レイン2
招かれざる帰還
吉野 匠
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)奇策《きさく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)時折|脳裏《のうり》をよぎる
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ]二〇〇六年三月 吉野匠 拝
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〈帯〉
戴冠式前日の王都――
華やかなパレードに潜む暗殺者の黒い影!
人気爆発!! 剣と魔法の最強戦士ファンタジー
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――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
異世界に存在する大陸、ミュールゲニア。
科学文明の魔手はまだこの地を覆うことなく、廃れつつあるとはいえ、いにしえより伝わる魔法も細々と受け継がれている。
そんな、剣と魔法が支配する世界――
大陸南西部に位置する小国サンクワールは、レインの奇策《きさく》と皆の団結により、先のザーマイン戦に辛くも勝利を得た。
だが、最終的な勝利は未だ遠く、大国ザーマインとレイグル王の脅威《きょうい》が去ったわけではない。
レインは早速、シェルファを新国王とする国の再建に着手する。
もちろん軍備の再編は最重要課題で、ザーマインの再侵攻にも備え始めている。
しかし、晴れの戴冠式《たいかんしき》を目前にして、サンクワールにまたしても暗雲が立ち籠《こ》める。
新時代の王となるはずのシェルファの前に、新たなる敵が現れたのだ!
シェルファの窮地《きゅうち》を救うため、レインは再び青白き魔剣をその手にとる。
その頃、サンクワールの隣国シャンドリスでは、ある一人の英雄がレインに目を付けていた――
――☆――☆――☆――☆――☆――☆――
※度量衡はあえてそのままにしてあります。
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レイン2
招かれざる帰還
吉野《よしの》 匠《たくみ》
目次
プロローグ
第一章 夢見る少女
第二章 王女暗殺
第三章 お披露目《ひろめ》の日
第四章 招かれざる帰還
第五章 神将《しんしょう》VS天才、もし戦わば
エピローグ 怪盗ブラック仮面
番外編 贈る言葉
あとがき
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プロローグ
「やはりあの男は、狼だったか」
騎士隊長のシングが、隣国サンクワールの最新情報を伝えた時の、大将軍の返事である。
ここシャンドリスの国では知らぬ者のない英雄であり、周囲の国々にも「不敗の神将《しんしょう》」と呼ばれるジョウ・ランベルクは、外見からしてただ者ではない。
思わず見とれる深緑《しんりょく》の瞳、何度も戦塵《せんじん》を浴びたくせに、一向にその影響が出ない白い肌、人柄をそのまま表したような優しい顔立ち。
窓から差し込む光に、銀の髪が美しく映える。
武辺者《ぶへんしゃ》のシングですら、ため息が出そうな美貌《びぼう》である。つまり、外見だけでは絶対に現在の地位を見破れない。
しかし――現実に彼は、ここ何十年も敗北を知らずに来た歴戦の戦士であり、騎士なのだ。
(一体、この御方《おかた》はおいくつなのだろう)
時折|脳裏《のうり》をよぎる疑問が、今もまた湧き起こった。どう見ても二十代そこそこにしか見えないのだが――
「シング、他に報告することはないか」
「はっ」
シングは微《かす》かに首を振り、余計な考えを振り払った。どうでもいいことだ。自分は、この方を心から尊敬している……それだけで十分だ。
「続きですが……レイン殿の活躍で、サンクワールはひとまず危機を脱しました。以後は、彼と生き残りの上将軍《じょうしょうぐん》であるラルファス殿とが王女を補佐し、国を建て直す模様です」
「ほお……ついに、王に睨《にら》まれる立場から、国の柱に格上げになったか。……彼なら当然だな」
ジョウは自室の窓にもたれ、両手を軽く組んだ。そんなごく当たり前の仕草でも、この男がやるとほれぼれするほど目を惹《ひ》かれる。単純に、動作の一つ一つが美しいのだ。
シングは無意識のうちに息を吐き、おずおずと尋ねた。
「あの、ジョウ様。前から一度お尋ねしようと思っていたのですが――」
「聞こう」
「はい。その……なぜかジョウ様はレイン殿に関心がおありのようですが、それはなぜでしょうか」
「……顔に出ていたか」
ジョウは苦笑した。
「前から気付いていたのか、シング?」
「は、はあ……お気に障《さわ》ったらお許しください」
そう、シングはかなり前からジョウの態度に気付いていた。慈悲《じひ》深く心優しい大将軍だが、微笑むことは少ない。いつも超然としていて、めったに表情を動かさない。
そんな彼が、なにかの弾みで隣国のレインの名前を聞くと、ほんの微《かす》かに口元に笑みを浮かべる。それは、いつもは静かな湖に波紋が立ったようであり、シングは常々疑問に思っていたのだ。
「構わない。なにも隠すことでもあるまい。……つまり、私は彼に会ったことがあるのだ」
「お知り合いでしたか!」
「知り合いとまではいかない。なにしろ、十年前に一度会っただけだからな」
「では、その時になにか話でもされて――」
「いや」
あっさりと否定し、ジョウはどこか遠くを見るような瞳をした。
「シング、おまえは信じられるか? この私が、かつて敗北の予感に身を震わせたことがあると言ったら……」
「まさか!」
シングは言下《げんか》に否定した。
なにが有り得ないと言って、それこそ絶対に有り得ない話だ。
「だが、事実なのだ。……私の長い人生で、あの時ほど自分の未熟を感じたことはない」
「まさか……剣を交えたのですか、レイン殿とっ」
「そうではない。ただ束の間、目が合っただけだ」
「……は?」
「それだけで十分だったのだよ、我々には」
ジョウは疑問を振り払うように言い切り、囁《ささや》くように後を続けた。
「私は、今でもあの時の少年を夢に見る。ひっそりと立つ黒衣《こくい》の少年を。しんと静まりかえった顔で、じっと私を睨《にら》み付けていた……『まるで狼のような目だ』と、その黒い瞳を見て思ったものだ。気高く孤高で、何ものにも膝を屈しない強さを感じたよ」
「はあ……」
曖昧《あいまい》な返事しか出来なかった。
そもそもシングが聞いた噂と一致しない。
噂によるとレインという男は、三歩も歩けば大ボラを吹き、暇さえあれば浴びるほど酒を飲み、加えて同僚との協調性はなく、さらには命令無視はいつものこと、トドメに目も当てられないほど女癖が悪い――という物なのだが……ジョウ様のイメージと全然違うような。
噂では、単なる飲んだくれである。
しかし、ジョウを敬愛することの深いシングは、あえてなにも言わなかった。いや、ジョウ様がそう言うのなら、噂が間違いなのだろう……多分。
「時に、シング」
「は、はいっ」
「陛下が現在、サンクワールとの同盟を結ぶべきか、迷っておられるのは知っているな」
「それはもう……どのみちザーマインとの戦いは避けられませんから、味方はいくらでも入り用でしょうし」
「うむ。近々、手を結ぶに足るか調べるため、かの国に使者をお出しになる――」
その使者には私が行こうと思う。
なんとなく聞いていたシングは、最後のセリフに飛び上がった。
「じょ、ジョウ様自らですか!」
「ああ」
ジョウは首肯《しゅこう》し、後は自らの考えに没頭した。
あれから十年……あの時の少年はどこまで強くなっているだろうか。
確かめなければならないだろう。
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第一章 夢見る少女
さあ、あなたの夢を叶える時が来たわよ、セルフィー!
サンクワールの主城《しゅじょう》たる、ガルフォート城。
その城門の前で、自分自身に気合いを入れる少女がいた。
軽くウェーブした長い黒髪、薄緑《うすみどり》の瞳。明らかにサンクワールの平民の出だとわかる。人目を惹《ひ》く美しい顔立ちだが、残念なことに外見がみすぼらしいため、その美貌《びぼう》が三割ほど減じている。
ピンク色のブラウスは何度も洗濯したことが窺《うかが》えるほど色落ちしていたし、くすんだ白色をしたやや短めのスカートは、よく観察すると一カ所|継《つ》ぎがあたっている。しかも、背中に背負ったズタ袋は今にも底が抜けそうだった。
変わっている点が一つ。
まだ少女のくせに、なぜかスカートに剣帯《けんたい》をし、似合わない長剣を下げている。で、その剣も、鞘《さや》は塗装がはげまくりだった。
武装していることを除けば、まさに全身で「貧乏人」を具現したような少女である。
それでも、城門の前を通る人々や行き交う城の関係者は、横目で必ず少女を見ていく。それだけ、少女が見応えのある容貌《ようぼう》だったからだ。
ただし、見る者が見れば、彼女がただのお人形ではないとわかっただろう。
ぱっちりした瞳の底に、強靱《きょうじん》な意志の光が見え隠れしている。そして、それこそがこの少女の本質だった。
(やっとわたしの夢が叶う……がんばらなきゃ、絶対に合格しなきゃ。騎士になるんだから、絶対に!)
門の前で棒立ちすることしばし。セルフィーは緊張と感激で涙目になった顔をまっすぐ前へ向け、記念すべき一歩を踏み出そうとした。
が、そこで急に肌が粟立《あわだ》った。
体内に氷柱が生じたような、ぞくりとする感覚……圧倒的な威圧感。これまで通っていた道場の師からでさえ、こんな強烈なプレッシャーを受けたことはない。さんさんと照る太陽が、いきなり陰ったような気さえした。
実際には長々と考えていた訳ではなく、セルフィーは「だめっ」と思う間もなく、体が勝手に反応してしまっていた。来る日も来る日も剣の稽古《けいこ》に精を出して来たせいで、考えるより先に手が動いてしまったのだ。
道場で練習していた頃の感覚が抜けていなかったし、加えて、彼女は少々おっちょこちょいなところがあった。なんにせよ――
セルフィーは目にも止まらぬ速さで帯剣《たいけん》を抜剣《ばっけん》すると、振り向きざま真横へ一閃《いっせん》させた。
(きゃああっ! これ、木剣じゃないのにっ)
頭の中を、リアルな想像が渦巻《うずま》いた。
すなわち、運悪く彼女の背後に立ったというだけで血みどろで転がる、一般市民の姿である。騎士の試験どころではない、牢屋《ろうや》へ直行だろう……いや、死刑の宣告も有り得るかも。
しかし、それはセルフィーの傲慢《ごうまん》に過ぎなかった。あんなプレッシャーを放つ者が、一般市民のわけはなかったのだ。
もう絶対に間に合わない、撫《な》で切りにしちゃうっ、と覚悟した時――
ふわっと風が舞い、彼女の前髪をわずかに持ち上げた。
セルフィーの瞳に、陽光を圧倒する青き閃光《せんこう》が映る。
「……ひっ」
意外な結果というなら、これほど意外な結果もないだろう。
まるでなにかの奇術のように、いつのまにか自分の喉《のど》元に突きつけられた魔法剣……魔剣を前に、かすれた悲鳴が漏れてしまった。
有り得ない!
戦慄《わなな》く唇でそう絶叫したかった。
なぜなら目の前の長身の男は、斬撃《ざんげき》が己の身に当たる寸前まで、指一本動かさなかったのだ。
棒立ちなのはちゃんと見えていた。
それがなぜ、土壇場《どたんば》になって一瞬で剣(しかも、魔剣だ!)を抜き、このわたしに突きつけたりできるのっ。そんなに反応速度に差があるの? わ、わたしだってあんなに剣の道に励んだのに。
驚くことは他にもあった。
相手は動いて斬撃《ざんげき》を避けたのではない。
セルフィーの攻撃は、男の左手が防いでいた。なんと彼は指の腹で剣腹《けんぷく》を掴《つか》み、見事に止めてしまったのだ。
で、右手の魔剣はセルフィーの喉《のど》元にある。チャージされた強大な魔力の故《ゆえ》か、青白い光が刀身をくまなく覆《おお》い、「ブゥゥゥン」という多数の羽虫が立てるような音を響かせていた。
ロクに食べていないやせっぽっちの女の子の一人や二人、余裕ですっぱりといきそうだった。
色んな意味で呆然と突っ立つ彼女を無視し、男はなぜか長々と息を吐いた。陶酔《とうすい》の表情で、ゆっくりと首を振る。
「前に一度使っただけの『片手|白刃《しらは》取り』を、もう自分の物にしてしまうとは――」
少し間をあけてから感に堪《た》えないっ、という声音《こわね》で、
「――まさに天才! 時々、自分の才能に目眩《めまい》を覚えるなぁ……」
ひょ、ひょっとして自慢してるんですか!?
どっと緊張がゆるんだセルフィーである。
「おい! こらっ」
と、男は急に素《す》に戻って、じろりと彼女を睨《にら》み付けた。ただごとではない迫力である。
(こ、こわいっ)
思わず、自ら剣を落として後退《あとずさ》る……というか、石に蹴躓《けつまづ》いて尻餅《しりもち》までついてしまった。
「いきなり斬《き》りかかってくるとはどういう了見だっ。もしおまえが女じゃなかったら、今頃は鼻血|噴《ふ》きながら十メートルはふっとんでる――」
そこで恫喝《どうかつ》のセリフを中断し、男はふと、へたり込んだセルフィーを見下ろしたまま押し黙った。不機嫌そうな顔がごく真面目《まじめ》な表情に変わる。
お陰でやっと、その長身の男をじっくり観察することができた。
黒皮のズボンに同じく黒いシャツ、履いている靴に至るまで真っ黒である。髪や目も黒いため、それこそ全身真っ黒だ。
それがファッションなのか、はたまた単に手入れを怠《おこた》っているのか、ぼさっとした髪型で黒髪がところどころはねている。精悍《せいかん》な顔は思いっきり不敵そうで、時にふてぶてしい笑みが唇の端に見え隠れしていた。
この世に怖い物などなにもない……無言でそう主張しているような面構《つらがま》えだ。
セルフィーはなんとなく、獅子《しし》や狼などの大型の野獣が目の前に来て、自分を見下ろしているような気がした。
こいつ、昼飯になりそうかな、みたいな。
男は魔剣を収めるとある一点に目を落としたまま、ポツリと呟《つぶや》いた。
「オーソドックスな白か……」
「……え? あ、やだっ!」
かあっと頬《ほお》が熱くなった。
セルフィーは弾かれたように立ち上がり、スカートの裾を手で押さえた。
「今頃押さえても遅いと思うぞ」
「ひ、ひどいですっ。意地悪ですっ。なんで注意してくれなかったんですか! 見て見ぬ振りをするとか! エッチですっ」
「馬鹿|吐《ぬ》かせ!」
憤慨《ふんがい》したように、男は大喝《だいかつ》した。
「なんかの拍子に女の下着が見えたら、そりゃ見るに決まってるだろっ。注意する馬鹿がどこにいるんだっ」
あまりの迫力に、一瞬気を呑まれた。
足を止めて騒ぎを見物していた通行人達が、私語をぷつりと止めるほどの、堂々たる主張だった。表情に一点のやましさもなく、自分の主張に疑問すら持っていないのがわかる。お陰で、セルフィーでさえ頷《うなず》きかけたくらいだ。
「だいたいだ」
と、男の主張はまだまだ続く。
「俺がガキの頃なんかおまえ、そういうチャンスがなかったら自分から作ったもんだぞ!」
「――それは、ただのスカートめくりじゃないですかっ」
さすがに我に返り、言い返す。
しかし男は歯牙《しが》にもかけず、
「なんであろうと、それが男だ。おい、おまえだって、そう思うだろっ」
いきなり、ビシッと門番の一人を指差す。
「ええっ。じ、自分ですか」
まだ子供に近いような年頃の彼は、なぜか後退《あとずさ》った。騎士見習いの制服を着て、手に長槍《ながやり》を持っている。
「そうだよ。おまえだ。チャンスは逃さないよな、男なら」
「じ、自分はその……見えない角度に立っていましたし……だからその」
「おい、おまえ」
と、男はあわれな若者の肩をがっちりと掴《つか》む。
「名前はなんと言う?」
「……お忘れですか。自分です、ミランですよ。ちょっと前に名乗りましたが」
「そんな名前、知らん!」
ばっさり切り捨て、じっと顔を覗《のぞ》き込む。
「それよりだ、俺が知る限りでいっとう怖い話があるんだが、ちょっと聞きたくないか」
「その話ならもう聞きましたよっ。城主に干されたMの話でしょっ。わかりました、わかりましたよっ。自分も賛成ですっ。女の子が転んだら、それはすぐに見ますよ、ええっ! 将軍のおっしゃる通りですっ」
若者は半泣きになって喚《わめ》いた。ほとんどヤケクソである。セルフィーにはよくわからないが、過去にあの男となにかあったらしい。肝心《かんじん》の男はすっかり忘れているようだが。
いや……それはどうでもよくて。
今、なにかとんでもない言葉――
「しょ、将軍っ!?」
たちまち怒りがすっとんだ。
セルフィーは、わたわたと落ちた自分の剣を拾って収め、
「あなたは将軍様……なんですか」
「ふっ……まーな。この国で知らぬ者のいない上将軍《じょうしょうぐん》のレインとは、まさにこの俺のことだ」
さらりと髪をかきあげる男……つまり、レイン。
「え、ええ〜っ」
ど、どうしよう! 全身から血の気が引いた思いがする。
よりによって、試験を監督する立場の人にぃ。し、しかも、この人が噂のレイン様だったなんて!
レインはミランを放置し、ひたすらあわあわしているセルフィーを上から下までジロジロ観察した。
「そう言えば、おまえは何者なんだ。俺になんか怨《うら》みでもあるのか? 俺は女にはこの上なく甘い男だぞ。斬《き》りつけられる覚えなんかないからな!」
「あ、そのっ。しょ、将軍の気配にぞくっとなってその……ああっ、なに言ってるんだろ、わたし」
もごもご言って一人で落ち込んでいると、不思議なことに、レインの顔が少しだけ和《やわ》らいだ。
「ほう……おまえ、俺の『力』を感じたか。なかなか見所ありそうなヤツだな。……俺から見りゃ、全然弱いが」
「本当ですかっ」
レインの後半のセリフは無視し、『見所ありそうなヤツ』という箇所に飛びつく。セルフィーはここぞとばかりに一気にまくしたてた。
「わたし、今回の『騎士の一般公募試験』を受けに来たんですっ。ちゃんと事前に受け付けもすませていますっ。せ、セルフィーといって、この町の生まれです。なにがなんでも騎士になりたいんですっ。がんばりますっ」
一気に自己紹介を終えたセルフィーに、レインはぶすっと返す。
「ほお……とっぱしから順調な滑り出しじゃないか、ええっ、受験生?」
「……あう」
一時の熱情がさあ〜っと退《ひ》いた。
「そんなぁ。わたし、知らなかったんです、あなたがレイン様だなんて」
人前では滅多にないことなのに、たちまちセルフィーは泣きそうになっていた。他のこと(例えば貧乏とか)なら幾らでも辛抱《しんぼう》できるが、夢に関しては別だ。
ここで追い出されたら、自分はどうすればいいのだろう……
「馬鹿、泣くな。安心しろ、別にここで落としたりはしないから」
「……」
ホント? という意味を込めて、じっと上目遣いの目で見上げると、レインはしっかりと頷《うなず》いてくれた。ただし――
「だけど、俺の好感度を下げると後々災いがあるからな。そこら辺をしっかり覚えておけよ!」
念押しされた。
「は、はいっ」
「わかればよし! そろそろ時間だぞ。俺についてくるといい」
「はいっ、将軍!」
現金にも即元気を取り戻し、セルフィーは背中のズタ袋を揺すり上げて彼の後に続いた。なんとなく、ミランという人の「とんでもない人に見込まれてまあ」という感じの視線が、ちょっと気になったけど。
城門を抜け、どんどん歩いて行くレインを、セルフィーはちょこちょこと小走りに追いかけていった。
歩幅が大幅に違うので、どうしてもそうなるのだ。が、しばらく歩くうちにレインが遅れがちなセルフィーに気付き、ゆっくりとした歩調に変えてくれた。
「はあ、はあ……ありがとうございます、将軍」
「むう――」
レインはズタ袋を背負ってよたよたと歩くセルフィーを横目で見、小さめの声で、しかし彼女にはしっかり聞こえる音量で、ぼそりと独白した。
「体力に難あり、か。……マイナス二十点」
「え、ええっ!? へ、平気ですっ。わたし、実は凄くタフなんですっ。ほら、こんなにっ」
セルフィーはあたふたと、意味もなく中庭を駆け回った。ズタ袋が背中でポンポンと弾み、土埃が立つ。ぐるぐる駆け回った直後に息が切れて、たちまちへろへろである。へたり込んでしまった。
「ま、まだまだ走れ……はあっはあっ」
「うっとうしいからやめろっ、馬鹿っ」
怒られた。
「体力のないのが余計見え見えになるだけだ。さっきのはからかっただけなんだよ、本気に取るな、本気にっ」
「そ、そんな意地悪言わないでください……。わたし、試験が迫ってて緊張してるのにぃ」
「馬鹿、気楽に行け、気楽に。騎士にならなくても死にやしない。だいたい――」
レインはズタ袋をボコンと小突いた。
「なにが入ってるんだ、これ。おまえの体格に合ってないぞっ」
「えっと、服とか下着とか。とにかく身の回りの生活用品です」
やっと立ち上がったセルフィーがそう言うと、
「夜逃げじゃあるまいし……なんでそんなの持ってきてるんだよ」
「それはその――」
騎士見習いになれば、城の宿舎に泊まれる。そう思っての用意だが、事実を話すのはどうにも気が進まなかった。
家賃が払えなくて家を追い出されたのまで、ついでにばれそうだからだ。それに、同情されたりするのも嫌だった。
「……ま、いい」
幸いなことに、レインは特に追及して来なかった。
穏やかな口調になり、歩き出す。
「とにかく、可能な限り急げ。またあいつがうるさいからな」
「は、はい」
あいつって誰だろう?
ぶしつけに訊《き》くのもためらわれる。それに、どうせすぐにわかりそうだった。中庭を突っ切り、宮殿の裏手に回り込んだ二人の行く先に、新築とおぼしき真四角の建物が見えてきたのだ。
「あそこが会場なんですか」
「会場というか……あそこはちょい前に新設された闘技場でな。たまたま今日は試験会場に借りたんだ」
「と、闘技場!?」
「いや、ちゃんとした名前は他にある。俺がけろっと忘れただけだ。本来の目的は、騎士が剣の練習とかに使う場所らしい。道場……違うな、やっぱり思い出せん」
実にアバウトなことを言うレインに、はあ、とセルフィーは曖昧《あいまい》に頷《うなず》いた。この人は、見た目以上におおらかな人らしい。話に聞いていた年齢(二十五歳)より随分と若く見えるのも意外だった。
もっとも、今のセルフィーはそれどころではないので、すぐに試験のことで頭が一杯になった。
また新たな緊張感が生じる。
入り口付近で大勢の受験者らしき男女(圧倒的に男が多いが)が群れている。誰も彼も強者《つわもの》そうで、セルフィーごとき「極貧《ごくひん》栄養失調少女」は、片腕でひとひねりされそうに見えてならない。というか、皆つい今し方、地下|牢《ろう》から脱走してきた極《ごく》悪人のように見える。例えるなら、何十人も人を殺した罪人のごとき面構《つらがま》えである。
想像しただけで、死ぬほど怖くなった。
「おい、なにをガチガチになってるんだ。新婚初夜に臨む花嫁じゃあるまいし、楽に行け楽に。そっちもこっちも、怖いのは最初だけだ」
「は、はいっ。がんばりますっ。さ、最初だけですねっ」
レインのたわけたセリフは、半分以上セルフィーの耳を素通《すどお》りしていた。たむろする強豪達をなるべく見ないようにし、ぎくしゃくした足取りで黒い背中だけに視線を向ける。
レインを見分けられない間抜けは彼女くらいなのか、受験者達の多くは彼にさっと道を開け、敬礼をした。うむ、などとエラそうに頷《うなず》いて彼が通る。
その後を、親にすがる幼児のようにセルフィーが追いかけ、会場内に大急ぎで逃げ込んだ。扉の両脇に控えていた兵士達がなにか言おうとしたが、無視した。
「はあ……。わたし、こわかったですぅ」
安全|圏《けん》に入ってやっと嘆息《たんそく》する。
「おまえな……」
あきれたようなレインの声。
「は?」
「なんでおまえもついてくるんだよ! おまえは外で待つ方だろうがっ」
「ああっ、そ、そうでしたっ。で、でもっ――」
『遅いっ。遅いです、将軍っ!』
慌《あわ》てふためくセルフィーに、救いの金切り声が割って入った。
だ、誰っ!?
ぱっとそちらを見ると、金髪で碧眼《へきがん》のモロに貴族、しかも純潔の貴族だと一発でわかる美女が厳しい目つきですっくりと立っていた。この国の貴族の血筋(純潔に限る)は、白目《しろめ》にあたる部分までうっすらと青いのですぐに見分けがつくのだ。
ピカピカに磨き上げられた銀色の鎧《よろい》で全身を覆《おお》った彼女は、両足を少し開き、床に突き立てられた剣の鞘《さや》に両手を乗せていた。
なまくらな弟子を前にした怒れる師範代《しはんだい》みたいだが、着込んでいる鎧《よろい》が巨大すぎ、どうも実際の威厳には乏しい。
鎧《よろい》美女(とりあえずセルフィーが名付けた)の横には短く刈り込んだ金髪の、同じく貴族らしき男性が困ったような顔で立っている。こちらは平服で、さらにその瞳を見る限り、純潔の貴族というわけではなさそうだった。
「遅いっ、時間ギリギリですっ。上将軍《じょうしょうぐん》ともあろう方が、そのようなことでは内外に示しがつかないではありませんか!」
顔に似合った厳しい声音《こわね》で、鎧《よろい》美女はぎゃんぎゃん喚《わめ》く。
レインはうんざりした様子で一瞥《いちべつ》し、心底嫌そうに言った。
「おまえは、ほんっとに進歩がないな」
「なんですとっ」
険悪なムードなのを察してセルフィーは、
「あの。ではわたし、外の受験生達の所へ行きますね」
「どうせもうすぐ入ってもらうんだ。もうここにいろ。……例えガキンチョでも、女が近くにいるのは悪い気分じゃないしな」
「そ、そうですかっ」
なんか、むちゃくちゃ失礼な言い草のような気がする。多分、この人は敵が多いだろうなあとセルフィーは思う。なぜか彼女自身はあまり腹が立たないのだが。それは、レインの功績《こうせき》を知っているのと、その強さを実際に目《ま》の当たりにしたからかもしれない。
あれだけの実力を身につけるには、さぞかし苦しい努力も積み上げていると思うのだ。
「おい……」
そのレインは鎧《よろい》美女の前に立つと、つま先でその鎧《よろい》の足をコツンと蹴飛ばした。
「その恰好《かっこう》はよせと言ったろ、セノア!」
「け、蹴らないでください。無礼ではありませんかっ」
「無礼もクソもあるか。即刻、脱げっ」
「その言い方、どこか卑猥《ひわい》ですねえ」
もう一人の若者がのんびりと口を挟む。
あまりにくだらない内容のせいか、双方から無視された。
「だいたいだな――」
レインは、セノアと呼んだ女性にズケズケと、
「その恰好《かっこう》で歩けるのか、えっ?」
「も、もちろんですとも! 歩けなくてどうします……」
「最後の方、声が小さくなったぞ、こらっ。試しにちょっと歩いてみろ」
「なんでそんなことを」
「嫌だと言うなら、その鎧《よろい》をまっぷたつにしてやる!」
魔剣の柄《つか》に手をかけ、レインが恫喝《どうかつ》を加える。この人なら本当にやるかもしれないとセルフィーは思ったが、セノアもそう考えたようで顔色が変わった。
「冗談ではないです! この鎧《よろい》は、我がエスターハート家伝来の――」
「いいから、歩けっての!」
「わ、わかりました。いいでしょう、歩きますよ。なんでもないことですからね」
セノアは、何かを覚悟するように大きく息を吸ってから、ゆっくりと足を持ち上げて歩を進めた。一見、「楽々歩いてますよ、私は」という表情なものの、五歩も歩かないウチに白い額にびっしり汗をかき始めたので、真実は明らかである。
無理になんともない顔をしようとするので、かえって笑える。レインの前を通り過ぎる時には、もう呼吸が乱れていた。
「おっと、足がすべった」
突然。レインがそこへ、ひょいとばかりに足を出す。
「ああっ!?」
騒々《そうぞう》しい音を立て、金属の固まりが床に倒れ込んだ。
「なにすんですかあっ。今日という今日は許しませんよっ。名誉ある上級騎士の私にこんな恥をかかせて――」
ジタバタするのはいいが、セノアはどうも立てないらしかった。無闇《むやみ》やたらと、手足で床を叩いているだけである。やかましいだけで、起きあがることすら出来ない。セルフィーの見るところ、鎧《よろい》のサイズが大きすぎ、かつ重すぎたのが敗因だろう。
「ううっ。た、立てない……」
あっちへゴロゴロこっちへゴロゴロしつつ、なんとか立とうともがくセノア。
そんな彼女に目を落としながら、レインは吐息《といき》混じりに、
「おいレニ。……こいつの鎧《よろい》、さっさと引っぺがせ」
「りょ、了解ですっ」
傍《かたわ》らに立っていた若者……レニは、笑いを堪《こら》えているせいか、真っ赤な顔をしていた。
もがくセノアからなんとか鎧《よろい》をはがすことに成功し、やっと彼女は立ち上がることが出来た。無理もないが、もの凄く怒っている。せっかく綺麗なのに惜しいなあとセルフィーは思う。
「受験者に威厳を示そうと、わざわざ用意してきましたのに」
怨《うら》みがましい声でブツブツ言うセノア。
レインは情け容赦《ようしゃ》なく、
「馬鹿たれ! 着込んで動けなくなるような鎧《よろい》が役に立つか。いい加減で自分の力量を知れ。愚《おろ》か者、甲斐性《かいしょう》なしっ」
「うっ……そこまで言わなくても」
セノアは傷ついたように視線を泳がせ……セルフィーに目を止めた。
「先ほどから気になっていましたが、この女性《にょしょう》は誰ですっ」
いきなり八つ当たりされた。
「わ、わたしですか」
「ああ、こいつは――」
レインはめんどくさそうに、
「さっき城門で出会ったセルフィーとかいう名の受験者だ。騎士になりたいんだと」
「受験者なら、外で待機しているはずでしょう。なぜここにいるのですっ」
不機嫌丸出しの声でセノアが追及する。セルフィーは思わずあやまりかけたが、先にレインが蝿《はえ》でも追うように手を振った。
「まあ、女がそばにいると場が華やぐからな。それに、どうせもう時間だろう」
「そうそう。自分も可愛らしいお嬢さんがそばにいることに異存はありません」
レニが熱心に賛同した。同時に、セルフィーににこっと笑いかけてきた。お返しに微笑み返したけれど、絶対引きつった笑顔になっていると思う。
「レニ殿! それは問題発言でしょう」
「よせって!」
レインはセノアを制し、
「もう時間なんだから、ささっと終わらせて昼飯にするぞ。――おいっ」
声を張り上げ、戸口で控えた兵士二人に入れろと合図した。
『はっ』
敬礼を返した兵士達の手で扉が大きく開かれ、どっと受験者が入って来る。
「よし、おまえも向こうに行ってろ、セルフィー」
「は、はいっ」
言われ、早くもガチガチのセルフィーは、受験者達の方へ戻った。
「おおざっぱでいいから、四列くらいに並べ」
レインのやる気なさげな声に従い、百人近い受験者が列を作る。一番うしろに並ぼうとしたセルフィーは人混みに揉《も》まれ、気付いた時にはなぜか列の一番前にいた。レイン達から数歩くらいしか離れていない。
ひぃ〜、き、緊張するよ〜。
勝ち抜き戦だとか言われたらどうしよう。
まだなにも始まっていないウチから、もう汗だくである。
なにしろ、夢がかかっているだけではない。生活もかかっているので緊張せざるを得ない。
試験に失敗して宿舎に泊まる目算が崩れ、橋の下辺りで夜を明かす自分の姿が目の前にちらつく。
で、モノの十日もしないウチに、夜の仕事に落ちぶれたりしているわけだ……いや、今でもかなり落ちぶれているが。
『あの、私を一晩買ってくれませんか』
こんなの、絶対にいや。
あ、でも、こんなやせっぽちの女の子ではそれもままならないかも。
ああ、なに考えてるんだろう、わたしっ。
と、とにかく勝ち抜き戦だけは止めてほしいです……怖いから。
セルフィーが秘かにそう願っていた時。
レニがレインに向かって、
「やっぱり、ここは勝ち抜き戦で決めますか、将軍」
この人、嫌い。嫌いですっ。
理不尽な怒りが燃えさかる。
しかし幸いなことに、レインがあっさり却下した。
「いや、そんな面倒なことやってられるか、昼飯も近いのに」
ほっと肩の力が抜けた。
将軍、セルフィーはあなたにどこまでもついていきます。
今だけかもしれないが、本気でそう思えた。
尊敬と感謝の視線を捧げる少女にはまるで無頓着《むとんちゃく》に、レインはざっと受験生を見渡して眉根《まゆね》を寄せた。
「うわ、ほとんどむさ苦しい男ばっか。これは早く終わらせるに限るなぁ」
「お待ちください、将軍!」
気力を削《そ》ぐ発言で弛緩《しかん》した空気が、またピリリと緊張した。
セノアが紅潮《こうちょう》した頬《ほお》で割り込む。
「その前に、彼らに私から一言だけ言わせてくださいませんか」
「まあ……どうしてもと言うのなら、言わせてやらんこともないが」
言外に「遠慮しろ、馬鹿」と言いたそうなレインの表情を見もせず、セノアはすぐに「ではっ」と言って口を開いた。
「聞けっ、諸君!」
甲高《かんだか》い声でまず一喝《いっかつ》する。
受験生達が反射的に気を付けの姿勢をとるのを確認してから、セノアは得々《とくとく》と演説を始めた。
『今、我が祖国サンクワールは未曾有《みぞう》の危機にあるっ。大陸北部地方の強国、にっくきあのザーマインの侵攻は、まだ先月のことに過ぎない。前回は辛くも退《しりぞ》けたが、もしまた同様の侵攻があれば、国の要《かなめ》たる我々騎士が最前線に立たねばならないのは明らかであるっ』
どこが一言なんでしょうか、とセルフィーは疑問を覚えたが、セノアはいよいよ赤い顔して(興奮しているらしい)、さらに舌の滑りがよくなった。
『敵のレイグル王は、既に多くの兵士を徴募《ちょうぼ》して軍に補充し、着々と体制を立て直しつつあるという。それが新たな戦いの準備に相違ないことは言うまでもない。故《ゆえ》に! 我々としても大いに軍の増強を計り、敵の侵攻に対処すべくここに騎士登用のがぼっ』
突然だった。
モノも言わずにレインが金髪美女の頭を、魔剣ごと鞘《さや》でぶっ叩いたのだ。たまらず両手で頭を押さえ、その場にしゃがみ込むセノア。
「い、痛い……」
余程傷むのか、碧眼《へきがん》が涙で光っていた。
「当たり前だ、あほうっ。一言だと言ったろ。長い話をおっぱじめるんじゃない」
「うう、こぶが……。もうちょっとで終わるところだったのですよ! それを!」
「駄目だ。俺の昼飯をこれ以上遅らせるのは我慢ならん」
頭の中の八割くらいが昼飯で一杯になっているようで、レインはもうセノアを省《かえり》みもせず、とまどう受験生達に命じた。
「みんな、手持ちの武器を構えて、俺の方を向け! 構え方は好きずきでいい」
ガチャガチャガチャ
混乱した表情で、全員が武器を抜いた。互いに距離を取り、言われた通りにレインに向かって正眼《せいがん》でかまえる。中には大上段にバトルアックスを構える剛の者もいた。
レインは一渡《ひとわた》り眺め、
「うむ。そんなもんでいい。で、ここからが試験だ」
さっと緊張が走る。
中古の剣を手にするセルフィーも、もちろん緊張していた。
まさか、一斉にかかってこいとか?
ところがレインは、
「俺をサンクワールの上将軍《じょうしょうぐん》と思うな。憎い憎い敵だと思え! 一瞬後には斬《き》りつけるつもりで気合いを入れて見ろ! さ、はじめっ」
なんじゃ、そりゃああっ!
おそらく、声にすればそんな内容の、無言の抗議がその場を覆《おお》い尽くした(ような気がした)。素直なセルフィーでさえ、それでみんなが納得するのだろうか、と思った。
一定レベル以上の実力者から、ある種の力の波動を感じることについては、セルフィーもとうに気付いている。レインの意図するところは、まさにそこなのだろうと思うけど――
それでいいの……ほんとに?
わたし的には、怖くない分、嬉しいかも。
「おい、やる気のないヤツはとっとと帰れ。さっさと始めろ、さっさと!」
一番やる気のなさそうな当人のくせして、レインは「文句あるか!」とばかりに受験生の群れに、そして今にも抗議しそうな顔の部下二人に、ぐぐっと睨《にら》みをくれていく。
一人だけ、ごついバトルアックスの巨漢《きょかん》がむっとした表情で前に出かけたが、結局思い直したのかまた元の位置に戻った。
他にも、ささやかな不平不満を漏らす声がさざ波のように広がり、そして尻すぼみに消えていく。馬鹿らしいが、まあ付き合ってやるか……皆そんな表情で改めて武器を持ち直す。
「よし、サクサク始めろ、サクサク。いいか、一瞬後には斬《き》りかかるつもりで気合いを入れるんだぞ。後がないと思えっ。斬《き》りかからなきゃ、俺に殺される……そう思うんだ」
鋭いモノを含んだ口調に、少しだけ空気が引き締まった。しん、と場内が静まりかえる。セルフィーはとうに気合いを入れ始めていた。唇をぐっと結び、あらん限りの気合いを入れ、大きな瞳をすっと細める。
この人は敵、倒すべき敵よ!
途端《とたん》に、周囲のざわめきが耳から遠ざかった。
感覚がとぎすまされていく。周りに受験生達がひしめいているのを忘れ、自分のただならぬ境遇(つまり宿無し)すら頭の中からすっぽりと抜け落ちた。いつでも剣を振るえるように柄《つか》を握る手にはさほど力を込めず、視線は片時も敵の姿から外さない。無意識の内に、左足をやや引いていた。もう、いつでも踏み込める。
その時、確かに見えない何かが、敵――すなわちレインに伝わったのかもしれない。
リラックスした姿勢で受験生を眺めていた彼が、誰かに声をかけられたかのように頭を巡らせ、セルフィーと視線を結んだ。
ほぉ? という目で、唇の端をつり上げる。
それは、噂に聞いていた以上にふてぶてしく不敵な笑い方だった。
そして、いきなりの反撃っ。
それこそ思いっきり豪快なのが来た!
どんっ!!
そんな風圧を感じたように思う。もちろん、現実に風が吹いたわけではない。しかし、暴風のごとき圧力を感じ取ったのは事実だ。
顔中から一気に汗が噴《ふ》き出す……なぜかレインが、そびえ立つような巨人に見える。
その強大な相手が、がっちりと視線を捉えてきた。目が離せない。
怖いほど澄《す》んでいて、しかもこちらの心底まで見通しそうな真っ黒な瞳。今やその瞳が、視界の全てを占めている。
普通の人間がゆっくりと登る道をとうに越えてしまった男が、真っ直ぐにセルフィーを見つめていた。自分が今相手にしているのは、人間以上の境地に達した存在なのだと思い知らされた。
おそらく相手は本気ではなく、遊び半分でちょっと自らの『力』を闘気に籠《こ》めただけだと思う。なにしろ魔剣に手を触れさえしていないのだから。
『さあ、これから斬《き》りかかるぞ……用意はいいか?』
そんな風に、戦う直前の状態に自らの意識を高めてみせただけなのだろう。
まるで本気ではない。子犬にじゃれつかれた人間が、ちょっと相手をしてやったようなものだ。そのくらいは見当がつく。
それでも――
この時確かに、セルフィーはレインの力の一端に触れたのだった。
足下《あしもと》が頼りなくなり、知らず知らずのうちに後退《あとずさ》ってしまっている。相手の闘気はこちらの気力を吹き飛ばし、最後に残った意地すらも砕きかけていた。剣先が揺れている……小刻みに、主人の動揺をそのまま映したように。圧倒的な不可視の力に圧迫され、膝も震え出した。場内の何カ所かで足摺《あしずり》のような音がした。他にもレインの力を感じた者が幾人かいるらしい。怖じ気づいて、姿勢を崩した者が。
もう駄目っ、絶対に床にへたりこんじゃう!
耐えきれずにセルフィーが悲鳴を上げかけた時、唐突にレインは視線を外した。
全身を圧していたプレッシャーが、すうっと勢いを減じる。
何事もなかったように、レインが号令。
「よし、そこまで。試験終了だ」
がっくりと膝をついた。
つかずにいられなかった。
気が抜けたように吐息《といき》を漏らす者がほとんどの場内で、セルフィーは激しく呼吸を乱している。同様の者が、あと数人くらいいたようだが、確認する気力もない。
本当に殺されるかと思った。
「あ〜、それでは即合格者の発表をするからな。まず、セルフィー」
「ふえっ!?」
「いや……ふえっ、じゃなくて、おまえだよ。またパンツが見えているぞ?」
ええっ!?
蹴飛ばされたように立ち上がった。
「嘘だ。やっと正気に戻ったか」
レインはもうセルフィーには目もくれず、「あ〜、それから二列目の前から二番目と、あとは――」などと、どんどん合格者を指名している。そのほとんどは、セルフィーと同じく汗だくで床にへばっている者達だった。
じわじわと喜びが込み上げてきた。
これまでの緊張はどこ吹く風、騎士になる夢が叶いそうになったことに素直に感動する。最初は騎士見習いからに決まっているが、それでもつい先ほどまでに比べれば、格段の進歩だ。それこそ一気に道が開けた気がする。
ただちょっと気になるのは、自分なんかが合格でいいのか、ということだが。だって、全然相手にもならなかったのに。
「――と、ここまで。あとは残念ながら失格だな」
合格者指名の声が止んだ。
固唾《かたず》を呑んでいた受験生の多くは、声にならない悲鳴を上げていた。受験方法に、納得いかない者がほとんどなのだろう。
このままでは――
『おいっ、それはねーだろうっ』
あ、やっぱり不満が出た。
その不満の主《あるじ》はさっきも文句を言いそうだったバトルアックスの大男で、列から抜け出し、のしのしと前へ出た。
間近から、レインをぎんっと睨《にら》む。
長身のレインよりまだ頭一つ分は高く、加えて横幅はもう問題にならないほど差がある。年季の入った革製ベストの下で、くっきりと割れた筋肉の山が存在を主張している。
なんか汗くさそうです。
悪いとは思ったが、それがセルフィーの感想である。
レインが傍目《はため》にもわかるほどうっとうしそうな顔でピッと大男を指差し、
「なんだこれは?」
隣のレニに訊《き》いた。
大男がくわっと目を剥《む》いた。怒っている、むちゃくちゃ怒っている。
訊《き》かれたレニは、手に持った名簿らしき紙切れにアセアセと目を落としていた。セルフィーはそれらの誰よりも先に反応した……が、まだ足が震えているので、実際の行動としては老婆のように前へよろばい出た。
「あのっ。将軍様にお尋ねしたいことがありますっ」
「なんだよ。おまえは合格だっていうのに、それがなんか不満なのか。落とされた方がいいのか」
今にも手が出そうな横目を使われた。
「まさか! 不満なんてありません。ただですね」
「ただ、なんだ?」
「……わたしは、将軍様に全く歯が立ちませんでした。それなのに、どうして合格出来たのでしょう」
「おまえなあ」
レインは救いがたい低能を見るような目つきをした。
「とりあえず、その『将軍様』をやめろ」
最初に釘を刺し、続ける。
「おまえ、俺と向き合ってどう思った?」
「ええっ。将軍さ――いえ、将軍のことですかぁ。そのぉ……」
セルフィーはやりとりに聞き耳を立てているセノア達や、事態の急な展開についていけずにポカンとしている抗議男を順繰りに見やり、ごくごく小さな声で返した。
「その、将軍は精悍《せいかん》なお顔でなかなかハンサムだと思いますけど、わたしとしてはもう少し優しい感じのお兄さんタイプが好きなわけで――きゃんっ」
ガンッ
鞘《さや》(魔剣入り)で頭をぶっ叩かれた。
目から盛大に星が飛ぶ。さっきのセノアの気持ちが存分にわかった。頭が割れたかと思ったほどで、セルフィーは祈りを捧げる修道女のような姿勢でへた〜っと床に両膝をついた。どこが「この上なく女に甘い」のだろうか。全然話が違うでは。
「……とっても……痛いです」
文字通り、声を絞り出した。
「当たり前だっ。誰がおまえの好感度を訊《き》いてるんだよっ。なにが優しいお兄さんだ、厚かましいっ。だいたい、俺だっておまえみたいなガキンチョはお断りだっ」
わたし、もう十七歳なんですけど。
なんとかそれだけ言えた。まだ頭がガンガンして、それ以上は声にならない。
「十七じゃ、俺から見りゃ十分ガキンチョだろうが。そうじゃなくて! さっきの見えないやりとりの話だ。あれについて訊《き》いてるんだ!」
「あ、それなら――」
さらなる回復を待ち、
「凄いと思いましたっ。強いのは知っていましたが、でも、あれほどの『力』を感じるなんて! 将軍は、絶対自分で言う以上に強い人です!」
「……ふっ」
目に見えてレインの機嫌が回復した。
ひとしきり髪をかきあげてから、除《の》け者にされていた筋肉ムキムキの抗議男を指差す。
「つまり、それが理由だ。おまえはまだまだ弱いが、少なくとも相手の力量を読みとることは出来た。けど、この汗くさい男は全然っ、わかってない。だからおまえが合格でこいつは落第なわけだ。理解したか?」
……そう言われると、そうかも。
レインの闘気を感じることが出来たのは、それはそれでポイントには違いない。
「……なんかとっても納得できたかも」
「納得できるわけねーだろっ」
コクコク頷《うなず》いたセルフィーを見て、夢から醒《さ》めたように抗議男が喚《わめ》いた。
レニが今頃になって紙面から顔を上げ、
「あ、将軍、見つけましたよ! この人の名前は」
「んなの、どうだっていい!」
せっかくの努力を一蹴《いっしゅう》するレイン。
男にガンを飛ばし、唇を歪《ゆが》める。
「俺の試験方法に随分と不満みたいだな」
「ったりめーだっ。あんなわけわからん方法で誰が納得する、えっ?」
大男は太い眉毛を怒らせて吠《ほ》え立てた。まだ場内に残っていた元受験生達も、何人もが遠巻きにして秘かに頷《うなず》いていた。
「第一、どう考えたってそのガキより俺の方が強いに決まってんだろっ」
ぶんっ、とバトルアックスをセルフィーに突き付け、男は胸を反らした。胸筋がベスト越しに凶悪に盛り上がる。今にもボタンがはじけ飛びそうだ。
「ひっ」
怖さというよりおぞましさから、セルフィーは後退した。
「げっ……醜い。どこでも必ずいるんだよなあ、こういうヤツ」
レインもまた、顔をしかめて男と距離を取る。
「これまで馬鹿力だけで世の中渡ってきて、なまじそれでなんとかなったものだから、これからもそれで通そうと思ってるヤツ。自分が弱いことを自覚してないってのは、始末に負えん」
「な、なんだとうっ」
レインは怒声を涼しい顔で聞き流し、ニッとふてぶてしく笑った。
「おまえが嫌でも納得できるようにしてやろう。今から俺がぶん殴りに行くから、見事防いでみろ。避けるなり殴り返すなりが出来たら、騎士でも将軍にでもしてやるさ。それで文句あるまい!」
「なにっ。……ホントか!?」
「無論だ。だいたい、おまえごときに手こずっていて将軍なんか務《つと》まるか! 心おきなく反撃すりゃいいさ」
おまえごとき、という部分であからさまにむっとした名無しの筋肉男だが、レインの申し出を咀嚼《そしゃく》するウチに相好《そうごう》を崩した。無精髭《ぶしょうひげ》の生えた顎《あご》をさすり、きひひひ、と下品に笑う。早くも脳裏《のうり》では、上将軍《じょうしょうぐん》を倒して後釜に座った自分の栄光の姿が、ありありと映っているのかもしれない。
セルフィーも、半時間前ならレインが叩きのめされる姿を想像したかもしれないが、今は意見が異なる。
わかってないのだ、この人は。
「おめー、後悔するぜ。ガッハッハ!」
バトルアックスを腰に戻し、男が天井を吹き飛ばす勢いで豪快に笑う。言葉遣いがすっかり対等になっているのは、この後の結果を疑っていないからだろう。
レニが、牛肉にされる運命の牛を見るような目で男を眺め、セノアは止めようかどうしようか迷っているようだった。
肝心《かんじん》のレイン本人は、男と一緒に笑っていた。
「ハッハッハ!」
合唱するかのように声を揃《そろ》えて笑い、途中でふっと表情を消した。
「で、用意はいいか」
「おう、いつでもいいぜ。かかって来い」
そう言った次の瞬間――
「ブッ!?」
男は鼻血を噴《ふ》きながら宙を飛び、右手の壁に巨体を叩き付けられた。本当に十メートルくらい飛んだかもしれない。
男の体重を考えれば有り得ないが、目の前で起こったのだからしょうがない。
最初からじっと見つめていたセルフィーでさえ、レインの動きを把握できなかった。ただ、城門の時のように微風が起こり、近くにいたセルフィーの前髪をふわっと持ち上げた。
そして黒い残像が一瞬だけ見え、ずららっと連なって消えた。
それだけ。
わっ、と思った時にはもう、大男は床にうつ伏せになって痙攣《けいれん》していた。全然動かない。というか、すっ飛んだ距離からして当分目を覚まさないような。
「……弱すぎて話にもならないな。やっぱり失格」
持ち上げた拳《こぶし》を下ろし、レインがからりと言う。おかげでやっとセルフィーにも、「あ、そうか、殴ったんだ」と理解できた。それまでは動きが速すぎて、レインがなにをしたのかさっぱりだったのだ。
「――それで?」
レインは見物していた元受験生にさ〜っと視線を走らせる。
「他に誰か不満のある者は? 抗議ならいつでも受け付けるぞ」
反応は素早《すばや》かった。皆が一斉に首を振った。合格した者まで振っていた。
「わかればよし。では、試験はこれでつつがなく終わりだ」
レインがエラそうに総括する。
とその時、綺麗なソプラノの声が響いた。
「レイン!」
とても嬉しそうな少女の歓声が、静まりかえった場内に響いた。
えっ。
声のした方……背後の正面入り口ではなく、右手の壁にある小さな出口に一人の少女がぴょこっと顔を出し、見つけたっと言わんばかりの笑顔を見せていた。
なんて……美しい……
感動のあまり合格の喜びさえ、一時吹っ飛んだ。
一瞬言葉を失うほど、容姿の整った少女だった。わずかなくすみもない見事な金髪がまっすぐに腰まで伸び、貴族の特徴を示す真っ青な瞳はうらやましくなるくらい大きくて愛らしい。
さらに、優しい形をした眉やくっきりした鼻梁《びりょう》に白磁《はくじ》の肌など、神に特別|贔屓《ひいき》されているとしか思えない。
過去、なんども「可愛いね」と誉められたことのあるセルフィーなのに、この少女の前では自分など、月と太陽ほどに差がありそうな気がする。
どれほどの麗人《れいじん》でも、その気になれば次々と欠点をあげつらうことが可能なものだが、この子に関してはお手上げだった。まさに完璧である。
こんな綺麗な女の子がいるんだ……セルフィーはほれぼれと見惚《みほ》れた。自分が男だったら危なかったと思う。一目惚《ひとめぼ》れしてしまったかも。
その少女は、足下《あしもと》に転がっている汗くさい筋肉男に気付いた様子もなく、レインを見てぱあっと顔を輝かせていた。
もしかすると、セルフィーを含めた大勢の見物人ですら目に入っていないのかもしれない。それくらい一途《いちず》な瞳でレインだけを見ている。
彼女はすぐに、レイン目指してとてとてと駆け出す。とてもとても嬉しそうな表情で。
謎の美少女の正体はすぐに割れた。
セノアとレニが恭《うやうや》しく一礼し、レインが友達に声をかけるような気安さでこう言ったのだ。
「やあ、姫様」
ええ――――――!?
水面に広がる波紋のように、見物人達に動揺が広がった。
このサンクワールで姫様と呼ばれそうな人物は一人しかいない。すなわち、次期国王と目されている、シェルファ王女である。近々|戴冠式《たいかんしき》が予定されており、その式典が済めば、名実ともに国王ということになるだろう。いや、今だってもう国王みたいなものだ。
サンクワールでは、親から子へと王位が受け継《つ》がれるのが原則である。
王族と呼ばれる貴族はそこそこ数がいるのだが、この基本原則からすると、彼女が次期王となるのが当然なのだ。
へへぇーーーっ!!
今にもそんな声が聞こえそうな態度で、皆その場に片膝をついた。まあ、王女など雲上人《うんじょうびと》だし、主君というわけでもないのだけれど、これは国主に対する礼儀というものである。
どういうことかというと、上将軍《じょうしょうぐん》レイン旗下《きか》の騎士見習いであるセルフィーの主君とはあくまでもレインであり、シェルファ王女ではない。
これは、シェルファが王になっても変わらない。他の国ではいざ知らず、この国では騎士は自分の仕える領主こそが主君で、セルフィーの真の主君はレインになる。極端な話、レインが「シェルファを打倒して、いっちょ俺がこの国の王になるぜ、ガッハッハ!」と言い出せば、セルフィー達騎士はその方針に従うのが一応の基本なのだ。
レインがシェルファに仕える騎士だとしても、セルフィーから見ればそういうことなのである。彼が彼女の臣下《しんか》だから、セルフィーの主君もシェルファ、とはならない。
ややこしいことだが、この国における王とは、(血筋は当然として)国内最大最強勢力を保持する領主のことである、と言えなくもない。
とはいえ、そんな面倒な図式はあくまで建前上の原則であって、やっぱり次期国王は次期国王。礼を尽くすのは当然である。
片膝をつくどころか、気分的には床板に額をこすりつけたいくらいだ。なにしろ、つい数分前まで宿無しの庶民だったことだし。
そういうわけで、セルフィーも皆に習って大焦りで膝をつこうとしたのだが――。間抜けなことにまだ足のふらつきが完全に回復していなかったので、バランスを崩してこてん、と倒れてしまう。当然、またしてもスカートが派手にめくれた。
レインはすかさずさっと目をやり、失礼にも「もう飽きたなあ」とコメントした。
加えて、
「さっきから見ていると……おまえはアレか、定期的に下着を見せんと、辛抱《しんぼう》たまらん性癖でもあるわけか?」
絶対に顔が真っ赤になったと思う。
「そ、そんなわけないじゃないですかっ。だいたい、いるんですかそんな人っ」
「いるさ」
あっさりとレイン。
いや、そう言われると。
勢いを削《そ》がれ、セルフィーはバツの悪い顔で改めて膝をついた。頭をさげて王女に赤面した顔を見せないようにする。でも、こっそり上目遣いで二人の様子だけは窺《うかが》っておく。……王族を目にする機会などかつてなかったので、興味|津々《しんしん》なのだ。
王女は「まあ」という風に小さな手を口元にやり、目を丸くしていた。どうやら本当にセルフィー達に気付いていなかったらしい。
「あの……お邪魔でしたか、レイン」
そっとレインの背中に隠れる素振《そぶ》りを見せた。内気な性格の王女なのかもしれない。
「なに、もう終わった所です。今日は騎士の一般公募試験をやってたんですよ」
「そうですか。それで……あそこに倒れている方は?」
これまた今になって、王女は向こうでぶっ倒れている男をおずおずと見やった。
床とキスしているデカい顔の下で、じわ〜っと流れた鼻血が、面積を拡大している。……悲惨な光景だった。
「あぁ〜、彼ですね」
レインはしれっとした態度でため息をついた。
「あいつは、図体の割に神経の細い受験生でして。試験中に緊張に耐えられなくなって、鼻血|噴《ふ》いて気絶しちまったんですよ。いやぁ、向いてなかったんですなあ……気の毒ですが失格でした。残念ですね。ま、意気込みだけはありましたが」
こ、この人はっ。
そこはかとなく非難の視線が集中したが、レインはしれっとした表情を崩さない。
「姫様こそ、なにかご用件でも」
「いえ、ただレインとお話したくて」
にこっと微笑む。
そのあまりの美しさに、またセルフィーは感動を覚えた。とてもきれい……でも、なんて堂々と好意を見せる人なんでしょう。うらやましいかも。
「あ、でもそう言えば」
王女が思いだしたように、
「ラルファスさまがレインを探していたようですわ」
なんでラルファス様だけ「さま付け」なんでしょうか。
セルフィーは、またすぐに思った。ラルファスという人がレインと同僚の上将軍《じょうしょうぐん》であることは知っている。というか、知らない者はまずいない。王族と関係の深い、筆頭貴族の一人だからだ。
ただ、そうはいっても、あくまでも臣下《しんか》である彼を丁寧に呼ぶのは王女様の性格|故《ゆえ》だろうけど、なぜレイン将軍の方は呼び捨てなんでしょうか。
以上の点を一言でまとめると「この二人は怪しいです」という所に落ち着くのだが、セルフィーはそこまで意地の悪いことは思わず、ただ、「主君とうまくいってる人の下について良かった〜」と安心していた。これなら、末永く正騎士として(今はまだ見習いだが)レインの下《もと》で働けるだろう……
とにかく、この時はそう思ったのだ。
後に、彼女は自分の甘い見通しを思い出して滂沱《ぼうだ》することになる。
ともあれ、レインは王女の言葉を聞き、
「あいつが呼んでいる? ははぁ」
一人で納得したように頷《うなず》いた。すぐに部下二人に「おい、後は任せた」と言い置き、王女と一緒に立ち去ろうとする。なぜか怒った顔のセノア、うらやましそうなレニ、そんな部下二人が軽く低頭《ていとう》した。
そこに至り、やっとセルフィーは、自分の追いつめられた状況を思い出した。
黒い背中を大|慌《あわ》てで呼び止める。
「あのっ、将軍!」
「なんだ?」
振り返った主従二人に見つめられて、セルフィーはまた頬《ほお》が熱くなった。よく考えたら、自分の主君たる将軍に尋ねるようなことではない。
「あの〜……」
「どうした、早く言え」
「はい。ええと……宿舎って今日からすぐに入れますか」
「……それを俺に訊《き》くか、おまえは」
やっぱり言われた。
「なかなか図太い神経してんな」
追い打ちまで食らった。
「す、すみませんっ」
「あのさ、騎士見習いの宿舎なら、ややこしい手続きとかあって、入れるのは最低でも五日後くらいだよ」
優しそうなお兄さんであるレニが、横から教えてくれた。初めからこの人に訊《き》けばよかったのである。
「あ、そうですか」
コクコク頷《うなず》いたものの。
セルフィーは泣きそうになっていた。注目浴びて恥ずかしいし、それに、五日後までどこで過ごしたらいいのだろうか。手持ちの全財産は銅貨数枚……食事一回分しかないでは。
これはいよいよ橋の下かと覚悟を決めかけた時、レインがぶっきらぼうに言った。
「いいぞ」
「えっ」
「今日から泊まればいい。特例として認めてやる」
ホントですかっ。
セルフィーが喜びの声を上げる前に、セノアが食ってかかった。
「将軍! そういう事を簡単におっしゃっては困りますっ。他の者への示しがつかないではありませんかっ」
「これだからお嬢様育ちはイヤだ」
唇を歪《ゆが》めてぼやくレイン。
「文句あるヤツは俺の下《もと》から黙って去ればいい、止めやしないぞ。だいたいだな」
わざとらしくふんぞり返る。
「俺の部隊では俺が掟《おきて》だ!」
「しかし――」
「やかましいっ。……レニ、こいつが宿舎に入れるように手続きしてやっといてくれ」
「はいはい、お任せくださいな」
にこやかにレニが頷《うなず》く。
心の底からほっとした。食事の方はパンの切れ端でもかじってなんとかするとしても、寝る場所だけはどうにもならない。有り難かった。
「まあ、しっかりやれ」
などと、安堵《あんど》したセルフィーの肩をレインがポンと叩く。そこで他の者には聞こえないように囁《ささや》かれた。
「荷物置いたら、後で俺の部屋へ来い」
えっ。ぱっと見返したが、もうレインは王女を促《うなが》し、何事もなかったように歩き去っていた。
後で部屋へって……なんででしょうか。
もはやセルフィーの顔色は完熟リンゴみたいになっていた。
ま、まさか……ね。
そういう意味じゃないですよね……
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第二章 王女暗殺
陽光の下《もと》へ出て閑散《かんさん》とした王宮の裏手を歩き始めると、レインはすぐに足を止めて誰にともなく声をかけた。
「ご苦労だった」
「えっ」
そぉ〜っとレインと腕を組もうとしていたシェルファは、慌《あわ》てて手を引っ込めた。いつの間にか、誰かがこっちを見ている。
城壁のそばに等間隔で植えられた木立《こだち》の影から、陽炎《かげろう》のようにゆらりと登場したらしい。
黒いマントをばさりとさばき、優雅に一礼などした。
見覚えがあった。先の戦いのおり、レインの近くに影のようにはべっていた男である。いつも不機嫌そうな顔をした人だったが、今もまた、なにがそんなに気に入らないのか眉間《みけん》に深々と縦皺《たてじわ》を寄せていた。笑ってさえいればかなり見栄えのする青年のはずだが、慇懃《いんぎん》かつ渋い顔つきのせいでだいぶ損をしている(と思う)。
確か、名前はギュンター・ヴァロアといったはず……記憶力のいいシェルファは、下の名前まで正確に思い出した。
それにしても神出鬼没《しんしゅつきぼつ》な人である。
「変わりは?」
不審を覚えるシェルファと違い、レインはまるで待っていたかのように問いを発した。
「ございません」
そう答えた後、ただ、とギュンターは語尾を濁した。
「うん?」
「怪しい気配を一度ならず感じました。よもやとは思いますが、既に侵入されている可能性もあるかと」
「ふむ。今月の警護はラルファスの担当だが、あいつは手を抜くような男じゃない。向こうが手慣れてるんだろう。おまえにまだシッポを掴《つか》ませない用心深さといい、でかいバックが背後にいるな」
「はっ。お考えの通りと拝察……」
レインは少しだけ沈思《ちんし》し、すぐに頷《うなず》いた。
「わかった。ここからは俺がついている。おまえは調査に専念してくれ」
「はっ」
シェルファの記憶ではおそろしく愛想の無かったギュンターではあるが、レインに対してはひどく素直だった。一言の質問も返さず、再度|恭《うやうや》しく一礼した。
「あの」
そこでどうしても辛抱《しんぼう》できなくなり、シェルファは口を挟んだ。
「レイン、なんのお話でしょうか?」
「ああ、悪い。チビにとっちゃ、ちんぷんかんぷんだったよな」
はい、と返してからはっとした。
ここにはギュンターもいるのに、レインは忘れているのだろうか。他の人がいる前では一応言葉遣いに気を付けろと言ったのは、レインの方なのに。
「いや、こいつはいいんだ」
顔色で察したのか、レインはぽふっとシェルファの頭を叩いて破顔《はがん》した。
「こいつは例外中の例外でな。ちゃんとその辺の事情は知ってる。お互い、隠し事はなしにしようって古い約束もあるし」
レインがそう言うと、ギュンターは唇に極微《ごくかす》かな、それこそ気を付けて見ていないと見落としそうな淡い笑みを見せた。すぐに消えてしまったが、シェルファはこの青年が微笑むのを初めて見た。
その時、きゅんと胸が痛んだ。馬鹿げたことだと自分でも思うが、彼に軽い嫉妬《しっと》を覚えたらしい。かつてのシェルファは、人との関わりを完全に捨てていたのでそういう感情とは無縁でいられたが、レインを知ってからはそうもいかなくなっている。最近はそんな自分にとまどってばかりだ。
「……あっ」
いつの間にか、レインとギュンターの二人が自分をじっと見ていた。
「安心しろ」
くしゃっとレインがシェルファの髪をかきまぜた。
「男と恋愛する気はない」
「あ、あのっ」
慌《あわ》てるシェルファに、レインはこだわりのない微笑みを見せる。
「しかし、おまえはモロに顔に出るな。もう少し抑えろよ。君主っていう仕事は、いけ好かないヤツを前にしても時に笑ってないといかんからなあ」
「はい……心しておきます」
なんとなく謝りながらも、レインに髪を撫《な》でられているとたちまち嬉しくて幸せ一杯になってしまう。わたしは気難しい女の子だ、と思っていたのが今や遠い過去だった。
二人でその場を離れてから、もう一度シェルファが振り返ると、ギュンターはまだ残っていて頭を下げていた。
二人の間になにがあったかは知らないにせよ、ギュンターがレインを深く尊敬していることは間違いないようだ。
ギュンターという人は「いい人」だ。
シェルファは内心でそう結論付けた。城内で閉鎖的な生活を送っていたシェルファにとり、世界にはいい人と悪い人、それに知らない人しかおらず、レインを尊敬する彼はもちろん「いい人」に決まっているのだった。
実は、いい人の上にはまだ、好きな人を飛ばして(いないため)「大好きな人」という段階があったりするが、そのポジションはシェルファ基準ではもう満員であり、今後増える予定も減る予定も絶対にない。
ちなみに、そこの定員は一人である。
「で、さっきのギュンターだけどな」
「はい」
「実は昨日からずっとおまえについていたんだ」
「……え?」
一瞬、足がとまりそうになった。
「でも、今まで一度も見かけませんでしたわ」
「まあ……あいつは目立たないからな。それに、なるべくおまえの気を煩《わずら》わせないようにって言っておいたし」
「はあ。それで、あの?」
「ああ、理由だろ」
シェルファがコクコク頷《うなず》くと、レインはひょいと肩をすくめた。
「これからラルファスにも説明しなきゃいけないんだ。二度手間になるから、ちょっとだけ待ってくれないか」
「……はい、レインがそう言うのなら」
あっさり首肯《しゅこう》した。
とにかく、わたくしのためにそうする必要があったのですね。
シェルファはそう一人決めし、疑う気すら起こさない。例えどのようなことを始めようと、レインが自分に悪《あ》しきことをするはずがない。そう信じているのだった。
それに、のんびり考えている場合でもなくなった。
もうすぐ宮殿裏手の入り口というところで、レインがふと立ち止まった。
今度こそしっかり腕を組んでいたので、それについて注意されるのかと思ったけれど全然別の理由だった。
「なるほど、怪しい気配ね。ギュンターのヤツ、上手いことを言う」
気配?
シェルファは急いで組んだ腕をほどき、背後を見、それから前方に目を戻す。
誰もいない。
左手に城壁があり、右手には宮殿がある。ただし、宮殿の見える限りの窓にはカーテンがかかっていて、誰かが覗《のぞ》いているわけでもない。もちろん、さっきのように木立《こだち》の影に人もいない。
しかし、レインが「気配がする」と言うのなら、絶対に誰かがいるに違いない。
自然とレインにもっと寄り添おうとした時、その彼が動いた。
といっても、実際にシェルファが見たのはレインの残像である。
腰を落とし、魔剣を抜いて下から上に振り上げる。そこだっ、という声に合わせるように、ブレた黒影が遅れて本人と重なる。相変わらず人間離れした反応速度だった。シェルファが瞬《まばた》きした時には、レインはもう攻撃動作を終えていた。
振り切った魔剣の軌跡《きせき》が、くっきりと青い半円を残す。
ガカッ
そんな破壊音がした。
遙《はる》か上方の城壁の一部が破壊され、破片を散らして弾けた。頑丈な石造りなのに、傾国《けいこく》の剣の「見えない斬撃《ざんげき》」には耐えられなかったらしい。
落ちてきた破片を避けるため、レインはシェルファを軽々と抱き上げ、さっとその場から退避した。突然の攻撃に驚くよりも抱いてもらったことが嬉しくて、シェルファは小さく歓声を上げた。
随分と呑気《のんき》だと自分でも思うが、レインと一緒にいると深い安心感があり、なにも気にならなくなってしまうのだ。
「ちっ。手応えはあったが……」
ドカドカと小道に破片が落ちてくるのを見上げ、レインは舌打ちする。
「コソコソ逃げるのだけは達者だな。俺の足なら今からでも追いつけるけど」
自分の腕に抱いたシェルファに目をやり、
「――そうもいかんよなぁ。おまえをほっとくのはまずいだろうし」
わたくしならここで待っていますよ。
シェルファがそう言おうと思った矢先に、ビィィィー、とけたたましい笛の音が響いた。付近の壁塔《へきとう》で見張りについていた兵士が、異常に気付いたのだ。
「お〜、さすがにラルファスの配下は真面目《まじめ》だな。コトが起きてからの立ち上がりが、早いこと早いこと」
呟《つぶや》き、シェルファを抱いたままいきなり走り出すレイン。
目指すは前方の入り口である。
「あの、残っていて見張りの方に説明しなくていいのですか」
「いいさ。ヘタに説明なんかしたら時間食うし、城壁が壊れたのを俺のせいにされたらたまらん」
俺のせいもなにも、誰がどう見ても今のはレインのせいだと思われるが、もちろんシェルファは咎《とが》めたりしない。そうですね、と素直に頷《うなず》く。
それよりも彼女にとっての不満は、「せっかく抱いてもらったのに、宮殿に入ったら降ろされてしまいますわ……」という一点に尽きるのだった。
ラルファス・ジュリアード・サンクワール
レインの名前を知らない者がこのサンクワールにいたとしても、ラルファスの名を知らない者はまずいない。
なにしろ家柄がとびきりいい。
サンクワールの歴史はおよそ千数百年の長きに渡るのだが、その建国の祖である五人の内の一人が(ちなみに、五人とも人間ではないという噂がある)彼の直接の先祖なのだ。
ちなみに、この建国の五人がサンクワール貴族の発祥《はっしょう》であり、直系の子孫は特に貴族達の尊敬を集めている。
当然ラルファスも、待遇的には準王族であり、傭兵《ようへい》上がりで爵位《しゃくい》も持たないレインとは、宮廷での扱いが全然違う。
仮に、なにかの事情で王の直系が途絶えた時には、ラルファスが王位を継《つ》ぐことさえ有り得る。
さらに、この国で貴族といえば「威張り散らすだけの役立たず」だと民衆の間では散々な不評だが、彼だけは例外である。圧倒的な民衆の支持を受けている。身内である貴族を特別視しないし、本人の性格もいいからだ。
部下の信頼も厚い。先の戦いで、早々と瓦解《がかい》した他の上将軍《じょうしょうぐん》の部隊に比べ、ラルファスの指揮する部隊が最後の最後まで崩れなかったのは、彼がそれだけ部下に慕《した》われていた証《あかし》だと言える。
で、その比類なき重要人物であるところのラルファスは、レイン達がノックもせずに部屋に入ると、席を立って驚いたように王女を見た。
ちょうど配下の騎士と話していたところのようで、彼に向かって指示を出す。
「あとで私も行く。とにかく警備を強化するように。それから、城門を閉じて今しばらく誰も出してはいけない」
はっ、と敬礼してから、その騎士はレイン達に一礼して急ぎ足で部屋を出て行った。
部下が扉を閉めると、ラルファスは政務を執《と》っていた机を離れ、王女の眼前で恭《うやうや》しく膝を折った。
「おはようございます、王女様。わざわざご足労いただき、恐縮です」
「おう。まあ気にするな、ついでだしな。でも、もうそろそろ昼飯時だぞ」
「おまえに挨拶《あいさつ》したんじゃない」
ラルファスは苦笑して立ち上がった。いつもながら輝くばかりの美貌《びぼう》だが、表情に少々疲れが見える。
「それより、今報告があったんだが……何者かが、城壁を一部破壊したらしい。なんのためにそんな真似をしたのかは知らないが」
「なんと、そんな破壊工作が!」
とレインは目を見開き、
「悪辣《あくらつ》なヤツもいるもんだ。そうか、城壁を……。許せんなぁ。全く油断ならん世の中だ」
腕を組み、痛ましそうに首を振る。その生真面目《きまじめ》な表情がおもしろくて、シェルファは思わず口元に手をやってしまった。否応なく、くすくす笑いが漏れる。
これがまずかったらしい。
ラルファスはいぶかしそうにシェルファを見、壁にかけられた平凡な静物画をやけに熱心に眺めるレインを見た。すぐに結論が出た。
「……おまえが犯人だったのか」
「おおっ」
ちょっとのけぞるレイン。
「なんでいきなりそうなるっ」
「ご、ごめんなさい、レイン」
シェルファが反射的に謝ってしまい、計らずも駄目押しをした。
「……やっぱりおまえじゃないか。レイン、まさか王女様を喜ばせるためにわざと破壊して見せた、などと言わないだろうな」
「おまえ、俺のことをなんだと――」
レインは絶句し、
「いくら俺でもそんな理由で城壁をぶっ壊したりするか! 例のアレだよ、本格的に現れたんだ」
「なにっ。姿を見たのか?」
「いや。黒い影だけだ。手応えはあったが、逃げられた」
「それは――」
言いかけたラルファスはなにかに気付いたように顔をしかめ、軽く咳払いした。
「……その話は、後ほど聞こう」
「今でいいじゃないか。そのために俺を捜していたんだろう」
レインは、許しも得ずに勝手に部屋の隅のソファーに体を投げ出し(すぐにシェルファが隣に座った)、ちらっとシェルファを見てから言った。
「本人に何も言わないのはどうかと思うぞ。おまえの気持ちもわかるが、はっきりと知らせるべきじゃないか? 判断するのは、主君の役目だしな」
「しかし――」
また何か言いかけたものの軽く息を吐き、ラルファスは自らもレインの向かいに腰を下ろした。
「そうかもしれない。それに、私も今朝方ギュンターから教えられた所だしな。詳しい話をぜひ聞きたいものだ」
「……なんのお話でしょう?」
シェルファはレインの顔を見上げた。
なにかこわい話なのだろうか。
白い小さな手がレインの腕に伸びかけ、寸前で思い止まる。ここにはラルファスもいるのだった。
不安顔のシェルファに、レインが実に気安く言った。
「つまり、あなたは暗殺者に狙われているんですよ、姫様」
息を呑み、シェルファはまじまじとレインを見返した。言葉の内容をちゃんと理解するまでにかなりかかった。
先ほどのレインの行動といい、これまでの会話といい、事実は明らかなのだが、シェルファには「まさか」という思いがあったのだ。
だって――
「……わたくしなど狙ってなんになるのでしょうか」
むしろ、驚きを籠《こ》めて尋ね返す。
無論、コトの重要性は認識しているのだが、命を狙われるほど自分が重要人物だとは、とても思えないのである。何しろ、今までが今までである。
臣下《しんか》二人は互いに顔を見合わせ、まずラルファスが口火を切った。
「王女様……ご心中はお察ししますが、御身《おんみ》のお立場はご自身がお考えになるより遙《はる》かに重いのです。狙う不埒者《ふらちもの》がいても不思議ではありません」
なんとか言葉を選ぼうと腐心《ふしん》するラルファスを横目に、レインがざっくらばんにぶちまけた。
「ていうか、敵の主君を倒すのは相手を自滅させるのにもってこいの手段なんですよ、簡単に言えば。特に、この国は現時点、姫様以外に後継者がいないですしね」
「おい、レイン!」
「わかってる。キツい言い方なのは承知の上だ。しかし、事実は事実だしな」
だが――とレインの声が不吉に低くなる。
「気に入らんな、実に気に入らん……この俺がいる限り、そんなふざけた真似は絶対にさせん」
そのセリフには誤解しようもない殺気が籠《こ》もっていた。戦場とは無縁に育ったシェルファでさえ、はっきりと感じ取れたほどである。
部屋がしんと静まりかえる。
もっとも、シェルファが黙していたのはラルファスとは理由が違い、主に感激していたためだったが。
――☆――☆――☆――
濃厚な殺気を振り払うように座り直し、ラルファスがやっと問う。
「それで、相手は掴《つか》めているのか」
「いや。まだギュンターもそこまで掴《つか》んでないんだ。ただ、暗殺ギルドの内偵者から『王女暗殺』の話を聞いただけでな。……依頼があったのは間違いないらしいが、そいつも依頼人までは知らないらしい」
「やはり、相手はザーマインだろうか」
「……可能性としては一番大きいだろうがなぁ。こればかりは捕まえてみないとなんとも言えない」
「そうか……そうだな」
ラルファスは思い悩んだ表情で頷《うなず》き、肝心《かんじん》なことを尋ねた。
「で、どうする」
「どうするって?」
「王女様の身辺警護だ、もちろん。今まで通りというわけにはいかないだろう」
「う〜ん、ギュンターにも言い含めてあるし、大丈夫だとは思うが。しかし今日みたいなことがあると、念を入れた方がいいかもしれん」
そこでレインは、何かを期待するように自分を見つめるシェルファに気付き、ポリポリと指で頬《ほお》をかいた。
「まあ、当分は俺がついてることにしよう」
勢いに押されて宣言してしまう。
「心配いらないですよ。俺さえそばにいれば、例えドラゴンの群れが一挙に押し寄せてきても楽勝ってもんです」
言い切って胸を反らす。
ちなみに、今のセリフに根拠は全然ない。
だが、これが効いた。
何が嬉しいのか、顔一杯に笑顔を弾けさせる。先程まで表情に残っていた憂《うれ》いは、綺麗さっぱり払拭《ふっしょく》されていた。
両手を胸にあて、何度も頷《うなず》く。
「はい、信じています。とても安堵《あんど》しました」
なぜかラルファスまでもが便乗《びんじょう》した。
「おまえがついているのなら、心配はあるまい。胸のつかえがとれた気分だ」
「……いや、少しは心配しろよ、こら」
レインの心中は多少複雑だった。
そんなに簡単にホラを信じてどうする!?
「私は城門に行く。命令を出したままだしな」
話はこれで終わり、とばかりにラルファスは立ち上がった。
「もしかするとそのくせ者を捕まえられるかもしれない……望み薄だろうが」
「そらそうだ。向こうは暗殺のプロだからな。失敗した後の逃げ足は速いさ」
「だが、調べないわけにもいくまい。とにかく、戴冠式《たいかんしき》までには事実関係を明らかにしたいものだ。今は大事な時だからな」
壁際の長剣を取るラルファスを、レインはじいっと眺めた。
「なあ。おまえ、なんか疲れてないか。ちょっと精彩《せいさい》を欠いているというか……。ちゃんと飯食って寝てるか、おい?」
「食べる方はともかく、寝る方は少し足りないだろうな。だが、まだまだ大丈夫だ。政務に支障が出るほどではないさ」
さわやかに笑うラルファスだが、なんとなく無理しているようである。
ザーマインとの戦いで、サンクワールは多くの人材を失った。そのほとんどは戦死したのではなく、戦《いくさ》が始まる前に国を捨てて逃げ出したのである。あろうことか、その中には要職にある丞相《じょうしょう》のような人物もいたのだ。彼は戦いが済んでからノコノコ戻ってきたが、ラルファスは王女に進言して断固とした措置《そち》を取り、その丞相《じょうしょう》を解任した。他にもそんな例は多い。
それは、国内を清浄化するためには避けられない措置《そち》だったとはいえ、皮肉なことにそのせいでラルファスの仕事が増えたのもまた事実なのだ。
「いや、政務に支障って、そもそもおまえは騎士だろう。いざという時に戦えないほど疲れているようでは困るぞ、おい。俺なんかおまえ、そんないざという時のために、昨晩はたっぷり十時間は寝てるぞ」
「……それは少し寝過ぎだと思うがな」
ラルファスはまた苦笑した。別に腹を立てたわけではなく、ただあきれられたようだ。
「とにかく。今晩は早めに寝ろ。あまり悩むな。はげるぞ」
いらん説教をしつつ、レインも席を立つ。
さりげなくドアを目指す素振《そぶ》りを見せ――いきなり途中で斬《き》りかかった。
――☆――☆――☆――
流れるような動きで、振り向きざま抜剣《ばっけん》して身体を捻《ひね》る。一連の動作には切れ目がなく、まさに風のような素早《すばや》さだった。
同時に、ラルファスもさっと腰に手を伸ばす。
すぐそばで見ているシェルファが、何が起こったのかすぐに理解できずに目を丸くしている。魔剣と魔剣が激しく激突し、室内に盛大に火花が散った。
バチバチバチッ
青き閃光《せんこう》を真紅《しんく》の輝きが受け止める。刀身にチャージされた純粋な魔力同士が反発を起こし、やかましいスパーク音を立てた。
「くっ」
かろうじて斬撃《ざんげき》を受け止めたラルファスは、ぐいぐい押してくる馬鹿力に歯を食いしばった。レインの攻撃を受け止めるのは初めての経験だったが……なんというスピードとパワーだ!
「やるな」
鍔迫《つばぜ》り合いを演じる魔剣の向こうで、レインがにっと笑う。こちらが渾身《こんしん》の力で押しているのに、向こうはほとんど力を入れていないように見える。
「さすがに、さっきぶち倒した筋肉馬鹿とは比べ物にならない反応だ――しかしっ」
叱声《しっせい》と同時に、レインの膝が凄まじい速さで持ち上がり、ラルファスの鳩尾《みぞおち》を襲う。
飛び退《すさ》るようにして避けたが、レインはほぼ同時に間合いを詰め、今度は横殴りの斬撃《ざんげき》が唸《うな》りを上げて迫る。
膝蹴りは単なるフェイントだったらしい。騎士の作法とは明らかに異なる、実践のみで鍛えられたレインの戦法に、ラルファスは戦慄《せんりつ》を禁じ得なかった。この男は、五体全てが凶器に成り得るらしい。
「――むっ!」
下からすくい上げるように真紅《しんく》の魔剣を振り上げ、なんとか斬撃《ざんげき》を弾く。
と、相手の魔剣は光の尾を引いて軌跡《きせき》が変わり、肩口を狙う袈裟斬《けさぎ》りに、あるいは流星のような突きに変化した。黒衣《こくい》を纏《まと》った長身が軽々と部屋を舞い、斬撃《ざんげき》が雨霰《あめあられ》と降り注ぐ。
早々と壁際に避難した王女が小さな拳《こぶし》を口元に当てていたが、そちらに気を遣う余裕などない。
レインの魔剣は、あたかもこちらの一手先を読むがごとく、常に攻撃の先手を取っている。あらゆる方向から襲い来る光の斬撃《ざんげき》に、ラルファスは翻弄《ほんろう》されつつある。
今のところなんとか受けているが、完全な守勢に回ってしまったことを認める他はない。
レインの動きが速すぎ、反撃に転じる余裕がないのだ。目で追うというより、気配を追ってラルファスは戦っていた。
そして、その事実が彼の闘気に火をつけた。控えめな性格とはいえ、ラルファスにも幾多の戦場をくぐった騎士としての誇りがある。一方的な守勢に回っている自分に、かっと心が激した。レインに腹を立てたのではない。自分の不甲斐《ふがい》なさを恥じたのだ。
「はああああっ!」
レインの剣を弾いた直後の、有るか無きかの微《かす》かな隙《すき》に、ラルファスは思い切って乗じた。
紅《あか》き魔剣の切っ先を、渾身《こんしん》の力で突き出す。
――いけない!
即座に後悔した。相手を忘れ、ここがどこかも忘れ、本気で戦っていたのだ。真紅《しんく》の輝きが黒いシャツのど真ん中に吸い込まれていく。もちろん、致命傷だ。
だが――
それはラルファスの錯覚にすぎなかった。捉えたかと思えた長身は陽炎《かげろう》のようにゆらぎ、連続で生じた残像が、一斉に真横へ流れる。
一瞬で、やや右手に現れたレインの「実体」へと重なった。
魔剣が貫いたのは、彼が避けた後に生じた影に過ぎなかったのだ。
「やっぱり、いつものおまえじゃないぞ。反応が鈍くなっている」
いつの間にか、あっけらかんとした顔でレインは自分の魔剣を収めていた。
そしてラルファスの手元を見て、一つ頷《うなず》く。
「とはいえ、ジャスティスの扱いにはもう慣れたようだな」
「お陰様でな……」
それだけ言うのがやっとだった。ほんの十数秒の攻防に過ぎなかったが、呼吸がちりぢりに乱れてしまった。レインの意図には勘付いていたものの、疲れることおびただしい。
それでもラルファスは律儀《りちぎ》に、もう何度も口にしたセリフを繰り返そうとした。魔剣の事が話題に上ると、言わずにおれないのだった。
「時に、くどいようだが本当にこの魔剣を譲り受けていいのか。これは、元々おまえの戦利品だろうに」
いま散々振り回していた、真紅《しんく》のオーラが刀身にのたうつ魔剣は、ザーマインのレイグル王がレインとの一騎打ちの時に手にしていた物だ。
ところが苦闘の末レイグルは逃走し、魔剣ジャスティスだけが後に残されたのである。だから当然、魔剣の所有権はレインにあるはずだ。少なくともラルファスはそう思う。
「いや、それはおまえが持ってた方がいい」
これまたいつもの返事。
「よりにもよって、『正義』なんて銘《めい》を持つ剣は、俺には似合わないしなあ。俺は正義の味方とは対極にある男だし」
「しかし――」
「いいって! もらっとけもらっとけ。どうせ俺が持ってても速攻で売り飛ばすだけだ」
……確かに彼ならそうするかもしれない。レインらしい言いように、心配顔だった王女がやっと笑顔を見せた。
レインも控えめに微笑み返したものの、ラルファスに向き直った時は、すっかり真面目《まじめ》な顔つきになっていた。この男なりに、心配してくれているらしい。
「とにかくだ、無理でもなんでも少し休んだ方がいい。おまえのトコには、ナイゼルみたいに文官能力有りそうなヤツもいっぱいいるだろ? そいつらに任せろよ」
「忠告通りにした方がよさそうだな。……それにしても」
軽く深呼吸などして、ラルファスは呼吸を整える。
「今ので余計に疲れた気がするぞ……。もっとも、決して悪い気分ではないが。どうだ、後でもう一手」
「いや、きっぱりと断る」
実に嫌そうに顔をしかめるレイン。
「そういう疲れることは遠慮しとく。今のが最初で最後だな」
「少しも疲れているようには見えないが……残念だ。毎日でも練習に付き合ってもらいたいんだが」
ラルファスは心からそう呟《つぶや》いた。
本気で要請されたらかなわないとでも思ったのか、レインは王女と一緒にさっさと部屋を出てしまう。
仕方なくラルファスも続く。どのみち、今は城門に行かねばならない。
「それにしても、初めて剣を合わせたが恐るべきスピードだな。技も大したものだが……スピードの方は、ドラゴンから受け継《つ》いだのか?」
廊下を一緒に歩きつつ、なんとなしに訊《き》いてみる。
大陸最強の種族たるドラゴンを一対一で倒すことに成功した者は、そのドラゴンが持つ『力』を手に入れることが出来る……誰が広めたものか、昔からそんな伝説がある。それは、一種の呪いなのだそうだが、いずれにせよ、そんな「ドラゴンスレイヤー」なる者が実在した試しはない。
例えそんな「巨大な特典」が本当にあったとしても、ドラゴンとはそれほど簡単に殺せる生き物ではないのだ。屈強の戦士が大勢いても不可能に近いのに、一人でとなるともう夢物語にも等しいだろう。故《ゆえ》に、伝説はあくまでも伝説にすぎない。
ドラゴンスレイヤーとは、吟遊《ぎんゆう》詩人の詠《よ》む詩のみに登場する英雄なのだ。――と、ラルファスを初め、ほとんどの人々は思っていた。
ところが最近、ひょんなことでレインがそのドラゴンスレイヤーだったと判明したのである。
もう二十五歳のクセに随分と若々しい外見だと思っていたが、ちゃんと理由があったわけだ。ドラゴンの不死性を受け継《つ》いだなら、老化と無縁なのも当然だろう。
ともあれ、不死の力を手に入れているくらいだから、瞬発力というかスピードもドラゴンスレイヤーの恩恵かと思ったわけである。
が、レインは大いに気を悪くしたように言った。
「馬鹿いえ。そんな美味《うま》い話があるわけないだろ。ドラゴンから受け継《つ》いだのは不死性と筋力と魔力と特殊能力くらいのもんだ」
……十分すぎるほどたくさんあるように思える。
そもそも、筋力アップは瞬発力の向上にも役立つと思うのだが。
などと指摘すると、説明してくれた。
「……まあ、ある程度までは役に立つな、確かに。しかし、人間の生活で龍並の筋力はかえって邪魔なんだ。だから、自分であえて封印している。必要な時には馬鹿力も出せるけど、まずそんな必要ないね」
「では、スピードの方は日頃の努力のたまものか。……そうだろうな、スピードを身につけるには地道な訓練が一番だろう」
「おい、勝手に決めつけるなよ。この俺が『地道な訓練』なんてもんをハアハアやってると思うのか、おまえ。強い上にスピードがあるのはだな――」
と、ここで胸を反らす。
「俺が天才だからだ!」
全然理由になっていない。
おそらくただのポーズだろう。努力もせず、才能だけで強くなれるはずがないのだ。
現に、王女が「うふっ」と声に出し、口元に手をやっていた。なにか秘密を知っているような素振《そぶ》りである。ラルファスはその辺の事情を察し、深く納得した。
「なるほど……では、そういうことにしておこう」
「……俺のセリフより、姫様の仕草で判断するっていうのはどういうつもりだ、おい」
レインは著しく不機嫌になった。
「あ……ごめんなさい、レイン」
「いえ。姫様を責めちゃいませんよ。ただこう、なんか納得いかないというか――」
ブツブツ文句を言うレインに、ラルファスは笑って、
「私はおまえの天才性を疑ったことはないさ。不平を言うことはなかろう。ただ、素養だけでは越えられない壁があるのも確かだと思うぞ」
「俺に限ってはないね」
レインの力説を軽く聞き流し、ラルファスは階下へ降りる踊り場で立ち止まった。
「わかったわかった。……とにかく、私は城門へ行くが、王女様のことは頼んだぞ。戴冠式《たいかんしき》前には外にも出ていただかなくてはならないしな」
「ああ、お披露目《ひろめ》だな」
「えっ……どういうことでしょうか」
シェルファがレインの服の袖を掴《つか》もうと手を伸ばし、途中でさっと下に降ろす。ラルファスには微笑ましい光景だった。
王女様はこれで、ご自分の想いを隠しているおつもりなのだ。ここは気を利《き》かせて、邪魔者は早く消えるべきだろう。
「それでは私はこれで……。王女様、あとの説明はレインからお聞きください。では」
飯を一緒にどうだ、というレインの申し出を手を振って辞し、ラルファスは微笑みつつ階段を下りていった。
――☆――☆――☆――
いつまで待っても、誰も来ないですぅ。
セルフィーはやっと探し当てたレインの自室の前で、ぽつんと立っていた。
『あとで俺の部屋へ来い』
指示を受けてからあちこちで人に訊《き》きまくり、ようやく問題の部屋を探し当てたはいいが、待てど暮らせどレインはやってこない。
一体、なんの用事なのでしょう……まさか、まさかっ――などと気を揉《も》んでいたのは昼過ぎまでである。お腹は空《す》くし、足は痛くなるし、もう「どんな用事でもいいです、はい……」というやけっぱちな気分に相成った。
だいたいが、なぜか頻繁《ひんぱん》に通りかかる衛兵《えいへい》に一々、「ここで何をしている?」と誰何《すいか》されるのである。その度《たび》に一から説明したりして、いい加減へとへとだった。もう夕ご飯の時間さえとうに過ぎ、窓の外は真っ暗である。
ポケットに残った小銭でパンの切れ端を買いに行こうと思っていたのに、こんな時間ではもはやそれも無理。
ハア〜。
ため息。そのまま扉にもたれ、ズルズルと石の廊下に座り込みたくなってきた。本気でそうしようかと思った時、廊下の端を曲がって少女が一人、姿を現した。
肩口で切りそろえたショートの黒髪と、活発に動く瞳が印象的である。明るい性格なのは見ただけでわかった。
その彼女はセルフィーを見た瞬間に立ち止まり、不審そうに小首を傾《かし》げた。
観察している内に表情が険しくなり、ずかずかとこちらへ来る。
「ここでなにしてんのっ」
「え、ええっ」
気圧《けお》されたセルフィーが素直に教えてやると、相手の機嫌はすぐに直った。
笑うと険がとれてとても可愛い。
「あぁ〜。そう言えば、テストがあるとかレニ隊長が言ってたっけ。ごめんね、妙に勘ぐって」
なにを勘ぐるのでしょうか?
セルフィーが聞き返すより先に、彼女は自分の小さい胸を指差し、
「あたし、ユーリっていうんだ。騎士見習い。お仲間ってことで、よろしくね!」
「あ、はいっ。よろしくお願いしますっ」
ペコペコ頭を下げる。
こんな年頃の少女の身で、騎士見習いだったんだ! 自分を棚に上げてセルフィーは感心した。
「そんなに頭下げたりしなくてもいいってば! あたし、十六だよ? 同じくらいの歳でしょ?」
「ええ、まあ。わたしは十七です」
「そうなんだ。ちょうど、ここって同じ年頃の女の子が少ないなあと思ってたトコなのよねえ。あなたみたいな人が来てくれて嬉しいわ、うんっ」
にぱっと笑う。
微笑み返さずにいられなくなる笑顔だった。
しゃべり方もハキハキしているし、本当に人なつっこい。今までの心細さが消えて、セルフィーまで気分が浮上してきた。
「ところで、その用事ってさぁ」
すっかり「友達モード」になり、ユーリは人の気配もないのに声を潜《ひそ》めた。
「なんか怪しくないかなぁ。なんでいきなり『俺の部屋へ来い』なんて言うわけ、あいつ――じゃなくてっ、将軍」
「やっぱり、そう思います?」
なんとなく、セルフィーまで声を低めた。
ユーリは村の井戸端で世間話をする主婦のごとく、「そりゃ思うわよ! 怪しい、絶対怪しいわ」と断言した。
――乙女の貞操《ていそう》の危機!
あえて口に出さなかったが、二人の脳裏《のうり》に浮かんだ語句はまさにソレである。ユーリの言い方にはなんだか説得力があり、あまり真剣に心配していなかったセルフィーまで「これは危ないのでは」と思えてきてしまった。
なんとなく自分の胸をかき抱いたところへ、またまた足音。
見れば、話題沸騰中のレインが、王女と談笑しながらやってくる所だった。
ええっ、今更――
もう逃げようと思っていた所なのにぃ。
セルフィーは戦慄《せんりつ》した。
任せてっ! という顔つきで、ユーリが盾のように立ちはだかってくれた。
「で、俺がガキの頃には、この『騎士とお姫様』てな遊びがえらくはやっていて、暇さえあれば――」
身振り手振りで、なにやら子供の遊びについて熱く語っているレイン。王女はその内容を一語たりとも聞き逃さすまいという表情で、コクコク頷《うなず》いている。青い瞳が興奮でキラキラ輝いていた。二人とも、こちらなど見ていない。
「だから、俺はお姫様抱っこについちゃ、子供の頃からエキスパートだった――て、なんだ?」
やっとレインがセルフィー達に目を向けてくれた。
「二人|揃《そろ》ってどうした? なんか用事か」
――はあぁ?
セルフィーはふらっと足下《あしもと》がよろけた。
わ、忘れてます……思いっきり忘れてます、この人……
目眩《めまい》がして、視界がぐらぐら揺れた。まあ、それはあまりにも腹ぺこだったせいもあるだろうけれど。
「ちょっと、将軍!」
言葉もないセルフィーに代わり、ユーリが文句をつけた。王女にはちょっと頭を下げたが、レインには挨拶《あいさつ》すらしなかった。気安い仲なのか、あるいは彼女が恐れ知らずなのかどちらかだろう。
「女の子を呼びつけただけでも褒《ほ》められたことじゃないのに、呼んだのを忘れるってどういうことですかっ。こ〜んな冷えた廊下に立たせとくなんて、最低です、最低っ」
ポンポン捲《まく》し立てるユーリに、王女が驚き顔になっていた。
それはそうだろう。いくら平民だろうと上将軍《じょうしょうぐん》は上将軍。ぺーぺーの騎士見習いと武官の最高位である上将軍《じょうしょうぐん》の間には、天地にも等しい身分の差がある。こんな口の利《き》き方はまず出来ないし、そもそもしてはいけないのである。
レインがちょっと眉をひそめた。
さすがに腹を立てたのだろうかと心配したセルフィーだが、幸い違った。
「俺が呼んだ……? ああ、そうか! うん、呼んだ呼んだ」
簡単に理解を示し、セルフィーを手招きした。
「ここじゃなんだから、部屋へ入ってくれ」
「ええっ」
声を上げたのはユーリである。
「なんでですかあ。ここで言えばいいじゃないですかっ」
まるで喧嘩《けんか》をふっかけるような言い方だった。
「やかましいな。下《した》っ端《ぱ》の使い走りは黙ってろっ。俺の深謀遠慮《しんぼうえんりょ》をおまえごときが推《お》し量《はか》れるかっ」
呼び出しを忘れておいて深謀遠慮《しんぼうえんりょ》もないものだが、レインはそう言うと強引にセルフィーを部屋へ押し込めた。ユーリはおろか、王女にまで「しばしお待ちを」と言い残し、後ろ手にバタンとドアを閉める。
王女様をお待たせしていいのでしょうか、とセルフィーは他人ごとながら気になった。
「待たせて悪かったな」
「あ、いえ……」
「大した用事じゃない、そう固くなるな。なにも『服を脱げ』とは言わん」
「そ、そうですかっ」
レインはポケットから皮の小袋を取り出すと、そこから銀貨をざらざらと掌《てのひら》にあけた。そのままセルフィーに突き出す。
「ほら」
「えっ」
「前借りさせてやる。苦しいんだろ、今」
「え、ええっ!?」
意表をつかれまくり、セルフィーは思わず大声を上げてしまった。まさか……そんな理由だとは。
「そこまで驚くことはなかろう」
レインはそう言うと、固まっているセルフィーの手を無理矢理引っ張り、銀貨を握らせた。とても固い掌《てのひら》だが……温かかった。
「でも……こんなことしていただくわけには」
「馬鹿。なにもやるっていうんじゃない。次の俸給《ほうきゅう》の時にばっちり引いとく」
「だけど――」
「あのな」
レインは大股で歩き、部屋の隅に転がる大きめの革袋を肩に担《かつ》ぐ。
セルフィーもやっと周囲を見る余裕が出来たが、ここは随分とがらんとした部屋だった。
最低限の家具しか置いてない。
目立つ物といえば、ベッドと机くらいである。
この人は派手好きに違いないと思っていたのに、とんだ勘違いのようだ。
さらに脳内評価を上げたセルフィーに、当のレインがぶっきらぼうに言う。
「おまえは俺の部下だろう。なら、黙って俺の言う通りにしてたらいいんだ。俺が白いといえば、黒い物でも白くなるんだ! そこん所を理解しろ」
内容は荒っぽいが、声は穏やかだった。
「わかり……ました」
頷《うなず》くしかなかった。急に自分が恥ずかしくなった。とんだ誤解をしていたものだ。わざわざ部屋へ呼びつけたのは、皆の前で恥をかかすまいという配慮だったのだろう。そうとしか思えない。
本当は優しい人なんだ……言葉遣いとかはこわいけど、でも優しい……。なんか、かっこいいかも。セルフィーのレインへの評価というか好感度が、急角度でぐぐっと上昇した瞬間である。
「あの、ありがとうございます」
「おう。その金で服もいいの買えよ。やっぱ、女が貧乏臭い恰好《かっこう》してるのはアレだからな。あ、それとスカート買うなら、必ず短めの丈を選ぶようにな。俺が思うに、股下七センチくらいのヤツが丁度いいと思うぞ」
「……はい」
感激のあまり、ロクに内容も聞かずに首肯《しゅこう》する。優しくしてもらえた嬉しさと、飢えなくて済んだ安堵感《あんどかん》に、セルフィーはじ〜んとなっていた。なにげに、飢える心配が消えたのは大きい。
「――そうだ」
ドアのノブに手をかけたまま、ふとレインが言った。
「おまえ、最初に姫様を見た時、なにか感じなかったか」
「えっ。王女様ですか」
セルフィーは瞬《まばた》きし、
「とてもとても綺麗な人だと思います。将来はもの凄い美人におなりでしょうね」
「……それだけか。なにも感じないのか、本当に?」
やけにしつこく訊《き》く。しかし特に心当たりもないので、黙ったまま頷《うなず》いた。
レインは、喉《のど》に魚の骨でも引っかかったような複雑な表情をしていたが、結局肩をすくめドアを開けた。
廊下に出る際に小さい声でセルフィーは、
「神様……感謝します」
と祈りを捧げた。結構、信心深い性格なのである。サンクワールは多神教であり、セルフィーは主に戦《いくさ》を司る神として知られる、ミゼル神の信者だった。
恥ずかしいから神とは別に、レインへのさらなる感謝は心の中で捧げたのだが――
「おいこら」
コツンと頭を殴られた。
「神なんかより俺に感謝しろ、俺にっ。これからは毎晩、誠心誠意体力の続く限り夜伽《よとぎ》のお相手を務《つと》めます……それくらいのことを言ってみろ、えっ」
むちゃくちゃを言う。セルフィーよりも、気まずそうに廊下で待っていたユーリの方が憤慨《ふんがい》していた。
「なんの話ですかっ。部屋で何してたんです、怪しいなあ」
「秘密だ」
「……じゃあ、そのでっかい袋は?」
「ああ、これは着替えさ。今日から部屋を移動するんだ。ちょっと姫様の警護に当たる必要があってな」
その返事で、ユーリは益々怪しむ顔になる。
そこで王女が、無邪気な声音《こわね》でいきなり訊《き》いた。
「レイン、夜伽《よとぎ》ってなんですか」
「え、ああ……そうですね」
レインはもう歩き出し、
「男女が親睦《しんぼく》を深めて、より仲良くなることを夜伽《よとぎ》って言うんですよ」
――物は言いようである。
「知りませんでした!」
とても残念そうな声。
やや焦ったようにレインの服の袖を引く。
「それでは、ぜひわたくしとも夜伽《よとぎ》してください!」
レインがなんと答えたかはセルフィーには聞こえなかった。もう廊下を曲がってしまったからだ。隣でユーリが「なに、あの態度っ」と肩を怒らせている。
しかしセルフィーは頬《ほお》を染めたまま、レインが去った方向をいつまでも眺めていた。
――☆――☆――☆――
シェルファが「そろそろ入浴の時間なんです」と言うので、レインは付き添って王宮深奥部の王族専用風呂(勝手に命名)の前まで来ていた。
この辺りまで来るとさすがにチェックが厳しく、王族か、せめてレインのような上将軍《じょうしょうぐん》くらいの身分がないと、途中で必ず足止めを食う。立ち番の兵士に誰何《すいか》され、「出直して来い」と言われるのがオチである。
というか、レインも最近まで「失礼ですが、レイン将軍は通すなと言われております」などと慇懃《いんぎん》に追い返されていたクチなのである。
しかし、今や状況は一変した。
シェルファの御代《みよ》間近になり、レインの待遇は飛躍的に上昇していた。なにしろシェルファ自身から、圧倒的というのも馬鹿馬鹿しいほどの全面的な信頼を受けている。顔を見る度《たび》にイヤミを言われていた、前王の頃とは比べようもない。
したがって、これまで入ったことのない深部まで、顔パスでズカズカやって来られたわけである。
「普通、姫君の入浴とかは、侍女《じじょ》の二〜三人も付いて来るはずじゃないか?」
どんな巨人が入るんだここからっ、と言いたくなる、どでかいアーチ形の入り口を前に、レインは興味本位で訊《き》いてみた。
「ごく最近までそうでした。でも、わたくしは一人の方が落ち着きますし……それに」
「それに?」
「相手が例え女の人でも、裸身を見られるのがなんだか恥ずかしくて……だから、遠慮してもらっています。前はいくらお願いしても駄目だったけれど、このところ、皆さんわたくしのお願いを素直にきいてくださるんです」
着替えを胸に抱いたまま俯《うつむ》き、なかなか可愛らしいことを言うシェルファ。
レインは口元に皮肉な笑みを刻んだ。
「そりゃ次期王ともなると、言葉に重みが増すからな。これからはおまえの天下だぞ、チビ。思いっきりわがまま言ってやれ」
無責任にけしかける。
この子はこれまで散々不愉快な目に遭《あ》っているのだから、多少のわがままは許されるとレインは思っているのだ。
「わたくしは別に。今のままで十分幸せです。――レインがそばにいますから」
真珠のような白い歯を覗《のぞ》かせ、本当に幸せそうに微笑む。内に籠《こ》もる感情というか愛情というか、とにかくそういうのがモロに吐露《とろ》された笑顔で、さしものレインもとっさに軽口が出なかった。
照れ隠し代わりに、片手を振る。
「わかったからほら、行って来いよ。ここで待ってるから」
たおやかな背中を軽く押してやると、シェルファはあどけない顔でレインを見上げた。
「いえ、ちょうど良い機会ですし、済ませておきたいことがあるんです。レインも一緒に入ってくださると嬉しいですわ」
「……は?」
なにが良い機会なのだろうか。
「だけどおまえ、さっき裸身を見られるのは嫌だと言ったろ」
「もちろん、レインは例外ですよ」
気負った様子もなく、シェルファはさらりと述べる。
「いや、いくらなんでもそれはまずいだろう。俺はここで大人しく待っているさ」
――などと答えるレインではない。
あ、そうか。おまえが気にしないなら俺も全く気にしない、ということで、これまたあっさりと一緒に入浴することを承知した。
中に入ると、木製の大きなドアがあり、そこから先にさらに進んだ。もちろん、シェルファがしっかりとドアの鍵を閉めた。
そのドアの奥は、白い大理石のタイルを床一面に張った広々とした空間で、一瞬ここが風呂かとレインは思ったが、なんと単なる脱衣所だった。壁際に燭台《しょくだい》を大きくしたような銀の台座が数個ならんでおり、その上に藤を編《あ》んだ籠《かご》が載っている。ここに服を入れろ、ということらしい。
しかも。
対面の壁に、直径数メートルもある鏡がでんっと嵌《は》め込んである。そして赤い布張りのゴージャスな椅子が数個。シェルファにはまだ必要なさそうだが、本来はここで化粧などするわけだろう。その証拠に重厚なワードローブも隅にそびえ立っている。
何気なく開けると、煌《きら》びやかなドレスの山だった。平民の視点から総合的に見て、非常に腹の立つ場所である。
「むう……。あのダグラス王は、こんなトコでのんびりと風呂につかっていたのか……なんかむかつくな、おい」
「いえ。お父様には男性専用の浴場があって、そちらです。ここは女性用なんです」
「王族なんて数は知れてるのに、ますますむかつく……庶民の暮らしをなめているな。上将軍《じょうしょうぐん》の俺だって、こんな広い風呂は城に(レインの持ち城、コートクレアス城のこと)しつらえてないのに」
「あ……ごめんなさい」
別に責任もないだろうに、シェルファは申し訳なさそうに長いまつげを伏せた。レインが相手だと気にならないのか、もうドレスを脱ぎかけていて、純白の下着姿が半ば露わになっていた。まるで物怖じしていない。
「いや、なにもおまえのせいじゃないさ」
レインは、剥《む》き出しの華奢《きゃしゃ》な肩を気安く叩き、自分もさっさと服を脱いでいった。
脱衣所も唖然《あぜん》とするほど広かったものの、その先にあった浴場はそれに輪をかけてとんでもない規模だった。奥行きもある上に全体が吹き抜けの空間になっていて、天井まで数階分くらいの高さがあるのだ。
湯船はそれこそ遊泳できるほどの大きさの円形をしており、余裕で数十人くらいは入れそうだった。しかも、悪趣味というかなんというか、湯船の真ん中には壺を肩に乗せた女神像があって、その壺からジャボジャボお湯が出ていたりする。
貴族趣味の象徴みたいな、あっけにとられるほど贅《ぜい》を尽くした風呂だった。
「こりゃまた豪勢な……」
一渡《ひとわた》り眺め、レインは唸《うな》り声を上げた。
なにか、維持するだけでも莫大《ばくだい》な予算が入りそうな風呂である。
どうやらここは宮殿の奥まった端に当たるらしく、正面に正方形の窓が幾つか並んでいた。ただし、その窓まで数メートルの高さがあるので、覗《のぞ》かれる気遣いはまずない。
「むう、なんか毎日でも来たくなるな」
「レインさえよければ、毎日でも一緒に入りたいですわ」
先に湯に入ったシェルファが、振り返って微笑んだ。
特に見苦しく裸体を隠す様子はない。
ただ、レインを見てほんのりと頬《ほお》を染め、ちょっと俯《うつむ》いた。
小さい声で言う。
「……わたくしとはずいぶんと違うのですね」
レインはすぐには答えず、とりあえず桶でざばっと湯を被ってから、ゆっくりと身を沈めた。かなり深い……小柄な者なら本当に泳げるだろう。これだけは手放さなかった魔剣を手の届くところに置き、大理石の湯船にもたれて静かに息を吐く。
「そりゃ、違うだろ。男と女なんだから。ひょっとして、見たのは初めてだったりするのか」
蚊の鳴くような声で、また「はい」という返事。
「ふむ。それを聞くと、なんか得した気分だ。つまり、おまえの裸見た男は俺が最初ってことだろ」
「はい……これからもレインだけです」
こっくりと頷《うなず》くシェルファ。
まだ立ったままであり、すぐにはレインの側《そば》に来ようとはしなかった。
なにか深い決意を秘めた顔で、レインから目を離さずにいる。
「……あの、入る前に言った通り、ちょっと済ませておきたいことがあるんです」
「ほお……風呂場でか?」
からかうように聞き返してみた。
「……はい。これは、裸身が一番|相応《ふさわ》しいそうですから」
場内騒然とするようなセリフであり、さしものレインも唸《うな》ってしまう。
気の利《き》いた返事を考えている間に、シェルファはしずしずとレインのそばに近づき、正面に両膝をついた。
「すぐに済みますから」
顔が物凄く真剣である。
思わず頷《うなず》くと、シェルファはそっと右手をレインの胸に当て、語り出す。
「五家《ごけ》の一角にして、サンクワール家の末裔《まつえい》がここに誓う。
願わくば、我が命は永遠に汝《なんじ》と共に。
我が魂も、永遠に汝《なんじ》と共に! 時には剣、時には盾となりて、我が身を捧げん。運命の全てが汝《なんじ》に背を向けようとも、我が誓いに偽りなし」
黒瞳《くろめ》を瞬《またた》くレインに、輝くような微笑を見せた。
「わたくしの名は、シェルファ・アイラス・サンクワール――我が君よ、どうかこの名を胸にお刻みくださいますよう……あなたに誓いを立てた者の名です」
言葉が途切れ、胸に当てていた手が離される。
後は普通に湯船に浸《つ》かり、レインの隣に座った。どうやら終わったらしい。
「いや、『我が君』はおまえだろう。なんか大層なアレだったが、今のはなんだ?」
「気にしないでください。自分への、ちょっとした戒《いまし》めみたいなものですから……」
なにか肩の力が抜けたように、ふうっと吐息《といき》をついている。……途方もなく嫌な予感がするレインである。
その気分を読み取ったのか、シェルファがくすっと笑った。
「別にレインの自由を縛るような誓いではないですよ。わたくしだけです、縛られるのは」
縛られるのか、なんか知らんがコアな趣味だな! などとボケている場合ではない。それはそれで、非常に気になるのだが。
だがシェルファはそれ以上は説明せず、レインにそっともたれてきた。あまり追及されたくないのかもしれない。
「まあ、おまえが満足ならいいんだけどな」
金髪に手を置き、軽く揺すってやる。
軽い笑い声を立てるシェルファの顔を間近で眺め、ちょっと感心した。
「それにしても、おまえってほんっとに見栄えがいいな。こんだけ近くから見ても、全然文句のつけようがないものな」
これで、あと五〜六年先の姿なら言うことないんだが――というセリフはあえて呑み込む。レインも時には気を遣うのである。
シェルファは小さい声でお礼を述べる。
「ありがとうございます。でも、わたくしにはそうは思えません。……外見は変えられませんから、せめてもっと早く大人になれればいいと思います……」
考えすぎかもしれないが、なにか意味深なセリフである。
「おまえ以上の美人ってのは、ちょっと想像出来ないんだが。そもそも、どうして早く大人になりたいんだ」
「もっと綺麗だったら……それに、もっと大人だったら、きっと今よりずっと、レインに構ってもらえますから」
「いや、それは違うだろう。それだと俺が、外見重視の軽薄男みたいじゃないか。外側だけ良くてもしょうがないぞ」
レインは思わず苦笑した。
「今のままだって、俺はおまえになんの不満もないさ」
レインがそう言うと、シェルファは湯船の中で座り直した。
「でも……あの時……」
言いかけたまま口をつぐみ、なだらかな胸元に視線を落とす。
あの時というのが何時を指すのか、訊《き》き返さずともわかってしまった。先の戦いが終わった直後に開かれた舞踏会《ぶとうかい》、そこを抜け出して二人で庭園で話した時、シェルファはレインにいわば「告白」したのだった。もちろん、忘れてなどいない。
あの時のレインは、明確な返事をしなかった。なにも彼女を嫌っているわけでもないし、年齢差がどうのというのでもない。ただ、シェルファの想いに応えられなかったというだけだ。
どう返事しても相手を傷つけてしまうような気がして、
『……悪い。今はまだ、おまえの気持ちに応えてやれないんだ』
などと返すしかなかった。
――あの子を守れもせずに死なせておいて、今更自分だけよろしくやろうっていうのが間違っている。
心の中でもう一人の自分が囁《ささや》く。
まるでその声なき声を聞いたように、湯気越しにシェルファが手を伸ばしてレインの頬《ほお》に触れた。
「……どうした?」
「レインは優しすぎるんです……」
と胸をつかれ、レインは黒い瞳を見開いた。偶然だろうが、かつてあの少女も似たようなことを言ったのだ。
『レインは優しすぎるのよ……』
――フィーネ。
声に出して呼びそうになり、ぐっと口を引き結ぶ。敏感にもその動揺を感じたのか、シェルファがレインの頬《ほお》を撫《な》でた。
「人って何年も経《た》つ内に記憶が薄れて、大事に思っていた人のことだって少しずつ忘れていきますよね……記憶の底に埋もれて、時々しか思い出さなくなる。悲しいことだけれど、どんなに愛していた人でも、長い……長い時間が経《た》てば、思い出に変わってしまうんだと思います」
でも……と言いかけ、シェルファはレインの胸に身を預ける。
「でも、レインは忘れられないんですね。とてもとても優しいから、誰よりも優しいから、記憶が風化していくことが許せない。いつまでも自分を責め続けて決して許そうとしない……レインはなにも悪くないのに」
見上げた碧眼《へきがん》は、今にも泣き出しそうに潤《うる》んでいた。
「痛みを分かち合うことができなくて、残念です……でも、いつかは……」
「おまえは」
出した声がしわがれていて、レインは我ながら舌打ちしたい気分になった。唇を湿らせてから言い直す。
「おまえは詩人だな、チビ。……俺は、そんな上等なヤツじゃないぞ」
シェルファはただ微笑んだだけだった。
答える代わりに濡れた両腕をそっとレインの背中に回してきた。
「いつかわたくしも、レインのような強い人になりたいです。守られるだけではなくて、時には支えてあげられるように。わたくしは……レインを愛していますから」
口もきけずにいるレインの耳元で、さらに囁《ささや》く。
「わたくしはあきらめません。いつまでも待ちます。ずっと、ずぅ〜っと」
衝動にかられて、レインはシェルファをそっと押しやり、大きな瞳を覗《のぞ》き込んだ。
「……レイン」
掠《かす》れた声でシェルファが呼ぶ。頬《ほお》を赤くして、そのまま瞳を閉じた。
レインは黙ったまま唇を寄せ――
「この匂い――ちっ」
甘ったるい微《かす》かな匂いと、それに気配を感じた。
目を開けたシェルファが、魔剣を引き寄せたレインを見てはっとしていた。
「レイン、一体……」
立ち上がろうとして、ふらりとよろめいた。
既に匂いにやられているのだ。
「大したこっちゃない。のんびりと風呂に浸《つ》かってろよ、チビ。ただの招かざるお客さんだ」
「え、ええっ」
端正な顔が驚愕《きょうがく》に歪《ゆが》む。レインの視線を追って背後の窓を振り返ろうとしたが……もう瞳に霞《かすみ》がかかっていた。またふらっと体が傾《かし》いだ。
「アシマルっていう青い花弁をした花だ。もっと北の方に生えててな。すりつぶすと匂いがきついんだが、人を眠らせる効果もある」
レインはシェルファを支え、淡々と説明してやった。
「ま、気にするな。おまえが眠っている間に片はついてる。心おきなく寝てるといいさ」
普段ならこれで落ち着くはずなのに、なぜか今日に限って、シェルファの焦りの色が引かなかった。
まだ腕の中でもがこうとしている。
しきりに自分の胸を隠そうとしているのを見て、レインは理由に思い至った。
「……あ〜、ちゃんと見せないようにするって。入ってきたヤツにはこれっぽっちも見せてやらないから、なにも心配ないぞ」
途端《とたん》に大人しくなり、シェルファはあっさりと身を預けてきた。やはりそれを気にしていたらしい。ふさがりかけた瞼《まぶた》を無理に開け、弱々しく微笑む。
「気をつけてください……という……言葉は……レインには必要ない……ですね……」
「言うまでもないさ」
ニヤリと笑うレイン。
顔にはいつものふてぶてしい笑みが浮かんでいて、さっきまでのしんみりした表情はどこにも残っていない。
シェルファは安心しきったようにもう一度微笑み、そのままがっくりと首をうなだれた。
「しかし、命の心配より裸を見られる方を心配するかね、普通……まあ、信頼されてる証拠だろうが」
呟《つぶや》くと、横倒しにならないようにシェルファを慎重に湯船にもたれさせ、レインは掌《てのひら》を裸身に向けた。
と、「ブンッ」という音がして、輝く魔法の障壁がシェルファの全身を覆《おお》ってしまう。
これでなにも見えないし、身の安全は確保できたわけである。
「さぁて」
いきなり立ったりせず、レインはただ魔剣を片手に湯の中でくつろぐ。
軽く目を閉じ、気配を探ってみた。
「ふふん……窓の下に……三、四……七人か。眠り込むのを待って突入してくる気だな。ご苦労さまなことだ」
唇を吊り上げ、ふふんと笑う。
あいにく、いつまで待ったところで眠ったりはしない。今の俺は、人間でありながら魔獣《まじゅう》(ドラゴン)の『力』をモノにしている。
そう、魔獣《まじゅう》に効かないモノは、レインにだって無効なのである。
というわけで、湯船から立ち上がろうともせず、のんびりと風呂に浸《つ》かったままである。向こうから来てくれるというのなら、こっちがあくせく動く道理《どうり》はない。もちろん、自分が殺《や》られるかもしれないなどとは考慮にすら入れていないレインである。
コソコソするだけが取り柄《え》の暗殺者などに遅れは取らない……そう思っている。
「一人だけ残して、後は全員|斬《き》る!」
冷淡に言い捨てて静かに時を待つ。
『レインは優しすぎるのよ……』
遙《はる》か昔に言われたセリフがまた蘇《よみがえ》ったが、首を振って振り払った。
どれほど過去を振り返ろうと、時間は決して元には戻らない。
かつて確かにいた優しい少年は、今はもうどこにもいない。もう自分は、後戻り出来ないほど遠くへ来てしまったのだ――
「悪いな、フィーネ。やっぱり俺は変わってしまったらしい……どのみちおまえに顔向け出来ないみたいだ」
レインがため息をついた直後、窓から黒い影が幾つも飛び込んできた。
――☆――☆――☆――
「それで……一人を残して殺したのか」
「うむ」
悪びれずにレインは頷《うなず》く。
ラルファスはソファーでふんぞり返るレインに、問いかけるような顔を向けた。
「おまえの実力なら、全員を殺さずに捕らえることも出来ただろう」
レインはグラスの酒をぐっと呷《あお》ってから、凄惨《せいさん》な笑みを見せる。
「七人がかりで女の子を襲うようなヤツらがどうなろうと、俺の知ったことじゃないね」
「……まあ、その件はいい。もう一つ確認するが、王女様はおまえと入浴中だったわけだな。……つまり、お互いにその……裸身だった?」
「そりゃそうだろ。風呂に入るのに服着て入るはずないさ」
「ふむ……そして、妙なまじないを聞かされたと」
ラルファスは自分もグラスにワインを注《つ》ぎ、正面に座った。何か奇妙な目でレインを眺める。レインが見返すと、じんわりと微笑んだ。
シェルファとレインが仲良くしているからといって、嫉妬《しっと》するような男ではない。だからこそ、レインもあっさりと打ち明けたわけだが……なにか引っかかる反応だった。
「なるほど。王女様はそこまでおまえを慕《した》っているんだな」
「別にそういうことでもなかろう。ただ一緒に風呂に浸《つ》かっただけだぞ?」
「なんだ、知らないのか」
ラルファスの口元でピタリとグラスが止まった。
「王女様が裸身を見せ、しかもそのような誓いを――」
言いかけて首を振る。この男にしては珍しく、悪戯《いたずら》っぽい笑い方をした。
「いや、まあいい。そのうちわかるさ」
「気持ち悪い笑い方すんなよ……似合わないぞ」
「ふふ……そうか? ところで、王女様にはついていなくていいのか」
あからさまに話を変えるラルファス。
胡散臭《うさんくさ》い思いで見返しつつ、レインは教えてやった。
「ギュンターがそばにいる。あいつの腕はレニより遙《はる》かに上だからな。まずどんなヤツが来ても大丈夫だ。この後でまた俺がつくし。今はとりあえず、おまえに報告しとかないといけないだろう」
酒ばかり飲んでいるくせに、「報告しとかないといけない」もないものだが、ラルファスはにこやかに、そうだな、と言ってやった。なんだかんだ言いながら、レインはちゃんと王女の安全に気を配っていると思うのだ。
――ドアの方からノックの音がした。
ラルファスが「誰か?」と問うと、レニの声で「あの〜、ウチの将軍は来てますか」という返事。
「なんだよ、『ウチの将軍』ってのは」
レインはしかめっ面《つら》になり、自ら席を立ってドアを開ける。
「なんだ? 今、非常に重大な話をしてるトコだぞ」
「とか言いつつ、酒の匂いがしますよ」
レニが控えめに反論する。じろっと睨《にら》みをくれてやると、慌《あわ》てて手を振った。
「いえっ。自分は別になんの文句もないですがっ。それはそうと、その……将軍にぜひともお会いしたいという人が訪ねて来てまして」
「こんな時間にかぁ?」
「はあ。自分も明日にしてくれって言ったんですけどね。なにやら騎士志望の方らしく、どうしても会いたいと――」
「待て待て! 試験はもう終わっただろ。なんで今頃来るんだよ!」
「いや、自分もそう思いますが……とにかく押しの強い人で。会ってもらえませんかね、将軍。城門でテコでも動かないんで、立ち番の者が困ってるんですよ」
「う〜ん……」
レインは髪をかきあげ、ふと思いついて尋ねた。
「男か女か、どっちだ」
「は? ああ、男性です」
「追い返せ!」
即答してドアを閉めようとすると、意外に素早《すばや》くレニが足を挟んできた。
「わっ、待ってくださいよ! そう言わずにお願いしますってばっ。自分じゃとても追い返せないんですから。あの人の相手が出来そうなのは将軍くらいですよ!」
レニが拝むように言う。
どうやら、相手は随分と厚かましいヤツらしい。
「ああ、わかったわかった。行くからしがみつくなっ」
うんざりしてラルファスを振り返った。
「というわけで、俺はちょっと行って来る。おまえも今晩はもう寝ろよ。捕虜《ほりょ》の審問《しんもん》は明日にしてな」
「そうもいかないさ。そろそろ気絶から醒《さ》めた頃だろうから、私も、もう行かねば」
言うなり、ラルファスはもう立ち上がっている。
「やれやれ、今晩は色々とある日だな」
久しぶりに寝ることに決めていたのだが、睡眠時間はかなり後にずれ込むようだ。
レインは覚悟を決めた。
今頃はアシマルの効果ですやすやと眠っているであろうシェルファが、少しだけうらやましかった。
――☆――☆――☆――
渋々城門まで足を運び、レインは「なるほど、こいつは手強《てごわ》そうな」と大いに納得した。
問題の男は城門の前にどっかと座り込み、両腕を組んで瞑目《めいもく》していた。横で、門番となぜかセルフィーを従えたセノアがなにやらわんわん喚《わめ》いていたが、目を開けようともしない。
石造りの神像のように、超然とした態度である。
意地でも動かんぞ! という気迫が感じられた。
ごくごく短い白髪《しらが》混じりの黒髪に、しわの多い顔。防寒用の革上衣に包まれた身体は、歳の割にやけに逞《たくま》しい。明らかに、戦いを生業《なりわい》にしていた者の肉体だった。
レインがこの男から受けた印象を一言で形容すれば……まさにオヤジ。
二言で形容すれば、図々しそうなオヤジ。とにかくどこから見ても、そこらの酒場に一ダースもいそうなオヤジである。へべれけに酔っぱらいつつ、「ねーちゃん、いい尻してんなぁ、でへへへえ」とかほざいていそうな感じだ。
ただし、鍛え上げられた肉体だけが、その想像を裏切っている。
ともあれ。
件《くだん》のオヤジに相当手を焼かされていたらしく、レインがズカズカやってくるのを見て、さすがのセノアもほっとした表情になった。
「おい、おっさん!」
レインはいきなり一喝《いっかつ》した。
「余計な面倒をかけさせるな。試験はもう終わったんだぞ、帰れ帰れ!」
相手が妙齢《みょうれい》の美女なら対応も微妙に違ったろうが、ただのオヤジが相手となるとレインの態度は至極《しごく》冷淡である。
場合によっては腕ずくで叩き出そうと、早くもシャツの袖をまくっていた。
ところがオヤジ本人は、レインの声を聞くなりくわっと黒瞳《くろめ》を見開いた。
「おお〜っ」
今までの態度が嘘のようにわたわたと立ち上がり、避ける間もなくレインの手を取る。
「こりゃ懐かしい! 十年前に会った時とほとんど変わってないじゃないか! 驚いたぜ」
「……俺はおっさんなんか知らないぞ。それより手を放せっ」
邪険《じゃけん》に手を振りほどいた。オヤジに手を握られてもぞっとするだけだ。
「へっ。相変わらず、愛想がないなぁ、おまえ」
応えた風もなく、オヤジがにんまりと笑う。挙げ句、しげしげと見返してきた。
「しかし、愛想のなさはともかく、印象は随分変わったな、おまえ。十年前に会った時はすげークールなヤツだと思ったもんだが、今はなんつーか、顔立ちはあんまり変わらんがよりふてぶてしい面構《つらがま》えになったというか、さらに図太くなったというか」
「……おいこら。もしかして喧嘩《けんか》売ってるのかおっさん。俺を怒らせると、後が思いっきりこわいぞ、おいっ。何度も言うが、俺はおまえなんか――」
言葉をぷっつりと切り、レインはオヤジをもう一度、上から下までずずっと観察してみた。埋もれた記憶をちくっと刺激されたのだ。
「……ひょっとしておまえ……いや、あんた……ガサラムか?」
「おうよ! 思い出してくれたかっ。いや、こりゃありがてえ。すっかり忘れられたかと思ってがっかりしたぜえ」
わっはっは! と大口を開けて破顔《はがん》するオヤジ……じゃなくてガサラム。かつて見た時よりだいぶ老けている。十年の歳月がしっかりとガサラムの顔に表れていた。
「お知り合いでしたか……」
疲れたようにセノアが口を挟んだ。
レニとセルフィー、それに門番達は無言のまま、大笑いするガサラムをぽけっと見ていた。
「いやまあ……知り合いと言えば知り合いだけどな……。しかしあんた、えらく老けたなあ」
思ったままをレインは言った。
老いるということから無縁になった身としては、少々寂しい気がしたのだ。
「きついなぁ、おい。まあ、おまえらしいが。でも、これが普通だろ。おまえが若々しすぎんだよ。どう見ても十年|経《た》った顔とは思えないぞ。……やっぱり、噂はマジだったんだな」
「まあな」
ついっとレインは肩をすくめた。もちろん、その「噂」とやらが、ドラゴンスレイヤーの件であることは言うまでもないだろう。
「それで……わざわざ訪ねてきたのは、俺の顔を見るためか? いや、違うよな。確か、騎士志望がどうとか」
言った途端《とたん》、機嫌よく笑っていたオヤジの顔が微妙に引きつった。いい歳をして、なにか恥じらうような表情になる。
「あ、ああ。その……おまえが騎士を新規で徴募《ちょうぼ》しているという話を聞いてな。出来ればだ……あ〜……俺も使ってもらえないかなー、と」
「あんたには、警備隊の隊長職があったろ」
「あそこは――」
ガサラムは熱心に耳を澄《す》ましている聴衆を横目で見てから、小さい声で続けた。
「あそこはクビになった。もう歳が歳だから、引退してほしいそうだ。……隊長があんまり歳だと不安なんだと――あ、でもなっ」
慌《あわ》てて言い募《つの》る。
「俺はまだまだ戦えるんだっ。別にあそこにいた時だって職務はきちんと果たしていたしな。ただ頭の固い王都の役人が、もう歳も五十五だし困るとか吐《ぬ》かしやがっただけで。だからよ、ここでも俺は役に立つぞ、ちゃんと! それに、なにも特例として正騎士にしてくれなんて言わないさ。もちろん、見習いでいいんだ。だから――」
「待てよ、ガサラム」
ほとんど必死といっていい表情で訴えかけるガサラムを、レインは手を上げて止めた。
「待てって。……ちょっと訊《き》くが、なんで今更騎士見習いになんかなりたがる? 警備隊に勤める前は、ファヌージュ騎士団の騎士隊長だったんだろ。まあ、あの国には複数の騎士団があったから他にも隊長がいたんだろうが、それにしたって立派なもんだ。その後、警備隊の隊長職を務《つと》めて金も貯まったろうし、もう悠々《ゆうゆう》と生活できるだろう。どうしてだ?」
ファヌージュの騎士隊長、と聞いてセノア達がびっくりした顔になった。それはそうだろう。ファヌージュは国土こそ小さいが、ザーマインと同じく「完全実力主義」を採用する国で、そこの騎士隊長をしていたというのはなかなか凄いことなのである。
なまじの実力では平騎士にすらなれない。
いきなり経歴をばらされたガサラムは、しかし少しも誇らしそうではなく、むしろ益々恥じるように視線を落とした。
あるいは、隊長にまで上り詰めたのに、今になって騎士見習いにしてくれ! などと頼む自分を情けなく思ったのかもしれない。
老いた戦士は最初の元気がすっかり無くなった声音《こわね》で言った。
「……昔は昔、今は今だ。かつてはどうあれ、今や歳のせいで警備隊をクビになるくらいだからな。俺だって、もういい加減引退すべきだと思うさ。でも……でもな」
しわの深い顔を上げ、遠くを見るような目つきをする。
「ウチは代々騎士の家系だったせいか、俺はガキの時分から戦うことだけを教えられて育ってきたんだ。今更他の生き方なんて出来ないし、しようとも思わねーよ」
それに、とさらに声が弱々しくなる。
「それによ、俺は剣を取って戦う以外になんの能もないんだ。恥ずかしい話だが、他にはなにも知らねえ。このまま死ぬまで家でぼ〜っと座ってるくらいなら、戦場で死ぬ方が余程マシってもんだろ」
「なるほど、そうか」
レインはわざと軽い囗調で返した。ここで下手に同情などするのは、相手に失礼というものだろう。
このガサラムという男は、もしかすると自分の将来の姿なのかもしれない――とレインは思う。ずっと戦士として生きてきた者は、時に普通の生き方が苦痛となってしまう場合がある。
目の前のガサラムも、戦って死ぬ以外の道を選べない男なのかもしれない。おそらく彼は、安らかにベッドで死にたいなどとは考えたことすらないだろう。
この俺と同じく……
「と、とにかくだっ」
レインが黙り込むとガサラムはまたがばっと迫り、熱心に言葉を重ねた。
「そんなこたぁどうでもいいんだ、うん。俺は雑兵《ぞうひょう》としてもまだまだ現役でいける。ちゃんと戦えるから、ぜひとも騎士見習いとして」
「ガサラム」
レインは軽く手を上げた。
「結論はもう出てる。悪いが俺は、無駄なことはしない主義だ」
うっとガサラムは呻《うめ》いた。
荒かった鼻息をため息にかえ、ふうっと吐き出す。
「無駄……そうか、無駄か……」
声に怒りはなく、老騎士の疲れと哀《かな》しみのみが滲《にじ》んでいた。
『将軍!』
セルフィーとセノアが声を揃《そろ》えて金切り声を上げた。その声に互いがぎょっとなり、顔をしかめて視線を交わす。早い者勝ちでセノアが先に述べた。
「それはあまりに情のないお言葉。ここは快く騎士見習いとして登用するのが、上に立つ者の」
「待て待てっ」
ボコンとセノアの金髪を小突くレイン。
むっとして説明する。
「おまえら、勝手に勘違いしてんじゃないっ。俺は騎士見習いとしては雇わないって言ってるんだ!」
「なにっ」
いきなりガサラムが復活した。
喜色満面《きしょくまんめん》の顔でぐぐっとレインに迫る。
「すると――」
「言ったろ。俺は無駄なことは嫌いだ。ガサラム、あんたは運がいい。上手い具合に、最近になって部隊を再編したところだったからな。……今日からあんたには、千人隊長をやってもらおう。しっかり働いて俺の役に立ってくれ」
ガサラムはそれを聞き、まさに魂を抜かれたような表情をした。
それも無理のないことで、千人隊長と言えば一応は将軍職。彼が若かりし頃に務《つと》めた騎士隊長より、もちろん上である。
しばらく弛緩《しかん》した顔をした後、ガサラムは突如として劇的に真っ赤になり、目を潤《うる》ませた。
「おまえ……いや、あなたは……」
なにか言おうとしたのだろうが、声にならない。
そのまま主君に対するように、恭《うやうや》しく片膝をついた。
「……このガサラム、今日のご恩は忘れませんぞ。これからはあなたのために働き、死がこの身に訪れるまで決しておそばを離れません……」
「いきなりころりと態度を変えるなよ、気持ち悪い。いいから、力まずに行け」
レインはヒラヒラと手を振って、立つように言ってやった。湿っぽい場面は好きじゃないのだ。
と、やっとセノアが茫然《ぼうぜん》自失の状態から抜け出し、猛然《もうぜん》と抗議しかけた。
「そ、それはいくらなんでも気前が良すぎで――」
その時、セルフィーが夢見る乙女のように「素敵すぎます……レイン様」などと呟《つぶや》き、セノアの頬《ほお》が引きつる。
ずざざざっとセルフィーから離れた。
「レイン様……だと? ま、まさかおまえ、将軍に」
恐る恐る尋ねたが、セルフィーは聞いていない。レインをぼ〜っと見ていたからだ。
返事は聞かずとも明らかだった。
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第三章 お披露目《ひろめ》の日
ガサラムが新たにレインの旗下《きか》に参じてから十日以上が過ぎた。
浴場で襲ってきたのを最後に、不審者が現れることはなく、おおむね平穏な日々が続いている。
そして、今日は戴冠式《たいかんしき》の前日である。前日ではあるが、実際の戴冠式《たいかんしき》がある明日よりも遙《はる》かに忙しいと言えるかもしれない。
なぜなら――サンクワール国内においては、ほとんどの民《たみ》がシェルファ王女の顔はおろか名前すら知らないので、式に先立ち、今日はいみじくもレインが名付けた「新しい主君のお披露目《ひろめ》」をする日なのである。
といっても、なにか凝《こ》ったことをするわけではなく、ただシェルファが王女らしく着飾り、王都リディアを馬車でぐるりと周る……という催《もよお》しである。
レインが非公式に主張するところの、「シェルファ王女の美貌《びぼう》を王都中に見せて周り、庶民の人気をがっちり掴《つか》む!」という狙いがあるのだ。
あまりにもあざとく、かつ身も蓋《ふた》もない狙いだが、レインに言わせれば「庶民というのは気難しそうな足の臭い中年(先王のことである)よりも、可憐《かれん》な美少女の方に多くの支持を寄せるはずだ」となるのである。もちろん、このお披露目《ひろめ》を最初に提案したのがレインであることは、言うまでもない。
そしてついに当日の朝になり、レインはシェルファの身辺で真面目《まじめ》に警護の任に――ついていたりはせず、食事専用の広間で朝食を掻き込んでいた。
今はシェルファが大勢の侍女《じじょ》にかしずかれて新調したドレスに着替えているところであり、どのみちレインはそばに行けないのだ。いや、別に彼女はレインに着替えを見られても気にしないだろうが、やはりなにかと周りがうるさい。
というわけで一時《いっとき》の休息と洒落《しゃれ》込み、レインは食後の楽しみとして、厨房からくすねてきた酒瓶をラッパ飲みする。
早朝から飲む酒は、またかくべつだった。
だが、そのせっかくの酒宴の最中に、レニが急ぎ足でやってきてしまった。
「ああっ。ま〜たお酒なんか飲んでるんですか!」
「いいだろ、ちょっと飲むくらい! どうせ俺はいくら飲んでも酔わないから、ケチつけられる覚えはないぞ。……だいたいおまえ、姫様の警護はどうした、警護はっ」
反対に叱りつけると、
「あ、そうだった! その王女様ですが、将軍を呼んでいますよ。すぐに来てほしいとのことです。凄く切実そうでしたけど」
「――ホントか? ほんの三十分くらい前まで一緒にいたところなんだがな、俺は」
「う〜ん……」
レニは微苦笑を見せた。
「あの方は、将軍を頼みの綱としていますからね。離れていると不安なんでしょう。無理もないですよ、暗殺事件の騒動だって収まったわけじゃないですから」
それはその通りである。
先日、レインがせっかく捕虜《ほりょ》にした一人は、次の朝には死んでいた。原因は全くわからない。牢《ろう》の前には牢番《ろうばん》ががんばっていたから誰も出入りしたはずもないのだが、朝に食事を持っていった時にはもう死んでいたのだ。自殺なのか殺されたのか、それすらわからないのが不気味である。
さらにまずいことに、暗殺の依頼を受けたと思われるギルドにいた内通者と、ぷっつりと連絡が取れなくなった。あるいはいち早く消されたのかもしれず、これで誰が依頼者かますます掴《つか》みにくくなったわけだ。
レインは酒瓶を手で押しのけ、独り言を漏らす。
「まあ……それは不安になって当然だが。ただ、あの子もゆっくりでいいから、俺以外のヤツにも関心持つようにしないといかんな、うん」
「いや……あの子って、その呼び方は。一応主君なんですから。おっしゃることはわかりますけどね。いい加減幻滅するかと思っていたのに、全然そんな兆《きざ》しがないですもんねえ」
さらりとむかつくことをほざき、レニはなにげなく酒瓶に手を伸ばした。が、レインの手がそれをいち早く取り上げる。
「おまえは飲むな! ただでさえ酔いやすいんだから」
「……残念。では、とにかく早く来てくださいよ。王女様のお呼びなんですから」
「わかったよ、行くさ。……もう二〜三杯飲みたかったんだが」
「あのですね……王女様に懇意《こんい》にしてもらってるなんて、うらやましいことじゃないですか。自分なんかユーリちゃんとお昼を食べるのもままならないのに」
「なにがユーリちゃんだ。おまえの事情なんか俺が知るか」
あっさりと突き放し、レインはやれやれと立ち上がった。どのみち、そろそろ戻ろうと思っていたところなのだ。
テーブルの上の酒瓶を未練がましく見てから、王女の待つ部屋へ向かった。
――☆――☆――☆――
「なにか変わったことは? ――て、そんなのないよな。さっき離れたばかりだし」
レインは、部屋の前に立つガサラムに尋ねた。ガサラムは実にオヤジっぽくニヤッと笑い、揶揄《やゆ》するように返す。
「異状はないですが、王女様がお待ちかねのようですよ? さっきから何度も顔を覗《のぞ》かせて、来てないか確認してらっしゃったですからね。いや〜、しかしここの王女様はとてつもない美形ですな。俺があと三十年若ければ、夜も眠れないほどときめいたんですが」
「ガサラム殿」
気を付けの姿勢で直立中のセノアが、弓形の綺麗な眉をぎちちっとひそめた。
「余計な報告が多いですぞ。聞かれたことだけに答えればよろしかろう」
堅苦しい表情で堅苦しいことを言う。大方の予想どおり、ガサラムとはあまり気が合わないらしい。困ったものだ、とレインは他人ごとのように思った。
もっとも、ガサラム本人はセノアの感情に動じる様子もなく、顔も笑ったままだった。
「まあ、そうかてーこと言うなよ、ねーちゃん。どうだ、今度一緒に一杯? で、その後、しっぽりと仲良くなるっていうのは?」
いきなりオヤジ度全開のセリフを吐く。
勇気あるなぁこの人、という目でレニが眺めていた。
「ね、ねーちゃんっ!?」
セノアがちょっとのけぞり、ついで見る見る表情が険しくなった。
「おい、ガサラム」
レインはすかさず割って入った。
「こいつをからかうのは、俺のいない時にしろよな。すげーうるさくなるんだから」
「将軍! それはどういう意味――」
「じゃあ、引き続き警護を頼む」
セノアが金髪を揺らしてこちらを向いた途端《とたん》、レインはノックを省略してドアを開け、さっさと部屋の中に退避した。しっかりと鍵も閉める。嘘のように外の声が途絶えた。さすがにそこらの薄っぺらいヤツと違い、防音性が高い。
正面を見ると――
突然の乱入者に驚いたのだろう、シェルファは窓際で半ば振り向いて瞳を見開いていた。
が、警戒心が露わになった表情はすぐに笑みに変わり、とてとてとてっと駆けて来た。
「レイン!」
早速、手を握ってくる。緊張しているせいか、小さな掌《てのひら》が汗ばんでいた。
「侍女《じじょ》の姿がないトコ見ると、着替えはもう終わったのか」
「……はい」
ふかふかの絨毯《じゅうたん》に目を落とし、シェルファは頷《うなず》いた。
白を基調とした絹のドレスは胸元に大胆なカットが入っており、スカートもお姫様風にふんわりと広がっている。誰がデザインしたのか知らないが、仕立てた者は、彼女に白が似合うことを見抜いていたようだった。
実際、街に出た途端《とたん》に視線が殺到するだろう……
ただ、シェルファ自身は顔色がよろしくない。握った手を通じて、彼女が震えているのがわかった。
「どうした?」
「こわいんです……そんな……知らない人が大勢いる前へ出るのなんて、初めてですし」
「そうか、そういやそうだったな」
「あの……中止するわけにはいきませんか」
冬だというのに、シェルファはうっすらと頬《ほお》に汗をかいている。完全にあがりきっていたし、さらに言えば怯《おび》えていた。今にも倒れそうに見える。
「あのな……ちょっとこっちへ来いよ」
人形のように棒立ちの彼女の手を引き、椅子を持ってきて石造りの豪奢《ごうしゃ》な暖炉の前に座らせる。
「今日のお披露目《ひろめ》は絶対におまえのためになることなんだ。そのことは何度も説明したろ」
「それは……でも、気が進みません」
「俺がそばについててやるよ。クリスに乗って馬車と併走して、ずっと離れずにいてやるから」
「レインが?」
ちょっと頬《ほお》に生気が戻った。
シェルファはレインの掌《てのひら》が命綱であるかのように力を込めて握り締め、青く澄《す》みきった瞳を向けてきた。
「最後までずっとついててくれますか?」
「ああ、ずっとついてる」
「……手も握っててくれますか」
「いや、それはいくらなんでも無理だろう」
レインは苦笑し、シェルファの頭にそっと手を置いた。
「だけど、すぐそばにいるから、どうしても耐えられなきゃ俺を見ていればいい。今、じっと見てるみたいに。それで落ち着くなら、だけど」
「こうやってそばにいて、レインを見ていると落ち着きます……。さっきまでドキドキしていたのに、もうかなり収まりました」
シェルファは握っていたレインの手を、ドレスの胸元に持っていった。
むう、柔らかい……いや、そうじゃなくて。
「うん……ちょっと速いくらいだな。ていうかおまえ、こういう真似は二人だけの時にしとけよ」
「どうしてでしょう?」
「大人の事情だ」
その一言で片づけ、
「とにかく、もう大丈夫だな?」
「もう少しだけ、待ってください。こうして見つめていると、レインの強さを分けてもらえる気がするんです……」
シェルファは瞬《まばた》きも惜しむかのように、大きな瞳を一杯に見開き、レインを見つめている。
その真摯《しんし》さと純粋さは疑いようもなく、自己申告通り、レインを見ているだけで心が落ち着くらしかった。
ただ、レイン自身も、シェルファから「何か」を感じた。
貴族特有の青一色で占められた瞳が、うっすらと光を放っているような気がする。彼女がレインから不可視の力を得ている気がしているように、レインもまた、この姫君からある種の「力の波動」を感じた。
それは気のせいなどではなく、底の底に眠っていたモノが、ふいに頭をもたげたのに似ている。
もしも、今彼女の目を覗《のぞ》き込んでいるのが並の戦士だったとしたら……おそらく、この強大な力に身が震えるような思いを感じたはずだ。
ただ、レイン自身はシェルファの謎の力より、この全幅の信頼を籠《こ》めた瞳に気恥ずかしさを覚え、あえて目を逸《そ》らす。
「そろそろ、デートに出かけるか」
「……デート?」
随分と元気を取り戻したシェルファが、小首を傾《かし》げる。
「つまり、都合の良い方に考えろってことさ、チビ。周りにいる有象無象《うぞうむぞう》の群衆はとりあえず忘れろ。カボチャかなんかだと思え。今日は俺と二人で王都をデートするんだって思い込むんだ。周囲の騒音なんか無視して、二人しかいないと思えばいい」
「レインと……デートですか」
神の御名《みな》を口にするような声音《こわね》。
「そうだ。そう思えばいい。それとも、俺とデートするの嫌か」
そう訊《き》くや否や、なにもそこまで激しく首を振らなくてもというくらい、シェルファはブンブン首を振った。
「デート……したいです」
「そのうちしよう。これからいつだって出来るさ。だから、今日もそのつもりで切り抜けるんだ」
ぽっと上気した顔で、シェルファは上目遣いにレインを見上げた。
「なんだか、何も怖くなくなってきました」
「そうか、よかった。――そうだ、これも渡しとく」
レインはポケットから古びた銀貨を取り出して、シェルファの手に握らせた。表面にびっしりと見知らぬ文字が彫ってあり、ネックレスになるように穴を空けてチェーンが通してある。
「ほら、これで正真正銘、最後の一枚だ。というか、最初から二枚しかなかったけどな。もう必要ないかもしれないけど、一応やる」
「これは――」
ぼろっちい銀貨を一目見るなり、シェルファは椅子から弾かれたように立ち上がり、レインの胸に飛び込んできた。
「ありがとうございますっ、レイン!」
「おっと」
「嬉しい……嬉しい……ずっと、使ってしまったのが気になっていたんです」
しっかりとこちらの背中に手を回し、シェルファが言う。
当然、こちらもシェルファの背中に手を回しているわけで、もし誰か第三者が見たら、一体俺達はどう見えるだろうか、とレインは思った。まあ、姫君ともなれば十代初めで嫁《とつ》いで行くことも多いので、世間的にはさほどおかしくないのかもしれないが。
「……ほら、首にかけてやるよ。あ、こんな盛装のドレス姿でばっちいコインはまずいかな」
「いえっ。お願いします……かけてください」
顔をちょっと上向けて、じっと待つ。
レインは希望通り魔法のコインをもう一度受け取り、見守られながらシェルファの細い首にかけてやった。
「ほら、これでよし。見えないように服の中に押し込んでおけよ」
「……はい」
うっとりした表情のシェルファである。首にかけてもらった小汚いコインが、なにかとんでもない値打ち物であるかのように(いや、高価なのは確かなのだが)じいっと眺めている。
ひょっとしてこの子は、これからの行事を忘れているのではないかと心配になった。
「それから、実はまだ話があるんだが……」
後回しにしていたことを、いよいよ持ち出す。
「はい?」
「この前襲ってきたヤツらだけどな、まだあきらめたわけじゃないのはわかるよな」
「ええ」
「……あんまり不安になるような事は言いたくないが、はっきり言って今日なんか狙われやすい……どころか、俺が暗殺する側だったら確実に狙ってくるだろう」
瞳を瞬《またた》くシェルファ。
「でも、レインがついていてくれるのでしょう」
「それはそうなんだが。……そうじゃなくて、いわば俺は、おまえを囮《おとり》に使っているも同然だと言いたいんだ。なぜかっちゅーと、この機を逃さず、俺はそいつらを一網打尽《いちもうだじん》にするつもりだからな」
「でも、それもこれも、全てわたくしのためなのでしょう?」
なんのこだわりもない微笑み。
「そんなこと、どうか気にしないでください。わたくしのこの身については、命も含めて全てレインの判断に任せます……レインの思う通りになさってください」
むう……と唸《うな》ってしまいそうになったレインである。シェルファのひたむきに見つめてくる瞳には、言葉を裏切らない無限の信頼があった。
「……いいのか、俺にそんなこと言って。後悔するような羽目になっても知らないぞ」
シェルファは返事の代わりに黙って近寄り、また抱きついてきた。
「わたくしには、レインが隠している心が見えるんです。後悔なんてしません」
……何とも言いようがなかった。
――☆――☆――☆――
城門のすぐ内側の広場では、既にお披露目《ひろめ》の準備が整いつつあった。二頭の白馬に引かせた純白の馬車は、屋根や窓といった部分が無く、中に真っ赤なビロード地のソファーが据《す》えられている。
飾り付けが多いのは別として、形としては底の浅い箱のような特注の馬車だ。
あまり広くないが、ここに座るのはシェルファだけなのでなにも問題はない。座しているだけで彼女の姿は群衆の注目の的となるわけで、『お披露目《ひろめ》』にはぴったりなのである。
警護を担当するレインとラルファスの混成部隊ももう集まり始めていて、周囲は喧噪《けんそう》で満ちていた。まだ隊長クラスの者が来ていないので、私語を咎《とが》める者とてなく、しゃべり放題である。
ユーリとセルフィーも例に漏れず、退屈しのぎにかしましくおしゃべりしていた。本当は、騎士見習い程度の身分では今日のお披露目《ひろめ》には参加できないのだが、ユーリは副官レニ預かりの見習い、そしてセルフィーは未定ながらなんとなくレインの預かりということになっていて、二人とも特別に参加することになったのである。
一応、恰好《かっこう》もそれなりに、白い制服の上からレザーアーマーを装備してキメていた。ちなみに、なぜ鎧《よろい》ではないかと言うと、正騎士ではないから正規の鎧《よろい》は許されていないのだ。
ただ、セルフィーはともかくユーリは「かえってこの方がいいわよ」と喜んでいた。
そもそもユーリは、この行事に参加させてもらったこと自体を迷惑にしか思わず、どちらかといえば「貧乏クジを引いたわ」と憤慨《ふんがい》していたのである。ユーリにしてみれば、こんな行事に出るより宿舎で寝ていた方がマシなのだ。
二人で朝食代わりに買ってきた、パンやらチーズやらワインやらをもしゃもしゃ食べながらも、ユーリは一息ごとに文句を言うのをやめない。
二人とも広場の隅でしゃがみ込み、食欲を満たすことに専念しており、その姿を親が見たら号泣するかもしれない。まあ、二人とも既に孤児なのだが。
「だいたいさ、見せ物小屋のサルじゃあるまいし、な〜にが『お披露目《ひろめ》』だか。将軍の考えることはほんっとになってないわね!」
こんな朝早くから呼び出された現状にひとしきり文句を述べた後、ユーリは総括して結論を述べた。
「ええっ。そんなことないと思いますよ。レイン様、王女様のためにと思ってがんばってるじゃないですか」
「そうかなあ。あたし、こんな人気取りの宣伝ってなんか嫌い。こんな行事|催《もよお》すより、実際にばしっと国民に支持されるような政策を採《と》るべきじゃない?」
セルフィーは、食べていたモノを慎重に咀嚼《そしゃく》してから反論した。
「宣伝は悪いことじゃないと思います。国民全員に、まず『これまでとは違う』という所を見せる必要がありますし。悪いのは、宣伝だけして中身が伴《ともな》わないことでしょう。でも、実際に変えて行く意志はあると思いますよ、あの王女様……それに、レイン様も」
むむっ、という感じで眉を寄せ、ユーリはとりあえずパンをかじりつつ時間を稼いだ。お主《ぬし》、なかなか言うわね。ちょびっと悔しかったので搦《から》め手より反撃。
「――ところで話は変わるけど、その『レイン様』って言い方はなに? もしかして、将軍が好きになったとかいうベタな展開?」
意外なことに、セルフィーはあっさりと陥落《かんらく》した。ぼぼっと顔を赤くし、指で地面に字など書き始める。
なんてこと! ユーリはあきれた。
「あのねえ。ああいうのに惚《ほ》れると苦労するわよ。もの凄い風来坊《ふうらいぼう》気質だもん、あの人。だいたい、無闇《むやみ》やたらと強いという一点を除外したら、ただのホラ吹きだしぃ」
「そんなことないですよ!」
なに言うんですか! とばかりにユーリと同じ薄緑《うすみどり》の瞳を見開き、ワインを「んくんく」と剛毅《ごうき》に呷《あお》る。さっきまで控えめにチビチビやっていたのに、今ので火がついたらしい。
「ふーっ。レイン様、精悍《せいかん》な顔してらっしゃるしよく気が付くし、それに――」
そこで言葉が途切れた。
「……それに、なに?」
「それに、優しいじゃないですか」
また地面に指文字を綴《つづ》り始める。
あ、もう手遅れだわこいつ。
ユーリはすかさずそう思った。
「セルフィーって、もしかして惚《ほ》れやすいタイプ?」
「違いますよ!」
がばっと顔を上げてセルフィー。あろうことか自分でぶちまけた。
「これが初恋ですもんっ――て、ああっ!?」
大声で主張した後、自分のドジに気付いて頭を抱えた。
「ううっ……秘密にするつもりだったのにぃ」
「……セルフィーには無理よ、そんなの。だって、めちゃ顔に出てるじゃない」
ユーリが指摘すると、自分でも心当たりがあるのかまた赤くなり、セルフィーはやたらとワインを呷《あお》った。まだ本番前なのに、もうすっかりできあがりかけている。
見かけはいいトコのお嬢様に見えるのに。
などと思いつつ、ユーリはふと視線を上げ、そこで身構えた。
「セルフィー、危ないわよ!」
「はい? き、きゃあっ」
のそっと馬の長い首が自分の脇から突きだし、セルフィーは小さく悲鳴を上げた。袋を抱きしめ、焦って立ち上がる。
ユーリは前回の経験もあり、さして驚きはしない。ただ「またアンタなの、クリス」とむっつりと言った。
「く、クリス?」
「そう。レイン将軍騎乗の馬よ。なぜか放し飼いにされてて態度が大きいの、馬のくせに。人がなにか食べてたら、す〜ぐに寄ってくるんだから。ふざけてるわよね」
途中からセルフィーは聞いていなかった。
クリスが普通の馬より一回り大きく、たてがみも豊かで見栄えのいい白馬なのに感心したのだ。
「きれいなお馬さん……」
声が危ない。
「……なんでもいいけど、その『お馬さん』はやめて」
ユーリはしかめっ面《つら》になった。
けれどもセルフィーはユーリを見向きもせず、手触りの良さそうな馬のたてがみに手を伸ばした。が、首を振ってクリスが避ける。
「あれ、どうしてでしょうか。撫《な》でてみたいのに……」
「アレじゃない? なにかあげたら撫《な》でさせてくれるんじゃない。そいつ、『ただじゃイヤだね』って言ってんのよ」
腰に手を当てて言うユーリを、セルフィーはそんな馬鹿な、と笑った。
「それはないでしょう。でも、残念。なにかあげたくてもパンしか無くて。こんなのお馬さんは食べない――」
バクバクッ
なんとなく手にした固いパンを、クリスはあきれるほど素早《すばや》くさらった。顔(首?)を上向かせ、んぐんぐっと二口ほどで咀嚼《そしゃく》してしまう。食べた後しっぽを気だるげに一振りし、横目でセルフィーを……より正確に言えばセルフィーの手にした食料入りの袋を見た。
ユーリが乾いた口調で指摘する。
「そいつ、『もっと出さんかい、こらっ』って言ってるわよ」
「ええっ!」
セルフィーは混乱してよろめいた。
「ゆ、ユーリって馬と話せるんですかっ。それに、パンを食べる馬って……」
「そんなわけないじゃん! あ、この否定は馬としゃべれる方ね。将軍はしょっちゅうクリスに話し掛けてるけど、あたしをそんなのと一緒にしないで! ただ、そいつの要求ってわかりやすいのよ、ただそれだけ」
「それじゃあ……パン食べるのは?」
「それは謎。なんだか知らないけど、クリスって馬のクセに雑食らしいわよ。ただ、飼《か》い葉《ば》だけは食べないの」
「お馬さんなのに、飼《か》い葉《ば》が嫌い?」
そろそろと手でクリスを撫《な》でつつ訊《き》くセルフィー。らしいわね、とユーリは素《そ》っ気《け》なく答えた。
「うわぁ、なんか……かわいい」
――今の話のどこがかわいいと思うのよ、おいっ。
内心でツッコミを入れる。まあ大柄だし真っ白だし、見栄えがいいことは認めるが、どちらかというと生意気でユーリは好かない。あきれて見ていると、そのうちまたクリスがポクポクとセルフィーの手から逃れた。
なぜかセルフィーがこちらを見るので、ユーリは仕方なくクリスの行動を解説する。
「触ってばかりいないで、もっとメシ寄こせってさ」
言われ、セルフィーはあたふたと紙袋からチーズやらお菓子やらを取り出して差し出す。
それを底無しの穴のごとくクリスが平らげ、たちまち手持ちの食料は尽きた。
さらにあきれたことに、この馬はワインまで飲んでしまった。
試しにセルフィーが瓶越しにクリスの口の中に流し込んでやったら、そのまま飲み干したのである。小さく嘶《いなな》き、すっかりご機嫌である。
「馬鹿ねえ、セルフィー。自分の朝ご飯を全部あげてどうするのよ」
ユーリは叱りつけてやった。
自分はと言えば、間違っても盗られないよう、クリスと同じ速度で朝食を食べ尽くしている。
「そいつ、食べちゃったし、すぐにセルフィーを見捨てて行っちゃうわよ。そういう根性悪の馬なんだから」
冷笑混じりに言い、ユーリはぷいっとそっぽを向いた。付き合ってられない。
――とそこで。
ユーリが明後日《あさって》の方を向いた途端《とたん》、クリスは彼女に向かって丈夫そうな歯を剥《む》き出し、馬鹿にしたように小さく嘶《いなな》いたのだ。
あまりにタイミングがいいので、セルフィーは驚いた。偶然とは思えない。
口元に手をやって驚きを表明すると、絶対に見間違いではないと断言できるが、クリスはセルフィーと視線を合わせ、パチンとウインクした。
「ゆ、ユーリっ!」
「なに? 大声出したら怒られるじゃない」
「そうじゃなくてっ。この子、今わたしに、う、ウインクしましたよっ。それに、あなたに歯を剥《む》き出したしっ」
「へっ?」
視線を戻したユーリと二人で、じい〜っとクリスに注目する。
しかしさっきと違い、クリスはぽ〜っと遠い目で他を見ている。
いかにも「ボクってば、ただの平凡な馬ですけん」という感じである。
……なんだかとぼけているみたい。
そんな感想を持ったセルフィーに、ユーリは肩をすくめて見せる。
「反応ないけど?」
「いえっ、さっきはホントに」
「ああ、もういいって。仲良くすればいいじゃない、クリスと。ほら、将軍とプリンセスのお出ましよ。時間だわ」
ユーリの言う通り、王女を伴《ともな》った将軍が、副官達三人を引き連れて馬車の方へ歩いてくる所だった。
と、大勢集まった騎士達の視線をどっと浴び、王女が驚いたように足を止めた。そのまま俯《うつむ》いてしまう。セルフィーの目から見ても、緊張してるなあとわかる。今にもしゃがみこみそうだ。
お付きの侍女《じじょ》のように後についていた副官達が、慰めの言葉かなにかを王女に話し掛けている。変化無し。それを見て、レイン将軍本人が腰をかがめて何事か言った。二言、いや、三言くらいか。これがあきれるほど効果てき面で、撤退寸前だった王女は、もう一度顔を上げた。
微笑みながら将軍が頷《うなず》くと、王女はまた馬車に向かって歩き始めた。……視線を将軍に向けたままで。
特別変わったコトを言ったわけではないのだろうと思う。多分、レイン将軍は他の副官同様、簡単な慰めの言葉を掛けただけだと思う。ただ、王女様にとっては将軍の言葉は特別な意味を持つのだろう……自分も同じ気持ちなので、容易に想像がつく。
セルフィーの胸が痛んだ。
でも、負けないもん! とすぐにまた元気をかき集める。まだ自分にだってチャンスはあるはず……そんな簡単にあきらめないもん! そう思い、先に行くユーリを追いかける。
ふと横を見ると、クリスと目があった。
誓って言う。
絶対に絶対に見間違いではない。
セルフィーは、クリスにまたウインクされた。
シェルファ自身が密かに名付けた『レイン効果』故《ゆえ》か、今のシェルファはよほど落ち着いていた。
誰がなんと言おうと、レインが近くにいるのといないのとでは気持ちの持ちようが大変違うのだった。
シェルファの基準からすれば無数に等しい騎士達が、なぜかポカンと自分を見つめている。その彼らに、微笑み返すことさえ出来たのだ。
うおおおっという歓声が周囲の騎士達から上がり、心臓がどきんと跳ね上がった。何事かと思う。自分がなにか、粗相《そそう》をしたのだろうか。
と、レインが良く通る声で一喝《いっかつ》した。
「こらっ、おまえらは思春期のガキかっ。姫様が笑ったくらいで一々盛り上がるなっ。それから、ジロジロ見るな、ジロジロっ」
渋々全員が目を逸《そ》らした。それでもまだ、チラチラ見る者がいたが。
レインは無言で一渡《ひとわた》り部下達を見まわしていく。その視線には無形のプレッシャーとでもいうモノが備わっており、ようやく不躾《ぶしつけ》な視線攻撃が止んだ。
それを確認し、レインはクリスにひらりとまたがる。すると、目線の高さがさほどシェルファと違わなくなり、彼女は少なからずほっとした。
「こんにちは、クリス」
白い手袋をした手で、クリスの首筋にそっと触れた。最近はクリスに話し掛けることが多いので、なんとなくこの馬の表情が読める気がする……今朝は、ことのほか機嫌が良さそうだった。
「整列しろー!」
新しくレインの旗下《きか》に加わったらしいガサラムという人が、ガラガラ声で怒鳴っていた。
まだ来て日が浅いのに、もうレニやセノアよりも隊長ぶりが板についている。
最初紹介された時は「こわそうな人……」という感想しかなかったが、ここ数日でシェルファの評価はかなり様変《さまが》わりした。
レインがこの人を深く信頼しているらしい、というのが理由の一つ。今一つは、ガサラムが意外に優しい目をしている点である。
この、もはや老年と言っていい騎士は、ある意味でレインと似たところがあり、外見に似合わず(彼には失礼だけど)とても細やかなのである。
それに、レニのようにぼ〜っと自分を見つめたりしないので、シェルファの感情はますます軟化の一途《いっと》をたどった。普段から自分をジロジロ見る人が多く、視線には敏感なのだ。レニ程度ならまだちょっと気になるくらいだが、なんというか「嫌な目つき」で眺める人がほとんどであり、シェルファの人嫌いを助長させていた。
でも、あのガサラムという人はそんな目で見ないしレインとも仲がいいし、シェルファは早くも「いい人」の部類に区分けしている。一度、この心の中の区分けについてレインに話したら、「そう簡単に判断するのはいかんぞ」と言われてしまったのだけれど、長年の習性はなかなか抜けない。
シェルファがガサラムの指揮ぶりを見ていると、そこへギュンターがやってきた。彼も一応は隊長の一人であり、今日は珍しく自分の配下達も一緒である。
瞠目《どうもく》に値することだが、その旗下《きか》の部隊には黒いローブを羽織った魔法使いの姿も数人見られ、周りの注目を集めていた。
かつての魔人《まじん》戦|故《ゆえ》に、今や魔法を習得する者はごくごくまれである。
ザーマインのように積極的にルーンマスターを集めている国は別として、国力としては二流国に過ぎないサンクワールでは、魔法使いは希少価値が高かった。
そもそも、軍属のルーンマスターの存在でさえ、普通は秘密にされているのである。
好奇の視線を全て無視し、部下を待たせてギュンター一人がレインに馬を寄せる。
「レイン様、ご報告がございます」
「うん、どうした」
「……失礼します」
ギュンターは周りを見やった後、レインの耳元になにやら囁《ささや》きかけた。なにか内緒話でもあるのだろうか。
シェルファはたちまちガサラムからギュンターに関心を移し、はしたないと思いつつも息を殺して耳を澄《す》ませてしまった。が、あいにく何も聞こえない。辺りが静まりかえっているので、他の人々もレイン達に関心を寄せているのがわかる。
やがて、黙って報告を聞いていたレインが少し眉を動かした。まずどんな場合も平然としているレインが、このように驚きを示すことは滅多にない。一体、なんだろう。
「……間違いないのか」
ヒソヒソとレインが問い返した。
「はい。部下達が彼らを確認しました。今は静かに見張らせていますが……いかがいたしますか」
「ふぅ〜む……なるほどな……読めてきたぞ」
レインがクリスの馬上で腕を組む。
唸《うな》りながら横目でこちらを見た。シェルファが熱心に見返すと、ついっと視線を外す。……いよいよ胸騒ぎがしてきた。
シェルファを初めとした大勢の注目を浴び、レインは数分も考えただろうか。
いきなり、軽く膝を叩く。
「決めた。ギュンター、耳を貸せ」
今度はレインが、ギュンターに耳打ちする。
シェルファは……そして他の全員も、なんの話か知りたくて身悶《みもだ》えしそうだった。
なにを囁《ささや》かれたのか、ギュンターがすっと眉を上げた。
あくまでも冷静な声で問う。
「ご決断なさるのですか」
「そこまではいかない。だが、布石《ふせき》は打っておくのが賢い選択ってものだろ。おまえは反対か?」
「いいえ」
ギュンターは即答した。
「よきお考えかと思います」
「そうだろ、そうだろ。難しいが……出来るな?」
「お任せを」
ばさっとマントを払い、鞍上《あんじょう》で優雅に頭を垂れるギュンター。そんなギュンターにまたレインが耳打ちする。今度はシェルファにも少し聞こえた。
『でな、首尾良く行ったら、後は紙切れを置いておけ。文面は――』
軽く頷《うなず》きながらギュンターがしかめっ面《つら》で指令を聞いている……眉毛一本動かさず、「委細《いさい》承知」と答えた。
「よし。では、後はよろしく頼む」
低頭《ていとう》し、ギュンターはせっかく連れてきた魔法使い他の部下を連れ、何処かへ去った。城門の方へ行かず、なぜか城の裏手の方へ。
「レイン……あの、なんのお話だったのでしょうか」
「今は知らない方がいいです。どうせ後から嫌でもわかりますからね」
「ええっ」
異議を挟んだのはシェルファではない。いつの間にやらそばに来ていたユーリとかいう少女だった。……この前の試験の時に見た少女も一緒である。
「おまえには端《はな》から関係ないだろっ。聞き耳立ててんじゃない」
「でもぉ」
「いいから、列に戻れ。セルフィーも」
「は、はいっ! レイン様っ」
は? という顔でレインがセルフィーを見返した。しかし、レインよりよっぽどはっとしたのはシェルファである。じっとセルフィーを見てしまう。
なんだか顔が赤い……この人……まさか。
――顔が赤いのはワインがぶ飲みのせいなのだが、無論シェルファの勘は外れていない。セルフィーも姫君の視線に気付き、二人の視線が交差した。
両者の、この上なく複雑な想いを乗せて。
「……? まあ、俺を尊《とうと》ぶのはいいことだ。その調子でしっかりな」
レイン本人はなんとも思わないのか、もうそれっきりで、周りの物足りなさそうな部下達に怒鳴った。
「こらっ。しゃきっとしろ! 時間を早めてもう今から外に出るぞ。ガサラム、レニ、セノア、三人ともいいな?」
あっという間に、ひそひそ話のことなど気にしていられなくなった。シェルファの周りで人々が慌《あわ》ただしく動き始める。それぞれの隊長の下《もと》へ走り、点呼《てんこ》をとり、見る見る馬車の前後に整列していく。
セルフィーという女性のことも、さっきのギュンターとのヒソヒソ話も、一時的にシェルファの脳裏《のうり》から消えた。もうそれどころではない。
「あの、レイン。まだラルファスさま達が来てませんけど」
「ああ、あいつやグエン達には、さる場所に行くように頼んだんですよ。俺が行きたかったんですが、姫様のそばを離れるのはまずいですしね」
「それは……レインはいてくださらないと困りますけど」
でも「さる場所」とはどこだろうと思ったが、そのことについての説明はなかった。
まあ、それはよい。
ただ、また少し緊張がぶり返してきそうになったのが困った。
早速、レインの方を見ようとした所、当のレインがそっと上半身を寄せてきた。誰にも聞こえないように囁《ささや》く。
「さあ、デートに行こう。……な?」
「あ、はいっ」
そのセリフですうっと気分が軽くなった。
自分であきれ、くすりと笑ってしまう。
また周囲がザワザワどよめいたが、今度は気にならなかった。
デート、レインとデート……
呪文《じゅもん》のように胸の中で繰り返す。
大丈夫、もう怖くない。
なによりも、すぐ隣にレインがいてくれる。
そうだった。それで、なにをおそれることがあるだろうか。レインがそばにいてくれる限り、私は世界で一番幸せな女の子なのだ。
「整列したな、みんな! よし、出発!」
レインが号令を下《くだ》し、ピカピカの鎧《よろい》を纏《まと》った一行(レインだけはいつもの黒服だが)は、しずしずと城門を出ていった。
――☆――☆――☆――
いざ城門を出ると、王都リディアはシェルファの記憶にある街と全然様相が違っていた。
そもそも、シェルファは十六年の人生のほとんどを、ガルフォートで過ごしている。外へ出るのは今回が何度目くらいか? と数えられるくらいに箱入りの王女なのだ。
何度か見たこの街はもっと人が少なく、もっとのんびりしていたはずである。
が、今日はまるで別世界の街のように見えた。
行列が通るメインストリート沿いにあらゆる年齢層の人々がひしめき、一行を……いや、一行の中のたった一人の女の子を探そうと躍起になった。子供から大人、それから道沿いに店を開く商店の店員までが、商売をそっちのけで外へ飛び出してきていた。
押すないや俺が見るんだおまえこそ前へでるなこらちくしょう!
行列の先頭が見えた刹那《せつな》、群衆は野次馬根性丸出しで問題の馬車を探した。街頭警備に出ていた騎士達が舌打ちするほど騒ぎ立てる。
それも無理はない。
城の奥深くで軟禁同然の生活を送ってきたシェルファ王女その人である。上級騎士達でさえ、ほとんど顔を知らなかったくらいなのだ。ましてや、一般庶民においては彼女の名前すら知らない者も多い。もちろん、顔を見たことなどあるはずもない。
『まあ、親があのむさい顔だったから、その娘が大した代物であるはずもねーだろうけど、話のネタくらいにはなるかもな……』
彼らはほぼこういうつもりで、石畳《いしだたみ》の大通りにて待ち構えていたのである。
だが、禁断の扉は開かれた。
シェルファの姿を見た者は予想が外れ、「あれが先王の娘? 嘘だろっ」と驚愕《きょうがく》で顎《あご》を落とすことになった。
ほぼ一分ほども黙り込み、それから慌《あわ》てて馬車を追いかけようとしたりした。もちろん、もう一度姿を見たいからだ。
『さっきは横顔しか見えなかったっ(シェルファがレインを見てたからだ)。ぜひ、正面からちゃんと見たい。声も聞きたいぞっ』
男のみならず、女性も少なからず馬車について行こうとしたので、騎士達の後続部隊はそれを押し止めるのに苦労する羽目になった。レインは、この「お披露目《ひろめ》」に先立ち、あざとく大規模な税率の引き下げなどを発表している。
着々と今日のための下地を作っていたわけだが、その政策が真に成功したのは、正にこの瞬間だと言える。
この日、「サンクワールは今度こそ変わるかも知れない」という思いをほとんどの庶民が抱いた。シェルファの美貌《びぼう》を目にした多くの者は、帰ってから隣《となり》近所や知り合いに興奮気味にその可憐《かれん》さを語ったし、多くの者が「お優しそうな方だった」と付け加えるのを忘れなかった。もちろん、美貌《びぼう》だからといって優しい人だとは限らないわけで、彼らの言動は、ほとんどが先の減税政策を踏まえてのものなのだ。
凄まじい美貌《びぼう》だった→そう言えば、最近大幅な減税があったな→そうかぁ、あの王女様はお優しい人なのだ。
――というわけである。
シェルファが優しい少女なのはまぎれもない事実だが、本当は税の減額やらつまらない規制の緩和《かんわ》政策などを進言したのはレインなのだ。
彼のあざとい計画は、着実に実を結びつつあった。
最初の驚きから、シェルファはもう立ち直っていた。
奇妙なもので、自分に「これはデートだから」と自己暗示をかけてレインと併走していると、周りの歓声や街路を埋め尽くす人の群れにも動じなくなった。
シェルファがちょこんと座る馬車の横で、レインは一人だけ鎧《よろい》も纏《まと》わず、いつもの黒服のまま、低い声で鼻歌を歌っていた。クリスの上でゆらゆらと上体を揺らし、ご機嫌である。
最強にレイン贔屓《びいき》のシェルファの耳で聞いても、それはとてもとても下手な歌で、普通の人なら聞かされるのを嫌がるかもしれない。でもシェルファはレインの低い声を聞くのが好きなので、そうやって歌ってもらうと、とてもリラックスできた。
このお披露目《ひろめ》は危ないぞ、と聞かされたが、レイン自身は余裕全開で、周囲を警戒する素振《そぶ》りなど露《つゆ》ほども見せない。
でも、ああやって落ち着いていても、なにかあればレインは誰よりも先に反応するんだわ、とシェルファは確信している。
その思いにはなんの根拠もなかったが、シェルファの信頼にはいささかの陰りもない。
レインが歌の区切りにちらっとこちらを見た。目が合う。シェルファが微笑むと、レインも笑みを返してくれた。
そして、肩越しにちょっと背後を見た。
「この分じゃあ、ガルフォート城の警備はおざなりになるなあ」
と言った。
心配しているのかと思ったがそうではなく、にんまりと笑い、「タイミングがいいな」と呟《つぶや》く。どういう意味でしょうか? と訊《き》きたかったものの、レインの表情に変化が生じたので聞きそびれた。
一行はメインストリートを抜け、商店ばかり並ぶ、小さな広場に入ろうとしているところだった。
他の者なら気付かなかったかもしれない。だが、いつもレインの顔ばかり見ているシェルファにはわかった。
『レインは広場を警戒しているんだわ』
なにかレインが気にするものが、ここにあるのだ。
シェルファは身を乗り出して、さほど大きくもない広場を観察した。
別段なんの不審もないような円形の広場で、東西南北の四方向から街路が集中している。シェルファ達一行は、その内の一カ所、北側から広場に入ろうとする所だった。
民家はほとんどなく、外周にずらりと軒《のき》を連ねているのは、商店ばかりである。それと、幌《ほろ》馬車から馬だけを外したような形の、車輪付きの屋台も複数集まっていた。それぞれが、花を売っていたり軽い飲み物を売っていたりするのだ。見物客を当て込んで、どこからか集まったのだろう。
シェルファの目にはなんの異状も認められなかった。どこにでもある風景ではないだろうか。よく知らないのだけれど。
馬車の前を警護する行列も、何事もなく広場を抜けていく。シェルファ自身も、どんどん広場に近づいていた。
ただ、ちょっとしたハプニングが起こった。
シェルファの乗る馬車の前で、子供が無理に道路を横切ろうとしてポテンと倒れたのだ。少しの間、進行が止まる。その子供はすぐに騎士に助けられて道を空けたのだが、その時には、前を行く部隊は広場を抜けてしまっていた。
御者《ぎょしゃ》が追いつこうと、馬の足を速める。
広場に入った。
そこで全てが動き出した。
ガラガラガラッ
激しい音に驚いて振り向くと、さっき見た幌《ほろ》付きの屋台が何人かに引っ張られて列の後部に突進していく所だった。轢《ひ》かれかけた騎士達が悪態をつき、きわどい所で避ける。と、なんのつもりかその屋台は完全に列を横切り、広場に入る道をふさいだ所で停止した。
幌《ほろ》の中から人が飛び出してきた。
黒いローブに身を包んだ人影が幾つも、幾つも。
その直後、ボンッと激しい音がして、幌《ほろ》に火がついた。火の回りが速い。あっという間にメラメラと燃え広がり、手が付けられなくなった。
ボンッボンッ
音が連続する。
今来た道だけではなく、広場に入る他の三カ所の道でも同じことが起きていた。屋台が道をふさぎ、派手に炎上していた。そして、黒いローブを纏《まと》った人の群れ、群れ……。彼らはすぐには襲ってこようとはせず、それぞれの道をふさぎ終わった仲間達が、順次集まるのを待っていた。数で押し切るつもりのようだ。
片や、シェルファ達の部隊は味方と完全に切り離されていた。どんな方法で燃やしたのか、屋台の火勢は異常に強く、しばらく他の騎士達の援護は当てに出来そうもない。
「ああっ〜、しまったあ!」
ポカンとしていたユーリが、突然金切り声を上げた。
「こんなことになるなら、ちゃんと列に並んでおけばよかったわ、もうっ」
頭を抱えてそう喚《わめ》く。
そこでシェルファと目が合い、うっという顔で口に手を当てた。
別にシェルファは、そんなことで気分を害したりしない。だから穏やかに微笑んで視線を逸《そ》らした。
もとより、自分のために誰かが身体を張って守ってくれるなど、期待するのが間違いなのだと思っている。
つい数ヶ月前まで誰からも見捨てられた状態だった自分なのだ。状況が変わったからといって、皆の心が掌《てのひら》を返すように変わるはずがないではないか。
シェルファにとって唯一の例外はレインである。「俺に頼ってもいい」とレインは言ってくれた。嬉しいと思う反面、頼ってばかりではいけないと思う。自分だってなにかしないと――
足下《あしもと》に何かが見えた。
それが細身の剣の柄《つか》だと知り、シェルファは迷わず手にとって剣を抜いた。誰が用意してくれたのか知らないけど、これを使おう。
自ら剣を握るのは初めてだけれど、少しでも皆の負担を減らす努力をしなければ!
周囲はもう、大混乱である。
置かれた状況を知った十数人の騎士達が、右往左往《うおうさおう》していた。何人かを除いて、このところシェルファの身が危うかったのを知る者はいない。
まさかこんなことになるとは思わなかったのだろう。傍目《はため》で見ても、ほとんどの者が動揺を隠し切れていなかった。
金髪のセノアなどは、大急ぎで剣を抜いたところがそのまま手からすっぽ抜けていた。
「わ、私の伝家の宝刀がっ」
「それより、避けてっ」
落下してきた剣を見て、レニが慌《あわ》ててセノアを引っ張る。
危うい所で、犠牲者その一(自爆)を回避した。
これは極端な例だが、皆似たような有様《ありさま》である。全く平静を保っているのは、レインとガサラムぐらいのものか。
特に、レインの態度は実に見応えがあった。鼻歌すら中断することなく、この大騒ぎにも、微風が吹いたほどにも表情を動かさずにいる。
まだ剣の柄《つか》に手もかけず、他人ごとのようにしれっと周囲を眺めていた。
冷静沈着そのものであり、あたかも自分の家でくつろいでいるかのように、どこを探しても危機感の欠片《かけら》もない。
口元には、もはやシェルファにもお馴染《なじ》みになった、不敵な笑みが刻まれていた。
そんなレインに、シェルファは深い安堵《あんど》を覚えた。
もし自分が王女などではなく、普通の平騎士だったとしたら……ぜひともこんな将の下で戦いたいものだと思う。
えこ贔屓《ひいき》を別にしても、強くそう思った。
きっとレインは、生まれながらにして将たる資質をもった人なのだ。
おかしな話だが、そんな人を好きになった自分に誇りを覚えたほどである。
そのレインはちらと部下を見渡し、よく響く声で一喝《いっかつ》した。
「見苦しいぞ、うろたえるなっ!」
その叱声《しっせい》で、騎士達の動揺がピタリと静まった。敵達でさえ一時足を止めてしまう。
レインはじろっと味方を睥睨《へいげい》する。
「おまえらがうろたえていいのは、俺が死体になった時だけだ。だが、そんな可能性は億に一つもないから、慌《あわ》てる必要なんかない! 姫様を中心に円陣を組め。近づくヤツだけに対処しろ!」
声と同時に皆が動き始めた。
ユーリという少女だけが、「億に一つ!? そこまでフカす、普通?」と小さく文句を言っていたが、彼女ですら命令に従っていた。その隣のセルフィーの顔が、レインを見てまた赤くなった。
わーん!
シェルファの耳に泣き声が届いた。
見ると、さっき倒れた少年が、泣きながら庇護《ひご》を求めてこちらへ走ってくるところだった。シェルファはその泣き声に胸を打たれ、馬車から降り、駆け寄ろうと――
「お待ちを、姫様」
レインに止められた。
「ガサラム! そのガキを止めろっ」
馬車の向こうそばにいる副官に命じる。言われたガサラムは、はっと表情を引き締め、小さく頷《うなず》いて男の子の進路に立ちふさがった。
何かに気付いたような顔で怒鳴る。
「止まれ、坊主っ。止まらないとぶちのめすっ。脅しじゃないぞ!」
レイン自身もクリスから降り、ガサラムの横に並んだ。
顔をくしゃくしゃにしてなおも走り寄ってくる男の子に声をかけた。
「おい、大根芝居はやめとけ。俺には通じないぞ。それ以上近寄るなら、俺は躊躇《ちゅうちょ》なくおまえを殺すからな」
と、あっさりと少年が泣きやんだ。
腰の後ろから複数のナイフを抜き、腰を落とす。さっきまでのべそをかいた顔は拭《ぬぐ》ったように消えていた。
「こ、こんな少年が!」
金髪のセノアが呻《うめ》くように言った。
シェルファも同感だった。まだ、ほんの子供なのに!
レイン以下、取り残された部隊は馬車を中心に円陣を組んでいる。広場にいた何人かの一般市民達は、悲鳴を上げて隅の方に逃げ散っていた。燃えさかる屋台の向こうでは、味方の部隊達の怒号《どごう》が聞こえる。しかし、今のところは為《な》す術《すべ》がないようだ。
それら全てを無視し、少年はレインとシェルファだけに注目していた。やがてその視線は、憎々しげにレインに固定された。
「なぜ……わかった。僕は殺気を消す訓練を受けているのに」
「そんなもん、どのみち全部消すのは不可能なんだよ」
せせら笑うようなレインの返事。
「でも、ほとんど感じなかったのは確かだ。ただ俺は、とにかく近づくヤツは叩きのめすことにしてたからな」
馬車を降り、人をかき分けてそばまで来たシェルファが見上げると、レインは明らかに馬鹿にしたような表情で少年を見ていた。
「やはり、おまえが一番邪魔なようだ……」
ギラギラと殺気の籠《こ》もった目で、その少年……いや、ギルドの刺客《しかく》はレインを見据《みす》えた。両の手に幾本も持ったナイフが、濡れたようにぬらぬらと光っていた。あれは毒の類《たぐい》だろうか。
暗殺者はそういう方法を使う、とレインに聞いた気がする。
さらに信じがたいことだが、どうやらこの少年は、その手の「仕事」に慣れているようでもあった。
「もし邪魔をする気なら――」
と、少年はどっぷりと怨嗟《えんさ》を含んだ声音《こわね》で言った。
「おまえも殺す。いい気にならないことだ……優秀な暗殺者を敵に回して、生き延びたヤツはいないんだからな。噂ではかなりやるらしいが、自分が一番だ、などと思わない方がいい」
「笑わせるな、クソガキ」
レインは真っ白い歯をたっぷりと見せつけ、ふてぶてしく笑った。見る者の神経を、思いっきり逆なでする不敵な表情である。まだ魔剣すら抜かず、余裕|綽々《しゃくしゃく》の態度を崩さない。
「おまえは明らかに間違っている」
すうっと目を細める。
「この俺がいる限り、誰が来ようと結果は同じだ。俺より強いヤツはこの世界にはいない。俺こそが世界最強なんだよっ」
――謙虚さの欠片《かけら》もないそのセリフに、敵の少年はおろか、味方までもが唖然《あぜん》とした。……ただ一人、シェルファを除いて。
レインは言葉を失った少年にさらに、
「第一、おまえらはミスを犯してるぞ。暗殺者が力押しに走っちゃ終わりだ」
「……僕だってこんなくだらない方法は取りたくない。だが、今回は事情がある。ゆっくりと時間をかけていられない。おまえの知ったことじゃないが」
少年の声音《こわね》に少しだけ苦渋《くじゅう》が混じった。
そして、愚痴《ぐち》を漏らした自分に驚いたように首を振る。
「おまえとつまらない話を続ける気はない。時間稼ぎのつもりなら無駄だっ」
甲高《かんだか》い声で会話を断ち切ると、やにわに少年は、ナイフを持った手をビュンッ、と振った。
同時に、レインが無造作にシェルファの胸元に手を伸ばした。
シェルファは驚きに目を見張った。
自分の胸の前にかざされたレインの掌《てのひら》……その各指の隙間《すきま》に、都合四本のナイフが挟まれている。刀身が濡れて光っていた。「レインが空中でナイフを止めてくれたんだ」と理解が及ぶのに時間がかかった。
シェルファの目にはなにも見えなかったのだ。
「ふふん。ばれちゃしょうがないな。まあ、どうせおまえらの事情はもうネタばれしてるから、訊《き》くこともあまりないんだが」
言われ、少年が眉根《まゆね》を寄せる。
そこでレインがさっと手を振り、次の瞬間、少年がのけぞるように上体を反らした。
シェルファがそっちに気を取られている間に、隣にいたレインが消えた。いや、いきなりダッシュしたのだ。二〜三歩で、トップスピードに達していた。
速いっ!?
たった今、守ってもらったお礼を言おうとしたシェルファの目前で、レインは忽然《こつぜん》と消失したのだ……驚かずにはいられない。単に前傾姿勢で走り出したのだとわかったのは、黒い背中を見送った後である。
風のように距離を詰め、同時に魔剣を抜きはなって豪快に振り切る。後ろから見ると、レインは路上に飛び込む気でしょうか、と思ったほどだ。
雷光にも似た青き斬撃《ざんげき》を、少年は背後へ飛び退《すさ》ることでかわした。が、かわしきれずにぱっと血の雫《しずく》が飛ぶ。浅手《あさで》を負ったらしい。
シェルファは見えていなかったが、レインはダッシュする前に少年のナイフを投げ返している。そちらはなんとか避けたものの、彼は既に体勢を崩しており、後手に回らざるを得なかった。
子供っぽいシャツを魔剣で切り裂かれ、見る見る血が滲《にじ》む。その背後では、投げられたナイフを避け損ねた仲間が、何人か倒れていた。
「ぬうっ!」
顔を歪《ゆが》め、レインの第二撃を死にものぐるいで避ける少年。その死の斬撃《ざんげき》から逃れ得たのは、味方の犠牲あってのことだ。
ゴロゴロと細い身体が転がり、味方の群れの中に自ら紛《まぎ》れ込んだ。掠《かす》れ声で叫ぶ。
「そいつを倒せ! そいつさえ殺せば、我らの勝ちだっ」
今更ながらに、少年の仲間がどっとレインを襲った。その黒いローブの群れを、右へ左へと稲でも刈るように魔剣で薙《な》ぎ、レイン自身も味方の陣へ叫んでよこす。
「おまえらはそこで防御に専念しろ! こいつらは俺が片づけるっ」
血風の中に長身が消えた。
そして湧き起こる怒号《どごう》と悲鳴。
その全てが刺客《しかく》達のものだった。
シェルファはこっそりと息を吐いた。
レインが負けるなどとは可能性すら考えない。あのレインがこんな人達に負けるはずがないと思う。
ただ、自分が役に立たないのが口惜《くや》しかった。
「わ、我々も戦いに加わるべきであろう、レニ殿!」
セノアがやっと我に返ったように言った。
目の前で繰り広げられる斬《き》り合いを見て、シェルファ同様に責任を感じたらしい。
『いやぁ』
レニとガサラムの声がかさなった。
視線を交差させ、共に苦笑する。
答えたのはガサラムだった。
「いらないだろ。かえって邪魔になる。俺達は取りこぼしを相手にしとけばいいさっ」
言った刹那《せつな》、ガサラムは滑るように陣を抜け、斬《き》り合いの現場を抜けてきた一人を横薙《よこな》ぎにした。ギクンと黒いローブが硬直し、その場にくずおれる。
腰の据《す》わりや剣を振るう時の姿勢など、今更ながらに老練さを窺《うかが》わせる。
シェルファ達は息を呑んだが、ガサラム自身は何事もなかったように戻ってきた。
何かの話の続きのように、
「しかし、あの時だって相当なモンだったが……さらに強くなっているなぁ。天才ってのは底が知れないぜ。大したもんだ」
シェルファは思わず、老人の横顔をまじまじと見た。
「なんですか、王女様」
「あの……ガサラムさまは、レインの昔をご存じなのでしょうか」
呼び捨てでいいですよ、と破顔《はがん》するガサラム。
「まあ……知っているというかなんというか。一度、斬《き》り合ったことがあるんですよ、あの人と。お互いに誤解だったんですけどね」
穏やかな返事に、レニが「ええっ」と声を上げた。
蘇《よみがえ》った死者を見るような目でガサラムを見る。
「そんな事情があったんですか……よく生きてましたね、将軍とやりあって」
「いや。実は俺もそう思うぜ。手もなくひねられたしよ。命があったのは単なる幸運だったな、わっはっは!」
ガサラムは胸を反らせて豪快に笑った。
近々、ぜひともその頃のレインの話を聞かせてもらわなければ……シェルファは固く決心した。
それと、この老戦士がレインを「天才」と呼んだことで、また少し彼に好感を持った。
「さ、王女様、なるべく後ろへ下がっててください」
笑い止んだガサラムの顔に、再び鋭さが戻った。
「また雑魚《ざこ》が来ましたからね」
シェルファがそちらを見ると、しゃにむにレインの攻撃から逃れた数人が、またこちらに走ってきていた。
「よし! おまえら、くれぐれも油断するなよっ。俸給《ほうきゅう》分は働け!」
ガサラムの頼もしい怒鳴り声。
むっとしていたのはセノアだけで、他は皆、命令に従って剣を構えた。
ガサラムがいれば、ちゃんとシェルファを見ててくれるだろう……安心したレインは、お陰で刺客《しかく》達の殲滅《せんめつ》に気を回すことができた。
敵の頭を潰《つぶ》すこと――
戦《いくさ》の要諦《ようてい》はそれに尽きるとレインは思っている。だから、リーダーらしき少年にまっしぐらに斬《き》りかかったのだが……敵もさるもので、辛くも後方に逃げおおせてしまった。
ざっと見て五十人はいそうな仲間の群れに、逃げ込んでしまったのだ。
だが、時間の問題だとレイン自身は思っている。どれほど数がいようと、こちらが先にへばることは有り得ない。時間経過と共に不利になるのは、むしろ彼らの方だろう。
「ええいっ、どけ!」
レインは、前に立ちふさがる複数の男に魔剣を振りかざして突進した。男達が一様に目を丸くする。まさか、と思うほどのスピードだったからだ。
レインはその間に一人の懐《ふところ》に飛び込み、足の関節に蹴りを叩き込む。苦悶《くもん》の声が上がるより先に、心臓を魔剣が貫いていた。
慌《あわ》てて飛びかかってきた男達に向かって、レインは片手で、軽々とその死体を投げつけた。思わず受け止めた二人の頭上を飛び越え、着地と同時に背後に魔剣を振り抜く。血飛沫《ちしぶき》が上がるのを無視し、次々と襲いかかる男達に対処した。
かつて魔法を教えてくれた師が、レインの戦う姿を目にし、「常人とは見えている世界が違う」と評したことがあるが、確かにそういう感覚がある。
時に、戦っている敵とまるで違う時間帯にいるような錯覚が起きる。
レインからすれば、大抵の敵はほとんど泳ぐように緩《ゆる》やかな動きに過ぎない。攻撃を避けて反撃するのは、ごく容易《たやす》い。
極端に時間の流れを遅くしたような世界の中、レインのみが正常な時の中にいる。
駆け抜ける黒影が敵と交わる都度、青き閃光《せんこう》が彼らの急所を抉《えぐ》り、血をしぶかせる。
「おまえら馬鹿かっ。敵の力量もわからないのか! どけと言ってるんだ!」
怒鳴ったが、レインの脅しに刺客《しかく》達はひるまなかった。あるいは薬品かなにかで神経を高ぶらせているのかもしれない。
まるで斬《き》られるためだけに飛びかかって来るようだった。
舌打ちをし、レインはそれら全ての攻撃を鮮やかにかわす。紙一重で剣撃《けんげき》を避け、代わりに無造作に魔剣の一撃を返す。避けることが出来た者は皆無《かいむ》で、その都度、刺客《しかく》の誰かが路上に崩れた。
レインの右手が霞《かす》むように動き、輝く魔剣の軌跡《きせき》が幾筋も走る。青い残像が消えた後には、必ず誰かが倒れ伏している。
「う、うおおおっ」
やや敵がひるんだ所へ、仲間達より遙《はる》かにごつい巨躯《きょく》を誇る男が、体躯《たいく》に似合ったでかい剣を振りかざして突っ込んで来た。目が狂的な光でギラギラしている。はっきり言えば、いかれていた。
「邪魔だっ」
レインは自らも突っ込み、猛スピードで男とすれ違う。微《かす》かな剣風が鳴った。
すれ違った直後、唸《うな》り声を上げて男が振り向く。自分の斬撃《ざんげき》が空振りに終わったので、追撃しようとしたのだ。が、一拍置いて額からピシッと真っ赤な線が弾け、どっと鮮血がしぶいた。
憤怒《ふんど》の表情を凍りつかせたまま、ゆっくりと背後に傾き、ずしんと倒れてしまう。
レインの斬撃《ざんげき》が速すぎ、自分が致命傷を受けたと最後まで理解できなかったのだ。
それを見た刺客《しかく》達が、わっとばかりに包囲を解いてしまう。
さすがに背筋が冷たくなったのである。
この辺りで彼らも、自分達がいかに無謀《むぼう》な戦いを挑《いど》んでいるのか理解しはじめていた。
『恐れるな! 今しばらく時間を稼げ』
味方の空気を読んだように、後方から少年の声がした。
「そういうおまえがかかってきたらどうだ、ええっ?」
最初のスピードをいささかも落とすことなく暴れ回っていたレインが、威勢良く怒鳴り返す。
返ってきたのは低い呪文《じゅもん》の詠唱《えいしょう》だった。
剣を振りつつ見ると、三人の男が少年のそばで呪文《じゅもん》を唱《とな》えていた。どうやら、魔法使いまで用意していたらしい。
詠唱《えいしょう》とともに舞うように両の手を動かしている。その動きが三人ともぴったりと合っていた。
省略せずに正式な呪文《じゅもん》を唱《とな》えている。おそらく、その方が威力が増すからだろう。
レインを襲っていた最後の一人が倒れた時、呪文《じゅもん》も完成しかけていた。
が、その一切に頓着《とんちゃく》せず、レインはおもむろに少年を目指して走る。疾駆《しっく》する長身は、瞬《またた》く間に両者の距離を埋めてしまう。
「急げっ」
少年が喚《わめ》く。
魔法使い達も焦っていた。最後は震え声になり、三位一体《さんみいったい》の魔法を完成させていた。
『クロス・ファイア!』
バンッ
途端《とたん》に爆炎が弾けた。
三人分の魔法|詠唱《えいしょう》による、複合攻撃である。真っ赤にのたうつ魔力の炎が、巨大な渦《うず》となってレインをまともに直撃した。
「殺《や》ったか!」
「お、おそらく。直撃でした」
部下の魔法使いが答えた。
「よくやった!」
傷を負った肩の辺りを手で押さえた少年は、歓喜の声をあげた。見えないが、爆発的にふくらんだ炎の向こうから誰かの悲鳴が聞こえた。主人を倒されて部下達が悲嘆にくれているのだろう。
いい気味だ。
――だが。
身体中に炎をまとわりつかせたまま、レインが魔法の爆心地から飛び出してきた。
「無駄だっ!」
一言だけ叫び、そのまま魔剣を振りかざしてダッシュしてくる。その黒影が虹色の光に覆《おお》われている。見る見る間にまとわりついた炎が消失する。あたかも、根源たる魔力を吸い取られたかのように。
まさか……こいつは本当に……あれは、ただの噂ではなかったのか。
有り得ないことだが、しかし魔法が効かないとなると、他に考えられない。
少年の顔に、初めて敗北感が広がっていった。
手下の魔法使いが叫ぶ。
「嘘だ、絶対に有り得ないっ。存在するはずがない!」
その頭上に、レインが神速《しんそく》の斬撃《ざんげき》を打ち込んだ。
間髪を入れず、さらに低い姿勢から水平に青い残光が走る。動きに一片の無駄もなく、流れるように美しい斬撃《ざんげき》だった。胴体を切り払われ、残る魔法使いが血の海に沈んだ。
倒れた魔法使いを省《かえり》みず、黒い瞳がゆっくりと少年を捉えた。
「さあ、おまえで最後だぞ?」
ごくりと少年の喉《のど》が鳴った。
見ると、五十人からいた手下は全て息絶えており、自分と邪魔なこの男だけが対峙していた。
レインというふざけた名前を持つ黒ずくめの男は、これだけの斬《き》り合いをしたにもかかわらず、息も乱れていなかった。
ただ、静かな表情で魔剣をだらっと構えている。
「こんな話を知っているか?」
突然、レインが話し掛けてきた。
「例えばだ。狼と犬が至近《しきん》で、一対一でまみえたとするだろ? するとだ、必ず犬の方が逃げるんだな。遠くから吠《ほ》えられても同じだ。まず大抵、その唸《うな》り声や臭いの届かない所まで逃げる。
なぜなら、まともな犬なら本能で悟っているからだ。戦う前から、自分が決して狼に勝てないのを理解している。その点、人間ってのはどこまでも馬鹿だよな」
少年は奥歯を噛《か》み締めた。
斬《き》られた肩が痛む。
ふざけたセリフを! と思うが、反論は出来ない。あるいはこの男の言うとおり、自分達は手を出してはいけない相手に手を出したのかも知れない。
また独り言のようにレインが言う。
「まあ、安心しろ。今頃はおまえの他の仲間も、ちゃんと冥界《めいかい》へ行ってるはずだ」
やっと声が出た。
「どういう……ことだ」
「俺の同僚が、今頃はおまえらのアジトを潰《つぶ》してるってことだ。俺は、受けの戦いってのは嫌いでな」
あっさり明かし、魔剣を持ち上げる。
剣先をピタリと少年の鼻先に向けた。
「で、どうする? もういい加減遅いが、今からでも降伏するか。それとも――」
少年はいきなり動いた。
あらぬ方向へ駆けだし、レインの剣撃《けんげき》から逃れようとする。背中を微風が撫《な》でたので、なんとか攻撃をかわせたようだ。
もう自分は助からない。おそらく……帰る場所もない。しかし、依頼だけは果たさないといけない。それが自分の最後のプライドだ。普通の人間が想像もつかないようなねじれた動機で、少年はただひたすら走った。
足の速さなら自信がある。
仲間の死体を踏み越え、一斉に剣を向ける集団を目指す。王女は……無精髭《ぶしょうひげ》を生やした中年の背後にいる! あそこに到達しさえすれば!
集団の先頭にあと数メートルの所で、少年は大地を蹴って高く飛んだ。人々が自分を見上げる。目指すは王女のみ。相打ちを狙う!
しかしそこで――
なんと空中で、背後から声がした。
「やっぱりおまえは、犬以下だったな……」
瞬間、後頭部を思いっきり殴りつけられ、少年は気を失って広場に落下した。
――☆――☆――☆――
「あ〜、無駄な運動だった」
空中でくるりと身をひねり、猫のように着地したレインは、開口《かいこう》一番そう言った。
足下《あしもと》にはローブ姿の少年が転がっている。まあ、死んではいないだろう。
一番にシェルファが駆け寄ってきた。
「レイン!」
名前を呼び、小さな手でレインの服やら顔やらをペタペタ触る。返り血で白い手袋が汚れるのもお構いなしだった。
「どうした?」
「怪我《けが》はありませんか」
レインは、「いや、ないってそんなの」と言おうとして、近付くガサラムその他に気付いた。
「ないですよ。大丈夫、かすり傷一つなし。今日も元気で酒が美味《うま》いです」
「……よかった」
淡い膨らみに手を当て、シェルファがほっと吐息《といき》を漏らす。ガサラムがそんなシェルファを見て顔を綻《ほころ》ばせ、それから広場中に倒れた刺客《しかく》を見やった。
「相変わらず大したもんです……。本当に一人で終わらせちまいましたなあ」
「当然だ」
一言で片づけ、レインはぐるりと味方を点検した。
「誰か巻き添え食ったヤツは?」
「いや、全然。ご命令を遵守《じゅんしゅ》して、防御に専念してましたよ」
顎髭《あごひげ》を撫《な》で、ニヤリと笑う。
すっと拳《こぶし》を上げた。
レインは自分も拳《こぶし》を作り、軽く打ち合わせてやった。
そこで、広場の端にいる少女二人が見えた。そっとシェルファの二の腕に触れてやってから、大股で近づく。
なぜかセルフィーが四つん這《ば》いになって顔を俯《うつむ》けており、その横でユーリが背中をさすっていた。
「怪我人《けがにん》は無いと聞いたぞ」
ユーリが困ったように、
「なかったけどぉ。セルフィーが一人|斬《き》ったのよね……じゃなくて、斬《き》ったんですよね。それで、早い話が初めて人を殺したわけで」
「ううっ、レイン様ぁ」
がばっと顔を上げるセルフィー。
口元が吐瀉物《としゃぶつ》で汚れている。
いきなり抱きついて泣きじゃくり始めた。
「おいおいっ」
レインはすかさず引きはがそうとしたものの……ため息をついて、したいようにさせた。上衣がゲロまみれになってしまったが、仕方ないだろう。
「わたし、わたし〜っ」
「ああ、大丈夫だ。誰でも経験することだ。気にするな。おまえは正しい、俺が保証する。だいたい、おまえがそいつを斬《き》らなきゃ、姫様が危なかったかもしれないんだ。文句なく、おまえは正しいぞ」
なんとかなだめようと努力する。
そんなレインを見て、ガサラムが言った。
「あなたも苦労しているようですなあ」
「ほっといてくれ」
レインは顔をしかめた。
次の瞬間。
誰かの視線を感じた。敵意……いや、殺気に満ちた誰かの視線を。
「誰だ!」
レインはセルフィーをガサラムに押しやり、いきなり数メートルの高さを跳躍し、商店の屋根の上に立った。周囲を見渡す。いない……誰の姿も見えない。
しかし、自分の感覚は誤りではないと思う。今、確かに誰かが自分を見ていたのだ。自分と……そしてシェルファを。
「……どうも、話がややこしくなりそうだな」
忌々《いまいま》しい思いを込めて吐き捨て、レインは仲間の元へ飛び降りた。
まあいい。
誰が来ようと、返り討ちにするだけのことだ。
――☆――☆――☆――
一方、こちらはガルフォート城。
シェルファの一行が刺客《しかく》に襲われている頃、警備が手薄になったガルフォート城内の深部に、長身|痩躯《そうく》の黒いマント姿の男が、ひっそりと歩いていた。背後に、魔法使いを含む部下数人を連れている。
まれに誰何《すいか》される時もあったが、その黒衣《こくい》の男が名乗ると、皆納得して引き下がった。
ただ、男の身分では通れない場所もあった。そこではもちろん、警備の兵が慇懃《いんぎん》に前を阻《はば》んだのだが……部下の魔法使いがこっそり唱《とな》えた呪文《じゅもん》にやられ、あっさりと道を空けた。
問答無用でどんどん進むその不可解な集団は、似たような手段で衛兵《えいへい》をパスし、宮殿の深部、その薄暗い地下に降りていく。
その最下層には、たった一つの部屋だけがある。そこにはこんな日だというのに、完全武装の兵士が二人、身じろぎもせずに立ち尽くしていた。
二人は謎の集団を見た途端《とたん》、抜剣《ばっけん》して身構えた。
「何者! 誰の許可を得て、ここまで来たっ。名を名乗れっ」
それに対し、細面《ほそおもて》の男は静かに答えた。
「上将軍《じょうしょうぐん》レイン様の旗下《きか》、ギュンター・ヴァロア」
「あの方の……」
ほっとしたように力を抜く二人。
昔と違い、レインの名はサンクワール王家のもっとも心強い味方として知られているのだ。巷《ちまた》では「シェルファの切り札」とまで呼ばれ始めている。気を抜くなという方が難しい。
ところがその一瞬の弛緩《しかん》を突き、風のようにギュンターが動いた。一人の首筋に手刀を打ち込み、身体をひねり、相棒の腹に肘打ちを叩き込む。声もなく二人の兵士は崩れ落ちた。
熟練《じゅくれん》の戦士でも青ざめる手際である。
おそらく二人とも、最後まで自分の身に起きたことが理解できなかっただろう。
だいそれたことをやらかした割には、ギュンターはなんの反省も見せず、部下達に頷《うなず》いた。
「どうせこの二人も鍵はもっていまい。ドアを開けろ」
黙したまま魔法使いの一人が進み出た。分厚いドアに向かう。ギュンターはさらに、黙って倒れた二人を指差した。
隊長の意を受け、また別の魔法使いがその二人の脇にしゃがみこんだ。
作業は終始静かに行われ、最後まで邪魔は入らなかった。倒された男達も、数十分後には何事もなかったかのようにドアの前に立っていた。
……自分達の記憶が、魔法で改変されていることにも気付かず。
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第四章 招かれざる帰還
バンバンバンッ
ドアを連打する音で、セルフィーは目覚めた。朝が弱い彼女であるが、今朝の気分はまた最悪である。
どこがどうというわけではないが、なんとなく気分がよろしくない。おそらく昨日、生まれて初めて人を斬《き》ったのがまだ尾を引いているのだろう。
「セルフィー、事件よ! じ・け・ん! 早く起きなさいって!」
「あう〜……起きてますよ〜」
自分でも、「あ〜、なんて元気ない声」と思ってしまう。でもしょうがない。本当に元気がないのだから。
しかし、新しい友人であるユーリはなんの遠慮もなかった。まだ入っていいともなんとも言わないウチからバンッとばかりにドアを開け、ズカズカ部屋へ入ってくる。
「あー! まぁだ寝てる! 今日はそんなマイペースカマしてる場合じゃないわよ、セルフィー。ほんっとに事件なんだからっ」
言うや否や、ぐて〜っと寝たままのセルフィーの布団《ふとん》をばばっと取り去った。止める暇もない。
「きゃっ。な、なにすんですかー!」
思わず胸元を抱え、身体を丸めた。
「あらあ」
にふふ、とユーリは含みのある笑い声を立てる。
「なに? この寒いのに、寝る時は下着姿なわけ? 色っぽいじゃない……でも、縞模様《しまもよう》はマイナスかなあ」
「ほっといてくださいっ。どうせわたしは子供っぽいですよっ」
プリプリ怒りながら布団《ふとん》を引っ張る。しかし、あいにく相手の方が力が強かった。
「だから、寝直さずにもう起きなさいって」
そう言われてもまだしぶとく引っ張ったが、やがて勝ち目なしとあきらめ、セルフィーはようよう尋ねた。
「事件って、なにがですか」
「聞いて驚きなさい」
待ちかねたようにユーリが息を吸い込む。
「なんと、前の戦いで戦死したと思われていた上将軍《じょうしょうぐん》のサフィールっていう人が、生きてたのよっ。昨晩この城に戻ってきたらしいわっ!」
「ええっ」
と、声を張り上げたものの。
セルフィーはすぐにおずおずと聞き返した。
「……誰ですか、それ」
「あ、あたしと同じリアクションだわ、それっ」
あっはっは、と明るく笑うユーリ。
「あたしもさ、他の騎士見習いから話を聞いた時、『誰よそいつ』って思ったのよ。だって、庶民からしたら貴族の名前なんてどうでもいいもん。特に、あいつらって気に入らないヤツが多いから」
礼儀正しいセルフィーは安易にユーリの悪口に便乗《びんじょう》しなかったが、内心では全く同感だった。
先のザーマイン戦以前に、レインを含めて七人の上将軍《じょうしょうぐん》がいたことくらいは、セルフィーも知っている。
しかし、騎士志望だったセルフィーにしてからが、その七人のウチで名前を知っているのはせいぜい三〜四人くらいなのだ。
それだけ印象に残らない……悪く言えば不人気の将軍達だったのである。セルフィーも、レインが騎士を徴募《ちょうぼ》していると聞いたからこそ、「平民出身のあの方の下《もと》なら!」という気持ちでこの城にやってきたが、そうでなければ他国へ仕官する道を考えただろう。
それくらい、この国の上将軍《じょうしょうぐん》達は人間的にも能力的にもイマイチなのだ。ラルファスのような人材は、例外中の例外なのである。
それに、セルフィーには個人的に、彼ら貴族階級出身の上将軍《じょうしょうぐん》を好かない理由がある。
「セルフィー?」
友人の声で我に返った。
「あ、はいっ」
「どしたの、お腹減った?」
がく〜っと肩が落ちる。
せめて、「なに悩んでるの」とか言えないのでしょうか。
「いいえ、別に。それで、その『どうでもいい上将軍《じょうしょうぐん》』さんが帰ってきたのが、なんでそんなに問題なんです?」
立ち上がり、セルフィーは着替えの服を手にした。
「うん、それなんだけどね」
ユーリはベッドの端にちょこんと腰を下ろし、解説してくれた。
「そのサフィールって馬鹿だけど、どうもダグラス王から預かった遺書《いしょ》を持ってるって吹聴《ふいちょう》してるらしくてさ」
「遺書《いしょ》?」
「うん。まあ……昨日の今日だから噂の域を出ないけどぉ、そこには『余《よ》になにかあった場合は、忠実なるサフィールに後事《こうじ》を託《たく》す』って書いてあるらしいのよね」
へえ、そうなんですか。
服のボタンをはめつつ、そんな気のない返事を返そうとしたセルフィーだったが……
ユーリのセリフをじんわりと咀嚼《そしゃく》し、ピタリと手が止まった。首を巡らせ、目を丸くして友人を見る。
「それって……まずくないですか」
「そう、むちゃくちゃまずいわね、ええ。下手すると今日の戴冠式《たいかんしき》もおじゃんぱ〜になるわね」
「お、おじゃんぱ〜って……た、大変じゃないですかっ」
「だから、最初から事件なんだって言ってるじゃない」
けろっとユーリは言う。
それから、あわあわしているセルフィーをおもしろそうに眺め、さらにどえらいことを教えてくれた。
「しかもよ、そのサフィールってヤツは手ぶらで戻ってきたんじゃなくて、大勢の騎士やら兵士達も連れてきてるらしいのね。サフィールはもう到着してて、部下達は現在、この城に向かってる真っ最中なんだって。なんかここ、朝っぱらから臨戦態勢になってるわよ」
「え、ええっ!?」
まだ身体に残っていた眠気が根こそぎ吹っ飛んだ。そういえば、なんか廊下とかが騒がしいような……今まで気付かずに寝てた自分は一体……
セルフィーは自分の呑気《のんき》さに嫌気が差した。落ち込んでいる場合ではない。
「なんでそんなことに。一応は味方じゃないんですか」
「味方って言っても、向こうはラルファス将軍はともかく、レイン将軍の方なんか身内だなんて思ってないでしょう。貴族と平民なんだから。そこへ来てもし遺言《ゆいごん》の噂が本当なら、もうサフィール某《なにがし》の天下じゃない。レイン将軍なんてあっという間に解任されるんじゃないかなあ」
「え、ええーっ!? 大変じゃないですかーー! 困りますよ、わたしっ」
思わず、正直すぎるセリフが出た。
レイン将軍が解任→当然ながら陪臣《ばいしん》のセルフィーもクビ→路頭に迷う→身を堕《お》として夜の街へ。
以上の図式が、ささ〜っとセルフィーの頭の中で展開された。貧乏生活や何度も挫折を味わった経験のせいで、こういう場合には最悪の事態を予測してしまうのだ。
ユーリも立場的には似たようなモノだと思うのだが、この友人は落ち着いたものだった。
むしろ、セルフィーの慌《あわ》てぶりを見て愉快がっている感じである。
「そんな落ち着いて……ああ、もうっ」
早くボタンをはめよう、はめようとするのだが、指が震え、ついにセルフィーはいくつかのボタンをはめるのをあきらめた。代わりに、友人に八つ当たりする。
「笑ってる場合ですかっ」
「いやあ、ごめんね。あんまり期待通りびっくりしてくれたから、おもしろくて」
「おもしろくないですよ、ぜんっぜんっおもしろくないですっ」
むっとして言い返す。
ユーリは少し反省したのか、真顔になった。
「まあまあ。そう焦らなくてもいいんじゃない。仮にもあの将軍が大人しく、『あ、遺言《ゆいごん》ですか。で、俺は解任? ならしょうがない。田舎へ帰って漁師にでもなります』なんて言うと思う? そんな殊勝《しゅしょう》な性格じゃないでしょ、あの人」
「……いや、漁師はともかく。でも、前陛下の遺言《ゆいごん》なんでしょう? 普通、そういうのは絶対なんじゃ」
「う〜ん。セルフィーってば、惚《ほ》れてる割にはまだわかってないわね。いい? あのレイン将軍っていう人はぁ、そもそも前陛下なんて洟《はな》もひっかけてなかったわけよ。そんな遺言《ゆいごん》なんか守る人じゃないってば」
そうだろうか?
真面目《まじめ》なセルフィーには甚《はなは》だ疑問だった。騎士である以上、どれほど反骨の精神を持つ人だったとしても、主君の命令には忠実であるはずでは。それが普通だと思うし、世間的にも常識ではないだろうか。
だが、セルフィーがそう意見すると、ユーリは自信たっぷりに断言した。
「まあ見てなさい。すぐにわかるから。……ただね」
ふっと眉をひそめる。
「なんです?」
「問題は、ラルファス将軍がどう出るか、でしょうね」
ユーリは物憂《ものう》げにそう言った。
――☆――☆――☆――
廊下をバタバタと人が走り回る足音を聞きながら、シェルファは自分の部屋で呆然としていた。
事態の進行速度があまりに速すぎて、なんだか夢を見ているようである。
昨晩シェルファは寝付いたところを侍女《じじょ》に起こされ、数回顔を合わせた程度の知り合いであるサフィールから、帰城の挨拶《あいさつ》を受けた。
それはいいのだが、突然彼から亡父の「遺言書《ゆいごんしょ》」の存在を教えられ、言葉を失った。
その遺言書《ゆいごんしょ》によると、サフィールに後事《こうじ》を託《たく》す、などと書いてあるそうだが、そんな話は父から聞かされたこともないし、そもそ遺言書《ゆいごんしょ》自体が初耳である。しかし、自分に冷たい父があらかじめ話してくれたはずもないので、知らなかったのは不思議ではない。実物も見せられたし、事実なのだろう。
そのことはいいとして、今日は戴冠式《たいかんしき》の予定だったのだが、この分ではそちらも中止ということになるのだろうか。
それはシェルファにとり、むしろ歓迎すべきことなのだが、代わりに他の心配ごとが持ち上がっている。
サフィールさまは、どうするおつもりなのでしょうか……
端的に言えば、それがシェルファの心配ごとだ。国主の座を降りることについては異論などない。むしろ、喜んでサフィールに譲りたいくらいだ。
しかし、彼女の目から見てもサフィールとレインの仲は最悪であり、そうするとサフィールの出方が問題になる。
考えたくもないことだが――
レインは将軍職から追われるかもしれない。
それだけならまだしも、この城からも追放されてしまい、自分のそばにいてもらえなくなるかもしれない。
それだけは絶対に受け入れられない。
自分にはなんの力もないけれど、その時はなんとしてもサフィールの翻意《ほんい》を促《うなが》さないと。
シェルファは固く決心した。
人には、どうしても受け入れがたいことがある。シェルファにとり、「レインのいない生活」こそがそれに他ならないのだった。
「あ〜あ。あいつら、命令したわけでもないのに、勝手に配置についてるし。まあ、気持ちはわかるんだが」
レインの低い声。
シェルファに背を向け、窓から城の中庭を見下ろしている。その背中はどっしりと落ち着いており、微塵《みじん》の動揺も見られなかった。
「レイン……」
呼ぶ声が、微《かす》かに震える。
声に含まれた不安に気付いたのか、レインが振り返る。やや表情を動かし、こちらへやって来てくれた。
「どうした、そんな顔して」
「あの……」
「なんだ」
「これからも一緒ですよね?」
じいっと黒い瞳を見上げて尋ねてみる。レインに訊《き》いたところで仕方ない気もするが、レインが「言うまでもない」と答えてくれれば、本当にそうなるような安心感があるのだ。
「……俺は約束は守る。前の戦いが終わった後、そばにいてやるって約束したろ。おまえがその約束を迷惑に思わない限りは」
「そんなこと、絶対にないですっ」
「――! びっくりするだろ。柄《がら》にもなくでかい声出すなよ」
精悍《せいかん》な顔に苦笑を浮かべる。
「なら、なにも心配はいらない。俺に任せとくといい。しかしだ、そうすると、ちょっと激動の人生が待ち構えているかもしれんぞ。脅かすようで悪いが、そこら辺は覚悟しててくれよ。あと、場合によっちゃ……いや、まあこっちの可能性は少ないと思うが……とにかく、場合によっちゃ姫君としての暮らしがぱあ〜になるかもしれない。それでもいいのか」
「ああ、そんなこと」
深い安心感に包まれ、シェルファはさっきまでの不安がたちまち消え去るのを感じた。
「安心しました。レインがそばにいてくれるのなら、わたくしは他に何も望みません」
「そうか」
笑ってそう言い、レインは大きな手でシェルファの金髪をくしゃりとかき混ぜた。
「それよりなあ、俺はあのサフィールより、おまえを狙っているヤツの方が気になる」
レインはシェルファを連れ、また窓際に戻った。中庭で無闇《むやみ》に走り回る部下達を苦々しそうに見やる。
「昨日の刺客《しかく》達ですか」
「いや、ヤツらに関しちゃ、俺が思うような事情じゃなかったらしい」
「レインは、どう思っていたのですか」
シェルファはそっとレインの身体に腕を回し、身体を寄せた。レインはちらっとこちらを見たものの特に注意はせず、それをいいことにもっとくっついてしまう。
視線を外に向けたまま、レインは語り始めた。
「実は俺は、ギュンターの報告でサフィールの到着は前もって知ってたんだ。それであんまりタイミングがいいんで、ひょっとするとおまえを狙ってるのはあいつじゃないかと睨《にら》んでた」
「あの方が……わたくしを?」
「おまえを片づけることで、次の国王の座を狙ってるのかと思ったのさ。い〜や、今でも国王の地位は狙っているかもしれない。しかしだ。昨晩、例の捕まえたガキを審問《しんもん》してみて、どうも違うとわかった……」
レインはそう言って首を振り、昨晩の審問《しんもん》の様子を語り始めた。
襲撃部隊のリーダーとおぼしき少年は、レインが危惧《きぐ》したように死体にはなっておらず、様子を見に行った時にもちゃんと大人しくしていた。
地下|牢《ろう》の重い扉を開いてレインが入って来たのを見て、皮肉な笑みを浮かべる。なにか、どこかが吹っ切れたというか、自分の運命の行き着く先を見てしまったような、そんな表情をしていた。
「そろそろ来る頃だと思っていた」
少年は自分から口を開いた。
寝転んでいた薄いベッドから起きあがり、横座りしてレインを見やる。その瞳は全くの空虚《くうきょ》だった。全ての希望を無くした者の目である。
「ふふん。なかなか態度が殊勝《しゅしょう》になったじゃないか。なら、俺の用件にも答えてくれるわけか」
突っ立ったままレインが問う。
「……誰が依頼人か、だな?」
「ご名答」
「先に教えてやろう。おまえは勘違いしている。僕もこの情報は入手したばかりだが……おそらくおまえは、もうすぐ着くサフィールとやらが依頼人だと思っていただろう」
「それも当たりだ。さすがは暗殺ギルド、情報が早いな。だが今の俺は、『サフィール首謀者《しゅぼうしゃ》説』は捨ててるんだ」
少年が眉を上げたので、話してやった。
「俺の仲間――ぶっちゃけた話がラルファスの部隊だが、とにかくそいつらがアジトを襲ってるはずだと言ったよな、昼間」
「……それで?」
興味をそそられたように少年が促《うなが》す。
レインはあっさりとカードをさらした。
「ラルファスが着いた時には、もう暗殺ギルドは全滅していた。何者かが……いや、一人じゃないな、複数の腕利《うでき》きが残ってた刺客《しかく》を皆殺しにしてた。先を越されたんだ、ラルファスは」
そう告げて、じいっと少年を観察する。
しばらく少年の顔を見て、レインは頷《うなず》いた。
「驚かないな、やっぱり。てことは、心当たりがあるのかその襲撃に」
一瞬だけ言葉を切り、単刀直入に訊《き》く。
「もしかして、依頼人ってのはザーマインなのか」
「……おまえはどう思うんだ」
少年は歳に似合わぬ老獪《ろうかい》な目つきで逆に聞き返した。
「そうだなぁ。おまえが否定したように、サフィールには、ギルドを壊滅に追いやるような根性はないだろう。だいたい、あいつの部下にそんな腕利《うでき》きはいなかったしな。となればザーマインだが……それも違うような気がする」
「なぜ?」
「おまえらじゃ俺の相手になりゃしないのを、レイグル王は十分知っているはずだからだ。今更暗殺ギルドなんかに頼るとは思えん。姫様を狙えば、当然俺が邪魔するに決まってるからな」
遠慮なく言い切り、レインは冷たい石の壁にもたれた。腕を組み、少年の目を見る。
「というわけで、いい加減に吐いてしまえよ。誰……あるいはどんな組織なんだ、依頼人は」
「全部教える気はない」
至極《しごく》簡単に少年は言った。
レインをちらと見て、顔に怒りの表情が浮かんでいないのを確認し、続ける。
「だが、僕は僕で腹に据《す》えかねることはある。だから、多少のヒントはやろう。――我らの組織は、脅されていたのだ」
「脅す? 小なりといえど、暗殺ギルドをか」
「そうだ。全く馬鹿げた話だが、事実だ。『シェルファ王女を殺してほしい。成功すれば莫大《ばくだい》な報酬を払うが、断ればおまえ達の組織を壊滅に追いやる』とな。もちろん、鼻で笑って追い返したが、事実その数日後にギルドの上役が次々と死んでいった。腕利《うでき》きばかりだったのに、ロクに抵抗もせずにだ。ギルド内にいる時はともかく、外へ出た途端《とたん》に襲われ、殺されたんだ」
少年は、喉《のど》の前で手を横に引いて見せた。
「こんな風に喉《のど》をかき切られた者もいるし、剣で斬《き》られて死んだ者もいる。首領はそれでもやせ我慢していたが、幹部が何人か死んで、とうとう脅しに屈した。なるべく早く殺せ! と言われて、仕方なく依頼に従ったんだ。その結果がこれだ」
悔しそうに顔を歪《ゆが》め、少年はいかにも残念そうに言った。
じっと待ったがそれ以上はなにも言わない。レインは疑念を表明した。
「おまえの言い分には、一つ決定的な矛盾があるぞ。そんなに凄い力を持っているヤツら……仮にヤツらとしとくが、そいつらが実在するとして、なんで自分達で手を下《くだ》さない? 腕に覚えがあるなら、自分達が来ればいいだろう」
「彼らは、『あくまでも表面に出たくない』と言っていたそうだ。建前上は、我らギルドが適当な依頼人から依頼を受けて王女を殺した、ということにしておいてほしいらしい。随分と世間の目に留《と》まるのを嫌っていたな」
「ふぅ〜ん。辛気《しんき》くさいヤツらだな。で、おまえはそいつらの正体を明かす気はないと。もしかして、おまえら自身も掴《つか》めてないんじゃないか、そいつらの正体を」
「……だが、おまえよりは多くの情報を持ってるぞ」
むきになってきっと目を怒らせたが、少年はなにか言いかけた口を閉ざした。しばらくして小憎らしい顔つきに戻る。
「その手には乗らない。後は自分で調べることだな。そう簡単に正体を掴《つか》めるとは思えないが」
そう言うと、虚《うつ》ろな笑い声を響かせた。
「相手は強敵だぞ。だが、おまえも化け物には違いない。化け物同士、殺し合うがいいさ……ふふふ……ははは……がっ」
途中で急に少年がむせた。
レインが飛びついた時には、喉《のど》からごぼっという音とともに血塊《けっかい》を吐き出し、白目《しろめ》を剥《む》いていた。
正確な方法はわからないが、どうも口の中に毒でも仕込んであったらしい。
レインは少年の腕を取ってみたが、もう脈はなかった。
「……なんでそう死に急ぐかな」
少年の目を閉じてやった後、呟《つぶや》きを漏らす。
そういえば、この少年は自分の名前を名乗ろうともしなかった。おそらく、ギルドに幼少の頃から鍛えられた生え抜きの暗殺者だったのだろうが……
レインは首を振り、横たわった少年に一瞥《いちべつ》をくれてから地下|牢《ろう》を後にした。
「というわけでな。つまり、あのガキの言葉を信じるなら、その『誰かさん達』は、自分達の正体がばれるのを恐れてギルドを始末しちまったみたいなんだ」
レインが窓から下を見下ろしたまま、長い話を語り終えた。
シェルファは気を張って頷《うなず》く。
ここで弱気な所を見せ、レインを失望させたくない。
レインは、まるでご褒美《ほうび》のように自らもシェルファの腰に手を回し、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「気にするな。俺は当事者もキチンと知っておくべきだと思うから話しただけなんだ。もし誰かがまた襲ってきても、俺がいるさ」
「ありがとうございます」
心からの感謝の気持ちを込め、礼を言う。
もしレインがいてくれなかったら……自分はもうとうの昔に殺されていただろう。
「とにかく。しばらくはおまえの警護を続ける。俺自身がなるべく側《そば》にいよう」
「あ、はいっ」
「嬉しそうに言うな、こら」
ポコン、とレインがシェルファの頭に拳《こぶし》を落とした。実際には撫《な》でられたも同然の柔らかい叩き方で、むしろシェルファは幸せな気持ちで「すみません」と答えた。声がうきうきと弾んでいるので、内なる思いがバレバレである。
とても不謹慎なのは自分でもわかっているが、レインとずっといられるのなら、誰かに狙われても構わないとすら思ってしまう。
シェルファはレインに身体を預けたまま、そっと目を閉じた。
ノックの音がした。
「誰だ」
シェルファより先にレインが声をかけた。「私です」
「ああ、おまえか」
そっとシェルファの腕を外し、レイン自らドアを開ける。
もうすっかり顔馴染《かおなじ》みになったギュンターが、いつものむっつりとした顔で立っていた。シェルファには頷《うなず》く程度で、レインには深々と頭を下げて一礼する。
普通は「失礼な」と思うところだが、シェルファの考えは違う。ずっとこの人を観察してきて、シェルファは一つの結論に達していた。
このギュンター・ヴァロアという人は、律儀《りちぎ》で誇り高い人なのだと思う。だから、自らの主人であるレイン以外に、ペコペコ頭を下げることをよしとしないに違いない。
寡黙《かもく》で頑《かたく》なな男の態度が、皮肉にもかえってシェルファの信用を増大させていた。無論、彼がレインの『股肱《ここう》の臣《しん》』であるというのは、最大の評価ポイントである。
ともあれ、ギュンターはいつも通り、唯一の主《あるじ》たるレインに向かい、報告を始めた。
「用意は整いつつあります。後は、レイン様のご決断次第です」
「う〜ん」
黒い髪をかきあげ、レインはのんびりと答える。
「俺次第というか、向こう次第なんだけどなあ」
とそこへ、メイド風の衣装を着込んだ侍女《じじょ》がやってきて、扉の前で話し込むシェルファ達を前に立ち止まった。
「王女様、ちょっとよろしいでしょうか」
「はい?」
「サフィール様が、謁見《えっけん》の間までご足労願いたいとの仰せです。……その」
と、今度はおずおずとレインを見上げ、
「レイン将軍もお呼びなのですが」
「俺もか?」
侍女《じじょ》が低頭《ていとう》すると、レインは盛大に顔をしかめた。
「いつから人を呼びつけるほど出世したんだ、あの馬鹿は。しまいにはぶん殴るぞ。それも、謁見《えっけん》の間を勝手に使うか」
「ご報告が後先《あとさき》になりましたが」
ギュンターが割り込んだ。
「サフィールの軍は、たった今到着しました。おそらくは、このタイミングを待っていたのではないかと」
「ふん、いよいよか」
レインの顔に不敵な笑みが浮かぶ。
侍女《じじょ》が、ギュンターがさらりとサフィールを呼び捨てにしたことで口元に手をあてていたが、シェルファを含めて誰も省《かえり》みない。
「なるほど。ということは、俺の悪い予感は当たりそうってことだ。いやぁ、布石《ふせき》を打っておいてよかった」
「御意《ぎょい》」
「あの」
と今度はシェルファが、我慢できずに口を挟んだ。言いかけてから好奇心満々の侍女《じじょ》に気付き、「すぐに行きますから」と声をかける。
侍女《じじょ》は渋々、回れ右をして去っていった。改めて尋ねる。
「あの、昨日もお尋ねしたと思いますが……どういうことなのでしょう」
レインはちょっと待て、という風に片手を上げ、まずギュンターに指示した。
「よし。もしもの時は俺がなんらかの合図をする。なにもなきゃない方がいいがな。で、おまえはみんなへの説明を頼む。……くれぐれも本人の意思に任せろよ」
「はっ」
ギュンターは短く答え、これまた低頭《ていとう》して去っていた。なにかが起ころうとしているらしいが、シェルファには未だに訳がわからない。
「訳がわからないって顔してるな」
レインがシェルファの肩に手を置いた。
「すぐにわかるさ。とにかく、馬鹿サフィールの言い分を聞こうじゃないか」
レインは白い歯を見せ、にやっと笑った。
――☆――☆――☆――
レインとシェルファが謁見《えっけん》の間に向かう途中で歩廊《ほろう》を曲がると、少し先にラルファスらしき背中が見えた。
早速、レインが声をかける。
ラルファスは振り返ってシェルファ達を認め、にこっと感じよく微笑んだ。シェルファには丁寧に一礼を、レインには軽く頷《うなず》くだけ。先ほどのギュンターとは対極の態度だった。
「なんだ、おまえも呼びつけられたクチか」
「うん。なんのつもりかは知らぬが」
ラルファスの感じのよい微笑みはすぐに引っ込んでしまい、レインを気遣わしげに見た。
「それはいいが……おまえの望み通り、部隊は待機させているぞ。しかし、まさかとは思うが、なにか無茶なことを考えているんじゃないだろうな」
「なんだよ、無茶なことって」
レインはラルファスと並んで歩き出し、にんまりと笑う。
横目でちらっと友を見やり、
「それにだ。俺がそういう無茶なことをしようとしたとしてだ、おまえは安易に人に便乗《びんじょう》する男じゃないだろう」
「うん。私もおまえがそこを履き違えているとは思わなかったから、あえてなにも聞かなかったんだが……。くれぐれも短気は起こすなよ。もしもの時は、私もサフィールに抗議するつもりだから」
「――てことはだ」
前から来る衛兵《えいへい》達の敬礼に、おざなりに手を上げて応え、レインは唇の端をきゅっと吊り上げた。
「おまえもこう思ってるわけだ。『サフィールは遺言《ゆいごん》を盾に、なにかごり押しをしそうだ』と。だから、俺の一見無茶な要求を黙って呑んだんだろ?」
「……有り得るとは思っている、残念ながら」
優美な眉をひそめ、あっさりと認める。ラルファスさまも同じことを心配しているのだわ、とシェルファは思った。
意識せず、決然とした声で口を挟んでいた。
「では、わたくしもその時には、サフィール殿に抗議します!」
二人の上将軍《じょうしょうぐん》は顔を見合わせ、微笑みを交わす。
レインが穏やかに返す。
「ま、あいつがなに考えているのかは、本人から聞くのが一番早いですよ……でもまあ、ありがとうございます。気持ちはもらっておきます。――と、なんか揉《も》めてるな」
レインの言う通りだった。
階段を登り、ぐっと人の少なくなった廊下へ。その正面に、見慣れた謁見《えっけん》の間の大扉が見えるのだが、いつもなら二人いる衛兵《えいへい》が四人になっており、しかもその四人が、二対二の二組にわかれて揉《も》めている。
「……片方はどうやらサフィールの配下らしい。もう片方は……私が知らないのだから、おまえの部下だろう。それに、今日の当番はおまえの部隊だ」
ラルファスが断定した。
「え〜と」
レインは目を細め、
「顔は知ってるな、うん。おい!」
揉《も》めている現場にズカズカ入り込んだ。
「なにやってる。なんで今日に限って四人いるんだ」
「――あ」
レインが「知っている」と言った一方の二人が、明らかにほっとした表情になった。
童顔《どうがん》の一人が憤《いきどお》った声で捲《まく》し立てた。
「我々がここを警護していると、サフィール様が大勢を引き連れて突然来られ、無理矢理押し通ってしまわれたのです。それだけではなく、この二人が――」
と相手側を指さし、
「今日から警護は我らがすると。平民のおまえ達はいらんと、そう言うのです」
なにか、自分で語る以上の屈辱的な仕打ちでも受けたのか、若者の声は激情で震えていた。
レインの顔を真っ向から直視し、唇を噛《か》む。
やっとシェルファも気付いたが、頬《ほお》の片方が少々赤くなっていた。
「申し訳ありません。サフィール様達もなんとか止めようとしたのですが」
相棒共々、頭を垂れた。
シェルファは胸の内に暗雲が生じるのを感じた。サフィール殿はきっと――
「気にすんな」
レインが、バンッと若者の肩を叩いた。
「そら、俺と同じ上将軍《じょうしょうぐん》だしな。まさか斬《き》ってしまうわけにもいかんし、しょうがないさ。あの馬鹿に殴られても止めようとしたのは、むしろ褒《ほ》めてやれる。よくやった! え〜と、ミランだったな、おまえ。今日はここの当番だったのか」
「は、はいっ」
ミランと呼ばれた若者は、なぜか無茶苦茶嬉しそうに顔を綻《ほころ》ばせた。
「よし。今日はもういいぞ。中庭に行け。そこにみんないるから」
「は? いえ、はいっ」
なにか聞き返そうとしたが、ミランは思い直して敬礼した。相棒もそれに習う。レインもいつもより真面目《まじめ》な答礼を返した。
忠実な衛兵《えいへい》二人が行ってしまうと、ラルファスがいきなり残った衛兵《えいへい》に向き直った。
「二度は言わぬ。おまえ達もここを去れ!」
冗談の欠片《かけら》も感じられない、厳しい声だった。聞く者が思わずビシッと背筋を正してしまいそうな、そんな声音《こわね》だった。
シェルファはちょっと驚いてラルファスの顔を見た。これまで穏やかに微笑む顔ばかり見てきたので、意外だったのだ。
で、残った衛兵《えいへい》達には抜群《ばつぐん》の効果があった。
それまで、レインやミラン達をヘラヘラと眺めていたのだが、見る見るうちに顔面|蒼白《そうはく》になった。意表を突かれたようでもあった。貴族達は仲間意識が強烈なので、ラルファスに叱責《しっせき》されたのが意外だったのかもしれない。
一人がモゴモゴと言い募《つの》ろうとする。
「し、しかし、我々はここで」
「おまえ達は聞いていなかったのか」
非常に珍しいことに、ラルファスは皆まで聞かず、言い訳を遮《さえぎ》った。
珍しいといえば、彼が友人や仲間以外の他人を「おまえ」扱いするのも、シェルファは初めて聞いた。
「私は二度は言わないと宣言した。それ以上なにか抗議したいのなら、もはや言葉を費やすのは無用だ。今この場で、私自身が相手になろう」
気負うでもなく、無用に威張るのでもなく、ただ自然体で述べたセリフに過ぎない。
しかし、衛兵《えいへい》二人はラルファスの碧眼《へきがん》の奥深くを覗《のぞ》き込み、そこにあった「なにか」を感じ取って肌を粟立《あわだ》たせていた。
相手が完全に本気なのを理解したのだ。
それ以上質問も意見も口にすることなく、直《ただ》ちに姿を消した。唖然《あぜん》とするほど素早《すばや》かった。
にやけながら事の次第を見ていたレインが、
「いやぁ、アレだな。これからは、誰か気に入らないヤツを追い出したい時には、おまえを呼ぶことにするぞ。俺が殴るより、よっぽど早そうだ」
「からかうな」
ラルファスはたちまち元の穏やかな笑顔に戻った。それはシェルファがすっかり見慣れた顔であり、レインといる時のいつものラルファスそのものだった。
でも、侍女《じじょ》さん達がこの方の噂ばかりしている理由がわかりましたわ。
シェルファは他人ごとのように感心した。
自分は例外として、この人が女性にもてるのも無理ないことと思った。
「さて。では、サフィール馬鹿の顔でも拝みに行くとするか」
レインが自分の背丈の二倍はあろうかという両開きの扉に手をかける。気を付けろよ、とラルファスが忠告し、三人は中に入った。
――☆――☆――☆――
謁見《えっけん》の間は、真っ白な石の円柱が何本も高い天井を支えており、床は一面全てが大理石で、こちらは真っ黒である。
正面の壁中央付近は何段かの壇上になっており、そこに背の高い玉座《ぎょくざ》が据《す》えられている。その玉座《ぎょくざ》からシェルファ達が入ってきた入り口まで、人二人が並んで歩けるぐらいの赤い絨毯《じゅうたん》が敷き詰められていた。
普段は玉座《ぎょくざ》から向かって右手が武官達の控える場所。左手が文官達の控える場所で、それぞれ定められた位階に従って列を成しているのだが――
しかし、今日は様変《さまが》わりしていた。
玉座《ぎょくざ》を中心に、シェルファも顔見知りの貴族達が、びっしりと集結している。
それは玉座《ぎょくざ》に座すサフィールを守護しているようにシェルファには見え、レインもそう見えたのか、小声で悪態をついていた。ラルファスはほぼ無表情だったが、どうも怒っている気がする。
問題のサフィールは飾り立てられた黄金の玉座《ぎょくざ》に座しており、得意気に鼻をひくつかせていた。
白い礼服に金髪の巻き毛、顔立ちも悪くない……しかし、その双眸《そうぼう》はいつもなにかを企んでいるように濁っていて、シェルファ自身はあまり好きではない。
かつて上将軍《じょうしょうぐん》だったガノアよりは、多少は「嫌い度」が低い、という程度だ。
だいたい、シェルファは宮殿の一室にほとんど籠《こ》もりきりだったので、そんなに嫌うほどサフィールと何度も会ったことがないのだ。
もし何度も会っていたら、確実に「大嫌いな人」リストに入れていた自信がある。
サフィールはレインを勝利感に酔ったような目で傲慢《ごうまん》に眺め、声を掛けてきた。
「ふっ。よく来たな、と言いたいところではあるが、おまえに言うことはあまりない。それどころか一つしかない」
嬉しくてたまらなそうにサフィール。
取り巻きがくっくっ、と笑いを漏らす。
なお効果を高めるように一拍置き、
「おまえはもう用済みだ、どこへなりと消えろ。やっとこの城から平民臭がなくなるかと思うと、私は空気まで清浄になった気がするぞ。あ、もちろん言うまでもないが、おまえの指揮していた兵は没収だ。今日からは私の配下に収めるからな」
シェルファは足下《あしもと》がぐらりと揺れたような気がした。
今の今まで「もしやサフィール殿はレインを」と思ってはいた。思ってはいたが、まさかここまで単刀直入に切り出すとは予想外だったのだ。
一瞬、驚きのあまり声もなく、それからすぐに激情が込み上げてきた。シェルファが生まれて初めて他人に叱声《しっせい》を浴びせようとしたその時――
レインが、いつもと変わらぬ口調で言った。
「ちょっといいか?」
「なんだ、泣き言なら聞かんぞ」
レインはにこやかに「そうじゃない」と手を振り、
「俺はだな、おまえのことは前から『こいつって馬鹿?』とか思ってたが、俺が思うより遙《はる》かに馬鹿だったな、おまえって」
謁見《えっけん》の間が静まり返った。
サフィールの顔から表情がすっかり抜け落ち、さらにしばらくするとじわじわと顔が赤くなった。
掠《かす》れた囁《ささや》き声を出す。
「……なんだと?」
「だってそうだろ」
レインは一向に応えない顔である。
「そんな要求、俺が呑むはずがないじゃないか。おまえとは付き合いらしい付き合いが全然無かったからな。だから俺のこともろくすっぽ知らず、そんな大馬鹿な提案が出来るんだろうが」
サフィールは熟柿《うみがき》のような顔色でレインを睨《にら》み、それからシェルファを見てかろうじて暴発を押さえた。
「……王女様。先にこちらへどうぞ。あなたの席はここにあります故《ゆえ》。その者といると御身《おんみ》の汚《けが》れですぞ」
自分の隣を指差した。そこには、小さな席が設けられている。どうもシェルファのために用意したらしい。
シェルファがきっぱりと断る前に、レインがそっと耳打ちした。
「行ってくれ。なんかあいつに見下ろされてるとむかつくんだ。あそこは本来、おまえの席だしな」
「……レインがそう言うのなら」
シェルファは渋々|囁《ささや》き返すと、トコトコと歩き、玉座《ぎょくざ》の横にしつらえた椅子に腰を下ろした。サフィールはやや機嫌を直し、「おはようございます、王女様」などと言ってきたが、シェルファは頑《かたく》なに前を見たまま、最小限の挨拶《あいさつ》を返すのに留《とど》めた。先の一言により、シェルファの中でサフィールへの評価が暴落したためである。
「さて……と」
サフィールは自分が嫌われているのにも気付かず、すぐにまたレインに視線を戻した。
「おまえはどうやら、まだ王女様から聞いていないようだ。いいか、私には亡き陛下の」
「あ〜、待て待て」
ばっさり話の腰を折るレイン。
「その話なら知ってる。おまえの顔なんか見たくなかったから昨晩は無視してたが、後から姫様とラルファスにちゃんと聞いた。遺言書《ゆいごんしょ》があるんだろ」
「そ、そうだ。わかっているではないか」
「……だいたいだな、それホントか? ちょっと見せてみろ」
「ふふん。私がそう言われて困るとでも思っていたのか」
サフィールは余裕の表情で、背後のその他大勢に手を突きだし、一人から巻物のようななにかを受け取った。
もったいぶった手つきでするすると封印の帯を解き、ばばっとよく見えるように広げて見せる。
そこには黒々と下手くそな文字が綴《つづ》ってあり、内容は修飾語一杯でわかりにくかったが、なるほど、「忠実なる我が臣下《しんか》、サフィールに後事《こうじ》を託《たく》す」というようなことが書いてあった。
ふぅ〜む、とまるで関心なさそうにレインは唸《うな》り、一応シェルファに確認だけはした。
「姫様、どうです? ダグラス王の筆跡に間違いないですか?」
シェルファは、そっくりかえったサフィールが掲げる羊皮紙《ようひし》の巻物を、それこそ隅から隅まで観察して、さも気が進まなそうに言った。
「……父の字に見えます、確かに。でも、わたくしはそんなに父の字を見慣れていたわけではありませんから」
「な、なにを言われる! これは間違いなく、亡き陛下の筆跡ですぞっ。なにも王女様でなくても、証言してくれる者はいくらでもおりますっ」
「おいおい、姫様を責めるなよ」
またすかさずレインが口を挟む。
「それとも、そんな慌《あわ》てるってことは、ひょっとして偽造した遺書《いしょ》だからとかそんなオチか」
「ばっ」
おもしろいように顔色の変わったサフィールが、またなにかやかましく捲《まく》し立てようとした。と、今度は今まで黙っていたラルファスが一歩前に出る。
「サフィール。その遺言書《ゆいごんしょ》の是非については今は置いておく。それより少し訊《き》きたいことがある」
「おう、ラルファス殿! 無論、貴公の話ならいくらでも聞くぞ」
「……では問う。貴公がその玉座《ぎょくざ》に座っているということは、これからは貴公が主君としてこの国の実権を握る……そう解釈していいのか」
「ラルファス殿」
サフィールはラルファスに対しては礼儀正しかった。猿芝居的な悲哀《ひあい》の声でつらつらと述べる。
「私も自分の非力は知っている。しかし、陛下はあの戦いに赴《おもむ》く前に、こうして私に遺言《ゆいごん》を託《たく》された。ならば、自らの非力を省《かえり》みず、この国のために力を尽くすのが、我が務《つと》めというものであろう。言うまでもなく、貴公にはこれまで通り上将軍《じょうしょうぐん》としての務《つと》めを果たしてもらいたい。粗略《そりゃく》には扱わぬ故《ゆえ》」
したり顔で、「気は進まぬがしょうがないのだよ」という風な言いようである。
しかし、顔がだらしなくにやけているので、あまり言葉に説得力がない。レインからすれば噴飯《ふんぱん》ものである。
ラルファスはなおも続ける。
「あといくつか訊《き》いておきたい。まず……貴公はあの戦いが終わってから、これまでどこでなにをしていたのだ」
「うむ。実はザーマイン戦の最中、重い傷を負ってな。なんとか名誉の撤退を敢行《かんこう》したものの、ずっと意識不明だったのだ。幸い、部下達が我が身を居城まで運んでくれたのだが……。意識が戻ったのはつい十日ほど前のことでな。それでその、連絡するよりこうして来た方が早いかと」
しどろもどろ。
レインが小さく、しかしサフィールにしっかり届く声で、「いかにも嘘臭い話だ」とせせら笑った。またヒクッとサフィールの額に青筋が浮いたが、ラルファスは構わずに質問を続けた。
「では、貴公が引き連れていた軍は? 報告ではおよそ数千を数えるということだが、グレートアーク(サフィールの居城)にそこまでの兵力が残っていたとは思えないが」
「ああ、それなら説明は簡単だ。かつての上将軍《じょうしょうぐん》達の配下が、私の下《もと》に集ってくれてな。最初は数百に過ぎなかったが、お陰で行軍《こうぐん》中にこうして増えてきた。この数は、これからもっと増えるだろう」
「つまりこういうことか」
レインが冷笑とともに総括した。
「落ち目の死にぞこない貴族達が、このままじゃいかんというんで、芽の出そうなおまえにどっと寄りかかってきたと。そういうことだろ? 大方、この一ヶ月の間、せっせと生き残りの貴族と手紙のやりとりでもしてたんだろ。ち、もうしまいだと思ったから、死に損ない貴族のことは放っておいたんだが……まずかったなあ」
「な、なにが『まずかったなあ』だ! 不敬罪だぞ、平民っ」
大量の唾《つば》を飛ばしまくり、サフィールは激怒した。もちろんレインはそんなものは歯牙《しが》にもかけずに平然と睨《にら》み返す。
謁見《えっけん》の間がにわかにざわめいた。
ここでは上将軍《じょうしょうぐん》以上の身分でなければ帯剣《たいけん》できないはずなのに、なぜか全員|帯剣《たいけん》している貴族達が、サフィールの怒りに反応して自らの剣に手をかけた。
一触即発である。
が、ラルファスが制止した。
「しばし待て!」
鋭い叱声《しっせい》が謁見《えっけん》の間に響き渡る。
さしもの貴族達が、ピタリと動きを止めた。この辺り、こいつも大したものだなぁと、秘かにレインは思う。
「レイン。まだ私の質問は終わっていない」
む、という顔でレインはラルファスを見返した。あと数秒止めるのが遅かったら、サフィールに斬《き》りかかっていた所だったのだ。
「話し合いなんて無駄だと思うがな。……だがまあ、おまえがそう言うなら」
レインは、獲物を狙う野獣のようにたわめていた筋肉の緊張を解き、腕組みして待った。どうせ自分の結論は出ている。後はラルファスが決心する時間をやるべきだろう。
「ありがとう」
にこりと笑い、ラルファスはまたサフィールに向き直った。立ち上がりかけていたサフィールも、一応また腰を下ろす。
「では、最後に一つ。今日は本来、王女様の戴冠式《たいかんしき》が行われるはずだった。しかし、先の発言からして、戴冠式《たいかんしき》を貴公が認めるとは思えない。貴公にとっては、王女様はどういう位置付けなのだ。それを訊《き》きたいものだ」
「それは――」
サフィールはまた答えるのをためらう素振《そぶ》りを見せた。しかし、チラと王女の横顔を見やり、決心したように頷《うなず》く。
一度、ぐふっとにやけ、それから真面目《まじめ》な顔をしようとしたらしいがどうも我慢しきれなかったらしく、ひきつったような妙な笑い顔になった。
「もちろん、王家の血筋である王女様には、ちゃんと尊敬の念を持っているとも。故《ゆえ》にだ、この国の実権を掌握《しょうあく》すると同時に、シェルファ姫を私の花嫁として迎えるということではどうかな。無論、今の正妻は側室《そくしつ》ということにすれば問題ないかと――」
「お断りしますっ」
得々《とくとく》とした演説の途中で、今度こそシェルファの大声が響いた。なんというか、声の端々《はしばし》にまで「そんなの絶対にいやっ」という生々しい感情が籠《こ》もっていた。
サフィールは、口を開けたまま押し黙った。きょとんとした顔をしており、まさか自分が拒否されるとは夢にも思っていなかったのだとよくわかる。
多分、心は既にシェルファとの初夜にでも飛んでいたのだろう、唇の端に嫌らしい笑みの残滓《ざんし》が残ったままである。
シェルファはといえば、もはや椅子から立ち上がり、まっすぐにレインを見ていた。
無論、その気持ちはレインにもわかる。
小さく頷《うなず》いてやった。
この辺りでたくさんだ。
「ここまでだな」
レインはむしろ静かに宣言して、数歩前へ出た。
「ラルファス、まだ質問があるか」
「……いや」
「ならいい。それじゃあ、俺の考えを言おう。というか、宣告だな、一種の」
レインは腕組みしたまま、サフィールに一語一語はっきりと言った。
「俺はおまえの下風《かふう》に立つ気はない。上将軍《じょうしょうぐん》を降りる気もない。まあ将軍の座なんて俺にはどうでもいいんだが、今はちょっと放り出せない事情もあるしな」
レインの黒瞳《くろめ》が炯々《とうとう》と光った。
「ということで、たった今から俺はおまえの敵だ。覚悟しろ、サフィール」
「なっ」
玉座《ぎょくざ》に座るサフィールは、まるでレインの視線の圧力に押されたかのように、尻で後退《あとずさ》った。
わたわたと、まだ持っていた遺言書《ゆいごんしょ》を不可視の盾のように掲げる。
「き、貴様っ。主君の命を無視する気かっ。それはこの国に対して反逆するということだぞっ」
「……ったく、後ろめたいことをしてる奴に限って、どこからか権威を借りてくるんだよな。虎の威を借りたなんとやらというか」
レインはうんざりしたように述べ、それから突然、「ああっ」とわざとらしく叫びつつ、右手の方をビシシッと指差した。何事か! と一瞬全員がそちらを見る。
「わちゃちゃちゃっ、あ、熱いっ!?」
今度はサフィールが喚《わめ》いた。
玉座《ぎょくざ》から飛び上がり、手の中で燃え上がった遺言書《ゆいごんしょ》をほっぽり出す。
そこまで簡単に燃える物ではないのだが、なぜか実に景気よく燃えあがっていた。無論のこと、それは全員がよそ見をしてる間に、レインがこっそり魔力を使って燃やしたせいだ。
お陰で、あれよあれよという間に消し炭のごとく真っ黒になってしまった。貴族達が大|慌《あわ》てで拾い上げたが、もう遅い。
「あああああっ」
サフィールは頭を抱えて悲痛な金切り声を上げた。
「うわぁ、エラい災難だな、おい。世の中、何があるかわからんもんだ……あぁ〜あ」
レインは沈痛な顔で首を振った。
「なに吐《ぬ》かすっ」
貴族らしい言葉遣いを完全に捨て去り、サフィールは子供のように地団駄《じだんだ》を踏んだ。
「おまえがやったんだろうがああ――――っ!」
背後の取り巻き達も一斉に、「そうだそうだ」とか「許さんぞっ」とか喚《わめ》いていた。早くも剣を抜いている血の気の多い者もいる。
「おいおい、俺みたいな内気で真面目《まじめ》でおとなしい奴を疑うのかよ。たまらんなあ」
レインはふてぶてしく笑った。
ふとシェルファを見ると、もうすっかり動揺は去ったようで、彼女も笑いを堪《こら》えるように口元に手をやっている。
うん、女の子は笑ってる方がいい……いつもながらそう思う。
「と、とにかく、もう許さんぞっ。貴様は我が国に反逆した逆臣《ぎゃくしん》ということで処刑だっ」
「逆臣《ぎゃくしん》って、なにを根拠にだ。おまえはただの朋輩《ほうばい》なのに、そんな権利あるのかおい?」
「なにを今更っ。だから遺言書《ゆいごんしょ》があるだろっ」
「どこに?」
「だからっ――」
ここだあっ、と黒く煤《すす》けた空っぽの手を上げ、もう遺言書《ゆいごんしょ》が無いのに気付いてサフィールは真っ赤になった。無闇《むやみ》に、ドンドンッと大理石の床を蹴りまくる。切れかけていた。
「黙れ黙れっ。例え燃えてしまっても、もう大勢の人間がアレを見ているのだ。ごまかしは利《き》かんぞっ。おまえがなんと言おうと、私は王女様と結婚し、この国を掌握《しょうあく》するっ!」
「それはさっき、姫様ご本人にすっきりと断られた所だろうが」
「う、うるさいっ。王女様は恥じらいのあまり、動転して心にもないことをおっしゃったにすぎん。これは、もう決まったことなのだ」
「おまえこそ黙れっ!」
レインはいきなり大喝《だいかつ》した。
まだなにか喚《わめ》きかけたまま、サフィールが迫力に呑まれて沈黙した。また場内が静まりかえった。
「ふざけたことばかりほざいてんじゃないぞ。おまえの好きにさせる気は初めからないんだからな、俺は。姫様との婚儀《こんぎ》はあきらめてもらう。他にも色々とあきらめないといかんと思うが」
「じ、時間をかけて説得すれば、王女様は必ず私との婚儀《こんぎ》を承諾《しょうだく》してくださる。おまえに邪魔されるい、いわれはないわっ」
「なに厚かましいこと言ってるんだ、おまえ。しつこい男は嫌われるぞ……。だがまあいい。いいかよく聞け」
レインは小馬鹿にしたようにサフィールの目を見据《みす》え、
「そんなことは有り得ないと思うが、万が一姫様がおまえとの結婚を承諾《しょうだく》しても、やっぱり俺は婚儀《こんぎ》を見過ごす気はないね」
なんだとうっ、とサフィールが目を剥《む》き、シェルファはなぜか期待に満ちた目でレインを凝視《ぎょうし》した。
「なぜなら、おまえと結婚したって姫様が不幸になるに決まってるからだ。だからこの際は姫様の意思も関係ない。どっちにしても見過ごす気はない。わかったか、馬鹿たれ。というわけで姫様、あなたの意思は関係ない。とにかくこちらへ」
戻ってください、とレインが続ける前に。
シェルファは椅子から跳ねるように立ち上がり、一息に駆けて来た。レインが止める間もなく、そのままの勢いで胸に飛び込んで抱きつく。
「わたくしの意思なら決まっています、レイン!」
レインは「よしよし可愛いぞ」とばかりに気安く抱きとめて頭を撫《な》でてやったが、次の瞬間、「わっちゃ〜っ!」と思った。よく考えたら今はいつもの二人きりではなく、場所はこともあろうに謁見《えっけん》の間で、しかも馬鹿貴族達だけではなくてラルファスも隣にいたのである。
さしものレインも少々気が差し、こっそり友人に横目を使う。が、相手はとまどった様子も非難する様子もまるでなく、ただ穏やかに微笑み返してきただけだった。
なんだ、ばればれか……なら気にしなくていいか。
ところが、気にする者達もいた。
この場に集う、ラルファス以外の全ての貴族である。特に、サフィール。
「貴様っ」
なにもそこまで震えなくても、というほどに全身をガタガタ震わせ、サフィールはすっくりと立ち上がってレインに指を突き付けた。
「読めたぞっ。貴様は破廉恥《はれんち》にも王女様に手を出し、己の欲望の餌食《えじき》にしたなっ。なんという男だ!」
「こらこらこらっ。愉快な話を作ってんじゃないぞっ」
レインはむっとして怒鳴った。
シェルファはレインにしっかり抱きつき、離れようともしない。
状況からしてサフィールの勘違いも無理はないにせよ、とんでもない誤解である。
「おまえの基準で考えるなっ。どうせおまえ自身がそうしようと思ってたんだろうが、一緒くたにされるのは迷惑だっ。だいたい、今頃ノコノコ出てきて好き放題言ってんじゃない! 最初から気に食わなかったんだっ」
もはや許さん、とばかりにレインはさっと魔剣を抜いた。
ブゥゥゥゥンという魔法剣特有の音、それに刃《やいば》にのたうつ青白いオーラに、貴族達がはっと身構える。
「おまえは自分の城に引っ込んで、部屋で猫でも抱いてりゃ良かったんだ! なのに、くだらん野望を持ちやがってからに。ぶった斬《ぎ》って裏の池に放り込んでやるから、そこ動くなこらっ!」
レインの威勢のよい宣戦布告に反応し、貴族達も一斉に剣を抜いた。
そもそも彼らは「レインごときに我らが負けるはずがあろうか」などと確信しており、むしろ好都合だとさえ思っていた。
幸か不幸か、こちらの人数が人数だし、運の悪い何人かはともかく、「生意気な平民」が死体になるのはもう決まった事実だと思い込んでいる。
もう誰がどう見ても両者の衝突は避けられそうもなかった。
サフィールは完全に冷静さを失った憤怒《ふんど》の表情で、「ヤツを殺せーー!」などと喚《わめ》き散らしている。シェルファがレインの胸に飛び込んだのを見て、元々短かった忍耐の糸がぶち切れたのだ。
レインはといえば、それこそ望むところである。おう、まとめて相手になってやるからどっからでもかかって来い、という勢いで、例のふてぶてしい笑いを口元に浮かべていた。
シェルファをラルファスの方へ押しやり、早速貴族達の群れへ飛び込もうと身構える。
「待て、レイン」
ラルファスが片手を横に突き出し、またレインを止めた。
「おいおいおい! またかよ。まさかおまえ、まだ迷ってるわけか」
レインがうんざりして、それでも一応剣先を下げて問うと、ここぞとばかりにサフィールが唾《つば》を飛ばした。
「おうっ、ラルファス殿! さすがに貴公は物の道理《どうり》がわかっている。そこな逆賊を、貴公の手で手討ちにしてやれっ」
レインはすかさず、
「なにが『そこな逆賊』だっ。ボケたセリフを吐いてんじゃないっ」
とサフィールに言い返し、友人に相対した。
「……そろそろ決断しろ、ラルファス。俺はおまえを敵に回したくないとは思っているが、だからといって常におまえを立てる気もない。特に、今は絶対に譲れないな。もしおまえがサフィールにつくというのなら」
レインは、ラルファスのいつもと何ら変わらない静かな碧眼《へきがん》から目を逸《そ》らさず、後を続けた。
「残念ながら、おまえも俺の敵ということになる」
傾国《けいこく》の剣を心持ち持ち上げた。
と、シェルファがいきなりレインの手をそっと押さえた。
目で問うと、小さく首を振っている。
大きな瞳は、レインの黒瞳《くろめ》をじいっと覗《のぞ》き込んでいる。
そこでやっとラルファスが言った。
「私は欠点の多い男かも知れないが、しかし、人を見る目だけはあるつもりだ。レイン、おまえに私は斬《き》れないよ」
「……俺が、おまえに勝てないと言うのか」
レインの黒瞳《くろめ》が鋭さを増した。
なにが嫌いと言って、こういう言い方をされるのが一番嫌いなのである。
大昔のあの日あの時以来、「負ける」というのを病的なまでに嫌うレインなのだ。兵と兵が激突する戦《いくさ》ならともかく、個人的に負けるくらいなら死んだ方がマシだとさえ思っているのだ。
「本当にそう思うのか?」
「違う」
ラルファスの笑顔は消えなかった。
「私がおまえに敵わないのはわかっている。ただ私が言いたいのは、もっと切羽《せっぱ》詰まった理由ならともかく、こんなことで私を殺すおまえではない、と言いたいんだ。……それを知っているから、王女様はおまえを抑えたのさ」
レインの表情から怒りが薄れたのを見て、ラルファスはさらに言い足した。
「それに、サフィールを打倒することについては、私自身も賛成だ」
ああ、なんだ。それなら文句ない。
レインはふっと力を抜いた。
ただし、騒ぎ立てた者もいる。サフィールがすっくと立ち、震える指を突き付けていた。
「ラルファス殿! どういうおつもりかっ。建国の祖である五家《ごけ》の高貴な血をひきながら、そんな平民の肩を持つのか! 正気か、貴公はっ」
「私はいたって正気だ」
怒れるサフィールとは対照的に、穏やかにラルファスは言う。
しかし、口調こそ穏やかだが、内容は容赦《ようしゃ》なかった。
「サフィール、私はおまえを王とは認めない。なぜなら、おまえの言葉に真実を見いだせないからだ。おまえは自らの言葉で一言も語ろうとはせず、終始、亡き陛下の遺言《ゆいごん》を盾にして要求を通そうとしている。そのような者に、どうして主君としての敬意を払えようか」
「き、詭弁《きべん》だ! どう言葉を弄《ろう》しようと、貴公が陛下の命令を無視した事実は消せないのだぞ!」
「私はその遺言書《ゆいごんしょ》自体が信じられないのだが――。だが仮に本物なのだとしたら、おまえの言う通りなのだろう……」
だが、それでもよい。
ラルファスの語り口にためらいはない。
「君臣《くんしん》の絆《きずな》は、一方的なものではないことを忘れるな、サフィール。玉座《ぎょくざ》に座れば、王たり得る訳ではないのだ。何度でも言おう……私はおまえを王とは認めない。それに私にはもう、仕えるべき方がおられる」
碧眼《へきがん》に、厳しい光が宿った。
「いやしくもこのラルファス、一度|臣下《しんか》の礼をとっておきながら、紙切れ一枚で態度を変える気など断じてない」
サフィールのように激した所は少しもないのだが、ラルファスの言葉には固い決意が感じられた。
すなわち、自らシェルファを主人と決め、サフィールの王権を断固として否定したのである。これはレインの進む道と全く相反しないわけで、もちろんレインにすれば万々歳である。
早速ラルファスの背中をどやしつけてやった。
「偉い! よしよし、今夜は酒宴だな……おまえのおごりで」
調子のいいセリフを投げかける。
「……ら、ラルファス殿の裏切りだああっ!」
いきなり、サフィールの幕僚《ばくりょう》の一人が喚《わめ》いた。それを皮切りに、場内にラルファスを糾弾《きゅうだん》する声が幾つも上がる。
「ラルファス殿っ。いや、ラルファス! 今の言葉、私は忘れないぞっ。覚えているがいいっ」
サフィールはついに自らも剣を抜き、剣先をビシッとラルファスの方へ突き付けた。
対してラルファスの方はなんら表情を動かさず、落ち着き払ったままである。
「私が口にした言葉はこの場の全員が知るところであり、天が知るところであり、なにより私自身の知るところだ。おまえに言われるまでもない」
レインは上機嫌になり、
「よしっ。なら早速――」
「だから、待てと言うのに」
ラルファスは飛びだそうとするレインの肩を掴《つか》んだ。
「ここでサフィールを倒すのは簡単だが、後がまずいだろう」
「後? 後ってなんだ」
「考えてもみろ。サフィールが遺言状《ゆいごんじょう》を持っていたことは、もう城内中に知れ渡っている。今ここで彼を倒せば、自分達に都合が悪いから凶行に及んだのだと、皆に誤解を招くぞ。しかも、サフィールの軍が待機しているんだ。この城内が戦場と化す」
「俺はそれでも一向に構わないんだが……。だがわかってる、おまえが一番言いたいのは、姫様のことだな」
レインはため息をつき、魔剣を下ろした。
実のところ、この展開は予想済みのことだったのだ。この友人の性格からして、当然ながらその辺りを気に掛けるだろうと。
しかし、レイン自身の思惑からすれば、多少の誤解やその他の危険に目をつぶってでも、今ここでサフィールを倒すべきだとは思う。
「聡《さと》いおまえが、気付かないはずがないと思っていた。また私が止めるのを待っていたんだな」
「いや、今回に限っちゃ、止めないならそれでもよかったんだ」
「そうもいくまい」
ラルファスは首を振り、シェルファに向かって説明した。
「お聞きの通りです、王女様。最終的には王女様がお決めになることですが……。ここでサフィールを打倒すれば、王女様のお名前に傷が付きましょう。一旦、退《しりぞ》くことを進言いたします」
言われ、シェルファは即座に聞き返した。
「わたくしの名前などどうでもよいのですが、レインやラルファスさまも悪口を言われるのでしょうね?」
「我々のことはお気になさらず。二人とも、己の信じる道を行くだけですから。王女様はご自分のことだけをお考えになり、ご決断ください」
シェルファはすぐには答えず、しばらく瞳を伏せた。やがてそっと目を上げ、ラルファスの笑顔を見て、それからレインに目を止める。
レインはなるべく相手の気が軽くなるよう、笑って言ってやった。
「いいんですよ、どんな決断したって。あまり悩まずに思った通りを言ってください。ここで退《しりぞ》くもよし、戦うもよし。サフィールが死ぬのが、遅いか早いかの違いですし」
シェルファは青白い顔色のまま、ほっと息を吐いた。レインの言葉を聞き、決断したのだ。
「退《しりぞ》きましょう。わたくしの大切な人達が悪《あ》し様《ざま》に言われるのは嫌ですから。わたくしはこの城に執着心などないです。なぜならわたくしの居場所は既にして定まって――」
言いかけて止め、シェルファは頬《ほお》を赤らめて黙り込んだ。もっとも、その先はレインにも予想がついたので聞く必要もなかった。
うん、じゃあ今度こそ決まりだな。
レインは二人に頷《うなず》いてから、剣を手にじわじわと間合いを詰めて来る貴族達、特にサフィールに目を向けた。
数十人の貴族達が白刃《しらは》を構えてやってくる様は、まるで剣の林が動くようである。
なのにレインは、緊張感の欠片《かけら》もなく片手を上げた。
「じゃあ、この場は退《ひ》くことにするんで。またな、サフィール」
「『またな』じゃないっ。逃がすわけがなかろうっ! 王女はともかく、おまえ達には死んでもらう」
「おいおい、とうとう主筋《しゅすじ》に当たる人を呼び捨てか? しかも、姫様は殺さないって、あからさまに目的が見え透《す》いちゃってんなあ」
これだからスケベは。
言いつつレインは、おもむろに、まだぶら下げていた魔剣を斜め下から上へと振り切った。
「ひゃっ」
『バンッ』
サフィールの悲鳴と正面の壁が砕ける音が連続した。サフィールは剣を持ったまま腰を抜かしている。偉そうな縦ロールの金髪が片方無くなっており、頬《ほお》に一筋の傷がある。そこからつぅ〜っと血が流れていた。
貴族達が総毛《そうけ》だった顔でそ〜っと背後を見る。
正面の壁に掛かっていたサンクワールの国旗が斜めに破れ、石造りの壁に亀裂が走っていた。
ニヤッとレインが笑う。
「おい、勘違いするなよ。おまえ達が俺達を見逃すんじゃない。俺達が有り難くも退《ひ》いてやるんだ。その気になりゃ、おまえを殺すくらいは一瞬なんだぞ、サフィール」
ふふん、馬鹿が。
そういう口調のレインだったが、サフィールを初めとする一同は聞いていないようだった。貴族達にさざ波のように動揺が広がっていく。魔剣の正体がわかったのだ。
サフィールがわたわたと立ち上がり、焦りまくって仲間の後に隠れる。恥も外聞《がいぶん》もなかった。
誰かが「遠隔攻撃……け、けけけ」と妙な声を上げた。
「いやあ、これ見るとなぜかみんな同じ反応するんだよなぁ。はっはっは!」
レインが豪快に笑い飛ばし、ふっと横を見ると、ラルファスの驚いた顔と視線がかち合った。ああそうか、こいつはまだ知らなかったな、と思い出す。
まあ、知られたって構わないが。
「さてと。では、さっさと引き上げるか」
レインは振り向いてうきうきと魔剣を構えた。
「一度でいいからやってみたかったんだ、これ。派手に行くぞ!」
のたうつ青いオーラが、主人の期待に応え、さらに眩《まぶ》しく輝く。
レインはもう一度、魔剣をビシュッと振った。
頭上のシャンデリアの明かりを遙《はる》かに凌駕《りょうが》する、青き閃光《せんこう》。
今度の攻撃対象は、謁見《えっけん》の間の馬鹿でかい扉だった。はた迷惑な破壊音とともに、両開きのごつい扉が木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に吹き飛ぶ。なんと『見えない斬撃《ざんげき》』は、その向こうの廊下の壁まで粉砕《ふんさい》してでかい穴を空けていた。
「さ、行こうか」
レインは晴れ晴れとした顔で言った。
しかしこの時――
さしものレインもまだ、後に起こるもっとややこしい事態を予想すらしていなかった。
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[#挿絵(img/02_251.jpg)入る]
第五章 神将《しんしょう》VS天才、もし戦わば
レインが、謁見《えっけん》の間の扉をぶち破って退去する少し前。
セルフィーは友人のユーリと一緒に、城内のさる広間にいた。
シミ一つない白いテーブルクロスがかけられたテーブルがいくつかに、木目の美しい豪華な椅子がそれぞれのテーブルとセットになっている。部屋の隅には同じく装飾華美のソファーも置かれており、セルフィーとユーリはそこに腰掛けていた。
ここは、主に上将軍《じょうしょうぐん》達が集って談話などする目的で作られたサロンで、先の戦いで上将軍《じょうしょうぐん》の数が激減したせいもあり、普段はあまり使われていない。
密談をするには最適と言える。
ただ、部屋の中には他にも何人かいた。
まず、髭《びげ》もじゃで逞《たくま》しすぎる体をした山賊《さんぞく》じみた男性。対照的に細身の体に美少年然とした容貌《ようぼう》の若者。彼ら二人はグエンとナイゼルといい、ラルファス将軍の副官なのだという。セルフィーは初めて見たわけだが、これほど正反対のコンビも珍しいだろう。
彼らはセルフィー達より少し離れたテーブルについており、もう一組、ガサラムとレニとセノアのレインの副官三人組が、別のテーブルについていた。
そして、最後の一人。
いつもの黒いマントの下に、上半身だけ薄いレザーアーマーを着込んだギュンター・ヴァロアが、たった今話を終えたところだった。
「――というわけで」
いつにも増してむっつりと機嫌悪そうな顔で、ギュンターはしれっと話を閉じた。
「おそらくレイン様は今後、サフィールの一派と敵対することになるでしょう」
沈黙。
ギュンターの物言いは、いかにも「ま、大した話でもないが」という感じだったのだが、あにはからんや、もの凄く大した話である。
遺言状《ゆいごんじょう》によってダグラス王の後継者を自負するサフィールに対抗するということは、そのまま、このサンクワールという国に反逆することを意味するのだ。
さすがに皆がそれを理解しているのか、部屋の中は一時、張りつめたように静まり返った。
その雰囲気をぶち壊すように、ユーリがいきなり手を上げた。
「はい、質問!」
ギュンターが黙ってめんどくさそうに指差す。口にはしなかったが、「話が終わったのに、調子こいて質問なんかしてんなよ」という感情がありありと顔に出ていた。もっとも、元々そういう顔なのかもしれないが。
「副官さん達はともかく、あたしたちみたいな下《した》っ端《ぱ》にそんな話したって、しょうがないと思うんですけどぉ」
「全くその通りだ」
遠慮の欠片《かけら》もないギュンターである。
「しかし、君らはレイン様に関係が深いので、私があえて呼んだまで」
「……はぁ。さいですか」
さすがのユーリも、このギュンターが相手だと勝手が違うみたい。セルフィーはこんな際でもちょっとおかしかった。
いや、おかしがっている場合ではない、と慌《あわ》てて気を引き締める。今はもしかしたら、人生の岐路《きろ》なのかもしれないのだ。まさかこんな事態になるとは思いもしなかったが、自分でも意外なことに、迷いはなかった。その代わり、胸はドキドキしている。迷いがなくても不安まで消えたわけではないのだ。
「話がそれだけなら」
山賊似《さんぞくに》の大男が、突然立ち上がった。床に投げ出してあった巨大な、それこそ熊でも一撃で殺しそうなバトルアックスを肩に担《かつ》ぐ。
騎士というより叩き上げの傭兵《ようへい》、もしくはまんま山賊《さんぞく》である。
「中庭に戻るぜ。サフィールのクソは嫌《きれ》ぇだけどよ、なんてったって俺はラルファスの大将の副官だからな。今後のことについちゃ、俺が判断するこっちゃねーや」
と、同席していた美少年ナイゼルも、すっと立ち上がった。こちらは一言も口をきかず、さっさと出口に向かって歩き出す。
セルフィーは秘かに「この人、どんな声なんでしょう」と期待していただけに、がっかりした。いや、それどころではないのはわかっているが。
グエンがナイゼルに続いて部屋を出る前に、悠然《ゆうぜん》と振り向いた。
「ギュンターよ」
「なにか」
「俺達が敵同士にならなきゃいーよな。大将のことだから、心配はねーと思うけどよ」
「別に。その時は全力を挙げて倒すだけだ」
セルフィーには横顔しか見えなかったが、ギュンターは表情をまるで変えず、口調も揺るぎない。つまり、いつも通り愛想がない。
グエンは怒るかと思いきや、なにがおかしいのか虎が吠《ほ》えるような声で爆笑した。
「おめーのそういうトコ、俺ぁ好きだぜ」
散々笑った挙げ句、陽気に手を上げて「じゃあな!」と部屋を出ていってしまう。ちなみに、ナイゼルはついに一言もしゃべらないまま、とうに出ていった後である。どちらも平民らしいが、性格の差が際《きわ》だっている。ただ一点、主君に忠実であるという所だけが共通していた。
ギュンターは閉まった扉にはなんの未練も見せず、レインの副官達の方に向き直った。
いかにも投げやりな声音《こわね》で尋ねる。
「それで、君たちはどうする」
どうにでもしてくれ、と言わんばかりの態度だった。内心はどうあれ、表面上はどこまでもむっつりと愛想がない。
レニがため息をついて宣誓でもするように片手を上げた。
「はい、将軍についていきますよ。正直、『またどえらいことを!』と思わないでもないけど、まあ、将軍を敵に回すのはごめんですしね」
「結構」
にこりともせずにギュンターが頷《うなず》く。
「では、あなたは?」
「おいおい、俺はもちろん付き合うさ」
目を向けられたガサラムは、いかにも「心外だぜ!」という顔できっぱりと言った。
「拾ってもらった恩は忘れていない。俺はあの人のそばで死ぬことに決めてんだ」
セルフィーはこの厳《いか》つい副官が見せた覚悟に感動を覚えたが、ギュンターはこれまた関心なさそうに「結構」と返したのみだった。
冷酷ともとれる深い緑色の瞳が、今度は金髪のセノアを見る。相手は露骨《ろこつ》に視線を逸《そ》らせた。
「わ、私は……私は……」
いつも怒ってばかりの印象があるセノアだが、今は明らかにうろたえていた。外見からしてモロに純血の貴族なので、そう簡単に決心がつかないのだろう。それくらいはセルフィーにも察しがついた。
「出来れば早めに決めてもらいたいですな。敵味方の区別がつかないのは困ります故《ゆえ》」
「ギュンターさんっ」
またユーリが手を上げた。
「あたし達には聞かないんですか」
「……好きにしたまえ。君らがサフィールについたところで、まず大勢《たいせい》に影響ない」
うあっ。このむっつり男は言いにくいことをっ。
ギュンターに一蹴《いっしゅう》され、ユーリはこっそりと文句をつけた。セルフィーも同じ思いだが、しかしまあ、言われてみれば確かにそうだ。
セノアはそんなやりとりも耳に入らないくらい深刻そうに沈思《ちんし》していたものの、突然、ぱっとレニの方を見た。
「レニ殿。いや、レルバイニ殿! あなたは本当にそれでいいのか。これはつまり、国を裏切るということなのだぞっ」
「え……いや、そう言われても。僕は元々、母親が下級貴族だったってだけだからね。あんまり悩まないなあ。なんだかんだ言って、将軍とは長い付き合いだしね」
頭をかいて、逃げるように立ち上がる。
「じゃあ、僕も中庭に戻るんで」
「待てっ。それだけが理由なのか、レニ殿っ。たったそれだけでサンクワールに背を向けるのかっ」
「……いや、ちゃんとした理由はあるよ」
部屋を出て行きかけたレニは、立ち止まって振り返った。
「僕さ、生まれつき気が小さくて臆病なんで、いつも知り合いみんなに言われるんだよね。『おまえは臆病者だ』って」
セノアはバツが悪そうに青い瞳を瞬《またた》いた。
自分も覚えがあるらしい。
セルフィーが見ていると、レニは「いやいや、別に嫌みじゃないよ」と安心させるように微笑んだ。そして、静かな口調で述べた。
「でも将軍だけは……あの人だけは、それを槍玉《やりだま》に挙げて僕を馬鹿にしたことないんだ。キツい言い方はよくされるけど、不思議とそのことではね」
――多分、それが理由かな。
照れたようにまた頭をかき、レニはそのまま出ていった。つられてセルフィーも立ち上がる。
「セルフィー?」
「わたしも戻ります。ユーリも一緒に行くでしょう?」
「――ま、しょうがないわね。また妹を近所のおばさんに預けるか」
ユーリも肩をすくめて立ち上がった。
無言のままギュンターとガサラムも扉を目指す。
で、四人が部屋の外に出て何歩か歩くと。
背後でババーン! と力任せに扉を開ける音がした。
「ま、待ってぇ!」
あ、いつものギスギスした声じゃない。
セルフィーはびっくりして振り向いた。
金髪のセノアは妙に追い詰められた様子で、泣きそうになっていた。
「勝手に置いて行かれては困るわっ。私もレイン将軍と行く!」
ずっと「なんか嫌な人」だと思っていた。
――しかし。
不思議なことに、今この瞬間、セルフィーはこの女性があまり嫌いではなくなった。
「結構」
ぶすっとギュンターが頷《うなず》く。
どこか遠くで、破壊音が響いた。
――☆――☆――☆――
その音は明らかになにかが砕けた音で、セルフィーはとっさに「もしかして、戦闘が始まったの!?」と思った。
まずギュンターが走り出した。
彼の反応が一番早く、しかもその走る速さときたら尋常《じんじょう》な物ではなかった。見る見る姿が小さくなっていく。
セルフィーとユーリも無言のまま必死で彼の背中を追い、さらにその後ろをガサラムとセノアが追う。レニはもう、だいぶ先に行ってしまったようで、少なくとも姿は見えない。
と、いきなり前方の廊下角から、武装した騎士らしき四人が飛び出してきた。おそらく、中庭から城内に侵入してきたのだろう。
服装の華美さから見て貴族臭がプンプン漂っている。なによりの証拠に、彼らはこちらを見るなり剣を抜いた。
だが一人がセルフィー達の頭を飛び越えてセノアを見た途端《とたん》「エスターハート家のセノア殿か!」と声を掛けた。セルフィーが思うより、この副官は名が売れていたようだ。
「よもや、平民達に与《くみ》したのではあるまいなっ」
口|髭《ひげ》を蓄えたもう一人が怒鳴る。
「誤解しないでいただきたい。身分などどうでもよい。私はレイン将軍の臣下《しんか》なのだ!」
もうすっかり吹っ切れたのか、むしろ嬉しそうに宣言するセノア。
「愚《おろ》か者っ。同じことだ! 名のある家に生まれながら情けないっ。我らが天誅《てんちゅう》を下《くだ》してくれる!」
あーもすーもない。
いきなり斬《き》りかかってきた。
「ほざくなっ。おまえら青二才に殺《や》られるほど、俺は衰えてないぞっ」
ガサラムが吠《ほ》え、自ら間合いを詰めて突進する。
抜剣《ばっけん》したと思ったらもう攻撃動作に移っている。慌《あわ》てた口|髭《ひげ》がもたもたと剣を構えようとしたが全然間に合わず、頭から斬撃《ざんげき》を浴びて倒れた。手強《てごわ》いと見て、残る三人の内、二人がガサラムに向かっていく。問題は、最後の一人だった。
そいつはまっしぐらにセルフィーにかかってきた。
「きゃっ」
日頃の修練のたまものか、セルフィーは反射的に剣を抜き、相手を迎え撃っていた。
キィィィン。
剣と剣がぶつかり、セルフィーの剣が少し欠ける。安物のせいだろう。金臭《かなくさ》い匂いが漂う。この前の襲撃事件で人を斬《き》った時の感覚が急激に蘇《よみがえ》った。
「セルフィー、加勢するわっ」
「待て、ユーリ! 一対一ではないか! 加勢するのは卑怯《ひきょう》だぞっ」
セノアが無駄な騎士道精神を発揮し、ユーリを止めた。
そ、そんなこと言わずに助けてください〜。
泣き言を言いそうになったセルフィーだが、相手の顔から目を離す隙《すき》がない。
「生意気な……女めっ」
男が、攻勢に出ないセルフィーを見て図に乗り、かさにかかって斬《き》りかかってくる。なんとか剣を合わせた。
これは――いつもの練習試合じゃないわっ。
二合、三合……たった三合でセルフィーは悟った。
この人は弱い……レインのレベルから見れば赤子以下だろうし、自分から見ても敵ではない。
――でも、わたしにもう一度人が斬《き》れるだろうか。
「腰抜けめっ」
セルフィーの迷いを勝手に怯懦《きょうだ》と見なしたか、男は剣を大上段に振りかぶろうと、一気に持ち上げた。馬鹿らしいほど胴ががら空きである。セルフィーは戦士の本能でつっと歩を進め、剣で相手を切り払おうとし――そこで凍り付いたように止まった。
先日の悪夢が記憶に蘇《よみがえ》る。
肉を切り裂く嫌な感触。そして骨を断った時の相手の悲鳴。噴《ふ》き出す血、血の赤……そして、恐怖と絶望の表情で倒れた刺客《しかく》。
あんな思いをもう一度――
「セルフィー、馬鹿っ。早く避《よ》けなさいっ」
ユーリの悲鳴にはっとした時には、もう白刃《しらは》が頭上に落ちてくる寸前だった。
『お父さんっ』
体が動かなかった。
が、いつまでたっても痛みが来ない。そっと目を上げると、相手の剣はセルフィーの頭すれすれで止まっていた。
「ぐはっ」
口の端から血を流し、びっくりした顔のまま固まっている。セルフィーは慌《あわ》てて身を退《ひ》いた。今度はちゃんと体が動いた。
見れば、男の横腹をガサラムが剣で貫き、さらに胸の辺りからもう一本剣先が突き出ている。真っ黒な刀身を強い魔力のオーラで光らせた魔剣だった。
敵の背後に、長身のむっつり顔がある。ギュンターがいつの間にか戻ってきて加勢してくれたらしい。
ガサラムとギュンターが自分の剣をずばっと引くと、名前も知らない騎士は絶命したままばったり倒れた。
セルフィーは思わずその場に膝をついた。
「はあ〜」
ユーリがその隣にへたり込んだ。
「びっくりさせないでよ。斬《き》られるかと思ったじゃない」
……わたしもそう思いました、とセルフィーは秘かに思った。
目の前にいきなり手が突き出された。
痺《しび》れた頭でセルフィーが見上げると、ギュンターが不機嫌そうに手をこちらに突き出している。なんでしょうか、とセルフィーが首を傾《かし》げると、「……掴《つか》まりたまえ」と言われた。立つのに、手を貸そうというわけだ。
失礼に当たるかもしれないが、この人がそんな気配りをしたのが意外で、セルフィーはおっかなびっくり差し出された手を握った。
……固い。ゴツゴツしている。特に指の関節部分が固く盛り上がっている。
魔剣など持っている人がただ者であるはずはないが、やっぱりこの人は相当な剣の使い手のようだ。
軽々と引き起こされ、一瞬体がギュンターに当たりそうになったその時。低い声で、セルフィーにしか聞こえないように囁《ささや》かれた。
「……それは、君自身で解決せねばならないことだ。誰も手助けできない」
思わず身体が強張《こわば》った。
おずおずとセルフィーが見上げると、ギュンターはさあらぬ風に微《かす》かに頷《うなず》いた。
見|透《す》かされている……
そう思ったけど、これまた意外にも、あまり恥ずかしいとは思わなかった。ギュンターの言い方は無愛想この上ないが、声音《こわね》はごく普通で変に同情するような調子ではなく、そのためかもしれない。思わぬ優しさを受け、涙ぐみそうになる。セルフィーは本来、泣き虫の方なのだ。
幸いそこで、ガサラムがだみ声で割り込んだ。
「おい、あんたも魔剣なんて持ってたんだなあ。刀身が真っ黒な魔剣ってちょっと珍しくないか」
「……急ごう」
ギュンターはさらりとその質問をかわし、剣を収めてまた駆け出す。
釣られたように皆が走り出し、お陰でセルフィーが素早《すばや》く涙を拭《ぬぐ》ったのは、誰にも気付かれずに済んだ。
いや、本当にそうだろうか。
セルフィーはドスドスと横を走るガサラムを見やる。ち、シカトかよ、とぼやきつつ、さして怒っている風でもない老年の戦士を。実はこの人も気を遣ってくれた? 涙を拭《ふ》く間《ま》を作ってくれたのだろうか。
目が合った。
「がんばろうぜ。な、嬢ちゃん」
厳《いか》つい顔が微笑む。
「は、はいっ」
セルフィーは必要以上に大声で返事をし、前を走るギュンターの背中に目を戻した。
そう、そうよね……わたし、がんばらなきゃ。お父さんだって最後までがんばったもの。
――☆――☆――☆――
「邪魔だぞ、おまえらっ」
「があっ」
魔剣|一閃《いっせん》。
たまたま行く手を阻《はば》んだ数人の敵兵が、また派手に吹っ飛び、壁にぶち当たって動かなくなった。
レインは先頭を切って走りながら、たまに前方に敵が現れると、片端から傾国《けいこく》の剣の遠隔攻撃で相手をぶっ飛ばしている。
殺したわけではない。
見えない斬撃《ざんげき》は、レインの思う通りの威力を発揮できる。頑丈な壁を破壊することもできるが、ただ相手を弾き飛ばすことも自由自在だ。集団を相手にするのに、これほど便利な武器もそうないだろう。
「……太古の昔、セレステアが滅びる原因となったとされる『傾国《けいこく》の剣』か。まさか、実在していたとは」
横を走るラルファスが青白い魔剣を横目で見て、首を振っていた。
「剣は使う人間次第だろ。この剣自体に罪があるわけじゃないさ……。ま、確かにちょっと妙な剣だけどな」
レインは言葉を濁した。
ただでさえ誤解されやすい剣なのに、あまりいらんことは言わない方がいいだろうと思ったのだ。
もの問いたげなラルファスから視線を外し、わざとらしく走る速度を上げる。駆け下りていた階段が終わり、出口から中庭に飛び出した。と、上手い具合にギュンターを初めとする仲間達も、別の出口からバラバラ走り出てきた所だった。
「おお、ギュンター。ちゃんと説明してくれたらしいな」
「はっ」
ギュンターがいつもの渋い表情で軽く低頭《ていとう》した。セノアを初めとする仲間達は、皆どこか吹っ切れた(あるいはヤケクソな)顔をしており、どうやらレインと一緒に来てくれそうである。
レインはなんとなくセノアを見た。
「おい、セノア!」
「は、はいっ」
「いいのか、おまえ。病気のお袋さんがいるんだろう、家に。そっちは大丈夫か」
セノアのぎょっとした顔が印象的である。
「ど、どうしてそれを」
「おまえ、イマイチ俺をなめてるな。自分の部下のことくらい、ちゃんと把握してるさ。――で、いいのか。なんなら、家に戻って親孝行したっていいんだぞ」
一瞬泣きそうに美貌《びぼう》を歪《ゆが》ませたが、セノアはすぐにきりっとした表情を取り戻し、ぴしっとした声で応じる。
「家には気の利《き》いた使用人がたくさんおります。なにかあれば、その者達が母上を連れだしてくれましょう」
「そうか」
レインはただ頷《うなず》き、了承した。まあ、自分の方からも気を配っておこうと思う。
元気づけるつもりで肩を叩くと、セノアがびくっと身体を震わせた。
集団の方を見る。
「将軍、ご無事で!」
「おお、あいつはレイン! 敵だぞっ、みんな!」
レイン達に、敵と味方の双方から次々に声がかかった。今や中庭には、びっしり軍勢が集結していて、彼らがこちらに気付いたのだ。ガルフォートは小国ながらサンクワールの王城にふさわしく、中庭はそれこそずずっと広い。そこに、片方がレイン・ラルファス連合軍、もう片方がサフィールを仰ぐ貴族連合軍というように、はっきりと二派に分かれて睨《にら》み合っていた。
双方、最高指揮官が不在で、ただなんとなく緊迫していたのだが、その緊張がレイン達の登場で解けたらしい。
「弓兵《ゆみへい》、構えっ」
気の短い敵方の誰かが、大声で指示を出した。貴族軍の隅に陣を張っていた弓兵《ゆみへい》達が一斉に発射の構えを取る。
部隊指揮官が合図を出そうとした。
もちろん、味方も黙ってはいない。むしろ、貴族が多数を占める敵方より遙《はる》かに反応|素早《すばや》く、対抗した弓兵《ゆみへい》が構えを取る。
一歩間違えれば、この場で戦闘が始まっただろう。
「やかましいっ、騒ぐな!」
バリバリバリッ!
レインが叱咤《しった》し、天に向かって拳《こぶし》を突き上げると、即座に魔法が発動して敵方の陣に無数の雷光が落ちた。
視界が真っ白に変わるほどの光量であり、落ちた場所に土塊《どかい》が跳ね上がる。密集している敵軍の中のわずかな空白地帯を、まさに狙ったように雷光が襲った。
人のいない場所に落ちたからよかったものの、今のが全部命中していたら、敵陣の大ダメージは免れなかったはずだ。
騒然としていた両軍が、すっかり静まりかえった。
それを確認し、レインはひょいとシェルファを抱き上げ、寄ってきたクリスにまたがる。
ラルファスも、説明のためか大急ぎで自分の副官達の元に戻っていった。
シェルファを自分の前に座らせてやってから、レインはおもむろに敵陣を睨《にら》む。
「おい、下《した》っ端《ぱ》が勝手に攻撃命令なんか下《くだ》してんじゃないっ。やるっていうなら相手にならないこともないが、今見た通り、俺は魔法もバンバン使える。多少の兵力差なんか問題にならんぞ。それでもやるかこらっ」
全く恫喝《どうかつ》そのものの言い草だが、向こうはしんとなって聞いていた。魔法など一生見るか見ないかという者がほとんどなので、どうも腰を抜かしそうになっているらしい。
見渡したところ、サフィール軍の指揮官クラスはほとんどが貴族かその子弟であり、平民は下級兵士ばかりらしい。その兵士にしたところで、好きで徴兵されているわけではないのだ。
命令を下《くだ》す側の貴族達が麻痺《まひ》すれば、誰も積極的に戦おうとはしない。
どうやらおとなしくなったと見るや、レインは自軍の騎士達に向かい、語り始めた。
「皆も知ってると思うが、サフィールが先王陛下の遺言状《ゆいごんじょう》を持ってこの城に戻ってきた。どうやらそれには、『サフィールに後事《こうじ》を託《たく》す』と書いてあったようだ」
ざわざわとざわめく騎士達。
レインは一顧《いっこ》だにせず、話を続ける。
「しかしだ! 俺はそんな遺言状《ゆいごんじょう》は偽物だと思う。おそらくサフィールの馬鹿が、王の筆跡を真似て偽造したんだろう。それもとんでもない話だが、もっととんでもないのは、ヤツは己が権力を握るために、姫様を自分の物にしようとしたことだ。なんとあいつは、本人である姫様の意思を無視して、無理矢理|婚儀《こんぎ》を執《と》り行おうとしてたんだ。それも、ただ自分の色と欲のために! で、それを邪魔しようとした俺をお払い箱にしようと画策《かくさく》している」
どっと怒りの声が沸いた。
主にレインの軍を中心として激しいブーイングが沸き起こる。レインはもちろん、ラルファスの指揮する軍もそのほとんどは平民出身の騎士であり、貴族のやり方にはかねがね憤《いきどお》りを感じていたのである。
ちなみに、レインやラルファスの部下に平民が圧倒的に多いのは、なにも贔屓《ひいき》とかではない。ただ能力を重視して選んだら、自然とそうなったのである。
ともかく。
抑圧されている平民出身の騎士達が、話を聞いて激怒したのは当然である。なにしろシェルファ王女当人が、眉をひそめてレインの前でコクコク頷《うなず》いている。疑う余地もないというわけだ。
レインはすっと手を上げて皆を黙らせると、さらに名調子で続ける。
「もちろん、ラルファスと俺はサフィールと袂《たもと》を分かつことにした。だが、心配することはないぞ、みんな! 孤軍になりかけている俺達を哀れみ、なんと姫様が共に来てくださる。ここにおられるシェルファ王女と共に進む限り、俺達は断じて裏切り者などではないっ。皆、安心してラルファスと俺についてきてくれっ」
言うなり、レインは前に座っていたシェルファの腰を掴《つか》んで軽々と持ち上げ、全員によく見えるよう、自分の右肩に座らせた。
シェルファは自分が人形のように軽く持ち上げられたことに驚き、大きな瞳を瞬《またた》いたが、すぐににこっと笑って片手を下ろし、レインの首筋に置いた。
騎士達から「おおーっ!」という、うらやましそうな、あるいは祝福でもしたそうな歓声が起こった。
「どうせ、サフィールのクソ馬鹿は俺が姫様を誘拐したとか後で騒ぐだろう。どちらが正しいかは、おまえ達が自分で判断しろっ。それからどちらに付くか決めればいい」
言われるまでもなく、レイン・ラルファス連合軍の全員が拳《こぶし》を振り上げ、自分の意志を表明した。王女が親しそうにレインに寄り添うのを見れば、どちらが真実かはたやすく判断できる。
いみじくも、シェルファの態度が皆の決断を促《うなが》した。
彼女は別に効果を高めるために演技したのではなく、単に構ってもらえたのが嬉しかったから、思わずレインの首筋に手を置いたのだ。そこには計算もなにもない。
しかし、その無邪気な仕草の効果は絶大だった。
地鳴りがしそうな歓声が、即製連合軍の陣を覆《おお》い尽くした。皆、拳《こぶし》を突き上げ、シェルファやレインやラルファスの名前を連呼する。
完全に一つにまとまっていた。
もしシェルファがいなければ、いかにレインやラルファスの人望をもってしても、皆|一抹《いちまつ》の不安を拭《ぬぐ》えなかったろう。しかし、王家の血を引くシェルファが一緒となれば、安心感はよほど増す。レインとラルファスが王女に忠誠を誓うなら、つまりその下の自分達も王女のために働くのと同じだ。
そして、見るからに超美少女なシェルファのために働くのを嫌がる者は、少なくともレイン達の中(ほとんど男)には皆無《かいむ》だった。
王女を我が物にしようとするサフィールに、皆|敵愾心《てきがいしん》を燃やした。もちろん、サフィール軍の方は反対に動揺していた。
レインはそこですかさず、
「よし! 俺達はこれからこの城を退去してコートクレアス城へ向かう。戦うにせよ別の方法を選択するにせよ、まずは出発だ!」
おおうっ!
威勢のよい唱和《しょうわ》が起こり、続いてレニ達副官が、自分の部隊に指示を出す。続々と軍勢が城門へと移動し始めた。サフィール来《きた》る! の報を聞くと同時に用意していたので、糧秣《りょうまつ》などの物資を運ぶ補給部隊までキチンと用意を調えている。
ただ、コートクレアス城に向かうというのは、まだラルファスの了解を取っていなかった。レインも、まさかサフィールがあれほどはっきり喧嘩《けんか》を売って来ると思わなかったので、そこまで話を進めていなかったのだ。
が、どのみちスターヒル(ラルファスの居城)ではあまりにも王都に近すぎる。
すまん、悪いが勝手に決めたぞ。
そんな思いを視線に込め、友人を見やった。
ラルファスは馬上で微笑して頷《うなず》き、「隊列を整えろ、みんな!」とすかさず号令を下《くだ》してくれた。わかってくれたようだ。
レインはほっと一息つき、シェルファを肩から下ろしてまた前に座らせ、自分は敵陣に睨《にら》みを利《き》かせた。今は虚脱状態にある敵側だが、いつ正気に返って攻撃してくるかわからないからだ。
一人残るレインの背後を、味方が整然と行軍《こうぐん》していく……その足音を聞いているだけで、士気が高まりまくっているのがよくわかった。
ふと独り言が漏れた。
「――君の行く道に誤りはない。君なら大丈夫だ」
「えっ」
シェルファが振り返って顔を覗《のぞ》き込んできた。
「どういう意味でしょうか」
「あ、悪い。聞こえたか」
これはな……
レインは視線だけは敵から逸《そ》らさず、教えてやる。
「ずっと昔、まだ俺がガキの頃、あるじいさんから言われたセリフなんだ」
「そうなんですか。それで……今、その方は?」
「――俺が殺した」
さりげない声で言えたと思う。
シェルファは怯《おび》えたりしなかった。ただ、そっと手を握ってきた。
振り向いてレインを仰ぐその瞳は、いつものように全く揺らがない。
「そうするしかなかったのでしょう、きっと?」
「……おまえは俺のことじゃ、絶対に悪い方に取らないな。ひょっとして、目の前で剣を振り上げておまえを斬《き》ろうとしても、まだ俺を疑わないんじゃないか、チビ」
「もちろんです。その時は、わたくしのためにそうするしかないのだと信じます。他ならぬレインのことですもの」
微《かす》かな苦笑がレインの顔を横切る。
まだこちらを仰いでいるシェルファの腰に、片手を回した。
「おまえの……そして、あの時のじいさんの判断が間違っていないことを祈っとくよ」
そのまま黙り込み、レインは最後尾の部隊が城門に消えるまでじっと敵陣を見据《みす》えていた。
――☆――☆――☆――
その三人組はあらゆる意味でこの上なく目立っていた。
東西南北の四方向から街路が集中している広場に、商店や屋台の出店が並んでにぎわっている。昨日襲撃事件などがあって、王都の住民達の耳目《じもく》を集めた場所でもあるが、一応の後かたづけも終わり、もうすっかり日常の光景を取り戻していた。
ただ、未だに石を敷き詰めた広場のあちこちに焼け焦げや血痕《けっこん》などが残っていて、物見《ものみ》高い王都の住人達が普段より多く詰めかけている。
が、彼らの興味は、事件の残り火よりそこに立ち尽くしている三人の男女……その中の特に二人の男女に集まっていた。
焼け焦げ後などより、こっちの方が遙《はる》かに庶民達の注目を引いている。
一人は美しい金髪を背中の中ほどまで伸ばした美女である。どことなく挑戦的な光を放つ緑の瞳に、やや濃い眉。一応コートを羽織ってはいるが、前のボタンはほとんど外しており、その下に体にぴっちりフィットした真っ赤なロングドレスが見え隠れしている。
さらに言えば、胸やら足の部分やらに大胆なスリットが入っていたりして、男達の視線を集めていた。ただし、実はコートで隠れてはいるが、腰には細身の剣を帯びている。
そしてもう一人。
こちらは冬だと言うのに、ゆったりした白い絹服一枚を着ただけだ。優しい顔立ちをした、身震いしそうなほどの美男子である。銀色の前髪が、深緑《しんりょく》の片目に少しかかっている。一見、売れっ子の役者かと思うほどの恵まれた容姿だが、ただ、腰に反り身の長剣――いや刀《かたな》を帯びているところが、普通の優男《やさおとこ》と違う。
もっとも特徴的なのはその瞳で、彼が何気なく視線をやると、見られた者はその威厳に打たれたように低頭《ていとう》するか、あるいは瞳を伏せた。
顔は優しそうな癖に、自然に備わった風格というか、静かな迫力を感じさせる男である。
その男が広場を一渡《ひとわた》り見渡し、ポツリと呟《つぶや》いた。
「この、強大な魔力の残滓《ざんし》……あの男の力を感じる。ここで戦ったな」
「あの男? それはもしかして、おまえのお気に入りのレインとやらか、ジョウ? 突然立ち止まったかと思ったら、気配を感じていたのだな」
「ええまあ」
ジョウ・ランベルクは言葉を濁した。
普通の人間に、自分と同じ能力を期待するのは誤りだし、そもそもこれは説明し難い感覚なのだ。詳しく解説するのは難しい。
「あの」
と一人だけ全く目立たないシングが、
「それよりこんな所で立っていたら目立ちませんか。なにぶん、噂では今この王都はえらいことになっているそうですし」
「目立ってなにがいけないのだ。私達はどうせこれからガルフォートに乗り込むのだぞ。目立っておれば、向こうから迎えをよこしてくれるやもしれんではないか。もういい加減歩くのは飽きたぞ、私は」
はっはっは。
と白い喉《のど》を反らせて男のように笑う美女。
ジョウはくすりと笑ってたしなめた。
「陛下、シングの言うことにも一理ありますよ。まだこの国が我らの味方になると限ったわけでもありません。用心に越したことはありますまい」
「わかったわかった。それにしても、おまえが私を陛下と呼ぶ時は、いつもなにか苦言を呈《てい》す時だな」
「……それが臣下《しんか》たる者の務《つと》めです」
「わかっている。だが、他ならぬおまえがいるのだ。なにがあろうと恐れるに足るまい、うん?」
ジョウは黙って低頭《ていとう》した。
まさか同盟のための訪問に、皇帝自ら同道《どうどう》を希望するとは思わなかったが、今となってはそれもよかったかもしれない。
フォルニーア陛下は、二十三歳という皇帝としては異例の若さで、シャンドリス一国を背負っている。外の世界を知っておくのも悪くはないはずだ。
ただ、問題があるとすればたった三人でこの地を訪問したことだろう。この国には少なくとも一人は、彼に対抗し得る人物がいるはずなのだ。
その時、ジョウは遠くからこちらに近づいてくる大勢の気配を感じた。
「――どうした、ジョウ」
ふいに目元を鋭くしたせいか、フォルニーアが尋ねる。
ジョウは軽く目を閉じ、
「多数の気配……それこそ千を超える気配がこちらに来ます。おそらくこれは、軍勢ではないかと」
「なにっ。すると、さっき宿屋で噂を聞いたサフィール某《なにがし》とやらと、シェルファ王女の戦いが始まるのかっ」
フォルニーアの嬉しそうな声にジョウは口元を綻《ほころ》ばせる。
「どうでしょう……私の耳にはもう足音すら聞こえます。そんな切迫した感じでもなさそうですが」
「……どういうことだ。なら、どうしてそんな多数の軍勢が動く?」
「お待ちを」
断りを入れ、自らの感覚を集中させた。こちらに向かってくる軍勢の気配を、可能な限り探ろうとする。
「……大半はごく普通の兵士や騎士ですね。しかし、中でも強い力の波動を感じる者が、一人……二人…………四人。ずば抜けて強い力を持つ者が……二人。うん? 一人だけ、どうも気配が読めない者がいるが?」
首を傾《かし》げかけたが、そこで一撃を食らったような衝撃を受けて、そのことはどうでもよくなった。
「見つけたぞっ」
全身に、痺《しび》れるような感動が走る。
それだけではなく――
比類なく強大で、体中がビリビリするような『力の波動』を感じた。あたかも大|瀑布《ばくふ》の水音を遠方より聞いたように、遠くにあってなお、彼の力量のほどが推測できた。
その誰かが、他の全ての者を遙《はる》かに越えた実力を持っていることは間違いないだろう。
それはまさに、「不敗の神将《しんしょう》」とまで呼ばれるジョウ・ランベルクが、生まれて初めて感じた、自分と比肩《ひけん》するに足る『力』だった。
「この感覚……そして気配。覚えているぞ! ふ……ふふふ。そうか、あの時の少年は、もはやここまでの力を身につけるほどに成長したか。ふふふ……」
らしくもなく笑い出したジョウを見て、フォルニーアとシングは互いに顔を見合わせた。
それから、シングは心配そうに、フォルニーアは反対に興奮したようにジョウに目をやる。
「ジョウ! とうとうレインとやらに逢《あ》えるのだな。おまえから話を聞いて以来、私はこの時を待ちこがれたぞ! で、どうだ?」
「どうだ……と言われますと」
「だから! 幾らなんでもおまえと同等とはいかないだろうが、強いのだろうな、レインとやらはっ」
閉じていた瞳を開き、ジョウはうっすらと微笑んだ。
「どうでしょうか。十年前のあの時なら、確実に私が勝っていたでしょう。……彼はそうは思っていなかったにせよ。しかし、正直なところ、今は微妙かもしれません」
ジョウはそう言うと、まん丸に瞳を見開いた驚き顔のフォルニーアに付け加えた。
「天才の一日は凡人の百日にも当たりましょう。彼の資質は会ったその時に歴然としていましたし、どうやらこの十年を遊んで過ごしていたわけではないようですしね」
そう言ってにこりと笑う。
そう、十年前のあの日、レインと目が合った時、確かにジョウはその力に戦慄《せんりつ》した。しかしそれは、その当時の彼の力量にではない。
『この少年、今でさえこれだけの力を感じるのなら、将来はどれほど恐るべき戦士に成長するだろうか』
という、いわば少年だったレインの、戦士としての資質に戦慄《せんりつ》したのだ。
そして、ジョウが感じた予感は、決して的外れではなかったわけである。
それは、どんどん増大していくこのプレッシャーが証明している。間もなく、あの狼のような瞳で自分を見ていた少年は、ここにやってくる。成長し、あの時より遙《はる》かに強くなって。
「私は、自分の運命に出会った気さえします」
「おまえに匹敵し得る戦士が世に存在するとは、とても信じられぬ……。しかし、おまえがそこまで認める相手なら、なおさらのこと。私もぜひ会わねばなるまいな」
「そう、ぜひお会いになるべきでしょう。ところで、脇に避けましょう。さ、フォル様、それにシングも。軍勢が本当にすぐそこまで来ています」
ジョウは自ら先に立ち、広場の隅に避けた。フォルニーアとシングもそれに倣《なら》った。
待つほどもなく、きちんと統制の取れた騎士や歩兵の集団が道の彼方《かなた》からやってきた。馬蹄《ばてい》と軍靴の音に、広場にいた市民が買い物や散歩の足を止めて伸び上がるようにして道の先を見ていた。
彼らは、たてがみをなびかせた獅子《しし》を描いた旗印《はたじるし》を掲げており、くすみのない見事な金髪をした偉丈夫《いじょうぶ》を先頭に、広場へと入ってくる。
「おお、見ろ、ラルファス様だ……」
「なぜ、なんの布告もなしに。なにかあったんじゃないかしら、サフィール様と」
「どちらにせよ、向こうが悪いに決まってるわ!」
周りの民《たみ》が畏敬混《いけいま》じりの声でヒソヒソと囁《ささや》いていた。
「……ラルファスというのは、この国の筆頭貴族だったはずだが。意外にも人望が厚いな」
フォルニーアが感心したように言った。
シャンドリスにも貴族はちゃんといるが、ここサンクワールほどにはその身分は特別視されていない。
皇帝と一部の大臣職だけは世襲《せしゅう》が原則だが、それ以外の役職は全て実力のみで決定される。
「貴族という理由だけで、その者を国の要職に据《す》えてはならない。彼らほど国を危うくさせる存在はないのだから」
――というのが、シャンドリス建国の祖、ホルスアイゼン王の遺言《ゆいごん》である。
よって、その子孫であるフォルニーア・ルシーダ・シャンドリスも、あまり貴族にいい印象を持っていないのだった。第一、シャンドリスでは貴族はとっくに形骸《けいがい》化している。
そういうこともあって、周りの市民が全て深々と頭を下げている中、この三名は堂々たる態度で立ち尽くしていた。
フォルニーアなどは片手をくびれた腰にあて、値踏みするように間近に来たラルファスをジロジロと見ていた。
これが他の貴族だったなら一悶着《ひともんちゃく》あったろうが、そんなことで気を悪くするラルファスではない。ただ、何気なく見た一行にジョウを見つけた途端《とたん》、ぎゅっと口元を引き締めた。なにか声をかけるかどうするか迷っている素振《そぶ》りを見せたが、結局はそのまま通り過ぎて行く。
彼を守るように従っていた巨漢《きょかん》の騎士と、反対に細身のすらっとした騎士が、さりげなく主《あるじ》の側《そば》に馬を寄せていた。
「身分を明かして話をしてもよかったが……まずはレインとやらを先にしよう」
くふふ……と含み笑いをするフォルニーア。
真っ赤な唇から白い歯がこぼれ、妖艶《ようえん》さが際《きわ》だつ。瞳が期待と興奮でひときわ輝いていた。
そのまま軍勢をやり過ごすと、今度は違う旗印《はたじるし》を立てた部隊が来た。
真っ黒な背景に、翼を広げた白いフェニックスらしき幻鳥《げんちょう》が生き生きと描かれてる。今にも羽ばたいて飛んでいきそうに見えるほど上手な縫い取り絵で、そのクチバシに、青白いオーラを放つ魔剣をくわえていた。
フォルニーアはもちろん知らないが――これは「めんどくさいから、んなもん黒一色でいい」という本人の要望で、ずっとそのままだったレインの旧|旗印《はたじるし》が、最近になって変更されたものだった。
シェルファが下絵を提供し、それが元になっている。
「もしかしなくても、この部隊がそうですかっ」
シングが舌で唇を湿らせつつ訊《き》いた。
緊張しているらしい。
「そのようだ」
ジョウは端的に答えた。
そう……あいつは近い。
間もなく再会できるだろう。
――☆――☆――☆――
「どうかしたのですか」
クリスに二人で同乗中、シェルファがくるっとレインを振り返り、あどけない瞳で仰いできた。
「いや……。ていうか、なぜ俺がどうかしたと思うんだ?」
最後尾にいるので聞こえないとは思うが、一応声をひそめて訊《き》いてみる。
「自分でもよくわかりませんけれど、でも、なにかレインが緊張している気がします。わたくしを抱いてくださる手の力が、少し強まりましたし。いえ、それは嬉しいことなのですけれど」
鋭いな、と感心した。
大したもんだなおまえ、と言ってやってから、彼女の体に回した腕の力を弱め、お腹をポンポン叩いてやった。
「でも、当たったのは半分だ。別に緊張してるわけじゃない。ただ、多少は骨のありそうなヤツが、俺に探りを入れているのさ。たった今、それを感じた。……この『力の波動』、覚えがあるな」
「お知り合い……ですか?」
「多分。心配ないさ、これは喧嘩《けんか》を売りたがってるようなエクシード……いや、『気』じゃない」
安心させてやったつもりだが、シェルファはなにも言わずにじぃ〜っと見返しただけだった。少し心配そうな様子である。
レインは笑って、
「大丈夫だって。万が一やりあっても、どうってことはないさ」
「そう、そうですね。レインは世界一強い人ですから」
素直な言い方に、少し苦笑する。
でもレインは言葉にしては「そうだ、その通り」と答えるに留《とど》めた。
そう、俺を倒せるヤツはこの世にはいない。――絶対にいない。
前方に、広場が見えてきた。
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エピローグ 怪盗ブラック仮面
レインとジョウがまさに再会せんとしているその時。
サフィールは、王女をモノに出来ず、しかも自慢の巻き毛をレインに切られたという二重のショックからやっと立ち直り、ガルフォート城の最下層に来ていた。
とにかくこのムカムカする心の内を、ある物を見て慰めようと思ったのである。
固く閉ざされた目の前のドアは、部屋というより完全に倉庫のそれである。木製ながら鉄の補強が入り、しかもでかくて分厚い。
今朝まではラルファスの部下が警護していたが、今は彼らもその主《あるじ》と共に引き上げ、扉の前には誰もいない。
サフィールは引き連れた部下達に顎《あご》をしゃくり、「鍵の部分を壊せ」とあっさり命じた。
大振りの斧《おの》を手に手に持った数人が早速進み出て、力任せに錠前に叩き付け始める。さしもの頑丈な鍵も、たちまち無惨《むざん》にブッ壊れてしまった。
「くくく……よし、開けろ。ちゃんとこの目で見ておきた――」
セリフの語尾が消えた。
大きく開かれた扉の向こうを、サフィールが見てしまったためだ。
そこは、余裕で数十人が入れそうな広い倉庫で、周りを石の壁で囲ってある。
ただし、そこにあったはずの物がない。
全くの空っぽ、つまりすっからかんである。ぎっしりと積み上げられているはずの、サンクワール王家が溜め込んできた宝物がひと欠片《かけら》もない。
代わりにおかしな魔法陣が倉庫の四隅に書いてあるだけ……いや、まだあった。部屋の真ん中に紙切れが落ちている。
石化したサフィールに代わり、気の利《き》いた誰かがそれを拾い上げた。
「み、見せろっ」
ばばっと横から奪い取るサフィール。
あわあわして見たその紙には、こう書かれてあった。
『謎の怪盗「ブラック仮面」より、欲ボケの某《ぼう》貴族にもの申す。
お宝は確かに頂きました。
なお、私の正体は一切謎なので、正式な名乗りを上げられないことをお許しあれ。
でわっ!』
「な、な、な……」
紙切れを持ったままガタガタ震え始めるサフィール。顔面|蒼白《そうはく》で、唇を噛《か》み過ぎて口元から血が滲《にじ》んでいる。
やがて絶叫した。
「な、なにがブラック仮面だああああっ。あいつめえええっ、許さんぞおおっっ。殺す、絶対殺すーーーーーーっっ!」
その後、城内をくまなく調べた所、ついでに兵器庫も空になっているのが発見された。
そこでは、武器の代わりになぜか兵士達の汗くさい古着がぎっちり詰まっていたが、どのような意図があったのか全く謎である。おそらく、単なるレインの嫌がらせであろう。
後で古着の一件を聞いたサフィールが泡を吹いて倒れたので、ガルフォートは一日中てんやわんやだった。
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[#挿絵(img/02_295.jpg)入る]
番外編 贈る言葉
つい先日までは緑豊かだった山々も、今は雪化粧で山肌を彩っている。
ただし、それもこの中腹までは及ばない。
山道の脇にポツンと立つこの家の辺りは、しばしば雪は降るものの、どっさり積もることは少なかった。
丸太小屋に等しい我が家の、狭いポーチに椅子を置き、老人が一人、夕陽であかね色に染まっていく山をじいっと眺めている。
ホーク・ウォルトン。
骨の上に直接筋肉がついたような、鍛え抜かれた痩身《そうしん》。昔は真っ黒だった黒髪は、今では白髪《しらが》の方が多くなっているだろう。もはや、老齢である。それも、かなりの。
ただし、表情は穏やかではあるものの、あいにく、巷《ちまた》に溢《あふ》れる好々爺《こうこうや》のようには絶対に見えない。
例えば、たまに買い物のために街へ出ると、彼のことを知らぬ住人達が、この老人のためにそっと道を譲ったりする。ホークが来るのを見て、無意識のうちに自ら避けるのだ。
それはなにも、このホークが厳《いか》つい顔をしているからではない。前述通り、表情はむしろ穏やかで優しい。ただ、ゆったりと歩く彼に、皆なにか見えない圧力を感じ、自然とそうせざるを得ないのだ。
目を合わせる者さえまれだった。
なぜなら彼の黒瞳《くろめ》には(あるレベル以上の戦士は皆そうだが)一種の『力』とも言うべきものが備わっており、幾ら表情が穏やかでも、直視するのがためらわれるのである。
それは多分、この老人の瞳に戦士としての戦いの歴史が、そのまま現れているからかもしれない。
ホークとは、そういう老人である。
石像のようにずっと動かずに座り続けていたホークは、しばらくして僅《わず》かに肩を揺らした。
ゆっくりと首を巡らし、山道の方へ視線を移す。
ちょうど、一人の少年が登ってくる所だった。
黒いズボンに黒いシャツ。一応薄い上着を纏《まと》っているものの、それもまた黒一色である。髪までも黒いため、まさに全身黒ずくめだ。
まだ少年なのは、遠くからでも見てとれた。
年齢は、せいぜい十五歳前後だろう。……ただ、普通の少年とは違い、表情には浮ついた所など微塵《みじん》も見当たらなかった。
ホークが見守るうちに、彼はずんずんこちらに近づき、しまいには山道をそれてこの山小屋の方へやってきた。
彼から目を離さず、ホークはすっと椅子を立つ。近付く少年を黙って迎えた。
彼は、普段きちんと食事を摂《と》っているのか疑わしくなるほどに痩《や》せており、この年頃の少年が持つはずの、健康的な肌の色にはほど遠い。
注意して見ないと、食い詰めた物乞いの少年と間違いそうである。
しかし、そう見えるのはあくまで彼の瞳に注意を払わなかった時のことだけだ。
少年の全身の中で、その真っ黒な黒瞳《くろめ》のみが、強い存在感を放っていた。
凪《な》いだ海のように静かで穏やかなくせに、じっと見つめていると思わず魅せられそうになる。厳しさと優しさを兼ね備えたような、不思議な瞳だった。
そしてその瞳の底に透《す》けて見える、紛《まぎ》れもない哀《かな》しみ――
なにが原因かは知らないが、その哀《かな》しみこそが、この少年の顔をひどく大人びて見せていた。
少年は、ホークよりかなり手前で立ち止まった。こちらの視線をがっちり捉えたままである。
「やあ」
ホークは口火を切り、そっと囁《ささや》いた。
微《かす》かに微笑み、小さく頷《うなず》く。
「例外もあるが、この山小屋にお客さんが立ち寄るのは珍しい。……多分、初対面だと思うが?」
黒衣《こくい》の少年は……意外なことに小さく頭を下げた。挨拶《あいさつ》の代わりらしい。
「そう、初対面だ。俺の名はレイン。――あんたは、ホーク・ウォルトンで間違いないか?」
「……今は、フルネームで呼ばれることは滅多にないのだけどね」
ホークはうっすらと笑った。
「ただのホークでいい。レイン君、だったかな。君も普通にホークと呼んでくれれば嬉しい」
今のホークのセリフなど聞かなかったかのように、少年はなおも言葉を重ねる。
「元、レイファンの大将軍だった、『風の剣聖《けんせい》』ホーク・ウォルトン? 騎士を引退した後も、彼《か》の国で剣技の師として長く仕えていたと聞いたが。合っているか?」
「間違いないとも。ただし、その恥ずかしい呼び名は自称じゃないよ」
ホークはしっかりと断りを入れた。
「それに、レイファンの大将軍だったのもそう呼ばれたのも、もう二代前のヨハン陛下の時のことだ。……遙《はる》か昔だよ」
ホークはドアの前に立てかけた剣には見向きもせず、微笑みも消さなかった。
自分でも理由は判然としないが、どうしてもこの少年を敵と見ることが出来なかったのである。先程からの様子を見れば、少年の目的は明らかなのにだ。
少年の哀《かな》しみに陰る瞳のせいかもしれないし、あるいは同じ戦士として、本能的に相手を認めてしまったせいかもしれない。
そう、彼は確かに戦士だった。
「ホーク、あんたが自分をどう評価しているかは、どうでもいいことだ。俺が知りたいのは――」
「知りたいのは……なんだね?」
ホークの柔らかい反問に、レインは黒瞳《くろめ》をぎらりと光らせた。
「今現在、世界最強の戦士は果たして誰か? そのシンプルな質問に、世の半数はこう答える。『ホークこそが最強だ』と。……なるほど、調べてみるとあんたの戦歴はそう呼ばれるに相応《ふさわ》しい。例えば、たった一人で数千人の敵兵を追い払ったこともあったとか」
「あれは……」
ホークは苦笑した。
「嘘でもないが、真実というのも苦しいね。たまたま私が、橋を背にして戦ったお陰だよ。それに、敵は数千じゃない。せいぜい千だ」
「知っているさ。例えそうにしても大した物だと思う。普通なら、すぐに殺されて終わりだ。数の力は馬鹿に出来ないからな」
「……向こうが私を過剰《かじょう》に警戒してくれたんだよ」
「真実はすぐにわかる」
レインがゆっくりと剣を抜いた。
夜の闇がしんしんと迫る庭に、突如として青き輝きが満ちた。
ブゥゥゥゥンという無数の羽虫が立てるような音が、この後の戦いを予感させる。
そう、彼の持つ剣は魔剣だったのだ。
それも、この強い魔法のオーラを見れば、魔力をチャージしたルーンマスターが超一流であるとわかる。
魔法使いが激減した今の世なら、余裕で街が丸ごと買えるほどの値が付くだろう。
レインが、駄目押しの挑戦をする。
「引退して時を経《へ》たにも関わらず、今なお最強を噂される、その実力を見せてほしい」
「……ヴィルゴの一味でもないようだが。試合の申し込みなら、もう私は」
レインは途中で遮《さえぎ》った。
「なんのことかわからない。迷惑は重々承知だが、これは試合の申し込みじゃないんだ」
驚いたことにレインは、非礼をわびるつもりか、またしても小さく頭を下げた。無茶を言っている自覚はあるらしい。
「俺は、自分の勝利を確信したらそこで剣を止める。だが、あんたは俺を殺すつもりで反撃してくれればいい。遠慮はいらない。王都から派遣された警備隊も、正当防衛だと認めてくれるだろう……」
ホークは既に説得をあきらめている。
痩《や》せこけたこの少年から、ふいに大いなるプレッシャーを感じたせいだ。
たちまちにして増大していく闘気、そして強烈な力の波動……
自分以外の相手に、これほどに強い『力』を感じるのは、過去の戦いの歴史でもまず無かったことである。
ホークは自分でも無意識のうちに歩き、入り口に立てかけてあった愛剣を手にした。そのまま数歩を歩き、大地に立つ。
そうせずにはいられなかったのだ。
彼の資質はその足の運びを見た瞬間に気付いていたが、ホークの判断はまだまだ甘かったらしい。
身が震えるような思いさえする。
言うまでもなく怯懦《きょうだ》ではなく、久々の強敵を前に感じた、ある種の高揚感《こうようかん》だった。
「……やる気になってくれて嬉しい」
では、行くぞ!
声を放ち、少年は魔剣を手に駆けてきた。
恐るべきスピードである。
瞬間移動かと思うほどの速さで距離を埋め、ホークの間合いに突入、そのまま地を這《は》うような位置から魔剣を振り上げようとした。
――しかし。
ホークはレインが自分の間合いに入ったその刹那《せつな》、既に抜剣《ばっけん》している。鞘《さや》から抜き放った魔剣は白色に輝く光の半円を描いた。
「――! なにっ」
レインの黒瞳《くろめ》が見開かれる。その瞬間、剣を持つ彼の手が僅《わず》かに反応する。ホークはそのまま剣を振りきった。
ギィィィィンッ
魔剣同士が激突する、激しい音。
レインの痩《や》せた体は衝撃を吸収しきれず、そのまま弾き飛ばされてしまう。
それでも、空中で巧妙に体をひねって半回転し、無事にすたっと着地して見せたのは見事である。
膝立ちのまま構えを解かず、驚愕《きょうがく》の目でこちらを見ていた。
ホークは、斜め上に綺麗に剣を振りきった状態から、ゆっくりと魔剣を下げた。
直立状態に戻り、落ち着いて諭《さと》す。
「――我が剣は風。怪我《けが》をしないうちにやめた方がいいよ」
口ではそう言ったものの。
実の所、ホークは内心で舌を巻いていた。
自分が剣を鞘走《さやばし》らせた時、レインはその速さに完全に虚を突かれていた。よって、ホークの心づもりでは彼の体に触れる寸前で剣を止め、相手に敗北を認めさせるつもりだったのだ。
しかし、そうはならなかった。
あれだけ意表を突かれたくせに、レインはちゃんと自らの剣の軌跡《きせき》を変えた。ホークの居合い抜きに合わせ、斬撃《ざんげき》を防御してのけたのだ。しかも、剣同士が激突する寸前に自ら後方に飛び、被害を最小限に押さえている。
派手にふっとばされたように見えたのは、それが原因だ。
もし、今の動き全てが彼の反射的な行動によるものだと言うなら――
まさしく百万に一人の才能と言えるだろう。
おそらく、物心ついた時にはもう剣の修行に入っていたに相違ないが……それにしてもこの少年の年齢からすると信じがたい。
そのレインは、着地した位置でまじまじとホークを眺めていたが、やがて少しずつ表情が綻《ほころ》び始めた。しまいには、肩を揺らして笑い出す。
「……レイン君?」
呼びかけると、やっと笑いやんだ。
「初めてだ……故郷を出て、初めて俺と互角に戦えるヤツに巡り会えた。ホーク、あんたは噂以上の男だった!」
言葉を切ると同時に、猛然《もうぜん》と大地を蹴る。
痩身《そうしん》がぶれて残像が連なり、背後の闇に溶け込んでいく。驚くべき速さである。
「よほどに厳しい修行を積んだと見える。しかしっ」
その斬撃《ざんげき》は、まさに風のごとし――
かつて、幾多の敵にそう賞賛されたのは伊達《だて》ではない。
ホークは、レインが己の間合いに入ったその『瞬間』を正確に捉え、横殴りの斬撃《ざんげき》を送り込む。
剣先のスピードは、肉眼で追える速さではなく、こちらはこちらで、白光を放つ魔剣が光の軌跡《きせき》を闇に残す。
当然、先程と同じく、突っ込んできたレインが弾き飛ばされるはずだった。
だが、目の前のこれは――幻像なのか!?
「むうっ、避けたのか!」
気付いた時には遅く、レインの像はふっと揺らぎ、跡形もなく消える。ホークはその場から飛び退《すさ》り、まるで降って湧いたように右手から叩きつけられた斬撃《ざんげき》を逃れた。
きわどい所で、魔剣の軌跡《きせき》が走る。
双方、相手を捉えられぬまま、再び間合いを取った。
ホークの呼吸が微《かす》かに乱れ始めたのを見抜いたかのように、レインはあえて追撃をかけて来なかった。
「俺は、同じ手は二度食わない。例えそれが、どんなに凄い一撃でも」
「どうやら、見抜いたらしいね」
レインはあっさり頷《うなず》いた。
「あんたの一番の武器は、そのずば抜けた速さの斬撃《ざんげき》だと思われているかもしれないし、実際、俺もそう聞いた。だが、実はそれだけじゃない。自分の間合いを完全に把握することにより、初めてその斬撃《ざんげき》が活《い》かされるんだ。違うか?」
「その通りだ」
隠す気もないので、首肯《しゅこう》した。
こうまであっさり見破られたのは、初めてである。
そう、ホークのなによりの強みは、自らの間合いを正確に(それこそ、ミリ以下の精度で)把握し、その間合い内に入った敵を確実に撃破することなのだ。
いわば、一撃必殺の剣である。
仮に蝿《はえ》一匹であろうと、自らの間合い内に入ったその瞬間、ホークは抜く手も見せずにまっぷたつに出来る。
その速さを『風』に例えられた斬撃《ざんげき》、さらには自分の周りに見えない結界《けっかい》を持つかのような、完璧なる間合いの把握。
この二つをもって、これまでホークは無敵を誇ってきたのである。
「しかし……たった一合、剣を合わせただけで、そこまで読み切るとはね。末恐ろしい少年だ」
「――褒《ほ》め言葉と受け取っておこう!」
ぱっとレインの足下《あしもと》から土塊《どかい》が飛ぶ。
そして、痩身《そうしん》が風を切る音がはっきり聞こえる。風の剣聖《けんせい》とまで呼ばれたホークにして、ようやく彼の剣撃《けんげき》を受けることが出来た。
バチバチバチッ
チャージされた魔法同士が反発する音とともに、二合、三合と打ち合う。それからまた間合いを取り、互いに並行して走る、走る。
そのまま二人とも、横手のジュラの木が林立する森に飛び込む。
ホークは叫んだ。
「私の剣技の特徴がわかった所で、君の斬撃《ざんげき》の速さが我が剣に劣ることに変わりはないぞ!」
走りながらのホークの挑発に、レインは唇を不敵に吊り上げた。
「決めつけるのは早い、ホーク。まだ俺は全力を出しきったわけじゃないっ」
言葉と共に大きく踏み込み、魔剣が青き閃光《せんこう》となって叩き付けられる。
綺麗な弧を描いたその剣撃《けんげき》は、ギリギリで避けたホークの代わりに、背後の樹を鮮やかに横割りにした。
倒れた木をさらに避けて跳ぶホークの目に、レインの体がふわっと揺らぐのが見えた。
「来るか!」
目の焦点調整が追いつかず、レインの長身が一瞬で巨大化を遂げる。さらに、彼の背後にざあっと残像が連なっていく。
次の瞬間、剣技の常識を真っ向から無視した、大上段から繰り出される強烈な一撃が頭上に来た。ホークは辛くも迎え撃ち、弾き返す。途端《とたん》にレインの手首が返され、今度はホークの脇腹を斬撃《ざんげき》が襲う。
それも、その速度をほとんど減じることなく。なんという、変幻自在の剣技だろうか。
もし彼がホークより非力でなかったなら、受けきれずにまっぷたつにされていたかもしれない。
静かに夜を迎えようとする森の中に、二人の影が何度も接近し、そして弾かれたように離れる。五合、十合、十五合……魔剣同士が斬《き》り結ぶ都度、スパーク音とともに火花が散って夕闇の森を照らす。
(彼の斬撃《ざんげき》の速度が上がっていくっ。まだ全力を出していないというのは、本当だったのか!)
「動きが鈍っているぞ、ホーク!」
ホークの攻撃を弾いたレインの身体が、その一瞬の隙《すき》を付いて旋回《せんかい》する。反射的に身を引いた顎《あご》の先を、ぶんっと蹴り足がかすめた。レインは回転運動を自然に斬撃《ざんげき》へと繋《つな》げ、走り込んできたホークとがっちり斬《き》り結ぶ。
魔剣ごしに、ホークは言った。
「全身を武器として使うとはね! 大したものだ」
「俺は騎士じゃない。ご大層な騎士の剣術礼儀など知ったことじゃないな!」
「いや、今のは責めたわけではなく賞賛だよ」
言い切った後、ふっと斬《き》り結ぶ力を弱め、突如として身を引く。ギリギリと剣を合わせていたレインは、さすがに意表を突かれ、僅《わず》かによろめいた。
相手の体勢が崩れたのを逃さず、ホークは自分の剣を放棄して滑るように動く。レインの懐《ふところ》に飛び込んで体位を入れ替え、襟《えり》元を掴《つか》んで背負うような形から高々と投げたのだ。
投げた瞬間、落ちていた自分の魔剣を爪先で跳ね上げて再確保、そしてすかさず疾走《しっそう》。空中で一回転して見事に着地せんとする、レインの元へ走り込んだ。
いかに身軽とはいえ、鳥ならぬ人間の身では落下地点は選べないはず。そして着地するその一瞬のみ、どうしても動きが限定され、完璧な防御は望めない。
「ここまでだ!」
完璧なタイミングだった。
全身を一本の槍《やり》と化したかのような、強烈な突きをレインへ繰り出す。無論、串刺しにする気はない。彼ほどの実力者なら、寸止めだけで敗北を悟るに十分だろう。
――しかし。
その刹那《せつな》、レインの右手がまたしても反応する。すすっと手が動き、魔剣を身体の前に立てるように持ち替えた。
ギィィィンッ
歪《ひず》んだ音とともに、盛大に火花が散る。
ホークの突きが、輝く魔剣の剣腹《けんぷく》でガードされたのだ。
その衝撃でレインは再び宙を舞い、しかし今度こそは華麗に着地してのけた。
そしてホークはといえば、突きの姿勢で固まったまま、愕然《がくぜん》と自分の頬《ほお》に手をやる。跳ね飛ばされるその瞬間、レインが蹴りを放っていたのだ。幸いにもかすっただけで済んだが、それでも痣《あざ》くらいは出来たろう。
問題なのは……その攻撃に対し、ホークは為《な》す術《すべ》もなかったという点だ。蹴りが逸《そ》れてくれたのは、単なる幸運に過ぎない。
彼の方は、ホークの突きを見事、防御してのけたというのに――
ホークは突き出したままの剣をやっと下げ、木立《こだち》の向こうのレインを見た。
少年は未だ無傷で立っており、ホークが我に返るのを待っていた。
「勝負はこれからだ。さあ、行くぞっ」
「――いや」
ホークは大地に片膝をつき、剣を自分の前に横向きに置いた。そして、軽く低頭《ていとう》する。
これは、古来よりレイファンの正騎士に伝わる作法で、今はもう失われた礼だ。
自分が真に尊敬し、その実力を認めた相手に対してのみに行う。ホークがこの作法を行ったのは、少年時代の自分の剣技の師以来、レインで二人目だった。
そのままの姿勢で声をかける。
「私の負けだよ……レイン君」
「馬鹿な!」
意外にも、レインは激しい口調で否定し、大股で近付いてきた。
「今まで攻めていたのはあんたの方だろう、ホーク! まだ勝負はついていない。むしろ、これからじゃないか!」
「――いや」
荒い息の下、ホークは首を振る。
「君は自分で言ったじゃないか。『まだ全力を出しているわけじゃない』と。それは私に怪我《けが》をさせないために、ギリギリの段階で手加減する余地を残している、という意味だろう? だが私には、もはやそんな余裕さえ無くなりつつある。……ここまでだよ」
レインの怒りがたちまちしぼんでいくのを見やり、言い足す。
「それに、私の有様《ありさま》を見たまえ。息切れで、こうして話すのさえやっとなんだ。体力を消耗しすぎたよ」
うっという顔になり、レインはすっかり沈黙してしまった。
おそらく戦いに集中するあまり、ホークが老人なのを忘れていたに違いない。
「ただし、自分の老齢を敗北の言い訳にする気はない。元々私の剣技は、一撃必殺の剣。君の斬撃《ざんげき》の速さが、私と互角以上だとわかったその瞬間、もはや勝負は決まっていたんだ」
レインはすっかり落ち着きを取り戻し、黒瞳《くろめ》を伏せた。戦いに勝ったことに満足するどころか、どちらかというと気落ちしたような様子である。独り言のように呟《つぶや》く。
「残念だ……。あんたが若い頃に会いたかったな、ホーク」
ぱちん、と魔剣を鞘《さや》に収める。
「今日の非礼についてはすまなく思う」
「待ちたまえ!」
低頭《ていとう》の後、未練なく背を向けるレインに、ホークは慌《あわ》てて声をかけた。
「もう夜だぞ、今から下山する気かい?」
「……ああ。なにか問題が?」
「夜盗《やとう》やらオークやらが出るんだよ、ここらは。まあそちらは」
いぶかしげに眉を上げたレインに、ホークは破顔《はがん》した。
「君ならなんの問題もないとしても。私としては、少し君に興味が湧いてね。せめて、一晩は泊まっていってくれないか」
気乗り薄そうなレインに、老人の老獪《ろうかい》さでもってすかさず付け足す。
「ま、君の言う『非礼』に対するわびだと思って、私のわがままに付き合ってもらいたいものだ」
これで、さすがにレインも折れた。
ため息を漏らし、「わかった」と頷《うなず》く。
ホークは微笑み、自分の小屋に手を振った。
「我が家はご覧の通りのボロ家だが。しかし、今日はいい野菜が手に入ったんだ。大したものも出せないが、夕食を共にしたい」
――☆――☆――☆――
最初に山道を登ってくるのを見た時、ろくすっぽ食べてないように見えたものだが、事実、少年はひどく飢えていたらしい。
ホークが新たに作り足したスープと、それから余分のパンを、素晴らしいスピードで平らげてしまった。
ここ数日、なにも食べてないのでは、と思うような食欲である。
汁一滴残さず食べてしまった後、目を細めて眺めるホークと目が合い、レインはやっと少年らしい表情を見せた。
つまり、バツが悪そうに黒瞳《くろめ》を伏せた。
「……お代わりはどうかね? どうせ私は小食だから」
「いや……俺は」
「まあまあ。そう言わず、食べたまえ。老人の言うことは聞くものだ」
皿を取り上げ、無理矢理お代わりを出す。ついでにパンもまだ残りがあったので、出してやった。
「食べられる時に食べておくといい。どうやら君は修行のことで頭が一杯で、食べる方は後回しらしいから」
レインは少し迷う様子を見せたが、結局はホークの勧めに従った。心を許し始めたのではなく、単純に空腹が勝っていたためだろう。
成長期の少年にとって、長らく食事を抜くというのは、想像以上の苦痛に違いないのだ。そこまでして、どうして剣術修行にこだわるのか? レインが食事を終えるのを待ち、ホークは率直に訊《き》いてみた。
返事は意外なものだった。
「別に、剣術修行だけにこだわっているわけじゃない。強くなりたい――ただそれだけだ。剣でも体術でも、そして魔法でもだ。……もっとも、魔法は教えてくれるヤツがなかなかいないんだが」
ゆっくりと立ち、粗末な暖炉に薪《まき》を足しながら、ホークはさらに訊《き》く。
「なぜ……強くなりたいのだね」
返答は無い。席に戻って我慢強く待っていると、ようやくぶすっと答えてくれた。
「あんたには関係なかろう」
「なんとなく、そう言うと思ったよ」
ホークは椅子の背に身体を預け、ほのかに笑った。
「しかし、その調子で腕を上げていくのはいいが、そのうち君の手にすら負えない相手にぶつかるかもしれない。物心ついた時から厳しい修行を積んでいたのはわかるが、いくらなんでも」
「違う」
レインは不機嫌な顔のまま、ホークを遮《さえぎ》った。
「違う? なにがだね?」
「あんたは勘違いしている。俺が修行を始めたのは……去年の冬からだ。それまでは、剣技なんかに興味なかった」
そのセリフは、ホークに痺《しび》れるような衝撃をもたらした。
机の上の両手を泳ぐように動かし、掠《かす》れた声でようよう確認する。
「つまりその……修行を始めて、まだ一年足らずだと?」
レインの告白は、ホークにとっては信じがたい話だったのだ。しかし当のレインは、平然と首を傾《かし》げた。
「……一年も経《た》ってないな、実際は。なにしろ半年以上かけて、親父に基礎体力をつける訓練ばかりやらされたから。剣を握らせてもらえたのは、その後のことだ。地味なトレーニングのお陰で瞬発力と持久力がついたから、まあ文句はないんだが」
父のやり方に疑問を感じているのか、やや不満そうな口ぶりである。
しかし、ホークが確認したいのはそのことではない。
「では、剣を手にしてまだ数ヶ月に過ぎないのかね?」
「……そういうことになる」
あっさりと頷《うなず》くレイン。
言葉を失うとは、このことだろう。
レインは顔をしかめて身じろぎした。
「そんなに驚くほどのことか? 確かに修行の期間は短いが、その間は寝る間も惜しんで修練を積んだんだが」
ホークは何度も首を振り、少年の主張を一蹴《いっしゅう》した。
「なるほど……私は敗れるべくして敗れたわけだ。人生の終着間近に来て、これまで出会った内で最も才能にあふれ、かつ最強の戦士に出会うとはね」
言葉を切り、じっくりとレインを見る。
少年は実に居心地悪そうにしていた。ただむっつりと、空になった皿に目を落としている。
もしかしたら……ふとホークは思う。この少年は、かつて大陸史上に名を残した、幾多の英雄と同等の資質を持っているかもしれない。すなわち、剣の腕と己の才覚だけを頼りに、自らの王国を興す才のある者――という意味だ。
例えて言えば、レイファン建国の祖である英雄も、そんな一人である。
しかし、逆の可能性もある。
卓越した資質が、常に正しい方向へ向くとは限らない。負の方向へ向く場合もある。
彼は未来においてどこかの国を、あるいはこの大陸その物を、混乱の渦《うず》に巻き込む中心人物となるかもしれない。そう、かつての魔人《まじん》達のように。
事実、剣技における少年の天才性は、既に嫌というほど体感したばかりなのだ。
これでもし、彼がこの上、知謀《ちぼう》にも恵まれていたら……そして、人並み以上に野心を持つ男だったら――
「どうかしたのか?」
ふと気付くと、レインがいつの間にか顔を上げていた。黒瞳《くろめ》がほんの少し、気遣わしげに陰っている。
「具合でも悪くなったのか。……怪我《けが》はさせていないつもりだが」
「……いや、もちろんだとも。なんでもないよ、ただ驚いていただけだ」
ホークは我に返り、落ち着いた表情を取り戻した。
考えすぎだ。宝石にも等しい才能を前にして、少々警戒しすぎているのだろう。
話を変えるつもりで、壁に立てかけてある凝《こ》った柄《つか》の長剣を指差す。
「ところで、その魔剣の銘《めい》はなんというのかな。良かったら教えてくれないか」
「銘《めい》は無い」
にべもなくレインは答えた。
「しかし、ある意味では有名なんだろうな。なにしろ、封印されていた剣だから」
今度こそ、冷たい物が背筋を走った。
まさかそんなはずはあるまいと思いつつ、ホークは冗談めかして尋ねてみた。
「デラド山の森の奥にある、古代|遺跡《いせき》から持ち出した剣だ――などと言わないだろうね」
「知っていたのなら話は早い。そう、あれがその剣だ」
ホークは、そっと魔剣の方を見やった。あの、世にも数奇な運命の果てに封印された、傾国《けいこく》の剣を。
「……ガーディアンは? あそこには、古代の魔法使い達が創造したガーディアンが、無数にいたはずだが」
「無数じゃない。数は数十体だったぞ」
涼しい顔でレインは否定する。
「その代わりその数十体が、幾ら倒しても次々と復活してきた……。なるほど、あれは魔法で動いていたのか。道理《どうり》で不死身だったはずだ」
「他人ごとのように言うね……」
ホークは眉を寄せ、ため息をつく。
どうやって突破したのか尋ねたかったが、しかしこの少年なら出来るかもしれない。というか、実際成功して例の魔剣を持ち出しているのだ、彼は。
「よもや、傾国《けいこく》の剣の実物を目にする日が来るとは」
ホークはためらいを振り切るように立ち上がり、魔剣を指差した。
「……見せてもらっても?」
「構わないが……気をつけた方がいいぞ」
謎かけのようなセリフを吐くレイン。
いぶかしい思いと共に魔剣を手にし、古びた鞘《さや》からゆっくりと抜いてみた。
傷一つない剣腹《けんぷく》が、ランプの光にぬめるような銀光を照り返す。
「――? おかしいな、魔剣のはずなのに、魔法のオーラが消えている。むうっ」
思わず顔をしかめた。
抜いた時は、単なる普通の剣に過ぎなかったのである。
しかしホークが疑問を提示した途端《とたん》、まるでそれに答えるかのように、剣全体を魔法のオーラがすうっと覆《おお》っていった。
今は、ブゥゥゥゥゥンという魔剣特有の音も、はっきりと生じている。ついでに言えば、なにか柄《つか》を持つ手がピリピリするような――
「どういうことかな? 抜いたその瞬間だけは、ごく普通の剣だったぞ」
「だけど、今はちゃんと魔剣として機能しているだろう? あんたには、その剣の能力を引き出すだけの実力があるってことだ。ま、当然だが」
少年はホークの顔を見て、「これは遺跡《いせき》で知り得たことに過ぎないが」と断りを入れ、説明する。
「どうやらその剣を魔剣として扱うには、使い手にもそれなりの実力が必要らしい。資格無き者が手にすると、魔法剣として機能しないようだ」
それからしばし迷い、さらに続けた。
「おかしなことはまだある。その魔剣は、剣の主《あるじ》から力を吸い取ってもいるようだ。遠隔攻撃が可能なのも、そのお陰かもな」
真面目《まじめ》くさった顔で、不気味なことを言う。
傾国《けいこく》の剣の遠隔攻撃、すなわち『見えない斬撃《ざんげき》』については、伝承《でんしょう》で知ってはいたが……返事に困るとはこのことだろう。
とそこで、しっかりと掴《つか》んでいた魔剣が、文字通り煙のように消失した。
不審の声を上げようとしたホークだが――
剣は消えた時と同じく、唐突に現れた。
……椅子にかけたレインの前に瞬間的に転移し、支えもないのに浮かんでいる。
少年は、何事もなかったかのようにその柄《つか》を握り、ホークに手を差し出した。
「――鞘《さや》を。やはり俺を指名しているらしい、この剣は」
「指名?」
言われた通り鞘《さや》を手渡して尋ねると、レインはあっさりと答えた。
「俺も今の今まで嘘だと思っていたんだが。どうやらこいつは、自ら主《あるじ》を選ぶらしい。俺はこいつに見込まれたってわけだ。あんたはこの剣の『能力』を引き出すことは出来たものの、主《あるじ》にはなれなかった――そういうことだと思う」
少年の顔は、あくまで平静そのものである。
歴史上、最も有名な「呪われた魔剣」を手中にしていながら、なんの不安も感じていないのだ。
しんと静まりかえった少年の瞳を見返すうち、ホークの胸騒ぎはいよいよ高まった。
不可能と知りつつ、本気で知りたいと思う。
彼は将来、どちらの側に立っているのだろう。
人々の喝采《かっさい》を浴びる英雄か、それとも――
やがてランプの火を落とす時刻となり、ホークは寝室に引き上げ、老人特有の浅い眠りについた。夕刻の激しい動きのせいで疲れが溜まっており、たちまち眠りに引き込まれてしまう。
ところが深夜になり、ふと目が覚めた。
小屋の外からボソボソと声が聞こえたのだ。
(――? さては、連中が来たかな)
そう思い、そっとベッドを下りる。手早く服装を整えて帯剣《たいけん》し、部屋を出て戸口へ向かった。予想は外れた。
注意深く扉を開けた所、ポーチの隅に腰を下ろす、レインが見えたのだ。
ほっとして、大きく戸を開く。
レインが腰に手をやり、素早《すばや》く振り向いた。
「……あんたか」
「この小屋には私しか住んでいないさ」
柔らかい声で思い出させてやった。
少年は剣から手を放し、不器用に謝った。
「起こしてしまったようだな……悪かった」
「いいさ。老人の眠りは浅いからね」
ぶらっと近寄り、レインの隣に腰を下ろす。
「なにか、声が聞こえた気がしたが?」
「ああ、ちょっと試していた。もしかして、返事をするかもしれないと思って」
レインの言いように、ホークは眉をひそめる。
ゆっくりと周囲に目をやるが、見渡す限り、黒々とした枝を張る、ジュラの森しか見えない。
もう少し山道を登れば村へ出るが、そこの住人も、今頃は寝静まっていることだろう。
「……誰もいないように見えるよ」
結論としてそう告げたが、レインは返っていぶかしそうにした。
「本当に? あんたほどの男でも感じないか。見えなくても気配はすると思うんだが」
「いや、特になにも――」
言いかけた途端《とたん》、ぞくりと背筋に来た。
この感じは……殺気ではないが、恐ろしいまでに強大な『力』を放つ気配である。戦いの時、この少年が放ったプレッシャーとよく似てはいるのだが……
「ほう、やはりあんたなら感じるようだな。俺には姿も見える。あの辺りに――」
とレインはあらぬ方向を指差し、
「髪の長い女が立っている。いや、女の子と言うべきか、年格好《としかっこう》からして。とにかく、なぜか最近になって、そいつが俺のそばに出没するようになったんだ」
指で示された場所をひとしきり眺めたが、あいにく闇が広がっているだけだった。
「……私には気配しか感じないな。しかも、急速にその気配が消えていくようだが」
「それは多分、その子がわざと気配を隠したんだろうな。理由は知らんが」
ホークはもう一度、ひとしきり夜の闇へ視線を投げてから、レインへ顔を向けた。
我ながら心配そうな声音《こわね》になった。
「まさか、ゴーストかレイスじゃないだろうね。君に害を為《な》そうとしているのでは?」
「そういうのとは違う」
きっぱりとレインは首を振る。
「この感じはそういう実体のないモンスターの類《たぐい》じゃない。どこかに実体のある、人間……あるいは人間に似た者だろう。特に悪意は感じられないしな。どちらかというと、その反対の意思を感じる」
反対? 反対というと好意だろうか。
しかし、レインはそれ以上は語らず、自ら話を打ち切ってしまった。
「まあいいさ。別に近くにいられて困るわけじゃない。そのうち飽きて、どこかに消えるだろう」
からりとした言い方に、ホークは微苦笑を漏らす。
「……なんだ?」
「いや、悪気があって笑ったわけじゃないんだ。ただ、君は普通の人間なら怖じ気づきそうなことに直面しても、まるで平気そうだな、と思ってね」
「そう……かもな。確かに俺は、この世に恐い物なんか何も無い。そのお陰で、こういうことがあっても平気なんだろうな」
「恐怖を感じないのかね。例え、確実な死を目前にしても恐くないと?」
レインは静かに頷《うなず》く。
それどころかホークの勘では、彼はむしろ『死』を歓迎しているような気さえするのである。
一体この少年は、過去にどんな地獄を見たのだろうか……
考えに沈むホークの横で、レインが立ち上がった。
「もう休もう、ホーク。あまり起きていると、今度は眠れなくなるぞ」
「ああ、そうだね……」
立ち上がりかけた時、咳の発作が出てしまい、ずきっと胸が痛んだ。
そのせいで、ふらっとよろめいてしまう。
すかさずレインの手が伸び、ホークを支えてくれた。
「すまない。はは……年を取るとどうもね。足下《あしもと》が頼りなくなっていけない」
少年の表情が、にわかに曇った。
当然ながら、そんな適当な返事でごまかされはしなかったようだ。
「……あんたらしくもないな。どこか具合でも悪いのか? 戦っていた時は、普通だったと思うんだが」
「……どうやら胸を病《や》んでいるようなんだ」
仕方なく、ホークは告白する。
「平気な時はなんともないんだが――。ああ、そんな顔しなくていい。大丈夫だよ、今回の発作はひどくなかったしね。ちょっと咳き込んだだけだ」
今度はホークがごまかす番だった。
そのまま少年の背中を押すようにして、小屋の中へ戻る。
我ながら意固地なことだが……自分の病状を知っているだけに、レインに無益な心配をかけたくなかったのである。
――☆――☆――☆――
窓から朝日が差し込む小屋の中に、元気な少女の声が響き渡った。
「おじいちゃーん!」
華やかな呼びかけに、ホークはぱっちりと目を覚ました。
もちろん、誰かはすぐにわかる。
栗色の髪と愛らしい瞳を持つ、十歳の女の子が脳裏《のうり》に浮かぶ。
こんな朝早くから、また遊びに来たらしい。
「いま行くよ、ハンナ!」
返事だけはしておき、急いで服を着替える。
部屋を出ると、戸口でハンナが目を丸くしてぽつんと立っていた。
当然、その視線の先にはレインがいる。
まさか見知らぬ少年がいるとは思わなかったので、かなりびっくりしたようだ。
現に、ドアを開けた形で固まったまま、息を詰めたような顔でレインを見上げている。緊張のあまり、今にも泣き出しそうだった。
ホークは急いでハンナの脇に腰をかがめ、レインを紹介した。
「ほらほら、ハンナ。このお兄ちゃんは、連中とは関係ないよ。私が頼んで、泊まってもらったんだ。お客さんだから、安心おし」
立ち上がり、今度はレインに向き直る。
困ったような、途方にくれたような顔をしたレインの立ち姿に、思わず噴《ふ》き出した。
「……なんだ?」
「いやいや。なんでもないとも」
そう言いつつ、笑いは押さえられない。
天才剣士にも、年相応のはにかみはあると見える。
「レイン君。この子はハンナというんだ。近所にある、木こりや猟師ばかりが住んでいる村の住人でね。毎日のように遊びに来てくれるんだ」
「……あんたの?」
これは、あんたの孫娘か? の意味だろう。
勝手にそう解釈して、ホークは首を振った。
「いやいや、違うよ。単なるご近所さんさ。大切な友人ではあるがね」
ハンナの栗色の頭に手を乗せる。安心させるためだが、彼女はまだ緊張を解いていない。レインが自分の友達になってくれるような相手かどうか、まだ判断がつかないせいだ。
それを見極めるつもりか、子供らしく無遠慮に、じいっとレインを見つめている。
で、当のレインはホークの返事に頷《うなず》き、次にまたハンナに目を戻した。
しばしのためらいの後、卓越した反射神経を持つ彼にしては信じがたいようなぎこちない動きで、床に片膝をつく。
長身なので、そうしないと目線が合わないのだろう。初対面の子供に対して、わざわざそんなことをする者は少ないのだが、レインは少数派に属するらしい。
おずおずとレインは微笑んだ。
たまに見せる不敵な笑みではなく、見る者の心をぽっと温かくさせるような微笑である。
この少年がこういう笑い方も出来ると知り、ホークは意外に思った。
レインはそんなホークには構わず、ハンナにすっと片手を差し出し、笑顔を消さないまま「よろしく……」と挨拶《あいさつ》する。
その時、ずっと固まった状態だったハンナは「……あ」という吐息《といき》にも似た声を漏らした。
頬《ほお》がうっすらと赤くなり、魅せられたようにレインの笑顔を見返す。ゆっくりと近寄ると、彼の手を両手で握った。
「こ、こんにちは……」
「よろしくね」
ホークは微苦笑を浮かべ、首を振る。
「やれやれ……君はどうやら、年齢を問わず、女性を惹《ひ》き付けるタイプと見えるな……」
途端《とたん》、レインは不機嫌な表情を取り戻し、立ち上がってしまった。
今にも文句を言いそうな彼に、片手を上げる。
「時にレイン君。今日は君がいてくれることだし、私は久々に、麓《ふもと》の街へ買い物に行こうと思うんだ」
「いや、俺は」
おそらく、『もう出て行く所だ』とかなんとか言いかけていたであろうレインは、ハンナの『ねえ、景色のきれいな場所に案内してあげましょうか?』という遠慮がちな、しかし期待に満ち満ちた声に、うっという顔になった。
ホークは笑いを堪《こら》えるのに苦労した。
「では、頼むよ。二人で留守番しててくれ。……ハンナもいいね」
「……うん」
レインより先に、恥ずかしそうにハンナが答える。レインもやむなく頷《うなず》く。
「わかった……。まあ、別にアテのある旅でもないしな」
「よろしく頼む。とはいえ、出かけるのは朝食を摂《と》ってからだけどね」
ホークはそう言いつつ、笑いを消して謎かけのように付け加える。
「……君がいれば、安心だ」
「どういう意味だ?」
レインの声を背中に、ホークは朝食の準備のために奥の部屋へ向かった。
――☆――☆――☆――
本当に久しぶりに麓《ふもと》の街へ下りたので、色々と立ち寄る所があり、帰りはぐっと遅くなってしまった。
小屋が見える場所まで来ると、ポーチに椅子を二組出してレインとハンナが腰掛け、熱心に語りあっているのが見えた。
というか、熱心に話しているのは実はハンナの方で、レインは単に穏やかに相槌《あいづち》を打つ、というスタンスのようである。
ハンナは明るい性格の少女なのだが、住んでいる村がごくごく小さな世界だけに、村人以外の他人相手だと非常に人見知りしてしまう。……少なくとも、これまではそうだった。
これも、この愛想のない少年の持つ、不可思議な魅力のせいかもしれない。そう言えば、決して社交的な方ではないホークにしてからが、レインにもう少し泊まっていってもらいたい――などと考え始めているのだ。
「どうかしたか?」
レインがホークを見上げた。
「いや、なんでもないよ。それより、留守中に変わったことはなかったかね」
「なにも無かった」
レインが首を振るのと同時に、ハンナがいきなり瞳を輝かせて報告した。
「ねえ、おじいちゃん! 明日、レインを森の奥の滝へ案内することになったのよ」
「ほほう。それは良かった」
ハンナにうんうんと頷《うなず》きつつ、レインをちらっと見る。
「いや……あんたに迷惑かけるつもりはなかった。なんなら、野宿してもいいんだが」
レインは申し訳なさそうに呟《つぶや》いた。
「なにを言うんだね。気にせず、好きなだけ泊まっていってくれたまえ。私からも頼もうと思っていた所だよ」
「まさかそうもいかないだろう。……明後日には出ていく――」
レインが言いかけた途端《とたん》、ハンナの瞳にあっという間に涙がにじんだ。
「レイン、ずっとおじいちゃんの所にいるんじゃないの? どこかへいっちゃうの?」
ハンナの泣き顔に、少年は目に見えてうろたえた。
その戸惑《とまど》いようはごく普通の少年のそれであり、とても不世出《ふせいしゅつ》の剣士には見えない。
ホークは、ようやく彼の真の姿を垣間《かいま》見た気がした。
しかし、僅《わず》かに見せた少年らしい表情はあっさり消え、黒瞳《くろめ》が見る見る鋭さを増す。手元の魔剣を引き寄せ、立ち上がった。
「……どうしたね?」
「あんたにお客さんだ、ホーク。なるほど、『連中』というのはヤツらのことか」
「――むう。しかし、私には」
言いかけ、ホークも感じた。
沸き立つような殺気を放つ集団が、山道を登って来る。
それにしても……レインと比べ、気配に気付くまでにタイムラグがあったのは、そのまま自分とこの少年の間の、実力の差を示しているかもしれない。
そう思い、ややほろ苦いため息をつく。
「やれやれ……」
ホークは荷物をポーチに投げ出すと、腰の剣に手をやって立ち上がる。釣られたようにレインも席を立った。
「どういう事情だ?」
「麓《ふもと》の街に、小悪党が群れだしてね。本筋のギルドに相手にされないような、小さい組織なんだが。反面、ギルドのように組織としての規律が保たれていないだけに、やることが意地汚いのさ。……こんな山奥の村にまで、保護費の名目で金を取ろうとやって来る」
「なるほど、それで読めた。そいつらは前にも来ていて、その時はあんたが追い払ったんだな?」
後を引き取ったレインに、ホークは両手を広げて見せた。
「私は世捨て人みたいなものだから、余計な口は挟みたくなかったんだが。しかし、上の村人達には色々と世話になっているしね。それに、ここらの住人はつましい生活を送っているから、余分なお金なんか一タランといえども持ってないんだよ。断るしかないんだ」
「ふむ……わかりやすい話だな」
レインは淡々と答え、これまたあっさりと提案した。
「宿賃代わりに、俺がそいつらを叩き出してやろうか?」
「そう。君なら、ならず者の十人や二十人、余裕だろうな」
ホークは短く刈り込んだ頭を撫《な》で、ふっと笑った。
「だが、出来るなら穏やかに話を収めたい。手伝ってくれるのは歓迎だが、なるべく大|怪我《けが》はさせないでやってくれ」
「なぜだ!?」
意外なほど激しい口調で、レインはホークを睨《にら》んだ。
「そんなクズを相手に、なにを遠慮することがある? 俺なら――」
「レイン君」
このクールな少年が見せた激しい怒りに戸惑《とまど》いながらも、ホークは目と言葉の両方で、強く制止した。
「……なぜそこまで腹を立てるのかは知らないが、今は押さえなさい。ハンナが怖がってるよ」
レインはたちまち怒りをさまし、首を振って元の冷静な表情を取り戻した。
腰をかがめ、びっくりして瞳をぱっちり見開いているハンナの頬《ほお》に手を当てる。
「……驚かしてごめんね。ハンナを怖がらせる気はなかったんだ」
ほっとしたようにハンナが笑う。
同時にホークは、山道を上って来る一団を見つけた。
「どうやら来たようだ」
そう、まさにホークの予想通りだった。
前に来たのと同じメンバーは一人もいなかったが、どうせヴィルゴの一味だろう。
十人以上でゾロゾロやってくる彼らは、どの顔も強面《こわもて》で、日常的に人を脅している者特有の波動を放っている。
ハンナが大急ぎでレインの足にしがみついたくらいだ。
レインは少女の髪を撫《な》で、優しく言い聞かせた。
「大丈夫だよ。すぐに終わるから」
「……本当に? 二人とも、怪我《けが》したりしない?」
「あんなのを相手に、二人とも怪我《けが》なんかしないよ」
少年は、ホークと顔を見合わせて苦笑した。
そう、レインはもちろん、自分も彼らごときを相手に遅れはとらない。
ホークはレインと目線を交わし、ハンナをかばうようにしてポーチを出た。
ちょうど、山道を逸《そ》れて肩をそびやかせながら彼らがやってくる所だった。
ホーク達を見つけると、それぞれ間隔を空けてさっと散る。前回の相手よりは心得がありそうだが……今回は弓を手にしている者が随分と多い。
全部で十五人、いた。
「話なら、この前に済んだと思うがね?」
押し黙って睨《にら》み付ける相手に、ホークは自ら水を向けてやった。
一番凶暴そうな男が、べっと足下《あしもと》に唾《つば》を吐いた。
こいつが一応のリーダーらしく、頬《ほお》を歪《ゆが》めて言い返す。
「寝言を吐《ぬ》かすな、じじい。いいか、反抗した相手を見過ごせば、後で俺達を舐《な》めるヤツが必ず現れる。そんなことを許していたら、商売になるわけないだろうがっ」
君達のやってることの、どこが商売だというのか?
ホークとしてはそう反論したい所である。
どう説得すべきかと思い悩んでいると、横からレインが口を挟んだ。
「なあ、ホーク。こいつら、あんたのことを知らないのか? それとも知っていてなお、わざわざ倒されに来ているわけか?」
「……さあ? おそらく知らないのだろうねえ。それに私も、経歴を書いた看板を背負っているわけでもないからね」
さらりと答え、レインを見やる。
この少年はとうに緊張を解いており、例えて言えば『豪勢な獲物を期待したのに、いざ狩ってみたらそれが単なるネズミだった』というような、実にがっかりした、そして憤懣《ふんまん》やるかたない顔をしていた。
「そうか……。なにも知らないし、あんたを見てもなにも感じないわけだ。一年前の俺も、こんな連中と大差なかったんだな。考えただけでもぞっとする。ぎゃんぎゃん吠《ほ》えるだけの犬にはなりたくないものだ……」
しみじみと言う。
その口元にはうっすらと冷たい笑みが刻まれ、見下《みくだ》したように男達を睥睨《へいげい》している。
『吠《ほ》えるだけの犬というのはおまえ達のことだぞ?』
そう言いたいのが、誰の目にも明らかなのだ。
当然、男達は激怒した。
「おい、ガキ」
最初にホークに話しかけた、がっしりした男が低い声で言った。
よく見ると顎《あご》の辺りに傷があり、無意識でかそこに手を当てている。
「子供だから見逃してやろうと思ってんのに、よくもまあ台無しにしてくれたぜ」
口元を歪《ゆが》め、仲間の一人を振り返った。
「おい、ベッツ! 早速仕事だ。じじい用だったが、構うこたぁない。このガキは犬が好みだそうだ、注文に応じてやりな」
それからレインを見て、にんまりとほくそ笑んだ。
「後悔するぞ、ガキ。せいぜいぶるってチビらないようにしな……。もっとも、そんな余裕があればな」
「あいにくだが、そういう感情は忘れた。おまえの醜悪《しゅうあく》な面《つら》をみても、笑えるだけで少しも恐くないしな」
レインは憎たらしくも平然と言い返し、相手を歯ぎしりさせた。
そのまま、ベッツとやらを腕組みして眺めている。どうやらこの少年は、彼らがなにを始めるのか興味が湧いたらしい。
なんとなく見物人に甘んじていたホークは、ここでようやく、多少の危機感を覚えた。
細い目とこけた頬《ほお》を持つベッツと呼ばれた男は、両手を印《いん》を結ぶがごとく複雑に舞わせている。
最初は魔法使いかと思ったが……呪文《じゅもん》が違う。
これはまさか――
「……召喚士《しょうかんし》! まさか、田舎町のテトにそんな者がいたとはっ」
説得はもはや遅きに失している。
とっさにそう判断し、ホークは剣を抜こうとした。
だがそこで、レインが手で制した。
「俺は召喚士《しょうかんし》というのを初めて見るんだ。何を呼ぶのか、興味がある」
「君は大胆だな……」
言葉とは裏腹に、ホークは剣の柄《つか》から手を離す。
何が召喚《しょうかん》されようと二人がかりなら心配あるまいし、少年の戦いぶりに興味もあったのだ。
夕映えの中を低く哀《かな》しげに響き渡る呪文《じゅもん》と、作法通りの腕の振りにより、ベッツの眼下には白光を放つ円形の魔法陣が生じた。仲間達が、さぁ〜っと陰気な召喚士《しょうかんし》から距離を取る。
待つほどもなくベッツの呪文《じゅもん》は完成し、いきなり魔法陣から獰猛《どうもう》な吠《ほ》え声が聞こえた。
レイン以外の誰もが、ぴくっとその声に反応する。次の瞬間、真っ黒な何かが魔法陣からすうぅっと浮かび上がってきた。
尖《とが》った二本の耳が先に現れ、次に全身が紫のオーラで覆《おお》われた巨体が少しずつ上がってくる。大きさは、優に森林狼《しんりんおおかみ》の三倍はあろう。
完全に魔法陣の中に姿を現すと、そいつはずらりと並んだ牙を見せつけ、グルルゥ……と低く唸《うな》り声を上げた。
ドラゴンを思わせる真っ赤な目が、ホークを、そしてレインを睨《にら》め付ける。
ホークはとっさに、腰の剣に手を伸ばした。
「――! 冥界《めいかい》の犬、ヘルハウンドかっ」
「なんだそれは? 本当に冥界《めいかい》から召喚《しょうかん》されたわけか」
まるで変わらない声のトーン。
敵の男達ですら恐怖心を隠しおおせていないのに、この少年は顔色も変えなかった。
「いや、まさかね。そういうことも不可能ではないが、あの召喚士《しょうかんし》にそこまでの実力はないだろう。そうじゃなく、モンスターの一種なんだ。実際に冥界《めいかい》にも棲《す》んでいるかどうかは不明だが、昔からそういうことになっているのさ。現実には、一部の高山地帯に生息している種だ」
――よく旅人が襲われて、骨も残さず丸ごと食われる。
最後にそう付け加えたものの、彼は肩を落としてため息をついただけだった。
「……なんだ、ホントに冥界《めいかい》から召喚《しょうかん》されたんじゃないのか。ちょっと期待したんだが」
それから足下《あしもと》のハンナの手をそっと外し、ホークに押しやった。
「ハンナを頼む」
「うむ。気をつけたまえ」
「レインっ。あ、あんなおっきいの、無理よっ」
少年の身を案じて早くも涙ぐんでいるハンナに、レインはただ、優しい笑顔を向けた。たちまち、魅せられたようにハンナの震えが止まる。
どうも彼には不思議な魅力があり、それはホークにまで伝染していた。いつの間にか、『彼に任せておけばよかろう』という気になっているのがその証拠だ。
と、いきなりヘルハウンドが咆哮《ほうこう》した。
こちらの肺腑《はいふ》を抉《えぐ》るような獰猛《どうもう》な吠《ほ》え声であり、全員、思わず後退《あとずさ》ってしまう。
傲慢《ごうまん》なまでに平然と突っ立っているのは、レインのみである。
ヘルハウンドの吠《ほ》え声には、生気を奪い本能的な恐怖を喚起《かんき》させる効果があるとされるのだが、この少年には効かないらしい。
全身に緑色のオーラをなびかせた魔犬は、どうやら戦闘前の品定めが済んだのか、今は明確にレインの方を向き、鋭い牙を剥《む》き出していた。
ホークと比べ、レインの方がより『強敵』であると判断したのだ。人間と違って『力の波動』に敏感なモンスターのこと。その見立ては常に正しい。
ホークは天を仰ぐ……まあ、当然か。
レインはと言えば、むしろ穏やかに見えるほどの表情で、数メートル先のヘルハウンドを静かに見つめている。
そのまま、低く落ち着いた声で話しかけた。
「いつでもいいぞ。かかってこいよ? おまえは強いのか、黒犬? この俺を止められるほどの力があるのか?」
言いかけたまま、ゆっくりと一歩を踏み出す。
まだ魔剣は抜いていない。
「あるいは、この俺を殺せるほど強いのか? ならば、試してみるがいい。そして、みごと俺を倒してみせろ!」
最後は鋭い叱声《しっせい》だった。いや……まさか、願望か?
同時にレインの痩《や》せこけた身体から、激しくも強大な力の波動が噴《ふ》き出す。ホークにはその無形のオーラが、文字通りレインの全身を覆《おお》っているのが見えた。
ホークのように、はっきりと見たり感じたりは出来ないものの、無法者の男達も何かを感じたらしい。
仲間同士、血の気が引いた顔を見合わせている。
「さあ、どうした! 来ないのなら、こちらから行くぞっ」
レインの駄目押しのような宣告。
そしてまた、僅《わず》かに歩を進める。
魔犬、ヘルハウンドの変化は劇的でさえあった。
人間でさえ強大なプレッシャーに震えているのに、『力』に敏感なモンスターが、この大いなる波動を無視出来るはずがないのだ。名高い魔犬は今や、吠《ほ》えるどころか唸《うな》り声さえ上げていなかった。姿勢を低くしてピンと立っていた耳を伏せ、剛毛で覆《おお》われたしっぽを股の間に挟み込んでいる。
さっきまでガンをつけていた真っ赤な目は、もはやレインを避けていた。
戦う前から怯《おび》えきっており、既にして降参の構えである。
「どうした、おいっ。さっさとかからないか! 八つ裂きにしてやれ!」
陰気な召喚士《しょうかんし》は、魔犬の態度にいらだちを見せ、コマンドワードを唱《とな》えつつ、ねじれた杖《つえ》を振りたくった。
しかし、魔犬は動かない。むしろ後退《あとずさ》りしていた。呪文《じゅもん》の拘束力より、レインへの恐怖が勝り始めているのかもしれない。
表情にほのかな失望を浮かべ、さらに一歩進むレイン。
凶暴な魔犬はついに、はっきりと『負け犬』に成り下がってしまった。
つまり、巨体を翻《ひるがえ》して逃げ出したのである。召喚士《しょうかんし》が思わず身を引くのに目もくれず、恐慌《きょうこう》にかられたような疾走《しっそう》で魔法陣の中に飛び込んでしまう。
そのまま、すうっと姿が消えた。元いた場所へ去ったのだ。
少年の放つプレッシャーを感じ、到底自分に勝機がないと悟ったのだろう。だが歴戦のホークはともかく、無法者達にそんなことはわからない。彼らは唖然《あぜん》として魔犬の逃走を見送っていたが、魔法陣ごとヘルハウンドが消えると、一斉に腹を立て始めた。
「なんだなんだっ。もっとマシなのを呼び出せねーのかよ!」
「てめー、高い金で雇われていながら、なんてザマだ!」
周り中から口々に責められた召喚士《しょうかんし》は、わけがわからない、という顔で首を振っていた。
「そ、そんなはずは……。ヘルハウンドは人間の肉が好物の、血の気の多いモンスターなんだ。あんな風に逃げるなんて信じられない。呪文《じゅもん》の拘束力だってあったはずだし」
「なら、どうして無様《ぶざま》に逃げ出す!?」
顎《あご》傷のリーダーに胸ぐらを掴《つか》まれ、召喚士《しょうかんし》はか細い悲鳴を上げた。
「お、俺にだってわからんよ、ザンジ。もしかしたらあのガキが、思ったより強いってことかもしれない。ヘルハウンドが戦いを避けるくらいに――」
ザンジと呼ばれた男は納得しなかった。
「笑わせんな! おめーには、後でじっくりと話がある……払った前金も返してもらうからなっ」
せこいことを言うヤツである。
ホークが愉快な気分で彼らを眺めていると、ようやく生気を取り戻したハンナが、服のすそを引っ張ってきた。
「ねえ、おじいちゃん。あのおっきな犬、どうして逃げちゃったの?」
「簡単なことだよ、ハンナ。とてもレインに勝てそうにないんで、自分の安全を優先したんだ。命にかかわることなので、あの程度の呪文《じゅもん》では拘束力も効かなかった――そういうことだね」
「ふーん……。レインって、すごく強いんだぁ……」
まさか少女の賞賛の視線に嫉妬《しっと》したわけでもなかろうが、ザンジはすぐに文句をつけてきた。
「おい、じじい! したり顔でいい加減なことを吐《ぬ》かすんじゃねえっ。んなハッタリに、はいそうですかと、俺達が逃げ出すとでも思ってんのか!」
「別にそんなことは考えてないさ」
穏やかに反論してやる。
「だが、君らもヘルハウンドを見習うべきだとは思う。まあ、無駄な忠告だろうがね」
「ったりめーだ、阿呆《あほう》!」
汚い乱杭歯《らんぐいば》を剥《む》き出して即座に言い返し、ザンジはさっと片手を上げた。
「弓を構えろっ。いいか、先にあのガキを狙え。後でヤツの死体に、唾《つば》を吐いてやるっ」
号令に応じ、弓を手にしていた六名ほどが矢をつがえて引き絞り、数メートル先の少年に狙いを定めた。
いつでも放てる状態を維持し、ザンジの次の命令を待つ。
しかし、レインは特に身構えることもなく、底意地の悪い笑みを見せただけである。
「最初に見た時、妙に弓持参の奴が多いと思ったが――。もしかしてそれはアレか? 前は剣での戦いでホークに叩きのめされたから、今度は飛び道具でなんとかしようと思ったわけか。弓ならなんとかなるだろうと? ふん、浅知恵の見本みたいな能なし共だな。頭が悪すぎて泣けてくる……」
遠慮無しに突っ込まれ、ザンジ達は全員、眉間《みけん》に深々と縦皺《たてじわ》を作った。
ザンジは唾《つば》を飛ばして喚《わめ》いた。
「そのクソガキを殺せーー!」
「レインっ」
ハンナの悲痛な悲鳴に、矢が風を切るヒュンッという音が重なる。その時、レインの手がすっと霞《かす》んだ。
「どうだ、思い――」
言いかけたまま、ザンジは固まってしまった。口をポカンと開けた、そのままで。
その視線の先に、レインが相変わらず無傷で突っ立っている。
ただし、両手の指の隙間《すきま》にそれぞれ矢を挟み込んで。
一斉に飛来した矢を、あっさりと手で止めてしまったわけだ。
戦利品の矢をそこらに投げ捨て、少年は別に誇るでもなく言った。
「……矢のスピードは、俺やホークの目にはのろすぎる。射るだけ無駄だ」
「いや、私は君ほど綺麗には止められないよ」
にこやかに口を挟んだのは、もちろんホークである。レインは彼とハンナに顔を向け、ちらっと笑みを見せた。
――そして次の瞬間、笑みを消して敵に向き直り、だっと大地を蹴る。
微《かす》かに風が鳴り、レインがザンジの目前に、文字通り『出現』する。
敵の間合いに入ると身体を捻《ひね》って左足を旋回《せんかい》させ、蹴り足がザンジの顎《あご》を正確に捉えた。
むさ苦しい男は、砕けた歯の欠片《かけら》と血の滴《しずく》を撒《ま》き散らし、背後の仲間達にどーんと倒れ込む。命に別状はないが……しばらくは柔らかい物しか食べられないかもしれない。
ザンジの無様《ぶざま》な有様《ありさま》を目《ま》の当たりにし、男達にどっと動揺が走った。
「ゆ、弓っ、弓だっ。もう一度、矢を放て!」
誰かが悲運のリーダーの代わりに叫び、慌《あわ》てて数名がまた矢を放った。
レインも、今度は剣を抜いた。
闇を切り裂いて青き魔剣が乱舞《らんぶ》し、右に左にと微《かす》かな光の軌跡《きせき》を残す。そして彼の足下《あしもと》には、二つになった矢の残骸が次々と重なっていく。
少年が矢の飛来を正確に捉え、片っ端《ぱし》から魔剣で両断してしまうのだ。彼を傷つけるどころか、一本たりともその痩身《そうしん》に届かない。
「遅すぎるっ。無駄だと言ったはずだ!」
舌打ちでもしそうな、レインの失望の表情。
いつしか敵も、矢を放つのを止めてしまった。声もなくレインを見返している。
新たに剣を抜くなどして、反抗の姿勢を見せる者は皆無《かいむ》だった。
魔剣をだらっと構えたレインは、静かに尋ねた。
「――それで? もう終わりか?」
誰も答えない。
さらにぐるっと見渡してから、レインはいきなり魔剣を斜め上へと振り上げた。そのまま、完璧なフォームでびしゅっと袈裟斬《けさぎ》りに振り切る。
その時ホークの目には、空間その物が魔剣の軌跡《きせき》に沿って両断されたように見えた。
現実に何が起こったのかは、すぐにわかった。
魔剣を振り切った途端《とたん》、男達の目前で大地が一部弾け、ぱっと砂埃が舞ったのだ。
集団の先頭にいた数名の足下《あしもと》で、地面に深々と亀裂が刻まれていた。一直線に、ずばっと長く。
古き伝承《でんしょう》が恐怖とともに伝える、傾国《けいこく》の剣の『見えない斬撃《ざんげき》』が発動したのだ。
古代セレステアの都を震撼《しんかん》させた悪名高き遠隔攻撃を、千年の時を越え、いま自分達も目《ま》の当たりにしたわけである。
お陰で、男達は当然ながら、少年が手にする魔剣の正体に気付いた。
見る見る腰が引け、顔色を失ってさらに後退《あとずさ》りする。
「え、遠隔攻撃……」
忘れられていた召喚士《しょうかんし》が小さい声で呻《うめ》くと、昏倒《こんとう》したリーダーを支える数人が、それに応じるように次々と口にする。
「呪われた魔剣……あれは、封印されていたはずじゃなかったのか!」
「た、確かにそう聞いたぜ。どっかの山奥に封印されて、もう何百年も誰も見た者がいないとか――」
まるで抗議するような口調の彼らに、レインはただ、魔剣の剣先を街の方角へ向け、短く命じる。
「去れ!」
別に大声で怒鳴ったわけでもないのに、男達は尻を蹴飛ばされたように反応した。
少年の機嫌を損ねないよう必死であり、今なら「全員で歌え!」と命令されても、即座に従ったかもしれない。
「――おい。そこにぶっ倒れているデカブツを置いていくな。こんな所で凍死でもされたらホークに迷惑がかかるだろう!」
叱責《しっせき》され、半ば逃げかけていた連中が飛び上がった。
「わ、わかった。わかったから剣は収めてくれっ」
ほとんど泣き声のような返事で、数名が慌《あわ》てて大の字に倒れたリーダーを回収する。後はもう、見事なまでの逃げっぷりという他はない。全員が、一秒でも早くズラからねばっ――と焦る気持ちを露わに、山道を駆け下りていく。
レインは、むっつりと不機嫌な表情を崩さず、彼らが完全に姿を消すまで目を逸《そ》らさない。
しかし、ハンナが嬉しそうに駆け寄ると、夢から覚めたように黒瞳《くろめ》を瞬《またた》き、困《こま》ったように少女を見下ろしていた。
――☆――☆――☆――
すぐに立ち去るつもりだったに相違ないレインだが、実際にはその日以降もホークの元に留《とど》まることとなった。
理由は幾つかあるが、最も大きかったのはハンナのたっての望みだろう。レインが去るような素振《そぶ》りや言動を見せると、この少女は決まってじわ〜っと涙ぐみ、少年の服の裾を掴《つか》んで離さなくなるのだった。
「あのね、あのね、おじいちゃん」
昼間、母親に許された自由時間のほとんどをレインと過ごすようになってから、ハンナはホークにもレインの話ばかりするようになった。
「レインがね、あたしが『ママにもらったペンダントを森で落としちゃった』って話したら、探してあげるよっていって、一日中探してくれたのっ。それでね、夕方までずっと森を歩き回って、とうとう見つけてくれたのよ!」
「そうか……良かったねえ。ちゃんとお礼を言ったかい、ハンナ?」
「うんっ」
元気に頷《うなず》くその顔は、かつて、伝説の英雄『ジョウ・ジェルヴェール』に憧れる乙女がそうだったとされるように、頬《ほお》をうっすらと染め、真っ黒な瞳をきらきらと輝かせている。
レインはといえば、相変わらずハンナには優しく接しているが、日を重ねるにつれて戸惑《とまど》いが増してきているようだった。
仲良くするのはいいことじゃないか……そんな風にホークがからかっても、レインは全く乗ってこなかった。
『俺にはそんな資格がないんだ』
ぶすっとそう答えるのみで、その理由を訊《き》いてもさっぱり教えてくれない。
この愛想のない少年と暮らすうち、ホークは幾度か、レインの隠された一面を見る機会があった。
例えば――
少年はどうやら、夜中に頻繁《ひんぱん》に悪夢にうなされているらしい。どうも、最初に泊まった晩に外にいたのも、謎の気配を感じたということ以外に、夢見が悪かったせいもあったようだ。
ホークはもはや確信しているが、彼は毎晩のように夢にうなされ、汗まみれで飛び起きているのである。
この、剛胆《ごうたん》で天才的な戦闘センスを持つ少年は、過去によほどのことがあったと見える。
ホークはある時、レインが例によって悪夢にうなされ、外のポーチで座っているのを窓越しに見たのだが――
信じがたいことに、その時のレインは確かに震えていた。俺は恐怖を感じない……そう言ってのけた彼が、自分の身体に両手を回してなにかに怯《おび》えたような様子だったのだ。
ホークは「どんな怪物が襲撃して来たのだ!」とばかりに外に飛び出したのだが、レインはバツが悪そうに首を振っただけだった。
『違う……これは、過去の事件を思い出していたせいだ。怖さを感じないといっても、こればかりは例外なんだ』
普段超然としている少年が、この場を見られたのを恥じいるように、黒瞳《くろめ》を伏せてそう呟《つぶや》くのだった。
穏やかに促《うなが》してもやはりなにも教えてはくれなかったが……ただ彼はその時、こう付け加えた。
『俺は、生きながら冥界《めいかい》の一番深い場所にいるようなものなんだ。……昔見た光景が、どうしても脳裏《のうり》から離れない』
一体、彼になにがあったのか、それはわからない。いや、予想くらいは出来るが、ホークはあえてそれ以上|訊《き》こうとは思わなかった。
いずれにせよ、過去の強烈な体験がこの少年に何か激しい物を植え付け、後《のち》の人生を一変させたのだろう。
『誰よりも強くなりたい』
彼が何度かそう呟《つぶや》くのを聞いたが、もちろんそれも、昔の事件と無縁ではあるまい。
――少年のこだわりについて、ホークはテーブルを挟んで話し合ったこともある。
クールで愛想のない少年も、その頃にはホークと世間話くらいはしてくれたのだ。
ホークはその時、こう諭《さと》した。
「強さというのは相対的なものだよ。どんなに強くなっても、常に上はいる。力は、さらなる力によって敗れる運命にあるんだ。極端な話だが、どれほど強くなった所で人は最強の魔獣《まじゅう》……つまりドラゴンには勝てないだろう?」
少年はホークをじっと見据《みす》えてこう断言した。
「俺はそうは思わない、ホーク。『最強』の呼び名が許されるのは、常に特定の誰か――あるいは『何か』に対してのみだ。もしドラゴンこそが最強の存在だと言うなら、俺はそいつも倒してみせる」
……この少年は、普通の人間が思いつきもしないことを考えているらしい。しかも、真面目《まじめ》に。
超人的な力を得ることが出来るという、ドラゴンスレイヤーの伝説が目的でもあるまいが――。この調子だと本気で、いつかドラゴンに挑戦する日が来るかもしれない。魔法使いの師を探しているというのも、なお一層の力を求めるという以外に、そういう先のことをも考えているからではないか?
この時ほど、この痩《や》せた少年の将来が心配になったことはない。
ホークやハンナを惹《ひ》き付けて止まない、純粋で澄《す》みきった心を持ちながら、同じ心の奥底にはこれほど激しい物を秘めているのだ……
実はホークには、史上最高とも言うべきルーンマスターの友人がいる。
レインが剣技と体術の天才なら、その友人は『魔法』という、今や失われつつある秘術の天才なのだ。
しかしホークは、未だに迷っている。その友人を、少年に紹介したものかどうか……
レインなら、みるみるウチに魔法を修得するだろう。それは間違いない。彼自身が望む通り、さらに強くなるのは目に見えている。
だが、ホークにも覚えのあることだが――
力をつけ、強くなればなるほどに、人は孤独になっていくものなのである……
この少年には、そんな孤高の道は歩んでほしくない。
ホークはそう考えてためらっていたのだ。なるべくなら普通の、穏やかな人生を送ってほしいものだ……
口だけではなく、少年は黙々と修練を積んでいた。
ハンナと遊んでいない時、あるいはホークのために薪《まき》割りなどを手伝っていない時……そんな空いた時間を、彼は全て修行のために費やしていた。それも、全力でだ。
剣士なら誰もが実行する剣の素振《すぶ》りはもちろん、誰も思いつかないどころか、思いついても決してやりそうもない訓練法まで、彼は独自に編《あ》み出していた。
森の奥で、ホークは実際に彼が『それ』をやっているのを目撃した。
薪《まき》集めの最中、不審な物音に釣られて進み、偶然見かけたのだ。
少年は岩だらけの崖の下に立ち、魔剣の遠隔攻撃でもって、なんと自分の頭上を崩していた。
当然、豪雨のような激しさで大小の岩の塊が落下してくる。
それを片っ端《ぱし》からよけていたのである。
岩と岩との間をすり抜けるように動く彼の背後に、陽炎《かげろう》のように残像が生じていた。
どうやら、反射神経と体さばきを向上させる訓練らしいが……あまりにも危険過ぎる。
いかにスピードと反射神経に優れたレインとはいえ、あんなことを続けていては、そのうちに大|怪我《けが》をするかもしれない。いや、既に何度も怪我《けが》はしているのだ。湯浴《ゆあ》みを共にしたことがあるが、少年の痩身《そうしん》は痣《あざ》と傷だらけだった。
しかし、結局ホークは口出ししなかった。
諭《さと》した所でやめるとは思えなかったからだ。
若き日のホークが、そうだったように――
かつての自分と同じく、レインも今更、平穏無事な人生を選ぶとは思えない。今後もさらなる強者を求め、次々に戦いを重ねるだろう。
試しにホークが訊《き》いた所、彼は指折り数えて訪ねていく予定の相手を教えてくれた。
挙がった名前を聞けば、超一流と呼ばれる戦士ばかりである。
しかも、ザガンやロイを初めとする傭兵《ようへい》戦士達ならまだしも、れっきとした騎士――それも、シャンドリスの『不敗の神将《しんしょう》』ジョウ・ランベルクにまで、少年は挑戦するつもりらしい。
レインは確かに不世出《ふせいしゅつ》の天才剣士ではあるが……今の時点であの男を相手にするとなると――
事ここに至り、ホークの心も定まった。
少年を諭《さと》すのではなく、積極的に力を貸そう――そう決心したのだ。
彼の身が心配だというのもある。
だがホーク自身、ただ一心に「至上の強さ」を求めた時期があったのだ。遙《はる》かなる高みを目指し、ひたすら修練に励んだ時が、確かにあった。
少年の命知らずな修行をあえて止めなかったのも、剣士として共感出来る部分があったからかもしれない。
決心したその日の夜、早速ホークは、レインに自分の友人のことを話した。
少年はスープ皿を叩きつける勢いでテーブルに置き、慌《あわ》ただしく聞き返した。
「本当か? 確かにそいつは、魔法戦士としては一流なんだな?」
「一流どころか――」
ホークは友人を思い出し、首を振る。
「おそらく、ルーンマスターとしては史上最高だと思うねえ」
レインは予想通り、飛び付いた。
ホークの言い方が効いたらしい。
「ぜひ紹介してくれ!」
「そのつもりだが……幾つか注意しておきたい」
この際、正直に教えてやった。
「その友人は女性でね。しかも、厳密な意味では人間じゃない」
「俺は気にしないな。魔法を教えてくれるなら、なんの文句もない」
レインは顔色も変えなかった。
人間ではないと聞かされても、平然たるものである。
ホークは多少は安心し、なおも秘密を打ち明けた。
「相手がヴァンパイアでも?」
ここでやっと、さすがのレインも黒瞳《くろめ》を瞬《またた》いた。
ただし、怯《ひる》んだわけではない。不思議な話を聞いた、という顔つきである。
「それは構わないが――。あいにく俺は、血を吸われて従属する気はない。身の危険を感じたら、あんたの友人と言えども剣を向けるかもしれない。それでもいいか?」
真面目《まじめ》くさってそう言うのを聞き、ホークは思わず噴《ふ》き出した。
「はははっ――いや、失礼。だが安心したまえ。嫌がる相手から吸血するような人ではないよ」
しっかりと保証してやる。
「それに彼女は、普通の食事だって出来る。普段はごく当たり前の食生活を送っていると思うね。唯一の問題は、彼女が君を気に入り、魔法を教える気になるかどうかだろうな」
「……気難しいヤツなのか?」
「まあ、人見知りが激しい所は、君と似ているかもしれないね」
そう言ってやると、レインは思いっきり顔をしかめた。
ホークはその表情を見てさらに笑みを広げ、ゆったりと腕を組む。
「からかうつもりは無かったのだが、気分を害したのなら謝るよ。とにかく、後は君次第だ。早速、私が紹介状代わりの手紙を書いておいてあげよう……」
ホークはその言葉通り、翌日にはレインに彼女への紹介文を持たせてやった。
これをきっかけに、少年は自分の元から去るだろうと思っていた。
ところが、彼はなおもホークの元に留《とど》まり続けた。
理由はおおむね二つあり、一つはもちろん、あのハンナのことだ。ひどく悲しませてしまうのが目に見えているので、レインは相変わらず、ハンナに別れを告げられずにいたのである。
あの純粋で明るい少女は、幾日もレインと過ごすうちに益々彼を慕《した》うようになり、とうとう将来のことまで考え始めたらしい。
こっそりと、『あたしにも剣技を教えて、おじいちゃん』などと言われた時には、さしものホークもとっさに返答しかねたくらいだ。
「どうして剣技など? これまで、そんなことには関心なかっただろう?」
「うん、これまでは」
ハンナはぱっちりとした瞳を一杯に見開き、真剣な顔で頷《うなず》いた。
そして、同じ真摯《しんし》な瞳でこう言った。
「だけど、いつかレインと旅に出るなら、あたしも戦えるようになってないと……。今のままじゃ、レインに迷惑がかかるもん」
これには驚いた。
この少女は本気で、レインとずっと一緒にいたいと願っていたのだ。深い決心に満ちた瞳を覗《のぞ》き込み、初めてそれを悟った。
レインには内緒にしててね? とハンナに念を押されたこともあり、この一件は少年に話さなかったが。
もし知ったら、レインはその日のウチに、きっぱりとホークの元を去っていただろう。
自分が常に抱える危険や苦悩に、他人を巻き込む少年ではない。
そして今一つ。
レインが出ていくのをためらう理由が出来た。
その理由とは、ホーク自身のことである。
冬が深まるにつれ、ホークの容態は悪化の一途《いっと》をたどっていった。咳き込む回数が増え、時には薄く血を吐くほどにこもった咳が連続した。
ホーク自身もあまり外を出歩かなくなり、自室に閉じこもって日がな一日読書などしていることが多くなってきた。
もちろん、ハンナに剣技を教えるどころではない。
幸い、彼は過剰《かじょう》なお節介を焼くことなど無かったが、それでもホークが頻繁《ひんぱん》に食事を抜くようになると、さりげなくではあるが忠告をした。
それが聞き入れられないとなると、今度は『薬師《くすし》か医者にかかるべきだ』と、熱心に勧めるようになってしまった。
少年は傍目《はため》には、「借りを返すためだ」というようなポーズを取ってはいた。
しかし、彼は腹芸《はらげい》が出来るほどの人生経験を積んでおらず、ホークから見れば本心は明らかである。
無理に医者の所へ引っ張って行かれそうになり、ホークは観念した。
最後まで黙っているつもりだったのだが、こうなっては仕方ない。白状するしかなかろう。
久方ぶりに差し向かいでテーブルにつき、すっかり打ち明けた。
コーヒーを飲みつつ、なるべく淡々と、悲壮さが漂わぬように。
「……この小屋は、実は私の死に場所でね。そのつもりで越してきたのだよ、私は」
口にした瞬間、少年の顔に理解と哀《かな》しみの表情が浮かんだ。
それはごくごく一瞬のことで、すぐさま元のクールな顔に戻ったが、ホークは僅《わず》かな表情の変化を見逃しはしない。
この聡《さと》い少年には、今の説明で十分だったらしい。それに、彼の方でもある程度は予測済みだったようで、的確な質問を重ねてきた。
「……確かなのか? もう治らないと決まっている? 医者を変えてみたんだろうな?」
「話が早いね、君は」
ホークは苦笑して、首を振った。
「いや――。今でこそ落ち着いているが、こう見えても私は、君が思うより遙《はる》かにジタバタしたさ。あらゆる医者や薬師《くすし》に頼ったし、最後は魔法も試してみた。だが……無理だったよ。病気がどうのと言うより、もはや寿命なんだ。誰もが迎えねばならないモノが、私にも来たというわけだね」
若干の嘘もまじえて、噛《か》んで含めるように説明してやる。
「自分で死期も見えている。私の死はもうすぐだろう……」
レインはそれ以上聞き返さなかった。
ただ黒瞳《くろめ》を伏せ、小さな声で「そうか」と答えたのみである。
甘ったるい同情や、いたわりの言葉などは全くなかった。
……彼が自分で信じるほどに、深い哀《かな》しみを隠せていたわけではなかったけれど。
優しい子だ、と思う。
だが皮肉なことに、戦士として希有《けう》な才能を持って生まれてしまった。それが、この少年の将来にとって良い方向へ働けばいいのだが――
ホークはこの時、覚悟の決まった自分の死よりも、レインの将来について心配したのだった。
ホークが困り果てたことに、それ以後、レインは出ていく素振《そぶ》りすら見せなくなった。
ベッドにいる時間がめっきり増えたホークに代わり、彼が食事やその他の世話を焼く方へ回ったのだ。これでは、どちらが客人だかわからない。
納得したと思ったのは早計で、レインはどうやらホークが回復する希望を捨てていないように見える。あるいはそうではなく、ホークの死に際《ぎわ》を看取《みと》る決心をしたのかもしれない。
いずれにせよ――
時が来た、とホークは思った。
少年の気持ちは言葉に尽くせないほど嬉しいが、ホークはあくまでも一人で死を迎えるつもりだったからだ。
自分でも驚いたことに、少年との別れは残念でならないし、本音を言えば寂しくもあった。しかし、こうなっては他に方法もない。
翌朝、ホークはちょっとした準備をした。
まだわずかに残る体力をかき集め、かつての修練を活かし、病身の隅々にまでエクシード……すなわち『気』を充実させたのである。
こうすることで、一時的に健康体のように見せかけることが出来る。ルーンマスターが魔法を駆使《くし》する時、体内のマナを高めるべく意識を集中させるが、要するにあれと同じである。
ただ、健康体ならともかく病魔に冒《おか》されたこの身では、後でどっと反動が来るのがオチではある。しかし、今更多少の残り時間が減った所で、失う物はなにもないのだ。
というわけで、ホークは久しぶりに早朝から起き出し、かつてのように自分が朝食の支度《したく》をした。
この寒いのに、夜明け前から外で素振《すぶ》りなどしていたレインは、戻ってくるなり黒瞳《くろめ》を僅《わず》かに見開いた。そして一瞬だけ、曇りのない笑顔を見せた。その瞬間だけは戦士ではなく、年齢相応の少年に見えた。
例によってたちまちにして元の無愛想な顔に戻ってしまったが、その笑顔を目にして、ホークは胸が痛んだ。
しかし、決心が変ったわけではない。
朝食後、ホークは早速切り出した。
「いきなりだが――。そろそろ旅に出る気はないかね?」
さっと顔を上げ、真剣な表情で見返す少年に、ホークはそっと片手を上げた。
「君は色々考えすぎるタチのようだから、先に言っておこう。――君の食事代が厳しいからとか、君が煩《わずら》わしくなったからとか、そんな理由じゃないよ」
「……では、どんな理由だ」
「まさか、いつまでもここにいるわけにはいかないだろう? 私の症状もかなり好転したことだし、ちょうどいい時期かなと思ってね」
「ホーク、あんたはまだ俺を甘く見ているな」
レインはホークからじっと目をそらさず、ゆっくりと言った。
「なるほど、さっき見た時は一瞬、もう治ったのかと思った。しかし、そうじゃない。あんたはなんらかの力で、俺の目をごまかそうとしている。どんな能力なのかは今の俺にはさっぱりわからんが、まず間違いない。多分、元気なのは今だけのことじゃないか?」
ホークは感嘆《かんたん》した。
熟練《じゅくれん》の戦士などが放つ力の波動や「気」について、少年は誰に教わることもなく感じ取っている。
それだけでも驚きだが、彼はどうやらホークが用いた「気」の応用をも、見抜いてしまったようだ。
確かに自分は、まだ彼を甘く見ていたかもしれない。
「まいったね。……では、正直に言おう。君の指摘通り、私の回復は偽物だ。ただ一時的に『気』を高めてごまかしただけでね。実際には、これからさらに症状は重くなるだろう」
なにか言いかけたレインを目で制し、なおも続ける。
「そのうちベッドから起き上がれず、自分で用を足すことも出来なくなるかもしれない」
「それがどうした?」
レインは怒ったようにやり返した。
「身体が弱った挙げ句のことなら、人として恥ずかしいことでもなんでもない。そんなのは俺を追い出す理由にはならないぞ」
「では、私がそうなったら君が世話してくれると?」
ホークが疲れたように微笑むと、レインは真面目《まじめ》な顔で頷《うなず》いた。
「あんたには借りがあるからな。第一、この前の連中だって、まだあきらめたわけじゃないだろう」
「君の気持ちは嬉しい……ありがとう。しかしヴィルゴ達なら、君のお陰でもう懲《こ》りたろうさ。あれから全然顔も見せないしね」
「あんたはわかってない。ああいう連中は――」
言いかけたレインを、遮《さえぎ》る。
「やはり、ここで袂《たもと》を分かとう。理由は二つある」
「なんだ!?」
「私が耐えられないのだよ、君がよくても。考えてもみたまえ。君が私の立場に立ったなら、素直に人の世話を受けるかね? 自分が助からないことを知っているのに?」
レインは答えない。
しかし、やや怒りが収まったように見える。
それが返事のような物だが、これだけでは彼は納得すまい。
ホークはやむを得ず、黙っておくつもりだった一件を持ち出した。
「それと……ハンナのこともある」
少年は眉をひそめ、無言で先を促《うなが》した。
ホークがハンナの決意の言葉を伝えてやると、明らかに顔色を変えた。
予想したよりずっとショックを受けた様子で、もはや最初の勢いや憤《いきどお》りは消えてしまっていた。
長い沈黙が生じる。
少年は目を伏せてじっと考えていたが、やがて静かに顔を上げた。
「あんたが正しいようだ。俺は、ここに長居しすぎた。あの子を巻き込むべきじゃなかったな……」
ホークには何も言えなかった。
否定することは簡単だが、それは偽善にしか過ぎないだろう。
レインは、曇りのない黒瞳《くろめ》でしっかりとホークを見やり、珍しく感情を籠《こ》めて告げた。
たった一言だけ。
「……世話になった」
出ていくと決めると、少年は素早《すばや》かった。
一息にコーヒーを飲み干し、そのまま立ち上がった。
まだ陽が昇り始めたばかりであり、ホークとしても意表を突かれた。
どうも、ハンナの一件が相当に応えたと見える。自分と一緒にいれば、相手が不幸になるに決まっている――そう決めつけている気がする。
いずれにせよ、彼は壁にかけてあった自分の上着を着込んで席を立った。
二十日ほど前にここへ来た時の、そのままの姿でドアを開けて出ていく。
呆れるほど決断が早い。
ホークはいささか驚いて後を追い、もはや山道の方へ歩き出している背中を呼び止めた。
「レイン君!」
少年は振り向き、ポーチに立つホークを見た。
「なんだ?」
――困った。
なにか言うべきことがあるはずなのだ。
言い忘れたことがあるような気がしてならない。
それは確信に近い思いだった。
「……ハンナは母親の手伝いをするそうだし、もう少しゆっくりしてもいいよ」
なにも思いつかないまま、どうでもいいことを話していた。
返事は予想通りである。
「それなら知ってる。……だが、夕刻に出ていくのも今出ていくのも同じことだからな」
未練なく背を向け、少年は朝靄《あさもや》の中を歩き去ってしまった。
――☆――☆――☆――
朝から無理して気を張っていたせいだろうか。
レインが出ていった後、ホークはその反動がどっと出て、しばらく咳が止まらなかった。
椅子に座り込んだまま、立ち上がることも困難になっていた。
身体が異様に重く、急に体重が倍増したように感じられる。額に手を当てると、明らかに熱があった。
枯渇《こかつ》しかけている体力を、さらに搾《しぼ》り取るような真似をしたせいだろう。また残り時間が少なくなったようだ。
いや、そのことに後悔などはないが、さっき少年を黙って見送ってしまったのだけは、なんとしても悔やまれた。
彼の心の内に迷いがあったのは、わかっていたはずなのだ。なにか、かけてやるべき言葉があったはずなのだ。
なのに、いざとなると言いたいことがあまりにも多すぎ、ついそのまま見送ってしまった。
「老いたな、私も……」
呟《つぶや》く声すら覇気《はき》がなく、しかも掠《かす》れていた。
ホークは朝食を摂《と》ったテーブルについたまま、じっと動こうとしなかった。動けなかった、というのが正しいかもしれない。
少年が立ち去り、なにか心に大きな隙間《すきま》が出来たような気さえする。そばにレインがいることに慣れてしまっており、自分がぽつんと座る小屋の中は、耳が痛くなるほど静かだった。
そのまま、どれだけの時間が流れたろうか。
物思いにふけっていたホークは、微《かす》かに肩を揺らした。上体の揺れが大きくなり、咳とともに笑いが漏れた。
あの少年は最後まで正しかった……自嘲気味《じちょうぎみ》に笑いながら、ホークは思う。
もちろん、いざという時には自分がなんとかするつもりだったのだが……どうやら、自分の命運も尽きたらしい。
死の淵《ふち》にあっても、戦士としての『感覚』までが衰えた訳ではない。
ホークはたった今、この小屋に近付きつつある、多数の殺気に気付いたのだ。
この気配からして、おそらく人数はこの前より多いだろう……
「ははっ……皮肉な物だ。よりにもよって、今日この時を選んで来るとはね。あるいは、行き違いかな。これも、運命だろう……」
その呟《つぶや》きを最後に、ホークはゆっくりと立ち上がった。途端《とたん》に、くらっと足下《あしもと》が揺らいだが、椅子の背を掴《つか》んでなんとか転倒を免れる。ともすればす〜っと目の前が暗くなるし、熱のせいで微妙に視界がぼやけるが――
それでも、戦いを放棄する気はなかった。
愛用の魔剣を手に、ホークはドアを開く。
外へ出る間際、ふと振り返って室内を見た。
がらんとした部屋を首を巡らせて眺め、そっと微笑む。
生きて再び、ここに戻ることはあるまい――
ホークは静かにドアを閉め、冷え切った外へ出ていった。
――☆――☆――☆――
やがて彼らは去り、ホークは久しぶりの青空を見上げつつ、血の匂いがしみ込む大地に寝転がっていた。
どうせ彼らは、そのまま上の村へ行っただろう。立ち上がり、村人達を助けに行きたかったが、いかんせん、もはや身体が言うことを聞いてくれない。
そのくせ、身体中に激しい痛みがあり、ホークは呻《うめ》き声を抑えるのがやっとだった。
「やれやれ……随分と念入りにやってくれたな」
ちょっと呟《つぶや》いただけで、血の味がする胃液が逆流しかけた。それを無理矢理呑み下《くだ》し、ホークはなおも動こうともがく。
村人達を放っておく訳にはいかないのだ。なにしろ、こうなったのは自分の責任である。
しかし、相変わらず多少手が動くくらいで、起きあがるのは到底無理だった。
そのうち、幻聴まで聞こえてきた。
――いや、そうではない。
気のせいではなく、奇妙に歪《ゆが》んだ視界の中、レインが駆けつけて来るのが見えた。足音も荒く到着すると、少年は倒れ込むようにホークの脇に膝をつき、ざっとホークの身体を見る。
「……やあ」
最初に逢《あ》った時のように、そっと声をかけたが、鋭い叱声《しっせい》が返ってきた。
「今は無理にしゃべるな! すぐに医者に診《み》せてやるからな」
実際、少年は山道の方へ向かって怒鳴っていた。すぐそこにいるらしい。
『おい、こっちだ! 早く来てくれっ』
数瞬の後、今度は怒声を放つ。
『待て、どこへ行く気だっ。戻って来い!』
無理して首を巡らせると、視界の隅に、今まさに逃げようとしている人影が見えた。
ホークは苦笑した。
そうか……最初から医者を連れて来るつもりで下山したのか……渋る私を、無理にも診《み》せようとしたんだな。
どうりであっさり出ていったはずだ……
数時間前の少年の性急さに、やっと合点《がてん》がいった。ついでに、立ち上がりかけた彼の手を、そっと握る。
「もう……いいよ。どうせ間に合わない。血まみれの私を見て逃げたんだろ? 誰にやられたか、察しがついたのさ。ヴィルゴのことは知れ渡っているからね……みんな、関わり合いになりたくないんだよ」
「馬鹿を言うな!」
レインは憤然《ふんぜん》と吐き捨てた。
「医者の癖に怪我人《けがにん》を見捨ててどうする!? 待ってろ、すぐに連れ戻して」
セリフがぶっつりと切れた。
慌《あわ》ただしくホークの上着を脱がし、そして気道を確保しようとシャツの胸を開いた所で……傷の深さを知ったのだ。
少年は絶句して息を呑んでいる。
表情をくしゃっと歪《ゆが》めようとして、辛うじて堪《こら》えた。どんな時にも冷え冷えと澄《す》みきっていた黒瞳《くろめ》は、見る見る赤く染まり、目の縁《ふち》に涙が盛り上がった。
「……泣かないでくれ。どのみち、遅いか早いかの違いだよ。君の忠告を聞かなかった報《むく》いがきただけだ」
少年は、聞いていなかった。
血の気の引いた唇から、囁《ささや》き声が漏れた。
「立ち去る前に奴らを全員倒し、あんたを無理にでも医者に診《み》せようとしたんだ。だけど医者は見つかったが、街の連中から聞いた奴らのアジトは、空だった。それで急いで戻って来たんだが……。くそっ、俺のミスだっ。もう二度と同じ思いはしないと誓ったはずなのに!」
「――レイン君」
「最初にやって来た時、あいつらを全員倒し、それからすぐに街へ下りて残りを片づけていれば」
「レイン君!!」
無理して声を強めると、レインはやっと口をつぐんだ。
その間を捉え、話しかける。
「私の死は、どのみち不可避だった。君は最大限のことをしてくれたんだ。胸を張ってくれていい」
「あんたを助けることも出来なかったのに……無理言うな」
彼らしくもなく、震える声。
しきりに目を瞬《またた》き、泣くまいとしているのがよくわかる。少年が常に不可視の鎧《よろい》のように纏《まと》っていた超然とした態度が、クールな面持《おもも》ちが、今初めて崩れようとしていた。
「君のせいじゃない。……頼むから泣かないでくれ」
「俺は泣いてない!」
頑固《がんこ》に言い返してから、ぐっと口を引き結ぶ。
自らの『弱さ』を晒《さら》すのを、とことん嫌う少年だった。泣きそうになっていると思われるくらいなら、舌を噛《か》みきった方がマシだと思っているに違いない。
その強烈な自己抑制力でもって、レインはとりあえず、いつもの冷静な表情を取り戻した。心の内では今も大波が荒れ狂っているくせに、断固としてそれを見せるまいとしていた。
大きく深呼吸をし、微《かす》かに震えを帯びた声で言う。
「ホーク、あんたはもう助からない。だけど、このまま放っておけば、なおしばらく苦しむことになるだろう。……奴ら、それを計算してあんたを放っておいたんだ」
一瞬だけ、またしてもその顔に激しい感情がよぎった。
しかしレインは泣き崩れることなく、なおも続けた。
「今の俺に、あんたを助ける術《すべ》はない。俺に出来るのは、これ以上苦しみを長引かせないことくらいだ……」
「君は優しいな……ありがとう。何度でも言うが、これは君のせいじゃない。気にしないでくれたまえ」
ゆっくりとしゃべり、そして理解した。
自分が今、なにを告げるべきか。
数時間前にはなにも思いつかなかったのに、今は自分の贈るべき言葉が、はっきりとわかった。
そう、彼は迷っている。
自分の進んできた道、これから進むべき道に対し、自信を持てずにいる。それはいくら隠そうとしても、ホークにはわかりすぎるくらいわかっていたことなのだ。
死がすぐそばに近付いたせいか、幸いにも呼吸も楽になり、怪我《けが》の痛みまでやや薄らいでいた。ホークが見上げる中、レインが魔剣に手をかけようとしている。
普通なら自らが傷つくのを恐れ、実行をためらうだろうに、少年は最後まで己が成すべきことから逃げようとはしなかった。
優しい……いや、優しすぎる子だと思う。
この世界の誰よりも優しい癖に、それでいて誰よりも強い――そんな戦士に贈る言葉があるとしたら、今が最後の機会だろう……
ホークは静かな口調でレインに語りかけた。
「レイン君――。この先、自分の行いに迷いが生じることがあったら、これから私が言う言葉を思い出してほしい。今から話すことは、絶対に正しいことなのだから」
そう、これほど確信を持って言えることはない。出会った当初はともかく、今はなんの不安もない。
ホークは口元を綻《ほころ》ばせた。
「なに? なにが言いたい?」
魔剣を抜きかけていたレインが、顔を近づける。その冷たい頬《ほお》に手を当て、ホークは穏やかに話して聞かせた。
「これから先の人生において、君は幾つもの決断、幾つもの選択をするだろう。迷うことも多いかもしれない。しかし、私はなんの心配もしていないよ。その場に居合わせなくても、確信を持って言える。――例えどんな決断をしようと、どんな道を選ぼうと、君なら安心だ。自分の信じる道を選択しなさい」
黒瞳《くろめ》を一杯に見開いている少年に、今度は断固とした声音《こわね》で力強く言ってのけた。
『迷わずに進むといい。君の行く道に誤りはない、君なら大丈夫だ!』
少年はまじまじと目を見張ったまま、しばらくなにも言わなかった。
どれほど時間が経《た》ったろうか。
せっかくの冷静な表情をまたもや崩し、掠《かす》れるような小声で答えた。
「覚えておこう、ホーク。その……ありがとう」
「いや、礼はこちらが言わないとね。……村人達を頼む」
「――わかった」
青き魔剣を振り上げ、レインはしっかりと頷《うなず》く。
「あんたに逢《あ》えて良かった……。さらばだ、ホーク!」
声とともに、輝く魔剣が的確に急所を狙う。
ほとんど痛みらしい痛みを感じず、ホークの意識は闇に呑み込まれた。
――☆――☆――☆――
頬《ほお》に当てられていたホークの手が、力無く下に落ちた。
穏やかなホークの死顔《しにがお》をしばし眺め、レインは魔剣を鞘《さや》に戻す。老人の両手を胸の下で重ねてやってから、ふらっと立ち上がった。
村人達を助けに行かねばならない。
ホークの死顔《しにがお》から無理に目を戻し、レインは駆け出そうとする。
しかし……数歩も走らないうちに、下腹の方から強烈な不快感が迫《せ》り上がってきた。
例によってなんとか堪《こら》えようとしたが、一人になって気が抜けたのか、抑えきれなかった。ホークの心臓を刺した時の感触が右手に蘇《よみがえ》ってしまい、そのせいで我慢の限界を越えた。
腸がよじれるような苦痛に、顔をしかめる。
レインは崩れるように大地に膝をつき、吐いた。腹の中を空っぽにする勢いで吐いた。
跡が目に付きにくい、道の端っこを選んで吐いたのがまだしもである。
しかし嘔吐《おうと》感はなかなか止まず、しまいには胃液だけになるまで出し切って、ようやく止まった。荒い呼吸の下、自分への激しい怒りに歯を食いしばって呻《うめ》く。
レインは拳《こぶし》で大地を殴りつつ、力一杯怒鳴った。
誰も聞いていないのを幸い、思いっ切り声を出した。
「こういう弱さを! こういう軟弱さを!! 俺は捨て去りたいんだっ。一体、何度同じことを繰り返せば気が済むんだ、俺はっ」
声の震えは隠しようもない。
そのまま呼吸を整え、血を吐くような気分で呟《つぶや》く。
「強くなるんだ、俺は。誰よりも強く、この世のどんな存在よりも強くっ。守りたいヤツを守れるだけの、能力と力を身に付けてみせる。――ちくしょうっ」
散々吐き、ついでに思うさま喚《わめ》いたせいだろう。
とにかく、数分前よりは気分がマシになった。
さらに数秒ほど呼吸を整え、レインはやっと立ち上がる。
その時にはもう、いつもの冷静な表情が戻っていた。
「……見られたザマじゃないな」
頭を振り、今度こそレインは走り出した。
まだ全てが終わった訳ではない。
やるべきことが残っているのだ。
――☆――☆――☆――
レインがすぐ上の村へ着いた時、ちょうど男達が、野菜や穀物の山を前に怒鳴りちらしている所だった。
無意識のウチに目でハンナを探しつつ、レインは怯《おび》えたように固まる村人達の間を抜け、一番先頭に出た。
「おいこら、なめてんのかっ。こんなもんを俺達にどうしろって――。ちょっと待て、なんだてめぇ?」
なにやら喚《わめ》いていた男が、ぎらっとレインに目を向けた。
「俺のことなんかどうでもいい。それより、貴様がヴィルゴだな……」
剃《そ》り上げた頭と丸太のような腕を持つ巨漢《きょかん》を、レインはじろりと見やる。
「てめぇ、やけに上等な口をきくじゃねーか。自分をどこの何様だと」
そのセリフを遮《さえぎ》り、いきなりザンジの声がした。
「ふぉいっ、ふぉまえっ。ふぉっちを見ろっ」
めんどくさそうに声の方に目を向け、レインは眉根《まゆね》を寄せた。
さっきは仲間達の後ろに隠れていたようだが、今や顔に包帯をしたザンジが前へ出てきている。――片手をハンナの首筋に回し、ナイフを突き付けていた。
レインの背後から夫婦が一組、もがきながら飛び出そうとした。村人達に押さえられながらも叫ぶ。
「頼むっ。ハンナを放してやってくれ!」
「ねえっ、まだほんの子供なのよっ」
必死の面持《おもも》ちで頼む二人に、ヴィルゴが一喝《いっかつ》した。
「うるせえっ。さっきから言ってるだろ。あのガキはおろかおまえらの命も、出す物を出しゃ助けてやるとな。野菜や穀物じゃなく、金を出せ、金をっ。同じことを何度も言わせるな!」
ヴィルゴの怒りは、ザンジにも向けられた。
「おめーもおめーだっ。呼ばれもしねーのに、しゃしゃり出てくるんじゃねえ!」
「すまねえ、ふぁしらっ。でもよ、ふぉれはぜひともひ返しがしたいんだっ」
身をすくめつつも、ザンジはしぶとく頼む。
「……ということは、こいつがおめーの言ってたガキか」
ヴィルゴは意外そうにレインを見やり、顔をしかめた。
「あんま強そうには見えねぇぜ。だがまあ……ザンジよ。おめーが仕返ししたい気持ちはわからねぇでもねーわな。そんな有様《ありさま》にされりゃあよ」
ザンジの顔を見ているウチに情けなくなったのか、ひとしきり首を振り、渋々と許可を出す。
「まあいい……前へ出て、存分にやりな」
「ふぁ、ふぁりがてえ!」
喜色満面《きしょくまんめん》のザンジは、早速ハンナを引きずるようにして頭《かしら》であるヴィルゴの前へ出た。
「ふぇふぇっ。てめぇ、たっぷりと礼をしてやるふぁらなっ」
レインは冷ややかに返す。
「――なにをくっちゃべってるんだ、おまえは。まともにしゃべれるようになってから出直せ、馬鹿」
包帯の隙間《すきま》から見える顔色が、面白いように急激に赤く染まる。
ザンジを無視し、レインは押さえられたハンナをじっと見た。
思ったより落ち着いている。色を失った唇を震わせてはいたが、騒ぐ様子はまるでない。
その代り、レインと視線が合うと縋《すが》るような声で尋ねた。
「あのね、レイン……この人達がさっき言ってたの。おじいちゃんがころされたって本当?」
ぎりっと奥歯を鳴らし、レインは黙って頷《うなず》く。嘘を付いても、どうせ後でわかることなのだ。ハンナは、見る見る涙を溢《あふ》れさせた。
「おじいちゃん……」
「言い訳はしないよ。ホークが死んだのは、俺のせいだ……」
ハンナは泣きながら、小さく首を振った。
「ううん……なんとなくわかるもの。おじいちゃん、レインに出ていってもらうつもりだったみたいだから。きっと、レインがいない間に、この人達がきたのね」
「ふぇるせえぞ、ガキんちょが! ひますぐ泣きやまねーと、顔をふぁっくりと傷つけてやる!」
妙な声音《こわね》でも、言いたいことはわかる。
あからさまな脅しに、ハンナは必死の面持《おもも》ちで唇を閉ざした。泣くまいとしているようだが、まだ涙がポロポロとこぼれている。
レインはそんなハンナの視線を捉え、何事もなかったかのように笑顔を見せた。
「……大丈夫だ、ハンナ。すぐに終わるから。目を閉じて、俺の声だけに耳を傾けているといい。……ね?」
自分などの説得に応じてくれるかどうか、全く自信が無かったのだが――
ハンナは魔法のように落ち着きを取り戻し、ほのかに微笑みさえした。素直に頷《うなず》き、言われた通りに目を瞑《つむ》る。
レインはほっと息を吐き、がらっと表情を変えてザンジを見据《みす》えた。
「……この前一緒だった仲間達はどうした? 今日は、新手ばかりのようだが」
「ふぉめーにびびって、ふぃんな逃げちまったさ。ふぇどよ! おりゃ、ふぉんな根性ナシじゃねえっ。――まず、ふぉの剣を鞘《さや》ごとふぁずしてふぉっちに放れ!」
レインは素直に、魔剣をベルトから鞘《さや》ごと外す。
「この剣を警戒するからには、逃げた仲間からあの後のことを聞いていたらしいな? だが、やっぱりおまえは大馬鹿だ。そいつらと一緒に逃げておけば、ここで死ぬこともなかっただろうにな」
その言葉に込められた静かな迫力に、思わず息を呑むザンジ。後ろから、すかさずヴィルゴが口を挟む。
「妙な真似はすんなよ! 間違っても剣を抜くんじゃねぇぞ。俺はまだ信じたわけじゃねえが、万一ってことがある。その剣は俺が預かっとくから、こっちへ投げな」
レインはザンジの向こうにぬぼっと立つヴィルゴをちらっと見やり、唇を歪《ゆが》めた。
「……まともに戦う値打ちすらないな、おまえ達は」
吐き捨てたものの、レインは無造作に剣を放り投げた。
素直に投げるとは思っていなかったのか、ヴィルゴはいささか慌《あわ》てて手を出し、かろうじて受け止める。
心底意外そうに、剣とレインを見比べた。
「ふん、やけに素直だな。……まあ、あきらめたのならそれもいい」
徐々にニタニタ笑いを顔に広げるヴィルゴに、レインは尋ねた。
「……ところで、おまえがホークをあんな目に遭《あ》わせたのか?」
「おうよ。……ま、あのじいさんが根性あったのは認めるぜ。何しろ、念入りに切り刻んでいる間、声一つ立てなかったからなぁ。そこはてーしたもんだ」
がはは、と肩を揺らして笑い、手下達も追従《ついしょう》するように一斉に笑った。どの顔も、主人であるヴィルゴにおもねるのに必死そうだった。
だから、レインの冷静な顔に浮かんだ怒りに、誰一人として気付かなかった。
「そうか、やはりおまえか」
ヴィルゴは自らの絶対の優位に安心しきっており、今のセリフに籠《こ》められた不吉な響きに気付かない。
下卑《げび》た笑みをそのままに、すらりと剣を抜いた。刀身を眺め、毛虫のように太い眉をひそめる。
「うん? どういうことだ、ザンジ。おめーの話じゃ、これは魔剣だったはずだろうが。どう見ても普通の長剣だぞ?」
「ふぇっ。い、いや……ふぉれが聞いた話じゃ――」
主《あるじ》の声に微《かす》かに混じった非難を察知し、レインを警戒していたザンジは慌《あわ》てて半ば振り向こうとした。
変化はその刹那《せつな》に起きた。
ヴィルゴ達を始め、皆が注目していた銀色の長剣が、突如としてふっと消えた。
『なっ』
幾人かの声が重なる。
誰もが目を丸くして立ち尽くす中、レインだけが素早《すばや》く行動を起こす。
自分の目の前に文字通り『転移』してきた魔剣を瞬時《しゅんじ》にひっ掴《つか》むや否や、ぶんっと再度投げたのだ。
ただし、今度はさっきのような緩《ゆる》やかな投げ方ではない。風斬《かざき》り音が生じるほどスピードの乗った、鋭い投擲《とうてき》だった。
レインが掴《つか》んだ途端《とたん》に、ぶわっと魔法のオーラを生じさせた魔剣は、青い流星のようにまっすぐに飛んだ。
そして目論見《もくろみ》通り、振り向こうとしているザンジの側頭部を、易々《やすやす》と串刺しにした。
びくんっ、と彼の身体が震えた。
ハンナの首筋を固めていた手が外れ、持っていたナイフを落とす。
同時にレインは叫ぶ。
「走れ、ハンナ!!」
ハンナの反応も見事な物だった。
この少女は、ただひたすらレインの声を待っていたに違いない。一瞬のためらいもなく、だっと走り出した。その後を追うように、死体になったザンジがぐらっと倒れ込む。
気配に気付いたヴィルゴ以下が顔を向けた時には、もう遅い。
ハンナは目を閉じたまま、レインの胸の中に飛び込んでいた。
「きゃっ」
「安心して! 俺だよ、ハンナ」
「レインっ。レインーーーっ!」
ようやくぱっちりと瞳を開いたハンナは、安堵《あんど》のあまりか、レインに抱き付いてわんわん泣き出した。
両親が駆け寄ってきても、すぐには引き離せなかったくらいだ。
「大丈夫、もう大丈夫。ほら、お母さん達と一緒に下がっているといいよ」
「うえっ……えっ……。う、うんっ。気をつけてね、レイン」
泣き顔をなんとか押さえ、ハンナが笑顔を見せる。
そこでようやく、なにが起こったか悟った村人達が歓声を上げた。思わずやってしまったのだろう。その場で手を叩く者さえ、幾人かいた。
ただ彼らの一時の興奮は、ヴィルゴの「やかましいーーっ」という憤怒《ふんど》の怒声に、たちまちしぼんだ。
しーんと静まり返り、皆、怯《おび》えたように後退《あとずさ》る。ヴィルゴがぎらっと順番に睨《にら》みをくれると、それぞれ、大急ぎで目を逸《そ》らすか下を向いた。
ただし、最後に視線を止めたレインだけは高々と顔を上げ、真っ向からヴィルゴの視線を受け止める。
背筋を堂々と伸ばした立ち姿と表情には、誰が見ても恐怖心の欠片《かけら》も見当たらず、むしろ挑発的ですらある。
傲然《ごうぜん》とヴィルゴの視線を受け止めたまま、レインは試しに呟《つぶや》いてみた。
「――我が手に戻れ!」
言下《げんか》に、魔剣がザンジの死体から消え、レインの手に転移した。
「真の主《あるじ》の元へ自動的に戻るだけかと思ったら、直接呼びかけても応えるのか。……色々と奥が深い剣だ」
他人ごとのように言う。
ヴィルゴは聞いていなかった。
「シャレた真似をしくさりやがって。まさか、そんな魔法がかかっていたとはな! けど、これで済んだと思ってるなら、おめーはとんだおめでたい野郎だ」
「なにが『そんな魔法』だ。おめでたいのはおまえだ、デカブツ」
冷静に言い返し、レインはまたしても機先を制した。
痩身《そうしん》をすっと低くし、微《かす》かな気合いの声とともに、魔剣を斜め上に一閃《いっせん》。さらに返す刀で、真横へ引き裂くように剣を薙《な》ぐ。
周囲の人間には、レインが素振《すぶ》りでもしているようにしか見えなかっただろう。
激しい勢いの斬撃《ざんげき》は、なおも続く。
そのスピードが加速度的に上昇していき、死者を誘う不吉な笛の音のような剣風が鳴る。
数秒後、レインはぴたっと剣を止めた。
魔法のオーラが残した光の軌跡《きせき》が、すうっと消えていく。
静かに元の立ち姿に戻るレイン。
終始ぽかんと見ていたヴィルゴは、馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「はっ。なんだそりゃ? ウォーミングアップのつもりかよ。だが、素振《すぶ》りで人は殺せないぜぇ」
「……それはどうかな。この剣に限っては、そうとも言えないぞ」
「はっは! ハッタリにしても、もっとマシなのを考えなっ。やっぱりガキはガキだわな」
なあ、みんな――
同意を求めて仲間を振り返ったヴィルゴは、そこで顔をしかめた。手下達が全員、ひどく虚《うつ》ろな表情で空を見つめていたからだ。
「……なんだ、おめーら。なにをぼけっとしてる。おい、おまえ――」
たまたますぐ側《そば》にいた手下の肩に、ヴィルゴが手をかける。その時を見計らったように、ぐらっと男の首が傾き、そのまま――ごろんと頭部が落ちた。
それどころか、肩口から手も外れ、これまた派手に血を噴《ふ》き上げて下にぼとっと落下した。
「うおっ」
元手下の血飛沫《ちしぶき》を全身に浴び、さすがのヴィルゴも飛び退《の》いた。
ささっと見渡すと、仲間は全員が一人の例外もなく、手足や胴体やさらには首まですっぱり切り落とされ、バラバラと崩れていく所だった。
たった数秒足らずの間に、辺りには血の匂いが満ち、ヴィルゴ以外は死に絶えていた。
「ばか……な。あの伝説は、真実だったてのか」
驚愕《きょうがく》の響きを滲《にじ》ませ、ヴィルゴが囁《ささや》く。
「さっき宣告しただろう、まともに戦う値打ちもないと――。こんな遠隔攻撃など使いたくなかったが、おまえ達には相応《ふさわ》しい死に様だ」
冷徹なその声に、ヴィルゴはやっとレインを見た。表情が屈辱と恐怖に歪《ゆが》み、八つ当たりのように怒鳴った。
「き、きたねーぞ! そんな剣を使うのは、ただの虐殺《ぎゃくさつ》だろうがっ」
「汚い? 虐殺《ぎゃくさつ》? よくもまあ、おまえの口からそんなセリフが出てくるものだ」
唇を吊り上げるレイン。
「だが安心しろ。おまえだけはちゃんと、俺が直接|斬《き》ってやる」
「し、信じられるかっ」
光る額に大粒の汗を浮かべ、ヴィルゴは唾《つば》を飛ばす。
「あの『見えない斬撃《ざんげき》』だって、どのみち俺の『力の波動』が元になっているんだがな」
レインは肩をすくめ、手にしていた魔剣を近くの地面に突き立てた。そのまますすっと前進してくるのに合わせ、ヴィルゴは慌《あわ》てて後退する。
ザンジの亡骸《なきがら》まで来ると、レインは死者のベルトから長剣を外し、すらっと刀身を抜いた。
「おまえ達と違って、俺は約束は守る。この剣で戦うなら文句あるまい?」
せわしなく背後の魔剣とレインを見比べたヴィルゴは、ややあってようやく落ち着きを取り戻した。
「ふん……一応、本気のようだな」
言ってから、改めて顔をしかめた。
安心したせいで現金にも恐怖が引っ込み、腹立ちが蘇《よみがえ》ったらしい。
「くそっ。苦労して大きくした俺の一党を、あっさり全滅させやがって。また一からやり直しじゃねーか! ザンジじゃねぇが、仕返しせずにはおれん!!」
「この後の心配など、おまえには無用だ」
「ほざけっ。こう見えても俺は、賭け闘技で五十人以上は殺してんだ! あのとんでもねー剣さえなきゃ、おめーなんかに負けるかあっ」
ヴィルゴは瞬時《しゅんじ》に抜剣《ばっけん》し、巨体を突進させて頭上から大振りの一撃を振り下ろした
寸前でレインは飛び退《の》いた。
真っ白な閃光《せんこう》が、代りに豪快に大地を抉《えぐ》る。
容赦《ようしゃ》のない剣撃《けんげき》であり、馬鹿力のせいで深々と溝が出来ていた。
普通の長剣なら、刀身が折れていただろう。
「貴様、ホークの魔剣を横取りしたな。つくづく救いようのないヤツだ」
ヴィルゴが手にした、白く輝く長剣を見やり、レインは黒瞳《くろめ》に険を浮かべた。
「へっ。勝った方が負けた方から戦利品をぶんどるのは当然だろうがっ」
「ならば、ホークに代って俺がおまえを斬《き》る!」
「逃げるだけしか能がねーヤツが、なにをほざきやがるっ。死ねーーっ」
ヴィルゴがまた、破壊的な一撃を繰り出す。白銀のオーラを纏《まと》う魔剣が、レインの頭上を今度こそ襲った。
頭の先から股の間まで一気に切り裂き、勢い余ってまたもや大地に刃を食い込ませ、ヴィルゴは会心の笑みを見せる。
「さすがは魔剣だ! ほとんど手応えもなく――」
セリフの途中で、ヴィルゴはあんぐりと口を開けた。見上げたレインの黒影が揺らぎ、空に溶け込むように消えてしまったからだ。
「なんだ、どういうこ――がっ」
突如として背後から膝裏《ひざうら》を蹴られ、立ち上がりかけた状態からがっくりと膝をついた。
「――! ぬおっ」
さらに、背骨も折れよとばかりに背中を蹴っ飛ばされた。
たまらず、顔面から地面に突っ込む。丁度、大地に頭を擦《こす》りつけ、土下座するような姿勢になってしまう。
慌《あわ》てて飛び起きようとしたが、なぜか身体が痺《しび》れたようになって動かない。そこまでの痛手ではなかったはずなのに、なんとしても動かなかった。
「なにが『ほとんど手応えもなく』だ。俺の動きがさっぱり見えなかったらしいな。だからおまえは、めでたいと言うんだ。馬鹿力だけでは俺は倒せない」
背後からの静かな声。
例のクソガキが、真後ろにいるのだ。
――多分、斬《き》ってくれといわんばかりの、こちらの無防備な背中を見下ろしつつ。
「て、てめぇ、なにしやがった! か、身体がうごかねーっ。きたねーぞっ」
「言ってもわからんだろうが、人体には致命的な急所が幾つもある。そこを一撃されると、どうしたってしばらくは身体が動かない。……そうやって、地面に頭をつけたまま死ぬがいい。それがおまえには似合いだ」
次の瞬間、背後に立ち上る凄まじいばかりの殺気。
それは、気配を読むのが苦手なヴィルゴにさえ感じ取れるプレッシャーで、さすがの彼も、今や自分が死に直面しているのがわかった。プライドも意地もどこぞに吹き飛んだ。
たまらず、悲鳴がほとばしる。
「ま、待て! いや、待ってくれ。お、俺のま――」
「もう遅いっ」
ザンッ。
首筋に鋭い痛みを一瞬だけ感じた途端《とたん》、ヴィルゴのセリフはふっつりと切れた。
――☆――☆――☆――
首筋を貫いた剣によって固定されたヴィルゴを見やり、レインは長々と息を吐いた。
別に満足感などなく、ずっと前にやるべきだったことをようやく片づけた、という気持ちである。
身をかがめ、ヴィルゴの手からホークの魔剣を取り戻した。その後、重い足取りで自分の魔剣と鞘《さや》を回収し、元通り帯剣《たいけん》する。
顔を上げた時、村人達全員の視線が自分に注がれているのに気付いた。
それは、当惑と怯《おび》えとが入り交じった居心地の悪い目つきで、レインは思わず立ち止まってしまう。が、ともかくも一番近くにいたハンナに、無事を確かめようとした。
片手を伸ばし、
「ハンナ、大丈夫――」
語尾は、風に溶け込むように消えた。
ハンナは……どんな時もレインのそばにいたがったはずの少女は、この時、数歩|後退《あとずさ》ったのだ。
そして、凍り付いたように静止したレインを見てハッとした顔になる。
口元を両手で覆《おお》って、「ご、ごめんなさい! そんなつもりじゃなかったの……ごめんなさいっ」と声に出して謝る。
レインは差し出した状態で止まった自分の手を見た。ヴィルゴの物だと思うが、返り血が点々と飛んでいる。いや、手だけではない。黒いから目立たないが、服だって血で重く湿っていた。
無理もないと思う……どんな理由があろうと、こんな殺戮《さつりく》をやらかした後で、子供が怯《おび》えないはずがないのだ。
いや、子供だけではない。大人だって同じだろう……彼らの目つきをみれば、一目|瞭然《りょうぜん》ではないか。
自分の迂闊《うかつ》さにあきれた。
ともかくも無理に微笑み、「いいんだよ」と首を振ってやった。そこへハンナの母親が飛んできて、あっという間にレインの前から娘を引き離した。
「ま、待って、ママ。レインっ」
ぐいぐい後ろへ引っ張られていくハンナに、レインは哀《かな》しい笑顔を向けたまま、軽く手を上げた。
「気にしなくていいんだ。無理もないし、当然なんだよ。……俺になんか、関わるべきじゃない」
さようなら、ハンナ。
別れの挨拶《あいさつ》は、多分ハンナに届いたと思う。返事は呻《うめ》き声しか聞こえなかったけれど。
というか例え彼女が返事したくとも、母親が背後からハンナを抱き締め、さらにはその口元まで塞《ふさ》いでいたため、不可能だった。
もはや徹底的に、レインと関わらせたくないらしい。あの母親は正しい、とレインは思う。
そのままふらっと群衆の中を分け入り、村の外を目指す。レインが歩くと、村人達は皆、そそくさと道を譲った。
その中を、黒衣《こくい》のレインだけが、一人で抜けていく。
いや、家々を抜け、いざ村からも出ようという所で、一人だけ追いかけてきた。
「――君っ」
振り返ると、ハンナの父親だった。
日に焼けた木訥《ぼくとつ》そうな初老の男が、気遣うような表情でレインを見ている。
「なんだ?」
「用ってほどじゃないが……大丈夫かい? 随分と憔悴《しょうすい》しているようだ。顔色も悪いよ」
「どうってことない。ちょっと疲れただけだ」
「そうか……ならいいんだが。その――」
意を決したように、レインと目を合わせた。
「皆は気味悪がっていたが、私は君に感謝していると言いたかったんだ。君が来てくれなきゃ、娘を初めとして仲間が幾人も死んでいたかもしれない……あいつら、脅しのために今にも殺し始める所だった」
なんとなく愛娘《まなむすめ》の死を想像したのか、男はぶるっと身体を震わせた。
「俺は自分の都合で戦ってただけだ。あんたが気にすることはない」
言ってから、ふと思い返してゆっくりと話す。
「……けど、もし良かったら一つだけ頼みがあるんだが」
「聞こう。私で役立てるなら、やるよ」
「奴らの後始末は役人がやるとして――。それとは別に、下の小屋の前でホークが亡くなっているんだ。墓を掘ってやろうと思ったが、こんな血まみれじゃ、彼が悲しむだろうし……」
自分の血に染まった手を見て、唇を噛《か》む。
「だから――」
「わかった、わかったよ」
途中から、男が引き取った。
「あの人には世話になったんだ。それくらい、喜んでやるとも」
「そうか、良かった……」
暗い表情だったレインは、やっとにこっと笑い、小さく頭を下げる。
「ありがとう……助かった。これも一緒に埋めてやってくれ。ホークの戦友だったろうしな」
片手に持っていた魔剣を渡す。
男は魅せられたようにレインの笑顔を眺め、渡されるままに受け取った。
「――ハンナによろしく伝えてくれ」
次の瞬間、早くも背中を向け、レインは歩み去っていく。
父親が再び大声で礼を述べたが、後ろ手にすっと片手を上げたのみで、少年はもう振り返らない。
夕陽を浴びた黒影が少しずつ小さくなり、やがて峠の向こうに完全に消えていった……
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あとがき
二冊目の「レイン」を出すことが出来ました。
どうもありがとうございます。
本を出した後でも、私の生活は特に変わっていません。やはり毎日書き続ける日々です。
違いがあるとしたら、書いている小説群のうち「レイン」は書籍化される可能性がある、という点でしょうか。
レインともだいぶ長い付き合いになります。
その癖、まだ掴み切れていない部分がたくさんあるんですね。
なにしろ、レインはかなりわがままだし素直じゃないし、おまけに自信満々そうに見えて、実はごってりと苦悩を抱えているわけです。
本当はつらい時にも、顔だけ見ると不敵に笑っていたりするので、全く油断がなりません。レインについて揺るがぬ確信を持っているのは、多分シェルファくらいのものでしょう。
実際、作中キャラの何人かは、レインの傲慢《ごうまん》なセリフとふてぶてしい表情に騙《だま》されている気がします。
――そういう私も、時に彼らと同じく、レインに騙《だま》されているのかもしれませんが。
レインを書いていると、どうも私の方が彼に引きずられているようなので。
長く付き合っていくうちに、レインのことがもっとよくわかるといいのですけどね。
今回もたくさんの方にお世話になりました。
この本を出すにあたり、ご助力をくださった全ての方達にお礼を申し上げます。
最後はもちろん、この本を手にしてくださったあなたに、精一杯の感謝を。
[#地から1字上げ]二〇〇六年三月 吉野匠 拝
吉野匠(よしのたくみ)
東京都内にて生誕。しかし父の死以後、田舎へ引っ越す。自分の小説が本になるのを夢見て、せっせと書き続けるかたわら、HP上にて毎日更新の連載を始める。その中でも特に「レイン(雨の日に生まれたレイン)」がネット上で爆発的な人気となり、遂に同作で出版デビュー。現在もHP上での連載は毎日更新を続行中(の予定)。
装丁・本文イラスト―MID
装丁デザイン―オレンジボックス
HP「小説を書こう!」
http://homepage2.nifty.com/go-ken/
イラスト:MID
http://midlibro.nobody.jp/home/
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底本
アルファポリス 単行本
レイン2 招かれざる帰還
著 者――吉野《よしの》 匠《たくみ》
2006年4月15日 初版発行
2006年4月20日 2刷発行
発行者――梶本雄介
発行所――株式会社 アルファポリス
[#地付き]2008年11月1日作成 hj
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底本のまま
・炯々《とうとう》