レイン5
武闘会、開幕
吉野 匠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)施政《しせい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大会|開催《かいさい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]二〇〇七年六月 吉野 匠 拝
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〈帯〉
魔獣来襲!!
混乱の武闘会の結末は!?
人気爆発!! 剣と魔法の最強戦士ファンタジー
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――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。
科学文明の魔手はまだこの地を覆うことなく、廃れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。
そんな、剣と魔法が支配する世界――
サンクワール国内には待望の平和が戻り、シェルファの施政《しせい》がようやく始まろうとしていた。
レインはこの機会に、旧来の貴族政治の弊害《へいがい》を一掃《いっそう》することを決意し、文官武官《ぶんかんぶかん》を問わず、広く市井《しせい》の民から人材を募《つの》るよう、シェルファに進言する。
さらには王家主催の闘技《とうぎ》大会|開催《かいさい》が決まり、優勝を目指し、名だたる強者《きょうしゃ》が続々と王都リディアに集《つど》う。
シェルファの将来のために、着々と布石《ふせき》を打つレインだが、時代を揺るがす大波は、もはやすぐそこまで来ていた。
――ガルフォート城は今日、強大なる魔人の襲撃《しゅうげき》に直面する。
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
※度量衡はあえてそのままにしてあります。
〈登場人物紹介〉
レイン:25歳だが、肉体年齢は18歳で永遠に停止
本編の主人公で小国サンクワールの上将軍《じょうしょうぐん》。本人曰く、「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が売りの、世界最強の男」。しかし、時に隠れた優しさを見せることも。
シェルファ・アイラス・サンクワール:16歳
サンクワールの新国王。王者としての器量は未だ未知数。形式的には主従関係にあるが、そんなことは関係なくレインが大好き。
ラルファス・ジュリアード・サンクワール:25歳
本姓はジェルヴェール。レインの同僚で、サンクワール建国の祖《そ》である五家の一角。
ギュンター・ヴァロア:年齢不詳……外見は20歳そこそこ
常に苦い表情を崩さない、レインの股肱《ここう》の臣《しん》。寡黙《かもく》で有能な男。主に諜報《ちょうほう》や工作担当。
ミラン:19歳
茶目っ気はあるが誠実な性格の騎士。レインのお陰で見習い騎士から一気に出世した。
シルヴィア・ローゼンバーグ:3700歳以上
ヴァンパイア・マスター。元始のヴァンパイアにして、ルーンマスターの始祖《しそ》でもある。
フォルニーア・ルシーダ・シャンドリス:23歳
シャンドリスの皇帝。妾腹《しょうふく》の子だったが、父王亡き後、政変の末に王位に就《つ》く。
セイル:23歳
シャンドリスの若き将軍。見かけは穏やかな若者だが、剣技に加え魔法も使える騎士。
ジュンナ:17歳
セイルに懐いている義妹。『天才魔法使い』と賞賛されているが、滅多に力を見せない。
ジョシュア・フォルタール・ハッシュ:15歳
知恵と美貌《びぼう》が武器の少年。シェルファに取り入ろうとしている。
クレア:16歳
タルマの妹で、組織の長《おさ》を務める盲目《もうもく》の美少女。年齢を感じさせない決断力の持ち主。
バジル:48歳
クレアに心酔《しんすい》する大男。ビーストマスターの能力を持つ。
ケヴィン:年齢不詳
クレアの配下《はいか》であり、女好きではあるが、優秀なルーンマスター。
レスター:22歳
同じくクレアの配下《はいか》。複数|召喚《しょうかん》を得意とする、召喚士《しょうかんし》。
アーク:21歳
大国レイファンの大将軍。かつて傭兵《ようへい》だった。ガキ大将のような男だが、正義感は強い。
フェリス:21歳
孤児院《ホーム》時代からのアークの相棒。いつも笑顔だが、いざという時、頼りになる男。
ノエル:120歳前後
超強気な魔人少女。魔族の中では若いが、上位魔人として魔界でも一目置かれている。
レイグル王:年齢等は不詳
大国ザーマインを統《す》べる王。5年前、前王を倒して玉座《ぎょくざ》に就《つ》いた。恐るべき力の持ち主。
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レイン5
武闘会、開幕
吉野《よしの》 匠《たくみ》
目次
プロローグ 我は魔人なり
第一章 武闘会、開幕
第二章 双剣の舞
第三章 見えざる敵、来襲
第四章 我、正義の使徒《しと》にあらず
第五章 ノエル襲撃
第六章 永遠なる闇の世界
エピローグ 今は亡き養父に花束を
あとがき
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プロローグ 我は魔人なり
広大で、なおかつ寒々としたこの広間には、玉座《ぎょくざ》の前に赤い帯状の敷物が敷かれており、あとは天井を支える白い柱の並びと、無数の燭台《しょくだい》のみがある。
いや、天井にも蝋燭《ろうそく》の炎が揺らめくシャンデリアが十以上もぶら下がっているが、それでもなお、ここを隅々《すみずみ》まで照らすには光量不足だろう。
そんな、主《あるじ》の性格をそのまま映《うつ》したような広いだけが取《と》り柄《え》の謁見《えっけん》の間にて、ルミナスは壁際《かべぎわ》にポツンと一人で立っていた。
集まる武官《ぶかん》達の中で、彼一人が離れて立っている。
玉座《ぎょくざ》付近には、王に呼ばれたのか、この国の上将軍《じょうしょうぐん》たる四人も顔を見せていたが、誰もルミナスには近付かず、ただひそひそと囁《ささや》きを交《か》わしていた。
頻繁《ひんぱん》にルミナスの方を見はしても、挨拶《あいさつ》等の声をかける者は誰もいない。
彼らにとっては、もはやルミナスは死人《しにん》も同然なのだった。
死体と話す物好きもいないだろう。
そう、ルミナスがこのような場所に悄然《しょうぜん》と立ち尽くしているのには、理由がある。
先の敗戦の裁きを待つ身としては、陽気にしているわけにもいかないのだった。
あの悪夢のごとき対サンクワール戦から数ヶ月が経《た》つが、常に決断の早いレイグル王にしては珍しく、敗戦処理の裁定《さいてい》を先延ばしにしていたのである。
だが、ついに来るべき日が来た。
ルミナスは、たくましさにはほど遠い自分の首筋に、早くも刃《やいば》の冷たさを感じずにはいられない。
……まだ殺されると決まった訳ではないが、全面|潰走《かいそう》に至るようなこの手の敗戦を、かつてレイグル王が目こぼししたことは皆無《かいむ》である。
そして先の戦いは、明らかに指揮官に問題ありと見るのが普通だ。
『私は単なる副官でしたし、そもそも、ちゃんと将軍を止めたのです!』
などという言い訳を認めてくれるとは思えない。
ならば、なぜ俺は馬鹿正直にここに立っているのか? どうして荷物をまとめて夜逃げでもしない? ルミナスは開き直ってどすんと壁にもたれ、腕組みとともに薄笑いを浮かべた。
もちろん、逃げてもどうせ最後は捕まって斬《き》られる――というのも理由の一つではある。大国ザーマインは、敗戦の将の逃亡を許すほど甘くない。
ただ、ルミナスが逃げない最も大きな理由は、他にある。
彼は自分の人生に賭《か》けていたのだ。ここで斬《き》られるならそれまでだと。
だが、もし俺にわずかでも運が残っているのなら、あるいは逆の目もあるかもしれない……アテにならない賭《か》けではあるが。
あのお方は人間ではない――他の朋輩《ほうばい》はいざ知らず、俺はその事実を知っている。聞かなければよかったと千回も悔《く》やんだが、推論に基《もと》づくかつての質問に対し、王はあっさりと教えてくれた。
「そう、おまえの推理は正しい。俺は魔族であり、魔人《まじん》だ」と。
王にとっては、俺はまだ使える駒《こま》のはずだ……合理的に考えれば、殺す方を選びはすまい。
必死の願望を展開中の、その時。
両開きの扉脇に控えた衛兵達が、絶叫《ぜっきょう》口調で王の入場を告げた。
よ、予定より早いじゃないか!
ルミナスは死刑が早まった囚人《しゅうじん》のような気分で、大急ぎで玉座《ぎょくざ》の前に足を運んだ。
皆が恭《うやうや》しく頭《こうべ》を垂《た》れる中、レイグル王がマントをさばく音がした。
少々の間を置き、落ち着いた……そして凍《い》てついた声が各人の頭上に落ちる。
「皆、揃っているようだな……。ふむ、ルミナスも来ているか」
「は、ははっ」
断罪《だんざい》の主役なのに、来ているかもないものだが、ルミナスは大慌てでさらに頭を低くする。
……下げすぎて、床にくっつくのではないか、というほどに。
「ルミナス……立て」
「はっ」
ルミナスは身体が震えだしそうになるのをこらえつつ、そっと身を起こした。
静かに息を吸い込み、覚悟《かくご》を決めて主《あるじ》を見やる。
ところが、王の決定はあまりにも意外なモノだった。
「ルミナス、おまえは今日よりガルブレイクの後を継ぎ、上将軍《じょうしょうぐん》として働くがよい」
「……は?」
才気溢《さいきあふ》れるルミナスには似合わず、思わず反問《はんもん》した。
人間、まさかと思っていたことが当たると、どうしても平凡《へいぼん》な反応しか出来ないものらしい。
ポカンと突っ立つ彼に、醒《さ》めきった表情をした主人は、闇よりも深い瞳を向ける。
「……俺に二度言わせるのか、ルミナス」
「い、いえ! し、失礼しましたっ」
飛び上がりそうになり、急いでまた片膝《かたひざ》をついた。
もっとも、驚いたのはなにもルミナスだけではない。他の武官《ぶかん》達の間にも、静かなどよめきが走っていた。
わざとらしくそれが収まるのを待ち、レイグルは再度、口を開いた。
「俺は、見るべきところはきちんと見ている。誰の責任で先の敗戦が決まったか、それくらい調べればわかることだ……。ルミナス、おまえの判断は最初から最後まで全て正しかった。非は、助言を無視したガルブレイクにあったのは明白だ」
顔を上げないようにして、ルミナスは小声で礼の言葉を述べた。
これに対し、レイグルはなんと小さく笑った。それも声を上げて! あまりの驚きに、思わず上目遣《うわめづか》いに主《あるじ》を見てしまう。
「今から言うことを聞いて、まだ感謝していられるか見せてもらおう、ルミナス」
間違いではない。まだ愉快《ゆかい》そうに笑っていた。
温《あたた》かみの全くない笑い方だが、ルミナスは初めて見る。
その笑《え》みが消えぬうちに、彼は宣言した。
「さて、他の者、特に将軍達は聞け。これから全国民に布告《ふこく》することを、先に教えておこう。今日はこのザーマインの……いや、この大陸の、新しい時代の幕開けとなるだろうよ」
ルミナスはぎくっと肩を震わせた。
まさか……まさかまさかまさかまさか……この人は自ら告げる気か――もはや、正体を隠すことをやめて。
ルミナスの恐れは当たった。
レイグルは平然と続けてくれた。
「聞くがいい。おまえ達の前にいるこの俺――先王アラミスを打倒して玉座《ぎょくざ》に就《つ》いているこの俺は、人間ではない。魔族……つまり、魔人《まじん》だ」
おまえ達は、今日まで魔人《まじん》に仕《つか》えていたわけだ。
駄目《だめ》押しの一言。
刃《やいば》のような視線がルミナスを、そして将軍達を見やる。
その身に冷気が染《し》み渡ったように青ざめ、彼らは口々に声を出した。
「ま、まさか! 密《ひそ》かにそのような噂《うわさ》があるのは知っておりましたが……あれはてっきり」
「さようっ。お戯《たわむ》れならおやめください。いささか度が過ぎまする」
サライが、そしてヴォルニートが――大国ザーマインを支えてきた歴戦の将軍達が、顔を真っ赤にして立ち上がる。
無理もないが、主君《しゅくん》への礼儀を忘れるほどに動揺《どうよう》したのだった。
かつての魔族と人との大戦、すなわち覇権戦争《はけんせんそう》の記憶こそないものの、未《いま》だ人々の心に彼らへの嫌悪感《けんおかん》が残る証拠《しょうこ》である。
だが、レイグルの返事は非情で、そして間違えようもない。
「くだらぬ戯《ざ》れ言《ごと》など口にはしない。俺は確かに魔人《まじん》だ。自分で言うのだから、これほど確かなことはあるまい。違うか?」
今度こそ、謁見《えっけん》の間は静まりかえった。
後から思えば、王の投じた一石が国を揺るがす波紋《はもん》となる、その始まりがこの宣言だったのだ。
「――この事実を告げたのは、貴様達の覚悟《かくご》を知りたかったからだ。……俺の正体を知ってどうする? なおも俺に忠誠《ちゅうせい》を誓うか? 誓うなら、これまで通り、使ってやろう。しかし、その気がない者は今のうちだ、申し出よ。嫌ならそれでもよい。代わりはちゃんと用意してある」
真っ先に動いた者がいる。
それまで、全く影が薄かったガノアが、まるで走り寄るようにして玉座《ぎょくざ》の前に跪《ひざまず》いた。
深々と頭を下げ、
「陛下! 不詳《ふしょう》このガノア、とうに陛下の正体を知っておりました。ついに皆の前に宣言なさいましたこと、まことに祝着《しゅうちゃく》の極《きわ》み!」
「……ふ」
レイグルは微苦笑を洩《も》らした。
「なるほど、おまえは俺が魔族でも気にしないか。――で?」
呆然《ぼうぜん》と立ち並ぶ将軍達に、レイグルがまた目を向けた。
「他の者はどうだ?」
「決まっておるわ!」
最も古い戦歴を持つ上将軍《じょうしょうぐん》、ヴォルニートが大きく足を踏み出した。
腰の剣をずらっと引き抜き、切っ先をレイグル王に向ける。加勢するかのように、他の者も次々と剣を抜いた。
皆、それぞれ決断したのだ。
「よくも今まで謀《はか》ってくれた! わしも武人《ぶじん》としての恥は知っているっ。誰がこれ以上おまえなどに従うものか!」
ルミナスが止める暇もない。
数十人の武官《ぶかん》達は、一斉《いっせい》に先程《さきほど》までの主人に斬《き》りかかったのである。
後ろへ下がったルミナスを置き去りにし、皆が王に殺到《さっとう》する。彼の目の前で、コトは容赦《ようしゃ》なく進行を始めた。
ヴォルニートが真っ先に玉座《ぎょくざ》に到達するまで、レイグルはまるで動かず、落ち着き払って座ったままだった。
しかし、ひとたび剣が振り下ろされるや否《いな》や、黒影《こくえい》がふっと玉座《ぎょくざ》から消え、次の瞬間、ヴォルニートは喉元《のどもと》から血飛沫《ちしぶき》を上げて倒れていた。
王がいつの間にか立ち上がっている。
着座位置から立ち位置へ――流れるように動く残像が、遅れて彼に重なる。一体、いつ抜剣《ばっけん》したものか、斜め上に振り切った魔剣《まけん》をゆっくりと下ろす。ザーマイン屈指《くっし》の上級騎士が、一太刀《ひとたち》も浴《あ》びせることなく血の海に沈んだのだ。虚《うつ》ろに天井を見上げる瞳を見れば、この上将軍《じょうしょうぐん》が最後まで自分の身に起こったことを認識していなかったのがわかる。
よせ、みんなっ。殺されるだけだぞ!
古き伝承《でんしょう》を読んでないのか? 人間が魔族に――魔人《まじん》に敵《かな》うわけがないんだっ。
ルミナスは大声でそう喚《わめ》きたくなったが、ただ喉《のど》が鳴っただけだった。
――今ここで、自分が死ぬ訳にはいかないのだ……絶対に。
紅《あか》きオーラを放つ魔剣《まけん》をだらっと下げたまま、レイグルはヴォルニートの亡骸《なきがら》をまたいで前進する。今の神速《しんそく》の動きが嘘《うそ》のような、緩慢《かんまん》な歩調《ほちょう》で。
王が放つ無形のプレッシャーに押されるように、遅れて続いていたサライが立ち止まる。あろうことか、レイグルが進んだ分だけ後退《こうたい》してしまった。
剣を構えたまま呆然《ぼうぜん》と、倒れ伏すかつての朋輩《ほうばい》を見やる。他の者も同様だった。レイグルがここまで強いとは、皆の予想外だったのだ。
「……どうした。この程度で怖《お》じ気《け》づいたか? 騎士とはいえ、所詮《しょせん》はこんなものか。レインほどの実力と胆力《たんりょく》は望むべくもないが、もう少しマシだと思っていたがな」
意外なところで小国の敵騎士の名を持ち出され、サライはきっと顔を上げた。怒りが弱気を振り払い、腹の底からの喚声《かんせい》を上げる。
「吐《ぬ》かせえええっ」
滑《すべ》るように間合いを詰め、思い切ってレイグルに斬《き》りかかった。
――しかし。レイグルは剣で受けるでもなく、避けるでもなく……なんと、左手を上げてその掌《てのひら》でサライの斬撃《ざんげき》を止めてしまう。
豪快《ごうかい》に振り切った長剣《ちょうけん》を、広げた掌《てのひら》が止めてしまったのだ。生身《なまみ》の掌《てのひら》が、あたかも堅牢《けんろう》な盾《たて》のようである。皮膚《ひふ》の表面に薄く血が滲《にじ》んではいたが、普通は最低でも指が全部なくなっているはずで、その程度で済むはずがない。
「なん――」
驚愕《きょうがく》したサライのセリフは、途中でぶつっと断ち切られた。
彼の動きが止まったのに合わせ、レイグルが無造作《むぞうさ》に右手の魔剣《まけん》でサライの胸を貫《つらぬ》いたのだ。
歴戦の騎士だった彼が、一歩も動けずにあっさりとその場に頽《くずお》れてしまう。
「……ふん。どのみち、惜しい駒《こま》でもなかったな」
横向きに倒れたサライに目もくれず、レイグルは残りの集団に猛然《もうぜん》と突っ込んだ。
――再び、静から動へ。
根が生えたみたいに突っ立っていた武官《ぶかん》達は、わっとばかりに散ろうとしたが、もはや遅い。
次にルミナスの耳に届いたのは、レイグルの疾走《しっそう》が奏《かな》でる風切《かぜき》り音《おん》と――そして悲鳴、幾多《いくた》の悲鳴。その悲鳴の合間に、魔剣《まけん》が肉と骨を裂《さ》く湿った音が伴奏を添える。
斬《き》り合いなら本来、剣と剣が撃ち合わさる金属音がするはずなのに、そっちはまるっきり聞こえなかった。すなわち、誰もレイグルを捉《とら》えることができないでいるのだ。
血煙《ちけむり》を上げ、一人また一人と、かつての仲間達が確実に倒れていく。全て一撃《いちげき》で片が付いており、レイグルが二撃以上の手間をかけた例は皆無《かいむ》だった。
個から個へ、風のようにレイグルが走り、真紅《しんく》の軌跡《きせき》と血煙《ちけむり》を残す。
こうなると、勝つとか負けるとかいう以前の問題だろう。
そもそも、斬撃《ざんげき》を掌《てのひら》で受けるような相手に、普通の人間がどう抵抗するのか。
だめだ、相手にならない……強すぎる。
血の臭いに気分が悪くなりかけたルミナスの前に、誰かがよろよろと歩いてきた。
サライの副官の一人、グラビッツだった。
「た、たすけてくれ」
ありありと浮かぶ恐怖の表情に、ルミナスもさすがに意を決して声を張り上げた。
「陛下、もはや彼は戦意を――」
「がっ」
遅かった。
疾風《しっぷう》のごとく追いついたレイグルが、一刀《いっとう》のもとに敗者の背中を斬《き》り下げた。
グラビッツが倒れ、死骸《しがい》となった額が、床石にごつんと音を立てた。
思わずルミナスは目を逸《そ》らす。
「……今、なにか言ったか?」
感情を込めない、レイグルの声。
「いえ……別に」
ルミナスとしてはそう言うしかない。
しかも、逸《そ》らした視線の先にあのガノアがいて、ちょうど剣の血糊《ちのり》を拭《ふ》き取っているところだった。なんとこいつは、主人に追従《ついじゅう》してかつての仲間を斬《き》る方へ回っていたのだ。
一人で三名ほどの武官《ぶかん》を片付けてしまっている。意外な実力の高さに驚くべきなのだろうが、ルミナスはその性根《しょうね》の方に吐き気がした。
ともあれ、いつの間にか衛兵以外で立っているのは、ルミナス自身とガノア、そして終始立ち尽くしていた宰相《さいしょう》ジャギルと……レイグル王だけになっていた。
最初から目立たなかった宰相《さいしょう》が、押し殺したような声で尋ねる。
「……陛下、今の発表はともかく、上将軍《じょうしょうぐん》達を手打ちとはあまりな仕打ちかと。今後の戦《いくさ》ごとに影響が――」
思ったほど取り乱していないこの老臣を、ルミナスは少し見直した。
あるいは彼もまた、王の正体についてある程度の予想をしていたのかもしれない。
「おまえが心配することではない、ジャギル」
レイグルは玉座《ぎょくざ》に戻り、にべもなく宰相《さいしょう》の苦言を遮《さえぎ》った。
「先に言ったはずだ、『代わりはちゃんといる』と」
指をパチンと鳴らし、レイグルはなにかの合図を出した。途端《とたん》に、またしてもルミナスは背筋《せすじ》が凍る思いを味わう。今の合図とともに、謁見《えっけん》の間に次々に入室してきた彼ら。
――まさか、この者達は。
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第一章 武闘会、開幕
「臣下《しんか》一同を代表し、シェルファ・アイラス・サンクワール陛下に新年のご挨拶《あいさつ》を申し上げます」
臣下筆頭《しんかひっとう》たるラルファスの朗々《ろうろう》たる声が、集《つど》う者達全ての耳に響き渡った。
ここはガルフォート城の深奥《しんおう》にある、軍議の間である。
新たなる年を迎え、朝から主立《おもだ》った武官《ぶかん》と文官《ぶんかん》が全て集《つど》っているのだ。
何しろ、新年である。大陸内に広く浸透《しんとう》しているミュールゲニア暦は別だが、ここサンクワールの暦《こよみ》では、今日より「シェルファ王の二年」が始まったわけである。
とはいえ、シェルファが王位に就《つ》いたのはわずか二十日前のことに過ぎないので、実際には元年、つまり彼女が統《す》べた最初の年はごくごく短い。
期間からも、そして気分の上からも、今日からが本番みたいなものである。
――だからというわけでもないだろうが。
皆の最先頭で低頭《ていとう》するラルファスは、ひときわ声を励《はげ》まして後を続けた。
「今日より一年、陛下に戦神《せんしん》と豊饒神《ほうじょうしん》のご加護《かご》がありますように。願わくばそのご賢慮《けんりょ》により、我ら一同をつつがなくお導きくださいませ」
真面目《まじめ》な彼にふさわしい挨拶《あいさつ》を終え、ラルファスは片膝《かたひざ》を折る。現時点で臣下《しんか》最高位の上将軍《じょうしょうぐん》に倣《なら》い、他の者達も一斉《いっせい》に跪《ひざまず》く。後は、国王がなにがしかの声をかけてくるのを待つばかりだ。
場が静まり返り、数秒が経《た》ち、数十秒が過ぎる。
一向に声がかからない。
じっと頭を下げている皆が不審《ふしん》に思い、そっと顔を上げると――壇上《だんじょう》にしつらえた椅子《いす》に座《ざ》したシェルファは、ぼ〜っとあらぬ方向を見据《みす》えていた。
……顔つきが暗い。
いつもの輝くばかりの美貌《びぼう》が、ややその光を減じている。
いや、今だって見物人を集めて金が取れそうなレベルなのだが、普段とは比べようもないのだ。
本人も、まるで重病人のように吐息《といき》などつき、優しい曲線を描《えが》く眉《まゆ》をきゅっと寄せている。
さらには白磁《はくじ》の白さを保つ繊手《せんしゅ》が、淡く膨《ふく》らむドレスの胸元をそっと押さえていた。
さしものラルファスも背中に冷や汗を感じた。主君《しゅくん》の心が、今どこにあるかを察したからだ。
切実な願いを込め、壇上《だんじょう》を見上げる。
有り難《がた》いことに、やっと気付いてもらえた。
シェルファは真っ青な瞳を何度か瞬《またた》き、ようやく返事をする。
「皆さん、早朝よりご苦労様です。わたくしの方こそ、皆さんに導いてもらわねばなりません。どうか、よろしくお願いします」
身《み》は国王で、しかも現在|壇上《だんじょう》にあるにもかかわらず、シェルファは座《ざ》したままぺこりと頭を下げる。この少女は、国主になっても少しも態度が変わらないのだった。
そしてもちろん、シェルファがレインを想う気持ちもまた、上昇しこそすれ消えることなど有り得ないわけで。
よって、レインが今、城内――いや、王都リディアにすら不在なのが、シェルファにはなんともやりきれないのである。
――どういう経緯でそうなったかというと。
今やシェルファは、国王として政策を決定する会議に出席している。
問題はその内容だ。
ザーマインとの戦《いくさ》で人材が激減しているサンクワールのこと。重要な政策を決める際には、誰がその公務を実行するかが問題になったりする。
国内の治安《ちあん》問題しかり、税率の変更にともなう各役人への指示と監督しかり……大抵は文官《ぶんかん》の仕事だが、今は武官《ぶかん》とて決して暇ではない。
その人選に苦慮《くりょ》するのは当然として――その実行する「何か」がごくごく簡単なこと、あるいは城内で済む程度なら良い。
だが言うまでもなく、なにもかも城内にいてコトが片づくわけはない。武官《ぶかん》であろうと文官《ぶんかん》であろうと、公務で城外に出る場合がある。
そして大方《おおかた》の予想通り、シェルファはレインが主城(ガルフォートのこと)を長期に渡って留守することについて、恒久的《こうきゅうてき》に反対の立場なのだった。
早い話が、『わたくしを同伴せずに、どこかへ行かないでください』と常に思っているわけだ。
無論、あからさまに『とにかくレインはここにいてくれなきゃいやっ』などと、わがままな言い方はしない。そこまでの主張はしないものの――
しかし、例えば先日、以下のようなやりとりはあった。
円卓の席上、ラルファスが彼女に意見を具申《ぐしん》した。
「陛下、王都周辺の治安《ちあん》維持の件ですが。たまには高位の武官《ぶかん》が、部隊を引き連れて巡回した方がよろしいかと」
「これまでは、してこなかったのでしょうか?」
「百騎長が定期的に――。しかし、現在の状況が状況です。街の警備隊や砦《とりで》の騎士達を監督するためにも、彼らだけに任《まか》せきりなのは感心しません。十日程度の期間をかけ、私かレインが出向くことも必要かと」
ここでレインが何気《なにげ》なく言いかける。
「ふ〜ん。なら俺が――」
それを、シェルファが大慌てで遮《さえぎ》ったのだった。
「いえっ。レインには城内でお願いしたいことがありますから!」
……レインが十日も留守にするのはいやっ、という内心の思いが、その表情に思いっ切り出ているのだった。まあこの時は、ラルファスが微笑《ほほえ》みとともに自らその役目を志願したため、別に揉《も》めることもなく済んだ。
――以上のように、シェルファは普段は公平で賢明《けんめい》な国主だったが、このような『レイン関係』の一点にのみ、あまり公平とは言い難《がた》かったのである。
ただ今回に限って言えば、レインが長期に渡ってガルフォートを留守にするのは、確かにまずいのだ。なぜなら、まだ彼女を狙う者達がいなくなったわけではないので。
暗殺者達《あんさつしゃたち》が失敗して以来、とんとそういう騒ぎはないが、かといってまだ全然安心出来ないのは誰の目にも明らかだった。敵対組織が消えてなくなったわけではないのだから。なので、シェルファがあえて頼まずとも、だいたいにおいてレインは、主君《しゅくん》のそばに常駐《じょうちゅう》していたのである。
ところが彼女にとってショックなことに、そのレインもとうとう、よんどころない理由で王都を離れてしまった。
『自分の居城であるコートクレアス城の雑務《ざつむ》がいい加減|溜《た》まり、ここらで城主が戻らんと、もうどうにもならんので』
――というのが、レイン本人の弁である。
ちなみにその時この男は、「間違ってもサボって遊びに行くんじゃないからな」とも付け加えた。
シェルファはすかさず、「それならわたくしも同行しますわ」と当たり前のように申し出たものの……その希望はあっさり却下《きゃっか》されてしまった。
例によって例のごとく、「おまえの立場上、それはヤバすぎだろ!」ということらしい。
シェルファとしては、他の人がどう思おうとなにを誤解《ごかい》しようと(そもそも、全然|誤解《ごかい》ではない)一向に構わなかったりするのだが、彼女には理解し難《がた》い、色々な政治的理由があるのだそうだ。
そのようなわけで、長時間に渡る、一方的な愁嘆場《しゅうたんば》が繰り広げられた挙《あ》げ句《く》、結局レインは王都を去ってしまった……去ったというのはあまりにも大げさな表現だが、シェルファとしてはそういう気分だったのだ。
悲しく、辛い出来事なのである。
例えそれが、最大で十日程度の帰城予定だったとしても。
ちなみに、年頭《ねんとう》の挨拶《あいさつ》の時点で、レイン不在の三日目であった。
――☆――☆――☆――
年頭《ねんとう》の挨拶《あいさつ》で早くも精神的限界を見せ始めたシェルファは、翌日になってラルファスがご機嫌《きげん》うかがいに行くと、さらに落ち込んでいる風情《ふぜい》だった。
揺り椅子《いす》に座ったまま、ぼ〜っと窓の外を見ている。
そのあまりにも沈んだ横顔に、ラルファスは開けたドアをそっと後ろ手に閉め、心配そうに声をかけた。
「……侍女《じじょ》の話では、昼食をお摂《と》りにならなかったとか」
「ごめんなさい、食欲がないのです。食べようとはしたのですが……なにか、砂を噛《か》むような味しかしないので」
はあぁ……というか細《ぼそ》いため息とともに、そんなことを言う。声音《こわね》が申し訳なさそうなので、努力をしたのは本当らしい。
で、またすぐに視線が窓の外へと注がれる。場所が最上階の部屋だけに、そこからだと遠くが見通せるのだった。
つまり、レインの帰還も一番早くわかる道理である……こんなに早く帰るわけないにせよ。
まるで、愛《いと》しい恋人と無理矢理離され、以後、十年も会えずにいる乙女のようだ。
ラルファスは内心で唸《うな》った。
実際には、レインがガルフォートを留守にしてまだ四日目なのである。
なのに、シェルファはしょんぼりと肩を落としており、服装も未《いま》だ夜着《よぎ》から着替えていないように見える。
たとえ厚手のガウンを羽織《はお》っていても、首筋にネグリジェの薄い生地がちらっと見えているので間違いない。人の十倍くらい清潔好きなこの主君《しゅくん》としては、有り得ないことである。
ラルファスは軽く咳払《せきばら》いなどして目を逸《そ》らし、とにかくシェルファの気分を向上させようと、涙ぐましい努力を試みた。
「明日から野外劇場にて、例の大会の予選が始まります。どうでしょう、陛下もご観戦になりませんか」
「……わたくしは今、結界《けっかい》のあるこのガルフォートから出てはいけないのでは?」
ちなみに結界《けっかい》とは、先日の暗殺《あんさつ》ギルドの一件以後、レインが施《ほどこ》しておいた魔法|結界《けっかい》のことである。
どういう類《たぐい》のものかはラルファスには分かりかねるが、効果のほどは疑っていない。
なので、わかってます、という気持ちを込めて頷《うなず》く。
「それはそうですが、レインは特に、『例外的に、あのイベントにはぜひご出席ください』と申しておりました。警護には細心の注意を払います故《ゆえ》、いかがでしょう」
「レインがそんなことを?」
やっとまたこちらを見やる。
珍しくもシェルファは、やや拗《す》ねたような表情を見せた。
「でも……レイン本人が参加しないのなら、観戦する気になりません。とてもとても大勢の人が見にくるのでしょう? わたくし……困ります」
人混みが大の苦手な、彼女らしい言いようだった。レインがいれば、それも我慢できるのに――そう言いたいのだろう。
まあ、確かにレインは参加を表明していないのだが。
最初にこの大会――すなわち、『シャンドリスを見倣《みなら》って、使えそうなヤツをこっちからビシバシ登用しよう大会』を考案した張本人の癖《くせ》に、本人は出ないつもりのようだ。
ラルファスが記憶するところでは、参加の意思を尋ねた時、この男は大真面目《おおまじめ》な顔でこう言った。
『俺が出たら、面白くもなんともないじゃないか』
……それはともかく、前述の長い大会名は、後に「(王家主催の)武闘会《ぶとうかい》」という、味も素《そ》っ気《け》もない名前に変更されている。
要するに、模擬試合のルールを広げて、大がかりにした催《もよお》しだ。
最近、サンクワールが積極的に行っている人材登用の一環なのだ。
ただし、肝心《かんじん》のシェルファはレインが出ないと聞いた途端《とたん》、興味が激減しているようだが。
「そ、それでは、レインめにお手紙など出されてはいかがでしょう? なんなら、私が誰かに届けさせますが」
「それなら――」
シェルファは長いまつげを伏せた。
「ギュンターさんが届けてくださるとのことですので、朝からずっとしたためておりました。……先程《さきほど》、あの方が来て持ってゆかれましたわ」
出て来ないと思ったら、朝から手紙書いてたんかい!!
などと突っ込みこそ入れなかったが、先手を打たれて思わず絶句《ぜっく》するラルファスである。
続いてシェルファは、
「あの……」
「は、はい?」
「お手紙、レインにちゃんと届くでしょうか?」
そんなことを訊かれても、答えようがない。
「……彼のことだから、どうやってか確実に届ける方法があるのでしょう」
とそこでラルファスは、窓際《まどぎわ》に立て掛けられた一振りの剣に気付いた。
いや……鞘《さや》の部分がやや湾曲《わんきょく》している――これは刀か。
じっと観察して確信を得た。
純白の鞘《さや》に収められた、まさしく刀と呼ぶ他はない武器である。
「陛下、その刀は贈られたものですか?」
尋ねた途端《とたん》、シェルファの顔つきがふっと明るくなった。
大事そうに刀を手にする。
「はい。レインがわたくしに贈ってくれました!」
現金なもので、頬《ほお》まで紅潮《こうちょう》させて教えてくれた。よほど嬉しかったようだ。
「ほお、あいつが。――拝見してよろしいでしょうか」
「どうぞっ」
嬉しそうに手渡してくれたその刀を、じっと眺める。
白鞘《しろさや》で、柄《つか》も白。重さはそこそこあるが、見た目よりは軽い。重量はともかくとして、外見もシェルファに相応《ふさわ》しく美麗《びれい》である。
早速、すらっと抜いた。
その刹那《せつな》、ラルファスは声に出して唸《うな》った。
ブゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥン
魔剣《まけん》特有の特徴ある音と共に、色鮮《いろあざ》やかな青き輝きが刀身《とうしん》に満ちたのだ。
そのまばゆい煌《きら》めきは、魔力を込めた者の力量を想像させるに十分であり、ラルファスの戦士としての感覚が、強烈な力の波動を察知《さっち》した。
おそらく、魔法を駆使《くし》するルーンマスターが一目見れば、青き魔法のオーラに目がくらむ思いがするに違いない。
魅《み》せられたように刀身《とうしん》を見つめたまま、ラルファスは帯剣していた(城内巡回の直後だったのだ)自らの『ジャスティス』を抜く。
鮮《あざ》やかな青きオーラがのたうつ刀身《とうしん》と、ジャスティスとを軽く接触させてみた。当然ながら魔力同士の反発が起きる。例によって、小さな火花とともに軽いスパーク音を立てた。
そして、これも魔剣《まけん》同士が触れあうといつもそうだが、両の掌《てのひら》に微《かす》かな――あるかなきかの抵抗を感じた。手応《てごた》え、と言い換えてもいい。
右手に持った、ジャスティスの方により強い手応《てごた》えを感じる。つまり、この微《かす》かな反発力は拮抗《きっこう》していない。ジャスティスが押されている。
これは単に力(魔力)の問題で、剣に魔力をチャージした術者(ルーンマスター)の力量の差によるものだ。ルーンマスターとしての力の優劣《ゆうれつ》が、冷厳《れいげん》な証拠《しょうこ》として現れているのである。ジャスティスがかつて、あのレイグル王所持の名剣であったことを考えると、これはなかなか驚くべき結果だろう。
素直に感心したので、ラルファスはそれぞれの刀身《とうしん》を鞘《さや》に収めつつ、その通りに言った。
「大した業物《わざもの》です。元々、魔剣《まけん》というのは希少価値がありますが、この刀に付与された魔力の強さは、この私にさえ明らかです。この一刀《いっとう》は間違いなく、天下の名刀《めいとう》でありましょう……」
話すうち、ラルファスの顔は思わず綻《ほころ》ぶ。
シェルファが、「何か」を教えたそうにうずうずしているのが、よくわかったからだ。
なので、返事はわかっていたがあえて尋ねた。
「で、これは彼が魔力を込めたものですか」
「はい! レインがわたくしのために魔力チャージしてくれたんです」
もうわたくし、嬉しくて嬉しくて!
――と思っているのが、弾《はじ》けんばかりの笑顔を見れば丸わかりだった。
「銘《めい》はあるのですか」
「特にないそうなので、わたくしが『レイン(本人未公認)』と付けましたわ」
返された刀を大事そうに胸にかき抱《いだ》く。
刀剣《とうけん》を扱うというより、女の子が人形をもらったような態度だが、シェルファにとってはレインから何か贈られたなら、それが人形だろうと刀だろうと等しく嬉しいのだろう。
「わたくしには十年早いそうですが、『国王たる者、これくらいの武器は持ってなきゃな』と言って、贈ってくれました」
「そんなことを言いましたか、あいつ」
普通、主君《しゅくん》を相手に「十年早いけど、まあ使えや」とは言うまい。
あの男らしい言い草だとラルファスは思う。
「他にも、『俺は、万一食えなくなったら魔剣《まけん》の製造販売で荒稼《あらかせ》ぎするんだ』とも言ってましたわ」
シェルファはにこにこと教えてくれた。
「ふむ……。確かにあいつなら、それで十分生計が立てられましょう。何しろ、陛下に贈ったその一刀《いっとう》で、街の二つ、三つが丸ごと買えますよ、おそらく」
「いえっ。本当にそうしてもらっては困るのですけど。あくまでも、それほどの技量がある、というお話です」
慌てふためいて訂正を入れる。
おそらく、レインにもその種《しゅ》の念押しをしておいたに違いない。
ラルファスの「わかってますよ」と言わんばかりの笑顔に、シェルファは恥ずかしそうにまつげを伏せる。そして今度は自ら、刀身《とうしん》を半ばまで抜いた。何気《なにげ》ない動作だっただろうが、何か思うことがあったのか、刃《やいば》にうねる魔力の輝きをじいっと見つめている。
たったいま気付いたような顔で、そっと吐息《といき》を洩《も》らした。
「これを見ていると、レインを感じます……」
その呟《つぶや》きに、ラルファスは心中で呻《うめ》く。
どうやらシェルファは、レインが戻るまでの間、空いた時間は全て、窓の外を眺めるか刀を見つめるかしていそうである。
だがとりあえず、午後からは幾《いく》つか面接をこなしてもらわねばならないのだ。
それを切り出すタイミングを、ラルファスはじっと計《はか》っていた。
――☆――☆――☆――
「武闘会《ぶとうかい》の受付って、ここかい?」
快活《かいかつ》かつ野太《のぶと》い声に、セルフィーは何気《なにげ》なく顔を上げ、そして思わず「うっ」となった。
反射的に、座《ざ》したまま腰が引けた。
彼女とユーリが並んで座る机は、野外劇場を入ってすぐの入場券売り場横に臨時で置かれており、男はまるで覆《おお》い被《かぶ》さるようにしてセルフィーを覗《のぞ》き込んでいる。おしゃべりに興《きょう》じていて、これまで気付かなかったというのもあるが……それにしても、このコート姿の若者は瞠目《どうもく》に値《あたい》した。
堂々たる体格《たいかく》と陽気なガキ大将みたいな若々しい顔。なんの悩みもなさそうな黒瞳《くろめ》が、圧倒的な精気《せいき》に満ちて輝く。ぱっと見ただけで、溢《あふ》れるほどの活力を感じさせるのだ。
それはいいのだが――
とりあえず、頭に白いバンダナなどを巻いているのは、ちょっとどうかと思うわ。
セルフィーがとっさにそう思っていると、大男の背後から声がかかった。
陰《かげ》に隠れて見えなかったのである。
「ほらぁ、チーフの悪い癖《くせ》だよ。女の子を怖がらせちゃ駄目《だめ》でしょう」
諭《さと》すように言い、軽やかに横に並ぶ。
こちらは、帯剣しているのが信じ難《がた》いほど華奢《きゃしゃ》な美少年で、白い歯を見せてにこにこと笑《え》み崩れていた。
「おねーさん、ごめんなさい。この人、乱暴でがさつで無駄《むだ》に声がでかいんですよ。びっくりしたでしょ、顔を近づけられて」
「なんだとうっ。てめー、人を汚物《おぶつ》みてーに言うんじゃねえっ」
大男が、元気よく多量の唾《つば》を飛ばした。
別に本気で怒っているわけじゃなく、いつもこのような調子らしいが、その地声はビンビンに響き渡っている。
向こうで警護の任に就《つ》いていた、五人隊長のミランがそっと近付いてきたくらいだ。
なんでもありませんよ〜、とそちらに目で断り、セルフィーが引きつったお愛想《あいそ》笑いを浮かべる――前に、ユーリがぶすっと応じていた。
「あんたねぇ、こんだけの距離しかないのに、力一杯|怒鳴《どな》らなくても聞こえるわよ。二人とも、参加希望者?」
「おうっ。俺の名前を、きっちりと参加名簿に刻《きざ》んどいてくれや!」
嫌《いや》みを完全スルーして吠《ほ》えるように男が言い、ユーリの顔をいよいよしかめさせた。
「前置きはいいから、とっとと名乗りなさいよっ」
「お、こりゃ悪い。俺の名はアークだ!!」
後ろに倒れそうなほどに、たくましい胸を張る。
戦場で勝ち名乗りを上げる時みたいに誇らしげであり、なによりも口調が恐ろしく勇ましい。
……セルフィーにしてみれば、聞いたこともない名だが。
「だから、声がでかいんだって、チーフは。――ていうか、そもそも僕ら、本名を名乗っちゃっていいのかなぁ」
「馬鹿野郎、なにをコソコソする必要があるんでぇ。男たる者、常に堂々としてるべきだ! ショボいこと言うなよ、フェリス」
「……で、僕の名前も勝手にバラしてくれたね。というわけで、僕も参加なんでよろしく、美人のおねーさん」
「――あ。よろしければ、ご自分でご記入願えませんか」
セルフィーはあたふたとペンを差し出した。
やたらと印象深い二人の戦士が去った後も、セルフィーは彼らが外へ出て行くまでず〜っとその姿を追っていた。
「はわ〜……なんか、もの凄《すご》く対照的な二人ですねぇ。あのフェリスっていう人、戦えるのかなぁ」
名簿によると、二人とも二十一歳となっているが……あの美少年ぽい人は十七歳くらいに見える。
「人は見かけによらないわよ。外見で強弱なんかわからないもの。あたし達、それは身に染《し》みて知ってるでしょ」
ユーリが珍しくも真面目《まじめ》な意見を述べる。
まだそばに立っていたミランが、熱心に同意した。
「全くその通りだ。身体が大きくて筋肉まみれの人だから強いってわけじゃないよね」
絶対的な例が身近にあるので、これにはセルフィーも賛成するしかない。
「……確かにぃ。レイン様も、不敵なお顔ではあるけど、外見からはあそこまで強いとは思えませんよねえ。力の波動を感じると一瞬でわかっちゃいますけど、普通の人はそんなの感じられないし」
期せずして三人の頭の中に、自分達の主君《しゅくん》のふてぶてしい表情が思い浮かぶ。
だからというわけでもないだろうが、友人のユーリは瞳を瞬《またた》き、ちょっと眉根《まゆね》を寄せた。
わざとらしく椅子《いす》から腰を浮かせ、アーチ型の入り口からわずかに覗《のぞ》く曇天《どんてん》を眺める。
「それよりさぁ、もうそろそろ締め切りの時間じゃない? 雨降りそうだし、切り上げ時じゃないかなあ。いい加減、応募者も打ち止めだろうし」
「いや――」
ミラン隊長が、なんと懐《ふところ》から銀鎖《ぎんぐさり》付きの懐中時計を取り出し、頑《がん》として首を振った。
「まだ十分ほどあるね」
……そんな高価な品物、よく持ってますね、この人。
相変わらず貧乏なセルフィーは、そっちの方に感心したりする。細《こま》かい部品と熟練《じゅくれん》専門職の腕が必要となるこういう製品は、まず一般|庶民《しょみん》の手に入る値段ではない。
完全な受注品で、多くは王侯貴族《おうこうきぞく》の買い求める道具である。
「あ、言っておくけどこれ、ガルフォート城からの借り物だよ。僕が買えるわけないし」
まるで今の心の声が聞こえたかのように、ミランがセルフィーに教えてくれた。
ユーリが不服そうに頬《ほお》を膨《ふく》らませる。
自分の身分を考慮《こうりょ》してか、直接ミランを責めはしないものの、口調には遠慮《えんりょ》がない。
「えーー! 終了時間なんて適当でいいのに、時計まで預けて時間を守らせるかっ。労働条件の改善を求めたいわね、あたしはっ」
「役目なんだから、仕方ないだろう、ユーリ」
ミランは肩をすくめる。
「僕なんか、他にも将軍から頼まれごとがあって」
頼み事ってなんでしょう? と訊きたかったセルフィーなのに、先にユーリがまた文句をつけた。
「とにかくっ。そこまでして時間を守ることは――」
突如《とつじょ》として、第三者の声がかかった。
「だけど、お陰《かげ》であたしは受付に間に合ったみたい」
三人が、一斉《いっせい》に顔を上げる。
一体、いつから聞いていたのだろうか。
一人の少女が、背中で両手を組み、こちらを見ていた。
「こんにちは、皆さん。――今日は、いい天気ね」
……思いっ切り曇《くも》ってるし、今にも雨が降りそうですけど。
セルフィーは、そう言いたいのをようやく堪《こら》えた。
そんな些末《さまつ》なことはどうでもよい。彼女もまた、先程《さきほど》の二人とは違った意味で注目度大だったのだ。セルフィー自身を含め、三人の視線が殺到《さっとう》する。
冬だというのに、レースで飾られた空色のブラウスを着用しており、下はなんと純白のフレアミニスカートである。
一応、ビロード地の白マントを羽織《はお》ってはいるが、あの格好で寒くないのだろうか。
年齢はシェルファと同じくらいに見える。
華奢《きゃしゃ》な身体で、生まれてから一度も陽に当たったことがなさそうな白い肌をしている。銀色の長髪は、派手《はで》な青色のリボンで左右にまとめられ、いわゆるツインテールにしてあった。
ワイン色をした切れ長の瞳が、三人を面白そうに観察しており、セルフィーの印象としては、彼女は大変気が強そうに見えた。
しかし、群《ぐん》を抜く美貌《びぼう》であることは間違いない。現に、ミランなどはポカンと少女に見とれている。
これほど目立つ女の子がすぐそこにいたのに、なぜ気配《けはい》すら感じずにいたのか、全く謎《なぞ》としか言いようがなかった。
セルフィーは我知らず、掠《かす》れた声で尋ねていた。
「あの……参加希望者さんですか。でもぉ、この大会って十五歳以上の成人しか出場出来ないんですけど」
やや切れ上がった形のよい眉《まゆ》をくっと動かし、美少女は微《かす》かに笑った。いかにもおかしなことを聞いた、というように。
「大丈夫。その年齢制限なら、余裕よ」
背筋《せすじ》を伸ばした美しい歩みで机の前に立つ。
指示されないうちからペンを取り、さらさらと名簿に記入してしまった。
動きに鈍重《どんじゅう》なところがまるでなく、細《こま》かい動作の全てがなめらかで美しい。まるで舞台俳優みたいに、行動の一つ一つに華がある。かっこいい、とセルフィーは思ってしまった。
急いで名簿を確認し、声に出して読んだ。
「え、え〜と。シルビア・ローゼンバーグさん?」
「ちょっとだけ発音が違うわ。正確にはシルヴィア・ローゼンバーグ! よろしくね」
ワイン色の瞳で小粋《こいき》にウィンクする。
なぜだか、頬《ほお》が赤らむのを感じたセルフィーである。
年下の、それも女の子にときめいてどうするのか。
「あの〜、ちょっといい?」
多少心配そうに、ユーリが口を挟《はさ》んだ。
「余計なお世話だったら悪いけど……。その、参加して大丈夫?」
「見かけで強弱を判断するものではない――さっきそう話してたのは、あなただったのではないかしら?」
シルヴィアは歌うように言うと、おもむろに純白のマント(裏地は真っ赤)をバサッと脱いだ。
一瞬、気前よくそのまま全部脱ぐ気なのかと場内|騒然《そうぜん》となったが、そんなわけはなく。
こちらにくるりと背中を見せたことで、セルフィー達にも彼女の意図《いと》がわかった。
シルヴィアは、革紐《かわひも》でまとめた二振りの長剣《ちょうけん》を、斜めに背負っていたのだ。実際、柄《つか》の部分が肩より上に出ていたわけで、これまでまるで見えてなかったのが不思議である。
多分、三人がこの少女の顔やすらっとした足ばかり見ていたせいだろう。
「え〜〜っ、二刀流なのっ!?」
ユーリの、悲鳴にも似た黄色い声。
セルフィーも、二刀流を使う戦士などレニ隊長以外に初めて見る。
「見ての通り、あたし、女の子としては背は低い方じゃないけど。それでも、剣を腰に装着《そうちゃく》してると、鞘《さや》の先が地面を擦《す》りそうになっちゃうのよ」
吐息《といき》混じりにシルヴィア。
「専門が違うとはいえ、双剣《そうけん》をぶんぶん振り回す分には全然苦労しないのに。……世の中、上手《うま》く行かないわね」
元通りマントを羽織《はお》りつつ、しれっと言う。
マジですか、というのが一同の偽《いつわ》らざる感想だった。正味の話、シルヴィアのか細《ぼそ》い体格《たいかく》と細腕からして、スプーン並の重量しか扱えそうにないような。
「ところで、あたしも訊きたいわ」
さりげなく二刀流少女が話を変える。
「間違ってたらごめんなさい。あなた方、もしかしてレインの部下さん?」
言われ、セルフィーとユーリは互いに目配《めくば》せをし、ミランは阿呆《あほう》のようにポカンと開けていた口を閉じた。急に姿勢を正す。
「できれば、将軍を呼び捨てにしないでほしいですね。あの方は、僕の主君《しゅくん》なのです」
丁寧《ていねい》だが、断固《だんこ》たる口調だった。
セルフィーは、この青年の意外な性格を垣間《かいま》見た思いがした。
しかし、シルヴィアの反応はさらに意表《いひょう》を突いてくれた。気を悪くすることも謝ることもなく、目を細めてにこっと笑ったのだ。
「あなた、お名前は?」
「ミランですが、それが?」
「――いえ〜、別に。ただ、あなたはきっとレインのお気に入りでしょうから、あたしも名前を覚えておきたかったの。他のお二人も、良かったらお名前を聞かせてほしいわ」
セルフィーもユーリも、請《こ》われるままに教えてあげた。
なんとなく、彼女とはこの場限りの縁《えん》で終わらぬ予感がしたのである。
一方ミランは、強く見張っていた薄緑の瞳をすうっと和《やわ》らげた。
「……失礼しました。将軍のお知り合いなんですね?」
「そうなの、うん。ここにレインがいるって噂《うわさ》を聞いたから、わざわざ逢いに来たの。武闘会《ぶとうかい》の申し込みは、ついでかな」
コクコクとシルヴィアが頷《うなず》く。
「なるほど……。でも将軍は今、不在ですよ? ご自分の領地に帰っておられます」
「え、そうなの!?」
ワイン色の瞳が、見る見る陰《かげ》った。
その変化はあまりにも明らかであり、まるで相手が愛《いと》しい恋人であるかのような失望ぶりだった。
「変ね……そんなはずないけど。でもそう言えば、だいぶトレースが弱かったわ」
肩を落として、なんだかわけのわからんことをブツブツ呟《つぶや》き始める。
そんなことよりも、だ。
「それで、レイン様とどういう関係なんでしょうか!!」
というセリフが、さっきからセルフィーの頭の中を光の速さで駆けめぐっている。それが一番聞きたいのだ。
固唾《かたず》を呑《の》んで身を乗り出すセルフィーを見て、シルヴィアがようやく独白《どくはく》をやめた。
なにか思いついたように、バラ色の唇をきゅっと笑《え》み崩す。
いきなりぶちかましてくれた。
「申し遅れたけど。あたし、彼のフィアンセなの」
ええ――――――――――っ!?
三人はきっちり驚愕《きょうがく》し、それこそ身をのけぞらせて悲鳴を上げた。ミランまでが声を合わせて合唱していた。
シルヴィアの美貌《びぼう》に、悪戯《いたずら》っぽい笑顔がゆっくりと広がる。
「……なんちゃって。今のは嘘《うそ》」
場が凍り付く。
……ジョーク? ジョークなんですか、今のっ。も、もしかして、からかわれたのでしょうか、わたし達は。リアクションに困ったセルフィーだが、シルヴィアが自分を見ていることに気付き、ちょっと焦《あせ》った。
この謎《なぞ》の美少女は、実に意味深《いみしん》な目つきでこちらを見ていたのだ。
「今の顔……。なるほど、あなたもレインが好きなのね」
衝撃《しょうげき》は、一拍遅れでやってきた。
痺《しび》れたように問い返す。
「あのっ。『あなたも』って、どういう意味でしょうか」
二刀流少女は踵《きびす》を返しかけていたが、振り向きざま、さらなるショックをくれた。
「あなたの想像通りよ、セルフィー」
見事に固まったセルフィーを横目に、今度はミランが慌てて尋ねた。
「僕も一つだけ。……先程《さきほど》、剣が専門じゃないようなことをおっしゃいましたね。それならなぜ、ご自分の得意分野で勝負しないんです?」
「――理由は簡単よ」
ふっとシルヴィアが笑った。
反射的に、三人の背中にぞくっと冷たいものが走る。
それは、快活《かいかつ》な美少女という今までの彼女の印象を覆《くつがえ》すかのような、ひどく凄《すご》みのある微笑《びしょう》だったからだ。
静かな迫力とともに、少女は返す。
「それだと、他の人達にチャンスがなさすぎて気の毒だもの」
その、さりげない傲慢《ごうまん》発言を最後に、シルヴィアは今度こそ去っていった。
一同の無言の見送りの後。
「……あれ」
きょとんとしたユーリの声が、ようやくセルフィーの頭に届く。
未《いま》だ衝撃《しょうげき》が醒《さ》めやらぬまま、
「どうしたの?」
「うん。これだけどさぁ。……ま、間違いよね、これ?」
名簿の一点を、ユーリの指が指し示す。
そこには流れるような達筆《たっぴつ》でシルヴィアの名前が書かれており、一番最後に年齢もちゃんと記《しる》してある。
――セルフィーの見間違いでなければ、三千七百歳と読めた。
野外劇場を後にしたシルヴィアは、足音も立てずに歩きつつ、独り言のように呟《つぶや》いていた。
「……いい機会かもね」
可愛《かわい》らしい舌が、バラ色の唇をなぞる。
「大陸最強の種族《しゅぞく》は、魔族でも古龍《こりゅう》でもなく、我が一族なのだと――人間達に教えてあげることにしましょうか」
と、まるで抗議するように――
シルヴィアの脳裏《のうり》に、全身黒ずくめの愛想《あいそ》のない少年が思い浮かんだ。想像上とはいえ、不機嫌《ふきげん》な瞳でこちらを睨《にら》んでいた。
思わず、肩を揺らして笑ってしまう。
そう、あの少年なら絶対に、今のセリフに異を唱えたはずだ。
『この俺がいる限り、あんた達は最強じゃない』
傲然《ごうぜん》と顔を上げ、そんなセリフを吐きそうだ。
華やかな笑い声のせいで、街路《がいろ》を行《ゆ》き交《か》う人々の注目を集めてしまったが、気にはならなかった。
独白《どくはく》する声音《こわね》が、自然と優しい響きに変化する。
「ええ、もちろん。……もちろん、あなたは例外よ」
早く逢いたいな、レインに。
シルヴィアの歩みは、いつの間にかうきうきと弾んでいた。
――☆――☆――☆――
ギュンターを従え、シェルファが足早に謁見《えっけん》の間を出てきた。
その表情を見て、ガサラムは目を瞬《またた》く。
彼女が、いつになく怒っているのがわかったからだ。
しとやかな普段の歩き方に似ず、今日はせかせかと早足で階段を上っていく。
後ろ姿を見るに、小さな両手を固く握り締め、肩を震わせていた。よほど不快なことがあったらしい。ギュンターに並んで後に続きつつ、そっと声をかけてみた。
「謁見《えっけん》っていうか、誰かと会っていたんスよね? とにかくそれで、なにかお気に障《さわ》ることでも?」
階段を上がりきった所で、ぴたっとシェルファの足が止まった。
振り向いた美貌《びぼう》に、拗《す》ねた童女《どうじょ》のような表情が浮かんでいる。
「レインのことを悪く言ったんです、あの人っ」
あんな人は大っ嫌いです、という感情が隅々《すみずみ》まで滲《にじ》んだ口調だった。
ガサラムは顎《あご》の無精《ぶしょう》ひげを指でかき、隣で無言のまま立つギュンターを見る。
いつもながら、「俺はよぅ、この世の全てが気に入らねーんだ!」とか主張したそうなむっつり顔に向かい、尋ねてみた。
「悪いが。俺は、今日の謁見《えっけん》ってどんなアレか知らないんだがな。説明とか頼めないか?」
ギュンターが無愛想《ぶあいそう》にだいたいのところを、なおかつシェルファが、懇切丁寧《こんせつていねい》な補足説明をしてくれた。
要するに、こういうことだそうな。
サンクワールは今、新たなる人材登用のため、文武両道《ぶんぶりょうどう》に渡って、広く門戸を開いている。
そのうちの「武」に関しては、明日からの武闘会《ぶとうかい》がメインだが、文官《ぶんかん》については、王都で以前から貴賤《きせん》を問わずに募集していたらしい。
すなわち、あちこちに専門の登用所を設け、簡単な筆記試験やら面接試験やらを行う。成績だけでは判断されない。その結果が悪くても、やる気次第では合格も有り得る。その登用所での合格者が、最終的にシェルファに謁見《えっけん》出来る――というシステムなのだ。
もちろん彼女のオーケーが出れば、そこで初めて正式に臣下《しんか》となり、この国の文官《ぶんかん》として登用されるそうな。ザーマインとの敗戦以来、あっさり逃げ散った文官《ぶんかん》達の補充をするため、レインがシェルファに進言したようだ。
既《すで》にこの方法で、幾人《いくにん》も有為《ゆうい》な人材が確保されているとか。
かつてのサンクワールでは、貴族の子弟《してい》ばかりが登用されていたので、これは一大方針転換と言える。
「ほほぉ」
ガサラムは大きく頷《うなず》き、賛意を示した。
「そりゃいい! 家柄《いえがら》や寄付金で臣下《しんか》を選ぶより、万倍もいいですぜ。常に募集してるってのが、またやる気をそそります」
「わたくしもそう思います。これからはずっとこの方法を採りたいですわ」
シェルファは熱心に賛同した。
というか、この少女がレインの進言を退《しりぞ》けるのを、ガサラムはついぞ見たことがないのだが。
レイン教の信者――最初にそうからかったのは例のフォルニーアだそうだが、なるほど、そのセリフはシェルファに相応《ふさわ》しい。
ただ、未《いま》だに疑問が解消されないので、こちらから水を向けてやった。
「いい方法なのに、今日来た奴はスカだったと?」
可愛《かわい》い唇を引き結んで、シェルファは首肯《しゅこう》した。
「レインを今のままにしておくのは、狼《おおかみ》を王宮に放つようなものだ――そんなことを言ったのですわ!」
「はぁ? そりゃまたなんというか――」
そいつ、馬鹿ですなあ。
というセリフは喉《のど》の奥に飲み込む。
無理もないが、その誰かはこの少女|主君《しゅくん》について、まるで疎《うと》かったに違いない。
多少なりともシェルファのことを知っていれば、今少しマシな発言をしたろう。
だしぬけに、ギュンターが呟《つぶや》きを洩《も》らした。
「狼《おおかみ》は、実はとても優しい動物なのですが。彼はそれを知らないと見えますな」
ガサラムとシェルファの視線を受け、独り言のように解説を加える。
「あの若者の意図《いと》は明らかです。要は、レイン様に取って代わろうとしたのですな。『特定の臣下《しんか》に頼りすぎると、寝首を掻《か》かれる恐れがありますぞ!』などと貴女《あなた》を脅《おど》したのは、『だから用心のため、自分も軍師《ぐんし》として採用せよ』という、売り込みへの布石《ふせき》だったと拝察《はいさつ》……」
淡々《たんたん》とバラしまくる。
なるほどなぁとガサラムは思った。
その発言内容なら、確かにそいつは野望《やぼう》の男なのだろう。達者《たっしゃ》な弁舌《べんぜつ》で、シェルファに疑心暗鬼《ぎしんあんき》を起こさせようとしたらしい。……出だしから蹴躓《けつまず》いてりゃ世話ないが。
「そんなの、馬鹿げています」
シェルファは大きな瞳をまじまじと見開き、むしろ驚いたように返した。そんなこととは、予想だにしていなかったようだ。
「レインの代わりなんて、誰にも務まらないのに!」
「……御意《ぎょい》。しかし、皆がそれを承知しているとは限りません。端《はた》から見れば、レイン様の占めている地位は実にうらやましく見えるのでしょう。代わりたい者がいても、不思議ではありますまい」
平板《へいばん》な声でギュンター。
シェルファはうんざりしたように俯《うつむ》き、再度言った。
「馬鹿げています」
そのまましばらくして……今度は哀しく寂しい震え声で言う。
「レインに逢いたい……逢いたいです」
今にもその場にしゃがみ込みそうだった。
レインの名前が出たせいで、疲れと共にどっと寂しさが込み上げたらしい。
ガサラムはわざと明るい声を張り上げた。
「なに。もうすぐお帰りになりますよ。あまり気落ちせずに待ちましょうや。待っている間が長いほど、再会した時の喜びも大きいものですぜ」
完璧《かんぺき》に無視された。
それ以前に、聞こえていないようである。
シェルファは肩を落として床を見つめたまま、しきりに胸のペンダントを弄《いじ》っていた。銀の鎖《くさり》に付けられた、古ぼけたコインである。いつもはドレスの内側に落とし込んであるのに、ここ数日、やたらと引き出して触り倒している。そのうち、擦《こす》り過ぎてなくなってしまいそうだった。
なにかのおまじないかもしれないが、未《いま》だガサラムは尋ねたことがない。なんとなく、軽々しく訊けない雰囲気なのだ。
とその時、同じくシェルファの落ち込みぶりを眺めていたギュンターが、なにげに意表《いひょう》を突く発言をした。
「気晴らしに、武闘会《ぶとうかい》をご観戦なさるのもいいかもしれませんな」
現金にも、ぱっと顔を上げるシェルファ。
真っ青な瞳が、ギュンターのむっつり顔を真《ま》っ向《こう》から見上げる。
声にも張りが戻った。
「レインに逢えるのですか!」
「……今の私の発言の中に、レイン様を臭わせる部分が一カ所でもありましたか?」
無表情な目がシェルファを見返す。
「だってレインがいない限り、わたくしの気が晴れることはありませんもの」
――待て待てっ。
迂闊《うかつ》にも今気付いたが、今までの発言は相当にヤバいんじゃないか。
ガサラムは思わず、静まりかえった歩廊《ほろう》を入念《にゅうねん》に見渡した。誰かに聞かれたら、コトである。
有り難《がた》いことに、自分達以外に人の姿はない。
「はあ……。たのんますよ、陛下。いま少し、自制を」
懇願《こんがん》するように頼むと、シェルファは申し訳なさそうにまたまつげを伏せた。
「……余計な気を遣わせてごめんなさい」
「いえ……まあ、お気持ちはわかるんですが」
慰《なぐさ》めつつ、窓の外を眺めているギュンターを見やる。
この白面《はくめん》の美青年は、例によって不機嫌《ふきげん》な「けっ。俺の知ったこっちゃねー」的な表情をしているが、さすがに最近のガサラムは、そう簡単に騙《だま》されない。実はレインもそうだが、こいつも随分《ずいぶん》と細《こま》かい気配《きくば》りをする男なのだ。
今の唐突《とうとつ》なセリフにも、理由があるのでは。
「なあ、ギュンターよ。将軍関係で知ってることがあるなら、今の内に吐き出してくれや」
「その質問は無意味ですな」
「……なんでだ?」
淡々《たんたん》と説明してくれた。
「もし、レイン様が何かを企《たくら》んでおられるのなら、私がそれを洩《も》らすわけにはいきません。つまりこの場合、先の発言に裏があろうとなかろうと、私の返事は同じなのです」
以上の点を踏まえて――
という前置きとともに、この男はしれっと続けるのである。
「私は主《あるじ》から何もうかがっておりませんし、隠していることもありませんが。レイン様は、今頃はコートクレアス城におられるのではと拝察《はいさつ》……」
――まだ付き合いは短いが。
今の返事を聞くに、ギュンターとはつくづく一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない男だとガサラムは思う。
クセがありすぎる、というか。しかしシェルファは、問題がレイン関係のことだけに、なかなかあきらめなかった。ギュンターの不機嫌顔《ふきげんがお》をじいっと観察しつつ、さらに訊く。
「……武闘会《ぶとうかい》に出席しないと、わたくしはもっと気が晴れなくなりますか?」
なかなか上手《うま》い質問の仕方で、ガサラムは微笑《ほほえ》まずにはいられない。
ギュンターは顔色こそ変えなかったが、シェルファの顔を意味ありげに見た。
「もちろん、観戦なさらないのはご自由です。しかし、私ならお勧めしませんな。城に籠《こ》もってばかりというのも、いかがなものでしょうか」
素《そ》っ気《け》ない返事としかめっ面《つら》に、シェルファが何を見、何を考えたのかは定かではない。
しかし次の瞬間、この少女はやや元気を取り戻していた。
「気が変わりました。予選から、ずっと見ることにします!」
「……さようですか」
俺にゆったって知らんわい、という顔でギュンターが答えた。
ところで、シェルファは今日|謁見《えっけん》した『野望《やぼう》の若者』のことを決して忘れはしなかったが、向こうもまた、この美貌《びぼう》の少女君主を深く記憶に留《とど》めていたのである。
さして遠くもない将来、シェルファは再び、彼の名を耳にする羽目になる……
――☆――☆――☆――
武闘会《ぶとうかい》の受付は終了し、王都リディアには夕闇が迫っていた。
冷え込みが増す中、一軒の寂《さび》れた酒場の隅《すみ》で、三人の男達が額を寄せ合って密談している。
一番の巨体を誇る毛深い中年男が、チビチビとグラスを傾けるローブの老人に言う。
「間違いないのだな、ケヴィン。レインは王都にいないと?」
「おまえさん達も、途中までは尾行したろうが。確かじゃわい!」
ケヴィンと呼ばれた老人は、気を悪くしたようである。
「わしが年季の入ったルーンマスターだというのを、お主《ぬし》は忘れていないか。別に足で尾行せずとも、確認するのはわけないのじゃ」
「だが、あいつは我らの予想以上の腕利《うでき》きだった。あのジョウ・ランベルクとの戦いを見ると、それを認めるしかない。罠《わな》ではないという証拠《しょうこ》があるか?」
「わかっとらんな……。いいか、あ奴がガルフォートの城門を出てから、ずっと魔力トレースしていたんじゃ。ごまかされる可能性なんかないわい。見てみろ」
ケヴィンは小さく呪文を唱え、自分の記憶映像をマジックビジョンとして投影《とうえい》する。セノアとかいう副官を含む、十人程度の者達と馬を並べて街道を行くレインの姿が、テーブルの上に小さく映《うつ》る。半透明の映像だが実に鮮明《せんめい》で、見間違いようもない。
一行の先頭で白馬に乗っている男こそ、まさにレインだった。
精悍《せいかん》な顔に浮かべた不敵な表情。加えて唇の端《はし》に、有るか無きかのふてぶてしい笑《え》みが刻《きざ》まれている。恐れを知らぬ顔とは、こういう面構《つらがま》えを言うのだろう。
ケヴィンは人目を避けるように、すぐにそれを消した。
「これは街道を行く時の様子じゃが、ご覧の通りよ。ちゃんと、コートクレアス城に到着するのも『視《み》た』ぞい」
「気になるなら、当初の予定通り、途中で彼を襲《おそ》えばよかったのに」
ひたすら食事に専念していた召喚士《しょうかんし》レスターが、やっとふくよかな顔を上げた。
「……どちらが簡単かと言えば、この場合は王女の方だろう。レインが離れたのなら、もはや側近《そっきん》に警戒《けいかい》すべき戦士などいない。予定を変えても良かろう」
大男のバジルは、自分に言い聞かせるように返した。
レスターは肩をすくめて見せる。
「まぁねえ。簡単に殺《や》れるなら、そりゃ僕も賛成するよ。クレア様……じゃなくて宗主様だって、成果を待ち望んでいるし。ところで、さっきの映像、セノアとやらはいたけど、ガサラムやレニって名の副官二人がいなかったけど?」
「結界《けっかい》のせいで探れんが。おそらく、そいつらは小娘の警護のため、ガルフォートに残したのじゃろ。セノアとかいう貴族娘を残すよりは気が利《き》いておるわい。しかし、惜しいのぅ……」
ケヴィンは嘆息《たんそく》して首を振った。
「倒すべき敵とはいえ、あのシェルファっちゅー小娘はやたらと美しく可憐《かれん》じゃ。多分、手つかずの処女じゃろうしな。……わしが頂きたかったのぅ」
「じいさん、見境《みさかい》なしだな。女好きはいいけど、ちゃんと使い物になるのかよ」
口いっぱいに鶏肉を詰め込んだまま、レスターは下品な声で笑った。
「馬鹿者、わしは生涯《しょうがい》現役じゃぞっ。現に」
「続きは、部屋でしろ」
バジルは慌てて口を挟《はさ》む。
放っておけば、どんどん横道に逸《そ》れそうだったからだ。
「とにかく、打ち合わせ通りに。――我らの敵に死を与えよう!」
レスターとケヴィンも、さすがに真面目《まじめ》な顔で唱和《しょうわ》した。
『我らの敵に死を!』
――☆――☆――☆――
ジョシュア・フォルタール・ハッシュ、という大仰《おおぎょう》な名前を持つ彼は、つい先日、やっと十五歳になった。
数代前の先祖がサンクワールの没落《ぼつらく》貴族を花嫁に迎えたせいで、以後彼の家系は、金髪碧眼《きんぱつへきがん》の容姿《ようし》を持っている。ただし、瞳を見れば純潔の貴族ではないのが明らかだし、家もさほど裕福というわけではない。身分的にはバリバリの平民で、準貴族ですらない。
だから本来彼は、ミドルネームもラストネームもない、ただのジョシュアである。無駄《むだ》に貴族に似た彼の外見も、幼少の頃はいじめられる理由になったくらいで、いいことは一つもなかった。
しかし、悪いことばかりでもなかった。ジョシュアは群《ぐん》を抜いて美しい少年に育ったのだ。十歳になる頃には近所の奥さん連中がため息をつくほどの美貌《びぼう》になっていたし、同世代の女の子達は彼の気を惹《ひ》くのに必死だった。
もちろん、少年達の方は必ずしも味方ではなかったが、ジョシュアは実に聡《さと》い少年で、力のある者、すなわちガキ大将的立場の少年に取り入った。そのせいで物心ついてからは、上手《うま》くいじめから逃れることが出来たのである。
慎《つつ》ましい商人だった両親も、彼には非常に期待し、庶民《しょみん》はまず通わない「幼年学校」にも行かせてあげた。普通は、両親に読み書きと計算の初歩を教えてもらい、それで良しとするのが一般|庶民《しょみん》というものである。せいぜいが、例外的に近所で開いている塾にちょこっと通わせるくらいで、それすらまだ数少ない方だ。
ただの平民が学校通いなどするためには、それこそシャレにならない金額を積む必要があり、生きていくだけで精一杯の庶民《しょみん》には、そんな余裕などないのである。
だが、ジョシュアの両親は息子の希望に従い、かなり無理をしてお金を工面《くめん》したのだった。
ジョシュアは両親の期待に応《こた》えた。
入学した学校でもたちまち頭角《とうかく》を現し、成績は文武共に、常に一番だった。冗談抜きで「神童《しんどう》」と呼ばれていたくらいだ。彼にとって唯一《ゆいいつ》の問題は、どんなに努力しようが好成績を修めようが平民は平民、このサンクワールでは一生、国の要職には就《つ》けないという点だ。
ジョシュアのせいでいつも成績二番だった某《ぼう》貴族の子弟《してい》は、悔《くや》し紛《まぎ》れにこう言ったものである。
『まあ、おまえがデカい面《つら》をしていられるのも、今のうちだけだからな』
悔《くや》しい話だが、その万年二番手の言うことは全く事実だった。
――学校を出ればそれまで。
これまでの成績など関係ない。ジョシュアがいかに優《すぐ》れた頭脳を持っていようが、人心を(対象は主に女性だが)掌握《しょうあく》することに長《た》けていようが、なんの役にも立たないのだ。
貴族と平民の間にはそれほど大きな壁、言い換えれば絶対的な壁がある。
自分の輝かしい才能が埋もれていくのが耐えられないジョシュアは、卒業後は他国に仕官の道を見つけよう――そう覚悟《かくご》を決めていた。
しかし、彼が学校を卒業したまさにその年、サンクワールは一大転換期を迎えた。
権威《けんい》主義の貴族共《きぞくども》は馬鹿らしい反乱を試み、主城を確保するという圧倒的に有利な状況だったのにもかかわらず、自らの無能さにより滅《ほろ》び去った。
貴族主義は完全に消え去りはしていないものの、かなり薄れたといっていい。
これからは実力だけが物を言う時代――僕の時代なんだっ!?
サンクワール王家が文官《ぶんかん》や武官《ぶかん》の一般公募を行った時、野望《やぼう》の少年ジョシュアが、すぐさま飛びついたのは言うまでもない。
初めて入るガルフォート城、そして広大な謁見《えっけん》の間。
聞きしに勝《まさ》る豪華《ごうか》さだった。
豪奢《ごうしゃ》なシャンデリアが頭上高く吊り下げられ、彼が立つ総大理石張りの床は、本気で鏡の代わりに使用出来るほど磨き上げられている。
しかしジョシュアは、「こんな場所、しょっちゅう出入りしてる」という表情を作り、澄《す》まして立ち続けていた。
やがて衛兵が、「間もなく陛下がお見えになる。少年よ、そこに控えるように」と指示を出したのに従い、玉座《ぎょくざ》の前の帯状の絨毯《じゅうたん》に跪《ひざまず》く。恭《うやうや》しく頭を下げて待った。
ここが正念場《しょうねんば》である。
相手は年端《としは》もいかない少女君主。自分の美貌《びぼう》と(女性に対してのみ有効な)人心掌握術《じんしんしょうあくじゅつ》が真に活《い》かされるのは、まさに今を置いてない。
数分後、玉座《ぎょくざ》付近の専用通路の方から、扉の開く微《かす》かな音がした。
衣擦《きぬず》れのようなささやかな音がして、それよりもっと微《かす》かな足音。二人分ある。
なにやらよい香りが漂《ただよ》い、ジョシュアは目指す相手が玉座《ぎょくざ》に着いたのを知った。なおも待つと、「どうぞお立ちになってください、ジョシュアさま」というしとやかな声。
なんと、立っていいのか……立ったまま話させてくれるのか。
現国王たるこの少女は、どうやら相当に話せる人物らしい。
これはイケるぞっ。試験を、そしてその後の個人面接をがんばった甲斐《かい》があった!
ますます闘志《とうし》を燃やす。
舌で唇をなぞってから、ジョシュアはせいぜい謙虚《けんきょ》そうな声音《こわね》を作った。
「はっ。では、お言葉に甘えまして」
ゆっくりと立ち上がり、数段上の壇上《だんじょう》にある玉座《ぎょくざ》を見上げる。
……固まってしまった。
すぐ近くに、噂《うわさ》の少女君主が座《ざ》している。
王冠の代わりだろうか、宝石がふんだんに使われているサークレットを額にはめており、身を飾るアクセサリーといえばそれくらいだ。後は首になにかネックレスをしているようだが、どのみち胸元に隠れているので、どんな品かはわからない。
いずれにせよ、眼前《がんぜん》の少女に華美《かび》な装飾品《そうしょくひん》など全く無用《むよう》に思える。なにを身につけたところで、本人の美貌《びぼう》のせいで、いかに豪華《ごうか》な飾りであろうと霞《かす》んでしまうだろう。
――ジョシュアは真面目《まじめ》にそう思った。
シェルファ・アイラス・サンクワールという生粋《きっすい》の貴族少女について、下調べの時点ではほとんど何もわからなかったと言っていい。
なぜか前国王が、彼女を王宮からめったに出さず、主立《おもだ》ったパーティーにも出席させなかったせいだ。情報を集めようにも、最初から集めるべき情報がないのである。
わかったことといえば、政策方針を見るに、寛大《かんだい》で慈悲《じひ》深い性格であること、そしてこれは彼女を見た見物人が一致して証言したことだが――大変な美貌《びぼう》の持ち主だそうな。
ひと目見た瞬間に納得した。
細いウエスト周りから胸元まで、ボディラインがはっきり窺《うかが》えるシルクのドレス。襞《ひだ》の多いひらひらスカートもやや短めで、真っ白な両足が膝《ひざ》の辺りまで見えていた。
肝心《かんじん》の顔の方も申し分ない。
何より目立つのは、かなり大きめの真っ青な瞳で、これにまずガツンと意識を持って行かれる。
柔らかな曲線を描《えが》く眉《まゆ》、そして淡い桃色の唇から小さな顎《あご》に至るまで、顔を構成するパーツの全てが、嘘《うそ》くさいほど完成度が高い。かと言って彫刻《ちょうこく》のように冷たい雰囲気はなく、優しそうな容貌《ようぼう》なのも大いに良し。
唯一《ゆいいつ》の難点は、彼の好みの年齢層より年が下だというところか。だが、そもそもジョシュアは十五歳なので、実は年齢的には釣り合う。それに……贅肉《ぜいにく》の欠片《かけら》も見られない細いウエストや、膨《ふく》らみ始めた形のいい胸を見ると、これはこれでなかなか。
ジョシュアは感嘆《かんたん》し、微《かす》かに目を細めた。
彼女の横には影の薄い男が一人、ぼさっと立っていたが、そいつの方は無視。男は嫌いなのだ。
とそこでシェルファに呼ばれ、意識が浮上した。
「ジョシュアさま?」
……声が先程《さきほど》より低くなり、さっきは感じられた優しさが消えている。
慌てて目を上げれば、シェルファは案の定、無言の非難を籠《こ》めてジョシュアを見ていた。潔癖《けっぺき》な少女にありがちの、男のイヤらしい視線を断固《だんこ》として拒《こば》むアレである。
元々ごく微《かす》かでしかなく、気付かれるはずもなかった、値踏《ねぶ》みするような目つきをささっと消す。
いつも自分を助けてくれた、『天使的笑顔』を全開にしてシェルファを見返す。
白い歯が目立つように、意図《いと》して口元を見せたりもした。
「……失礼しました、陛下。お噂《うわさ》に違《たが》わぬ美貌《びぼう》に、少々|上《のぼ》せてしまったのです。不躾《ぶしつけ》にも見とれてしまいました。どうか、お許しください」
ここでシェルファは表情を一変させ、急に熱っぽい瞳でこちらを見る。
それから急にもじもじして頬《ほお》を朱色に染め、ため息などついた。
――という場面が展開されるはずだったのだが。
ジョシュアが心底驚いたことに、彼女の表情は好転しなかった。いや、かえって綺麗《きれい》な眉《まゆ》をひそめ、耳障《みみざわ》りなことを聞いた、といった内心を覗《のぞ》かせる。
素《そ》っ気《け》なく頷《うなず》いた後、答えた。
「お気になさらず。なんとも思っていませんわ」
思いっきり気にした顔で言う。
「……文官《ぶんかん》担当の面接官から報告を受けました。ジョシュア様は、まれに見る才能の持ち主だとか。我が国としてもそのような人材を望んでいたところです。お手伝いしてくださるのなら、嬉しく思いますわ」
……セリフが、悲しいまでに棒読みである。
名前を呼ぶ時の声も、やたらと固くて冷たくなったような。
しかも、この会見をさっさと切り上げたいという意図《いと》が見え隠れしており、終始早口だった。
ジョシュアのこれまでの人生で出会った女の子達のように、うっとりと彼の顔を盗み見たり、瞳に賞賛《しょうさん》を浮かべたりもしない。
到底《とうてい》信じられないが、自分を見てもなんのときめきも感じないらしい。
そんな馬鹿なっ。
僕を見て、この微笑《ほほえ》みを向けられて、女の子が何も感じないなんてっ。
知恵と美貌《びぼう》の二つが、特に後者が、ジョシュアの最大最強の武器だったのである。
絶対の自信があったのだ。ジョシュアが笑顔を向けただけで、歴戦の娼婦《しょうふ》でさえ簡単に落ちたくらいで。
ましてや、世間《せけん》知らずのうぶな少女など!
いや、まだ遅くはない。側近《そっきん》になれさえすれば、簡単に落とせるはず。すぐにこの僕に熱を上げるようになるはずだ。納得のいかない思いを胸に、ジョシュアはとにかく失点を挽回《ばんかい》しようとした。
「もしお許しいただければ、私めの考えをお話ししたいと思います。この国に関わる重要問題ですので、何卒《なにとぞ》、お時間をくださいませ」
ジョシュアという名の若者が自分の考えを表明するのを、シェルファは注意深く聞いている。
今し方、ほんの短い間だが、彼の視線はシェルファの身体を舐《な》めるように見つめていて、もうその時点でシェルファはどっと不快感が込み上げてきたのだが。
その一事をもってこの人の印象を決めてしまうのは、さすがに申し訳ないだろう。
ちなみに、ジョシュアが先程《さきほど》から頻繁《ひんぱん》に彼女に向けている、『女殺し的美少年笑顔』などは、シェルファにはゴブリンがお愛想《あいそ》笑いした程度の効果もなかった。
彼女自身は、「初対面なのに、なぜこの人は面白くもないところで笑うのでしょうか?」などと思ったりしており、まるっきり逆効果だったりする。
そもそもシェルファの『好きな男性のタイプ』というのは――
男らしい精悍《せいかん》な顔つきをした黒髪黒瞳《くろかみくろめ》の長身で、しなやかな筋肉のついた痩《や》せ形《がた》、さらには黒い服のバッチリ似合う人である。
プラス、お愛想《あいそ》笑いではなく不敵な笑顔の似合う人、というのも外《はず》せない。というか、そうじゃないといや。つまり、無意識にちょびっと好みを羅列《られつ》しただけでもう、恐ろしいまでにある特定の人物にビタッと当てはまってしまうのだった。
そんなわけで、ジョシュアのごとき「なよっとした体格《たいかく》でひらひらした服装の美少年」などは、シェルファの嗜好《しこう》の遙《はる》かアウトレンジとなる。
というか、美的感覚の全てが「さる男」を頂点として永久認定しているので、ジョシュアを美少年とは見ていないのである。目が曇《くも》っている、と世の女性達は言うだろう。何しろ二人を並べれば、外見だけなら多くの女性はジョシュアの方を上と見るからだ。
問題の「さる男」の容貌《ようぼう》はかろうじて美少年の範疇《はんちゅう》に入るかもしれないが、それにしたってうっとり見惚《みほ》れるほどではない。
そんなのはシェルファ(と他数名)だけである。
ともあれ、今後の政策に関する彼の助言と意見をじっくり聞いていくうちに、シェルファは少々この少年を見直した。彼の説《と》くところの全てが、既《すで》にレインが進言した基本方針の劣化版《れっかばん》、または彼による既出《きしゅつ》の意見だった故《ゆえ》に。
……それでどうして見直せるんだ? という感じだが、シェルファに言わせれば、レインの進言と似ていただけで大したものなのである。
ジョシュアの話は続いている。
「――政策に関する意見はこのくらいで。次に失礼ながら宮廷内《きゅうていない》に関することですが」
ジョシュアは微妙《びみょう》な咳払《せきばら》いなどして、玉座《ぎょくざ》を見上げた。
「出来ればその……陛下だけにお話ししたいのですが。申し上げにくいことなので」
「申し訳ありません。ギュンターさまはわたくしにとって大切な方なので、それはご遠慮《えんりょ》させてください」
シェルファは本当に申し訳なさそうに、しかしはっきりと言った。
「そうですか……やむを得ません」
まだ気を許すところまでは行かないか、とジョシュアは内心で舌打ちする。
それをおくびにも出さず、
「申し上げにくい話とは、宮廷内《きゅうていない》の現状についてです。現在、権威《けんい》主義の貴族達は政界の舞台を降り、随分《ずいぶん》と風通しがよくなりました。しかし、力とは全て相対的なものです。かつての貴族達に代わる勢力が出現するのは、陛下にとっても好ましくないはず。有《あ》り体《てい》に申し上げれば、陛下はもっとご用心なさるべきでしょう」
「……具体的には、どういうことでしょう?」
いささか警戒《けいかい》するような声音《こわね》のシェルファ。
だが幸か不幸か、年若いジョシュアはそれに気付かなかった。
「つまり、文官《ぶんかん》は別として、今の陛下は一兵士すら臣下《しんか》にお持ちではない――私はそう指摘したいのですよ。今一度、よくお考えくださるよう。国内の軍備は、現状、二人の上将軍《じょうしょうぐん》によって独占されています。上将軍《じょうしょうぐん》自身は陛下の臣下《しんか》ではありますが、その配下《はいか》たる兵士達はそうではありません。現在陛下は、たった一人で巨大な軍勢《ぐんぜい》の手綱《たづな》を握っているのですぞ。それも、制御不能|間近《まぢか》の、極《きわ》めて脆《もろ》い手綱《たづな》をです!」
ここぞとばかりに身を乗り出す。
シェルファとの距離は四、五メートルに過ぎなかったが、さりげなくさらににじり寄った。
「お聞きください、陛下。私は決して、かの上将軍《じょうしょうぐん》達が悪心を持っていると申している訳ではありません。ただ、目の前に絶好《ぜっこう》のきっかけがあれば、どんな善良な者とて一歩を踏み出すことはありましょう。おわかりでしょうか、もっとご自身の力を強化すべきだ、という私の主張が」
「……つまりあなたは、その二人をもっと警戒《けいかい》すべきだ、そう仰《おっしゃ》りたいのですね」
絶好調《ぜっこうちょう》で舌を駆使《くし》していたジョシュアは、ここでようやく警戒感《けいかいかん》を持った。
エラくトーンダウンしたシェルファの声と、固い表情……これは、早急に話を進めすぎたか?
――とっさに迷う。
この場合、今の主張を冗談に紛《まぎ》らわせるか、それともより強固に自説を説《と》いて彼女の非難を粉砕《ふんさい》するか、二つに一つだろう。
そして、この少女は生真面目《きまじめ》そうなだけに、話をうやむやにするのは難しそうだ。
そう判断し、ジョシュアは覚悟《かくご》を決めた。
より強く主張する方を選んだのだ。
自分が持つ女性への影響力と、あらかじめ練りに練っておいた弁舌《べんぜつ》に、全てを賭《か》けることにした。
……サンクワールの軍を代表する二人、この両名の上将軍《じょうしょうぐん》のうち、どちらに重点を置いて危険を説《と》くべきか?
もちろん、彼女には縁遠《えんどお》い上に性格も合いそうにない、野蛮《やばん》そうなあいつがよかろう。
すなわち、成り上がり者のレイン!
こいつがいつ裏切ってもおかしくないというのは、貴族ならずとも周知の事実だ。
シェルファがいかにレインに心酔《しんすい》しているかは、未《いま》だに平民達の知るところではない。
それ故《ゆえ》に、ジョシュアは致命的《ちめいてき》な過《あやま》ちを犯したのだった。
「私の言い方は生意気《なまいき》で礼を欠いているかもしれませぬ。しかし、短気を抑えてよくお考えあれ、陛下。特定の臣下《しんか》に頼りすぎることは、悪戯《いたずら》に彼らに傲慢《ごうまん》な自信を抱《いだ》かせ、叛意《はんい》を起こさせる原因となるのです。寝首を掻《か》かれても文句は言えますまい」
だから、用心のためにも僕を側近《そっきん》に迎えてくれ。すぐにそいつらを叩き出してやるから!
――という本音は抑え、あくまでも『僕は貴女《あなた》のことが心配なのですよう』という表情を作り、熱心にシェルファを見つめる。
眉《まゆ》をひそめる少女君主に、「これは脈が出てきた。心配になってきたんだな!」などと明後日《あさって》の方向に誤解《ごかい》し、さらに舌を滑《すべ》らす。
もう一押しだっ。
「名誉《めいよ》にこだわる貴族育ちの将軍なら、まだしも盲目的《もうもくてき》に主君《しゅくん》を敬《うやま》いもしましょう。仮に野心に目覚めようと、ぎりぎりで踏み留《とど》まるやもしれません。しかし、そもそも忠誠心《ちゅうせいしん》などとは無縁に育った輩《やから》はそうは参りますまい。そのような者を野放しにして大権を許すのは、狼《おおかみ》を王宮に放つようなものです――」
ここでシェルファがいきなり口を挟《はさ》んだ。
「お待ちください! あなたの言う『そのような者』とは、レインを指すのですか?」
ジョシュアが自分のさらなる失敗を悟ったのは、まさにこの時である。
シェルファの視線は、彼の身体を貫《つらぬ》き通すかと思うほどに厳しかったのだ。
事実、おしとやかで優しい性格のシェルファは、生まれて初めてと言っていいほどの激怒《げきど》にかられており、思わず玉座《ぎょくざ》を立ったほどである。
「……今のは、レインのことを指すのですね?」
二度目の確認は、もはや質問ではなく断言だった。
怒っている……もの凄《すご》く怒っている。
成り上がり者の将軍一人ごときに、なにをそんなに怒るのか?
ジョシュアは計算外の反応に、らしくもなくうろたえた。
「陛下、私は陛下の御身《おんみ》を心配して――」
早くも壇上脇《だんじょうわき》の専用ドアに向かっているシェルファに、大慌てで近付く。
シェルファは一瞬だけ振り返り、ジョシュアを見た。
その刹那《せつな》、雷鳴《らいめい》に打たれたかのように、ジョシュアの足下《あしもと》から頭頂《ずちょう》まで戦慄《せんりつ》が駆け抜けた。
得体《えたい》の知れない恐怖に襲《おそ》われ、背筋《せすじ》に冷や汗がどっと流れた。思わず身がすくみ、足が止まる。
露出《ろしゅつ》した肌にざあっと鳥肌まで立っていた。
「――この私に近付くな!」
有無《うむ》を言わせぬ叱声《しっせい》が、ジョシュアに浴《あ》びせられる。
まるで別人のような迫力と、厳しいセリフだった。
なんだ……なんなんだ、この威圧感《いあつかん》は?
自然に喉《のど》が鳴った。
――自分を見つめたあの瞳、それに今の声。
わずかコンマ数秒の時間に過ぎないが、あたかも古龍《こりゅう》の前に裸《はだか》で投げ出されたような、身も世もない恐怖を感じた。
この僕としたことが、ほんの一瞬にせよ、心底、震え上がってしまうとは。
これは……どういうことだ?
なんにせよ、ジョシュアが呆然《ぼうぜん》としている間に、シェルファはとうに身を翻《ひるがえ》し、扉の前に至っている。お陰《かげ》でようやく身体が動き、再度後を追った。
しかし、追いつく前に黒マントの男が間に入った。腰の剣に手をやっている。
「――そこで止まっていただきます」
「ど、どいてくれっ。僕はなんとしても誤解《ごかい》を解かねばならないんだっ。人生がかかってる!」
「誤解《ごかい》ではないと思いますが。とにかく、不用意に近付かないように。――さもなくば、私は役目を果たす他はありませぬ」
淡々《たんたん》とした口調に明確な殺気《さっき》を感じ取り、やむを得ずジョシュアは足を止める。
さっきまでまるで目立たなかった不機嫌《ふきげん》そうな従者《じゅうしゃ》だが、今は堅牢《けんろう》な壁のようにジョシュアとシェルファを隔《へだ》てていた。
こいつ……相当にできるぞ!?
剣技でも優秀な才能を持つジョシュアは不機嫌男《ふきげんおとこ》の無形の圧力を感じ取り、それ以上動けない。
「……謁見《えっけん》の間は、上将軍《じょうしょうぐん》以上の身分でないと帯剣できないはずだが?」
「お詳しいですな。しかし、私はその上将軍《じょうしょうぐん》の名代《みょうだい》ですので」
相手はびくともしなかった。
言い争っている間にシェルファは退出してしまい、不機嫌男《ふきげんおとこ》も小さく一礼して彼女の後を追って退出してしまった。残されたのは歯軋《はぎし》りするジョシュアのみである。
目の前が、怒りで真っ赤に染まった気さえする。せっかくの栄光への門出が、小さな計算違いから雲散霧消《うんさんむしょう》してしまったのだ。
後悔はやがて恨《うら》みに変化し、ジョシュアはいつしか、シェルファが出て行った小さなドアを睨《にら》み付けていた。
あきらめないぞ……僕は必ず貴女《あなた》を手に入れてみせる。
ある意味、ジョシュアは初恋を経験していたとも言える。惨憺《さんたん》たる謁見《えっけん》だったのにもかかわらず、彼は生まれて初めて、一人の女性を本気で欲したのだから。
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第二章 双剣の舞
まだ小鳥のさえずりも聞こえぬ早朝、ガルフォートの宮殿奥の寝室で、シェルファはいつも通りに目覚めた。
君主となったところで生活習慣まで変わったわけではなく、相変わらず夜八時過ぎには眠りについていた彼女は、早朝五時前にきっちり起きている。
前と全然変わらない。
天蓋《てんがい》付きの、三人くらいは眠れそうなベッドから半身を起こし、ゆっくりと豪奢《ごうしゃ》な寝室を見渡す。
早寝早起きの健康的な生活を満喫《まんきつ》する彼女だったが、眠気を覚ますように瞳を瞬《またた》くその表情は、あまり元気がない。やけに念入りに部屋中を見やった後、眠る時も肌身離さず首にかけている、例のペンダントに触れた。
大事そうに年季の入ったコインを握り締める。
「……レインがいません」
悲しそうな呟《つぶや》き声が洩《も》れた。
そんなもの見ればわかるどころか、仮にレインが城内にいたところで、こんな時間にシェルファの寝室に来ているはずがない。
――と普通の者なら思うだろうが、あいにくシェルファの場合は少し事情が違う。
というか、違ってきた。レイン以外の誰かに話したことはないが、彼女は人が思うよりずっと鋭敏《えいびん》なのだ。見える範囲にいなくても、この城内のどこかに、あるいは城の周辺に彼がいるのなら、シェルファにはそれがわかる。あるいは、感じる。
『ああ、レインが近くにいますわ……』
という風に。
これはシェルファ本人にも説明し難《がた》い感覚なのだが、彼が不在だとあからさまに、心が暗く冷たく沈んでくる。間違いようもないほど、確かな差なのだ。
レインを感じる――この不思議な(しかし嬉しい)感覚を、シェルファは勝手にそう呼んでいる。
ちなみに、レイン本人が気配《けはい》を絶っているなら別だが、それ以外にこの感じが外れたことは一度もない。というわけで、シェルファはレインの不在を実感として感じ取っているわけで、それがまた、寂しさに拍車《はくしゃ》をかけるのだった。
幾多《いくた》の戦士が言うそうな……近くにいると、レインの力を感じる、と。
例えばあのジョウは、会食の席でこう話してくれたことがあった。
『レインには強大な力の波動があり、大瀑布《だいばくふ》の水圧にも等しいプレッシャーを感じます』
お陰《かげ》でシェルファは、会食の日以後、幾日《いくにち》か大いに悩む羽目になった。
レイン限定とはいえこれほど鋭敏《えいびん》な自分なのに、そんな大層《たいそう》で怖そうな気分など、感じたことがないからだ。レインがそばにいる時は、シェルファにとっていつも至福《しふく》の時間だった。
だが、そのうち自然に悟った。
他の人は皆、レインの一面ばかりを見ているのだと。
例えば空は、晴れ渡っている時は綺麗《きれい》で優しいけれど、ひとたび嵐になればその表情を変え、暴風《ぼうふう》が吹き荒れて人々に脅威《きょうい》をもたらす。そんな荒れた空しか知らないのなら、それは確かに、悪い意味で誤解《ごかい》もするだろう。
それと同じく、みんなレインのことを誤解《ごかい》しているのだ。ちゃんと感じることが出来れば、あんなに優しくて温《あたた》かいのに。
深々とため息をつき、シェルファはやっとベッドから起き上がった。
そんなことを考えていたら、余計に寂しさが募《つの》ってきたのである。
思わず、もう何度も洩《も》らした独り言を呟《つぶや》いてしまう。
「やっぱり、無理にでもお願いしてついていくべきでした」
夜着《よぎ》の上にガウンを羽織《はお》り、とてとて歩き出す。
お風呂に入ったら、少しは気分も変わるかもしれない。
入浴と朝食を済ませた後は、ドレスを整えていよいよ外出だった。
自慢にもならないが、シェルファは未《いま》だ、「これで何回目の外出です」と数えられてしまう深窓《しんそう》の姫君である。外出の度《たび》ごとに緊張してどきどきするのはもちろん、そもそも宮殿から出るだけでも人目が気になって仕方ない。
どうも、誰も彼も(特に男性は)皆、シェルファをこっそり窺《うかが》っているような気がするのだ。
決して気のせいではない証拠《しょうこ》に、ふと顔を巡らせると、そこらに立っていた相手がさっと視線を逸《そ》らす――そんなことが幾度《いくど》もあった。
というわけで、公言したことこそないが、実はシェルファはあまり男性が好きではない。
男性の美醜《びしゅう》にも関心が薄いというか、そもそも世界一の美少年(外見は十八歳のレインのこと!)だと思っている約一名以外、どんなハンサムを見てもあまりピンとこないのだ。
普通の人が、路傍《ろぼう》の石の形に一々興味を持たないのと同じである。
遙《はる》か以前は、レニとラルファスを同じ金髪というだけで、見間違ったことさえある。
好意的な言い方をすれば、男の外見にはさして重きを置いていないのだった。
とはいえ、彼女が格別《かくべつ》に女性好きというわけでもない。
そうではなく、自分でも意識しない心の奥底で、男性というものを「不潔」で「がさつ」で「嫌な目つき(早い話がえっちな目)で自分を見る人達」だと感じている。特に公《おおやけ》の場に出るようになってから、その思いが強い。なぜ殿方《とのがた》の多くは、必ずわたくしの胸とか腰をじろじろ見るのでしょう、などと微《かす》かな嫌悪感《けんおかん》を抱いている。
数少ない例外を除き、むくつけき男達に会わずに済むなら、それが一番嬉しいのだった。
彼らの「嫌な目つき」に凄《すご》く敏感《びんかん》なので、外出それ自体あまり気が進まないのである。
ただ、これは一部において非常に不公平な話で、レインとて一緒に風呂に入っている時は、湯船《ゆぶね》の縁《ふち》に背中を預け、前に立つ裸体《らたい》のシェルファを見て、「やあ、やっぱり女の裸《はだか》はいいなあ!」と上機嫌《じょうきげん》かつ大声で言ったりすることがある。それに比べれば、世の男共《おとこども》がこっそり着衣《ちゃくい》のシェルファを盗み見るくらいは、どうということもないはずなのだ。
シェルファはレインに関しては全く別格に位置付けており、彼にはどんなにじろじろ見られてもまるで平気だし、どっちかと言うと見てほしかったりする。
風呂場でのオヤジ的発言にしても、気にならないどころか、かえって一緒になってにこにこ微笑《ほほえ》んでいたほどだった。
不公平は「不潔」に関しても同様である。
シェルファが「最近見かける殿方《とのがた》は不潔な人が多いです」と感じるのは、彼女のせいではないにせよ、これまでは貴族しか見たことがなかったからだ。
普通、平騎士《ひらきし》を含めた一般市民達は、家に風呂などない。
身体を清めたいのなら、大きな桶《おけ》に溜《た》めたお湯の中で身体を拭《ふ》くか、決して安くない料金を渋々払い、公衆浴場に行くしかない。この国の貴族のように頻繁《ひんぱん》に入浴というのは、なかなか大変なことなのである。十日に一回ほど湯浴《ゆあ》みすれば、平民としては相当に綺麗《きれい》好きな方だろう。
それに、庶民《しょみん》といえども女性ならまだしも清潔を心がけているだろうが、ずぼらな男共《おとこども》はほったらかしの奴が多い。ひどいのになると自分で臭いに気付き、初めて「しゃーないな。風呂へ行くか」となるのだった。
よって、好ましからぬ臭いを放つ者もいると。
そんな中、男の癖《くせ》にレインが風呂好きなのは確かで、こいつは可能な限り、毎日入浴を欠かさない。特に最近は、他人から見れば連日ウハウハの混浴状態である。
だが、レインだって時には戦塵《せんじん》にまみれ、汗くさい時もある。
戦時中、長期の滞陣《たいじん》ともなれば、衛生的《えいせいてき》にちょっとどうか? の状態にもなる。当然だ。
ところがそんな時でもシェルファは、『今日のレインはおひさまの匂いがします』などと感じたりしており、全く、えこ贔屓《ひいき》とはこのことだろう。
――以上、閑話休題《かんわきゅうだい》。
――☆――☆――☆――
シェルファとその護衛《ごえい》の一行は、目立たぬよう密《ひそ》かにガルフォートを出て、馬車でわずか十分程度の野外劇場へ向かった。
道中は「通行人にも大勢、息のかかった者を配備しております」と公言するギュンターのお陰《かげ》か、怪しい輩《やから》に襲《おそ》われることなく、目的地に着く。
元からあった王族専用の入り口へ馬車が入り、シェルファはしずしずと外に出た。
周りをギュンター達に囲まれ、石壁の専用通路を歩く間に、さしてこの行事に興味のなかったシェルファも段々と気分が高揚《こうよう》してきた。いや、なにも急に戦いに興味が湧《わ》いたわけでは決してない。自分でも理由が判然としないが、なぜだか勝手に胸が高鳴り始めたのだ。
「この心地よさ……まるでレインがそばにいる時のようです……」
その呟《つぶや》きに応《こた》えた者がいる。
「ほお。彼も参加するのかな? ならば、私も帰国を遅らせた甲斐《かい》があったというもの」
楽しげで張りのある声に前を見ると、通路の先に、皇帝フォルニーアその人が立っていた。
――背後にセイル兄妹を連れて。そもそもこの通路はサンクワールの王族専用なのだが、この女性君主に悪びれたところはまるでない。
「待ちくたびれたぞ、シェルファ殿。まあ、開始時刻の一時間も前に来ていた私が悪いのだがな」
シェルファよりやや色の薄い金髪を揺らしつつ、フォルニーアは声を上げて笑う。
大股《おおまた》で近付いてきた。
「私はこういう催《もよお》しに目がないのだ。今や遅しと待ち望んでいたぞ」
この日を待っていたフォルニーアは、いかにも期待に満ち満ちている顔つきをしている。
実際、レインから「あんたのトコが前にやったアレ、うちでもやることにした」と聞いた途端《とたん》、いきなり帰国を延期した彼女なのだ。
軍勢《ぐんぜい》だけはジョウやシングに任《まか》せて先に帰したが、自分はあくまでも今日の大会を見物すると張り切っていたのだ。
この手のイベントは、『見るだけで血湧《ちわ》き肉躍《にくおど》る!』という典型的なタイプなのだろう。大人びた美貌《びぼう》は、早くも戦いへの期待でやや紅潮《こうちょう》している。
まだ今日は、予選の一日目なのにだ。
「おはようございます、フォルニーアさま……いえ、フォルニーア殿」
迷ったが、シェルファもフォルニーアに合わせて呼ぶことにした。
微笑《ほほえ》みを返し、
「……あの、セイルさま達はいつこちらへ?」
その問いかけに、『いやぁ、僕らも大変ですよ……ははは』という表情で、当のセイルが頭を掻《か》いた。
「いえ、なんだか陛下に呼ばれまして。つい昨晩、やっと着きました。まあ、武闘会《ぶとうかい》見物のお相伴《しょうばん》ですかね」
と、それを聞いたフォルニーアが、なんだかとっても悪戯《いたずら》っぽいくすくす笑いを洩《も》らした。
「ふふふ……お相伴《しょうばん》か。これはいい」
「なんですか、陛下。そのなにかたくらんでいるような笑いは」
「いやいや」
まだ肩を小刻《こきざ》みに揺らし、フォルニーアは首を振る。
「なんでもない、なんでもないぞ、セイル。うん、お相伴《しょうばん》ということにしておこう。――とにかく、今のところはな」
主君《しゅくん》の言いように、セイルの顔つきがブルーになる。彼の記憶するところでは、フォルニーアがこういう言い方をする時は、後でロクなことがなかったのである。
「あの、陛下。なにかお考えというか陰謀《いんぼう》でも巡らせて――」
「時にシェルファ殿。先程《さきほど》の発言だが、レインがここに来ているのかな?」
露骨《ろこつ》に話題を変えるフォルニーアである。
シェルファは気の毒そうにセイルを見てから、
「いえ。残念ですが、今ここにいるはずがないのですけど……。ただ、なぜか彼がそばにいる時のように心が安らいだのです」
「心が……なるほど」
フォルニーアはくっくっと喉《のど》の奥で笑った。
「他ならぬ貴女《あなた》の言うことだ。彼は意外に、その辺にいるのかもしれぬ」
自ら先に立ち、通路の出口を指差す。
「さあ、一緒に参りましょうぞ、シェルファ殿」
通路の先にある階段を上り、すり鉢型の円形劇場の客席に出た。場所で言えば、外周最上部の辺りである。
当然のごとく、冬の日差しと一緒に、大勢の見物客達の視線が一行に降り注いだ。
まず付近の客人達が貴人達の登場に気付き、そのままドミノ倒しのように次々に一般客の視線がこの小集団に向く。
というか、視線のほぼ九割方は、シェルファその人に殺到《さっとう》したと言っていい。
普段のシェルファなら、早くも顔を背《そむ》け、とっとと帰城することを考えたろう。
しかし、今日に限っては例外だった。
周りの視線など気にならなかった。
今のこの感覚――自分を包み込むような温《あたた》かで優しい波動……みるみるうちに、これまでの鬱屈《うっくつ》した思いが減じていく。
シェルファは足を速め、無意識のうちに一行の先頭に出ていた。
目を閉じてうっとりと顔を上向け、今感じた優しい波動を全身で受け止めようと、両手を広げる。
――とても幸せで、いい気持ち……まるでレインとキスしている時のようです。
純白のドレスに朝日を一杯に浴《あ》び、ほっそりした身体が白光《はっこう》を放ち、長い金髪がきらきらと煌《きら》めく。非の打ち所のない美貌《びぼう》が浮かべる幸せそうな笑顔に、誰もが息を呑《の》み、たった今していた会話を忘れた。観客席の全員が、この神々《こうごう》しいまでの美少女君主が、自分達に挨拶《あいさつ》代わりの笑顔を振りまいたと固く信じ込んだ。
シェルファの笑顔は今この場にいない、たった一人に捧《ささ》げられたものなのだが、みんな綺麗《きれい》に勘違いしてしまった。
誰が音頭《おんど》を取ったわけでもないのに、周り中が一斉《いっせい》に座っていた席を下り、跪《ひざまず》く。
自分達の国王に向かって恭《うやうや》しく敬意を表した。
陶然《とうぜん》と心地良さに身を任《まか》せていたシェルファは、ふと目を開けてようやく周りの様子に気付き、やや慌ててしまう。
「あの……皆さん、どうなさったのでしょうか」
フォルニーアがなにか言おうと口を開けた途端《とたん》、誰かが先に声をかけた。
「つまり国民の大多数は、陛下が好きなのです」
――えっ。
シェルファはもちろんのこと、一行の誰もが軽い驚きとともにそちらを見る。
いつの間にやら、まだ童顔《どうがん》の若者がシェルファの至近《しきん》に立ち、笑顔を浮かべていた。
「……ミランさま?」
真面目《まじめ》そうな顔の若者は破顔《はがん》した。
「名前を覚えていてくださいましたか。しかし、五人隊長の私ごときに、そのようなお声かけは過分です。呼び捨てでお願いします」
明るい声で返した後、周りに聞こえぬよう、声を低める。
「それよりほら、みんなが陛下の反応に注目していますよ。手でも振ってくださると、きっとみんな喜びます」
反射的に、シェルファは眼下《がんか》の跪《ひざまず》いた観客に向かい、手を振ってしまった。控えめな微笑《びしょう》とともに。途端《とたん》に、劇場内はどっと沸《わ》き、国王を讃《たた》える声がそこかしこに満ちる。元々反響しやすい建築構造なので、劇場中に歓声が響き渡った。
しかし、ミランが振り返ってゆっくりと群衆《ぐんしゅう》を見渡すと、まるでそれが合図だったかのように、すうっと声が静まっていく。
観客達はそれぞれ、大いに満足して席に戻り始めた。
軽く一つ頷《うなず》き、またシェルファに向き直るミラン。
「挨拶《あいさつ》が後先になりましたが――」
深々と頭を下げる。
「レイン将軍の命《めい》により、陛下の身辺《しんぺん》警護につかせていただくミランです。どうかよろしくお願いします」
どうやら彼は、いつぞやのゴースト騒ぎでシェルファと出会った記憶がすっぽり抜けているらしく、ごくごく自然な態度だった。
「――! レインの指示ですかっ」
シェルファは少なからず驚き、いつもながら、君主にあるまじき丁寧《ていねい》さでちょっと頭を下げる。
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ」
「それでは陛下、早速ですが」
ミランは、人嫌い(と男嫌い)のシェルファの目で見てさえ、大変感じのよい微笑《びしょう》を浮かべた。
「あちらを見に行きませんか。ユーリが面白いことをやっています」
「面白いこと?」
オウム返しに問い返すシェルファの心から、いつの間にやら、耐え難《がた》い喪失感《そうしつかん》や寂しさが消し飛んでいる。
自分の変心ぶりに不審《ふしん》を覚えつつも、シェルファの声はうきうきと弾んでいた。
ミランの案内で、観客席の中程《なかほど》に下りて行く。
やがて、威勢《いせい》のいい少女の声が聞こえてきた。劇場中央出口の前に一際《ひときわ》広い場所があり、誰かが長机《ながづくえ》と椅子《いす》を置き、声を張り上げている――
喚《わめ》き声の節目節目《ふしめふしめ》に、手にした棒きれで景気よくバンバン机を叩いていた。
「さあ、賭《か》けて賭《か》けて、どんどん賭《か》けて! 予選が始まる直前まで賭《か》けは有効だからっ。でっかく稼《かせ》ぐなら今を置いてないわよぅ〜。今のところ、一番人気は――」
絶好調《ぜっこうちょう》で景気のよい口上《こうじょう》を述べていた少女――つまりユーリが、ふっと口をつぐむ。
周囲の反応を見て、ようやくシェルファ達が近付いてくるのに気付いたのだ。
彼女の横にはセルフィーというウェーブがかかった髪の少女もいて、「あうぅ。だからわたしは嫌だと言ったのにーーっ!」などと小さく悲鳴を上げていた。
シェルファに従っていた護衛《ごえい》集団からガサラムが出て、呆《あき》れ顔で二人を見やった。
「なにやっとるんだ、おまえら。――て、なにやってるかは見え見えだけどよ」
「え、いやぁ。その、なんていうか、観客の皆さんと一緒に今日の大会を祝おうとその」
ユーリの語尾がふにゃふにゃと消える。
シェルファは本気でわからなかったので、机の上を指差して訊いてみた。
「あの、このお金の山はなんでしょう」
「うあっ。ええと、これは」
「つまり、即席《そくせき》の賭博場《とばくじょう》で一儲《ひともう》けというわけか? なかなかよいところに目を付けたものだ」
フォルニーアが群《むら》がっていた客達を眺め、愉快《ゆかい》そうに言う。
ミランに小声で説明を受けたお陰《かげ》でシェルファもやっと理解し、ただひたすら感心した。
この世界には、そんなお金|儲《もう》けの方法もあるのですね。
早速、今度レインにもっと詳しく訊いてみようと決心する。
「ふむ、私も一口乗ろう」
フォルニーアは、ユーリ達の横に立て掛けられた板切れを見やる。
そこには全参加者の名前が書いてあった。
これを見て賭《か》けよ、ということなのだろう。
「予選Aブロックの『セイル』にシャンドリス金貨十枚を賭《か》けるぞ」
「やた! 毎度ぉ〜」
「ちょっ」
驚いたのはセイルである。
「なんですか、それ。俺、申し込みなんてしてませんよ!?」
「――そうは言うが、そこにほれ、おまえの名前がちゃんと書いてあるではないか」
笑いながら板切れを指差すフォルニーア。
さっと目をやり、セイルが呻《うめ》く。
「いつの間に! へ、陛下ぁ」
情けない声でフォルニーアを振り向くが、彼女は笑って聞き流すのみ。最初から、無理にも出場させる気だったようだ。
「ですがっ。これはこの国の人材登用試験みたいなもんでしょう。俺が出てどうすんですっ」
もっともな反論だが、フォルニーアは動じない。
「まあいいではないか、固いことを言うな。なぁ、シェルファ殿」
シェルファは微笑《ほほえ》んで頷《うなず》いてしまった。
と、それまで人形のように静かに兄に寄り添っていたジュンナが、急にトコトコと前へ出た。
周囲の喧噪《けんそう》や話の流れなど全く無視して、いきなり長机《ながづくえ》に両手をばんっと叩きつける。
おっきな声で可愛《かわい》らしく要求した。
「おにいちゃんを一枚ください!」
「……は?」
ユーリはセルフィーと顔を見合わせ、
「ていうか。あのね、お嬢ちゃん。これはチケット売りじゃないから。お金を賭《か》けるアレだから、誰に幾《いく》らってゆってくれないと困るんだけど……」
ジュンナは慌てて、ローブの内側をごそごそと探った。小さな革袋を出して口を開け、無造作《むぞうさ》に中身をぶちまける。
金貨銀貨の山がざらざらとこぼれ、周囲の野次馬《やじうま》からため息が洩《も》れる。
貨幣はシャンドリスのものだが、サンクワールの通貨相場からして数十万タランは固いだろう。
ユーリの態度が一瞬で豹変《ひょうへん》する。
「お客さん、毎度おっ。セイルさんね、おっけー、受け付けるわよ!!」
「おいおいっ、ジュンナっ。それ、俺の預けておいた財布じゃないか」
「……え?」
大きな黒瞳《くろめ》を、きょとんと瞬《またた》くジュンナ。
「あ〜……間違えた……」
「おいーーーーっ」
「まあまあ。いいではないか、セイル」
フォルニーアの声はあくまで軽い。
「おまえが優勝すれば済むことだぞ。そもそも我が国の名誉《めいよ》のためにも、優勝してもらわねば困るしな、はっは!」
さりげなく、ずしっとプレッシャーをかける。その横では、うんうんとジュンナが頷《うなず》いていた。
シェルファは口元を綻《ほころ》ばせつつ、板切れに書かれた対戦表を見やった。
「……あの、空欄がありますけど、それは?」
「ああ、それですね」
ユーリ自身も首を傾《かし》げ、
「わからないのよ――じゃなくてわからないんですよ。なぜか発表されてなくて」
「発表は、今します」
今度は低い地味《じみ》な声。
皆が顔を巡らせる中、どこから持ってきたのかぶっといペンを手に、ギュンターが板切れの前にかがんだ。
張られた紙の空欄に、見事な達筆《たっぴつ》で一気に名前を書く。
セルフィーが身を乗り出してその字を読み取り、声に出した。
「え〜と……怪盗《かいとう》ブラック仮面――って、え、ええっ!?」
セルフィーが黄色い悲鳴を上げたが、彼女に限らず、野次馬《やじうま》の中に混じっていた騎士や騎士見習い達も、一斉《いっせい》に歓声を上げた。
シェルファも声こそ立てなかったものの、胸がときめくのはどうしようもない。
なにしろ、怪盗《かいとう》ブラック仮面=レインという裏事情は、関係者なら誰でも知っていたからだ。
「君、さっきの賭《か》け、取り消させてくれ! 僕はブラック仮面に全財産を賭《か》ける!! 小銭も全部ぶち込んでやるっ」
多分、騎士見習いの一人だろう。
見知らぬ若者がそう喚《わめ》いたのをきっかけに、徐々《じょじょ》に周りが騒がしくなってきた。
抜け目のない客の誰かが、騎士連中に質問を浴《あ》びせたせいで、あっという間にブラック仮面についての詳細が周囲にもバレた。
途端《とたん》に全員が、「俺もそっちに賭《か》け直す!」と叫び始める。
訂正を申し出ないのはジュンナとフォルニーアくらいであり、たちまちにして長机《ながづくえ》は人の渦《うず》の中に埋もれてしまう。
「駄目《だめ》えっ! 一度|賭《か》けたら訂正は無効よーっ」
ユーリの悲鳴が小さく聞こえた。
「はははっ」
無責任にも笑って混乱を眺めていたミランは、シェルファにまたこっそり教えてくれた。
「陛下、ほら。ギュンターさん、こそーっと書き足していますよ」
――本当だった。
ギュンターは周りの視線が自分から逸《そ》れたのを機に、さりげなく対戦表に書き加えていた。
つまり、怪盗《かいとう》ブラック仮面の下に、次のように付け足したのだ。
「怪盗《かいとう》ブラック仮面の代理」
そして何食わぬ顔で立ち上がる。
……どうやら彼も出場するらしかった。
――☆――☆――☆――
開始十分前に、ようやくシェルファ達は指定の席に着いた。
言うまでもなく、観客席最前列の一番見やすい位置にある、王族専用の席だ。
手すりの向こうのやや下が、もう舞台(今は闘技場《とうぎじょう》)である。
ただ、場所は近いがフォルニーアは別の席を確保してあったらしく、そちらへ行ってしまった。一緒に観戦する気はないらしい。加えて、気が付けば護衛《ごえい》の一行もずっと離れて周囲を固め、シェルファのそばにはミランが一人で立つのみとなってしまった。
一般客が座る席からは最低でも七、八メートルくらいはあり、広々と空いた場所を、シェルファとミランの二人で占有している。ミランの説明によると、不審《ふしん》な者が近付けばすぐわかるように、周囲をあえて空席にしたのだと言う。
「そうなんですか……。でも、なんだか皆さんに申し訳ない気がしますわ」
シェルファの呟《つぶや》きに、
「なに。それが王族の特権ってものですよ。気になさることはありません。皆、そんなものだと納得しています。そこらの一般席に交じって座ってたら、かえって陛下の有り難《がた》みがなくなります」
「……そういうものでしょうか」
「そういうものです」
ミランは確信に満ちた声で即答する。
そして微笑《ほほえ》みを含んだ目を向け、
「身近にいるのが私だけだと、ご不安でしょうか」
「いいえ」
今度はシェルファが即答する番である。
「この催《もよお》しを、護衛体勢《ごえいたいせい》も含めて最終的に計画立案したのは、レインだと聞いていますから」
「将軍ならミスはない。だから、なんの不安もないと?」
「……説明するのは難しいんです」
一応、それでも試みてみた。
シェルファは、レインのやることにミスなどないと確信しているが、だからといって、自分がここで襲《おそ》われる可能性が皆無《かいむ》だとも思っていない。
なぜなら、レイン自身は完璧《かんぺき》に近くても、彼の計画を実行する人々はそうじゃないので。
護衛《ごえい》の人達には申し訳ないが、シェルファは、人には誤りやミスがあって当然だと思うのだ。
この世にもし例外があるとすれば、それはレインのみだと思っている。そう確信している。
よって、彼本人が今いない以上、自分が襲《おそ》われて殺される危険は常にあるはず。
それでも、レインの決めた計画なら、例えイレギュラーな事態が起きても仕方ないと思うし、それに対しての覚悟《かくご》も出来ている。
彼に命を預けているのだから、自分としてはなんの不安も悔《く》いもない。
――という意味のことを、あまり親しくもないミランに、ぽつぽつと説明してあげた。
なぜそんな危険を冒《おか》す気になったのか、シェルファにもわからない。相手がレインの臣下《しんか》とはいえ、語っていいことではない。というか、話すべきではなかったろう。
しかし、どうしてだか、まずいことをしたという気にならなかった。
ミランもさりげなく頷《うなず》き、特に過激な反応は見せない。
ただ、しげしげとシェルファを見やり、こう言った。
「……なるほど。陛下はどこまでも将軍を――将軍だけを信じてらっしゃるのですね」
「はい。多分、ミランさまが想像する以上に」
シェルファもじいっとミランを見返す。
「だってレインは、わたくしの心を救ってくれた人ですもの」
なんと答えたものかわからなかったのか、青年は困り顔で視線を逸《そ》らした。
競技場は十分広いので、予選は元劇場を八区画に分けて、同時に八戦が行われる。
ちょうどシェルファの眼前《がんぜん》は、予選Bブロック(全八ブロック)の予定地に当たっていた。
時刻が十時になると同時に、八人の審判《しんぱん》が登場し、それぞれ開始を宣言した。Bブロックにおいても同様である。
観客席真下のゲートより、一人の大男がのしのしと登場した。
冬場というのに上半身は裸《はだか》で、下はサスペンダー付きの革ズボンのみ。
特に武器の類《たぐい》は持っていない。
ルールでは制限時間はあるが、武器の使用は相手を殺さない限りは無制限なのに、だ。
「レスラー(格闘士《かくとうし》)ですね」
ミランが教えてくれた。
「己《おのれ》の肉体と技のみで戦う闘士《とうし》です。……それはそれとして」
眉根《まゆね》を寄せるシェルファに、笑いながら尋ねてきた。
「ああいう筋肉の人、どう思われます?」
「わたくしはその……ちょっと……あまり」
語尾が尻すぼみになった。
「筋肉は、レインくらいがちょうどいいし、見た目も綺麗《きれい》だと思います」
なんでもかんでもレインを至上《しじょう》とするシェルファは、本気でそう思っている。
すると問題の大男が、シェルファの視線に気付き、何を勘違いしたのかニヤッと笑った。
微《かす》かに低頭《ていとう》した後、己《おのれ》の肉体を誇示《こじ》するようにぐぐっと力こぶなど作ってみせる。同時に、腹筋《ふっきん》やら背筋《せすじ》やら全身の筋肉という筋肉が、ぷっくりと浮き上がった。
……ガルフォートに帰りたくなった。
その時、この大男に浴《あ》びせられたのとは明らかに別種類の歓声が、客席からどっと上がった。
同じゲートから、今度は白いマントを羽織《はお》った軽装の少女が出てきたのだ。
この少女は優雅《ゆうが》な足取りで場内に入ると、マントをバサッと脱ぎ捨て、観客席を振り返って手を振った。
わっとばかりに観客席が沸《わ》く。
二振りの長剣《ちょうけん》を背中に、ブラウスとフレアミニの軽装だ。リボンで束ねた長い銀色ツインテールが、歩く度《たび》に揺れる。
真冬だというのに、全然寒くなさそうだった。
「――! シルヴィア・ローゼンバーグっ」
ミランが独白《どくはく》し、わずかに顎《あご》を引いた。
「お知り合いですか?」
「……いえ、それほどでも。昨日、ちょっと受付で会ったくらいで」
あたかも、ミランのその声が聞こえたような反応だった。
シルヴィアはあちこちにお愛想《あいそ》を振りまくのをやめ、さっとシェルファ達の方を見上げたのである。――今のが聞こえたはずはないのに。
もっと驚いたのはその後だ。
シルヴィアはこちらを向いて笑顔を弾《はじ》けさせ、いきなり大地を蹴《け》ってふわっと飛んだ。
彼女は、あらゆる意味で意表《いひょう》を突いた。
シェルファがアッと思う間もなく、数メートルの高さを軽々と跳躍《ちょうやく》、空中で身体を丸めて華麗《かれい》に一回転した。お陰《かげ》で一瞬にせよ、純白の下着が見えた。
そのまま危なげなく、眼前《がんぜん》の手すりにすたっと降り立つ。見た目以上に身が軽い。
しかも、手すりの幅は数センチしかないのだが、まるで危なげなく立っている。
……それ以前に、人間が跳躍《ちょうやく》できる高さではなかったのだが、今の空中回転は。ともあれ、彼女がシェルファに急接近したせいで、周囲の護衛達《ごえいたち》がおっとり刀で駆けつけようとした。
ミランが手を上げて制さなかったら、シルヴィアはたちまち剣を抜き放った騎士達に囲まれていたはずだ。
「大丈夫です! この人に敵意はないですよ……ええと、多分」
シルヴィアはざわつく周囲を完全無視して、神秘的な微笑《ほほえ》みを浮かべた。
しげしげとミランを見つめる。
「お久しぶりっ――でいいのかしらね?」
「それほどでもないでしょう」
ミランは苦笑した。
「昨日、会ったばかりですし」
「うふふ……そうね♪」
やけに意味深《いみしん》な笑い方をするシルヴィアに、ミランは肩をすくめて下を指差す。
「いいんですか? お相手が湯気立てて怒ってますよ。見せ場を取られたと思って」
「どうせすぐに終わっちゃうのにね。これだから、身《み》の程《ほど》を知らない男は嫌い」
その悪口が聞こえたかのように、タイミングよく、相手方から野次《やじ》が飛んできた。
「嬢ちゃんよぉ、さっさと降りてこい! 可愛《かわい》がってやるぜぇ」
その刹那《せつな》、シェルファは確かに、シルヴィアのワイン色の瞳に雷光《らいこう》が走ったのを見た。
しかし彼女は、すぐに元のにこやかさを取り戻し、続けて浴《あ》びせられた罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》を聞き流す。
去る前に、シェルファに向かって笑いかけてくれた。
「お騒がせしました、陛下。では、またそのうち――」
「あ、はい! その……お気をつけて」
「そのお言葉は、相手にかけてあげてくださいな」
軽い笑い声を残し、シルヴィアが無造作《むぞうさ》に背後に身を投げる。年季の入った猫のような身のこなしで着地した。
レスラーがなにか文句を付けようとしたが、そこでひときわ甲高い声援が投げかけられ、彼はハッと顔を上げた。
「ダンドン、いいわね! 見事優勝したら、晴れてあたくしの護衛《ごえい》として採用してあげるっ。がんばるのよっ」
見れば、左手のずっと向こうであのエレナが、男に向かって悠然《ゆうぜん》と白羽扇《びゃくうせん》を振っていた。
彼女が探してきた戦士らしい。こちらの視線に気付き、さしものエレナも軽く会釈《えしゃく》する。おざなりに会釈《えしゃく》を返し、すぐにシェルファは前へ向き直った。
――シルヴィアを応援することに決めた。
審判《しんぱん》が手を振り下ろし、試合が開始された。
さあ来いっ、とばかりに逞《たくま》しい大男は両手を広げて構える。というか、構えようとした。
だがあいにく、彼女の動きは彼の手に余ったようである。
大地を蹴《け》ってダッシュした後、相手の間合いに入る直前で、シルヴィアはまたしても跳んだ。
ただし、今度は先のように華麗《かれい》にのんびり宙《ちゅう》を舞う類《たぐい》の跳び方ではない。
低空を滑空《かっくう》して、男の頭上を飛び越した直後にくるっと身体が回転した。
相手が上を仰ぐ暇もあらばこそ、回転途中のシルヴィアの蹴《け》り足が霞《かす》む。レスラーの頭が派手《はで》に揺れたせいで、シルヴィアが彼の頭を蹴《け》ったのだと、見物人にも理解が及んだ。
鈍い音の後、ギクン、とダンドンの巨体が痙攣《けいれん》する。ふら〜っとよろめき、早くも意識を喪失しかけていた。しかし、シルヴィアの攻撃はまだ終わらない。
敵の背後に着地すると、彼女は前のめりに倒れそうになった相手の、ズボンと首筋の二カ所を無造作《むぞうさ》に掴《つか》んだ。そのため、ダンドンの首の付け根から血が滴《したた》る。彼女の手が小さくて掴《つか》めないため、そこに細指がズブッと食い込んでいるのだ。
――誰もが息を呑《の》む。このか細《ぼそ》い少女は、体重百キロ以上はある大男を、あっさり頭上に持ち上げてしまったのである。力を入れた様子もなく、易々《やすやす》と。まるで紙人形でも持ち上げるように。
次の瞬間、裂帛《れっぱく》の気合いが可憐《かれん》な唇からほとばしる。
膝《ひざ》をたわめ、シルヴィアは男を頭上に持ち上げたまま、再度|跳躍《ちょうやく》した。空中で器用に体勢《たいせい》を入れ替え、今度はシルヴィアが上で男が下となる。顔を下に向けたまま、巨体が大地に落下していく。大男の微《かす》かな悲鳴。
シェルファはここで、思わず目を閉じてしまった。
その直後、肉体が大地に衝突する、湿った鈍い音。目を開けた時にシェルファが見たのは、俯《うつぶ》せた巨体の横で、不敵に微笑《ほほえ》む少女の姿だった。
この驚くべき女の子は、結局、一度も剣を抜かずに勝ってしまったのである。
「……向こう二ヶ月はベッドから起き上がれないでしょうけど。自業自得《じごうじとく》ね。次は、相手をよく確かめてから挑発《ちょうはつ》しなさいな」
シルヴィア・ローゼンバーグは、潰《つい》えた敗者に冷ややかに声をかける。
不思議とシェルファの耳には届いたが、肝心《かんじん》の相手はとうに気絶している。
どこかから、エレナの怒りと悲しみを含んだ金切り声が聞こえた。
シルヴィアは、まさに観客達を魅了《みりょう》した。
他のブロックでも予選の熱戦が繰り広げられているのに、皆の目はほとんど、シェルファの眼前《がんぜん》で行われていたBブロックの試合に集まっていたのだ。
シルヴィアがお愛想《あいそ》を振りまいて引っ込み、Bブロックの他の者の試合が順当に消化されている間、シェルファも含め、多くの者がじりじりと彼女の次の登場を待っていたのは確かだ。
そしてやっと出番が来て、お目当ての彼女が軽く手を上げて登場すると、会場中が大きく沸《わ》いた。
一つには、この小悪魔風の少女が、観客達には割とお愛想《あいそ》がよかったせいもあるだろう。
そのお陰《かげ》で、さっきのある意味|残酷《ざんこく》なシーンは、客達の間ではおおむね、「悪役が正義の美少女に倒されただけ」的な扱いになっている。
神秘的で大人びた微笑《びしょう》は見せるわ、跳躍《ちょうやく》する度《たび》にフレアミニから下着が覗《のぞ》けそうになるわ(実際、何度か見えた)で、客のほとんどを占める男性客達には人気急上昇である。いつの間にかニキビ顔の若者達が小集団を作り、「シルヴィアちゃん、がんばれー!」などと、やたらと恥ずかしい掛け声を張り上げるにつけ、シェルファは思わずため息を洩《も》らした。
別に馬鹿にしているのではない。
自分もレインを相手に、人前で素直に気持ちを表したい――そう思ったのである。
だから、名前を連呼《れんこ》して応援する彼らが、少しうらやましかった。
「凄《すご》い人気ですね、シルヴィアさん」
「ですねえ。確かに強いですし、彼女。しかしまあ、男どもがでっかい声で騒ぐこと……」
ミランは即席《そくせき》ファンの集《つど》いを呆《あき》れ顔で眺めていた。辟易《へきえき》しているようだ。
他人と居るといつも気詰まりになるのだが、なぜかこの青年がそばに立っているのは、まるで気にならないのが不思議である。
じぃ〜っと見上げると、ミランは気付かぬ様子で場内を指差した。
「あ、ほら。次の対戦相手です。……今度もまた、大きい人が現れましたよ」
――大きい人。
確かに、場内にはいつの間にか巨漢《きょかん》が立っていた。
黒光りする凶悪《きょうあく》な、金槌《かなづち》を巨大化したような恐ろしげな武器を担《かつ》いでいる。
「あれですか? ウォーハンマーと言うんです。普通は四キロ以下の重量ですが、あれは特別製でしょう……いかにも重そうだ」
ミランが教えてくれた。
あの男性はラルゴといい、有名な傭兵《ようへい》でこの大会のシード選手です、とも解説してくれた。担《かつ》いでいる金槌《かなづち》(じゃなくウォーハンマー)がまた、男の体格《たいかく》に十分以上に釣り合っている。冗談じゃなく、総重量が数十キロくらいはありそうだった。
表情もシルヴィアのさっきの相手とは違い、深沈《しんちん》としていて、浮ついたところなど全くない。
しかしシルヴィアは相変わらず、なにも恐れていないようだった。銀色のツインテールを微《かす》かに風に揺らせ、微笑《ほほえ》みを含んで相対している。
シェルファ達の方にも、にこやかに手を振ってくれた。
「だ、大丈夫ですか、シルヴィアさん。もしあんなのでぶたれたら――」
「――さあ?」
ミランは無責任に首を傾《かし》げる。
「でも、あれだけ余裕ありそうだから、大丈夫なんじゃないですかねー」
不安は消えぬまま、審判《しんぱん》の手が振り下ろされた。
頻繁《ひんぱん》に声援が飛んでくるのは、悪い気分ではなかった。
シルヴィアはまたしても剣を抜かず、あまつさえ構えることさえせず、ラルゴを静かに見上げている。そう、彼女自身も背が低い方ではないのに、向こうはまさに、見上げるというのが相応《ふさわ》しい巨漢《きょかん》だった。しかも、さっきのドスケベ大男のように、見た目だけではない。
――少なくとも、人間達の間ではそこそこ強いのだろう。
ズボンと上衣《うわぎ》が一体化した、ツナギにも似た革服を着込んだラルゴは、じっとシルヴィアを見据《みす》えている。
口ひげに手をやりつつ、考え深そうに話しかけてきた。
「おまえは、どうもよくわからんな。見かけに騙《だま》されはせぬが、かといって威圧感《いあつかん》を受けるでもない。……今も私は、なんのプレッシャーも感じておらぬ」
「別に不思議じゃないわ」
こういう真面目《まじめ》な男は嫌いじゃないので、シルヴィアは慈悲《じひ》深く微笑《ほほえ》んであげる。
相手がこちらに何も感じないのは、単にあたしがエクシードを抑え、かつ全然本気になっていないからだろう、と思うのだ。
彼に悪いので口にはしないが、自分にとり、それほどの敵ではないと見切っている。
そもそも相手を人間に限定するなら、このあたしが真剣に戦わざるを得ないほどの実力者は、世界にたった一人しかいないはず。
「それより、試合は始まってるわよ? いつでもどうぞ、ラルゴさん。それとも、こちらから仕掛けた方がいいかしら」
むうっ、などと唸《うな》り、ラルゴは緩慢《かんまん》な動きでウォーハンマーを構えようとした。たぐいまれな美少女(自分のことである)相手なので、どうしてもやる気が出ないらしい。
それではと思い、自分から突っ込んで行った。
身を低くして疾走《しっそう》するシルヴィアに、ラルゴは初めて表情を緊張させた。
ごおっという風切《かぜき》り音《おん》をともなって突進してきた敵に、いささか焦《あせ》ってハンマーを持ち上げようとする。――しかし、遅い。
シルヴィアは既《すで》に相手の間合いに飛び込み、蹴《け》り足を旋回《せんかい》させている。
無防備《むぼうび》になった腹部に、回し蹴《げ》りが叩き込まれた。
ラルゴは巨体を折って真っ直ぐに吹っ飛び、激しい勢いでゲート横の壁に叩きつけられた。
それでも、ウォーハンマーを手放さなかったのは立派《りっぱ》だったが、鞠《まり》のように跳ね返って大地に膝《ひざ》をつき、ぶばっと血の固まりを吐き出す。
激突《げきとつ》のショックか、たくましい背中がぶるっと大きく震えた。
それも無理はなく、彼の背後の壁に、幾《いく》つかの罅割《ひびわ》れが生じているくらいだ。恐ろしいまでにパワーの籠《こ》もった蹴《け》りだったのである。
傭兵《ようへい》の性《さが》だろう、それでもラルゴは臆《おく》することなく、震える膝《ひざ》を叱咤《しった》して立つ。
追撃をかけずに待っていたシルヴィアに、凄惨《せいさん》な笑《え》みを見せた。
「なるほど……今のは何よりも良く効く挨拶《あいさつ》だ。どうやら私の敵《かな》う相手ではなさそうだが、まだ終わるわけにはいかん!」
来いっ!
口元を鮮血《せんけつ》で濡らしているくせに、ラルゴは猛々《たけだけ》しく吠《ほ》えた。
シルヴィアも多少は本気度が増している。再度、大地を蹴《け》ってダッシュ。
「ぬううっ」
今度はラルゴも間に合った。
熟練《じゅくれん》の手際《てぎわ》で特大の武器を素早く持ち上げ、体重を乗せきって振り下ろす。
ハンマーはひらっと避けたシルヴィアの残像ごと、大地を激しく打った。
途端《とたん》に、土塊《どかい》を盛大に跳ね上げ、衝撃波《しょうげきは》が大地を激震《げきしん》させる。
打たれた場所は深々と抉《えぐ》れ、なおも無数の罅割《ひびわ》れが蜘蛛《くも》の巣状に走る。そして外した刹那《せつな》、ラルゴはすぐにハンマーを持ち上げて腕を返し、今度は横殴りの一撃《いちげき》を送り込む。
しかし、シルヴィアはこれも容易《たやす》くかわしてしまい、両者は結局互いに飛び退《の》き、相対し直す。
小鳥のように小首を傾《かし》げ、シルヴィアは話しかけた。
「なかなかの威力《いりょく》だけど、当たらなければ意味ないわよ。……とはいえ、仮に直撃したとしても、あたしにはまるで意味ないんだけど、実は」
「言うものだ。では、今度こそ味わってもらおう!」
今度はラルゴが先手を取るべく、シルヴィアに駆け寄る。もちろん、彼女もぼけっと待ってはいない。相手を数倍上回る速度で走った。
双方、瞬《またた》く間に間合いに入り、ラルゴは叱声《しっせい》とともにウォーハンマーを振り下ろす。しかしさっきと違い、シルヴィアは避けようともせず、ただ左手を上げて、鎚頭《つちがしら》をぱしっと止めてしまった。
少女の小さな掌《てのひら》で必殺のハンマーを止められてしまい、ラルゴに驚愕《きょうがく》の弛緩《しかん》が訪れる。
その隙《すき》に、彼女は勢いよく鎚頭《つちがしら》を押し返し、敵が体勢《たいせい》を崩すのに合わせ、するっとその懐《ふところ》に滑《すべ》り込んだ。同時にさっと体勢《たいせい》を入れ替え、強引に彼の襟元《えりもと》を掴《つか》みつつ、バランスを崩したその足下《あしもと》を踵《かかと》で払う。
体格的《たいかくてき》には問題にならないほどの差があるのに、巨体が綺麗《きれい》に投げられた。
「ぐおっ」
受け身を取る暇もない投げを打たれ、ラルゴは衝撃《しょうげき》と苦痛に肺の空気を全部絞りだす。
その間、既《すで》にシルヴィアは、高々と上空に舞い上がっている。
意識が途切れる前にラルゴが見たのは、落下してくるシルヴィアの膝頭《ひざがしら》だった。
シルヴィアが上空から急降下して、モロに敵の鳩尾《みぞおち》に膝蹴《ひざげ》りを食らわせたのを見て、シェルファはふうっと吐息《といき》をつく。
大柄《おおがら》な身体を跳ね上げた後、ラルゴが失神すると、場内は地鳴りのような歓声で満ちた。
サービス精神を忘れず、客席にまんべんなく手を振る彼女に、惜しみない拍手が浴《あ》びせられる。
シェルファは、微《かす》かに首を振った。
「つ、強いんですね、シルヴィアさん」
「ですねえ」
ミランも後ろ手を組んでうんうんと頷《うなず》き、それからざっと場内を見渡した。
「しかし、他のブロックでも、出場者の実力にかなりの差があるようです。当初、予選は二日に渡る予定でしたが、進行が早いので、今日中に本戦出場者が決まりそうです」
そう言ったそばから、今度は場内の北端を起点にどっと客席が沸《わ》く。
シェルファ達が見ると、こことは反対側に位置するAブロックで、ちょうどセイルが勝負を決めたところだった。
大の字に倒れ伏した見知らぬ剣士に、しきりに頭を下げて謝っている。
どうやら、彼も無事にブロック第二戦を突破《とっぱ》したようだ。
視力に優《すぐ》れたシェルファは、いつの間にか向こうの客席に陣取るフォルニーアが、セイルに向かって「うむっ。その調子で励《はげ》むがよいぞ!」とばかりに微笑《ほほえ》んでいるのまで見えた。
ご満悦《まんえつ》そうである。
「ところで、昼食のために休憩《きゅうけい》を取らなくて大丈夫ですか」
ミランが親切に申し出てくれた。
「はい……あ、でも。ギュンターさまを応援したいのですけど」
「あの方なら確実に本戦に残ると思いますよ。ご無理をなさらず、食事を摂《と》りませんか」
その言葉に甘え、忠告に従うことにした。
――☆――☆――☆――
護衛達《ごえいたち》を交えてゆっくりと昼食|休憩《きゅうけい》を取り、シェルファは再び自分の席に戻って来た。
席を外《はず》していた間に、全ブロックに渡って第二戦が終了し、Bブロックに至っては第三戦も終わっていた。あのシルヴィアは過去二戦以上にあっさりと勝負を決めてしまったらしく、ざわざわと(主に殿方《とのがた》達の)喧噪《けんそう》が満ちている。
シェルファも、内心ではすっかりシルヴィアを応援する気分になっていたので、ついにブロックの決勝が来た時は、いつになく高揚《こうよう》していた。
彼女は休憩《きゅうけい》も無しに戦っていたのに、全然疲れた素振《そぶ》りも見せず、ゲートから姿を現した。
人気俳優に浴《あ》びせられるような大歓声に、にこにこと両手を振って応《こた》えている。
そして、間を置かずに相手方が同じゲートから登場。意外にも、こちらにもそれなりに応援の歓声があった。つやつやした黒髪をした、整った顔立ちの少年である。
「ええと、あの方は?」
「……陛下は、男性の覚えがお悪いですね。いえ、非難しているわけじゃないですが」
ミランはほのかに笑い、教えてくれた。
「地味《じみ》な展開ながら、朝方も出場して順当に勝っていましたよ。フェリスさん――というそうです」
「あ、思い出しました。この方も、勝負を決めるのが早かったですね」
スキップするようなかる〜い足の運びで入場したフェリスは、こちらも女性客に笑顔を振りまきつつ、シルヴィアと相対した。
途端《とたん》に、さっきエレナが立っていた辺りから、凶悪《きょうあく》なまでに大声の声援。
「うらあーーっ。気合い入れて行けよ、フェリスうっ。俺とおまえで本戦の決勝を戦う! こうなったらそういう展開しかないだろっ」
……こうなったらって、どういう意味でしょう?
シェルファの視線を感じたのか、恐ろしく元気の余った若者がこちらをふっと見た。
ぼさぼさの黒髪にバンダナをまいているのが目立つ。
レインには比べるべくもない(ように彼女には見えた)が、彼もまあまあ精悍《せいかん》な顔をしている。
と思ったら、そのきりっとした顔がふにゃっと崩れた。
笑《え》み崩れつつ、ぶんぶん手を振っている。
誰に合図しているのかと振り返ってみたが、該当するような相手はいない。
「陛下に振っているんですよ、手は。わかりませんか?」
「……えっ」
シェルファは本気で驚いた。
でも悪いと思ったので、反射的ににこっと微笑《ほほえ》んで頷《うなず》く。
子供のように大喜びするのが、妙に印象的で微笑《ほほえ》ましかった。
シルヴィアは、観客席の大男を見て顔をしかめるフェリスに、にこやかに話しかけた。
「あの声の大きい人、お知り合いかしら?」
「いやぁ、全然。生まれてから一度も会ったことないし、知らない人だね〜。今後も関わり合いになることは皆無《かいむ》だと思うよ。――とか言いたいけどさ」
ひょいと肩をすくめる。
「なんと、結構|親密《しんみつ》な仲間なんだよね、これが」
「愉快《ゆかい》そうな人ね」
「う〜ん、そうだけど。愉快《ゆかい》すぎるっていうか……。て、なにしてんの?」
背中の大剣を外《はず》そうとしつつ、シルヴィアは首を傾《かし》げた。
「え? 見ての通り、戦いの用意だけど。二剣をまとめて縛《しば》った紐《ひも》が、なかなかほどけなくて。目立つから魔法で出すのは控えたんだけど、それが裏目に出た感じ」
「……じゃなくて。なんでまた、僕の時だけ剣を抜くかな。ここまで素手《すで》で戦ってきたじゃない?」
「それはそうだけど。でもあたし、戦いの手は抜いても、相手を見くびることはしないことにしてるから」
色鮮《いろあざ》やかな唇の端《はし》に、軽く笑《え》みを浮かべる。
「あなたの戦いぶりは拝見してたわ。多少は真剣にやらないと、失礼なお相手だと思うから」
「なかなか言うね〜」
気を悪くすることもなく、フェリスは破顔《はがん》した。
「それじゃ、これまでは真剣じゃなかったんだ?」
シルヴィアは婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んだ。
「仕方ないのよ。だって、あたしが真剣になったら、相手を殺しちゃうもの」
「うっへ〜。僕、ちょっとここに立ってるのを後悔するなぁ」
フェリスの顔がやや引きつった。
くすっと軽い笑い声を立て、シルヴィアは双剣《そうけん》を順に抜く。
「さて。レイン一、レイン二――よろしくね♪」
「げっ。それ、もしかして剣の銘《めい》?」
「そうよ。いい銘《めい》でしょう? あたしのお気に入りなの」
銘《めい》の是非《ぜひ》はともかく――少なくとも、この双剣《そうけん》は非凡《ひぼん》ではあった。青き輝きが二剣を覆《おお》い、魔剣《まけん》特有の微《かす》かな音が両者の間に満ちる。
観客席を、ため息にも似た感嘆《かんたん》が覆《おお》う。
右手の剣を上段、そして左手の剣を中段に構え、シルヴィアはすうっと笑顔を消していく。
ワイン色の深い瞳が、獲物《えもの》を狙う鷹《たか》の目のように鋭い輝きを帯びる。
「それでは――。久方ぶりに、我が双剣《そうけん》の舞を見せるとしましょうか……もちろん、大怪我《おおけが》させない程度に、ね」
紅《あか》い舌がチロッと唇をなぞったその瞬間、審判《しんぱん》の手が振り下ろされた。
笑《え》みを崩さずにだらっと剣を構えていたフェリスは、風のように駆けてきたシルヴィアを見てさっと構えに入った。
彼女はぶわっと間合いに突入し、既《すで》に振り上げていた右手を霞《かす》ませる。
フェリスの頭上を、輝く魔剣《まけん》の第一撃《だいいちげき》が襲《おそ》った。
もちろん、フェリスは素早く剣を持ち上げている。相手の第一撃《だいいちげき》を弾き返し、あわよくば逆襲《ぎゃくしゅう》するつもりだったのである。実際、がっちりと長剣《ちょうけん》の柄《つか》を両手で保持し、寸前とはいえ、ガードは間に合った。
――なのに、凄《すさ》まじいスピードで落ちてきた魔剣《まけん》(レイン一)を受け止め損《そこ》ね、危うく膝《ひざ》を折りかけた。剣と剣が激突《げきとつ》した衝撃《しょうげき》は彼の全身を抜け、踏ん張った両足の下で地面がぼこっと陥没《かんぼつ》する。
シルヴィアは片手のみで剣を振り切り、受け止めたフェリスは両手だったのに、それほどの衝撃《しょうげき》だったのだ。
そして、歯を食い縛《しば》って受け止めたフェリスのがら空きの胴《どう》を、今度はシルヴィアの左手の第二の魔剣《まけん》(レイン二)が薙《な》ぎ払う。
第一と第二の剣の動きが、完璧《かんぺき》に連動していた。
「――! つっ」
斬撃《ざんげき》の速さに驚愕《きょうがく》を覚えつつ、フェリスは第一の剣をなんとか押し返し、横に跳んだ。
青い軌跡《きせき》を残し、第二の剣が空を薙《な》ぐ。
ところが彼女はすすっと間合いを詰め、手首を返して今度は逆方向から魔剣《まけん》を横薙《よこな》ぎにした。
剣を立てて防ぐのが精一杯だった。その時に左手を剣腹《けんぷく》に当て、斬撃《ざんげき》を全身で受けようとしたのは、本能の成せる業《わざ》だ。直後、光の尾を引きつつ魔剣《まけん》の第二撃が立てた剣にぶち当たり、フェリスはそのまま背後に飛ばされた。
踏ん張りきれなかったのだ。
声なき悲鳴を上げ、およそ数メートルを軽々と飛ばされ、転がる。
まだ、計二撃を受けただけなのに、両手が痺《しび》れ、膝《ひざ》が笑っていた。
「じょ、冗談だよね? こりゃちょっと、ピンチかも」
上の方からアークの声が聞こえた。
「油断するなっ。敵は待ってくれねーぞっ」
「――!」
アークの言う通りだった。
顔を上げた途端《とたん》、ワイン色の瞳と目が合った。
「どんどん行くわよっ」
ガガッ、ギギギィンッ
袈裟斬《けさぎ》りに送り込まれた新たな第一撃《だいいちげき》、続く第二撃を何とか凌《しの》ぐフェリス。
まともに剣撃《けんげき》を受けるのではなく、相手の有り余るパワーを別方向に流す作戦に切り替え、ともかくも防ぐ。ただ、とても攻撃に転じることが出来ない。
シルヴィアの動きは、まさに二振りの魔剣《まけん》による、苛烈《かれつ》なまでの斬撃《ざんげき》の乱舞《らんぶ》だった。
一の剣が襲《おそ》い、それを受けた途端《とたん》、今度は二の剣が他の急所を狙う。コンマ数秒の時間差を置き、爆発的な筋力による剣撃《けんげき》が次々に襲《おそ》い来るのだ。フェリスの攻撃は弾かれ、逆に、突き出された剣突《けんつく》に頬《ほお》を切り裂《さ》かれる。
シルヴィアは右足を踏み出して剣を振り下ろし、そこを支点に今度は左足から踏み込み、時には細身《ほそみ》の身体を大きく回転させ、長大な魔剣《まけん》の斬撃《ざんげき》を雨のごとく降らせる。二振りの巨大な魔剣《まけん》は、今や青き流星のように剣本体が霞《かす》んで見えている。――速すぎる!
たまらず、フェリスは地を蹴《け》って背後へ飛んだ。
シェルファは手に汗握って、壇上《だんじょう》より戦いを見守っている。
「は、速いですね、シルヴィアさん。二刀流とは、あれほどに隙《すき》のないものですか? お相手の方、打つ手がないように見えますけど」
「……みたいですね。もしも完璧《かんぺき》に使いこなせるのなら、攻守《こうしゅ》ともに隙《すき》も少なく、これほど恐ろしい剣技もないでしょう」
「でも、二刀流は簡単ではないと?」
「今からお話しするのは、将軍からの受け売りなんですが――。まず、彼女の持つ剣を見てください」
ミランはシルヴィアの魔剣《まけん》を指差す。
「長さが通常の剣と同じどころか、むしろまだ長めです。普通、あれだけの長さの剣を、片手で扱うなど不可能なんですよ。仮にまともに振り回せても、相手の斬撃《ざんげき》を受けることが出来ませんし、体勢《たいせい》だって容易《ようい》に崩れる。それだけじゃないです。二振りの剣を攻守《こうしゅ》に応じて使い分け、効果的に用いる必要があります。その為には余程《よほど》のセンスと才能が必要だそうで。だからこそ、二剣を使う剣士は滅多にいないのでしょうね」
「……レニさまは?」
「レニ隊長の剣は、通常のよりやや短めですし、あのお方は見かけより力持ちな上に、剣技のセンスもお有りですから。ただ――」
申し訳なさそうに続ける、ミラン。
「失礼ながらレニ隊長の剣撃《けんげき》には、相手を何メートルも吹っ飛ばすほどの威力《いりょく》はないでしょう。しかし、彼女の斬撃《ざんげき》にはそれだけのパワーがある。しかも、技量だって超一流です。恐るべき使い手じゃないでしょうか」
「そうですか……でも」
これだけはぜひとも言っておかねば、とシェルファは強く主張する。
二刀流の凄《すご》さは素直に認めても、これだけは個人的に譲《ゆず》れない。
「レインなら、シルヴィアさんにだって勝てますよ。……絶対に!」
ミランは恭《うやうや》しく低頭《ていとう》した。
「それは、仰《おっしゃ》るまでもないことです、陛下」
激闘《げきとう》は、未《いま》だに続いている。
「かつて我が『双剣《そうけん》の舞』を破り得たのは、十年前のあの少年のみ! あきらめなさいっ」
叩きつけるような叱声《しっせい》とともに、青き二条の閃光《せんこう》が連続して襲《おそ》ってくる。
フェリスは、下から逆袈裟斬《ぎゃくけさぎ》りに来た一の剣の剣先を逸《そ》らしたところで、時間差を付けて襲《おそ》い来る第二の剣にすかさず備えた。
が、今度はひらっとシルヴィアの細身《ほそみ》の身体が翻《ひるがえ》り、パンチラ付きの後回し蹴《げ》りを肩口に食らってまた飛ばされた。
「――つっ、つう! ちょっと得した気分だけど、やっぱり痛い分、損かも」
そこで不吉な風切《かぜき》り音《おん》を聞き、フェリスは慌てて跳ね起きる。
シルヴィアが間近《まぢか》に迫っている。
青きオーラは目を灼《や》く光芒《こうぼう》となって胴《どう》を襲《おそ》い、それを受けた途端《とたん》、両腕の筋肉にどっと負担がかかる。巨象に蹴飛《けと》ばされたようなパワーを受けとめた腕が骨ごと軋《きし》み、限界を超えた衝撃《しょうげき》に体勢《たいせい》が簡単に泳ぐ。
とんでもなく重い斬撃《ざんげき》に、身体中の血管がぶち切れそうな錯覚《さっかく》さえする。
だが敵は、わずかな時間さえ稼《かせ》がせてくれない。一の剣を止められたと見るや、すかさず膝蹴《ひざげ》りが迫《せ》り上がり、フェリスの腹を狙う。
それを飛び退《の》いてかわしたところへ、間合いを詰めてきた相手の二の剣が殺到《さっとう》する。
重い、などという単純な言葉では形容できない、超破壊力のある斬撃《ざんげき》を、フェリスはごろごろと転がってかわした。
代わりに大地がざっくりと抉《えぐ》られ、深々と亀裂《きれつ》が出来てしまう。
珍しく追撃をかけず、シルヴィアがへろへろになったフェリスを見やった。
「……まだ、ほとんど時間|経《た》ってないけど。もうこの辺でやめとく? ほどほどに手加減しているけど、危険はあるしね。降参《こうさん》するなら、怪我《けが》せずに済むわよ?」
フェリスは怒らなかった。
性懲《しょうこ》りもなく笑顔を浮かべ、両手を広げる。
「そうしたいなぁ。もう剣もボロボロだしさぁ。ただほら、このまま、もしも貴女《あなた》とチーフが激突《げきとつ》したら、ちょっと困るんだ」
「そうか。未《いま》だに全力を出し切っていないのは、試合を投げるか続行するか、あなたが迷っているからね?」
にこっとシルヴィアは笑った。
「おかしいと思ったのよ。でも、それでわかったわ。多分、お仲間の『愉快《ゆかい》な人』が傷つくのを恐れている?」
「まあ、死を覚悟《かくご》して突っかかったところで、それでも僕は勝てないだろうけど。……でも、チーフが死んだり大怪我《おおけが》したりする可能性を無視出来ないし。なにしろ貴女《あなた》、めちゃくちゃ強いもんね」
シルヴィアは心地良さそうに、また笑った。
「そういうの、嫌いじゃないわ。――でも、それは無用《むよう》の心配よ。一回戦の大男はともかく、他の人に大怪我《おおけが》させる気はないわ。もちろん、あなたも含めてね」
「――信用していいのかな?」
「もちろん。あなた以上に、あたしも全然本気じゃないもの。殺してもいいと思うなら、もう勝負はついてるわよ」
「なんだ! それを早く言ってよ」
今度も腹は立たなかった。
それどころか、肩の荷がどっと下りた気になった、フェリスである。安心して、刃《は》こぼれしまくりの剣を収める。目を丸くするシルヴィアを横目に、審判《しんぱん》に向かって元気よく手を上げた。
「僕、降参《こうさん》しますから〜」
と、客席の方から非難の大声が。
「こるらああーーーっ。なんだそれわあっ!」
フェリスはしれっとそちらへ手を振り、子供のような言い訳を返した。
「だって僕、怪我《けが》するのヤダしぃ」
「大の漢《おとこ》が、そんなことでいいと思ってんのかあああああっ」
シルヴィアはぴっとそちらを指差した。
「チーフさんが怒鳴《どな》ってるけど?」
「ああ、いいんだ。いつものことだから。そもそも、僕らは元々は傭兵《ようへい》でさ。プロは勝ち易《やす》きに勝つのが鉄則だもん。こんな大会で命まで賭《か》けるのは、ただの馬鹿でしょ?」
その返事が客席に聞こえたはずもないが、そこへまた大声。
「死ぬ気で行けっ、ぐらあっ」
「……プロ仲間が、ああ言ってるけど?」
「いや、チーフはある意味では馬鹿だし。この際、無視で」
あはは〜、とフェリスは軽く笑い飛ばした。
――ともあれ、これでBブロックの勝者はシルヴィアに決したのである。
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第三章 見えざる敵、来襲
血臭に満ちた、死体だらけの謁見《えっけん》の間に入ってきたその四人……男二人に女二人というメンバーだったが、彼らは全員がレイグル同様、見事な銀髪をしていた。
もちろん、銀髪はこの大陸ではとりたてて珍しい存在ではない。しかし――思わず寒気がするようなこの威圧感《いあつかん》はどうだ。戦闘能力的にはお話にならない自分でさえ、彼らを見ているとなぜか肌が粟立《あわだ》つ。なにか、目に見えない大いなる圧力を感じるのだ、彼らに。
ルミナスの、内なる疑惑を肯定《こうてい》するかのように、レイグルが薄く微笑《ほほえ》んだ。
「おまえの疑惑は正しい、ルミナス。彼らは全員が魔族であり、魔人《まじん》だ。今後の戦いで、退場した将軍達に代わり、各部隊の指揮をしてもらう」
この場に残ったわずかな人間達に、不可視《ふかし》の動揺《どうよう》が走った。
とっさに返事が出来たのは、ガノアのみである。
「さようですか。お味方が増えて祝着《しゅうちゃく》にございます」
淡々《たんたん》とそのような寝言をほざき、頭を下げる。
レイグルは、ただ頷《うなず》くのみ。
しかし……この四人の異様さはどうだろう。四人とも、どこか普通ではない。いや、魔族であることを考慮《こうりょ》に入れても、服装が見慣れないのだ。特に目立つのが女性の側で、一人など、身体にぴったり貼り付いた、なまめかしい衣装を纏《まと》っている。
「まだ不審《ふしん》そうな顔をしているな、ルミナス」
レイグルがぼそっと話しかけてきた。
「いえ……別に私は」
「構わぬ……ノエルの衣装だろう? おまえが首を傾《かし》げるのも無理はない。この世界では、あれほど開放的な格好は珍しいからな。ノエルが身につけているアレは、レオタードというのが一番近いだろうが……。しかし、それもここでは通用しない名称か」
ルミナスにはよく分からない話だが、とにかく、ノエルと呼ばれたその女性――というか女の子は、ちょっと顔をしかめた。
年齢的には、せいぜい十六、十七くらいに見える。
ストレートの銀髪は、なまめかしく露出《ろしゅつ》した肩の辺りで揃えられ、漆黒《しっこく》の瞳には、なにやら好戦的な光がちらつく。
目鼻立ちはくっきりと美しいが、あまり控えめな性格には見えなかった。凛々《りり》しい少女戦士、という風情《ふぜい》である。今その少女は、眉《まゆ》に被《かぶ》さりそうな前髪を揺らし、余計なお世話だ、とでも言いたげにレイグルを睨《にら》む。
このノエルと、あともう一人の巨漢《きょかん》だけが堂々とした態度を崩さず、残りの二人は主人に対するようにレイグルに低頭《ていとう》した。
「かれこれ十数年ぶりですか……お久しぶりでございます、レイグル様。お声をかけていただき、この上なき幸せ」
貴族のように着飾った男が、一礼する。
その横の妖艶《ようえん》な雰囲気を漂《ただよ》わせた女性も、意味ありげに微笑《ほほえ》んで頭を下げた。
レイグルは珍しく笑《え》みをもってそれに応《こた》え、それからいきなり、声を張り上げた。
「――いい加減に、おまえも顔を出したらどうだ。まさか、俺が気付いてないとでも思っているのか?」
と、まるでそれに答えるかのように、底抜けに明るい笑い声が弾《はじ》けた。
「ハ〜〜ハッハッハァ〜☆」
鬱々《うつうつ》として立っていたルミナスが、思わず脱力するほどに、軽さ漂《ただよ》う哄笑《こうしょう》である。
「や。これはちょっと甘く見過ぎたかなっ。よもや、気配《けはい》を消した僕の存在に気付くとは」
なにやら長身の男が玉座《ぎょくざ》の遙《はる》か後ろから歩み寄り、顔を見せる。
優男風《やさおとこふう》のハンサム顔だが……へらへら笑いのせいで、かなり軽薄《けいはく》に見えた。ともあれ、こいつは相当な嫌われ者らしい。さっき広間へ入ってきた四人の男女のうち、三人までがさっと身構えた。
「貴様っ。なにしにきた!」
「レイグル様に無礼《ぶれい》は許さないわっ」
「よもや、一人で我らを相手にする気か!」
口々にかけてくる言葉を簡単に無視して、軽薄男《けいはくおとこ》は、一人だけ反応の薄かったノエルをしげしげと眺める。
そのうち、ぎょっとした顔になった。
「な、なんとおっ。他人の空似《そらに》かと思ったが、近くで見ると、そんなレベルじゃないね! 君、彼女とやけに似ているよ!」
「なにをわけのわからないことを――」
言いかけたものの、ノエルはすぐに、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「そうか。おまえの言うのは、あの女のことだな」
相手が首肯《しゅこう》すると、めんどくさそうに言う。
「ならば、人違いだ。血の繋《つな》がりはあるが、逆に言えばそれだけの関係でな」
彼は、さっぱり聞いていないようだった。
「ふむぅ……彼女にそんな存在がいたとは」
「……お互いに疎遠《そえん》だったし、嫌い合ってもいたからな。血の繋《つな》がりなど、とっくにどうでもよくなっている。あいつ自体、もうどこにもいないしな」
「そ、それを聞いてちょっとほっとしたね〜。ううむ。可愛《かわい》いお嬢さんに嫌われるのは、辛いことだからねぇ」
「お嬢さんだと? それに、なんの話をしているんだ、おまえ」
黒い瞳に侮蔑《ぶべつ》の色が浮かぶ。
「私を甘く見ているのなら、後悔することになるぞ、道化者《どうけもの》。そもそも、おまえは一体、何者だ?」
「これはこれは……申し遅れて失礼したね、美しいお嬢さん」
軽薄男《けいはくおとこ》は白い歯を見せて破顔《はがん》した。
「僕の名は、ヴィンター・フォン・ブルームハルト! 魔界の貴公子と呼ばれる男だ!!」
大上段《だいじょうだん》に振りかぶったような大げさな自己紹介とともに、軽薄男《けいはくおとこ》はノエルに深々と一礼した。
――ルミナスにしてみれば、大声で名乗ったその名前に聞き覚えなどなかったが、魔人《まじん》少女ノエルも知らない名だったらしい。ただし、彼女と一緒に来た、他の三人の魔人《まじん》は聞き覚えがあるようだった。微《かす》かなため息をつく者、あるいは首を振る者……反応はそれぞれだが、皆、彼の名を知っているようである。
レイグルがぽつっと言った。
「偽名《ぎめい》ばかりだな。他人に言えた義理ではないが、つくづく落ち着かない男だ。トップフォーになっても、それは変わらんか」
ノエルがそれを聞き、明らかに表情を改めた。
代わりに、少々疑り深い声音《こわね》で囁《ささや》く。
「――おまえが!? 顔を見るのは初めてだが……トップフォーの生き残りの、あのヴィンターか?」
「さよう。今はトップスリーになってしまったがねっ。――それはともかく! 願わくば、彼女とのいさかいについては忘れてくれたまい。僕としては、やむにやまれぬ結果だったのだよ〜」
「さっきも言ったはずだ。あいつのことなど、どうでもいい。おまえが殺さなくても、いずれは私が倒していただろう。あの女は私を敵視していたからな。殺すか殺されるかだったんだ!」
そう吐き捨て、ぷいっと横を向くノエルである。
そんなつれない態度だったのに、この軽薄魔人《けいはくまじん》は子供のように喜んだ。
「やっ、そうかねっ! 彼女と違って、君は心が広いね〜。度量、まさに海のごとしだっ。どうかな? 今度、僕と一緒に萌《も》える、いや、燃える夜を過ごすというのはっ」
「その辺りにしておけ、ヴィンター」
いきなり口説《くど》き始めるのを、レイグルの冷えた声が遮《さえぎ》った。
ヴィンターの足が止まったのを幸い、ノエルはさっさと壁際《かべぎわ》へ――よりにもよってルミナスのそばへやってきた。背中がぞくっとした。古龍《こりゅう》が一ダースも隣に居座る方が、まだしもマシな気分だったろう。なるべくそっちを見ないように、王と彼の対話に集中する。
ちょうど、玉座《ぎょくざ》に座《ざ》すレイグルの前に、ヴィンターがのほほんと近付いたところだった。
王は、片眼にかかった銀髪をかきあげ、
「……おまえは一体、何をしにきたのだ。まさか、はるばるこんなところまで、女を漁《あさ》りに来たわけでもあるまい」
「いやぁ〜、まあそういう用件に変更しても、僕ぁ、ちっとも構わないけどね」
しぶとい笑顔とともに、ヴィンターは返す。
「だがまあ、少しは真面目《まじめ》になるかね」
自分で宣言した通り、やや口元を引き締めた。
それでもまだ、軽薄《けいはく》笑いは完全に消えていなかったが。
「用件はこうだ。こう見えても、僕はあのお方に後事《こうじ》を託されているんでね。魔界の留守を預かる者として、はぐれ者――いやさ、アウトサイダーたる君達に、警告を持ってきたのさっ」
レイグル王は眉《まゆ》一つ動かさなかったが。
そばで聞き耳を立てていた人間達は、一様に不審《ふしん》そうな表情になる。
無論、ルミナスも同様である。
話の内容がさっぱり不明なのも困りものだが……魔界とかアウトサイダーとかは、一体なにを意味するのだ。
すると、横にいたノエルが低い笑い声を立てた。
知らぬ顔も出来ず、ルミナスが嫌々《いやいや》そちらを見ると、彼女の瞳とまともに目が合った。
「人間よ、どうやらおまえ達は、魔族のことをなにも知らないらしいな?」
ルミナスは……答えられなかった。
全くその通りだからだ。
遠い昔のこととはいえ、あれほど魔族に苦しめられたにもかかわらず、人間達は未《いま》だに彼らの存在がよくわかっていないのだ。
――果たして彼らが、あの終戦の折に、どこに消えたのかさえ。
謁見《えっけん》の間における魔人《まじん》同士の会話は、未《いま》だに続いている。
ただし、レイグルとヴィンターの双方共、激した様子はいささかもない。人間達が見るところ、単なる日常会話でしかない。
レイグルの落ち着いた声。
「警告だと? それはおまえが個人的にするわけか。――よりにもよって、この俺に?」
普通なら怯《ひる》むような冷ややかな調子にも、ヴィンターとやらはびくともしなかった。
ルミナスが思うに、この魔人《まじん》はイヤミなど聞き慣れているのだろう。……いかにもそんな感じだ。
とにかく、彼はまるで口調を変化させず、陽気に返す。
「そうとも! ここはとうの昔に撤退《てったい》命令が出ているはず。君らがやろうとしているのは、いわば掟《おきて》破りなのさ〜。できれば帰還してもらいたいねぇ」
「俺は誰の命令も聞かないし、四巨頭《よんきょとう》体制などという、おまえ達に都合《つごう》のいい体制に賛同した覚えもない。それは、前にも告げたはずだが」
「よく言うね、君の立場で……。まあそれは今はいい。とにかく、今の新体制は三巨頭《さんきょとう》なんだって。確かに君は前にも警告を無視した。その報《むく》いはちゃんと受けたのではないかね?」
ヴィンターの声が心持ち低くなる。
笑顔が消えたわけではないが、少なくとも表情には多少のドスが利《き》いていた。
ただし、レイグルは相変わらずなんの動揺《どうよう》も見せない。むしろ、目を細めて言い返した。
「報《むく》いがあったのは、おまえ達が送り込んできたあの使者達の方だろう。俺はまだ、こうして生きているぞ」
「……知らない者が聞いたら、君が使者達に完勝したように聞こえるセリフだよ、それ。実際は、相打ちに近かったはずだが……。ま、それもいいさ!」
あくまでも、嘘《うそ》くさいほど友好的な笑《え》みを崩さないヴィンターである。
「あれほどの戦士を倒した君の実力は、確かに僕といえども認めない訳にはいかない。だが、相手が死んだと思うのは早計《そうけい》かもしれんよ〜、君ぃ」
ヴィンターに対抗する訳でもあるまいが、レイグルは底冷えのするような薄笑いを浮かべた。
「それを聞いて、俺が震え上がるとでも思っていたなら、あいにくだ。今の俺は昔の俺ではない。おまえ達のお陰《かげ》で鍛《きた》えられたからな」
「ほほぉ〜。それは、場合によってはこの僕をも倒してやる――そういう脅《おど》しかなっ?」
「いかにもそうだ。自分の持つデーモン・スキルが万能だ、などと思わない方がいいぞ」
「デーモン・スキルなんて大仰《おおぎょう》な呼び方だねっ。ただの『能力』でいいよ、『能力』で」
ヴィンターはひらひらと手を振った。
「ま、絶対の必要が生じたら、僕も君と戦わざるを得ないね! 僕が今そうしないのはだね、君が魔界に、大勢の同志《どうし》を抱え込んでいるのを知ってるからさ。そこんとこ、誤解《ごかい》のないように〜」
「……後事《こうじ》を託された身では、魔界に無用《むよう》の戦乱《せんらん》を起こすのは避けたい――というわけか?」
「さよう。まあ、他の仲間が聞けばきっと別の意見を言うだろうが、僕ぁこれでも穏健派《おんけんは》で通っているのでね。今日のところは、警告のみで失礼するとしよう。それを無視するかどうかは、君の自由さっ」
――気障《きざ》な一礼と、それからノエルへ投げキッス。
やたらと陽気な魔人《まじん》は、早くも踵《きびす》を返しかけている。
途端《とたん》に、ノエルを除く新たな魔人《まじん》三人が、彼に追いすがろうとした。
それをレイグル自身が止める。
「構わん! 行かせてやれ。……ここで我らが戦えば、この城など瓦礫《がれき》の山と化すだろう」
そんな会話など聞かなかったように、風変わりな魔人《まじん》は、扉の前でまた振り返った。
「そうそう、一つ言い忘れていたよ。……僕らの上に立つ我が君も、今や蘇《よみがえ》りつつあるんだな、これが。ま、君は気にしないかもだが」
「わかっているなら、捨てぜりふは無用《むよう》だ。さっさと出て行くがいい」
他の魔人《まじん》達は一瞬、互いに視線を交《か》わしていたが、レイグルは徹底して無感動だった。
さっさと消えろとばかりに、ヴィンターに向かい、気怠《けだる》げに手を動かす。
なにが楽しいのか心底|愉快《ゆかい》そうに笑い、今度こそヴィンターは謁見《えっけん》の間を出て行った。
彼が出て行った後も、広間に残る人間達は棒立ちのままである。
事態の進展があまりにも急で、策士《さくし》の端《はし》くれを自認するルミナスでさえ、頭が混乱したままだった。だが魔人《まじん》達はこちらの都合《つごう》など知ったことではないらしい。
貴族風の魔人《まじん》が、ルミナス達には目もくれず、レイグルに話しかけた。
「あやつ、後々、災《わざわ》いの種になりますまいか、レイグル様」
「案ずるな、デューイ。あいつも認めていたように、俺の配下《はいか》は、既《すで》に魔界中に勢力を伸ばし始めている」
レイグルの声に動揺《どうよう》はない。
「あの男が魔界全土を戦火に巻き込む気ならともかく、今は静観《せいかん》する方を選ぶだろう。あいつが本当に動くとすれば、こちらの戦力を読み切ったその時だ。……今はまだ、その時期ではないと思っているだろうな」
と今度は、大人っぽいドレス姿の女性が、前へ進み出た。
「では、既定《きてい》方針に変更はなしですわね、レイグル様」
「ない。新たな人事を発表した後、軍の再編を行う。……部隊の指揮は任《まか》せるぞ」
男女二人の魔人《まじん》が深々と一礼、そして無口な男|魔人《まじん》が小さく頷《うなず》く。
そんな中、ノエルだけが異議を唱えた。
「待て、レイグル。私は、おまえの下につくことを完全に了承したわけではないぞ。勘違いしてもらっては困る!」
大上段《だいじょうだん》に斬《き》りつけるような一声に、和《なご》みかけていた広間内は、またしてもぴりっと引き締まった。
一斉《いっせい》にノエルを見た新手三人に、レイグルが手を上げる。
「待て。まず俺が話す」
レイグルはなにやら言いかけた三人を押しとどめ、ノエルを真っ直ぐに見た。
お陰《かげ》で、隣にいるルミナスまで首筋に脂汗《あぶらあせ》が浮かんだ。
そんな冷酷《れいこく》な視線をものともせず、ノエルがくびれた腰に手を当てて言う。
「なるほど、私はおまえの誘いを受け、今ここにいる。この世界を我らのものとするためなら、便宜上《べんぎじょう》、おまえを盟主《めいしゅ》として認めてもよいかと思っていた。しかしだ、おまえは重大なことを私に告げていなかったな?」
「……というと? あいにく俺は、察しがよくないのでな。さっさと話してもらおう」
「では言おう。私が指摘するのは、レインとやらのことだっ」
毅然《きぜん》とした声で言い放つ。
近くに立つ、物静かな巨漢《きょかん》の魔人《まじん》を指差し、
「先程《さきほど》、そこのフィランダーから聞いたぞ。どうやらおまえは、そいつに敗れたそうではないかっ。たかが人間相手に敗北を喫《きっ》するような男を、この私が盟主《めいしゅ》と仰げるものか!」
「別に隠していたわけではないが……なるほど。確かに俺は、あの男との斬《き》り合いで退《しりぞ》いた。しかし、それは俺の意志でもあったのだ。負けは負けだが、別にあれで最終的な勝負が決まったと思ってはいない。ヴィンターにも言ったはずだ、『俺はこうして生きている』とな。同じ過《あやま》ちを繰り返さねばいいだけのこと……」
冷静さにいささかも刃《は》こぼれを見せないレイグルに対し、ノエルは手厳しかった。
「言い訳など、誇り高き我ら魔人《まじん》にあるまじき行為だ。恥を知れ、レイグル!」
戦女神《いくさめがみ》のごとき凛々《りり》しい美貌《びぼう》を上向《うわむ》かせ、火花の散りそうなセリフを叩きつける。
「どうやらおまえは、人間世界で長く暮らしすぎ、我ら魔人《まじん》の常識を忘れたと見える。力だけがものを言うのが我々の原則だぞ! それを忘れ、『まだ俺は生きている』などと、ふぬけたセリフを吐くなっ」
ルミナスは思わず、隣のノエルから数歩、遠ざかった。記憶にある限り、あの王に向かってこれほどはっきり、侮蔑《ぶべつ》の言葉を投げかけた者はいない。
反抗の意志を示した者がどうなるか、今、床に転がっている無数の死体を見れば明らかなのだ。
未《いま》だレイグルの怒りが爆発しないのが、不思議なほどだった。
いや、代わりに新手の魔人《まじん》の内、男女二人が怒りを露《あら》わにした。貴族風のデューイと、やたらと色っぽい女性|魔人《まじん》の二人である。
「口が過ぎるぞ、ノエルっ。人間ごとき、レイグル様の眼中《がんちゅう》にないのがわからんのか! あえて相手になさらないだけのことっ」
「デューイの言う通りだよ! おまえ、あたし達に殺されたいのかい、小娘っ。フィランダー、おまえからも言っておやりっ」
「いや。私が口を挟《はさ》むことじゃないな、サラよ」
他の者より一際《ひときわ》たくましい身体をした、フィランダーと呼ばれた魔人《まじん》は、ゆっくりと首を振った。
「自分の生ある限り、最終的な勝利は未《いま》だ決まっていない――。レイグルの、その考えには賛同する。しかし、完全なる勝利にあくまでこだわるノエルの考えもまた、私には理解できるのだ。戦士と生まれたからには、そういう生き方も是《ぜ》としたいものだ」
腕を組み、悠然《ゆうぜん》と答える。
だが、サラとデューイは納得しない。
「おまえまでレイグル様に反抗するのかい、えっ? ノエルに余計なことを吹き込んだのは、その前振りなのかいっ」
サラがきっつい声を浴《あ》びせれば、デューイもすかさず、物騒《ぶっそう》な言葉を投げかける。
「……好んで敵を作りたいのなら、今が格好の機会ですぞ、フィランダー。このデューイ、いつでもあなたの相手になりましょうぞ!」
鼻梁《びりょう》高く、上品な顔立ちをしたデューイが、殺意を込めた目線をフィランダーに浴《あ》びせ、いよいよ場がきな臭くなってきた。
すわ、今にも魔人《まじん》同士の争いが起きるか、とルミナスがどっと汗をかいた時。
――ようやくレイグルが止めた。
「デューイ、サラ、怒りを収めるがいい。フィランダーの返事はいかにもこ奴らしいし、ノエルについては、まだ話がある」
戦闘態勢間近《せんとうたいせいまぢか》だった二人が、その言葉を聞いてたちまち怒りを減じたのを、ルミナスは驚きを持って見る。もう戦闘は不可避かと思っていたのだ。
どうやらこの二人は、よほどにレイグル王に心酔《しんすい》しているらしい。……あとの二人は、それぞれきっちり自己主張しているが。
玉座《ぎょくざ》のレイグルは、何事もなかったかのようにノエルを見た。
「……ノエルよ、俺は自分の行動についてくどくど説明しようとは思わん。おまえが理解できぬと言うのなら、それもまたよかろう。それで、おまえとしてはどうしたいのだ? 元いた場所に戻るのが望みか?」
ノエルは即座に否定した。
「自らの意志で歴史を刻《きざ》もうとしない奴らばかりの魔界には、もううんざりだ。おまえの目的まで、私は否定しない。――ただし!」
堂々と胸を張り、言い放つ。
「私は私で勝手にやらせてもらおう。とりあえず、早急にやりたいことができたことだしな」
「ほう。――そのやりたいこととやらは、なんとなく見当がつくな」
「……答える義務はないわ」
レイグル王と露出度《ろしゅつど》大の少女戦士、ノエル。二人の魔人《まじん》がしばし視線をぶつけ合い、場に見えない火花が散る。緊迫する空気の中、ゆっくりと視線を外したのはレイグルの方だった。
本心がどうかはともかく、急激に関心を失ったようである。
「……好きにするがいい。今し方殺した将軍達よりはよほど惜しいが、それでも、おまえの代わりがいないわけでもないしな」
「なんとでも言え、レイグル。私はあくまで自分の道を行くだけのことだ」
捨てぜりふを残し、ノエルもまた、歩み去る。その、半裸《はんら》に近いなまめかしい後ろ姿は、ルミナスの目から見ても堂々としており、レイグル王などものともしない気概《きがい》に満ちていた。いや、実際の実力はどうなのか知らないけれど。
彼女が扉に至った時、レイグルが声をかけた。
「待て、ノエル。同族のよしみで、特別に忠告しておいてやろう」
「聞くだけは聞こう。言ってみろ」
ノエルが落ち着き払って振り向いた。
「あの男は、おまえが想像するより遙《はる》かに高い次元にいる。おまえが敗れるとまでは言わんが、あいつの実力を侮《あなど》らないことだ」
漆黒《しっこく》の瞳でしばし、じいっとレイグルを見返し、ノエルは返事もせずに部屋を退出した。
広大なゲイニス城の遙《はる》か上空に、黒い翼を広げたヴィンターが静止している。
眼下《がんか》に豆粒のように見える巨城から、誰かが飛び立つのを確認すると、彼は意味ありげに頷《うなず》いた。
「ふむふむ。早速、仲間割れかね? ま、僕にとっちゃ、彼らの勢力が減衰《げんすい》するのは歓迎ものだが。だがまあ、ノエル君だけではね〜、さほどパワーバランスは変わらないか。……思ったより仲間を集めたみたいだからね〜、彼も。いや〜、困った困った」
全然困ってそうにない口調で独白《どくはく》すると、ヴィンターは遠い目をして考え込む。
ややあって、また独り言が洩《も》れた。
「しかし……彼ほどの魔人《まじん》が警戒《けいかい》する人間ってのも、少し興味あるねぇ。ちょろ〜っとその辺も確認しといた方がいいかな〜」
やがて、ヴィンターもノエルの後を追うように飛び去ってしまった。
――☆――☆――☆――
例によって肌寒い日になったが、劇場の上に広がる空はどこまでも青く、透き通っている。
身が引き締まるような快晴、とでも言うべきか。シェルファは既《すで》に昼前に、野外劇場(今は闘技場《とうぎじょう》)に着いていた。昨日と同じ席に座《ざ》し、おとなしく開催《かいさい》時間を待っている。
予定が繰り上がり、今日は本戦の開催日《かいさいび》なのだ。
昨日の予選は実に進行ペースが早く、当初の予選二日目に至るまでもなく、全ての本戦出場者が決定したためである。
もちろん、A〜Hまでの全八ブロックの勝者、八人が本戦出場者と決定した。
シード選手はともかく、普通に勝ち抜くのであれば、四戦を戦わないとブロックの勝者にはなれないのであり、その意味では、残った八人は相当な強者《きょうしゃ》――のはずである。
はずであるというのは、シェルファがざっと見る限りでは、あまり強そうに見えない人も幾人《いくにん》かいたからだ。もちろん、自分の目などアテにならないことはよくわかっているので、本戦を観戦するに当たって、妙な先入観などなにもない。
昨日の予選はシルヴィアの戦いを見るので精一杯、という感じで終わってしまったので、今日こそはギュンターさまを応援しようと思う。
それはそれとして、各ブロックの勝者は以下の通りだった。
※名前の後に書かれた『剣士』等の表記は、選手本人の自己申告。
Aブロック――セイル(剣士 男性)
Bブロック――シルヴィア・ローゼンバーグ(専門違いながら、剣士 女性)
Cブロック――アーク(剣士 男性)
Dブロック――ファルナ(剣士 女性)
Eブロック――フェルト(神官 男性)
Fブロック――ブラック仮面代理こと、ギュンター・ヴァロア(色々 男性)
Gブロック――ガス(格闘士《かくとうし》 男性)
Hブロック――アベル(勇者 男性)
特別にもらった手書きのリストを最後まで眺め、シェルファはちょっと目を見張った。名前の後に書かれた、自己申告のカッコ書きのことである。
ギュンターが自己申告するところの『色々』というのもたいがい趣深《おもむきぶか》いのだが、アベルという人が申告する、『勇者』とは一体、なんだろうか? そのような名の、職業があるはずもないし。
シェルファが小首を傾《かし》げているのに、いち早くミランが気付いた。
彼は例によってシェルファの横に立っていたのだが、ふんふんと頷《うなず》く。
「ああ、『勇者』ですね。その呼称《こしょう》は、かつての魔族との大戦の折に、特に活躍した人々を指すんです。一人ではなく、人数的に何人もいたそうですが。有名なのは、四、五人ですけどね」
「そうなんですか」
――多いような、少ないような。
「その人数はともかく、凄《すご》く長寿《ちょうじゅ》な人達なんですね。わたくしは、予選でシルヴィアさんばかり注目していたので、アベルという方は存じませんでしたわ」
「いえ、伝承《でんしょう》に登場する彼らは、一部の例外を除いて、おそらくもうこの世におりますまい」
ミランは苦笑し、首を振った。
「しかし彼らの子孫は、少数ながら今も各地に存在している――という話もあります。このアベルさんが本当に、いわゆる『勇者』の末裔《まつえい》かどうかは不明ですが」
「……勇者。大仰《おおぎょう》な呼称《こしょう》ですが、それほどに強い戦士さん達だったのですか?」
声に、自分でも意識しない、ごくごく小さな不満、というか異議が籠《こ》もっている。
シェルファとしては、そういう呼び名はレインにこそ相応《ふさわ》しいのではないか、などと思うのである。レインを差し置いて、勇者なんて自称するのは(以下略)――というわけだ。
「古い書物や、巷間《こうかん》に伝わる伝承《でんしょう》によると、勇者とは結構な実力者だそうですけどねー。ちなみに、伝説の英雄ジョウ・ジェルヴェールもまた、勇者と呼ばれた一人ですよ。その筆頭《ひっとう》ですかね」
ミランは肩をすくめた。
「彼ら勇者は、普通人にはない、特殊《とくしゅ》な力を持っていた――らしいです。伝承《でんしょう》には、その辺りの理由が語られていないのですが……僕は多分」
言いかけたところで、あのフォルニーアがセイル兄妹を連れて接近してきたので、話は自然とそこまでになった。
「おはよう、シェルファ殿」
「おはようございます、フォルニーア殿」
すっかり仲良くなった甲斐《かい》あって、フォルニーアと友好的な挨拶《あいさつ》をかわす。
シェルファは早速、彼女にも今のリストを見せてあげた。
「いや、これはすまぬな、シェルファ殿」
「こうして見ると、ほとんどの方が殿方《とのがた》で、しかも剣士さんみたいですね」
シェルファが水を向けると、
「うむ、そのようだ」
フォルニーアは当然、という感じで頷《うなず》く。
ミランとは反対側の脇《わき》に立ち、既《すで》に特別席に座るシェルファの手元を覗《のぞ》き込むようにして、にんまりとほくそ笑む。
「このリストの各人は、ほとんど知らぬ名だが。とりあえず、マークすべきはギュンターのみかな。セイルの優勝はもらったようだ。ふふふ」
ひときわ異彩《いさい》を放つ、『勇者』の二文字は無視したか、あるいは眼中《がんちゅう》にないようだった。
「いや、ふふふって、俺はあんまり自信ないんですが。しかも、『よく知らぬ名』ばかりなのに、マークすべきはギュンターさんだけって、そりゃあんまりな予想じゃ?」
もっともな突っ込みを入れたのは、彼女の後ろに従っていたセイルである。
「それに、そのギュンターさんはちょっと手強《てごわ》そうで」
「なにを言うか、セイル!」
凛《りん》とした声でフォルニーア。
「昨日も言ったであろ。自信ないとか戦ってみねばわからないとか今日は調子が悪いとか、そういうのは関係ないのだ。シャンドリスの代表として、優勝しかないと思え。おまえの双肩《そうけん》には、我が国の名誉《めいよ》がかかっているのだぞ!」
「あ、相変わらず、むちゃくちゃ言いますね、陛下……」
セイルが汗ジトでちょっと後退《あとずさ》ったところへ、ジュンナが嬉しそうに、「おにいちゃん、がんばって〜」と、ぽわぽわした声音《こわね》で駄目《だめ》押しをする。
セイルは嘆息《たんそく》して天を仰いだ。
「――せめて、怪我《けが》しないように祈っとくかなあ」
「ほら、シェルファ殿の邪魔になる。我らはそろそろ遠慮《えんりょ》しよう」
笑顔のまま、フォルニーアはセイルの肩を叩いた。
「セイルも、素振《すぶ》りくらいはして気合いを入れるが良いぞ」
なんだか肩を落としたセイルを引きずるようにして、フォルニーア達は行ってしまった。
よく見ると、目立たないように、ラルファス達の部隊が彼女の周りを囲んでいる。なるほど、自由奔放《じゆうほんぽう》に歩き回っている彼女だが、ちゃんと密《ひそ》かに警護されているようだった。実は少なからず心配だったので、シェルファは大いに安堵《あんど》した。
他国の王より、あたしを警護しろ!
――そんな風には決して考えない、シェルファだった。
開始時間の正午が迫り、観客のざわつきが次第に収まってくると、シェルファは野外劇場全体を見渡し、小さくため息をついた。
「どうしました、陛下?」
「いえ……どこかから、レインが現れないかと思いまして」
言いかけ、はっと口をつぐむ。
どうも自分は、このミランに相当に慣れてしまっているようだ。
まず絶対に初対面の人間に心を許さないのに、どういうわけか彼が相手だと、いつもの警戒心《けいかいしん》が起こらないのである。幾《いく》らなんでも、普段はもう少し気をつけるのに。
しかしミランは特に不審《ふしん》そうな顔もせず、ごく普通の調子で尋ねた。
「……まだご気分が優《すぐ》れませんか?」
「一昨日から比べるとだいぶ気分は良くなりましたわ。それでも、レインがいないと――」
後は言葉を濁《にご》す。
もう十分、まずいことを口走っているのだけれど。
「あともう少しで、将軍も帰城なさるでしょう。今は少しでも大会を楽しみましょう」
そうですね、とシェルファはぽつりと返す。
ちょうど時刻は正午となり、本戦が始まるところだった。
ゲートから出てきた小柄《こがら》な人物を見て、シェルファはちょっと首を傾《かし》げた。
フェルトという名のその少年は、白い神官服を着ており、胸にはなにかの紋章《もんしょう》が入ったメダルをぶら下げていたからだ。
気の利《き》くミランが、また横から補足説明をしてくれた。
「どうやら彼は、メナム神に仕《つか》える神官さんですね」
「メナム神? ええと、戦神《せんしん》のミュスラ神じゃなくて? 愛と美と調和の女神の、あのメナム神ですか」
「そうです。いや、なんか場違いですね、ホントに」
シェルファが遠慮《えんりょ》して言わなかったことを、ミランはあっさりと口にした。
そして、引き続いて黒いマントを羽織《はお》ったむっつり顔の男が登場する。
この快晴の空の下、本日も不機嫌《ふきげん》そうな顔を崩さない、ギュンター・ヴァロア、その人だった。
「……ギュンターさまが勝ちますよね?」
念のため、シェルファはミランに訊いてみた。
「う〜ん。まあ僕はどのみち、将軍の片腕たる、ギュンターさんを応援してますよ」
――試合開始直前。
神官フェルトは、わざわざシェルファが観戦する席の真下まで来て、深々とお辞儀をした。思わず、シェルファも小さく頭を下げる。
よくよく顔を見れば、まだほんの少年に見える。あくまでも、見た印象に過ぎないが。
両手に、ごつい黒手袋をしているのが印象的だった。
返礼をしたシェルファに、陰《かげ》りない笑《え》みを返し、フェルトは中央に――いや、最初から相手と十分に距離を空けて相対する。
審判《しんぱん》が開始を宣言し、試合が始まった。
動きはすぐにあった。
フェルトが長い袖《そで》の神官服をなびかせるようにして、さっと手を振ったのだ。
と、まるでそれに応じるように、ぶすっと突っ立っていたギュンターがやや上体を逸《そ》らす。
そのまま、何事もなかったかのように歩き始めた。
彼が無造作《むぞうさ》に歩を進め、どんどん間合いを詰めて行くと、フェルトは信じられないという顔で、右手と左手をせわしなく動かす。頻繁《ひんぱん》に腕を振っている。
その度《たび》にギュンターは身体をひねり、または軽くその場で跳びと、傍目《はため》にも、なにか妙な動作を続けた。ややあって、シェルファにも合点《がてん》がいった。
というのも、前にレインがタルマの透明な鞭《むち》を避ける時に、あのような動作をしていたのを思い出したからだ。
すたすた歩きつつ、時折ギュンターが演じる唐突《とうとつ》な動きは、まさにあの時のレインと重なる。
「フェルトさんは、なにか投げているのでしょうか」
「そうです。陛下は優秀な視力をお持ちですし、よくご観察あれば、必ず見えるかと。フェルトさんの手元に注目してください。円形のチャクラムを投げているのがわかります」
チャクラムという武器は、初耳である。
しかし、ヒントをもらったので、やっとわかった。
腕の動きが速いので気付かなかったが、確かに彼は、円盤状の小さい何かを投げている。しかも、それは投げた後、ちゃんと手元に戻ってくるらしい。フェルトは奇術師が複数の手玉を操るように、数個のチャクラム(と呼ばれる武器)を次々に放っていたのだ。
それを、ギュンターが苦もなくヒョイヒョイ避けていたのである。
「……わたくしがやっと気付くほど、チャクラムとやらのスピードは速いのに、ギュンターさまはまるで平気そうですね」
「チャクラムは、輪の外側全部が刃《は》になっていて、当たるとそれなりに威力《いりょく》があるのですが……。現に、今までの相手は軽傷を負った時点で降参《こうさん》しています。ただ今回は――」
「……今回は、そもそもかすりもしないようですね、残念ながら」
シェルファがミランのセリフを引き取る。
フェルトという人には悪いが、シェルファとしてはレインの股肱《ここう》の臣《しん》たるギュンターには、ぜひ勝ってもらいたいので、ちょっと嬉しい。
期待通り、ギュンターはさくさく歩を進め、フェルトを壁際《かべぎわ》に追い詰めつつあった。
こ、この人、一体なんなんだ!
どうして僕のチャクラムが、簡単に避けられるんだろう。予選では、あれほど上手《うま》く行ったのに。
神官フェルトは間断なくチャクラムを投擲《とうてき》しながら、ジリジリと下がっている。
戦神《せんしん》たるミュスラ神の神官と違い、メナム神を信仰の対象とする彼は、かつて戦闘というものをほとんど経験したことがない。
今回だって別に経験したくなかったが、優勝すれば褒美《ほうび》は(よほど実現が難しいものでなければ)思いのまま、という大会規定に惹《ひ》かれ、思い切って出場したのである。
もちろん、優勝したら王都に教会を建てる許可を得るつもりだった。
このチャクラムは、メナム神の高位の神官に許された護身用の武器であり、これが通じないとなると、後はもう最後の手段しか残っていない。
「――くっ!」
半ばヤケで、複数のチャクラムを全力で投げる。
両手|利《き》きの特性を活《い》かし、ほんの刹那《せつな》の時間差を付け、順番にビシュビシュッ、と腕を振り切ってやる。
――外れた。
起死回生《きしかいせい》の一発を狙ったのに、ギュンターとやらは嘘《うそ》くさいほど簡単に身をかわしてしまった。
で、スナップを利《き》かせずに全力|投擲《とうてき》したチャクラムは、もはや手元に戻らなかった。
空《むな》しく遙《はる》か遠くのゲート横に当たり、そこの壁をわずかに削《けず》る。
「……全力で投げても、最初から急所を外す気でいると、やはり勢いは殺《そ》がれますよ」
ぼそっと不機嫌顔《ふきげんがお》の敵が言った。
合間合間に、なにかブツブツ独り言を話しているのが不気味《ぶきみ》である。あと少しで、彼の間合いに入る距離まで接近されていた。フェルトは強張《こわば》った顔に引きつった笑《え》みを浮かべた。
「あなたの言う通りです。だけど僕は、どうしても相手に重傷を負わせたくないんですよ」
――だがしかし!
フェルトは声を励《はげ》ます。
「僕にはまだ、大いなる神のご加護《かご》があるっ」
神の御名《みな》を讃《たた》えつつ、胸に下げたメナム神の紋章《もんしょう》の前で複雑な印を組む。
フェルトの身体の前に、巨大な円形をした魔法陣が、白光《はっこう》を纏《まと》って出現した。
「神は常に我と共にあり! ホーリー・ブラスト!!」
言下《げんか》に、魔法陣全体から、白銀の粒子が光の洪水となってギュンターを襲《おそ》う。
まさか死にはすまいが、数日は寝込むかもしれない。
「神よ……お許し――」
呟《つぶや》きかけたセリフが、空《むな》しく宙《ちゅう》に消えてしまった。
派手《はで》に相手を吹っ飛ばすはずの神聖魔法が、ギュンターが無造作《むぞうさ》に片手を前に伸ばした途端《とたん》、見えない障壁《しょうへき》に弾かれてしまったのだ。
見えない……いや、よくよく目を凝らせば、彼の前面に魔力が集中し、薄い光の盾《たて》が生じているのがわかる。
「マジック・シールド、だなんて」
フェルトは思わず呻《うめ》く。
「あなたは、魔法使いだったのか!?」
ブツブツ呟《つぶや》いてたように見えたのは、ルーンを唱えていたせいだったのだ!
マントを翻《ひるがえ》し、ギュンターは最後の数メートルを疾走《しっそう》、初めてすらっと抜いた魔剣《まけん》を、フェルトの喉元《のどもと》に突き付ける。
真面目《まじめ》くさった声音《こわね》で返事をくれた。
「……私は別に、ルーンマスターというわけではないですね。しかし、『魔法は使えない』と、誰かに言った覚えもないですが」
いささかひねくれた言い方をした後、改めてこう尋ねてきた。
「それで、降参《こうさん》してくれますか?」
フェルトとしては、頷《うなず》くしかなかった。
「ギュンターさまは魔法も使えたのですね!」
シェルファは少なからず感心して、無表情にゲートから去る彼を見送る。
観客席をついに一度も見なかったのが、なにやらあの人らしいと思う。
「……そのようです。色々と器用な方ですね、本当に」
感嘆《かんたん》のセリフの割に、意外と冷静に語るミランである。
「遠征したレインの情報を、いつも素早く運んでくださる理由がわかりましたわ。あの方自身が、マジックビジョンでレインとお話ししていたのですね」
もっと早くに教えてくれていたら、わたしも留守中のレインとお話し出来たのに――という思いが、セリフにどっぷりと籠《こ》もっている。
「そんな風にせがまれるから、あえて黙っていたのでは?」
シェルファの不満に、ミランはからかうような声音《こわね》で返した。
「もっとも、あの方のことですから、あるいは単純に『訊かれなかったから言わなかっただけ』かもしれないですけどね」
「……お仕事なのはわかりますけど。でも、わたくしだって、レインとお話ししたいです」
レインに関することだと、めっきり聡明《そうめい》さに刃《は》こぼれが生じるシェルファだった。
自分でもその辺の事情や道理はわかっているのだが、どうしても普段に似ず、拗《す》ねた声音《こわね》になってしまうのだ。
「まあ、それはそれとして」
ミランは相手にしようとせず、ささっと話を変えた。
これまた、なぜか全然不快に思わないのは、この青年の人徳《じんとく》だろう。
「第二戦が始まりますよ。……どうやら、噂《うわさ》の勇者の登場です」
勇者アベル――と名乗る少年は、まさに騎士の正装をしていた。
家伝《かでん》の逸品《いっぴん》なのか、それともわざわざ本大会のために買い求めたものか、銀色の大仰《おおぎょう》な鎧《よろい》を纏《まと》っている。しかもその鎧《よろい》たるや、予選を勝ち抜いたというのに染《し》みや汚れすら見当たらず、磨き込まれたばかりのように綺麗《きれい》なのだ。ピカピカと陽を照り返している様は、防具屋《ぼうぐや》の看板か、あるいは城の広間に飾っておけるほどである。
首から上だけはさすがに素のままだが、あとはフル装備の鎧姿《よろいすがた》だった。
アベル本人はハイティーンくらいの少年で、シェルファに対抗するような金髪に、碧眼《へきがん》(白目はちゃんとある)をしている。
ここまででも相当以上に押し出しのいい少年だが、彼はゲートを抜けた直後、さらにシェルファの意表《いひょう》を突いてくれた。すぐには中央に進まず、くるっと回れ右をするや否《いな》や、すらっと長剣《ちょうけん》を抜いたのだ。
純白のオーラを放つ魔剣《まけん》が、鎧《よろい》と競うように輝きを放つ。
「姫君よ! このアベル、今日より貴女《あなた》に我が剣を捧《ささ》げます。今後の私の戦いを、どうかご覧あれ!!」
大真面目《おおまじめ》かつ、元気一杯の声。
宣誓《せんせい》の後、まるで喝采《かっさい》を待つ感じでこちらを見上げている。
どこかに異国の姫君がいらっしゃいますか?
そう思って振り返ったシェルファは、またしてもミランにたしなめられた。
「いや、だから。あれは陛下に忠誠《ちゅうせい》を誓っているのですよ。陸揚げされたマグロじゃあるまいし、ここらに姫君がそう何人もゴロゴロしているわけないです」
た、例えは無茶だけど……それは確かに。
でも、急にそんなこと言われても困ります……。それでもぎこちなく微笑《ほほえ》み、声に出した。
「わたくしのことはともかく……がんばってください」
それと、別に剣を捧《ささ》げてくださらなくても――反射的にそう思ったけれども、もちろん口にするのは避けた。
本戦に出場したということは、この試合の結果がどうあれ、大会終了後にはサンクワール王家に、つまりシェルファに仕《つか》える公算が高い。彼の言いようは、決して間違っていないのである。
ただ、シェルファ本人が、そのセリフに実感を持てないだけで。
彼女はそもそも、心の底では未《いま》だに、レイン以外の何人《なんびと》も頼りにしていないし、する気もなかったりする。なぜなら、自分がもっとも苦しい時、もっとも助けを必要としている時に手を差し伸べてくれたのが、実にレインだけだったから。
――確かに、今になって大勢の味方が出来つつあるが。
心苦しいながらも、シェルファとしてはそれらの人々を急に信じる気にはなれないのだった。
息を詰めて待っていた少年は、喜びに溢《あふ》れた声で叫んだ。
「はいっ! 僕の戦いぶりを見ていてください、姫君っ」
なにか、恐ろしいほどにやる気が出たようだった。
会場の女性陣からは黄色い悲鳴。男性陣からは主に「馬鹿やろー、気取ってんじゃねえっ!」とか、「引っ込め、ド阿呆《あほう》ーーっ」等の野次《やじ》がザクザク飛ぶ。
……色んな意味で注目度の高い戦士だった。
次にゲートから姿を見せたのは、シルヴィアである。
本戦の組み合わせは既《すで》に抽選で決まっているのだが、客達には試合が始まるまで知らされない。
よって、背筋《せすじ》を伸ばした彼女が颯爽《さっそう》と現れると、場内は大いに沸《わ》いた。
今日の彼女は、上衣《うわぎ》は昨日と色違いのピンク色のブラウス、そして下は白いショートパンツである。昨日同様、シルヴィアは実に愛想《あいそ》よく、客席に惜しみなく手を振る。シェルファのいる方へは特にたくさん、ぶんぶん振ってくれた。
開始時間が迫り、シルヴィアとアベルは中央で顔を合わせた。
天上の女神を見たような至福《しふく》の表情のアベルを見やり、シルヴィアはちょっと肩をすくめた。
ま、世の中には色んな人間がいる。それは理解しているつもりだ。
とか思って双剣《そうけん》を抜いたところで、向こうはいきなり声をかけてきた。
「……あの、できれば降伏《こうふく》してもらえませんか」
「――は?」
先程《さきほど》のシェルファのように後ろを振り向きかけ、かろうじて堪《こら》える。もちろん、この場にはシルヴィアしかいない。わかってはいるのだが、失笑が洩《も》れるのはどうしようもない。
「……相手が女の子だと、やる気が出ないのかしら?」
アベルは困ったような顔をしたものの、この上なく正直に返した。
「有《あ》り体《てい》に言えばそうです。貴女《あなた》が強い人なのはわかっていますが……それでも僕は、女性相手に戦いたくない」
「う〜ん……」
銀色のツインテールを無意識に背中へと払い、シルヴィアは天を仰ぐ。
本人は、別に悪気などないのだ。それは見ていてわかる。多分、この少年は本気で『正義の騎士』を志《こころざ》しているのだろう。そして巷《ちまた》に流布《るふ》する騎士道から言えば、婦女子《ふじょし》は守る存在であって、戦う対象とは成り得ないのである。
しかし、言っちゃ悪いが、約一名を例外として、世の騎士などこのシルヴィアの敵ではないのも、また事実なのだ。未熟《みじゅく》な少年が己《おのれ》より強い者を守ろうなど、傲慢《ごうまん》を通り越して滑稽《こっけい》ではないだろうか。――いかに、アベルの実力が本物とはいえ。
なので結局、こう言うしかなかった。
「悪いけど、あたしは降参《こうさん》する気はないの。ごめんね」
アベルが返事する前に、無情にも審判《しんぱん》の手が振り下ろされた。
やむなし、とばかりに剣を構えようとしたアベルを、二筋の閃光《せんこう》が襲《おそ》った。
まだ相当に両者の距離が開いていたにもかかわらず、シルヴィアが瞬時にその差を埋めてしまい、双剣《そうけん》を叩きつけたのだ。
「――むっ」
アベルの魔剣《まけん》が正確に二度鳴った。
袈裟斬《けさぎ》りに迫った、シルヴィアの左手の一の剣、その直後に胸を串刺しにせんと襲《おそ》い来た右手の二の剣、その双方を確実に弾き返したのである。彼はそのまま、素早いサイドステップでシルヴィアの脇《わき》へ回り、自ら斬撃《ざんげき》を浴《あ》びせることさえした。
しかし、これは彼女が造作《ぞうさ》なくかわし、二人は互いに間合いを取り直す。
観客席からざわめきが洩《も》れた。
シルヴィアが出た試合で、初手から一方的な展開にならなかったのは、これが初めてだったからだ。油断なく構えるアベルに、シルヴィアは未《いま》だ、余裕の窺《うかが》える笑《え》みを向ける。
「やるわね。確かにあなたは、多少はできるみたい。少なくとも、これまでは無敵を誇ってきたんじゃないかしら?」
これまでは、の部分に力を入れて話す、シルヴィア。
「……あまり褒《ほ》められている気がしませんけど。しかし、これでわかってもらえたはず。貴女《あなた》のスピードとパワーを持ってしても、僕を捉《とら》えることは出来ないんです」
「慌てないで。『少なくとも、これまでは』と、いま言ったばかりでしょ」
シルヴィアはくすくす笑う。
「もう少し本気になるわね……ふふっ……どこまで付いてこられるかしら♪」
その瞬間、シルヴィアのほっそりした身体が疾風《しっぷう》と化す。
足下《あしもと》から砂塵《さじん》が舞い、そして二振りの魔剣《まけん》が二筋の青き光芒《こうぼう》となって、一瞬の軌跡《きせき》を残す。
鮮血《せんけつ》の紅《あか》い筋を引きつつ、アベルは今度こそ吹っ飛ばされた。何度か転がる過程でようよう体勢《たいせい》を立て直し、立ち上がろうとしたところへ、直上より第一の剣が風を切る音。
――彼女に追撃されていたのだ。激しい音と共に魔剣《まけん》同士が激突《げきとつ》し、スパーク音と火の粉が散る。
ごがっ、という歪《ゆが》んだ轟音《ごうおん》を残し、アベルを中心に大地に罅割《ひびわ》れが生じる。それでも一の剣を押し返して背後へ跳躍《ちょうやく》したのは、「勇者」を自称するアベルならではだったろう。
ともかくも、彼女の重い剣撃《けんげき》に対抗し得たのだから。
しかし、空中でアベルは見る。
シルヴィアが自分と同じく宙《ちゅう》に舞い、そして双剣《そうけん》を振り上げるのを。
「やはり、彼の反応速度には遠く及ばない、か。――ごめんねっ」
最後のごめんは、衝撃《しょうげき》の後に来た。
剣撃《けんげき》を視認《しにん》することは叶わなかった。ただ視界一杯に、真っ青な光が満ちただけだ。
防御《ぼうぎょ》した魔剣《まけん》ごと吹き飛ばされ、アベルは大地に叩きつけられた。固い地面で一度バウンドし、それでもなお、すかさず立ち上がる。
ふわっと着地したシルヴィアは、やや感心したような表情をした。
「さすがは勇者の血を引く戦士。……怪我《けが》しなくてよかったわ」
「怪我《けが》は、してますが」
鎧《よろい》の胸部と腕の部分に走った裂《さ》け目を見て、アベルは唸《うな》る。あと、せっかくの鎧《よろい》も、いきなりべコベコである。でもまあ、腕の傷が既《すで》にふさがりかけているのは、瞠目《どうもく》に値《あたい》するだろう。
シルヴィアは真面目《まじめ》くさって言う。
「ふむふむ。では、もう少しスピードアップしますか」
息を呑《の》んで見守る観客達の目の前で、シルヴィアの身体がすっとぶれる。
銀のツインテールをなびかせ、彼女は残像とともにアベルの前に躍《おど》り込む。
「――くっ」
双剣《そうけん》を迎え撃とうとした彼は、しかし相手が突然ふっと眼前《がんぜん》から消えるのを見て、思わず碧眼《へきがん》を見開いた。
「足下《あしもと》だっ」
直感は正しかったが、反応しきれなかった。
「ハッ!!」
凛《りん》とした気合いの声が、アベルの耳を打つ。
斬撃《ざんげき》を浴《あ》びせると見せかけ、さっと身を沈めたシルヴィアは、長い足でアベルの両足を蟹挟《かにばさ》みの形に挟《はさ》み、無茶な体勢《たいせい》から力任《ちからまか》せに身をひねったのだ。
下半身を崩されたアベルの身体が、ふわっと傾《かし》いだ。
彼が転倒しかけた時には、彼女は既《すで》に地面の上でダンサーのように身体を回転させ、逆立ちするような姿勢から立ち位置に復帰している。
倒れて呻《うめ》くアベルに、今度こそ双剣《そうけん》が襲《おそ》いかかった。
重い剣撃《けんげき》を受けて大地が激震《げきしん》、土埃《つちぼこり》と一緒にまたもや血飛沫《ちしぶき》が飛んだ。
剣撃《けんげき》の方向に沿って、二筋の衝撃波《しょうげきは》が平行にざあっと走り、それぞれ深々とした亀裂《きれつ》を残す。
アベルは一瞬の差で身をひねってかわしたものの、一撃《いちげき》は避けきれずにまた腕をかすっている。今の血飛沫《ちしぶき》はそれだった。
転がりつつなんとか立ったが、体勢《たいせい》を立て直す暇などない。
観客席の黄色い悲鳴で危機を察知《さっち》したか、アベルは両手をクロスさせて身体の前面を防御《ぼうぎょ》する。
次の瞬間、間合いを詰めていたシルヴィアの回し蹴《げ》りがそこへぶち込まれた。
「――! ぐうっ」
勇者アベルは、シルヴィアのこれまでの敵同様、軽々と飛ばされた。
およそ十メートルも背後へ滑空《かっくう》、ゲート側の壁に景気よく叩きつけられてしまう。
座《ざ》しているシェルファにまで、振動が届いたくらいである。
それでもなお、よろよろと立ち上がったアベルに、シルヴィアは正直、ちょっとこの少年を見直した。普通なら絶対に死んでいる。
まあ、それくらいの耐久力はあると見たから、多少キツめの攻撃を仕掛けた訳だが。
アベルはよろばい歩きつつ、途中で飛ばされていた剣を拾い、性懲《しょうこ》りもなく場内中央へ戻った。
表情にはそろそろ敗北感が広がり始めていたが、しかし未《いま》だに、その碧眼《へきがん》は闘志《とうし》を失っていない。
「……確かに貴女《あなた》は強い。だけど、僕はこれでも勇者の末裔《まつえい》っ。こんなところで負ける訳にはいかないんです!」
言下《げんか》に、アベルは剣を持たない左手を、シルヴィアに突き出す。
途端《とたん》に観客の目を灼《や》く雷光《らいこう》がばばっと走り、悠然《ゆうぜん》と立つシルヴィアを直撃した――が。
「――甘いっ」
叱声《しっせい》とともに彼女が片手を振ると、光の矢のように襲《おそ》ってきた雷光《らいこう》は、全て払われてしまった。
無数の蛍火《ほたるび》みたいに四方に散った雷光《らいこう》の破片《はへん》を見やり、アベルはさすがに顔色を失う。
「馬鹿なっ。ルーンを唱えた形跡はなかったのに!」
自分を棚に上げ、呻《うめ》く。
それでもまたしても腕を振り上げ、「これならどうだっ」と力を解放する。
今度は純粋な魔力が光熱波《こうねつは》と化して直進、しかしシルヴィアが腕を一振りすることで、これまたあっさりと光が消滅《しょうめつ》してしまう。よく見れば、彼女の腕は肩の付け根までが淡く光り輝いており、どうやらそこに魔力を集中して攻撃を弾いていたようだった。
ただし、マジック・シールドに頼らないそんな防御法《ぼうぎょほう》があるなど、一般に流布《るふ》する魔法知識の圏外《けんがい》である。
「……い、今の時代に、そんな優秀なルーンマスターが残っているはずないのにっ」
微《かす》かに畏怖《いふ》の籠《こ》もるセリフに、アベルの動揺《どうよう》がモロに出ている。
もはや、相手を見下ろすかのような傲慢《ごうまん》な物言いは、完全に鳴りを潜《ひそ》めてしまった。
呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす彼に、シルヴィアが声をかける。
「……よりにもよって、このあたしに魔法で勝負を挑む気かしら。ルーンなしで魔法を使えるのは、なにも古龍《こりゅう》や勇者や魔人《まじん》だけではないわよ?」
歓声さえ途絶えて驚愕《きょうがく》する場内に、くすくす笑いが響き渡る。
「現在、人間達に流布《るふ》する魔法体系を完成させたのは、誰あろうこのあたし、シルヴィア・ローゼンバーグ! かつての大戦以後、世界から『魔法』という名の偉大なる秘義《ひぎ》が忘れ去られ、ルーンマスターが次々と姿を消そうと――」
誇らかな声が続ける。
「このシルヴィアの生ある限り、魔法そのものが滅《ほろ》び去ることは決してないわ!」
雄々《おお》しい宣言の後、シルヴィアの頭上にいくつものまばゆい光球が生じる。
拳《こぶし》大の球形をしたそれが、高密度の魔力の結晶であることを、アベルは戦慄《せんりつ》とともに理解した。
自らも魔法を使うだけに、そのとんでもなさが嫌でもわかってしまうのだ。
かつての魔法全盛期の、一流と呼ばれたルーンマスターであろうと、あんな光球は一つも作れはしないだろう。そんな代物《しろもの》を、彼女は平気そうな顔で、気安く数十も生み出しているのである。いや、それどころかまだ増えていく。
光り輝くそれらは、銀髪の上で回転しつつ、見る見るうちに増殖《ぞうしょく》していく。
明滅《めいめつ》するオレンジ色の光が、次に来る破壊を予想させた。
「いきなさいっ!」
シルヴィアの叱声《しっせい》が上がったその瞬間、それらの魔力エネルギーが、光の尾を引いて一斉《いっせい》に飛んだ。
真っ直ぐに、敵の立っている付近へと。
必死の形相《ぎょうそう》でマジック・シールドを張ったアベルの周囲に、轟音《ごうおん》と光が満ちる。
瞬《またた》くほどの間を置き、次々と光球が爆着《ばくちゃく》、濛々《もうもう》たる土埃《つちぼこり》と魔力の輝きが勇者を名乗る少年を覆《おお》い隠す。十数秒に渡る全開の魔法攻撃がやっとやみ、土埃《つちぼこり》の帳《とばり》が微風で払われた時に――
周囲を無惨《むざん》に掘り返された荒れ地に立つ、呆然《ぼうぜん》とした顔のアベルがいた。
……彼が二本足で立っている狭い場所のみ、先程《さきほど》までの平坦《へいたん》な大地だった。
光球が故意《こい》に少年を避けたというのは、静まりかえった観客達にも、またアベル本人にも、嫌でもわかった。
自分の生み出したシールドで、今の魔法攻撃を防げたはずだ――などと豪語《ごうご》するほど、アベルもおめでたくない。
静寂《せいじゃく》に包まれた場内を、シルヴィアは双剣《そうけん》をだらっと下げてしずしずと前進する。
わずかな距離を置いて、少年と再び相対した。
「あ、貴女《あなた》は一体、何者なんです!?」
「いいから聞きなさい、少年。あたしは三千七百年を生きている。これは単純な話よ、わかるかしら?」
「わかるわけないですよ。なにが言いたいんです、貴女《あなた》は!」
アベルの声は、はっきりと震えていた。
対してシルヴィアの声はあくまでも静謐《せいひつ》である。
「じゃあ、教えてあげるわ。百万歩|譲《ゆず》って、貴方《あなた》とあたしの才能が、同程度だったとしましょう。でも――」
妖艶《ようえん》な顔で、少女は微笑《ほほえ》む。
「それならこの年月の差はどう埋める気? あたしが戦った数千年の時を、どう覆《くつがえ》すのかしら? 才能が同じなら、単純に修練を積んだ長さや経験が勝負を決める……そう思わない? それが当然の結果だと感じない?」
言葉を失ったアベルに、むしろ優しい声で教えてやる。
「あたしを倒せる者が世界のどこかにいるとしたら。それは、人が少しずつ上るべき階段を、一気に飛び越えてしまった天才だけ……。天賦《てんぷ》の才能を持つ真の天才のみが、時の流れを無視して不可能を可能にするの」
小首を傾《かし》げ、夢見るように言う。
「ただの人間があたしを倒したいのなら、そういう人じゃないとだめなのよ」
――残念ながら、今のあなたはそういう人じゃないわ。
最後にそのセリフを聞き、アベルはがっくりと肩を落とした。
途端《とたん》に、場内に地鳴りのような大歓声が満ちたのである。
観客達は皆、シルヴィアの見せた力の一端に驚いていたが、別の意味で大いに驚いた者も複数いる。例えば、フォルニーアがそうである。
彼女は冴《さ》えた美貌《びぼう》に似ず、目を丸くしてさっきの攻撃を見やり、それからとりあえず、隣に座っていたセイルの首を締め上げた。
ちょうどいい場所にあったので。
「どういうことなのだっ? あれは前にレインが、ジョウと一騎打《いっきう》ちした時に見せた術だぞ!!」
「――て、俺に言われましても〜。俺、そもそも、あんなに無茶で身も蓋《ふた》もなくて、しかも恐ろしげな魔法攻撃、初めて見たんですが。レインさんのお得意技だったんですか?」
そうか、こいつはあの時、あそこにいなかったな。
遅ればせながらそれを思い出し、セイルの襟元《えりもと》から手を放しかけたフォルニーアだが。
なぜか彼が、足下《あしもと》の鞄《かばん》を自分の膝《ひざ》に乗せているのに気付き、顔をしかめた。
「……今頃、なにを手荷物など気にしている、セイル?」
セイルは頭をかき、
「いやぁ――。こりゃもう、帰り支度《じたく》しておいた方がいいなー、なぁんて」
フォルニーアは、改めて大喝《だいかつ》した。
「ば、馬鹿者ーーーーーっ!」
そして、驚いたもう一方は、もちろんシェルファである。
勇者敗れる――というその一事は割とどうでもよく、シルヴィアがレインの使った攻撃法を見せたことで、おそらくは観客の誰よりも動揺《どうよう》していた。
「なぜ、どうして、レインの使っている術を、あの人が使ったんでしょう……」
救いを求めるように、ミランを見上げる。
さあ〜? と首を傾《かし》げたミランの代わりに、あらぬ方向から声がした。
「正確には、あたしが彼の工夫した術を借用したんですわ、陛下」
二人してそちらを見ると、目の前の手すりに、いつぞやのようにシルヴィアが立っていた。ただし、彼女本人は未《いま》だ場内におり、ここに立っているのは淡い光が集まってできた、人形である。
「マジック・ボディで失礼します。早く説明をお聞きになりたいかと思ったので」
普段なら「どのような秘技《ひぎ》でしょうか、その姿は」とか訊くところだが、今はそれどころではない。シェルファは早速、光り輝く彼女に尋ねた。
「あの、先程《さきほど》の『借用』とは、どういう意味でしょうか?」
「つまり、あたしはかつて、ちょっとした縁《えん》でレインに魔法を教えることになったのですけど――。彼が立ち去る間際、あたしが教えたことを吸収し、彼自身で工夫して、ああいう攻撃法を考案した訳です。あたしはレインの魔法の師ではありますが、あの時はさすがに驚きました。……教えたことを自分のものにするだけでも大変なのに、彼はそれを平然とこなし、さらに自らの力でその先の領域へ進んで見せたのですから」
輝く像が、遠い思い出を懐かしむように微笑《ほほえ》む。
「今、あえてそれを使ってみせたのは、あたしの素性《すじょう》を説明するのにちょうどいい、と思ったからですわ」
「レインの先生だったのですか!」
シェルファは大いに驚き、それから早速、シルヴィアさんに、その頃のレインのことを聞かねばっ、と固く心に誓った。
出来れば今すぐそうしたかったが、あいにくまだ本戦は、二戦目が終わったばかりである。
彼女は、「では、また後ほど」などと短い挨拶《あいさつ》を残してさっさとマジック・ボディを消してしまい、悄然《しょうぜん》としたアベル共々、控え室の方へ去ってしまった。
――☆――☆――☆――
シェルファは、未《いま》だ動悸《どうき》のやまない胸を、片手で押さえている。
このまま席を立ち、シルヴィアを追って控え室に行きたいのだが、かろうじてそれを我慢していた。立場上、そうもいかない。
そうすることは、これ以後の試合が予定されている人達に対し、礼を失する行為だと思うからだ。
せめて驚きを共有しようと、「シルヴィアさん、意外でしたわね?」とまたミランを仰いだものの、彼はいつもの真面目《まじめ》な顔に似ず、目を細めて空っぽになった場内の一角を見つめていた。
そう言えば、今日は何度かそんな彼を見たような気がする。あのシルヴィアも、退場間際に同じ場所をちらっと見たような。
小首を傾《かし》げたシェルファがミランの名を呼ぶと、彼はのんびりとこちらを向いた。
「ああ、失礼しました。――なにか?」
「いえ……。ミランさまこそ、なにか気になることでもお有りですか?」
「ああ、いや。別に大したことでは」
にこっと温《あたた》かい微笑《ほほえ》みを見せる。
「ただ、頼んだら僕も魔法とか教えてもらえるかなー、なんて思ってました……ははは」
頭を掻《か》き掻《か》き、ゲートの方へ目を戻す。
「あ、第三戦が始まるようですよ、陛下」
シェルファは、ため息をついて座り直した。
今は試合に集中しましょう……今度はどんな人が現れるでしょうか。
いきなりゲートから走り出てきたのは、昨日、大きな声でフェリスを応援(と罵声浴《ばせいあ》びせ)をしていた青年だった。
確か、アークという名だったはず。
その彼は、なにも慌てる必要などないのに力強く場内に駆け込み、「おっしゃああっ! ついに優勝が近付いたぜっ」などと雄叫《おたけ》びを上げる。まだ相手は姿を見せていないのだが、アークは自分の勝利に一片の疑念も持たないらしく、片手を天に突き上げている。
やる気十分というか、やる気が有り余って総身から溢《あふ》れ出しているような感じだった。
観客の方が気を呑《の》まれて、こんなに傲岸《ごうがん》な態度にもかかわらず、ロクに野次《やじ》すら飛ばない。
かえって、拍手する者が多かった。
これはシェルファの直感に過ぎないが、この人はなんとなく、生まれつきリーダーの資質を持っている気がする。蛍火《ほたるび》と太陽ほどの程度の差はあれど、そこは、あのレインと少しだけ似ているかもしれない。
ただし、レインが時に見せる陰《かげ》のある表情などは、この青年のどこにも見当たらなかった。
今もシェルファの方を見て、ニカッと破顔《はがん》したくらいだ。
「よお、お姫様! 俺の試合を見ててくれよな――いや、見ててくださいっ」
「はい……がんばってくださいね」
シェルファは小さく微笑《ほほえ》み、頷《うなず》いた。
ほんのわずかでもレインと似た点があれば、シェルファにとっては『応援したい人』なのである。
そして次に出てきたのは格闘士《かくとうし》のガスで、この戦士はまた、馬鹿馬鹿しいほどの大男だった。
本大会ではそれこそ無数の巨漢《きょかん》が登場していたが、彼は明らかに格別《かくべつ》である。
身長だけならさほどでもない(とはいえ、二メートル近くはある)ものの、とにかく筋肉の総量が桁違《けたちが》いなのだ。静かな表情でのしのしと入場してきた彼の姿は、あたかも小山が移動するような大迫力があった。
昨日の予選時、ガスの戦ったGブロックは、終始シェルファの席から遠い位置だったので、驚きもひとしおである。彼はゲートを完全に抜けると、ゆっくりと身体の向きを変え、直上の観客席を――つまり、シェルファの方を見上げた。
恭《うやうや》しい態度で一礼し、掠《かす》れた声を出す。
「我らが王よ! 試合の前に、恐れながら御身《おんみ》にお声をかける無礼《ぶれい》をお許しくださいませ。ぜひとも申し上げたき、儀《ぎ》がございます……」
彼のセリフは、声が小さいという以前に、なにかやたらと聞き取りにくかった。
相当に耳がいいはずのシェルファが、最初は前屈《まえかが》みで耳を澄《す》ませ、「申し上げたい」と聞いた後は礼を失しないように立ち上がり、目の前の手すりに近付かねばならなかった。場内に張り出したごくごく狭い客用通路に立ち、手すり越しにガスを見下ろそうとする。
とそこで、なにやらふと視線を感じて、顔を巡らせた。
左手のずっと向こう、立ち見まで出ている一般観客席に、見覚えのある白い髪の少女が紛《まぎ》れ込んでいる。なにか、やたらと手を振っていた。
「タルマ……さん?」
意外な再会に驚き、シェルファは瞳を瞬《またた》く。
彼女が挨拶《あいさつ》ではなく、警告のために手を振っているのだと気付いた時には――
――もう遅かった。
ヒュン、という不気味《ぶきみ》な音がしたと思ったら、シェルファの身は既《すで》に空中に投げ出されていたのである。
つい今し方、自分が掴《つか》もうとしていた丸い手すりが――いや、立っていた細い通路自体がバラバラになり、一緒に落下している。誰がどんな手段を使ったのか定かではないが、その誰かは、シェルファの足下《あしもと》ごと、広範囲にわたって通路を破壊してしまったらしい。
わずかな高低差を落下する間、シェルファは無意識にそんなことを考えていた。
次に、地面が間近《まぢか》に迫って、本能的に目を閉じてしまった、その時――背後からの手に抱きかかえられ、次の瞬間、彼女の総身に軽いショックが届いた。そしてすぐに、その誰かが大地を蹴《け》って跳ぶ感触。
驚いて目を開けると、自分の真上にミランの真面目《まじめ》そうな顔があり、モロに視線がぶつかった。
事態を把握するより先に、シェルファはまず、どっと動揺《どうよう》した。
――! どうしましょうっ。
レ、レイン以外の殿方《とのがた》に抱かれてしまいました!
いや、そんな心配している場合ではないのは、自分でもよくわかっているのだが。
ミランは、多分わざとだろうけれど、シェルファの顔を見て苦笑した。
「決死の思いで一緒に飛び降りたのに、その嫌そうな顔はなんですかー、陛下」
「ご、ごめんなさいっ。助けてもらったのに、本当にその――ご、ごめんなさいごめんなさい!」
ぺこぺこ謝りつつも、一刻も早く下に降りようとするシェルファを、ミランはそっと地面に立たせてくれた。罪悪感で胸が塞《ふさ》がる思いだが、彼女的には状況がどうあれ、ああいう風に密着《みっちゃく》されるとどうしても拒否反応が出るのである。
だが、本当にそんな場合ではなかった。
「ケヴィン、結界《けっかい》を張ってくれ。レスター、おまえはバックアップを頼む!」
ガスと名乗っていた例の大男が、別人のように猛々《たけだけ》しい態度で、誰かに怒鳴《どな》っている。
さっきまでの殊勝《しゅしょう》な態度など、もうどこにも残っていない。
そしてシェルファは、今になって、意外にあの大男と距離が空いているのに気付く。
目を閉じていたので、確かなことはわからないが、どうやらミランは落下途中で自分を抱き留《と》めただけではなく、着地したその瞬間、大きく跳躍《ちょうやく》して間合いを空けたらしい。
「結界《けっかい》ではないわい。広範囲に作用するシールドじゃわい!」
場内のどこかからしわがれた声が、先のガスに応答した。
すると、ガスのずっと後方でなにもない空間が派手《はで》に揺らぎ、二人の男が姿を見せた。
片手に杖《つえ》を持ち、黒いローブを着込んだ老人と、体重過多の青年である。
さっきまで影も形もなかったのに、彼らはまさに突然、そこに登場した。
「ふう。姿隠しの魔法は魔力の消費は少ないが、消えている間はどうも落ち着かんわいのぉ」
「――しょうがないさ。あの子の周辺には、魔力|結界《けっかい》が張ってあったんだから。それがなきゃ、もっと簡単に殺せたけど。でも、俺はこっちの方が面白かったけどな。本物の特等席だしね」
のんきに会話する新手二人に、ガスが手で注意を促《うなが》す。
「無駄口《むだぐち》はいいっ。周囲に注意してくれ。そろそろ護衛《ごえい》が駆けつけるぞっ」
「案ずるな、バジル。わしのシールドは簡単には破れん……。じゃが、まさかとは思うが、さっきのシルヴィアとかいうのが戻ってこんうちに片をつけてほしいのぅ」
老人は気難《きむずか》しい顔で首を振った。
シェルファには、まだ詳しい事情がわからなかったが……どうやらガスという名の大男は、偽名《ぎめい》を使っていたようである。バジルというのが本名らしい。
「あの女、観客席の魔力|結界《けっかい》を物ともせず、マジック・ボディを発現させおった。もしあの女がこちらの敵に回ったら、さすがのわしも防げる気がせんわい」
「安心しろ、さほど時間はかからんはずだ」
いきなり、新たな怒声《どせい》が上がった。
「待ちやがれ、ぐらああっ!」
ガス改め、バジルを上回るどでかい声であり、シェルファ達も含めた全員の視線を、有無《うむ》を言わさず引きつけるド迫力があった。バンダナを頭に巻いた偉丈夫《いじょうふ》であり、つまりはガスと対戦するはずだった、例のアークである。
シェルファを助けるつもりなのだろう、剣を振りかざして突進して来る。
「事情はわからんが、その子になにしようってんだ、おおっ!? さてはおまえら悪党《あくとう》だな、悪党《あくとう》だろっ。つーか、たった今俺が悪党《あくとう》だと認定したぞ、こるらあっ!」
大音量で喚《わめ》きながら、怒髪天《どはつてん》を衝《つ》く表情でぐんぐん接近してくる。
ちょっと用心とか、しばし様子見とか、そういうあいまいな単語とは無縁の、怒濤《どとう》の勢いだった。
「女の子を困らせるようなクソ野郎は、このアーク様が正義の鉄拳を食らわせ――どおおおっ」
最後の「どおおおっ」は、雄叫《おたけ》びの類《たぐい》ではない。
単に彼が、ケヴィンの張ったシールドに全力でぶち当たり、どべんっとコケた時の声だ。
太ったレスターが醒《さ》めた口調で言った。
「……なにやってんの、あいつ?」
ケヴィンも、そしてバジルも答えなかった。一つには、二人とも短い間にコトを片付けようとしていたからだ。今や観客席中が大混乱に陥《おちい》っており、護衛《ごえい》の群れも、中央出口の方へ走る者や手早く客席から場内へ飛び降りようとする者など、様々である。言うまでもなく、彼らはシェルファの救援のため、一刻も早く駆けつけようとしているのだ。時間が経《た》てば経《た》つほど、暗殺者達《あんさつしゃたち》に不利になるのは間違いないのである。
バジルは早速、目を殺意にぎらつかせ、シェルファに近付く。
それを見たミランが、さすがに厳しくも緊張した表情で前へ出ようとした。
――しかし、シェルファが彼を抑えた。
「ミランさまは、どうか退《ひ》いてください」
シェルファは制服の袖《そで》を引き、逆にミランの前へ出た。
「……陛下?」
「わたくしのために、大切なお命を落とすことはありませんわ」
羽織《はお》っていたコートを脱ぎつつ、シェルファは寂しい微笑《びしょう》を浮かべる。
そもそも、タルマが注意を促《うなが》してくれたことで、シェルファにもおおよその見当は付く。
この人達は例の、自分を狙う集団から送られた刺客《しかく》だろう。彼らの狙いが自分の命にあるのなら、ミランを巻き添えにするべきではない。心からそう思う。わたしのために戦ってもらうなど、過分な行為だ。……わたしにとっての例外はたった一人、あの人だけでいい。
確実な死が迫ったからといって、シェルファは急に自分の信条を変えようとは思わなかった。
コートの下は純白のドレス姿でありながら、腰にはちゃんとレインにもらった刀を帯びている。
それをすらっと抜き、刀身《とうしん》の輝きを露《あら》わにする。
いささか見直したような顔で、バジルは足を止めた。距離は、もはや二メートルもない。
小柄《こがら》なシェルファにとっては、目の前に高峰《こうほう》がそびえ立ったようなものである。
「ほぉ。おまえ自ら、我らと戦う気とはな」
「……望みはしませんが、仕方ないですわ」
「ジタバタしないとは意外だ。まさか勝てると思っているはずもないな……奇跡でも期待しているのか?」
「いいえ。そんな都合《つごう》のいいことは考えていません。膝《ひざ》が震え始めていますし、今だって怖くて泣き出しそうです。それでも――」
「それでも、なんだ?」
話しても、この人には理解出来まい。
そうは思ったが答えてあげた。ここに至っては、もう隠してもしょうがないと思うのだ。
「大好きな人が……いえ、愛する人がいるんです。後でその人がわたくしの最後の様子を聞いた時、失望してほしくない――ただ、それだけです」
例えば、「シェルファは死が迫った瞬間、ただ震えて泣き叫んでいた」などとレインに告げられるのはまっぴらである。案の定、バジルは眉《まゆ》をひそめて見返した。
予想通り、シェルファの気持ちなどは理解出来なかったらしいが、表情には多少のとまどいが浮かんでいる。
「よくわからんが、少なくともおまえは、我らが思っていたよりはマシな奴だったらしい。その覚悟《かくご》に免じ、せめてひと思いに殺してやろう。……忌《い》むべき敵ながら、一片の慈悲《じひ》を持ってな」
ケヴィンが遠くから口を挟《はさ》んだ。
というか、喚《わめ》き立てた。
「なんでもいいから早く殺すのじゃ、バジル。なにか、なにか様子がおかしいっ。嫌な予感がするわいっ。――急げ!」
せっぱ詰まった声に、バジルは改めて両手を構えた。その手の間に、きらっと何かが光る。
死の息吹《いぶき》を感じ、シェルファは大急ぎで最後の問いを発した。
「待って! それがわかりません。なぜわたくしが、忌《い》むべき敵なのですか? わたくしの家、つまりサンクワール王家に恨《うら》みでも?」
「今となっては、知らない方がおまえのためだ」
バジルは微《かす》かに首を振り、重々しく囁《ささや》いた。
「おまえ個人に責任はあるまいが、死んでもらう他はない。覚悟《かくご》を決めるがいい! 痛みのないよう、一瞬で決めてやる」
大きく息を吸い込み、シェルファは刀を構えた。
誰にも聞こえないように、最後の呟《つぶや》きを洩《も》らす。
「死した後も、わたくしの魂《たましい》が永遠にレインの元にありますように……」
いきなり、この場に全くそぐわない、落ち着き払った声がした。
「いや、それは困るぞ、チビ」
歩を進めようとしたシェルファの足が止まる。――い、今の声は。
「口を挟《はさ》んで悪いが、勝手に先に逝《い》かれちゃ困る」
剥《む》き出しの肩が目に見えて震える。
恐怖はたちまちにして消え去り、代わりに歓喜が押し寄せてきた。
わたしが、この声を聞き間違えるはずがない。
「俺がついているのに、そう簡単に死なせてたまるか」
――レインっ!?
シェルファは、慌ただしく振り返る。
ちょうど、ミランの姿がぼんやりと揺らぎ、変化していくところだった。
身長が変わり、顔つきが変わる。着込んでいた白い制服も色が付き、見慣れた真っ黒な上下に変色。おまけとばかりに、腰に帯びていた剣のデザインまであっさり変わってしまう。
ものの数秒で、ミランとは似ても似つかない男に変化してしまった。
――つまり、レインに。
重く沈んでいたシェルファの気持ちが一気に上昇し、モノトーンに近かった景色までが、常態《じょうたい》に復帰していた。問題のレインは肩を揺すり、はあーっと息を吐いている。
シェルファの顔を見て、あっさりと説明してくれた。
「そこまで驚いた顔せんでも。あの、ジョウ・ランベルクに使えた幻視《げんし》の術が、この俺に使えないはずないだろ?」
真っ白な歯を見せ、精悍《せいかん》な顔がにやっと笑う。
「いやぁ、どうせ幻像を見せるなら、もっと不真面目《ふまじめ》な奴を選択しとくんだったな、正味の話。真面目《まじめ》にしゃべってたら、もう疲れること疲れること……。人選をミスったなー」
そのセリフが終わる頃には、シェルファはレインの胸の中に飛び込んでいた。
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第四章 我、正義の使徒《しと》にあらず
――警告が間に合わなかったか!
大いに青ざめたタルマではあるが、自分が飛び出して止めるべきかと迷う内に、護衛《ごえい》の騎士があのレインに変化したのを見た。
「――へえ! あいつ、色々と芸が細《こま》かいなー。はっきり言って、やるじゃん! あたしが出張って警告すること、なかったかもねぇ」
ふうっ、と吐息《といき》を洩《も》らした途端《とたん》、今度は自分が誰かの視線を感じた。
見れば、だいぶ先の客用通路に立ち、あのギュンターがじっと〜とこちらを見ている。どうしてだか、いきなり見つかってしまったらしい。
「いっけない!」
タルマは大混乱の観客達にまぎれ、さっさと撤退《てったい》することにした。
……どうせ、もはや手助け出来ることはない。
腕の中に飛び込んできたシェルファに、レインは思わず苦情を述べた。
「――っと! おまえな、抜刀《ばっとう》したまま飛びつくなよ。今、危なく俺にぶっ刺さるところだったぞ」
顔をしかめ、切々《せつせつ》と諭《さと》す。
「そんなことになったら、せっかくの華々しい登場シーンが、パアだろ。激烈《げきれつ》にかっこ悪いし」
「あ、はい。――でも、レインは意地悪ですわっ。すぐ近くにいたのなら、教えてくださればいいのに! そうしたら、たくさんお話しも出来ましたのに」
「いや……『お話し』はまずいんじゃないか? だいたい、おまえは教えた途端《とたん》に顔に出るから却下《きゃっか》だ」
「……あ。それはそうかもしれません」
「そこは否定するトコだろ、おい!」
などと、小さな声でやりとりした後、レインは大急ぎでしがみついたままのシェルファを引き離した。今ならまだ観客達も、「生命の危機が回避された安堵感《あんどかん》で、思わず抱きついてきた姫君」てな感じのシチュエーションだと好意的に受け止めてくれるかもだが、これ以上はさすがにヤバい。
そして、レインがシェルファを後ろへかばったことで、暗殺者《あんさつしゃ》三人もようやく自失《じしつ》状態から回復したようだった。
まず声を張り上げたのは、ルーンマスターたる老ケヴィンである。
「どういうことだっ。わしは確かにマジックビジョンで見たぞいっ。おまえは、コートクレアス城に入城していたはずじゃっ」
「……あんたが必死こいてトレースしてたのは、俺が幻術《げんじゅつ》で化けさせたレニだろ。見事に引っかかってくれたな」
耳の穴を指でほじりつつ、めんどくさそうに言うレインに、ケヴィンは頬《ほお》を張られたような表情をした。
「あ、あれが幻術《げんじゅつ》じゃと!」
「そういうことだ。それに気付かなかったのは、ルーンマスターとしてのあんたの力量が、俺と天地の差があったからだな。まあ、それは至極《しごく》当然で仕方ないとしても――」
などと駄目《だめ》押しの傲慢《ごうまん》発言を続ける。
「あんたは、自分で思うほど優秀な魔法使いじゃなかったのさ。早々に引退して、じいさんらしく家で庭いじりでもしてるべきだったと、俺は思うがね」
怒りのあまり青黒い顔色で前へ出ようとしたケヴィンを、バジルの手が止めた。
「よせ、そいつに乗せられるなっ。周りを見るんだ、ケヴィン! あんたの魔法で、なんとか脱出できないか?」
言われ、ケヴィンばかりかレスターまでも、あたふたと周囲を見た。
いつの間にか客席の混乱が収まりつつある。
レインとラルファス配下《はいか》の騎士達が一斉《いっせい》に各所に出てきて、客達を落ち着かせているのだ。
彼らの説明を聞き、パニック状態に陥《おちい》るはずだった客達は、急速に冷静さを取り戻しつつあった。いや、それだけではなく、暗殺者達《あんさつしゃたち》のいる場内|唯一《ゆいいつ》の出口たるゲートも、今や大勢の騎士が詰めかけ、外へ逃げ出せないように封鎖《ふうさ》していた。
ちなみに例のアークは、彼が再度立ち上がったところで、場内に飛び込んできたフェリスが無理矢理、端《はし》っこに引きずっていってしまった。
ささっとそれらの状況を見てとり、ケヴィンが苦い顔でブツブツ呟《つぶや》き、上空を見る。
レインがまた口を挟《はさ》んだ。
「どっちにしても、無駄《むだ》だって。レビテーション(空中浮揚《くうちゅうふよう》)なんか使えないぞ。三人で飛び上がったところで、俺の配下《はいか》の『魔法使い部隊』にやられるだけだね」
ケヴィンはぎらっと濁《にご》った目を向けた。
「驕《おご》るな、愚《おろ》か者めっ。誰が逃げるとゆうたかのっ」
「いや、そっちこそ冷静になった方がいいぞ。あんたのやろうとしてることは見当が付く。やるだけ無駄《むだ》だと教えてやってるんだがな、俺は」
「やかましいわいっ。これでも食らうがよいっ、ライトニングッ!!」
ねじくれた杖《つえ》をさっとレインに向ける、ケヴィン。
途端《とたん》に、青白い稲妻《いなずま》の固まりが、膨大《ぼうだい》な光の奔流《ほんりゅう》となってレインへ向かった。
先程《さきほど》のアベルなどとは比較にならない規模の雷光《らいこう》で、老ルーンマスターの年季が感じられた。
不気味《ぶきみ》な青白い輝きが皆の目をくらませ、本物の雷《かみなり》より腹にずしっとくる轟音《ごうおん》が辺りに満ちる。
……ところが肝心《かんじん》のレインの身体に命中する直前で、ぶっとい雷光《らいこう》の束は、鉄壁の壁にぶち当たったかのように他愛なく消滅《しょうめつ》した。ケヴィンが目を剥《む》く。
いや、よく見れば、稲妻《いなずま》が砕《くだ》け散った訳ではない。虹色をしたシールドに魔力エネルギーを吸収され、あっさり無力化されてしまったのだ。
今思い出した、という忌々《いまいま》しい表情をするケヴィン。
「わしとしたことがっ。アンチ・マジックフィールドを忘れておったわ。ドラゴンスレイヤーか……まったく嫌な相手じゃ!」
「だから最初から無駄《むだ》だって言ったろ。なまなかな魔法じゃ、俺には効かない。逆に、俺にせっせとエネルギー補充してるようなもんだ。石でも拾って投げた方が、まだしも気が利《き》いてるな」
不敵なレインの笑《え》みに腹を立てたか、今度は二人が同時に動いた。
バジルが大きく手を振り上げ、何かを投げるように手首のスナップを利《き》かせ、そしてレスターは懐《ふところ》から分厚い紙束を取り出し、ブツブツ呟《つぶや》きながら宙《ちゅう》に投げる。
レインは、特にバジルの動きに対して反応した。
きらっと光を放つ何かを避け、すかさず跳躍《ちょうやく》する。
すぐ後ろのシェルファを横抱きにし、さっと飛び退《の》いたのだ。で、まだ彼が空中にあるうちにその黒髪が幾筋《いくすじ》かちぎれて舞い、頬《ほお》や上着に浅いひっかき傷を作った。
着地と同時に、レインは軽く頷《うなず》く。
「……やっぱり鋼線《こうせん》で通路を破壊したのか。デカい図体《ずうたい》の割に、細《こま》かい芸も出来るんだな、おまえ」
超絶《ちょうぜつ》にエラそうな言い方にバジルがむっとする前に、シェルファが尋ねた。
「鋼線《こうせん》ってなんですか、レイン」
「ほぼ字の通りかな……スティール・ストリングとも言うんだが。鋼《はがね》に近い硬度を持つ糸を、飛び道具として使う技だ。刀より射程《しゃてい》が長く、コントロールが自在なのがメリットかなっ」
最後の『かなっ』の部分でレインは抜剣《ばっけん》する。
刀身《とうしん》があまりの速さに霞《かす》み、ただ光の残像のみを宙《ちゅう》に刻《きざ》む。
極小《きょくしょう》の鋼線《こうせん》が幾筋《いくすじ》も殺到《さっとう》してきたのを迎え撃ち、青き刀身《とうしん》を斜め上に一閃《いっせん》。返す刀で今度は右から左へと斬撃《ざんげき》を放つ。
「俺には見え見えだっ」
きらきらと光る何かが分断《ぶんだん》され、地に落ちるのが、背後のシェルファにもはっきり見えた。
「ならば、これならどうだっ」
巨漢《きょかん》のバジルは、今度は両手で激しく宙《ちゅう》をかくように動かす。先程《さきほど》に倍する鋼線《こうせん》が煌《きら》めきつつレインを襲《おそ》ったが、一筋たりとも魔剣《まけん》の迎撃《げいげき》を突破《とっぱ》出来はしなかった。
その間、レスターが投げた無数の札《ふだ》は、この場内にまんべんなく飛び散っている。
紙吹雪のごとく舞い落ち、一瞬光った後、大地の上でふっと消えてしまう。
だが、その後には札《ふだ》の数だけ、青白く光る魔法陣が見る見る造成《ぞうせい》され、それぞれが生き物か何かのように明滅《めいめつ》し始めた。
レスターがにんまり笑う。
「くくく……確実に数十は出口が出来たな!」
鋼線《こうせん》をあっさり破られ歯軋《はぎし》りするバジルに代わり、勝ち誇ったように哄笑《こうしょう》を始めた。
「俺達を罠《わな》にかけたと思ったなら、あいにくだぜ! 複数|召喚《しょうかん》さえ可能な、この俺の実力をなめんなって。見てろ、すぐにごちゃまんと魔獣《まじゅう》を召喚《しょうかん》してやるからな」
「なにが、『ごちゃまんと』だ。幼稚《ようち》くさいセリフを吐くな、阿呆《あほう》!」
レインが冷笑とともに切り捨てた。
背後のシェルファにもう少し離れるように指示し、ついでにその身の周りをシールドで覆《おお》ってしまう。その間にも、しっかり酷評《こくひょう》を加えている。
「おまえ程度が召喚《しょうかん》する魔獣《まじゅう》なんざ、たかが知れてるね。前置きはいいから、とっとと呼び出せ! 別に俺は止めんぞ」
面白いほど急激に、レスターの顔色が変わった。怒りで醜《みにく》く歪《ゆが》んだ顔で小さな杖《つえ》を振ろうとする。
きわどいところでバジルが止めた。
「待て、レスター! ケヴィンも杖《つえ》を下ろせっ。……レイン、だったな。我々と戦う前に、よく事情を聞いた方がよくないか?」
大男は急に狡猾《こうかつ》な顔になり、分厚い唇を舌で湿らせた。
「おまえは、我らこそが悪だと決めつけているようだが。我々がなぜその少女を襲《おそ》うのか、よく事情を聞いた方が良くはないか? そうすれば、きっとおまえにもどちらが正義かわかるはず――」
「必要ないな」
にべもなく遮《さえぎ》る。
「甘く見ないでもらおう。俺にはもう、おまえらの事情はだいたいわかっている」
よほど意表《いひょう》を突かれたようで、バジルは大目玉を剥《む》いて聞き返した。
「事情がわかっているだと!? ハッタリではなく、本っ当にわかっているのか、貴様っ」
背中の方でシェルファが息を呑《の》むのが聞こえたので、「まあ、気にすんな」というつもりで、背後へそっと手を伸ばしてやる。
シェルファは、それが命綱《いのちづな》かなにかのように、すぐにその手を握ってきた。
彼自身の魔力オーラ(シェルファにシールドかけたので)越しに、彼女の安堵感《あんどかん》が伝わってくる気がした。
レインは顔はあくまで敵へ向けたまま、
「わかってたらおかしいか? 元々、そんなに凄《すご》い大義でもないと思うがな、おまえらのは。どっちかと言うと、時代遅れのくだらない妄執《もうしゅう》だろうよ」
唇の端《はし》を吊り上げ、自他共に認める、憎ったらしい嘲笑《ちょうしょう》を見せつけてやる。
「こいつはとんだ食わせ者じゃ!」
遠くから、またケヴィンが口を挟《はさ》んだ。
「事情を知っていながら、なおも我らを阻《はば》もうとは、人にあるまじき行為じゃわいっ!」
「はっ! コソコソ女の子を狙うような奴らに言われたくないね。それに、おまえ達はなんか勘違いしてないか? 俺は別に正義の味方でもなんでもない。逆に、おまえ達のように『自分達こそ正義の側』なんて信じ込んでいる奴らは、大っ嫌いだな」
「ならば、歴史に悪名を残して死ぬるが良いわっ!」
ケヴィンはこっそりとルーンを唱えていたようだ。
喚《わめ》きつつ杖《つえ》をぶんっと振ると、真っ黒なオーラがそこから広がった。
「バジル、そこをのけいっ。巻き添えを食うぞ!」
「――ぬっ」
大柄《おおがら》な身体に似ず、バジルが横っ飛びに避けた瞬間、黒いオーラはさっきまで彼が立っていた大地を暗黒の色に染め上げ、さらに侵食していった。
(あれは……石!? 大地が石に変わっているっ)
レインの背後で、シェルファはやっと黒いオーラの正体に気付いた。ケヴィンの杖《つえ》の一振りで、辺りがどんどん石化していっているのだ。
その勢いは止まらず、たちまちにしてレインの足下《あしもと》までが石化してしまう。
いや、もう彼の靴から足首にかけて、見る見る石化が進行していた。
「れ、レインっ」
「フォッフォッ! アンチ・マジックフィールドに頼り過ぎるからそうなるんじゃ。いい気味じゃわいっ」
あざ笑うケヴィンに追従《ついじゅう》し、バジルやレスターまでもが薄笑いを浮かべる。
遅れて事情を察し、観客席からは小さい悲鳴が沸《わ》き上がっていた。
それらも、そして自分の惨状《さんじょう》さえも無視し、レインがいきなり問う。
「……俺はさっきからずっと、降伏《こうふく》しろと遠回しに言ってるつもりなんだが。どうやら、おまえ達にその気はないらしいな? どうしてもやり合わないと気が済まないのか。そこまで馬鹿なのか、おまえら」
足下《あしもと》から膝《ひざ》へ――侵食する石化のせいで、既《すで》に微動《びどう》だに出来ないはずなのに、その声音《こわね》には全く動揺《どうよう》が窺《うかが》えない。
「フォッフォッ。負け惜しみにしても、あまり笑えんぞい」
勝者の余裕を見せるケヴィン。
「仲間に助けを求めたところで、もう遅い。お主《ぬし》の身体が完全に石化するまで、その魔法は止まらんのじゃ」
「ふん? 確かにそのようだ。しかし、人を呪う禁呪《きんじゅ》の類《たぐい》を自慢されてもなー。まともな石化の魔法じゃないだろ、これ」
レインは、既《すで》にへその辺りまで来ている石化を、他人事のように見物する。
「人を呪わば――という言葉を知らんらしい。……て、おまえが知るわけないか」
ひどい苦痛が襲《おそ》っているはずなのに、頑固《がんこ》なまでに平静さを崩さず、独白《どくはく》する。
代わりにシェルファの方が心配そうな顔になり、石化している部分を一生懸命に手でさすっていた。だが無論、気休め以上の効果はない。
相変わらず無関心な表情だったレインだが、突然、虚空《こくう》の一点を見つめて目を細めた。
しげしげと遠くを見やり、囁《ささや》くような声を出す。
「気付かないとでも思ったか? 俺には感じるぞ、女。遠くからのうのうと戦況《せんきょう》の確認か、えっ?」
謎《なぞ》のセリフを吐き、きらっと瞳を光らせる。
「読めたぞ……おまえがこいつらの親玉らしいな……やっと逢えたわけだ」
言い終えると同時に、体内の魔力を高め始める。
レインの全身が、じわじわと魔法のオーラで覆《おお》われ、輝き始める。
「見てるだけじゃなく、おまえがかかってきたらどうだ!!」
激しい叱声《しっせい》がほとばしり――
レインの全身が、湧《わ》き出す力の波動でカッと光った。
――野外劇場から離れたさる場所で。
背後のどこかから、世の終わりを告げるかのような、激しい雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いた。
それはともかく、瞬間的に強大な力の波動をも感じ、ロイは足を止める。
廊下で身を翻《ひるがえ》すと、急いで儀式用の大広間に駆け込んだ。
魔法陣の真ん中に、巫女装束《みこしょうぞく》を着たクレアがへたり込んでいる。
いつものしゃきっとした姿勢ではなく、なんと両足の間に腰を落とした女の子座りなどしており、肩で息をしていた。
「どしたい、姫さん。今、恐ろしげな力を感じたが」
「……私は平民生まれですし、姫君などではありませんよ、ロイさん。ただの、組織の代表です」
荒い呼吸をしている癖《くせ》に、きっちりと言い返すクレア。
「ここの奴らにとっちゃ、あんたは姫様だろうさ。それより、なにがあった?」
クレアはすぐには答えず、最後にもう一度、大きく深呼吸をする。
早くも疲労の影が消え失せているのは、さすがである。
神秘的な少女は、そのまましとやかに立ち上がった。
きらきら光る真っ白な髪を手で払い、焦点を結ばない瞳をロイに向ける。
「今、噂《うわさ》のレインさんからご挨拶《あいさつ》が来たのですよ」
「ほぉ……ご挨拶《あいさつ》ねえ」
ロイは口元を歪《ゆが》めて笑い、広間をざっと眺める。
元々ここは、クレアが瞑想《めいそう》にふける為の部屋で、小さな机と椅子《いす》以外はなにもない広間だが、周囲の壁には無数の亀裂《きれつ》が走り、石造りの床も同様で、ガタガタのボロボロである。
しかも、唯一《ゆいいつ》の机と椅子《いす》は木《こ》っ端《ぱ》みじんに砕《くだ》けており、もはや薪《たきぎ》代わりにしかならない。
たった今ここで、巨大なエネルギーが炸裂《さくれつ》したのは間違いないようだ。
「……遠隔で魔法攻撃を食らったな? 多分、魔力トレースで遠視《えんし》していたら、向こうに気付かれておめーのエクシードを捕捉《ほそく》されたと。それをたどられたか?」
「さすがはロイさん、正解です。純粋な魔力の波動が今、一気にこの広間に降り注いだんですよ。ちゃんと防ぎましたけれど……あの人が手加減してくれたお陰《かげ》もあるでしょうね」
もはや完全にいつもの冷静さを取り戻し、大人びた少女はほのかに微笑《ほほえ》んだ。
「急いで力をカットしましたけど、間に合わずに攻撃を受けてしまいました。姉や仲間の報告を聞いていましたし、甘く見たつもりはなかったんですけど。ちょっと、驚きました。遠視《えんし》を気付かれたのはともかく、まさか私のエクシードをたどって逆襲《ぎゃくしゅう》してくるとは」
文字通り、遠い目をしてあらぬ方向を見やる。
「普通、あれだけの力を持つと、大抵の人は慢心《まんしん》して暴走しますのに。彼のエクシードに触れてわかりました。あの人のエクシードには濁《にご》りが感じられません。自らの力を完全にコントロールしています……強い人ですね」
ふう、と儚《はかな》げにため息をつく。
強いだけでなく、どうやら優しい人のようだ――レインのエクシードに触れたクレアにはそこまで理解できたが、それは言わずにおく。
口にしたところで仕方ないからだ。ただ――
「敵として戦わねばならないのが、残念でなりません」
「奴の性格なんざ、どうでもいいが。あんたが誰かを褒《ほ》めるのは珍しいな」
ロイの皮肉にも、クレアは全く動じない。
「私は、認めるべき人は認めますよ? 知られざる天才とは、よく言ったものです。まさか今の世に、魔法とエクシードの両方を極《きわ》めた戦士が存在するなんて」
「ふむ……おめーほどの女が認める戦士か。こりゃ当たりだったかな、レインとやらは」
無精《ぶしょう》ひげを手でさすり、ロイはにんまりと笑う。
「お笑い三人組が帰ってこなかったら、今度は俺が行ってやる。――久々にまともに戦えそうだな」
「そうですね……あなたが相手では、さすがの彼も打つ手がないでしょう。できれば、最初から行ってもらうべきでした」
小さく呟《つぶや》き、クレアは首を振った。
「バジルさん達には、少々負担の大きい相手です。……あの後どうなったか、心配です。もう遠視《えんし》も使えませんし」
「俺が知るかよ」
予想通りの返事をするロイに、クレアはそっと吐息《といき》をつく。
そこへ、今の物音を聞きつけた仲間達が、ようやくどやどやと駆けつけて来た。
「クレア様っ。今の物音はなんですっ」
「おおっ。こ、この部屋の荒れよう!? ロイ、貴様、クレア様になにをしたあっ」
勝手に驚いて勝手に決めつける。
鼻を鳴らすロイに、有るか無きかの微《かす》かな微笑《ほほえ》みを口元に浮かべた後、クレアはやっと首を振った。
「皆さん、誤解《ごかい》のないよう……これは彼の仕業《しわざ》ではありません。それより――」
完全に笑《え》みを消し、静かに命じた。
「大急ぎで移動の準備を! 他の拠点に移ります。ここは、遠からず見つかると思いますから」
――☆――☆――☆――
――シェルファは見た。
レインが叱声《しっせい》を張り上げた途端《とたん》、黒いオーラの流れが静止し、次に逆方向へ押し寄せるのを。
今までが小川のせせらぎを思わせる速度だったのが、レインの魔力で力のベクトルが変わった途端《とたん》、洪水が押し寄せる勢いで逆流する。
たちどころに、レインの上半身を覆《おお》い始めていた石化が解け、そればかりかその足下《あしもと》の大地が元の土に戻り始める。膨大《ぼうだい》な魔力によって無惨《むざん》に粉砕《ふんさい》された石化の魔法は、恐ろしい勢いで逆進、反対にケヴィンに迫る。
自らが放った魔法に飲み込まれる寸前、ケヴィンは恐怖に染まった顔で何か叫んだ。
しかし最後の瞬間、レインは自ら魔力の放出をカットし、代わりに掌《てのひら》を老人に向けて突き出す。
またしても、鋭い叱声《しっせい》を放つ。
エクシードの応用による無形の力の波動を浴《あ》び、老魔法使いは軽々と飛ばされ、倒れてしまう。
さりげなく髪をかき上げる、レイン。
「お一人様、地下牢にご案内〜、だな。……自分より遙《はる》かに上手《うわて》のルーンマスター相手に、石化の魔法なんか効くか! 呪いを上乗せしたって、無駄《むだ》なものは無駄《むだ》だ。身《み》の程《ほど》を知れっ」
慌てて仲間を助け起こすバジルとレスターに聞こえるよう、でっかい声で宣告する。
レインとしては、別に残った二人に敗北感を植え付けてやろうという意識はなく、「君達じゃ全然相手にならないし、もう降参《こうさん》しようね」というつもりだったのだが。
……いつもながらちびっと憎たらしく言い過ぎたらしく、二人とも降参《こうさん》どころか顔を真っ赤にして立ち上がった。
「ぬううっ。図に乗るな、青二才《あおにさい》!!」
バジルの怒声《どせい》と共に、彼の全身がぶわっと膨張《ぼうちょう》を始めた。全身の体毛がにょろにょろと伸び、背丈と身体の厚みも、嘘《うそ》のように巨大化を遂《と》げる。
何か肉食獣のきつい体臭が、むわっと広がった。
場内から、女性客達の悲鳴も盛大に沸《わ》き起こり、騎士達が必死で押さえている。
「レスター、わしが戦っている間に、おまえも召喚《しょうかん》を済ませろっ。可能な限りたくさんだぞ!」
「任《まか》せろって! 俺達でじいさんの仇《かたき》を取ってやろうやっ」
仲間の変化を横目に、レスターもやる気満々で返事。中断していた呪文を再開し、小振りの杖《つえ》を構え始めた。
「さほど時間はかからないからなっ。ちょっとだけ持たしてくれればいいぜ、バジル!」
返答は、人間の言葉ではなく、野獣《やじゅう》の吠《ほ》え声だった。
人外の獣の雄叫《おたけ》びが大気を震わせ、客席の動揺《どうよう》をますます広げていく。そろそろ、逃げ出す者も出始めた。前にコートクレアス城を襲《おそ》った僕《しもべ》、あの男を二回りは大きくしたような異形の者が、まだ変化の途中でレインに襲《おそ》いかかる。
「シェルファ、ちょっと離れているといい」
冷静な呼びかけに、背後から元気な返事が返ってきた。
直後に、眼前《がんぜん》にでっかい肉の壁が迫る。
剣を鞘《さや》に戻し、レインはあえてその突進を素手《すで》で受け止めた。
自分の倍ほども身長差の開いた相手と、手と手をがっちり握り合わせ、がっぷりと組む。
強烈な獣臭《けものしゅう》がした。しかも、ゴワゴワした灰色の体毛の下で、こいつの筋肉は未《いま》だにギシギシ膨張中《ぼうちょうちゅう》である。
腕の太さとその巨躯《きょく》を見るに、オーガの二、三体は片手でぶっ飛ばしそうだ。
かさにかかって加えてくる馬鹿力に対抗し、レインは囁《ささや》く。
――相手にだけ、聞こえるように。
「……隠してもわかるぞ、おっさん。おまえは怯《おび》えている。だからこそ、何度もチャンスを作ってやったのに、俺を襲《おそ》わなかったんだ。そうじゃないか?」
巨大な黄色い目が細まり、聞き取りにくいガラガラ声が途切れ途切れに答えた。
「……ケヴィンの言う通り……だ。おまえは、驕《おご》り過ぎている。わしがおまえを恐れると……本気で信じているのか」
「とか何とか言いつつ、今、馬鹿力が少し弱まったぞ、コラ。おまえはだな、自分で思うほどには、心の内を隠せてないのさ。特に、俺の前でそれほどエクシードを乱しておいて、内心を隠し通せると思うか? こうして間近《まぢか》に向かい合っているのに?」
敵の動揺《どうよう》が、微《かす》かな――本当に微《かす》かな震えとなってレインに伝わる。
しかし馬鹿力の方は説得(のつもり)を機に一転、むしろ先程《さきほど》よりも増大していた。
押さえつけようとするどえらい筋力に対抗して、レインの両腕にもしなやかな筋肉が浮き始めている。上着の袖《そで》の部分がぴんっと張りつめ、今にも破けそうだった。
この汗くさいおっさんは、もしかするとかつて相手にした古龍《こりゅう》にひけをとらない筋力の持ち主かもしれない。しかし、声だけはあくまで静かに続ける。
「落ち着いてよく考えてみろ? 最高のコンディションで、全力で戦っても勝てない俺にだ、怯《おび》えて震え上がった状態でどうして勝てる、えっ」
黒瞳《くろめ》を不敵に光らせ、真っ直ぐにバジルを見上げる。
その時、獣人《じゅうじん》の巨大な目が気弱に瞬《またた》くのを、レインは確かに見た。
――しかし。
バジルはいきなり、毛だらけの喉《のど》を見せて顔を上向《うわむ》かせ、王都中に響くような遠吠《とおぼ》えをした。
ひとしきり観客席の悲鳴を誘い、その後、でっかい声で喚《わめ》く。
「わしは、怯《おび》えてなどいないっ。誰が貴様などに怯《おび》えるものかあーーーーーっ」
「――ちっ」
ぶち切れたビーストマスターは、突如《とつじょ》として先に倍するクソ力でレインを押さえ込む。
歯を食いしばって対抗するレインの足下《あしもと》をいきなり払い、ふわっと持ち上げる。
それこそ、小銭を叩きつけるような気安さと容易《ようい》さで、レインを大地に叩きつけた。
土埃《つちぼこり》がぶわっと舞い上がり、大地が激震《げきしん》する。冗談でも比喩《ひゆ》でもなく、レインの長身が半ば大地に埋もれる。この場内は、十分すぎるほど固い土壌《どじょう》だったのにもかかわらず。
さすがに顔をしかめ、口元に鮮血《せんけつ》を散らせたレインの上に、すぐさま巨大な足が迫った。
いきなり周りが影になったせいでそれに気付き、レインはとっさに自分の胸の前で両手をクロスさせる。
「誰がおまえなどに!! おまえなどにいいいいっ」
もうわし、完全にイッちゃってます――という感じで盛大に唾《つば》を飛ばし、獣男《けものおとこ》はズズンッとレインを踏みつける。
そしてもう一度、さらにもう一度。
「おまえなど怖いものかあっ」を連呼《れんこ》しつつ、ドカドカとレインの身体を踏みつける。
もはや生死がどうという、以前の問題だった。
土埃《つちぼこり》のベールを通して、シェルファはレインの身体がついに完全に土中に埋まったのを見た。
だ、大丈夫ですよね、レインのことだから。だが、内心の思いを裏切り、レインはいつものように起きあがっては来ない。
やっと攻撃をやめ、ジャイアント化したバジルが狂ったように笑う。
レインの身長分に穿《うが》たれたふか〜い穴を見下ろし、
「み、見ろ、馬鹿めがっ。薄っぺらい血袋《ちぶくろ》と化したようだわいっ」
そのセリフに、シェルファもさすがに我慢がならず、駆けつけようとした。
だがその瞬間、バジルの足下《あしもと》の穴からすっと手が伸び、毛深い足をその肉ごと掴《つか》んだ。
細長い指がズブズブと足首に食い込み、バジルの哄笑《こうしょう》が悲鳴へと変化する。
反射的に前屈《まえかが》みになり、彼が足首に手を伸ばしたところで、レインはぱっと手を放す。
すかさず、器用にも逆立ち状態で伸び上がるようにして穴から躍《おど》り出ると、低い位置にあるバジルの首をがしっと両足で挟《はさ》む。
そのままの状態で後方回転、つまりバック転のように自分の身体を回転させる。
バジルの巨体が綺麗《きれい》に投げられた。
悲惨《ひさん》なことに、獣人《じゅうじん》は頭頂《ずちょう》から地面に落下、虚《うつ》ろに地響きを立てた。
盛大な呻《うめ》き声が怨嗟《えんさ》のように響く。
この際、ビーストマスターたる自らの体重が仇《あだ》になった。受け身すら取れなかったので、ダメージは大きい。頭を抱えたまま、ゴロゴロと転がる。
その間、棺桶《かんおけ》から蘇《よみがえ》る死者よろしく、レインが何事もなかったように穴から立ち上がってきた。
「おいっ!! いきなり叩きつけるから、歯で舌|噛《か》んじまっただろ、こらっ」
苦しそうなバジルを見下ろし、血の混じった唾《つば》を吐く。
正味、傷と言えばそれくらいだろう。
血袋《ちぶくろ》どころか、ロクに怪我《けが》さえしていなかった。
嫌《いや》みなほど平静な声が続ける。
「十年前なら、さすがに俺も死んでただろうが……残念だったな。今の俺には、マッサージ以上の効果はないんだ、これが」
そこで、ぐっと顔をしかめた。
「だけど足蹴《あしげ》にされて腹立ったから、とりあえず仕返しせずにはおれん!」
言うなり、よろよろと立ち上がりかけたバジルに近付く。
一抱えもある片足を両手で掴《つか》み、おもむろに、その場でぶんぶん回し始めた。
さっきまで場内に満ちていた悲鳴が、嘘《うそ》のように止む。
それも当然で、身長で二倍、体重では四、五倍近い体格差《たいかくさ》の獣人《じゅうじん》を、レインは人形のように軽々と振り回しているのだ。しかも、その振り回す速度が半端《はんぱ》ではない。
中心にいるレインが、霞《かす》んで黒い影に映《うつ》るほどだった。人間の筋力では為し得ない、あまりにも非現実的な光景で、誰もが思わず見入ってしまうのである。
「は、放せえっ(綺麗《きれい》な残響付き)」
今度こそ、怯《おび》え混じりの悲鳴。
レインはダンサー顔負けの旋回《せんかい》を続けながら、ニヤッと笑う。
「……頼まれちゃしょうがないな。よし、一皮|剥《む》けて漢《おとこ》になってこい!!」
意味不明の掛け声とともに、ぱっと手を放す。
バジルが宙《ちゅう》を飛ぶところは、速すぎて客達の目にはほとんど見えなかった。
その代わり、ゲート横に巨漢《きょかん》が激突《げきとつ》する音は、誰の耳にも届いた。何しろ命中したその辺りの壁が半壊したのだから、壮絶《そうぜつ》な音になるのは当然である。もちろん、瓦礫《がれき》に埋まったバジルは二度と起き上がらなかった。
獣化の変身も解除され、見る見る内に元のむさい男に戻ってしまった。
「レインっ」
ほっとして走りよってきたシェルファに頷《うなず》き、レインは顎《あご》をかく。
遠くの瓦礫《がれき》の山を見やり、呟《つぶや》いた。
「……ま、頑丈《がんじょう》なのが取《と》り柄《え》だから、死んでないだろ。どのみち、心配しても遅いし」
親切だか薄情だかわからないセリフには反応せず、シェルファは手でレインの身体をあちこち触りまくった。
「それより、レインの方は大丈夫ですかっ」
「平気さ、もちろん。俺がこのくらいでどうにかなる訳がないだろ」
そこで視線を移し、レインはポツンと離れて立つレスターに目をやる。
「――おいっ。そこの、栄養過多《えいようかた》のおまえ!」
この太った召喚士《しょうかんし》は、口を半開きにしたびっくり顔のまま棒立ちになっており、声をかけてやることでやっと覚醒《かくせい》した。
のろのろとレインを見る。
「おまえもいい加減で降伏《こうふく》するとか、そういう賢い選択をしたらどうだ。わざわざ不快な思いをすることもないだろ。なんかやたらと平和そうな坊ちゃん顔だが……あれだぞ、俺に殴られたらめちゃ痛いぞ? それがわかってるか、おまえ」
どんな馬鹿にでも理解できるように、穏やか〜に言ったつもりだったのだが、あいにくかえって相手を怒らせただけだった。
レスターはあっという間に生意気《なまいき》な表情を取り戻し、だらっと持っていた杖《つえ》を構え直す。
「やかましい! 俺が無事でいる限りは、二人はすぐに助けられるっ。もう呪文は終わってんだからなっ。覚悟《かくご》しろよ!?」
杖《つえ》を振り、「汝《なんじ》ら、我が召喚《しょうかん》に応《こた》えよ!」と絶叫《ぜっきょう》する。
言下《げんか》に、雨後《うご》の水たまりのようにあちこちに生じていた、それぞれの魔法陣の明滅《めいめつ》が止まり、代わりに一斉《いっせい》に黄金色の光を放ち始めた。
なにか、低いドロドロとした唸《うな》り声が聞こえる。甲高い、怪鳥《かいちょう》を思わせる鳴き声も。
まだ逃げずに、客席に残っていた者達の大半を、ぞくっと震わせる嫌な獣声《じゅうせい》である。
人間の本能に訴えかけ、恐怖心を喚起《かんき》させるような声音《こわね》だった。
そこへ、全く平静かつ、陽気で嬉しそうな呼び声。
「レイン〜〜、お久しぶり〜♪ ぐっと渋く、ハンサムになったわねー」
レインとシェルファが見ると、客用通路の手すりにキュートなお尻を乗せて座り、ツインテールの少女――つまりシルヴィアが、足をぶらぶらさせていた。
手もぶんぶん振り、微笑《ほほえ》んでいる。
レイン同様、周囲の緊迫感《きんぱくかん》など、どこ吹く風である。
「どうやらいっぱい湧《わ》いて出てきそうだけど、どうする? あたしも加勢した方がいいかしら?」
「――俺の返事は予想がつくと思うが」
レインは苦笑とともに答える。
「ただ、そうだな。召喚《しょうかん》されたのが、客席に飛び込まないように注意してくれるか?」
「はいはい……相変わらずストイックなのね、レインは。遠慮《えんりょ》しなくていいのに」
やたらと嬉しそうな、くすくす笑い。
「じゃあ、せめて見ててあげるからがんばってねぇ〜」
語尾に、ハートマークが付きそうな声援が返ってきた。
レインがそれに応《こた》えて軽く手を上げた後、ついに召喚《しょうかん》された魔獣《まじゅう》が次々と魔法陣から姿を見せた。
「グリフォンだっ」
観客席でまじまじと見守っていたセイルは、現れた魔獣《まじゅう》の大群を見て、掠《かす》れた声を出した。
獅子《しし》の身体に、鷹《たか》の翼と頭部。そんな恐ろしげな外見の魔獣《まじゅう》がそれぞれの魔法陣ごとに迫《せ》り上がり、姿を見せる。
しかもそれで終わりかと思いきや、さらに新たな魔獣《まじゅう》が、ポツポツと出てきた。
「て、ドラゴンも登場しましたよ……すっげーなぁ」
セイルの呻《うめ》きに、フォルニーアが反応した。
「なにっ。ドラゴンっ? あれがそうか!?」
真紅《しんく》の瞳と鱗《うろこ》だらけの怪物を指差し、わくわくした声で尋ねてくる。
……全然慌ててないのが、周囲の悲鳴混じりの客と違う点だ。
「あ、すいません。最強の古龍《こりゅう》ってわけじゃないですよ? それくらいは俺だって見ればわかるし、そんなのを人間が召喚《しょうかん》出来るわけないです。あれは、リトルドラゴンと呼ばれる種《しゅ》で、体長が五メートルほどのヤツですね。寿命も百年ほどしかないです。……て、それだって、人間がジタバタしたって、全然|敵《かな》わないほど強いんですが」
一匹でも大変なのに、そんなのが都合《つごう》、四匹もいた。グリフォンの大群と合わせ、これはもう、軍が動員されても手こずりそうな一隊である。
あの召喚士《しょうかんし》は、極《きわ》めて優秀だったようだ。
「うわぁ、うわぁ! どうすんでしょうね、レインさん。他人事ながら心配だなぁ」
などと、まさに他人事のように言うセイルに、フォルニーアは顔をしかめた。
ちらっとシルヴィアの方を見やり、
「……観客席は、彼女がシールドで守るわけか」
「そうそう、だから僕らは安全だと思いますが。――うわぁ、あのずらっと並んだ牙《きば》、すっげー」
「感心してないでだ。セイルにジュンナ、ちょっとこっちへ来るがよいぞ」
フォルニーアはいきなり立ち上がり、手すりの方へ、つまり客用通路の方へ歩き出す。
さすがの彼女も退避《たいひ》する気かと、セイルとジュンナも後に続いた。
すると、フォルニーアは手すりの前で立ち止まり、不思議なことを言う。
「ジュンナ、セイルに抱き上げてもらいなさい」
「――は?」
なんです、そりゃ? そう訊く前に、ジュンナが喜色満面《きしょくまんめん》の笑顔で、セイルにしがみつく。妹にとっては理屈《りくつ》はどうでもよく、抱っこしてもらえるなら、なんでも嬉しいらしい。
仕方なく、勢いで言う通りに抱っこしてやる。
「陛下、いきなりなんですか? て、ちょっとおーーーっ!」
ふいに、力任《ちからまか》せに突き飛ばされた。
まさかそんな真似《まね》されるとは思ってもいなかったので、セイルほどの戦士が逆らうタイミングを逸《いっ》した。他愛なく低い手すりを越え、ころりんと落下する。
それでも空中でジュンナを抱いたままくるっと身を回転させ、危なげなく着地はした。
した――が。
途端《とたん》に、近くにいたグリフォンとリトルドラゴン各一匹ずつが、ぎらんっ、とこちらを見た。
当然ながら二匹とも、フレンドリーな雰囲気は皆無《かいむ》である。
全身から汗が噴《ふ》き出したセイルに、頭上から主君《しゅくん》の声。
「レインばかりに見せ場を取られるのは、我が国としては業腹《ごうはら》であろ? というわけで、おまえもがんばるがよいぞ、セイル!」
「なにが、『がんばるがよいぞ』ですかーーっ」
喚《わめ》いても、もはや遅い。
魔獣共《まじゅうども》は、牙《きば》を剥《む》いてこちらに接近しつつある。
とりあえず妹を下ろし、セイルは泡を食って剣を抜いた。
一方、アーク達の方である。
こちらはセイルと違い、積極的に戦闘に関わろうとしていた。
……ただし、アークのみの話だが。
彼は既《すで》に脳震《のうしん》とうから大復活を遂《と》げており、例によってコトの経緯はわからないまま、魔獣《まじゅう》の群れに突入する寸前だった。それを必死で止めているのが、相棒《あいぼう》のフェリスである。
「ちょっと! チーフって馬鹿!? せっかくあそこから撤退《てったい》して端《はし》っこに逃げたのに、なんでまた戻るのさ!」
「――ああっ? 馬鹿はおめーだろ、フェリスっ。あそこにいる、黒服で悪辣《あくらつ》そうな顔の男が見えねーのかよっ。早くこいつら片付けて、あいつからお姫様を救ってやらんでどうするっ」
「て、あのねえ」
羽交《はが》い締めにしたままズルズルと引きずられつつ、フェリスは声がげんなりするのを抑えきれない。いち早くズラかった客達(一部だが)が、うらやましくてしょうがなかった。
ああいう者達こそ、真の賢人《けんじん》だ。
「あの黒服は、レインって人だってさ! さっきそのお姫様自身が抱きついて喜んでたから間違いなしっ。チーフが頭クラクラしてる間に、事態は進展してるんだよー!」
「なにいっ、レインだあ!」
かえって引きずる力が強くなった。
「あいつがそうだったのかっ。クソったれがっ! このアーク様がちょっと休憩《きゅうけい》している間に、美味《おい》しいトコ取りしやがるとはっ。レインだかスコールだか知らんが、こいつらをサクッとやっつけた後、ぶっちめてくれるわ!!」
「あのね、ちょっとは自分の立場を自覚しなよ! ケイやサーヤちゃんに黙って出てきただけでもいい加減にまずいのにっ。――て、ああっ、馬鹿馬鹿!」
もはや、何を言おうと遅かった。
アークはついに、フェリスの手を振り切って走り出してしまった。レインの方にガン(眼)をつけているリトルドラゴンの背中に、剣を振りかざして突進していく。いつもながらの、後先考えない暴走である。敵魔獣《てきまじゅう》が間合いに入るや否《いな》や、大柄《おおがら》な身体が、陽光《ようこう》をバックに高々と跳んだ。
よそ見している魔獣《まじゅう》の無防備《むぼうび》な背中に向かい、まだ空中にある内に大きく剣を振り上げる。
――そして、力任《ちからまか》せの剣撃《けんげき》が敵の頭頂《ずちょう》部分に炸裂《さくれつ》した。
「天誅《てんちゅう》ーーっ。死ねや、ぐらああーーーーーーっ!!」
「グギャアアアアッ」
たちまち響く、(当たり前だが)龍の怒りの咆吼《ほうこう》。
ほんのお湿り程度の血が滲《にじ》んだものの、向こうはほとんど平気そうだった。
古龍《こりゅう》に比べれば遙《はる》かに御しやすいリトルドラゴンとはいえ、その鱗《うろこ》まみれの皮膚《ひふ》は、固くて厚いのである。例えばこいつのヒットポイントが一万あったとして、アークの今の攻撃で三十くらいは減りましたかね? という程度のダメージだったが――
……龍族の端《はし》くれたる相手を怒らせるには、もってこいだったようだ。
思わぬ勢いで振り向いたリトルドラゴンは、たちまちレインそっちのけで、アークに対して臨戦態勢《りんせんたいせい》に入る。
フェリスはため息をついた。
僕って不幸だなぁ、としみじみと思う。
思いながらも、自分だけ逃げようとは思わなかった。
「……あぁ〜。今日という日が、冥界《めいかい》へ旅立つ日になりませんように」
名前の割に体長五メートルもあるドラゴンに、フェリスもまた、死ぬ気で突っ込んでいった。
……他のドラゴンかグリフォンが寄って来ないことを祈りながら。
こんなの、二匹も相手に出来る訳がない。
――そしてレインである。
嘲《あざけ》るように馬鹿笑いするレスターをしれっと眺め、レインはなし崩し的に発生し始めた各所の戦闘を、ざっと確認する。それと、魔獣達《まじゅうたち》の分布状況も。
「あ〜……めんどくさいなー、こりゃ。数だけは確かにゴロゴロいるしなー」
「はっは! ぶわぁ〜かっ。根拠の無い余裕なんか見せてるからそうなるんだっ。いい気味さ!」
言ってるそばから、レスターの唱えるルーンに反応し、近くの魔獣《まじゅう》二匹がタイミングを合わせたようにレインを見る。
一匹が呼気《こき》を吸い込み、そしてもう一匹はいきなり不気味《ぶきみ》な鳴き声と共に魔力を発動、光熱波《こうねつは》を発生させる。炎のブレスと魔力による熱線の両方が、連携《れんけい》した二匹によって同時にレインを襲《おそ》う。
膨大《ぼうだい》な白光《はっこう》が黒衣《こくい》を覆《おお》い尽くし、さらにブレスの高熱がそれに重なる。
そこだけ大気が沸《わ》き立ち、ぐんにゃりと景色が揺らぐ。
攻撃の進路上にあった大地が、ざあっと黒く炭化《たんか》した。
……しかし、結果はあいにくだった。
またしてもレインの不可視《ふかし》のフィールドが発動し、それらのエネルギーを瞬《またた》く間に吸収してのける。多分彼らも、こんな常識外れの人間に出会うのは初めてなのだろう――綺麗《きれい》さっぱり攻撃を無効化された魔獣達《まじゅうたち》は、驚いたようにやや後退《あとずさ》った。
「……リトルドラゴンごときに、古龍《こりゅう》の防御《ぼうぎょ》フィールドは破れないぞ? 幼児がレンガの壁を崩そうとするようなもんだ。格が違いすぎるんだな」
平然と言うレインを見ても、レスターは余裕を失わなかった。
「はっ。言ってろ! 今、全ての魔獣《まじゅう》におまえを殺すように命じたからなっ。すぐに次から次へと攻撃が重なる。自慢のアンチ・マジックフィールドがいつまで持つか、見物だぜっ。第一、それでこいつらの爪や牙《きば》までかわせるかよ!?」
「あのなぁ……おまえはわかってないんだって。古龍《こりゅう》を相手にすることを思えば、ここに集まってるグリフォンやリトルドラゴンは、子犬並の可愛《かわい》らしさだと思うがな」
しかし、確かに一々相手するのはアホらしい――と続けようとしたところで、シェルファがどんっとレインに抱きついてきた。
「おっと。どうした……怖くなったか?」
しっかりとしがみついたまま、シェルファはにこっと微笑《ほほえ》んだ。
「いいえ。ただ、これだけ混乱していたら、レインに抱きついても目立たないと思ったんです。ね、構わないでしょう?」
思わず唸《うな》る。
「おまえって俺より余裕あるな、しかし。今、そんな場合じゃないと思うぞ〜」
「だって、レインに会うのはしばらくぶりですから」
いや数日しか経《た》っていないような……まあいいか。
そんな気持ちになり、レインは自らもシェルファの身体を引き寄せる。
そして――おもむろにルーンを唱え始めた。
よく通る低い声で詠唱《えいしょう》されるそのルーンは、場内の隅々《すみずみ》にまで響いている。
真っ先に反応したのは、ルーンマスターの端《はし》くれたるセイルで、彼は外周の壁を背にしてグリフォンと激闘中《げきとうちゅう》だったのだが。そんな状態にも関わらず、思わず「げっ」と声に出して呻《うめ》いた。
レインがどんな魔法を使おうとしているか、わかったのだ。セイル自身は到底《とうてい》使えない術だし、そもそも使える人が存在していること自体が驚きだが――あれがどんな魔法かは書物に載った知識として知っている。
故《ゆえ》に、余計にぞっとした。
ちょうどその時、相手中のグリフォンが勝手に撤退《てったい》してくれた。退《ひ》いたのではなく、おそらく使役《しえき》している召喚士《しょうかんし》の命令に反応したのだろう。
鷹《たか》を巨大化したような頭部で、金色の目がぎょろりと光り、素早く振り返る。そのまま巨体を翻《ひるがえ》し、悠然《ゆうぜん》と走り去ってしまった。
ここぞとばかりに観客席に逃げ込みたいところだが、この詠唱《えいしょう》を聞いてはそうもいかない。
「シルヴィアさんっ」
とりあえず、手すりに座って呑気《のんき》に観戦中の少女を呼ぶ。
口元を手で囲い、でっかい声を張り上げた。
「あなた、あの人の関係者さんでしょう? なら、止めてくださいっ。その道のエキスパートたるあなたなら、これがどんなに無茶な魔法かわかるはずです!」
「エキスパートっていうか、ある意味あたしは、創始者なんだけど」
きっちりセイルのセリフを訂正した後、なにか婉然《えんぜん》と微笑《ほほえ》んで見せる。
「でも、よくルーンをお聞きなさいな、少年。これは、元の魔法よりだいぶ変化してるわよ。……あたしが編み出したオリジナルより、遙《はる》かに激しいのが来るわね。うん、あたしが保証するわ」
俺、もう二十三歳なんですけど――という不満は、それどころじゃないので胸にしまっておく。
「なら、余計に止めないと駄目《だめ》でしょう!」
「大丈夫でしょう、レインなら」
まるで我がことのように、控えめな胸を張るシルヴィア。
「絶大な魔力に溺《おぼ》れて、判断を誤るような人じゃないもの。きっと、狙いを絞りきる自信があるのよ。昔と違って、ルーンなんか唱える必要ないのに唱えてるし、ちゃんと慎重を期してると思うわ」
言いつつ、たまたま空中からレインを狙おうとした遠くのグリフォンに、さりげなく攻撃魔法をかける。
「ちょっとそこ! レインの詠唱《えいしょう》の邪魔をしないように――ライトニング・ソード!!」
……どうやったらそんな真似《まね》ができるのかさっぱりだが、シルヴィアの腕の一振りで同時に三本の「稲妻《いなずま》を帯びた光の剣」が発生してずばっと直進、レインに忍び寄りかけていた魔獣《まじゅう》に突き刺さる。不幸なグリフォンはひと鳴きする暇さえなく、真っ黒|焦《こ》げになって落下してしまった。
魔法の光剣《こうけん》が通過した空中には、青いパルスの残光が、パリパリッと走っていた。
お陰《かげ》で警戒心故《けいかいしんゆえ》か、魔獣達《まじゅうたち》の動きが少し鈍った。
思わず喉《のど》が鳴ったセイルだが、抗議するのはやめない。
何しろ、命がかかっているのだ。
「狙いを絞るって――そんな馬鹿なっ。あれは元々、千以上の軍勢《ぐんぜい》を想定した攻撃魔法でしょう。第一、あなたはともかくとして、古代書にだって使えた人がいたなんて話は出てこないのに!」
セイルは珍しく焦《あせ》り、妹を見下ろす。
「細《こま》かいコントロールなんか、できる訳がない。なあ、ジュンナ!」
心配そうに兄を見やり、コクコク頷《うなず》くジュンナ。
もっとも彼女が心配しているのは、魔法のとばっちりを食ってセイルが怪我《けが》することだったりするのだが。
その証拠《しょうこ》に、眉《まゆ》をひそめてこう言った。
「逃げた方がいいよ、おにいちゃんっ。あのね、少なくとも二キロは離れた方がいいと思う」
などと囁《ささや》き、セイルの服の袖《そで》を引っ張る。
……そんなの、間に合う訳がない。もう詠唱《えいしょう》は終わりかけているのだ!
いつの間にか不気味《ぶきみ》な風までが吹き始めているのがもう、とてつもなくヤバい。
絶望的な思いでセイルは数歩を走り、レインに直接叫んだ。
「駄目《だめ》だ、レインさんっ。周囲の人間まで巻き添えになりますよ!」
聞こえないかと心配したが、ちゃんと聞こえた。
レインはちょうど長いルーンを唱え終わったところで、セイルを見てにやっと笑った。
わかっている、わかっているとも、と言わんばかりに手を上げる。
――力強く言い切った。
「安心しろ! おまえの墓は、最上級のを建ててやるからなっ」
だああーーーっ、この人、全然っわかってない!?
そしてレインの叱声《しっせい》とともに、膨大《ぼうだい》な魔力が解放される。
「メテオ・ストライク!!」
その声を聞いた瞬間、セイルは思わず、遙《はる》かなる天空の高みを仰ぐ。
予想通り、蒼天《そうてん》の彼方《かなた》にて、無数の『何か』がチカチカッと明滅《めいめつ》した。
――甲高い笛の音のような風切《かぜき》り音《おん》も。もう駄目《だめ》だ……こうなったら術者を含め、もう誰にも止められない。ジュンナの手を引き、せめてゲートの方へ逃げようとしたが。
そんなセイルを含め、場内にいる者全てに、レインの声が届いた。
「みんな、下手にその場を動くなっ。大丈夫だ、俺がカバーする!」
その声を認識するや否《いな》や、セイル達の身体はシールドで包まれ、直後に最初のインパクトが来た。
至近《しきん》に、ヒュンッ、という不気味《ぶきみ》な音が聞こえたと思った途端《とたん》、大地を壮絶《そうぜつ》な轟音《ごうおん》が覆《おお》い尽くす。
足下《あしもと》から巨大な振動が突き上げ、他愛なく身体が浮いた。
兄妹二人は見事にバランスを崩し、その場に倒れてしまう。そう、天空から降ってきた隕石《いんせき》が、ファースト・インパクトを果たしたのだ。
大気との摩擦《まさつ》で灼熱《しゃくねつ》の固まりと化したそれらは、場内に落下して野外劇場全体を激震《げきしん》の渦《うず》の中に巻き込んだ。妹を抱えて地に這《は》うセイルの身体が、あるいは揺さぶられ、あるいはふわっと浮く。
セイルは開き直った気分で頷《うなず》く。
なるほど、これでは下手に動いたところで同じだったろう。確率的には逃げようが静止してようが大差ない。
そして、大地震と大噴火を合わせたような災厄《さいやく》が続く。
大きさは定かではないが、無数の隕石《いんせき》が豪雨《ごうう》のように降り注ぎ始めたのだ。
最初の一撃《いちげき》が襲《おそ》ってきてからは、それこそ地面が大揺れしっぱなしだった。インパクトの轟音《ごうおん》にかき消され、他人の悲鳴どころか自分の喚《わめ》き声もまるで役に立たない。覚悟《かくご》を決めるしかないというものだ。天空よりの落下に切れ目はなく、次から次へと新たなインパクトが生じ、波紋《はもん》のごとく着弾《ちゃくだん》のエネルギーを解放する。
それこそ、連続して巨大な破壊魔法が炸裂《さくれつ》しているようなものだ。
舞い上がる土埃《つちぼこり》や石つぶて、そしてインパクトの結果生じる無形の衝撃波《しょうげきは》――それらの全てが神の鉄槌《てっつい》のように劇場内を吹き抜け、荒れ狂った。落下の時の風切《かぜき》り音《おん》が、上空から不気味《ぶきみ》な音色となって伴奏を添える。妹を抱えて地に這《は》うセイルの身体が、フライパン上の料理の具みたいにあちこちに揺さぶられ、時に数十センチほど浮く。
シールド上に直撃が無いのが、まだしもである。
信じ難《がた》いことに、この隕石群《いんせきぐん》の軌道は本当に、ある程度コントロールされているらしい。
空に道でもついているのかと思うほど、観客席には一つも飛び込まないのだ。
いや、そもそも本物の隕石《いんせき》が落ちたなら、周囲はもっとひどい有様になっているはずで、その辺も含めて全てレインのコントロール下にあるらしい。あるいはこれは隕石《いんせき》というのは当たらず、ある種《しゅ》の魔法エネルギーなのかもしれない。
劇場内であっても、不思議と人間達や魔獣達《まじゅうたち》を避けるように落ちていることだし。
気のせいか、どうも砂塵《さじん》越しに窺《うかが》う限り、右往左往する魔獣達《まじゅうたち》にもシールドの効果は及んでいるような。今のところ、こいつらがほとんど無事そうなのがその証拠《しょうこ》だ。
ともあれ、恐慌《きょうこう》にかられた魔獣達《まじゅうたち》は、一斉《いっせい》に手近な魔法陣へ向かった。
……つまりは、命令を無視して逃げてしまったのだ。
そして、彼らが姿を消すと同時に、隕石群《いんせきぐん》の落下もピタリと止んでしまった。
レインは周囲を見渡し、一人で頷《うなず》いた。
……だいたい、上手《うま》くいったようだ。
特に、肝心《かんじん》の召喚士《しょうかんし》が最後の瞬間、恐怖で目を回してぶっ倒れてくれたのは儲《もう》けものだった。手間が省《はぶ》けた。こいつは、もはや完全に気絶しており、今や子犬以下の無害な存在となっている。
後は、場内にボコボコと小規模なクレーターが出来てしまったが、それはまあ不可抗力《ふかこうりょく》だろう。
さすがのレインも、そこまで加減するのは不可能である。
「ま、結果オーライだ。シェルファ、おまえも怪我《けが》とか無いよな」
「はいっ」
シェルファは、驚いた顔こそしていたが、特に怯《おび》える顔つきでもなく、笑顔でコクコク頷《うなず》いた。
ちなみに、未《いま》だにレインにしがみついたままだったので、そっとその手を外す。たちまち悲しそうな顔をしてくれたが、いつまでもそうしてもらっていてはまずい。まあ、今や観客達も魂《たましい》を抜かれたような顔で動かない者がほとんどなので、別段、妙な気を回す奴もいないだろうが。
彼らが我に返って人心地《ひとごこち》つくまでに、あと一分くらいはあるだろう。
――とか思っていたら、いきなり怒鳴《どな》られた。
「おいっ!! こるらあーーーーっ」
二人して、そちらを見る。
額にバンダナを巻いた大男が、両足を踏ん張って立ち、レインに指を突き付けていた。
背後を確かめた後、訊いてみる。
「……え〜、俺のことか?」
「後ろを振り返ってどうするっ。他に誰がいるんだ、馬鹿野郎っ」
ご挨拶《あいさつ》な言い方である。
珍しく、レインがあまりむっとしなかったのは、『どうせこいつは、いつもこんな口調なんだろう』と思ったせいだ。
それでも、一応は尋ねた。
「……そういうおまえは、誰だよ」
向こうは、黒々とした目をひん剥《む》いた。
レインが名前を覚えてないのが、業腹《ごうはら》らしい。
「アークだっ。俺の名前くらい覚えとけよっ」
「男の名前なんか知るか! だいたいなんで俺が、おまえの名前なんか覚える必要がある?」
冷静に言い返したものの、実はレインはちゃんとアークの名を覚えていたし、既《すで》に各種の個人情報も仕入れ済みだったりする。武闘会《ぶとうかい》の参加者というだけではなく、個人的に今後の政策として、記憶しておく必要があるからだ。
今そいつは、そこら中に出来たクレーターを避けつつ、ズンズン近付いてきた。
細身《ほそみ》の少年一人を引き連れ、レインの眼前《がんぜん》に立つと、いきなり弾劾《だんがい》を始める。
「おいっ。この有様をどうしてくれるっ。これじゃあ、次の試合がパア〜だろうが! 間近《まぢか》に迫ってた俺の優勝はどうすんだっ」
いや、優勝はどうかと思うぞ? という突っ込みは一応控え、レインは肩をすくめる。
「ああ、なるほど」
周りを見るまでもなく、場内のコンディションはもうエラいことになっており、以後のまともな試合はもはや不可能となっていた。……というか、この劇場は当分、どんな用途であろうと使用不能かもしれない。歩くのも難儀《なんぎ》そうな。
「そうは言うがなー。俺の見るところ、どのみちシルヴィアが優勝したと思うし、あと、本戦参加選手で希望者はサンクワール王家でちゃんと面倒見るし、やっぱり結果オーライじゃないか?」
「なにが結果オーライだっ。責任取って、おまえが俺と戦え、こらっ!!」
「……そりゃまたどんな理屈《りくつ》だ、おい?」
「どんなもこんなもあるかっ。元々当初の目的では、俺ぁおまえと勝負する気だったんだよおっ」
恐ろしくアグレッシブな奴だった。
ただし、怒声《どせい》の直後、「でも魔法とか使うのはなしだからな!」としっかり条件を提示するのが、なかなか抜け目ない。背後の相棒《あいぼう》がこいつの服の袖《そで》を引っ張って自重《じちょう》を促《うなが》しているし、そのさらに向こうではセイルが「あの〜、みんな仲良くしましょうよ?」などと声をかけている。
だがそれらの説得は、山火事をコップの水で消そうとするようなもので、早い話が全然効果がない。それどころかアークは、先のセリフを喚《わめ》き終えるや否《いな》や、抜剣《ばっけん》して斬《き》りかかってきた。
もちろん、ぼけっと攻撃を待っているほどレインはお人好しではない。
抜く手も見せずに魔剣《まけん》を抜き放ち、相手の剣を受ける。
余裕の表情で押し返しながら、言ってやった。
「……あまり笑えないジョークだな。俺は相手が男だと、五倍増しで対応が厳しくなるぞコラ」
「はっ。おもしれえ」
言葉通り、アークは嬉しくてたまらないような顔でにやっとする。
喧嘩《けんか》っ早いだけでなく、喧嘩《けんか》そのものが好きみたいだった。
「ごたくはいいから、とっとと腕を見せてみろやぁ!」
ふてぶてしいことこの上ない笑顔を見せつけ、レインは言い返す。
「ほほぉー。随分《ずいぶん》とまた、わかりやすく喧嘩《けんか》を売ってくれたもんだ。いいだろう、俺は売られた喧嘩《けんか》は必ず買う主義だ。後悔しても、苦情は聞かんぞっ」
セリフと共にドラゴンスレイヤーの腕力に物を言わせ、鍔迫《つばぜ》り合い中の魔剣《まけん》に爆発的な力をかけて相手を押し戻す。大柄《おおがら》なアークの身体が、押されたその力で簡単に吹っ飛んだ。
放物線を描《えが》いて軽々と宙《ちゅう》を飛び、数メートル先に落下する。ちゃんと足から着地したものの、さすがに驚き顔を見せていた。
「用意はいいか? では、行くぞっ」
途端《とたん》に、斜め後ろでおろおろと見守っていたシェルファの眼前《がんぜん》から、忽然《こつぜん》と黒衣《こくい》が消失する。こればかりは何度経験しても慣れない。スタートダッシュから一瞬にして、視界のアウトレンジに駆け去ってしまうので、視線の移動が全く追いつかないのだ。
なのでわかっていても、レインが消えたように見える。
消えたその瞬間に気が付き、シェルファは慌てて目線を移動させた。
――レインは既《すで》にアークの眼前《がんぜん》にいる。
今は、躍《おど》り込んで頭部に振り下ろした剣撃《けんげき》を、アークが半ば本能で見事に防ごうとするところだった。ところが、その神速《しんそく》のスピードを誇る剣撃《けんげき》はフェイントで、魔法のような唐突《とうとつ》さで軌道を変え、斜め上から肩口を狙う。
しかしアークもさるもので、おそらくこれも本能なのだろうが、手首を返してそれを受ける。見事受けたものの、すかさず剣先が跳ね上がり、今度はアークの横腹を魔剣《まけん》が狙う。
反応速度に大きな差があるものの、アークはその攻撃をも受け得たかに見えた。
だが、防御《ぼうぎょ》されるのはレインの計算の内にあり、中途半端《ちゅうとはんぱ》な姿勢で斬撃《ざんげき》を受けたせいで、ほんの微《かす》かに崩れたアークの下半身を、レインの足が払う。
「うおっ」
たまらず傾《かし》いだ敵の腹部に、またしても急激に軌道を変えた第三撃が襲《おそ》った。
これがレインの本命だったのだ。
しかしここでアークが、レインの計算外の動きをする。すなわち、たまたま彼の足下《あしもと》に集まっていた砂利《じゃり》に足を取られ、レインの全く意図《いと》せぬ方向にすっころんでしまったのだ。
「――! なにっ」
――驚きがセリフとなって出たが。
レインの動きは、予期せぬ敵の挙動《きょどう》に完全に対応した。
必殺の勢いに乗った斬撃《ざんげき》は途中で止められないものだが、これまた嘘《うそ》くさいほどピタリと剣撃《けんげき》を止め、すかさず間合いを開ける。
なぜなら敵がタダでは倒れず、転がりながらもこちらの足下《あしもと》を剣で薙《な》いだからだ。
顔をしかめたレインがあえて待つ間に、アークはさっと立ち上がった。
「まだまだあっ」
シャツ一枚の大柄《おおがら》な身体が、暴風《ぼうふう》のように突進する。
――その時。レインは突然、斜め後方へ、高々と魔剣《まけん》を放り投げた。
続いて身体をしならせ、頭から背後に身を投げる……その意図《いと》が読めずに、思わず立ち止まったアークを尻目にだ。
見なくてもわかるのか、わずかに残った平地の部分を選び、黒影《こくえい》が疾風《しっぷう》の速さで何度もバック転を繰り返す。瞬《またた》く間に、数メートル後方へ移動してのける。
最後に空中へ大きく飛んで二回転、身をひねってすたっと直立状態へ復帰。
振り向かないまま、即座に右手だけを後ろへ伸ばす。
まさにそこへ、計《はか》ったようにさっき投げた魔剣《まけん》が落下、柄《つか》の部分がピタリと手中に収まった。
ポカンと立っていたアークが、やっと我に返り、歯を剥《む》き出した。
「かあーーーっ。なにを気取ってやがるっ。身が軽いのを自慢したいのかっ」
レインは苦笑を見せた。
「勘違いするなって。どうせおまえは制止しても止まらないだろうから、無理に間合いを開けただけだ。少しだけ、話がしたくてな」
「俺には話すことなどないっ」
レインがバック転で気安く回避してのけたクレーターを大きく迂回《うかい》し、アークは再度迫り来る。
「いるんだよなぁ、おまえみたいに妙に運に恵まれた奴。援軍《えんぐん》が近付いてくるのもエラくいいタイミングだし、さっきずっこけたのも、偶然とは思えないほどドンピシャリのタイミングだったな」
独り言のように話すレインに、アークは嘲笑《ちょうしょう》をぶつける。
「援軍《えんぐん》? なんの話だよ、そりゃっ。運なんか関係ないっ。どんな不利な状況だろうと、俺は必ず勝ち残ってみせるぜ!」
「ふん、いい返事だ」
レインの顔が闘志《とうし》で引き締まった。
口元に独特の傲慢《ごうまん》笑いを浮かべ、宣言する。
「よかろう。ならば、幸運だけでは絶対に越えられない壁があることを、おまえに教えてやる!」
語尾を背後へ置き去りにして、レインは自らアークの元へ走る。
漆黒《しっこく》の残像を従え、途中の浅いクレーターの手前で長身が大きく跳躍《ちょうやく》、足を止めたアークに空から襲《おそ》いかかる。刀身《とうしん》がぶれ、振り切った魔剣《まけん》が綺麗《きれい》な青い弧を宙《ちゅう》に残す。
剣と剣がぶつかる激しい音、そしてアークの唸《うな》り声。
剣撃《けんげき》の勢いとパワーを支えきれず、アークの膝《ひざ》が崩れる。半瞬遅れて、どんっとばかりにアークを中心に大地が陥没《かんぼつ》する。
人間離れしたパワーをその身に感じ、アークは本能的に自ら身体を引く。そのまま、素早い足運びでレインの背後に回り込もうとした――が。レインは一歩も動くことなく、アークの気配《けはい》を正確に読み取り、瞬時に反応する。
さっと上体を低くして長身が旋回《せんかい》、こちらは計算ずくで背後に回し蹴《げ》りを放つ。
「うおっ」
腕でブロック、なおかつ跳んで避けようとしたアークの身体に綺麗《きれい》にヒットした。
だがその結果を見ることなく、レインはまたしても新たな気配《けはい》に反応する。
残像と共に黒影《こくえい》が数歩、横に移動――前を向いたまま、右手の魔剣《まけん》を肩越しに背後に突き付ける。
気配《けはい》を殺してこっそり死角に回り込もうとしていたフェリスが、剣を振り上げた姿勢で顔を引きつらせた。青く輝く魔剣《まけん》の剣先が、数センチの距離をおいて、ピタリと自分の喉《のど》に突き付けられていたからだ。
「げっ。今の、ちゃんと気配《けはい》を殺していたのに!」
喚《わめ》きつつ、こちらも慌てて跳び、間合いを開けた。
「あいにくだが、俺には死角なんかない。正面から来ようが後ろから来ようが、同じことだ」
フェリスは言い返さず、そのままアークのそばについた。
「退《ひ》いた方がいい、チーフ! 今わかったんだ……この人、全く隙《すき》がない。本っ当に強いよっ」
「ばっか野郎! なに、敗北主義なこと吐《ぬ》かしてんだ、フェリスっ。まだ勝負はこれからだっ。つーか、おまえは手を出すな!」
レインは二人の言い合いを横目に、唇の端《はし》を吊り上げる。
「二対一でも俺は一向に構わないぞ。遠慮《えんりょ》なく、二人がかりで来いっ」
「吐《ぬ》かせええっ」
気力満々でアークが剣を振り上げ、また駆け出そうとする。
「駄目《だめ》だ、チーフっ」
その時、レインはアークよりもむしろ上空に注目する。
上手《うま》い具合に、ちょうど甲高い呼び声が降ってきた。
「待て! アークを殺させはしないっ!!」
「おおうっ」
もうなにを言ったところで止まらなかったであろうアークが、その声を聞いてつんのめるように足を止める。
フェリスが上を見て「あちゃー」と額に手をやる、そして観客達が思わず叫ぶ。上空に向けて、指をさす者もいた。皆の注目を一斉《いっせい》に浴《あ》び、新たなリトルドラゴンが悠然《ゆうぜん》と姿を見せる。ただし、同じリトルドラゴンでも、こちらは巨大な翼が目立つ、翼竜《よくりゅう》とかフライングドラゴンとか呼ばれる種《しゅ》で、その背中に一人の細身《ほそみ》の青年を乗せている。
革の手綱《たづな》を手にした彼は、真っ白な肌と紅《あか》い長髪という、ここらでは見ない特徴を備えている。
ちなみに、黒影石《こくえいせき》を削《けず》ったサングラスなどをかけているせいで、表情は全く読めない。
もしこのサングラスをとれば、結構な優男《やさおとこ》に見えるだろう。
ただし、叫んだ瞬間は焦《あせ》り気味だった彼も、今やこの斬《き》り合いについてだいたいの察しがついたのか、恐ろしいまでに機嫌《きげん》が悪そうだった。
風塵《ふうじん》を巻き起こしつつ着地、早速ドラゴンから飛び降りると、つかつかとアークに近寄る。
いきなり、怒鳴《どな》りつけた。
「上空から見て、びっくりしたじゃないか! 余計な心配をかけるな、アークっ。自分の立場を考えるがいい! 飼い慣らしてあった翼竜《よくりゅう》まで持ち出してっ。一体、アレをどこへ置いてきたっ!?」
――レインが思うに、アークとやらはこの男が苦手らしい。
さっきの勢いがすっかり萎《しぼ》み、あうあうとしどろもどろの様子。
見かねて、仲間のフェリスが口を出した。
「あ〜……大丈夫だよ、ケイ。ちゃんと、国境沿いの見つからない場所に待機《たいき》させてあるから。いやぁ、アレを使わないと、ここまで来るのに凄《すご》い時間がかかるからさー」
「そんな問題じゃなかろうっ」
ケイとやらは、仲間の口出しをピシリと封じた。
そして、これから百万言《ひゃくまんげん》の文句を捲《まく》し立ててやるっ、という勢いで息を吸い込んだところへ――
レインはやっと口を挟《はさ》んだ。
「ほほ〜、レイファン自慢の龍騎兵《りゅうきへい》のネタ元だな。……飼い慣らすのは難しいのに、見事なもんだ」
この瞬間のケイの顔を見て、レインはちょっと感心した。
帳《とばり》を下ろしたように短気な表情が消え去り、あっという間に冷静さを取り戻したのだ。
こちらを向いた時は、やり手の外交官を思わせる、実に油断ならない雰囲気を放っていた。
「……失礼した。多大なご迷惑をおかけしたようですね」
ここで細い眉《まゆ》をぐっと寄せる。
「しかし……我が国の龍騎兵《りゅうきへい》については、ごく最近まで機密事項だったのですが。あなたは、なぜそれを?」
「別に、そっちへ間諜《かんちょう》を送り込んであるとか、そんな理由じゃないぞ? ただ俺は、他国の噂《うわさ》には注意を払う方でな」
まあ気にするなよ、なぁ? という表情で、レインはニヤッと笑う。
ケイは、路傍《ろぼう》の石が生意気《なまいき》にも宝石に化けたのを見たような、なんとも言えない顔つきをした。サングラスをかけていても、そういう表情の動きはわかったりする。
レイン自身はさりげない表情を崩さない。ただ、ケイの騎乗《きじょう》してきたフライングドラゴンがぎろっとガンをつけくさったので、反対に睨《にら》み返してやった。
この程度の魔獣《まじゅう》になめられてはかなわない。
気性《きしょう》が荒いはずのドラゴンがたちまち視線を逸《そ》らすのを見やり、ケイは考え深そうにレインを観察する。
「どうやら貴方《あなた》は、見かけより遙《はる》かに油断ならない方のようだ。……無駄《むだ》に攻撃魔法を使ったと悟った時は、失望しかけましたけど」
「そうか? こっちはそれなりに計算してたんだがな。例えばだ――これで俺が、いざという時はなかなか頼りになる奴だってのが、実地に確認できたと思うが?」
さりげなく付け加える。
「今のセリフ、『俺』の部分を『某《ぼう》S国』に変えたりすると、なお良しだな」
そよ風のようにさらっと言ったのだが、相手はレインの意図《いと》を読み違えなかった。
まさに絶句《ぜっく》して口元を半開きにする。ほんの刹那《せつな》の間だが、本気で驚いているようだった。
ややあって、ゆっくりと首を振った。
「貴方《あなた》は……世間《せけん》の噂《うわさ》以上に切れ者ですね。話が早い……。ここまでとは、驚いたな」
「よく言われるんだ、それ」
さらりと髪をかき上げ、レインは大真面目《おおまじめ》に頷《うなず》く。
「まあこの場合は、馬鹿を演じるよりいいかと思ったんでな」
淡々《たんたん》と返した辺りで。
仲間外れだったアークが、ようやくぐぐっと前へ出てきた。
「おい! 訳のわからん話をサクサク進めんじゃねえぞ、ケイっ。俺は是《ぜ》が非《ひ》でもこいつをぶっちめ――うごわっ」
語尾の「うごわっ」は雄叫《おたけ》びの類《たぐい》ではない。
ケイとやらが、どこからか棒状の武器を出し、物も言わずにアークの後頭部をどやしつけたのだ。
見事すぎる不意打ちだった。
しかも、これがまた容赦《ようしゃ》のない一撃《いちげき》で、大柄《おおがら》なアークが頭を抱えてふら〜っと足をよろめかせた。
ケイがフェリスに目配《めくば》せすると、この相棒《あいぼう》は心得たもので、即座に反応した。アークを引きずるようにして、ささっと翼竜《よくりゅう》の背中に乗せる。その素晴らしい連携《れんけい》を見るに、どうも前にも似たようなことをやっているような。アークの処理を見届けると、サングラス男はまた向き直った。
何事も無かったようにレインに、そしてその後ろのシェルファに、それぞれ一礼する。
「今は人目が多すぎます。相応《ふさわ》しい場所でもありますまい。いずれ、改めて天下のことを語りましょう」
「――ふむ」
レインは気軽に頷《うなず》いてやった。
ケイをじろじろと見やり、
「おまえも、色々と大変そうだな」
「……アークのことなら、いつものことですから」
「いや、俺が言うのはおまえ自身のことなんだが。ま、いいさ。どうせ秘密なんだろうし」
ぼそっと言ったそのセリフに、ケイはすっと顔を上げた。
サングラス越しに、随分《ずいぶん》と長くレインを見返す。
だが結局なにも返さず、シェルファに向かって再度、丁寧《ていねい》に頭を下げた。
「陛下は優秀な臣《しん》をお持ちのご様子。お陰《かげ》で双方共に、もはや名乗るまでもないようですが――」
ほのかに苦笑を浮かべ、
「ご迷惑をおかけしたまま、引き上げるご無礼《ぶれい》をお許しください、陛下。正式なご挨拶《あいさつ》はまた、再会の折にしたいと存じます」
シェルファが黙って会釈《えしゃく》すると、彼もまた身を翻《ひるがえ》す。
仲間と一緒にフライングドラゴンの背に乗り、空に舞い上がっていった。
――☆――☆――☆――
上空で、フェリスははあっと息を吐き、両手をドラゴンの背につく。
野外劇場はおろか、サンクワールの王都自体が、もう豆粒ほどの大きさになっている。
手綱《たづな》を握るケイを先頭に、アークを真ん中、フェリスが最後尾――そんな風に三人乗っても、まだ場所的には余裕があった。
「あ〜、さっきはほんっとにヤバかった。多分、これまでに僕らが出会った中じゃ、最強の戦士じゃないかなー、あの人」
ケイが振り返り、じろっと睨《にら》んだ(気がする)ので、フェリスは先手を打つ。
「言っとくけど、僕は止めたんだよ、ちゃんと。チーフが聞かなかっただけ」
「……安心しろ、今更グダグダ文句付ける気はない。そもそも、一度は会っておく必要はあったんだしな。本国へ帰ってから、正式に国交を結ぶかどうか決めないといけない」
「もしかして、さっきのわけわからない会話、同盟を前提とした話だったわけ?」
直接の返事はなかったものの、ケイは遠回しに認めた。
「……どうやら向こうも同じことを考えているらしい。なかなか侮《あなど》り難《がた》い人だ」
「同盟はいいけどさー」
フェリスは眉根《まゆね》を寄せる。
「それ、チーフが了承すると思う? 相性悪そうだよー、なんか。だいたい」
――今だって危うく殺し合いに。
フェリスのセリフが、翼の風切《かぜき》り音《おん》に溶け込むように消える。
いつの間にか豪快《ごうかい》に爆睡《ばくすい》している眼前《がんぜん》のアークの喉元《のどもと》、そこにうっすらと紅《あか》い線が生じているのに気付いたのだ。かすり傷に過ぎないものの、これを付けた時に相手がその気なら、今頃アークは無事ではあるまい。
「幸運だけでは絶対に越えられない壁……かぁ」
「何を言ってるんだ、フェリス?」
フェリスの視線を追い、ケイも「それ」に気付いた。
二人の視線が交差し、沈黙が落ちる。
やがてケイが、サングラスを指で押し上げ、ため息をついた。
さっきと同じセリフをもう一度|呟《つぶや》く。
「本当に……なかなか侮《あなど》り難《がた》い人だ」
空を飛ぶケイ達レイファンの三将よりさらに上空に、ノエルは腕組みして浮かんでいる。
眼下《がんか》を行くフライングドラゴンなどには目もくれず、遙《はる》か下方の劇場をじっと眺めている。やがて、切れ長の瞳を細め、ノエルはふっと唇を綻《ほころ》ばせた。
「力の波動を感じ、飛んで来てみれば。――なるほど、あれがレインとやらか。探す手間が省《はぶ》けたな」
肩の部分で綺麗《きれい》に揃えられた銀髪を揺らし、ノエルは笑《え》みを広げていく。やがて、声を立てて笑い始めた。
「くくくっ。ドラゴンスレイヤーか……なるほどなるほど。確かに大したものだな……人間にしては、だが」
徐々《じょじょ》に笑いを収めていき、元のにこりともしない表情に戻る。彫刻《ちょうこく》のように整った高い鼻梁《びりょう》と、透き通るように白い肌のせいか、笑いを引っ込めると途端《とたん》に冷たい顔つきになる。目を惹《ひ》きつけるという点ではシェルファと同じだが、こちらには温《あたた》かみなどまるでない。
戦女神《いくさめがみ》のように厳しく、そしてプライドの高さが窺《うかが》える顔立ちだった。
「だが、上位|魔人《まじん》たるこの私は、古龍《こりゅう》のようなわけにはいかないぞ。……む?」
魔人《まじん》ならではの視力でレインを観察していたノエルは、そこで小首を傾《かし》げる。
今、あいつと目が合ったような……気のせいか?
「まあいい……聞こえているなら、残り時間をせいぜい有効に過ごすがいい。……すぐに私が行くからな」
漆黒《しっこく》の翼を大きく羽ばたかせると、ノエルもまた、どこかに飛んでいってしまった。
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第五章 ノエル襲撃
武闘会《ぶとうかい》がよんどころない事情で中止になったその晩、レインはシェルファの私室にいた。
というのも、レインがどこに行くにもシェルファがついて来ようとするので、この際、目立たないように部屋で一緒にいた方が良かろうと思ったからだ。もちろん、シェルファ本人にはなんの異存もなく、珍しくレインが夕食を共にしてくれたので、かえって大喜びしていた。
普通ならレインは食堂へ行ってしまい、シェルファは一人で食べる羽目になるのである。
本当は食堂までついていって一緒に食べたいのだが、あそこは常に人が(というか殿方《とのがた》が)一杯いるので、未《いま》だに決心がつかないでいる。
仕方なく、専属のメイドが運んできてくれた食事を一人でモソモソ食べているのが、シェルファの通常の食事風景なのだ。
王たる者、本来ならこんな寂しすぎる食事風景は有り得ない。
専用の大広間にて、給仕《きゅうじ》やワイン係や料理長などがそばに侍《はべ》り、悠々《ゆうゆう》と食事を摂《と》るのが、この国の代々の王のやり方である。だが、彼女は自分が王位に就《つ》いた途端《とたん》、その慣例《かんれい》を廃止してしまったのだった。高貴な身分にあるまじく、『見られていては落ち着いて食べられません』というのがその理由であり、よって今はいつも一人で食事している。
父であるダグラス王が生存の頃には食事中複数のメイドがそばについていた彼女であるから、これはなかなか新鮮《しんせん》な体験だった。
……一人だと寂しいのも否定出来ないけれど。
だけど今日はレインが自室に一緒にいてくれ、しかも食事時間まで一緒。もう、シェルファは終始、ニコニコしっぱなしだった。
ただ、そういう彼女の顔を見慣れているレインは、笑顔の底に潜《ひそ》む、小さな不安に気付いていた。ついでに言えば、自分に質問したくてたまらないのだが、言い出しかねているのも。
……不安を取り除くべく、こちらから水を向けてやることにする。
メイドが食器を下げて、代わりに二人分の紅茶を用意して退出するのを待ち、いきなり切り出す。
「自分の正体が気になるか?」
シェルファは大きく息を吸い込んだ。
笑顔が消え、潤《うる》んだ瞳がレインを見る。
「……わかりますか」
「いや、普通はわかるだろう。あ〜、ただしだ。今日、あの獣人男《じゅうじんおとこ》に俺が言ったセリフ、アレはフカシだからな」
シェルファは小首を傾《かし》げ、エラく確かな口調でその時のセリフを再現してくれた。
「『甘く見ないでもらおう。俺にはもう、おまえらの事情はだいたいわかっている』――この部分のことでしょうか?」
「そう、それ。ていうか、おまえむちゃくちゃ記憶力いいな。そのセリフ、細部までビタッと一致する気がするぞ。だいたい、俺の口調まで真似《まね》せんでいいって」
「ご、ごめんなさい。わたくし、今までにレインがお話ししてくれたことは全て記憶していますから……つい」
「それって、本気で全部か?」
「はい。一言一句《いちごんいっく》、全て覚えていますわ」
真面目《まじめ》な顔をして、さらっと恐ろしいことを述べてくれた。
結構、いい加減なことも吹きまくった気がするというのに。これまでは仕方ないとして、今後はあまり卑猥《ひわい》なジョークなど口にしない方がいいかもしれない。そもそも、主君《しゅくん》にそんなのを吹き込むのが間違いなのだろうが。
レインは意味もなく咳払《せきばら》いなどし、
「――まあ、それはそれとしてだ。とにかく、まだ確信があるわけじゃない。だからそう気にするなよ、な?」
「……でも。レインほどの人なら、もう見当くらいはついているのでは?」
胸に手を当て、どきどきした顔をするシェルファ。
真実を知りたいのだが、本当に知ってしまうことも怖い――そんな複雑な心境なのだろう。
レインはテーブル越しに身を乗り出し、シェルファの頬《ほお》に手を当てた。
「そりゃまあ、見当くらいは付いてる。だが、まだ確たる証拠《しょうこ》もないのに、おまえにそれを教える気はない。……それにだ」
微妙《びみょう》に顔を近づけてきたシェルファに、レインは微笑《びしょう》を見せる。
「おまえの正体がなんであれ、別に俺の態度は変わらんしな。他の奴はどうか知らんが」
「他の人はいいんです。……ただ、レインは本当に……ずっとこれまで通りでいてくれますか?」
「ああ。元々俺は、そんなの気にするタイプじゃないだろう」
いきなり、シェルファの顔に微《かす》かに立ち込めていた暗雲が、どこかに吹き飛んだ。
心から晴れやかな表情になり、にこ〜っと笑顔を取り戻す。
「はいっ。ではわたくしも、はっきりするまで何も気にしないことにします!」
そんな簡単に吹っ切れるもんか?
慰《なぐさ》めていたレインの方がそう思ったほどに、シェルファはすっかり元気になってしまった。
どうもこの少女は、レインがどう思うかが最大の悩みだったらしい。ギュンターから聞いた通りである。内心でちょびっと苦笑した。
食事後も、シェルファはいつものようにすぐに休もうとはしなかった。
二人してソファーに移り、彼女の言うところの『お話し』などしていた。
しかも、「そのうちこいつ、俺の膝《ひざ》の上に乗ってくるんじゃないか?」とレインが思うほど密着《みっちゃく》状態での会話であり、なるほど端《はた》から見れば、これがいわゆるイチャイチャするということなのだろう、などとどうでもいい感慨《かんがい》が湧《わ》く。
思わず手が伸び、繊細《せんさい》な顎《あご》の下辺りを撫《な》でてやった。
聡《さと》いシェルファはすぐにレインの意図に気付き、「あ、猫さんですね?」と微笑《ほほえ》む。
喉元《のどもと》を撫《な》でる手つきに合わせ、ごろごろごろ〜と可愛《かわい》い声で鳴き真似《まね》までしてくれた。実際、大変に気持ちよさそうである。
う〜む、と思わざるを得ない。
今の俺達は、絶対に君臣《くんしん》の間柄には見えないだろうな、と少し反省する。
しかし、こうして抱き寄せていると身体は柔らかいわ、よい香りはするわで、なかなかいい気分になれるのも否定できない。
いかんなーと思いつつ、シェルファの目下《もっか》の話に反応する。
「で、そいつは追い返したのか?」
「……いいえ、そこまでは。でもその方、わたくしが退出した後、黙ってお城を出て行ってしまったそうです」
「ふむ? まあ、そいつの場合は手の内が見え透《す》いてるからな。おまえの判断は間違ってなかったと思うが……。しかし、おまえをジロジロ見る奴を片《かた》っ端《ぱし》から追い返すのはいかんぞ。隙《すき》あらば口説《くど》いて、女を押し倒そうとする男なんぞ、そこらにザクザクいるからなー。いちいち毛嫌いする訳にもいかないだろう」
「見ず知らずの女性を押し倒してどうするのでしょう?」
――どうするもこうするも。
そんなわかりきったことを訊かれても困るのだが。
「……いずれ自然にわかる、うん」
さらりと話を変える。
「それより、そいつが指摘した件だが。実は俺やラルファスもちょっと考えていることがあるんだ」
長い金髪を撫《な》で、「それというのも、親衛隊《しんえいたい》のことだ」とあっさり教えてやる。
「つまり、おまえの直属部隊だな。元々王ってのは、国の中で最大の兵力を率《ひき》いているべきなんだし。武官《ぶかん》の臣下《しんか》は俺とラルファスだけって現状は、いくらなんでもまずいだろう。前国王の直属部隊は、先の戦いで潰走《かいそう》して散り散りになったままだしな」
レインの部下はあくまでレインの臣下《しんか》であり、シェルファの臣下《しんか》ではない。それはラルファスの部隊においてもまたしかり。つまりシェルファは、第三者的に見れば、たった一人で二大|軍閥《ぐんばつ》の上に立っているのだ。国王という権威《けんい》のみを持って、実際に多数の軍勢《ぐんぜい》を握るレイン達を統括《とうかつ》しているわけで、誰が見ても極《きわ》めて危うい地位なのである。
この件に関する限り、ジョシュア某《なにがし》は決して間違ってはいない。
――というような説明をしても、シェルファはピンと来ないようだった。
「でも。わたくしは今のままで、何も困りませんわ」
「まあ、ラルファスは『主君《しゅくん》を打倒して俺様の新帝国をブチ立てるぜ!』てなことは思いつきもしない奴だからな」
ここでレインは、わざとらしく声を低めて凄《すご》みを出す。
「しかしおまえ、俺がもしその気になったら、そのジョシュア某《なにがし》が指摘する通り、かなりヤバいね。絶好《ぜっこう》の位置にいるからなぁ。はっきり言っておまえ、国王から橋の下まで真っ逆さまに没落《ぼつらく》するぞ」
脳天気なこいつをちょっと脅《おど》したれ、というつもりが、軽やかに笑われてしまった。
「ふふっ。レインはそんなことしませんよ。真面目《まじめ》な声を出しても駄目《だめ》です」
「世の中、銀貨数枚のために人殺しする奴だってゴロゴロいるんだが。おまえは危機感が足らん」
「だって。レインは、そんなことをするには優しすぎますもの。それに第一、お金にも地位にも全然興味ないじゃないですか」
「……俺は他人からは、結構な野心家に見られているつもりだったがな。他の奴から見ても、金と地位に興味ないように見えるのか、もしかして?」
いささか心外に思って聞き返すと、シェルファはなにやら目元を和《なご》ませた。
「そう思っている人も――つまり、レインに騙《だま》されている人も少なくないと思いますわ」
「――まあ、俺のことは置いといてだ」
レインは何となくシェルファから目を逸《そ》らした。
どうもこいつには、何も隠せない気がする。わかりやすく言えば、「レイン方面」に関してやたらと鋭いのだ、このチビは。
「とりあえず、いつまでもおまえが兵力を持たないままなのはまずい。だから、俺達から割《さ》いた軍勢《ぐんぜい》と新規に兵を徴募《ちょうぼ》して、それなりの軍勢《ぐんぜい》を整えないとな。これが親衛隊《しんえいたい》構想なんだが」
「レインの考えなら、わたくしはいつだって喜んで賛成しますけど」
急に用心深い声音《こわね》になるシェルファである。
「その場合、その新規で集めた軍は、どなたが指揮するのでしょう?」
「……そりゃ、おまえだろう。そのための直属部隊じゃないか」
シェルファはごまかされなかった。
「でも、名目上の指揮官さんは必要ですよね? わたくしはまだ軍を指揮した経験もないのですし」
「……まーな。だから当面は、俺かラルファス以外の信頼出来る奴を指揮官に当てるとして、ゆくゆくはあのお笑い勇者を筆頭《ひっとう》に、今回の武闘会《ぶとうかい》で勝ち残ったメンバー達を新将軍に育て上げるってことで」
「却下《きゃっか》します」
「おおっ」
即座に否定され、ちょっとのけぞってしまった。
「おまえなぁ。つい今し方、俺の考えたことならいつだって喜んで賛成しますとかリップサービスしといてだな、それが十秒も経《た》たない内に意見|却下《きゃっか》かぁ」
「だって」
シェルファはちょっと唇を尖《とが》らせた。
「これは数少ない例外事項ですもの。もしわたくしのために部隊を創設するのなら、レインが指揮官になってくださらないといやです」
――いやですっておまえ。
レインの進言にまず異を唱えたことのないシェルファが、この上なく強固に主張した。こればかりは絶対に譲《ゆず》らない、という気迫に満ちており、さしものレインも二の句が継げない。
「……つまり、俺に部隊を掛け持ちしろって言いたいのか?」
コクコク頷《うなず》くシェルファ。
「掛け持ちが駄目《だめ》なら、わたくしの部隊の専属になってくださってもいいですわ。あ、これってすごくいい案だと思います! そうしませんか?」
やたらとキラキラした瞳で、シェルファは嬉しそうに言う。
本気で名案のつもりらしい。
「そうもいかんだろう。現実的な選択肢としては掛け持ち案くらいだな、せいぜい」
「じゃあ、それで我慢します」
「おまえね、ミートパイを切り分ける相談じゃあるまいし、そんな簡単にいくか! これには国内のややこしいパワーバランスも絡《から》んできて」
言いかけ、シェルファの悲しそうな顔を見てため息をつく。
「わかったわかった……まあ、君主はおまえで、俺は命令を受ける方だしな。そこまで言うなら、なにか上手《うま》い手を考えるさ」
「――! ありがとうございますっ」
当然のように抱きついてくるシェルファ。
結局、本当に膝《ひざ》の上に乗ってきたのだった。
少し惜しかったがその身を引き離し、レインはさりげない口調で頼み事をする。
「ところで、ちょっとおまえに頼みがあるんだが」
「はい?」
「……試しに、この剣を抜いてみてくれないか」
ソファーの脇《わき》に立て掛けてあった傾国《けいこく》の剣を取り上げ、シェルファに渡す。
「わたくしが抜くと、なにか変わったことが起きるのですか?」
じっと見上げるシェルファに、レインは薄く微笑《ほほえ》む。
「いや、特に変わったことは起きないと思う。ただ、ちょっと俺の推理を補完したくてな」
「……よくわかりませんけど。レインがそう言うのなら」
シェルファは素直に傾国《けいこく》の剣を受け取り、立ち上がった。
なぜか深呼吸した後、無造作《むぞうさ》に鞘《さや》から抜き放つ。
「……え」
きょとんとして瞳を瞬《またた》いた。
「魔法のオーラが消えていますわ……」
普通の剣のように単なる銀色の剣腹《けんぷく》を見せる魔剣《まけん》を、驚いたように見やる。
「いや、それはそれでいいんだ。色々とややこしい剣なんでな」
レインは頷《うなず》き、「もう一回剣を収めてみろ」と指示を出し、シェルファが言う通りにすると改めてこう持ちかけた。
「次はだな、目を閉じてちょっと自己暗示を試してくれ。そうだな……これから自分が出陣して実際に斬《き》り合う――そんな風に闘志《とうし》を掻《か》き立ててくれるとベストなんだが。……出来るか?」
「む、難しいのですね。でも……先日の、レインの悪口を言ったあの人との会見を思い出せばなんとか」
「うん、それでもいいさ。目を閉じて心を落ち着かせる……そう、それでいい。それから、徐々《じょじょ》に闘気《とうき》を高めていくんだ。一瞬後には敵に斬《き》りかかる――そんな風に気合いを入れてな?」
素直なシェルファは、言われた通りに目を閉じて一心不乱《いっしんふらん》に集中しているようだった。多分、自分でほのめかした通り、ジョシュアとの会見を思い出しているのだろう。そのうち、一番腹の立つ場面に差し掛かったのか、ちょっと顔をしかめる。
すかさず声をかけてやった。
「よし、それ抜けっ。敵は目前だぞ!」
この馬鹿らしいまでに白々しい号令に、シェルファはまたまた素直に反応する。ずばっと魔剣《まけん》を抜き放ち――
ブゥゥゥゥゥゥゥゥン
レインの鼻先に突き付けられた魔剣《まけん》に、見慣れた魔法のオーラが光芒《こうぼう》を放っている。青き輝きが剣腹《けんぷく》をくまなく覆《おお》い、独特の音を立てていた。それより、今とっさに避けなければ頭を割られていたところで、レインはさすがにほっと息を吐いた。
「ちょっとヤバかったな〜。今の、俺じゃなきゃ死んでたぞ」
「――あら?」
自分が危うくレインをまっぷたつにするところだった自覚などどこにもなく、シェルファは平和な顔で小首を傾《かし》げている。
しげしげと魔剣《まけん》を眺め、尋ねた。
「先程《さきほど》までは、普通の長剣《ちょうけん》でしたのに?」
「いや……まあ、それはそういう剣なんだ、うん。――戻れ!」
「きゃっ」
声をかけた途端《とたん》に、シェルファの手から魔剣《まけん》が消え、レインの眼前《がんぜん》に瞬間移動する。
「大丈夫だ。鞘《さや》をこっちへ」
レインは剣を、受け取った鞘《さや》へ元通りに収めると、もっともらしく頷《うなず》いた。
「つまり、この魔剣《まけん》は主《あるじ》を選ぶんだ。魔剣《まけん》に選ばれない場合は、持ち主になれない。俺の手に戻ったってことは、おまえは選ばれなかったってことだ。どうやらこいつ、よっぽど俺がお気に入りらしい」
「まあ……。それなら、わたくしが選ばれないのは当然ですわ。実力以前に、レインほどふさわしい持ち主がいるはずありません」
ころころ笑うシェルファに、レインも笑《え》みを返す。
しかし、内心では思わずにいられない。
だがおまえは、まだロクに剣技も知らないのに、この剣の能力を引き出すことは出来たんだぞ?
傾国《けいこく》の剣を魔剣《まけん》として扱うことが出来た奴なんて、過去に数人しかいなかったのに。
――☆――☆――☆――
王都リディアの郊外にある小さな丘の上に、ノエルは立っている。
場所は国境から延びている街道沿いで、もう目指す都はすぐ間近《まぢか》にあり、ここから王都の一部が見下ろせた。
国の主城たるガルフォートを抱えるこの街は、夜の十時やそこらではまだまだ街全体が眠るには早い。街路《がいろ》に未《いま》だ明かりが絶えず、人の往来《おうらい》も盛んなのだが、ノエルはそんなものにはまるで関心を払わない。彼女の関心は巨大な円形をしたこの都市ではなく、その内部に建つガルフォート城にあったからだ。
より正確に言えば、そこにいるであろう黒衣《こくい》の戦士、レインが目指す相手なのである。
よって、遠くにそびえるガルフォート城を、先ほどからじっと眺めていた。
「あの程度で疲労する相手とも思えないが、今晩一晩くらいは休ませてやるのが礼儀か……その方が私も楽しめそうだしな」
腕組みしたまま、独白《どくはく》する。
ノエル自身はほとんど睡眠を必要としないので、この後は夜が明けるまで王都を歩き回るか、などと思っている。
レイグルの城で見知らぬ人間相手に「おまえは我ら魔族のことを何も知らないらしいな?」などと挑発《ちょうはつ》したものの、考えてみれば、ノエルもこの世界のことはあまり知らない。
いや、そもそも人間という種族《しゅぞく》のことだって、さほど知っているとは言えない。
――よって、見物のつもりで見て回るのもおもしろかろう。
その考えを実行に移す前に、間近《まぢか》で濁声《だみごえ》がした。
「いたいた、ちゃんといたっ。見ろ、俺の言った通りだろうがっ。見間違いなんかじゃなかっただろうよっ」
首を巡らせば、都合《つごう》五人の男が丘をひょこひょこ登ってくるところだった。
ノエルは彼らが街道をやってくるのは知っていたものの、特に関心もなく放っておいたのだが、相手の方でこちらに関心を持ったらしい。
わざわざ街道を外れて、みんなでえっちらおっちら登ってきたようだ。ご苦労なことである。
ノエルはほのかに笑った。
もちろん、温《あたた》かい笑《え》みにはほど遠い。見れば、たった今ノエルを指差して歓声を上げた男が、後続に向かって得意げに胸を張っていた。五人とも腰に長剣《ちょうけん》をぶら下げているところを見ると、傭兵《ようへい》もしくは冒険者らしい。皆、阿呆《あほう》のように口を半開きにして、ノエルを見つめていた。
そのうち全員が丘の上に至り、口々に囀《さえず》り始める。
「ふえー、おいおい、リディアなんて田舎街だと思ってたが――さすがは腐っても王都だなっ。こいつはすげーっ! 俺は南部地方はあらかた訪ねたが、こんな布地の少ない服装、見たこともねえ」
「全くだ。スタイルに自信のない女は、とても着こなせないわなー。おめーの女房じゃ恥かくだけだぜ」
「人の女房を引き合いに出すなこらっ」
「いやー、はるばる仕事探しに来た甲斐《かい》があったぜ。幸先《さいさき》がいいや」
「うわー、結婚してぇな、おい」
口々に勝手なことを言う。
これ以上つまらない会話を聞く気はないので、ノエルは早々に割り込んだ。
「聞け、人間!」
ぴしっと叱声《しっせい》を上げると、雑談《ざつだん》がぴたっとやんだ。
「今日の私は気分がいい。見逃してやるからさっさと消えろ。今なら、ふざけた物言いは忘れてやろう……」
五人はお互いにうろんな視線をやり取りしていたが、やがて真っ先に登ってきた男が首を振った。
「まだ若いのに、少々頭がいかれてるらしい。――けど、まっ、いいか。売り飛ばせば、かなりの金になるしな」
「おいっ」
女房がいるという髭《ひげ》もじゃの男が、目を剥《む》いた。
「もうそういう稼業《かぎょう》からは足を洗うと決めただろうがっ。真面目《まじめ》に働くって話は」
「うるせえっ。こんな絶好《ぜっこう》の機会を見逃せるかっ。真面目《まじめ》に働くのはこいつを売り飛ばした後でも出来るっ。いいからおまえは――がはっ」
喚《わめ》き声がぶつんと途切れた。
ノエルが早くもめんどくさくなり、さっさと行動を起こしたのだ。
突然黙り込んだ男の頭部がずるっと胴体《どうたい》からずれ、草地に落下した。胴体《どうたい》が血飛沫《ちしぶき》をまき散らしつつ、時間差を置いて倒れる。
全身に不気味《ぶきみ》な死後|痙攣《けいれん》が走っていた。
「……えっ?」
夢でも見ているような表情の残党達《ざんとうたち》に顔をしかめ、ノエルは左手に生じさせたばかりの光剣《こうけん》をすうっと消してしまった。
「戦士のように見えたが、見かけだけで反応も出来ず――か。光剣《こうけん》を使う値打ちなどないな。くだらん」
代わりに、自分の人差し指で虚空《こくう》を示す。
「おい、これを見るがいい」
三人ほどが釣られ、反射的に細長い指の先を見た。
ノエルがそのまま、指先をザシュッと横に薙《な》ぐ。
白い軌跡《きせき》が闇に残り、そして次の瞬間、三人分の首がまとめて落ちた。仲良く、タイミングを揃えて。噴《ふ》き上げる血泉《けっせん》に眉《まゆ》一つ動かさず、ノエルは呟《つぶや》く。
「ふん、最初からこうしておくべきだった」
ここでやっと、最後に残った口髭《くちひげ》の男が反応した。
というか、賢明《けんめい》にも身を翻《ひるがえ》して逃げようとした。しかし、ノエルはあっさり追いついて肩に手をやり、力任《ちからまか》せにこちらを向かせる。
片手で男の喉《のど》の下あたりを掴《つか》み、まるで布製の人形のように軽々と吊し上げた。
「ガッ……ガガガッ」
汗まみれの顔は何か言おうとしているのだが、まるっきり声にならない。腕を外そうと必死の抵抗を続けているものの、鋼《はがね》のようなノエルの指はビクともしなかった。
女の――いや、人間の筋力ではない。
「首を引き抜くか、それとも胴体《どうたい》を引き裂《さ》くか……おまえはどのような死を望む? あるいは――」
一拍置き、黒い瞳をじいっと男に当てる。
「確実な死を前にして、なお私と戦う方を選ぶか?」
「ぐくっ……どうせ……死なせる気なら……」
男は汗だくの顔を引きつらせ、苦しい息の下から切れ切れの声を洩《も》らす。
「け、剣を抜かせろ、ちくしょう。やってやるぜっ」
「ほう……よい覚悟《かくご》だ」
ノエルが無造作《むぞうさ》に巨体を放り投げると、髭男《ひげおとこ》は今度は逃げようとせず、ヤケクソの形相《ぎょうそう》で長剣《ちょうけん》を抜いた。まだ呼吸も回復してないのに、喚《わめ》きながら渾身《こんしん》の力で斬《き》りかかる。
だが、ノエルはその剣撃《けんげき》を全く避けず、まともに肩で受けた。鈍い音が響く。
普通なら骨を断たれて心臓まで斬《き》り下げられるところだが……刃《は》は剥《む》き出しの白い肩で止まっている。レイグルと同じく、皮膚《ひふ》の表面にうっすらと赤い線が生じたくらいで、わずかに血が滲《にじ》んだ程度である。しかも、ノエルがめんどくさそうに手で長剣《ちょうけん》をどけると、見る見るうちにわずかばかりの傷も消えてしまった。
「な、なにっ。う、嘘《うそ》だっ」
驚愕《きょうがく》に顔を歪《ゆが》ませ、それでもなお、第二撃を繰り出そうとした男に、ノエルは唐突《とうとつ》に言った。
「おまえは助けてやろう」
「……えっ」
勢いを殺《そ》がれ、剣を振りかざした状態で口を開けた髭男《ひげおとこ》を見て、ノエルはくっくっと笑う。
「あはは! 愉快《ゆかい》な顔をする奴だ。……助けたのは、あくまで戦おうとする、おまえの覚悟《かくご》が気に入ったからだ。あまり悩むな」
既《すで》にノエルの関心は王都に向いており、早くも男に背を向けていた。
棒のように突っ立っていた男は、慌てて声をかける。
「ま、待ってくれ。あんた一体、何者だ?」
「私か?」
銀髪を揺らして振り向いた顔に、凄《すご》みのある微笑《びしょう》が浮かんだ。
魅《み》せられたように自分を見つめる男に、ノエルは誇らかに告げる。
「私は魔族であり、魔人《まじん》だ。……今日の幸運に感謝するんだな、人間!」
喉《のど》を鳴らした男の見送りを受け、ノエルはゆっくりと丘を下っていった。
まるで、我が家の庭をゆくように。
――☆――☆――☆――
翌日は予定通り、騎士|叙勲《じょくん》の儀式が行われる運びとなった。
つまり、例の大会で勝ち残った者を新たに騎士――それも通常の騎士見習いを飛ばして、いきなり正規の騎士として迎える訳であり、「いずれはこいつらを将軍に」というレインの目論見《もくろみ》の第一歩である。
それと、今はとにかく軍備を拡張せねばならないこの国の、当然といえば当然の試みでもある。
――あるのだが。何事も目論見《もくろみ》通りに行かないのが世の常で、勝ち残った数人の中には他国の冷やかし選手(セイルに関しては本人のせいではないが)や自国の冷やかし選手(ギュンターのせいでもない)などが紛《まぎ》れ込んでおり、おまけに現在、地下牢に叩き込まれている暗殺未遂《あんさつみすい》の大男などもいて、正味、対象となる戦士はほとんど残らなかった。
それどころか名前を挙げれば、神官のフェルトに自称勇者のアベル、それに女剣士のファルナ、最後にシルヴィアだけである。
しかもこのうち、フェルトは「私は神官ですので何よりもまず、メナム神にこの身を捧《ささ》げております。よって、騎士にはふさわしくないかと」などと申し立てて叙勲《じょくん》を辞退し、「軍に協力はするし出仕《しゅっし》もするが、騎士にはならない」という微妙《びみょう》な仕官と相成った。
ただ彼は、シェルファがあっさりと教会の建設を認めてくれたことに大層《たいそう》感謝しており、全面協力の約束は文字通り本気ではある。
そしてもう一人、シルヴィア。
彼女はもう、最初から態度がはっきりしており、「あたしはレインには喜んで仕《つか》えるけど、それ以外はイヤ」なんてことをレイン本人にぬけぬけと宣言し、最初からシェルファの騎士|叙勲《じょくん》をスルーしてしまった。シルヴィアの気性《きしょう》を知るレインは肩をすくめて了承する他はなく、こちらはこちらでレインの臣下《しんか》として、後日|叙勲《じょくん》を行うことで落ち着いた。
というわけで、最終的に対象となったのは、自称勇者のアベルとファルナのみである。
広間には文官《ぶんかん》や武官《ぶかん》達の喧噪《けんそう》の声が絶えず、外の冷気を払うように熱気が満ちている。
当初は謁見《えっけん》の間で行う予定だった騎士|叙勲《じょくん》の儀式だが、あいにく列席者の人数が多いため、予定変更を余儀なくされた。結局、舞踏会などに使われることもよくある、大広間の一つを使用することとなった。
シェルファは予定時間よりかなり早くに、護衛《ごえい》を伴って広間に到着している。
すぐに、当然のようにレインの姿を探したものの、会場内には見当たらなかった。
ちょっと心細くなってしまう。
その存在は感じるので、城内のどこかにいるのは確かなのですけど……どうしたのでしょうか。
「おはようございます、陛下」
朝からピシリと、上将軍《じょうしょうぐん》のみに許された制服に身を固めたラルファスが、急ごしらえの玉座《ぎょくざ》の前に来て礼をする。余談だが、レインはこの「白地に金の意匠《いしょう》(紋章《もんしょう》)が施《ほどこ》された制服」を着用した試しがない。大方《おおかた》の予想通り、色が気に入らないというのがその理由である。魂《たましい》が拒否するそうな。
それはともかく、ラルファスは早朝だというのにこの上なく爽《さわ》やかな笑顔を浮かべ、続けた。
「急なことで、両名とは十分なご歓談《かんだん》もしておりませんが、今日はよろしくお願いします」
さらに一礼、振り返って背後に控える者達を促《うなが》す。
喜々とした足取りで進み出てきたのが、正騎士の制服を着たアベル、そして――プラチナブロンドの美女がしずしずと後に続く。
二人は並んで深々とお辞儀をした。
「おはようございます、陛下! 今日は私にとって、忘れ難《がた》い日になることでしょう。……本日ただいまよりこのアベル、陛下の御《おん》ために粉骨砕身《ふんこつさいしん》の覚悟《かくご》で戦いますっ」
アベルは、昨日シルヴィアにケチョンケチョンに敗れたことなど忘却《ぼうきゃく》の彼方《かなた》らしく、今ここでそれを持ち出しても「は? なにそれ?」とか言いそうだった。
もちろんシェルファはそこまで意地の悪いことは思わず、ただ相手の無駄《むだ》に元気な態度にとまどい、曖昧《あいまい》な笑《え》みを返した。
「……よろしく、アベルさま」
まだアベルは何か言おうとしていたが、今度はファルナが前へ進み出た。
長い金髪に、セルフィーのように軽くウェーブがかかっている。ただ、顔立ちは彼女よりずっと大人びており、実際、ファルナは二十三歳である。
他者の試合ばかり観戦していたのであまりその実力を見る機会はなかったものの、後から聞いたところでは、全ての試合で一分以内に勝負を決めてしまったらしい。Dブロックでは圧倒的な強さだったそうな。しかし、今シェルファの眼前《がんぜん》に立つファルナはおしとやかで礼儀正しく、それに控えめであった。
短く、「……がんばります」と一言|挨拶《あいさつ》をしたのみで、すすっと下がってしまった。下がる間際にちらっとシェルファを見上げたものの、すぐに碧眼《へきがん》を伏せてしまう。
両名の挨拶《あいさつ》が終わると、ラルファスが軽く頷《うなず》いた。
「では陛下、参列者が位置に着き次第、始めさせていただきます」
「あ、はい。よろしくお願いします」
上級騎士や高位の文官《ぶんかん》達がざわざわと左右に分かれて並ぶ中、ラルファス達も二人を引き連れ、ひとまず下がる。
数分後には儀式を始めるわけだが――レインの姿は未《いま》だにない。
そういえば、ギュンターの姿も見当たらない。
玉座《ぎょくざ》の脇《わき》に控えるガサラムに、シェルファは小声で尋ねた。
「あの……レインはどうしたのでしょう?」
「さぁ、それが」
頭を掻《か》きながら困り顔のガサラムである。
「さっき部屋へ行った時はちゃんといて、『これから顔出す』ってことだったんですが。まだみたいですなあ」
思わず、「じゃあ、わたくしが呼びに行きます」とか言いそうになった。
まさかそうもいくまい。かといって、ガサラムにも護衛《ごえい》の任務があり、使いをしてもらうわけにもいかない。
そのうち時間が来て、儀式が始まってしまった。
――☆――☆――☆――
その頃レインは、ギュンターと共にガルフォート城の一角、すなわち、かつてシェルファと初対面を果たした庭園の隅《すみ》にいた。
なぜこんな時間帯を選んだかというと、今のこの時間、主立《おもだ》った奴のほとんどが広間の方におり、邪魔が入る――つまり見られる心配がないからだ。
二人の足下《あしもと》には数メートルくらいの深い穴があり、一メートル四方の四角い石版が露出《ろしゅつ》している。
そこには魔法維持のための複雑なルーンが書かれていて、この石版がある種《しゅ》の結界《けっかい》の役目を果たしていることを示していた。
「……ふむ」
たった今、魔法で穿《うが》った穴を見下ろし、レインは顎《あご》を撫《な》でる。
――自分が持つ結界《けっかい》の知識と、かつてタルマが教えてくれたヒントに従い、城内の片隅《かたすみ》を掘り下げてみたわけだが。
どうやら、物の見事に予想が当たったらしい。
「これと同じ物が、ここを含めて東西南北の四隅《よすみ》に埋められているわけだ。おまえは、これが何のための結界《けっかい》か、わかるよな?」
横目でギュンターを見やると、忠実な彼は小さく一礼した。
「御意《ぎょい》。一応私もルーンマスターの端《はし》くれ故《ゆえ》、存じております。……そこに、個人のお名前が書かれておりますな。つまりこれは、あの方の気配《けはい》を外に洩《も》らさぬための結界《けっかい》――言い換えれば、ある種《しゅ》の封印かと」
「……そういうことになる」
レインは頷《うなず》き、ちょっとため息をついた。
別に声を低めることもなく、口にした。
「つまりだ、この城は結果として、あいつを封じていたとも言えるわけだ」
ギュンターは無表情に首肯《しゅこう》するのみ。
独り言のようにレインは続ける。
「しかし……どうしてあの時、レイグルは気付かなかった? ジョウはともかく、奴が気付かないのはおかしい」
呟《つぶや》いた後、自分で結論を出す。
「あいつ自身にも封印の儀式が成されていたから……か。それならわかる。となると、今はその封印も消滅《しょうめつ》しつつあるってことだな。だから、時として『気配《けはい》を感じる』ことがある……か」
レインが出した結論に、ギュンターはまたしても同意した。
「レイン様のお考えの通りと思います」
特に騒ぐでもなく、顔をしかめるでもない。
そんな彼が相手だからこそ、レインはわざわざ口止めする必要も感じず、ただあっさりとこう言えるのだ。
「ま、今となっちゃもう必要ないかもだが、とりあえずこのまま埋めとこう。別に騒ぐほどのことでもないさ」
「――御意《ぎょい》」
「時に、さっきからなにか妙な感じがしないか? ずっと無視していたんだが、どうも嫌な予感が」
顔をしかめたレインがそれ以上続ける前に。
――遠くから破壊音が聞こえた。
――☆――☆――☆――
ノエルはあえて気配《けはい》を殺し、ガルフォート城の直上に浮かんでいる。
高度は、およそ三十メートルほど。
これ以上ここに静止していれば、いずれは無関係の人間達も彼女に気付くことだろう。彼女としては、その前に行動を起こすつもりである。あえて気配《けはい》を絶っているのは、敵を恐れたり警戒《けいかい》しているからではないのだ。単純に、彼女自身の悪戯心《いたずらごころ》のせいだ。
いきなり敵の群《むら》がるど真ん中に特攻《とっこう》をかけ、人間達の度肝《どぎも》を抜いてやろう――などと考えている。
効率のみを優先する戦いを好むレイグルとは違い、ノエルにはそのような子供っぽいところがある。そういうわけでノエルはさっきから悠々《ゆうゆう》と、自分好みの突貫《とっかん》場所を選んでいるのだった。
「うん、良さそうな場所を見つけたぞ」
ふっと赤い唇の端《はし》を吊り上げる。
眼下《がんか》には立派《りっぱ》な尖塔《せんとう》がいくつも建ち並んでいたが、ノエルの漆黒《しっこく》の瞳は、人の気配《けはい》が多数集中する宮殿の奥に向いていた。
「何かの催《もよお》しでもやっているようだが……結界《けっかい》のせいでどうも詳しくはわからんな。まあいい、突入すればわかることだ」
くっく、と笑ったが……その笑いは静かに収まっていった。
凄《すご》みのある声音《こわね》で独白《どくはく》する。
「レイグルによれば――。遙《はる》かな昔、人間達が後に、『聖戦《せいせん》』もしくは『覇権戦争《はけんせんそう》』と呼んだこの世界での戦いでは、実は魔人《まじん》軍を構成していたのは僕《しもべ》とファミリア(使い魔)がほとんどだったという。……しかし、今回は違う!」
爛々《らんらん》と光る漆黒《しっこく》の瞳をかっと見開く。
「上位|魔人《まじん》たるこの私が、大いなる戦いの第二幕を開けるのだ!!」
その叱声《しっせい》を最後に、ノエルは急降下してガルフォートに突っ込んだ。
バチバチバチバチッ
宮殿の至近《しきん》で、いきなりノエルの突入を、見えない「何か」が阻《はば》む。彼女が感じた通り、あらかじめレインが張っておいた結界《けっかい》が、侵入者の高魔力を感知して発動したのである。稲妻《いなずま》の固まりを思わせる魔力の波動が、どっと襲《おそ》ってきた。その刹那《せつな》、宮殿を半球状に覆《おお》う結界《けっかい》が半透明の姿を見せる。一瞬で生じた不可視《ふかし》の魔法壁《まほうへき》は、彼女をがっちりと絡《から》め取り、無数の針のように強靱《きょうじん》な身体を苛《さいな》む。
今や青白いパルスがノエルの全身を覆《おお》っていた。
体の深奥《しんおう》で苦痛が爆発し、脳内を引っかき回されるような痛みが重なる。
例え魔人《まじん》といえども、ここまで強力な結界《けっかい》を張れる者は少ないかもしれない。
「くううううっ、やるなっ! しかし、この程度で私を阻《はば》めると思うなっ」
瞳に闘志《とうし》を燃やし、ノエルは両手両足を思いっきり突っ張る。
人間から見れば無尽蔵《むじんぞう》に等しい魔力を集中させ、流れ込んできた魔力の効果を押し返す。
力を全開にしたノエルの反撃により、防御結界《ぼうぎょけっかい》は数秒の抵抗の後、砕《くだ》け散った。無数の星が舞うような光をきらきらと宙《ちゅう》に舞わせつつ、綺麗《きれい》さっぱり消滅《しょうめつ》してしまう。
「あははははっ。いいぞ、レインっ。おまえはいい、実にいいっ。こんなに楽しめそうなのは数十年ぶりだっ。――光よっ」
心から楽しそうな哄笑《こうしょう》と共に、ノエルは今度こそ宮殿の屋根をぶち抜いた。
つつがなく騎士|叙勲《じょくん》の儀式が進行し、シェルファが跪《ひざまず》いた二人の前へ進み出ようとしたまさにその時。遙《はる》かな頭上から、なにやらただごとではない雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いた。
レインの手による魔剣《まけん》(というか刀)を抜こうとしていたシェルファは、びっくりして顔を上向けた。どうやら、宮殿の上空辺りから響いた音のようだが、本物の雷鳴《らいめい》ではない。
なにか、もっと別の物音である。
「今のは一体――」
言いかける間もあればこそ。
今度は雷《かみなり》に酷似《こくじ》した物音ではなく、何かの破壊音が耳をつんざいた。おまけに、足下《あしもと》を突き上げるような振動を伴っており、広間全体が激しく揺れた。
堅牢《けんろう》な石を組んで建てられたこのガルフォート城が、グラリグラリと揺れたのである。
大地震もかくやという有様だった。
パラパラッと天井から埃《ほこり》が舞う。
今度は離れた場所ではなく、上の階で何か起こったらしい。
天井でも落ちたような激しい音だ。
「陛下っ」
ガサラムとラルファスが同時に動き、よろめいたシェルファを支えようとする。
そこでまた、一際《ひときわ》大きな轟音《ごうおん》。
今度こそ本当に天井が落ちた。
広間の後方、衛兵が固める出入り口の天井が爆裂音《ばくれつおん》と共に砕《くだ》けたのだ。少なくとも数名が瓦礫《がれき》の下敷きになり、悲鳴を上げて倒れ伏す。そしてぼっこりと空いた穴から、黒っぽい何かが飛び出して来た。舞い上がった埃《ほこり》を通して、哄笑《こうしょう》が響いた。
身体の線から、相手が女性だとわかる。それも、プロポーション抜群《ばつぐん》の。
まるで、このガルフォートが自分の居城であるかのように、堂々と胸を張って周囲を睥睨《へいげい》している。己《おのれ》の身一つで二階分の天井をぶち抜いた割には、かすり傷一つ見当たらなかった。
今度もまた、ガサラムとラルファスが誰よりも早く反応した。
ガサラムは、「衛兵っ、陛下の周りを固めろ! 敵を近づけるなっ」と怒鳴《どな》り、自らも剣を抜く。
ラルファスもラルファスで、「グエン、ナイゼル、陛下をお守りしてくれっ」と叫んでいた。
ただ、元から近くにいた衛兵達は夢から覚めたようにガサラムの命令に従ったものの、巨漢《きょかん》のグエンとナイゼルの副官コンビ二人は、既《すで》にノエルに向かって走っている。しかも、各人が狼狽《ろうばい》のあまり大声で喚《わめ》いているせいで、ラルファスの命令が届かなかった。
ノエルの楽しそうな声が響く。
「ここで私の相手が出来そうなのは、レインくらいだと思うぞ。無闇に弱者を殺す気もないが……ここで暴れていれば、奴を捜し回る手間が省《はぶ》けるかな?」
華やかに笑う。
「レインとやらは騎士だったはず。大事な主君《しゅくん》が危ないとなれば、向こうからやってくるだろう。はっは!」
シェルファに気付き、ゆっくりと歩き出した。
「遊びのつもりかよ、ふざけやがって! おまえら、ぼけっとしてないでそいつを取り押さえろっ」
バトルアックスを振りかざしつつ迫るグエンに勇気づけられ、やっと我に返った衛兵達が侵入者に殺到《さっとう》する。ノエルは慌てず騒がず、両手を胸の前でクロスさせ、それから気合いと共に大きく広げた。
「失せろ、雑魚《ざこ》どもっ!!」
言下《げんか》に無形の力が放出され、一度に十数人の人間が紙くずかなにかのように吹っ飛んだ。
ノエルを中心に、円を描《えが》くように周囲にそれぞれ飛ばされ、固い石の床をごろごろと転がる。
大抵は頭をぶつけて気絶するか、骨を折って悲鳴を上げていた。
グエンとナイゼルも例外ではなく、前の方に溜《た》まっていた衛兵達の巻き添えで倒れてしまった。
開けた道を、無人の野を行くようにノエルが歩を進める。
「ま、待てっ。勇者たるこの僕が相手だ!」
とかなんとか言いつつ、アベルがノエルの前に立ちはだかった。
玉座《ぎょくざ》に近い場所にいたお陰《かげ》で、先のノエルの力の放出に巻き込まれずにいたのである。
ラルファスが止める暇もなく、気合いとともに必殺の斬撃《ざんげき》を繰り出す。
「ゆくぞっ」
「未熟者《みじゅくもの》が! 止まって見えるぞっ」
その言葉通り、ノエルは迫り来る剣先をロクに見もせず、ひょいと避けてしまった。
そして、体勢《たいせい》が崩れたアベルの脇腹《わきばら》をうるさそうに手で押しのける。特に力を入れたようには見えなかったのに、アベルは遙《はる》か向こうの壁まで簡単に飛ばされ、身体を嫌というほどぶつけた。そのまま、ずるずる床に崩れてしまう。
あれだけタフな少年が、今回は起きあがって来なかった。
入れ替わりに、今度は黒いフードをまとった魔法使いの群れがシェルファとノエルの間に入る。
ギュンターが残しておいた護衛《ごえい》の魔法使い部隊であり、先ほどから唱えていたルーンを使い、いきなり魔法攻撃を仕掛けた。
バンッ!
ノエルに向かって複数の火球が爆着《ばくちゃく》した。
十分な広さを持つ部屋とはいえ無茶な話だが、どちらにせよ、結果は無駄《むだ》だった。
大輪の業火《ごうか》の中からけろりとしてノエルが姿を現し、魔法使い達を青ざめさせる。
「……なんだ、今のちゃちな魔法は? もしかして、攻撃のつもりだったのか?」
銀髪の美少女がニッと笑う。
「私を倒したいなら、魔力が弱すぎる。涼風《りょうふう》が吹きつけたほどにも感じなかったぞ。――引っ込んでいろ!」
叱声《しっせい》を浴《あ》びせ、片手を一閃《いっせん》させる。
仲間を励《はげ》まし、勇敢にも再度の攻撃を実行しようとしていたルーンマスターの一人が、血飛沫《ちしぶき》とともに倒れた。
シェルファが見ていたのはそこまでである。
後はラルファスとガサラムの二人に背中を押されるようにして走った。
目指すは、広間の片隅《かたすみ》の小さなドアである。
そこは緊急避難用の脱出路で、普段は使われていないのだが、おそらく初めて役に立った。
少数の護衛達《ごえいたち》に押し出され、シェルファは慌ただしく広間を出た。
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第六章 永遠なる闇の世界
背後を気にするラルファス達に、シェルファは心配そうな声をかける。
「わたくしが逃げてしまっては、残ったみなさんが!」
「あいつの狙いは陛下ですっ。この際は陛下が逃げることが、奴らを助けることにもなるんです」
ガサラムがそう答え、ついで呻《うめ》くように呟《つぶや》く。
「それにしても、あの化け物は一体なんだ!? でたらめな強さだぜ、あれはっ。将軍と同じく、ドラゴンスレイヤーかなんかなのか!」
「――わからんが。とにかく、我々では歯が立たないのは確かなようだ」
ラルファスがそう返した途端《とたん》、脱出したばかりの広間から、宮殿全体が倒壊しそうな破壊音。
思わず、皆の足が止まる。というか、廊下がぐらぐら揺れるので、とても走れない。一斉《いっせい》に振り返ると、ノエルがドアを周囲の壁ごと破壊し、悠然《ゆうぜん》と出てきたところだった。
最初に天井を破壊して広間に降り立って以来、幾《いく》らも時間が経《た》ってない。
「ふん。どこへ逃げる気だ? 私から逃げられるはずがあるまいっ」
その自信たっぷりの言葉を認めたのか、あるいは戦士としての勘がノエルの強大さを感じ取ったのか、ラルファスが足を止めた。
「ガサラムっ。君は陛下をお連れして下へ逃げてくれ。レインと合流するんだ! ここは、このラルファスが引き受けたっ」
「私も残ります!」
答えたのはガサラムではない。
騎士|叙勲《じょくん》の対象だったファルナである。
彼女はドレス姿だったが、戦い易《やす》いように思い切って長いスカートを切り裂《さ》いてしまった。
さらに、腰に巻いていた長い鞭《むち》をほどき、ラルファスの横に並んで廊下を塞《ふさ》ぐようにして立つ。
やっとガサラムが我に返る。
「馬鹿なっ。新入りと主君《しゅくん》の親友を残して逃げられるかいっ。ここは俺が残るぜっ」
「わたくしだってみなさんを犠牲にして逃げるのはいやですっ」
シェルファまでそんなことを言い始めた。
「いいぞ、おまえ達」
何か妙に感心したようなノエルである。
「私にとっては弱敵だが、おまえ達の覚悟《かくご》は見事だと思う。可能な限り、命までは取らずにおいてやろうっ」
言下《げんか》に、露出度《ろしゅつど》満点の肢体《したい》がいきなり加速する。背後に残像を引きずり、まずは前衛のラルファスとファルナに襲《おそ》いかかる。
二人とも、さっと身構えた。
しかし、彼らがノエルと激突《げきとつ》する直前、またしても壮絶《そうぜつ》な破壊音が響いた。横手の壁(もちろん固い石組み)をバラバラに粉砕《ふんさい》し、細身《ほそみ》の身体が飛び出してくる。
ノエルに体当たりして、彼女を対面の壁に押さえつけたその人――レインより一足先に駆けつけた、シルヴィアである。ついさっきまで与えられた部屋で熟睡《じゅくすい》していたのだが、危機を察知《さっち》して飛んできたのだ。
「あたしがそばにいながら(寝てたけど)、陛下に怪我《けが》させたとあっちゃ、後でレインに申し開き出来ないものね。というわけで、覚悟《かくご》してもらいましょうか!」
「笑止《しょうし》! 誰を相手にしているつもりだ、貴様っ」
「それはこっちのセリフよっ」
肌と肌とが触れあう極近接《ごくきんせつ》の状態なので、自然と武器を使わない戦いとなる。ノエルとシルヴィアは熟練《じゅくれん》の格闘士《かくとうし》(レスラー)のように互いに体位を入れ替え、手を組み替え、相手を押さえ込もうと力を入れる。
あちこちの壁に双方の身体が叩きつけられる度《たび》に、堅牢《けんろう》な石の壁がモロくも崩れる。
「うっとうしいぞ、女っ」
苛立ったノエルが攻勢をかけた。
魔人《まじん》の筋力に物を言わせ、シルヴィアを抱え込んだまま廊下の壁に力任《ちからまか》せに体当たりしたのだ。
結果、石壁は積み木|細工《ざいく》のようにたやすく破壊され、二人は地上に落下した。
一方、庭園の片隅《かたすみ》から猛スピードで現場に向かいつつあったレインは、途中で障害に出くわしていた。ガルフォートの宮殿は、二棟からなっており、庭園のある片方の棟からもう片方の棟へ移動する歩廊《ほろう》まで来た時、その障害というか敵がずらっと並んでいた。
この大陸では見慣れない巫女装束《みこしょうぞく》の少女と三人の囚人《しゅうじん》が、どーんと眼前《がんぜん》に立ち塞《ふさ》がっているのだ。
三人とはもちろん、闘技場《とうぎじょう》でレインがあっさり捕まえてしまったシェルファ暗殺未遂犯《あんさつみすいはん》の面々であり、まるで臣下《しんか》が王族に仕《つか》えるように、長い白髪の少女の後ろに控えていた。
その少女が唐突《とうとつ》に挨拶《あいさつ》を寄越《よこ》した。
「クレアと申します。以後、お見知りおきを」
「俺の自己紹介は必要あるまい? しかし、今日は厄日《やくび》だな。全く、色んなことがいっぺんに起こる日だ」
「お察ししますわ……もう侵入者の正体にはお気付きでしょうから」
焦点を結ばない瞳をレインに当て、少女は小さく低頭《ていとう》する。鮮《あざ》やかな真紅《しんく》の瞳が印象的だった。
「再会を祝して大いに語り合いたいところだが、今は忙しい。……嫌なタイミングで来てくれたな」
クレアは、本気ですまなそうに瞳を伏せた。
「申し訳ありません。しかし、またとないチャンスでしたので、乗じさせていただきました。貴方《あなた》と同じく、私も仲間は大事にしておりますので」
クレアの言葉に、『なんと畏《おそ》れ多いこと!!』と言わんばかりに、背後の三人が身を縮めた。
今にも平伏《へいふく》しそうである。
「……なぜ結界《けっかい》が破れた直後に来れたのかとか、色々と訊きたいことはあるが。まあ、理由はある程度想像出来るし、他の質問も全部後回しにしてやる。とにかく、今はそこをどけっ。おまえ達と遊んでいる暇はない!」
レインは自らの魔力を高め、ぶわっと全身に青き魔法のオーラを纏《まと》わせた。
心持ち身を低くし、じろっとクレア様御一行を見据《みす》える。
「いっとくが、今度は牢屋行きはないぞ。どく気がないのなら、四人まとめてここで倒す!」
紛《まぎ》れもない殺気《さっき》の籠《こ》もったレインのセリフに、身構えようとしていたバジル達三人が思わず後退《あとずさ》る。もはや、自分達がレインの敵ではないのが、身に染《し》みてわかっているのだ。
しかし、クレアだけは全く動じる様子がない。
――むしろ、穏やかな笑《え》みが広がっていく。
――☆――☆――☆――
普通の人間なら即死確定の高さを落下、地上に激突《げきとつ》する寸前で双方、相手を突き放す。
シルヴィアもノエルも、難なく中庭に着地を果たした。
「ふん? おまえも人間ではないな。かといって魔族というわけでもないようだが」
掌《てのひら》に光剣《こうけん》を生じさせたノエルが、愉快《ゆかい》そうな顔で言う。
シルヴィアは、周囲にまだ人が集まってないのを確認してから、あっさり頷《うなず》いた。
「あたしは確かに人間じゃないけど、魔族じゃないわ。まあ、どちらにせよ――」
すうっとワイン色の眼を細める。
「あなたがレインを倒しに来たというのなら、見過ごしには出来ないわね」
そして、ノエルの手元を見て表情を動かした。
「エクシードを読むよりもその光剣《こうけん》が、何よりも貴女《あなた》の正体を証明しているわね……さすがは魔人《まじん》!」
ふふふと笑う。
「ブレード部分は全て自分の魔力オーラかぁ。並のルーンマスターがそんな剣使ったら、一秒も持たずに魔力が枯渇《こかつ》しちゃうわ、きっと」
そう。最強クラスのルーンマスターでもあるシルヴィアは、ノエルの持つ輝く光剣《こうけん》の正体が一瞬で理解できたのである。
要するに、ノエルの手中にある柄《つか》部分のみが本体で、一般の長剣《ちょうけん》のように『ブレード(刃《は》)』に当たる箇所はない。つまり、普通の刃《は》など初めから付いてないのだ。
刃《は》の形にど派手《はで》な輝きを放っているのは、全てがノエルの魔力からなるオーラで、膨大《ぼうだい》な魔力キャパシティーを持つ上位|魔人《まじん》でないと、そもそもブレードを生じさせることも出来ないのだった。
「ほぉ、よくわかったな。我が光剣《こうけん》は、人間共《にんげんども》の言う魔力チャージされた武器ごときとはひと味違うぞ。例えば、こんな芸当も簡単だ」
言うなり、ノエルがいきなりビシュッと光剣《こうけん》を振り切った。
途端《とたん》に、三日月型の光が飛び出し、一直線にシルヴィアに向かって飛んだ。
「――! くっ」
優《すぐ》れた反射神経を持つ彼女が、避けられずに右肩を裂《さ》かれてしまう。陽光《ようこう》の下、赤い触手のような血がぶわっと舞う。しかも、かすった三日月状の光は、そのままシルヴィアの背後の地面を深々と抉《えぐ》り、中庭の花壇《かだん》の一角をざっくりと破壊してしまった。
ニッ、とノエルが笑う。しかし、たちまちその笑《え》みが消え、いぶかしげな表情に取って代わった。
シルヴィアの怪我《けが》――かなり深く、骨まで達していたはずだが、見る見る内に傷口が塞《ふさ》がり、綺麗《きれい》に消えてしまったのだ。むろん、流れた血までは戻らないが、少なくともこのツインテール少女は涼しい顔をしていた。
「やっかいな剣がまた出てきたわねぇ。……どうやら貴女《あなた》には手加減など必要ないみたい」
「手加減だと? 寝言を言う奴だ。第一、おまえは武器も持っていないようだが、魔法のみで私に対抗する気か?」
「剣技はあたしの専門じゃないもの。――もっとも、そっちでだってあたしが後れを取ったのは、これまでに一度っきりだけど」
とか言いながら、シルヴィアは懐かしそうに目を細める。
「ふん。負けたことに変わりはあるまい」
「まぁね。でも、彼に負けたのは恥だと思ってないわ。相手は本物の天才だし」
平然とそう言うと、シルヴィアはいつもの穏やかな表情を消し、両手を広げた。
全身にまばゆい魔法のオーラが生じる。
「魔界ならぬ、冥界《めいかい》へ送ってあげましょうっ。向こうではシルヴィア・ローゼンバーグに倒されたと言いなさいな! きっとこの上ない自慢になるわよっ」
言下《げんか》に、ノエルを中心にして直径数メートル程度の黒い三角形の影が生じた。それは一種の閉鎖結界《へいさけっかい》で、一瞬のうちに薄黒く立体化し、ノエルを閉じこめてしまう。
そして、「む?」という顔になったノエルが光剣《こうけん》を振り上げる前に――
体内の魔力を高め切ったシルヴィアが、びしっと指を突きつけた。
「トライアングル・エクスティンクション!!」
彼女の叱声《しっせい》と同時に、結界《けっかい》の中心に収束した魔力が大爆発を起こす。放電現象が生じ、内部に青白い雷光《らいこう》と破壊の嵐が吹き荒れる。城内も無事では済まず、きっちり激震《げきしん》に見舞われた。
やっとバラバラと中庭に現れ始めていた警備兵達が、例外なく足下《あしもと》をすくわれ、転倒していく。
城全体が大揺れしたのだから、当然といえば当然である。
魔力の暴風《ぼうふう》が吹き荒れているのは、薄黒の閉鎖結界《へいさけっかい》の内部なのだが、その余波《よは》が外にも影響を及ぼしているのだ。結界《けっかい》がなければ、ガルフォート城の半分以上は倒壊していたかもしれない。
しかし、油断なく身構えたままのシルヴィアの眼前《がんぜん》で、立体化した結界《けっかい》がいきなり膨張《ぼうちょう》、消滅《しょうめつ》した。お陰《かげ》で、衝撃波《しょうげきは》の一部が解放され、せっかく立ち上がりかけていた警備兵達を再度吹き飛ばす。
かろうじて残っていた花壇《かだん》すら跡形《あとかた》もなくなり、宮殿の壁にも嫌なきしみ音と共に亀裂《きれつ》が走る。
いち早くシールドを張って跳躍《ちょうやく》したシルヴィアを追うように、ノエルが飛び出してくる。全身に怪我《けが》はしているが、目を剥《む》くばかりの早さでそれも治りつつあった。
「ぶち破っちゃったか……やるわねー」
さすがのシルヴィアも唸《うな》ってしまう。
「この調子だと、城への影響なんか気にしてたら、戦えないかも」
「そんな余裕を見せている場合か、愚《おろ》か者っ。しかし、今のは少し腹が立った。この礼はさせてもらうぞ!」
「先に仕掛けてきたのは、あなたでしょうが! そっちこそ覚悟《かくご》しなさいっ」
双方、再び激突《げきとつ》しようとした。
――だがそこへ。
「待て、シルヴィアっ」
二人して見上げれば、ついさっきぶち壊して落下した廊下側の穴から、レインが見下ろしていた。
せっかく駆けつけたものの、二人が下に落ちたせいで行き違いになったのである。
シルヴィアと目が合うと、労をねぎらうように小さく頷《うなず》く。
よく通る声で、
「そいつの狙いは俺らしい。だから……後は任《まか》せてくれ、な?」
シルヴィアのためらいは一瞬だった。
相手が相手とはいえ、レインの現在の実力を信じることにしたのだ。
――十年前ならちょっと(いやかなり)心配だが、今のレインなら……そう思っている。
「あたしといい感じに戦える相手なんてまずいないし、割と楽しかったんだけどな♪ 他の誰が介入してきても、無視したでしょうけど。……でも、元生徒兼、現|主君《しゅくん》の言うことは、尊重しないと駄目《だめ》よね」
シルヴィアは肩をすくめた。
「というわけで、あたしはここまで。退《ひ》かせてもらうわ」
言うなり、あっさりと全身にのたうっていた魔法のオーラを消してしまう。
ついでに、闘気《とうき》も殺気《さっき》もすかっと消えてしまった。
ノエルが拍子抜けするほどの豹変《ひょうへん》ぶりである。
上手《うま》い具合に殺気《さっき》を殺《そ》がれ、舌打ちが洩《も》れた。
「ふん、好きにするがいい。おまえの相手は、目当てのあいつを倒してからにしてやる。死ぬのが少し延びただけだ」
背中で手を組んだシルヴィアは、それを聞いてふっと笑《え》みを見せた。
なにやら誇らしげに、
「さぁ、それはどうかしらね。レインを倒すのは、貴女《あなた》が思っている以上に難しいわよ、きっと。……後で泣かないようにね」
――☆――☆――☆――
小さく手を振って寄越《よこ》したシルヴィアを見て、レインは早速下へ飛び降りようとした。だが、いきなり服の裾《すそ》を引っ張られてつんのめりかけた。
「ととっ」
素早く振り返ると、シェルファと目が合った。
護衛《ごえい》より先に駆け寄り、服の裾《すそ》を掴《つか》んだのだ。普段はおっとりしているくせに、こんな時だけヤケに足が速い。
苦情を述べたいところだが、潤《うる》んだ瞳を見ていると何も言えなくなってしまった。
しょうがないので、ラルファス達には聞こえないよう、レインは囁《ささや》く。
「どうせすぐ終わる。心配すんなって」
「レインが勝つことは疑ってないですけど……怪我《けが》なんかしないでくださいね」
「まあ、最善は尽くすさ。とにかく――」
とっさの思いつきを口にする。
「帰ってきたらキスしてやるから、手を放してくれ」
光の速さで手が放された。
「本当ですか!?」
それには答えず、遅れて来た友人とガサラムに手を振る。
「じゃ、ちょっと行ってくる」
そのまま、あっさり飛び降りた。
数十メートルの高さを落下、レインは無事に中庭に降り立つ。
何事もなかったような涼しい顔で、ノエルに向かって歩く……ゆっくりと。途中、シルヴィアの横を通り過ぎる際に、ねぎらう意味で軽く手を上げてやった。
シルヴィアはパチンと音を立ててその手にタッチし、短く激励《げきれい》の言葉をくれた。
「あの子、割と強いわよ? 怪我《けが》なんかしないようにね」
「……二人して同じこと言うんだな。多少の怪我《けが》はともかく、俺の勝ちは動かないさ」
「それは疑ってないけど、怪我《けが》もなるべく少なく……できれば、全然ないように」
微笑《ほほえ》みを残し、シルヴィアは自ら下がっていく。
レインとノエルは破壊された花壇《かだん》の横で対峙《たいじ》した。
「やっと来たか」
お目当ての相手が来て、ノエルは機嫌《きげん》が直ったようである。
何か楽しいことでも待っているかのように笑《え》みを浮かべ、レインを上から下まで眺める。その間にも、周囲では無様《ぶざま》に倒れていた衛兵達が立ち直りつつ(あるいは失神したまま運び出されつつ)あり、さらには、新手の衛兵や正騎士達がわらわらと宮殿から吐き出されてくる。なにしろ主城たるガルフォート城内のこと、出てくる数が半端《はんぱ》ではない。
一軍を形成しそうな勢いの増援《ぞうえん》が集まり、二人を遠巻きにして介入する機会を窺《うかが》っている。
おまけに、クレア達の逃亡がばれたのか、衛兵の吹く笛の音が今も鳴り止まず、うるさいことこの上なかった。ただ、そんな状況であっても、ノエルは堂々たる態度を崩さない。
あたかも自分達しか中庭にいないような表情で、レインだけを見つめている。
そのうち、何を納得したのか、一つ頷《うなず》いた。
「ふむ。こうして立っていても、おまえの力を心地良く感じるぞ、レインとやら。確かに、レイグルが警戒《けいかい》するだけのことはあるようだ」
ノエルは殺気《さっき》とは無縁の、しっとりと甘い声で囁《ささや》いた。
レインは平然と頷《うなず》き、かつ世間話《せけんばなし》のように返す。
「俺を前にして何も感じないんじゃ、どうしようもないしな。――ところで、どうして俺を狙う? おまえもレイグルの仲間なわけか。奴の命令で来てるのか?」
「命令などではない! それに私は、あいつの臣下《しんか》だったこともないぞ。一応、少し前までは同志《どうし》だったが、今は仲間ですらない。おまえを狙うのは――」
また含み笑いを洩《も》らした。
「レイグルがおまえに敗れたと聞いたからだ。そんなことを聞けば、戦いたくなるではないか」
「なるほど……。まあ俺としては、強い敵が訪ねてくることについちゃ、なんの文句もないんだが」
レインはちょっと首を傾《かし》げ、
「だが、おまえは昨日も来てただろう? 空から見下ろしていたのを見たぞ」
「ほう、やはり気付いていたか。あそこで仕掛けなかったのは、休息の時間をやったつもりだったのだ。ゆっくり休めたかな?」
微笑《ほほえ》みの後、再び闘気《とうき》を高めていくノエル。
彼女の力の波動が増すにつれ、女性らしいしなやかな肢体《したい》を、再び魔力のオーラが覆《おお》っていく。
レインだけに聞こえる声で、告げた。
「それなりの戦士が相手となれば、私も名乗らねばなるまい。我が名はノエル。魔界の住人で、上位|魔人《まじん》の一人だ。死ぬまでの短い間、心に刻《きざ》んでおくがよかろう」
「自分の勝ちはどうせ動かないから――そう言いたいわけか、おい。俺を前にしていい度胸だな」
「……ふ。当然の自負《じふ》だと思うが?」
レインは魔剣《まけん》を抜いて構える。
戦いの前にいつも浮かべる、例のふてぶてしい笑《え》みを惜しみなく見せてやった。
「似たようなセリフを吐いた奴は、かつて無数にいた。しかし、その言葉通りになったことは一度もないぞ!」
その言葉を最後に、レインはノエルに向かって走った。
わずかな間合いは一瞬にして詰まり、剣と剣がぶつかりあうかと思われたが――
レインの意に反し、ノエルはいきなり空へ舞い上がった。
翼を出さないまま、一気に城壁と同じ高さほどに上昇、片手に光剣《こうけん》を下げたまま、キッとレインを見下ろす。
左手を振り上げ、ぴたっと照準を定めた。
「その自負心《じふしん》が真の実力に支えられたものかどうか、まずは試してやろう。これを受けてみるがいい。――光よっ!!」
途端《とたん》に、中庭はおろか宮殿全体を、白銀の光が染め上げる。
王都中のどこからでもこの光が見えたに違いなく、ノエルはまるで、城全体を破壊し尽くす気でいるかのようだった。
というか、レインが上手《うま》く受け止めねば、実際にそうなるかもしれない。
膨大《ぼうだい》な魔力の固まりたる、直径数メートルくらいありそうな特大の光熱波《こうねつは》が、まっしぐらにレインを襲《おそ》う。魔法行使にルーン詠唱《えいしょう》を必要としない、魔人《まじん》ならではの速攻の攻撃で、一般の魔法使いだと力量差以前にこの時点で終わりである。
「しゃらくさい! 俺をそこらの魔法使いと一緒にするなっ。――フィールド強化!」
普段は意識したこともない、不可視《ふかし》の防御《ぼうぎょ》フィールドを、レインは自らの意志で強化、効果範囲をも広げる。
――直後にノエルの魔法攻撃がぶち当たった。
普段は虹色に変色してあっさりと魔力を吸収してのけるのだが、今回はさすがにそうはいかなかった。強化してなお、許容限界を超えた桁外れの魔力に、フィールド全体がきしみ、灼熱《しゃくねつ》の色に染まる。数千年を生きた古龍《こりゅう》の防御《ぼうぎょ》フィールドは、数秒ほど光熱波《こうねつは》を受け止めてくれたが、そこまでだった。
まばゆい光の束が綺麗《きれい》に貫通《かんつう》し、モロに向かってきた。
その刹那《せつな》、レインは味方で溢《あふ》れかえった遙《はる》か後方を意識し、覚悟《かくご》を決めた。
――自分が避ければ、彼らの運命は決まったようなものだ。
「ちっ。この程度の攻撃など!」
飛んで逃げる代わりに、ノエルがしているように片手を振り上げ、自分の前面にマジックシールドを出現させる。
同時に、そこに光熱波《こうねつは》がぶつかる。
巨大な力がレインをぐぐっと背後に押しやり、そのまま身体ごと押し潰《つぶ》そうとする。
この魔力の巨大さと破壊力から見て、支えきれずに直撃すれば、灰も残らないかもしれない。
しかし、レインは防ぎきった。シールドにぶち当たった光熱波《こうねつは》がやっと消滅《しょうめつ》した時、最初の場所から五メートルも背後に押されていたが。
「よくぞ防いだっ。だが、戦いはまだこれからだ!」
ほっと一息つく暇もなく、ノエルが光剣《こうけん》を振り上げつつ急降下してくる。
レインの目にすら捉《とら》え難《がた》い速さで、斬撃《ざんげき》を繰り出す。
本能で身体をさばいて脇《わき》へ逃れると、光の帯にも似た光剣《こうけん》の残像が肩口をかすめた。すかさず行動を起こす。敵がやや前のめりになったその隙《すき》を逃さず、レインは魔剣《まけん》を横殴りに振り切る。
今度ばかりは、一切の手加減をしなかった。
しかし、ノエルの身体を輪切りにするはずだった斬撃《ざんげき》は、空《むな》しく残像をすり抜けただけだった。
「――!」
蜃気楼《しんきろう》のごとくさあっと消えていくノエルの幻影に、レインの戦士としての勘がけたたましく警報を発する。
この俺が、ほんの一瞬にせよ、敵の動きを見失っただと!?
意表《いひょう》を突かれはしたが、レインは自らの本能の命ずるまま、軸足《じくあし》をわずかに引き、上半身をすっと反《そ》らせる。ほんの数ミリ先を、光剣《こうけん》がかすめていった。
そして双方、申し合わせたように同じ返す剣で相手に斬《き》りかかった。
バチバチバチッ!!
深紅《しんく》の光剣《こうけん》とレインの魔剣《まけん》が初めて激突《げきとつ》する。
上段から中段、そしてまた上段ヘ――コンマ何秒かの刹那《せつな》の間に数合《すうごう》を斬《き》り結び、最後は互いにがっちりと受け、鍔迫《つばぜ》り合う。残像を伴ったノエルの剣撃《けんげき》に、レインはいつしか笑っていた。
こいつは本当に強い!
まぶしいほど輝く光剣《こうけん》の向こうで、魔人《まじん》少女も笑《え》みを見せていた。
「よもや、ただの人間が私とここまでやり合えるとはな! おまえの実力はもちろんだが……その剣も大したものだ」
レインの魔剣《まけん》を見やる。
「我が光剣《こうけん》を受ければ、普通の長剣《ちょうけん》なら両断され、魔力チャージされた魔剣《まけん》でも、数合《すうごう》も打ち合えば刃《は》こぼれが生じるのだが」
「……この剣は素性《すじょう》は最悪だが、能力的には紛《まぎ》れもなく天下最高だからな。今の俺にだって、これと同等の魔剣《まけん》を創造出来るかどうか」
ここでニヤリと笑う。
「しかもこいつは、身に帯びているだけでなぜか強敵が続々と現れるという、嬉しいおまけ付きだ!」
言いつつ、光剣《こうけん》を押し上げるようにして、レインはノエルの懐《ふところ》に飛び込む。
足技で長い足下《あしもと》から崩そうとした――が。すらりと長い両足は、細っこい癖《くせ》に大地に根ざしたように微動《びどう》だにしない。
逆に不意を突かれ、眼前《がんぜん》に片手を突き出された。
「光よ!」
「ちいっ」
レインはとっさに自らも魔力を集中させ、ノエルに対抗する。
両者の魔力と魔力がほぼ同時に放出、至近《しきん》でぶつかって閃光《せんこう》とともに相殺《そうさい》された。しかし、衝撃《しょうげき》までは殺し切れず、双方、目がくらんで自分の背後へ飛ばされてしまう。
レインは宮殿へ、そしてノエルはその対面へと。
しかしレインは、空中で反射的に身をひねっている。宮殿に背中から叩きつけられ、潰《つぶ》れたカエルみたいになるところを、足で壁をしたたかに蹴飛《けと》ばして跳躍《ちょうやく》した。
三角飛びの要領で壁を利用し、逆にあらぬ方向へ飛んだのだ。
足にシャレにならない衝撃《しょうげき》が来たが、骨は折れずに済み、成功した。
目標は、空中で急制動《きゅうせいどう》をかけて止まりつつある、ノエルである。
壁でひしゃげているはずのレインの姿を求めたのか、彼女はとっさに、宮殿の方へ顔を向けようとしている。たった今、レインが足で蹴《け》って飛んだ壁の辺りを見ようとしたわけであり、その分、明らかに隙《すき》ができた。
わずか半瞬ばかりのその隙《すき》を、レインは見逃さない。
「どこを見ている!」
斜め上方から、レインが黒い閃光《せんこう》のように急降下する。
レインの声以前に、その気配《けはい》にハッとなったノエルは、反射的にかわそうと動く。
「ぐっ!!」
青き閃光《せんこう》が袈裟斬《けさぎ》りの形に残光を残し、落下するレインを追うように鮮血《せんけつ》が噴《ふ》き出す。
避けきれなかったのだ。
そのまま、ふわりと地上に降り立ったレインは、身軽に後方へ飛んで、用心深く追撃に備えた。
「……やってくれたな」
ノエルの声には、怨嗟《えんさ》よりも、むしろ賞賛《しょうさん》が溢《あふ》れていた。
「私のスピードについて来られただけではなく、怪我《けが》まで負わせるとは。……奴の言いようは正しかった。確かに私は、おまえを少し甘く見ていたようだ」
「いやいや、まだまだ俺を甘く見ているぞ、おまえは」
真面目《まじめ》くさって地上から反論するレインである。
「自分の速さについて来られている――なんて考える時点で、甘いも甘い、大甘だ」
怒るかと思いきや、ノエルは心地良さそうに笑った。
「……いつもの私なら激怒《げきど》するところだが。不思議なことに、益々おまえが気に入ったぞ」
親しげな声音《こわね》と共に地上に降りようとしたノエルを、意外にも第三者が攻撃した。
「――! ぬっ」
風切《かぜき》り音《おん》をともなって飛来した複数の矢を、ノエルはあっさりと手で叩き落とす。
「無駄《むだ》なことをするっ。何奴《なにやつ》だ!?」
たちまち不機嫌《ふきげん》な表情に転じ、さっと中庭の一角を見やる。
そこには派手《はで》なドレスに身を包んだ、エレナ・フェリシア・ハルトゥールその人がいて、声を限りに叫んでいた。
上空のノエルに白羽扇《びゃくうせん》を突きつけ、ノリノリである。
「さあ、おまえ達。不埒《ふらち》な侵入者を捕まえるのよ! 私からラルファス様に突き出し、褒《ほ》めていただくのだから!」
そんな動機かよ!?
下心バリバリのセリフに、レインは青ざめるより先に脱力した。
「うわ。あの馬鹿っ」
レインやラルファスの部下達は、賢明《けんめい》にも遠巻きにしているだけで手を出してこない。
副官達の指示が来ないのもあるが、十人隊長や百人隊長といった中級指揮官達が機を見るに敏《びん》で、そういう無謀《むぼう》な介入を控えていたからだ。
だが、エレナとその一党にその手の賢明《けんめい》さは望めないようだった。
たまたま無事だった自分達の宿舎の方からどっと駆けつけるや否《いな》や、エレナがいきなり弓隊に攻撃させたらしい。すぐにラルファス辺りが止めに走るだろうけれど――とりあえず、急場には間に合いそうにない。
ノエルはもちろん、笑って見過ごさなかったからだ。
「状況の見えぬ、愚《おろ》かな女めっ(レインも全く賛成である)。己《おのれ》の浅はかさの報《むく》いを受けろ!」
叱声《しっせい》を叩きつけ、長大な光剣《こうけん》を豪快《ごうかい》に振り切った。
エレナと彼女の小勢《こぜい》に向かい、三日月形をした魔力の固まりがずばっと走る。放たれた途端《とたん》に光刃《こうじん》が横に広がり、十メートル以上のでかさになっている。
まとめて始末する気なのだろう。
「――! きゃっ」
白羽扇《びゃくうせん》を手にしたエレナは、縦《たて》ロールの豪奢《ごうしゃ》な金髪を翻《ひるがえ》して意外な素早さを発揮した。ささっと手近な部下の背中に回り、そいつを盾《たて》にとったのだ。
なかなかいい根性だが、あれはその程度では防げないような。
……まあ、不幸な事故だったということで。短い付き合いだったが、冥界《めいかい》でも達者《たっしゃ》でやってくれ。
――エレナ完――
一瞬、本気でそう思ってしまったレインだが、結局は身体が勝手に動いていた。
友人のことを思うと、黙って見ているわけにもいかないではないか。
「それに、遠隔攻撃ならこっちが本家だってのを教えてやらんとな!」
声を放ったのは、既《すで》に傾国《けいこく》の剣を大きく一閃《いっせん》させた後である。
かつての小王国、セレステアの国民を震え上がらせた「見えない斬撃《ざんげき》」は、今回も遺憾《いかん》なくその力を発揮した。無形の力の波動が三日月形の光刃《こうじん》を追撃、エレナの一党に命中する寸前に、見事に粉砕《ふんさい》してのけたのだ。
巨大な光刃《こうじん》は、幾多《いくた》の蛍火《ほたるび》のように煌《きら》めく光の粒になって散った。
しかもまだ、レインの放った「見えない斬撃《ざんげき》」の勢いが止まらず、中庭のぶっとい木の一本をすぱっと両断してしまう。音を立てて倒れる木を見やり、ノエルはむっとした表情になる。
たちまちレインに注意を戻す。
「余計な真似《まね》を!」
浮遊をやめて大地に飛び降りるようにして降り立ち、レイン目指してだっと走る。これがまた速い。レインと遜色《そんしょく》のないスピードである。
今度はレインが魔法攻撃で出迎える番だった。
「行けっ」
さっと指差すと、頭上に幾《いく》つも生じさせていた魔力の光球が、一斉《いっせい》にノエルを目指して飛ぶ。
「――! シールドっ」
彼女の叫びに、着弾《ちゃくだん》の音が重なった。
大輪の花が開くに似て、次々と凝縮《ぎょうしゅく》された高魔力が爆着《ばくちゃく》し、その度《たび》に閃光《せんこう》を放つ。
ノエルの身体が見えなくなるほどの白光《はっこう》だった。
「シールドごとぶち破ってやる!」
レインの力強い声に応じ、攻撃は全く途切れる様子がなく、流星のように尾を引く光球がこれでもかと魔人《まじん》少女を襲《おそ》っていた。しかし、ノエルは大人しく殺《や》られてはくれなかった。
白熱する光の渦《うず》を振り払うように飛び出し、あっと思った時にはレインの間合いに入っている。
「倒れ伏すがいい!」
「そうはいくかっ」
ギギィンッ!
剣にチャージされた魔力と純粋な魔力――剣同士の激突《げきとつ》による反発で、ひときわ大きな閃光《せんこう》。
受けたレインの手から足下《あしもと》へと、痺《しび》れるような重いショックが駆け抜ける。少女っぽい外見の癖《くせ》に、こいつはなんという馬鹿力か。しかも、昨日のバジルごときと違い、スピードも十分なのだ!
レインは身体をややさばき、力を受け流すようにして相手の剣撃《けんげき》を凌《しの》ごうとした。
と、すすっとノエルの片手が伸び、レインの二の腕辺りを掴《つか》んだ。
美貌《びぼう》がにんまりと笑《え》みを浮かべる。
「捕まえたぞ?」
「――くっ」
まるで抱き合うように身体を押しつけ、レインをたやすく持ち上げてくれた。
べったりくっついた状態なので、剣が振るえない。それ以前に、こいつの馬鹿力のせいですぐには振り解《ほど》けなかった。そして、バンッとノエルが大地を蹴《け》る感触。
レインを抱えたまま大きく跳躍《ちょうやく》、その先には――理解より先に、背中にでっかいショックが来た。
宮殿の壁に、思いっきり叩きつけられたのだ。
石壁に罅《ひび》が走る音と感触、そして、ボロボロ崩れる破片《はへん》……どこからか悲鳴も聞こえる。おまけに、喉元《のどもと》に酸《す》っぱいものが迫《せ》り上がって来る始末である。必死に意識を保っていると、ノエルの声が耳元で囁《ささや》いた。
「……どうやらおまえは、周囲を気にしすぎているらしい。実力を出し切れない様子だな」
考え込むような声音《こわね》。
レインの喉元《のどもと》を押さえつつ、片手をしきりに動かしている。何かの印を結んでいるようだが、残念ながらよく見えない。
「ならば、思う存分戦える場所に移動しようではないか」
「それより、吐く時はおまえの顔に吐いてやるぞ、こらっ」
そんな減らず口を叩きつける前に、周囲の景色がすうっと暗転した。
――☆――☆――☆――
次に周囲が明るくなった時、レインは景色が一変しているのに気付いた。
だがその直後、ノエルによってまたしてもどこぞの壁に叩きつけられ、今度はその壁をぶち抜いて向こう側に落ちた。視界がぶれて嘔吐感《おうとかん》が益々ひどくなった。
敵は片手で軽々とレインを振り回し、フルスイングでぶち当ててくれたらしく、身体中の骨に罅《ひび》が生じた気さえする。
ドラゴンスレイヤーの頑丈《がんじょう》な身でなければ、潰《つぶ》れていたはずだ。
さっと立ち上がったものの、くらっと立ちくらみがして膝《ひざ》が笑った。これで、未《いま》だに剣を手放さずにいるのが、我ながら見上げたものだと思う。壊れた壁をまたいで外に出る。
ノエルは追撃をかけず、前方にふよふよと浮いており、お陰《かげ》でやっとまともに状況を確認できた。
レインは見知らぬ街の、砂塵《さじん》が舞う寂《さび》れた街路《がいろ》に立っていた。
今、自分がハエみたいにぶち当てられた家屋を含め、周囲の建物は全て廃墟《はいきょ》と化している。真っ昼間なのに、人の姿はまるでない。完全に死滅《しめつ》した街だった。というか、冬の最中にもかかわらず、体感温度が一気に上がっており、大気がゆらゆらと揺らいでいる。
おまけに砂塵《さじん》を通してずっと向こうには、延々と広がる砂漠が見えた。
ここには来たことがある……こんな遠くへ転移しくさったのか、こいつ。
むうっと眉根《まゆね》を寄せるレインに、ノエルが親切にも重ねて教えてくれた。
「――セレステア。この廃墟《はいきょ》は、かつてそう呼ばれていたそうな」
なにやら遠い目をして辺りを眺め、
「私も仲間から話を聞き、先日、初めて訪れたばかりだが。我らの侵攻軍が、人間相手に手痛い敗北を喫《きっ》した場所だそうだな」
――は?
それは初耳というか、そんな事実は全く聞いたこともない。
しかし聞き返す前に、相手が勝手に話を結んでしまった。
「まあ、そんな昔のことはどうでもよい。私はその頃は生まれてさえいなかったしな。とにかく、ここならどこからも邪魔は入らないだろう」
話しつつも、ノエルはちょっと顔をしかめた。
レインが先程《さきほど》負わせた怪我《けが》はかすり傷かと思いきや、予想以上に深かったらしい。
事実、未《いま》だに出血が止まっていない。魔剣《まけん》で斬《き》られた傷は、チャージされた魔力|故《ゆえ》に治りが遅いのが普通だが、それは魔人《まじん》とて例外ではなかったようだ。しかし、痛みを振り払うように何度か首を振ると、ノエルは地上に降り、レインへ向かって駆けてきた。
光剣《こうけん》を上段から大降りに振り切り、まるでレインを頭から両断しそうな勢いである。
同時にレインもまた、自ら攻勢に出ている。地を這《は》うように低い位置から豪快《ごうかい》に剣を振り上げ、ノエルの光剣《こうけん》を迎撃《げいげき》、弾き返す。
さらに、追い打ちで剥《む》き出しの腹に前蹴《まえげ》りをぶち込んでやった。
「うっ」
普通人みたいに内臓破裂とはいかなかったが、顔をしかめて後退《あとずさ》りはした。
そこヘレインが、風のように踏み込む。
長身がめまぐるしく一回転し、パワーとスピードの乗った魔剣《まけん》がノエルの胴《どう》を薙《な》ぐ。これは胸の下辺りをかすっただけだったが、たまりかねてさらに後退《こうたい》したノエルの顔には、驚きの表情が浮かんでいた。
「ステージを変えたのはまずかったな!」
レインは、ノエルが間合いの外に逃げるのを許さない。ぴたりと攻撃位置を維持し、剣撃《けんげき》の雨を降らせる。
「お陰《かげ》で、思いっきり戦える」
「つっ! さっきよりスピードが増しているだと!?」
表情に初めて焦《あせ》りを見せ、ノエルは大きく背後へ跳躍《ちょうやく》、そのまま一旦、空中へ逃れようとした。
しかし、レインは彼女とほぼ同時に大地を蹴《け》っている。時を置かず、蒼天《そうてん》へ飛んでいる。
「――甘い! 空を舞えるのが魔人《まじん》だけだと思うなっ」
言葉通り、自らの魔力で距離と高度を維持、ノエルより上空を滑空《かっくう》して彼女と同じ方向へ飛ぶ。
陽光《ようこう》を遮《さえぎ》るレインの影に気付き、ノエルが見上げようとした。そこへ飛鳥《ひちょう》のように襲《おそ》いかかり、魔剣《まけん》を一閃《いっせん》。
ギギィンッ――バチバチッ
ノエルは身をひねり、見事にその斬撃《ざんげき》を受けはした。しかし、その衝撃《しょうげき》のお陰《かげ》で落下は免《まぬが》れない。
したたかに背中を打って呻《うめ》くノエルに、レインが上空より飛びかかる。
青き魔剣《まけん》を振り上げるレインの長身が、ノエルの目には幾《いく》つにも分裂して見えた。
怒濤《どとう》の攻勢をかけてくるレインに、ノエルは光剣《こうけん》を振るって応じつつも、後退に後退を重ね始めていた。その美貌《びぼう》には、いつしか隠しようもない危機感が浮かんでいる。
何よりも脅威《きょうい》なのは、さっき上空へ逃れようとした時のように、レインが時に、ノエルの動きの先読みをして攻撃を仕掛けてくることだ。剣撃《けんげき》を左へかわそうとすれば左へ、そして右へかわそうとすれば右へと、レインはぴったりとこちらの動きに応じてくるのである。あたかも、対《つい》の舞を舞うように。
視線や筋肉の微《かす》かな動きから、そういう『先読み』が可能なのは知っているが、しかしここまで正確に、素早く読まれるとは。こちらの剣撃《けんげき》の癖《くせ》やパターンを、ぞっとする早さで見抜かれているとしか思えない。だからこそ、自分の目にはレインのスピードが増していくように感じられるのではないか。
相手が速くなっているというより、時間経過と共に、こっちの動きが見切られつつあるのだ!
「おのれっ」
いつの間にか自分が、最初に降り立った位置より遙《はる》かに後退しているのに気付き、ノエルは歯軋《はぎし》りした。この私が人間ごときに! だが、なにも斬《き》り合いに固執《こしつ》する必要はないっ。
戦いの流れを変えるべく、間合いを開けて魔法攻撃に移ろうとする。
しかし、まるでノエルのその戦法の切り替えを読んでいたかのように、レインが動いた。ノエルが退《ひ》いた隙《すき》に、すかさず魔剣《まけん》を大きく一閃《いっせん》させたのだ。
次の瞬間、頭上で大きな破壊音。
反射的に見上げれば、元は教会らしき背の高い尖塔《せんとう》が、遠隔攻撃によって粉砕《ふんさい》されたところだった。当然、その破片《はへん》が二人に向かってバラバラと降ってくる。
ノエルが目を剥《む》いたのは言うまでもない。
「な、なにを考えている、おまえっ」
これでは魔人《まじん》の自分より、レインの方が危ないではないか!
だが、レインにはレインの計算がある。
確かにノエルは、瓦礫《がれき》の山が頭に落ちたくらいでどうにかなるタマではないだろう。
しかし当たったその刹那《せつな》、わずかにせよ、レインへの集中は乱れる。
降ってくる石くれを避けようとしても同じこと。落下物に注意が割《さ》かれる分、こちらへの集中は殺《そ》がれる。つまり、隙《すき》が生まれる。ところがレイン自身にとっては、雨霰《あめあられ》と降る瓦礫《がれき》など、なんの障害にもならないのだ。普段からそういう無茶な訓練を重ねているお陰《かげ》だが、今はその修練が大いに役立った。
不規則にドカドカと落ちてくる落下物の中を、レインはすいすいと駆け抜けて行く。その動きには一切の無駄《むだ》がなく、ましてや危なげもなく、豪雨《ごうう》のように降り注ぐ破片《はへん》は黒影《こくえい》をあえて避けているかのようだった。
舗装《ほそう》された道を行くがごとく、すすっと間合いが縮まる。
「くっ」
唖然《あぜん》としたノエルは、次に慌てて両手を広げようとした。
自分の不利を悟り、魔法で瓦礫《がれき》を一掃《いっそう》しようとしたのかもしれない。あるいは、印を結んで転移しようとしたか。
しかし、他ならぬ敵が――レインがその暇を与えてくれなかった。
眼前《がんぜん》に躍《おど》り込んでくる黒影《こくえい》、そしてまっすぐに伸びてくる青きオーラを放つ魔剣《まけん》。
凝固《ぎょうこ》した時の中、それでもノエルは自らの光剣《こうけん》でレインの突きを跳ね上げようとする。
だが、運悪くその瞬間、ノエルの傷ついた肩にでっかい石くれが命中し、身体が揺らいだ。レインの頭上にも、同じく別の破片《はへん》が命中しかけていたが、こちらは頭を振り、すっとそれを避けてしまう。
――結果、ノエルの光剣《こうけん》が持ち上がる前に、その腹部を魔剣《まけん》が貫《つらぬ》いた。
苦しげに歪《ゆが》むノエルの顔に、レインは静かに問う。
「……ここまでだと思うが?」
誇り高い魔人《まじん》少女は、意外にも気丈《きじょう》に笑った。
「いや、まだだ。おまえの強さは認めるし、今までの非礼《ひれい》もわびるが、しかしまだ私は、全力を尽くしきっていない。敗北を認める訳にはいかないっ」
ノエルがかっと瞳を見開く。
「闇よりも深い我が結界《けっかい》にて、最後の決着をつけるとしよう!」
ぞくっと背中にきた。
レインは得体《えたい》の知れない予感に従い、剣を引き抜き、大きく跳んだ。
そこへ、ノエルが追い打ちのように声を放つ。
「ナイトワールド!」
――その瞬間、世界が真なる闇で満ちた。
すたっと地面に――いや、どことも知れない場所に着地したレインは、反射的に自分に言い聞かせた。
「落ち着け! 下手に動かず、冷静になって状況を見極めろ」
とはいえ、レインは自分が常と変わらず、十分に落ち着いているのを自覚している。
心に焦《あせ》りはなく、戦士としての感覚はほどよく研《と》ぎ澄《す》まされている――と思う。しかし、こんな時には必要以上に冷静になるべきなのだ。些細《ささい》な過《あやま》ちが即、死に繋《つな》がるのだから。
身構えたまま、周囲を見渡す。
手元で光っている魔剣《まけん》のオーラ以外は、なにも見えない。辺りは暗黒そのもので、今まで立っていた街とは違う空間に放り込まれたような感じだ。足下《あしもと》も、さっきいた廃墟《はいきょ》の大通りではなく、漆黒《しっこく》の闇で満ちている。
ノエルの結界《けっかい》――これがそうらしい。
なんにせよ、なにも見えない以上、目を開いている意味がない。それどころか、かえって判断の邪魔になるだろう。そう思い、レインはあっさりと両目を閉じる。余計な感覚を遮断《しゃだん》し、自分のエクシードに全てを委《ゆだ》ねる。
視覚に惑《まど》わされず、敵の気配《けはい》を読んで戦う決意を固めた。
「永久の闇が支配する世界――ナイトワールドへようこそ、レイン」
どことも知れぬ場所から、ノエルの声が聞こえた。
試しに、目を開いてみる。
しかし彼女の姿はなく、その光剣《こうけん》の輝きすらも見えない。どころか、自分の魔剣《まけん》の輝きも徐々《じょじょ》に薄れているところだった。消えかけているのではなく、この結界《けっかい》のせいで視覚が干渉を受けているのだろう。レインはまた目を閉じた。
「かつて私には、家族がいてな。とはいえ、会えば殺し合いになるような家族だが……この閉鎖結界《へいさけっかい》は元々、そいつが編み出したものだ。私も、戦いの最中に閉じ込められたことがある」
目を閉じて微動《びどう》だにせず、レインはノエルの声に耳を澄《す》ませている。反響がきつい上に、あらゆる方向から声が聞こえ、あいにく場所を特定することは出来ない。
エクシードで探りを入れながらも、レインは平静に返事を返す。
「ふむ。なかなか殺伐《さつばつ》とした身内だな」
「まったくだ」
弱々しい笑い声。
「ただ皮肉なことに、私も同じく結界《けっかい》魔法が得意だったので、幸いにもその時、このナイトワールドから脱出することが出来たわけだ」
レインが後を引き取る。
「で、その後にちゃっかり、自分の持ち技に加えたと。そうか、それを聞いて安心した。おまえに破れるのなら、当然、俺にも破れるだろう」
またしても笑い声が返ってきた。
だが、少なくともあきれたような笑い方でもない。
「今となっては、無下《むげ》に否定も出来ないな。知られざる天才……か。人間にはふさわしくない呼び名だと思っていたが、今は考えが変わりつつあるわ」
しばし沈黙してから、
「ならば、今回も見事に切り抜けて見せてくれ。私がもっと感心するようにっ」
おう、任《まか》せろ!
などと減らず口を叩きつつ、直感に従って魔剣《まけん》を身体の正面に立てる。
案の定、ジュバッと飛んできた例の光刃《こうじん》(多分)が、魔剣《まけん》に激突《げきとつ》して弾《はじ》けた。
元は魔力のオーラなので、目を閉じていても所在を掴《つか》みやすい。防いだと見るや、レインはすかさず光刃《こうじん》の飛来してきた場所へ向かい、魔剣《まけん》を大振りに振り切る。正確に、ぴたりと同じ位置に攻撃を返したと思う。
――しかし。
途端《とたん》に、背中にぞくっときた。
身を投げるのと同時に、その直上をブォンと何かが通り過ぎる。
今のは……俺が繰り出した斬撃《ざんげき》か!
「早くも気付いたか。そう、この結界内《けっかいない》で有効な攻撃が出来るのは、これを維持する私だけだ。後は、全ての攻撃が持ち主に返る。動けば動くほど自滅《じめつ》する」
そして、また新たな攻撃が飛来し、レインはさっと飛び退《の》いた。
――空間が歪《ゆが》められているわけか。しかも、俺のフィールドも作用していない!?
魔剣《まけん》で光刃《こうじん》を凌《しの》ぎつつ、闇の中で顔をしかめる。
相変わらず、目は開けない。あらゆる方向から攻撃が来るので、効率から言えば、目を閉じていた方が惑《まど》わされずに済む。
今や、次から次へと光刃《こうじん》が襲《おそ》い、レインは己《おのれ》の感覚のみを頼りにそれらを防いでいる。
時には避け、時には剣で防ぎ、今のところは持ち堪《こた》えていた。
このままでは、いずれは倒されるだろうが。
空間が歪《ゆが》んでいるとはいえ、あいつがこの結界内《けっかいない》のどこかにいることは確かだ。
ただ、視覚や聴覚などの感覚が役に立たず、気配《けはい》も読むことができず、相手を確認出来ないだけで。ノエルの現在地がわかれば――つまり相手が見えれば、打つ手はあるはず。
悠長に駆け寄って斬《き》りつけるのは無理でも、他の方法ならなんとかなるかもしれない。
歪《ゆが》んだ空間内でも、自分の魔力のありったけを籠《こ》めて一点|突破《とっぱ》を試みれば、敵に届く可能性はある。レインが纏《まと》う防御《ぼうぎょ》フィールドの能力に限界があるように、結界内《けっかいない》といえども万能ではないはずだからだ。
目を閉じたまま魔剣《まけん》を振るい、あるいは身をさばき、レインは決心を固める。己《おのれ》のエクシードを集中させ、ノエルの居場所を探る。
同時に、魔剣《まけん》にどんどん魔力を注ぎ込む。
そのため、どうしても避ける方がおろそかになり、今までは楽々避けていた光刃《こうじん》が、きわどくかすめ始める。光剣《こうけん》が飛ばす光刃《こうじん》が、腕をかすめ、足をかすめる。
服が破けて血が滲《にじ》むくらいならともかく、ついに左腕の肉をざっくりと抉《えぐ》られた。盛大に血が噴《ふ》き出す感覚と共に、激痛が襲《おそ》う。しかし、レインは自分自身に命じる。
構うな! これくらいで死にはしない。直撃しなければいい。それより、エクシードを集中しろ。相手を見つけることだけを考えろっ。今必要なことは、まさにそれだけなのだ。
それに……苦痛には慣れているはずだしな!
不敵にニヤリとする。
と、なにを勘違いしたのか、またしてもノエルの声が響いた。
「あきらめたのか、レイン。……らしくもないな」
不思議と、がっかりしたような声音《こわね》だった。
「まあいい。ならば、せめて楽《らく》に死なせてやろう。――さらばだ!」
別れの言葉を投げられたまさにその時、レインの脳裏《のうり》に、くっきりとノエルの姿が「見えた」。
永久の闇が支配する歪《ゆが》んだ空間内に、ついに敵を見つけたのである。
「そこだ!」
自らの力を魔剣《まけん》に託し、ぶんっと豪快《ごうかい》に剣を投擲《とうてき》する。
同時に目を開けると、特大の光刃《こうじん》を魔剣《まけん》が蹴散《けち》らし、そのまま虚空《こくう》に吸い込まれていくのが見えた。そして、響いてきた呻《うめ》き声。
目には見えない手応《てごた》えを感じた。予想|違《たが》わず、次の瞬間、ナイトワールドは解除された。
永久なる闇は去り、砂塵《さじん》にまみれた廃墟《はいきょ》が戻った。
閉鎖結界《へいさけっかい》は解除され、ノエルは大通りの先、わずかに数メートルほど向こうに倒れている。腹に魔剣《まけん》を突き立てたままのその姿に、レインは用心深く近づく。
なにしろ、魔人《まじん》がなかなか死なないのは、レイグルで経験済みである。
しかし、すぐそばまで行っても、ノエルはがばっと立ち上がったりしなかった。
斬《き》りつけられ、さらに腹部を二カ所も傾国《けいこく》の剣で貫《つらぬ》かれたのだから、ある意味、当然かもしれない。生きているだけでも驚異的だろう。
それでも気を抜かずにしゃがみ、レインは突き立った魔剣《まけん》にそっと手をかけた。
妙に穏やかな顔のノエルに言う。
「今度こそ勝負あった――と思うが? それとも、まだ戦うか」
「いや……私の負けだ」
魔人《まじん》少女は、不思議と素直になっていた。
言葉の端々《はしばし》からも、険《けん》がとれている。
「だが、おまえが相手ならそれも仕方ない……そう思えるのが不思議だ」
ため息をつき、目を閉じる。
「――色々と迷惑をかけた。さあ、殺すがいい!」
レインはそのセリフはスルーし、
「剣を抜く時、ちびっと痛いぞ」
断りを入れてから、思い切ってずばっと抜く。その方が、まだしも痛みが少ないからだ。
ついでに水着風の衣装を豪快《ごうかい》に破いてやると、さすがにノエルが抗議した。
「な、なにをする気だっ」
「勘違いするなって。怪我《けが》を治すんだ、怪我《けが》を。エロいことをしようってんじゃない」
早速手に光を集めつつ、感心したように頷《うなず》く。
「しかしなんだな……おまえ、いわゆる美乳だな。形がいい」
コメントを加えたのは失敗だった。
ささっと手で隠されてしまった。
「なぜ私を助けるっ。私は敵だぞ!」
「というと――。また襲《おそ》って来る気があるわけか?」
「……いや。そんな気はもうない」
「なら、問題あるまい。負けを認め、以後、襲《おそ》う気もないとなりゃ、俺が強《し》いておまえを殺す理由もないだろ」
諭《さと》すように言うと、しばらく黙った後、ノエルはあきらめたように再び目を閉じた。
「甘いことを言うヤツだ。そのうち、命取りになるぞ」
「おまえな。治療してる俺に対して、感謝の念が足りないんだよ! 文句はいいから、せめてものサービスでその手をどけて見せろ。ケチケチするなっ」
思わず、といった感じで笑われた。
すぐに顔をしかめて笑い止んだが、まあ、楽しそうに笑ったことには違いない。
「わ、笑うとおなかが痛いわ」
「だろうな……。少し我慢しろ、俺は優秀だからすぐに済む」
「……うん」
返事まで素直になっている。
廃墟《はいきょ》と化した街の中にはレイン達以外に人影はなく、ただ砂塵《さじん》だけが舞っている。街を吹き抜ける風は、どこか悲しい音色だった。
とそこで、ノエルがポツリと言った。
「……男に胸を見られたのは初めてだ」
それには答えず、レインはさっと空の彼方《かなた》を見る。
大急ぎでノエルを抱き起こした。
もはや、治療どころではない。
「ちょっと待て。――誰かが接近して来るっ」
一拍置き、ノエルも気付いた。
はっと遠くの空を見る。遙《はる》か彼方《かなた》に、ポツッと染《し》みのような黒点が二つ、ぐんぐんこちらへ迫ってくるところだった。
空を飛んで来るような奴は、まず人間ではないはず。
レインが確認する前に、ノエルが呻《うめ》いた。
「この気配《けはい》……あの二人か!」
「というと、おまえの増援《ぞうえん》か?」
「まさかな。そもそも奴らは、隙《すき》あらば私を殺そうとしかねない。レイグルと袂《たもと》を分かった今では、なおのこと」
「ふむ。なかなか殺伐《さつばつ》とした仲間だな」
レインは肩をすくめ、鞘《さや》に戻した魔剣《まけん》の柄《つか》に、そっと手を乗せる。
どうやらノエルは、既《すで》に相手の見当がついているらしかった。
場合によっては、第二戦があるかもしれない。なにしろ、その魔人《まじん》連中がレインに対し、笑顔と揉《も》み手《て》で応対するはずがないのだ。
「しかし、どうやってここを察知《さっち》した? 魔人《まじん》ってのは、そんなに感覚が鋭いのか。でもって、みんな転移の魔法が使えると?」
「いや、転移系の魔法が得意なのは、私の知る限りではレイグルと私だけだ。これは、ただの偶然だと思う。……そう言えば、あいつらはやたらとこの廃墟《はいきょ》にこだわっていた」
「こんな場所に、観光でもないだろうに」
なにか答えようとしたノエルは、しかし、とまどったようにふっと黒い瞳を逸《そ》らした。
いつの間にか二人が普通に話し始めていることに、自分でも不審《ふしん》を覚えているらしい。しかしレイン的には、もはやノエルは敵でもなんでもないので、シャツを脱いで彼女に貸し与え、立ち上がるのにも手を貸してやった。ノエルは、意外にも素直にそのシャツを羽織《はお》った。小声で礼まで言われてレインが驚いたくらいだ。
和解ムード全開のレイン達の眼前《がんぜん》に――
黒い翼を生やした二人の魔人《まじん》が、すうっと降りてきた。
きらっと光った後、二人の翼は綺麗《きれい》に消滅《しょうめつ》し、両名そろってこちらを見る。
「これはこれは……」
ちょび髭《ひげ》の男が、あきれた声を出した。
乗馬ズボンと派手《はで》な赤い上着という、趣味の悪い貴族みたいな格好をしている。
「ノエル君、また随分《ずいぶん》と怪我《けが》だらけだが……まさか、そこの黒い男にやられた――などと言わんだろうねぇ?」
黒い男……俺のことかよ。
レインは憮然《ぶぜん》とする。
そしてノエルは、バリバリに反抗的な口調で答えた。
「おまえには関係あるまい、デューイ。余計なことに首を突っ込まず、城へ戻ってレイグルの靴でも磨いていろっ」
……なるほど、元仲間とは思えない。
これ以上ないほど殺伐《さつばつ》としている。デューイのとろりとした笑顔が消えたのと入れ替わりに、今度は色気たっぷりのドレス女性が言った。
「ははん。さてはそいつがレインとやらだね。そして察するに、おまえはそいつに挑戦して敗れた――違うかい?」
赤い唇が、にんまりと笑《え》みを形作る。
「口ほどにもないねぇ。なんとまあ、無様《ぶざま》なこと」
「……どうせ喧嘩《けんか》を売る気なら、私が手間を省《はぶ》いてやる、サラ。それにデューイ、おまえもだっ」
ノエルは、ちょび髭《ひげ》をも睨《にら》みつける。
「来るがいい! 二人まとめて相手になろうっ」
まだ立つのもやっとの癖《くせ》に、ノエルはさっと光剣《こうけん》を生じさせる。
本気で戦う気らしい。
悪いことに、サラもデューイもその気のようだった。
「……馬鹿な小娘。そんな身体であたしの相手が出来るかいっ」
「二対一ではあるが。レイグル様に逆らった君が相手となれば、遠慮《えんりょ》はしませんぞ。二度と顔を見ずに済むよう、肉体を完全|消滅《しょうめつ》させますかな!」
臨戦態勢《りんせんたいせい》に入った二人の魔人《まじん》を見て、レインは一歩前に出た。
「いや、二対一じゃない。俺を忘れてもらっちゃ困る」
三人とも、例外なくいぶかしげな顔でレインを見た。
ノエルなどは、感謝と困惑《こんわく》が混じったような、複雑な表情をした。
「これは私の戦いだ、レイン」
「そんなことはないさ。レイグルと敵対している以上、俺の戦いでもある。第一、こいつらは根本的にわかってない」
サラとデューイに、落ち着いた声で、かつ大真面目《おおまじめ》に説《と》く。
「ノエルは確かに俺に敗れたが、それは恥でもなんでもない。誰も俺には勝てないんだ。頂点に立つ戦士は常に一人で、その俺に負けるのはそりゃ不可抗力《ふかこうりょく》ってもんだ。ごちゃごちゃ吐《ぬ》かすおまえ達が無知なだけだ。分かったか、ちょび髭《ひげ》に年増《としま》」
せっかくの大演説は、二人の魔人《まじん》を怒らせただけだった。
エラそうな物言いが癇《かん》に障《さわ》ったか、それとも適当に呼ばれたのが腹立たしいのか、デューイもサラもたちまちノエルをほったらかしてレインを睨《にら》む。
しかし、元々レインの目的はこいつら二人を怒らせて矛先《ほこさき》を自分に変えさせることなので、結果オーライである。
自ら魔剣《まけん》を抜き、構えた。
「ふふん、やる気か? いいぞ。どうせ、いつかは戦う羽目になるだろうしな。なら、今倒しておいた方が後腐《あとくさ》れなくていい」
デューイが殺気《さっき》とともに返す。
「……たかが人間の癖《くせ》に、しかもそんな傷を負っている癖《くせ》に、大きな口を叩く。気に入らんな!」
「まったくだね。なら、おまえも込みで殺してやるよ、坊や。魔人《まじん》の力ってのを思い知るがいいさ!」
「忠告しといてやるが、俺を甘く見ない方がいいぞ?」
レインは怪我《けが》の痛みをきっぱり無視し、あえて白い歯を見せた。
「レイグルにそう言われなかったか?」
「寝言は冥界《めいかい》で言いな!」
年増《としま》呼ばわりされたのを根に持っているようで、サラはいきなりぶわっと魔法のオーラを纏《まと》う。
薄赤いオーラを通し、左手が肩の辺りまで見る見る変形していく。なにか肉体とはかけ離れたものに変化していく。
大きさも太さも形状も、普通では有り得ないほどの変わりようだ。
大きな筒、あるいは――
「……この世界にはない、重銃器に似てるな」
その呟《つぶや》きに、ノエルがはっとしてレインを見た。
だがサラには聞こえなかったようで、巨大化して変形を遂《と》げた大筒《おおづつ》を、レインに向けようとする。
そこで、またしても新たな声。
「では、三対二ということで。あたしも参戦するわね」
見れば、やや離れた上空に徐々《じょじょ》に実体化を遂《と》げている、ツインテール少女の姿がある。
シルヴィアが転移してきたのだ。
いや、それ以前に、そういう魔法を知っているなら、俺に教えとけよとレインは思う。
真っ先に動いたのはサラである。
この年増《としま》(といっても、せいぜい二十代後半にしか見えないのだが)はノエル以上に気が短いようで、いきなり変形した手をシルヴィアに向けた。
ジュバッ
目に焼き付くような深紅《しんく》の熱線が伸び――シルヴィアに直撃、お腹に大穴を開けて空へ吸い込まれていった。冗談ごとではなく、傷口の大穴から、その向こうの空が見える。
しかし、レインは慌てなかったし、シルヴィア本人はさらに落ち着いていた。
そして、見る見る復元していく傷口に、サラもさすがに顔をしかめる。完治まで五秒ほどしか経過していない。驚異的な回復力である。仕上げに、彼女が二、三度、ノースリーブのシャツを撫《な》でると、服の破れまで復元してしまった。
目を細め、にんまりと笑うシルヴィア。
真っ白な犬歯《けんし》がきらっと光る。
「試しに受けてみたけど、痛くも痒《かゆ》くもなかったわね。……もうおしまい? 言っとくけど、あたしを殺すのはすっごく難しいわよ?」
「じゃあ、試してやるさね!」
サラがまたなにかやらかそうとし、そしてノエルとレインは双方共、「これは俺の(あたしの)戦いだというのに!」などと思い、前へ出ようとする。
そこへ、上空よりまたまた新たな声。
今度は底抜けに陽気な声だった。
「ハ〜ハッハッハッハ〜〜☆ 魔界の貴公子、ヴィンター・フォン・ブルームハルト、女の子の助太刀《すけだち》にただ今登場!」
……全員、否応《いやおう》なくそっちを見た。
真っ白な舞台衣装かと思うような服装の男が、手を振りながら下降してくるところだった。
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エピローグ 今は亡き養父に花束を
だいたいにおいてケイやフェリスは、アークの気まぐれには慣れている。
この大男はいつだって突拍子《とっぴょうし》もないことを思いついては実行してきたし、そもそも今、ケイ達三人がこのレイファンで重臣《じゅうしん》の地位にあるのも、元を正せばアークが原因なのだ。
しかし、女帝サーヤの私室にてアークが宣言したセリフには、さすがのケイとフェリスも驚いた。
主君《しゅくん》の部屋でお茶と洒落《しゃれ》込みつつ、ケイ達はサーヤにレインとの一件を話していたのだが――話がレインとの戦闘にさしかかると、アークは突然、拳《こぶし》を突き上げんばかりの勢いで席を立ち、こう言ったのだ。
「よし、俺は決めた! 俺もドラゴンスレイヤーになるぜっ」
さすがはアーク様ですわ! などと盛り上がったのは主君《しゅくん》のサーヤのみである。
この世間《せけん》知らずの少女君主は、ドラゴンの恐ろしさについてはさほど知らないのか、青紫の瞳を輝かせて、信頼する大将軍――つまりアークを見上げている。
「ちょっとくらい苦戦したからと言って、そこであきらめるようなアーク様ではないと思っていました」
「はっは! 無論ですよ、サーヤちゃん。だいたい、今回の苦戦の原因は明らかなんです。そこをチャチャッと改善すればいいわけで」
「ちょっとちょっと!」
ケイより先に、フェリスが顔をしかめてアークを遮《さえぎ》る。
「チャチャッとじゃないよ、チャチャッとじゃ。チーフは、古龍《こりゅう》の恐ろしさがイマイチわかってないんじゃない? 言っとくけど、あらゆる龍の頂点に位置するあの魔獣達《まじゅうたち》は、魔人《まじん》を例外とすれば世界最強の一族なんだよ? 倒せるわけ、ないじゃない」
「んなこたーないっ。現に奴が倒しているんだ。なら、俺にも倒せるっ」
……その根拠のない自信は、どこから来るんだ。
カップを持ったまま凍り付いたケイはそう思ったし、フェリスも同様である。
「あのね、チーフ……」
「馬鹿野郎っ。せっかくの勢いを殺《そ》ぐようなこと言うなよ、フェリス。俺は古龍《こりゅう》を探してぶち倒し、ドラゴンスレイヤーになる! もう決めたんだっ」
投網《とあみ》の中の魚を手掴《てづか》みにするような、かる〜い言い方だった。ケイ達は開いた口が塞《ふさ》がらず、サーヤだけが脳天気に、「サーヤも応援してますわ、アーク様っ」と一人だけ盛り上がっていた。
いや、アークと込みで二人か。
「あんなのに挑戦したって……ふつーに、三秒くらいで殺されるだけだと思うけど、僕。それどころか、死体も残らないような。そうだよね、ケイ?」
話を振られ、ケイは一も二もなく頷《うなず》いた。
サングラスをずり上げ、説得を図《はか》る。
「フェリスの言う通りだ。これまで、どれだけの人間が彼らに挑み、殺されてきたと思う? (ここで、サーヤが初めて『えっ?』という顔をした)手を出しちゃいけない相手というのが、この世界には歴然と存在するんだ。レイン殿は例外中の例外だと思った方がいい」
「あきらめちゃ、駄目《だめ》なんだよ!」
アークは頑固《がんこ》に反論した。
彼が絶対に譲《ゆず》らず、初志《しょし》を貫徹《かんてつ》したことがかつて幾度《いくど》もあったが、それらの時と同じ目つきをしていた。
「俺にはできない――そう思った瞬間、そいつはもう負けているんだ。本当の勝敗ってのは、結局最後は、自分自身が決めるんだぞ。あきらめちゃ駄目《だめ》なんだ、あきらめちゃよおっ」
ケイとフェリスは顔を見合わせ、ため息をついた。
これはもう……説得して止めようとしても駄目《だめ》なような……他の方法を探すしか。
「チーフの主張って、明らかに大間違いなのに、聞いてると、その時だけは正しいように聞こえるから不思議だよね」
「なんだとうっ。俺はいつだって正しい!」
まだ席を立ったままのアークと、あきれ顔のフェリス、それに苦悩の縦皺《たてじわ》を眉間《みけん》に刻《きざ》んだケイを見比べ、サーヤがそっと尋ねた。
「あのう……わたくしは見たことないのですが。ドラゴンって、そんなに強い生き物なのですか?」
――☆――☆――☆――
サンクワール郊外の丘陵《きゅうりょう》地帯に、主に戦死者が眠る場所がある。
深夜の墓地には、闇と静寂《せいじゃく》だけが広がっている。
真冬の、しかも深夜の墓場に、普通なら人の気配《けはい》などあろうはずもない。
――しかし今は、一人の女性が黒影石《こくえいせき》で造られた豪勢《ごうせい》な墓の前に立ち、静かに頭《こうべ》を垂《た》れている。
数分ほど黙祷《もくとう》を捧《ささ》げ、手にした花束をそっと墓石の前に置いた。
しゃがみ込んだそのままの姿勢で、彼女はじっと墓石を見つめる。もちろん、いかに黒影石《こくえいせき》が磨き抜かれているとはいえ、そこに故人の姿が映《うつ》る訳ではなく、ただ刻《きざ》まれた墓碑銘《ぼひめい》が読めるだけだ。
『ザーマインの勇将ガルブレイク、ここに眠る。彼は最後の瞬間まで、誇り高き騎士であった』
そう刻《きざ》まれた文章を、彼女は何度も何度も読む。しかし、泣きはしなかった。故郷で散々泣いた後である。今更、流す涙など残ってはいない。
「このように立派《りっぱ》な墓を建ててくれた彼らに対し、私は感謝すべきなのでしょうね、父上」
闇の中で、彼女はそっと囁《ささや》く。
白い手が持ち上がり、墓石のプレートの上をなぞっていく。
「実際、手厚く葬《ほうむ》ってくれたサンクワールの人達には、お礼を言いたい気持ちで一杯です。――それでも」
碧眼《へきがん》を瞬《またた》き、決然とした声を出す。
「それでも私は、父上を倒した相手に対し、復讐《ふくしゅう》せずにはいられない。礼を失する行為だとわかっていても、このまま忘れることは出来ないのです……いえ、私の心が、忘れようとするのを許しはしない」
どこか透明な表情が、静かに陰《かげ》っていく。
しばしの時を置き、彼女はまた呟《つぶや》いた。
「彼の悪い噂《うわさ》は、全て噂《うわさ》でしかなかった。レイン殿は、父上の最後の相手に相応《ふさわ》しい騎士でした。誰も敵《かな》わないほど強く、そして……多分、本当に優しい人……それでも私は」
……彼を殺さねばならない。
幸か不幸か、そのセリフを吐いた時、彼女の心に迷いはなかった。
そう……私は彼に復讐《ふくしゅう》する。手段を問わず、必ず彼を殺す。非礼《ひれい》の謝罪は、自らの命をもってしよう。ファルナは墓前を立ち、父に最後の別れをすませた。踵《きびす》を返し、未練なく墓地を去る。
――固い決意の表情を浮かべて。
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あとがき
外伝を含めて、六冊目のレインです。
新規に書いた幾《いく》つかの短編を除き、この辺りまで骨格部分はかつてネットで連載していました。とうとう、レイン関係で前に書きためたものは全て出してしまったわけです。
その意味では、一つの区切りにきたと言えるかもしれません。
ところで、最近「どうしたら小説家になれるでしょう?」というご質問を頻繁《ひんぱん》にいただきます。
世の中には、こんなにも私の仲間がいたのかと驚くことしきりですが、しかしこれは私にとってはとても難しいご質問です。私自身が道の途上で、当然ながら、他人様になにか言えるような立場も資格もありません。
少し話が逸《そ》れますが、例えば私が原稿用紙を前に悪戦苦闘していた頃、会社で隣の席に座っていた女の子に「小説家になりたい」とぽろっと言ってしまったことがあります。……がんばってねと答えつつ、その子の視線はちょっと泳いでいたりしました。どうやら世間では、小説家というのはだいぶ浮世離れした目標だと思われているようです。そういえば、特にライセンスがあるわけでもなく、教習所のような場所があるわけでもなく、どうすればいいのか、だいぶ迷う目標です。
ただ個人的に思うのですが、本当になりたい人というのは、(天才は別として)誰が止めようと誰に馬鹿にされようと、とにかくあきらめずに書き続けるんじゃないかと思います。どうにかして道を探すんじゃないかと思います。
何度も賞に落ちて、五年十年と経って気力もガンガン落ち、「俺はこの程度なのか」と思うことはしょっちゅう、そのうち勤めの合間に執筆時間をとることに無理が出てきて絶望し始めるわ、生活不安も増大するわとなっても、やっぱり書き続けるしかないわけです。
……部分的にやたらと詳細な例えでしたが、いやただの例えです、はい。
もちろん、私を含めて、それで本当に目標に到達できるのかどうかはわかりません。他にもっと魅力的な「何か」があれば、当然、そちらを目指すのもよいと思います。
――でも、「これしかない」と思える少数の人は、とにかく少しでも進みましょう。
がんばりましょう……本当に。
この本を出すに辺り、ご助力をくださった全ての方達にお礼を申し上げます。
最後はもちろん、この本を手にしてくださったあなたに、精一杯の感謝を。
[#地付き]二〇〇七年六月 吉野 匠 拝
吉野 匠(よしのたくみ)
東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「レイン(雨の日に生まれたレイン)」がネット上で爆発的な人気となり、遂に同作で出版デビュー。現在もHP上での連載は毎日更新を続行中(の予定)。
装丁・本文イラスト―MID
装丁デザイン―ansyyq design
HP「小説を書こう!」
http://homepage2.nifty.com/go-ken/
イラスト:MID
http://mid.mods.jp/
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底本
アルファポリス 単行本
レイン5 武闘会、開幕
著 者――吉野《よしの》 匠《たくみ》
2007年8月1日 初版発行
2007年8月10日 2刷発行
発行者――梶本雄介
発行所――株式会社 アルファポリス
[#地付き]2008年12月1日作成 hj