レイン3
シャンドリス、侵攻す
吉野 匠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)結束《けっそく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)双方|呻《うめ》き声を上げ
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]二〇〇六年六月 吉野 匠 拝
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〈帯〉
激突!
天才VS不敗の神将
人気爆発!! 剣と魔法の最強戦士ファンタジー
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――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。
科学文明の魔手はまだこの地を覆うことなく、廃れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。
そんな、剣と魔法が支配する世界――
上将軍の一人、戦死したと思われていたサフィールは、未だ健在だった!
亡き王の遺言書を盾に、無理難題を通そうとする彼に対し、レインとラルファスは結束《けっそく》して立ち上がることとなった。
――国内が割れた。
片や、シェルファ王女を君主に推《お》す、レイン・ラルファス連合軍。
そして上将軍サフィールを中心に団結する、旧体制派――空位となった玉座《ぎょくざ》を前に、かつての味方同士が睨《にら》み合う。
時を同じくして、隣国シャンドリスから、女帝フォルニーアがサンクワールを訪問する。
強敵ザーマインに対抗するために同盟を結ばんとする彼女だが、サンクワールの現状を見て野望の火を燃やすこととなった。
シャンドリスの大将軍、股肱《ここう》の臣たるジョウ・ランベルクの諫《いさ》めも聞かず……
不敗の神将ジョウ・ランベルクは、ついにレインと戦う運命にあるのだろうか。
サンクワールはここに、隣国シャンドリスをも交えた、群雄割拠《ぐんゆうかっきょ》の様相を呈《てい》しはじめる。
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
※度量衡はあえてそのままにしてあります。
〈登場人物紹介〉
レイン:25歳だが、肉体年齢は18歳で永遠に停止
本編の主人公。小国サンクワールの上将軍。本人曰く、「傲岸不遜《ごうがんふそん》と常勝不敗《じょうしょうふはい》が売りの、世界最強の男」。磊落《らいらく》な態度を取ることが多いが、時に隠れた優しさを発揮することも。
シェルファ・アイラス・サンクワール:16歳
サンクワールの君主――になるはずだったが、現在は国内が分裂しているので、王位に就《つ》くかどうかは流動的。たおやかで控えめな性格の、姫君。レインが大好き。
ラルファス・ジュリアード・サンクワール:25歳
本姓はジェルヴェール。レインと同じく、サンクワールの上将軍。建国の祖《そ》である五家の一角。友情に厚い騎士。
セノア・アメリア・エスターハート:20歳
レインの副官で千人隊長。生粋《きっすい》の貴族だが、普段の言動とは裏腹に、根は素直で優しい。
レルバイニ・リヒテル・ムーア:24歳
通称はレニ。レインの副官。かなり臆病《おくびょう》な性格だが、腕は確か。母親が没落《ぼつらく》貴族だった。
ギュンター・ヴァロア:年齢不詳……外見は20歳そこそこ
常に苦い表情を崩さない、レインの股肱《ここう》の臣。寡黙《かもく》で有能な男。主に諜報《ちょうほう》や工作担当。
ガサラム:55歳
かつて名のある騎士だった。レインの少年時代に遭遇したきっかけで、彼の旗下に。
セルフィー:17歳
騎士志願の貧乏少女。平民のレインが騎士募集をしていると聞き、勇んでやってきた。
ユーリ:16歳
元気で活発な、セルフィーの友人。敵側の間諜《かんちょう》だったが、レインの説得に応じて仲間に。
フォルニーア・ルシーダ・シャンドリス:23歳
シャンドリスの皇帝。妾腹《しょうふく》の子だったが、父王亡き後、政変の末に王位に就《つ》く。
ジョウ・ランベルク:年齢不詳だが、見かけは20代前半
シャンドリスの大将軍。将兵達からは尊敬を込めて「不敗の神将」と呼ばれている。
セイル:23歳
シャンドリスの若き将軍。見かけは穏やかな若者だが、剣技に加え魔法も使える騎士。
ジュンナ:17歳
セイルに懐いている義妹。『天才魔法使い』と賞賛されているが、滅多に力を見せない。
タルマ:17歳
シェルファを狙う組織に属する少女――だが、本人はシェルファ暗殺には興味がない。
サフィール:年齢不詳の中年
上将軍の一人。ザーマイン戦で死亡と思われていたが、先王の遺言書を持って帰還。
レイグル王:年齢等は不詳
大国ザーマインを統《す》べる王。5年前、前王を倒して玉座《ぎょくざ》に着いた。恐るべき力の持ち主。
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レイン3
シャンドリス、侵攻す
吉野《よしの》 匠《たくみ》
目次
プロローグ 挑戦
第一章 フォルニーアの決断
第二章 侵入
第三章 その少女、高慢につき
第四章 シャンドリス、侵攻《しんこう》す
第五章 ジョウ・ランベルクの憂鬱《ゆううつ》
第六章 枯れ谷の戦い
第七章 セイル兄妹VSレイン
エピローグ 予感
番外編 いつかきっと
あとがき
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プロローグ 挑戦
およそ十年前のことである。
冬が深くなり、空に雲が立ちこめ、今にも雪が降り出しそうな午後だった。
その日、国境線で蛮族《ばんぞく》の侵入を一蹴《いっしゅう》し、王都ザワールに戻る途中だったジョウ・ランベルクは、馬上で底冷えするような殺気を感じ、街道の向こうに目をやった。
道の脇に、一人の少年がいた。
上から下まで黒ずくめの格好《かっこう》で、髪や瞳までが真っ黒である。手足はやせ細り、どう見ても、ここ何ヶ月かまともに食事を摂《と》っていないように見えた。体だけを見れば、ただの飢えた文無《もんな》しの少年にすぎない。
しかし――彼の瞳が、先の印象を全て覆《くつがえ》している。
少年らしく黒々と澄んだ瞳は、しかし無邪気さとはかけ離れ、底知れない虚無《きょむ》を湛《たた》えている。同年代の少年達が一生見ずにすむ物を、不幸にして見てしまい、経験してしまった者の目だった。
切れ長の黒瞳《くろめ》が、ジョウと視線が合った途端《とたん》、鮮やかに変化した。
それは、研《と》ぎすまされた剣を思わせる鋭い視線で、歴戦のジョウをしてその居住まいを正させるだけの迫力にあふれていた。
少年はジョウを見た次の瞬間、長く荒野をさまよった者が流浪《るろう》の果てについに一軒の家を見つけたように、あるいは砂漠で一杯の水を前にしたように、虚無的《きょむてき》だった瞳を歓喜の色に染め上げた。
明らかに待ち受けていたのだ、彼は。
なぜなら、時を同じくして、ジョウは大瀑布《だいばくふ》の水圧にも似た強大なプレッシャーを感じたからだ。黒衣《こくい》の少年は軽く両膝を開き、左足をやや後にひき、腰に帯びた凝《こ》った柄《つか》の剣に手を掛けた。
今にも抜剣《ばっけん》する構えである。
ジョウを除いた他の軍勢《ぐんぜい》は、そんな少年にはまるで注意を払わない。傍目《はため》には少年は行軍《こうぐん》を見物しているだけのように見えたし、そうでなくても、まさかたった一人でシャンドリスの大将軍に喧嘩《けんか》を売っているとは誰も思わない。
全軍の中でただ一人、ジョウだけが少年の意図《いと》を正確に見抜いた。彼は、このジョウ・ランベルクに挑戦してきているのだ。
――たった一人で。
『さあ、来い。剣を抜いて俺と戦え! おまえの強さがどれほどのものか、本当に世評《せひょう》ほどのことがあるのか、この俺に証明して見せるがいい!』
気のせいなどではない。
今も、この身にひしひしと感じる闘気《とうき》に、そして強大なプレッシャーに、少年の強固な意志を感じる。ジョウは身に付いた戦士としての本能から、自《みずか》らも「気」を高め、少年の力の波動に対抗した。
お互いに目を逸《そ》らさないまま、馬は進み、少年のすぐ近くまで来た。
行き過ぎる間際、足で軽く愛馬の腹を叩《たた》いて足を止めさせる。
ごく間近で、二人は言葉もなく睨《にら》み合う。
目には見えない力と力がぶつかり、そしてせめぎ合う。少年の闘気《とうき》はジョウの強大さを知ってなお、いささかも衰えない。
あたかも、闘気《とうき》という名の不可視《ふかし》のオーラが、その長身から立ち上《のぼ》っている気さえする。
最初に理解した通り、少年は明らかに喧嘩《けんか》を売ってきているのだ。目的はさっぱりわからないが。
しかし、ジョウは純粋な驚きを覚えていた。
今感じているこの波動の強さはどうだ。私の全身を圧迫してくる、この闘気《とうき》は。この少年は剣を握ってどれほどになる? 五年か、それとも八年か? どう見ても十五歳以上には見えないから、十年ということはあるまい。いや、仮に十年前から剣を握っていたとしても……普通の人間が、その短期間にここまでの実力をつけることができるだろうか。
――天賦《てんぷ》の才能。
ジョウは眼前の少年にそれを感じた。
今戦えば、おそらく自分が勝つだろう。いかにこの少年が強かろうと、まだまだ自分の敵ではない。
しかし彼が、このままずっとその希有《けう》の才能を伸ばしていったとしたら……何年か後にもう一度会った時、その時、私はこの少年に勝てるだろうか。
この時、おそらく初めて、ジョウ・ランベルクは自《みずか》らの敗北を予感した。敵を前にして、「もしかしたら私が敗れるかもしれない」などと感じたのは、後にも先にもこの時だけである。
それがたとえ、未来の話であろうと。
内なる思いはジョウの『力』を弱まらせる結果となった。拮抗《きっこう》していたものが崩れた。
すると、それまで瞳をギラギラさせていた少年は、ふっと目を伏せた。それまでの激しい闘気《とうき》が跡形もなく消え失《う》せる。失望したように肩を落とし、少年は未練なくジョウに背中を向けた。
――今のを私の弱気と受け取ったのか。
ジョウは即座に理解し、むらむらと心に沸《わ》き立つものを感じた。だが、あえてそれを押さえ込み、立ち去っていく背中を呼び止めた。
「待て! 君の名を聞いていないぞ」
少年は、一瞬だけ立ち止まった。
「――レイン。だけど、覚える必要はない。もう二度とおまえの前には現れない」
振り返りもせずに醒《さ》めた声で返し、何処《いずこ》ともなく立ち去ってしまった。
『いいや、私はそうは思わない』
ジョウは遠ざかる少年……レインを見つめ、そう思った。
心に芽生えたそれは、予感などというあやふやなものではなく、確信だった。
あの少年はおそらく何らかの理由で、自《みずか》らの技量を最高点にまで高めようとしている。
だから――
これから先、戦いに彩《いろど》られた人生を歩むのなら、君はまたいつか私に会うことになるだろう……
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第一章 フォルニーアの決断
広場に入ると、レインに不可視《ふかし》の探りを入れていた人物はすぐに見当がついた。隅《すみ》の方に、二人の供を連れて立っている。
供の方は見覚えがないが、銀髪の男は十年ぶりに見る顔であり、予期せぬ再会だった。
二度と再び、会うことはないだろうと思っていたのだ。
レインは、なぜか彼らのそばにひっそりと立つギュンターに気付き、先に彼に声をかけた。
「どうした?」
「……いえ。なにかご用が出来るかもしれないと思いまして」
「なるほど。さすがに気が利くな」
ふっと笑ったものの、すぐにその笑いを消し、レインはジョウの間近にクリスを進めた。
馬上から、こちらを見上げてくる彼と視線を合わせる。
「久しいな、少年。あの時と立場が反対になった。十年ぶりだが、私を覚えているだろうか」
ジョウはそこで一瞬だけ視線を外し、シェルファに目を向けた。いぶかしげに眉を寄せる。
だが微《かす》かに首を振り、またレインに向き直った。
……あのレイグル王と似たような反応をしてくれる。まあこのチビを見れば、不審を覚えて当然だろうが。
先の戦いの時の記憶をまさぐりつつも、レインは口調だけはさりげなく、
「俺はもうガキじゃない。……だが、おまえのことはもちろん覚えているぞ、ジョウ・ランベルク。シャンドリスの『不敗の神将《しんしょう》』が、こんなところでなにをやっている」
「しかし、貴公の姿はとても二十五には見えぬな。驚くほど若々しい」
いきなり横から口を挟《はさ》まれ、レインは顔をしかめた。
「……誰だ、あんた」
「あ、あんた!」
フォルニーアは目を丸くしたがすぐに相好《そうごう》を崩し、男のようにあっはっは、と笑い始めた。
「普通の者からそんな呼び方をされると我慢ならないが、これも貴公の人徳というものかな。その磊落《らいらく》な態度、かえって頼もしく思うぞ」
そう言うと、フォルニーアは妖艶《ようえん》な笑みを浮かべた。
「私はフォルニーア・ルシーダ・シャンドリスという。名前からわかる通り、シャンドリスの皇帝だ。こんな場所でなんだが……どうだ、少し話さないか、レイン殿?」
フォルニーアの名乗りを聞いて、さすがにレインとシェルファもクリスから降り、お互いに慌《あわ》ただしく現状についてのやりとりをする。しかし、レインはジョウに気を取られていたし、フォルニーアはレインの観察に熱心だった。なので、あまりこの試みが成功したとは言い難《がた》い。
それはともかく、問われるまま、レインがさっきからの行軍《こうぐん》の理由を説明すると、フォルニーアはきっとなっていきなり捲《まく》し立て始めた。
「では、最後の拠《よ》り所たる主城《しゅじょう》を明け渡し、退去する所だというのか!」
「ま、簡単に言えばそうなるな。全く、世の転変の激しいこと。昨日までの国軍が、一夜明けたら流浪《るろう》の軍だ」
他人事のように肩をすくめるレイン。
相手が皇帝だとわかっても、レインの態度はまるで変化しない。そもそも、王族に特殊な尊敬心など全然持っていないのである。さらに言えば、別にフォルニーアはレインに俸給《ほうきゅう》を支払っているわけでもない。よって、ことさら敬語を使う必要などないと思っている。
さっき紹介されたシングとかいう男が、レインの口調にしばしば顔をしかめたが、もちろん、そんなもんレインの知ったことではない。
「とにかく。後からまた事情が変わるかもしれないが、今はそういう状態なわけだ。だから、同盟と言われてもなあ。ま、どのみち俺が決めることじゃないが」
傍《かたわ》らに立つ主君に視線を落とす。
「どうですか、姫様」
いきなりふられ、シェルファはちょっと驚き顔になった。
それでも少し考えた後、フォルニーアに打ち明ける。
「……お申し出は嬉しいことですが、事情はレインがいま話した通りです。もはやわたくしの家は、サンクワール全土を掌握《しょうあく》していません。かろうじてレインとラルファスさまが、わたくしの味方として残ってくれているだけです。それでもよろしいのですか」
「そ、そんなあっさりと! それはつまり、貴女《あなた》は次期君主たる王族の身でありながら、もう一片の土地も支配していないということではないか!」
「あ、本当ですね」
まさにフォルニーアの言う通りだった。
シェルファは真っ青な瞳をぱっちりと見開き、それからくすっと笑った。
昨日までは、やれ戴冠式《たいかんしき》だお披露目《ひろめ》だなどと大騒ぎだったのに、一夜明けたらただの文無《もんな》し少女になっていたことに、おかしみを感じたのである。
そういえば、彼女自身は着の身着のままで城を出たから、領地どころか銅貨一枚持っていない。
「まったくその通りですわ……。もうなにも持っていないんですね、わたくし」
「――な! あ、貴女《あなた》は一体」
フォルニーアはあきれかえり、ついで我がことのように腹を立て始めた。彼女には、自分と同じ君主であるこの少女の余裕が、信じ難《がた》いものに映ったのである。
シェルファにはシェルファの言い分があり、それは「わたくしは領地など持たなくても、大好きなレインのそばにいられさえすれば、心が満たされるのです」というものだったりするが、仮にそんな本音を聞かされたところで、やはりフォルニーアは怒っただろう。
二人の女性君主は、どちらも人目を惹《ひ》く美貌《びぼう》ではあるが、その美貌《びぼう》の質はまるで別種類だったし、それぞれの内面においては、もう完全に別世界の人間だった。
ただ――。レインは真横で始まった、フォルニーアの叱責《しっせき》の声などもう聞いていなかった。シングが周りの目を気にしてしばしば首を巡らせているのも見えていなかったし、ギュンターがさりげなくシェルファをかばうようにその隣に来たのも意識していなかった。
ではなにをしていたかというと、顔を突き合わせて立つジョウ・ランベルクが放つ力の波動に、めらめらと対抗心を燃やしていたのである。
「――おい」
低い声でレインは言った。
自分をじっと見つめるジョウを、気を張って睨《にら》み返す。ただ立っているだけで、ジョウの『力』をビリビリと感じた。
「まさかとは思うが……おまえ、俺に喧嘩《けんか》を売ってないか」
「そんなつもりはないが――」
笑いを含んだ声でジョウは言い、
「しかし、君は変わらないな。十年前に会った時、そのままだ」
「そうか? 俺の昔を知るヤツは、大抵、よりふてぶてしくなった、とか言うぞ」
「それはただの外面だろう。私にはわかる。君の本質は少しも変わってはいない。あの時のままだ」
ジョウは静かにそう答えた。
「あの時会った君は、狼《おおかみ》のような目をした戦士だったし、今でもそうだ。……一度、手合わせ願いたいものだな」
「勝負はもうついていたと思うが」
「それはどうかな」
ジョウは言いつつ、さりげなく自《みずか》らの刀の柄《つか》に片手をやった。
その時には、レインも自分の魔剣に軽く手をかけている。どちらが先だったかは判然としないが、ほとんど同時に動いていたのは間違いない。
そして、もしきっかけというものがあったとしたなら、ジョウの次の言葉がそうだったろう。
その気はなかったにせよ、彼はもっとも正しい方法でレインを挑発したのだ。
「私に勝ったと思っていたのなら、それは君の勘違いというものだ。勝負は……まだついてはいないよ」
レインはそれを聞き、黒瞳《くろめ》に剣呑《けんのん》な光をちらつかせた。
「ほぉ〜……。どうやらおまえ、『不敗』の金看板がパア〜になっても構わんらしいな」
まだ横で捲《まく》し立て続けているフォルニーアの声も、そして広場にいる市民達がこっそりとざわつく声も、完全に二人の脳裏《のうり》から消えた。
お互いに、相手が強敵であることはわかっている。他のことに注意を向けている場合ではないのだ。
ジョウが突き合わせていた顔を引き、無意識の内に間合いを取った。あたかも、これから斬《き》り合いをするかのように。
レインもまた、意識せずにかるく足を開いていた。相手の瞳から一瞬たりとも目を離さない。
その時……そよ風が吹き、どこからか枯れ色の木の葉が飛んで来た。
同時に、二人は抜剣《ばっけん》して飛び出し、交差した。
木の葉が四つに分裂して、ぱっと飛び散った。
ガインッ!
「くっ」
「ちいっ」
双方|呻《うめ》き声を上げ、体が交差すると同時に半身を捻《ひね》って背後の敵に剣を叩《たた》き付ける。動きに一瞬の遅滞《ちたい》もなく、それぞれの魔剣が相手の急所を襲う。
バチバチバチッ
青白い火花が飛び散り、二振りの魔剣がスパークする。レインは頬、そしてジョウは肩の辺りの服が裂け、薄く血がにじんでいた。
「レイン!」
「ジョウっ!」
シェルファとフォルニーアがやっと異状に気付いて叫ぶ。しかし、二人の耳には届かない。
「――この私に傷を負わせた者は、何十年ぶりくらいか。……さすがだっ」
「そんなごたくはまだ早いぞっ」
レインは鍔迫《つばぜ》り合いの状態からさらに相手に向かって踏み込み、ジョウの額に頭突きをかました。
とっさに頭をのけぞらせようとしたジョウだが、レインがわずかながら早い。避《よ》けきれずに、ガツンッと一撃を食らう。
「ぐっ」
あえてそのまま、背後の石畳《いしだたみ》に身を投げ、ジョウは片手を路上にあてて華麗《かれい》にくるりと後方回転した。
すぐにさっと刀を構えたが――
「甘いっ! 上だっ」
ガンッ!
飛鳥《ひちょう》のように宙に舞い、レインが上空で半回転し、魔剣の一撃を力任せに振り切る。まともに受けたら頭がまっぷたつになったに違いないその攻撃を、ジョウは見事に受け止めた。
ガキッ、ガカカッ、バチバチッ
体を入れ替え、体勢をめまぐるしく変え、二人は何合も切り結んだ。あまりのスピードに、まるで四、五人の剣士がいるような錯覚を、シェルファ達に起こさせた。
魔剣同士の剣撃《けんげき》の最中《さなか》、ジョウが舞い、レインが舞う。
無論《むろん》、死闘には違いないが、見物人からすれば、双方の完成された動きは瞠目《どうもく》に値したのだ。
ジョウの白銀に輝く魔剣が幾筋も軌跡《きせき》を作り、レインの黒影を追う。対して、一歩も引けを取らず、青き閃光《せんこう》がそれを迎え撃つ。交差し、激突を繰り返す魔剣が無数の残像を生み出し、スパーク音を立て、火花を散らす。二人の傑出《けっしゅつ》した剣士は、数秒の間に軽く十合以上も剣を合わせていた。
広場中の人間が動きを止め、見入っている。
「貴様、少なくとも人間じゃないな。滅びたはずの魔人《まじん》かっ?」
一旦飛びすさって間合いを取り、不審を声ににじませてレインが問う。
「違う。だいたい、人間離れしているのは君も同じだろう」
「ほざけ!」
叱声《しっせい》を最後に、黒影がぶれつつ突進する。数メートル程度の距離は、レインにとって無きに等しい。瞬《またた》く間に相手の眼前に出現し、魔剣の一撃を横|薙《な》ぎに送り込む。
ジョウは常人離れした反応速度を見せ、その斬撃《ざんげき》を魔剣で受け止めてしのぐ。
が、上体がやや泳いだのを見逃さず、レインはぱっと長身を翻《ひるがえ》し、後回し蹴りを相手の側頭部に叩《たた》き込んだ。
「――っ!」
重い衝撃音がした。
右手の肘だけでその蹴りを受けたジョウが、衝撃を受けきれず、体ごと飛ばされたのだ。その体が宙にある内に、レインが再度飛びかかる。ジョウが路上に受け身を取ったのとほぼ同時に、閃光《せんこう》のごとき魔剣の突きが降ってきた。
ジョウは、その剣突を上体を捻《ひね》って寸前でかわした。そのまま自《みずか》らの刀を石畳《いしだたみ》にぶっ刺し、それを支点に、がら空きのレインの横腹にお返しの蹴りを見舞った。
「うっ」
今度はレインが吹っ飛ぶ番だった。
しかし、すぐに飛び起きて構えを取る。双方、常人の域を遙《はる》かに超えたスピードで、相手に向かって走り出す。
「食らえっ」
「こちらのセリフだっ」
『双方、引けえっ』
丁度、見物人達の目前で再度激突しようとした両者の中間に、フォルニーアが両手を広げて飛び込んできたのだ。
「陛下っ!」
「ば、馬鹿たれっ!?」
今、まさに必殺の一撃を相手に叩《たた》き付けようとしていたジョウとレインは、肝《きも》を冷やしつつも動きを止めた。
それは、二人が傑出《けっしゅつ》した剣士|故《ゆえ》に可能だったのであって、もし他の誰かの斬《き》り合いなら、フォルニーアは死んでいたに違いない。ジョウの白銀の魔剣はフォルニーアの背中を貫く寸前で、レインの傾国《けいこく》の剣は、彼女の胴を薙《な》ぐ一歩手前で停止していた。
そして、ジョウは安堵《あんど》の吐息《といき》を、レインは多量の憤《いきどお》りと少量の冷や汗を、鼻息に変えてぶはっと吐き出した。
「陛下っ、我々でなければ今頃死んでいましたぞっ」
「おいこらっ。もう少しではらわたがはみ出す所だったんだぞっ」
二人して猛然《もうぜん》と抗議したが、フォルニーアはどこ吹く風で、猫のような瞳を細めた。まず、後を振り返り、
「まあそう怒るな。おまえも悪いのだぞ? 見応えのある戦いだったが……しかし、なにをいきなり斬《き》り合いなど始める? おまえらしくもないな、ジョウ」
「それは……」
ジョウが珍しく口ごもる。その肩を「まあいい」とポンと叩《たた》き、フォルニーアはレインに相対した。
「よいものを見せてもらった。まさか、この世にジョウと互角に戦える者がいたとはな」
「……おまえの目は曇ってるぞ。どこを見てた? あと一分もあれば、そいつは『うう、やはり私の敵《かな》う相手ではなかった……』とかいう末期《まつご》のセリフ付きで、血の海に沈む所だったんだ」
レインが当然のようにそう言うと、もはや刀を鞘《さや》に戻していたジョウが首を振りつつ笑った。既に冷静さを取り戻している。
フォルニーアは益々《ますます》目を輝かせ、
「その自信も、本物の実力があればこそ……。貴公は確かに、天才の名にふさわしい。でなければ、二十五やそこらの若さで、ジョウとまともに戦えるはずもない」
言いつつ、真っ赤な舌を見せて唇などなぞるフォルニーア。レインは怒りを忘れ、眉をひそめた。
「城を放棄《ほうき》した、などと聞いた時は、危うく貴公を誤解するところであった。だが、その強さは誤解のしようもない。まさに、噂以上の実力だ」
と、そこへ「レイン!」と叫ぶ声がした。レインが見ると、ラルファスやガサラムを初めとする面々が、馬で駆け戻ってくるところだった。
それはいいのだが、ついでにギュンターがシングとかいう騎士隊長の首筋に魔剣を突き付けているのに遅まきながら気付き、レインは「どうした?」と訊いた。
「いえ。この男が途中で剣を抜いて加勢しようとしましたので」
平然と答えるギュンター。
ごくり、とシングが喉《のど》を鳴らした。ギュンターの顔が真面目《まじめ》なので、本気かどうか計りかねているようだ。
「おう、ご苦労。もういいぞ……気が削《そ》がれたし、邪魔も入ったしな」
「はっ」
レインの一言で、即座に魔剣を引くギュンター。シングが震えるようなため息をついたのが印象的だった。そんな彼を見て、フォルニーアは口元に笑みを浮かべ、さらにレインに近寄った。
ふふふと笑いつつ、
「シングもかなりの腕前なのだが、それをあっさり押さえ込むとは。実に腕の立つ部下を持っているな……。貴公は人を見る目もあるようだ。――なのに」
一層声を低める。
「それほどの男が、あの主君の下で満足しているのが、私にはどうも理解できん」
「それは、ひょっとしてあれか、誘いか? 俺におまえの下につけという」
ごく普通の音量でレインが言うと、横でやりとりに耳をすませていたシェルファが、ぴくっと肩を震わせた。
「……答えが必要かな?」
フォルニーアはシェルファを見向きもせず、平然と返した。レインが黙ったまま顔をしかめると、突然、背伸びして頬に軽く唇をつける。柔らかく、なまめかしい唇の感触がした。
「いつでも待っているぞ。私は貴公に俄然《がぜん》興味が湧《わ》いた」
すぐにぱっと顔を放したが、その囁《ささや》き声はしっかり聞こえた。
こらこらっ、と言いつつ、レインはしかめっ面で頬をゴシゴシ擦《こす》る。フォルニーアは別に気を悪くしたような様子もなく、接近中のラルファス達を見やり、「また会おう、レイン」と述べて身を翻《ひるがえ》す。
……どうも、方向からしてガルフォート城へ向かうつもりらしい。
シングが慌《あわ》てて主君を追い、ジョウも黙《もく》したまま続く。が、一度だけ振り返ってレインを見た。レインがしれっと見返すと、なにも言わずに背を向けて去ってしまった。
「レイン!」
そこへ到着したラルファスが馬から降り、フォルニーアの一行《いっこう》を目で見やる。
「……誰だったんだ、今のは。男の方が気になって急ぎ戻ったのだが」
言いかけ、あちこち裂けたレインの服を見て表情を引き締めた。
「……なにがあった?」
「いや、事情はちょっとややこしいんだが。とにかく、ちょろっと斬《き》り合いになってな」
レインはけろりとそう述べる。
「だが、勝負はもうついた。……向こうはどう思ったか知らんが」
そうですね、姫様?
などと気安くシェルファに同意を求めようとして……レインは首を傾《かし》げた。
シェルファがしょんぼりと俯《うつむ》いていたからだ。なぜか、どっと落ち込んでいる。
バラバラと遅れてやって来た、ガサラムだのレニだのセルフィーだのが、何事か! という表情で二人を見比べる。特に、セルフィーの目つきが妙に鋭い(ように思う)。
加えてラルファスなどは、なにか訊き返そうとした言葉を引っ込め、そこはかとない非難の目をレインに向けてきた。
とりあえず釈明《しゃくめい》の必要を感じ、
「……いや、俺はなにもしてないぞ。どうしました、姫様」
「――いいえ。なんでもないのです」
思いっきりなにかありそうな、湿りきった震え声でシェルファが言った。
指でそっと目元を拭《ぬぐ》っていたりして、周囲の非難の視線を、一般市民も含めて十割増しにした。もちろんこの場合、その視線の対象はレインに他ならない。
「……だから、俺は心当たりないって」
レインは手を振って否定し、それからシェルファを「ちょっとこちらへ」と呼んで、皆から離れた場所へ引っ張っていく。
腰をかがめ、潤《うる》んだ真っ青な瞳を覗《のぞ》き込んだ。
「なんだ? どうかしたのか、しゅんとなって」
「……さっき、あの方がレインの頬にキ、キスしているのを見て、なんだかとても心が痛んだんです……。馬鹿な思いだとわかっていますけど」
そこでレインにそっと瞳を合わせ、
「それと、もうレインに十分な恩賞《おんしょう》を出すことすら出来なくなったことにやっと気付いて、申し訳ない思いがして……今頃気付くなんて、わたくしは本当に馬鹿です。でも、それでもレインには側《そば》にいてほしいんです。……馬鹿な上に自分勝手です、わたくしは」
「ああ、なんだ。さては、あの女狐《めぎつね》になにか言われたな。んなの、気にすることないぞ。安心しろ、おまえは今でも君主にふさわしい大金持ちのままだ……領地はともかくとしてな。まあ、領地もすぐに取り返すさ」
レインは、こちらに視線を注《そそ》ぐ仲間達をちらと見てから、切ない表情のままで首を傾《かし》げるシェルファに微笑んでやった。
つられて、泣きそうな顔がほぐれ、シェルファも微笑む。
「……城についたら詳しく説明する。とにかく、おまえの懐《ふところ》は十分|潤《うるお》っている、てことだけ覚えておくといい。それと頬にキスの件だがな……あれはほら」
――あのくらいはおまえ、挨拶のウチだろう?
と言いかけて、レインは考え直した。
なにしろ、シェルファがせっかくの笑顔を引っ込め、緊張感の滲《にじ》む表情で返事を待ち受けている。迂闊《うかつ》なことを言えたものではなかった。
なにか、この重苦しい緊張顔を、再度笑顔に戻すような話題はないかとささっと考えた挙げ句、なんとなく閃《ひらめ》いたのが「それよりおまえ、子供の作り方って知ってるか」などというどこをどうひねっても全然笑えないセリフで、レインは即座に却下した。
泥酔《でいすい》した若造《わかぞう》が、女をくどくんじゃあるまいし。だいたい、そんなもんわざわざ訊かなくても答えは予想できる。
ということで、次に思いついたセリフを考えなしに口にする。
「……あ〜。あれが気になったならこうしよう。そのうち風呂に入った時にでも、あちこちにまんべんなくキスしてやるよ」
――品がないのは一緒だった。
で、もちろんレインはこれを、場を和《なご》ますジョークのつもりで言ったのである。こうでも言えば、また笑ってくれるだろうと。
ところが、シェルファは全身で喜びを表現して、「本当ですか!」と胸の前で両手を組み合わせた。いきなり喜色満面《きしょくまんめん》になって、憂《うれ》い顔が吹っ飛んだ。
「楽しみに待っています!」
……ちょっとまずかったかもしれない。
集まってなにやら揉《も》めているレイン達をちょっと振り返り、フォルニーアがふっと笑った。
「あのレインと会ったのは幸運だった。……王女はもう、どうでもいいが」
「そうですね。もし味方になるのなら、これほど心強い者はおりますまい」
ジョウは素直に頷《うなず》いた。
相手の力量は正当に評価すべきだ、と思っているのである。
「しかし実力はともかく、態度がでかいですね、あの方は。……部下もそうですし」
「シング、自分がしてやられたからといって、反感を持つものではないぞ」
フォルニーアが苦笑してたしなめた。
「い、いえっ。私は――」
シングがうろたえているのを放ったまま、フォルニーアは歩きながらジョウに向かい、
「ちょっと尋ねたいが。ジョウ、なぜ奥の手を使わなかったのだ」
素朴《そぼく》な疑問を提示する。
「いえ。あれは……レインには通用しないでしょう。試す前から予想できます」
「ほう。では、魔法は? おまえはそちらも万能であろう」
「万能でもないですが。――だいたい、彼も魔法を使えますよ。ドラゴンスレイヤーなのですから」
「そうであったな、うん。最初は信じられなかったが、今は信じるぞ。ふふふ……そうか、ドラゴンスレイヤーか。私は初めて見た」
「初めてで当然かと。滅多《めった》にいるものではないです」
「それはそうだ、あははっ!」
フォルニーアは、機嫌《きげん》よさそうに軽やかに笑った。レインと会えたことで、気分が高揚《こうよう》したらしい。かなりの収穫《しゅうかく》だと思っているのだろう。
それにはジョウも賛成である。
ただし、あの男が簡単にこちらの味方になるとは思えないが。
フォルニーアはやっと満足気な笑いを引っ込め、ふとジョウの顔を見上げた。
「しかし、おまえほどの男が、浅手とはいえ随分《ずいぶん》と傷を負ったな」
「相手が相手ですから。ですが傷に関しては、レインも同様のはず」
「うむ、それはそうだ。それにしてもだ、おまえの首筋についている傷からして、危ない場面もあったようだな。私はほとんど目で追えなかったが」
なにしろ、おまえ達の動きが速すぎてな。
――フォルニーアのセリフの、その後半部分は、立ち止まってしまったジョウには届いていなかった。
体の芯に氷柱が生じたような気分になり、さっと首に手をやる。
目の前に持ってきた掌《てのひら》が、血で濡れている。僅《わず》かではあるが、そこに傷を負っていたのだ。
……他の箇所についたものとは違い、ジョウがまるで気付いていなかった傷を。
無論《むろん》、相手はレイン以外にない。あの激戦の最中《さなか》のことだろう。
彼が意識すると同時に、首筋の傷はすうっと消えていった。
その過程を当たり前のように見やり、同じく立ち止まったフォルニーアが声をひそめる。
「まさか……気付いていなかったのか」
「――はい。なるほど……やたらと勝負にこだわるあの男が、道理《どうり》で黙って行かせてくれたわけです」
ジョウは、レインのセリフを思い出した。
『おまえの目は曇っているぞ』
『あと一分もあれば〜』
私はあれを、レインが大げさに言っただけのことだと思っていたが……。それこそ、甘い見方ではなかったか? 実際には、こうして知らぬ間に急所に印を付けられている。
――どうやら、私はまだあの男を甘く見ていたらしい。
ジョウは再び歩き出しながら、そっと心に誓った。
もし再戦の機会があれば……その時は死力を尽くす。今度はこうはいかないぞ、レイン。
――☆――☆――☆――
すぐにガルフォート城へ行くつもりが、少々遅くなった。というのも、ジョウの服がビリビリに破けたままでは、サフィールと会見するのにまずかろうとフォルニーアが言ったからだ。
ジョウとしても全く異論はなかったので、きちんと服装を整え、ついでに食事など摂《と》ってから城に着いた。
予告など一切しない不意打ちの訪問を、皇帝|自《みずか》らが行うというのは超異例のことではある。
しかし、ジョウはそういう彼女の覇気《はき》を、いつも好ましく思っている。だからこそ、あえて止めなかったのだ。それに、自分がついてさえいれば、不覚は取らない自信もある。
レインだけは警戒していたが、その彼はもうガルフォートから去った。恐れるものはなにもない。
なので、堂々と名乗りを上げて門番に取り次ぎを依頼したのだが……。サフィール某《なにがし》はなかなか登場せず、広い一室に通されたまま、随分《ずいぶん》と長く待たされるはめになってしまった。
「遅いですね」
高々と組んだフォルニーアの足をあまり見ないようにしつつ、シングがじれて言った。
出された紅茶は一口も飲まないまま、もうとっくに冷たくなっている。
「ふん。……もしかして、我々の素性《すじょう》を信じてもらえなかったかな」
フォルニーアが不機嫌《ふきげん》そうにジョウを見る。
意見を訊かれたような気がしたので、答えた。
「それにしても、待たせるだけというのは感心しません。君主たる者の態度ではないでしょう。もし相手が本物だった時のことも、考慮《こうりょ》に入れるべきです」
ジョウは断言した。
この分では、サフィールとやらはあまり頼むに足りないかもしれない、と思う。なにしろ、待たされてもう一時間近くになるのだ。
三人の文句が聞こえたわけではないだろうが、その時、複数の足音がジョウの耳に届いた。
「……どうやら、まともな会見は望めないようです」
「というと?」
ジョウの言葉に、フォルニーアが隣に置いた剣に早速手を伸ばした。いい勘をしている、とジョウは思う。
「完全武装の騎士と兵士が大勢近づいてきます。どうも、我々を捕まえる気のようですね」
聞くなり、責任感の強いシングがぱっと立ち上がった。剣に手をかけ、扉を睨《にら》み付ける。
しばらくして――
バンッ
恐ろしく遠慮のない勢いで、ドアが開かれた。傲慢《ごうまん》な性格が顔に出たような、貴族らしき男を先頭に、どやどやと武装した騎士や兵士達が入ってくる。彼らは立ち上がったフォルニーア達三人を半円に取り囲み、じゃりんと剣を抜き放った。
ジョウはすぐにフォルニーアをかばうようにその前へ出ようとしたが、彼女の態度はほれぼれするほど堂々としていた。
片手でジョウを制して歩を進めると、衛兵《えいへい》達の代表らしき貴族やその部下達を、真っ正面から睨《にら》み付ける。
その威風《いふう》は辺りを払ってあまりあり、彼女が顎《あご》を上げてゆっくりと彼らを見渡すと、皆、そっと視線を外したり後退《あとずさ》りしたりした。
「ほう。一国の君主を迎えるのに、礼ではなく剣を用いるか。それがサンクワールのやり方なのか」
「な、なかなか気の強いことですな。しかし、これは貴女《きじょ》の不用心さが招いたこと。我が主《あるじ》たるサフィール様……いえ、陛下の仰《おお》せです。申し訳ないが――」
「もういい、黙れ」
わざとらしく胸を反らして説明を始めた男を、フォルニーアは身も蓋《ふた》もなく遮《さえぎ》った。鞭《むち》で切り裂くような鋭い声音《こわね》に、偉そうにしゃべっていた貴族がぴたりと口を閉ざす。
「だいたいの事情はわかった。つまりサフィール某《なにがし》は、同盟を結ぶより、我らを捕らえて人質にする方が益があると見たわけだな。いかにも先の見えない愚《おろ》か者が下《くだ》しそうな決断だ。どうやらこの城に来たのは誤りであったらしい」
フォルニーアにずばっと指摘され、貴族らしき中年の男は唇を歪《ゆが》めた。
開き直ったのか、いきなり言葉遣いを崩し、
「では、大人しく来てもらえるのだな」
「誰が行くものか、馬鹿者」
即座に言い捨て、フォルニーアはジョウの顔を見た。
「愚《おろ》か者に用はない。レインと違い、サフィール某《なにがし》とやらは大外れだった。……おまえはどう思う」
「同感です、フォル様」
ジョウは、全面的に賛成した。
「これ以上の試みは無駄でしょう。もはやサフィールとやらの器量は知れました。……それに」
と隊長以下の敵をざっと見て、
「大した人材もいないようです。臣下に恵まれず、本人の器量も不足……付き合うだけ時間の無駄です」
「な、なにいっ!」
言いたい放題言われて激怒《げきど》したのか、あるいは部下の手前引っ込みが付かなくなったのか、隊長格の貴族は自分も剣を抜いた。
「おまえ達の思惑《おもわく》など知ったことか。是が非でも来てもらう!」
指揮官たる貴族の合図で、ざざっと包囲の輪を狭める兵士達。フォルニーアは慌《あわ》てる風もなくジョウに目をやり、「ジョウ、頼んだぞ」と言った。
「お任せください」
今度は、フォルニーアに代わってジョウが前へ出る。伏し目がちだった瞳をかっと見開き、敵の兵士達を見据《みす》える。
深緑《しんりょく》の瞳が、急に色変わりを始めた……
数十秒後、部屋を後にしたジョウ達は、宮殿内の廊下を走っていた。
「あんな者達など、全員倒してしまえばよかったのだ」
フォルニーアは走りながら、ジョウに不満を表明した。
「簡単にそうできただろう、おまえなら」
「確かに。しかし、あのような者達を殺してなんになりましょう」
ジョウがそう言うと、「お優しいですからね、大将軍は」とシングが熱心に言った。
思わず微笑んだ。
かばってくれているらしい。
フォルニーアは否定も肯定もせず、ただ顔をしかめて走る速度を一層上げた。先頭を切って軽々と廊下を駆け抜けて行く。
しかし、まだ出口にも行かないうちに、背後から誰何《すいか》の声と怒濤《どとう》の靴音がした。追っ手がかかったようだ。
ジョウは冷静に後を振り返り、両者の距離を目測すると、いきなり壁に掌《てのひら》を向けた。
「光よ!」
膨大《ぼうだい》な光量の、太い魔力エネルギーがそこからほとばしり、壁の一部を轟音《ごうおん》とともに崩した。人が通り抜けられるほどのいびつな穴が出来ている。
もうもうと埃《ほこり》が立つ中、立ち止まってしまったフォルニーアとシングに声をかける。
「さ、道を作りました。ここから行きましょう。――長居は無用です」
フォルニーアがびっくりしていたのは一瞬である。すぐに「同感だ!」と返し、真っ先に自《みずか》らが穴から外へ飛び出す。シングとジョウも彼女の背中を追った。
追っ手は腰を抜かしたのか、すぐには追いかけてこなかった。
しかし、さすがに今の轟音《ごうおん》は宮殿中に響いていたようだった。
どこからこんなに現れたのか、と思うほどの大量の兵士がわらわらと出現して、フォルニーア達を追いかけ始めた。
なんとか彼らを避《さ》けつつ、三人は走り続けたが、後から後から兵士が増えてきてついに身動きが取れなくなってしまった。
足止めされた場所は城の広大な中庭であり、ジョウ達は知る由《よし》もないが、つい数時間前にレインが魔法攻撃をやらかしたのと同じ場所である。
たった今走り出た宮殿を背にして、追いすがってきた兵士達と対峙《たいじ》する。
「ちっ。めんどうだな、二百人はいるか」
フォルニーアは本当にめんどくさげに兵士達を眺め、吐き捨てた。
ジョウとシングは彼女を真ん中に置いて、迫って来る兵士達をけん制した。敵は皆剣を抜いており、一定の距離を置いて三人を完全に包囲している。
兵士がいないのは背後だけである。もっとも、そこは宮殿の壁だが。
「ここまでだっ」
兵士達の中から、さっきとは違う別の貴族が進み出た。
「なにも殺そうというのではない。大人しく縛《ばく》について、陛下のお情けにすがるがよいですぞ」
「無礼《ぶれい》者! この私に対してなんという物言いかっ。私はいやしくも皇帝だぞ、控えろ!」
フォルニーアがすかさず言い返す。
侮蔑《ぶべつ》を受けるのに慣れていないのか、相手はたちまち顔を赤くした。
「……陛下は今、ご気分が優れないためにお休みいただいている。しかし、命令だけは受けてきた。陛下におかれては、貴公らに会う必要はないし、捕らえておけばそれでいいとおっしゃっているのだ。つまり、私はさっきのセリフを『お願い』のつもりで言ったのではない!」
「私も同じだ、大馬鹿者っ。だいたい、三人だけで訪問したのは、こうなってもちゃんと切り抜けられる自信があったからだ。そこを考えもしなかったのか」
なに? と相手がやや警戒心を露《あら》わにした。
フォルニーアは横目でジョウを見やり、「連続ですまないが、また出番のようだ」と頼む。
「わかりました。二百人くらいなら斬《き》り抜けることも不可能ではないですが……こちらの方が早いですね」
そう言って、ずいっと前へ出る。
不動の自信が込められたそのセリフに、兵士達がざわざわとざわめいた。
細い眉をした貴族の男のみが、未だ強気である。
「ふっ。はったりはよすがいい。レインのような化け物が、そう何人もいてたまるものか。先ほどの魔法攻撃で、魔力も尽きたはずだ」
とせせら笑った。
ジョウは一々反論せず、ただ黙ってさっと両腕を広げた。しなやかな筋肉のついた体が、ぼうっと光り出す。先程のように瞳の色が変わらぬうちに、両目を閉じた。
フォルニーアが横から注文を付ける。
「ジョウ、ドラゴンを出してくれ! 私はまだ見たことがないのだっ」
それは見たことがないはずである。
リトルドラゴンと呼ばれる小さい種類はともかく、まともな古龍などまず人間の住む近くには現れない。彼らは人を忌避《きひ》しているのだ。ごくまれに、人間を餌《えさ》として襲うドラゴンもいるが、それは例外中の例外に過ぎない。
ジョウは苦笑しつつも、「わかりました」と応え、意識を集中する。……何度か見た、最強の魔獣《まじゅう》の姿を脳裏《のうり》に浮かべるために。
ひっ、ひいーーー!
情けない悲鳴が湧《わ》き起こったのを皮切りに、ジョウは両目を開いた。
目の前には、全長十五メートルくらいは確実にありそうな生き物が鎮座《ちんざ》している。
固そうな鱗《うろこ》が全身を覆い、尾はあくまでも太くて長い。それだけで数メートルはあるだろう。背中に、黒いトゲに似たモノが乱立している。ゴロゴロゴロ……という遠雷《えんらい》のような唸《うな》り声が、ぶっとい喉《のど》の奥から聞こえていた。
ジョウは、試しにドラゴンを振り向かせてみた。巨大な頭部にある両眼が、燃えたぎるような真紅《しんく》の色をしている。
その、ぎらっと睨《にら》む巨眼を、至近《しきん》から点検してみた。
「うむ。私も遠くから見たことがあるだけだが……こんなものだったな」
出来映えはまあまあだった。
子供のように身を乗り出してドラゴンに見とれるフォルニーアに笑いかけ、壁にぴったり張り付いたシングに大丈夫だと頷《うなず》き、ジョウは自分が生み出したドラゴンの横に立つ。
ざざ〜っと、血の気の失《う》せた顔で逃げ散っていく兵士達を観察する。一番先に逃げるかと思いきや、例の貴族はなかなか根性があった。あるいはプライドだけは高いのかもしれない。震えながらもやや後退《こうたい》しただけで踏みとどまり、崩れかけた部下達を叱咤《しった》する。
「うろたえるなーー! こいつは突然出現したのだぞっ。さっきまではなにもいなかったはずだ! これは幻覚だっ、こけ脅《おど》しに過ぎないのだっ」
指揮官の張り上げる声が効いたのか、なんとか潰走《かいそう》は止まった。もしかすると、あっさり逃げてしまった後の、後難《こうなん》を恐れたのかもしれない。サンクワールの貴族は、部下に無慈悲《むじひ》だと聞く。
「み、見ろっ。私は騙《だま》されぬぞっ。おまえのこけ脅《おど》しは不発だったな。は、はははっ!」
「こけ脅《おど》しか……そうとも言えるかもしれない」
ジョウは逆らわなかった。
その指摘は誤りではないからだ。
ただ――彼は肝心《かんじん》な点を理解していない。
「この龍はまさしく、私の生み出した幻覚だ。しかし、もしほんの僅《わず》かでも『幻覚だ』と信じ切れなければ……君たちは死ぬことになるぞ」
そう忠告した後、虚像《きょぞう》に向かってあたかも自己の支配下にあるモノのように、
「さあ行け!」
と命じた。
『グギャアアアアーッ』
こちらの魂が吹き飛びそうな激しい雄叫《おたけ》びを上げ、龍がゆっくりと移動を始めた。
黒光りする鱗《うろこ》まみれの足が動き、大地を踏みしめると、ズシィィン、ズシィィン、と聞く者の肺腑《はいふ》を抉《えぐ》るような重厚な足音が響く。
もちろん、これもジョウの術である。音も振動も幻覚に過ぎない。
兵士達は、ドラゴンが歩いた後の底の深い足跡まで見えているが、これはジョウの幻覚に捕らわれたせいで、そのように見えるだけだ。実際には足跡など残っていないのである。
だが、彼らはそうは思わない。幻龍《げんりゅう》の一鳴きで、いきなり追っ手の兵士達の三分の一以上がへたり込んだ。死人のような顔色で、こちらに来るドラゴンを見上げている。逃げようにも体が言うことを聞かないのか、膝立ちのままで、あるいは尻餅《しりもち》をついたまま後退《あとずさ》っていた。
ズシィィン、ズシィィン――
『グギャアアアアアーーーーーーーーーーー!!』
龍の二度目の咆吼《ほうこう》が大気を震わせ、兵士達の体にその凶暴な振動が伝わった(と彼らは信じた)。
「ほ、本物だあああーー」
誰かが、血を吐くような声で絶叫した。
これで決定的になった。まだ踏みとどまっていた者の大半が、わけのわからない悲鳴を上げて我先にと逃走を始めた。走れる元気のある者は走って。走れない者も、這《は》いずるようにして一歩でもドラゴンから離れようとしている。
最強の魔獣《まじゅう》とやりあって勝てると思う者はまれである。地方によっては、ドラゴンは神と崇《あが》められている場合すらあるのだ。兵士達は賢明にも、最初から戦いを放棄《ほうき》していた。
しかし、件《くだん》の貴族のみは頑固だった。自分はじりじりと逃げているくせに、怒鳴《どな》り声のみは威勢よく、「逃げるなあああっ、貴様達、後で厳罰だぞおっ」などと喚《わめ》いている。
そのくせ、自《みずか》らは決して向かってこようとしなかった。
「ジョウ、あの愚《おろ》か者を黙らせてやれ! 口だけの指揮官など、見ていて吐き気を催すっ」
フォルニーアがそう言えば、シングも眉をひそめて、
「そうですね。あんなのに率いられた兵はたまったもんではないです」
と同調した。
「やむを得ません。殺さずにすめばその方がよかったのですが」
ため息をつき、幻龍《げんりゅう》に意識を向ける。
くわっと龍の口が開いた。
ゴオオオオオッという音がして、龍が空気を吸い込む音。その幻音に、見苦しく地団駄《じだんだ》を踏んでいた貴族が振り向いた。距離は五十メートルほどか。都合のいいことに、周りに人はいない。もうみんな逃げてしまったのだ。やっとそれを理解したのか、貴族は細い目を見開き、うろたえた顔で辺りを見渡した。今頃になって、自分も逃げようと背中を向ける。
しかし、もう遅かった。
ドラゴンは「タメ」を終えていたのだ。
グギャアアアアアーーッ!
耳が潰《つぶ》れそうな咆吼《ほうこう》を轟《とどろ》かせ、幻龍《げんりゅう》は真紅《しんく》の巨大なブレスを放出した。思わず振り向いた貴族が、惚《ほう》けたような表情を貼り付けて足を止める。オレンジ色ののたうつ炎が、そんな彼を巻き込んでずずっと先まで伸びていく。方向を計算したので、一応他には誰も巻き込んでいない。立木の何本かにブレスが当たったが、それらは全く無事である。
目が潰《つぶ》れそうなブレス攻撃がようやく止まったとき、後には俯《うつぶ》せに倒れた貴族が残っていた。どうやら、自分で思うほどには「幻覚」だと信じ切れなかったらしい。普通はみんなそうなのだが。
「では、引き上げましょうか」
ジョウはまだ龍を消さないまま、フォルニーアを見た。
「うん。しかし、おまえ一人でこの城を落とせるのではないか」
からかうように、フォルニーア。
「残念ながら、これは魔力の消費が激しいのですよ。こんな大きな幻像を生み出すと特に。とても、攻城戦に使うほど何度も攻撃できません。所詮《しょせん》幻覚ですから、城自体に被害は及ぼせませんし……。それに、仮に落とせても、三人では城を維持できないです」
ごく真っ当な見通しを述べるジョウに、フォルニーアは妖《あや》しい笑みを浮かべた。彼女のこのような笑い方は、前にも見たことがある。
……ジョウの記憶では、いずれの場合もロクなことを言い出さなかった気がする。
そんなわけで少々身構えると、
「うん、三人ではな」
フォルニーアは明るく言って、
「決めたぞ、ジョウ。一旦出直し、今度は軍を引き連れて戻ってこよう」
「……まさか」
「そのまさかだ」
フォルニーアは豊かな胸を張り、ぐるっとガルフォートを見渡した。
細腰に片手を当て、高らかに宣言する。
「この国、我がシャンドリスが頂く!」
ジョウはまじまじとフォルニーアを見返した。確認するように尋ねてみる。
「本気ですか」
「失礼だな。私はいつも本気だぞ」
「――確かに、サフィールはさしたる敵ではないかもしれません。しかし、この国にはあの男もいるのですよ。……お忘れなく、彼はこの――」
と自分が生み出した巨大な魔獣《まじゅう》を指差す。
「最強の魔獣《まじゅう》を倒しているんです。有《あ》り得《え》ないことを成し遂《と》げています。いささか甘く見ていませんか、あのレインを」
「わかっているとも! だから、レインの居城《きょじょう》やもう一人の――え〜、そうだ、ラルファスだったな。その二人の治める領地には手を出さない。私の敵はあくまでもサフィールだ。それなら文句あるまい」
「もしかして――」
シングがややあきれたように口を挟《はさ》む。
「陛下はなし崩しに、あのレイン殿達を国ごと我が物にしようと考えておられるのでは」
「ふふふ。なかなか鋭いな、シング。うん、そうなるといいな、とは思っているぞ。交渉してみる余地はあろう。私はケチな君主ではないぞ。レインほどの男になら、喜んで莫大《ばくだい》な恩賞《おんしょう》を与えようではないか。もちろん、ラルファスとやらにもそれなりにな。なんなら、あの王女にも捨て扶持《ぶち》をやってもよい」
フォルニーアはからっとした声で言う。
……どうやら本気らしかった。
[#改ページ]
[#挿絵(img/03_053.jpg)入る]
第二章 侵入
レインの居城《きょじょう》、コートクレアス城に到着して早《はや》数日。
その間は特に何事もなく、慌《あわ》ただしく兵士達の宿舎《しゅくしゃ》の手配などで過ぎた。
しかし、全くなにもなかったわけではない。
例えばこんなことがあった。
レインが、シェルファやラルファス、ついでにセルフィーを初めとする手空《てす》きの暇そうな面々を集め、「目の保養になる、いい物を見せてやろう」と持ちかけたのだ。
首を傾《かし》げる一同を率いて、レインは城の地下倉庫まで案内し、鍵を開けてばばっとばかりにそこを大開きに開けた。
中を覗《のぞ》き、一同は驚愕《きょうがく》した。
天井まであるんじゃないかと思うほどの量で、世間《せけん》一般で俗《ぞく》に言う、『金銀財宝』が積み上げられている。立ち尽くす皆を尻目にレインが付近のランプに火を入れると、宝石やら金貨やらがまばゆいばかりの照り返しを見せて煌《きら》めいた。目に毒とはこのことである。
「どうだ?」
ふっと髪をかきあげ、レインはニヤッと笑って皆を見た。
得意げな声で、さあ感心してくれっ、と胸を張る。
「俺って金持ちだろう? 日頃の節制のお陰だな」
横から、ラルファスがいきなりばらした。
「――これは、ガルフォートの宝物庫にあった物じゃないか」
「おまえなぁ……。ちょっとは余韻《よいん》を考えろよ、余韻《よいん》をっ。黙ってれば、馬鹿みたいに口を開けたこいつらの間抜け面を、もう少しは拝《おが》めたのに」
「だ、誰が間抜け面ですかっ」
貴族であるセノアが真っ先に我に返り、震える指で財宝の山を指差した。
「ど、どういうことです! なぜ王家の財産がこんな場所にっ」
「こんな場所で悪かったな、こらっ」
レインはセノアをひと睨《にら》みしてから、ざっと事情を説明してやった。しかし、すぐに「はあぁ」と感心したのはレニとシェルファだけで、セノアは眉をひそめ、ラルファスは苦笑い、ユーリとセルフィーは、ひたすら財宝に目を奪われて反応に乏しかった。
「張り合いないなあ、もっと感心しろよ。おまえら、イマイチ金の有《あ》り難みが理解できてないな。これだけあれば、俺達はあと百年は戦える――こらっ、ユーリ! なにやってんだ、おまえはっ。さりげなくちょろまかすなっ」
そろ〜っと、スカートのポケットにいくつかの宝石をねじ込みかけていたユーリは、あははとお愛想《あいそ》笑いをして元の山に返した。
素早く話を変えるように、
「でもぉ、魔法で物を瞬間移動させるなんて、出来たんですかぁ」
「普通は出来ない……はずだ。しかし、決められた魔法陣から魔法陣までなら可能だ。ほら、この倉庫の四隅《よすみ》に魔法陣があるだろ。ガルフォートの宝物庫にも同じ物を書き込んだのさ。ギュンターのお手柄だな。もっとも、一番偉大なのはそれを命じた俺だが」
コトの顛末《てんまつ》を聞き、さすがはレインです! などと素直に尊敬の目で見たのはシェルファのみである。後は、大なり小なりあきれ顔になっただけだった。いや、セノアなどはかえって咎《とが》めるように顔をしかめた。
「しかし、これらは国家の所有物ではありませんか。主城《しゅじょう》から勝手に持ち出していいものではないと思いますが」
「あのなぁ。俺が持ち出さなきゃ、馬鹿サフィールが使うだけじゃないか。俺はおまえ、主家《しゅけ》のためを思ってやったんだぞ。文句つけてんじゃないっ」
レインが「主家《しゅけ》のため」というセリフを堂々と述べること自体が失笑物であり、額面通りに受け取るのはこの場では約一名しかいない。しかし、その主張は極めて真っ当なので、とにかく表だっては誰も反論しなかった。
ユーリが、「なに言ってんだか、このスカタンは」という意味の流し目をくれたくらいである。
「ありがとうございます」
今度はいっとう先にシェルファが頭を下げた。
「レインにはいつも助けられます」
微笑んでレインを見上げる。
そこへセノアがまだしつこく、
「しかし……なんだか気が咎《とが》めます。強奪《ごうだつ》というか、そういう汚いイメージが」
レインはきっぱりと言い切った。
「喧嘩《けんか》に、汚いも蜂の頭もあるかっ。まずは勝つことなんだよっ」
心底あきれ果てたのか、セノアはそのまま黙り込んでしまった。
「さて、話がまとまったところで。……姫様にちょっと相談があるんですが」
「はい?」
「せっかくの財宝です。ここまでついてきてくれた者達へ、恩賞《おんしょう》として少し分けてやりたいんですよ。まあ――」
と、冗談ごとでなく山になっている宝物を指し、
「多少、恩賞《おんしょう》の先払いをしても、この山は低くなったりしませんしね」
「もちろん構いませんわ。多少といわず、もっと分けてあげてください」
シェルファの気前のよいセリフに、おお〜っ! とユーリが小さくガッツポーズを取った。セルフィーも頬に手を当てて、「わ、わたしったら金貨すら握ったないのに、そんな――」などと貧乏臭いことを言っている。
レインは二人の反応を見て肩をすくめた。
「いえ、あまり出し過ぎるのもこれまたまずいんで、ぼちぼちにしときましょう。ラルファス、おまえも了解してくれるな」
「元よりこの財宝は私の物ではない。王女様が了解されたことなら、文句などないさ。みんな喜ぶだろうしな」
そういうわけで――
なら早速とばかりに、その日のうちに、それぞれ一人も余さず突然の恩賞《おんしょう》を受けることとなった。もちろんおのずから基準があり、隊長格以上の者は相当の額を、正騎士などの面々はそれより少々少な目に、である。最下級の新参《しんざん》兵士ですら、ちゃんと恩賞《おんしょう》を受け取る対象となった。ちなみに、その新参《しんざん》兵士達がもらった最低ランクでさえ、庶民が優に数ヶ月は遊んで暮らせるほどの金額だった。
それだけ払っても、サンクワール王家が溜《た》め込んでいた宝物の全体からいえば、まだまだ蚊に刺された程度に過ぎなかったのだ。
恩賞《おんしょう》を出すにあたってレインは、「これは姫様が、おまえ達の苦労に感謝して支給したものである!」と大々的にぶちあげ、公然と人前に登場して以来、現在も急上昇中の「シェルファ人気」を、ほとんど爆発的に高めた。
他の上将軍《じょうしょうぐん》と違って、以前から平民出身の兵士にもちゃんと恩賞《おんしょう》を支給していたレインとラルファスだが、今回は額が額である。
城内中が、「王女様のために、あのクソ貴族の野郎をぶち倒そうぜ」と、さらなる盛り上がりを見せたのだった。皆、シェルファが実の父である前王に冷たくされていたことは風聞《ふうぶん》によって知っていたし、「お気の毒なことだ」と常々思っていたのである。
そこへもってきてこの嬉しい恩賞《おんしょう》で、全員がめきめきやる気を出したのは言うまでもない。
城内の士気はさらに、馬鹿馬鹿しいほどに高まった。
――☆――☆――☆――
そんなことがあった翌日の深夜。
コートクレアス城は深い眠りの底にあった。この城があるアステル地方は、それでなくともサンクワール南方のごく寂れた地方であり、夜ともなれば、混じり気のない真の闇が訪れる。
城にもっとも近い町クレアルタはここから数キロは先だし、その町にしたところが、零時過ぎともなればもう市民のほとんどが眠りについている。王都リディアならまだ営業中の店もあったろうが、あいにくこの付近では皆無《かいむ》である。それに、あえてレインは、そういう寂しい場所を選んでこの城を建てたのだ。
そんな、明かりといえば月明かりくらいしかない城壁上に、一人の中年の男が出現した。
いや、城壁をよじ登ってきたというのは、肩に引っかけたロープや熊手状の道具からも明らかだが、そのひっそりとした立ち居振る舞いを見る者がいれば、いきなり出現したと誤解しても無理なかっただろう。
しかも、服の色は城壁を構成する石のブロックとよく似ており、見張りの者に見つけられて誰何《すいか》されることもなかった。
頭にフードを被って顔を隠したその男は、城壁上の通路からぐるりと城郭《じょうかく》を見渡し、やがて得心《とくしん》がいったのか一つ頷《うなず》いた。それから足音を全く立てぬまま、たったったと通路を走り始める。その際|頻繁《ひんぱん》に、なにか白い物を下の地面に落としていく。
卵状のその何かは、下に落ちるとパカリと割れ、無色無臭の煙を立ち上らせ始める。
やがて、折りからの風に煽《あお》られ、その煙は中庭のかなりの部分に広がっていった。
男は、城壁の通路上に見張りのための櫓《やぐら》が見えると、それ以上は進もうとせず、そのままロープを使って見る見る間に中庭に下りていった……
剣のみを腰に差した騎士見習いが二人、緑色の制服着用で中庭を巡回していた。
いかに皆が寝静まろうと、ここがある種の戦略拠点である限りは、全員が休むことは有《あ》り得《え》ないのである。警戒や見張りのため、必ず多数の兵士が起きている。
騎士見習いの彼らもまた、深夜の見回り当番をこなす、その「誰か」の一部だった。
「おい、知っているか?」
比較的年かさの方が、相棒《あいぼう》の若い方に声をかけた。
「なにが」
「おまえの知り合いのほら、ミラン? あいつ、五人隊長に昇進したらしいぞ」
「え゛[#濁点付き平仮名え、62-12]!」
若者は足を止め、喉《のど》の奥から妙な声を絞り出した。
相棒《あいぼう》が止まらずに先へ行くので、慌《あわ》ててその背中を追う。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんでいきなり正騎士飛ばして隊長になるんだ」
「俺だって知らないさ。しかし、噂によると、レイン様がミランの陰ながらの活躍を認められ、異例の抜擢《ばってき》となったらしい」
「はあ……なるほど、レイン様が」
二人はレインを主君とする騎士見習いなので、常日頃より彼の気まぐれには慣れている。
よって、特に不審も覚えず、若者は納得してしまった。ミランが真面目《まじめ》で誠実な男なのはよく知っているので、むしろ、喜ばしいことかもしれないと思う。
だってほら――
「なら、俺達みたいな下っ端だって、コツコツ真面目《まじめ》にやってたらそのうち隊長になれるかも……だよなっ」
「うむ、うむっ」
大きく頷《うなず》く年かさの男。
油断《ゆだん》なく辺りを見渡しつつ、
「レイン様は少なくともケチな方ではないからな。十分|有《あ》り得《え》るぞ。しかしだ、その反対も有《あ》り得《え》る。これは、そのミランから聞いたのだが――」
「ああ、知ってる知ってる! それ知ってるよ、俺!」
若者はいきなり興奮気味に遮《さえぎ》った。
もう周りなど眼中にない。
「城主に干されたMの話だろっ? あいつ、震えながら話してくれたぜ」
「なんだ、知ってたのか……しかし、他にもそんな例はあるらしいぞ。俺の知り合いでグレコという見習いがいるんだが……そいつは、ある時見回りをさぼっているのをレイン様に見つかり、『城主から吊《つる》し上げくらったGの話』とやらをみっちり聞かされたらしい。なんでもそのGとやらは、口にするのも恐ろしい、どえらい仕打ちを受けたらしい……あの方から」
二人はうすら寒い表情で顔を見合わせた。
期せずして思う……あの方なら、どんな無茶な罰だろうと、十分|有《あ》り得《え》る!
どちらからともなく、『さぼるとロクなことはないよな』と互いに戒《いまし》めるように何度も頷《うなず》き合う。
ところが――
言った端から、がくっと若い方が膝を折った。そのまま体が横倒しになり、完全に眠り込んでしまう。
「ば、馬鹿っ。さぼっただけでも恐ろしい後難《こうなん》があるんだぞっ。それをおまえ――」
居眠りなんかしたらどんな目に――などと喚《わめ》きかけ、年かさの方は自分も頭がくらっとなって来たのに気付き、ようやくただごとではないと自覚した。
慌《あわ》てて合図の笛を取り出し――たところまでが精一杯だった。彼も同僚に折り重なるように倒れてしまう。
その直後、馬鹿にしたように低く鼻を鳴らし、倒れた彼らの脇を、侵入者が通り過ぎようとした。
――だが。その足が止まった。
それこそ、彼よりさらに目立たない地味な服装で、一人の痩身《そうしん》の男が突如《とつじょ》前方に現れたからだ。
「……なぜ薬が」
言いかけたセリフを最後まで聞かず、ギュンター・ヴァロアが剣を抜いて襲いかかった。
――呼吸を止めたままで。
ギンッ!
闇の中にぱっと火花が散る。ギュンターの魔剣は男の剣を弾き、さらに二合、三合と追い打ちをかける。
力量の差が明らかであり、男の顔には驚きと焦《あせ》りの色が浮かんでいく……
――☆――☆――☆――
深窓《しんそう》の姫君、シェルファ・アイラス・サンクワールが眠りにつく時間というのは、一般的に見てもかなり早い。
ちなみに、王都の住民ならやや時間帯がずれるが、この近辺の、夜の娯楽がほとんどない住民達の就寝時間は、早くて九時前、遅くとも十時頃である。
それくらいになると、もう食事もしたし家族|団欒《だんらん》も飽きたし外は真っ暗だし、ぼちぼち寝るか――となるわけだ。
シェルファはその庶民の標準からみてもまだだいぶ早く、だいたい八時過ぎにはもうベッドに入って眠っている。
最近はレインに合わせて夜も遅くまで起きている努力をしていたのだが、それはレイン本人に止められ、渋々ながら自分のペースを守っている状態だ。
まあ、どのみちいくら夜更かししようとしても、九時前になると自然に眠くなるのは避けられない彼女なのだが。
というわけで、いつものシェルファなら、零時過ぎにはもう深い眠りの底にいる。しかし、今日はたまたま途中で目が覚めて、ベッドの上から窓の外の月を眺めていた。
ここ数日、こんな風に途中で目覚めることが多い。理由は簡単で、ここがレインの部屋だからだ。
『一応、最上階の侵入しにくい場所だし、ここをおまえの部屋にしとこうな』
レインにそう言われ、遠慮したのだが結局は譲られてしまった。別に取り立てて豪華な部屋でもなし、遠慮はいらんぞ……レインは部屋を明け渡すにあたってそう言ったものである。
それで心ならずも受けたのだが、本人がしっかり保証した通り、部屋にはめぼしい家具といえば、ベッドと丸テーブルとワードローブがあるのみだった。
どうもレインは、自室を休息のみの用途《ようと》で使っていたらしい。城主とは思えないほど質素な部屋だった。
しかし、シェルファは大満足だった。毎晩とても幸せだった。
なぜか? レインのすぐそばを除けば、ここが城中でもっともレインを感じさせる場所だからだ。ベッドに横になっていると、レインの香りというか匂いに包まれていて、なんだかとっても幸せである。
輝く月を見ながら、シェルファは嬉しさのあまりゴロゴロと何度も寝返りを打ったりした。それで、そんな自分がおかしくてクスクス笑ったりする。
常にそうだ。レインのことを思う限り、寂しさも哀しさもどこかへ消えてしまう。だから自然と、その幸せを引き延ばすわけで――
そのうち、すっかり目が覚めてしまった。
ふと、少し城内をお散歩してみようかと思った。少し歩けば、また眠くなるかもしれない。
そんなことを思いついた自分が凄く意外で、シェルファは薄暗い部屋で大きな瞳を瞬《またた》いた。
昔も今も、シェルファは暗い所が苦手なのである。言うまでもなく、「怖い話」の類《たぐい》も全く受け付けない。真っ暗闇の中では怖くて眠れないから、今も部屋の隅《すみ》にいくつかの燭台《しょくだい》があって、蝋燭《ろうそく》の光がユラユラ揺れている。ちなみに、お化けの類《たぐい》もしっかり信じている。
本当は一人で眠るのも嫌なのだ。
本当は誰かと一緒に休みたいし、そばにいてほしい。
しかし、その誰かは誰でもいいわけではなくて、実際には一人しかいない。レイン以外の人と一緒にいるのは逆にひどく気詰まりで、かえって一人でいる方が気楽だった。
そこまで考え、シェルファはため息をついた。わがままを言って、レインを困らせてはいけないと思う。
シェルファは思い切って起きあがり、夜着の上からガウンを羽織った。ぬくもりが逃げないように前をしっかり閉じて靴を履く。
準備完了。怖いという気持ちもまだ少し残っていたが、なんと言ってもここはレインの城である。加えて、レイン自身が城内(のどこか)にいる。
だから平気。だって、なにかあったらきっと、レインが来てくれるから。レインはお化けより強いからだいじょうぶ。
シェルファはトコトコと歩き、ドアの鍵を外して廊下へ出た。
途端《とたん》に、どきっとした。
なぜなら正面の壁の所に黒い影が座っていて、くっと顔を上げたからだ。
悲鳴を上げかけたが、それはすぐに歓喜の声に変わった。
「レイン!」
「よお。どうしたんだ、こんな夜中に」
「いえ、途中で目が覚めてしまい――」
それでお散歩に……と言いかけて、シェルファはまじまじとレインを見つめた。
「あの……レインはここでなにを」
「うん? ああ……。まあその、なんだ」
口ごもるレインを見て、天啓《てんけい》のように閃《ひらめ》いた。
「もしかすると、わたしのために?」
「――まあな。一応、用心は必要だろう」
レインは身軽に立ち上がり、手でポンポンとシェルファの頭を叩《たた》いた。
「俺が好きでやってることだから気にするな。それに、俺は一種の自己暗示で一瞬にして寝たり起きたり出来るから、どこで寝ようとさして変わらないんだ」
「ガルフォートにいた時にも、廊下にいてくれたのですね。わたくし……知らなくて……」
シェルファは胸が熱くなり、そっとレインに抱きついた。甘えてばかりではいけないと思うけれど、嬉しいものはやっぱり嬉しい。
レインは人差し指で顎《あご》をかき、
「大したことじゃない。暗殺騒ぎが起こってから、まだ何日も経ってないじゃないか。真面目《まじめ》な話、世界中旅してた昔は外で寝るなんてザラだったから、廊下なんておまえ、天国みたいなものさ」
なにも答えず、抱きついたままシェルファが顔を上げると、レインは手で頬を撫《な》でてくれた。ニヤッ、と精悍《せいかん》な顔に笑みを浮かべる。
「もしかしてあれか? さしたることでもないのに、今ので『好感度大幅アップ』か」
「……はい。日に日に、レインへの想いが強くなっていきます。こんなに人を好きになれるなんて、昔のわたくしからは信じられません」
泣くとレインが困るだろうと思い、なるべく堪《こら》えたつもりだった。でも、瞳には涙が溜《た》まっていたかもしれない。
「感激屋だな、おまえは。でも、俺のやることにはちゃんと意味がある。やっぱりガードしてて正解だった」
レインは笑顔を消し、まだ抱きついたままのシェルファをそっと背後に庇《かば》った。
「ちょうどよかったよ。出て来なきゃおまえを起こしに行こうと思ってたんだ」
「……え?」
「侵入者がいる。俺が気配《けはい》を掴《つか》んだ所じゃ、二人だな。一人は囮《おとり》だと思うが」
「それで、もう一人は……近くに?」
レインが頷《うなず》く。
シェルファは自然に、レインの背中にそっと体を寄せた。
その時――
等間隔で並んでいた燭台《しょくだい》の蝋燭《ろうそく》が大きく揺《ゆ》らぎ、ふっと消えた。それも、一斉《いっせい》に。
廊下が闇に包まれた。
一人だったら大層怖かったに違いないが、レインがそばにいる今は全く平気である。本当に現金なものだと、自分でも思う。こうやってレインに寄り添っているだけで、苦手な闇ですらまるで平気になってしまうのだから。
「……暗闇でも俺には関係ないんだがなあ。まあでも、辛気《しんき》くさいから――光よ!」
レインが小さく呟《つぶや》くと、ボッ、ボッ、ボッと立て続けに、各|燭台《しょくだい》の上で光が弾けた。それらは全て、魔力によって生み出された魔法の灯火《とうか》のようで、さっきの蝋燭《ろうそく》の明かりなど足下にも及ばないほど廊下が明るくなった。
「出てこいよ。いるのはわかっている」
レインが低く言う。
と、それに応じるように、階段の踊り場から誰かが姿を現した。頭からすっぽりとフードを被り、顔はよくわからない。しかし、その細身と体の線が出た服のお陰で、相手が女性だというのはわかった。
「やるね、あんた。わざわざ見に来た甲斐《かい》があったよ」
舌なめずりするような声音《こわね》。
ぱっとフードを取る。
雪のように真っ白な髪を、ポニーテールにまとめている。驚いたことに、年齢的にはまだ少女だった。
しかし胆力《たんりょく》は相当なものらしく、悪びれた様子は全然ない。堂々と胸を張り、真紅《しんく》の瞳で、レインを穴が空くほどジロジロ見ている。
先日襲ってきた暗殺者達に共通の、世の裏街道を行くような陰はどこにもなく、活発で実に明るい性格に見える。
「気配《けはい》は断ったつもりだけど……いつから気付いてたのさ?」
「魔力で強制的に消すならともかく、気配《けはい》断ちなんか俺には通じない。おまえらが城壁をよじ登る前から気付いてたね。中庭でウロウロしてた片方は、ありゃ囮《おとり》のつもりか?」
「う〜ん、そうなるかな。とにかくあいつはそのつもりでいたんじゃない? しんないけどさ。で、あいつどうなったの?」
「多分、俺の部下のギュンターとかち合ったんだろうよ。さっき気配《けはい》が消えたし。あいつは強いからな。こういう場合は生け捕りにするようにって命じてあるが、気配《けはい》が消えたトコ見ると、追い詰められて自殺でもしたんじゃないか。これまた多分だが」
仲間が死んだかもと聞いても、少女は顔色も変えなかった。ただつまらなそうに唇を尖らせただけである。
「ふーん。あいつ、死んじゃったのか。ダサいヤツだね、ったく」
「ドライだな。仲間じゃないのか?」
「あたしにはそんな気ないよぉ。どうしても行くってゆったら、護衛役でついてきたのさ。最初はこっそり行こうとしたけど、あいつにだけ見つかっちゃって。勝手についてきて勝手に死ぬなんて、ホント、ダサダサだわよ。――て、あっ」
そこまで言って、少女はぱっと自分の口を押さえた。シェルファにはよくわからなかったけれど、今のセリフの中に話してはまずい部分があったのだろうか。
「あちゃあ、余計なコト言っちゃったなあ。今のなしね、なし」
照れ笑いをして、手をパタパタ振る。
この人はなんなのだろうか。
シェルファは首を傾《かし》げたくなった。
レインも同じ思いだったようで、
「変わったヤツだな……なにしに来たんだ、おまえ」
「あたしの属してるトコではその子を――」
とシェルファを指差し、
「殺そうとしてるんだけどさ、あたしはそういうのどうでもいいんだよね。ただ、ちょっと耳にした話じゃ、あんたが予想以上に強いっていうんで、見物に来たんだ。あたし、強いヤツに凄く興味あって」
「待て、ちょっと待て!」
レインは手を上げて少女の話を遮《さえぎ》った。
シェルファが横に並んで、レインの顔を見上げると、考えをまとめるように髪をかき回していた。
「つまりこうか。おまえは、例の暗殺ギルドを陰でけしかけていた組織の一員で、しかも、立場的にはかなり重要な地位にある……もしくは重要な地位のヤツが身内にいる。でなきゃ、護衛役なんて付かないからな。で、その組織の中じゃ、おまえは割合浮いた存在だと」
「うん、その通りだよ」
少女は目を丸くした。
「あんた、レインだよね? 頭いいなあ。少ないヒントでよくそれだけ当てられるね」
「まぁな。――て、おだてたって見逃さないぞ、こら」
レインは魔剣の柄《つか》に手をかけた。
「ちょうどいい。色々と話を聞かせてもらいたいね。暗い地下室に、一名様ご案内だな」
「地下室って、そこに行ったらどうなるの?」
「おまえ、訊かれたことに全て答えて、事情とかも洗いざらい話す気があるか?」
少女は即答した。
「それは無理ね。いくらあたしが奔放《ほんぽう》な性格でもさ、身内を裏切るのはちょっと」
レインは、「自分で奔放《ほんぽう》な性格とか言うな」と顔をしかめた。
「ならやっぱり地下室行きだろ」
「だから、そこ行くとどうなるの。ゴーモンでもするっての?」
「するんじゃないか? なにも話す気がないならしょうがないしな。ということで、地下室で天井から吊《つる》されて鞭《むち》でぶっ叩《たた》かれたり、逆さのまま水瓶《みずがめ》に漬《つ》けられて溺《おぼ》れさせられたり、しまいには素っ裸にされて蝋燭《ろうそく》責めとかあったりするんじゃないか? 係じゃないから、よく知らんけど」
「そ、それはちょっと……最後が特に卑猥《ひわい》で嫌だし。でもあんた、しゃれたこと言うね」
少女はにんまりと笑って、腰を低く落とした。
リラックスした態度から、殺気に満ちた戦士に様変わりしていた。
「あたし、閉じこめられるのは嫌いなんだよね。だから、そういうことならちょ〜っと抵抗しようかなぁ。だいたい、まだあんたの強さだってはっきり見てないしね」
レインはシェルファに「少し離れていろよ、な?」と声をかけ、自分は平然と相手を眺めた。
「おまえ、そういうのは無駄な抵抗と――」
言いかけたまま、ぱっとレインは顔をのけぞらせた。やや遅れて半身を捻《ひね》る。
後から見ていたシェルファには、まるでレインがなにかを避《よ》けたように見えた。いや、見えただけではなく、実際にレインはなにかをかわしたのだ。
というのはレインの動きと合わせて、周囲の壁が二カ所、ほぼ同時にバシッバシッと何かを叩《たた》き付けるような音を発し、壁の石が削《けず》れたからだ。右手の壁に、二筋の傷が残っている。
驚いて、シェルファはもっとよく見ようと、レインの真後ろではなく、斜め後ろ辺りに移動した。
と、謎の少女と目があった。
彼女は目だけで笑い、手ぶらに見える右手を上から下へ鋭く振り下ろし、また振り上げた。
バシッという音と同時に、レインがまた見えない何かをかわすように真上に跳ねた。今度は軽く飛んだ足下で攻撃が弾け、廊下の床に斜めに傷が走る。そして、やや遅れて右手の壁にも。バシッという音が連続する。
しかし、相変わらずシェルファにはなにも見えない。いや……今、なにかがキラッと光ったような……
いずれにせよ、レインにはしっかり見えているらしいので、シェルファはさほど危機感も無く見守っていられた。
上に跳び横に跳び、体を捻《ひね》る……レインは余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》で、その何かをかわし続けていた。
「ふぅ〜ん、あんた凄いねっ。まぐれなわけないし、もしかして見えてんの!?」
しきりに右腕を振っている少女が言う。白い額に、少しだけ汗をかいている。が、動きを止めようとはしない。
「見えてるにしても! 防げなきゃ、そっちから反撃は出来ないよっ。さあっ、どうするのさ!」
バシッ、バシシッ
また叩《たた》き付けるような音が弾け、レインがあっさり避《よ》ける。しかしレイン本人は、早くも飽きがきたようだ。
「おまえなあ……俺をなめるのもたいがいにしとけよ。こんなもん、見える見えない以前の問題だっ」
言った刹那《せつな》、レインは右手を無造作《むぞうさ》に横に突き出し、ぱしっと何かを受け止める動作をした。
そのまま片手でぐいっと引っ張る素振《そぶ》りをする。すると、なぜか少女が「あっ」と狼狽《ろうばい》の声を上げ、よろよろっと何歩か前へ歩いた。
その時、なにも見えなかったシェルファにも、さすがに『それ』が見えた。
レインと少女の間に、一筋のロープのような物がある。ぴんっとそれが張った瞬間、蝋燭《ろうそく》の明かりにきらっと光った。その何かを慌《あわ》てて放し、少女は焦《あせ》り顔で元の位置に後退《こうたい》する。彼女の足下に、掌《てのひら》にすっぽり隠れるサイズの、棒のような物が落ちていた。
レインはふふんと笑い、
「なに製かは知らんが、鞭《むち》の本体を透明にするってのは悪くないアイデアだ。使い方もまずまずだな。だが、俺は自分の目だけを頼りに戦っているわけじゃない。無駄なんだよ、そんな攻撃」
そうだろうなあとシェルファも思う。なにしろレインは、まだ剣も抜いていないのだ。シェルファだったら最初の一撃で昏倒《こんとう》していたろうが(全然見えないのだから)、レインには遊びも同然のはず。
積極的に攻勢に出ないのは、出来るだけ傷つけずに彼女を捕らえようとしているからだろう。
「ありゃ〜……あんた、ホントに半端《はんぱ》じゃなく強いね。すごーい! ここへ来たの、ちょっと後悔したかも」
「今更《いまさら》遅いだろう……。おまえも弱いとは言わんが、思ったより強くないな、おい。おまえの仲間はみんなそんなもんなのか? 暗殺ギルドを脅《おど》してたにしちゃ、ぱっとしないぞ」
言われて、少女はむっとしたようだが、あきらめたように吐息《といき》をついた。
「あたし、みそっかすだからね。いっとくけど、仲間内には化け物みたいなのが何人もいるよ。甘く見ない方がいいと思う」
「最初からそいつらが来れば話が早いんだよ。まあいい。じゃあ、そこのところをじっくりと聞かせてもらおうじゃないか、うん?」
レインが話を戻す。
少女は頭をかきかき、じわっと後退《あとずさ》った。
「だから、たとえ殺されても絶対話せないんだってば。これでも義理堅くてさ、あたし。――ということで、じゃあねっ」
「あ、こらっ」
少なくとも、少女の素早さは瞠目《どうもく》に値した。ためらいもなく背を向けると、あっさりと遁走《とんそう》したのだ。これがまたあきれるほど足が速く、えっ、と思った時にはもう階段を駆け下りる足音がしていた。
「そう来るか!」
レインはすぐに追いかけようとして……足を止めた。背後のシェルファを振り返り、手招きする。
「はい? あっ……」
歩み寄ると、いきなりすっと抱き上げられた。
「置いていくのは不安だが、こうして二人で追っかけりゃ問題ないよな」
「……はい」
シェルファを見下ろし、レインが破顔《はがん》する。
ぼ〜っとしたままで、シェルファはこっくりと頷《うなず》いた。なにを言われたのかよく聞こえていない。けれど、抱いてもらって凄く幸せだった。
レインはそんなシェルファを抱き上げたまま、いきなり走り出した。
僅《わず》か数歩で、ぐんっと加速したのが実感できた。半階分の階段を飛ぶように駆け下り、ガラスのはまっていない踊り場の窓から、外を見下ろす。どんな手段を使ったのか、少女はもう中庭に出て走り始めていた。
「ほ〜、逃げるのだけは速いじゃないか。だけど、甘いな!」
レインは何歩か下がり、シェルファに「怖かったら目を閉じていろ」と言った。
なんのことか咄嗟《とっさ》にわからなかったけど、シェルファは即座に首を振る。
レインと一緒なら、怖い物なんかなにもない。
「よし、行くぞっ」
レインはそのまま跳躍し、なんと、窓から外へ飛び出した。ふわっと宙に浮く感じがして、耳元で風切り音。
そっと包み込むように抱きかかえられていたので、周りはよく見えない。だが、かなりの高さを落ちる間、視界がめまぐるしく変化したのは間違いないようだ。
あ、レインが落ちながら、猫さんのようにくるくる回転してるんですね……理解が及ぶと、なぜか背筋がゾクゾクして、シェルファは笑い声を立てた。
高い所は苦手なのに、落ちていくその感覚が、とても気持ち良かった。すぐに地面に着いてしまって残念である。着地のショックなどほとんど無かった。
そして、レインが再び疾走《しっそう》。
――速い!
背後の宮殿が一瞬で遠ざかってしまった。
当たり前だが、自分ならこんなスピードで走るのは不可能なので、シェルファはまた嬉しくなって感情の高ぶった笑い声を上げた。
「なかなか度胸あるな」
レインが走りながら微笑む。
「普通は窓から飛び降りたら悲鳴を上げるもんだが」
「いいえ、とても気持ちよかったです! またレインと二人で飛び降りたいです!」
「はっはっは!」
レインが珍しく声を立てて笑う。
いつもニヤッと笑うことが多いのに、本当に珍しいことだった。
「よし、もっと飛ばすぞ!」
またぐんっと加速する。
全く息も切らさないし、走り方も安定している。さすがはドラゴンスレイヤー、無尽蔵《むじんぞう》かと思うほどの体力である。
足下の地面が飛ぶように流れていく。途中で騎士見習いらしき誰かが声を掛けてきたが、ビュンっと一瞬ですれ違ってしまった。
この点、囮役《おとりやく》の男が怪しい薬を撒《ま》いたのがここと逆方向だったのは、シェルファの幸運だった。でなければ、レインはともかく、シェルファは眠り込んでしまっていただろう。
一方、追いかけられている少女である。
なにか嫌な予感がして、走りながら振り返った彼女は、「げっ」と品のない声を立てた。
レインが王女を抱きかかえ、仲良く窓から飛び出した所だったのだ。
自分にはちゃんと、飛び降りても死なない手段があったのだが、レインはどう見ても素のままである。自殺行為だと思うが、なぜか抱かれた王女は空中で楽しそうに笑っていた。
そのまま地面でひしゃげて死ぬかと思いきや、なんとレインは軽業師《かるわざし》みたいにくるくる回転して平然と着地――すかさずこちらを追撃してきた。
それを見て、少女はもう一度「げっ」と声を漏《も》らした。
な、なに、あいつ!?
あんなトコから飛び降りて、なんでケロッとしてんのよっ。
それも大いに謎で不気味だったが、もっと不気味なのは、二人して楽しげに笑いながら追いかけてくるトコだ。
王女は抱かれたまま幸せそうに笑っているし、レインも声まで立てて笑っている。
笑いながら、とんでもない速さで爆走して来るのである。
めちゃくちゃ怖いモノがある。
な……なんで笑ってるわけ、あの二人。
少女はぞっとして足を速めた。
なんとなく、関わり合いになりたくない。
――だが。
足の速さだけは仲間内で一番だったのだが、どうやら世の中、上には上がいるようだった。
もう一度振り返ると、もうすぐそこまでレインが迫っていた。王女を抱きかかえているのに、人間とは思えない体力である。
あるいは、レインには単に「強い」というだけではなく、なにか秘密があったのかも……そう言えば、こっちにもそういう者はいる。
己《おのれ》の属する辛気《しんき》くさい「結社」が好きではなく、周りの誰にもほとんど仲間意識など持っていない彼女だが、唯一、妹は大事だと思っている。でも、向こうはこちらが思うほどには、あたしのことを仲間とは認めてくれていないのかも……だから、なにも教えてくれなかったのかも。
立場上、大切にされてはいても、みそっかすなので重要な情報はほとんど教えてくれやしないのだ。
それを考えると、少々寂しかった。
ともあれ、少女は黙って出てきたことをちょっと後悔した。多少強くても、自分の手に負えないほどではないと思っていたのだ。
「あきらめろ!」
背後からレインの声。
「この世で俺が追いつけないのは、クリスくらいのもんだ。逃げられるかよっ」
笑いながら言うのが、死ぬほど怖い。
しかも、王女までコロコロ笑っているのだ。なんなのだ、一体。
だいたい、クリスって誰よ?
少女はほとんど恐慌《きょうこう》に陥《おちい》りながら、それでもなんとか城壁の下までたどり着いた。
走る速度を落とさないまま懐《ふところ》から三十センチくらいの棒を出し、
「伸びろ!」
あらかじめ呪文《じゅもん》で登録しておいたコマンドワードを発する。
一応マジックアイテムであるそれは、即座に魔力が発動し、見る見るぐんっと伸びた。
少女の身長を越えてまだ伸びようとしている。
その先端を地面に突き立て、思いっきりしならせる。反動を利用して、高く高く飛んだ。その間にも棒は伸び続け、彼女の体を城壁の上まで運んでくれた。
すたっと通路に降り立つ。
「戻れ!」
再度コマンドワードを発し、棒を元に戻す。やっと少し余裕が戻った。
ちょうど城壁下に着いたレインと王女に、ぺろっと舌を出す。
「ごめんね! でもさ、何人か気絶させただけで、別にあたし誰も殺したり傷つけたりしてないし、見逃してよね〜」
ひらひら〜っと手を振る。
ところが意に反し、相手は全然、慌《あわ》てたり悔しそうにしたりしなかった。夜目《よめ》にも白い歯を覗《のぞ》かせ、レインがニヤッと笑う。
少女は、猛烈に嫌な予感がした。
「おまえ、完全に逃げ切れたつもりでいるな。ところがそうはいかないんだな、これが!」
レインが王女を抱いたまま、ぐっと膝をたわめた。
まさか!?
そのまさかである。
レインは、そのままばんっと跳躍した。信じがたいことに、たちまち少女の頭上まで上昇してくる。輝く月をバックに、城壁上で王女を抱えた黒影がくるっと一回転する。
そんな場合ではないが、その姿を見て「なんか綺麗かも」と少女は頭の隅《すみ》で思った。
惚《ほう》けて見上げるうちに、レインはふわっと城壁の通路に降り立った。
彼女の数メートル至近《しきん》である。
王女がまた、楽しそうにクスクス笑っている。
大丈夫か、この子。実はかなりヤバい子なんじゃ? いや、今はあたしの方が問題だけど。
「――ふっ」
黒髪を風に舞わせ、レインが夢に出てきそうなふてぶてしい笑みを浮かべた。
「ここまでだな。ほら、後ろを見てみろよ。駄目押しがいるぞ」
「ええっ」
猫のような瞳をまん丸に見開いていた少女は、慌《あわ》てて振り向いた。罠《わな》かも、と思ったが、振り向かずにはいられなかった。
――嫌すぎることに、本当に駄目押しがいた。
なにか、とてつもなく不機嫌《ふきげん》な顔をした若い男が、少し先に悠然《ゆうぜん》と立っている。
一体、いつの間に背後を取られたのか。
レインが気安く声をかける。
「おう、いいタイミングだ、ギュンター」
対して、その男は渋い表情のまま軽く一礼した。どうも、直属の部下らしい。
こ、これはまずいかも……
少女はなかなかにあきらめの悪い方だったが、さすがに汗ジトになった。
すっかり余裕が吹っ飛んだ様子の少女を涼しげに眺め、レインはまずギュンターに確認した。
「侵入した片割れは?」
「……捕らわれるのを嫌ってか、自害しました」
「やっぱりか」
「申し訳ありません」
「――まあいい。勝手に死ぬのはどうしようもないしな。気にしなくていいぞ」
ギュンターを慰《なぐさ》めてやる。
そして、うろたえている少女には最後通告を突き付けた。
「聞いた通りだ。言っとくが、ギュンターは俺ほどじゃないとはいえ、かなりできる。おまえ程度じゃ絶対に突破できないからな。もう大人しくしろ」
と、これまたタイミングよく、遠くで笛がピイイイッ! と鳴った。巡回兵の誰かが遅まきながら異状に気付いたか、あらかじめギュンターが手配しておいたのだろう。
「ほれ。もうすぐ警備兵の大群もここに来るしな」
言われて、少女は中庭を見、城壁の下を見、それから困り顔でレインを見た。
口元に手をやって涙目でレインを見る。上目遣いである。
「あ、あう〜」
「……いや、『あう〜』じゃないんだよ。今更《いまさら》、可愛い子ぶっても遅いって。夜も長いし、場所を変えてじっくり話そうじゃないか、うん? 魅惑《みわく》の地下室と蝋燭《ろうそく》責めが待ってるぞ。臭いメシもおまけにつけてやる」
「それは困るなぁ……。ねえ、お願いっ」
パンッ!
拝《おが》むように手を合わせ、真っ白なポニーテールがぴょこっと動く。
「ねえ、ここは見逃してよ。あたし、恩に着るからさっ。ぜ〜ったい、いつか恩返しする、うん。だから、ねっ」
「この状況でそういうことを言うか。なかなか厚かましいヤツだな、おまえ」
レインはぎゅっと眉を寄せた。
「俺からすりゃ、大事な情報源なんだぞ? なんで見逃すわけがある」
「そ、そこを何とか! あたし、むちゃくちゃ恩に着るよ。これでも義理堅い方だしさぁ。ね、ねっ」
両手を合わせたまま、何度も頭を下げる。
「第一、もし捕まってもなにも話さないってば。それにあたし、地下室とやらで自殺しちゃうかもしんない。そうなったらあんた達だって寝覚め悪いでしょ」
「いーや、おまえは自殺するようなタマじゃないね。相当にぶっとい根性だと見た」
「そ、そんなぁ」
「――あの」
まだ抱きかかえられたままのシェルファが、そこで口を挟《はさ》んだ。
「うん、どうした」
レインは彼女を下ろそうとした……が、本人がいやいやをするように微《かす》かに首を振ったので、苦笑して抱いたままにしておく。
「あの……その人は誰も傷つけていないようですし、わたくしを殺すために来たわけでもないですし、だから……」
「だから、逃がしてやれって?」
シェルファは一生懸命な様子でコクコク頷《うなず》いた。
「もしかしたら、いつかわたくし達にお力添えしてくださるかもしれませんし……」
「あ、いいこと言うなぁ。さすがは王者の度量《どりょう》だよっ。未来の美少女陛下、万歳!」
ここぞとばかりに持ち上げまくる少女。
さっきまでの半泣き顔が、嘘のように明るい笑顔に変わっている。
レインはう〜ん、と天を仰ぎ、
「いいのか、チビ。そりゃ、おまえがそう決めたなら俺がとやかく口を挟《はさ》むことじゃないが。しかし……ほんっとにいいのか? ここで捕まえて色々訊きだしてから放す、という手もあるぞ」
「え〜、だからぁ、あたしは捕まってもなにもしゃべらないって」
おまえは黙ってろ! と言い返しかけたレインに、シェルファは微笑む。
「いいんです。なんだか、とても楽しかったですし。どうか行かせてあげてください」
「……そうか」
それ以上はなにも言わず、ただ笑って頷《うなず》いた。
少女の方を向き、
「もう行っていいぞ」
「ええっ」
意外なほど驚いた顔で少女が固まる。散々|拝《おが》んでいたクセに、ホントに放してもらえるとは思ってもみなかったようだ。
「い、いいの、ホントに!? そんなこと言って背中からバッサリ! なんてオチじゃないよね」
「そんなせこいことするか。俺はあくまでも反対だがな、主君がこう言うならしょうがないだろうが。――あ、でも名前くらいは名乗って帰れよ。なんて名だ、おまえ」
「名前は……タルマだけど」
「タマぁ? 猫みたいな名前だな。よく見りゃ、顔も猫っぽいし」
「タマじゃないよっ。タ・ル・マ!」
「わかってる、喚《わめ》くな。からかっただけだ。くれぐれも恩返しを忘れるなよ、タルマ。いいな!」
きっちり念を押してから、あさっての方向に顎《あご》をしゃくった。
早く行けという合図だ。
「う、うん。忘れないよ。ぜ〜ったい恩返しする」
タルマはそう保証し、少し威儀《いぎ》を正し、ペコッとシェルファに頭を下げた。そのまま城壁下に飛び降りようとして――もう一度レイン達を見る。
「ねえねえっ」
「なんだ。もう時間がないぞ」
「あのさ、一つだけ教えたげる。……ガルフォート城をよく調べてみて。そうすれば、何かがわかるかもよ」
「ガルフォートを……」
なぜだ?
そう聞き返そうとしたが、レインは首を振った。どうせこいつはこれ以上話さないだろう。
「わかった。覚えておく」
「それとさ。これは個人的な興味なんだけどぉ。あんた達、主従《しゅじゅう》にしちゃ話し方とかやけに馴《な》れ馴《な》れしいけど、もしかして、もうやっちゃった仲なわけ?」
むっとした。
眉間《みけん》にぎっちり縦皺《たてじわ》が入るのが実感出来たくらいだ。
「――おまえ、やっぱり捕まえて死刑!」
「あははっ。冗談だよ! じゃーねーっ、ありがとっ」
ん〜、チュッ!
タルマはレイン達はおろか、ギュンターにまで派手な投げキッスをかまし、当たり前のように城壁から飛び降りた。
レイン達が見ていると、落下していく途中でなにか布のような物を広げ、それを頭上にかざす。
と、ふわっと布が広がり、大きな気泡のようになって落下のスピードを抑えた。これもマジックアイテムなのだろう。
で、下に着くと、タルマはたちまち暗がりの中へ逃走して行ってしまう。
レインから見てもなかなかの足の速さである。おそらく、ちゃんと途中で馬も用意してあるに違いない。
「……変わったヤツだ」
レインのセリフに、ギュンターが顔を上げて訊いた。
「こっそりつけますか」
「まあ……そうすべきだろうが。それはこのチビが反対するんじゃないか」
シェルファは微笑み、抱かれたままでレインの胸に頬を寄せた。
「行かせてあげてください。悪い人じゃありませんもの、あの方。――それより」
「あ〜、なにを言おうとしてるか想像つくぞ。おまえ、『もうやっちゃった仲』ってどういう意味ですか? とか訊こうとしてるだろ、今」
「……どうしてわかったのでしょう」
「そりゃわかるさ」
レインが失笑した所へ、警備兵の群れがようやく城壁下に殺到してきた。
先頭には寝ぼけ眼《まなこ》のレニがいて(叩《たた》き起こされたのだろう)、レインとシェルファを見るなり叫んだ。
「な、なんとおっ!? しょ、将軍が王女様と駆け落ちを!」
なにを言っとるんだ、この馬鹿は。
ボケたセリフに、レインは思わず自分の腕の中のシェルファに目を落とす。
ほとんど透けるような生地の夜着に、ガウンを羽織っただけ。
まあ……見ようによってはそうも見えるのかもしれない。
シェルファが否定もせずぽおっと頬を染めたので、仕方なくレインが怒鳴《どな》っておいた。
「寝ぼけるなっ」
――☆――☆――☆――
ガルフォート城でもそうだったが、このコートクレアス城においても、城内に大規模な食堂がある。
サンクワールを初め、この大陸のほとんどの諸国でも、領地持ちの上級騎士というのはごくごく数が少ない。せいぜいが将軍(それも上将軍《じょうしょうぐん》)クラスにならないと、領地などには無縁である。
いわんや普通の兵士においては、主君から支給される俸給《ほうきゅう》が収入の全てである。
つまりは、ある主君に仕える騎士や兵士のうち、かなりの人数は城に常駐《じょうちゅう》しているのだ。ましてや今この城では、流浪《るろう》の騎士団と兵士を大勢抱えている。
通いの兵など、全体から見ればほんの僅《わず》かなのである。
そのために、城内に大規模な食堂は欠かせない。毎食時にそこに来れば、余程《よほど》にケチな領主《りょうしゅ》でない限り、無料で食事にありつける。専属の料理人を雇《やと》って、食事を振る舞っているわけだ。領主《りょうしゅ》の中にはサフィールのように、しっかり俸給《ほうきゅう》から食費を引くせこい者もいるが、まあそれは彼がケチなせいだ。
幸いレインはそうではないので、毎食時には食堂は大いににぎわうことになる。どうせただならここで食べよう、と普通の貧乏兵士なら考える。
それどころか、レイン本人がそういう思考の持ち主だった。
正騎士以上の身分だと、当たり前のように城内に個室が与えられ、食事もメイドが部屋まで運んでくれる。しかも、毎食ごとにメニューも自由自在である。下級兵士と違い、自分の好きな物を注文できるのだ。
だがレインは、城主の癖に傭兵《ようへい》時代と同じく、普通の兵達に混じってここで食事を摂《と》っていた。
『兵と同じ物を食べ、同じ生活をすることで、彼らの尊敬を集め、ひいては人心を得《え》る!』
――などという目的があるわけでは全然ない。ただ「メシくらい、運んでもらわんでも自分から食べに来るさ」と思っているだけだ。
好き嫌いがないので、自分からメニューに注文付ける気もない。
だいたいレインは、その身分や日頃の大言壮語《たいげんそうご》から見れば信じ難《がた》いほど質素な生活を送っており、それは彼に厳しいユーリでさえ、渋々認めるほどである。
ただし、皆が知らないだけで、きっかけさえあれば平気で散財もするのだが、今のところはそんな兆候《ちょうこう》を見せていない。
大量に消費しているのは、唯一、酒くらいのものだ。これはホントに例外で、もうどんどん飲む。体質のせいで、幾ら飲んでも酔わないが。
レイン自身にはなんの計算も思惑《おもわく》もないのだが、そういう態度は圧倒的な強さに加えて、結構下っ端兵士の人気の元になっていたりする。
そして、酒のことは別として、そんなレインと似て特別扱いを嫌う上将軍《じょうしょうぐん》が、このサンクワールにはもう一人いる。
ベーコンやらパンやらスープやらを黙々《もくもく》と腹に詰め込むレインの前に、誰かがすっと座った。
「珍しく、今日は早いな」
顔を上げると、食事の載ったトレイを置いたラルファスが、にこやかにレインを見ていた。
「――まあな。ていうか、寝てないんだ。姫様が休むまで付き合っていたもんで。昨日のアレで、なんだか無駄話に花が咲いてな。俺は寝そびれちまった。まあ、どうせ普段からそんなに眠らないんだが」
おおっ!
ウサギのように耳を立て、会話を盗み聞きしていた一般兵士の多くが、そのセリフに声なき声を漏《も》らした。
ひそひそ話がさあっと広がっていく。
すなわち、
『ひ、姫様が休むまで付き合っていたって、それって寝室で二人っきりとか!?』
う、うらやましい! 自分と代わってほしいですっ!?
明らかにそんな響きの囁《ささや》き声が、そこかしこに満ちる。が、ラルファスが穏やかな顔で辺りを一渡り見渡すと、皆、恥ずかしそうにささっと正面を向き、食事に専念しだした。
――レインは思う。
世の中には、怒鳴《どな》り散らしたりわざとらしく注意したりせずとも、黙《もく》したままで相手を圧倒出来る希有《けう》な人間がいて、こいつもそんな男の一人らしい。
このラルファスが静かに見つめるだけで、なにかやましいことのある人間は、てきめんにそわそわし出すのである。
……そう言えば、あのジョウ・ランベルクもそんな種類の男だった。この二人は、結構性格が似ているような。
などと考えるレインに、ラルファスはまず確認を取った。
「ところで、昨日の今日だ。おまえのことだから抜かりはないと思うが、王女様の警護は今?」
「ああ、安心しろ。見えるところにはガサラムがついてるし、見えないところにはギュンターがいる。俺が朝飯食ってる間くらいは平気だ」
「そうか、ならいい」
微笑んで頷《うなず》く。
そして、フォークを使いつつ、さりげなく述べる。
「あとで、ちょっと話さないか」
「そりゃいいが。しかし、昨晩の事件のことなら、あの直後に説明したろ」
「うん、聞いた。だが、まあいいじゃないか。このところ二人で話す機会も少なかったし。付き合ってくれ」
「まあそう言うなら。でも、あとで用事があるから、それまでだぞ」
レインは不承不承頷《ふしょうぶしょううなず》き、席を立った。
それならただぼう〜っと待っていないで、おかわりでもするに限る。
「二人で散歩でもしながら話さないか」
食後に、ラルファスがそう言うので、レインは肩をすくめて承諾した。
本心では「男同士でオサンポかよ、おい」とか思ったのだが、まあ食堂で話すにはなにかと不自由もあるだろうし、やむを得《え》ない。
昨晩、怪しい男が怪しい薬を撒《ま》いたらしい現場を二人でしばらく歩く。
ラルファスはいきなり切り出した。
「昨日の賊《ぞく》だが……あれは、わざと逃がしたのだろう」
「なんだ」
レインはすっと眉を上げた。
「気付いていたか」
「それはな。おまえが追ったと聞いて、そうじゃないかと思った。本気で追ったなら、簡単に逃がすはずあるまい」
「そりゃ……な。あ、だが言っておくが、今回は俺の発案じゃないぞ。姫様だ。あの子が逃がしてやれっていうんで、それに従っただけだ」
「そうか」
ラルファスは、すっかり葉の散ってしまった木々を見ながら、怒るでもなく頷《うなず》く。
「他人の気持ちをよく察する、お優しい方だ……」
「まあ、厳しい方は俺達が引き受ければいいからな。それが役目だし」
「うん。それで、その少女の属している組織……というか団体かな? とにかくそれについての情報はなにか?」
「そっちはさっぱりだね」
あっさり手を広げるレイン。
「しかし、姫様を殺したがっているのは確かみたいだな。『自分は興味ない』って言ってたから、昨日のタルマとかいうヤツはその中でも例外なんだろうが」
「では、その『ガルフォートを調べろ』が唯一の手がかりか」
「まあ、時間をかければ色々と明らかになってはいくだろうが……めんどうなことだな。それでなくても厄介《やっかい》ごとは多いのに」
見回りの衛兵《えいへい》達がすれ違いざま、二人にさっと敬礼《けいれい》した。彼らをやり過ごしてから、ラルファスは声を低めて続けた。
「こうなると、先王陛下が王女様をなにかにつけて遠ざけていたのも、少々疑問となる。なにか理由があったのかもしれない」
「娘を軟禁《なんきん》状態において、ロクに城の外にも出さない……。おまけに、滅多《めった》に会おうとさえしなかった、か。ううむ」
レインは髪をかきあげて唸《うな》った。
彼女が深窓《しんそう》の姫君だという点を置いても、少し度が過ぎるように思われる。
なにしろ、臣下の者達さえ滅多《めった》に会う機会がなかったのだ。後から彼女自身に聞いた話だと、ほとんど宮殿の奥に軟禁《なんきん》されていたも同然らしい。お付きの者の目を盗むようにしなければ、行動の自由が無かったようだ。
もし、あの舞踏会《ぶとうかい》の日に、禁を侵《おか》して勝手に宮殿の奥に入っていなければ、レインもシェルファに会う機会は無かったろう。
しかし普通なら、王女ともなれば、公式行事の時くらいは皆の前に出てくるはずなのだ。
そうして他国の重臣や、あるいは王子などにも姿を見せておき、後でこっそりと婚儀《こんぎ》の話を進めたりする。それが姫君の、いわば役目というものだ。一国の王女に自由な恋愛などまず許されない。政略の道具として使われる場合がほとんどである。
王家の娘にとって、十六歳という年齢は嫁《とつ》ぐに早いとは言えない。なのに、ダグラス王はなぜ彼女を華やかな場に出そうとしなかったのか……
「最初は、あのおっさんが冷たいだけだと思ったんだが、他に理由がある可能性あり……だな。どこか臭う。忠実な臣下の、おまえにすら話さなかった理由がなにかあるのかもしれん。狙われるわけも、そこら辺にあり、か。……それで思い出したが」
レインはシェルファとの初対面の時を思い出し、その時のことを話した。これまでは記憶の底に埋もれていた事柄である。
レインとそっくりの似顔絵、そして、あの強大な力の波動……
ラルファスは眉をひそめ、
「――初耳だ。つまり、王女様はおまえとの出逢いを予知していた……そういうことか」
「普通ならそうなるんだろうが……。でも、あれは自分でも意外そうな顔だったなあ。『なぜ、いま描いたばかりの似顔絵が、こんなにレインと似てるのでしょう』って表情だった。――で、この際だからついでに訊くけどな、おまえ、姫様から何かを感じないか」
「おまえの言うプレッシャーなどは感じたこともない。しかし、それは妙な話だぞ。私が鈍感というのなら不思議はないが。だがレイン、私はおまえからはちゃんと、そういう『力』を感じ取っている。こうしている今もだ」
「言いたいことはわかる。なぜ姫様に限っておまえがなにも感じないのか……いや、おまえだけじゃないな。他のヤツもそうだ。これまでに、あの子に関して俺と同じ印象を受けたのは、どうやらあのレイグル王だけらしい……。この前のジョウの顔も、今から考えるとプレッシャーにギクッとなった……という感じじゃなかった」
「その感覚……今でもか? 王女様の側《そば》に行くと『力』を感じると」
「むう……それなんだがなぁ。これまでは、プレッシャーだけに気を取られがちだったが」
少し考え、レインは吐息《といき》を漏《も》らした。
「冷静に考えると、あれはジョウやレイグル王から感じた、そのまんまの『力の波動』じゃなく、姫様が意図的《いとてき》に触れてきたのかもしれない……。エクシード、つまり『気』を使って。そんなことが彼女に出来るはずないし、そんな兆候《ちょうこう》もないんだが」
間を置き、付け加える。
「それと、強大な『力』についちゃおまけかな……。もっとこう、違うなにか――それがなにかはわからんが――が混じっている。で、プレッシャーは感じるが、ネガティブな感じはしない。むしろ、心地いいくらいだ。なぜそう感じるかは、ちょっと俺にも説明できないが」
自分で口にしたことながら、さっぱりわけわからんな、とレイン自身が思う。
が、ラルファスは真面目《まじめ》な顔で、さらに尋ねた。
「おまえの考えを聞かせてくれ。王女様の秘密についてどう思っている?」
ここへ来て、シェルファに秘密があるというのが、決定的になったようだった。
話が核心に入ったからでもあるまいが、肌を切り裂くような冷たい風が吹きつけ、レイン達の髪を散り散りに舞わせた。
もう散歩なぞする季節ではないだろう。
中庭にも、見回りの兵以外の人影はない。
レインは目を細め、さらっと言った。
「そうだな。例えば、あの子の正体は魔人《まじん》だとか」
友人は笑わなかった。
息を詰めたような顔でレインを見ている。
レインは、ふっと笑って背中をどやしつけてやった。
「あまり真面目《まじめ》に受け取るなって。レイグルのことがあったんで、ちょっと言ってみただけだ。あの子は間違いなく人間だ。俺が保証する」
どさくさに紛《まぎ》れ、いつの間にかシェルファを「姫様」という敬称で呼ばなくなっていたが、ラルファスはそんなコトを気にする余裕がないようだった。
「……驚かすな」
強張《こわば》った頬をゆっくり綻《ほころ》ばせ、苦笑する。
レインは人の悪い笑みを浮かべた。
「言っておくが、謎なら他にもあるんだぞ。仮に、あの子を狙う『組織』をヤツらとしとくが。ヤツらはなんで、今のこの時を選んであの子を狙う? 殺さなきゃいけないわけがあるとして、それがなぜ今なんだ。今は、すぐ側《そば》に最強のガードがついているんだぞ。もっと前なら遙《はる》かに簡単に殺せたと思わないか」
もちろん、ここで言う『最強のガード』とは、レイン自身のことである。
暗くなるのを嫌い、冗談めかして言ったのだが、ラルファスはくすりともしなかった。
思い悩むように、
「――それは、私も疑問に思っていた」
「ふん、気付いてたか。……おそらく、『ガルフォートを調べろ』ってのがその事情に関係あるんだろうが――」
言いかけ、レインははっとして足を止めた。
じっと様子を窺《うかが》うラルファスを無視し、そっと独白《どくはく》する。
「いや、待てよ。ちょっと……閃《ひらめ》きかけてきた」
「なにかわかったのか」
「まあ……な。こんな簡単なことをこれまで思いつきもしなかったとは、俺もヤキが回ったかもしれん」
心持ち、声を低めた。
「試しに訊くが、俺の考えが正しいとすると、あの子の近親者とかに魔法を使えるヤツがいたりするはず――」
ラルファスの表情を見て、レインは口を閉ざした。どうも、大当たりだったらしい。
「亡き王妃《おうひ》様が魔法使いだったが……なぜ、わかった? 王族でも知らない者がほとんどなんだが」
「そこはそれ、俺は天才だからちょっとした思考の積み立てでな」
セリフほどにはふざけた気分にはなれなかった。外れていた方がよかったのだ。
レインは首を振り、再び歩きだす。
単なる思いつきだったが、こうなるとかなり信憑性《しんぴょうせい》があるかもしれない。
ラルファスがたまりかねたように再度尋ねてきた。
「一人で納得せず、私にも教えてくれ」
「考えてもみろ。ヤツらが狙う前と今とで、あの子にどんな変化があった? 一つだけ、確実に変わったことがあるだろう。そこを考えれば多少の予測はつく」
そこで言葉を切り、レインはまた首を振った。
「こりゃ、ガルフォート城|云々《うんぬん》のヒントはなかったことにして、このまま握り潰《つぶ》した方がいいかもなあ」
「おいおい」
ラルファスはあきれたようにレインを見据《みす》えた。
「そうはいかないだろう。他の者はともかく、私達は知っておいた方がいいんじゃないか」
「まあ、そりゃそうなんだがな。正直言うと、俺はあの子の秘密だとか正体だとかはどうでもいいんだ。それがなんであろうと、今のあの子にはなんの責任もないことだからな。だから、ガルフォートを一応調べてみて、出てきた事実があの子の身の安全に関係ないものだったら、そのままほっとくつもりだ」
「ふむ……」
しばらく黙り込み、やがてラルファスは感じよく微笑む。
「なるほど、おまえらしい選択だ。私も、王女様に秘密があったとして、それがあの方に責任あるものだとは思えない。わかった、もしなにか出てきても、そのまま胸の中にしまっておこう」
「だな。まあ――」
それが黙っておけるようなヤワな秘密なら。
そう言いかけたものの、レインはやはり口にはせずにおいた。今はそんなことを言ってもしょうがないだろう。
「とりあえず、今はサフィールの件をなんとかするのが先決か」
ラルファスは言いかけて止めたレインをちらと見て、さりげなく話を変えた。あるいは、こうなるとテコでも話さないレインの頑固さを、知り尽くしているからかもしれない。
レインは内心で配慮《はいりょ》に感謝しつつ、
「サフィールについちゃそんなに心配してないんだが」
「なにか問題が?」
あるさ、と大きく頷《うなず》く。
「あのフォルニーアとかいう気の強い女王だ。あいつ、なにかロクでもないことを考えている目つきだったなぁ……」
フォルニーアの一癖も二癖もある笑顔を思い出し、レインはそっとため息をついたのだった。
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[#挿絵(img/03_109.jpg)入る]
第三章 その少女、高慢につき
いつもより幸せな気分で目覚めたシェルファは、侍女《じじょ》が運んでくれた朝食をにこにこしながら食べていた。
なぜこんなにウキウキしているかは、自明《じめい》の理《り》である。昨晩、思わぬ偶然でレインと長く話せたことに加え、今日はそのレインに「剣技」を教えてもらう約束なのだ。
以前から頼んでいたのだがなかなかそのチャンスがなく、昨晩の襲撃《しゅうげき》事件のお陰でようやく機会を得たのだった。それを考えると、あのタルマという女の子の侵入は、自分にとって少しも悪いことではなかった。
シェルファはそう思う。
で、早く食べて早くレインのところへ行こうと思うのだけれど、シェルファの食べる速度は明らかに人より遙《はる》かに遅く、遅々《ちち》として進まない。小食なので量も大したことないのに、どうしても時間がかかってしまう。
半分ほどを食べたところで、ついに自分でも痺《しび》れを切らし、後は残してしまった。
レインが見たら怒るかもしれないけど、今日くらいは許してもらおう……
本当は、一人じゃなく、レインと一緒に食事をしたい。でも、レインは毎食ごとに食堂に行ってしまうことがほとんどなので、シェルファはどうしても思い切れないのだった。
まだ人前に出ることには抵抗がある。有《あ》り体《てい》に言えば、他人の視線が気になるし、どうも見知らぬ人とは馴染《なじ》めない。独りでいることが多かったせいかもしれない。
しかし、このままだとずっと一人で食事する羽目になりそうなので、そろそろ勇気を出したい。
半分ほど残ったスープ皿を見て、シェルファはため息をついた。
――今日は無理だったけれど、明日またがんばろう。なんとか勇気を出そう。いつまでも食事を運んでもらってばかりではいられない。でないと、二人で朝食なんて夢のまた夢になってしまう。
動機はいささか不純ながら、シェルファは決意を新たにした。
食器類をテーブルから銀製のワゴンに戻し、自分の稽古《けいこ》用の服装を見下ろす。白いショートパンツに、同じく白のノースリーブのシャツ。動き易い格好《かっこう》と言われたけれど、これでいいのでしょうか。
……多分、大丈夫だろう。
ただ、これだけだといくらなんでも寒いし、裏庭に行くまでが恥ずかしい。
よって、レインの上着を借りることにする。幸い、事前に許可は得てある。
ワードローブを開け、見事に真っ黒な服ばかりが並ぶ中から、革製のコート(当然のごとく黒色)を選んだ。袖に手を入れて羽織ってみる。裾《すそ》が足首あたりまできた。
さもあらん。優に一八〇センチを超えるレインに比べ、シェルファは一六〇センチそこそこの背丈なのだ。
部屋に運んでおいた等身大《とうしんだい》の鏡で見ると、どうも服を着ていると言うより、服に着られているという感じだった。
でも……これを着ていると、レインに抱かれているような気がします。
それで十分だった。
シェルファはレインが用意してくれた細身の剣を手にして、微笑みながらそっと扉を開けた。
「――おっ」
廊下には、レインがいない間の交代なのかガサラムが立っていて、シェルファを見て小さく声を上げた。
無精髭《ぶしょうひげ》の目立つ顎《あご》をひとしきり撫《な》で、ふむぅ〜と唸《うな》る。
「あの……これ、おかしいですか」
「ああいや、違いますよ。ただ、将軍のコートを着ていらしたので驚いただけでして」
顔を綻《ほころ》ばせ、低頭《ていとう》した。
「後先《あとさき》になりましたが、おはようございます。今日はいい天気ですな。……ところで、その剣は?」
「おはようございます。いつもご苦労様です」
シェルファはまず先に丁寧にお辞儀《じぎ》をしてから、質問に答えた。
「今日レインに、剣技を教えてもらう約束なのです」
いつになく、ハキハキと答えることが出来た。ここ最近、警護のためかレインの次にガサラムが側《そば》にいることが多く、さしものシェルファもこの老戦士に慣れてきたのである。
ギュンターにガサラム、この二人がレインがよくシェルファの警護につける双璧《そうへき》であり、自然と両者に対するシェルファの信頼度も増してきている。
それに、実の父親とほとんど会話すらした経験のない彼女にとり、このガサラムはなんとなく父性《ふせい》を感じさせる存在なのだった。
「ほほぉ〜、剣技を。そりゃ羨《うらや》ましいことですなあ。あの人からなら、私も習いたいくらいですよ。――しかし、練習の時はコートは脱ぐんでしょう? 少し寒そうですね、そのお召《め》し物《もの》だと」
「レインは、『動きやすい格好《かっこう》』と言いましたし、わたくしなら平気ですわ」
言った瞬間、ぶるっと寒気がきた。口元に手をやり、クチュンッ、と小さくくしゃみをしてしまう。
かあっと頬が熱くなった。
ガサラムは心配そうな顔になり、
「本当に大丈夫ですか。無理なさらない方がいいですよ」
「だ、大丈夫です。あの、きっと一生懸命練習していたら温かくなると思いますし。それに、私は教えてもらう方なのですから、レインに言われた通りにしないと」
「なるほど……」
ガサラムはあきらめたように目元を和《なご》ませ、「では、せめて今は前を閉じておきましょうや」と忠告した。
シェルファが素直に言われた通りにすると、老騎士はなにげない口調で付け加えた。
「しかし、王女様は将軍のことがよっぽど好きでいらっしゃるんですねえ」
このガサラムには、シェルファも全く素直な気持ちで頷《うなず》くことが出来た。
「はい」
また頬が熱くなったが、そっと続けた。
「……愛しています」
揶揄《やゆ》するように微笑んでいたガサラムは、黒瞳《くろめ》を一杯に見開き、凝固《ぎょうこ》したようになった。
「は……こりゃまたその……なんと言うか」
驚き顔をゆっくりと苦笑に変える。
「光栄ですな。新参者《しんざんもの》の私ごときに正直に教えていただき。しかし――」
と、周りを見渡して声を低め、
「私は口が堅い方ですからいいですが、他の者にはあまり漏《も》らさない方がいいですよ。その……正式に公表なさる事態にでもなれば別ですが」
「わかっています」
自分は今、寂しそうな微笑みを浮かべているだろうな、とシェルファは思う。
「わかっていますわ……。でも、ガサラムさまはレインが信頼する方ですから。無闇《むやみ》に誰にでも申したりはしません」
「これは……重ね重ね、光栄です」
ガサラムの声音《こわね》に、恭《うやうや》しさ以外のなにかが混じった。シェルファが見上げると、歴戦の匂い漂う強面《こわもて》に、静かな感激が広がっていた。
「王女様がおっしゃるなら、そうなんでしょうねえ。そうですか、俺……いや、私はあの人に信頼されてますか。こんな役目をもらってるんだし、自分でも多少はそんな自覚がありましたが、そうやって保証されると嬉しいもんですなぁ」
「レインはあまり態度に出さないから、わかりにくいんです」
シェルファはにこにこと言った。
自分とは違う意味で、この人もレインが好きなのだとはっきりわかったので、なんだかとても嬉しい。
ガサラムを一気に身近に感じてしまう。
「でも、見ていればわかりますわ。レインはガサラム様を深く信頼しています」
へへへ、とガサラムは頭をかきながら笑った。照れているようだった。
「恐縮《きょうしゅく》です。俺もそれに応えないといかんですな」
それで、と少し腰をかがめる。
また辺りを一渡り見渡す。
「話を戻しますが、ご本人にお気持ちは伝えたんですか」
気分がすうっと下降した。
シェルファは視線を落とし、
「……ええ。でも、『今はまだ、気持ちに応えてやれない』と」
「は、そりゃ――」
「あ、でもいいんです。レインにはレインの事情がありますし……だから、あのお返事は当然だったんです。その事情はお話しできませんけど。そういうわけで、わたくしは少しも苦にしていません。それに――」
困惑したガサラムに矢継《やつ》ぎ早《ばや》に説明したシェルファは、最後の方で声が小さくなってしまった。なんだか、言葉にするのが恥ずかしい。
ややあって、「それに……どうしました?」とガサラムが優しい声で訊いてきた。
今更《いまさら》話を終える訳にもいかず、勇気を出して続ける。
「それに、相手の気持ちに左右される想いなんて、どこか間違っていると思うんです」
そっと自分の胸に手をやった。
「レインの気持ちがどうあろうと、わたくしのこの想いは変わりません。それは……好きになってもらえたら、とてもとても嬉しいですけど」
でも、と声に力を込め、もう一度顔を上げる。
「今はこれでいいんです。レインのそばにいられるだけで、十分過ぎるほど幸せです」
「なるほど。――よくわかりました」
恥ずかしさに耐えてシェルファが一生懸命語り終えると、ガサラムはにっこりと笑い、軽く一礼した。
「よくわかりましたよ。いいお話を聞かせてもらいました。あの人の事情についちゃ知りませんが、少なくともこの私は、王女様、あなたを応援していますよ。いつの日か、王女様の想いが通じるといいですなあ」
「……ありがとうございます」
シェルファは涙が出そうになるのをこらえ、微笑みを浮べた。
ガサラムもそれに応えるように、とびきりの笑みを返してくれた……
――☆――☆――☆――
少し遠乗りでもして色々と考えてみる……そう言い残し、ラルファスは厩舎《きゅうしゃ》の方へ去った。ここしばらく忙しかったので、気分転換もかねて町の方へでも行くのかもしれない。
今日は珍しく体が空いたそうなので、しばらくは帰ってこないだろう。
レインも同道したいところだが、あいにく今日は約束がある。
そろそろ時間か、とぶらっと裏庭の方へ歩き出したレインは、セルフィーとユーリの二人組がぺちゃくちゃしゃべりながら、宿舎《しゅくしゃ》の方から出てくるのに出会った。
遠くから見ると、どうもセルフィーがモジモジと話すことに対し、ユーリがしきりにハッパをかけているようである。
「よお」
近づいてから気軽に声をかけてやると、
「……あ」
レインを目にした途端《とたん》、なぜかセルフィーが劇的な速さで真っ赤になった。慌《あわ》てふためいた様子で、左肩の肩先あたりに右手の拳《こぶし》を当てるサンクワール独特の敬礼《けいれい》をする。なにか動きがぎくしゃくしていて、不自然なことこの上ない。糸で吊《つ》った操り人形のようである。
その横のユーリも、おざなりな仕草で友人に倣《なら》って敬礼《けいれい》したのだが、なにがそんなに愉快なのか、セルフィーの慌《あわ》て振りを見てにやけている。
まあ、この年頃の少女というものは、なにを見ても笑いの種になるのだろうが。
「なんか話が弾んでいたが、笑えるネタでもあるのか」
レインは自《みずか》ら話をふってみた。
案の定ユーリが、
「うふふ。今ですねえ、ウジウジしてても始まらないから、ここらで一発、派手にこく――」
「わああああ、わあああああーーーっ!?」
なに言い出すの、この子!
そんな顔でギクッと硬直したのも束の間、セルフィーは唐突《とうとつ》に奇声を上げ、両手をブンブン振り回した。涙目になっている。
「……なにやってんだ、セルフィー。悪いもんでも食ったか。で、ユーリ。聞こえなかったぞ。ここらで一発、こく……?」
「いえっ」
またセルフィーが口を挟《はさ》んだ。
「刻一刻と、決戦の時が近づくなぁ、なんて……あははははっ」
軽くウェーブのかかった手入れのいい黒髪をしきりに弄《なぶ》りつつ、そんなことを言う。
……目を合わそうとせずに。
どうでもいいが、そのセリフだとさっきと文脈が繋《つな》がらないではないか。
しかし追及する気まではないので、レインはこだわらなかった。さっさとまた歩き出す。
「まあ、楽しそうでなによりだ。じゃあな」
「あ、あのっ」
なんだ? 呼び止められたので振り向くと、セルフィーは「あっ」という表情で口元に手をやり、すぐに下を向いた。
「いえ……そのぉ」
「ほらっ。今よ今っ。今しかないわっ! その呼び止めた勢いで、どかん! と言っちゃいなさいってばっ」
小鼻を膨《ふく》らませ、ユーリが煽《あお》りまくっている。レインだけがさっぱり事情を理解していないようだった。
「なんだよ、また前借りか? 苦しいなら貸してやらんこともないぞ。別に体で払えとは言わんから安心しろ」
「ち、違いますっ。前のだって、まだほとんど使っていません。わたしはその――」
だからなんだ? と首を傾《かし》げて見やると、セルフィーは無理しているのがわかりすぎるくらいわかる顔つきで、親の敵《かたき》を見るような気迫をもってレインの顔を直視した。
「亡くなった父が言ってました。こういう時は、きちんと伝えるべきだと」
「……はあ?」
「わたしは――」
最初から赤かったセルフィーの顔がさらに赤みの濃度を増した。なにか言おうとしているらしいが言葉にならない。唇が震え、ぱっちりとした二重の瞳が涙で濡れ、ついには顔を覆ってその場にしゃがみ込んでしまう。
「ひぃーん! だめですっ。そんなすぐに言えたら苦労しませんっ」
レインには理解し得《え》ない何らかの感情が爆発し、セルフィーは一人で「駄目だわ駄目だわっ」と繰り返し呟《つぶや》いている。
ユーリは友人の背中を撫《な》でて慰《なぐさ》めの言葉をかけ、レインには「あんたが悪いのよっ」という視線を送り込んできた。
いや、口にもした。
「将軍が悪いんですよっ。泣かしちゃって!」
俺のせいかよ、とレインは思う。
しかしまあ、心当たりがないではない。多少の事情はギュンターから聞いている。
「もしかしてあれか、初めて人を斬《き》って、そのせいで落ち込んだ件か? 役に立つかどうかわからんけど、これから姫様に剣技を教える約束なんだ。おまえも来るか、セルフィー?」
せっかく親切に申し出たのに、少女二人はそれを聞いてどっと脱力したような表情になった。特にユーリの目つきは、あからさまに「こいつ馬鹿?」と言っているような気がしてならない。
「嫌なら無理には勧めないぞ」
すっかりふてたレインは、また歩きだそうとする。
と、セルフィーがさっと立ち上がり、
「わたしも教えていただいていいですか」
「気が変わったのか」
「はい……」
「ふん。まあ、よかろう。なら一緒に付いて来い」
「はいっ」
完全に気分を切り替えたのか、勇《いさ》んでセルフィーが頷《うなず》く。
やっと話がまとまり、さあ行こうかという時になって、今度は甲高《かんだか》い声。
「将軍っ」
金髪のセノアがこちらを見て、一直線にやってくるところだった。
「今日はよく人と会う日だなあ。なんだ、また文句か」
「どういう意味です。ただお見かけしたので、お声をかけただけではありませんか」
むっとして言い返し、その語調はセルフィー達を見てどんどんきつくなっていく。
「……なにか始めるのですか」
「おい。なんだよ、その最初から猜疑心《さいぎしん》にまみれた声はっ。おまえの勘ぐるようなことじゃない。今日は姫様に剣技を教える約束なんだ」
まっとうな説明をしてやったのに、セノアは全然納得しなかった。
切れ長の碧眼《へきがん》に険を浮かべ、ぎらんと睨《にら》む。
「では、この者達はなんです?」
「たまたま出会って、一緒に教えてやることになった。これから裏庭に行くところだ」
余計に機嫌《きげん》が悪くなった。
「この二人には声をかけ、直属の副官たる私にお声をかけてくださらないとは、どういうことですか!」
レインはめんどくさくなり、
「ならおまえも来いよ。それでよかろう」
「ええ、行きますとも。将軍には一度も稽古《けいこ》をつけてもらってません。この時を逃してなるものですか!」
怒りのセリフの中にも、どこか嬉しそうな響きが混じっている気がする。
理由は知らないが、戦いに関することならなんでも好きなのだろう。
レインは、「まあ女が増えるのは歓迎すべきか」とため息をついた。
城の本館を大きく回り込み、裏門近くの小さな広場に行くと、そこにはもうシェルファがガサラムと二人で待っていて、立ったままずいぶんと熱心に話し込んでいた。
そうか、あの親父とはもう仲良くなれたのか。うん、結構結構――などと思いかけたレインだが、会話の内容が聞こえてきて顔をしかめた。
「それでですねっ、俺がテーブルを蹴飛ばして牽制《けんせい》した時の、あの人の反応の見事さと来たらこれがもう! なんとテーブルの上に飛び乗って跳躍し、天井蹴って襲いかかって来たんですぜっ」
絶好調で唾《つば》を飛ばしまくるガサラム。
見せ物小屋の呼び込み親父のごとく、乗りに乗っている。
年甲斐《としがい》もなく興奮しているようだ。シェルファの顔は背中を向けていてわからなかったが、微動だにせずガサラムを見上げている。
老騎士の熱弁はさらに熱く続く。
「俺ぁ、この歳になるまでに多くの強敵に会いましたが、ついにあれほど見事な反応と剣技にはお目にかかれませんでしたなぁ。で、ここからがまたモノ凄まじい動きでっ!?」
「こらこらこらっ」
熱い身振り手振りで大演説をぶっているガサラムに、レインは大股で近寄った。
「大昔の話をしてんじゃないっ。つまらん話で姫様を退屈《たいくつ》させるなっ」
「あ、こりゃどうも」
ガサラムはレインを見ても動じず、かえってニヤッと笑った。
「しかし、王女様は大いに興味がお有《あ》りのようですぜ」
む、とレインがシェルファを見ると、ガサラムのセリフも道理《どうり》で、彼女は頬を紅潮《こうちょう》させ、ガサラムの話に聞き入っていた。小さな拳《こぶし》を握りしめ、誇張《こちょう》でなしに固唾《かたず》を呑《の》んでいる。
いつもはすぐに気が付くのに、話に熱中しててレインの接近も目に入らなかったようだ。それはいいが、この子はホントに俺のコートを着たのか。気安く許可したが、まさかホントに着込んでくるとは。
苦笑するレインに、シェルファがようやく、「レイン!」と、いつもの嬉しそうな声で挨拶する。
しかし、その背後をなにげなく見て、首を傾《かし》げた。
「あの、その方達は……」
「ええ。たまたま出会いまして。まあ付録《ふろく》だと思って気にしないでください。やかましいのもいますが、祭りの鐘や太鼓だと思えば」
「それはいいですけど……あの、その方達全員でしょうか」
――わかっている。
気配《けはい》でとうに気付いている。
うんざりしてレインが振り向くと、セルフィーやユーリ、セノアといった当初の面々に加え、遠巻きに騎士見習いや騎士を含めた兵士が、わっとばかりに集合していた。軽く数十人はいる。ほとんどが男ばかりなのは言うまでもない。
どうも、レインが綺麗どころを引き連れて歩いていくのを見かけ、手すきのヤツがそこら中からわらわらと集まってきたらしい。
まるで、蜜にたかる蟻《あり》のようである。
どうやらこの城は、余程《よほど》に暇なヤツが多いと見える。
レインは自分を省《かえり》みずにそう思った。
「おい、おまえらっ。これは見せ物じゃないぞっ」
一喝《いっかつ》すると、心持ち距離を置いたが、散るまでには至らない。と、集団の中から見覚えのある童顔《どうがん》が出てきた。さすがにレインも名前を覚えた、いつぞやのミランである。
「あの……。さっきすれ違う時に聞くともなしに聞いたのですが、剣技をお教えになるとか。お邪魔はいたしませんから、近くで見ていてはいけませんか。将軍に稽古《けいこ》をつけてもらうのは無理でも、ぜひこの目で見て参考にしたいのです」
「……うむ。まあ、俺の剣技が見たいというのなら仕方あるまい」
レインはたちまちにして折れた。
機嫌《きげん》を取るためにてきとーに言ったのではないとわかったからだ。
本気なのは、波動などから明白である。こんな殊勝《しゅしょう》なヤツも珍しいだろう。
「――と言ってますが。いいですか、姫様」
「え、ええ……」
ちょっと不安そうだったが、シェルファは一応了承した。もっとも、この場面でなかなか断れないだろうが。
この子も少し人に慣れた方がいい。
そう思い、レインはごり押ししてみたのだ。まあ、ミランの言いように気分が良くなったのもあるが。
とにかく、シェルファが許可した途端《とたん》、あっという間にその他大勢もさあっと側《そば》に寄ってきて、輪を作ってしまった。
「いや……俺が許可したのはミランだけのつもりだったんだが……まあいいか」
なにしろ主君なのだ。人前に出ることに慣れる必要があるだろう。
そう結論付け、レインはこだわらないことにした。どうしてもシェルファが気にするようなら、改めて見物人を叩《たた》き出せばよい。
「さて、それでは始めるとするか」
開始を宣言すると、シェルファが慌《あわ》ててコートを脱いだ。袖無しの薄い純白のシャツに、ほっそりした長い足がむき出しの、白いショートパンツ姿になる。
その姿を見て、見物人が「おおっ!?」とどよめいた。ざざっと詰めてきそうになったので、レインがぎろっと睨《にら》む。
それで殺到してくるのは避けられたものの、ざわめきは止まない。中には「生きていて良かった!」としみじみ呟《つぶや》き、朋輩《ほうばい》と抱き合って涙ぐむヤツまで出る始末である。
感動のあまりミゼル神に祈りを捧げるヤツまでいたりして、レインを大いに脱力させた。
全く……スケベ心が満たされたのを、戦いの神に感謝してどうする!?
「静まれ! 静かに見学出来ないのなら、この俺が直々に叩《たた》き出すぞっ」
やると言ったらホントにやるのは、部下の誰もが知っている。
レインの半分本気な怒鳴《どな》り声に、さすがに馬鹿騒ぎも止んだ。
吐息《といき》をついて四人に向き直る。無理もないことだが、女性陣は全員、眉をひそめるか恥ずかしそうにしているかのどちらかだった。
特にシェルファは、緊張と寒さと恥ずかしさの相乗効果《そうじょうこうか》か、小刻みに震えていた。動きやすい格好《かっこう》なのは否定しないが、今は真冬である。あまりに薄着過ぎるのだ。
おそろしく素直な子なんだから、もっとちゃんと格好《かっこう》を指定するべきだったかもしれない。
レインがつかつかとシェルファに近づくと、すがるような瞳で見られた。
「……レイン」
「大丈夫だ。いま温かくしてやるからな」
そっと囁《ささや》き、右の掌《てのひら》に光を集める。そのまま手を彼女の頭にあて、魔力を注入した。
静かに手をどけると、びっくりした顔のシェルファと目があった。
「体がぽかぽかします……」
「魔力は色々応用できますからね」
レインは普通の声音《こわね》で返し、笑顔で元の位置に戻った。
セルフィーを始め、残りの三人の羨《うらや》ましそうな視線が突き刺さった。
「しょ〜ぐ〜ん! あたしも寒いんですけどぉ」
ユーリがぱっと手を上げる。
「おまえらはそんなに薄着じゃないだろうがっ。ったく、スカートまで長いのをはいてる、わかってないヤツもいるし」
特にセノア(スカート長い)を睨《にら》み、「根性でなんとかしろっ」と言い捨てた。
「ええっ、それって贔屓《ひいき》じゃっ」
「当然だ、俺は公平無私《こうへいむし》とは無縁な男だからな。それより、早速始めるぞ。剣を抜いて構え!」
ぶうたれた様子のユーリは、押し切られてのろのろ抜剣《ばっけん》したものの、ふてくされたように述べる。
「……でも、木剣とか用意してないですけど。真剣なんか使って、将軍が怪我《けが》しても知りませんよ」
「はっはっは!」
レインは、ユーリを指差して笑い飛ばした。
「近年、まれに見る愉快なジョークだな、おい。おまえが涙目で必死こいて振った剣が、億が一にも俺に当たると思うのか?」
「ぐ、ぐぎぎ……。そりゃ、あたしじゃ駄目かもしれないですけど。でも、あたし知ってるんですよ! 将軍とあのジョウとの戦いの時、こっそり戻って安全な商店の陰から見物してたんですからっ」
なにやら見当はずれに勝ち誇るユーリ。
そんなトコで見物してる暇あったら、チビの警護にでもつけよ!
レインは大いにむっとした。
「見物してたからなんだよ」
「あれ、結構苦しい戦いじゃなかったですかぁ」
「おまえの目はガラス玉同然だな。どこを見てた、どこを!」
しょうがないなぁ、というようにレインは首を振る。ため息もつくし、顔もしかめる。
「おまえも、所詮《しょせん》は素人《しろうと》か? あと五秒もあれば、あいつは俺の足下に転がって自分の無謀《むぼう》さをどっぷり後悔しつつ、涙にくれて冥界《めいかい》へ旅立つところだったんだよっ。ですね、姫様」
いきなりシェルファに振る。
体が温まってにこにこしていたシェルファは、「はいっ、レインが今にも勝ちそうでしたっ」とためらいもなく、元気一杯に答えた。
期せずして、二人を除く広場の全員が思う。
『ことこの件に関しては、この方の言うことはイマイチ信頼がおけない……』
誰よりも不審な顔をしたユーリが、まだしつこく絡《から》んできた。
「――確かあの時は、『あと一分もあれば〜』とか言ってたような」
「そこっ!」
問答無用《もんどうむよう》で、レインはもう一度びしっと指差す。
「師の前では静粛《せいしゅく》にしろ。とっとと剣を構えろ、とっとと!」
今度はユーリも従った。
ただし、見るからに不服そうではあるが。
ようやくまともに始められる……そう思い、レインは即席《そくせき》生徒を眺める。
向かって右から、セノア、ユーリ、セルフィー、シェルファの順である。
それで、瞬時にまともそうな構えを取ったのは、セルフィーだけだった。彼女は、いわゆる正眼《せいがん》(中段)の構えを取っており、格好《かっこう》もなかなかサマになっている。
残りの面々は――
シェルファは隣のセルフィーを見て、おぼつかない手つきで真似《まね》をしているところであり、ユーリはだらっと下段《げだん》に剣を下げている。
セノアはなんの真似《まね》か、剣を頭上に振り上げた大上段《だいじょうだん》の構えを取っていた。
……もの凄く嬉しそうな赤い顔で。
それで、こいつが一番なっていない。
「う〜ん……。後先《あとさき》になるが、そのままでちょっと各自、剣技を習った経歴を言ってみろ」
一番先にセノアが口を開いた。
「ふふ。こう見えても私は――」
レインは隣を指差した。
「はい、次」
「な、なんで私を飛ばすんですかあっ」
「おまえの経歴なんか聞いても無駄だっ。いいから次っ」
ユーリ達が顔を見合わせた。
「十歳くらいからかなあ……ポツポツと自己流で」
「わ、わたしは、五歳の頃から父に教えてもらっていました」
「……今日が初めてですわ」
「なるほど。だいたい予想通りか」
レインは大きく息を吐き、荘厳《そうごん》な声音《こわね》で述べてやる。
「いいか。まず最初に断っておくが、一番|賢《かしこ》いのは戦わないことだ。最初から戦いを回避する道を探るのが、実は一番正解なんだな。剣を抜く状況になるっていうのは、ホントはあまり褒《ほ》められたことじゃない」
夜の墓場のごとく、辺りがしーんとなった。
まさかレインがこんなことを言い出すとは、誰も思わなかったらしい。
ユーリなどは早速、小さい声で「全然、説得力ないしぃ」とかほざいていた。
そんな反応には無頓着《むとんちゃく》にレインは続ける。
「しかし不幸にして戦うしかなくなったら、そうも言ってられない。ここで間違っちゃ困るが、剣技は突き詰めて言えば『いかに効率良く人を斬《き》るか』だ。最後はこれに尽きる。きれい事はこの際、忘れろ。一度剣を抜いて相手と向き合ったら、どちらかが倒れるしか勝負の終わりはないと思え」
なんとなくセルフィーを見て言う。
レインの視線に、セルフィーは眉根《まゆね》を寄せて苦しい表情を見せた。
わかっていますけど……というヤツだろう。
一度染みついた恐怖は簡単には抜けない。人を斬《き》るというのは、相手を殺すということに繋《つな》がる。気の弱い者や優しい気性の者は、まずここでつまずく。そこを乗り越えられるかどうかは……本人次第だ。
なにか強い動機、あるいは信念を持つか……さもなくば、心が麻痺《まひ》するのを待つしかない。
レインの視界の隅《すみ》では、どっかとばかりに座り込んだガサラムが、瞑目《めいもく》しつつしきりに頷《うなず》いていた。そして、やはりちらっとセルフィーを見る。
どうやらこの親父も勘づいていたらしい。
「それはそれとしてだ。セルフィー以外は構えがなってないなあ。まあ、ユーリなんかは俺の構えと似てるんだが……」
レインはまずセノアの背後に回り、後から手を伸ばして彼女の剣を持つ手に添えた。
周囲の群衆から、また羨《うらや》ましそうな声が上がった。
「ひっ! な、なんです!」
「『ひっ』とはなんだよ、『ひっ』とはっ。構えを直してやるんだ。じっとしてろ」
手はこう、足はこう、と一々教えてやる。
セノアは意外とおとなしく従ったが、思いついたように尋ねた。……小さい声で。
「しかし将軍。将軍は時に、大上段《だいじょうだん》で構えているではないですか」
レインはきっぱり答える。
「天才は全く参考にならないし、真似《まね》しても無駄だ。俺くらいになると、なんでもありだね」
しかし……よく見てるな、おまえ? と付け加える。
相手はなぜか黙り込んだ。顔が益々《ますます》赤い。
沈黙した副官の構えをまともに直してやり、隣のユーリには一言、「凡才のおまえも、横着《おうちゃく》せずに中段で構えろ!」と言い捨てる。
そのままシェルファの方へ行こうとすると、セルフィーがおずおずと言った。
「あの……わたし、変じゃないですか」
「別に。だいたい俺の場合は、本来『構え』っていうのは動き易ければそれでいいんだ。おまえのは文句つけるトコないな。あとは気分の問題だろう」
「う……そう言われると」
「いいか」
レインはセルフィーの肩に手を置き、じっと薄緑《うすみどり》の瞳を覗《のぞ》き込んだ。耳元にそっと囁《ささや》きかける。
「ここだけの話だが。俺も昔、人を斬《き》って吐いたことがある。だから、気にすることはない。みんな同じだ。平気で斬《き》れるヤツの方がまれなんだ」
「レ、レイン様が……」
「ああ」
頷《うなず》き、内緒だぞ、と心底驚いた顔の彼女に目で念を押す。
「だが、忘れちゃいかんのは、おまえがためらうことで他に死ぬヤツが出る可能性だ。斬《き》り合いになったら、そこを考えてみろ」
華奢《きゃしゃ》な肩を軽く叩《たた》き、セルフィーから離れた。
セルフィーは……わずかに頭を下げたようだった。
「――さて」
レインはシェルファの背後に回り、手をとって構えを直してやった。体に触れると、シェルファが小さく「あっ」と声を立てる。この子に限って、険悪《けんあく》の声ということはないだろう。多分、その反対である。
セルフィーよりもさらにか細い肩が、ほんの少し震えた。
「まだ寒いですか」
「い、いいえっ」
ブンブン首を振る。
全く癖のない、まっすぐに伸びた金髪がふわっと広がって、なにかよい香りが広がった。
そんな風に見え見えの感情を出されるのは、今はまずいのだが。
レインは急いで、
「さっき言ったように、構えにそうこだわることはないです。要は、動き易く、剣をすぐに振れる体勢ならいい。問題はそこから先です。相手の剣先を見るより、目を見てください。剣にだけ注意を奪われると、思わぬ不覚を取ります。短剣や拳《こぶし》、それに隠し武器や蹴り……どんな不意打ちがあるか知れたもんじゃないですからね。
しかし、相手の目を見ていれば、必ず次の動作の兆候《ちょうこう》があります。気配《けはい》というか。本当は自然と敵の気配《けはい》を先読みするか、そいつのエクシード……つまり「気」を感じ取るのが一番早いですが、まあそれはもっと先の話です」
「は、はいっ」
元気のよい返事に苦笑する。
説明を終え、レインは元の位置に戻った。
いきなり、セルフィーに人差し指を突きつける。
「よし。例として今からおまえに斬《き》りかかるからな。他の者は、構えから防御に移る動作をちゃんと見ているように」
「え、ええーっ!?」
セルフィーは、瞳を真ん丸に見開き、自分の顔を指差した。
「わ、わたしですかっ」
「この中じゃ、おまえが一番確かな腕だろうが」
『なんですとっ』
『え〜、そうなんですかぁ?』
今度はセルフィーではない。
セノアとユーリである。
二人とも、このメンバーなら自分が一番だと思っていたらしい。
ユーリはまだしも、セノアはかなり厚かましいとレインは思う。なにが「なんですとっ」なのか。
「やかましい! で、セルフィーいいか」
「お、お手柔らかに……」
セルフィーが汗ジトでガクガク頷《うなず》いた。
レインは足下から小石を拾い、
「よし。この石が地面に落ちたら、怒濤《どとう》の勢いで斬《き》りかかるからな」
「ええっ。こ、心の準備が……しかも『怒濤《どとう》の勢い』ってそんな……」
「んなもん、知るかっ。どんな時であろうと、敵は待ってくれないんだよっ」
相手の返事を待たず、ぱっと小石を上に投げる。平然と落ちてくるのを待った。
セルフィーの方はといえば、ごくっと喉《のど》を鳴らしている。
そして、小石が地面に触れた刹那《せつな》。
見物人達の目の前で、黒影が残像だけを残して突進した。
数メートルの距離が瞬時に詰まり、わずかに遅れて、見る者の頬を風がすり抜けていく。
視覚ではその瞬間を捉《とら》えられず、抜剣《ばっけん》の微《かす》かな鞘擦《さやず》り、その後の魔剣特有の微音によって、彼らはレインの動きを悟《さと》った。
ズシャッ!
ブゥゥゥゥゥゥゥン
「……ひっ」
セルフィーは剣を上に持ち上げようとしたところで固まっていた。どうやら、自分の頭上を魔剣が襲うと見たらしいが、あいにく青く光る刀身は、セルフィーの細首を刈り取る寸前で止まっている。それこそ、首の皮膚までミリ以下の間隔しかなかった。
レインが魔剣を止めなければ、そのまま頭がポトリと落ちていただろう。
「おい」
レインは至近《しきん》から彼女の顔を覗《のぞ》き込み、顔をしかめた。
「まあ、見当外れの動きは見逃してやるとしてだ。頭を防御するならするで、ちゃんとガードするところまで持ち上げろよ。数センチ持ち上げたところで、固まってどうする!?」
「だ、だってだって! 速すぎますよ〜。わたし、今度こそはって思ってじっと目を凝《こ》らしてたのに、残像しか見えなかったですっ」
「動体視力と反射神経に難があるなあ」
無茶なことを平気で言い、レインは魔剣を鞘《さや》に戻した。
セルフィーがヘタヘタ〜とそこにへたり込みそうになったので、急いで腕を掴《つか》んで支えてやる。
「こら、毎回同じことやってんな。そのスカート丈でへたり込んだら、またパンツ丸見えだぞ。……あ、そうか。その方がいいな、うん」
ぱっと手を離す。
「きゃっ」
よろけたが、セルフィーはなんとかたたらを踏んで堪《た》えた。
「……ちっ」
「しょーぐんっ」
レインが舌打ちすると、ユーリがたちまち非難してきた。
「あ〜、わかってる、わかってる。真面目《まじめ》にやるさ」
手を振って元の位置に戻った。
「で、参考になったか」
仲良く四人とも首を振ってくれた。
「むう……。言っておくが、俺の動きが速いように見えるのは、スピードのせいだけじゃないぞ。無駄な動きを一切しないからだ。踏み込みから抜剣《ばっけん》までの間、一切の無駄を省《はぶ》けば、どんなヤツでも多少は素早い動きに見えるんだよ」
レインはそう説明してから、今度はわざと緩やかな足の運びでセルフィーに斬《き》りかかってやり、彼女に受け止めさせた。
終わった後、群衆も含めてぐるっと見渡す。みんな、わかったようなわからないような、複雑な表情をしていた。そんな中で、シェルファとセルフィー、それに見物人のミランは、自《みずか》らも剣を抜き、レインの動きを真似《まね》るようになぞっていた。
この三人はさすがに真面目《まじめ》である。
「姫様」
「はい?」
「今度は姫様からです。俺の動きの真似《まね》でいいですから、この俺に斬《き》りかかってみてください」
「は、はいっ」
たちまち緊張のぶり返した顔で、シェルファは剣を構えた。……動きが固い。
「あ、ちょっと。まず深呼吸してください。俺の目を見て、大きく息を吸って、そして吐く。……そう。……もう一回」
シェルファは言われた通り、レインから目を離さずに、何度も深呼吸した。そのうち、体から固さが取れてきた。
落ち着きましたか、と尋ねると、コクコクと頷《うなず》く。
「では、どうぞ。ただし、練習ではなく、本気で敵を倒すつもりで。集中してどうぞ」
見物人がしーんと見守っているお陰だろう。レインの目を直視したままのシェルファは、すっかりリラックスした様子でもう一度|頷《うなず》いた。
素直な性格のせいか、レインをじっと見ているうちに、一時的に他人の存在が目に入らなくなったようだ。
レインは、初めて少し気を張って構えた。
なぜなら、もしも彼女に隠された才能があるのなら、今こそそれがはっきりするだろうからだ。
才能というのは掴《つか》み所がなく、手で触れられるわけではないが、その片鱗《へんりん》は必ず表れる。たとえ初心者であろうとだ。
あの、どこか心地良いプレッシャーの正体はやはりシェルファの才能に基づくものなのか、それとも――
シェルファが走り出した。
足はさほどに速くないが、フォームは悪くない。
キラキラ光る金髪を背後になびかせ、新雪を思わせる真っ白な長い足で、懸命に駆ける。
一気にレインの目前に走り込んできた。
さっき言われた通り、極力無駄の無い動きで剣を振り上げる。彼女としては精一杯のスピードだろう。まさか自分の一撃がレインに当たるとは夢にも思っていないらしく、手加減している様子はまるでない。
この世の誰よりもレインの実力を認めているシェルファである。その信頼は、ほとんど信仰の域に近いかもしれない。
――だからだろう。
相手の強大さ故《ゆえ》に、初めから自分の剣技など通用しないと悟《さと》っているのか、思い切りが良い動きだった。体のキレもいい。
しかし……これは……
首を傾《かし》げる思いで見守っていたせいだろうか。
レインがはっとした時には、シェルファの剣が頭上に迫っていた。
だが、レインは別に慌《あわ》てない。どのみち、相手の攻撃をかわす時は限界まで引きつけているのだ。
斬撃《ざんげき》を受ける寸前ですっと体をさばき、シェルファが目標を見失い体を泳がせたところへ、無造作《むぞうさ》に魔剣を抜き放って刃《やいば》を首筋に当てた。
おそらくシェルファにすれば、突然相手が消失して、気付いたら自分の急所に刃が突きつけられていたように見えたはずだ。
で、やはりそうだったらしい。
美貌《びぼう》に、すがすがしいほど正直な驚きが走り、次の瞬間、勝負が決まっているのを知って感心したように微笑んだ。
荒い呼吸の下から尊敬心の滲《にじ》みまくった声音《こわね》で言う。
「レインはやっぱり凄いですっ。今、突然消えたのかと思いました!」
その顔がいぶかしそうに傾《かし》ぐ。
「あの……どうかしましたか。わたくし、なにか不都合なことを?」
「あ、ああ。いえ、なんでもないです」
レインは大急ぎで場を繕《つくろ》った。
何事もなかったかのように微笑む。
「……スジは悪くないですね。訓練次第で相当なレベルにいけるでしょう」
「そうですかっ」
ほっとしたように笑う。
「わたくし、レインに師事して、一生懸命がんばりますっ」
「いやあ、王者っていうのはたしなみ程度の腕でいいんじゃないですか。姫様が剣を抜く段階に入ったら、戦いはもう負けも同然ですよ。がんばるにしても、手が荒れない程度にしてください」
軽口を返しながらも、レインは思う。
今のではっきりした。もう間違いない。やはり、この子から感じていたあの感覚は――
『覚えておくがいい』
ふいに頭の奥で声が響いた。
ずっと昔に聞き、もはや記憶の中で風化し始めていた老い錆《さ》びたセリフが、今になって蘇《よみがえ》った。これまで意識したこともなかったのに、だ。
そうだ……確か、あの懐《なつ》かしいじいさんとの一件の後、俺は占い師に呼び止められた。
あの時の、老占い師が言ったセリフだ。
なぜ今頃、この時を選んだように思い出すのか……
しかし一度|蘇《よみがえ》ったその声は、あたかも十年近く昔のあの時に戻ったように、鮮明にはっきりと脳裏《のうり》に響いた。
『覚えておくがいい。あんたは将来、運命の選択をせねばならない時が来る。必ずだ。一方は安易で平穏な道。そしてもう一方は――』
「将軍!」
今度は記憶ではなく、現実の声がした。
レインは頭を振って、回想を打ち切った。もう昔の話だ。あれがなんだと言うんだ。それに、あの時だって返事は決まっていた。運命だろうがなんだろうが、俺の返事は同じだ。
きっぱり思考を切り換え、声の方を見る。
人波をかき分けかき分け、レニが小走りで駆けてくるところだった。
「どうした。もうメシの時間か?」
「なんで自分が、将軍の食事時間に一々呼びに来るんですかっ。呑気《のんき》なことを言ってる場合じゃないですよっ。たった今、街道を見張らせていた部下からですね、れ、連絡がっ」
「落ち着け、馬鹿! なんだよ、サフィールの一派でも攻めて来たのか」
冗談めかして訊いたレインに、レニは青い顔(早くも怯《おび》えているようだ)で答えた。
「本当にそうかもしれないんです、これが」
レインは、思わずシェルファと顔を見合わせた。
――☆――☆――☆――
にわかに仕事が増えた。
剣技の訓練などやっていられないので今日はこれまでとし、急いで城門を閉めて臨戦態勢《りんせんたいせい》に入る指示を出す。
ラルファスはまだ帰城しない。
一度遠乗りに出るとなかなか戻らない男なので、まだしばらくは戻ってこないだろう。それでなくとも、久しぶりに空いた時間なのだ。
使いは出したが、見つけられるかどうかは怪しいものだし、今はレインが働くしかない。
とりあえず大広間に仲間を集め、レニの報告を訊くことにした。といっても、ほとんどレインの配下ばかりである。これまた折り悪く、ナイゼルとグエンは兵の一部を引き連れ、演習に出かけていたところだったのだ。こちらにも使者を飛ばしたが、帰城するには時間がかかるだろう。
長方形の広大なテーブルの上座に、シェルファと並んで陣取り、レインはまず尋ねた。
「こちらに向かっているのを見張りが確認したと、そういうことだな。それで、敵の戦力はどれくらいだ」
レニはすっかり血の気の失《う》せた顔で、
「じ、自分が聞いた話では、せいぜい数百人だとか」
「――なに? そんな少数か! 部隊の編成はどうなってる? 指揮官は? 間諜《かんちょう》からはなにも報告が無かったぞ」
質問を重ねつつ、レインは内心で舌打ちしていた。今のところ、諜報《ちょうほう》活動は対ザーマイン戦を想定して行っている。人手が無限にあるわけではないので、他の国やサンクワール国内についてはどうしても後回しになる。
それとレインはなめるとまではいかないものの、この国の貴族達をザーマインほどには重要視しておらず、そのせいもある。サフィール側の周辺に何人かの間諜《かんちょう》を潜《もぐ》り込ませているが、せいぜいその程度の対応だ。
もっと端的に言えば、「そんな過去の遺物《いぶつ》に、いつまでも関わっていられるか!」という心境なのである。レインにとっては、規模からしても、ザーマインの出方の方がよっぽど重要なのだ。
しかしである。
このところコトが起こるのは、決まって国内においてだった。ギュンターとも相談し、ここらで方針を見直すべきかもしれない……
「その」
とまたレニが答えて言った。
「指揮官はまだ不明ですが、なにか妙なんですよ」
「なにがだ」
「早馬《はやうま》の報告では、部隊は過剰なまでに美々《びび》しく着飾った兵達ばかりのようです。しかも、多数の上級騎士が周りを固める、純白の馬車なんかが見えたそうで。どうも彼らは、それを守るように行軍《こうぐん》しているらしいです」
「純白の馬車ぁ?」
レインが呆《あき》れて鼻を鳴らした途端《とたん》。
「まさか!」
がたっと椅子を鳴らしてセノアが立ち上がった。なんだよ、と訊くより先に、対面のレニにぐっと迫る。引きつりまくった顔で、いきなり大声を出した。
「その馬車に家紋《かもん》はなかったですくわあっ」
「うわっ、びっくりした! ええと、よくわかりましたね。なんか馬車のドア部分にですね、真っ赤なバラの紋章があったそうな……。て、どうしましたセノアさん。顔色が一気に悪くなりましたけど」
レニの不審な表情に、セノアは目もくれなかった。大変だ、とポツリと呟《つぶや》き、ふらっとよろけて後退《あとずさ》る。何歩か下がり、いきなりなにもない床の上で、蹴躓《けつまず》いてすっ転んだ。
後転でもするみたいに派手に後ろ向きに倒れ、ゴゴンッと頭をぶつける。床の上で頭を抱えて悶《もだ》え始めた。
「い、痛い痛いっ」
「……おい。そのギャグ、ちっともおもしろくないぞ。せめてセルフィーを見習ってだ、事前にスカートは短いのにしてサービスするとかおまえ」
「ええっ」
なぜか当たり前のような顔で座るユーリと並んだセルフィーが、
「わ、わたしは別にサービスしているわけでは。あ、でも……その、レイン様になら」
小さく漏《も》らした声は、セノアの怒号《どごう》に消された。
「なにを訳のわからないことを! そんな下品な戯《ざ》れ言《ごと》より、『大丈夫か』の一言がなぜないのですっ」
「……大丈夫か?」
「とってつけたようにいっ」
涙目(めちゃ痛いらしい)で飛び起きたセノアは、憤懣《ふんまん》やるかたない表情でどんどんっ、と二度も足を踏み鳴らした。
「だいたい、仮にもこの国の上将軍《じょうしょうぐん》でありながら、深紅《しんく》の薔薇《ばら》の紋章に白い馬車で、ピンと来ないのですか」
一人で興奮気味のセノアから、レインはレニへと目をやった。
「おいレニ。今のでピンときたか」
「いやぁ。自分には全然」
「あの、レイン」
シェルファが遠慮深そうに口を挟《はさ》む。
「あ、姫様はご存じですか」
「ご当主にお会いしたことはありませんが。赤い薔薇《ばら》は、確か五家のうちの一家である、ハルトゥール家の家紋《かもん》ではないでしょうか」
「その通りですっ」
セノアの大声。
「エレナ・フェリシア・ハルトゥール! いつも人を見下《みくだ》したような態度を取る、高慢で嫌な、ハルトゥール家当主代行です!」
「なにいっ」
レインは初めて驚いた。
これほどびっくりしたのは、しばらくぶりのことである。
やっとわかってくれたか、と満足そうなセノアに向かい、畏怖《いふ》をこめて言った。
「よりにもよって、おまえが『高慢な女』とか評するとは……。そのエレナとかいうヤツ、モノ凄まじい女らしいなあ。……はっきり言って、たまげたぞ!」
「そ、それはどういう意味ですかあっ」
広間に、そこまで絶叫せんでも、というくらいのキンキン声が響き渡った。
レインはわざとらしく耳をふさぎ、
「喚《わめ》くな。他意はない」
「どこがですっ」
「あー、いいからちょっと黙れ。そのエレナって歳は幾つだ?」
「十八だと思いますが、それがなにか」
「……若いなあ」
セノアもそうだが、サンクワールの純血の貴族達は、どの家も当主が若いような気がする。前にラルファスに訊いたときは、「無論《むろん》、年寄りもたくさんいるが、一族を束ねるのは特別な事情が無い限り四十代までという制約があるんだ」とか言っていた。
若い者に任せるということで、それはそれで悪くない決まりだと思うが、それにしても十八は若い。寿命は長くとも、やたらと病気で死ぬ者が多いようだから、そのせいもあるのだろうか。
とはいえ、そんなひ弱な貴族達といえどもまだ相当数が残っているのだから、十分めんどくさいのだが。
「ハルトゥール家の当主は別にいます」
セノアがむすっと言った。
「彼女の父君がそうです。ただ、今は病床にありますが」
「……そいつもか。まあいい。どうせ見るなら、むさい男よりそっちの方がいいさ」
「将軍は、エレナを知らないからそんなことが言えるのです」
「楽しみにしておこうじゃないか。俺は、美人ならいつでも大歓迎だぞ」
『ええっ』
セルフィーとシェルファがぎょっとしたように顔を上げた。
「……なぜそこで驚きますかね。おっさんより美人の方が見栄《みば》えがいいのは自明《じめい》の理《り》でしょう」
レインは一応シェルファに言い、慌《あわ》てて俯《うつむ》いたセルフィーに目をやった。
なんでこいつまで驚くんだ?
「そんなことよりっ」
セノアがバンッとテーブルを叩《たた》く。
ちなみに、まだ立ったままである。
「どうするのです。いかにラルファス殿の知己《ちき》とはいえ、エレナなどをこの城に入れて」
「なにっ」
セノアを遮《さえぎ》り、レインは大急ぎで聞き返した。
「ちょっと待て。ラルファスの知己《ちき》? どの程度の知己《ちき》だ」
「ご存じありませんか」
セノアは苦い顔をした。
「エレナはラルファス殿に……その……恋しているようなのです。どうやらずっと昔に、ラルファス殿の父君のテコ入れで、その……婚儀《こんぎ》を前提にした対面をしたそうで、それから」
「婚儀《こんぎ》を前提!? おいおい。それで、ラルファスの方はどうなんだ」
初耳である。
少なくともレインは、ラルファスからそんな話を聞いたことはなかった。
随分《ずいぶん》と水臭い話ではないか。
レインがむっとすると、セノアはやや慌《あわ》てて、
「いえっ。私が話を聞いたところでは、どうもその、エレナが一方的に思い詰めているように思います」
「ほお……」
どう返したものか、反応に困る話である。
が、曖昧《あいまい》に頷《うなず》いて髪をかき上げたところで、レインは嫌なコトに気付いた。
「待ておい。つまりなにか、そいつらはここへ攻めて来ようとしているわけじゃなくて」
「さようです」
セノアが嫌そうに頷《うなず》く。
「エレナはおそらく、押し掛け援軍としてやってきたのではないかと」
――そんなのいらんから、帰れ。
反射的にレインはそう思った。
なにしろ、純血の貴族は一部の例外を除いてスカばかりなのである。
――☆――☆――☆――
ゆるやかに午後の時間が過ぎ、そろそろ日が傾きかけた頃。
噂の一団が街道の向こうからやってきた。
レインは報告を受けると急いで城壁の上に立ち、セノアが指し示す方角を見た。
ずっと向こうの森を抜け、馬に乗った騎士達が何人も姿を現す。
なるほど、古ぼけた鎧《よろい》を纏《まと》う物など一人もいない。煌《きら》めく銀や金の装飾をつけた鎧《よろい》が、陽光にはた迷惑なほどの乱反射をしている。
それぞれの騎士についた従者《じゅうしゃ》でさえ、上等の甲冑《かっちゅう》に身を固めていた。家臣がこうなら、その主人はどれほどの金持ちか。ひょっとして、なん千万タランも持っているのかもしれない。いや、なん十億タランか。
列はまだ続いている。
騎馬部隊のみが細い列を作り、延々と森を抜けてくる。
そして、見えた。
レニから聞いた通りだった。
車輪までが純白に塗られた、いかにも瀟洒《しょうしゃ》な馬車が姿を見せた。その周りには、特に幾人もの騎士がいて、厳重な警戒態勢を取っている。
馬車の両側のドア部分に、真っ赤な薔薇《ばら》が一輪、派手派手な彩色で描かれている。上級騎士が誇らしげに掲《かか》げる旗印《はたじるし》も、同じく白地に赤い薔薇《ばら》。
あれが家紋《かもん》だと言うなら、ハルトゥール家の人間とやらは、ドの付く派手好きらしい。あまり知己《ちき》なぞになりたくない。
「いま思い出したが」
レインは唸《うな》り声を上げ、
「そういや死んだ上将軍《じょうしょうぐん》のなかに、あんな旗印掲《はたじるしかか》げた、ハルトゥールという姓のヤツがいたようないなかったような……」
「――本気で覚えてないとしたら、あきれた話です」
セノアが言葉通りの呆《あき》れた顔をした。
「何度か顔を合わせていたではないですか。あの――」
「ああ、いらんいらん」
レインはうるさげに手を振って話の腰を折った。
「男の貴族、それも、もう死んだヤツのことなんざ興味ない。どうせ俺はきっぱりと無視されていたしな。こう言っちゃなんだが、ラルファス以外の上将軍《じょうしょうぐん》なんて、ほとんど覚えちゃいないね。せいぜいが、小憎《こにく》らしかったガノアくらいか、名前がすっと出るのは」
「それはいくらなんでも問題があると」
セノアの言い分を無視して、レインはさっと手を挙げた。
「弓兵《ゆみへい》っ、構え!」
ざざっと待機していた弓兵《ゆみへい》達が矢をつがえる。射程《しゃてい》に入ったと同時にすぐに攻撃出来る体勢だ。
「将軍っ。エレナは――」
「なにも言ってこない以上、関係ない。黙ったまま来るなら攻撃するだけだ。――いや、待て……。命令するまで待て!」
レインは攻撃命令を保留した。
城門前広場にさしかかる途中で、一名の騎士が一人だけ先行して走ってきたのだ。
彼は城門の下まで来ると、鞍上《あんじょう》のまま大声で口上《こうじょう》を述べた。
『名誉ある五家の一画にして、ハルトゥール家のエレナ様よりのお言葉をお伝えする!』
レインが伝えていいとも悪いとも言わないうちから、彼はさらに大声を張り上げた。
『我がハルトゥール家とその一族は、当主代行のエレナ・フェリシア・ハルトゥール様のご決断により、ラルファス様と彼《か》の人が守護する、サンクワール王家にお味方することと相成《あいな》った! 速《すみ》やかにご開門願いたい!』
もう少しで後ろにひっくり返りそうなほど胸を反《そ》らした使者の口上《こうじょう》を一応聞いてやり、レインはぎぎぃ〜っと首を回してセノアを見た。
「なあおい。この城って、俺が城主だよな。あの馬鹿の口上《こうじょう》を聞いてるうちに、ちょっと自信がなくなったんだが」
「おっしゃりたいことは、よくわかります」
セノアは珍しく、同情するような表情だった。
「将軍のお名前は、今の口上《こうじょう》に出てきませんでした。……無論《むろん》、わざと無視したのでしょう」
「いい度胸だな、おい。人の家に来て、そこの主人を無視かっ。しまいにはヤキを入れるぞっ」
むす〜っとなったレインに、レニが横からそっと口を挟《はさ》んだ。
「それで、どうしますか。使者が返答を待っていますが。それと、弓兵《ゆみへい》も」
レイン思わず弓兵《ゆみへい》に向かって、「ありったけの矢を放て!」と命令を下《くだ》しかけた。
が、かろうじて堪《こら》えた。
ラルファスの知己《ちき》という部分に遠慮したのである。
あいつにはダグラス王の時代に色々と借りがある。多少の不快はあっても、ラルファスの知己《ちき》だというのなら無下《むげ》にもできない。
そうでなければ、直ちに追い返したところだ。
「……しょうがない。見たところ、確かにサンクワール貴族らしいし、罠《わな》でもないだろう。入れてやれ」
セノアが言った。
「お言葉ながら、後悔しますよ」
「……後悔ならもうしてるって」
レインは渋面《じゅうめん》で答えたものだった。
エレナが来た。
どやどやと城門の辺りに詰めかけた兵士達の見守る中、彼女は効果満点の登場をした。
しずしずと中庭に豪勢《ごうせい》な馬車を乗り入れ、ガチャリとドアが開く。
ステップに現れたのは真紅《しんく》のドレス。
胸元は、豊かな胸の半分以上がこぼれる大胆なカットが入り、そこら中フリルとレースだらけである。美しくセットされた髪を、黄金の髪飾りがさらに派手に飾っている。
エレナ本人は、例のサフィールを上回る豪奢《ごうしゃ》な縦ロール金髪を掻《か》き上げ、右手に持った白羽扇《びゃくうせん》をふぁさっと広げた。
顔の半分くらいありそうなその扇で真っ赤な口元を隠し、エレナは高らかに言った。
「まあまあ! 随分《ずいぶん》とまた、みすぼらしいお城ですこと」
レインも含め、一同はぽかんとなった。
これほど派手派手しい、そして遠慮のない女性を見たことがなかったのである。
一同の反応などにエレナは全く無頓着《むとんちゃく》で、
「でもまあ、ラルファス様がいらっしゃるのなら、このような田舎《いなか》臭いお城にも我慢できようかと言うモノ……。ああ〜、愛《いと》しの我が君はどこに!」
芝居がかった動作で、たおやかな手をあさっての方に伸ばす。五本の指全てにはめた、金銀宝石付きの指輪がまぶしい。
悲恋の運命に耐えかねた健気《けなげ》な少女、といった風情の、苦渋に満ちた表情で虚空《こくう》を見つめている。
これが、群衆を意識していない自然な動作なのだとすれば、この女は余程《よほど》の大物か、底抜けの馬鹿だとレインは思う。
と、エレナはポーズを止めてぐるっと辺りを見渡し、レインの傍《かたわ》らのセノアに目を止めた。
「あらあら。セノアじゃありませんこと。まだ生きてらしたのねえ、貴女《あなた》」
冷笑混じりの声。
「エスターハート家は先代様が上将軍《じょうしょうぐん》職を辞したでしょ? その後、てっきり家が崩壊して、貴女《あなた》もどこぞにお隠れになったのかと思ってましたわ〜」
セノアは頬の一部を赤く染め、上目遣いにエレナに言い返した。
「大きなお世話だっ。よもや、再び貴女《きじょ》と出会おうとはっ。私はほんっとに運がないっ」
忌々《いまいま》しそうに言う。
エレナは、『そのような卑賤《ひせん》なセリフなど耳を通りませんわぁ』と言いたげに、冬だというのに白羽扇《びゃくうせん》をけだるげに扇《あお》ぐ。なかなかいい態度である。
当然ながらセノアは気分を害したようで、唇を噛《か》んでエレナを睨《にら》みつけている。
二人の険悪《けんあく》な雰囲気を無視し、レインはいきなり小声でセノアに詰め寄った。
「おい。なんなんだこの、『日頃からテンション上がりっぱなしで、ついには弾けたようなアレな女』はっ。おまえの知り合いって、ロクなヤツがいないなっ」
「わ、私は知っているというだけで、別にそれ以上の仲でもなんでもありませんぞっ」
とんでもないっ、という風にセノアがヒソヒソ反論する。お互いに小声のつもりだったが、地声が大きい方なので、そのやりとりはエレナに筒抜けだったようだ。
今度はエレナが、くろぐろとした声音《こわね》で割り込んだ。
「そこのお二方っ。聞こえてますわよっ。特にその真っ黒なおまえ! 見るからに平民のクセして、態度が大きいですわ! 私を誰だとお思いっ」
ギャンギャン喚《わめ》きだしたエレナを、レインは眉根《まゆね》を寄せて見返した。
またまたぎぎぃ〜っとセノアの方を向き、
「……真っ黒なおまえ?」
「多分、将軍の服と髪と目の色を、統合して表現したのだと思いますが」
生真面目《きまじめ》に答えてくれた。
「……だろうな。俺もそんな気がしたよ」
レインは首を振り、エレナに向かって「おまえなあ」とぼやきながら、数歩近づいた。
男なら即殴るが、女の言うことなので別になんとも思わない、しかしちょっと説教でもしてやるかと思ったのである。
ところが、馬車の背後辺りから二人の巨漢《きょかん》が現れ、ぬっと道をふさいだ。
どちらも鎧《よろい》を纏《まと》わない平服で、ゴツゴツした筋肉の、実に暑苦しそうな男だった。一人はオーソドックスに剣を帯び、もう一人は自分の身長ほどもある、太い鉄棒を手にしている。
剣の方が言った。
「姫様に近づくな! 薄汚い平民がっ」
――緊張が走った。
レインに、ではない。
この対面を固唾《かたず》を呑《の》んで見守っていた、城の兵士達といつもの仲間、それにシェルファにである。
特にシェルファは、さっきまで困ったような顔で両者を見比べていたのが、この一言を聞いた途端《とたん》にあからさまな嫌悪の表情になった。
あるいはこの瞬間から、ここに集《つど》う全員が、はっきりとエレナに反感を持ったと言えるかもしれない。
レインはといえば、眼前に立ち塞《ふさ》がった二人をじろりと見やり、にんまりと笑う。
なにかからかってやろうと口を開きかけたが、途中でピタリと閉ざしてしまった。
脇から、エレナ側の観衆の一人がこう言ったのを聞いたせいだ。
「まさか、こいつが上将軍《じょうしょうぐん》なのか? ふん、こんな平民ごときに王家を守護できるはずがあるまいさ」
その瞬間、レインは怒りで我を忘れた。
「……なんだと」
先の二人をほったらかし、いらんセリフを吐いた男をばっと見た。
「貴様、今なんと言った!」
笑みを消したレインを目にし、シェルファの近くにいたガサラムは、一気に十年の時が縮まった気がした。
十年前、初めて出会った頃のレインがそこにいた。
どこまでも冷たく、しんと静まり返った表情、透き通った黒瞳《くろめ》。しかしその瞳は、研《と》ぎすまされた刃《やいば》のように鋭く、相手を射抜いている。
だが、かつてと違う点ももちろんあった。
それは、こちらの魂ごと鷲掴《わしづか》みにするような途方もない力の波動……あの日、あの時に受けたプレッシャーなど、今の比ではない。
あの頃でさえ、既にガサラムは足下にも及ばなかったというのに。
周囲が再びざわつきはじめる。
味方の騎士達が、怪訝《けげん》な目で自分の腕に生じた鳥肌を眺めている。「おい、なにかゾクゾクしないか?」と隣に聞いているヤツもいる。
普通人にすぎない彼らも、大いなる力の一端《いったん》を感じているのだ。
喉《のど》を鳴らし、ガサラムは思う。
その程度にしか認識出来ないおまえらは幸せだ……。この、全身を圧迫する『力』をもしまともに感じ取れたら、とても無駄口など叩《たた》けないだろう。
ガサラムの視界の隅《すみ》で、レニとセルフィーが揃《そろ》ってよろめくのが見えたが、構っていられない。
止めるべきだろう、なんとしても。
レインの低い声が続けて言う。
「おまえが! これまで弱い者いじめしかしてこなかった腐れ貴族のおまえごときが、この俺にそのセリフを吐くのかっ。もう一度言ってみろ、俺が何を守れないだと!?」
かっと睨《ね》め付け、長身が一歩、相手に近づく。さっきまでは表面上は怒りを露《あら》わにしていなかったが、今ははっきり表情に出ている。
レインを怒らせた相手は飛び出しそうなほど目を見開き、滑稽《こっけい》なくらいにガタガタ震えていた。
彼の瞳の中に何を見てしまったものか、歯の根が合わぬほど怯《おび》えきっている。血の気の失《う》せた顔で、ただひたすら震えていた。
最初の馬鹿にしたような表情など消し飛んでいる。そして、ついに失禁《しっきん》の音。
気付いた様子もなく、レインが魔剣に手をかける。
ガサラムは急いで走り寄ろうとした。
その瞬間、誰かが脇を駆け抜けた。
「レイン!」
ぱっと前に立ったシェルファを見て、レインは夢から覚めたような気分で、軽く瞬《まばた》きした。
小さな手が伸び、こちらの手を握ってきた。
「レイン……?」
じっと見上げる、深く澄んだ青い瞳。
間違いようのない気遣いを感じ取り、レインはすうっと怒りが醒《さ》めるのを感じた。
同時に、少々ほっとする。
危ないところだったと自分でも思う。
もう少しでくだらない真似《まね》をするところだった……
今まで睨《にら》み付けていた男が、惚《ほう》けたような顔で崩れ折れるのを見たが、もうどうでもいい。そこらの野犬の遠吠《とおぼ》えに本気になるとは、俺もどうかしていた。
大きく深呼吸してから、すっかりいつもの調子に戻って言った。
「やあ。姫様はさすがに慈悲《じひ》深いですね。こんな木《こ》っ端《ぱ》に等しいヤツらまでかばいますか」
微笑みとともに軽口を叩《たた》くレインを、シェルファはじっと見つめていた。
そしてなにを見極めたのか、ほっとした顔で笑みを浮かべる。
「……いいえ。今の人を心配したのではなく、わたくしが心配したのはレインのことです」
「なるほど」
苦笑し、もう大丈夫だというつもりで、レインは素早く片目をつむった。どうも、いらん心配をかけていたようだ。
「軟弱なヤツめっ」
シェルファの後ろの方で吐き捨てるような声がした。
レインが向き直ると、そもそもコトの初めに絡《から》んできた剣の男が、虚《うつ》ろな顔で震えている朋輩《ほうばい》(多分)を軽蔑の目で見ていた。
「平民などに気圧《けお》されるとは、我ら貴族の恥だっ」
「そうですわっ。なんという恥さらしっ」
我に返り、屈辱《くつじょく》で赤くなったエレナが無闇《むやみ》に白羽扇《びゃくうせん》を振り立てる。
爛々《らんらん》と輝く瞳を、シェルファの方に向けた。
「お目通りしたばかりでなんですが、シェルファ王女様とお見受けします。正式なご挨拶はまた後ほど」
さすがに馬車から降り、ドレスの裾《すそ》をつまんで軽く一礼した。
それから、きっとなってレインを睨《にら》む。
「王女様……御身《おんみ》は、尊いサンクワール王家の血を引くお方なのです。故《ゆえ》に、臣となる者は選ばねばなりません。どうか、その者からお離れください。幾ら兵力を持つとは言え、なにも平民出の上将軍《じょうしょうぐん》などに頼らずとも、ラルファス様とこの私がついておりますわっ」
呆《あき》れたような、あるいは失笑したいような空気が、レイン側の聴衆《ちょうしゅう》達に漂った。なぜなら、そのような申し出をシェルファがどう受け止めるか、皆わかりきっていたからだ。
なにか言おうとしたシェルファを目で制し、レインはまたもう一度前へ出た。
それにつられたように、さっきの巨漢《きょかん》二人もずいっとエレナの前へ出る。
「禁じたはずだっ。許しもなく、姫様に近寄るな!」
「あのな。他のヤツに姫様って呼称を使うのは、不敬に当たるんだよっ。誰の前だと思ってるんだ、この筋肉馬鹿がっ」
ちょびっと言い返しただけなのに、もうそれだけで相手は顔色を変えた。彫りの深い、いかにも貴族らしい顔を歪《ゆが》め、片方が剣に手をかける。そっとエレナの方を見たのは、あれは許しを得ようとしたのだろうか。
エレナが冷たい微笑みとともに微《かす》かに頷《うなず》く。
レインにも、その意味はわかりすぎるほどわかる。『いいから、思い知らせておあげ』とか、そんな意味だろう。
ぶっとい鉄棒を持ったもう一人が舌打ちした。見せ場を取られたと思っているのが、顔に出ている。おめでたいヤツである。
「ふふん。主《あるじ》の許可さえもらえば、上将軍《じょうしょうぐん》の俺をぶっ飛ばしてもお咎《とが》めなしだと思ってるな。心配すんな。最初から誰も咎《とが》めたりしない。おまえが俺をどうにか出来るはずがないんだからな」
「あまり大口を叩《たた》かない方がよろしくてよ」
エレナが含み笑いを漏《も》らした。
「この二人は私の個人的な護衛ですの。しかも、サンクワール中を探し回って見つけた、文句無しの強者《つわもの》ですわよ。無礼《ぶれい》をわびるなら、今のうちだと思いますわ〜」
レインは冷笑をもって応えた。
すっかり復調し、余裕の微笑みで人差し指をチョイチョイと動してやる。
「こんな木偶《でく》が強者《つわもの》とは笑わせてくれる。ひとつこの俺が、真の強さと、人生の厳しさってものをみっちり教えてやろうじゃないか。ほら、さっさとかかって来てみろ、えっ。その剣で俺を斬《き》りたくて仕方ないんだろ? やらせてやるさ。ほら、かかってこいっ」
今度はシェルファも止めなかった。
さっきと違って、レインが本気ではないのをいち早く理解したからに違いない。
代わりに遠くからユーリが、「さっきは『戦いを回避する道を探れ』とか言ってたのに〜」とか些末《さまつ》なツッコミを入れてきたが、もちろん無視した。
で、剣の男は簡単に挑発に乗った。
「なにを気取っている!」
真っ赤な顔で一息《ひといき》に間合いを詰め、レインの肩口を狙い、ブンッと力任せに大きめの剣を振りきる。スピードはまあまあだった。……普通人に比べれば。
その顔には微《かす》かな緊張が浮かんでいたが、口元は残酷な期待でつり上がっている。
だが次の瞬間、表情が凍りついた。
棒立ちだったレインがひょいと片手を上げ、五本の指腹《しふく》で斬撃《ざんげき》を止めたからだ。
自分の剣を掴《つか》むレインの手を見る男の目が、真円《まえん》になっていた。
レインは破顔《はがん》する。
「なにをボケ面さらしてる? これが現実ってもんなんだよっ。自分の弱さを思い知って、海よりも深く反省しろ、阿呆《あほう》っ」
それとだ、と意地悪くニヤリとする。
「まさか上将軍《じょうしょうぐん》の俺に剣を向けて、ただで済むとは思ってないよなあ。コレって反逆罪と違うか?」
はっとしたように男が剣を引こうとした。
そこはかとない、レインの悪意を感じ取ったせいだ。だが、押せども引けども止められた剣はびくともしない。元々の筋力に差がありすぎるのだ。
「たっぷり反省してこいっ」
レインは叱咤《しった》し、自分からすぱっと手を離し、相手がよろめいたところへ、体をひねって大振りの後ろ回し蹴りを放った。
鞭《むち》のように上半身がしなり、蹴り足がいささかのたわみもなくまっすぐに伸びる。正確に剣男《けんおとこ》の胸を捉《とら》えた。
馬に蹴られたより派手な結果になった。
剣男《けんおとこ》はまるで、突風に吹き上げられた紙切れか何かのように、体を折って軽々と吹っ飛んだ。
恐ろしい勢いで宙を滑空《かっくう》し、レインの狙い通り、背後の白い馬車に激突してドアを粉々に砕く。挙げ句、衝撃で馬車がぐらっと傾き、他愛なくひっくり返ってしまう。
繋《つな》がれたままの馬達が驚いたように「ヒヒーン!」と嘶《いなな》く。
そしてもちろん、エレナの悲鳴も。
「きゃあああっ。な、なんてことを! わたくしの、と、特注馬車がっ」
白羽扇《びゃくうせん》を取り落とし、頬を両手で挟《はさ》んで真っ青になっていた。
泡を吹いて悶絶《もんぜつ》している、馬車に埋もれてしまった剣男《けんおとこ》はどうでもいいらしい。
「やかましい! だいたい、戦場に馬車なんかで乗り入れて来るんじゃないっ。見た瞬間から気に入らなかったんだよっ」
そうだ、そうだっ!
レイン側の皆が一斉《いっせい》に唱和《しょうわ》した。貴族達も対抗すべく、大声で罵声《ばせい》を上げている。
一番積極的に反応したのは、相棒《あいぼう》がやられるのを見てあんぐりと口を開けていた鉄棒男である。唖然《あぜん》としていた一瞬が過ぎると、怒りに燃えた目で武器代わりの鉄棒をぐっと持ち上げ、大股で迫ってきた。
「ふん、次はおまえか。学習能力ない馬鹿ばっかりだな、貴族ってのは」
レインがせせら笑う。
その時、ギャラリーの方から「レイン様っ、やっちゃえ〜!」という女の子の歓声が上がった。そちらを見ると、なんとセルフィーだった。
恥ずかしいけど、わたし応援しますっ、と言いたげな真っ赤な顔で、レインと目が合うと控えめに手を振ってきた。
少し意外だったがすぐに素に戻り、「ふ、まかせておけ」とばかりに、レインは片手を上げる。
おおーーーーっ!
味方から大歓声が上がった。
皆、貴族がこっぴどい目に遭《あ》うのは大歓迎なのである。
「貴様っ、よそ見をしている余裕があると思うかっ!」
怒り狂った鉄棒男が、なんとも芸のない、しかし力だけはこもった一撃を振り下ろした。
ギャラリーの一方からは悲鳴、一方からは嘲笑《ちょうしょう》の歓声。無論《むろん》、嘲笑《ちょうしょう》の方が貴族側だ。
レインの肩に、モロに決まった。
肉を打つ、一種湿ったような音が、誰の耳にもはっきり聞こえた。
――しかし、それだけだった。
レインはびくともせずに平然と立ったままであり、涼しい顔で見上げている。
相手の肩の骨がバラバラに砕け、悶絶《もんぜつ》して転がり回るところを想像していた鉄棒男は、「えっ?」という、なにか弛緩《しかん》した顔になっていた。
自慢の一つである、真っ白な歯を見せつけるレイン。
「今のはなんだ? 季節外れの蠅《はえ》でも止まったか? しかも、随分《ずいぶん》と痩《や》せて勢いのない蠅《はえ》だな、おい。俺に貸せっ」
男から鉄棒をひったくり、両手にちょいと力を入れる。
直径十五センチ以上もありそうな鉄棒が、ぐんにゃりと飴《あめ》のように曲がっていく。
平然とほとんど二つ折りにねじ曲げ、そこらに投げ捨てた。
味方はもう、やんやの喝采《かっさい》である。
「うっ……」
元鉄棒男は、血の気が引いて真っ白になった顔で、転がった武器を見やった。
顔中からどっと汗が噴き出している。
追い詰められ、恐怖で判断力もなくなったのか、いきなり逆上して素手で襲いかかってきた。
「う、うおおおおおっ」
完全に大振りの、狙いも定かではないパンチを放つ。しかしレインはこれをあっさり避《よ》け、ずいっと男の間合いに踏み込み、その二の腕とズボンのベルトを掴《つか》んだ。
「よし! 行ってこいっ、二号っ!」
かけ声とともに、豪快に上空へとぶん投げる。悲鳴を残し、矢のように斜め上へ打ち出された。
人間の筋力では絶対に為《な》し得《え》ない高さまで上昇していく。まさに、風に吹かれた木の葉を思わせる気安さだった。一同が声もなく見守るウチに、手足をばたつかせた彼は最高点まで達し、今度は落下を始める。
レインの予定通り、横倒しの馬車にどんぴしゃり落下した。
壮絶な破壊音が駄目押しのように響く。
馬車はもはやバラバラになり、原型をとどめないほど破壊された。薪《まき》の山には見えても、元が馬車だったとは想像しにくいほどだ。
その残骸の中に、二人の大男が目を回してぶっ倒れている。
「――ふっ」
ため息をついて髪をかきあげ、レインはニヒルに呟《つぶや》いた。
「弱すぎて修行の足しにもならん。勝利とてむなしい……」
その独白《どくはく》を聞き、仲間はどっと沸《わ》いた。
白っぽい顔で、墓石のように押し黙った貴族連中を指差し、腹を抱えて笑う者も大勢いた。
だいたい、止めるべき立場であるガサラムやレニでさえ、こっそり喝采《かっさい》していたくらいである。セノアだけは複雑な表情だったが、それでも口元には満足そうな笑みが窺《うかが》えた。
反対に貴族達は、毒気を抜かれた表情でレインを眺めていた。罵声《ばせい》を浴びせていた騎士達もすっかり静まりかえっている。
彼らもまた、ドラゴンスレイヤー云々《うんぬん》の噂は耳にしていたろうが、こうまで鮮やかに証拠を見せつけられるまでは、頭から信じていなかったのだった。
しかし――
エレナという少女は、そんな畏怖《いふ》などから遠い感性の持ち主だった。はっきり言えば、シェルファより遙《はる》かに世間《せけん》知らずであり、人間離れした力を見せつけられても、一向に応えなかった。
応えたのは、自分の馬車が壊れたという一事のみ……
エレナはバラバラになった元馬車を見て呆然《ぼうぜん》としていたが、徐々に細かい震えが全身に走り、ついには激怒《げきど》して喚《わめ》いた。
「な、な……ななんてことをするのですっ! この馬車が幾らするとお思いなのっ。へ、平民の分際《ぶんざい》でこんな――」
「そこっ!」
レインはびしっとエレナを指差し、低い声で警告を発した。
「うるさいぞ。俺は女に甘いヤツだが、別に無制限に甘いわけじゃない。それ以上|喚《わめ》くと、スカートまくって尻をぶっ叩《たた》くからなっ」
「なっ……」
絶句したエレナに、セノアがかつて見たことがないほど嬉しそうな顔で言った。
「ふふふ……同じ貴族のよしみで貴女《あなた》に忠告しておくが。この方は、そういうとてつもなく下品な真似《まね》であろうと、やると言った以上は必ずやるお方だぞ。私は身に染みて知っているのだ」
『ええーーーーーーっ!? (ユーリとセルフィーの声)』
「うっ……」
白羽扇《びゃくうせん》を拾い、ずざざっとエレナが退《ひ》いた。
無意識でか、スカートを手で押さえている。
レインはむっとして、
「おいセノア。俺がいつ、おまえの尻を叩《たた》いた? いい加減なこと吐《ぬ》かすと、しまいには――」
「ぶ、無礼《ぶれい》なっ!」
エレナのかすれた悲鳴がレインを遮《さえぎ》った。
「なんという……なんという屈辱《くつじょく》っ」
唇をわななかせ、白い指が弾劾《だんがい》するようにレインに突きつけられる。
「いかにラルファス様の知己《ちき》とて、許しませんわっ」
碧眼《へきがん》を三角にして、彼女は自分の家臣達見やった。自制心が効かなくなっているのが、一目|瞭然《りょうぜん》である。
真っ赤な唇から、極悪貴族の見本のごときセリフがほとばしった。
「おまえ達、全員でやっておしまいっ!」
女主人の号令を受け、貴族達が一斉《いっせい》に動く。
シェルファは止めようかどうしようか迷い、レニとガサラムとセノアは、命令も省《かえり》みず、レインの元へ駆け寄ろうとした
――ところがその時。
『全員、静まれっ!』
凛《りん》とした一声が、全てをゼロに戻した。
ラルファスが戻ってきたのだ。
激突しかけていた両者は動きを止め、馬で駆けてきた彼を見上げる。
「何事だ、この騒ぎは」
たちまち静かな口調に戻り、ラルファスは兵士達を見渡す。
エレナと目が合い、眉をひそめた。
「……エレナ。こんなところで何をしている?」
「ら、ラルファス様ぁ……」
その声を聞いて、レインは思いっきり引いた。
今の甘ったるい声、本当にこいつが出したのか?
これまでの傲慢《ごうまん》で冷たい声音《こわね》は一体どこいった!?
が、エレナはもはや、レインなどには道ばたに生えた雑草ほどの関心も見せず、ひらっと愛馬から降りたラルファスに駆け寄り、その腕にひしとしがみついた。
「ああっ、ラルファス様……。お久しぶりにお逢い出来て嬉しいですわっ。この胸が張り裂けそうな喜びをどう表現したものか……」
この場に立ちこめていた闘気《とうき》が、きれいさっぱり消えた。
貴族達は割と冷静だったが(どうも慣れているようである)、レイン側の兵士達は顎《あご》が落ちた。
エレナがラルファスの婚約者だという事実は、まださほどに広まっておらず、皆事情がわからずに二人を呆然《ぼうぜん》と、そして馬鹿のように眺めている。
すりすりとエレナに抱き付かれ、らしくもなく困り顔のラルファスが、レインに何か言おうとした。
しかし、レインは機先《きせん》を制した。
「おい、おまえらってどういう関係なんだ? いや、だいたいは聞いたんだけど、いまいちわけわからんぞ」
「――いや、私達は別になんの」
とか言いかけたラルファスにおっかぶせるように、エレナがいきなり豊満な胸を張って宣言した。
「ラルファス様と私は、行く末を契《ちぎ》った仲ですわ!」
衝撃の発言で、エレナを起点に、ざわめきが波紋《はもん》のごとく広がった。
レインはまじまじと黒瞳《くろめ》を見張る。
今……なにかとんでもないことを聞いたような。
「……契《ちぎ》った仲!? おまえ、こんなのがいいのか!」
ラルファスが答える前に、自分で呟《つぶや》く。
「いや、まあ人の趣味にケチつける気はないが……。しかし、スタイルだけで相手を選ぶのは色々とまずくないか。娼館《しょうかん》じゃあるまいし、それはちょっと」
「そうじゃない、レイン」
たまりかねた様子でラルファスが口を挟《はさ》む。
「意味が違う。婚約のことだ、エレナの言うのは」
「そうっ! 私達の将来のためにも、このエレナがラルファス様にお力添えしますわっ。任せてくださいまし」
この女は、完全にラルファスしか眼中にないなとレインは思う。シェルファを助けるのではなく、まさに恋するラルファスのためにここまで進軍してきたに違いない。
つまりは、なにも考えていない。
同じことを、ラルファスも思ったらしい。
ため息をついてエレナを引きはがし、彼女の瞳を覗《のぞ》きこむ。
「エレナ、婚約の話なら既に返事はしたはずだ。それに、これからの戦いは遊びではない。我々は皆、命がけなんだ」
俺はサフィールごときを相手に、命なんてかけてないぞ。
レインのツッコミは、シェルファにしか届かなかった。
全員が注目する中、エレナは特にへこみもせず、碧眼《へきがん》をキラキラさせてラルファスを見上げる。
「まあ! もちろん、私だって命がけですわっ。この命、我が君にいつでも差し出す覚悟《かくご》があります。ラルファス様、エレナはどこまでも後をお慕《した》いしますわ〜」
うっとりとラルファスの胸に顔を埋めた。
……まあ、本気で好きなのは間違いないのだろうと思う。
猜疑心《さいぎしん》まみれのレインの目で見ても、エレナの熱烈アタックは、本物だろうと思うからだ。
しかし、だからこそやっかいだとも言える。
レインはため息をつき、首を振った。
友人に向かい、思わずぼやいた。
「……どえらいヤツを連れ込んでくれたなあ、おい」
「私に言われても困る」
本気で困ったように、ラルファスは答えた。
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[#挿絵(img/03_183.jpg)入る]
第四章 シャンドリス、侵攻《しんこう》す
押し掛け援軍のエレナが、コートクレアス城に騒動を持ち込んだしばらく後――
シャンドリスの皇帝、フォルニーア・ルシーダ・シャンドリスは、軍議《ぐんぎ》の席上にあった。
円形のテーブルについた、ジョウを筆頭《ひっとう》とする、合計四人の将軍達(と将軍格が一人)を順繰《じゅんぐ》りに見渡す。
それぞれが千人以上の騎士を統括する騎士隊長であり、さらにはれっきとした領主《りょうしゅ》でもある。
つまり、シャンドリスの軍制における「将軍」の地位にある者達だ。
「事情は今話した通りだ。準備が出来次第、サンクワールへの侵攻《しんこう》を開始する。誰か、異議のある者は?」
すっと手を上げたものがいる。
フォルニーアはいぶかしげな顔になり、
「……おまえは真っ先に賛成するものと思ったがな、ザルツ。なにか不満でもあるのか」
「まさか! そりゃ誤解ですよ、陛下」
ザルツと呼ばれた二十歳《はたち》そこそこの若者は、もじゃもじゃの黒髪を手でかき、「意味が違いますぜ」と付け加えた。
「俺が訊きたかったのは、この際、サンクワールの全領土をせしめればいいでしょ!? てことです。なぜ、狙いをサフィールだけに絞るんです?」
「うん、いい質問だ」
フォルニーアは円卓の上に両肘《りょうひじ》を立て、重ねた手の上に顎《あご》を載せる。愉快そうにザルツを眺めた。
「普通はそう思う。私も本来ならそうしたいところだ。限定的な侵攻《しんこう》など、私の好むところではないからな。しかし、今度ばかりは慎重に行く理由があるのだ。その辺は、ジョウやシングは納得してくれているのだが」
フォルニーアの言葉につられ、ザルツを含む三人の将が、ジョウとシングを等分に見る。応えるようにジョウが口火《くちび》を切った。
「皆も知っているだろう。サンクワールには、あのレインがいる。彼の強さを知る私としては、迂闊《うかつ》な真似《まね》はしたくない。本来、この作戦にもあまり賛成したくないのだ」
ザルツやシングがひやりとした顔でジョウを見る。さりげなく抗議を含ませた発言に、フォルニーアの反応を危ぶんだのだ。
だが、フォルニーアはただ含み笑いを漏《も》らし、ジョウに横目をくれただけだった。
「大将軍は手厳しい。その諫言《かんげん》は諫言《かんげん》として聞いておこう」
そこで、胸を張って居住まいを正した。
大きく息を吸い込み、皆にきっぱりと宣告する。
「しかし、悪いが私は方針を変える気はないぞ。規定方針通り、サンクワールへの侵攻《しんこう》を行う」
実にからっとした宣言だった。
元より、根に持たないタイプの主君なのである。だから、下の者としては非常に忠告しやすい。その反面、時にフォルニーアはおそろしく頑固になる。たとえ、自分が生まれる以前からの重鎮《じゅうちん》であるジョウの言葉と言えども、聞かなくなる場合があるのだ。
今がまさにそうだった。
ジョウは静かに低頭《ていとう》した。
「ならば是非《ぜひ》もありません。これ以上は士気にも関わります故《ゆえ》、二度と諫言《かんげん》は致しますまい。以後は、勝つ手段だけを論じましょう」
「うん。おまえのそういう態度、私は高く評価している。よろしく頼む……。とはいえ、今回は私も同行するがな」
「――! 皇帝陛下の親征《しんせい》ですかっ」
真っ先にザルツが反応した。
しかも、随分《ずいぶん》と嬉しそうである。
「そう、私も行くぞ。だが、指揮を執《と》るのはいつも通り、ジョウに任せる。私はあくまで同行して皆の働きを見せてもらうだけだ」
「へへっ、腕が鳴りますっ!」
実際に二の腕当たりをさすってみせるザルツである。主君への媚《こ》びではなく、ただ純粋に暴れられるのが嬉しいというのが、態度によく出ている。
一方、見当はずれのことを言い出す者もいた。
「やあ〜。サンクワールにその名も高き、『知られざる天才』ですか。俺、前から会ってみたかったんですよ。ジュンナもそうだけど、本物の天才って尊敬するなぁ」
まるっきり、ここが軍議《ぐんぎ》の席だということを忘れたような、実にのんびりと、そしてのほほんとした声である。
彼もザルツと同じくらい若い。が、ザルツがどこから見ても戦士に見えるのに比べ、この青年は田舎《いなか》から出てきたお上《のぼ》りさんのように平和な雰囲気を漂わせている。
そしてその横にぴったり寄り添う形で、栗色の髪の美しい少女が座っていた。
二人は兄妹なのである。
……少なくとも、そういうことになっている。
「セイル、おめーは、馬鹿かっ。そのセリフ、めちゃ矛盾してるぜ!」
ザルツがむっとして突っ込む。
「その名も高き、『知られざる天才』って、なんだそりゃ。ぜんっぜんっ、意味が通らねーよ!」
「あ、そうかぁ。そう言えばそうだねっ。あっはっは!」
全く悪びれずに、楽しそうに笑うセイル。
ザルツはまだなにか嫌みを言おうとしたが、そこでセイルの横に座る少女のじと〜っとした視線に気付き、慌《あわ》てて口を閉ざした。
「いや。俺はなにもセイルにケチをつけようってんじゃなくて――」
しどろもどろ。
しかも、言い訳の途中でぷいっとジュンナが顔を背《そむ》ける。
目に見えてザルツは落ち込んだ。
このメンバーの中では比較的|古株《ふるかぶ》のシングが、そのやりとりを見て首を振った。
「……サンクワール侵攻《しんこう》前の軍議《ぐんぎ》だというのに、このほのぼのとした雰囲気。いいんですかねえ」
「構わないではないか、シング」
フォルニーアは機嫌《きげん》良く笑い、
「いざというときに、きちんと戦ってもらえれば、私としては言うことはなにもない。ザルツにせよセイルにせよ、そしてジュンナにせよ……その実力は疑いようがないからな。今はリラックスしてくれていいのだ」
シングは黙って頭を下げた。
彼とて、セイル達の実力はよく知っているのだ。
例外はあれど、若き将達の顔をぐるっと見渡し、フォルニーアは大きく頷《うなず》いた。
「さて。納得してもらえたところで、私の考えを言おう。ジョウの言う通り、レインは大いに警戒すべき男だ。私も彼に会い、それは実感した」
微笑み、フォルニーアはまるでその時の出会いを思い出すかのように、軽く目を閉じた。
が、すぐにまた開き、力強く言う。
「しかしだ。個人の武勇《ぶゆう》だけでは、衰退《すいたい》していく国の運命を変えられはせぬ! 皆の働きに期待するぞっ」
主君の熱弁に、ジョウ達は一斉《いっせい》に敬礼《けいれい》で応えた。
だが――ジョウは密かに思う。
本当にそうだろうか、と。
確かに、一個人の武勇《ぶゆう》のみではさしたる戦果《せんか》は期待できないかもしれない。戦いは普通、兵力の多寡《たか》によって決まる。それは間違いない。
しかし、あのレインの天賦《てんぷ》の才能が、武勇《ぶゆう》のみに限られるとは思えないのだ。
それは、大国ザーマインの侵攻《しんこう》を一度は跳ね返したことでも証明されている。
優秀な将に率いられた軍は、時に実力以上の力を発揮する。絶対的な兵力差を覆《くつがえ》すことさえ、しばしばあるのだ。
その事実を、ジョウはこの場の誰よりもよく知っているのである……
――☆――☆――☆――
フォルニーアの固い決意を受け、シャンドリスはたちまち軍備を整え、サンクワール攻撃部隊を編成した。
その数、騎兵《きへい》七千に補給部隊も含めた歩兵が一万三千――総計二万の大軍である。
大陸北方の強国ザーマインや、あるいはその近隣の大国レイファンならともかく――
現在の南方小国群にあり、これほどの大軍を動員できるのはシャンドリスくらいのものである。
これまで大規模な戦乱には必ず勝利を収め、着々と国力を伸ばしてきたお陰と言えるだろう。
わずか数日の準備期間の後、皇帝フォルニーアが率い、実質的にはジョウ・ランベルクが指揮する大軍は、西側の隣国サンクワールへと出陣した。
シャンドリスの国内を横断する騎行《きこう》は、きわめて順調だった。貧富《ひんぷ》の差も少なく、国を治めるありようも公平なフォルニーアの施政《しせい》は、国民の大多数に歓迎されている。
しかも、ジョウ・ランベルクの神秘性と不敗の戦歴を知らぬ者はなかったのである。
街道を通るジョウとフォルニーアに向けられる国民達の歓声には、作り物ではない本心からの尊敬と愛情がこもっていた。
軍勢《ぐんぜい》の背後から人々が追ってきたりして、大変である。
お陰で、やっとシャンドリスの国境付近に着いた頃には、さすがのジョウも少々ほっとしていた。
「相変わらず、大人気でしたね、ジョウ様」
山岳地帯の合間を縫《ぬ》うように通る街道で、セイルが馬を寄せてきてそんなことを言った。
馬に乗れないジュンナを自分の前に相乗《あいの》りさせ、にこにこと笑み崩れるこの青年は、ぱっと見、気のいい好男子《こうだんし》以外の何者でもない。
いや、実際に彼はそうなのだが。
「……皆の期待を裏切らないようにせねばならないな」
ジョウは静かにそう返した。
いかに好むところではない戦いとはいえ、始まってしまったものはしょうがない。
なるべく被害を少なく、そして手堅く勝利を収めねばならないのだ。
「そうですね。俺とジュンナもがんばらないと。な、がんばろうな、ジュンナ」
鞍上《あんじょう》で、安心して兄に身を任せきった妹に話しかけるセイル。ジュンナはあどけない瞳で見上げ、にこっと微笑んだ。大事そうに抱えた魔法の杖《つえ》をちょっと持ち上げて見せる。
「……わたしもお兄ちゃんを助けてがんばるから」
たどたどしく言う。
若干十七歳にして「将軍格」のこの少女は、随分《ずいぶん》と兄に懐《なつ》いているのだ。
「うんうん。なにしろ『天才魔法使い』の異名をほしいままにしているジュンナだもんな。期待してるよ。……でも、俺から離れちゃだめだぞ」
言われ、ジュンナはこっくりと頷《うなず》いた。
セイルが忠告しなくても、この少女が自分から兄の側《そば》を離れることはあるまい。ジョウはそう思う。
しかし、ジョウはある衝動《しょうどう》にかられ、セイルに話しておくことにした。この兄妹が怪我《けが》などすることがあってはならない。そう心配するからだ。
「セイル、一つ忠告しておきたいのだが」
「ジョウ様のお言葉なら、なんでも聞きますとも。なんです?」
「――そうはならないようにするつもりだが。この戦いで、万一レインと相見《あいまみ》えることがあったとしても、決して一騎打《いっきう》ちを挑もうとするな」
ジョウと馬首《ばしゅ》を並べていたセイルとジュンナは、兄妹仲良く目を見張った。
驚くのも無理はないだろう。
なにしろ、これから戦場に出るというのに、ジョウの言葉はあまりに消極的過ぎるからだ。それは、口にしたジョウ自身が実感していた。
本来なら、言うべき言葉ではあるまい。
しかし、セイルは顔をしかめたりしなかった。
和《なご》やかな笑みを消し、じいっとジョウを見やる。
「……ジョウ様は俺の、いや、俺とジュンナが組んだ時の力量をよくご存じです。それで、なお『戦うな』というからには、どうやらそのレインさんとやら、噂以上に強いらしいですね」
「強いな……想像以上に強い」
ジョウは飾らず、思ったままを述べた。
「しかもやっかいなことに、戦いに勝つことに異常なほどのこだわりがあるようだ。彼の噂に関してはまだ甘い。さすがに最強の魔獣《まじゅう》を倒しただけのことはあるよ」
「ドラゴンスレイヤーですかぁ。……いやぁ、ますます会ってみたいなあ、俺。そういう才能|溢《あふ》れる人って、なんか憧れるんですよねえ」
嬉しそうに言うセイルに、ジョウは苦笑した。
「君のそういう所は愛すべき点だと心得ているが、頼むから忠告は忘れてくれるなよ」
「大丈夫です! 俺、自分の分《ぶ》は心得てますもん」
好青年はしっかりと保証した。
目の前のジュンナの栗色の髪を撫《な》で、
「それに、俺だけならともかく、ジュンナもいますしね。わかりました。万が一その人を見ても、見るだけにしときます! あちらさんが向かってくるようなら、さっさと逃げますっ」
おそろしく後ろ向きな発言を、力強く述べるセイル。
ジョウは思わず口元に笑みを浮かべた。
「わかってくれて嬉しい。……ザルツには同じ忠告をしない方がいいだろうが」
「そりゃそうですよ」
ニヤッとセイルが笑う。
「そんなこといったら、ますますレインさんを狙いますよ、あいつ。負けず嫌いだもんなあ」
ジョウとセイルは、お互いに顔を見合わせて笑った。ジュンナだけはきょとんとしていたが。
ところで、とさりげなくセイル。
「もし俺とジュンナのコンビがその人と十回戦ったとしたら……一度くらいはチャンスあるんですかね?」
「いや」
ジョウはきっぱりと首を振った。
「それどころか――」
百度戦えば百度負けるだろう。
そう言いかけ、ジョウはそのまま口を閉ざした。それはいくらなんでも、戦士に言うセリフではないと思ったのだ。
実際の所、この兄妹の実力から見て、いかにレインでも状況によっては敗北することも有《あ》り得《え》るはずなのだが。
しかし、それでもジョウは思うのだ。
そんな不利な状況にあっても、最後には結局、レインの執念《しゅうねん》が勝利を収めるのではないかと。
全く、あの男には「勝つこと」に対するあくなき執念《しゅうねん》というものがあって、それは負けず嫌いのザルツでさえ及ばない。
さらに、レインと直接戦い、ジョウがはっきりと確信したことがある。
天才的な技量以外にも、あいつには恐るべきところがあるのだ。
――あの男は、死を恐れていない。
人間なら当然あるはずの、恐怖心もない。
もちろん、戦っている最中《さなか》にはきちんとこちらの剣撃《けんげき》を防御している。
それも、きわめて完璧に。
しかしそれは決して、自《みずか》らの負傷を恐れてのことではない……そんな気がする。例えて言うなら、冷静な計算の末に行っていると思うのだ。
『斬《き》られた結果、動きが鈍くなるより、ここは避《よ》けた方が相手を倒す効率がよい』
そんな風に、割り切った冷たさで防御している。
だから、仮に差し違えることでしか勝利を得られないとしたら……あいつはためらわずにそうするだろう。
そうすることに、一分の躊躇《ためら》いもないだろう。
それが、技量もさることながら、ザルツやセイルと一番違うところだ。そんなギリギリの状況下におかれたら、あのザルツでも少しはためらうはず。その、あるはずのコンマ数秒のためらいが、レインにはない。そしてそれが――
より深い踏み込み、より積極的な攻撃へと繋《つな》がる。
結果、最後には相手を打倒してしまう。
もしあの男を倒す気なら、互角の力量では(そんな者が自分以外にいたとして)まず不可能だ。
ましてや、最初から力量に天地の差がある、ザルツやセイル、それにシングでは……
口ごもったジョウを見て、セイルはなにを感じ取ったのか、ごくっと唾《つば》を呑《の》み込んだ。
だけでなく、「うわ、俺もう、絶対にその人に近寄らないことにします!」とジュンナを抱きしめて大仰《おおぎょう》に怖がって見せた。
まあ、半分はポーズだろうが。
しかし、妹の身を第一に考える慎重なセイルのこと。忠告には従ってくれるだろう。
「……ぜひそうしてくれ。とはいえ、皆の前であからさまに戦いを避けるわけにもいかないだろうから、なるべく私が駆けつけよう。……全てはもしも、の話だが」
と、それまで黙って兄とジョウを見比べていたジュンナが、不思議そうに言った。
「おにいちゃんは強いです。どんな人にも負けたりしません」
素早く目配《めくば》せをし、セイルとジョウは笑い合う。
ジュンナの肩に手を置き、セイルがなにか言い聞かせようとしたその時――
「大将軍!」
前方から物見《ものみ》にやった騎士が戻ってきた。
「なにか?」
たちまち表情を引き締めるジョウ。
もうすぐ国境の砦《とりで》である。
まさかとは思うが、もうサンクワール側の兵でも見えたのだろうか。
が、馬を飛ばしてきた騎士は、なんともいえない複雑な顔つきで口元を歪《ゆが》め、
「砦《とりで》のすぐ前に、ある物が」
「ある物? なんだ?」
「直接の危険はなにもないですが……見ていただいた方が早いかと」
相手は口ごもった。
ジョウは眉をひそめたが、それも一瞬で、すぐに肩をすくめて了承した。
どうせ今宵《こよい》は、砦《とりで》で一夜を過ごす気だったのである。
「危険がないのならそれでいい。……見ればわかると言うのなら、そうさせてもらおう」
そのまま進軍を続け、国境の砦《とりで》に至ったところで、ようやくジョウにも事情がわかった。
そして、物見《ものみ》が妙な顔をした訳も。
なるほど、これは反応に困るだろう。
というのも、シャンドリス側の砦《とりで》を過ぎたすぐ向こう……つまり、砦《とりで》と目と鼻の先のサンクワール領の街道脇に、真新しく、しかもどでかい立て札が、でんっと立っているのだ。
優に、普通の三倍くらいの大きさがある。
そこには元から「王都リディアまであと○○」などと書かれた、いかにもどうでもいい立て札があったらしいのだが、それは引っこ抜いて脇に投げ捨ててある。
代わりに、件《くだん》のそれが、シャンドリス国境|砦《とりで》の方を向いて立っている。というか、めちゃくちゃ偉そうに存在を主張しているのだ。
ジョウの卓越《たくえつ》した視力は、砦《とりで》の見張り櫓《やぐら》からでも、そこに書かれた黒々とした文面を楽に読みとれた。
『邪《よこしま》な意志を持って国境を侵《おか》そうとする者達へ。
[#ここから1字下げ]
改心する気がないのなら、汝《なんじ》ら、ここから先は全ての希望を捨てよ。
――早い話が。
なめてんじゃないぞ、こらっ。
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]怪盗ブラック仮面より』
なんというか……達筆である。
文面を考案した犯人はあまりにも明らかだが、書いたのも本人だろうか。だとしたら、字が上手《うま》い。……ジョウが感心して眺める横に、たまたまザルツが走ってきて、同じようにその立て札を見やった。
目を細めつつ、苦労して何度も読み直し、ようやく文面を読みとった時、顔がかあっと赤くなる。
「な、なにが『怪盗ブラック仮面』だよっ。だいたい、誰だ、それわっ! ふざけやがってええっ」
ズランッと剣を抜くや、いきなり駆け出そうとした。ジョウは素早く肩を掴《つか》んで止めた。
「待て、ザルツ。剣など抜いて、どこへ行こうというんだ」
「――決まってます! あの胸くそ悪い札をぶった斬《ぎ》ってくるんですよ!」
「やめておくがいい」
静かに諭《さと》す。
「放っておくのだ。立て札で人は死なない。くだらぬ挑発に乗ってはいけない、ザルツ。君が怒れば怒るほど、相手を喜ばせるだけだぞ」
納得したわけでもなさそうだが、『相手を喜ばせるだけ』というのが効いたのだろう。
ザルツはむすっと押し黙った。
一応は剣を戻す。
無言で肩を叩《たた》いてやり、ジョウは周りで見物している兵達に声をかけた。
「誰か、あの札を立てにきた者を見てないのか?」
言われ、見張り達数人がそっと視線を交差し合う。ザルツの怒りようを見て、話すのをためらっているらしい。とばっちりを食って自分まで叱られたらかなわない、というところか。
ジョウは微笑み、
「咎《とが》めはしない。ただ話を聞きたいだけだ」
と、やっと一人の若者が進み出た。
「君は見たのか」
「はい。……というより、大勢見ています」
「ふむ。話を聞かせてくれ。誰だ、その……暇な男は」
「はい、それが――」
もって回った言い方をする彼をなだめ、安心させ、ジョウはなんとか事情を聞いた。
要するに、こういう次第らしい。
つい先ほど、馬に乗り、肩に立て札を担《かつ》いだ、おそろしく不機嫌《ふきげん》そうな顔の男がやってきた。
そいつは、街道にあった古い立て札を引っこ抜き、代わりに自分の持ってきた方をぶち立て、黒炭を手に、その場で例の文面を一息《ひといき》で書き上げたらしい。
で。書き終えると重々しく頷《うなず》き、立て札をくるっと砦《とりで》の方へ向け、後はにこりともせずに元来た道を帰ってしまった……というわけである。
ちなみに――
その『誰か』は、終始|不機嫌《ふきげん》な表情を消さず、おまけに肝心《かんじん》の砦《とりで》には、最後まで一瞥《いちべつ》もくれずに立ち去ったという……
ジョウの脳裏《のうり》に、レインの側《そば》にひっそりと仕えていた男の顔が、容易《ようい》に浮かんだ。名前は確か、ギュンターとかいったはず。
まず間違いあるまい。その彼が、レインの命令でわざわざあんな物を立てに来たのだ。
……はるばる、こんなところまで。
「馬鹿野郎!」
落ち着き払ったジョウと違い、聞いた途端《とたん》にザルツが吠《ほ》えた。
「それをなんで黙って見てるんだ、おめーらはっ」
「し、しかし!」
見ていたという若者はうろたえ、
「仮にも、あちらはサンクワール領です。まさか、『そんな所に立て札を立てるな!』とも言えません。それに、まだ開戦がおおやけになったわけでもないですし……」
「今更《いまさら》なに言ってやがるっ。余計なことを考えずに、とっとと矢でも射かけてりゃ――」
「よせ、ザルツ」
ジョウは、途中で遮《さえぎ》った。
「彼の言う通りだ。今のところ我々は、シェルファ王女を擁《よう》するレイン達を敵に回す気はないんだ。黙って見ていたのは正しい」
「でもっ」
ザルツは子供っぽく頬を膨《ふく》らませた。
「向こうは戦う気ですぜ、あの文句を見りゃわかるでしょう!」
さすがのザルツもジョウにはあまり口答えしないのだが、今回は腹に据《す》えかねたらしい。
まあ、彼の言いたいことはわかる。
王都ザワールを出陣後、何日も何日も行軍《こうぐん》してきたのだ。サンクワール側は、もうとうにこちらの動きに気付いただろう。なにしろ、軍が西を目指しているのを見れば、どこが狙われているかは一目|瞭然《りょうぜん》なのだから。
いや、それでもサフィール側はまだ知らないかもしれないが、少なくともレイン達は気付いているはず。
この進軍も、とうに間諜《かんちょう》によって逐一《ちくいち》報告がいってるのは間違いない。
「……詳しい次第を告げる使者は、これから出す。数日後にはコートクレアス城に着くだろう。その使者に対する返事を見て、こちらも態度を決めればいい。だから、今は暴発すべきではない。あえて敵を増やす必要はどこにもない」
「その使者に、どういう文面を持たせるおつもりで?」
胡散臭《うさんくさ》そうなザルツに応えたのは、他ならぬフォルニーアだった。
「なに、大した内容は考えていない。『我々の敵はサフィールのみ。よって、貴公達には黙認を望む』……ジョウと相談した結果、事実だけを淡々と知らせることにした」
通路を歩み寄ってきたフォルニーアに、ジョウとザルツは一礼した。
ジョウは顔を上げると、
「まあ、その程度が無難でしょう。後は、彼らがどう出るかですね」
「ふん。……もっと早くに使者を出しておくべきだったか。サフィールどもと、一緒くたに攻撃されると勘違いされたかな? いや、事情がわかっても、どのみち腹を立てるかもしれぬが」
別に後悔した風もなく言うと、フォルニーアは自《みずか》らも見張り櫓《やぐら》に足を踏み入れ、愉快そうに立て札を眺める。
と、その後からどやどやとセイル達兄妹、それにシングまでやってきて、さほど広くもない櫓《やぐら》は満杯になってしまった。
後から来た将軍達は、もうとうに見ただろうに、またしばらくじい〜っと立て札を見物していた。
しばらくして――
「くっくっく」
フォルニーアは喉《のど》を鳴らして笑った。
「あっはっは!」
セイルなどは指まで差して大笑いし、ジュンナもつられて微笑む。
「……なぜに、どういう理由で『怪盗』? こんなことするのは、あのレイン殿ですよね、どう考えても。あの人、泥棒経験でもあるんですか」
シングのみが生真面目《きまじめ》なコメントを漏《も》らす。
「なんでぇ。誰も頭に来ないのかよっ」
おもしろくなさそうなのはザルツだけだった。それにしても、ジョウを含め、レインに直接面識がある三人が、揃《そろ》って「犯人はレイン」と決めつけるのが興味深い。
「くっく……いや、怒るな、ザルツ」
まだ肩を震わせたまま、フォルニーアは朗《ほが》らかに言った。
「そう、どう考えても犯人は明らかだ。ゆ、愉快な男ではないか、レインとやらは。ジョウ、おまえもそう思うだろう?」
「……御意《ぎょい》。わざわざ部下を使ってこんな真似《まね》をするというのは、大陸広しといえど、彼くらいのものでしょう。おっしゃる通り、憎めない男です」
「そうですかね」
ザルツはまだ不機嫌《ふきげん》そうに、
「俺はめちゃ気に入らないですけど」
「あの、ジョウ様。一つわからないんですが」
シングがむかむかした表情のザルツを横目に訊いてきた。
「あの立て札にどんな意味があるんです? わざわざこんな所まで部下を派遣《はけん》して、あんなの立てた理由はなんでしょうね」
「理由はないな、おそらく」
言い切ってから、ジョウは思わず笑った。
全く、いい大人がこんなことをするだろうか。
「理由はない。強《し》いてあげれば、単なる悪戯心《いたずらごころ》だろう。……あいつはそういう男だよ」
それを聞き、シングはあきれた顔で首を振った。真面目《まじめ》な彼には理解し難《がた》いに違いない。
もちろん、ギュンターが付近まで来ていたのは、立て札のためだけではあるまい。それくらいはジョウにも想像がつく。
主な任務は、こちらの動向を探るためだろう。立て札などはついでのことにすぎないはず。
しかし、ジョウは確信する。
情報収集という目的があろうとなかろうと、どのみちギュンターはレインの命を受け、立て札を担《かつ》いでやってきただろうと。
そして、もうすぐ二十六だというのにこういう真似《まね》をするレインを、ジョウは眉をひそめるどころか、かえって大いに気に入ったのである。
無論《むろん》、だからと言って戦《いくさ》の手を抜きはしないが。
「さて。明日はいよいよサンクワール領だが……レインはどう反応するかな」
ジョウは独り言のように呟《つぶや》いた。
その声の響きに、少々笑みが含まれているのを、この場の全員が感じ取っていた。
――☆――☆――☆――
静まりかえった室内に、薪《まき》が爆《は》ぜる音が微《かす》かに響いた。
コートクレアス城の、使者が案内された部屋に大きな暖炉があり、その中で炎が燃え盛っているせいだ。
おかげで、冷え冷えとした冬の街道をひたすら駆けてきた体を、心地よく温めてくれている。使者の身としては、大変にありがたい。
この城には謁見《えっけん》の間というものがないらしく、サンクワールの王女との会見に使用されたのは、ただの大広間を改造した場所である。
使者が恭《うやうや》しく頭《こうべ》を垂れる前には、急ごしらえの玉座《ぎょくざ》に王女その人が座しており、その噂以上の美貌《びぼう》に、使者は度々、そっと視線を向けずにはいられない。
座った玉座《ぎょくざ》にわだかまるほど長い、まっすぐに伸びたまばゆい金髪、少女らしく繊細な、それでいて完璧な形を誇る鼻梁《びりょう》。さらに、あの真っ青な瞳の美しさは例えようもない。
サンクワールの生粋《きっすい》の貴族女性は皆、この特徴ある瞳のせいで非常に美人に見えると言われるが、心から頷《うなず》ける。
彼女を一目見られただけでも、命がけの使者を務めた甲斐《かい》があったというものである。
ただ、あいにく彼の目の前にいるのは麗《うるわ》しの王女だけではなく、例のレインもその隣に立っていたりする。
これまた噂通り全身真っ黒の服装で、正装をした王女の横に、守護神のように屹立《きつりつ》している。
大将軍ジョウ・ランベルク直々に、「あの男には注意せよ」と念を押されたのを、使者たる彼は忘れていない。
もちろん、先日ぶち立てられた立て札も、出立《しゅったつ》前にこの目で見た。
だから文字通り、彼は決死の覚悟《かくご》をもってこの会見に望んだのだが……
レインがふいに口を開いた。
「使者殿」
と、穏やかに話しかけてくる。
「は、はいぃっ」
緊張と少量の恐怖心がブレンドされ、鶏の首を絞《し》めたような情けない声が出た。
フォルニーアからの書面を読んでいる王女が、その声に顔を上げたものの、すぐにまた紙面に目を戻した。……なぜか口元が綻《ほころ》んでいる気がする。
肝心《かんじん》のレインは黒瞳《くろめ》を見開き、
「いや、お楽に……。少々緊張しておられるようなので声をおかけしたまで。お体の具合でも悪いのでしょうか?」
実に礼儀正しく、問いかけてくる。
……なにか、事前に散々聞かされたレイン像と違い、使者としてはとまどうことしきりである。
腹立ちのあまり斬《き》られるのではないかとビクビクしていたのに、そんな兆候《ちょうこう》は微塵《みじん》もない。それどころかレインは、まるで賓客《ひんきゃく》に口をきくような態度だった。
主従《しゅじゅう》二人にどこか違和感を覚えたまま、適当に答えようとしてふと思いつき、
「あの、あの立て札は……」
とおずおずと尋ねてみる。
レインはこちらがびっくりするほど大仰《おおぎょう》に驚き、「は? 立て札がなにか?」などと不思議そうな顔で聞き返してきた。
本当になにも知らないように見える。
これでは、まるでこちらが「ふいに世迷《よまよ》い言《ごと》を吐いた馬鹿」みたいではないか。
仕方がないので彼は、
「いえ、なんでも……」
と言葉を濁《にご》した。
ありがたいことに、文章を読み終わったらしく、王女が顔を上げた。
「……この手紙に書かれた内容を、使者の方はご存じですか」
「はい……。その……だいたいは」
落ち着かない気分で目を逸《そ》らした。
自分が理不尽《りふじん》な書面を突きつけたことに、任務とはいえ気が咎《とが》めたのだ。
しかし王女は、別に気分を害したようには見えなかった。
それどころか、彼が思わず自分の人生を見つめ直したくなるような、慈愛に満ちた笑顔を見せてくれた。
「では、なにか付け加えるお言葉はありますか」
「い、いえ、特には。ただ、出来ましたら書面でお返事がいただきたいのです。陛下の仰《おお》せでして」
「それなら用意してありますわ」
「――は?」
一瞬ぽかんとした彼の前に、王女の視線を受けたレインが優雅《ゆうが》な足取りで近寄り、それらしき物を渡した。きちんと円筒形の紙筒に入れられ、蝋《ろう》で封がしてある。
さらには、派手派手しいリボンまでついている。
それも、ピンク色だ……
「どうぞ。これが姫様のお返事です」
「え……いや、しかし。今来たばかりでなぜ」
「なぜ既に返事が用意してあったのか、ですか?」
「――はい」
怖々頷《こわごわうなず》く使者に、レインはとろけそうな笑みを見せた。まるで、十年来の知己《ちき》に対するような素晴らしい笑顔である。
君は大事な親友だ!
――と、その瞳が語りかけている気さえする。
「いえ、なにしろそちら様はもう我が領土に侵攻《しんこう》していらっしゃることですし。我々としても色々と考えていたわけです」
ほとんど答えになっていない。
自分のような使者が来ることまで予測していた、ということだろうか。
そんな馬鹿な。
それよりなにより、このレインの優しい笑顔がとてつもなく不気味だ。
上将軍《じょうしょうぐん》という高い身分のくせに、単なる使者ごときに妙に丁寧な言葉遣いなのも不気味だ。
どちらも、この男の世評《せひょう》とぜんっぜんっ一致しない。
しかも、なぜか王女までクスクス笑ってるし。
まさか、本当は二人とも激怒《げきど》しているのでは。極限の怒りは、かえって笑顔に通じるものがあるという。自分達の領土に侵攻《しんこう》されているのだ。そう考える方が自然ではないか。
それは、なかなかもっともらしい考えに思えた。おそらく、こちらが後ろを向いた途端《とたん》に忍耐がぶち切れ、憤怒《ふんど》の表情に変化して背中からバッサリと――
「どうかなさいましたか、使者殿。お顔の色が優れませんが……」
言葉の端々《はしばし》にまで好意をこめて、レインが話しかけてくる。
今にも抱擁《ほうよう》でもされそうだ。
また王女が楽しそうに笑った。それも、華やかな声を上げて。
心底、ぞっとした。
彼の三十五年に及ぶ人生において、これほどの恐怖心を覚えたことはない。
「いえっ。なんでもないですっ。で、ではお返事をいただいて帰りますっ。し、失礼しますっ」
返事の入った紙筒を握りしめてくるっと回れ右をし、不自然な早足で出口を目指す。右手と右足が一緒に出ていた。
まだ下がっていいと言われていないが、知ったことではない。命あっての物種《ものだね》である。
もう、一秒たりともここにいたくない。
ほっとしたことに、扉付近に立つ衛兵《えいへい》二人は素直にドアを開けてくれた。
――すると。
「使者殿!」
レインの底抜けに明るい呼び声。
「は、はいぃっ!?」
ぎちちっと体が固まる。
「最近は物騒《ぶっそう》な世の中です」
と、いきなり声に不吉な響きを込め、
「なにしろ……突然、なんの罪もない小国に、あつかましいどこぞの他国が侵攻《しんこう》してきたりします。実に油断《ゆだん》なりません(ここでまた、王女の笑い声)」
「は、はっ!」
もはや、言葉にならない。
「まあ、それはそれとして。とにかく……道中はくれぐれもお気を付けて。――無事をお祈りしていますよ……物騒《ぶっそう》な世の中ですからなぁ〜」
もはや、辛抱《しんぼう》が切れた。
彼は、返事もせずに広間を走り出た。転げるような焦《あせ》った駆け足の音が、どんどん遠ざかっていった。
「はっはっは!」
「うふふふ」
バタンと閉じられたドアを見て、レインとシェルファはひとしきり笑い合った。
笑いつつレインは、入り口に控えた衛兵《えいへい》達に手を振り、「姫様と相談があるから下がっていいぞ」と申し渡す。
彼らが敬礼《けいれい》して出ていってから、玉座《ぎょくざ》(実はただの豪奢《ごうしゃ》な椅子)に座ったシェルファを見下ろし、片眼を瞑《つむ》る。
「見たか、あいつのびびった顔? な、人をからかうのって楽しいだろう?」
「そんな。わ、わるいですわ」
クスクス笑いながら言うので、あまり説得力がない。
レインがそう指摘すると、シェルファは口元に手をやって抗弁《こうべん》した。
「だって、レインが真面目《まじめ》なお顔で普段使わない敬語を使ったりするから……それがおかしくて」
気が咎《とが》めるのか、なんとか笑いを引っ込めようとしているが、どうもまだ堪《こら》えきれないようだ。
「ふふん。その気になれば、俺はいくらでも丁寧に話せるさ。ただ、その気になる相手がめったにいないだけだ」
レインはほのかに香る眼下《がんか》の金髪に手をいれ、なんとなく弄《いじ》ってやる。
元々|櫛《くし》通りの良い美麗な髪なので、実に手触りが良かった。シェルファもまた、気持ち良さそうに軽く瞳を閉じる。
立ったままのレインに少しでも近づくかのように、体を玉座《ぎょくざ》の一方に寄せてきた。
「わたくしは、今のように話してもらう方が嬉しいです……」
「ああ、だから二人の時はそうするよ。――ところでな」
言いつつ手を引っ込めると、シェルファは不満そうに瞳を開いてレインを見上げた。
苦笑して、代わりに華奢《きゃしゃ》な肩に手を置く。
「ところで、相談がある。例のガルフォートから持ち出した財宝な、また少し使わせてもらうぞ。ていうか、もう既に使っているけど。事後承諾《じごしょうだく》で悪いな」
「自由に使ってください。なんでもレインの思う通りにやってくださっていいですから。……お金、シャンドリスとの戦いで使うのですか。もう戦いを回避する道はないのでしょうか?」
やっと微笑みを消し、シェルファが真面目《まじめ》な顔になった。
「俺達にそんな気が無くても、向こうが攻めてくるんじゃしょうがないだろ。おまえだって、あの女狐《めぎつね》達がサフィールだけを相手にするなら、侵略されてもまあいいわ、なんて思わないだろう?」
横目で、シェルファが読んでいたさっきの書面をささっと斜め読みしたので、シャンドリス側の言い分はわかった。
まあ、彼らがなにを言ってこようと、どのみちこちらの出方は決まっているのだが。早々に返事が用意してあったのはそういう次第だ。
シャンドリスが戦支度《いくさじたく》を始めた情報は、ほとんど時を置かずに掴《つか》んでいたレインである。皇帝がサンクワールから帰国した途端《とたん》に、大軍を編成する……これが偶然であるはずがない。つまり侵攻《しんこう》に関しては、ある程度の予想は出来ていたのだ。
侵攻《しんこう》それ自体は、特にレインの予測を越える出来事ではない。あの覇気《はき》のありすぎる皇帝なら、そういうことをやらかしても不思議ではないだろう。それでなくても、今のこの国は隙《すき》だらけなことだし。
ただし、この書面はいただけない。
レインに言わせれば、随分《ずいぶん》と厚かましい話である。
いくら「おまえ達には手を出さない」と言われても、普通、自分の国がズカズカ侵攻《しんこう》されるのを黙って見ている君主はいないだろう。
「……たとえ、ほとんど城内で育ったこの身であっても、それでもサンクワールはわたくしの故郷です。だから……国土が侵《おか》されるのは辛いです」
レインが思った通り、シェルファは悲しげに俯《うつむ》いた。
「そうだな。それが普通じゃないか。だけど、そうそう女狐《めぎつね》の思う通りにはならないさ」
「もうなにか考えているのですね」
「まあボチボチと。――ジョウは頭のいい男だからなぁ……かえって楽しいかもしれん」
それ以上は説明せず、
「ただ、おまえが許可してくれるなら、この一戦に限っちゃ、双方ほどほどのところで戦いを収めたい。なるたけ遺恨《いこん》を残したくないんだな。……なぜ俺がそう望むか、わかるか?」
シェルファは優しい曲線を描く眉をひそめ、しばらく真面目《まじめ》に考えていたが、黙って首を振った。
「――理由は簡単。シャンドリスにはぜひ、ザーマイン戦を共に戦う、盟友《めいゆう》になってもらいたいからだ。一国で当たるより、他を巻き込んだ方が勝率は上がるだろう」
あっさりばらすと、シェルファは可愛らしく小首を傾《かし》げた。
「でも、レインはフォルニーア殿とお会いした時、同盟などには無関心なようでしたわ」
「そう見えたのなら、俺の演技はかなり上手《うま》くいったってこった」
人の悪い笑みを浮かべるレイン。
シェルファの肩を気安く抱き寄せ、悪知恵を吹き込む。
「いいか、チビ。外交の要諦《ようてい》というか基本は、なるたけ自分を高く売り込むことにあるんだ。この場合、喉《のど》から手が出るほど同盟を望んでいても、それを悟《さと》られたらいけない。かえって相手の方から、『ぜひ同盟をお願いしたい』と頭を下げさせるのが理想だ。そうすりゃ、足下を見られることもないだろう?」
シェルファは引き寄せられるままにその身を任せ、熱心に聞き入っている。
レインはそっと彼女の頬に手を当て、
「向こうから同盟を持ち出してきた時、確かに俺は『しめた!』と思った。なにしろ、どのみち俺の予定に、シャンドリスとの同盟は入っていたからな。だが、仮にあそこでおまえが同盟に応じたとして、結局、女狐《めぎつね》は提案を引っ込めていただろう。どう弁明したところで、あの時の俺達は頼もしい味方には見えなかっただろうからさ。なら先手を打って、こっちから話をご破算《はさん》にもってく方が、後々の都合がいいってもんだろ」
「――それでわざと、同盟などどうでもいい、というような態度を?」
頷《うなず》いてやると、シェルファは不世出《ふせいしゅつ》の天才を見るような熱っぽい瞳で、レインを見返した。
思わずまた苦笑した。
この程度の「腹芸《はらげい》外交術(レインが勝手に命名)」は、レインにとっては基本中の基本なのだが、世間《せけん》ずれしていない彼女には深遠《しんえん》な知恵に思えるらしい。
だが、それでいいと思う。
権謀術策《けんぼうじゅっさく》など、この少女には似合わない。
そういう「汚れ役」は、自分が引き受けるべきことである。だから軽く頷《うなず》き、言ってやる。
「まあ、俺に任せてくれればいいさ。で、やはり一応の承諾をもらいたいが。この方針でいいか? シャンドリスとの戦《いくさ》を遺恨《いこん》なく収め、なおかつヤツらと同盟を組む……という手で?」
シェルファは一も二もなく、コクコク頷《うなず》いた。
レインの方針は、口に出すと実に簡単に聞こえるが、普通なら「そんなことが可能なのか」と問い返すところだろう。
だが、シェルファはいつも通り、そういう疑問は一切口にしなかった。この少女はどうも、レインのやることに失敗はないと確信しているようである。
とそこで――
レインは微《かす》かに聞こえた罵声《ばせい》に、会話を打ち切り、耳をすませた。
問いかけるようなシェルファに、
「聞こえたか? 下で騒ぎが起こっているらしい」
「……わたくしには、なにも聞こえませんわ。でも、レインが言うなら」
「――確かだよ。様子を見に行こう、なにか嫌な感じだ」
シェルファの手を取り、レインは足早に部屋の外に出た。
――☆――☆――☆――
廊下の向こうからシャンドリスの使者達が急ぎ足でやってくるのを見て、ラルファスは不審を覚えた。まだ王女と謁見《えっけん》の途中だと思っていたのだ。
それがなぜ、正使を含めた一行《いっこう》数人がこんなところにいるのか。
早速、「使者殿!」と声をかけたのだが、集団の中の正使にあたる人物が、ぎくっと身を強張《こわば》らせた。なにか妙に怯《おび》えている。
「使者殿、どちらへ行かれる? もう会見はお済みか」
「はっ……いや、滞《とどこお》りなく済みました」
額の汗を拭《ぬぐ》い、正使たる彼は口早に答えた。
「それで、我らはこれから陛下の元へ戻るところです」
「これからすぐに?」
眉をひそめるラルファス。
彼らは今朝方着いたばかりなのである。せめて一晩は泊まっていくだろうと思ったのだが。
シャンドリスの突然の侵攻《しんこう》を、もちろんラルファスは快く思っていない。
しかし、だからこそフォルニーアが寄越した使者とじっくり会談し、それとなく彼らの腹を探ろうと思っていたのだ。
その上で、お互いの妥協《だきょう》点を見いだせないかと考えていた。
なのに、もう帰るという。
一体、王女とどういう話し合いが行われたのだろうか。所用で同席できなかったことを、ラルファスはいたく後悔した。
しかし、使者達はもうこれで話は終わり、とばかりにさっさと歩き去ろうとする。というか、どうも正使の騎士一人が不自然に急いでいて、後の従者《じゅうしゃ》達は彼に引きずられているようだった。
ともかくラルファスは、
「しばしお待ちを! それなら、せめて城門までお送りする」
いやっ、結構、などと言う正使にあえて強情《ごうじょう》に首を振り、ともに歩き出す。
一応、使者達の背後にはレインの部下が数人ついていたが、真面目《まじめ》な彼は念のために自分も同道することにしたのである。
中庭に出て城門付近まで近づくと、ラルファスはすぐに異状に気付いた。
幌《ほろ》付きの馬車が門前に止まっており、門番達が御者《ぎょしゃ》と話している。
漏《も》れ聞こえるところでは、なにやら通せ通さないの問答で揉《も》めているようだった。
「どうかしたのか」
まだ距離があるうちに、ラルファスは呼びかけた。
当直の二人が敬礼《けいれい》をする。
若い方が答えた。
「いえ、たいしたことでは。ただ、野菜を運んできた御者《ぎょしゃ》がいつもと違う者だったので、確認をと。そういう場合、ちゃんと前任者の委任状をもらうことになっているのです。ところが、そこにいる彼が――」
馬車から降りつつある御者《ぎょしゃ》を見て、
「委任状は預かったが、持参するのを忘れたと言うので、ちょっと困ると申し渡しているところでして」
「……ふむ」
それを聞き、ラルファスは口元を引き結んだ。
別にどういうつもりがあったわけでもないが、まだ歩いている使者達に向かって「しばらくお待ちあれ」と断り、自《みずか》らその馬車の方へ足を向けた。
特になにかを疑ったわけでは決してない。
城内に食物を納入している馴染《なじ》みの御者《ぎょしゃ》が、病気などで他の誰かと交代するのはよくあることである。
普通なら煩《わずら》わしい規則を軽視し、いちいち確かめることもしない。手を振って通してしまう。
よって、この門番達はまだ慎重だったと言える。城主のレインが、そういうことに意外と厳しいせいかもしれない。
それで、門番の彼ら以上に責任感の強いラルファスは、一応|自《みずか》ら危険の有無《うむ》を確かめようとしたのだ。
「どういう事情だ」
ぼけっと立つ、問題の男に尋ねた。
「いつもの者と違うそうだが、なにかあったのか? 病気にでもなったのかな」
話しかけつつも、相手にどこか違和感を感じた。
とりたてて特徴も無く、おとなしそうな男なのだが、なにか生気がない。控えめに言えばぼ〜っとした感じで、もっとはっきり言ってしまえばどこか反応が鈍い。
ちょうど、熟睡しているところを突然|叩《たた》き起こされた時の、起き抜けの顔に少し似ている。
なにか霞《かすみ》がかったような目で、問題の彼は門番達からラルファスの方へと顔を向けた。
間延びした口調で説明を始めた。
「はぁ。ジャンはぁ、ちょっと風邪をひきまして。今日は俺が――」
男は、なにげなくラルファスの背後に目をやった途端《とたん》、ぴたっと言葉を切った。
かっと目を開く。
白目が充血しきった、不気味な目を。
馬車の方に向かい、いきなり切り裂くように怒鳴《どな》った。
「出ろっ。こいつらが獲物《えもの》だ!」
おそらく野菜を入れる木箱の中に隠れていたのだろう、けたたましい音とともに、幌《ほろ》の中から男達が次々に飛び出してきた。
そのうちの、弓を持った幾人かが素早く矢をつがえる。
「伏せろっ」
とっさに振り返り、ラルファスはシャンドリスの使者達に怒鳴《どな》った。
だがすぐさま反応して身を伏せたのは正使とあと一人だけで、他の者達は射られた矢をまともに受け、胸をかきむしりながら倒れた。
ほぼ即死である。
ここでやっと、門番の片方が夢から覚めたように動き出し、非常用の笛をビィィィィイッと吹き鳴らす。
もう一人のやや年かさの方は慌《あわ》てて剣を抜こうとしたものの、駆け寄ってきた例の御者《ぎょしゃ》によって一刀のもとに斬《き》り捨てられた。
仲間から受け取ったのか、男はいつの間にか抜き身の剣を下げていたのだ。もちろん、後から飛び出してきた者達は言うまでもない。
手に手に武器を振りかざし、生き残った使者達に駆け寄ろうとしている。
さらに、弓を放った先の数人は、第二射に入ろうとしていた。
二段構えの攻撃である。
誰の差し金だかは知らないが、なにがなんでも使者達を亡き者にしたいらしい。
自《みずか》らの生還は期していないのだろう。
「させはしないっ」
城内のことであり、ラルファスは帯剣《たいけん》していなかった。が、とっさに倒れた門番の剣を拾って彼らに斬《き》り掛かった。
踏み込み、今まさに射ようとしていた敵に向かって剣を一閃《いっせん》する。喉《のど》を裂かれて血煙《ちけむり》を上げた敵を顧《かえり》みもせず、当たるを幸い、複数の敵に剣を打ち振るう。
悲鳴が上がり、血飛沫《ちしぶき》が飛んだ。彼らは逃げる暇さえ与えられず、ロクに反撃も出来なかった。草を刈るような容易《たやす》さでラルファスの剣が敵の胴を薙《な》ぎ、あるいは突く。急所に剣撃《けんげき》を叩《たた》き込まれ、最初に飛び出してきた彼らは、為すすべもなく絶命していった。
普段のラルファスはいつも笑顔を絶やさず、一介の兵士にすら気配《きくば》りを忘れない男である。だがそれは、彼の本質全てではない。
今ラルファスは、戦士としての本領を発揮し、瞬《またた》く間に弓を持った数人を斬《き》り捨ててしまった。
すぐさま身を翻《ひるがえ》し、既に使者達を追撃しつつある例の御者《ぎょしゃ》達を追う。
思わず舌打ちをした。
シャンドリスの生き残り二人は、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。駆け寄った若い門番が、すっくと彼の前に立ちふさがり、勇敢《ゆうかん》にも己《おのれ》の職務を全うしようとしている。
さらに彼らの背後から、警笛《けいてき》を聞きつけた衛兵《えいへい》達が、腰の剣に手をあてて駆けつけようとしていた。持ちこたえさえすれば、こちらが有利になるのだ。
とにかく、敵の残りはあと七〜八人なのだから。
「逃げるんだっ」
ラルファスは走りながら叫んだ。
この際は、それがもっとも有効な手段なのだ。城内に逃げ込めば、そこで彼らはもう打つ手がなくなる。
シャンドリスの使者達をここで殺させるわけにはいかない。
ラルファスの叱声《しっせい》を聞き、門番の彼ははっとしたような顔になった。だがすぐに頷《うなず》き、使者を促《うなが》して走ろうとする。
今度は正使の男もぼやっと立っていなかった。残ったもう一人と共に、背後の衛兵《えいへい》達に合流しようと走る。
使者たる彼らが、名誉に賭《か》けても戦う――などという選択をしなかったことは、不幸中の幸いだったろう。
お陰で、追撃している襲撃者《しゅうげきしゃ》達の背後に、ラルファスはなんとか追いついた。
こちらに注意を引きつけるべく、わざと大声を上げて斬《き》りかかる。手にした剣を、容赦《ようしゃ》なく振り抜いた。
一人の背中を斬《き》りつけ、返す剣でもう一人を血の海に沈める。
効率よく数を減らしていくラルファスの剣技に、襲撃者《しゅうげきしゃ》達は図らずも乗せられた。
一斉《いっせい》に振り向き、剣を構えて襲いかかってくる。だが、御者《ぎょしゃ》に化けていた例の男のみは違った。ぐっと加速し、生き残りの使者に大剣を振りかぶる。
豪快に剣を振りきった風切り音が、ラルファスの耳にまで届いた。
恐ろしいばかりの威力である。明らかに常人の域を超えていた。頭から腹の辺りまでまっぷたつに斬《き》り下げられた副使は、体を痙攣《けいれん》させつつぐらっと傾《かし》いで倒れた。
吹き出した血が大地を赤く染める。
「ギンナム!」
ついに最後の一人となった正使が、悲痛な声で同僚の名を呼んだ。怒りが恐怖を吹き飛ばしたのか、おのれっと喚《わめ》きながら振り返ろうとする。
よせっ、とラルファスは怒鳴《どな》った。
戦士としての直感が、あの偽|御者《ぎょしゃ》はどこか普通ではないと感じ取ったのだ。
しかし、ここでも幸運は続いた。
ラルファスの危惧《きぐ》するような一対一の斬《き》り合いになる前に、衛兵《えいへい》の群れが件《くだん》の男に殺到したのだ。
再度剣を振り上げていた男と生き残りの正使の間に、どっと壁を作る。
「殺すな!」
縦横無尽《じゅうおうむじん》に剣を振るいつつ、ラルファスはもう一度|怒鳴《どな》った。誰の指示で動いているのか、突き止めねばならないのだ。
しかし、コトはそう簡単ではなかった。
「があああああああっ」
突然、偽|御者《ぎょしゃ》が獣《けもの》のような咆吼《ほうこう》を上げた。
それは、人間の声帯から出た声とは信じられぬほどの野太い獣声《じゅうせい》で、一斉《いっせい》に斬《き》りかかろうとした衛兵《えいへい》達が、ギクリと動きを止めたほどである。
男の筋肉が不気味に波打ち、膨張《ぼうちょう》を始めた。それまではぶかぶかだった上衣の下で見る見る嵩《かさ》を増し、ボタンごと服を弾けさせる。
その間も、男は獣声《じゅうせい》を上げっぱなしだった。
変化は筋肉にとどまらなかった。
顔や腕など、皮膚が露出した場所から剛毛《ごうもう》が生えてきて、見かけまでオーガーを思わせるような人間離れしたものに変化していた。
「ば、化け物めっ」
目を飛び出させてそれを見物していた誰かが、険悪《けんあく》の呻《うめ》き声を上げ、剣を振りかざして突進した。
それに習い、衛兵《えいへい》達が一斉《いっせい》に不気味な男に飛びかかる。立ったままだった彼は、たちまち総身《そうしん》に剣撃《けんげき》を受けた。
だが――
偽|御者《ぎょしゃ》は想像以上の化け物だったらしい。
渾身《こんしん》の力で振り下ろした剣は厚い筋肉の層に弾かれ、体重をかけて突き通そうとした剣もまた、剣先の一部が通ったのみで男にかすり傷を負わせただけにとどまった。
思い思いに振るった剣がまるで通じないと知り、一瞬|衛兵《えいへい》達の攻撃が止んだ。
うそ寒い顔つきを並べて、後退《あとずさ》ろうとする。
ぎろっ。
獣人《じゅうじん》と化した男が大目玉を動かし、彼らを睨《にら》んだ。
「グオオオオオオオーーーーッ!」
咆吼《ほうこう》を上げつつ、衛兵《えいへい》達に襲いかかった。
手にした大剣を、霞《かす》むような勢いで横に薙《な》ぎ払う。一度に二人の首が飛んだ。
右へ左へ、防御などはなから考えていない、力任せの攻撃である。しかし、そのスピードと筋力は並々ならぬもので、男が剣を振るう度に不運な衛兵《えいへい》の首が飛び、腹を裂かれた。
衛兵《えいへい》達は臆病《おくびょう》からはほど遠い者ばかりだったが、自分の力がまるで通じない相手となると、なけなしの勇気も自《おの》ずから尽きる時が来る。
皆、這《は》うようにして化け物から逃げようとした。遅れて増援に駆けつけた兵達も急停止し、蒼白《そうはく》な顔で立ち尽くすだけで、それ以上は近寄ろうとしない。
「ガアッ」
怪物が、急にぐるっと顔を向けた。
よろばいつつ逃げる、シャンドリスの正使を見つけたのだ。
「待てっ!」
走り出そうとした化け物の背中を、ラルファスの厳しい叱声《しっせい》が打つ。獣人《じゅうじん》化した偽|御者《ぎょしゃ》の足を止めるほど、鋭く激しい口調だった。
足止めしようとしていた最後の一人を斬《き》り捨て、ラルファスは彼に追いすがっていた。
男が振り向いた時には、剣を持ち上げたところだった。
大声で気合いを発し、ラルファスは化け物の目に剣を突き立てた。さすがにこればかりは弾けなかったようで、鮮血《せんけつ》と一緒に肝《きも》を冷やすような咆吼《ほうこう》が湧《わ》く。
すかさず剣を抜いてもう片方の目を攻撃しようとしたが、今度は毛深い腕によってガードされた。皮膚の強度は本物のオーガーをも凌《しの》ぐようで、斬《き》りつけても他の衛兵《えいへい》達と同じく、傷もつけられない。それに、剣を弾かれた時の、この馬鹿力!
ラルファスは唇を噛《か》んだ。
この剣では駄目だ。
通用するとしたらせいぜいこいつの目くらいだが、もう警戒されていてなかなか顔面に剣が届かない。
それどころかオーガーもどきが振り回す大剣から逃れるのに精一杯だった。
「ガアアア!」
「くっ」
突っ込んできた化け物をかわしそこね、ラルファスは倒れた。そこへ、巨大な足が持ち上がって踏みつけようとする。転がりながらなんとか逃れて間合いを取った。
「大将、無事ですかいっ」
どこからか、グエンの声が響いた。
騒ぎに気付いて駆けつけてくれたらしい。
いつの間にか、城門からかなり城内に入っていたのだ。
「――! さあ、これをっ」
「助かるっ」
走ってきたグエンが、遠くから剛力《ごうりき》で放ったジャスティスを、ラルファスはぱしっと受け止める。まさに飛びかかってくる寸前だった元偽|御者《ぎょしゃ》に向かい、鞘《さや》を払って抜いた。
バシュッ――ブゥゥゥゥゥゥゥゥン
輝く真紅《しんく》の刀身を、斜め上へと振り上げる。赤光《しゃっこう》によって鮮やかな弧が描かれ、それに追従するように血の雫《しずく》が飛んだ。
さしもの固い皮膚も、魔力チャージがなされた魔剣の斬撃《ざんげき》までは防ぎ得なかったようである。とっさに上体を逸《そ》らして直撃を避けたが、腹から胸にかけて浅く傷口が開く。
致命傷《ちめいしょう》にはほど遠いものの、化け物は警戒して後方へ跳躍した。そこへ、グエンとナイゼルが駆けつけてラルファスの両脇に並ぶ。
未だ知恵はあるらしい。
形勢不利《けいせいふり》を悟《さと》ったのか、化け物は黄色い片目をギョロギョロと動かした。
「うへえ。なんです、こいつぁ」
べっと唾《つば》を吐き、グエンが巨大なバトルアックスを構える。ナイゼルはとうに剣を抜いていた。
「オーガー……にしては、やや体格が小さい。それに、顔が人間そのものだ」
冷静に指摘するナイゼル。
ラルファスは化け物から目を離さないまま、
「オーガーなら、こんな町の近くにまで出没しはしないさ。こいつは、さっきまでは普通の人間だった。いきなり変身したんだ」
「いきなり変身? どういうことです、そりゃ」
とまたグエン。
「ヴァンパイアの仲間ですかい? でもこいつぁ、ヴァンパイアには見えませんなあ」
『ビースト・マスターのしもべだろ』
いつもと何ら変わらぬ、ふてぶてしくも落ち着いた声。
ラルファスが振り向くと、驚き顔のシェルファ王女を連れ、レインが平然とこちらを見ていた。宮殿内で普通に会ったかのように、「よう」と片手を上げる。
化け物から目を離さず、
「昔、旅の途中でちょっと相手をしたことがある。マスターと呼ばれる主人がいて、そいつが『種』を植え付けるんだ。すると植え付けられたヤツは、マスターのしもべに成り果てるんだな。
『主人』の力を、多少は分けてもらって。まあ、ヴァンパイアほど手強くはないけどな」
言葉を切り、黒瞳《くろめ》を細めて化け物をジロジロ観察する。
「ふん。おそらくそいつは、種付けされた『しもべ』の方だろうよ。マスターなら、もう少しでかいし、もっと強い」
断定し、さらに付け加える。
「……筋力と体の頑丈さに頼りすぎで、スピードがイマイチ。で、自慢の筋力も大したことなさそうだ。三十五点がせいぜいだなあ」
勝手に点数までつけ、やっとラルファスに問う。
「大丈夫か?」
「私ならなんともない。しかしおまえの言うとおりだとすると、これだけの力があるのに、こいつは『マスター』の方ではないのか」
ラルファスは首を振った。
「私のミスだ……。シャンドリスの使者達は正使を残して殺されてしまった」
「なんでも自分のせいにするのは、おまえの悪い癖だぞ」
友人は、あくまでもなんでもないような口振りだった。
「一応、一人は守りきったんだし、上等じゃないか。おまえの論法《ろんぽう》なら、俺の方が責任重いだろ。衛兵《えいへい》だって、城館の中までしかつけなかったし」
で最後に、「でも俺は全然気にしてないけどな」などと正直過ぎるセリフを漏《も》らすのが、この男の悪い癖である。
レインの言い草を聞いて、今は大勢の衛兵《えいへい》に囲まれているシャンドリスの正使が、なんともいえない複雑な顔をした。
と、周囲のやりとりなどまるで関知せず、例の『しもべ』がレインを睨《ね》め付け、ずいっと足を踏み出した。まるで、使者を殺す執着《しゅうちゃく》を無くし、レインに興味が移ったようだった。
軋《きし》んだ醜《みにく》い声で話す。
「おまえがレインか。マスターから、おまえのコトも言いつかっているぞ。いや、元々おまえの相手をする方が俺の本来の使命だ」
「ほほぉ。どうやらおまえ、例のわけわからん組織から来たらしいな。俺の相手をするんだって?」
ニヤッと笑う。
その笑い方を、ラルファスは何度も見た記憶があった。
「よかろう。望み通り、相手をしてやろうじゃないか」
そのまま無造作《むぞうさ》にズンズン歩き、しもべとの間合いを詰めようとする。
そこへやっと、レニを初めとする彼の副官三人が駆けつけたが、レインは王女の方を指し示した。
「おまえ達は姫様と使者を頼む」
「りょ、了解」
ガサラムが何か言う前に、レニが速攻で答えた。王女様の護衛の方がいいですっ、と顔に書いてあった。
セノアとガサラムはレニに引きずられた感じである。ただ、彼らが一応命令に従ったのは、自分たちの主《あるじ》の必勝を疑っていなかったからでもあるだろう。
突然、しもべが吠《ほ》えた。
ラルファスを初めとする騎士達がはっと剣を持ち直したほど、その咆吼《ほうこう》は唐突《とうとつ》だった。最初よりも遙《はる》かに激しく、顔を上げて長く太く吠《ほ》える。
また、見る見る獣化《じゅうか》が進んだ。
今度は顔までごわごわの剛毛《ごうもう》が覆い、まるっきり毛深い熊のようになる。筋肉も再び膨張《ぼうちょう》を開始し、気味悪く波打つ。ミシミシという音がラルファスの耳にまで届いた。馬鹿力ならもはやオーガーより上だろう。
上着はとうにボロ切れに成り果て、ズボンもビチビチに膨《ふく》らんでいた。
そして、吠《ほ》え声が止むと同時に再度の変身が完成した。そこに立っていたのは、完全に人間を逸脱《いつだつ》した見たこともない獣《けもの》だった。
依然としてオーガーが一番近いが、顔や手足にそこはかとなく人間っぽさが残っているので、眺めていると生理的嫌悪感が先に立つ。
ラルファスだけがそう思ったのではなかったようで、城館の方から走ってきたセルフィーとユーリが、二人|揃《そろ》って盛大に悲鳴を上げた。
それが合図だったように、しもべがぎろっとレインを見やる。
せっかくラルファスが潰《つぶ》した片目もいつの間にか再生しており、ちゃんと両目が開いていた。
「おお〜っ」
レインが手を叩《たた》いた。
全然緊張感とは無縁そうな顔で、やる気なさげにポツポツと拍手。
集まった兵士達の中には、ガタガタ震えている者も多いというのに、こいつだけは皮肉な微笑と共に突っ立っているだけである。
恐怖心や焦《あせ》りなど、母親の腹に忘れたかのようである。
「二段変身とは、なかなか芸が細かいじゃないか。五点追加で四十点やるぞ」
「……今のうちにせいぜいほざいておけ。どうせおまえは、俺に引き裂かれることになる」
「大口|叩《たた》くな、毛玉野郎」
レインはせせら笑った。
「おまえの主人が、なぜ俺を襲えと命じたかわかってないようだな。まあ、下っ端ってのはそんなもんか」
「マスターは、おまえごときはご自分が手を下《くだ》すまでもないと思ってらっしゃるのだ」
「違うね。自分が戦う前に、おまえで俺の実力を試してみただけだ。必勝の自信がありゃ、本人が来たさ。それより、俺も一つ訊きたい。おまえ、無理矢理変えられたのか? それとも、自《みずか》ら望んでなったクチか?」
「言うまでもない、自《みずか》ら望んだのだ」
聞き取りにくい声で言うと、しもべは胸を張った。
「もう俺を馬鹿にするヤツは誰もいない。誰もなっ」
どういういきさつが過去にあったのか、獣《けもの》と化した男は、暗い満足感の滲《にじ》む哄笑《こうしょう》を上げた。
そして、笑い終えるや否や、大剣を振りかざしてレインに突っ込んでいく。
レインは、一度は魔剣の柄《つか》に手をかけたものの、思い直したように手を離した。しもべが眼前に迫った途端《とたん》、体をひねって相手の手首を蹴り上げる。綺麗に決まった。毛深い手から剣が吹っ飛ぶ。
だが敵は、素手になったからといって呆然《ぼうぜん》としたりはしない。
「ガアアアッ!」
すぐさま戦法を変え、そのまま両手でレインに掴《つか》みかかる。
黒衣《こくい》のレインと、オーガーもどきのしもべが、がっちりと手と手で組み合う。
どちらかというとレインの手は大きい方なのに、この敵に比べるとそれがひどく小さく見え、相手の掌《てのひら》の中にすっぽり隠れてしまっている。
レインをも越える背丈のしもべは、上に覆い被さるようにギリギリと力を加えていた。
それを見て加勢に駆けつけようとしたラルファスだが、友人の表情を見て思い直した。レインは、力比べをしながらふてぶてしく笑っていたのだ。
「どうした? もっと気合いを入れて力を出さんかいっ。自慢の筋肉が泣くぞ!」
涼しい表情のまま、レインが挑発する。
毛深くてわかりにくいが、オーガーに似たしもべは愕然《がくぜん》としたようだった。相手をねじ伏せるつもりが、かえってレインの力に押しまくられ、ともすれば巨体の膝を屈《くっ》しそうになっていた。
「ば、馬鹿なっ」
「おまえ、ドラゴンと力比べして勝てると思うか? 今やろうとしているのは、つまりはそういうことなんだぞ」
冷徹な声が指摘する。
しもべの顔に、明らかに動揺が走った。
「――まさかっ。アレは、ただの噂だとマスターがっ」
「正直に話したらおまえの士気がガタ落ちするからだろうよ。命令に逆らえないとはいえ、試すのには都合が悪い。いいように使われただけだ、おまえは」
囁《ささや》いた後、ふっとレインの顔が陰る。
苦しそうに息を出し入れする敵に、小さく首を振る。
「俺にはわかる。おまえは俺の敵じゃない。……恨むんなら、実験台に使ったマスターを恨むことだな」
「嘘だ! ドラゴンスレイヤーなどが実在するはずがないっ」
言葉とは裏腹に、もはや確信したのだろう。
最後の瞬間、ありありと顔に恐怖の色を浮かべ、しもべは組んでいた手をふりほどいて逃げようとした。
一瞬、逃走の試みは成功しそうに見えた。
だが次の瞬間、鈍い音がした。
しもべの大目玉がぐっと見開かれる。
レインが逃げようとした敵の胸を、いともあっさりと手刀《しゅとう》で貫いたのだ。あれほどの強度を誇った胸を易々《やすやす》と貫通《かんつう》し、背中から真っ赤な手が突き出る。
その手を引き抜いた途端《とたん》、地響きを立ててしもべは後ろに倒れた。確認するまでもなく、死んでいた。
おおーーーっ!?
続々と集まりつつあった城兵達が、勝負がついたのを見て大歓声を上げた。レインは軽く手を上げてそれに応えていたが、さほど嬉しそうでもなかった。
「さすがだ」
友人が喜んでいないのはわかっていたが、ラルファスはそれでも声をかけてやった。
「いや、こいつごときじゃ褒《ほ》められるほどじゃない。最初からビーストマスター本人が来りゃいいんだ」
「やはり、例のタルマとかいう少女が属している組織からか」
「だろうな。本人が白状した通り、俺の力を試すのがメインで、シャンドリスとサンクワールの離間策《りかんさく》はついでだろう。アレもコレもと厚かましい奴らだよな、しかし」
「確かに。しかし彼が――」
ラルファスは、大勢の兵士がわいわいと死体を囲んでいる現場に視線を投げた。
「ザーマインが送り込んで来た者じゃなかったのは、不幸中の幸いだろう。まだあちらは、軍の再編に忙しいらしいな」
「あのレイグル王なら、こんな無駄なことはしないさ。タルマの一味は、まだこっちの戦力を把握《はあく》してないんだと思うぜ。特に、俺をなめてやがるな」
「信じられないのも無理はあるまい。おまえが弱敵を望んでいないのはわかるが」
慰《なぐさ》めのつもりで肩を叩《たた》いてやる。
そこへ、一人だけ生き残ったシャンドリスの使者がやって来た。
レインとラルファスの二人に、意外と丁寧に頭を下げる。
「お二方に礼を言うべきなのだろうな。とにかく、命だけは助かったのだから」
「気にすることはない」
いつもの調子に戻り、レインがにっと笑う。
「あんたに死なれちゃ、こっちの都合が悪いんだよ」
「……は?」
「気にするな、こっちの話だ」
ちょうど隣へ並んだ王女と、素早く視線を交わすレイン。ラルファスの見るところ、なにか魂胆《こんたん》があるらしい。
「まあ、それは置いておいて。いみじくも、さっきの俺の脅《おど》しがホントになったわけだ。物騒《ぶっそう》だから、待たせてあるそっちの部隊まで送ろう」
「な、なぜ我々が兵を待機させていると」
じわっと額に汗を浮かべる使者。
レインはけろっとした顔で、
「あんた達が元からそんな少人数なら、さっきの毛玉はもっと楽に殺《や》れる場所で襲ってきたさ。でもって先にそっちを全滅させ、それからこっちへ来たはずだ。それが出来なかったのは、つまりはあんた達に護衛がどっちゃりいたってことだ。危険度がそう変わらないなら、俺達とあんた達の双方が集まる、ここで襲う方がいい。不意を突けば、とにかく片方は殺すのに成功するかもしれないからな」
使者は一言もなかった。
話がまとまったので、レインが副官三人にてきぱきと指示して護衛部隊の編成を命じた。
一応、これで使者たる彼はフォルニーアの元へ帰ることが出来るだろう。
ただし、使者の命を救ったところで、シャンドリスとの戦いが回避されるわけではない。
どんな返事を使者に持たせたのかラルファスは知らぬが、結局、激突は避けられないはず……
この国に、再び戦の足音が迫っている。
ラルファスはそう確信していた。
昼間の騒ぎも収まり、城内が平静を取り戻した夜更け。
与えられた自室でくつろいでいたラルファスを、副官のナイゼルが訪ねてきた。
これはひどく珍しいことである。
用がなくてもやってくるグエンとは違い、忠実ではあるものの、ナイゼルは主君の部屋に遊びに来るような男ではないのだ。
「どうした? なにか問題か」
椅子を勧めて北部産のワインを注《つ》いでやり、ラルファスはいささか身構えて尋ねる。
なにしろこれまでの経験からして、ナイゼルがわざわざ話を持ちかけて来るのは、やっかいごとが起こった時と相場が決まっているのだ。
「問題というわけではありませんが。……今日|伺《うかが》ったのは、レイン殿のことです」
「レイン? あいつがどうかしたか?」
ナイゼルは手の中のグラスを揺《ゆ》らし、考え込むようにしばらく沈黙した。これまた珍しく、言うか言うまいか迷っているようだった。
端正《たんせい》な顔に、微《かす》かに苦悩が見て取れる。
やがて決心がついたか、ぐっと杯《さかずき》を呷《あお》り、一気に話した。
「ラルファス様は、かつてサンクワールの重鎮《じゅうちん》でした。しかしシェルファ王女の御代《みよ》になってから、どんどんレイン殿の発言力が大きくなっています。聞くところによると、もうシャンドリス戦の基本方針も、レイン殿によって王女様に具申済《ぐしんず》みとか。かつてのダグラス王なら、まずラルファス様に意見を聞いたでしょうに」
ラルファスはまじまじと信頼する副官を見つめた。ナイゼルはあえてその視線を避けているのか、目を合わせようとしない。
頑固にグラスの中身を見つめていた。
「私は、あのレイン殿が嫌いなわけではありません。豪放磊落《ごうほうらいらく》なのも野心に溢《あふ》れているのも、なにも騎士として恥じることではないでしょう。同じく、レイン殿を重用《ちょうよう》する王女様も、特に悪気はないのでしょう。それはわかっています。しかし、あくまで私はラルファス様の臣です。自分の尊敬する主君がないがしろにされているのは看過《かんか》できない!」
寡黙《かもく》なナイゼルが、これだけ激した口調で言葉を費やしたのは、ラルファスの記憶する限りで初めてである。頬がわずかに赤くなっていた。よほど言いたかったのを堪《こら》えていたらしい。
ラルファスは相手を刺激しないよう、努めて冷静な口調で言った。
「おまえが言いたいのは、つまりこういうことかな? レインは策の多き男で、結局のところその狙いは、私達を盤上《ばんじょう》の駒《こま》のように用いて自分の望みを果たすことにある……と」
指摘すると、ナイゼルは微《かす》かに頷《うなず》いた。
やっとこちらと目を合わせた。
「あの方が悪人だとは思いません。しかしあの方はあまりに聡《さと》く、しかも強すぎます。いつかは国王の座を狙い出すかもしれない……そう心配するのは私の気のせいでしょうか」
「いつになく饒舌《じょうぜつ》だな、ナイゼル」
ラルファスは微笑み、その微笑みを崩さないまま言い切った。
「あいつがそのつもりなら、私はそれでも構わないが」
「――! ラルファス様!」
「待て。まだ先がある。……私は構わないが、どうせあいつは最後まで国王の座など望みはすまいよ。強制すればこの国を出て行くだろう。私にはそれがはっきりわかる」
なお信じられない顔つきの副官に、ラルファスは穏やかに諭《さと》した。
「理解出来なくてもいいから、おまえもあいつを信じろ。この私を信じてくれているように、私の友も信じてやってくれ。レインは言葉とは裏腹に、本心では金にも地位にも見向きもしない男だ。あいつが目指しているのは、そんなものじゃないんだよ……多分」
「では、私の心配は不要だと?」
「そうだ」
ラルファスは断言した。
微笑み、「誰かの口癖ではないが」と前置きしてから、
「私にはわかる。あいつに野心などはない。王女様を引き立てる気持ちはあるだろうが、自《みずか》らは権力など求めていない。野心家に見えるのは、単なるポーズに過ぎない」
ナイゼルはまた黙り込み、じいっとラルファスを見つめた。
静かにその視線を受け止め、ラルファスは頷《うなず》く。やがて、ナイゼルはため息をついた。
「……ラルファス様は人の本性を見ることに長《た》けておられます。多くの実例を見てきたので、その点は疑い深い私も信じるしかないです」
「おいおい」
苦笑してしまった。
しかし、少なくともナイゼルは、入ってきた時よりも多少気が晴れたように見える。
「わかりました。ラルファス様が信じるのなら、私もあの方を信じ、もう少し長い目で見るとしましょう。つまらぬ猜疑心《さいぎしん》は捨てることにします」
「そうしてくれ」
ラルファスは大きく頷《うなず》き、酒のお代わりを注《つ》いでやるために手を伸ばした。
この国、いや、シェルファ王女を核とする自分達は、今の所ごくごく些少《さしょう》な勢力で大敵と戦わねばならないのだ。
せめて味方同士の結束《けっそく》は、強固なものにしておきたい……ラルファスはそう思うのだった。
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第五章 ジョウ・ランベルクの憂鬱《ゆううつ》
サフィール・ダルマナック・フォスティールは、上将軍《じょうしょうぐん》たる自分に誇りを持っていたし、それなりに能力もあるとうぬぼれていた。
これまでは気が乗らなかっただけのことであり、やる気になればそれなりに出来るはず――そう考えていたのだ。
しかし密かに、「ただし、自分より戦《いくさ》の上手《うま》いヤツはいる」ということを認めるぐらいの素直さはあった。
実際、サフィールの戦績はお世辞にも地位にふさわしいとは言えず、貴族の家柄という金看板が無ければ、普通なら上将軍《じょうしょうぐん》の職など務まるはずもない。
それらのことを、無意識のうちに彼もちゃんと理解していた。もちろん、誰かから「おまえって、戦場ではただの役立たずだよな」などと指摘されれば、断固として否定したろうけれど。
だいたい、それを言うなら他の上将軍《じょうしょうぐん》達だって、さほどに有能とはいえなかったのである。レインやラルファスはあくまでも例外に過ぎない。いや、この両者に加え、先の戦《いくさ》で裏切ったガノアもたまには戦功《せんこう》を上げたりしていたが、彼の場合は勝ち方が陰湿《いんしつ》なので、ダグラス王以外には評価されなかった。
とにかく、別段サフィールが、かつての朋輩《ほうばい》の中で目立って弱く、かつ無能だったわけではない。貴族としてはごくごく平均的な無能さ、と評すべきだろう。なので彼自身も、これまでそのことで劣等感《れっとうかん》を刺激されはしなかったのだ。
それに、いくら内心で「戦《いくさ》に弱い」という事実を認めていたところで、サフィールは「だから俺は身を引くべきなんだ」という方向には考えない。
なぜなら、戦《いくさ》が苦手ならそれが得意な者に任せればいいだけの話だからだ。そのための権力、そのための資金力ではないか。
宝物庫の財宝を残らずかっさらわれたところで、それは元々他人のモノであり、最初から持っていた自分の財産まで失ったわけではない。
しかも今は、放っておいてもかつての仲間達が資金を提供してくれる。皆、王女が打倒された後のことを考えるからだ。
――というわけで。
この度、実質的に貴族達のトップに祭り上げられたサフィールは、王女を横取りしたレイン達に正義の(と彼が信じる)鉄槌《てっつい》を下《くだ》すべく、一つの手を打った。
つまり、権力にモノを言わせて、仲間内から戦《いくさ》の得意そうな男を引き抜いたのだ。
それが、ルディックという男である。
いかにも気むずかしく、そして神経質そうな顔をしたこの四十男こそが、サフィールが見つけてきた『戦《いくさ》に使える男』だった。
ルディックはかつての宿敵《しゅくてき》ルナンとの戦いにおいて、百人隊長ながら、出陣すれば必ず一定の戦果《せんか》を上げていた。
貴族であること、そして戦《いくさ》に強いこと――このような条件で身内を見渡せば、まさに彼の能力は傑出《けっしゅつ》していた。
サフィールは早速、彼を招聘《しょうへい》して自分の家臣とした。以後、ルディックが戦果《せんか》を上げれば、それすなわち主君たる自分の戦果《せんか》となるわけだ。
ここまではサフィールにしては上出来だったのだが、しかし後がいけない。
これでサフィールはすっかり安心してしまい、もう戦《いくさ》に勝ったつもりになって、その後は連日連夜の祝宴《しゅくえん》にうつつを抜かしていた。
要するに遊びほうけていたわけだ。
一方、百人隊長から千人隊長に昇格したルディックは、もちろん大喜びした。彼の家はサンクワール貴族としては中堅どころで、どう考えても今以上の出世は望めないはずだったからだ。
それが、今や千人隊長……一応は将軍職であり、あと一段昇れば上将軍《じょうしょうぐん》に手が届く地位である。特に野心家でもないが、ルディックとて出世出来れば嬉しい。
美人の妻や、愛する二人の子供も大いに喜んでくれた。
ということで、新千人隊長となったルディックは、大いにやる気を出して軍の再編に臨んだわけである。
――とにかく、最初のうちは。
着任してからこっち、ルディックのやる気は日々減じていくばかりだった。彼は貴族にしてはやや(あくまでやや)常識を備えた男であり、サフィールを初めとする上役《うわやく》達の浮かれっぷりに、全くついていけなかった。
彼らは、やせ馬一頭ほどの役にも立たなかった。面倒ごとは全てルディックに押しつけ、自分達は遊んでばかりいる。
それでも、大苦労してなんとか各地から集った貴族軍を再編したところで、彼はシャンドリス侵攻《しんこう》を知らせる早馬《はやうま》に接した。
報告を聞いて驚愕《きょうがく》した。
先日の無礼《ぶれい》があったとはいえ、まさかいきなり侵攻《しんこう》されるとは思っていなかったのだ。
ちなみに、レイン達は敵が国境を突破する遙《はる》か以前に侵攻《しんこう》の事実を掴《つか》んでいたが、ルディックが同じ事実を知ったのは、シャンドリス軍がとうに国境を突破した後のことである。
フォルニーアが宣戦布告の使者を出さなかったとはいえ、あまりにもお粗末な話である。彼ら貴族達が、いかにたるんでいたか知れるだろう。
ともあれルディックはこの時、サフィール陣営においてただ一人、事態の深刻さを正確に把握《はあく》したのだ。
――☆――☆――☆――
「陛下はご在室か!」
小走りに廊下を駆けてきたルディックは、衛兵《えいへい》達に血走った目で尋ねた。
サフィールの寝室前でがんばっていた二人は、互いに目配《めくば》せし、
「いらっしゃいますが、今は困ります」
「そう、まだお目覚めになったばかりですので」
「馬鹿者!」
日頃|滅多《めった》に怒鳴《どな》らないルディックも、さすがに大喝《だいかつ》した。
びくっと後退《あとずさ》る彼らに、溜《た》め込んでいた不満を全解放する。
「今が何時だと思っている! もはや昼時だぞ。のんきに寝ている場合ではないのだっ。私が来たのは国家の大事だからだぞっ。四の五の言わずに取り次げっ。いやっ時間が惜しい、そこをどけっ」
千人隊長のお言葉とはいえそれは、などと声を揃《そろ》えていうのを無理矢理押しのけ、ドアに手をかける。
もはや遠慮している場合ではない。
力任せに引き開けた。
途端《とたん》に、むわっとした熱気と濃い汗の臭いが、中年騎士の痩身《そうしん》にどっと押し寄せてきた。
上で舞踏会《ぶとうかい》でも開けそうな、天蓋《てんがい》付きの広大なベッドに、サフィールは全裸で横たわっていた。なんと、うら若い女性を三人も侍《はべ》らせ、上機嫌《じょうきげん》で戯《たわむ》れている。
あきれたことに、成り立ての王はまだルディックに気付いていない。脂《あぶら》と汗の浮いた欲望丸出しの顔で、両手に抱えた白い体をまさぐっている。
ただ、夜伽《よとぎ》の相手を務める方はさすがにルディックに気付き、皆|慌《あわ》てて毛布《もうふ》で体を隠そうとした。
「こらこら! なぜ体を隠す、ん? おまえ達、早く言う通りにせよ」
「へ、陛下、困りますっ。それより、あちらを……」
「あちら? あちらがどうした。余計なことを言わず、ほれほれ、命じた通りの格好《かっこう》をせい」
などというふぬけた会話を聞くにつれ、ルディックの頭にどばっと血が上《のぼ》った。
ありったけの力でドアを叩《たた》き付けるように閉め、大音量で叱声《しっせい》を放つ。
「陛下あぁーー――――――っ!!」
「いぎっ」
奇妙な声を上げ、サフィールはやっとドアの方を見た。最初は鈍い目つきで相手を確かめ、誰だかわかると怒り出す。
「な、なんだ貴様っ。主君の楽しみを覗《のぞ》き見するとは斬罪《ざんざい》モノ」
『サンクワールが滅びますぞっ!』
普段なら絶対に許されないことではあるが、ルディックは主君のセリフを遮《さえぎ》った。びしっと言葉の槍《やり》で相手の文句を封じてしまう。
ぎょっとしたように押し黙ったのを見計らい、すかさず現状を報告していく。
聞いているうちにサフィールはもちろん、身を寄せ合っている女の子達まで顔色を失っていった。
見れば、彼女達は三人とも似たような顔立ち、似たような体格だった。癖のない金髪を長く伸ばし、線の細い顔つきに大きな瞳をしている。
誰かに似ていると思い、反射的に閃《ひらめ》いた。
そう、彼女達は皆、シェルファ王女に面影《おもかげ》が似ているのだ。
ただし、あくまでも「まあ強《し》いて言えば、多少は似ているかもしれない」という程度のものであり、よくよく観察すれば蝋燭《ろうそく》の火と太陽ほどの違いと差があった。
それは美貌《びぼう》だけの問題ではなく、シェルファの内面からにじみ出る「なにか」が、目の前の彼女達と決定的に違っていたせいかもしれない。
ルディックとて、ここを出奔《しゅっぽん》する間際の王女をちらっと見ただけだが、あまりにもその差は明らかだった。
わかってはいても、それでも求めずにはいられない……そういうことか。
ルディックはそう結論付け、ますます苦々しく思った。
いくらなんでも、王女に執着《しゅうちゃく》しすぎではないだろうか。あの絶世の美貌《びぼう》に、魂を抜かれてしまったと見える。王者たる者が、婦女子《ふじょし》などに心を奪われてどうするのか!
自《みずか》らの王権を正当化するために、王女の身柄を欲する、というのならまだ理解できる。
それは一種の政戦《せいせん》であり、どこの国でもやっていることだからだ。しかし、どうもこの貴族の若君は、そんなことは二の次で、ただ己《おのれ》の欲望を満たす為に王女を欲している気がするのだ。
早い話が、今やっているような真似《まね》を、本物の王女を相手にやりたいと。
普段、がなり立てている建前《たてまえ》はともかく、サフィールの本音はそういうことなのだろう。素早くそのような思考を巡らせ、ルディックがこっそりと主君に大幅な減点を行っていると、ようやくサフィールが茫然自失《ぼうぜんじしつ》の状態から抜け出した。
第一声に曰《いわ》く。
「な、なぜシャンドリスがっ」
「……それは、陛下の方に心当たりがお有《あ》りでは」
「馬鹿な!」
盛大に唾《つば》の飛沫《しぶき》が飛んだ。
「ちょっと、取り調べのために拘束《こうそく》しようとしただけではないか! そんなことで腹を立てて侵攻《しんこう》かっ。そこまでやるか、普通っ。皇帝を自称する癖になんと狭量《きょうりょう》な!」
あんた、立場が反対なら笑って許すんかいっ!
などと言いたいのをぐっと辛抱《しんぼう》して、ルディックは淡々と述べる。
「今更《いまさら》言ったところでせんないことです。ここは、どうすれば勝てるかを考えるのが先決ですな」
「か、勝てるだろうかっ」
すがるような目で見られた。
しかし、そんなことは彼自身が訊きたいくらいである。
だいたい仮にも主君たる者が、このような時に素っ裸で震えるだけとは、あまりにもふがいないではないか。
ルディックは顔をしかめ、ことさら強い口調で言った。
「それはわかりません。とにかく、全力は尽くすつもりですが。――ただ、そのご相談をする前に、この者達を一時|拘束《こうそく》してください。侵攻《しんこう》の事実が庶民の間に広まるとやっかいですぞ。どうせばれるにしても、それはなるべく遅い方がよろしいかと」
「ぬう……この女達をか」
未練がましい横目で、サフィールは彼女達を見やった。少女達は思いがけない千人隊長のセリフを聞き、互いに抱き合って震えている。懇願《こんがん》するようにサフィールを見返していた。
「貴族仲間の間をあちこち探して、ようやく似た者を――ああいやっ、なんでもない。と、とにかく、この者達を気に入ってるんだ」
「陛下っ。今必要なのは女ではなく、軍議《ぐんぎ》ですぞ!」
ルディックは声を励《はげ》ました。
「陛下の御代《みよ》が安定すれば、いかなる美姫《びき》であろうと手に入りましょう。それまでご辛抱《しんぼう》ください」
「いかなる美姫《びき》……シェルファ王女本人であろうとか」
あっさり、本音を暴露《ばくろ》するサフィール。
そんなもん知るか!
と言いたいところだったが、ルディックは黙って頷《うなず》いた。
実際には、あの王女を手に入れるためにはシャンドリスを倒し、さらにはレイン達をも倒さねばならない。
いくら「お互いの合意」の方は無視して押し倒すにしても、現状では至難《しなん》の業に近いだろう。
しかし、それはサフィールにもわかっているはず。
――なのだが、彼はルディックが首肯《しゅこう》したので大いに安心したようで、いきなり張り切りだした。
「そうか! ならば早速|軍議《ぐんぎ》だ。――と、まずは彼女達を別室に下がらせねば。な、おまえ達、後でちゃんと出してやるから、我慢するんだぞ」
言いつつ、大声で外の衛兵《えいへい》を呼びそうになったので、慌《あわ》てて止めた。
「陛下、まず彼女達に服を着せてやらねば!」
「そ、そうか。と、私もまだこの格好《かっこう》だった。ははは……はは」
ごまかすように苦笑しながら、モソモソ着替え出す。ルディックは、主人の裸体も女達の着替えも覗《のぞ》く気はないので、黙って背中を向けてやった。
そのまま、そっとため息をつく。
戦場で戦う騎士の最後の拠《よ》り所は、家族ではなく、自分の主君に他ならない。それが騎士の誇りというものである。
俺はこのお方を主君と仰ぎ、最後の最後まで戦えるのだろうか。
「そうだ、ルディック」
苦悩する背中に、サフィールが話しかけてきた。
「千人隊長……いや、将軍となってからはどうかな? 皆はおまえの命令を素直に聞くか?」
「……それがなかなか。私の本来の身分は、子爵《ししゃく》にすぎないですから。貴族仲間が部下に多いので、どうも甘く見られがちです」
「なに、子爵《ししゃく》とな? なるほど、そんなものだったか……。ふむ、ではとりあえず、おまえの身分を伯爵《はくしゃく》にしよう。今後も励《はげ》めよ!」
驚いて、つい振り返る。
サフィールはちょうど、白い乗馬用ズボンに足を突っ込んでいるところで、かなり落ち着きを取り戻していた。
ついでに、いつものもったいぶった傲慢《ごうまん》さも取り戻しつつある。表情に、自己満足の笑みが窺《うかが》えた。
反射的に礼を言いつつ、ルディックは思わず笑い出したい衝動《しょうどう》にかられた。
この人は、精神的にはただのわがままな子供なのだ。
世間《せけん》というものを、そして人というものを知らない。知ろうともしない。
例のレインは、最近、ずっと昔に一度か二度会っただけの老雄《ろうゆう》を、いきなり副官の一人に迎えたそうである。他にも、思い切った抜擢《ばってき》をよくするらしい。
だが悔しいことに、レインとサフィールでは、同じことをやっても値打ちが全然違う。敵となる男を認めたくはないが、事実は事実である。
レインは、彼自身に将たるに十分すぎる資質がある。加えて人の才能を見抜くだけの眼力と、それに見合う度量《どりょう》を備えているのだ。
だからこそ、そういう大|抜擢《ばってき》が出来るし、現にした。
しかし、この人は違う。
ルディックを自分の思う通りに働かせる為に、より大きな餌《えさ》を放っているだけに過ぎない。
本気で彼の能力を認め、それに敬意を払ってくれているわけではないのだ。戦巧者《いくさこうしゃ》だそうだから、こいつを使えばよかろう。後のコトはもう知らん。そういう考えなのだろう、多分。
世の全ては、金と地位を動かすことで、どうにでも転がすことが出来ると思っている。
そんなものでは、心ある部下から真の尊敬は得られないだろうに。
ルディックは貴族の身分でありながら、部下である平民出身の平騎士達とある程度の交流があった。その人望あってこその、かつての戦果《せんか》だったのだ。それに自分自身も、とりたてて贅沢《ぜいたく》な生活を送ってきたわけではない。
むしろ、貴族仲間からすれば、恐ろしく質素な暮らしだったと言える。
だからだろう――サフィールの実に貴族らしいやり方に、かえって反感を覚えた。
爵位《しゃくい》を上げてもらったというのに、喜ぶどころか深い失望を覚えたのである。
――☆――☆――☆――
実質的にシャンドリス軍を率いるジョウ・ランベルクは、サンクワールに侵攻《しんこう》後、静かな緊張感に捕らわれていた。
ただし、進軍になにか妨げがあったとか、そういう事実は全くない。
むしろ、その反対である。
国境の砦《とりで》を進発してから、あたかも無人の野を行くようなスムーズさだった。行く手を阻《はば》む者もなければ、難儀《なんぎ》な使者が現れたわけでもない。天気まで快晴続きで、彼らの前途を祝福してくれていた。まさに、ちょいとそこらを散歩するかのような容易《たやす》さである。
兵の士気も高いし、侵攻《しんこう》軍を統《す》べる将として、今の彼ほど恵まれた者はまずいないだろうと思われた。
しかし、ジョウは喜ぶどころか、むしろ警戒感を強めた。
未だ動かぬレインの存在が、常に気にかかっているせいである。もちろんのこと、その動きを探る手は打っている。国境を通過する以前から、何人もの間諜《かんちょう》を放っているのだ。しかし……なぜか今に至るも、一人も戻らない。
これもまた、ジョウの心に暗い影を投げている事項の一つだった。
「……なにしろ、パターンにはまりにくい男だからな、彼は」
野営中《やえいちゅう》の大テントの中で、ジョウは一人、腕を組んだ。
手の中には、先日シェルファ王女に送った親書《しんしょ》の返信がある。これがまた……なんというか、実に奇抜《きばつ》な返信だった。
まず、返信でありながら、文字が一字も書いていない。
書いてあるのは、紙一面にかかれた似顔絵。
なんと、黒髪の不敵な顔の男が、思いっきり舌を出して嘲笑《ちょうしょう》している絵である。ちなみに、多分この絵のモデルは、レインであろう。描いたのもおそらく彼だ。上手《うま》いとは到底言えないが、まあ豪快な筆使いなのは認める。
ジョウは「絵になにか深遠《しんえん》な意味が含まれているのだ」というような真面目《まじめ》な顔でじいっと件《くだん》の返信を凝視《ぎょうし》し、やがてその間抜けな構図に自分で気付いてほろ苦い笑みを浮かべた。
この返信に深い意味などあるまい。
それにしても、帰ってきた使者によると、なにやら向こうで謎の集団に襲撃《しゅうげき》を受けたらしいが、レイン達はなにか問題でも抱えているのだろうか。
襲撃《しゅうげき》事件のあらましはあまさず聞いたが、こちらの使者もろともレインを殺そうとしたというのは、どこか狂的で嫌な臭いがする。
「……もっとも、今は自分達の心配が先か」
ジョウはふざけた絵を脇へ投げ出し、ため息をついた。
と、外から誰かが呼ぶ声がした。
「入ってくれ」
気軽に声をかけると、おずおずと布をめくり、騎士が入って来た。
その顔色を見て、ジョウは銀髪を掻《か》きあげて丸椅子から立ち上がった。
「悪い報告かな」
「いえ……どうでしょうか」
直属の上級騎士は、困惑しているようだった。
「その、実は私の判断で、敵方にさらに幾人か部下を派遣《はけん》したのですが」
「――サフィールじゃなく、シェルファ王女の側《そば》にか?」
「はい。むしろ、彼らの方が強敵だと思いましたから」
「……その判断は正しいよ。それで、送ってどうした」
彼はさも言いにくそうに、
「それが、誰一人戻ってきません。手練《てだ》ればかり選んだのですが、アステル地方に行ったきり、ただの一人も」
ジョウはなにも言わなかった。
彼もわかっているし、ジョウ自身もわかっている。どうやら間諜《かんちょう》達は、見つかって根こそぎ排除《はいじょ》されてしまったらしい。
ちょっと前に送った、護衛部隊を含む使者の一行《いっこう》が戻って以来、誰を派遣《はけん》してもレインの居城《きょじょう》に近づけないでいる。彼の諜報《ちょうほう》能力は、思った以上に優秀なようだ。
謎の敵に襲われて大勢死んだとはいえ、正規の使者だけはちゃんと生還したのだし、こちらとしても文句も言えない。まさか、「このところ送り込んだ大勢の間諜《かんちょう》達を、無事に返してくれ」と抗議も出来ないだろう。
とにかく、レイン達は今、探られては都合の悪いなにかをしているということで、ジョウにとっては甚《はなは》だおもしろくない。
「……もうすぐリディアが見えるというのに、頭の痛いことだ」
「す、すいません」
「いや、君はなにも悪くないだろう。むしろ、動いてくれて感謝している」
ジョウはほのかに笑い、相手の肩に触れてやった。
「だが、探りを入れるのはもういい。なにか他の方法を考えよう」
「は、はいっ」
ほっとしたように騎士が頷《うなず》く。
とはいえ、他の方法といっても、敵の情報を探るには誰か気の利いた者を送る他は無い訳である。
部下の生還を期すなら、ある程度まとまった兵を付けて送る大物見《おおものみ》と呼ばれる方法があるが、今の現状では少々まずい。
なにしろ、こちらは一応、彼らを敵に回さない方針で動いているのだから。下手に兵を動かし、あえて敵を増やす愚《ぐ》は避けねばならないのだ。
つまり、今の時点で情報を探る有効な手段は無いも同然なのだった。
「今は、時間を味方にするのが先決だ」
ジョウは自分に言い聞かせるように独白《どくはく》した。
「一刻も早くガルフォートを落とす! それが、もっとも有効な策だろう」
ただし、さらに上策なのはここで兵を退《ひ》くことかもしれないが。
――というセリフを、ジョウはもちろん、口にはしなかった。
彼はこの時もまだ、心情的には今回の侵攻《しんこう》作戦に反対だったのである。
それから数日、妨害らしい妨害に全く出会わぬまま、シャンドリス軍は着々と進軍を続け、ついにサンクワールの王都、リディアにたどり着いた。
リディアはいびつな円形をした都市なのだが、その周囲は敵を防ぐための外壁が、ぐるっと取り囲んでいる。
普段はこの巨大な門は開け放たれており、ガルフォートから派遣《はけん》された軍の小部隊が常駐《じょうちゅう》して、旅人の出入りを厳重にチェックしている。
通常、他国よりリディアへの訪問を望む者は、国境付近を領する諸侯《しょこう》が設けた関所で簡単なチェックを受けた後、通行税を払う。で、やっとたどり着いた王都のこの門でも、同じ手間をかけねばならない。いわばこの門は、最後の関所の役割を果たしているのだ。
――そのはずだったのだが、通行税の方はつい先日、シェルファ王女の名の下《もと》に廃止されたと聞いている。
王都の主人が交代してその辺りがどうなったかは知らないが、どのみち今は、誰も入れないように固く閉ざされていた。
さすがに呑気《のんき》な貴族達も、侵攻《しんこう》の報告は受けていたらしい。
その王都の外壁を目前に、ジョウは大軍をいきなり展開させ、布陣《ふじん》した。レイン側にしたように、使者を送ることは一切しなかった。彼も、そしてフォルニーアも、ここの貴族達にそこまでの価値は認めなかったのである。
ジョウが部下に矢継《やつ》ぎ早《ばや》に指示を下《くだ》し、それが一段落したところで、フォルニーアが馬を寄せてきた。
「どうやら敵は、籠城戦《ろうじょうせん》を選択したらしいな」
高揚《こうよう》しているらしく、瞳が爛々《らんらん》と光っている。
サンクワールの建国以来、外敵がここまで侵攻《しんこう》出来た例はほとんどない。ましてや、占領した者となると皆無《かいむ》である。
あの、大国ザーマインですら、今一歩のところで王都攻略を果たせなかったのだ。
自分がその初めての例になるかもしれないとあって、フォルニーアは興奮しているのかもしれなかった。
「敵を甘く見る気はないですが、これは籠城《ろうじょう》を選択したというより、やむなくそうなってしまったという方が近いでしょう。間諜《かんちょう》の報告からしても、まず間違いのない所ですよ」
「ほぉ。ならば、勝負はもはや見えたも同然だな」
「……油断《ゆだん》は禁物です」
兵達が壊門機《かいもんき》を組み立てるのを横目に、ジョウはきっぱりと言った。
ちなみに『壊門機《かいもんき》』というのは、数メートル四方の四角い箱形をしており、力任せにこれを門にぶつけ、破壊するための兵器である。
先端に、鉄製の巨大な矢尻にも似たモノが取り付けられているのだ。
他にも、一見、木製の高い櫓《やぐら》のような形をした兵器も組み立て中だ。これはなにかというと、兵がこの一番上に上がり、城壁よりも高い位置から中の敵兵に弓を射るのである。
これらは全て、攻城戦でお馴染《なじ》みの兵器ではあるが、ジョウにしてみれば煩《わずら》わしいことではある。
もっと簡単な方法があるのだ。例えば、彼自身の力を持ってすれば、目の前の門などひとたまりもない。
しかし、戦場にそのような力を持ち込むことを、ジョウはひどく嫌う方なのである。このような戦いに用いるべき『力』ではない。そう思っている。
人として生きるのであれば、人として戦うべきであろう……
「それはそうと、ついにレインは現れなかったな。我らは見逃してもらえたのだろうか」
フォルニーアがまた話しかけてきた。含み笑いなどして横目を使っていた。
なにかというとレインの名前を出すジョウを、からかっているのだろう。
「私はそうは思いません。あの男は近々、何かを仕掛けてきます……必ず。黙って指をくわえて眺めているような男ではないです」
「どうかな。王女一派の兵数は、最大でも一万に遙《はる》かに足りないはず。単純に、戦いを避けたと考える方が正解の気がするぞ。レインは頭のいい男なのだろう? ならば、そういう選択をしても不思議はあるまい」
――確かに。
それもまた、一つの道である。
しかし、レインはそういう選択をするタイプではないとジョウは思う。
戦う道と逃げる道、この二つの道が眼前にあるのなら、彼は途中はともかく、最後には前者を選ぶという気がする。
とはいえ、そう思うのは単なる勘に過ぎないので、主君に話しても仕方ない。
なので、ジョウは黙って低頭《ていとう》するにとどめた。ところが、これがフォルニーアには不満だったらしい。
頬をわずかに膨《ふく》らませ、
「わかるぞ、ジョウ。またなにか言いたいことを抑えたな。私とおまえの間で遠慮は無用だといつも話しているはず。こう見えても私は、おまえを将来の――」
「失礼、フォル様。城壁上に彼が現れたようです」
「なにっ」
ぎょっとなってフォルニーアが顔を上げた。どうやら『彼』というのを、レインと勘違いしたようである。
そして縦ロールの金髪を撫《な》でつけている、いかにもな貴族を城壁上に見つけ、たちどころに関心の失《う》せた顔になった。
「ああ、あいつがサフィールとやらだろうな。馬鹿面《ばかづら》をしているだろうと思っていたが、大して予想が外れたわけでもなさそうだ。本当に馬鹿そうな顔をしている」
その散々な評価を聞き、周囲の兵士達が笑いを堪《こら》えていた。
と、その話題の人サフィールが、両手で口元を囲い、金切《かなき》り声《ごえ》を張り上げた。彼の横に立つ、将軍らしき中年男が顔をしかめる大声である。
「待て! 待て待て待てっ、待てぇーーーーっ! 貴公ら、一体いかなる名分《めいぶん》を持って我が領土を侵《おか》すかっ。恥を知れ、恥をっ。我が身を省《かえり》みて、恥ずかしいとは思わんのかっ」
絶叫して(怒鳴《どな》らないと声が届かないのだ)肩で息をしているサフィールに、ジョウもフォルニーアもなんの返答もしなかった。
フォルニーアは「多少は期待したのに、全然つまらん口上《こうじょう》だな」と言いたそうな顔であくびをし、ジョウは黙って鞍《くら》にくくりつけておいた愛用の弓を手にした。
サフィールが、遙《はる》かな高み(プラス距離もある)から地団駄《じだんだ》を踏む。
「こらああっ。わ、私はこの国の主《あるじ》だぞっ。無視するなああっ」
初めてフォルニーアが反応した。
良く通る声を張り上げる。
「主《あるじ》と言うが、あいにく我らは、おまえをサンクワールの主権者とは認めていないのだ。悪いな、馬鹿貴族殿!」
「な、なにをぅっ!」
サフィールが激して喚《わめ》き返そうとするのを、そばに控えていた苦い顔の将軍が止めた。ジョウの方を指差し、注意を促《うなが》している。
一瞬|怯《おび》えが走ったものの、サフィールはすぐに余裕を取り戻した。
また手を口にあて、
「こらぁ、そこな若造《わかぞう》! この距離では矢など命中せんぞっ。それくらいは私でも知っているっ」
さりげなく、自分で戦事《いくさごと》にうといのを認めているのが情けないが、まあその指摘は事実だ。この距離で小さい目標を狙うのはほぼ不可能である。弓矢の有効|射程《しゃてい》は、せいぜい数十メートル程度なのだ。
しかし、そういう常識は常人が普通の弓を使って射た場合の話である。
例外というものは常にある。
「若造《わかぞう》か」
フォルニーアが鼻を鳴らした。
「目の見えない者というのは、どこにでもいるようだ。おまえの本当の年齢を知ったら、あの貴族殿はなんというかな」
ジョウは、ただ微笑んだのみである。そして、普通の者なら半分も引き絞れない特製のごつくてでかい弓を構え、矢をつがえた。軽々と引き絞り、サフィールめがけて無造作《むぞうさ》に矢を射る。ロクに狙いを定めもしなかった。
ビシュン!
ひときわ大きな風切り音と、中年の将軍の警告の叫びが同時だった。押し倒されたサフィールの、つい先程まで頭のあった空中を、ジョウの矢が唸《うな》りを上げて飛んでいった。
彼の抜群《ばつぐん》の聴力は、若い貴族の震える悲鳴まで捕らえていた。
「――良い判断だ。少なくとも、一人は有能な将がいるな」
感心して頷《うなず》く。
構えを崩さずにしばらく待ってみたが、もうサフィールは立ち上がってこなかった。這《は》ったまま城壁上を逃げ去ったらしい。代わりに、「おのれっ、覚えておれええっ」などというお決まりの罵声《ばせい》が、エコーとなって遠ざかっていった。
「残念だった、ジョウ」
フォルニーアが陽気に笑う。
「いくら弱敵でも、多少の運はついているらしいな」
「今ので片付いていれば、攻城戦など無用だったかもしれないのですが……なかなか上手《うま》くいかないものです」
ジョウは苦笑で応え、そのまま片手を上げようとした。部下に、攻撃開始の命令を出すために。
――その時である。
彼を呼ぶ声が、遠くから風に乗って聞こえてきた。
見ると、砂塵《さじん》を巻き上げ、馬に鞭《むち》をくれながら一人の男が駆けてくる。見覚えがあった。少し前にアステル地方に派遣《はけん》し、そのまま戻ってこなくてあきらめかけていた間諜《かんちょう》の一人だ。
ジョウは上げかけていた腕を下ろし、彼の接近を待つ。
「だ、大将軍! あ……こ、これは陛下もお揃《そろ》いで」
「構わぬ!」
慌《あわ》てて馬を下りようとした男を、フォルニーアは鋭く制した。
「ここは戦場だ。煩雑《はんざつ》な礼など不要。先に報告をするとよいぞ」
「はっ。ありがたき仰《おお》せ」
男は恐縮《きょうしゅく》してジョウに近寄り、早口で耳打ちをした。ジョウは顔色を変えぬままで話を聞き終え、フォルニーアに視線を向ける。
「……どうした?」
「どうやら、軍議《ぐんぎ》の必要がありそうです」
急遽《きゅうきょ》、諸将を集めた大テント内で、ジョウはたった今入った情報を知らせた。
無理もないことだが、聞いた途端《とたん》、丸椅子に腰掛けた皆がうろんな表情になった。
「その……相手がラルファスってヤツなのは確かなんですかね」
ザルツが珍しく控えめに聞く。
「遠望しただけなので断言は出来ないが、旗印《はたじるし》には間違いなく、獅子《しし》の紋章があったそうだ。もっとも、偽兵《ぎへい》という可能性が消えたわけではないがな。確かめようにも、あまり近付くことが出来なかったらしい」
ジョウは顔をしかめ、首を振った。
「とにかく、一応そうだとして話を進めよう。ラルファス将軍が指揮する二千ないし三千の部隊が、アステル地方から出て進軍中だ。街道を通り、真っ直ぐ北に向かっている。方角からして、ここを目指していると思っていいだろう」
「……なんだか、兵数が少ないですね」
セイルは首をひねりながら指摘した。
「こちらの兵力を知らない……なんてことはないでしょうしねえ」
「それはない」
首を振って、ジョウは断言する。
「彼らの諜報《ちょうほう》能力は優秀だ。おそらく、我らの兵力は百以下の単位まで把握《はあく》されているよ」
「なら、どういうことです」
と今度はシング。
「まさか、ヤケでも起こしましたか」
「私にもわからない」
ジョウは正直に述べ、「ただし」と付け加えた。
「――推測することは出来る。おそらく、この部隊はおとりだ。我々の目を引き寄せる為の。最初から戦うつもりはないのだろう。それなら、兵力が少ないのも理解できる」
「で、問題の本質はレインだな」
ジョウの隣に座すフォルニーアが首肯《しゅこう》する。
「そこは私にも予想がつくぞ。いや……もっと予想出来る。レインはシャンドリスに侵攻《しんこう》し、一挙にザワールを、そしてサダラーン(シャンドリスの主城《しゅじょう》)を攻略する気ではないかな」
場が一斉《いっせい》にざわめいた。
自分達が他国に遠征している間に、肝心《かんじん》の本拠地を攻略される……ぞっとしない話なので、無理もない。
シングが忌々《いまいま》しそうに、
「空き巣狙いかっ」
と拳《こぶし》を掌《てのひら》に打ちつけた。
「うわ、えぐいことしやがるなっ」
ザルツも喚《わめ》く。
「こんな話が広まったら、兵士がおちおち戦えやしねえぜっ」
それはその通りだ。
ただ……レイン達の狙いが本当にそこにあるとしたら、だが。
シャンドリス軍の主力がここにある今、なるほど、王都ザワールの守備力は大幅に低下している。留守部隊は数千しかおらず、一か八かの賭《か》けをする価値はあるだろう。あのレインなら風のようにザワールに侵攻《しんこう》し、サダラーンを落とせるかもしれない。
だが、それが本当に彼の狙いだろうか。
瞑目《めいもく》するジョウに、フォルニーアがそっと声をかけてきた。
「私の推測は、間違っているかな?」
「いえ。そうは言いません。レインの現在地が不明な以上、彼がザワールを急襲《きゅうしゅう》するつもりだというのが、一番納得のいく説明です。……現時点では、効果的な戦法だと思いますし」
「だが、なんとなく気に入らない。そういうことか?」
「……はい」
「おまえの気持ちもわからなくはないが、具体的な証拠がない以上、もっとも可能性の高い予想を元に策を立てるしかあるまい」
フォルニーアは彼女らしくきっぱりと断を下《くだ》し、ジョウを見据《みす》えた。
「それで、レインが我らの王都に向かっているとして、どうしたらいいと思う? おまえの意見は」
「――ラルファスの部隊は無視して、ここで全軍を反転、こぞってレインを追撃してこれを殲滅《せんめつ》する。迂遠《うえん》ですが、一番確実な策です」
予想していたことだが、フォルニーアは賛成しなかった。まじまじとジョウの顔を覗《のぞ》き込み、眉をひそめる。
「……それは少し、消極的過ぎないか。なぜ、全軍を反転させる必要がある? 『敵に倍する兵力が手元にあれば、あえて軍勢《ぐんぜい》を二分するのも上策なり』――私が幼い頃、軍学の講義中にそう教えてくれたのは、おまえであろう。今の我らには、敵の倍どころか数倍の兵力があるのだぞ」
「フォル様は記憶力がいいですね」
ジョウはほのかに笑った。
「確かにそう申し上げました。しかし、あれはあくまでも机上《きじょう》の講義なのをお忘れなく。戦《いくさ》は人が相手です。相手によっては、柔軟な姿勢を取るべきかと存じます」
「それだけ、レインを警戒している……そう言いたいのかな」
ジョウは大きく頷《うなず》いた。
「さようです。しかしもちろん、レインとて万能ではありません。彼のもっとも大きな弱点は、兵力不足にあると言えましょう。だからこそ、ザーマイン戦の時も、あえて奇策に頼らざるを得なかったのです。故《ゆえ》に、我らが今の大兵力を集中して運用する限り、そうそう付け入る隙《すき》は出来ません」
噛《か》んで含めるような説明を、フォルニーアは終始黙って聞いていた。しかし、その表情を見れば、全然納得していないのがよくわかる。
フォルニーアが考え込んでいる間、ジョウも含めて誰も邪魔をしなかった。皆、黙って主君が話すのを待っている。
そして、フォルニーアがやっと顔を上げた時、断は下《くだ》った。
「ジョウ、私はおまえの能力を信用している。今回もおまえの意見に従えば、勝利は疑いあるまい。だが! この戦《いくさ》を始めたのは元々私であった。悪いが、最後まで私の流儀《りゅうぎ》でやらせてほしい」
ジョウは一言も抗議せず、ただ頭を下げた。この戦いに関しては、例え負けたところで致命的な結果をもたらしはしない……そういう予感がしたせいである。
それに、まだフォルニーアの策が外れると決まったわけでもないのだ。
「ならば、フォル様のお考え通りに。して、いかが致しますか」
「机上《きじょう》の講義通り、基本に忠実に行こう」
ニヤリと笑みを浮かべる、フォルニーア。
「兵力を二分し、一方はラルファスの部隊を迎え撃って殲滅《せんめつ》、そしてもう一方はレインを追撃する。サフィールは後回しで良かろう。……この際、レイン達にも少々痛い目を見てもらおうではないか」
「――フォル様の仰《おお》せのままに。ただし、何度も申し上げるようですが油断《ゆだん》は禁物です。ラルファス将軍の兵力が少ないからと言って、甘く見てはなりません」
わかっている、とフォルニーアは破顔《はがん》した。
しかし、本当にわかっているかどうか、ジョウは危ぶんでいる。
「では、それぞれに部隊を割《さ》こう。……具体的な編成はおまえに任せる、ジョウ」
諸将に見えないように、フォルニーアは素早くウィンクして見せた。
おそらく最後のセリフとウィンクは、進言をはねつけたジョウに対する謝罪のつもりだろう。
こういう主君の一面を、ジョウは決して嫌いではない。
だから、なにも気にしてませんよ、という風に微笑んでやった。
それから一拍置き、決断を下《くだ》す。
「では、フォル様の決定により、軍を二つに分ける」
ピリリッと、ジュンナを除く将軍達の間に緊張が走った。
「まず、レインを追撃捕捉《ついげきほそく》する役目だが……これはシングにやってもらおう。それと、セイルとジユンナもシングに同行してくれ。兵力は一万。スピードが問題だから、騎兵《きへい》を中心に編成してすぐさま追ってほしい。ザルツは、私とともにここに残る役目だ」
「……はあ」
情けなさそうに頷《うなず》くザルツである。
多分、噂のレインと剣を交えたかったに違いない。
セイルはただニコニコと妹に、「ジュンナ、シングさんを助けてがんばろうな」などと声をかけてやっていた。で、シングはただ、緊張した表情で頷《うなず》くのみ。
「追撃部隊に一万……また随分《ずいぶん》とレインに振り分けたな。本当は、自身で追撃部隊に加わりたいのではないか、ジョウ」
フォルニーアの顔には、明らかにからかうような色があった。
フォル様の指摘は正しい。
口にはしないが、ジョウは内心で認めた。
もし本当にレインがザワールに向かっているというのなら、出来れば自分の手で彼を捕捉《ほそく》したい。
しかし、他の誰でもない、フォルニーアの存在がジョウを思いとどまらせるのだ。
あのレインには決まった攻撃パターンというものはないが、好んで使う戦法はある。
それは単純だが効果的な戦法で、『敵の頭を潰《つぶ》す』というものだ。そしてこの場合の「頭」とは、フォルニーアその人に決まっている。
だからジョウとしては「万が一」を警戒し、主君の側《そば》を離れるわけにはいかない。
今のジョウは、臣下としてフォルニーアの意見を聞き入れる他はなく、先の理由で自身の行動の自由も確保出来ない状態だった。
そこで次善の策……というか、自分の不安を打ち消すために、シング達に付ける兵力を増やしたわけだが……
それでもなお、ジョウの不安は消えはしなかった。
後でシングにも、セイルに忠告したように「迂闊《うかつ》にレイン本人と斬《き》り合いなどするな」と忠告しておかねばなるまいと思う。
それだけのことをしたところで、やはり心残りなのは変わりあるまいが。
フォルニーアも自分も、なにか決定的なところで、レインの思惑《おもわく》を読み違えている……
ジョウは、そんな気がしてならないのだった。
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第六章 枯れ谷の戦い
尊敬する大将軍の命令を受けたシングは、セイルとジュンナの協力を得て、国境へと急行していた。騎兵《きへい》中心の部隊で急ぎに急ぐこと数日、とうとうシングは、確たる情報を掴《つか》んだ。
行軍《こうぐん》の途中で、本国よりの急使《きゅうし》に出会ったのである。
もたらされた情報は、まさにフォルニーアが当てた通りの事態を示していた。
「それらしき旗印《はたじるし》を見たのだな? 間違いないか!?」
「ありませんっ。山岳地帯を抜ける敵軍を発見しました!」
使者は鼻息も荒く捲《まく》し立てた。
「目撃例は多数に及んでいます。旗印《はたじるし》は――黒地に、魔剣をくわえて翼を広げた純白のフェニックスっ! 鮮やかに、大きく染め抜かれていましたっ。黒衣《こくい》の将軍によって率いられたその軍勢《ぐんぜい》は、数、およそ二千五百! 現在、我が砦《とりで》を迂回《うかい》して、国境線を突破しつつありますっ」
「よしっ。君はもう戻っていい。留守部隊に、決してサダラーンを動くなと伝えてくれっ。後は、我々がやるっ」
「ははっ」
控えめなシングも、この時ばかりは小躍《こおど》りしたいほどの興奮を覚えたようだった。珍しくも馬上で、拳《こぶし》を突き上げたりしている。
「ついにしっぽを掴《つか》んだぞっ。その辺りなら、急げば追いつくはずだっ。空き巣狙いの策は悪くなかったが、見破られたらそれまでのこと。『知られざる天才』と恐れられたレイン殿も、どうやら自分の策に溺《おぼ》れたと見える」
「あの……」
「セイル殿、なにか?」
上機嫌《じょうきげん》でこちらを見たシングの顔を見て、セイルは言いたい言葉をぐっと呑《の》み込んだ。
『本当にそうでしょうか。ひょっとして俺達、一杯食わされているんじゃ?』
そう言いたかったのだが、言えなくなってしまった。こういうところが、セイルの人の良いところである。
まあいいか、と思う。
だいたいが、具体的な反証はなにもないのだ。容易《たやす》く追いついたことに疑念が生じないでもないが、正規の街道を通っていないのなら、時間のロスは当然ある。
それらしき部隊を発見したというのなら、おそらく間違いないのだろう……
例によって相乗《あいの》りしているジュンナを固く抱き締め、セイルは愛想《あいそ》よく笑いかけた。
「いえ。その、なんですね……俺達もがんばりますから、ぜひ武勲《ぶくん》を立ててくださいねっ」
「なにを言うか! もし彼の部隊を殲滅《せんめつ》出来れば、それは我々全員の功績《こうせき》だよ。こちらこそよろしく頼みます、セイル殿」
年輩の武将は、まだまだ若輩者《じゃくはいもの》のセイルに、深々と頭を下げた。
俺の方が遙《はる》かに格下なのに、この礼儀正しさは尊敬するよなあ。いい人だよなあ。
セイルは大いに感心した。損得|勘定《かんじょう》抜きで、この人には武勲《ぶくん》を立てさせてあげたいと思う。
だから、不意に湧《わ》き起こった不安はあっさり打ち消し、セイルは心から述べたのだった。
「さあ、急ぎましょう! 運が良ければ、もうすぐ彼らを捕捉《ほそく》出来ますよ!」
「おうっ!」
必勝の期待に満ち満ち、シング達はさらに急いだのだった。
――☆――☆――☆――
『侵攻《しんこう》軍は全軍を二つに分けました。シング将軍率いる、一万の部隊がこちらに向かっています!』
そんな報告を聞いた時、レインは大いにほくそ笑んだものである。
(賭《か》けてもいい……ジョウのヤツ、女狐《めぎつね》主君に押し切られたな)
彼らがそれぞれにどんな見通しを述べ、どのような話の流れになり、最終的に軍議《ぐんぎ》でどう決まったか――。見聞きしなくとも、レインにはだいたいの想像がついた。
『ラルファスの部隊をおとりにしてそちらへ目を引き寄せ、その間に、レインが手薄になった王都を突く』
彼らが予測したであろう、その策も悪くはないが、レインが目指しているのはもっと別なコトなのだ。
幸か不幸か、あのジョウ・ランベルクでさえ、まだこちらの思惑《おもわく》に気付いてはいないようだった。……気付いてもらわねば困るのに。
ともあれ、フォルニーアのシャンドリス軍、そしてサフィール達貴族軍の双方からマークされている男レインは、この時「枯れ谷」と呼ばれる深い山間《やまあい》の崖《がけ》の上で、のんびりと岩にもたれて座っていた。
シャンドリスとサンクワールの国境付近は、険しい山脈の間に辛うじて縫《ぬ》うように街道が通っており、所によってはここのように左右を二つの山に挟《はさ》まれている場所もある。
元は川だったそこは、大昔に水が枯れてしまった、文字通りの「枯れ谷」なのだ。その天然の道を、両国が整備して街道として使っているのである。
道中、くねくねと折れ曲がり、見通しは非常に悪い。
さらに、レインのいる崖《がけ》の上は丁度、街道より百メートル以上も上に当たる場所で、そこだけテラスのようにやや道の上に張り出している。
で、その張り出した崖《がけ》の上に大きな岩やら土砂やらを集めて積み上げ、レインは時を待っているのだった。
そう、つい先ほどシャンドリスの急使《きゅうし》がシングに報告した事実と異なり、レイン達はまだ国境の遙《はる》か手前にあった。それどころか彼は、今のところシャンドリスに侵攻《しんこう》する気などなかったのである。
ただし、敵に目撃されたサンクワールの部隊は確かに存在する。
実際に国境を越えたその部隊は、レインが給金《きゅうきん》を出して雇《やと》った、アステル地方の住人達からなる偽兵《ぎへい》なのだ。資金だけは腐るほど手元にあるので、景気よく人を集め、それでもって偽の部隊を編成したのである。
彼らは、見事に役目を果たしてくれた。国境の砦《とりで》を避け、迂回《うかい》した山間部《さんかんぶ》より続々とシャンドリスに侵入しつつある。
そして現在まだ、足踏み状態で国境の向こうをぐずぐずしていることだろう。今は、敵の留守部隊もサダラーン城を守るので精一杯のはず。どうせ迎撃部隊を出す余裕などない。
これなら、大胆な作戦も取れようというものである。
そういうわけで割と呑気《のんき》に日向《ひなた》ぼっこなどしていたレインに、伝令の騎士が一人、駆け寄ってきた。続報である。
「将軍! 間諜《かんちょう》よりの報告です。敵将シングを長とする部隊は、留守部隊の伝令の報告により、行軍《こうぐん》速度を上げて、現在急速にこちらに近づきつつあります!」
「ご苦労」
レインが軽く頷《うなず》くと、彼は敬礼《けいれい》を返して元来た道を引き返していった。
その背中を見送り、崖《がけ》の上に集《つど》う面々をぐるっと見渡すレイン。レニやセノア、それにセルフィーにユーリ。こうしたいつもの顔ぶれに加え、今日はミランまでが部下を引き連れて待機している。
彼らに向かってあっさり告げた。
「というわけで、もうすぐ本番だなあ。おまえらも、俸給《ほうきゅう》分の仕事はしろよな」
それぞれ、チビりそうな顔で頷《うなず》いた。
しかし、またユーリがいつものごとく、
「ならどうして、あたし達までこんな所で待機してるんですか、しょーぐん。ここはしょーぐん一人で十分なんでしょう」
「……おまえの『しょーぐん』という呼び方には、イマイチ尊敬心がこもってないな。いつも言ってることだが」
レインは顔をしかめ、それでも一応は教えてやった。
「おまえの言う通りなんだけどな。まあ、なんていうか、最近の俺は人気者でな。別に俺としては相手してやってもいいわけだが、今は作戦中だし、さすがにまずいだろう。だから、最後の瞬間まで一人になるわけにいかないんだな、これが」
ユーリは、怪しい宗教の教義をしこたま聞かされたような顔をした。
「あのぉ、ちっとも意味がわからないんですけどぉ」
「わからんでいい。全部終わったら教えてやるよ」
レインがヒラヒラと手を振ると、ユーリは小鼻を膨《ふく》らませ、ちらっと横目を使った。その視線の先にはセノアがいる。
スタイル抜群《ばつぐん》の美人副官が、先程からなにをしているかと言えば、抜き身の剣を自分の目の前にかざし、布きれで一生懸命|擦《こす》っているのだった。
大人しく座ってりゃいいのに。
レインにとっても頭の痛い風景である。
こいつはどうやら、自慢の武器を磨きたくて磨きたくて辛抱《しんぼう》たまらんらしく、さっきからず〜っとゴシゴシやっている。そう言えば、「この剣はエスターハート家の伝家《でんか》の宝剣《ほうけん》です、ほほほ」などとさっき自慢していたような。
誰も聞いてなかったが。
とにかく、伝家《でんか》の宝剣《ほうけん》だかなんだか知らないが、延々と続く作業のお陰で、顔が映るほどに剣が磨き込まれたのは確かだった。
はあ〜っ、と銀色の剣腹《けんぷく》に呼気《こき》を吹きかけ、にへら〜っと「嫌な」笑いを浮かべて布で擦《こす》りたくる……ずっとその繰り返しである。
その危ない光景に畏怖《いふ》し、セノアの周りだけ誰も座らず、そこだけぽっかりと穴になっていた。
「まあ、隔離《かくり》した方が良さそうな人もいますよね〜、確かに」
達観《たっかん》したような言い方をするユーリ。
レインはむむっと眉根《まゆね》を寄せ、初めて立ち上がった。ツカツカ歩いて金髪セノアの背後に立つ。
しかし、白いレザーアーマーをびしっと着用に及んだセノアは、気付きもしなかった。
相変わらず、ぺたっと女の子座りしたまま、剣をゴシゴシ磨いている。
「はああ〜〜っ(剣腹《けんぷく》に息を吹きかける音)」
そして布で擦《こす》り、一点の曇りなく磨き抜かれた剣腹《けんぷく》を眺め、にまぁ〜と笑う。
「ふふふ……うっふっふっ!」
「やめろ、うっとうしいっ」
「! ふびゅっ」
人としてそこまでやるのはどうか、というくらいの勢いで後頭部を足蹴《あしげ》にされ、セノアは剣を持ったまま地面に転がった。
立てて抱え持っていた剣で、危うく自分の喉《のど》を突き刺しそうになり、魂の細るような悲鳴を上げている。
「あぶ! あぶっ!!」
危ないっと言いたいが、ドキドキしすぎて声にならないらしい。
真っ青な顔でやっと起きあがり、怒濤《どとう》の勢いで怒り出した。
「なにをしますかっ。危うく不名誉な死に方するところだったではないですか!」
「今のままでも十分不名誉なんだよ、おまえはっ。実家の城へ帰って、庭で草引きでもしてろ、馬鹿馬鹿っ」
「しゅ、主君とは言え、言って良いことと悪いことがありますぞっ。戦《いくさ》の前に、武器の手入れをするのは名誉ある騎士の務めというももではっ」
舌が回らぬほど熱く捲《まく》し立てるセノアを、容赦《ようしゃ》なくさえぎる。
「なにが『ももではっ』だ。なにを勘違いしてるか知らんが、おまえは今回、後方指揮だぞ。実際に戦う部隊は既に配置してある」
「そ、そんなっ」
せっかく顔色が回復しかけていたのに、さ〜っと血の気が失《う》せていく。見ていて壮観《そうかん》だった。
「今日こそは群がる敵兵を薙《な》ぎ倒し、我が剣技の冴えをお見せするつもりだったのにっ! どうしてですかっ、なんで私が後方指揮なんですくわあっ」
こうなると、セノアは周りの視線など関係ない。がばっと立ち上がると、レインの胸ぐらを掴《つか》みかねない剣幕《けんまく》で抗議しまくる。
レインとしては困りものである。『今のおまえが戦ったら、五秒で死んじまうだろうがっ。スープで顔洗って出直せ!』という本音を言っても、この副官は納得すまいと思うのだ。
戦い以外の雑務では堅実な性格|故《ゆえ》か結構有能なのだが、こと実戦となると、経験不足プラス、圧倒的に実力が足りない。
つまり、セノアが戦《いくさ》で力を発揮するのは、剣と剣とがぶつかる直前の段階までなのである。
「いいか、セノア」
ほとばしる、罵倒《ばとう》に近い抗議にさくっと割り込み、レインはセノアの撫《な》で肩《がた》を両手でがしっと掴《つか》んだ。
効果てきめんで、ぴくっとセノアが震える。よくわからんが、どうもこいつは、触れられると弱いらしい。ぷりぷり怒っている最中《さいちゅう》でも、明らかに勢いが減じたりする。
なので近頃のレインはもっぱら、こういう時にはすかさずセノアの身体に触ってやることにしている。
少々、色んな方面(特にシェルファ)に誤解を呼びそうな危険はあるのだが、この際そんなことも言ってられない。
「将は実際に戦うのが仕事じゃない。指揮だよ、俺達の仕事はあくまで指揮なんだ! な、そろそろ自分の立場を自覚しろっ」
「は、はぁ……」
セノアはちらちらと自分の肩に置かれた手を見て、見る見る赤面。借りてきた猫のように大人しくなった。
ひょっとして、このまま手を下ろして胸を掴《つか》んだりしても許されそうな気もするが、さすがのレインも一応それは控えておく。
いつかやってしまいそうだが。
「わかってくれたか!」
「で、でもっ」
目元をほんのりと染め上げたまま、小さい声で、
「将軍はご自分でも剣を振るっていらっしゃいますわ」
いらっしゃいますわ? いきなりその言い方はなんだ、おい。
そう思ったが、あえて訊くのはやめておいた。
案外セノアは、実家の城ではそんなしゃべり方なのかもしれない。時々、ぽろっと女らしい所を見せるヤツだが、そちらが本物のセノアなのかもしれない。
ここでは、無理をしているとか?
心に留め置き、レインはいつものセリフを吐く。
「俺は特別だ。天才ってのは、人のやらないことをやるから天才なんだ。それすなわち、俺のことだ」
「わ、わかりました……」
簡単に納得してモジモジ俯《うつむ》くセノア。
なんだか知らないが、凄い効果である。
どうなってるんだこいつ、と思いつつなんとなくレインが目を上げると、固唾《かたず》を呑《の》んで注目している一同がさっと目を逸《そ》らした。
めちゃくちゃわざとらしかった。
なぜかミランが顔を赤くしており、それはわからないではないが(純情なヤツだし)、セルフィーが泣きそうな顔をしているのはどういうわけだろうか。
セノアを離し、首を傾《かし》げるレイン。
と、今度はレニが早くも、緊張プラス少々|怯《おび》え混じりの顔を向ける。
「と、とにかく上手《うま》くいくといいですねっ。お、王女様も今か今かと将軍の帰りをお待ちでしょうし。早く帰ってあげないといけませんもんねえ」
「あ、そうですねっ」
いきなり嬉しそうな声音《こわね》と共に、ユーリが身を乗り出した。
「あの子……じゃなくて、王女様、どうせ将軍にくっついて来たがったんでしょうね、ねえねえ、別れの時はどんなでしたっ」
興味津々《きょうみしんしん》の顔だった。
常に訊きたがりの気《け》がある少女だが、また悪い癖が出たようだ。
「どんなでしたって言われてもな。……まあ、苦労したのは事実だけど」
レインはため息をつく。
ほんっとうに今回は苦労した。なにも何十日も離れるわけじゃない、すぐ帰るからと言ってるのに、あのチビはなかなか納得しないのである。
シェルファは基本的には、高貴な育ちの姫君にあるまじく、レインの言うことに対して非常に素直である。絶大な信頼を寄せてもらっているのだ。例えば『とにかく金がいるから、あの資金を使うぞ』と言ったら、用途《ようと》を聞きもせずに許可してくれるほどに。
ラルファスに対してもその傾向はあるが、彼女はレインについては特に、『レインの進言に誤りなどないですわ』と確信しているらしい。
ただしだ、『自分を置いてレインだけがどこかへ行く』という一点に関してのみ、なまなかなことでは納得しない。
それこそ、じっくりと言葉を尽くしてその不可を説明しても、自分も連れて行ってほしい、の一点張りである。さすがにそれはまずいから、我慢してくれ――と説得するのは、恐ろしく難儀《なんぎ》だった。
『レインがいないと、周囲の景色まで蔭《かげ》る気がしますわ……大人しくしていますから、わたくしも連れて行ってください』
などと、うるうるとした上目遣いの瞳でじい〜っと見つめるのだった。
その瞳の威力ときたら破壊力|抜群《ばつぐん》であり、拒否するのには鉄の意志が必要となる。
彼女にしてみれば別にレインを困らせる意図《いと》はなく、置いていかれることを思っただけで、自然と切なくなるらしい。
こういう『連れて行けモード』に入ったシェルファを説得するのは、かなりの根気がいる。
知らない第三者があの説得場面を見れば、このレインという男は、王女の元を永久に去るつもりだと誤解したに違いなかろう。
突如《とつじょ》、荒い鼻息が聞こえ、レインは我に返った。
振り返ると、すっかり忘れていたがクリスもそこにいて、こちらに目配《めくば》せしてきた(ように思えた)。
「なにか気になるのか、クリス?」
仲間の方を見る。
セルフィーの……なんというかひたすら訴えかけるような視線とぶつかり、向こうが慌《あわ》てて目を逸《そ》らす。
レインはちょっと首を傾《かし》げ、しかし敵が迫っているのを肌で感じていたので、先に自分の感覚を研《と》ぎ澄ませて気配《けはい》を探ってみた。
「ふん……今なら大丈夫そうだな。よし、おまえ達はそろそろ自分の受け持ちの部署に戻っていいぞ」
ぱんっと一つ手を打った。
皆が緊張感を漂わせて立ち上がる中、さりげなく声をかける。
「あぁ〜、セルフィーはちょっと残れ。ちょこっと話がある」
途端《とたん》に、ユーリの耳がぴくっと動いたのはともかく、その他の全員が立ち止まったのが驚きである。
「おい、妙な勘ぐりは寄せ。真面目《まじめ》な話だ、真面目《まじめ》なっ」
セルフィーがおどおどとレインの前に立つ。自分の足下に目を落としたまま、微動だにしない。
動きが固いというか、とにかくめちゃくちゃ緊張しているのが見て取れた。
レインは全員が背後の小道を下《くだ》っていくのを待ち、彼女に話しかけようとしたが――
まずその前に、まだ残っていたユーリにきつく厳命《げんめい》した。
「おまえもさっさと行けって!」
不満そうに頬を膨《ふく》らませたが、一応ユーリは素直に背を向けた。
そのまま行くかと思いきや、立ち止まり、セルフィーに向かって大きくVサインを出す。
『がんばるのよっ』という言葉と共に、小走りに去った。
「がんばるのよって、なにをがんばるんだ?」
「さ、さあ」
セルフィーはまた俯《うつむ》いてしまった。
レインは顎《あご》を撫《な》で、単刀直入《たんとうちょくにゅう》に切り出す。
「人を斬《き》ることが嫌になったか?」
ぱっと顔を上げた。
怯《おび》えているのは間違いないが、どこかほっとした表情にも見える。
「――わかっているんです。わたしが逃げたら、その分、他の人に迷惑がかかる……それがわかっていても、今のわたしに人が斬《き》れるかどうか……」
「おまえの気持ちはわかる」
レインの声が意外に優しかったせいか、セルフィーは薄緑《うすみどり》の瞳を瞬《またた》く。どうも、どやされるとでも思っていたようだ。
「悩むのが普通だろう。なんの疑問も無しにザクザク人が殺せるってのは、どこかいかれたヤツに決まってるさ」
「……はい」
「あのな、セルフィー」
なんでしょうか、という風にセルフィーが小首を傾《かし》げる。
レインは微笑み、静かに言った。
「人が殺せないのは恥じゃない。むしろ、胸を張っていい。それだけおまえが優しいヤツだったってことだからだ。だから、なにも苦しむことはないんだぞ。戦いが嫌なら、違う道を選んだっていい。誰も責めやしないぞ。もちろん、俺もだ」
セルフィーの瞳が大きく見開かれた。
なにかを堪《こら》えるような表情で、唇を震わせた。
「……それでもわたしは、騎士になりたいんです。亡くなった父のような騎士に」
「――そうか」
レインは簡潔に答え、頷《うなず》くのみである。
人それぞれ事情はある。話したくなったら、彼女の方から話してくれるだろう。無理に聞き出す必要もないし、今はその時間もない。
「あの……お願いがあるんですが」
張り詰めた緊張感が窺《うかが》える声音《こわね》。
「なんだ? 前借りか?」
「違いますよぅ〜。レイン様、わたしが頼みごとするのは、それだけだと思っているんですね」
やっと笑顔を見せた。
その勢いのまま、素早く唇が動く。
「あの、ちょっと唐突《とうとつ》ですが。お願いというのはその……わたしを抱いてくれませんか」
「むっ!」
レインは眉根《まゆね》を寄せ、ぐぐっと唇を引き結んだ。
周囲に、隙《すき》のない戦闘モードにも似た視線を走らせた後、秘密を共有するかのような緊迫の囁《ささや》き声を出す。
「それって……野《の》エロのことか」
ぼっ、と一瞬でセルフィーが真っ赤になった。自分もわたわたと周囲を見渡す。
「ち、違いますっ! だいたい、野《の》エロってなんですか、野《の》エロって!!」
「意味がわからないにしちゃ、えらく焦《あせ》ってるじゃないか」
わははと笑うレイン。
セルフィーはおそらく半分以上わざとだろうが、こちらへつっかかってくる素振《そぶ》りを見せた。が、レインの顔を見て勢いが止まる。
くすっと笑みがこぼれた。
「……そうやって、元気づけようとしてくれているんですね、レイン様は」
「考えすぎだ、おまえ。俺は本気で訊いたんだ。……それより、ほら。いいぞ」
「……えっ」
「だから、そっちじゃないならこっちのことだろう? お安いご用だよ。ほら、おいでセルフィー」
両手をそっとさしのべ、柔らかく微笑む。
口調がいつもと少し違い、ずっと昔の少年時代に戻ったかのようだった。
レインの表情をおずおずと眺め、セルフィーは遠慮深そうな足取りで一歩二歩と進み、ふわっと黒いシャツの胸に顔を埋める。
両手で抱き締めてやると、しなやかな身体に、波紋《はもん》が広がるように震えが走った。
「レイン様は父さんとは違いますし、同じだと思ったこともないですけど……でも、優しいところは変わらないです。優しくて大きくて温かい……」
「――そうか。俺のことはともかく、いい親父さんだったんだな」
レインのごく短い返事に深い思いやりを感じ取り、セルフィーは少しだけ泣いた……
やがてセルフィーも去り、レインはクリスを背後に従え、一人|崖《がけ》の上から街道を見下ろす。
おおよそ真っ直ぐな一本道だが、真下より少し後方に、ちょうど街道から分岐していく小道がある。ただ、そちらはシャンドリスに向かうには遠回りなので、利用する者はほとんどいないが。
そして、いまレインが立つ崖《がけ》の上――
下から見えないよう、少し奥に山と積み上げられた岩石やら土砂やらがあり、さらに後ろにずずっと距離を置き、油が入った大量のツボが並んでいる。舞台設定と、準備は整っていた。
微《かす》かに頷《うなず》き、そのまま立ち尽くす。その横に、クリスがトコトコと歩を進めて来た。
レインは横目で見やり、
「もうすぐだ。よろしく頼むぞ、相棒《あいぼう》。途中でひっくり返ったりしたら、かっこ悪いものなあ」
すぐさま荒々しい鼻息の音。
馬鹿にするな、という意志表示だろう。
「わかってる。冗談だ。どちらかと言えば、俺がおまえから振り落とされる心配をするべきだよな」
そう、その通りと言わんばかりに首を振るクリス。
その豊かなたてがみに触れ、レインは目前に迫った時を待つ。
皆のためにも……負けるわけにはいかない。
――☆――☆――☆――
「急げー、急げー! 急がねばこちらの接近に気付かれ、敵を逃すぞっ。馬の息が続く限り急ぐのだっ」
シングは時折味方を発憤《はっぷん》させるべく大声を出し、自身も愛馬を駆って全力で急行していた。
敵を逃がすという心配もあるが、それ以前に、敵軍が先に王都に着くとまずいのだ。最悪の場合、シングが到着した時にはサダラーンが落ちている可能性もある。まさかとは思うが、有《あ》り得《え》ない話ではない。あのレインは、野戦だけではなく、攻城戦も得意と聞く。
なにしろ、自《みずか》らが指揮した戦いでは、未だに敗戦を記録したことが無いそうな。
そして、彼に主城《しゅじょう》のサダラーンが落とされたとすると、今度はこちらが自分達の城を囲む羽目になる。これほど馬鹿らしいこともないだろう。そうならないためにも、是が非でも追いつかねばならないのだ。
とはいえ、一応の用心はしている。
尊敬するジョウから「レインと一騎打《いっきう》ちに及ぼうとするな」と釘をさされたのを忘れず、はやる心を抑え、自分は軍の後方に位置していた。
これなら、突然の遭遇戦でも、まさか彼と一騎打《いっきう》ちせねばならない羽目には陥《おちい》るまい。
シングは己《おのれ》の技量に幻想を抱いてはいない。大将軍ジョウ・ランベルクと互角に見える戦いを演じたレインに、自分が勝てるはずがないことを承知している。なにより、ザーマインの遠征軍を指揮していた、ガルブレイクの二の舞は願い下げにしたい。
だからシングは、焦《あせ》りつつも軍の先頭に立とうとはしなかったのだ。
そしてそれは、セイルとジュンナの兄妹も同様である。
ただし、慎重に過ぎたという訳ではない。
レインに追いつけ! という一念のせいだろう。シングの軍勢《ぐんぜい》はすっかり獲物《えもの》を追う猟犬の気分になっていた。それに、相手の部隊が比較的少数であることも、シング達の警戒心を多少は緩めていた。
こちらは一万なのだ。二千ちょっとの兵力など、なにほどのことがある!
ジョウ・ランベルクの大将軍就任以来、ここ何十年も敗北を知らずに来た驕《おご》りが、彼らには多かれ少なかれあった。その勝利は、主にジョウの指揮官としての優秀さを証明するもので、自分達が強い訳では決してない……そこを理解している者はほとんどいなかった。
騎兵《きへい》中心に編成された軍勢《ぐんぜい》は、土埃《つちぼこり》を跳ね上げつつ、国境の山岳地帯に突入していく。
お世辞にも広いとは言えない「枯れ谷」の街道に、砂塵《さじん》を残して彼らが姿を消した後――
山岳地帯の裾野《すその》に広がる森から、わらわらと兵士が姿を現し、こっそりシング達を追撃しはじめた。
不運にもシングの軍勢《ぐんぜい》は、この時、前方だけに注意を払っていた。まさか自分達の後ろから敵兵が来るとは、夢にも思っていなかったのである。
レインの策は、半ば完成しつつあった。
――☆――☆――☆――
「枯れ谷」という俗称《ぞくしょう》がある街道をどんどん駆け行くシングは、ふと前方を見て、僚友《りょうゆう》のセイルの背中を見つけた。
控えめな彼のことだから、わざとシングを追い越したわけではないだろう。おそらく、この細い道を怒濤《どとう》の勢いで軍勢《ぐんぜい》が流れているため、知らず知らずの間にそうなっていたに違いない。
とにかく、自分も馬足を速めて兄妹に追いつくべく、シングが愛馬をせかそうとした――
まさにその時に、忌《い》まわしい声が聞こえたのである。
『よお、久しぶりだな!』
――嘘だっ。
声を聞いた瞬間に思った。
彼は、とっくに国境を越えたはずではないか! 今頃こんな場所にいるはずがないっ。
しかし、夢ではない証拠に、また聞こえた。
『お〜い。優しい俺は、一応警告してやるぞ〜。今から岩やらなんやらを、しこたま下へ落とすからな。ちゃんとよけろよ、特に女の子はだ! いいか、万が一にも女の子がいたら、ちゃんとよけるんだぞっ』
男はよけなくていいのか、おい?
反射的に、シングはそう思ってしまった。
とにかく、別に叫んでいるわけでもないのに、しかも口調自体が酒場で一杯要求するような気軽な雰囲気なのに――
なのになぜか、その声はよく響いた。
馬を駆りつつ、愕然《がくぜん》としてやや上を仰ぐ。相変わらず険しい山々が連なっており、街道に面した部分は切り立った崖《がけ》になっている。ところが一部分だけ、上端がやや街道に張り出した部分があり、そこに黒衣《こくい》の男が立っていた。
距離と高さがあるのにもかかわらず、シングは全身が総毛《そうけ》立った。あの不吉な黒一色の服装に、見覚えがあったからだ。日頃に似合わぬ怒声を張り上げる。
『彼だ! 彼が現れた!!』
誰ですかそれ? というような顔で、周囲の部下達がシングを見た。
警戒心と焦《あせ》りと、そしてごくごく微量の恐怖心が心の中で一緒くたに弾け、シングはもう一度問題の男を指差して叫ぶ。
「彼だ、彼がレインなんだっ」
ええっ!
低い驚きの声が一同の中に広がる。
シングに答えるかのように、黒衣《こくい》の男……レインは、右手を気怠《けだる》そうに左右に振った。
――たった一往復だけ。
これだけ離れているのに、ニヤッと白い歯を見せたところまで見分けられた。
そして、忽然《こつぜん》と崖《がけ》の奥に姿を消す。
シングは天啓《てんけい》のように悟《さと》った。
俗《ぞく》に言う、予感が働いたというヤツだ。
危ないっ!?
「止まれっ。全軍……いやっ、私の付近にいる者は馬を止めろーー! 崖《がけ》が崩れるぞおっ」
すぐに、自《みずか》ら愛馬の手綱《たづな》を絞る。
しかし、軍勢《ぐんぜい》というものは急停止できないと相場が決まっている。特に、散々「いそげっ」と急《せ》き立てていた今は。
当然のように混乱が起きた。
命令通り止まろうとした者、あるいはシングの怒鳴《どな》り声を聞き漏《も》らした者、はたまた状況を素早く見て取り、止まるか進むか迷った者。その全員が、等しく同じ運命に見舞われた。
狭い街道でお互いに肩やら愛馬やらがぶつかり、そこら中で騎士達が落馬した。
たちまち辺りは、怒声と罵声《ばせい》が入り乱れるてんやわんやの騒ぎとなった。
だが、本物のパニックはこれからだった。
遠くで鈍い破壊音が響いた途端《とたん》、さっきレインが立っていた崖《がけ》の張り出した部分が、そっくりそのまま崩れたのだ。
既に落馬して、街道の隅《すみ》に投げ出されていたシングは、絶望的な目でそれを見た。
怒れる神が振り下ろした大鉄槌《だいてっつい》のごとき轟音《ごうおん》と共に、大量の土砂や大小の岩が一緒くたに崩れてくる。やけに量が多かった。
レインが魔力で崩したのだろう。崖《がけ》の上端が広範囲に渡って豪快に崩れたらしい。
地面が波打ち、素早く立とうとしていたシングは、またころんと転がってしまった。強固なはずの大地が、まるで暴風に見まわれた大海原《おおうなばら》のような有様《ありさま》である。
時を同じくして、真っ白な砂埃《すなぼこり》がざーっと舞い上がり、あっという間に視界を覆ってしまう。
シングは呆然《ぼうぜん》とへたり込んだままだった。
一方、セイル達兄妹である。
結論から言うと、彼らはシングよりやや運が悪かった。つまり、レインが崩そうとしている崖《がけ》に、より近い場所にいたのである。
レインが「岩を落とすぞ〜」とわざわざ警告してきた時、セイルは『うわっ、やっぱり罠《わな》だったのかぁ〜。参ったなあ。俺、嫌な予感がしたのにさぁ』といった愚痴《ぐち》に等しい思いも湧《わ》いたが、それより先に当然のように迷った。
このまま走り抜ける方が正解か、それともここで止まってしまった方がいいか、時間的に見て正解はどっちだろう、と。今兄妹がいる場所は、それくらい微妙な位置だったのだ。
とりあえず最悪なのが、土砂の下敷きになる崖《がけ》下の位置で止まることなのは、言うまでもない。
――しかしである。
セイルがぽわ〜んとした性格で、この急な事態にも落ち着きを失わなかったからといって、他の者もそうだとは限らない。
場所的に、レインの警告は、はっきりと耳に入ったし、その意味する所も即、皆に理解された。さらには、駄目押しに誰かが「崖《がけ》が崩れるぞーーっ」と、えらく恐怖心たっぷりに喚《わめ》いた。
生存本能の成せる業《わざ》だろう。
反射的に、ほとんどの者が必死で馬を急《せ》き立てた。他の者はセイルほど分析力に優れず、落ち着いてもいなかったのだ。
結果的に、部下達は焦《あせ》って馬を駆り立て、セイルは反対にやや馬足を緩《ゆる》めようとしていた。
お陰で、後ろから走ってきた連中にドコドコ衝突され、それでもなんとか姿勢を制御したのはいいが、代わりに相乗《あいの》りしていたジュンナが振り落とされた。
さあっと血の気が引いた。
青くなって振り返ると、端の方にいたのが幸いし、愛する妹は街道の脇に放り出されていた。すぐに身を起こしていたから、怪我《けが》とかはしていないだろう。
駆け戻ろうとしたものの、助かりたい一念で、皆がこちらに押し寄せてくる。そんな中、馬を逆行させるのは不可能と言って良かった。
そして、頭上で轟音《ごうおん》。
とっさに、セイルは決断した。
「ジュンナ、そこにいろ。いざとなったら、シールドを張るんだっ。必ずおにいちゃんが助けに行く。そこで待つんだっ」
「お、おにいちゃ〜んっ」
意志の力を総動員して、セイルは遙《はる》か後方の妹に背を向けた。ジュンナの魔法をもってすれば、平気だ。それより、危ないのは自分の方である。躊躇《ちゅうちょ》した分、かえって危険ゾーンに入ってしまっている。
馬のたてがみに顔を埋めるようにして、夢中で走った。地面が揺れているのを感じたし、大音響も響いてくる。上を見たいところだが、そんな余裕はない。
と、真っ黒な影がセイルの頭上に差し、陽の光を遮《さえぎ》った。これぞ、大量の土砂が自分の真上にある証拠だろう。
くそっ、俺は死ぬわけにはいかないんだっ。
俺がいなくなったらジュンナが悲しむ……だから、まだ駄目だっ。
セイルは死力を尽くして愛馬を急《せ》き立て、前方の光に向かって駆け続けた。
やがて、すぐ後ろで今までとは比較にならない振動と轟音《ごうおん》が弾け、セイルは愛馬ごと地面に投げ出された。
ちゃんと受け身を取ったにもかかわらず、よほどひどく投げ出されたとみて、セイルはしばらく意識を失っていた。
しかし、せいぜい一分にも満たない間のことだろう。すぐに気付き、がばっと身を起こす。
「ジュンナ、ジュンナっ!」
「将軍っ」
セイルが声を上げると、部下達がどっと集まってきた。
「ど、どうなったんだいっ」
埃《ほこり》が入った瞳を瞬《またた》く。
一応、砂埃《すなぼこり》は収まりかけていた。
「……ご覧の通りです。崩れた土砂で街道が埋まり、シング将軍と分断されてしまいました」
分断されたのはシングさんとだけじゃない、妹もだよっ。
そう怒鳴《どな》りそうになり、大きく深呼吸する。彼に悪気はない。怒鳴《どな》るのは八つ当たりというものだろう。
立ち上がり、周りをざっと点検した。
彼の言う通りだった。今来た方……枯れ谷の街道は完全に土砂で埋まっていた。ちょっとした小山である。
で、数で言うと、部隊のほとんどがセイル達のいる「土砂のこちら側」に逃れていた。
というより、レインがタイミングを計り、わざとそうしたのだろう。
つまりそれは、向こう側のシング達が小部隊のまま、サンクワール方面に置き去りにされたということである。
レインを警戒して遙《はる》か後陣にいたのが、かえって仇《あだ》となったようだ。
「確か、分かれた枝道があったと思うから、向こうから帰国は出来るだろうけど……」
セイルはブツブツ呟《つぶや》く。
「でも、それよりこの分断が、レイン殿の狙いなら――くっ、シングさん達が危ないっ」
のほほんとしたいつもの表情を消し、さっと後ろを振り返るセイル。
土砂の山はうんざりするほど高いが、しかし、なんとかここをよじ登ってジュンナと、そしてシングと合流しなければっ。
「しょ、将軍っ。あれを!」
部下の叫び声に、セイルは反射的に上を見上げた。直感で、レインのことだと思ったからだ。
当たりだった。
レイン本人が、広範囲に崩れて以前と形の変わった崖《がけ》の上から、またこちらを見下ろしていた。今度は真下付近なので、かなり表情がわかる。彼は、なにかを点検するような目つきでざっとセイル達を見渡し、そのまま後ろへ下がってしまった。
「ま、また何かするつもりではっ」
誰かが不安気な声を出す。
セイルもまた不安だったが、
「うろたえないようにねっ! もう崩せそうな部分は全部崩れているさっ。いいから、今はなんとかシングさん達と合流しないと」
「将軍っ」
間髪《かんぱつ》入れず、また警告の声。
さっきのこともあり、いささか身構えて顔を上げると、ちょうど巨大な壷《つぼ》だか瓶《びん》だかが、セイル達の頭上に飛んできた所だった。
と、すぐさまその容器に光の束が命中し、壷《つぼ》が四散《しさん》した。
なにかの液体がどっとばらまかれた。
雨のように降り注《そそ》ぐその液体の、ねばっとした感触を感じ、セイルはぞっとした。
これは――
「あ、油だっ。これは油だぞっ」
大勢の中から、また誰かが叫んだ。
そう喚《わめ》くそばから、次々飛んでくる壷《つぼ》が空中で四散《しさん》し、セイル達の服や鎧《よろい》に油が降りかかる。うっとうしくても、この状態では避ける術《すべ》がない。
しまいには一度に大量の壷《つぼ》がぶんぶん飛来し、空中でガシャガシャ破壊されていく。
なぜかその合間に、恐ろしいまでに下手な歌声が聞こえてきたりする。
景気づけに、レインが機嫌《きげん》良く歌っているらしい。
あれよあれよという間に、セイル達はベトベトになってしまった。
そして、嫌な予感はまた当たった。
セイル達が全員見上げる中、またレインが崖《がけ》の上に登場したのである。……火のついた、巨大な松明《たいまつ》を片手に。
……例の不敵な顔に、一際《ひときわ》極悪な笑みが浮かんでいた。
『落ち着け! いいか、みんな落ち着けよっ』
セイルがそう声をかける前に。
またもや兵達の誰かに先を越された。
本当にいいタイミングだった。そう、よすぎるほどに。
「ひ、火攻めだっ。あの松明《たいまつ》を落とされたら、俺達全員、焼け死ぬぞおおおっ」
パニックの兆《きざ》しが窺《うかが》える悲鳴だった。
全員に動揺が走った。
当のレインも、頭上で嬉しそうに怒鳴《どな》ってくれた。
「このところ冷えるからなあっ。一つ、盛大に燃やすか。はっはっ!」
――よくよく調べれば、先程から警告の喚《わめ》き声を上げていた者達は、自分達の仲間ではないとわかったはずである。
その数人はレインがこっそり送り込んでおいた間諜《かんちょう》であり、こうやってパニックを助長《じょちょう》するのも役目のうちだったのだ。
しかし、さすがのセイルもそこまで判断はつかなかったし、彼の部下達も同様である。
恐怖というモノは伝染する。
わざとらしく率先して逃げ出したその間諜《かんちょう》達に煽《あお》られ、全軍が浮き足立つ。
「に、逃げろーっ。焼け死ぬ、焼け死ぬぞおおっ」
誰かがまた叫び、文字通り燎原《りょうげん》の火のごとく恐慌《きょうこう》が広がった。
なにしろ大軍である。
一度動き出すと止めようがない。
油の量からして全員焼け死ぬはずはないのだが、誰もが正常な考えを失った。比較的先行していた兵達は、セイルの健在をまだ知らない者が多く、それがまたパニックに拍車をかけた。
しかも、後ろから逃げてきた集団に押され、否応《いやおう》なく前へ前へと流されてしまう。
かくして先頭集団にいた者達にも恐怖が伝染し、これまた逃げ始めた。
敗走が始まった。
シャンドリスへ、自分達の故郷へと向けて。セイルが大声で自分の無事を知らせ、踏みとどまるように呼びかけたが、大勢の怒声の中ではごくごく近くの者にしか届かなかった。
「――くっ」
我先にと逃げ去る自軍を、セイルは唇を噛《か》んで見送った。
レインの狙いはあまりに明らかである。
謀《はか》ったとはいえ、彼らが小勢なのは間違いない。だからセイル達とシングの部隊が再度合流できないよう、このような手を打ったのだ。念の入った、狡猾《こうかつ》な追い打ちだった。
実質的にダメージはなくとも、これではどうしようもない。
あの軍勢《ぐんぜい》をすぐに立て直すのは不可能と言える。
(でも、せめて俺だけでもジュンナを助けにいかないと!)
部下達が逃げ散ろうと、セイルのその決心は変わらなかった。
硬い表情でセイルは顔を上げる。
その時、土砂の向こうから、無数の馬蹄《ばてい》の音が轟《とどろ》いてきた。
――ジュンナ!
セイル達の部隊が敗走していくのを確認し、レインは手にもっていた松明《たいまつ》を後ろへ捨てた。
彼らはもう、正常な判断力を失っており、とにかく逃げることに必死になっている。こちらの邪魔にならなくなったのなら、それでいい。シングとの連携《れんけい》が不可能になれば、当初の予定通りである。
次にレインは、セイル達の反対方向に目をやる。シング達はまだ混乱状態が続いているようだ。しかもこの時、あらかじめ用意しておいた伏兵が、ガサラムを先頭に左手からどっと押し寄せてくるところだった。
さすがに、ガサラムは無駄に歳を食っていない。そのタイミングはまさに完璧で、シャンドリス軍はまだ崖《がけ》が崩れたショックから立ち直っておらず、てきめんに浮き足立って、動揺を露《あら》わにしている。
レインが見るところ、早くもちらちらと唯一の逃げ道――つまり、枯れ谷から分かれた枝道の方を見やる兵士達が出始めた。
まるで「ここから逃げられますよ!」と言わんばかりに、そこで街道が分岐しているのだ。遠回りではあるが、そこからシャンドリスへ、自分達の国へ逃れることが出来る。
彼らの死にものぐるいの抵抗を誘わないため、レインはあらかじめ、いわば「逃げ道」のあるこの場所で大がかりな罠《わな》を仕掛けたのである。損害少なく勝利を得られるのなら、その方が良いに決まっているからだ。
ただし、逃げてもらっては困る者もいるが。
タイミングを窺《うかが》う。
下ではついに、シングの号令を待たずして、兵達が枝道から逃亡を始めている。ぐんぐん迫るサンクワール軍の圧迫に耐えかねたのだろう。
「よし、クリス。いよいよ俺達の出番だ。行くぞっ」
ひらっとクリスにまたがり、レインは眼下《がんか》を見下ろす。ほぼ垂直の崖《がけ》から、下の混乱を冷静に観察し、タイミングを計る。
こういう時、恐怖を感じないというのは得かもしれない。
ちょうど、ガサラムの部隊がシングのそれと激突し、乱戦が始まったところだった。
「いまだっ!」
クリスの横腹を軽く蹴って合図し、レインは崖《がけ》から飛び出した。
――☆――☆――☆――
シングは驚愕《きょうがく》した。
ちなみに、彼がその度肝《どぎも》を抜く場面を目撃したのは、乱戦状態にもかかわらず、あえてレインから目を離さなかったからだ。
なにをしでかすかわからないこんなヤツから、二度と目を離せるものかと思う。現に、土塊《どかい》の向こうにいるはずのセイル達にもなにかあったらしく、無数の馬蹄《ばてい》の音がどっと響いてきている。
ここからではなにも見えないが、これもまたレインの仕業《しわざ》に違いない。
そして今、シングが見守る中、レインはなんと、崖《がけ》から飛び降りた。
そうとしか見えなかった。
いくら馬に跨《またが》っていようが、ほとんど垂直と変わりないこの崖《がけ》を下《くだ》ってくるなど、不可能に決まっている。
もしあそこから下りるというなら、それはどう考えても、「墜落《ついらく》」と形容されるべきだろう。
それなのに――なぜかレインは落下しなかった。
まるで、あの白馬の蹄《ひづめ》になにか細工でもしてあるように、あるいは(こちらの方が、可能性としてはまだ有《あ》りそうだが)、不可視《ふかし》の翼が馬の腹から生えてでもいるように。
レインは馬を駆り、怒濤《どとう》の勢いでほぼ垂直の崖《がけ》を駆け下《くだ》ってくる。重力に逆らいまくりの絶対に有《あ》り得《え》ない光景に、シングは一瞬、戦いを忘れた。忘れて、颯爽《さっそう》と大地を目指すレインに見惚《みほ》れてしまった。
その瞬間――
混戦状態の下界《げかい》にかっと目を見開き、レインが大音量で叱声《しっせい》を放った。戦場全体に響き渡るほど大声だった。
時間が止まった。
事態に気付かず、夢中で戦っていた者達が、思わず手を止めて一斉《いっせい》に顔を上げた。
そして敵味方を問わず、目の前にそびえ立つ崖《がけ》を疾走《しっそう》してくる、たった一騎に目を奪われる。
と、レインを乗せた白馬は、まだ下まで十メートル以上あるのにもかかわらず、ぱっと飛んだ。
普通の馬なら墜落《ついらく》死するような距離を落下し、真下の土砂の山に華麗《かれい》に着地。そしてまた力をたわめてジャンプ。
シャンドリス軍の頭上を、レインを乗せた白馬が跳ぶ。それはまさに、空を舞うような優雅《ゆうが》な滑空《かっくう》で、彼が片手に持った槍《やり》の穂先が、キラリと光った。誰もが言葉を無くし、その光景に見入ってしまった。
魂を抜かれたような顔つきの兵達に、レインが大喝《だいかつ》する。
『貴様達、どけええええーーーーーーっ!!』
瞬間的に皆、蹴飛ばされたように動いた。
まるで海が左右に割れるように、レインの着地する場所がまっぷたつに割れた。
シャンドリス軍の騎士達は、誰もが自分が戦闘の最中《さなか》なのを忘れた。敵の総指揮官を目前にしながら、進路を塞《ふさ》ぐどころか、あえて敵のために道を開いたのだ。
レインの眼光、怒声、そして目に見えない圧倒的な気迫。それらに気合い負けし、あえて彼を止めようとする者は皆無《かいむ》だった。
それどころか、サンクワール軍でさえ、この瞬間は硬直状態に陥《おちい》っていた。
そしてシングは、自分とレインとの間に、なにも遮《さえぎ》る物がなくなったことに、今更《いまさら》ながら気付いた。
脇目もふらずに、彼が駆けてくる。長槍《ながやり》をかざし、こちらを睨《ね》め付けて。
ここに至り、シングはやっと我に返った。
本能の命ずるまま、思わず馬首《ばしゅ》を巡らし、枝道へ逃れる。明確に「逃げようっ」と思ったわけではなく、あくまでも反射的な動きだ。彼もまた、部下達と同じくレインに気迫負けしたのである。
シングは決して臆病《おくびょう》な男ではない。
しかし、逃げているウチに本気で恐ろしくなり、馬上で身を伏せて必死で駆けた。
なにか、自分がとんでもない化け物に追いかけられているような気がしたのだ。
「待てっ、こるらああーーっ!」
レインが後ろから怒鳴《どな》る。
「おまえはなにかっ。他人様の国に、数を頼んでズカズカ踏み込んで来るだけが取《と》り柄《え》かっ。でもって、勝てそうにない相手と一騎打《いっきう》ちに及びそうになったら、途端《とたん》にコソコソ逃げるのかっ。それでも将軍か、どうなんだっ!」
「くっ」
シングはかっと激した。
レインが罵倒《ばとう》するセリフは、客観的に見ても嘘ではない。それどころか、そのままズバリの指摘である。
だからなおのこと腹が立つのだ。
「わかった! お相手するっ!!」
ほとんどヤケで馬を返し、レインと向き合う。そんな二人の脇を、何人もの部下達が駆けて行く。彼らはさっさと勝負を見限り、戦場を離脱していく者達であり、つまりが、早くも部隊が瓦解《がかい》しかけているのである。
レインはそんな小物には目もくれず、シングに向かってしゃあしゃあと言った。
「おいおい。ギュンターに勝てなかったヤツが、俺の相手なんか出来るわけないだろ」
おまえが呼び止めたんだろうがああーーっ!
内心のその叫びを、シングはなんとか噛《か》み殺した。挑発に乗るな! どうせ、逃げても追いつかれたに決まっているのだ。
この上は、せめて一矢報いるのみだ。
「無駄口は無用だ。来いっ!」
死を覚悟《かくご》して槍《やり》を構えたところで、レインが馬ごと突っ込んできた。
「いい覚悟《かくご》だっ」
シングは、どこか他人事のような気分で、風切り音を聞いた。というか、音しか聞こえなかった。水車のように振り回される長槍《ながやり》の動きを、全く目で捉《とら》えることが出来なかったのである。
レインの長槍《ながやり》が一閃《いっせん》し、シングの槍《やり》を半ばからへし折った。唖然《あぜん》としてへし折れた自分の槍《やり》に目を奪われていると、敵の槍《やり》が翻《ひるがえ》り、柄《つか》の部分がシングの額を強打する。
シングはそのまま昏倒《こんとう》してしまった。
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第七章 セイル兄妹VSレイン
「おっと」
馬上でぐらっと傾《かし》いだシングの身体を、レインは無造作《むぞうさ》に持ち上げ、自分の鞍《くら》の前に横たえた。
ほとんど時を置かず、叫び声。
『シング将軍が捕まったぞーー!』
紛《まぎ》れ込ませておいた間諜《かんちょう》が気を利かせたか、あるいは案外、敵の誰かの怒鳴《どな》り声だったかもしれない。
とにかくその声をきっかけに、シャンドリス軍のほとんどはどっと崩れた。まだ戦っていた騎士達も、次々と馬首《ばしゅ》を返し、枝道から戦場を離脱し始める。
レインを大きく避けて、どんどん逃げて行く。別に邪魔する気はないので、レインは自分から脇に避《よ》けた。
目の前を、太い帯のように敵軍が流れていく。数は多いが、道の隅《すみ》で佇《たたず》む彼に気付く者はごく少ない。敗走中によそ見をする者など、いようはずもないのだ。
加えて、街道の本筋の方からガサラムの怒声が響き渡った。
『おまえ達、無駄死にはするなーーっ! 勝負はついたぞーっ。止めやしないから、さっさと逃げろ。それが嫌なら、武器を捨てて降伏しろっ。降《くだ》れ、降《くだ》れーーっ』
レインは思わず微笑んだ。
さすがにガサラムは戦場慣れしている。呼吸を読むのが上手《うま》いというか、それぞれの局面で、実に的確に戦《いくさ》の流れを読んでいる。
今も、この親父の怒鳴《どな》り声に応じ、最後まで槍《やり》や剣を振るっていた部隊が、救われたように武器を投げた。
敵も、とっとと逃げて行く者達ばかりではない。
彼らは、自分達の指揮官を見捨てて行くのを潔《いさぎよ》しとしない騎士の群れで、ガサラムが声をかけない限り、死ぬまで戦い続けたことだろう。
逃げる他に「降伏」という道を示され、シングを見捨てるよりはと、そちらを選んだのだ。
「よし。どうやらこれで、片付いたな」
レインはほっと息を吐き、クリスと共に、枯れ谷の本道へと戻ろうとした。
――ところが、もう戦闘が終わったと思うのは早計《そうけい》だったようである。
レインの耳に、可愛いらしい掛け声が届いた。
『も、モータルストーム〜〜っ』
なんだか戦闘向きではない、おとなしそうな声だった。
というか、なんと今のは女の子の声で、しかも可愛いだけではなく、随分《ずいぶん》と途方に暮れたような声音《こわね》だった。
だがレインは、背筋にぞくっと戦慄《せんりつ》が走り、とっさに声を放った。
「跳べ、クリスっ」
相棒《あいぼう》の反射神経(というべきか)は抜群《ばつぐん》だった。クリスはレインの求めに応じ、大地を蹴って大きくジャンプする。
轟音《ごうおん》が聞こえた。
宙高く跳んだその下を、竜巻《たつまき》もかくやと思うほどの暴風が、渦《うず》を巻いて通り過ぎて行った。
魔法攻撃か!
レインは緩めていた気を引き締めた。
しかもである。
可愛らしい声のくせに、これがまたどえらい威力で、レインが振り向いた所、もう遙《はる》か先まで逃げていた敵の群れが、背後でまとめて吹き飛ばされていた。
それこそ、風に吹かれた木の葉のような容易《たやす》さで、だ。
第一撃をかわしたレインは、クリスに騎乗したまますたっと大地に降り立ち、気を引き締め直して前方を見やる。
街道の本道に、一人の少女がぽつねんと立っていた。栗色の長い髪に、濡れたように光る大きな黒い瞳をしている。
ちょうど、T字に分岐した本道と枝道、その二つの道の接点に当たる位置だ。
距離にして、およそ十五メートルほどか。
レインが見事に魔法攻撃を避《よ》けてしまったのを見て、女の子はわたわたと慌《あわ》て顔になり、左右を困ったような顔で見回す。
だがあいにく、さっきまでの味方はもう武器を投げ捨て、頭の後ろで手を組んで膝をついている。
今や、戦闘継続の意志を見せているのは、女の子ただ一人だった。
――事情は正確にはわからないが、どうやらこの少女は、シャンドリス側の魔法使いと見て間違いあるまい。
レインの想像だが、先程の短い戦闘中、隅《すみ》っこの方でポカンと突っ立っていたのではあるまいか。幸い、誰がどう見ても戦士には見えないので、特に攻撃されることもなかったのだろう。
そして戦いが収束して初めて自分の立場を思い出し、「わ、わたしも戦わないと!」と思い至って、とりあえず真っ正面にいたレインに魔法攻撃をかけたらしい。
それはいいのだが(いや、ホントは全然よくないが)、攻撃した後のことをさっぱり考えていなかったようだ。戦い慣れしていないのが、見え見えである。
レインが、ぱぱっと以上の事情を察し、大急ぎで味方に注意を喚起《かんき》する前に――
本人の姿は見えないが(本道の奥にいるので)、ガサラムの深みのある怒鳴《どな》り声がまたまた響いた。
『弓隊、構えを解けーっ。狙うなっ! あの少女を狙うんじゃないっ。将軍にまかせておくんだっ』
う〜ん……いい指示だ、ガサラム。
あいつ、お買い得な親父だったなあ。
さすがは年の功だぜ。
うむ、うむっ、とレインは頷《うなず》く。
命じられなくても、こちらの考えを先読みしてくれるのはありがたい。全くもって、使えるじいさんである。
ところで――レインが呑気《のんき》に感心している間も、勤勉で真面目《まじめ》な少女は、一生懸命ルーンを唱《とな》えていたのである。
あんまりやりたくありませ〜ん、という思いの籠《こ》もった、へろへろ〜っとした声がした。
『ら、ライトニングソードぉぉ〜〜っ』
可憐《かれん》な声音《こわね》を裏切る、シャレにならない魔力の放出。その瞬間、再びレインの脳裏《のうり》で、警鐘《けいしょう》が最大音量で鳴り響く。
外見がどうあれ、彼女は間違いなく超一流の魔法使いだったのだ。
魔力で生み出された、まばゆい「稲妻を伴《ともな》う光の剣」が殺到してきた。
視界が真っ白な閃光《せんこう》で満たされ、周囲の景色をホワイトアウトさせる。
魔法剣(というより槍《やり》)が発するあまりの高熱に、ぶわっと大気が揺《ゆ》らぐ。
直進する魔力エネルギーの奔流《ほんりゅう》は、途中、路上の雑草全てを真っ黒に炭化させ、風を巻き起こした。あまりの熱量に、そこらの小石がじゅわっと溶解する。
避《よ》ける暇はなかった。白熱した光剣が押し寄せ、騎乗のレインにどっと襲いかかった。
バシュゥッ
いつものように、ドラゴン譲りの防御フィールドが自動的に発動してくれた。少女の魔法攻撃を食い止め、その魔力ごと吸収せんと輝く。
――だが。
半秒ほど抵抗した後、虹色に輝く力場《りきば》は真っ赤に変色……あっさりと砕けた。
吸収能力の限界を超えたのだ。
「なにっ!?」
レインはとっさに、魔力を集中して両手を突き出し、自《みずか》らの手で透明なシールドを生み出した。
タッチの差で間に合った。
なお勢いと威力を失わない光の剣が、シールドに激突して大爆発を起こした。
透明な力場《りきば》が震え、爆発の衝撃で消滅しそうになる。このレインをして、思わず本気にさせるだけの『力』があった。
防ぎきった時は、さすがに少しだけほっとしたくらいだ。
それにしても……とレインは思う。
自分の、魔獣《まじゅう》と同等以上の防御力を誇るアンチ・マジックフィールドを突破したということは、あいつはその気になれば、ドラゴンに傷を負わせるのも可能な、『力』の持ち主だということだ。
もっとも、実際に魔獣《まじゅう》を相手にすれば、今レインがしたように新たにシールドを張られただろうし、運良く直撃しても、致命傷《ちめいしょう》にはほど遠いだろう。せいぜい、余計に怒らせて大反撃を食らうのがオチである。
最強の魔獣《まじゅう》の名が示す通り、ドラゴンとはそう簡単に倒せるような、甘い種族ではないからだ。
しかし、それにしたって普通の人間はそもそも抵抗する手段すらないのだから、やはりあの少女は希有《けう》な存在なのだ。
だいたい、力場《りきば》を突破されたこと自体が実に数年ぶりだった。
レインは馬上の不利を悟《さと》り、クリスから降りた。目を細め、自《みずか》らも魔力を解放する。黒衣《こくい》を纏《まと》った全身から、青白い魔力のオーラが立ち上《のぼ》った
だがあいにく、少女はレインを本気にさせたのをちっとも理解していないようだった。
「あ〜〜〜〜っ?」
こちらの気が抜ける声を張り上げ、真ん丸な瞳でレインを見ている。よもや、攻撃が防御されるとは思わなかった……あるいは、自分が放った攻撃の威力がイマイチわかっておらず、ただ「防がれちゃったぁ」とがっかりしたのかもしれない。
ともあれ、心細くなったのか、少女はまたくしゃっと可愛い顔を歪《ゆが》めた。
どうしましょうどうしましょうっ、とでも言いたげな、あせあせした様子で、周囲を見回す。なにか……あるいは誰かを探すような視線だった。
案の定、か細い声で「お、おにいちゃ〜ん」と誰かを呼んだ。
「こらこらっ。いきなり喧嘩《けんか》売っておいて、なにが『おにいちゃ〜ん』だ、おいっ」
レインはガミガミと文句をつけた。
「今思い出したぞっ。おまえ、ジュンナとかいうヤツだな。天才の名をほしいままにする魔法使いがいるって情報を、事前に聞いてたからな」
ひぐっ、と声に出し、ジュンナ(多分)は後退《あとずさ》った。どうやら、レインの剣幕《けんまく》に怯《おび》えたらしい。自《みずか》ら有無《うむ》をいわさず先制《せんせい》攻撃しておいて、失礼な女の子である。
ここでやっと、ガサラムやレニなどの仲間がジュンナの側《そば》に集まり、彼女とレインをおもしろそうに見比べ出した。それどころか、降伏して膝をついている敵方まで、完璧にギャラリーに回っていた。
ガサラムが無精髭《ぶしょうひげ》を撫《な》で撫《な》で、他人事のように笑った。
「いやぁ、将軍はもてますなあ。俺の若い頃とは大違いだ」
「これがもててるように見えるかっ!! しまいには俸給《ほうきゅう》減らすぞ、こらっ」
むっとして怒鳴《どな》った。
こいつら、さっきは死角だったので、この子の魔法攻撃の凄さを、少しも理解していないのだ。
と、いきなり和《なご》み始めた雰囲気を無視するように、またジュンナが魔法の杖《つえ》を持ち直した。
レインに対抗するように、ほっそりした肢体《したい》を、こちらは白い魔力のオーラが覆っていく。身に着けた純白のローブが、彼女が瞑目《めいもく》して集中するに従い、不可視《ふかし》の力でふわっと持ち上がっていく。
無責任なギャラリーはおろかレインも、ジュンナが呪文詠唱《じゅもんえいしょう》に入ってもあえて止めなかった。
ガサラムを初めとする観客は、どうせレインがなんとかするだろうと思っていたのであり、レインにはレインで思惑《おもわく》があったのである。
――というのも、真面目《まじめ》な話、勝負をつける気なら、もうとうについている。
なぜなら、剣技のことは忘れ、ルーンマスターとして比べたとしても、レインはジュンナには無い、絶対的な強みがあるからだ。
それはなにか?
ルーンマスターが、威力の大きな魔法攻撃を仕掛けようとする限り、必ず呪文詠唱《じゅもんえいしょう》によるタイムラグが出来てしまう。それは、天才魔法使いのジュンナといえど、変わらないだろう。そのはずだ。
だからこそ、かつて魔人《まじん》との戦争で、魔法使い達は全滅に近い被害を受けたのだ。現在、その数が激減したままなのは、あの戦いのせいなのである。
なにしろ魔人《まじん》は、呪文《じゅもん》を唱《とな》えることなく魔法を使える。
当時の魔法使い達は魔力の差に加え、ハンディまで背負っていたわけだ。戦士の援護《えんご》が無ければ、ひとたまりもないのも当然だろう。
しかし――レインには、その「タイムラグ」という弱みがない。かつてはあったその弱点を、ドラゴンスレイヤーとなったことで克服している。
最強の魔獣《まじゅう》たるドラゴンが、魔法を駆使《くし》する時に一々ルーンなど唱《とな》えないのと同じく、レインもまた、「呪文《じゅもん》」という枷《かせ》を持たないのだ。
魔力が尽きるまで好きなだけ魔法を発動させることが可能だし、その|キャパシティー《容 量》も、桁《けた》外れに大きい。
身も蓋《ふた》もないが、ジュンナが呪文《じゅもん》に集中している間に距離を詰めてしまえば、戦いはそこで終わりなのである。
――彼女の周りでぼけっと見ている、けしからんギャラリーのことは置いといて。
だが、レインはあえてその手を使わず、ジュンナの詠唱《えいしょう》を待ってやった。
手を抜くとかそんな次元の問題ではない。
剣を用いて戦ったところで、この少女に勝ったとはいえない――そう思ったのだ。
たとえつまらぬ意地と言われようと、レインは勝利へのこだわりを捨てる気はない。
さあ、おまえの全力を俺にぶつけてみろ!
黒瞳《くろめ》が不敵に光り、ジュンナを見守る。自《みずか》らの内で魔力を高めたまま、レインは時を待った。
一応ガサラム達|野次馬《やじうま》には、「方向限定とはいえ、巻き添えを食うぞ! 離れてろっ」と警告してやる。
ただならぬ雰囲気を読んだのか、異論を唱《とな》えずに皆が離れていく。
ジュンナの歌うような詠唱《えいしょう》が続く。
『――大雪原《だいせつげん》の白き魔獣《まじゅう》フェンリル、氷雪《ひょうせつ》の魔人《まじん》ゲイルート。彼らを越える力を、この地に具現《ぐげん》せよ! 我は万能なるマナを信奉《しんぽう》する者にして、大いなる魔法を駆使《くし》する使徒なり。
願わくば、永遠の凍《い》てつきをここへ。我が内なるマナの力により、世界を白き墓標《ぼひょう》と化せ。全てを凍らせ、我が身を守りたまえ〜』
そして、ジュンナの呪文《じゅもん》が完成した。
「アイスエッジ・ストライク!」
ジュンナが魔法の杖《つえ》をさっとレインへ向けると、彼女を起点に、凍《い》てつく暴風が湧《わ》き起こった。
ビシビシッと音を立てて街道が凍っていく。
まるで瞬間的に冷凍されでもしたように、大地の上を厚い氷が張り、見る見るその部分が増殖していく。一定方向へ、つまりレインの方へと。
それだけならまだしも、ジュンナの術は暴風をも発生させていた。
凍《い》てついた風雪は、透明な氷の刃《やいば》を無数に含み、辺りを純白に染め変えて押し寄せて来る。わずかな距離を一息《ひといき》に詰め、レインを生きながら氷の棺《ひつぎ》の中へ閉じこめようとしていた。
「おもしろい! 魔法使いとしてどちらが上か、勝負だっ」
炎よっ!
自《みずか》らを叱咤《しった》するように声を発する。
無論《むろん》、レインが魔法を駆使《くし》するのにタイムラグはない。
即座に、まがまがしい大輪の花を思わせる業火《ごうか》が、レインの前に盾のごとく出現した。
魔力によって具現《ぐげん》した超高温の炎の束が、渦巻《うずま》き状に回転しながら突進する。
灼熱《しゃくねつ》の大気は超高熱の嵐と化し、炎を伴《ともな》ってばく進する。
殺到してきた氷雪《ひょうせつ》の暴風に、真っ向から激突した。
真っ赤に熱した鉄を水に漬《つ》けた時に出る音――それを何百倍にも大きくした音がした。
煙と見間違うほどの水蒸気が立ち上り、天を覆う。
極低温の純白と超高温の真紅《しんく》、魔力で生み出された異なる属性同士がぶつかり、二人の中間地点でせめぎ合っている。
それは、氷と炎の押し合いというより、二人の天才魔法使いの魔力勝負に他ならない。魔力に劣る方が、攻撃の直撃を受けることになる。
今のところ、力はまったく均衡《きんこう》していた。
――しかし。
力が釣り合っていたのは、時間にしておよそ数秒ほどだった。莫大《ばくだい》な魔力の消費と、なおも上昇していくレインの魔力に気力を消耗し、ジュンナは苦しそうに肩で息をし始める。
持ち上げていた杖《つえ》の先が震え、足下が頼りなく揺《ゆ》らぐ……
限界が近いのだ。
相手が悪かったな、とレインは思う。
魔力のキャパシティーの差もあるだろうが、戦闘慣れしていないのが問題なのだ。いわば、経験の差。それに、精神力の差もあるだろう。
おそらく、もっと経験を積み、自分の能力に磨きをかければ、さらに恐るべき魔法使いに成長するはずである。
経験不足の今でも、魔法全盛の時代に最高レベルとされていた術を駆使《くし》するのだから、それは間違いあるまい。
この少女はまぎれもなく、過去及び現在を通じて、大陸最高の魔法使いの一人だろう。
全然、そんな風に見えないが。
「――真面目《まじめ》な話だが。その年で大したもんだと思うよ、おまえ。実際、『天才』の名に恥じない力だ」
魔力を使い、レインは自分の囁《ささや》き声をジュンナに届けた。
息を切らせながらも、相手がこっちを見る。
「だが、少なくとも俺は、おまえ以上の術者を二人知っている。一人は俺に『魔法』を教えてくれた女性。そしてもう一人は――」
かっと黒瞳《くろめ》を見開き、レインは自分の魔力を全解放した。
「他ならぬこの俺だっ」
途端《とたん》に、それまでに倍する魔力を得て、のたうつ炎が雪と氷の壁をぐわっと押し返し、突破した。
圧倒的な炎の渦《うず》は真紅《しんく》の龍にも似た形状を取り、ジュンナに殺到する。
「――! いやっ」
自分に迫る炎の束を見て、ジュンナが小さく悲鳴を上げた。
シールドを張ることさえ忘れている。
慌《あわ》てたのはかえってレインの方だった。
急いで自《みずか》らの術をカットし、同時に、相手に代わって彼女の前面にシールドを張った。距離があってもそれくらいは容易《たやす》い。
突然生じた透明な障壁に当たり、燃えさかる業火《ごうか》はなんとか食い止められた。
自分の放った魔力を自分で受け止める……
なにやら一人芝居しているようで馬鹿馬鹿しいが、まさか放っておく訳にもいかない。
「……ふ〜っ。おまえな、いきなり魔法を解除するなよっ。危なかったぞ、今」
ジュンナはなにも答えない。
へた〜っと座り込んでしまい、レインを見返している。そのうち、大きな瞳に涙が溜《た》まり始めた。ぽろっと魔法の杖《つえ》が手からこぼれ落ちる。
「ちょっと待て。落ち着け、おい。別になにもなかったんだし」
遅かった。
手で顔を覆い、シクシク泣き出してしまった。それは聞くに堪《た》えないほど悲しそうな声であり、あっという間に、ガサラムやらユーリやらセルフィーやらレニやらが彼女の周りにすっとんできた。しきりに、慰《なぐさ》めの言葉をかけている。
レインのことは誰も心配してくれなかった。
それどころか、小走りに駆けつけたレインに、ユーリが小声で文句をつけた。
「あ〜あ。泣かしちゃったぁ」
「俺かっ。俺が悪者なのかっ!」
心外《しんがい》である!
そんな風に顔をしかめ、レインは自分の胸を指差す。
「最後の一撃を除いて、俺はそいつの攻撃をかわしたり受け止めたりしてただけだぞっ。ほとんど、ただの被害者っていうか」
「将軍はいわゆる強者《きょうしゃ》なのですから、こういう場合、悪者になるのは仕方ありますまい」
遅れてやってきたセノアまでが、生意気にもそんなことを言う。
どうも皆、ジュンナに同情しているようだった。
「……強者《きょうしゃ》の孤独ってヤツか? なんか、割に合わんなあ」
ブツブツぼやきながら、レイン自身もジュンナの側《そば》に行く。途中、セルフィーが下げている剣が血塗られているのに気付き、胸を突かれた。
激闘の後を残すその剣もそうだが、かがみ込んで一生懸命ジュンナを慰《なぐさ》めている所を見ると、セルフィーも大きな壁を乗り越えることが出来たと見える。
この少女の性格からして、人を斬《き》ることに慣れることは有《あ》り得《え》ないにせよ、一山《ひとやま》越えることが出来たのはいいことなのだろう。
ただし、レインとしてはなかなかに複雑な気分で、こういう類《たぐい》の成長は、「いいぞっ、よくやった!」などと諸手《もろて》を上げて喜んでやる気にはならない。
この子は、親しい人を亡くす辛さを身をもって知っている。そんなセルフィーには、なるべく戦いの道に入ってほしくないと思うのだ。勝手な思いなのは承知しているが。
レインは頭を振って雑念を追い払い、自《みずか》らも腰をかがめた。
「おい、大丈夫か」
手を伸ばすと、ぴたっとジュンナが泣き止んだ。黒目がちの瞳一杯に涙を溜《た》め、じぃ〜〜〜〜〜っとこちらを見つめる。
それはまるで、生まれてこの方ずっと森の中に住む子リスが初めて見る人間を警戒するような、そんな切実な光を湛《たた》えた瞳だった。
見つめ合っていると、こちらが悪かったような気分になるから不思議である。
へたり込んだ小さな身体を固くするのを見て、レインは意識して優しく話しかけた。
「……大丈夫だ。なにもしない。おまえにも、それからおまえの兄貴にも」
と、ジュンナの瞳が一・五倍ほどにも大きくなった。
ひょっとして、こいつも気付いてるのかとレインは思う。いや、まさかそれはあるまい。知っていたら、そっちを見たはずだ。
「今回の俺の目的は、戦《いくさ》じゃない。止めるためとはいえ、さっきは驚かせて悪かったよ」
そろ〜っと手を伸ばす。
その指先辺りをジュンナがじいっと見ている。まだ身をすくめていた。
しかし、レインが微笑むと、ほっと緊張を解いた。繊細そうな子だけに、今のが作り物ではない本物の笑顔だと、ちゃんと理解してくれたのかもしれない。
良い方に取るなら、こちらの誠意を汲《く》み取ってくれたということだろう。
そっと、あくまでもそっと、長い黒髪のてっぺんに手を乗せる。
「少しでも兄貴を助けたかったんだろう? いい子だな」
ゆっくりと頭を撫《な》でてやると、ジュンナはちょっと頬を赤くした。小さく、コクンと頷《うなず》く。
それを見て、周りの仲間がほっとしたように笑った。
さて、後はこちらを見ている兄貴の方だが。
レインは、なにげない素振《そぶ》りでその時を待つ――
――つもりだったが、ふと顔を上げた先に見知った男を見つけ、眉をひそめた。
視線の先には、敵の騎士とは明らかに趣《おもむき》の異なる格好《かっこう》をした、幾人かの男達がいる。小汚いレザーアーマーと厚かましそうな面構《つらがま》えからして、彼らは傭兵《ようへい》だろう。
シャンドリスはどうやら、集められる限りの人数を集めたらしく、金にモノを言わせて、まとまった数の傭兵《ようへい》まで雇《やと》い入れていたらしい。
それ自体はサンクワールでもやっていることで、珍しくもなんともないのだが……しかし、あいつは――
レインのじと〜っとした視線を受け、相手がギクギクッとした態度であさっての方を向く。しかしそうした所で、そのガラの悪いご面相《めんそう》は、なかなか見間違えようがない。
頭に手ぬぐい巻いたりとか、微妙に口髭を生やしたりしているが、それくらいの違いで見間違えるヤツではない。
第一、統制の取れたシャンドリス正騎士の中で、傭兵《ようへい》の格好《かっこう》をしているというのは、それだけで目立ちまくりである。
「……おいこら。何をわざとらしくシカトしてるんだ? おまえだよ、たった今そっぽを向いたおまえだ、脂顔男《あぶらがおおとこ》っ!!」
ひっ、と口に出しかけ、見覚えのあるむさい男は慌《あわ》てふためき、両手で自分の口を押さえた。
レインが大股で近付くと、無精髭《ぶしょうひげ》だらけの顔を、否定するように激しく左右に振る。
それにしても、この前会ってからまだ間がないにせよ、相変わらずひどい脂顔《あぶらがお》だった。全く、いつ顔を洗っているのだろうか、この男は。普通、どんなに脂質《ししつ》の肌でも、ここまでべったりとした感じにはならないと思うが。
「こら、首振ったって駄目だっ。こないだ俺を暗殺に来てから、まだ二ヶ月も経ってないだろうがっ。忘れるわけがあるか!」
濁《にご》ったちっこい目が半泣きになった。
しかし、女の子がああいう顔をすると可愛いのに、こいつが同じことをやると殴りたくなるのはどういうわけか?
埒《らち》もないことを思いつつ、レインはさりげなく魔剣の柄《つか》に手をかけた。男の顔がさああっと青ざめる。
「この前は見逃してやったのに、またわざわざ俺の前に出しゃばって来たな。なんのつもりだ貴様っ。また誰かになんか頼まれたか、えっ? なんとか言ってみろ!」
指を突きつけて責めると、脂顔男《あぶらがおおとこ》は膝をついたまま、自分の口を指差してまた首を振った。
「なんだ? 話せないって?」
うんうん、と頷《うなず》く。
「嘘つけっ。おまえのおとぼけは見え見えなんだよっ。二つ数えるまで待つから声出せ! でないと殴る!!」
うわっ、待つの短かっ。
脂顔男《あぶらがおおとこ》どころか、周囲の部下や捕虜《ほりょ》達も一様《いちよう》にそう言いたそうな顔をした。
そんな反応を無視し、レインが数をカウントする。半秒で二を数えたところで、脂顔男《あぶらがおおとこ》は焦《あせ》って口を開いた。
レインと、見物人達が一斉《いっせい》に注目して聞き耳を立てる。
『ワ、ワタシ、ウミヲワタリ、トオイトオイクニカラヤッテキマシタ。タイリクノコトバ、チョトワカラナイNE!』
辺りが静まりかえった。
くすっと笑い声がしたのは、背後のユーリで、なぜかこいつだけには受けたらしい。
しかし、ほとんどの者はシラけきった表情で脱力したし、レイン自身はむかついた。
ひくっと頬を引きつらせ、
「なにが、『タイリクノコトバ、チョトワカライNE!』だっ。俺をおちょくってんのか、おまえわっ」
ずばっと剣を抜き、斬《き》りつける。転がってかわした男は、尻に火がついたように跳ね起きた。
憤慨《ふんがい》してぎゃんぎゃん喚《わめ》く。
「お、おいっ。今の剣撃《けんげき》、本気で繰り出しやがったな! 当たったらどう責任取るんだっ。そもそも、斬《き》りかかるんじゃなくて、殴るはずだろ! でたらめこいてんじゃねえっ!」
「やかましい! ほらみろ、ちゃんと話せるじゃないかっ。だいたい、見るからにこの地方の庶民顔してるくせに、な〜にが、遠い異国からだっ。ホラ吹くにしても、少しは考えろっ」
「くっ……だいぶ顔の雰囲気が変わったから、ごまかせるかもと思ったのに」
「馬鹿か!」
悔しそうな脂顔男《あぶらがおおとこ》に言い捨てる。
「他のヤツならともかく、おまえのむさい顔にごまかしなんか利くか。自覚しろ!」
「ま、待て。話せばわかるっ。おれはただ、傭兵《ようへい》として食い扶持《ぶち》を稼ぎに来ただけだっ。別に、あんたを逆恨みして、あわよくば仕返しできないかとか、そんなことはこれっぽっちも考えちゃ」
魔剣を手に、無言でじりじりと土砂の山へ追いつめるレインに、男はいったん口を閉ざした。
本気でヤバいと思ったのか、いきなり泣き声を立てる。
「ま、待ってくれ。こう見えても俺は、家に帰ったら八つを頭に、十六人もの子供がいるんだっ。見逃してくれ、なっ」
「だから、計算が合ってないっ。それに、この前より一人増えてるぞっ」
ばっと大上段《だいじょうだん》に魔剣を構える。
「うわっ。ち、違うっ。あれから一人生まれたし、そもそもウチには双子と三つ子が――」
「嘘つけっ」
レインが男に飛びかかろうとしたその時、突然彼らの頭上で、まばゆい閃光《せんこう》が弾けた。
――☆――☆――☆――
――脂顔男《あぶらがおおとこ》と再会する数分前。
セイルは、崩れた土砂山の中腹《ちゅうふく》で、周囲のごつい石と同化したようにじっと動かずにいた。
もちろん、そのままではたちまち見つかってしまうに決まっているので、「姿隠しの魔法」を使って自分の姿を見えなくしている。
これでもセイルは、一応は魔法も使えるのだ。
そして今、彼が見守る土砂の下では、ちょうどジュンナとレインとの個人戦闘が終わったところであり、兵達の関心は全て妹に集まっている。
しかし……まさかジュンナが敗れるとはなあ。
セイルはそっと息を吐いた。
あのレインも魔法を使えるという話は聞いていたが、まさかあれほど強力な魔法使いだとは予想の範囲外だった。それを言うなら、妹が攻撃魔法を使ったのも予想外だったが……それだけ彼のプレッシャーを感じたということだろうか?
ともかく、さっきの魔力の激突には肝《きも》を冷やした。ジュンナがへたり込み、モロに攻撃を受けそうになった時には、危うく大声で喚《わめ》いて飛び出しそうになったくらいだ。
妹が無事で、心底ほっとした。
ただ――おそらくあの人は誤解しているが、ジュンナの『力』はあれが限界ではない。先程のは単に、妹がコントロールし得《え》る力の上限に達したというだけのことだ。
セイル自身も一度見たことがあるだけだが、妹の魔力が暴走すれば、さらにとんでもない攻撃魔法を放てる。
でも、そうならない方が余程《よほど》いいので、戦闘が収まったことは喜ぶべきことには違いない。それに、妹だけではなくあのレイン自身も、まだまだ余力を残していた感じがする。
超絶レベルの力を持つ二人のルーンマスターが死力を尽くせば、どちらかが、あるいは両方が死ぬ可能性が強い。見物していたセイルとしては、そういう展開はごめんである。ことに、一方が自分の妹ともなれば。
レインは、シングもジュンナも傷つけずに捕らえた。お陰で、最初から薄い彼への敵対心が、さらに薄れてしまった。
とはいえ、まさか仲間と家族がレインに捕まるのを、手をこまねいて傍観《ぼうかん》しているわけにはいかない。
――助けないと!
今、レインは妹の前にかがみ込んでなにか話しかけている。おそらく、慰《なぐさ》めてくれているのだろう。あの人が、もう少しセイルのいる土砂の山に近付いてくれたら、剣で大|怪我《けが》しない程度に不意打ちし、二人を取り返すことが出来そうな……
自分でも行き当たりばったりの方法だと思うが、このまま一人だけ逃げるよりはマシだ。あの人に奇襲《きしゅう》をかけて人質とし、二人を奪還《だっかん》する!
ただ、問題もある。
セイルは斜面でしゃがんだまま、上唇をなめる。
レインが本気でこちらに気付いてないのかどうか――イマイチ自信が持てないという点だ。
姿隠しの魔法は、気配《けはい》をも無くす。
だから、理屈《りくつ》では気付かれているはずがない。妹でさえ、自分がここにいるのを勘付いていないのだ。大丈夫……のはずだ。
もしレインが、土砂の山をことさら無視していたら――セイルとて大いに疑っただろう。こちらに気付いているくせに、わざと無視しているな、と。
しかし、彼はいかにも「俺は油断《ゆだん》していないぜ?」という鋭い目つきで、時折この斜面を見るのである。……じろっと。
あの警戒心バリバリの様子は、とてもとても真実味がある。本当に、まだこちらの存在を知らないように見える。
だが、もしレインが予想以上に老獪《ろうかい》な男だったとしたら?
彼は、剣の握り方もロクに知らない、格好《かっこう》だけのボンクラ騎士ではない。
幾多の戦場を、そして修羅場《しゅらば》をくぐってきた、傭兵《ようへい》上がりの戦士だ。
だから、演技をしていても極めて本当っぽく見えるんじゃないか? ああやって気付かない振りして、こちらを誘っているんじゃ?
自分は今、よりにもよってドラゴンスレイヤーが待ち構える頭上へ、間抜けにもノコノコと飛び出そうとしているんじゃ?
――くそっ。
だとしても、逃げる訳にはいかないだろっ。
この寒いのに、一人だけ黒い平服を来たレインを、セイルは唇を噛《か》んで観察する。人質に取るなら、彼以外は意味がない。
決断しなければならない。
そして、もっとも良い機会を狙わねば。
幾らジョウ・ランベルクに「決して彼と戦うな!」と忠告されたとしても、今は退《ひ》くわけにはいかない。
そのうち、レインが旧知の仲らしい誰かを見つけ、揉《も》め始めた。なにやら言い争い、剣まで抜いている(冗談だと思うが)。
そのまま、相手を追いつめてセイルのいる下まで来た。位置的には、これ以上は望めない好位置である。
ええいっ、ヤケだっ。
セイルは覚悟《かくご》を決め、小声でルーンを唱《とな》えた。落下制御の魔法を先にかけ、それから、目くらましのための明かりの魔法。
膨大《ぼうだい》な光が辺りを照らした刹那《せつな》、セイルは抜剣《ばっけん》して斜面から飛んだ。
ところが、セイルは速攻で計画の失敗を思い知った。
自分が発動した魔法の閃光《せんこう》に影響されないよう目を閉じていたのだが、落ちる途中で薄目を開けた途端《とたん》、瞑目《めいもく》しているレインが見えた。
その意図《いと》は明らかで、なまじ眩《くら》んだ目で動くより、視覚などに頼らずに敵を迎え撃とうというわけだ。
これで二つのことがわかる。
一つはこのレインが、気配《けはい》と聴覚だけを頼りに戦うことが出来る戦士だということで、もう一つはセイルの試みが完全に潰《つい》えたということだ。
気付かれていたのだ、とうに!
相手は途方もない芸達者だったらしい。まさか、あの警戒の仕草が演技だったとは。
それでも――
セイルは空中にあって、既に魔剣を抜いて振りかざしており、完全に斬《き》りつける体勢に入っている。半ば本能的な動きで、失敗を悟《さと》りつつも剣を振り抜こうとしていた。
そしてレインが、目を閉じているくせに余裕の動きでそれをかわそうとしている。
実際、余裕だったろう。
彼は攻撃を予測しており、それに対して十分備えていた。しかも、明らかにセイルより数段反射神経に優れていたようだったし、かわすのになんの造作もなかった――はずだ。
ところがここで、双方にとって予期せぬ出来事があった。
ジュンナが、早口でルーンを唱《とな》えたのだ。
あまりに早すぎて、セイルにすら聞き取れなかったが、なにを目的にした魔法かはすぐにわかった。なぜなら、レインと脂顔男《あぶらがおおとこ》の二人の足下で、そこらの雑草がするすると急激に成長し、彼らの足首をまとめて絡《から》め取ってしまったからだ。
一緒くたに縛られ、両者の身体がほとんどくっつきそうに接近した。
レインの表情はほとんど変わらない。
このような場合に常人が浮かべるであろう、狼狽《ろうばい》、恐怖、怒り、絶望……そのような月並みな感情は、一切表情に出さなかった。
ただ、「ちっ。ちょっと予定が狂った」と言いたげな、実に何気ない顔つきで目を開け、脂顔男《あぶらがおおとこ》をどんっと突き飛ばして転ばせた。次に自分ものけぞってかわそうとした――が。
さすがにそこまでは間に合わなかった。
なにしろ、ほんの瞬《またた》く間のことだったのだ。セイルはレインの分まで狼狽《ろうばい》しつつも、本能のまま剣を斬《き》り下げた。
しかも、相手の計算外の動きのせいで、予定よりずっと深く斬《き》りつけてしまった。
可能なら剣腹《けんぷく》で気絶させるはずだったのに、意外な出来事と、なによりもレインのプレッシャーに引きずられたのだ。
結果、鎧《よろい》も纏《まと》っていないレインの、胸の下辺りから腹にかけて斜めにずばっと斬《き》り下げた。
血飛沫《ちしぶき》が、宙に真紅《しんく》の半円を描いた。
セイルが着地した途端《とたん》に、多分レインが自分でやったのだと思うが、縛《いまし》めとなっていた足首の雑草がパッと散り散りに裂かれた。
少しの遅延もなく、自由になったレインが身体をそらして背中から後方に身を投げた。なんと器用にも、剣を持ったまま片手で逆トンボを切って何度も回転し、距離を空けてからすたっと着地する。正眼《せいがん》の構えに戻った。
一陣の突風を思わせる速さである。
そんな気はなかったが、仮にセイルが第二撃を繰り出しても、あっさり空振りしていただろう。
そこで、レインの膝ががくっと崩れそうにならなければ、セイルは自分の斬撃《ざんげき》が当たったのかどうかすら、疑問だったに違いない。
いくらドラゴンスレイヤーでも、やはりこの人だって人間だ……
レインといえど、計算違いでこのように怪我《けが》をすることもあるのだ。
だが――と同時にセイルは思う。
もしかしたら彼は、人間として到達し得《う》る、最高点に達しているのかもしれない。今の動きを見て、本気でそう思った。
やっと、周囲の人間が騒ぎ始めた。
もっとも対応の早かったのはガサラムとかいう名の(多分)副官で、「ぼさっとするな! 逃げられないように枝道をふさげっ」と鋭い叱声《しっせい》を上げた。
それから少し遅れ、主に金髪や黒髪の女の子達が小さく悲鳴を上げた。信じられない、という実感が籠《こ》もっている。どうやらセイルは、よほど有《あ》り得《え》ないことをしでかしたらしい。
敵の騎士達が、狼狽《ろうばい》しきった表情ながら、命令に従ってざざっと枝道の前に壁を作る。ジュンナはもう、女の子の一人に押さえられており、口を塞《ふさ》がれていた。「ん〜、ん〜っ!」と呻《うめ》きつつ、もがいている。
ガサラムはさらに、自《みずか》らも抜剣《ばっけん》してこちらへ駆けつけてこようとした。
「いい! 俺に任せておけっ」
レインが力強い声で止める。
一応、ガサラムは足を止めたが、難しい顔で主《あるじ》を見やる。剣を下ろそうとしない。
「しかし……そのお怪我《けが》では。おそらく、内臓までイッてますぜ?」
「大丈夫だ。出血は止めた。普段より三割ほど動きが鈍くなるだけだ。戦闘に耐えられないほど足に来るまでには、二分やそこらはある。それだけあれば上等だ」
ガサラムはじいっとレインを見た。五秒ほど。
「……わかりました。けど、危ないと見たら飛び込みますぜ。俺ぁ、あんたのそばで死ぬことに決めたんだ。なのに、俺より先に死なれちゃ困るんでさ」
「馬鹿|吐《ぬ》かせっ。むさ苦しい親父なんかに目の前で死なれたら迷惑だ。副官は指揮官の代わりだ。先に死なれてたまるか」
お互いに苦笑のようなモノをやり取りし、レインはやっとセイルを見た。
「おまえの妹はなかなかやるな。どうやら術によっては、呪文《じゅもん》なしでもいけるらしい」
言われ、セイルはさっきの妹の声が、ルーンじゃなかったのだとやっとわかった。自分を心配して、あいつが思わず声を上げたのだろう。光が炸裂《さくれつ》した途端《とたん》、それがセイルの仕業《しわざ》だと確信したに違いない。で、とっさに魔法を使った。
とにかく、術の発動は呪文《じゅもん》無しで行われていたのだ。
そう、時に兄のセイルでさえ、妹が小規模な魔法なら、ルーンを唱《とな》えずに発動出来るのを忘れてしまう。なにしろ、普通では有《あ》り得《え》ないことだから。
ただ、レインはさほど驚いてはいないのか、そのまま続けた。
「俺を人質にして脱出か。悪くない計画だ」
「バレてたのに、悪くないもなにも。――て、そんなことよりっ」
セイルは我に返り、あたふたと唾《つば》を飛ばした。
「副官さんの言う通りですよっ。ちょっと斬《き》りつけるつもりが、大|怪我《けが》させてしまった。早く手当しないと、手遅れになりますっ」
レインはあきれたような目つきでセイルを見やり、首を振った。
「変わってるな、おまえ。どのみち予定通りじゃないか。俺を人質にしたいなら、今は結構チャンスかもしれないぞ」
「そ、そりゃそうですけど! でもっ、俺は別にあなたに死んでほしいと思ってるわけじゃない。自分と妹と仲間が逃げられたらそれでいいわけでっ」
レインは笑った。
白い歯を見せて、なんのこだわりもなさそうに。
「厚かましい願いだなあ。まあ、努力してみろよ。ただし、俺を取り押さえるのは、なかなか難しい仕事だぞ」
セイルは信じ難《がた》い思いで、頑固な戦士の黒瞳《くろめ》を直視した。
なにを考えてるんだ、この人は。
「……本気で戦う気ですか。いかにドラゴンスレイヤーとはいえ、その状態じゃもう勝負は見えてますよ。動けなくなるのは時間の問題です。それどころか、手当が遅れたら、命まで危ない。それより、俺達と一緒に来てください。道々、妹に手当させます。すぐに身柄も解放しますから」
セイルのセリフに反応して、騎士見習いらしき女の子が、「レイン様っ」とひときわ大きな声を上げた。
もの凄く心配そうな顔でレインの方へ駆け寄ろうとするのを、レイン自《みずか》らが手を上げて止める。
「平気だ、セルフィー。すぐ終わるから、おまえは見てるといい」
随分《ずいぶん》と優しい声音《こわね》でそう言い、そして静かにセイルに向き直る。
「勝負は見えている、か。おまえはわかっていない。本当に負けるってことがどんな物なのか、少しもわかっていないんだよ」
レインは、なぜかうらやましそうな表情でセイルを眺めた。
「まあ、知らずに済む方が幸せだけど」
再び、血塗られた腹から、足下へと赤い雫《しずく》が流れ落ち始めた。気力で出血を止めるのには限界があるのだ。立っていられるのが不思議なくらいの怪我《けが》だった。
「意味がわかりませんよっ。それより、早く手当を! あなたがさっき言った二分なんて、あと半分も残ってないですっ」
「知ってるさ。だから、長話はここまでだ」
そこで突然、レインの身体がぶれた。
大地を蹴る足が跳ね上げた、僅《わず》かな土くれを見て、相手がダッシュしたのだと遅れて理解が及んだ。
そう、セイルの目をもってしても、ほんの一瞬、本気で彼が消失したのかと勘違いした。
もちろん、そうではない。
単に、目の焦点調整が間に合わなかっただけだ。人の目がきちんと捕捉《ほそく》し得《う》る動きには、限界というものがある。
その限界を、彼はあっさりと超えた。
セイルと同じ青き魔法剣を手に、黒影が駆けてくる。黒髪が微《かす》かになびき、低い姿勢から最小限の動きで魔剣が持ち上がる。あたかも、蛇が鎌首《かまくび》を持ち上げるように。
つい今し方まで十分な間合いがあったのだが、今や目の前に、剣を振り下ろそうとしているレインがいた。
微《かす》かに風切り音がして、青い軌跡《きせき》を引きつつ魔剣がセイルの頭上に迫る。その、真っ青な魔力のオーラが、痛いほどセイルの目に焼き付いた。
これで、動きが三割落ちただって?
冗談だろっ!!
何とか受け、弾き返した。
ところが弾いた相手の魔剣は、レインが軽く手首をひねることにより、まるでそれ自体が生き物であるかのように急激に動きを変え、今度はセイルの胴を横から撫《な》で斬《ぎ》りにしようとした。あっけにとられるほど唐突《とうとつ》な動きであり、とんでもないスピードだった。
ほとんど本能のみで足が動き、身をさばいてその第二撃をかわす。考えずとも身体が動くのは、傭兵《ようへい》生活が長かったお陰だろう。続いて、これまた戦士としての本能で、そのまま間合いを取ろうと跳躍する。
ところが、全く考えずに動いたはずなのに、レインはすかさず反応した。反対にどっと間合いを詰め、こちらに立ち直りの機会を与えてくれなかった。
セイルは背後へ跳躍、レインは前方へ跳躍。
さながら、対の舞いを舞う名ダンサーのように動きを合わせ、セイルに間合いを外させない。
くそっ、逃げられないっ。
なんて人だ! こっちへ跳ぶ気配《けはい》を見せた覚えもないのに、なんで俺と同時に動けるんだっ。
これも才能だって言うなら、予想したより遙《はる》かにとんでもない相手だぞ!
感心している場合ではなかった。空中にあって、またレインの魔剣が翻《ひるがえ》り、きらっと残像を残す。今度も受けたのはいいが、まだ着地する前だったので、バランスが崩れた。
セイルは大地に叩《たた》きつけられ、痛みに呻《うめ》く間もなく転がった。転がって、なんとか体勢を立て直そうとする。しかし、半立ちになったところで視界一杯にレインの蹴り足が映った。
蹴られた。思いっきり蹴られた。受け身だけは取ったが、叩《たた》きつけられた衝撃に肺の空気を残らず吐きだした。
そしてまた宙を飛び、レインが飛びかかってくる。霞《かす》み始めたセイルの視界に二つの物が見えた。突きの体勢にある魔剣と、腹部から滴《したた》るレインの血、血の赤。
起きあがる時間はない。
夢中で自分も剣を突き上げる。
二振りの魔剣が交差した。一方はレインの頬を浅く切り裂き、そしてもう一方は――
セイルの喉《のど》が鳴った。
喉元《のどもと》に、ぴたりと魔剣が突きつけられていた。馬乗りになったレインが静かに言う。
「勝負あったな」
「……大変|遺憾《いかん》ながら、そのようです」
と、レインが少し表情を歪《ゆが》めた。おそらく苦痛のせいだろう。
苦しげに漏《も》れる息の下から、
「おまえ、お人好しすぎるぞ。戦っている時に、俺を気遣ってるようじゃ駄目だ。……仮に本気でやっても結果は同じだが、それでも、おまえの腕ならもう少し健闘出来たはずだ」
「誤解ですよ。んな余裕、全然ありませんでした」
「いーや、俺の目に狂いはない。おまえが自覚してないだけだ」
セリフが細く途切れ、レインがズルズルと体勢を崩していく。
「ちょ、ちょっと。うわっ、なんか腸とかが見えていて――」
「将軍!」
さっきのガサラムとかいう人を先頭に、どっと彼の仲間が駆けつけてきた。レインがまた性懲《しょうこ》りもなく起きあがろうとしたので、セイルは大急ぎで妹を呼んだ。
「おい、ジュンナっ。この人を治してあげてくれっ」
「う、うんっ」
ちょこちょこと小走りに近寄り、ジュンナはレインの脇に身をかがめる。
薄目をあけ、レインはぼそっと言った。
「あ〜、戦いが終わったら気が抜けた。……めっぽう痛いし」
途端《とたん》に、どっと周囲から声がかかった。
主に、女の子の集団である。
なんだか知らないが、えらいもてようだった。
「将軍っ、このような無茶を私の前でっ。こ、困りますっ」
「レイン様、レイン様あっ」
「あー、ぱっくりと口を開けてるぅ。ホントだ、腸が見えそう……でもって痛そう」
……よく聞いたら、一人だけあまり心配してなそうな野次馬《やじうま》もいた。
セイルは自分の立場も忘れ、
「駄目ですよっ。ちょっと周りを空けて。ジュンナ、急げ。治癒《ちゆ》魔法だっ」
――☆――☆――☆――
とにかく、自分で自分に治癒《ちゆ》魔法を使わずに済んで、まだ良かったとレインは思う。
なんとか傷口だけはふさがり、ジュンナがほっとため息をついた。俯《うつむ》き気味に、ぺこりと頭を下げる。
「……ごめんなさい。拘束《こうそく》するだけのつもりだったんですけど……こんなことになってしまって」
別にレインは腹も立たなかった。
右手を伸ばしたが、その手が血で赤くなっているのに気付き、代わりに左手を伸ばす。さっきみたいに、手でジュンナの頭を撫《な》でてやった。
「いいさ。兄貴を助けるためにしたことだから、気にしなくていいよ。だいたい、俺は可愛い女の子のやることには一々腹を立てない主義だ」
ジュンナの上目遣いの瞳に、感謝の色が満ちた。
こちらもほっとしたのか、早くも緊張感のない声音《こわね》で、セイルが尋ねた。
「あ〜。で、俺達どうなるんでしょう? わざわざ捕まえるってことは、殺されるわけじゃない……でしょうね?」
「ああ、それな。実は――」
そこでぱっと身を起こし、レインは左右を見た。
「おい、脂顔男《あぶらがおおとこ》は?」
レニが肩をすくめ、街道の向こうを指す。
そちらを見ると、もう遙《はる》か小さくなった例のむさ苦しい男が、馬上で拳《こぶし》を振り上げていた。
「馬鹿野郎っ。てめえなんか、ぜんっぜんっ怖くねーからなあああっ。いつか見てやがれってんだあーー! それと、ちょっともてるからっていい気になってんじゃねえぞっ。俺はうらやましくなんかねえっ」
非常にむかついたレインである。
すぐさまクリスを呼ぼうとすると、それと察したのか、男はあっという間に土埃《つちぼこり》を上げて遁走《とんそう》した。
「甘いっ。クリスと俺から逃げられるかっ。俺は男には一切の容赦《ようしゃ》をしない主義だっ」
『じゃなくてっ』
セイルとレニの声が重なった。
視線のやり取りをし、セイルが話す。
「そうじゃなくて、今は戦後処理に専念してください。特に、俺達の処遇の件とか。ちなみに、扱いについては温情ある措置《そち》が望ましいんじゃないかと愚考《ぐこう》します」
冗談めかしつつ、視線が心配そうにちらっと、自分に寄り添うジュンナに向かう。
レインは渋々追跡をあきらめ、周りをぐるっと見渡した。
皆にも聞こえるように、
「おまえ達はどのみち、戦《いくさ》が終わったら解放する。今は、客人兼|捕虜《ほりょ》として城に滞在してもらうが、不自由はかけないつもりだ」
「もしサンクワールが敗れても、解放してくださると?」
「ああ。勝ち負け問わずだ。俺が責任を持って約束するさ」
セイルは胸に手を当ててため息をついた
なんだかんだ言っても、妹が心配だったようだ。
「そう……ですか。しかし――」
ちょっと首を傾《かし》げる。
「あなたの狙いはなんなんです。さっきの戦《いくさ》でも、あえて両軍に最小限の損害しか出ない策を取っていたようですが……」
レインはセイルの顔をじっと眺めた。
「俺はただ、あのフォルニーアに気付いてもらいたいだけだ」
「――なにを?」
「戦う相手を間違えるなってことをだ。先日、フォルニーアがサンクワールに来ただろう。その理由はなんだった?」
相手の顔にゆっくりと理解が広がった。
同時に、うっすらとした笑み。
「……なるほど。それであえて、こちらにもあまり多大な被害が及ばぬようにしてくれたわけですか」
――でも。
また首を傾《かし》げ、セイルは言い募った。
「もし、うちの陛下があくまでサンクワールとの戦いを望んだら? 陛下は負けず嫌いなお方です。コトの是非《ぜひ》は理解出来ても、ここまで来たら意地になっているかもしれないですよ」
「その時はしょうがない。こちらも、一歩も引かず戦うまでだ」
あっさりと答えてやった。
さらにセイルがなにか言いかけようとした時、遠くから新たな叫び声が聞こえた。
騎乗の騎士が、こちらへ駆けてくる。
軍装《ぐんそう》からして味方のようだった。
レインは仲間に合図して道を開けさせ、その使者を待った。
「将軍っ、こちらでしたか――そ、そのお怪我《けが》は一体っ」
馬ごとこちらに来た使者は、座り込んだままの血まみれレインを見て、肝《きも》を潰《つぶ》した表情になった。
レインはなるべく平気そうな顔を作り、手を振ってやる。
「あ〜、気にするな。もうふさがった。すぐに治る……それより、城の方でなにかあったか?」
「あ、いえ。そういうわけでは――。本当に大丈夫ですか? 戦《いくさ》はどうなりました?」
「もう済んだ。当然、俺達の勝ちだ。心配ないから用件を言ってくれ」
「はあ……それは祝着《しゅうちゃく》に存じます」
不可解そうな様子ながら、使者は馬を降り、胸元から折り畳《たた》んだ手紙を出してレインに渡した。
「王女様よりの書簡《しょかん》です。必ず将軍本人にお渡しするようにと」
「ふむ?」
折り重ねるように畳《たた》まれた手紙を広げると、その結構な長さに驚いた。相当な分量がある……長文である。
小さく丁寧な、シェルファらしい筆跡の女の子文字を読んでいく。途中で、部下達が背後にそ〜っと回ったので、見られないようにばっと隠してさらに読む。『けちぃ〜』などと聞き捨てならない独り言が聞こえたが、無視。
いやしくも王女の手紙を、勝手に他人に見せるわけにもいかない。
つらつらつらつら――
長い手紙を時間をかけて読み終えると、レインはガリガリと頭をかいた。
「ふ〜む?」
「なんなんですか、将軍」
じれたようにレニが訊く。
それは他の皆も同様で、『さっさと教えろっ』という顔をしていた。
「いや……別に事件とかじゃなくて。文章はつらつらと長いんだけどな。結論はつまり」
「つまり?」
と、レニが促《うなが》す。
レインは苦笑して、
「まあ、早く帰ってきてほしいということが、ひじょ〜に遠回しに書いてあるな」
直接的な表現で書かない所に、シェルファなりの「我慢」が窺《うかが》える、とレインは思う。しかし、張り詰めた様子で聞いていた聴衆《ちょうしゅう》は、どっと脱力したようである。
「うらやましいですねえ、将軍は。あんな綺麗な人に想われて」
「おいレニ、滅多《めった》なこと言うなよ。本気にするヤツがいたらどうする!?」
「どうするもなにも――」
事実でしょう? と言いたそうにレニが肩をすくめる。
事実だろうとなんだろうと、主君|絡《がら》みのそういうことを、不用意に口にしちゃいけないのである。
レニはこの辺が無頓着《むとんちゃく》で困る。
レインは顔をしかめて見せ、そ〜っと立ち上がった。
クリスに乗せたままのシング(まだ気絶中)とセイル兄妹にざっと目を走らせ、ほくそ笑む。
「大漁、大漁。予定より戦果《せんか》が上がったし、一度、城へ寄るか」
「しかし、囮《おとり》のラルファス殿達と一刻も早く合流した方が」
セノアが口を挟《はさ》んだ。
「馬鹿、あいつは囮《おとり》なんかじゃない。それどころか下手したら実戦部隊だぞ」
『ええっ』
仲間全員が声を合わせた。
意外だったらしい。
「――そうなんだよ、これが。なんだ、誰も気付いてなかったのか、なんでラルファスを先行させたか」
皆、顔を見合わせる。
「わからないならいい。しかし……俺は後でラルファスに恨まれるかもなあ」
レインは腹の傷を撫《な》でつつ、嘆息《たんそく》した。
戦《いくさ》を終わらせるためとはいえ、なにも説明しなかったのはまずかったろうか。
皆が『わけわからん』と言いたそうに首を傾《かし》げていたので、レインは「気にするな」というつもりで首を振ってやる。
いきなり使者に向き直った。
「ところで、おまえって俺の部隊の誰かだったよな」
「……はっ。第二部隊、十人隊長のタロンです」
使者が名乗った。
気持ちはわからないこともないが、レインの言いようにひどくがっかりしたような顔である。
「よし、タロン。ご苦労だが、また城まで戻って『すぐ帰る』って姫様に伝えてくれ。返事書くより、その方が早い」
「ははっ」
「そこでだ――」
とレインはタロン某《なにがし》に顔をぐっと寄せた。
真剣な瞳で、じい〜っと穴が空くほど見つめる。
「な、なんでしょう?」
「――大したことじゃないが。姫様に余計なことは言うなよ。おまえは『将軍は、つつがなく豪快に勝利を決めました!』とだけ報告すればいい。間違っても『血まみれで地面にへたり込んでました』なんて言って、姫様に心配かけるんじゃない。わかるな?」
「……し、将軍がそう言われるなら」
レインはじいっとタロンを観察し、やがて一つ頷《うなず》いた。
耳元で囁《ささや》いてやる。
「分かればよし。俺が公平無私《こうへいむし》だとか思わん方がいいぞ〜。姫様への報告一つで、おまえの今後の出世に甚大《じんだい》な影響があったりするしなあ」
「か、快勝のみを報告しますっ。私は、他になにも見ていません!」
十回近くも頷《うなず》き、タロンが大急ぎで保証する。
彼の肩をバシバシ叩《たた》いてやってから、レインはガサラムに命じた。
「セイル達以外は、捕虜《ほりょ》は全員放してやれ。それが済んだら、城へ戻る!」
こうして、「枯れ谷の戦い」はレイン達の完勝に終わったのである。
[#改ページ]
エピローグ 予感
つつがなく帰城したレインは、シェルファに戦勝の報告をした後、久しぶりに睡眠を取るつもりだった。
レインは本来、夜は修練の時間に充《あ》てており、眠るのは数日に一度くらいでしかない。ドラゴンスレイヤーとしての力が、そういう無茶な活動を可能にしている。
だがまあ、今日くらいは休むか、というつもりだったのだが――
長らく留守にしていたせいか、シェルファはなかなかレインを放してくれなかった。
夕方くらいからシェルファの言う『おはなし』などしていて、気付けば既に夜である。
この姫君は、とにかくレインのそばにいるのが大好きで、ついでに二人で『おはなし』などしていると、とてもとても喜ぶのである。
レインも、時間が許せばなるべくシェルファに付き合ってやることにしている。
今も、シェルファが横になっているベッド(とうに眠る時間なのだ)まで椅子を引き寄せ、昔の出来事などを語っていた。
「――だからな、俺が見てきたその世界は、こことは別世界だったのさ。わかるか、俺の言うことが?」
「なんとなく、想像はできますわ」
シェルファは超真剣な顔で、こくこく頷《うなず》く。
かなり眠いはずなのに、全然そんな様子を見せなかった。
「世界は一つではない……そういう意味なんでしょう?」
「正解だ。魔人《まじん》がいる世界もあれば、そうじゃない世界もある。俺が垣間見《かいまみ》た世界も、たくさんある世界の一つなんだろうな……こことは別世界なのに、不思議な共通点がたくさんあった」
「……どこであろうと、わたくしはレインのいる世界が一番好きですわ」
「そうか」
レインは笑って、シェルファから見えない位置で、小さく右手を動かす。
「そろそろ眠った方がいいぞ。……とうに眠る時間を過ぎてるしな」
シェルファは小さく首を振ったが、眠気には勝てないようである。
そのうち、すっと目を閉じて寝入ってしまった……
安心しきった無防備《むぼうび》な寝顔に微笑み、レインはシェルファの黄金《おうごん》色の髪を撫《な》でてやった。
それから、こっちの手を握りしめたままの小さな掌《てのひら》をほどき、寝具の中に入れてやる。シェルファが目を覚まさないように、静かにベッドの脇から立ち上がった。
壁にかけられた小さな鏡に向かい、じっと己《おのれ》の顔を見つめる。
「なにか予感がするな……」
そっと呟《つぶや》く。
「どうも、どこぞの死神が俺に目をつけている感じだ」
鏡の中で、自分の唇が皮肉な形につり上がった。
「いいだろう。俺を倒せると思うならやってみせてくれ。俺はいつでも待っているぞ……」
いつも通り、恐怖心はなかった。
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番外編 いつかきっと
「よしっ、覚悟《かくご》はいいな、おまえ達!」
ガサラムは振り返り、灌木《かんぼく》に身を潜《ひそ》める部下達を睨《ね》めつけた。
副隊長のジェス以下、七人が緊張した面持ちで頷《うなず》く。……が、そのうちの何人かの顔には、明らかに恐怖の兆《きざ》しが見えた。
昨晩降った雪がうっすらと積もる地面に目を落とし、妙におどおどしている者もいる。
その顔にははっきりと、「気が進まない」と書いてあった。
それを責めようとは思わない。
王都から派遣《はけん》された彼ら警備隊は、いわゆる騎士とは違う。本来は町や村を警備する役割の志願兵の集まりであり、戦うのが生業《なりわい》ではないのだ。
故《ゆえ》に、こんな風に命をかける必要が出てきた時にはためらいもするし、人並みに怯《おび》えもする。元々はそこらの町や村に住む、善良な一般市民にすぎないのだから。
(……だが俺は違う。俺は戦うのが生業《なりわい》の騎士だったんだからな。こんな修羅場《しゅらば》には慣れている)
だから生き残れる、というわけでもなかったけれど、ガサラムは部下達を励《はげ》ますように、大きく頷《うなず》いてみせた。
「さて、それじゃあさっさと終わらせようぜ」
出来うる限り落ち着いた声で言い、彼はおもむろに隠れていた木立《こだち》から歩み出た。
戦いの始まりだ。
――ゴルト兄弟という冒険者くずれの男二人が、ならず者達を集めて好き放題を始めたのは、つい先月のことである。
かつて傭兵《ようへい》といえばどこでも働き口があったものだが、最近大陸北部のこの辺では大きな戦はトンとなく、戦う以外に取《と》り柄《え》のない彼らはたちまち食うに困ってしまった。
そういう男達が生きる道は、昔から二つに一つである。
一つはガサラムのように警備隊に入るか、あるいは犯罪行為に手を染めるか――
かくして、彼らは手っ取り早く金を稼ぐ道を選び、近隣の村や町が荒らされ始めたわけだ。
不幸にしてゴルト兄弟のような男は、この辺に多かったらしい。あっという間に彼らは大人数となり、この地方の大きな脅威《きょうい》となった。
難儀《なんぎ》なことに、彼らは己《おのれ》の分《ぶ》を知っていて決して度を過ぎて暴れることはなかったので、王都から騎士団が派遣《はけん》されるような事態にまでは進展しなかった。
ガサラム達警備隊こそ、いい面《つら》の皮《かわ》である。
なにしろ、上からは「職務怠慢《しょくむたいまん》ではないか」と言われるし、村の連中からは「なんとかしろ」とせっつかれる。
文句を言う者達は、こちらの都合などお構いなしだから始末が悪い。
例えば彼らとこちらの戦力比など、考慮《こうりょ》すらしてくれないのだから。
そのくせ、自分がなんとかしようという気概《きがい》はないのだ。
――まあいい。
とにかく、こうしてチャンスが来た。
彼らのうちの大半が、どこか遠くの町に稼ぎに出たとの情報が入っている。
留守を守っているのが何人かは知らないが、今こそ相手の戦力を削《そ》ぐ時だろう。
――☆――☆――☆――
残った雪を踏みしめ、踏みしめ、ガサラムはそおっと彼らのアジトとされる館《やかた》へ近づいて行く。
その後からおっかなびっくり部下が続いた。
森の中を切り開いて建てたらしいその館《やかた》には、特に見張りも立っておらず、しーんと静まりかえっている。
全ての窓にはカーテンが降りていて、内部はまるで見えない。
ただし、入り口の扉は半分開いている。
張り出したポーチにぽつんと置かれた粗末なテーブルと椅子のセット、そして館《やかた》の屋根、それらの全てにごく薄く雪が積もっていた。
中に人がいる証拠に、煙突から煙が上がっている。
だが、人の姿はない。
――全くない。
あと数歩で入り口という所で、いきなりガサラムは足を止めた。
「……どうしました、隊長?」
副隊長のジェスが強張《こわば》った顔を向けた。
「お馴染《なじ》みの感覚だ」
「……は?」
「殺気さ」
ポンポン、とガサラムは部下の肩を叩《たた》いてやった。ジェスがぐっと口元を引き締める。
そう、馴染《なじ》みの感覚だ。
今になって気付くとは、俺の勘も相当鈍ったらしい。
正騎士を引退して二年……長く戦いから離れすぎたか。
「待ち伏せの可能性もある。奇襲《きしゅう》は失敗ということだな。おまえ達は下がって待っていろ。まず俺が様子を見てくる」
ジェスの表情がめまぐるしく変わった。
最初は使命感、次にためらい、そして後ろめたさ――
なにを考えているか、手に取るようにわかる。若いな、とガサラムは思った。
二十五歳のジェスと自分では、二十年以上の歳の差がある。
ここは自分が気を利かせて、彼の名誉を守ってやるべきだろう。
「ジェス、これは命令だ。それに、当然の作戦行動だ。俺も死ぬ気はない……言われた通りにするんだ」
小声で命じてやった。
「……はっ。隊長がそう言われるのなら」
ジェスはなんとか表情を隠しただけマシである。後の部下六人は、あからさまにほっとした様子で、そそくさとガサラムから離れた。
隊長とはつらいものだ。
だが、自分の部下から死者を出すのはもっとつらい。
ガサラムは剣の柄《つか》に軽く手を当て、一人で入り口を目指した。
足音を立てないつもりでも、ポーチに上がった途端《とたん》、ギシリと足下がきしんだ。
しんとしているだけに、その音は耳元で鐘を鳴らされたように響いた。
ちっ。
半開きの戸を開け、ガサラムは半ば開き直って体を滑り込ませた。待ち伏せなら、どうせ向こうはもう、こっちを待ち受けている。
それでも身に染みついた癖は抜けず、周囲の気配《けはい》を窺《うかが》い、一歩、一歩、進んで行く。
入り口から先は一種のホールになっており、二階へ続く階段が左右の壁にある。
正面にはひときわ大きなドア。
まさにそのドアの向こうから、人の気配《けはい》がするのだ。しかし、さっきピリッと感じた殺気は、もう跡形もなく消えている。
感じるのは気配《けはい》のみ……それも一人だけ。
他の連中は気配《けはい》を殺しているか、最初からいないかのどちらかだ。
二流の傭兵《ようへい》くずれに、気配《けはい》を殺すなどという上等な真似《まね》ができるとは思えないから、どうも相手は一人らしい。
気に入らんな、とガサラムは思った。
先ほど、あんなにあからさまに感じた殺気がきれいさっぱり消えている――まるで、ガサラムに大声で挑戦する代わりに、わざと殺気を放射したみたいだ。
そんな風にガサラム達を警戒させて、向こうになんの得があるのか疑問だが。
(ちっ。どうせ確かめない訳にはいかないんだ。覚悟《かくご》を決めろ、ガサラム)
自分自身を叱咤《しった》し、両開きの大きな扉の片方に、上げた片足を押しつける。
少なくとも、気配《けはい》は一つしか感じない……自分の往年《おうねん》の勘が衰えていなければ。
相手が一人なら、なにを恐れることがある?
かつては――いや、今だって剣で生計を立てているのだ。食いっぱぐれた傭兵《ようへい》くずれなど、相手になるものか。
ガサラムは大きく息を吸い込むと、ためらいを振り切るように、思いっきり扉を蹴り開けた。
そこは、かなり広い部屋だった。
いくつかの大きな柱が天井を支えており、まるで食堂のように、そこかしこにテーブルが置いてある。ただ、どうもここに住み着いた連中は、この部屋を酒場の代わりにしていたようだ。
倒れている何人もの死体を眺め、ガサラムは割と冷静にそんなことを考えた。
――あまりに予想と違う光景に出くわすと、人間、かえって落ち着くものらしい。
死体と一緒に、酒瓶も転がっているのを目にして、そんなことを考えてしまうのだから。
悪党どもは一人残らず床に転がっていた。全員が死んでいるのは間違いない。
見たところ、見事なまでに急所を一撃でやられている。
ガサラムは柄にもなく体が震えそうになり、ようやくこらえた。そっと目線を上げ、正面のカウンターの方を見る。
そのカウンターの前に――
一人の少年がひっそりと立っていた。年齢はおそらく十五歳前後――それ以上ということはあるまい。
黒髪に黒い瞳、さらには黒いシャツに黒いズボンと、死神もかくやと思うほど真っ黒な姿である。
いや、床に転がる死体達にとっては、この少年は冗談抜きで死神だったのだ。
それでも……もし彼が手に剣を下げていなければ、しかも手にした剣が血に塗れ、着ているシャツも血で湿っていなければ、ガサラムはこの少年がゴルト兄弟に捕まっていたのだと判断しただろう。なぜなら、これほどの殺戮《さつりく》をやってのけたにしては、少年の瞳は綺麗すぎた。
とても眉一つ動かさずに人を殺せるようには見えない。
血の匂いが重く立ちこめる部屋にじっと立ち、少年はその透き通った黒い瞳で、ガサラムを真っ正面から見つめていた。
見つめ返していると、また身震いしそうになった。綺麗なことは綺麗だが……まるで地獄をその目で見てきたように、感情というものが抜け落ちている。
しばらくして、彼は静かに話しかけてきた。
「おまえは……こいつらよりはだいぶマシのようだ」
言われ、ガサラムはやっと我に返った。
「なんだって?」
「俺にはわかる……おまえは強い。少しはまともな戦いになりそうだ」
「てことは、やっぱりこれをやったのはおまえか」
「死にたくなければ、俺を倒すことだ。さもなければ、おまえはここで死ぬことになる。死力を尽くさないと俺は殺せないぞ」
まるで噛《か》み合ってない。
ガサラムはいらついて、もっと詳しい話を引き出そうとした。
これだけはっきりと挑戦されているのに、どうしても少年が悪者には見えなかったせいだ。
油断《ゆだん》もいいところだった。
次の瞬間、少年の細い体が霞《かす》んだ。
「なにっ」
信じられなかった。
まさかこの少年が、ここまでのスピードを誇るとは。
今更《いまさら》だが、大慌《おおあわ》てで剣を抜き放ち、構える。
訓練され、経験を積んだ動作だ。
しかし、そのわずかコンマ数秒の間に、もう彼は目前に迫っていた。
つい今し方、部屋の向こうの端にいたのに、だ。
ぞっとした……なんだ、このプレッシャーは。
このか細い少年から、何十年も戦場を駆けたガサラムを遙《はる》かに凌駕《りょうが》する力の波動が、感じられる。
俺はかつて、無数の強敵と剣を交えてきた、とガサラムは今日まで思ってきたし、彼を知る者でその事実を否定する者は一人もいなかった。
思い違いもはなはだしかった。
かつての敵は、目の前の少年に比べれば、まるで木偶《でく》人形に等しい。
放たれるプレッシャーを感じただけで、ガサラムは自分が今、かつて出会ったことのない最強の敵を相手にしているのだと確信した。
恐怖に突き動かされ、彼はほとんど本能のままに動いた。
すなわち、自分の前の小さなテーブルを足で蹴り上げた。
時間を稼ぎ、身を守る盾にするために。
しかしテーブルが宙に舞った途端《とたん》、まるで計ったように、迫り来る少年は手前の別のテーブルに飛び乗り、大きくジャンプした。
そして空中でくるりと身をひねり、天井を足で蹴って勢いをつける。
驚嘆《きょうたん》すべき判断力と、反射神経だ。
上空から襲いかかる長剣に、青くなったガサラムは必死で剣を合わせた。
衝撃が来た。
少年の体重プラス、加速を得た分が。
なんとか耐えきったのは奇跡に近かった。重い攻撃を、ガサラムはしのぎきった。
そのおかげか、今度は彼に運命の女神が微笑んだ。相手の剣が衝撃に耐えきれず、歪《ゆが》んだ音を立てて折れてしまったのだ。
少年の表情が、ほんのかすかに苛立《いらだ》つ。思い通りにならない物への腹立たしさを込めて。彼の腕に、剣の方がついていけないのだ。
さすがのガサラムも、もう迷わなかった。
というか、迷っていて勝てる敵ではない。相手の不運に付け込む以外に、ガサラムの生き延びる道はないだろう。
よって、少年が着地したと同時に、彼は素早く踏み込んで彼の胴を薙《な》いだ。
――単に、豪快に空振りしただけだった。
あろうことか少年は、役に立たない剣の柄《つか》を捨て、躊躇《ちゅうちょ》せずに上半身をしならせると、背後に飛んで華麗《かれい》な動きでとんぼを切った。
二転、三転し……直立姿勢に戻った時には、既に死体が握っていた剣を強奪《ごうだつ》している。
その動作の一々に無駄がなく、計算され、洗練された美しさがある。
まるで、「戦う」というその行為自体を、極限にまで磨きあげたような動きだ。
あらかじめ、こういう時はこうこう、と戦闘計画を立てていたのではないか? 馬鹿げた話だが、ガサラムは本気でそう考えた。
でなくて、これほど迷いのない動きが出来るはずがない。
(なんて奴だ。人間とは思えん!)
感心している場合ではなかった。
また少年の体が霞《かす》んだ。
残像を引きながら(信じがたいが、本当に体がぶれている)まさに風のようにガサラムの目前に走り込んでくる。
キラッと光った瞬間、もう視界一杯に剣先が迫っていた。速すぎて目で剣の軌跡《きせき》が追えない。
夢中でまた受け止めたものの、ガサラムは吹っ飛ばされた。蹴られたのだとわかったのは、椅子をなぎ倒して無様《ぶざま》にはいつくばった後だった。
少年の、その天才的な戦闘センスに比べ、彼の筋力が人並みだったのは幸いだった。とにかく痛みをこらえて身をひねることが出来たのだから。
ちなみに、そうしたのは全くの勘である。
瞬《またた》くほどの差で、ガサラムの頭の横を少年の剣が突き刺した。頭髪が何本か持っていかれた。
「じょ、冗談じゃないぞ!」
ゴロゴロと転がり、テーブルの足にぶつかったところで、ガサラムは必死で立ち上がった。もう息が上がっている。
それに比べ、相手は少しも息が乱れていない。
ただ静かにガサラムを観察していた。
今も、その気になればとどめをさせたのに、わざと相手が立ち直るのを待っていたようだ。
――しゃくに障《さわ》るガキである。
余裕のつもりだろうか。
そのガキが平板な声で、
「……もうおしまいか?」
「はあっ、はあっ……な、なにがだ」
「もしおまえの精一杯がそれだけなら、今度こそおまえは死ぬぞ。さっきのような幸運はいつまでも続かない」
「……っ」
ガサラムはなにも言い返さなかった。負けず嫌いの彼ではあるが、世の中には想像を絶する強者《つわもの》がいるらしいと悟《さと》った。
少年の言い分は傲慢《ごうまん》などではなく、厳然《げんぜん》たる事実だった。
「あきらめたのか? ……それもいいだろう。だが、俺は容赦《ようしゃ》しない」
言い置いた刹那《せつな》、少年が消えた。
ただ身を低くして走り込んできただけなのだが、動作と、そして走るスピードが常識はずれなので、そう見えたのだ。
生存本能のみで剣を持ち上げたが、少年の足が弧を描き、剣を弾き飛ばした。そして天井のランプを照り返す、銀色の剣腹《けんぷく》。
その煌《きら》めきが自分の首筋に吸い込まれるのを、ガサラムは他人事のように視界の隅《すみ》に納めた。
実力の差がありすぎて、ロクに悔しい気持ちも起こらない。死が彼の肩を叩《たた》こうとしていた。
――しかし。
幸運の女神か死神か、どちらの気まぐれにせよ、ガサラムはまた助けられた。
ちょうどそこへ、ジェスの声がかかったのだ。
「た、隊長!」
ドアを開け放った副隊長は、でかい声で悲鳴を上げた。
ピタリと剣が止まった。
「――隊長だと? こいつらの仲間じゃないのか?」
首の皮一枚の位置で剣を止め、少年が訊いた。
溜《た》まった唾《つば》を呑《の》み下《くだ》してから、ガサラムはようよう頷《うなず》いた。こいつらというのは、どう考えても、転がってる死体のことだろう。
「そうだ……俺は王都からこの地方に派遣《はけん》された、警備隊の隊長だ」
少年は無言でガサラムを見返した後、あっさりと剣を投げ捨てた。
「――それを早く言え、使えないじいさんだ」
そう言い捨てると、ふらっとよろけた。
「お、おいっ」
自分の手の中に倒れた少年を、ガサラムはなんとか支えた。
同時に、文句もつける。
「俺はまだ若いんだぞ、くそっ」
しかし少年は、もう気絶してしまった後だった。
「なんなんだよ、このガキはっ。しまいには笑うぞっ」
ガサラムはとりあえず命が助かった安堵《あんど》を、喚《わめ》き声に変えた。
――☆――☆――☆――
「あのガキですが、ご命令通り気絶したまま、牢《ろう》にぶち込んでおきました」
「ご苦労」
ガサラムは一気に杯《さかずき》をあおり、焼け付くようなブランデーの熱さを喉《のど》ごしに楽しんだ。
まだ指の先辺りが細かく震えている。
ジェスに隠せているといいのだが……隊長が恐怖に震えていたのでは、話にならない。
「しかし、隊長」
そのジェスはガサラムの机の前で休めの姿勢を取り、とまどったように言った。
「あいつ、まだほんの子供でしょう。正当防衛みたいだし、牢《ろう》にぶち込むほどのことはないんじゃ?」
ガサラムはすぐに答えなかった。
警備事務所の窓の外をちらと見る。
また降り出した雪をしばらく眺めてから、そっと息を吐いた。
「俺はな、ジェス」
「はい?」
「多少の才能の差はあっても、剣の道に……いや、戦うことに関して天才なんていないと思ってた。――とにかく、この歳になるまでな。経験と訓練だけが上達の唯一の道だと思ってたんだよ」
ジェスが無言で見返す。
淡い金色の髪の下で、青い瞳が「なにを言いたいんだろう、この人は」と語りかけていた。
「――わからなくてもいい。とにかく、あのガキをなめるな。あいつは天才だ。おそらく、おまえや俺が何度生まれ変わっても、足下にも及ばないような才能の持ち主だ。……天才ってのはいるもんだぜ」
畏敬《いけい》の念がこもった声音《こわね》で言い、「どういう目的であそこにいたかを聞き出すまで、用心するにしくはない」と付け加えた。
「そんなに凄いヤツなんですか! 隊長だって、元は歴戦の勇者なのに?」
「俺もそう思ってたさ」
自嘲《じちょう》気味に笑い、ガサラムは小刻みに震える指をそっと机の下にやった。
しばらくは悪夢にうなされそうだ。
「今日の俺は幸運だった。もしおまえが入ってくるのが後少し遅れたら……そして、『隊長!』と叫んでくれなかったら……俺はもう死んでいる」
そして、おまえもな、ジェス。
心中で呟《つぶや》き、ガサラムはまたぞっとした。全く、あいつはその気になれば、警備隊全員を殺し尽くせるだろう。――それも容易《たやす》く。
「まあ……悪いヤツじゃなさそうだが」
「……正当防衛はともかく、あんだけ殺しまくって、悪いヤツじゃないもくそもないのでは」
ジェスは眉をしかめた。
善良な青年らしい言い草だ。
「俺達だって同じことをしようとしてたろ」
椅子をきしらせてガサラムは立ち上がった。
「ところで、牢《ろう》の鍵を貸してくれ」
地下|牢《ろう》へ降りていき、鉄格子《てつごうし》越しに中を覗《のぞ》くと、少年は機能一点張りの鉄製のベッドに横になっていた。
牢《ろう》の正面にベッドがあり、彼はこちらに背中を向けている。まるで動かないところを見ると、熟睡しているのだろう。
「……叩《たた》き起こすのもな。出直すか」
しばらく様子を見たガサラムが回れ右をしかけると、いきなり声がかかった。
「なにか用か」
「おおうっ!?」
飛び上がりかけた。
なんと心臓に悪いガキだろうか。
「おまえな、起きてるのならそうと言えよ」
「別に寝たふりをしていたつもりはない」
ぶすりと呟《つぶや》き、体を起こす。
ベッドに横座りすると、黒い髪をかき上げ、じろっとガサラムを見た。
その不敵なまでの落ち着きようは彼ぐらいの年頃とは思えないが、顔にはまだあどけなさが残っている。
「で、用は?」
「愛想《あいそ》のねーガキ……。ほら、とにかく食えよ」
食事を差し入れるための場所を開け、湯気の立つスープを入れてやる。
いい匂いのするスープ皿を見、その顔に初めて年相応のとまどいが現れた。
「こんなことをしてもらういわれはない」
「いわれもくそも……牢《ろう》にぶち込まれたヤツに食事を出しただけだ。食えよ」
勧めてから、付け足す。
「おまえ、腹が減って目を回したんだろう、あの時。腹の鳴る音が聞こえたぜ? あんなに強いのに、笑かしてくれるよな」
照れるかと思ったが、少年は黙って皿とスプーンを手にしただけだった。
「これは、借りにしておいてもらう」
「おまえな、借りなら既にてんこもりだぜ? さっき俺を殺しかけたのを忘れたのか」
「あれはあんたが悪い」
ガツガツとかっくらいながら、少年は当然のように言い返した。
「最初から警備隊だと言わないからだ。そう名乗れば、斬《き》りかかりはしなかった」
「ああ、そうかよ。可愛くないヤツだぜ、おまえは。……名前、なんてんだ?」
「――レイン」
答えないかと思いきや、案外簡単に教えてくれた。
「……変わった名前だな。俺は、ガサラムという。よろしくな」
「ガサラム? ファヌージュ騎士団の隊長の一人だった、あのガサラムか?」
スプーンを持つ手が一瞬だけ止まった。
が、すぐにまた動き出す。
「そうだ。知ってたのか」
心持ち胸を反らしたがあいにくレインの返事はそっけない。
「まあな。噂は聞いていた。しかし、あんたは俺が望むほど強くなかった」
……今度スープにゴキブリを入れたろか、このクソガキ。
とっさにそう思ったが、意外にもあまり腹は立たなかった。
相手は天才である。こいつから見れば、確かに自分など大したことない。
しかし、「俺が望むほど」とはなんの話だ。
「質問を変えるぜ。あそこでなにをしていた」
「見ただろう。奴らを殺していた。もっとも、大半は留守だったらしいな」
「……なんのためにそんなことをする? 下手すりゃ死ぬぜ。わかってんのか」
ここで、はじめてレインは完全にスプーンを持つ手を止めた。
ボソボソと呟《つぶや》く。
あたかも、ガサラムなど傍《かたわ》らにいず、あくまでも独りでしゃべるかのように。
「強くなるためだ」
「なに?」
「強く、誰よりも強く、この世のどんな存在よりも強く……目的はそれだ」
あきれ果てたとはこのことだろう。
ガサラムはこんな阿呆《あほう》な理由を聞いたことがなかった。
つまりは腕試しのためにあんな真似《まね》をしたらしい。
なにを考えているのだろうか、このガキは。
「……よくわからんが。おまえは今の時点で、既に相当なもんだぜ? 大陸中を探しても、おまえに勝てるヤツはそうゴロゴロいないと思うぞ。それどころか肩を並べるヤツでさえ、そこらにはいないぞ」
「でも、皆無《かいむ》じゃない。それに、俺は筋力に乏しい。弱点はまだまだある。……それじゃだめだ。俺の気がすまない」
「どういうこった、えっ? 話してみろよ」
声をひそめて促《うなが》したが、レインは急に口を閉ざした。
むっつりと皿を置き、またベッドに寝ころぶ。
「おいおい?」
「しゃべりすぎた。もう話すことはない」
「あのなあ……ここで黙秘《もくひ》かあ。話さんと死刑だぞ、こら」
「好きにしろ。……別に、俺はそれでも構わない」
淡々と語る口調は、完全に本気に聞こえた。
しばらくねばったものの、ガサラムは最後には引き下がるしかなかった。
そして二日後、レインは正式に釈放《しゃくほう》となった。賞金首を殺したのは罪どころか表彰ものなので、捕まえておく理由がない。
もう十五歳を過ぎていると本人は主張するし、だとすれば両親を呼ぶわけにもいかない。
しかし、最後までレインのことが気になったのも事実である。
だがさすがのガサラムも、その三日後にまた彼に再会するとは思わなかった。
――☆――☆――☆――
開け放たれた扉から酒と汗の匂いがどっと溢《あふ》れ出た。少女のものらしき、悲鳴も。
レインが堂々と部屋に入ると、ゴルト兄弟を初め、凶悪な面構《つらがま》えの男達が一斉《いっせい》に視線を突き刺してきた。
「……だれでぇ?」
頬に傷のある男(情報ではゴルト兄弟の兄の方だろう)が手元に抱えた少女の腕をねじ上げた姿勢のまま、ガラガラ声を出した。
これからコトに及ぶはずだったらしく、まだ少女は着衣のままだった。
だが、ささやかな抵抗をしてもう何度も殴られたのか、頬が赤く腫《は》れている。彼女はレインを見て、救いを求めるように細い手を伸ばした。
ギリッとレインの奥歯が鳴った。
「……人の一生を簡単に狂わせるほどのおまえらだ。さぞかし強いのだろうな――と言いたいが」
レインは剣を抜き、馬鹿にしたように言った。
「こんなところで群れているのは、おまえ達が弱いからだ。自分の力に自信のあるヤツは群れたりしない。本来は相手にするまでもないが――」
じろっと部屋を見渡す。
十数人の男が、しゃらくさい口をきくレインを睨《にら》み返した。
「おまえらはとても気に入らないから、ここで倒しておく」
「ふざけた口をきくガキだぜっ」
少女を突き飛ばし、ゴルトが立ち上がった。
頭目《とうもく》の動きに合わせたように、他の者も剣を抜き放つ。
レインはそういう彼らを傲然《ごうぜん》と無視し、床に這《は》った少女に身を屈《かが》めた。
「――大丈夫?」
たった今、啖呵《たんか》を切ったのと同じ人間とは到底思えない優しい声。
少女は魅せられたように何度も頷《うなず》いた。
まだ、ほんの子供のようだ。
「で、でもっ」
「うん?」
「逃げてっ。この人達、平気で人を殺すのっ」
「ありがとう。でも、僕はとても強いから平気……それより、ごめんね」
えっ、と少女が首を傾《かし》げるより早く、その体がくたりと崩れた。
部屋の隅《すみ》に、手刀《しゅとう》で眠らせた彼女を座らせてあげてから、レインは自分も剣を抜く。特に慌《あわ》てることもなく、一味と相対した。
「さあはじめよう。もし五分持ったら、おまえ達を誉めてやる」
声をかけた途端《とたん》、黒影が霞《かす》んだ。
「おいおい、またかよ」
部屋に踏み込んだ途端《とたん》、ガサラムはレインと目が合い、思わず額に手を当てた。
床には死体の山。
前と違うのは、前回よりその数がずっと多いことだけだ。
で、例によってこいつは無傷だった。
「新しいアジトを見つけたと思って来てみりゃこれだ。とんでもないガキだぜ」
「死刑か?」
「おまえは殺したって死にそうにねーから、無駄だ、馬鹿野郎」
「……あんたを待っていた」
「なんでだよ」
「そこにいる子」
とレインは壁際にもたれて座る少女を指さす。
「……大丈夫か、この子」
「幸い、大事はない。だけど、きっとショックだったはずだ。家まで送ってやってくれ。……家族が殺されていないといいが」
ガサラムは無言でレインを見返し、背後のジェスに顎《あご》をしゃくった。
瞬《まばた》きを繰り返しつつも、彼は隊長の意を汲《く》んで部下に指示を飛ばす。
やがて、そっと抱きかかえられた少女が運び出されて行った。
「おいこら、どこへ行く」
同時に部屋を出かけたレインの肩を、ガサラムは慌《あわ》てて掴《つか》んだ。
「また旅に出るつもりだが。それとも、今度こそ死刑か?」
「あ、いや……どうせ釈放《しゃくほう》に決まってるし」
首を振ると、レインはさっさとまた歩きだした。
「ま、待てっ」
思わず声が出た。
「まだなにかあるのか」
「おまえの剣を見せてみろ」
強引にレインの剣を引き抜く。子細《しさい》に眺め、ため息をついた。
「やっぱりだ。またボロボロだぜ。剣の能力が、おまえの腕についてこれてねぇ。普通は反対なんだがなあ。……とにかく、いつか命とりになるぞ。この前も戦闘中に折れただろ?」
「――俺は、素手でも強い」
「そうだろうよ。だがまあ聞け。この町の北に、デラド山という山がある。んで、その中腹《ちゅうふく》辺りに古代の遺跡があるんだが……」
「ちょっ、隊長!」
はっと顔を上げたジェスを手で制し、ガサラムは続けた。
「そこにはすげー武器が眠ってるって噂だ。ただし、遺跡の中はやばい仕掛けがてんこもりの上、最深部にはガーディアン(遺跡の守護者)も待ちかまえているらしい。おまけに……」
「おまけに?」
レインが問い返した。興味を引かれたようだ。
ガサラムは自分の判断に自信が持てないまま、続ける。
「おまけに、その剣は自《みずか》ら主人を選ぶ。資格のないヤツが手にすると、必ず狂い死ぬらしい……そういう言い伝えなんだ」
レインの返事は簡潔だった。
ただ一言である。
「行ってみる」
そのまま背を向けて扉へ歩み去る。部下達が黙って道を空けた。正直、ガキのくせに強すぎるせいで、みんな気味が悪いのだろう。
今度はガサラムも止めなかった。
だが、レインは部屋を出る前に、一度だけ振り返った。
「――じいさん」
「誰がじいさんだっ」
「……世話になったな」
それだけだった。
あとは振り向きもせずに、レインは立ち去った。
「隊長、いいんですか、あの剣は」
「わかってるさ、ジェス」
開かれた扉から目を離さず、ガサラムはなだめるように言った。
「あの剣はヤバい剣だ。それにあいつは、遺跡で命を落とすかもしれない。けどな、どのみちあのままじゃあいつは死ぬ。いくら強くてもな。今のはまあ、俺のお節介《せっかい》みたいなもんだ」
「なんか気に入ったところでもあるんですか? あんなに無愛想《ぶあいそ》なのに?」
ジェスのあきれた言い方に、ガサラムはひょいと肩をすくめた。
「まあな。小憎《こにく》らしいのは間違いねーや」
「なら、どうして」
「……まあ。なんちゅーか、あいつの目がやけに綺麗だったから、かな――て、照れるだろ、馬鹿野郎っ」
言った後、ガサラムは自分で照れてバシッバシッとジェスをどやしつけた。
――ウチの隊長も、このカッコつけた物言いをどうにかすれば、いい人なんだがなあ。
ジェスは内心で思った。
最後に、ガサラムが陽気に呟《つぶや》く。
「レインか。忘れようもない名前だが……。もしかすると、将来大陸中に響き渡る名前になるかもしれんぞ」
――☆――☆――☆――
そこから遙《はる》か離れた場所で。
エレノアは娘が膝の上で急に起きあがったので、編み物の手をやすめた。
そして娘の顔を見、眉をひそめる。
シェルファはポロポロと涙を流していた。
「……まあ、どうしたの?」
「ゆめをみたの」
「夢?」
「うん」
まだ舌足らずなかわいい声で、しくしく泣きながらシェルファは一生懸命に説明した。
「だれよりもつよくて、だれよりもやさしいお兄ちゃんのゆめ。ホントはとてもやさしいのに、むりして心をころしてるの」
「……そうなの」
あやすように言う母親に、シェルファは夢見るように、
「わたし、いつかあのお兄ちゃんに会うわ。いつかきっと!」
あまりに確信に満ちた声に、エレノアはなにも返せなかった。
ただの夢だと片づけるわけにはいかない気がする。
なぜなら、シェルファは特別な子だから。だから彼女は、もっとも気になることを尋ねた。
「……そのお兄ちゃんは、シェルファに力を貸してくれるの?」
「うんっ」
天使のようなシェルファの顔に、笑顔がはじけた。
子供らしく、今泣いていたのにもう笑っている。その笑顔を見て、エレノアもほっとした。
この子には味方が必要だ……それも、ぜひとも。
誰よりも強く、誰よりも優しい……そんな味方なら大歓迎だわ。そういう人なら、この子を誤解することもないでしょう。
「あのお兄ちゃん、だ〜いすきっ。早くあいたい。あったらね、わたし、お兄ちゃんにだっこしてもらって――」
嬉しそうに話すシェルファの頬を、微風《そよかぜ》が撫《な》でていた。
さほど遠くない将来、彼女は望み通りレインと逢《あ》うことになる。
[#改ページ]
あとがき
一巻のあとがきでちらっと書きましたが、このレインは元々、三十枚程度の長さの短編だったのですね。それも手書きの頃なんで、ぱっと見はきったない字が綴《つづ》られた、どろどろしたオーラを放つ生原稿です。
もはや十年近くも前のことですが、当時の私はとにかく、「本腰を入れて小説を書かねば!」という焦《あせ》りに突き動かされていました。無論《むろん》、それまであまりにもさぼりすぎた故の焦《あせ》りでしょうが、動き出さねばならない……という衝動に駆られていたのは事実です。
でも、いくら読書好きとはいえ、いきなり大長編小説に挑むのは無謀だろう――と、その時の私は考えました。
そこで、まずは短編で肩慣らしをして、文章を書くことに慣れよう……そう思ったわけです。
なかなか良いアイデアっぽく聞こえますが、どうも私は(長編だって得意じゃないですが)とことん短編が苦手だったらしく、苦心|惨憺《さんたん》して書いた割には、それらの短編はあまり良い出来ではなかったように思います。
それでも妙な所でしぶとい私は、仕事の合間を縫《ぬ》ってちまちまと原稿用紙に書き続け、何十編かの短編を書きあげました。その中の一遍が、レインの一番最初の原型だったのです。
……ですがこれは、見るからに一番出来が悪そうでした。
なにしろ、レイン一巻のあのあらすじがほぼそのまま、たった三十枚の短編の中に押し込んであるのです。無理があるにもほどがあるというものです。
もはや手元に原稿がないので確認出来ませんが、どうやったらそんな真似が可能だったのか、我ながら不思議です。
しかし、とりあえず書いた物は誰かに読ませねば気が済まない私は、それを友人に読んでもらいました。……不思議なことに、これがなぜか、好評だったのです。しばらく放置されたとはいえ、後にこれを長編に書き直す気になったのは、そういう下地があったからかもしれません。
やはり、レインはなかなかしぶとい男です……
今回もたくさんの方にお世話になりました。
この本を出すためにご助力くださった全ての方に、厚くお礼を申し上げます。
最後はもちろん、この本を手にしてくださったあなたに、精一杯の感謝を。
[#地付き]二〇〇六年六月 吉野 匠 拝
吉野 匠(よしのたくみ)
東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「レイン(雨の日に生まれたレイン)」がネット上で爆発的な人気となり、遂に同作で出版デビュー。現在もHP上での連載は毎日更新を続行中(の予定)。
装丁・本文イラスト―MID
装丁デザイン―オレンジボックス
HP「小説を書こう!」
http://homepage2.nifty.com/go-ken/
イラスト:MID
http://mid.mods.jp/
[#改ページ]
底本
アルファポリス 単行本
レイン3 シャンドリス、侵攻す
著 者――吉野《よしの》 匠《たくみ》
2006年7月20日  初版発行
2006年10月10日  5刷発行
発行者――梶本雄介
発行所――株式会社 アルファポリス
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
[#改ページ]
底本のまま
・「わ、わたしったら金貨すら握ったないのに、そんな――」
置き換え文字
え゛※[#濁点付き平仮名え、62-12]濁点付き平仮名え、ページ数-行数