吉行淳之介
犬が育てた猫
目 次
富 士 山
グ ミ
薬
天神さまを集める
部分的読書の愉しみ
*
犬が育てた猫
日記――「とくになし」について
文学賞の選考ということ
理 髪 店 で
「小さな大人」ということ
私 の 学 校
化 け る
土 用 波
室 内
「族」の研究
昭和二十年の銀座
*
幻の女たち
二十年前の北海道
平 貝
お銚子二本
酒 中 日 記
スタミナ食
カ ス ト リ
*
永井龍男氏との縁
井上靖氏の初心
小島信夫その風貌
「件」のはなし
「新興芸術派」と私
「瓦板昭和文壇史」のこと
ジョーズ園山俊二
山藤章二にいっぱい似顔を描かれた
篠山紀信との午後
*
向田邦子に御馳走になった経緯
日暮里本行寺
不肖の弟子
『青い夜道』の詩人
川崎長太郎さんのこと
島尾敏雄のこと
島尾敏雄の訃報
*
ダンボールの箱
メモの切れ端
黒目が遊ぶ
末 広 が り
子 年 生 れ
漢和辞典のこと
人工水晶体
夏の愉しみ
時計を見る
蜜豆の食べ方
パチンコと私
*
蕎 麦 屋
トワイライト・カフェ
コーヒーをどうぞ
*
個人全集の内側
私のタイトル縁起
「祭礼の日」から三十年
『中央公論』の思い出
「恐怖対談」最終巻
『酒について』について
ス ノ ッ ブ
『年をとったワニの話』
『夢の車輪』という自分の本
羊の去勢について
*
文庫版のためのあとがき
富 士 山
『群像』創刊号は昭和二十一年十月に発売され、私はさっそく書店で買った。物持ちの悪い私としては例外といえるのだが、梅原龍三郎画伯の筆による裸婦の表紙の、薄い雑誌をずっと保存していた。
その雑誌は、十五年ほど前に横山隆一氏に進呈した。横山さんがコレクション・マニアで、天理教教主中山正善の|脛毛《すねげ》とか、ゴッホの家の便所の紙まで|蒐集品《しゆうしゆうひん》のうちにあると聞き、『群像』創刊号を郵送した。横山さんはすでに同じものを所持しておられたようだが、丁寧な礼状をくださった。
そして、今年は創刊三十五周年、敗戦からは三十六年が経った。
半年余り前、昼間のテレビを見ていたら、「五百円札の謎」というレポート番組が登場した。五百円札の裏面に描いてある富士山は、どの場所から見たものかということを、あちらこちらへ行って調べている。その度に、その土地からの富士山の形がテレビ画面に映し出される。さまざまな角度の富士山をつぎつぎに見せられても、あまり興味が起らない。ようやく山梨県雁ヶ腹摺山から見る富士山が、五百円札の富士山と一致することが分ってくる……。「そんなことは最初から調べがついていただろうに。また、それになんの意味があるのか」と腹立たしくおもったが、これに意味があったのだ。
その絵を描いた造幣局の技官が出演して証言したが、こういうことだったとおもう。戦後間もなく、紙幣の図案の一つが、占領軍によって変更を命じられた。それは富士山に桜を配したものだったが、桜は梅に替り、富士山は取り去られた。
昭和二十六年に初めて五百円札を出すとき、なんとかして富士山を入れたいとおもい、目立たない角度から描いてみようといろいろ研究した。そして、その図案は無事アメリカの検閲にパスした、という。表側に配した桜の花もパスした。
そこまでテレビを見て、
「なるほど、そういうことがあったのか、初耳だったな」
とおもった。
戦前から、日本国のシンボルは、富士山と桜であった。一日に何度も眼に触れる紙幣にそのシンボルが印刷されていては、日本人の気持が昂揚してきそうだというGHQの考えであったのだろう。当時のアメリカは、占領した日本にたいしてかなり神経質になっていたようだ。禁止事項がいろいろあって、仇討の芝居もその一つ、当然「忠臣蔵」は禁演だった。
東京の交通渋滞の中をタクシーで動いていて、しばしば思い出すことがある。昭和二十二年ころだったか、皇居を富士山麓に移してもう一つの東京をつくり、これまでの東京と広い直通道路で繋ぐことになった、という話を聞いた。それが根も葉もない噂だったかどうか、今でもまったく分らないのだが、そのまま立ち消えになった。敗戦後、天皇は「神」ではなく「象徴」ということになった。象徴はシンボルと同義語だが、この場合はもう少し重たい。その天皇がシンボルの富士山の麓に住むのは好ましくない、とGHQが考えたのだろうか。「五百円札」における富士山と桜、それと同じ考えだったのだろうか。
それにしても、もし当時の噂が現実化され、二つの東京ができたとしたら……。富士山麓の東京のほうに皇居と政治機関が移り、これまでの東京が経済文化面を引受けていたら、交通事情だけを取り上げてみても、ずいぶん好都合だったろう。
この原稿を書いていて、あらためて五百円札を机の上にひろげてみた。たしかに、富士山はやや小さ目で、その前に低い山が三重に描かれている。しかし、富士山の|瘤《こぶ》である|蓬莱山《ほうらいさん》は見えない角度で、山の形はきれいであるし、小さくても富士山に変りはない。これが検閲に通ったのは、最初の検閲のときよりも、GHQが神経質でなくなったためではないか。
さらにおもうのは、テレビ画面にさまざまの角度の富士山が映し出されるのを喜ぶ多くの聴視者を狙ったところもあったのではないか、ということである。「富岳百景」のテレビ版である。南米などに移住した人たちが国帰りして富士山を見たとき、ほとんど例外なく「バンザイ」と叫ぶという。私にしても、子供のころ東海道線に乗ると、三島から静岡あたりまで、汽車の窓ガラスに鼻を押しつけるようにして富士山を眺めていた思い出がある。
それが、富士山に関心がなくなってきた。なぜか、とあらたまって考えたことはなかったのだが、ふとその理由に気づくようになる成行があった。
今年の三月二日、前記のテレビ番組を見て間もなくだったとおもうが、小田原下曾我の尾崎一雄氏のお宅を訪れることになった。仕事がらみの訪問で、まず正午に国府津の旅館で円地文子さん河野多恵子さんと落合い、尾崎さんと夫人をむかえての座談会があった。
座談会は二時間ほどで終り、尾崎さんの新築の家を拝見に行くことになった。途中、有名な梅林を見物に寄ったが、気候のせいでまだ五分咲きぐらい。そのあと、尾崎家が祖父の代まで二十数代にわたって神官をしていたという宗我神社に寄る。拝殿の左右に一対の|狛犬《こまいぬ》があって、眼と口の中が赤く塗ってあった。神社仏閣に無縁の私は、しみじみその狛犬を眺めてみると、右の犬が口を開き、左の犬は口を閉じてやや|顎《あご》を下げている。
小学一年の国語教科書は、私のときには『ハナ、ハト、マメ、マス、ミノ、カサ、カラカサ』ではじまったが、すこし後の世代では『コマイヌサン、ア、コマイヌサン、ウン』というのがあるそうだ。いままでどういう意味か分らなかったが、片方が「あ」と言い、もう一方が「うん」と呼吸を合わせる、つまり|阿※[#「口」+「云」]《あうん》の呼吸のことと分った。そういえば、仁王像もそうである。
尾崎家に着いたころには、かなり|草臥《くたび》れてきた。八十有余歳の尾崎翁は、|矍鑠《かくしやく》として二階への|梯子段《はしごだん》を上り下りされている。
その日は曇り日で、梅の花も一層冴えなかったのだが、尾崎さんは二階の窓の外を指さして、
「あの方向に富士山が見えるのだが、今日は曇り日で」
と、残念がっておられる。
|相槌《あいづち》は打ったものの、富士山に関心がもてない自分に気付いた。
五時ころ尾崎家を辞すこととなり、仕事の係の人に銀座で夕食でもと誘われたが、私はすっかり疲れてしまった。カメラマンと二人で車で東名高速に出て、そのまま帰宅することにした。
車の中で、あらためて富士山のことを考えてみた。尾崎さんは「富士が見えない」と何度も残念がっておられたが……。
多摩川を越えたころは、あたりは薄暗くなって、燈火がチラホラ見えはじめた。腕時計を見ると、午後五時半である。春は暮れるのがはやい。『春の宵 二階三階 灯を点す』という津村信夫の詩を思い出した。三十八年ほど前、戦争中に読んだ時である。
なにかが、頭の中で動いた。
「あ、そうか」
と、私はおもわず口に出して呟いた。
私の入学したのは静岡高校で、市のはずれの|賤機《しずはた》山の麓のところに校舎があった。旧制度では中学が五年まであったから、高校一年生の年齢は現在の制度の大学一年生とほぼ同じに当る。
静岡高校の場合、一学年の総数は文科三クラス理科二クラス合わせて二百人、一年生は六つの寮のどれかに入って、寮生活を送ることになっていた。
校庭に出て、校舎を背にすると、真正面に富士山がある。視野いっぱいになるほどの大きさで眼の前にあり、富士山は日常生活の中に入ってしまった。その上、その富士山に厭な色の膜がかかるようになってきた。
私の静高在学は、昭和十七年四月から二十年の三月、つまり太平洋戦争の期間にほぼ等しい。高校生活にも軍国主義は這入り込んできていた。
毎朝、校庭に集団で富士山へ向って整列した。体操をさせられて、軍事教練の教官が指導に当っていた。生徒が代表になって、手本を示したこともあったような気がする。整列した私たちの前に台が置かれ、その上に選ばれた生徒が立って、威勢のよい号令とともに体操の手本を示す。その向うに富士山がある。厭な光景だった。
旧制高校に入学すれば、一人前の大人と|見做《みな》された時代がつづいていた。生徒が体罰を受けることは有り得ない。しかし、時代は変ってきた。心理学の教授が、授業中に一人の生徒を殴った。講義を聞かずにぼんやり窓の外を眺めていたという理由である。その生徒は|憮然《ぶぜん》とした表情のままでいたので、その教授は気が狂ったように殴りつづけた。
二学期になって、現役の陸軍大佐が教練の教官として配属された。この大佐は、軍服姿で校内を歩きまわり、しばしば生徒を殴るのである。
入学してからの一年間、私はほとんど毎日のように街に出て、映画を見たり酒を飲んだりした。
東京よりはかなり物資が豊かであったが、それでも酒は一人につき銚子二本まで、ときめられていた。そこで馴染みの飲屋をようやく四軒つくり、都合八合、あとは酸っぱい葡萄酒を飲ませる店を見つけて、そこで仕上げをした。自分では酒に強いつもりでいたが、それらの酒はかなりの水で薄めてあった筈だ、ということに後年気づいた。
静岡は城下町で、町はずれの寮から濠端を歩いて街まで往復する。燈火を暗くするきまりの時代だったので、濠端の道は真暗だった。
ある夜、街からの帰りに、その道で眼の前の闇から不意に自転車があらわれ、大きく揺れながらゆっくりした速度で私に向ってきた。
「ごめんなさーい」
という若い女の声がきこえ、身をかわすと横腹を掠めて自転車は闇の中に消えてしまった。どういう女か、姿かたちの見える明るさではない。しかし、その女の声は青春の思い出として長く私の記憶に残った。そういうささやかな青春だった。
「飲酒退学、喫煙停学」という新しい校則がつくられていたが、それは悪い冗談だろう、と私たちは解釈していた。
一年生のとき、とくに親しい友人が二人できた。その一人の久保道也は酒を好まず、街へは時折しか同行しなかった。もう一人の佐賀章生は酒に弱くしばしば嘔いたが、街へ行くことを好んだ。
生徒たちは、教師たちのことを、その苗字だけで呼び捨てにするか、|綽名《あだな》で呼んでいた。綽名の場合、そのほとんどが悪意から成立っていた。
フランス語教授岡田弘氏は、「岡田さん」と呼ばれていて、これは珍しい例である。敬愛からであったが、なにか手がかりの付かない感じも含まれていたと思う。当時、四十半ばの年配で、背が高く、温厚な顔に眼鏡をかけていた。
この岡田教授に親しく近づいたのが、佐賀章生である。『佐賀章生・遺稿と追憶』という文集が出ていて、二十二歳までの戯曲や小説が収められているが、今の眼で見てもかなりの水準である。つまり、早熟だったわけだが、文学青年臭はなく、もう大人だったといえる。創作についてのいろいろのことも弁えていて、岡田弘氏とそういう話を交わすこともできたわけだ。
あれは、昭和二十年の四月ころだったろうか。私は東大文学部に入ったばかり、佐賀は半年前に長崎医大に入学していた。久保道也も佐賀と同じ医大に進んでいた。久保は感覚より論理を先行させるタイプで、静高時代に彼の提出したレポートの題を見て、感心したことがある。そこには、「アメリカにおけるピューリタニズムとパイオニア・スピリットの問題」と書いてあった。
佐賀と久保の二人と私との半年のずれは、二年生に進級して一カ月ばかり経ったとき、学校の雰囲気に愛想をつかした私が、にせの診断書を提出して一年休学したために起った。一年遅れたのに、なぜ半年のずれか、というと……。この時代にはややこしいことが多いのだが、私たちの入学した年度は、本来の三年間が二年半に短縮され、次の年度ではさらに二年間に縮められたためである。また、文科生がなぜ医大に入学できたかといえば、不足している軍医養成のために、そういう特例が設けられたのである。これは、軍隊に入るのをすこしでも遅くしたい生徒たちのためには、好都合のことだったが。
春休に帰省したまま、なかなか長崎へ出発しようとしない佐賀が私の家へきて、
「君、岡田さんはすてきだよ。ほんとにいい、あす一緒に訪問しよう」
と、私を誘った。
私たちは渋谷から東横線に乗り、「青山師範前」という駅で降りた。当時、「岡田さん」は静高を退職し、外務省に勤めておられたが、その分室が青山師範(現、学芸大学)の校舎の一部にあった。
ここのところは、「遺稿文集」掲載の岡田弘氏の佐賀章生を追悼する文章の一部を引用してみよう。昭和二十二年四月に記した文章である。
『私は静岡を引上げて外務省へ勤めることとなった。東京を疎開して、茨城県の水海道へ移った母の許から通勤したが、旅行といってもいい程の長途の往復に疲れ、又次第に熾烈となって行く空襲に交通も脅かされて来たので、世田谷にいるSの家へ同居させて貰うことにした。丁度その頃、春休か何かで帰省していた佐賀君が、吉行君たちと一緒に訪ねてくれた。馴れぬ世界にとび込んで、人恋しくなっていた私は、話すということの愉しさに駆られて、問われるままに、とりとめのないことを、それからそれへと喋った。そして帰り道を京王電車の駅まで送った私は、久しぶりに青年のような昂奮を覚えたものだった』
この「S」とは、アルフォンス・ドーデの訳業で知られる桜田|佐《たすく》氏のことで、桜上水駅の近くに住んでおられた。岡田弘氏にも、フランソワ・コペの名訳がある。「岡田さん」は今年八十歳だから、当時は四十四歳ということになる。桜田さんはドーデの世界に登場してきそうな|飄々《ひようひよう》として優しい眼の人物で、長い顎ひげを蓄えており、帰り路にわれわれは、「スガンさんの仔山羊のような人だ」と噂し合ったものだ。「スガンさんの仔山羊」とは、ドーデの『風車小屋だより』のうちの一章である。
『それから間もなく、今度は佐賀君が一人でやってきた。休日の朝のことで、水海道へ出かけようという矢先だったので、少しならと前置きして二階へ招じ上げた。そのうち佐賀君の演劇への熱情と気魄にすっかり打たれて、昼頃まで話し込んでしまった』
この日のあと、佐賀章生は私のところに訪れてきて、「また、岡田さんのところへ行こう」と私を誘ったのである。
その日のことは、岡田さんの文章には出てこない。昼休に時刻を合わせて、私たちは青山師範に着いた。岡田さんは私たちを校庭に誘った。当時の人の耳に入ってよい話題ではない。佐賀と私はしばしば極端な意見を述べたものだ。
薄曇りの|午《ひる》下りだったのを覚えている。乾いて白茶けた校庭の一隅に、三人かたまって一時間ほど、立ち話をした。そういう形で、四十半ばの大人が二十歳そこそこの若者とつき合う、というのは、やはり異様な光景だし悪い時代だった、と今になってそうおもう。
昼休が終りになり、佐賀も私も満足してその場を立去った。
サイパン島の日本軍が全滅したのは、昭和十九年七月のことである。やがてその島に、アメリカ空軍基地ができ上り、日本本土空襲が可能になった。
B29爆撃機の編隊による東京初空襲は同年十二月のことである。
そのころ、一つの噂がつたわってきた。
『この戦争は日本が勝つ。画期的な爆弾の発明が完成しようとしている。マッチ箱くらいの大きさの爆弾で、その一個だけで富士山が吹飛ぶ威力を持っている。これは、日本にとっての新しい「神風」となるものだ』
そういう噂であった。「|出鱈目《でたらめ》もいい加減にしてもらいたい」と、そのときは思っただけだったが、今あらためて考えるとこれは意味深い噂である。
科学的なことに対して、私は無知である。そういう人間にとっては、部屋にある小さな箱型のもののスイッチをひねると、その表面に映像が出てくるというのは、異様な出来事である。しかし、その箱にテレヴィジョン受像機と名が付いて日常的な品物になっているので、納得し利用している。
「マッチ箱くらいの爆弾で富士山が吹飛ぶ」という言い方は、当時はとうてい理解し得ないものだった。爆弾は火薬に結びついていたから、途方もないホラ話としか耳に入ってこない。しかし、昭和二十年の八月六日と九日に広島と長崎に落ちた二発の原子爆弾は、その噂に近いものだった。出鱈目とおもっていたことが、逆のかたちで事実として起ったのである。
原子爆弾の研究は、日本でも戦時中におこなわれていた、と聞く。そして、その噂はそのことを指していたのだろうか。仮に、アメリカより先に日本が原子爆弾を完成させたとして、それを使用することを日本政府(軍部)は考えなかった、といえるだろうか。兵器として使うために膨大な費用をそそぎこんだ研究であって、戦争中にほかの形での原子力利用を考えていたわけではあるまい。
もっとも、そのとき原子爆弾を持ったとしても、それをアメリカ本土の都市の上空から投下することは到底不可能であったわけだ。アメリカにおけるサイパン島という存在を、日本は持っていなかったのだから。
それにしても、この噂には奇怪なところがある。その新しい爆弾の威力の例証として、なぜ富士山を持ってきたのだろう。左右対称の山の形、地面に置いた三角形のおにぎりの形は、たしかに「吹飛ぶ」という言葉に似合う。たとえば、「ニューヨーク全市が一瞬のうちに熔けてしまう」という言葉でもいいわけだが、やはりそれは原子爆弾落下後の実態を知ってからの発想といえるだろう。
いずれにせよ、「神風」の噂の内容が、日本のシンボルを吹飛ばすことになっていたこと自体、末期的症状と見るしかない。
五月二十五日、B29三百機の空襲で、岡田先生の寄宿先の桜田家も焼け、私の家も焼けた。私の家は靖国神社まで歩いて十分のところにあったが、どうしてもその方向に足が向ず、反対方向の小公園に逃げた。私の家の三人のほかには、人の影は一つも見えなかった。その公園の地面に横たわって、私は眠ってしまった。昼近く目覚めたとき、その公園を頂点とした|楔状《くさびじよう》の部分が、奇跡的に焼け残っていた。眠っているあいだに、火はすぐ傍まできていたのだ。
一方、八月九日に、佐賀章生と久保道也は長崎の医科大学教室で原爆死した。当時の大学には、夏休がなかったのだ。
『佐賀章生・遺稿と追憶』というタイプ印書の文集は、昭和四十二年八月九日という奥付をもっていて、佐賀家の自費出版である。
そして、収められている追悼文の日付はまちまちである。敗戦後間もなく、追悼文集を出そうという計画が私たちの間であったが実現せず、そのとき集まった原稿を一括して佐賀家に渡してあった。
十枚ほどの文章を、私も書いている。昭和二十年十一月三十日、と末尾に記してある。文中には、原子爆弾のことは出てこない。そのほかに、五人の友人たちが、ほぼ同じ時期に文章を書いているが、そのどれにも原子爆弾のことは出ていない。そして、文集発行の昭和四十二年に依頼されたとおもえる文章は、すべて原子爆弾のことに筆が及んでいる。
これは、避けたのではない。当時、原爆死がとくに特別な死に方とは、私たちにはおもえなかったためであろう。空襲の期間をずっと東京都心で過していた私の頭の上を、しばしばB29の大編隊が飛んでいった。防空壕というものには、はじめの数回入っただけで、あとは入らなかった。空襲警報が鳴っても寝床から出なくなった。私たちは、皆、緩慢になぶり殺しにされていた。
また、敗戦の年の秋にその原稿を書いたとき、原子爆弾についての知識がなかったわけではない。もっとも、実際よりももっと極端なことが言われていた。たとえば、「広島・長崎の土地は、もう永久に草木が生えなくなった」とか。そして翌年春には、「広島に草が生えた」という情報が、さっそく伝わってきた。
グ ミ
庭の隅に、よく繁った木があって私の背よりも高かった。もっとも幼稚園のころの話で、やがて私のほうが背が高くなったのだから、小ぶりの木である。この木に興味をもったのは、まずその実によるのだが、葉のあいだにじつにたくさんの|橙 色《だいだいいろ》の実をつけた。
やがて、その花は白くて小さくて地味なものであるのを知るのだが、小さな花が四つ五つ集まって一かたまりになっている。よく見ると、沈丁花の花にも似ているが、匂いはないといってもいいようだ。
私の家の在った場所は、東京の外濠の内側の地域である。五十年ほど前には、都心でも黒い土があり草や木が生えていたわけだ。
グミの木の下に、ホウセンカやドクダミもあって、しばしば庭の隅に行ったものだ。ナスの花は、そのすべてが実になって無駄がない、と言われている。庭の隅のグミも、まるですべての花が実に変るように、小ぶりの木に紡錘形の実が山盛りになった。その色は橙色からだんだん赤味がましてくる、そこがまた良かった。もっとも、グミの実を口に入れたことはない。眺めたり、触ったりして楽しんだ。
現在の上野毛(東京・世田谷)に引っ越したとき、玄関の近くにグミを一本植えてみた。それが、大人の背の倍も伸びて、甚だしく予想を裏切った。ちょっと考えればわかることだが、グミにもいろいろの種類があるのだ。
その背の高いグミはチラホラ橙色の実をつけ、その色は子供のころのものに似ていたが、どうにも気に入らない。枝をあちこち切り縮めてみたところ、それがダメージになったのか、翌年から花を付けなくなった。
子供のころのグミの花は何月に咲いたのか、実のほうは何月だったのか、よく思い出せない。夏の初めだったような、|朧《おぼろ》げな記憶がある。あれは、なんというグミだったのだろう。
薬
このところ、「丸山ワクチン」の不認可のことに関連して、いろいろ考えてしまう問題がある。この二年間ほど、私は「カタリン」という目薬のようなものを一日五回くらい点眼しているのだが、その度に「丸山ワクチン」不認可について考えが向くのだから、忙しい。いまもこの原稿を書きながらその「カタリン」を点眼し、ついでにあらためてそのラベルを見て急に腹が立った。そこには、こう印刷されている。「カタリン点眼液」という大きな一行の横書きの文字の上に、やや小さ目な字で「白内障治療薬」という一行がある。
白内障に治療薬はないのは、いまでは常識である。五年前、国立病院へ行って「白内障」の病名を右目にもらったが、左目にもその兆候が出ているという診断であった。そのとき、「白内障は手術以外に治療の方法はない、カタリンという点眼薬があって、治療効果はないが人によって進行防止の効果がある場合もある」ということを、医師の口から聞いた。薬局でピンク色の液の入った小さな容器を渡され、「いちいちここまで取りにくるのは厄介だな、治療薬でないとすれば、わざわざ点眼することもないから……」とおもったが、念のために家の近所の小さな薬局で、
「カタリンて薬、ありますか」
まさかありはしないでしょう、という言葉を裏に隠してきいてみると、すぐうしろの棚から目薬と同じ大きさの箱をつまんで、
「はい、三百五十円(現在は五百円)」
と、私の前に置いた。
私はあっけに取られ、それにその金額をひどく安価に感じた。また、白内障の患者は予想外に多いのだな、とおもった。
そのときの右眼の視力は〇・七であって、その二年前に運転免許証更新のときに検査を受けた視力は一・二であったから、やや進行しているにしても、早期発見といえるだろう。〇・七の視力が保持できるならば上等と、カタリンを毎日定められたとおり点眼しつづけたが、一年後に〇・七の視力が〇・一まで落ちた。つまり、進行防止剤として何の効果もなかったことになる。
そのころ、近藤啓太郎も近所の病院で同じ白内障という診断を受けた。そのとき懇意にしている院長が、「カタリンなんて薬の成分は白内障という症状と何の関係もない」と、そういうものを使っているのは野蛮人、という口調で言っていた、と告げてきた。
しかし、それならなぜ厚生省が認可したのだろうという疑問が残った。現に私の場合一年間で〇・七から〇・一まで進行してしまったのだが、これは個人差の問題でほかに進行が防止された人もあるのだろう、とこれまで理解していた。しかし、薬の成分と病気が無関係ということになれば、なぜ認可になったのだろう。
その話を聞いてから二年間くらいは、カタリンをときどきしか使わなくなった。しかし、その二年後からまた使いはじめた。やたらに使って、一カ月には十個は買う。「治療薬」もしくは「進行防止剤」としての効果は信じていなくて、目薬として使用する。それならば、ふつうの目薬でいいわけだが、そこが微妙な患者心理で「カタリン」のほうが目薬として自分の眼にふさわしい、とおもってしまう。
そして、点眼するたびに「丸山ワクチン」をおもい出すわけである。もし、「カタリン」の効果を信じていて、それが市販されていなくて特定の病院に通って少しずつ貰ってこなくてはならないとしたら、大変厄介なことだろうな、厚生省を|呪《のろ》うだろうな、とおもう。「丸山ワクチン」のために地方から日本医大まできて列をつくっている人たちの疲労が、テレビ画面を見るたびに伝わってくる。あれだけ熱心な人たちがいるのなら、認可して近所の薬局で売るようにすればいいではないか。そして、厚生省が判定を依頼した医師たちの意見のように、ほんとうに無効なら、簡単に入手できることによって使用例が増大し、おのずからはっきりした結果、国民を納得させる結果が出るのがしぜんの成行であろう。
これはアメリカのことだが、思い詰めていた連中が、いざポルノ解禁となって映画館に押しかけ、一年経たぬうちにその映画館がガラガラになってしまった、という事実がある。……今日の点眼のときには、そういうことに考えが向いた。
そこであらたまって考えてみると、「丸山ワクチン不認可」と「四畳半裁判有罪」というこの二つは、権力側の「こだわり」を感じさせる点で甚だ似ている(注。この原稿を書きおわったあと八月十四日、丸山ワクチンについて「無効と断定せず、研究継続」という異例の処置が発表された)。
現在の世の中に置いてみて、『四畳半襖の下張』が『いたずらに性欲を刺激興奮させ……』という刑法一七五条に該当しないことは、自明なのである。ではなぜ有罪になったか、といえば、戦後間もなく有罪になっている同書を、その四分の一世紀後に公然と活字にしたことで、検察側がプライドをきずつけられたためである。
「丸山ワクチン」についての「こだわり」がどんなものか、私には分らないが、なにかがここにはある。副作用のない薬が、これだけ信者を集めれば、それが手に入りやすくするのが為政者というものである。
ところで、余談を二つ。検察側は刑法一七五条による「わいせつ」の定義は知っているが、「猥褻」のそれぞれの文字の原義を知っているだろうか。じつは一年ほど前、野坂昭如と対談するときに、『大字典』でそれを調べておいて席上で持出してみたら、野坂がちゃんと心得ているのに感心した。「猥」は『犬ノ吠ユル声多シ、乱雑ス』で「褻」は「平常私居ノ服、故ニ衣ヲカク」である。
もう一つ、『四畳半襖の下張』は現代の若者には読めないところがあると、その後『面白半分』誌が注解を載せたが、そこに間違いがある。「注解」がすでに間違っているというところがご愛嬌なのだが、訂正しておこう。『結立の髪も物かは、骨身のぐた/″\になるまでよがり尽さねば止まざる熱すさまじく、腰弱き客は、却つてよしなき事仕掛けたりと後悔先に立たず、アレいきますヨウという刹那、口すつて舌を噛まれしドチもありとか』(写してみて、あらためて名文とおもう)という一節の「ドチ」を「ドヂ」と誤読して、「間抜け」と解釈しているところが、|謬《あやま》り。「ドチ」は「ども、連中、仲間」で、「舌を噛まれた|輩《やから》もあったとか」が正しい。
天神さまを集める
梅干を食べたあとに、大きな種が残る。その種を金槌で割ると、なかから白い小さなかたまりが出てくる。家のおばあさんは、これを「天神さま」と言っていたが、世間でそう呼ばれていたのだろう。
この天神さまを、五つぐらい集める。これはなかなか手数がかかる。梅干の種は、|胡桃《くるみ》を割るよりずっと厄介である。その五つの白いかたまりを煎じて、茶碗に一杯ほどの液体をつくる。それを飲むと風邪が治る、とおばあさんは言った。
私は子供のころしばしば風邪をひいたので、何度かこの液体を飲まされたが、あまり効き目はなかった。もっとも、私の「風邪」はじつはアレルギー性の症状の誤認のケースが多かった筈である。
五十年前は、アレルギーにたいしての医学の研究は進んでおらず、区別なくどれも「風邪」ということになっていた。もしかすると、本当の風邪には効くのかもしれない。
部分的読書の愉しみ
先日、ある雑誌からインタヴューをされ、その一項目に「アナタハ、エロ映画ヲ観ル場合ニ、誘ウホウデスカ、誘ワレルホウデスカ」というのがあった。
さてどうだったかと考えてみると、昨年一年間に四度ほど誘われたが、誘いに乗ったのは一度だけである。といって、見たい気持を我慢するわけではなく、どうせ大して面白いフィルムもないのだろうから、とおもって|億劫《おつくう》さが先に立つ。
誘いに乗った一度というのは、N君のコレクションだというので、それなら面白いだろうとおもって出かけた。
要するに、長い年月のあいだに、たくさんのフィルムを見る機会が重なっているうちに、エロ映画にたいして口が奢ってしまったわけだ。
昔はそうではなかった。エロ映画と聞くと千里の道も遠しとせずという心持になり、作品の出来不出来など、問題にする余裕はなかった。
前記の質問には、エロ映画というのは、誰しも胸をときめかして誘いつ誘われつ観賞に出かけるものときめこんでいる趣がある。私の現在の心境とは、甚だ遠い。「悪映画」は遠くなりにけり、である。
おもえば、「悪所」はすでに廃止され、「悪書」も「悪映画」と同じように、遠い少年の日のものとなり、それらはすべて懐しのメロディのようなものとなってしまった。
そこで、そういうものについての思い出をここですこし綴ってみよう。
ここで「悪書」というのはエロ本を含まず、文学作品のなかで、強烈なセックス描写を含むものについてである。
私たちの年代、つまり少年時代が戦争中であったものにとっては、「悪書」は幾つかの文学作品の中に求められた。代表的なものに、モーパッサン『女の一生』やアンリ・バルビュス『地獄』などがある。
しかし、私たちはその作品に文学を求めたわけではない。その一部から触発される、私たち自身の妄想が大切だったのである。したがって、そういう文学作品でなく、もっと露骨なエロ本が手に入れば、それにこしたことはなかったわけだが、そういうものは入手困難であった。本屋の棚に『性典』という書物は並んでいたが、それは恥ずかしくて買うことができなかった。それに比べれば、岩波文庫のモーパッサンなら、比較的買い易い。もっとも、『女の一生』を買うときには、魂胆を見透される気持がして、面映ゆかったが……。『地獄』のほうは、世界文学全集の一巻として収録されていたから、買い易かった。
それにしても、性にたいする好奇心の抑え難い少年時代の妄想力というのはきわめて強力なもので、文学作品で十分間に合った。コンサイス英和辞典の性についての単語でさえも、間に合ったのである。
これら文学作品には、少年時代の|膏血《こうけつ》をさんざんしぼられた。今、そのことを思い出すと、それは救いであったと感じ、感謝の気持が起る。懐しい「悪書」である。たしかに、オナニーは無害である。膏血をしぼられた、というのは、そういう意味合いである。もしもオナニーが有害であったなら、それらの本を懐しい気持でおもい出すことはないにちがいない。
戦争中の『女の一生』には、あちこちに伏字があった。××××とか、以下何十字削除とかいう文字が入ったりしていた。
この伏字が、刺戟的で、妄想をかき立てた。戦後、伏字を埋められた版を見ると、なーんだそんなことだったのか、とおもうほど当り前のことしか書かれていない。もしも伏字がなかったら、『女の一生』は、当時の代表的「悪書」にはならなかったにちがいない。
「モーパッサンには、もっとスゴイ本があるそうだぜ」
と、ある日、友人の中学生が言った。
「なんという本だ」
「メゾン・テリエというそうだ」
早速買いに出かけたが、本屋の前でしばらく|躇《ため》らった。ようやく思いきって、文庫本のその本を買ってきて読んだが、期待はまったく裏切られた。スゴイ本という期待は裏切られたが、すこぶる面白く感銘を受けた。その感銘は、いま考えれば文学書独特のもので、私と文学とのつながりは、ここらあたりから出来はじめたような気がする。
『地獄』は『女の一生』よりも、はるかにスゴかった。アパートの住人が、壁の穴から隣室のありさまを覗き見するもので、刺戟的な情景がつぎつぎに展開する。
今になると、その大部分は忘れてしまったが、一つ明瞭におぼえている場面がある。一人の中年男が、椅子に坐っている。その傍で、男の妻が着替えをしている。シュミーズ一枚で、あらわな乳房や腰の線がみえる。美人である。覗き見している第三者から見ると、きわめて魅力的なのだが、男は一向に無関心である。やがて、細君は身支度をすませて外出してしまう。
かわりに、若い娘が入ってきた。醜い顔のメイドである。ところが、その男はにわかに好奇心を顔に浮べ、メイドの躯の線を眼で追いはじめる。ついには、襲いかかり、逃げる女の乳房を着物の上から握りしめる。
「男の顔に血が上って、狒々のようだ」
という表現もあった。
「そういうものなのかなあ」
その部分を読んで、感心した記憶がある。性的場面はあまり記憶に残っておらず、人生の秘密を覗いたようなそういう箇所だけ覚えているというのも、「悪書」の功徳の一つであろう。
このバルビュスの『地獄』を、このごろ最初から読み通そうとしてみた。少年の頃、部分だけ繰返し読んで妄想をくりひろげていたので、それだけでは作品にたいして申し訳ないような気分だったからだ。しかし、この作品は、哲学青年の独りよがりのようで、私はあまり感心しなかった。
私は今では、外国語はほとんど忘れてしまったが、昔、学生時代に二つだけ翻訳をしたことがある。一つは、アルバイトに、アメリカ製の農具の使用法のパンフレットを訳した。もう一つは、『|蚤《のみ》の自叙伝』というフランスの|猥本《わいほん》を、英文から重訳した。もっともこれは無償の勤労奉仕で、慶応大学の寮生に頼まれた。少女の躯に棲みついた蚤の見聞録だが、訳しているうちに、原文より形容詞がしだいにふえはじめた。いずれも懐しい思い出で、厭な後味がない。『蚤の自叙伝』は、もちろん印刷するための翻訳ではない。私の自筆のノートのまま、慶応の寮に残って、慶大生の膏血をしぼったこととおもう。
歳うつり月かわり、昨今私の著書が「悪書」になってきたようだ。そのことについて、すこし書いておきたい。私の作品『砂の上の植物群』は、文学作品であることを、私は自信をもって断言する。しかし、作品を読者がどのように受け止めようと、それは読者の自由である。
そして、文学作品として受取られているにしては、いささか売行きが良すぎた。『文藝』三月号に「悪書ノススメ」という座談会があって、私もそれに出席しているが、その中の私の発言に不備なところがあった。この小文で今までに書いたこと及び新しく補足する部分を読み合わせていただくと、意味がはっきりするとおもうので、その部分を左に書き抜いてみる。
[#ここから1字下げ]
『砂の上の植物群』をお書きになる。すると、小説をその興味(セックス描写にたいする)だけで読むような読者がいるわけですね。そういう読者に対して、実作者はどういう感じをもつかというのをちょっとお聞きしたいのですが。
ぼくの本が十万も売れたというのは、そういう実用的な面のもの(それをタネにして妄想をくりひろげる、さらにはオナニーの道具とするという意味)として読まれていない限りは、そんなに売れっこないんです。まあ、一万までだな(文学作品として買う読者の数)。僕の中学生のとき膏血をしぼられた本は、アンリ・バルビュスの『地獄』ですよ。あれにずい分救われたわけですけれどもね、ある意味で(暴発の危険から、あるいは神経衰弱になるおそれから)。しかし部分しか読んでいないんですよ。
(健吉) そうすると「植物群」も部分を読まれているということに……。
そうです。だって、僕のほかの本でそんなに売れたのなんかありはしないのだから。とすると、これは毎年春になると(新学年がくると、という意も含む)山崎貞の新々英文解釈法とか、岩切の数学とか、ああいう受験生が買う本と同じに、毎年売れるのではないかと思うのですね(笑)。
(達三) 一種の性教ということか(笑)。
それで僕は、アンリ・バルビュスの『地獄』とか、そういうものの後釜にすわりたいね(笑)。
オチがついたようだから、このへんでいいのじゃないかな(笑)。
(弘之) いまのくだらないのをオチにしましょう。
(健三郎) 悪書の代表として……(笑)。
[#ここで字下げ終わり]
作者の私としては、実用的な目的で、部分だけ読まれることに、すこしも厭な気持を持たない。昔、私もそういうことをやってきたことを、懐しい気持で思い出すのだから。
そして、後年、部分でなくて全体から、新しい発見をしてもらえることがあるかもしれないことを、作者の私は期待しているのである。
犬が育てた猫
多摩川の近くのいまの家に引越すすこし前のことだから、昭和四十年ころだったろう。パトカーと救急車のサイレンが、ウーウーウーという脅迫的な音から、ピーポピーポという音に変った。そのとき困ったのが、家にいた犬である。
コッカスパニールの雄の老犬で、雌には若いころからあまり興味がなく、やさしいというか頼りないというか、そういう性質であった。唯一の趣味は、パトカーのサイレンに合わせて鳴くことである。夜中にウーウーという音がひびくと、ウーウーと真似して吠える。近所の犬たちも声を合わせるようになって、ウーウーウーの合唱になる。家にいた猫まで一緒になって、かなりそれに近い声で鳴くようになっていた。
そういう犬たちや一匹の雄猫が、サイレンの音の変化で困ったわけだ。ピーポピーポの真似は犬にはその生理上困難で、ウー、キャン、ウー、グッとか、近所の犬たち一同を含めて唸ったり鳴いたりして苦しんでいた。猫もそれにつれて鳴き声を変えたが、このほうがまだサマになっていた。
いま私の家の庭に、大きな犬がいつも寝そべっているが、その犬とガラス窓越しに挨拶をかわすのは一週間に一度くらいである。動物に興味はあるが、いま飼うとなると億劫である。もっとも、子供のころは家で|柴犬《しばいぬ》を飼っていたし、大人になってからでも黒猫ばかり飼っていた時期がある。
そのあとが、サイレンの真似をする犬と猫になるわけだが、捨て猫が裏口のところにいたので、物置の|庇《ひさし》の下に置いてある犬の木箱の中にその仔猫を入れておいた。老犬はそのやさしさのためか、乳母のように仔猫を受入れ、ときどき覗いてみると、いつも犬の腹にくっついて猫が寝ていた。痩せて肋骨が見えていた仔猫は、肥って大きくなりはじめ、犬と一緒にサイレンの真似をするようになった。
この雑種の猫はたいそう大きくなり、犬に育てられたため、自分を犬とおもっているのかどうか、立居振舞が犬風で、そのくせ根は猫なのだから、ふしぎな雰囲気になった……。
さて、その雰囲気を具体的に説明しようとして、私の頭は混乱してきた。「あれは、犬のような猫だった、行方不明になって惜しいことをした、ああいう猫だったら、いま飼ってもいいな」とときどき思い出すのだが、「ああいう猫」とはどう説明したらいいか。たとえば、外出して家にだれもいなくなることがある。そのとき猫も外出していると、家の中に入れない。私たちが帰ってきてみると、玄関のドアの前に前足を伸ばして狛犬の形で整然と坐っている。私たちの姿を見ても、歓迎の様子は見せず、ドアを開けるとそのまま入ってゆく。その待っている様子が渋谷駅前のハチ公の銅像のようでもあったので、いままで犬を連想していたが、あらためて考えてみれば、無愛想なのは猫の特徴だった。
つまり、私が気に入っていたのは、いつものっそりしてペット風のところがなく、|鷹揚《おうよう》で食卓の上の食物を狙ったりすることがまったくないところだった。毛は薄茶色で小型のライオン風……、と書いて、また気づいたのは、ライオンは猫科の大物だった。イヌ科の大物は、オオカミどまりだったか。となると、「猫か犬か」という昔からの論議は、ライオンおよびトラとオオカミとの比較論も加えなければいけなかろう。「オオカミの遠吠え」というように、犬がサイレンの真似をしたのは、この野性をおもい出したからか。しかし、そのとき猫が同調したのは、やはり自分を犬とおもっていた証拠かもしれない。
こうやってさかのぼってみれば、十二支になぜ猫年がないかも納得がいく。ネコ科の大物であるトラが入っている以上、重複する必要はない。もっとも、それならなぜ犬のかわりにオオカミを入れないか、と言われると返事に困るが。
家にいた猫の話に戻ると、思春期になって二度失恋した。これも、どうやら猫としての求愛の立居振舞が分らなかったせいのような気がする。このことがあって、かなり世をはかなんでいる様子だったとき、庭に入ってきた近所の犬に親しく近寄って襲われた。このときの様子は目撃していたが、一瞬の間に高いところに逃げたものの、仲間だと思っていた犬になぜこういう仕打ちをされるのか不審な顔をしていた。そのときから、ますます調子が狂ってきたようだ。あるとき、ついに食卓の上の魚を盗んだ。
「おまえともあろうものが、なぜそんなことをするのだ」
と、私は猫に言った。なんともなさけなかった。それから間もなく、その猫はふっと姿を消してしまった。
日記――「とくになし」について
正月元日。晴。終日ほぼベッドを離れないで過した。来客なく、電話なく、怠惰で気楽な一日(以降すべて、カッコの中は、読者を想定した文章であるが、カッコの外も多少読者の眼を意識している。十年ほど前から、年賀の客を謝辞することが、ようやくできるようになった。年賀状も出さないが、ただし、年賀状の来ることは歓迎。くわしい事情は省略。小学生のとき、強制的に日記をつけさせられたことがある。文筆業になってからも、|需《もと》められて日記を書いたことがあるが、いま読み返すと、当時のことがいろいろ思い出されて便利である。この日記は、矢崎泰久氏の発案を受入れて、今年の元日から記すことにした)。
正月二日。晴。元日と同じに、ベッドで過す。やや過労気味。夜、七時半、中央公論社社長嶋中氏、山崎氏来訪。雑談二時間、持参のコニャック、シャトー・ド・フオンプィノ(未知のブランディだが、おそらくシャンパーニュ地方の貴族の領地でつくった地酒であろう)を飲み、すこし酔う(事情あって、この数年間、一月二日に嶋中氏の年賀来訪がある。嶋中氏とは、三十五年前の『新思潮』同人のころからの知り合いである)。体調は正常化したが、明朝どうなるか、やや不安。
正月三日。晴。午前四時まで深夜テレビを見る。稲垣浩監督「待ち伏せ」、「ザッツ・エンタテインメント・パート2」を途中まで。午前十一時半に目が覚めたが、二日酔の気配はない。空気が乾燥して、快適。朝食後、またベッドにもぐる。
一月四日。曇のち雨。とくになし(この言葉について。小学生のときに日記の宿題が出たときには、二、三日分だけ友人と遊んだ話など書いてみるのだが、四日目ころから「とくになし」と一行で片づけることが目立ちはじめる。たしかに、先生の眼に触れる前提で報告する事柄は、「とくになし」なのである。オトナになってからの「とくになし」は、「いろいろあり」という場合もある)。
(ここまでの日記を読み返すと、まるで楽隠居の日常である。しかし、じつはいろいろあった。といって、それを書く気はない。事実を列記しても何もならない。|溺死者《できししや》はいったん水底に沈んで、何日かして溺死体として水面に浮んでくる。事実もいったん心の奥へ沈んで、何年かして浮び上ってきたとき、はじめて表現してもよいものになる。分り切ったことだが、事実と真実とは違う。なにか理に落ちた。最初は、おもしろい作り話を三日間ながながと書いて、四日目から天候の記録だけにして、「三日坊主日記」というタイトルにしようかと思っていたのだが)。
・一月五日。晴のち曇(じつは昨夜、今年はじめての外出をして、赤坂「乃なみ旅館」にゆき、麻雀をした。園山俊二、黒鉄ヒロシ、北山竜を相手に半チャン七回、いくらか勝つ。今後、こういう日は、日付の上に・印を付けておく)。
「断腸亭日乗」(荷風日記)の日付の上の朱点については、よく知られている(知らない人も多いだろうから説明すれば、この印のある日は、性交があったと考えてよい)。この最後の朱印のとき、荷風が幾歳であったか、以前に調べたことがある。いまあらためて調べ直すと、昭和十九年十一月六日で、荷風六十五歳(もっとも、「日記」では数え年表記で、「荷風散人年六十有六」と記してあるが)である。そして、同年十二月二十六日に次のような記述がある。『(略)今月に入り空襲頻々となりてより午後洗湯に行く時の外殆ど門を出でず。色欲消滅したれば色街を歩む必要もなく、また市中を散策して風俗を観るたのしみをも求むる心薄らぎたり』
荷風日記が発表を前提として書いたものらしいのは定説で(下書きがあったと聞いている)、記述を全面的には信用できないにしても、朱印はここで消えている。ところが、今回再読していて気づいたのだが、昭和二十二年(荷風六十八歳)の日記から、またいろいろの印があらわれはじめた。「一月二十七日」の日付の上に○印があり、次は二月三日、二月十四日、二月二十五日とつづき、二月二十七日には・印がふたたび現れる。この日の記述の一部は、『午後再び小岩の私娼窟を訪ふ。舞踏場に教師来り蓄音機にて女十二三人社交舞踏を学べり。(略)此の私娼窟は女工と娼妓と女学生との生活を混淆したるが如きもの。奇観と謂ふべし』
この場所は、間違いなく戦後赤線地帯の一つ「東京パレス」で、荷風さんはすっかりここが気に入ったようで、おもわず昔懐しい・印が付いたらしい。以降、・印は消えるが、○印と「小岩」の文字がしばしば現れるようになる。『三月初六。晴。暖。(略)燈刻小岩の洋服屋田中を訪ひ夏服注文。(略)魔窟の舞踏場に少憩して帰る』『三月十二日。晴。暖。夜家内のラヂオを避けむとて、小岩に行く。(略)舞踏場に入るに市川の町会にて知れる人あり魔窟の親方某/\等に余を紹介せり。踊れる女二三人を招ぎ食卓につきて紅茶ビフカツ等を食す』
ラジオの音がうるさいので外出した、というのは、「※[#「さんずい」+「墨」]東綺譚」の冒頭のあたりに出てくることで、永井荷風の「魔窟」指向が再燃したようだ。○印は、おそらくそういう場所に足を踏み入れたというマークであろう。三月十九日に、また・印が出てきたが、この日は小岩へは足を向けていない。三月二十二日に○印があらわれ、『夜家内のラヂオを避けんとて小岩の町を歩み食料品を購ひかへる。米兵今猶東京よりムスメを連れ市川の宿屋に来るもの尠からさる様子なり』とある。ところが、三月二十三日に∨印があらわれ、『午後小岩』とある。この∨印は三月二十五日から二十八日まで、連日あらわれている。さらに、翌二十三年には『四月十一日。日曜日。半陰半晴。午後小岩』と、珍しく曜日の記録のある日付の上に◎マークが付いている。
荷風先生はいろんなマークを登場させて、読者を翻弄し愉しんでいる趣もある。この東京パレスには、昭和二十五年ころから何十回か行ったことがある。そのころは、ダンスホールは形式的に存在するだけになっていた。ダンスをしながら相手の女を選び、女の部屋に行くというシステムが目あたらしかったわけだ。一、二度そのダンスホールを覗いたことがあるが、ダンスはできないし、以後は女の部屋が並んでいる建物の廊下を歩いて、相性のよさそうな|敵娼《あいかた》を探した。この建物がもと精工(セイコー)舎の女子寮だった、というところが駄洒落風である。
あるとき、初めての女と次のような会話があった。「永井荷風ていう人、知ってる」と、女が言う。「名前はね」「その荷風さんがこの前きたわ」「へえ、やったのか」「きっちり三十分だけ横にくっついて寝て、なにもしないで帰ったわ」「荷風さんはケチで有名だけど、チップくれたか」「くれなかったわ、三百円(当時、時間=五十分くらいのこと=で五百円が相場)だけ払って行ったわ」
こういうことから考えると、○印は「魔窟」地域の散策、∨印は女の部屋に入ること、◎印は接触もしくは挿入、と考えられないものでもない。
一月六日。水曜日。晴。とくになし。
一月七日。曇。芥川賞候補作八篇、合計千枚ほど読み終る(昨年末より読みはじめていた)。無駄骨を折った感じ。今回は受賞作なし、あるいは「離郷」(木崎さと子)か。この作品は、上等の料理をゆっくり食べるようにめずらしく愉しんでいたのに、五分の三のあたりから不意に味が落ちた。理由は明白だが、それについては別のところに書く。
一月八日。曇のち雨。暖冬の筈がにわかに寒くなる。軽い|喘息《ぜんそく》症状で、終日|横臥《おうが》。
・一月九日。晴。咽喉がかるく痛む。これは風邪の症状なのか。風邪は喘息を誘い出すが、風邪か喘息か見分けがつかない。
一月十日。晴。全身倦怠。ただし呼吸困難はない。やはり軽い風邪か。前日から、ビタミンCの錠剤を大量に|舐《な》めている。そうすると風邪に効くと聞いたような気がしたからだが、テレビ欄を見ると、PM10・NTV「知られざる世界・大量使用でカゼを治すビタミンC」という番組がある。その内容はあとで記すつもり(PM4・30)。
きわめて簡単に書けば、現在一日の摂取量がミリ単位のビタミンCをグラム単位に増やせば、白血球にそれが吸収されて、その働きを活発にしてヴィールスを殺し、さらにはもともと躯に備わっている免疫の力を高める、ということ。そういえば、昨年、ガンとビタミンCとの関連についての記事を読んだことがあるのを思い出した。
一月十一日。曇。本郷にあるアレルギー臨床研究所へ行き、診察、点滴治療を受ける(三週間に一度の定期的なものである)。北原ドクターの診察によると、風邪を引いているとのこと。軽い風邪が軽い喘息症状を誘発しているらしい、頭の中がどんよりして、回転しない。午後四時、ホテル着、チェックイン。夜、『銀座百点』誌の連載座談会(ほかのレギュラーは、円地文子、小田島雄志の両氏)、新橋「京味」にて。ゲスト池田満寿夫氏。
一月十二日。火曜日。曇。ホテル暮し(日比谷の帝国ホテル)。毎日新聞日曜版「珍獣戯話」の連載原稿(第二十回「タツノオトシゴ」)を渡す(毎週火曜日締切)。風邪のため微熱(七度五分)、これからのスケジュールを考えて、心細くなる。
一月十三日。薄曇。昼間のホテルは寒い。毛布を二枚にふやす。省エネのためか、と寒暖計を見ると二十一度。いくぶん低目だが、やはり風邪のせいか。抗生物質を|嚥《の》んだので平熱に戻ったが、だるい。終日在室して、原稿について考える。一年半、古典を翻訳する仕事をしていたので、小説の書き方を忘れかけている。これは、冗談を言っているのではない。夕方、微熱。
一月十四日。晴。正午、ホテルより帰宅。微熱があるが、すこし回復へ向っている感じ。しかし、留守中の郵便物の整理をおわると、疲労して頭が動かなくなる。久しぶりの風邪で、北山竜からの麻雀の誘いをことわる。あっという間に、夜中になる。
一月十五日。晴。依然として、風邪が取れない。無理して、机に向いつづける。ときどき、ベッドに戻って、テレビを見る。祭日で、成人式の番組が多い。二十歳の女がいろいろと顔を出す。
一月十六日。小雪のち曇。かなり復調、目が覚めるとすぐに机に向う。どうやら、原稿は間に合いそうだ。食堂へ行き、新聞に発表になっている「お年玉つき年賀ハガキ」の当り番号をしらべる(この件については、くわしくは随筆「年賀状」(昭和五十六年一月)を参照)。当った年賀状の差出人(年賀状をくださったかた)を、左に列記する(敬称略)。
三等。大西守一 (世界文化社)
四等。
木山みさを(木山捷平未亡人)
結城信一(作家)
久保明郎(静高の寮の先輩)
森脇昭吉(旧友、ゼノン社長)
徳島高義(講談社)
布留川貞夫(徳間書店)
美濃部修(集英社)
藤森正一(婦人生活社)
稲田房子(文藝春秋)
宮沢乃理子(NHKディレクター)
服部敏幸(講談社会長)
杉山博(講談社)
御喜家康正(評論新社)
吉田清彦(三井銀行)
秋山菜穂子(未知の読者)
松本和子(故人になった叔父の娘)
合計十七枚で二十五枚に一枚くらいの当選率である。毎年おもうのだが、これらの当選ハガキの顔ぶれの在り方を見ていると、ふしぎな気分になってくる。とてもよくできた取合せを見ている気になるのだが、思い過しか。昨年は、色川武大からの年賀状が当った。
一月十七日。晴。まだ風邪が抜けない。じつに執拗である。ムリして机に向い、『文藝春秋』連載第一回の原稿をつづけているうちに、夜になる。夜から夜中、芥川賞候補作の再点検。
一月十八日。晴のち曇。午前十時に目が覚めるが、疲労感がない。熱が下ったらしい。こういう目覚めは、今年初めてである。午後二時、ホテルに入り、文春原稿「途中の家」(パウル・クレーと十二の幻想)を佐野嬢に取りにきてもらう。『小説新潮』連載の原稿(「ぼくのニセ絵日記」、絵は和田誠氏)をホテル内の郵便局で速達あつかいにする。日比谷メガネ店へ行き、老眼鏡のレンズを度数の一度強いものに換えてもらう。六時より、芥川賞選考会。受賞作なし(木崎さと子は最終三篇のうちに残ったが、その三作とも当選圏内に遠かった)。
直木賞は、つかこうへい、光岡明の二氏が受賞。気にしていた村松友視[#底本では「示」+「見」。以下すべて]は次点だったらしい。
後日、送られてきた『週刊読書人』の関連記事を、この部分に貼付しておく。
『〔芥川賞選考経過〕
東京・築地の新喜楽で開かれた選考委員会を代表して、まず芥川賞の吉行淳之介氏が記者団の前に登場し、選考経過の説明にあたった。吉行氏は「全般的に非常に低調であり、どうしてもという作品がないということで授賞作なしと決った」と語った。候補作八篇のうち木崎さと子「離郷」、車谷長吉「万蔵の場合」、喜多哲正「影の怯え」の三本が比較的選考委員の票が集ったようだが、授賞にはいたらなかった。これらの三本の作品について吉行氏は自分の感想であるがと前置きして、「木崎さんの作品は半分までは面白い、だが後半は急にリアリティがなくなった。車谷さんはディテールにいいところがあるけど、恋愛小説にするか滑稽小説にするかはっきりしなければいけない。喜多さんのは実際にあったことだろうが、小説にしなければいけないということでひねくりまわし過ぎている」と迷べた。「それにしても」と吉行氏はつづける。「この程度の作品では、われわれが新人のころだったらオクラになって活字にならない。もっと優秀な編集者がついて作家と一緒に考えなければいけないのではないか」と最近の文芸雑誌の姿勢について苦言を呈していた』
一月十九日。火曜日。晴。毎日新聞「珍獣戯話」第二十一回「ツチブタ」を渡す。いろいろと小忙しい。
・一月二十日。晴。午後二時半から、角川書店主催の「マージャン大会」。この会の世話人を阿佐田哲也と二人で引受けてから、もう六年経つ。現在、七卓の大会になっていて、参加者はたのしみにしてくる気配である。過去に、山田風太郎氏の三年連続ブービーという不滅の大記録があるが、なごやかな会である(自画自讃だが、これは自分が目黒「雅叙園」という会場をおもいついたのが、成功の一因であろう。子供のとき、「今度目黒に成金趣味のヒドイところができた」と聞かされたことをフト思い出し、「金ピカ趣味も古びればおもしろくなるのではあるまいか」と考えた。そのとおり、畳敷の大広間の天井は高く、欄間の極彩色の天女の絵は色褪せて、|鄙《ひな》びた風情がある。阿佐田哲也は「世話人は原点あたりの位置にあるのがよい」という考えらしく、ラクラクとそれをつづけている。一方、自分は優勝しようとおもって臨むのだが、ほぼ原点、ときにはビリのことがある)。八時半に会が終る。優勝、阿川弘之(二年連続)。自分はビリから三位、持点を勘ちがいして、ブービーを畑正憲に取られたが、いずれにせよなさけない。銀座に出るつもりが、疲れてそのままホテルに戻り、「途中の家」のゲラ直し。
一月二十一日。晴。正午、家に帰る。ようやく、夕方の発熱がおさまった。花柳幻舟から電話があって、二月初旬に遊びに行きたいがどうか、というので承知。
一月二十二日。晴。十時間眠って目が覚めたが、頭がぼうっとしていて、いつまでも睡たい。どうしたことかとおもっていたら、四月の気温だと知る。こういう気温の激変はゼンソクには最悪で、昔だったら発作が起っているところ。終日、ベッドから出れずに過す。
・一月二十三日。晴。不調、ベッドから出れない。電話があって、麻雀のメンバーが一人足りない、と頼まれる。熱は七度一分なので、出かける。
一月二十四日。晴。かなり復調。夕方、外国在住の女性来訪(この経緯は報告に価するのだが、相手のためにここに書けない。公表を前提とした日記は、肝心のことはほとんど書けないものである。そこで、たまには読者を意識した芸を見せなくてはいけないのだが、今月は体調わるくそのエネルギーが少ない)。夜、テレビで「俺たちに明日はない」をみて、つづいてビデオに撮っておいた裏番組「アイ・アイ・ゲーム」をみる。
一月二十五日。晴。とくになし。じつに、まったく、とくになし。また、微熱。
一月二十六日。曇。「珍獣戯話」第二十二回「オオハゲコウ」を渡す。夕刻、講談社、松本、小孫、徳島の三氏来訪(来年一月より刊行予定の全集の打ち合せ、雑談数刻)。シャトー・マルゴーといえばボルドー地区メドックの赤で、大吟醸である。シャトー・マルゴーの白は、自分が編集した『酔っぱらい読本』の第七巻によると、『少量の優れた白を出すが、入手困難』と出ている。先日貰ったその白を開ける。ワインの味の描写は、「テースト」におけるロアルド・ダールにはとてもかなわない。たとえば、作中人物がグラスの中の酒の銘柄を当てる大きな賭をして、そのワインについてあれこれ考えている描写は、こうなっている。
『ポイヤック、ポイヤックにしては、感じがやさしすぎる、おとなしくて、なにか思いつめている。ポイヤックの酒だったら、もっと尊大なおもかげがあるはずだ。それに、ポイヤックにはなにか精力のようなものがあって、あの地区の土で育った葡萄の奇妙にあかぬけない、底力のある風味をふくんでいる。だから違う、この酒は、もう少し育ちがいい。最初の味には、もの静かで内気なところがあり、間もなく、はにかんではいるが、もっと優雅な味わいがでてくる。二度目の味になると、いくぶん茶目なところと、いたずらっぽいところが出てきて、舌を、そのほんのわずかのタンニンでからかいはじめる。で、後味は、なかなか愛嬌があり、なぐさめてもくれるし、それに女性的で、サン・ジュリアン地区のワインだけを思わせる、あの愉しくて気もちのいい性質がある(田村隆一訳)』
こういう表現はとてもできないので、「やや辛口の複雑でおもしろい味」とだけ言っておこう。それにしても、ワインについて語ると、かならず舌の上がくすぐったくなる。これは、ワインがまだ自分たちの日常生活に入っていないためだろう。
一月二十七日。水曜日。晴。先日、「核戦争の危機を訴える文学者の声明」の「呼びかけ人」になったことについて、『朝日新聞』と『世界日報』から電話でコメントを取られた。こういう役目に名前をつらねたことがないので、珍しくおもわれたらしい。『世界日報』が郵送されてきたので、「呼びかけ人談」とある部分を貼付しておく。
『石川達三さん(作家)の話=だれだったか忘れたが郵便で知らせが来たので名前を出した。私はソ連の核も、アメリカの核も悪いと思う。今回の声明は、現代に対する批判である。
藤枝静男さん(作家)の話=中野孝次さんが熱心に電話をかけてきて、「とにかく核が危険なので文学者もものを言わなければならない」と述べ、名前を出してほしいということでした。それで名前を出しました。しかし、核の問題は分散しているようで兵器もあれば工業用もあるので、全部いけないとは考えていません。こんどの場合は、兵器の問題になりますから、昔の白樺派の人道主義のようなものだと思います。呼びかけ人として名前を出したのは、名前を出しても、東京に出て発言したり、運動するというようなことをしないとの理由からです。
吉行淳之介さん(作家)の話=中野孝次さんから個人的に「呼びかけ人になって下さい」ということだったので承諾しました。アピールの内容は、文面に文句をいうことはないにしても、呼びかけ人というかたちは気がすすまなかったが、「町内のつきあい」で中野さんに下駄を預けた。個人に礼をつくされると断り切れない。ただ僕としては核だけ特別扱いするのは気に入らない。核で死ぬのも、ふつうの爆弾で死ぬのも同じで、つまりは「戦争反対」である。今回は無駄と知りつつ呼びかけ人になった。
佐多稲子さん(作家)の話=私のところには、林京子さん(作家)から話がありました。私は婦人団体でも核反対を訴えていますので署名しました。林さんは原爆の立派な小説を書いていますし、私も林さんも長崎ですので信頼しています』
こういう問題にアピールしても効果のほどは、と考えると無力感が先に立つ。しかし、「文士ヲイジメルト七代タタル」という言葉があるのだから、三百五十人が署名すれば(文士でない人も多いが)かなりの|祟《たた》りがあるかもしれない。
話はすこし違うが、「条約」とか「同盟」というのは、強い立場にいるほうがそれを必要としないと判断したときには(破棄したほうが有利だと判断したときにはもちろん)、たちまち破棄されるもの、ということをこの六十年近くのあいだに幾つも見てきた。
・一月二十八日。晴のち雪。今年の風邪は執拗で、またしてもやや不調。生徒の風邪欠席が多くて休校になった小学校もある、と聞いた。
一月二十九日。晴。
一月三十日。晴。
一月三十一日。晴。とくになし。
二月一日。月曜日。晴。アレルギーの治療に行く。この日記については、ここに書いた部分に嘘はないにしても、書けないことがあまりに多い。もっとも、これだけ書いておけば、自分としては記述に関連していろいろ思い出すことができて便利であるが、それでは読者にたいして申し訳ない。これで、この日記はやめる。自分の人生で、日記としての最長不倒距離をつくったわけである。
文学賞の選考ということ
もう十年以上前から、いろいろの文学賞の選考委員を引受ける羽目になり、のべつ候補作を読んでいるうちに一年が終ってしまう、という印象の年度もある。とくに、既成作家を受賞の対象にする賞の選考というのは|僭越《せんえつ》なことで甚だ億劫なのだが、憂き世の義理で仕方がない。もっとも、平素会う機会のない先輩作家と選考会で同席し、その|謦咳《けいがい》に接することは愉しい。
新人賞のほうは、新しい才能に出会うことを期待して、むしろ積極的に引受けてきているが、落胆しうんざりし無駄骨を折った気分になることが、しばしばである。考えてみれば、本ものの才能というのは何年に一度くらいしか現れないものなのであるが、それでも懲りずに今度こそはと期待し、裏切られる。
そういうなかにあって、私の担当したときの「群像新人賞」はどうであったか。今、手もとにそのときの資料があるので見ているが、最初の年(昭和五十三年)の当選者は、小幡亮介、中沢けいの二氏である。
このときの選考で、強くおもい出されるのは、小幡氏の作品(「永遠に一日」)の一節にたいして、佐多稲子氏が「このところだけ文体がちがうわね」とおっしゃったことだ。ここで委員一同が立止まって考えてみるべきだったのが、その部分は作品全体にたいしてさして意味をもたぬ、削除しても支障のないものだったので、佐多発言はそのままになってしまった。この無意味な一節が、のちに盗用(借用)部分と判明し、物議をかもすことになる。コラージュなどという手法に馴れた現代青年にとっては、盗用の気持はなかったようなのだが。それにしても、佐多さんの|烱眼《けいがん》はおそるべきものだ。
その後、小幡氏はショックから立直り、昭和五十六年七月号の『群像』に作品を発表し、好評を得ている。これまでも、時折、盗用盗作問題には出会っていながら、選考のときになると、そのことにたいする警戒が頭から抜けてしまっている。これは、おそらく多くの選者がそうであろう。新しい才能を見付けようとする心と、疑う心とは、共存できない気がする。
このときの小幡氏の作品は群を抜いていたが、どこか娯楽作品に傾斜してゆきそうな|危懼《きぐ》があった。その危懼のために、中沢けいさんの素朴な作品が併せて当選になった。その後の中沢さんの成長は見てのとおりで、この選考は成功だった。
次回の村上春樹氏の当選も、印象に強い。選者としては、あえて冒険をした気分だったが、このごろでは「新時代の旗手」という扱われ方をされたりもしていて、この点本人としては警戒しなくてはなるまい。とにかく、三年のあいだに右にあげた名前の人たちおよび長谷川卓氏の作品が当選作となったことは、委員にとって恵まれていたと言ってよいだろう。
理 髪 店 で
散髪しようと行きつけの店に入り、椅子に坐った。
「この前きたのは、いつだっけ」
と言うと、病院のカルテのような紙を持ってきて調べる。ここでわざと主語を省いてみたのは、理容師と書こうか、床屋の職人と書こうか迷ったためである。
カルテ風の紙が出てくるところは「理容師」という感じだが、腕前は「床屋の職人」と呼びたい見事さである。|鋏《はさみ》と|櫛《くし》だけをあやつって、さーっと短かい時間に仕上げてくれる。こんないい腕の男には、久しぶりに会った。それからもう四、五年は経っている。
散髪を休息や考えごとの時間と考えて、ゆっくり時間をかけて椅子に坐っている客も多い。それはそれで十分に理屈に|叶《かな》っているが、私はせっかちなのでできるだけ速いほうがいい。そういう要求を満たしてくれる相手は、なんだか「職人」と呼びたくなってくる。そんなに呼び方にこだわることもないだろうが、この文章では「彼」と書いておくことにする。
その彼が紙を眺めて、言う。
「丁度ひと月ですね」
「それじゃ、まだたいして伸びていないな。このごろ、髪の毛が伸びないよ。それでも後ろのほうが少し鬱陶しいから、さーっと鋏で撫でてみてよ」
先日、黒岩重吾の随筆集を読んでいたら、彼もせっかちで、散髪は三カ月に一回くらい、二十五分しか椅子に坐らない、と書いてあった。私も頭を洗ってもらって、そのくらいの時間である。ただし、アレルギー体質なので剃刀は使えないから、ひげはあらかじめ電気カミソリで剃っておく。
「でもね」
と、理髪店の彼が言う。
「坐っただけじゃ、料金がもらえませんよ」
「鋏で撫でてもらうと、ずいぶんさっぱりするから、有難味があるよ。昔、市川のお助け爺さんて、あったじゃないか。あれと同じだよ」
「なんですか、その市川の、というのは」
「あれ、知らないの。そうか、敗戦間もなくだから、まだ子供だったわけか。いや、子供でも知っていていいんだが」
「わたしは、戦後生れですよ」
「へえ、そんなに若いの」
と言って気がついた。昭和二十一年生れでも、もう三十六歳である。いつの間にか、こっちが齢をとってしまった。
そこで、「市川のお助け爺さん」の説明をする羽目になった。そのころ、千葉県の市川に、白い顎ひげを長く生やしたお爺さんがいて、寝小便や癇の虫の子供を治療するというので有名だった。子供を自分の前の座ぶとんに坐らせ、いきなり刀を抜いて子供の頭上の空間を切りまくるのである。
「へーえ、そんなお爺さんがいたんで……、寝小便は治るのですか」
「治ったらしいよ」
「いきなり刀を抜いて振りまわされたら、子供はそのショックで治るかもしれませんね」
「そうだね」
「今度寝小便したら、またあのお爺さんのところへ連れて行かれるとおもうと、もう出なくなっちゃうかもね」
「そうそう」
あの爺さんは、インチキくさくもあったが愛嬌もあった。あの時代の名物男で、関連して「踊る宗教」の北村サヨというお婆さんも思い出した。先日も戦後回顧のテレビ番組で、当時のニュース映画が映されたが、その中に二人とも登場していた。「市川のお助け爺さん」というのは、しぜんにつけられたニックネームだったか、あるいは自分でそう|名告《なの》ったのか。当時、東京の焼跡を走っている省線の車内広告に、「市川のお助け爺さん」という文字を見たような気もする。となると、自分で名告ったわけだが、そこらあたりは|曖昧《あいまい》である。
「それで思い出しましたが」
と、彼が言う。
「子供のころ、旅まわりの一座がきましてね、同じ一座がときどきくるわけですが」
「ああ、郷里は東北だったね」
「そう。その一座の役者の一人が丸薬を持っていましてね、猿の手を材料にしてつくった薬だそうで、どんな病気にも効くというんですよ」
「それで、効くの」
「効くんですよ」
もう散髪は済んで、洗面台に前かがみになって頭を洗ってもらっている。そのときの会話である。
昔、丸薬など見たことのない|僻地《へきち》では、効能書にあるような文句を並べ立てて仁丹を与えると、ほぼ病気は治ってしまったという実話がある。つまりは心理的効果で、お助け爺さんの話題のつづきからみても、そういう内容だとおもった。
そこで、仁丹のはなしをしようとしたとき、彼のほうが話のつづきを言い出して、これが様子がちがった。
「それが、ですね。死産の子が出ましてね、それを埋めたんですよ。そのころは、うちのあたりは土葬でしてね。そうしたら、夜更けにその墓を掘り返しにきたのがいまして、見付かって捉まったわけです」
「ほう」
「それが、その丸薬の役者でしてね。大騒ぎになりました」
椅子に戻った私の頭を、彼はドライヤーで乾かし終り、ブラシで髪の形を整えてくれている。
「ほう。話がそっちへ行くとはおもわなかったな。それじゃ、猿の手というのは嘘にしても、本格的に丸薬製造をしていたわけだね。良心的、というと違うが、まあ、その、何というべきかな」
そう答えたとき、すべては終り、頸から下を覆っていた白い布が取去られた。
椅子から降りて腕時計を見ると、丁度二十分経っていた。
「これじゃ、料金もらえませんよ」
と、彼がもう一度言った。
「小さな大人」ということ
「子供は、近代以前は小さな大人として取扱われていたのに、それ以降『児童』として保護されるようになったために、調子が狂ってきた」というような西洋の学者の説があるそうだ。私はずっと「子供は小さな大人だ」とおもってきたので、その説を聞いて「なるほど、それで調子が狂って、幼少年時代に良い記憶がないのかな」と納得した。
これまでに私はしばしば、「子供は残酷で理不尽なものだ」と書いた。しかし、大人以上にそうであるというのではなく、分別による抑制のすくない分だけ、子供には内面のその部分が強くあらわれることが多い、とこの際は付け加えておきたい。「子供は純心で無垢」とか言われるのに反撥して、強調しすぎたところもある。
それぞれの子供のころを思い出してみればすぐわかるが、大人にくらべて違うのは、性的な好奇心はあっても、体験と知識ははるかに不足の点である。これは当り前のことで、子供は子供の|躯《からだ》をしているからだ。余分な知識はなまじ与えないほうがいい。そういう意味でも、「小さな大人」といえる。
私は甚だ早熟だったが、新聞にしばしば出ている広告で「ハート美人」というのが、どうしてもわからない。大人にたずねると、
「いまにわかる」
としか答えてくれなかったが、たしかに大人になってわかった。「いまにわかる」という言葉は、きわめて正しかったとおもう。|因《ちな》みに、若い大人は「ハート美人」を知らないだろうが、これは産制具の商品名であった。
ところで、「童話」についてだが、私は子供の本を好まなかったのにもかかわらず、有名な童話の類はおおむね知っている。これは、読書によるものでなく、耳から入ったものだろう。
そのなかでも、印象が強かったのは、「かちかち山」である。
筋はいまさら言うまでもないが、おじいさんに掴まえられて狸汁にされかけた狸が、縄抜けしておばあさんを狸汁もどきにしてしまう。兎がおじいさんに味方して、仇討ちをする。薪を背負わされたタヌキのうしろで、兎が火打石を叩くと、
「カチカチいう音、あれはなに」
「なんでもないよ。この山をかちかち山というんだよ」
薪に火がついて、やがて背中で燃え立ち、
「ボウボウいう音、あれはなに」
「この山を、ぼうぼう山というんだよ」
ここらあたり、ユーモアがあるし、悪い狸にたいしてザマミロという気持もあって、とても面白かった。しかし、泥舟に乗せられてからの狸は、なんだか可哀そうにおもえてきた。いまおもうと、「ダメ押し」というのは、感じのいいものではない、という考え方も含まれていたかもしれない。
似たようなケースだが、先日ある対談でキングコングの映画の話をした。戦前と戦後とに一つずつキングコング映画があって、戦前のものはよかったが、戦後のはあまりよくない、というのが私の意見である。戦前のコングは眼はギラギラ|獰猛《どうもう》そのものだが、女に惚れたばっかりにしだいに追い詰められて、その眼がとても悲しそうになってゆく。そこが、すこぶる良くて、娯楽映画の領域をはみ出すところがあった。戦後のコングは、そのことに味をしめたのかどうか、体形容貌は獰猛そのものなのに、眼だけ「ボクって可哀そうでしょ」という風に最初からつくられていて、甚だ気に入らなかった。
そのとき、同席の記者が、
「子供のころに、キングコングを可哀そうにおもうとは……」
と言ったが、その発言の真意はわからない。
さて、うかつなことだが、岩波文庫に『日本の昔ばなし』(全三巻)があるのを、今度はじめて知った。この本の第一巻に「かちかち山」も収められているが、私たちの聞かされたこの話は、岩手県の二つの民話をつなぎ合わせてつくられたものであることも、初耳だった。後半部分は、兎と熊が主人公で、おじいさんもおばあさんも出てこない。お人好しの熊が|狡《ずる》い兎に騙されて、さんざん働かされ、泥舟に乗せられて、あげくは熊汁にされてしまう話である。
この文庫の「まえがき」でわかった二つの事柄がある。「昔ばなし」というのは、民話が口づたえに伝承されてきたもので、正しくは読むものではなく話を聞くものである、ということ。もう一つは、もともと幼いものだけを対象にして語られたものではない、ということである。
これを当て|嵌《は》めると、マザーグース(イギリス伝承童謡集)のあの残酷で理不尽な歌詞は、幼いものだけを対象にしたものではない、という考え方もできそうだ。
日本人が英語をマスターするためには、「マザーグース」を念頭に置かなくてはいけない、という趣旨の研究書がある。つまり、子供のころ頭に入った言いまわしをチェックしなくては不十分になる、という見解で、それは正しい。しかし、その歌詞の発生・伝承には、わが国の民話の在り方に似たものがあるだろうか。はたして、どうなのだろう。
私 の 学 校
「病気のしたことのない人間は単細胞で、他人にたいする思いやりがない」という考え方は、一理あってじじつそのとおりの人物もいる。つまり、病気はその持主を鍛錬し心の|襞《ひだ》を多くする、という考え方である。たしかに、死の崖縁に立ってみて引返してくるのもタメにはなるが、そのためには病気のほかのことがいくらもある。
私くらい病気をつづけると、もうウンザリである。いくら医者知らずの人間でも、胃が痛かったり歯痛があったりすると、人生が暗くなるのがわかるだろう。
それに、医者通いというのは、甚だ時間がかかる。この十年、私は三週間に一度、アレルギー専門病院に通って、診察・注射・点滴を受けている。三週間以上間隔ができると、たちまち不調になる。ときには、二週間に一度というのがあって、ときにその煩雑さに耐えられないが、そういうときには「下には下がある」と考える。一週間に一、二度、透析を一日がかりで受けて生きている人たちもいる、とおもうことにしている。
私のアレルギーは心因性のものではなく、深く生理にくいこんでいて、治るときは死ぬときである。つまり、一生卒業できない義務教育の学校に通いつづけていて、しかもその先生がやたらうるさい、という立場である。「アレルギー学校」の学生証を持っていると活溌には動けないので、なにかにつけて不都合が起りやすい。
となると、すでに卒業した病気の学校のことが懐しくさえある。「結核学校」では気管支を金属の管で串差しにされて、ずいぶんな目にあったが、卒業後には結核の再発なんて考えたこともない。「胃潰瘍学校」では、赤茶色のスパゲッティみたいな管を胃の奥まで嚥まされて二時間もじっとしていなくてはならず、あれには閉口した。
「鬱学校」となると、こういう学校の存在は悪であり、これについては全く懐しくはなく、入学したことさえ思い出したくない。その替り、無縁の学校に、「痔」「水虫」「梅毒」があって、こういうヒンのわるいところに入学しなかったのが、せめてもの慰めである。
最後に、一つ秘密を教えよう。私を精密検査したある大病院のドクターが、同居人にこう言ったそうだ。
「じつは、ヨシユキさんは、内臓のほうはハズカシイほど丈夫ですよ」
化 け る
近藤啓太郎たちと麻雀をしていたとき、彼が話しかけてきた。
「今度の直木賞になった高橋治と一緒に、浅草で牛鍋を食ったのを覚えているか」
「高橋という人とは、会ったことがないよ。牛鍋はおまえと二人で食ったんだろ」
「いや、そのとき一緒だったんだ。彼はおれの映画の助監督をやっていてね」
二十五年余り前のことだから、すこし説明の必要がある。近藤啓太郎の芥川賞受賞作「海人舟」が映画化になった。当時は、若かったしヒマを持てあましていたから、なにか面白そうなことがあるとすぐに出かけていた。近藤にくっついて、東洋現像所というところに、試写を見に出かけた。その映画は娯楽に徹したものになっていて、興行面では大成功で、続篇までできた。もっとも、原作者の近藤は、芥川賞作品のあまりの変貌に頭をかかえて閉口していたが。
そのときの主演女優が泉京子というグラマーで、彼女の家が浅草の牛鍋屋の老舗で、そこにも出かけて行ったわけだ。そこまでは精しく覚えているのだが、肝心の高橋治という人物が脱落してしまっている。
「あの牛鍋屋、有名な家だったけど、なんて店だっけ」
「|米久《よねきゆう》だ」
即座に近藤は答え、
「だから、今度の受賞パーティに出ようとおもっている」
と、言った。
その受賞パーティの出欠ハガキには、私は(?)を付けて、「体調がよければ出席」と書いておいた。さいわい出席できる状態だったので、当日出かけていった。
高橋治氏に会うと、たしかに見覚えのある顔である。
「あのころは、何度か麻雀をしましたね」
と、彼が言う。
そのことも、覚えていない。もっとも、このごろの記憶の戻り方には特徴があって、何日もしくは何カ月か経って、一気に当時の状況を微細におもい出すことがある。そのうち、とんでもない記憶が甦るかもしれないのだが、それはさておき、
「あなたと牛鍋を食った……」
と言いかけると、「××でしょう」と高橋氏がべつの店の名を言うので、
「いや、そこではなくて、浅草の……」
「ああ、米久」
「そこで一緒に食ったんだそうですね。近藤がそう言っていて、ぼくはすっかり忘れてしまって」
「でも、二度や三度のつき合いではない筈ですよ」
と、高橋治氏は笑いながら、やや心外そうに言った。
会のあと、銀座の小さいバーに行って、そういう話をしはじめたのだが、その牛鍋屋の屋号が喉もとまで出て、止まってしまった。どうでもいいことなのだが、こういうときはへんに気持が悪い。分り切っている映画のタイトルや俳優の名を度忘れすると、夜中でもあちこち電話している人物をこのバーではよく見かける。
「浅草の老舗の牛鍋屋で、漢字で二字なんだが」
「岡半」
「それは、銀座のスキヤキ屋だ。えーと、そうそう、落語のタイトルに似たのがあったな、思いがけずトクをする噺」
「芝浜」
財布を拾ってトクする噺で、漢字で二字だが、それとも違う。
「そうだ、|富久《とみきゆう》」
「富久という牛鍋屋ですか」
「いや、富久を思い出せばこっちのもんで、米久だ」
手数のかかることである。
芸界の言葉に、「化ける」というのがある。
「あいつは、ひょっとすると化けるぜ」
などと、使う。感じは分るが、正確な意味を知りたい。その道にくわしい結城昌治に聞いてみると、明快な答えが戻ってきた。「芸風が変って、人気が出る」ということで、「人気が出る」というところも見落してはいけないそうだ。
芥川賞のほうの受賞者高樹のぶ子さんについて、「化けることを期待できそうだ」と私は記者発表のとき言った。この「化ける」の意味は、結城昌治の教えてくれた定義とはすこし違っている。「一皮むける」という言葉があるが、「二皮、三皮ほどむける」という感じに近い。具体的な例をといわれれば、「接木の台」以後の和田芳恵氏を思い出す。本来の定義に近いほうの例を探せば、「ボロ家の春秋」で直木賞を受け、つづいて「つむじ風」を書いたころの梅崎春生氏である。「桜島」にはじまって「幻化」で円環を閉じた梅崎春生にとって、途中の「化けた」時期は意味のある寄り道だった、とおもっている。
土 用 波
小学三年生の夏、房総半島のある村で一夏を送っていたとき、オトナから津波の恐ろしさを聞かされた。突然、水が立ち上って壁のようになり、襲いかかってくる、という。夏の終りまでいたので、土用波が立って、波の音が轟々とひびいてくる。海のすぐ傍なのに、土手に遮られて海は見えず、それがかえって恐かった。
その同じ年に、口笛を吹く練習をはじめた。最初は空気の音しかせず、やがて|嗄《か》れた音が出るようになり、ようやく一人前になった。先日、そのことを思い出して、久しぶりに口笛を吹いてみた。どういう具合に音が出てくるのか調べると、唇と舌に意識が集まり過ぎても鳴らないし、意識し過ぎなくても鳴らない。なるほど、すぐには音が出ないのも無理はないな、とあらためてそう思った。
一カ月以上泊っていた部屋は、今でいえば民宿とでもいうところか。その土地を去るとき、宿の主人が汽車の窓越しに竹の籠を渡してくれた。そのミヤゲの籠の中では、ガサゴソ音がしている。あとで開けてみると、生きた|蛸《たこ》が入っていた。
室 内
生活空間をレイアウトして愉しむのは、今では当り前のことである。気がついてみたら、そういう余裕のある時代になっていた。ところで、私はといえば……。机の近くにベッドが置いてある。白い壁にエッチングの額が一つ。本はなるべく見えないようにしてある。なんの変哲もない洋間で、広さは十畳くらいか。これが、私の書斎兼寝室である。ときどき机に向い、あとはベッドに横たわっている。
仰向けに寝て眼を閉じると、感じられるのは躯のまわりの空気だけである。この空気が快適なら、私にとってはそれで十分である。空気に触れている皮膚面をたどってゆけば躯の形になるわけで、その皮膚の内側さえ無難ならば十分、ということにもなる。
……とっくに察しは付いているであろうが、これは病者の発想である。柵つきベッドに置かれた赤児と、棺桶の中の死者のあいだを繋ぐかたちである。
眼を開いてベッドの枠の外側に出て、生活空間に好奇心を持つ。それが、今の時代に生きている人間の特権とでもいえるだろう。
「族」の研究
東京の盛り場に行くと、今でも公衆電話機のそばにテレフォンカード大のチラシが置いてある。最近のはマントルとかホテトルといった類いの所のものが多いけれど、デートクラブのものも混っているのではあるまいか。
今からもう二十数年前の話である。
その頃も、駅の公衆電話あたりに、『今晩おひま?』と書いた小さな白い紙が置いてあり、電話番号が書いてあった。それは今のように印刷されたものではなくて、女文字風の書体のものだった。これも、やはりデートクラブと言っていたと思う。
一体どんなシカケなんだろう、と好奇心にかられて、チラシに書いてあった電話番号へ電話をしてみた。先方は男の声で、阿佐ヶ谷の駅前の公衆電話でもう一度電話してほしい、と言う。
車を運転して走り回っていた時期なので、少々遠いと思ったものの、言われたとおりにした。そのあと、また手続きがあって、ようやく指定された場所まで行ってみた。
そこで私を待っていたのは、けっして美しいとはいえない、ニキビのたくさんある女の子だった。頭のてっぺんに、大きなリボンを蝶結びにしていた。傍に中年の女がついていて金を請求し、あとは二人だけになった。その商売の女たちは客から金を受け取れば、後はどれだけ早くその客を振り切ってしまうかが、腕の見せどころであるらしかった。
ホテルに誘う気もないし、仮に誘ったとしても付いてきそうもない。
「六本木に行って、食事でもするか」
と言うと、
「六本木は遠いわねえ」
と、迷惑そうであったが、車に乗せてしまった。
運転しながら、
「リボンが泣かせるねえ」
と、言ったりして、やがて六本木に着いた。
今でもあるだろうが、ゴトウ花店の隣りの地下に「シシリア」というレストランがあって、壁に落書きをしてもいいというのがセールスポイントだった。その店に連れて行ったのだが、ずいぶん場違いな女を連れて歩いているなあ、という気になった。
丁度、「六本木族」という都会風のグループが有名だった頃だった。
その女は、しばしば公衆電話をかけに立った。デートクラブの元締めと絶え間なく連絡を取っていたのだろう。
「六本木族」といえば、昭和三十年代の中頃のことである。今は女優になっている加賀まりこもそのボスの一人だった。このグループに対抗して「野獣会」というのがあって、大原麗子がいたらしいが、彼女のことは知らない。
「六本木族」のことは、仕事で当時の加賀まりこを取材したことがあり、彼女のほかにも私の知っている女の子が何人かこのグループに加わっていた。彼女たちが主催するパーティの券を買わされて、出掛けて行ったこともあった。
これもその当時の話である。
ある晩、銀座のバー「らどんな」に入って行くと、見慣れない顔のホステスがいて、それが驚くほどのブスだった。凄惨で壮絶な感じのブスで、ここまでになると、絶世の美女と紙一重という存在感があった。絶世の美女も絶世のブスも、ともに神様の失敗作という感じを受けて、思わず笑いだし、
「一体、どうしたんだ」
と、彼女に言った。
私のそのときの笑いと口のきき方は、不愉快ではなかったらしく、彼女は私になついてしまった。銀座のバーには、アルバイトで通っていたらしい。
この女は岩崎トヨコといって、野獣会のメンバーで「全ブス連」の副会長をしていた。
「会長は、ミロという子だけど、会ってみる」
と言うので、
「ミロはミナイ」
と誤魔化した。
岩崎トヨコは週刊誌のグラビアに登場した時期があって、そのキャプションを私が書いたことがある。
何年か前に久しぶりで会ったが、凄惨さが薄められて、当り前の女に近くなっていて、私は不満だった。
ところで、「ブス」の語源は何だろう。ブスといってすぐに思い出すのは、むかし東映フライヤーズに|毒島《ぶすじま》という選手がいたことである。ブスとは毒のことか。それではあまり極端なように思うが、とりあえず辞書を引いてみよう。
〔付子〕(一)鳥冠(トリカブト)の汁を日にさらして作った毒薬。ぶし。 (二)憎みきらうもの。
と出ていたが、この(二)の意味あたりが近いような気もする。案外、この「付子」が語源かもしれない。
一体、この「何々族」というのはどのあたりから始まったのだろうか。
「原宿族」はわりと最近で、「竹の子族」はその前だし、「太陽族」よりかなり前の「斜陽族」あたりが始まりなのだろうか。戦前のモボ・モガに族をつけて呼んだのを聞いたことはないし、私たちが言われたアプレゲールだって、「アプレ」と短かくはなったが、アプレゲール族とは呼ばれなかった。
たとえば太陽族とは、だれが付けたのだろうか。これは言うまでもなく石原慎太郎の「太陽の季節」からきているのだが、「族」をつけたのはやはりマスコミだろう。
族はこの後ぞくぞくと出てきて、今思い浮ぶのをざっと挙げてみても「みゆき族」「暴走族」「窓ぎわ族」「アン・ノン族」「しぐれ族」……。まだまだあると思うのだが、あとは今すぐには思いつかない。
私の「夕暮まで」という作品から出たのは、「夕暮れ族」である。この言葉が出てきたのは、私の本が出版になってから半年ほどたってからのことである。名付け親は『週刊朝日』だった。この言葉はその後、風俗産業で使われるようになった。
そういえば、「サッチョン族」というのもあった。
昭和三十七年のことである。「北海道に行って、サッチョン族を取材して、現地妻である札幌夫人のことを小説に書いて欲しい」と、『小説中央公論』からの依頼があった。
札幌にある支社に転勤になったサラリーマンが、単身赴任して現地で生活する例は少なくないらしい。今はそうでもないのだろうが、当時は北海道への転勤には、北の寒冷の地での勤務ということで、どこかに暗いイメージがあって、左遷といった感じを与えていたようである。そうした人達のことを「サッチョン」と呼んだ。つまり、札幌チョンガーの略称である。
しかし、取材をしていくうちに、本物のサッチョンとは、妻子を置いて転勤してきた男性のうちでも、地位と金の伴ったオジサマでなくてはならないことがわかってきた。札幌の高級バーのホステスたちが、自分のパトロンとして登録してよいと認定できる範囲の男性が、「サッチョン」であるらしい。
彼等の何人かと会って話を聞き、そして札幌夫人といわれる女性にも会った。かなり大きなクラブの薄暗い照明の下で、私はいろいろ話を向けたが、ありふれた答えしか戻ってこなかった。
このとき、札幌に一週間ほどいたが、何も掴めずに帰ってきて、小説を書くとき大いに苦しんだ。しかし、苦しんだ分だけ、実態に近いことが書けたような気がしている。末尾に「ラジコンの模型飛行機」を朝早く飛ばしている中年男が出てくるが、うまい設定を考えたと自分では思っている。
昭和二十年の銀座
戦前の銀座の大通りには、その中央に市街電車のレールがあって、当然電車が走っていた。両側の歩道には柳が植えられて、露店が並んでいた。
いまの銀座は、大通りの歩道を早足で歩いてゆくことができる。当時はそんなことはできず、前の人の背中がすぐ目の前にあって、ゆっくり動いてゆく状態だった。とくに、西側の(小松ストア側)の雑踏ははげしく、東側はいくぶん余裕があった。つまり、銀座のメインは西にあったことになる。
そして、人々は「銀ぶら」と称してその雑踏をたのしんでいた。最近、戦後生れの人と話していて、「銀ぶら」という言葉をまったく違った意味に理解しているのに驚いた。金のない連中が、やむなくぶらぶらしていることだ、とおもっていたようだ。
「銀ぶら」は、厳密にいえば銀座四丁目(昔はここの町名は六丁目で、尾張町と呼んだ)から、新橋の千疋屋あたりまでの西側の歩道をぶらぶらすることであった。
東京の人口は今よりはるかに少なく、銀座に出てくる人たちは限られていたから、しばしば知人に会う。これも愉しみの一つだった。そして、「銀ぶら」の香辛料は、柳の並木と露店であって、この二つがなくなるとともに消えていった。
銀座の柳が切られたのは、いつだったか。露店は昭和二十六年の「露店撤去案」にもとづいて、その年末になくなった。
昭和二十年八月十五日が、敗戦の日である。そのあと間もなく、空襲であちこち焼けていた銀座も活気を取戻してきた。変化といえば、スーブニール・ショップ風の露店が沢山出現したことである。アメリカ兵は金を持っていたが、日本人はみんな貧乏になっていた。服部時計店(和光)はPXとなり、そこの交叉点ではGIがハデな身振りで交通整理をして、珍しがられていた。その一人に、ハリウッド・スタアのタイロン・パワーがいて話題になった。
その頃、銀座の露店でカメラのフイルムを買ったことがある。私は家を焼かれてほとんど無一文だったし、そのフイルムは安くはなかった。下宿住いで、引越しのときの荷物は布団も含めて小さなリヤカーに半分くらいしかなかった。もちろん、カメラもなかった。
それなのに、なぜそんなものを買ったのか。ここのところが、今となると朧げである。戦中・戦後、明るい色の小さな箱に入ったフイルムを長いあいだ見ることがなかった。それが、歩道の上に敷かれたゴザの上にあったときには、ひどく新鮮に眼に映ったのだろう。平和がきた、という気持を噛みしめるために、前後の考えなく買ってしまったのだろう。
それを持って帰ってきて、
「それにしても、このフイルム、すこし安いような気がする」
と、おもった。
安い、といっても、私のフトコロはかなりのダメージを受けていたのだが、当時の貴重品にしては安い、という意味である。
「はてな」
そのときすでに予感があった。
箱から出してみると、はたしてフイルムは使用済の状態になっていた。
最近、その話を野坂昭如にした。彼はすかさず、言った。
「それ、現像してみましたか」
私としては、そんなことは考えもしなかった。仮に考えたとしても、当時フイルムを現像してもらうのは不可能だったろう。
今おもえば、現像してみたら何が出てきたか興味がある。しかし、当時は買ったというだけで、私の気持は完結してしまった。
幻の女たち(酒中日記)
某月某日。六時半。
編集部のM中年が誘いにきて、新宿二丁目の焼肉屋「長春館」へ出かける。
空いたテーブルを見つけて座ると、店員がさっそく炭火の入った|焜炉《こんろ》を運んでこようとする。炭火というところが、この店の自慢である。
「あとから一人くるからね。焜炉はそれからにしましょう。それまでは、ナムルでビール」
と、注文する。
「すこし早く着きすぎましたね。ムラマツさんとの約束は七時でしたから」
M中年が言う。ムラマツさん、とは村松友視のことで、このときはまだ直木賞を受賞していなかった。
しばらく前から、M氏が何度か申し入れをしてきた。二丁目を一夜ゆっくり歩いてみないか、という。「二丁目」とは、新宿二丁目のことで、東京に在った赤線地帯のうち三つの指に入る場所の略称である……。と、こう説明しなくてはならないのが、すでに過去の場所になってしまった証拠で、赤線廃止以来すでに四分の一世紀が経った。
「いまさら、二丁目を歩いたって、なんの意味もないよ。あの場所のことは、もうすべて書いてしまった」
「それでも、実際に歩いてみれば、なにかが掴めるかもしれませんよ。それにね、ムラマツさんとしばらく会ってないでしょう。誘って一緒に歩きましょう」
村松友視は中央公論社の『海』編集部にいて、十年近くつき合ってきた。とくに、おわりの一年半は、手数のかかる連載の担当編集者として、一カ月に三、四回会っていた。
その村松友視が退社して、以降ほとんど会う機会がない。気持が動いた。
「神楽坂の鮨屋に集合して、出かけましょう」
M氏が重ねて言う。この鮨屋は上等なので、ますます気持が動いた。
それなのに、焼肉屋に集合しているのは、数日前にふと気づいて電話し、
「あのね、神楽坂の鮨屋もいいけど、あそこに集合すると、そのまま居すわって、次の仕事をする気がなくなりそうだよ。二丁目の近くで、安直でいささか荒っぽい店はないかな」
と、提案したためである。
七時すこし前に、入口のほうに向けて座っていた背中に気配を感じた。というよりも、眼の前のM氏の表情が動いたせいかもしれない。
「ムラマツさんがきたのかな」
「そうです、定刻より早いですね」
それから三十分ほどで、食事は終った。もともと、ゆっくり食べる性質の店ではない。しかし、当方はもう一時間はビールを飲んでいるので酔ってきている。このごろ、酒がさらに弱くなった。
「それでは、その気になっているうちに、出かけるか」
と、立上る。
同日、七時四十分。
店を出ると、広い道の向う側の地域が二丁目である。
「店の選択は成功だったなあ。神楽坂で飲みはじめたら、ここまで辿りつかないよ」
そう言いながら、道を横切ってゆく。
赤線の廃止は、昭和三十三年三月三十一日である。その日から五年くらい経ったころは、その話題をなるべく避けるようにした。自分が蒼古たる老人になった気分に陥るためである。そのうち、その地域を語ることが懐しのメロディ風になってきたので、その数年後からまた口にするようになってきた。しかし、「懐しのメロディ」というのは当時の実情を知っている人にとっては大きなプラス・アルファがあるが、それより若い人にはただの音楽にすぎない。
赤線の話をすると、面白がる様子はしてくれるが、どこかにフリが混る。当方も警戒して控え目にしているのだが、つい口にしてしまう。
女性の論評をする場合にも便利で、A子は二丁目の「赤玉」風だが、B子は同じクラスでも「銀河」で、C子となると「ホームラン」(これは、Cクラスの娼家の名)程度だな、と言えばたちまち納得がいく。ただし、その店を実際に知らない相手には、迷惑をかけることになる。
しかし、焼肉屋で飲んだビールが効いてきて、そういう配慮は薄くなってきた。M中年も村松中年も、ほとんど赤線時代に間に合っていない。いま中年の年齢で、すでにそうなっている。
「これから、この地域のあちこちで七カ所立止まるところがある。その立止まったところに在った娼家の女とかなり突飛な関係があったから、その話をしたい」
政見発表のようなことを言ってみたが、それらの話はすでに活字になっているので、話に身が入らない。七カ所を四十分くらいで回ってしまったとき気付いたことがある。
旧電車通りと靖国通りを繋ぐやや広目の道を「仲通り」といい、その通りの片側が赤線地帯で、もう一方の側はその地域に含まれなかった。そこに、「武蔵野茶寮」という立派な料亭があったが、その店がいま眼の前にあるではないか。
「おや、この料亭は位置が変ったのか」
と、本気でおもったが、そういうことが起るものではなく、「仲通り」の位置を誤認していて、その料亭の在るところも旧赤線だとおもっていたのである。
つまり……、新宿二丁目の遊廓は、記憶の中にあったよりも、ずっと狭い地域だったのである。プロ野球の球場を四つ繋いだくらいのスペースだと記憶していたのに、後楽園球場くらいの広さもないようなので、|愕然《がくぜん》とした。
なぜ、こういう錯覚が起ったのか。当時、一つの店の前に、三、四人の女が立って、道行く客に声をかけていた。客のほうも、洒落を言ってからかったり、あるいはその一人一人を慎重に選んだりしていたので、なかなか前に進めない。そのために、この地域を路地から路地へと一まわりするのに、一時間はかかったので、ずいぶん広い場所だという錯覚が起っていたわけだ。
それに、広さについての錯覚とともに、これまで立止まった七カ所のうちの幾つかは間違った場所のような気がしてきた。
この点、後日M氏にその場所が今はどうなっているか地図をつくって調べてもらったので、せっかくだからその記載どおりに記してみる。
長春館の前の広い通りを斜め右に渡ったところが第一の地点で、ここは「新宿大通り商店振興組合事務所」であり、その前の歩道を靖国通りのほうへ歩くと、広い駐車場でそのすぐ角に在った和風の店が第二の地点、大通りへ出て市ヶ谷のほうへ数メートル歩いた右側の「トルコ秘苑」その隣りの「静銀ビル」あたりが第三の地点、そのまま歩いて靖国通りから斜め右へ仲通りに切れ込む途中の右側の「沖縄料理・西武門」が第四の地点……、とこう書いていっても、その場所々々のエピソードを紹介する気にならないのだから、面白くもなんともないだろう。
駐車場のところのやや広目の通りが仲通りに直角にぶつかっていて、これを「柳通り」といい、ここで酔っぱらった娼婦が大暴れしていて、遠巻きに人の輪ができた。その娼婦をうまく|宥《なだ》めて拍手を浴びた話は、何度繰返してもいい気分だが、もうやめる。当時は二十六歳くらいだったろうか。その店の場所は、いまはハイヤー会社になっていた。
「アイララに行きましょうよ、色川さんがきている筈です」
と、M氏が言う。
「ナジャ」のマダムの古田真理子が、その店を手放して、いまは「アイララ」という大き目の店のオーナーである。ナジャは昭和四十年代に、新進のイラストレーターやデザイナーやカメラマンの溜り場として有名だった。そのマリコとは、さらにその前、彼女が銀座の老舗「エスポワール」の美人ホステスだったころからの友だちである。あのころ川辺るみ子時代のエスポワールは全盛で、美人ホステスのグループと仲良くしていた。古田真理子とは、友だちのまま終った。そういえば、ほかの美人たちとも友だちのままだった。いまおもえば、すこし心が残る。
同日、八時二十分。
アイララに着いたのが、八時すこし過ぎだったろう。はじめて気づいたが、この店は仲通りの市ヶ谷寄りで、つまり旧遊廓の外側である。出入口で色川武大が店内から出てきて、その巨躯と擦れ違った。なにも言わず、そのあと小一時間戻ってこない。マリコもまだ来ていない。
「色川武大はめしでも食いに行ったんだろうけど、ふつう何とか言うもんだけどなあ。たぶん、歩きながら眠っていたんだろう」
ナルコレプシイという奇病が色川武大にはあって、数秒ずつところ構わず眠ってしまう。阿佐田哲也に変身してマージャンを打っているときにもこの発作は起り、そのくせ当り牌を握っていたり、役満でアガったりする。
「アイララ」は、深夜の店である。九時くらいでは、客はほとんどいない。店の隅に大きな円いテーブルがあって、そこに三人で座った。間もなくマリコがやってきて、わざと大袈裟に抱き合って|久闊《きゆうかつ》を叙したりしているうちに、色川武大が連れと戻ってきた。はたして、晩飯がまだなので鮨屋へ行ってきた、という。
同日、午前零時。
K社のO氏、S社のY氏など合流、昔馴染だが久しく会っていないトヨコが突然現れた。この女は以前、全ブス連の幹部をしていた。トヨコとその友人のイツちゃんという美人との二人は、遠藤周作に紹介されたとおもっていたが、あらためて聞いてみると逆なのだそうだ。昔のことは、しばしば忘れてしまって、話がおもいがけないことになっている。
しだいに酔っぱらって、多弁になってきた。総勢十名、円卓を囲んで飲んでいるが、最初の目的と場所の関係で、おのずから話は遊廓のエピソードになる。しかし、当時を知っているのは色川武大くらいで、彼は寡黙なのである。
翌日、甚だ後味が悪く、
「なんかなあ、おればかり喋ってしまったなあ」
と、Y氏に訴えると、
「それは、二丁目の地霊がそうさせたのでしょう」
そう言った。この慰め方はうまかった。
「さて、もう帰るか」
と立上って、時計を見ると、十二時前である。M氏と村松友視がホテルまで送ってくれる、という。残りの連中は、まだ飲んでいる。送ってくれた二人も、あとで飲み直したのだろう。齢をとったものだ。この地域では、当時は午前二時ころが、勝負だった。この時刻になると、さすがに人通りが少なくなる。泊りの値段が、時間遊びのそれと同じになる。
いまの時代、赤線地帯の金額について大きな錯覚がある。「トルコは高いが、昔の赤線は安かった」という考え方が、それである。初任給が五千円のころ、時間遊び(一時間といってもじつは四十五分くらい)で千円くらいだった。つまり、月給の五分の一で、現在のトルコに比べてけっして安いとはいえない。したがって、当時しばしば登楼することは不可能である。その替り、その地域を歩く。
「あんた、いつまでぐるぐる歩いているのさ」
と、からかわれるくらい歩く。登楼するときには、よくよく相手を見きわめる。
こういうプロセスで女に辿りつくのだから、二丁目に限ってみても二十五年前の女たちの顔かたちが、いま即座に二十人は|瞼《まぶた》の裏に出てくる。
ところで、いま新宿区役所通りの近くに、桜通りというのがあって、新趣向を凝らしたセックス産業の店が並んでいる。
ある人が言った。
「桜通りはゲームセンター風で、二丁目にはやはり昔風の趣味的な手づくりの味が残ってますよ。二丁目は、あの白っぽい朝を見なくちゃ。おかまやゲイたちが疲れた顔で店から出てくるところが、なかなかいいんですよ」
そういえば、M氏制作の「二丁目地図」にも、「スナック・リージェント(ホモ・バー)」、「雀のお宿(パリでも有名なホモ専用連れ込み)」、「店名空白(二十四時間営業のボーイズ・マッサージ)」などという文字が書き込んであった。
二十年前の北海道
旅行が苦手の私にしては、二年ほどのあいだに四、五回も北海道に行った時期がある。主に仕事だが、遊びで行ったことも一度だけある。
まだ北海道内のエアラインがごく少なくて、摩周湖まで辿りつくのが大仕事だった。おぼろげな記憶を辿ると、札幌からプロペラ機に乗って、たしか|中標津《なかしべつ》のエアポートに着いた。ヒコーキを降りて、滑走路でそのまま空を眺めていると、すでに遠くのほうに黒い点が見え、それがしだいに大きくなって私たちのすぐ近くに着陸した。横浜の聾唖学校が副業として経営している輸送会社のセスナ機で、そのセスナを私たち三人が独占してそこを飛び立ち、阿寒湖の上を旋回したりして、やがて|弟子屈《てしかが》の小さな滑走路に降りた。そこからタクシーに二時間くらい乗って、摩周湖畔の旅館に着いた。途中、山道に鷹が翼を休めていたりした。
このときの、プロペラ機を降りてすぐ空を見上げていると、次のヒコーキが近づいてくるという感じが印象的であった。ただし、セスナは苦手らしく、すこし酔った。
これがいつのことだったか、年譜をしらべてみると、昭和三十七年である。この年には、もう一度北海道に行っている。中央公論社に現地取材の小説というのを依頼されて、札幌に一週間ほど滞在して、単身赴任のサラリーマンと北海道の女性とをからませて「札幌夫人」という作品を書いた。同行の記者は井出孫六という感じのいい温和な青年で、後年退社のあと直木賞を受賞した。昭和四十九年のことだから、その十二年後というわけだ。その井出さんは、小説を書いている素振りは見せなかった。
このときに、竹田厳道氏とはじめて会った。「北海タイムス」の暴れん坊という噂が高く、それはいまは故人になった柴田錬三郎に聞いた。竹田さんはわれわれのために料亭で宴会を開いてくれ、噂どおり豪放|磊落《らいらく》、敷物の熊の毛皮の爪をその場でむしり取って私にくれた。その後、つき合いは続いている。
つい先日、たしか和田誠さんと「札幌ラーメン」の話題になった。昔よく出かけたとき|薄野《すすきの》にバラック建の旨いラーメン屋を見つけ、一日に一度は出かけないと気が済まなかった、それはいわゆる「札幌ラーメン」ではなくて、醤油味のものだった、というようなことを話した。
和田さんが、「それはなんという店ですか」というので、「龍鳳、という店だった」と答えると、
「あそこですか。あの店は旨い、いまでも健在です」
と、言った。
この二十年、一度も北海道へ出かけたことはない。主に体調のせいで、郷里の岡山へもめったに帰れない。
平 貝
平貝というのは、味は淡泊で、歯ざわりもよいが、さりとて「じつは好きなんだ」と強調するには似合わないものである。
じつは、何年か前までは、私にとって平貝は平凡な食物に過ぎなかったのであるが。
ここに、ギンポという魚がいる。ギンポウともいい、銀宝と漢字を当てる。この魚はテンプラにするしか食べる方法はないし(もちろん、大部分の人が知っていることだが)、桜の季節しか(といえば厳密に過ぎるので四月の一カ月間、と言っておこう)、食べることができない。テンプラにするとアナゴに似て、もう少しあっさりした味で、私は好きだ。桜前線のたよりが届きはじめると、「今年はギンポが食べたいな」とおもうのだが、雑事多忙でもう十年近く、気がついたときには時期が過ぎてしまっている。
それにしても、一年のうちで一カ月だけ、しかも調理法はテンプラ以外は受け付けないというフシギな魚の食べ方を発見するまでには、どういう経緯があったのだろう。ギンポのことを考えるたびに、そのことに思いが及ぶ。
このギンポに似たことが、私と平貝の関係において存在しはじめた。貝類は寒い季節がうまいので、ギンポよりははるかに時期についての余裕はあるが、かならず握り鮨で食べなくてはいけない。もちろん、新鮮でめしの上で反りかえっているような切身でなくてはいけないので、もし両端がしょんぼり左右に垂れている握り鮨に出会ったとすれば、薄気味わるくなってしまうだろう。
馴染みの鮨屋で、まずすし種で一ぱい飲むが、そのときには平貝は注文しない。一度、こういう形で食べてみたが、旨くなかった。平貝の薄い甘味がすこしうるさく感じられてよくない。その甘さを、飯の酢の味が消し、歯切れのよい平貝の切片と米粒とが、口の中にひろがるところがいい。
今年は、平貝の鮨をずいぶん食べた。マグロは鮨屋にとって不可欠のもので、鮨屋としてはむしろ損を覚悟で常備してある。したがって、客としては|矢鱈《やたら》マグロを食うのは違反行為である。
「平貝がなくて怒る客はいるかな」
と、私は鮨屋のコウちゃんに聞いた。
「いませんねえ」
「それじゃ、いまあるのを全部握ってくれ」
そう注文したが、六個分しか残っていなかった。なお、|海苔《のり》を帯状に巻く手口があるが、あれは避けたほうがいい。海苔が、平貝の味のデリケートなところを|毀《こわ》す。
銚子二本
酒量がとみに落ちた。酒を飲んで眠くなるなど考えられなかったが、数年前からときどきそういうことが起る。
お酒は二本、ということにきめることにした。先日、しかるべき料亭で、「徳利に番号札がつけてあると便利なんだがなあ」と言っていると、|洒落《しやれ》のわかる店で二本目の徳利の肩のところに「二」という小さい紙がセロテープで貼りつけてあった。
もっとも、そういう会のあと、場所を替えてビールをえんえんと飲むことが多いので、結局は不都合なことになったりする。
酒 中 日 記
某月某日。「刑事コロンボ」の一連の作品は玉石|混淆《こんこう》だが、そのなかの「別れのワイン」というのは傑作である。ロサンゼルスに住むワイン・クレージーの金持が自宅の地下室を|貯蔵庫《カーブ》にして、エアコンディショナーを使って一定の温度に保っている。この男が殺人をたくらんで、一週間ニューヨークに行き完璧とおもえるアリバイをつくる。ところが、その留守に停電があったため、地下室の温度が上ってワインがぜんぶ駄目になる。すくなくとも、その男の舌にとっては、「この臭い水」というものに変質してしまう。そして、その敏感すぎる舌のために、コロンボの仕掛けた|罠《わな》に落ちて、アリバイが崩れてゆく。
このテレビ映画を見てから、ワインを貰うのが気持の負担になりはじめた。ワインを寝かせてある書庫は、夏は暑く冬は寒く、停電による気温の変動どころではない。
貰ったワインはすぐに飲んでしまえばいいのだが、晩酌の習慣がない。こういう悪条件を切抜けて無事に舌の上(さして敏感な舌ではないが)を通過するのもあり、駄目になっているのもある。このところ、来客があるとワインの栓を抜き、いまは|喘息《ぜんそく》の季節なので自分ではきき酒だけにして、諸氏の飲みっぷりを眺めることにしている。その強いのに驚くが、昔は自分もああいう具合だった、ともおもう。
午後二時、U社のN氏とNO氏来訪。とりあえず、ボルドーの赤を一本開ける。さいわい、傷んでおらず、無難。つづいて、ボルドーの赤をもう一本、このほうが旨い。念のため、自分が編集して二年前に出版になった『酔っぱらい読本』の第七巻を持ってきて調べてみると、ちゃんとその銘柄が出ていて、自分でおどろいた。『(シャトー)ベイシュヴェル。メドック格付第四級。このサン・ジュリアン村のワインは近来とくに評判が高く、新リストで二級。この変った名は、ジロンド河を遡った船が「帆をおろせ」といった古語。ラベルも船の絵』ラベルを見ると、なるほど古風な船の帆が半ばおりている。帆の模様は、ぶどうの房と葉である。数年前ボルドー市のホテルに泊ったとき、一晩じゅう波に似た音がしていたが、サン・ジュリアン地区は、そこよりもずっと河口に近い。
午後三時、B社のT氏とカメラマン氏あらわる。さっそく、グラスを配る。さらにもう一本、番茶がわりという気分で、ボジョレを開ける。
某月某日。午後三時、KA社のS氏、O氏、F氏来訪。ボルドーの赤を開ける。さいわい傷んでいない。「案外、いたまないものですよ」とF氏が言うが、そうでないときがあるので困る。
午後四時、SY社のO氏とM氏来訪、ボルドー赤をもう一本開ける。これも無事。もっともこのところ開けているものは、貰ってからまだ一カ月経っていない。KA社の三氏と入れかわりにK社のT氏とK氏あらわる。数年前、このT氏とボルドーの名酒の筈のものを開けたが、酸化していてなんの香りもしない。その日は悪い日で、つぎつぎと栓を抜くものが計六本とも駄目になっていた。洗面所の白い陶器の上に流したが、色も黒っぽく濁り、香りもなく、もったいない以上に腹が立った。
つづいて開けたボルドーの赤が、とても繊細で良かったので、また『酔っぱらい読本』(この本をつくった相棒がT氏である)で調べる。『(シャトー)ピション・ロングヴィーユ。メドック格付二級。昔は一つのシャトーだったが現在は二つに分れたため、コンテス・ド・ラランドとバロン・ド・ピションとある。二つのタイプに非常なちがいがあるのが面白い。バロンはこくがあり、コンテスはしなやか』いま飲んでいるのは、コンテスのほうだった。おわりに、ブルゴーニュの白、ピュリニィ・モンラッシェを開く。これは当然なかなか上等、グラスに一杯飲む。
某月某日。午後七時、K社のMさん、T氏、K氏と数寄屋橋近くのT飯店に集まる。来年度から刊行予定の全集についての打合せのためである。
大陸産の老酒を飲みながらの料理が、この日は上出来だった。参会者の健康状態や気分や料理自体が、うまく揃うとたまにこういう良い時間がもてる。もう一つ、料理の選択と配列である。こういう日は、どの皿もぜんぶきれいにカラになる。
あまりに印象に残ったので、この日の料理を書き記しておく。
一、ピータンをこまかく切り、豆腐で和えたもの(正しい名は知らない、以下同じ)。
二、|鱶《ふか》の|鰭《ひれ》の姿煮。
三、|豆苗《とうみよう》(サイエンドウの芽)と唐辛子の炒めたもの。
四、豚の三枚肉を蓮の葉に包んで蒸したもの。
五、|蛤《はまぐり》の殻つき味噌炒め。
六、椎茸のスープ。
七、杏仁豆腐。
もう一品頼みたいのを我慢したのが、よかった。
T飯店(わざと名を伏せておく)を出て、西銀座のバー「眉」へ行く。めずらしくMさん(女性)も自発的に参加、おそらく料理がうまかったためだろう。Mさん先に帰り、T氏とK氏とで、地下のバー「まり花」へ移る。自分は老酒は二本、そのあとはビールのトマトジュース割りである。これだと、おおむね翌日は無難である。
酒二本、というところが肝心で、先日うっかりこのペースを崩したため、その日は大そういい気分だったが、翌日ひどい二日酔。夕方まで、水しか飲めなかった。
スタミナ食
戦後、栄養失調になったことがある。下痢がつづき、顔に白い粉が吹き出すという症状が起った。このとき手に入れたマムシの粉の効き目は、驚異的であった。たちまちにして、その白い粉が消えたのである。
しかし、いまの私には、マムシの粉にかぎらず、どんなものも驚異的な効き目を示すことはない。ナニナニの効き目はすばらしいという人は、根が元気なのであって、極端な場合は暗示だけで効くのである。もともと私はアレルギー体質で、とくにこの半年間ほどその症状が悪い。したがって、スタミナ食などということを考える前に、アレルギーについて考えなくてはならない。その上、鬱病の気配が濃くなって、そのための薬を飲んでいる。あまり、いろいろ薬を飲んだせいか、いくぶん肝機能が衰えているという検査の結果が出て、それに対応する食物のとり方を考えなくてはならない。
肝臓のためには、一日に卵を三個食べろ、といわれるが、卵黄というのは高度の酸性食品である。血液が酸性になるのは、アレルギーにとっては禁物で、いつもアルカリ性にしておかなくてはならない。あちら立てればこちらが立たずというわけで、そこを何とかヤリクリしている。
スタミナ食というのは、元気な人が一層元気になるためのものだろう。私はまず病気から抜け出すために、食餌にも気を使っているという状態である。
カ ス ト リ
昭和二十年代の流行語はいろいろ記憶にあるが、一つだけ挙げよと言われれば、私の場合「カストリ」ということになる。
いまその現場を知る人は少ないだろうが、あれはいったいどういう液体だったのだろう、とあらためて思う。あの独特の悪臭は、古い沼の底から浮び上るメタンガスの臭いに似ていた。メタンガスといえば|屁《へ》に連想がいくが、じじつそういう臭いもした。東京の近県で密造して、糞尿を運ぶ桶に詰め、偽装して都内に運び込んできた、という噂もあった。戦前と戦後の十数年は水洗便所もバキュームカーも普及しておらず、汲み取った糞尿を桶に詰めて荷車で運び去っていたのである。
しかし、飲み馴れると、その臭いがフト懐しくなるところがあった。バラック建の飲み屋のまわりにひろがっていた廃墟に、その臭いは似合っていた。「カストリ」といえば「粕取り焼酎」、つまり酒粕を蒸溜してつくった結構上等のものの筈だが、あれはいったい何だったのだろう。ここで、『広辞苑』を引いてみると、「カストリ」の字義は一種類でないことが分る。『米またはイモから急造した粗悪な密造酒』とあり、次の字義として『転じて、低悪なものの意。――雑誌』とあった。それにしても、「カストリ雑誌」という言葉はたしかに存在したが、「この品物はカストリだ」とか、「あいつはカストリだ」などという言い方は、聞いたことがなかった。また、「カストリ雑誌」の語源についても、私にはべつの記憶がある。カストリという粗悪な酒をコップで三杯(つまり三合)飲めば、酔い潰れる。カストリ雑誌も三号で潰れる、という語呂合せである。もっと言えば、「潰れる」のではなくて意図的に「潰し」て、印刷代や稿料を踏み倒して行方不明になる。そして、また別の形で、新しいカストリ雑誌をつくっていたようである。
当時私は酒が強くて、カストリを一升飲んでも潰れなかったことがあるが、たしかに三合で潰れて当然の酒であった。急造の酒だから、アルコール分が足りない。それを強化するために薬用のエチルアルコールを加えていたが、しばしば工業用のメチルアルコールが混入されていた。エチルとメチルは飲んでいるときには区別が付かず、このメチルで失明したり死んだりした酒飲みが多かった。私の知っている範囲でも、何人かその被害に会った。眼が充血したり、翌朝|目脂《めやに》のために瞼が開かなかったりするのは、日常の出来事だった。いのちがけで酒を飲むこともあるまい、といまはおもうのだが、明日のことを考えない時代であった。「メチル」は「目散る」だと、ここでも語呂合せをしていた。
それから四十年近く経って、いま焼酎ブームである。不純物のない、透明な、身体に負担のかからない、二日酔をしない、という酒である。その焼酎は、本来の意味の「カストリ」というわけでもない。酒粕からのものは少なくて、|蕎麦《そば》とかジャガイモとかさまざまの原料からつくられていて、そのほうが面白いと喜ばれているようだ。
永井龍男氏との縁
まず私自身のことからはじめるのだが、私が若いころカストリ雑誌の編集者をしていたとおもっている人が多いようである。それはそれでいいのだが、私の入社した新太陽社は『モダン日本』という戦前派には周知のしかるべき雑誌を出していた。もっとも、その|瀟洒《しようしや》な雑誌は戦後混乱期を生き延びることができなくて倒産し、また新雑誌をつくったりして、しだいに怪しげになってゆくのだが。
なぜ、こんな私ごとを長々と書くか、というには、わけがある。この社は菊池寛氏に可愛がられていた文藝春秋社の社員の馬海松氏が、同社で創刊した『モダン日本』をもらい受けて独立したものであって、社の幹部は文藝春秋社に関係の深い人が多かった。馬社長の代行をしていたのが、牧野信一の実弟の英二氏で、菊池寛の|甥《おい》の武憲氏など、いろいろの人がいた。
そういう人たちと酒を飲んでいて、しだいに酔ってくると、そのうちの誰かが私のことを、
「君は将来、永井龍男のようになるな」
と言い、
「いや、菅忠雄のほうに似ている」
と、ほかの誰かが言う。
そういう言葉を何度も聞いた。
昭和二十年代のことで、永井龍男氏は小説家で、以前『オール讀物』の名編集長だったという知識はあったが、菅忠雄とはどういう人か知らなかった。
漫画集団の人たちにも、「永井さんに似ている」と何度も言われた。この場合は、私が小説を書いていることを知らない上でのことであるが。
こういうことは、永井さんは初耳であろう。いずれにせよ、「将来、永井龍男のようになる」ということは、夢物語のようなものであった。
その後、四分の一世紀経って、その永井龍男氏と芥川賞の選考会場で同席するようになろうとは、まったく不可思議なことが起るものだ。
数年後、永井さんは芥川賞委員を辞任された。その理由の一部に、村上龍、池田満寿夫の受賞にたいする不満があった。私はその二人を推す側だったので、永井さんの|癇癪玉《かんしやくだま》が私の上で破裂するかとおもっていたが、さいわいそういうことはなかった。
いまでも、川端康成文学賞の選考会の席でお会いする。この賞は今年(昭和五十六年)で八回目だが、賞をきめるまでに二回集まり、いつも永井さんと向い合せで座ることになっている。
そして、選考が終ってからの永井さんの座談がおもしろい。そのころは、|微醺《びくん》を帯びておられるわけだが。
ある年の話に、こういうのがあった。「|不如帰《ほととぎす》」を芝居にしたものを得意の|出物《だしもの》にしている劇団があって、その芝居で船頭の役をしている男がいた。武男と浪子、逗子の海岸での別れの場で、武男を乗せて岸を離れてゆく舟の|櫓《ろ》をあやつる船頭の役である。
あるとき、その男が武男役に|抜擢《ばつてき》されることになった。いやだ、と断ったが、許してもらえない。
男は舞台の袖にうずくまって、出を待っていたものの、そのまま逃げ出して行方不明になってしまった、という。
こう書いてみたものの、甚だ心もとない。なにせ名人の芸談のようなものであるから、永井さんの口跡を正しく写すことはできないし、このごろ記憶力に自信がないので肝心の話の筋道自体もあやしいが、含みの多い面白いはなしである。
この話を書いているとき、不意に思い出したことがある。もう十数年前になるが、永井龍男、大岡昇平両氏と阿川弘之と私とで、わざわざ日をきめてマージャンをしたことがある。当時両氏にたいして私は面識のある程度だったのだが、阿川が大岡さんとマージャンの話をしているうち一戦交えることになり、私が狩り出されたという成行だったとおもう。
私たちのマージャンの溜り場が赤坂にあるが、そこで昼間二チャンほどやって終りになり、酒を飲みに行った記憶もない。勝負は阿川と私とがすこし負けたようにおもうが、すべてが|朧《おぼろ》げで白昼夢に似ている。一つだけはっきり覚えているのは、マージャン台の白い布に折り目ができていて、それがたまたま永井さんの前に存在していた。永井さんはしきりにそれを気にされていたが、ついにゲームを中断して、牌をいったん片づけ、布にアイロンを当てることを命じられた。
その永井さんの振舞は、神経質というよりも、「マージャン台の布たるものが、たたみ目があるのは許しがたい。それはすでにマージャン台の布たる資格を失なっている」という主張として、私の印象に残っている。
もう一つ、川端賞の第一次選考は、丁度|蚕豆《そらまめ》の出はじめる季節に当っている。毎年、永井さんは蚕豆のおかわりを要求され、店のほうも心得て大きな丼に入れて出してくる。私も初ものの蚕豆は大好きであるから、その余禄にあずかっている。
今年の春は、永井さんは健康をそこねられて、選考会に欠席された。はやく恢くなられ、来年は一緒にたくさん蚕豆を食べたいものである。
井上靖氏の初心
井上靖氏について語ることは、私にとっての戦後というものを思い返すことにもなる。
昭和二十四年に『文學界』に載った「猟銃」が大きな反響を呼び、つづいて発表になった「闘牛」で芥川賞を受けた。
現在の井上さんには、芥川賞という新人賞の受賞の話などふさわしくないが、三十六年も以前のことである。いまの東京は高層ビルの都市になっているが、当時は都心でも廃墟やバラックはいくらでもあった。そして、その頃のことはとくに私の記憶に鮮烈に残っている。この受賞で、井上靖氏はたちまちのうちに純文学の星となり仰ぎ見る存在となった。
井上さんに初めてお会いしたときのことは、よく覚えている。庄野潤三の芥川賞受賞の内輪の会だったから、昭和三十年の春だとおもう。場所は中野の普茶料理「ほとときす」で、この店は当時しばしば会合に使われたが、何年か前に店仕舞になったと聞いている。
畳敷きの広間に座っていると、井上さんが近寄ってこられ、私の傍に|胡坐《あぐら》をかいて、
「ヨシユキさん」
と、呼びかけられた。
いま気づいたが、井上さんはどんな後輩にたいしても「さん」付けであって、「君」付けはない。この点、私も同様である。私の場合は、「――さん」もしくは呼び捨てである。余談になったが、そのとき井上さんは、
「あなたのことを見ていると、自分の若い頃によく似ていて、当時のことを思い出す」
という意味のことを、繰返し言われた。
こういうセリフは言い方しだいで困ったことになるのだが、まったく厭味がなかった。そう言われて嬉しかったのを、よく覚えている。
『井上靖という人は、若い作家と話をするのが好きなんだな』
と、私はそのときおもった。
その間もなくあと、なにかのパーティで井上さんに声をかけられて、発表したばかりの「夏の休暇」という短篇を賞めていただいた。その賞め方が、おざなりではない。「君のアレよかったよ」という言い方は、これも場合によっては厭味になるが、それがまったくなかった。「自分もああいう作品を書いてみたいとおもっている」とも言われた。
『井上靖という人は、いつも初心を大事にしているんだな』
と、私はおもった。
この感想は、三十年後の現在でも、井上さんにそのまま当て嵌まる。
二年ほど前に、井上さんは芥川賞の選考委員をやめられたが、十年ほどのあいだ一年に二回選考会で同席した。会のあとは、長老の委員はそのまま帰宅されるが、井上さんだけは別で「ブランデーのお湯割り」をたくさん飲んでも乱れる様子がなく、私たち年下の委員を銀座に誘うのである。そういうときの井上さんの座談を聞いていると、ここでまた私は「初心」というものを感じる。
一方、井上さんは若い頃から、ひどく大人の面を持っておられた、とおもう。
『処女作には、その人の可能性のすべてが含まれている』
という言い方があって、私はほぼそれを信じている。これを井上靖氏に当て嵌めてみよう。井上さんの場合は「猟銃」と「闘牛」の二つとも処女作として考えたほうがよい。この二作には、ロマンチックなものが共通しているにしても、「猟銃」にある詩心と「闘牛」の底にあるしたたかな大人とが、いつも井上さんには共存しているようにおもえる。
十二分に大人の井上さんから、ふと垣間見える「初心」は、とても快い眺めである。
……この三十年間で、最も多く同席する機会のある先輩作家は、井上靖氏だとおもう。いろいろの定期的会合でご縁があるわけだ。
故・舟橋聖一氏の主宰した「伽羅(キアラ)の会」があって、年に数回開かれた。そして、井上さんもその会に入っておられた。舟橋さんは独特の個性の持主で、そのユニークさがこのごろでは好意をもって語られることも多くなってきたが、生前はそうともいえなかった。
『井上さんもその会に入っておられた』と私は書いたが、じつは「会に入れられてしまった」というところがあった。「自分が主宰する会に入ることを喜ばない人はいない」ときめているところが、舟橋さんのユニークなところの一つである。そういうところはいささか閉口したが、なにしろ私ははるかに後輩である。また、舟橋さんの個性に魅力を感じているところも多かったから、その会に入れられることはけっして迷惑ではなかった。
しかし、舟橋さんと齢もあまり違わない井上さんにとっては、|億劫《おつくう》におもえるときがあったのではないか、と考えたものだ。しかし、井上さんは律義すぎるほど、この会に出席された。
私はというと、昭和三十年代半ばにこの会が主体になって刊行しはじめた月刊小冊子『風景』の編集も熱心につとめた。井上さんは、ここまではつき合われなかったが、詩を毎号寄稿された。
観察していて興味津々であった舟橋聖一という人物が、だんだん私は好きになっていた。
十年ほど前、その舟橋さんが亡くなられたとき、井上さんは私にこういう意味のことを言われた。
「あなたは舟橋さんを、首尾一貫してサポートしましたね、立派ですよ」
また、これは言葉どおりとおもうが、こうも言われた。
「ヨシユキさんは舟橋さんが好きなんですね」
井上さんには、いつも賞めてもらった。井上靖という人は、賞めることで相手を激励し鼓舞しているのかもしれない。
このごろも、会合のあとの二次会に井上さんから誘われることがある。しかし、間の悪いことに先約があったり、はるか年下の私のほうが体調が悪かったりして、同行できないことが多い。誘ってもこない奴、とおもわれているフシもあるが、そんなことはない。井上さん、また誘ってください。
小島信夫その風貌
小島信夫と知り合ったのは、昭和二十八年初春だから、三十年を越すつき合いになる。『文學界』編集部が当時の新人を集めて「一二会」というのをつくったのは、いろいろの人が書いているからくわしくは書かないが、その会ではじめて会った。
その頃、私は結核を発病したばかりで、小島信夫が千葉県佐原の山野病院を紹介してくれた。その病院の離れみたいなところに、二十八年五月から二カ月ほどいた。さらに、二十八年末から一年間近く清瀬病院に入院していたので、知り合った直後から、その交友には二度のブランクができた。それなのに、昭和二十八、九の二年間にかぎって考えても、たくさんの思い出があるのだから、濃密な季節だったといえるだろう。
小島信夫のエッセイに「市ヶ谷駅付近」(『新潮』昭和三十四年四月号)というのがあって、気に入った作品だ、と自分で言っている。市ヶ谷にあった私の家に、安岡章太郎に誘われてはじめて訪れたときのことにはじまり、当時の安岡や庄野潤三の風貌が活写されている。もちろん、私のことも。そして、文章の奥に一貫しているのは、「意地悪」な眼である。ここで括弧を付けたのは、正しい観察はしばしば意地悪になる、という意味である。
この二十枚ほどのエッセイの後半は、「芥川賞」にこだわる私たちへの批評である。いや、安岡はすでに昭和二十八年夏に受賞しており、私は同年十二月に清瀬に行ってしまったから、その年の秋のことを書いているわけだ。せっかくだから、末尾のところを再録してみよう。
『私は吉行宅から庄野をつれ出してお濠端を散歩した。彼はその夜また大阪へ帰ることになっていた。吉行のアタマの中も庄野のアタマの中も、芥川賞のことでいっぱいだった。安岡がなったとすれば、自分達もなれぬことはない。吉行が、
「これはいいことだ、順番が早くまわってくるのだからな」
とさっきいっていたことを思い出した。賞のことでは二人は私の先輩である。私はその先輩の心の中は、ほんとは、よく分ってもいなかった。
「いい天気だな」
庄野は立秋になったばかりの空を見あげて誰にいうともなくいった。彼は自分の士気を鼓舞しようと思ったらしい。
「しかし、あまりよすぎるよ」
私は何げなくいった。そしてしまったと思った。
「よすぎる?」
庄野は、案のじょうけたたましく笑いだした。そして彼のブルーな状態はいっきょに吹きとぶかと思えた。
「きみはオカシナやつやな。ほんまにオカシナやつやな」
庄野はくりかえした。そして私自身も、これは少しおかしいかも知れないと思った。しかし、青天を見て、曇天のことを考える性癖は、いかんとも、私には抜けがたいと瞬間私は思った。私はその性癖が我ながら不快であった。しかも何かそこには人間の当然のものがあるとも思えて、心がいたんできた。しきりといたんできた』
それでは、小島信夫は芥川賞を意識しなかったか。私たちとは違う屈折の形で、「芥川賞なんか貰っては迷惑」という気分を含んで、その賞を意識していたような気がする。そのころの小島信夫の作品に「犬」というのがあって、芥川賞をほしがる新人の群像をアイロニカルに書いていて、私などもかなりオーバーな役を振り当てられている。そして、作者はずっと観察者の立場にいる。しかし、アイロニイは人も刺すが自分も刺すというのは自明の理で、そうでなくては書く意味がない。「犬」を書いたことは、小島信夫が芥川賞に彼独特のかかわり合い方をしていた、という証拠でもあろう。因みに、いま新人賞は数え切れないくらいたくさんあるが、当時は芥川賞だけで「文學界新人賞」もまだ出来ていなかった。
昭和六十年には、小島信夫は古稀、私は前の年に還暦をむかえている。ということは、九歳の違いがあるわけで、昭和二十八年には私は二十九歳、小島信夫三十八歳である。
小島信夫としては、年長者の自分が、若い連中と同級生のように振舞うという立場に身を置いたことにたいして、にがにがしい気分がいつもついてまわっていたのだろう。また、同人雑誌のキャリアも長く、その仲間たちの眼も意識しないわけにはいかなかっただろう。商業ジャーナリズムのつくった新人のための会に参加している自分にたいして向けられる、旧友たちの咎める眼も当然意識に上ったろう。それに、彼の資質自体が、物事とストレートにかかわり合ったままでいられるものではない。
以前、小島信夫の全集の月報を書いたことがある。そこで私は、「彼は文学の話を肴にして酒を飲むくらいのブンガク人間である」という意味のことを書いた。そのあと、ある会で彼に会ったとき、まるで不平があるように上唇が尖るあの独特の微笑で、
「あの月報の文章で、キマリだね」
と、私に言った。
つまり、自分が「ブンガク人間」と規定されることを喜ぶような口ぶりだった。しかし、あるいは、月報という面倒な仕事にたいするねぎらいの言葉だったのかもしれない。
じつは、芥川賞のことを書くつもりはなかった。「市ヶ谷駅付近」を引用したために、そうなってしまったのだが、ことのついでに彼の受賞の日のことを書いておこう。
昭和三十年一月中旬のある夜、小島信夫の受賞を知ったので、とりあえず彼の家へ行ってみた。当時、彼は中野に住んでおり、市ヶ谷からはタクシーで一走りだった。その家はいつもと同じ様子で、二階に通されたが、小島信夫は当惑したような憮然としたような顔のまま座っていた。小一時間なんとなくそうしていたが、誰も訪ねてこず、電話もかかってこず、私も浮ぬ気分になって帰ることにした。当時の受賞の夜は、だいたいこんなものだった。ただ、当選作の担当編集者からの電話もなかったのは、「芥川賞くらいで祝いの電話をするのは、はしたない」という見識によるものだろうか。そういえば、私は清瀬病院入院中に受賞したが、やはりその夜は電話一つかかってこなかった。今とは大きな違いである。
ところで、小島信夫との三十数年に亙るつき合いで感じるのは、彼の風貌がすこしも変らないことである。もちろん、互いに齢をとって行っているから感じ方も鈍くなるわけだが、それにしても変らない。
数カ月前、ある新聞で十数年ぶりに遠藤周作とくだけた対談をした。そのとき、昭和三十年ころのエピソードが話題になって、その中に小島信夫が登場した。その話に出てくる彼が今とまったく変らず、面目躍如としているので、私はしばらく笑いが止まらなくなった。その部分を再録したい。
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『遠藤がマジメなことばかり言ってた頃ね、金はないし、暇はあった。金が少しできると、皆で集まって酒を呑んだりしてた。遠藤イコール狐狸庵てかんじではない頃に、君が「シッポがはえてる」って言い出したの憶えてるか。
憶えてるよ。ぼくはお尻にですね、シッポがはえとるわけです。イボがどんどんのびてきて七センチくらいの長さになった。
それ、本当なのか。
君、見たじゃあないですか。
見ないよ。
あれは安岡(章太郎)と誰だったか。小島(信夫)か。とにかくシッポははえとると言ったんだ。
便所へ行ってウンコして、そのシッポを引っぱるとシャーと水が出て、便所の水洗がわりに流れるんだと言ってたな。
ぼくは中学のときからそれをお金をとって見せておったんです。で、そのときも「二百円だしたら見せてやる」と言ったら、安岡が「見たい」と言って、別室でぼくはズボンさげて、お金もらったんだ。そしたら小島が深刻そうな声で、「ぼくも見たい」って。
そういう惑じは、いかにも小島だな。面白い』
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再録ついでに、「現代文学と性」(『群像』昭和四十五年十月号)という|鼎談《ていだん》(小島信夫、大江健三郎、および私)のうち、小島信夫の面目躍如の部分を紹介して終りにしよう。この鼎談は、まだ誰の単行本にも入っていない。
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『小島さんは結局、家庭を一つの単位構造体とした人間関係というものをお書きになっているのじゃないかと思うのですけれどね。
結局そういうことでしょう。あまり外へ……。
出ないから?
遍歴しないということは、いってみれば、遍歴するときにまた家庭へもぐり込むということじゃないでしょうか。
外へ出ない覚悟をすれば、家庭というもの自体がたいへんなことでしょう。
どうか知らないが、とにかく娼婦なりそれに類した人といろいろ交渉を持つくらいなら、どちらかというと、ぼくはひとの家庭にもぐり込む可能性がある。
家庭にもぐり込むという意味は性的関係を含めてですね。
もちろんそうです。たとえばよその家へ行って、よその女をつねったってしようがないでしょう。
しかしそれは相当なことですよ』
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ここのやりとりには、一同笑い出してしまった。このあと、小島信夫の意味深い長い発言があるが、長くなり過ぎるのですこしだけ再録しよう。
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『それはそれぞれの好みの問題だね。ぼくは、これから対象としようとする女の親とか兄弟の顔を知っていると、もういやなんです。亭主の顔を知ってるのももちろんいやだ。ところが、それを知っていることが何ともいえない複雑な味わいになるという人もいる。
ぼくなんか、どっちかというとそっちのほうだね、下手をすると。それに子供がいなければおもしろくない。
これはかなり悪質な人だね。
ということは、たとえばそういうふうに複雑であり、がんじがらめになっているということにおいてその人に何ものかを感ずる。ぼくがいま言ったような形だと、どこにも性器というものはないわけです。少なくとも……。
これは極悪人ということだ。人間が極悪人であるということを自分で自覚するためにしても、家庭ということのほかに方法があるでしょう。
これはおもしろい。
小島さんがそれを裏切るとか|軽蔑《けいべつ》するとか……。
そういうのも一つですよ』
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「件」のはなし
内田|百※[#「門がまえ」+「月」]《ひゃっけん》は、昭和二十年五月二十五日の東京大空襲で、麹町区五番町の家を焼かれた。同じ日、同区同町の十番地ちがいに住んでいた私も、同じように家を焼かれた。ただし、私は内田百※という作家の存在自体を知らなかった。もう大学生になっていたのだから、|迂闊《うかつ》なことである。
家を焼かれたあと、郊外の叔父の家に私一人だけ居候をすることになった。この叔父の連れ合い、つまり叔母が熱狂的な百※ファンで本を貸してくれた。百鬼園随筆の系統ばかりだったが、そのおもしろさに一驚した。
終戦後はやたらに慌しくて、内田百※の戦前の作品まで手がまわらなかったが、雑誌発表のものはだいたい読んだ。新刊本も、昭和四十六年の『日没閉門』まで、眼に触れれば買っておいた。ただ、「冥途」の系統の作品群を読んだのは、だいぶ後になってからである。これも、迂闊なことだった。
先年、平山三郎『詩琴酒の人』(昭和五十四年)を拾い読みしてみると、こういう部分が眼についた。
『(昭和)十四年一月頃の事と思はれるが、長年の親しい友人だつた佐藤春夫と交際を断つた。杉並区方南町に別居してゐる長女の結婚の話があつてまとまつたところ、その媒酌を佐藤春夫が引受けたと通知されたので百※は激怒した。父親に何の相談もしないで佐藤に頼むとは何事か、また引受ける佐藤も佐藤だと云ふので、小石川関口町の佐藤慵斎居に生き、「爾今、絶交する」と宣言したといふのだ』
これには、驚いた。こういうことは、何にも知らなかった。
内田百※が借金取りに苦しめられる話は有名だが、遊蕩癖のある人ともおもえない。陸軍と海軍の学校の教官をしている上に、法政大学の教授でもある。なぜそんなに金が足らないのか、かねがね不思議におもっていたが、二つのカマドを持っていたためだろうか。
その後、伊藤隆史・坂本弘子『百鬼園残夢』(昭和六十年)が出て、三女菊美さんの側からもその事情がすこしあきらかになった。
ただ、私としては平山さんの文章に接したときの驚きが最も烈しくて、そのあとはそういう事情に関しては億劫な気分が強くなった。
その替りに、気にかかりはじめたのは、「|件《くだん》」のことである。「件」については、川村二郎が『内田百※論』(昭和五十八年)のなかで、「牛人伝説」という章を設けて鋭く分析している。私が書くことは、その論に異を立てるものではなく、いや、異を立てることにすらならない事柄なのである。
岡山駅前の市電ターミナルの近くに、横長の大きな広告看板があった。痔の民間薬の広告のようで、大きく「ぢ」という文字があり、看板一杯に人間の顔をした牛が描いてあった。その絵と字体がなんともいえず古くさく、救いようのない暗さである。|鍼《はり》のツボを示す人型の絵にこういうのがあって、牛人(件)は輪郭だけで描かれている。男ともつかず女ともつかず、大人とも子供とも判別ができず、頭も輪郭だけだから坊主頭の気の弱い少年のようにもみえる。顔は薄笑いのようにもみえるし、途方にくれているようにもみえる。痔を治すという責任に耐えかねているようでもある。
両親とも代々岡山の家系だが、私は昭和三年から東京で育った。しかし、駅前ターミナルから市電で二つ目の駅の近くに、祖父や叔父が住んでいたので、しばしば帰郷してときには長逗留になった。そのたびに、この看板を見るのだが、その度になにか途方にくれる気分が起る。|烏城《うじよう》や後楽園の近くで育って、第六高等学校生徒であった内田百※も、当然この看板を見ていた筈である。
岡山空襲のあとは、この看板はない……。いや、看板自体が私の幻覚ではなかろうか、と心もとなくなってきた。調べてもらうと、たしかに戦前戦中にはそういう看板が存在していたそうである。
『件の話は子供の折に聞いた事はあるけれども、自分がその件にならうとは思ひもよらなかつた。からだが牛で顔|丈《だけ》人間の浅間しい化物に生まれて、こんな所にぼんやり立つてゐる』
『件は生まれて三日にして死し、その間に人間の言葉で、未来の凶福を予言するものだと云ふ話を聞いてゐる。こんなものに生まれて、何時迄生きてゐても仕方がないから、三日で死ぬのは構はないけれども、予言するのは困ると思つた。第一何を予言するんだか見当もつかない』
夜が明けると、何千何万もの人間が、件を遠巻きにした。件の予言を待つのである。逃げだしたくなるのだが、そのスキがない。困って、水を飲んだり、横を向いたりするが、その一つ一つに人々は意味を見付けようとして、ざわめく。
件はいつまでも黙っている。群衆は苛立ち怯えて、件が余程大変なことを言い出しそうな気になってくる。
『いいにつけ、悪いにつけ、予言は聴かない方がいい。何も云はないうちに、早くあの件を殺してしまへ』
という声が、群衆の中から飛んだ。
『その声を聞いて私(件)は吃驚した。殺されては堪らないと思ふと同時に、その声はたしかに私の生み遺した倅の声に違ひない』
ここで、また詮索に戻ってしまうところが困るのだが、「件」は大正九年百※三十一歳のときの作品である。初恋の人と結婚したのが大正元年、翌年長男が生れている。妻との不和が書かれているのは大正十一年だが、そこに『永い間の心労』という文字がある。大正九年の頃に、すでに将来別居の予感があったかどうか。
「件」を書いたとき、長男のことが頭にあったかどうか。心労の投影と牛人を描いた広告板の投影とが、作品にあったかどうか。
もっとも、それが分ったからといって、どうということもない。「件」のこぼればなし、といったところである。
「新興芸術派」と私
こういう思い出がある。昭和十七年春、静岡高等学校(旧制)の入学試験の第一次に合格したあと、第二次の口頭試問で試験官が質問した。
「君はお父さんの小説を読んで、どうおもうか」
世の中は軍国主義一色で、当時の学校は文学書に関心をもつような学生は、敬遠することになっていた。ただし、この質問にそういう魂胆があったかどうか。
「読んでいないから、分りません」
と、私が答えると、試験官は疑わしげな顔をした。
それは当り前である。十八歳になっている少年が、亡父の小説を一つも読んでいないとは考えられない。しかし、それは本当のことだった。短かい小説が多いので、一つくらい読み通しておこうと何度も取りかかったが、いつも途中でやめてしまうことになった。
これは戦後もつづいた。昭和五十二年に神谷忠孝氏の編集で、『吉行エイスケ作品集』二巻が出ることになったとき、「今度こそ、ゲラ刷で読むわけだから……」とおもった。しかし、やはり駄目だった。ただし、詩についてはそうではなく、エイスケの詩は好きである。
同じグループの小説家、久野豊彦、中村正常についても、事情は同じであった。ただ、龍膽寺雄氏の「放浪時代」「アパアトの女たちと僕と」を学生のころ読んで、おもしろかった。数年前、「M・子への遺書」を読んで、これもおもしろかった。この作品を、「おもしろかった」といって済ましてはいけないかもしれないが、いずれにせよ龍膽寺氏の作品は幾つも読了している。
ここに一冊の本があって、それは『新興芸術派叢書・新種族ノラ・吉行エイスケ著・新潮社出版』と表紙に文字が並んでいる。昭和五年十月の発行で、巻末に「新興芸術派叢書」の広告が出ている。この人選はいまの眼で見れば奇妙なものだが、昭和初期のプロレタリア文学全盛にたいする芸術派の集合という解釈をすれば、一応説明はつく。
それにしても、いろんなタイプの小説家が集まっている。
街のナンセンス 龍膽寺雄
聯想の暴風 久野豊彦
花ある写真 川端康成
崖の下 嘉村礒多
恋とアフリカ 阿部知二
女群行進 浅原六朗
神聖な裸婦 楢崎 勤
高架線 横光利一
ポア吉の求婚 中村正常
愛慾の一匙 舟橋聖一
いくらなんでも、嘉村礒多まで「新興芸術派」とは、とおどろくが、それが当時の実情だったわけだ。私の考えでは、いかにも「新興芸術派」らしいグループの当時の中心人物は龍膽寺雄氏であり、文学史的に見ての「新興芸術派」の中核は久野、中村、エイスケの三人だった、ということになる。この三人の文学的寿命はじつに短かかった。
小学生のころ、家の中の会話で耳にする名前は、「クノさん、ナラサキさん、ツネカワ(雅川滉=評論家)さん」の三人だけであった。ほかの名前は聞いたことがない。なぜ、「リュウタンジさん」という名前が耳に入ってこなかったか、最近おふくろ(吉行あぐり=美容師)に電話をかけてたずねてみた。
「龍膽寺さんは、よくおみえになっていましたよ。魔子さん、といったかしら、その女性を連れて、美容院のほうにいらしたり」
ということであった。
久野豊彦氏とは、子供のころ何度も会った。いまでも、その顔は眼の前に出てくる。戦後、愛知県在住の久野さんから、何度も長い手紙をもらった。一度、こちらへ遊びにこい、エイスケの話をゆっくりしたい、という内容のもあった。心が動いたが、果せないままになってしまった。
「瓦板昭和文壇史」のこと
巖谷大四著『瓦板昭和文壇史』の最初の部分は小冊子『風景』に連載になったものの、三回だけで終ってしまった。『風景』自体が終刊になったためである。
なぜ、『風景』が突然終刊になったか。そのとき、私は二度目の編集長をしていたので、すこし事情を書いてみる。
昭和四十年代の半ばあたりで、『風景』はその寿命が尽きたように、私にはみえた。大きな出版社から新しい文芸誌が創刊されたり、以前からの文芸誌はしだいに分厚くなったりした。一方、書き手のほうは数が少ないので、どうなるかと眺めていたが、不思議に毎月刊行されてゆく。そのあいだにあって、『風景』は商業雑誌のような同人雑誌のような|鵺《ぬえ》的性格で、たとえば編集長は無給だが原稿料は出た。しかしその稿料は、けっして高いとはいえない文芸誌を、さらに下まわっている。こういうときに、原稿を集めるのは、困難になってきた。『風景』の母胎の「キアラの会」にたいする友情で書いてくださっている方たちにたいしても、あまり迷惑はかけられない。一時期は新人に声をかければ喜んで書いてもらえたが、このごろは有難迷惑というところが出てきた。
私の見るところ、『風景』は僅か六十八頁の小冊子だが、創刊号から性格ははっきり出ていて、|瀟洒《しようしや》でおっとりした良い雑誌だった。そして、その内容のレベルは維持できていたが、そろそろ限界がきていた。編集委員はみなそれを感じていた。
昭和五十年十二月号で、八木義徳編集長の任期が切れるのだが、そのあとの引受け手がなかった。
編集会議のとき、
「雑誌にも寿命がある。『風景』もやめどきではあるまいか」
という意味の発言を、私がした。個人的意見ではないつもりだった。
この発言が、舟橋聖一氏にショックを与えた。『風景』の創刊号から、舟橋さんは「文芸的グリンプス」という氏としては珍しく硬派のエッセイを連載して、好評だった。もう百八十回を越えるのに、一度の休載もなかった。『風景』にたいする舟橋さんの愛着は、なみなみならぬものがあった。その舟橋さんがショックを受けてしまったので、発言者の私が次期編集長を引受けるという奇妙な成行になった。もともと、私は舟橋さんという人物が好きだったことも作用している。そのころ、私はすこし疲れていたが、舟橋さんは元気そうにみえた。
新しい企画を立てることになった。『風景』は執筆者の人選にうるさかった。私はまず、「瓦板昭和文壇史」という案を出し、そのあと満場一致で巖谷大四氏に依頼することにきまった。どうせやるなら、昭和初年からにしよう、そのためにも巖谷さんが最も望ましい筆者だった。
巖谷さんとは旧知の仲なので、依頼は電話で失礼させてもらった。快く引受けてもらったが、何度も電話のやりとりがあった。
「瓦板」というのは、つまりは江戸時代の号外である。といっても、政治ダネではなく三面記事風のもので、八百屋お七の処刑のときにも出たのではあるまいか。すなわち、文学的事件とか小説家の生き方などについて、堅くるしくなく書いてもらいたい。そういう気持が、この「瓦板」という文字に籠められていた。
「瓦板」か「瓦版」か、ということを、巖谷さんと電話で相談したことも思い出す。
昭和五十一年一月号(五十年十二月発行)から、連載開始になった。それは、昭和二年の芥川龍之介の自殺からはじまったが、「この連載は成功した」と私はおもった。
いま読み直してみると、たとえば次のような箇所がある。
『ある夕方、海岸へ家族一緒に散歩に出かけ、沖を走る遠い稲妻を眺めていた。文子は也寸志を抱いていた。
「あすこに船が一つ見えるね」と龍之介が言った。
「ええ」
「帆柱が二つに折れた船が」
文子にはそんな船は見えなかった。龍之介の眼には、帆柱が二つに折れ、いまにも沈みそうな船がいるように見えた。
一人で散歩に出ると、龍之介は町へ出て、薬屋を一軒一軒訪ねた。
「青酸加里を売ってくれませんか」
「青酸加里はお売りするわけにいきません」
一軒だけ、売っても差し支えないが、今は品切れだと言われた。
龍之介は、以前から友人達とたわむれに、自殺の方法について語り合うことがあった。青酸加里で死ぬと躰が硬直するから厭だとか、ゴム管で|縊死《いし》すれば一番楽だが、死にながら必ず夢精するというのは困るとかいった話であった。
ある日、龍之介は、五、六十匹の|蝿《はえ》を一度に呑み下した。しかしそれは猛烈な下痢をしただけで死にはしなかった』
芥川龍之介の自殺についての文章はいろいろ読んだが、この末尾の記述にはじめて出会った。
この連載の第二回目が載った二月号が出たばかりのとき、思いがけないことが起った。
舟橋聖一氏の急逝である。船橋さんは七十二歳、いかにも元気そうだったので驚いた。一月十三日の昼過ぎ、電話で報らせがあった。
次の号はすでに編集が終っていたので、四月号の内容を変更することにして、すぐに編集会議がおこなわれた。『風景』に縁の深かった方たちの随筆を二十九篇並べることにして、その人選と配列に知恵をしぼった。その四月号に載った巖谷大四氏の随筆「忘れ得ぬ人」の一部を引用させてもらう。
『一月十三日の朝食をすませた頃、郵便の束が来た。その中に「風景」二月号があった。私は早速それを開いて、いつものように舟橋さんの「文芸的グリンプス」を読み出した。その終りのところへ来て、私はびっくりした。私がこの雑誌の新年号から連載をはじめた「瓦板昭和文壇史」を絶賛して下さっているのである。私は心底嬉しくなって、それを何度も読みなおし、胸のときめきを覚え、早速舟橋さんにお礼の手紙を差上げなければならないと思った。
その時、時事通信の藤田君から電話がかかって来た。舟橋さんが心筋コウソクで倒れられ、入院されて、危篤状態だというのである。私は二度びっくりした。いつもなら午前中から仕事にかかるのだが、とても手につかなかった。
病院にうかがおうかと思ったが、病院の名を聞きそびれてしまうほど動転していた。電話でおたずねするのも、何だか、気が引けて、そのままおたおたしていた。
昼のニュースも、何の報道もなかったので、あるいは発作だけで、良い方に向われたのではないかと、祈る気持でそう思った。
大相撲の中継がはじまった。私はテレビにしがみついた。と、その途中で、舟橋さんの|訃報《ふほう》が、アナウンサーによって告げられた。やっぱりだめだったのか、と私は一瞬息をのんだ。
それにしても、相撲の大好きな舟橋さんが、大相撲の中継の間にその死を告げられたのは、劇的な感じをうけた。
夕食をすませてから、私は舟橋家にかけつけた。もう沢山の弔問客が見えていた。
祭壇の前に額づいて瞑目すると、私は「先生ありがとうございました。それにしても、お礼を申し上げるいとまもなく逝かれたことが口惜しく思います。今はただご冥福を祈るばかりです……」と心の中で暗誦した。
昭和十六年、舟橋さんが文芸家協会の理事、私がその書記の頃から、三十数年間可愛がって頂いた。時には図にのって、生意気に、くってかかったりしたこともあった。そういうことの出来る、マン・ツー・マンのつきあいをして下さる方だった』
巖谷大四著『瓦板昭和文壇史』(文庫版になるにあたって、「懐しき文士たち」と改題になった)の「昭和篇」は、芥川龍之介の死にはじまり、島木健作の死でおわる。「戦後篇」は、昭和四十七年の川端康成の死で終りになっている。
そして、昭和六十年に書いているこの文章では舟橋聖一の死、および『風景』の終刊を書くことになった。
『風景』の終刊は、編集会議ですぐにきまった。四月号の表紙に、『舟橋聖一・追悼 第187終刊号』の小さい文字がある。その号の随筆メンバーに私は参加せず、「編集後記」だけ書いた。『風景』の終刊についてのこの文章を、「文壇史」の資料の一つのつもりで引用させてもらう。
『・「風景」は、第一八七号をもって、終刊となります。「将来再刊の機会があることを望んでいる」と書きたいところですが、すくなくともキアラの会同人の編集長による「風景」は、これで姿を消します。舟橋聖一氏の「文芸的グリンプス」のないこの雑誌は、今となっては考えられなくなっているためです。
・とくにこの五年間の「風景」は、多数の執筆者の特別の好意をもって支えられてきました。この号は、キアラの会同人およびこの雑誌に関係の深い方々の原稿でつくりました。総目次をつける案も出されましたが、そのためには三十頁の増頁が必要です。いつもと同じ小冊子のままのほうが「風景」らしい、とおもうので、歴代編集長を列記するにとどめます。
・初代・野口冨士男、以下順を追って、有馬頼義、吉行淳之介、船山馨、澤野久雄、八木義徳、北条誠、野口(再)、吉行(再)となります。任期は、一年から二年半でした』
さて、連載中の廃刊は、執筆者にとって大きな迷惑である。編集者としての責任は大きいが、さいわいそのとき私は『小説サンデー毎日』に連載をしていた。編集長の星野慶榮氏(この人も故人になった)と私とは同年同月同日生れという珍しい縁があり、私はすぐに星野さんに頼んだ。
星野さんは快諾してくれ、あらためて最初から同誌に連載ということになって、私は安堵した。そのあとも、また同誌休刊などということが起ったが、そこらは巖谷さんの「あとがき」を参照されたい。
このように、『懐しき文士たち 昭和篇』は、かずかずの波瀾をくぐり抜けて誕生した書物なのである。
ジョーズ園山俊二
園山俊二と知り合ってから、十年を越すだろう。もっとも、十年の交友というのは長いとはいえないが、一週間に一度くらいの割で六、七時間顔を会わせているとなると、これはなかなかのものである。つまりは、彼がわれわれのマージャン仲間に加わったということである。
これだけ顔馴染になると、電話をかけるときもときにはガラの悪い口調をわざとつくったりする。ところが、彼の長男の望太郎君(まだ会ったことはないが)の声が父親とよく似ているので、本人と間違えて、
「おい、オレだーあ」
と、いきなり言ったりする。こういうケースは、私の電話以外にもときどき起っているようで、望太郎君はそのたびにびっくりするようである。
園山俊二がマージャン仲間に加わったときには、ほぼ初心者であった。パイを並べる手つきも覚束なく、チンパンジーがバナナの皮を剥くのに似ていたので、たちまちチンパン君という綽名がついた。「ギャートルズ」という作品があるように、動物好きの彼にふさわしいものだった。この手つきは、いまでもときに現れるが、腕のほうはすっかり上って強くなった。
もともと私たちのマージャンは、ストレス解消のためのもので、バカ話を愉しむところがあり、常連のメンバーは十人くらいだが、みんなテレビの俗悪番組の愛好者である。あれはもう十年くらい前になるか、ハナ肇がはじめてテレビで「アッとおどろくタメゴロー」と言った翌日、マージャンの場が立って、振り込んだときそのセリフを言ってみると、全員すでにその意味を知っていた。
花柳幻舟事件のときには、
「おもい知ったか」
と、牌を捨て、
「なにすんのさ、ロン。満貫で、家元の勝ち」
なんていうのも、流行した。
危険牌を捨てるとき、水戸黄門の印籠風に差し示す、というのもある。
つまり、それぞれなにか趣向を考えてマージャンをしないと気が済まない、という連中がそろっている。
チンパン君は、覚束ない手つきのまま強くなってきて、ジョーズ(人喰い鮫)とおそれられた時期がある。スピルバーグの「ジョーズ」が封切られたころだから、もう五、六年前になるか。
そのときのことをすでに私は書いているので、部分引用をしてみる。
『チンパン君と言われていたソノヤマが、このごろますます強くなって、ジョーズと呼ばれはじめた。
上手になったからジョーズではない。評判の映画に出てくる人喰い鮫のように、バクッバクッと大きな手で和了る。一三〇〇の手に、ドラが六枚入っていて、ハネ満になったりもする。
「今日はジョーズ退治の奥の手をみせてやる」
と、卓を囲みながら私が言うと、ソノヤマはそれがどういうものかをさかんに聞きたがる。
しかし、事前に説明すると、手口が分ってしまうから教えるわけにはいかない。
半荘が終っても、私のアイディアは実を結ばず、とうとうその日の全局が済んでしまった。
あの人喰い鮫はものすごくて、鮫退治用の船まで沈没させてしまう。船が沈みかかる直前に、圧搾ボンベを口に突っ込んでくわえさせ、ライフルでその筒を撃つ。ボンベが爆発して、さしもの鮫も砕け散ることになる。
そこで私は、七対子の八筒待ちや、嵌八筒待ちの聴牌に何度も持って行ったのだが、みな他家から出てしまった。
八筒のかたちは、そのボンベに似ている。
もしソノヤマが、八筒を捨てたなら、
「ドッカーン」
と叫んでやるつもりだったが、われわれのジョーズはまったくしぶとい』
マージャンを知らない読者のために、もっとべつのエピソードを書け、といわれるかもしれない。しかし、こういうときの男同士の会話というものは、おたがいに差しさわりのあるものが多くて、発表できない……。というようなことを書くこと自体、差しさわるのだが、もう書いてしまった。
「マージャンをすれば、相手の人柄がよく分る」ということはしばしば言われるが、それは当っているようだ。人柄だけでなく、「運」も分るような気がする。園山俊二は、強運の人でもある、といえよう。さて、その人柄は、甚だ大雑把なところと神経質なところが共存していて、その共存の仕方がまたややこしいので、降りている階段を二、三段踏みはずすような気分にさせられることがしばしばある。たとえばマージャンをしながらの雑談で、もう何度も繰返して出てきた話題がもう一度出ることがある。
そういうとき、園山が顔を向けて、
「え、そんなことがあったのですか」
と、真顔で言う。私がおどろいて、説明しようとすると、近藤啓太郎が私をたしなめて、
「トボケてるんだよ、わざとああいうことを言ってるんだ。作戦なんだからね、まじめに説明しているうちに振り込むぞ」
そういう近藤も、園山のことを「狡いやつ」とおもってそう言っているのではない。「大雑把」というのを言い替えると、「茫洋として、中国の大人風」ということになり、「中国の大人」となると、「食えないやつ」「あれで、なかなか」というイメージになる。しかし、園山俊二と「たくらむ男」ということとはかけはなれている。さらにいえば、「たくらむ」ことを拒否する一種モラリスト風のところがある。あるとき、テーブルの上に|蟻《あり》が這ってきたので、誰かがそれを殺そうとしたとき、
「あ、蟻には蟻の生活がある」
とか、園山が口走って、
「なんだ、シュバイッツアー博士みたいなことを言いやがって」
そう私が笑っておいたが、それは彼の本心なのである。
園山俊二は、背が高く、目鼻立ちのハッキリした男である。つまり、ハンサムといえるが、プレーボーイ風ではない。大雑把な美男子であって、そこのところがなんともいいところだ。園山夫人はすらりとしていて、こちらはボーッとしたところのない美人である。
そのくせ、本人は「デブ好き」に固執していて、デブでない女は興味がない、という。しかも、デブであればいいわけでなく、そこのところが難しくて、「デブ評論家」だと自称する。
「つまり、ソフィア・ローレンみたいなのがいいのか」
「あれは、少し違いますね。骨格が大きすぎて」
「いったい、どういうのがいいんだ。女優にたとえて」
「ホラ、あの、なんといったっけ。ホレ、あの……」
そう言ったあげく出てきた名前が、「フランソワーズ・アルヌール」だったのには、驚くよりも|呆《あき》れた。「階段を踏みはずした」気分になった。こういう気分にしばしばさせられるのが、園山俊二との交友の特徴である。
それにしても、敗戦直後から現在にいたるまで、私には漫画家の友人がじつに多い。もともと漫画が好きなので、それについて語ることは多少はできるが、園山俊二の本でその漫画を解説するのはヤボというものだろう。見て、感じてもらえばいいわけだ。
一つだけ言うとすれば、彼の絵は線がきれいでどことなく上品である。これもまた、園山俊二の人柄に通じるところだろう。
山藤章二にいっぱい似顔を描かれた
山藤画伯とコンビで、新聞のエッセイを一〇〇回連載したことがある。その「葱の章」に、『私の似顔はずいぶんヒドク描いてあるが、よく似ている。日清戦争のとき|木口小平《きぐちこへい》というラッパ卒がいて、死んでもラッパを口から離さなかったというが、その生れ変りのように、私のコメカミの癇筋をけっして描き落さない』と書いた。
その章のイラストは、戦前の修身教科書の一頁で、『ノスケ(文字が斜めに切れているところが芸がこまかい)ハ トキドキタイトル ニ カンケイナイ ブンシヤウ ヲ カキマシタガ、シンデモ タイトルニ タベモノ ノ ナマヘ ヲ ツケルノヲ ヤメヨウト シマセンデシタ』とあって、兵卒の私がネギをくわえて戦死しかかっていた。
篠山紀信との午後
写真に関しては、撮られるのも撮るのも苦手である。この十五年ほど、グラビア撮影に応じたことがない。戦後になって、カメラを所有したこともない。
『小説新潮』に「日本の作家」というカラーグラビア頁があったとき、そこに登場しろと言われて困った。断ると「日本の作家」でなくなるような気がしないでもないし、カメラマンが顔馴染の篠山紀信という気易さもあって、結局承諾した。
銀座に小さいバーがあって、篠山さんも私もそこの常連で、顔を合わすと雑談していた。それだけの仲で、カメラを通してのつき合いはなかった。しかし、カメラマンが篠山さんなら、辛抱できそうな気がする。
丁度、貰いものの上等のワインが何本かあった。酔っぱらってしまえば、気になる度合が薄くなるだろうという作戦を立てた。編集部の初見さんと横山さんにその旨を伝え、「ただし、ロクな肴はないけど」と言った。そこで、二人は神楽坂の洋食屋のローストビーフなどと、六本木の「おつなずし」といういなりずしを買ってきてくれて、昼間から酒盛りをはじめた。
大阪の銀行襲撃犯梅川が、人質を取って籠城しているとき、
「シャトー・オ・ブリオンを差入れろ」
と言った。
それと同じ銘柄のものが一本あったので、まずそれを開けた。さすがに旨い。「これはいい」とみんな喜んでいるところに、電話がかかってきた。手早く用件を済ませて振向くと、すでにシャトー・オ・ブリオンの瓶は空になっていた。なるほど、旨いものははやく無くなる。
そのあと、可もなく不可もないものの栓を抜いて、最後にいなりずしを肴にシャトー・ディケムを飲んだ。貴腐ワインというのは、最近いろいろ話題になっているが、その最高級のものをいなりずしで飲むとは一見乱暴である。しかし、このワインはフォア・グラか、もしくは食後の甘いデザートと一緒に飲むのがルールだから、いなりずしは理に叶っている。
陽のあるうちに撮影を、と外へ出ることにした。それにしても、酒盛りのあいだ篠山さんはカメラを手に取ろうとはしなかった。当り前ともいえるが、やはりなかなかのものである、とおもった。
私の住いは上野毛にあるが家の前は坂道で、坂の上へ向って左側には家が建ち並んでいて、右側は崖である。その崖の向うが公園になっていることを、引越してきて十年目に気付いた。うかつな話だが、この公園を知らない人が多いらしく、人影がすくない。斜面につくられた緑の多いスペースで、|辛夷《こぶし》の大木があったりする。
坂道と公園で撮影して、これが雑誌に載った。篠山紀信の仕事は素早くて、シャッターの音がマシンガンのようにひびく。カメラをじっと構えて、こちらの表情が動くのをいつまでも待っているカメラマンに会うと、うんざりする。あとで篠山さんに聞いてみると、シャッターの連続音のうちどの音のときの写真がいいか、撮しているとき分っているそうである。
家に戻ってきたとき、「書斎の写真を」と言われて困った。これまで書斎を撮されたのは、二十年以上前、洗足に住んでいるときに一度あっただけだ。それに、私の部屋は机の右側にベッドが置いてあって、寝たり起きたりして原稿を書いている。寝室兼書斎といった場所なので一層気がすすまないが、
「ま、いいや」
という気分になった。
これも、篠山さんの持っている雰囲気と、酒の酔いのせいだろう。
私の場合、机に向って腰かけて書く、と言うと違ってくる。椅子の上にあぐらをかくので、そのためには肘かけのない、簡略な椅子でなくては困る。この椅子はもう二十五年使っているが、赤いレザー張りの小学生用みたいなものである。一部分毀れて、背の高低の調節ができないまま二十年経った。
ここでの撮影も手早く終ったが、そのとき自分のミスに気づいた。私は家の中では素足のままで、靴下を穿くことはない。それなのに、公園から戻ってそのままカメラに向ったので、靴下を脱ぎ忘れた。そのことに、ヘンにこだわっていた。その後その写真を見る機会があったが、深く脚を組んでいるので、靴下は目立たないで済んでいた。
この日のことで、篠山さんとは気持が通じる間柄になった。
ヴェニスに一緒に行って(昭和五十四年)、『ヴェニス 光と影』(新潮社刊)という本をつくった。私がホストをしていた「恐怖対談」にも出てもらった。それにしても、ヴェニスに行ってから、もう七年も経ったとは嘘みたいだ。
向田邦子に御馳走になった経緯
向田邦子さんの急逝のとき、ある雑誌に追悼文を求められたが、そういうときに書く適当な材料がなかった。なにしろ、三回会っただけであるし、作品のこともあまり知らなかった。また、これもしだいに分ってきたことだが、向田さんは放送の世界でも、小説の世界でも大層評判のいい人であって、「向田邦子を守る会」というのもあると聞いた。年齢よりはずっと若く見えたが五十歳の女性を対象にしてこういう会ができるのはただごとではなく、迂闊に追悼文など書けないな、とおもったところもあった。
ところで、「向田邦子」という名をいつ知ったか、はっきりしない。私はテレビはワースト番組しか見ないので、その名前はなんとなく頭の中を通過していたのだろう。
その向田邦子さんが昭和五十五年七月に直木賞を受賞して、身近な存在になってきた。事実、間もなく向田さんが『家庭画報』の三回連載対談のホステス役になり、私はゲストとしてそのうちの一回に出た。サブタイトルは「会ってみたい人」とかいうのだったから、それが初対面なのだと思う。
十年ほど前から対談がとみに億劫になってきたが、ゲストとなるといくぶん気が楽である。「今日は食べ物の味がわかるな」と安心して出かけるのだが、アテがはずれることが多い。話の筋道の舵取りまでして、疲れてしまったりする。
向田さんのときには、話がはじまって間もなく、「おや、これはラクができるぞ」と感じた。そのことについての短かい文章を書いているので、一部分を引用してみる。『意表外の発想が二、三あって、その角度が新鮮でハッとおもった。「はたらく自動車」という玩具について私が熱心に話しはじめると、向田さんの顔がしだいに幼くなっていって、しまいには、一年二組の邦子チャンみたいになった』
対談がおわって、気分がいいので躇らいながら銀座に誘ってみた。向田さんは、『小説新潮』のYさんがまだ会社にいれば、一緒に出かけてもいい、と言う。もう九時近いので、そんなことはありえないとおもったが、電話して戻ってきた向田さんは、「Yさんがいたから、銀座で落合うことにしました」という。今にしておもえば、原稿の締切のために監視していたのかもしれない。
そのうち、『週刊文春』の連載エッセイを向田さんが書きはじめ、ふしぎな形でそこに私の名前が出た。
その経緯については、むしろ向田さんの文章を部分引用したほうがいいとおもう。
この五月一日に放映になるテレビドラマ「隣りの女」を書き上げて、ニューヨーク・ロケに同行した帰りの飛行機のなかで、私は、プツンとなにか噛み当てたような気分になった。
このドラマのなかで、私は珍しくラブシーンを描いた。桃井かおり扮する人妻が、アパートの隣りの部屋の、スナックのママ、浅丘ルリ子のところに通ってくる男、根津甚八の情事の声を聞いてしまう。聞かれたと疑った根津が桃井を誘うシーンで、歩きながら、男は甘栗を女の口のなかに押し込む。二つ三つと押し込まれて、女は次第にたかぶってくる。
実は私にも似た体験が、と言いたいのだが、そんな色っぽいものではない。昔、スキーにゆき、ゲレンデから帰る途中、あれは湯沢だったか、男の子が|饅頭《まんじゆう》を買い、女の子の口にひとつずつ押し込んでくれたというだけのことである。こういうしぐさは、妙に人と人を|狎《な》れ狎れしくさせるものだなと記憶に残っていたのだろう、ひょいと思い出して使ったのだが、この場面は、何かで読んだことがあったのではないかと気になり出したのだ。
何年前だったか。小説ではなかった。小さなPR誌かなにかだった。左ページの上のほうにあったような気がしてきた。あ、似たようなことがあるんだな、と思ったのを思い出した。それがたしか甘栗だった。とげのように気持のなかにもぐり込んでいたとすれば、その方にお礼というかご挨拶をしなくてはいけないと思うのだが、どうにも思い出せない。
テレビをごらんになって、あ、と思い当るお方がおいでになったら、ぜひご一報ください。とげの抜けたときのすっきりした気持を味わいたいのです。(『霊長類ヒト科動物図鑑』「とげ」)
前回「とげ」と題するなかで、歩きながら男が女の口に甘栗を押し込む場面についてのうち、どこかでチラリと見たようだ、しかし思い出せないで困っていると書いたら、沢山の手紙や電話を頂戴した。
作者は吉行淳之介氏であった。(同「軽麺」)
申しわけないから、一夕食事の席を設けたい、と前記Yさん(男性)を通じて、向田さんからの申し入れがあった。
「そんなこと、どうということないよ」
Yさんに言うと、
「洒落だとおもって、ご馳走になりましょうよ。私も一緒に行きますから」
そういうことになった。
それが何年何月のことだったか。私は日記もメモもつけないが、スケジュール表はどこかに残っている筈だ。これから、ヒキダシその他を大捜索して、調べてみよう……。
そのスケジュール表は、こうなっていた。
『昭和五十六年五月二十一日(木)。午後七時、コープ・オリンピア地下の重よし』
原宿に近い日本料理屋の小座敷で、高級過ぎもせず、手ごろな店であった。ご馳走になる身としては、早く着きすぎても失礼なので、十分前になるまでぶらぶらしていた。
向田さんは、とっくに到着していた風情で、座敷に正坐して詫びを言われた。どうも「洒落でご馳走になる雰囲気」でもないが、堅苦しすぎもせず程がいい。すぐに、Yさんも到着した。
なんの話をしたか、当然雑談なのだが、よく覚えていない。一つ覚えているのは、『小説新潮』のカラーページの文を担当していた野坂昭如が、和田誠画伯に意地悪して、三ページに三人ペアで二十組合計六十人の似顔を描くことを要求している、という笑い話があった。なかでも最大の難問には、「女流作家の美人を三人」というのがあるという。
「それはね、名前に『美』のつく人を選べばいい」
と私が言い、私たち三人で思い出してみると、三人の名前が出てきた。瀬戸内晴美、金井美恵子、宮尾登美子のみなさんである。
「その案は、和田さんも考えていたみたいですが」
と、Yさんが言った(これには後日談があって、倉橋由美子さんを忘れていた。ほかにも忘れている方があるだろう)。
そのうち、向田さんがすこし改まって、
「おかげで、『隣りの女』がとても評判がよくて」
と、言った。
私はそのテレビを見ていた。面白かったが、いくつか不満があった。いまでもその一つははっきり覚えていて、それは甘栗の場面である。
テレビでは、男が繁華街の街角の甘栗屋で一袋買うのだが、その前の設定がいけない。
根津甚八が桃井かおりに、
「おなか、すいてる」
と、訊ねてから、すこし引返して甘栗屋に歩み寄る。
ここが、いけない。
女の腹がすいていようがどうであろうが、それはどうでもいい。
根津甚八もべつに空腹でなくてもいい。ちょっと、甘栗を幾粒か口に入れてみたいことがあるものだ。根津甚八は自分のために甘栗を買い、しばらくは自分のために皮を剥いて食べなくてはいけない。
そのうち、ふと、という感じで、その一粒を街を並んで歩いている桃井かおりの唇のところに当てる。
そのことによって、男のいくぶん行儀が悪くて無造作な態度の奥のやさしさと、唇をかるく開いて受入れる女とのあいだに、エロチックな空間ができ上る。
男に口説く下ごころがない場合でも、その一粒が、じわじわと女の芯に届いてゆく。
ところが、画面ではつぎつぎと男が女の口の中に甘栗を押込む。五、六粒は入ったろうか。ここも困る。向田邦子は、男女の機微にやや疎いな、とおもった。
それは一粒にかぎるので、二粒目からべつのもの……、というよりただの甘栗になってしまう。五、六粒も詰めこまれては、べつの気分になるオソレもある。
食事をしているうちに、酔ってきた。それとともに、その意見を口にしたくて仕方がなくなった。しかし、いかに八面|玲瓏《れいろう》の向田邦子でも、せっかくの会食のとき|貶《けな》されては厭な気分になるだろう。たとえ、私の意見を理解したとしても、知と情とはべつのものだ。
しかし、言ってみたい。
こういうとき結局口に出してしまうのが私の悪い性癖なのだが、このときは最後まで我慢した。
もちろん、事故のことなど、予想もしていなかった。今しみじみ、あのとき口にしなくてよかった、とおもっている。
二時間ほどで店を出ると、ハイヤーが用意してあった。
向田さんがなくなって、まだ二年経っていない。あるいは批評風のことは、やはり不適当だったかもしれない。それはともかく、向田邦子は私にとって不意に現れて、爽やかなそして当節ほとんど消滅している雰囲気を残して、風のように去ってしまった稀な女性であった。惜しい、とおもう。
私をハイヤーに乗せて、自分は徒歩十五分ほどのマンションの部屋まで歩いて帰る、という。通り道だからということで、Yさんも誘って三人、車に乗った。
そのとき、ふっとつぶやくように言った。
「あと二年ですから」
「それ、どういうことですか」
意味不明なので、聞いてみた。
癌の手術をすると、とりあえず五年延命となる。五年後にまた次の五年が保証されることもある。その二年が残っている、という意味のことを、説明してくれた。あるいは、Yさんが言葉を補ったかもしれない。
「だから、いまのうちにたくさん旅行しているんです」
と、これははっきり向田邦子が言った。
しかし間もなくの飛行機事故の予感は全くなかったにちがいない、とおもっている。
日暮里本行寺
結城信一が亡くなった。昭和五十九年十月二十六日である。
昭和二十八年二月『文學界』|肝煎《きもいり》の「一二会」で、結城信一とはじめて会った。以後三十一年間、淡いけれど友好的関係をつづけてきた。
著書のやりとりをしても、礼状を出さないのが一種の慣例のようになって久しい。もちろん例外というものがあって、結城信一はかならず和紙の|便箋《びんせん》に毛筆で感想を簡潔に書いて、封書をくれた。|楷書《かいしよ》のきれいな小さい文字が並んでいた。
すこしは見習わなくては、と「不吉な港」の感想を書いて、結城信一に送ったことがある。しかし、礼状はそれ一回だけだ。
「一二会」のころは、安岡章太郎、遠藤周作、近藤啓太郎など悪童風の連中が集まっていたし、年齢もすこし離れていたし(私より八歳年上)、抒情詩人風の持主だったから、多少居心地が悪かったかもしれない。しかし、私は彼の人柄に好意をもっていたので、時折新宿のバーに誘ったりした。結城信一はいつも詰まらなそうな顔をしていたが、バーに少女のようなホステスがいると、たちまち機嫌がよくなってくる。
「ほら、結城が嬉しそうにしはじめたぞ」
と、からかっても意に介せず、当時高価だったバナナをご馳走したりしていた。
少女にたいする結城信一の関心は、終生変らなかったようにおもう。「石榴抄」だったかを読んだとき、その関心の根のところを見たような気がしたが、その本はいま書庫で紛れて、「空の細道」と「不吉な港」などしか見付からない。
昔から、結城信一の抒情はすこし宙に浮いているようにおもえて、私は気に入らないところがあった。昭和二十八年に、「落落の章」を読んで感心し、手紙を出したついでにその不満も書いたことがあったのを、いま思い出した。
昭和五十四年に、「空の細道」を読んで感心した。結城信一の抒情は、ついにここに到達したか、と慶賀する気持だった。その抒情が|怕《こわ》い感じを与えてくるし、宙に浮きがちのリリシズムが煮つまって物そのものとして作者の肌に貼りついてきた。私のその意見が彼に伝わり、結城信一は電話をかけてきた。長い電話で、雑談ばかりだったが懐しかった。いや、結城信一が、こう言っていたのを思い出した。
「あの作品は、発表する気で書いたのじゃなかった。わたしが死んで、机のヒキダシを開けると、あの原稿が出てくる。そんなつもりだった」
そのときは、いささかセンチメンタルだな、とおもったのだが、すでに当時死の予感があったのかもしれない。
短篇集『空の細道』は、日本文学大賞を受賞した。これは、彼の晩年に贈られた花束になった。それから三年余りで亡くなったことを思うと、一層そう感じる。
昭和四十年ころ、ホテル・ニューオータニで仕事をしているとき、十何階かのエレベーターの前に行くと、そこに結城信一が一人で立っていた。こういう人と人との偶然は、ときどき起るが、珍しいことにはちがいない。
「おや、久しぶりだなあ」
と言うと、彼の家の近くの環状七号線の立体工事が完成したため、そこを通過する車の音が一層うるさくなり、ノイローゼ気味になって逃げ出してきた、といくぶん愚痴っぽい口調で説明した。
そういえば、彼は当時碑文谷に住んでおり、私の住んでいた北千束から車で十分足らずのところらしい。私は騒音には強いほうだが、北千束の家を三方から攻め立てられた。環七の工事。目蒲線を地下に潜らす工事では、夜中に家が揺れた。そして、すぐ裏にドライブインをつくる工事。何年目かに、現在の上野毛へ逃げ出した。
ところで、もうかなり前から、私は冠婚葬祭は義理を欠いても欠席してしまうことにしている。とはいうものの、そうもできないことが多いのだが。
結城信一の死は、新潮編集部のI氏に報らされた。つづいて、講談社のK氏からも電話があった。すぐに、私は和田芳恵氏のことをおもった。作風は違うが、七十歳前後で大きく脱皮した点が似ている。和田さんの葬儀は築地本願寺でおこなわれ、多数の人が集まった。このとき、|香奠袋《こうでんぶくろ》に金を入れ忘れたのを葬儀のあいだに気付いて、慌てて係の人に届けた思い出がある。
結城信一の葬儀は、きっと小説家の数はすくないだろう。にぎやかしに出かけるか、それにしても億劫だな、本人はもういないのだし、遺族とはまったく面識はないし。
教えられたのは、日暮里の|本行《ほんぎよう》寺というところで、午前十一時から葬儀だという。すこし早すぎはしまいか、と疑いはじめ、夕刊で調べることにした。朝日の夕刊には死亡記事は載っておらず(翌朝出た)、リチャード・ブローティガンの急死が小さく出ていて、驚いた。この西海岸の代表的詩人・小説家とは、友好的気分で何度か会っている。サンフランシスコに行ったときも、彼は不意に私の前に現れ、「家に遊びにこないか」と言った。私は三十代半ばから、すっかり訪問ぎらいになっていたので断った。結城信一のところへも、一度も行ったことがない。それにしても、このところ目を悪くしているので、新聞は大見出ししか見ない。結城信一のことがなかったら、ブローティガンのことも当分知らないままになっていたろう。リチャード・ブローティガンは四十九歳であった。熊のような大男で、やさしい眼をしていた。
東京都区分地図というのを持ってきて、日暮里の本行寺を調べた。ここは、文京区と台東区と荒川区の境目に当っていて、ようやく荒川区のところで見つけた。
いつも昼過ぎまで寝ているので、目覚時計をセットした。寺の建物の中にいた小説家は、二、三人だった。お経を聞きながら、結城信一は案外頑固な男だったんだろうな、私にはそういうところを見せたことはなかったけれど、とフト思った。あとで聞くと、|狷介《けんかい》そのもののところがあり、ずいぶんあちこち喧嘩をしたということだったが、すこしも知らなかった。つき合いが淡かったためだろう。
本堂の中央に棺が持出され、遺族が本や遺品を入れはじめ、泣声がひびいた。そのあと花で遺体を埋めた。こういう葬儀には、はじめて立会った。苦手だな、と困った。
私はカトレアの枝と一輪の菊を持ち、結城信一の胸のところと顔の傍に置いた。
不肖の弟子
昭和二十年四月、東京大空襲がつづいている最中に、東京帝国大学の英文科の学生になった。因みに、「帝国」という文字は、昭和二十二年三月に(おそらくGHQの指令により)除去された。当時、英文科教授の|双璧《そうへき》は、英語学の市河三喜、英文学の斎藤|勇《たけし》の両先生であった。しかし、大学者にはちがいないが、なにか学問のかたまりのようで面白くないな、と当時二十一歳の生意気な学生である私は考えた。そこで眼を向けたのが、中野好夫ということになった。
中野先生は学識豊かなことはもちろん、風貌は怪僧ラスプーチンみたいだし、立居振舞は甚だ男性的で、「この先生がいい」ときめた。そこで、先生が持っておられた二つの講義、メルビルの「モビイ・ディック」とメレディスの「喜劇論」を受講した。もっとも、空襲で家を焼かれて無一物となり、八月十五日の敗戦を経て、その年の末あたりは栄養失調で顔に白い粉が浮くまでになったし、同人雑誌もやっていたし、あまり学校へ行けなくなった。
昭和三十年ころから、二年に一度くらいの割で、飲み屋とか、なにかのパーティとかで偶然中野先生にお会いするようになった。最初、自分が先生の講義に出席した学生だったことを申し上げると、「君のような学生は覚えがない」とおっしゃる。私がメルビルの「白鯨」のことを証拠として口にすると、「それでは、ホントかな」という顔をされた。
以来、お会いするたびに、「先生……」と言うと、「君を教えた覚えはないよ」という会話が、酒席の冗談として繰返された。私は小説家であって英文学の徒ではないので、中野先生は気楽な気分でおられたこともあったろう。機嫌よく、そういうたわいのない会話をつづけられた。
いまでも、はっきり覚えている情景がある。十五年くらい前だったか、御茶の水にある「山の上ホテル」に仕事でこもったものの、やる気が起きないまま夕方になった。腹がすいたので、ホテル付属のてんぷら屋に出かけると、店はほぼ満員でカウンターの隅に中野先生が一人で腰かけて、食事しておられた。眼が合うと、先生は私を眼で制するので、黙礼しただけでもう一方の隅に腰かけた。ゆっくり時間をかけて酒を飲みながら、てんぷらを食っていると、そのうちほかの客がしだいに去り、二人だけになった。
「もう、いいよ」
と、先生がおっしゃるので、席を移動して隣りに腰かけると、
「ああいうとき、センセイ、なんて呼びかけられると眼もあてられんからな」
と、おっしゃった。
……さっき私は、「腹がすいたので、てんぷら屋へ――」と書いたが、事実はそうではない。仕事のためにホテルにいるのだから、ルームサービスで簡単な食事をして、一休みして仕事にとりかかるのが、最上の策なのだ。てんぷら屋へ行けば、どうしても一パイ飲むことになる。飲めば、遊び心のほうのエンジンがかかりやすい。てんぷら屋の入口をくぐるときには、「すぐ部屋へ戻る」つもりでいるが、心の糸はすでに切れかかっている。店に入ってみると、恩師が一パイやっておられる。こちらは、「先生がああなんだから……」と、ここで糸はふっつり切れたのである。
「ところで先生、ここでもう一本お酒を飲むと、たいへんいい気分にはなりますが、今夜は仕事になりませんね」
と、私が言うと、
「そうなんだよ、君、いま、そのことを考えておった」
先生が、そうおっしゃり、結局「あと一本ずつ」と注文することになった。
その店で別れ、私ははたしてその夜は仕事にならなかったが、あのとき中野先生はどうなされたのだろう。
今年(昭和五十九年)の春、ある気軽な座談会でお目にかかった。小田島雄志さんも一緒であった。
そのとき、中野先生が、
「君は、英文は英文なんだね」
と、確認するように言われるので、私もすこし精しく返事することにして、メレディスの「喜劇論」の講義のとき、指名されて訳したときのことを言った。昔の私はなかなか英語力があって、内容は把握していたものの直訳調になり、「これは生硬だな」と内心そうおもった瞬間、雷が落ちた。「関西弁のべらんめえ」というのは論理的でないが、東京育ちの私にはそんな感じの口調で、「そんな訳じゃ、何言ってんのかさっぱりわからん」という意味の雷である。そこで私も、べらんめえ口調で訳し直した。
すこし、間があって、
「よろしい」
と、先生は言われた。
そのことを申し上げたが、当然、ご記憶にはなかった。
先生は八十歳を越えられた筈である。しかし、そのときも、音吐朗々、大層お元気であった。
『青い夜道』の詩人
昭和二十年夏、敗戦となった。翌々年の秋、私は大学を中退して、新太陽社という出版社に入社した。この社は昭和二年の創立で、『モダン日本』という都会的な雑誌を出しており、大雑把にいえば文藝春秋社の親戚筋に当っていた。
昭和二十四年、隆盛だった社運が傾きはじめた。その年の末、富士銀行を定年退職した田中冬二氏を重役として迎えたが、頽勢の回復はならずに一年ほどで倒産した。
この田中冬二氏の入社は、私にとって突然の事件であった。
昭和十七年、田中冬二という詩人を、私は自分で見付けた。その年の春、私は旧制静岡高校に入り、静岡市のはずれの寮に入ったが、そこにあった情報はまず詩人・小説家についてのものであった。いまの時代、そういうときの情報が何なのか知らないが、文学書についてのものでないことは確かだろう。
とくに私は、中学時代にはほとんど文学書とは無縁だったので、それらの情報を頼りにした。そして、「ナルホド」とおもったり、ときには「ナンダ、コンナモノ」とおもったりした。そして、田中冬二はそれらの情報から洩れていた。
静岡市は書店の多い街だったが、太平洋戦争のはじまったその頃は、出版物は甚だ少なかった。本屋に本がない。そういうとき、「現代詩人叢書」といったろうか、同じ装丁で統一された薄い本が刊行されはじめた。戦後知ったことだが、当時一部の詩人たちはさかんに戦意昂揚詩を書いたので(小説家にも同様の動きがあったが、詩人にくらべて活溌でなかったようだ)、軍部から紙の配給が貰えたらしい。ただし、この叢書には、時局迎合の詩はほとんど入っていなかったことを、付け加えておこう。
定期的に刊行されてゆくその叢書を、私は全部買ってきた。そのうちの一冊が、田中冬二の詩集であった。
私はたちまち田中冬二の詩が好きになった。その詩は日本固有の風物を捉えてきて、それを珠玉の作品に定着させていた。それは、日本浪曼派風の構えとも無縁だった。わが国の伝統につながっている生活や風物というと、地方のものということが多いが、それが土俗的でない感性で処理されているところが快かった。ただ、あの殺伐な時代に田中冬二の詩を読むと、平和だった時代が懐しくなって心が痛むので、おもわず本を伏せたことが何度もあった。
つまり、戦争中には夢想もしなかったことが昭和二十四年に起って、二十五歳の私は『青い夜道』の詩人と同じ会社で働くことになった。
この社の社長は牧野信一の実弟牧野英二氏だったから、なにかそういう縁で入社されたのだろう、と長いあいだそう思っていた。日本精工社長今里広記氏の紹介だったことを、はるか後年に知った。
この社にはあとで文学に関係することになる人物が集まっていて、昭和二十六年に芥川賞を受けた石川利光氏とかアルバイトで勤めていた澁澤龍彦などがいた。そういう意味では、田中冬二氏は居心地がよかったようである。
しかし、田中冬二氏が富士銀行からの融資を手土産に入社する、と牧野社長に聞いたとき、「これは気の毒なことになった」と私はおもった。現場にいるものとしては、もはやこの社の命運は見えていた。定年直後という時期に、田中冬二氏が苦労されることは、自明のことだった。
はじめて見る田中冬二氏は、詩人というより銀行マンの風貌だった。長身痩躯、頭髪を実業家の髪型に左右から短かく刈り上げ、黒縁眼鏡をかけ鼻下にちょび髭を蓄えて、怠惰な感じはまったくなかった。氏の実務家としての能力についての知識を私は持たないが、おそらく銀行マンとして遺漏なく勤めてこられたのだとおもう。
会社は少人数になっていて、もはや難破した船からおろした救命ボートに全員乗っている趣もあったから、田中冬二氏と話をする機会は年齢の差を越えてしばしばあった。まぎれもない詩人の魂がそこにあって、田中冬二はせっかちに口角に泡を溜めて、情熱を|迸《ほとばし》らせた。そういうときの田中冬二は、まったく若々しかった。
昭和二十九年に私が芥川賞を受けたときには、すでに新太陽社は解散していた。その年の十一月、友人たちが中野のモナミで受賞記念パーティを開いてくれた。私の隣りに田中冬二の席を設け、もう一方は高橋新吉であった。私は二人のはるか年上の詩人に挟まれて、小説家としてスタートした。
乾杯の音頭は、高橋新吉氏が取った。
高橋新吉は杯を揚げ、
「バンゼイ(万歳)」
と、途方もない大声で言った。
田中冬二氏のスピーチも当然戴いたが、あのころテープレコーダーがあったらな、と残念である。
川崎長太郎さんのこと
川崎長太郎氏との初対面は、昭和三十二、三年だったか、場所はおそらく野間文芸賞のパーティ会場だとおもう。
まだ赤線地帯というものがあって、川崎さんも私もその地域にそれぞれの流儀で深くかかわっていた。川崎さんとは親子くらい年は違うし、作風も違うから、私としてはその人柄にたいしての親愛感が主なものだった。
その頃には、娼婦のことを書く小説家はあまりいなくなっていた。そこで、川崎さんと私との初対面に、興味の眼を向けていた人たちもいたようだ。そのあとに出たゴシップ記事には、「英雄、英雄ヲ知ル」という言葉があったりした。
そのときから二十五年ほど経って、『文藝』編集部から川崎さんとの対談の話があった。昭和五十六年春のことで、その二十年近く前から川崎さんは半身が不自由になっておられたが、やる気十分とのことだった。一方、私はというと体調が不安定で、大きなエネルギーを必要とするこういう対談には不適当のため、日延べをしてもらった。
春は過ぎてしまったが、八月に箱根湯本の旅館で対談をすることになった。私の家は東名高速道路の近くにあるので、平素なら一時間余りで目的地に着くのだが、夏休みの時期はそうはいかない、いったん新宿まで出て、小田急に乗ったので、四時間ほどかかった。なぜこんなことを書くかといえば、「川崎さんに会うのは、今日が最後だろう、遠まわりしても行かなくてはなるまい」という気持になっていたのを思い出したからだ。
定刻ぎりぎりに旅館に着き、廊下を歩き、階段を昇り、また長い廊下を歩いた。足もとが危い川崎さんにとって、ずいぶん不便な部屋をとったものだ。もっとも、馴染の旅館だそうだから、川崎さん指定の部屋だったのかもしれない。
その部屋には、すでに夫人に付添われて川崎さんが畳の上に座っておられ、お元気そうだった。左耳が難聴ということで、私は右側に座り、さっそく話がはじまった。
この対談は、『文藝』の昭和五十六年十月号に掲載され、また昭和五十八年九月発行の川崎長太郎著『夕映え』の巻末に収録されている。短篇集に収録になったのは気に入った対談だったのだろうか。
「今日は、納涼閑談会ということにしましょう」
と、川崎さんは言ったが、話はたちまち戦闘的になってきた。すこし前に、私は『夕暮まで』を書いて、それがベストセラーになったりしていた。「ひとつ、この若僧をとっちめてやろう」とおもっている気配で、「つくった小説」と「わたくし小説」とどちらが人を動かすか、などということを弁じられた。ときどき、「吉行君」という呼びかけが、「吉行センセイ」と変り、いじめの気配が出てきた。
まいったな(笑)。
え?
まいったな、と言ったんですけれど。
こういうやりとりも、出てきている。しかし、座が白けることもトゲトゲしくなることもなかった。川崎長太郎が私は好きであったし、川崎さんのほうも私を認めての上の発言だと思った。
有名な「抹香町もの」は、五十過ぎて独身の主人公が、毎日のように「だるま食堂」へ行ってちらし鮨を食い、抹香町と呼ばれる赤線地帯へ足を向ける小説である。娼婦と寝た主人公は、しばしば不如意になって閉口するという|塩梅式《あんばいしき》の作品である。この「塩梅式」という言葉の使い方や、主人公が時折洩らす「ケッケ」とか「カッカッ」という自嘲の混った笑い声が絶妙であった。
こういう作品を書いた川崎さんには、いじめられても仕方がない、と私はおもったし、|反駁《はんばく》して文学論になるのも避けたかった。要するに、川崎長太郎はますます頑固になり、自分の文学観についても一歩も譲らぬという姿勢になり、これは好もしいことだった。
川崎さんの舌鋒はますます冴えて、永井荷風批判をしたり、あるいは機嫌よく秘話を語ったりした。
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あのね、吉行君。いままで筆にしたことのない、恥さらしの話があるんです。中学一年で退校しちゃったでしょう。図書館の本を破って持ってきちゃって、見つかっちゃってね、中学に申告された。
追い出されたわけですね。
中学だけでなく、家も追い出されかかった。田山花袋のところへ行って、書生になろうと思った。愛読者ですから、『文章世界』の。面会謝絶だった。代々木山谷のね、門のある立派な家でしたけど、玄関へ入っていかれないんだ。御用聞きみたいに台所口に立っているんです。情けないよ。
それでどうなりました。
そこへ立っていると、炭屋が炭俵を引っ張ってきた。そうしたら奥さんがはじめて出てきましたね。私、炭屋が炭俵をどこかへ運ぶの手伝うんですね。それではじめて|丸髷《まるまげ》の奥さんがちょっとものを言いましたけどね、取り次いでくれなかったです。
自分がこうしたいということは、おっしゃったのですか。
先生に面会したいという申し込みの下心は、書生に、ですね。……まあ、いいや、これも筆にしたことがないんですよ。
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二時間くらいの対談が終った。窓の傍にテーブルを挟んで、二つの椅子が向い合っていた。川崎さんが席をそちらに移したので、私ももう一つの椅子に移った。
やがて、川崎さんの呟く声が私の耳に届いてきた。
「ああ、今日はよかったなあ」
そして、私に話しかけてきた。
「あの道を見てごらんなさい」
かなり離れた山の中腹に、鋪装された道が見えている。
「あれは、昔はもっと細い道でね、毎日のように|天秤棒《てんびんぼう》を担いで登ったり降りたりしたものですよ」
家業の魚屋を手伝っていたときのことと察しながら、感慨ぶかげな川崎さんの横顔を眺めていた。
さて、この部屋で別れの挨拶をして、それで解散になったのだが、このあと起ったことが自分でもよく理解できない。おそらく頭がひどく疲れたせいだとおもうのだが。
川崎さんの不自由な歩き方を見ないほうがいいとおもって、しばらく時間を置いて部屋を出た。下り勾配の長い廊下にはもう姿が見えないので、そのまま歩いて行くと、階段を降りてゆく川崎さんの姿が見えてきた。私たちとの間は、まだずいぶん離れていた。降り切ろうとするところで、足がもつれたのか、川崎さんが転がるように倒れた。夫人に抱え起されながら、川崎さんはするどく首をまわして、私たちのほうを見た。
その瞬間、川崎長太郎の顔が、私の中から転がり落ちてしまった。帰り途に何度も試みてみるのだが、その顔は戻ってこず、どんな顔だったか思い出せない。
それが何日か続いて、ようやく元に復した。いまは、眼の前にその顔は鮮かに出てくる。
島尾敏雄のこと
六、七年前のことだったろう。島尾敏雄と雑談していて、
「ここまでくれば、もう粘るしかないな」
と、私が言った。
むしろ軽い調子で言ったのだが、本音も混った。生きながらえるだけ粘って、どうするかといえば、小説を書くということも含まれてはいるが、ポイントはそこにはない。
島尾はその言葉が気に入ったとみえて、以来挨拶がわりになった。茅ヶ崎に出てきたが、また鹿児島に移り、その吉野町から宇宿町に転居したわけだが、時折東京にくるとホテルから電話をくれた。そのときの会話の中に、一度はこの言葉が混って、苦笑を含んだ声だった。
島尾敏雄が震洋隊隊長として特攻兵器にかかわったのは、死すれすれの体験である。私にしても、東京大空襲のときたくさんの焼夷弾が真上から落ちてきた。それに、島尾も私も、病気ばかりしてきた。そういうことも含めて、お互いに困難な道を長く歩いてきて、それはどうやら解決がないようだ。人生の終りに近づいて、そろそろ「戦後処理」の時期に入りたいものなのだが。
そうとなれば、このまま粘りつづけるしかない、ご苦労さまなことだ、という意味合いが強い。一見、前向きの言葉が、じわじわと悲観的な色に染まってくるところが、島尾の気に入ったようである。
前触れもなく東京にきて、突然電話をかけてくる。それに対応して、すぐに会う段取りをつけるという体力も気力もないので、いつも電話だけになった。
昔は、そんなことはなかった。わざわざ福岡まで出かけて行って、島尾に会ったこともある。そのときは、奥野健男が私を誘った。島尾が奄美大島から福岡まできて、九州大学で講演をするのだが、自分も同じ講演会のために出向くので、一緒に行ってみないか、と言う。私はなんの用件もないが、島尾に会ってみたくなって、講演会の終る頃を見計らい空路福岡へ行き、二人と合流した。
これが、昭和三十九年の初夏である。昭和四十二年以降になると、私は鬱病になったり、アレルギー疾患が重くなったり、片眼が見えなくなったりして、気軽に動けなくなった。
ところで、島尾敏雄とは、いつ、どういう形で会ったのだろう。このことは、すでに『私の文学放浪』(昭和四十年)にくわしく書いた。しかし、この際そのことに触れておきたいので、自著からの部分引用をしておく。
『昭和二十七年の晩春だった。神田錦町にあった私の勤め先に、大阪から会社の出張で出てきた庄野潤三から電話がかかってきた。私は神田神保町のおでん屋を教え、その夕方に落合った。
一時間ほどすると、庄野は時刻を気にしはじめ、ちょっと会合があるのだが、しかしあまり気がすすまない、と言った。気のすすまない内容については何も言わなかったが、どういう会合か訊ねてみると、「現在の会だ」と言う。
「どうや、君もいっしょに行ってみるか」
不意に、庄野が誘った。私は同人ではないので躇らったが、会合場所が意外にもおでん屋の傍の坂の上とわかったので、庄野に同行することにした。
その会は、当時の有力な若い作家が一堂に会した観があったが、私は庄野の気のすすまぬ理由がわかったようにおもえた。会を左翼的な立場で統一しようとする動きがあることに、やがて気付いたからだ。(中略)
会が終って、外へ出た。会場の前の薄暗い道に「現在」の傍流がなんとなくかたまって、後味の悪さをどう処理しようかという顔つきになっていた。そこで、私が言ってみた。
「ぼくの家に、マムシが一匹はいった焼酎が一升あるから、飲み直さないか」
そこで、市ヶ谷にあった六畳一間の部屋は、新人作家たちが鮨詰めになった。島尾敏雄、阿川弘之、三浦朱門、庄野潤三、真鍋呉夫、前田純敬たちで、酒宴がはじまった』
島尾、阿川、三浦とは、この夜はじめて会った。安岡章太郎とはすでに知り合っていたが、会に欠席していた。
初対面の島尾敏雄については、昭和二十三年に「夢の中での日常」を読んで大層感心し、以来発表される作品を積極的に読んでいた。
昭和三十年秋に、島尾敏雄は奄美大島の名瀬に移住した。三年半のつき合いで、そのうちの一年間は私の清瀬病院入院なので除くことになるのだが、その期間が十年以上にも感じられる。
島尾敏雄は、江戸川区小岩に住んでいたが、一家でミホ夫人の故郷に移ることになった。レースからのリタイアという趣があって寂しかったが、東京にいる私たちにしても悪評に取巻かれて意気上らない時期なのだった。
横浜港での見送りの光景は、強く印象に残っている。そのときの写真は私の手許にはないが、桟橋の左のほうに吉本隆明と武井昭夫、右のほうに阿川弘之と庄野潤三と私とが立っていて、奥野健男が中央のあたりにいる筈である。
ところで、初対面のときのマムシ酒についてだが、アルコール類不足の時代にもかかわらず、誰も手を出さなかった。一升瓶の中の|蝮《まむし》が白くほとびていて、やや薄気味悪かった。島尾と私だけがそれを飲んで、そのとき「島尾にはゲテ趣味がある」と私はおもった。
そのときから三十数年経って、島尾敏雄と雑談していて、話がそのマムシ酒のことになった。
「それは、ぼくだって気味が悪かったよ」
と、島尾が言う。
「おや、ああいうのは、君の趣味だろう」
そう問い返すと、
「違うよ、あれは友だちになる儀式のようなつもりだったのさ」
島尾はそう言ったが、それはやはり三十数年経っての上で出てくる|科白《せりふ》だろう。もともと、島尾敏雄には白くほとびた蝮の入った酒に近づく、そういう性癖があったと私は考えている。
島尾敏雄の訃報
この春の頃、島尾敏雄は私よりはるかに元気だった。四月中旬、川端賞の選考があって、受賞が小川国夫氏にきまった。
そのあと、鹿児島からこの選考会のために出てきた島尾が私に言った。
「どうする」
「飲みに行くのか」
「そのつもりでいるんだけど」
と、島尾らしい言い方で、強く誘いはしない。
その日は、「このところ調子がいい」と言っていた。一カ月前の第一次選考のときには、「どうも具合が悪い」と|俯《うつむ》きがちだった。島尾はいつもどこか悪くしているので(私もそうだが)、とくに心配はしなかった。
その日、私は甚だ不調で、座っているのがようやくだった。
「今日は、とても駄目だ」
と言うと、すこし残念そうな顔をした。
玄関までの長い廊下を並んで歩いていて、島尾の肩がふうっと寄ってきた。「島尾のほうがすこし背が高いかな」と、確認する気分になった。私は一七〇センチで、二人ともやや猫背である。三十五年近いつき合いだったが、こういう気分ははじめてだった。
十一月四日の昼過ぎ、虎の門病院二階の外来のところで、婦人に声をかけられた。知り過ぎているほどの顔なのだが、一瞬思い出しそこない、すぐに分った。
島尾ミホさんなのだが、鹿児島にいる筈の人がなぜ、と不思議だった。こういうことは偶然にちがいないのだが、今にしておもえば因縁めいたものを感じてしまう。数日前に虎の門病院から電話がかかってきて、ドクター急用のため十一月七日の予約の変更を言われた。めったにないことである。そのために、ミホさんに会った。
手近のベンチに並んで座って、話をした。
「トシオが軽い脳血栓になったので、その検査をしてもらうために上京しました」
と、ミホさんは言う。
山の上ホテルに泊っているが、心配ないという診断の結果が出たので明日には鹿児島に帰る。島尾敏雄が診てもらったのは駒込のほうの病院で、ミホさんは眼鏡の度を合わせてもらうために眼科に来た、ということであった。眼科と皮膚科の外来入口は並んでいて、私が皮膚科から出てきたところを、声をかけられたのである。
「いま、ややこしい病気をしていまして、今度は会えませんけれど。来年の春にはまた会うことになりますから、そのときに」
そう言って、別れた。
その週は、火、水、木とそれぞれ違う病気のために病院へ行ったり、ほかにも用件があって忙しくて仕方がなかった。
十一日の夜八時半過ぎに、ある会場で老婦人が声をかけてきて、
「お元気ですか」
「駄目だ、生きてるだけで、やっとですよ」
「冗談ばっかり」
というやりとりがあった。
十二日の午前十時過ぎだった。奥野健男夫人からの電話で、島尾敏雄が倒れて危篤だが詳細は不明、ということだった。
そのあと、奥野から電話があって、脳の出血で倒れ、頭の手術をしたが意識不明、と分った。じつは、このころにはすでに脳死状態だったことを、その日の夜遅くに知ったのだが。
U社のN君から、
「くわしい様子が分らないのですが、中薗英助さんが行ったようです」
と、電話があった。
その夜の十一時ころ、新聞社の電話で島尾敏雄の死がはっきりした。
翌十三日の正午頃に、「これから行きます」というN君の電話が、羽田空港からあった。奥野健男からも「行ってくる」という電話があったが、私としては動きが取れなくて、「よろしく頼む」と言うしかない。
島尾敏雄は私より七歳年上だが、何月生まれだったろうと気になって、文芸年鑑で調べてみると「四月十八日生れ」と出ている。同じ四月の五日違い、とはじめて知って、
「あと七年かな」
意味なくそうおもったりしたが、六十九歳というのはまだ早かった。
いつも体調を崩していた島尾敏雄と病気とは、私の頭の中で結びついていたが、死のことはうっかり忘れていた。驚いた。悲しくなるのは、これからである。
島尾敏雄は、戦後の文学を長い年月にわたって支えつづけた一人であることに、間違いはない。寡作だったが、長い持続によって、かなりの量の作品が残った。秀作揃いで、初期の長篇「贋学生」は失敗作といわれたが、それさえ私には魅力があった。
これらの作品群から二つだけを選ぶとすれば(そういうことは、もともと無理なのだが)、「夢の中での日常」(昭和二十三年)と「魚雷艇学生」(昭和六十年)である。前者は、前衛的で幻想的な作品である。後者は、体験を作品化したものには違いないが、島尾敏雄はいわゆる「私小説」とは「死の棘」を含めて終始無縁だった、と私はおもっている。
ダンボールの箱
整理しなくてはならないダンボールの箱が六個あって、気になりながら日が過ぎてゆき、十年が経ってしまった。いつになっても手をつける気にならないので、書目などつくってもらっている青山毅さんに数年前に手助けを頼んで引受けてもらっているのだが。
今年の冬、そのうちの一個を片づけ、また半年が過ぎ、先日一挙に残りの整理を済ませた。一人で片づけてよかった。いろいろ怖ろしいものが出てきた。四十年前からの手紙その他が詰まっているので、一つ一つは確認できず、大雑把にその大半を焼却した。
ところで、一つの箱から、封を切っていない一通の手紙が出てきた。裏の差出人のところには、蜜柑か|橙《だいだい》のような絵が描いてあるだけである。封のところを破って中身を出すと、便箋の一枚にあきらかに子供のものの字体が並んでおり、あちこちにクレオンで|苺《いちご》やメロンなど果物の絵が描いてある。もう一枚は絵日記のようなものになっている。
文面を読むと、妹の理恵からのものと察しが付いたが、なぜ封がしたままなのだろう。封筒の上書をみると、千葉県佐原市にある病院気付になっている。消印は鮮かで、28.7.13 と見えているので、三十年前のものと分る。昭和二十七年末に結核を発病して、この病院には小島信夫の紹介で入った。病院の庭に建っている古い日本家屋に一人で寝起きして、食事は街に出て食べていた。安静療法の一種である。しかし、そういう暇をもてあます時期に届いた手紙の封を切らない筈がない。私は手紙の端を破くか、和紙の封筒で破けないときには鋏を使うが、そのどちらでもない。内容の記憶はないが、これはやはりそのとき読んだにちがいない。推測すれば、封のところが剥がれた手紙が届いたので、中身を引出して読み、元に戻したのだろう。その後の三十年で、おのずから封が閉じてしまったのだろう。そうとしか考えられない。
三十年前には、理恵は十三歳で、字体が子供のものなのは当然である。『病気なんて吹きとばせるぐらいでなくちゃ、ちゃんとした小説家になれないそうよ。お姉ちゃんで|さえ《ヽヽ》、朝の礼拝の時いつも病気が治るように祈っているそうよ』などと書いてあり、『お姉ちゃんは学校の礼拝の時、皆が目をつむって祈っているのに目をあけて、先生達のやおやにでもありそうなそろいもそろった顔をながめているのよ。まったく大心ぞうの持主だわ。これは|さえ《ヽヽ》の意味です』と結んであった(傍点は、私がつけた)。
この内容から言って、封筒の裏の絵は果物か野菜だろう、と確信した。電話をかけて話をしてみると、当時私は理恵に「ゴマつきアンパン」と綽名をつけたので、その絵のつもりなのだそうだ。そういうことは全く忘れ去っていたが、十三歳の少女はおそらく深く傷ついていまでも覚えていた、ということなのだろう。
メモの切れ端
ヒキダシの奥から、メモのようなものが出てきた。原稿用紙の裏表に雑然と文字を書き並べてある。
「身ノ上相談ヲ受ケル。打出ノ小槌ガスコシモ減ラナイノデ困ッテイルノデスガ、ドウシタライイカ、ト聞カレル。ソンナコトヲタズネラレテモコマル」
などと書いてある。どうやら夢をメモしたものらしいが、いつごろの紙きれだろう、とおもっているうちに、
「新築ノ立派ナビルニ入ッテ、エレベーターニ乗ル。百トイウボタンガ一ツアルダケデ、困ル。ソノボタンヲ押スト、エレベーターガ動キ出ス。ヤガテ、ドアガ開クト、ソコハ入レコミ座敷風ノトコロデ、タクサンノ人タチガ鮟鱇鍋ヲツツイテイル」
という文字があった。
これで、昭和五十三年ごろのメモと分った。なぜなら、そのメモを使って『酔っぱらい読本』のあとがきを書いていて、その第三巻目の発行が五十四年一月であるからだ。
「盲腸ガ痛ンデイル。中曾根康弘ガ白衣ヲ着テ、手術ヲシタガッテイル。トテモ困ル。コトワルニハ勇気ガイル」
この夢はよく思い出せない。昭和五十三年の中曾根康弘氏はどういう立場にあったのかも思い出せない。ただ、あの人は体格が良いわりに胸のところが窪んでいるようにさびしく、白衣がエモン掛けにかかった感じになって、腕の悪い外科医に見えそうだ。こういう場合、患者としては、
「先生は腕が悪そうだから、ほかのドクターにしてもらいたい」とは言えず、困ったのかもしれない。
「タクシーニ乗ル。運転手ガ女デ、コチラノ指示シタ行先トハチガウトコロヘ、ドンドン連レテ行ッテシマッタ。着イタトコロハ、彼女ノ家デ、ナカカラ昔ハサゾキレイダッタトオモワレル母親ガ出テキテ、『娘ヲヨロシク』と言イナガラ、ジットコチラヲ見ツメテイル。コワカッタ」
というのも、ある。
「一一〇番ニデンワスルトキ、ダイヤル式電話機ノゼロハモトノ位置ニ戻ルマデ時間ガカカッテ、ツナガルノガ遅レル。ナゼ一一一番ニシナカッタノダロウ。タクシーノ中デソウ言ウト、運転手ガ振リ向イテ、『ソレハオ客サン、人間ガマダ車ニ馴レテイナカッタセイナンデスヨ』トイイ、ハナシガワカラナクナル」
そんなのもあり、また、こういうメモもあった。
「ヤクザニ脅迫サレテ、七万円ズツ二度取ラレタ。ソンナニ取ラレテハ困ルノデ、二度目ニハ値切ル。ナゼ七万円カ。最初ノ七万円ハワカッテイル」
この七万円という数字に関しては、そのときからさらに十五年ほどさかのぼった時期の記憶がからまっている。ただし、ヤクザとは無関係の事柄である。
それにしても、困ッタ、コワイ、という夢ばかりである。
黒目が遊ぶ
六月中旬、ある文学賞のパーティ会場に入ると、ひどく眩しく感じた。知人の顔も、しばしば見そこなう。七年前から白内障を患っていて、この症状の眼には逆光が辛い。この会場の照明は強すぎるな、とおもった。
年下の友人が近寄ってきたので、立ち話をしていると、不意に言った。
「おや、右の眼はどうしたのですか」
両眼ほとんど同時に発病したのだが、|靄《もや》のかかった位置の問題で、右眼は六年前から文字が読めなくなっている。左眼だけで凌いできた。
その右眼について言われたので、「ひどく眩しそうにしているのだろう」くらいにおもって、問い返さなかった。
七月の初旬にホテルに入って、原稿を書いていた。机の前は鏡になっている。ふと、その鏡を見ると、右の眼がどんどん大きくなり、黒目が外側に動いていって、白目がやたらに多くなった。先日のパーティのときの友人の言葉は、このことを指していたのか、と思い当った。
白内障はつまり白ソコヒで、水晶体が白く翳ってくる眼の白髪のような老化現象で、痛くもなんともない。しかし、目玉が商売道具なのだから、甚だ不便である。私の場合は、喘息の特効薬のステロイドの副作用かもしれないのだが、そうかどうかは専門医でも判別が付かない。
あらためて、左眼をつむって手の指を見てみたが、視界は白く霞んでなにも見えなくなっている。右眼が死んでしまったので、黒目が勝手に遊びはじめた、と判断した。
以前だったら、指の数が見えなくなったときには手遅れだった。水晶体が硬くなりすぎて手術できない。いまならば、たぶん大丈夫の筈だ。近く病院に行って診断してもらおう。
ここらで仕事は一休みと言いたいところだが、それでは生計が立たない。また、同業の先輩、同輩に同病のかたがたくさんいらして、手術を受けて仕事をつづけている。大岡昇平氏、埴谷雄高氏、円地文子さん、曾野綾子さんなどがそうなので、病気に甘えていられないのが辛いところだ。友人の近藤啓太郎も、一年ほど前に、両眼とも手術した。手術自体はさして難しいものではなく、眼鏡で補正すれば文字もよく見えるようになる。しかし、近藤啓太郎の日常を見ていると、コンタクトをはずしたり眼鏡を取替えたり、いかにも手数がかかる。
七年前の発病のとき、コンタクトはしばしば角膜をきずつけ、痛みに夜中じゅう耐えなくてはならないなどと、埴谷さんにいろいろおどかされた。埴谷さんにサディズムの気があるとはおもえないので、ゴルフの先輩が後輩をいたぶるようなものか。もっとも、「その程度なら、手術まで七年はもつよ」というありがたい御託宣もあった。七年といえばずいぶん先のことだ、と感じて一安心したものだ。
ところが、七年という年月はあっという間に過ぎてしまい、ついに黒目が遊びはじめた。
末 広 が り
「お元気ですか」
という挨拶の言葉は、「いいお天気ですね」とイコールであって、べつに答えを要求しているわけではない。ところが、いつも病気をかかえている身としては、わかっていながらも釣られて病状報告をしかかってしまうことが多い。
「お忙しいですか」
との挨拶には、
「忙しくはありませんが、|小忙《こいそが》しいです」
そう答えることがある。その返事に、ほとんどの場合、相手は笑う。
いま、字引で調べると、「小忙しい」という語は出ていなくて、辛うじて「|小急《こいそ》ぐ」というのがあって、「少し急ぐこと」という意味である。「小憎らしい」というのは出ていて、「憎らしくてしゃくにさわる」とある。「小忙しい」は、そちらの意味に近くて、「雑用が多すぎて閉口」といったくらいの気分である。健康な人ならば軽く片づけられる雑用も、一日がかりのこともある。
雑用のあるのはおおむね都心で、そういう用件が三日くらいつづく場合は、ホテルに泊りこむ。そうすれば、だいたいのところ、歩いて目的地に行ける。時間がずいぶん節約できる。もっとも、金銭の負担は伴うけれど。
もともと、この二十年余り、原稿を書くためにもホテルを使うことが多い。
じつは、ここまでは長い前置きなので、ある日フト気付いたことについて書きたいのである。この十年ほど使っているホテルに、十三階がないことに、最近気付いた。エレベーターに乗るたびに、階数指示ランプの数字が点滅するのを眺めていたのに、そのことに気付かなかった。言うまでもなく、キリスト教圏の国では不吉な数字なので、欠番にしてあるわけだ。
その後、部屋を掃除にきたメイドに、「七一三」という部屋はあるか、と質問してみた。丁度、七階に泊っていたときで、部屋番号は「七〇一」からはじまっている。「七一三」はいくらなんでも欠番にはなっていないだろうと予想していたが、彼女はオヤという顔になって、「いま気がつきました、七一三はありません」と答えた。
わが国では八という数字は「末広がり」だからということで、縁起が良いとしている。英語では、何がそうなのだろう。ラッキー・セブンというのは、あれは野球用語で統計に基づいた数字なのである。
子 年 生 れ
昭和五十九年の十二支は「|子《ね》」で、私は子年生れである。ということは、今年が還暦に当るわけで、そこに多少の感想や問題もあるが、いま書くのはそのことではない。
「十二支はなんですか」
そういう質問を受けることが案外多くて、
「子です」
と答えたとき、ちょっと厭な気になる。鼠というのは良いイメージではなく、コセコセチョロチョロしている感じがある。
もっとも、感じ方には個人差があって、日本の人口の十二分の一くらいに当る子年の人の受取り方はさまざまであろう。天体についての十二の区分に、中国で便宜的に当て嵌めた動物の名にこだわることもあるまい、という人もあろう。
考えてみれば、十二支の動物にたいして、それぞれ難癖をつけることができる。|丑《うし》は鈍重でヨダレが多いし、|寅《とら》は加藤清正に退治されるし、だいたい顔がデカ過ぎる。|卯《う》は皮を剥がれて赤裸だし、|巳《み》はぬめぬめして薄気味わるい。|午《うま》は馬の耳に念仏だし、馬並みという言葉もあるし、|未《ひつじ》は温和なだけが取柄だし、|申《さる》は毛が三本足りないし、|酉《とり》はガラまでスープにされるし、|戌《いぬ》は忠犬ハチ公だし、|亥《い》は猪突猛進で、芋畠に鼻を突込んでブーブーである。
唯一の例外は架空の動物の「|辰《たつ》」で、これはもともと美点を強調してつくられている。「ラーメンの丼にいつもくっついていて」と言ったとしても、ラーメン党が多いから悪口にはならない。
とにかく、ほかの人たちは自分の十二支についてどう考えているか、直接たずねてみることにした。
最初は申年の男で、「申はつまりはオサルだけど、どう感じる」と聞くと、「そう言われれば、いい気持ではないけどね」と受流した。
兎の男は、「そんなことは考えもしなかった」と言うし、蛇の女性は二人とも、「わたし、へびが好きだから」と言う。そこらあたりで、同じ子年生れの連中に質問する気を失なった。
いつ頃から、そういうことが気になりはじめたのか、と遡って考えているうちに、戦前の三越の包装紙には十二支がデザインしてあったのを思い出した。それがおもしろくて、小学生の頃には、熱心に眺めたものだ。
「あ、これがぼくだ」
と、鼠を指して言ったりしていたかもしれない。あのデザインは、いま復活しても新鮮のような気がする。
漢和辞典のこと
戦後三十九年経った。昭和二十年の東京大空襲で焼け出されてから三十数年間、漢和辞典というものを持たなかった。偶然そのことを耳にした編集者のO氏が、「それを持たない小説家というものは考えられない、冗談だろう」と言ったそうだが、本当だと分ると驚いて『大字典』をくれた。
戦前持っていたのは『字源』だったが、その『大字典』をしみじみ眺めてみると、背文字のうちの「典」の文字の縦の棒が一本多い。編纂者の上田万年博士は円地文子氏の父君なので、円地さんにお会いしたときうかがってみると、「アラ、ソウナノ、知ラナカッタワ」とあまり関心のない感じで、「朝日新聞の新という字は、横の棒が一本多いけど」とおっしゃる。
朝日新聞の「新」についてのそのことは、気がついたり忘れたりしていたが、「なにかお家の事情があるのだろう」くらいの感じで、気にかかっていなかった。しかし、大字典の「典」については、相手が漢和辞典だけに気になった。そして、なぜなんだろうとおもったまま、三年ほど過ぎてしまった。
今年のある日、ふと思い立ってこの問題に片をつけることにした。当の辞典を使って調べたのだが、不十分なところもあるだろう。まず、「典」の文字を引くと、そこのところに問題の文字が|月餅《げつぺい》の表面に浮き出しているような書体で出ていて、「|小篆《しようてん》」とある。そこで「小篆」というのを引く。
秦の始皇帝といえば万里の長城で有名だが、紀元前二百年ころの人である。その時代に、それまでの文字の形があまりにややこしいので、簡略化がおこなわれた。それを小篆というのだそうで、わが国の戦後の漢字簡略化と同じような趣旨にきこえる。つまり、紀元前二百年以前には、「典」という字はさらに複雑な形をしていたことになる。
円地さんにそのことを申し上げると、「あら、そういうことなの。朝日新聞の新の字もへんな形をしているけど……」と、新聞のことだけもう一度おっしゃった。その「新」も「小篆」なのかどうか、「大篆」のほうの「典」はどんな形をしていたか、まだ調べていない。
それにしても、なぜ『大字典』の背文字の「典」に小篆を使ったのだろう。あの辞書はずいぶん厚いので、縦の棒が一本多いほうがおさまりがいいためではなかろうか。
人工水晶体
右眼が光しか感じなくなって、七年間が経っていた。その眼の手術を受けた。
午後二時半から、手術室に四十分あまりいたが、手術時間は二十数分だった。局部麻酔で、恐怖感も痛みもなく終った。
麻酔をしたほうの右瞼は垂れさがったが、そのまま眼帯なしで車椅子に乗って病室に帰ってきた。
三時間かかって瞼は上ったが、それにつれて幕が上ってゆくように、朧げにものの形や人の顔が判別できるようになった。翌朝には、病室の中のもののすべて、さらには眼の前にかざした掌の線まで裸眼ではっきり見えた。
以前の手術では、一昼夜は砂袋で肩から頭を固定され、ベッドから動けなかった。この手術では、直後から自分一人で便所へ行くことが許されている。
こう書いてくると、|法螺《ほら》とおもわれそうな気がしてきた。しかし、七年前からアメリカとソビエトでは、毎年七十万人もの患者がこの人工水晶体移植手術を受けている。
退院は手術の翌々日だったが、翌日の場合が多い。
「麻雀はいつからできますか」
と、伺いを立てると、
「やはり、一カ月は自重してください」
そういうご託宣である。
ところで、ここから話が深刻になる。もっとも、この話にはいくぶん|辻褄《つじつま》の合わないところもあるようだが、聞いたまま書く。
この手術は、外来で片づく場合もある。家から手術室へ入り、終るとそのまままた自宅へ帰る、という早業である。
あるお婆さんが、このシステムで手術を受けた。手術は成功で、お婆さんは眼が見えるようになり、よろこんで自宅へ電話した。迎えにきてくれ、と息子に頼んだのである。
「眼が見えるなら、自分で帰ってくればいい」
と、息子が言った。
お婆さんは泣いた。たくさん泣いたので、瞼がみるみる腫れ上った。とっても大きく脹れて、眼が見えなくなってしまった。
そのあとどうなったか。一時的状態だろうとおもいたいが、その話を伝えてくれた人は、そこまでしか知らないと言う。
夏の愉しみ
戦後四十年経った。そのあいだ、一度も避暑をしたことがない。四十回の夏を、いつも東京で過した。
その理由はそれぞれの時期によって違うが、結局は「それどころではなかった」ためである。それにしても、「暑い東京で頑張っていて、なにか良いことがないものか」と毎年考えているうち、昭和五十年代に気付いたことがある。八月十日過ぎの数日間、つまり盆の休みのあいだのことだが、都内の道路から自動車が消えて昼間でも深夜のようになってしまうのである。
平素は、道路に車が溢れているので、これは気持がよかった。用事がないときでも、車を運転して都内を走って愉しんでいた。一年のうちの二、三日だけのことだから、はかないような、なさけないような愉しみであるが、数年前から様子が変ってきた。かなりの台数の車があたりを走っている。なぜだろうか。テレビのCMに「さだ吉はお線香をみやげに、おっかさんのところへ帰ってゆく」というようなのがあるが、そういう古風なことをする人が減ったのだろうか。
二年前から運転をやめたので、タクシーに乗るたびに質問してみる。三、四年前から交通量の減り方が少なくなったことについては、異論は出ないが、その理由となるとさまざまである。
「週休二日制が定着してきたし、東北・上越新幹線ができたので、わざわざお盆の混むときに帰らなくても、いつでも郷里に帰れるためでしょう」
とか、
「やはり不景気のせいですよ。友人で北海道の女と結婚したのがいましてね、かみさんの実家に帰ると、三十万はかかるので閉口すると言ってました。じつは私もその女に気があったんだけど、たすかったとおもってます」
それぞれ、一理あるとおもえる。私としても、「盆の休みになぜ東京から出て行く人がすくなくなったのか」ということばかりに、頭が向いていた。
ところが、たまたまニュースを見ていて、「今年の盆の休みのための航空券は二二五万枚売れ、去年より八パーセント多い」ということが分った。このデータによれば、墓参りが目的だけとはかぎらないだろうが、東京を留守にする人は増えていることになる。それなのに交通量がそれほど減らないのは、東京の人口と自動車台数が大幅に増えているのだろうか。
いずれにしろ、私の夏の愉しみが失くなったことだけは確かである。
時計を見る
腕時計を見る癖がある。五分に一度は見る。自分一人だけでないときには、不都合なことになる。先を急いでいるような、あるいは退屈している印象を与えかねない。デートのときに、露骨に厭がられた。腕から時計をはずして、相手の女性に預かってもらったこともあった。
バーの女性にも、
「時計ばかり見るのね」
と、非難の口調で言われる。
しかし、癖はなかなか直せない。肩を抱くふりをして、首筋のところでそっと時計を覗いていると、
「また、時計を見ている」
と、見破られた。
髪の毛の先が触れていたので、腕の動きがみんな分ってしまったのだそうだ。
悪い癖である。それに似た歌詞の歌謡曲があったが、その癖は中学に入ったときについた。中学生になると、時計と万年筆を買ってもらえた。教室に座っていると、だるくて仕方がない。五十分の授業からはやく解放されたい、としばしば時計を見た。
家に帰ると、いつも寝そべっていた。その姿勢が、私にとってまだしもラクな形なのである。用事を言いつけられても、すぐには起上る気にはなれない。そういう私を、家の者は「腰が重い」とか「なまけもの」と呼び、自分でもそうおもっていた。
後年になって、これは常時アレルギー疾患の状態にあったため、と分った。当時の医学は、まだ「アレルギー」を知らなかった。
先日、対談の仕事があって、場所はホテルの一室である。そのホテルに一時間も前に着いてしまったので、地下の喫茶室で時間を潰すことにした。
定刻の二十分前になったら、立上って部屋に向うつもりである。時間はなかなか経たない。先のことが気になるし退屈でもあるので、いつもの倍は腕時計を見た。最後に、念を押すように時計を見て、席を立った。
小さい店なので、この癖はずいぶん目立つだろう。そうおもったとき、べつの考えが浮んだ。いまの四十分間の仕種は、待ち人が来ないで苛立ったあげく、あきらめて立去る男のものにそっくりだ、と気付いた。
しかし、自分の齢を考えてみれば、周囲がそういう眼で見たかどうか。いずれにせよ、いい結論は出そうにない。
蜜豆の食べ方
久しぶりに安岡章太郎から電話がかかってきて、話が一段落したあと、
「京都の漬物があるけど、届けようか」
「似たものがいまあるから、いらない」
「なにか、いらないか」
と、やたらに呉れたがったあげく、こう言った。
「じつは、おれは蜜豆が好きでね。ときどき、浅草まで買いに行かせて、誰にもやらないで一人で食べるんだよ」
「おれも、じつは好きでね、缶詰のを食べることがある。それは、黒蜜か」
「もちろん、黒蜜である。それに、缶詰ではない」
「それでは、君の分を買うとき、おれのも三つ四つ買ってきて、それをください」
と、頼んだ。
間もなく、蜜豆を十個、届けてくれた。冷蔵庫に入れておけば、一週間は保つという。あんみつのほかに黒豆と寒天だけのものもあって、安岡の書いた説明書が添えてあった。これを、紹介してみたい。
『豆カンの食べ方、図のようにします。なるべく最初は豆を多く食べ、カンテンを後に残す方がよろしい』
寒天の入った器の右上に黒豆、左上に黒蜜の容れ物が描かれてある。黒豆からも黒蜜からも、寒天に向って矢印が突き出ている。毛筆の簡略な線になかなか味があるし、蜜豆の絵というところが可笑しい。
さっそく食べてみると、これが旨い。豆の煮方に秘伝があるのだろうか、舌ざわりに俳味のようなものがあって結構だった。
礼の電話をかけて、あんみつについての安岡の話を聞いて、驚いた。
私の記憶では、あんみつが最初に登場したのは昭和十年頃のことで、銀座の月ヶ瀬の発明であった。『みつまめやギリシャの神は知らざりき』というコピイも月ヶ瀬がつくった。女子供の間には、あんみつブームが起った。
ところで、安岡がはじめてあんみつを食べたのは、九段の梅月という店だったと言う。店の中の感じが「宝塚の楽屋」みたいで、入るのがはずかしかったそうだ。じつは私のあんみつ初体験も同じ店で、それから何度か行った。安岡のほうが四歳年上だから、彼は九段の市立一中の頃、私は麹町の番町小学生だったか、麻布中学に入っていたか。いずれにせよ、家が市ヶ谷にあったから、九段は近い。
五十年ほど前、その店に安岡と居合わせていた可能性は、ゼロとはいえないことになる。
パチンコと私
戦後間もなくから現在に至るまで、私はパチンコをやりつづけている。仕事の合間の遊びだが、その時間を合計すれば膨大なものになるだろう。なによりも、この四十年間のパチンコの変遷を思い出すことが、さまざまな時期の自分の状態を確認する手がかりになる。
まず、パチンコというものが私の視界に入ってこない時期があった。「パチンコをしなかった時期」というのも、私にとっては意味がある。昭和二十年の空襲で家を焼かれて無一物になり、敗戦後しばらくして大学を中退して雑誌社に勤めて一年くらいは、パチンコが復活していることを知らなかった。昭和二十三年のある日、ある駅前に小さなパチンコ店ができていて、むかし懐しい機械(「本塁打」「安打」などという、玉がすこしだけ出てくるスタイル)を見付けて昂奮した。
以来、えんえん三十八年間パチンコとの縁がつづいている。その間、「オール10」、「オール15」の出現、連発式の禁止、「オール20」の出現と禁止。昭和四十年頃のチューリップの誕生(この発明は画期的だった)。昭和四十年代からの電動式と椅子の登場(この二つには、しばらく反撥した。パチンコは立って玉を指で弾くもので、その立ち方も弾き方も芸のうち、とおもっていたからである。しかし、今は椅子に座っての電動式というのが具合がいい。人間は馴れるものだ、とあらためて分った)。そして、昭和五十年代のオール7の出現と制限。
こういうようにパチンコの変遷史をたどってゆくと、そのときどきの私自身の生活の情景が浮び上ってくる。
たとえば、昭和四十年頃、旅行していて京都河原町のパチンコ店ではじめてチューリップに出会ったときの記憶は、今でも新鮮である。また、その頃から十年間ほど、人との待ち合せにはパチンコ店を使った。昭和二十九年から、私は小説家を職業とするようになったので、編集者と落合う機会が多かった。パチンコ店で待ち合せると、相手がいくら遅れても苦にならない。
このように例をあげればキリがないが、私がパチンコを愛する大きな理由は次の二つである。一つは、「騒音の中での自分一人」ということで、これは私にとっては何よりも好ましい状態である。パチンコが一人だけのゲームであるという暗黙のルールは、今でもほぼ守られている。もう一つは、玉が景品に替えられることである。玉が山ほど出ても、それだけのことであれば、やはりヤル気がなくなるにちがいない。
蕎 麦 屋
街を歩いていて、突然カレーそばが食べたくなった。夕食には早い時刻で、あたりはまだ明るい。
近くに、|蕎麦屋《そばや》の紺の|暖簾《のれん》が見えて、いくぶん凝った店構えである。歩み寄って、暖簾の文字を見ると、
『長寿庵』
と白く染め抜かれている。
躇らう気持が起った。長寿庵だから、|後《しり》込みしたわけではない。その名はポピュラーな蕎麦屋の代名詞といってもいいくらいで、都内だけでもずいぶんな数があるだろう。
それらの店は、おそらく姉妹店でもチェーン店でもないのだろうが、どの店もいかにも街の蕎麦屋といった味がする。安心できるだけでなく、その日の気分によっては有名店の品のいい味が疎ましくて、たとえば「鍋焼きうどんは長寿庵にかぎる」とおもったりする。
その店の前で躇らったのは、店構えの瀟洒さと屋号とのアンバランスのためである。入口の格子戸にしても、もっと無骨な太い格子のものであってほしい。
飾窓があるので覗いてみて、ますます|辟易《へきえき》した。鮮かな緑をしたもり蕎麦の蝋細工が置いてあって、とても食物の色ではない。横に置かれた紙片には、『当店自慢の茶そば』と書いてある。
しばらく迷ったが、やはりカレーそばが食べたい。なにが食べたいと思い詰める気持になったのは久しぶりで、そのことも珍しい。
あらためて、入口の戸の前に立った。左右に開く筈の格子戸はそのままになっているので、ガラス越しに店内を覗いてみると、人影がない。
引返そうとしたとき、女が一人入口に近寄ってきて、横に立った。近所の主婦が買物のついでに、という感じの三十半ばにみえる女である。
「まだ、準備中らしいですよ」
そう、声をかけた。
女はチラと顔を向けたが、そのまま格子戸に手をかけて引くと、あっけなく開いた。自動ドアではなかったのに、そうきめてしまって格子戸と向い合って凝っとしていたことになる。
店先を離れたが、カレーそばにたいする執着は消えない。戻ることにして、今度は戸を手で開いた。
入ってすぐ右に女は腰かけており、ほかに客は一人もいない。
「自動ドアだとおもった」
と、半ば女に話しかけるように呟きながら、女の前を擦り抜けた。女はすこし笑ったようだ。
女からなるべく離れ、顔が合わないように同じ側に腰かけた。狭い店なのでそんなに離れていないが、視野から女は消えた。「これまでの経緯はなかったことにして、あらためてカレーそばに熱心になろう」とおもった。
タバコにゆっくり火をつけたとき、盆の上に茶碗を二つ載せて、眼の前を女店員が通り過ぎてゆく。まず、女の前に茶碗を置いた。
「カレーそばを頂戴」
女の声が聞えた。前からきめている、迷いのない声音である。
「はい、カレーそばですね」
復唱した女店員は、歩み寄ってきてテーブルに茶碗を置くと、注文を促す素振りである。ここで、「ざる一枚」とでも言うことができれば、問題はない。しかし、胃の腑はすべて「カレーそば」に向ってその態勢をととのえてしまっている。困ったが、仕方がない。近くにいる女の耳が気になりながら、
「カレーそば」
と、言った。
昔、恋愛小説を書いた。運転する男の横に女が座り、そのスラックスが濡れてくる。
そのことに気づいた男が、
「おや、おめえションベンしたな」
と、わざと無頼に言う。
そういう口調を使うことで、女の羞恥を救おうとする。その気持を受け止めた女と、その男との間に動くものがあって、それがキッカケになる。
カレーそばが発端となる恋愛小説を書いてみても、面白いかもしれない。
やがて、女店員はカレーそばの丼を二つ、盆に載せて奥からあらわれた。そのカレーそばは、長寿庵の味でなかなか旨かった。「カレー南蛮」には|葱《ねぎ》と鶏肉が入っており、「カレーそば」は豚肉だけなのである。
ある日、ある有名そば屋の入れ込み座敷に|胡坐《あぐら》をかいて、|焼海苔《やきのり》と板わさを肴に一人で酒を飲んでいた。
偶然、年下の友人が少女を連れて入ってきて、傍に座った。|姪《めい》だというその少女は、運ばれてきたざるそばを見て、不満気である。
「どうして、海苔がかかっていないの」
「どうしてでしょう」
と、友人がたずねてきた。
「この店では、ざるには海苔をかけないんだ」
「でも、ざるのほうがタカいですよ」
「そういうことになっているのだ」
この店では、蕎麦の実の外皮を取り除いた芯だけでつくったのが「ざる」で、外皮のまま挽いた粉を使ったのが「もり」である。外皮を取り去る手間と、蕎麦の実の分量が少なくなるだけ、「ざる」のほうの値段が高くなる。どちらを選ぶかは客の好みで、「もり」のほうでないと満足できないという人物もいる。海苔は蕎麦の香りをそこねる、といって使わないのだが……。そういうことをここで説明しては、聞き苦しいことになるだろう。
「それじゃ、海苔のかかったそばを食うには、どうしたらいいのですか」
「うーん」
と、肴にしている焼海苔に眼が向いた。
これを少女に渡して、こまかくして振りかけさせれば、問題は解決する。蕎麦の香りといったって、微かなものだ。それを犠牲にして海苔の味のほうを選ぶ、という考えだってあってもいいわけだ。
しかしべつの有名店で、「海苔をかけてくれ」と言った客が、「うちにはそんなものはありません」と店の女に叱られていた。この蕎麦屋ではどうだろうか。
「海苔のかかったそばは、たしかにざるそばと言うがなあ……」
友人はここで気が付いて、
「つまり、それは、長寿庵とか……」
「そうそう、長寿庵とかで」
一件落着したものの、「長寿庵」に申し訳ない気分が残った。
トワイライト・カフェ
丘を登って、ホテルに入る。ロビイの近くにあるバーに入ってゆくと、顔馴染みのバーテンダーがカウンターの向うに立っていた。チューリップ型のグラスを拭くために、両手を宙で動かして小気味よい力を加えている。
いつも、その男はそこにいる。初めて会ってから何年経ったか忘れるくらいで、もうお互いに若くはない。
「おや、珍しいですね」
「そうでもないだろう」
「いえ、この時刻というのが。今日の空は夕焼けていますね」
そのバーはフロアの奥のほうにあって、戸外から遮断されている。
「よくわかるね」
「長いこと、ここにいますからね、空気の感じでわかります。しかし、夕方にはうるさい、と言ったのは、わたしのほうではありませんからね」
たしかに、「おれは夕方にはうるさい」と言っていた頃がある。昔のことだ。会社勤めの余韻が残っていたし、まだ若かった。
仮面を一つ、誰でも持っている。暗くなるまでの時間、それで顔を覆っている。夕方は、その仮面のずり落ちてゆく大切な時刻である……。
そういうことを喋ったとき、このバーテンダーは、酒の入ったグラスをカウンターに置いて、
「夜の時間にも仮面は必要ですよ。いえ、わたしだけじゃない。まあ、お飲みなさい」
……この男も、若かった。
バーには、壁に肩をもたせかけるようにして、隅の席に女が一人いるだけだ。
「誰もいないじゃないか。今ごろ、ガード下の焼鳥屋は満員だぜ。たまには、昼の時間を引き擦らないために、こういうところに来たっていいのにね」
「それは、分っているんですよ。分っていて、できない。そういうことって、あるでしょう」
「うん」
「いつものでいいですね」
思いついて、彼に言った。
「あのお嬢さんにも、一杯差し上げてくれ」
「ああ、あれは人形ですよ、マネキン人形」
「人形をなぜあそこに」
「ま、にぎやかしですかね」
椅子から降りて、女の傍に近づいてみる。たしかに人形で、肌色のラッカーがまんべんなく吹きつけてあった。しかし、唇は口紅で丁寧に塗られてあり、付けまつげがしてある。その頬に指先を当ててみると、もちろん体温はないが冷たくもない。
席に戻ると、バーテンダーに話しかける。
「昔、女連れできたことがあったろう」
「そう言われてもね。いろいろのかたとみえましたからね」
「ああ、最上級のコニャック一杯分の値段をたずねたときだ」
「それは覚えてます。女連れで酒の値段をたしかめておいて、やめた、とはね」
「このホテルの宿泊代と同じ、と言っていたな。しかし、あのころは本職にとっても、あの酒は思い入れの深いものだったらしいね」
「そうでしたか」
「外国の女は、飲み干したグラスの内側を薬指の先で撫でて、酒のしずくを|耳朶《じだ》に付ける。と言っていた。いま考えると、あまり品がよくないね、あれは嘘か」
「本当にいたんですよ、洒落た感じでした。しかし、いま思うとあまりよくない仕種ですねえ」
「厭味な女だ、雑な女なんだ」
「雑な女はいくらもいますよ、どこにでも」
そこで話が途切れた。客はまだ入ってこない。隅の人形のほうに眼をやって、
「あの人形だがね、なぜマネキン人形に口紅を塗るのだろう、付けまつげもしているし」
「あれは本もののまつげですよ」
「本ものを使ってつくった付けまつげか」
「いえ、本ものです。そのうち、しだいに人間になるんですよ」
バーテンダーは無造作に言い、人形に近づくとその肌を指先で押して、
「もう半分くらい人間になってます」
そう言う顔を見て、
「半分くらい人間て、丁度いいじゃないか。全部人間になると、うるさくなったり、厭味になったり、粗雑になったりする。これを貰ってゆくことにしよう」
立上って、人形に近づく。
「おやめなさいよ、嵩ばるだけですよ」
「でも、貰ってゆく」
「分っているんでしょう。分っているんだから、おやめなさいよ」
「そうだな、分っているんだから……」
と、人形から手を離した。
コーヒーをどうぞ
出題 桃井かおり
土曜日の朝おそく、女は目覚めた。ゆっくりと上半身を起し、両腕を大きくあげて伸びをしてから、ネグリジェの上にガウンを羽織ってベッドをおりた。
窓に近寄って、部厚いカーテンを勢いよく引く。部屋の中に、光が溢れる。ワンルームの部屋の隅まで、光でいっぱいになる。
テーブルの上に置かれた陶器の小さい壺の中で、わたしは快く目覚める。壺の中には、白いけれどざらざらした肌をくっつけ合って、たくさんの|わたし《ヽヽヽ》がいる。どの|わたし《ヽヽヽ》も、期待で胸をふくらませている。
部屋の五分の一ほどのところにアコーデオン・カーテンの仕切りがあって、その向うはキッチンになっている。やがて、女はキッチンに入っていった。壺の中で、わたしはわくわくする。女はコーヒーをつくりはじめていて、もうすぐわたしの出番だ。コーヒー好きの女なのだが、コーヒー豆を何種類も挽いてブレンドしたりするほど熱心ではない。ある銘柄のインスタント・コーヒーをつくり、コーヒー沸しで少しだけ加熱すれば、間に合うものができ上る。
香りが部屋の中で揺れ、コーヒーがテーブルの上のカップにそそがれはじめる。壺の蓋を女の指が取り去り、銀色の角砂糖挟みでわたしは持ち上げられ、コーヒーの中に入れられた。もう一つの|わたし《ヽヽヽ》がつまみ上げられたが、すこしの躇らいののち壺の中に戻された。このごろ、女は肥ることを、警戒しはじめている。
わたしの正六面体の躯に熱い焦茶色の液体が滲みこんでゆき、わたしのかたちはじわじわ崩れてゆく。それが、うっとりするほど快く、わたしは手足を大きくのばす。女の指先のスプーンが、わたしをばらばらに掻きまわして液体に行きわたらせる。カップに寄せた唇から舌の上にわたしは移り、その口腔粘膜を濡らし、歓喜の声をあげながら咽喉から胃の腑に落ちてゆく。
わたしの特徴が、女の舌に作用するとき、わたしは生甲斐をかんじる。
午後二時ころ、女の部屋のブザーを男の指が押した。
テーブルをはさんで、女と男は座る。ワンルームの部屋の隅には、ピンク色のカバーでおおわれたベッドが置かれてあるのが見える。
「コーヒーをいれてくれないか。きみも飲むだろう」
と、男が言う。
女は眼を宙にうかし、計算をした。
「三時間ほど経ったから、もう一杯飲んでも……」
壺の蓋を取って、角砂糖挟みにのばしかける手を、男がおさえた。
「それは、ぼくにまかせてくれ。おいしいコーヒーをつくってあげる」
立上ると、馴れた身のこなしで戸棚からブランデーの瓶をもってきた。スプーンを上に向けて、その窪みにわたしを載せる。
「一つ、それとも二つ」
「一つよ、カフェ・ロワイアルね。でも、それ、肥らないかしら」
「大丈夫さ」
スプーンの上の|わたし《ヽヽヽ》に、男はブランデーを滲みわたらせ、マッチで火をつけた。橙色の焔を上げて、わたしは燃えあがる。
「熱くないかい」
ブランデーがわたしに話しかける。
「熱いけれど、でも、あんたも燃えているのよ」
わたしが答えると、
「そうだった、あ、熱い」
と、ブランデーが叫んだ。
わたしが女の咽喉をとおりすぎて落ちてゆくと、三時間前にばらばらになって入っていたほうの|わたし《ヽヽヽ》は、一つに集結し胃袋の内壁に平べったく貼りついて、
「さて、そろそろ、この女が肥るのの手つだいをしましょうか」
と、とろとろにとろけた顔つきで、落ちてきた|わたし《ヽヽヽ》に片眼をつむって笑いかけた。|わたし《ヽヽヽ》もウインクをかえした。わたしの特徴が女の躯に作用しはじめるとき、わたしは恍惚となる。
土曜日になると、男は訪ねてくる。ある土曜日の午後、女の部屋で男がいつものように、カフェ・ロワイアルをつくろうとしたとき、女は拒否した。
「あなた、このごろなんだか、粉っぽいわよ。コーヒーをつくってほしくないの」
「粉っぽいって、白墨のことか。前はこのにおいが大好き、と言っていたじゃないか」
「前は前よ」
男はある大学の助教授である。
「白墨の粉が上着にかかるのは仕方ない。一たん家に帰って着替えをする暇がもったいないよ。きみは、ぼくの職業が好きだったじゃないか」
「それが、嫌いになったの」
その日の夕方、女の部屋をふたたび訪れた男は、昼間と同じ洋服のあらゆるポケットから、つぎつぎと白墨を出して、テーブルの上に積み上げ、戸棚から|自分の《ヽヽヽ》ブランデーの飲みかけを出し、その瓶の頸のところを掴んで立ち去った。
「つまんないやつ」
女はつぶやいて、窓ガラスを開き、その白墨をつぎつぎと外の空間へ投げた。
そのうちの一つが窓枠に当って跳ね返り、戸棚の裏側の隙間にはいりこんだ。
男は二度と姿を見せず、わたしの入った壺は戸棚にしまいこまれた。女はわたしの正六面体の姿を見ることも、厭になったらしい。
赤い壺に入ったシュガーレスの粉末を、女は買ってきた。その赤い色が、いかにも当てつけがましい。コーヒー好きは、コーヒーを飲むことまではやめられないようだ。
わたしは、女がわたしを挟んでカップに落しこむ感触をなつかしく思い出すのを、辛抱強く待った。しかし、女はすっかりシュガーレスの粉末が気に入ったようだ。なによりも、肥る心配のないことが、女を馴染ませてしまった。
わたしは、ついに怒った。わたしは、戸棚の裏側の隙間にいる白墨を訪問して、
「そろそろ、出てきたら」
「出ても仕方ないだろ」
「あんた、粉のふりをして、あの赤い壺の粉の上に載っかってくれなくって」
「粉のふりをしろ、といったって、おれはこういう形をしているから、おれなのさ。おれはおれなのだから、そんなの厭だ」
「そんな考え方は、もう古いのよ。お願いよ」
「厭だね」
わたしは、壺から一ダースの|わたし《ヽヽヽ》を連れてきて、声をそろえて歌った。
「男らしいかたちの、男らしい白墨さん。ねえ、あたしの願いをきいてくださいな」
|わたし《ヽヽヽ》は声をそろえて、コーラスをくりかえした。
ついに、根負けした白墨は、
「そのコーラスには参ったよ、引受けよう。そのコーラス、リッパ、そのコーラ|スリッパ《ヽヽヽヽ》」
白墨はその尖った先で雄々しく壺のふたを跳ねのけ、その中にななめに入りこんだ。根元の部分が、壺の外へはみ出している。テーブルの下で、|わたし《ヽヽヽ》は立方体の一つの角で立ち、ぐるぐる回りはじめた。
白墨は先から崩れはじめ、粉末に変化して壺のシュガーレスの粉の上を厚くおおった。
女がコーヒーをいれて、テーブルのカップにそそいだ。わたしは、一ダースの|わたし《ヽヽヽ》は、唾をのみこむ気分で、女の手もとを見詰めている。女の指が壺の蓋を取りのぞく。スプーンが、シュガーレスの粉末のふりをしている白墨の粉をすくい上げる……。
個人全集の内側
読売新聞文化部のS氏から電話があって、「今度、個人全集の刊行がはじまったけれど、生きているうちにそういうことになったとき、作家としてはどういう考えでどういう作業をするのかなど、読者はいろいろ興味をもつとおもうから、そこのところを書いてください」と言う。
「その興味のポイントが、当事者としては十分掴めないから、箇条書にして郵送してください。つまり、インタビューにたいして文章で答えるという形式もおもしろいでしょう」と私は答え、S氏も承知した。
ところが、間もなく私は都心のホテルに入ってしまった。その近辺で連日つづく雑用を片付けるためである。その二日目の朝六時に眼が覚めてしまって、原稿を書く気になった。家に電話をかけてS氏からの手紙が届いているかどうか訊ねるには、時刻が早すぎる。しかし、近年は書く気になったタイミングをはずすと、しばらくはその気を失なうので、原稿用紙に向ってしまう。
はやいもので、全八巻の全集が講談社から出たのが十二年前になる。このときの主な作業は、作品の中にあるイメージの重複を整理することであった。たとえばAの短篇とBの短篇と、まったく違うテーマで書いているのに、重複する文章が出てくる。いま適当な例が思い出せないので即席でつくるのだが、「我慢しているうちに冷たい汗の粒が背中にびっしり並んだ」という一節が、AにもBにも出てきたとする。そのときには、どちらかの作品のその文章を削った。これは、時間と緻密さを必要とする厄介な作業で、エネルギーの大半はそれに取られてしまった。あとは、テーマが長篇に吸収される短篇がいくつかあって、それを探して捨てた。たとえば「樹々は緑か」という短篇は、そのタイトルも含めて好きなものなのだが、「砂の上の植物群」に吸収されてしまうのである。
今回、同じ講談社から全二十巻の全集が出はじめた。運のいいことである。眼を悪くしているのだが、前のときよりもさらに時間をかけることにした。十年ほど前、自分の文章には「?」と「!」は必要でないことが分ったから今後使わないことにする、という随筆を書いた。私は処女作以来あまり文体が変らないので、それを書いてから二十五年前までの作品にさかのぼって、「?」と「!」を除去する作業が必要になった。
今回の作業のもう一つの大きなものは、気に入らない作品のある分量を捨てたことである。もっとも、あまり厳密にそれをおこなうと、残るものが少なくなるから、たくさん手入れして救った作品もある。また、気に入っていた筈なのに、あらためて読み返してその粗雑さに|呆《あき》れた作品も出てきて、これもあちこち手を入れた。
あとは表記法の問題である。私は昭和二十三年まで旧仮名で書いていたので、こんなことならそのまま続けておけばよかった、とおもわないものでもなかった。たとえば、「取合せ」の表記は六通りあってそのどれもが間違いではない。たとえば、「取(り)合(わ)(せ)」の組合せによって六種類できてしまうわけで、要するに、自分の文章にはどの形が最もふさわしいかを考えて採用するわけだが、自分自身の考えがしばしば変る。読者にはあまり関係のないことかもしれないが、作者としてこだわりはじめると、ノイローゼになりかかる。「好色一代男」の訳文のときは、半月ばかりそれについての訂正を繰返し、最後には校正部の人に「新カナにおける送りがなのルール」のようなものをつくってもらった。
そのくせ、誤植には私はそれほど神経質ではなく、校正部を信頼している。まったく誤植のない書物は、なにかあたたか味がないような気がしないものでもない。もちろん、困る誤植もある。たとえば、「これガスコンの青年隊」が「これがスコンの青年隊」となったりするのは災難である。
よく言われるのは、生きているのに「全集」とはなにごとか、ということである。たしかに、これからも作品のふえる可能性があるので、その点では反論できない。しかし、生きているうちの「全集」の有難さは気に入らぬ作品を捨てることができるところにある。作者が認知した昭和五十八年までの作品のすべて、と解釈してもらいたい。死後に、いまの「全集」の際に捨てた作品が復活してくるのも勘弁してもらいたい。
ただし、週刊誌などに書いた読物に捨てがたいものがある。「すれすれ」「コールガール」「唇と歯」「夜の噂」「美少女」などあるが、やはり味が違うので採用できなかった。全集の「補巻」として出版できる幸運にめぐまれると、嬉しいのだが。そういう意味でも、この「全集」という言い方には、むずかしい点がある。
私は、小説家である前に、人間だとおもっているので、人間として忙しいときはやはり|推敲《すいこう》がおろそかになる。今回、とくに随筆において推敲し直したものが沢山あって、予想外の時間を取られている。これは、これまでの怠慢によるものだが、やはり「全集」の作業の一つといえるだろう。
それにしても、いま「個人全集」の刊行は大きな冒険らしい。つまり、売れないのである。じつは今朝はやく目覚めたのは、刊行開始の全集がさっぱり売れないという夢に|魘《うな》されたためなのである。
私のタイトル縁起
『変った種族研究』という書名の本が、私にある。これは『小説現代』の創刊号から二年間つづいた連載エッセイで、毎月適当な人物と一緒に酒を飲み歩きながらなんとなくインタヴューをして、あとで文章にまとめた。
この連載の文中に、しばしば「O青年」という表記が出てくる。この仕事について行動をともにした編集部の青年を、私はこう書いた。その後、この連載のページはいろいろの小説家に受け継がれて、文中にO青年がつづいて登場したり、M少年が出現したりした。やがてO青年はO中年に、M少年はM中年に表記が変った。
『小説現代』の昭和四十二年一月号に、私はいくぶん長い実録風の小説を書いた。主人公は、赤線研究家の|相良武雄《さがらたけお》という人物で、昭和三十三年四月つまり赤線が廃止になった翌月に死去している。自分の墓を生前からつくって「売春院生涯研究居士」と刻んでおいた、という変った人物である。
この小説のタイトルに悩んで、結局O青年につけてもらった。「相良武雄」はペンネームで、一字ずつ読むと「アイ・ラブ・ユー」になる。本名を中村三郎といい、私は面識があった。
O青年のつけたタイトルは、「アイラブユーの相良武雄」というので、私は満足した。しかし、単行本に収録するとき、ほかのタイトルとのバランスもあって、「虫を囲む虫」と替えた。
その後、大江健三郎氏から、「戦後の小説の二大タイトルは、『万延元年のフットボール』と『アイラブユーの相良武雄』だとおもっていたのに、改題したとは残念」と、伝言があった。
もちろん、タイトルの字数の長さについてのシャレなので、両方とも十一字である。
今回の『群像』新人賞に、「限りなく透明に近いブルー」という十二字のものが登場したので、私の記録は破られた。しかし、大江氏には「みずから我が涙をぬぐいたまう日」十五字、「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」十七字があって、こちらのほうはまだ記録を破られていない。
ところで、私はタイトルをつけるのに苦労したことは、稀にしかない。短篇のときには、書いているうちに、ふっと頭に浮んでくる。
長篇連載の場合は、あらかじめつけておかなくてはいけないので、ときどき難航することがあるが、だいたいにおいて苦しまずにすむ。「暗室」というタイトルの長篇は、戦前ならば書店でカメラ関係の棚に並べられたことだろう。このごろでは明るいところでも現像できるので、カメラについての「暗室」は不要になったらしい。
〔付記〕昭和五十八〜六十年の全集(全二十巻)では、「虫を囲む虫」を初出の「アイラブユーの相良武雄」に戻した。
「祭礼の日」から三十年
はじめて『文學界』に掲載になったのは、昭和二十八年二月号の「祭礼の日」という三十枚足らずの短篇である。私は二十八歳で、当時の自分としては、もはや若いとはいえない気分だった。それにしても、しかるべき文芸誌に作品が載るのは芽出たいことだったが、そうもいっておれない事情があった。二十七年の秋の終りに、肺の空洞が発見されて安静を言い渡され、手術したものかどうか迷っているところだった。ま、そういう不景気な話はやめにして、この短篇にまつわる思い出をすこし書く。
これは、私の好きな作品だが、やはり体力の不足のせいか、小品という感じのものになった。この「祭礼」とは靖国神社の祭のことで、市ヶ谷|界隈《かいわい》で育った私にとってはこの祭は馴染のもので、その期間には何度も出かけたものだ。参拝というよりも、境内に並ぶ見世物小屋や露店のほうに足を向けるのである。この作品はほぼつくり話だが、ディテールに幾つか実際のものを使った。少年時代の「ぼく」の隣家に若い美しい夫人がいて、そのアンニュイな感じに惹かれたというところからはじまるのだが、その夫人は架空の存在である。ただし、夫人の幼い娘の言動については、妹の理恵子のことを使った。その娘は、色の褪せた赤いポストを指して「ポストが枯れてる」と言ったり、穴のあいた靴下をはいて「イタイ、イタイ」と泣くので、ふしぎにおもっていると「靴下が痛いおもいをしている」ということで泣いていたりする。この部分に、こういう文章がある。
『そのときのぼくは、幼い娘の奇異な言動の理由については考えようとせずに、その娘がふだん猫を病的に可愛がることなど思い出して、「この娘は大きくなったら、どんな恋をするのだろうか」と、ぼんやり考えていた』
この妹は何年か経って詩を書きはじめ、やがて小説も書くようになった理恵(本名は理恵子)であるが、当時は十四歳だった。今の本人を見ていると考えられないくらいなのだが、私たち三人兄妹のうち一人だけアレルギー体質と無縁の健康優良児で、幼いころは餓鬼大将だった。赤ん坊のときには、「這う」という時期がなく、歩きはじめる寸前は、尻に滑車がついているように、座ったまま凄いスピードで畳の上を走りまわっていた。
十四歳ごろも生意気、というか、大人が本気で腹を立てるようなことばかり言うので、毎日のように喧嘩していた。三十近い男が十五年下の妹に、本気で腹を立てているのにふと気づいて、滑稽な気分になるときがあった。そして、しばしば牧野信一の「泉岳寺附近」という短篇をおもい出した。この作品には、主人公の中年男が、小学五年生を相手にハサミ将棋をして、さんざん毒舌を浴びせられ、あげくに負かされる。ついには本気になって、悪ガキの頭をポカリとやるところがある。
『ところが私は、二番、三番と忽ちのうちに敗北した。余程注意の念を凝らしているつもりでも、つい私は、ふと他の妄想に走ったり、のべつにまくしたてる守吉の駄弁に煩わされたりして、くだらぬところでいち時に三つもはさまれてしまうのであった。
「もう一番!」
私は思わず膝を乗り出して挑戦した。
「飛んで灯に入る夏の虫――とは手前えのことだ。さあ、寄れ、寄らば一刀両断で……」
口癖となっている芝居の科白を滑脱にまくしたてるのだが、次第に私は、それらの科白までが小癪に触って堪らなくなった。
「こう来る、ああ来る――か、ふふん、太え了簡だ、この田舎っぺが! そう来りゃ、こう逃げて――」
彼は潜航艇の真似などをして、飛鳥の如く駒を飜すので、私は唇を噛んで追跡にかかっているうちに、
「さあ、どうだ、思い知ったか!」
彼は、突然げらげらと笑い出すのだ』
途中、あちこち省略して引用したが、小憎らしさはよく出ている。ハサミ将棋というところが愉快だ。ついに、主人公は守吉の頭をポカリと殴ることになる。
さすがに私は理恵の頭をポカリとやりはしなかったが、言い負かされる、という感じはいつも残った。したがって、「祭礼の日」に出てくる幼女のような感じは受けていなかった筈で、だいたい理恵が幼いころ描好きだったかどうかも、よく思い出せない。いや、朧げにおもい出したことがある。近所に建築中の家があって、そこに棲みついた猫一族のことが気に入って、しばしば餌など運んでいたような気がする。
数年後に書いた随筆にも、猫好きの少女が出てくる。これは、いくぶん妹を念頭に置いていて、『こういう少女が大人になったら、結婚しないで、猫ばかりたくさん集めて暮すのではあるまいか』というような文章が出てくる。しかし、これは予言するというような気持はまったくなくて、筆の勢いでそう書いたようなものだ。しかし、現実は私の書いたとおりになってきて、ことの意外に呆れている。
「祭礼の日」を書いたのは、芥川賞の三度目の候補になって落選したころだった。それから長いような短かいような歳月が経った。自分がその賞の選考委員になり、妹の「猫小説」が候補作になって受賞するなど、夢想もできないことだった。
『中央公論』の思い出
二十代の頃、『中央公論』と聞くと、すぐに滝田樗陰の名とそのエピソードを思い出した。ただし、それは滝田チョインであって、今もその漢字は調べて書いた。つまり、小説家としての|檜《ひのき》舞台の一つではあっても、ほかにも檜舞台は幾つかあった、という意味である。
小説をはじめて『中央公論』に書いたのは、昭和三十三年秋の「娼婦の部屋」で、これはずいぶん賞めてもらった。そして、二作目の作品は、それから十七年経った「暗闇の声」である。と書くと、まるで同誌となにかトラブルでもあったようにおもわれかねないが、そうではない。中央公論社は、『小説中央公論』や『海』を発行していたことがあって、その雑誌のほうからも依頼がある。ほかにも文芸雑誌は五つくらいあるから、そのほうにも書くとなると、生産量の多くない私としては、手がまわらなかったというわけだ。
『中央公論』では、小説以外の仕事も幾つかしていて、昭和三十四年に永井荷風が亡くなったとき、「抒情詩人の扼殺」という小文を書いた。このころは、私生活でのことも含めて矢鱈に忙しく、他社の応接間でその社の仕事をしているスキに書いたことが、印象的だ。
はじめての仕事は、昭和三十年ごろ、フラフープが流行して、中島そのみというフラフープ娘が登場した。この娘と対談せよ、ということで、撮影所の近くで話をした。これがわけのわからん娘で、話がなかなか通じない上にときどき部屋からいなくなったりするので、わけのわからないものが出来上った。その対談は、私の印象記つきで掲載になったような気もするが、あるいは没になったのかもしれない。はっきりした記憶がなく、けったいな後味だけ残っている。
「恐怖対談」最終巻
『恐怖対談』『恐怖・恐怖対談』『恐・恐・恐怖対談』と刊行してきて、今回はネーミングにくるしみ、『特別恐怖対談』と付けてもらったが、もう書名がない。これで、「恐怖対談」は終り、昭和四十九年二月の半村良氏にはじまって、四十人目のゲスト遠藤周作氏で打止めである。
ところで、この遠藤対談の速記が、中尾美雪さんの最後の仕事と教えられた。中尾さんは硬・軟ともに名手であったので「恐怖対談」はもちろん、私の対談の大半に速記者として同席してもらった。二十五年ほど前からで、昭和四十年前後の五年間は、週に一回顔を合わせていたことがある。ところが、速記者はその仕事の性質上せいぜいジュースだけで、あとは風のごとく去ってしまう。対談の前にはお天気の話くらいだが、本論ではずいぶんきわどいことも喋って、それを記録してもらうことになる。いまだに私は中尾美雪さんの年齢も知らないという不思議な関係である。
二十四人目のゲスト篠山紀信氏のとき、|鱧《はも》と松茸の水炊きで対談することになった。ところが、料理に気を取られてしまい、話が上の空になる。食事に集中したあと対談をしよう、と予定を変更して、このときは中尾さんにも加わってもらってしばらく鍋を囲んだ。そういう思い出が、いま私の頭の中に出て来た。
今回の十人のゲストも前と同じように、編集部の横山正治さんとともにその人選などに知恵をしぼった。星新一氏にはショートショート一○○一篇を書く恐怖、ゲストとしてはじめての女性瀬戸内寂聴さんには女の髪の毛についての恐怖を語ってもらった。村松友視氏とは貧乏性について話し合ったが、ホテルに泊って電気カミソリに充電すると電気代をトクしたとおもうというのだから、困った性癖だ。黒鉄ヒロシ氏とは「ステファニー事件」という現実に起った珍事件を分析した。社長が「わしはこれからいなくなるが心配はいらん、二週間経ったらステファニー女史がきてくれる」と言い残して姿を消し、そして……。
沢木耕太郎氏は突然ゲストからインタヴュアーに変身して、私を質問攻めにして困らせた。山下洋輔氏のはパリに行く筈の演奏旅行の行先が四国に変更になり、おまけに興行元が「恐怖のやっちゃん」だったという奇談。吉村昭氏は赤十字病院で出産に付添ったのだが……(!?)。
この対談全部の挿画と装幀に協力してもらった和田誠氏をようやく引張り出して、さまざまの初体験について話し合った。丁度、和田さんは初体験の映画監督として「麻雀放浪記」を撮り終ったばかりだった。極端な偏食家結城昌治氏を料亭に連れて行って、なにが食えるかを調査するという残酷篇。遠藤周作氏は対談というものの二つのスタイルを話題にして、最終回らしくうまくまとめてくれた。皇太子とダボハゼの話が、突飛だった。
『酒について』について
『酒について』(キングズレー・エイミス)を林節雄氏との共訳で上梓したのは、いま初版本のオクヅケを見ると「昭和五十一年十月」であることが分る。そして、その文庫本の出版は昭和六十年十二月である。
この本は、私の人生で不思議な役割をしていて、「白内障の発病はいつだったか」思い出せないときは、初版発行日を見ることにしている。昭和五十一年の秋に、眼が霞むので病院に行くと、「白内障」と診断された。「眼の酷使とは関係ない」という医師の言葉を伝えたが、編集のTさんは気にしたようだ。この本は、まずTさんから依頼された。そして、林節雄氏の訳文に私が手を入れたわけだが、「翻訳の落し穴は一見やさしい単語にある」という大原則を守って、私は辞書を何千回も引いた。そのことを知っているTさんは、私の白内障が気にかかったわけだ。しかし、医師は「これからも眼を酷使してもかまわない、ただし見えているうちは」と言った。
以来、三年半のあいだ私はこの訳文にこだわりつづけ、版を重ねるたびに訂正をつづけ、結局二百箇所ほどを直した。昭和五十五年五月の第十四刷では、それまでのオレンジの帯を銀色に替えて、その後は訂正していない。べつの言い方をすれば、オレンジの帯の本には、未訂正部分があって申しわけないが、文庫版のときには銀色の帯のものを底本にした。
そして、文庫本発行の昭和六十年は、白内障の人工水晶体移植手術によって眼がみえるようになった年である。将来、「手術したのはいつだっけ」と忘れたときには、この文庫本のオクヅケを見ればいいわけだ。
ところで、現代イギリスの一流作家エイミスの文章は、かなり難物である。ユーモアが畳み込まれているためでもあるが、おかげでイギリスのユーモアとはいかなるものかがよく分った。
この本は、すべての章に味があるが、「二日酔」の項目は圧巻である。エイミスは、具体例をあげて、「|肉体的二日酔《フイジカルハングオーバー》」より「|形而上学的《メタフイジカル》あるいは精神的二日酔」のほうがはるかに怖ろしい、と書いている。私は昔はかなり酒に強くて、「形而上学的二日酔」はしたことがなかった。
ところが、昭和五十八年夏、その体験をしてしまった。これには参った。肉体のほうはべつに苦しくはないのだが、本文の中にあるような『なんとも言いようのない、沈んだ気分と、悲しさと、不安と、自己嫌悪と、挫折感と、未来への恐れの混り合った感情がしのび寄る。家族や友人どもが共謀して、あいつは人間の屑だということを沈黙によって聞こえよがしに|仄《ほの》めかしており、自分も人生がどういうものかというその姿がとうとう目に映るようになってしまう』という体験を、十二分に味わってしまった。
以来、今日まで、私の|肝臓《レバー》は不機嫌で、あまり酒も飲めない。
ス ノ ッ ブ
スノッブとは、簡単にいえば「上品ぶる俗物」とか、「いなか紳士」とかいう意味である。スノッブの実物はそこらにごろごろしているが、ここで注意しなくてはいけない重要なことが一つある。それは、「アンチ・スノッブ」のつもりで振舞うと、その態度がそのまま「裏返しのスノッブ」になるということである。
たとえば、「歌謡曲なんて低級なものですわ、あたしはクラシック専門ですのよ」というような態度に反撥して、わざと「霧・港・恋・星・花・夜」などという言葉が|氾濫《はんらん》している流行歌をわめき散らすと、それも裏返しのスノッブになってしまう。
この二つの態度は、芯から歌謡曲が好きで、それを隠そうとせずにしみじみ口ずさんでいる人物には、足が地についていない点で劣っている(もっとも、正直に言って、私は「しみじみ歌謡曲」派とは、つき合いたいとはおもわないが)。つまり、上品ぶっているものに単純に反撥すれば、そのまま裏返ってしまうのは当然のことといえる。
もう一つ例を上げると、昨年のワイン・ブームがある。ワインについては、わが国にその伝統がないことははっきりしている。そういう場で、ワインの知識を振りまわせば、「いなか紳士」になるのは、これも当り前のことである。長いあいだかかって実際にいろいろのワインを飲み、それに伴っておのずから知識ができている人物は、わが国には数えるくらいしかいないだろう。そうでない人物がワインの知識を口にすれば、その知識は宙に浮いてしまって「ひけらかす」という感じになる。また、ワインとのかかわり方において本当に足が地についている人物は、あまり小うるさいことは口にしないものである。
今年の前半の半年間、イギリスの作家キングズレー・エイミスの『酒について』という書物の翻訳に私はかかり切りになった。なにしろ難解な英語なので、私一人では手に負えない。独協大教授の林節雄氏との共訳なのだが、それでも日本語の言いまわしだけを担当すればいいわけのものではなく、ずいぶん苦労した。
このエイミスの書物が、アンチ・スノッブで一貫している。それも酒について語りながら、人生全般にたいする姿勢という趣がある。その魅力にひかれて、厄介な仕事をつづけた。
エイミスはワイン・スノッブという言葉を使って、これをからかう。この場合、ワインについてのしっかりした基礎をもっての上でないと、裏返しのワイン・スノッブになる、というのがエイミスの論旨である。
魚料理には白ワインで、赤を飲んではいけない、というのが近年までのルールだった。これがこのごろでは、魚も肉料理も赤ワインで通してよいというように変化してきた。これまでのルールにさからっている形になるが、この新しいルールのほうが便利だし、料理の味も落ちないという裏付けがあってのことである。
ルールなぞ無視してよいという気分が先行して、魚料理に甘いポートワインを飲むくらいなら、これまでどおり白ワインを飲んでおいたほうがいい。ただ、このルールが破られはじめた初期には、その振舞にはかなりの勇気が必要だった、とおもえる。
そのあたりの事情を、エイミスはジェームズ・ボンドに托して書いている。
「ロシアより愛をこめて」という映画に、こういうシーン(原作には、その場面はない)がある。女連れでオリエント急行に乗っている007に協力するために、途中の駅で味方の情報部員が乗りこんでくることになっている。ところが、その駅で待機していたその男を、敵方の情報部員が襲って殺す。そして、身のまわりのものを奪って味方に変装し、007のコンパートメントに乗込んでくる。
「やあ」
「やあ」
と、二人は握手。このときには、007は相手を味方だとおもっている。
「食堂車へ行こうか」
と、いうことになり、ボンドと女とその男と三人で、コンパートメントを出る。
食堂車では、三人とも魚の料理を注文する。
「それと、白ワイン」
ボンドと女は付け加え、ウェイターが、
「そちらさまも、同じでございますね」
と、男にたずねると、
「いや、おれは赤だ」
この「アカ」という発音を、吹き替えの声優は強調していた。つまり、自由主義国陣営ではない、いわゆる「アカ(レッド)」である、という地口と考えてよい。
エイミスは、「ここで、ボンドは男の正体に気付かなくてはいけなかった」と言っているが、それにつづく文章に含蓄がある。
『ただ、敵と気づくだけではなく、独立心に富んだ手ごわい敵と気づかなくてはいけなかった』
この映画がつくられた時代には、魚に赤ワインという注文の仕方には、勇気が必要だった、という意味である。ただし、こういう場面を選んで魚料理と赤ワインとの関係を語るのは、それ自体エイミスのユーモアである。
たしかに、この敵は手ごわかった。食堂車で女のグラスにこっそり睡眠薬を入れ、コンパートメントに戻ってその女が眠りはじめたとき、突然ボンドに襲いかかる。
乱闘の最中、007が、
「魚に赤とはヘンなやつだ、とおもってはいたが」
と、呟いていた。
ところで、エイミスのいう、ワイン・スノッブとは、その実体はどういうものか。
『良いぶどう酒というのには、あきあきしたよ。むしろ、悪いぶどう酒というやつのほうが、私は好きだね』
という言葉が、本場でもある。
これは禅問答のような言葉だが、くだいて言うと、
『良いぶどう酒というやつは、いろいろ講釈がついてうるさくて厭になる。むしろ有名でないぶどう酒を、余計な講釈を聞かずに飲んだほうが気分がいい』
と解釈してよいだろう。
別の言い方をすれば、飲食物についての|嗜好《しこう》は、人それぞれだから、傍からとやかく言うのはよくないということになる。
そういう見解の上に立って物事を見ているエイミスでも、「あっ」と驚いたことがあった。ある田舎の老夫婦が、グリルした|鰈《かれい》を食べながら、ペパーミントの甘い酒を飲んでいた、という話を聞かされたときである。
その感じを想像しただけでも、胃のあたりが鬱陶しくなってくる。
エイミスは驚きながらも、
『その酒が小瓶であったことを、私は祈りたい』
と言う。
そういう言い方ができる柔軟性を備えている。
『年をとったワニの話』
年をとったワニが、若いタコと恋仲になった。リューマチで餌の取れないワニは、数がかぞえられないタコの足を夜中に一本ずつ食べた。とうとう胴体だけになってしまった恋人を、ワニはまるごと食べ、ほんとにおいしいとおもい、そのあと苦い涙を流した。
こういうノンシャランでナンセンスな絵本に、戦争末期に出合ってじつにじつに愛読した。訳者は山本夏彦氏で、戦後もレオポルド・ショヴォーというこの著者のことがずっと気にかかっていた。
ある朝食堂へ行くと、ショヴォーの本が積み上げてあって、不思議な気分になった。これら一連の作品は二十篇ほどあって、訳者の出口裕弘氏から贈られた新刊書と分るまでに、すこし時間がかかった。
『夢の車輪』という自分の本
パウル・クレーは、私の偏愛する画家である。『夢の車輪』というこの本には十三枚のクレーの絵が色刷りで入っていて、それぞれの絵について私が解説した文章が末尾に付いている。
本自体が大判でアート紙を使っているので、クレーの画集に私が文章を添えたようにも見える。じじつ、これらの絵は苦労して私が選び配列したものだから、クレーの好きな人はその小画集のつもりで見てもらってもいい。
しかし、この本は絵が主で文が従ではないし、その反対でもない。絵と文とは同等だが、絵からヒントを得て、一つ一つの文章を書いたわけでもない。ただ、クレーの絵に刺戟され激励されて、文章を書いたことは確かである。
これを『文藝春秋』に連載した昭和五十七年の一年間、私は小説はほかには書いておらず、このきわめて短かい十二の短篇にエネルギーを集中させた。
夢の話、夢から醒めてはいるが現実になかなか戻れない話、夢か現実か見分けの付かないような話……、そういう話ばかりを書いた。たわいのない、単純な話とおもう人もいるだろうが、感受性を全開にして読んでもらえばいろんなものが見えてくるはずである。
第十二話の「夢の車輪」という作品には、水車くらいの大きさの半透明の白い車輪が出てくる……。
上等な旨そうなカマスの干物を貰ったので、それを焼いて食事しようとしていると、部屋の入口から大きな車輪が一つ、ゆっくり回転しながら入ってくる。
じつに緩やかな回転速度で、畳のこまかい目を押し潰すような重量感を伴いながら、こちらに近づいてくる。食卓の|毀《こわ》れる音がし、車輪が眼の前の魚を|轢《ひ》いて通り過ぎてゆく。あとには、畳のひろがりが残っているだけで、食卓も箸も干物も消えてしまった。
「これは、夢だろう」
半分だけ醒めた頭でそうおもった。
……「夢の車輪」というのは、困った奴である。せっかく、ご馳走を食べようとしているのに、突然現れてそれを|嚥《の》みこんでしまう。|獏《ばく》のように、悪夢だけ食べてくれればいい。鞍馬天狗のオジサンのように、こちらが困っているときに風のように現れて、助けてくれればいいのに。ところが、この車輪は悪夢も食べてくれるのだ。
そのことが分る場面は、自分で言うのは気がひけるのだが、なかなかおもしろいのである。
羊の去勢について
昭和六十一年八月十一日月曜日、机の上の電気スタンドだけでは暗いので、部屋の隅の電燈のスイッチを入れたとたん、全部が真暗になってしまった。隅の電燈のコードが長年のあいだに硬化して、そこがショートしたわけだ。
仕方がないので、スタンドの光だけで仕事をつづけたが、暗くて困った。八月十五日という日の直前のこともあって、おのずから戦時中の暗い電燈をおもい出した。
笠から円筒形に黒い布を垂らして、電燈の光を遮断する。空襲警報が出ると、スイッチを切る。上空の敵機の目をくらましているつもりなのだが、じつはアメリカ軍はレーダーというものを持っていて、街路の隅々まで全部見えていた。
昭和二十年八月六日に広島に投下された新型爆弾が、原子爆弾というものであることは、八月九日長崎の頃には分っていた。
昭和二十年八月十五日水曜日、この日の正午に重大放送があるということで、本郷安田講堂に集まることになった。その予告は前の日に伝えられたが、夏休みがあったらそうはできなかった。当時は、日曜祭日夏期休暇、みんな無かった。
その夜、電燈の黒い布を取り払い、さっぱりした気分になった。陸軍の一部青年将校が敗戦を|肯《がえ》んじない、という噂が伝わってきていたが、天皇の詔書には反対できまい。天皇制によって、今度は生命が救われるのである、とそのときおもった。
また、こういう噂もあった。占領後は、男はすべて去勢され、女はすべて強姦されて娼婦になるという。このほうは、ありそうな気もした。これだけ大きな勝負に出て、完膚なく負けたのだから、そのくらいは仕方あるまい。だが待てよ、日本国民一億のうち男が五千万、そのうち老人を除いて去勢の対象は四千万弱か。それをいちいち手術していたら、ずいぶん時間と手数がかかるだろう。いったい、どうなることだろうか。
そのときから二十年余り経って、ヘンリー・ミラー「ディエップ=ニューヘイブン経由」を翻訳した。その作品に、こういう一節があった。主人公が英仏海峡を渡ってロンドンへ向う船の上で、知り合った青年とオーストラリアの原野の話を熱心にしているときのことである。
『オーストラリアで奇妙な体験をしたという青年の話に耳を傾けた。羊飼いをしていたときに一日に数十頭という数の羊の去勢をどのようにしたかを話している。てっとり早くやるために最も都合のよいやり方は、まず歯で羊の睾丸をくわえ、ナイフでさっとひと息に切り、口に入ってくるものを吐き出すことだった。オーストラリアに住んでいるあいだに、何千頭の羊の睾丸をナイフと口を使って取去ったか、数えあげようとしていた。頭のなかで一所懸命に数をかぞえながら、手で口を拭った。
「変な味がしたでしょう」
私までが、おもわず口を拭いながら言った』
そこを訳したとき、私も口を拭った。
話を昭和二十年八月十五日に戻すと、「今夜は空襲のサイレンで起されなくてすむ」という気持を噛みしめて、眠りについた。そして、そのまま長い長い眠りに入ったとする。ある日、目覚めて街へ出る。
街のたたずまい、男女の風俗をみて、
「やっぱり」
と、おもう。
レストランの玄関の両脇に星条旗が掲げてあるので、「そこまでいってしまったか」とおもう。確かめるために、街娼風の女に話しかけるが、返事をしないで去って行く。「日本語は通用しなくなったのか」と心細くなったが、もう一度、女のような男のような服装の人物に話しかけてみる。
「あの旗はね、べつに意味はないの、デザインがいいから、飾りにしてあるわけ」
「とすると、ここはまだ日本なんだ」
「へんなやつ」
と、去って行く。
みんな去勢されてもみんな娼婦になっても、なんとかなるだろう。司馬遷とか椿姫とかもいたことだし、などと考えながら、駅のほうへ歩いてゆく。
駅の売店で新聞を買い、日付をみると昭和六十一年八月十五日金曜日となっている。四十一年間が経っているのに驚き、まだ昭和の年代なのに驚く。
それにしても、そんな年月が経っていて、街に若い男女がいるということは、去勢はおこなわれなかったわけだ。もっとも、間接統治の植民地政策だとすれば、去勢は有り得ないのだが。
いや、それはともかく、人の心はどうなっているのか。こういうときには文芸雑誌にかぎると書店に行き、『群像』という雑誌が創刊されて四十年も経っているのを知る。
……こういう架空の話はもうやめる。
『群像』は、昭和二十一年十月の創刊である。二十七年十二月号の新人特集に作品が掲載になったが、これが私の小説が文芸雑誌に載った最初である。以来、記念号には毎回欠かさずに小説を書いたが、この前のときには長目の随筆になり、今度は短かい随筆しか書けなかった。
文庫版のためのあとがき
平成元年の気候の悪さには、閉口している。六月下旬になっても、暖房を入れる日があったりした。七月になると、伊東沖の海底噴火があった。
「今年は、ひどい気候ですねえ」
タクシーに乗ってそう言うと、
「まったく、これじゃ健康な人間でも参りますよ」
と、返事があった。
しかし、考えてみると、毎年同じようなことを言っている。昨年、昭和六十三年は異常冷夏で、海水浴場に人影がなかった。一昨年は、冬は雪の日が多かったが、夏に本土に上陸した台風は一つもなかった。
「それにしても、毎年お天気の苦情を言っているような気がするなあ」
と、運転手に言ってみる。
「そういえば、そうですね」
「それで、一年があっという間に過ぎてしまう」
「まったく、はやいですね」
四十くらいの運転手なのに、実感がこもった。
「五十代、六十代と、どんどんスピードが上るよ」
この言葉に反対の人はいないだろう。こういう時間の流れの中にいると、過ぎ去った事柄についての混乱が起る。A事件は十年くらい前だったろうとおもうと、これが五年前のことだったり、B事件はその逆だったり……。この本を読み返していて、あらためてそういうことを感じた。
そもそもこれは同名の単行本(潮出版社)の文庫化で、かなり以前のものだったようにおもえていた。いま調べてみると、昭和六十二年三月の刊行だから、まだ三年経っていない。私たちの年代では、一つには昭和が終って平成になったということが、大きく作用しているのだろうか。
平成元年夏
著 者
富 士 山
『群像』昭和五十六年十月号
グ ミ
『週刊朝日』昭和五十九年六月一日
薬
『海』昭和五十六年十月号
天神さまを集める
『あわてどきの心がけ』(アップジョン文庫)昭和五十八年刊
部分的読書の愉しみ
『漫画讀本』昭和四十年五月号
犬が育てた猫
『読売新聞』昭和五十七年一月三日
日記――「とくになし」について
『話の特集』昭和五十七年四月号
文学賞の選考ということ
『群像』昭和五十七年六月号
理 髪 店 で
『別冊文藝春秋』一六〇号、昭和五十七年七月
「小さな大人」ということ
『海』臨時増刊「子どもの宇宙」昭和五十七年十二月
私 の 学 校
『小説新潮』昭和五十八年二月号
化 け る
『すばる』昭和五十九年四月号
土 用 波
『文藝春秋』昭和六十年七月号
室 内
『ボーネン』昭和六十一年九月号
「族」の研究
『青春と読書』昭和六十一年二月号
昭和二十年の銀座
『一枚の絵』昭和六十年九月号
幻の女たち
『小説現代』昭和五十八年一月号
二十年前の北海道
『一枚の絵』昭和五十八年十二月号
平 貝
『小説新潮』臨時増刊「大コラム」昭和五十九年七月
お銚子二本
『酒』昭和五十九年九月号
酒 中 日 記
『小説現代』昭和五十七年二月号
スタミナ食
『別冊文藝春秋』一〇四号、昭和四十三年六月
カ ス ト リ
『言語生活』昭和六十年四月号
永井龍男氏との縁
『永井龍男全集7』月報(講談社)昭和五十六年十月刊
井上靖氏の初心
『井上靖自伝的小説集』月報(学習研究社)昭和六十年四月刊
小島信夫その風貌
『小島信夫をめぐる文学の現在』(福武書店)昭和六十年七月刊
「件」のはなし
『海燕』昭和六十一年十二月号
「新興芸術派」と私
『龍膽寺雄全集』月報(龍膽寺雄全集刊行会)昭和六十年十月刊
「瓦板昭和文壇史」のこと
巖谷大四『懐しき文士たち 昭和篇』(文春文庫)解説 昭和六十一年七月刊
ジョーズ園山俊二
『ペエスケ』(講談社)解説 昭和五十七年四月刊
山藤章二にいっぱい似顔を描かれた
『オール讀物』昭和六十二年一月号
篠山紀信との午後
『波』昭和六十一年三月号
向田邦子に御馳走になった経緯
『文藝春秋』臨時増刊「向田邦子ふたたび」昭和五十八年八月
日暮里本行寺
『新潮』昭和六十年一月号
不肖の弟子
『中野好夫集』月報(筑摩書房)昭和五十九年九月刊
『青い夜道』の詩人
『田中冬二全集』月報(筑摩書房)昭和六十年六月刊
川崎長太郎さんのこと
『文藝』(春季号)昭和六十一年二月
島尾敏雄のこと
『海燕』昭和六十二年一月号
島尾敏雄の訃報
『新潮』昭和六十二年一月号
ダンボールの箱
『群像』昭和五十八年八月号
メモの切れ端
『群像』昭和五十八年七月号
黒目が遊ぶ
『群像』昭和五十八年九月号
末 広 が り
『オール讀物』昭和五十八年一月号
子 年 生 れ
『オール讀物』昭和五十九年一月号
漢和辞典のこと
『オール讀物』昭和五十九年八月号
人工水晶体
『オール讀物』昭和六十年四月号
夏の愉しみ
『オール讀物』昭和六十年十月号
時計を見る
『オール讀物』昭和六十一年四月号
蜜豆の食べ方
『オール讀物』昭和六十一年九月号
パチンコと私
『第一回パチンコ文化賞』パンフレット(全遊協)昭和六十一年十一月
蕎 麦 屋
『小説新潮』昭和六十一年二月号
トワイライト・カフェ
『日本経済新聞』昭和五十九年十二月二日
コーヒーをどうぞ
『ショートショート・ランド』昭和五十六年四月、創刊号
個人全集の内側
『読売新聞』昭和五十八年五月十日
私のタイトル縁起
『小説現代』昭和五十一年八月号
「祭礼の日」から三十年
『文學界』昭和五十八年十一月号
『中央公論』の思い出
『中央公論』昭和六十年一月号
「恐怖対談」最終巻
『波』昭和六十年九月号
『酒について』について
『IN*POCKET』昭和六十年十二月号
ス ノ ッ ブ
『家庭画報』昭和五十一年十二月号
『年をとったワニの話』
『朝日新聞』昭和六十一年五月五日
『夢の車輪』という自分の本
『読売家庭版』昭和六十年十月号
羊の去勢について
『群像』昭和六十一年十月号
昭和六十二年三月潮出版社刊
〈底 本〉文春文庫 平成元年十月十日刊