レイン4
世界を君に
吉野 匠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)王たる器《うつわ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全員|戦《いくさ》で
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]二〇〇六年十月 吉野 匠 拝
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[#挿絵(img/04_000.jpg)入る]
〈帯〉
歴史の天秤が傾く先は
戦争か、それとも同盟か――――
王たる器《うつわ》が今、試される!
人気爆発!! 剣と魔法の最強戦士ファンタジー
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――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。
科学文明の魔手はまだこの地を覆うことなく、廃れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。
そんな、剣と魔法が支配する世界――
ザーマイン戦後、国の立て直しに追われるレイン達だが、もはや確実視されていたシェルファの王位は、思わぬことで脅かされ始める。とうに戦死したと思われていた上将軍サフィールが、突然の帰還を果たしたのだ。しかも、今は亡きダグラス王の遺言書を持って。
遺言書の内容を盾に、自らの王位を主張するサフィール達旧体制派と、シェルファ王女を擁《よう》するレイン・ラルファス連合軍。
唯一の玉座を巡り、両者は真っ向から対立することとなった。
さらには、隣国の混乱に目を付けたシャンドリスが軍を派遣し、サンクワール国内は群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》の様相を呈《てい》し始める。
しかし、枯れ谷の戦いでレインがシャンドリス軍を破ったことにより、事態は急激な展開を迎えた。シャンドリスの名将ジョウ・ランベルクが、ついにレインの深謀《しんぼう》を察知したのだ。
フォルニーアを説得し、最終的な戦いを回避するべく動き出す彼だが、そこへリディアに籠《こ》もっていたサフィール軍が襲いかかる!
睨み合う三者のうち、混沌のサンクワールを制し、最後の勝利者となるのは誰なのか? 全ての戦局を見据えていたレインもまた、シェルファと共に戦場へと向かう。
同じ頃、宿敵ザーマインで怪しい動きが始まっていた……
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
※度量衡はあえてそのままにしてあります。
〈登場人物紹介〉
レイン:25歳だが、肉体年齢は18歳で永遠に停止
本編の主人公で小国サンクワールの上将軍。本人曰く、「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が売りの、世界最強の男」。しかし、時に隠れた優しさを見せることも。
シェルファ・アイラス・サンクワール:16歳
サンクワールの姫君。数年前にレインと出会い、その優しさに触れて電撃的に恋をする。父王亡き後は新たな君主候補として立ち、内乱の収束を目指している。
ラルファス・ジュリアード・サンクワール:25歳
本姓はジェルヴェール。レインの同僚で、サンクワール建国の祖《そ》である五家の一角。
セノア・アメリア・エスターハート:20歳
レインの副官で千人隊長。生粋《きっすい》の貴族だが、普段の言動とは裏腹に、根は素直で優しい。
レルバイニ・リヒテル・ムーア:24歳
通称《つうしょう》レニ。レインの副官。かなり臆病《おくびょう》な性格だが、腕は確か。母親が没落《ぼつらく》貴族だった。
ギュンター・ヴァロア:年齢不詳……外見は20歳そこそこ
常に苦い表情を崩さない、レインの股肱《ここう》の臣。寡黙《かもく》で有能な男。主に諜報《ちょうほう》や工作担当。
ガサラム:55歳
かつて名のある騎士だった。レインの少年時代に遭遇したきっかけで、彼の旗下に。
セルフィー:17歳
騎士志願の貧乏少女。平民のレインが騎士募集をしていると聞き、勇んでやってきた。
ユーリ:16歳
元気で活発な、セルフィーの友人。敵側の間諜《かんちょう》だったが、レインの説得に応じて仲間に。
ミラン:19歳
茶目っ気はあるが誠実な性格の騎士。レインのお陰で見習い騎士から一気に出世した。
エレナ・フェリシア・ハルトゥール:18歳
名門貴族の当主代行を務める少女。大変高慢な性格。ラルファスを熱愛している。
フォルニーア・ルシーダ・シャンドリス:23歳
シャンドリスの皇帝。妾腹《しょうふく》の子だったが、父王亡き後、政変の末に王位に就《つ》く。
ジョウ・ランベルク:年齢不詳だが、見かけは20代前半
シャンドリスの大将軍。将兵達からは尊敬を込めて「不敗の神将《しんしょう》」と呼ばれている。
サフィール:年齢不詳の中年
上将軍の一人。ザーマイン戦で死亡と思われていたが、先王の遺言書を持って帰還。
ルディック:42歳
貴族には珍しく、戦術眼に優れた指揮官。サフィールの招聘《しょうへい》を受けて着任。
ミシェール:年齢不詳
ガルフォート城に現れた謎のゴースト。レインやシェルファと関係があるらしい。
レイグル王:年齢等は不詳
大国ザーマインを統《す》べる王。5年前、前王を倒して玉座《ぎょくざ》に着いた。恐るべき力の持ち主。
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レイン4
世界を君に
吉野《よしの》 匠《たくみ》
目次
プロローグ 密談
第一章 それぞれの想い
第二章 サフィール軍、動く
第三章 試された信頼
第四章 最後の勝利者
第五章 世界を君に
エピローグ 史上最も可憐《かれん》な王よ、御身《おんみ》を讃《たた》えん!
番外編 |G. G. S《ガルフォート・ゴースト・ストーリー》
あとがき
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プロローグ 密談
相変わらず、ここに集まってるのって陰気なヤツばっか!
タルマは椅子に座る妹の横に立ち、集まった面々をうんざりと見渡していた。今はちょうど、有力な仲間の一人であるバジルがコトの次第を報告しているところだ。
広間の中、一段高くなった壇上《だんじょう》にいる自分達姉妹を、相変わらずの尊敬の目で皆が仰《あお》いでいる。
もっとも、本当は尊敬の目で見られているのはタルマなどではなく、妹のクレアの方であるが。いつも通り、みそっかすであるタルマに注目する仲間などいない。神秘的な、ほとんど神のごとくあがめられているクレアをこそ、皆は注目しているのだ。
とはいえ、彼らのように盲信はしていないが、タルマとて妹は嫌いではない。
むしろ、姉妹仲はいい方だと思う。
ただタルマの性格からして、どうしてもこの種の集まりにはついていけないのだ。どんなに自分達を美化しようと、どこか狂信的な臭いがするからだろう。
世界には、滅んだとされる魔人《まじん》を信仰の対象とする邪教《じゃきょう》が実在するそうだが、狂信度においては自分達もいい勝負だと思う。いかに、目指す方向がその邪教《じゃきょう》と違おうと、妄執《もうしゅう》という点では大いに似ているではないか。
放っておかれているのをこれ幸いに、タルマがむっつりとそんなことを考えているうちに、バジルの報告は終わりに近づいていた。
「――そのようなわけで、あのレインと申す輩《やから》がドラゴンスレイヤーなのはもはや確実です。我が配下を一撃で倒したあの力、侮《あなど》ることは出来ないかと。あのような者がついているとなると、王女暗殺は最初から暗殺ギルドなどの手に負える仕事ではありませなんだ。我らの判断ミスです」
そう話を結び、バジルは深々と頭を下げる。二メートルに近い巨躯《きょく》が、この時ばかりは少し縮んで見えた。
さすがのビーストマスターも、クレアにこんな報告をするのは嫌《いや》なのだろう。そう、なにしろどう弁明したところで、失敗は失敗なのだから。暗殺ギルドを動かし、配下の「しもべ」まで送り込んだのに、めざましい成果はなにも上がっていない。彼の策はことごとく外れたわけだ。
タルマにすれば、日頃から好かないヤツなので彼が失敗したのは「ざまぁみろ!」である。それに、あのレインがあいつの「しもべ」を一蹴《いっしゅう》したことに、正直ほっとしていた。
助けられたせいか、彼と彼が守護する王女を敵と見ることが出来なくなってしまっている。というか、最初からタルマはこの集団の中で唯一の異端者《いたんしゃ》なのだ。
他の誰それのように、「とにかく王女を殺せ!」などという極端な思いはない。それどころか、今は王女に好感を持っているくらいだ。
「姉さん」
ふと気付くと、腰掛けた妹がタルマを見上げていた。
人形のように愛らしい顔立ちだが、どこか鋭《するど》い物を宿《やど》した美貌《びぼう》……タルマと同じく真っ白な長い髪。ただし姉とは違い、クレアは目が見えない。開いた瞳に焦点が合っていないのがその証拠だ。
バジル達には聞こえないよう、そっと囁《ささや》く。
「退屈ですか?」
「……まぁね。あたし、ここに立ってても意味無い気がするしさぁ」
「そう言わずに」
クレアが微笑《ほほえ》む。
冷厳《れいげん》な妹も、タルマには優しいのだ。
「私のたった一人の肉親ですもの。そばにいてくれないと、寂しいです。……それに、姉さんはすぐに一人で無茶をするから、心配なんです」
「はいはい、もうやらないってば。それはもう何度も約束したじゃん」
敵《かな》わないなあと思う。
やっぱり、クレアは可愛《かわい》い妹だ。今は白い巫女装束《みこしょうぞく》のような服を着てるから、二人だけの時とは勝手が違うが、クレアはだいたいにおいてタルマには優しい。
いつもなにかにつけて気遣《きづか》ってくれる。
こういう妹の笑顔を見ると、思わず抱き締めて頬《ほお》にすりすりしたくなってしまう。少々危ないが、妹の愛らしい面がタルマは大好きだった。自分にはないところだからだ。
ところがそんなクレアの笑顔は、バジルと話す時にはすっかり消えてしまっていた。
美しいがにこりともしない顔つきで、
「あなたの話はわかりましたが、シェルファ王女はなんとしても打倒しなければならないのです。そのレインさんとやらが邪魔するというのなら――」
言葉を切り、一同に順繰《じゅんぐ》りに虚《うつ》ろな瞳を向けていく。目は見えずとも、クレアにはちゃんと認識出来ているのだ。
そう、妹には『力』がある。
それこそが、姉妹でありながらタルマと一線を画《かく》するところだ。
「――まず、王女より先に彼を倒す他はないでしょう。関係ない人にまで害を加えるのは本意ではないですが、他に方法がないのならこの際はやむを得ません。いいですね?」
「ははっ」
報告をしていたバジルに続き、集《つど》う皆が一斉に頭を下げた。
いや、一人だけ例外がいる。
もちろんタルマも例外といえば例外だが、もう一人、平然と顔を上げたままの男がいた。
数十人足らずとはいえ、全員が低頭《ていとう》していたので、一人だけそうしない彼は恐ろしく目立った。
ボサボサの灰色の髪に、目つきはすこぶる悪い。そのガンをつけるような茶色の目が、一瞬だけタルマと合い、皮肉っぽく細められる。
そして、すぐに目を逸《そ》らした。
ロイ、またあいつね……
タルマは眉をひそめる。
彼は、彼女自身とは別の意味で、この集団に馴染《なじ》んでいない男なのだ。
だが、ロイの傲岸《ごうがん》さに気付かないはずはなかったろうに、クレアは特になにもなかったようにしっとりと言った。
「では、今日はこれまで。王女の周囲の人物については、なお綿密《めんみつ》な調査の続行を。理由は言わずともわかりますね? それから、肝心《かんじん》の王女については」
焦点の合わない真紅《しんく》の瞳が、ビーストマスターの上に止まる。
「バジルさん、今度は朗報《ろうほう》を期待していますよ。焦ってコトを起こさず、まずそのレインさんとやらをどうにかしてください。迂遠《うえん》ですが、仕方ありません」
「――はっ。必ず、必ずっ」
大男のビーストマスターは、恐縮《きょうしゅく》したようにまた身を縮めた。
――☆――☆――☆――
集会が解散した後。
薄暗い廊下を歩きながら、バジルは傍《かたわ》らの三人の仲間に念を押した。
「これ以上、クレア様にご心配をおかけするわけにはいかない。次は我らのうち、誰かがいかねばなるまい。幸いというのもおかしいが、あのレインを倒す許可もいただけた」
「はっ、許可だって?」
馬鹿にしたような声で一人が言う。
もちろん、こんな皮肉な野次《やじ》を飛ばすのは、例によってロイである。
「許可もなにも、おまえは最初からレインの野郎も、王女と込みで殺す気だっただろうが」
この上なくはっきり指摘し、なおも弾劾《だんがい》。
「今回、たまたまそれが上手く行かなかっただけじゃねーか。おまけにシャンドリスとサンクワールの離間策《りかんさく》も、完全におまえの独断だしな。どうせ放っておいたって、戦《いくさ》になるだろうによ。なんのつもりだったんだ、一体」
日々肉体労働に勤《いそ》しむたくましい中年、といった容貌《ようぼう》のバジルは、むっとして立ち止まった。
「そうとも言えないっ。少なくとも、シャンドリス側のジョウ・ランベルクは反戦派だとの情報を掴《つか》んでいる。おまえが知らないだけだ。あれは必要な措置《そち》だったんだ!」
「失敗したのに、必要もクソもあるかよ。そこまでして戦《いくさ》を起こしたいかね。疑わしいヤツもろとも、全員|戦《いくさ》で冥界《めいかい》へ送っちまおうって腹だったんだろうがよ。そりゃまた、ちょいと厚かましい策じゃねぇか?」
揶揄《やゆ》するようなロイの言い方に、バジルの長くもない頭髪《とうはつ》が怒りで逆立つ。かろうじて自制し、軋《きし》るような声音《こわね》で返した。
「だったらどうした。なにか不都合でもあるのか。――余計な報告をしなかったのは、クレア様にご心労をおかけしたくなかったからだ。クレア様は慈悲《じひ》深くていらっしゃる。必要なこととはいえ、いたずらに人を殺《あや》めることをよしとされないのだ」
「そうか? 王女とはいえ、まだほんの小娘を殺せとか命《めい》じるヤツが、『慈悲《じひ》深い』って? 笑わせんじゃねぇよ」
嘲笑《ちょうしょう》するロイ。
「それとも自分も似たような歳だから、年齢で差別なんかしねえってか。なるほど、公平っちゃ公平か」
「ロイ! 貴様っ、クレア様を愚弄《ぐろう》するのかっ」
ビーストマスターの本領を発揮し、激怒したバジルの体がぶわっと筋肉で膨れあがった。
即座に変化《へんげ》を起こし、目に見える部分にたちまち剛毛《ごうもう》が生えてくる。加えて、野生の獣が放つ一種独特な臭気《しゅうき》が漂い始めた。
しかしロイは慌《あわ》てた様子もなく、ただ茶色の瞳を細めただけである。
「やるってのか、バジル。別に俺は構わんが、どうせ後悔するのはおまえだぜ? 俺は手加減なんて器用な真似《まね》が出来ないからな」
「多少強いからといって図に乗るな! そこまでほざくならこのワシが貴様を引き裂いてくれる」
ブチブチッとバジルの服が裂け、体躯《たいく》が数倍にも膨張する。明らかに、自ら創造したしもべを遙《はる》かに凌駕《りょうが》する筋肉であり、迫力だった。
それでもなお、ロイは落ち着いたものである。薄ら笑いを浮かべ、腕組みなどしてバジルを見物している。
その彼にバジルが掴《つか》みかかろうとしたところで、やっと他の仲間が止めに入った。
『やめないかっ!』
声が重なった。
残る二人、レスターとケヴィンである。
太った若い召喚士《しょうかんし》と細身《ほそみ》の老いた魔法使いは互いに顔を見合わせ、魔法の杖を握ったケヴィンが代表して言った。
「バジル、いちいちロイに腹を立ててはいかん。いつものことじゃろう。ここで仲間割れなどして、宗主《そうしゅ》様が喜ばれると思うか」
「……すまん」
バジルは素直にケヴィンに謝り、うなだれた。
尊敬するクレアのことを言われ、一気に頭が冷えたようである。お陰《かげ》で獣人《じゅうじん》途中の変化《へんげ》は停止し、徐々に元の姿に戻っていく。
ただロイの方はと言えば、仲裁《ちゅうさい》を受けてほっとするどころか、退屈そうにあくびをしていた。
そちらにも苦々しい視線を注《そそ》ぎ、ケヴィンは忠告した。
「おまえもじゃ、ロイ。宗主《そうしゅ》様のなされようについては、ここに集《つど》う皆が賛同しているはず。今更蒸し返して和を乱すのは、やめてもらいたいもんじゃて」
「あいにくだな。俺はここの誰にも賛同なんかしちゃいねえぜ。俺がここにいるのは雇われたからだし、未だに愛想を尽かして出ていかないのは、いずれあの嬢ちゃんが強い敵をあてがってくれるって期待があるからだ。そうでなきゃ、誰が我慢して付き合うもんかよ」
ロイのセリフには、どんなに鈍い者でも気がつかずにはおれないほどの強い嫌悪感《けんおかん》が溢れており、他の三人を憮然《ぶぜん》とさせた。
彼らの顔には程度の差こそあれ、「なぜ宗主《そうしゅ》様はこんなヤツを?」という切実な疑問が浮かんでいる。直接それを口にしないのは、クレアへの忠誠心《ちゅうせいしん》が強いために他ならない。でなければ、とうにもっと深刻な衝突が生じている。しばしの重苦しい沈黙の後《のち》、赤子のようにふくよかな頬《ほお》をしたレスターが、甲高《かんだか》い声で場を仕切り直した。
「まあ、そのことは今はいいよ。為《な》すべき大義を理解できない者に、くどくど説いたところで仕方ないし。それより、今は任務の方が大事だろ。どうする、誰が行く?」
大男のビーストマスターが素早《すばや》く口を開いたのを杖で制し、老いたケヴィンが提案した。
「敵を見くびるのは、我らの流儀《りゅうぎ》ではないはずじゃ。あの王女にはレインとやらがついている。あの男、どうやら噂以上に腕が立つと見た方が良い。ここは一つ、我ら四人が力を合わせるべきだと思うぞ」
「四人がかり……ね。大げさに思えなくもないが、しかしそれが一番いいかもしれないな。順番に行って、万一大事な戦力が減るようなことにでもなれば本末転倒《ほんまつてんとう》だしね」
真っ先にレスターが賛成した。
石造りの冷えた廊下の前後に視線を走らせ、太った両肩を揺すって声をひそめる。
「王女を暗殺するにはまずレインを倒す他はないでしょ。そしてそのためには、僕らが協力するのが一番の早道なわけだ。じゃあ、そういうことで――」
「俺は抜けるぜ」
いきなりロイがレスターの出鼻《でばな》を挫《くじ》いた。
目を白黒させる彼に、
「ここで俺まで加わったら、もう勝負は見えているに決まってら。とりあえず、おまえら三人で行ってくるんだな。お手並み拝見と行こう」
他の三人は、今度こそ鼻白《はなじろ》んだ。
ややあって先程の仕返しをするように、バジルが鋭《するど》い犬歯《けんし》を剥《む》き出して嘲笑《ちょうしょう》する。
「大口を叩いているが、実は怖《お》じ気《け》づいたのではないか。あの男を恐れているのだろう」
ロイはまるで動じなかった。
「俺は強いヤツとは互角の立場で戦いたいだけだ。おまえらがめでたく玉砕《ぎょくさい》したら、その時は俺が行ってやるぜ。ま、『怖《お》じ気《け》づいた』と思うならそれでもいい。おまえらごときにどう思われようと、俺ぁなんとも思わねーよ」
最後まで薄ら笑いを消さず、ロイは軽く手を振ってさっさと立ち去った。
呼び止めるのを拒絶するような、きっぱりした態度である。
「ふん、口だけはよく回るヤツだ」
苦々しげにバジルが言い捨てる。
他の二人を見て、
「この件はクレア様に報告しておく。ヤツなどアテにせず、我ら三人でコトに当たるとしようではないか」
「やむを得んじゃろ……」
ケヴィンが頷《うなず》き、レスターもすぐに賛同した。
バジルはやっと晴れやかに笑った。
「よし! そうと決まれば、後はチャンスを待つのみだ。なるほど、王女は一人で行動したりすまいが、あのレインはそうでもあるまい」
「うむ。宗主《そうしゅ》様の仰《おっしゃ》る通り、じっくり行くべきじゃ。ヤツも、永久に城に籠《こ》もっている訳でもあるまいて。いつかは一人で行動する時がある。女を買いに外へ出るとか、とにかく城の中では片づかない用もあるじゃろうからな」
「じいさん、それはあんた自身のことだろ」
レスターがからかうと、ケヴィンは顔中をしわだらけにして笑い、自らの杖を握り直した。
「違いない。じゃが、いくつになっても女はいいもんじゃぞ」
とぼけた返事に、レスターは頬《ほお》の肉を振るわせて笑い、バジルもつられて苦笑した。
ようやく、白けた空気が回復していた。
――☆――☆――☆――
――以上は枯れ谷の戦いの少し前、さる場所で交わされた会話であり、笑いあう三人は遠からずレインを倒せると自信を持っていたのである。
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第一章 それぞれの想い
昨日からこっち、シェルファの機嫌は大層良い。
それは言うまでもなく、レインが帰城したからであり、もはや窓から外を眺める行為とはさようならである。今もシェルファは着替えの入った袋を胸に抱き、ニコニコと部屋を出るところであった。これから、一緒に入浴する約束なのだ。
昨日帰城したレインは、「いくらラルファスに『時間を稼いでくれ』って言っておいたにせよ、自《おの》ずから限界もあるしな。下手すると今晩くらいか……休めるのは」と見通しを述べていた。つまり、ゆっくり出来る時間はごく少ないということだ。今度一緒に入浴出来るのはいつのことか、わからないのである。
いそいそとドアを開く。
「――あっ」
いきなり仏頂面《ぶっちょうづら》と対面し、思わず小さく声を上げてしまう。
……相手は別に不審者でもなんでもなく、警護についていたギュンター・ヴァロアその人だった。例によって「今日は俺の人生最悪の日である!」と無言で主張するかのような面構《つらがま》えで、むす〜っと立っていた。いや、彼はいつもそういう顔なのだが。
「お、おはようございます、ギュンターさま。お勤め、ご苦労さまです」
慌《あわ》ててお辞儀《じぎ》をし、任務をねぎらうシェルファである。
ギュンターはほんの一ミリほど顎《あご》を動かし、それに応《こた》えた。……これではどちらが王か分かったものではない。しかし、もはやシェルファもちゃんと理解している。こうやって小さく頷《うなず》くだけでも、彼としては非常に機嫌の良い部類に入るのだと。元々ギュンター・ヴァロアという男は、レイン以外の相手に対しては皆に公平なのだ。つまり、分け隔てなく平等に愛想がない。
それを知るシェルファは、無論、気を悪くしたりはしない。
「あの……昨日はお話を聞いてくださり、ありがとうございました」
そのように述べ、自分からまた低頭《ていとう》した。
珍しいこともあるもので、寡黙《かもく》な男が答えてくれた。
「……どうやら吹っ切れたようですな」
「はい!」
シェルファの顔に笑みが広がる。
――昨日、レインが帰還する直前のことである。
シェルファはここ数日の習いで、私室の窓のそばに椅子を置き、朝からずっと外を眺めていた。
目が覚めてすぐにそこに腰掛け、食事時間以外はずっと動かずにいる。
なぜそんな真似《まね》をしているかというと、この部屋は城の中でも最も高い位置にあり、必然的に一番遠くまで見通せる場所だからだ。
つまり、ここは城内の誰よりも先に、レインの帰還を見つけられる位置なのである。
『すぐ帰るからよろしく』
――というレインの返事を使者が持ち帰って二日が経《た》つ。
以来、シェルファの定位置はずっとここである。夜中、眠くなるまで動こうとしなかった。
あいにくそれだけ熱心に見張った割には、この二日間で彼女が見たのは、総計千人にも満たない街道の通行人(重複計算)と、遠くの畑で農作業中の老婆《ろうば》くらいだった。
だいたい今日はともかく、昨日ここに座っていたのは、全くの無駄である。そんなに早く戻って来られるはずはないのだ。わかっていても、万が一を思って結局ここから動けなかった。
シェルファはつくづく、自分にとっていかにレインの存在が大きいかを再確認した。レインがそばにいると世界は光が満ちた楽園だが、一度《ひとたび》レインがいなくなると、たちまち世界は光を失い、色を失う。なんだか視界まで陰《かげ》った気がするのだ。
いや、冗談ごとではなく。
馬鹿げている、とは思わない。もしユーリ辺りが彼女と対等に話す機会があれば、『あんたさぁ、それってちょっと病気だよ。ていうか、あいつに入れ込み過ぎ! 男は他にいくらでもいるよ?』とでも忠告しただろう。
しかし、シェルファにとってはこれほど無益な忠告は無い。なぜなら彼女は、ユーリの言い方を借りれば、自ら進んでその病《やまい》に身を委《ゆだ》ねているからだ。シェルファは、自分の想いを他人に説明出来るとは考えていなかったし、そんな気もなかったのである。
午後の日差しはゆっくりと傾いていき、シェルファの白い頬《ほお》に、茜色《あかねいろ》の残照《ざんしょう》を映しはじめた。
今日はもう、帰って来ないかもしれない。
行軍《こうぐん》はあくまでもお昼が中心だし、今頃はどこかで野営《やえい》の準備に入っているのかも。
そう考えた途端《とたん》、胸の内に寂寥感《せきりょうかん》が込み上げた。昨日も、この時刻になると同じ気分に陥ったが、今日はもっとずっと激しい。今日こそは――と思っていただけに、暮れていく外を見ていると寂しさに打ちのめされそうになった。
祈るように両手を胸の前で組み合わせ、夕闇に沈んでいく街道の向こうを見つめる。
こんな時にはつい悪い想像をしてしまう。
例えば、レインの返事を持ち帰った使者さんの様子が、少し変だったとか。こう見えてもシェルファは、他人の表情には敏感なのだ。特に、それがレイン関係のこととあれば。
どうもあの人は、なにか隠していたような気がする。まさか……レインになにかあったのではないだろうか。
昨日からずっとそんなことを考えていたのだが、レインの今日の帰還が期待出来そうにないとなると、いよいよ心配になってきた。
いてもたってもいられなくなり、そわそわと立ち上がろうとする。
同時に、ノックの音がした。
「は、はいっ」
「私です」
味も素っ気もない乾いた声を聞き、どきんと跳ね上がった胸を撫《な》で下ろす。
シェルファを尋ねて来る人などまれなので、どうもこのノックというものに慣れないのだった。
出立《しゅったつ》前にレインに言われた通り、返事の後に覗《のぞ》き窓で相手の顔を確認する。
「ギュンターさんですか?」
「はい」
急いでドアを開けると、いつもと同じくひどく不機嫌そうな顔をしたギュンターが、小さなワゴンを押して部屋に入ってきた。
ティーポットとカップが二組あるところを見ると、お茶の用意らしい。なんとなく彼らしくない組み合わせである。
「あの……?」
「もうすぐレイン様がお戻りになります」
「ええっ」
いきなり先制され、シェルファは飛び上がりかけた。
「ほ、本当ですかっ。連絡でも?」
「はい。別に使者によらずとも、マジックビジョンという方法がありますので」
「ああっ」
なにも考えずに、いきなり城門目指して駆《か》け出そうとしたシェルファの前に、ギュンターは巧妙《こうみょう》に割り込んだ。
「――あの?」
「お戻りになるとはいえ、今すぐではありません。まだ数時間はあります。紅茶でもお飲みになり、ごゆるりとお待ちください」
ためらいを見せたが、ギュンターはもう当たり前のように小さなテーブルにお茶の用意を始めてしまう。こうなると、無下《むげ》に出ていく訳にもいかない。本当はレインを迎える為に城門へ走りたいのを我慢して、シェルファは席についた。
と、ギュンター自身も正面に座った。どうやら、同席してお茶を楽しもうということらしい。
ギュンターがお相伴《しょうばん》するのは嫌《いや》ではないが、この人にしては本当に珍しいことだと思う。いつもは、余計なことには一切関わらないように見えるのに。
「さあ、どうぞ」
カップを手で押して勧められ、シェルファは困ったように俯《うつむ》いた。
「なんだかドキドキして喉《のど》を通りそうもないです」
少し離れていたくらいで、なにを大げさな。
――とは言われなかった。
ただ例のむっつりした顔で、
「それは残念です。このファヌージュ産の紅茶は、レイン様のお好きな飲み物なのですが」
「いただきます!」
反射的に即返事をしたが、あっという間に気が変わった自分が恥ずかしくなり、ちらっとギュンターを見る。
驚いたことに、彼は少し……ほんの少しだけだが笑っていた。一瞬で消えてしまったけれど、笑いには違いない。
驚きに瞳を丸くしたまま、シェルファはコクンと一口飲んだ。
「あ……。おいしい……です」
「そうですか。では、これもどうぞ……。近頃、食が細かったようにお見受けします故《ゆえ》」
サンドイッチの乗った皿を勧められた。
「これもレインの好物ですか?」
「いいえ。これは私の好物です」
今度はシェルファが微笑《ほほえ》む番だった。
なんとなく、この青年の訪問の理由が見えてきた……ような気がする。
なにか自分に話があるのではないだろうか。気を遣って話しやすい雰囲気を作ってくれているのかも。そう思っていたシェルファだが……しばらく無言で食べた後、急にギュンターが「なにか私にお話があるのでは?」と言って来たのでまた驚いた。予想と全然反対では。
「わ、わたくしがギュンターさまに、ですか?」
「はい」
落ち着き払って頷《うなず》き、ギュンターはさりげなく続けた。
「何かお話したいこと、あるいは誰かにご相談してみたいことがあるはずでは? 例えばですが、貴女《あなた》を見る時のレイン様の態度に、このところ不自然なものを感じ始めている――とか」
音を立ててカップをソーサーに戻した。
驚きの連続だが、今のはまた最大級のものだった。この人は、自分自身がなるべく考えないようにしていることを、どうしてこうも正確に見抜けるのだろう。
しかし本人は相変わらず難しい顔で、卵サンドイッチをパクつくのみ……小憎らしいほどの冷静さである。
「それ……わかりますか?」
シェルファはすっかりギュンターのペースに乗せられていた。
「まあ、私はお二人をおそばで見る機会が多かったですから」
――ていうか、実際のところ俺は、んなもんどうでもいいんだけどね、と言わんばかりの表情でまたカップに紅茶を注《つ》ぎ足し、砂糖レスで口に運ぶ。
シェルファが話そうが話すまいが、本気でどうでも良さげである。淡々と軽食を摂《と》っていて、食事が済んだらそのまま出ていってしまいそうだ。
しかし、無論そんなはずはない。
無関心ならここへ来るはずがないのだから。シェルファはそろそろと片手を胸にやり、迷いつつも唇を開いた。
この人になら……相談してもいいかもしれない。
「あの……そんな悩みっていうほどでもないんですけれど……。思えば、最初の出会いからしてそうだったんですが、レインは時々、不思議そうな顔でわたくしを見るんです。そうと確信したのはごく最近……少し前の剣技の訓練の時ですけれど。とにかく、それが少し気になります。どうしてかなあ、と」
「貴女《あなた》はどう思われます?」
「……わかりません。ただ、レインがわたくしに対してなにか不可解なものを感じているらしいので、わたくし、自分がどこかおかしいんじゃないだろうかと心配なんです。そういえば、お父様もわたくしには冷ややかでしたし……。それで、これもここ最近の心配事ですけれど、そのなにかのせいでレインに――」
だんだん声がか細くなり、シェルファは黙り込んで俯《うつむ》いてしまった。普段、正面から向き合わず、あえて忘れていた恐れに直面し、心細さが募《つの》ってきたのだ。
いやっ。
もし、そんなことになったら、わたしは絶対に耐えられない……
お願いです、神様。
他の誰に憎まれても、無視されてもいい。
だから、どうかレインにだけは――
「――嫌われたくない。そういうことですな」
どきっとした。
びっくりして顔を上げると、別にギュンターはこちらの考えを読んだわけでもないようで、窓の外を見ながら静かに話していた。
今のセリフは、先のシェルファの言葉に答えたもののようだ。
「貴女《あなた》ご自身も見当のつかない秘密に、レイン様が気付き始めている。その『なにか』も気になるでしょうが、実は貴女《あなた》が真に恐れているのは、その秘密の内容ではない。いえ、まったく恐れていない訳ではないにせよ、最大の恐怖は他にある。違いますか?」
「……仰《おっしゃ》る通りですわ」
そっと頷《うなず》く。
肩が、そして身体が震え出すのを止めようと、手で自分の身体を抱き締め、シェルファは重ねて首肯《しゅこう》した。
「ええ……わたくしは怖いんです。自分の正体がなんなのかは知りませんし、知りたくもないんです。わたくしはわたくし……それ以上でもそれ以下でもないですから。ただ――」
その得体の知れない「なにか」のせいで、レインに嫌われるのが怖い……避けられたりするのが怖い……怖いんです。
囁《ささや》くように告白する。
このところずっと、無理矢理押さえつけていた危惧《きぐ》を吐きだしたせいだろうか、身が細るようなため息が出た。
「もう一杯お飲みなさい」
「……ありがとうございます」
表情はまるで変わらないが、ギュンターの配慮《はいりょ》に温かいいたわりを感じ、シェルファはちょっと頭を下げた。
素直にカップを両手で抱える。
俯《うつむ》くと、波打つ紅茶の表面に自分の泣きそうな顔が映っていた。
「例えばですが」
ポツリとギュンターが言う。
「もしレイン様が、『ついさっき、街角でフェニックスを見た』と仰《おっしゃ》ったとします。――貴女《あなた》は信じますか、その話を。伝説に過ぎないとされる、あの幻鳥《げんちょう》が本当にいたとお認めになる? あるいは、他の者が同じ証言をした場合はどうです?」
シェルファの返事に迷いはない。
「……他の人がそう証言したなら、おそらく疑います。でも、レインがそう断言するのなら、フェニックスは確かにいたのだとわたくしは信じます。真実、街角にいたのだと納得します。疑うことすら思いつかないでしょう」
顔を上げ、自信に満ちた声で断言する。
「自信がおありなのですね?」
大きく頷《うなず》いた。
「はい。冗談ではなく、真剣に語るのであれば、わたくしはレインを疑いません。別にフェニックスに限らず、なんであろうと」
「なるほど」
むっつり顔が少しだけ綻《ほころ》んだ。
しかしすぐにまた難しい表情に戻り、ギュンターは真っ直ぐにシェルファの視線を捉《とら》えた。
「私にはわかりませんな。それならば、結論は出ているも同然のはず。そこまでレイン様を信頼しているのであれば、なぜ最後まで信じ切れないのでしょうか」
大きな瞳を一杯に見開き、シェルファはテーブルの上で小さな手を固めた。
ギュンターがなにを言いたいのか悟ったのだ。
同時に、まさに図星を指されたような気持ちになった。
「私はまだ、その謎とやらについてレイン様からなにも伺《うかが》っておりません。しかし、そんなものがあったとしても、レイン様の態度がなんら変わるはずもないことは知っています。それくらいは、別に予想するまでもないことですな」
全く音を立てずに上品に紅茶を啜《すす》り、ギュンターは素っ気なく言う。冷たいとかではなく、元々こういうしゃべり方なのである。
「……この世の誰よりもレインを信頼していたと思っていましたのに、それはわたくしの傲慢《ごうまん》だったのでしょうか」
刻一刻と恥ずかしさが募《つの》ってきて、シェルファの頬《ほお》を熱くさせる。
ギュンターの指摘を受け、心がシクシクと痛んだ。意外なほどショックを受けてもいた。
「レイン様を想うあまり、心に曇りが生じた……それだけのことです。なにも、深刻に考えることはありません。正せる過ちは正せばよろしい。これから先なにが出てこようと、どんな事実が明らかになろうと、貴女《あなた》には最小限、レイン様込みで二人は味方がいるということですな。まあ、実際はもっとたくさんいるでしょうが、あいにく私は凡人故《ぼんじんゆえ》、他人のことまでは保証出来ませぬ」
全く、これほどギュンターが多くを語るのを聞くのは、シェルファにとって初めてのことである。
「味方が『二人』……ですか」
どうにか泣き顔を引っ込め、笑顔を作ることが出来た、と思う。
この人は少しだけレインに似ています……優しくて、それでいて不器用なところが。
ギュンターは、相変わらずの不機嫌そうな顔で残りのパンを口に放り込み、紅茶で流し込むように食べ終わると一つ頷《うなず》く。
完璧なる棒読み口調で付け加えた。
「残る一人は愛想無しでおもしろみのない性格ですから、レイン様の付録《ふろく》程度に思っておくのがよろしいでしょう。――さて、そろそろ時間です」
いきなりギュンターは席を立った。
それはもうきっぱりとした態度で、なんの余韻《よいん》も未練も見せなかった。
「私は城門に主《あるじ》を出迎えに参りますので、これにて失礼」
「あっ、わたくしもご一緒します」
言い終えてさっさと立ち去ろうとするギュンターの背中を、シェルファはパタパタと走って追いかけていく。
いつの間にか、胸の中のしこりがすっかり無くなっていた。
――この日の彼との短いお茶会は、シェルファにとって大きな意味があった。
レインがなぜこの無愛想《ぶあいそう》な男を重用《ちょうよう》し、全幅《ぜんぷく》の信頼を寄せるのか……その理由がわかった気がしたのだ。
――☆――☆――☆――
一方、同じ城内で一夜を過ごしたセイル達である。
つめた〜い石の床と、目の前には鉄格子《てつごうし》。数時間置きの血反吐《ちへど》を吐くような厳しい尋問《じんもん》と、トドメに意味もなくウロつく、目つきの鋭《するど》い牢番《ろうばん》。
――そんな、絵に描いたような「地下|牢《ろう》」を想像していた身には、嬉しい誤算だった。閉じこめられた場所は、想像以上にきちんとした部屋だったのだ。そもそも、ここは地下ですらない。上階にある、ごく普通の客間である。
思わぬ待遇《たいぐう》の良さに、すっかり緊張感が抜けてしまった。
いや、レインがこちらを害する気が無いことがわかった時点で、セイルの緊張感など半《なか》ば以上すっ飛んでいたが。
ついでに言うと、ここは部屋というよりは広間で、さらに奥には三人分の寝室がきちっと整えられている。ジュンナはどうせセイルと一緒に休むわけで、寝室は二つでも良かったくらいである。
というわけでなんの不安も覚えず、大いに安らかな気分で、セイルは出されたコーヒーを啜《すす》りつつ、ジュンナと仲良くソファーでダベっていた。表情はすっかり「くつろぎモード」全開である。
知らない誰かが今のセイルを見たら、こいつは家でまったりと休憩中だな、と思ったことだろう。
はっきり言って、捕まって間もない捕虜《ほりょ》の態度ではない。早くも環境に慣れたとも言える。どこでもすぐ寝られる(慣れる)のは、セイルの大きな特技の一つなのだ。
ただし、仲間内にはもちろん、きちんと捕虜《ほりょ》らしい者もいる。
三人の中で唯一、それらしき一人……つまりシングは、今もいらいらと部屋の中をうろつき回り、機会があればそこかしこを点検し(脱出の可能性を探るため)、しかも二十歩に一度は悪態《あくたい》をつくという、セイルの目から見ても捕虜《ほりょ》の鑑《かがみ》だと思える行動を取っている。
ほけ〜っと観察していると、どうやらシングは部屋を七周するごとに必ず、「くそっ」とか「なんてことだ!」とかの『特にでかい声の悪態《あくたい》』を吐き捨て、床を蹴飛《けと》ばしているようで、密《ひそ》かに感心することしきりである。
なかなかリズム感がいいんじゃないか?
知らない内に後輩に阿呆《あほう》な尊敬をされていたシングは、実に部屋を八十六周もした後(暇なのでセイルが数えていた)、ついにぶち切れて、くるっとセイル達に向き直った。
「セ、セイル殿! そのように落ち着き払ってもらっては困りますぞっ。少しはあなたも、逃げる工夫をしてくだされ!?」
「いやぁ〜」
セイルはあはは〜と笑って頭をかいたりしたが、シングの顔つきを見て、ともかくも真面目《まじめ》な表情を繕《つくろ》った。
「ここって、一見、普通の部屋で、それは間違いじゃないんですが、実は魔法による結界《けっかい》が張られているんですよ。なので、簡単には逃げられない……ていうか、まず不可能じゃないですかね〜」
「し、しかし、窓がありますぞ!」
びしっ、とシングが横手の窓を指差す。
「ここは三階ですが――。窓を破り、シーツでも集めて繋《つな》ぎ合わせ、地上まで逃げればよろしいでしょう!」
「あ、それ無理です」
あっさり否定し、パタパタと手を振る。
「多分、シングさんはよくわかってないんですよ。部屋全体に魔法|防御《ぼうぎょ》が施《ほどこ》されてるってことは、あの窓はこの世で最も固いとされる、ストーム鉱石より堅牢《けんろう》ですよ。割るなんて無理です、無理。もう全然無理」
――ホントかよ、おい。
口にこそしなかったものの、シングの顔にはそう書いてあった。
自分で試しちゃるっ、というつもりになったのだろう。
眉間《みけん》に深々と皺《しわ》を刻みつつ、大股でテーブルに歩み寄り、椅子の一つを持ち上げる。助走《じょそう》までつけて走り、豪快なフォームで窓へとぶん投げた。
ガインッ!
そんな音がしたかと思うと、重たそうな椅子が薄っぺらい窓ガラスに跳ね返され、シングの肩にモロに当たった。
「つっ」
顔をしかめて肩を押さえ、よろめくシング。
肝心《かんじん》の窓ガラスには罅《ひび》一つ入らない。
噴き出すのを堪《こら》えるのに、セイルは全神経を使わねばならなかった。
妹まで、下を向いて肩を震わせていた。
「お、おのれっ」
跳ね起きてまたひとしきり悪態《あくたい》をつく。
それにも飽きると、シングはまたくつろぐセイルの前までやって来て、
「ならば、扉はどうです!? 三人で体当たりすればあるいは! それとも、魔法は? 魔法の杖が無くても、呪文《じゅもん》を唱《とな》えたら術は使えるはず――」
「いや、無理なんですってば」
気の毒だったが、セイルは途中で遮《さえぎ》った。
「確かに、杖は指向性《しこうせい》を高めるための物でしかないんで、無くても魔法は使えますけどね。ともかく、実演して見せましょう。その方が早いです。――ジュンナ、シールドの呪文《じゅもん》、頼むな。俺、これから魔法攻撃するから」
「はぁい」
可愛《かわい》く返事をするジュンナに微笑《ほほえ》みかけ、セイルは立ち上がって低い声で呪文《じゅもん》を詠唱《えいしょう》する。
術が完成すると、無造作《むぞうさ》に手を伸ばした。
「ちょっと!」
シングが目を丸くして止めようとするのを無視して、ぼそっと言う。
「ファイアボール」
バンッ
部屋中にオレンジ色の閃光《せんこう》を撒《ま》き散らしつつ、灼熱《しゃくねつ》の火球《かきゅう》がセイルの手から放たれ、直進する。
ドアにまともにぶち当たり、大爆発を起こした。
――ように見えたが。
木製のドアはやや変色したのみで、いとも簡単に攻撃を跳ね返した。
炎の固まりがむなしく弾《はじ》かれ、手桶《ておけ》の水をぶちまけたように、大小様々な大きさの炎が部屋中に飛び散ってしまう。もちろん、セイル達の方へも幾《いく》つか飛び火してきた。
「うおっ」
シングが身構えたのと、妹がシールドを張ったのが同時だった。透明な防御壁《ぼうぎょへき》に当たり、むなしく炎が四散《しさん》する。
「か、火事にっ」
続けて喚《わめ》くシングに、とっとと座っていたセイルは、穏《おだ》やかに指摘した。
「――なりません。ほら、もう火が消えていく」
保証した通り、飛び散って燃え移るかと思われた火は、たちまちしぼんで消えてしまった。絨毯《じゅうたん》やテーブルにも、焼けこげすら残ってない。
「ね? これが結界《けっかい》の威力です。部屋の内側にまで作用する、こんな強力なのは初めて見ましたけどねえ、俺も。この部屋でモロいのは、持ち込まれた食べ物や飲み物、それに俺達くらいですよ。地震で城が倒壊《とうかい》したって、ここだけは無傷で残るでしょうね。はっはっは!」
セイルは気安く笑う。
「信じられない……」
むしろあきれたように首を振り、シングは自らも、対面のソファーにどさっと座った。
まだ未練がましく、
「ジュンナ殿の魔法で突破出来ないのですか、その……結界《けっかい》とやらは」
「う〜ん、現状ではちょっとね。キレた妹でないと――いや、なんでもないです」
セイルは慌《あわ》てて首を振った。
それに、あの状態のジュンナでも、ここを破れるかどうかは怪しいものだ。
「防御結界《ぼうぎょけっかい》の強度は、術者の魔力によります。つまりここを破るには、おそらくこの部屋に結界《けっかい》を施《ほどこ》したであろう、レインさん並の魔力を持っていないと無理です。あいにく、俺達じゃ力不足ですね……魔法使いとしての視点で見ても、あの人は超一流ですよ」
「そうか……」
今度こそ、がく〜っとシングの肩が落ちた。そこまで聞かされては、納得するしかないのだろう。
気の毒になり、セイルがしばらく無言でいると、シングはまたなにやら呟《つぶや》き出した。
思わず聞き耳を立てると――
「……我々が歯が立たなくても、まだジョウ様がおられる。あの方には、いくらレイン殿といえども勝てるはずはない。なにしろあの方は」
そこまで言いかけて、ハッとして口をつぐんだ。わざわざ口元まで押さえ、シングは恐る恐る顔を上げる。
セイルは微笑《ほほえみ》とともに頷《うなず》いた。
「大丈夫です。俺も妹も、ジョウ様の正体は知っていますよ」
「……え。あ、そうですか。私はつい先日、思い切ってジョウ様に訊いてみたばかりなのですが」
シングは意外そうな顔つきだった。
まあ、無理もない。
古参《こさん》のシングに比べれば、セイルはまだ全然、新参者《しんざんもの》だからだ。
「いやぁ。俺、好奇心は強い方ですから。で、この前、駄目《だめ》モトで訊いてみたら、割と簡単に教えてもらっちゃって」
あはは〜っとまた笑う。
「ちゃんと口止めはされましたけどねえ。ちなみに、知ってるのは俺達兄妹と陛下、それからシングさんだけらしいですよ。まあ、教えてもらわない限りは気付きませんよねえ。なにしろ、外見がああですし。伝承なんていい加減なもんです」
「そう、全くその通りですな……」
釣られたのか、シングも少しだけ微笑《ほほえ》んだ。
「打ち明けたジョウ様のお気持ちはわかりますね。セイル殿は、人を安心させる雰囲気をお持ちだ。これも人徳でしょう」
「なにを言ってるんですか」
セイルはなんとなく恥ずかしくなり、無闇に笑ってごまかした。
話を戻すつもりで、
「とにかく、ジョウ様の正体も、その生い立ちも知っていますが……どうでしょうか。俺が戦った感じじゃ、レインさんも相当なもんですよ? あの人はなんて言うか――」
言いかけてちょっと考える。
適当な表現が思いつかなかったのだ。
シングが「なんて言うか……なんです?」と促《うなが》したので、思いつくままに言った。
「俺が斬撃《ざんげき》をかわそうとした時、あの人は俺とほぼ同時に、しかも同じ方向に動いたんですよ。こっちの、ちょっとした筋肉の動きなどから先読みしたんだろうけど……あの戦闘センスは驚きだなあ。尊敬しちゃいますね。俺とは次元が違うっていうか。天才って、マジでいるもんですね。ジュンナだけじゃなかったんだ」
「わたしなんてどうってことないよぅ」
天才魔法使いのジュンナが、横からすかさず異論を唱《とな》えた。
「それより、おにいちゃんはあの人の怪我《けが》のせいで、無意識に手加減したのよ。悲観することはないと思う」
あ〜、はいはい。
おまえの中じゃ、そういうことになってるんだね。
セイルはくすっと笑い、特に否定もしなかった。ジュンナは常に兄に対して評価が甘い。「いーや、手も足も出なかったね」と本当のことを言っても、信じるわけがないのだ。
「あの方の才能は認めざるを得ないですが」
ジョウの熱狂的な支持者であるシングは、頑固に言い募《つの》った。
「しかし、まさかジョウ様には勝てますまい。なにしろ大将軍は、本物の、混じり気無しの英雄ですからな!」
自らも胸を反《そ》らし、さあ反論して見ろ! といわんばかりの口調である。
セイルは逆らわない。
シングのセリフの後半は、確かに事実だからだ。
しかし――断言してもいい。あのレインは、その『本物の英雄』に優《まさ》るとも劣らない資質の持ち主だと思う。おそらく本人は、そんなものになる気もなければ、興味すら全然ないだろうけど。
というか、凡人《ぼんじん》の自分達が英雄論を展開すること自体が間違っているかもしれない。
「俺はそれより、レインさんがとっさにあの男を突き飛ばしたことの方が気になりますよ。生死のかかった場面で、自分より他人の救出を優先したんです、あの人は。……自分が避ける方を優先してたら、怪我《けが》なんてしなかったでしょうに」
シングの不審顔を見て、セイルは口を閉ざした。
そう言えば、彼は例の脂顔男《あぶらがおおとこ》とレインが揉《も》めていた時、まだ気絶していたのである。
「まあ、この話はもう止《や》めましょう」
セイルはあっさり話を打ち切り、ぐっと渋面《じゅうめん》を作った。
「ところで、今は脱出やら英雄論より大事な問題があります。なにかわかります?」
「……脱出より大事? さあ?」
「風呂《ふろ》ですよ!!」
ばしっと膝を叩く。
「ジュンナの髪、少し艶《つや》が無くなってきたでしょう。そろそろ入浴させてやらないと! 女の子なのに、いつまでも風呂《ふろ》無しなんて可哀想《かわいそう》でしょっ」
途端《とたん》に、我が意を得たり! とばかりにジュンナがコクコク頷《うなず》く。先程から気にした素振《そぶ》りで髪を弄《いじ》っていたし、自分でも思っていたことなのだろう。
しかしシングは、明らかに脱力した顔で、「なにを言ってるんだか」と言いたそうにした。
「あ、馬鹿にしたでしょ、シングさん! じゃあ、シングさんはジュンナが風呂《ふろ》に入らなくてもいいと? 換えの下着も無しで、同じパンツはいたままでいいって言うんですねっ」
「な、なんでいきなり、そんな極端な話にっ」
からかわれているのにも気付かず、シングが焦る。ジュンナが頬《ほお》を染める。
そして、セイルがさらにふざけてシングに絡《から》もうとした時、拳《こぶし》で殴るようなノック音が聞こえた。
ぴたっと動きが止まり、互いに顔を合わせる。
シングの顔がぱっと明るくなった。
「そうか! 食事を持ってきたヤツを襲えばいいんじゃ――」
「よう、元気かおまえら!」
提案し終わる前に、レインが鍵を開けて入ってきた。
セイルは大げさに肩をすくめ、「襲いますか、この人を?」と言いかけた……が。
言葉が途中で消えてしまった。
ああ、いい物を見た!
瞬間、浮かんだ思いはそれである。
レインの影に隠れるようにして、一人の少女が連れ添《そ》っていたのだ。
この人は……王女だろうなあ、やっぱり。
宝石のような豪奢《ごうしゃ》な輝きを放つ、長い長いまっすぐな金髪。まだ少女だが、目鼻立ちはくっきりしていて芸術的ですらある。なにより、サンクワール貴族特有の、グラデーションのような濃淡を見せる真っ青な瞳が美しい。
セイルはジュンナ以外に、ここまで純粋な光に満ちた瞳を見たことがなかった。
白いドレスを着た王女は、セイルの視線に気付き、恥ずかしそうにちょっとお辞儀《じぎ》をした。
うわっ、結婚したいかも!?
「あ〜、ぼけっとしてるトコ悪いが、俺の話を聞け、そこの男二人」
言われ、セイルはようやく我に返った。
慌《あわ》てて立ち上がり、二人に……というより王女に一礼する。と、シングも今気付いたような顔で、大慌《おおあわ》てで礼をした。
「おう、殊勝《しゅしょう》で結構」
……いや、あなたにしたんじゃなくて。
文句を言いたいところだが、どうせレインは知っててからかったのだろう。
彼は、首からタオルなど引っ掛け、大変機嫌良さそうに見える。王女とレイン、二人とも髪が湿っているところを見ると、風呂《ふろ》にでも入って来た直後だろうか。
あれ……なんでタイミングよく二人とも?
――まさかね。
脳裏《のうり》で展開された『イケナイ妄想《もうそう》』を、セイルはそっと首を振って追い払った。
それこそ、まさかだ。
「話といっても、簡単なことだ。俺達は予定を早めて明日の午後にはもう出陣する。で、留守中に余計なことして、いらん手間をかけるな……そういうことだ。言いたいことはわかるだろう? 脱出しようとしても無駄だからな」
「それはいいんですけど」
セイルは早速、自分の腕にすがりついている妹を見下ろし、頼み込んだ。
「妹に風呂《ふろ》を使わせてやってください。あ、出来たら俺達も。俺、風呂《ふろ》好きだし」
「おにいちゃん」
くいくい服を引っ張るジュンナ。
「わたし、おなかもすいた」
「……だそうです。ちなみに、俺も腹が減りました」
そのまま伝えて頷《うなず》くと、レインは軽く唸《うな》った。
「首を刎《は》ねなかっただけでも感謝してもらいたいぐらいなんだが。捕虜《ほりょ》のクセにえらく厚かましいよな、おまえら」
「はは……。言われてみればそうかもですねえ。じゃ、風呂《ふろ》は却下《きゃっか》ですか」
セイルが言った途端《とたん》、むちゃくちゃ悲しそうな顔で、ジュンナがじぃ〜っとレインを見た。
レインは顔をしかめ、
「わかったよ、風呂《ふろ》と飯だな。ちゃんと手配するさ。その代わり、風呂《ふろ》は一人ずつだぞ」
ため息をついて了承し、真面目《まじめ》な表情に戻る。目を細めてセイル達を見た。
「それから、最初に言った通り面倒はかけるな。俺は出陣するが、ちゃんとおまえ達を押さえられるヤツを残していくからな」
淡々と言い残し、そのまま踵《きびす》を返した。
その背中に、思わず話しかけてしまう。
「レインさん!」
「なんだ」
王女と一緒に、彼が振り向く。
「どうか、お気をつけて。無事を祈っています。――あなたの狙い通りに行くといいですね」
シングのびっくり顔を横目に、ぺこっと頭を下げた。レインがじいっとセイルを見返す。
なにか考えているような表情の後、さりげない声音《こわね》で返す。
「……ジョウは、シャンドリスじゃ『神将《しんしょう》』って呼ばれているらしいな。古《いにしえ》の英雄と肩を並べるような実力を持つヤツだから、戦うのは無謀《むぼう》だ。――そう言いたいのか?」
いえ、そういうわけじゃ――
首を振って否定しつつも、セイルの心中で閃《ひらめ》くものがあった。
この人は今、明確な『問い掛け』をしているのだ。さりげなさを装い、「知っているなら、ぶちまけてしまえよ」と誘っている。
わかっていながら、セイルはつい乗せられてしまった。
「そうじゃないですが、忠告したい気持ちもありますよ、ええ。……その口振りだと、遙《はる》か昔にあった、魔人《まじん》と人間との戦いのことは知ってますよね?」
「知らないヤツの方が珍しいだろう……これだけあちこちに伝承が残っているんだから。その割に、魔人《まじん》達が何処《どこ》から現れたのか、未だに定説がないけどな」
レインはニヤッと笑った。
そうそう、その調子で話せよ、とでもいうように。
シングがおろおろした様子でしきりに、「その件を持ち出すのはまずいっ」とサインを出しているが、もう言い出してしまったのだからしょうがない。
完全に雑談《ざつだん》のような口調でレインが続ける。
「本当の意味であの戦いを知ってるヤツは、エルフや魔獣《まじゅう》なんかの超長寿の一族くらいだろう。でも、彼らの多くは人間と交流が無い上に、肝心《かんじん》の目撃者が口を閉ざしている。つまり、遙《はる》か昔に魔人《まじん》と人間との泥沼の戦いがあったことは伝説で伝わっているが、真実を知っている者は少ないんだな。――そうじゃないか?」
レインが囁《ささや》く。
ああ、この人もまた、いわゆる「聖戦」について疑問を持っているんだ……。その言い方で、セイルは確信してしまった。
しかし、今言いたいのはそのことではない。
「――確かに。しかし、英雄ジョウ・ジェルヴェールが魔人《まじん》との戦いに活躍したことだけは、事実でしょう。細かい部分で伝説が違ったとしても」
「ふん」
レインは鼻で笑った。
「そういう戦士は、いたのはいたんだろうさ。事実、俺の仲間のラルファスなんか、その出自《しゅつじ》は『ジョウ・ジェルヴェール直系の血を引く子孫である』なんて噂が、庶民の間で根強く流れているぞ。もちろん、『ジェルヴェール』なんて姓は当時珍しくもなかったから、ラルファス本人は笑って否定してるけどな」
「なるほど、そんな噂が……。巷間《こうかん》で囁《ささや》かれている伝説では、ジョウ・ジェルヴェールは金髪に青い瞳を持つ偉丈夫《いじょうふ》だということになってますもんね」
「そうだ。サンクワール貴族の先祖については、色んな噂がある。エルフの血が混じる一族だった、なんて噂がある一方で、実は彼ら貴族は、古《いにしえ》のジョウ・ジェルヴェールと同じ少数民族の末裔《まつえい》である、なんて話も密《ひそ》かに囁《ささや》かれているな。どちらが本当なのか、誰も知らない」
当事者である、この国の貴族の中の貴族、シェルファ王女がそばにいるのに、レインは平然と語っている。
別に当の王女も気を悪くした様子もなく、レインの言うことに熱心に耳を傾けていた。あるいは彼女は、意外と自分の血筋について知らないのかもしれない。シェルファ王女は、父であるダグラス王から疎《うと》まれていたと聞く。ほとんど軟禁《なんきん》状態だったそうな。おそらくはそのせいだろう。
セイルは王女に同情しつつも、話を戻した。
「勉強になりますが、俺が言いたいのは、その英雄本人についてなんですよ。いかにあなたでも、彼が優秀な戦士だったことは認めるでしょう? ジョウ様は、その英雄に見劣りしない実力者なんです」
「自分が生まれる以前のことなんか、知ったことじゃないな。だいたい、伝説の英雄が噂ほどの実力の持ち主かどうか怪しいもんだと思うぞ、俺は。伝説なんていい加減なモンだ。後から都合よく作り替えることもある」
シングが大きく息を吸い込む音がしたので、セイルは慌《あわ》てて彼に耳打ちした。放っておけば、怒声を上げるに決まっているからだ。
『シングさんっ。レインさんのセリフはわざとですよ! 一種の鎌《かま》かけです。故意《こい》にあんな言い方して、こっちの反応を窺《うかが》っているんですってば』
はっとしてシングがセイルを見る。
しかし、もう遅かったかもしれない。
レインは顎《あご》を撫《な》でながら、なにか納得したような顔つきでセイル達を眺めていた。
色々親切にされたから、というわけでもないが、お節介にもレインの身が心配になり、ちょびっと忠告などするつもりだったのである。しかし、どうも上手く相手に乗せられた感じだ。というより、どうやら向こうもある程度の察しを付けていたらしい。
つくづく、鋭《するど》い人だなあと思う。
確かにこの人は、単に戦士であるだけではなく、策士《さくし》でもあるのだ。両方の資質を持つ者は、ごく少ないはずなのに。
セイルは友人に向けるような笑顔を見せる。
「……俺が忠告したいのは、ジョウ様は俺達のようにはいきませんよってことです。どうか、お気をつけて。可能なら、あなたの狙い通り戦いが回避され、ジョウ様もあなたも無事だといいんですけど」
レインはあきれたようにうっすらと笑った。
「変わったヤツだ。俺にそんな言葉は無用だね。おまえが心配すべきは、ジョウの方だと思うぞ」
「お言葉だが、大将軍は――」
などと横から口を出したシングを、セイルはあえて押しとどめ、穏《おだ》やかに返す。
「どうかよろしく。戦いを避けられるよう、やってみてください。……あなたを信じて、大人しく待っていますよ」
レインはただ肩をすくめ、今度こそ部屋を出ようとする。
王女もまた、レインを追おうとしたが――
最後にもう一度振り返り、スカートの端をちょっとつまんでお辞儀《じぎ》した。
「ご不自由をおかけして、申し訳なく思います。わたくしはレインと同行しますのでお世話できませんが、どうかごゆっくりお過ごしください……」
セイルは、破顔《はがん》した。
普通なら、「捕虜《ほりょ》の俺達に『ごゆっくり』って、そりゃイヤミですかーーーっ!」と絶叫したくなるところだが、この少女に限っては誠心《せいしん》からの言葉だろう。
相手が捕虜《ほりょ》だという意識が乏《とぼ》しく、客人を相手にしている気なのだ、この王女様は。
案の定、誰もイヤミとは取らなかったらしく、早くも座りかけていたセイル自身を初め、三人とも反射的に礼を返した。シングなどは、「こ、こちらこそお世話になってしまい、まことに申し訳なく――」などとあたふたと口走り、セイルはまた噴き出しそうになったくらいだ。
しかし、その笑みはたちまち陰《かげ》ってしまった。
(同行するって、あの人もレインさんに付き合って出陣するのかな……)
――☆――☆――☆――
バタンとドアを閉めるなり、レインはシェルファの顔を見下ろした。
「……同行するって?」
「はい。お願いです、レイン……わたくしのわがままを聞いてはもらえませんか」
なんというか……もの凄《すご》く思い詰めた顔で直視され、レインはちょっと言葉を失った。ここで、「いや、それは駄目《だめ》だね」なんて言ったりすると、この子は泣き出すのでは。
「しかしなぁ――」
「お願いですっ」
脈がある、と思ったわけでもないだろうが、シェルファの押しにさらに熱意が加わった。汗ばんだ小さな両手でレインの手を握りしめ、身を寄せてくる。
慌《あわ》てて周囲の気配《けはい》を探ったが、幸いにも、近付く者はないようだ。皆、疲れて早々に休んでいるのだろう。
「もちろん、寂しいというのもありますけど、わたくし、いつもレインに全て任せっきりで、とてもつらいんです。申し訳なくて。だから……」
「――わかった」
レインは根負けの苦笑を浮かべ、シェルファの髪ごと、頬《ほお》に手を当てた。
「わかったよ。第一、主君はおまえだ。そのおまえが望むなら、しょうがないよな」
「うれしい……」
かる〜くイヤミを含ませて言ったつもりなのに、相手には全然伝わらなかった。どうもこの少女は、レインの言うことに悪意を感じ取ったりは出来ないらしい。
これが他の誰かの言葉なら、この子もここまで素直に受け止めないだろうから、レインとしてもちょっと反応に困る。
しかし、シェルファ自身はとまどいも迷いもないようで、まさに喜色満面《きしょくまんめん》で抱きついてきた。既《すで》に警戒心など忘れている。レインが気配《けはい》に敏感だからいいようなものの。
おまけに長いまつげを伏せ、そっと呟《つぶや》いた。
「いつでも、どんな時でも、すぐそばにレインの姿がある……。そんな生活がわたくしの夢です」
――そのセリフは少しヤバイだろう!?
そう言いたいところだったが。
なんとなく言いそびれてしまった。
こいつの純粋さには、結局のところ勝てない、そう思ったからかもしれない。
レインは微笑《ほほえ》み、そっとシェルファを引き離す。じっと顔を見ながら、白い頬《ほお》を撫《な》でてやった。
「おまえ、今日はいい顔してるなあ。いや、綺麗《きれい》なのは相変わらずだけど、最近はなにか自分の中に溜《た》め込んでいただろう? 気になってたんだ。……だけどそれがなんであれ、もう解決したらしいな。今日はとてもいい顔してる。うん、美人だ」
「レイン……」
シェルファはちょっとびっくりしたような表情で見返したが、なぜか唐突《とうとつ》にぶわっと涙ぐんだ。
「な、なんだよ。どうした?」
あっけにとられているレインの胸にもう一度顔を埋め、シェルファは呟《つぶや》いたのだった。
「なんでもないんです、なんでも――。レイン……大好きです」
翌日、やや兵力を補充して三千となった軍勢《ぐんぜい》が、城門前の広場に集結した。これからまた急行を重ね、今度は友軍のラルファスと合流すべく北上するのである。
もちろん、セルフィーとユーリの仲良しコンビもその中にいる。
セルフィーはともかく、本来ユーリは当初の予定ではレニの下につけられていたはずなのに、それ以後もレインの周りをウロウロするのを止《や》めず、なし崩し的に今ではレインの直属ということになってしまっている。レニが注意すればいいのだが、優しい性格が災いしてあまり強く言えないのだった。
そして二人はレインが来るまでの間、例によって例のごとく、人目に付かない隅っこの方でだべっていた。なぜかクリスもそばにいて、セルフィーの手からパンなどもらって食べている。不埒《ふらち》にもクリスの大きなおなかに隠れ、朝からワインを瓶ごと呷《あお》っているユーリは、それを横目で馬鹿にしたように見ている。当然ながら、こいつはクリスに餌《えさ》をやる気など毛頭ない。それどころか、逆に隙《すき》があればクリスの食事を掠《かす》め取る勢いである。自分の食事(ホントはレニのだが)を横取りされたのを、まだ覚えているのだ。
「セルフィーさぁ、もうそいつに餌《えさ》なんかやらない方がいいよ。クリスってばすっかりクセになって、なにかっちゃあなたに近付いてくるじゃない」
「いいじゃないですか、パンをあげるくらい」
セルフィーはニコニコしながらパンの最後の一切れをクリスに与え、余分に持参してきた紅茶の入った革製の水筒をクリスにくわえさせてあげる。クリスは目を細め、美味《おい》しそうに飲んだ。
おおよそなんでも食べるし、なんでも飲むのだ、この馬は。
そして間食を終えると、「いや、美味かった。また頼むね、君ィ〜」とでも言うように、湿った鼻先でセルフィーに頬《ほお》ずりする。
「ふふ……どういたしまして。今度、気が向いたら、わたしを乗せて空を飛んで見せてね」
ユーリが、ごふっとワインにむせた。
「はあ? なによそれ。もしかして、クリスがペガサスだって噂、本気にしてるわけ!?」
「してますよ〜。だって、レニ隊長を初めとして、大勢そう言ってますもん。それに、この前の戦いの時、垂直の崖を疾走《しっそう》してたでしょ? あんなの、普通の馬にできないですよ。おまけに、なんでも食べるし」
「うっ……いや、最後のはペガサスと全然関係ないと思うけど。でもまあ、確かにあれは変だったわね」
期せずして、二人でクリスに注目する。
ところが相手は露骨《ろこつ》に目を逸《そ》らし、平和な農耕馬《のうこうば》のようにぼへ〜っとした目つきで、あらぬ方向に目をやった。俗に言う、「遠い目」というヤツである。
その様子はなんとなく、『ボクただの馬だし、君らがなに話してるかわかんないや』と、さりげなく主張しているようにも見える。ついでに、紅茶臭い大きなあくびなどした。
セルフィーから見ると、とても白々しい。しかし、ユーリは『やっぱりただのボケ馬じゃん?』と思ったらしく、あっさり言った。
「あの時はアレじゃない。しょーぐんがクリスの足に細工でもしてたんじゃない?」
「え〜、それってどんな細工ですかー。苦しいですよ、その解釈〜」
セルフィーは大|真面目《まじめ》で反論する。
反論に窮《きゅう》したのか、ユーリはさらっと話を変えた。
「ま、その辺は知らないけど。――それよりさぁ、聞き忘れていたけど、あの崖の上でセルフィーだけ残った後、どうだった?」
「ど、どうだった……って」
モジモジと俯《うつむ》いてしまう。
幾《いく》ら友達でも、こんなこと話すのは恥ずかしいし……
と、ユーリはぱっと目を輝かせた。
「なになに、なんかあったの、うん? おねーさんに言ってごらん?」
ぐびぐびワインを呷《あお》りつつ、明らかにわくわく顔である。
おねーさんって……わたしの方が一つ上なんですけど。
セルフィーは小声で抗議する。
でもまあ、これくらいは照れることでもないかと思い直し、教えてあげることにした。
「レイン様に……だ、抱いていただきました。感激でしたぁ〜」
――途端《とたん》に。
「ぶはっ」
ユーリは今度こそ、呷《あお》っていたワインを二メートルも噴いた。
クリスの腹にまともにかかるところだったが、卓越《たくえつ》した反射神経を持つこの馬は、なんと咄嗟《とっさ》に前進して避ける。
バッチイだろうがコラ!
そう言わんばかりの目つきでユーリを睨《にら》んだ。
そんなのを見もせず、ユーリのヒソヒソ声。
「……それって、野外えっちのこと?」
「ち、違いますよっ」
どっと頬《ほお》が熱くなる。
「それに、『野外えっち』ってなんですか!! ふ、二人して似たようなこと言うんですからっ」
「なんだー、ただの抱擁《ほうよう》かぁ。……つまんないの」
ユーリはたちどころに意味を理解し、興味なさげな表情に戻った。
そこへいきなり、
「おい、大声でなに喚《わめ》いてる?」
『――あっ』
二人して声を上げる。
いつの間にか、皆がこちらを見ていた。壁代わりのクリスがどいてしまったので、思いっきり目立っていたのである。しかも、目の前には王女を連れたレインがいて、二人を見下ろしていた。
――笑いながら。
ユーリはどうか知らないが、セルフィーはむちゃくちゃ恥ずかしくなった。他の人はともかく、聴力に優れたレインには、今のセリフはばっちり聞こえていたらしい。
「おまえら、大胆だよな〜。生き死にのかかった出陣前に泥酔《でいすい》して、大声で卑語《ひご》連発か」
やっぱり聞かれていた。
「す、すいませんっ」
セルフィーはあせあせと頭を下げた。
「でも、わたしは呑んでないですっ」
「セ、セルフィーっ! 裏切りもの〜〜っ」
「――まあいい」
レインは別に気にしてないようだった。
「余裕のあるのはいいことだ。……後は、それが末期《まつご》の酒にならんようにな」
どきっとするようなことを言う。
「あの、もしかすると危ないんですか」
セルフィーは失礼を顧《かえり》みず、思わず尋ねた。
レインの不敵な表情には、いささかの変化も見られなかった。
「戦いはどのみち危ないさ。だが今回は……そうだなあ、戦うか戦わないか、まあ五分五分じゃないか? いずれにせよ、危ないとしてもそりゃおまえらレベルの話だ。俺には縁のないことだな」
ガルフォートを訪れたばかりのセルフィーなら、こういうセリフに反感を覚えたに相違《そうい》ないが、今はむしろ頼もしさを覚える。
やはりレイン様はこうじゃなくちゃ!
なんて思うのだった。
だから、その通りに言った。
「頼もしいです、レイン様……素敵すぎます……」
と、レインの顔ばかり見ていた王女が、ぱっとセルフィーに視線を移した。
セルフィーも見返し、多分、初めて至近《しきん》から見つめ合う。
内心でドキドキしていたほどには、王女の視線に敵意はなかった。とまどいと共感の混じった瞳で、じっとセルフィーを見ている。
青い瞳が、声もなく語りかけてきていた。
ほんの微《かす》かに頷《うなず》くと、控えめに微笑《びしょう》を返してくれた。
嬉しくなって、セルフィーも表情が明るくなる。この人とちゃんと話してみたいなあと初めて思った。身分が違いすぎて考えたこともなかったけれど、意外と友達になれそうな気がする……
やがて時間が来て、レインは部隊をまとめるためにセルフィー達から離れていった。
その背中を見送るセルフィーに、一緒に歩く王女のあどけない声が聞こえた。
見るとレインの袖《そで》をひっぱり、
「レイン、『野外えっち』ってなんですか?」
うわ。
あ、貴女《あなた》にも聞こえていたんですねっ。
――☆――☆――☆――
レインがクリスに跨《またが》って味方を見渡すと、次第に喧噪《けんそう》が止んでいった。
レインのそばには、お揃いの白馬に乗ったシェルファが寄り添《そ》っている。本当はレインと一緒にクリスに同乗したかったのだが、今回はさりげなく却下《きゃっか》されてしまったのである。
そんな事情は知らないにせよ、周囲のかなりの人数がチラチラと王女を窺《うかが》っていた。
しかしそんな彼らも、やがては自分達の指揮官に視線を戻して行く。
全員が注目した時点でおもむろにレインは、一語一語、はっきりと話し始めた。
「これから出陣するが……まず一つ。今回は、姫様も我々に同行してくださる」
さざ波のようなざわめきが、レインを起点に周囲に広がる。それは、驚き半分、期待半分で、ほとんどの者は『ぜひ、俺の戦いぶりを見ていただこう!』という、いわば士気|高揚《こうよう》に繋《つな》がるどよめきだった。
レインはそれにおっかぶせるように声を励ます。
「あー、待て! 今回は戦いになるかどうか、まだわからん。上手くすれば、戦わずにすむかもしれない。しかしもちろん、戦うことになるかもしれない。全ては相手次第で決まる。しかしだ、もし戦いになったとしたら――」
言葉を切り、ぐるっと皆に視線を走らせる。
ゆっくりと言った。
「――言うまでもなく、この中の何人かは死ぬわけだ。『誰も傷つかないし、誰も死なない』なんて保証は、さすがの俺もしてやれない。戦いになりゃ、必ず誰かが死ぬ。それは十分わかってるよな?」
全員が、しんとなって聞いていた。彼らの多くは元|傭兵《ようへい》であり、そうでなくても豊かな暮らしとは無縁に育ってきた、かつての平民達なのである。
だから、誰もレインに異を唱《とな》えなかった。
どんな名将の下にいようと、突如《とつじょ》として死が訪れることもある……誰もがそれを知っているからだ。
レインは誰にともなく頷《うなず》く……優しい顔つきで。
「わかっているならそれでいい。――とりあえず、俺が保証してやれるのはたった一つのことだ」
一拍置き、今度は全員の魂にまで届きそうな大声を放った。
『この俺が直接指揮する戦いに、敗北はない! これからおまえ達が向かうのは、勝ち戦《いくさ》の戦場だ。それだけ理解して、迷うことなく俺についてこいっ。いいな!!』
言い切ってから、レインは長槍《ながやり》を天に向かって突き上げた。
――と、全員が一斉に応《こた》え、自らの槍をさっと持ち上げた。
『おおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!』
三千の将兵が張り上げる鬨《とき》の声が、コートクレアス城の城門前に木霊《こだま》する。
猛《たけ》り狂《くる》う獅子《しし》を思わせる喚声《かんせい》が、どこまでも青い空に吸い込まれていく。可愛《かわい》い声を張り上げつつ熱っぽい目でレインを見つめているセルフィーはもちろん、ユーリでさえ、照れながら皆に倣《なら》って槍を持ち上げていた。
この場に集《つど》う者全員が、レインの言葉を微塵《みじん》も疑わなかった。そして、燃え立つように自らの士気が高揚《こうよう》するのを感じていたのである。
数分後、部隊はコートクレアス城から出陣した。
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第二章 サフィール軍、動く
「シング達が三人とも捕まった――だと!?」
本国からの急使に接し、フォルニーアが漏《も》らした第一声である。
数少ない魔法使いをこちらに留《と》め置いたため、マジックビジョンが使えず、仕方なく早馬で知らせてくれたわけだが――
おそらくフォルニーアは、シング達が敗れる可能性をあまり考慮《こうりょ》に入れていなかったのだろう。
彼女らしくもなく絶句してしまい、表情を強張《こわば》らせている。
しかし、隣で聞いていたジョウ・ランベルクは素早《すばや》く頭を切り換え、指揮所代わりの大テント内に他に誰もいないのを確認した後、肝心《かんじん》な点を確認した。
「では、とにかく三人の命に別状はない……そう考えていいのだな?」
「はい、それは間違いありません。一時的に捕虜《ほりょ》になった一般兵達が、口を揃えて報告してくれました。彼らは『シング様達が心配だから、自分達も捕虜《ほりょ》として同行させてほしい』と頼んだそうです。しかし、敵のレイン殿が、『彼らは戦《いくさ》が終わったら解放する。しかと約束したから、安心して本国へ帰れ』と言い聞かせたそうで」
「そうか……良かった」
思わず吐息《といき》をつく。どういう顔をしたものかわからない、という表情の使者を促《うなが》し、ジョウは『枯れ谷の戦い』の顛末《てんまつ》を聞き出した。
「……ふむ、見事だ。その策、それ自体はさほど複雑でもないが、上手く恐怖心を煽《あお》って撤退に追い込んだか」
呟《つぶや》き、使者に向かって頷《うなず》いた。
「ありがとう。下がって休んでくれ」
ジョウが平静なので、使者はややほっとしたように敬礼を返し、テントを出て行った。
ジョウは、あえて「この件についてはしばらく口をつぐんでいてくれ」とは言わなかった。なぜなら、もう敗北の噂は兵達の間に流れていたからだ。さすがにフォルニーアの耳にまでは届かなかったが、騎士の多くは既《すで》に使者に先立って敗戦の事実を知っていた。
この手の噂は、広まるのが早いということもあるだろうが、おそらく今回に限っては、レイン側が故意《こい》に広めたせいだ。
枯れ谷の戦いでもその片鱗《へんりん》を見せているが、レインとはつくづく心理戦に長《た》けた男である。
「しかし、なぜだ……なぜあえて三人を生け捕る必要がある……」
ジョウの独り言に反応し、フォルニーアがやっと口を開いた。
「無事だったのは不幸中の幸いではないか」
「それはもちろんのことです。しかし、使者の話を聞くと、レインはそもそもシング達を無傷で捕らえることを念頭において、策を立てている気がします。その理由が不明です」
「……人質にでもしようと言うのだろう」
忌々《いまいま》しそうにフォルニーアが言う。
そう、普通はそう思う。
しかし、ジョウはそうは思わない。レインは豪放磊落《ごうほうらいらく》な男に見えるが、実際は常に敵の思惑《おもわく》を正確に読んでいる。枯れ谷の戦いがそれを証明しているのだ。
仮に、フォルニーアが人質のせいで一時的に退《ひ》いたとしても、すぐにまた再戦を挑《いど》むのは明らかである。しかもその時には仕返しとばかりに、レイン側の誰かを捕虜《ほりょ》に取ることを考えるだろう……
そういうわけで、捕虜《ほりょ》を盾に彼女を脅すのは、根本的な解決には成り得ない。
むしろ、長期的に見れば逆効果である。
それくらい、あの男は読んでいるはずなのだ。
だから、わざわざ捕虜《ほりょ》を取るために策を立てたという点は、注目せねばならないのである。
「ジョウ、これはまずいことになったな」
フォルニーアはジョウの長考に気付かず、イライラとテント内を歩き回っていた。
「シング達もなんとか奪還《だっかん》せねばならないが、それ以前に、ここでの兵力が半分になってしまった。再集結には……時間が足りないであろうな」
「はい。今度は彼らの方から来ますよ」
ジョウは頷《うなず》く。
フォルニーアが何を言いたいのかはよくわかる。
つまり――シング達は敗北したものの、実際の被害はほとんど受けていない。
しかしだからといって、逃げ散った兵力がただちにここへ戻るわけではない。その兵達のかなりの部分は、あくまでもシングやセイルを領主としていたのであり、フォルニーアの直属の兵ではないからだ。この辺りの事情は、シャンドリスにおいても変わらない。
フォルニーアは皇帝ではあるが、その立場は言い換えれば「シャンドリスにおける最大最強の領主にすぎない」とも言える。
そんな彼女の下に、シングを初めとして領地持ちの各領主がいるわけだ。
セイルやシングの部下達が、自分達の領主が捕まっているのに直接の主君でもないフォルニーアの召集《しょうしゅう》に応じるかどうかは、極めて疑問だろう。
それに、もし要請《ようせい》に応じて再度出陣してくれたとしても、兵力が再集結するまでに時間がかかりすぎる。本国に命令を伝え、すぐに彼らが応じたとしても、もはや時を逸《いっ》している。レイン達がそんな猶予《ゆうよ》を与えてくれるとは思えなかった。
以上のことを承知しているフォルニーアは、テント内をうろつくのを止《や》め、ジョウに向き直った。
「済んだことは、もうどうしようもない。状況を打破するべく考えねばな。ジョウ、おまえの意見は?」
「フォル様のお心次第です」
「というと?」
「つまり、戦うか退《ひ》くかの二つに一つです。退《ひ》くのなら早急に和平を申し入れねばなりません……そのお気持ちは?」
尋ねると、手近な椅子に腰を下ろしつつ、フォルニーアは黙って首を振った。
予想通りである。
ジョウは首肯《しゅこう》し、自らも机を挟んでフォルニーアの向かいに座る。
打つべき手を、ざっと主君に説明した。
今現在、自分達シャンドリスの主力は、王都リディアに睨《にら》みを利《き》かせる形で、その至近《しきん》に展開している。
レイン達と戦うつもりなら、こちらに向かっているであろうラルファスの部隊を捕捉《ほそく》、これを殲滅《せんめつ》し、ついでレインに向かう。つまり、敵の各個|撃破《げきは》を狙うのが上策だろう……
「それが順序か……しかし、それならなぜ、最初からそうしなかったのだ? ここで待機している間に追撃出来たのではないか?」
「それは危うい可能性だったと思います。ラルファスの部隊は小勢です。もし彼らをこの大人数で追っていたら、その機動力を活《い》かし、レインと合流すべく逃げてしまったかもしれません。仮にそうなれば、かえってシング達の負担になったはず。しかし、今なら――」
ジョウはゆっくりと続けた。
「彼らの現在地は、もはやレインより我らに近いはず。捕捉《ほそく》できる可能性は高いでしょう」
ただし、ラルファスの現在地についてはあくまでも予想である。物見《ものみ》を放ってはいるが、例によって警戒が厳しく、ある程度以上は近づけないでいるからだ。
「ふむ……」
胡乱《うろん》な顔つきながら、フォルニーアが頷《うなず》く。
「未だに姿を見せないということは、おそらく彼らは途中で進軍を停止し、こちらの様子を窺《うかが》っているのであろうな……そろそろ放っておくわけにもいかない。ちょうどいいか」
言いつつ、ジョウに意味ありげな視線を向ける。
もしかしたら彼女は、ジョウがこの戦《いくさ》においては常に消極的だったことに、もう気付いているのかもしれない。
そう、ジョウはここに至るまで、あえて積極策を取らずにきた。
その理由の一つは、言うまでもなくレインの奇策を警戒してのことだが、他にも理由はある。
ジョウには開戦当初から妙な予感――というより確信があり、「この戦いに限っては動かぬ方がかえって益がある」と思っていたからだ。
実際、これまでのレインの動きを見ていると、あの男もあえて勝利を掴《つか》もうとしていない気がする。もしこちらを完敗に追い込む気なら、枯れ谷の戦いは、さらに悲惨《ひさん》な結果に終わっているはずなのだ。
なのに、蓋《ふた》を開けて見れば両軍にほとんど死者が出ていない。もっと言い換えれば、レインのやりようは、はっきりと手ぬるい。甘いのである。
ジョウは、これが偶然だとはどうしても思えないのだ。
あるいはレインの望みは――
とそこで、フォルニーアが先を続けた。
「とにかく、今は行動する時だ」
覇気《はき》に満ちた深緑《しんりょく》の瞳には、既《すで》にためらいも後悔もない。
さらに、なにか悪戯《いたずら》を思いついたような人の悪い笑顔を見せた。
「そうだ、このまま先にリディアを占領するというのはどうだ? 時間的に難しいか?」
「……時間の問題もありますが。それよりその場合、レインはここを無視してラルファスと合流、我らの王都ザワールを急襲し、今度こそ本当にサダラーン(シャンドリスの主城《しゅじょう》)を落とすかもしれませんよ。となると、実質的に国を交換する羽目《はめ》になりますが……それはよろしいのですか」
「よろしくない」
途端《とたん》に、すっぱい顔つきでフォルニーアが返した。
「それだと、差し引き私の損ではないか」
もの凄《すご》く嫌《いや》そうに首を振る。
「知恵者とは……いや、策士《さくし》とはつくづく手を焼かせる存在だな。こちらが思いもよらない対抗策を考えてくれる。私におまえがついていてくれて良かったぞ」
ふいにジョウは瞳を見開き、フォルニーアを凝視した。
いぶかしそうに主君が首が傾《かし》げる。
「……なんだ?」
「ラルファスの部隊ですが……結局、彼らは囮《おとり》ではなかった。――違いますか?」
フォルニーアの顔に、理解と衝撃が広がった。
そう、枯れ谷の戦いの結果を見れば、レインがシャンドリス軍の追撃を予測していたのは間違いない。最初からサダラーンなどが狙いではなく、二分された別働隊の殲滅《せんめつ》が目的だったのだ。
こちらの反応は読まれていたわけだ。
ということは予想とは違い、ラルファスは囮《おとり》でもなんでもなかったわけである。
ならば、ラルファスの役目とは一体なんなのか。
「フォル様、あくまで戦《いくさ》を望みますか?」
「――当然だ」
「ならば、急いでラルファスを追撃しましょう。どうも嫌《いや》な予感がします」
「よしっ。では早速――」
「ジュンナちゃん達が捕虜《ほりょ》になったって本当っスか!?」
いきなり、フォルニーアのセリフを吹き飛ばすような大声で、指揮所入り口の布を跳ね上げ、ザルツが飛び込んできた。
挨拶《あいさつ》も、そして敬礼すらも忘れている辺り、かなり動揺している。事実、顔中に焦りの色がある。さすがにフォルニーアを見て慌《あわ》てて頭だけは下げたが、こちらに掴《つか》みかからんばかりの勢いなのは変わりない。それにしても「ジュンナちゃん達」という言い方は、ザルツの内なる想いをよく表している。
ジョウはフォルニーアと顔を見合わせ、思わずため息をついた。
ザルツに現状を説明して大テントを出た頃には、太陽はもう傾き始めていた。しかし、時間を無駄にするわけにはいかない。
明朝に陣を払うにしても、各指揮官にこちらの方針くらいは伝えておかねばならない。早速、伝令を呼んで騎士隊長を集めようとしたジョウだが――
遠くから早馬がやって来るのを見て、眉をひそめた。このところ、不吉な情報ばかりが入ってくるからだ。とにかく、覚悟だけはして相手を待つ。
味方の間をかきわけるようにしてやってきた騎士を見て、確かラルファス部隊の物見《ものみ》を命《めい》じていた男だと思い出した。
彼は早速、挨拶《あいさつ》もそこそこに、ジョウに早口である情報を耳打ちした。
ジョウはしばらくなにも言わなかった。
ただ無言で考え込み、答を見つけて吐息《といき》をつく。
これで、レインの目的がわかった……と思う。
落ち着き払ったジョウに、フォルニーアより先にザルツが訊いてきた。
「どうしたんです、なにがあったんですか。またなにか、悪い情報でも!?」
「……そうとも言えるな」
ジョウは目線で使者を下がらせ、フォルニーアとザルツに事務的に告げた。
「途中の町で滞陣中だったラルファスの部隊が、再度進撃を開始しました。問題はその兵力です。派遣していた物見《ものみ》は遠方より見たに過ぎませんが――」
他の兵に目をやり、ジョウは声を抑えた。
イライラしたようにフォルニーアが促《うなが》す。
「過ぎないが――どうなのだ?」
「……遠望《えんぼう》したところ、彼らの現在の兵力は八千ないし九千。しかも、進軍途上にあって、なお続々《ぞくぞく》と増加中だそうです」
「なにっ」
「そんな馬鹿なっ!」
フォルニーアとザルツが同時に大声を上げた。お陰《かげ》で、すっかり周囲の兵士達の注目の的である。
ジョウはごくあっさりと頷《うなず》いてみせた。
「しかし、事実です。兵力が突然、降って湧いたはずはありません。我らは、ラルファス・ジュリアード・ジェルヴェールという男を少し甘く見過ぎていた……そういうことだと思います」
ジョウには、物見《ものみ》の騎士が伝えた情報以上のことが、瞬時にわかったのだ。
なぜ、二千少々に過ぎなかった兵力が、今になって急に増加したのか。別働隊が合流したわけでもないのに、どうやって増えたのか? その理由は少し考えればわかる。
サンクワール国内には、手すきの予備兵力などない。もちろん、降って湧いたはずもない。だとしたら、答は明らかなのだ。
自分の予想を、ジョウは小声でかいつまんで説明した。
話を聞く内に、フォルニーアとザルツはすっかり渋い顔になってしまった。
……やりにくい。
そう思ったからだろう。
ジョウもそう思う。それどころか、彼ら二人が気付いていない、この策の重要なポイントもはっきりとわかっている。
そして、おそらくそれこそがレインの狙いなのだ。
――☆――☆――☆――
ジョウがその報告を聞くしばらく前……ラルファスは進軍途上にある、さる町の広場で、大勢の市民を相手に静かに語りかけていた。
難しい話や政治的な話などではない。
彼は実に、たった一つのことを訴えかけていたのだった。
どうか、みんなの力を貸してほしい、と。
「――簡単に説明したが、これが今のこの国の現状だ。反乱が起き、しかも時を同じくして他国が侵攻してきている。
もちろん、なによりも先に、国土を回復しなければいけない。
武器はこちらで用意する。私が君達に望むのは、あくまでも偽兵《ぎへい》としての兵力だ。本当に死をかけて戦うのは、我々騎士の役目だから。
だから君達は、ただ戦場に同行してくれるだけでいい。万一、策が破れた時には、我々の部隊がその責任を取る。誰よりも真っ先に、この私が責任を取る!
君達を無理に戦場に駆《か》り立て、そして死なせる気はない。ただ、まだこの国の未来に希望を持ってくれているのなら……どうか私に力を貸してほしい……」
終始|穏《おだ》やかに語り、ラルファスは最後に小さく頭を下げた。
「今日のこの事態を招いたのは、まぎれもなく、我々の力不足のせいだ。皆には迷惑をかけてすまない……」
と、小さな広場に集まった市民達は、囁《ささや》くように「ラルファス様……」と声に出した。それから一人、また一人とラルファスに近寄り、話しかける者が途切れずに続く。
「お、俺はかつて警備隊にいた経験があります。武器をお与えくだされば、ラルファス様と故国《ここく》の為に戦います!」
逞《たくま》しい身体をした壮士《そうし》が真っ先にそう言い出せば、負けじとばかり他の者も前へ出る。中には老人や女子供までもいて、それぞれが興奮したように話し始めていた。
「私は戦いの経験こそありませんが、それでもこの命一つを投げ出すことで、敵兵の足を止めることくらいはできましょう。私もお連れくださいっ」
「それなら僕だって――」
いきなりラルファスが片手を上げ、皆を押し止めた。ぴたっと喧噪《けんそう》が止む。
「気持ちは有《あ》り難《がた》いが、本来、真っ先に死ぬべきは、我々騎士なのだ」
きっぱりと言い切る口調に迷いはない。
また口々に話そうとする群衆《ぐんしゅう》を、深い湖のような瞳でぐるっと見渡す。
「とはいえ、どんなに綺麗事《きれいごと》を並べようと、状況次第では皆の命も危ういかもしれない。だから、どうか無理はしないでほしい。軍勢《ぐんぜい》の後からただついてきてくれるだけでも、十分に有《あ》り難《がた》いんだよ」
「――では、ついて行かせてください。それだけなら僕にでも出来るはずですから」
急に誰かの声がした。
それは今まで黙って聞いていた若者の一人で、ちょっと照れたような表情で述べた。
「僕は今まで貴族が大嫌いでした……でも、今日のラルファス様を見て少し考えが変わりました。貴方《あなた》が支持するお方なら、王女様もきっと素晴らしいお人に違いない――お話を聞いているうちに、素直にそう思えたんです」
つっかえながらも最後まで話し終わり、真っ赤になって俯《うつむ》く。
「……ご両親はいいのかな?」
「いえ、先日母を亡くしてしまい、今は一人です」
でも、ヤケになっているわけじゃないですよ、としっかりラルファスの目を見て断言する。
木訥《ぼくとつ》そうに見える若者だが、意志は強いらしい。
ラルファスはしばらくその瞳をじっと見返していたが……そのうち、にこっと微笑《ほほえ》んだ。
すっと右手を出す。
「君の名は?」
「……は? あ……ええと、ヨハンですっ」
「では、よろしく頼む、ヨハン」
遠慮する相手の手を無理矢理握り、握手する。
ヨハン本人はどぎまぎしていたが、お構いなしである。
それを見ていた群衆《ぐんしゅう》から、自然な――本当に自然な笑い声が幾《いく》つも聞こえた。皆、ラルファスの気さくな物言いに、心がぽっと温かくなっていたのだ。元より彼の名声を知らぬ者は少なく、その真摯《しんし》な態度は庶民達に新たな感動を呼んでいる。
いつの間にやら、ラルファスを囲む輪はどんどん大きくなっていた。
そんな光景を、やや離れた場所から部下達が見ている。いや、そこには無理矢理くっついて来たエレナもいて、艶《つや》っぽく感嘆《かんたん》の吐息《といき》を漏《も》らしていた。
「ああっ! ラルファス様のあの、凛々《りり》しいこと! 平民相手に頭など下げるのはどうかと思うけれど、さすがに私が心に決めたお方ですわ! なんという人望力でありましょう」
ふぁさっと白羽扇《びゃくうせん》を広げ、顔を隠す。
芝居がかった仕草で、よよっと目元を拭《ぬぐ》っていた。
離れた場所からエレナの様子を窺《うかが》っていたグエンとナイゼルは、思わず視線を交わした。
彼女に共感したせいではない。
有《あ》り体《てい》に言えば、「なにを世迷《よまい》い言《ごと》ほざいてんだ、こいつ?」という反感のサインである。
ラルファスを尊敬していることについては両名とも同じなのだが、なにしろ二人ともバリバリの平民である。
エレナの言いように、感銘《かんめい》を受けるはずがないのだ。
「……ま、とりあえず数だけは集まったが」
こんなのほっとくか、と思ったわけでもないだろうが、グエンが急に呟《つぶや》いた。
「ウチの大将はわかってんのかねえ、ご自分の影響力ってヤツを。こりゃ下手すると、戦場に着いたら揉《も》めるぜぇ」
腕組みしてじっと主君を見ていたナイゼルは、ちらっと朋輩《ほうばい》に横目を使った。
珍しく、微《かす》かに頷《うなず》いて同意を示す。
「ラルファス様は、ご自分を常に過小評価しておられる。……レイン殿は、その辺りをちゃんとわかっているようだが」
やれやれといった感じで、首を振った。
グエンの巨眼《きょがん》が、ちょっと見開かれた。
驚いたような声で、
「おんや。おめー、レインの大将を嫌ってたんじゃなかったのか? 今の言い方だと、別に腹は立ててないようじゃねえか」
「それは誤解だ。嫌ってはいない」
グエンの顔を見て、微妙に言い直す。
「――そうなりかけたのは認めるが、考え直した。ラルファス様と同じく、私もあの方を信じることにした。だから一応、これくらいは目をつぶっている。……状況からして、やむを得ない面もあることだし」
涼しげな目元に少しだけ憂《うれ》いを見せてから、ナイゼルはぷいっとそっぽを向いた。
グエンは熊のような顔を綻《ほころ》ばせ、にやっと笑う。華奢《きゃしゃ》な美少年にしか見えない相棒《あいぼう》の、すらっとした肩を軽く叩いてやった。
「いいことだぜぇ。あの人とうちの大将は、ああ見えて随分と仲がいいもんな。だから、俺達も信じてやらにゃあ。……集まってくれたみんなを、あの人はむごく扱ったりしねーってよ。俺も信じてるさ!」
「とんでもないことですわ!」
いきなりでっかい声で水をさされ、グエンはおろか、ナイゼルまで驚き顔になった。
いつの間にかエレナが二人ににじり寄り、会話を聞いていたらしい。
きっとした目つきで説教を始めた。
「おまえ達、それはとんでもない誤解ですわよっ! 我が君に、あのような真っ黒けの平民が、友として相応《ふさわ》しかろうはずはありませんっ。副官たる者が、それくらい理解できなくてどうしますか!」
二人は、黙って苦い顔を見合わせた。
無論、「真っ黒けの平民て誰?」などと思ったからではない。
両者ともに、「おまえこそラルファス様(大将)に相応《ふさわ》しくないね」という点で思いは一致したからだが、それを指摘したところで全然無駄のような気もしたのだ。
かえってぎゃんぎゃん吠え立てられ、うるさくなるだけ。
弱っていたところへ、上手い具合にラルファスその人が戻ってきた。
「三人とも、どうした? そろそろ出立《しゅったつ》の準備をしよう。少しずつでも進軍しないといけない」
「ラルファスさまぁ〜」
途端《とたん》に、二人のことなど放って、エレナが甘ったるい声と共にラルファスの腕にしがみつく。
「この二人を叱ってくださいまし! 副官のくせに、心得違いをしているのでございますっ」
怒濤《どとう》の勢いで、自分の主張を捲《まく》し立てるエレナ。
グエンもナイゼルも、失笑を漏《も》らさずにはいられない。
馬鹿らしいにもほどがある。べた惚れにもかかわらず、エレナは根本的に、ラルファスを誤解しているのだ。案の定、聞くだけ聞いたラルファスは、厳しい目でエレナを見た。
「……エレナ・フェリシア・ハルトゥール」
「な、なんでございましょう」
いきなりフルネームで呼ばれ、やっとエレナの勢いが止まった。いぶかしそうに碧眼《へきがん》を瞬《またた》いている。真剣に語るラルファスに対し、居ずまいを正さない者は少ない。エレナもまた、例外ではなかった。
「君はよく知らないようだから、今ここではっきりと申し渡しておく。レインは私の友だ。それも、ごくごく親しい友だ。友人を貶《おとし》めるような物言いはつつしんでもらいたい!」
きっぱりした口調に、エレナは絶句していた。しがみつかれた腕を外し、ラルファスは静かな瞳を彼女に当てる。
「……残念だ、エレナ。やはり我々は分かり合えない運命らしい」
「――なっ」
エレナの顔からさ〜っと血の気が引いた。
なにを聞いても動じない、高慢《こうまん》な貴族の姫君が、唯一のウィークポイントを突かれたのだった。
呆然《ぼうぜん》と突っ立つエレナを見て、グエンとナイゼルはまた顔を見合わせた。
……これもまた、後々騒動のタネになりそうな。
お互いにそう思ったのである。
なぜならエレナという少女は、素直に自らを責めるより、他者を逆恨《さかうら》みするのが得意そうだったからである。
で、この場合は、レインがとばっちりを食うだろう……二人してそう確信した。
――まあそれはともかく。
この町でもラルファスの呼びかけは功《こう》を奏《そう》し、従う人数がまた増えた。
大幅に兵力(ラルファスの心づもりでは偽兵《ぎへい》)を増強した部隊は、ゆっくりとではあるが、確実な歩みで王都リディアを目指していた。
――☆――☆――☆――
一方、シャンドリス軍の方は、動きが活発化していた。
部隊の再編並びに、陣を払う準備を早急に進め、戦支度《いくさじたく》はほぼ終わった。
後は、夜明けとともに出陣するのみである。しかし……ジョウはこっそり主君と話し合いの場を持つため、珍しく自分からフォルニーアを誘った。慌ただしい陣中では、落ち着いて話もできないからだ。
無論、ジョウがついているのに「敵陣が近いし、護衛を付けます」などと申し出る騎士はいない。皆、ジョウの実力を信頼してくれているのだ。
しばらく主君と肩を並べて歩いた。
……いま気付いたが、吹き荒《すさ》ぶ夜風は彼女には毒かもしれない。それに散歩とは名ばかりで、足下《あしもと》でざわざわと音を立てる草花と遠くの陣地の篝火《かがりび》以外、なにも見るものは無い。
しかし、それでもフォルニーアは楽しそうだった。
「ふふ、珍しいな。おまえから散歩に誘ってくれるとは。――ついに私の魅力に目覚めてくれたのかな?」
ジョウは、ちょっと驚いてフォルニーアを見返す。
相手はついっと肩をすくめた。
「冗談だ。ジョウは鈍感で気の利《き》かない男だからな。私のことなどどうでもいいのだろう」
「それは誤解です」
頼りなげな月明かり越しに、横を歩く主君を見やる。
いきなり、無茶を言ってくれると思ったのだ。
「フォル様は私にとって大事なお方。いつも心配していますし――」
「いや、そうじゃなくて」
じれったそうに金髪を弄《いじ》り、フォルニーアは遮《さえぎ》った。
「おまえはほんっとに、泥人形のように鈍いなっ。たまには、剣技を磨く努力を他に向けた方がいいぞ」
ジョウが首を傾《かし》げると、フォルニーアは首を振って促《うなが》した。
「まぁいい。まだそんな歳でもないしな。まだまだ時間はあるし、気長に待つことにする(なにをだろうか?)。それより、どうせなにか話があったのであろう? まさか、本気で散歩に誘ってくれた訳ではあるまい。ほら、話とやらを聞こうではないか」
どこかひっかかる言い方だった。
というか、全体的にやけっぱちな語調である。
さすがのジョウも少し気になったが、追及はまたのこととして、早速切り出した。
「レインは和平を望んでいます」
「――なんだと!?」
いきなりで驚いたのだろう。
フォルニーアの足が、一瞬止まった。上から羽織《はお》ったコートの前をかき合わせ、威儀《いぎ》を正す。
「どういうことだ、それは。あの男には散々してやられているのに、向こうが和平を望んでいると言うのか?」
「確かにしてやられましたが……本気なら、もっと死人が出ています。勝つつもりなら、なにもセイル達を無傷で捕らえることに尽力《じんりょく》する必要はないんです」
「おまえはそう言うが、今も続々《ぞくぞく》と国民を徴集《ちょうしゅう》し、軍を増強しているぞ?」
返事代わりに、鋭く指摘した。
ジョウは歩きながらあっさり頷《うなず》く。
「そう、どんどん集まっていますね、この国の民《たみ》が。……レイン達がなぜ、自国の民《たみ》を集め始めたかおわかりでしょうか、フォル様」
「だから、兵力増強のためであろう!」
「しかしフォル様は、兵数が逆転しつつあるのに、戦《いくさ》を回避しようとはなさらない。それはなぜです?」
「なぜって……そんなこと、決まっているであろう。兵士でも無い一般の民衆など、幾《いく》ら数を集めても簡単に撃破《げきは》出来るはずだ」
「数は一つの力です。しかもその力を行使するのはあの男……簡単とも限りませんが。ですがまあ、それは置いておきましょう。仮にフォル様の言う通りだとして、では戦《いくさ》になったら、彼らのような一般人をも討ち取るおつもりですか」
「戦場に出てくるからには、当然であろう。兵士にあらずとはいえ、彼らとて、戦《いくさ》で人死にが出るのはわかっているはずだ!」
「まことに仰《おっしゃ》る通りです」
軽く低頭《ていとう》し、ジョウは続ける。
「しかしそれをやると、戦いに勝利した後、この地を治めることは難しいですよ」
僅《わず》かに時を置き、初めてフォルニーアの顔に動揺が走った。
そこまで深く考えていなかったに違いない。
主君の考えをあえて補完するように、ジョウは指摘する。
「住人達のほとんどには、家族がいます。愛する家族を侵略者に奪われ、それでもなお、彼らが大人しく従うとお思いですか?」
フォルニーアの返事を待たず、きっぱりと首を振った。
「はっきり言って、有《あ》り得ないことです。戦うのが仕事の騎士が戦死するのとは、訳が違います。必ず暴動が起きるでしょう……それも何度も。住人達はあくまで抵抗するはず。あるいは従う振りをしつつ、密《ひそ》かに増悪を燃やし続けるでしょう……『今に見ていろ、侵略者共め!』と。――そんな国を治めるのは至難《しなん》の業《わざ》でしょうね」
フォルニーアはついに歩みを止めた。
同じく止まったジョウを見上げ、強張《こわば》った表情で言う。
「――それが、レインの狙いだったのか」
「いえ、本気で住人を巻き添《ぞ》えにする気はないかと。だからこそ、これはレインのサインだと思うのです。これまでの彼の策もまたしかり……全て同じメッセージを突き付けています。我らに、『泥沼化するのが嫌《いや》なら退《ひ》け!』と言いたいのですよ、彼は」
「だ、だが、それはかなり危険な賭けのはずっ。レインはともかく、ラルファスという男は高潔《こうけつ》な人物だと聞いたぞ。住人を危険に晒《さら》す、そんな賭けに乗るのか?」
ジョウはほのかに笑った。
レインがこれを聞いたら、怒るだろうなと思ったのだ。いや、案外なんとも思わないかもしれないが。
「ラルファスはもちろん、我らが『数の脅し』に屈せず撤退しなかったら、集まった義勇兵《ぎゆうへい》を解散するつもりでしょう。しかし、彼は自らの人望を自覚していません。自己を過小評価しすぎです」
「すると、集まった民衆達は解散しないと?」
フォルニーアが恐る恐る、といった感じで訊く。
「さよう、解散などしませんよ。死地へ赴《おもむ》くラルファスを心配し、また理不尽《りふじん》な侵略者に怒りを燃やし、あくまで進軍を続けるでしょう。……今度はラルファスの言葉によらず、自分達の意志によって。覚悟の決まった民衆は、同じ数の兵士に等しい戦いぶりを見せるやもしれません」
フォルニーアは沈黙した。
この勝ち気な主君にあるまじく、表情に迷いが生じている。
しばし押し黙った後、感嘆《かんたん》半分、忌々《いまいま》しさ半分といった口調で言う。
「……レインは、おまえがいま話したようなことを全て計算していたのか? ラルファスの読み違いも含め、全部?」
「そう、彼は全部読んでいたでしょうね、最初から」
そして――と、ジョウは言葉にはせずに思う。
レインはおそらく、この一件でフォルニーアを、いわばテストしている。
『果たして、手を結ぶに相応《ふさわ》しいかどうか』と。
一連のレインの行動を見て、ジョウはそこまで察することができた。
当初、こちらがサンクワールとの同盟を望んでいたように、向こうもまた、こちらと手を結ぶことを考えていたのだ。少なくとも、レインの心づもりではそうだったはず。そして今、あの男は自らの描いた筋書きに従い、ズレた現状を修正しようとしている。
ただしだ、もしフォルニーアがあくまで戦《いくさ》にこだわり、なおも勝利をもぎ取ろうとするなら、今度こそレインは本気で牙を剥《む》くだろう。
同盟を結ぶに相応《ふさわ》しい相手ではない!
そう判断するに違いない。
しかし、ジョウはフォルニーアにそこまでは言わず、ただ「どうやらレインは同盟を望んでいたのかもしれませんね」とだけ伝えた。
「同盟? 最初に会った時は、そんな様子はまるで見せなかったぞ」
「そういう食えない男なのですよ、彼は。あえてこのような策を立てることからも、それは明らかではありませんか」
ジョウは優雅に肩をすくめた。
ついでに付け加えるのなら、あの男はジョウが途中で策に気付き、フォルニーアを説得することをも読んでいるのだ。現に今、レインの期待通りにジョウは動いている……好むと好まざるとに関わらず。
心底、恐るべき男だと思う。
「この容赦《ようしゃ》のなさ……敵に回すと恐るべき男です。が、しかし」
フォルニーアの瞳をじっと覗《のぞ》き込む。
「お味方とすれば、あるいはこれほど頼もしい存在もないかもしれません」
どちらを選ぶだろうか、フォル様は。和を選ぶならよし。そうでなければ……今度は私が選ばねばならない。
主君に臣下《しんか》を選ぶ自由があるように、臣下《しんか》たる者もまた、主君を選ぶ自由がある。
この一件で、ジョウも態度を決めねばならないだろう。
「私は……」
かなり時間が経《た》ってから、フォルニーアは美貌《びぼう》に苦渋《くじゅう》を浮かべた。
「わがままかもしれないが、簡単に敗北を認めたくない。弱き隣国《りんこく》はかえってザーマインに餌《えさ》を与えるようなものだ――まだ、その判断が誤っていたとは思えないのだ」
「……わかりました」
ジョウは素直に首肯《しゅこう》し、
「まだ時間はあります。ギリギリまでフォル様の決断をお待ち――」
そこでジョウはいきなり言葉を切り、リディアの方角を見て唇を引き結んだ。
「……どうした?」
「リディア内部で、大勢のエクシード……つまり『気』が、めまぐるしい動きを見せています」
「私にもわかるように、もっとスパッと言ってくれ」
「失礼しました。では、言い直しましょう。どうやら王都に籠《こ》もる貴族達が、動き出したようです」
「――! 真《まこと》か、それはっ」
たちまち勝ち気な表情を取り戻し、フォルニーアはキッと顔を上げた。
「戦《いくさ》の準備をしている――そういうことか?」
「このエクシードの高揚《こうよう》ぶり。おそらく、間違いないでしょう」
「愚か者めっ。リディアの外壁とガルフォート城の外壁、その二重の障壁に守られて、大人しく縮こまっておればよいものを。身の程を知らぬヤツだ」
フォルニーアは唇を歪《ゆが》め、切れ長の瞳を爛々《らんらん》と輝かせた。
「レイン達ならともかく、サフィールごとき腑抜《ふぬ》けが私に牙を剥《む》くか! いいだろう、思い知らせてくれるぞっ」
ジョウはまぶしい思いで主君を見やる。
フォルニーアには、確かに欠点もある。しかし、その欠点を素直に認める度量《どりょう》も、持ち合わせている。――そのはずだ。
それに、なによりこの覇気《はき》と闘志《とうし》は、やはり来《きた》るべき戦いには欠かせない資質かもしれない。
早くも大股で歩き出したフォルニーアが、ジョウを振り返る。
「ジョウ! なにをしているっ。兵達に活《かつ》を入れ、戦闘準備をせねばならんのだぞっ」
「……はっ!」
ジョウは力強く頷《うなず》き、歩き始めた主君に続いた。
――☆――☆――☆――
ジョウが敵の動きを察知《さっち》する少し前。
その敵――ガルフォート城の新しい主《あるじ》サフィールは、謁見《えっけん》の間で主戦論をぶち上げていた。
自分の派閥《はばつ》にあたる貴族を多数集め、貧弱《ひんじゃく》な拳《こぶし》を振り上げて怒鳴《どな》ったのだ。
「我が王都の目前に、敵の軍勢《ぐんぜい》が陣を敷いて、もう幾日《いくにち》が過ぎたか! しかも、再三送った詰問《きつもん》の使者にも、返事すらしようとせぬっ。もはや私の忍耐は尽きたぞっ」
ぎらっと大広間を見渡す。
「こんな暴挙《ぼうきょ》を許しては、サンクワール王家は大陸中の物笑いにされようっ!」
『……ていうか、アンタは王家の直接の関係者じゃないだろが!』
などと、適切な突っ込みを入れる者こそいなかったが、さりとて全員が諸手《もろて》を上げて賛成したわけではない。
大多数が「そうだっ、その通り!」と息巻いていたが、心情的には反対の者もいたのである。
例えば、先頃サフィールに招聘《しょうへい》されたルディックとか。
今ルディックは、場が主戦論で埋め尽くされぬうちに、大急ぎで割り込んだ。
「陛下、お待ちをっ」
「むっ」
玉座《ぎょくざ》に座《ざ》すサフィールは、頬《ほお》に朱《しゅ》が差していた。興奮気味らしい。
水をさされて不快を感じたのか、ちょっと顎《あご》を引いてルディックを見た。
「おまえは反対か?」
いきなり結論を先に言う。
仕方なく、軽く首を振った。唇をなめつつ、なるべく主《あるじ》を刺激しない言い方を選んで話す。
「反対というわけでもないです。ただ、我らには王女一派という、当面の敵がいます。戦《いくさ》において、同時に複数の敵を相手にするのは良策とは言えませぬ」
「……では、どうせよと言うのだ?」
「彼らに飽きるまで戦わせればよろしい」
ルディックは、ここぞとばかりに強調した。
「戦いになれば、少なくとも双方無事には済みますまい。そして、どちらかが敗れて撤退した時にこそ、チャンスがあります。そこですかさず陛下が軍勢《ぐんぜい》を繰り出し、鉄槌《てっつい》を下せばよろしいのです。さすれば、労少なくして勝利が得られましょうぞ」
「ルディック、おまえは確かに戦巧者《いくさこうしゃ》ではあるだろう。しかし、この件に関しては間違っている」
せっかくの進言を、サフィールは一蹴《いっしゅう》してくれた。
いつになく玉座《ぎょくざ》で背筋を伸ばし、威儀《いぎ》を正す。
「なるほど、おまえの言う通りにすれば、私は勝てるかもしれない。しかし、今の私はこの国の主《あるじ》なのだ。主《あるじ》たる者が果たすべき責任も果たさず、侵略者に対してただ手をこまねいていられるものかっ。そんな主君に、国民や兵達がついてきてくれるわけがなかろう!」
『おおっ! さすがは陛下っ(広間の貴族連中の喚声《かんせい》)』
周囲の喚声《かんせい》など、どうでもいいが。
サフィールはいつもに似合わず、恐ろしくまっとうな発言をした。
この言い分には、ルディックも沈黙せざるを得ない。なぜなら、正《まさ》にサフィールの言う通りだからだ。いつも見当外れのことを主張するクセに、なぜこんな時に限って正論を持ち出すのか。
ルディックは唇を噛《か》み、恨《うら》めしい思いで主君を見やる。
だいたい、その言い分は正しいことは正しいが、それはあくまでも「それなりの実力を持つ王」が吐くべきセリフだと思うのだ。国内に、複数の勢力が群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》しつつある今の状態で、そんな綺麗事《きれいごと》を言ってほしくないと思う。
発言に、実がともなっていないではないか!
「ルディックよ。貴公はまさか、怖《お》じ気《け》づいたのではあるまいな?」
心中でぼやきまくるルディックに、誰かが生意気《なまいき》にも声をかけてきた。
どこの馬鹿だ? そう思って顔を向けると、シャダックとかいう名の男だった。よく覚えていないが、多分こいつは、エスターハート家の一員だったはず。
王女派に属するジェルヴェール家やエスターハート家、それにハルトゥール家の各一族中から、かなりの人数がサフィールの下《もと》に走っている。皆、王女を擁立《ようりつ》しようとする当主に、愛想を尽かした者達だ。
つまり、レイン達は別に、強固な一枚岩というわけではない。
改革派と目《もく》されるシェルファ王女が王権を握れば、自分達の基盤《きばん》が危うくなるので、無理はないのだが。それにしても、戦《いくさ》の基本も知らないヤツにとやかく言われる筋合いはないはず。
虫の居所が悪いルディックは、ぶすっと吐き捨てた。
「……私の役目は、少しでも戦《いくさ》を有利に進めることにある。蛮勇《ばんゆう》など、戦場では物の役に立たん」
「なにっ。貴公は私の勇気を、たかが蛮勇《ばんゆう》と――」
「あー、もうよい、シャダック。ルディックの反論は、部隊の指揮官としては無理もないしな。それからルディック。おまえも言いたいことはあろうが、ここは黙って私の方針に従ってくれ。いいな?」
……どういう顔をしたらいいやら、分からなかった。
意外にも、主君がかばってくれたのは間違いないので、ルディックは黙って頭を下げた。
(しかし……陛下はわかっているのだろうか。ジョウ・ランベルクが直接指揮する軍勢《ぐんぜい》は、未だ敗戦を記録したことがないというのに……)
我が軍は実戦経験こそ積んでいるものの、下級兵士の士気はお世辞にも高いとは言えず、各騎士隊長の質も良くない。なのに、常勝を誇るジョウと戦うのは、いささか手に余るのではないか。
ルディックはそう思うのである。
双方、戦《いくさ》準備に暮れた夜が明けた。
サフィール軍は、ガルフォート城の底を払うようにして進発した。要するに、最小限の留守居《るすい》だけを置き、持てる全ての兵力を引き出したのである。
資金は有《あ》り余るほどあるので、ここ最近ずっと徴募《ちょうぼ》していた新規の兵員も含め、数だけは一万三千ほどになった。
久方《ひさかた》ぶりに、閉ざされていた王都外壁の正面門を開き、続々と軍勢《ぐんぜい》が外にでる。
やや後退して、戦闘陣形を取っているシャンドリス軍を睨《にら》み、自分達ものろのろと陣形を組んでいく。ルディックはサフィールと後陣に陣取り、シャンドリス軍の動きを見張っていた。
が、敵はまだ動かない。
どうやら、またリディア内部に逃げ込まれたらかなわない――そう思っているのか、全軍が外に出るまでは、攻撃する気がないようである。騎士道の鑑《かがみ》のような、とは思うが……あるいは、単になめられているのかもしれない。
「うん?」
ふと、おかしな点に気付き、ルディックは眉をひそめた。
「どうした?」
すかさずサフィールが訊く。
「いえ……なにか、シャンドリス軍の兵数が、以前より減っているような」
「それは、もう知れたことだろう。レインめを滅するために軍勢《ぐんぜい》を割《さ》き、挙げ句、一敗地《いっぱいち》にまみれた……おまえがそう説明してくれたではないか」
「いえ、昨日よりさらに、ということです」
一応、反論する。
ただし、ルディックもシャンドリス軍の実数を正確に把握しているわけではない。物見《ものみ》が近寄れないので、遠望《えんぼう》した目測で判断していただけだ。
しかし……なにか昨日より減っている気はする。効果が望めそうになくても、もっと間諜《かんちょう》を放っておけばよかった……今になって後悔した。
「とにかくだ」
サフィールがまた口を挟んだ。
「見たところ、我が軍の方がやや兵数に勝るではないか。早速、攻撃を仕掛けようぞ!」
「……しばらくお待ちを。間もなく、陣形が整います」
そう言いつつも、ルディックの危惧《きぐ》は消えない。しかも、遠望《えんぼう》しただけでもわかる、敵の陣形の隙《すき》の無さはどうか。
鳥が翼を広げたような陣形をきちっと保ち、慌《あわ》てず、騒がず、微動だにしない。
コソリとも動かず、ひたすら静寂《せいじゃく》を保っている。
布陣《ふじん》を見ただけでも、大将軍ジョウ・ランベルクの名将ぶりが窺《うかが》えた。
それに引き替え、こちらは――
未だ、のろのろと矢陣(矢尻のような形の陣形)を組んでいる途中の自軍を見て、ルディックはうんざりした。これでは、勝つよりも負けないことに意を用いる方が良さそうだ。
「なにをしている! さっさと整列しないかっ」
ほとんどヤケ気味に、ルディックは指示を飛ばした。
結局、サフィール軍が陣形を整え終えるまで、シャンドリス軍は微動だにせず静まりかえっていた。
不気味な――
心底そう思ったルディックである。
許されるのなら、このままリディア内部に退却したい気分である。
しかし、彼の主人がやる気満々なので、そうもいかない。
「ルディック、準備が整ったなら、私が攻撃開始の号令を出してもいいかな?」
「……どうぞ」
「よしっ。ではっ――」
サフィールは大得意で胸を反《そ》らし、宝石だらけの装飾過多の剣を引き抜く。
ゴホンと咳払いなどしてから、馬上でその剣を天に向かって掲げた。
『かかれえーーーっ』
なんというか、鶏の首を絞めたような声音《こわね》で絶叫し、それを合図に弓隊が一斉に矢をつがえ、そしてやや上方に向けて放った。
蒼天の下、日が陰《かげ》るほどに無数の矢が飛び、そして豪雨のように敵陣に降り注《そそ》ぐ。計算された静物画を思わせる整った敵陣のあちこちで、一人また一人と兵卒《へいそつ》が倒れていく。
しかし、敵陣の変化といえば、それくらいである。
ろくに悲鳴を上げる者さえいなかった。代わりに前衛部隊が、ジョウの合図を受けて進軍を始める。仲間の死体を踏み越えて、ただ黙々と。
そして当然ながら、一拍遅れて向こうからもお返しの矢がどっと降ってきた。
双方から交差する矢の束で、天が隠れるかと思うほどである。
後陣のルディックのいる所までは、さすがになかなか矢も届かないが、それでもさほど遠くない場所でバタバタと兵が倒れていく。
敵軍のように静かに、とは行かない。断末魔の悲鳴がそこかしこに湧き起こり、倒れ伏す兵達から流れた鮮血《せんけつ》で、じわじわと草原が朱《しゅ》に染まる。数千の矢が風を切り裂く音が、死神のせせら笑いのように不気味に野に満ちていく。
事実、この瞬間にも両軍でじわじわと兵士達が矢を受け、倒れているのだ。
しかし、まだまだ序盤である。
ルディックは、意地悪い気分でそっと横を窺《うかが》った。サフィールはさぞかし怯《おび》えているだろうな、と思ったのである。なにしろ上将軍《じょうしょうぐん》でありながら、彼は滅多《めった》に前線に出た経験がないのだ。
……確かに、サフィールは怯《おび》えていた。
歯をカチカチ鳴らしているし、肩の辺りが震えているのがバレバレである。
が、そんな状態のクセに、キッと前方を見据《みす》え、剣を敵陣の方へ突きつけている。
大声で周囲に叱声《しっせい》を浴びせていた。
「ひるむなーーーっ。進めー、矢を射ながら進めーーーっ」
相変わらず、鶏を絞めたような声のままだが。そして、内心では怯《おび》え、無理しまくりなのも見え見えだが。それでもサフィールは、いつものように下がろうとはしなかった。噂では、こういう場合は即、遙《はる》か後陣に下がると聞いたのに。
ルディックは、ほんの少しだけ、自分の主人を見直した。
もしかすると国家転覆の危機に瀕《ひん》し、どこぞに雲隠れしていた『責任感』というヤツが、ついに表面に現れ出したのかもしれない。いささか遅い気もするが、まあ悪いことでもない。
ルディックは表情を引き締めて前方に視線を戻す。距離的に、そろそろいいかもしれない。現に、接近戦に移行することをいち早く察知《さっち》し、向こうの弓隊がさっと弓を下ろした。
応じるように、こちらも指示を出す。
「弓隊、攻撃|止《や》めっ」
命令を聞き、ざざっと弓隊が下がった。
そして、ルディックはサフィールに向かって一礼した。
「陛下、引き続き号令を」
「う、うむっ」
サフィールは金ぴかの鎧《よろい》を揺らし、何度も頷《うなず》く。言うべきことが分かってるかな? と心配になったが、ちゃんと叫んでくれた。
『よしっ。先陣、突撃せよーーーーっ!』
サフィールが剣を振り下ろしたのを合図に、サフィール軍は一斉に鬨《とき》の声を上げた。
土塊《どかい》を跳ね上げ、己を鼓舞《こぶ》する叱声《しっせい》を上げつつ、数千の騎士が突撃を開始する。
じっと動かず、ひたすら守りの体勢にあったシャンドリス軍も、初めて静から動へと変化を遂げた。陣の先頭で、騎士達が一斉に槍を構えたのだ。
誰が音頭《おんど》を取るでもなく、敵軍に対抗して激しい雄叫《おたけ》びが一斉に沸き起こる。
両軍の距離は瞬《またた》く間に埋まり、たちまちサフィール軍の先陣が、シャンドリスの陣地に激突した。
本格的な戦いが始まった。
大地を埋め尽す騎士達の鎧《よろい》が煌《きら》めき、交差する槍と槍が双方に新たな死者を生み出す。
例え致命傷《ちめいしょう》を受けずとも、これほど密集した戦場にあっては落馬しただけでもただでは済まない。よほど運が良くない限り、怪我《けが》人はあっという間に後続の馬に踏まれ、速《すみ》やかに死者の仲間入りをする。それも、親が見ても判別出来ないような無惨な死体に変えられてしまう。
仮に、仲間の落馬を間近に見ようとも、助けることなど出来ぬ相談である。特に、眼前で敵が歯をむき出し、槍や剣を振るう現状では。
自分の身を守り、そして少しでも多くの敵を屠《ほふ》ること――それだけが前線の騎士に出来ることだ。
折り重なる死骸の群れから噴き出る血で、大地が真紅《しんく》の色に染め上げられていく。
最初の突撃を支えかね、やや自軍が押され出すと、後陣のジョウがすかさず檄《げき》を飛ばした。
『皆、ひるむな! 我らが勝利は疑いないっ』
――この一声。
実に、ジョウのたった一声で、シャンドリス軍は奮《ふる》い立った。全員が「我らが勝利は疑いなしっ」と一斉に唱和《しょうわ》し、後退しかけていたのを止めて踏みとどまる。
各自、喚《おめ》きながら死を恐れずに突進し、楔《くさび》を打ち込むように浸食していたサフィール軍を跳ね返す。
当初の優勢に、かさにかかって攻撃していたサフィール軍の騎士達に馬ごと体当たりし、突破されかけた戦線を強引に押し戻す。
不敗の神将《しんしょう》、ジョウ・ランベルクへの絶対の信頼が、敗北の予感を打ち消し、勝利への確信を呼び寄せるのだ。
そしてジョウは、なんと自ら長槍《ながやり》を手にして、後陣から飛び出した。
大地を疾駆《しっく》する白馬、そして騎乗《きじょう》の白銀の鎧《よろい》を見て、サフィール側の騎士が慌《あわ》てて向き直る。
そこへ、一陣の風のようにジョウが単騎《たんき》突撃を果たす。
「ジョウ・ランベルク、見参《けんざん》! お相手するっ」
簡潔な名乗りとともに、長槍《ながやり》が一閃《いっせん》した。
槍の穂先《ほさき》が銀の軌跡《きせき》を引き、襲いかかろうとした敵の首筋に吸い込まれる。どっと血がしぶいた。驚愕《きょうがく》の表情を貼り付けたまま、相手の首が転がり落ちる。
すかさず槍が翻《ひるがえ》り、新たな獲物を求めて走った。
その攻撃は正確で、しかもまるで容赦《ようしゃ》がない。
突き、薙《な》ぎ払い、翻《ひるがえ》って斬《き》りつける。
ジョウの神技に等しい槍さばきに、あれよあれよという間に、サフィール側の騎士が数を減じていく。
まるで力を入れて無いように見えるのに、ジョウがしなやかな腕で槍を振るうと必ず誰かの手や首が飛び、あるいは胸を貫《つらぬ》かれ、落馬するのだ。
軽々と振り回しているのでそうは見えないが、ジョウはレイン同様、普通の数倍の重さがある特注の剛槍《ごうそう》を使っている。受けただけでも相手の腕が痺《しび》れるのは当然だった。ましてや、第二撃を受け止める余裕などどこにもない。
仮にまぐれで初手《しょて》を防げても、次の瞬間には鎧《よろい》ごと槍で貫《つらぬ》かれているのだった。
ひとしきり血飛沫《ちしぶき》が飛んで空を彩った後、無益な戦いを挑《いど》んでいたサフィール軍の騎士達はどっと退《ひ》いた。
お陰《かげ》で、ジョウの回りだけがぽっかりと空白になってしまう。
そして、尊敬する大将軍の戦いぶりを見たシャンドリス軍は、一兵卒《いっぺいそつ》に至るまで勇《ゆう》を奮《ふる》って力戦する……
一方、サフィール軍の本陣では、サフィールその人がついに怯《おび》えを顕《あら》わにしていた。
こういう時は敵も意外と苦しんでいるものなのだが、戦闘指揮の経験が少ない彼は、ちょっとでも自軍が不利になると、もう負けが見えたような気になるのだった。
「ルディック! 我が軍が崩れそうになっているぞっ」
早速、やかましく騒ぎ立てるサフィール。
「わかっています。どのみち、増援《ぞうえん》を出す頃合いですので」
ルディックは主人の泣き声を聞き流し、右手で指を二本立て、伝令に合図を出す。
やがて予備兵力の中からさらに二千の兵士が動き出し、敵陣に向かっていった。この部隊は最初から比較的|布陣《ふじん》の薄い、敵の左翼を突くように言い含んである。
サフィール軍の正面突破だけを――すなわち前面の敵だけを警戒するシャンドリス軍を、時間差を付けて側面から切り崩そうというわけだ。
ルディックの考えでは、次に右翼にも増援《ぞうえん》を送り出して敵の動揺を誘うつもりでいる。
兵力の差を、この際は十分に活かさねばならない。
しかし……どうも妙だ。
ルディックは首を傾《かし》げずにはいられない。さっきから見ていると、シャンドリス軍は死力を尽くして戦っているように見える。
いや、戦いだから普通はそれが当たり前なのだが、この場合、それはおかしい。
なぜなら、にわか仕立てのサフィール軍など、常勝のジョウから見れば弱敵以下に過ぎないはずだからだ。
そもそも苦戦するのがおかしい!
そう思うからこそ、ルディックはリディアの城壁から付かず離れず、戦線を展開しているのだ。もちろん、いざという時にすぐさま逃げ込むためである。消極的な戦法なのは認めるが、それが正解だろうと。
罠か……? その可能性も疑ったものの、敵の戦いぶりがあまりに必死なので、結論を出せずにいた。しかも思案にくれるうち、シャンドリス軍は攻勢から一転して、徐々に崩れ始めた。
こちらが送り出した増援《ぞうえん》のお陰《かげ》で、人数分だけ不利になったせいだ。ルディックの狙い通り、敵の左翼が崩れ、そこから全軍に動揺が広がっていくのが見えた。
それは、初めから疑いの目で見ている彼の目で見てさえ、ごく自然な敗走ぶりだった。最前線で奮戦《ふんせん》していたジョウが後ろへ下がると同時に、死戦していた敵軍騎士達がジリジリと押され出す。
かっちりと美しく整っていた陣形がついに壊れ、後陣より兵達の敗走が始まった。
そしてある瞬間を境に、勇猛で知られるシャンドリス軍の面々が、次々と背中を見せた。全軍の瓦解《がかい》が始まったのだ。
サフィールが馬上で槍を振り回した。
「よし、今こそ完全勝利のっ」
同時に、ルディックも伝令に向かって喚《わめ》く。
「退《ひ》き笛だっ、退《ひ》き笛を吹けっ。軍の前進を止め、深追いを中止させるのだ! 急げっ」
「ばっ、馬鹿なっ! なにを言う、ルディック。我が軍は勝っているっ。勝っているではないか!」
「用心のためです。確かに、私の目にもごく自然な敗走に見えますが――」
「ならば、なぜ追撃しないっ」
返事より先に、ルディックは血走った目で主君を見つめた。
たじろぐサフィールに、静かに言う。
「強《し》いて言えば、勘です。それに、ここで追い返しただけでも、陛下の目的は成就《じょうじゅ》されたはず」
「……あいにくだがルディック。おまえの勘が正しいとしても、どのみちもう遅い。見ろ、先陣は既《すで》に追撃に移ってる」
「――ちっ」
サフィールの指摘した通りだった。
退《ひ》き笛が鳴ったにもかかわらず、今や味方は完全に追撃態勢に入っている。先陣はもちろんのこと、その他の部隊も続々《ぞくぞく》と回りの動きに追従《ついじゅう》している。遙《はる》か前方で、部下を引き連れたシャダックが、張り切って疾走《しっそう》して行くのが見えた。
彼に限らず、元が傲慢《ごうまん》な貴族のこと。成り上がり将軍のルディックの指示など、まともに聞く気もないのだろう。ここへ来て、ついにサフィール軍の弱点が露呈《ろてい》されたわけだ。
いや、まだ敵の策だと決まったわけではないが。
そう、レイン達との戦《いくさ》で、当初の兵力を大きく割り込んだシャンドリス軍である。
あるいは、ただ単に兵力に勝るこちらが順当に勝利を収めた結果かもしれない。
追う方が正解かもしれないのだ。
「仕方ない。本陣も少しずつ前進だ」
首を振り、ルディックは嫌々《いやいや》命令を訂正した。いずれの結果が待っていようと、味方を見捨てるわけにはいかない。
今は賭けるしかない……
ルディックは、努めて前向きに考えることにした。
しかし、やはりルディックの勘は誤っていなかった。
ジョウを甘く見なかったのは、正解だったのである。ただ彼の不幸は、雑軍に等しい混成軍を指揮していたことと、敵の敗走があまりにも巧《たく》みだったことかもしれない。
そもそも、自分の目の前で崩れ、逃げ散っていく敵兵を「追うな」と命《めい》じるのは無理がある。戦《いくさ》に出るからには功名《こうみょう》を立て、少しでも恩賞に与《あずか》るのが、兵や騎士達の当然の願いだからだ。
さらに、命令を受ける側が軍律を軽視する貴族達だったことも、彼に災いした。
結果として――この時|既《すで》に、勝利の天秤《てんびん》はシャンドリス軍の方に傾いてしまった。
……勝機を逸《いっ》したのだ。
『後方より敵兵!』
悲鳴のような兵の声が飛んだ時、ルディックは思わず額《ひたい》に手をやった。
やられた!
そう思ったのだ。
案の定、振り返れば砂埃《すなぼこり》を巻き上げながら、敵の一部隊が後方から接近してくる。
「くそっ! 誘《さそ》い伏《ぶ》せだっ」
ルディックは鞍《くら》を拳《こぶし》で殴った。
――やはり、自分の勘は正しかったのだと、どっと後悔する。いや、どのみち命令を無視されたのだから、勘に従っても同じだったが。
「さ、誘《さそ》い伏《ぶ》せ? なんだそれはっ」
サフィールがおどおどと尋ねてきた。
上将軍《じょうしょうぐん》だった癖に、そんな基本的な戦術も知らないのか……。今更ながら情けなく思った。
「誘《さそ》い伏《ぶ》せとは、敵の前でわざと敗走し、相手を自分達の伏兵を配置した場所まで誘導して一挙に殲滅《せんめつ》する戦法です。今の場合、伏兵は背後から戦場を迂回して来たので普通の誘《さそ》い伏《ぶ》せとは違いますが、目的は同じことです。すなわち、敵の油断を誘《さそ》い、一転して攻勢に出るのが狙い」
――従って、先程まで敗走していた敵軍が、今度は逆襲に転じるでしょう。
と説明が終わる頃には、もうルディックの言う通りになっていた。
これまで逃げの一手だったシャンドリスの部隊が、伏兵の出現とともにどっと逆襲してきた。
今まで逃げていた恨《うら》みを晴らすかのように、槍で突き、剣で薙《な》ぎ払う。
一方、サフィール軍は目に見えて動揺していた。さっきまで善戦していたのが嘘のように、他愛なく背を向け、敗走に移っていく。
伏兵の存在のせいもあるが、なによりもリディアへ帰還する道を塞《ふさ》がれたのが大きな原因だろう。
下手をすると本拠地へ帰れなくなる……その事実が恐怖を倍加させるのだ。
「くっ……。敵の背中を見れば追わずにはいられないのが当然とはいえ、こうもあっさりひっかかるとは。……情けないことだ」
「今はそんなことを申している場合ではないぞっ」
サフィールの声には、早くもパニックの兆《きざ》しがあった。兵より先に、将がうろたえているのだから世話はない。
「な、なんとかならんのかっ」
「――やってみます」
ルディックは頷《うなず》き、急いで大声を張り上げた。
『怯《ひる》むなっ。背後に出現した敵兵は少数だっ。布陣《ふじん》は薄いぞっ。一直線に突き破り、リディアへ帰還するのだっ』
そう、それ以外に道はないことを、歴戦のルディックは承知している。敵の挟撃《きょうげき》を許し、全軍が浮き足立った時点で、もうそれしかない。
しかしそれは、「誘《さそ》い伏《ぶ》せ」を仕掛けたジョウ自身もまた、十分承知していることなのだ。
シャンドリス軍の動きが微妙に変化した。
短い笛の音が鳴り響くとともに、逆襲に転じていた軍勢《ぐんぜい》が単純な一方向からの攻勢を止《や》め、サフィール軍と併走《へいそう》するように動き出す。
陣形が左右に細長く延び、サフィール軍の後ろにいる友軍と合流するかのように、騎馬の群れがひた走る。
攻撃の対象を変えようとするこちらと、同じ方向に軍勢《ぐんぜい》が移動していく。
無論、合流してサフィール達の背後を完全に遮断《しゃだん》するのが狙いだろう。退却路を塞《ふさ》ぎ、リディアへの帰還を不可能にしようというのだ。
挟撃《きょうげき》から、合流へ――急激な戦術の転換である。
それを素早《すばや》く悟ったルディックは、なおも矢継《やつ》ぎ早《ばや》に指示を飛ばし、敵の陣を崩そうとしたものの――
あいにく味方の動揺が激しく、思うに任せなかった。
彼の命令を全軍が遵守《じゅんしゅ》しないせいもある。
「駄目《だめ》だっ」
しばらくして、ルディックは小声で呟《つぶや》いた。もはや、勝負を投げたのだ。
この上はリディアを放棄《ほうき》するしかない。王都への帰還にこだわれば、全滅するしかないだろう。
「陛下っ。このままグレート・アーク(サフィールの居城)へ落ち延びましょう! それしかありませんっ。幸い、そちらの方角に敵兵は出現していません。今なら逃げられますっ」
「ならんっ!」
驚いたことに、間髪《かんはつ》をいれず、却下《きゃっか》された。一も二もなく頷《うなず》くと思ったので、ルディックは意表を突かれ、黙り込んでしまう。
サフィールが興奮した調子で語る。
「私はこの国の主人だ。自分が守るべき王都を捨てて、逃げたりできるものかっ。そんな真似《まね》をしたら、私は二度と民《たみ》の前に顔を出せなくなるっ」
失礼な話だが、一瞬、サフィールが正気を失ったのかとルディックは思った。
あまりにも、これまでの彼らしくない言いようだからだ。どこまでその覚悟が本気かは別として。
「……陛下の仰《おっしゃ》りようは正しいですが。しかし現に今、我が軍は崩壊しかけているのです。私の力不足で申し訳ないですが、遺憾《いかん》ながらこれ以上は戦線を維持できません」
正直にそう言うと、サフィールはたちまち怒りを収めた。
馬上で俯《うつむ》き、小さな声で答える。
「……いや。おまえの忠告を聞かなかった私の責任だ」
『そこにいやがったかーーっ』
悠長《ゆうちょう》に会話などしている場合ではなかった。
ついに、先陣以下の軍勢《ぐんぜい》を突破し、シャンドリス軍の先鋒《せんぽう》がこちらの本陣まで攻め寄せてきたのだ。その先頭には、まだ二十代とおぼしき若い将軍が、槍を振りかざして当たるを幸い、サフィール軍を薙《な》ぎ倒している。
ルディック達を見て、くわっと目を見開いた。
「心配事が重なって、俺ぁこの前からイライラしまくりだからなっ。とっちめてやるから覚悟しやがれっ」
おまえのイライラなんか知るかっ。
ルディックとしては、そう言ってやりたい気分だった。
とにかく今は――
「陛下っ。戦《いくさ》はこれでお終《しま》いではありませんっ。最終的に勝利を掴《つか》めぼよろしいのです! さあっ、グレート・アークへっ」
「し、しかしっ」
『よっしゃー、抜けたぜ! 死ねよ、サフィール某《なにがし》っ!』
思ったより時間がなかったようである。
さっきの若者が、ついにサフィールの前に躍り込んで来たのだ。
長槍《ながやり》が、宝飾過剰の鎧《よろい》を貫《つらぬ》こうと一気に伸びる。サフィールはただ呆然《ぼうぜん》と馬上で固まっているだけである。
ルディックはとっさに横から槍を突き出し、敵のそれを跳ね上げた。
「図に乗るなっ、小僧!」
「おおっ。――やるな、おっさん!」
若者はぎらぎらと目を輝かした。
恐ろしく好戦的な性格らしい。
「俺も、よわっちいヤツよりは骨のあるヤツの方がいいっ」
くるっと馬の向きを変え、ルディックと正対する。
「俺の名はザルツ! さあ、堂々と――」
だがそこで、再び状況が変化した。
サフィール同様、呆然《ぼうぜん》としていたルディックの直属の部下達が、どっとザルツの前に壁を作ったのだ。
彼らこそ、昔からのルディックの部下であり、仲間だった。サフィールのために死ぬのは御免《ごめん》だが、この人のためなら……そんな決意を持ち、行動を起こしたのだった。
「あ、こらっ。きたねーぞ、おいっ」
ザルツが喚《わめ》く。
「将軍っ。お逃げください! ここは我々が防ぎますっ」
ルディックは一瞬、迷った。
ここで昔からの部下達と一緒に、自分も死ぬべきか……。彼らとは、幾多《いくた》の戦場で常に生死を共にしてきたのだから。ここで一緒に死ぬことこそが、俺の取る道ではないのか?
しかし、自分の横で震えているサフィールを見て決断した。
いや、俺にはまだやることがある。
どうせ近々|冥界《めいかい》へ旅立つとしても、今はまだ駄目《だめ》だっ。
「みんな、すまんっ」
一言、たった一言だけを残し、ルディックは身を翻《ひるがえ》した。サフィールの馬の尻を鞭で叩き、無理に追いやる。そして、自らも馬を駆《か》って主《あるじ》を追う。
たてがみに上半身を伏せながら、声を限りに叫んだ。
「グレート・アークだっ。グレート・アークに逃れよっ。皆、そこを目指せーーっ!」
声の届く範囲にいた兵の、ごくごく一部だけがその指示に従った。ほとんどの者は、てんで散り散りに逃げていた。
この瞬間、貴族達はともかく、一般の兵士達の多くはサフィールを見限ったのである。
ジョウは次々に戦場を離脱していくサフィール軍を遠望《えんぼう》し、一つ頷《うなず》いた。
馬の轡《くつわ》を並べ、同じく目を細めているフォルニーアに一礼する。
「勝敗は決しました、フォル様」
「うん、ご苦労」
主君は晴れやかな笑顔を返した。
「相変わらず、見事な指揮ぶりであった。貴族軍など、おまえの敵ではないな」
「いえ……。今回は、敵の兵の質が悪すぎました。それに助けられた面もあります」
ジョウの本心である。
というのも、敵の指揮官の下す指示を見ていると、常に正しい判断をしていた。
退《ひ》くべき所ではちゃんと退却を命《めい》じていたし、所々大声で下していた命令も、全て正確で正しい。
サフィール自身はともかく、直接指揮に当たっていたルディックとかいう将軍は、一流の将帥《しょうすい》だったのだ。
ただ、不幸にもその指揮する兵が、彼に応《こた》えられなかっただけで。
ジョウはその弱点を突いただけである。
そう説明したが、フォルニーアは首を振った。
「そこまで見破り、それに応じた策を仕掛けたのはおまえの功績だ、ジョウ。『誘《さそ》い伏《ぶ》せ』は確かに破りにくい戦法ではあるが、それだけに、実行するにはそれなりの力量がいる。謙遜《けんそん》することはないぞ」
「……ありがとうございます」
我《が》を張らず、ジョウは素直に礼を述べた。そして、さりげなく話を変える。
「それで、どうします?」
「――サフィール軍のことか」
「はい。追撃しますか?」
「いや、もういい。勝負はついたのだ。これ以上は無用の戦いだ」
フォルニーアはきっぱりと否定した。
内心で、ジョウは少々ほっとした。
追うと言ったら、止めるつもりだったからだ。
しかし、まだ危惧《きぐ》は残っている。
急いで退《ひ》き笛の合図を出してから、その点を訊いてみた。
「……では、リディアはどうしますか。今なら残留の兵は数百足らず。落としやすい状況ではありますが――」
ゆっくりとためらいがちに言うと、フォルニーアはジョウをちらっと見やり、妖艶《ようえん》な笑みを見せた。なぜか白い手を伸ばし、ジョウの頬《ほお》を撫《な》でる。
「フォル様?」
「ふふふ……おまえの言いたいことが読める気がするぞ」
「……は?」
「とぼけるな。私が『よし、占領しよう』と言ったら、止めるつもりだったであろう?」
ジョウが沈黙するのを見て、フォルニーアは「ほら見ろ、当たった」とまた笑った。
「安心するがよい、少々気が変わった。私はこのまま、レイン達の到着を待つことにする」
「――さようですか」
ほっとした声で頷《うなず》くと、
「こらこら、まだどうするか決めたわけではないぞ」
いきなり釘を刺された。
「ところでな、ジョウ」
手を引っ込め、突如《とつじょ》として真面目《まじめ》な顔になった。
「私もおまえに訊きたいことがあるのだが……。この前、ラルファスの動きを伝える伝令と接した時のことを覚えているか?」
「はい、彼の兵力が八千ないし九千だ、という報告を聞いた時ですね。――それがなにか」
「あの時、おまえはラルファスのことを『ラルファス・ジュリアード・ジェルヴェール』と呼んだのだが……これも覚えているかな」
今度、まじまじとフォルニーアを見返すのは、ジョウの番だった。
フォルニーアは悪戯《いたずら》っぽく続ける。
「彼を、その真《まこと》の名前で呼ぶ者は少ないそうな。なぜなら、今は『ラルファス・ジュリアード・サンクワール』という名の方が定着しているからな。なんといっても、国の名を冠《かん》したそちらの方が遙《はる》かに有名でもあるしな。なのになぜおまえは、あえて『ジェルヴェール』という姓を出したか……」
にやりと笑い、自分で答えを出す。
「私が思うに、だ。多分、つい出してしまったのではないかな? その気はなくてもつい、な。思い入れの差というヤツだ」
ジョウの顔をじぃ〜っと見つめ、フォルニーアは徐々に人の悪い笑みを浮かべた。
「ふむ、鎌《かま》かけが当たったな。市井《しせい》の噂は、タダの噂にあらず……か。水くさいぞ、ジョウ。教えてくれれば良かったのだ」
「……いえ。所詮《しょせん》、私事《わたくしごと》ですから。戦《いくさ》に私情を持ち込む気はありません」
言いつつ、ジョウは釣られて笑った。
「お人が悪いですよ、フォル様」
「ふふん。私には隠し事をするなと言ったのに、黙っているからだ。次からは、訊かれなくてもなんでも話すのだぞ」
説教されてしまった。
ジョウは小声で了承し、優しい目つきでフォルニーアを見返す。
やはり、この人は自分が仕えるべきお方だ……そんなことを思いながら。
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[#挿絵(img/04_131.jpg)入る]
第三章 試された信頼
軍勢《ぐんぜい》を引き連れたレインは、素晴らしい行軍《こうぐん》スピードで、ラルファスと会合を果たすべく北上していた。
その速さたるや、普通の行軍《こうぐん》速度の二〜三倍はあり、多分まとまった軍勢《ぐんぜい》が移動する速度としては、大陸史上でも前例がなかっただろう。新記録を樹立《じゅりつ》していたのは間違いない。
なぜそんなことが可能だったのか?
種明かしは馬鹿らしいほど簡単で、行軍《こうぐん》に絶対に必要な物資を、ほとんど持っていかなかったためだ。身軽になったせいで、自然と速度が上がったのである。
軍勢《ぐんぜい》の移動速度がトロいのはなぜか?
これは補給物資、中でも糧食《りょうしょく》の運搬によるところが大きい。延々と続く荷駄《にだ》を引きずっていかねばならぬため、軍勢《ぐんぜい》の規模が大きくなるにつれ、どうしても行軍《こうぐん》速度は落ちる。しかしレインは、この問題をあっさり解決した。
――実にこの男らしい方法で。
すなわち、数日分の糧食《りょうしょく》を各自に所持させたのみで、いきなり軍を進発させたのである。
早い話が、糧食《りょうしょく》の荷駄《にだ》は無し。行軍《こうぐん》速度が上がるはずである。
当然ながら副官達は危惧《きぐ》を訴えたが、レインは力強く宣言した。
『メシはラルファスにたかる! だから、これでいいんだっ』
皆のあきれ顔を見て、さすがに気が引けたのか、ちょっと説明も付け加えた。
「今は、スピードがなにより大事なんだ。わかるか?」
結局、シェルファ以外、誰も納得しなかったが――
とにかく、その狙いは図に当たり、今に至る。現在の位置は、おおよそだがラルファス軍まで騎行一日あまりの場所。
どうやら間に合いそうだった。
無数の星が瞬《またた》く夜……
レインが指揮する軍勢《ぐんぜい》は、合流前の最後の野営《やえい》に入っていた。
レインが部下達への指示を終え、自分用の指揮所(と言っても、ただのテントだが)に入ると同時に、もう習慣のように彼女が幌《ほろ》をくぐってついてきた。
もちろん、シェルファのことだ。
彼女は君主らしく、ちゃんと野営《やえい》地に自分専用の大テントを用意してもらえる身分である。
その中には立派な寝具《しんぐ》やお付きの侍女《じじょ》はおろか、風呂桶《ふろおけ》まで完備(と言っても、ただのでかい桶《おけ》だが)されていて、湯を溜《た》めて体を拭き清めることだって出来たりする。
しかし彼女がそこで休むことは、まずほとんどなかった。なぜかというと、シェルファは休憩時間を含む空いた時間は、ず〜っとレインのそばにいたからだ。
携帯用の丸椅子に腰掛けるレインの隣に座り、何がそんなに楽しいのかニコニコして、その横顔などをじぃ〜っと眺めている。
いつも通り、もうこの時間になるといい加減疲れが顔に出ているが、本人はレインが休むまで一緒にがんばるつもりらしい。
ただいつもと違うのは、今日はなぜか、頻繁《ひんぱん》に腰の辺り――もっとはっきりいえば、そのもう少し下辺りをさすったりしていることか。
それに気付き、レインは微笑《びしょう》とともに指摘した。
「ああ、わかるぞ。尻が痛いんだろう?」
「は、はい」
お年頃の少女らしく、シェルファは恥ずかしそうに俯《うつむ》いた。
「いや、別に恥じゃないぞ。遙《はる》か昔、俺にも覚えがある。長時間馬に乗ることに慣れてないと、てきめんに尻が痛むんだよなあ。なんていうかこう、ジンジンするっていうか」
あ、でも――とそこで思い出した。
「おまえ、前にうちの城まで一人で来たことがあったよな」
「あの時は……夢中でしたから。多分、二度と同じことは出来ないと思います」
「――そっか」
手で頭をぽんぽん叩いてやると、シェルファは嬉しそうに身じろぎした――が、そこでまた痛みが走ったのか、美貌《びぼう》をちょっとしかめる。
レインは「そんなに痛むなら、問題の部分をマッサージでもしてやろうか」などと、軽くジョークを飛ばしかけたが――
怖い返事が返ってきそうなので、やっぱりやめた。この子には、その手の冗談は冗談にならない。
「あの、ジョウ様はレインのメッセージに気付いていると思いますか?」
そう言えば、という顔でシェルファが訊く。
「ジョウ様? ああ、ジョウ・ランベルクのことか。そりゃ気付いてるだろ。他のヤツはともかく、いくらなんでもあいつはもう悟ってるさ。問題は、悟ってどう出るかってことだ」
「戦いに……なるんでしょうか」
「フォルニーア次第だろう。あるいは、どこまでジョウが彼女を抑えられるかにかかってるかもな」
他人事のように説明しながら、レインはふとあらぬ方向を見る。
そちらにはテントの幌《ほろ》しかないのだが、その厚い布を通り越して、もっとずっと遠くを見るような目つきをしていた。
ややあって、唇の片方を皮肉っぽく吊り上げ、ふてぶてしく笑う。
「……ふん」
「レイン?」
「え? ああ、なんでもない……」
首を振り、素早《すばや》く話を変えてしまう。
「それよりな。前から言おうと思ってたんだが――。もし首尾よく王の座を射止めたら、ラルファスだけは大事にしてやれよ。あいつの言うことはいつも絶対に正しい。ヤツの意見に耳を傾けている限り、まず間違いないからな」
あいにくシェルファは、全然ごまかされなかった。
じっとレインの顔を覗《のぞ》き込み、真剣な口調で言う。
「なぜ今、そのようなお話を? ラルファス様がとても有能な人だというのは、わたくしも存じ上げています。でも、今のレインの言いようは、まるで自分がいなくなった後のことを心配しているみたいですわ」
レインはなにも答えなかった。ただ黒瞳《くろめ》を見開き、シェルファを見返す。
それが、かえって不安を与えたのだろう。
シェルファは唐突《とうとつ》にじわっと涙ぐんだ。
「このところ……行軍《こうぐん》中、いえ、お城でもレインは、時折遠くの方を見るような目つきをしています。もしかすると、誰かがレインを狙っているのでしょうか?」
うっ――と胸を突かれた気がするレインである。
この子は、俺に関することには妙に鋭《するど》いよな、とつくづく思う。
なんかごまかせる雰囲気でもないので、肩をすくめて肯定《こうてい》する。
「まぁな。――ああ、そんな顔しなくていい。どうってことはない、本当だ。別に『今度こそヤバイ』とか思ってるわけじゃない。ただ、とりあえず注意しといただけだ。有能な知将ってのは、常に先のことを考える癖があるのさ」
最後は冗談めかして言う。
言葉の真実を見極めるように、シェルファが潤《うる》んだ真っ青な瞳でレインを見つめる。目を逸《そ》らさずに受けとめてやると、やっと納得してくれた。
「信じていいんですね」
「無論だ。俺は不死身さ」
「……はい。あの、それから――」
「うん?」
「レインがいなくなってしまったら、わたくしもこの世から消えると思います。だから、お気遣《きづか》いは無用ですよ」
「こらこらっ。笑顔でそういうこと言うなよ」
無責任だぞ、とまでは言わない。
どのみちシェルファは、父親に無視され、王権などには無縁に育ったのである。最終的にどうする気だったのかは知らないが、先王が彼女を正式な後継者として擁立《ようりつ》していなかったのは確かなのだ。
今のこの状態だって、結果としてこうなってしまっただけで、この子が望んだせいではないのである。勝手にも無理矢理責任を押しつけているのは、こちらの方である。
ただレインとしては、これまで不運だった分を取り返し、ぜひともこの子には幸せになってほしいと思う。ずっと元気で、長生きしてほしいと思う。
こっぱずかしいので、そんなことを口にはしないけれど。
シェルファが切実な声音《こわね》で言った。
「ごめんなさい。……でも、やっぱりわたくしには受け入れられないことです。だからどうか――」
どうか、そんな悲しいお話をなさらないで。
了承代わりに、手触りのよい金髪をかき混ぜてやる。
困ったもんだと思う。
まさかとは思うが、この子は俺がいなくなったら本気で死ぬ気――あるいはそれは思いとどまったとしても、心の方が死んでしまうかもしれない……そんな心配がある。
夢にも思わなかったことではあるが、どうやらこの子の想いは真剣らしい。物好きにも、俺なんかを慕っているらしい。
ずっと、自分の生死にまるで関心のなかったレインだが、そうもいかなくなってきたのかもしれなかった。
その時、また例のセリフが頭に浮かんだ。
『覚えておくがいい。あんたは将来、運命の選択をせねばならない時が来る。必ずだ。一方は安易で平穏な道。そしてもう一方は――』
――もう一方は、死に至る道だ。
さらにはこう付け加えた。
『ワシには、はっきりと見える。
あんたは強い。そう、とてつもなく強い。しかも、これからまだまだ強くなっていくだろう。かつて誰も到達し得なかったレベルにまで、己の技量を高めるかもしれぬ。
だが選択を誤り、そちらの道を進めば――その強いあんたですら生を全うできまい。
ワシの言葉をよく覚えておきなされ。その時が来たら、くれぐれも選択を誤らんように……』
あの路傍《ろぼう》の予言者はそう宣告したのだ……
レインは思う。それがどうしたというんだ? 死ぬかもしれないからなんだっていうんだ?
平穏無事な人生など、俺は望んじゃいない。死に至る道? 上等じゃないか。人間、どのみちいつかは死ぬ。ドラゴンスレイヤーの俺ですら、その運命からは逃れられない。
そちらが、強敵に出会う血塗られた道だと言うなら、なおさら俺はそっちが望みだ。
守るべき人を守りきれなかったこの俺に、安穏《あんのん》な生など無用なんだ。
あの時はそう言ってやったし、今だって気持ちは同じなのだが――
「レイン?」
「ああ……。悪い。ちょっと昔のことを思い出していた」
言い訳すると、シェルファはまたレインをじっと見つめ、
「レインがそばにいてくださる限り、わたくしはどんなに辛い道でも平気です。どんなことにだって耐えられます。でも――」
小さく吐息《といき》をつく。
「わたくし、レイン達に負担ばかりかけている気がします。もっと勉強して、戦いのこととかも覚えないといけない……そう思います」
「君主の役割の最《さい》たるものは、まず国民の生活を案ずることだからなあ。そこまで気にすることはないと思うぞ。戦《いくさ》方面についちゃ、そのために俺達がいるんだから」
これ幸いとばかり、レインはささっと話を変えた。
暗い話は好みじゃないのだ。
それと、この子には結構、名君主の資質があると思っているのも事実だ。
有能な部下(レイン達のことである!)に嫉妬《しっと》せず、さらには国民のために善政を行おうと努力する気がある――この二点だけでも、名君主の資格に十分である。
足りない能力は、臣下《しんか》達が補えばいい。
そのために自分達がいるのだから。
「では、戦《いくさ》のことはおいておくとしても……長時間馬に乗ったくらいでその……疲れるようではあまりに情けないですし、体を鍛えないと」
「そうだな、体を鍛えるのは悪いことでもない。……腕立て伏せとか出来るか、おまえ?」
「腕立て伏せってなんですか?」
「し、知らないか? こうしてだな――」
実践《じっせん》して見せてやった。
たまにはこういうのもいい。
「試しにやってみろ」
「はいっ」
張り切って返事をするシェルファ。
すっかり元気を取り戻してくれたらしい。
肝心《かんじん》の腕立ての方はどんなものかと思ったが、大方《おおかた》の予想通り、シェルファは悲しいまでに非力だった。
見よう見まねで腕を下ろすところまではやったが、体を持ち上げることが出来ずに、ぺちっとひしゃげてしまった。
「ははは……無理しなくていい。出来ないなら出来ないで。まあ、君主に腕力なんか必要ないしな」
「腕が痛くなりました」
ちょびっと悲しそうに言って、レインを見る。
「レインは何回くらい出来るのですか?」
「俺か? ふっ……多分、一日中やってられるんじゃないか」
シェルファが瞳を大きく見開く。
いかにも凄《すご》いですねえといわんばかりの表情に、レインは気分を良くした。
「腕立てなんかじゃなくて、これでもオッケーだぞ、俺は」
言いつつ、わざわざ指立て伏せを実践《じっせん》して見せてやる。最初は五本の指で、そこから一本ずつ数を減らし、ついには左右の人差し指だけを使い、ガシガシ指立て伏せ。正直、こんなの軽いのである。
にやっとして様子を窺《うかが》うと、シェルファは可憐《かれん》な唇を半開きにして、それこそ夢中で見入っていた。見とれていたと言っていい。
普通、そこまであからさまに尊敬心を顔に出すか、おい?
そう思うほどの表情だった。まさに、英雄を見るような目つきである。
レインは、先程のシェルファの涙や危惧《きぐ》心などその記憶から吹き飛ばしてやろうと思い、さらに張り切った。
「はっは! いいか、もっと凄《すご》いのを見せてやる。俺がガキの頃なんかおまえ、軽業師《かるわざし》のレインと呼ばれていたしな」
宣言し、指立て伏せの状態からすたっと倒立《とうりつ》(つまり逆立ち)。しかも、指だけを使って、だ。
そこからまた右手より一本ずつ地面につけた指を減らし、ついには片手を地面から離す。微妙なバランスを保ったまま、揺らぐことなく片方の手、その五本の指だけで倒立《とうりつ》の姿勢《しせい》を保つ。その状態からさらに、残った片手の指をも地面から離していく。
最後に人差し指一本で倒立《とうりつ》を果たし、その姿勢《しせい》のままで自慢たらしく笑ってやった。
「どうだ? 言っておくが、かなりの筋力と完璧なバランス感覚がなけりゃ、この『指一本|倒立《とうりつ》』は不可能なんだぞ」
シェルファはなにも言わず、行動で示した。
頬《ほお》を真っ赤にして、小さな手で力の限り拍手したのだ。興奮しきった表情を見れば、それがお愛想でないことは一目|瞭然《りょうぜん》だった。
「よ〜し。まだまだ続きがあるぞ〜。次はおまえ、空中四回転半の妙技を――」
『将軍っ、大変です!』
いきなりレニが飛び込んできた。
感覚をバランス取りに集中させていたので、さすがのレインも気付かなかった。
それでも、なに食わぬ顔ですたっと立ち上がり、振り返る。
「どうかしたか」
「……え〜っと」
レニはどういう顔をしたものだろうか、という気まずそうな様子で視線を泳がせ、しばらくしてからやっぱり訊いてきた。
「あの――。なにやってたんです?」
「……ただの余興《よきょう》だ。姫様のお言葉でな。今晩から副官以上の側近は、姫様の前で一人一芸を見せることになった。明日はおまえの番だ」
「ええっ。ほ、ホントですか! 自分はそういうの苦手なんですがっ。歌も踊りも今ひとつで――」
「嘘だ、馬鹿! 本気にすんなよ。いいから報告しろ。なんなんだ、一体」
思いっきり肩を落とすレニ。
それでも、恨《うら》みがましい目つきでボソボソと報告した。
全部聞き終わり、レインは唸《うな》った。
「ジョウに手を出して、サフィールが敗走したぁ? なに考えてんだ、あいつ。本物の馬鹿だなあ。で、リディアはどうなった?」
「ええと、早馬の報告では占領されていません。シャンドリス軍は、そのまま王都のそばで布陣《ふじん》を続けています。貴族軍側の守備隊は戦いの後に逃げてしまったので、もう簡単に占拠《せんきょ》できるはずなのですが」
「ふむ……」
腕組みして考え込むレインに、そわそわと立ち上がったシェルファが、
「あの、リディアは大丈夫でしょうか」
「ご心配は無用でしょう」
レインは断言した。
「すぐに占拠《せんきょ》しないってことは、おそらく俺達の到着を待っているってことです。他に理由が見当たらない」
「ああ、では! フォルニーア殿達は、和解する意志ありということですね」
シェルファがほっとしたように両手を組む。
それに対して、レインはなんとも答えなかった。
「もうすぐわかりますよ。とにかく、戦場に急ぎましょう」
――☆――☆――☆――
翌日、とうとうレイン達はラルファスの部隊との接触を果たした。
彼らは王都に近いさる村のそばに滞陣していて、レイン達を待ってくれていた。
驚いたのは、その兵力だ。現在の総数はなんと、三万近くにまで膨れあがっていたのである。しかも、なお続々《ぞくぞく》と増加中らしい。
こうなると、例えそのほとんどがただの一般庶民といえど、シャンドリスにとってもなかなか侮《あなど》りがたい脅威《きょうい》だと言えるだろう。
シャンドリス側の現在の兵力は、一万を割り込んでいると思われるからだ。
久しぶりにラルファスの顔を見たレインは、肩を叩いてやった。
「いや〜、おまえって俺が計算した以上に人望があったんだなあ」
シェルファもまた、「ご苦労さまでした」と謝辞《しゃじ》を表し、丁寧に頭を下げる。
「とんでもないです」
ラルファスはシェルファにはそう言い、レインに向かっては、笑ってみせた。
「私の人望というより、皆がまだ我々の未来に希望を持ってくれているという証《あかし》だろう」
いつもと変わらず穏《おだ》やかな笑顔で、そう断言した。
「――だといいな」
レインは肩をすくめた。
それから咳払いなどし、三人以外には誰もいない指揮所を見渡す。
「あ〜……ところでだ。おまえの呼びかけに応じて来てくれた皆の扱いだが――」
言いかけた途中で、ラルファスは静かに手を上げた。
「おまえに任せるよ、レイン。あとのことは考えてあるんだろう?」
「まあな」
「ならば、思った通りにすればよい」
先程のレインを真似《まね》て、ニコニコと肩を叩き返す。
それから珍しく意味ありげに碧眼《へきがん》を細め、こんなことを言った。
「私は利用されたつもりはないから、その点は気にしなくていいぞ。この前のザーマイン戦で、なにも学ばなかったわけではないさ。ここまで皆を連れてきたのは、おまえのやりようを信じているからだ。前に言ったはずだな? 私は人を見る目だけはあるつもりだと」
――つまり、そういうことだよ。
爽《さわ》やかな笑顔だけを残して、指揮所を出ていってしまった。
レインは顔をしかめ、傍《かたわ》らのシェルファを見やる。
「――見たか、あの鼻につくキザな態度。あいつ最近、ちょっと生意気《なまいき》になってきたのと違うか? 十年ほど辺境に飛ばして、人生の厳しさをみっちり教えてやれよ」
シェルファはただ、嬉しそうに微笑《ほほえ》んだだけだった。
日を改め、レイン達は進発した。
兵力は両軍合わせて一万程度である。
大勢集まってくれた中から、傭兵《ようへい》や警備隊など、戦闘経験のある者だけに協力してもらったのである。なので、その数だけ当初より増えている。
残りの大多数の市民達には、そのままあの場所で待機してもらった。コトが終わって、まだレイン達が生きていたら、一人一人に臨時の褒美《ほうび》くらいは出す心づもりだ。
自分の金ではないので、レインも気前がよい。
皆、戦意が高まっていたので、説得には手こずったが、「俺達が敗れてサンクワール王家が消滅したら、その時こそおまえ達の判断に任す」と強引に押し切った。
決め手はレインが主張した、
「武器だって十分じゃないし、今からじゃ戦時の合図だって覚えられないだろう? かえって指揮の邪魔になるんだ。皆がてんでバラバラに動いたら、戦《いくさ》なんか出来ない。おまえ達の好意が、結局はラルファスや姫様達を死なせる結果になるんだぞ」
というセリフだったろう。
そんな風に言われたら、ラルファスに魅せられた多くの庶民達は従うしかない。
彼を殺す結果になるなら、本末転倒《ほんまつてんとう》なのだから。
実際、レインに言わせれば、彼らはもう十分に役に立ってくれたのだ。ジョウ達に重要なメッセージを伝えることも出来たし、あそこで待機したままの人数は今なお、シャンドリス側への圧力になる。
レイン達は民衆を味方にすることに成功し、敵は失敗した。
もしもレイン達が敗れたら、今度こそ彼らが立ち上がり、大暴動に発展するだろう。
数万の怒れる市民を抑える力は、今のジョウ達には無いはず。
これだけの悪材料を引きずってまだ向かってくる気なら、レインもまた本気で戦うまでである。やることは全てやった。後は、ヤツらが俺の計算以上に馬鹿じゃないことを願うだけだな。
レインは馬上で頷《うなず》き、静かに覚悟を決めた。
場合によっては、全力で戦う。
ただそれだけのことだ。
俺は、誰にも負けない。
あんな思いをすることは二度とない……絶対に!
――☆――☆――☆――
晴れ渡った青空の下、シャンドリス軍はなおもリディアの至近《しきん》に陣を張っている。
滞陣が長引くにつれてある種の弛緩《しかん》が広がるのはどうしようもないが、それももはや過去の話である。物見《ものみ》が、入れ替わり立ち替わり王女一派の現在地を知らせてくれるので、今や全軍が緊張状態にあった。
もうすぐ、最終的な敵――サンクワール攻略を阻《はば》む、最後の敵が現れる。
この敵が先日のサフィールとは別格だというのは、全員が承知の上である。というか既《すで》にシング以下、将軍並びに将軍格の三人が敗退し、捕虜《ほりょ》となっているのだ。
サフィールなどと一緒くたにしていいはずがないのである。
それでも、朝食時には談笑などして余裕を見せる騎士や兵士達も大勢いたが、最後の物見《ものみ》が「まもなく敵がここに現れます!」と報告した時点で、皆がそれぞれ決められた配置についた。
誰もが、手足が強《こわ》ばるような深刻な緊張感に襲われたのも無理はない。いよいよ本番なのだ。これまでとは違うのである。いつもなら張り切るはずのザルツですら、腕組みをしてずっと彼方を睨《にら》み付けていた。
戦《いくさ》か、あるいは和平か――
そういう動きがあり、まだどちらとも決まっていないのだということは、別に宣伝したわけでもないのに全軍に広まっていた。
皆、「和平がなるならその方がいい」と思いつつ、それでもいざ戦いになれば騎士として、あるいは兵士として全力を尽くす気でいる。
似たような会話が、あちこちでそっと囁《ささや》かれた。
例えば兵士の一人が、かじかんだ手に息を吹きかけつつそっと言う。
「知ってるか? 相手方のレインってヤツは、自らが指揮した戦いじゃ敗戦を記録したことがないらしいぜ。過去、ただの一度もだ! となると、無敗同士の激突ってヤツになるなぁ……」
などと言い出すと、話しかけられた朋輩《ほうばい》が必ずこう答えるのだった。
「なぁに、うちのジョウ様の方がずっと無敗記録は長い。年期が違うさ……知られざる天才だかなんだか知らんが、青二才ごときに遅れはとらんよ」
そして彼らはその後、自分達の信頼と自信の源《みなもと》であるジョウ・ランベルクの不動の姿を見て、そっと声なき声を洩《も》らすのだった。
『我らが神将《しんしょう》よ……』
大丈夫、我々は決して負けない!
敵の強大さを思い知ってなお、その自信は少しも薄れなかったのである。
静かに時を待っていたジョウは、主君の気配《けはい》に、馬上でちょっと身じろぎした。
フォルニーアは、ジョウとお揃いにも見える優美な白銀の鎧《よろい》に身を包み、覇気《はき》に満ちた瞳を向けてきた。
「いよいよだな、ジョウ」
「そうですね。それで、ご決心は定まりましたか」
「――うん。ほとんど、な。ただ、物見《ものみ》の報告では、どうやら向こうはシェルファ王女も同行しているらしい。少し、彼女と話してみたい気はする」
「さようですか」
ジョウは、あえて深く尋ねなかった。
いずれにせよ、もうすぐ彼らはやってくる。
間もなく運命は決するだろう……
やがて時間は過ぎ――
馬上、物言わぬ石像のように目を閉じていたジョウは、かっと瞳を開いた。
もはや忘れられない、肌に馴染《なじ》んでしまった大いなる力を感じとったせいである。
この、全身を圧迫されるような途方もない感覚……暗殺者が放つ冷たい殺気《さっき》などではなく、ただひたすらに頂上を目指した者特有の、純粋な力の波動。向こうは特に気配《けはい》など断っておらず、そのせいで大瀑布《だいばくふ》の水圧にも似た、見えないプレッシャーを感じる。
陣中でも、ザルツを初め何人かの強者《きょうしゃ》が、不審な顔で左右を見渡している。
もちろん彼らもまた、多かれ少なかれこの力を感じ取っているのだろう。
もはや間違いない。
――彼がやってきたのだ。
ザッザッザッ……という、聞き慣れた規則正しい行軍《こうぐん》の音が耳につく頃になり、やっとフォルニーアも「来たか!」と顔を上げた。
その視線の先に、続々と彼らが姿を現した。
見ていると、騎士達にせよ歩兵達にせよ、その足取りには迷いもなければ怯懦《きょうだ》もない。勝利を疑わず、加えて己の指揮官に全幅《ぜんぷく》の信頼を抱く者特有の、強い意志が感じられる。
それは、先のサフィール軍の兵卒《へいそつ》と比べてあまりにも明らかな質の差であり、誰の目にも違いが見えるほどだった。
混成軍の一方は黒地に純白の獅子《しし》の旗を押し立てたラルファス軍。そして同じく真っ黒な地に、魔剣をくわえ、翼を広げた白いフェニックスの旗印《はたじるし》のレイン軍。
ここまでは予想通りだが、レイン軍の旗の横には、複雑に組み合わさる五本の剣が意匠《いしょう》された、ひときわ大きな旗も風になびいている。
これは、まさしくサンクワール王家の旗印《はたじるし》に相違《そうい》なく、シェルファ王女が同行している証《あかし》だろう。
そして無論、あの男もいた。
というか、仮にジョウが見たくなかったとしても、嫌《いや》でも目に入った。
なにしろ、その身は上将軍《じょうしょうぐん》の地位にある癖に、彼は軍の一番先頭に白馬を立て、思いっきり目立っていたからである。
しかも、敵味方問わず一兵卒《いっぺいそつ》に至るまで真面目《まじめ》に鎧《よろい》やらレザーアーマーやらをびしっと着込んでいるというのに、こいつは一人だけ堂々と、いつもの真っ黒な平服である。
鎧《よろい》どころか防具の類《たぐい》すら無し。
その、なんというか戦《いくさ》はおろか世の中そのものをなめきった「俺は万一にも怪我《けが》なんかしないね」とでも主張したげな態度は、シャンドリス軍の全員を唸《うな》らせるに十分だった。
と、フォルニーアがおもしろそうな声で、「ジョウ、魔法で拡大して見せてくれないか」などと横から注文をつけた。
苦笑して言うとおりにしてやる。
人目があるので低くルーンを唱《とな》え、二人の前にレインの映像を出す。
ジョウと同じく、通常より長さも太さも違う長槍《ながやり》を持ったレインが、馬上で平然とこちらを見ている。緊張やら興奮やらといった感情はどこにも見えなかった。
手にした槍で肩をトントン叩き、しれっとジョウ達に視線を注《そそ》いでいる。
そう、彼ははっきりとこちらを観察していたのだ。
「口元が動いている……独り言でも呟《つぶや》いているのかな、アレは?」
別に怒りもせず、フォルニーアがまた訊いた。
「いえ……あれは」
ジョウは微笑《ほほえ》みを漏《も》らした。
「歌っているのですよ。私には聞こえます。しかし――」
「しかし?」
「……こう言ってはなんですが、随分と下手な歌ですね」
「そうか、レインは音痴《おんち》なのか! 人間、なかなか万能にはなれないのだな、はははっ」
歌が下手なことに余程おかしみを感じたのか、フォルニーアは軽やかに笑った。彼女もまた、緊張はしていないようである。横目で主君を見やり、ジョウは一つ頷《うなず》いた。
どうやら上手く話がまとまりそう――
「大将軍!」
誰かの叫び声がして、ジョウはまた顔を上げた。
ちょうどザルツが槍を振りかざし、敵陣めがけて一直線に突入していくところだった。
「――! ザルツ、いけないっ」
「待て、ジョウっ」
フォルニーアが走り出そうとしたジョウを止めた。
「ザルツはレインに一騎打《いっきう》ちを挑《いど》みに行ったのだと思う。多分、自分なりにけじめをつけたいのであろう。レインについてのおまえの予想が正しければ――いや、今や私も疑ってはいないが――とにかくそうなら、放っておいても大過《たいか》あるまい、うん?」
「……それは確かに」
「では、ここはザルツの好きなようにやらせてやろうではないか。このところ、彼も鬱憤《うっぷん》が溜《た》まっていたことだろうし」
「……フォル様のお言葉のままに」
結局、ジョウも了承した。
確かに、言葉だけでは解決し得ないこともある。ザルツは根に持つ男ではないし、思う存分やらせてやった方がいいかもしれない。
ただし、ジョウは味方に向かって大声で「誰も手を出すな! 敵を挑発してはいけない!」と命令するのだけは忘れなかった。
自分が愛馬を駆《か》って飛び出した時、ザルツは、ジョウの命令を待たずに動いた自分に驚いたが、これで良かったんだ、という気持ちもした。わかってくれたのか、ジョウ様もフォルニーア様も制止の命令を出して来ない。
シングを破り、そしてセイル兄妹をも破った(信じがたいことだ!)レインが視線の先にいる。
毛並みの良い白馬を立て、ただ静かにこちらを見ている。槍を横に伸ばして自軍に一声「俺に任せろっ」と命《めい》じ、馬を進ませてきた。
顔つきはあくまでも不敵だったが、こちらを馬鹿にしているという風でもない。
その気ならいいさ、来るなら受けて立つぞ? どうやら、そういうつもりらしかった。
声が届く距離まで近付いた時、ザルツは自ら叫んだ。
「俺の名はザルツ! 勝負だ、レインっ。おまえを倒し、ジュンナちゃん達を取り戻してみせるぜ!」
レインはニヤッと笑った。
片方の唇を吊り上げ、夢に出てきそうなふてぶてしい笑みを見せつけてくれた。
「いつでも来い。俺は、売られた喧嘩《けんか》は必ず買う主義だ!」
「上等だあっ」
あと数十メートル。
突っ走る。槍をかざし、愛馬を急《せ》き立て、ひたすらレインを目指す。
しかし――これは身長差なのか? それほどの大男なのか、あいつは。
そうじゃないとしたら、なぜ……なぜこうもあの男はでかく見えるのか。ただ白馬に跨《またが》ってこちらを待っているだけなのに、まるで雲を突く巨人にも見えるじゃねぇか!
無論、ザルツにはちゃんとわかっている。
知りたくなくても、細かく震える槍先や強張《こわば》った全身が教えてくれる。
そうだ。俺はあいつの強大さを感じ、萎縮《いしゅく》しているんだ。ビビっちまっている。どうやったって勝てるはずがない――そんな嫌《いや》な確信が胸の内にある。
まだ槍を合わせてさえいないのにっ。
くそっ。
ぐんぐん近付くレインを前に、ザルツは歯ぎしりした。
最初の一撃だ。それに全てをかける!
あの三人があっさり敗れたとなると、自分だって勝てる可能性は少ない。しかし、相打ちを狙って捨て身の攻撃を仕掛ければ、あるいは!
心が定まったと同時に、ザルツの体の震えも収まった。
槍をだらっと構えたレインが、不敵な笑みとともにザルツを待っている。その姿がぐんぐん近付く。レインはまるで動かない。
しかしザルツは、もはやなにも気にならなかった。死を覚悟したその瞬間、恐怖心もプレッシャーもぷつりと感じなくなったのだ。
「うおおおおーーーーーーっ!」
レインめがけて突っ込んだ。
相手の攻撃を避けようとか上手く立ち回ろうとか、そういう小賢《こざか》しいことは考えず、相手に自らの命をぶつけるつもりで、共に死ぬつもりで、一撃に全てをかけた。長槍《ながやり》を突き出す。愛馬の走る勢いプラス、ザルツの技量の全てを注《そそ》いだ、自分でもこれまでで最高と断言できる一撃だった。
槍の穂先《ほさき》がレインの黒い服の胸に吸い込まれていく。
勝った! そう思った。
相手はまだ槍を持ち上げてさえいない。今からではもう、防御《ぼうぎょ》も間に合わない。
見たか!
自分の力量に驕《おご》りすぎた者の、これが末路《まつろ》だっ。
だがその思いはそれこそ、レインの残像と共に砕け散った。貫《つらぬ》いたはずの敵の胸、その像がぶれ、ふっと消えたのだ。
槍が胸を貫《つらぬ》くその刹那《せつな》、レインがとんでもない反応速度を見せて体をさばき、見事避けたのである。敵はさらに、左手をすっと持ち上げ、目標を失って泳いだザルツの長槍《ながやり》を、はっしとばかりに手の甲で打った。
嘘のようにあっさりと槍がへし折れ、折れた一方がどこかに吹っ飛んだ。
まさか、この程度のことで槍の柄《え》が折れるなど――
そして、ザルツの腕に走る重い衝撃。相手の馬鹿力に腕が痺《しび》れたのだ。
ぐらっと体勢を崩したザルツに、レインが初めて槍を持ちあげた。石突き(穂先《ほさき》の逆)の方を向けて、だ。体勢を崩したザルツには、レインの攻撃を避けることなど不可能だった。
いや、どのみち槍が霞《かす》むようなこんなスピードの一撃、避けられねぇか――
自虐《じぎゃく》的にそう思った瞬間、ザルツは鎧《よろい》越しに槍で胸を突かれ、そのまま大きく後方に吹っ飛ばされてしまった。――意識が砕けた。
――☆――☆――☆――
派手に飛ばされ、どさっと落馬したザルツを見て、サンクワール軍はどっと沸いた。敵陣から騎士見習いらしき数名が駆《か》け寄り、大慌《おおあわ》てでザルツを運んでいったが、その間も味方はお祭り騒ぎである。
特に、いつも大人しいセルフィーのはしゃぎようはとんでもなく、
「やったあ! レイン様つよいっ! かっこいいです、かっこいいですーーーーーーーっ!!」
などと頬《ほお》をりんごみたいに赤くし、やんやの盛り上がりようである。
ユーリはあきれて友人を見やり、イヤミを言わずにはいられない。
「あんたね、男に一目惚れしてのぼせ上がった、ウブな女の子じゃないんだから――て、まんまそうなのか、セルフィーは」
結局はあきらめの境地に達した。
どのみち、相手はユーリの苦言など、全く聞いていないのである。瞳に星が散っていたりしてかなりヤバい。
「でも、向こうの将軍をとっちめちゃって、上手く和平なんか結べるのかな」
ユーリは浮かれまくる周囲とは一線を画《かく》し、一人ジト目でレインを遠望《えんぼう》している。
しかし、レイン自身は意味もなく髪をかき上げたりしており、全然さっぱり心配していないようだった。おおかた、「ふっ。弱すぎて話にもならん」とかそういう類《たぐい》のセリフを吐いているところだろう。
わかるわかる、そばにいないでもわかるのだ。
「あ、あいつって緻密《ちみつ》な計算で動いているように見えて、やっぱりどっか大胆っていうか後先考えてないっていうか――」
残念ながらユーリの苦言は、周りの歓声に消され、到底レインまでは届かないのだった。
――☆――☆――☆――
もちろん、反対にシャンドリス軍の方がずぅんと暗くなったのは当然である。
自分でけしかけた癖にフォルニーア自身が唖然《あぜん》とし、「まさか、あのザルツがあそこまで簡単に敗れるとは」と口走ったりした。
フォル様は未だにレインを甘く見ているのかもしれない。ジョウとしてはそう思わずにはいられない。ザルツが敗れたのは当然のことなのだ。
しかし、敵にこのまま『シャンドリス軍に人なし』と思われるのも上手くあるまい。そう、将来的に見てもよろしくない。
それに、いささか自分の血が沸き立ったのは否定できない。
「では、次は私が相手をしますか」
「――! ジョウ、おまえがかっ」
フォルニーアの危惧《きぐ》する顔に、ジョウは笑顔で頷《うなず》く。
「ご心配なく。二十歳やそこらの若者に、負けはしませんよ」
「ジョウっ」
フォルニーアはさらに一声かけたが、ジョウが振り向かずに馬を進めると、覚悟を決めたように励ましの言葉をかけてくれた。
「頼んだぞ、ジョウ! いつものように、鮮やかな勝利を見せてくれっ」
ジョウは微笑《ほほえ》みを含み、片手を上げたのみである。
そのまま悠然《ゆうぜん》と陣中を出て、両軍の中間地点まで馬を進めた。
こちらをじっと見ているレインを見返し、高々と声を張り上げる。
「レイン殿に申し上げる! ジョウ・ランベルク、一騎打《いっきう》ちを所望《しょもう》するっ!!」
反応は瞬《またた》く間だった。
白馬を駆《か》り、レインがまっしぐらにやって来る。手綱《たづな》を握るその表情には迷いもなく、ジョウに射るような視線を注《そそ》ぎつつ駆《か》けてくる。
しかし、あの白馬の足の速いことはどうだ? 草原を切り裂く一瞬の閃光《せんこう》のように、軽々と駆《か》けてくるではないか。さしものジョウも、これほどの速さで走れる名馬を見たことがなかった。
それに、槍を構え、人馬一体となって大地を疾走《しっそう》するレインのその姿は、見る者のため息を誘うほど美しい……
感心しているウチに、それこそあっという間にレインが間近に迫っていた。
長大な槍を持ち上げ、早くも攻撃の構えを取っている。
「――! 来たかっ」
「俺がおまえの挑戦を避け、逃げるとでも思ったかっ」
激しい叱声《しっせい》と同時に、レインが槍を突き出す。
ジョウの動体視力をもってしてもはっきりとは捉《とら》えられないスピードで、こちらの胴体を串刺しにせんと襲いかかってくる。
この男、本当に和平を望んでいるのか!
私の読み違いだったか――。そう思ったほど、容赦《ようしゃ》のない勢いだった。
ジョウ以外の誰が相手だったとしても、その一撃を受けきれず、あるいはかわしきれず、そのまま死んでいたのは間違いない。
しかしジョウもまた、レインと同じく並の戦士ではない。
今も、目ではなく自分の本能に従った。
瞬間的に半身をそらして攻撃をかわし、同時に自分も槍を突き出す。
抜けるような青空に、二筋の鮮血《せんけつ》が舞った。レインの一撃はジョウの喉《のど》脇をかすめ、ジョウの槍は、レインの二の腕をかすめる。
そして、二人が流した血の雫《しずく》が地に落ちる前に、二頭の馬が激しい勢いで激突した。
このぶつかり合いにジョウの愛馬は堪《こら》えきれず、どうっとばかりに横倒しに倒れてしまう。
ジョウはその前に槍を放して跳躍し、空中で身をひねって着地した。
すかさず刀を抜いて相手の追撃に備える。
が、レインは馬上からという有利なポジションにも、長槍《ながやり》にも固執しなかった。自らも槍を鞍《くら》に戻し、未練なく大地に降り立つ。
ずしゃっと魔剣を抜き放った。
禍々《まがまが》しい青い光を放つ、例の「傾国《けいこく》の剣」を。
「やはり俺達の戦いは、剣で決着をつけるのが相応《ふさわ》しいだろう?」
「せっかくの有利なポジションを、自ら捨てるとはな。あくまで対等の勝負にこだわるか、レイン。それほどに君を戦いに駆《か》り立てる動機とは、一体なんだ?」
「余計なお節介は、寿命を縮めるぞ!」
セリフと踏み込みと攻撃が、少しの遅延もなく同時である。
風を巻き、魔剣を振り上げ、一呼吸にも満たない動きで袈裟斬《けさぎ》りの一撃を送り込んでくる。
ジョウは体をさばいて避け、そのまま相手の胴めがけて刀を叩きつけた。純白のオーラを放つ刀身《とうしん》が、閃光《せんこう》を残してレインを襲う。
手加減などは考えなかった。そんなことをすれば、斬撃《ざんげき》を食らうのは自分の方だったろう。
泳いだレインの胴体に、狙い通りに刀が吸い込まれる。
しかしレインは、攻撃をかすらせつつも体をさばき、思わぬ攻撃に転じた。くるっと体勢を入れ替え、上体を半回転させてしならせると、あっという間に回し蹴りを放ってきたのだ。
無理な体勢から、軽業師《かるわざし》のように柔軟に、そして見事に体勢をチェンジしている。
しかし、ジョウはその攻撃をとっさに飛び退《の》いてかわす。そこで動きを止めずにすぐにまた踏み込み、銀髪をなびかせつつ体を回転させた。
レインの首筋に、銀色の閃光《せんこう》を叩きつける。
ガィィィン!
バチバチバチッ
襲いかかった刀とレインの魔剣が、激しい勢いで激突し、スパーク音を立てた。昼日中《ひるひなか》にもかかわらず、盛大な火花が辺りに散る。
と、レインの膝が恐ろしいスピードで持ち上がり、ジョウのみぞおちを狙う。
「――! むっ」
すぐにジョウも膝を持ち上げ、相手の攻撃を迎え撃つ。お互いにがしっと膝同士を叩き合わせ、そのまま二人して飛び退《すさ》った。
「……剣技に関しては互角かな?」
寸刻《すんこく》の間、動きを止めてジョウが囁《ささや》きかけると、レインは不動の自信が籠《こ》もった声音《こわね》で答えた。
「自分への評価が甘いな、ジョウ。いいか、俺より強いヤツはこの世界のどこにもいない。一対一で剣を合わせたその瞬間、おまえの負けは既《すで》に決まったんだ!」
傲慢《ごうまん》なセリフとともに、猛然《もうぜん》とダッシュ。
神速《しんそく》で魔剣をジョウの頭上に振り落とす。
その動きにはまるで衰えが見られない。それどころか、戦闘開始時よりスピードが乗り、パワーにも溢れている。
「――っ!」
ジョウの刀がかろうじて一撃を受けたが、あまりに重い攻撃に腕に衝撃が走り、よろめきかけた。一瞬とはいえ、二の腕に痺《しび》れが残ったくらいだ。
(いかにドラゴンスレイヤーとはいえ――。この私の、私の筋力をも上回るのか!)
「どうした、ジョウっ。動きが鈍いぞ!」
防がれた剣を再度持ち上げ、青白い閃光《せんこう》の雨にも見える斬撃《ざんげき》を送り込むレイン。
軌跡《きせき》が霞《かす》み、無数の残像を生み出す彼の斬撃《ざんげき》の速さに、ジョウほどの男といえど、ともすれば反応が遅れがちになる。
一時的とはいえ、ジョウをして防戦一方に回らせていた。
レインは自らはほとんど下がらず、攻撃のみに集中して押しまくってくる。
それはこの男特有の、苛烈《かれつ》なまでに攻撃に攻撃を重ねる剣技であり、まともな剣士ならまず用いないような戦法である。
防御《ぼうぎょ》など最初から捨てているようにも見える。無論、そんなことは有《あ》り得ないが、細かい掠《かす》り傷しか負わないとなればあえて逆に踏み込み、ひたすら深く攻め込んで来ているのは確かだ。
しかも、尋常《じんじょう》ではないスピードで。
ガガッ!
「――! むっ」
ひずんだ嫌《いや》な音とともに、ついに鉄壁を誇るジョウの防御《ぼうぎょ》が崩れた。下方から斜め上へと弧《こ》を描く魔剣の一撃を受けかね、刀が強引に跳ね返されたのだ。結果、ジョウの体が不安定に傾《かし》ぐ。
それはほんの僅《わず》か――多分、数百分の一秒にも満たないほどの隙《すき》だったろう。
しかしその隙《すき》を、レインは見逃してはくれなかった。磁石同士が引き合うように、すぐに身を低くしてジョウの懐に飛び込んできた。真っ直ぐに伸ばされた魔剣が、青白い光の刃が、ジョウの胸を狙ってまっすぐ突き出される。
咄嗟《とっさ》にジョウは手を突きだし、魔力を全開にした。
「光よ!」
「ぐっ」
さしものレインもこれは予期していなかったようである。
至近《しきん》からモロに魔法攻撃をくらい、遙《はる》か向こうまで吹っ飛ばされた。
遠く離れていたのに、少女の悲鳴が聞こえた。
ジョウはまだ知らないが、それはまさしくセルフィーと副官セノアのでっかい悲鳴である。
セノアは珍しく普通の女の子のように自らの口元に両手を持ってきていたし、セルフィーはセルフィーで、自分の隣に立っていたユーリの肩を引っ掴《つか》んでガクガク揺さぶっている。
「レ、レイン様がっ。レイン様があーーーーーっ」
「だああっ。大丈夫だから放しなさいっ。忘れたの、セルフィー。しょーぐんにはアレが――」
たった一人、シェルファだけが、両手を胸の前で組んで静かに見守っている。
無論、ジョウも平静ではいられない。
「――! 私としたことがっ」
瞬間的に、どっと後悔した。
魔法など使うつもりはなかった。しかし、敵のあまりの強さに、久方《ひさかた》ぶりに戦士としての本能が危機を感じ取ったのだ。そして、思わず使ってしまった――
相手の身を案じ、即、駆《か》け寄ろうとしたジョウだったが。
あいにく、敵を気遣《きづか》うのはまだまだ早かったらしい。まるでぴんしゃんしたまま、レインは跳ね起きた。
見ればその体に、虹色の輝きがうっすらと残っている。
「ドラゴンの持つ、アンチ・マジックフィールドか!」
目を見張り、ジョウは唸《うな》った。
そういう能力について知識として知ってはいたが、この目で見るのは初めてである。どうやら、心配などはいらぬお節介だったようだ。
「その程度か! ぬるいぞ、ジョウっ」
まるで応《こた》えた風もなく、レインが叱咤《しった》する。
実際のところはどうか知らないが、とにかく外見からはまるでダメージが窺《うかが》えなかった。
「俺を倒したいなら、せめてこれくらいはやってみせるがいい!」
言うなり、レインの周囲にオレンジ色に輝く拳大《こぶしだい》の光球が、幾《いく》つも出現した。それらは彼の周りを回転しつつ増え続け、明滅を繰り返している。
無数の光芒《こうぼう》が交差し、頭上にひしめき合った所で、レインがすっと手を上げ、ジョウを指差した。
「――行けっ」
途端《とたん》に、全ての光球がジョウめがけて殺到《さっとう》してきた。光の尾を引くそれらは、一つ一つが膨大な魔力によって生み出されたエネルギー波なのだ。
「むっ」
ジョウは両手を広げ、咄嗟《とっさ》に自らの周囲にシールドを張った。
そこに次々と光球が激突し、轟音《ごうおん》とともに連鎖的に大爆発を起こす。
陽光《ようこう》を凌駕《りょうが》する、圧倒的な閃光《せんこう》がシールド表面に弾《はじ》ける。次々と炸裂《さくれつ》する魔光《まこう》に目を灼《や》かれ、シールドに激突した余波が、大地をも震わせる。
攻撃はまるで途切れず、無限に続くかと思われるほどだった。半透明のシールド全体が激しくぶれ、限界を超えた衝撃に突破される寸前である。
「――くっ。この魔力、そしてパワー。マジックシールドを持ってしても防げないか。ならばっ」
気力を高め、歯を食い縛る。
「炎よ!」
言下《げんか》に、巨大な炎がジョウを中心に渦を巻いた。
自ら爆炎を生み出し、一瞬だけレインの魔力攻撃を押し返す。その隙《すき》に後方へ飛び、攻撃をかわした。
代わりにさっきまで立っていた場所に二人の魔力が集中し、大地を大きく穿《うが》つ。
そして二人は、再び剣を振りかざしつつ、相手に向かって突進しようとした。
――その時。
『待て! 二人とも、待てーーーーーーーーーっ!』
大声で制止しつつ、フォルニーアその人が馬で両者の中間に躍り込んできた。
以前と同じく、激突間近だった二人の間に割って入ったのだ。
「……フォル様」
ジョウはたちまち剣を収め、低頭《ていとう》した。
彼女の姿を見て、すっかり頭が冷えたのである。
レインの――あの男のあまりの強さに、我を忘れるとは。
危うくどちらかが死んで、和平など有《あ》り得なくなるところだった。
いや――あるいは死が間近に迫っていたのは……。ジョウは微《かす》かに首を振り、馬を降りるフォルニーアを迎えた。
――☆――☆――☆――
レインはジョウが剣を収めるのを見て、自分も肩をすくめて剣を鞘《さや》に戻した。
ジョウはレインの基準から見てもなかなかに強く、あのまま続けていれば、危なかったと思う。
ただし、『危ない』というのは『ジョウを倒してしまったかも』という意味においてである。ギリギリで加減はするつもりだったが、あいつは強いからそれもままならなかったかもしれない。
あるいは最悪の場合、相打ちなんてことになったかもしれなかった。
気付かなかったが、両軍ともシーンとなってこちらを見守っていたようだ。フォルニーアが戦いを中断させたことにより、双方共に、なにかほっとしたような雰囲気が漂っている。
特にあのチビ――レインの主君であるところのシェルファ王女は、ずっと後陣にいたくせにいつのまにか味方の先陣、しかもその一番先頭辺りに馬を進め、こちらをじっと見ていた。
レインの防御《ぼうぎょ》フィールドのことは既《すで》に知っているので、シェルファは別段、心配そうな表情はしていなかった。ただ一途《いちず》にレインを眺めている。いつもそうしているように。
というか、今レインと目が合ったのを機に、もの凄《すご》く嬉しそうに手を振った。馬上で伸び上がるようにして、ぶんぶんと。
レインと同じく、大変視力に恵まれているらしい。
――じゃなくて。
レニやガサラムがそばについているとはいえ、無茶をするチビ公だと思う。
あんな最前線まで出てきて、敵が矢でも放ったらどうする気か。
あきれて眺めていると、シェルファは笑顔のまま、いつまでもいつまでも飽きずに手を振っている。だが唐突《とうとつ》に、その笑顔が悲しそうな表情に変化した。レインは首を傾《かし》げた。
ああ、無視されたと思っているのか。
やっとそこに気付き、口元を苦笑で歪《ゆが》めつつ、気だるげに手を振り返してやる。サービスして二往復ほど。
向こうは、あっという間に幸せそうな顔に戻った。
馬鹿馬鹿しいが……悪い気分ではない。
「レイン殿!」
いきなり、フォルニーアに呼ばれた。
ジョウとの話は終わったらしい。
「なんだ?」
「傑出《けっしゅつ》した剣士同士の一騎打《いっきう》ち、見応《みごた》えがあった。しかし――。もうこの辺でよいのではないかな?」
なにか探るような目つきをしている。
あいにくこちらは、顔色など変えはしない。しっぽを出して飛び付くと思っているのなら、おあいにくさまだ。
「俺は元々、どっちでもいい」
クールな表情を保ったまま、レインは言う。暇そうなクリスの腹にもたれ、二人を等分に見て目を細めた。
「戦うもよし、戦わないのもよしだ。忘れてほしくないね。姫様以下、俺達は必要に迫られてここにいる。決断するなら、あんた達の方がするべきだろうな」
フォルニーアは、そのセリフに感銘を受けたりはしなかった。
また気難しい表情になり、ジョウとヒソヒソ相談を始める。
しかし、レインとしてはここは譲る気はない。くだらない意地だと言われようが、絶対に。
最初に和平を持ち出すのは、侵略してきたシャンドリス側からにしてもらおう。同盟を見据《みす》えた将来的な展望として、ここでなめられてはかなわないのである。この際フォルニーアには、大国意識を捨ててもらわねばならない。
あくまでも対等の立場で同盟を結ばねば、意味が無いのだ。
――という思惑《おもわく》の元、レインは青空を見上げてわざとらしく、「ああ〜、今日は快晴だなぁ」などとしれっと呟《つぶや》いたりする。
心配になったのか、その間に味方の陣地からラルファスやら王女やらが、レニ達を引き連れてこちらにやって来てしまった。
彼らに早口で経緯《けいい》を説明した頃、やっと向こうの主従《しゅじゅう》二人は相談を終えた。
フォルニーアはジョウに向かい、
「マジックビジョンで全軍に交渉の経過を見聞きさせてやってくれ」
などと指示した。
「……よろしいのですか?」
「うん。皆、知りたいだろうから」
フォルニーアが頷《うなず》く。
結局レイン達の承諾《しょうだく》は得ないまま、双方の軍勢《ぐんぜい》の前に、巨大なマジックビジョンが出現してレイン達の交渉を映し出した。
フォルニーアがレインに向き直る。
「……貴公もなかなか図太い男だ。たった一言で私は折れる気だったのだが。その一言をこちらに言わせる気なのかな?」
レインはフォルニーアの瞳をじっと覗《のぞ》き込んだ。
「将来起こり得る巨大な戦いに備え、今はつまらない意地は捨てるべきかもな。しかし、それでも俺は最低限のけじめだけはつけるべきだと思う。そもそも、無用なこの戦いを始めたのはそっちだ。ならば、幕引きもそちらがすべきだろう。国力から言えば、サンクワールは羽虫に等しいようなものだが……一寸《いっすん》の虫にも五分《ごぶ》の魂と言うぜ?」
「そんな格言など、まったく聞いたこともないぞ」
フォルニーアは忌々《いまいま》しげにレインを見上げた。
そのうちシェルファに横目を使い、
「……そう言えば、貴公と交渉するのは妙ではないかな? この場には、シェルファ王女もおられることだし」
「あいにくだが、戦《いくさ》や交渉事は、今のところ俺やラルファスの仕事だ。主君としての姫様の役割は、最終的な決断にある。そして俺は、その姫様の決断に沿《そ》って、そちらと交渉しているわけだ。……別に妙じゃないだろ」
あっさり言い切り、レインはさらに付け足した。
「ついでに、そちらの次の質問にも答えておこう。今の姫様は、まだ世間という広い世界を知ったばかりだ。器《うつわ》の大きさは明らかだが、その器《うつわ》が満ちるのに時間がかかるのは当然だろう。大いなる資質が開花するその日まで、俺達|臣下《しんか》が補佐すべきところを補佐するのはなにも恥ずかしいことじゃあない」
「……シェルファ王女の器《うつわ》の大きさは明らかだと貴公は言う。それは、なにをもってそう断言するのだ」
「言うまでもない。俺やラルファスが、姫様に心から臣従《しんじゅう》していることで明らかだ」
言うまでもなく特にこの俺な、とレインは平然と自分の胸を指差す。
堂々と胸を張り、高言《こうげん》する。
「臣下《しんか》たる人材を見れば、その王者の器《うつわ》や度量《どりょう》が知れる。ラルファスの人望と有能さ、そして俺の天才性(大|真面目《まじめ》な声で)。姫様はそのどちらにも嫉妬《しっと》されたことがなく、常に全幅《ぜんぷく》の信頼を置いてくださっている。器《うつわ》の小さい人間にそんなことが可能だと思うか? それとも、俺達の目の方が曇っているとあんたは言うのか?」
レインがドドーンと持ち上げたその人、シェルファ王女は、レイン達の舌戦《ぜっせん》におろおろしつつ、目を丸くしていた。
今のレインの発言は全くの本音なのだが、残念ながら現時点でのシェルファを見る限り、説得力に乏《とぼ》しいことは確かだ。それは承知している。
案の定、フォルニーアは実に疑わしげな表情で、シェルファを爪先から頭のてっぺんまでジロジロ観察した。
挙げ句に、こんな風に言った。
「……私には信じられない。その美貌《びぼう》はともかく、さほどの能力があるとは思えぬ。所詮《しょせん》は、貴公らに頼り切りではないのか」
「ちょっと待て、こら!」
「しばしお待ちあれ!」
レインとラルファスは奇《く》しくも同じ内容のセリフを吐き、しかも同時に一歩前へ出た。
顔を見合わせ、レインは自分が譲った。どうせ言いたいことは同じだろう。
ラルファスは魔剣ジャスティスの柄《つか》に手をかけつつ、
「主君の受けた恥は、臣下《しんか》たる我らの恥でもある。今のお言葉、聞き捨てならぬ!」
きっとフォルニーアを睨《ね》め付ける。
自然と相手の居住《いず》まいを正させる、例の厳しい瞳をしていた。
「フォルニーア・ルシーダ・シャンドリス殿に問う! 貴女《あなた》は、そこのジョウ・ランベルク殿を上回るほどに有能なのか? 常に自らが正しい舵《かじ》取りを成し、彼の進言に救われたことなど無いと主張するのか? 心してお答えあれ。もし偽《いつわ》りの返答をすれば、その首、この場にて頂戴する!」
途端《とたん》に、ジョウがフォルニーアの前に出ようとしたので、レインは大喝《だいかつ》した。
「動くな、ジョウ! 今俺は、フォルニーアの間合いの内にいる。おまえが動くより、俺が剣で彼女を殺す方が早いっ。本気じゃない、などと思わないことだ!」
ジョウが歩みを止めた。
その代わり自らも剣に手をかけ、いつでも飛び出せる構えは崩さない。ただ、ラルファスを見るその瞳に殺気《さっき》はなく、むしろ優しい光がある。
しかしラルファスその人は彼の方など見向きもせず、ただひたすらフォルニーアを見据《みす》えている。
ラルファス・ジュリアード・サンクワールという男は、こういう場合、常に本気である。きわどい冗談や駆《か》け引きなどには無縁の男なのだ。後にどれほど不利な状況に陥ろうと、やると言った以上、返答次第で必ずフォルニーアを斬《き》るだろう。
彼女は、まさしく彼の逆鱗《げきりん》に触れたのである。もちろん、レインとて心情的にはラルファスと同じである。策士《さくし》としての自分の判断からすれば止めてしかるべきだろうが、今や、一緒に意地を張り通す気でいる。
所詮《しょせん》自分は、根っこの部分では策士《さくし》よりも無謀《むぼう》な戦士の側に近いのだろう――実際そうだし。
マジックビジョンを注目していた両軍の兵士達が、ざわざわとざわめいている。戦《いくさ》か否か……今こそ、一触即発《いっしょくそくはつ》の状態である。
わずか数秒の時間が、レイン達にとってひどく長く感じられた。
この瞬間、確かに歴史の天秤《てんびん》が動こうとしていたのだ。
ややあって、気を張って睨《にら》み返していたフォルニーアが瞳を逸《そ》らした。顔つきは随分と悔しそうだったが、それでも自らの過ちを認める。
「確かに、私はかつて何度もジョウに助けてもらったし、助言もしてもらった。その点では、まさにシェルファ殿と同じだ。……先程の言葉は撤回する。すまなかった、この通りだ」
シェルファに小さく頭を下げる。
気にしてません、という風にふるふると首を振る主君を見てから、ラルファスはフォルニーアに視線を戻した。剣から手を放し、元の位置に下がる。
「こちらも、今の無礼をお詫びします」
もうなんの激情も感じられない声音《こわね》とともに、低頭《ていとう》する。いつもの静かな表情に戻り、レインを目で促《うなが》した。
これはアレだろう。
もう終わったから、またおまえが交渉続けろや、というお達しだろう。
――て、俺だけ地味な役回りかよ。
さっきまで散々目立っていたのを棚にあげ、レインは顔をしかめる。
それでも一応、またフォルニーアと相対《あいたい》した。
「というわけで、話は最初に戻る」
いい加減めんどくさいので、あっさり総括《そうかつ》することにした。
「日が暮れるまでここで粘っているわけにもいかない。どうしたいのか言ってもらおう」
フォルニーアはむっとしたまま、なにも言わなかった。
彼女はラルファスの言いように腹を立てたようだが、同時に渋々ながら感心もしているように思える。明らかにラルファスを見る目が変わったからだ。
しかし、まだ素直に和平を言い出す気にはならない――そんなところだろう。
手の掛かるヤツである。
と、それまで大人しくしていたシェルファが、おずおずと口を挟んだ。
「……あの」
途端《とたん》に、皆が一斉にシェルファを見る。
心ならずも注目を浴びてしまい、シェルファは少し焦った声で、
「あの、争いを止められませんか。わたくし達が戦う理由なんて、どこにもないと思うんです。……このまま戦《いくさ》に及び、そのせいで大勢の人が死ぬことになるなんて、どこか間違っていると思うんです」
つっかえながらも、一生懸命な表情で言った。
なんというか――。敵味方含め、一同は押し黙った。
レインの見るところ、シェルファの言いようは利害やつまらぬ意地などに捕らわれていないだけに、両軍の一般兵士達にはかえって支持を得たようだった。殺伐《さつばつ》としかけた空気がぽっと変化したことでも明らかだ。
しかし、つい今し方までしたたかに舌戦《ぜっせん》を繰り広げていたレインにとっては、苦笑する他はない。外交上、ちょっとそれは素直すぎるだろ、と思うのだ。
もちろん、そういう態度がかえって実を結ぶ場合もある。例えば、ラルファスのような性格の王が相手なら(そんなのがいるとしてだが)、大正解だったかもしれない。
しかし、このフォルニーアが相手では――
レインの危惧《きぐ》は当たった。
フォルニーアはきりっとした美貌《びぼう》をしかめ、「なにを甘っちょろいことを」とでも言いたげな目つきをした。
残念ながら、シェルファのありがたい申し出に感銘《かんめい》は受けなかったようだ。
何事か言いかけ、途中で思い直したように口を閉ざす。
再び魅惑の唇を開いたとき、その顔には悪戯《いたずら》っぽい笑みが浮かんでいた。
「――なるほど、貴女《あなた》のお言葉にも一理あるな。では、こうしよう。私もあえて戦《いくさ》は望まぬ。よって、レイン殿が保証する貴女《あなた》の器《うつわ》を見せていただき、その結果に納得できたら和平を結ぼうと思う。いや――それどころか、心強い友人として当初の予定通り、ぜひ同盟など結びたい」
「ほんとうですか!」
たちどころに乗せられ、シェルファは胸の前で繊手《せんしゅ》を組んだ。
レインが「和平を結び、なおかつ同盟を結ぶのが最終的な目標だ」と方針を語り、シェルファに許可を求めたのを、彼女はもちろん忘れていない。
多分、これでめでたくレインが言った通りになると思ったのだろう。
表情が明るくなった。
「わたくしも、それが一番良いと思います!」
ニコニコしてそう言った。
ただちょっと首を傾《かし》げ、
「でもあの……器《うつわ》を見せてほしいとは?」
これはヤバい!
主君ほど素直ではないレインは思った。
意地っぱりなフォルニーアが、そう簡単に折れるはずがないのである。つまり、なにか裏がある。
フォルニーアは懸念《けねん》するレインを皮肉っぽい目で見やり、
「なに、大したことではない。ごくごく簡単なことですぞ。というのも――」
予想通り、わがままな女帝はエラそうに腰に手を当て、とんでもないことを申し出た。
――☆――☆――☆――
なぜか、彼女の持ち出した条件に難色《なんしょく》を示したのはレインだけだった。
どう考えてもヤバい提案だと思うのに、当のシェルファを初め、最も反対すると思われたラルファスでさえ、あっさりと了承した。
ジョウ達とシェルファだけを残し、皆がやや離れると、レインはその点をラルファスに問い正した。当然である。
「おい。どういう気だ。なんで止めなかった?」
「なぜ止める必要がある? これで和平と同盟が成るなら安いものだろう」
こいつ、間食に腐った卵でも食って、それに当たったのと違うか?
一瞬、レインは本気でそう思い、友の顔を穴が開くほど眺めた。
ラルファスは楽しそうに破顔《はがん》した。
「なんて顔をしている、おまえらしくもない。いかに知恵者といえど、理解の及ばないことはあるのだな」
「おまえな――」
「いや、ラルファス様の言う通りですよ。将軍が保証しさえすれば、大丈夫ですって」
さっきまで、「ああっ、下手すれば戦《いくさ》に! 自分は……自分は怖いですうぅ!」という顔つきで怯《おび》えていたくせに、レニがそんなことをほざく。しかも、ガサラムやセノアまでが、その横でしきりに頷《うなず》いているのだ。
グエンやナイゼルがラルファスに追従《ついじゅう》するのはわかるとして、こいつらまで賭けに乗るとは。
「……おまえら、俺の説明を聞いたか? 確かに俺も、あいつのを見たわけじゃないが、術のことなら知っている。アレはそれなりに完成した、つまりは侮《あなど》りがたい術だぞ。無論、俺には通用しないだろうが、おまえ等だったらあっさり冥界《めいかい》行きだ」
「けど、将軍の説明通りなら、姫様には効果ないでしょうとも」
ガサラムがヤケに自信たっぷりに言う。
『始めてもいいかな?』
ジョウが落ち着いた声音《こわね》で呼びかけ、レイン以外の全員が頷《うなず》いた。
なんとシェルファまでもが。
というか、真っ先に彼女が「はい」と返事をした。――ニコニコ顔で。
レインは我慢ならなくなり、大股で引き返し、シェルファに囁《ささや》きかけた。
「おいチビ、無理してないか? 今ならまだ間に合う。なんなら、俺が上手く断ってやるぞ」
シェルファはレインの瞳をじっと覗《のぞ》き込んだ。
「わたくしはレインを信じます……レインが保証してくれれば、大丈夫です」
「保証なら幾《いく》らでもするが。――しかしだな」
「それならへいきですよ、本当に……。あ、でも」
シェルファは、『いいことを思いつきましたわ!』という表情でレインを見た。
「心配してくれるのなら、その……き、キスしてくださいませんか。わたくし、きっと、とても元気が出ますもの!」
なにを言い出す、なにを!?
レインはあきれてシェルファを見やった。
そもそも――
元気が出ようと出まいと、この試みになんの関係もないのである。体調が悪かろうが良かろうが、寝たきりだろうがぴんしゃんしてようが、シェルファの自信が誤っていたら死ぬだけであって。
だがシェルファは、もうむちゃくちゃ期待した顔でレインをじっと見上げている。頬《ほお》を赤く染め、両手を胸に当てて返事を待っている。
レインは腰をかがめて一層、声を低めた。
「キスったって、周りでみんなが見てるんだぞ。それはいいのか」
「――まあ」
シェルファは、言われてみれば……という表情をした。
しかし、何度か真っ青な瞳を瞬《またた》いただけで、別に動揺もなく聞き返す。
「……少し恥ずかしいくらいで、わたくしはそれでもいいのですけれど。あの、まずいでしょうか」
これ以上ないくらい、まずいって!
口にしかけたそのセリフは、呑み込んでしまった。その辺の「君主としての立場的|配慮《はいりょ》」については、おいおい身に付くだろう(と望む)。
「……まあ、なんだ。まともなキスについちゃ、日を改めてだな、唇がふやけるほどしてやるから」
――今は我慢してだな。
と言いかけ、いや、こいつにこういうジョークを言うのはまずいな、と思ったところがもう全然遅く、シェルファはいきなりヒソヒソ声を止《や》めて、この少女にしては最大級の声を張り上げた。
「本当ですか! してくれるのですかっ」
――してくれる?
してくれるって、なにをするんだっ。
そんな、猜疑心《さいぎしん》まみれの視線が、全方位的に殺到《さっとう》してきた気がするレインである。
「まあ、その話は今度な。おまえ、自分の命がかかってるの、ちゃんとわかってるか?」
「ですから、それならへいきです。それよりわたくしは、こちらの方が気になります。お風呂《ふろ》場でいっぱいキスしてくれる約束も、まだ果たしてもらっていません……」
上目遣いで、軽く拗《す》ねたような顔をする。
つまらんことを覚えてる奴だなあとレインは思う。次からは、余計なコト言わんように気をつけよう。同様の決心はもう何度もしているのだが、なぜか歴史は繰り返すのである。
そっと息を吐き、シェルファの前に片膝をつく。
目の前の白い小さな手を取った。
「とりあえず、今はこれで我慢しといてくれ」
拗《す》ねた姫君の手の甲に、そっと唇をつけた。こういう、真っ当な騎士が貴婦人にやりそうな真似《まね》は、生涯せずに終わるだろうと思っていたのだが――
なかなかどうして、人生はままならない。
「……あっ」
シェルファの頬《ほお》が、またぽっと赤くなった。一応、機嫌は直してくれたらしい。
「あの術は、いわば敵の――つまりこの場合はおまえだが――おまえの心に直接攻撃を仕掛けてくる。本当は無害なんだが、偽《にせ》の攻撃を心が本当にしちまうんだ。だから、おまえが信じなければ、術は効力を失う。いいな、わかったな?」
「レインが保証してくれるなら、大丈夫ですよ」
まるで、母が物わかりの悪い幼児に言い聞かせるように、シェルファは辛抱《しんぼう》強い表情と声音《こわね》で、同じセリフを繰り返した。
そもそも彼女は、そんなことよりもレインがすぐに手を放してしまったことの方がよほど気になるようで、名残惜しそうにもう一度手を伸ばしかけたりした。
それに気付いてはいたが、レインはあえて思い切りよく立ち上がり、今度はフォルニーア達の方へ向かった。
「ちょっとここで待ってろよ。あいつらに言っときたいことがある」
フォルニーアが辛抱《しんぼう》強く待っていると、やっと話が終わり、レインが――なぜか彼だけがやってきた。
「準備できた……と思う。始めてくれ」
この男らしく、尊大に頷《うなず》く。
ジョウが返事代わりに、術をかけるべく集中しようとした。
ところが――
その場を離れかけたレインは、もう一度振り返り、ジョウではなくフォルニーアを見やった。
離れて見ている王女には聞こえぬ声で、囁《ささや》きかける。
「……今のところ、これは俺のミスだ。どうやら賭けるしかないらしい。だが、結果も俺のミスで終わったら――。その時は覚悟してもらおう」
いつものふてぶてしい笑みや自信に満ちた表情ではなく、凪《な》いだ水面《すいめん》のように静かで、落ち着き払った表情だった。その黒瞳《くろめ》の中に、果てしない虚無と哀しみが浮かんでいる気がする。
あるいは、これがこの男の本質なのかもしれない。
フォルニーアはそう思う。
そしてこの威圧感……こうして見られているだけで、底知れぬ畏怖《いふ》心を感じる。自分の体温が瞬間的に数度ほど下がったような、そんな本能的な怯《おび》えが足下《あしもと》から背筋へと走った。直接戦意を向けられ、初めてその強大さを思い知ったのだ。
それでも、フォルニーアは気力を振り絞って言い返す。
「この私を――脅す気かな、貴公は?」
「脅しだと?」
あくまで静かに、レインが返す。
「脅しというのは、実際はやる気がない時に使うことが多い。しかしあいにくだが、俺は本気だ。おまえのためにも祈っておいてやるぞ。神など信じていないが、一応はな」
すっと手を下ろし、剣の柄《つか》にかけた。
「世に悪名|轟《とどろ》く『傾国《けいこく》の剣』。かつてセレステアの民《たみ》を殺戮《さつりく》した時、この魔剣は千人の犠牲者を出したという……。そのイカれたヤツがどれほどの戦士だったかは知らんが、もしも今の俺が本気でこの剣の能力を引き出したら……一体、何人殺せるかな?」
フォルニーアは、今度こそなにも言い返せなかった。この男は基本的に策士《さくし》だと思っていたが、どうやらそれは甘かったらしい。
土壇場《どたんば》では、利害計算など度外視《どがいし》して動くかもしれぬ。正直、この試みが正しかったかどうか、わからなくなってきた。駄目《だめ》押しのようにレインが宣告する。
「万一の時は、シャンドリス全軍を血の海に沈めてやる……必ずな」
ぞくっと背中にきた。
勝ち気なフォルニーアが後退《あとずさ》りするほど、その宣告には凄《すご》みがあった。この男なら本当にやるだろう……不覚にも、そう確信してしまった。
と、レインの闘気《とうき》がいきなり消えた。
待ちくたびれたシェルファ王女がトコトコとフォルニーア達のそばへ寄ってくると(つまり、彼女に話が聞かれそうになると)、たちまち拭《ぬぐ》ったように影のある表情を消してしまった。
わざとらしく、「僕は虫一匹殺せません!」と言わんばかりのさわやかな笑顔を見せ、「じゃ、そういうことで。ごきげんよう」
などと勝手に話を切り上げ、歩き出そうとする。
「レイン!」
ジョウがその背中に声をかけた。
「なんだよ」
「姫君は君を信頼しておられるように思う。君も、少しはこの方に心を開いては――」
「あ〜、説教はいい」
レインは顔をしかめて手を振った。
「これも血筋か? おまえ、ラルファスに似すぎ」
ジョウですらどきっとするような言葉を返す。どうも、見抜かれているらしい。
「だいたいだなぁ、俺には誰かの信頼を得たり、好かれるような資格は――」
言いかけ、シェルファの顔つきを見て咳払いする。
「とにかく、さっさと始めてくれ」
今度こそ、離れて固まっている仲間のそばに行ってしまった。
フォルニーアとジョウは二人して顔を見合わせ、そっと息を吐く。
「……危険な男だな、あれは」
「はい。敵にしたくはありませんね」
誰かが口を挟んだ。
「レインは優しい人ですよ!」
フォルニーア自身と、それにジョウまで瞳を瞬《またた》いた。
見ると、すぐそばで王女が二人を見上げていた。そう言えば、彼女もいたのだった。
この姫君は「レイン教」の熱狂的な信者のごとく、キラキラした瞳でもう一度繰り返した。
「レインは、色々と誤解されやすいだけなんです。本当は、とてもとても優しい人なんです」
実に一生懸命に布教活動してくれた。
その夢見るような熱っぽい声を聞くだけで、この少女が己の言葉に絶対の確信を持っているのがわかる。
仮にフォルニーアが、「そのお優しい男に、私はたった今、『場合によっては覚悟しとけよ、こら』などと宣告されたのだぞ?」と教えてやっても、この少女の態度はなんら変わるまい。かえって、『わたくしのためにレインが……』などと感激しそうだ。
そしてこれも仮定の話だが――
同じ部屋に閉じこめられて、この調子で一日中レイン賛歌を聞かされていたら、しまいには疑い深い自分でさえ「レイン様に、一生ついて行きます!」などと口走りそうな気がする。
王女の言いようは、それほどに説得力にあふれていた。
フォルニーアはしばし王女を見下ろし、それからこめかみを手で揉《も》みつつ(頭が痛くなってきたのだ)、ジョウに手を振った。
「――さっさと始めよう」
ラルファス達とともに、離れた場所からレインが見守る内に、ジョウが目を閉じて集中を始めた。
レインは、平然とした表情のその奥で実はハラハラしていたのだが、敵はよりにもよってどえらいモノを出現させてくれた。
大気が揺らいだ後に、忽然《こつぜん》と現れた巨体……粗末な麻の布を衣服代わりに纏《まと》い、その服の隙間《すきま》にごわごわした体毛が覗《のぞ》いている。
にもかかわらず、頭はツルツルに禿げており、丸太のような手にイボ付きの棍棒《こんぼう》を下げていた。で、その棍棒《こんぼう》にしてからが、大人一人分くらいの大きさがある。
身長十メートル近い、その姿――
それはまさしく、逢《はる》か昔に滅亡したとされている種族――ジャイアントだった。
深い森などに棲むモンスターより、遙《はる》かに人間に近い種族だと言われるが、ほとんどの人間は嫌悪《けんお》の目でもって見るだろう。現に、レインは別になんとも思わないが、レニやセノアなどは無意識のうちにだろうが後退《あとずさ》りしている。
皆、鼻から口にかけて手で押さえているのでレインは不思議に思い、
「どうしたんだ?」
「わかりませんかぁ?」
レニがあきれた顔になった。
「ひどい臭いなんですよ。まるで、一年近く風呂《ふろ》に入らなかった中年男の体臭を、さらにさらに濃縮して、濃くした感じです。そんなのが臭ってきて――」
「そりゃひどいな、うん」
言いつつ、レインはレニを、それから他の仲間を皮肉な目で見やる。
「おめでとう。おまえらもう、半分はジョウの術にかかってるぞ。良かったな、この試みの当事者じゃなくて」
だからあれほど言ったんだ。
そう愚痴《ぐち》ると、ラルファスが尋ねた。
「あれで幻覚なのか」
「幻覚さ。俺は騙《だま》されん。どんなに上手く再現しようが、所詮《しょせん》はただの幻だ。もちろん、臭いもな。臭うはずのない体臭が臭うってのは、既《すで》におまえ達がアレの存在を信じかけてるせいだ。術のかかりがさらに深くなると、今度はヤツの攻撃までが実効性を持つ。さっき言ったろ。偽《にせ》の攻撃を、誰でもない、自分の心が本物にする」
「たいしたものだな」
そう呟《つぶや》いてから、大きく頷《うなず》いた。
「――うん。おまえの説明を聞いたら、あまり臭わなくなった」
「ホントかよ、おい」
レインは思わず、疑わしい目で友を見る。確かに「幻だ」とそう信じた瞬間に、魔力の効果は薄れるが。幾《いく》らなんでも、こちらの言うことをそんな簡単に信じられるものだろうか。現に、セノア達は相変わらず、顔をしかめて鼻をつまんでいる。いや、セノアも今、手を外した。
まあこいつらのことなど、今はどうでもいい。
正面に向き直り、わざと術に身を委《ゆだ》ねてみる。
ジャイアントは、汗にまみれた皮膚をてらてらと光らせ、濁った黄色い目でシェルファを見下ろしている。低い、遠雷《えんらい》そっくりの威嚇《いかく》の唸《うな》りが、ひび割れた巨大な唇から漏れている。
握った棍棒《こんぼう》を、ぎゅっと握り直した時にすら、微《かす》かな音がちゃんとした。ジョウの術は実に芸が細かいようだ。
レインの視線の先で、シェルファが振り返る。こちらをじっと見ている。鼻は押さえていない。
口元を手で囲い、声を張り上げた。
「この巨人さんは、幻覚なんですね? そこに存在していない?」
「そうです!」
すかさず怒鳴《どな》り返す。
落ち着き払い、自信に満ちた声になるよう、己の声音《こわね》を調整する。状況が状況なので、なかなかに難事《なんじ》だった。
「足音がしようが、唸《うな》り声がしようが、汗くさかろうが――。それは全部、魔力によるまやかしです。幻だとわかっていれば、絶対にそれ以上の効果は及ぼせません。魔法に精通《せいつう》した俺の言葉を信じてください、今だけでもいいから!」
最後の方は、懇願《こんがん》するような口調になっていた。自信に満ちた声どころではない。
そしてシェルファは――
少し寂しそうな、それでいて微《かす》かに拗《す》ねているような、そんな複雑な微笑《ほほえ》みでレインを見返した。
「いつの日か――」
言いかけて、レインの背後のラルファス達を見る。
普通に話すのをやめ、誰にも聞こえぬような、吐息《といき》に等しい声音《こわね》で後を続ける。
しかし、人を超えた聴覚を持つレインには、ちゃんと聞こえた。
『いつの日か――。わたくしのこの想いが、レインに届きますように……』
その囁《ささや》きを最後に、正面を向く。
待っていたように、猛《たけ》り狂《くる》った咆吼《ほうこう》を上げ、ジャイアントが足を振り上げる。シェルファを踏みつぶそうというのだ。――仲間がどよめく。
背後のどこかでグエンが、「お、王女さまっ」と悲壮《ひそう》な声を出した。
もちろん、双方の軍勢《ぐんぜい》からも静かな悲鳴が上がっている。
レインは歯を食いしばり、無意識に魔剣の柄《つか》に手をやった。そして、彼女の周囲が突如《とつじょ》として陰《かげ》った。馬鹿でかい足が陽光《ようこう》を遮《さえぎ》ったせいだ。だが、シェルファはそっと両手を広げただけで、よけようともしない。後ろから見る限りでは迫り来る大足を見上げたようだが、表情まではわからない。
だが、多分あのチビは微笑《ほほえ》みを消していないだろうな、とレインは思う。いや、確信する。
大音響とともに足が振り下ろされ、シェルファの姿が消えた。
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第四章 最後の勝利者
一触即発《いっしょくそくはつ》だったあの日は、まさに夢のごとし。
楽士《がくし》達が奏《かな》でる楽器の音が、大広間にゆったりと流れている。百人は楽に入れる部屋の中には、サンクワールとシャンドリスの主《おも》だった騎士達が一同に会《かい》して談笑していた。
それと、着飾ったサンクワール貴族の女性達も部屋に花を添《そ》えるように集《つど》っている。
ただし、今のところそれぞれの国同士にはっきり分かれて固まってしまい、なかなか打ち解けないようではあるが。
無理もあるまい、とレインは思う。
とにかく、少し前まで敵同士だったのだから。だが、セイルのように、もはやなんのわだかまりも持たない男もいることだし、遠からず本物の盟友《めいゆう》になれる日も来るだろう。
こちらもやっと王都を回復して、主城《しゅじょう》のガルフォートに戻れたことだし。
――というわけで。
あわや戦《いくさ》となるはずだった両軍は、今や手に手を取る同盟軍と相成った。
フォルニーアという君主には欠点も多かろうが、恨《うら》みを引きずらないというのは、まあまあ認めてやってもいい美点だとレインは思う。なにしろ、シェルファがあっさりと『ジョウの術』を破ると、以後彼女は完全に自儘《じまま》な態度を捨て、見違えたように好意的になったのである。
自分から「ひどくご迷惑をかけた。この通り、謝罪する」と頭を下げたし、「これからは、共に道を行く盟友《めいゆう》となってもらいたい」とこれまた自分から申し出た。それはもう、あれほど我《が》を張っていたのに、あっさりと。
あの試みのお陰《かげ》で、フォルニーアも多少はシェルファを見直したのかもしれない。
「これでめでたく、全て世はこともなし――だ。俺、そろそろ部屋に戻って寝るかなぁ」
部屋の隅で『壁の花』と化していたレインは、聞く者によっては謎なセリフを呟《つぶや》き、酒の入ったグラスを呷《あお》ると他人事のように広間を見渡した。
そろそろ、シャンドリスの無骨《ぶこつ》な騎士達も決心がついたようだ。
ドレスアップしたサンクワール貴族の淑女《しゅくじょ》達に(もちろん、全員が反サフィール派)そっと近寄り、ダンスのお相手を申し込む光景が、あちこちで見られ始めた。
むさくるしい上級騎士が、恥ずかしそうに女性の手を取るのを見るのは、なかなかに微笑《ほほえ》ましい。というか、はっきり言って笑える。全然似合ってないヤツがほとんどだし。
まあそれはともかく、両国の親睦《しんぼく》を深める為に催《もよお》された舞踏会《ぶとうかい》も、どうやら成功しそうな雰囲気だった。
ちなみにこれを提案したのはレインであり、彼自身は内心で、
『とにかく綺麗《きれい》どころ(貴族女性)をわんさか呼んで、ヤツら(元敵のシャンドリス軍)のわだかまりを吹っ飛ばしちまえ作戦』
――と命名している。
手っ取り早く友好を深める、素晴らしい作戦である――そう自負していた。
サンクワールの貴族女性をしこたま呼んだのは、要は酒場で看板娘を接待に出すようなものである。しかし、魂胆《こんたん》見え見えの作戦名を言うと向こうは怒るだろうから、表向きは単なる舞踏会《ぶとうかい》とした……そういうことだ。
いずれにせよ、どうやら上手くいきそうなので、もう自分の役割は終わった。
そう思って踵《きびす》を返した途端《とたん》、フォルニーアとジョウがこちらにやって来た。
ジョウはいつもより飾りの多い、白い絹服。フォルニーアは真っ赤なドレスで身を飾り、二人ともめちゃくちゃ目立っていた。
フォルニーアが呼び止める。
「レイン殿、どこへ行かれる? ようやく皆が打ち解けだしたところだというのに」
レインは、上品この上ない声音《こわね》でもって答えた。
「いえ。私はこのように華やかな場には似合わぬ武辺者《ぶへんもの》ゆえ、これにて失礼させていただきます。陛下におかれましては、どうぞごゆるりとお過ごしください」
まじめくさって一礼し、そう返すと、フォルニーアはぽかんとして見返した。一拍の間を置き、顔を上げてからからと笑い始める。
……やはり、淑女《しゅくじょ》というより勝ち気な女君主のタチらしい、こいつは。
ていうか、そんなにおかしいか?
「き、貴公はほんっとに愉快な男だな。今更、そのような敬語など使ってなんとする? 人には向き不向きがあるのだ。普通にしゃべるがよいぞ」
「しかし、そうもいきますまい。せっかくの此度《こたび》の同盟。陛下にも相応《そうおう》の敬意を払うべきかと愚考《ぐこう》する次第」
「やめておくがよい」
フォルニーアは目ににじんだ涙を拭きつつ、断言した。
「意外に、まっとうな騎士ぶりも似合うのかもしれぬが。しかし、私はいつもの貴公の方が好きだな。もうそっちの方に慣れた。だから、ぜひそうしてくれ」
「そうか。ならやめだ、やめ。笑われてまでやってられるか、馬鹿らしい」
むすっと肩をすくめ、レインはたちまちいつもの口調に戻った。
自分だって、敬語など使うのはめんどくさくてごめんである。
「それにしても――」
今度はジョウがしげしげとレインを見る。
「君は、戦場で出会っても舞踏会場《ぶとうかいじょう》で出会っても、常に同じ格好《かっこう》だな。そこまで信念を通すのはたいしたものだ」
人の服装を眺めて、そんなことを言う。
こいつ、斜め方向からのイヤミか、それは?
そう思ったが、ジョウはあくまで真面目《まじめ》な顔である。どうやら正直な意見らしい。
「おまえ、まだまだ素人《しろうと》だな。これはな、いつもの同じ黒シャツ、同じ黒ズボンに見えて、実は普段よりも上等の生地《きじ》を使った俺のパーティー用の服装だ。言っとくが、安もんじゃないぞ」
熱心に主張したものの、フォルニーアとジョウは同時に「同じ格好《かっこう》にしか見えない」ときっぱり言ってくれた。
レインがむっとしたのは当然である。
「……話のわからないヤツばっかりだ。もう戻って寝ることにする」
「まあ待つがよい」
なだめるようにフォルニーア。
「そもそも、貴公はここで誰かを待っていたのではないかな。勝手に部屋に戻ってよいのか?」
「よくわかったなぁ。さてはチ……いや、姫様に聞いたな?」
「さよう」
にやにやしながら頷《うなず》く。
「昼食を共にしたが、たっぷりと貴公のことを聞かされたぞ。今晩のこの会も楽しみにしているようだった……すっぽかすのはまずかろう」
「俺、あまり踊りなんか踊るタチじゃないんだが」
「まあそう言うな。たまにはよかろう。……ぜひお相手を願いたいが、私は予約済みでな。貴公と踊る楽しみは、またいつかの為にとっておくとしよう」
最後に妖艶《ようえん》な流し目などくれ、フォルニーアがジョウを促《うなが》す。
二人が遠ざかる前に、レインは付近に人がいないのを確認し、そっと呼びかけた。
「ジョウ・ジェルヴェール」
ぴたっと主従《しゅじゅう》の足が止まる。なぜか同時に立ち止まったのが印象的である。
落ち着いた顔で振り返ったジョウが、淡々と返した。
「その男はもう死んだ」
「そうか? 伝承を伝えた記録には、そんなことは一言も書かれていないぞ。ただ、ジョウ・ジェルヴェールの活躍ぶりが盛大に記載されているだけで。無論、最後は乙女達の涙とともに、ジョウが何処《どこ》かへ立ち去るシーンで終わるわけだ」
ちらっとフォルニーアがジョウを横目で見やり、ジョウ自身も咳払いなどした。
「では、言い直そう。その男は死んだことになっている。君なら心配あるまいが……一応、あまり他へは漏《も》らさないでくれ」
「安心しろ。人の秘密を無闇につつく趣味はないし、サインを頼むつもりもない。必要があるんで訊いているだけだ。日を改めて後で色々と話を聞きたいもんだが、とりあえずは一つだけ。おまえには魔人《まじん》の血が流れている……少なくとも半分は。どうだ、そこんとこは?」
「その通りだ。母親が魔人《まじん》だった。もう亡くなってしまったが。……よくわかったな」
「まあ、俺は一度、本物の魔人《まじん》に会ってるからなあ。あれは忘れようのない、独特の気配《けはい》だったし。なんだかんだ言っても、おまえはどこか人間臭いんだが、それでも……な。それに、呪文《じゅもん》もなしに魔法使ったりしてたろ、おまえ」
「ちょっといいかな」
フォルニーアが口を挟んだ。
「ちょうどいいので、訊いておきたい。私もシェルファ殿より聞いたばかりだが、貴公はレイグル王と一騎打《いっきう》ちに及んだらしいな。彼は、間違いなく本物の魔人《まじん》だったのか」
「間違いないね。あんな人間がいてたまるか。そもそも、普通の人間が心臓|貫《つらぬ》かれてケロっとしていられると思うか? しかも、傾国《けいこく》の剣でだぞ?」
フォルニーアとジョウは黙って顔を見合わせた。
やがてジョウがポツリと、
「ならば、彼は魔人《まじん》の中でも特に強い力を持っているのかもしれない。少なくとも私がかつて相手にした魔人《まじん》達は、そこまでの強敵ではなかった」
「本当か! それなら、まだやりようはあるな。あんなのがゴロゴロいるようじゃ、この俺はともかく、他のヤツはさすがに困るだろうと思ってた」
「それはそうだ。しかし、魔人《まじん》を甘く見るのは間違いだぞ」
ジョウが厳しい表情になった。
「君には言っておく。かつてあった魔人《まじん》との戦いだが、巷間《こうかん》の伝承とは違い、人間側は決して――」
「――決して、魔人《まじん》達に勝利したわけじゃない。そう言いたいんだろう。違うか?」
レインが後を引き取ると、ジョウが、そしてフォルニーアまでもが目を見張った。
「……知っていたのか」
「そんな昔のことなんか知るか。ただの勘だ。だいたいなんでみんな、伝説のいいトコばかりを信じるかな。俺にはそっちの方が謎だね。ちょっと考えれば、魔人《まじん》が簡単に絶滅するはずがないって分かりそうなもんだ」
そもそも、魔人《まじん》がいつこの大陸に登場したのか、それすらはっきりとはわかっていないのである。大陸の歴史上、初めて彼らが登場するのは、実にあの大戦の直前になってからのことなのだ。
以上のことをレインが述べると、ジョウは大きく頷《うなず》いた。
「どうやら君は、想像以上に真実に近付いているらしい。ならば、君が一番訊きたいであろうことに、先に答えておこう。彼らは自ら戦いを止《や》め、いずこともなく去った。後《のち》に『聖戦』とも『覇権戦争』とも呼ばれたあの戦いの真相は、そういうことだ」
「つまり、どこへ去ったのか、そこで今なにをしているのか、そもそもどうして人間との争いを突然|止《や》めたのか――そこら辺は、全部わからないってことか?」
「情けないが、そういうことだ」
「母親はどうした、母親は?」
「……母は、私に多くを語らないまま、大戦の前に亡くなってしまった」
「そりゃ……アテが外れたな。おまえに訊けば、色々とわかるだろうと思っていたんだが」
レインは天井を仰《あお》いだ。これでまた、振り出しに戻ってしまった――そう思ったのだ。
フォルニーアが取りなすように割り込む。
「いずれにせよ、レイグル王が魔人《まじん》の一人ならだ、あるいは彼らは、気まぐれにもまた人間達に挑戦する気なのかもしれぬ。そこで疑問だが、ザーマインの民《たみ》は彼の正体に気付いていると思うか?」
「まだだろうな。しかし、どのみちそっちは時間の問題だと思う。おそらくあいつは、機会を捉《とら》えて自分から大々的にぶちまけるだろうよ。『俺は魔人《まじん》だ』ってな。それはそんなに遠くない――」
言いかけ、レインは言葉を切る。
まとわりつくエレナに無理矢理腕を組まされた、という様子のラルファスが入場してくるのを見たからだ。
「まあこの話は、日を改めてしよう。今日は軍議のために集まったわけじゃないしな」
「うむ。私も君とはゆっくり話す機会を持ちたいと思っていた」
「右に同じく、だな」
主従《しゅじゅう》はレインに好意的な微笑《ほほえ》みを浮かべた後、こちらにやってきたラルファス達に向き直った。
お互い丁寧に挨拶《あいさつ》を交わし、二人とも今度こそ離れて行く。他の者にも挨拶《あいさつ》を述べに行ったのだろう。皇帝ともなると、なかなかに人気者だ。
「なんの話をしていたんだ? 随分と深刻そうだったが」
ラルファスが首を傾《かし》げる。
「いや、ちょっと現代の世界情勢についてな」
一応嘘ではないが、本当とはとても言えないセリフでもって、レインはごまかした。エレナの耳があるところで先の話などすると、またこの女が騒ぐに決まっているのである。
いきなり話を変えてやる。
「それはそうと、おまえら似合いのカップルだとさ。褒《ほ》めてたぞ、ヤツら」
「そ、それは本当なの、おまえ!」
ラルファスより先に、エレナががなり立てた。レインを見るなりあからさまに嫌《いや》な顔をし、ぷいっとそっぽを向いていたくせに、どうやら無視しきれなかったらしい。
こいつは、白地に赤いバラの刺繍《ししゅう》が所々に散っためまいがするほどド派手なドレスを着込んでおり、しかも例によって豊満な胸の半分以上が景気よくこぼれている。見た者があきれて、三日は語り継《つ》ぎそうな格好《かっこう》である。
飾り気のない質素な白い礼服姿のラルファスとは、対照的だった。
「ちょっと、なにをジロジロと見ているのです! あいにくだけど、おまえなどと馴《な》れ合う気はなくてよ」
「そりゃ有《あ》り難《がた》い。ぜひそう願いたいもんだな。おまえも、眺めるだけなら、なかなか笑えるからいいんだがなぁ――付き合いとなると、もはや考慮《こうりょ》する余地も無いっていうか」
「なんですってえ!」
「よさないか、エレナ。レインの言いようにいい加減に慣れることだ。……先のセリフは、君をからかったんだよ」
「さ、先のセリフって、今のとその前のと、どっちですの」
両方だろうね、とラルファスは困ったように言い、レインに向かっては、
「エレナはあまり冗談に慣れてないんだ。その辺にしといてやってくれ」
「ジョークが嫌いとは、人生損してるな。まあそんなことはいい。それより、ラルファス。唐突《とうとつ》だがフォルニーアが帰国する時、土産《みやげ》にいくらか金を贈りたいと思うんだが……おまえから彼女に伝えてくれないか」
「本当に唐突《とうとつ》だな」
ラルファスはあきれたような顔をした。
「王女様の許可を取っているのならそれは構わないが……なぜまた金銭など?」
「姫様には、もう話は通してある。つまりこういうことだ」
育ちのいいこの友人にも理解できるよう、レインは出来るだけ分かり易く説明した。
――エレナには聞かれないよう、わざわざ耳元で囁《ささや》いて、だ。
「俺達と同盟を結んだ事実は置いておいて、フォルニーアの今回の出征《しゅっせい》は、結果的にシャンドリスになんの利益ももたらしていない。領土が手に入ったわけじゃないし、お宝が手に入ったわけでもない。
シャンドリスにも人は多い。中には先の見えない、度量《どりょう》の狭いヤツもいるだろう。そんな奴らが、そこら辺を陰でグチグチ言うかもしれない。まさかとは思うが、あいつの支持率が下がる事態にならないとも限らない。そうなると俺達にとってもまずいだろ? 盟友《めいゆう》となった以上、フォルニーアにはぜひとも、シャンドリスの人気者でいてもらわないと困る。
そのためにも俺達がひと肌脱いでやろうってわけさ。『同盟祝い金』って名目なら、金を贈るのはそう不自然なことでもない……他国でも例がある。先に同盟を持ち出したのは向こうだし、こっちもその祝いにってな。いわば、俺達がフォルニーアの『遠征の成果』を作ってやろうってわけだ。金額にかなり色を付けて。幸い、俺達は資金だけは豊富だし。――どうだ、賛成してくれるか?」
ついでに、予定している金額も教えてやった。これくらいは出してもいいだろうと。
黙って聞いていたラルファスは、感心した表情でじっくりとレインを見返した。
「……なるほど。いや、私には考えの及ばなかったことだ。もちろん賛成する。しかし、なぜ私の口から言わせる? おまえがフォルニーア殿に言えば良かろう」
「俺はあいつに――いや、他の色んなヤツに、策士《さくし》だと思われているからな。策士《さくし》ってのは、基本的に人に警戒されるのさ」
レインは自嘲《じちょう》気味に笑った。
「こんな話を持ちかけてみろ。必ず、なにか裏があると思われる。どうせジョウが真意を見破るだろうが、それでも持ちかけるのはおまえの方がいい。少なくとも、おまえの誠意は本物だしな」
「そうか……よくわかった」
微笑《ほほえ》みを含んで、ラルファスはレインの二の腕辺りを軽く叩いた。
「だが私は、昔はともかく、今はおまえを警戒などしていないぞ。天に誓って本当だ」
「知っている。だから俺達は、こうして友人でいられるんだ」
何となく入り口の方など見やり、レインはぼそっと言った。こんなセリフ、真顔で言えたものではない。
とそこで、それまでなんとか大人しくしていたエレナが、やっぱり騒ぎ始めた。
「ちょっと。二人してなんの話ですの。おまえ、ラルファス様だけに囁《ささや》いたりして、感じ悪いですわよ! 我が君になにを吹き込んでいたんですのっ」
「知りたいか?」
肩を怒らせてエレナが頷《うなず》く。
レインはしれっと、
「高慢《こうまん》な巨乳女とすっぱり別れられる、俺の秘策だ」
「――!」
赤から青、そしてまた激情の赤へと。エレナの顔色が見事なまでに変化を遂げる。
あ〜あ、また一人、敵に回したか。
なんとなくそう思った。
もっとも、エレナは最初からレインを快く思っていなかったし、相容《あいい》れないのは当然かとも思う。
別にそれはいい。自分を嫌っている者など、大陸中を探せば、それこそ整理券を配れるほど多勢いるのである。それを考えれば、今更だろう。
横でぎゃんぎゃん非難するエレナと、それをなだめるラルファス。二人の声も、レインは半《なか》ば聞き流している。そのうち、ラルファスがエレナを引きずるようにして離れて行ってくれた。
それにしてもあのチビは遅い。
時間を決めておかなかったのはまずかったかもしれない。
女というのは、どうして身|繕《づくろ》いにこれほど時間がかかるのか。まさか、下着まではきかえてるんじゃなかろうな。
とはいえ、あいつが白以外のをはいてるのなんか、見たこともないが。
などと失礼なことを考えているうちに、ようやくシェルファが姿を見せた。
彼女は、護衛役のガサラムに付き添《そ》われるようにして入り口を抜け、あっという間にレインを見つけた。こちらを真っ直ぐに見て、にこっと微笑《ほほえ》む。
細身《ほそみ》の身体によく似合う、純白のドレス姿で、ふわっと広がったヒラヒラのスカートが可愛《かわい》い。どこに出しても恥ずかしくない、お姫様ルックでのご登場だった。
ところがガサラムは全くいつもと同じ格好《かっこう》で、レインを見てニヤリと笑い、親指を立てた。
なんの真似《まね》だ、それは? レインが眉をひそめると、親父顔のガサラムはそのまま、のしのしと去ってしまう。
どうやら舞踏会《ぶとうかい》に参加する気はないらしい。
確かに、参加してるのは貴族ばかりだが、レインのような例外もいる。遠慮せずに交《ま》ざればいいだろうに。それとも、性《しょう》に合わない……そういうことだろうか。あのガサラムなら、そっちの可能性の方が高いかもしれない。
「ていうか、俺だって性《しょう》に合わないんだがなあ。一人だけ逃げくさってからに」
「なんのお話ですか?」
優雅に歩いてこちらの目前に立ったシェルファが、小首を傾《かし》げる。
全く癖のない長い金髪の一本一本が、微《かす》かな細首《ほそくび》の動きに応じて豪奢《ごうしゃ》な煌《きら》めきを見せた。
そして、空の青さを映したような大きな瞳は、覗《のぞ》き込んでいると言葉を失ってしまうほどに澄みきっている。
例によってまるで化粧の必要もない美貌《びぼう》だが、今日はまたドレスアップの効果か、レインの目にさえまぶしく映った。この先どこまで美しく育つかと思うと、末恐ろしいかもしれない。
「いや。俺にはこういうイベントは似合わないって言いたいわけだが。――しかしおまえ、ちょっと成長したんじゃないか? たった数ヶ月でそれはないか」
「え、本当ですか。そうだと嬉しいです。わたくし、背が低いですし。早くレインと釣り合える高さになりたくて」
いや、本人が言うほど低くはない。第一、今言ったのはそっちじゃなくて胸のことであって。
言いかけたものの、レインは首を振って発言を控えた。
まあ、そう見えるのはぴったりしたドレスのせいだろう。それに、舞踏会場《ぶとうかいじょう》でする話ではない。
距離があるのでまだ声は届くまいが、みんながチラチラこちらを見ているのだ。シャンドリスの男共は特にシェルファを。
半分冗談とはいえ、親父くさいセリフを垂れ流している場合ではないのである。
「ところで、さっきの続きですけど。この催《もよお》しを始めようと言ったのはレインですよ」
黙り込んだレインを気にした様子もなく、シェルファは明るく言う。
「せっかくの夜ですもの。たまにはレインも楽しんだらいかがですか。……さあ」
当たり前のように自分の手が握られるのを、レインはむ、という思いで見下ろした。
どうやらこのチビにとって、自分のダンスの相手が俺だというのは、もう決まり切った事実になっているようである。
これでは、当初考えていた「誰かふさわしい相手を探してエスコート役を押しつけよう」というもくろみは無理っぽかった。
ならば、最後の手がある。
「……なあ。いま思ったんだが、ここは好奇心まみれでジロジロ見るヤツが多すぎる。二人だけ抜け出して、他で踊るというのはどうだ」
レインがそう持ちかけると、シェルファはきょとんとした顔をした。
「レインはそんなの気にしない人だと思っていました。わたくし、レインがそばにいれば、不思議と他の方の目ってあまり気にならないんです。……でも、もしそうしたいのなら」
賛成はしたものの、シェルファは本当は移動したくなさそうだった。
まあ、ここにはリュートを奏《かな》でる楽士《がくし》の一団も来ているわけで、踊るのにこれ以上ふさわしい場所などあるはずもなかった。
というわけで、どうやら白状するしかないらしい。
レインは降参のため息をつく。
「いや、なんというか。今日に限っては、さすがの俺も他人の目を意識しなきゃいけない訳があってな。――おまえ、秘密を守れるか?」
「もちろんです。なんでしょう」
秘密と聞いて、シェルファはわくわくした目をする。
レインは彼女の耳に口を寄せ、重々しく囁《ささや》きかけた。
「いいか、絶対に内緒だぞ。実はな……俺は踊れない」
顔を離し、一つ頷《うなず》く。
シェルファはしばらくまじまじとレインを見返していたが、やがてその顔がじわじわと笑顔で覆われていった。
「天才的な運動神経と、反射神経の持ち主のレインが?」
「運動神経良くても、一度も踊ったことなかったら踊れるわけないだろ」
「では、わたくしが教えて差し上げます! さあ、行きましょう!」
「おい、ひっぱるなって。だいたい、中央に行ってどうする? 踊れないのに。端っこでいい、目立たん端っこでっ」
そもそも、なに嬉しそうに笑ってんだおまえは。スカートめくるぞ、こら。
腕を引っ張られ、反抗期のガキのようなことを思った。それと、シェルファに踊り方を習っていたら、どのみち他のヤツに俺が踊れないのがばれるではないか。
部屋の隅で演奏していた楽士《がくし》達は、最初からこちらに注目していたに違いない。シェルファがレインの手を無理矢理取って、踊りの形に持っていくと、にわかに曲目を変え、ムーディーなよりダンス向きの曲を演奏し始めた。
本格的な宴《うたげ》が始まってしまった。
皆、それぞれのパートナーとともに、体をびったしくっつけて、恋人同士のように踊っている。
まだ持っていたグラスを給仕に返しつつ、レインは「うえっ」と思う。
シェルファもまた、腕をレインの体に回し、密着状態で囁《ささや》いた。
「レインならすぐ覚えられますよ。わたくしの足の運びを真似《まね》てくださればいいんです……」
あきらめの境地に達し、レインは言われた通りに足を動かす。周囲の視線が死ぬほど痛い。
俺は、こんな所でなにをやっているのか。
だいたいこのチビは、なんでこんなに軽やかに踊れるんだ。
「ダンスやお歌は、学問と同様で、無理矢理習わされていましたから」
訊いてみたら、シェルファはそう答えた。
「そうか。……おまえって、歌って踊れる姫君だったんだな」
レインの間抜けな応答にも、シェルファは微笑《ほほえ》んだのみだった。あきらめて学習に専念する。
――宴《うたげ》が終わるまでに、何度もシェルファの足を踏みそうである。
まあ、たまにはいいか。
そのうち、レインも強《こわ》ばった顔に苦笑を浮かべた。
まだサフィールとの戦いが残っていることだし。
束の間の休息くらいは構わないかと思う。どうせ、明日にでもまた馬に飛び乗って、先行した軍を追わないといけないのだ。
――☆――☆――☆――
ある貴族の成り上がりから没落《ぼつらく》までを、この俺ほどに間近で眺める羽目《はめ》になった男はいないのではないか。
すっかり閑散《かんさん》としたグレート・アークの城内を歩みつつ、ルディックは自嘲《じちょう》気味に笑った。
人の心が変わりやすいのは常のことだが、世に、戦《いくさ》に敗れた貴族ほど見放されやすい者はいまい。つい先日まで一万を優に超えていたサフィール派は、シャンドリスとの戦《いくさ》に敗れたことで、文字通り四散《しさん》してしまった。いわば、サフィールは見限られてしまったのだ。帰城後の兵の逃亡も相次いでいる。
おそらく皆、こう考えたに違いない。
王女一派との戦いでは、シャンドリス軍は劣勢《れっせい》を強《し》いられた。なのにそのシャンドリス軍にすら、サフィールは完敗を喫《きっ》した。
そのような不甲斐《ふがい》なき者が、どうして最終的な勝利を収めることができるだろう――と。
無理もない結論だと、ルディックでさえ思う。
まずは奴隷《どれい》のごとくこき使われていた平民出の兵士達が離散《りさん》し、このグレート・アークにまで落ち延びてきたのは、ほとんどは貴族か、あるいはその一党に連なる者達ばかりである。
つまり、前線で実際に戦えるような者達ではないのだ。そしてその彼らでさえ、総数は五百に満たないだろう。
しかも、今のこの状態では――
ルディックは城内の回廊《かいろう》を歩きながら、微《かす》かに首を振る。放った物見《ものみ》の連絡によると、王女一派は、部隊を十分に休ませた後、すぐにこの国境付近の北部地方に兵を先発させたらしい。
レインやラルファスといった主要人物は、王都を取り戻した後の戦後処理や、シャンドリス側に捕虜《ほりょ》を引き渡したりフォルニーアを接待する必要があって、なおしばらくは王都に留まっていたようだが、彼らもすぐに自らの部隊を追って出立《しゅったつ》することだろう。
全ての作戦の指揮立案をしているのはレインに相違《そうい》ないが、彼はまるで時間を無駄にしなかった。
もはや、明日にもここにやって来るに違いない。
我知らず足早になり、ルディックは最上階のサフィールの部屋の前までやってきた。
部屋の前に誰も立っていない。
どうも、警護の兵までもが逃げたらしい。
舌打ちを堪《こら》えつつ、仕方ないのでドアをノックする。
「陛下、ルディックです。お呼びだそうで」
「入ってくれ」
さぞかし怯《おび》えているだろうと思っていたのに、意外にしっかりした声だった。
首をひねりながら、言われるままにルディックは入室する。
そして絶句した。
サフィールは、白地に金色の紋章付きの上下の服をびしっと着こなし、腰には帯剣《たいけん》している。それはかつてのダグラス王が、よく謁見《えっけん》の間で着用していた服装に似ていた。
しかも、レインに片方|斬《き》られた、両サイドに垂れていた縦ロールの髪も両方ばっさり切り落とし、全体的に短く刈り込んで髪型をきちんと整えている。
表情にはいつもの浮《うわ》ついたわざとらしい陽気さも、そして傲慢《ごうまん》さも見えず、ただ静かに窓際に立ってこちらを見ていた。
今頃は飲んだくれてくだを巻いているか、それとも例の少女達でも抱いて憂《う》さを晴らしているだろう――ルディックのその予想は良い意味で外れていた。
「こ、これは陛下……」
目を丸くするルディックには構わず、サフィールはいきなり切り出した。
「ルディック。今日までのおまえの忠勤《ちゅうきん》に深く礼を言う。おまえのお陰《かげ》でこれまでなんとかやってこれたし、最後に侵略者を相手に一戦することも出来た。これ全て、おまえの助力に寄るところが大きい。私は良い臣下《しんか》に恵まれた……」
ほ、本格的に気が触れたか。
失礼は重々承知で、ルディックはそう思った。
しかし、サフィールの真っ青な瞳には、一片の狂気もなかった。ただただ感謝の光をたたえ、しんと静まりかえってルディックを見つめている。
妙に穏《おだ》やかな主人が、なおも続ける。
「翻《ひるがえ》って見るに、今のこの事態を招いたのは、実にこの私の責任だ。おまえを頼ることで安心しきってしまい、酒と女にうつつを抜かしてしまった」
自分でそう認めた時、サフィールの顔が苦しそうに歪《ゆが》んだ。
しかしすぐに冷静な顔つきに戻り、
「結果、こんな有様《ありさま》になってしまった。……君主として立ったからには、最後の責任は取らねばならぬ。ルディック、今日まで働いてくれた俸給《ほうきゅう》を支払う故《ゆえ》、おまえはもう城を出て良いぞ。おまえの能力なら王女一派でも喜んで迎えてくれよう。私が許す。ぜひにもそうしろ」
恥ずかしそうに笑う。
「……封土《ほうど》を恩賞としたいところだが、今の私にその力はない。せめて、金品くらいは受け取ってくれるな? 既《すで》に手はずはつけてある」
ルディックほどの男が、唖然《あぜん》としてとっさには受け答え出来なかった。
あるいはわざとこういう態度をしてみせ、ルディックの同情を引こうとしているのか。そんな疑いもちらっとだが湧いてくる。
だがサフィールはあくまでも淡々とした口調で、最後に小さく頭を下げた。
「ご苦労だった。この通り礼を言う……。では、おまえの息災《そくさい》を祈っている、ルディック。下がってよいぞ」
終始静かな表情で、頷《うなず》く。
引き留《と》める言葉はついに出てこなかった。
こうなると、ルディックも主人の本気を信じる他はない。
やっとの思いで唇を開き、
「し、しかし――。これから陛下はどうなさるのです!? もうすぐ、彼らが攻め寄せてきますよっ」
「うん、そうだろうな」
平然と首肯《しゅこう》する。
「私はもう覚悟がついた。残った者が幾人《いくにん》いるか知らないが、その者達と共に戦う。誰もいないなら、それはそれで構わぬ。一人で戦うまで。これまで私は上将軍《じょうしょうぐん》らしいことをほとんどしてこなかったからな、最後くらいは自ら剣を振るうさ……」
そう言って、サフィールは寂しそうに笑った。
それは、この貴族生まれの男がついぞ見せたことのなかった、邪念《じゃねん》のない透明な笑顔だった。
ルディックはやっと得心《とくしん》がいった。
この笑顔……この人は本気だ……本気で、死を受け入れておられる。
ルディックはしばらく沈思《ちんし》し、やがてきっぱりと口を開いた。
――ところが、そこへいきなりノックもなしに誰かが入ってきて、大声を上げた。
「陛下、シャダックです。朗報《ろうほう》を持って参りましたぞっ」
なんだこいつ、まだ居たのか?
ルディックは思いっきり顔をしかめ、横目で無駄に元気な騎士隊長を見やった。
まだ居たというか、まだ生きていたのすら少々意外だった。てっきり最後の突撃の際、戦死したものだと思っていたのだ。
しかし、シャダックはルディックになど目もくれず、得々として捲《まく》し立てた。
「お喜びください! 心強い味方が現れましたぞ。天は我らに与《くみ》しております!」
「どういう意味だ、シャダック。私は、既《すで》に死を覚悟していたのだが」
サフィールもさすがにとまどい気味である。
「なんの! まだまだチャンスがあります。死に急ぐことなどありませんぞ。王女一派に思い知らせてやれます」
だから、その自信の源《みなもと》はなんだっ。さっさと言え!
小鼻を膨らませて得意そうに胸を張るだけで、大事なことを少しも持ち出さないシャダックに、ルディックはいらいらした。
一言、言ってやるか。
そう思ったルディックだが、それどころではなくなった。
まだ閉まりきっていなかったドアから、思いもかけない人物が入ってきたのだ。それこそ、予想だにしなかった男が。
「シャダック、もういいぞ。私から話した方がよかろう」
朗《ほが》らかな声とともに登場したその男――細面《ほそおもて》の貴公子顔をしているが、その目つきは油断なく、常になにか企んでいるように見える。
かつての上将軍《じょうしょうぐん》の一人であり、ギレスとともにサンクワールを裏切った男でもある。
すなわち、ガノアだった。
彼は至って元気そうな姿のまま、呆然《ぼうぜん》とする主従《しゅじゅう》に軽く頷《うなず》いてみせた。
「やあ、サフィール殿。久しいな。それからおまえは……ふむ。確かルディックとか言ったな。此度《こたび》の敗戦、残念だったな」
その声で、ようやくルディックは我に返った。
表情を険しくし、かつての上将軍《じょうしょうぐん》に指を突きつける。
「気安く声をかけるな、この裏切り者めがっ。どこから入ってきた? いや、それよりだっ。よくぞ恥ずかしげもなく、故国《ここく》の地を踏めたものだ!」
「――なんだと? どこからもクソもあるか。凪《な》いだ大海を往《い》くように、ズンズン入ってこれたわ。落城間際の敗将のくせに、口だけは達者な」
陽気な顔つきだったガノアは、たちまち気分を害したようだった。元々、誰よりも身分意識の強い男なのだ。
「だいたい、先日までたかが百人隊長だったくせに、この俺によくぞそんな口がきけたものだ」
「かつての身分など関係ない。裏切り者はどこまでいっても裏切り者よ!」
火に油を注《そそ》いだようなものである。
ガノアはついに、剣の柄《つか》に手をかけた。もちろん、ルディックも負けてはいない。早速対抗すべく自らも腰に手を伸ばす。
ガノアは、貴族には珍しく腕前は確かだと聞くが、なんの、汚い裏切り者に負けてたまるかと思った。しかし、慌《あわ》てたシャダックが両者に割り込んできた。
「よ、よさぬか、ルディック殿。ガノア様も、ひとまず怒りを抑えられよ。陛下と話す方を優先してくだされ」
言われ、ガノアは渋々、手を剣から放した。
「シャダックの言うのも、もっともだ。貴様ごときを斬《き》り捨てるのは造作《ぞうさ》もないが、まずは役目を果たさせてもらおう」
もはやルディックを無視することに決めたのか、思い切りよくサフィールに向き直った。
「さて、サフィール殿。かつての友誼《ゆうぎ》もあることだし、私はいい話を持ってきた。貴公が敗走したのと時を同じくして、私は我が主《あるじ》レイグル様に貴公の苦境を話し、なんとか助力できぬものかとご相談したのだ。と、慈悲《じひ》深い王は貴公の立場にいたく同情を示し、一旦、ザーマインに亡命したらどうかと仰《おっしゃ》る。その後、貴公こそが『先王の後継者』であることを宣言し、我が国ザーマインに幾《いく》ばくかの兵を借り、失地回復を試みれば良いと。どうだ、いい話だと思うが?」
ガノアは遠回しに言わず、あっさりと要点のみを話した。
それはいいのだが――
よくもまあ、友人面してこんなドス黒い話を持ってきたものだ。
そばで聞いていたルディックはあきれた。
要するにこいつは、ザーマインの再侵略の手引きに来たようなものだ。仮にその話を呑んだところで、『サフィールの世』などは決して訪れまい。上手くいっても、ザーマインの傀儡《かいらい》政権として、名ばかりの王位を与えられるだけだ。
内情はどのみち、サンクワールがザーマインに隷属《れいぞく》することに変わりない。
おそらく、かのレイグル王はガノアにうるさく説かれ、「まあ、上手くいくならそれでもよい」ぐらいの気持ちで交渉を許可したのではあるまいか。交渉が成功すれば、労せずしてサンクワール貴族の兵力と財力が彼の元に結集し、侵攻が楽になる――そう考えたのかもしれぬ。
第一、失敗したところでレイグルの腹はなんら痛まない。
思うに、ガノアは自分の点数稼ぎのためにこんな話を持ってきたのだろう。同時に、ゆくゆくはサフィールを追い落とし、ザーマインの国力を背景にして自分がこの国を支配する気なのかもしれない。
――十分|有《あ》り得ることだった。
ザーマイン戦以後、レイグル王が人間ではなく魔人《まじん》である、という噂が将兵の間で広く囁《ささや》かれている。ルディックは胸クソが悪くなったし、かっと激しもした。仮にサフィールがこの話を呑もうと、自分は絶対に妥協せぬ!
そう覚悟を決めた。
とりあえず第一声として、
「気でも狂《くる》ったか、貴様! レイグル王は人間ではない、魔人《まじん》だぞっ。国を売る行為も行為だが、遙《はる》かに遠い昔、あれほど苦しめられた魔人《まじん》に膝を屈し、故国《ここく》を差し出そうというのかっ」
煮えたぎるような思いのルディックとは対照的に、ガノアは実に冷ややかだった。
「おまえの意見は、あさってにでも取っておけ。安っぽい正義心は犬にでもくれてやるんだな。第一、このシャダックは既《すで》に快く賛成し、私を迎え入れてくれた。サフィール殿も同様だと期待しているが?」
なおも非難しようとしたルディックから、ぷいっと顔を背ける。
例によってシャダックが、「まあまあ」などと二人を遮《さえぎ》った。
「ルディック殿、我らは陛下の臣《しん》。陛下の望みに従うのは筋ですぞ」
なにを言うか! 祖国を裏切ろうと謀《はか》る、この忘恩《ぼうおん》の徒《と》めが!
愛国心の高いルディックはそう思って唾《つば》を吐きたくなったが、いま少しだけ堪《こら》えることにした。
暴れるにしても、サフィールの言葉を聞いてからだろう。
彼の返事次第では、全員|斬《き》らねばならぬ。例え命を失うことになろうと、こんな企《たくら》みを座視《ざし》するわけにはいかない。自分は確かに敗軍の将に過ぎないが、それでも騎士としての誇りまで失った訳ではない!
そう覚悟を決め、きっと主人を見据《みす》える。
彼はぽけっとガノアの話を聞いていたが、今は窓際に立ったまま俯《うつむ》いて絨毯《じゅうたん》の模様など眺めている。まだ自らの意見はなにも述べていない。
皆がじりじりと待つことしばし――
ようやく顔を上げた時、なぜかほのかな微笑《ほほえ》みが浮かんでいた。
サフィールはいきなり、さっぱり関係ない独白《どくはく》を始める。
「今だから言うが、私は自分のことを女好きの酒好き、そして自分の保身に汲々《きゅうきゅう》とした卑怯な臆病者《おくびょうもの》とばかり思っていた。そう、日頃の大言にもかかわらず、本当は自分の性根《しょうね》の腐りようを知っていたのだ。だから私は、隠してはいたが、昔から自分があまり好きではなかった。好きになりたいと心底願っていたが、人は他人を騙《だま》すことは出来ても、自分自身を騙《だま》すことは出来ないものだ……」
なにを言いたいのだ?
ルディックも含め、他の三人は彼がなにを言いたいのかわからず、首を傾《かし》げた。
サフィールは構わず、どこか遠くを見るような目つきをした。
「人の真価は、生死のかかった場面で初めて明らかになるという。かつて先王陛下がご健在の頃、あのレインが陛下にそんなことを申し上げておったな。ヤツがまだ、百人隊長の頃だったか……不思議と覚えている……私の心に響いたのだ」
そこでサフィールは、猫背気味だった背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「それが本当なら、私は自らが値踏みした程には値打ちのない男でもなかったらしい。ガノアよ、私はおまえほどの悪人にはなれないようだ」
――しばらく誰もなにも言わなかった。
しかし、ルディックはじわじわと顔に笑みが広がっていたし、シャダックは呆然《ぼうぜん》としていた。そしてガノアは、食べ残した肉の切れっ端を見るような醒《さ》めた目で、かつての同僚を見返した。
「つまり、断るということかな」
「さよう!」
「……大局の見えんヤツだ。どうせこの国は、ザーマインの手に渡るのだぞ。遅いか早いかだけの違いだ。ならば形はどうあれ、まだサンクワールに縁のある者が治めた方がいいとは思わんか」
「思わないな。理屈は付けようと思えばどうとでも付けられる。それは所詮《しょせん》、詭弁《きべん》だと思うぞ。うん、かつて私もよく使った手だ」
サフィールがニヤッと笑う。
もう何の迷いもないようだった。
まだなにか言いかけたガノアの前に立ちふさがり、ルディックは重々しく告げた。
「陛下のご決断はかくのごとし! 本来は斬《き》り捨てたいところだが、今はザーマインを刺激するのは慎《つつし》まねばならん。疾《と》く去るがいい、ガノア」
ガノアは初めていらだちを露《あら》わにし、もう一度サフィールに向き直る。
「よいのか、本当に? このままでは、惨《みじ》めに殺されるだけだぞっ」
完全に恫喝《どうかつ》の口調で述べた。
サフィールは憑《つ》き物が落ちたようにどこか吹っ切れた様子であり、ガノアの脅しにも、むしろ晴れやかな顔で頷《うなず》いた。
「それでいい。……最後の最後に来て、私は初めて自分が少し好きになれた……はははっ」
「笑っている場合か、愚かなっ」
「帰れっ!」
ルディックは、今度こそ剣の柄《つか》に手をかけた。
「言われるまでもないわ」
ガノアは憎々しげに吐き捨てた。
「ここで貴様らを斬《き》ったところで、銅貨一枚にもならん。益の無い争いなどごめんだ。……そんなに死にたいのなら好きにするがいい」
全く、無駄足を踏んだものだ!
最後にそんな捨てぜりふを吐き、ガノアは未練なくさっさと部屋を出ていってしまった。
未だ呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていたシャダックが、うろたえた顔で彼の後を追おうとする。
「ま、待ってくだされ! 私も、私もお連れあれっ」
「待て、シャダック」
彼が足を止め、うるさそうに振り返ったところで、ルディックは静かに問うた。
「……陛下の望みに従うのが筋ではなかったのか。貴様、先ほどそう言ったばかりではないか」
一瞬、シャダックの坊ちゃん顔に後ろめたい表情が走った。しかし、それは文字通り、ほんの刹那《せつな》のことである。
急がないとガノアが帰ってしまうとでも思ったのか、それとも問答《もんどう》を続ける不利を悟ったのか、とにかくシャダックはなんら返答せず、さっさと身を翻《ひるがえ》そうとした。
ルディックは大股で踏み込み、瞬時に抜剣《ばっけん》した。
ヒュンッ
微《かす》かな剣風を鳴らし、銀光がシャダックの首筋を襲った。
パチン、とルディックが剣を収めた途端《とたん》、シャダックの頭部はポカンとした表情を貼り付けたまま、ごとんと床に転がった。
遅れて噴水のように鮮血《せんけつ》が噴き出し、大柄な体が横倒しになる。
ルディックは落ち着き払ってサフィールの方を向き、深々と一礼した。
「陛下、国を売ろうとする裏切り者は、この通り斬《き》り捨てました。……お部屋を汚してしまい、すみませぬ」
「――あ、ああ」
目を瞬《またた》き、サフィールは反射的に頷《うなず》く。
そのうちやっと理解が及んだのか、遺体に視線を向け、ゆっくりと首を振った。
「エスターハート家の者は誇り高き武人《ぶじん》が多かったのだが。どうやら彼は例外だったようだ。……これもまた、私の目が曇っていた証拠だな……はは」
力無く笑ったが、ややあって表情を引き締めた。
「いや、最後の最後まで、余すところなく見事な働きだった。ルディック、ご苦労だったぞ!」
「最後の最後? なにを仰《おっしゃ》います、陛下。私はまだまだ陛下に付き従いますぞ! そう、文字通り最後までです」
「……えっ」
そんな返事は予想だにしていなかったようである。
サフィールはやっと、いつもの彼にふさわしい、きょとんとした愚かしい顔をした。久しぶりの、彼らしい表情である。
いつもはその呆《ほう》けた顔にイライラしたものだが、今日に限っては大変|微笑《ほほえ》ましく、ルディックは笑顔とともに語った。
「先に申し上げておきますが、これは私の意地でもありますので、説得はご無用に願います」
真っ直ぐに主人を見て、きっぱり言い切った。
それからふっと表情を和らげる。
「石ころだらけの荒れ果てた荒野にも、隅々まで探せば花の一輪くらいは咲いておりましょう。まあ私は、花など似合わぬむさい男ですが、最後くらいはそういう存在でありたいものです」
最後は冗談めかし、声を上げて笑う。
だが、サフィールは笑わなかった。くすりともしなかった。
しばらく沈黙を保っていたが、やがてガタンと音を立てて背後の窓にもたれかかり、そのままズルズルと床にへたり込んでしまう。
「へ、陛下っ」
何事かとルディックは慌《あわ》てて駆《か》け寄り、しゃがみ込んだ。
半身を支えようとして気付く。
微《かす》かだが、身体が震えているのだ。
こちらの当惑《とうわく》顔を見返し、サフィールは情けなさそうな声を出した。
「おまえを送り出す時くらいは、誇り高く立派な君主でありたいと思ったのだ。せめて、おまえにはそういう私の姿を憶えていてもらいたかったからな。だが――情けないことに、今の返事を聞いて気を張っていた反動が来たようだ……。やはり私は最後まで軟弱《なんじゃく》な君主よな。はは……ははは」
「陛下……」
ルディックはなにも言えなかった。
いえ、少なくとも今の貴方《あなた》は立派ですぞ!
そう言ったところで、慰《なぐさ》めに取られるかもしれない――そのように思ったのだ。
そのうち、サフィールは寂しげな笑いを引っ込め、自らルディックの手を外した。
「もう大丈夫だ。驚かせてすまない」
穏《おだ》やかに言って低頭《ていとう》する。
だが、そう言いつつもすぐには立とうとせず、腰の剣を外して刀身《とうしん》をすらりと抜いた。
銀色に輝く長剣の、その剣腹《けんぷく》に己の顔を映して眺めた。
長らく目を離さず、じいっと見つめている。
かなり時間が過ぎてから、低い声で述べた。
「やっとわかった。私はレインが憎かったのではなく、彼の生き方やあの才能を羨《うらや》んでいたのだ。自分の心と素直に向き合った今、それがはっきりした」
またしばらく、サフィールは黙りこくった。
やがて、剣から目を離さないまま、独り言のように囁《ささや》く。
「レインのような男になりたかった。そこにいるだけで心ある者が集《つど》い、信頼を寄せ、頼りにする――私もそんな存在でいたかった。しかし、私にはそれだけの器量も度量《どりょう》も人望もなく、大勢に迷惑をかけ、ついにはこんな事態を招いてしまった。……それだけが無念だ」
『無念だ……』
いま一度そう繰り返し、サフィールは瞳に涙を浮かべた。あるいは、傲慢《ごうまん》で知られてきたこの貴族がこれほど素直に自分をさらけ出したのは、生まれて初めてのことかもしれない。
しかし、いつまでもめそめそしていた訳ではない。
最後に大きく息を吐き、剣を収めて思い切りよく立ち上がった。自らの弱気を振り払うような、しゃきっとした動きだった。
ルディックを見やり、
「……おまえにも家族がいたはずだが。本当にいいのか? 別に意地を張らずとも――」
「いえ、陛下」
途中で遮《さえぎ》り、ルディックは首を振った。
「妻や子も、私が途中で逃げたと聞けば肩身の狭い思いをいたしましょう。それに陛下だけではなく、私にも敗戦の責任はあります。今になって、自分だけその責任から逃れようとは思いませぬ」
「……そうか。おまえも頑固な男だな」
「なに、陛下も似たようなものでありますよ」
二人は顔を見合わせ、互いに苦笑した。
――☆――☆――☆――
グレート・アークの城門を出たガノアは、最後に馬上から閑散《かんさん》とした城を振り返り、唇を歪《ゆが》めた。
我が野望までは、未だ遠いようだ。
今回の企《たくら》みも、結局失敗に終わってしまった。まあ、レイグルに話を通さずに来たことだけが、唯一の慰《なぐさ》めではあるが。
そう、サフィールにはいかにも王に許可をもらったようなことを言ったが、実はこの説得はガノアの独断でやったことなのだ。
彼が説得に応じてから、初めて王に話を通す気だったのである。
ところが、意外にもあの軟弱《なんじゃく》男は説得に応じず、全くの無駄足に終わってしまった。こうなってしまったからには命惜しさに飛びつく他はないと読んでいたので、本気で意外だった。
「……まあいい。いつかまた、俺の出番も来るだろう」
腹立ち紛《まぎ》れに貴族にあるまじく唾《つば》など吐き、ガノアはさっさと馬を進めた。
この国とあの美貌《びぼう》の王女を手に入れるまで、ガノアは絶対にあきらめないつもりだった。でなければ、国を出奔《しゅっぽん》した甲斐《かい》がないではないか。
見ておれよ、レイン!
機会を窺《うかが》っていれば、俺の出番は必ず来る……そう、必ずな。
その時こそ、貴様に思い知らせてくれるわ!
ガノアはこの失敗にもめげず、かえって闘志《とうし》を燃やしたのである。
――☆――☆――☆――
それから数日|経《た》った晩、サフィール達は放っていた物見《ものみ》からの報告により、レイン達王女|擁立《ようりつ》派がグレート・アークのすぐ近くまで迫っていることを確認した。
予想よりやや遅かったが、これはおそらく、こちらの降伏を促《うなが》すための心理的な作戦かもしれぬ。
ともあれ、彼らの総数はおよそ一万であるとの報告を受けた。
例によって、レインとラルファスの部隊の混成軍である。
ルディックがレインの恐ろしさを再確認したのは、その兵力によってだ。
一万という兵力は、明らかに彼らの最大動員兵力を上回る数字であり、おそらくレインは王都付近でラルファスが徴募《ちょうぼ》した一般市民(の中の戦闘経験者)を一部解散させず、そのまま軍に仮編入させていると思われる。
レインは、こちらが五百に満たない兵力しかないことを百も承知のはずなのだ。それなのになお、持てる力以上の兵数を惜しみなく投入している。
もしあの男が、『サフィールの五百やそこらの残存部隊ごとき、俺の部隊だけで上等だ』などという陳腐《ちんぷ》で傲慢《ごうまん》な判断をする男なら、ルディックはいささかも恐れない。その場合、開戦すればわずかではあるが、相手の隙《すき》を突いて勝利する可能性も残されていると思う。
しかしレインは、日頃の磊落《らいらく》な態度や言動とは裏腹に、こちらを決して甘く見てはいないらしい。
実力以上の兵力を結集しているのが、その明らかな証拠である。
先王の推挙《すいきょ》があったとはいえ、レインは上将軍《じょうしょうぐん》に着任する前に、寡兵《かへい》をもって大軍を打ち破る戦功を何度も立てている。
だがそれは、手元に十分な兵力がなく必要に迫られた末のことであり、決して彼の傲慢《ごうまん》によるものではなかったのだ。今回の派兵で、彼がどのような戦局においても一切の手加減なしに全力を尽くす男だとわかってしまった。
とんでもないヤツを敵にしたものだ。
ルディックは今更ながらに舌を巻いたが、彼もサフィールも、もはや最初から勝利などは期待していない。驚いたのみで、後は淡々と応戦の準備をした。
サフィール側にとって多少明るい話題と言えるのは、その晩、ラルファスの遠縁に当たるレスリー伯が、百人ばかりの手勢とともに今になってサフィール達に参入してきたことか。
『ガノアを追い払ったその意気や良し! サフィール殿を見直しましたぞっ』
どこでガノアの話を聞いたのか、数百歳にもなるレスリー伯は豪快に笑い、押し掛け援軍としてサフィール達に協力することになった。
他にも王女の新体制にどうしても馴染《なじ》めない者や、他に行き場所もない貴族達などがポツポツと参入し、数だけはようやく五〜七百くらいにはなった。
だが無論、この程度の増加は戦局を左右するものには成り得ない。例えて言えば、振り下ろされた魔剣に対し、ペラペラの木剣で防ぐようなものである。
ただ、それがわかっていても別にルディック達はうろたえもせず、落ち着いたものだった。
ガノアがああも易々《やすやす》と城内に入ってこられたのは、幾《いく》らなんでもまずかろう。
ルディックはそう思い、戦《いくさ》準備のまず一番先に、逃げた衛兵《えいへい》に代わって新たに門番を立てた。敵の侵入を恐れた訳ではなく、ただガノアのような輩《やから》がまた来るのはご免だと思ったのだ。
もちろん、新たに立てられた門番はルディック達と| 志 《こころざし》を同じくするものであり、『怪しい者は一歩も入れぬ!』という気概《きがい》に満ち満ちていた。
レスリー伯が応援に来た翌晩のこと――
門番二人がびしっと城門に立って目を光らせていると、遠くから一頭の白馬がのんびりとやってくるのが見えた。
従者も連れずに一頭だけだったので、敵の襲撃では有《あ》り得ないと思ったものの、義務感から長槍《ながやり》を十文字に交差させ、「何者かっ」と呼ばわった。
「おー。今晩は特に冷えるようだ。こんな晩に、役目ご苦労」
実にのんびりとした、そして穏《おだ》やかな返事が返ってきた。
やや気を抜いた門番達だが、やってきた男を見て唖然《あぜん》とした。
城門に備えた松明《たいまつ》の明かりが照らし出す、馬上のその男。そいつはまさに、彼らが最も敵対するところのレインだったのだ。
「ところで――俺の顔、知らないか? なら名乗るが、俺がレインだ」
十年来の友達に再会したような声音《こわね》で、向こうが気さくに名乗ってくれた。
それでやっと二人とも我に返った。
無論、知っている。知らないはずがない。なにしろ、敵の実質的な総指揮官なのだ。
「な、なななん――」
「ああ、待て待て」
ひらひらと手を振るレイン。
「今日は戦いに来たんじゃない。ちょっと相談だ、相談。ほれ、この通り武器も預けるぞ」
そう述べてレインは腰の長剣を外し、いともあっさりと投げつけた。
うっかり片手で受け取ってしまった門番は、それがかの有名な『呪われた魔剣』であることを思い出し、ぞっとした。
冗談ではない!
「うおうっ」
思わず、相棒《あいぼう》にパスする。
「はわあっ」
相棒《あいぼう》もまたぞぞっとした顔になり、危うくそれを落としそうになった。
長槍《ながやり》を放り出し、あわあわしながら魔剣を何度かお手玉する。やっとなんとか確保して、恨《うら》めしい顔でこちらを睨《にら》む。
「おいおい、ビビらなくても持ってるだけならへーきだって」
とか言いつつ、レインはふっと真面目《まじめ》な顔をした。
「――とは言え、刀身《とうしん》を抜いたら保証の限りじゃないけどな。なにしろその剣は、持ち主の『力』を吸い取っているからして」
さらりと非常に怖いことを言われ、成り行き上剣を持たされた門番は、死人の顔色になった。
出来るだけ身体から遠ざけ、馬糞《ばふん》を掴《つか》んでいるような顔で魔剣を見ている。
レインは苦笑して髪をかき上げ、
「で、取り次いでくれるか? サフィールとちょっと話したいんだが」
手すきの一人がはっとして、ようやく頷《うなず》く。
「し、しばしお待ちを」
――☆――☆――☆――
ルディックが主人とともに、多数の衛兵《えいへい》付きでレインを通した部屋へ駆《か》けつけると、本人は至って涼しい顔でコーヒーなど啜《すす》っていた。
ぞろぞろと入ってきたこちらをちらっと見やり、軽く片手を上げる。
「よう。わざわざ悪いな……まあ座れ」
……知らない者が見たら、レインこそがこの城の主《あるじ》だと思ったことだろう。
というか、こいつはここが敵の本拠地だという自覚があるのだろうか。なにをのんびりくつろいでいるのだ?
ルディックはあきれ果てた顔つきのままで、それでも衛兵《えいへい》達に「身体検査はしたろうな!」と、再度確認を取ることを忘れなかった。
衛兵《えいへい》が頷《うなず》くより先に、サフィールがにこやかに首を振った。
「よい、ルディック。彼は武器を預けたと報告を受けたではないか。二重に調べる必要はない。あ〜、それとルディック以外は、皆も引き上げてよいぞ。そうだ、出来れば我々にも飲み物を頼む」
言われ、少々驚いた表情ながら、命令通りに衛兵《えいへい》達が引き上げる。ルディックはサフィールが帯剣《たいけん》していないことに今になって気付き、彼らしくもなく狼狽《うろた》えた。
「陛下! 剣をお忘れですぞっ」
「いいんだ。彼を見ろ、武器も持たずに一人で来ているのだ。私が武装するのは失礼だろう。第一……いかに彼が丸腰でも、私の剣技など通じるものか。それこそ無駄というものだ」
軽やかに笑い、さっさと同じテーブルについてしまう。
仕方なく、ルディックも主人に倣《なら》った。
退出しかけていた衛兵《えいへい》の一人が、驚愕《きょうがく》の表情でそっとサフィールを窺《うかが》っている。
レインは驚いた様子こそ見せなかったが、カップを口に付けたまま、鋭《するど》い目でサフィールを観察していた。まるで、彼の心の奥底を見極めようというように。
そのうち、ワゴンを押して入ってきた衛兵《えいへい》が、新たにサフィールとルディックに飲み物を出し、一礼して退出した。
部屋の中は三人だけになった。
最初に口火を切ったのはサフィールである。
「……古《いにしえ》の英雄伝説にすら、軍を率いる最高指揮官が敵の居城に一人で来た、などという話はない。聞いた時は驚いたぞ、ははは」
つられたように、レインもふっと笑う。
それから一つ頷《うなず》いた。
「なるほど、演技でもないようだ。サフィール……おまえ、変わったな」
「おい、その言葉遣いは――」
「いいんだ!」
またしてもサフィールは抑えた。
「彼は私の臣下《しんか》ではない。元々は朋輩《ほうばい》だった。気にするな、ルディック」
「……はっ」
主従《しゅじゅう》のやりとりなど無かったかのように、レインが続けて尋ねる。
「ガノアを追い払ったそうだが?」
「ああ。私も彼は好かんのだ。口車に乗って踊らされたくはないからな」
カップに砂糖をたっぷり入れて一口飲み、サフィールは肩をすくめた。
「それで――。まさか雑談《ざつだん》をしに来たわけではあるまい。話を聞こうではないか」
ゆったりとテーブルの上で腕を組む、サフィール。
レインはカップを置くと、やっと切り出した。
「なにか奇策でもあるのかと思ったが、少し話してみてわかった。どうやらおまえ達は死を覚悟しているらしい……。しかし、俺達もなにも好んで殺し合いをする気はない。というか、俺はどっちでもいいんだが、ラルファスや姫様は内心ではためらいがあるだろう。
正味《しょうみ》の話、ラルファスを初めとする貴族達の身内からも、そちらに味方しているヤツがちらほらいるくらいだ。簡単に言えば、やりにくいんだな。もちろんそれで手心《てごころ》を加えるようなヤツはいないんだが、やりにくいのは確かだ。そこで、俺が話しに来たわけだ。単刀直入に言う。――和解する気はないか?」
「本当に単刀直入だな」
サフィールは楽しそうに笑った。
ルディックの目から見ても、気負ったところのない、感じのいい笑みだった。
その笑みを残したまま、サフィールは言い切った。
「いや、和解する気はない。あくまでも戦うつもりだ。無論、降伏したいという者は自由にそうさせるが、私自身は戦う」
「――私もだっ」
ルディックは誇《ほこ》らしい思いで、すかさず追従《ついじゅう》した。
レインはまた、こちらの真意を見通すような目で二人を見比べ、ため息をついた。
「……これは今の段階で話す気じゃなかったんだが。
他の者がどう思っているかは知らんが、別に俺はこの国のために戦っているわけじゃない。はっきり言って姫様個人のために戦っている。そして姫様自身は、玉座《ぎょくざ》にさほど魅力を感じていないんだな。だからサフィール――
慌《あわ》てなくても、今はとりあえず和解しておけば、いつかはおまえが王位に着く日も来ると思うぞ。もちろん、その時には俺もどこかに消えているだろうし、姫様もしかりだ。おまえにとっての邪魔者は全ていなくなっていると思う。
今のおまえなら、王の役目もちゃんとこなせるだろうしな。――どうだ?」
サフィールはレインの言い分に驚いた様子は見せなかった。
ただ微笑《ほほえ》み、(こちらの方がよほど驚いたが)レインに軽く頭を下げた。
「我らを助けようとする配慮《はいりょ》に感謝する。……それに、おまえは一度も『降伏』という言葉を使わず、『和解』と言ってくれている。心遣いは嬉しく思う……。ありがとう……この通りだ」
レインは顔をしかめ、
「俺の言うことを疑っている訳じゃあるまいな」
「いや、そんなことはない。本気で申し出てくれていると思う。しかし、私はもう気付いてしまったのだ。自分が……王にふさわしくない器《うつわ》だとな」
「それを決めるのはおまえじゃなく、庶民の側のはずだぞ。――ていうかだなぁ」
なんでそう、死に急ごうとする?
レインは椅子の背にどんっともたれ、忌々《いまいま》しそうに言った。
「あきらめがいいのも結構だが、少しあきらめが良すぎないか」
「多分、死を間近に控え、色々とわかってしまったせいだろうな。ギリギリの段階にならないと見えないこともあるようだ。それに、私が降伏しないのはそれなりに理由がある」
「なんだよ、そりゃ」
「……今、我々の元には、王女様に従おうとしない者が集結している。この最後の戦いでそちらが我らを倒せば、もはや国内に王女様に刃向かう勢力はなくなるだろう。一掃《いっそう》されるわけだからな。ならば、我らの死にもそれなりに意味があるさ。違うか?」
レインは一瞬、虚《きょ》を突かれた顔でサフィールを見返した。おそらく、この戦いの最中でサフィールがレインの意表を突いたのは、これが初めてのことだろう。
しかし、サフィールは別に誇るでもなく、静かに続けた。
「それからな、レイン。今現在、自分が死に急いでいるからこそ、わかったのだが。先王陛下がご健在の頃からのおまえの戦いぶりを振り返ってみると、おまえこそ誰よりも死に急いでいるのではないかな? 私にはそう思えてならないが」
レインは即答せず、ただ沈黙を保った。
だが、それはほんの僅《わず》かの間のことであり、この不敵な男はたちまち元のしぶとい表情に戻り、憎たらしい声音《こわね》で返す。
「なにを言ってんだか。国の行く末や他人の心配なんか、おまえには似合わないんだよ、サフィール。死に際になって、急にいい子ちゃんぶってからに。悪役は悪役らしくしてろよ! 俺がやりにくいだろうがっ」
悪口は悪口として、どこか温かみのある言い方だった。
無論、それはルディック達にも伝わっている。
「――違いない。我ながら、全く似合わんなっ。はっは!」
サフィールはまた笑い、ルディックもまた笑った。
レインも、もう説得をあきらめたのか肩を揺らして笑った。長年寄り添《そ》った友人同士のように、なんのこだわりもなく、大声で……
この瞬間、もはや三人とも、心情的には敵同士ではなくなっていた。
そしてレインは、サフィールが決して降伏しないであろうことを理解したのである。
降伏はしないが、サフィールがレインに頼んだことがある。
それは自分の妻子のことで、「巻き添《ぞ》えにするに忍びないので、後で城から退去させる。よろしく頼む」という言い方で保護を求めた。
レインは快諾《かいだく》し、頼もしく頷《うなず》いた。
「それから――」
サフィールは表情を改め、
「シャダックは、確かエスターハート家の者だったな。……残念ながら彼は戦いの末、名誉の戦死を遂げた。セノア殿にそう伝えてほしい」
レインはこれにも頷《うなず》いただけだが、ちょっと目を細めてサフィールを見返した。
ルディックが思うに、諜報《ちょうほう》戦や策略に長《た》けたこの男のこと、とっくに事実を知っていたのかもしれない。この城中にも、レインの息のかかった間諜《かんちょう》は何人もいよう。
ともあれ、シャダックの死については双方それ以上触れなかったので、なんの問題もなかった。
会見の終わりに、レインはこんなことを言った。
「……俺は今でもおまえが嫌いだ、サフィール。しかしだな――」
席を立ってサフィールの目を覗《のぞ》き込み、手を差し出す。
「まあ、こうして話せたのは良かったとは思うぞ。結局、和平はならなかったが」
この男らしい、ひねた言い方だとルディックは思う。
しかし、サフィールは嬉しそうだった。破顔《はがん》してレインの手を握り、「話せて良かったという点については同感だな」などと応じる。
レインはルディックとも握手を交わし、それを最後にただ頷《うなず》いただけで退室しようとした。特に別れの言葉などはない。しんみりした様子などついぞ見せたことのない男にふさわしく、さらりとした態度である。
そこで、思わずと言った調子で、サフィールが再度呼びかけた。
「――レイン!」
相手が振り返ると、照れくさそうに頼む。
「もし機会があれば、手合わせを願いたい。一騎打《いっきう》ちなど経験したこともないのだがな。最初で最後の相手が最強の戦士ともなれば、冥界《めいかい》でもこの上ない自慢になるだろう」
レインはいつものふてぶてしい表情で唇を吊り上げ、「馬鹿、千年早いんだ」と言った。
……それが最後だった。
自分の城を行くのとなんら変わらぬ堂々たる態度で、レインは部屋を出ていった。
――☆――☆――☆――
――時が来た。
レインとラルファスの連合軍は、予定通りグレート・アークの至近《しきん》に迫った。ラルファスがレインと連携する形で自軍の布陣《ふじん》を完了すると、副官のグエンがこんな報告をしてきた。
「大将! やっこさん達、どうやら籠城《ろうじょう》を選ばないようですぜ? 見てくだせぇ。あれっぱかしの人数なのに、野戦を挑《いど》む気らしいです」
グエンは心底驚いているのか、馬上でしきりに首を振っていた。
彼の報告を受けるまでもなく、ラルファスが遠望《えんぼう》したところ、サフィール達貴族軍が前方に陣形を組んでいるのがわかる。
「ふむ。直接会ったレインも言っていたが、サフィールは変わったな。……もっと早く変わっていれば良かったのだが」
「ですなあ。偽遺言状《にせゆいごんじょう》なんてせこい手を使うからこんなことになるんでさ」
「……果たして偽物《にせもの》かな」
「――は?」
グエンは巨眼《きょがん》を瞬《またた》き、絶句した。
「いや、しかし……。確か大将は、ガルフォートの謁見《えっけん》の間で、偽《にせ》じゃないかって言ったんじゃ?」
「あの場にいなかったのに、よく知っているものだな。どこで情報を仕入れてくるのやら」
ラルファスは微笑《びしょう》し、グエンを、そしてその脇でさりげなく耳をすませているナイゼルを見る。
「あそこには王女様も同席されていた。なにもわざわざ実の父君の仕打ちをお教えして、悲しませることはあるまい。――違うかな?」
我が意を得たり! とばかりに、ナイゼルが大きく頷《うなず》く。
実は、娘に冷たい先王に、内心で憤《いきどお》っていたクチなのである。
グエンはただ、「はあ」と感心した。
「生真面目《きまじめ》な大将でも、さりげなくとぼけることはあるんスねえ。……で、レインの大将はこのことを?」
「私が気付いているくらいだ。あいつが理解していないはずはあるまい。だがいずれにせよ、レインも私も王女様の臣《しん》なのだ。ならば、あのお方のために戦うのが使命だろう。私は自らの選択を後悔していないよ」
そのレインは、自分の陣でいつものように鼻歌など歌っていた。
歌のさびの部分が来ると、上手く拍子を取って槍の柄《え》で肩を叩くのである。その合いの手だけは上手で、歌は全然下手くそである。これまたいつものことだが。
レインはふと顔を上げると、急に機嫌よく歌うのを止《や》め、隣にいるレニに訊いた。
「なにしてんだ、あいつ?」
指差したのは、数メートル離れた所に馬を立てたセノアである。彼女は思い詰めた顔で唇を引き結んでおり、親の敵でも見るような目で敵陣を見据《みす》えていた。
「なに――とは?」
「いやほら、頭に真っ赤な布きれなんか巻いているだろ。あれがあいつの美的センスか? だとしたら、誰かが注意した方がいいよなあ――似合ってないって」
「聞こえておりますぞっ」
遠くから、当のセノアが怒鳴《どな》った。
「これは飾りではありません! 敵方のいとこが戦死を遂げたことに対する、私の覚悟を示しているのです」
「……とりあえず、遠くで喚《わめ》いてないでこっちへ来い。他の兵に恥をさらすな。覚悟ってなんだよ?」
「無論、いとこと同じく私も雄々しく戦い、いざという時は美しく散るのですっ」
「散るな、馬鹿」
レインは顔をしかめた。
しかも、美しくってなんだよ。
どうもこいつは、今日こそは戦おうと気張っているようだが、あいにくそうはいかない。なぜならここは遙《はる》か後陣だし、この人数差では早々に勝負はついてしまうからだ。
そもそもこいつの親族であるシャダックは、本当は――
いや、まあいい。
それについてはもう話は済んでいるのだ。
自分自身のことを言えば、これから最前線まで出ばり、いつものように先頭切って突っ込む気でいる。けど、こいつだけは絶対に後陣から移動させん。
レインは固く決意するのだった。
そういや、あいつも大人しくしてるかな?
性懲《しょうこ》りもなくついてきたシェルファを振り返る。
さらにずっと後陣の方で、馬上で背伸びしつつ、こちらを熱心に見ている少女を見つけ、レインは苦笑した。手を振られてしまったのである。
……俺なんか観察して、おもしろいか?
戦闘それ自体の行方は、もはや始まったその瞬間に決まったと言える。
ラルファスの合図で(指揮を交代した)始まった『グレート・アークの戦い』は、見る見るうちに王女派の軍勢《ぐんぜい》有利で推移《すいい》していった。
なんの障害もない平地で、策もなく軍と軍がぶつかれば、必ず数の多い方が勝つ。
戦《いくさ》の基本原則通り、サフィール軍は洪水のように押し寄せる騎士の群れに、溶け込むようにして消えていった。
しかし、そんな絶望的な状況でも、誰も戦場を離脱しようとはしなかった。逃げる気のある者は、戦いの始まる遙《はる》か以前に逃げており、ここに布陣《ふじん》していた者は皆、覚悟の定まった者ばかりだったのだ。
レインは予定通り、ラルファスの「先陣、突撃せよ!」の合図とともに、上将軍《じょうしょうぐん》のくせに自らも率先して飛び出している。
「――な、なんだ? しょ、将軍っ!?」
風のように脇を駆《か》け抜けられ、あるいはなんと頭上を馬ごと飛び越えられ、味方の騎士達が驚きの声を漏《も》らす。
鎧《よろい》を纏《まと》わない真っ黒なシャツを見て、辛うじて彼らは今のが自分達の指揮官だと気付くのだった。
しかも認識した時には、既《すで》にクリスごと遙《はる》か前方に走り去った後であり、そのスピードにまた驚く始末である。
というわけで、レインはものの数十秒で、自軍を後方に置き去りにして敵陣へ一番乗りしていた。
本当は今回そこまでする必要はどこにもなく、指揮官の一人としてどっしりと構えておれば良かったのだが、サフィールの最後の望みを叶えようと思ったのだ。
わっとばかりに突き出される敵の剣やら槍を、自分の長槍《ながやり》で一閃《いっせん》して突き崩し、レインはがむしゃらにサフィールを目指す。
自軍の最先頭を一騎駆《いっきが》けで駆《か》けてくるレインを見た時、サフィールは『あいつはいいヤツだな』とつくづく思った。
「義理堅いな、彼は。我が望みを叶えてくれるつもりらしい。しかし、余計なことを言ったため、無理をさせたかもしれぬ」
「なに。あの男にとっては我が軍の突破など、さほどの難事《なんじ》ではありますまい。――私が言うことではありませんが」
「そうか、そうだな……」
サフィールが呟《つぶや》くと、槍を持ち直したルディックは馬上、一礼した。
「もはや、戦《いくさ》の行方は決まりました。彼の真似《まね》をするわけでもないですが、私もそろそろ逝《い》かせていただきます。陛下、これまでお世話になりました」
「私こそだ。――冥界《めいかい》にてまた逢おうぞ」
二人は笑顔を見せ合い、ルディックはそれを最後に単騎《たんき》、駆《か》けて行く。真っ直ぐに伸びた中年騎士の背中が、無数の敵兵の中に呑まれて見分けが付かなくなるまで、サフィールはじっと見送った。
「さて。では、次は私の番か」
ありがたいことに、今のサフィールは不思議と落ち着いていた。
自軍を見渡せば、もう味方の数もまばらになっている。最初から結果の見えていたこの戦《いくさ》も、どうやら終わりかけのようだった。
そして、ついに待っていた男がやってきた。
たった一人で、三段に及ぶ陣の備えを全て突破してきたレインが、サフィールの目前に躍り込んできた。サフィールは、なおも残っていた数名の騎士達がレインに槍を向けるのを制止し、彼と向き合う。
「……では、用意はいいか?」
激しい戦闘をくぐり抜けてきたとは思えない、レインの静かな声。
サフィールを眺める瞳には、甘ったるい同情心などは露《つゆ》ほども見られず、もちろん蔑《さげす》みなどもない。ひたすら真っ直ぐにこちらを見据《みす》えている。
ただそれだけのことが、なぜか嬉しかった。
「よく来てくれた。――剣で戦いたいが、いいかな」
「構わんさ」
二人は馬を降り、互いに剣を抜いて向き合う。レインの魔剣が発するブゥゥゥンという低い音が、やけにはっきりと聞こえた。
レインが走り出す。
噂に聞くこの男の剣技を、サフィールは初めて間近にて確認する。一瞬にしてぐぐっと黒影が迫り、風が鳴った。その刹那《せつな》、青き光芒《こうぼう》が宙に軌跡《きせき》を残す。
周囲の剣撃の音が消え、時間が止まったようなその刹那《せつな》の間に、サフィールはレインが魔剣を突き出すのを確かに見た。あるいは死がすぐそこまで迫り、感覚が極限までとぎすまされていたためかもしれない。
普段なら、到底目で追えるスピードではない。
単なる本能で自分も剣を持ち上げ、突きを下から弾《はじ》こうとしていたが、胸を狙った魔剣の方が十倍は早かった。
刀身《とうしん》にうねる、魔法のオーラが視界を埋め尽くす。
苦痛は……まるで感じなかった。
――☆――☆――☆――
多分、痛みを感じる暇は無かったはずだと思う。無論、断言は出来ないが。
一瞬で心臓を貫《つらぬ》き、すぐに剣を抜く。
サフィールは声も立てずに崩れるように倒れた。
その遺体を見やり、レインは息を吐いた。
「満足そうな顔して死にやがって。人に責任押しつけたまま退場すんなよ」
首を振り、すかさず魔剣を構え直した。
僅《わず》かに残っていた直属の騎士達が、向かってくるかと思ったのである。
しかし、彼らは主人に敬礼をした後、馬を駆《か》って行ってしまった。突撃する方を選んだらしい。
――周囲を確認する。
もはや、サフィールと自分しか残っていなかった。
「……なんでかなあ。なぜか俺は、なかなか死ねない運命にあるようだ。必ず生き残っちまうんだよな。そうしたくなくてもな」
むしろ無念そうに呟《つぶや》き、レインは手にした魔剣とサフィールの遺体を見比べた。
本来なら首を取り、主人の検分に任せなければならないところである。
戦《いくさ》の後、主だった騎士や敵の将の首をずらっと並べ、王がそれを検分するのが慣例だ。
しかし今はまだ、シェルファにそういう役目を押しつけたくはない。代理として、最後に自分かラルファスが検分の役目を担《にな》えばよかろう。
「――てことで、やめた」
魔剣を一振りして血糊《ちのり》を落とし、鞘《さや》に戻す。
今更だが、今回は先王の遺志《いし》に従おうとしたサフィールこそが正しかった、という見方も出来るのだ。
深々とため息をつき、レインはサフィールの亡骸《なきがら》に、小さく低頭《ていとう》した。
この瞬間、戦《いくさ》は終わった。
混沌《こんとん》としていたサンクワール国内の、最後の勝利者が決したのだ。
グレート・アークの戦いは、同時にシャンドリスを巻き込んだ覇権《はけん》戦争の終結をも意味しており、これで国内にシェルファの敵はいなくなったのである。
――表面的には、だが。
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第五章 世界を君に
国の内乱を収め、新たな主君が立ったという話は、大陸中にいくらでも前例がある。
例えば――中原《ちゅうげん》の大国であり、大陸最古の王国とも呼ばれるレイファンがそれに当たる。
この国はつい先ほど、下克上《げこくじょう》を狙う腹黒い宰相《さいしょう》の野望をくじき、サーヤ・サフィーネ・レイファンという少女が王に即位した。
彼女は自分を助けて宰相《さいしょう》を倒してくれた三人の将を国の重鎮《じゅうちん》に据え、大国レイファンの政務《せいむ》を司《つかさど》っている。そして、シェルファがサンクワールの全権を掌握《しょうあく》したちょうどこの日、サーヤは城の奥でその三将とともに軍議を開いていた。
「今ご説明した通り、ザーマインが近々また動くのは、もはや避けられない事実でしょう。彼《か》の国は次々と近隣諸国を攻め、国境線を拡大しつつあります。我がレイファンも、そろそろ態度を決めねばなりません。もはや、他人事として構えていられない状況にあります」
軍師の役目を担うケイが、黒影石から削《けず》りだしたサングラスをくいっと手で直し、静かに説明を終える。
この男、男性にしては顔の造作《ぞうさく》が繊細で、しかも真っ白な肌をしている。
そんなケイの高めの声に、残りの三人はしばし押し黙った。
一人はもちろん、主君のサーヤ。優しそうな美貌《びぼう》を持つ、十代の少女だ。もう一人は大将軍補佐のフェリス。まだ少年にも見える若々しい顔をしており、退屈そうにあくびなどしている。
そして、最後の一人が大将軍のアーク。
こいつが四人の中で一番目立つ。
ごわごわの頭髪《とうはつ》に、生気が余りまくったガキ大将のような目つき。なんのつもりか、頭に布切れなど巻いている。
この、あまりにもやばいセンスはともかくとして、全身から陽気でけんかっ早い性格が漂ってくる男である。そんなアークをちらっと横目で見やり、サーヤは微笑《ほほえ》む。
ケイに視線を戻すと、やっと口を開いた。
「軍師としてのあなたの判断はいかがですか、ケイ。なにか意見は」
まだあどけなさの残る声で、柔らかく尋ねる。
「――意見というか。道は三つしかありません。国の存続のみを安泰《あんたい》とするなら、上策は一つ。いち早くザーマインに臣下《しんか》の礼をとることでしょうね」
「っんだとぐらあっ!」
アークの喚《わめ》き声が、思いっきり円卓の上に響いた。
「戦いもせずに降参できるかああっ」
元気のありあまった声。
その憤《いきどお》りと大声を、サーヤが微笑《びしょう》とともに受け止め、瞳で制す。
むすっと押し黙ったアークをサングラスの奥から皮肉な目で見やり、ケイは説明を続けた。
「次に下策。……一番まずいのは、このままなにもせず事態の推移《すいい》を見守ることです。その場合、気付いた時にはもはや取り返しのつかない状況に陥っていることでしょう」
と、ここでフェリスが明るく、
「上策と下策……。それなら真ん中の策もあるわけね。それはなにさ?」
「ちょうど言おうとしたところだ」
またしてもサングラスに手をやり、ケイはきびきびと返す。
「最後の策は、言うまでもなくザーマインと戦う道です。しかし、我らだけで戦うのはあまりにも無謀《むぼう》。どこか気骨《きこつ》のある国と手を結び、共同で敵に当たる必要があります」
「けっ」
アークが、今度は荒々しい鼻息とともに捲《まく》し立てた。
「ザーマインごとき、恐れるに足りねーな! 何万の兵士が攻め寄せようが、このアーク様が片っ端から叩きのめしてくれるわ!」
「――とまあ、このお調子者は置いておいて」
ケイはアークの豪語《ごうご》を、淡々と流した。
「いかがなさいますか、サーヤ様。まずは方針をお決めください。――ボクはアークの配下ですが、どうせアークはサーヤ様の意に添《そ》うでしょうから」
なんとなくひねた物言いを最後に、サーヤを促《うなが》す。
というか、サングラスで顔を隠したこの優男《やさおとこ》は、今日に限らずいつもこういう態度なのである。
ともあれ、皆の視線を受け、サーヤはしばらく口を閉ざした。だがすぐに顔を上げ、決然として皆に告げる。
「我がレイファン王家は、四十七代の長きに渡り、この地方を治めてきました。そしてその間、他国に膝を屈したことは一度たりともありません。望むところではありませんが、話し合いで解決しないとあれば、戦うしかないでしょうね」
「よっしゃああ!」
ダダンッ!
ごつい拳《こぶし》で円卓をぶっ叩き、アークは髪を振り乱して喜びを露《あら》わにした。
「さすがサーヤちゃ――いやっ、サーヤ様。後はこのアークにお任せください! レイグル王なんざ、俺の正義の鉄拳《てっけん》でぶっとばしてくれますぜ!」
「頼もしいですわ」
サーヤは目を輝かせて頷《うなず》き、パチパチ手を叩く。お愛想などではなく、割と本気っぽかったり。
で、フェリスはそんな二人を横目に、ぐて〜っと円卓に突《つ》っ伏《ぷ》す。
ケイのみが、盛り上がる二人を見比べてなぜかやや不機嫌になった。
いち早くサーヤがそれに気付き、首を傾《かし》げて訊いた。
「あの……ケイ? なにか不安でも?」
「――いえ、別に。ただ、レイグル王に関しては妙な噂を聞きます。現時点で、あまり甘く見ない方がいいかと」
「けっ。どれほど強かろうが、このアーク様がいるじゃねーか! 安心しろって」
「……めちゃ不安だ」
「なんでっ」
「まあまあ、二人とも」
死んでいたフェリスが、めんどくさそうに間に入った。
「とにかく、ケイの意見を聞こうじゃない。ケイ、どうしたらザーマインと、そのこわ〜い王さまに勝てるかな?」
言われ、ケイは深呼吸してから不機嫌顔を引っ込め、元の冷静な声で言った。
「……一人、気になる男がいます。どうやらこの男、来《きた》るべき戦いをいち早く察知《さっち》し、既《すで》にボクと同じことを考えているかもしれません。なかなか侮《あなど》れない男です」
「どなたでしょう、その方は」
「誰、それ?」
「どこのどいつだ、そいつは」
三人は、全く同時に聞き返した。
ケイは返事代わりにアークを指差し、
「例えばです。このアークは、自分で言うだけあって確かに強いです。その戦闘力はかなりのものでしょう。こいつに勝てる戦士は、まず近隣諸国には見当たりません」
「ぐはは、照れるじゃねーか!」
豪傑《ごうけつ》笑いなどするアーク。そっくり返りそうな勢いで椅子を後ろに傾け、胸を張った。
しかし――とケイが続けた。
「ご覧の通り、頭は空っぽです」
がしゃんっ。
アークが椅子ごと床にこけた。
「どういう意味だ、それわっ」
「いいから、しばらくそこで寝てろ」
うるさそうに手を振り、ケイはさらに言う。
「話を戻します。俗《ぞく》に知勇兼備《ちゆうけんび》などと言いますが、ボク達三人を見れば一目|瞭然《りょうぜん》で、そんな者はまずいません。必ず知か武、どちらかに才能が偏《かたよ》るものです。ですが、調べた事実に誤りがなければ、どうやら世の中には例外がいるらしい――。戦《いくさ》ごとに関する限り、希有《けう》の才能に恵まれた者がおります。それも、南方の小国に」
「凄《すご》い方なのですね」
感心したようにサーヤ。
それで、その人のお名前は? とサーヤが訊く前に、アークがまたがなり立てた。
「へっ! 誰だか知らんけど、俺の方がつえーに決まってらっ」
「俺の方が頭いいに決まってる――て言わないのがチーフらしいなあ。そっちの勝負は、最初から投げるんだ?」
「うるせーよ、フェリスっ」
じゃれ合う二人を全く無視して、ケイは細い腕を組んだ。
やけに赤いその唇から、呟《つぶや》きが漏れる。
「もしその男が、本当にボクと同じことを考えているなら……僅《わず》かながら勝利への道はあるかもしれない」
顔を上げる。
サングラスの奥の真紅《しんく》の瞳が、フェリスに掴《つか》みかかるアークをじっと見つめた。
全てはアークのために……
それがボクの役目だもの。
――☆――☆――☆――
宰相《さいしょう》ジャギルがサンクワール内乱終結の報を聞いたのは、自らの執務室においてである。
ジャギルは先王ザグレム以来、文官の最高位にあり、その頃から主な仮想敵国には間諜《かんちょう》を置いているのだ。とはいえ、当時は自らの職務としてそうしていたのだが、現在はジャギルの情報を頼りにする者などいない。
ジャギル自身、余計な誤解を招くのは嬉しくないので、現王たるレイグルの命令があれば即座にこの類《たぐい》の活動から手を引くつもりである。
だが、今のところ王は、ジャギルの活動を黙認している。
王には王の情報網があり、ジャギルの情報をあてにはしないものの、特に邪魔をする気もないようなのだ。
これは好意的な目で見ているというよりは、おそらく老臣《ろうしん》のジャギルなどは物の数ともしていないからだろう……ジャギル本人はそう思っている。
ともあれ、ジャギルは補佐官の報告を聞き終わり、長々と息を吐いた。
「――ふむ。本来なら、侵攻の好機を逸《いっ》したのは残念に思うべきだろうが」
と迂闊《うかつ》にも本心を吐露《とろ》しかけ、ジャギルは舌打ちしたくなった。
何食わぬ顔で若い補佐官を窺《うかが》ったが、幸い彼はしたり顔で頷《うなず》いたのみだった。
「よくわかります、宰相《さいしょう》。今や我が軍は大陸|制覇《せいは》の野望に燃えていますからね。まずは中原《ちゅうげん》の動きに目を配るべきでしょう。さしたる価値もない小国の動きに、一喜一憂する時は過ぎ去りましたな」
その小国に完敗を喫《きっ》してからまだ幾《いく》らも経《た》っていないのだが、補佐官の顔は自信で溢れている。先日の敗北など、大した痛手とは思っていないらしい。あるいは、単に指揮官が無能だったせいだと決めつけている故《ゆえ》かもしれぬ。
自国の力を過信するその態度も問題だが、ジャギルが何よりも腹立たしいのは、この若者を含め、国内にレイグルの支持者が大勢いることだ。王なのだから当然といえば当然だが、レイグル王の正体を知るジャギルとしては、頭の痛いところである。
いっそ、目の前の気楽な顔をしたこいつに、この秘密をぶちまけてやろうかとまで思う。
『おまえは知らないだろうが、レイグル王は魔人《まじん》だぞ!』と。
しかしジャギルは、いつものように手を振ってこう述べただけだった。
「報告はわかった。ワシはいつも通り陛下にお知らせしてくる。下がってよいぞ」
一刻の後《のち》、ジャギルはゲイニス城の歩廊《ほろう》を延々と歩き、階段を次々に上り、ようやく屋上へと至る螺旋《らせん》階段を上り始めていた。
警備兵に王の所在を訊いたところ、この塔の屋上におられます――と言われたのである。
なぜそんな場所にいるのか不明だが、警備兵も詳しくは聞かなかったらしい。
「なんでも、親しい知人と会うとか……それと、宰相《さいしょう》以外は誰も通さないようにと言いつかっております」
そう教えてくれた。
そのまま回れ右して部屋に戻りたくなったが、「宰相《さいしょう》は来てもいい」と言われたからには、足を運ばない訳にはいかない。
やっと階段の一番上に至り、年のせいか息を切らせつつ、ジャギルは屋上に出る。
途端《とたん》に、ぶわっと風に吹き付けられ、顔をしかめた。
乱れた白髪を手で押さえようとして――
屋上に立つ数名の人影に気付く。
誰何《すいか》の声を上げる前に、彼の主君たるレイグル王がその中にいるのを見つけた。
「……へ、陛下?」
「ジャギルか、何用だ? いや、跪《ひざまず》くには及ばん……報告を聞こう」
いつものことだが、レイグルの態度は冷静沈着《れいせいちんちゃく》そのものである。主《あるじ》が平然としているのにジャギルが慌《あわ》てるのも妙な話だ。なので、一応|容儀《ようぎ》を繕《つくろ》い、サンクワールの一件を報告する。
しかし……簡潔に話しつつも、ジャギルは次第にレイグルのそばに立つ人の群れに目を引かれてしまう。中には、他国の事情に詳しいジャギルでさえ見たことのないような格好《かっこう》をした者もいて、首を傾《かし》げざるを得ない。警備兵の言う「親しい知人」とやらだろうが、よく考えるとこの王にそのような者がいたのが驚きである。
彼らはジャギルをじいっと観察するのみで、誰も一言も話さない。
それも不気味なのだが……何よりも、見ていてなぜか胸がざわざわした。悪い予感がしてならない。そのうち報告が終わり、レイグル王は素っ気なく頷《うなず》いた。
「ふむ。だいたい俺の聞いた話と同じだな。おまえの放っている間諜《かんちょう》も、それなりに使えるらしい」
「お、恐れ入りましてございます」
褒《ほ》められた訳でもないが、ジャギルは深々と一礼した。
他に指示も無いのでもう一度|低頭《ていとう》し、踵《きびす》を返す。王が無駄口を嫌うことをよく知っているからだ。
だが、珍しく今日は、王の方から話しかけてきた。
「待て、ジャギル。一言、言っておくことがある」
「……はっ」
急いで振り返るジャギルに、王は天気の話でもするように告げた。
「俺は、自分の正体を国民に布告《ふこく》するつもりだ」
――しばらく、何を言われたのかわからなかった。
なんだって……正体……? まさか、この王が自分から正体を告げると!?
衝撃のあまり、頭が上手く働かない。その時、微《かす》かな……本当に微《かす》かな笑い声がして、ジャギルはレイグルをもう一度見た。笑っているのは王ではなく、そのそばに立つ客人達の方だった。
逞《たくま》しい壮士《そうし》が、若い娘が、そして貴族風の格好《かっこう》をした男女が……それぞれジャギルを見て笑っていた。あたかも、遙《はる》かなる高みから見下ろすように、優越感に満ちた笑い声で。
我ながら震え声が出た。
「陛下……まさかこの方々は……」
否定してほしかったが、レイグル王はあっさり返した。
「おまえの想像通りだ、ジャギル。今後、数はもっと増えような……」
そして相変わらず淡々と告げる。
「話はそれだけだ。俺は、今日は少し出かける所がある。おまえはこの者達の部屋を用意しておけ」
訊きたいことは百ほどもあったが、ジャギルはまだ最初のショックから立ち直ってはいない。よって、阿呆《あほう》のように聞き返した。
「……どちらへお出かけですか」
主君の返事は簡単だった。
「我が宿敵《しゅくてき》に挨拶《あいさつ》に行く」
次の瞬間、老臣《ろうしん》の前から王の姿が消えた。
――☆――☆――☆――
「うん、なかなか決まってるぞ」
シェルファの格好《かっこう》を見て、レインは重々しく頷《うなず》いてやった。
サンクワールの王族が戴冠式《たいかんしき》に臨《のぞ》む時の服装というのは遙《はる》か昔から決まっており、白を基調とした式服、つまりレース付きのブラウスにぴっちりしたズボンといういでたちである。
実際、この少女が足を全部隠したズボンをはいているのを初めて見たが、高い位置にある腰からすらっと長い足の形までがはっきりわかって、なかなかに色っぽいのではないかとレインは思う。
今は私室に二人きりだし、正直にそう言ってやった。
「特に、ぴちっとしたズボン姿が新鮮だ。やー、こうして見ると、最初会った時よりもずっと色っぽくなったなあ。腰の辺りなんか、もうすっかり女だ」
相も変わらず、臣下《しんか》たる者のセリフではない。
しかし、シェルファは随分と嬉しそうな顔をした。
「レインにそう言ってもらえると嬉しいです」
が、たちまち緊張がぶり返したのか、またズズーンと沈んだ顔になった。
「――まさか、このような日が来るとは思いませんでした」
「なに。そう堅苦しく考えるな」
腰とお尻の境目あたりの微妙な位置を、バシバシと無遠慮に叩く。
「面倒ごとはラルファスや俺に押しつければいい。おまえは、玉座《ぎょくざ》でふんぞり返って成果を待ってればいいのさ。楽なもんだ」
また、釣られたようにシェルファの顔が綻《ほころ》ぶ。
「いいえ。わたくしはなるべくレインのそばから離れないつもりです。――だから、玉座《ぎょくざ》より戦場にいることが多くなると思いますよ」
「いやまあ……これから戦いが多くなるのだけは、避けられないだろうなあ。話し合いなんか一切通じない相手だし」
他人事のように言い、レインはしげしげとシェルファを見下ろした。シェルファはなにも答えず、こちらをじっと見ている。
二人してしばらく見つめ合っていた。
「あ、まつげにちっこい埃《ほこり》がついてるぞ。ちょっと目を閉じてみ。取ってやるから」
「え? あ、はい」
いつもながら、シェルファはまるで疑いもしなかった。なんの疑問も持たずに、大きな瞳をすっと閉じる。
あまりにも古い手にあっさり引っかかるので、ちょっと脱力したものの――
レインはシェルファをふわっと抱きしめ、薄桃色の唇に口づけをした。
「んんっ!?」
しなやかな肢体がレインの腕の中でビクンと震え、一瞬、硬直する。
シェルファはびっくりして瞳を見開いたが、レインの顔が間近にあるのを見て、ようやく事態を悟った。
それこそ、急がないとこの幸せが逃げてしまいますっ、と言わんばかりに、また大慌《おおあわ》てで瞳を閉じた。すぐに体の芯から固さが取れ、力を抜いてレインに身を任せる。ほっそりした両手が、相手に応《こた》えるようにレインの体に回される。
窓から差し込む光が、二人の姿を柔らかく照らし出していた。
しばらくして身を起こすと、レインは主君を見下ろし、金髪を手でくしゃっとかき混ぜてやった。
「どうだ、緊張は取れたか」
「……え」
遅れて瞳を開いたシェルファは、どこかとろんとした目つきでレインを見返しており、何を言われたかよくわかっていないようだった。
「いや、だから。緊張は取れたかって訊いたんだが。今日はフォルニーア達も出席するからな。どっしりと構えていてもらわんと」
「……え? あ、はいっ」
ようやくシェルファの視線が焦点を結んだ。
途端《とたん》に、真っ赤な顔で輝かんばかりの微笑《びしょう》を浮かべた。
「今なら――世界の王を押しつけられても、気持ちよく受けてしまいそうな気がします」
「ホントにそうなるかもしれんぞ。なにしろ、おまえにはこの俺がついているからな」
さらりと言ってやったが、シェルファの耳には届かなかったらしい。
瞳をキラキラさせ、全然関係ないことを言う。
「とても素敵でした……あの、これからは毎朝毎晩してくれますか? あ、お昼も」
……なんだよ、それは。
レインはあきれ、「こういうのはチビチビやるからこそいいんだぞ」などと追及をかわしかけたが――
突然、ぱっと顔を上げ、城壁の方角に目をやった。
「――! 誰かが俺の結界《けっかい》を破ったっ」
レインが駆《か》けつけた時には、もう他の警備兵や手すきの騎士達も、急を聞いて集まり始めていた。
朝靄《あさもや》を通すようにして、見上げた城壁の上に、見覚えのある黒い影が見える。マントを纏《まと》い、長い銀髪で半《なか》ば片目が隠れたその男――
忘れもしない、レイグル王その人だった。
相手もまた、いち早くレインを見つけ、すうっと冷たい笑みを見せる。
「……久しいな、レイン。今日は戴冠式《たいかんしき》らしいので、ちょっと挨拶《あいさつ》に来させてもらった」
「貴様、結界《けっかい》をぶち破って入るとはしゃらくさい真似《まね》をしてくれたな」
「ああ、やはりこれを張ったのはおまえだったか」
レイグルは平然と頷《うなず》き、
「道理でそこそこマシな結界《けっかい》だと思った。まあ、どのみち俺が破れないほどではないが」
舌打ちしたい気分を抑え、レインは素早《すばや》く考える。瞬間移動の能力を持つこいつのこと。ある程度近くまで跳んでから、わざわざこのガルフォートにやってきたのだろう。
しかし問題は――
「一体、なんの用だ?」
「用というほどでもないな。信じないかもしれないが、おまえの顔を見たくなった――というのが一番大きいだろう」
真面目《まじめ》な顔でほざいてくれた。
「それと。俺は近々また動く――それを教えてやろうと思ってな。おまえもようやく、それなりに足場を固めたようで、めでたいことだ」
唇の端に、皮肉な笑みを浮かべる。
とそこで、ラルファスやガサラムを初めとする仲間、それにフォルニーアとその部下達も次々と駆《か》けつけ、レインと同じく城壁を見上げる。
レインは自分の背中にかばっていたシェルファを、ラルファス達の方へそっと押しやった。足手まといになりたくないのか、彼女は素直に、しかし渋々と仲間の方へ下がった。
「姫様を頼む!」
「お任せください!」
と頼もしくガサラム。
ちょうどその時、城壁上の通路を走って衛兵《えいへい》の一隊と弓隊がレイグルの両脇に接近した。
「よせ! 下手に手を出すな、そいつには効《き》かないぞ」
レインは思わず怒鳴《どな》る。
一様に強張《こわば》った顔でレインを見、兵達はレイグルを遠巻きにしたまま、動きを止めた。
レイグルは、間近に迫った警備兵の群れなどには見向きもしなかった。ただ、レインのそばにジョウの姿を認め、闇よりも深い黒瞳《くろめ》を向ける。
「ジョウ・ランベルクか……名ばかりの英雄が、今頃出てきてなにをしようというのだ」
ジョウは応《こた》えない。
ただ愕然《がくぜん》とした顔で、凍り付いたようにレイグルを見上げている。
代わりに傍《かたわ》らのフォルニーアが、鋭《するど》い叱声《しっせい》を放つ。
「魔人《まじん》めっ。滅ぼされた一族の片割れたる貴様が、ジョウに偉そうに言えた義理かっ」
「笑わせてくれるものだ、小娘。滅ぼされただと? そいつが相手にしていたのは、ほんの使い走りに過ぎぬ」
冷徹《れいてつ》に言い切り、レイグルはぶんっと一振り腕を振った。
と、そこにいた全員、レインを含めた皆が一人の例外もなく、体をギリギリと圧迫されて一歩も動けなくなってしまった。
「己の無力さを思い知るがいい。どうだ、小娘……もう大口を叩きたくとも叩けまい?」
レイグルの言う通りだった。
フォルニーアは体を締め付けられる苦痛に耐え、横目を使う。そして、ジョウも皆と同じく苦しそうにしているのを見て、驚愕《きょうがく》した。
まさか、このジョウをも拘束《こうそく》するとは――
その瞬間、仲間内から激しい雄叫《おたけ》びの声が上がった。
自らの全魔力を集中し、身体を圧迫する強大な『力』をはねのけ、レインはたった一人でレイグルに挑戦する。
瞬《またた》く間にトップスピードに乗った長身が、まっしぐらに城壁を目指して疾走《しっそう》を始めた。
レイグルはそれを確認し、満足そうに唇を吊り上げた。
「危うく失望するところだったぞ、レイン。僥倖《ぎょうこう》にすぎぬとはいえ、一騎打《いっきう》ちの末《すえ》に、一度は俺を退《ひ》かせたのだ。……そうこなくてはな」
「その鼻持ちならん余裕、この俺が吹き飛ばしてやるっ」
だんっと大地を蹴り、長身が朝靄《あさもや》の中を跳ぶ。高々と舞い上がり、空中で体をひねって城壁上の通路に降り立つ。
すかさず魔剣を抜き、敵を目指した。
誰もが動けず、ただ立ちつくして見守る中、髪をなびかせつつレインが走る、走る。
脂汗《あぶらあせ》を流して固まっている警備兵の隙間《すきま》を、風とともに黒影が瞬時に駆《か》け抜ける。ぐんぐん敵に近づく。
「無駄だ、レイン。俺はおまえよりさらに速い。おまえの動きは、とうに見切っている」
「そういうセリフは、俺の死体を足下《あしもと》に転がしてから吐《ぬ》かせ!」
「――ふっ」
レイグルの目は、完全にレインの動きを捕らえており、袈裟斬《けさぎ》りに振り下ろされた魔剣の下、残像のみを残してその姿が後退《あとずさ》る。
レインは構わず、空振りで前傾した状態から軸足を変えてくるっと体を回転させ、勢いをつけて大振りに横殴りの斬撃《ざんげき》を見舞う。
レイグルは余裕で背後に跳躍し、またもやこれをかわす。未だ、剣を抜いていない。
「また失望させる気か? 何度も言わせるな。おまえの動きは完全に見えている」
「……それはどうかな?」
歯をむき出し、にやっと笑うレイン。
「なにを負け惜しみを――」
言いかけたレイグルが瞳を見開いた。
今になって中央の紐が切れ、マントが足下《あしもと》に落ちたのだ。それだけではない。頬《ほお》に薄く血が滲《にじ》み出し、首筋へと滑り落ちていく。
傷は見る見るふさがってしまったが、レイグルは微《かす》かに首を振った。
「……おまえには驚かされるな」
「では、驚いたまま死ね!」
レインが飛びかかる。
今度はレイグルも剣を抜いた。かつてのジャスティスより鮮明なオーラを放つ、真紅《しんく》の魔剣が傾国《けいこく》の剣を迎え撃つ。
激しいスパーク音とともに魔剣同士が激突、その閃光《せんこう》越しにレインは言った。
「今回は自家製か、おい。自分で剣に魔力をチャージしたな? 知ってるか、自らが生み出した魔法のオーラには、本人の心が表れるもんだ。この真っ赤なオーラは、流血を望む貴様そのものだっ」
「ふ……違いない」
互いに飛び退《すさ》り、そしてまたダッシュ。
二つの黒影と二振りの魔剣がぶわっとぶれ、瞬間的に無数の残像が生まれた。
ギギンッ――バチバチバチッ
「ちっ」
肩を浅く斬《き》られ、今度はレインが後退した。着地した瞬間、追撃に備えたが、レイグルは追って来なかった。
ふわっと宙に浮き、そのまますーっと城壁から離れる。
一瞬だけ視線が遠くのシェルファに注《そそ》がれ、眉をひそめた。
「かつての気配《けはい》が消えている……妙な娘だ」
「どこを見ている! 逃げる気かっ」
とっさに、自分も魔力を使って滑空《かっくう》し、戦いを継続するかとレインは思った。
やってやれないことはない。
しかし、それだと当然、足場がある時よりは動きが制限される。向こうはどうか知らないが。
考えている間に、レイグルはまた視線を戻し、静かに言った。
「本来、俺はおまえの動きを完全に見切っていたはずだ。にも関わらず先程の剣撃がかすったということは、おまえはたった数ヶ月でさらに強くなったのだ。かつて、大陸北部にその名を轟《とどろ》かせた知られざる天才剣士、か。……天賦《てんぷ》の才能、確かに見せてもらった」
「なにが言いたい!」
「――別に。ただ喜ばしいだけだ。おまえは俺の『力』を知りながら一片の恐怖心も持たず、まるで戦意を鈍らせない。これまで出会った人間は、知った途端《とたん》に逃げるか、泣きながら許しを請《こ》う者ばかりだったというのに。……我が味方か、あるいは敵となる資格は十分にある」
うっすらと笑うレイグル。
「再び足を運んだ甲斐《かい》があった。その調子でせいぜい精進《しょうじん》することだ……。少しでも俺の域に近づいて来るのだな……」
「待てっ」
怒声と同時に、剣を振り切って遠隔攻撃を仕掛けたが――
わずかに遅かった。
レイグルは素早《すばや》く手で印《いん》を描き、かき消すように消えてしまった。能力を使って跳んだのだ。
『次に会う時を楽しみにしているぞ、レイン』
そのセリフだけが、風に乗って微《かす》かに届いた。
「……ちっ」
パチン、と魔剣を戻した途端《とたん》。
周囲が一斉にざわめき始めた。レイグルが去ったことで彼の力が効力を失い、皆が動けるようになったのだ。
レインを口々に呼ぶ声――真っ先に駆《か》けつけたのは城壁上にいた警備兵達である。
先頭にはミランの姿があり、今日はこいつが責任者だったらしい。
「将軍! ご、ご無事ですかっ」
どきどきした表情であたふたと言うミランを、レインはじろりと睨《にら》んだ。
「当然だろう。だいたい、その慌《あわ》てふためきようはなんだ? 小便もらしそうになって、見苦しくも半泣きで逃げ出したのは向こうだぞ。ここは、『ぬうううっ。獲物を取り逃がし、残念でしたね!』とでも言うのが筋だろうがっ」
ミランはあからさまにほっとした顔になり、長々と息を吐いた。
震えるような声で、
「ああ、良かった……。いつもの将軍ですね」
レインは物も言わずにミランの頭をどついた。
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エピローグ 史上最も可憐《かれん》な王よ、御身《おんみ》を讃《たた》えん!
朝から大事件があったものの、戴冠式《たいかんしき》は中止されなかった。
事件を知る者は割合から言えば城内のごく一部であったし、それらの人々も誰も中止せよとは主張しなかったのである。
しかし、サンクワール側の面々はもちろん、初めてレイグル王を見たフォルニーア達も魔人《まじん》への認識を新たにしたのは間違いない。その身で彼の力に触れ、そうせざるを得なかった――とも言えるが。
他国からの参列者は横手の貴賓席《きひんせき》に、そしてこの国の関係者――つまり、シェルファの臣下《しんか》達は全て彼女の前に。
そんな配置でずらっと席が並べられ、城内の大ホールは人で充満していた。
とはいえ、せいぜいが千人足らずに過ぎないのだが、最近になるまで人前に出たことのなかったシェルファには、世界中の人間が集まっているように見えた。
しかもこの大観衆は例外なく、自分を見物しに来ているのだ。
大ホール、正面|壇上《だんじょう》への横手入り口――
その小さなドアの前に、新国王たるシェルファが立っている。額《ひたい》には、王冠の代わりに宝石がちりばめられたサークレットをはめているが、本人はあまり嬉しくなさそうだった。
彼女は、ドアをちょっとだけ開けてホール内の有様《ありさま》を窺《うかが》い、たちまちバタンと閉めた。
「わたくし……倒れそうです」
言葉通りの青白い顔色でレインを見上げる。
「なに。あんな連中はおまえ、『ふふふ。あたしに仕えてくれる、下々《しもじも》の愚民《ぐみん》達ね! これから酷使《こくし》し放題ねっ』とでも思っておきゃ、なんも怖くないぞ。数は多くても、袋詰めのジャガイモみたいなもんだ」
無責任にも、レインはそんな励まし方をした。
「そんな……無理です。レインも一緒に来て、隣にいてください……でないとわたくし、本当に倒れてしまうかもしれません……」
「近くにはいるさ。俺は上将軍《じょうしょうぐん》だから、おまえの近くが定席だ。でも、すぐ隣は無理だな。みんな見てるし」
レインは苦笑したが、その笑みの途中でちょっと顔をしかめた。
シェルファはたちまち心配そうな表情になり、そっとレインの肩に手を触れる。
「傷が痛むのですか?」
「いや、大丈夫だ。逃げられたのを思い出してむかついただけだ」
レインは頑固に首を振る。
シェルファは瞳を伏せ、
「……レインのお怪我《けが》の方は、全てわたくしが引き受けられたらいいのに。そうすれば、わたくしもレインの痛みを分かち合えるのに」
「馬鹿言え。せっかく綺麗《きれい》な肌してるのに、そんなもったいないことされてたまるか。それよりほら――そろそろ時間だぞ」
肩を押されるままに、シェルファは渋々とドアに向かって歩いた。が、直前でまた立ち止まり、レインを見上げた。
「式の間、なるべくレインを見ていることにします」
おまえはいつだって俺の方ばかり見てるじゃないか――
などと不粋《ぶすい》なことは言わず、レインは真面目《まじめ》くさって頷《うなず》いた。
「そうか。うん、それで落ち着くならそうしろ」
まだなにか言いたそうな顔で見上げるシェルファに、自分から持ちかけてやった。
「まつげの埃《ほこり》、取ってやろうか?」
「あ、はいっ。ぜひとも!」
レインは腰をかがめ、シェルファはどきどきした顔で瞳を閉じる。誰もいない廊下で、二人の体が重なった。
数秒後に体を離し、レインは尋ねる。
「元気出たか」
「……はい。とても……とても!」
実際、見違えるほど輝く瞳で、シェルファはコクコク頷《うなず》いた。
「よかったな。よし――なら、行くか」
「はい。レインと一緒に……どこまでも」
夢見心地のシェルファは、どこか噛《か》み合わない返事を返した。
レインは笑い、自らドアを開けてやった。
「どうぞ、陛下」
「……そんな呼ばれ方、嫌《いや》です。レインはこれからもいつも通りに呼んでください」
「わかったよ。じゃあ――どうぞ、姫様」
「――はい」
数分前とは大違いで、シェルファはためらいもなくドアをくぐり、真っ直ぐに壇上《だんじょう》を目指す。
高い天井に吊られたいくつものシャンデリアが放射する明かりに、長い金髪がキラキラ輝く。バージンスノーも顔負けの真っ白な肌とその美貌《びぼう》に、皆が視線を殺到《さっとう》させる。席を立った貴族女性達が、賞賛と羨望《せんぼう》のため息をつく。
『レイン効果』で一時的に怖い物なしになったシェルファは、待ちかまえていた大観衆に、彼女本来の美しさと魅力を全開にした。
微笑《ほほえ》みながら小さく手を上げる少女に、サンクワール側の席から大歓声が沸き起こった。
『新国王万歳!』
『麗《うるわ》しき賢王に、神々のご加護があらんことを!』
大波のような歓声に、貴賓席《きひんせき》からの万雷《ばんらい》の拍手が加わる。
そして、おそらく「史上最も可憐《かれん》な王」と呼んで差し支えない主君の背後を、レインがぶらっとついていく。
あたかも、陰《かげ》から彼女を支える、目立たない守護神のように。
シェルファはその確かな気配《けはい》を背中に感じ、無限の安堵《あんど》感を覚えていたのだった。
この日この時を境に――
サンクワールは「シェルファ王の元年」を迎え、新たな時代に入ったのである。
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番外編 |G. G. S《ガルフォート・ゴースト・ストーリー》
サンクワールの王都、そのやや北寄りに位置するガルフォート城。
優に一三〇〇年以上の歴史を持つ古都にあり、さらにサンクワール王家|発祥《はっしょう》の城としても名高い古城である。
類《たぐい》い希《まれ》な友情の成果――後《のち》にそう讃《たた》えられた建国の祖は、ジョウ・クレメンス・サンクワール。
彼を筆頭とする、五家《ごけ》の名門がサンクワール貴族の興《おこ》りなのは、この国の民《たみ》なら誰でも知っている。
当時、海を渡ってこの地方に押し寄せてきた東方部族に対し、少数民族に過ぎなかった一部の民《たみ》達が結束して戦い、見事に撃退した。
最初は逃げ腰だった彼らをまとめ上げたのは、五人の極めて優秀な冒険者達だったという。
戦いが終わった後、生き残った戦士達の推戴《すいたい》を受け、彼らはこの地を安住の地として民《たみ》を統《す》べることになる。
国が興《おこ》れば、当然ながら王を決めねばならない。五人全員が王となる訳にはいかない。
だが幸いにして、こんな時にありがちな揉《も》め事は、なにも起きなかった。
家族以上の結束を誇っていた五人が相談し、そしてジョウが選ばれ、初代の王となったのだ。
以来、代々のサンクワール家当主は、名門|五家《ごけ》の筆頭として貴族の頂点に立ち、今なおガルフォート城に君臨《くんりん》している。五家《ごけ》が四家《よんけ》に減った現在も、その慣習は変わらない。
長きに渡るこの城の歴史において、時に主《あるじ》が別姓の者に変わったことはあるが、それはあくまでイレギュラーな事態であり、そのことごとくが短期短命政権に終わっている。
全国民が密《ひそ》かに認めるように、ガルフォート城はサンクワール家の当主――すなわち、国王の住まう城なのだ。
そして現在のガルフォートの主《あるじ》は――
王家の歴史上最も若く、最も可憐《かれん》と噂される王《プリンセス・ロード》、シェルファ・アイラス・サンクワールその人である。
――そんな名のある古城に、ゴーストが出ると噂されるようになったのは、いつの日からか?
今や庶民達の噂にまでなり、いわんや城内においては公然の秘密として囁《ささや》かれている。
侍女《じじょ》やメイドや、時には戦うのが仕事の騎士でさえ、夜の城内を歩けなくなっているのだ。
臆病な……今のところ、そう笑う者達が大半だが、なにしろサフィールの乱が収まった直後のことである。
本気にする者も、少なからずいた。
いや、潜在的には大量にいた。
元々、古城に付きものなのがゴースト・ストーリーで、それはこのガルフォート城も例外ではない。
戦乱が起こる度《たび》にその手の目撃例は必ず出てくるし、別に平和な時代であっても、ゴーストの噂話は無くならないものなのだ。
例を挙《あ》げればキリがない。
曰《いわ》く、とうの昔に斬殺《ざんさつ》されたはずの敵の将軍が夜中に歩廊《ほろう》を歩いていただの、在位|僅《わず》か数年で暗殺された五代前の王が大広間に一人でポツンと立っていただの――
ひどいのになると、『俺の知り合いの友達の弟の話だが――深夜、そいつが衣装部屋(貴族達がトイレを遠回しにこう呼ぶ)へ用を足しにいったら、そこに先々代の王女がネグリジェ姿で待っていて、もう絵にも描けないウハウハの夜を(以下略)』などの、笑い話に等しい噂まであったりする。
ただ、近年は少々、様子が変わってきた。
十数年ほど前から、古式ゆかしいゴースト話に微妙な変化が現れている。
明らかなホラ話は少なくなり、『見た』とされるゴーストに、共通点が幾《いく》つも出てきた。
これは、証言した者が同じゴーストに出会った証拠――と言えるかもしれない。
しかし、それでもなお、ごくごく最近まではさして問題にならなかった。
遭遇した話に信憑性《しんぴょうせい》が出てきたと言っても、そうそう頻繁《ひんぱん》に目撃例はなく、せいぜいが年に一度か二度程度だったからだ。
ところがである――
今年は、冬が訪れてしばらくすると、いきなりゴーストに出会った者が増え始めた。
その勢いは止まらず、後《のち》に『サフィールの乱』と呼ばれたあの戦《いくさ》以後、シャレにならない速度で目撃者が急増していった。
ここ数日などは、一晩の内に件《くだん》のゴーストを見た者が複数に及び始めた。
こうなると、最初は笑い飛ばしていた勇敢《ゆうかん》なる騎士達の中にも、うそ寒い顔つきでそっと辺りを見渡す者が出てくる。
『もしかして……これは本物かな?』
声には出さず、そう思ったのだ。
もちろん、公然とそれを口にすれば臆病者《おくびょうもの》のそしりは免《まぬが》れないので、半|肯定《こうてい》派も断じて認めなかったが。
……だが、深夜のガルフォート城をうろつく者が、急に激減したのは事実である。というか、そもそも見回りの兵士達までもが任務を嫌《いや》がり始めた。
彼らを指揮統率する上級騎士達も、こうなると頭を抱えざるを得ない。
というように、着々と深刻さを増してきたガルフォート城の(密《ひそ》かな)ゴースト騒動だが、この度《たび》、ついに転機が訪れた。
そのきっかけとなった者は、他でもないミランである。
……本人は、さぞかし不服だったろうが。
北風が吹きすさぶ、底冷えのする深夜のことである。
今宵《こよい》、城壁の警備責任者はミランであり、彼は部下二名を従えて城壁上を巡回中であった。さぼることもなく、きちんと時間通りに。
ミランは、別に度を越して生真面目《きまじめ》な性格ではない。
ないが、自分を破格の地位に引き上げてくれた主君《レイン》に対し、言葉に尽くせないほど感激していたし、恩義《おんぎ》を感じている。
その期待に応《こた》えたいと、常々思っているのだ。
よって、夜毎《よごと》にゴーストが出るからといって、任務をさぼる気はさらさらない。どうせそんなのは、ただの噂に過ぎないのだ……というか、そうであることを望む。
……ちょっと怖いのは認めるけれど、まあ部下もついていることだし。
そう思い、彼は無理にも胸を張り、高い高い城壁上を周回警備中だった。
要は見回りである。
もはや五人隊長なので、そんな任務は部下にやらせて自分は部屋で紅茶でも啜《すす》っていればいいのだが、嫌《いや》な任務はなるたけ自分も分かち合うことにしているのだ。
ゴーストは恐ろしい……出会うのは、本気で勘弁《かんべん》。
そう思うからこそ、僕も付き合わないとっ。見上げたことに、ミランはそう考えている。
ただ、深夜のこの時間、城壁上は人の気配《けはい》が皆無《かいむ》である。当たり前だけど。
月に雲がかかっていて、非常に暗いのも心細い。カンテラの明かりくらいでは追いつかない。
そこへ持ってきて、石造りの通路をこうして歩いていると、自分の足音がカツゥーン、カツゥーンと嫌《いや》な感じに響く。
お陰《かげ》で、どうも前後の薄闇《うすやみ》が気になるし……
せめて話題だけでも明るくしようと、ミランは背後に話を振ってみる。
「君達、今度の休暇には、どこかへ行く予定とかあるのかな?」
……返事なし。
振り返ると、若い兵卒《へいそつ》二人は、雨に濡れた子ネズミみたいな態度でビクビクと周囲に目を配っていた。
フレンドリーに会話を楽しむ精神状態ではないらしい。
両名共に老婆《ろうば》のように背中が曲がっており、つまりは腰が引けている。見習い騎士未満の兵卒《へいそつ》とはいえ、この有様《ありさま》はどうだろう。
いささか、情けないではないか。
自分を棚に上げ、ミランは大いに顔をしかめた。
「おい、もっとシャキッとしないか! こんな所を将軍に見られてみろ、すぐさま鉄拳《てっけん》が飛んでくるぞっ。前に教えてあげただろう? 今や伝説化している、『悲惨《ひさん》なM』の話を忘れない方がいい!」
さすがにレインの名は、戦神《いくさがみ》以上の効果があった。二人はたちまちびしっと背筋を伸ばし、直立不動の姿勢《しせい》を取る。
「し、失礼しましたっ」
それを見て頷《うなず》き、ミランはまた前を向く。彼らはアテにならない……この僕がしっかりしないと!
だが、再び歩き出そうとした途端《とたん》、背後から息を呑む音がした。
一呼吸置き、ゲチョグロのゾンビに抱きつかれたようなエグい掠《かす》れ声。
「たたた、隊長ぉぉぉおーーっ」
そのあまりな声音《こわね》に、ミランの背筋にぞわっと来た。
「い、いきなりなんだ! 僕だって人間だぞ、びっくりするじゃないかっ」
ばっと後ろを見る。
衛兵《えいへい》の制服を着た彼らは、またしてもミランの叱責《しっせき》をスルーした。
ガタガタ震えながら突っ立ち、ずっと遠くを見ている。この寒いのに、顔中が脂汗《あぶらあせ》にまみれていた。
「……どうかしたのかい?」
首を傾《かし》げ、ミランがまた前を――部下の視線の先を見る。
……いつの間にか、十メートルほど向こうに誰かが立っている。透き通るようなドレス姿の、髪の長い女――いや、少女が。
背後で、やかましい二重奏。
「見えてる、見えてるうううーっ」
「すけ、すけすけ……服があっ」
「多分、夜着《よぎ》なんだろう? 透けた服なのは見ればわかるっ」
ミランはぴしりと返した。
「イヤらしいな、君達はっ。そういうのは黙って目を逸《そ》らしてあげるのが、騎士の礼儀だぞ!」
そんなことより問題は、深夜二時過ぎの城壁上に衛兵《えいへい》以外の者がいるという点だろう。
その意味するところは、一つしかないはず。
「侵入者なのかっ」
責任感の強いミランは、素早《すばや》く抜剣《ばっけん》し、用心深く接近した。
「そこの君、もし所属があれば教えてもらいたいっ。それと――」
まずは名乗ってもらおう……そう言いかけたところで、足が止まる。やっと少女を直視し、奇妙な点に気付いたのだ。
ちょうど、頭上の雲が流れ、満月が顔を出す……お陰《かげ》でさらに良く見える。
今度はミランの喉《のど》が鳴った。
透き通るようなドレス姿じゃない……それ、全然違う。
ドレスどころか、身体まで透き通っている。向こう側の石壁が見えているし! 部下の悲鳴の意味がやっとわかった。
棒立ちのミランの背中に、怖《お》じ気《け》づいた部下二人がぶつかってきた。
「たた、隊長ぉおおあーーっ」
「ば、馬鹿っ。押すなあああああっ」
左手にカンテラ、右手に剣を持ったまま、ミランは必死に踏ん張る。ここ十年で一番の力が入っていた。
お、落ち着け、僕っ。
ゴーストに対抗するには対抗するには……て、そんなのに対抗出来るかあっ。
責任感と恐怖の狭間《はざま》で葛藤《かっとう》する。
とそこで、軽やかな笑い声が響いた。
わ、笑われた……ゴーストに?
呆然《ぼうぜん》と少女を見返すと、彼女は口元に手をやり、今も可愛《かわい》らしく笑っている。
馬鹿にしたような声音《こわね》ではなく、実に楽しそうに。きらきらした長髪が、さざ波のように細かく動くのまで見えた。
今気付いたが、瞳の大きな、優しそうな顔立ちの子だった。……身体、透けてるけど。
徐々に笑い声が静まり、少女はミランを見やる。笑顔を消さず、そっと呼んだ。
「挨拶《あいさつ》が遅れてごめんなさい。……こんばんは、ミラン」
僕の名を知っているだと!
ミランは思わず剣を持ち上げ、ゴーストに向けようとした。闘志《とうし》をかき立てたというより、生存本能に近い。
対するに、少女に動きはない。
「あなたを傷付ける気なんかないの、落ち着いて。それに――」
穏《おだ》やかな表情だったのが、急に悪戯《いたずら》っぽい顔つきに変わる。
続いたセリフは、決して平和なものではなかった。
『人間じゃ、私の相手にはならないわ』
どんっ。
いきなりなプレッシャーに、冷たい戦慄《せんりつ》が足下《あしもと》から背筋へと走る。
無意識に一歩、退《ひ》いていた。
彼女の視線に無形の圧力を受けたのだ。まさに、肌で感じる闘気《とうき》というヤツだ。
カンテラが手から滑り落ちる。背後で尻餅《しりもち》をつく音が二つ。だが、構っていられない。
ミラン自身、今度は違う意味で背中がぞくっとしていた。
僕にすら感じられる、この子の力の波動……この子は一体――
それでもミランは、勇《ゆう》を奮《ふる》って相手から目を逸《そ》らさない。
仮にもあの人の臣下《しんか》なのだ、この僕は!
「そんなセリフが許されるのは、僕の知る限りたった一人だけなんだ! 行くぞっ」
叱声《しっせい》と共に剣を振り上げ、挑《いど》みかかる。
だが、既《すで》に女の子は急速に姿が薄れつつあり、必殺の一撃は石壁を僅《わず》かに削《けず》っただけに終わった。
どこか遠くから、優しい声が聞こえてきた。
「おやすみなさい、ミラン。お話しできて嬉しかった……」
「――え?」
思わず左右を見渡す。
「……もうすぐ消えるけど……と仲良くしてね……」
「誰にどうしろって? ま、待ってくれっ。君は一体、どういうつもりで」
時、既《すで》に遅し。
もはや彼女は、完全に消えてしまった。
そういうシャレにならない出来事があってから数日、ガルフォートのゴースト・ストーリーは、怒濤《どとう》の勢いで城内を席捲《せっけん》し、王都にまで広がっていった。
なにしろ、ここ十数年に渡って密《ひそ》かに出現していたゴーストと、言葉を交わした者が登場したのだ。
これまでの目撃例は正《まさ》に見ただけのことで、実際に話した者など皆無《かいむ》だったのである。
しかも城内の一部では、ミランこそがその相手だったらしい――という事実がバレていた。
ちゃんと箝口令《かんこうれい》を敷いていたのに、いきなりこれである。噂の伝染力たるや、侮《あなど》れない。
それに、内容も人伝《ひとづて》に微妙に変化していき、以下のような経過をたどった。
『ミランがゴーストと短い会話を交わした(真相)』
↓
『ミランがゴーストと話した……彼女は、彼の知り合いだったらしい(伝聞口調)』
↓
『ミランの元恋人が、ゴーストとなって会いにきたそうだ(見てないのに自信ありげ)』
このような具合に少しずつ噂が成長し、最終的には次のような完成を見た。
『ミランの幼馴染《おさななじ》みでジョアンナという娘が、ゴーストとなって現れた。
彼女はヤツと毎晩愛し合う仲だったのに、後《のち》にあっさり捨てられ、それを恨《うら》んで崖から飛び降りている。
一方ミランは、今や六人の少女と付き合い、うち三人を妊娠させているそうな。そりゃゴーストも出ようというもの……あな恐ろしや! (もはや断定済み)』
妊娠|云々《うんぬん》はともかくとして――
よく聞けば、ミランの年齢からして明らかに件《くだん》の話と矛盾するのだが、なぜかこの無茶な噂を信じる者は多かったのである。
もちろん、ミランは大いに嘆《なげ》いた。
嘆くだけではなく、怒りもした。誰だ、くだらん噂を流すヤツはっ。
今も、たまたま顔見知りばかりが集《つど》う夜の食堂で、こぼしている最中である。
顔見知りとは、ユーリやセルフィー、そしてレインとレニ……加えて(珍しくも)セノアというメンバーだ。
セノアは少し前までメイドに食事を運ばせる方を選んでいたのに、なぜか心境の変化があったらしい。最近は、たまに食堂に姿を見せる。
ともあれ、そういう面々を相手に、ミランは切々と愚痴《ぐち》る。
「僕はですね、恋人どころかロクに女の子の手を握ったこともないんですよっ(ユーリの黄色い悲鳴)。それなのになんだ、あの噂はっ」
長方形のテーブルの向こうに並んだ、一同を順繰《じゅんぐ》りに見、だんっと陶器製のカップを置く。
声を大にして、また主張した。
「だいたい、ジョアンナって誰だよ! 全然、聞いたこともないっ」
「ホントですかぁ」
とユーリが早速|絡《から》む。
「実はたいちょー、身に覚えがありまくりで、内心で怯《おび》えているんじゃあ?」
「将軍じゃないけど、ユーリの『隊長』と呼ぶ声は、実にいい加減だなあ……」
ミランは眉間《みけん》にぎっちりと皺《しわ》を寄せた後、首を振った。
「探り入れても無駄だね。僕は本当に身に覚えがないんだ。なんで僕の名前を知ってたんだろう、あのゴースト」
「まあ、もう少し詳しく説明してみろよ」
珍しくからかうこともなく、レインが口を挟んだ。
端っこの席で壁にもたれ、ワイン入りのグラスを軽く持ち上げる。説明始め、の合図のつもりらしい。
ミランは広々とした食堂内に、部外者がいないのを確かめてから――話した。
最初から最後まで、全部。
しかも、わざわざ席を立ってだ。
気味悪そうな女性陣や顔面蒼白《がんめんそうはく》のレニと違い、レインはまるで無表情に耳を傾けていたのだが――
ミランの内なる予想通り、話の最後辺りで座り直した。
びたっとミランにガンをつける。
「……ほお〜? 『人間じゃ相手にならない』と……そう言ったのか、そいつ?」
すうっと黒瞳《くろめ》を細め、声を低める。
ただごとではない圧迫感を受け、ミランは思わず視線を逸《そ》らしそうになる。
たちまち首筋に冷や汗が浮く。
あのゴースト以上に、肌で感じられるほどの闘気《とうき》で、相手が主君とわかっていても後退《あとずさ》りしたくなるのだ。
実際、立っていたのに胸を押されたみたく、すとんと椅子に座ってしまった。
「ぼ、僕を睨《にら》まないでください。そう言ったのはそのゴーストなんですから」
「わかってる。おそらくそいつ、俺の性格をよく知っているのさ」
ふてぶてしく笑うレイン。
「いっちょまえに、罠のつもりらしい。……だが、俺をハメようなんて百年早いね」
ミランを含め、レイン以外の五人は思わず顔を見合わせた。
一同を代表してという訳でもなかろうが、レニが顔を上げた。
「そそそ、それって」
どうも、話の内容に怯《おび》えきっていたらしい。
身の震えが止まらずどもりまくり、レニは自分の頬《ほお》をぴしゃっと叩いた。
深呼吸もしてから続ける。
「ま、まるで将軍は、ゴーストの正体をしし、知っているみたいですね」
「気のせいだろ。ゴーストに特別な関心なんかない……その子の最後のセリフが片腹痛かっただけだ」
さらりと答えるレイン。
ミランが見るところ、表情に不自然さはまるでない。元々、内心の読めない人だが。
「それに、このゴーストの噂が、ついに姫様の耳にまで届いちまってな。色々と訊かれるんで、その報告のためにも詳細を聞いとかないとな」
シニカルに笑い、肩をすくめる。
「しょうもない噂なのに、みんなエラく気にするよな」
「な、なるほど!」
なぜか、ほっとしたようにセノア。
彼女は話の途中、何度か唾《つば》を呑み込んでいたが、レインの話を聞いて顔が明るくなった。
「所詮《しょせん》、ゴーストなど幻ってことですね。ミランの見たその子も、実際はどこかから紛《まぎ》れ込んだ普通の子だったと」
「……なんでそうなる? しょうもない噂って言ったのは、ミランに関する部分だぞ」
レインは、むしろ驚き顔で反論する。
「関心ないにせよ、俺はなにもゴーストの存在まで否定しないって」
『え゛[#濁点付き平仮名え、318-8]』
セノアは、カエルを丸呑みしたような、なんとも奇妙な声を出した。
「す、すると……いわゆるその……ゴ、ゴーストは実在する……と?」
「わかってないな、おまえ」
レインはわざとらしく息を吐いた。
「この世界はだな、レベル一の雑魚《ざこ》モンスターから、レベル一〇〇の魔獣《まじゅう》(ドラゴン)までザクザク登場するんだぞっ。しまいには、滅亡したはずの魔人《まじん》から最強の俺まで実在しているしな。ゴーストくらい、そこら辺にザルですくえるほどいるさ」
「そ、そんな……」
一気に顔色が悪くなるセノア。
「ザ、ザルですくえるくらいって……」
ミランですら『うえー』と思った。
ていうか、「最強の俺」はともかくとして、「この世界」という言い方は妙じゃないだろうか。
ほのかな疑問が生じたものの、いちいち訊きはしない。
レインは時折、耳慣れない用語やらことわざやらを口にすることがあり、皆、慣れてしまっているからだ。
最近では、その聞き慣れないことわざがいつの間にか城内に広まり、すっかりスタンダードになったりする(時もある)。
まあ、世界中を旅してきた人なので、物知りなのだろう……とミランは思っている。
で、レインの見解を聞いてユーリやセルフィー達は微《かす》かに黄色い声を上げた。
「あはははっ」
「いやーーーっ。なんか、おトイレに行けなくなっちゃったじゃないですかぁ」
ユーリは笑っているが、セルフィーは本気で怯《おび》えているようだ。
いや……彼女だけでなく、レニに、そしてセノアも。
レインが特にセノアを見てコメントする。
「まあ、そうビクつくなって。このゴーストに限っては、多分無害だと思うぞ」
なんでそんな保証が出来るんだろう?
ミランとしてはその理由を訊きたかったのに、むっとした顔のセノアが邪魔をしてくれた。
「なにを仰《おっしゃ》いますか! 仮にも五家《ごけ》の一角を占めるエスターハート家のこの私が、ゴーストごときに怯《おび》えるものですかっ。全然、怖くありませんとも!!」
「そうか、ならいいんだ。エキサイトするほどのことじゃない」
さらりと流し、レインはグラスにワインを注《つ》ぎ足す。
完全に世間話の口調で続けた。
「とにかくだ。これ以上ゴーストの噂が広がるのは、まずいよな。今や、姫様にまで心配かけているし。おまけに夜の巡回をさぼる兵士が続出で、士気にもかかわってきたと」
たっぷり注《そそ》いだグラスを見、一つ頷《うなず》く。
さりげなく言い足した。
「だからここらで一つ、上級騎士辺りに率先して夜の巡回をやってもらうか。まずは上がしっかりしなきゃなー」
などとレインが言った途端《とたん》――
レニはわざとらしく下腹を押さえて呻《うめ》き出し、セノアは夜食の残りを通常の三倍の速度で片付け、ささっと席を立つ。
「ぐわっ。じ、自分は急性の腹痛がっ」
「わ、私も、そろそろ趣味の詩を書く時間ですので」
レインはしんねりと二人を見比べ、ポツンと口にする。
「……素直じゃないなぁ」
実に、この一言が明暗を分けた。
レニは真っ正直に、「では正直に。すいません、気味悪いから遠慮したいです」と言ったのだが。
大方《おおかた》の予想通り、セノアはもう戸口まで退散していたのに、むっとした顔で振り向いた。
「私はレニ殿とは違いますぞっ。何度も言うように、怖くなどありません!」
「……いや、別に俺はそんなこと訊いてないんだが。けど、それならちょうどいい」
爽《さわ》やかに笑う。
「じゃあ、おまえに頼むか。とりあえず、明日から深夜の城内巡回な」
なななっ、とのけぞるセノア。
「――!! 私は千人隊長で、仮にも将軍職ですぞっ。なんでそんな任務をっ」
「辛い任務をこなす兵士の気持ちを知るのも、上の務めだ。それに、兵達が怯《おび》える今こそ、上官が率先して模範《もはん》を示さんとな」
「そ、それはそうかもしれませんが……でも、もうすぐ我々は、コートクレアス城に移動せねばならないはずでは?」
真面目《まじめ》くさって両手を広げるレイン。
「それにしたって、まだ数日はあるさ」
「……う」
とうとう言い訳が尽きたらしい。
セノアは棒立ちのまま、泣きそうな顔で固まっていた。
そして翌日の晩――
不幸にもこのゴーストの噂を聞き、レニやセノアより遙《はる》かに怯《おび》えた人物がいる。
その人物とは、このガルフォートの主《あるじ》たるシェルファで、メイドの一人からうっかりミランの目撃話を聞いて以来、ずっと落ち着かない日々を過ごしていた。
昼間はまだいい。
廊下も外も明るいし、ゴーストなど出ないだろうと安心できる。
問題は夜だ。
歴史の古さだけは、無駄に自慢出来るガルフォート城のこと。
陽光《ようこう》が差していた時には穏《おだ》やかな古城も、夜ともなればきっぱりと趣《おもむき》を変える。
例えば、チェストの影や今横たわっているベッドの下など、なにかこの世ならぬ化け物が潜《ひそ》んでいるような、不吉な気配《けはい》が漂う。
窓を叩く微《かす》かな風の音や壁がきしむ小さな音ですら、化け物のほくそ笑む声に聞こえたりする。
無論、気のせいなのだが、怯《おび》えきっていたシェルファは、段々気のせいに思えなくなってきていた。
おしゃべり好きなメイドのせいで、ここ数日ほど寝不足気味の夜を過ごし、ついに今日は、まんじりとも出来ずにいる。一応は夜着《よぎ》に着替えてベッドに潜り込んだものの、普段と違い、どんなに努力しても睡魔《すいま》が訪れない。
とうとうぱっちりと瞳を開き、シェルファはすっぽりくるまった毛布の隙間《すきま》から、部屋を見渡す。
こっそりと。
広大な寝室はシャンデリアの火を消していないため、蝋燭《ろうそく》の火が煌々《こうこう》と照りつけ、数人は入り込めそうな広大な暖炉にも、ちろちろと火が燃えている。
冬でも十分に暖かく、かつ明るいはずの寝室なのに、ゴースト話を思い出した途端《とたん》、部屋中が妖魔《ようま》の潜《ひそ》む暗黒の場所のように見えた。
疑う気持ちで見ると、壁に踊る暖炉の火の照り返しですら、なにかこの世ならぬ不気味な模様に見えてくる。
そんなことを考えているうちに本気で怖くなってきて、シェルファは華奢《きゃしゃ》な身体を震わせた。
真っ青な瞳がうるうると涙目になり、自然とこの部屋にいない誰かを捜し求める。
つまりその、レインを。
「……うぅーっ」
もちろん見つかるはずもなく、彼女にしては珍しく、拗《す》ねたような呻《うめ》き声を上げた。
そもそも、今は深夜の零時をとうに過ぎており、それでなくても城内中が寝静まっているわけで――
でも、でもっ!!
と追い詰められたシェルファは考える。
レインは時に、全く眠らない晩もあるそうだし、そうでなくても早い時間にベッドに入る人じゃないわ。
今日だってまだ起きているはずです。
それなら……正直に事情を話せば、部屋で一緒にいさせてくれるかもしれません。
これはなかなか幸せな思いつきで、その証拠に、己の心中にどっぷり巣くっていた恐怖心が、嘘のように減じていった。
嬉しいので、どんどん幸せな方向に考えを進めていく。
もしかすると、部屋に入れてもらえたら楽しくお話などできて、場合によってはまたキスしてくれるかもしれません。
あきれて突っ込む者は誰もおらず、想像の翼はさらに広がる。
そんな風に楽しい夜を過ごせば、レインが休む時間が来ても、自然な流れ(?)で二人一緒のベッドで眠ることもできるのでは?
単なる想像とはいえ、これは彼女にとって、人生で上から三番目くらいに素敵な思いつきだった。
そのため、思わず上半身を起こしたくらいだ。
熱を持った頬《ほお》に手をあて、ほのかな吐息《といき》を洩《も》らす。
無論、性的な意味はなく、シェルファはただ純粋に、レインと抱き合って眠れれば幸せです――などと考えているのである。さらには、『その時がくれば、抱き枕のようにレインにしっかり抱きついて眠りたいですわ……きっと、至上の幸福感に浸《ひた》れるに違いありませんもの』とも。
ラルファス辺りが聞いたら泣いて止めそうなことを真剣に願い、シェルファは熱っぽい表情でベッドを降りる。
暖かい毛布を抜け出した途端《とたん》、さすがに多少の冷気を感じた。
暖炉があるとはいえ、この寝室は最低でも数十はベッドが置ける広さがある。
薄い夜着《よぎ》では、室内をうろつくには寒過ぎるのだった。
「……く、くちゅんっ」
案の定、くしゃみが出てしまい、シェルファはぶるっと肩を震わせた。
急いでとてとて歩き、暖炉の前に立つ。
暖かい炎に当たりながら、寝着の上から分厚いガウンを羽織《はお》り、しっかりと前を閉じる。
万一にも肌が見えないよう、入念に紐で結んでおいた。
この国の貴族女性が立てる(こともある)古式ゆかしい誓いの故《ゆえ》ではない。そっちは、そこまで厳しい制約ではないのだ。
単に、最近のシェルファが殿方《とのがた》の視線に敏感すぎるためである。
ともあれ服装は整え終わり、仕上げに城内用の靴を履く。
これで用意|万端《ばんたん》、準備完了である。
後は苦手な殿方《とのがた》に出会わないよう、こっそりとレインの部屋まで行くだけ。
王である前に恋する乙女であるシェルファは、この時点で既《すで》に、自分の行動の大胆さなど意識していない。
もし主君という立場がなければ、万一誰かに諫《いさ》められても、『大好きな人と抱き合って眠るのがなぜいけないのでしょう?』などと首を傾《かし》げたことだろう。
しかもシェルファは、今や一時的にせよ「ゴーストがこわい」なんて気分は吹っ飛んでおり、当初の目的など忘れている。
とにかく、レインの部屋へ行きます。
その一念のみがある。
『レイン抱き枕計画』の第一歩は、まずそこからなのだし。
早くも頭の中では、レインに抱きつき、手足を絡《から》めて眠る自分の姿が、ありありと浮かんでいる。
ああ……考えただけで幸せですわ。
早まってはいかん!
なんて忠告する者は誰もおらず、シェルファはニコニコとドアを開けた。
ところがである。
実にわずか一歩で、シェルファはいきなり障害に当たった。
というのも、薄暗い廊下に出て「さあ、レインの元へ」と階段の方を向いた途端《とたん》、下から誰かが上がってきて、ひょいとこちらを見たのだ。
カンテラを持ったその誰かは殿方《とのがた》であり、シェルファとまともに視線が合った。
距離こそあれ、互いにまじまじと見つめ合う。
燭台《しょくだい》のお陰《かげ》で真っ暗ではなく、顔くらいは判別がつく。
あの人は確かレインの――
名前を呼ぼうか迷っているうちに、向こうが先に声をかけてきた。
「へ……陛下?」
彼は最初は随分と怯《おび》えた顔だったものの、すぐにシェルファが誰かわかったらしい。
ややためらいを見せた後、大股でこちらへやってきた。
深々と一礼する。
「もし驚かせたようなら、大変失礼しました。僕――いえ私は、レイン将軍直属の臣《しん》にて、五人隊長のミランと申します」
「はい、存じ上げていますわ。……前に謁見《えっけん》の間の前でお会いしましたね。それに、わたくしが最初にコートクレアス城に辿《たど》り着いたとき、レニさまに取り次いでくださいました」
「きょ、恐縮《きょうしゅく》です。そう、あの時のミランです」
本当に恐縮《きょうしゅく》したらしく、ミランは一段と頭を下げた。
しばらくそのままでいた後、遠慮がちに顔を上げる。
「それで……陛下は、このような時間になにかご用でもお有《あ》りでしょうか」
「ミ、ミランさまはどうして?」
「私は……先日のゴースト騒ぎを、自分で解決出来ないかと思いまして」
悩ましそうにミラン。
「また出会えるかと、一人で城内を巡回しておりました」
まあ……と感心する間もなく、ミランは再度、「それで陛下は?」と訊いてきた。
「いえ……その」
とっさに言い訳を考える。
だが、深夜に寝室から出てくる用事など、まず滅多《めった》に無いのだった。
しかもミランは真面目《まじめ》な性格らしく、シェルファの返事をじっと待っている。
なるべくなら嘘は言いたくなかった。
なぜなら――
レインはシェルファの身辺にことのほか気を遣っている。この廊下で眠るのはシェルファの頼みもあってやめているが、代わりにこの付近一帯、見えない結界《けっかい》で守られているらしい。
当然、出入りが可能な者は、シェルファ本人も含めてそうたくさんはいない。
巡回任務とはいえ、深夜にここまで来られたということは、ミランがレインにそれだけ信頼されている証《あかし》なのだ。
少なくともシェルファはそう判断した。
苦手なのは同じなのだが、レインの関係者だというだけで、普通の殿方《とのがた》よりはまだ安心できるし。
なので思わず、半《なか》ば真実を答える。
「レインにご相談があるんです……」
「このような時間に?」
「は、はい。その……おそらくレインはまだ起きているでしょうし、わたくしもなんだか眠れないので……ちょうどいいかと」
少なくとも嘘ではない。
レイン抱き枕計画のことまで話さなかっただけだ。
そしてミランは、自分なりに悟るところがあったらしい。
ひどく同情した顔つきで頷《うなず》いた。
「ゴーストの噂もありますし、お気持ちはよくわかります……」
また一礼し、晴れやかな声で言った。
「では、将軍の部屋まで僕が護衛いたします」
『ええっ!?』
声には出さなかったが、シェルファは内心で呻《うめ》いた。
ところでレインはこの時、部屋には不在だった。
ミランと同じく、城内をぶらぶらと歩いていたのだ。
ただし、闇雲に歩いていたわけじゃなくて、よりによってなるべく寂しい場所、またはろくすっぽ燭台《しょくだい》すら置いていない暗所《あんしょ》を選んで移動中だった。
暗闇でも昼間と同じように見えるレインのこと、見回りの兵卒《へいそつ》のように、カンテラなどは持たない。さらに黒ずくめな格好《かっこう》のせいで、なかなか目立たない。お陰《かげ》で、真面目《まじめ》に巡回任務中の一部の兵士達は、不幸にも死ぬほど驚かされた。
背後よりいきなり肩を叩かれ、「役目、ご苦労」などと低い声でやられると、誰もがオーバーアクションな反応を見せるのも無理はない。飛び上がるわ悲鳴を上げるわいきなり駆《か》け出すわ、もう散々である。
レインは造作《ぞうさ》なく気配《けはい》が消せるし、物音立てずに歩くことにも長《た》けており、簡単に皆の背後に近づける。城内の巡回兵士は何組もいるが、この一時間というもの、レインの不意打ちが失敗に終わったことは皆無《かいむ》だった。
唯一、兵卒《へいそつ》と同じみっともないパターンを見せなかったのはラルファスその人であり、彼は不意こそ突かれたものの、レインが「よう。月の綺麗《きれい》な晩だなー」と後ろから肩を叩くと、いきなり抜剣《ばっけん》して振り向いた。
いや、剣は半《なか》ば抜きかけで止まり、振り向き終わった時には苦笑を洩《も》らしていた。
「おまえか。……気配《けはい》を殺して接近するのは、感心しないぞ。侵入者かと思った」
「まあ、いい趣味じゃないのは認める」
レインは笑って聞き流す。
「あまりにも皆の反応が笑えるもんで、ついね。……だが、おまえはさすがだな。その反応なら、今でも立派に見回りが務まる」
全然|褒《ほ》め言葉にならないセリフを真面目《まじめ》に言い、レインは友をじろじろと見る。
「で、こんな時間に、剣なんか持ってなにをうろうろしている?」
「……その質問は私がしようと思ったのだがな。まあ、年長者を敬《うやま》おう」
「いや、同じ年だろうが」
今度はラルファスがレインの質問をスルーし、簡潔に答えた。
「今回のゴースト騒ぎ、もしや何者かの策略かもしれぬ……そう思ってな。一人で城内を歩いていた」
「なるほど。大嘘な噂を流し、城内の守備を弱体化させたヤツがいる……そう見たんだな」
「おまえの意見は違うのか」
「少々……いや、だいぶ違う」
レインは頷《うなず》き、あっさりと返した。
「いま噂のゴーストは、多分本物さ。ある意味では――だが」
「……なんだって?」
ラルファスがまじまじと目を見張ったが、レインは特に反応せず、もう違う話題に移っていた。
「しかしあれだな。今日の散歩でわかったが、当番の深夜巡回をさぼってた兵が幾人《いくにん》かいたな。自分だけ逃げようって根性のヤツには、あとでこってりとヤキを入れないとなぁ」
「いや、そんなことより今のセリフは」
ラルファスが聞き返したものの――
レインはひらひらと手を振り、既《すで》に歩き出している。
「じゃあな。……リアル・ゴーストに出会わないうちに、早く部屋に戻った方がいいぞ」
「にしても、おかしいな。予想通りなら、そろそろ出てきてもいい頃なんだが」
未だに出会わないゴーストに首を傾《かし》げ、レインは宮殿の階段を上る。
この時間帯ならもう出会うはずだ。それとも、もしかするとまだあいつが――
沈思《ちんし》の途中で足が止まった。
「――む?」
廊下へ出たところで、一カ所、ドアが薄く開いて明かりが洩れている部屋を見つけた。
ここは仮にも宮殿の一部であり、兵士達が寝泊まりする宿舎棟《しゅくしゃとう》(兵舎《へいしゃ》)ではない。でもってこんな上の階にある部屋といえば、上級騎士の私室だろう。
「……て、ありゃセノアにあてがわれた部屋だったな」
滅多《めった》に訪れたことがない上、来てもドアの前までなので、今の今まで忘れていた。
それに、かつてのレイン達は、コートクレアス城にいる方が圧倒的に多かったのだ。
ついでにもう一つ思い出した。
まだ出会ってないが、そう言えば今晩あいつに、見回りを命《めい》じていたような。もしかして、部屋を出る時に戸締まりを忘れたわけか。
普段はそんなことを忘れるヤツではないが、さすがに緊張していたのかもしれない。
念のため、確認することにする。
まあ無いとは思うが、万一、侵入者でもいたらコトだ。
「おい、いるのかセノ――」
中を覗《のぞ》き、レインは唸《うな》った。
ここ、本当にあいつの部屋か。
なにか……部屋中が乙女ちっく。
ピンク色したふかふか絨毯《じゅうたん》に、少女趣味的飾りの多いデザインのチェストや机。
奥の寝室もここから見えた。
ベッドのシーツや毛布などは、薄い青色で統一されており、やたらと華やかである。
さらにさらに――
ベッド横のサイドボードの上には、可愛《かわい》いひらひらドレス姿のビスクドールが何体も飾ってあり、つぶらな瞳でレインを見つめている。
いや、チェストや机の上にさえ、一体ずつ、エラく少女趣味なお人形さんがあった。
もし誰かに『ここは内気で夢見がちな少女の部屋ですよ』と言われれば、違和感なく信じたはずだ。
セノアの普段を知っているだけに、驚きもひとしおである。
「むう……」
レインは、顎《あご》をぽりぽりと指でかく。
あいつの内面にそういう部分があるのは徐々に気付き始めていたが、実際にこの目でその証拠を見ると、やはり驚く。
それでも、人の趣味にケチを付ける気は全くないので、静かに退室しようとした。
あいつも、留守中に俺が部屋に入ったと知れば、いい気持ちはしないだろう……
だが、レインがドアを閉める寸前、廊下からの微風が吹き込んだか、机の上にあった紙束がぱらら〜っと床に落ちてしまった。
「おっと」
急いで部屋に戻り、それを拾い上げる。
その時に、ちらっと文面が見えてしまうのは仕方ない。盗み見る気が無くても、数行は読めてしまった。
『さびしい……さびしい……
私はきっと、あの人に嫌われているに違いないわ。想いを告げられないのなら、せめて優しい言葉をかけてもらいたいのに。
でも、私がこんな態度じゃ――』
「むう」
またしても唸《うな》りつつ、元の場所に戻しておく。実はその先を読みたい気持ちもあったが、さすがに遠慮しておいた。
しかし、本当に詩を書いていたとは。
恋愛系の詩かなにかだろうか。
あるいは、誰か好きなヤツでもいるのかもしれない。
「あいつもお年頃か……相談に乗ってやりたいが、俺は嫌われてるからなー」
レインは苦笑しながら、今度こそ部屋を出た。
途端《とたん》に、廊下の向こうに不審な物が見えた。
両手に、燃えたぎる何かを握りしめた物体が、ゆらゆらと前進してくる。
ありゃ……ぶっとい松明《たいまつ》か?
この宮殿内には所々に燭台《しょくだい》があり、必要最低限の明かりは確保されている。
真っ暗闇の洞窟《どうくつ》探検じゃあるまいし、あの無駄に目立つ馬鹿は誰だ?
レインの視力を持ってしても、すぐにはわからなかった。
なぜならば、そいつは真っ直ぐに歩かず、横向きの蟹《かに》歩きで、そろそろ前進していたからだ。
横顔の真ん前で、かざした松明《たいまつ》の炎が燃えているわけで、つまりは顔が見えない。
……見えないが、気配《けはい》でわかってしまった。
「……ふう」
うんざりした思いでこっそり息を吐き、レインはすっと上に飛ぶ。廊下の天井に張り付いて、相手が来るのを待ち構える。
しばらくして――
「い、いい今、何か物音がしたような気がするわ」
などと、でっかい震え声を出す「蟹《かに》歩き女」が眼下に来たところで、ふわっと飛び降りた。
真後ろに降り立ったところで、相手の口でも塞《ふさ》いで脅かしたれ、という極悪《ごくあく》な計画だったのだが、蟹《かに》歩き女――つまりセノアは余程に神経が張り詰めていたらしい。
気配《けはい》を読んだというより、おそらくはタイミングよくそこで切れたのだろう、いきなり悲鳴を上げた。
それも、普段のこいつなら絶対に出しそうもない生々しい「女の子の悲鳴」で、半泣きになって両目を瞑《つむ》り、二本の松明《たいまつ》をブンブン振り回す。
レインは唖然《あぜん》と見ていたものの――
そのうち、松明《たいまつ》の火がセノアの制服の上衣に燃え移ったのを見て驚いた。
「馬鹿馬鹿、燃えてるぞっ」
やっと目を開けてくれた。
「きゃああああああっ――て、え、ええっ!」
燃えている自分の服を見下ろし、愕然《がくぜん》とするセノア。
「あ、熱いいっ」
「当たり前だ!」
やっと動きの止まったセノアに向け、ずしゃっと魔剣を抜く。
斜め下から肩口へ一閃《いっせん》、さらに手首を返し、光の残像のみを残し、二閃《にせん》、三閃《さんせん》させる。
松明《たいまつ》の火が二本とも消え、根本から両断されて落下した。
加えてセノアの上衣(だけ)が、綺麗《きれい》に切り裂かれて、これまた下に落ちる。
「ふう……まあ、火傷《やけど》しなくて何よりだ」
「……え?」
美人顔にぽかんとした表情を見せていたセノアだが、自分が下着姿で突っ立っていることにやっと気付いたらしい――
おっきくOの字に口を開《あ》けかけたので、レインは慌《あわ》てて背後に回り、口を塞《ふさ》いだ。
「だから、喚《わめ》くなって。こんな時間に、全員を叩き起こす気か」
「――! むーむーっ」
「なに言ってるかわからん。とにかく静かにしろ。そもそもおまえ、怖いならこっそり俺にそう言うとかしろよ。松明《たいまつ》二本もって蟹《かに》歩きで見回りって、どうせ前後を明るくするためだろうが、それじゃ肝心《かんじん》な時に剣を抜けないだろうが馬鹿馬鹿っ」
切れ目なしに文句をつけてやると、さしものセノアも言い返せなかったらしい。めっきりと大人しくなった。
もう大丈夫そうなので、口を塞《ふさ》いだ手を放す。
今度は文句ではなく、忠告をした。
「それからな、戸締まりとか気をつけた方がいいぞ。おまえの部屋、ドアが開いたままだった――」
後ろ抱きにしたセノアの身体が、ぶるっと震えた。押さえていたのに、無理にくるっと振り向く。
見上げる碧眼《へきがん》に、激しい動揺が窺《うかが》えた。それも、ゴーストが原因じゃなく。
「へ、部屋に……入ったんですかあっ」
「……どっから声出してるんだ、おまえ。まあ、ドア閉める時にちょっとだけな。けど、別になにも悪さはしてないぞ」
目を見張る速度で、どっと赤くなるセノア。
せっかく冷静さを取り戻しかけていたのに、また碧眼《へきがん》が潤《うる》む。
「つ、机の上……ご覧になりましたの?」
――ご覧になりましたの?
レインは眉をひそめ、
「部下の部屋を探り回る気はない」
ないけど、おまえの恋愛ポエムが落ちたから拾い上げた――そう言いかけたのに、セノアが大げさにほっとした顔になったので、言いそびれた。
まあ、言わなくて正解だったかもしれない。
「よ、よかった……本当ですね?」
「(今のところ)特に嘘は述べてない」
「そうですか……それならいいんですけど……」
掠《かす》れた声で返し、形よく隆起した胸に手を当てる。
手が自らの下着に触れ、またしてもびききっと固まった。
「――きっ」
「喚《わめ》くなとゆっとるだろ!」
「あっ」
レインは機先を制し、素早《すばや》く抱きしめた。
どうもこいつは、触れられると弱いらしいので、これで止まるかもしれんと思い。
例によって、卓越《たくえつ》した効果があった。
その瞬間まで、恐怖心と緊張感がブレンドされたせいとはいえ、一応、セノアの身体にびしっと芯が通っていたのに――
レインが抱きしめた途端《とたん》、力が抜けてぐにゃぐにゃになった。
吐息《といき》が洩れるような声を立て、そのまますとんと身を任せてしまう。
「……いや、なにもそこまで大人しくならんでもいいんだが」
薄闇《うすやみ》の中、セノアはらしくもない素直な表情で俯《うつむ》く。
この暗さならレインにはよく見えない――そう思いこんでいるせいかもしれない。
「すいません……」
「? なにが」
「今なら言えます。……本当は怖かったんです……どうしても言えなくて」
「そうか」
裸の背中をポンポンと叩いてやった。
「そう気に病むな。セルフィーだってミランだって怖がってたしな。平気そうなのは、てんから信じてないユーリだけだった」
「あの子はともかく――」
笑みを含んだ声でセノア。
「将軍も恐れてらっしゃいませんわ」
「前に話しただろう。おまえ達の方が正しい……恐れるべきものを恐れないのは、勇者じゃなくてただの阿呆《あほう》だ。人間として、どこか間違っている。俺はそういう感情が、すっぽり抜け落ちててな。情けない話だ」
「それでも……私は貴方《あなた》のように強くなりたいんです」
前に誰かが同じセリフを言った気がする、とレインは思った。
あれは……確か、あのチビだったか?
まだ他にもいたような――
「今でも強いじゃないか、おまえは。怖くても、見回りから逃げなかったからな。中にはさぼった兵士もいたのに」
またくすっとセノアが笑った。
そういう笑い方はあまりしないヤツなので、妙に新鮮だった。
「今宵《こよい》は優しいのですね……レインさま」
「……レイン様?」
なんだ、そのセルフィーみたいな呼び方は? と尋ねたところが、自分で口にした癖に、セノアは大きく息を吸い込み、また俯《うつむ》いてしまった。
「すいません、いつもは声に出さないのに……つい」
「いや、余計にわからんが」
レインは、自分の胸に押し当てられた額《ひたい》に手を当て、そっと押し上げる。
恥じらう少女のようにどぎまぎと碧眼《へきがん》を泳がせるセノアを、しげしげと見やった。
「……今晩のおまえ、妙に素直だな。あれか、下着姿になると急に素直になる癖でもあるのか」
セノアはいつもみたいに怒らなかった。代わりに、静かに微笑《ほほえ》んだ。
やっとまともに視線を合わせてくる。
なんだか、瞳に霞《かす》みがかかっている――ような気がする。
「……どうでしょうか」
「試しに下も脱がすか?」
ちょっとからかいすぎかと思いきや、今夜のセノアは本当にひと味違った。
息を呑んだ気配《けはい》があったものの、しばらくして震え声が返ってきたのだ。
「ご、ご希望なら……」
初夜に臨《のぞ》む花嫁のような声。
少し心配になってきたレインである。
「おまえ、本当にいつもと違うな。俺は、おまえから毛嫌いされていると思ってたんだがな。冗談でもそんなこと言われるとは思わなかった」
まあ、悪い気分じゃないが――
そう付け加えようとしたレインを、セノアがびっくりしたように遮《さえぎ》る。
「なんで私が、将軍を毛嫌いしていることになるんですか!」
一拍置き、今度はトーンダウンした声で、
「しょ、将軍こそ、私などはお嫌いなのでしょう……ちゃんとわかっています」
「そりゃおまえの見込み違いっていうか、誤解だ。嫌ったことなんかない。たまに口喧嘩《くちげんか》はするけど、だからってそんなんで嫌うか」
「……え」
腕の中で、セノアがまたびきっと固まった。息を詰めたような顔で、大きく瞳を見開く。
間近でセノアの顔を見るのは久しぶりなのだが――
高い鼻梁《びりょう》といい、切れ長の真っ青な瞳といい、こうして眺めていると非常に見栄えがよろしかった。シェルファという反則レベルの美形のお陰《かげ》で目立たないが、元々セノアは、貴族の間でも評判の美人なのだ。
特に、今晩はいつものキツい表情じゃないので、より一層、美貌《びぼう》が引き立つ。
「おまえ、いつもそういう『いい表情』してろよ。たちまちファンクラブが出来るぞ」
「そ、そんなことより、さっきのお言葉、本当ですかっ」
「……嫌う嫌わないの話なら、本当だ。むしろ、なんで俺が嫌ってると思ったのか聞きたいね」
「そ、それなら、私も申し上げたいことが」
いきなりぐぐっと顔を近づけるセノア。
「実は私、ずっと以前より――」
その時、廊下の向こうで聞き覚えのある声がした。
『見つけましたーっ!』
あたかも現世に楽園を発見したような、歓喜にあふれる声音《こわね》。
続いて、
「なんとなくここだと思ったんで――」
不自然にセリフが途切れた。
気配《けはい》に従ってレインがそっちを見ると、純白の分厚いガウンを着込んだシェルファが立っていた。
こちらを指差した姿勢《しせい》のまま、見事に凍り付いている(ように見える)。
その背後には、カンテラを持ったミランが、やっぱり固まっている。
「し、将軍が半裸の副官と」
なんて呟《つぶや》いているが……こいつはこの際、どうでもよろしい。
シェルファの顔にじわじわ広がる衝撃の方がなんとも……
恋愛方面では壮絶に鈍いレインも、さすがに多少の危機感が芽生《めば》えた。
薄暗い深夜の廊下で、(一応は)若い女性と抱き合う……しかも相手は下着姿で、なおかつ、互いの顔と顔が数センチの距離しか開いてなかった――
これは……少しまずくはないだろうか。
事実、とてもまずかったらしい。
突然、シェルファがよろけた。
急性の貧血に襲われでもしたように、ふら〜っと壁に寄りかかったのだ。
そのままずるずると滑り、ぺたんと女の子座りでへたり込んでしまう。
「へ、陛下っ」
おろおろしたミランが、呼びかけていた。
で、レインは思わずため息をつく。
うわぁ、なんて古典的な反応を示すヤツ――いや、感心している場合ではないか。
――☆――☆――☆――
セノアは両手で顔を押さえて走り去り、レインのみがポツンと残されてしまった。
まさか、「ならば俺も〜」などとその場を立ち去る訳にもいかない。
やむを得ず、呆然《ぼうぜん》とするシェルファとミランを引き連れ、宮殿の大バルコニーまで移動した。
エロい方向に誤解されるのもアレなので、懇切丁寧《こんせつていねい》に状況説明をする。
「というわけです、姫様。全ては、松明《たいまつ》で服を燃やしたあいつを落ち着かせるためで、やましいことはしてないわけです」
「はぁ……なるほど。お話を聞くと、副官らしいというか」
話した真実があまりにも嘘くさいせいか、ミランはかえって信用したらしい。
それに、さっきの廊下に燃えた松明《たいまつ》の欠片《かけら》や服が残っていたので、そういう状況証拠のお陰《かげ》かもしれない。
「まーな。だいたい、あいつとよろしくやるなら、部屋を使うだろう。わざわざ廊下で抱き合う意味ない……し」
セリフの途中で、シェルファの視線に気付いた。
上目遣いの瞳でじいいいいいっとレインを見つめている。
瞳の縁に溜《た》まった涙が、今にもこぼれ落ちそうだった。
レインは咳払いなどして、
「えー、今の説明は本当ですよ、姫様」
「はい……もちろん嘘だなんて思ってません。でも、なぜだか胸が痛いです……とてもとても。わたくし、嫉妬《しっと》してしまって……ごめんなさい」
今度はレインが凍り付く番だった。
なに言い出すんだ、おい!
思い悩んで伏し目がちな故《ゆえ》か、シェルファは未だに警告の目線に気付かない。
そのまま自然な動きで近づき、あろうことか抱きついてきた。
そっと瞳を閉じ、レインの胸に横顔をくっつけてすりすりする。
「本当にごめんなさい」
などと囁《ささや》く。
そのうち、遅ればせながら緊迫した雰囲気に気付いたのだろう。
やっと目を開けた。
棒立ちのミランを見て、「あら大変」という顔で瞳を瞬《またた》いた。
「……まあ」
「いや、『まあ』じゃなくて」
レインはちらっとミランを見る。
あんぐりと口を開けたままのこいつに、にこやかに話しかける。
「色々と思うところはあるだろうが、ミラン」
「は、はっ」
「無論、俺の言いたいことはわかるよな?」
茫洋《ぼうよう》としたミランの目が、やっと焦点を結ぶ。
一つ深呼吸してから、深く頷《うなず》く。
「沈黙は美徳なり、悲惨《ひさん》なMの先例を忘れるな……ですね?」
「その通り」
シェルファを引き離し、ばしっとミランの肩を叩く。
「おまえの将来は約束されたようなもんだな、M!」
「あ……あはは……」
ミランは汗ジトで寒い笑いを浮かべ、ぎくしゃくした動きで頭を下げた。
「と、とにかく。そろそろ僕は失礼します」
「うん。苦労かけたな」
とんでもないです、などと言いつつ、右手と右足を一緒に出して歩き出すミラン。
レインは肝心《かんじん》なことを思い出し、呼び止めた。
「なあ、ミラン」
「は、はいっ」
おそるおそる振り向いた部下に、
「この前はわざと訊かなかったんだが。おまえ、出会ったゴーストの外見、正確に覚えているか」
「そりゃ、あれだけインパクトのある体験したのですから、もちろん――」
ふっと言葉が途切れた。
遠い目をして考え込むうちに、その表情が次第に曇っていく。
「……おかしいです。あんなことがあって、忘れられるはずがないのに。なんだか、記憶が薄れています。女性だったことしか覚えていない……どうしてだろう」
最後は独白《どくはく》だった。
「なるほど。そいつの髪の色、身長、どんな声音《こわね》だったとか、なにも思い出せない?」
「は……い。少なくとも昨晩は、もっと色々と覚えていたはずなんですが。気付かないうちに、徐々に記憶が薄れてきているみたいで」
自分でも妙だと思うのだろう。
ミランは気味悪そうに、眉根《まゆね》を寄せている。
「なるほどね……。ま、あんまり気にするな、ミラン。忘れたなら忘れたでいいさ。おそらく、いつの間にか完全に忘れてしまうんだろうな。俺の予想通りだった」
「――は?」
いよいよ首を傾《かし》げるミランに、レインは笑ったまま何も答えなかったのである。
「さっきのミランさまへのご質問、なにか思うところがあったのですか?」
ミランが不審顔のまま去ってから、シェルファが尋ねた。
「まぁね。ゴーストについて、俺なりの推測があって――て、なんだ?」
またひしと抱きついてきたので、シェルファを見下ろす。
姫君兼主君は、天使のような笑顔を見せた。
「いえ。二人きりになったことですし、もう抱きついてもいいかと思いました」
「……おまえ、素晴らしく反省の色がないな。だいたい、こんな深夜になんの用だったんだ?」
「これが用事ですわ」
全く邪気のない微笑《ほほえ》みに、レインとしては苦笑するしかない。
まあ、自分も悪いと思う。
ゴーストの噂が広まっている今、このチビが怯《おび》えないはずはないのであって。それに気付かずにいたのは、気配《きくば》りが足りなかったのだろう。
「……まあ、いいけどな」
手触りのいい髪に手をいれ、くしゃくしゃかき混ぜてやった。
月明かりにさえ豪奢《ごうしゃ》な煌《きら》めきを見せる金髪が、ほのかに香る。一日二回の入浴癖は伊達《だて》ではないようだ。
「ちょうどいい、俺もおまえに渡す物があった」
一度自室まで戻り、レインはシェルファにかねてから用意していた『刀』を贈った。
おまえには十年早いだろうが――という注釈付きで贈ったわけだが、意外にもシェルファは大喜びした。
なにか勘違いしているとしか思えないのだが、白い鞘《さや》に白い柄《つか》の刀を大事そうに胸に抱き、ニコニコしている。
まるで、幼女が人形を抱いているような塩梅《あんばい》だった。
「嬉しいです……レインにもらった刀……うふふ」
うっとりした声音《こわね》が激しくヤバい。
「おいおい。そりゃ、あくまで武器だぞ。抱きしめてすりすりする人形じゃないんだが」
「わかっていますけど……わたくし、あまり贈り物をしていただいた経験ってないですから。しかも、それがレインから贈られた物となれば、とても嬉しいですわ」
「……そうか」
レインは微笑《びしょう》して、またシェルファの頭に掌《てのひら》を乗せた。
言われてみれば、ダグラス王の生前の態度からして、この子にプレゼントなんかするはずないのであって。
「俺は本来、おまえからもらう側なんだが。だけどまたそのうち、何か女の子に相応《ふさわ》しい物を贈ってやろう」
「ありがとうございます。でも、わたくしはレインがおそばにいてくだされば、それでとても幸せですわ」
「まあそう言うな。くれるってもんは、遠慮なくもらっとくもんだ」
気安く主君の肩を抱き、廊下へ出る。
歩き出しながら、
「とにかく。その刀は扱いに気をつけろよ。何しろ、俺の渾身《こんしん》の魔力が籠《こ》もっているからな。控えめに言っても、比肩《ひけん》する剣はごくごく少ないはずだ」
どこが控え目なのでしょう、などと反論するシェルファではない。
かえって、真っ青な瞳に歓喜の色を浮かべた。
「魔剣なんですか!」
「俺が贈るからには、当然だろう」
さりげなく、髪をかきあげる。
「万一騎士稼業で食えなくなったら、魔剣の製造販売で荒稼ぎするつもりだしな」
「……抜いてみてもいいですか?」
「いいけど、刃の部分に触れないようにな。切れ味が半端じゃないんだ。その気になれば鋼《はがね》だって切れる」
頷《うなず》き、シェルファは足を止める。
捧げ持つように刀を水平に構え、すうっと抜き放つ。
途端《とたん》に――
魔剣特有のブゥゥゥゥゥンという音を伴い、薄闇《うすやみ》の廊下に蒼き光芒《こうぼう》が満ちる。
素人《しろうと》くさい、おぼつかない手つきで刀を構え、シェルファは魅せられたように刀身《とうしん》を見つめる。
可憐《かれん》な唇から、甘い吐息《といき》が洩れた。
「この輝き……なんだかレインを感じます」
「そりゃまあ。魔力を籠《こ》めたのが俺自身だから、不思議はあるまい。にしてもおまえ」
――ちょっと危ないぞ?
そう言いかけ、レインはたちまち緊張感を取り戻した。
魔剣に手をかけ、顔をしかめて廊下の奥を見る。
これは……少々、イレギュラーな事態だ。
「チビ、少し下がってろ。お客さんだ」
シェルファの反応を確かめず、かばうようにその前に立つ。
いつの間に出現したのか、ぼおっと光る人影に向かい、身構えた。
背後から小さな悲鳴。
シェルファがやっと、『彼女』に気付いたのだ。
「こんばんは、レイン」
実に平和的な挨拶《あいさつ》とともに、噂のゴーストが微笑《ほほえ》んだ。
――☆――☆――☆――
レインは腰の剣に手をかけ、相手を見据《みす》えている。
ゴーストは特に構えるでもなく、廊下の壁際にひっそりと佇《たたず》んでいた。
敵意は示さず、なにか妙に懐かしそうな表情である。
そのうち、長い銀髪を手で払い、話しかけてきた。
「そのお顔……さしもの貴方《あなた》も、予想が外れましたかしら?」
「そうでもない。俺は、自分が万能だなどとはうぬぼれていないからな。少し意外だったのは事実だが、まだ予想の範囲内だ」
「本当に?」
楽しそうな声音《こわね》のゴーストに、レインは頷《うなず》く。
「本当だとも。今のおまえは、だいぶ無理をしていると思うね」
「……なるほど、確かに予想の範囲内のようですね」
言葉とは裏腹に、ゴーストはなんだか嬉しそうだった。
敵意などはなく、むしろ愛情の籠《こ》もった瞳でレインを見やる。
「それでは……後でまたお会いしましょう……楽しみにしていますね」
そのセリフを最後に、ゴーストの身体は見る見る薄れ出し、ついには消えてしまった。
完全に消滅してから、やっとシェルファがか細い声を出す。
「レ、レイン……今のはやはり……?」
「そう。あれが噂のゴーストだ。見るのは初めてか?」
「も、もちろんです……」
ドキドキした顔で仰《あお》ぎ見るシェルファに、レインは小さく笑った。
「いや、笑ってすまん。気になるなら、今夜はもう眠った方がいいな。部屋に送ろう」
「今のを見てしまったのに、あの部屋で一人で休むなんて……無理ですわ」
死んでも放しません、といわんばかりに、レインの服をぎゅうっと握りしめるシェルファ。指先が白くなっていた。
「レインがおそばにいるから、驚いたくらいで済んでいますのに」
「そうか……しかし、そりゃ困ったな。俺はこれからゴースト退治――とまでは行かないものの、さっきのあいつと話があるんだが」
「それなら、ご一緒させてください」
レインはシェルファの顔を覗《のぞ》き込む。
「いいのか? 苦手なんだろう」
「一人なら失神してしまうと思いますけど、レインが一緒なら平気です。一人の方がいやです」
実際、幼女が「いやいや」をするように首を振る。……服の裾《すそ》を握ったままで。
根負けして、レインはシェルファの腰に手を回した。
「よし。なら、二人でしっぽりと過ごすか」
「はいっ。ご一緒しますわ!」
なんだかやたらと元気になったシェルファに、レインはまた白い歯を見せた。
宮殿の別棟に移動し、二人でそこの最上階まで移動する。
この棟はだいたい、城の公式行事に使うための広間やサロンが多いのだが、レインが無造作《むぞうさ》に選んだのもまた、貴族達が娯楽や休息に使うサロンだった。
「ふん、当然ながらシャンデリアの火は消えているか。それなら――光よ!」
レインが小さく命《めい》じて片手を一振りすると、天井の四隅に光の球体が飛び、部屋を煌々《こうこう》と照らした。
「まあ……」
感心して魔力の明かりを見上げるシェルファに、笑いかける。
「ほら。これなら俺が術を解除しない限り、暗くなる心配はない。明るけりゃ、あんまり怖くないだろ?」
「はい!」
恐怖心の欠片《かけら》もないシェルファの返事。
耳が痛くなるほど静まりかえっただだっ広《ぴろ》い部屋にも、物怖《ものお》じしなかった。
二人で並んでソファーに座る時も、おどおどした様子など微塵《みじん》もない。
本当にゴーストが苦手なのかこいつ――などと首を傾《かし》げるレインである。
「レインといると、こわいと思う気持ちが嘘のように薄れていきます」
思わずシェルファを見返したが、別にこちらの内心を読んだわけでもなさそうだった。
遠い目をしてレインの腕にしがみついている。
「お母様が生きてらした頃は幸せだったのに――以前は何度もそう思いました。でも、レインと逢ってからはそんな風に思わなくなりましたわ……」
「そうか……母親はちゃんと優しくしてくれたんだな。肉親なら、本来それが当然だけど」
話しつつも、レインはさりげなく左手を振る。
「ええ……レインには及びませんけど……わたくしには優しいお母様でし……た」
言いかけ、ガウンを着込んだシェルファの身体がぐらりと傾《かし》ぐ。はっとなって姿勢《しせい》を戻すが、すぐにまた上体がぐらぐらし出す。
「……もっとお話したいのに……わたくし、疲れているみたいですわ……」
「無理しなくていいぞ。眠たくなったらそのまま眠ればいい」
シェルファは小さく首を振りかけ、しかしやがてあきらめたように吐息《といき》をついた。
「では、少しだけ……休みます。このまま……おそばにいてくださいね……わたくしから三歩以上離れる時は、お声をかけてくださいね……」
やたらと細かい『お願い』をしかけたまま、ことんと首を傾ける。
幾《いく》らも経《た》たないうちに、すーすーと寝息が聞こえだした。
レインはもたれ掛かったシェルファの身体をそっと横たえ、自分は代わりに立ち上がる。
とりあえず、あやまっておく。
「悪いな……あいつとは、二人きりで会う必要があるみたいだ」
ついでに思いついたことがあり、シェルファが胸に抱えた刀を借りようとしたのだが――
よほどしっかり抱いているらしく、なかなか指が外れない。
しまいには優しい弧《こ》を描く眉をひそめ、「いやぁ」などと可愛《かわい》い声で抗議し、首を振り出す始末である。
起きていられるはずはないので寝言に相違《そうい》ないが、レインとしては複雑な気分だった。
なんだか俺が、極悪人《ごくあくにん》みたいじゃないか!
それでもなんとか刀を取り上げることに成功した。
あとは上着を脱いでシェルファにかけてやり、念のために彼女の周囲にシールドを張っておく。
まあ、用心は必要だ。
全てを終えてから、レインは窓際に立った。
そこで、主君の『お願い』を思い出す。
本人の希望通り、振り向いてしっかり声をかけておいた。
「すぐ戻るからな! (聞こえてない)」
そのまま、レインは窓から飛んだ。
自らの魔力を高め、すうっと夜空を上昇する。
尖塔《せんとう》、もしくは傾斜付きの屋根が多いガルフォート城内にあって、珍しく平らな屋上となっている場所に降り立つ。
屋上の四隅は階段のある塔になっているが、この場所自体はまともな平面であり、歩くことはもちろん、場合によっては戦うことも可能だろう。
ざっと周囲を見渡し、レインは頷《うなず》いた。
「ま、広さも申し分ないな。後は待つだけか」
その場でどっかりと腰を下ろし、あぐらをかく。
腕組みして瞑目《めいもく》、時を待った。
そのまま、どれほど時間が経《た》ったろうか。
突如《とつじょ》として、周囲の物音がふっつりと消え、代わりに桁外れの力の波動を感じる。
その不可解なプレッシャーの持ち主が、ぐんぐん接近してきた時、レインはようやく目を開いた。
「……出たな、ジョアンナ」
誰かさんと似た綺麗《きれい》なソプラノで、返事が返ってきた。
『ジョアンナって誰なの?』
立ち上がり、振り向く。
屋上のすぐそば――
輝く月をバックに、例のゴーストが虚空《こくう》に浮かんでいた。
あたかも、降臨《こうりん》したての天使のように。
足首まである薄絹《うすぎぬ》の夜着《よぎ》姿で、背中にはきらきら光る純白の翼が生えている。
深い海のような色合いの碧眼《へきがん》でじっとレインを見つめており、とても好意的な表情だった。
……あの夜着《よぎ》はこいつのイメージに過ぎないかもしれないが、あるいは翼の方は、本気で本来の物かもしれない。
思わず呟《つぶや》きが洩れた。
「……真っ白な羽付きか、飛ぶ時に便利そうだなー。やっぱりあれか、レイグルもそんなのが生えるわけか」
「いいえ」
優しい顔つきのゴーストが微笑《ほほえ》む。
「私達の翼は本来、漆黒《しっこく》が普通なの」
「……なら、なんでおまえはそんな色なんだ?」
ゴーストは小首を傾《かし》げ、囁《ささや》き返す。
「だって。『おまえには白が似合う』と、レインがそう言ったから。だから変えたのに……忘れちゃったの?」
この言い草には、レインも意表を突かれた。
「覚えているとも。事実、あいつには純白のドレスが似合うと思う。けど、おまえまで俺のセリフを尊重せんでも」
言いかけ、魔人《まじん》女性の(驚いたことに)拗《す》ねた顔を見て、付け加える。
「いや、おまえには似合わないって意味じゃないぞ。ちゃんと、その銀髪と白い肌によく似合っている。今のはただ、意外だっただけだ」
「ありがとう……レインは昔から優しいわね」
にっこりと笑い、羽をぱたぱた動かす天使――じゃなくてゴースト。
まだ二度目の対面とは思えず、実に親しげであった。そもそも、さっきと全然性格が違う。
二人きりになったせいだろうか。
「――で? ジョアンナがただのデマなら、おまえの名前は? いつまでもゴースト呼ばわりだと不便だしな」
「私の名前はミシェール。レインに名乗るのは、初めてだった――」
言いかけ、口元に手をやる。
「ええと、そうでもなかったわね。ふふふ」
いや、『ふふふ』ではない。
「ミシェール!? マジでか?」
「ええ。それが私の名前……きちんとレインに名乗ることが出来て、とても嬉しいわ」
しとやかに笑う。
知らない者が見たら、二人は恋人同士だと思ったろう。
「まあ、名前のことはおいといてだ。最近になってやっと気付いたんだ。かつて旅していた頃の記憶が、微妙に欠落しているってな。巧妙《こうみょう》に偽装されていたんで、長らく疑問にさえ思わなかった」
びたっと相手の目を見る。
「当時の俺は、ある時期を境に、髪の長い女がつかず離れずついてくるなと気付いていた。時にはおまえと会話さえしたことがあった。なのに、今となってはその記憶がなくなっている……おまえが、俺の記憶を消したんだよな?」
ゴースト――ミシェールは心持ち、しゅんとなった。
「理由は色々あるし、最後まで迷ったのだけど。最大の理由は、私のことを記憶に留《とど》めたままだと、レインはあの子を警戒するかもしれない……そう思ったの。あなたは鋭《するど》い人だから、すぐに同じ相手だと気付いたでしょうし」
知りたいような知りたくないような……心の中に微《かす》かなためらいがある。
それでもレインは、重ねて訊かずにはいられなかった。
「……あいつがやたらと俺に依存しているのは、おまえの誘導か?」
「――っ!」
ミシェールはぱっと顔を上げた。
とてもとても傷ついた表情であり、レインにさっきのセリフを後悔させるほどだった。
「いいえいいえっ。そうじゃないわ、レイン!」
堰《せき》を切ったように話し始めた。
「勘違いしないで。この姿の私は、かつての私の残滓《ざんし》に過ぎない。本来、昔の私はもうどこにも存在しないのよ。あの子の中に私がいるんじゃない……私の意識はあの子と一つになっている」
「つまりだ、二人は別人じゃないと、そう言いたいのか?」
「そう!」
ミシェールは大きく頷《うなず》く。
「あの子は私で、私はあの子。傷つき、死にかけていた私は、魔人《まじん》の力を使い、母親の胎内にいた彼女と同化することで死を免《まぬが》れることが出来た。それ以後、私とシェルファは一つになったのよ。わかってあげて、レイン。彼女は、なんの理由もなくあなたに一目惚れしたんじゃないわ。あなたと旅していた頃の私の記憶は、今や彼女の物でもある。レインのやってきたこと、歩んできた道、選んだ選択、心の苦しみ――その全てをシェルファも知っている! そういう記憶を私が封鎖《ふうさ》したから表面上は覚えていないだけで、心の奥底ではちゃんと覚えているし、あなたのことを誰よりも理解している。だからなのよ、だから――」
ミシェールは我がことのように微笑《ほほえ》む。
いや、実際に自分のことなのかもしれない。
「だからシェルファは、レインが大好きなのよ。好きにならずにはいられないの。『レインの隠している心が見える』ってあの子がたまに言うでしょう? あれは本当のことを話しているの。それをわかって」
……なんとも言いようがなかったが。
とにかくレインは、手招きしてミシェールを呼んだ。
「なあ。そんなトコに浮かんでないで、ちょっと降りてこい。……ええと、今の状態で俺が触れられるか?」
「大丈夫! 今なら、ね」
言われた通り、ミシェールが舞い降りてきた。
途端《とたん》に、一瞬の煌《きら》めきを残し、翼がふっと消える。
別に気にせず、レインはミシェールを抱きしめてやった。
「おまえ、なかなか可愛《かわい》いこと言うヤツだなぁ。挨拶《あいさつ》代わりにちょっと抱かせてくれ」
「嬉しいわ……うふふ」
自分も積極的に腕を回してくる。
胸の大きさはだいぶ違うし、外見も大人びた少女に見えるが、なるほど、あのチビとこいつは同一人物かもしれない。
ミシェールの生存当時の実年齢が幾《いく》つだったか、そこは謎ではあるけれど。
「でも、レインはさすがね。よく私のことを思い出したと思う」
「確信はなかったし、全ては推測だったさ。だが、さっきおまえに出くわした時、さすがに記憶の奥底にぴりっときた。自分でも、ちょくちょく不審な気はしてたしな」
黙って聞いているミシェールの髪を撫《な》でる。
「あのチビがまだ母胎《ぼたい》にいる時、おまえはあいつと一つになった……そう言ったな?」
「死が間近に迫り、一刻を争っていたあの時、選択の余地は他に無かったから。シェルファが私の転生した姿だと思ってくれてもいいし、私の魂がシェルファと同化したと思ってくれてもいい……どちらにせよ、かつての私はもう影に過ぎなくて、あのシェルファこそが今の私なの」
「ふむ……死にかけていた理由にも興味あるが……それは訊かないことにしとこう。なんとなく予想出来るしな」
驚き顔のミシェールに向かい、肩をすくめる。
「そもそもだ。何を気にしているのか知らんけど、おまえはどうせ、後から俺達の記憶を消すつもりでいるだろ」
「――う。やっぱりわかっちゃった?」
「そりゃあな。まあ、今の俺に対してそんな真似《まね》が出来るかどうかはさておき、一つだけどうしても訊いてみたいな」
「……なに?」
ミシェールは心なしか、身構えていた。
なにを訊かれるのか、ドキドキしているに違いない。
「これは、疑問というより興味なんだが。なんでおまえが、ガキの頃の俺にくっついていたかってことだ。なにか、俺に目をつけた理由でもあるのか?」
「それは、シェルファに芽生《めば》えた『才能』のお陰《かげ》よ」
無言で先を促《うなが》すレインに、説明を始める。
「シェルファのお母さんが魔法使いなのは知っているかしら?」
「まー、半《なか》ば知っていたかな。単なる推測だったが、ラルファスに訊いたら当たってたな」
「……そうだったの。とにかく、母親の血を受け継《つ》いだのか、彼女にも魔法に関する才能はあるの。今までは、誰もその才能を伸ばそうとしなかっただけ。そういう下地に加えて、シェルファの場合は私と一体となったことにより、人間としては希有《けう》な『力』を持つに至ったわ。それは、魔人《まじん》達のいう『ビジョン』の能力なんだけど」
「未来を予知する力のことか」
「今はまだコントロールが利《き》かないけど、それに近いわね。夢の中で、離れた場所で起こったことを見たり、時には未来の断片を垣間見《かいまみ》る――まだそれくらいのレベルかな」
「わかった。俺の夢を見たんだな、子供の頃に? そういやあいつ、最初に会った時、俺にそっくりの絵を描いていた……」
「もっと前から夢は見てたのよ、彼女。ただ、私がその都度《つど》、忘れさせてあげただけ」
「……なんで?」
「そうでもしないと、シェルファがレインを恋しがって泣き出すから」
おいおいと思ったが、腕の中のミシェールは、あくまでも真面目《まじめ》だった。
遠い目をしてため息をつく。
「シェルファの深層意識の中で眠っていた私が目覚めたのは、ちょうどあなたが村を出て旅を始めた頃――そして私の目覚めと同時に、シェルファは未熟とはいえ『ビジョン』の力を持つに至った。そのお陰《かげ》で、私はレインを知ることが出来たのよ。未来において、あなたとシェルファと出会うことを知ったの!」
うふふっと声に出して笑う。
「だから私は、すぐにレインの元へ飛んだわ……ためらいもしなかった」
「俺の力が必要になる日が来る……そう思ったわけか」
「いいえ、そんな打算的なことじゃない」
ミシェールは唇を尖《とが》らせた。
「私がレインに会いたかったの」
「おいおい」
と今度は口に出してしまった。
だがミシェールはレインの反応にもお構いなく、ぽおっとした顔で続ける。
「『ビジョン』の能力が目覚めてから、シェルファはレインとの出会いを夢で予知していた。断片に過ぎない未来を、たくさん夢で見たわ……レインに関することが一番多かった。同じようにそれらを見せられた私が、あなたに会いたくなったのも当然じゃないかしら?」
「あのチビの記憶は封鎖《ふうさ》したのに?」
「それを指摘されるとつらいのだけれど」
申し訳なさそうに俯《うつむ》く。
「でもあのままだと、彼女は一日中泣いていたわよ、きっと。……レインに会いたいって」
ホントかよ、と言いかけたレインだが、あのチビに限っては有《あ》り得ない話ではない気もする。
「これから、あいつはどうなる? そのうち、おまえから引き継《つ》いだ力がいきなり目覚めて、スーパー・シェルファになったりするのか?」
レインの腕の中で、ミシェールの肩が震えた。
もちろん、控えめに笑っているのである。
「ス、スーパー・シェルファ! ふふふっ」
「……俺のネーミングセンスにケチつける気か、コラ」
「ううん、ただすごく愉快だっただけ」
なおもひとしきり笑い、ミシェールはやっと首を振った。
「先のことは私にはわからないわ。あなたも薄々感じているように、私はもうすぐ完全に消えるの。かつての魔人《まじん》ミシェールの意識は、もう消滅する。前世記憶のような過去の影は消えてしまい、私とシェルファは本当の意味で一つになるのよ」
早口で述べ、レインを見上げる。
「個人的には、人間であるシェルファに、魔人《まじん》時代の私の力が発現するとは思えないけど。でも、既《すで》に彼女には『ビジョン』の力が芽生《めば》えている。これは明らかに、私と融合した影響よ。こうなると先のことは全くわからないわ」
レインは数秒ほど黙り込み、それから淡々と「そうか」と返す。
よけいなことを言わない代わりに、ミシェールの体を一層の力を籠《こ》めて抱きしめてやった。
「……なるほど、だいたいわかった。いや、まだまだ知りたいことはあるんだが、今はいい。さっきも言ったように、知る必要が生じたら自分でなんとかするさ」
さて、とレインは改まった声を出し、ミシェールを引き離す。
「あとは――最後の頼みかな」
「もしかして、私と戦いたい……そうなの?」
「わかってるじゃないか」
レインは頷《うなず》き、
「人間じゃ、私の相手にはならない――ミランにそう言ったんだろ? 俺としてはその件についてみっちり話し合いたい気持ちだな。……無論、言葉を用いずに」
あからさまな挑戦を受け、ミシェールも再び宙に舞う。
表情が微妙に変化した。
愛らしさが消え、どこか神秘的な顔つきでレインを見下ろす。
「本気なの、レイン? 私は誰よりもあなたのことを知っている。それだけじゃない――
遙《はる》かなる過去より、私は幾度《いくど》かこの世界を訪れているの。
今でも人間達の一部は、私を神としてあがめているわ。その正体が魔人《まじん》だとも知らずに、ね。それを知っても、まだ挑戦するの?」
レインは特に驚きはしない。
時折シェルファから感じたプレッシャーからして、そのくらいの力はあるかもしれない――そう思っていたのだ。
「ほぉ〜、この世界で信仰される、多神教の一角を占めているわけだ。なんの神かは訊かないでおこう。俺が興味あるのは、そんなことじゃない」
かつて多くの敵を歯ぎしりさせた、独特のふてぶてしい笑みを見せる。
「相手が、神だろうが人間だろうが魔人《まじん》だろうが、問題はごくごくシンプルなんだ、ミシェール。例外はない! 俺は最強を目指すと決めた……その理由は、おまえなら知っているだろう? 悪いが、わがままにつきあってくれ。俺のことをよく知っているなら、わかってくれるだろう?」
柔らかく――しかしはっきり言い切るレインに、ミシェールは深遠《しんえん》な笑みを見せた。
「相手が神と聞いて、しかもそれを信じているのに、なおも挑戦するなんて。そんな人、人間世界ではあなたが初めてだと思うわ」
「結構なことじゃないか。いやぁ、初めてってのは気分がいいなー」
「私は……レインが、本当はとても謙虚な人だと知っているけど」
瞳を見開き、レインを見下ろす。
ああいう目つきは、これまでにも他のヤツ(敵とか)から嫌《いや》というほど向けられた。
すなわち、あきれた目つきである。
「――時折、その気持ちが揺らぐわね」
「褒《ほ》め言葉だと思っとく……おまえ用に、刀を持ってきたけど、使うか?」
足下《あしもと》に置いたままの刀を拾い上げる。
ミシェールがためらう素振《そぶ》りを見せていたけれど、構わずに投げてやった。
やむなく、という感じで彼女が受け止める。
「……強引なんだから」
「時に俺もそう思う。……気は変わらないけどな。で、地上に降りてこないつもりか? まあそれでもいい――」
こちらから行くまでだっ!
語尾を激しい叱声《しっせい》に変え、レインは猛然《もうぜん》と駆《か》け出そうとした。
しかし、ミシェールの繊手《せんしゅ》が持ち上がる方がわずかに早い。
『サンダー・ブラスト!』
闇に沈むガルフォート城全体が、真昼のように照らし出された。
それはまさに、青白き光の洪水であり、ルーンマスター達が使う『ライトニング』の術が児戯《じぎ》に見えるほどである。視界がブラックアウトしたと思ったら、次の瞬間、レインの身長ほど太い雷光《らいこう》の固まりが殺到《さっとう》する。
うねり狂《くる》う雷はレインの疾走《しっそう》を堰《せ》き止め、足下《あしもと》の石を穿《うが》ち、遙《はる》かな向こうの城壁を他愛なく崩した。
ドーーーーン!! という爆発音が夜の静寂《せいじゃく》を破る。
だが、レインの身体には届かない。
強化されたアンチ・マジックフィールドが、直撃する分の魔力を吸収し尽くし、無効化している。
雷光《らいこう》を造作《ぞうさ》もなく振り払いつつ、レインは疾走《しっそう》を再開する。
「忘れたのかっ。今の俺には効かん!!」
「いいえ。ちゃんと覚えているわ、レイン」
彼女の言う通りだった。
もちろん、ミシェールが忘れているはずはないのだ。
未だに閃光《せんこう》を発する雷光《らいこう》を通し、ミシェールが見えた。
全身が魔力のオーラで満たされ、白金の光を放っていた。
空中にあってなお、彼女の足下《あしもと》とその前方に魔法陣が生じる。
それを見て、レインにもミシェールの意図が読めた。今の派手な魔法は単なる足止めであり、真の狙いは――
「召還《しょうかん》魔法を使う気かっ」
当たりだった。
魔法陣が明滅を開始する。
魔人故《まじんゆえ》に、最初に型通り唱《とな》えねばならないはずのルーンを全て飛ばし、刹那《せつな》の間に術を完成させる。
神々《こうごう》しいまでに美しいソプラノが、闇夜に響き渡る。
『汝《なんじ》、雪と氷を司《つかさど》る者、魔界に棲む高位|精霊《せいれい》にして我が忠実なる僕《しもべ》よ。
魔人《まじん》ミシェールの名の下《もと》に命《めい》ずる。我が召還《しょうかん》に応じ、敵と戦え――クリュスタロス!』
言下《げんか》に、周囲の温度が瞬《またた》く間に下がってきた。屋上と宮殿全てが、ミシミシと凍り付き始める。
そして、魔法陣からは巨大な白き精霊《せいれい》の姿が見え始めていた。
だが、レインもぼけっと敵の召還《しょうかん》儀式を見守っていた訳ではない。
一瞬立ち止まったその黒影を、瞬時に青き魔法のオーラが覆う。足下《あしもと》ともう一カ所にすかさず魔法陣が出現し、レインの声が重なる。
『汝《なんじ》、破滅と再生を具現する魔獣《まじゅう》にして、生と死を司《つかさど》る孤高《ここう》の絶対者よ。
レインの名の下《もと》に命《めい》ずる、我が召還《しょうかん》に応じ、敵を討ち滅ぼせ!』
向こうも召還《しょうかん》途中なのに、レインの召還《しょうかん》を聞いてミシェールが碧眼《へきがん》を見開く。
もちろん、自分と同じく詠唱《えいしょう》の途中を省略したから――などではない。
その程度で驚くミシェールではないはず。
呼び出す魔獣《まじゅう》の正体を理解したからだろう。
ミシェールの絶対の自信に、初めて刃こぼれが生じる。
「ドラゴンスレイヤーとはいえ人間なのに……信じられない。召還《しょうかん》魔法を使えるのは知っていたけれど……いつの間にアレを呼び出せるほど力をつけたの」
レインは不敵に笑う。
「今のあのチビなら、俺の力に驚いたりしないんだがなー。おまえはまだ、かつての『魔人《まじん》の常識』とやらを引きずっているぞ、ミシェール。だいたいおまえは、ずっと俺のそばにいたわけじゃないんだ。肝心《かんじん》な事を言わなかったのはともかく、俺を甘く見ない方がいい!」
セリフを聞いたミシェールの驚き顔は、見物《みもの》だった。
召還《しょうかん》そっちのけで、レインをまじまじと見つめる。
しばらく、絶句していた。
「肝心《かんじん》な事って……まさか、気付いていたの、レイ――」
ミシェールに皆まで言わせず、レインは召還《しょうかん》の術を完成させる。
『我が命《めい》に従い、姿を見せろ――フェニックス!!』
次の瞬間、ガルフォート城全体を揺さぶるほど巨大で、誇《ほこ》らかな鳴き声が響く。
ドラゴンと同じく、その鳴き声を聞くだけで、人間やモンスター達の大部分が畏怖《いふ》心に震えるという――こういう条件下でなければ、召還《しょうかん》をためらうところである。
とにかくレインですら、使役《しえき》するのに相当な魔力と気力を必要とした。
無論、そんなことは一切、顔に出さないが。
魔法陣を抜け出し、輝く純白の翼を持つ「伝説の魔獣《まじゅう》」が姿を見せる。全身に纏《まと》った浄化の炎が、雪と氷の浸食をあっさり止めてしまう。
それどころか気温の低下すらも止め、逆にぐんぐん上昇させている。雪と氷が急速に蒸発していき、シュウシュウ音を立てていた。
加えて、フェニックスが大きく翼を一振りすると、渦を巻く青白い炎がクリュスタロスを襲う。
名だたる高位|精霊《せいれい》は、両手で防ぐようにその炎を受け止め、それでも受けきれずにやや後退する。
そこへ、急上昇したフェニックスが飛びかかっていった。
巨大な力と力の激突を横目に、レインは疾走《しっそう》を再開する。
ミシェールがはっと身構えた時には、既《すで》に大きく跳躍していた。
大上段《だいじょうだん》に振りかぶられ、迫ってきた傾国《けいこく》の剣を見やり、ミシェールが今更ながらに刀を抜く。
広げられた翼がばさっと羽ばたき、上昇して逃れようとしたが、今度こそレインの方が速かった。
「もう遅いっ」
「――!!」
優しい美貌《びぼう》に、さすがに緊張が走る。
バチバチバチバチッ
頭上より剛力《ごうりき》で振り落とされた魔剣を刀で受け、ミシェールは自ら屋上への落下を選んだ。
レインの剛力《ごうりき》に対抗しようと思えば出来ただろうが、素直に吹っ飛ばされたのである。
猛スピードでだんっと屋上に降り立ち、レインを仰《あお》ぎ見ることなく、さっと横に跳ぶ。
そのスピードと反射神経は、さすがに人間の域を遙《はる》かに超えている。常人では、ミシェールの残像のみしか捉《とら》えられないだろう。
だが、レインは彼女のスピードに翻弄《ほんろう》されはしない。その黒瞳《くろめ》は、しっかり彼女の動きを捕捉《ほそく》して逃さない。
ミシェールが着地した直後、次々と薄れゆくその残像に重なるようにレインが着地、そのまま相手を追って同じ方向へ跳ぶ。
タイムラグは、例によってほとんど刹那《せつな》の間に過ぎない。
素早《すばや》く自分の翼を消し、頭上に(いるはず)のレインを見上げようとしたミシェールが、相手が既《すで》に自分の方へ躍り込んで来るのを見て、小さく驚きの声を上げる。
その声が止まないうちに、レインは再び自らの間合いに突入、同時に斬《き》りつけていた。
魔剣の刀身《とうしん》がぶれる。
夜の帳《とばり》に、青白い光を残して二降りの魔剣が乱舞する。
上段から中段、そしてまた上段へと斬《き》りつける変則的なレインの斬撃《ざんげき》を、ミシェールは見事に受けた。
たおやかな身体をしている癖に、パワーもスピードも全然負けていない。
ガシッと斬《き》り結んだところで、やっと両者の動きが止まり、ミシェールが話しかけてきた。
「少年の頃から変わらない、あくまでも攻撃中心の剣技――それに、あのホーク・ウォルトンをも凌駕《りょうが》する、完璧な間合いの把握! あなたはさらに強くなってしまった。……魔人《まじん》の私とさえ剣を交えられるほどに」
「ホークはもういない。彼と戦えない今、そんな比較は無意味だっ」
ほんの一瞬、黒瞳《くろめ》に哀しみがよぎったのを、ミシェールは見逃さない。けれどレインはすぐに平静な表情に戻り、ぐっとミシェールを押し返す。
再び剣撃に移ろうとしたわけだが、そこでミシェールが再び、押されるままに大きく背後に跳ぶ。
まだ空中にいる間に、全身に纏《まと》った白金のオーラがさらなる輝きを見せ、新たな魔力の放出が起きる。
「グラヴィティ・ディストラクション!」
「――! ぐっ」
一秒の遅延もなく、ミシェールを追って跳ぼうとしていたレインが、しかし跳躍出来ずにがくっと膝を折る。
時を同じくして屋上――いや、この宮殿全体にギシッと嫌《いや》な音が響いた。レインの足下《あしもと》に罅《ひび》割れが生じ、それはたちまち亀裂《きれつ》となって周囲に広がっていく。
レインを中心に、広範囲に渡って破壊が広がっているのだ。
「重力系の魔法かっ」
やや顔をしかめたのみで、レインはほとんど表情を変えない。
無論、平気な訳ではない。
何トンも体重のあるジャイアントに、念入りにグシグシ踏みつけられでもしたような、ひどい苦痛が襲っていた。
ますます増大する巨大な重力が、しっかりとレインを拘束《こうそく》しているのだ。
身体中の骨が軋《きし》み、筋肉の一筋一筋が引き千切れそうだった。
一方、自分で魔法を行使した癖に、ミシェールはなんだかオロオロしていた。
「そう……直接攻撃じゃないから、あなたのフィールドも有効には働かない。……無理しないで、レイン」
「いや、そうはいかないな、ミシェール。まだ勝負はついてないっ」
そう言う間にも、四方に走る亀裂《きれつ》はもはや危険な域に達していた。
足下《あしもと》が漏斗状《ろうとじょう》にぼっこりへこみ、陥没《かんぼつ》しかけている。
屋上ごと下に落ちそうな状況の中、レインはさらに魔力を集中する。
自らの意志により、ドラゴンから受け継《つ》いだフィールドを広げようとする。
普段は目に見えないそれが、淡い光を放って半球状に浮かび上がる。
やがてレインを囲んでいたフィールドは、魔力の増大と共にぶわっと広がり、瞬《またた》く間にミシェールをも飲み込んだ。
途端《とたん》に、全身を締め上げていた力が、ふっと消滅した。
魔法行使中の彼女に、フィールドの影響が及んだ故《ゆえ》だ。
屋上の亀裂《きれつ》も進行が止まり、嫌《いや》な軋《きし》み音も止んだ。
再度の静寂《せいじゃく》が訪れる。
ミシェールがそっと両手を広げた。
あたかも、自分を包むレインの力の波動を全身で感じ取ろうとするように。
「……そんなことも出来たのね。今後、あなたを相手にするルーンマスターは、本当に災難だわ。よほどの術者じゃないと、最初から勝負にならないもの」
陶然《とうぜん》と微笑《ほほえ》む。
思いっきり持ち上げてもらってなんだが、連続して魔力を使いすぎ、体力的にはだいぶよろしくなかった。
それでもあえて軽々と立ち上がり、レインは返事代わりに夜空を見上げた。
ちょうど、フェニックスの攻勢に耐えきれず、クリュスタロスが退《ひ》くところだった。魔法陣に飛び込み、魔界へ帰還するつもりなのだろう。
力量の差もあるが、術者であるミシェールが召還《しょうかん》に集中していなかったせいもあるはず。
フェニックスが帰還するのを待ち、レインは呼吸を整えた。
「上空の決着はついたな……今度は俺達だ!」
猛然《もうぜん》とダッシュする。
屋上の端からミシェールのいるもう一方の端まで、ほぼ一瞬の間に黒影が駆《か》け抜ける。
足音は一切せず、風を切り裂く音のみが闇を渡る。
短い笛の音《ね》にも似た風切り音が、ミシェールにぐんっと迫る。
――それこそ、瞬《またた》く間に。
猛スピードで自分に突っ込んでくる黒影、そして背後の残像。
それらの一切を見やるミシェールは、未だに微笑《びしょう》を消さずにいた。
「……すてきね、レイン」
小さい声で呟《つぶや》き、すうっと表情が真剣になった。
そこへレインが駆《か》け込む。
同時に、無意識の内に魔剣を繰り出す。ミシェールもまた、同じく刀を持ち上げ、斬撃《ざんげき》を送り込む。
二振りの魔剣が交差する直前で――
両者の動きが止まった。
ミシェールの刀はレインの片手の五指が止め、レインの魔剣はミシェールの喉元《のどもと》ぎりぎりにある。
完敗を喫《きっ》しているのにニコニコ笑うミシェールに、レインはどっとため息をついた。
「――おい」
「はい?」
「……はいじゃないだろ。おまえ、死ぬ気で気合い入れろよ、コラ!」
「気のせいよ。私、特に手抜きはしてないもの」
「その割に、プレッシャーがあんまり感じられん。こんな閉鎖空間に転移出来る力があるくせに、今ひとつ必死さが感じられんぞ」
わざとらしく周囲を見渡すレイン。
ここが、最初にいた城内とは似て非なる世界だというのは、最初から気付いていたのだ。
でなければ、とうの昔にわらわらと兵士が駆《か》けつけているはず。
何しろ城壁が派手にぶっ壊され、宮殿もガタガタの有様《ありさま》なのだから。
「殺気《さっき》に乏《とぼ》しいのは……しょうがないわ。だって私、どんな状況下だろうと、レインを敵として見られないもの」
あ、でも――と、むっつり顔のレインにミシェールは付け加える。
「死に物狂いになっても、どうせ私はレインに勝てないと思う。あなたを苦しめることは出来るでしょうけど……せいぜいそこまででしょうね。これは本気でそう思います」
「まぁいい」
レインは嘆息《たんそく》して、魔剣を引く。
鞘《さや》に戻し、ミシェールの頭を手でぐりぐり回す。
「実を言うと、俺もおまえ相手だとやりにくい。あのチビの顔が浮かんでしょうがないんだな。おまえが過去の魔人《まじん》時代の幻影だとしても、元から似てるよ、おまえ達は」
「そうかもしれないわ……二人とも、同じ人を好きになったんですもの」
同じく刀を収めたミシェールが、くすっと笑う。
そのまま腕を広げ、当然のようにレインの胸に抱かれる。
しばらく押し黙る。
ゆっくりと時間が流れ、突然、核心を突いてきた。
「……気付いていたのね?」
「どうかな」
ミシェールを抱いたまま、すっと肩をすくめるレイン。
「おまえが、別にでたらめを語った訳じゃないのはわかる。だが、わざと話さなかったことがあるし、ぼかしたところもある――そんなところか?」
碧眼《へきがん》を伏せたまま、小さく頷《うなず》くミシェール。
「もしかしたら、このまま何事もなく済むかもしれないもの。なら、それが一番いいと思ったのよ。レインがどうして知っちゃったのか、それは知らないけれど」
「どうかな。話を聞いていると、どうもおまえが気付いてないこともありそうだぞ。おまけに、勘違いしていることもあるようだなー。今のところ、俺の予想に過ぎないけど」
ミシェールは驚いたように顔を上げた。
「レインは一体、どこまで知っているの?」
「だから、今のはただの推理だって。どっちにしたって、レイグルとの戦いに影響することでもあるまいさ」
「……本当にそう思う? 言っておくけど彼女は」
レインはいきなり、ミシェールの頬《ほお》をぐに〜っと引っ張った。
「な、なにふるの〜〜」
「おまえ、色々と気に病みすぎだ。後は俺に任せておけって。だいたいおまえ、性懲《しょうこ》りもなく俺達の記憶を消す気でいるんだろうがー」
「私は、人間世界じゃ神様あつかいされてるのに!」
「そんなもん知るか!」
きっぱりと言い切るレイン。
「俺は元々、神なんざ全然尊敬してないね」
最強に罰当《ばちあ》たりなセリフを吐き、余計にぐいぐい引っ張る。
「わ、わかったから、はなひてぇ」
涙目でばたばた暴れるのを見て、ようやく手を離す。
ミシェールは手で頬《ほお》をさすり、上目遣いにレインを見上げた。
「ひどいんだから……教えてあげたことについては、記憶をこっそり残しておくこともできるのにー」
レインは小さく笑い、またミシェールの銀髪に手を乗せた。
一転して柔らかい口調で言う。
「俺は今でも真実に近い所にいると思うし、足りない部分は自分でなんとかするさ。おまえがなぜ、異空間に転移してみせたか……その意味もちゃんとわかっている。魔人《まじん》の秘密を教えてくれる気だったんだろ?」
はっと息を呑む気配《けはい》が伝わってきた。
まさか、既《すで》に知っているとは思わなかったらしい。
「魔人《まじん》達の最大の弱点を教えてやろうか、ミシェール」
わざと神像のごとき厳《おごそ》かな表情を作り、レインは言う。
「それは、自分達が特別な存在だと思っている点だ。甘いっ、その考えが既《すで》に大甘だ! 世界の秘密を知り得たのは、なにも魔人《まじん》だけじゃない」
自分で自分を指差すレインである。
「その証拠に、そんなのは俺だって知ってる」
ニヤッと笑うレインをしばらく眺め、ミシェールは長い長い吐息《といき》をついた。
「私のやった転移を見破り、しかも驚きもしなかった。……私達にそういう能力があると、最初から知っていたからなのね」
「だから言ったろ。おまえは、俺のそばにずっといたわけじゃないって。おまえの知らないこともたくさんあるんだ。刺激的な生活を送っているのは魔人《まじん》だけにあらず、だな」
淡々と返すと、ミシェールはやっと安心したように笑った。
「わかったわ……なにもかもレインに任せる。シェルファを――私達をお願いね」
「ああ。安心しろ」
「それと……レイグルには本当に気をつけて。彼は、魔人《まじん》の中でも最も危険な男だと思うわ。本当は、戦わないように助言したいくらい」
「あいつって、同族の中では強い方なのか?」
「最強戦士の一人でしょうね。あのトップフォーの中でも、彼に対抗出来そうなのはたったの一人しか思いつかないわ」
訊かれると思った――そんな表情でミシェールは首肯《しゅこう》する。
トップフォーってなんだ? とレインは思ったが、これは多分、いわゆる指導する立場にある魔人《まじん》とかそんな意味なのだろう。
ミシェールはレイグルと過去になにかあったのか、ひどく憂《うれ》い顔になっていた。
「魔界は力だけが物を言う世界――。そして今は、アウトサイダー……つまり、魔界を捨てて独自の行動をとる戦士達が、どんどん力をつけ始めているの。このまま状況が推移《すいい》して、トップフォーとアウトサイダーの力関係が逆転したら、魔界もただでは済まないかもしれない。その中心にいるのが、レイグルなのよ」
ミシェールが、またまた心配そうにレインを見る。
「でも、シェルファと二人で逃げて……なんて言っても、あなたは承知しないでしょうね」
「当たり前だ。逃げてどうする!!」
即答である。
「あのチビが一人で逃げたいというなら、別に止めないが。俺自身はいずれ必ず、あいつと決着をつける。……場合によってはそのトップフォーとやらも、ちょっと撫《な》でてやる必要が出てくるかもしれん」
ちなみに、この場合の「ちょっと撫《な》でてやる」というのは、レイン的には「叩きのめす」と同義である。
「私が……いえ、シェルファが、レインを置いて逃げるわけないでしょう。それどころか、例えばレインが落ちぶれて橋の下で生活するようになっても、あの子は豪勢な城住まいを捨ててついていくわよ。一瞬も迷わずに、二人で仲良く餓死《がし》を選ぶわ」
「……わざわざ、一番|悲惨《ひさん》そうな状況を設定すんなよ。俺には『魔剣の製造販売』という奥の手があるんだ。そこまで落ちぶれるか」
「とにかく!」
レインの抗議をあっさり遮《さえぎ》るミシェール。
「あなたが死んだら、あの子も死んだも同然なの! 絶対に絶対に、それを忘れないで」
「……嫌《いや》なこと言うなぁ、おまえ」
レインは思いっきり顔をしかめた。
自分の命の心配などしたこともないが、他人の命まで背負わされるとだいぶ困る。何しろ、これからも戦いに明け暮れる人生に決まっているのだから。
「忠告しておかないと……レインはどんどん無茶する……から……」
話している途中で、抱いているミシェールの身体がふらっとよろける。
そのまま膝をつきそうになり、寸前でレインが支えた。
「……時間なのか」
返事を待たず、レインは自らしゃがむ。
ミシェールの身体を膝に乗せてやった。
ずっとレインを見守ってきた魔人《まじん》ミシェールは、どこか透き通った笑みを浮かべてレインを見た。
この瞬間、確かに彼女は神々《こうごう》しく見えた。
「そう、時が来たみたい……魔人《まじん》ミシェールは消滅し、かつての記憶も消え去る」
一瞬だけためらいが白い顔をよぎり、しかしミシェールはきっぱりと言い切る。
「過去の幻影に過ぎない私は、完全に舞台を降りるべきでしょうね。――ここ最近のゴースト遭遇事件に関しては、明朝には全ての人の記憶から消えていることでしょう」
「……俺は忘れないかもしれんぞ」
「いいえ、無理よ。現にレインだって、少年時代の記憶を失っていたでしょう。これでお別れなの、レイン……」
レインはおよそ数十秒ほども沈黙し、やっとぽつんと呟《つぶや》いた。
「……そうか」
すぐに、しっかりと瞳を合わせた。
「だが、あのチビがいる限り、これが最後の別れってわけでもないさ」
「ええ……それはもちろん。あの子は私の転生した姿みたいなものだから。だから、これからはぜひともシェルファと仲良くしてね。時には、こんな風に優しく抱きしめてあげて。彼女は今の私でもあるんだから」
「求愛されているみたいだ」
レインが笑うと、ミシェールも笑った。
「みたいじゃなくて、実際にそうなの! あなたはどうやら、相手が誰であれ、自分が愛されることなんか有《あ》り得ないと思っているみたいだけど、その考えは改めた方がいいわよ……。でないと、段々大変なことになるから」
静かに笑みが消えていき、どこかほっとしたようにため息をつく。
「昔のことを、たくさん思い出すわ……。
魔人《まじん》時代のことじゃなく、レインに関係したことばかりを――
必死で涙をこらえていたレイン、誰も手が付けられないほど怒り狂《くる》って大声で怒鳴《どな》っていたレイン、優しい微笑《ほほえ》みで友達の最期を看取《みと》っていたレイン……色んなレインの姿を、全て昨日のことのように覚えている。あなたを嫌う人や、普段の態度に騙《だま》される人は大勢いるけれど、私は……私だけは、本当のレインを知っている」
もはや焦点を結ばなくなりつつある碧眼《へきがん》が、誇《ほこ》らしげに輝いた。
「ねえ、レイン。最後に、ミシェールにキスしてくれる? ずっと、してほしかったの……」
レインは答えず、ただ黙って身を屈《かが》める。
何処《どこ》とも知れぬ月明かりの下、二人の身体がそっと重なった。
――翌朝。
シェルファはいつも通り、自分の寝室で目覚めた。
部屋の中は静まりかえっており、例によって早朝の、陽も差さない時間に目覚めたらしい。
普通ならここで小さな吐息《といき》をつき、「いつになったらわたくしは、レインと一緒のベッドで眠れるのでしょう」などと密《ひそ》かに嘆くわけだが、今朝は少し様子が違った。
自分の身体は横向きで、見慣れた寝室の壁が目に入っている。しかし、他の物も見える。なんと、他人の身体が。
シェルファが片|頬《ほお》をべったりくっつけているのは、シーツではなくて誰か他人の胸なのだ。しかも、このたくましさは女性では有《あ》り得ない。
さらにさらに――
自分はその人の身体に情熱的に手を回し、両足もしっかり絡《から》めてすがりついているではないか!
すなわち、抱き枕状態!?
コンマ数秒以下の時間でこの事実を認識した途端《とたん》、シェルファは条件反射的に悲鳴を上げそうになった。最大級の音量を出すべく、呼気《こき》を吸い込む。
が、危ういところで気付く。
自分の心が、なぜか一片の恐怖心も嫌悪感《けんおかん》も持っていないことに。
それどころか、なぜか今は、人生で上から二番目くらいに幸福な気分である。どきどきする。
そんな馬鹿なこと!
と思う前に、速《すみ》やかに相手の正体がわかった。
この香りは、レインなのでは!?
わたくしがレインを間違えるはずないです、これはぜったいにそう。それなら、この幸福感も当然のことですわ。
そう思った途端《とたん》に、がばっと顔を上げる。
やはり、そうだった。
レインが寝ている! それも、わたくしと一緒の、このベッドに!?
この場合、深窓《しんそう》の姫君の立場としては、とる行動は一つである。
すなわちベッドから飛び出て走り出し、次に城内がひっくり返りそうな大音量の悲鳴を上げまくり、ありったけの衛兵《えいへい》を呼びつけねばならない。
そうやって、不埒《ふらち》な男を成敗《せいばい》するのが筋というものだが――
今この瞬間、シェルファの脳裏《のうり》をよぎったのは実に、「レインを起こしてはいけません!」という一事のみだった。
この際、『何故《なにゆえ》にレインが自分のベッドにいるのか。そこにはいかなる事情があったのか?』などの謎は、どうでもよいのである。
それこそ、些末《さまつ》なことだ。
後でレイン本人に聞けばいいし、教えてもらえなくても別に気にならない。それはそれで、嬉しい悩みに変わるだけ。
問題は、レインが起きてしまうと、この幸せな場面が消えてしまうかも――というところにある。今は、抱き枕計画が成就《じょうじゅ》した幸せに浸《ひた》り、少しでもこの至福の時を延ばさねば!
ここまで考え、やっとほのかな疑問を覚えた。
抱き枕計画? それってなんでしょう……いえ、意味はわかりますし素敵な計画だと思いますけど、どうしていま急にそんな言葉が。
しかし、その疑問も深刻な悩みには発展せず、シェルファは小さく首を振る。
考えるのは、後にしましょう。
とにかく今は、こうしてレインの胸に抱かれている幸せに浸《ひた》りたいだけです。
しかし、そうはいかなかった。
シェルファが僅《わず》かに身じろぎしたせいで、眠っていたレインのまぶたが震え、あっさりと目を見開いたのだ。
普通の者なら、寝起きのボケた顔でシェルファを見返すだろうが、さすがにレインはそんな隙《すき》は見せなかった。
あたかもずっと覚醒《かくせい》していたかのように、すっきりと視線を合わせる。寝惚《ねぼ》けた雰囲気など微塵《みじん》もない。
「よお、チビ。……て、なに不満そうな顔してんだ、おまえ」
レインは困ったように笑った。
「いや、勝手にベッドを使ったのは悪かったよ。でもなんだか疲れてたし、自分の部屋に戻るのが億劫《おっくう》でなぁ。……もう二度としないから、怒るな」
「ち、違います!」
思わず声を高めた。
「わたくしは、レインがすぐ目を覚ましてしまったから……それが寂しかっただけです」
正直に心情を打ち明けたものの、レインはあまりわかっていないのか、ただ小さく首を傾《かし》げる。
「ふむ? じゃあ、またそのうち一緒に寝るか。おまえはなかなか抱き心地がいいしなー。ていうか、抱かれていたのは俺の方だけど」
「あ、はい。ぜひこれからも一緒に」
それと、もう少しこのままで――とかシェルファが言う前に、レインはもう上半身を起こしていた。
カーテンの隙間《すきま》から僅《わず》かに洩れ始めた朝日を見やり、目を細める。
「ああっ」
「……なんだよ、その残念そうな声は。いきなりで寒かったか?」
レインは苦笑し、身を寄せてきたシェルファに腕を回してくれた。
その勘違いはともかく、レインの体温をまた感じられて、大変に幸せな気分である。ニコニコしてしまう。
と、頭上から問いかけの声。
「……俺達、昨晩はどうしてたのかな?」
シェルファは、何気なく昨日のことを思い出してみて、小首を傾《かし》げた。
「レインに刀を頂いたんですよね、わたくし。あっ、わたくしの刀っ」
慌《あわ》てて周囲を探す。
ちゃんと壁に立て掛けられているのを見つけ、大いにほっとした。起きている間は、なるべく身に帯《お》びていましょう。
そんなことを考えながら、瞳を上げる。
レインの黒瞳《くろめ》とまともに目があった。
「それから、どうしたっけな」
「その後のことですか? ええと」
しばらく記憶を探ってみたが、それ以降のことは大して覚えてなかった。
空き部屋に入って、レインと少しお話しした気がする。でも、自分はすぐに眠ってしまったのだ。
その通り告げると、レインはやや間を置き、「そうか」と呟《つぶや》いた。
そして、じっとシェルファの目を覗《のぞ》き込む。
「俺は覚えているぞ」
はい、なにをでしょう?
そう尋ねようとしたのに、言葉に出来なかった。
身体が、急にじぃんと熱くなる。風邪でも引いたのでしょうかと思ったが、そうではなかった。
胸の奥にある何かにそっと触れられたようで、今の何気ないレインのセリフが、ひどく心に響く。
「昔の俺じゃないんだぞ?」
レインが、唐突《とうとつ》に謎のセリフを口にする。
シェルファを易々《やすやす》と持ち上げ、自分の膝の上に乗せてくれながら。
問い返したかったのだが、その透き通った黒瞳《くろめ》に心を奪われてしまった。
「今度こそおまえを忘れない。……城内のみんなが忘れても、俺は、俺だけはずっと覚えている」
すごくすごく、優しい声だった。
なにを言われているのか理解出来ないのに、ひどく心を打たれ、シェルファはいつの間にか泣いていた。
身体が小刻みに震えている……得体の知れない喜びと切なさに。
「どうしたんでしょう……わたくし、こんな」
「いいんだよ、わけわかんなくても。ただの与太話《よたばなし》だ。気にするな」
レインは静かに微笑《ほほえ》み、強く抱きしめてくれた。
その胸の中で、シェルファはしばらく泣き続けていた。
――この日を境に、ガルフォートのゴースト騒動は、ふっつりと収まったのである。
[#改ページ]
あとがき
お陰様で、レインも四冊目です。
あとがきを書くのも、これで四回目になります。
この分じゃ、あとがきなどとは一生無縁かもしれない、などと思っていたのはまだほんの少し前のことなのですが、時の経つのは早いものです。
当初、レインを置いてある書店さんを見つけるのに多少苦労したものですが、時が経つにつれて置いてくださる所が増えたようで、有り難いことです。
私は書店巡りが結構好きで、暇な時はあちこちの書店さんをうろうろする――ということをよくやります。立ち読みがてら色々な本を読み、気に入った本があれば(そして懐具合が許せば)最後に買う……そういうちょっとした楽しみですね。別に小説に限らず、コミックも新刊が出ているとよく手にとって見たりします。
気恥ずかしいことに、そういう書店巡りの最中に自分の「レイン」に出会う、ということもたまにあります。無論、自分の本が発売された直後にはわざわざ見に行くこともあるんですが、最近はふらっと入った書店さんでレインを見つける機会も増えてきました。
それだけでも十分嬉しいことなのですが、そういう書店さんの中には、時に特にレインを強力に売り出しているお店もあったりします。こういう場所じゃないとお礼を述べる機会もないので、今回はちょっと書かせてください。――どうもありがとうございます。私が言うのもなんですが、他に売れそうな本もたくさんありますのに……。
所用で出版社さんの方へ出向いた時にも、そういう書店さんが何軒もあって、あちこちで感激して立ち尽くしておりました。同時に、『こんなにプッシュしてもらって、これで売れなかったら申し訳ないなぁ』と、ちょっと心配もしてましたけれど。
今回もたくさんの方にお世話になりました。
この本を出すに辺り、ご助力をくださった全ての方達にお礼を申し上げます。
最後はもちろん、この本を手にしてくださったあなたに、精一杯の感謝を。
[#地付き]二〇〇六年十月 吉野 匠 拝
吉野 匠(よしのたくみ)
東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「レイン(雨の日に生まれたレイン)」がネット上で爆発的な人気となり、遂に同作で出版デビュー。現在もHP上での連載は毎日更新を続行中(の予定)。
装丁・本文イラスト―MID
装丁デザイン―オレンジボックス
HP「小説を書こう!」
http://homepage2.nifty.com/go-ken/
イラスト:MID
http://mid.mods.jp/
[#改ページ]
底本
アルファポリス 単行本
レイン4 世界を君に
著 者――吉野《よしの》 匠《たくみ》
2006年11月20日 初版発行
2006年12月10日 2刷発行
発行者――梶本雄介
発行所――株式会社 アルファポリス
[#地付き]2008年12月1日作成 hj
[#改ページ]
修正
幼馴染《おさななじみ》み→ 幼馴染《おさななじ》み
必ず知か武、どちかに才能が偏《かたよ》るものです。
↓
必ず知か武、どちらかに才能が偏《かたよ》るものです。
置き換え文字
え゛※[#濁点付き平仮名え、318-8]濁点付き平仮名え、ページ数-行数