馬を寄せ、けろりとした顔で述べた。
「しかし……せいぜい、ここまでだな。もう少し相手になるかと思ったが、やはり私が手を下すほどではなかったか」
さらにスティーブをしげしげと見やり、
「なるほど。守護三騎士と言いつつ、二人しか表に出てこないカラクリが見えてきたよ。……最後の一人は、君達二人の防御《ぼうぎょ》に専念しているわけだな。距離も関係なく力を発揮出来るとは、なかなかのものだ。逆に言うと、だからこそ表に出てこないわけか」
「うるさいっ。まだ勝負は――」
スティーブがさっと腰の剣に手を伸ばそうとした時、デューイはとうに剣を抜いていた。
くっ――こいつ、速いっ!
魔剣の輝きが目に灼《や》きつき、スティーブは心の中で叫んでいた。
『姉さんっ!』
どこか達観《たっかん》したような表情を張り付かせたまま、スティーブの首は無惨《むざん》に転がり落ちた。遅れて胴体《どうたい》が傾《かし》ぎ、ゆっくりと馬から滑り落ちていく。
全身を覆っていた輝きが、すうっと消えていった。……あたかも、彼の絶命を知ったかのように。
「弱いなぁ……弱い弱い……所詮《しょせん》は人間か」
落ちたスティーブの首を一瞥《いちべつ》し、デューイは相変わらずの笑みで呟《つぶや》く。
「さて。どうやら王も他の三騎士もこの部隊にはいないようだが……もしかして、二手に分かれたのか。めんどくさいことをしてくれるものだ。全員、まっすぐ本国へ敗走するだろうと思ったのだがね」
やれやれ、と首を振る。
「誰か知らんが、フェルナンドに余計な知恵を授けたヤツがいるようだ。そもそも、途中から軍勢《ぐんぜい》の気配《けはい》を全く感じなくなった。今倒した彼以上の誰かが、私の邪魔《じゃま》をしているな……小賢《こざか》しい」
酷薄《こくはく》な表情を浮かべ、やっとファヌージュの残存騎士達を眺める。
「まあ、それはともかくだ。――もし、本隊がどの方角へ逃げたか教えてくれれば、君達の命は助けるが……どうかな?」
声もなくスティーブの最後を見ていたファヌージュ軍は、デューイの声でやっと我に返った。
「おのれ……よくもスティーブ様を!」
「殺せ、ヤツを殺せっ」
どっと殺到《さっとう》してくるファヌージュ軍を見ても、デューイの表情は特に変わらない。
「生き延びるチャンスはちゃんと与えたぞ、人間共! しかし、そんなに私に殺されたいのなら仕方ない。はは、はははっ」
哄笑《こうしょう》を上げつつ、ファヌージュ軍を迎え撃つ。彼にとっては、戦士の国の騎士達も、単なる弱敵に過ぎなかった。
……間もなく、ファヌージュのおとり部隊は全滅《ぜんめつ》してしまった。
――☆――☆――☆――
「スティーーーーーブっ! いやあっ」
悲鳴のようなその声によって、フェルナンド王以下、ファヌージュ本隊は思わず馬の足を止めた。
全員が、声のした方を見る。
そこには、顔をすっぽり覆っていたヘルムを脱ぎ捨てた、黒髪女性がいる。彼女は人目も憚《はばか》らずに号泣しており、皆が何事かと顔を見合わせた。
一人フェルナンドのみが事態を察し、苦しげに呻《うめ》く。
「マリア……そうか、スティーブが亡くなったのだな」
ぎりっと奥歯を鳴らす。
周囲のざわめきも、今のフェルナンドには聞こえていない。
「ヤツめ、最初から本国へ戻るのは無理だと悟《さと》り、あえて自分が引き受けたか……」
『本国へは私が別働隊を率いて向かいます。陛下こそ、南へ逃れてください! 我が進言が受け入れられなくば、私はこの場で喉《のど》をかっ切って果てる所存っ』
フェルナンドが軍を分かつと宣言した時、スティーブは一歩も引かずにそう主張したのである。剛毅《ごうき》なフェルナンドも、この死を掛けた諫言《かんげん》を退《しりぞ》けることは出来ず、彼の進言を受け入れたのだ。
そもそも、ファヌージュの守護三騎士の正体は、マリアを長姉《ちょうし》とする三姉弟であり、生まれつき、三人だけに通じ合う不思議な絆《きずな》を持っている。特に、長姉《ちょうし》であるマリアの力は強大で、こと戦《いくさ》となれば弟二人の防御《ぼうぎょ》を一身に引き受け、いかなる敵の攻撃も弾《はじ》いてしまうのだ。
弟二人が戦場にあって鬼神のごとき戦いぶりを見せるのは、実にこのマリアの力が大きいのである。もちろん、姉弟の核となっている彼女が万一にも狙われないよう、これまでマリアは一度も表に出ず、ひっそりと陣中に潜《ひそ》んでいたのだ。
しかし……そのマリアの力を持ってしても、魔族の攻撃は防げなかったようである。
そう、マリアの防御《ぼうぎょ》を突破《とっぱ》出来るような強者は、魔族以外には考えられない。
ベルトランが遅れて叫んだ。
「待ってくれ、姉さんっ。冗談だろう? あの兄上が……スティーブが死ぬはずないっ。姉さんの力は、今までどんな攻撃だって弾《はじ》いてきたじゃないか!」
ベルトランには姉のマリアほどの力がなく、兄の死を感じ取ることが出来なかったのである。
姉の泣き顔によほど動揺《どうよう》したのか、ベルトランは彼女の乗る馬に近づき、姉の肩を揺《ゆ》さぶった。
「なあ、もう一度コンタクトを取ってくれ、姉さん。きっと、なにかの間違いだ!」
「……ベルトラン」
澄《す》んだ黒瞳《くろめ》からはらはらと涙をこぼし、マリアはベルトランの手を握った。
「もう私には、あなたしか残っていないわ……」
「ね、姉さん……それじゃあ、本当に兄上は」
絶句したベルトランはしばらく呆然《ぼうぜん》としていたが、やがてその目が爛々《らんらん》と輝き始めた。闘気《とうき》に溢《あふ》れるというよりも、破れかぶれになったような目つきだった。
「おのれ、ザーマインっ。このベルトランが戻って、貴様達を冥界《めいかい》に叩き込んでやるっ」
まずいっ、とフェルナンドは思ったし、マリアもはっとした顔になった。
「駄目《だめ》よっ。私はスティーブを通してあの男を見たっ。あれは確かに、魔族以外の何者でもないわ。戻ったら、あなたまで死んでしまう!」
「いやだっ! 僕は兄上の敵《かたき》を取るっ。このままおめおめと逃げたり出来るものかあっ」
ベルトランは、もはや抑制《よくせい》を失っていた。姉のマリアはもちろん、フェルナンド王や他の騎士達が口々になだめているのに、全てを振り切って馬首《ばしゅ》を返そうとしている。
「放せ、みんな放せえっ。僕は兄上を――」
ふっとベルトランの声が途切れた。
そのままくたりと馬から落ちそうになり、慌《あわ》てて姉のマリアが支える。
「ベルトランっ。ベルトラン!」
誰かが言った。
「心配ない。俺が眠らせただけだ……悪いが、説得しているような時間はない」
――誰だっ。
ファヌージュの騎士達は、一斉に空を仰ぐ。上から声が聞こえたためだが、実際、ツインテールの少女と男二人が、静かに天より降りてくるところだった。
「おまえらなぁ……人の思惑を無視して、ガンガンやってくれたよなぁ。お陰でこっちは、予定が狂って散々だ」
降り立った二人の男のうち、黒服の方がいきなり文句《もんく》をつけた。
「せめて国境辺りで固まって戦ってればいいのに、わざわざ敵地の奥深くに侵攻《しんこう》してからに。ちったぁ、敵を警戒するとか……そこら辺を考えろよ。おまけに、やっと探し当てたと思ったら、本隊は全滅《ぜんめつ》しかけてるときた」
フェルナンド王はロクに男の話を聞いてなかった。文句《もんく》付け男の隣に、見知った顔を見つけたからだ。
「おおっ。おまえは、ガサラム!」
「陛下っ!」
懐かしい髭面《ひげづら》が、くしゃくしゃに歪《ゆが》んだ。
器用にも、感激しながら笑っているらしい。
「フェルナンド陛下っ。それにみんなも!」
ぐるっとファヌージュ軍を見渡し、嬉しそうに叫ぶ。
「みんな、安心しろ! 強力な助《すけ》っ人《と》を連れてきたぜっ。これできっと」
黒服男が口を挟《はさ》んだ。
「ガサラムっ。積もる話は後だ。おまえは打ち合わせ通り、みんなを先導して脱出させるんだ。急げっ」
「はっ」
ガサラムは、たちまち表情を引き締めた。
「悪いが、誰か一緒に馬に乗せてくれっ。敵が迫っているみたいだし、時間が惜しい!」
「しばし待ってくれ、ガサラムっ」
フェルナンドは片手を上げた。
ガサラムを制し、少女と黒服男……特に、黒服男の方をじいっと見る。
「……読めたぞ。貴公がレインだな?」
ファヌージュの騎士達は一斉にざわめいた。彼らの中にも、もちろんレインの名を知る者は多い。
しかし当のレインは素《そ》っ気《け》ない。
「ご名答。しかし、今は自己紹介の暇などない。俺があんた達の気配《けはい》を隠して時間を稼《かせ》ぐから、さっさと」
「わかっている!」
フェルナンドはまたもや手で抑えた。
「わかってはいるが他国の重臣《じゅうしん》と――」
レインの隣に立つ、ツインテールの少女を見る。胸の下で軽く手を組んだ彼女は、フェルナンドを見返し、バラ色の唇を綻《ほころ》ばせる。はっとするような魅力《みりょく》があった。
「……それに、少女一人を残して退《ひ》けるものかっ。せめて我が軍から百騎を割いて残そう」
「いらん! かえって足手まといだ」
レインはあっさりと言い切った。
めんどくさそうにフェルナンドを見やり、蠅《はえ》でも追うように手を振る。
「俺とシルヴィアだけで結構。時間を稼《かせ》ぐ間に、余計な気を遣わずにとっとと退《ひ》いてくれ! ほら、急げっ」
……こいつ、正気か?
守護三騎士のスティーブですら、あえなく魔人に殺されたというのに。
剛勇《ごうゆう》のフェルナンド王ですら呆れ果てたし、他の騎士達も同様である。
ガサラムが慌《あわ》てて仲裁《ちゅうさい》に入らなければ、一人の例外もなく、レインの正気を疑ったに違いない。
しかし、ファヌージュの旧臣《きゅうしん》たるガサラムの説得は、さすがに効果があった。
そこまで言うなら勝手にするがいい!
などといささか腹を立ててファヌージュ軍が退《ひ》いた後、レインはやっと吐息《といき》をついた。
「あの親父《おやじ》を連れてきたのは正解だったな。とにもかくにも、退《ひ》いてくれたんだから」
「レインは柔らかく説得するのが下手だものねぇ。……むかーしから」
「そうでもないさ。ただ、自分の力量に幻想を抱いているヤツが多いんで、真面目《まじめ》に説《と》くのが馬鹿《ばか》らしいだけだ」
レインは澄《す》まして返す。
「なんだっていいわよ。とにかく……これでやっと二人っきりになれたわね♪」
ワイン色の美しい瞳が、レインを艶《つや》っぽく見上げる。レインはニヤッと笑った。
「世の中、そう甘くないんじゃないか? どうせすぐに邪魔《じゃま》が入るに決まってるさ」
「……じゃあ、それまでいちゃいちゃしてましょうよ、二人で」
シルヴィアは上目遣いでレインを見上げ、くすっと笑った。
――☆――☆――☆――
確かに、さほどの時間はなかった。
夕日が沈む頃、遙《はる》か地平線の向こうに砂塵《さじん》が見えたのだ。やってきた敵は僅《わず》か五騎に過ぎないが、この力の波動からして、全員、人間では有り得ない。
彼らは部隊に先立ち、自分達だけ馬を飛ばしてきたらしく、そのずっと背後には真っ黒な染《し》みのようにザーマイン軍の本隊が続いていた。
「……ていうか、レイグルまでのこのこ現れたな」
レイグルの名を聞き、シルヴィアの眉《まゆ》がぴくっと動いたが、レインは平静そのものである。特に恐怖心などはない……いつものことだが。
「もう、ファヌージュ軍が逃げ切る余裕はあるんじゃないかしら。あたし達も撤退《てったい》した方がよくない?」
レインは一瞬だけ迷う。
しかし、やはり己《おのれ》の望むところに従うことにした。
「いや……まだ微妙だろう。もう少し時間を稼《かせ》いだ方がいい」
「……危険なのはわかってるわよね? 相手は、魔族達よ」
シルヴィアの声が若干《じゃっかん》緊張を帯びた。
無論《むろん》、自分の心配をしているわけではなく、レインの身を案じているのだろう。
「わかってる。だから退《ひ》き際《ぎわ》は誤らないつもりだ。俺だって、何も考えずにいつも特攻《とっこう》するほど馬鹿《ばか》じゃない。今回の目的は、あくまでもファヌージュ軍の残存兵力を救うことだからな」
シルヴィアに笑いかけ、レインは魔剣を抜いた。ぶんっと一振りし、刀身の長さを一気に三メートル以上にまで伸ばす。
「あー、それはそれとしてだ」
長大に伸びた傾国《けいこく》の剣を斜めに構え、ニヤッと笑う。
「相手が人間ならともかく、いかにもタフそうな魔族共に、何も遠慮《えんりょ》する理由はないよな。それこそ失礼ってモンだ」
レインの言葉に応じるかのように、傾国《けいこく》の剣の青き光芒《こうぼう》がどんどん輝きを増す。自《みずか》らの魔力を目一杯魔剣に注ぎ込みつつ、レインは適当な目標を選ぶ。
「よしっ。最初の獲物《えもの》を決めたっ。調子こいて先頭切って走ってくる、あのちょび髭《ひげ》な。まずはあいつだ!」
小型の太陽のように輝く魔剣を大きく振りかぶり、レインは叱声《しっせい》を放つ。
「行けえっ、ドラゴンキラーっ!!」
豪快《ごうかい》に魔剣が振り切られたその瞬間、大気が激しく鳴動《めいどう》した。
大いなる力の波動によって打ち出された「見えない斬撃《ざんげき》」が、津波のごとく宙を走り、数百メートル先のデューイに殺到《さっとう》する。それは、いつもの遠隔攻撃の比ではなく、しかも危険を察知して空に舞い上がったデューイを追尾までしてのけた。
レインの巨大な魔力はデューイの身体のみに収束し、命中の瞬間、轟音《ごうおん》と共に大爆発を起こす。
目を灼《や》く閃光《せんこう》が弾《はじ》け、暴風が吹き荒れた。
爆発と同時に、その余波が瞬《またた》く間に周囲に及び、レイン達の元にまで到達した。シルヴィアが急ぎ、自分達にシールドをかけたほどである。
荒れ狂う暴風は土塊《どかい》混じりの砂塵《さじん》で天を覆い、無形の衝撃波《しょうげきは》が四方に広がって全てを破壊せんとする。
――数分ほどしてようやく砂塵《さじん》が薄れた時、その埃《ほこり》のベール越しに、デューイが大地に倒れ伏しているのが見えた。しかし……死んではいない。
打撲や傷などで全身から出血していたが、なおも立ち上がろうともがいている……まあ、当分は歩けまいが。
「これでも即死しないか。無駄《むだ》に頑丈《がんじょう》なヤツらだなー」
レインがしれっと述べると、シルヴィアが深々とため息をついた。
「あら〜……これはちょっと、撤退《てったい》するのが難しくなったかも」
事実、シルヴィアの言う通りだった。
今のがモロに直撃したデューイは別だが、レイグル以下、他の四人は黒い翼を広げ、既《すで》に空に舞い上がっている。爆発が収まったのを見て、シールドを消したところだった。
レインはまた一振りして魔剣のサイズを元に戻し、肩をすくめた。
「しかし、今のでびびったのか、あいつらの後ろから来てた軍勢《ぐんぜい》は、進撃を止めたぞ」
遙《はる》か彼方《かなた》のザーマイン本隊を見やり、シルヴィアは頷《うなず》く。
「まあ確かにねぇ。でも、あの魔族さんご一行の一部は、だいぶ怒っているみたい」
特に、あの派手《はで》なドレスの人ね、と指差すシルヴィアである。その先に、銀髪をなびかせつつ飛来《ひらい》する、サラの姿がある。
やや距離を置き、レイン達の斜め上空で停止した。
「またあんた達かいっ。ふざけた真似《まね》をするんじゃないよっ。今度こそただじゃおかないからね!」
目をぎらつかせ、髪を振り乱して叫ぶ姿は、気弱な者なら泣き出しそうなほどである。
もっとも、レインは何も感じないが。
「やかましいっ。うっとうしいからぎゃんぎゃん喚《わめ》くな」
せせら笑って言い返した。
「だいたいなぁ、他人様の国に攻め込むつもりなら、それなりのお返しがあって当然だろうがっ。後ろでふんぞり返ってりゃ戦争が終わるとでも思ってたのか、この横着者《おうちゃくもの》が!」
「それが遺言《ゆいごん》かいっ! いいから、とっとと死になっ」
喚《わめ》いたその刹那《せつな》、サラの右手が急速に大筒のような形状に変化を遂《と》げていく。
そして、先端部分に光を集め始めた。
レインはサラの手に注目しつつも、彼女の後から来る魔族達の位置も確認する。彼らはもはや地上に降りており、残りの三人がひとかたまりになって悠然《ゆうぜん》とやってくるところだった。
「どこ見てんだいっ。まとめて死になっ!」
「甘いわねえっ」
シルヴィアがシールドを張ろうとするのを、レインは目で抑え、彼女をぐっと抱き寄せる。直後、眩《まばゆ》いばかりの光の奔流《ほんりゅう》が大筒からほとばしり、レイン達に降り注いだ。
しかし膨大《ぼうだい》な魔力のビームは、意識的に強化されたレインのアンチ・マジックフィールドにぶち当たり、轟音《ごうおん》と閃光《せんこう》を撒き散らしただけだった。
半球型のフィールドが一瞬だけ二人の周囲に見え、虹色に輝いて全ての魔力を吸収しつくす。火の粉のごとく幾《いく》らか光が弾《はじ》けたが、実にそれだけだった。
閃光《せんこう》が収まった後、もちろん二人はけろっと立ったままである。
レインの腕の中で、シルヴィアが喉《のど》を鳴らして笑う。
「あなた、また成長したわね! ノエルと戦った時よりも、防御《ぼうぎょ》フィールドの耐久力《たいきゅうりょく》が上がってるわよ。本当に、戦えば戦うほど強くなる人なんだから……驚きだわ」
ついでにレインの胸に顔を埋め、シルヴィアは気持ち良さそうに目を細めた。
対して、サラの表情は屈辱《くつじょく》にまみれていた。
「そ、そんなはずあるもんかっ。ただの人間が……あたしの攻撃を防げるはずがっ。ええいっ、それなら今度はもっと強力な」
言いかけたのを、レインの怒声《どせい》が遮《さえぎ》る。
「シルヴィアの言う通りだっ。甘いな、おまえ! 俺がわざわざそれを待ってやると思うかっ」
サラに、見た者が必ず歯ぎしりせずにはいられない、独特の傲慢《ごうまん》笑いを見せつける。
「おまけ付きで今のを返してやるから、今度はおまえが受け止めてみるがいいっ」
叱声《しっせい》と同時に、レインは掌《てのひら》を上空に突き出す。たった今吸収しつくした魔力に自分の魔力を加え、即座に打ち放った。
なまじ距離が近かったせいで避けるのは不可能であり、サラは焦《あせ》ってシールドを張る。ほぼ同時に、レインの光撃《こうげき》がサラを襲《おそ》った。今度の爆発音はサラの攻撃より遙《はる》かに激しく、またしても衝撃波《しょうげきは》が走った。サラは大きく吹っ飛ばされ、あえなく地上に墜落《ついらく》してしまう。
そちらを顧《かえり》みることなく、レインは数百メートルほど離れているレイグル達を、ぎらっと睨《にら》んだ。
「調子に乗るなよ、レイグルっ。かつての大戦の時はどうだったか知らないが、今回は決定的な差があるぞ!」
続けて、天にも届けとばかりに大喝した。
「前と違い、この時代には俺がいるっ! 俺がいるんだっ。それを忘れるんじゃないっ!!」
言下《げんか》に、レインは全力|疾走《しっそう》を開始する。
とっさに止めようとしたシルヴィアの手を振りほどき、魔族達に向かって。
もはやその視線は、レイグルのみに向けられていた。
「レイン! いけないっ。いくらあなたでも、まだあいつには――」
シルヴィアの声が聞こえたが、もはやレインは足を止めなかった。
駆け出したレインを見やり、レイグルはうっすらと笑った。
「敵の頭を潰し、禍根《かこん》を断つ。なるほど、おまえが好みそうな戦法だ。しかし、惜しいな」
微《かす》かに首を振る。
「まだ時が早かったぞ。……ここで死ぬ気と見えるな、レイン」
ちらっとその向こうのシルヴィアを見る。
「シルヴィア・ローゼンバーグ……そうか、ヤツについたのか」
その呟《つぶや》きを聞いたソフィアが何か言おうとしたが、先にフィランダーが述べた。彼らしく、ごく簡潔《かんけつ》に。
「……よかろう。今の大言が事実かどうか、このフィランダーが試させてもらう」
「わ、私も行きますっ」
走り出したフィランダーを、慌《あわ》ててソフィアが追う。
レイグルのみはその場から動かず、ただ自分の魔剣の柄《つか》に手をかけた。
……いいだろう。
おまえが立ち塞《ふさ》がると言うのなら、その挑戦、受けてやろう。
自分に向かって走ってくる大男を見た途端《とたん》、さすがにレインも足を止めた。
そいつは間合いすら無視するかのような勢いで躍《おど》り込み、短く名乗りを上げた。
「我が名はフィランダー。レインとやら、おまえの力を見せてみろ!」
次の瞬間、フィランダーの手に純白に輝く巨大な魔剣が現れた。二メートル近くあるに相違なく、しかも横幅もでかい。
「おおおおおおおおーーーーっ」
気合いの声と共に、フィランダーが力任せに魔剣を振り下ろす。レインは自分の頭上で大気を切り裂く音を聞いた。
「ぬうっ」
両手で構えた傾国《けいこく》の剣に、フィランダーの魔剣が全力でぶち当たった。その途端《とたん》に閃光《せんこう》が弾《はじ》け、周囲に無形の衝撃波《しょうげきは》が走る。レインの足下で大地が砕け、一瞬にしてびしっと無数の罅《ひび》割れが生じた。
「はあっ」
受けられたと見るや、フィランダーは大柄な身体からは想像もつかない敏捷《びんしょう》さで剣を持ち上げ、今度はレイン横腹に魔剣の斬撃《ざんげき》を叩き込む。勢いとスピードは全く衰えず、風を巻いて巨大な刀身が走った。
「しゃらくさいっ!」
レインはこれも受けた。
頭上で水平に構えていた傾国《けいこく》の剣を瞬時《しゅんじ》に動かし、体勢《たいせい》を変えて横からの衝撃《しょうげき》に備える。直後、フィランダーの魔剣がぶち当たって、またもや衝撃《しょうげき》と閃光《せんこう》が弾《はじ》けた。
全身の骨格が悲鳴を上げたが、レインは唇を噛《か》んでとんでもない斬撃《ざんげき》を防ぎきる。
直後に前蹴《まえげ》りを放ってやったが、それはフィランダーが身体を捌《さば》いて避けた。ようやくぱっと間合いを開け、敵はごつい顔に会心の笑みを浮かべた。
「おまえは……強いっ!」
「素直《すなお》なのはいいことだ。しかし、今の俺の相手はおまえじゃないっ」
言い捨て、レインは膝《ひざ》をたわめて高々と跳躍《ちょうやく》する。フィランダーの頭上を越え、遙《はる》か先に着地し、疾走《しっそう》を再開した。
「むっ!」
フィランダーがさっと身を翻《ひるがえ》した――が。
「させないわよっ」
シルヴィアの放った炎の魔法を避け、大きく飛び退《の》いた。
フィランダーに続けて攻撃を仕掛けつつ、シルヴィアは懸命《けんめい》に呼び止める。
「レインっ。止まりなさい!」
しかし、レインは足を止めない。
今度は前から走ってきた見慣れぬ女性魔族に向かい、怒声《どせい》を放つ。
「目障りだ、消えろ!」
レインが躍《おど》り込むと、|その女性《ソフィア》は怯《おび》えたように身をすくませた。
戦意なしと見て、レインはまたもやそいつの頭上を飛び越える。あと、残すは本当にレイグル一人である。
「……死にたいというのなら、やむを得まい。よかろう、来るがいいっ」
レイグルが腰の剣を抜き放つ。
鮮血《せんけつ》のように真紅《しんく》の輝きを放つ魔剣を。
途端《とたん》にレインは、レイグルの強大な力の波動を感じた。
「言われなくても、いま行く!」
あと、二十メートルっ!
その時、よく知った声が叫んだ。
「レイン、駄目《だめ》ですっ!」
――なにっ?
思わずレインが足を止め、レイグルもまた、新たな気配《けはい》に首を巡らそうとする。
しかし、そのレイグルに炎の固まりがぶつかる。造作《ぞうさ》なく手で払い、レイグルは唇を吊り上げた。
「……ほお? 例の妙な姫君と……それにノエルと……ギュンターか」
レイグルがギュンターの名前を知っていたことに、レインはいささか驚いた。今の唐突《とうとつ》な攻撃はギュンターのものだったのだが、そのことについてもレイグルは特に驚いた様子もない。
よほどレイン達に詳しいのだろう。
レインは間近に転移したシェルファ達を、急いで見やる。
「どうしてここにっ。危険だぞ、チビっ」
生まれて初めてのことに相違ないが、シェルファはレインを無視した。レイグルが、今度は自《みずか》らレインに襲《おそ》いかかろうとするのを、しっかり見ていたからだ。
「ノエルさんっ、早く!」
「わかっているっ」
ノエルは、両手を広げて叫ぶ。
「食らえっ、ナイトワールド!」
疾走《しっそう》するレイグルの周りを包み込むように、急速に闇が広がる。亜空間が生じ、そのままふっとレイグルは消えた。ノエルが怒鳴《どな》る。
「今だっ。退《ひ》けっ、レイン!」
「そうよ、早く退《ひ》いてっ。今はまだ、あなたが命をかけるような時じゃないわ!」
追いついたシルヴィアが、ようやくレインの腕を取る。レインは背後から迫るフィランダーを振り返り、それからシェルファ達に目をやり……最後にシルヴィアを見つめた。
迷いの窺《うかが》える声で呟《つぶや》く。
「シルヴィア……しかし俺は」
「早くしろっ。駄目《だめ》だ、私の力を持ってしても抑えきれないっ」
ノエルが叫ぶ。
信じがたいものを感じ取ったような声音《こわね》だった。
「すぐに結界が破られるぞ!」
彼女らしくもなく、戦女神《いくさめがみ》のような凛々《りり》しい美貌《びぼう》が汗まみれだった。
大気に不気味《ぶきみ》な鳴動《めいどう》が満ち始めている。レイグルが今にも亜空間をぶち破りそうだった。
そして苦しむノエルを見た時、レインのこだわりも消えた。
……シルヴィアの言う通りだ。今はまだ、命をかけるべき時じゃない。特に、仲間を巻き添えにしそうな今は駄目《だめ》だ。
「わかった、退《ひ》こう! シルヴィア、頼むっ」
「待ってたわよっ」
レインが決断した直後、二人の姿は転移し、消えた。それを見たノエルも、シェルファ達を伴ってその場から転移する。
一瞬の差で、ノエルの結界は力ずくでこじ開けられた。
夕闇の荒野に、レイグルが再びすうっと姿を表す。
悠然《ゆうぜん》と歩み寄るフィランダーと顔を見合わせ、レイグルは笑った。
「……レインは去ったようだな」
「らしいな。しかし、残念だとは思わん。シルヴィアという新たな強者にも出会えたことだし、今日のところは満足だ」
フィランダーは重々しく返す。
「あの黒衣《こくい》の男ともまた会えるだろう。どうせ戦うのなら、私はより強敵を望む。ヤツは今でも強いが、さらに強くなるならそれにしくはない。……おまえからすれば迷惑な意見だろうが」
しょんぼりと戻ってきたソフィアに軽く頷《うなず》いたのみで、レイグルは何も答えなかった。
ただ、レインの消えた辺りをいつまでも見ていたのである。
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エピローグ 森の中の小さな小屋にて
「悪いな、シルヴィア。ここから先は一人で行くよ」
レインの頼みに従い、わざわざ懐かしい森まで転移してくれたシルヴィアは、何か言いかけたのにそのまま口を閉ざした。
おそらく、「そこまであたしも一緒に行きたい」と言いかけたのだろう、とレインにはわかっている。しかしもちろん、シルヴィアは遠慮《えんりょ》した。この場合はそうすべきだと、彼女にもはっきりわかっているのだ。
レインは素直《すなお》に低頭する。
「本当に悪い……そんな時期じゃないのはわかってるが、でもここ何年か来てなかったんでな。今度はいつ来られるかわかったもんじゃないし」
「うん。いいのよ、レイン。わかってるから」
シルヴィアは優しい微笑《びしょう》を返す。
「ここで待ってるから、ゆっくり行ってきなさいよ」
「待つって、一時間ほどかかるかもしれないぞ」
「……それでもいいの。ここは良いところだし、景色でも眺めながら待っているわ」
一拍置き、付け加えた。
「この後で、ご両親とも会っておけば?」
レインは一瞬押し黙り、やがて静かに首を振った。
「いや……やめとこう。今の俺は、もう昔の俺じゃないからな。……じゃあ、ちょっと行ってくる」
背を向けたレインに、シルヴィアがそっと声をかけてきた。
「……彼女によろしくね」
――大陸北部の果てにある村、ノーグ。
レインが入ったのは、そのノーグから三十分ほど歩いた場所にある、小さな森である。
草原の中にぽつんと存在するようなこの森には、そもそも名前すらなく、人が足を踏み入れることもあまりない。
ノーグの住民に木こりは多いが、彼らはこの森に見向きもしない。村のすぐ近くにもっと広大で立派な森があるので、まともな木こりはみんなそちらへ行くからだ。名も無きこの森に生《お》い茂《しげ》る松の木は、幹も少し細く、遠出してくるほどの価値がないのである。
故に、この忘れられた森は、当時と全く同じ雪景色のまま、レインを迎えてくれた。
ロクに道もないような森の中を、レインは周囲を見渡しつつ、ゆっくりと進む。木々の枝には昔と同じように雪が白い化粧を施《ほどこ》し、場所によっては大きな氷柱までが下に伸びている。
辺りはしんと静まりかえっていて、聞こえるのは積もった雪を踏みしめる自分の足音だけだった。
この森独特の静謐《せいひつ》な空気を胸一杯に吸い込み、レインはひたすら懐かしい場所を目指す。
……そろそろ忘れているかと思っていたのに、勘に任せてしばらく歩くと目的地が見えてきた。
僅《わず》かに開けた場所に建つ、小さな家……いや、家とはとても呼べない単なる小屋である。それも、少女と祖母と……たまに手伝いに来ていたレインの三人が建てた、みすぼらしい小屋だ。
しかも今は住む者もいなくなり、荒れ放題になっている。屋根にも壁にも苔《こけ》が繁殖《はんしょく》し始めており、唯一の窓はもう木枠《きわく》しか残っていない。粗末《そまつ》なドアは数センチほど開いていて、時折吹く風に揺《ゆ》れていた。
胸の痛みを無視して、レインはその小屋の前に歩み寄る。ドアの前には、枯れた花束の名残が、まだ幾束《いくたば》か雪に埋もれていた。全て、レイン自身が毎年この時期にやってきて、手向《たむ》けたものである。それも当然で……未《いま》だにここを覚えているのは、もうレインだけなのだ。
そもそも当時からして、フィーネと祖母は村の一員とは認めてもらえなかった。田舎《いなか》の村においては余所者《よそもの》は疎外《そがい》されることが多く、不幸なことにフィーネ達もその例外ではなかったのだ。
レインの家だけはフィーネ達を受け入れようとしたが、しかしそれは、フィーネの祖母に屈辱《くつじょく》を与えただけだった。哀れみをかけられている……年老いた彼女は、そう誤解《ごかい》したからだ。
村に溶け込もうとしてそれが果たせず、フィーネ達は結局、この寂《さび》しい場所に二人だけで移り住んだ。フィーネの亡き両親が残してくれた僅《わず》かばかりの遺産を頼りに、自分達だけで細々と暮らす決意で。
二人が唯一の例外として認めたのはレインのみだったし、事実、他にこの小屋を訪れる者は皆無《かいむ》だった。
……それは今も変わらない。
レインは静かに小屋の中に入る。
入ってすぐが粗末《そまつ》な台所となっており、その先は狭い居間があるだけだ。外の風が吹き込み放題だったせいか、残された家具も床も、雨水に晒《さら》され、腐りかけていた。
見上げれば、屋根に穴の開いた箇所が何カ所もあった。
それでも……フィーネが亡くなったその場所に、相変わらず小さな染《し》みが消えずにいたけれど。
小さなテーブルに手を置き、レインはその染《し》みをじっと見つめる。少しは記憶の彼方《かなた》に沈んだかと思っていたのに、やはり当時と変わらない苦しみが胸に兆《きざ》す。
微《かす》かに首を振って、蘇《よみがえ》りかけた記憶を振り払う。もう、みっともなく泣きじゃくるような歳ではない。独り言が洩《も》れた。
「誰よりも強く、この世のどんな存在よりも強く……そして、何物にも屈することのない強靱《きょうじん》な心を」
微苦笑を浮かべる。
「どうだフィーネ、おまえから見て、今の俺はそういう男に見えるか? いや、そう見えたらかえってまずいのかな。おまえは、乱暴な男は嫌いだったし」
笑みは消え、レインは荒れ果てた天井を仰ぐ。
「なぁ、フィーネ。今の俺なら、海を分かち、山を動かすことも可能かもしれない。だけど、おまえだけには白状しとくが、実は俺は、少しも自分が強くなった気がしない! 未《いま》だにあの晩と同じく、弱いままだという気がするんだ。……なんでかな、不思議な話だと思わないか?」
もちろん、死者が何も応えないのはわかっている。仮にレインが望むほどの力を手に入れたとしても、失った時は二度と戻りはしないのだ。
フィーネは当時と変わらぬ姿のまま永遠の存在になったが、レインはもはや後戻り出来ない道を歩み始めている。信じていたものは失われ、そして未《いま》だに苦しみは消えない。
どれほど望んだところで、崩れ去ったものは蘇《よみがえ》りはしないのだ。
「おまえ、死の直前に俺に打ち明けたよな。『なんだか嫌な予感がするの』って。これもここだけの話だが、あの時のおまえの気持ち、今の俺ならわかるぞ」
レインは間近にフィーネがいるような気持ちで語りかけている。
「最近、俺も同じ予感がするんだ。以前、路傍《ろぼう》の予言者が『選択を誤ると死を迎えるだろう』と告げたが、俺は既《すで》にその選択とやらをしている気がする。自分でそんな気がなくても、実はとうにその道を選んでいるのさ」
だからこそ、俺にも予感があるのだろうとレインは思う。戦士としての直感が、死神の息吹《いぶき》を間近に感じているのだ。そして、あの予言者のことはともかく、かつて自分の予感が外れたことだけは一度もない。まさに、ただの一度もだ。
だが、どうせ人はいつか死ぬ。
問題はいかに死ぬかであって、死そのものなどレインは恐れはしない。
ただ一つの不安は――
「――俺は、自分の成すべきことをやり遂《と》げられるだろうかってことだ。不安があるとしたら、そこだけだな」
深いため息をついて目を上げ――レインは凍り付いた。
フィーネが最後に倒れていた場所に、少女の姿を見たからだ。栗色《くりいろ》の長い髪をした、優しい瞳の少女が立っている。
さすがのレインも絶句した。
探るまでもない。エクシード、そして魔法、自分の持つ全ての超感覚が、そこには確かに誰もいないと教えている。
――しかし、現に彼女はそこにいた。
当時と全く同じ姿で、じいっとレインを見上げている。
「……フィーネ」
テーブルから離れ、レインはフィーネに歩み寄る。消えるかと思ったが、フィーネは消えずにまだぼんやりと立っている。
何度も洗濯を重ね、いい加減くたびれた青いブラウスと、そして見慣れた白いスカートで。遙《はる》か昔に、いつも見ていたフィーネの姿だった。
『レインにだけは、少しでも綺麗《きれい》なわたしを見てもらいたいのに。でも、ちゃんとした服って持ってなくて。……ごめんね』
俯《うつむ》いてレインに呟《つぶや》いた彼女の姿を、昨日のことのように覚えている。
その頃と変わらぬフィーネが、何か言いたそうにレインを見つめていた。
「なんだ、何が言いたい? なんでも言ってくれ!」
レインは大急ぎでフィーネの前に片膝《かたひざ》をつく。可憐《かれん》な唇を見つめ、声なき声を読み取ろうとした。
たった一言だけ唇を動かし、最後にフィーネは小さな手を伸ばした。何も感じなかったが、その手が確かにレインの頬《ほお》に触れ、撫《な》でるように少し動く。
フィーネは儚《はかな》い微笑《びしょう》を浮かべ、レインに頷《うなず》く。
それを最後に、あたかも無数の蛍《ほたる》が飛び散るように、淡い姿が消えてしまう。崩れかけた小屋の中には、レイン一人が片膝《かたひざ》をついていた。
呆然《ぼうぜん》としていたレインは、しばらくしてようやく我に返った。
今のは幻覚だった――と思うのが正しいのだろう。フィーネが現れた時、最初から最後まで生者の気配《けはい》もゴーストの気配《けはい》もしなかったからだ。他の者ならともかく、自分の超感覚を欺《あざむ》くことは不可能に近いはず。
つまり、幻であることは疑いようもないのだ。
しかし……それでもなお、レインは今のフィーネが自分の幻覚だったとは思えなかった。
最後に一度だけ床の染《し》みに手を触れ、レインは未練なく立ち上がった。
膝《ひざ》の汚れを払い、ゆっくりと苦笑する。
「愚痴《ぐち》を聞かせたせいか、余計な心配かけたようだなぁ、フィーネ。だけど、いくらおまえの頼みでもそれは聞けない……悪いけど、聞けないよ」
しっかりした足取りで、レインは小屋から外に出た。ドアをちゃんと閉め、最後にもう一度だけ懐かしい小屋を振り仰ぐ。
「今更、おまえのことを忘れたりできるものか。それだけは勘弁《かんべん》してくれ。俺はもう、何も忘れたくないんだ……例え辛《つら》い記憶でも」
フィーネとその祖母に向けたつもりで、レインは片手を上げる。
「ここに来るのはこれが最後になるという気がする。だから、これで本当にお別れだ。……最後にもう一度だけ逢えて、嬉しかった」
夜の帳《とばり》が忍びよりつつある小屋をもう一度だけ一瞥《いちべつ》し、レインは背を向けた。
もはや振り向くことなく、歩き出す。
もう少しだけ待っていてくれ、フィーネ。
……多分、そんなに長く待たせないと思うから。
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あとがき
お久しぶりです。
以前と違って様々な作業が増え、今回は少し間が開きました。
お待たせしましたが、レイン6をお届けします。
レインはまだ終わりませんが、私はかつて、自分の好きな物語が終わってしまうことがとても哀しかった覚えがあります。それはなにも小説に限らず、アニメにせよコミックにせよ、あるいは他の何かにせよ、好きだった物語が終わりを迎えた時、なんともいえない気分になったものでした。
終わり方は実に色々です。大団円《だいだんえん》を迎えた物語もあれば、悲劇に終わった物語もあり、なぜか続きが出ないまま、それっきりだった物語もあります。
どれも等しく、「もう楽しめなくなる」のが残念でなりませんでした。
これはアニメの場合ですが、時には既《すで》に全話放映されているアニメを、わざと一話だけ見ずに放置した時もありました。こうすると、私の中ではいつまでもそのアニメは終わっていないわけです。なにしろ、まだ見残したお話があるのですから。
……でも結局、いつか見てしまうのですけどね。
別にアニメに限りませんが、大人になるとなぜか、もうそんなのは「卒業した」ということで、かつて楽しんでいたはずの物語を見向きもしなくなる方達がいます。それは、ひどくもったいないような気がしてなりません。多分、「まだそんなの見てる(読んでる)の?」などと周りの友人達に言われ、自分でもその気になり、いつの間にか本当の意味で「卒業」してしまう人達が多いのでしょう。例えばのお話ですが、「この年でアニメなんか!」と思ってしまうのでしょうね。
もし、いつしか好みが変わり、自分の意志でかつて楽しんだ物語を「卒業」するなら、それはそれでいいと思います。ただ、そうではなく、多分に周囲の人達に影響されての決断なら、なにもためらいを捨てることはない――そう思います。
小説やコミックやアニメ……別に他の何かでもいいですが、ご自分の好きな物語を放棄《ほうき》する必要はないと思うのです。ずっと好き……それでいいんじゃないでしょうか。
厚かましくついでに書いておきますが、この物語も記憶の隅にでも留めてもらえれば、こんな嬉しいことはありません。
この本を出すに辺り、ご助力をくださった全ての方達にお礼を申し上げます。
最後はもちろん、この本を手にしてくださったあなたに、精一杯の感謝を。
[#地付き]二〇〇八年二月 吉野 匠 拝
吉野 匠(よしのたくみ)
東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「レイン(雨の日に生まれたレイン)」がネット上で爆発的な人気となり、遂に同作で出版デビュー。
装丁・本文イラスト―MID
装丁デザイン―ansyyq design
HP「小説を書こう!」
http://homepage2.nifty.com/go-ken/
イラスト:MID
http://homepage3.nifty.com/midlibro/
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底本
アルファポリス 単行本
レイン6 大戦勃発!
著 者――吉野《よしの》 匠《たくみ》
2008年3月15日  初版発行
2008年4月10日  2刷発行
発行者――梶本雄介
発行所――株式会社 アルファポリス
[#地付き]2008年12月1日作成 hj
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底本のまま
・フィランダーは苦笑して頷《うなず》く(句読点なし)
・三回っ。たった三回ですか! 自分の寿命《じゅみょう》は今、確実に十日は縮みましたよっ(句読点なし)
修正
食い逃げ犯もたじろく→ 食い逃げ犯もたじろぐ