目次
砂の上の植物群
樹々《きぎ》は緑か
解説(磯田光一)
砂の上の植物群
港の傍《そば》に、水に沿って細長い形に拡《ひろ》がっている公園がある。その公園の鉄製ベンチに腰をおろして、海を眺《なが》めている男があった。ベンチの横の地面に、矩《く》形《けい》のトランクが置いてある。藍色《あいいろ》に塗られてあるが金属製で、いかにも堅固にみえる。
夕暮すこし前の時刻で、太陽は光を弱め、光は白く澱《よど》んでいた。
その男は、一日の仕事に疲労した躯《からだ》を、ベンチの上に載せている。電車に乗り、歩き、あるいはバスに乗り、その日一日よく動いた。靴《くつ》の具合が悪くなり、足が痛い。最後に訪れた店がこの公園の近くで、その店で用事を済せると、男は公園にやってきた。男は、化粧品のセールスを仕事にしている。
彼の前にある海は、拡げた両手で抱え取れるくらいの大きさである。右手には、埠《ふ》頭《とう》が大きく水に喰《く》い込んで、海の拡がりを劃《くぎ》っている。埠頭の上には、四階建の倉庫があった。彼のトランクのような固い矩形の建物である。白いコンクリートの側面には、錆朱色《さびしゅいろ》に塗られた沢山の鉄の扉《とびら》が、一定の間隔を置いて並んでいる。
左手には、長い桟橋《さんばし》がみえる。横腹をみせた貨物船が、二本の指でつまみ取れるほど小さく眼に入ってくる。貨物船は幾隻《いくせき》も並んで碇泊《ていはく》しているので、白い靄《もや》の中に重なり合った帆柱やクレーンが、工場地帯の煙突のようにみえる。
眼の前の海を、右から左までゆっくり眺め渡した彼は、視線を中央に戻《もど》した。そこには小さな貨物船が舫《もや》ってあり、正常な船の上側を匙《さじ》ですくい取ったような形をしていた。そのすぐ傍に、さらに二まわりほど小さい貨物船があって、それは後肢《あとあし》をもぎ取られて地面に腹《はら》這《ば》っているバッタに似た形をしている。
彼は、その二隻の船を、しばらくのあいだ眺めていた。
「いま何かを思い出しかかっている」
それが何か、という答をすでに彼は意識の底で知っていた。しかし二隻の船の輪郭が眼の中で霞《かす》んでゆき、その替りに心に浮び上ってきたものがしだいに輪郭を整えてゆくのを、彼は待った。
気持に余裕のあることを味わいながら、ゆっくりと待った。
彼の心に浮び上ってきたのは、一つの推理小説の着想である。
四年前、その着想に行き当ったときには、彼は繰返し思い浮べ、熱心にそれを撫《な》でまわした。それまで読んだ沢山の推理小説には、彼の着想と同じものは見当らなかった。
書けるものなら、書いてみたい、と彼はおもった。定時制高校の教師をある理由でやめて、化粧品のセールスをはじめた頃《ころ》だった。
その物語の主人公は、死病に罹《かか》った男と、傍を離れずに看病する若い妻である。その男はやがて死んでしまい、物語の中からその肉体は消え去るが、依然として主人公であることを罷《や》めない。
次のような具合に、男は物語の中にとどまる。
その若い妻の貞節については、疑う余地がなかった。しかし、彼女の一つ一つの動作の継ぎ目や隙《すき》間《ま》から、生温かい性感が分泌物《ぶんぴつぶつ》のように滲《にじ》み出ている。彼女自身そのことに気付かないにしても、やがては熔岩《ようがん》のような暗い輝きをもった一つ一つの細胞の集積が、彼女を突動かすときが来る。――その日のことが、瀕《ひん》死《し》の床にいる男の眼の底に、鮮明に浮び上ってくる。
彼の死後、彼女が別の男と一緒になることを裏切りとはいえない。しかし、青白く脆《もろ》そうでいて容易に噛《か》み痕《あと》の残らない彼女の皮膚や、細く引締った足首を見ていると、それは生命力の乏しくなった彼の躯に大きな負担となり、痛みさえ感じた。
近い将来、彼女を独占する筈《はず》の男に、彼は烈《はげ》しい嫉《しっ》妬《と》を覚えた。それはやがて、憎《ぞう》悪《お》に変り、名前も顔も精神内容も何一つとして分らぬ未知の男にたいする復讐《ふくしゅう》を、ひそかに心に誓った。
彼が死《し》骸《がい》になり、脆い灰白色の骨片になって素焼の壺《つぼ》に入れられ、土の中に埋められる。壺は湿気を吸い込み、変色し、表面が苔《こけ》のようなもので覆《おお》われるころ、彼の復讐が完成する。復讐の内容といえば、もちろん彼女を独占している男を殺すことだ。
その方法は――。
彼女を兇器《きょうき》にする以外にない。彼女の無意識の動作の一つが、相手の男の生命を奪う。
一定の条件が与えられたときに、反射的に一定の動作を示す彼女の肉体の動きが、男にとって致命的なものとなる。その動作を彼女の奥深くに染《し》み込ませるために、瀕死の彼は、繰返し一定の条件をつくり、彼女の躯をそれに反応させた。
彼女が他日兇器に変化するための準備を終えて、彼は死ぬ。序章は終り、そこから物語は本格的な段階に入るわけだ。
しかし、そこで物語は中絶し、その先に彼は考えを進めることができなかった。
条件反射のその動作を、具体的にどういうものにしたら適当なのか。その推理小説にとって肝心なトリックの内容を、彼は思い付くことができない。小説の中の妻に、その夫が教え込む筈の動作を、彼は思い付くことができなかった。
彼は諦《あきら》めた。しかし、捨て去った筈のその着想が、不意に彼の頭に甦《よみがえ》ってくる。その度に、彼は熱心にその序章の部分を心の中で繰返す。物語が行詰るところまで丹念に辿《たど》ってゆく。すでに分りきった道筋なのだが、倦《あ》きずに繰返す。
度重なると、彼は頭の中に浮び上りかかったものを追い払おうと試みるようになった。しかし、いったん彼の心の隅《すみ》に、死病の男とその貞淑な妻の影が射《さ》すと、しらずしらずのうちに物語の行詰りまで、なぞってしまう。そのくせ、行詰りの先には、少しも考えを向ける気持にならなくなった。
「その序章の部分に、自分にとって何かの意味が隠されているに違いない」
ある日、そのことに彼は思い当った。
そのことに思い当るまでには時間がかかったが、気付いて考えてみれば、隠された意味はすぐに分った。
それは、死んだ父親と彼との関係である。
その人物は、十九歳で彼の父親となり、三十四歳で死んだ。
しかし、死んだ後も、その人物は彼の人生の中で主人公の役を演じることをやめなかった。すでに肉体は消滅しているその人物が、しばしば彼の人生に立塞《たちふさ》がり、彼に命令を下し、行先を定めたり限定したりした。
死後、十年経《た》っても、十五年経っても事情は変らなかった。彼が定時制高校の教師をやめ、化粧品のセールスマンになったのは、父親の死後十八年のことだが、その二つの事柄《ことがら》にも彼は自分を操る亡父の幻の手を感じた。
その場合、死んだ父親自体が兇器となって、彼に襲いかかってきた。推理小説の着想の底に、彼と亡父との関係が蟠《わだかま》っていることは、否定できない。
隠された意味が分って以来、その推理小説の序章が浮び上ってくると、不快なそして不安な心持に捉《とら》えられた。彼が避ければ避けるほど、それは頻繁《ひんぱん》に彼を独占し、執拗《しつよう》に纏《まつ》わり付いた。
ある日、執拗に彼を訪れてくるものと、突然、縁が切れた。
それから一年ほど経った現在、海に向って坐《すわ》っている彼の頭に浮び上ってくるまで、それは影を潜めていたのである。
夕焼がはじまって、海がその色を映した。港の傍の公園で、ベンチに坐ったまま、久しぶりに浮び上ってきた推理小説の序章を余裕のある気持でなぞってから、彼はその日のことを思い出した。
その日――。
早朝、不意に井村誠一から電話がかかってきた。学生時代の友人だが、長い間逢《あ》っていなかった。
「木《こ》暮《ぐれ》が死んだよ」
井村の声が生《き》まじめな調子でひびいた。木暮とも長い間逢っていなかったので、判断に迷った。
「病気か」
「事故だ、山で遭難した」
木暮の頑丈《がんじょう》な体格を、彼は思い出した。学生時代、木暮は山岳部に入っていた。当時、しばしば井村と一緒に木暮の家に遊びに行った。井村も彼もスポーツには縁がなかったが、木暮と交遊があったのはその陽気で人づきあいの良い性質のためもあった。だが、それだけではない。
受話器のなかでは、井村の声がつづいていた。
「今夜が通夜《つや》だ。木暮の家で会おう」
その井村の声は、通夜に行くのを当然とおもっている口調だった。それは、そうだ。行かずに済すことはできない。学生時代にしばしば木暮の家を訪れたのは、木暮に会うことよりも、むしろその美しい妹の姿を見るのが愉《たの》しみだったとしても。木暮の妹恭子は、木暮と違って華奢《きゃしゃ》な躯つきで、性質も内気でむしろ陰気だった。木暮の家では、恭子は茶や菓子を運んでくるだけで活溌《かっぱつ》に会話を交したこともなかったが、時折そのまま椅子《いす》に坐って控え目な笑顔を示していることがあった。そういうとき、椅子に坐ったまま首をまわして、井村が熱心に飾り戸《と》棚《だな》を見詰めていたことがある。彼が井村の視線を辿ると、飾り戸棚のガラスが鏡の役目をして、恭子の横顔が映し出されていた。その井村の思い詰めた表情に、彼はたじろいだ記憶がある。
卒業してからは、木暮と疎《そ》遠《えん》になった。やがて、恭子が結婚したという噂《うわさ》を聞いたが、いずれにせよ通夜で恭子の姿を見ることができるわけだ、と彼はおもった。
その日の夜、木暮の家の玄関に立って、彼は呼鈴に指を当てた。十五年前と同じように、一瞬ためらった後、指の腹で強くボタンを押した。十五年前には、その瞬間にかならず恭子の姿が脳裏を掠《かす》めて過ぎたものだ。
家の中には沢山の客がいた。見覚えのある顔も幾つかあったが、恭子の姿は見当らない。見知らぬ女が、酒肴《しゅこう》の世話をして立働いているのが目立った。木暮の細君だろう、と彼はおもった。異常なまでに肥《ふと》った女で、膨れ上ったというのがふさわしい躯に似合わず、身軽に動きまわっていた。それが陽気にさえみえるので、一層目に付いた。
彼が部屋の入口に立ったままでいると、その女が近付いてきた。
「伊木《いき》さん」
彼の名を呼んだ女の眼に、悲しみの色があった。
「突然のことで」
丁重に頭を下げたが、その女が彼の名を知っていることを怪《け》訝《げん》におもう表情になった。
「わたし、恭子ですわ」
「恭子さん……」
一瞬呆《あっ》気《け》に取られて、彼は眼の前の女を眺めた。記憶にある恭子の二倍の容積はあったし、陰気な翳《かげ》はまったく無くなっていた。
「わたし肥ったでしょう」
恭子は、こだわらぬ調子で言った。
「ずいぶん前に、結婚なさったという噂は聞いていましたが」
「それが、主人は亡《な》くなりましたの。一昨年ですわ。そしたら、急に肥り出してしまって……。それにしても、ほんとにお久しぶりね、十五年ぶりくらいかしら。伊木さんも、そろそろ中年紳士のお仲間入りね」
彼はおもわず掌《てのひら》を腹に当てがった。洋服地の下の腹は、いくぶん盛り上りかかっているようにおもえた。
「やあ、伊木。ずいぶん久しぶりだな」
聞き覚えのある井村の声が耳もとでした。首をまわすと、眼の前に井村の顔があった。眼鼻や口にはさして変化はないが、頭髪が薄くなり、三十七年間空気にさらされてきた顔の皮膚はしぶとく厚くなっていて、まぎれもない中年男の顔であった。
「井村か。きみ、こちらは恭子さんだよ」
「知っているとも。ぼくはもう大分前に来たんだ。恭子さんも、すっかり豊満になった」
井村は生まじめな口調で、言葉をつづけた。
「恭子さんが結婚したときには、ぼくはずいぶんとがっかりしたものですよ。ご主人はレスラーみたいに大きな人だったそうですね」
「まさかそれほどでもありませんけど、癇癪《かんしゃく》もちで横暴で……」
「亡くなられたのは残念でしたね。でも、それで安心して肥り出したのでしょうね」
井村の口調には、揶揄《やゆ》する調子は無かったが、やはり中年男のしぶとさが感じられた。
そのとき、にわかに伊木一郎は躯に異変を覚えた。立暗みに似た気分だが、ふしぎに病的な感じではない。
彼は部屋の隅の椅子に腰をおろした。異変はつづいており、躯の奥底でかすかな海鳴りに似た音がひびき、それがしだいに大きくなり、広い幅をもった濃密な気体が轟々《ごうごう》と音を発して彼の躯の中を縦に通り過ぎた。膨らみ切ったたくさんの細胞が、一斉に弾《はじ》け散ったような音がそれに伴った。
気が付くと、彼は脚を長々と前に投げ出し、椅子からずり落ちそうな姿勢で、両手を腹の上に載せていた。無精たらしい恰好《かっこう》にみえた。二つの掌の下に、いくぶん突出してきた腹部を感じたとき、中年期に這入《はい》った自分を彼は抵抗なく受入れた。
数十秒前の短い時間の異変は、無数の細胞の一つ一つの内部の環境が一斉に変化を起したためかもしれない、と彼はおもった。
次の瞬間、彼の眼に浮んだのは、父親の晩年の姿である。三十四歳で急死した父親は、青年の姿をしていた。髪の毛は、黒くふさふさとしていた。
その父親の姿は、ひどく若々しく見え、彼は自分が父親よりも三年間余計に生きてきたことに気付いた。父親の死んだ年齢と同じになった年には、彼は多くの感慨をもったが、父親が自分より年下の青年として強く意識に昇ったのは、そのときが最初であった。
「若いもんが、いろいろとやっていたわけだな」
と、彼は目《ま》蓋《ぶた》に浮んでいる父親の像に向って、背伸びしていない余裕のある心持で、呼びかけた。
彼は突然新しい環境に投げ入れられ、新しい出発をした気持になっていた。昂奮《こうふん》し、昂揚した気分でいたため、花田光太郎の誘いをこだわらずに受けたのだ。
彼の坐っている椅子の前に、花田が立って、声をかけてきた。
「一緒に帰らないか。木暮の冥福《めいふく》を祈って、飲み直そうではないか」
花田の背後に、見覚えのある顔が三つ並んでいた。皆、同級生だった男たちの顔だ。そのなかに、井村の顔も混っていた。花田光太郎は、高価そうな和服を着て、颯爽《さっそう》としていた。花田はいわゆる流行作家になっていた。
伊木一郎はうなずいて、椅子から立上った。恭子に別れを告げて、木暮の家を出た。
人通りの少ない道に立って、花田たちはタクシーを拾おうとしていた。少し離れたところに立っていた伊木に、井村が歎息《たんそく》するように話しかけた。
「おどろいたねえ、女というものはいつどう変るか分らないもんだなあ」
「それにしても、恭子さんの場合は、特別だな」
「亭主《ていしゅ》が死んで、とたんにむくむく肥り出したわけだねえ。まるで家の中いっぱいになるくらい膨れ上ったんだが、とすると、亭主にさんざん抑え付けられていたんだなあ」
「やはり、気になるか」
「やっぱりね。ぼくは恭子さんに惚《ほ》れていたんだ」
「しかしね、いくら抑え付けられたといっても、死んだとたんに肥り出すようでは、大した力関係じゃないね。亭主とのつながりは、むしろ薄かったとおもうな」
「そうおもうか」
伊木一郎は、確信をもって答えた。
「そうおもうね」
その日を境に、彼は推理小説の序章から解放され、同時に死んだ父親からも解放されたつもりでいた。
したがって、公園のベンチに坐っている彼を、一年ぶりにその馴《な》染《じみ》深い断片が訪れてきたときにも、彼は余裕のある心持で迎えることができたわけだ。
余裕をもって迎えたばかりでなく、物語の行詰るその先を、彼は積極的に考えようと試みた。その時機がきたのだ、と彼はおもった。夫が妻の肉体のなかに滲《し》み渡らせるための条件反射の動作。その夫の死後、長い時間を隔てて、別の男にたいする兇器として作用する筈《はず》の動作。……それは、日常的な夫婦生活の中に求めたらよいだろう。とくに、その深夜の生活の中に……。
考えをめぐらせ、それがしばしば行詰り、同じ場所をどうどうめぐりしているうち、気が付くと彼は別の考えの中にいた。そのとりとめのない空想の中では、すでにその推理小説は完成していた。それは大きな成果を挙げ、彼は流行作家になっており、華《はなや》かな生活が彼のまわりに拡《ひろ》がっていた。
彼は繁華街の高級クラブにおり、女たちに取囲まれている。彼が、大してうまくもない冗談を口にしても、それは嬌声《きょうせい》と媚《び》態《たい》とで迎えられた。
彼の傍《そば》の席に、四人の男たちが坐っている。彼が案内してきた、というよりむしろ引率してきた男たちで、場馴れしない恰好で椅子に浅く腰かけ背を跼《かが》めてグラスの酒を嘗《な》めている。
その男たちは皆、昔の友人である。彼はこまかく気を使っていた。女たちを男たちの間に坐らせ、座を賑《にぎ》やかにしようと試みた。しかし、男たちは沈黙がちで、手持無沙汰《ぶさた》になった女たちはいつの間にか姿を消してしまった。
やがて、男たちは一かたまりになり、俯《うつむ》き加減に額をつき合せて、ひそひそ話をしはじめた。その一団と彼の席とのあいだに大きな隙《すき》間《ま》ができ、男たちの前に一つずつ置かれている酒のグラスが、お抱え運転手に振舞ったコップ酒のようにみえてきた。
彼は苛《いら》立《だ》ち、自分を苛立たせている男たちに腹を立て、半ば捨鉢《すてばち》な気持になって、和服の懐《ふとこ》ろから小《こ》切《ぎっ》手《て》帖《ちょう》を取出すと、テーブルの上に置いた。
「マダム、だいぶ勘定が溜《た》まっていたね。払っておこう」
小切手に、その男たちの一カ月分の給料よりもはるかに多い数字を書き込む……。
華かな空想は、進むにつれてしだいに鬱陶《うっとう》しいものに変ってゆき、その部分まで来ると、不意に人物の位置が替った。
彼のいたソファに花田光太郎が坐っており、一かたまりになった男たちの間に彼は自分の姿を見《み》出《いだ》したのだ。一年前、木暮の家を出てタクシーに乗込んだ花田光太郎は、繁華街の高級クラブに、伊木と井村と二人の友人を案内したのだった……。
ベンチから立上ると、彼は海に向って歩き出した。海に沿って舗装された散歩道ができている。その道をゆっくりと横断すると、防波壁に行き当った。
立止って、水を覗《のぞ》き込む。
夕焼はその色を濃くして、水の面も赤かった。港の中の海なので、波は静かだったが、それでも防波壁の下の水は小さく波立っていた。藻《も》や木《き》屑《くず》や塵芥《じんかい》が黒ずんで打寄せられ、たぶたぶと揺れていた。
水面から眼を離し、彼は海に背を向けて元の場所に戻《もど》ってきた。ベンチに落込むように坐った。華かな想念に引込まれていただけに、反動が大きかった。セールスの仕事の屈辱的な場面が、つぎつぎと頭の中を掠めて過ぎた。
夕焼は、さらに、その色を濃くしてゆき、その色は躯《からだ》の輪郭まで押寄せてきて、彼は赤く濡《ぬ》れた心持になった。色が深まる一瞬一瞬に、彼の耳は空気中に放電してゆく低い唸《うな》り声に似た音響を聞き、空と彼の躯を包む空気の全部が唸りを発した。そして、全身の細胞がその音響に共鳴を起し、ベンチの上の彼の躯はこまかく揺れ動いた。
憤《ふん》怒《ぬ》に似た感情が、彼の底から湧《わ》き上ってきたが、それはすぐに大気に蒸発し去って、あとには躯の中に異変の予感が残った。全身の細胞がいっせいに暴動を起す直前のような予感に捉えられた。
彼はおもわず立上った。躯の中の異変が、彼を突動かす方向についての予感は全くあらわれてこない。二、三度、地面を靴《くつ》の底で踏み付けてみた。
そのとき、吹き消されたように、夕焼が終った。赤い色は一瞬の間に消え去り、鼠色《ねずみいろ》の空間が残った。それと同時に、彼の躯の中の予感も消滅した。夜の匂《にお》いが、公園の土の上から立昇ってきた。
海に背を向けて、彼は地面から堅い矩《く》形《けい》のトランクを持上げようとした。
眼の前に、塔が立っていた。塔の胴の中を、黄色く灯《あかり》をともした昇降機が、上下しているのが見えた。最近建てられた観光塔なのである。
「そういえば、噂は聞いていた。しかし、見るのは初めてだ」
高い塔である。遠望できる高さなのだが……。重いトランクを提げ、肩に力を籠《こ》めて二、三歩先の地面に眼を据《す》えて歩いてゆく自分の姿勢を、彼は思い浮べた。いつも顔を俯けて、空の方へはめったに眼を上げたことがなかったのだ。
公園の出口に向い、彼はトランクを提げて歩き出した。やはり、同じ姿勢になった。その姿勢に抵抗を感じ、無理に仰向けた顔の前に、塔があった。
塔に昇ろう、と彼はおもった。
料金を払い、塔の内部に這入った。二台の昇降機が絶え間なく上下している。ゆっくりした速度で昇ってゆく昇降機のなかで、客は彼一人だった。制服を着たエレベーター・ガールが、観光ガイドの口調で、観光塔の説明をはじめた。客が一人だけの昇降機の内部を、彼はあらためて見まわした。その職業的な口調は滑稽《こっけい》でもあったが、それ以上にそらぞらしく、腹立たしくさえあった。
流暢《りゅうちょう》に言葉の出てくる唇《くちびる》を、彼は見詰めた。ひらひら動きつづける薄い唇には、輪郭を大きくはみ出して口紅が塗ってあった。
濃い口紅の唇を、無駄《むだ》なものを眺《なが》める気持で、しばらく彼は見詰めていた。そのくせ、その口紅の銘柄《めいがら》に考えが向き、そういう自分を虚《むな》しく腹立たしく感じたとき、昇降機は頂上の展望台に着いた。
塔を昇っているあいだに、あたりは夜になっていた。ガラス張りの円型展望台の四辺には、夜景が拡がっている。港は暗く、桟橋《さんばし》と貨物船の燈《とう》火《か》が、黒と灰色の底で光っていた。反対側の市街地には、燈火の黄色い点が敷き詰められている。
展望台は閑散としていて、全部の観覧客が昇降機に吸い込まれ、彼一人が残される時間もあった。彼は環《わ》の形になっている展望台をゆっくりと回って、暗い海を眺め光の海を眺め、先刻躯の中で膨れ上りかかり不意に消え去ったものについて考えていた。しかし、手がかりは無かった。
二人連れの若い男女が、昇ってきた。
「まあ素敵。ロマンチックだわ」
女が歓声をあげ、その声が彼の耳になまなましい肉感をもって這入りこんできた。幾つも並んでいる望遠鏡の一つに、女はすぐ取付いて、覗き込んだ。
「あたしたちの住んでいるところ、見えるかしら」
「さあ、どうだろう」
「あら、ネオンの文字がはっきり読めるわ」
「うちの傍に、ほら、化粧品の大きなネオンがあったろう。それを探してみるといい」
「そうね、あれは……」
と、女は化粧品の名前を口に出した。それは、彼の藍色《あいいろ》のトランクの中に収めてある化粧品の名前と同じものだ。
その男女は、新婚とおもえた。たわいのない会話が、いそいそと続けられてゆく。望遠鏡に片目を押当てているので、絶え間なく動いている女の唇だけが、目立っていた。その唇にも、血にまみれたように口紅が塗られてあった。女というものの抵抗できぬ逞《たくま》しさを示しているようにもみえ、見知らぬ動物の発情した性器のようにもみえた。
またしても、彼ははげしい徒労を覚えた。一日中、神経と靴の底を擦り減らして化粧品を売り込みに歩くことで、彼はたしかに自分自身の生活費を稼《かせ》ぎ出している。しかしそのこと以外には、その仕事は何の意味も無いようにおもえた。
ベンチを探したが、展望台にはベンチが無かった。にわかに躯が重たくなり、コンクリート床の固さが、足裏にゆっくり伝わってきた。その場に、坐《すわ》りたくなったとき、またしても彼は躯の中に突上げてくるものを覚えた。憤怒に似た感情だが、はっきり正体を捉《とら》えることができない。
塔を降りよう、と彼はおもった。エレベーターの前に立って、待った。背後では、若い男女の声が、絶え間なくつづいていた。はやく塔を降りてしまおう、とおもった。自分自身が危険な物体に変化してゆく心持もあった。
エレベーターは苛立たしくゆっくりした速度で昇ってきた。眼の前で扉《とびら》が開くと、少女が一人だけ出てきた。紺色のセーラー服に似た洋服を着て、女子高校生の年頃《としごろ》である。白《おし》粉《ろい》気《け》のない薄桃色の顔はうぶ毛で覆《おお》われているようにみえた。しかし、その唇は口紅で真紅に塗られてあった。
「余計なことだと思うわ」
口紅で真紅になった少女の唇が、伊木《いき》一郎の眼の前で動いて、その言葉が出てきた。彼は無意識のうちに、その少女に言葉を投げ付けていたことを知った。
おそらく、咎《とが》める口調で、
「高校生まで、口紅を塗ることはないだろう」
とでも言ったのだろう。
少女の眼に、反撥《はんぱつ》ばかりではなく、訝《いぶか》しげな色も混っていたところを見れば、あるいは悲鳴に似た調子も混っていたのかもしれない。
塔の外に拡がっている夜景に眼を向けて、彼はしばらく沈黙していた。昇降機の出入口に遮《さえぎ》られて姿は見えないが、円型展望台の向う側から、若い男女の声が相変らず聞えてきていた。彼と少女との間の気配には、まったく気付いていない。その声は、華《はなや》いだ調子でつづいていた。
彼に冷静さが戻ってきた。冷静さを取戻せたことに、彼は驚いていた。当然、彼は川村朝子の濃く塗られた唇を、眼の前の少女の唇から連想していた。川村朝子とは、彼が定時制高校の教師を辞める原因になった少女である。あるいは、川村朝子を思い出したためにかえって冷静さを取戻せたのかもしれなかった。
「余計なのは、君のその口紅だよ」
「なぜ」
「そんなに塗りたくった口を見て、感心する男は、誰《だれ》もいやしないからね」
昇降機の扉の開閉する音が聞え、若い男女の声が消えた瞬間に、少女が言った。
「誰もいなくなったわ。この時刻には、この塔にはほとんど人はいないのよ。居るのはおじさんだけだわ」
「いけなかったか」
「居ない筈の人がいて、文句を言うのだから、余計なことなのよ」
時折、少女はこの塔に昇りに来る。塔の下の薄暗がりで、スカートのポケットから出した口紅で思い切り濃く唇を塗り、昇降機に乗る。閑散とした展望台で、ガラスに額を押付けるようにして、夜の街の表面で燦《きら》めきまたたいている燈火を、長い時間眺めている。ガラス板が額に冷たく、唇の上で燃えている赤い口紅を意識しながら、眺めつづける。
それは、少女自身のために付けた口紅なのだ、という意味のことを、少女は言った。
「思い切り、毒々しく塗るの」
と言い、余計なことを言った、という表情が覗いて消えた。
「毒々しい、ということは分っているのか。とすると、なにか理由があるんだね」
「理由なんか、何もありはしないわ」
いそいで、遮るように、少女は答えた。
「ただ何となく、か。乙女の感傷……」
「そんなんじゃないわ」
「もっと性的なにおいがするな。未知なる性への恐れとあこがれか」
「違うわ、ボーイフレンドぐらい、いっぱい持ってる。もっと別のちゃんとした理由があるんだわ」
「やっぱり理由があるんじゃないか。どういうことだ」
「誰にも、教えたくないの」
少女と会話しながら、彼は五年間という歳月について考えていた。五年前、川村朝子と対《むか》い合っているときには、怯《おび》えに似た感情が動いた。現在のような調子では、会話は進まなかった。それは彼が川村朝子に特殊な感情を持っていたせいもあろう。しかし、そればかりではない。五年間の月日の間に一つの境目があって、その境目を越したせいでもある。躯の中に以前とはあきらかに異なった細胞が詰っていることを、伊木一郎は、あらためて確認した。
ここで、作者が顔を出して口をきくのは、得策ではないかもしれない。しかし、私が書きつづけて行こうとしている小説の構成を、そのことが破るとはおもわない。
クレーの作品に、大小不《ふ》揃《ぞろ》いで色とりどりの四角形ででき上っている水彩画がある。その色彩は、原色でもないし、暗鬱な色でもない。赤青黄の中間色、萌《もえ》黄《ぎ》色《いろ》、薄むらさき色などの四角で、半透明のあたたかい色である。
それぞれの四角形は、大小の差はあるが整然と並んでいる。互いに押合ったり、場所を取合ったり、隣接の四角に攻め込もうと隙を窺《うかが》ってはいない。そして、自分の領分である四角形から、白く半透明の細い糸を下へ下へと伸ばしている。四角形の底面に、その糸は沢山の白滝こんにゃくのようにぶら下り、伸びてゆく。砂地の植物の根が、石英《せきえい》の微細な粒のあいだを、隙間を這《は》いながら白く細く伸びてゆくようでもある。
色彩は、やや濁った暖かい色だが、絵全体は透明で、稀《き》薄《はく》になってゆく空気の中に佇《たたず》んでいる印象がある。
クレーの絵は、画家の絵というよりも詩人の描いた絵である。一つ一つのタブローに、それぞれ題名が付いていて、その題名に靠《もた》れかかっているようにみえる部分もあり、その点画家としては邪道であると言えるかもしれない。しかし、私はその絵も好きだし、絵と切り離して題名の文字の配列だけを眺めていることも好きである。
帆走する都会。
庭の門。
灰色の男と海岸。
水中の庭園。
まだその場所に居る黒。
題名だけで、イメージを掻《か》き立ててくるものがある。ある日、私は大小不揃いの四角形だけででき上っている絵を眺めていた。その絵は、私が構想していた作品に似通っていた。ただ、私はその絵の中に、強烈な原色の赤を投げ込んでみようと企《たくら》んでいた。その赤を投げ込んだとき、その絵はどういう混乱を呈するか。いや、その絵ではなく、私自身の頭の中に詰っている様々なイメージの断片がどういう混乱を呈するか。あるいは、その赤は直ちに吸収されてしまい、断片はかえって整然とした配列を示すようになるかもしれない。その絵の題名は「砂の上の植物群」と付けられていた。私は、書こうとしている作品の題名に、その名を借用する誘惑に抗し難《がた》くなった。
この章でも、まだ作者は退場しないし、依然としてクレーにかかずらうことをやめない。長い小説のための原稿用紙の第一枚目に文字を書きつけようとするとき、私はえんえんと連なる白い紙の前に立って、茫然《ぼうぜん》とする。長い茫然とした時間のあいだに、霧雨の微細な水の粉が乾いた地面をようやくに黒い色に変えるに似た変化が、心の中で起る。濡《ぬ》れた地面がやがて水溜《みずたま》りに近付こうとする、その瞬間から積極的な身構えに変る。
ところで白いタブローに、最初の線を描きつけるとき、画家であり詩人であるクレーはどうするか。
『最初の能動的な活動(線)は、生命のない点を突破する! それから立ちどまっては息を入れる(途中で停止した線、もしくは、いくつもの停止の関節をもつ線)。今自分がどんな地点にいるかを知るために振りかえってみる(線の前進に逆らう)。先の可能のいくつもの道を頭脳で考慮する(複数の線の束)。――クレー「線について」片山敏彦《としひこ》訳』
それと同じに、私も最初の一、二行を書き記し、ふたたび茫然とした時間に見舞われる。その後の作業は、何とこの「線の旅」に似ていることだろう。クレーは、つづけて次のように言っている。
『一つの大きな河が行くてをさえぎる。われらは一つの小舟を使う(波状形)。高いところに一つの橋(複数のアーチ形)、……耕作された畠《はたけ》を通る(縞《しま》のある平面)。厚い森……、笊《ざる》屋《や》が車に乗って帰宅する(車輪)。彼らといっしょに車に乗っている一人の子供の渦《うず》巻《ま》いている髪がなかなかおもしろい(螺《ら》旋《せん》状《じょう》のうごき)。それから空が曇ってあたりが暗くなる(広がりの要素)。地平に一つの稲妻……(以下省略)』
私のこの小説の場合、一章から六章までは「広がりの要素」と呼べる。そして、一つの稲妻が閃《ひらめ》く前に、螺旋状の階段をつたわって、私は過去へ下降して行く必要がある。
五年前、死んだ父親の幻の手が、伊木一郎の背をじわじわと押して、川村朝子の前に押出した。その幻の手は彼の背をとんと突き、彼はそのまま川村朝子の胸もとに倒れかかった。それは、次のような具合にして、起った。
ある夕方、定時制高校の英語教師をしていた伊木一郎は、街で彼を呼ぶ声を聞いた。
「一郎さん。一郎さんじゃないか、十年ぶりかな」
声の主は、彼のすぐ眼の前にいた。顔を突きつけるようにして、伊木の顔を覗《のぞ》いていた。五十年配の男である。白い上っ張りを着て、サンダルを履いている。伊木は一瞬戸惑った。しかし、皺《しわ》の多い窶《やつ》れた感じの顔の奥からその男の昔の顔が、すぐに浮び上ってきた。
「やあ、山田さんか。すこし老《ふ》けたな」
「苦労したからね」
男の眉《まゆ》のあたりがふっと曇り、彼はポケットを探ると煙草《たばこ》を一本つまみ出して咥《くわ》えた。点火したマッチ棒を両手でかこって口もとへ近寄せるその手がぶるぶる烈《はげ》しく震えた。
その手に、伊木は視線を当てていた。煙草から煙が立昇った瞬間、男は、マッチ棒を放《ほう》り出すように捨てると、両手をぐっと上《うわ》衣《ぎ》のポケットに押込んだ。まるで、震えた手をあわてて隠したように見えた。そして、煙草を咥えた口の片隅《かたすみ》から、言葉を押出した。
「悪い酒の呑《の》み過ぎでね、なあに、仕事に差《さし》支《つか》えはありゃしない」
そう言いながら、伊木の無帽の頭をジロジロ眺めていた男は、
「死んだお父さんにそっくりになってきたね。頭の恰好《かっこう》もそっくりだ。そのあたまはムツカシイんだ。お父さんの頭は、俺《おれ》しか刈れなかったんだからな。一郎さんの頭は誰が刈っているんだ」
「誰がって、そこらの床屋でやってもらっているよ」
「そこらの床屋で刈れるわけがない。ずいぶんミットモナク髪が伸びてるじゃないか。俺が刈ってやろう、一緒に来なさい。なあに、すぐそこだ」
山田理髪師に窶れが見えており、その震える手を見詰めてしまった後なので、伊木は山田の申し出を断れなくなった。駅とは逆の方向へかなり長い間歩き、道の両側に商家が軒を並べているところに差しかかった。隣の町まで、来てしまったのだ。
理髪店のしるしである赤と青色がねじれた棒がくるくる廻《まわ》っている店の前で、山田は立止った。
ハンサム軒。
と、入口のガラス戸に金文字で書かれてある。山田は振向くと、具合悪そうに笑って、
「これは、あまり良い名前じゃないな。ここのオヤジが付けたんだ。だが、ここのオヤジは大したもんだぞ。昔は、宮様の頭を刈ったこともある。それに、俺も間もなく昔のように一軒店を持つつもりだ」
「山田さんが戻《もど》ってきていたとは知らなかった。僕《ぼく》もしばらく前から、住んでいるんだ」
「十年経《た》って、ようやく戻ってこれた。さあ、はやく店に入りなさい」
二人は同じ町に住んでいたが、戦争中空襲で家屋を焼かれた。そして、久しく元の場所へ戻ってこれなかった。
鏡の前の椅子《いす》に伊木が坐るや否《いな》や、山田は髪の毛に勢よく櫛《くし》を入れはじめた。櫛をもつ山田の手が、先刻のように烈しく震えている。ぶるぶる動いている櫛を撲《なぐ》りつけるように伊木の髪の毛の中に打込んで、そして梳《す》くのである。
伊木は、不安になった。鋏《はさみ》をもつ男の手、剃刀《かみそり》をもつ男の手のことを今更のように考えた。
しかし、山田が鋏を宙に構えると、手の震えは全く止《や》んだ。彼はもう一方の掌《てのひら》をひらひらと伊木の頭のまわりに舞わせながら、
「見れば見るほど、一郎さんの頭はお父さんにそっくりだね。ここが、こう、ぐっとうしろへ張出して、ここのところが平たくなって。丁度、飛行船の形だな。こういう形の頭は、俺でなくては刈れやしない」
冴《さ》えた鋏の音がひびきはじめ、その音と一緒に山田の話しかける声が絶え間なくつづいた。
「お父さんが死んで、もう何年になるかな」
「十八年くらいになる」
「早いものだな。三十の半ばで亡《な》くなったんだから、今生きていてもまだまだという齢《とし》だがな。もっとも、お父さんが死んだときには皆こう言ったもんだ。普通の人の八十歳くらいの分をもうやってしまっているから、若死とは言えない、とね」
「食べることと、女の方だけは、人の二倍はやっていたそうだが」
「そうそう。亡くなる前の頃は、どういうものか俺ばかり誘われて、あちらこちらへ引張って行かれたもんだよ。あの頃のお父さんのことは俺が一番よく知っているな。とにかくハデな生き方をした人だった」
……伊木一郎は時折、いやむしろしばしば、彼の父親を知っていたという人と出遇《であ》った。それらの人々は、それぞれ彼の父の像を心の中に持っていた。父親と面識のないままに、彼の父の像を作り上げている人も、その中には含まれていた。
そして、その像の中には、伊木一郎にとって必ず何かの形で棘《とげ》が隠れていた。その棘は、彼を刺すのである。
おまえの父親は、何をしていたか、という問いにたいして、彼はいつも戸惑う。
画家。
株屋。
香水を作っていたことがあるんだって……。
蕩《とう》児《じ》。
そしていま、山田理髪師は、「ハデな生き方をした人」と言った。その言葉には、皮肉な意味は隠されていないようだ、と彼は慎重に相手の言葉を噛《か》み分けてゆく。
「あれだけ、つき合いの広かった人が、どういうものかね。終りの頃には俺としか遊ばなかったからなあ」
それは、単純な自慢の口調である。
「ところで一郎さん、今なにをしているね」
「ぼくか、ぼくは夜学の先生だ」
「ふうん」
山田は、不満気にしばらく口を噤《つぐ》んだ。
「一郎さん、いま幾つかね」
「三十三になった」
「ひとり身かね」
「いや」
「ふうん、子供はあるかね」
「男の子が一人。小学二年生だ」
「ふうん。お父さんがその年には、一郎さんはもう中学校に入ってたろう。まあ、ともかく頭の形は、瓜《うり》二つだな。俺がうまく刈ってあげるよ。しかし、考えてみれば早いもんだなあ。俺は一郎さんの頭は、あんたが小学生の時から刈っているわけだからな。そうだ、あんたの子供も今度連れてきなさい」
情熱をこめて、山田は伊木《いき》一郎の頭を亡父そっくりに刈り上げた。その結果、その頭は、見馴《みな》れぬ、少年染《じ》みた形に変ってしまった。それは、父親にとっては洒落《しゃれ》た髪型であったのだ。理髪店の鏡に映った頭をみて、伊木は狼狽《ろうばい》した。革《かわ》砥《と》に剃刀を叩《たた》きつけるようにして研いでいた山田は、伊木の傍《そば》へ戻ってくると、
「これは、まるで瓜二つになってしまった。一郎さん、あんた、これから夜学を教えにいくのかねえ」
たしかに、教師にはその髪の形は不似合である。しかし、彼が狼狽したのは、そのためばかりではない。
彼の脳裏に、一人の少女が浮び上っていた。それが教え子の一人で、川村朝子という名だということに、彼は気付いている。この理髪店の椅子に坐り、刈り上った髪の形を見るまでは、彼にとって川村朝子はちょっと気にかかる程度の少女に過ぎなかった。いや、その程度だと思い込もうとしていた。その程度でなくては困る、と伊木が自分の心に言い聞かせていた。
脳裏に浮び上ってきた少女の像を、彼は首を振って追い払おうとした。がくがくと首を左右に振動かした。頭が軽く、頭が寒く、少年染みた髪型になった自分の頭が彼の眼に鮮明に浮んできた。追い払おうとした少女の像が、逆に絡《から》み付いてきた。
鏡の中には、亡父と瓜二つと山田が言った顔が映っている。その顔に向って、伊木一郎は問いかけた。
「死んでから十八年も経つのに、あなたはまだそこらをうろついているのですか」
そのとき、鏡の中の顔は、すうっと天に昇って消えた。顔を剃《そ》るために、山田理髪師が一郎の坐《すわ》っている椅子をがくりとうしろに倒していた。
十一
彼と川村朝子との間に、このような形で死んだ父親が介在していた。しかし、その後のことには、その幻の手は働いていない、と彼はおもっている。その後、彼は定時制高校を辞めることになったのだが、それは噂《うわさ》のためだ。ただ噂だけのためで、辞職を勧告されたわけではない。探る眼、咎《とが》める眼、嘲《あざけ》る眼、好奇心に光る眼、たくさんの眼が彼を追い詰め、居たたまれなくした。
彼のしたことといえば、烈しく躊躇《ちゅうちょ》しながら、川村朝子のいる居酒屋に通っただけのことだ。彼女はその家の娘で、店の仕事を手伝わされるのを嫌《きら》って、夜学に通っているということだった。
しかし夜学から帰ると、店で働かされていた。彼は毎回、ことあたらしくためらいながら、川村朝子のいる居酒屋に出かけていった。
川村朝子のことで、彼の記憶に残っているのは、その真赤な唇《くちびる》だけである。最初、彼女のいる店に足を踏み入れたとき、彼の予想では、川村朝子は白粉《おしろい》気《け》のない顔でぎごちなく店の隅に佇《たたず》んでいる筈《はず》だった。しかし、彼女は真赤に唇を塗り、身軽に店の中を歩きまわり、物馴れた酒場女のような口をきいた。濃い化粧は、彼女を醜くしてはいなかった。平素よりももっと、可愛《かわい》らしい愛嬌《あいきょう》のある顔になっていた。ただ、いかにも人工的な趣がつきまとっていた。そして時折、ひどく成熟した、むしろ四十女といってよい表情が、その顔にあらわれる瞬間があるように見えた。その顔は、手がかりの付かぬものをいきなり眼の前に突出されたように、彼にはおもえた。
真赤に塗られた唇を眺《なが》める彼の眼には、不可解な色、一種怯《おび》えに似た色があった。そして、その色が消え去らないうちに、噂が立った。
彼は辞職し、以来、川村朝子の店へ足を向けることができない。山田理髪師が、彼に化粧品セールスの仕事を斡旋《あっせん》した。理髪師や美容院を訪れ歩いて、A・A会社製の化粧品を売り込む仕事である。
十二
「はやく降りて、君を一人にしてあげなくちゃいけないわけか」
塔の上で、伊木一郎は少女の唇に視線を当てて、そう言った。
「いいのよ、あたしも降りるわ」
並んで昇降機に這入《はい》ったとき、彼の提げている藍色《あいいろ》のトランクに、少女は眼を留めた。
「トランクをぶらさげて、この塔に昇る人もめずらしいわね」
「…………」
「旅してきたの」
「いや」
「ちょっと、持たしてみて」
「持ったって、仕方がないよ」
彼はトランクを庇《かば》うような素振りになって、少女の手に渡さなかった。
「何が入っているの」
彼は、エレベーター・ガールの耳を憚《はばか》った。昇降機を出て、塔の外の薄暗がりを歩いているとき、少女がふたたび訊《たず》ねた。
「教えてくれる約束でしょう。何が入っているの」
立止って、彼は答えた。
「化粧品だ」
「化粧品て……、口紅なんかも」
「口紅も、入っているな」
「ほかには、何が入っているの」
「何も入っていない。化粧品のセールスマンの鞄《かばん》だからね」
不意に、少女は甲高い声で笑い出した。陽気な笑い声だがあまりに長く続き、そこにいくぶん異常な気配があった。
「それじゃ、そのトランクの中には、口紅もいっぱい入っているわけね」
「そういうことになるね」
「へんなおじさんねえ。そのくせ、あたしが口紅をつけていると、文句を言うんだもの」
少女は一層陽気になり、彼の腕を引張って、
「なんだか愉《たの》しくなっちゃったわ。ダンスをしに行きましょう、連れて行って」
「ダンスはできない。コーヒーでも飲みに行こう」
「コーヒーなんて嫌《いや》。お酒を飲みに行きましょう」
彼は黙って、歩き出した。少女は、並んでついてくる。広い通りに出て、街燈《がいとう》の連なっている道を歩いて行った。
「お酒を飲みましょうよ」
少女がもう一度言い、彼はふたたび立止って、少女の顔を眺めた。眼に濡《ぬ》れた光があり、大人の顔になっていた。
「きれいな子なんだな」
と彼はおもい、あらためて訊ねてみた。
「君、本当に高校生か」
「高校三年よ」
「仕方がない、酒を飲みに行こう。その口紅を落したまえ」
「お酒を飲みに行くなら、口紅は落さない方がいいわ。それから、仕方がないことはないでしょう。男は、いっぱいあたしを追いかけてくるわ。おじさんだって、あたしと一緒に行くこと嬉《うれ》しいでしょう」
その口調には、驕慢《きょうまん》なところはなくて、奇妙な素直さがあった。その奇妙さは何か、と考えた彼は、少女の口調に悲しみに似たひびきを見付けたようにおもった。
少女は、頑《かたくな》に口紅を落そうとしない。
スタンド・バーに少女を連れて行って、彼はウィスキーを飲みはじめた。少女はすぐに酔い、椅子に坐ったまま陽気に笑い、茫然《ぼうぜん》とした時間が挟《はさ》まり、また陽気に笑うことを繰返した。彼も酔い、眼の前の少女の顔が赤い唇だけになり、その唇と川村朝子の唇が重なり合い、時折川村朝子のものと擦り替った。
その唇が、不可解なまま記憶の中に埋もれていたことに、彼の心に屈辱に似た気持が喚《よ》び起された。
「教師をやめてからも、なぜ彼女の店に行かなかったのだろう」
眼の前に大きく拡《ひろ》がっている赤い唇にたいして、その不可解さにたいして、兇暴《きょうぼう》な気持が起り、一瞬、襲いかかる姿勢になった。
十三
誘ったのは、むしろ少女の方である。そして、彼がその誘いに応じたのは、兇暴な襲いかかる気持の余韻が残っていたためといえる。
しかし、犯している気持は、少しも彼には起らなかった。
旅館の一室で、少女は一瞬の間に裸体になった。古い制服を改造したとおもわれる紺色の外出着を脱ぎ捨てると、もう少女は居なくなった。剥《む》き出しになったのは、重たく熟した女の躯《からだ》だった。
大きく膨らんだ乳房に、濃い口紅がよく似合った。
布《ふ》団《とん》に横たわった彼は、女の躯を引寄せた。顔と顔とが間近に向い合い、女が笑顔を見せ、それは余裕と媚《こび》とを示しているようにみえた。
彼は一層強く女の躯を引寄せ、二つの躯はそれぞれ横腹を下にして触れ合いながら並んだ。顔が密着するほど近付き、女の顔が鼻ばかりになった。
その鼻の形に、はじめて彼は気付いた。鼻《び》梁《りょう》の通らぬ、まるい、暢気《のんき》な鼻である。横になった顔の中のその団子鼻は、わずかに傾《かし》いでいる。彼はその鼻をつまみ、正しい位置に持上げてみた。指を離すと、鼻全体がわずかに傾ぐ。一瞬、女の顔に子供っぽい表情があらわれかけたが、それはすぐに消えた。暗い、侮辱を受けたような光が眼に浮び、烈《はげ》しく躯を押付けてきた。
その誘いに応じようとすると、女の躯はぎごちなく強《こわ》張《ば》り、頸《くび》の付根から両肩一帯に堅く力がこもった。その部分を解きほぐすように、彼は軽く指先で叩いたが、それは反射的な仕業で、すでに彼は体内に衝《つ》き上げてくるもののために余裕を失っていた。彼の指でなだめるように叩かれた女が、戸惑った恥じらうような笑いを見せたときにも、その笑いの意味を深く考える余裕はなかった。
彼が女の片腕を、頭上に押上げて、あらわになった腋《えき》窩《か》に唇を押当てようとすると、女は烈しく拒んだ。肩をすぼめ、肘《ひじ》を脇腹《わきばら》にめり込ませて拒んだ。彼は、女の大きく膨れた乳房を眺め、爪《つめ》を立て、ふたたび片腕を押上げはじめた。
「厭《いや》」
「…………」
「こわい」
執拗《しつよう》に、彼はその試みを繰返し、ついに女は大きく頭上に持上げた腕を畳の上に落した。そこに脱ぎ捨ててあった肌着を五本の指が掴《つか》むと、その腕は硬直して動かなくなった。躯も、少しも揺がない。女の動作に異常なものを感じ、彼は軽くその躯を揺すぶって、訊ねた。
「どうしたんだ」
「どうしたのかしら」
女は困惑した笑いを見せて、言った。
「いつもと違うわ」
やがて、女の躯から離れて、彼は便所へ行った。部屋に戻《もど》ってきたとき、女は布団の上に坐り、背をかがめていた。指先で、しきりに敷布の一部分を擦《こす》っている。赤い色が、染《し》み付いていた。女は指先に唾《つば》をつけて、その赤い色の上を擦っている。その作業に熱中していて、彼が戻ってきたことに気付いていなかった。
「まさか」
と、彼は呟《つぶや》き、眼を凝らした。
その女の姿態は、女から少女に戻っていた。と同時に、なまなましく女を感じさせるものでもあった。隠れずに傍に立っているのに、覗《のぞ》き見している気分があった。彼は咽喉《のど》の奥で、無意味な音を立ててみた。
狼狽の気配が、あきらかに動いた。いそいで、少女は赤い色の上に坐った。
十四
「君の住まいを聞いておこうか」
「…………」
「それじゃ、ぼくの住まいを教えておく必要があるかな」
「いいのよ、そんなこと」
紺色の手製の洋服に躯を包み込むと、少女は街の中に姿を消した。少女を犯したという感覚は、しばらく経《た》ってから、ゆっくり彼の中に拡がっていった。彼は繁華街に出て、喫茶店の椅子《いす》に坐った。時計の針は、まだ午後九時をすこしまわったところで、街路を往《ゆ》き来《き》する人影が、ガラス窓越しに動いていた。
彼はその人影を見ず、彼の眼には黄色い電燈の光に照らされた旅館の部屋の空間が映っていた。その部屋に入るまでは、彼は少女に鼻面《はなづら》を把《と》って引きまわされていた。
しかし、頸の付根から肩にかけての強張った筋肉の拡がり。脇腹に喰《く》い入るようになった肘。敷布に付いた赤い色は、出血にちがいないが、どういう種類の血だったのか。
「いつもと違うわ」という言葉は、自分が少女であることを恥じての苦しい嘘《うそ》だったのだろうか。
いったい、少女であることを恥じるという心の動きが、あるものだろうか。まだなまなましい記憶の断片と、いくつかの疑問が積み重なってゆくうちに、犯した感覚がしだいに彼の中に拡がっていった。
しかし、それは罪悪感とか責任感には繋《つな》がらなかった。そして、夕焼の中に坐っていたときのあの状態に、ふたたび置かれているのを彼は知った。
彼は、赤く濡れた心持になった。彼の耳は空気中に放電してゆく低い唸《うな》り声に似た音響を聞き、喫茶店の椅子の上で彼の躯はこまかく揺れ動いた。ふたたび、憤《ふん》怒《ぬ》に似た感情が、彼の底から湧《わ》き上ってきた。
細胞内部の環境が、そこに拡がる風景が、みるみる変化してゆくのを、彼は痛切に感じ取った。その瞬間、彼の眼に映ってくる外界の風景にも異変が起りはじめた。
ガラス窓の外を通り過ぎてゆく通行人の中に、時折、動物の姿が混りはじめたのである。
赤茶けて色《いろ》褪《あ》せたたてがみを、使い古し擦り減った歯ブラシのように短く立てて歩いている動物がいる。顎《あご》の下から咽喉にかけて余った厚い皮がゆったりと垂れさがり、色艶《いろつや》のよいその皮が波打つようにだぶついている動物がいる。血をしたたらせながら、咽喉の奥で声をたてて走り過ぎてゆく動物がいる。あるいは、桃色に膨れ上った局部をふさふさした美しい毛並の間から見え隠れさせて歩いてゆく動物もいる。
彼は立上って、藍色のトランクを持上げた。肩に重みがかかり、その重さが一日の労働の記憶を喚び起した。絶え間なく動きまわるのだが、豊かな実りに繋がらないその動きが、虚《むな》しさを誘い出した。なにかが、また躯の中で爆《は》ぜた。
そのトランクを投げ出す考えが頭を掠《かす》めたが、彼はかえってその把《とっ》手《て》をしっかりと握り締め、いまガラス窓の外を通り過ぎた動物のあとを追った。
前を行く両脚の間を見詰め、彼は長く舌を垂らしながら、その動物のあとを追った。藍色のトランクを提げた片方の肩をいからせて追いつづけた。
不意に、前を行く動物が歩みを止め、振向いた。
「何か、ご用ですの」
女の声が聞え、彼の前に人間の女がいた。盛装した人妻風の女で、咎める眼で、彼を見ている。しかし、その眼の奥にはおそらく彼女自身も気付いていない、媚があった。彼は、兇暴な襲いかかる姿勢になった。暗い、港の傍《そば》の公園にいる心持がした。素早く、あたりに眼を配った。
しかし、明るい光が、彼の眼に流れ込んできた。明るく燈火を点《とも》した店《てん》舗《ぽ》が、道の両側に並んでいた。
辛うじて踏みとどまると、慇懃《いんぎん》に詫《わ》びを言った。
「失礼しました。人違いでした」
その地点から彼の家の門口に着くまでの時間に、彼は冷静さを取戻すことができた。
「遅かったのね、疲れたでしょう」
と、彼の妻が言った。
「仕事が終ってから、久しぶりに井村を訪ねてみた」
「井村ですって、井村誠一さんね。木《こ》暮《ぐれ》さんのお通夜《つや》のとき以来でしょう。それで、夕ご飯は」
「うん、井村と一緒に済せた」
と答えてから、まだ晩飯を食べていなかったことに気付いた。彼はすぐに布団に潜ったが、やがて烈しい空腹を覚えた。
十五
翌朝八時頃《ころ》、伊木《いき》の家の門口で訪れる声がした。男の声である。
彼は朝の食事をしていた。丁度、妻が漬物《つけもの》を出しに台所に行ったところだったので、伊木は立上って玄関に出た。
三和土《たたき》の上に、若い警官が立っていた。
「伊木一郎さんですね」
「そうですが」
曖昧《あいまい》な表情で、答えた。少女を犯したという感覚が、あらためて彼の中で拡がった。しかし、あれは法律に触れる形で、犯したわけではない。合意の上でのことだ。それに、少女は彼の住所を聞こうとはしなかった。そのあと、彼は長く舌を垂らして、盛装した人妻風の女を追った。それは痴漢の姿だったかもしれないが、何ごとも起りはしなかった。
一瞬の間に、それだけのことが彼の頭の中を掠めて過ぎた。それでは、なぜ警官が玄関の三和土の上に立っているのか。
「どうかしたのですか」
平気を装って、伊木は訊《たず》ねたが、怯《おび》えと咎《とが》める調子がわずかに混った。
「井村誠一という男を知っていますね」
「井村がどうかしましたか」
「本署に留置されています。井村誠一があなたを身《み》柄《がら》引受人に指名したという連絡がきましたので、本署まで行ってもらいたいのです」
若い警官は、丁寧にそう言った。
「承知しました」
彼はすぐに支度をはじめた。
「井村さん、どうしたのでしょ。あなた、きのうの夜、会っていたのでしょう」
「別れてからあとのことだな。いずれにせよ、大したことはない。身柄を貰《もら》い下げに行けるくらいなのだから」
井村と会っていたという嘘が露見すると困るとおもって、警官には詳しくきかず、急いで出掛ける支度をはじめた。手早く外出の服装を整え、家を出た。家を離れてから、訊ねてみたが、若い警官は何も知らなかった。
井村誠一は、寝不足の腫《は》れぼったい顔で、椅子に坐《すわ》っていた。
「どうしたんだ」
井村は黙って苦笑してみせた。
「どうしたんです」
彼は本署の中年の警官の方を向いて訊ねた。警官はすでに諒解《りょうかい》の付いた軽い調子で、むしろ揶揄《やゆ》するように答えた。
「強姦《ごうかん》未遂です」
十六
都会の空は、珍しく青かった。空気が冷たかった。路上で立止った井村は、ハンカチで顔と頸筋をゆっくりと拭《ぬぐ》うと、生《き》まじめな口調で言った。
「迷惑をかけて済まなかった」
「どうしたのか説明してくれ」
井村は腕時計を眺《なが》めた。針は九時十分前を指していた。
「どうせ、会社は遅刻だな。朝食を食わす店を探して、そこで話すよ。ところで、僕《ぼく》は会社に電話をかけておく。迷惑ついでに、君、僕の家に電話して、一緒に麻雀《マージャン》して徹夜になったと言ってくれないか」
これで井村も、前の夜、伊木と会っていたことになった。その偶然を、奇妙に感じた。午前九時という時刻に、喫茶店が一軒店を開いていた。終夜営業の店なのか、ストーブが赤く燃えていた。
「運が悪かった、いや魔がさしたんだ」
と、井村はハンカチで額を拭い、
「昨日が、木暮の命日だったのを知っていたかい」
「きのう、木暮の通夜の日のことを思い出していたよ。君のことも考えていた。漠然《ばくぜん》と、一年前とはおもったが、命日とは知らなかった」
「社用で酒を飲んでね、家へ帰る電車の中で、ふと命日だったことを思い出したのだ」
強姦未遂、という言葉を、伊木は思い浮べた。命日を思い出して、木暮の家へ行く。木暮の妹恭子に会う。恭子の夫は亡《な》くなっており、恭子は井村が学生の頃あこがれていた女だ……。
しかし、井村の説明は全く違っていた。
電車の中は、そう混雑していたわけではない。井村は窓際《まどぎわ》に立っていた。傍に、人妻風の二十七、八歳にみえる女性が立っていた。彼は木暮の命日を思い出し、つづいて木暮恭子のことを思い出した。青春の日々のことが、鼻の奥に淡い揮発性の匂《にお》いを残して掠め去って行った。
その瞬間から、傍の女の存在が、強く意識されはじめた。それも、きわめて部分的な存在として、たとえば腕を動かすときの肩のあたりの肉の具合とか、乳房の描く弧線とか、胴から腰へのにわかに膨れてゆく曲線とか、尻《しり》の量感とか……、そういう離れ離れの部分のなまなましい幻影が、一つの集積となって覆《おお》いかぶさってきた。
いつの間にか、彼は青春の時期の井村誠一になっていた。肘を曲げて、軽く女の腕に触れてみると、女は躯を避けようとしない。さらに深く曲げた肘で、女の横腹を擦り上げるようにして、乳房を下から持上げた。身を堅くした気配が伝わってきたが、相変らず女は躯を避けようとしない。乳房の重たさが、ゆっくりと彼の肘に滲《し》み込んできた。次の瞬間、彼はその肘を離し、ためらうことなく、女の腿《もも》に掌《てのひら》を押当てた……。
伊木の唖《あ》然《ぜん》とした顔をみて、井村は言った。
「大学生の頃、僕はずいぶん痴漢的行為をやったものなんだ。誰《だれ》にも言わなかったけれど。いや、その行為が僕の青春だったともいえる」
「しかし、君は内気だったのにな」
「君は痴漢になったことはないんだな」
と井村が言い、伊木は一瞬躊躇《ちゅうちょ》して、答えた。
「無いね。大学生の頃にはそういう経験はまったく無い」
「そうだろう。内気だから痴漢になる。気持が内攻して、極点に達したとき、突然痴漢に変貌《へんぼう》するわけだ」
伊木は頷《うなず》いて、話の先を促した。
女は元の位置を少しも動かず、井村の掌は女の腿に貼《は》り付いている。女も井村も、戸外に向いて窓際に立っていた。掌の下で、女の腿が強《こわ》張《ば》るのが感じられた。やがて、それが柔らかくほぐれはじめた頃、女は肘《ひじ》を曲げて拳《こぶし》を顔の前に持上げると、人差指の横側で、かるく鼻の先端を擦り上げた。女はその動作を繰返し、彼はそれが昂奮《こうふん》の証拠であることを知っていた。衣服の下で熱くなり、一斉に汗ばんできている皮膚を、彼は掌の下に思い描いた。
窓ガラスに映っている女の顔を、彼は眺めた。電車の外に拡《ひろ》がっている夜が、女の映像を半ば吸い取って、黒く濡《ぬ》れて光っている眼球と、すこし開いたままになっている唇《くちびる》の輪郭だけが、ガラスの上に残っていた。
その眼と唇をみると、彼は押当てている掌を内側に移動させていった。女は押殺した溜《ため》息《いき》を吐き、わずかに躯《からだ》を彼の方に向け直した。その溜息と躯の捩《よじ》り方は、あきらかに共犯者のものだった。
十七
大学生の頃、井村がしばしば体験した状況になったのである。不思議におもえるほど、女たちは井村の掌から躯を避けようとしなかった。一度だけ、手首を掴《つか》まれて高く持上げられたことがあったが、それ以外は女たちは井村の掌を避けようとはせず、やがて進んで掌に躯を委《まか》せた。
当時、井村誠一は童貞であった。彼は掌に全神経を集め、その掌に未知なるものへの憧《あこが》れを籠《こ》め、祈りさえ籠めて押当てた。
そして、掌の当る小部分から、女体の全部を、さらには女性という存在全部を感じ取ろうとした。彼女たちが躯を避けなかったのは、彼の憧れを籠めた真剣さ、むしろ精神的といえる行為に感応したためか。
あるいは、誰にも知られることのない、後腐れのない、深刻で重大な関係に立至ることもない、そういう状況の中で快楽を掠め取ることには、もともと多くの女性は積極的姿勢を示すのであろうか。
喫茶店で対《むか》い合っている伊木と井村の話は、そこでにわかに下世話《げせわ》にくだけた。二人の顔に、中年の男の表情が覗《のぞ》いた。
「それはともかく、電車の中でいろいろなことを学んだよ。女の怖《おそ》ろしさの片鱗《へんりん》も、最初に知ったのは電車の中だ。夏だった。三十くらいの人妻とおもえる女でね、丁度きのうのように、電車は空《す》いていたが、並んで窓に向いて立って、触っていた。ブラウスの胸がしだいに盛り上ってきた。電車が停《とま》って、三人の乗客が入ってきた。そのうちの一人に、その女と知り合いの女がいたんだな。同年配の女なんだ。どういう具合になるかみていると、今まで乱れていた呼吸がすうっとおさまって、いかにも親しげで同時に儀礼的な挨拶《あいさつ》を換《か》わしはじめた。顔色も態度も少しも乱れたところがない。こわいとおもったね」
「なるほど、しかし、君のように思い詰めた触り方をしている男ばかりではないだろう。もっと気楽に触っている痴漢も、いるんだろうな」
「たしかに、いたね。また、そういう人物のうちに名人がいる。満員電車で、斜めに傾いた棒になってしまった女性がいた。床に倒れないのは、満員のせいで、周囲の男の乗客は皆にやにや笑っている。誰かは分らぬが名人が一人いてその女を倒したわけだ」
「えらいやつがいるね」
「しかし、その女もえらい。ある瞬間から自己放棄して、倒れてしまったわけだが、えらいものだ」
「電車の中で共犯者同士になったとしたら、そのあと、電車を降りて一緒に……、という例もあるだろうね」
「それは無い。少なくとも、僕には無い。電車が目的地に着くまでの、掌と躯の部分だけの関係で、それ以上求めないのがエチケットとも言えるね。きのうは、そのことを守らなかった。だから、僕が悪いとも言えるわけだが……」
女が電車を降りるとき、不意に井村もつづいて降りる気持になった。彼の掌の下で熱した皮膚と、押殺した溜息を思い浮べ、夜道を女のあとから歩いて行った。
薄暗い、人影の疎《まば》らな道で、二人の足音だけがひびいた。その二つの足音が一つに合さってわずかな時間つづいたとき、女は歩みを遅くした。追付くのを待つつもりかとおもったのは彼の考え違いで、一つになった足音を二つに引《ひき》剥《は》がすためだった。足音が二つになると、不意に女は走り出した。釣《つ》られて、彼がおもわず走り出したとき、女は赤い軒灯の家に飛び込んだ。
替りに警官が走り出てきた。赤い軒灯は、交番のしるしで、井村は逮捕されてしまった。逃げようという気持もなかった。咄《とっ》嗟《さ》に成り行きが、飲み込めなかったこともある。
「この男です。この男に、強姦されかかったんです」
女は昂奮状態に在った。眼が釣り上って狐《きつね》に似た顔になり、人差指を真《まっ》直《す》ぐに伸ばして、彼の鼻の前に突きつけた。
「そんな無茶な」
「なにが無茶ですか。わたしが電車から降りるのを、電柱の陰で待っていて、いきなり飛びかかってきたじゃありませんか」
「電柱の陰で待っていたなんて、あなたとは電車に乗り合せていたじゃありませんか。降りる駅が一緒だっただけですよ」
「嘘《うそ》ばかり。電車の中には、こんな男はいませんでした」
井村は自分の嘘へのうしろめたさと、女の嘘への腹立たしさで、一瞬逆上した。警官が女に味方した。井村が、駅で降りてからの行先を言えなかったからだ。その町には、井村は詳しくなかった。井村は反抗的となり、女は強姦未遂を主張し、結局本署の留置場に入れられてしまった。主として、井村の反抗的態度のためである。
朝になって、女から申し入れがあった。夜道で男にあとをつけられたので、恐怖のあまり幻覚を起した、と女は言った。
結局、電車の中での出来事は、時間の裂け目に陥《お》ち込んで消え去ってしまった。
「一晩留置場で考えたが、電車の中の行為はやはり青春の時期に属すべきものだ、と分った。その時期には、痴漢的だが、痴漢ではない。現在では痴漢になってしまう……」
と、井村は言う。その接触行為は、女性への憧れが変形した青春の世界のものであるべきだ。触られる女性の側にしても、男性への憧れ、あるいは性への憧れがその底にあり、憧れと憧れとが照応してゆく凝縮した魔の一刻といえる。
「だから、その時間は、現実の世界に戻《もど》ったときには消え去らなくてはいけないものなのさ。その点では、女の言ったことは正しい。判断を謬《あや》まったのは僕の方だ。ということは、僕も中年になったということなのかな」
「中年になった、ということかな」
伊木《いき》は鸚《おう》鵡《む》返《がえ》しにそう言った。
井村誠一が夜道を女のあとから歩いて行ったと同じ時刻に、あるいは自分も藍色《あいいろ》のトランクの重たさに肩をかしげながら女の後を追っていたのかもしれない。
しかし、それはやはり、中年になったということなのだろうか。井村の姿勢と自分の姿勢と同じものなのだろうか、と伊木一郎は曖昧な心持で考えていた。
十八
その日、夕暮になったとき、にわかに伊木は前の日の少女に会いたくなった。
「あの少女の不均衡なところが、自分を誘うのだ」
と、彼はそう思ってみた。
白粉《おしろい》気《け》のないうぶ毛に覆われているようにみえる顔と、輪郭からはみ出るほどに真紅に塗られた唇。高校生の制服に似た紺色の洋服と、その下からあらわれるにくにくしいまでに大きく熟した乳房。余裕と媚《こび》を示す笑顔と、生硬な身のこなし。そういう不均衡がしきりと彼を誘った。
しかし、その日は、彼は自制した。自制したといっても、少女に会える確実な方法があるわけではない。観光塔に昇って、少女を待ってみることを彼は思いとどまったのである。
次の日になると、誘うのは少女の躯だということに、彼は気付いた。少女の不均衡が彼の精神を刺《し》戟《げき》してくるのではなくて、もっと端的に、少女の躯を求めている。前の日、彼が思い浮べていた数々の不均衡は、少女の躯のための香辛料だったことに気付いた。
その日の夕暮から、彼は計画的になった。藍色のトランクを駅の一時預かり所に置いて、観光塔に昇った。
三日目、少女は塔の上にいた。
「今日会えるとはおもわなかったわ」
「毎日、昇っていたのだからね」
「待っていたのよ」
と少女は言い、いそいで付け加えた。
「用事があって」
彼は少女の顔を眺めた。相変らず、唇だけ真紅に塗ってあった。
「だけど、なぜ毎日塔に昇っていたの」
「きみに用事があってね。ともかく、降りよう」
塔の下で、彼は少女を誘った。
「厭《いや》」
「どうして。この前、誘ったのはきみの方だよ」
「もう、厭」
彼は少女の腕を掴んで離さず、誘いつづけた。後《しり》込《ご》みもせず躇《ため》らいもせず、明確な目標をもった人間の態度で誘いつづけた。すぐ眼の前で、濃い口紅の唇が開きかけては言葉にならずに閉じることを何回か繰返しているのを見て、彼は川村朝子のことを思い出した。そして、二人の少女に対する自分の姿勢の変化に、自分で驚く気持になった。
少女は躯を避けようとして、二人は揉《も》み合ったが、彼は掴んだ腕を離さない。不意に少女は温和《おとな》しくなり、頷くと彼に躯を寄せて歩き出した。
旅館の玄関に立って、案内を乞《こ》うと、遠くで返事だけあってなかなか人影があらわれてこなかった。少女と並んで三和土《たたき》に立って待っている時間に、彼は少女の躯に詰っている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋《くびすじ》の艶《つや》のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くなっており、皮がだぶついているような気持になった。
待っている時間は、甚《はなはだ》しく長く感じられた。ふたたび、何かが躯の中で爆《は》ぜ、兇暴《きょうぼう》な、危険な漿液《しょうえき》が躯に充《み》ちてくるのを感じた。
十九
部屋に入ると、また少女は抗《あらが》いはじめた。
「厭。やっぱり帰る。このまま帰して」
少女の二つの肩に彼は左右から掌を当て、その躯を挟《はさ》み付けるようにして引寄せると、少女は顔を背けて、首を左右に振りつづけた。
「どうして。用事があると言ったじゃないか」
「そんな用事じゃない」
少女の眼から、涙が流れ出した。一粒一粒が睫毛《まつげ》の先端まで伝わって、そこから床に落ちてゆく。少女の睫毛が長く密生していることに、彼ははじめて気付いた。
「なにも泣かなくたって、いいじゃないか。子供じゃあるまいし。それにしても綺《き》麗《れい》な睫毛だな」
苦笑しながらそう言い、こういうときに苦笑できる自分に、彼はもう一度驚いた。そのとき、彼の両方の掌で挟み込んでいた少女の躯がにわかに柔らかくなり、
「分ったわ、もう帰るとは言わない」
この前の時と同じに、少女は自分で衣服を脱ぎはじめた。しかし、この日は脱ぎ終るまでに時間がかかった。また、前のときには、裸体になった瞬間、少女が消えて重たく熟した女の躯があらわれたのだが、いまは彼の眼の前から少女が消えて行かなかった。
「どうしたのだろう」
と彼は呟《つぶや》いたが、はっきり形を成さないながらもその答が分りそうな気持がした。あるいは、漠然《ばくぜん》とした予感があったために、少女の躯がそのように彼の眼に映ったのかもしれない。少女は躯を強張らせ、苦痛を訴えつづけ、すこしずつ擦上《ずりあが》っていった。眉《まゆ》と眉の間に深い縦皺《たてじわ》が刻まれ、それが少女の顔を歪《ゆが》め醜くした。そして、その皺は最後まで消えなかった。
少女はしばらく凝《じ》っと動かなかったが、躯を伊木の方へ向けると、言った。
「名前を教えてください。あたしは、津上明子です」
「伊木、伊木一郎」
と、彼はいくぶんあわて気味に答えた。
「伊木さん、伊木さんには分ったでしょう、あたしが男を知らなかったこと。それが重荷になっていたの、重荷になる理由があるのよ。はやく無くしてしまいたかった」
津上明子は、入り組んだ気持を、自分でもときどき迷いながら説明した。はやく無くしてしまいたかったが、その相手を見付けることができない。男というものは、危険で不安な存在だった。また、その前で裸体になることを考えると、恥ずかしさで耐え難《がた》くなりそうだった。
偶然、伊木と口をきくことになった。ずいぶん年上におもえた。十八歳の娘からみれば、四十に近い男は、父親であっても不思議のない存在にみえる。明子は、伊木に男を感じなかった。いや、男を感じないというよりも、自分が恋愛したり結婚を考えたりする対象の男たちとは、異なった範囲にいる男と言った方がいい。
明子にとって、伊木はかけ離れた存在であり、なまなましく男を感じさせるものではなかった。彼の前では、比較的容易に裸体になれる気持がした。厄介《やっかい》な荷物を取払ってくれる道具として彼を利用しようと試みた。しかし、やはり道具と見做《みな》してしまうことは十分にはできず、明子は自分が処女であることを隠そうとした。男をよく知っている女のように振舞おうとさえした。
用事があって彼に会おうとしたというのは、嘘ではない。しかし、会った瞬間、今日の明子は彼に男を感じはじめた。すでに、かけ離れた存在とは感じられなくなっていた。そして今は、明子にとって彼は伊木一郎という名を持った男となって、躯を合せて横たわっているのだ。
彼は黙って、聞いていた。津上明子の言葉についての感想を、咄嗟には纏《まと》めかねた。
「それじゃ、用事というのは」
「あたしの姉を、誘惑してしまって。そうしてほしいの」
彼は唖《あ》然《ぜん》として、少女の顔を眺《なが》めた。津上明子は、自分が真紅に唇《くちびる》を塗って塔に昇ったのも、自分の処女が重荷になったのも、すべてその姉のせいだ、という意味のことを彼に告げた。
二十
津上明子という少女が、伊木に告げた事柄《ことがら》を、要約してみよう。
明子の両親は、五年前に相次いで病死した。以来、姉京子が親替りである。京子は酒場勤めをして生計を立て、明子を高校に通わせてきた。京子は口癖のように、明子に言う。「女は身持が大切よ」、あるいは「純潔が大切よ」とも言う。そして、京子自身、酒場が閉店になると、真直ぐに帰宅してきた。
そういう姉を、明子は母親のように慕ってきた。姉の言葉をいつも心に留め、まじめな生徒だった。男子生徒との交際については、臆病《おくびょう》過ぎるくらい控え目だった。
京子の結婚についての話題が、姉妹のあいだに出ることがある。そのときには、「明子が卒業して一人前になるまでは、そのことは考えない」というのが、京子の印で捺《お》したような言葉であった。
その京子の隠された生活を、ある機会に明子は知ってしまった。昼間の短い時間に、京子の秘密が畳み込まれていたのである。そして、明子はその姉への反逆の姿勢を取りはじめた……。
「そのくせ、あたしが知らないとおもって、純潔が大切よ、と言うのよ。厄介な荷物みたいに捨ててやりたいとおもうのも、無理はないでしょう」
と、明子が言う。伊木は曖昧《あいまい》な表情になって、
「しかし、姉さんがきみの知らない男とホテルの入口をくぐるところをみたというが、見たのは一度だけなんだろう」
「そうよ」
「それじゃ、恋人かもしれないじゃないか。恋人とホテルへ行ったって構わないとおもうね」
「…………」
「もし恋人だったとしたら、ぼくの立入る余地はないだろう」
明子は返事をしない。この少女は、女親替りの姉を他の男に取られたことに苛《いら》立《だ》っているのだろうか、とも彼は考えた。
「きみの言うように、いろんな男とホテルへ行っていたとしたら、今更ぼくが誘惑したって仕方がないじゃないか」
「ひどい目にあわせてほしいの。あたしの知っている人に、ひどい目にあわせてもらいたいの。そして、そのことをあたしに教えて」
少女のこの言葉は、自分自身への悪意で一杯になり、唇を真赤に塗って塔へ昇ってゆく行為と同じ次元のものだ、と伊木一郎は感じた。
「ともかく、きみの姉さんのいる場所を聞いておこう」
津上京子の働いている酒場の所在を、伊木は手帖《てちょう》に書き記した。
二十一
目的の酒場は、奇妙な名の付いた店だった。バー「鉄の槌《つち》」といい、木製の看板にハンマーの絵が浮彫りにしてあった。
北欧風の室内で、落着いた雰《ふん》囲気《いき》は、勘定書の高額そうな気配にも通じる。伊木は一瞬たじろいだが、やがてスタンドで飲めば、彼の収入でも時折顔を出すことができる程度と分った。
国産のウィスキーを飲んでいる眼の前に、やはり木製の額があって、『鉄ノ槌ガ水ニ溺《オボ》レルゴトク酒徒ハ酒ニ溺レルベシ』という文字が装飾模様とともに彫り付けてある。
その店を訪れてから一カ月の間、伊木は性の中に溺れ込んだ。相手の女は、津上京子である。しかし、その期間、彼はふしぎな充実の中にいた。性が、彼に襲いかかってきたのではなかった。性が、アメーバ状の掌《てのひら》のようなもので彼の口や鼻《び》腔《こう》を塞《ふさ》ぎ、粘った赤黒い液体の中で彼を窒息させようとする……、そういうことは起らなかった。
伊木一郎の加虐《かぎゃく》的な兇暴な感情と、それを受止める京子の躯《からだ》とが、ふしぎな調和を示したのである。それは危険な平衡の上に立つものではあったが……。
初めて、バー「鉄の槌」を訪れた夜、彼はスタンドに坐《すわ》って、客と女たちの会話に耳を傾けた。やがて、その中から京子という名前を拾い出した。明子との繋《つな》がりは切り捨てて、京子については何の知識もない客として、彼はその女と対《むか》い合った。それに、京子の顔には、明子を思い出させるものが、ほとんど無かった。
「きみ、何という名前なの」
「京子です」
「苗字《みょうじ》は」
「そんなこと、どうでもよろしいじゃありませんか」
「もしも、ぼくと同じだったら面白《おもしろ》いとおもってね」
「どうして面白いの」
「女房のような気がする」
京子は、ゆっくりと躯を前に折り曲げ、口を軽く開いて声のない笑いをつづける。技巧的な笑いで、彼の大して面白くもない冗談を受止める。また、ゆっくりと躯を元の位置に戻《もど》しながら、微笑を含んだ眼で彼をすくい上げるように見る。その身のこなしが、淑《しと》やかにもみえ、また粘り付くようなしたたかなものも感じさせる。
眼の白い部分が、薄い灰色にみえ、それが彼の官能を唆《そそ》った。
「それで、苗字は」
「津上です。案外、めずらしい苗字だから、同じというわけにはいかないとおもうわ」
「ぼくは、伊木《いき》というんだ」
「それじゃ同じ苗字の人なんて、滅多に会わないでしょう」
ともかくも、くつろいだ空気になった。
昔の伊木は、初対面の女性と、こういう具合に会話に入ってゆくことはできなかった。セールスマンという仕事が、こういう呼吸を覚えさせたといってよい、と彼はおもった。
誘惑してほしい、ひどい目にあわせてほしい、と明子に頼まれたが、その言葉どおりに振舞うつもりでいたわけではなかった。唯《ただ》、津上京子の淑やかのようで、したたかな身のこなし、薄い灰色の白眼をみていると、官能が鋭く刺戟され、憤《いきどお》りに似た感情が衝《つ》き上げてくる。
「ひどい目にあわせてやりたい」
と、伊木ははじめてそうおもった。
三日間、彼はその酒場に通った。三日目に、京子の耳もとでささやいてみた。
「明日の夕方、会いませんか」
京子は黙って彼の顔を見ている。訊《たず》ねるような、その先を促しているような、迷っているような曖昧な眼である。
「競輪で、すこし金を儲《もう》けた。だから、その金を使ってしまいたいのです」
それは嘘《うそ》と分る言い方を、彼はした。嘘と分ることによって、その言葉の裏を判じてくれ、一緒にホテルへ行ってくれれば若干の金を手渡そうという意味を悟ってくれ、という言い方である。
もしも明子の見た相手の男というのが、京子の恋人でないとしたら、幾人かのうちの一人であるとしたら、この言い方で反応が起るかもしれぬ。少しも自信はなかった。わずかの可能性に、縋《すが》ったのだ。
二十二
津上京子の乳房の横に、そのふくらみを取囲むように青い痣《あざ》が三つ並んでいるのを、伊木は見た。生れつきの痣ではなく、乳房を掴《つか》んだ男が折り曲げた指先を肉の中にめり込ませた痣のようにみえた。
被虐の趣味があるのか、と訊ねてみた。
「無いわ。気違いみたいになって、噛《か》む男がいるのよ」
眼を伏せて、京子は答える。控え目な口調と裏腹の、露骨な言葉である。
「どんな男だ」
「それは、言えないわ」
伊木の四肢《しし》のなかに、京子の躯が嵌《は》め込まれた。乳房の痣は、彼の裸の胸の下に隠れた。そのままの姿勢で、会話がつづく。
「若い男か」
「若くない」
「じじいか」
「あなたくらいの齢《とし》よ」
「噛むのは、その男だけか」
「そうよ」
「きみは誰《だれ》とでも寝るのか」
「…………」
「金をくれる男とは、誰とでも寝るんだな。だから、こうやっておれと寝ているんだ」
「…………」
「淫売《いんばい》と同じじゃないか」
彼は京子の耳に口を寄せ、ときどき耳朶《みみたぶ》を軽く噛みながら、そういう言葉を耳の穴に注ぎ込む。侮辱的な言葉が流れ込むたびに、京子の躯は烈《はげ》しく反応した。黙って、敷布の上の首を左右に烈しく振りながら、しだいに強い快感の表情が浮び上ってきた。
伊木は背を反らし、上半身を京子の胸から離した。両脚の間には、京子の下半身がしっかり嵌め込まれている。攻撃的な気持は、依然として続いている。彼は掌を拡《ひろ》げ、京子の片方の乳房の上に軽く置いてみた。そのまま、指先を内側に折り曲げる。すると、親指と中指と薬指の先端が、その三つの痣の上に載った。
「噛んだ痣じゃないな」
「…………」
「この嘘つきめ」
「ごめんなさい」
京子は、きわめて技巧的にその詫《わ》びる言葉を言った。咽喉《のど》の奥で、その言葉を鳴らした。それは詫びるのではなく、男を唆り、男に期待している。
「強く掴んだ痕《あと》だ。こういうふうに」
彼は、力を籠《こ》めて、乳房を掴んだ。掌に乳房は一ぱいになり、五本の指の隙《すき》間《ま》を、ぎっしり白い肉が満たした。指先が肋《あばら》の骨に突当ると、彼は一層指を内側に折り曲げ、まるで乳房を掴み取ろうとするように掴み上げた。
「掴んでくれ、とその男に頼んだのだろう。もっと強く、と言い続けたのだろう」
力を加えながら、そう言う。また、京子は烈しく首を左右に振りはじめた。声を出しはじめ、やがてそれが言葉になった。最後まで、痛さを訴える言葉は、京子の口から出てこなかった。
不意に、伊木が掴んでいる乳房のまわりの空間に、白い色が走った。一瞬、彼は判断が付き兼ねた。乳首から、白い液体が迸《ほとばし》ったのである。わずかな分量だが、間歇《かんけつ》的に三度続いた。乳白色の水滴が、点々と乳房の上を飾った。悦《よろこ》びのために流れる白い涙のようにみえた。また、その白い水滴に、女体の悲しみが凝縮しているようにも、彼の眼に映った。
にわかに、京子の躯は静かになった。恥じらいが戻ってきて、急いで布《ふ》団《とん》で躯を隠した。
「妊娠しているのじゃないか」
「そうじゃないの」
極度に昂奮《こうふん》したときに、強く圧《お》されると、乳汁《にゅうじゅう》が出る体質なのだ、と京子は言う。彼は京子の躯を覆《おお》っている布団を剥《は》がし、もう一度、乳首を眺めた。三つの痣は、その範囲を拡げてはいなかったが、気のせいかその青味がかった色を濃くしているように見えた。
二十三
喫茶店で待ち合せて旅館へ行くことを繰返したが、その日、伊木は待ち合せの場所を変えた。海沿いの公園を、彼はその場所に指定した。夕焼の中に躯を置いて、自分をたしかめてみたいとおもったのだ。
その日は晴れていたが、寒さが厳しかった。京子はまだ姿を見せない。夕焼もまだ始まらない。彼は、公園の中を、歩きまわっていた。堅く乾いた地面を、靴《くつ》の踵《かかと》で蹴《け》りつけるようにして歩き、寒さを忘れようとした。
時折、立止って、たしかめるようにベンチの方を眺める。その鉄製ベンチの上には、藍《あい》色《いろ》の矩《く》形《けい》のトランクが載っている。人影疎《まば》らな冬の公園の中で、そのトランクは置き忘れられたもののように見えた。
駅の一時預かり所にトランクを置くことを、彼はこの前のときからやめていた。金属製の堅固なトランクを提げて歩く姿は、身軽な旅行者のものではなかったが、京子と会うときに気取りは不要になっていた。不十分な金しか京子に渡せない、そういう男が気取ることはない。
彼はベンチに歩み寄り、腰をおろし、刻々と色を濃くしてゆく夕焼を全身で受取ろうとして凝《じ》っと坐っていた。やがて、憤《ふん》怒《ぬ》に似た感情が、彼の底から湧《わ》き上ってきた。
しかし、この日の伊木一郎には、その憤怒に似た感情を受《うけ》容《い》れる相手があった。津上京子の躯が、彼の憤怒をそのまま受容れ、苦痛の替りに歓喜の声をあげ、やがて最後に白い涙を垂らす。
その白い涙を美しく思い出し、また、周囲に拡がっている夕焼を美しいものとして眺《なが》めた。夕焼の中で、彼は奇妙な充実を覚えた。
伊木の躯は、京子の躯を待った。
公園の門の傍《そば》にタクシーが停《とま》り、京子の姿が見えた。彼は急ぎ足で近寄り、声をかけた。
「そのままで、降りないで」
タクシーの中は、温室のように暖かかった。
「寒かった」
と、彼は呟《つぶや》いた。
「当り前よ、冬の公園で待ち合せをするなんて。どうしたわけ」
「夕焼が見たかったんだ。夕焼がはじまる前だったら、きみもすぐには公園から出られなかったわけさ」
「遅れて、丁度よかったわ。でも、夕焼が見たいなんて、ロマンチックなのね」
「そうだ、今日の夕焼は、たしかにロマンチックだった」
と彼は答え、傍の津上京子の躯をロマンチックに感じた。
伊木は、加虐の嗜《し》好《こう》は持っていない。もっとも、どんな人間の心の底にも、その傾向の種子は埋もれている。そして、彼の中の憤怒に似た感情と、京子の淑やかで同時にしたたかな身のこなしが、彼の心の底の種子に働きかけ、小さな芽を出させた。
「ひどい目にあわせてほしいの」
という津上明子の言葉も、彼の耳の奥で鳴る。
しかし、彼が京子の躯に加える荒々しい力は、抵抗なくその躯の中に吸収され、かえってその躯を生き生きとさせ、その皮膚は内側から輝きはじめる。
その日の夕方、彼は躯を重ね合せた形のまま京子の両腕を、頭上に押上げようとし、京子は肘《ひじ》を脇腹《わきばら》に押当てて、拒んだ。
彼は、明子のことを思い浮べた。明子は、肘を脇腹にめり込ませて拒んだ。
その懸命な拒否に比べて、京子の拒み方には、どこか馴《な》れ合いの感じがあった。
京子の両腕は、しだいに彼の力に従い、やがて大きく頭上に上った。
彼は、京子の左右の手首を掴み、交《こう》叉《さ》する形に引絞った。京子の左右の耳《じ》殻《かく》に、左右の腕の上膊《じょうはく》の肉が押当り、両腕が搾《しめ》木《ぎ》となって頭を挟《はさ》み付けた。
あらわになった腋《えき》窩《か》に彼が唇《くちびる》をおし当てたとき、京子は嗄《しわが》れた声で、叫ぶように言った。
「縛って」
その声が彼をかえって冷静に戻した。
「やはり、その趣味があるのか」
京子は烈しく首を左右に振りながら、言った。
「腕を、ちょっとだけ縛って」
畳の上に、脱ぎ捨てた寝衣《ねまき》があり、その傍に寝衣の紐《ひも》が二本、うねうねと横たわっている。
彼は、その二本の紐の端を結び合せ、京子の左右の上膊に絡《から》ませて、ふたたび引絞った。京子の両腕は一層強力な搾木となり、頭部を両側から挟み付けた。京子は、呻《うめ》き声を発したが、それが苦痛のためか歓喜のためか、判別がつかない。
旅館を出て、タクシーに乗った。京子を店の近くまで送り、彼はそのまま去るのがいつもの例である。タクシーが走り出して間もなく、
「しまった、忘れた」
と、彼は呟いた。
京子は反射的に、視線を彼の足もとに落した。そこには、藍色のトランクが置かれてある。
京子は、訊ねる眼を、彼に向けた。
「ライターなの」
「…………」
「手帖《てちょう》」
彼は、しばらくの間、曖昧《あいまい》な表情をつづけていた。やがて、困惑を含んだ笑いが浮び、それが薄笑いに変り、彼は京子の耳に唇を寄せてささやいた。
「紐の結び目をほどいて置くのを忘れた」
京子の顔に、羞恥《しゅうち》の色が浮び、片方の肩を捩《よじ》るように躯《からだ》をくねらせ、横腹を彼に擦りつけた。
「いやあね」
京子は、低い声で笑いはじめ、その官能的な笑い声はしばらく続いた。彼は、畳の上に横たわっている二本の紐の一方の端が、固い結び目になっている光景を思い浮べた。京子の躯と彼の力とによって、喰《く》い入るように固くなっている筈《はず》の色情的な結び目を、彼はなまなましく眼に浮べた。
その結び目は、彼にとっては色情的ではあったが変態的なものではなかった。
唯、部屋を片付けに入ってきてその紐をつまみ上げる女中の姿を考えたとき、その結び目は不意に、変態的なものに変貌《へんぼう》した。
二十四
その翌日の夜、伊木一郎は「鉄の槌《つち》」に出掛けて行った。
前の日、彼は二本の紐の結び目に気を取られて、京子との次の約束の日を定めるのを忘れた。彼の躯《からだ》は京子の躯をしきりと欲《ほっ》したので、彼は京子のいる店に赴いたわけだ。
スタンドに坐《すわ》って彼は待ったが、京子はなかなか傍に来ない。奥のボックスの一つが、際《きわ》立《だ》って賑《にぎ》やかなので、彼はその方を見た。女たちが、その席に集って、華《はなや》かな笑い声が湧き上っている。
その席の中心に、彼も顔を知っている映画スタアの梅村晃《あきら》の鷹揚《おうよう》な笑顔が見えた。
伊木は、いくぶん苛《いら》立《だ》って、京子を待った。京子も、その席にいる。
ようやく、京子が彼の傍の椅子《いす》に腰をおろした。
「ごめんなさい。やっぱり、直《す》ぐに立ってくるわけにいかないの」
「どうして」
「だって……、お店の良いお客さんですもの」
不意に、京子の乳房の横の三つの青い痣が、彼の眼に浮び上った。その痣と、梅村晃の力を籠めた指先とが重なり合った。
彼は頭を振って、その妄想《もうそう》を追い払おうとして、取《とり》敢《あ》えず別の質問をした。
「この店も、なかなか有名な人がくるんだね。ほかに、どんな連中がくるのだろう」
「そうねえ……」
と、京子はちょっと考えて、
「花田光太郎もくるわ、小説家の……」
おもわず、彼は顔を歪《ゆが》めた。京子の考えたわずかの時間が、わざとらしく思われはじめた。またしても、京子の三つの青い痣が浮び上り、それが花田の指先と重なり合った。一層、彼は苛立った。
彼は黙っていた。京子もそれ以上、花田の名を口に出さない。それが、彼に疑わしく思えてくる。
そのとき、京子は媚《こび》を含んだ眼で、肩を寄せてきた。そして、指先で衣裳《いしょう》の袖《そで》をつまみ、わずかに持上げてみせた。
短い袖が持上って腕の付根に一瞬あらわになった小麦色の皮膚に滲《し》み込むように、青紫色の線が見えた。その細い紐ほどの幅の線は、輪ゴムを上膊に嵌めたような形に京子の腕の付根を取囲んでいる。
「こっち側にもできたのよ」
京子は、反対側の腕を袖の上から押えて、彼の眼の中を覗《のぞ》いた。
彼は自分の指で、そっと京子の袖を持上げてみた。その輪の形をした青紫色の痣《あざ》を、彼はロマンチックなものに感じた。小麦色の皮膚に滲み込むように痕を残しているその痣自体がロマンチックにおもえるのか、自分しか知らぬ痣の、秘密の気配をそう感じるのか、またしても彼は迷った。
「当分、ほかの男と浮気できないね」
と、彼は言ったが、その念を押すような調子を、自分で鬱陶《うっとう》しく感じた。
しかし、津上京子が、
「そうなの、その痣が消えるまでは、できないわ」
と答えるのを聞くと、その言葉を弁解めいて感じてしまう。そして、苛立たしさが、彼の全身に拡がってゆく。
二十五
津上京子との約束の日を、伊木《いき》は苛立ちながら待った。
その日、京子の腕の二つの輪は、未《ま》だ消えずに残っていた。その左右の上膊を取囲んでいる薄紫色の痕を、彼は指先でなぞってみた。
「燃えるの、赤く燃え上るの」
「…………」
「痣になって残っている間は、いつもそこのところが燃えているの」
その言葉は、彼の考え及ばぬことであった。躯を重ね合せながら、彼は京子の耳もとでささやいた。
「ほかの男に抱かれているときにも、燃えているのか」
「そうよ」
「そのとき、その痣をつけた男のことを考えているのか」
「考えているというのではないけど、燃えている感じのなかに、なんとなくその人の感じが含まれているわ」
彼自身のつけたその痣を消してはいけない、とおもった。京子が他の男と躯を重ね合せているときにも、彼は青紫色の輪となって京子の躯に纏《まつ》わり付いていよう、とおもった。女体にたいして兇暴《きょうぼう》に燃え上った彼の細胞は、今ではその対象を限定しはじめた。数日間の苛立ちによって、女体に「津上京子」という特定の名札が付くことになった。
彼はその日もまた、寝衣の紐を京子の腕に絡ませた。薄紫色に色《いろ》褪《あ》せ消えかかっている痣の上に巻き付け、左右に烈《はげ》しく引絞った。
歓《よろこ》びの言葉が、京子の口から出た。彼は力を加え、眉《まゆ》の間に縦皺《たてじわ》の寄っている京子の顔に、荒い声を浴びせかけた。
「おい、梅村晃と寝たか」
布団の上の首を、京子はゆっくりと左右に回した。片頬《かたほお》が敷布に触れ、首が反対側に回って別の頬が敷布に触れる。そのことをゆっくりと繰返す。否定の形だが、肯定しているようにもみえる。
「どうなんだ」
京子はその動作を、繰返しつづける。
花田光太郎の名前を口にして詰問《きつもん》しようとして、彼はためらった。花田と京子とが抱き合っていることを想像すると、耐えられない気持になる。しかし、口に出してたしかめることに、彼は屈辱を感じた。
京子は、依然として、ゆっくりと首を左右に動かしていた。
二十六
数日経《た》って、伊木一郎が「鉄の槌」の扉《とびら》を開いたとき、店の奥に花田光太郎の姿が見え、寄添う形で京子が並んでいた。
彼は反射的に、半開の扉の陰に身を隠そうとし、その自分の態度に腹を立てた。かえって、彼は大きく扉を開き、藍色《あいいろ》のトランクを提げたまま一直線に花田の席に歩み寄って行った。
「伊木じゃないか。君もこの店にきていたのか。ここで一緒に飲もうや」
と花田は声をかけ、その磊落《らいらく》さに伊木はかえって傷つきかかったが、黙ってその席に坐った。花田の視線はたしかにこの場に不似合な藍色のトランクを捉《とら》えていたとおもえたが、花田は何も言わなかった。
「あら、花田さん、伊木さんとお知合いなの」
「旧《ふる》い友だちだ」
花田が答え、
「気の置けない友だちだよ」
と言って、離れた京子の躯をふたたび抱き寄せた。京子はそのまま、躯を花田に靠《もた》れかからせている。観察する眼を伊木は向けたが、二人の関係については判断が付かない。京子を抱えている花田の掌《てのひら》が、丁度、京子の上膊を着物の上からおさえている。
花田の掌の下に、輪の形をした青紫色の痣がある。そのことを花田は知っているのだろうか。その痣は自分が付けたものだ、という事実を、伊木は心の支えとした。
そのとき、花田が京子の耳もとに冗談ごとをささやき、大きく笑いながら掌を内側に曲げ、京子の腕を堅く掴《つか》んだ。
「あ」
京子は小さく叫んで、躯を深く折り曲げた。ゆっくりと顔を上げながら、躯を捩った。眼が伊木に向けられている。眼の白い部分が、薄い灰色にみえる。そして、その眼に潤《うる》んだ光が溢《あふ》れた。
その眼は伊木に向けられていたが、はっきり焦点を結んでいないことに、彼は気付いていた。
「痣が燃えている」
と、彼はおもった。
京子の眼は、頭の中に浮び上った影像に焦点が合っている。その眼は、いま、左右の腕に輪の痣がついたときの自分たちの姿態を見ていることはたしかだ。あの痣を消してはならぬ、と呟きながら、彼は花田に抱きすくめられている京子を見詰めていた。
「どうしたんだ」
花田の声が聞える。
「そこは、駄目《だめ》なの」
京子が答えている。
「どういう具合に、駄目なんだ」
「とにかく、駄目なの」
「性感帯かな、へんなところに在るものだなあ」
その酔った声を聞いて、京子と花田とは今のところは関係が無い、と伊木は判断を下した。
京子の躯を離した花田は、やや憮《ぶ》然《ぜん》として煙草《たばこ》を喫《す》いはじめた。半ば放心し、半ば漠然《ばくぜん》と何ごとかを思い描いている表情で、ゆっくりと煙を吐き出している。
京子は、花田の顔を窺《うかが》い、一瞬困惑の表情になって、言った。
「煙草を喫っている先生って、とっても素敵。あたし、いつもそうおもって見ているの」
金払いの良い客の機《き》嫌《げん》を取っている口調だ、と伊木は思おうとした。しかし、そのとき花田の顔を掠《かす》めた甘い表情によって、その言葉はこれまでにも幾度か京子の口から出たのかもしれぬ、とおもった。もっと多くの言葉、花田の心を擽《くすぐ》る言葉と一緒に言われていたのではないか。
伊木は、咎《とが》める眼を向け、その眼と京子の眼と合った。すると、京子は、言葉を付け加えた。
「あのあとで、煙草を一服喫うことがあるでしょう、そのときの先生の顔って、きっとそういうのだろうとおもうのよ」
花田は京子を鋭く眺《なが》め、苦笑しながら立上った。
「これはいかん。そうまで、からかわれては閉口だ。そろそろ退散しよう」
そう言うと、花田はもう一度、鋭い一瞥《いちべつ》を京子に与え、
「伊木、今夜はやけ酒だ。もう一軒つき合ってくれないか」
その言葉は、道化た余裕のある口調で言われた。伊木は安《あん》堵《ど》すると同時に、花田のその余裕を憎んだ。
「しばらく振りじゃないか、つき合えよ」
伊木は頷《うなず》いて、藍色のトランクを提げ、花田のあとに従った。
二十七
「さて、どこへ行こう」
花田は、路上に立止って、伊木を顧みた。
「君、ほかに行きつけの店はないか」
花田の言葉に、伊木は時折訪れる一ぱい飲屋の店構えを思い浮べた。格《こう》子戸《しど》の入口に「焼酎《しょうちゅう》」と墨書きした提灯《ちょうちん》。その雅趣を彼は好んでいた。しかし、もしその店に案内したとしたら、花田のことであるから、
「これは良い店だなあ、おれはこういう店が好きなんだ」
と、言うだろう。
伊木たちの年代の人間は、皆一様に戦後混乱期の悪酒時代に酒を飲むことを覚えたのだから、縄《なわ》のれんの店や焼酎には郷愁に似たものがある。花田の言葉に嘘《うそ》はないかもしれないが、おそらくその言葉はいたわり深く耳に届いてくるだろう。
「どうしようか」
ともう一度、花田が言い、伊木は迷っていた。立止ってからのわずかの時間がひどく長く感じられ、彼は右腕の先にぶら下っているトランクを地面に置いたものかどうか、迷っていた。
「木《こ》暮《ぐれ》の通夜《つや》の日に行ったクラブがあったな。あの店へでも行くとしようか」
と、花田は言い、直ぐにそのときの状況を思い出したとみえる。花田一人が女たちに取囲まれ、他の友人たちは置き去りにされたのだ。
「いや、あの店はやめておこう……。そうだな、少し腹が空《す》いてきたから、おでんやへ案内しよう。安直で旨《うま》いおでんやがある」
その心遣いに、再び伊木は傷つきそうになる。花田がどのように振舞ったにしても、その都度、伊木は傷つきそうになる。それが現在の花田光太郎と自分との関係なのだ、と伊木はおもった。
おでんを売る店で、花田はちょっと改まって、
「久しぶりだったな。木暮の通夜のとき以来だから、一年以上になるか」
と言い、
「井村はどうしている。その後、会ったか」
違った生活環境にいる学生時代の友人が久しぶりに会うと、必ず出る話題である。他に無難な共通の話題が見付けにくいためなのだが、その瞬間、うすら寒さが二人の間に通り抜けてゆくのは防ぎ難《がた》い。その感じを嫌《きら》ったこともあったが、ほかに魂胆もあって、伊木は答えた。
「井村はね、この前、痴漢と間違えられて、いや痴漢になりかかって警官に掴まったよ」
花田はその話題に興味を示した。
たしかに、かなり広い範囲にわたって、性についての事柄《ことがら》は共通の話題になり得る。伊木はくわしく、そのときの状況を説明した。花田は、わざと歎息《たんそく》してみせ、
「しかし、井村の気持は分るなあ。さっきは、京子にすっかりからかわれてしまった。おれも一つ、痴漢になってやるか」
「口説《くど》けないのか。君にしては珍しいこともあるものだね」
と、伊木は何気ない口調で言ったが、たしかめる気持は十分に含まれている。
「そのくせ、唆《そそ》るようなことを言うのだから、困る」
「そういえば、躯《からだ》の動かし方が、どことなく官能的にみえるな」
「陰気な色気がある。身もちもそんなに良さそうには思えないんだが」
「そうかな、証拠を握ったのか」
真剣な口調になるのを、伊木はあわてて笑いで誤魔化した。花田は愚痴を言う口調だが、相変らずそこには余裕がある。むしろ、焦《じ》らされているのを愉《たの》しんでいる趣さえあった。
「証拠、というほど大掛りなものはないが……」
花田は笑いを含んで、伊木をみた。伊木はいそいで弁解する。
「井村が警官に掴まった話をしていたものでね」
「俳優の梅村晃《あきら》が、あの店にくるのを知っているか」
「一度見かけたことがあるが……」
「どうも、あの男と何かあるのじゃないか、と睨《にら》んでいるのだがね」
「本当か」
「勘だけだがね」
と言うと、花田は急に不快な表情を覗かせ、その話題を打切った。伊木は、花田と京子とが関係の無いことを確認し、いくぶん心が和んだ。しかし、京子と伊木との関係について、花田は少しも疑いを持っていない。いや、関係を考えてみる気持さえ、花田には起っていないとみえた。
その傲慢《ごうまん》さを、伊木は憎んだ。
二十八
「烏賊《いか》は、いつ子を持つかな」
花田が訊《たず》ね、おでん屋の主人は、
「へ、ほたる烏賊のことですか」
「もっと大きいやつ。胴の中に、白いかたまりがぎっしり詰るのは、いつ頃《ごろ》だったろう」
「あれは、三月の半ばから四月一杯というところですね」
「酒は、コップ酒の方がいい。コップを一つください」
花田は、コップに満たした冷酒を一息に飲み干した。
「大根とコンニャク」
と、伊木《いき》が主人に皿《さら》を差出した。そのとき、花田が酔った声で言った。
「そうだ、おれは痴漢になるぞ」
そして、再び性に関する会話がはじまった。しかし、無難な、社交的な話題として取交されているものとは、かなり趣が違ってきた。
女だとおもっていたら、男だったことがある。男だとおもっていたら、女だったこともある。
男か女か、定め難いこともあった。
男でもあり、女でもある人間には、まだ出会わない。
「君、会ったことがあるか」
花田が訊ねた。
「無い」
伊木にとっては、花田の話のすべてが、空想の中だけのものだ。
突然、花田が怒りをたたきつけるのに似た口調で言った。
「双生児《ふたご》の姉妹と、寝たい」
「え」
「右側も左側も、同じ顔、同じ躯だ。重ね合せれば、上も下も同じ躯だ」
と、花田は言い、もう一度、繰返した。
「おれは痴漢になるぞ」
二十九
伊木一郎は、「鉄の槌《つち》」に足を向けることが多くなった。京子との約束ができている場合も、その日がくるまでの間に、一度はその店を訪れた。勘定は現金で払わず、ツケになった。その金は京子の責任になるわけだが、彼女はまだ伊木に催促したことがなかった。
京子の傍《そば》に坐《すわ》り、その着物の袖《そで》をそっと持上げて、ひそかに輪の形の痣《あざ》をたしかめる。すると、彼の苛《いら》立《だ》ちが、ようやく落着く。
ある夜、彼が酒場を出て歩きはじめたとき、路地から一人の女があらわれて立《たち》塞《ふさ》がった。
津上明子である。
「伊木さん、ひどいわ。どうなったか教えてくれる約束だったとおもうわ」
「きみか……。しかし、きみに会う方法を知らないものな」
「姉にたずねれば、家の場所だって分るし。あたし、酒場へ毎日電話して、伊木さんがきているかたずねたの。今夜で三日目、わりに早く掴まえられたわ」
「…………」
「二カ月の間、一度も連絡を取ろうとしないなんて」
明子の唇《くちびる》は、相変らず赤く塗られてあった。そうか、もう二カ月も経《た》ったのか、と彼は夢から覚めたときのような心持になった。
「ここで立話もしていられない」
喫茶店で、彼は明子と対《むか》い合った。明子が口を開くより先に、彼が訊ねた。
「きみ、京子さんと男がホテルの入口をくぐるところを見た、といっていたが、どんな男だった」
明子は黙って彼の顔を見詰めていたが、やがて素気なく答えた。
「覚えてないわ」
「年齢はいくつくらいだった」
「分らない」
「背は高かったか、低かったか」
「分らない」
「そのくらいのことは、分った筈《はず》だ」
「この店、暖房がきいていて、暑いわ」
明子は立上って、外套《がいとう》を脱ぎはじめた。知っていて黙っている、と彼は苛立った。その緩慢な動作が、厭《いや》がらせのように彼の眼に映った。
外套の下は女子高校生の制服であった。
「セーラー服か。きみ、外套を脱ぐなら、その口紅は落したほうがいいよ」
「あら」
そのときだけは素直に、明子は紙で口紅を拭《ぬぐ》いはじめた。眺めている彼の眼に、明子の裸体が映っている。それがセーラー服によって覆《おお》い隠されているために、余計あらわに浮び上ってくる。胸もとで結んだ黒いリボンの下からは、大きく膨らんだ乳房があらわになって、彼の眼に映っている。
「京子をひどい目にあわせてくれたの」
口紅を落すと、にわかに稚《おさな》くなった顔を向けて、明子は訊ねてくる。
「ひどい目……」
京子に加える荒々しい力は、そのまま彼女の中に吸い込まれ、やがてその躯は皮膚の内側から輝きはじめる。それを、ひどい目に遭わす、ということができるだろうか。片腕を頭上に押上げて、あらわになった腋《えき》窩《か》に唇を押当てようとするときに、明子は肩をすぼめ肘《ひじ》を脇腹《わきばら》にめり込ませて、烈《はげ》しく拒む。そういう明子を、ひどい目に遭わせることは容易であろうが……。
紐《ひも》を腕に絡《から》ませた明子の姿態を、彼は思い描いた。口の中が乾いた。襲いかかる眼になった。
二カ月の間に、彼の中に湧《わ》き上る憤《ふん》怒《ぬ》に似た感情、兇暴《きょうぼう》な感情は、そのような形を取るようになってしまった。津上京子との接触の間に、その形が彼の躯に浸《し》み込んだのである。
「ホテルへ行こう。ひどい目にあわせてあげる」
と、伊木が言い、明子は一瞬怯《おび》えた眼になり、撥《は》ね返すように言った。
「厭な眼。あたしの言っているのは、京子のことよ」
「ホテルへ行こう」
「どうしたの、伊木さん。京子を誘惑できなかったの」
「行こう」
セーラー服が、烈しく彼を唆った。
「厭、伊木さん、不潔だわ」
鋭く言って明子は、立上った。
三十
酒場で、伊木は京子に小声で言った。
「きみ、妹がいるか」
「ええ、一人いるわ」
「まだ子供なのか」
「さあ……、高校生だから。でも、どうして」
「高校生なら丁度いい、セーラー服を持っているね。着替えの服があるかな」
「あったとおもうけど、でも、なぜそんなことを聞くのかしら」
「きみに、着せてみようとおもってね」
「あたしが……」
京子は笑い出しそうになり、不意にその笑いが消え去ると、眼が潤《うる》んできた。彼に向けられてはいるが、焦点の定まらない眼になった。
「厭だわ、厭なひと」
それが拒否の言葉でないことは、直《す》ぐに分った。
「その妹さんと身体の大きさは、同じくらいかな」
「そうね、似ているとおもうわ」
「顔は、似ているか」
「さあ、似ているという人もあるけど」
似ていない筈だが、と彼は心の中で呟《つぶや》く。しかし、躯の形は、よく似ている。明子の制服の中に、京子の躯は隙《すき》間《ま》なく這入《はい》り込むことだろう。
京子と会う日を定め、京子に送られて酒場の扉《とびら》を押した。
三十一
小さなズックの鞄《かばん》から、津上京子は明子の制服を取出した。旅館の部屋である。
「洗濯《せんたく》屋《や》に出しておいてあげるから、といって、着替えさせたのを持ってきたわ」
「着替えてごらん」
「あたしが、着るの」
京子はためらった。滲《にじ》み出てくる快感を愉しんでいるようなためらい方である。彼に背中を見せ、着替えをはじめた。
やがて、京子は彼の方に向き直った。
「どう、似合って」
火照《ほて》った顔に、はじらいが掠《かす》めた。
「やはり、その大人の髪型では、いけないようだな」
「それじゃ、崩すわ、洗ってしまう」
急いで、京子は言う。
「口紅も邪魔だね」
京子の顔と、セーラー服との不均衡が烈しすぎた。不均衡が、歪《ゆが》んだ欲情を投げかけてくるのだが、烈し過ぎると滑稽《こっけい》に近づく。明子の場合は、赤い口紅が妖《あや》しい雰《ふん》囲気《いき》をつくり出したが、京子には邪魔になる。
京子の使う湯の音が、浴室から聞えてきた。脱ぎ捨てられたセーラー服を抱え上げ、彼はその中に顔を埋めてみた。布地に滲《し》み込んでいる明子のにおいが、かすかに鼻《び》腔《こう》に流れ込んできたようにおもえた。あるいは、幻覚かもしれない。しかし、その瞬間、彼は明子のにおいを鮮明に思い出していた。セーラー服を着た明子を押倒し、その唇に真赤な口紅を塗りつけてみることを、彼は烈しく望んだ。
京子の髪の毛は、長くはない。洗い髪にすると、その頭は少女に似た。
セーラー服を着たままの京子を、彼はベッドの上に押倒した。白粉《おしろい》を洗い落した京子の顔が歪み、眼《め》尻《じり》にかすかな皺《しわ》が浮び上ってきた。明子の場合における口紅の役目を、京子のその皺が果した。黒いリボンの下に彼は掌《てのひら》を潜らせ、制服の胸を押広げ、京子の大人の乳房を掴《つか》み出した。
薄目を開いて、京子が彼を窺《うかが》っているのに気付いた。眼の下の薄い黒い隈《くま》が、京子の素顔にみえた。セーラー服と、京子の躯の露出している部分との対照が、予測どおりに彼を刺《し》戟《げき》しつづけた。
「厭、やめて」
京子は技巧的な声を出した。依然として薄目を開け、彼の表情を窺っている。
紐を絡ませて左右の腕を搾《し》め付けるときの、堅く眼をつむって快感の中に溺《おぼ》れ込んでゆく表情は、京子の顔には見られない。歪んだ快感の上を、たしかめながら漂っている。
それと同じ状態に、彼自身も置かれていることに、伊木は気付いた。以前は、奇妙な形であったが、充実感があった。しかし今は、彼の快感にはあちこちに隙間ができていた。余裕さえも、見《み》出《いだ》すことができた。
猥雑《わいざつ》な、歪んだ、変態的な心持になっている自分に、彼は気付いていた。
三十二
伊木一郎は、斜面を摩《ずり》落《お》ちてゆく。
斜面の下に在るものは、いわゆる性の荒廃とか性的頽廃《たいはい》とかいったものである。
しかし、性の荒廃とは、いったい何であろうか。……とは、私(作者)の発した疑問であって、伊木は、感じても考えることのない日々を送っていた。当然、セールスの仕事はおろそかになり、伊木家は窮乏してきた。
その日の夕方も、伊木と京子とは旅館の部屋の中にいた。伊木は京子にたいして、二カ月半以前の最初の日と同じ姿勢を取っていた。彼は京子の乳房に掌を押当て、指先を内側に曲げて、乳房を掴み取ろうとするかのように力を籠《こ》めていたのである。
一週間、彼は京子を抱いていなかった。名前も知らぬ誰《だれ》かと、京子を共有していることは承知のことだったし、またその一週間は京子の生理の時期にも当っていた。
「久し振りだね」
戸惑ったような眼を、京子は宙に泳がせた。
「誰かと寝た」
「誰とも」
「幾回、寝たんだ」
「一度も」
乳房の痣は、色が褪《あ》せていた。京子の言葉に嘘《うそ》は無いのかもしれぬ、とおもいながら、彼はその痣の上に指先を当てがった。しかし、最初の日に感じた全身の細胞の一つ一つが燃え上るような攻撃的な気持は、湧き上ってこない。あるいはまた、彼自身の紋章を京子の躯《からだ》に彫り付けようとする、あの執念深い気持も起らない。セーラー服を京子に着せ、それを剥《は》ぎ取り、その全身をいちめんの痣で埋めたい、とおもったときの情熱的ともいえる気持は、遠いものになっていた。京子に着せたセーラー服は、間もなく、刺戟剤に過ぎなくなった。萎《な》えた彼の細胞を、人工的に奮い立たせようとする小道具になってしまい、すでにそれは捨てて顧みられなくなっていた。
彼にとっては、乳房の痣は、セーラー服と同じく効果の薄い小道具に変ってしまっている。
彼は、萎えた細胞に鞭《むち》を当てる心持で、京子の乳房の痣に指先を当て、力を籠めて掴み上げたのだ。
一方、京子の顔には歪んだ表情があった。それは二カ月半以前に見られた、彼の充実感に照応した表情ではない。しかし、京子はその歪んだ快感をまさぐり、歪んだ形のまま確実にその中に溺れ込んでゆく。
彼は自分の虚《むな》しさに焦《あせ》りを感じ、一層力を籠めて乳房を搾《しぼ》り上げていった。
そのとき、乳房から白い液体が迸《ほとばし》った。
しかし、彼にとって、それは以前とは全く違ったものになっていた。猥雑な歪んだものとして、それが彼の神経に触れてきたのも一瞬のことで、生温かい乳汁《にゅうじゅう》として眼に映った。乳白の人乳が散らばっている乳房のふくらみを、彼は哺乳《ほにゅう》のために大きく突出している部分として眺《なが》めた。その瞬間、彼の脳裏に閃《ひらめ》いたものがあった。
「妊娠しているな」
それに間違いない、と彼はおもった。
「違うわ」
すぐに京子は答えた。
「そういう体質なの……」
欺《だま》してはいけない。いや、以前のときは欺してもよかった。そのときには、たしかにそれは乳房のふくらみを飾る半透明の宝石だったのだから。
「もう、嘘はいけないよ」
むしろ憮《ぶ》然《ぜん》として、彼は言った。
「嘘じゃないわ。だって、おなかが膨らんでいないでしょう」
たしかに、京子の腹は、妊娠の腹ではなかった。いや、この前のときに、ふと京子の腹のふくらみが気にかかったことがあった。それは疑いにまで育たず、すぐに忘れてしまったが……。不意に、京子を抱かなかった一週間の日々、京子が何をしていたかということを彼は悟った。
「きみ、嘘はいけないよ。そのうち、きみの乳房はいくら掴んでも、何も出てこなくなる筈だ」
「…………」
「誰の子だ」
彼は京子の乳房の上の乳白色の粒を、指先で強く躙《にじ》り潰《つぶ》した。
「誰の子のために出している乳なんだ」
無言を続けていた京子は、不意に敷布の上に横たわったまま両腕を頭上に上げ、胸を高く反らせて叫んだ。
「縛って」
躯を上下に揺すりながら、繰返し叫んだ。あらわになった腋窩の叢《くさむら》が揺れるのを、黙って彼は見詰めた。
「縛って頂戴《ちょうだい》」
懲罰を求めるように京子は叫ぶのだが、その眼は貪婪《どんらん》に輝いていた。
三十三
性的頽廃とは、いったい何であろうか。
私はこの作品のこれまでの部分で、痴漢の胸に花を飾った。両腕を縛られている女の、痣《あざ》のある乳房の上に乳白色の宝石を飾った。しかし、すべての痴漢、すべての被虐《ひぎゃく》的嗜《し》好《こう》のある女に、花や宝石を飾ろうとはおもわない。
嘗《かつ》て私は、被虐的性欲の持主である男の訪問を受けたことがある。初対面であったが、私にはすぐにその人物が変態性欲者であることが分った。私は正常な性欲の持主である。したがって、同性愛者がたちまち同類を嗅《か》ぎ分けてゆくように、特殊な嗅覚《きゅうかく》によって同類を嗅ぎ当てたわけではない。その男の鈍く濁っているにもかかわらず、粘り付くような強い光を底に満たしている眼や、漿液《しょうえき》が滲《にじ》み出ているようでいて、鞣《なめ》した赤黒い皮に似た顔が、私にそれと悟らせたのだ。
彼は性の中に溺れ込んでいる顔つきをしていた。しかし、細胞が充実し、光り輝いている印象は無い。充実しているのは、いや肥え太っているのは、彼の背に貼《は》り付いている「性」なのだ。その肥大した性は、彼を押潰すほどに大きく、彼の背におぶさったまま傲《ごう》然《ぜん》と彼を指図し、彼を振りまわしている。性が巨大な怪物に育って、彼に襲いかかり、彼を支配している。
彼の眼の強い光や、皮膚の鞣したような頑《がん》丈《じょう》さは、彼の背の「性」から投影しているもので、彼自身の細胞は漿液を吸い上げられ萎え凋《しぼ》んでいる。私は、そのときその男に、性的頽廃を見たようにおもった。
三十四
多人数の同時性交について、私はこの章で語ろうとおもう。
以前に、私は、男・A女・B女の同時性交の場面を含む小説を書いた。
なぜ私は、その場面を書いたか。二人の女はともに娼婦《しょうふ》であるが、後日、B女は結婚していわゆる幸福な生活に入り、A女は松林の中で首を吊《つ》って死ぬ。そのように正反対の運命を辿《たど》った二人の女が、一つの部屋に一人の男を含めて三人で閉じこもる。そして、A女とB女の躯が重なり合い、滲み出る汗と脂《あぶら》で二つの躯が貼り合さった時間を二人の女が持った、ということが書きたかった。
しかし、私が敢《あ》えてその場面を書いたのは、そのためだけではない。一見性的頽廃ともおもわれるその情景が展開している部屋に醸《かも》し出された一種の充実感を、描き出してみたかったのである。
密室の中で、男は反逆心でいっぱいになり、躇《ため》らわずに全身の細胞を一斉に緊張させて身構えている。
そして女たちは……。女たちはこういう際には常に、淫蕩《いんとう》になるか、羞恥《しゅうち》で全身を赧《あか》く染めるかのどちらかである。
A女は強い酒を一息にあおって、羞恥を誤魔化した。みるみる全身に酔いの色が行きわたって、羞恥の色と混った。
「足の裏まで、赤くなっているのかな」
男は、攻撃的な気持で訊《たず》ねた。
「さあ」
A女の眼は細くせばまり、濡《ぬ》れた光を帯びてきた。男の手が、A女の躯を仰向けに横たえたとき、その眼は堅く塞《ふさ》がった。
B女はアルコール飲料に扶《たす》けを借りる必要がなかった。欲情と好奇心のために声が嗄《しわが》れ、薄いコーヒー色の皮膚は湿った色に光り、眼は橙色《だいだいいろ》に輝いた。躯のどんな内側の部分でも、もしもそのことが可能ならば毛をむしられた鳥の形をした子宮でも、卵巣でも、さらには臓《ぞう》腑《ふ》でもさらけ出すほどに、燃え上っていた。男の手が軽くB女の背を押すと、B女はA女の上に倒れかかり、その腕はA女の胴に巻きつき、唇《くちびる》はA女の乳首をふくんだ。
B女の背後から、男はその躯に密着した。交尾する形になった。男はA女の躯に少しも触れることなく、B女と交尾をつづける。
B女の躯の中で昂奮《こうふん》が一層昂《たか》まり、A女を容《い》れたB女の腕の輪が、強く引搾《ひきしぼ》られた。二人の女の頬《ほお》と頬とが強く押合い、B女の口から絶え間なく洩《も》れはじめた苦しむような声とともに、B女の躯の快感が密着しているA女の躯の中にすこしずつ滲み込み、染《し》み透《とお》ってゆく。B女の悶《もだ》えが、硬直して横たわっているA女の躯を揺すぶり、滲み出てくる汗と脂が、A女の躯にB女を貼り合せた。そのとき、A女の躯が燃え上った。重ね合さった二人の女の躯のすべての細胞が白い焔《ほのお》を発して燃え、やがてB女の躯は蛍光色《けいこうしょく》に透きとおってA女の躯に熔接《ようせつ》された。男の眼の前には、B女の背のひろがりがあり、不意に彼の鼻腔にある匂《にお》いが流れ込んできた。それはB女の肩のあたりから立上ってくるのか、あるいはその下に在るA女の胸から発するものか判別ができなかったが、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いである。娼婦たちの躯が熱したときに漂ってくる、多くの男たちの体液の混り合った饐《す》えたにおい、それに消毒液の漂白されたようなにおいの絡《から》まり合った臭気とは全く違ったものだった。昔、どのくらいの歳月の隔たりをもった昔か分らぬが、太陽の光の降りそそぐ野原のまん中で、人間たちは常にこのような形でためらうことなく輝くような性行為を行っていたのではないかという考えに、男は一瞬捉《とら》えられた。
男は充実し、疚《やま》しさとも歪んだ心持とも無関係でいた。
やがて、B女の快感が拡散しはじめた。そのとき、A女の躯は火になり、その両腕がB女の背を烈《はげ》しい力で締め付けた。男はB女から離れ、傷口に貼り付けた絆創膏《ばんそうこう》を引剥がすように、B女をA女の躯の上から引離した。A女はふたたび硬直して仰臥《ぎょうが》している形に一人で取残されたが、今度の硬直は羞恥のためではない。男はふたたび荒々しく身構え、A女の髪を掴んでその頭を敷布の上に引《ひき》据《す》え、その顔を覗《のぞ》き込んだ。そのときが、男がA女に触れた最初である。
「良い顔をしている」
と、男は呟《つぶや》き、A女に覆《おお》いかぶさってゆく。男がA女から離れると、しばらく四肢《しし》を投げ出して横たわっていたA女に不意に羞恥が戻《もど》ってきた。跳ね上るように畳の上に立つと、
寝衣《ねまき》を纏《まと》い、顔を両手で覆って部屋を走り出た。その羞恥を、男は寛容に受容れ、可《か》憐《れん》にさえ感じた。
一方、B女は平素より一層淫蕩になり、咽《の》喉《ど》の奥で笑い声を立てながら男にふざけかかった。男はその淫蕩さをも、慈《いつく》しむように受容れた。
三十五
酒場「鉄の槌《つち》」で、京子が折り畳んだ紙片を伊木《いき》一郎の掌《てのひら》のなかに滑り込ませた。人目を避けて開いてみると、鉛筆の走り書きで次のような文字が読まれた。
『あたしは伊木さんが好きです。いつも薄暗いなかでナ《もが》いているような感じが、好きなのです。この前、お別れして家に帰ってから、ひどく出血をしました。あたしはうずくまって血を流しつづけながら、伊木さんのことを好きだ好きだとおもっていました』
出血とは、当然、子宮からのものである。
「そんなことは、おれの知ったことか」
と、彼は呟いて、紙片を掴《つか》み潰し、ポケットに入れた。津上京子の身の上に、何か変化が起ったに違いない、と彼はおもった。掻《そう》爬《は》の手術が、京子の人生に一つの区切りを付けたのか、一つの区切りを付けることと同時にその手術が行われたのか分らないが、この十日ほどの間に京子の身の上に変化が起ったに違いない。そして、京子は感傷的になり、その捌《は》け口を手近な自分に求めている、と彼はおもった。
「おれの知ったことではない」
もう一度、彼は呟き、眉《まゆ》根《ね》を寄せた。加虐的な心持になっている自分に、気付いた。
旅館の部屋で、京子は、
「縛って」
と言うことを、繰返した。
度重なるうちに、自己懲罰の口調は消え、唆《そそ》り、狩り立てる声音に変っていった。
また、度重なるうちに、京子の躯に絡まる紐《ひも》が、二重になり三重になり、その数を増していった。高く上げた両腕の上膊《じょうはく》に絡まり付いているだけだった紐は、手首に巻きつき、二つの乳房を締め上げ、胴に絡まり、さらには両方の足首に巻きついた。
伊木が京子と会い、その次にまた会うときには、京子の躯に絡み付く紐の数は、確実に一本ふえることになる。京子は額に汗を滲ませて、新しい紐を要求し、彼も額に汗を滲ませて京子の躯に襲いかかる。二人の額の汗は、以前のように快感のために滲み出たものではない。それを掴み取ろうとして精一杯伸ばした指先が、むなしく宙を掻《か》き、苛《いら》立《だ》ち焦《あせ》るための汗である。そのために、紐がもう一本必要となる。
このようにして、伊木は京子と絡み合ったまま、少しずつ斜面を落ちてゆく。
旅館に備え付けの一組の寝衣の紐では足りず、伊木と会う日には京子は和服を着るようになった。和服姿のとき、女の躯を締め上げる幾本もの紐を、使うのである。
季節も四月になり桜が咲き、二日ほど雨の日がつづき、桜の花びらの色が褪せて白茶けた。曇天には、空の色に桜の色が紛れかかった。
京子の眼が、白く濁り、そのくせその底に粘り付くような強い光があらわれてきた。その光と彼は対《むか》い合い、自分の眼にもその光があらわれているかどうか、と気懸りになった。彼は鏡に眼を映し、その眼の中を覗き込んでみる。濁った、澱《よど》んだ眼だ。しかし、京子と同じ光は、そこには無いようだ。事実、そのような光はあらわれてはいないのだろう、と彼はおもう。なぜならば、紐が一本ふえる毎《ごと》に、京子は確実に快感を掴み取ってゆく。
京子の顔は、歪《ゆが》んだまま光に満ちてゆき、一方、彼はしばしば取残されてしまう。
取残された彼は、むしろ京子に羨望《せんぼう》を感じ、すぐにその羨望を打消し、この状況から何とか抜け出さなくてはならぬ、と苛立ち焦りながら考える。
三十六
そのような日々を、彼は送り、疲労が部厚い層を成して皮膚の下に澱んでいるのを感じた。しかし、そのためにかえって、彼は一層強い刺《し》戟《げき》、新しい刺戟を求めて、萎《な》えた細胞を奮い立たせようと試みる。
そして、一層、疲労を深くしてゆく。
その夜、彼は「鉄の槌」のスタンドで、背の高い椅子《いす》に坐《すわ》り、一杯のウィスキーを時間をかけて飲んでいた。スタンドの隅《すみ》に置かれた電話のベルが鳴り、受話器を耳に当てたバーテンダーが伊木の名を呼んだ。
酒場にいる自分に電話がかかってくることは予想もしなかったことだし、相手が誰《だれ》か全く見当が付かなかった。
「もしもし、伊木さん、あたし」
「え」
「あたしよ、明子です」
その名前を聞いても、直《す》ぐには分らなかった。やがて、長い重い夢の間に不意に裂目ができたように、その裂目から明子の顔が浮んできた。
「そうだ、津上明子という少女がいたのだ」
遠い昔のことを考えるように、彼はそうおもい、一瞬の後、現実に戻った。明子のことをなまなましく思い浮べ、にわかに緊張した。
「もしもし、伊木さんでしょ、どうしたの」
「分った、きみだね。それで、どうしたんだ」
「京子のことを聞きたいの。京子のこと、ご存じかしら」
「…………」
「この頃《ごろ》、京子の様子が変だとおもうの。ご存じなら、教えてほしいの」
不意に、彼の中で甦《よみがえ》ってくるものがあった。その甦ってくるものが何か、咄《とっ》嗟《さ》に掴むことができなかったが、彼は活気を取戻して答えようとした。一瞬、咽喉が塞がり、声が消えている。
「もしもし……」
「分った、教えよう。全部、教えてあげる、明日の午後五時に……」
と、彼は京子と会う旅館の傍《そば》にある喫茶店の場所を、明子に伝えた。
「それから、学校の帰りにそこへ寄るつもりで……」
と、彼は言いかけて、
「きみはもう卒業したんだったね」
「いいえ」
「落第したのか」
受話器のなかの声が、低く笑った。
「高校三年生が四月になれば、卒業している筈《はず》じゃないか」
「本当は、今度三年になったの。なるべく齢《とし》が上に見られたかったもので、一年余計に言っていたのよ」
「そうか。それじゃ、制服のままで、気軽な気持できてください」
「分ったわ、伊木さん、あたしが口紅を付けているのが厭《いや》なのね。制服ならば、口紅を塗らないとおもうのね」
「そういうわけだ」
一層緊張しながら、彼はさりげなく答えた。
三十七
伊木が指定した喫茶店に、午後五時に津上明子はあらわれ、隅のテーブルに坐った。五時十五分過ぎに、伊木が姿を見せた。
彼はわざと約束の時刻を十五分だけ遅らせた。明子を焦《じ》らすためではなく、彼の方が待たずに済むことが必要だったのだ。
彼は、ネクタイを着けないワイシャツ姿で、明子の椅子の傍に立った。
「あら伊木さん、上《うわ》衣《ぎ》は」
「うむ、今日は暑い」
「暑くなんかないわ、暖かくもなくってよ」
「外へ出よう」
椅子に坐ろうとせず、せき立てる口調で彼は言い、明子も釣《つ》られて立上った。
二人は、戸外へ出た。
「教えてあげる。ぼくと一緒に行こう」
彼は大股《おおまた》で歩き出した。
「どこへ」
明子は急ぎ足で彼にしたがった。一分間も歩かぬうちに、旅館の前に出た。彼がその入口に歩み入ろうとしたとき、明子は立止って烈しい口調で言った。
「伊木さん、厭よ。もう厭」
「そんなことじゃないんだ、きみは教えてほしいと言ったじゃないか」
強く言い捨てて、彼は門を潜《くぐ》った。背中にためらいや曖昧《あいまい》さをあらわさないようにするのが、彼の技巧だった。明子はそのまま、彼の背に付いて門を潜った。旅館の帳場の女は、訝《いぶか》しげな眼を上げたが、顔《かお》馴《な》染《じみ》になっている伊木を認めると、そのまま黙って二人を見送った。
その五分前――。
彼は京子の躯《からだ》を、幾本もの紐で縛り上げた。身悶えし、抵抗し避ける素振りをしながら、京子の躯の部分部分は、紐を持つ彼の手の動きにひそかに協力した。京子の二つの手首は、むしろ自分から紐の輪の中に潜り込み、堅く縛り合された。
胸は左右斜め十文字に締め上げられ、二つの乳房は異常に高く盛り上った。彼は左右の足首と、左右の膝《ひざ》とをそれぞれ縛り合せた。
そして、不意に立上ると、ワイシャツを着けズボンを穿《は》いた。
「どうしたの」
黙って、彼は足の先で京子の腰を押し、ゆっくりと押しつづけ、やがてその躯は半回転して俯《うつぶ》せになった。紐の結び目の堅さをたしかめる眼で、京子の全身をながめ、部屋の出口の扉《とびら》を開いた。
「どこへ行くの」
狼狽《ろうばい》と疑いとの混り合った京子の声を部屋に押《おし》籠《こ》めるように、彼は扉を閉ざし、明子の待っている筈の喫茶店へ向って歩き出したのだった。
そのときから五分経《た》って、彼は明子を伴って、部屋の入口に戻ってきた。
扉を開き、控えの間に入ったとき、寝室に転がっている京子と明子の眼が合った。
明子は立竦《たちすく》み、口を開いたが声は出てこなかった。京子の口から、爆《は》ぜるような音が出て、それが長く尾を曳《ひ》いた。
京子の眼が、しばらくの間、ガラス玉に変り、やがて光が戻ってくると、
「明子なの、明子なのね」
答える声は無い。
「どうして、明子がここにいるの」
彼は黙って足を上げ、足先でふたたび京子の躯を押した。
ゆっくりとその躯が半回転して仰向けになった。
「ひどい、ひどいわ。伊木さん、この紐をほどいて」
京子は叫ぶように、しかし声を押殺して言った。
「伊木さん、ひどいわ」
明子の声が、はじめて聞えてきた。怯《おび》えた色が、その顔いちめんに拡《ひろ》がり、蒼《あお》ざめた表皮が歪んだまま凝固してゆくようにみえた。
「どうなったか教えてくれる約束だった、とぼくを責めたじゃないか。京子の様子が変だから、知っているなら教えてくれ、と頼んだじゃないか」
膝の関節が硬化して畳の上につくり付けられたように立っている明子のその姿態を見詰め、セーラー服に包み込まれた明子の躯を見詰めながら、彼は答えた。
「明子が、どうしてここにいるの」
もう一度、京子は言い、弱々しく首を振った。乱れた髪が、畳の上を払う音がかすかに響いた。それほど、そのときの部屋の中は静かだった。
「いくら、ひどい目にあわせてほしい、と頼んだからといったって」
明子が言い、京子は眼を上げて、
「頼んだ、ですって。明子が伊木さんに頼んだなんて、そんなことは……」
「そうよ、あたしは、こんなことは頼みはしなかったわ」
「そうだとも。これは、京子がぼくに頼んだことだ。ぼくは唯《ただ》、どうなったか教えているだけだ」
「明子がどうして……」
三度、京子は言い、そのとき姉妹の視線が探り合うように互いを捉《とら》えた。
三十八
この一カ月間の日々においては見られなかったほど、伊木一郎は緊張し、昂奮《こうふん》していた。しかし、嘗《かつ》て私(作者)が描き出そうと試みたあの二人の娼婦《しょうふ》のいる密室における充実感、あるいは充実感に至ろうとする気配は、伊木と京子と明子の三人がいる部屋の中には、無かった。
三十九
彼は、自分の眼球が充血していることを感じた。眼球の白い部分を、血管が網目模様に赤く彩《いろど》っているようにさえ感じた。
その眼を、明子に向けた。
明子は依然として、躯を堅くして畳の上に立っていた。蒼ざめた顔と、血の気を失って白くなった唇《くちびる》とが、セーラー服にふさわしかった。セーラー服は明子の躯を隙《すき》間《ま》なく包み込み、明子の躯にはセーラー服から食《はみ》出《で》てゆく部分がなかった。
泥《どろ》絵具を塗り付けたような部屋の景色の中で、明子の立っている部分だけが、淡く澄んだ色にみえた。明子は、唯、立竦んでいるだけなのだ。そのことは分っている。しかし、明子の立っている姿自体が彼を責め、咎《とが》め、批判しているように、眼に映った。
昂奮が醒《さ》めることを、彼は恐れた。と同時に、そういう明子を僭越《せんえつ》におもう気持も動いた。制服の布地には、授業中の教室の鎮《しず》まり返ったにおいが滲《し》み込んでいる。その布地は少女のにおいを吸い込んで、明子の胸をひっそりと包み隠しているようにみえる。
その紺色の布地の下にある、重たく熟した乳房を、彼は憎しみの気持で思い浮べ、醒めかかる昂奮を掻き立てた。
彼は、明子に襲いかかった。明子は畳の上に一本の棒のように横たわり、数秒のあいだ烈《はげ》しくナ《もが》き、直ぐにまた彼の躯の下で静かになった。
「なにをするつもり」
嗄《しわが》れた声で京子が言い、首を捩《ね》じ曲げたが、彼と視線が合うと眼をそらして黙った。彼は片腕を伸ばし、京子のハンドバッグを掴《つか》み寄せると、口金を開いた。掌《てのひら》を差入れ、深く底からさぐった。
「なにをするの」
ふたたび京子は首を捩じ曲げ、彼の手もとを見詰めた。咎めるような、しかし狼狽の気配を含んだ声である。
「口紅」
「口紅ですって」
京子が問い返したとき、指先に細長い金属容器を挟《はさ》んで、彼の掌がハンドバッグから出た。その掌と一緒に、掻き出された内容物が畳の上に滾《こぼ》れた。
困惑の視線を京子は畳の上に向け、釣られて彼も眼を向けた。そこには、部厚い札束が転がっていた。一万円札で、三、四十枚ありそうだった。
その札束は、京子の掻《そう》爬《は》と関連があるとおもえた。
「別れたのか」
「ええ」
「さっき、別れてきたのだな」
京子は、黙って眼を天井に向けた。
「誰と別れた」
「…………」
金額から推し測れば、花田光太郎と梅村晃《あきら》の名が浮んでくる。花田は違うようだった、と彼はおもう。
「それは誰だ」
「…………」
「梅村晃か」
「違うわ」
即座に、京子は答えた。視線は天井に貼《は》り付いて動かない。紐《ひも》のために異様に変形している胸が大きく上下し、唇は堅く結ばれて、頑《かたくな》な拒否の姿勢である。その京子からは、けっして正しい答は引出せないようにみえた。
しかし、京子の相手を何としても突止めたいという執着と熱意を、彼は京子にたいして持っているわけではない。むしろ、その札束は、この場の刺《し》戟剤《げきざい》として働いた。
そして、畳の上に転がり出た札束を見詰める明子の眼が、一層烈しく彼を刺戟してきた。明子の眼に映る札束は、金銭としてのものではない。明子に純潔を説いてやまぬ姉の京子の躯の裂目から露出した臓物のようなものとして、明子の眼には映っている筈だ。
四十
明子の躯に覆《おお》いかぶさったまま、彼は片手で明子の顎《あご》を掴み、その顔を正面に向け直した。
「なにをするの」
今度は、明子の塞《ふさ》がった声が聞え、彼の片手に握られた口紅に向けられた眼に怯えの色が走った。
セーラー服を着た明子は、口紅を付けていない。その唇に、濃く、厚く、毒々しく口紅を塗り付けよう。輪郭からはみ出すほど濃く口紅を塗り付けた瞬間から、殊勝におさまっている明子の躯が、紺色の制服から淫《みだ》らにはみ出しはじめるにちがいない。
「やめて」
不意に、明子は両手を突出して、抗《あらが》いはじめた。脂《あぶら》を含んで光っている口紅の先端が、唇に近寄せられたとき、明子は一層烈しく抗った。
「塗らないで」
「なぜ。口紅を塗るのは、好きな筈じゃないか」
「厭。もう塗る必要がなくなったわ」
叫ぶように明子は言い、烈しく左右に首をまわした。その首が一瞬動きを停《と》め、畳の上の札束に、いや露出した京子の臓物に、明子はふたたび視線を当てた。
彼は明子の咽喉《のど》を扼《やく》するようにして、頭を畳に固定させた。ほとんど顔を重ね合せて、ゆっくりと唇を塗りはじめた。明子の熱い息が顔にかかり、強《こわ》張《ば》った顔のまま、明子の唇は真赤に塗られてゆく。
躯を重ね合せた形のまま、彼は明子の上膊《じょうはく》に掌を押当てた。明子の腕を畳に躙《にじ》り付けて、彼は自分の上半身を起し、明子の唇を眺《なが》めた。しかし、それは制服の少女の唇の部分だけ、悪戯《いたずら》に口紅を塗り付けたようにみえた。
彼は苛《いら》立《だ》って、視線を京子に移した。身動きできぬまでに縛り上げられて畳の上に転がっている京子の顔も、やはり強張った表情に覆われている。しかし、その二つの顔には、姉妹をおもわせる共通点は、ほとんど見《み》出《いだ》すことができない。突然、彼は花田の言葉を思い出した。そのとき、花田光太郎は怒りをたたきつける口調で言ったのだった。
「双生児《ふたご》の姉妹と寝たい。右側も左側も、同じ顔、同じ躯だ。重ね合せれば、上も下も同じ躯だ」
伊木《いき》一郎はその言葉を反芻《はんすう》してみた。しかし、彼の躯のなかの兇暴《きょうぼう》なものは、しだいに薄らいで行きかかっていた。空いちめん金属で覆われるほどの沢山の飛行機からの空襲によって、噴き上る焔《ほのお》に包まれた都市が、やがて薄らいだ焔のうしろから廃墟《はいきょ》の姿をあらわすような、そういう予感にさえ捉えられはじめた。京子を初めて見たときにも、その顔には明子を思い出させるものがほとんど無かったことを思い浮べながら、彼は京子に声をかけた。平素の声に近い声が、彼の咽喉から出て行った。
「きみたち姉妹は、あまり似ていないね」
「…………」
「本当の姉妹か」
「父が違うの。なぜ今、急にそんなことを訊《たず》ねるの」
と言って、京子は彼の視線を避け、顔を背けた。
そのとき、ふたたび彼の躯の下で、明子が抗いはじめた。
「なぜ、口紅なんか塗り付けたの。口紅が余計だと言ったのは、伊木さんじゃないの」
明子は彼の躯を押《おし》除《の》けようとして、烈しく身を揉《も》んだ。筋肉の束が烈しく動くのを、衣服を透《とお》して感じ取った彼は、明子の顔を眺めた。その顔は、やはり強張ったままだった。彼はその躯を突放し、明子から離れて立上った。
四十一
その瞬間から、明子が溶けはじめた。
赤い唇を中心にして、波紋が拡がってゆくように明子の硬い顔が溶けてゆき、ついには唇が軽く外側にめくれ上った。そのめくれ上った唇を中心に、ふたたび硬直がはじまるか、と彼は見詰めたが、そのことは起らなかった。
全身の筋肉がほどけ、明子はやわらかく溶けて横たわっていた。はじめて、真赤な唇と紺色の制服との対照が、彼の予期していたものになった。明子の躯は、溶けて、淫らにセーラー服から食《はみ》出《だ》していた。さまざまの刺戟が、長い時間かかって明子の細胞の内側に届き、いま一斉にその細胞が伊木に向って花開いたようにみえた。
今までに見たことのない明子の顔が、彼の足もとに在った。しかし、見覚えのない顔ではない。そのことが、彼には不思議に思えたが、間もなく理由が分った。それは、京子の恍惚《こうこつ》としたときの顔に、酷似していたのだ。
「明子があんな顔をしている」
と、彼は京子に言ったが、京子にはその正確な意味は伝わらない。
「あの子ったら……、いつ明子と知り合ったの」
京子が自分の恍惚としたときの顔を知らないということが、彼にふたたび攻撃的な気持を起させた。
「この部屋ではやめて」
京子は首を振りながらその言葉を繰返した。明子は眼を瞑《つむ》り、同じ表情のままで横たわっている。京子の声はしだいに弱くなり、不意に誘う口調になった。発音が、曖昧《あいまい》になった。彼は、京子の顔を調べる眼で見た。唇が軽くめくれ上り、その顔はやわらかく溶けていた。彼は首をまわして、明子の方を見た。そっくりの顔がそこに在った。
烈しい昂奮を、彼は覚えた。彼は自分の躯《からだ》の中に、真赤な夕焼を感じた。繰返している京子の同じ言葉が、一層曖昧になり、快感を訴えている口調になった。
「明子が、あんな顔をしている」
もう一度、彼は京子の耳に口を寄せて、ささやいた。京子は眼を瞑ったまま、
「この部屋ではやめて……」
というやわらかい呻《うめ》き声で、答えた。
「いま、きみはそっくり同じ顔をしている」
「え」
不意に、京子の躯の波動が停《とま》った。
「きみと明子と、そっくり同じ顔だ。さっきまで違う顔だったのに、同じ顔になってしまった」
彼の声が耳に届いた瞬間、明子は大きく眼を見開いた。ガラス玉に似た眼に、しだいに光が戻《もど》ってきたとおもうと、跳ね起きた明子は掌で顔を覆い、隣室へ走り去った。
「伊木さん……」
呻きと咎める語調との混り合った声を出した京子の唇は、一層大きくめくれ上った。その唇を中心に、京子の顔が強張りはじめ、それは全身に拡がり、彼の躯の下で京子の躯が硬く反り返った。
四十二
伊木は京子から離れると、立上って隣室へ歩み込んだ。出入口の扉《とびら》のある部屋なので、明子の姿は消えてしまっただろうと彼は考えていた。
しかし、明子は部屋の隅《すみ》にいた。両手を顔に当てて、うずくまっていた。彼はその前に立って、明子の姿を見下ろした。
彼の躯の中の赤い色は、すでに消えていた。ふと、途方に暮れた気持に捉えられた。明子は掌から顔を離すと、彼を見上げた。不意に立上ると、明子の掌が彼の頬《ほお》で鳴った。彼は、濁った眼で、明子を眺めていた。なぜ殴られたのか、はっきりした判断ができない。
「身の置き場がなかったのだろう」
と彼はおもい、明子を眺めつづけた。見返した明子の顔が、泣顔のように歪《ゆが》み、ゆっくりと崩れ落ちて膝《ひざ》をつくと、両腕を彼の胴にまわし顔を腹に押当ててきた。その動作の意味も、彼には捉え兼ねた。
彼は凝《じ》っと立っていた。彼の眼の下に、セーラー服に包まれた背がみえる。先日、京子の躯はそのセーラー服に隙間なく這入《はい》った。いま、眼の下にある明子の躯は、京子の躯にそっくりだった。
「重ね合せれば、上も下も同じ躯だ」
という花田光太郎の声が、ふたたび耳の奥で鳴り、一瞬、彼の細胞に活気が動いたが、すぐに消えた。
「行き着く先は、もう分っている」
明子の腕を握り、立上らせると、彼は躯を離した。二人とも、宙に浮いた不安定な形で、対《むか》い合って立った。明子は眼を伏せ、ハンカチで唇を拭《ぬぐ》いはじめた。
「もう口紅を塗る必要はなくなったわ」
念を押す口調で、明子は言った。彼は、京子に酷似した明子の表情を思い浮べ、
「きみの躯は、もう制服からはみ出しているよ。制服を着るのが似合わなくなったんだ。口紅を落す必要はない」
と、答えた。
「あたし、頭の中がごちゃごちゃになってしまったわ」
「帰った方がいいよ」
「でも……」
「いまは、帰ってしまった方がいい。今度あらためて話をしよう」
「あたしが帰るでしょう。あとから姉さんが帰ってくるわけね」
「京子の帰るのは、夜中のことだ。その前に、睡眠薬でも飲んで眠ってしまうのだね」
彼は、疲労の滲《にじ》んだ四十男の声で、明子に言い聞かせた。しかし、それから後の見透しがあるわけではなかった。
四十三
京子の躯を締め付けている数多くの紐を、彼はほどきはじめた。しだいに京子の躯の歪みが直り、正常な形に戻ってゆく。最後の一本を取去ったとき、
「これで、京子との関係は終った」
という言葉が、彼の頭に浮び上った。
京子は、眼を閉じたまま畳の上に横たわって動こうとしない。疲労のためとも、頭の中を整理しようとしているためとも、さらには余韻を愉《たの》しんでいるためともみえた。彼は最後の紐の端を指先でつまみ、京子の姿をしばらく眺めていた。宙に支えられた紐が、彼の躯の前でだらりと垂れ下っていた。
「しかし、京子との関係が終ったと言っても、いったいどういう関係だったのだろう」
頭の中に浮んだ言葉に反問し、彼は部屋の中を歩きまわり、窓の傍《そば》に立止った。解放された気分は、彼の中には起ってこない。窓には重たいカーテンが垂れ下っている。彼はしばらくそのカーテンと対い合っていたが、やがて腕を伸ばして勢よく引開けた。
「おや、海だ」
不思議なものを発見したように、彼は声を出した。
「きみ、海がみえるぞ」
「そう……」
物《もの》憂《う》げな声で京子は答え、彼の見付けた海に関心を示そうとしない。
窓からみえる風景の奥に、左右を前景のビルディングで劃《くぎ》られた海が、漏斗型《じょうごがた》に小さく貼り付いている。
一面の夕焼で、小さい赤い海だ。
この旅館の部屋は、京子と二人のための密室だった。景色さえ、這入ってくることを許さず、彼は額に脂汗《あぶらあせ》を滲ませて、京子の躯に挑《いど》みかかっていたのだ。
長い時間、彼は窓際《まどぎわ》に立って、漏斗型の海を眺めていた。夕焼が空と地平で焔を上げて燃え、海は濃赤色になり、やがて薄鼠色《うすねずみいろ》に変って風景の底に沈んだ。
「終った」
と、彼は呟《つぶや》いた。
京子は立上って、窓際にいる伊木一郎の背に歩み寄った。彼の背中と重なり合うほど近くに立った。
「何を見ているの」
「海だよ、さっき、そう言ったじゃないか」
「聞えなかったわ」
「この部屋から、海が見えるとは、今まで気が付かなかった」
「そう……」
興味なさそうに、京子は答え、彼の耳に口を寄せてささやいた。
「あなたって、悪い人ね」
その声は媚《こ》びる艶《つや》を帯びていた。京子は彼の背後から両腕を軽く胴に巻き、一度強く引締めると、
「悪い人」
もう一度言って、腕の輪をほどいた。
振返ると、そこに京子の眼があった。その眼は、底に粘りつくような強い光を湛《たた》えている。
「明子の方が、先だったのね」
「…………」
「明子に、あたしのことを聞いたのね」
「…………」
「どうして明子を帰してしまったの」
京子の眼は、いまは白く濁ってはいない。平素は薄い灰色の白眼が、水色に澄んでいる。京子にとっては、これから劇がはじまるのかもしれない、とおもいながら、彼は首をまわして、窓の外の薄鼠色の海を見た。
「終った」
もう一度、彼は呟いた。しかし依然として、その気持は解放感とは繋《つな》がらなかった。
四十四
この章で、私(作者)はちょっと寄り道をしたい。
クレーの「線について」という、散文詩をおもわせる美しい文章を、私は第九章で途中まで紹介した。やや唐突になるかもしれないが、そのあとの部分を、ここに引用してみる。
『……地平に一つの稲妻(ジグザグ)。われらの頭上の高いところに、やっぱり星々がある(点々を種子のように植える)。……こんな一つの旅はいろいろの印象に富む、……最初には、嬉《うれ》しい均斉があり、その後、いろいろの障害に出くわし、頑《がん》張《ば》る! 顫動《せんどう》を制御しながら行く。なにかいいことがあるぞと約束するような風のお世辞! 嵐《あらし》に先だって、虻《あぶ》に襲撃される! 憤激して虻どもを殺す。密林と暗がりの中でも、案内の糸にとっての良い理由はなくならない。稲妻は、高熱が描き出す弧線を忘れるなとわれらを激励した……』
クレーの絵についての愛好の言葉を、私は同じ章に書き綴《つづ》った。また、絵と切り離して題名の文字を眺めているだけで、イメージを掻《か》き立てられることがある、と書いた。
地層の高低の個性的な測定。
家の外の階段にいる子供。
燃える風。
道を迷っている二人とともに。
青い眼の魚。
雪の前。……この絵に添えられている片山敏彦《としひこ》氏の解説の文章が美しい。『夜の暗さの中に、樹《き》がその生命の熱を内につつんで少しかたむいて立っている。やがて樹の中から萌《も》え出る葉の緑、咲き出る花の赤、実る果実の橙色《だいだいいろ》が、樹自身の未来の夢として、今は内部に並んでまどろんでいる。雪の白さを中心に持つ雲が近づいてくる。やがてその雲から雪の粉が降って樹の梢《こずえ》に積み、川の水の中では溶けるだろう。しかしこの雪も、すでに近い春のけはいにはもう逆らえないだろう。雪の来る前のイマージュではあるが、冷たさはなく、育つ生命の紅《あか》らみが夜の暗さの中にただよっている』
美しい解説文であるが、私の眼にはその絵はかなり違って映ってくる。たしかに冷たさはない。しかし、蒸れた生温かい暗さである。未来への夢を孕《はら》んだ仮睡ではなく、生命が紅ばんだままの死、をおもわせる画面である。
画集の次のページを開くと、大きな朱色の太陽が沈みかかっている絵があった。昇る太陽か落日かということに関しては、疑う余地がない。なぜならば、朱色の太陽から黒い矢印が地面に向って出ているからだ。その矢印は、一角獣の角のように、黒く大きく生えている。
四十五
その夜帰宅してからの二日間、伊木《いき》一郎は寝床から離れないで過した。
浅い眠りだが、粘液の中に躯を浸しているような眠りが続いた。眠りは跡切《とぎ》れ跡切れで、いつも断片的で曖昧な記憶しか残らぬ夢を見た。辛うじて記憶に残った夢に、次のようなものがある。薄暗い密室に閉じ込められている。手には鍵《かぎ》の束がある。おそろしいほどの数の鍵で、腕がずっしりと重い。いかにも部厚そうな木の扉が部屋の出入口を閉ざしており、その扉の鍵穴に一つ一つ鍵を合せてみる。どの鍵も穴には入るが、左に回すとむなしく閊《つか》えてしまう。錠のはずれるときの、あの乾いた金属音をともなう手《て》応《ごた》えは伝わってこない。次から次へと試してゆくが、鍵は数限りなくある。その鍵の束を途中で床に落し、すでに試したものと未《ま》だ試していないものとの区別が分らなくなった。また最初からやり直す。鍵穴の前で背を跼《かが》めている姿勢が、やがて、蹲《うずくま》る姿勢になり、長い時間が経《た》った。その時間は、何昼夜のようにも、また何年間ものようにさえ感じたとき、錠がはずれた。いままで左へ回しつづけていた鍵の一つを、何気なく右へ回したとき錠がはずれたようにも思えたが、あらためてたしかめてみる気持は起らない。部屋の中の空気が無くなりでもしたように、いそいで扉を開く。強烈な光が眼を射た。しばらく眩暈《めまい》があった。大気に向って、鼻翼をふくらませたが、そのにおいは相変らず湿って陰気である。密室のにおいだ。ようやく光に眼が馴《な》れたとき、煌々《こうこう》とした光は人工光線であることが分った。扉から歩み出た彼は、白い部屋の中にいた。もう一つの密室の中にいた。そして、眼の前に金属製の扉が立塞《たちふさ》がっている。扉はジュラルミンのような色合いで、その軽快さが彼の心を傷つけた。その傷を窺《うかが》いたしかめている眼のように、扉には一つの黒い鍵穴が開いている。
また長い時間を費やして、その金属製の扉の錠をはずし、扉を開いて外へ出た瞬間、眼が覚めた。
寝床に横たわったまま眼を開いている彼に、夢のつづきの中にいる心持が残った。扉を開いた外側を、瞬時彼は夢の中で見たように思った。それは何だったのか。白い霧か靄《もや》のようなものが立《たち》罩《こ》めており、その微細な水の粒が無数に彼の全身に粘り付いてきた、とおもった。しかし、あるいはそれは目覚めてからの心持なのかしれぬ。跡切れ跡切れの眠りの切れ目に、いつもそのような心持が続いていたのだ。
「もういい加減に、起き上ったらどうでしょう」
妻の江美子が、部屋の戸を開けて、そう言った。咎《とが》める口調ではあるが、呆《あき》れ果てたという調子が混った。
二十数年前、江美子は素晴らしい美少女だった。画家であった彼の亡父は、江美子の美しさを絶讃《ぜっさん》してやまなかった。厳密にいえば二十三年前、江美子をモデルにして彼は画架に向った。着衣のモデルである。江美子は近所の中流家庭の娘であった。父親が三十四歳、一郎は十四歳、江美子は十七歳であった。
その年に、父親は急死したのであるが、一郎は亡父の讃嘆の言葉を鮮明に記憶している。茶の間で食卓を囲んでいるとき、父親は宙を見詰めるような真剣な眼になって、
「まったく綺《き》麗《れい》な子だ、あんなに綺麗な子は女優を探しても見付からないな」
陳腐な褒《ほ》め言葉であるが、中学三年の彼の心に、その言葉は深く刻み込まれた。父親が褒め言葉を口にするのを、ほとんど聞いたことがなかったために、一層印象に残ったともいえる。とくに一郎に関しては、父親はあらゆる面で、貶《けな》す言葉を投げかけた。皮肉屋ではなく、いつも躯《からだ》の中で小爆発を起しているような男であった。貶す言葉も、正面から断定するように浴びせかけた。そのために、幾つかの才能の芽が自分の中で立枯れになった、と一郎はおもっている。
もっとも、踏み躙《にじ》られて消えるような芽は、本ものの才能の芽ではない、自分の無能無気力の弁解に父親を使っている、とおもうこともある。しかし、江美子が少年の彼の心に棲《す》み付いたのは、確実に父親の言葉のせいだ。
十七歳の江美子はたしかに抜群の美少女だった。北欧の血が四分の一、江美子の血管の中を流れているということだが、その遺伝因子が彼女の場合特に強く作用しているようだった。皮膚の色はミルクの白さで、底の方から白い。鼻はやや高すぎるようにもおもえたが、全体のバランスを崩してはいない。江美子という名前も、彼女のものであるとおもうと、外国風の洒落《しゃれ》たひびきを感じさせた。
間もなく父親が急死し、戦争が起り、伊木一郎の住んでいた町は廃墟《はいきょ》となった。父親の死後十年経って、ようやく彼は元の場所に小さな家を建てて戻《もど》ってきた。ある日、江美子が突然訪れてきた。彼は大学を卒業したばかりで、江美子は二十七歳になっていた。二十七歳の江美子は、まだ独身だった。相変らず美しかったが、その美しさにはかなり人工的な感じが加わっていた。そのように、一瞬彼は感じたのだが、すぐに十年前の父親の讃嘆の声が呪文《じゅもん》のように彼の頭の中でひびき、彼の眼は十四歳の少年の眼になってしまった。
伊木一郎は、江美子と結婚した。
四十六
寝床に横たわって、彼は眼を瞑《つむ》っている。
「どうしたの、まさか死んでしまったのじゃないでしょうね」
江美子の声が、また聞えてきた。背を跼めて、彼の顔を覗《のぞ》き込んでいる気配である。彼の顔のすぐ上に、江美子の顔がある筈《はず》だ。しかし、彼は頑強に眼を閉じている。
眼を開けば、そこには西洋の魔法使の老《ろう》婆《ば》に似た顔があるのが分っている。いや、老婆といえば言い過ぎになる。江美子の顔には、昔の美しさをおもわせるものが残っているが、それだけに一層痛ましい。
友人木《こ》暮《ぐれ》の妹恭子は、夫が死んでから、にわかに肥《ふと》り出した。異常なまでに肥満してしまった。江美子は、夫が死にもしないのに、二十代の末から急激な変貌《へんぼう》を示し出した。それはヨーロッパの婦人の特徴である。樽《たる》のような胴体になってしまう外国婦人も多いが、江美子は逆に痩《や》せた。そのため、鼻が異様に高く大きく目立ち出した。鼻は痩せない、いや十七歳の鼻よりも一まわり大きく成長したようにおもえた。茶褐色《ちゃかっしょく》のしみで、ミルク色の皮膚が斑《まだら》に覆《おお》われた。再会のとき、彼はそのことに気付かなかった。変貌は、そのとき既にはじまっていた筈だ。父の呪文が、彼の眼を霞《かす》ませたのである。
父親が設《しつら》えておいた落し穴に、その死後十年経って陥《お》ち込んだ気持に、彼は襲われるときがあった。
伊木一郎は横たわったまま、久しぶりに父親のことを思い出していた。彼は眼を開いて、江美子に声をかけた。
「おい、もう言ってもいいだろう。おやじと関係があったのじゃなかったか」
江美子が十七歳の少女の頃《ころ》、彼の亡父と肉体関係を結んだことがあったのではないか、という疑問である。
「またそんなことを言う。そんなことがある筈が無いでしょう」
「構わないんだぜ。もしあったとしたって、何とも思やしない。唯《ただ》、事実はどうなのか興味があるんだ」
その彼の言葉に、嘘《うそ》は無かった。彼が胸をときめかし、父親が讃美した江美子と、いま眼の前にいる江美子とは、別の人間なのだ。前の江美子は、二十代の末に消えてしまった。その江美子が父親と関係を持ったにしても、彼が動揺する理由はない。
「ばかばかしい」
と、江美子は鼻の先で笑った。動揺の色は少しもない。もしもそういうことがあったとしても、今の江美子はなまなましさを持って思い出すことができないのかもしれぬ、と彼はおもった。
結婚してしばらくして、その疑問が彼の中に這入《はい》りこんできた。彼の父親は、画家としての才能も認められていたが、それ以上に「モダン」な生活振りで話題になっていた。多くの女性関係も、話題を賑《にぎ》わした。「モダン」という言葉が、新鮮なひびきを持っていた時代であった。そういう父親が、なぜあのような陳腐な褒め言葉を口にしたのか。茶の間の話題が、江美子に向ったとき、父親は平素の濶達《かったつ》さを失ったのではなかったか。そして、なぜ江美子は二十七歳まで独身だったのか。なぜ、突然彼の家を訪れてきたのか。
伊木家の墓地に行ったとき、父親の墓石の前で江美子は不意に涙を流した。それはなぜか。
その頃、父親の亡霊は、しばしば彼の前に立塞がった。彼はむしろ、その亡霊を避けていた。今、彼は寝床の中で、その問題について考えてみた。他人の身の上に起った問題を考えるような心持で、彼は死んだ父親から解放されている自分をあらためて確認した。
問題自体は、曖昧《あいまい》なままで、終るだろう。そして、その問題をかかえて立現れた亡霊は、どういう作用を及ぼしただろうか……。
不意に、川村朝子のことが、彼の頭の中に浮び上った。当時、朝子は十七歳。伊木一郎は三十四歳、つまり父親の死んだ年齢と同じだった。亡父の幻の手が、山田理髪師を媒介として、一郎を朝子の方に押しやった、とこれまでの彼は考えていた。しかし、彼が川村朝子を求めた原因は、他にあったのではないか。中年に近い男と少女との関係が成立ち得ることは、彼も十分承知していた。しかし、二十代の彼は、頭で理解しても、実感に乏しかった。十七年上の男性をみると、ひどく年寄りにおもえ、自分とは別世界に住んでいる人間としか考えられなかった。三十四歳になった彼の背を押した幻の手は、江美子との関係で立現れた亡霊の手でもあった、と考えられるのではないか。
その考えが、はじめて伊木一郎の中に這入ってきた。
彼は、躯を揺り動かしてみた。相変らず、粘液に浸っている気持は続いている。先刻の夢の断片を思い出してみる。密室を出ると、そこもまた密室だった。二つ目の密室を出たところに、粘った靄が立罩めていた。現在のこの状態にも、やはり亡父の幻の手は介在しているのだろうか。
京子とともに閉じこもった密室の窓から日暮の海をみたとき、彼は「終った」と感じた。しかし、その気持は解放感とは繋《つな》がらなかった。ということは、やはりその幻の手が存在していることになるのだろうか……。あるいは、何ごとかの予感のためか。それが何か、彼にはまだ分りはしない事柄《ことがら》だが。
四十七
三日目の夕刻、ようやく彼は寝床を離れた。
長い病気の回復期のような心持が、躯のすみずみまで行きわたっていた。回復期の特徴に、感覚が鋭くなることと、幼少年期の記憶が躯の中を風のように通り抜けてゆくこととがある。その記憶は、薄《はつ》荷《か》のような後味を残して消えてゆく。
立上ると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻《び》腔《こう》の奥に藺《い》草《ぐさ》のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊《つ》ってもらって潜りこんだ蚊帳《かや》の匂《にお》いや、縁側で涼んでいるときの蚊《か》遣線香《やりせんこう》の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの幼年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔に押しよせてきた。
粥《かゆ》を炊《た》いてもらい、海苔《のり》のつくだにと福神《ふくじん》漬《づけ》でたべる。彼の傍では、中学一年生の息子がコロッケにソースをだぶだぶかけて、飯を食べている。彼の正面に、狭い庭が見えている。庭の隅《すみ》のアオキが、黒ずんだ色の小さい実を、たくさん付けている。その葉は、いつも埃《ほこり》っぽく汚れているようにみえる。
「おい」
と、彼は息子に呼びかけて、
「あれは、誰《だれ》を見舞に行ったのだったかな。お前を一緒に連れて行っただろう。頸《くび》に繃帯《ほうたい》を巻いていた……」
「ぼく、知らないよ。なんのことかさっぱり分らん」
息子は、自由な口のきき方をした。彼はなるべく、息子を濶達に育てようとおもっている。その返事がくるより先に、彼は気付いていた。それは彼の錯覚だった。中学一年生の頃の彼自身が、父親に連れられて、見舞に行ったときの記憶が、不意に浮んできていたのだった。
門から庭にまわって、父親と一郎とは佇《たたず》んだ。縁側の奥の障子が左右に開かれ、薄暗い部屋の中で、上半身を起している男の姿が見えた。寝床の上に起き上ったその男の頸の繃帯が、薄暗い中で白く浮び上っていた。父親は縁側に腰かけ、短い時間会話が取交されていた。その間、一郎は庭を眺《なが》めていた。アオキの実の黒ずんだ紅を覚えている。部屋の中の病人は、彼には見覚えがなかった。
「あれは、誰だったのか」
粥を口に運び、狭い庭を眺めながら、彼はあらためて考えてみた。その病人は、間もなく死んだと記憶している。天才的なところのあった男だと聞かされた記憶も甦《よみがえ》ってきた。しかし、それが誰だったかは、思い出せない。帰る途中、街の食堂で父親がチキンライスを註文《ちゅうもん》してくれた。そのことは、明瞭《めいりょう》に覚えている。食堂を出ると、広い坂があり、坂の上に陸橋があり、陸橋の向うに日が落ちてゆくところだったのも記憶している。
そのような少年時代の記憶の断片が、一斉に彼に押寄せてきた。彼の箸《はし》がしばらく宙で止った。
四十八
粥を食べ終ると、彼は下駄《げた》を履いて散歩に出かけた。
五十メートルも歩くと、彼は全身に倦怠《けんたい》を覚え、歩くのが億劫《おっくう》になった。「どこか本当に病気の部分ができたのではなかろうか」と、彼は心細くおもった。歩くのが億劫では、セールスマンという彼の職業は成立たない。
彼は立止った。目的のない散歩だったが、煙草《たばこ》が無くなっているのを思い出して、また歩き出した。近所の商店街に、夜店が立並んでいるようにおもえたが、それは錯覚だった。アセチレン灯をともした夜店とか、祭りの日の神社の境内に並んだ見世物小屋とか、そのような幻覚がしきりと彼を襲った。
町角の店で煙草を買い、歩きながら箱から煙草を抜きだし、立止って火をつけようとした。俯《うつむ》いて、掌《てのひら》でマッチの火を囲ったとき、すぐ眼の下に彩色された小さな紙袋が並んでいるのが見えた。手帖《てちょう》ほどの大きさの四角い紙袋で、表面に草花の絵が印刷されている。鮮明な色刷ではなく、やや色《いろ》褪《あ》せたような鄙《ひな》びた色合で、袋の表面いっぱいに満開の花の絵がある。
一瞬、幻覚かとおもった。彼の幼少年時代、草花の種がそういう袋に入れて売られていた。たしかに、その袋の彩色は、道路が自動車で詰っている時代の色合ではない。数十年以前の世の中に似合う色合である。しかし、彼の立止っていたのは花屋の店先で、現実にその袋は売られていた。
「今でも、こんな袋で売られているのか」
彼の心の状態に、その草花の種の袋はきわめてふさわしかった。指先で挟《はさ》むと、紙の袋は薄べったく、中身が空のように軽い。乾いた軽い音をかすかに立てる袋もあった。袋を耳もとに寄せて、振ってみた。
矢車草の袋からは、米粒の触れ合うのに似た音が聞えてきた。立田ナデシコの袋は、それよりもはるかに軽く、乾いた砂粒の音である。
金盞《きんせん》花《か》の袋は、巨大輪という文字が付け加えられており、薄橙色《うすだいだいいろ》と薄黄色の花が二つ並んで大きく描いてある。
八寸咲朝顔の濃い紫。
濃赤色の久留米《くるめ》けいとう。
ポンポンダリア。
百日草。
白花カスミ草。そして、サルビアの赤。
玩《がん》具《ぐ》売場に立った子供の熱心さを取戻して、彼はつぎつぎとその袋を片手の掌の上に重ねていった。
三寸石竹《せきちく》。
ペチュニア。
花屋の娘は、ちょっと呆《あき》れた表情で、その沢山の薄い袋を、ハトロン紙の袋に容《い》れて、彼に手渡した。それを受取るときの彼の眼は、たしかに輝いていた。
しかし、街燈に照らされた夜の道を、袋をかかえて歩いてゆくとき、彼の心は物悲しさで一杯になった。理由はよく分らない、なにか自分の人生がすでに終ってしまったような心持が続いた。疲れているためだ、と自分に言い聞かせ、猫《ねこ》背《ぜ》になって歩いた。
「まあ、今でもこんなものがあるの」
江美子は、彼がおもったのと同じ言葉を口に出し、
「なんだか、懐《なつか》しい感じね」
と言って、袋の絵を一つ一つ眺めた。
「これを、全部庭に蒔《ま》くつもり。花だらけになってしまうわね」
「種を蒔くことは、少しも考えなかった」
と答えながら、狭い庭が安ものの草花で花だらけになるのも悪くはないな、と彼は考えていた。
江美子は、袋を裏返して、眺めている。袋の裏側に、説明の小さい文字が印刷されている。
「白花カスミ草」
と、彼女は声を出して読み、袋を眼から大きく離した。眼を細くして、じっと眺めていたが、
「あたし、老眼になってきたのかしら、その下の小さい字は、霞んでよく見えない」
「老眼か。眼鏡をかけるんだな」
鼻眼鏡がいい、と彼は口の中で呟《つぶや》き、鼻眼鏡をかけた江美子を想像して、眼を瞑りたい心持になった。江美子は一層眼を細めて、袋の文字を読んだ。
「学名、ギプソフィラ」
十七歳の美少女だった江美子が、雑誌を読んでいるのを見たときのことを、彼は思い出していた。彼女の口から声は出てこなかったが、唇《くちびる》が絶え間なく動いていた。眼で追っている文字を一つ一つ発音している形に、唇が形を変えつづけていた。江美子の美しさにふさわしくないように少年の彼は思ったが、すぐに彼女の美しさの前にその考えは圧《お》し潰《つぶ》されてしまった。
彼は江美子の指から、その袋を取上げて、声を出して読み上げた。
「毛の如《ごと》き茎の先に白色五弁の小輪を多数に叢《むら》がり咲かせ、遠くから見れば置き忘れし女神のヴェールか羽衣か、カスミの掛った様に見えるのでカスミ草といいます。最も作りよい一年草で切り花として他の花の添え花に多く使われ、投入盛花《なげいれもりばな》の分野においては艶麗《えんれい》誇るダリアも一歩を譲る風《ふ》情《ぜい》です……。名文だ、袋の絵によく似合っている。いつ頃書かれた文章なのだろう」
彼は他の袋を取上げて、裏側を眺めた。
「これは、もっと面白《おもしろ》い。ペチュニア、和名つくばね草と称して愛せられしは紫紅色の小輪のものなりしかど、近頃の進化せる交配種は花茎10p位にも及び花色も又多彩美麗となり、切花としてもなかなかに悦《よろこ》ばるるにいたりぬ……。近頃の進化せる、と書いてあるが、この近頃とはいつ頃のことだろう。案外、この一、二年のことかもしれないな」
しだいに彼は陽気になってきて、
「艶麗誇るダリアも一歩を譲る風情です、か。いいなあ、時代離れして、雅致があるな。女神のヴェールか羽衣か、か」
「へんな人ね、なにが面白いのか、分らないじゃないの」
彼の陽気さは、続いていて、朗読をつづけた。
「蒔き時、春は彼岸より五月頃までに苗床に蒔付け……。花言葉、あなたと一緒なら自然と心が和らいでくる。ずいぶん長い花言葉だな。この袋はどうなっているだろう……。サルビア、花言葉、私の心は燃えている、か」
彼の表情が、その二つの花言葉を読み上げると、曖昧になった。
「でも、機《き》嫌《げん》がよくなってよかったわ……」
「…………」
「機嫌のいいうちに、床屋さんにいらしたら。髪が伸びて、病人みたいだわ」
「床屋か。そうだな、今夜はやはり億劫になった。明日にしよう」
四十九
その翌日は、日曜日に当っていた。
月曜日から仕事に戻《もど》ることにしよう、と伊《い》木《き》一郎は心を定めた。そして、その午後、山田理髪店に出かけていった。店の中は閑散としている。山田理髪師は、待ち構えていたように伊木一郎を椅子《いす》に坐《すわ》らせた。
「日曜だというのに、ずいぶん暇だね」
「さっきまで、混《こ》んでいたんだ。こういう時間も、ときどきあるものだよ」
山田の店には鏡の前に椅子が三台並んでおり、山田のほかに職人が一人いる。伊木は店の中を、たしかめるように見渡して、言った。
「ともかく、山田さん。自分の店が持てたというのは、良いことだったね」
「今になって、きゅうに思い出したように……、どうしたんだね、一郎さん」
「どうしたと言われても、困るが、二、三日寝込んでいたせいか、病上《やみあが》りみたいな気分なんだ。それで昔を振返ってみる心持になるのかな」
「そういえば、戦争が終って長い間経《た》って、久しぶりに一郎さんと会ったときは、まだ自分の店を持っていなかったっけ」
「そうだよ、隣町のハンサム軒に、傭《やと》われて通っていたじゃないか。ハンサム軒の主人のことを、昔は宮様の頭を刈ったことがある人物だといって自慢していたね」
「そんなことでも自慢するより、仕方がなかったわけさ」
と、床屋の山田は、回顧的な表情になった。もっとも、山田は一郎に会うと、いつでも回顧的になる。戦後、一郎に会ったのが五年前、空襲で焼けた元の場所に自分の店が持てたのが二年前。そのような近い過去ではない、遠い過去、一郎の父親について回顧するのであったが……。以前は、回顧的になる山田を、伊木一郎は警戒し、身構えた。山田を媒体にして彼の亡父が立現れ、彼の人生に立塞《たちふさ》がり、彼に命令を下し、行先を定めたり限定したりしたからだ。
しかし、現在では、彼は回顧的になる山田を恐れなくなっていた。亡父の支配から脱《のが》れ出ることができたとおもった時以来、警戒を解いていた。だが、この日は、ふたたび事情は変ってきた。むしろ彼は、積極的に亡父のことを聞きたい心持になっていた。
「丁度、良い塩梅《あんばい》だ」
閑散とした店の中を見て、彼はそう思っていた。
彼が鏡の前の椅子に坐ると、山田は髪の毛に勢よく櫛《くし》を入れはじめた。櫛を持つ山田の手が烈《はげ》しく震えているのはいつものことで、伊木はもう驚きはしない。ただ、ぶるぶる動いている櫛を撲《なぐ》りつけるように彼の髪の毛の中に打込んで、梳《す》きはじめたとき、彼は苦情を言った。
「あんまり勢よくやられると、髪の毛が心配だ。近ごろ、かなり薄くなってきたようなんだ」
「なーに、お父さんの髪はたっぷりあったから、一郎さんもまだまだ大丈夫だよ」
「だが、山田さん、おやじが死んだのは、ぼくの今の齢《とし》よりも四つばかり若かったときなんだからね」
「え」
不意を打たれたように、山田は櫛を宙で止めた。
「そういえば、そうなるな」
山田は、落胆したような口調で言い、
「俺《おれ》が齢を取ったのも、無理はないなあ」
「だから、ぼくは将来、禿《はげ》になるか白《しら》髪《が》になるか、判断する拠《よ》りどころがないというわけさ」
「おじいさんは、どうだった。なんでも長生きしたと聞いていたが」
彼の祖父は、地方都市に住んでいたので、山田理髪師とは会う機会がなかった。
「七十過ぎまで生きた。ぼくも、じいさんの頭のことを考えてみたんだが、どうもよく分らない。髪の毛をうんと短く刈っていて、その短い毛が白くなっていたようでもあり、禿げてしまっていたような気もする」
「頼りない話だな」
山田は彼の髪の毛をつまんで、指先で調べた。
「剛《こわ》い髪は白髪になるものだが、一郎さんのは細くてやわらかいようでいて、案外、細い銅線のようなところがある。さて、どうなるかねえ」
山田は、櫛を左手に持変え、鋏《はさみ》を握った。その鋏を宙に構えると、手の震えはぴたりと止《や》んだ。それも、いつものことだ。
五十
山田は鋏を動かしながら、鏡に映る伊木一郎の顔を感慨深げに眺め、
「一郎さんはお父さんの亡《な》くなった齢よりも上になってしまったのかねえ。それにしても、一郎さんは若く見える。いや、俺が齢取ったということかな。いやいや違う、いつになっても所帯《しょたい》染《じ》みないね。とても妻子があるようには……。あの子供さんは幾つだったっけ」
「この四月に中学に入った」
「中学一年の息子さんがいるようには見えないよ。そうだ、お父さんと似ているところは、頭の形だけかと思っていたが、そういうところも似ているわけだ。あの人も、死ぬまで所帯染みなかった。一郎さんとは、いつも兄弟に見られていたろう」
山田の言うように、自分が妻子があるように見えないとして、そのほかには父親とどういう点で似ているのだろうか、と伊木一郎は考えた。もともと父親は生れつきそのような外貌《がいぼう》を持っており、その血が伝わってきた、というだけのことだろうか。それとも、他《ほか》になにか。
「やはり、血は争えないものだね」
そのとき、山田の声が聞えてきた。
「おもしろいものだ。お父さんは、あんなにハデな生き方をした人で、一郎さんは、なんというかな、ま、地味に生きてきた人だ。それが、そういうところで似てくるとはねえ」
その口調には、不満の気配も漂っていた。父親と同じように、華々しい生き方を、山田は一郎に期待していたのだ。たしかに、伊木一郎は地味に生きてきた。
しかし、地味に生きてきたが、家庭的だとはいえない。亡父の幻の手が、彼の家庭の中に棘《とげ》を持込んだのだ。彼は地道に、その棘を取去ろうと努力したが、完全に取去ることはできなかった。
そして、その棘をようやく棘と感じないで済むようになった現在は、彼は良い夫でも良い父親でもない。
津上京子と明子の姿態を、彼は同時に眼に浮べた。山田に、そのことを告げたら、何と言うだろう。遊び人だった山田のことだ、何とか洒脱《しゃだつ》な言葉で批評しようとして、言葉に詰り苦しむだろう。
告げてみたい衝動が起ったとき、山田が口を開いた。それも、しばしば繰返される言葉である。単純な自慢の口調で、山田は言う。
「あれだけつき合いの広かった人が、どういうものかね、終りの頃《ころ》には俺としか遊ばなかったからなあ」
この機会に、と一郎はおもった。
五十一
「そうすると、おやじの死ぬ頃のことを一番よく知っているのは、山田さんというわけだね」
「もちろんそうだ。というと、一郎さんのお母さんに申し訳ないみたいだが」
「おやじの女性関係のこととなると」
「そうなれば、俺だ。俺のほかには、誰《だれ》もいない」
「聞きたいことがあるんだが」
「いや、一郎さん、俺が知っているといっても」
「江美子とおやじとは、どういう関係だったのだろう」
「江美子……。ああ、いまの一郎さんの奥さんのことだね。あの頃は、まったく綺《き》麗《れい》だった。眼が醒《さ》めるように綺麗とは、江美子さんのことだったよ。お父さんも、よくそう言っていた。なんでも、モデルにして絵を描いたことがあったとおもったが」
「それは知っている。それで、おやじとの関係は」
「関係というと」
「肉体関係があったかどうか、ということなんだが」
「肉体関係、冗談じゃない。あの頃、江美子さんはまだ子供だったろう」
「子供でもない。十七だったのだから」
「なるほど、芸者でいえば、半玉から一本になる年頃だが……。しかし、江美子さんはちゃんとしたお嬢さんだったからね」
「山田さん、隠さなくたっていいんだ。いまさら、どうということもないよ。唯《ただ》、はっきりしておきたいだけなんだ」
「今まで、そんなことは考えてもみなかった。江美子さんが十七か。お父さんのことだから、考えられぬ事柄《ことがら》ではないが……」
「考えてもみなかった、ということは、聞いたこともなかったわけか」
「そう……」
「…………」
「一郎さん、これはやはり、何も無かったと考えていいとおもうね。もしそうだったとしたら、当時の俺が知らない筈《はず》がないよ。それに、当時のお父さんは、それどころではなかった」
「千代美という芸者がいたというけれど」
「そう、千代美さんには惚《ほ》れていたよ」
「女の児《こ》を産んだというが」
「そうか、一郎さんは知っていたんだね」
「しかし、可哀《かわい》相《そう》なことをしたもんだ」
「可哀相といえば、いえるがねえ」
「二人とも死んでしまったんだろう、二十年の大空襲のときに」
「死んでしまった、だって」
「違うのか」
「…………」
「生きているのか」
「一郎さん、一度話しておかなくては、とおもっていたのだが、丁度そういう話になったから」
「生きている……」
「そう、たぶん」
「たぶん」
「空襲で死ななかったのは、たしかなことだよ。空襲のころは、静岡の奥の田舎に疎《そ》開《かい》していたのだから」
「…………」
「そこが、俺の郷里でね」
「それで、いまは」
「そのことだ。俺も年を取ってきたのでね、いろいろはっきり始末をしておこうとおもって、先だって手紙を出したのだが、それっきりになっている」
「静岡の田舎へ」
「いや、戦争が終ると、元の場所へ戻ってきたのさ。たしかめに出かけようと思っていたのだが、億劫《おっくう》でなかなか果せない」
「しかし、はっきり始末する、というけど……」
「それを、今日話してしまおうというわけだよ。じつは、その女の児が俺の戸籍に入っているんだ」
「山田さんの籍にか」
「そうなんだ。お父さんに頼まれてね。昔は、そうでもしないと、私生児という名が付いてしまうからね。やはり、お父さんは千代美さんを可愛《かわい》がっていたということになるかな」
「しかし、乱暴な話だね」
「乱暴というわけでもないさ。亡くなった家内は、水商売の出で、そういうことには物分りがよかったし、誰に気兼ねすることもなかったからな。つまり、お父さんと俺とは、そういう仲だった、ということだ」
「山田さんには、ずいぶん厄介《やっかい》をかけたんだなあ……。ぼくから礼を言うのも、変なものだが」
「というわけで、一郎さんには腹ちがいの妹がいることになる」
「死んだとばかり思っていたが」
「五、六年前までは、消息が分っていたんだがね」
「山田さんの戸籍に入れたとすると、その子の名前は分っているね」
「分っている、きょう子というんだ。お父さんが付けた名だ」
「きょう子か、どういう字を書くのだろう」
「東京の京で、京子だよ」
「京子……」
「どうかしたのかね」
「いや、それで、千代美という女の苗字《みょうじ》は」
「たしか、水島といったとおもったが。しかし、その後結婚したと聞いているが」
「結婚した相手の苗字は」
「さて、と。それは知らない」
「津上と言わなかったか」
「一郎さん、何か心当りでもあるのか」
「そういうわけでもないが……、その京子という女は、いま幾つくらいになっていることになるかしら」
「あれは、お父さんの死んだ年だったかな、いや前の年だったか、そうすると……」
山田が、指を折って数えはじめた。伊木《いき》一郎の暗算の方が速かった。彼はおもわず、大きな声を出した。
「二十四、五ということになる」
そして、直《す》ぐに心の中で呟《つぶや》いた。
「まさか。そんな偶然が……」
五十二
ここで再び、私(作者)の眼に、クレーの「雪の前」と題する絵が浮んでくる。
その絵について書いたのは、四十四章においてであるが、そのとき既に私は兄妹相姦《きょうだいそうかん》の気配を感じ取っていた。
そのために、この絵の解説者の眼には春の前触れとして映った「雪」が、私の眼には凍死を意味する「雪」に見えたのであろうか。
クレー自身の意図は知らない。しかし、あらためてその絵を眺《なが》めてみても、現在の私の感想はやはり同じである。
一粒の種子の断面図が、そこに描かれている。その種子に裂目ができ、芽が顔を出し、やがてその芽が一本の果樹に生育し、花が咲き、果実を枝に実らす……。一粒の種子が胚《はい》胎《たい》するそのすべての要素が、断面図の中に描き込まれ、そこで犇《ひし》めき合っている。
葉になる部分としての緑。
花になる筈の赤。
果実の橙色《だいだいいろ》。
その色彩には、原色のなまなましさは無い。将来の可能性を秘めて、仮睡している。温かい中間色である。けっして、不毛をおもわせる冷たい乾いた色ではない。殻《から》の中は、萌《も》え出る熱気をはらんで、紅《あか》らんでいる。
しかし、堅い殻を取囲む空間に、雪の前の暗さがある。殻に裂目ができようとすれば、必ず襲ってくる雪である。それは凍死を意味する大吹雪だ。
芽は、出口を見付けることができない。出口はすなわち枯死である。殻の中は、絶望的な熱気で汗ばみ、蒸れ、紅く染まってゆく。紅らんだままの死である。
私(作者)は、「出口」と題する作品を書いたことがある。玄関口も窓もすべて釘《くぎ》付《づ》けにして、薄暗い中で暮している鰻屋《うなぎや》の兄妹の話である。その密閉された家屋の中で、兄妹は夫婦として暮している。生計《たつき》のために鰻屋の家業をつづけなくてはならぬので、台所口だけは開いている。この家の鰻は、ふしぎな旨《うま》さがあって評判である。ただし、出前でしか註文《ちゅうもん》に応じない。また、鰻の肝の料理は一切断っている。おそらく、肝は兄妹の口に入ってしまうのであろう。おそらく生のままで……。生血に塗《まみ》れた二つの唇《くちびる》が、薄暗い家屋の中に浮ぶ。
この作品の中で、兄妹相姦についての意見の一部を、私は次のように書いた。
『部屋に自分自身を密閉し、脂汗《あぶらあせ》を滲《にじ》ませつづけることが、むしろ出口に通じる道である場合もある。そのために、自分の手で出口を釘付けにしてしまう。しかし、鰻屋の兄妹の場合は、それには当て嵌《は》まらぬだろう。最初は、入口を釘付けにして、世間の眼と声を遮《しゃ》断《だん》しようとしたにちがいあるまい。だが、長い間には、出口を釘付けにされた気持に移り変ってきているかもしれない。出口を塞《ふさ》いだ暗闇《くらやみ》の中で、精いっぱい躯《からだ》をふくらませ、抱き合って転がりまわる。
しかし、そのことによって、出口が開けてくることは、結局起りはしないだろう。地上に最初アダムとイブの二人きりしかいなかったとしたら、人間が現在の数にまで殖えるためには、親子相姦兄妹相姦の一時期があった筈だ。その時期には、そういう男女関係において、人々は罪を感じることなく、細胞はふくらみ、漿液《しょうえき》は燦《きら》めいた。だが、そのことが、男女関係の正常な形と見做《みな》される時期は、二度と戻《もど》ってはこないだろう』
五十三
月曜日に、伊木一郎は仕事に出かけた。
その夜、京子のいる酒場に足を向けかけて、彼はためらい、そのまま帰宅した。翌日の夜も、彼は路上に立止って、ためらい迷った。まさか、とは思うのだが、万一の偶然がおそろしい。しかし、たしかめないままでいることは、いつも不安定な心持でいることだ。決心して、歩き出した。酒場「鉄の槌《つち》」の看板が、彼の眼に映り、しだいに大きくなった。木製の看板に彫り込まれた文字が、彼を脅《おびや》かした。
「鉄の槌か」
と、彼は呟いた。
「ずいぶん久しぶりね、どうかなさっていたの」
という京子の声を、彼は予想した。しかし、そのような言葉は、京子の口からは出てこない。考えてみれば、この前京子に会った日と、この日との間には、四日があるだけなのだ。遠い過去まで戻って行き、そこから長い時間かかって引返してきたような四日間だった。それが錯覚を起させたのだ。
五日前の夕焼の日、
「終った」
と彼はおもった。
しかし、その「終った」という感じは、解放感とは繋《つな》がらなかった。まだ終っていないという予感が残った。たしかに、京子との関係は終ってはいなかった。
終るどころか、一層危険な形で彼に襲いかかってきている。
「まさか」
気持を鎮《しず》めようとするように、彼は呟いた。山田の話を、頭の中から追い払おうと試みた。しかし、たとえ一時的に追い払うことができても、一つの部屋に京子と明子がいたあの夕方の事実は残る。
スタンドの背の高い椅子《いす》に坐《すわ》り、いくぶん背を跼《かが》めてコップのウィスキーを飲んでいる彼の背後に、気配があった。津上京子が、うしろから彼の両肩を抱き、耳に唇を寄せてささやいた。
「いま、あちらの席に付いているの。でも、すぐに来るから待っていてね」
そう言うと、彼の顔を覗《のぞ》き込んだ。疚《やま》しさ、あるいはひるむ気配は無い。かえって、その京子の眼に、共犯者じみた光のあるのを、彼は認めた。
「待っていたの。いろいろお話があるわ」
戻ってきた京子はふたたび伊木一郎のうしろに立ち、その背にもたれかかるようにして、彼の耳もとでささやいた。
「ぼくも話がある」
「ボックスの方へ行きましょう」
「ここでいいじゃないか」
ボックスへ行くと、勘定が高くなる、それに借金も沢山たまっている、という気持を含めた。京子は敏感に悟って、
「これまでのお勘定は、あたしが払っておいたわ」
と言い、背後から彼の両腕を掴《つか》んで椅子から立上らせると、彼を店の隅《すみ》の席に案内した。
「あの翌日、夕方まで明子が眠りつづけて。睡眠薬を嚥《の》むように、教えたのですってね」
「沢山、嚥んでしまったのか」
「そういうわけでもなかったらしいの。でも、いつまでも眼が覚めないので、心配したわ。伊木さん、明子に死ね、と言ったわけなの」
「死ね……」
「こんなときに、睡眠薬という言葉を出すのは、危険なことと分っているでしょう」
「いたわるつもりだったのだ」
彼は京子の眼を見た。言葉とは違って、その目には咎《とが》める色はなく、依然として共犯者じみた光があった。
「それで、明子くんは」
「きのう、家を出たわ」
「家出したのか」
「家出というわけでもないわ。だいたいの見当は付いているの。二カ月ほど前から、保母になろうかしら、とときどき言っていたのよ。託児所というか小さな幼稚園のようなものを、静岡の田舎で開いている知り合いがいるので、そこで手伝いをしているのじゃないかと……」
「静岡の田舎だって」
その言葉に、彼ははげしく躓《つまず》いた。明子が保母になるといって家を出た事実よりも、はるかに躓きが大きかった。
「ええ、戦争中にそこに疎開していたの」
「きみの郷里というわけだね」
「いいえ、そうじゃないのだけど……」
彼の動揺は、一層烈《はげ》しくなった。一方、たしかめるのに何よりの機会だともおもう。京子の口から、山田理髪師の名が出れば、それですべてが明らかになる。しかし、それにつづく質問を、彼は口から出すことはできない。
「どうかしたの」
訝《いぶか》しそうに、京子は彼の顔を見た。たしかめたい、という気持は、彼の心に残っている。彼は別の方向からの質問を試みた。
「きみたちは、義理の姉妹だと言っていたが……」
もしも本当の姉妹だとしたら、彼は安心してよいことになる。なぜなら、父親の死後数年して、明子が誕生した計算になるからだ。
「この前お話した筈《はず》だわ。父が違うの。父が死んで、間もなく母が再婚したのよ。今はもうみんな死んでしまったけれど。でも、伊木さん、どうして」
再び、訝しそうな眼を、京子は向けてきた。
「どうして、ということもないが、この前、きみたち二人の顔がそっくりになってしまったことを思い出したもので……」
「あの日から、あたし何度も感じたのよ。いま明子が自分とそっくり同じ顔をしている、と、何度も感じたの。厭《いや》だったわ」
「…………」
「厭だったわ。だから明子が家を出たときには、ほっとした気持も起ったのよ」
黙って見詰めている彼に気付いた京子は、彼の眼を誤解した。たちまち京子の眼のまわりに紅が射《さ》し、その眼が潤《うる》んだ。煽情《せんじょう》された眼になった。
「あら、本当よ。厭だったのよ」
念を押すように言った京子の躯が、その瞬間からやわらかく溶けはじめた気配を、彼は傍に感じた。京子は肩を寄せると仰向いて言った。息が熱かった。
「明日、会ってね」
「明日……」
「今夜でもいいわ、もう明子がいないのだから、お店が終ったら、一緒に帰りましょう」
「今夜は、都合が悪い」
「いつか渡した手紙のことを覚えているでしょう」
「手紙……」
「手紙とはいえないわね、紙きれに字を書いたもののこと。あたし、伊木さんに会ったあと、ときどき出血するの。でも、厭じゃないのよ。一人でうずくまって我慢していると、血のにおい、というよりも血の味がしてくる。その感じが好きなの」
「血の味か」
京子のその言葉が、ふたたび烈しく彼を脅かした。
五十四
伊木一郎は考えながら眠りに入り、跡切《とぎ》れ跡切れの眠りの後、考えながら目覚めた。
朝である。
「起きて頂戴《ちょうだい》。遅くなるわよ」
襖越《ふすまご》しに、江美子の声が聞えてきた。その声はもう幾度も繰返されたものなのだろう、その声に呼起されたのだろう、と彼はおもった。立上って寝衣《ねまき》を脱いだとき、部屋の隅の机の上に、入り乱れている色彩が眼に映った。草花の種の袋が雑然と重なり合っていたのだ。
相変らず考えながら、半ば無意識に彼はその紙袋をつまみ上げた。指先に、粉っぽい感触があった。それらの紙袋は、四日前の夜、机の上に置かれたまま埃《ほこり》をかぶっていたのである。江美子がその間、彼の机を掃除しなかったのが、それで分った。
小さな安ものの机である。草花の種の袋を掴んだ片腕をだらりと下げて、彼は埃をかぶった机を眺めおろしていた。
何かを思い出しかかっている心持なのだが、分らない。分らぬまま、部屋を出た。俯《うつむ》いたまま一層深く考えに耽《ふけ》りながら、縁側に出た。俯いた眼に、狭い庭の黒い土と、縁側の下に置かれてある庭下駄《げた》が映った。ほとんど無意識のうちに、彼の足はその下駄に載り、庭に歩み出た。彼の指が紙袋の端を破り、乾いたかすかな音を残しながら、種は黒い土の上に落ちていった。つぎつぎに、彼の指は袋の端を破り、種は庭に落ちてゆく。黒い土の上に落ちた瞬間、土の色に吸いこまれてしまう黒い種。薄鼠色《うすねずみいろ》の種、白茶けた種、鳶色《とびいろ》の種。微小な昆虫《こんちゅう》の翅《はね》をむしり取ったような薄べったい種、米粒のようにふくらんだ種、片方の端に瓶洗《びんあら》いのブラシの形に似た尻尾《しっぽ》をはやした種。矢車草の種、撫子《なでしこ》の種。金盞《きんせん》花《か》の、朝顔の、鶏頭の種。百日草、霞草《かすみそう》、サルビア、石竹、ペチュニアの種。それら無数の種が紙の袋に触れて発するかすかな音に触発されて、彼の心の底に埋もれた記憶の一つがたしかに浮び上ろうとしている。
「あなた、何をしているのです」
江美子の声がひびいた。
「まあまあ、そんな種の蒔《ま》き方をして。それじゃ、とても芽を出しはしないわよ」
振返ると、縁側に立ちはだかっている江美子の姿が眼の前にあった。
「種を蒔いているつもりじゃなかった」
「それじゃ、何をしていたの」
「考えごとをしていたんだ」
「ばかばかしい。ご飯の仕度ができていますよ、遅くなるわよ」
黙って縁側に戻りながら、「がさつな女だな」と彼はおもった。白く埃をかぶった小さな机のことを思い出した。
「仕方があるまい、そんな女なんだ。それに机といっても、何を書くわけじゃなし……」
心の中で呟《つぶや》いた瞬間、埃をかぶった机を眺めたとき思い出しかかった事柄《ことがら》が、分った。それは、半年ほど思い出したことのなかった、そして、既に自分とは無縁になったとおもっていた、あの推理小説の序章であった。
五十五
嘗《かつ》て伊木《いき》一郎の心にしばしば浮び上ってきた推理小説の着想について、私(作者)が書き記したのは、この作品の第二章においてのことだ。したがって、その内容にもう一度触れて置く必要があるだろう。いや、読者の記憶の曖昧《あいまい》さをおそれてのためだけではなく、私はここでもう一度、重複をおそれず、敢《あ》えてその部分を書き記して置きたい。
『その物語の主人公は、死病に罹《かか》った男と、傍《そば》を離れずに看病する若い妻である。その男はやがて死んでしまい、物語の中からその肉体は消え去るが、依然として主人公であることを罷《や》めない。
次のような具合に、男は物語の中にとどまる。
その若い妻の貞節については、疑う余地がなかった。しかし、彼女の一つ一つの動作の継ぎ目や隙《すき》間《ま》から、生温かい性感が分泌物《ぶんぴつぶつ》のように滲み出ている。彼女自身そのことに気付かないにしても、やがては熔岩《ようがん》のような暗い輝きをもった一つ一つの細胞の集積が、彼女を突動かすときが来る。――その日のことが、瀕《ひん》死《し》の床にいる男の眼の底に、鮮明に浮び上ってくる。
彼の死後、彼女が別の男と一緒になることを裏切りとはいえない。しかし、青白く脆《もろ》そうでいて容易に噛《か》み痕《あと》の残らない彼女の皮膚や、細く引締った足首を見ていると、それは生命力の乏しくなった彼の躯《からだ》に大きな負担となり、痛みさえ感じた。
近い将来、彼女を独占する筈の男に、彼は烈しい嫉《しっ》妬《と》を覚えた。それはやがて、憎《ぞう》悪《お》に変り、名前も顔も精神内容も何一つとして分らぬ未知の男にたいする復讐《ふくしゅう》を、ひそかに心に誓った。
彼が死《し》骸《がい》になり、脆い灰白色の骨片になって素焼の壺《つぼ》に入れられ、土の中に埋められる。壺は湿気を吸い込み、変色し、表面が苔《こけ》のようなもので覆《おお》われるころ、彼の復讐が完成する。復讐の内容といえば、もちろん彼女を独占している男を殺すことだ。
その方法は――。
彼女を兇器《きょうき》にする以外にない。彼女の無意識の動作の一つが、相手の男の生命を奪う。(略)
彼女が他日兇器に変化するための準備を終えて、彼は死ぬ。序章は終り、そこから物語は本格的な段階に入るわけだ』
後日、兇器に変化する筈のものを、父親は死の直前に遺《のこ》していたのだ。それは、伊木一郎に復讐するために、計画的に用意されたものだろうか。そんなことはあるまい。彼自身は、復讐に似た悪意を否応《いやおう》なしに感じ取らされるにしても、父親にその気持は無かった筈だ。
推理小説の序章とは、その部分は重なり合わぬ筈だ、と彼はおもう。しかし、いずれにせよ、彼にたいして兇器の役割となるものが、現在この世の中に存在していることはたしかである。
津上京子が、果してその兇器なのだろうか。まさか、と彼は強く打消す。名前の一致、年齢の一致、そして境遇の類似……、それらはすべて偶然の所産にすぎない。しかし、打消し切れぬものが、彼の心に残っている。
「ある決意が必要だ」
彼は、そうおもう。
「もしもそうであった場合に備えて、はっきりした一つの姿勢をつくっておくことが必要だ」
考えながら朝食を摂《と》り、考えながら靴《くつ》を穿《は》いた。
「まだ、からだ具合が悪そうね。しっかりして頂戴」
背中のところで、江美子が言った。考えながら片腕の先に藍色《あいいろ》のトランクを提げた。考えは纏《まと》まってこない。不意に、トランクの重味で片方の肩が下り、彼はよろめいた。
「ほら、ほら」
江美子の声が、彼の背後から追いかけてきた。
五十六
山田理髪師の戸籍に入っているという娘と津上京子とが、もしも同一人物であった場合、ある決意は当然必要だ。すでに、伊木と京子との間には肉体関係が結ばれているのである。
しかし、彼はその決意の形を、見付け出すことができないでいた。その日の夕刻、彼は電車の座席に腰をおろしていた。走って行く電車の窓から、夕焼けている空が見えた。空の奥が燃え上っているような夕焼である。
夕焼と向い合って、彼はむしろ以前のように兇暴なものが躯の内側で爆《はじ》けるのを待った。湧《わ》き上ってくる憤《ふん》怒《ぬ》に似た感情を待った。そのような強い感情に突動かされて、自分が否応なしに一つの姿勢(それがどのような姿勢であろうとも)を取ってしまうことを待ったのだ。しかし、京子と明子と彼とを閉じこめた旅館の部屋の窓を透《とお》して夕焼と向い合ったとき以来、彼の躯の中でその感情は消滅していた。そのとき彼がおもわず呟いたのは、
「終った」
という言葉であったが、同時にその感情も終っていたのである。走る電車の座席に坐《すわ》っている彼は、ふたたび亡父の気配を身近に濃く感じた。
「おれからは、まだ逃げることはできないのだぞ」
という幻の声が聞えてきた。彼は逆に、その声に向って、問い返してみた。
「あなただったら、こういう場合にどうしますか」
そう言い終った瞬間、彼は質問の相手が自分より年下であることに気付いた。髪の毛のたくさんある、まだ青年の姿をした相手であることに気付いた。
「君だったら、どうするかね」
彼は試みに、そういう言い方をしてみた。答は無かった。車窓の外の夕焼は、その色を一段と濃くし、そしてにわかに消えた。
五十七
二十日に一回、伊木は山田理髪店へ赴くことにしていた。化粧品のセールスマンというのが彼の職業なのだから、二十日に一度の散髪では、身だしなみが良いとは言えない。二十日間が、許されるぎりぎりの日数である。
すでに五日が過ぎていた。あと二週間後には、否応なしに山田理髪店の椅子《いす》に坐らなくてはならぬ。京子という名の女の行方をたしかめることが、億劫《おっくう》でなかなか果せない、と山田は言うが、自分に話してしまったからには、山田はその重い腰を上げて調べに出かけるだろう。山田の店の椅子に坐れば、そのときには、京子という女の消息を聞かされることになる。その日までは、津上京子に訊《たず》ねることをしないでおこう、会わずにおこう、ともおもった。
ある夜、晩飯のとき、あと一週間もすれば山田理髪店へ出かけなくてはならぬ、と彼は考えていた。毎夜一度は、残された日数を数えるのが習慣のようになっていた。そのとき、玄関の戸が開く音がして、男の濁った声が聞えた。
「今頃《ごろ》、誰《だれ》かしら」
江美子が箸《はし》を置いて立上った。その不審は、無理もない。伊木が在宅している時間の来客は、稀《まれ》であった。
「山田かもしれない」
彼の箸が宙で止った。山田の声音を思い出そうとして、思い出し損った。問題の性質からいって、山田がわざわざ出向いて結果を教えにくることはない筈だが……、と彼は玄関の気配をうかがった。
男と江美子とがいる玄関では、声がしない。しかし、なにかの気配は漂っている。そのことが、不気味だった。
「今ごろ、男の客とはまったく珍しいが」
彼は口の中で呟いて、不吉な気持になった。半年ほど前の朝のことを思い出したのだった。そのときは、早朝だった。訪れる男の声で彼が玄関に出てみると、そこに若い警官が立っていた。井村誠一が痴漢になりかかったときのことである。
江美子が戻《もど》ってきた。普段と変らぬ顔つきで食卓に対《むか》い、そのまま食事をつづけようとした。
「おい、誰だったんだ」
「え」
彼の不安そうな口調に、むしろ驚いた顔で江美子は顔を上げると、ようやく彼の質問の意味を理解した。
「新聞屋さんの集金よ」
「なんだ……」
玄関で、声がしなかった理由が分った。江美子が相手の顔をみて、直《す》ぐに用件が分る。懐《ふとこ》ろから財布を取出し、金を数えて渡す。相手はあらかじめ用意された領収証の束から、一枚を探して抜き出し、江美子に渡す。それだけの動作がおこなわれた後、彼女は玄関から引返したわけだ。彼の緊張がにわかに弛《ゆる》み、いまいましい心持が起ってきた。
「新聞屋か。なんでこんな時刻にくるんだ。新聞屋は、暗くなってからはこないものだ」
「そうとはきまっていないわ」
「集金なら、台所口へまわればいいんだ」
「そういえば、そうね。きっと、新聞をいつも玄関へ投げ込んでゆく癖が出たのね。玄関からくるといえば、セールスの人はみんな玄関からくるわね。押売りも玄関からくるわ、どういうわけかしら」
「…………」
「ねえ、どういうわけかしら」
江美子はまじめな顔で、考えはじめた。彼の不機《ふき》嫌《げん》に気付かず、いつまでも考えている。
彼は、ゆっくりと立上って、外出の仕度をはじめた。
「あら、どこかへ出かけるの」
「散髪してくる」
そのつもりはないのだが、そう答えた。江美子は彼の頭に眼を走らせ、黙ってうなずくと依然として考えごとをしている顔つきである。戸外へ出ると、家々の屋根ででこぼこに劃《くぎ》られている地平線のあたりに懸っている月が、異様に大きく見えた。濃い橙色《だいだいいろ》の月である。
先刻、来客を一瞬山田かとおもったときから、彼は不安定な心持になっていた。酒でも飲もうか、と考えながら歩きはじめ、やがて電車通りに出た。停留場の方へ向って歩きつづけ、気が付くと立止って電車を待っていた。そのときには、彼はもう、今夜自分がどこへ行くか分っていた。結局、津上京子のいる酒場へ入ってゆくことになるだろう。
やがて、彼の眼の前に、酒場の扉《とびら》があった。眼の前に、「鉄の槌《つち》」という文字を彫った看板が吊《つる》されてあった。しばらく立止ったまま、彼はその文字を見ていた。津上京子にたいするはっきりした姿勢を促している文字として、それは彼の眼に映っている。
五十八
引返そうかという気持が強く動き、その瞬間、その気持と反対に彼の手は眼の前の扉を押していた。扉の内側に入り、そこでまた、立止っていた。
耳もとで、女の声がした。
「どうなさったの。十日以上も、姿を見せないなんて」
傍に、京子が立っていた。躯と躯とが触れ合うほど近くに京子がいる。一瞬、彼は途方に暮れた顔になり、その顔をみて京子が言った。
「なんだか、病みあがりのような顔にみえるわ。病気でもしていたの」
「う、うん」
曖昧に答えながら、彼は自分が長い病気で寝ていたような錯覚を起した。
「はっきりしないのね。ずいぶん待っていたのよ」
「…………」
「待っていたのは、あたしだけじゃないの。花田先生が、きのうも今日もいらっして、いまお連れの方が伊木さんを迎えに行こうか、と言っていらっしゃったところなのよ」
「花田光太郎が、なんで待っているのだろう。連れというと、誰だろう」
「お友だちで、井村さんとかおっしゃっていたわ」
「井村誠一か」
花田とはしばらく会っていない。この前会ったのは、烏賊《いか》が子を持つ前の時期で、まだ寒い頃だった。井村と会ったのは、さらにその前のことだ……。
「奥の席にいらっしゃるわ。さ、行きましょう」
京子が寄添って、彼の腕をじわりと握った。
「やあ、ついにあらわれたな」
花田が陽気な声を上げ、機嫌よく続けた。
「君のくるのを待っていたんだ。これで、やっと痴漢が三人そろったぞ」
伊木はその言葉に躓《つまず》き、一層曖昧な表情になったとき、井村の声が聞えた。
「いや、伊木は痴漢ではないよ。痴漢の貰《もら》いさげ役だ。その節は、お世話になった。迷惑をかけて済まなかった」
「そうか、伊木は痴漢の保護者だったな。お守り役だ」
その席で、伊木と京子との関係、さらには伊木と京子と明子との関係が話題になっていたような錯覚が、伊木に起っていたのだ。被害妄想《もうそう》といってよい。その妄想が、井村と花田の言葉で消えた。
「君たち、めずらしい取合せだね」
「めずらしくもないさ。このところ、井村から材料を貰っているんだ。そのついでに、大いに旧交をあたためている。いま証券会社のことを書いているものでね」
と、花田が言った。井村誠一は、某証券会社の課長である。
「しかし、なんで僕《ぼく》を待っていたんだ。セールスマンの内幕も書くつもりなのか」
「そんなに商売気ばかり出しているわけじゃない。君を待っていたのは、友情のためだ。井村が冬に君と会ったときのことを、さかんに話すしね。じつは、面白《おもしろ》いところを見付けてね、井村を案内しようとおもっているのだが、どうせ出掛けるなら二人より三人の方がいい。いま、君を迎えに行こうかと話していたところさ」
「あたしも、お伴《とも》しようかしら」
京子が言うと、花田は大きく手を左右に振って、
「駄目《だめ》だ。女の行くところじゃない」
「どんなところですの。ちっとも説明してくれないんだもの。あたし、やっぱり一緒についてゆくわ」
「駄目駄目。帰りにまた寄るから、それまできみは留守番だ」
「いいわよ。だいたいの見当は付いているもの」
「だいたいの見当までは付くのだが、正確に予測することはとうてい無理だね。井村にも伊木《いき》にも、無理だとおもうね」
「さっきから、さんざん焦《じ》らされているんだ。ともかく出掛けようよ」
井村が伊木を見てそう言うと、花田は勢よく立上った。
五十九
三人の男は、花田光太郎の自家用車に乗り込んだ。運転手の隣の席に坐った花田は、自分の発見に昂奮《こうふん》している様子である。
「ぜひ君たちにも見せたいんだ。独占しておくには惜しい」
「花田ほどの悪者が、そんなに感心するのは、一体なんなのだろう。秘密映画か実演の類《たぐい》だとおもうが……」
「その種のものだが、ちょっと違う。ちょっとの違いが大きな違い」
花田は最後の一節を歌うように言った。酔いもだいぶ深くなっているらしい。
「分った」
と、井村が言った。
「人間の女と動物との実演だろう」
「黒白、白白、犬白か。人間の男と動物とはちょっとの違いが大きな違い、という解釈だな。しかし、違う」
車は電車通りから左へ折れ曲った。角にある消防署の車庫のなかの薄暗い空間に、二台の消防自動車が真赤な車体をなめらかに光らせて並んでいるのが、伊木の眼に映った。
車がようやく擦れ違うほどの幅の道を、花田の車は進んでゆく。人通りのすくない、淋《さび》しい道である。やがて、車は瀟洒《しょうしゃ》な日本家屋の前で停《とま》った。目立たぬ小さな看板によって、その家屋は旅館と知れた。
女中が三人の男を座敷に案内し、酒肴《しゅこう》が運ばれてきた。長い時間待たされ、ようやく隣座敷との仕切りの襖《ふすま》が開いた。薄化粧をした上品な老女が、端《たん》坐《ざ》している。
「この家の女将《おかみ》だ」
花田が小声で説明した。女将は三人の客に丁重に頭を下げ、口上めいた言葉を述べた。
「これからこの部屋に、女のかたがみえることになりますが、そのかたは素人《しろうと》のお嬢さまです。明日から、街でもしも姿を見かけることがありましても、けっして声をおかけにならぬように……。くれぐれもお願いいたしておきます」
女将の姿が消え、誰もいなくなった隣室の畳のひろがりだけが、明るく照らし出されている。不意に、伊木たちの部屋の電燈《でんとう》が消えた。
そのために、隣室の照明が一段と明るく眼に映ってくる。
その光の中に、一人の女があらわれて、畳の上に立った。剥《む》き出しの両腕と顔とが異様に青白くみえた。その皮膚の弾《はじ》き返した光が、伊木の眼に眩《まぶ》しく、青白い顔に唇《くちびる》だけが真赤に塗られてあった。しかし、女将の言葉のとおり、いかがわしい実演の演技者の発散させる雰《ふん》囲気《いき》からは遠く、上品にさえみえる。
「何がはじまるのか」
と、伊木がおもったとき、女は両腕をしなやかに背後にまわし、洋服の背のホックに指がかかった。指先の動きが一瞬、停止し、そのままの姿勢で女は伊木たちのいる部屋に視線を向けた。暗い、しかし驕慢《きょうまん》ともみえる燃えるような眼で、その眼の中に軽侮する光が走り抜けたのを、伊木はたしかに見たとおもった。
次の瞬間、女の指先は素早い動きをみせ、つぎつぎとホックがはずされてゆき、たちまちのうちに衣服の中から女の裸身があらわれ出た。女の躯《からだ》をおおっていたものは、小さな布片にいたるまで部屋の隅《すみ》に投げ捨てられ、畳の上にじかに女は裸体を横たえた。そのときはじめて、畳の新しさに、伊木は気付いた。女の皮膚に密着し、女の肉の重さを支えている畳は、真新しい青いひろがりである。藺《い》草《ぐさ》の匂《にお》いは冷たく、女の肌の匂いは暖かく、その二つの匂いが絡《から》まり合って、漂いはじめたようにおもえた。
「一人なのか」
井村が呟《つぶや》くように言い、
「一人なんだ」
と、花田が自慢するのに似た口調で、低く答えた。
たしかに、明るい光の中に登場してくる新しい人物はいなかった。
すでに一人だけの見世物ははじまっていたのだ。女の片方の手は乳房の上に置かれ、もう一方の手は両脚の合せ目のところに在った。女は躯の背面を畳に擦りつけて、身を揉《も》むように悶《もだ》えるように動かしている。しだいに、全身が弓の形に反《そ》ってゆき、背が畳から離れた。乳房の上から離した片手を支えにして、女は上半身を起し、その瞬間、眼を伊木たちのいる部屋に向けた。薄暗い部屋の中で、熱っぽく光っている六つの目玉を、たしかめるように、女は見た。
たしかに、それは一人だけの見世物には違いない。女は、自分の躯に密着してくるもう一つの躯を必要としていない。
しかし、薄暗い中で光っている他人の眼を、その女が必要としていることは瞭《あきら》かであった。女は見世物として、光の中に裸身を曝《さら》している。しかし、同時に、その裸身に向けられた男たちの眼、その白眼の部分に網状に充血してゆく細い血管、男たちの口の中でとめどなく分泌《ぶんぴつ》してゆく透明な唾《だ》液《えき》、やがて一変して罅《ひび》割《わ》れるほど乾燥してしまう口腔《こうこう》の壁……、そのようなものが女のための見世物になっている。女の眼には直接には映らない男たちの状態が、女の網膜に鮮かに浮び上り、その光景が女を刺《し》戟《げき》しつづけてゆく。
六十
上半身を起した女は、一層深く背を反らせ、喘《あえ》ぐ音が唇から洩《も》れた。
女の乳房は、豊かとはいえなかった。むしろ肉の薄いその乳房が天井に向って高く突出され、乳首が鋭く尖《とが》った形で、周囲の空気を截《き》り取っている、天に突刺さるように並んでいる杉林《すぎばやし》の梢《こずえ》の鋭さを、その小さな乳首は感じさせた。
依然として、女の眼は大きく見開かれている。しかし、すでにその眼は外界の風物を映してはいないことが分る。強い光を湛《たた》えているが、虚《うつ》ろな眼だ。その光は、外側を照らさず、しだいに内側へ内側へと向きを変え、女の内部に揺れ動く灰色の風景を照らしはじめる。比重の大きい液体をたたえた容器を揺り動かすように、その表面は重たく粘りがちに揺れ、一面の灰色に、時折閃光《せんこう》のように赤が混る。
そのように、伊木一郎の頭の中で、女の内側の風景が拡《ひろ》がってゆく。
灰色の中の赤は、暗紅色で、古い、しかし癒《なお》り切らぬ傷痕《きずあと》をおもわせた。女の見せたあの嘲《あざけ》るような、驕慢な表情とは不似合な、痛々しい傷痕である。
その傷痕から、伊木は不意に明子を思い浮べた。女が眉《まゆ》根《ね》を寄せ、眉と眉との間に深く縦皺《たてじわ》があらわれた。それが、女を醜くした。伊木は、その顔の上に、明子の顔を重ねてみた。その顔は、明子よりもはるかに年上にみえた。しかし、明子の顔はその女と重なったまま動かず、彼はそこに数年後の津上明子を見る心持になった。
明子の傷痕は、鮮紅色である。行方不明になっている明子は、明子自身の言葉のとおり、現在は幼稚園で保母をしているかもしれない。しかし、その傷痕が暗紅色に変る頃《ころ》、いま眼の前にいる女のようにならぬ、と誰《だれ》が保証できよう。
彼は行方不明になる直前の明子と、次のような会話をしたような気持になった。
「あたし、一生結婚なんかしないの」
「結婚しないで、つぎつぎと男を誘惑するつもりなのか」
「そんなのじゃないわ。捨猫《すてねこ》をたくさん拾ってきて、育ててやるの。何十匹も、猫と一緒に暮すの」
「きみ、そんな考えはよくない。危険だ。きわめて危険だよ」
しかし、彼にはすぐ分った。実際には、そのような会話は、明子との間には無かった。それは、眼の前の女によって触発された架空の会話なのだ。
眼の前の女は、苦《く》悶《もん》の表情をつづけている。一層青白い顔になっていた。濃く部厚く塗られた口紅の下で、唇が血の色を失って、真白に乾いている、と彼はおもった。口紅の厚さが、二重に官能的に、彼を刺戟してくる。
「もう、間もなくだな」
小さく呟く花田の声が聞えた。
その言葉の意味は、伊木の解釈とは違っていた。そのことが、間もなく分った。半ば開いた女の口から、にわかに透明な液体が流れ出てきたのだ。光を受けて銀色にひかる唾液は、女の口の端から溢《あふ》れ出て、細い頸《くび》を伝わってゆっくり下降してゆく。唾液はとめどなく流れ出て、頸から肩に、さらには烈《はげ》しくこまかい波動をみせている上膊《じょうはく》の肉を越え、横腹を伝わって流れ落ちてゆく。
やがて、深くうしろに傾いている首が、わずかずつ持上ってきた。大きな力を籠《こ》めて顎《あご》がうしろに引かれ、そのため、首が起き直ってくる。細い頸の血管が、太く青く膨れ上った。
顎に籠められた力と、血管の膨らみとが極限に達した瞬間、女の首は投げ出されたように、ふたたびうしろに深く倒れた。そして、女の躯のすべての動きが停り、こわばった筋肉がやわらかく溶けてゆく有様が、はっきりと見えた。
三人の男に背を向けて、女は畳の上に横たわっている。その背中の拡がりは、薄くなめらかに浮び上った脂《あぶら》でかすかに光り、充足した落着きを示している。その背中の拡がりには、男たちを拒否している厳しさはない。しかし、全く男たちを必要とせず、いまは男たちの視線も必要とせず、自分一人だけで充足している安らぎが、滲《にじ》み出ていた。
復讐《ふくしゅう》を果したあとの安らぎのように、その背中が伊木の眼に映ってきた。そのとき、しずかに襖が閉った。襖を閉めた手は見えなかったが、おそらくあの女将であろう。そして、女の姿は視界から消えた。
六十一
「やはり、気が滅入《めい》ってくるな」
旅館に着くまでは、珍しい見世物を発見したことを自慢にしていた花田が、言葉寡《すく》なくそう言い、
「飲み直そう」
と、立上った。
花田の自動車に戻《もど》ると、ようやく男たちは多弁に戻り、それぞれの感想を述べ合った。
「いずれにしても、大したものを見付けたものだな」
その井村の言葉が、結論となった。それは、誇張のない、率直なひびきで、伊木の耳に届いた。
「約束のとおり、戻ってきてくださったのね」
酒場「鉄の槌《つち》」では、三人の男を迎えた京子の笑顔に、好奇の色が混っていて、
「それで、どんなことでしたの」
「大へんなものだったよ。さすがは、花田せんせいの見付け出したものだけのことはあった」
井村が答えたが、今度の言葉には、花田にたいする媚《こび》が含まれていた。
「ねえ先生。もう話してくださってよろしいじゃありませんか」
「井村くんに、聞きなさい」
「よし、それでは小生が一席……」
井村は、小さい声で、先刻の情景を話しはじめた。煽情《せんじょう》的な言葉と大《おお》袈裟《げさ》な身振りが、しばしば混った。
「まあ、厭《いや》。そんな見世物があるなんて」
京子の言葉を打消すように、花田が言った。
「見世物には違いないが、あの女には見せることが必要なんだ。見物人がいないと困るのだよ。ということは、すでにわれわれは見物人ではなかったわけだ。共犯者、でもないな。むしろ被害者といったところか」
「ま、ずうずうしい。被害者だなんて、あんまりだわ」
酒席の言葉のやりとりの軽さで、京子が嬌《きょう》声《せい》を上げるのを、伊木が抑えた。
「いや、図々《ずうずう》しいわけでもない。この前会ったとき、花田は言っていたんだ。おれは痴漢になるぞ、とね。酔ってはいたが、本気な口調だった。それ以外に、生きる道がないみたいだった。しかし、あの女が相手では、痴漢になりたくても、なりようがないな。そういう意味で、被害者といえないこともないな」
終りの方は、酒席の冗談の口調になり、伊木はもう一言付け加えた。
「もっとも、なれなくて幸いだが。花田光太郎という痴漢が、社会面をにぎわしたら、これはやはり困る」
花田は、同じ口調で答えた。
「行きは痴漢で、帰りは三人の善良なる小市民か」
「勇敢なる三人の擲弾兵《てきだんへい》……、の末路か」
と、井村が言い、花田がすかさず、
「末路、なんぞと、しゃらくさい。井村はね、この前警察に泊められて以来、痴漢になるのは懲《こ》りごりしたんだそうだ。以来、井村誠一は善良にして小心な亭主《ていしゅ》……。そして伊木一郎は」
「伊木のことは、言うまでもない」
井村の断定的な口調に、おもわず伊木は京子の顔を見た。京子と眼が合い、京子の眼に、二人だけの秘密を頒《わ》け合っている同士の光が浮び、その光が唆《そそのか》すように強くなった。おもわず、彼の眼もそれに感応した。その自分の状態に気付いた彼は、いそいで絡み合った視線をはずし、津上京子にたいする自分の姿勢のいまだに定まっていないことを痛切に感じた。そのとき、花田の弾んだ声が聞えた。
「おや、京子くん。厭だ、などといいながら、すっかり昂奮《こうふん》しているじゃないか。眼のまわりが、ぽおっと紅《あか》くなっているぞ」
そのことには、伊木《いき》は先刻から気付いていた。井村の話のときから、すでに京子の眼のまわりには薄桃色の靄《もや》がかかっていたのである。花田の言葉が、つづいた。
「もう、そろそろ店の終る時刻だな。京子くん、今夜は一緒に帰ろうじゃないか。痴漢になるより、やはり合意の上の人間関係のほうがいい」
自信のある口調ではない。京子が意のままにならぬことについての愚痴を、伊木に洩らしたことのある花田である。そういう言い方で、京子を口説いているわけだ。しかし、京子と伊木との関係については、花田は考えてみる気持さえ持っていない。その傲慢《ごうまん》さを、この夜もまた、伊木は憎んだ。
そのとき、京子が言った。
「先生は、こわいから厭。伊木さん、送ってくださるわね」
「なるほど、伊木ならこわくない……」
と言いかけて、花田は口を噤《つぐ》んだ。怪《け》訝《げん》な表情がその顔に浮び、京子と伊木の顔を見くらべた。その眼を意識した伊木は、反射的に京子にたいする姿勢が定まった。瞬間、彼は京子が自分の腹違いの妹かもしれぬという疑念を忘れ、京子に寄添う心になった。花田光太郎にたいする反撥《はんぱつ》が、彼をそうさせたのだ。花田は烈しくまばたきし、あらためて京子と伊木を見くらべた。
花田の顔に、一瞬、唖《あ》然《ぜん》とした表情が浮び、つづいてその顔は複雑な歪《ゆが》み方をみせた。
「そうなのか」
花田はそう呟き、その声にかすかな怒りが籠《こも》った。
「そうなんだ」
と、切返すように言い、伊木は立上った。肩を聳《そび》やかす姿勢になっていた。花田の前で、おもわずそういう姿勢になってしまう自分を、彼はふと悲しくおもった。しかし、もう後へは退《ひ》けなくなっていた。彼は昂《たかぶ》った口調で言った。
「京子、もう帰ってもかまわない時間だろう。さあ、一緒に帰ろう」
六十二
伊木は、京子と旅館の部屋にいた。花田の前で、気負った態度を示してしまったため、京子と二人で酒場を出てから、にわかに態度を変えることができなくなった。
曖昧《あいまい》な気持のまま、ずるずると旅館の部屋に入ってしまった。
「花田にあんな態度をみせたら、もう店に来なくなりはしないか。大切な客だろう」
部屋のドアが閉り、京子と二人きりになったとき、彼は沈黙を恐れた。そして、思い付いた言葉を、とりあえず口にしたのだ。
「かまやしないわ。伊木さんとは、唯《ただ》の関係ではないもの」
「唯の関係ではない……」
その言葉は伊木を脅《おびや》かしたが、同時に、京子に問い糺《ただ》す機会は今だ、とおもった。しかし、その言葉は彼の口から出てこない。一方、京子はベッドの傍《そば》に立って、両腕をうしろにまわし、上《うわ》衣《ぎ》の背のホックをはずしはじめていた。その指先の動きが途中で止り、京子は首を彼の方にまわすと、話しかけてきた。
「伊木さん、意地悪ね。どうして、長い間わたしを放《ほう》っておいたの」
「長い間というが……」
京子は彼の言葉を押《おし》除《の》けるように言った。
「長い間だわ。だって、わたし、また洋服を着るようになってしまったもの。伊木さんを待っている間は、いつも着物を着ていたのに」
京子の姿勢は、先刻の見世物の女にそっくりだった。違うのは、誘い唆《そそ》る眼であることだ。視線が合ったとき、京子の白眼の薄い灰色が内側に吸い取られてゆくように消えてゆき、水色に澄んだ。その眼の中に吸い寄せられ、引込まれる心持になった彼は、烈しくまばたきして、
「いや、長い間というが、きみとはもう会わないつもりだったのだ」
しかし、その言葉には、拒否する勢はない。まるで弁解しているようだった。
「なぜ、なぜなの」
京子は、彼の言葉がまったく理解できぬ顔をしている。そしてまた、その顔ははやくも欲望をあらわにし、唇《くちびる》が軽く外側にめくれ上っている。そういう顔と対《むか》い合うと、彼はまったく別の考えに捉《とら》えられてしまう。京子のあらわになっている欲望が、じつはそっくりそのままの形で、彼の心の奥深く潜んでいるのではあるまいか……、という考えに。まるで、足の下の地面がたちまちのうちに崩れ落ちて、深い穴に陥《お》ち込んでゆくように、その考えの中に捉えられてしまう。
「あんなに、お互に、しっくりいっていたのに」
京子の声が聞え、一瞬、彼の前に濃い乳白色の霧が立籠めた。それは、きわめて短い間のことと感じたのだが、気が付くと、彼の両腕の間に京子の裸身が嵌《は》めこまれていた。
「こんなに、お互に……」
ふたたび、彼の耳に熱い息とともに京子の声が流れ込んだ。その言葉のとおり、京子の躯《からだ》のさまざまな部分のわずかな動きの持つ意味が、彼には素早く理解できてしまう。その部分が、彼になにを求めているかを、彼は躯にじかに感じ、反射的に彼の躯のさまざまな部分がその求めに応じていることに気付く。
江美子と触れ合っているときには、それはけっして起らぬことなのだ。彼は、京子との間に、血の濃さ、のようなものを感じた。その感覚が、彼に恐怖を起させ、恐怖がかえって彼を京子の躯にのめり込ませてゆく。
彼は躯のあらゆる部分に京子の肉を感じ、自分が密閉された部屋の中に閉じ込められてしまったことも、痛いほど感じた。その部屋は、京子という密室であり、また京子と二人だけで世間の眼を避けて閉じこもる密室である。彼の舌は血の味を感じ、彼の鼻《び》腔《こう》は血なまぐさい臭《にお》いを感じ、永久に京子を両腕にかかえて密室の中で輾転《てんてん》としなくてはならぬ自分を感じた。
それが、自分の探し求めていた姿勢であり、また、自分に強《し》いられている姿勢である、と彼は混濁した意識の隅《すみ》で、そうおもった。二人だけの密室の中で……。
そのとき突然、彼は京子と自分以外の存在を、部屋の中に感じ取った。
「明子……」
おもわず呟《つぶや》いて、彼は首を擡《もた》げ、周囲を見まわした。もちろん、明子の姿が部屋の中に見えるわけがなかった。カーテンで厚く覆《おお》われた窓と、鼠色《ねずみいろ》の壁と、堅く閉ざされた焦茶《こげちゃ》色《いろ》の扉《とびら》とに取囲まれた空間の中にいるのは、京子と自分だけである。
しかし、そのとき吸取紙の上でインクが拡がってゆくように、彼は徐々に理解しはじめた。部屋の中にいるもう一人、それは死んだ父親の亡霊なのだ。
六十三
五月下旬のある朝、食卓に向って食事している伊木一郎は、妻の江美子の視線を感じていた。江美子は息子と一緒に食事を済せ、息子を中学校へ送り出し、部屋の隅に坐《すわ》って朝刊を読んでいる。先刻まで、畳の上に拡《ひろ》げた新聞紙の上に躯を乗り出し、覗《のぞ》き込む姿勢で読んでいたとおもったが。
視線を感じ、彼は妻の方に眼を向けることができない。この数日の間に、自分の顔が以前と違う感じになってしまっていて、そのことに江美子が気付いたのではあるまいか、というおそれがあった。そのおそれが、彼に江美子の眼を避けさせ、一方津上京子の面影《おもかげ》を引寄せてきた。彼は京子と三日続けて会っていた。
「縛って」
と、京子が言わないうちに、彼は京子の躯に紐《ひも》を絡《から》ませる。京子の肉の手《て》応《ごた》えを、紐を握った手でたしかめる。またしても、彼の舌は血の味を感じ、鼻腔は血なまぐさい臭いを感じ、彼は絶望的な気分のなかに異様な充実に似たものを探り当て、力を籠めて紐を引絞る……。
しかし、いま食卓に向っている彼を捉えているのは、一種の虚脱状態であった。江美子の視線を横顔の皮膚に感じながら、彼の箸《はし》の先は卵焼の黄と鮭《さけ》の切身の淡紅色を避けて、緑色の葉の漬物《つけもの》を挟《はさ》み上げた。色彩もにおいも触覚も、今の彼には煩《わずら》わしかったが、植物質のものはまだ我慢できた。
「あなた……」
江美子の声が聞え、彼はそのままの姿勢で黙っていた。心の中では、身構えている。
「頭の毛が伸びたわね。もう、山田さんのところへ行かなくては」
なんだ、そんなことだったのか。ようやく彼は江美子の方へ顔を向け、
「うん、明日にでも行こう」
「いつも、明日、なのね」
「なんだか躯の加減がよくない。休もうかどうしようか、と考えていたところだ」
「そういえば、疲れているように見えるわ。お休みにしなさいよ。布《ふ》団《とん》を敷きましょうか」
「そうしてくれ」
彼は、立上った。布団を敷く女の傍に、坐っていたくない。下駄《げた》を履いて、庭に出た。黒い土のひろがりに、緑色の一区域ができているのに気付いた。五センチほどの長さの植物の芽と、すでに二十センチほどに伸びた茎とが、土の色の見えぬくらいに密生している。そして、その緑色の地帯のまん中に、一輪だけ薄桃色の花を咲かせている草があった。ひょろ長い花茎の先に円筒型の花が付いて、その花は自分の重みで首を垂れている。円筒の一端が、いそぎんちゃくの触手のようにこまかく分れた花である。彼は背を跼《かが》めて、その花を覗き込み、密生した芽を覗いた。近くで見ると、緑色の芽は、各種各様の型のものが入り混って生えていた。この月の初めに、庭に草花の種を蒔《ま》いたこと、いや撒《ま》き散らしたことを思い出し、つづいてそのときの江美子の言葉を思い出した。江美子は、ほとんど無関心に近い口調で言ったのだ。
「そんな種の蒔き方をして。それじゃ、とても芽を出しはしないわよ」
彼は背を伸ばし、家の中へ声を掛けた。
「おい、草花の種が芽を出したぞ」
茶の間の中は、庭から見える、食卓の上の、卵の黄、鮭の淡紅色。江美子は隣の部屋に布団を敷いているらしく、声だけ聞えてきた。
「そうですか」
さまざまの花が入り混って咲くだろうか。百日草、金盞《きんせん》花《か》、矢車草、鶏頭……、こんなに密生していては、結局枯れてしまいはしないだろうか。それにしても、この薄桃色の円筒型の花は、何の花だろう。霞草《かすみそう》、撫子《なでしこ》、サルビア……、それ以上は思い出せないし、思い出しても花の形の分らぬものがある。粗末な印刷で、原色の花が表面いっぱいに描かれた紙袋を、彼は思い浮べ、もう一度家の中へ声をかけた。
「もう花の咲いているのがあるぞ。あの種の袋は、どこへやった」
「種の袋ですって。そんなものは、捨ててしまいましたよ」
彼はしばらく庭に佇《たたず》んでいたが、やがて裏木戸から外へ歩み出た。
六十四
朝の街を、下駄履きで歩いてゆく。鳶色《とびいろ》の種、白茶けた種、赤味がかった種、薄べったい種、ふくらんだ種……、さまざまな種のうち、最初に花を咲かせたのはどの種なのだろう。薄桃色円筒型の花は、何という花なのだろう。知る必要もなかったし、とくに知りたいと思う気持もなかったが、彼は花屋へ向って歩いてゆく。
矢車草、立田ナデシコの花ではない。それはたしかだ。もちろん鶏頭でもない。霞草でもないだろう、それは白い小さな花がかたまって咲く花だ。
「ペチュニア……」
その種の袋も、買った記憶がある。袋の裏に印刷された説明の文字を読んだ記憶もおぼろげにあるが、名前だけで、花の形は思い出せない。袋の絵も、記憶になかった。
「きっと、その花にちがいない」
しかし、花屋の店先で見付けたペチュニアの袋には、朝顔に似た花の絵が描いてあった。庭の花は、拡声器の形をした円筒型ではなく、釣鐘《つりがね》の形の円筒型なのだ。そして、その花に似た絵は、どの紙袋の上にも見付けることができなかった。紙袋の一つに、その花の種が紛れ込んでいたのだろう。しかし、それは何という花なのか。
「あの花の正体を調べてやろう」
花屋の店先を離れ、数軒先の古本屋に向って歩いてゆく。その花の正体が分っても、それは彼の人生に何のかかわりも無い。その気《き》易《やす》さが、逆に彼を熱心にさせた。花屋から古本屋へ……、そのときには既に、彼は床屋の山田の姿を頭の中に浮べていたのだ。京子という女の行方を、心当りを訪ねて探している山田の姿。明日にでも、山田の店へ行こう。もう手遅れだが、はっきりさせておかなくてはいけないことだ。曖昧だった姿勢が定まったこの三日間は、彼の頭の中で、山田の話の京子という女と、津上京子とが重なり合って動かない。
古本屋から五百メートルほど離れた大きな書店までは、行かなくて済んだ。彼の探していた植物図鑑は、その古本屋の棚《たな》にあった。小型の原色図鑑のページを繰ってゆくと、天然色写真の図版の一つに同じ形の花があるのを、ようやく彼は見《み》出《いだ》した。
ふうりんそう。
という名が、説明の文字にみえる。風鈴草、と漢字を当てるのだろう。その花の種が紛れ込んでいたのか、とおもいながら説明の文字に眼を走らせた。
『……代表的な二年草で、九月中〜下旬蒔きでは翌春わずかに開花する程度で、ほとんど開花しない。春に蒔くと、翌年は開花するが、夏の暑さと乾燥には弱い。……生育するにしたがってこれを移植する。五月に長い花茎をのばし、多くの花を咲かせる。花の重みで花茎がたおれるから支柱をたてる……』
先日蒔いた種に紛れ込んでいたのではなかったことになる。去年の春、風鈴草の種を蒔いたか、と彼は自問自答をはじめた。塔の上で、唇を真紅に塗った少女、津上明子にはじめて出遇《であ》ったのは、去年の秋から冬に移る頃《ころ》のことだった。それは、はっきり記憶に残っている。しかし、それ以前の時間は曖昧に霞んでいる。それにしても、去年の春、庭に草花の種を蒔いた記憶はない。あの風鈴草は、どこから来たのか。
「いずれにしても、自分にとって大した問題ではない」
と彼は呟き、古本屋の棚を眺《なが》め渡した。画集の並んでいる一角が眼に映った。歩み寄り、手を伸ばした瞬間、二十年ほど昔の記憶が鮮かに浮び上った。画集の堅い端が指先に触れたときの心持が、二十年前と全く同じだった。戦争の末期で、しばしばアメリカの飛行機の空襲があった。虚脱感と異様な充実とが同時に彼の心に在った。そのとき、彼は古本屋の棚の前に立って、両手で大きな画集を開いていた。そのロートレックの画集は、両手で支え切れぬほど重たく、彼の二カ月分の生活費に当る値段が付いていた。学生である彼には、間もなく入営の通知が来る筈《はず》だった。彼はその画集を買った。虚脱感と異様な充実とが、彼にその途方もない買物をさせたと言ってよい。その画集は、父親の遺《のこ》した他の画集とともに、間もなく空襲によって焼失してしまった。……二十年後の現在、われに返った彼の両手の間に、開かれた画集があった。
両手のなかの絵に、彼は眼を向けた。目の荒いキャンバスに、淡彩で描かれている絵である。画面中央の下に、線《せん》描《が》きの少年が小さく立っている。両脚を開いて地面に立ち、両手をひろげて上に伸ばしている。両肘《りょうひじ》が曲ってホールドアップの姿勢にみえる。少年の左に、小さな六角形の黒い星、右に、小さな黒い十字架。いや、墓標とも、焼け焦げの電柱ともみえる。
そして、頭上に、少年の躯の四倍もの大きさの六角形の真黒い星が描かれている。
黒い星の下で。
という画題につづいて説明の文章が添えられてあった。
『……大きな星は二つの三角の組み合せでできている。不吉な運命のシンボルの下で、子供は手と足をあやつり人形のようにひろげている。だが、子供は前方にひろがっている人生のじゅうたんを踏んで進み、十字架の意味するものも、運命に負けない力を示しているようだ』
彼は長い間、画集というものを見なかった。しかし、その絵の画家は、誰《だれ》か推測が付いた。表紙を返してみると、果して「クレー」という大きな活字が見えた。
その画集を、彼は買った。二十年前の記憶に捉えられていた彼にとって、それはおどろくほど廉《やす》かった。
六十五
部屋に一人だけで閉じ籠《こも》った彼は、買ってきた画集を開いた。その瞬間、彼はおもわず身構える姿勢になった。開いた本の上で、夕焼が真赤に燃えていた。
淡いクリーム色の画面の上半分に、濃い朱色の雲が、朱肉を滲《にじ》ませた綿をキャンバスに叩《たた》きつけたような形で散らばっている。赤い雲の下に、黒い小さな太陽。焼却炉からころがり出た小さな鉄の球のようにみえる。黒い線で簡略に描かれたギザギザの地平線。
画題は、ボルの上空の雲々。
『ボルとは架空の場所の名である。これは非現実であってリアルな場所である。地平線は、現実の地平線のようで、そうでもない。クレーは言った――「芸術家は、眼に見えるものを超えなければならない。その超越作用を自己の内面でおこなってから、この作用を自己の内に埋めなければならない。眼に見える世界は、芸術家にとっては、見えるというその性質の中だけで汲《く》みつくされはしない。更に進んでイメージに達しなければならない。芸術家は(いわゆる)現実を超えて、現実を溶解し、それによって内的リアリティーを、眼にみえるものにしようとする」……』その文章は、伊木《いき》一郎の頭の中を通り抜けてゆき、ふたたび彼は、濃い朱色の雲が上空に拡がっている絵に、眼を移した。幾つもの塊に分れているそれらの雲々の中に、かすかに黒い線が認められることに、はじめて気付いた。眼を近寄せて、凝視する。赤い雲の一つ一つの中に、ものの形がおぼろげに見えてくる。両腕を振上げている、スカートをはいた少女。輪郭だけの牛。風船を持っている少年のようなもの。城砦《じょうさい》に似た形。それらはすべて、地平線の上にあらわれる蜃《しん》気《き》楼《ろう》のように、さかさまに描かれている。眼を遠ざけると、その黒い線は消えて、赤い雲の幾つもの塊だけが残る。
ふたたび彼は眼を近寄せ、夕焼雲の中のものの形を、一層詳しくたしかめようとする。
「これは城ではないかな、汽船のようでもある」
夕焼雲に、眼を近寄せたり離したりしているうちに、彼の心にある感慨が起ってきた。この半年間、幾度かの夕焼と対《むか》い合ってきた、という感慨である。
去年の秋、海沿いの公園で対い合った夕焼。そのときは、彼は赤く濡《ぬ》れた心持になり、憤《ふん》怒《ぬ》に似た感情が躯《からだ》の底から湧《わ》き上った。その感情はすぐに大気に蒸発し去って、躯の中に異変の予感が残った。
今年の春、旅館の窓を透《とお》して対い合った夕焼。その部屋には京子が裸体のまま眼を閉じて横たわっていた。同じ部屋にいた明子は、掌《てのひら》で顔を覆《おお》い、立去って行った。窓からみえる風景の奥の海、漏斗型《じょうごがた》の小さな海を、夕焼が真赤に塗った。その海がやがて薄鼠色に風景の底に沈んだとき、
「終った」
と、おもったのだ。
しかし、その気持は解放感とは繋《つな》がらず、依然として不吉な予感が残った。
五月中旬、走って行く電車の外の夕焼と対い合った。凶暴《きょうぼう》なものが、躯の内側で爆《はじ》けるのを待った。憤怒に似た感情を待ったが、それは姿をあらわさなかった。
そして今、画集の上の夕焼と対い合った彼は、虚脱感と同時に、異様な充実を覚えていた。その充実は、どこから来るのか。それははたして充実なのか。追い詰められた獣が、爪《つめ》を剥《む》き出し背をまるくして身構えている。その獣の血管の中で煮え立った血。それに似たものを、彼は自分の姿勢と血管の中に感じた。それでは、自分をそこまで追い詰めたのは何か。津上京子である。父親が死後に遺した兇器と、京子とが重なり合うことによって、そのことは起った。
彼は、畳の上に立上った。山田理髪店へ行こうとおもっている。痛む歯は、はやく歯科医院で引抜いてもらった方がよい。もっとも彼の場合、歯を抜くことによって安静が得られるわけではない。すでに、津上京子にたいする彼の姿勢は定まっている。そのことによって、画集の上で燃えている夕焼が、彼に異様な充実をもたらしている。しかし、確認することによって、たとえ絶望的なものが基調になっているにしても、一層の充実を掴《つか》みたいとおもった。
全身で、彼は血の味とにおいを感じながら、山田理髪店へ向って歩き出した。
六十六
「やあ一郎さん、もう姿を見せる頃だとおもっていた」
窓の傍《そば》で煙草《たばこ》を喫《す》っていた山田は、歩いてくる伊木の姿を見付けていて、彼が入口の戸を開けると同時に声をかけた。山田は、白い上っ張りを着て、床の上に立っている。店の中では、山田の弟子が職人風の若い男の頭を刈っている。山田の視線は、伊木の頭にたしかめるように向けられ、やがて顔に移った。
「山田さん、分ったか」
山田は待ち構えていたように頷《うなず》くと、
「この前の定休は、そのために一日潰《つぶ》してしまったよ」
と言い、ふっと口を噤《つぐ》むと店の中を見まわした。
「一郎さん、ま、お茶でも飲もうよ」
山田は店の外へ出て、隣の小さな店を示し、
「このみつ豆屋がいい、婆《ばあ》さん一人でやっていて、味が当世風でないので、さっぱり客がこない」
その店には、客は誰もいなかった。
「ところてん、二つ」
山田は勝手に註文した。異常に大きな声で、その上、子供が水鉄砲を扱うときのような手つきをしてみせた。老《ろう》婆《ば》が頷いて姿を消すと、山田は自分の耳を指さし、
「あの婆さん、耳が遠いんだ」
と言い、あらためて伊木の顔を見詰めると、口を噤んだ。ためらう気配があった。しだいに自分が昂奮《こうふん》してきているのに、伊木は気付いた。
「構わない。山田さん、言ってくれ。たとえその女の子が、じつは江美子だったとしても、驚きはしないよ」
自分でも予想していなかった言葉が口から出た。
「江美子……、奥さんのことか。そんなことがある筈がないよ、一郎さん、どうかしたのかね」
「ある筈がないな。どんなに身近な人間だったとしても、という意味なんだ」
「何を考えているのか分らんが……。一郎さん、京子という子は死んでいたよ」
「死んだって、そんな筈はない」
「三年前に、死んでいた。定休の日に、千代美さんの出ていた土地へ行ってみたんだ。千代美さんは、五年前に、病気で死んでいた。千代美の家は、そのまま引継がれて置屋をやっていて、そこの女将《おかみ》がいろいろ教えてくれたよ。娘の京子も、同じ土地で芸者に出ていたが、四年ほど前に落籍《ひか》されて、小金井の方に囲われたという。旦《だん》那《な》というのは、小金井の老人だということで、その住所を教えてくれた。俺《おれ》の出した手紙も、その老人宛《あて》に回送しておいた、と言っていた。そこで、わざわざ小金井まで行ったわけだ」
「千代美という人の出ていたのは、向島だと聞いていたが……」
「そうさ、小金井とはまったく逆の方角だよ。その旦那は無事に生きていてね。そうさな、六十三、四というところかな、すこぶる丁重に俺をもてなすのだ。それは結構なんだが、こわがっている眼つきがチラチラと出る。それが気になってな、だが、そのうち分った」
「…………」
「京子という子は、千代美さんが死んで一年目に落籍されたというが、その間に悪い男が付いていたらしい。小金井のご隠居は、その男にだいぶ脅かされていたぶられたらしい。俺のことも、同じ一党だとおもったようだ。俺の人相はそんなに悪いかね」
「死んだのは、病気だったのか」
「なんでも胸を悪くした、と言っていたが、多くを語りたがらなかったよ」
「三年前というと、二十一、二か。もうすっかり大人になっていたわけだ。どんな女になっていたのだろう」
「さあて、どんな女になっていたものか。老人はいとおしむ口振りだったよ。可愛《かわい》がっていたらしい」
伊木の頭の中では、さまざまな考えが同時に犇《ひし》めき合っていた。父親も知らずに生れ、芸者になり、母親に死に別れ、悪い男が付き、老人に囲われ、病死。薄幸な生涯《しょうがい》といえよう。山田が話す前にためらいをみせたのは、京子という女を憐《あわ》れんでのためであったのか。
「それにしても、今の時代に、胸で死ぬとはね」
「よくよく運の悪い子だね」
「しかし山田さん、可怪《おか》しいな。自分の戸籍に入っている人間が死んで、それを知らないとは……」
「念のために、戸籍を調べてみたよ。京子の欄に、斜めに線が引かれてあった。間違いない。気になるなら、一郎さん、区役所へ行って俺の謄本《とうほん》を取ってみるといい」
六十七
父親の遺した京子という女と津上京子とは、同一人物ではなかった。もう一人の京子は、すでに死んでいた。その報《しら》せがもたらした昂奮がおさまると、彼は自分に言って聞かせた。……当然のことだ、同一人物というような偶然が起る筈がない。
しかし、この三日の間は、彼は津上京子を自分の妹と信じ込んでいた。三日間のどの時刻を取出してみても、そこには彼の陰惨ともいえる決意があった。そのために、一種異様な充実がもたらされていたのである。
同一人物ではなかった、と知ったとき、やはり彼は深い安《あん》堵《ど》を覚えた。と同時に、彼の充実に似た姿勢が崩れ去ってゆくのを感じないわけにはいかなかった。
山田の店を出て、家へ帰った彼はふたたび部屋に閉じ籠った。
画集を開いた。開いた本の上で夕焼は燃えていたが、果して彼の中で燃え上るものはなかった。血管の中を煮え立つものもなかった。
「終った」
今度こそ、彼は疑う余地もなく、そうおもった。布《ふ》団《とん》に深く潜り、昼間の明るい光を遮《さえぎ》って、彼は重たい眠りに入った。
六十八
眼が覚めたときには、太陽がまだ空の高いところに在った。起き上って、身仕度を整え、彼は家を出た。
「あなた、どこへ行くの」
「どこへ行くのか、自分でも分らない」
口の中で呟《つぶや》き、逃れるように足を速めた。そういう姿勢に定まった瞬間、目的の場所が瞭《あきら》かになった。京子の部屋に行こうとしている自分に気付いた。いや、起き上ったとき既にその気持だったのかもしれぬ、と彼はおもった。
しかし、「終った」と感じた今、何のために……。
分らぬままに彼の足は勝手に動き、電車に乗り、やがて京子の部屋の前に立った。ノックをせずに、そっとドアを開いた。鍵《かぎ》はかかっていない。部屋は薄暗く、人間の気配があった。
「どなた」
咎《とが》める声である。
「ぼくだ」
「あなたなの……」
物《もの》憂《う》い声の底に、艶《つや》があった。
「寝ているのか、どこか悪いのか」
「どこも悪くないの。おはいりになって」
部屋の暗さに、眼が馴《な》れてきた。京子は布《ふ》団《とん》の中にいる。巣の奥で、陰気に眼を光らせている獣のようにみえる。生ぐさいにおいと馨《かぐわ》しいにおいとが混り合って、彼の鼻《び》腔《こう》に流れ込んできた。警戒する顔になって、彼は入口に立っている。
「はやくお入りなさいよ」
「それもいいが……」
言い差して、「何のためにここに来ているのか」と彼はふたたび自分に問いかけた。「終った、ということを確認しようとして来ているのだ」と答えてみたが、それは弁解のように聞えてきた。この窖《あなぐら》のような部屋がいけないのだ……。
「どうだ、海を見に行かないか」
と、彼は咄《とっ》嗟《さ》に言ってみた。
「海を見に……、なんのために」
「なんのため、ということもないが、海のそばの店で、飯でも食わないか」
「お食事……、そうね、たまにはそういうことも、気が変っていいかもしれないわ」
起き上った京子の寝巻の袖《そで》がまくれ、腕の付根をまるく取巻いている青い痣《あざ》が、彼の眼に映った。
……やがて、二人は波止場の傍のレストランの二階にいた。時刻は夕方になっていたが、曇り日で夕焼はなく、風景は薄鼠色《うすねずみいろ》に変っていた。マストからマストに張り渡した紐《ひも》に、万国旗を並べている客船が一隻《せき》、波止場に巨《おお》きな腹を寄せている。幾隻もの貨物船のたくさんのクレーンが、空に向って腕を伸ばしている。
半年前、このように、海の景色と対い合っていた。そのあと、塔に昇り、明子に遇《あ》った。いま、明子はいない。いま傍にいるのは、京子である。風景の中に、灯火がともりはじめた。レストランの電燈が一斉に点《とも》され、テーブルの布が真白に光った。
「なぜ、こんなところに来たの。あたし、こんなところ馴れていないの」
馴れていないのは、彼も同じだった。
「あのまま、部屋に入ってしまえばよかったのだわ。無駄《むだ》なお金を使って、わざわざ気詰りな……」
魚料理のナイフとフォークをぎごちなく両手に握って、京子は咎める口調でささやく。彼は、京子の手を見た。その手は、醜く、仮死の状態になっていた。もしあのまま京子の部屋に入っていたならば、今ごろその手は、豊かな表情をみせて動きまわっていたことだろう。たとえその手が、苦《く》悶《もん》、悶絶の形になったとしても、それは生きた手である。
彼は濁った、白い欲情を感じた。燃え上るものは無く、粘った暗い欲情である。京子の眼と、眼が会った。薄い灰色の白眼をしたその眼が、誘う光を滲《にじ》ませている。その両手はナイフとフォークを構えたまま動かず、魚の入った口は咀嚼《そしゃく》を忘れている。
京子の眼から、やがて誘う光が消えた。その眼は白く濁り、その底に粘り付く強い光があらわれてきた。その眼と対い合っている彼は、自分の眼にもそれと同じ光が滲み出てきたようにおもえた。いままで、その光は自分の眼にはあらわれたことがなかった。今はじめて、自分の眼は京子と同じ光を持った、と彼はかすかな狼狽《ろうばい》を感じながら、そうおもった。烈《はげ》しく狼狽することを、鈍い粘った感情が妨げた。
京子を抱えて、斜面をゆるやかな速度で摩《ずり》落《お》ちはじめたことを、彼は知った。今度の場合、斜面の下に在るものを、彼は予測できない。唯《ただ》、大きく開いた傷口のようなものが、そこで彼を待ち受けていることだけは分った。
津上京子は、父親の遺《のこ》した兇器ではなかった。しかし、今では紛れもなく、伊木一郎の躯に鋭い刃先を突きつけている兇器になっていた。彼は、かすかに躯を揺すった。大きな皮膚の袋の中に詰った無数の細胞をたしかめるように、躯を揺す振った。
彼は、自分の細胞内部の環境が、すっかり変っていることに気付いていた。それは、「中年になったこと」と言うだけでは、言いあらわされないものだ。父親の窺《うかが》い知らぬ世界の入口に立っている、この際にもやはり死んだ父親は彼の頭の中に影を落した。
そのとき、虚《こ》空《くう》から彼の耳に声が聞えてきた。
「勘違いするな、三十四歳で終った俺の人生のつづきを、お前に引継がせているのだ」
その声の方に向けた彼の眼に、窓の外の風景が映った。戸外は夜になっていて、貨物船からは、黒い影絵になった幾本もの手が、天に向って突出された。
また、声が聞えてきた。
「俺は、お前の中に潜り込んでいるのだぞ」
彼はかすかに躯を揺すり、その声に向って答えた。
「僕の中にいると、ひどい目に遇うぞ」
彼は言葉をつづけて、
「それが復讐《ふくしゅう》だ」
と小さく呟き、いそいで頭を左右に振った。これからのことは、既に亡父とは無関係のことなのだ、と彼はおもったのだ。
彼は立上ると、依然としてナイフとフォークを両手に握ったまま仰向いた京子の顔に向って、
「行こう」
と、物憂く、しかし執拗《しつよう》な調子を籠《こ》めて呼びかけた。
樹々《きぎ》は緑か
陸橋の上で、伊木《いき》一郎は立止って、眼下に拡《ひろ》がっている日暮の街に眼を向けた。
毎日、この時刻が彼の出勤時間だ。そして、毎日彼は橋の上に立止って、街を眺《なが》める。
街は、靄《もや》のようなものの中に半ば沈んでいた。それは本当の夕靄なのか、この地帯を取囲むように聳《そび》えている幾十本もの煙突から立《たち》騰《のぼ》る煤煙《ばいえん》が層を成して街の上にかぶさってくるのか分らないが、いつも、街は靄の中に沈んでいた。
靄の中の街を見下ろした時、彼の中に起る感情が二種類ある。一つは、その街の中に降りてゆくのが億劫《おっくう》な気分だ。そこで待っている単調な仕事のことを、彼は鬱陶《うっとう》しい気持で考える。橋の上でそのまま踵《きびす》を返して部屋に戻《もど》り、布《ふ》団《とん》に潜り込んで眠り込んでしまいたくなる。
もう一つは、靄の底にかすんでいる得体の知れぬ場所へ降りてゆく、という刺《し》戟《げき》的な気分である。その二種類の感情のうちのどちらかが、その日によって彼の中に起る。
そのどちらが起るか、ということを、彼は自分の精神状態を計るバロメーターにしている。だから、彼は故意に橋の上に立止るのである。
その日は、なかなか下の街に降りて行く気持が起ってこなかった。伊木一郎はしばらく陸橋の上に立止っていた。
その小さな陸橋は切通しの高い崖《がけ》に跨《またが》って架《かか》っているので、下の舗装路を歩いている人間は犬や猫《ねこ》くらいの大きさに見える。
橋の上から靄を透《とお》して見える風景の大きな部分を占めるのは、鉛色に光りながら並行し交錯している十数条の鉄路だ。引込線に、ぽつんと置き忘れられたような一台の矩《く》形《けい》の貨車。線路の向うの空間に、黒く蹲《うずくま》っているガスタンク。灰色の色紙を切り抜いて貼《は》り付けたように見える幾本もの煙突。そのまた奥に、海のわずかな部分。夕方の太陽は鈍くくすんでしまっている。
この日は、風景は彼の心に悪く作用した。こういう日には、彼は、崖にへばりついている狭い長い石段を降りることが不安になる。その石段が、崖の下の街との通路だ。彼は踵を回《めぐ》らしたくなる。しかし、やはり、彼は石段を降りはじめる。
石段の崩れが目立った。石段の途中に中学生が腰をおろしていて、単語カードを暗記していた。その傍《そば》を覚束《おぼつか》なく摺《す》り抜けるとき、中学生がカードを見詰めて呟《つぶや》いている声が、彼の耳に届いた。
「コン・グラチュ・レーション、コングラチュレーション」
慶賀の至り、おめでとう、か。
その瞬間、彼の眼の前に沢山の少年少女の顔が浮び上ってきた。半時間後には、伊木一郎はそれらの顔に向って話し掛けている筈《はず》だ。彼は、定時制(夜間)高校の英語教師をしている。
石段を降り切って歩道を歩き出そうとした時、彼を呼ぶ声が耳もとで聞えた。
「おや、一郎さん。一郎さんじゃないか、十年ぶりかな」
声の主は、彼のすぐ眼の前にいた。顔を突きつけるようにして、伊木の顔を覗《のぞ》いていた。五十年配の男である。白い上っ張りを着て、サンダルを履いている。伊木は一瞬戸惑った。しかし、皺《しわ》の多い窶《やつ》れた感じの顔の奥からその男の昔の顔が、すぐに浮び上ってきた。
「やあ、山田さんか。すこし老《ふ》けたな」
「苦労したからね」
男の眉《まゆ》のあたりがふっと曇り、彼はポケットを探ると煙草《たばこ》を一本つまみ出して咥《くわ》えた。点火したマッチ棒を両手でかこって口もとへ近寄せるその手がぶるぶる烈《はげ》しく震えた。
その手に、伊木は視線を当てていた。煙草から煙が立昇った瞬間、男は、マッチ棒を放《ほう》り出すように捨てると、両手をぐっと上《うわ》衣《ぎ》のポケットに押込んだ。まるで、震えた手をあわてて隠したように見えた。そして、煙草を咥えた口の片隅《かたすみ》から、言葉を押出した。
「悪い酒の呑《の》み過ぎでね、なあに、仕事に差《さし》支《つか》えはありゃしない」
そう言いながら、伊木の無帽の頭をジロジロ眺めていた男は、
「死んだお父さんにそっくりになってきたね。頭の恰好《かっこう》もそっくりだ。そのあたまは、むつかしいんだ。お父さんの頭は、俺《おれ》しか刈れなかったんだからな。一郎さんの頭は誰《だれ》が刈っているんだ」
「誰がって、そこらの床屋でやってもらっているよ」
「そこらの床屋で刈れるわけがない。ずいぶんミットモナク髪が伸びてるじゃないか。俺が刈ってやろう、一緒に来なさい。なあに、すぐそこだ」
山田理髪師に窶れが見えており、その震える手を見詰めてしまった後なので、伊木は山田の申し出を断れなくなった。
石段の下の道を暫く歩いて電車の駅に入るのが伊木の道順なのだが、駅とは逆の方向へ、伊木と山田は切通しの崖の間を抜けた。かなり長い間歩き、道の両側に商家が軒を並べているところに差しかかった。隣の町まで、来てしまったのだ。
理髪店のしるしである赤と青色がねじれた棒がくるくる廻《まわ》っている店の前で、山田は立止った。
ハンサム軒。
と、入口のガラス戸に金文字で書かれてある。山田は振向くと、具合悪そうに笑って、
「これはあんまり良い名前じゃないな。ここのオヤジが付けたんだ。だが、ここのオヤジは大したもんだぞ。昔は、宮様の頭を刈ったこともある。それに、俺も間もなく昔のように一軒店を持つつもりだ」
「山田さんが戻ってきていたとは知らなかった。僕《ぼく》もしばらく前から、住んでいるんだ」
「十年経《た》って、ようやく近くまで戻ってこれた。さあ、はやく店に入りなさい」
二人は同じ町に住んでいたが、戦争中空襲で家屋を焼かれた。そして、久しく元の場所へ戻ってこれなかった。
鏡の前の椅子《いす》に伊木が坐《すわ》るや否《いな》や、山田は髪の毛に勢よく櫛《くし》を入れはじめた。櫛をもつ山田の手が、先刻のように烈しく震えている。ぶるぶる動いている櫛を撲《なぐ》りつけるように伊木の髪の毛の中に打込んで、そして梳《す》くのである。
伊木は、不安になった、鋏《はさみ》をもつ男の手、剃刀《かみそり》をもつ男の手のことを今更のように考え
た。
しかし、山田が鋏を宙に構えると、手の震えは全く止んだ。彼はもう一方の掌《てのひら》をひらひらと伊木の頭のまわりに舞わせながら、
「見れば見るほど、一郎さんの頭はお父さんにそっくりだね。ここが、こう、ぐっとうしろへ張出して、ここのところが平たくなって。丁度、飛行船を前から見た形だな。こういう形の頭は、俺でなくては刈れやしない」
冴《さ》えた鋏の音がひびきはじめ、その音と一緒に山田の話しかける声が絶え間なくつづいた。
「お父さんが死んで、もう何年になるかな」
「十八年くらいになる」
「早いものだな。三十の半ばで亡《な》くなったんだから、今生きていてもまだまだという齢《とし》だがな。もっとも、お父さんが死んだときには皆こう言ったものだ。普通の人の八十歳くらいの分をもうやってしまっているから、若死とは言えない、とね」
「食べることと、女の方だけは、人の二倍はやっていたそうだが」
「そうそう。亡くなる前の頃《ころ》は、どういうものか俺ばかり誘われて、あちらこちらへ引張って行かれたもんだよ。あの頃のお父さんのことは俺が一番よく知っているな。とにかくハデな生き方をした人だった」
伊木一郎は時折、いやむしろしばしば、彼の父親を知っていたという人と出遇《であ》った。それらの人々は、それぞれ彼の父の像を心の中に持っていた。父親と面識のないままに、彼の父の像を作り上げている人も、その中には含まれていた。
そして、その像の中には、伊木にとって必ず何かの形で棘《とげ》が隠れていた。その棘は、伊木を刺すのである。
おまえの父親は、何をしていたか? という問に対して、伊木はいつも戸惑う。伊木の遇った人々はさまざまの答を出してくれた。
画家。
株屋。
香水を作っていたことがあるんだって?
蕩《とう》児《じ》。
そしていま、山田理髪師は、「ハデな生き方をした人」と言った。その言葉には、皮肉な意味は隠されていないようだ、と伊木は相手の言葉を噛《か》み分けてゆく。
「あれだけ、つき合いの広かった人が、どういうものかね、終りの頃には俺としか遊ばなかったからなあ」
それは、単純な自慢の口調である。そういう山田とは、父は気楽に遊興の時間を過すことができたに違いない、と伊木は考える。そして、そういう山田をもっぱら相手にしていたということに、伊木は晩年の父の心の衰えを覗く気持になってしまう。
山田が差出した伊木の父親の像に隠れていた棘は、それだけではなかった。鋏の音の合間に、山田は伊木の耳の中に言葉を投げ込んでくる。
「ところで一郎さん、今なにをしているね」
「僕か、僕は夜学の先生だ」
「ふうん」
山田は、しばらく口を噤《つぐ》んだ。
伊木には、山田の頭の中に浮んでいる言葉が分る。「ふうん。夜学の先生とは、これはまた地味な商売だ。あの親父に似合わぬ息子だな。本人もさぞイライラと焦《あせ》っていることだろう」そういう言葉を、伊木は迷惑におもう。自分がイライラしてはいないということを口に出して説明したい気持で、伊木は少しイライラしはじめる。そして、説明しても相手に理解される筈がない、無駄《むだ》だ、とおもう気持が伊木を一層苛《いら》立《だ》たせた。
伊木の中の父の像と、山田の中の像との差違が大き過ぎるのだ。
暫く黙っていた山田は、ふたたび喋《しゃべ》りはじめた。
「一郎さん、いま幾つかね」
「三十三になった」
「ひとり身かね」
「いや」
「ふうん、子供はあるかね」
「男の子が一人。小学二年生だ」
「ふうん。お父さんがその年には、一郎さんはもう中学校に入ってたろう。まあ、ともかく頭の形は瓜《うり》二つだな。俺がうまく刈ってあげるよ。しかし考えてみれば早いもんだなあ。俺は一郎さんの頭は、あんたが小学生の時から刈っているわけだからな。そうだ、あんたの子供も今度連れてきなさい」
ハンサム軒の椅子の上で、伊木は二十年前の父親の顔と、そしてこの山田の顔を思い出していた。その二つの顔は、いずれも若々しく精悍《せいかん》な表情を浮べていた。
小学生の時、伊木一郎は髪の毛を長くしていた。そして当時、ある時期から一郎は山田理髪店のことを考えるのが苦痛になってきた。それは彼の長くした髪の毛に関連があった。
ある冬の休暇、一郎は父親と二人だけである温泉に逗留《とうりゅう》していた。そこは、変化に乏しい鄙《ひな》びた土地だった。いつでも躯《からだ》を動かしていなくては気の済まぬような気質の父親が、なぜこういう土地に滞在しているのか、一郎には不可解だった。そして父親は、いつもイライラして不機《ふき》嫌《げん》であった。
父親の不機嫌は、傍にいる一郎にはけ口を見《み》出《いだ》しはじめた。不意に彼は一郎を詰《なじ》りはじめる。
「一郎、おまえの髪の毛は長くて目ざわりだ、坊《ぼう》主《ず》刈りにした方がいい。これから村の床屋へ行こう」
一郎は頑《かたくな》に首を横に振る。父親は怒鳴りつける口調で言う。
「おまえもさらい年は中学だ。中学に入ったら、みんな坊主刈りにするのが規則だ。今のうちから馴《な》らしておいた方がいい」
ものごころついた時から、一郎はずっと髪の毛を長くしている。不意にそういうことを言い出されて、彼は困惑する。一層頑に、拒みつづける。そのうち、また不意に父親の気分が変る。
「そうか、それでは仕方がない。今は勘弁してやる。その替り、家へ帰ったら直《す》ぐに山田のところへ連れてゆくぞ」
そのまま、父親はそのことを忘れてしまっている。
しかし、時折父親は思い出す。烈しい勢で思い出して、一郎を山田理髪店へ引張って行こうとする。
一年後の夏、とうとう一郎が拒み切れない勢で、父親は一郎を坊主刈りにすることを思い出してしまった。
山田理髪店の背の高い椅子に坐った一郎の髪の毛をつまみ上げて、山田は、
「いよいよ丸坊主にするのか、ちょっと情ない心持だろ」
と言い、鏡の中の一郎の顔を見てニヤリと笑った。
「平気さ」
一郎は笑い返したが、その笑いが幾分こわばった。山田はバリカンの冷たい刃を一郎の額にぴたりと押当てた。そして勢よく一郎の髪の毛を刈り落しはじめた。
山田は一郎の頭をきっかり右半分だけ五分刈りにすると、バリカンを置いて煙草に火をつけた。旨《うま》そうに二、三服すると、そのまま店の奥に這入《はい》ってしまった。
鏡には、右半分が青々とした坊主刈り、残りの半分が長髪の異様な頭が映っていた。一郎は苛立ち、恥じらいながら、山田が戻《もど》ってくるのを待った。山田はなかなか現れない。
一郎の前にある横長の鏡の端に、理髪店の前の街路が映っていた。鏡の中の街路に一人の少女の姿が浮び上った。少女はサンダルを履いて、ゆっくりした速度で近寄ってくる。美しいのが評判の少女で、一郎とは顔見知りだ。一郎は、その少女が山田理髪店の内を覗き込みはしまいか、と白い大きな掛布の下で躯を堅くしていた。その白い掛布から、一郎の異様な首だけが突出ているのだ。
もしも、少女が店の内を覗き込んだ時には、一郎はわざと彼女の視線を捉《とら》え、眼を剥《む》いてペロリと舌を出してみよう、と決心していた。そういう道化た素振りをする以外に、彼は自分の気持を救う方法を見付けることはできなかった。しかし、そういう気軽な素振りがうまく身に付かないことも一郎は承知していた。自分が陰気で内向性で、子供らしくない子供であることを、彼は知っていたからだ。結局、彼は少女が店の内を覗かないように念じた。
ようやく、山田が店の奥から出てきた。指を焦《こ》がしそうに短くなった煙草を灰皿《はいざら》の中で揉《も》み消すと、大きく一つ伸びをし、
「さて、残りを刈るとしようか」
その時鏡の中には頬《ほお》の削《そ》げた蒼白《あおじろ》い山田の顔が映っていた。髭《ひげ》の剃《そ》り痕《あと》が、青々としていた。一郎の頭の中に「冷酷な美男子」という言葉が浮んだ。小学六年生にふさわしくない語彙《ごい》だが、雑誌の小説の中ででも見覚えた言葉であったのだろう。
約二十年以上の歳月が、その日から経っている。
ハンサム軒の背の高い椅子の上で、伊木《いき》一郎の眼に映っている山田の顔にはその時には見られなかった皺があらわれ、冷酷さを感じさせる線も見当らなかった。
そして、小学生の一郎の心を悩ましたもう一人の男、つまり彼の父親は、すでにこの世の中にはいない。「しかし、もう一人の男は、死んでしまったといっても油断ならぬのだ」と、伊木は回想の終ったところで、そう呟《つぶや》いた。
まったく、伊木一郎は油断をしてはならなかったのだ。しかし、すでに彼が回想に溺《おぼ》れている間に、その油断は出来てしまっていた。
冴えた鋏の音の間に、山田の呟く声が耳もとで聞えた。
「ここは、もっと刈り上げなくてはいかん」
みるみる伊木の頭は、見馴れない形に変ってゆきはじめた。
「あ、そこは、そんなに短くしない方がいいんだが」
伊木の控え目な抗議は、山田理髪師の自信と意気込みの前に忽《たちま》ちのうちに圧《お》し潰《つぶ》されてしまった。
鋏の音が鳴り止《や》んだとき、鏡にはひどく少年染《じ》みてしまった伊木の頭の形が映っていた。
伊木は狼狽《ろうばい》した。「この頭で教壇に立たなくてはならぬのか、これは弱った」と、伊木は口の中で呟いた。しかし、伊木が自分の髪の形をみて狼狽したのには、そのことばかりではないもう一つの理由もあった。
その理由は、彼の心には明確な形では浮び上ってこなかった。というより、むしろ彼はその理由に眼を向けることを躊躇《ちゅうちょ》したのだ。そして「教師にはその髪の形は不似合である」という事柄《ことがら》にだけ、眼を向けようとした。
革《かわ》砥《と》に剃刀を叩《たた》きつけるようにして研《と》いでいた山田は、伊木の傍《そば》へ戻ってくると、
「これは、まるで瓜二つになってしまった。一郎さん、あんた、これから夜学を教えに行くのかねえ」
と、言った。
その時、伊木一郎は鏡の中の顔、山田が瓜二つと称するその顔を見詰めながら、「死んでからもう二十年ちかくになるというのに、まだ床屋の山田のところへ僕を連れて行きたかったのか」と、死んだ父親に向って問いかけていた。
鏡の中の顔は、すうっと天に昇って消えた。いや、山田が伊木の椅子をがくりと後へ倒したのだ。
山田は伊木の顔を剃りはじめた。
「お父さんは、洒落《しゃれ》者《もの》だったからね。ここのモミアゲのところを、斜めに剃っていたものだよ」
と、山田が懐古的な口調で言った。伊木は自分の置かれた状況に腹を立てていた。だから、大きな声で言った。
「僕も、そういう風に剃ってくれ。モミアゲをななめに剃ってくれ」
山田の眼の中の懐古的な光が、調べる光に変った。やがて、山田の気乗のしない声が聞えた。
「そういうやり方は、いまは流行していないからな。やっぱり、やめた方がいいよ。それに、一郎さんは学校の先生だからね、ハイカラな形はおかしいよ」
理髪店の外へ出たとき、伊木は頭が寒かった。背中の奥まで寒かった。
冬の街は、すでに灯《ひ》をともしていた。ラジオ屋の拡声器から、街路まで歌声が流れ出ていた。店先を通り過ぎる彼の耳に、男の歌声が流れ込んできた。
伊木はゆっくり歩いていたが、歌声はやがて彼の耳まで届かなくなった。歌の文句は一部分しか耳に入らなかったわけだが、彼はおぼろげながらその全部を知っている。
なんでも、こんな意味の甘い歌詞だった。
光のない夕暮、男が一人崖《がけ》の上に立っている。不意に、男は掌《てのひら》の中に弾力のある乳房を感じる。その肉は、彼の開いた指のあいだに喰《く》い込んでゆくほどに充実してくる。幻の触覚だ。次の瞬間、その乳房は溶けはじめる。みるみる乳色の靄《もや》と化して、男の指の間から流れ去り、白い夕暮の中に混ってしまう。男は一人、虚《むな》しくなった掌を見詰めて、崖の上に立っている。
伊木一郎の脳裏に、一人の少女が浮び上った。彼は首を振って、その幻影を追い払おうとした。
彼は首をガクガクと左右に振動かした。頭が軽く、頭が寒かった。少年染みた髪の形になった自分の頭が、彼の眼に鮮明に浮び上ってきた。そのために、追い払おうとした少女の幻影が、逆に伊木一郎に絡《から》みついてきた。
彼が理髪店の鏡に映った頭を見て狼狽したのは、川村朝子という少女と関連があったのだ。
学校の門に着いたときには、第二時間目の授業がすでに始まっている時刻だった。
伊木は校庭を横切って、そのまま自分の教室の方へ歩いて行った。校庭の一隅《いちぐう》にある自転車置場では、納まりきらぬ乗物がその周辺に散乱していた。夜学生たちが昼間の職場で乗りまわしている乗物でそのまま登校するために、スクーターや小型トラックまであった。派手なペンキ塗りの広告板を胴中にぶら下げた自転車もあった。
教室に入ってきた伊木の姿を見て、生徒たちがざわめいた。平素だったら、このざわめきの正体について伊木が戸惑うことはない。それは、休講になることを喜んでいた生徒たちの失望のざわめきと、教師の遅刻のために貴重な時間を失ったことを不平におもっている勤勉な生徒たちのざわめきとが混り合ったものだ。
しかし、この夜のざわめきを聞くと、伊木はそれが彼の髪の形を見た生徒たちの反応のようにおもえてくる。
伊木が一人だけ教壇の上に立っていて、部屋の中に沢山ある彼以外の顔は全部自分の方へ向けられている。教師としては当然のその状況が、何か理不尽な目に遇《あ》っている気分を彼の中に惹起《ひきおこ》す。
彼は俯《うつむ》いて机の上にテキストを開き、一人の生徒に訳読するよう指示した。少年の声が流れはじめ、今まで伊木の方を向いていた沢山の眼はそれぞれの本の上に落ちた。
少年の声が熄《や》んだ時、不意に一人の少女が立上った。伊木は、その少女が川村朝子であることを知って緊張した。彼女が進んで質問に立つことは、滅多にないことだった。彼女は、いったい何を言い出そうとしているのか、と伊木は緊張して待った。
少女の口から出てきたのは、一つの平凡な質問だった。
しかし、部屋の中の眼は再び本から離れて伊木の方へ向いた。いや、伊木と少女とを見《み》較《くら》べているようにおもえた。
山田理髪店の椅子《いす》の上で、刈り上った髪の形を見るまでは、伊木にとって川村朝子はちょっと気にかかる程度の少女に過ぎなかった。いや、その程度だと思い込もうとしていた。その程度でなくては困る、と伊木が自分の心に言い聞かせていた、と言ってもよい。
「少女に恋すると、頭の形まで少年風にしたくなるものかな」
そういう声が、この部屋のどこかから聞えてくるような気持に、伊木は陥った。じつはその声は、最初は理髪店の椅子に坐《すわ》っている伊木の耳に密《ひそ》かに響いてきた。鏡に映っている自分の頭が、自分の剥き出しにされた心のように、伊木の眼に映ったのだ。
そして、その声は次第に大きくなりながら、ずっと教室まで伊木にくっついてきた。
もう一度、この部屋のすべての顔が自分の方に向いていることが、強く伊木の意識に入ってきた。彼はそれを耐え難《がた》く感じ、そしてふと「この職業も自分の身に合わなくなってきたようだ」と考えた。
この言葉が伊木一郎を襲ったのは、久方ぶりのことだった。大学を卒業して以来、伊木はこの職に居るのだが、その前、つまりアルバイトをしながら通常の二倍の年月をかけて大学を卒業するまでの間には、この言葉はしばしば彼を襲った。
そして、その度に彼は気《き》易《やす》くそれまでの職を放擲《ほうてき》して、新しい仕事を見付けたものだ。しかし、今は身軽なアルバイト大学生とは違う。気易く職を投げだすことができるかどうか、彼は自分の心をじっと量ってみた。
伊木一郎の脳裏に一つの情景が浮び上ってきた。その小さな出来事にも、やはり死んだ父親が絡まっていた。
七、八年以前のことだ。その頃《ころ》、彼は或《あ》る小出版社で働いていた。
彼は、省線の駅の傍で、女優の花村花枝を待っていた。黒い詰襟《つめえり》の学生服を着ていた。その出版社主催の座談会の会場へその女優を案内することが、彼の役目だった。
花村花枝はアメリカ人と結婚していて、日本人の立入り難い地帯に住んでいるので、彼は駅の傍で落合うことにしたのだ。初対面なので彼女は伊木の顔を知らない。彼は、写真で見覚えている中年の女優を捉《つかま》えなくてはならぬわけだ。
花村花枝は、彼が自動車を用意していないのを知ると、不機嫌な表情をあらわにした。貧乏会社の編集長は、伊木にこう言い付けていたのだ。
「亭主《ていしゅ》がアメリカ人なのだから、車に乗ってくるさ。もし歩いてきたら、かまわないから省線に乗せてしまうんだな」
伊木はタクシーを探したが、その頃にはタクシーは滅多に見付からなかった。仕方なく、彼は恐縮しながら電車の切符を差出した。
駅の階段を下りるとき、彼は花村花枝が妊娠していることを知った。彼女はわざとのように、うんとお腹《なか》を突出した姿勢で階段を降りて行った。
花村花枝の不機《ふき》嫌《げん》は、ますます烈《はげ》しくなってきた。電車には、空席がなかった。
伊木は、彼女について或る事柄を聞き知っていた。彼女が伊木の父親を愛したことがある、ということをである。それは、深く入り組んだ関係ではなかったようだ。それに、もうずいぶん以前のことなのだ。彼は、自分が伊木明夫の息子であることを告げれば、彼女のノスタルジーを刺《し》戟《げき》することになるかもしれぬと考えた。
彼はしばらく躊躇していた。しかし、顰《しか》めた眉《まゆ》の間に苛《いら》立《だ》ちをあらわに現した花村花枝の顔を見ると、彼はその場の気詰まりな気分に耐えられなくなった。
世間話のようなものを、二、三話しかけてみたが、彼女は素気なく返事して直ぐに元の表情に戻った。
とうとう、彼は父親の名前を口に出してしまった。愛情の問題には第三者の計り知れぬことが多い。父親の名を出すことが、かえって彼女の感情を損ねる危懼《きく》もあったのだが、それならばそれでよい、と彼は考えた。彼は、このままの状況に耐えられなかったわけだ。
花村花枝の堅い表情が、にわかに崩れた。彼にも意外なほど、態度がやわらいだ。彼は安《あん》堵《ど》すると同時に、ひどく下《げ》賤《せん》な行為をしたような後悔を覚えた。
「あらそうでしたの。はやく、おっしゃればいいのに」
この「はやくおっしゃればいいのに」という言葉に、彼はまたひどく躓《つまず》いた。あまりにひどく躓いた結果、伊木はふとあの言葉に襲われた。「この職業も自分の身に合わなくなってきたようだ」という言葉に。
伊木の父親の像が、他人の心の中で具合よく組立てられる場合にも、それは彼にとって鋭い棘《とげ》を隠しているのだった。
花村花枝は、遠くの方を眺《なが》めているような眼を伊木一郎に向けて、そして言った。
「そういえば、いくらか似ていらっしゃるわね」
教壇の上に立っている伊木の耳の中で、その時の花村花枝の声が響いた。
「頭の形など、瓜《うり》二つになってきたな」
花村花枝の声が、山田理髪師の声と重なって、彼の追憶は中絶された。
伊木一郎は、頭をガクガク左右に振った。山田に刈られたばかりの少年風の頭が、寒かった。
その翌日、勤め先の夜間高校へ行くために、伊木一郎は吹曝《ふきさら》しのプラットホームに立っていた。
逆方向の電車が三台来たが、彼の乗る電車は来ない。
風が強くなって、彼は自分の栄養の悪い痩《や》せた躯《からだ》が、風の中でハタハタと鳴るような気がした。昨日刈ったばかりの頭が、ひどく寒かった。その髪が少年風の形に刈られてしまっていることが、彼の眼に鮮やかに浮び上ってくる。「少女に恋すると、頭の形まで少年風にしたくなるものかな?」という声が、再びどこからともなく彼の耳に響いてきた。その川村朝子という少女が坐っている筈《はず》の教室へ、これから数十分後に教師として入って行くことを考えると、伊木《いき》一郎は尻《しり》込《ご》みする気分になってしまった。
また、逆方向の電車が走り込んできた。車内の電燈《でんとう》で黄色く染まったたくさんの窓が、チラチラと眼の前を横切ってやがて停止した。
窓の黄色い光が暖かそうに見えた。おもわず、伊木はその電車に乗ってしまった。電車が走り出したとき、彼は久しぶりに油井重次を訪ねてみることに心を定《き》めた。
油井重次の勤めている会社は、都心の近くの町に在る。鉄とセメントの建物に挟《はさ》まれた街路を通り抜けて、橋を一つ渡ると町の光景がにわかに変る。
街路にも崩れや凸凹《でこぼこ》が目立ち、コロッケを揚げる油のにおいが漂う。その肉屋の店先には、エプロンを掛けて買物籠《かご》を提げた主婦たちが集っている。
度量衡器具店とソバ屋に挟まれた小さな木造家屋の二階が、油井のいる事務室である。
油井は、机に向って仕事をしていた。隅《すみ》の机では、赤いセーターを着た少女が、キャラメルの粒を包んである小さな蝋紙《ろうがみ》で折紙をしていた。豆粒ほどの鶴《つる》が二、三羽、少女の机の上に並んでいた。
「おや、伊木か。久しぶりだな」
油井は顔をあげてそう言うと、ついでに柱時計に眼を向け、
「もう六時か。おーい、ねえちゃん、お茶をいれてきてくれ」
少女は、階下へ降りて行った。
「女の子が増えたね」
「うん、こまごました雑用までやらされていたら、とても躯がもたないからね。無理矢理入れさせたんだ」
「しかし、ねえちゃん、と呼ぶのはちょっと可哀《かわい》そうじゃないか」
「なあに、あの娘はいままでずっとトンカツ屋で働いていたものでね、ねえちゃんと呼ばれないと落着かないと、本人がそう言うのだ。原爆孤児でね、苦労しているから、良いところがあるよ。もっとも、苦労しているから、悪いところもあるが」
黒い盆の上に、湯気の立つ茶碗《ちゃわん》を三つ載せて、少女が戻《もど》ってきた。伊木と油井の前に茶碗を置き、少女は部屋の隅に佇《たたず》んだまま、両方の掌で残りの一つの茶碗をかかえこむようにしながら茶を啜《すす》りはじめた。
油井がその少女に声をかけた。
「もう帰ってもいいぞ。それとも俺《おれ》と一緒に帰りたいか」
そして、伊木の方を向くと、
「この子はね、男と二人だけでいるとき、男が自分をクドかないと、その男がどうかしているんじゃないか、とおもう癖があるらしいのでね、時々こういうことを言わなくちゃいけないんだ。ところで伊木、どうだいあのオッパイ。あいつ、あれが自慢でわざわざセーターを着てくるんだ」
少女は含み笑いの声を立てながら、荷物をまとめはじめた。そして、ちらりと横目で油井を睨《にら》んだ。その眼は、意外に媚《なま》めかしい色で光った。
「三十分ほど待ってくれないか、この仕事を片付けてしまうからな。帰り道で、焼酎《しょうちゅう》でも呑《の》もうや」
油井が案内した小さな居酒屋で、焼酎の酔がまわってきたとき、伊木が言った。
「君はずいぶん変ったね、神経が頑丈《がんじょう》になったようだね」
しばらく伊木の顔を眺めていた油井の顔に、やがてふっと奇妙な表情が掠《かす》めた。吐き出すように、言った。
「疲れているだけさ」
「しかし、例えば、あの赤いセーターを着た娘にたいする態度をみていると、僕《ぼく》は羨《うらやま》しくなった。君のノンシャランな態度を見ているとね」
油井は、オヤ、という顔をした。計算違いをしていた、という表情になった。
「なんだ、君、誰《だれ》かに惚《ほ》れているね。誰か、といっても俺に分るわけがないが、とにかく若い娘だね、少女だな」
彼は伊木の顔をゆっくり眺めまわすと、
「それで君は、そんな髪の形にしているのか。少女に惚れると、そういうことになるのかね」
と、油井は大きな声で笑い出した。油井の言った言葉は、前の夜から幾度も伊木の頭の中で鳴っていたものと同じだった。しかし、実際にその言葉を口にしたのは、油井が最初の人間だった。
伊木が川村朝子という少女に関心を持っていることは確かなことだ。しかし、恋心を抱いていると考えたことはなかった。
山田理髪師に偶然会って髪を刈られ、そして、いま油井重次の口からはっきりその言葉が出てきたのを知ると、伊木は自分が川村朝子に恋慕している気持になってしまった。いままで覆《おお》い隠されていた恋情が、この二日間に暴《あば》き出された気分だった。
しかし、自分は朝子について、一体何を知っているのだろうか、と伊木は呟《つぶや》いた。二人だけで向い合ったことさえ、ありはしないのだ。
「その娘は、どういう女の子なんだ」
そういう油井の声が、伊木の耳に届いた。
「やはり、居酒屋の娘なんだ」
その伊木の答は、嘘《うそ》ではない。朝子は下町の小さな飲屋の娘である。朝子が夜学に通ってくるのは、昼間勤めているためではない。朝子が家業を嫌《きら》っていて、夜学へ通っていれば店の手伝いをする時間がそれだけ少なくなるためだ、という噂《うわさ》も聞いていた。
その伊木の答は嘘ではなかった。朝子が自分の教えている生徒だ、ということを伊木は油井に告げなかった。この際、「教え子」という言葉は、なにか生臭い味で伊木に迫ってくる。不意に、伊木の記憶に一つの場面が浮び上った。夏の高原である。伊木は中学生だった。釣堀《つりぼり》の傍《そば》のバスの停留所に、小学生たちが群がっている。湖へ行くバスの来るのを待っているのだ。小学生たちを引率しているのは、三十過ぎの男の教師が一人だけだ。彼は道傍《みちばた》の大きな切株に腰を下ろし、膝《ひざ》の上に一人の女生徒を抱え上げている。彼の掌《てのひら》は、その生徒の躯を洋服の上からゆっくり撫《な》でまわしている。脚をゆっくり撫であげたかとおもうと、まだふくらまぬ薄い胸を撫でおろす。
その教師は、強い酒でも飲んだようにやや充血した眼を露骨に半眼にして、相変らず掌を動かしている。中学生の伊木は、棒立ちになって、少し離れたところからその情景を見詰めていた。小学生たちは、その光景の意味を、正確には理解できぬらしい。四年生くらいの学級であろうか、男生徒の一人が、
「ずるいや、ずるいや、先生はヨウコちゃんばかり可愛《かわい》がって」
と、大きな声で言った。教師は唇《くちびる》のまわりに薄笑いを浮べただけで、相変らず同じ動作をつづけている。そして、膝の上の女生徒には逃れようとする気配が全くない。権力をもった者の寵愛《ちょうあい》を自分一人に集めている一人前の女の驕慢《きょうまん》な表情が、その幼いしかし整った顔に浮んでいるだけであった。
「なんだ、のみやの娘か。それじゃ、これからそこへ飲みに行こう」
油井の声に、伊木は回想の中から連れ戻された。伊木は、朝子の店の在り場所を聞き覚えていた。しかし、朝子の店に行くことを、伊木ははげしくためらった。客として朝子の店へ行き、朝子のサービスを受ける自分を、伊木は許せない気持だった。それは、朝子を傷つけることにもおもえた。
「さあ、出かけよう」
油井が催促した。
「今日は、やめておこうじゃないか」
「なぜ? ははあ、金がないのか。金なら少々は持っている」
「金のことじゃないんだが」
「では、なぜだ」
はっきり理由を示さない限り、到底油井は納得しそうではなかった。伊木は、油井を訪ねたことを悔んだ。逆方向の電車に乗ったことを悔んだ。言い難《にく》そうに、彼は友人に告げた。
「じつは、その娘は学校の生徒なんだ」
「生徒だって、構やしないじゃないか。君はその店の常連なんだろう」
「いや、一度も店へは行ったことがないのだ」
伊木の顔を、油井はまじまじと見詰めた。いぶかしげな表情が、やがて油井の顔から消え、薄笑いが浮んだ。
「おや、君は本気で惚れているのか。君の心臓はまだここの場所に在ったのか」
と、油井は指をのばして、伊木の左胸の上を突いた。
「いや、自分でも驚いているんだ。三十になった男の心持ではないよ」
伊木は、まるで非難を受けたかのように、弁解する口調でそう言った。そして、その自分の口調に気付いて、ややいまいましそうに、
「しかし、心臓が無くなってしまうよりいいじゃないか」
「俺は、心臓が無くなってはいないよ。俺の心臓はここに在るんだ」
と、油井は片腕をあげて、その腕を曲げ、肘《ひじ》のあたりを叩《たた》いてみせた。
「いや、僕のその女の子にたいしての気持というのも、やはり肘のあたりに心臓があるんだ」
「おや、そうかね。それじゃ、一緒に行って確かめてやろう」
油井を振払うのは手数のかかることだった。一方、こういう状況に追い込まれなければ、到底朝子の店へ行く機会は出てこないのだ、店で働いている朝子を見ることもできないのだ、という考えも伊木の頭を掠めた。
「行こう」
伊木一郎は、烈しい勢で立上った。
夜十時過ぎていた。川村朝子が夜間高校から帰って、店に出ている筈の時刻になっていた。
伊木は油井に押されるようにして、店の内に入った。
「ああら、伊木センセイ」
店内に足を踏み入れた瞬間、華《はなや》かな声がぶつかってきた。店内の客の顔が一斉に伊木の方を向いて、彼は戸惑った。
それよりも一層伊木を戸惑わせたのは、朝子の様子であった。彼の予想では、朝子は化粧気のない顔でぎこちなく手持無沙汰《ぶさた》に、店の隅に佇んでいる筈であった。しかし、朝子は、身軽に、踊るような躯のこなしで、伊木の傍に近寄ってきた。隣に腰を下ろすと、彼の耳に唇を寄せて囁《ささや》いた。
「めずらしいことね、先生。はじめていらしてくださったのね」
その唇は、真紅に、輪郭からはみだすほどに口紅が塗られてあった。顔の素《す》肌《はだ》は、濃い化粧のためにすっかり奥の方へ隠されてしまっていた。
「いや、僕は来るつもりはなかったんだが、この友達にそそのかされちまって」
無器用な返事をする伊木の言葉にかぶせるように、
「あら、生徒のところへくるのは具合が悪いとおっしゃるの。それじゃ、あたし、学校をやめようかな。そうしたら、これからもきてくださるでしょ」
その言葉は、男を扱い馴《な》れた酒場の女の調子だった。伊木は、おもわず朝子の顔を見詰めた。
濃い化粧は、朝子を醜くしてはいなかった。平素よりももっと、可愛らしい愛嬌《あいきょう》のある顔になっていた。ただ、いかにも人工的、な趣がつきまとっていた。そして、時折、ひどく成熟したいやむしろ四十女といってよい表情が、その顔に現れる瞬間があるように見えた。その顔は、伊木にとって、手がかりの付かぬものをいきなり眼の前に突出されたように思えた。
油井は、黙って、朝子を観察していた。眼が光っていた。油井が何を考え、どう感じているかも、伊木には不明だった。
「君のお父さんは、ヒゲを生やしていないだろう」
不意に、油井が少女に話しかけた。
「お父さんは、あたしが小学生の時、死んじまったけど。そうね、ヒゲ、生やしていなかったわね。だけど、どうして」
「君の顔を見ていると、そう思えるんだよ。ねえ、伊木、うちの社にいる赤いセーターを着た娘のことだがね、あの娘の顔をみていると、どうしても父親がヒゲを生やしていたと思えるんだ。それも、鼻の下に、ペンキの刷《は》毛《け》のような形の大きなやつをね。ところが肝心の父親は、あの娘が三つのとき死んじまってるんだ。原爆で母親を失って孤児になったわけだが、父親はそのもっと前に死んでるんだよ。だから、俺は幾度もあの娘に思い出させようとした。三つのときの記憶をね。するとね、父親に抱かれて頬《ほお》ずりされたとき、頬っぺたがチクチク痛かったようなことがあったようだ、ということを思い出したんだ。だけど、それじゃ駄目《だめ》だ。ヒゲの剃《そ》りあとがチクチクすることだってあるし、頬ヒゲや顎《あご》ヒゲじゃ駄目なんだ、ペンキの刷毛のような大きな鼻髭《はなひげ》かどうかが問題なんだ。写真も何も残っていやしない。父親のことを覚えている人間もいやしないんだ。たとえ無かったにしてもはっきりすればいいんだが、どっちか分らないので割切れない心持さ」
「だけど、それがどうしたというのだ」
伊木が訊《たず》ねた。油井は、例の薄笑いを浮べた表情になって、
「それが気になって、あの娘が抱けないのさ。接吻《せっぷん》することもできやしない」
そして、朝子の眼を捉《とら》えると、
「君なら、抱けるわけだな」
伊木《いき》は油井の言葉に狼狽《ろうばい》して、そのときの朝子の表情を見落した。少女らしい困惑が、油井の不意打の露骨な言葉によって、その顔に現れたかどうかを見たかったのだが。
伊木の眼に映ったときの朝子の顔は、客の冗談を受け流すときの酒場女の表情しか浮んでいなかった。
「面白《おもしろ》いこと、おっしゃるのね。おかしな人」
その厚化粧をした少女の顔を見ていると、伊木は再び戸惑いはじめた。不吉な、不安な心持が、その困惑に混った。この心持、これとそっくりの気分に落込んだことがある、……それは何時《いつ》だったか、と伊木一郎は記憶の中を手探りした。
かすかな、曖昧《あいまい》な、細い糸が引っかかった。濃い化粧の女給の顔、そうだ、その傍になにかがある。苛《いら》立《だ》った祖母の顔、死んだ祖母は脚《あし》萎《な》えで長い間寝たきりだった。そうだ、その顔に向い合ったときのことか、いや、違う。
突然、伊木一郎は思い出した。それは、カンガルーの顔だ。
「思い出した! カンガルーの顔だ」
「何だって、カンガルーだと。伊木センセイ、酔っぱらったな」
「いや、死んだおばあさんのことだ」
と、伊木は唐突さに自分で驚いて、言い直した。
「おばあさんを思い出した、だと。子供の頃《ころ》のことか」
「うん」
「女に惚れると、とにかく懐古的な気分になるという話だな」
と、油井はからかう口調で言った。
十一
その時、伊木一郎は小学初年級の生徒だった。近所の広場にサーカスがやってきた。大きな天幕が張られ、そのまわりには客寄せのためいろいろの動物の檻《おり》が並べられてあった。
薄暗い檻の中では、奥の方にうずくまっている黒豹《くろひょう》の眼が光っていたり、たてがみを揺すってライオンが歩きまわっていた。
その檻の一つ、カンガルーの檻の傍に、貼《はり》紙《がみ》がしてあった。『カンガルーと拳闘《けんとう》させてあげます、但《ただ》し大人はお断り』檻の中には、グラブを前肢《まえあし》にはめたカンガルーが、尻《しつ》尾《ぽ》と後肢で直立していた。その檻には、目立って子供たちが群がっていたが、誰もカンガルーと拳闘をしようとする者は、出てこなかった。
薄暗い檻の中でグラブを嵌《は》めて直立しているカンガルーの滑稽《こっけい》なようなまた無気味でもある恰好《かっこう》を見ていると、一郎は好奇心を抑え切れなくなってきた。彼は長い間ためらったが、とうとう思い切って申込んだ。
玩具《おもちゃ》の兵隊のような派手な制服を着たサーカスの男が、一郎の手にグラブをはめた。檻の中に入れられた。直立しているカンガルーと向い合うと、その動物の方が一郎より背が高かった。カンガルーは、じっと立っているだけである。しかし、一郎が拳《こぶし》を突出すと、動物も反射的にグラブをはめた前肢をピョコンと振る。
一郎とカンガルーと視線が合う。カンガルーの眼は、かわいらしい形をしている。その眼はキョトンとして、全く感情が現れることのない眼だ。打ちかかってくる人間にたいして、憎《ぞう》悪《お》とか恐怖とかの感情の動きがある筈《はず》だ、とおもうのだが、その眼はただキョトンとしているだけだ。一郎はその眼を見ていると、しだいに無気味になってきた。檻の中の動物の臭《にお》いが、にわかに強く鼻を撲《う》った。一郎は不安な気分を押しのけるように、遮《しゃ》二《に》無二打ちかかってゆくと、カンガルーはピョコンと前肢を振る。
檻の外に群がった人々は、一郎のことを陽気な子供とおもいながら、にぎやかに笑って眺《なが》めている。一方、カンガルーの顔と向い合った一郎は、すっかり無気味な不安な気分になっていたのであった。
その遥《はる》か以前に味わった気持が、厚化粧をした朝子の顔と向い合ったとき、伊木一郎の心に浮び上ってきたわけだ。
「あれはどういうことだろう。あの娘は学校にいるときと、まるで違った娘になってしまっている」
朝子の店を出てから、伊木は油井に話しかけた。
「だいたい、夜学へ通っているのも、家の商売を手伝うのが厭《いや》で、その時間を短くするためだという話だったんだが。あれでは、まるで……」
「そうだな、あの店の中で、魚が水の中で泳ぎまわっているようなものだったものな」
と、油井は答えた。
「どういうわけかな。まるでお面のように、そのまますっぽり顔から外せそうなほど厚化粧をして。普段の顔を塗りつぶした仮面のうしろに、身を隠そうとでもするつもりなのかな」
油井は、その言葉を聞いて、大きな声で笑い出した。
「バカだな。そんな感傷的な考え方をしていると、いまに手痛い目に会うぞ。しかし、どうだ、興醒《きょうざ》めしたか。よく訓練された娼婦《しょうふ》という趣もあったな」
「いや、興醒めしない、むしろ、いじらしい気持だ」
「惚《ほ》れた男は始末が悪いな。だが、あの娘のことをロクに知りもしないで、どうして惚れたんだ」
「相手をよく知って、それから惚れるというものではあるまい。それに、この髪を刈った床屋のやつがいけないんだ」
とだけ言って、伊木は口を噤《つぐ》んだ。
伊木の心の底でひそかに醗酵《はっこう》していた少女への恋情が、彼の髪が少年風に刈り上ったのを見た瞬間、心の上に浮び上ったのか。あるいは、思いがけず少年風にされてしまった髪の形が、逆に、印象に残っている少女の像に恋情という錯覚を投げかけたのか。いまとなっては、伊木一郎にとって、不分明であった。
伊木は、いつも教室で眺めていた少女の顔を思い出そうとした。すると、再び巨大なカンガルーの顔が浮び上って、濃く化粧した少女の顔に重なった。
そして、今度は、そのカンガルーが祖母を、厚化粧の女給を誘い出した。下半身不随で布《ふ》団《とん》の上だけで生活していた伊木の祖母は、感情の起伏が烈《はげ》しかった。祖父とは長い間、別居していた。髪もふさふさして黒く、化粧しない顔にはまだ若さが残っていて、「おばあさんと呼ばれるのは気の毒だ」としばしば言われた。その言葉は事実であったし、また祖母の心に媚《こ》びる言葉でもあった。
小学生の一郎は、祖母の気分の急変にしばしば戸惑わされた。長い時間、一郎に絵本を読んで聞かせてくれる。その様子が大そう機《き》嫌《げん》よさそうに見えたので、翌日、一郎は絵本を抱えて祖母の傍《そば》へ近寄る。そうすることが、祖母の機嫌をよくするにちがいない、と考えてもいるのだ。ところが、祖母はにわかに不機嫌になる。
「いい年をして、絵本くらい自分で読みなさい」
と、一郎を叱責《しっせき》する。
伊木一郎の父は、酔ったあげく時折厚化粧の女給に送られて戻《もど》ってきた。その女給にたいしても、祖母は日によって全く違った態度を示した。その女給は、一郎がカンガルーと拳闘をした数日後、広場のサーカス小屋でライオンの檻に手を差込んで、おいでおいでと手招きした。泥酔《でいすい》したあげくの所業である。その手に、ライオンが飛びかかって、鋭い爪《つめ》を当てた。引裂かれた手から、白い骨がのぞいていた、という話であった。
当時、伊木一郎にとって、祖母は理解できぬ部分をもっていた。時折、檻の中で向い合ったカンガルーの顔と祖母の顔が重なり合うことがあった。
しかし、今の伊木にとって、その頃の祖母の気分の急変について理解に苦しむことはない。鍵《かぎ》は、ちゃんと彼の手の中にあるわけだ。そして、カンガルーのことは分らない。
祖母も、川村朝子も人間、そして、カンガルーはカンガルーである。
「川村朝子と、もっと個人的につき合ってみよう」
伊木一郎は夜道を油井と並んで歩きながら、心に定《き》めた。そして、不意に、
「死んだおやじや、ばあさんが立ち現れてくるときには、注意しなくてはいけない」
と、呟《つぶや》いた。その幻影を振払うように、大きく頭を振った。少年風に刈られた頭が、またも、夜気の中で寒かった。
十二
翌日、教室で川村朝子はいつものように化粧気のない顔を伊木の方へ向けていた。
「この娘のどこに惹《ひ》かれているのだろうか」
と、伊木は自らに問うてみた。
「眼がいい、深い色をしている」
深い色、とはどういう色なのか。「強く光ったり、急に光を失ったり、いろいろに変化する。哀切に輝くこともある」哀切な輝き? 油井重次の笑う声が虚《こ》空《くう》で大きくひびいた。
不意に、伊木は今まで一度も、川村朝子の笑った顔を見たことがないのに気が付いた。いや、昨夜は、濃化粧の朝子の顔は、笑い顔ばかりであった。しかし、素顔の朝子の笑顔は、まだ一度も見たことがないのであった。
そのことに気が付くと、伊木は川村朝子に話しかけてみようという心持をふとどこかへ取落してしまった。
数日がそのまま経《た》って、結局、伊木は再び油井を事務所に訪れることにした。油井を誘って、もう一度、朝子の店に訪れてみようと考えたのである。一人だけで、朝子の店へ入ってゆく気持にはなれなかった。
油井重次は、その夕方も、机に向って仕事をしていた。赤いセーターを着た娘は、隅《すみ》の机に坐《すわ》っていた。
油井の机の上には、バラバラに切断された裸体写真が散らばっていた。躯《からだ》の輪郭に沿って切抜かれた写真が、さらに幾つもの部分に切り刻まれたものとおもえた。乳房の横に腕の半分が、またその横に大腿《だいたい》部《ぶ》が、という具合に、それは机の上に散乱していた。
「何をやっているんだ」
大きな鋏《はさみ》を右手に持ったまま、油井は振向いた。
「バラバラ事件だ。グラビヤの二頁《ページ》分をタダで作っているところなんだ。なにしろ、このボロ会社には、グラビヤの費用もロクにありゃしないんだ。いいか、こういう具合に」
と、油井は鋏の先で机の上にある、掌《てのひら》のくっついた下《か》膊《はく》の写真を移動させて、肘《ひじ》から上だけの腕に継ぎ合せた。
「こういう具合に、もとの躯にうまく継ぎ合せてください、というんだ。そして、裏側の頁に、もとのヌード写真を載せておくという趣向さ」
油井は机の上に雑然と積み上げた紙片をかきまわして、一枚の写真を取出した。その写真を見て、おもわず伊木は眼を見張った。その印画紙の上には、あの赤いセーターの少女が裸体で横たわっていた。
「その娘《こ》さ。いい躯だろう、本人も自慢なんだ。モデル代の節約にもなるというわけさ」
伊木は、旧《ふる》い友人の顔をみた。その横顔は平素と少しも変っていなかった。とぼけた、手がかりのない感じだった。つるつるに磨《みが》き込んだ大きなガラス球のように、針の刺さらない感じだった。
それは、いまでも油井重次の顔から取りはずしのできる仮面のようなものなのだろうか。それとも、彼の肉体の一部になっているものなのだろうか。伊木一郎は、学生時代の油井を思い浮べてみた。当時の油井がこういう顔をしていたとしても、それはあきらかに仮面であった。しかし現在は……、結局、伊木には分らなかった。
油井を見詰めている伊木一郎の瞼《まぶた》に、あのもう一つの顔、濃く化粧をして媚《なま》めかしく笑っている川村朝子の顔が浮び上ってきた。その表情は……、これも、伊木には分らなかった。
とにかく、朝子に会わなくては、と伊木一郎は心を定めた。
解説
磯田光一
吉行淳之介《よしゆきじゅんのすけ》氏は、『なぜ性を書くか』というエッセイのなかで、『砂の上の植物群』について次のように述べている。
「この作品はあながち性を書いたというだけのものではない。……もしもこの作品で心を動かす読者があるとすれば、それは作品全体に流れる強い孤独感のためとおもう。性の問題についての分析は、そのあとに来るものだとおもえる」
この小説にもっぱら性的主題だけを求めている読者は、作者のこのような言葉に接して、意外の感に打たれるかもしれない。しかし本質的な作家にとっては、「性」の問題も「精神」の問題と別のものではない。かりに精神性を抜き去った性関係を描くにせよ、精神性を拒否するという意識的な《・・・・》努力が、やはり作家の「精神」の問題であるかぎり、それは(最も広い意味での)作家の「思想」の問題にならざるをえない。それならば、吉行氏のいう「孤独感」と「性」との問題は、氏の内部において、どのように結びついていたのだろうか。
吉行淳之介氏は大正十三年(一九二四年)の生れである。このことは、氏が最も広い意味での「戦中世代」に属していたことを示している。もとより戦中世代といっても、戦時下の聖戦思想を信じて戦い、敗戦を「挫《ざ》折《せつ》」として受けとめたというふうな立場の人々とは、氏は決定的に異なる地点に立っていた。戦時下のファナティックな理想主義者の多くが、戦後になって安易に左翼の指導者に成り上がっていたことに対して、吉行氏は『私の文学放浪』のなかで徹底した不信を表明しているが、このような吉行氏の姿勢は、時代を彩《いろど》る大義名分によっては解決できない個人の「私的部分」に、氏がどれほど深く沈潜していたかをしめしている。
戦後の民主主義の運動も、平和を讃《たた》える歌声も、吉行氏にとっては、所詮《しょせん》は他人の出来事にすぎず、氏はひたすら自分にとって手ごたえのある「性」の問題を、氏の精神的な主題として追い求めて行ったのである。『原色の街』や『驟雨《しゅうう》』など、初期の娼婦《しょうふ》物から出発した吉行氏は、『砂の上の植物群』において、ほぼ氏の主題を極点にまで引っぱってきた、ということができる。
『砂の上の植物群』は、昭和三十八年一月から、一年間にわたって『文學界《ぶんがくかい》』に連載された。作者におけるこの作品の成立過程は、それほど単純なものではない。『私の文学放浪』の記述によれば、かつて三十四歳で世を去った氏の父親・吉行エイスケ氏に対して、氏はやや複雑な感情をいだいており、亡父の死の年齢を通過した吉行氏は、「私にとって厄介《やっかい》な存在だった亡父からの卒業論文の意味を含めて」この作品を書いたという。また、この作品の萌《ほう》芽《が》となった私的な体験として、この小説の第十四節の中ごろにある、「彼は、赤く濡《ぬ》れた心持になった。……」という心的体験を挙げている。その部分に書かれているように、氏は「細胞内部の環境が、そこに拡《ひろ》がる風景が、みるみる変化してゆく」のを感じたのである。これは、「自分が中年期に入った」という意識と不可分のものであり、細胞の老化を予感した氏が、どのようにして「性」を媒体とした「充実感」を獲得しうるかを、虚構の世界でなかば実験小説ふうに構成したのがこの作品にほかならない。
主人公の伊木《いき》一郎は、化粧品のセールスマンをしている妻帯者として設定されている。しかし冒頭では、たんに一人の「男」と書かれ、やがて伊木一郎という名が明らかにされてくるところから見ても、作者が主人公をいかに客観視してとらえているかが窺《うかが》えよう。第二節に出てくる架空の推理小説における「復讐《ふくしゅう》の凶器《きょうき》」のイメージは、第五十五節以下の重要部分を暗示する伏線として設定されている。
しかし、そのような構成上の巧みさもさることながら、やはりこの小説で最も大きな比重を占めているのは、性的充足の問題であろう。第二十二、三節に見られる伊木と京子とのベッド・シーンおよび第三十五節以下に続く京子の被虐《ひぎゃく》的な傾向について、その異常さへの志向のゆえに、これを不健全かつ不道徳と考える読者もあるかもしれない。作者は第三十三節で性的頽廃《たいはい》の諸相について幾分かの説明を加えているが、いま私がなまじっかな補足を試みるよりは、吉行氏自身の言葉を『なぜ性を書くか』から引用しておく。
「この作品(『砂の上の植物群』)の主人公は、男女の愛というものの曖昧《あいまい》さを、細胞と細胞との触れ合いによって確かめようとする。しかし、躯《からだ》を触れ合わすことによって細胞の充実がえられるのは、僥倖《ぎょうこう》ともいえる稀《まれ》な瞬間にしか訪れてこない。(中略)男と女との間の性による橋は、しばしば容易にかかりすぎ、内部についてほとんど手がかりのない相手の顔がすぐ目の前にあり、躯と躯を重ね合わせている恐ろしさの方が強い。その恐ろしさに追い立てられて、せめて躯だけでも相手と確かなつながりを持ったことを確認しようとしても、相手にそそぎこむエネルギーは、抵抗なく吸い入れられ、底のない穴に水を注ぎこむようだ。その焦《あせ》りと苛《いら》立《だ》ちが、変態的な形を誘い出す」
したがってこの作品のなかに出てくるやや異常な性関係は、「性」を通じて他人と合体し、そこに自己充足感を見いだそうとする欲求が、常識的限度をこえて極限化されたものにほかならない。そして、さらにつけ加えて言うならば、充足への過度の希求とそのあらわれとしての変態的な要素は、主人公・伊木一郎の個人の問題としては、青年期が終ったという喪失感からの脱出手段という意味ももっている。このような頽廃への志向が、どのような感情に根ざしているかは、吉行氏と秋山安三郎氏との対談の一節が、はからずも語ってくれる。
吉行「こういう気持はありませんでしたか。自分が六十七歳にもなって、まだこれだけ情熱がもてるということを楽しんでいて、なるべく取り乱してやろう、取り乱せば乱《・・・・・・》すほど《・・・》、自分が確かめられる《・・・・・・・・・》というような……」
秋山「だって、この年になんてこと、思っちゃいないもの。……」
右に傍点をつけた部分の感じ方は『砂の上の植物群』の伊木の態度の奥底にあるものを暗示している。そしてこの感じ方は、この小説の第六十五節にある、「(京子への態度を)確認することによって、たとえ絶望的なものが基調になっているにしても、一層の充実を掴《つか》みたいとおもった」という一文にそのままつながっている。この小説に何度も繰返してあらわれてくる夕焼は、真っ赤な生命の燃焼による充実感を象徴しているとともに、一日の、あるいは人生の終末をも暗示し、死と絶望とを媒介とした一瞬の生の燃焼を意味していると思われる。
しかし、このように常識を逸脱することによって獲得される性的充足は、はたして主人公や作者の私的な問題たるに止《とど》まるものであろうか。本質的な作家は好むと好まざるとにかかわらず、「時代」の問題をおのずから体現しているものである。ここにおいて、『砂の上の植物群』の性意識の問題は、吉行氏個人の領域をこえて、ある普遍的な相貌《そうぼう》を帯びてくる。
アダムとイヴとの神話が示しているように、エデンの園の自然的生命の世界から人間が追放されて以来、「性」はたえず禁制の衣に包まれてきた。「男女七歳にして席を同じゅうせず」という戦前の儒教道徳の世界においても、性的禁制の問題には変りがない。しかし、「性」が反秩序的な「悪」と考えられていたがゆえに、かえって「悪」の魅力を具《そな》えていたことも事実であった。例えば姦通《かんつう》が悪と考えられている時代には、愛ゆえに姦通にふみ切るには、死を賭《か》けるほどの決意が必要であった。そして決意の強さが要求されていればいるほど、「悪」は自己確認と大きな充足とをもたらしたにちがいないのだ。戦後における自由と解放とは、このような性的禁制を崩壊させたが、それによって、私たちは性の充実感を増大することができたであろうか。自由主義とは、皮肉な言い方をすれば、「性」の人間化の名分のもとに「女から衣服を剥《は》ぎとってゆく」動向でもあったのだ。かつて禁制ゆえに「密室の秘戯」としての魅力を具えていた性行為は、いまや性知識の普及によって単調な「白昼の日常事」となり果てたのである。このような時代においては、極言するならば、「密室の秘戯」の復元による充足感は、変態的なかたちにおいてしか成立しない、とさえいえる。この小説に出てくる明子のセーラー服が、かえって性的刺激物として機能し、吉行氏の長編『星と月は天の穴』において女子学生の英語の教科書が性的刺激の媒体となっていることは、いったい何を意味しているのであろうか。それは、卑俗な言い方を敢《あ》えてすれば、脱がせる愉《たの》しみを倍加させて充足を得るために、できるだけ脱がせにくい堅固な女のイメージを人工的に仮構することを意味してはいないであろうか。これはヒューマニズムの人間観から見れば、明らかに倒錯した事態にちがいない。しかし、一時代の主流を占めた思潮が、必ずしも人間の本質を捉《とら》えているとは言いきれないのである。「充足」への根源的な希求の深さに比べれば、そもそも時代思潮がどれだけの意味を主張することができようか。もし作家の栄誉があるとすれば、時代の通念から洩《も》れた部分の本質を、的確にイメージ化すること以外にあろうはずはないのである。
次にこの小説にあらわれた「父親」の問題について触れておきたい。「子」の「父」にたいする特異な反抗については、フロイトがかなりの程度に解明している。しかし、フロイトをもち出すまでもなく「子」が「父」の影響から脱したいと願う心は、おそらく万人共通のものにちがいない。そのかぎりにおいて、この小説を、作者の「父の幻影からの脱出物語」として読むことは、けっして誤りではない。しかし、私たちがこの小説を丹念に読んでゆくならば、主人公が拒んでいるはずの父親の幻影が、ある微妙な一点において、主人公の性的充足を促進する要因としても働いていることに気づくであろう。京子が父の遺児かもしれぬと思いはじめるとき、伊木一郎は近親相姦の罪におびえはじめ、それを自分にたいする父の「復讐の兇器」かと思いはじめる。これはたしかに彼にとって困ったことにはちがいない。しかし、それにもかかわらず、「父親が死後に遺《のこ》した兇器と、京子とが重なり合うことによって」伊木は異様な「充実」を覚える(第六十五節)。そして、のちに京子が妹ではないと判ったとき、「彼の充実に似た姿勢が崩れ去ってゆくのを感じないわけにはいかなかった」(第六十七節)のである。ここにも禁制による罪の意識の発生が、絶望感と結びつきながら、いかに性を「密室の秘戯」の充足に導くかが瞥見《べっけん》できる。そして最後に主人公は、京子をひとつの「兇器」と感じながら、その兇器に刺されることによって「充足」を得ようと試みるのである。
この作品についての私の考え方は、「歪《ゆが》んだ性意識」の問題とあまりに結びつけすぎたものであるかもしれない。父の「復讐の兇器」を怖《おそ》れつつ、「女」という兇器に刺されることをひたすらに求めている主人公は、徹頭徹尾、孤独な人間であり、おそらく彼は作者の孤独感を共有している。人間が心の底で求めているのは、兇器を避けて空白の日々を送ることなのか、それとも「女」という兇器に刺されることによって充実感を得ることなのか。これは、いうなれば人生の根本にかかわる問題である。
何十年か前に、高村光太郎は性愛の世界を次のように歌った。
われらの皮膚はすさまじくめざめ
われらの内臓は生存の喜びにのたうち
毛髪は蛍光を発し
指は独自の生命を得て五体に匍《は》ひまつはり
道《ことば》を蔵した渾沌《こんとん》のまことの世界は
たちまちわれらの上にその姿をあらはす
むろんこういう形の自然的な幸福を信じられる人は、それでよい。しかし、戦後の人間である私たちの心には、どこかにこの詩を滑《こっ》稽《けい》と感じる気持がないであろうか。ということは、「充足」の極限に到達する道が、戦後二十余年の間に、著しい屈折をもたらしてしまったということなのである。そして、これを文学表現の問題として考えれば、戦後の苛《か》酷《こく》な現実のなかでは、自然発生的な抒情《じょじょう》は感傷にすぎず、だからこそ吉行氏の小説の乾燥した知的散文は、自然的抒情を克服した結果としてあらわれてくる。吉行氏はべつだん意識的に「戦後」という時代を描こうとしたわけではあるまい。しかし、私的な領域の深化が、その深化のはてに時代的、普遍的なものに到達している点に、氏のまぎれもない戦後作家として刻印が示されている。なお併録した『樹々《きぎ》は緑か』は、『砂の上の植物群』のデッサンの一部ともいうべき興味ぶかい作品であることを付記しておく。
(昭和四十二年四月、文芸評論家)