吉行淳之介
美少女
薬
繁華街の一角にあるビルの一室が、レストラン「雅《が》」になっている。マダムの大場雅子の名前をとって、その店名ができた。テーブルが四つだけの狭い店だが、壁には六十号ほどのシャガールが掛けられてある。無造作に掛けられてあるので、模写の品物かと疑われるが、これが本物である。
本物と分ると、この店はマダムの道楽商売のような気がしてくる。
五月の日暮れどき、窓ぎわの席に坐って、食後の紅茶を飲んでいる男がいた。その男と向い合わせの椅子に腰をおろした大場雅子は、
「シロタさん、お料理いかがでした」
相手の顔をのぞき込む仕種《しぐさ》をした。常連の客に愛想をいうのとは、もうすこし親密な素振りである。それに身のこなし自体が職業的でなく、しろうと風のぎこちなさがあって、それが含羞《はにかみ》のようにみえることがある。三十二、三歳というところか。彼女と同じ年頃の城田祐一は、
「結構でした。オックス・テールが、上出来だった」
「それは、よろしかったですわ。わたし、ここで、紅茶のおつき合いをさせていただくわ」
そういう言葉づかいが、不意に崩れて、
「なんだか朝から頭が重くて……」
片方のこめかみを指先でおさえ、憂い顔になった。技巧的な感じではなく、顔に靄《もや》がかかったような、齢に似合わぬういういしさがあった。
「どこか、躯《からだ》の加減でも……」
「べつに、どこといって」
「退屈しはじめたかな」
城田は窺《うかが》うように、相手を眺め、ポケットを探ると小さなガラス瓶《びん》を取り出した。蓋を開き、黄色い錠剤を二粒、掌の上に載せた。その掌を大場雅子の前に差し出し、斜めに傾ける。掌からすべり落ちる二粒の薬を、彼女の掌が受けた。
「ともかく、これを嚥《の》んだらいい」
そう言いながら、彼は自分の前の水のコップを差し出し、
「この水、まだ口をつけていないから」
雅子は薬を口に入れ、コップの水を含む。咽喉《のど》の筋肉がわずかに上下に動き、二粒の錠剤は胃の腑《ふ》に落ちて行く。ほとんど無意識の動作のように、彼女は薬を嚥んだ。
城田は正面から彼女の顔を眺め、真面目な声で言った。
「その薬、嚥んでしまいましたね」
「あら」
「どういう薬か、たしかめないで、嚥んでしまった」
「どんな薬だったの」
「たいへんな薬だ」
大場雅子は、片手をあげて揃《そろ》えた四本の指を咽喉に当て、眼を大きく見開いてみせた。いくぶんの不安はあるが、芯《しん》から驚いているわけではない。
「もし毒だったら、どうする」
「城田さんに毒を嚥まされるなんて、そんな仲じゃないもの」
「他人の心は分りませんよ。自分勝手にきめていると、とんだことになる」
「信用しているもの。だから、そのまま嚥んだのだわ」
「薬を渡した相手が誰でも、素直に、疑わないでそのまま嚥んでしまうようなところがあるな。そこが、あなたの魅力でもあるが」
「それで、どんな薬だったの」
「死にはしません」
「大袈裟《おおげさ》ね」
「しかし、たいへんな薬だということには、間違いない」
そう言いながら、彼も掌の上に二粒の薬をころがして、それを口に入れた。
「城田さんも嚥んだのね、安心したわ」
雅子は燻《くす》ぶっているような笑いを、眼と唇に浮かべ、
「悪趣味な薬かとおもったわ」
「悪趣味な薬?」
「あるじゃないの、いたずら玩具《おもちや》に似たもので」
「そうか、ひどい下痢をするとか」
「いやあね、下痢なんて」
「それじゃ、おならが出て、とまらなくなるとか」
「そんな……」
「しかし、分りませんよ。そういう薬をあなたに嚥ませ、ぼくも嚥んだのかもしれない。一緒におならが出はじめる。とまらなくなる。おならの合唱だ。そうしているうちに、気持が通じはじめる。愛し合うようになる……」
大場雅子は、俯《うつむ》いて笑いをこらえている恰好だったが、やがて顔を上げると、
「ずいぶん、面白がらせてくれるのね」
と言った。
城田祐一は、むしろ真面目に、
「ぼくの役目は、あなたの快楽コンサルタントですからね」
「ありがとう」
「お礼を言われるのは、まだ早い。快楽というのは、これはこれで、奥が深いものですからね。あなたには、初心《うぶ》なところがあるのでね、まだ入口のあたりをご案内しているわけだ。だから、先のたのしみが長いというものです」
「わたしのような女は、便利でしょうね。面白がらせるのに、ほんのちょっとした材料があればいいもの。なんでもない栄養剤でも、十分な種になりますものね」
そう言う雅子にたいして、城田祐一は唇のまわりにだけ笑いを浮かべて、
「あれは栄養剤ではない、もっと、べつの、大変な薬ですよ」
「どんな具合に、たいへんなの」
「いまに分る」
それだけ言うと、彼は窓の外に眼を向けた。この二階のレストランの窓からは、両側に並木の植わっている道を歩く人々の姿が、はっきり眼に映ってくる。女たちは初夏の軽装で、舗道をハイヒールの細い踵《かかと》の打つ音が聞えてくる気がする。
「こうやってちょっと眺めている間でも、きれいな若い女の子が何人も歩いているわね」
城田にならって、窓の外を眺めていた雅子が言う。
「たしかに、いまの若い女は、自分の特徴を上手に飾ることを知っているな。だから、おやとおもう女はいくらでも見付けることができる」
「だけど、素晴しい美人というのには、滅多に出会わないわね」
「素晴しい美人か」
気乗りのしない語調で城田が言い、雅子は、
「あら、気のない声ね」
「うん」
「最初から縁がないとあきらめているの?」
「それもありますがね。物凄《ものすご》い不美人というのが出来そこないの感じを与えるのと同じように、素晴しい美人というものは、これもどうも出来そこないのような気がするんだ」
なにか言いかけた雅子は、不意に眼を光らせて、
「あら、向うの歩道に……」
城田の注意を促した。
丁度、一人の少女が向う側の歩道から車道に一歩踏み込み、普通の足取りで斜めに横断しはじめたところだった。眼の大きい、鼻の先が軽くつまんだように上を向いている派手な顔だちである。
「きれいな娘《こ》ね」
と、大場雅子は、その少女の動きを眼で追いながら言った。
「でも、日本人にしてはすこし……」
「日本人にしては、いささか外国人みたいだ。つまり、混血児《あいのこ》というわけですね」
「きれいな娘ね」
もう一度、雅子がそう言ったとき、
「そうでしょう」
と、城田祐一が言った。
「そうでしょう、って、まるで自分の持ちものを自慢しているみたいじゃなくって」
「持ちもの、というわけじゃないが」
「あら、それじゃ、知っている娘なの」
「いま、ここに来る筈です」
たしかに、その少女の脚は、レストラン「雅」の入口へ向って動いているようだ。雅子は半信半疑の眼を城田に向け、
「ほんとかしら。それにしても、あんな綺麗《きれい》な娘なのに、誰も振り向かないわ」
「素晴しい美人、というわけじゃないから」
「そうね。チャーミングといったほうが、当っているわ」
「それに、人が振り向かないのには、理由がある」
「どんな理由」
「振り向かないように、ぼくがおまじないをしておいた」
「また、そんな出鱈目《でたらめ》……」
雅子が軽く睨《にら》んだとき、その少女の姿が「雅」の入口をくぐった。
その少女が城田たちのテーブルに近づいたとき、彼は身振りだけで、自分の隣の椅子を示した。細い躯だが、胸と腰が大きく張っているのが分る。
少女が、その椅子に坐る。
「ほんとだったのね」
そういう雅子の眼を見ながら、
「三津子、というんです」
と城田は紹介し、相変らず雅子だけを見ながら、
「付《つ》け睫毛《まつげ》みたいだが、自分の睫毛なんだ」
三津子という少女は、黙って雅子に会釈すると、
「あたし、遅れたかしら」
「きっかり、約束の時刻どおりだったよ」
「お食事まだなんでしょう」
雅子が口を挿《はさ》むと、
「いいんですよ。デザートだけの約束なんだから」
替りに、城田が答え、
「なににする、プディングと紅茶といったところか」
と、雅子の顔を見ながら言う。
「わたしの方を見てそんなことを言わないで、三津子さんに訊《たず》ねてごらんなさいよ」
「ぼくが、隣の方を見ないのには、理由がある」
「なんでも理由があるのね、どんな理由なの」
「気違いだとおもわれたくない」
「気違い? それ、どういうわけ」
雅子はいささか呆《あき》れたように、城田の顔を見た。そして、ふと気付いたように、
「うちのボーイさん、どうしたのかしら。新しいお客さんがみえているのに、註文《ちゆうもん》を取りにこないわ」
大場雅子はかるく手を上げ、指を動かしてボーイの注意を促した。そういう仕種が優雅にみえる女である。
白服のウェイターが、大場雅子の椅子の傍《そば》に立った。
「こちらのご註文をうかがって頂戴。紅茶とそれから……」
「は?」
ウェイターは、怪訝《けげん》な顔を城田に向け、
「紅茶のおかわりでございますか」
大場雅子はたまりかねたように、平素に似合わない強い口調で、
「ぼんやりしちゃ駄目よ。城田さんのおとなりのかたの註文をうかがうのよ」
「は?」
ウェイターは、怪しむ表情を濃くして、
「おとなりのかた、とおっしゃっても、どなたもいらっしゃいませんが」
「なんですって?」
雅子は、三津子を確かめるように眺め、そしてウェイターの顔を見た。そのとき、城田が口を挿《はさ》んだ。
「このボーイさんが悪いわけじゃない。見えないのは無理もない。君、ぼくのこのとなりには、椅子が一つあるだけだろう」
「はい、そうです」
ウェイターは、真顔でうなずく。
「いったい、どういうわけ」
大場雅子は、曖昧《あいまい》な顔になっている。
「いま、三津子は透明人間になっているのですよ。だから見えないのは、無理もない」
「でも、わたくしたちには、見えているじゃありませんか」
「それは、さっき嚥んだ薬のせいですよ。だから、たいへんな薬だ、と言ったではありませんか」
「ほんとに、たいへんな薬ね」
雅子は城田をかるく睨み、ウェイターに向って言った。
「ここに、きれいなお嬢さんが坐っているのよ。ほんとうに、見えないの」
「はい、見えません」
「そう、見えなくても、紅茶とプディングを召し上るそうだから、持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
ウェイターは一礼して、去って行く。その背中をしばらく見送っていた大場雅子は、城田のほうに向き直ると、
「城田さん、あなたの今度のテレビのお仕事には、透明人間が出てくるのね」
「そういうわけでも……」
彼は曖昧な返事をする。城田祐一は、テレビ・ドラマの作家であるが、コマーシャル・ソングを書いたりディスク・ジョッキーのつなぎの文章を書いたりもしている。
「なかなか凝ったお芝居だったわね。うちのボーイさんを買収したりして」
「買収だなんて、信じないのかなあ」
丁度、ウェイターが、紅茶と菓子を運んできた。三津子が坐っている前の空間を、探るような覚束《おぼつか》ない手つきで、茶碗と皿を並べている。
「まだ、何も見えないの」
雅子が念を押すように言うが、ウェイターは、
「見えません」
と、生真面目な声で返事をするだけである。雅子は、ウェイターに言い付けた。
「ちょっと、余志子を呼んできて頂戴」
余志子というのは、レジスターに坐っている少女である。色が白く、ぽってりと肥って、いつもねむそうな腫《は》れぼったい眼をしている少女で、大場雅子のお気に入りである。腹心の部下、といってもよい。ウェイターが去ったとき、城田が、
「そろそろ薬が切れてきたな」
「ええ、切れてきたわ」
鸚鵡《おうむ》がえしに、三津子が言う。
「なんの薬、わたしたちの? そうしたら、わたしたちにも見えなくなるわね」
雅子が言う。
「いや、三津子に嚥ませた薬ですよ。だから、そろそろ姿が見えはじめることになる」
三津子は、黙って、紅茶茶碗を持ち上げて、口に運んでいる。
余志子が近寄ってきた。
「余志ちゃん、いま、城田さんのとなりで、紅茶のお茶碗だけ宙に浮いているかしら」
「え? 宙に浮くって……、女のかたがお茶を飲んでいらっしゃいますわ。だから、お茶碗は、テーブルから離れていますけど」
そのとき、城田と雅子が、同時に言った。
「それじゃ、薬が切れたんだ」
「嘘つきね」
城田は、雅子の眼を見ながら、
「最初から、嘘だとおもっていたんでしょう。しかし、このことだけはよく覚えていてくださいよ。つまり、ぼくたちが薬を飲んだ。そうしたら、三津子さんの姿が見えた。しかし、薬を嚥まない人間には彼女の姿が見えなかった時間があった、ということ。それは、たぶん嘘だろう、しかし、もしかすると本当かもしれない……。この、もしかすると、という気持を捨てないでほしいな」
地下室
レストラン「雅」を出た三津子は、城田祐一と並んで歩きながら、
「あれで、あたしの役目は済んだの?」
「そうだ」
「あのマダム、あたしのことを透明人間だとおもったかしら」
「まさか。そんなものが世の中にいるわけがないもの」
「それなら、なぜあんなに手数をかけて、あたしのことを透明人間に仕立てたの?」
「ぼくの頭の中にある筋書きの最初の部分に、そのことが必要だったんだ。まだ幕は上ったばかりだよ、いまに分ってくるさ」
そのとき、向うから歩いてきた若い男の肩が、三津子の体に突き当った。よろめく三津子をちらりと振り返っただけで、その男は急ぎ足で行ってしまった。
三津子は立ち止まると、曖昧な顔で城田を見上げ、
「こうやって、あたしがここに立っているのが、見えている?」
「もちろん見えているが、どうして……」
「だって、いま、あんな具合にぶつかられたでしょう。あたし本物の透明人間になってしまったのじゃないかって、心配になったのよ」
「そういえば……」
城田は眼を細く開いて、三津子の姿を眺め、
「きみの躯の輪郭がおぼろげになってきたぞ」
そう言いながら、両手を前へ突き出し、空間を探る手つきで、三津子の胴を両側から挟《はさ》みこむように掴《つか》んだ。
「なにも見えなくなったぞ。ここはウェストかな」
細くくびれた胴を挟みこんだ二つの掌を動かして、乳房の輪郭をさかさに撫《な》で上げる。
「厭《いや》ねえ」
三津子は笑いながら、ぴしりと城田の手の甲を打ち、さっさと歩き出した。城田はいそいで彼女に追いつき、並んで歩く。
三津子は、屈託のない足取りで歩いて行く。道の傍に軒をつらねている商店の飾窓には、いろいろの品物が並んでいるが、彼女はまったく関心を示さない。
「どこへ行くつもり?」
と、三津子が訊ねた。
「きみは?」
「あたし、べつにアテがないの」
「へえ?」
「どうしたの」
「きみは忙しい女の子だから、すぐどこかへ行ってしまうだろうとおもっていたんだ。でも、予定がないのだとしたら、話が違ってくる」
「あたしが、どこかへ行ってしまっていたら、城田さん、どこへ行くつもりだったの」
そして、城田の返事は待たず、すぐ付け加えた。
「今日の城田さんには、さっきのレストランでの時間が一番大切だったのね。それ以外の時間の使い方なんか、考えてはいなかったのでしょう」
「なかなか鋭いね」
城田祐一は苦笑しながら、それでも年上の男の余裕をみせている。
「好きなの? あのマダムのこと」
「気にかかる女というわけだ」
「つまり、好きなのよ」
「エレガントという言葉があのマダムに似合うところが気にくわない。すこし、揺すぶってやりたいんだ」
「そういう気持をもつというのは、好きなのよ」
「そういうことになるか」
そう返事した城田は、ふと立ち止まって、まじまじと三津子の顔を見た。
「どうしたの」
「ずいぶん一人前の口をきくとおもってね。話をしているのがきみだということを、忘れるところだった」
「あたし、一人前じゃないというの」
「いや、十分に一人前だが」
城田は、わざと視線を露骨にして、三津子の躯の輪郭を撫でた。
「厭な眼。あたしがここでいなくなったら、どこへ行くつもり」
もう一度、三津子が訊ねた。
「そうだな、酒場でも覗《のぞ》いてみることになるか」
「あたしも連れて行って」
「きみが一緒ということになると、話は別になる」
「どうして」
「女の子を連れて、女の子がいっぱいいるところへ行くのも、気のきかない話だ」
「いいじゃないの、連れて行ってよ」
「仕方がない」
地下室につづく狭い階段を、城田と三津子は前後して降りて行く。その地下室が、酒場「紅《べに》」になっている。
カウンターの隅の椅子に、城田と三津子は坐った。椅子をまわすと、その位置から店の中が見渡せる。
「きれいなひとが沢山いるのね」
と、三津子が言う。
たしかに、この店には美女が揃っている。それに、若い女が多い。丁度レストラン「雅」ほどのスペースの店で、そういう狭い店の割に、ホステスの数が多い。こぼれるほど花を盛った小さな花籠のような印象を、店全体が与えている。
その美女たちは、一向に城田の席に近寄ってこない。
「城田さんも透明人間になってしまったのかしら」
と、三津子が言う。
「なぜ」
「だって、女のひとが誰も傍に来ないじゃないの。見えているなら、サービスに来るわけでしょう」
「女づれだから、遠慮しているんだよ」
と、彼はバーテンに飲物を註文した。
運ばれてきたジン・フィーズのグラスの縁を噛《か》むように唇を当てたまま、三津子はあらためて店の中を見まわしている。その視線をなぞるように、城田も店の女の一人一人に眼を向けて行く。
杏《あんず》の種のような形の大きな眼をつけた、大柄な女がいる。眼尻を釣り上げた濃い化粧をしているので、まるで眼が縦についているようだ。凄味のある美人だが、気性はさっぱりしていて陽気である。いつか店が終ったあとで鮨屋《すしや》へ誘ったら、ヒヤ酒をコップで幾杯も飲んで、げらげら笑って止まらなくなった。
「しかし、あの女とはまだ寝たことがない」
と城田は考えて、次の女に眼を移す。
ふくらみかかった花の蕾《つぼみ》のような唇をした女がいる。透きとおるほど青白い肌で、眼は黒目ばかりのようにみえる。顎《あご》のとがった細おもてなのだが、日によって、その顔の輪郭がいくぶん締まりのないようにみえることがある。デリケートな顔なので、僅かなことで美にもなり醜にもなる。今日は、細いきれいな顔をしている。それに、引き締まった胴から形よくふくらんだ腰の線。おいしそうな小柄な女……。
「あたしのは、針の孔《あな》よ」
と、あるときその女が言った。
「糸を通すのは、むつかしいか」
「そう、むつかしいわ」
「しかし、針の孔に糸を通したのでは、不満足なのだろう」
「ふふふ」
「針の孔に棒を通すのだから、これはますますむつかしい」
その葉子という女とは、危険な会話は何度となく取りかわしているが、しかしまだ寝たことはない。
焦茶色の顔をした女がいる。由美という女である。ドーラン化粧かとおもうが、よく見ると素肌である。化粧はアイシャドウと口紅だけだ。オリーブを塗りこんで、太陽で焦した肌らしい。五月の日光はまだそんなに強くない筈なのだが……。現代風の美人というテーマで写実の絵をかけば、こういう具合になる、といった顔立ちをしている。表情の移りかわりも素早くて、きびきびしているが、時折、唇も顔の筋肉も弛《ゆる》んだだらしない表情をしていることがある。
「おい、一度やろうか」
「うん、やろう」
時折、そんな会話を取りかわすことがあるが、まだ寝たことはない。
大きな眼を見開いているが、その眼の焦点を捉《とら》えにくい女がいる。斜視と分らぬ程度のかるい斜視である。白眼の部分が、薄い水色にみえ、それが綺麗だ。顔全体に、薄く汚れたような翳《かげ》があって、それがひどく官能的である。一度寝てみたい、とおもっているが、まだ寝たことはない。
顎のしゃくれた小さい顔をした、小柄な女がいる。眼が素早く動き、ときどき狡《ずる》そうな光を放つ。受唇《うけくち》で、笑ったあと、しばらく口にだけ笑いが残る。閉じ忘れた口に、赤い舌の先がしばらく見えているような錯覚を起させる。
その理加という女が、いま城田の近くのテーブルについている。短く切りそろえた髪の毛を揺すりながら、活溌《かつぱつ》に傍の客と話をしている。そういう会話の合間に、ふと空白な時間がきたようだ。唇をかるく開き、眼は放心したように宙に浮かんでいる。冴《さ》えない褐色の皮膚が目立った。
不意に、城田祐一は、そういう女の顔をひどく身近かに感じた。他人ではない女の顔、以前長い間一緒に暮したことのある女の顔、そのような顔としていま彼の眼に映っている。……しかし、彼はまだその女と寝たことはない。
そして、傍の三津子とも、もちろん躯の関係はない。
「これは、どういうことか」
新しい発見でもしたように、彼は自分に問いかけた。長い間、大場雅子のことでいっぱいだった、とでも言うのか。その答えに、彼は半ば頷《うなず》く。
それでは、大場雅子にたいして、如何《いか》にありたいのか。大場雅子の恋人になりたいのか、あるいは……、彼女が未亡人であり、城田祐一が独身者であるからには、結婚も成り立つ。
いやいや、彼は首を横に振る。そんなことではない、もっと別の、もっと複雑な関係を持つことを、自分は大場雅子に望んでいるのだ、と城田は自問自答している。
「あら城田さん、いらっしゃい」
マダムの圭子が、挨拶しながら傍の椅子に坐り、
「きれいなお嬢さんね、どこのかた?」
視線を三津子に当てる。品定めするような、職業的な眼つきになっている。
「どこのかた、って、日本のかただよ」
城田は、わざとマダムの質問を斜めに受け止めた。
「それは分ってますわ」
「しかし、アメリカのかたかもしれないよ」
「だって、お顔を見れば分りますわ。それは、いくぶん外国風のところがあるけど、そこがとっても魅力的だわ」
「しかし、まるっきり日本人の顔していたって、国籍はアメリカという人だっているよ」
「ずいぶん、さからうのね、城田さん」
「そうさ、マダム。どこのかた、という質問が気にくわない。このひとが、水商売の女の子じゃないことくらい、分るだろう」
たしかに、水商売の女性には、どこか共通した雰囲気《ふんいき》がある。同じ美少女でも、三津子の美しさと、この店の女たちの美しさとは、異質なものである。
「そうね、あたしが悪かったわ、どういうかた、とお訊ねしなくちゃね」
「それでいいんだ。ところが、さて、そう訊ねられると、今度は返事がむつかしいね。以前に、ぼくの書いたテレビ・ドラマに顔を出したので知り合ったわけだが。といって、テレビ・タレントというのでもないな。なにしろ、せりふも動きもない役でね、文字どおり顔を出したわけだ。ま、しいていえば、不良少女といったところか」
「あなた、そういう説明でいいの」
マダムが三津子の顔を見て言うと、
「そんなところね」
と、彼女はけろりとして答えた。
「ところで城田さん、さっき乗ってきたタクシーの運転手さんから、面白い話を聞いたわ。なにかの役に立つかもしれないから、教えてあげるわね」
平素は、挨拶して二、三言葉をかわすと、すぐ他の席に移ることを繰り返して、同じ席に長くとどまらないのがマダムの流儀なのだが、珍しく腰を落ち着けて話しはじめた。
「その運転手さんが、女のひとを二人乗せたのよ。そして、間もなく、そのひとたちが女ではないことに気付いたんですって」
「つまり、女装の男を二人乗せた、というわけだね」
「そうなの、それで、客席でその二人が話をしているのを聞いていたら、一人がモチ米を貰った、といっているんですって」
「…………」
「モチ米を貰ったから、お赤飯を炊こうとおもう……」
「所帯染みたところがいいな。それはきっと、着物をきているな。洋服を着た、ブルー・ボーイなんていうのではないね」
「そうなのよ、そのとおりなの。それからがオカしいの。その一人が、もう一人に言っているの。お赤飯炊くんだから、あんたおかま貸してよ。おかまっていったって、本当のおかまよ、と言うんですって」
「なるほど、それはいいな。笑いながら、そう言っているのだろうか」
「それが、まじめな声でね、ぜんぜん笑わない、という話よ」
「ますます、よろしい」
城田は笑いながら、あらためて店の中を見まわすと、
「この店には、いろんなタイプの美女がいるが、女装の美人というのは、いないのだろうね」
「それは、いませんわよ」
「しかし、分らないぜ」
「…………」
「いるかもしれない」
「そんな……」
「店に入るとき、身体検査をしていますかね」
「そこまではしないけど、だって、見れば分るわ」
「それが、分らないことがある。この三津子くんだって、ぼくは女とおもってつき合っているが、確かめたわけじゃないからね。ひょっとすると男かもしれない。男でないという確証は、いまのところ無いわけだ」
マダムの圭子は、城田の言葉を一向に信じていない顔つきで笑っている。一方、城田は、
「案外、この店の中に、一人くらい中身は男という女性がいるかもしれないぜ」
と言いながら、ゆっくり店の中を見まわしているうちに、その自分の言葉を信じかかる気持になった。
「まさか」
圭子は相手にせず、
「たしかに、このお店には、ブルー・ボーイという種類は不足していますわ。それから、もう一つ、足りないタイプがあるの。それがあたし、残念だわ」
そう言って、凝《じ》っと三津子を見る。城田には、答えは分っていたが、わざと訊ねてみた。
「どういうタイプかな」
「混血の女の子……、つまり、この三津子さんのような……」
スカウトするつもりだったのか。どうりで腰を落ち着けていた筈だ、と城田が苦笑しかかったとき、
「あら、傭《やと》ってくださるの。あたし、勤めてみようかな」
あっさり、三津子がそう言った。
複数について
ビルの階段を、大場雅子と城田祐一は登っている。八階建のそのビルの屋上が、ビヤ・ホールになっていて、そこを目指して二人は、階段を歩いて登っている。
階段には、ほかに人影はない。エレベーターがあるのに、わざわざ階段を使う人は、滅多にいないからだ。いま、二人は、六階から七階へ通じる階段を登っている。
「わたし、息が苦しくなってきたわ」
「もうすこしの辛抱ですよ。運動したあとのビールというのは、旨《うま》いものですからね。楽あれば苦あり、苦あれば楽ありです」
雅子は階段の途中で立ち止まると、城田の顔をしばらく見ていたが、不意に笑い出して、
「城田さんて、わたしの快楽コンサルタントだといっていらっしゃるけど、ずいぶん原始的ねえ」
「すべて原始に帰れ、ですよ。いや、いつも言っているように、あなたが快楽に関して初心《うぶ》だから、なるべく単純な形からはじめているのです」
「城田さん、あたし、それほど初心ではなくってよ」
大場雅子は眼の端で城田を眺め、その眼には思いがけず艶《なま》めいた光があった。城田は、その眼を見返した眼を、一瞬宙に浮かせ、不意に勢いよく階段を登りはじめた。
ビヤ・ホールのテーブルに向い合って坐った二人は、顔を見合わせると、やはり、笑いが出た。
「呆《あき》れたわ」
「…………」
「すっかり、汗をかいてしまったわ」
城田は、もう一度、眼を宙に浮かせ、
「汗? 雅子さんの汗は、どこに出るのですか、背中? 腕?」
「さあ、どこでしょう」
大場雅子は、そういう答え方をする。城田はすぐに平素の顔つきに戻り、
「汗をかくことで、ビールが旨くなるのです。それも最初の一杯がとくにいい。いいですか、途中で息をついてはいけませんよ。息を継ぎ足すと、その瞬間から味が落ちる」
「そんなことを言ったって、顎《あご》を上へ向けて、咽喉《のど》がみんな見えてしまうような飲み方はレディにはできないわ」
大場雅子は、中身を一口ふくんだジョッキを、すぐにテーブルの上に戻した。城田は自分の説明どおりの飲み方をすると、唇に残った泡《あわ》を、手の甲で拭った。
「いやあねえ」
「山男みたいでしょう」
「ほんとうに。ずいぶん高い山を登ってきましたものね」
しばらく雑談がつづいて、ふと思い出したような訊《たず》ね方《かた》で、雅子が言った。
「この前のきれいな女の子、三津子さんといったかしら、あのかたはどうしていらっしゃるの」
「そうだ、うっかりしていた」
そう言って、城田は手をあげてボーイを呼び、
「ジョッキを二つ」
「あら、わたしはもう沢山よ」
ビヤ・ホールのジョッキは、註文《ちゆうもん》を受けると、間髪をいれず運ばれてくる。その二つのジョッキを、城田は一つは自分の前、残りの一つを隣の空の椅子の前に置いた。
「三津子なら、ここにいますよ」
空の椅子を指して、彼はそう言う。
「また、そんなことをいって。誰も、透明人間なんて、信じてはいませんわよ」
「しかし……」
と、城田は真面目な顔になって、
「この前のときのことを、落ち着いて思い出してください。ぼくが、あなたに薬を嚥《の》ませた。そうしたら、三津子の姿が見えた。薬を嚥んでいない人たちには、三津子は見えなかった……。ところで、いまあなたは薬を嚥んでいない。とすると、もしここに三津子がいたとしても、あなたには見えないことになるわけだ」
「もしそのジョッキが」
と、雅子は空の椅子の前に置かれたジョッキを眼で示して、
「宙に浮かんで、斜めに傾いて、その中身がすうっと減っていったなら、わたしも信じるでしょうけど」
「そういうことが起れば、これはまったく面白い。しかし残念ながら、三津子はいまおなかの具合が悪いんだそうです」
彼は、空の椅子のほうに顔を向け、
「ぼくが替りに飲んでしまうよ」
と言うと、そのジョッキを取り上げ、一息に飲み干した。
「どうしても、そこに三津子さんがいることにしておきたいのね」
「そうなんですよ」
「でも、なぜ」
「…………」
「わたしに、やきもちを嫉《や》かせたいの」
「あなたは、ぼくにやきもちを嫉くとでもいうのですか。もし、そうだとすると、耳寄りの話だが」
「そんな……」
大場雅子は、一瞬妙な表情をみせて、
「でも、なぜ」
もう一度、詰問するように、言った。
「いま、説明しますよ」
そう言いながら、城田は立ち上って、レジスターに向って歩いて行く。
ビヤ・ホールを出ると、彼の足は階段のほうへ向った。
「あら、また階段を使うの」
「腹がだぶだぶになったから、揺すぶって、ビールを躯《からだ》じゅうに浸みこませなくちゃいけません」
「わたし、辛いわ。これでは、苦痛コンサルタントじゃなくって」
「快楽と苦痛は、紙一重ですよ。若いくせに弱音を吐いてはいけない」
「もう若くはありませんわ」
二人の靴の音がひびいた。あたりが静かなので、ひどく大きく、反響する。不意に、二人の靴の音が合わさって、一人の靴音のようになり、それがしばらくつづいた。
大場雅子が立ち止まった。二つ三つ、城田の靴の底が階段を打つ音が聞え、すぐにその音も消えた。すこし下から、彼は雅子を見上げている。
「困るわ」
大場雅子が、呟《つぶや》くように言う。
「どうして」
質問している口調でもなかった。しかし、彼女は答える。
「だって、こんな静かなところで、靴の音が一緒になってしまって……。なんだか居心地がわるくて……」
「居心地が悪い?」
それも、質問の口調ではなかった。城田祐一は、三、四段、階段を雅子のほうへ登って行き、すぐ傍に向い合った。
大場雅子の顎の先に指をかけ、その顔を上向かせると、彼はいきなり唇を合わせた。
唇が離れたとき、
「なぜ?」
と、大場雅子は言ったが、それはほとんど無意味な言葉である。
「これを忘れていた」
そう言ったのは、城田である。
「忘れていたって、それ、どういうこと?」
「いや……」
彼は、曖昧《あいまい》に口ごもる。大場雅子にたいしての自分の態度を、難しく考え過ぎていた。「大場雅子のエレガントなところを、すこし揺すぶってやりたい」とおもったり、「大場雅子にたいしては、恋人になりたいのでもなく、また結婚したいというわけでもなく、もっと複雑な関係を持つことだ」とおもったりしている。彼は「複雑な関係」についての青写真を頭の中に描いていないわけではない。しかし、大場雅子について、そのようにいろいろ思いをめぐらすということは、結局、彼女を大切に考え過ぎている、といえた。大場雅子は彼の観念の中に住む女で、彼女が生身の一人の女であることを、とかく忘れがちだった。
「忘れていた」
彼が言ったのは、そういう意味合いだったが、口に出してうまく説明もできないし、説明すべき事柄でもない。返事のかわりに、彼はもう一度、大場雅子の躯を引き寄せ、唇を合わせようとした。
そのとき、わずかだが烈しく躓《つまず》くようなためらいが、大場雅子にあらわれた。それはすぐに消え、やさしく唇を寄せて行く。
唇が合いそうになったとき、不意に彼は顔をうしろに向けて、片手を大きく振り、何ものかを振り払う仕種《しぐさ》をした。
「おい、抓《つね》るのはよせ」
もちろん、それに受け応えする声はなく、彼の声だけがつづいた。
「三津子くん、きみの怒るのは、もっともだが、ついきみのいることを忘れていた。なにしろ、きみは眼に見えないものでね」
そのとき、大場雅子は憤りを含んだ声で、言った。
「まだ、そんな透明人間ごっこを続けているの。もういい加減にして頂戴」
階段に当る大場雅子のハイヒールの踵《かかと》の音が、彼女の怒りを感じさせるように、鋭くひびきつづける。一方、城田祐一は、その怒りをさして気にもとめぬ顔で、靴の音も屈託のないようなひびきを立てているようだ。
二人とも、口をきこうとしない。八階から一階までの、長い階段を降りて行った。
戸外へ出ると、夜が拡がっていた。雑踏と光の夜である。コンクリートの細長い箱に閉じこめられたようなビルの階段の冷やかさに比べると、そこには人々の体温を感じるあたたかさがある。
「まだ怒っている?」
「ええ」
雅子の答えは、素気ない。
「しかし、怒ることはないんだ。お互いさまのことだから」
「お互いさま、ですって。それ、どういうことなのかしら」
「あなたの傍にも、透明人間が一人いるということです」
「…………」
宙を探っている眼に、雅子はなった。
「さっき……、二度目に接吻しようとしたとき、不意にあなたは二人になった。もう一人の誰かが、あなたの中に訪れてきて、ぼくとあなたのあいだに挟《はさ》まってしまった。ぼくには、それがはっきり分った。あれは、誰だったのだろう」
「…………」
「やはり、亡くなったご主人ですか」
「…………」
「それとも、ほかの誰か……。考えてみれば、ぼくはあなたのことについて、あまり知っていないなあ」
「意地悪ね……」
そう言うと、雅子は俯《うつむ》いて、考えにふける風情《ふぜい》である。街を歩いて行く足取りが、にわかに遅くなった。やがて、顔を上げると、傍のショウ・ウィンドウの前に立ち止まり、その中を覗《のぞ》きこむようにして、
「もう、今年の水着が飾ってあるのね」
その言葉が、いかにもわざとらしい。
「問題を避けてはいけませんね」
城田は、彼女と並んで、まるで黒い網のような新型水着を眺めながら、そう言う。
「あなたのことだって……」
水着から眼をはずした雅子は、城田のほうに向き直ると、戦闘的な口ぶりで、
「わたし、なんにも知りはしないわ。いま、あなたの背中のところにくっついている透明人間だって、それが三津子さんかどうか、怪しいものだとおもうわ」
「そういうことが分ればいいんだ」
「…………」
「たとえ、ぼくがあなたを抱いたとして……」
「なんですって」
「かりにの話ですから、まあ聞いてください。その抱いている最中にでも、透明人間がぼくたちの間にいるかもしれない。それは、あなたの言うように、三津子とは限らない。おまけに、ぼくばかりではない。あなたのほうにだって。ぼくの背中に貼《は》りついているのが一匹、あなたの背中に一匹」
「あたしは……」
「いない、というのですか。あなたが、以前ご主人と暮しているときにでも、べつの誰かがあなたの背中に貼りついていなかった、とはいえない」
「そんな……」
「そんな深刻なことではなくて、昼間、街で見かけたちょっと魅力的な青年だって、あるいは映画でみた外国の俳優だって、あなたの背中に貼りつかないとはかぎらない」
「そんなことって、あるかしら」
「認めたくないのですか」
「…………」
「ぼくの言いたいのは、男と女が一対一でつき合っているつもりでも、その関係はしばしば、いや、いつも、複数と複数とでつながっている、ということですよ」
二人は、飾窓の前に立ち止まったままである。雅子の顔が、窓の方に向いた。その顔に、迷いが走っている。しばらくその迷いがつづいて、やがて、彼女はその話題を打ち切るように、言った。
「城田さんは、人生を複雑にしてくださるのね。それも、きっと、わたしのコンサルタントとしての役目の一つなんでしょうね」
城田は、何か言いかけて、口を閉じ、彼もまた窓の方を向いた。
「あらあ」
華やかな声が、飾窓に向って並んでいる二人の肩のあいだでひびいた。
「お二人で、今年の水着のニュー・モードについての意見をたたかわせていらっしゃるのね」
そのような恰好にみえないものでもなかったな、と彼はおもった。そうおもったときには、すでにその声が、三津子であることは分っていた。
「ややっ、薬が切れて、透明人間が姿をあらわしたな」
彼は、道化た口調で言った。
「まだ、あたしは透明人間でなくちゃいけないの」
「そうさ。きみぐらいチャーミングな女の子だったら、あちらこちらの男の背中に姿を消して貼りついているわけだ」
その言葉の意味は、三津子には通じはしない。しかし、城田はむしろ大場雅子にたいして念を押すように、言葉をつづけた。
「きみが透明人間の役目をするのは、ぼくにたいしてだけというものじゃないのさ」
「なんだか、さっぱり分んないわ」
三津子は、こだわらずにそう言うと、すぐに注意をショウ・ウィンドウの中に移して、
「すてきな水着ね」
「しかし、きみ」
城田も、話題を水着に移した。
「あの水着を、着ることができるか。あれは、ショウ・ウィンドウに飾っておくためのものだ、とぼくはおもうがね」
「そんなことないわ、着れるわよ。買って頂戴、着てみせるから」
「しかし、網ばかりで、布のところが無いみたいじゃないか。あれでは、とても隠せるとはおもえない」
「だって、水着って、隠すものじゃないでしょう。躯を見せるためのものでしょ」
「へえ、なるほど」
城田は感心して、窓の中の水着と、三津子とを見比べた。
そして、心の中で三津子を裸にして、その黒い網の水着でその躯を覆ってみた。まるで悪事を働いているように、傍《そば》の大場雅子を窺《うかが》ったが、水着姿の三津子は彼の頭の中から消え去りはしない。
透明人間ごっこ
城田祐一は、腕時計を街の光に当てて、時刻をしらべた。夜の七時五十分である。
「きみ、『紅』に勤めているのか」
彼が、三津子に訊ねた。
「そうよ」
「今夜は、遅刻だね」
「遅刻といえば、遅刻だけど。ともかく、あれ以来ずっと勤めているのよ。城田さん、今夜はこれからどうするの」
彼は大場雅子の顔を反射的にうかがったが、
「べつに、もう用事はないが」
「それじゃ、一緒にお店へ行かない」
「なるほど、客を引張って行けば、遅刻にならないで済むわけだな」
「そんなつもりもないのよ。あたし、そんなに熱心じゃないの、いつやめてもいいの」
「そうか、きみの性格からいえば、たしかにそんなところだろうな」
と城田は言い、
「マダムも、ご一緒にいかがです」
そういう言い方で、大場雅子を誘ってみた。
「そうね、わたしは遠慮しておくわ」
ちょっと考えて、彼女はそう言う。
「それでは、また今度」
「ではね、城田さん、わたし今夜はきっとよく眠れるわ。運動が十分ですもの」
「今度は、もっと沢山運動させてあげます」
「もう堪忍《かんにん》、だわ」
ビルの階段を八階まで登り降りしたことを指しているのだが、知らぬ人が聞いたら艶めいた会話とおもうかもしれない……、と城田はおもった。大場雅子が背中をみせて去って行くと、三津子と一緒に地下室へ降りて行くことに、気持が積極的になっているのに気付く。
「では、行くか」
「行きましょう」
歩き出した三津子は、しばらくして立ち止まると、ハンドバッグの口金を開き、なかを覗き込んでいる。やがて、小さな瓶《びん》を取り出した。
レッテルの貼られていない、透明ガラスの瓶の中に、真赤な錠剤が詰まっている。その一粒を、彼女は掌の上にころがすと、城田の鼻先に差し出した。
「なんだ、それ」
疑わしそうに、彼は三津子の掌の上を見詰めた。
「ともかく、嚥《の》んで」
「ともかく、というが、そういう薬はうっかり嚥めない」
「あたしを、信用しないの」
「信用しないわけではないけど、きみについては知っているようで、案外知らないことのほうが多いからね」
「でも、人間同士って、みんなそんなものでしょう」
城田がおもわず顔を見たくらい、おとなびた言葉を吐いた三津子は、にわかに子供染みた笑顔になると、
「透明人間ごっこ、しましょうよ。だから、これ嚥んで」
「おや……」
城田は苦笑して、その薬の粒を口のなかに入れた。精神安定剤かなにかだろう、見覚えのある薬のような気がした。
「それで、城田さんは透明人間になったのよ」
無邪気な笑顔で、三津子は言う。そして、二人はふたたび歩き出した。すれ違う人々のなかで、ときどき振り返る顔もあるが、もちろんその視線は三津子に向けられる。だいたい、街ですれ違った美人を振り向いたときには、次には連れの男のほうへも確かめるような視線を送るものだ。しかし、三津子に向けられた視線はそこにとどまって、城田にまで移ってこない。
それは、混血児の三津子が、日本人かどうか判断のつきにくい顔をしているので、振り向いた視線がその顔にとどまる時間が長くなるせいだ、と城田には分っている。しかし、自分が無視されるのは、自分が透明になってしまっているせいではなかろうか、という錯覚に捉えられる瞬間がある。
やがて、「紅」の袖看板が見えてきた。
三津子は、彼の肩にすがりつく形になって、一緒に狭い階段を降りて行く。そして、そのままの姿勢で、店の中に入った。
「あら、三津ちゃん遅刻よ」
そういう女の子の声がかかったが、城田を迎える声は一つも起らない。女の子たちの視線を調べてみても、それらはみな三津子に向けられていて、自分は無視されている気がする。まるで、城田祐一の姿が見えていないような按配《あんばい》だ。
「おれは、透明になっちまったんだろうか」
もう一度、その錯覚が起りかけ、ふと気付いた。彼の胴に巻きついている三津子の片手が、赤い薬の入ったガラス瓶を掴《つか》んでいる。その瓶が、店の女たちにたいする信号のようにみえた。
「ははあ、透明人間ごっこを、三津子のやつ、だいぶ流行《はや》らせているな」
と、彼は三津子の手のガラス瓶を奪い取り、カウンターの端に席を取った。
一方、大場雅子は城田と別れて、一、二小さな買物をすると、自分の経営するレストラン「雅」に戻ってきた。
八時半近かった。「雅」は九時閉店である。店はすいていて、中年の肥った紳士が一人、ふくらんだ腹を椅子の上で突き出すようにして、デザートのコーヒーを飲んでいる。
「やあ、マダム」
声をかけたのは、男のほうが先である。感情がそのまま顔に出るタチの男とみえて、マダム目当てで通っていることが、一目瞭然である。今夜は会えないのか、と気落ちしていたところに、大場雅子が姿を現わしたので、喜色が露骨にあらわれていた。
もっとも、マダムを目あてにレストランに通うというのは珍しい例である。
「マダム、今日のタン・シチューはおいしかったですよ。しかし、今度は一度、脳味噌《のうみそ》の料理をつくってもらいたいな、あれはまったく……」
男は涎《よだれ》の垂れそうな口もとになり、脳味噌料理におもいをこめた眼つきをマダムに向けた。もちろん、マダムの顔に視線を向けたときから、その眼には野心と色気が混じりこみ、相手を窺う眼つきになっている。
大場雅子は、その露骨さに困った顔になりながら、
「ええ、前から考えてはおりますのよ。でも、よほどのかたでないと」
と、よほどの通《つう》という含みを持たせて、
「召し上るかたがないとおもいまして……」
「そう……」
男は、宙を見る目つきをした。その頭の中には脳味噌料理が浮かんでいるようだったが、それが不意に大場雅子の姿に切り替ったものとみえて、
「ところでマダム、今夜はもう終りだろう。どこか酒場でも、ご案内しようか」
「あら、井山さん、そんなことをしたら、奥さまに怒られましてよ」
男の名は、井山卓次郎という。彼の恐妻ぶりは、有名なのである。
井山が一瞬返事の言葉に詰まったので、雅子はまた困った顔になった。軽く受け流してもらえるとおもった言葉に、手応えがあってしまったので、何かいそいで言わなくてはいけない。
「でも、井山さんが、バアにいらっしゃるなんてお珍しいこと」
「わたしだって、ときには覗いてみるさ」
「バアでしたら、いま『紅』に城田さんがいらしている筈ですわ」
「なに、城田くんが……」
城田の先輩の春海《はるみ》と、この井山とが友人同士であるので、井山と城田とは以前からの知り合いである。
「しかし、どうして城田くんが『紅』にいることが分るのかね」
井山は、ふたたび窺う眼になっている。かえって具合のわるいことを言ってしまった、と雅子はおもったが、
「いえ、さっき偶然、城田さんと街ですれ違いましたの。そのときに、なにかそのようなことを言っていらしたものですから」
さりげないその言葉を、井山はすぐに信じた顔で、
「そうか、『紅』なら、春海に、二、三度連れて行かれたことがある」
「わたしは、この次のとき連れて行っていただきますわ。今夜は、ちょっと用事がございますの」
「そうですか」
井山は残念そうにそう言い、ふと思い出したように、
「城田くんで思い出したが、この前この店に透明人間があらわれたそうだね」
「あら、どなたにお聞きになりまして」
「そこの余志子くんに、たったいま。なんでも、紅茶茶碗だけ宙に浮かんでしまって、とってもこわかった、と言っていたが。どうせ、出鱈目《でたらめ》にきまっているが」
「ほんとなの、余志ちゃん」
と、おもわず咎《とが》める口調で雅子は言い、むしろ吃驚《びつくり》したように顔を眺めている余志子をみて、雅子は自分の態度が大人気なかったとおもった。マダムが不在なので不機嫌な井山に、なんとか面白い話題を提供しようとして、余志子は努力していたに違いない。だから、井山が、
「それなら、ちょっと『紅』を覗いてみるか。そうだ、余志子くんを連れて行ってみようか、どうだろう」
と言ったときには、雅子は寛大な心持になっていて、
「それもいいかもしれないわ。余志ちゃん、おともしてみたら」
むしろ、すすめる口調になっていた。
カウンターの端の席に坐った城田の傍に、ホステスが二人坐ったが、誰もまだ彼には話しかけない。更衣室から出てくる三津子を待っている構えである。
マダムの圭子が、そういうカウンターの隅に向って、声をかけてきた。
「あんたたち、そんな隅にかたまっていないで、あっちの席へ行って手伝って頂戴。今夜はお休みの子が多くて、人手不足なんですからね」
あきらかに、マダムも「透明人間ごっこ」に一役買っている。
城田のとなりにいるのは、焦茶色に肌をこがしている美少女である。胸の隆起が、洋服の上からでも目立っている。彼はゆっくり手を伸ばして、そのふくらみを強く掴んだ。
「あらっ」
胸をすぼめたその女は、下から彼の顔をうかがう眼になって、
「やめて、城田さん。痛いじゃないの」
「おや、見えるようになったのか」
「もうお芝居が終りになってしまったわね」
と、マダムは笑いながら、
「透明人間ごっこを考えたのは、城田さんなんですってね」
「ぼくは、そういうつもりで考えたわけでもないんだが」
「でも、面白いわ。うちのお店では大流行なの。この前なんか、四人連れのお客さんのうちの一人だけにお薬を飲ませたのよ。その人は、見えなくなって、そこにいないことになるでしょう。そうしておいて、残りの三人でさんざんその人の悪口を言うの。でもね、ずいぶん際どいことを言うのだけど、その人が聞いて、本当に怒るようなことは言わないのよ。そこが、芸のみせどころね。みんな悪い人たちばかりだったから、とってもシャレた面白い会話になったわ」
「なるほど、しかしそれは女同士ではできない遊びだね。男同士でなくては駄目だ」
「そうね、そういうときに、さらりと笑える上手な悪口って、女には難しいわね……。それはそうと、三津ちゃんは、お父さんの方がアメリカ人?」
マダムはちょっと声を落して訊ねる。
「たぶんそうだろう、よく知らないんだ」
そのとき、更衣室から三津子が姿を現わしてきた。マダムは、すぐに話を元に戻す。
「それにしても、万一そんな薬があったら、これはずいぶん……」
「ずいぶん、どうなのですかね」
「ベッドと洋服ダンスが売れなくなるだろう、とおもって」
「何だって、どういう関係があるんだ」
「だって、それを嚥めば姿が見えなくなる薬があれば、間男のかたたちはベッドの下や洋服ダンスの中に隠れないで済むようになるでしょう」
「きみ、ベッドとか洋服ダンスは、最初から間男を隠すつもりで買うものじゃないぜ。たまたま、そこにあるから隠れるんだ。なぜ山に登るか、そこに山があるから。なぜ間男はベッドの下に隠れるか、そこにベッドがあるから……」
三津子は城田の傍へ坐ると、
「あら、もう透明人間ごっこは、おしまいになっているの……」
「そう、演技未熟の女の子が一人いてね。それにしても……」
と、彼はさっき三津子の手から奪い取ったガラス瓶をポケットから出して眺めると、
「たしかに、この薬にはいろいろ使い道があるらしい」
「城田さんは、どんなつもりで使っていたの」
「ぼくはもうすこし……、いや、きみたちの使い方のほうが無難だな。たしかにそのとおりだ」
眼の前の閃光《せんこう》
「やあ、城田くん、相変らず元気にやっているね」
余志子を伴った井山卓次郎は、「紅」に入ってくると、女たちに囲まれた城田を見てそう言った。
「部長、おかげさまで」
城田は立ち上ると、直立不動の姿勢をつくって、答える。井山はある製薬会社の部長で、その会社がスポンサーになっている連続ドラマの脚色を、目下城田は手がけている。もっとも、城田の直立不動の姿勢はわざとらしくつくったもので、そこには剽軽《ひようきん》な感じはあっても、卑屈なものはなかった。
「それにしても、君くらいの齢で、そんなに暢気《のんき》に暮しているテレビ作家というのは、滅多に見あたらないがね。仕事がなくて困っているか、反対に、多すぎて遊ぶ暇がないか、どちらかだ」
と井山が言うが、べつにその言葉に恩着せがましいひびきはない。
「あら、城田さん、テレビのドラマも書いているの」
とぼけた顔で、そう言ったのは、余志子である。
「それじゃ、ぼくの仕事はなんだとおもっていたんだ」
「うちのマダムの快楽コンサルタントだとばっかり……」
「あれは、無報酬だからね」
「ほんとに報酬がないのかしら」
その会話を聞いた井山が、口を挿《はさ》んだ。
「どういうことだ、その快楽コンサルタントというのは」
詰問する口調になっている。感情がすぐ顔に出る性質なので、いくぶん顔色が変っている。大場雅子と城田とが、秘密の快楽をわけ合っているのではないか、と疑っているようにみえる。
「べつに、どうということはないのですよ……」
と、城田は説明しなくてはならない。
「あのマダムは、齢のわりに初心《うぶ》なところがあるでしょう」
「そうだ、雅子さんのそこがいいんだ」
「つまり、子供みたいな好奇心やおどろきが、いまでもそのまま残っているところがある。だから、マダムのそういう部分が反応を示すタネを見つけてきてあげるわけです。快楽というと話が大袈裟《おおげさ》になってしまうが……」
「そうかね」
と、井山は疑わしげに、城田を見た。
「そうですよ」
と言い、「余計なことを言う」という気分で、城田は余志子を睨《にら》んだ。それが、一層疑わしげな雰囲気《ふんいき》をかもし出してしまう。その気配を救おうとおもって、マダムの圭子が口を出した。
「城田さんは、うちのお店でも、快楽コンサルタントなのですよ」
「冗談じゃないよ。きみたちのようなベテランに教えるものは、なにも持ち合わせてはいないさ」
「でも、城田さんの発明した透明人間ごっこ。いま、うちのお店では大流行なのよ。みんな、いろいろの形で、愉しんでいますの」
と、圭子は井山に向って説明する口調である。
「その透明人間というのは、さっきも余志子くんに聞いたが、それがそもそも、わたしにはよく分らん」
と、井山は不機嫌である。
「この前、面白かったわよ」
城田のとなりに坐っている、焦茶色に肌をこがしている美少女が、不意に話し出した。
「リカのボーイ・フレンドを透明人間にしちゃったの」
理加という名の女の子は、顎《あご》のしゃくれた小さい顔をした、小柄な女である。話し手の女の名は、由美という。
「お店が終ってから、横浜のクラブへ踊りに行ったのよ。リカと、リカのボーイ・フレンドと三人で。そのクラブで、真赤な錠剤を嚥《の》ませちゃったの」
「それで」
「透明人間になっちゃったわ」
「なるわけがない」
「だって、なることになっているのだもの。あんた、透明人間になっちゃったのよ、と言ったら、その子、へえ、って吃驚《びつくり》していたっけ」
「へえ……」
「それから、旅館へ行っちゃったわ」
「誰と」
「リカと二人で」
「その男の子はどうした」
「だって、その子は透明人間になっているのだもの」
「なっている、といったって、きみ。つまり、三人で旅館へ行ったわけか」
「三人といったって、一人は見えないわけだもの」
「しかし、旅館の連中には、見えるだろう」
「もちろん見えるわよ。もし見えなかったら大変だわ。本ものの透明人間になってしまったことになるもの」
「どうも、きみと話していると、頭が混乱してくるな。それから、どうなった」
「リカと二人だけでしょう。だから、リカと寝たわ」
「寝た?」
「あら、知らなかったの。あたしとリカとは仲良しなのよ」
美少女の二つの躯《からだ》が絡み合っている図が、城田の頭の中に浮かび上ってきた。
「それで、その男の子はどうした」
「すっかり頭にきちゃっていたわ。若いから、無理はないわね」
「若くなくても、頭にくる」
そう言ったのは井山で、言葉は道化ているが、生まじめなひびきが含まれている。そして、城田の傍にいる三津子に視線を当てると、
「この子が、リカというのか」
「ちがうわよ、リカはあっちの席」
否定の言葉を聞いても、井山は三津子の顔から眼を離さないでいる。三津子の美しさに、いま気付いた恰好で、それも刺戟《しげき》的な話を聞いたため、その美しさから眼が離せないようにみえる。
「それで」
と、城田は話の先を促した。
「それで……、おしまいよ」
「その男の子は、参加できなかったのか」
「透明人間は、参加できないわ」
「そんなことはない、透明のままで、参加できるさ」
「それも、そうね」
「それで、参加したか」
「したわ」
「やっぱり、したのじゃないか」
「でも、あれでは、参加したとはいえないくらいね。だって頭にきちゃっていたんだもの」
「それじゃ、両方へは参加できなかったわけだな」
「もちろんよ」
「リカのほうへ、僅かに参加か」
すると、由美は宙をみる眼になった。その眼が、一瞬、嘲《あざ》けるように光る。
「あら、どちらだったかしら。もしかすると、あたしのほうへかもしれなくってよ」
井山が、落ち着かなくなった。椅子の上の躯が、不安定である。
「わたしは、そろそろ帰るぞ。城田くん、君はまだいるつもりか」
城田だけ残しておくのも気にかかる、という顔になっている。
「ぼくも出ましょう」
余志子と三人で戸外へ出ると、井山が言った。
「いや、まったく、ひどい話だ。口なおしに、もう一軒行くか」
余志子が、甘ったるい口調で言う。
「あたし、お酒もう飲めないわ。アンミツが食べたいの」
白くぽってり肥った余志子の顔と、睡《ねむ》たげな目蓋《まぶた》とが、アンミツによく似合う、と城田はおもった。
「アンミツというのもなんだが、コーヒーならつき合ってもいい。余志子くんは、そこでケーキでもアイスクリームでも食べればいい」
喫茶店を探して、三人は入った。席につくと、井山はもう一度言う。
「まったく、ひどい話だな。けしからん話だ」
その言葉とはうらはらに、井山の顔は昂奮《こうふん》で軽く汗ばんでいるようにみえる。
そういう井山にたいして、城田はおだやかな反駁《はんばく》をこころみはじめた。
「ひどい、といえばたしかにひどいですね。しかし、これがモラル違反か、規則違反かということになれば、ぼくは規則違反と考えます。四十キロ制限の道路を五十キロで車を走らせれば、これは規則違反ですがね。しかし道路によっては八十キロで走ってよいところもある」
「それは君、違うな。なぜ四十キロに制限されているかといえば、それ以上出すと危険な事態が起る、という判断に基いている。だから、四十キロ以上出せば、規則違反と同時にモラルに背くことにもなる」
「しかし、真夜中に、車が一台も走っていない道を、五十キロ出してもモラルに背くとはおもえませんがね……。それでは違う例をあげてみましょう。細君を三人まで持っていいという規則ができている、としましょう。現に、そういう国もあるようですが、もしぼくたちが生れたときからそういう規則ができている、とする……」
「それを、ルールとおもうか、モラルとおもうか、だが」
「ぼくは、たんにルールだとおもうわけですがね。ともかく、そういうルールができていたとする。男が年頃になる。『どうですか、もう結婚されていますか』『ええ、一人目は見付けましたが、どうも、なかなか二人目に適当なひとがいなくて。どこかに、お心当りありませんか』などという挨拶が日常茶飯のことになる……」
「どうも、君の考え方は、危険だね」
「そうですか」
「やはり、一夫一妻制が、これだけ長い間ひろく世の中におこなわれているということは、それが人間の本性にうまく合っているということだよ。それはすでに規則ではなくて、モラルの域になっているとおもうね」
井山のそういう反対意見を聞きながら、城田はとりとめのない考えごとに沈みはじめた。男と女との複数の関係について、大場雅子に説明したのは、ほんの二時間ほど前のことである。そのときは、心理の上の複数の話だった。
しかし、「紅」で由美の話した複数関係は、きわめて具体的なものである。
あるいは、そういう関係は、由美のような職業の女たちのあいだでは、すでにそれほど珍しくないものになっているのかもしれない。
結婚、というものに敵意を示す女たちが、彼女たちのあいだではかなり多いのは、城田もこれまでにしばしば見聞してきたことだ。それは、裏返せば、彼女たちが結婚という、平凡で世の中に無事に受け入れられる形式にあこがれていることかもしれない。そういう形式から、はじき出されている自分たちを感じ、そういう形式に歯を剥《む》いてみせる。
さらには、複数の関係を持つことで、そういう形式を嘲っている気持を掴もうとする。そういうことは、大いにありうることだ。
しかし、世の中に受け入れられている形の中にいる人たちの心の底にも、あるいは複数の関係へのひそかな憧《あこが》れがありはしないだろうか。けっして無いとは言えないようだ、と城田は井山の顔に、窺《うかが》うように、狙うように眼を向けた。
刺青
十日間ほど仕事が忙しくて、城田祐一は机の前にいるか、テレビ局へ出かけても真直に家へ帰ってくるかで、街へ出なかった。
ようやく一区切りついて街へ出たとき、まず耳に入った噂《うわさ》というのは、井山卓次郎が毎夜のように「紅」へ顔を出しているというものだった。その噂を聞いたのは、レストラン「雅」に行ったときで、余志子の口からである。
「井山さんは、酒場へはあまり行かない人なんだがね」
「だから、珍しいでしょう」
「そういう井山さんが通うのは、女の子に目当てがあってのことというわけになるな。それは、誰なんだ」
「それが、よく分らないのよ」
「分らないって、井山さんの席につく女の子は、誰か分っているだろう」
「それは、由美さんよ」
由美というのは、肌をチョコレート色に焦した娘である。
「それでは、その由美というのが、そうだ」
「でも、ときどき、三津子さんが傍に行くこともあるのですって」
「由美か三津子か、どちらが目当てか、井山さんの顔を見れば分る筈だよ。あんなに、気持が顔色にあらわれる人は珍しいからね」
「それが、分らないのですって。城田さんの考えているほど、単純な人じゃないとおもうわ。そんな単純な人だったら、あんな大きな会社の部長さんは勤まらないでしょ」
「もちろん、すべてにわたって単純とおもっているわけじゃないが……」
と言った城田は、ふと気付いたように、余志子の顔をみて、
「しかし、きみはどうして井山さんが『紅』にかよっていることを知っているんだ」
と訊ねた。余志子は、傍の大場雅子のほうに顔を向けながら、
「それは、城田さんがしばらく姿をあらわさなかったせいなのよ。マダムの快楽コンサルタントがいないので、あたしが『紅』へおともすることになったの」
閉店時間の過ぎた店のテーブルに、三人の男女が集まって、コーヒーを飲みながら話しているところである。
「そうなのよ」
と、雅子が受けて、
「わたし、退屈だったもので、おととい余志ちゃんに案内してもらったの」
「そのとき丁度、井山さんと入れ違いだったということで、いろいろお話が出た、というわけなのよ」
と、余志子がつづける。
「しばらく街へ出ないでいるうちに、天下の形勢がだいぶ変ってきたようだな。これは、様子を見に行かなくてはならない。マダム、今度はぼくがご案内しますよ」
城田は勢いこんで立ち上りかけた腰を、もとの椅子に戻すと、
「もっとも、男の遊び場だから、女性が行って面白いかどうか……」
「わたし、面白いの。連れて行って頂戴」
立ち上った雅子を見て、城田は余志子も誘った。余志子は首を横に振ると、
「あたしはやめておくわ。またべつのときアンミツをご馳走していただいたほうがいいわ」
地下室にある酒場「紅」への階段を降りて、店の中に入ると、そこに井山がいた。その傍には、三津子と由美が坐っている。
城田が二人の女を見比べる気持になったとき、井山のほうも城田と雅子を見比べる表情になっているのに気付いた。
「これは、まずかったかな」
雅子と城田との関係を邪推した井山が、雅子への当てつけに、それまで通っていた「雅」から「紅」へ河岸を変えたのではないか、という考えが城田の心に浮かんだのである。
「やあ、城田くん」
井山は手招きして、
「こっちへ来て、一緒に飲もう」
そして、同席した雅子と城田をあらためて見比べると、
「これは、お二人お揃《そろ》いで……」
その声に、皮肉のひびきが感じられる。井山は言葉をつづけて、
「もっとも、城田くんは雅子さんの、快楽コンサルタントとかいうものだそうだから、連れ立って歩くのも無理はないが」
「ここへくれば、井山さんがおられると聞いたもので……」
その城田の声は、いかにも弁解めいてひびいたが、井山はそれを受けて、
「いやあ、この三津子くんを、わたしはすっかり気に入ってしまってね」
磊落《らいらく》めかして大きく笑うが、その笑いは井山に似合わない。雅子に当てつけている感じが、ますます濃厚になった。
「きれいなお嬢さんですことね」
大場雅子が、さらりと言ったが、井山は粘る口調で、
「きれいだし、それに躯がいい」
三津子が、抗議した。
「躯がいい、なんて、まるで知っているみたい」
井山は、薄笑いを浮かべて、黙っている。三津子は重ねて言った。
「そんな笑い方をして……。関係があるみたいじゃないの」
「無いというのかね」
薄笑いのまま、井山は言う。
「もちろん、無いじゃありませんか」
「きみは無いというが、こういうものには、証拠がないからね」
「そんな……、三津ちゃんをいじめちゃ可哀そうですわよ。まだ馴れていないんだから」
マダムの圭子が、口を挿《はさ》み、
「今夜の部長さん、いつもと違いますわ。まるで別の人みたいよ」
「馴れていない、というが、わたしはずいぶん馴れているとおもうね。そうだろうマダム、こういうことは、無いといえば無い、有るといえば有る、証拠というものがないんだから……」
そのとき、三津子が強い口調で言った。
「無い、という証拠があるわ」
「証拠がある?」
驚いたように、そう言ったのは、井山ばかりではない。城田はもちろん、その席にいる女性たちも好奇心をあらわにした眼で、三津子を見詰めた。
「どういう証拠だ」
一瞬、三津子の顔にためらいが走った。それを目敏《めざと》く見付けた井山が、
「出鱈目《でたらめ》を言っちゃいけないね」
「出鱈目じゃないわ」
「それならば、その証拠を言いなさい」
「あたしの躯には……」
と、三津子は思い切ったように言う。
「刺青《ほりもの》があるのよ」
「…………」
「どんな刺青が、どこにあるのか、もしあたしの躯を知っているなら、分っている筈よ。それを、言ってみて頂戴」
座が緊張した。混血の美少女と刺青との取り合わせは、かなりなまなましい。
「ぼくが言おう」
城田の声がした。視線が、城田の顔に集まる。
「左の内腿《うちもも》に、祐一いのち、と彫ってあるな」
あきらかに冗談と分る口調なので、座の緊張がほぐれた。
「嘘つき」
「色おとこ気取りだわ」
笑いながら、口々に城田を罵《ののし》る。城田が問い返した。
「それなら、どんな刺青があるんだ」
「左のおしりに……」
と三津子は言いながら、テーブルの上に指先で描いてみせた。
北斗七星のような配置に、緑色の星と藍色《あいいろ》の星が交互に並び、その星たちをかかえるような恰好で、細い鎌のような三日月が彫られてある。その三日月は、真紅の色である……、と三津子は言う。
「しかし、ふしぎな絵柄だね。北斗七星と月だなんて、きみ、嘘はいけないよ」
井山は、いまいましそうに、そう言う。
「いや、それは……」
城田が遮《さえぎ》って、
「外国にも、刺青はありますからね。鷲《わし》が羽根をひろげている絵とか、骸骨の絵とか、いろいろあります。そういえば、たしかに三津子ちゃんのは、そういう絵だったね。すっかり忘れていたよ。きみのお尻の上の星を、一つ二つ三つ……、と七つまで、指でおさえながら数えたことがあったっけ」
誰も、城田の言葉を信じるものはない。ところが、三津子はその言葉を笑いながら訂正した。
「それが違うのよ。お星さまは、六つまでしか見えていないの」
「北斗七星が、六つということはないだろう」
「だから、七つ目の星は、見えたり見えなかったり」
「…………」
「ピンク色の大きな星が、もう一つ見えてくるときがあるのよ」
「それを、白粉彫《おしろいぼり》というんだ」
井山は頷《うなず》きながら、説明する。
「普段は見えないのに、風呂に入ったりすると、彫った線が桜色になって浮かび上ってくる……」
城田が言った。
「それじゃ、そのピンクの星をいま見せてくれ」
「いまは、出ていないわ」
「昂奮したときも、出るわけだね」
「え?」
「男と寝たあとでも、出る筈だよ」
「さあ……」
「ともかく、ピンク色の星はどうでもいい。残りの六つの星と赤い月とを見せてくれ」
「だって、無理よ」
「やはり、無理か」
半信半疑の面もちで、城田祐一は三津子の顔を眺めていたが、やがて、また彼は質問をはじめた。
「その刺青は、いつ頃したものなんだ」
「それがよく分らないの。気が付いたときには、もうそこにあったのよ。だから、よほど子供のときだとおもうの」
「子供のときだとすると、大きくなってお尻が膨《ふく》らむにしたがって、刺青の色が薄くなりはしないかな」
「たしかに、そのとおりだけど、でも色が褪《あ》せたという感じではないの。かえって、面白い効果になっている……。きっと、大人になったときのことまで考えてした刺青だとおもうわ」
「よほど腕のいいほりもの師だったんだな。そして、させたのは、その絵からみると、きみの父親だね、アメリカ人の……」
「そうだとおもうわ」
「顔を覚えているか」
「忘れてしまったわ。ちっちゃなとき、いなくなってしまったんだもの」
「しかし、何のためにそんな刺青をしたのかな」
「分らないわ」
三津子の返事が曖昧になってきた。その種の話題は、気がすすまぬように見受けられる。
「それにしても……」
と城田が言いかけて口を噤《つぐ》み、しばらく座が静かになった。
「その刺青をみてみたいな」
そう言ったのは、井山と城田とほとんど同時だった。二人の男は、顔を見合わせて苦わらいし、
「城田くん、見てみたいというが、星は七つがいいのか、六つでもいいのか」
城田祐一は、うす桃色に上気した三津子の肌をおもい浮かべ、そのひろがりの上に印された濃い桃色の星型をなまなましく想像しながら、
「ぼくは六つでいいですよ。場合によっては、三津子くんの躯は消えてしまっていて、そこらあたりに浮かんでいる模様を見るだけでもかまわない」
と言った。
一方、井山卓次郎は中年男特有の執念ぶかい眼で、三津子の躯の輪郭を撫《な》でながら、
「わたしは、ピンク色の星が見たいな。残りの六つの星も、赤い月もいらない」
そういう眼で、ピンク色の星は誘い出されるものだろうか、あるいは奥深くもぐり込んでしまうものだろうか、と城田は考えながら井山の顔を眺めている。
月と星
三津子が、行方不明になった。
そのことを最初に聞いたのは、城田祐一である。いや、そのときはまだ、誰も三津子が行方不明になったとおもったわけではない。城田が聞いたのは、ただ、三津子が「紅」の勤めをずっと休んでいる、という事実にすぎなかった。
「紅」のマダムの圭子が、城田の顔をみると、
「三津ちゃんが、ずっと休んでいるのよ。城田さん、どうしたわけか知らなくって」
「知らなくって、なんて、まるでぼくがそのことに直接関係があるみたいじゃないか」
「…………」
「そんな間柄じゃないよ。だが、三津子がこの店に勤めるにあたっての保証人は、ぼくといってもいいわけだから、責任上三津子の家へ行って……」
と言った城田は、不意に曖昧《あいまい》な表情になると、
「といっても……、三津子の家がどこにあるのか、ぼくは知らなかったな」
「本当に、知らないの」
「知っているような気がしていたが……」
三津子のことは、いろいろくわしく知っているような心持だったが、あらためて質問されて考えてみると、確かなことは何一つとして知っていないのである。
「だいたい、三津子、三津子と心やすく呼んでいるが、苗字はなんというのだろう」
彼が独り言のように言うと、圭子は呆《あき》れたように、
「それも知らなかったの? 花岡というのよ」
と言い、それまでの彼の言葉を信じた顔になった。
「花岡三津子か。それにしても、マダムは家を知っているだろう。勤めるときに、書類のようなものを書かせるのじゃないか」
「そうなの。住所は、鶯谷《うぐいすだに》のほうになっていたわ。だから、そこに行かせてみたの。だけど、そんな家はありゃしない」
「もっとも、三津子の行方は、想像はつくけれど」
「あら、教えてよ」
「教えてよ、なんて、きみだって見当はついている筈だ」
そう言った城田は、井山卓次郎の顔を思い出している。三津子の左の尻に月と星の刺青があるという話になったときの、井山の眼つきを思い出している。
「分っているじゃないか。井山さんだよ」
「でも、井山さんは、違うとおもうの」
と、マダムの圭子が言う。
「ああいう実直なタイプが、かえって危険なんだぜ。ぼくのようなのなら、浮気で済んでしまうが、井山さんは勤めをやめさせてしまうとおもうね」
「そうでもない、とおもうわ」
「そうかな。この頃、井山さんは店にくるか」
「前みたいに、毎日じゃないけれど」
「それが証拠だ。目的を達したから、あまり顔を見せなくなったんだ」
「そりゃ、城田さんの言うことは分るけれど、でもわたしは井山さんじゃないとおもっているの」
「違う、という証拠でもあるのか」
「証拠にちかいものがあるわ」
「どういう……」
「それは、言えないけど」
そのとき、薄暗い店の壁の一部分が、ぽっと明るくなった。クリーム色の壁の上に、赤と藍《あい》と緑色の模様が浮かび上っている。赤い月と六つの星の模様である。
「おい、三津子がここにいるじゃないか」
おもわず、城田がそう言うと、その模様は掻《か》き消すように見えなくなった。含み笑いの声が聞えるので、首をまわすと、由美がいた。
「また由美ちゃんの悪戯《いたずら》がはじまった」
と、圭子が言い、
「城田さんに、そのオモチャ見せてあげなさい」
由美は背中に隠した手を、城田の前に出してみせる。小さい懐中電燈で、その中に仕こんだセルロイド板に、月と星の絵が描いてある。適当な距離を選んで、壁に向って光を放つと、幻燈の器械で映し出したように、壁に模様が浮かび上る。
「それ、きみが作ったのか」
「そうよ」
「物好きだな」
「でも城田さん、びっくりしたでしょ」
「びっくりしたわけじゃない。錯覚を起したんだ」
「三津子が透明人間になってしまった、という錯覚でしょ」
透明になった三津子が壁の傍に立っていて、消え残った刺青の模様だけが、そこに浮かんでいるという錯覚である。
「そういうわけだ」
と、城田は苦笑した。
「そうなれば、苦労した甲斐《かい》があるというものよ」
「ぼく一人のために、わざわざ作ったのか」
「うぬぼれちゃいけないわ。お店では、透明人間ごっこは大流行なんですからね。でも、城田さん、今夜一緒に帰らない?」
「きみと一緒に帰って、どういうことになるんだ」
「さあ、どういうことになるのかしら」
と、由美は意味ありげな眼で、彼の顔を見詰めた。
店が閉店になると、城田と由美は街へ出て、深夜営業のレストランで食事をした。
由美は食事は二の次で、さかんに洋酒を飲んでいる。かなり酔いがまわった声で、由美が訊《たず》ねた。
「ねえ、三津子と井山さんと関係があると、いまでもおもっていて?」
「その問題は、マダムがあれだけきっぱり否定したからね」
「でも、どう? やっぱり怪しいとおもう?」
「そうおもったわけだが」
由美は、不安な顔になっている。なぜそうなのか、城田には分らない。由美に同性愛の趣味があるらしいのを思い出して、訊ねてみた。
「三津子が好きなのか。井山に取られるのが心配なんだな」
「そうじゃないわ」
「ともかく、マダムがあれだけ自信を持って、三津子と井山とは関係がないと言っているのだから、安心していいじゃないか」
「だって、ママがああいうのは……」
うっかり口を滑らせた感じで、由美は語尾を濁す。その様子を見て、突然ひらめいたことがある。そうか。それで圭子があれだけ自信を持って言ったのか……とおもいながら、城田は言った。
「分ったぞ。きみは、井山と関係ができているんだな」
由美は慌てた素振りをしかかったが、すぐに蓮葉《はすつぱ》な口調で、
「バレたら仕方ないわ。そうなのよ」
「だから、マダムが自信を持ったわけだな。井山のような実直なタイプは、一度に二人口説きおとすなんて器用な真似はできない、という考え方か」
「そうなの」
「それにしても、きみも物好きだね。ああいうタイプが好きなのか」
「ああいうタイプって、あたしたち滅多にお目にかかれないでしょ。だから、興味があったのよ」
「それで、三津子に取られやしないか、と心配しているのか」
「心配してるわけじゃないわ。だけど、知らないでいる、というのは厭だもの。はっきりしておきたいのよ」
城田はウイスキーのグラスを口に当てたまま、しばらく考えていたが、
「たしかに、井山さんでは、由美も三津子も両方、という達者なところはないだろうな」
「…………」
「でも、きみ。きみは構やしないだろう」
「なにが」
「なにが、といって、井山さんもぼくも、ということになったって構わないだろう」
由美は酔いのまわった眼で、しばらく城田を眺めていたが、にわかに大きな声で笑い出した。そして、立ち上ると、城田の傍に近より、腕を引っ張って、
「いいわ、悪い人ね」
と、言った。
密室で、由美の焦茶いろの裸は、胸と腰のところとに、色の薄い部分ができている。ビキニの水着の布が肌を覆って、焼け残った部分である。
もともと色は白くはなく、小麦色なのだが、その二つの部分がひどく白い錯覚を与えてくる。
「焼け残っているな」
「だって仕方ないもの」
「どこで焼くんだ」
「マンションの屋上よ。やっぱり、いつ人が上ってくるか分らないもの。全部脱いでしまっていたら、具合悪いでしょ」
「きみでも、具合が悪いなんていう殊勝な気持があるのかな」
「そりゃ、あたしだって……」
と、由美は笑う。瞳《ひとみ》の黒い鋭い感じの美少女なのだが、笑うと、人の好い顔つきになる。神経が二、三本、大脳とのあいだの接触がわるく、それで弛《ゆる》んだ笑顔になっているとおもわせるところがある。
「でも、やっぱり、全部焦してしまわなくては変でしょうね」
「そんなことはない。へんな色気があっていいものだ」
たしかに、斑《まだ》らになっている由美の躯《からだ》には、奇妙に官能をそそるものがある。
城田は、仰向けに寝ている由美の胸に、両方の掌を押し当ててみる。色の薄い部分は、二つの掌の下にすっかり隠れ、あたり一面焦茶色のひろがりである。そのひろがりの焦茶色が、下腹部でふたたび喰いとめられて、色の薄い地帯に変っている。
もっとも、その部分には、旺《さか》んな黒い色の茂みもみられるが、片方の掌を押し当てると、あたりはふたたび焦茶色だけになる。
二、三度、そのことを繰り返した城田は、
「これは初心者には都合がいいな。まず触るべき部分にしるしが付いているようなものだ」
「あんなことを言っている」
と、由美はクスクス笑いながら、
「ベテランのくせに」
「ベテランの触るところは、こういうところだ」
と、城田は、由美の脇腹や腋《わき》の下に指を這《は》わせた。しかし、由美は笑い声を高くして、躯をよじりながら、
「やめて、くすぐったいわ」
と、言うのである。
「陽気でいいが」
城田は苦笑しながら、
「しかし、くすぐったいのでは、困るな」
「だって、あんな冗談を言いながら、触るんですもの」
「冗談を言わなければ、敏感なのか」
「そりゃあ」
「井山さんは、まじめに触るだろうな」
由美はそれに答えず、ふっと眼を宙に浮かした。城田の頭の中に、井山が這入りこんでくる。恐妻家で、酒場がよいも滅多にしない井山のような男が、めずらしく妻以外の女を抱こうとする場合、熱心に慎重に、おもいをこめて、その新しい女体に奉仕するのではあるまいか。そういう魅力に、由美が惹《ひ》かれていないという保証はない。
「また、複数になってしまったな」
と、城田はおもい、頭の中から井山を追い出そうと試みる。しかし、なかなか井山の影が消えない。
「どうなんだ、まじめに触るのか」
繰り返し、訊ねた。想像する余地がないところまで訊ねてしまえば、逆に消すのが易しくなる、という考えである。
「だって、まじめ、だなんて」
「つまり、熱心に、誠心誠意というわけだな」
「案外、ああいうタイプの人って、上手なものよ」
「上手なのか」
「上手って、つまり、一生懸命だから……」
「手を抜かないわけだな」
「そうそう、手を抜かないのよ」
由美はまた、笑い出してしまう。
「笑ってばかりいては、こりゃ、どうにもならんな」
城田は起き上って、棚の上のブランデーの瓶《びん》を取り、二つのグラスに注いだ。その一つを由美に渡しながら、
「ちょっと酒でも飲んで、はじめからやり直しだ」
ベッドの上に裸のまま起き上ると、由美はグラスのブランデーを舐《な》めながら、よく光る眼で城田を見て、そして言った。
「気になるの?」
「…………」
「井山さんが上手だということ、気になるのでしょ」
「ちょっとね」
「ちょっと、かしら。でも、安心していいわ。あたし、あまり感じないのだもの」
城田は複雑な表情になって、
「安心できないね。感じてもらわなければ、面白くないからな」
「だって、あたし、まだ若いのだもの」
「若くたって、いろいろ経験豊富のようだがね」
「まあ、ね」
「若いくせにいろいろやり過ぎて、逆に不感症になったのじゃないか」
「そんなことって、あるかしら」
「あるとも」
「でも、あたし不感症ではないわ」
「さっき、あまり感じない、と言ったばかりじゃないか」
「でも、不感症じゃないの。それは、確かだわ……」
妙に自信ありげに、由美はそう言う。城田は迷っている表情を捨て、言葉をつづけて出そうとしている由美の唇を、唇で塞《ふさ》いだ。片手で彼女の胴を抱き、もう一方の手の先は、ゆっくりその躯の上を動いて行く。
五本の指が、由美の躯の色の薄い部分の上でさまよい、やがてその輪郭からはみ出して行き、ふたたび戻ってくる……
そして、ベッドの上に起き上っている由美の上半身を、しだいに押し倒していった。
……しかし、由美の躯はベッドの上に静かに横たわったままで、あまり動かない。鋭い反応が見られない。
城田が由美に加える力は、そのまま躯に吸いこまれてしまって、戻ってこないのである。そのため、城田自身の躯まで、萎《な》えそうになる。
ベッドの傍にサイドテーブルがあり、その上に由美のハンドバッグが置いてあるのが、ふと城田の眼に映った。
彼は手を伸ばして、口金をはずし、中をさぐる。すぐに目的のものが、指先に当った。小さい棒状の懐中電燈である。それを掴《つか》み出した彼の手は、スイッチを押す。
光の輪を、壁に向けて投射する。
壁の上に、緑と藍の六つの星をかかえこむようにした赤い三日月の模様が、浮かび上った。彼は由美の肩をつつき、注意を壁の模様に向けさせた。
「…………」
不審そうな眼が、下から城田を見上げる。
「そこに、三津子がいるよ」
と、城田が耳のそばでささやく。
「三津子が、そこに立って、ぼくたちを見ている」
不意に、由美の眼が潤んだ光を放ちはじめた。胸がふくれ、躯が大きく反った。由美の躯が、鋭く反応しはじめたのだ。
「複数の関係でなければ、不感の女なのか」
と、城田祐一はそういう由美を眺めながら、心の中で呟《つぶや》いた。
女王の冠
城田祐一は、三津子から電話がかかってくるのを待ったが、その当てははずれた。これまで一週間に一回は、三津子から電話があった。彼のほうからは、三津子へ連絡する方法がない。彼女の電話は、呼出し電話だというので、その番号を訊ねなかった。呼出し電話というのは神経を使うので、億劫《おつくう》さが先に立つ。
三津子とは、気軽な遊び相手のつもりだから、こちらから連絡が取れなくてもかまわない、とおもっていた。それに、美しい少女とのあいだで、彼女のほうからの一方交通のつき合いというのも、なかなか洒落《しや》れている、などともおもっていた。
しかし、三津子が行方不明、ということになってみると、彼女の住居の在り場所を訊ねておかなかったことが、悔まれた。
彼は、レストラン「雅」に電話して、もし井山が姿を見せたら、すぐに連絡してくれ、と余志子に頼んだ。井山と三津子とのつながりについての疑いを、彼はまだ捨て切れなかったのである。
ある夜、その余志子からの電話があった。
早速《さつそく》、出かけて行くと、井山は食後のコーヒーを飲んでいた。大場雅子も同じテーブルについて、雑談をしている。
その雑談に加わって、しばらくして城田が言った。
「たしか、アフリカのコンゴの女でしたか、臍《へそ》の下に帯のかたちに刺青をしているそうですね。それも、はっきりした図柄を彫るわけじゃない。まるく墨を入れて、皮膚が盛り上るようにする。そういうポツポツを、いっぱい帯のかたちに植えつける」
「墨を入れる、といって、アフリカの土人はまっ黒だろう。見えないじゃないか」
「茶色のポツポツかもしれませんがね、しかし、見えなくてもいいのだそうです」
「見えなくていい、といって、何のための刺青なのかね」
「男の躯と重なり合ったとき、男の皮膚がそのポツポツで刺戟《しげき》されて、とても良い按配《あんばい》なのだそうですよ」
「なるほど、そういうものかな」
「目をつむって、指でさわると、点字のように指の腹に触れてくるわけです」
ここまでは、城田が試みようとしている質問の長い前置きの部分といえた。彼は、さりげなく井山に訊ねた。
「普通の刺青でも、その上を撫《な》でると、指になにか感じが伝わってきますか」
「そんなことはない」
反射的にそう答えた井山は、緊張した表情になると、
「しかし君、なんでそんな質問をするんだ」
「もしかして、ご存知かもしれないとおもいまして……。やっぱり、そうですか」
井山は具合の悪さを表情にあらわし、
「なにも君、いま、こんなところで……」
と、傍の大場雅子を気にする素振りを示したが、不意に眼に怒りをあらわして、
「なぜ、君はそんなことを知っているんだ」
「なぜと言われても……、みんなそう言っていますよ」
「みんな? それは、大袈裟《おおげさ》だな」
たしかに大袈裟には違いない。城田が勝手に推測して、カマをかけたのに井山が乗ってきたわけなのだから。しかし、会話が進むにつれて、いささか様子がおかしくなってきた。
「みんな、といえば大袈裟かもしれないが、噂《うわさ》はありますよ」
「噂?」
もう一度、井山は大場雅子を気にする気配をみせたが、すぐに居直る感じになった。
「多少の噂は仕方がないが、わたしがなぜというのは、なぜ刺青があることを、君が知っているか、ということだ」
「なぜ、といって、本人が自分でそう言ったじゃありませんか」
「自分で? いつ?」
「井山さんとぼくとがいる前で、そう言ったじゃありませんか。左のお尻に……」
「左のお尻?」
井山は複雑な表情になった。その顔には自分の失策を悔んでいる翳《かげ》もある。
「城田君、君の言っていたのは、三津子のことなのか」
「もちろん、そうですよ。井山さんのおっしゃるのは、誰なのですか」
城田は、興味にかられている。由美のほかに、井山はまだ関係をもっている女がいる。それは誰なのか。
「話が行き違って、へんな具合になってしまったな。隠しても仕方があるまい」
井山は、苦笑しながら、
「由美だよ」
と、言う。
「え? 由美?」
城田は、驚いた声になった。由美の刺青には、気が付かなかった……。
「意外かね」
「意外ですね」
意外、というその内容が、二人では喰い違っているわけだが、
「そんなに意外かね」
「いや、井山さんは、堅い一方のおかただとおもっていたもので……」
城田は、大場雅子の顔を横目でうかがいながら、皮肉にそう言った。
「三津子さんが行方不明なんですって」
大場雅子が、口を挿んだ。
「行方不明というと、これも話が大袈裟になるかもしれないんだが、ともかく『紅』にはずっと姿を現わさない」
「それで、お家には」
「それが、三津子の家がどこにあるのか分らないのさ」
「暢気《のんき》なお話ね」
「そういえば、そうだが」
「でも、三津子さんなら、そこにいるじゃない」
不意に、雅子がそう言うので、城田はいそいで首をまわし、窓の外を見た。窓の外には、夜の街がひろがっており、人の姿もかなりの数が見えたが、三津子らしい姿はなかった。
「そこよ、ほら、そこ」
雅子が言うので、城田は一層眼を凝らす。
「窓の外じゃないわ」
「どこなのです?」
「そこよ、城田さんのとなり」
ようやく意味を悟り、城田は自分のとなりの空の椅子を眺めて苦笑した。
「これは、この前の仕返しをされたわけだな」
と、城田は笑ったが、雅子は真面目な顔のまま、
「でも、冗談ばかりじゃないのよ。あれから、城田さんを見ると、となりに三津子さんがいるような気がするの。いつもそうなの。三津子さんがいる、あたしの眼には見えないけれど……、とおもうのよ」
その言葉を聞いて、井山は機嫌よく笑いながら、
「これは、どうも、どうやら、城田君は、快楽コンサルタントとしての計算をあやまったようだな」
「どうしてですか」
「だって君、いつも君が女の子と一緒にいるとおもわれていたら、この雅子さんを君に近寄らせる余地がないわけだ」
はたして、そうだろうか、と城田は由美のことを思い浮かべる。一対一の形が崩れて、はじめて強く刺戟された由美のことを思い浮かべてみる。しかし、城田はさりげなく答えておく。
「快楽コンサルタントの役目の人間が、直接快楽を押しつけるのでは、これは役目からはみ出すことになりますからね」
それにしても、と城田は考えている。三津子は、いったい何処《どこ》へ行っちまったんだろう。本物の透明人間になってしまったのか、とふと馬鹿げた妄想《もうそう》に襲われる。
「本気になって、探してみるか」
どうやって探すか、その手蔓《てづる》が目下のところ分らないが、なんとか方法を考え出せないものでもあるまい。
しかし、探し出して、それでどうするか。そう考えると、はっきりした答えはない。三津子を探し出すことよりも、探し出すまでのプロセスに興味があるようだ、と自分でおもう。丁度そのとき、雅子の声がした。
「城田さん、三津子さんのこと好きなの」
「嫌いじゃないですね」
「はやく、見付けて、結婚したら。もうそろそろ身をかためてもいい齢だとおもうわ」
「結婚ということになると、あまり気がすすまない」
「三津子さんが相手では?」
「誰が相手でも、気がすすまない」
「なんだか、そのようね。城田さんを見ていると、そんな気分で暮していることが分るわ。そのくせ、浮気をするわけでもないのでしょ」
「さあ」
曖昧に、彼は答える。由美の顔が眼に浮かぶ。たしかに、その前は、雅子の言うとおりだ。
「どうなのよ」
「このところ、しばらくはそうでしたね。以前は、ずいぶんいろんなことをやったが。あまり、やり過ぎてね」
「いまは、中休みなの。なんだか、老人ぶっているみたいね。ま、そういう時期もあるかもしれないけど」
「ずいぶん年上みたいな口をきくなあ。これではいつもと反対だ。雅子さんが、ぼくのコンサルタントのようだ」
「そのくせ、女の人がいらない、というわけではないのね。わたしのコンサルタントになっているのもそうだし、三津子さんを透明人間に仕立てたのもそうよ。つまり、女の人を材料にして、頭の体操をしているわけね」
井山が口を挿んだ。露骨な言い方をする。
「頭の体操だけで、からだの体操は必要ないのかな。いまの話を聞いていると、まるで城田君は、どこかに欠陥があるみたいだね」
なるほど、そういう考え方も成り立つか、と城田はおもい、分ってはいたが、わざと問い返した。
「どこか、欠陥とは、どこですか」
「どこといって君、つまり、肉体的にね」
その言葉には、どぎつく厭《いや》なひびきがある。大場雅子との関係を嫉妬《しつと》しているのか、と城田はおもい、軽く受け流そうとおもったとき、不意に腹の底に怒りがこみ上げてきた。自分でも思いがけないほど、強い怒りである。
「それは、違いますよ」
「ほんとかね」
「ほんとうです」
その短いやり取りのあいだに、怒りは消えてしまった。由美の大きく反った躯を思い浮かべたためで、念を押すように訊ねてくる井山が滑稽に見えはじめた。
それにしても本当に由美の躯には刺青があるのだろうか。井山のあのときの態度は、嘘とはおもえない。だが、どの部分に、どういう形の刺青があるのだろう。
そのため、もう一度、城田は由美を抱くことになった。
城田が由美と二人だけで会えたのは、その夜から四日後である。彼は電話で誘ったのだが、四日後までは毎日先約があって駄目だ、と断わられたためだ。
「やっと、会えたね」
由美の背中のチャックを引き下ろしながら、彼は耳もとでささやいた。由美は、咽喉《のど》の奥でくっく、と笑い声を立てた。
「なにが可笑《おか》しい」
「だって、いまの言葉、言葉だけだと、とてもロマンチックなんだもの」
「まったくだ。なぜ、なかなか会えなかったか、といえば、きみが毎日浮気していたせいだからな」
「そういうことなのよ」
「自慢するみたいな言い方をしなくてもいいとおもうがね」
そういう会話のあいだにも、彼の手は動きつづけて、由美の衣服を剥《は》がしてゆく。焦茶色のまるい肩がむき出しになり、布に隠れて焼け残ったため色の薄くなっている乳房のふくらみが覗《のぞ》きはじめる。
彼は注意ぶかく、由美の躯に眼を向けているが、背中にも尻にも、刺青らしいものは見えなかった。
やがて、由美はベッドの上に、仰向けに横たわった。その姿を傍に立って見下ろしている城田の眼に映っているのは、焦茶色の肌のひろがりだけである。
「足の裏かな」
突然、そうおもった。
足首を掴んで、足の裏を覗こうとする。
「なにをするの」
笑いを含んだ声で、由美は訊ねる。
「くすぐったいから、やめて」
身もだえる形で、陽気に由美は叫ぶ。両脚をばたばたさせる。
足の裏にも、目的のものは無かった。しかし、すぐには手を離さず、彼は足の裏をくすぐってみた。
「やめてよ、やめて」
一瞬、由美は脚をばたつかせる。どうだ、参ったか、という心持で、足のところにうずくまった彼は由美の顔をうかがった。
そのとき、ばたつく二本の脚のあいだに、彼の視線が留まった。
「ここなのか」
とおもったときには、由美の二本の脚は堅く閉じられていた。
「おい、きみの刺青をみせてくれ」
「あら、気付いたの」
「気が付かなかったのだが、あるという話を聞いたものでね。それで、探していたんだ」
「足の裏まで、探していたわけね。でも、誰に聞いたの」
「誰にって、井山さんさ。ほかに、聞く相手がいるのかい」
「井山さんて、お喋《しやべ》りね」
「ひょっとした拍子に、そういう話になってしまったんだ」
「弁解してあげなくたっていいのよ。井山さんは、知らないんだから」
「知らない?」
「刺青の本当の意味を、知らないのよ」
「本当の意味?」
問い返したが、由美はもう口を噤《つぐ》んで、答えない。もっとも、秘密があって、その秘密を守ろうとする態度ではなく、気楽そうに鼻歌をうたっている。
その鼻を、彼はつまみ上げると、
「おい、ともかくその刺青をみせてくれ」
由美は口で息をしながら、
「乱暴ねえ、そんなに見たいの」
と、両膝《りようひざ》を弛めた。
左の腿《もも》の内側の奥ふかく、その刺青はあった。郵便切手ほどの小さな刺青で、藍色《あいいろ》一色で彫ってある。
「なんだ、これは。マンガか」
「マンガという言い方って、ないでしょ」
たしかに、マンガではない。しかし、戯画化され、多分に図案化された絵である。一匹の熊《くま》ん蜂《ばち》が尖《とが》った槍を構えて、飛翔《ひしよう》している絵である。
よく見ると、その蜂の頭には、冠がかぶせられてあった。
「おや、冠をかぶっているな。なるほど、この蜂は、雌だな」
「あら、よく気付いたわね」
「冠のかたちが、女王さまの頭に載っているものと同じだからね」
「井山のやつなんて、そんなこと、ぜんぜん気にしなかったわ」
「とすると、王様の冠をかぶった熊ん蜂の刺青もあることになるな」
「ますます、いい線だわね」
「ヤクザの兄貴《あにい》で、雄の蜂の刺青をしているのがいる。雌の蜂の刺青をしている女が何人もいる……」
「そのへんの考え方は、もう井山に近くなってしまったわ。そんなこと、ないのよ。だいたい、それじゃ話が合わないわ。だって、蜂では、女王蜂が一番えらいのよ。雄の蜂なんて、みそっかすよ」
「分らないな、教えてくれ」
「厭よ」
「たのむ、教えてくれ」
「駄目」
そう答えると、まるで舞台の幕をおろすように、由美は両膝を合わせ、ごろりと俯伏《うつぶ》せになってしまった。
西洋館
城田祐一は、ある日の午前十一時ごろ、寝床の中で薄目を開き、まだ覚めやらぬ頭でぼんやりとりとめのないことを考えていた。前の夜、明け方ちかくまで仕事をしたので、まだ眠り足りぬ気持もある。といって、一たん眼が覚めてしまったので、もう一度眠り直すこともできない。
いつまでも寝床の中でぐずぐずしている頭の中に、いろいろの雑念が浮かんだり消えたりしている。やがて、由美の腿の内側にあった藍色の刺青が、浮かんできた。女王の冠をかぶった熊ん蜂が槍を構えた図柄の小さい刺青……、その刺青のことが気にかかる。
由美は口を噤《つぐ》んで言わぬ。城田は、理加という娘の顔を思い浮かべる。由美と理加とは密接な関係にある。
理加の腿に、王様の冠をした蜂が彫られている、ということも考えられる。しかし……、と彼は迷いながら、理加の顔を思い出している。顎《あご》のしゃくれた小さい顔をしたその骨格と、受唇《うけくち》の口もと、素早く動く眼にうかぶ艶めいた光など、どれを取って考えても、理加は女性的である。焦茶色に皮膚を焼いた由美のほうに、まだしも男性的な要素が認められる。
由美が、女王の冠。
理加が王様の冠。
これは、やはり不自然におもえる。
しかし、由美の刺青の秘密を探るためには、これはやはり理加に接近するより、手がかりはない。
由美の刺青は、そういうことを彼に考えさせる一方、三津子のことを思い出させる。三津子が行方不明になってから、二十日近くになる。もっとも、いままででも、そのくらいの日数、彼は三津子に会わなかったことがしばしばある。したがって、三津子は行方をくらましたわけではなく、ただ酒場「紅」の勤めをやめただけで、この都会のどこかで以前と同じように暮しているのかもしれない。
しかし、一たん気にかかり出したとなると、気にかけるのをやめようとおもっても、無理である。なんとか、三津子の行方を探す方法はないものか。
こういう二つの問題を頭に浮かべて、彼が依然として寝床の中でぐずぐずしているとき、電話のベルが鳴った。
「もしもし、城田さん」
若い女の声だが、咄嗟《とつさ》に誰かは分らない。三津子か、由美か、とおもったが、その声の主はすぐに自分の名を、名告《なの》った。余志子だった。
「なんだ、きみか」
「あたしで悪かったみたいね」
「そんなわけじゃないが」
「いいお話なんだけど、教えてあげないわよ」
「意地悪を言わずに、教えてくれ」
「お願いする?」
「うん、お願いします。今度、アンミツをご馳走する」
受話器の中で、子供っぽい笑い声が聞え、やがて余志子が言った。
「きのう、用事があって」
と彼女はこの都会のはずれの地域にある池の名を言い、その池の傍へ行った、と言う。
「たしか城田さんの家は、その近所だったとおもうんだけど」
「近所というわけじゃないが、比較的近くといえるな。それでどうしたんだ」
「その池の傍で、三津子さんを見かけたのよ」
「え? 三津子を」
「間違いないとおもうわ。たしか、三津子さんよ。池のすぐ傍に立って、水の方を眺めていたわ。あたしは丁度、三津子さんの立っている反対側のところにいたのだけど、小さい池だから顔がはっきり見えたわ」
「それで」
彼は苛立《いらだ》っている自分を感じているが、余志子はのんびりした口調で、
「そうおもったとたんに、三津子さんらしい人が歩き出したの。あたし、城田さんのことを思い出して、追いかけて行こうとしたのだけど」
「したのだけど、って、なぜ追いかけないんだ」
「追いかけたのよ。だけど、池って、まるいものでしょう。三津子さんに追いつくには、池のまわりをぐるりと半分まわらなくちゃならないでしょう」
「まわればいいじゃないか」
「だから、まわったのよ。でも、ずいぶん距離が開いてしまったわ。三津子さんの姿を見失ったとおもったけど、さいわいそのうしろ姿を見付けることができたの」
城田は安堵《あんど》して、
「どうも、きみの話はひどく気をもたせるねえ、それで、三津子を掴《つか》まえたのだね」
「それが駄目なの。ようやくうしろ姿を見付けたとおもったら、すぐに一軒の家の中に入ってしまったわ」
「そこが、三津子の家なのか」
「どうなのかしら。大きな西洋館でね、表札に、横文字の名前が書いてあったわ」
「その家に入って、声をかけてみたのか」
「だって、あたし、それほどまでにする気持はないわ。三津子さんを探しているのは、あたしじゃなくて、城田さんですもの」
「そういえば、そうだな。それで表札の名前は覚えていますかね」
「ちゃんと、メモしてきたわ。R・アンダーソンと書いてあったわ」
そう言うと、余志子はその家の詳しい在り場所を教えた。
「ありがとう、それで十分だ。大手柄だよ」
「感謝する?」
「するとも、アンミツをおごる」
「アンミツなんて、ずいぶん安いご褒美《ほうび》ね」
「アンミツを五十杯おごる。アンミツの回数券を買ってやるよ」
小高い台地に囲まれて、池はスープ皿の底のようになっている。水はきたなく、池というより沼といったほうがよいかもしれない。近くに寄って眺めれば、メタンガスの泡《あわ》が、ぶくぶくと浮かび上ってきていそうにおもえるが、城田祐一はいま台地のあいだの道を歩いている。
目的の家は、間もなく見付かった。
古びた大きな西洋館で、その壁面には蔦《つた》が這《は》い上り、葉を繁らせている。石の門から入口までかなりの距離があり、その道の両側には雑草が雑然と生え茂っている。
しかし、空家のまま打ち捨てられているといった気配ではなく、そういう雑然としたかたちには、どことなく人工のにおいがする。家の主人の趣味で、わざわざそんな形につくっているような気配がある。道の両側に花壇をつくるかわりに、雑草を植えてあるという感じなのだ。
ポーチに立って、呼鈴のボタンを探した城田は、そこに異様なものを見付けた。小高い円型の中央に小さな突起、……それが普通の呼鈴のかたちだが、この家の円型は三まわりほど大きくて、中央が深く窪《くぼ》んでいる。その窪みの奥から、親指の先が突き出ているのである。
その親指の先は、肉色の腹をみせており、渦巻のかたちの指紋もみえる。
城田は薄気味わるい気持で、自分の親指を突き出し、その腹を呼鈴のボタンの役目をしている親指の腹に当てがった。やわらかい感触を我慢して、ぐっと押す。
家の奥でベルの鳴る音が、かすかに耳に届いた。奥で動いた気配が、しだいに近づいてくる……。
R・アンダーソンというこの家は、混血児の三津子の父親の家なのだろうか。あるいは、父親の親戚《しんせき》とか友人とか、いずれにせよ、三津子がここにいることは間違いないだろう、と彼はおもっている。
扉が内側から開かれた。扉を開いた人物は、そのまま家の中に立っている様子なので、彼は玄関の中を覗《のぞ》いた。
薄暗い家の中に、戸外の光が射し込んで行く。その光を避けるように、その人物はあとずさりして行く。若い女の白い顔である。三津子かとおもったが、違った日本人の女の顔である。
「おたくに、三津子さん……、花岡三津子というのですが、ご厄介になっているでしょう」
「さあ、そんなかたは、存じませんが」
ここでは、外国の名で呼ばれているのかもしれない、と彼はおもい、
「つまり……、あいのこの女の子なんですがね」
「いいえ、そんなかたは、いらっしゃいませんが」
彼はもう一度、女の顔を眺めた。その女が三津子かもしれないという疑いを捨て切れなかったためだが、どう見てもその女は三津子ではない。同じ年頃の、美しい少女ではあるが。
「あなたは、この家のお嬢さんですか」
混血でない娘が、そんな筈はないのだが、その娘にはどことなく気品があった。しかし、彼女は答えて、
「いいえ、あたしはメイドです」
相手が、三津子を知らないという以上、このまま帰るほかはない。この家を探るつもりだったら、なにかもっともらしい口実をこしらえて、訪問すればよかったのだが、すぐに三津子に会えるとおもっていたのが、失敗だった。
「嘘でしょう」
「え? いいえ、三津子さんとおっしゃるかたは……」
「いや、あなたメイドというのは」
「でも、そうなんですもの」
「そうかなあ……」
そんな会話をして、時間を稼《かせ》ぎながら、彼は家の中の気配をうかがっている。玄関の中から、廊下が一直線に長く伸びている。その廊下の奥を透かすようにして眺めた彼は、
「あっ!」
とおもった。
薄暗い廊下の奥に、天井から龕燈《がんどう》のかたちをした照明器具が鎖の先に吊《つる》されているのがみえた。その光は、強いものではなく、まわりをぼんやり照らしている程度だが、その器具の正面に貼《は》られた布の模様が、彼をおどろかしたのである。その布の模様は、内側の電球に照らされて、はっきり浮かび上っているわけだが、クリーム色の地に、赤い円形と一まわり小さい黄色い円と、藍色の大きな星型が一つ、という図柄である。
つまり、太陽と月と星を象《かたど》った模様といえる。
その模様を見て、城田祐一は、三津子の左の尻にある筈の刺青を思い出したのだ。細い鎌のような真紅の三日月にかかえこまれるように並んでいる、緑と藍色の六つの星……。その図柄と、いま廊下の奥に見えている龕燈の模様とのあいだには、甚《はなは》だしい類似点がある。
一瞬、彼はその龕燈の布は、布ではなくて人間の皮なのではあるまいか、と疑った。もしも、その模様が北斗七星と三日月のものだったら、三津子が殺され鞣《なめ》された皮がそこに貼られている、という疑いに捉《とら》えられたかもしれない。
この西洋館と、三津子とは、たしかに何かの繋《つな》がりを持っているに違いない、と彼は確信をもった。
それなのに、いま眼の前にいる少女は、その事実を隠そうとしている。深追いは禁物だ……、と彼はおもった。一たん退却して、よく作戦を練ってから、あらためて攻撃をはじめることにしよう。
「どうも失礼しました。ぼくの方のなにかの勘違いのようです」
雑草のあいだの道を抜けて、石の門をくぐり、振り返って大きな建物をもう一度眺めてみた。R・アンダーソンと彫ってある石の表札の上を、指の腹で撫《な》でてみた。不意に、えたいの知れぬ寒気を背筋に覚え、逃げるように立ち去って行く。台地の下の池の表面が、鉛色ににぶく光っているのが、彼の眼に映っている。
その夕方、レストラン「雅」へ出かけていった城田をみて、余志子がにこにこ笑いながら言った。
「城田さん、三津子さんに会えたでしょう」
「…………」
「やっぱり、外人の表札のかかっている家に住んでいることを知られるのが厭で、住所を隠していたのかしら。かえって得意におもう人もいるでしょうにね」
「いや……」
城田は曖昧に返事すると、脅かす素振りをつくって、言った。
「きみ、三津子のあとをつけて、あの家に入らなくてよかったぞ」
「いやよ、そんなコワイ顔して。お化け屋敷なの。なんだかそういえば、草ぼうぼうの家だったけど」
「お化け屋敷じゃないがね、いまごろきみは、皮を剥《は》がされて、床の下の穴に埋められている頃だ」
「え? 皮を剥がされて?」
余志子は、ひどく驚いた顔になっている。
「ねえ、どうして皮を剥がされるの?」
くわしく説明するのも億劫《おつくう》なので、
「なんだか、そんな気がしただけだよ」
「でも、ねえ、どうして」
余志子は、執拗《しつよう》に訊《たず》ねる。真剣な表情が浮かんでいる。
「いや、冗談だよ。きみは大丈夫だ、まさかきみには刺青はないだろうからね」
「え? 刺青?」
また、余志子は驚いた声を上げた。
「やたらに驚きたがる子だね。きみ、刺青でもあるのか」
「まさか……」
と、余志子はようやく笑い出し、
「なんだか、お話を聞いていたら、気味が悪くなっちゃったのよ」
「それはそうだろう、アンミツの好きな女の子むきの話じゃないからね」
そのとき、マダムの雅子が近寄ってくると、声をかけた。
「三津子さんの行方は、分りまして?」
「ええ、どうやら、居場所だけは分ったのですがね。それがどうも怪しげなところで」
「裏町の、ギャングの巣みたいなところにいたというわけ?」
「いや、堂々たる西洋館なんだが……」
そのとき、余志子が口を挿《はさ》んだ。
「城田さん、あたし、そんな家に近寄らないほうがいいとおもうわ」
「…………」
「ねえ、本当よ。もう二度と、行くのはやめて頂戴」
城田は笑いながら、雅子に言った。
「ほら、あんなに怖がっているでしょう。それはもう怪しげな館《やかた》でしてね」
「余志子には、もう話したのね。わたしにも話して聞かせてよ」
「そうだな……」
忙しくなってきたぞ、と城田祐一はおもった。R・アンダーソンという表札のかかった西洋館を探ること。由美の刺青の秘密を知るために、理加を誘惑すること。それに、この大場雅子の快楽コンサルタントの役目を果すこと……。とりあえず、雅子を「紅」に誘って、そこでR・アンダーソン邸の話をしてきかせよう。そうしながら、理加を誘ってみる、それが時間の節約というものだ。
雅子と並んで「雅」を出ようとした城田の背に、余志子がもう一度、
「ね、あのお家には、もう近寄らないで」
と、真剣な声を投げてきた。
一対二
城田祐一は大場雅子をともなって、酒場「紅」へ行った。
酒場に女性を伴って行くと、その席にはホステスはあまり集まってこない。それが、酒場側の客にたいするエチケットとみえる。ホステスが一人同席して、控え目に相槌《あいづち》を打つ、というのが最も平均的な情景である。
城田はその一人のホステスとして、理加を呼んだ。由美は何喰わぬ顔で、遠くの席からいつものような笑顔を示しただけである。
さて、R・アンダーソン邸の話を城田がすると、当然のことながら、雅子は好奇心を示した。
「それは、確かに三津子さんのお父さんの家だとおもうわ。でも、ずいぶん変った趣味の持主のようね」
と、雅子は言い、
「わたしも、一度その家を見てみたいわ」
「それはやめたほうがいい」
城田は、いそいで遮《さえぎ》った。
「あら、なぜ」
「殺されて、皮を剥き取られてしまうかもしれない」
「でも、わたし刺青なんかしていなくてよ」
そのとき、理加が口を挿んだ。
「皮を剥がれても、死ななくて済むのよ」
「おや、なぜそんなこと知っている?」
「映画で見たのよ。記録映画みたいなもので。フランスの女学生のアルバイトでね、お尻に刺青をして、その皮を薄く剥ぎ取らすところを映してあったわ」
「へえ、そんなアルバイトがあるのかねえ。豚のお尻の肉を何キログラムかえぐり取って、そのあとに泥を塗りつけておくと、そのうち新しい肉が盛り上ってくる、という話は聞いたことがあるが……。しかし、たとえばテーブル・クロスくらいの大きさに皮を剥ぎ取られちまったら、これは死ぬだろう」
「それは、そうでしょうけれど」
「郵便切手ぐらいの大きさなら、大丈夫に違いないが」
そう言いながら、彼は由美の腿にあった蜂の刺青をおもい浮かべ、おもわず視線が理加の脚の付根の部分にさまよった。理加は表情を硬《かた》くして、
「切手くらいの?」
と言い、疑わしげな眼になった。警戒されては困る、と彼は、
「そうさ、そのくらいの大きさのものなら、すこし痛いくらいで済むだろう」
そして、わざと言ってみた。
「どうしたんだ、なんだかヘンな顔をしているね」
すると理加はすぐに顔をやわらげて、
「いいえ、なんでもないわ」
彼は理加との会話は深追いせずにそこで打ち切って、雅子に向って言った。
「しかし、やっぱり危険ですよ。あなたに刺青がないとしたって、刺青されてから剥ぎ取られる、ということがあるわけだ」
「でも、城田さん」
雅子は、ふっと可笑《おか》しそうな顔になり、
「あなたの見たとおっしゃるその龕燈のことだけど、それに貼ってあったのが人間の皮かどうか、確かなわけじゃないのでしょう。たとえ皮だとしたって、ほかの動物の皮かもしれないのじゃなくって」
「そういえば、そうだが……」
それにしても……、と彼は考えている。三津子の行方を探しはじめてから、自分の日常生活に、にわかに起伏が多くなった。由美と関係ができてしまったのも、R・アンダーソンという奇怪な家に出遇《であ》ったのも、また理加を誘おうとしていることも、皆そのためといえるのである。
そして、三津子という生身《なまみ》の人間はたしかに行方不明になっているが、その気配は彼の行く先先に濃厚に漂っている。三津子が眼の前にいるとき以上に、色濃く彼につきまとってきている。
そんなことを考えていた丁度そのとき、大場雅子が言った。
「わたし、このごろすっかり変な癖が付いてしまったわ。城田さんを見ると、かならずその傍に、三津子さんがいるような気がしてくるの。もちろん、透明人間の三津子さんだから、眼には見えないけれど」
「…………」
「だから、わたしと城田さんとは……」
と、雅子は冗談の口調になって、
「一生、深い関係にはなれないわけよ」
その言葉を聞いて、彼は反射的に考える。男と女との関係は、一対一ときまっているわけではない。一対二、二対一、二対二、いろいろの形があるわけだ。由美と理加とそのボーイ・フレンドとの形づくる関係が眼に浮かんでくる。
しかし、現在のように、大場雅子を大切に取り扱っている心境のままでは、たしかに彼女の言うとおりである。彼の傍にかならず三津子が見えているのでは、一対二の形を雅子に押しつけるわけにはいかない。
城田祐一はそう考えて納得したのであるが、しかし、大場雅子の言葉は理加を刺戟《しげき》したようだった。
「あら、どうして城田さんと深い関係になれないのかしら。ねえ城田さん、深い関係って、一緒に寝ちまうことなんでしょ」
「この場合は、ま、そう考えておいていいようだね」
「それなら、何故《なぜ》かしら」
理加は、大場雅子に向き直って、質問する。雅子は戸惑い、いくぶん恥ずかしそうな表情になって、
「だって、そうでしょう。傍にいつも、もう一人の女の人がくっついていたら、そんなことにはなれるわけがないもの」
「そうかしら」
理加は眼を光らせた。嘲《あざ》けるような、挑むような眼になっている。そして、言った。
「おばさまって、案外ウブなのね」
理加は、わざと「おばさま」という言葉を使っている。
「おいおい、やたらに威勢がいいじゃないか」
苦笑しながら、城田はとりなし役をつとめる気でいる。軽い調子で、理加の口を封じようとする。
「お客さまに、たいして、失礼だぜ」
「だって、このおばさま、ヘンなこと言うんだもの」
「ヘンなこと?」
もう一度、彼は苦笑してから、気付いた。理加としては、自分たちの行為を、大場雅子に非難されているような気分になっているらしい。
一方、大場雅子はさすがに大人の女の余裕をみせて、むしろそういう理加を好奇心を示した眼で眺め、
「おもしろい人ね」
と言った。しかし、理加の方では、雅子のそういう余裕を示している言葉が、一層気に入らないようだ。
「ちっとも、面白くなんかないわよ」
と、口を尖らせる。もっとも、顎がしゃくれて受唇の小柄の理加なので、愛嬌《あいきよう》も失っていない。
「まあまあ、喧嘩《けんか》はやめて。仲直りに、あとで一緒に食事にでも行こうじゃないか」
と彼は腕時計を眺め、
「もっとも、カンバンまでには、まだかなり時間があるが……」
このとき、理加はきわめて積極的になった。
「本当ね、約束してね。時間が余ったら、よそのお店にでも行って、終りになるころ迎えにきて頂戴」
「そうするかな……、どうします、雅子さんは」
「わたし、どっちでも」
「そんなこと言わないで、あたし本当は、お姉さまのような綺麗《きれい》なひとって、大好きなの」
「おやおや、今度はお姉さまか、ずいぶんゲンキンだな。だけど、由美ちゃんも誘わなくてはいけないのじゃないか」
「由美は、今夜なにか約束があるらしいわ。いいのよ、三人だけのほうがいいわ」
時間を潰《つぶ》すことにして、戸外へ出たとき、城田が、
「いいんですか、迷惑じゃなかったのかな」
「いいのよ、若い人とつき合うのは、たのしいわ。それに、いまの若い人って、よく分らないところがあるから、すこし研究しなくちゃ」
「雅子さんだって、まだ若いじゃありませんか。あなたのおつき合いで、ぼくまで古い部類に入れられるのではたまらない」
と言いながら、彼はもう一軒の酒場の階段を、雅子を伴って登って行く。こういう時刻では、ほかに時間を潰す方法が見付からない。パチンコ屋は閉店時刻だし、映画も中途半端である。
その酒場の椅子に雅子と向い合って坐った城田は、
「ぼくの隣に、まだ三津子が見えてますか」
と、訊ねてみる。
「ええ、見えているわ」
城田の傍のホステスが、
「あら、何のお話。どなたも、ほかにはいらっしゃらないのに」
「それがいるんだから、困ってしまう」
そう言いながら、彼はそのホステスを自分の躯《からだ》の傍へ引き寄せ、
「こうやっても、まだ三津子が見えてますか」
「見えているわ。三津子さん、怒っているわよ」
「そうかな、こういうときには、三津子は怒るのかな」
そう言って、彼は自分と三津子との関係を思い浮かべてみようとするが、それは曖昧なかたちのままである。
「ま、いいや。怒っているなら、もっと怒らせれば、三津子はどこかへ行ってしまうかもしれないからな」
「苦しいわ」
一層強く引き寄せられたホステスは、いくぶん甘い声で、そう言う。その声音に気付いた彼は、「怒っているのは大場雅子なのかもしれない」と気付いて、隣の躯を締め付けていた腕を弛めた。
ようやく閉店の時刻がきて、城田と雅子は理加と落ち合った。
「さて、何を食べるとしようか」
と城田が言うと、理加は積極的に意見を出してくる。
「あたし、ゆっくり落ち着けるところへ行きたいわ」
「落ち着ける、というと……」
「畳の上に坐りたいの」
「とすると……」
と、彼はある深夜営業の料理店の名をあげた。座敷で肉のオイル焼きを食べさせるようになっている店である。
「そうねえ……」
理加は難色を示し、
「あたし、お風呂に入りたいの」
「風呂?」
「さっぱりしてから、ゆっくり食事したいのよ」
奇怪な成行きになってきたぞ、と彼はおもう。もしも、大場雅子が一緒でなかったら、「面白くなってきた」と、こだわるところなく喜んだかもしれない。もっとも……、もしも大場雅子が一緒でなかったら、理加はこういう態度を示さなかったかもしれない……。そう考えると、理加の魂胆が分るような気がしてくる。
「こいつめ……」
と腹の中でおもったが、理加に刺青が有るか無いかの調べがつくチャンスを逃すわけにはいかない。あとは成行きにまかせようと、
「畳と風呂と、料理があればいいんだな。よし、適当なところに案内しよう」
と、彼は二人の女の躯を、タクシーに押し込んだ。
タクシーが停まったところは、逢引きのための旅館の前である。もっとも、割烹《かつぽう》旅館という趣もあって、料理が自慢の家である。
「ここで、どうだ」
と彼が理加に向って言い、
「ええ、いいわね」
彼女が言うので、大場雅子としては躇《ためら》うわけにもいかない。
二間つづきの奥の部屋には、すでに夜具の用意ができている。その様子が、仕切りの壁にくり抜いてある飾りの窓を透して、チラリと見える。雅子はその窓に視線を向け、いそいで眼を逸らした。
雅子の顔がこわばって、いまここでは、大場雅子と理加との年齢が逆になってしまったようにみえる。
やがて運ばれて卓の上に並べられた料理に、理加はすこししか箸《はし》をつけず、
「ねえ……」
と含み声で、彼女は上眼使いに、城田の顔を見た。
「なんだ」
「もう、おなかが一杯だわ」
「…………」
「べつのことをして三人で遊びましょうよ」
「三人で遊ぶといって、花札か、トランプか」
「そんなんじゃないわ」
もう一度、彼女は上眼使いで、城田を見る。理加の隠されていた魂胆が、はっきりと浮かび上ってきた。
いま、自分は道具にされている、と城田はおもう。理加は、大場雅子を一対二のかたちに巻き込もうと企んだわけだ。そのかたちになるための道具として、城田は使われようとしている。
道具になることは、すこしも構わない。相手が自分を道具と看做《みな》すと同じに、自分も相手を道具として扱えばよい。人間と人間とのつながりを持つよりも、物と物として触れ合うほうが、よほど気が楽だ。理加と関係をもつ場合には、そういう形が、むしろ理想の形といえる。
しかし、大場雅子との関係となると、やはりそれでは困るのである。それでは困る、という気持が、彼の弱味になっていて、いまだに彼女とのあいだでは接吻という交渉があっただけだ。あの屋上のビヤ・ホールから降りてくる途中の閑散とした長い階段での接吻……。
ともかく、早くこの場の収拾をつけなくてはならない。
「よし、分った」
と彼は勢いよく言った。
「きみ、風呂へ入って汗を流したまえ」
「ええ、入るわ。でも、みんなで一緒に入りましょうよ」
「分った、分った。すぐにあとから行くから」
「いま、一緒に行きましょう」
理加は立ち上って、二人を促す。城田は立ち上ると、雅子の腕を引っ張って、立ち上らせた。
「さあ」
理加が促す。
城田は大場雅子の躯を引き寄せ、接吻しかける素振りを示して、
「すぐに行くから、一足先に入りたまえ」
と言い、雅子の肩越しに、理加に眼くばせした。「ヤボは言わず、一足先に行け」とか「いま、この女を覚悟させるからな」とかいう具合に取れる仲間同士のような親しげな意味ありげな眼くばせである。
二つの謎《なぞ》
城田は、大場雅子の躯を引き寄せ、接吻しかける素振りになっている。雅子は、掌をかるく城田の胸に当てている。露骨に抗《あらが》う姿勢ではないが、躯と躯とが触れ合うのを防いでいる。そして、雅子が言う。
「城田さん、あまり良い趣味ではないわね」
「まったく、このごろの若い娘の考えていることは……」
「あら、これは城田さんのたくらみじゃなかったの」
「とんでもない」
「わたしは、リカが人形で、城田さんが人形つかいかとおもっていたわ」
余裕をみせたやわらかい口調だが、咎《とが》める気配がある。城田も、真顔になって答える。
「それは、雅子さんの勘違いですよ」
「それならいいけど、いくらわたしの快楽コンサルタントだとしても、行き過ぎだとおもったのよ」
バス・ルームから、理加が湯を使う音がひびいてきた。
城田は、真顔のまま、言った。
「ひとつ、お願いがあるのですが」
「なんですか。へんにあらたまって」
「リカと一緒に風呂に入ってもらいたいのだけど」
「あら、そんなことは。すこしも企んでいない、といま言ったばかりじゃありませんか」
「企んでいるわけじゃない。リカと一緒に風呂に入って、調べてもらいたいことがあるんですよ」
「…………」
「ぼくがいまバス・ルームへ入って、自分で調べてみてもいいわけだが……。リカはみんなで一緒に入ることを望んでいるのだから。だが、ぼくがそうしたら、あなたは怒って帰ってしまうでしょう」
「そうね、帰るわね」
「だから、雅子さん、あなたに調べてもらいたいんだ」
「でも、調べるといって、なにを?」
雅子の顔に、好奇心が浮かんだのを、城田は見逃さない。そのとき、バス・ルームの戸の開く気配があって、理加の大きな声がきこえた。
「城田さん、はやく、こっちへいらっしゃいよ」
「いま、すぐ行くから……」
城田も大声で答えておいて、
「たのみます、はやくしないと、リカが風呂から出てしまう」
「でも、なにを調べるの」
「リカの腿《もも》の内側を見てほしい。刺青があるかどうか……。もしあったとしても、小さなものだから、そう、郵便切手くらいの大きさのもので……」
「あら、リカに刺青」
雅子の好奇心が強まったのが、分る。彼は雅子の肩に手をかけて、軽くバス・ルームのほうへ押しやるようにしながら、
「どういう図柄か、詳しく見て、あとで教えてください」
「刺青があるなんていって、あたしを欺《だま》してお風呂に入れようとしているわけじゃないでしょうね」
「そんなことはない。ぜったいにないから安心して……」
「そう……」
雅子は、城田の顔を見て、笑いを浮かべながら、
「ちょっとスリルがあるわね」
「そうでしょう。あなたは良いコンサルタントをお持ちですねえ」
「ほんと、それは認めるわ」
そう言いながら、雅子はバス・ルームの方へ姿を消した。
雅子がバス・ルームに入ってから、かなり長い時間が経ったようにおもえた。城田は、落ち着かぬ気持になってきた。
耳の穴が、バス・ルームへ向って開いているのに、気付く。ときどき、湯の音がかすかにひびいてくるのが、へんになまなましく聞えたりする。
話し声が聞えてくるような気もする。しかし、空耳のようでもある。しぜんに耳が鋭くなり、そうなると、その話し声は絶え間なくひびいているようにも聞え、またすべて空耳のようでもある。
立ち上って、バス・ルームに近寄り、聞き耳を立ててみようか、とおもう。腰を浮かしかけるが、すぐにやめる。やはり、そういうみっともない振舞いはできない、と自分に言ってきかせる。
彼の妄想《もうそう》の中で、ともするとバス・ルームの中の二つの裸の躯が、絡まり合いそうになる。白い湯気のなかで、理加の小麦色の裸と大場雅子の裸とが、複雑なかたちで縺《もつ》れ合う。雅子の顔の肌は、白い。全身が、上気してピンク色になっているだろうか。
雅子のさっきの態度から考えれば、そういうことは起り得ない、とおもえる。しかし、時間があまり長すぎる。女の中には、どんな魔ものが潜んでいるか、分りはしない。大場雅子自身が、いままで自分の中にいるものに気付かなかったのかもしれないのだ。
ようやく、二人の女がバス・ルームから出た気配があった。
やがて、彼のいる部屋に、二人の女が並んで入ってきた。
二人とも、上気した顔である。
いったいどういうことになっているのか、とおもったとき、気付いたことがある。雅子も理加も、浴衣姿ではなくて、ちゃんと洋服を着ている。
「おねえさまって、やっぱりウブなのね」
理加が、城田に話しかけてきた。唇のまわりに得意な微笑が浮かび、満足している顔つきで、
「だから、今夜は堪忍してあげるわ」
「…………」
「でも、この次には、約束を守ってね」
「ええ、いいわ」
そう答える大場雅子の顔にも、満足の気配がある。城田は、二人の顔を見比べて、言ってみた。
「いったい、どういうことになっているのだろう」
「どういうことになっているか、あとでおねえさまに聞いて頂戴」
理加はそう言うと、テーブルの上のハンドバッグを取り上げ、
「どうぞごゆっくり」
と、帰る気配を示した。
「おいおい、ちょっと待ってくれ」
「待てといったって、今夜は駄目なんだもの。そのかわり、城田さん、今度のときは頑張ってね」
「よく分らないが、ともかく、ぼくたちも帰る」
理加が先に帰り、雅子と二人で残る形になれば好都合にはちがいないが、あまりに突然、そういう形を鼻先に突きつけられてしまったので、彼は戸惑い、慌てている。
結局、三人一緒に旅館を出た。そこで、理加はすぐにタクシーを拾い、取り残された雅子と城田は、ちょっと顔を見合わせ、どちらから誘うともなく、ぶらぶら歩き出した。
「いったい、どういうことなんです」
もう一度、彼が同じ質問を口にした。
「わたし、リカの気持が分ったから、自尊心が満足できるようなことを言ってあげただけなのよ」
「というと……」
「つまり、わたしはリカちゃんみたいに大胆じゃない。だから、今夜はその決心がつかないけど、でも、興味はあるわ、と言ったわけよ」
「雨天につき、次の日曜日が晴天ならば決行、ということですか」
「そういうことでしょうね」
「それで、決行する覚悟があるのですか」
「まさか」
「それだけの話にしては、ずいぶん長かったなあ」
雅子は、彼の顔を確かめるように眺め、
「城田さんて、呆《あき》れた人ね」
「いやあ……」
内心の疑いを見破られた気分で、曖昧《あいまい》に口ごもる。
「だって、そうでしょう。あたしがバスから出たら、真先に訊《たず》ねなくちゃいけないことを、すっかり忘れているのだもの」
「そうなんだ」
「そうなんだ、なんて、あんな厄介な頼みごとをしておいて、時間が長いもないものだわ。すぐに眼に触れる場所じゃありませんものね」
「まったく、その通りです。ところで、どんな具合でした」
彼は恐縮して、理加の刺青の有無について、あらためて雅子に訊ねた。
「有りましたわ」
「え? やっぱり有りましたか。それで、どんな図柄か詳しく見てくれましたか」
「ええ、それは……」
言いかける雅子を遮《さえぎ》って、
「ぼくが言ってみましょう。熊《くま》ん蜂《ばち》が槍を構えている図柄だったでしょう、まるでマンガみたいな」
「あら、どうして分るの」
「やっぱりそうか」
彼は半ば独り言でそう言い、
「王様の冠をかぶった蜂の刺青は、リカにあったのか……」
しかし、雅子はその言葉を聞き咎めた。
「ちょっと待って頂戴。あれは王様の冠かしら……、わたしは女王の冠だとおもうのだけど」
「え? それは見間違いではないかな」
「あたし、とっても詳しく見たのよ」
「どうやって」
「背中の流しっこをしたの。城田さん、また話が別のほうへ行ってしまうじゃないの。あなたが考えているようなものじゃないわ。女同士って、お風呂に入るのは、馴れっこになっているものなのよ」
たしなめながら、彼女は立ち止まって、掌の上に指先で冠の形を描いてみせた。それは、城田が由美の腿で見たものと、そっくり同じ形のものである。
「それならば、やはり女王の冠だな。とすると、まったく同じ絵になるが」
「同じ絵って、誰と同じなの」
城田は一瞬ためらったが、
「これは誰にも言わないでほしいんだが、由美なんだ」
「由美ちゃんに? どういうことなんでしょう」
「リカのが王様の冠だったら、分る気持になるんだが……。しかし、どこかに王様の冠をかぶった蜂の刺青をした人物がいるにちがいない、とおもうのだが……」
大場雅子はしばらく黙って考えていたが、やがて口を開いた。
「三津子さんにも、刺青があるとかいう話だったけど……。リカたちの刺青と、なにかつながりがあるのかしら」
「そのことは、前からぼくも考えていたのだが……」
それ以上は、彼は口に出して言わなかった。しかし、頭の中では、そのことについて一つの判断がある。
彼は、三津子の刺青を実際に見たわけではない。しかし、R・アンダーソン邸で見かけた龕燈《がんどう》の模様に似たものとすれば、由美たちの刺青とは、ずいぶんの違いがある。由美たちのものは藍色一色だけで、線だけの絵で、絵自体が稚拙とさえいえる。素人《しろうと》のいたずらのようにさえ見える。
一方、龕燈の模様は、あきらかに専門家の手によるものだ。この二つの刺青のあいだを繋《つな》ぐ糸というものは、おそらく存在しないだろう、と彼はおもっている。
十日間、城田祐一は仕事に忙殺された。徹夜で原稿を書いた夜も、何日もあった。
ようやく解放された夜、彼は酒を飲みに街に出た。足はしぜんに、酒場「紅」に向う。
その入口に立ったとき、彼は十日前のことを鮮かに思い出した。そして、今夜は自分の眼で、理加の刺青を確かめてやろう、と考えた。
その考えを実行に移すことは、きわめて簡単である。レールはすでに敷かれてあるから、その上に乗って走ればよい。しかも、そのレールを敷いたのは、理加自身なのだ。
理加が彼の傍に坐ったとき、さっそく言ってみた。
「今夜は、この前の約束を果しにきたよ」
「ずいぶんご無沙汰だったでしょう。どうしたのかとおもっていたのよ」
「仕事が忙しかったこともあるが……」
「彼女、やっぱり……」
と、大場雅子のことをそういう呼び方をして、
「決心がつかないのだとおもっていたわ」
「そういうこともあったわけだ。だが、もう大丈夫。今夜はちゃんと段取りができている」
「面白いわ。あたしよりずっと年上のくせに、恥ずかしがっているのを見ていると、お色気を感じるわね」
と、理加は、大人っぽい言い方をしている。そういう理加を見て、城田はおもう。この女を自分が口説くとなると、ずいぶん手数がかかるだろう。大場雅子が介在しているから、理加はたやすく自分と旅館の門をくぐることになるわけだが……。
閉店の時刻になったとき、彼は立ち上って理加を促した。
「さ、行こう」
「どういう段取りになっているの?」
「この前の旅館へ行けばいい。彼女は先に行って待っている筈だ」
「いいわ、行きましょう。ちょっと待っていてね、すぐ支度してくるわ」
と、理加は更衣室に姿を消した。
間もなく、彼と理加は先日の旅館へ向けて出発したのだが、もちろん、大場雅子の姿はない。
「もう来るだろう」
と言いながら待つのだが、来る道理がない。
「やっぱり、彼女、いざとなるとこわくなったのよ」
結論を下すように、理加が言う。
「それでは、どうしようか。せっかくこうやって、二人で部屋にいるんだから、浮気しちゃおうよ」
理加は、くすりと笑って、言う。
「それもいいわね」
まるで、ボーリング場へでも出かける約束をするような気軽な口調で、理加は衣服を脱ぎはじめた。
ベッドの上での理加は、きわめて大胆に振舞う。そのため、苦労せずに、彼は目的の刺青を確かめることができた、と言いたいところなのであるが……。
理加の腿の内側には、左右とも、刺青が見当らないのである。照明は枕もとのスタンドだけで、ピンク色の笠を透して出てくる薄明りのため、見落したのかとおもって眼を凝らすが、どうしても見当らないのである。
「大場雅子は、嘘を言ったのだろうか。そんな筈はない」
と、彼はおもい、もう一度理加の脚に襲いかかった。
突発事
もう一度、理加の脚に襲いかかった城田祐一の眼には、やはり刺青は映ってこなかった。しかし、由美の刺青があったと同じ場所、すなわち腿の内側深く、細い一本の傷痕《きずあと》を見付けることができた。
三センチほどの長さの小さい傷である。そこにあった刺青を剥《は》がし取って、縫合したものとすれば、まだ新しい傷痕のわけだが、もうほとんど目立たないほどになっている。もっとも、枕もとのスタンドがピンク色の笠なので、その笠を透してくるうす桃色の光のため、傷の新しさがまぎれているのかもしれない。
よく眼を凝らせば、抜糸した糸の小さな穴が、エンピツの先で突っついたようにみえているような気もする。
大場雅子が嘘を言う筈がないとすれば、理加の皮はこの十日間のうちに剥がされたことになる。
その傷を確かめるように、彼の指先がその上を撫《な》でたとき、理加の躯にぴくっと緊張が走った。
「怪我をしている」
と、彼は言ってみた。
理加は、曖昧に黙っている。
「痛いのか」
「痛くはないわ」
「ずいぶん早く治るものだね。なにか特別の薬でもあるのか」
「ずいぶん早く、というけど、いつごろの傷か分るの」
「分るさ。ただの傷じゃないことだって、分る」
「…………」
「しかし、どうしてそこの刺青を剥がしたのか、それは分らない」
理加は、あらたまった声音《こわね》になって、
「どうして刺青があったことを知っているの?」
やはり、あったのか、と彼はおもったが、口には出さない。理加は真剣になって、質問してくる。
「誰に聞いたの?」
「誰にも聞きはしないよ」
「分ったわ。『雅』のマダムにでしょう」
「きみ、雅子さんと、そこの刺青が見えるようなことをしたのか」
彼は逆襲してみる。
「そういうわけじゃないけど。だって、一緒にお風呂に入ったでしょう」
「なるほど、しかし、違うね、雅子さんじゃない」
と、彼は嘘をつき、
「だいいち、聞いたわけじゃない。きみのその傷のある部分に、刺青があるのかもしれない、という推理が成り立つことがあったわけだよ」
「推理がね……」
理加は眼を宙に据えて考えていたが、
「分ったわ、城田さん、由美と寝たのね」
と言い、
「悪い人ね」
と睨《にら》む。その表情には、むしろ機嫌のよい、いきいきしたところが覗《のぞ》いた。
「ところで、どうだろう。由美の刺青は、まだあるだろうか」
言外に、理加の問を肯定して、彼はその質問をしてみる。すると、彼女の顔に暗い翳《かげ》が射す。
「ある筈よ」
「本当か」
「嘘だとおもうなら、自分で調べてみればいいじゃないの」
「それで、どうしてきみの刺青は無くなってしまったんだ」
「そんなこと、どうでもいいじゃないの」
理加は不機嫌にそう言い、口を噤《つぐ》んでしまった。
「一つだけ教えてくれ。自分で剥がしたのか、それとも他人に剥がされたのか」
と訊ねてみたが、理加の顔の暗い翳が一層濃くなっただけで、依然として彼女は口を開かない。
理加の秘密を知るためには、由美の線をたぐるしかない、と彼はおもった。それにしても、理加の表情の暗さは異様である。彼女をそういう表情にする小さな刺青は、何を意味しているのか。
なにか、大がかりの秘密組織の一員である徽章《きしよう》のようなものと考えることもできる。そして、その徽章を剥ぎ取られるということが、理加の表情を暗くするとすれば……。
そこでまた、いろいろのことが推測できるというものだが……、そのとき、理加の声が聞えてきた。
「城田さんに教えておいてあげるわ。『雅』のマダムって、危険なひとよ」
いま、そういう言葉を聞くと、彼は動揺しないわけにはいかない。大場雅子に、自分のまったく知らぬ一面があり、その一面に危険な牙《きば》が隠されているような心持になる。
「危険なひと? 悪い女なのか」
ためらいがちに、そう訊ねてみる。
「そう……、とっても危険なひと……」
あとは、ふたたび堅く口を噤んで開かない。これでは、直接大場雅子に会って、探りを入れてみるより方法はない。いや、それよりも、まず由美に会うことだ。由美から、理加の秘密を探ることだ……。
その由美に会わぬうちに、由美が死んでしまった。
突然の死である。
理加と会ってから、二日後の朝、城田は電話のベルで起された。女の声が聞えてきて、「紅」のマダムの圭子だと告げた。
圭子が電話をかけてくるのは、初めてのことである。
「珍しいことですね。どういう風の吹きまわしかな」
軽い口調で言ったものの、厭《いや》な予感があった。その予感は当った。
「由美が死んじゃったのよ」
「えっ、死んだ」
「そうなの」
「なんで死んだんだ。殺されたのか」
「殺された? どうして殺されたとおもうの」
「いや、ただ何となく……」
「事故死というのかしら。心臓|麻痺《まひ》なの。あの子、前から心臓が弱かったらしいの」
「…………」
「くわしいことは、お会いして話すわ。今夜、あの子のアパートでお通夜《つや》をするのよ。身寄りのない子だから、あたしたちがしてやらなくちゃ。城田さんも来てくださる?」
「行くよ」
行くだけの因縁はある。そのことを、圭子はちゃんと知っているのだろう。
電話が切れてから、しばらく彼は呆然としていた。いったい、どういう死に方をしたのか。心臓麻痺というが、突然の病死なのだろうか。見えない危険な手が働いたのではないだろうか……。
由美がどういう死に方をしたか、そのことは、通夜の席で圭子から聞かされた。
死因には、怪しい点はないということだった。それが確認されたのには、偶然のキッカケが働いている。
その夜、由美は一人の男とホテルへ行った。ホテルといっても、主に情事のための男女を目的にしてつくられているホテルである。
男が先に帰り、由美だけ泊って行くことになった。このことには、べつに怪しい点はない。自宅のことが気になる男が泊らずに帰り、面倒くさくなった女だけ、そのまま泊ってしまう、というのは、ありふれたケースである。
しかし、男が先に帰り、翌朝、女の死体が発見されたとなると、話は厄介になる。当然、パトカーが到着して、死体は解剖されるという段取りになる。男も探し出されて、いろいろ取り調べを受けることになる。
ところが、その男とそのホテルにとって幸いなことに、由美の死体は次のような形で発見された。
男が帰ると、間もなく、由美の部屋から帳場に電話がかかってきた。外線の電話をかけてほしい、という申込みである。
このため、男が帰ってから、由美はまだ生きていたことが分る。その上、由美の頼んだ電話が、話中だった。
「あとで、また、かけてみて頂戴」
電話が通じたのは、十分後である。帳場から、由美の部屋の電話のベルを鳴らす。いくら鳴らしても、応答がない。
不審におもって、由美の部屋の前へ行き、ドアをノックしたが、やはり応答がない。やむなく、マスター・キイを使ってドアを開いた。
バス・ルームの中に、裸の由美が倒れていた。シャワーが出しっぱなしになっており、由美の裸の上に湯が降りそそいでいた。
苦痛のない、綺麗《きれい》な死顔である。
このとき、ホテル側は慎重であった。警察へ知らせなくてならぬ情況ではない、と判断を下した。そういう判断をしたがるのも無理はない。変死などと新聞に出れば、営業にさしさわりがある。
医師が呼ばれた。
由美の躯からは、薬物を嚥《の》んだ痕もみられず、単純な心臓麻痺が死因と分った。はげしい運動のあとのシャワーが、いけなかったようだ。要するに、医師の手で死亡診断書の書ける情況だったわけである。
「しかし、はかないものだ。あんなに元気で、殺そうたって……」
と城田は言い、その自分の言葉につまずいた。やはり、由美の死をあやしむ気持が、拭い去られていない。
「あの子、睡眠薬をいつも使っていたからね、それで心臓をいためたのかもしれないわ」
「そのときも、使っていたのかな」
「使っていたとおもうわ。お医者さまは、はっきり言わないけど。でも、死ぬほどの量でないことは、確かよ」
由美のアパートの二間つづきの部屋の奥に、棺が置かれている。その中には、暑い季節なので、ドライ・アイス詰めになった由美が横たわっている筈である。
通夜に集まった顔ぶれは、もちろん多くはない。それでも「紅」のホステスたちがつぎつぎと顔を出して、すぐに姿を消した。こういう夜でも、店を休むわけではない。
残っているのは、マダムの圭子、理加、城田、それに井山卓次郎や大場雅子の顔もみえる。
「それで……」
と、城田は話が一段落したところで、
「由美と一緒にいたという男は、いったい誰なんです」
圭子が、複雑な顔つきになって、答えた。
「それは、ここにいらっしゃる井山さんよ」
「そうですか。いや、そうだろうとおもったが。とんだ災難、というか、それにしても、警察沙汰にならなくてよかったですね」
井山は黙って苦笑している。圭子が口を挿《はさ》んだ。
「それでも危いところだったのよ。由美の身もとが分らないでしょう。ハンドバッグを調べると、うちの店の名刺が出てきた。勤め先は分ったけど、夜中では連絡の方法がない。ところが、由美の手帳の電話の欄の一番はじめに、『紅のママ』と書いてあたしの自宅の番号が記してあったのですって。そこで、夜中にわたしが起されることになったのだけど……」
「電話で救われたわけですね、井山さん。由美が電話をかけたのもよかったし、その電話が話中だったのもよかったわけだ」
井山は依然として苦笑したままだが、城田の言葉にときどき強く頷《うなず》く。まったくそのとおり、たすかった、という気分で、いかにも恐妻家の井山にふさわしい。
「もし、お家にバレたら、どうしますか」
城田が訊ねた。由美の棺の前では、不適当な話題ともおもえたが、通夜は陽気で少々|猥雑《わいざつ》でもかまわない、という気持がする。
「どうしますって、君」
と、井山は絶句して、
「そうなったら、家出しちまうしかないね」
「へえ、恐《こわ》くて、主人が家出ですか」
「そうさ、家出だ」
「でもね、そんな弱気なことを言ってるけれど」
と、圭子がとりなすように、
「井山さんて大した馬力なのね。うっかりすると、殺されちまう……」
「危険な人物だ」
と、城田は言い、ふっと記憶の中で動くものがあった。「危険なひと……」と、理加が大場雅子を指してそう言った。彼はそっと、雅子の様子をうかがってみる。
不意に、思いついて、城田は圭子に訊ねてみた。
「さっき、由美のかけた電話が話中ということを聞いたとおもったけど、その電話は、どこにかけたのだろう」
「そのことは、わたしも気になって、ホテルに訊ねてみたのよ」
と、圭子は答える。
「交換手のいるちゃんとしたホテルだったら、番号の控えがあるわけだけど……。ああいうホテルは、手の空いている人が、交換機のダイヤルをまわすことになるのよ。だから、よく覚えていないのですって」
「しかし、相手が話中で、何回もかけたのでしょう」
「でも、なかなか覚えられないものよ。城田さん、うちの店の番号、いま言うことができて?」
「……なるほど、はっきり覚えていない」
「そういうものよ。覚えようとしなければ、すぐ忘れてしまう。もっとも局番だけは、分ったのだけど」
と、圭子はその局番を言った。
「局番だけでは……」
城田はそう言いかけて、ふと気付いた。その局番は、彼自身の電話の局番に似ている数字である。同じではないが、彼の近所の地域の局番である。
そして、その局番から咄嗟《とつさ》に連想が浮かんだのは、R・アンダーソン邸であった。由美とその邸とのあいだには、ほとんど脈絡はないとおもえる。
しかし、もし三津子があの邸にいるとすれば……。そして三津子と由美とが「紅」で同僚であったことを考えれば……。意外に深いつながりが、由美と三津子とのあいだに出来上っていない、ともかぎらない。
城田の頭の中でR・アンダーソン邸と由美とが結びつくと同時に、彼は由美の刺青が気にかかって仕方がなくなってきた。
「はたして、あの刺青はまだ由美の躯にあるだろうか」
そのことを確かめることで、謎が解けるというわけではない。しかし、明日になれば由美の躯は灰になってしまう。確かめずにはいられない衝動が、突き上ってきた。
城田は立ち上って、棺に近づいて行った。
「ちょっと、死に顔をみせてもらいますよ」
蓋には、まだ釘《くぎ》は打たれていない。持ち上げて覗きこむ。
「綺麗な顔でしょう」
部屋の端から、圭子が声をかけた。
「綺麗だが……」
彼は口ごもり、
「雅子さん、ちょっとここへ来て、手を貸してください」
と、呼びかけた。
大場雅子は危険な人物、という理加の言葉が浮かんだが、「危険なことは危険なひとに手伝わさせてやる」と彼は自分に言い聞かせている。
「どうしましたの」
彼の傍に雅子が立った。彼は、棺の中で新しいネグリジェを纏《まと》われて横たわっている由美を指さし、
「裾がみだれている。ちょっと直してあげてください」
と言いながら、手を伸ばし、由美のネグリジェの裾をはだけた。もともと乱れていない裾なので、遠くからみれば、直しているようにみえる。彼は手を貸すふりをして、由美の腿の内側がみえるようにした。
彼も雅子も見た。
由美の内腿から、郵便切手くらいの大きさの皮が剥《は》ぎ取られている。縫合する暇がなかったとみえて、桃色の肉が四角く覗いていた。
藍色《あいいろ》の模様
由美の死体から刺青の部分が剥ぎ取られていた。剥がしたのは、誰か。
棺の傍から離れて、二人だけになったとき、城田は大場雅子に訊《たず》ねてみた。
「由美を棺に入れたとき、雅子さんはその場にいましたか」
「ええ、由美ちゃんのタンスの中に、まだ使っていないネグリジェがあったので、それを着せて入れたのよ」
「つまり、この部屋で、そういうことをしたわけですね」
「そうよ」
「そのとき、誰が部屋にいましたか」
「誰って……、そうねえ、いろんな人たちが沢山いたわ。『紅』の女の子たちもいたし、もちろんリカもいたし、わたしは余志子を連れて手伝いにきていたし……」
「男はいませんでしたか」
「男の人といえば、井山さんとか、『紅』のマネージャーとか、あと二人ほど知らない顔がみえていたわ」
そのとき、雅子が声をひそめて、城田に訊ねた。
「ほんとに由美ちゃんにも刺青があったのね」
「この前、教えてあげたでしょう」
「リカの刺青と同じ絵だとおっしゃったわね」
「そうですよ」
その理加の刺青が剥ぎ取られたことを、黙っていようか、ともおもったが、彼は自分が大場雅子の「快楽コンサルタント」の役割を受け持っていることを思い出した。驚くことも、愉しみの一つには違いない。
「じつは、リカの刺青も剥ぎ取られてしまったのですよ」
「まあ、誰に?」
「それが分れば、苦労はしないが……」
「でも、どうして、リカのことが分ったの」
「…………」
「城田さん、自分で見たのね、悪い人ね。でも、由美もリカも同じように刺青を剥がされるなんて、いったいどういうことなんでしょう」
大場雅子は、「同じように」というが、城田はそうはおもっていない。由美は、死体から剥がされ、一方理加は生身の躯《からだ》から、剥ぎ取られた。理加の場合は、秘密の組織からの追放を意味しているかもしれないが、その考え方を由美の場合に当て嵌《は》めることはできないだろう。しかし、その考え方を、彼は雅子には話さないで、
「だから、どういうことか分ろうとおもって、リカの刺青を剥がした人物を探しているわけですよ」
「でも、由美ちゃんは、いつ剥がされたのかしら」
「いつ、といって、死んでからにきまっている」
「そうかしら」
「生きているうちに、と言うのですか。とすると、雅子さんは、由美が殺されたとでも考えているのですか」
「殺されたとはおもわないわ。だって、お医者さまが死体を調べたのでしょう」
「そうですよ。だからもし、生きているうちに剥がされていたら、医者がそのことに気付いた筈だ」
「気が付いても、黙っているということだって、あるでしょう。命にかかわる傷でないことが、はっきりしているならば……」
「どうしても、生きているうちに剥がされたことにしたいようですね。仮にそうだとすると、その犯人は井山さんしかいないことになりますね」
「そうとは限らないわ」
「しかし、死ぬ前まで、由美は井山さんと二人だけで密室に閉じこもっていたのですからね」
「でも、もう一人いたのかもしれないわ」
「もう一人いた、なんて、そんな人物は誰もいないじゃありませんか」
「そうよ、誰も見ていないのよ。つまり見えない人物よ」
「見えない人物?」
「透明人間だわ」
冗談の口調ではない。それに、雅子は先刻からこの話題について、奇妙に執拗《しつよう》なところをみせている。
「わたしには、透明人間がいるとしかおもえないの」
念を押すように、大場雅子は言う。
「しかし、誰が透明人間に……、三津子ですか」
「そう……、たぶん三津子さんだわ」
「とすると、三津子の行方を探していて、それが少しも分らないのに、三津子は透明人間になって、いつもぼくたちのまわりにいる、ということですね」
雅子は頷《うなず》きながら、あたりの空間をそっと窺《うかが》い、近くにいる透明人間の耳をおそれてでもいるようなささやき声になって、言った。
「ちょっとお話があるのよ、あとでつき合ってくださらない」
謎をたくさん抱えたまま、彼は雅子と連れ立って、外へ出た。
「さて、どこへ行きます」
城田が訊ねると、雅子は曖昧《あいまい》な表情で、
「誰もいないところがいいのだけど、……聞かれたくないお話なのよ」
「雅子さんの部屋へ行きましょうか」
「うちは、いまは具合が悪いの。このところ、余志子に泊ってもらっているの」
「余志ちゃんなら、聞かれたって構わないでしょう」
「構わないようなものだけど、やはりちょっと具合が悪いわ」
「それでは、ぼくの部屋へ来ますか」
誘っている形になっている、と彼はおもう。そして、雅子が承諾することを、彼はすこしも疑っていない。なぜなら、三津子の行方を探しはじめてから、つぎつぎ女性関係ができはじめている。
由美もそうだったし、理加もそうである。しかし……、と彼にためらう気持が起ったとき、
「いいわ、行きますわ」
という雅子の声が聞えてきた。
「しかし……」
依然として、彼はためらっている。なぜなら、そのようにして関係のできた相手の上には、かならず異変が起きているからだ。
「行きましょうよ」
彼のためらいをみると、大場雅子は一層積極的になった。
城田の部屋へ向う途中、雅子はずっと苛立《いらだ》ちと心の昂《たか》ぶりの混じり合った態度を示していた。そこには、平素の優雅な大場雅子の面影はない。
そして、部屋に入ると、彼の予感どおりの事態が起った。雅子が、彼のほうへ躯を投げかけてきたのである。まるで、見えない糸が彼女を操って、平素と違う振舞いをさせているようにみえる。
大場雅子とは、こういう形で肉体関係ができるのは困る、と彼はおもう。もっと別の形を夢みていたのだ、とおもうのだが、彼女の積極的な振舞いに、城田は巻き込まれてしまった。
雅子は、疲れて横たわっている城田の手首を握って、彼の手を引き寄せる。そして、剥《む》き出《だ》しになっている腿《もも》の内側に、彼の掌を押し当てた。
「ね、ここを見て頂戴」
「え?」
「どうにかなっているか、見て頂戴」
彼は起き上って、視線を向ける。白い滑らかな皮膚のひろがりがあるだけだ。
「どうにもなっていないが……」
「よく見て頂戴」
「なにもない……。しかし、いったい、どうしたわけなんです」
雅子はいそいで裾をかき合わせた。恥じらいが全身から滲《にじ》み出し、ベッドの上に起き上った。やがて、部屋の隅へ行き、身支度を整えはじめる。そのうしろ姿からも、含羞《はにかみ》が匂うように立ち上っている。
いつもの大場雅子の姿が、ようやくそこに現われてきた。
「ごめんなさい、わたし、まるで……」
と言い淀《よど》み、やがて思い切ったように、
「商売女みたいだった?」
「…………」
「でも、城田さんに調べてもらいたかったのよ。調べてもらうためには、あんな風になってしまわなくちゃ、駄目だったの」
「しかし、いったい、どういうことなのです」
改まって、彼は訊ねた。
雅子の話は、次のとおりである。
ある朝、目が覚めてふと気付くと、自分の腿に異様なものを見た。
見馴れないもの、と言うと嘘になる。一度、見たことのある藍色の模様が、自分の腿に浮き上っている。
女王の冠をかぶった蜂の模様なのだ。
「知らない間に、刺青をされてしまった」
と、彼女はおもった。
そういえば、前の夜、寝床に入ってから、異常な睡気《ねむけ》に襲われたのを思い出した。前後不覚に眠りに陥《お》ちている間に、刺青をされてしまった。
雅子はしばらく呆然としていたが、やがてわれに返ると、腿に痛みが全くないことに気付いた。
指先で、そっと模様の上に触れてみる。しかし、痛みは依然として感じられない。指先で強く擦《こす》ってみる。痛みはしない。ただ、いま指の触れた模様の部分の色が、いくぶん薄くなっているような気がした。
唾を指につけて、もう一度、擦ってみると、線から色がはみ出して、指先が藍色になった。はじめて、それは刺青ではなく、模様を藍色の線で皮膚の上に描いたものだということが分った。熱いタオルで拭くと、その模様はあっけなく消え去ってしまった。
余志子にそのことを告げると、
「夢を見たのじゃないかしら」
と、言う。
「だって、眼が覚めて、それから自分の腿を見たのよ」
「眼が覚める、というのは夢なのよ。夢の中に、もう一つ夢があるわけ。だから、内側の夢から覚めても、まだ外側の夢にくるまれている……、そういうことがときどきあるわ」
と余志子が言う。そう言われると、夢だったような気もしてくる。と同時に、起きて動いているときに、ふと自分の腿にあの藍色の模様が浮かび上っているのではないか、とおもい、居ても立ってもいられなくなる瞬間もある。そして、透明人間がいるのじゃないか、とおもったりする。その透明人間がそうっと着物の中に入ってきて、腿に模様を描きはじめているのじゃないか、と心配になってくる……。
「もう一つ質問するけど」
と、城田が大場雅子の顔を見詰めながら言った。そのときには、雅子はもう平素の態度に戻っていて、彼は「さっき抱いたのは、本当にこの雅子だったのだろうか」と、ふと疑う気持になってくる。
「どんなこと?」
「その模様というのは、リカのものとそっくり同じものだった?」
「わたしが覚えているものと、瓜《うり》二つといってもいいわ」
「しかし、なぜ、そんな模様をあなたに描いたのかなあ」
「…………」
「なにかの予告、というか、警告みたいなもののようでもあるな」
「そうでしょう。わたしも、そんな気がするの。たとえそれが透明人間になった三津子さんの仕業ときめてしまっても、いったいなんの警告なのかすこしも分らないので、一層薄気味わるいのよ」
「ともかくこれは、三津子を探し出さなくてはいけないな。三津子さえ見付かれば、解決の糸口は掴《つか》めるだろう」
「でも、三津子さんは、まったく行方不明のままなのでしょう」
「しかし、手がかりはないわけじゃない」
R・アンダーソン邸のことを思い浮かべてそう言ったのだが、あまり自信のある心持にはなれなかった。
「眠るのがこわいのよ」
と、雅子は訴えるように言う。
「朝になると、また模様が描かれているのじゃないか、とおもって」
「しかし、眠らないわけにはいかない」
「そのくせ、横になるとすぐ眠くなってしまうの。考えてみれば、あの睡たさも普通じゃないわ。砂男が目蓋に砂をかけにくるみたいだわ」
「夜がこわいというのは困るな。今夜は、ここに泊っていきますか」
「でも……」
と、彼女は恥じらいの色をみせる。先刻のまるで別人のようだった大場雅子には、なにかえたいの知れぬものが取憑《とりつ》いていたのかもしれない、と城田はおもう。
「余志子が待っているから、帰りますわ」
「そう、やはり帰ったほうが、いいとおもうな」
「だけど、帰るまでの間が、わたし恐《こわ》くって……」
「送って行きましょうか」
「そうしていただけると」
並んで、部屋を出た。
門から道路に出ようとしたとき、小さな黒い塊がはげしい勢いで飛んでくると彼の躯に突き当った。
「あ!」
悲鳴のような声が、雅子の口から出る。しかし、その黒い塊りは、甘えるような鳴声を出しながら、彼の脚に纏《まつ》わり付いている。
「なんでもありません。隣のダックス・フントですよ」
彼は蹲《うずくま》って、犬の頭を撫《な》でる。犬は一層甘えた声を出しつづけ、ついには仰向けになって、地面に背中をこすりつけるようにして短い脚を宙でばたばたさせた。
「犬が好きというわけでもないんだが、いつの間にか馴れてしまってね」
と言いながら、彼は仰向いた犬の腹を揉《も》むようにして撫でている。
犬の腹
城田は、大場雅子を送りとどけるために、タクシーを停めた。
やがて、彼女の家の前で、車を降りた。玄関の戸を開け、雅子が、
「余志ちゃん」
と、声をかける。
応答の声が聞え、余志子が姿を現わすより早く、黒い小さな塊りが家の奥から飛び出してきた。
「城田さん、注意して。うちの犬、知らない人にはなかなか馴れないのよ、噛《か》みつくこともあるから」
雅子はそう言って、
「クロ、クロ、こっちへいらっしゃい」
と、犬を呼んだ。牝犬《めすいぬ》である。クロ、とは牡《おす》の犬の名のようだ。と言われることがあるが、そういうときには「クロチルドのクロよ、女の名前でもおかしくないでしょう」と雅子は答える。黒い犬なのである。
犬は雅子に名を呼ばれているのだが、城田の胸に飛びかかってきた。
「駄目よ、こっちへいらっしゃい」
と、雅子が言う。
しかし、犬は飛び上って前足を城田の胸に当て、からだが床に落ちると、また飛び上って足を城田の胸にかけることを繰り返す。それは、襲いかかっているのではなく、じゃれている恰好だということが、間もなく分ってきた。
「大丈夫ですよ、喜んでいるらしい」
と、城田が言うと、雅子は首をかしげて、
「ふしぎだわ、どうしてかしら」
城田は雅子の耳もとで、ささやいた。
「あなたの匂いが、ぼくに移っているせいでしょう」
雅子は顔を赤くして、
「でも、それなら、あたしに先に飛びついてくる筈だわ」
犬の喜び方はますます烈しくなり、彼が手を伸ばして頭を撫でると、その手首にじゃれついている。
「分った」
と、彼は自分の手を犬の鼻先に擦りつけながら、
「さっき、隣の犬をこの手で撫でてやったでしょう。そのにおいが残っているんだ」
「あら、そうなのね」
雅子が言ったとき、犬はくるりとからだを裏返しにして、背中を床に擦りつけながら、短い四つの足をばたばたさせた。甘える恰好である。
「あっ!」
その声は、城田と雅子の口から、同時に出た。剥き出しになった犬の腹に、異様なものを見たのだ。
毛の生えていない、地肌が露出してすべすべしている犬の腹に、刺青の模様がくっきりと浮き上っている。
そのときには、余志子も玄関に出てきていて、三人の目が犬の腹に集まった。
緑と藍色の星が、三つずつ交互に並んでいる。その星たちをかかえるように、真紅の三日月が彫られている。
「この刺青の模様は……」
と、雅子が呟《つぶや》いた。
「三津子の模様と同じだ」
城田が言う。
「三津子さんが、犬になったのかしら」
すぐに余志子が言ったが、そういう馬鹿げた考えも、すぐには笑い捨てられない気分が、その場に漂っていた。
「あたし、厭《いや》だわ……」
雅子はそう言うと、崩れるように、玄関の式台に腰をおとした。
「雅子さん、いくらなんでも、三津子が犬になるわけはないのだから……」
城田が元気づけるように言うが、
「それは分っているわ。でも、クロがいつの間にかおなかに刺青をされているなんて、それが気味が悪いのよ」
「しかし……」
城田は、不意になにか思い当った顔になり、余志子に言いつけて、アルコールと綿を持ってこさせた。
アルコールに浸した綿で、犬の腹を拭ってみた。冷たいので跳ね起きかかる犬をおさえ付け、その腹をごしごし擦る。
すると、腹の模様が、すこしずつ消えて行くのである。
「やはり、そうだ。これは刺青ではない。描いたものですよ」
城田が言うと、雅子は、
「それじゃ、わたしのときと同じなのね。いったい、何のためにこんなことをするのでしょう。城田さんは予告だというけれど、なんの予告か分らないのですもの」
と言い、余志子のほうを向くと、
「クロは、ずっと余志ちゃんの傍にいたの?」
「いたとおもうのだけれど、でも、すこしはいない時間があったかもしれないわ」
「いったい誰の仕業なんでしょう。やっぱり、透明人間かしら」
「また、そういうことを言っている」
城田は言い、
「これはどうしても、三津子を見付け出さなくてはならないな」
と、独り言のように、言う。
自分の家に帰った城田祐一は、ベッドに寝そべって、考えに耽《ふけ》っている。
三津子の行方を探そうと決心したのは、なにも今はじめてのことではない。これまでにも、試みてきたことだ。
しかし、その度に、不吉な翳《かげ》が射すのである。いま、まだ行動を起していない彼の耳に、女の声が聞えてくる。
「ねえ、本当よ。もう二度と、行くのはやめて頂戴。……ね、あのお家には、もう近寄らないで」
それは、余志子の声である。先日、R・アンダーソン邸の玄関先まで入ったことを報告したとき、余志子の言った言葉なのである。
城田は、いま、R・アンダーソン邸を探ろうと決心したのだ。そのほかに、三津子の行方を探り当てる方法はなさそうだ。しかし、そう考えただけで、彼の頭の中には雑草の庭のむこうに黒くうずくまっている建物が、不吉な色合いで浮かび上ってくる。そして、余志子の制止する声が、聞えてくるのである。
ためらう気持が起る。だが、三津子があの屋敷にいることは、間違いない事実とおもえる。
「やってみよう」
独り言を言うと、彼は立ち上り、懐中電燈をもって、外出の支度をはじめた。
池のほとりを回って、台地の上のR・アンダーソン邸に近付いて行く。
石の門は閉ざされていたが、たやすく乗り越えることができた。その屋敷には、厳重に警戒しているという気配はない。塀《へい》は低いものだし、塀の上に忍返しが付いているわけでもない。それに、庭に生えている雑草は、身を隠すのに好都合である。
彼はレインコートを着て、そのポケットにガラス切りを忍ばせている。場合によっては、家の中に忍び込もうと考えている。窓ガラスを切り、ガラスの穴から手を差し込んで錠前をはずす。
もっとも、そういう作業をすることに、彼が熟達しているわけではない。忍び込んだとたんに見付かって騒ぎが起るかもしれない。しかし、そうなればそうなったで構わない。騒ぎが起って、家の中のものが集まってくる。そのとき、三津子の顔を見ることができるかもしれない。あるいは、パトカーが呼ばれて警官に引き渡されるとき、事情を話して、三津子に会わせてもらってもよい。
それも、一つの狙いである。玄関から訪問客として入って行こうとしても、この前のように追い帰されてしまうにちがいないのだから……。
だが、なるべくなら、見付からないうちに、三津子の姿を見付け出すに越したことはない。彼は足音を忍ばせて、家のまわりを回ってみた。
深夜である。燈のともった窓が、一つだけあった。
城田は地面を這《は》うように進んで行き、その窓の下に蹲《うずくま》った。そして、しずかに頭をもたげ、窓の中に視線をすべりこませようとする。
大きな椅子の背がみえる。その椅子の背から左右にはみ出している、頑丈な男の背中がみえた。大きな男が、椅子にもたれて、書物を読んでいる。
うしろ姿なので、顔は見えないが、ごま塩の頭髪から、かなりの年配の男とみえた。骨格の具合が、外国人のようである。
その部屋は、男の書斎らしい。壁の大きな部分が書棚になっており、ぎっしり横文字の背をみせて、書物が並んでいる。
部屋の様子と、男のうしろ姿からは、教養のある紳士のようにおもえる。先日、玄関から覗いたときのような、怪しげな気配はない……、とおもいながら城田がさらに視線を部屋の中にめぐらしたとき、
「あっ……」
あやうく、その声を口から外へ出してしまいそうだった。
壁の額に、彼の眼が釘付《くぎづ》けになっている。大きな額縁で、そのガラス板の下におさめられているものといえば……。
緑と黄色の六つの星と、真赤な三日月の模様なのである。額縁の中のそれが、カンバスや紙に描かれた模様とは、とうてい城田には考えられない。人間の皮としか、おもえない。その証拠に、その模様はクリーム色の皮のようなものの上に描かれてある。そして、ガラスの下のその皮は、全体が大きな楕円形《だえんけい》になっている。
「これは……」
と、呟きながら、彼はその額縁を凝視しつづけている。その皮の面積は、きわめて大きい。尻の皮の全部を剥がしたとしてもまだ足りないくらいの大きさで、背中や腿の裏側の皮まで、一緒に剥がされているとしかおもわれない。星と月の模様は、そのひろがりの中央に、小さく集まっているようにさえ、見えてくる。
城田は、理加の腿の傷痕《きずあと》を思い出してみる。郵便切手ほどの大きさの皮を切りとられた場合には、理加のように縫い合わせることができるが、いま眼に映っているほどの皮が剥がされたとしたら、その人間は死ぬほかあるまい。
「三津子は殺されてしまったのか」
闇の中でおもわず身震いしたとき、不意に背後から襲いかかったものがある。
彼の躯は地面の上に突き倒され、烈しい鼻息と低いうなり声が聞えてきた。のしかかってくるものを、はね返そうとするとき、獣のにおいがした。
「犬か」
大きな躯と揉み合いながら、彼は鋭い歯を避けようとして、相手の顎《あご》に手をかけようとする。しかし、なかなか顎が探り当てられない。烈しい鼻息を目当てに、相手の頭の位置を探ろうとするうちに、不意に大きく開いた鼻の穴が二つ、彼の眼の前ににゅっと突き出されてきた。ひどく大きな、平たく潰《つぶ》れた鼻である。
「犬ではないな」
彼はおもい、
「豚だ」
と、突然、理解した。豚のよだれで、自分の顔がぬるぬるしているような気がした。
そのとき、窓の開く音がして、鋭い口笛がひびいた。
「ペギイ!」
男の声である。それは豚の名なのだろう。よく馴らされた豚で、合図の口笛で、城田から離れ、ゆっくり揺れながら遠ざかって行く二つの尻が眼に映ってくる。黒いいくぶん長目の毛に覆われているところをみると、野生の豚なのだろう。牙《きば》は抜いてあるようだ。
城田は起き上って、両手でばたばたと泥を払い落した。窓の中の男と、地面に立った城田と、向い合うかたちになった。窓の中の顔は、五十年配のアメリカ人らしい外人である。
「オマエハ、ドロボーナノカ」
外人としては達者な、日本語が聞えてきた。
「違う」
城田は答え、ついでに付け加えた。
「君のほうこそ、人殺しではないか」
「ワタシガ人殺シ? ソレハナゼカ」
「そこに、その証拠がある」
城田は、窓の中に腕を差し入れるようにして、壁の額縁を指さした。男は振り向いて、額縁を眺め、もう一度、窓の外へ向き直ると、
「ナゼ、アレガ証拠ナノカ」
「あれは、女の尻の刺青ではないか」
「キミハナゼ、ソンナコトガ分ルノカ」
城田はそれには答えず、
「あれだけの皮を剥がし取れば、その人間は死んでしまうではないか」
男は、しばらく城田の顔を眺めていたが、
「モシカスルト……」
と言いかけ、
「トモカク、中ニ入ッテクダサイ」
紳士的な態度になり、城田を家の中に招じ入れた。もちろん、窓から入ったわけではない。玄関にまわり、あの太陽と月の模様の龕燈の傍を通り抜けて部屋に入った。
部屋の中で、二人は名乗り合った。男は、アンダーソン氏である。
そして二人は、あらためて会話を交わしはじめたわけだが、アンダーソンはまずこう言う。
「ワタシハ、人殺シデハナイ」
「それならば、三津子に会わせてください」
「三津子トハ、誰ノコトデスカ」
「生きていれば、この家の中にいる筈です。会わせてもらいたいのです」
そう言って、城田は壁の額縁に眼を移す。おもわず身構えて、部屋の中に眼を配る。三津子が生きている筈がないのだ。そうとすれば、自分も……。やはり、三津子の行方は探してはいけなかったのか。R・アンダーソンの紳士的な身振りが、兇行《きようこう》の前触れのようにおもえる。
「ソノ三津子トイウヒトニハ、コノ額ノナカノ刺青ト同ジ模様ノモノガアッタノデスカ」
「同じ模様?」
三津子の皮がそこにあるのに、と城田はおもう。しかし、三津子の刺青を実際に見たわけではないので、その問には答えられない。こんなことなら、三津子の刺青を見ておけばよかった、そういう関係になっておけばよかった、という考えが頭の中を掠《かす》めて行く。
「ともかく……」
と城田は語気を強めて、
「あなたが、三津子を知らない筈はない。三津子が、この家に入って行くのを見た人がいるのですからね」
そう言った城田は、ふと思い付いて、付け足してみた。三津子という名前では、分らないのかもしれない、とおもったのだ。
「三津子といっても……、つまり、混血の十九歳の娘ですよ」
「ソレデ、ソノ娘ノオシリニ刺青ガアルノデスカ」
「そのように、本人は言っていましたがね。ぼくは見たことはないが」
「オー、ソレハ、じゅでいデス」
アンダーソンは椅子から立ち上って、城田の手を掴んだ。昂奮《こうふん》の色が、あきらかに現われている。
「ジュデイと言うのですか」
「ソウデス、ワタシノ娘デス。ソノ刺青ガ証拠デス。ソノ娘ヲ、ワタシハ探シテイルノデス」
「探している、といっても、この家に入って行くのを見た人がいるのですよ」
「ソンナコトハアリマセン。ナニカノ間違イデス」
城田は、頭の中が混乱してきた。壁の額縁を指さすと、
「それでは、これは?」
「アレハ、じゅでいノ母親ノモノデス」
「殺したのですね」
「アナタハ、スグ殺シタトイイマスネ。違イマス。イロイロ厄介ナハナシガアリマスガ」
アンダーソンの説明によれば、次のようになる。
R・アンダーソンは、刺青|蒐集家《しゆうしゆうか》である。戦後すぐ、日本に来た。日本は、刺青の宝庫である、と彼はおもったわけだ。間もなく、一人の日本人の女と同棲をはじめた。
彼女の尻に刺青をさせたのは、アンダーソンである。そして、ジュデイが、二人の間に生れた。やがて、結核に罹《かか》ったジュデイの母は、二年間病床にあって、死んで行くのであるが、遺言によって自分の皮をアンダーソンの手に残した。その皮が額縁におさまっているものなのである……。
七つ目の星
アンダーソンは、皮を残して死んだ女、つまり、ジュデイの母親に当るわけだが、その女を偲《しの》んで、ジュデイの尻に同じ模様を彫った。
そのとき、ジュデイは、四歳であった。
その後間もなく、アンダーソンは帰国してしまうが、そのときジュデイは母親の縁つづきの老夫婦にあずけられ、そこで育てられることになる。かなり多額の金が、養育費として渡された、という。
彼がふたたび日本を訪れ、そこで生活をはじめたのは、それから十三年後、つまり今から二年前のことである。
以来、ジュデイの行方を探しているのだが、彼女をあずけた夫婦はしばらく前に相ついで死んでしまっており、彼女を探す手がかりを掴《つか》めないまま、日が過ぎた、という。
ジュデイと三津子とが同一人物であることは、ほぼ間違いないところだろう。
それはそれとして、アンダーソンの話を聞いている城田の頭の中には、いくつかの考えがつぎつぎに浮かんできた。
アンダーソンは、自分の女を偲ぶために、ということで、まだ学齢前の子供の尻に刺青をしている。そして、子供を残して帰国している。父親としての愛情はきわめて薄い、と感じられる。
そういう彼が、十数年後にふたたび現われて、自分の娘を探しているのである。その長い歳月のあいだに、彼の心に父性愛が目覚めた、という考え方もできないわけではないが……。「ソノ娘ヲ、ワタシハ探シテイルノデス」とアンダーソンは言ったが、父親としての愛情が彼を動かして、娘を探している、と判断してよいものかどうか。
なにか、ある目的をもって、探し出そうとしているのかもしれない。となると、その目的は……。
城田は、もう一度壁にかかっている大きな額に眼を向けた。
赤い三日月、緑の星が三つ、藍色《あいいろ》の星が三つ……。突然、城田は一つの疑問に突き当った。
背筋に寒いものが走り、その疑問の重大さを感じた城田は、身構える心持で、質問をはじめた。
「あの赤いのは、三日月ですね」
「ソウデス」
と、アンダーソンは答える。
「星は北斗七星ですか」
「ソウデス」
「しかし、星は六つしかありませんね」
「ソウデスネ、デモ、ソレデイイノデス」
「なぜ、いいのですか」
「ソレデイイノデスヨ」
理由を説明しようとせず、平然としてそう言うアンダーソンの態度が、城田を恐怖にちかい気分にさせている。しかし、思い切って、訊《たず》ねてみた。
「よく分りませんが」
と、依然として額を見詰めたまま、
「ともかく、鮮かな色ですね。死んでからでも、刺青の色は変らないものですか」
「変リマセンネ」
「まったく同じですか」
「同ジデス」
「皮を剥《は》がすのは、むずかしいのでしょうか」
「イエ簡単デス。カミソリノ刃ヲ使ッテ、カンタンニデキマス」
「剥がした皮には、なにか細工をするのでしょうね」
「イエ、ソノママデス」
「そのまま?」
それは、城田にとって意外だった。鞣《なめ》すか、なにか加工をする必要がある、と考えていたのだ。
刺青の色を鮮かに保つために生きた人間の皮を剥がす、そういう必要はないということを、アンダーソンの答えは示している。
そのことが分って、城田は安堵《あんど》したか、といえば、その逆である。彼の悪寒《おかん》に似た気持は、一層強くなってきた。
額縁の中の皮には、六つの星がみえている。
「残りの一つの星は、どこへ行ってしまったか」
と、彼は考える。
それは、三津子の母親が死んだとき、皮の上から永久に死体の中に消えてしまったのだ。額縁の中の星が六つしかないということは、七つ目のピンク色の星があった証拠ともいえるわけだ。
「ソレデイイノデス」
と、アンダーソンは言うが、刺青蒐集家である彼にとって、「それでいい」わけはあるまい。「ソレデ仕方ガナイノデス」と言うのが、正しいであろう。額縁の中の皮は、それでは仕方がないとしても、蒐集家の彼は、ピンク色の大きな星の浮かんでいる、星の七つある皮を手に入れたいという執念が無い筈はない。
四歳の三津子の皮に刺青をほどこしたときには、将来その皮を自分のものにしようという企みがあったのではなかったか。
そして、ピンク色の星の出ている皮を手に入れるためには、その刺青をしている女が生きていることが必要なのだ。死んだときには、その星は二度とふたたび浮かび上ってこなくなる。
ピンク色の星が現われているときに、その皮を剥がし取らなくてはならない。
R・アンダーソンの再来日は、父親としての愛情のためか、あるいは蒐集家としての目的のためか。余志子は、三津子がこの屋敷に入って行く姿を見たという。もしも後者であったとしたならば、すでに三津子の生命は無くなっていると考えなくてはなるまい。いま、壁の額にみられるのと同じ模様で、その上にピンクの大きな星のある刺青をおさめた額縁が、この家の中の秘密の部屋に誇らしげに掲げられているにちがいない。
そのように考えが進んで、城田ははげしい恐怖に似た気分に陥ったわけである。
「この屋敷から、生きて帰ることができるだろうか」
と城田は自分自身の生命まで心配になってきた。身構えを崩せない。相手を刺戟《しげき》しないで、隙を見て逃げ出そうと、疑いについてはそれ以上は口に出さない。
しかし、アンダーソンは、温和な態度で机の上の小箱を引き寄せ、蓋を開けた。箱の中身は巻煙草である。それを城田にすすめる。
その箱に、城田ははじめて気付いた。皮張りの小箱で、複雑な模様がほどこされている。
「これはどうも」
煙草を一本取り、ついでにその蓋を取り上げて眺めてみた。メフィストフェレスのような禍々《まがまが》しい顔を、唐草模様が取り囲んでいる。
「これも、人間の皮ですか」
と城田は、訊ねる。そういう質問は、いまは禁断のような気がするのだが、我慢ならず口から出てしまう。
「ソウデス」
「西洋風の模様ですね」
「ソウ、デモ、刺青ハ日本ノモノガ、断然スグレテイマスネ。ワタクシノ家ハ、地下室ニ日本ノモノバカリ集メテ、置イテアリマス。デモ、ソノ部屋ハ鍵《かぎ》ヲカケテ、メッタニ人ニハ見セマセン。オ客サンノ見エルトコロニハ、コノヨウニ西洋ノ刺青ノモノバカリ置イテアル」
アンダーソンは、蒐集家の表情になって、熱心に説明する。
「では、地下室には、西洋風の模様のものは一つもないのですね」
「ソウ……、アリマセンネ」
そう答えるアンダーソンの顔に、曖昧《あいまい》なものが混じった。
「おや?」
と城田がおもったとき、アンダーソンの声が聞えてきた。
「シロタサン、アナタハじゅでいト知リ合イノヨウデスネ。じゅでいヲ見付ケテクダサイ、オ礼ハタクサンシマス」
「…………」
「ワタシハ、ドウシテモ、じゅでいヲ見付ケナクテハナラナイ」
「ぼくも、見付けたいとおもっているんですよ。そのために、こんな夜中にお邪魔することになったわけです」
「ソーデシタネ」
「しかし、なかなか見付からない。見付けるためには、あなたの協力も必要だとおもうのですが」
「オー、ワタシデデキルコトナラ」
「一つだけ、教えてください。三津子がこの家に姿を見せたことは、本当にないのですか」
「ソレハアリマセン。ワタシ誓イマス」
城田は、半信半疑の気持でいる。
しかし、とにかく無事にこの屋敷を出ることができるのは、どうやら確かなようである。
自分の部屋へ戻った城田祐一は、さっそく蒲団にもぐり、混乱した頭の中を整理しようとした。
いくつかの問題点がある。
まず、R・アンダーソン邸を三津子が訪れたかどうか。
余志子はそういう三津子の姿を見た、と言い、アンダーソンはそういう事実はない、と言う。どちらかが嘘をついている、ということになるわけか。彼は、余志子の顔を思い浮かべてみる。嘘となれば、それはアンダーソンの嘘ということになりそうだ。
しかし、どちらの言葉も正しい、という第三の考え方もあるわけだ。つまり、三津子はたしかにR・アンダーソン邸の門をくぐったが、しかしその屋敷の誰とも会わなかった、ということも有り得る。
もしそうだとすると、なんのために、三津子はそういう振舞いをしたのか。
アンダーソンが自分の父親と知って、会いに行った三津子が門をくぐって玄関に立つ。指をのばして、ベルを押そうとする……。
城田の想像絵はそこで一瞬揺れ動く。あの奇怪な形をしたベルを思い出す……。小高い円型の中央が深く窪《くぼ》んでいる呼鈴。その窪みの奥から、親指の先が突き出ている。肉色の指の腹をみせており、指紋もみえている。
ベルを押そうとした三津子の指先がためらう。やがて、玄関に背を向けて彼女はいま来た道を引き返して行く。
しかし、もしそういうことがあったとしても、R・アンダーソンと三津子の関係を、彼女に告げた誰かが存在しなくてはならない。それは、誰か。
城田には、分らない。
やがて、迷ったまま眠りに落ちた彼は、夢を見た。
黒い大きなぶよぶよした塊りと、彼は格闘している。不意に、平べったい大きな鼻先が、彼の目の前ににゅっと突き出され、烈しい鼻息と一緒に大きく迫ってくる。
「豚だ」
と、彼はおもう。
格闘は依然として、続いている。
「こんな豚なんぞ、捻《ひね》り倒してやろう」
と意気込んだとき、逆に彼は豚に押し倒されてしまう。彼の上に、豚がのしかかってくる。顔の上に、豚の腹が覆いかぶさってくる。豚のヘソを舐《な》めそうになる。桃色のぶよぶよした豚が、すぐ目の前にある。
そのとき、彼は豚の腹に、奇怪なかたちの模様を見た。いや、それはすでに目慣れたものだ。赤い月と六つの星。いやいや、星は六つではない。七つ目の大きな星が、豚のピンク色の腹から滲《にじ》み出てきたように、濃い血の色でそこに浮かび上っている。
地面に仰向けに倒れたまま、彼は片手の掌でのしかかってくる豚の腹を押し上げるように、もう一方の手の指先で、その模様をこすってみる。指先に唾をつけてこする。しかし、その模様は消えない。
「これは描いたものではないな、刺青だ」
とおもったとき、目が覚めた。
なぜ、そういう夢を見たかは、はっきりしている。
R・アンダーソン邸の庭での、豚との格闘。大場雅子の家へ行ったとき見た、犬の腹の模様。そういうものが、入り混じっている。
「まったく、分らぬことだらけだ」
睡い頭を振りながら、彼は呟《つぶや》く。
R・アンダーソン邸にまつわる謎《なぞ》。
大場雅子の家で出会った謎。
犬の腹と豚。
夢の中の豚の腹。
「R・アンダーソン邸と、大場雅子の家とを繋《つな》ぐ糸のようなものがあるのだろうか」
と考えかかった彼は、苦笑して呟いた。
「まさか。夢のお告げなどというものが、あるわけではなし」
そのように、打ち消す言葉を呟くと同時に、彼の考えはそこで動かなくなってしまう。ようやく、城田は自分が行き止まりに来てしまっていることに気付いた。
自分だけの考えでは、もう動きが取れなくなっている……。他人の考えに頼ることを、このとき城田は考えたのである。
「春海《はるみ》さんのところへ行ってみよう」
躇《ためら》うことなく、その名前が城田の頭の中に出てくる。
春海俊太は、城田の学校の先輩であるばかりでなく、人生の先輩ともいえる人物である。井山卓次郎の友人だが、およそタイプが違っている。六尺にちかい長身をいつも持て余すようにしている彼は、その名前のように、ぼんやりした顔つきで、のたりのたりとしているようにみえるが、ときおり俊敏な気配をのぞかせる。
いつも俊敏なのではないところが、却《かえ》って城田に頼りがいのある気持を起させる。
春海俊太は、推理小説家である。それも、かなり流行している作家といえる。作品の中には、彼自身の風貌に似た名探偵が登場して、のたりのたりしながらも、難事件を解決して行くのである。
実験の成功
春海俊太の応接間で、春海と城田と向い合っている。
春海はソファから擦《ず》り落ちそうな恰好で坐り、長い脚を床の上に投げ出して、城田の話を聞いている。城田が、これまでの経緯を要領よく話し終ると、
「人間が一人死んでいるな」
と、春海が言った。
「えっ、由美はやっぱり他殺ですか」
「やっぱり、というが、君は疑っていたのかね」
「疑う、というほどじゃありませんが、いくぶんかは……」
「とすると、容疑者は誰なんだね」
「それは、つまり……」
「やはり、最後に、身近かにいた人物ということになるな」
「井山さんですか」
「そうだ。ところで、君は井山が人殺しができる男とおもうかね」
「できそうもありませんがねえ」
「そうだろう。人殺しができそうもない、という男が、案外犯人だったというケースはしばしばあることだが……」
「え? それじゃ井山さんが」
「慌ててはいけない。しばしばあることだが、井山にはできないね」
「では、犯人は誰なんですか」
春海はタバコの煙を天井のほうへ吹き上げると、
「城田君、いつぼくが、由美のことを他殺と言ったかね」
「だって、さっき」
「人間が一人死んでいるな、といっただけだよ。これは、やはり心臓|麻痺《まひ》のための急死としか考えられないな。しかし、これが推理小説の中の出来事とすれば、十分他殺の疑いを持つことができる」
春海の話は、その人柄と同じように、のらりくらりとしている。
「由美が、透明人間ごっこに熱心だった、ということが、これが絶好の材料になる」
城田は、曖昧な表情のまま、黙っている。
「透明人間になるためには、錠剤を嚥《の》むわけだったね」
「そうです、真赤な錠剤です」
「その錠剤の入った瓶《びん》を由美はいつも持っているわけだね」
「ハンドバッグの中に入れてあったようですよ」
「その瓶の中に外見はそっくりの真赤な毒薬をまぎれ込ましておけば、いつかは由美が自分の手でそれを嚥むことになる。心臓に強く作用するが、解剖しなければ検出されないような毒薬を使えばよい」
「…………」
「その毒薬を、由美がいつ嚥むか分らないところが面白いな。今日かもしれないし、明後日になるかもしれない、瓶の中の錠剤は、みんな無害のビタミン剤だという先入観念ができているところが、盲点になる。透明人間ごっこ、という推理小説を書いてみるかな、面白くできそうだ」
と、春海は機嫌がよい。
「春海さん、推理小説はともかくとして、現実の問題はいったいどういう具合になっているのか、教えてもらいたいわけですが」
「人間は一人死んでいるが、これは他殺ではない。とすると、推理小説家としては、考えることに身がはいらないというわけさ。……そのことを言おうとおもったのに、君が慌てて、やっぱり、などと言うものだから、話が脱線してしまった」
と春海は言い、
「しかし、これはなかなか複雑だ。面白い問題を含んでいるな」
「結論をはやくお願いします」
「ま、そう急ぐな。ともかく、ちょっと一ぱい飲みに出かけようじゃないか」
立ち上った春海は、外出の支度をはじめた。
「今夜は、あちこちまわることになりそうだから」
と春海は言い、ハイヤーを呼んだ。
「由美がいた『紅』へでも行きますか」
車の中で、城田がそう言うと、
「そうだな、その前にちょっと寄るところがある」
城田がふと気付くと、車は繁華街へ行く反対の方向へ走っている。
「おや、どこへ行くのですか」
「アンダーソン氏の家へ行ってみようとおもってね」
春海は、なに喰わぬ顔で、そう答える。
「ご存知だったのですか」
「以前に、刺青のことを調べたことがあってね、紹介されたんだ。アンダーソン氏といえば、その方面では有名な人物だからね」
R・アンダーソン邸の応接間で、春海と城田が待っていると、やがてアンダーソンが入ってきた。
春海と親しげに挨拶をかわしたアンダーソンは、城田の顔を見ると、
「オヤ、コノカタハ?」
「これは、わたしの若い友人です。この前お目にかかったそうですね。そのとき、お宅の大切な豚と、格闘を演じたそうで……」
アンダーソンは笑ってうなずいているが、城田は聞き咎《とが》めた。
「大切な豚ですって?」
「そうだよ、君よりは余程貴重な豚だ。ま、そのことは今にわかる」
春海は城田をなだめ、アンダーソンの方に向き直ると、
「ところで、風の便りに聞くところによれば、例の研究に成功なさったそうですが」
「アア、モウオ耳ニ入ッテイマスカ、成功シマシタ、ワタシハウレシイ」
「それはお目出度う」
「ソノ成果ヲ、オ目ニカケマショウカ」
「そのことを、いまお願いしようとおもっていたのです」
「ドウゾ、コチラヘ」
アンダーソンは先に立って部屋を出た。狭い階段を、地下へ降りて行く。重たそうな木の扉を開いて、地下の一室に入った。
薄暗い中で、壁のスイッチをアンダーソンの手が探った。乾いた音がして、煌々《こうこう》と光が部屋に満ちた。
絢爛《けんらん》とした眺めである。
四方の壁いちめんに、額に入った刺青の皮が並んでいる。竜の模様、満開の桜の花を背景にした般若《はんにや》の面、鯉を両腕にかかえこんでいる金時の図などなど、それらの図柄はすべて日本のものである。
それらの中に一枚だけ、細長い矩形《くけい》の額縁がまじっていた。そして、その中に収められている皮の模様は、城田の念頭を離れない例の絵である。
赤い三日月と、三つの緑の星と三つの藍色の星。そして、それら六つの星をまるで引き従えてでもいるような形に、大きなピンク色の星が、鮮かに浮かび上っていた。
「あっ!」
おもわず、城田の口から声が洩れた。
「やっぱり、三津子は殺されてしまっていたのか」
「おいおい、城田君」
春海のたしなめる声がした。
「殺された、などと物騒なことを口走らないでもらいたいね」
「しかし……」
そのとき、アンダーソンが部屋の隅に置いてある整理戸棚のヒキダシを開き、中から一枚の皮を取り出して持ってきた。
その皮にも、まったく同じ模様が浮かび出ている。
「城田君、これを見たまえ。三津子という女の子が二人いるわけはないだろう」
「もちろん二人はいません。もう一人、新しい犠牲者が……」
春海は、城田の言葉に耳をかさず、アンダーソンと会話をはじめた。
「これは、見ごとな出来映えですね」
「ソウデショウ」
と、アンダーソンは、笑顔である。
「城田君がこんなに慌てていることでも分るように、まったく見分けが付きませんね、やはり、加工をしたわけですか」
「イクブンノ加工ハシマシタ」
「そうですか、たしかに、そっくりです。見分けが付かない」
その言葉を、春海はもう一度繰り返し、城田は聞き咎めて、訊ねた。
「見分けが付かない、とか、そっくりだとか、何に較べて見分けが付かないのですか」
「人間の皮、とだよ」
「え、すると、これは人間の皮ではないのですか」
「人間の皮ではないな」
「では何の皮ですか」
「豚の皮だ」
「…………」
「君が格闘した豚の腹にも、ここに掛けてある皮と同じ模様が彫ってあった筈だよ。君が豚の下敷になっていたとき、その豚の腹にはピンクの星が浮かび上っていたにちがいないな。なにしろ豚君は、君との格闘でかなり昂奮《こうふん》していたに違いないからね」
「豚の皮ですか……」
気抜けしたように、城田は壁の額縁に向って立っている。一方、春海とアンダーソンとは、会話をつづけていた。
「こうなればもう、人間の皮を欲しがる必要はありませんね。これで安心しましたよ」
「イヤ春海サン、イクラナンデモ、人間ノ生皮《なまかわ》ヲ剥ガスヨウナコトハシマセンヨ」
「しかし、人間の情熱というのは、おそろしいところのあるものですからね。ピンク色の星を手に入れるためには、生きているときに剥がさなくてはならない。となると、いつどんなことが起るか、分りませんものねえ」
春海の言葉は、冗談めかしていたが、半ば真剣なひびきがあった。城田が訊ねた。
「とすると、三津子くんはこの家にはいないのですね」
「じゅでいハイマセン。ワタシハ探シテイルノデス、コノ前ハナシタトオリデスヨ」
その言葉に嘘はないだろう、と城田はおもう。とすると、アンダーソン邸の前で三津子の姿を見た、という余志子の言葉は何なのだろう。それに大場雅子の犬の腹に描かれていたあの模様。アンダーソン邸の豚の腹の模様との符合は、何を意味しているのだろう、と城田の心には新しい疑惑が生れてくる。
やがて応接間に戻った春海と城田の前に、アンダーソンはグラスを置き、ブランデーを注いだ。その酒を舐めながら、しばらく雑談して、二人はアンダーソン邸を辞した。
車の中で、城田が言う。
「アンダーソンがシロだとすると、犯人はいったい誰なのでしょう」
「しかし君、犯人というが、いったいどういう犯行があったのかね」
「えーと、まず三津子の行方不明……」
「だが、これは、三津子が自分の意志で、どこかへ姿を隠したのかもしれないよ」
「それはそうですが、誰かの手が働いているかもしれない」
「つまり、三津子のことは、疑問点といえばいいわけだ」
「そうです」
「それでは、いったいどういう疑問点があるか、整理して考えてみようじゃないか」
春海と城田は、この数カ月間に起った事情についての謎を、一つ一つ数え上げる。
まず、三津子の行方について。
三津子がアンダーソン邸に入るところを見た、という余志子の言葉について。
由美の内股《うちまた》にあった小さな刺青。女王の冠をかぶった蜂《はち》の絵。
由美の急死……、これは自然死と考えてよいだろう。しかし、その死体から、刺青の部分が切り取られていたこと。
理加の内股に、由美と同じ刺青があった、ということ。それが、剥がし取られた、という事実。
大場雅子の腿に、ある朝、由美たちの刺青と同じ模様が描かれていたという謎。
雅子の家の犬の腹に描かれていた星と月の模様の謎……。
「どうも、考えているうちに、頭の中がこんがらかってきますね」
城田が言うと、
「すこし整理してみよう。まず、これらの謎の全部が、お互いに関連しているとおもうかね」
と、春海が訊ねる。
「ぼくはどうも違うような気がする。アンダーソンとか三津子の刺青は、本格的なものでしょう。理加とか大場雅子のほうは素人《しろうと》っぽいものですよ。アンダーソンと三津子の線と、理加の線は交わっていないとおもうがなあ」
「それならば、なぜ余志子はアンダーソンの家を知っていたのだろう」
「…………」
「余志子は、大場雅子の傍にいる人物だろう。大場雅子の腿には、女王の冠をかぶった蜂の絵が描かれていた、というな。どうやら、二つの線がここらで交わりそうだがね」
城田は、苛立たしそうに、
「春海さんの頭の中では、もう解決篇が出来ているのでしょう。焦《じ》らさないで、はやく教えてくださいよ」
「よし、それでは謎を解く鍵になる人物を教えよう。ヒントを与えるから、その名前は自分で考えてみたまえ。つまりだな、いま出てきた名前の中で、一番怪しそうでない人物だよ」
「えっ、それでは雅子さんが……」
城田は、反射的にそう言った。
「余志子は、怪しいわけかね」
と、春海が訊ねる。
「余志子君は、三津子を見たなどと嘘を言っていますからね。もっとも、あのアンミツが大好きな女の子が、事件の鍵を握っているともおもえませんがね」
「とすると、怪しくないのは、雅子と余志子というわけか」
「その二人のうちのどちらなのです」
せき込んだ問に、春海は曖昧な笑いを浮かべながら、
「ま、あまり種明しはしないでおこう。あとは自分で考えたまえ。しかし、余志子がなぜアンダーソンの家を知っていたか、これは確かめておいたほうがいい」
調べる
城田が春海俊太に別れたときには、もうレストラン「雅」の営業時間は過ぎていた。大場雅子の自宅へ訪ねて行こうか、ともおもった。しかし、城田は自分の気持が動揺しているのを知って、一晩待ったほうがよい、と考えた。
その夜は、寝ぐるしい夜になった。
春海と別れる直前の会話を、城田は思い浮かべた。そのとき、春海はこう言った。
「もう一つだけ、ぼくの推理を教えておこう。その人物には、やはり、刺青があるな」
「刺青というと、蜂の絵ですか」
「ま、そういったものだろう」
「女王の冠をかぶった蜂ですね」
「女王の冠ではないな。それならば、由美や理加と同じ立場になってしまう」
「とすると……、しかし、まさか王様の冠をかぶった蜂、というわけでもないでしょう」
「なぜ、まさか、なのかね」
「でも、女の躯《からだ》に王冠というのは……」
「そういうことが、考えられないか。城田君らしくもないね」
「あ、なるほど。王冠と女王の冠、とすると、同性愛ということになる……」
「ただ同性愛というだけのことか、それだけのことで刺青をしたのか、そこはまだ謎《なぞ》だが……」
「しかし、そうすると、大場雅子はシロということになる」
と、城田は口走った。
「おや、なぜ?」
春海が、城田の顔を確かめるように見ている。
「いえ……」
城田は、曖昧《あいまい》に口ごもる。失言したな、とおもっている。春海はにやりと笑って、
「つまり、大場雅子と寝たというわけだね」
「つまり、そういうわけです」
「それで、刺青が無かったのかね」
「そうですよ」
「前からの関係なのかね」
「いえ、一度だけです」
「なにも、ぼくに向って、弁解するように言わなくてもいいさ。何度寝ようと、君の勝手だ。しかし、一度だけのことにしては、最初からずいぶんハデなやり方をしたものだな。刺青が無かった、と確信をもって言うことができるとはね」
「それには、理由があるのですよ」
と、城田は説明した。雅子が自分の内腿《うちもも》を示して、そこがどうかなっているか調べてくれ、と彼に言ったことを話した。
「なるほど、それで、なにも無かったんだね」
「そうなんですが……」
と、城田は不意に、自信のない心持になってきた。「なにもない」と彼が言ったとき、いそいで裾をかき合わせた雅子の手つきを思い出したからだ。
自分の見たのは、片方の腿だけだった。もう一方の腿を、あのとき見ただろうか。その部分は、着物の裾で隠れたままになっていたような気もする。
「どうした、なにか自信なさそうだが」
「ぼくの見たところには確かに無かったが、脚は二本ありますからね」
「もう一本の脚のほうは、見なかったわけだね」
「どうもそんな気がしますよ。そのときは、調べる気持はなかったわけだから」
「それは、そのとおりだ」
「やはり、見なかったような気がする。どうも曖昧だ」
「人間の記憶というのは、そういうものさ。ともかく、もう一度、調べてみるのだね。厭《いや》な仕事ではあるまい」
と、春海はそのとき笑いながら言ったものだ。
寝床の中で、いま城田は考えている。
「たしかに、調べてみなくてはならない。それにしても……」
それにしても、このごろは、調べるためにだけ、女の躯に触れることが矢鱈《やたら》に多い、と彼はおもったのである。
理加の内腿を調べた。由美の内腿……、これは生きている人間ではなく、死体となってすでに棺の中に入っていたが……。
そして今度は、雅子である。
大場雅子と、そういう調べるための接触を持つとは考えていなかった。雅子とのつながりは、大切にして、毀《こわ》れやすいものを取り扱うようにして慎重にしていたのだが。この前、思いがけない形で雅子と肉体関係をもってしまったのも、彼にとっては不本意なことだったといえる。それが既に、わるい辻占《つじうら》だったのか。
明日になったら、さっそく雅子を訪ねよう、と彼はおもう。明日になるのを待ち兼ねる気持で、一層寝ぐるしくなる。幾度も、寝返りを打つ。
やがて、そのうち眠りに陥ちた。
朝飯を食べて身支度をすると、城田祐一はさっそく外出した。大場雅子の家へ向うのである。
「しかし……」
と、彼はふと足を止めて考える。
「こうやって、朝になるのを待ち兼ねたように出掛けているが、これでいいのか。こんなに無防備の状態のままで、いいものか」
もしも本当に、雅子が謎の鍵《かぎ》を握る人物だとしたら……。その謎の正体が、優雅なものか、兇悪《きようあく》なものかは判然としないが、場合によっては、ギャングの巣窟《そうくつ》に乗り込むくらいの身構えが必要なのではないか。
「とはいうものの……」
いまさら、大場雅子にたいして、どういう姿勢をとれというのか、今までどおりにしているしかあるまい。そんなことを考えているうちに、もう雅子の家の前に来てしまった。
「あら、めずらしいわ。こんなに太陽が高くにあるとき、城田さんの顔を見るのは、はじめてじゃなかったかしら」
と言いながら、雅子は彼を招き入れてくれる。その立居振舞いには、べつに怪しい気配はない。それは、当然のことだ。
「一番怪しくない人物が……」と、春海も言ったではなかったか。
「なにか、急用でも」
「いや、べつに……。なんだか急に、あなたの顔が見たくなって……」
こういう言い方が、雅子の内腿を調べる布石となるわけだ。それにしても、調べるためとは、なんと味気ないことだろう。調べるために理加の躯《からだ》に襲いかかったときには、それはそれなりに刺戟《しげき》的であったのだが……。やはり、自分は大場雅子に惚《ほ》れているのだろうか。
いずれにしても、訪問して、いきなり色模様を展開するわけにはいかない。彼は世間話の口調で、気にかかっていることを訊《たず》ねはじめた。
「雅子さん、アンダーソンという名前を知っていますか」
「アンダーソンて、アメリカの小説家のこと?」
「いや、日本にいるアメリカ人ですがね」
「ああ、あのアンダーソンのことかしら?」
雅子は、無造作に言う。
「あのアンダーソン?」
「わたしの知っているのは、もうかなりのご年配よ。といっても、五十いくつかしら。とても大きな人で……」
「髪はゴマ塩ですか」
「そうね、もうかなり白髪が増えていらっしゃるわ」
「そうだ、その人だ」
「アンダーソンさんが、どうかなさったの。城田さん、ご存知なの」
「それより、雅子さんはどうして知っているのですか」
「どうしてって、ときどきお店にいらっしゃるのよ。お得意さま、といってもいいくらいだわ。城田さん、お店で会ったことなかったかしら」
雅子の答えに、城田は拍子抜けした心持になった。
「とすると、余志ちゃんも、アンダーソン氏を知っていることになるね」
「それはもちろんよ。あのかた、うちのお店はツケになっているの。この前も、余志ちゃんに勘定を取りにやらしたら、アンミツをご馳走していただいた、といって喜んでいたわ」
「アンミツをねえ……。アンダーソン氏の職業を、雅子さんは知っている?」
「学者じゃなくって? なんでも、そんなように聞いているけれど」
「学者って、なにを研究しているのかな」
「さあ、それは知らないわ」
余志子がなぜアンダーソン邸を知っていたか、という疑問は、大場雅子の言葉によって、あっけなく解けてしまった。
とすると、怪しいのは、どうしても大場雅子ということになってしまう。
城田は、王様の冠をかぶった蜂の絵を思い浮かべる。それは、雅子の腿にある筈だ。そして、女王の冠の絵が、三津子の腿にあたらしく彫り込まれているにちがいない。
雅子の刺青を、はやく確かめてみよう、と城田は会話を打ち切って、雅子の躯に襲いかかった。
「いま、ここで」
と、雅子は彼の躯を押しのける素振りをした。しかし、その抵抗は形ばかりのもので、雅子は躯を倒してゆく。
城田は荒々しく彼女の衣服を剥《は》ぎ取り、裸の脚に顔を押しつけた。
「そんな……」
と、雅子の二つの掌が、その部分を覆い隠そうとするように動いた。しかし、それは刺青を隠そうとする動きとは違い、羞恥《しゆうち》に満ちている。その気配をみて、城田は、
「はてな」
とおもう。
城田のその予感のとおり、引き剥がした掌の下には、雅子のすべすべした腿のひろがりがあるだけで、刺青はなかった。
しかし、彼は疑いを捨てたわけではない。雅子の足の裏から調べはじめる。調べているという気配を消すために、唇を雅子の皮膚に当てて、前戯の形をとっている。
その唇を、雅子の足首や踝《くるぶし》からしだいに膝《ひざ》のほうへと這《は》い上らせて行く。眼は見開いたまま、油断なく雅子の肌を調べている。
背中から脇腹へと、唇は移動して行く。
「やめて」
喘《あえ》ぐように言う雅子の声には、羞恥のほかに快感と媚《こび》とが滲《にじ》んでいる。
彼の唇は雅子の背中へ戻り、腋窩《えきか》まで探ってみた。そのような動作をつづけているうちに、彼自身、調べるという気持が曖昧になってきた。前戯のための執拗《しつよう》な愛撫《あいぶ》を、雅子の全身に与えている気分が強くなってきた。
いまでは、雅子の羞恥心は躯の底に沈んでしまい、彼女は一匹の動物になりかかっている。仰向いた躯から、両腕を宙に差しのべて、しきりに彼を求めている。
求める言葉も、その口から出はじめた。
城田もまた、一匹の動物と化した。
しばらくして、汗に塗れた躯を、雅子の傍に横たえた城田は、
「これでいいんだ」
と、呟《つぶや》いた。
聞き咎《とが》めた雅子が、
「なにがいいの」
「きみとの関係を……」
と話しかけて、彼は気付いた。雅子のことを「きみ」と呼んだのは、初めてのことだ。この前、雅子とはじめて肉体関係ができたとき、あまりに突然、しかもあっけなく関係ができてしまったので、彼は気抜けした気分だった。雅子とのつながりを重いものに考えていただけに、なにか失策を犯した気分もあった。そういう気分と、あっけなさのためか、その後も彼は雅子のことを「あなた」とか「雅子さん」とかいう呼び方で呼んでいた。
それが、いまおもわず「きみ」という言葉が出た。「これでいいんだ」ともう一度おもいながら、彼は言葉をつづける。
「きみとは、エレガントな人間関係をつづけて行きたいとおもう気持と、そのエレガントさを思い切り汚れたものにしてやりたいとおもう気持と二つのものがぼくの心の中にあってね。それが、二つとも強くて、結局曖昧になってしまっていた……」
「それが、いま、思い切り汚れてしまった、というわけなの」
雅子が悲しそうな声を出す。
「いや、エレガントな、などという気持が一方にあるから、汚れた、などという言葉が出てきてしまうんだ。いま、こうなってみると、この方が余程人間らしい関係だとおもえる。だから、これでいいんだ、というわけだよ」
引き算
城田が、雅子と別れて春海《はるみ》俊太の家を訪ねたときには、もう夕方になっていた。
「雅子には、刺青はありませんでしたよ」
と、勢いこんで城田が言うと、春海は苦笑して、
「いま調べてきたところか。厭《いや》なやつだな、真昼間から……」
「そんなこと言ったって、善はいそげですからね。刺青は無かったんですよ」
彼が、もう一度、念を押すように言うと、春海はあっさり、
「そうだろう」
と言う。
「そうだろう、って、分っていたんですか」
「ま、そんなところだ」
「それじゃ、その女はいったい誰なんです。はやく教えてください」
「そうせき立てなくても……。なにも殺人事件が起るというわけのものでも……」
と言いかけた春海は、ふっと眼を宙に浮かして何ごとか考えていたが、
「いやいや、殺人など起りはしないのだから、あわてることはないさ」
「でも、教えてくださいよ」
「そのくらいは、君が考えてみるんだな。教えてしまっては、愉しみがなくなるだろう」
城田は、疑わしい気分になってきた。作品世界では、快刀乱麻の名探偵を活躍させる春海だが、現実の問題でもそのとおりとは限らないではないか。
「本当に、春海さんはその女が分っているのですか」
「これはご挨拶だね、分っているさ」
「誰なんです、その女は」
「もう簡単ではないか。引き算をして行けばいい。怪しくない女のうちの大場雅子を消せば残ったのが、その女だ」
怪しくなさそうな女といえば、二人しかいない。
大場雅子と、余志子の二人である。
その二人のうちから、大場雅子を引いた答えは、これは言うまでもない。
「まさか」
と、城田は呟いた。アンミツにばかり興味を示しているあの女が、謎の正体などということが有り得るだろうか。
「引き算をすると、余志子ということになりますが」
と城田が言うと、春海は、
「そういうことになるな」
「しかし……、先輩は、余志子という女を知っているでしょう」
「知らないね」
「知らないわけがないでしょう。『雅』のレジスターをしている娘ですよ」
「それは、もちろん知っているさ。しかし、あの女の中身については知らない」
「中身といったって、アンミツをご馳走してやれば、にこにこしている娘ですよ。あの余志子がその女だとは、とても信じられないなあ」
「まったくだね」
と、春海はけろりとして言う。
「まったくだ、なんて言って、無責任じゃありませんか」
「しかし、ぼくの推理では、余志子ということになってしまうから仕方がない。あとは、君が実地に当って、確かめてみるんだな。もしも、ぼくの推理が当っていたとしたら、見かけがああいう具合に無邪気なだけに、すこぶるしたたかな女ということになるぞ」
そう言われると、余志子の腫《は》れぼったい眼も、なにやら曰《いわ》くありげにおもえてきた。あの睡《ねむ》たそうにふくれている目蓋を持ち上げてみると、その下から悪く光る眼があらわれてきそうな気がしてくる。
「それで……」
と、城田は春海に教えを乞いはじめる。春海と一緒にいると、城田は自分の頭を働かせてみる気持がなくなって、何でも相手の意見に頼りたがってしまう。
「実地に確かめる、といっても、どうやればいいんでしょう」
「そうだなあ」
と、春海はからかう口調になり、
「裸になって、一晩中余志子の傍にころがっていてみるんだな。眼が覚めて、君の太腿に刺青が入っていたら、それが何よりの証拠というわけだ」
「まさか……」
と城田は笑い流そうとして、ふと気付いた。
「そうだ、先輩はその女には刺青がある、とおっしゃっていましたね」
「推理して行くと、そうならざるを得ない」
「それでは、余志子の刺青を確かめることができれば、それが証拠ということになりますね」
「そういうことになるな」
「その刺青の図柄は、つまり、王様の冠をかぶった蜂でしょうね」
「どうかな、しかし、それがどんな刺青でも、証拠と考えていいだろう。ああいう、およそ刺青に縁のなさそうな女に、刺青があったとすれば、これはただごとではない」
「分りました。それでは、明日から突撃開始だ」
と、城田は酔った勢いで、威勢よく言った。しかし、醒《さ》めた頭の片隅では、次のようなことを考えていた。
永遠の女性を探し求めて、つぎつぎと女と関係を結んで行く男、それがドン・ファンというものだ、という説がある。その説には、多分にドン・ファンの弁護人の弁といった趣があるが、ともかくも、「もしやこの女が自分にとっての理想の女ではあるまいか」と考えて、一人の女と寝る。失望して、次の女に移る、という形の繰り返しが起ってくる。
ところで自分は……、と城田は考えるのである。自分の探しているのは、三津子である。そして、三津子を探すために、つぎつぎと女性と関係をもつようになった。今度の余志子についても、同じことである。なにも関係を持たなくてもよさそうなものだが、腿の刺青を確かめなくてはならぬ。目的のために、手段として関係を持つことになってしまう。
レストラン「雅」の白いテーブル・クロスをかけたテーブルの前に、城田祐一は一人で坐っている。
食前酒に、辛口のシェリイを飲み、燻製《くんせい》の鮭《さけ》のピンク色の肉を食べながら、城田は視野の隅に余志子を捉えている。
もしも、春海の言うように、余志子がその女だとしたら、これまでの謎をどう解釈したらいいだろうか、と城田は皿の上に俯《うつむ》いてナイフとフォークを動かしながら考えている。
余志子の腿に、小さな刺青がある、ときめてみよう。その図柄は、王様の冠をかぶった蜂の絵だときめてみよう。
そうすると、城田の頭の中で、余志子を主人公とする空想の物語ができ上ってくる。
まず、余志子がアンダーソン邸を知っていたのは、雅子が言うように、勘定を取りに行ったためではない。あるいは、最初のキッカケはそうであったかもしれないが、余志子の頭にあるアンダーソン氏は、レストランの客ではない。
刺青|蒐集家《しゆうしゆうか》としてのアンダーソンである。
余志子は自分で刺青をしているくらいだから、その道の情報には精通していると考えてよい。アンダーソンが、莫大《ばくだい》な金額と引きかえに、ピンク色の星の出ている人間の皮を手に入れたがっている、という話も、知っていた……。
と、城田の空想は、料理の皿がすすむにつれて、進んで行く。
クリームスープが出た。
舌びらめのバタ焼きが出た。
肉の皿は、平凡にビーフシチューとなっているが、ソースが薄あじで、しかもコクがあり、上等だった。
それらの皿を空にする度に、城田の空想場面は、次に移る。余志子が、たまたま三津子の刺青のことを聞く。
余志子が、三津子を誘拐する。
三津子は子供ではないし、余志子に腕力があるとはおもえぬ。誘拐というと語弊があるとすれば、誘惑といえばよかろう。
どういう手段で、なにを武器にして、女が女を誘惑するのだろうか。もともと、誘惑という言葉が、男と女とのあいだで成り立つとすれば、女が女を誘惑する場合、片方の女がじつは男の役割を果していると考えれば、分り易くなる。
理加の腿にあった、女王の冠をかぶった蜂の刺青。死んだ由美の腿にあった、同じ模様の刺青。
そして、余志子の刺青は、王様の冠をかぶっているとすれば……。
余志子が男。
三津子が女の役割ということになる。
三津子にその素質があって、その変った関係に惑溺《わくでき》しているとすれば、彼女が姿を現わさないことも、納得できる。
とすれば、三津子の居る場所は、余志子の住居のなか、ということになる。
幸か不幸か、いやこの場合はあきらかに幸といったらよいだろう、余志子が三津子との関係に熱中した。そのために、三津子の皮が剥ぎ取られる時期が、一日のばしになって行く。
そのうち、アンダーソンが動物を使って、ピンク色の星を出す実験に成功した。その事実は、すぐに余志子の知るところとなる。
その瞬間から、三津子の皮は、莫大な金を掴《つか》むための材料ではなくなってしまった。
雅子の家の犬の腹に、刺青の模様を絵具で描いたりしたのは、余志子の口惜しまぎれのいたずらと考えれば辻褄《つじつま》が合う。
残された謎。理加や由美の刺青が剥ぎ取られたことは……、と城田が考えはじめたときには、すでに彼の前にはデザートの皿が運ばれてきていた。
そのため、彼の空想の中の話は、一時中断されることになった。
コーヒーを飲み終ると、城田はすぐに立ち上って、レジスターのところで勘定を払いはじめた。雅子が歩み寄ってくると、
「あら、もうお帰り?」
不服そうな気分がかすかに声に混じって、いくぶん他人でない感じになった。そういう雅子に背を向けたまま、彼は余志子に話しかけている。
「もう店の終る時間だね」
腕時計を見ながら、彼は言う。あらかじめ時計を見計らって、彼は「雅」にきていた。
「ええ」
彼は近くの喫茶店の名を言い、
「待っているから……」
「え?」
「そこで、待っているよ」
「でも、それで?」
「アンミツをご馳走してあげる」
余志子は笑顔になる。そういわれれば、嬉しそうな笑いをみせて無邪気な少女の役割を演じなくてはならない……、と余志子が考えているのではないか、と疑わせるところのある笑顔にみえた。
「アンミツと聞くと、すぐよろこぶ」
「だって……」
「それじゃ、待っているよ」
そういう形で、彼は余志子と会う約束をつくり上げてしまった。
ドアを押して店を出ると、すぐ左に階段がある。「雅」は二階にあるので、エレベーターを使うまでもない。階段を降りかけたとき、雅子が追ってきた。
「あなた、なにを考えているの」
あたりに人影がないので、雅子は露骨な口調になっている。
「わたしも余志子と一緒に行きますからね」
「なぜ」
「なぜって……」
「きみが余志子の保護者のつもりなら、それは余計なことかもしれないよ」
「でも、心配ですもの」
「心配しなくても、十分一人歩きできそうな女だとおもうよ」
「だから、心配だわ」
「おいおい、もうヤキモチか」
雅子は、ふっと顔を赧《あか》らめ、
「違うわ。でも、なにを考えて、余志子と会う気になったのかを知りたいの」
「つまり……三津子の行方を、余志子が知っているような気がしてきたんだ」
「まさか」
「まさか、というけれど、余志子が三津子を隠しているとさえおもえるわけなんだ」
「あの子が、そんなことをするわけがないじゃありませんか」
「しかし、きみ、余志子のことを、どの程度知っている」
「あの子の性質なら、よく知っているわ」
「きみ、余志子と一緒に風呂に入ったことがあるか」
その言葉は、雅子を不意打したようだ。
「もちろん、あるだろうね。女同士というのは、すぐに一緒に風呂に入りたがるものだからね」
「それが、無いのよ」
「無い? なぜ」
「恥ずかしがって、駄目なの」
「そういうとき、恥ずかしがるものかね」
「…………」
「なにかを隠しているのじゃないかな」
「なにかって?」
「たとえば、刺青」
「まさか、そんなこと」
待ち合わせの喫茶店に、余志子は一人できた。
向い合って坐った余志子の顔を、城田はあらためて眺める。色が白く、ぽってり肥って、目蓋の上の腫れぼったい感じの余志子は、いかにも女性的である。
「城田さん、なにを思い付いて、ご馳走してくださるの」
そういう話し方も、舌が長すぎるのか、あるいは短かすぎるのかとおもわせるような、舌をもてあましている粘るような感じで、それも女性的といえる。
「もしも、この女に刺青があるとして……」
と、彼は考える、似合っているのは、女王の冠のほうではないか。それが、王様の冠をかぶった絵があるとすると……。
そう考えて、余志子と向い合っていると、城田は一種異様な気分になってきた。
「ちょっと、聞きたいことがあってね」
「どんなことでしょう」
「いつか、きみは三津子がアンダーソンという人の家に入って行くのをみたことがある、と言ったね」
「ええ」
「あれは、本当なのか」
「本当よ、あたし、ちゃんと見たんだもの」
「しかし、三津子はあの家に来たことはないそうだよ」
「どうして、城田さん、そんなことが分るの」
「アンダーソン氏に会って、聞いたのさ。嘘とはおもえない話だったよ」
「あら、アンダーソンさんに会ったの」
「そうさ。偶然、ぼくの友人の知り合いだということが分ったものでね」
城田は、アンダーソン邸に忍び込んで、豚と格闘する羽目《はめ》になったことは隠している。
余志子は、しかし、すこしも動じる色がない。
「あのお家には近寄らないほうがいい、って言ったのに」
「そのことだ、それを聞きたい。なぜあの家に近寄ってはいけない、と言ったんだ」
「だから、城田さんがあの家に近寄ると、あたしの言ったことが嘘だと分るからよ」
「ふうん」
それで話の筋道は通るわけだ。
「それならば、なぜ嘘をついたんだ」
「だって、城田さんたら、三津子のことばかり気にしているんだもの。だから、からかってみたわけよ」
「ぼくが三津子のことを気にして、きみが不機嫌になる……、というのは、つまり、おれに惚《ほ》れているということか」
「あら、だいぶ自信があるようね」
「だって、そういうことになるじゃないか」
「同じ年頃の女の子が、一人だけちやほやされていると、ほかの子は機嫌がわるくなるでしょう。それと同じことよ」
「なるほど……、ところで、三津子はいまどこにいる?」
突然のように、その質問をした。
「どこにいるって……」
「教えてくれよ」
「だって、知らないもの」
ここでまた、彼は話題を急転換させた。
「由美を殺したのは、きみじゃないね」
「何ですって、由美ちゃんは殺されたの」
「いや、殺したのがきみでなければ、それでいいんだ。あれは、やはり急病で死んだにちがいない」
「…………」
「しかし、皮を剥いだのは、きみだね」
「あたし、何のことか分らないわ」
城田はかまわず言葉をつづける。
「理加の皮を剥いだのも、きみだな」
「…………」
「しかし、なぜ剥いだりするのだろう。値段が付くほど立派な皮ともおもえないが」
余志子は黙っている。上眼使いに、ちらりと城田を窺《うかが》う。その眼が、油断なく光ったようにおもえた。
「きみ……、ちょっと、両手をテーブルの上に出して、組合わせてみてくれないか」
また、話題の急転換。そういう方法で、彼は余志子を揺すぶり、混乱させ、中に隠しているものを吐き出させようとしている。
余志子は言われるとおりにした。左手の親指が、組合わせた右手の親指の上にある。彼はその指をさし示すと、
「そうか、そういう形になるのか。きみは、意外にも、男性的要素が強いね」
「…………」
「右の親指が上になると、女性的ということなんだが」
「…………」
「……まさか、きみ、男なのじゃあるまいね」
そう言った城田自身が薄気味わるい気持になった。余志子は、雅子とでも風呂に入らぬという話を聞いたばかりだ。
そのとき、黙りつづけていた余志子が、たまりかねたように言った。
「城田さん、なにを言いたいの」
彼は落ち着いて答える。
「三津子の居場所を、教えてもらいたいわけさ」
余志子の細い眼が、光った。光った一本の裂け目のようになったまま、彼女はしばらく沈黙をつづけた。
やがて、思い切ったように、口を開いた。
「三津子さんの居場所を教えるわけにはいかないわ」
「ということは、知っているわけだね」
「そう、知っているわ」
「それならば、話は簡単だ。つまり、きみの部屋にいるということになる」
「そうとは限らないわ」
「ぼくは、そうだとおもうね。だから、きみの部屋に行けばいいわけだ」
「でも、あたしの部屋がどこにあるか、知っているの?」
「調べれば分るさ」
「その間に、いなくなってしまうわよ」
からかう光が、余志子の眼に浮かぶ。城田は言葉に詰まり、苛立《いらだ》たしげな表情になる。そのとき、彼女が言った。
「城田さん、三津子に会えればいいわけでしょう」
「そう、会えればいい」
「会わしてあげるわ」
「…………」
「明日の夜、今日と同じ時間に、うちのお店へきて待っているといいわ」
眼の前の女
翌日の夜、城田祐一はレストラン「雅」へ向って歩いている。
「雅」はビルの二階にある。階段を昇り切ったところで、大場雅子とばったり出会った。
「おや、どこへ」
と城田が言い、
「あなたを探しに」
「ぼくを? どこを探すつもりなんだ」
「それは冗談。ちょっと買物を思い出して。でもまんざら冗談でもないのよ。あなたに電話する用事もあったの、お店の電話じゃ具合が悪い用事だから」
「…………」
城田は黙っていたが、三津子が来ているんだな、とおもった。雅子は、言葉をつづける。
「いるのに見えないのは、透明人間なんでしょ」
「そういうことだな」
「いない筈なのに、見えるのは、これは何でしょう」
「幻覚だね」
「幻覚だけかしら」
「ユーレイもそうだな」
「それじゃ、ユーレイなのかしら」
城田は、雅子の言葉の意味が分っていたが、わざとトボけて訊《たず》ねてみた。
「出たのか」
「ええ、出たのよ」
「どんなのが出た」
「きれいな女の子」
「なるほど、三津子だね」
「あら、分るのね」
「三津子ならユーレイじゃない。中身まで生身の人間だよ。しかし、きみも案外うっかりしているね、やはり余志子だったよ」
「余志子が?」
「三津子を隠していたんだ。今夜ここへ三津子を連れてきたのは、余志子だよ」
「それじゃ、あなた知っていらしたの。ユーレイだなんて言って」
「知っていたさ、会いにきたんだ。それにしても、余志子はきみの腹心の部下だった筈じゃないか。人間て、分らないもんだな」
「ほんと……」
大場雅子は、複雑な表情をしていた。その顔のまま、呟《つぶや》くように、
「ほんとに、人間て分らないわ」
と言いながら、階段を降りて行った。
城田は、「雅」のドアを押す。店の中に入ると、すぐ傍のテーブルに三津子が坐っていた。
彼はその顔を覗《のぞ》き込むようにしながら、
「おや、これは誰だ」
「…………」
「ぼくの知っていた三津子に似ているが」
「そうよ、三津子よ」
彼女は言い、
「お久しぶりね」
その挨拶の言葉は、ふてぶてしくひびいた。
「しかし、本物なのかね」
「もちろん、あたし三津子よ」
城田はあらためて、その女の顔を見詰めた。眼の大きい、鼻の先が軽くつまんだように上を向いている派手な顔だち。まるで、つくりもののように、長く密生している睫毛《まつげ》。
それは、たしかに三津子の顔である。しかし、どこかに微妙な違いがあり、その僅かな違いが、結果として大きく作用している。まるで別人のような感じを受けかねない。
その僅かな違いとは何だろう。
城田は、まざまざと相手の顔を見詰めている。
「厭《いや》だわ」
彼女は片方の掌をすうっと顔の前によぎらせると、かるく俯《うつむ》いた。
「珍しいものを見るみたいに、じろじろ見るんですもの」
羞恥《しゆうち》の色が、軽く刷《は》いたように、顔一面にひろがり、眉の線にまで及んで行くようにみえた。
「この感じだ……」
と城田は、ようやく気付いた。以前の三津子には、どことなく少年らしい感じが混じっていた。眼、鼻、口、そういう一つ一つを取って考えれば、それぞれ美少女としての資格を備えた造作だが、全体としてボーイッシュなところがあった。それが今では、全く影をひそめている。その替りに、女らしさが現われてきた。それも、ほのかに、自然に滲《にじ》み出てくる女らしさとは、違うようにみえる。へんになまなましい、誇張された女らしさ……。
いや、誇張されたと見えるのは、以前の三津子との落差の烈しさのためだろうか。いずれにせよ、違う点はそこにある。
「ま、ともかく……」
と彼はあたりを見まわした。レジスターに坐っている余志子の顔が、斜めの角度から見えている。彼女は何くわぬ顔で俯いて伝票を調べている恰好だが、神経をこの席に向けているのは間違いあるまい。
「ともかく、めしを食おう。きみも腹が空いているんだろう」
「そう……」
躊躇《ちゆうちよ》する気配である。
「きみは、何にする。生焼けのビフテキが好きだったね」
「あたし、あまり食欲がないの」
「食欲がない!?」
城田は、びっくりした声を出した。食欲のない三津子など、これまでに見たことがない。
「ええ、だから、サラダかなんかだけで」
「サラダだけ!?」
眼の前にいる獣が、不意に小鳥に変ってしまったのを見たような声を、城田は出した。
アスパラガスを並べた皿の上に俯いている三津子を眺めて、
「しかし、こういう形になるのも、当り前のことかもしれない」
と、おもう。
余志子が男の役割であるならば、三津子に与えられるのは女の役目である。余志子の部屋に密閉された三津子が、日々の飼育によって、今のような形になったのか。
小さな四角い箱の中に、幼児を閉じこめる。穴をあけて、首だけ出るようにして、そのまま育てて行く……。昔の中国に、そういう話があった。首から上だけは大人になって行くが、躯《からだ》は箱の大きさまでしか成長しない。成長がとまるまで、箱に入れて育てるのだから、気の長い話で、そこが中国的である。箱から出したときには、畸形《きけい》の人間になっている。それを見世物にして稼《かせ》ぐ……。
そんな話を思い浮かべたが、しかし、それほど余志子というのは、強力な何かを持った人間なのだろうか。
また、三津子はそんなにたわいもなく飼育されてしまうだろうか。あの三津子のような、威勢のいい少女が……。
そうおもうと、ふたたび疑いが起ってくる。いま眼の前にいるのは、本物の三津子なのだろうかという疑惑。
食事はすでにデザート・コースに入って、三津子は紅茶を飲んでいる。口の高さに紅茶茶碗を持ち上げ、三本の指で茶碗を持ち、余った二本の指をしとやかな形にかるく曲げ、音もなく飲んでいる。
「本物なのか。確かめなくては」
と、おもう。
確かめるためには、どうしたらよいのか。やはり、尻の部分にある刺青を見なくてはなるまい。その刺青を見るためには、眼の前にいる女を、裸にしなくてはならぬ。
この数週間のあいだ、城田祐一はまるでドン・ファンのように、つぎつぎと新しい女を裸にしてきた。それは結構なことで、あえて辞退するものではないが、三津子の行方を探すために置かなくてはならぬ捨石の形で、そうなってきた。そこが、どうも気に入らぬ。
なにか、三津子に操られて動いている人形のように、自分がおもえる瞬間がある。
そして、それも三津子に会うまでの辛抱だとおもっていた。それなのに、三津子に会っても、まだ、三津子を探すために、眼の前の三津子らしい女を裸にすることを考えなくてはならない。
「あきらめよう、もう少しの辛抱だ」
と彼はおもい、襲いかかる気持を引き寄せて、自分の心をふるい立たせようとして、ふと気付いた。
「しかし、これは難しいぞ……」
と彼はひそかに呟く。
同性愛にふけっている女を、男のほうに向けるのは、これはまことに難しい。男のほうに向きたくないので、同性の女の方ばかり向いている人間を相手にするのは、難事業ではないか。
城田は、テーブル越しに女を眺め、そこから衣服を取り去ってみる。剥《む》き出《だ》しになった二つのまるい尻を想像したとき、不意に気付いたことがある。
星と月の刺青――、それがそこにあるかどうかで、本物の三津子かどうか見分けるつもりであるのだが、果してそれは正しいか。
その刺青が無ければ、三津子ではない、と断定してよいものか。
それを、城田は自分の眼で見たことがあるわけではない。その存在を知ったのは、三津子の言葉を通じてのことだ。井山卓次郎も、大場雅子も見たことはない。もしも、三津子の言葉が出鱈目《でたらめ》だったとしたら。
もちろん、余志子は見ている。しかし余志子に訊ねても、戻ってきた答えを信じるわけにはいかない。
想像の三津子の中の二つの尻が、白くまるくすべすべして、刺青の気配もなくなった。城田は、嘆息をつきたい気持になる。もしも、眼の前の女を裸にして、刺青が無かったとしたら……。それでも三津子と信じるか、信じないでまた探しはじめたらよいのか。
不意に思い出したことがある。
「そうだ、おれはどうかしているぞ」
彼はおもわず声を出した。三津子は不審そうに、眼を向けてくる。
城田はいま、アンダーソンのことを思い出したのだ。アンダーソンが自分の娘の尻に、刺青をしたのは、確実なことだった。三津子がアンダーソンの娘であれば……、これは当然……、と彼は思ったのだが、そのことを思い出すと同時に、一つの考えが閃《ひらめ》いた。
城田は何気なくあたりを見まわすふりをして、余志子のほうを眺める。彼女は依然として、レジスターの前に坐り、俯いている。
彼は声をひそめて、言った。
「きみ、おとうさんに、会いたくないか」
彼女は城田の顔を探るように見て、
「あたしには、パパはいないわ」
「いないことはないだろう」
「いないと同じようなものなのよ」
「遠くにいるのか」
「そう、ずっと遠くに……」
とすると、もしも眼の前の女が三津子だったとしたら、アンダーソンが日本に来ていることを知らないわけだ。また、余志子もそのことを教えていないことになる。余志子としては、たとえ父親であろうと、男性の手に三津子を渡す気持はないのだろう。
「しかし、もし近くにいるとしたら」
「…………」
「すぐ近くに」
女の反応を確かめる眼で、眺めている。
「そうね……、複雑な気持だわ。でも、パパのこと、城田さんが知っているわけが……」
「立派な紳士だよ、学者肌のね。そのくらいはきみも聞いて知っているだろう」
「あら、知っているの」
「偶然のことでね」
「いつから、近くへ来たの」
「しばらく前に」
「でも、あたしのこと、探してはいないのでしょう」
「探しているんだ。だから、ぼくがきみの行方を探していたんだ」
「本当?」
「嘘だとおもうなら、会わせてあげるよ」
女の顔に、微妙な変化が起った。彼女の女っぽさは、白く淀《よど》んだ感じだった。いま、その白い淀みのところどころが薄くなり、活気に似たものが動き出したようにみえる。「本当?」と言ったときの彼女の気配には、かすかにボーイッシュなものが滲んだようにおもえる。
「会いたいんだね」
「…………」
「会わせてあげるよ」
余志子の耳を気にして、ささやくような声で言う。しばらく躯を堅くしている気配だった。いろいろの考えが、彼女の頭の中で動いているようにみえる。とすると、本物の三津子のようだな、とおもったとき、
「お願いするわ」
と、彼女は立ち上った。
レジスターで勘定を払っていると、余志子が傍の女に声をかけた。
「どこへ行くの」
「どこへも行かないわ。先に帰っているわ」
釣銭を渡しながら、余志子が城田にささやいた。
「誘っても無駄よ」
自信に満ちた声だな、と彼はおもう。しかし、三津子らしい女はいま余志子に嘘をついているんだ、とおもう。
並んで階段を降りて行くと、大場雅子が上ってきた。
「あら、もうお帰り?」
「そう」
「お二人で、どこへ行くの」
「いや、その道の出口まで、歩いて行こうというわけさ。この人は、急ぎの用があって、すぐ帰るそうだ」
雅子にまで嘘をついたのは、やはり余志子は雅子の腹心の部下、という考えがあってのことである。雅子に聞いて、余志子が追いかけてくるのを、おそれたわけだ。
「でも城田さん、ようやく三津子ちゃんが見つかってよかったわね」
城田は、曖昧《あいまい》な笑いを残して、ふたたび階段を降り出した。雅子は一緒にビルの入口まで行き、しばらく二人のうしろ姿を見送っている。
歩きながら、女が言う。
「どこなの、タクシーに乗るんでしょ」
「うん。しかし、いますぐきみを連れて行くことはできないな」
「どうして」
女は立ち止まった。
「アンダーソン氏の娘は、三津子という女だ」
「そうよ、パパはアンダーソンというの。間違いないわ」
「アンダーソン氏に間違いはないが、きみのほうが問題だ」
「だって、あたしは三津子だもの」
「しかし、ぼくの知っている三津子は、どうもきみとは少し違うような気がする」
「城田さん、なにを言ってるの。あたしじゃないの、三津子よ」
「たしかに、きみは三津子によく似ているよ。しかし、どこか違うんだ」
一瞬、彼女は眼を宙に浮かして、考えごとをする顔になりかかったが、すぐに苛立《いらだ》たしそうな顔に戻り、
「三津子なのよ」
「証拠がないな」
「どうすればいいの」
「証拠を見せてくれればいい。本物の三津子なら、お尻に刺青がある筈だ。それを見せてくれれば、パパに会わせてあげよう」
奇妙な会話
「厭よ」
三津子は強い語調で言う。反射的にその言葉が出てきたようで、それは無理もない、と城田はおもう。
しかし、無理もない、とおもって、そのまま引きさがるわけにもいかない。
「全部見せなくてもいい。パンティの横から、ちょっぴり見せてくれればいいよ」
「厭。そんなの不潔だわ。どうせ見せるなら、全部見せてあげるわ」
そういう言い方は、以前の三津子のものである。だが……、と彼は自問自答しはじめた。
「自分は、この眼の前の女が、三津子かどうか、本気で疑っているのだろうか」
「たしかに、自分の知っている三津子とは違うところがある。しかし、それは別人かどうかと考えるほどの違いだろうか」
「別人かどうか疑うことによって、相手を裸にして調べる必要が起ってくる。そのほうに、重点がかかっているのではないか」
「要するに、おまえは、三津子を口説いているのだ」
そうだ、おれはいま三津子を口説いている。そして、難航している。執拗《しつよう》に、粘らなくてはいけない。
「全部見せてくれ」
と、城田は言い、
「厭よ」
もう一度、三津子が言った。
「なぜ厭なんだ」
「だって、恥ずかしいもの」
そういう言い方は、以前の三津子にはなかった筈だ。
「なぜ、恥ずかしいんだ」
「そうね、恥ずかしい、というより、厭なんだわ」
「ぼくが男だからか。女なら、平気なのか」
「それは、平気だわ」
「平気というより、嬉しいのじゃないか」
「嬉しい?」
反問して、黙ってしまった。彼は苛立ってくる。
「パパに会いたくないのか」
脅迫しているようにおもえてきて、一層苛立つ。上衣《うわぎ》のポケットを探ってタバコの箱を掴《つか》もうとしたとき、小さな瓶《びん》のガラスの感触が手に触れた。彼は、ほとんど無意識のうちに、その瓶をポケットの中で握りしめた。
「会いたいわ」
しばらく間を置いて、三津子の声が戻ってくる。
「それならば……」
「でも、あたしが三津子だということは、ほんとは分っているのでしょ」
「たぶん、そうだとはおもっている。しかし、責任があるからね」
「責任? どういう……」
「アンダーソン氏にたいして、間違いなくその娘を引き渡すという責任さ」
「そこまで責任をもつ必要があるものかしら」
彼は苛立って、タバコを喫おうとおもい、ポケットからタバコの箱を掴み出した。しかし、手の中にあったのは、小さなガラス瓶である。そのなかには、赤い錠剤が入っている。
「そうだ、いい考えがある」
彼はふと思い付いて、言った。
「この薬を嚥《の》んでくれ」
そう言ってから、彼は自分の失言に気付いた。もし相手が、「そうすれば、透明人間になるわけね」と答えたとしたら、その答えは彼女が三津子である証明になってしまう。失敗だったかな、とおもったとき、
「それ何の薬だったかしら。そうね、透明人間になる薬だったわね」
と、彼女が言った。さらに、念を押すように、
「そのことを知っているのだから、あたしが三津子と分ったでしょ」
城田の悪い予感が当ってきた。しかし、ここで三津子の言葉を認めてはいけない。
「それは証拠にはならないな」
「なぜ」
「透明人間ごっこというのは、一時流行したからね。そのことを知っている人間は、たくさんいる」
苦しい言い訳だとおもったが、三津子は追及してはこないで、
「でも、そのお薬を嚥んで、どうするの」
「この薬を嚥むと、きみは透明になってしまう」
「そういうわけね」
「もしきみに刺青があれば、その刺青だけは消え残るわけだ。つまり、裸は見られないで済む、ということさ」
「刺青だけが、見えるということね」
「だから、恥ずかしいこともないし、厭なこともない」
三津子はしばらく考えていたが、不意に、あっさりした口調で、
「いいわ」
と、言った。
街路樹のそばの立ちばなしだが、あまり長くなっても具合が悪い。彼は歩き出し、歩きながら瓶の蓋を開き、赤い錠剤をつまみ出すと三津子の掌に載せた。
三津子の唇の中に消えてゆく赤い錠剤を眺めながら、彼は時間が逆に動いて、数カ月前に戻って行く気分になった。そのときも、このように、赤い錠剤を三津子に嚥まして、そこからドラマの幕を開こうとした。
そのドラマでは、主人公は大場雅子の筈だった。しかし、話は意外な方向に動き出してしまい、今度のドラマでは主人公は三津子なのである。
三津子の肌は、牛乳の白さである。
そこに、異国の血が感じられた。
三津子は、ベッドに腹這《はらば》いになり、首だけ城田のほうへまわして、
「どう、見える?」
「いや、見えない」
「見えないの?」
「見えないから、安心したまえ」
「あら、あたしの言っているのは、刺青のことよ」
三津子の左の尻のふくらみが、光るように白い。その上に、細い鎌のような真紅の三日月と、その三日月にかかえこまれるような形に散らばっている緑と藍色の六つの星が、見えている。その白い皮膚が光となって、なまなましく色濃い月と星を照らし出しているような錯覚が起る。
「きれいだね」
「なにが」
「なにがって、きみの躯は見えていないのだからね」
「そうだったわね。それで、見えているのね」
「見えている。しかし、見えていない」
「見えているのでしょう」
「見えていないものがある。ピンク色の星が見えていないよ」
北斗七星の七つ目の星が、そこにピンク色に大きく浮かび上ることがある、と聞いていた。その星は、姿を見せていない。
「それは、見えないわ」
と三津子が言う。
「なぜ」
「城田さんが、男だからよ」
その口調は、奇妙なものだった。城田を嘲笑《ちようしよう》しているようでもあるが、それだけではない異様なひびきがある。
「なぜ男ではいけないんだ」
「…………」
「女なら、いいのか。女なら、見えてくるのか」
そう言った瞬間、彼の頭の中に一つの情景がひろがった。絡み合っている二つの白い躯。その躯は、両方とも女の形をしている。盛り上った乳房に、もう一つの乳房が強く押し当って、四つの乳房が歪《ゆが》んだ形になっている。
そして、その一つの躯に鮮かに浮かび上っているピンク色の星……。
城田は、はげしく首を振ってその幻影を追い払い、はげしい勢いでベッドの上の白い躯に襲いかかった。
三津子は、躯を竦《すく》める。
拒否する姿勢になる。
争いの時間が、長いあいだつづいた。ふと気付くと、三津子の眼に涙が浮かび、眼尻から条《すじ》をなして流れている。その涙が異様に感じられ、城田の力が弛《ゆる》みかかったとき、不意に三津子の抗《あらが》う腕から力が脱けた。
筋肉のこわばりがほどけ、三津子の躯が彼を受け容《い》れる形になった。
しかし、受け容れただけで、三津子の躯は静かに横たわっている。彼の動きに反応してくることはない。
やがて、三津子と並んで城田は躯を横たえた。彼女はくるりと腹這いの姿勢に戻る。まるい尻が二つ並んで、見えてくる。
左の尻の刺青。しかし、そこにはピンク色の星は浮かび上っていない。そのことを、侮辱のように城田が感じ取ったとき、三津子の声が聞えてきた。
「城田さんは、やっぱり男だったのね」
「なんだって?」
からかっているのか、と顔を見たが、彼女は沈んだ表情である。その声音《こわね》も、沈んでいた。
「当り前じゃないか。おれを女とでもおもっていたのか」
「ううん、そんな意味じゃないの」
「それじゃ、どんな意味なんだ」
「いいのよ」
「よくはないさ」
「でも、もう手遅れだわ」
「なにが、手遅れなんだ」
三津子は、黙ってしまった。そして、彼女の言葉は謎のまま残った。
アンダーソン邸の応接間で、城田祐一はアンダーソンと向い合って、話している。
「エ、じゅでいノ居場所ガ分ッタノデスカ。オー、ソレハウレシイコトデス。ハヤク教エテクダサイ」
アンダーソンは、椅子から立ち上って、そう言った。しかし、その喜び方に、誇張があるように、城田にはおもえてしまう。なにしろ、死んだ妻の皮を剥がすような男なのだから、という先入観があるためだ。
「この家の地図を渡してありますから、明日にでも訪ねてくる筈です」
「ナゼ一緒ニ連レテキテクレナカッタノデショウ」
「本人が厭だというのです。パパに会うと感激して泣き出すにちがいない。それを見られるのが、恥ずかしい、というのです」
「恥ズカシイ? ソレ日本人ノワルイ癖デスネ」
と言ったアンダーソンの顔に、疑いの翳《かげ》が射した。
「シカシ、タシカニソノ娘、ワタシノ娘デスカ。刺青アリマシタカ」
「本人は、あると言っています」
「アナタ、見マセンデシタカ」
「わたしは見てはいませんが」
と、城田は嘘をついた。
「アナタソノ娘ト親シイノデスネ」
「親しいといってもいいでしょう」
「シタシイケレド、見テイナイ。ツマリオ兄サンノヨウナ関係ネ」
「ま、そんなもんです」
と、城田は答えたが、なにか侮辱を受けた心持にもなった。
「ともかく、あなたが直接調べてください。父親が娘のお尻を見るのは、べつに差支えないでしょうから」
「ソーデス、差支エアリマセン。ソレデソノ娘ガじゅでいダッタラ……」
と、アンダーソンは慎重に、言う。
「ワタシ、トテモ嬉シイ。デスカラ、アナタニオ礼シマス」
「そんなことは、いいですよ」
「イエ、オ礼サセテクダサイ。ドウイウオ礼ヲシマスカ」
「それでは、お礼のかわりに、一つ質問をさせてください」
「…………」
「あなたが日本へ来たのは、刺青を探すためですか、娘さんを探すためですか」
「両方デス」
両方というのは、答えにならない、と彼はおもう。探していた刺青は、娘の尻に彫ってあったわけだから。もしも、豚の腹に刺青をして、ピンク色の星を出すことに成功しなかったら、この男は娘の皮を剥がしただろうか……。もっとも、そういう質問は、本当の答えが戻ってくる筈もないが。
「では、刺青と娘さんと、どちらが大切ですか」
「ドチラモ、大切デス」
こんな会話は無意味だ、とおもいながらも、彼は口を閉じることができない。
「ともかく、動物の刺青が成功してよかったですね」
その言葉は、まるで捨てぜりふのようにひびいた。アンダーソンの眼が、一瞬、薄気味わるく光ったのを見て、城田は立ち上った。アンダーソンは、もとの笑顔に戻っており、
「オ礼ハカナラズ考エサセテモライマスヨ」
と言う。
まるで、悪い予言を聞かされるような心持になって、城田はその屋敷を立ち去って行った。
……数日後の朝、城田祐一は電話のベルで眠りを覚まされた。
「城田さん、三津子をどこへ隠したの」
鋭い声で、寝ぼけた耳には、しばらく誰の声か判断がつき兼ねた。
「もしもし、聞えているの」
靄《もや》が一挙に晴れきってしまったように、それが余志子の声と分った。
「ああ、余志ちゃんか」
「余志ちゃんか、ではないわよ。いったい、どこへ隠したの」
「三津子がいなくなったわけかね」
「とぼけちゃいけないわ」
余志子は言葉をつづける。
「城田さんの家でないことは、これは確かだわ」
「どうして確かなんだ」
「確かなのよ。この前、三津子と会って、どこかのバーにでも寄った?」
「なるほど……」
男は警戒する必要がない、と自信をもって考えているな。しかし、そう安心してもいられないのだぞ。この前は、バーなどには寄らなかったが、この俺と……。と考えて、三津子の尻にピンク色の星が現われなかったことに思い当り、城田は中途半端な心持になった。
「寄ったよ。とても、綺麗《きれい》な子のいるバーへ寄った。あまり色気はないが、短刀の刃のようなへんな感じのある女の子だったなあ」
「それ、どこ。はやく教えて」
「つまり、三津子がきみの部屋からいなくなった、というわけだね」
「そうなのよ。はやく教えて」
あきらかに、余志子は苛立っている。余志子と三津子との関係についての推測は、当っていたな、と彼はおもいながら、
「嘘だよ」
「え? なにが」
「バーへ寄ったことさ」
「じゃ、どこへ寄ったの」
「どこへも寄らなかった」
「嘘じゃないわね」
「嘘じゃない」
まんざら嘘ではない。寄らなかったと同じような結果だったともいえるのである。
「しかし……」
と彼は電話の相手に話しかけた。
「きみも分りそうなものじゃないか。三津子がいなくなったとしたら、行くところは一つしかないだろう」
「さあ……分らないわ」
「分る筈だよ」
「どこなのよ」
「パパの家さ」
「パパ?……まさか」
余志子の心外そうな声が聞えてきた。なぜ、余志子は三津子の行方について、アンダーソン邸を除外して考えていたのだろう。
秘密
「ひとは見かけによらない、というが……」
レストラン「雅」の隅のテーブルで、城田祐一は大場雅子と話し合っている。閉店時刻を過ぎているので、客の姿はみえない。離れたレジスターのところで、余志子が金の勘定をしているのがみえる。
「あのアンミツの好きな女の子がねえ」
「それでは」
と、雅子は城田の顔を見詰めながら、
「いろんな謎《なぞ》の素《もと》は、余志子だった、というわけなのね」
「そういうことになるな」
「それでは、わたしの腿《もも》のところに、刺青の絵を描いたのは、余志子だったのね」
「そのとき、きみの家に、余志子は泊らなかったか」
「そういえば、泊ったわ。あら、思い出したことがある。そのとき、余志子が牛乳をあたためて、カップに入れてくれたのよ。その牛乳を飲んだら、ひどく眠たくなってしまったのだけど……」
「それだよ、睡眠薬でも入っていたにちがいない」
「そう考えれば、うちの犬のおなかに、やはり絵が描いてあったときにも、余志子がいたわね」
「そうさ。きみと一緒にきみの家へ行ったとき、余志子が犬と留守番をしていたわけだ」
雅子は、頷《うなず》きながら、しばらく考えていたが、
「でも、なんのために、余志子はそんなことをしたのでしょう」
「ぼくたちが、いろいろな謎に悩まされはじめているのをみて、一層その謎を複雑怪奇にしようと企んだのではないかな。謎を増やして、ぼくたちがそれに振りまわされているのをみて、愉しむわけだ」
「そう……」
曖昧《あいまい》に答えた彼女は、また沈黙に戻る。
「つまり……」
ようやく、雅子は口を開いた。
「あなたの言うのは、余志子がレスビアン(同性愛者)だということね」
「そういうわけだ」
「由美も理加も、余志子の相手だったというわけね」
「だから、ひとは見かけによらない……」
「相手の女が、女王の冠をかぶった蜂《はち》の刺青をされた、ということは、余志子が男の役目をしているというわけね」
「ぼくは、そう考えるが」
「では、なぜわたしは刺青をされなかったのかしら、魅力がないかしら」
「魅力はありますよ。しかし余志子のようなタイプの女からみると、きみにはその素質がないとおもえるのかもしれないな。なんだか、がっかりしているみたいだね」
「がっかりするわけがないでしょう」
「ともかく、刺青はされなかったけれど、同じ絵を描かれたのだから……」
と言いかけて、城田はおもわず呟《つぶや》いた。
「おや、これはもしかすると……」
「なんなの、はっきり言って頂戴」
「睡眠薬で熟睡しているあいだに、犯されたかもしれないな」
「厭《いや》!」
反射的にそう言い、雅子は眼を大きく見開く。
「犯されたなんて、変なことを言わないで」
「しかし、そういうことは、十分考えられるじゃないか」
「厭だわ」
もう一度言い、かるく身を揉《も》む。顔にうすく血の色が浮かんでいる。
「でも、なぜわたしには、刺青でなくて絵を描いたのかしら」
「それはきっと、おそれ多かったんだろう。きみはご主人さまなんだからね」
「そんな理由ってあるかしら」
雅子はまた考える顔になり、
「それに、なぜ、理加と由美の刺青が、剥《は》ぎ取られていたのでしょう」
「そのことだ。その謎がどうしても、ぼくには分らない」
「そうすると……」
と、雅子が一層声をひそめて言う。
「余志子の腿には、刺青があるわけね。王様の冠をかぶった蜂の絵が」
「そういうことになれば、話の筋道が通るわけだ」
「あるのよ、間違いなく。だから、あたしとお風呂に入ろうとしなかったのね」
「ということになる」
「三津子を隠していたのは、余志子なのね」
「それは、間違いない」
「とすると、三津子の腿にあるのは、女王の冠の刺青ね」
その言葉を聞いて、城田は「あっ」とおもった。それを確かめるのを、忘れていたのである。月と星の刺青を確かめることにばかり気持を奪われていて、その問題が解決した瞬間に、忘れてしまった。
「そういうことになるな」
なにくわぬ顔で、彼がそう答えると、雅子は切り返すように、
「あなた、見た?」
「見ないね」
この言葉は嘘ではない、と考えながら、
「見るわけがないだろう」
と、今度は嘘をついた。
「見たい?」
「べつに……。ぼくと三津子とはそういう仲じゃないからね」
「でも、口惜しいわ」
「三津子がなにか……」
「余志子のことよ。あんなに、可愛がってやっていたのに。女の子をつかまえて刺青してまわるなんて、まるで講談に出てくる毒婦みたいじゃないの」
と、雅子は言い、あきらめ切れない口振りで、
「でも、本当かしら」
「余志子のことか」
「そうよ、信じられないみたい……」
「確かめればいい。余志子に刺青があれば、それが証拠だ」
「あなた、確かめてよ」
その雅子の言葉は、彼の耳に唐突にひびいた。
「ぼくが……」
「そうよ、調べてみてよ」
「なぜ、ぼくがそんなことができるんだ。相手は、男に興味のない女なんだよ。王様の冠の絵だよ、とても無理だね。きみのほうが、よほど見ることのできる可能性が強いさ」
「わたしは駄目。こんなに長いつき合いなのに、まだ余志子の裸を見たことがないのですもの」
「睡眠薬でぐっすり眠っているふりをするんだね、そうすれば、見ることができるかもしれない」
「厭よ、そんなの気持が悪い……、城田さんなら」
と、不意に他人行儀な呼び方をして、
「できるとおもうの。余志子は、前から城田さんに好意を持っているとおもうの」
「そんな道理がないよ。王様の冠の刺青のある女が、なんで男に好意を持つものか」
「でも、ためしてみて。ためしてみて、駄目だったら、あきらめるわ。もうお店は終ったのだし、帰りにあの子を誘ってみて頂戴」
そう言い残すと、雅子は立ち上って、余志子のほうへ歩いて行く。二人の女は、なにか二、三言葉をとりかわしたようである。
城田は、余志子と話し合うことが、ないわけではない。三津子のことで電話をかけてきたのが昨日の朝で、その問題も十分解決しているとはいえない。
そのことをキッカケに使って、誘ってみようか、と、レジスターの前に立って金を払いながら、余志子の顔を窺《うかが》ってみた。
その彼の視線を捉《とら》えて、余志子の方が先に口を開いた。
「ちょっと、お話があるの」
「へえ……」
「お忙しいの」
「いや」
「つき合ってくださらない」
先手先手と取られて、彼は余志子と並んで街へ出た。
並んで歩きながら、さっそく、余志子は言う。
「ねえ、三津子を連れ戻してきてよ」
「…………」
「連れ戻さなくてもいいから、また前のように顔をみせてほしいの」
「しかし、三津子はいったい何処《どこ》にいるのかね」
前の日の電話を思い浮かべ、彼は意地悪く訊《たず》ねる。
「アンダーソンさんの家でしょう」
「しかし、きみはそれを信じなかったじゃないか」
「いまは、信じるわ」
「だが、きのうはなぜ信じなかったのかね。アンダーソンの家になんか、まさか、いるわけがない、と言ったじゃないか」
「…………」
「教えてくれよ、そうすれば、きみの頼みの件は考えてみるさ」
「でも、三津子の秘密に関係のあることなんだもの」
「秘密? つまり三津子とアンダーソンは親子ではない。だから、アンダーソン邸にいるわけがない。とでも言うことか」
「違うわ。それは、たしかに親娘《おやこ》なのよ。もっと別の、違う秘密……」
「ますます聞きたいね」
しばらく躇《ためら》ってから、余志子は決心したように口を開きかけた。
「ちょっと待ってくれ。その話は、長くかかるか」
「そうね……」
「それなら、歩きながらでは具合が悪い。どこかへ行ってゆっくり聞かせてもらう」
城田は誘っているわけだ。その誘いが分らぬ筈がない、とおもうのに、余志子は素直に頷いた。
手近かなホテルへ足を向けた。ためらう気配がなく、余志子はついてくる。
部屋に入る。余志子も、黙ってついてくる。その素直さが、かえって不気味だ。
「あたしが、まさか、と言ったのはね」
と、余志子は話しはじめた。
「三津子は、パパに会いたいとおもう気持は、たしかにあるわけよ。でも、それ以上に、会いたくない、という気持が強いの」
実際とは、かなりズレのある話だな、とおもいながら、城田は、
「それは、なぜだ」
と、訊ねた。
「三津子は、男嫌いなのよ。パパと会うだけならともかく、同じ家に一緒に住むことができるとはおもえないの。たとえ、親子でも。だって、父親と娘って、ある意味ではとてもなまなましい関係でしょう。まして、長い間、生れてからずっと会っていない父親なんて、他人の男と同じようなものだもの」
余志子の言葉は、一理はある。たしかに、三津子には男を嫌悪《けんお》しているところがある。しかし、余志子の言うほどの強さかどうか、というと、これは納得することができない。現に……、と城田が三津子との交渉を思い浮かべかけたとき、余志子が言葉をつづけた。
「アンダーソンさんて、五十くらいかしら」
「もう少し上だとおもうな、五十代の半ばくらいか」
「そのくらいの年頃の男に、三津子はとくに烈しい嫌悪を感じるらしいの」
「なぜだ」
「聞きたい?」
「当り前さ」
「話したくないんだけど……。話していると厭な気持になってくるのよ。でも、仕方がない」
余志子の話というのは、次のようなものである。
一年前、三津子はある年上の男が好きになった。かなり年上の、つまり五十五、六歳の男である。もっと前から、三津子は自分より、二十も三十も年上の男に惹《ひ》かれる傾向があった。彼女自身気付いていたかどうか分らないが、あきらかに父親がいなくて育ったために起ってくる性向である。その頃は、彼女は男性嫌悪の気持などもたない普通の娘であった。
三津子の好意は、しだいに恋情に変化して行った。父親の代用品としてはじまった気持だとしても、父と娘とのあいだのように性のタブウは存在していない。そのため、恋情に移って行くのも、有り得ることである。
その恋心は、日に日に強くなって行った。
三津子には、それまでに深い交渉をもった男性はなかった。つまり、処女だったわけで、その純潔を相手に捧《ささ》げたいと思い詰めるほどまでになった。
「よくある話だな」
と、城田は口を挿《はさ》み、
「その男にひどい目にあわされて、それが心の傷になって、以来男嫌いになってしまった、ということだね」
「ひどい目にあわされた、というのはたしかだけれど、城田さんの考えていることとは違うようね」
「違うかなあ、要するに、そういう按配《あんばい》で男嫌いになった女の子をだね、誰かさんが女と女との関係に引っぱりこんだというわけなんだろう」
「それは、その通りなの。でも、そのとき、三津子はまだヴァージンだったのよ」
「なんだって!?」
城田の頭が、混乱した。
「それじゃ、ひどい目にあってはいないわけじゃないか」
「躯《からだ》のほうはね。でも、それ以上に、心のほうが滅茶滅茶になってしまったのよ」
「どういうことかね、説明してくれ」
その男が、変態性欲の持主だった、と余志子は言う。つまり、女にたいしては欲望の起きない男だったのだ。
同性の、男性にたいしてだけ可能な躯の持主だった。
「なるほど、ヴァージンだけに、ショックは大きかったろうな」
「そうなの。これが、ただのインポテンツだったら、まだマシだったわけだわ。三津子くらいの年頃からみれば、そのことはそれほど異常に感じられないもの」
先日の三津子との会話を、彼は思い出していた。そのときには謎だったその会話が、いまはよく分る。
「城田さんは、やっぱり男だったのね」
「なんだって?……当り前じゃないか。おれを女とでもおもっていたのか」
「ううん、そんな意味じゃないの」
「それじゃ、どんな意味なんだ」
「いいのよ」
「よくはないさ」
「でも、もう手遅れだわ」
「なにが、手遅れなんだ」
そういう先夜の会話の意味が、いまはよく分る。
それは誰
余志子の話を聞いているうちに、彼女と三津子の関係は、はっきりしてきた。それは、城田が予想したとおりのものだ。
余志子が男の役割。
三津子が女。
しかし……、いま眼の前にいる余志子の色の白い腫《は》れぼったい眼をした顔を見ていると、それはいかにも女っぽくみえてくる。それが、かえって不気味だ。
それに、余志子のような役割の女が、城田という男とやすやすとホテルの一室に入ってきている。城田は、自分で誘っておきながら、割り切れぬ気持になった。
「ということになると……」
余志子の話を聞きおわった城田は、
「三津子を女にしたのは、きみというわけなんだな」
「…………」
余志子は無言である。ただ、腫れぼったい目蓋の下で、一瞬眼が光ったようにみえた。彼は余志子の手首を掴《つか》む。やわらかい肉がしなやかに、彼の掌の中にある。それは、あくまで女の手首の感触だ。
「三津子は女だね」
「…………」
「それで、きみは男か」
それならば、なぜこの手を払いのけないのだろう、と考えながら、力を入れてその手首を引っ張った。
余志子の躯が、抵抗なく彼のほうへ崩れてくる。
彼の指が、余志子の洋服の背にあるジッパーを引き下ろす。その音が鋭くひびくが、彼女が躯を堅くする気配はない。むしろ、かえって軟らかくほぐれ、洋服の中から脱け出しやすい形になって行く。
白い肩の肉、胸の肉があらわれてきた。それは、予想したよりもはるかに豊かに成熟していた。
強く、女を感じさせる躯である。
そういう余志子を見て、城田は不意に落し穴のようなものを感じた。
それは、理由のない不安ではない。そのときの彼の気持を説明すれば、次のようになる。
レスボスの女たちで、男の役割をつとめる女には、多くの場合、男性憎悪、男性嫌悪があるとみてよい。そういう女が、なんの抵抗も示さず、むしろ積極的に男に身をまかせる素振りになることに、城田としては奇妙な気持を抱いたわけだ。
そういう有り得ないことが、いま起ろうとしている。そして、相手の女である余志子に、彼はしたたかなものを感じている。
そのために、穽《あな》を見ているような気持になってきた。
城田の手が、余志子を裸にして行く。腕や肩や横腹などの微妙な捩《よじ》り方《かた》で、余志子がそのことに協力しているようにおもわれて、彼はふと手を止めにかかることもあった。
黒い落し穴を、見てしまうのである。
「しかし、いま、ここで止めてしまっては何にもならない」
と、自分で自分を励まして、彼はその動作をつづけて行く。
裸になった余志子の躯を調べることは、難しいことではなかった。むしろ、あっけないくらい簡単だった。なぜならば、彼女は仰向きになり、両手を伸ばして、彼を求める姿勢を取っている。両足を開き加減にして、腿の内側は、明るいままの部屋の光に曝《さら》されていた。
彼は、そこに蜂の刺青を見た。
「やっぱり……」
とおもった城田は、次の瞬間、おもわず叫び声をあげかかった。
その蜂がかぶっていたのは、王様の冠ではなく、女王の冠だったのである。
彼は混乱した。
これまでの彼の推理が、根底から崩れかかっている。
女王の冠の蜂の刺青があるということは、余志子が由美や理加と同じ立場にある女だということになるだろうか。そうとしか考えられない。ただ違うところは、余志子の刺青は剥き取られておらず、彼女の腿にはっきり浮かんでいるという点だ。
これを、どう理解したらいいのだろうか。
王様の冠をした蜂の刺青は、いったい誰の躯にあるのか。
あるいは、そういう刺青は、存在していないのだろうか。
混乱しながら、彼は眼の前に横たわっている余志子の躯に寄り添っていこうとした。襲いかかるという形ではない。なぜなら、彼女の躯は、相手を受け容れる風情で、そこにあるのだから。
しかし、不意に、余志子の手足が縮まり、背が深く曲って、防禦《ぼうぎよ》の姿勢になった。一たんそうなると、頑《かたく》なに彼を拒否している線が躯全体にあらわれている。
「どうしたんだ」
「駄目なのよ」
「なぜ」
「やっぱり駄目なの」
その恰好を見て、「やはり、誰かがいる」と城田はおもった。王様の冠をかぶった蜂の絵を躯に彫っている誰かが……。
「怒られるのか」
「あら」
「そうなんだろう」
「でも、誰に」
「誰なんだ」
「…………」
「それならば、なぜ、ぼくと一緒に来たんだ。それも、まったく躇わずに」
さっき感じた落し穴は、いま、こういう形で現われてきた、と彼はおもった。
それは、誰だろう。
三津子か。
いや、三津子の秘密は、いま余志子に聞いたばかりだ。しかし、余志子の話をそのまま信じてよいかどうか。
余志子が自分自身の秘密を、三津子のこととして話したのではないか。まさかそんなことは有り得まい。余志子の話には、合点できるところがいろいろあった。
しかし、この際、疑い深くなる必要がある。三津子の躯を調べなかったのが、悔まれた。三津子の躯を確認していないからには、三津子も疑わなくてはならないことになる。しかし、誰だろう……。
いや、誰といって、疑う対象になる誰が残っているというのか。
残っているのは、女性に限っていえば、大場雅子くらいのものだ。
まさか、大場雅子が……。
とおもいかかる気持を抑えて、城田は疑い深くなり、大場雅子に疑いの眼を向けかかった。
しかし、彼の疑いは成り立たないのだ。
すでに、彼は雅子を調べている……。
最初は、雅子が彼の手を引き寄せて、剥《む》き出《だ》しになっている腿の内側に、彼の掌を押し当てたのだった。
「ね、ここを見て頂戴」
「え?」
「どうにかなっているか、見て頂戴」
「なにもない……。しかし、いったい、どうしたわけなんです」
そのような形で、大場雅子は自分からすすんで調べさせたのだった。ある朝、そこに刺青の絵が描かれていたことがあった、と言い、その絵の模様がまだそこに浮かび上っていはしないかと心配して、彼に調べてくれと言ったのだった。
……ベッドの上の余志子は、背を折り曲げた姿勢のままである。敵に襲われると、くるりと丸くなり、堅いヨロイのような肉のかたまりになってしまう南米の小動物を思い出させる。
「これはもう、手が付けられないな」
腕組みして、城田は苦笑する気分である。
余志子はそのままの姿勢で、首だけ彼のほうへまわすと、
「ねえ、三津子を連れ戻してきてよ」
「こういうときに、そんなことを言うことはないだろう」
「だって、ずっと気になっているんだもの」
「そのことを頼むために、ここにきたのか」
「違うわ」
違うにきまっている、と彼もおもった。こうして拒否していては、頼みごともうまくいかないわけだ。
それでは、何のために、ここに来ているのか。もう一度、その疑問が浮かぶ。
不意に、一つのことに思い当った。
見せるためにか? 腿の刺青の模様を城田に見せるために、ではあるまいか。
そして、それは余志子の意志ではなさそうだ。誰かの指図によるものにちがいない。
その誰かは、城田の疑いに気付いて、彼をそういう形で翻弄《ほんろう》している。そういうしたたかな誰かは、一たい誰なんだ。あるいは、すべて、城田自身の錯覚と幻想から出てきている事柄なのか。
三津子と城田との関係について、余志子はまったく安心している。二人のあいだに特別なつながりなど起るわけがない、とタカをくくっている。ということは、「誰か」もそう考えていることになるわけか。
しかし、三津子と城田は、すでに余志子が考えているより一歩すすんだ関係になっている。たしかに、長い争いの時間の後で、ようやくそうなったのだが……。
ここに、突破口があるな、と彼は感じた。謎を解く手がかりを、ここで掴めそうだ、とおもったわけである。
ともかく、早く三津子に会う必要がある。
……それから数日後、城田と三津子は、密室の中にいた。
彼は、いろいろ考えた末、手紙をアンダーソン邸気付で書き送り、待ち合わせの場所を指定したのである。
もちろん、三津子はアンダーソン邸に監禁されているわけではない。三津子にさえ、その気持があれば、会うことができる、と彼はおもった。しかし、先日の三津子との関係によって、三津子が会いにくる、と安心する気持もなかった。
五分と五分、と彼はおもい、賭《か》けるような気持もあった。
「よく出てきたね」
「迷ったのよ」
「やっぱり、迷ったか」
「それは、迷うわ。この前のこと、失敗だったような気持もあるの。あんなことにならなければよかった」
「ともかく、会いたかった」
と言い、愛の告白の言葉に似てくるのをおそれて、
「会う必要がある」
と付け加える。
「必要?」
「そうだ。会いたがっている人といえば、ぼくより、はるかに会いたがっている人がいるよ」
「それは、誰?」
「それが誰か、ということは、ぼくのほうで聞きたいね」
「…………」
「余志子が、そう言っていたよ」
「何を言っていたの」
「会いたい、とね」
三津子は黙って、考えている顔である。そういう彼女の両肩を彼は掌でおさえ、彼は唇を寄せて行く。三津子は、はげしく首を左右に振り、拒む姿勢になった。
「厭なのか」
「厭」
「なにが厭なんだ、おれが厭なのか」
「違うの、接吻されるのが厭なの」
「抱かれるのは……」
「それは、もっと厭。厭というより、こわいのよ」
「男がこわいのだな」
「あら……」
顔を上げて、問いかける眼で彼を見た。
「そうなんだろう」
「聞いたの?」
「何を? 誰に?」
「とぼけないで……、余志子に……」
「それじゃ、余志子の言ったことは、本当のことなんだな」
「余志子は、どこまで言ったのかしら」
「ずいぶん沢山、言ったよ。きみ、男はぼくがはじめてなのか」
三津子の顔が、薄赤くなった。それは、彼の知っている、これまでのボーイッシュな彼女とは別人のようだ。
「まさか、そんなことはあるまい、とおもうがね」
その問を否定せず、彼女は別のことを言った。
「だから、こわいの。自分で、自分がこわいのよ」
「よく分らないね」
「男に馴れるのが、こわいのよ」
彼はいまの会話を反芻《はんすう》しながら、狙いを定めて撃つ気持で、訊ねた。
「誰なんだ、きみのうしろにいるのは」
「…………」
「余志子じゃないな」
「…………」
「それならば、もう訊ねない」
と、彼は一呼吸つくと、
「このことは教えてくれ、もし教えてくれなかったら、腕ずくでも調べるからね」
「なんのこと」
「きみの刺青のこと」
「それは、この前、見せたじゃないの」
「もう一つの刺青だ。おそらく、腿の内側にある筈の……」
消えた絵
城田祐一は、三津子の腿の内側にも、蜂《はち》の刺青を見た。女王の冠をかぶった蜂の刺青である。
余志子のものと同じ模様である。
やはり、余志子ではなかった、と彼はおもう。磁石の極と同じで、同じ模様同士は引き合わない。
しかし、彼はその刺青に長くかかわり合っていたわけではない。素早い一瞥《いちべつ》ののち、彼は三津子の躯《からだ》を抱こうとした。
この前と同じように抵抗があった。しかし、それは烈しいものではない。結局は抱かれてしまうのだが、その前の弁解のようなものだ。
弁解……というが、自分自身にたいしての弁解か。もちろん、そういう要素もあるわけだが、それは誰に対しての弁解なのか。
彼の下で、三津子は烈しく首を左右に振っている。髪が乱れている。
「なにを、追い払おうとしているんだ」
かぶりを振りつづける三津子の耳もとで、彼はささやいた。
「男というものの感覚を、頭から追い出そうとしているのか」
「…………」
「しかし、もう手遅れだな。きみはもう、裏切ってしまっている」
「裏切るって、誰を」
「さあ、誰かな。ぼくではないさ。ぼくは、ここにこうやっているんだ。裏切られる余地がない」
と言った彼は、甘く釣り出すように、三津子の耳に声をそそぎこむ。
「きみ、もう言ってしまえよ」
「裏切っていないわ」
一層、彼女の首が烈しく揺れる。
「裏切っているよ。もう、きみはその誰かを必要としなくなってきているんだ」
三津子の首の動きが止まった。
「言うわ」
決心したように、彼女は言った。
城田祐一は、緊張して待った。ようやく、終点にたどりついたのだ。
「誰なんだ」
「『雅』のマダムよ」
「大場雅子か」
「そうなの」
意外といえば、そうもおもえる。しかし、まったく意表をつかれたわけではない。大場雅子を疑った瞬間もあったのだ。
しかし、大場雅子だとすると、割り切れない点が、いくつかある。
大場雅子の全身のどこにも、刺青の姿は見られない。これはどうしたわけか。
また、彼女はたやすく城田に抱かれている。これは、なぜか。レスボスで男の役割をつとめる人物としては、そんなことが有ってよいものか。
終点に辿《たど》りついた、とおもったが、またそこから新しい疑いが起ってくる。三津子が、嘘の名前を告げたとはおもえない。
大場雅子の名を聞いたとき、「やはりそうか」とおもう気持が、彼の心の片隅にあった。とすると、もうこれ以上、三津子を問い詰めても無駄である。
三津子と躯を離してから、彼は別の話をしはじめた。
「パパの家の居心地はどうだ」
「どう、といって……、親切にしてくれるわ」
「パパは、きみのお尻の刺青を見たがったかね」
「子供のとき彫ったものが、どんな具合に変化するものか、調べたい、と言ったわ」
「それで、見せてやったのか」
「ええ」
「よく見せたね」
「だって、父娘《おやこ》ですもの」
「それで、パパはきみのお尻の皮を剥《は》がしたいような顔をしなかったか」
「そんなことはなかったわ」
「しかし、残念なことに、アンダーソン氏はきみのピンク色の星は見られなかったわけだな」
「あら、見たわ」
「なぜ、パパの前で昂奮《こうふん》したのか。この前は、ぼくに抱かれたあとだったのに、ピンク色の星は出ていなかったよ」
「あら、知らなかったわ、出ていなかったの。あのときは、いろいろ考えることが多くて、気持が内側にまくれ込んでしまっていたから……」
「パパの前では、どうやって昂奮したんだ」
「いやあね、昂奮だなんて。掌で幾度も強く叩くのよ。そうすれば、見えるようになるの」
城田は、三津子の躯を裏返して、眺めた。その尻の星と月の模様に混じって、濃いピンクの星が大きく、肌に滲《にじ》みこむように見えている。
「きみも、いまから新しい生活がはじまるというわけだな」
と、彼は一種の感慨をもって、そう言い、
「余志子が呼び出しても、出かけないほうがいいよ。しばらく、パパの家に引きこもっていたほうがいい」
仔細《しさい》らしくそう言って、彼は苦笑した。これでは、人生相談の役目をしていることになる。いや、若い女に人生の行くべき方角を指ししめしていることになる。自分はそんな役目はまっ平の筈なんだが。自分は、美しい未亡人の「快楽コンサルタント」の筈だったのだが……。
「そうするわ」
三津子の声が戻ってきた。
「城田さんが声をかけてくる以外は、家を出ないことにするわ」
「…………」
「だって、城田さんはあたしのはじめての男なんだもの」
ホテルのロビイで、大場雅子と城田は向い合って坐っている。彼が雅子を呼び出したのである。
「そんな咎《とが》めるような眼で、わたしを見ることはないわ」
と、大場雅子が言う。
「なにも、犯罪が起ったわけでもないのだから」
「いや、あなたを咎めているのじゃない」
彼が雅子を呼ぶ言い方が、もとの「あなた」に戻っている。
「咎めているような眼をしているとすれば、自分自身が咎めているのですよ」
「なぜ」
「だって、あなたの快楽コンサルタントだなどと大きなことを言って、結局、翻弄《ほんろう》されていたのはぼくだったのですからね」
「翻弄したつもりはないわ。城田さんの一人|角力《ずもう》だったわけよ」
「なおさら、悪いや」
「でも、それで良かったのよ。城田さんから快楽を教えられては、わたしの立場がなくなるもの。ちょっと、験《ため》してみたけど……」
「あれは、験したわけなのか。昔の武芸者の武者修行みたいなものか。つまり、男などからは快楽を与えられるものか、ということの確認だったわけか」
「そういうわけね」
「しかし、勝負に勝ったほうが、あなたとしてはよかったのですか」
「それは、そうよ、そうでなかったら、男なんかに近寄らないもの」
「でも、それは本当のこと」
「本当よ」
「本当は、負けたほうが、幸福になれるのじゃないのかな」
「そんなことはないわ。だから、もう二度と城田さんには近寄らないわよ」
城田は確かめるように相手を眺めている。そして、確かめるように、口を開いた。
「それでは別の質問をしますよ。やはり、犯人はあなたなのですね」
「だから、犯罪は起らなかった、と言っているじゃありませんか、犯人だなんて……」
「どうも今度の事柄には、暗い危険な感じがあるんだ。犯人といわないと、どうも気分が出ない」
「それでは、ご自由に」
「犯罪ではないとすると、由美の死んだのは殺人ではありませんな」
「そうよ、あれは心臓|麻痺《まひ》だわ」
「しかし、その由美の刺青を剥《は》がしたのは、雅子さんですね」
「そう、あれは、わたし」
無造作に、しかしはっきりと、彼女はうなずいた。
「理加の刺青を剥がしたのは」
「あれも、あたし」
雅子の白い細い指を眺めて、彼は軽い身震いを覚える。
「なぜ、剥がしたのですか」
「それは言えません」
含み笑いしながら彼女は答え、城田は苛立《いらだ》つ。
「刺青をしたのも、あなたでしょう」
稚拙な、素人《しろうと》くさい刺青を思い出して、彼は訊《たず》ねる。
「そうですわ」
「それなら、剥がした理由は分った。刺青をすることは、あなたのレスボスの仲間に入った証拠でしょう。それを剥がすのは、つまり、除名を意味する。なにか、裏切り行為があった……たとえば、男と寝たとか……」
「そうかしら」
相変らず、含み笑いをして、雅子は言う。
「違いますか」
「違うようね。だって、死んでしまった人間を、いまさら除名することはないでしょう」
その言葉で、彼はなまなましく思い出す。由美の刺青が剥がされたのは、死体になってからのことだった。あるいは、棺に横たわってからかもしれない。
「そういえば、その通りだ。なぜか、教えてくれないか」
「いまは、教えないわ。だって、謎《なぞ》がなんにもなくなったら、人生つまらなくなってしまうでしょう。城田さんのためにその謎は残しておきましょう」
大場雅子は、城田の「快楽コンサルタント」になったような口ぶりで、そう言う。
「しかし、犯罪は起らなかったが、動機は二つとも揃《そろ》っていたな」
「二つって、なんのこと」
「色と欲さ。犯罪の動機は、その二つのどちらかだ、という説がある」
「色と欲だなんて、へんなことをおっしゃらないで……」
「だって、欲もからんでいただろう。三津子のお尻の刺青を剥がし取って、アンダーソンに売りつける計画だったろう」
「…………」
「アンダーソンが別の方法で、その種の刺青を手に入れることができるようになったもので、その計画は駄目になった。つまり、豚のおなかの刺青の成功のせいでね。おもえば、危いところだったよ、三津子の生命《いのち》は風前のトモシビだった……」
「あら、お尻の皮を剥がしたくらいで、人間は死にはしないわよ」
「もう一つ、謎が残っているな。あなたの躯には、どこにも刺青がなかった。ぼくは、犯人には、王様の冠をかぶった蜂の刺青があるに違いない、と考えていたのだが」
「その考えは、間違っているのよ。なぜ、女王の冠の相手が、王様の冠じゃなくてはいけないの」
「だって、雄と雌じゃないか」
「でも、蜂の場合は、女王蜂というのは、大へん威張った存在よ。雄の蜂なんて、あわれなものなのよ。レスボスの男役が、なぜ雄蜂の刺青をしなくちゃいけないのかしら」
「そう言われれば、その通りだ。しかし、いずれにせよ、あなたには刺青なんかありはしないのだからな」
「本当に、無いとおもっているの」
「えっ、あるのですか」
大場雅子は含み笑いをしている。
「それじゃ、あなたにもどこかに刺青があるということですか」
「そうときまったわけじゃないけど」
「…………」
「でも駄目よ、城田さんには、もうわたしの躯には触らせないもの」
城田祐一は、春海俊太と一緒に、バー「紅」で酒を飲んでいる。
その夜の酒は、荒れている。もうかなり城田の眼が据っているようだ。
「よう先輩、先輩はまさか、女じゃないでしょうな」
「だいぶ酔ったな」
「冗談を言っているのじゃありませんよ。まじめな質問です」
「おれが、男か女かを知りたければ……」
と、春海は店の中を見まわして、
「これはいかん、そのことを証明してくれる女の子は一人もいないわい。おれも、このところ身持がよすぎて、いかんなあ」
「とすると、女かもしれないわけですね」
「なにを馬鹿なことを言っているんだ。おれが女のわけがない。いったい、どういうことかね」
「犯人は大場雅子だったんです」
「まったく意外だったな」
と春海はけろりとして言い、
「それより、なぜおれが女でなくてはならないんだ」
「犯人には、証拠の刺青がある筈なんですが、雅子にはそれが無いんです。といって、ほかに心当りの女はいないわけで、ひょっとしたら男とおもっていた人物が女ではないか、疑いはじめたわけですよ」
「大分ショックが大きかったようだな。犯人は大場雅子に違いない。おれが保証する。ま、ゆっくり時間をかけて、証拠を掴《つか》むことだね」
「それが、困ったことに、もうつき合ってくれない、というのですよ」
城田は、そこでまた、グラスのウイスキーを一息に飲み干した。
三面鏡
城田はますます酔いがまわってきた様子である。ウイスキーをがぶりと飲み干し、
「もうつき合ってくれないなんて、あんまりじゃないか」
と、曲げた片腕を水平に眼の高さに上げ、泣き真似をしてみせる。
悪い酔い方ではなく、愛嬌《あいきよう》があるので、女たちも笑って眺めている。からかってやろう、と待ち構えている女もいる。
「え、雅子さん、あんまりじゃないか」
まるで、大場雅子が目の前にいるかのように、城田はかきくどく。
「なんだか、『雅』のマダムがそこにいるみたいね」
「え? いるのか」
「いるのか、って……」
「どこにいるんだ」
「だから、そこにいるみたい……」
「そこに、あ、いたいた。雅子さんひどいじゃありませんか」
城田の酔いのために、会話が混乱してきた。
「いたいた、って、どこにいるの」
と、理加が口を挿《はさ》む。
「どこに、って、そこにいるじゃないか」
「え? どこに」
「ほら、そこに」
「あ、分った」
と、理加が頷《うなず》く。
「マダムは、透明人間になってしまったのね」
「なんだって?」
「だって、あたしには見えないのに」
理加もいささか酔っているようだ。真面目な顔でそう言うので、城田はたちまち彼女のペースに乗せられてしまう。
「そうか、きみは見えないのか。おれにはちゃんと見えているぞ」
「おいおい、透明人間がなぜ見えるんだ」
春海俊太が、これもいくぶん酔った声で、訊ねる。
「先輩は、あまり透明人間については精《くわ》しくないですなあ」
「君は精しいのか」
「城田さんは精しいのよ、自分で勝手に、ルールを作っているのよ」
葉子が、春海の耳もとでささやいた。
「ルール? なんのルールだ」
「透明人間ごっこのルールよ。お薬を嚥《の》むの……」
その声が耳に入って、城田は、
「そうだ、薬だ。先輩、ぼくはさっき、黄色い錠剤を嚥んだのですぞ。この薬さえ嚥んでしまえば、いかなる透明人間だって、見えちまう。赤い錠剤を嚥めば……」
と彼はポケットを探り、
「おや、無いぞ。赤い錠剤がない」
「無い筈よ。だって、さっき、それを『雅』のマダムに嚥ませたのでしょ」
と、理加が言う。
「嚥ませてしまえば、無くなってしまう。一マイナス一はゼロである。これは、真理である。赤い錠剤を嚥めば、透明人間になっちまう。ねえ、先輩、黄色い錠剤を嚥めば、そいつが見えてしまう、と、まあそういうわけです」
「それでは、いま、大場雅子はそこにいるわけだね」
「そうです、ここに、厳然として存在してます」
「それならば、ひとつ頑張ってみるんだな」
いささか城田を持てあまし気味の春海は、そういうと腰を浮かしかける。
「先輩、もう帰っちまうんですか、つれないなあ。それで、ぼくはどうしたらいいでしょう」
「女の一人や二人、自分の才覚で何とかしたまえ」
「しかし、相手はつれない女……」
「いくらつれなくても、そこは男女の仲ではないか」
「それが、相手がどうやら、男女関係の枠《わく》に入りきらない女らしいもので」
「しかし、君は以前に一度、あったのだろう」
「二度です」
「へんなところで、力まないでもらいたいね。それならなおさらだ。なんとか考えたまえ」
そう言い残すと、春海は姿を消してしまった。
「先輩もつれないし、雅子さんもつれない、ぼくはなさけない」
そう言うと、彼はまたウイスキーを一杯飲み干した。
「そんなに飲んで大丈夫」
「どうかな、そういえば理加が二人いる。これはダブって見えているのだろうな」
「とすると、『雅』のマダムも二人になって見えているわけね」
「え? あ、なるほど、そうだ。見えている、たしかに二人いる」
「ずいぶん素敵じゃないの。あたしに見えていないのに、城田さんには二人もいるなんて」
「うむ、たしかに素敵だ、畜生!」
そう言って、さらに一杯、彼はウイスキーをあおり、
「しかし、こうやって、きみと雅子さんと三人でいると、死んだ由美を思い出すなあ」
一層据った眼で、城田は言い出した。
「なによ」
突然、死んだ女のことを言い出したので、理加はいくぶん薄気味わるそうに、
「なぜ、思い出すのよ。さっぱり分らないわ」
「きみが分らないのも無理はないが……」
「厭ねえ、おもわせぶりで。はっきり言ってよ」
「由美とぼくと、それから透明人間と、三人で寝たことあるんだよ。そのときの透明人間は三津子だったけど」
「それで、どういうことになったの」
「由美がすっかり昂奮《こうふん》してね、びっくりした」
「びっくりしたの」
「そうさ、それまで見たことのないほどの昂奮の具合だったからね。由美というのは、もう一人余分にいないと、昂奮できないたちだったんだな」
と言うと、城田は、はっと気付いた顔になり、
「おい、隠していたな」
「なにを……」
「もう言ってもいいだろう。警察には内緒にしておいてやる」
「なにを考えているの? すっかり酔っぱらっちまったのね」
「いや、いまおれの頭は冴《さ》えているぞ。由美が死んだのは、これは心臓麻痺だ。そのことは、疑うわけじゃない。しかし、そのとき、きみが一緒にいただろう。井山さんと由美ときみの三人だ」
「なぜ、三人なの」
「酔っているのは、きみのほうだぞ。三人いなくて、由美があとで心臓がおかしくなるほど昂奮するわけがない」
「たしかに、理屈だわ。でも、由美が井山さんと二人だけだったことは、ホテルでもちゃんと証言しているのですからね。もし三人だったら、もっと厄介なことになっているわ」
「…………」
「でも、なぜもう一人が、あたしでなくちゃならないの」
「由美ときみとは、そういう関係だったじゃないか」
「そういえば、そうだけど……」
理加の眼も、すこし据った。なにごとか思い出している表情である。しかし、間もなく普段の表情に戻ると、からかうように言う。
「つまり、井山さんが実力者だった、というわけよ」
「そうか、そういうことか。厭なことを言うねえ」
「厭なことを言うのは、城田さんのほうじゃないの。死んだ由美の役割を、あたしに振り当てて考えているなんて。由美と城田さんと透明人間と三人で寝たことを、あたしの顔を見て思い出すなんて……」
「いいじゃないか。死んだ夢をみると、長生きするというぜ。どうだ、今夜これから、きみとぼくとここにいる雅子さんと三人で寝ようじゃないか。由美のために、いい供養になるぜ」
と言うと、彼はまたもや、ウイスキーをあおる。
そのときから、城田祐一の意識がもうろうとしはじめた。酒のためである。といって、眠りこんでしまったわけではない。さかんに喋《しやべ》り、活躍していた記憶はあるが、その内容となると不明である。
ようやく、意識が戻ってきた。
なにか、やわらかくて温かいものが、片方の肩から腕に触れている。眼をつむったまま、腕でそのやわらかいものを押してみると、弾力のあるかたまりだということが分る。いや、もうそのときには、分っていた。
それが、裸の女の躯であることは、分っていた。
「とすると、理加なのか……」
薄目をあけてみるが、目が霞《かす》んではっきり分らない。力を入れて、目蓋《まぶた》を開く。
傍に、理加がいた。
白い天井が眼に映ってくる。理加の躯のむこうに、赤いカーテンが見える。それらのものは、見馴れぬものだ。
「おや、ここはどこだ」
と、彼は理加に訊ねた。
横たわって並んでいる顔と顔とが向き合っている。理加は怪訝《けげん》な表情で、しばらく彼を眺めている。城田は、また目蓋が弛《ゆる》んで、さがってくるのを感じ、
「はやく返事してくれないと、また眠っちまうぞ」
「眠っちまう?」
一層、怪訝な顔になる。
「それじゃ、いままで、眠っていたつもりだったの。自分のしていたことを知らなかったの?」
「え? おれは眠っていたのじゃないのか」
「厭ねえ」
「…………」
「でも、かえって、そのほうがいいかもしれないけど」
城田の眼が、はっきり開いた。酔いのために、まだ頭が霞み、もうろうとしているが、開いた眼でもう一度部屋の中を見まわした。
今度は、枕の上の首を左右にまわして、調べる気持で見まわした。
「おや、雅子さん」
おもわず、口から出た。
右を見ると、窓を隠している赤いカーテンがみえる。左に頭をまわすと、部屋の隅に置いてある三面鏡がみえる。その前に、ネグリジェ姿の女が腰かけている。
「きみ、鏡の前にいる女が見えるか」
「もちろん、見えるわ」
「見えるとすると……黄色い錠剤をきみも嚥んだのか」
「つまり、透明人間が見えている、というわけなのね。でも、黄色い薬とか赤い薬とか、それは約束ごとじゃないの。本当に、透明人間になったり、それが見えたりするわけのものじゃないでしょ」
「そうだったな」
「まだ、寝ぼけているのね」
「それじゃ、どうして雅子さんがあそこにいるのだ」
彼がそう言うと、理加は鏡の前の女に呼びかけた。
「ちょっと、こっちへ向いて、この酔っぱらいに顔を見せてやってよ」
三面鏡の前の女が、ゆっくり振り向いた。理加の同僚の葉子の顔がそこにあった。
「おや、葉子じゃないか。……それにしても、ここはどこなんです」
「葉子のアパートよ」
と、理加が答えた。
「なるほど、見覚えのない筈だ。それで、どういうことになっているんだ」
理加は鏡の前の葉子と一瞬顔を見合わせると、微妙な表情になって、
「さあ、どういうことになっているんでしょうねえ」
と言う。
「教えてくれよ」
「思い出しなさい」
「教えろ」
「厭よ」
「どうしても教えないか」
城田は理加の頸《くび》を、両手の指をまわして締める。もちろん、馴れ合いのことで、じゃれ合っているわけだ。
「苦しい」
理加は大袈裟《おおげさ》に、身悶《みもだ》えしてみせる。裸の肩や胸がぶつかり合った。
「言え」
「厭よ」
「言わないか」
「苦しい……、死んじまう」
その理加の声に、媚《なま》めいたひびきが混じる。軽く咽喉《のど》を扼《やく》しているので、顔に血の色が上っているが、そればかりではない赤味がさしているようだ。昂奮の色のように、見えてくる。
彼は、由美を思い出し、一瞬、理加が由美に擦《す》り替る。
「死んじまう」
また、女が言う。
死んだ由美のことを思い出すが、それは生命が尽きると訴えている声音《こわね》ではない。もっと別の、閨房《けいぼう》の嬌声《きようせい》に似ている。
二人はじゃれ合い、絡み合いつづける。
理加は、嬌声を上げつづける。
もちろん、彼は鏡の前の女、葉子の存在を意識している。意識しているが、首をまわして、彼女を見ていたわけではない。
やがて、彼は葉子のことが気にかかりはじめた。
葉子がどういう素振りをしているか、確かめたくなった。
もしも、葉子に羞恥《しゆうち》の色があれば、それがはね返ってきて、強い刺戟《しげき》になるだろう。
首をまわして、葉子を見た。
葉子は、三面鏡の前に坐って、髪を梳《す》いている。ゆっくりと入念に、落ち着いた手つきで、髪を梳いている。
無理に落ち着いている様子ではない。冷静さを気取ろうとしているのではなく、身に付いた余裕である。
鏡には、顎のとがった細おもての、少女のような顔が映っている。花の蕾《つぼみ》がふくらみかかったような、あどけない唇が映っている。
しかし、その態度には、したたかなものが感じられる。男と女とのつくり出す修羅場を踏んでいるような凄味《すごみ》がある。
葉子は入念に、髪を梳きつづけている。
城田は、理加の躯から離れた。
ベッドから降りると、床に散らばっている下着を探す。理加は上半身を起し、やや不満気に、彼を見守っている。
「もうやめるの」
「やめた」
「そうでしょうね……」
「…………」
「無理ないわ」
「なにが」
「思い出してみることね」
「それよりも、教えてくれよ。葉子のことだ」
「葉子のなにを……」
「葉子の亭主というのは、どういう男かしら」
「さあ、どういう男かしら」
薄笑いが、理加の顔に浮かぶ。それが、気味が悪い。
「なぜ、そんなことを聞くの」
「いや、葉子はおもったより……、なんというかな、凄いところがある……、と感じたものでね」
「それはそうでしょう……」
「なぜ」
「だって、凄い人に十分教育されているから」
「おいおい」
「あら慌てなくてもいいのよ」
いそいで身支度をしはじめた城田を見て、理加が言った。
「今夜は大丈夫よ。それでなくちゃ、ここへ連れてこないわ。だいいちあんたは、脅かして、トクになる男じゃないものね」
喫茶店で
謎《なぞ》の張本人は、大場雅子であった。これは、確かなことである。そのことが分るとともに、沢山の謎の大半は解けた。
しかし、残った謎が二つある。
その一つは、雅子が由美と理加の刺青を剥《は》がした理由が分らない、ということ。
もう一つは、女王の冠をかぶった蜂の刺青と組合わさる刺青が、はたして大場雅子の躯《からだ》のどこかにあるかどうか、ということである。
いま、葉子のアパートで、城田祐一は、葉子に凄いこわい男がついていることを知らされて、逃げ腰になりながらも、
「きみの刺青を消したのは、誰なんだ」
と、問いかけてみた。
「あら、理加に刺青があったの」
葉子の眼がキラリと光り、
「それを、どうやって消したの」
「なに、ごく小さいやつでね、剥がしたわけさ」
替りに城田が答え、
「誰なんだ」
と、もう一度、訊《たず》ねる。
「さあ、誰でしょう」
「大場雅子だな」
「あら、知っていたの」
「それは分っている。しかし、なぜ剥がしたんだろう」
「『雅』のママが、怒ったわけよ。だって、あたしって、やっぱり男の人のほうが、好きなんだもの」
「大場雅子にたいして、操を守れなかった、ということだね。やっぱり、きみもそう思っているのか」
「あら、違うの」
「違うらしい」
「誰が違うというの」
「大場雅子だよ」
「それじゃ、なぜ剥がしたのかしら」
「だから、きみに訊ねてみたんだ。彼女は、そこは教えてくれない」
理加に訊ねても分らないとすれば、二つの謎を解くためには、大場雅子に直接当って探るしか方法はない。
ところが、その大場雅子は、もう二度と城田とはつき合わない、と宣言している。
なんとか大場雅子に会う方法を考えなくてはならない。
レストラン「雅」へ食事に行けば、まさか追い返されはしないだろう。しかし、雅子の顔を見るだけでは駄目だ。どうやって雅子を店の外へ誘い出すか。
誘い出すためには、囮《おとり》が必要である。
囮になるのは、やはりこれは三津子がいいだろう。先日、三津子と別れるとき、
「余志子が呼び出しても、出かけないほうがいいよ。しばらく、パパの家に引きこもっていたほうがいい」
と、言っておいた。
余志子が呼び出す、というのは、大場雅子が余志子を使って呼び出させる、と同じ意味であることが、いまは分っている。
彼の言葉を、三津子が守っていれば、やがて大場雅子は苛立《いらだ》ちはじめるだろう。そのとき、三津子を囮に使えば……、と城田は考えた。
……城田は、アンダーソン邸の玄関に立ち、呼鈴に指をのばす。例の薄気味わるい呼鈴が、目の前にある。家の奥でベルの鳴る音が、かすかに響く。
「無事に暮しているだろうか」
ふっと、三津子の身の上を案じる気持になる。しかし、ドアが内側から開かれ、三津子が元気な顔をみせた。
「あら、城田さん」
「やあ、元気そうだな。そろそろ退屈している頃だとおもって、誘いにきたんだ」
「よかったわ、城田さんが声をかけてくる以外は、家を出ないようにするって、約束したんですものね」
「約束を守って、感心だね」
「でも、わざわざ来なくても、電話でよかったのに」
「ちょっと、パパに訊ねたいこともあってね」
「そうなの、いま呼んでくるわ」
すっかり家に馴染んだ素振りで、彼女は城田を応接間に案内し、姿を消した。
間もなく、部屋着のガウンを羽織ったアンダーソンが現われた。
「コンナ恰好デ、失礼シマス。チョット調ベモノヲシテイタモノデ。シロタサンデスネ、家ノ豚ノ仲良シノカタ」
からかうように言うが、悪意は感じられない。
「それから、お宅のお嬢さんの仲良しですよ」
「オウ、ソーデシタ」
「今日は、三津子さんと街へ出てみようと、誘いにきたのですが」
「ドーゾ、連レテイッテヤッテクダサイ。イツモ家ニバカリイルノデ、気ニカカッテイタトコロデス」
愛想よく、アンダーソンは言う。警戒の気配は見えない。
「それから、一つ質問があります」
「ナンデショウカ」
「アンダーソンさんは、アマチュアの彫った刺青を蒐集《しゆうしゆう》していますか」
「アマチュア?」
「アマチュアといっても、ほとんど刺青の技術を持っていない人が彫った……」
「ナルホド、ギャングノ子分ガ腕ニ彫ッタリスル、イタズラ書キノヨウナモノデスネ」
「そんなものとか、また……たとえば、女王様の冠をかぶった蜂《はち》の刺青とか」
「蜂? 女王サマ……?」
アンダーソンは怪訝《けげん》な顔をした。その表情を見て、城田は「三津子の内腿《うちもも》の刺青は、見ていないな」とおもった。
「たとえば、そんな落書みたいな絵という意味ですよ」
「ノウ、ソウイウモノニハ、ワタシ興味アリマセン」
「そうですか」
と、城田は頷いた。もしか、アンダーソンがその種のものに興味をもっていて、大場雅子があの切手ほどの大きさの皮を高価に売りつけたのではあるまいか、と疑ってみたのだ。しかし、それは間違いだったことが、アンダーソンの答えで明らかになったわけだ。
城田と三津子は、街に出た。
並んで歩きながら、彼が言った。
「きみ、一つ力を貸してくれないか」
「どんなこと」
「大場雅子に関係のあることなんだが」
と言いながら、彼は喫茶店の前で立ち止まって、ちょっと店の中を覗《のぞ》きこみ、
「ここは駄目だ」
と、歩き出した。
「どうしたの」
「いま、説明する」
喫茶店の前にくると、立ち止まって、覗き込む。同じことを何回も繰り返して、ようやくある喫茶店の中に歩み入った。
その店は、入口のドアを入ると、すぐ左に階上に通じる階段がある。階段を上ると、中二階になっていて、その席に坐ると階下のフロアが見下ろせる。
中二階の席に向い合って坐ると、城田は何事か三津子に説明しはじめた。
三津子は頷《うなず》いたり、怪訝な顔になったりしていたが、やがて彼は立ち上ると、
「それじゃ頼むよ。一時間以内に戻ってくるから、いま言ったように……」
と言い残して、一人だけ店を出た。
レストラン「雅」は、近い距離にあった。彼は躇《ためら》うことなく、その階段を上って行った。
大場雅子は、店の中にいた。しかし、城田を無視して、素知らぬ顔をしている。
註文を聞きにきたボーイに、城田は言った。
「マダムを一人前」
「え? 何でございますか」
「マダムだよ。あそこにいる。至急取りよせてくれたまえ」
今度は、笑いながら言うと、ボーイは合点して、大場雅子のほうへ歩み寄っていった。
雅子にしても、その申し出をはねつけるほどのことはない。店の中では、客とマダムの関係である。城田の席に歩み寄って行くと、他人行儀の笑顔を浮かべて、
「いらっしゃいませ」
と、言う。
「やあ、今晩は。軽い食事をしたいのだが、なにか適当なものを教えてくれませんか」
「今日は、舌ビラメの洋酒蒸しがよろしゅうございますわ。それにコンソメくらいで、いかがでしょう」
「それを頼みます。それから、こちらはいまおなかが一杯だというので、紅茶でもあげてください」
と、彼は前の空の椅子を指し示して、そう言った。
「は?」
雅子は、怪訝な顔になる。警戒する気配が出てきた。
「あ、そうか。あなたには、見えていませんね」
「…………」
「ここにいる人の姿は、見えないのですね」
「どなたが、どこにいらっしゃるのですの」
切口上で、雅子が言う。
「この前の席に、三津子が坐っているわけだが……」
「…………」
「三津子です。ご存知でしょう」
雅子は、彼の顔を窺《うかが》うように眺め、
「はい、存じていますが」
「たしか、会いたがっていた筈だ」
彼の口調に、意地のわるい響が混じる。
「でも、見えていませんわ」
挑戦する口調になる。
「まだ、見えていないな」
「まだ?」
「いま、透明人間になっている。しかし、間もなく薬が切れる時間だ。そうすると、見えてくる」
と、彼は言い、会話をそこで打ち切る口調で、
「では、さっきの料理をたのみます。一人前でいい」
大場雅子は、一瞬顔をこわばらせたが、すぐに料理店の女主人の慇懃《いんぎん》さを取り戻し、
「かしこまりました」
と答えると、背を向けて歩み去ってゆく。
食事が終ると、城田はもう一度、ボーイに大場雅子を呼ばせた。
紅茶茶碗が城田の前に一つ、向いの席の前に一つ置いてあって、二つとも空になっている。両方とも城田が飲んだのだとおもうのだが、無人の席の前に飲み干された茶碗が置いてあるのを見ると、雅子の顔に曖昧《あいまい》な色が浮かぶ。
「結構でした」
と、彼は言い、
「それに、この紅茶がとても香りがいい。そうだろう、三津子くん」
「…………」
「三津子も同じ意見ですよ」
「同じ意見って、声が聞えませんでしたわ」
「そうでしょう、声も透明になって、あなたには聞えない」
いかにも人を喰った言い方で、雅子はいくぶん気色ばんだ。
「城田さん、どんなつもりで、そんな冗談をなさっているの」
「冗談なんかしてはいませんよ。あなたに三津子を会わせてあげたいとおもってね」
「わたしが、三津子さんに会いたい、といつ言いました?」
「直接は聞きませんがね、会いたいということだから」
「誰が、そんな」
「余志子さんが、そう言っていた」
「…………」
一瞬雅子は言葉に詰まり、
「でも、見えなくては仕方がないわ」
「それは、ぼくの失敗だった。三津子くんはこのところずっと家へ引きこもっていて、街へ出るのがこわい気持だというので、薬を嚥《の》ませて透明にしてしまったんだ。この店に着くまでには、薬が切れる筈だったんだが、すこし分量を間違えたらしい。せっかく、いまここにいるのに、見えないとは残念。雅子さん、三津子に会いたいのでしょう」
「さあ……」
「痩我慢《やせがまん》をしている。しかし、もう間もなく見えてくる筈だ。もう薬が切れてもいい時間なんだから」
「城田さんには、見えているわけね」
「そう、ぼくは見える薬を嚥んでいるから。でも、その薬もそろそろ切れてきた。なんだか、三津子の顔が薄ぼんやりしてきたな」
城田は、眼を細くして、空の椅子のあたりを見詰める素振りをした。
「ぼくの薬が切れるときが、三津子の薬も切れるときだから、もう見えてくる筈だな。ほら、だんだん霞《かす》んできた。雅子さん、まだ三津子が見えてきませんか」
「見えるわけがないでしょ」
苛立たしそうに、雅子は言う。
「しかし、見えるようになっても、三津子は以前の三津子と違っているかもしれないけれど」
「それどういうことですの」
「あなたの知っている三津子と、いまの三津子とはほとんど別人かもしれないということですよ。もちろん、外見がそんなに違うわけではないが。だいいち、以前の三津子だったら、あなたが会いたいと思えば、すぐに会うことができたじゃありませんか」
雅子を苛立たせ、怒らせるのが、彼の企みなのである。
「ほら、もう見えるでしょ」
「見えません」
一層苛立って、雅子は言う。
「もうすぐですよ。しかし、ここでじっと待っているのも、イライラするから、街を散歩しながら、待ちませんか」
「そんなことを言って、わたしを誘い出すつもりなんでしょう」
「違う違う。あなたのためをおもってのことです。三津子に会わせてあげようという親切心だ」
「嘘ばかり、三津子なんて、どこにもいやしないじゃないの」
「もうすぐですよ。もうすぐ見える。嘘じゃない」
「本当ね」
「本当だ」
「それじゃ、外へ出ましょう」
城田と大場雅子は、街へ出た。
並んで、ゆっくり歩いて行く。やがて、先刻の喫茶店の前にさしかかると、彼は立ち止まって、
「ちょっと、ここで休みましょう」
「…………」
「喫茶店なんだから、警戒することはない」
ドアを押して入る。喫茶店へ入ってくる客は、しばしばドアに入ったところで立ち止まり、店の中を見まわして席を物色する。いま、城田も同じ態度で、ドアの内側に雅子と並んで立ち止まっている。
あらかじめ打ち合わせてあったとおり、中二階の席から見下ろしていた三津子が、素早く階段を下り、そっと城田の傍に寄り添ってきた。
「ようやく、薬が切れたようですよ」
城田は、傍に立っている大場雅子の耳もとでささやいた。
「え?」
「ようやく見えてきたということです」
あたりを見まわした雅子は、
「あら、三津ちゃん、いつからそこにいたの」
「ずっと前からよ。あのレモン・ティ、おいしかったわ、とても香りがよくて」
「…………」
「あたし、ママに話しかけたくてイライラしちゃったわ。でも、声まで見えなくなってしまっていたんだもの」
三人は、隅の席を見付け、そこに腰を下ろした。
「どうです、嘘じゃなかったでしょう」
と、城田が笑いながら言う。雅子はそれには答えずに、
「三津ちゃん、今夜はつき合ってくれるのでしょう」
と、じっと三津子の顔を見詰めた。しかし、三津子の答えは、雅子を裏切った。
「今夜は城田さんに遊んでもらうの。また、今度の機会にするわ」
城田は黙って、薄笑いを浮かべている。
大場雅子の顔は、眼にみえてこわばって行った。
鏡のなか
城田が、とりなし顔で三津子に言った。
「きみ、つき合ってあげなさいよ」
「あら」
心外な、という表情で城田をみた三津子は、
「厭《いや》よ」
「それじゃ、これから三人で遊びに行こうじゃないか。それなら、いいだろう」
と、城田が提案した。
「そうね……」
三津子はちょっと考える素振りになったが、すぐに、
「やっぱり、厭だわ」
と言う。
城田の計画としては、三人で一緒に酒を飲み、酔いにまかせて三津子と大場雅子を自分のペースに引き込んでしまおう、ということだった。
自分のペース、ということについては、城田の頭の中に、葉子と理加と彼との三人がつくり出した図が浮かんでいる。
三津子が厭だというので、その計画は狂ってきた。しかし、まだ彼はあきらめたわけではない。腕時計を見て、彼は雅子に言った。
「まだ、七時だな。これから、ぼくは三津子と酒でも飲みに行くことにしよう。きみの店の終る時間までに、もしも三津子の気が変ったりすることがあれば、すぐに電話するよ」
不満気な雅子は、しぶしぶ頷くと、
「それじゃ、三津ちゃん、あとでね」
と言って、去って行った。
その大場雅子の言葉は、三津子に会えるなら、城田が一緒にいても仕方がないという気持になったことを示している。大場雅子に接触する手がかりは、これでできた、と彼はおもう。
雅子の姿が見えなくなったとき、三津子は念を押すように、
「あたし、厭よ」
と、言う。
「しかし、きみ、大場雅子がいれば、男はいらない、とおもった時期があったじゃないか」
「せっかく、それが直ったのですもの。元に戻るのは厭だわ。元に戻る気にもなれないわ」
「直ったのは、ぼくのおかげだね」
「そうよ」
「つまり、おれに惚《ほ》れたわけか」
図々しく構えて、城田が言うと、三津子は生まじめな顔で考え込みながら、
「それがよくわからないのよ」
「どうして」
「たしかに、直してくれたのは城田さんよ。でも、だから、恋しているのかどうか……」
「ぼくが、お医者さまの役目をしただけなのかどうか、考えているというわけか」
「そう、そのとおりなのよ」
「そのとおり……か」
と、彼はいささか興|醒《ざ》めた。しかし考えてみれば、彼が三津子に恋しているわけのものでもない。
強いて、誰に恋していたかといえば、その相手は大場雅子だった。三津子との人間関係においては、主役は刺青だった。刺青の謎を探し歩いているうちに、いろいろの女との関係ができ、三津子とも繋《つな》がりができてしまった。
なにも、興醒めるほどのことでもない。たしかに三津子のいうように、いまさら元へ戻らないほうがよい。
「分った」
と、彼は言った。
「はやく、パパの家へ帰りたまえ」
「あら遊んでくれないの」
「遊んでいるうちに、また、おかしなことになると困るだろう」
「…………」
「それとも、困らないか」
「そうねえ……」
「はっきり自分の気持が分らないときは、家に引籠《ひきこも》っていたほうがいいよ。ゆっくり閉じこもって考えてみるんだね」
「そうね、そうするわ」
三津子は、素直に答えた。城田はふと思い出したように、
「しかし、そうなると、きみの脚の内側にある刺青は、いかにも邪魔だね」
「そうなの、眼に入るたびに、厭な気持になるわ」
「剥がしてもらうんだな」
と彼は言う。
「誰に」
「アンダーソンさんなら、上手に剥がしてくれるだろう」
「でも、パパでは困るわ。せっかく知らないでいるのだもの」
「それならば、大場雅子がいい」
「そんな……」
「しかし、剥がすのはどちらが上手だろうな。パパと雅子と」
と言った城田は、またしても、あの謎が気に懸ってしまう。なぜ大場雅子は理加と由美の刺青を剥がしたのか、という謎が……。
城田は、一人で「紅」へ行った。
すぐに理加がきて、傍へ坐った。まもなく、葉子が近寄ってきた。短か目のスカートからのぞいている脚は、十分発育し切っていない少女のものをおもわせる。
その脚が眼に映ると、それと対照的な葉子の振舞いが城田に思い出されてしまう。ベッドの上に、彼と理加とを残して、三面鏡の前に坐り、ゆっくりと髪を梳《す》いていた葉子の態度……。そこには、男と女のつくり出す修羅場を踏んできたような凄味《すごみ》があった。
葉子も、城田の傍に坐り、彼は二人の女に挟《はさ》まれる形になった。
理加が、躯を押し付けるようにして、城田の耳にささやく。
「おかげで、へんな癖が付いちゃったわ」
秘密っぽい眼つきで、その言葉の意味はすぐ分った。彼は、死んだ由美と理加の関係を思い出しながら、
「へんな癖は、前からじゃないか」
「由美とのこと?」
「そうさ」
「だって、由美は死んじまって、それからずっと忘れていたのに……」
城田は葉子のほうに首をまわし、その可憐《かれん》ともみえる顔を眺めながら、
「きみは、どうなんだ」
「そうねえ……」
葉子の唇のまわりに、薄い笑いが浮かぶ。
「もう、倦《あ》きたか」
と、城田は先まわりして言ってみた。
「そういうわけじゃないけど……」
葉子は、唇のまわりの笑いを濃くして、
「でも、面白かったわよ、スリルがあって」
「さてね、スリルを感じていたようでもなかったがねえ」
そう言いながら、城田は先刻中断した計画を、あらためて立て直すことを考えていた。三津子の代役のことを、考えたのだ。
理加を誘えば、すぐ話に乗ってきそうである。しかし、相手が大場雅子となると、具合が悪い。理加に刺青をし、それをまた剥がしたのは雅子なのだから……。
葉子を誘ってみよう、とおもい、葉子にこわい男が付いていることを思い出してしばしためらった。だが、いまの機会を逃すわけにはいかない。
「この前は、酔っぱらっちまって……」
と、城田は葉子に話しかける。
「だから、なんにも覚えていない、というのでしょう」
「いや、よく覚えている」
「じゃ、なぜ、謝るような言い方をするの」
「きみのアパートを使わせてもらって、申しわけなかった、とおもってね」
と、小声で言い、
「きみのアパートが、安全な日もあるわけなんだね」
「そうよ」
「今日は、どうなんだろう」
その会話を聞きつけた理加が、口を挿んだ。
「今日は大丈夫よ、ね、葉子。ねえ城田さん、また一緒に行きましょうよ」
「熱心になってくれるのは有難いけれど、今日はアパートでは具合が悪い」
「やっぱりコワイのね。それじゃ、どこでもいいわ。ホテルに部屋を取ってくれてもいいわよ」
「それは賛成だけど、二人のうちの一人が、きみじゃ具合が悪いんだ」
と城田が理加に言うと、彼女は気色ばんで、
「そんなの駄目。許さないわ」
「怒っては困るな。これには深い事情がある……」
「もっともらしいことを言って。もう一人、というのは、誰のつもりなの」
と、理加は店の中の女たちを、確かめるように見まわした。
「大場雅子なんだよ」
城田が言うと、理加は不意を打たれたように、眼を宙に浮かし、以前の情景を引き寄せている表情になった。
「大場雅子をひどい目にあわせてやりたいんだ」
「ひどい目?」
「仮面を引っぺがしてやりたいのさ」
「そのために、そうすることが必要なの」
「必要なんだね。もっと、くわしく説明しなくてはいけないかな」
理加は黙って考えていたが、不意に勢いこむと、
「いいわ、分るような気がするわ」
と言い、葉子のほうに躯を乗り出すと、
「ね、つき合ってあげてよ」
「…………」
「城田さんと一緒に、ひどい目にあわせてほしいの」
掌を葉子の膝《ひざ》に置いて、左右に揺すぶった。馴染み合っている女同士の気配が、そこから立ち昇っている。
「でも、よく分らないわ」
「説明するよ」
と、城田が素早く言う。
「亭主気取りで、理加をいじめた女なんだよ、その女は……」
「『雅』のマダムね、そんな趣味があるとは知らなかったけれど、分るような気がするわ」
「だから、理加の仇《かたき》を取ってやるんだ」
そう言えば、話の筋道がとおる。城田の本当の目的は別のところにあるのだが。
「仇を取る?……分ったわ、亭主気取りでいるその人を、女にしてしまえばいいのね」
「そうなんだ」
「でも、あたし、男役って苦手だわ」
「きみは受身でいい。あとは、ぼくが引き受けるから」
「…………」
「いいね」
話がきまった、という素振りで、彼が言うと、葉子は頷いた。好奇心をくすぐられている色が、かすかに顔に浮かんでいる。
腕時計をみると、九時すこし前。まだ、「雅」の開いている時刻だ。彼はすぐに電話機のところへ行った。
「雅子さん、きみの喜ぶ話だよ」
「三津子が、いいと言ったの」
「それは、なかなか難しい。と聞けば、きみも腹が立つだろう」
「…………」
「だから、これからホテルへ連れて行って、睡眠薬で眠らせてしまうよ。そして夜中にきみに引き渡して、ぼくは帰ってあげる。部屋の番号は、あとでホテルからきみの家へ電話をかけて知らせてあげる。ドアの鍵《かぎ》を外しておくから、そっと忍び込んできたまえ」
深夜、部屋に大場雅子が入ってきたとき、彼は葉子の裸の躯の上にすっぽり毛布をかぶせておいた。
「約束を守ったろう」
と、彼は雅子に言う。
「ほんとね」
「そこで、ぼくは帰ることになるわけか」
「そうよ」
「しかし、きみは、本当に、三津子を必要としているのかな」
一瞬たじろぐ気配があった。
「きみの必要としていたのは、三津子の刺青じゃなかったのかな。もう、その刺青も、価値がなくなったとなれば、あとは惰性だけだと、ぼくにはおもえるが」
「違うわ、必要なのよ」
「それならば……」
彼は、葉子の躯の上から、毛布を取り去った。
「あら、三津子とは違うわ」
と、雅子は叫んだ。
「葉子だよ。三津子はどうしても駄目だ、というんだ。しかし、三津子の刺青が必要でないとすれば、きみが必要なのは、こういう形なんだろう。なにも相手が三津子でなくたって、構わない……」
「誰でもいいというわけじゃないわ」
「余志子だっていいわけだろう」
「余志子は、いいのよ」
「それなら、葉子もいい筈だ。葉子のほうが、よほど可憐だよ」
その言葉が嘘に聞えない表情を、葉子はしている。そして、葉子は技巧的な声を出して、
「ママ、抱いて」
と言った。
芝居を愉しんでいる気配で、彼はまたしてもしたたかなものを感じる。
雅子は、部屋の熱っぽい気分に、巻きこまれはじめた。
「城田さん、帰ってよ」
「帰っても、いても同じことだろう」
「厭」
「それならば、隣の部屋に退散していよう」
「ママ、はやく」
ベッドの上で、葉子は身をもんでみせる。
……赤い時間が過ぎて行く。
「いまが大切なときだ」
と、城田は隣室からひそかに覗き見している。葉子の姿態には眼もくれず、もっぱら大場雅子の躯に眼を凝らす。
そのために、こういう厄介な計画を立てたのだ、……これまで見落した雅子の躯の隅々まで眼を配ろうとする。どこかに、刺青がありはしないか、と眼を凝らした。
最初に気付いたのは、雅子の躯の大きな部分を、彼はこれまで見ていなかったということである。
それは、背中である。
雅子は葉子の上にいて、雅子の背中が見えている。
その背中は、なめらかな白い拡がりである。
もっと精しく調べたい、という気持に駆られて、彼はおもわず仕切りを開け、雅子の傍に歩み寄って行った。雅子は、そういう城田に気付いたが、もう彼を追い払おうとはしない。むしろ、彼の存在が、強く刺戟《しげき》しているようである。
むしろ、城田が、二人の女たちのペースに巻きこまれた、といえる。なぜならば、城田の目的は、雅子から刺青を見付け出すことにあったのだから。
もっとも、巻き込まれる前に、彼はできるかぎり、雅子の躯のあちこちを覗き込んでみた。
しかし、ついに、一かけらの刺青の跡も、見付け出せなかった。
城田が巻き込まれたとき、葉子は身を引いて、あとは二人に委《まか》せた恰好になった。そして、この前のように、鏡台の前に坐った。
部屋には、大きな鏡台がある。しかし、三面鏡ではない。その鏡に向って坐り、葉子は髪を梳く。
冷静な手つきで、髪を梳く……。
「あらっ」
驚愕《きようがく》……、といってよい叫び声が出たのは、葉子の口からである。
葉子が驚きを示したことにも彼は驚いて、首をまわした。鏡の中に、葉子の顔が映っている。その顔は、はげしい驚きをあらわして、口が痴呆のように開かれていた。
赤い背中
大場雅子が上、城田が下になっていた。
女と女との関係において、雅子は男の役目をつとめている、と城田は聞いている。そういう雅子を、からかう気持で、城田は彼女を上にしてみたわけだ。
そのとき、葉子の叫び声がひびいた。
城田は、首をもたげて、葉子の様子をうかがった。
葉子は、鏡の中を凝視している。
鏡の中に、なにを見たというのだろう、と城田は考えた。そこには、自分たちの絡み合った姿が映っている筈だが、そんなものに驚く葉子ではない。
鏡のなかに、なにが映っているのか。城田の位置からは、鏡のなかの葉子の顔しか見ることができない。しかし、そこに映った葉子の眼は、あきらかに城田たちのほうに向けられている。
鏡のなかには、雅子の背中のひろがりが大きく映っている筈だ。しかし、その背中がどうした、というのか。わずか前の時間に、城田はその背中をくわしく調べたばかりだが、なんの異常も見られなかった。
「葉子、どうしたんだ」
彼は声をかけてみた。彼女は向き直ると、依然として驚きの表情のまま、長く伸ばした指先をまっすぐ突き出し、
「ほら、そこに」
と、言う。
その指は、雅子の背中をさしている。
彼は起き上って、雅子の背中を見た。
「あっ」
彼の口からも、叫び声が出た。
真赤な色の、大きな熊が、雅子の背中にいた。うしろ脚で立ち上った熊が、前足を大きく開いて、背後から雅子を抱きすくめているようにみえる。
ベッドの上に、雅子は起き上っている。たくさんの感情が入りまじった複雑な表情をしている。
雅子は、低い声で言った。
「見えているのね」
「分っているのか」
「だって、そんなに驚いているのだもの」
「さっき、葉子と一緒のときには、背中にはなにもなかったんだが」
「いまも、なにもないつもりだったのに……」
と、雅子が言い、言葉をつづけて、
「いままで、ずっと見えたことがなかったのに」
「ずっと見えたことがない、というけれど、それでは、見たのは彫ったときのことか」
「そうよ」
「しかし、隠し彫なのだから、長いあいだかかって彫ってゆくうちに、前の分は消えて見えなくなっていただろう」
「そうなると、つづきが彫れないでしょう。だから、二日二晩休みなく、彫られたのよ。彫り上ったときには、針のあとが赤く腫《は》れていたので、赤く模様が見えていたわ。厭《いや》な絵……、思い出しても、ぞっとするわ」
「その絵がいま見えているよ。合わせ鏡をしてあげようか」
「いらないわ」
そう言うと、雅子は毛布の下に、躯《からだ》を隠した。赤い熊も、消えた。雅子は毛布を顎《あご》のところまで引き上げ、天井を向いて、黙って考えに耽《ふけ》っている表情である。遠い眼になっているところをみると、過去におもいを向けているのだろう。
その過去を知りたい、と城田はおもった。訊《たず》ねたいことは沢山ある。しかし欲張ると混乱してしまう。落ち着いて、一つずつ……。それにしても、自分の探していた刺青は、やはり雅子の躯にあったのだ。それも、こんなに大きく、と彼は一種感慨に似た心持になっている。
「その刺青を彫らしたのは、亡くなったご主人でしょうね」
彼は、質問をはじめる。
「そうよ、でも、彫らしたわけじゃないの。自分で、彫ったのです」
大場雅子は、むしろ積極的に答えようとしている様子である。
「刺青狂といってよい男だったの。だから、長いあいだかかって、技術を身につけていたのですわ」
「でも、なぜ熊を」
「なるべく変った図柄と考えたんでしょうね。それに、一色だけで間に合う絵ということも考えたのでしょう。たとえば、羽衣をつけた天女の絵は、いろいろの色で彩色して行くわけでしょう。隠し彫は、一つの色しか出ませんでしょう。熊ならば、大きくて黒いだけですものね。それが赤い熊となればまた奇妙な味が出ますでしょ。それに……」
と、雅子はまた遠い眼になると、
「わたしの背中に、醜くて大きなものを、くっつけておきたかったのでしょ」
その言葉から、憎しみの気配が漂った。
「しかし、なんのために」
城田が訊ねる。
「そういうことをするのが、好きな人だったのでしょう。彫ること自体が、目的だったような気がする。でも、案外、わたしの皮を売ることも考えていたのかしら。アンダーソンという蒐集家《しゆうしゆうか》が隠し彫を高価に買い集めているのをわたしが知ったのは、死んだ夫の口からですものね」
「それだけの皮を剥《は》がされたら、死んでしまうな」
「先に、夫が死んでいなかったら、きっとわたしが殺されていたでしょう。虐《いじ》め殺されていた……」
「…………」
「虐めることが、愛情の表現のような人だったから。それを受け容《い》れて、よろこぶ女もいるらしいけれど、わたしはそういう性分でなかったから……。だから、わたしを憎み出していた、とおもうわ。皮を剥がして、アンダーソンに売ろう、と考えたりしていたかもしれないわ」
「しかし、その熊は彫り終ったときに赤く現われていただけで、そのあとには浮かび上ってこなかったわけだな」
「そうなのよ」
「どういうときに、浮かぶ筈だったのだろう……。もちろん、昂奮《こうふん》したときに、というわけですね」
「…………」
「お湯に入ったぐらいでは駄目なんだな」
「駄目なのよ」
「昂奮すれば、いつでもすぐに浮かんでくる、というわけではないんだな」
と、彼は葉子と絡まり合っていたときの雅子の白い背中を思い浮かべ、
「芯《しん》から、昂奮しなくては駄目なんだな」
「そうよ、長いあいだその刺青が見えなかったことが、わたしの復讐《ふくしゆう》なのよ」
「復讐? ご主人にたいしての?」
「そうよ、あの男にたいして。あの男は、自信をもっていたわ。だから、いつまでも、背中に刺青が現われてこないので、ずいぶん自信をなくしたとおもうの。そうおもうと、いい気味だわ」
「しかし、その男も、もう死んでしまっているのに……」
「それなのに、長いあいだ背中に現われてこなかった、ということでしょう。つまり、今度は、わたし自身が復讐されはじめたのね」
もう半年も前になるか。三津子を透明人間に仕立てて、城田は「雅」へ行った。そのあと、傍に誰もいなくても、彼はそこに三津子がいる素振りをつづけた。
そのときの大場雅子との会話を、城田はいま、意味深く思い出している。
城田が執拗《しつよう》にそういう芝居をするので、雅子が、
「まだ、そんな透明人間ごっこを続けているの。もういい加減にして頂戴」
と、不機嫌になった。
そして、その会話は、次のような具合に続いたのである。
城田「しかし、怒ることはないんだ。お互いさまのことだから」
雅子「お互いさま、ですって。それ、どういうことなのかしら」
「あなたの傍にも、透明人間が一人いるということです」
「…………」
「さっき……、二度目に接吻しようとしたとき、不意にあなたは二人になった。もう一人の誰かが、あなたの中に訪れてきて、ぼくとあなたのあいだに挟《はさ》まってしまった。ぼくには、それがはっきり分った。あれは、誰だったのだろう」
「…………」
「やはり、亡くなったご主人ですか」
「…………」
「それとも、ほかの誰か……。考えてみれば、ぼくはあなたのことについて、あまり知っていないなあ」
「あなたのことだって、わたし、なんにも知りはしないわ。いま、あなたの背中のところにくっついている透明人間だって、それが三津子さんかどうか、怪しいものだとおもうわ」
「そういうことが分ればいいんだ」
「…………」
「たとえ、ぼくがあなたを抱いたとして……。かりにの話ですから、まあ聞いてください。その抱いている最中にでも、透明人間がぼくたちの間にいるかもしれない。それは、あなたの言うように、三津子とは限らない。おまけに、ぼくばかりではない。あなたのほうにだって。ぼくの背中に貼《は》りついているのが一匹、あなたの背中に一匹」
そういう城田の言葉が、いまきわめて具体的な形で、眼の前に現われてきたのである。
「しかし、不感症が治っておめでとう」
と、彼は皮肉をまじえて、祝福の言葉を口に出した。
「そういうことになるかしら」
「そういうことですよ。いままで、自分が不感症だったことは、認めるでしょう」
「認めるわ。そのために、背中の絵が姿をみせなかったのだし、それがわたしの復讐だったのだもの」
「しかし、いくら復讐しようとおもっても、心ならずも、隠し彫が姿を見せてしまうことだって起らないものではない。つまり、あなたの神経が、死んだその男によって歪《ゆが》められていたんだな。それが、不感症の原因だったわけだ」
「…………」
「それが、いま治った。やはり、あなたの同性愛は、贋《にせ》ものだったんだ」
「そうかしら」
「そうにきまっている。同性愛では、十分な性感が得られなかったことが証明されているじゃありませんか。それにしても……」
と、彼はもう一つの疑問に頭を向けて、
「なぜ、蜂と熊の絵なんだろう」
と、言った。
女王の冠をかぶって槍を構えている蜂の刺青と見合うのは王冠の蜂、とおもって探していたのに。
女王の冠の蜂。
大きな熊。
この二つに、どういう因果関係があるというのだろう。
雅子は、不意に笑い出して、
「それは、わたしのイタズラよ」
「イタズラ?」
「蜂が怒って熊に向ってきている絵を彫ったわけよ」
「怒って? なぜ怒る」
「熊は、蜂の巣をこわして、蜜をみんな舐《な》めてしまう、というでしょ」
彼はその説明を聞いて、気抜けしたような笑い声をたてた。下手なマンガを見ているような気分だが、そういえば、蜂はマンガ風になっているが……。
そういうことよりも、同性愛の相手の女に、槍をもって向ってくる絵を彫った雅子の気持のほうに興味がある。
互いに寄り添って行く形ではなくて、たたかう形が、いつも大場雅子の心の奥に刻み込まれているのだろう。死んだ夫によって、歪んだ形にされた心の奥に……。復讐心が、たたかいの形を呼び寄せてくる……。
城田は、雅子を覆いかくしている毛布を剥がし、もう一度その背中をたしかめた。
しかし、もうそのときには赤い熊は姿を消し、白いひろがりがあるだけだった。
「もう、いなくなっている」
「そう」
「ともかく、これで大場雅子も一人前になったわけだ」
「でも、背中にその絵が出ているとおもうと……」
「復讐しそこなった気持になるか、その相手の男はもう死んでしまったのだから、いいじゃないか」
「それはいいのだけれど、その絵が出ているとおもうと、気味が悪いわ」
「あまり愛嬌《あいきよう》のある絵じゃないが、そのくらい我慢するんだな。しかし、きみを一人前にするには、やはり男が必要だったわけだね」
「でも、そうなのかしら」
「どうして?」
雅子は、部屋の中を見まわしながら、
「男じゃなくて、こういう形が必要だったのじゃないかしら」
彼も釣られて、部屋を見まわした。葉子は、鏡台の前にこちらを向いて坐っている。
「ママ、そうかもしれないわよ」
と、葉子が言い、
「こういう形が役に立ったのだったら、いつでもつき合ってあげるわ」
「しかし……」
と、彼が口を挿《はさ》んだ。
「せっかく、きみの歪んだ神経が治ってきたのだから、歪んだ形によって治った、とは考えたくないね」
「…………」
「いずれにしろ、きみにとって必要なのは何か、確かめることは簡単だ」
「…………」
「いますぐ、確かめてみることは、これは難しいがね」
と、城田は苦笑し、
「もう今夜は、帰ることにしよう。明日になれば、いつでも確かめる役目をつとめるよ」
「…………」
「ぼくに、もう二度と会わないと言ったあの言葉は、引っ込めてもらっていいわけだね」
と、彼が念を押すように言うと、大場雅子は黙って頷《うなず》いた。
一つの謎は、解決した。
残ったもう一つの謎……、なぜ由美と理加の刺青を、大場雅子が剥がしたという謎も、いずれ彼女の口から聞くことができるだろう、と彼はおもった。
幕が開く
数日後、城田は大場雅子と抱き合っていた。
耳もとで、ささやく。
「どうだ、背中の絵は浮かび上っているようにおもうか」
「そんなことばかり気にしていては、神経が醒《さ》めてしまうもの」
「ちょっと、見てみようか」
「駄目よ、まだ見えていないことは、自分で分るわ。この前のときの感じを覚えているもの」
「しかし、不便だな。今度は壁が鏡になっている部屋を探さなくっちゃいけないな」
「…………」
「それとも、形を変えてみるか。きみの背中のみえる形に」
「もう厭《いや》。そんなことばっかり気にしているなんて」
彼は苦笑して躯《からだ》を離し、並んで横たわると、会話をつづける。
「こうやって、男と並んで寝ていると、どんな気持がする?」
「そうねえ……」
「自然な、落ち着いた気持には、まだなれないかな」
「やはり、すこし落ち着かない気持」
「そうだろうな、長いあいだ女の子ばかり追いかけていたわけだからな」
「追いかけて、なんて……」
「死んだご主人……、ご主人と丁寧にいうことはないね。つまりその男への憎悪《ぞうお》が、男全体への抵抗感にすり替っていたわけだな。それに、自分の躯を虐待された記憶が、同性の躯に針を刺して刺青をしてやろうという気持につながったわけだね」
「…………」
「ところで……」
と、城田が言った。
「もういいだろう、教えてほしいな」
残された一つの謎《なぞ》について、以前に大場雅子と城田とのあいだに、次のような会話があった。
「由美の刺青を剥《は》がしたのは、雅子さんですね」
「そう、あれは、わたし」
「理加の刺青を剥がしたのは」
「あれも、あたし」
「なぜ、剥がしたのですか」
「それは言えません」
「刺青をしたのも、あなたでしょう」
「そうですわ」
「それなら、剥がした理由は分った。刺青をすることは、あなたのレスボスの仲間に入った証拠でしょう。それを剥がすのは、つまり、除名を意味する。なにか、裏切り行為があった……たとえば、男と寝たとか……」
「そうかしら」
「違いますか」
「違うようね。だって、死んでしまった人間を、いまさら除名することはないでしょう」
その謎について、いまもう一度、城田は訊《たず》ねている。
「もういいだろう、教えてほしいな」
雅子の顔に、薄笑いが浮かび、それがしたたかな感じを与えている。しかし、城田はいまは、その感じにおどろきはしない。
雅子が、言った。
「分らないの?」
「分らないな」
「考えたの?」
「もちろん、ずいぶん考えたさ」
「考えすぎるから、いけないのよ」
「というと……」
「はじめてのテレビのスイッチが、どこにあるのか分らないことがあるでしょう。そういう経験がなくって? そういうとき、たくさん並んでいるボタンを一つ一つまわしても、テレビがともらないとすると……」
「分った。今度は、そのボタンを押してみればいい」
「いい考えだわ。でも、それでもまだ駄目だったら?」
「…………」
「今度は、引いてみるのよ」
城田は、苦笑して、
「それはそのとおりだ。つまり、考え方の角度を変えてみろ、盲点のようなものを探せ、と言っているわけだろう。そういう具合な考え方もしてみた、いろいろ考えてみたんだ。だが、分らない」
「教えてほしいの?」
「教えていただきたい」
「ずいぶん下手《したで》に出たのね。恥ずかしくないの? ヒントをあげるから、自分で考えなさい」
「…………」
「あたし、本当は、女の子の刺青を剥がして売ろうとおもっていたのよ。そうおもったときは、まだその皮はなかなかの値打があったわけよ。売る相手は、もちろんアンダーソン。アンダーソンのことは、あたしをヒドイ目に会わせた男に」
「つまり、亡くなったきみの亭主だな」
「その男に聞いて知っていたわけよ。でも、それが実行できないうちに、肝腎《かんじん》の皮の値打がなくなってしまったわけだけれど……」
「しかし、きみが売ろうとおもっていたのは、三津子の皮だろう」
「そうよ」
「由美や理加の皮は、三文の値打もありゃしない。なぜ、そんな皮を剥がしたのか、やっぱり分らないな。あんな下手糞《へたくそ》な絵の刺青の皮なんか……」
「そうよ。いま、下手糞といったけど、その絵を彫ったのは誰だったかしら」
「それは、きみじゃないか。下手糞といって、ご機嫌がわるいようだけど、お世辞にも褒《ほ》められるものじゃない」
「そんなことじゃないのよ。だから、考えが間違った方向に行ってしまうわ。わたしは、下手糞といったのを咎《とが》めているわけじゃないのよ。わたしが彫った絵が、下手だった、というところに鍵《かぎ》があるわけよ」
「…………」
「もう、分ったでしょう」
城田は、苛立《いらだ》たしい気持になる。分りそうで、分らない。こうなったら、意地でも、自分の頭で解決させなくてはいけない。
「分らないが、しかし、いまに分ってみせる」
「そう、それじゃ、黙っていましょうね。でも、分ったら、きっと怒るわ」
「怒る?」
雅子は、相変らず、薄笑いを浮かべたまま、
「怒るわね、馬鹿にしやがって、とね」
城田は、嘲弄《ちようろう》されている気分になってきた。会話ででも、振りまわされている。そういう雅子の上手《うわて》に出るために、彼は言った。
「ところで、ぼくは『快楽コンサルタント』の役目を、十分に果したことになるわけだね」
「ずいぶん、愉しませてもらったわ」
その言い方には、雅子が彼を翻弄している愉しさも含まれているようで、気に入らない。しかし、雅子は素直に、言葉をつづけて、
「透明人間も出してもらったし、酒場にも案内してもらったし……」
「本物の快感も教えてあげたし」
「…………」
「そうでしょう」
雅子は、曖昧《あいまい》な表情になる。口を開きかけたが、言葉を見付けそこなっている。城田は自分が上手に立ったことを感じ、弱い女の躯を強い男の手で扱う気配を示しながら、乱暴に雅子の躯を裏返した。
雅子の白い背中のひろがりが、彼の目の前にある。
その背中が、揺れる。
やがて、目の前のひろがり一面に、赤い模様が浮かび上ってきた。
一匹の大きな赤い熊が、雅子と城田のあいだに立ち塞《ふさ》がり、雅子の背に覆いかぶさっている。
それが、醜くみえる。また、刺戟《しげき》的にもみえる。
大場雅子にあこがれていた時期のあったことを、彼は思い出した。典雅な、いかにも女らしい女性におもえていた。しかし、雅子はまったく違う女だった……。いや、大場雅子は、やはり女らしい女性ということができるかもしれない。粗暴な男に傷《いた》めつけられ、背中に刺青を施され、そういうことのために、彼女の中の「おんな」が開花しそこなった。
それが、すべての原因である。その「おんな」を回復しようとしたさまざまな行為であると、大場雅子の異常な振舞いを解釈することもできそうだ。
城田の目の前の赤い模様は、まだ消えない。この模様が出たことは、たしかに城田の「快楽コンサルタント」としての役目の完了を意味している。
そして、大場雅子とのつながりも、それで終ったことになるのか。
城田祐一は、一人で酒場「紅」の階段を降りて行く。
残された一つの謎を、自分一人の考えで解こうとして、長い時間考えに耽《ふけ》ったが、どうしても駄目である。気分を変えようとおもって、酒を飲みに出かけたわけだ。
席につくと、この前と同じように、理加と葉子とが近寄ってきて、彼の左右に坐った。二つの柔らかい躯に、彼は挟《はさ》まれている。
理加が肩を押しつけてきて、
「意地悪……」
と、鼻声で言う。
その意味は分る。この前、理加を置き去りにして、葉子と大場雅子と三人の形になったことについて、言っているのだ。
「癖をつけておいて」
と、理加は言い、
「肝腎なときに、除《の》けものにするなんて」
城田は、葉子の顔に眼を向けながら、
「しかし、そのほうがよかったのかもしれないんだぜ」
「どうして」
「葉子に聞いていないのか」
「なんのこと」
「いやはや、おどろいたねえ」
と、彼は葉子に向って言う。葉子は、まだ理加に大場雅子の背中について、話していないらしい。
「おどろいたわ」
葉子はようやく口を開き、
「でも、そんなこと、言っていいの」
「なんのことなの」
理加が、訊ねる。彼は大場雅子の、嘲弄するような態度をおもい浮かべ、「言ったって構わない」とおもった。
「つまり、『雅』のマダムの背中に、大きな刺青があったのさ」
「嘘」
すぐに、理加は言う。
「そんなものは、無かったわ」
「なるほど、きみがそう言うのは無理もないが、刺青があるのは、嘘じゃないよ」
「あたしとのことのあとで、彫ったのかしら」
「前から、あったんだ」
「それは嘘」
そこで、城田はその刺青の性質について、理加に説明することになる。
「へえ、おどろいたわね」
と、理加が言い、彼は葉子に、
「きみは、理加に話さなかったのか。よく黙っていたね」
「なんだか厭な気がして、話す気になれなかったのよ」
「どういう厭な気なんだ」
「どういうって……、ともかく、厭な気持」
そこで、しばらく三人とも黙ってしまい、酒のグラスを口に運ぶ。
「意地悪……」
また、理加が肩で押してきて、
「最初から、そのつもりだったのね」
その意味が分らない。
「え? なんのつもりだというのだい」
「三人の組合わせのことよ。最初は、あたしと葉子と城田さんだったでしょ。だけど、城田さんが狙っていたのは、べつの組合わせだったわけよ。『雅』のママと葉子と……、だから、あたしは……、つまりリハーサルに使われたわけね」
「リハーサル……」
その言葉を、彼は口に出して言ってみた。なにかが、頭の奥で動いたような気がした。それがなんなのか、まだ分らない。
「そのことなのよ」
不意に、葉子が口を挿む。これも、どういう意味か、彼には分らない。
「あたしが、厭な気がした、というのも、それに似たことなのよ」
「つまり、どういうことなんだ」
「前に、うちで働いていた三津子ね、あの三津子も、刺青があった、と言っていたわね」
「そうだ」
「それも、隠し彫が……」
「きみは、何を言いたいんだ」
苛立って、彼は催促した。
「あなたってね、結局、最後の目的としている形は、『雅』のママと三津子なのじゃなくって。あの刺青をみたときは、ずいぶんおどろいたけど、おどろいた気持がおさまってきたとき、不意にそうおもったわ。あたしも、理加の言うように、やっぱりリハーサルに使われたような気がするのよ」
「リハーサル」
もう一度、城田祐一は口の中で呟《つぶや》いた。
彼は、葉子の言葉について考えてはいない、まったく別の考えが、その単語から触発されかかっている……。
不意に、城田の眼が輝いた。
「リハーサルか」
今度は、大きな声で言うと、
「分ったぞ!」
と、叫んだ。
そして、あっけに取られている二人の女を残して、「紅」から急ぎ足で出てきた。大場雅子に会うつもりなのだ。
「分った」
と、城田は大場雅子に言った。
「ほんとに、分ったのかしら」
雅子はからかうように、彼の顔を眺めている。
「分った……、きみも人を喰った女だねえ……」
彼がそう言うと、雅子の顔に薄い笑いがひろがって行き、
「どうやら、分ったらしいわね」
と、言った。
「分った。きみはうまいことを言っていたよ。たしかに、テレビのボタンを引いてみる必要があったんだ。リハーサルだったわけだな」
「リハーサル」
今度は、大場雅子が声に出して言い、
「そうね、そういう言い方もあるわ」
「きみだったら、何と言う?」
「練習……、練習のつもりだったわ」
大場雅子は、練習のつもりで、二人の女の皮を剥いだのである。薄く、きれいに、刺青の絵をそこなわぬようにして、自分が刺青をした皮を剥ぐ。
その刺青が下手糞だったということは、雅子が人間の皮を扱うことに習熟していなかった証拠である。上手に、刺青の絵を剥がし取るには、練習が必要だ。目的の三津子の刺青を剥がす前に、ほかの女の躯を練習台にして、きれいに剥がし取る手練を習得する……。
そのために、由美と理加の躯が使われたわけなのである。
「そうねえ」
笑いを浮かべながら、大場雅子は宙を眺め、
「リハーサルねえ。その言葉のほうが、いいような気がする……」
「そのほうが、もっと人を喰った感じが出るものな」
そう言って、彼は雅子を見た。二人の視線が出会う。
彼の顔にも薄笑いが浮かび、二人はうなずき合う。互いの腹の中が分っている悪党同士が、うなずき合っているような気配が漂い、そのことに彼は気付いた。
それに気付いたとき、彼はかるい身震いを覚える。
彼が考えていた大場雅子の人間像では、本物の彼女はおさまり切れないところがあることにも気付いたのだ。
男に傷つけられたために、復讐心《ふくしゆうしん》に燃えた女のしたたかさ。それだけではないものが、彼女のしたたかさの中にはある。
「しかし、ただリハーサルのためだけに、由美と理加に近寄ったわけでもないのだろう」
「そうよ」
「彼女たちを抱いてみたい、とおもったわけなのだろう」
「そうよ」
「つまり、色と欲との二筋道か」
「まあ、そういうわけね」
あっさりと肯定する雅子の眼と、また彼の眼が合い、お互いに笑いを洩らす。
「この女は……」
と彼はおもい、ふと、そういうしたたかな女と同じ平面にいる自分に気付いた。悪党が二人、という気持が、強く起ってきた。いつのまに自分もそうなってしまったのか。
行方不明になった三津子を探しているあいだに、思いがけない成行きの連続で、いろいろの女性と関係を持ってしまった。
由美。
理加。
葉子。
余志子。
そして、三津子。
こういう女たちとの関係が、城田祐一というこの自分をしだいに変化させて行ったのではないか。そして、その結果、いま大場雅子と対等に向い合っている……。となると、その女たちとの関係も、いまの状態になるためのリハーサルだったといえるかもしれない。
案外、葉子が言ったように、自分は、自分を挟んだ二つの躯から、両方からピンクの隠し彫が浮かび上ってくるのを眺めたいとおもっているのではないか。
リハーサルは終った。
そして、これから幕が開くのだろうか。
城田祐一は、たしかめる眼で、大場雅子の全身を眺めまわす。いま、目の前にいる大場雅子は、前と同じように、優美で典雅な姿をみせている。
この作品は昭和五十年四月新潮文庫版が刊行された