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ドキュメント戦艦大和
吉田満・原勝洋
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は じ め に
世界最強の戦艦大和をもってしても、その任務遂行は絶対に不可能な状況だった。米海軍は沖縄島周辺に空母十二隻を中心とした大艦隊を配置し、多数の攻撃機を配備して日本艦隊の急襲を待ちかまえていた。
米攻略部隊が消費する燃料は一時間に二五〇〇トンだったが、日本艦隊は燃料不足から訓練さえ制限されていた。日本艦隊の乗員は歴戦の強者ぞろいだったが、作戦実施数カ月前の配置転換で、一部熟練度が不足していた。
対空砲火器の数は以前より増加したが、対空レーダーと連動することなくその性能は従来と変らなかった。そこで兵器の活用は猛訓練による人的な技の向上に頼らざるをえなかった。
「大和」の破壊力ある自慢の四六サンチ主砲は対航空機には不向きだった。
米攻撃機の搭乗員には、まだ一度も航行中の艦艇を攻撃したことのない者がいたが、大部分の者は「幻の大戦艦」を沈めることに闘志を燃やしていた。搭載された航空魚雷の性能は向上し、高々度から投下しても的確に標的に向っていった。そこで未熟な飛行士が標的に肉薄しなくても、容易にその任務を果すことができた。
米海軍は戦力において圧倒的に優勢だったにもかかわらず、それ以上に、日本海軍の行動のすべてを知ることができた。日本海軍の発する秘密の作戦命令は、暗号解読により米軍に筒抜けだった。
昭和二十年四月、全軍特攻に突入した日本海軍将兵にとって生還の望みはなかった。戦艦大和は「光輝ある栄光を後世に伝へんとする」大義の下に出撃した。
約二時間の戦闘の後、三七二一名の将兵が本作戦に殉じた。戦傷者は四五九名だった。この日本側の人的損害に対し米側は戦死者十四名、負傷者四名にすぎなかった。海軍の最高責任者の「あゝせざるを得なかった」という決断の結果にしては、あまりにも大き過ぎる犠牲である。
しかも戦闘の行なわれた海域は九州南端の南西わずかの距離である。当時、南九州には多くの海軍航空隊の基地があり、零戦の行動能力からすれば、ほんの一飛びの海域であったにもかかわらず……。
[#地付き]著 者
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目 次
作 戦 準 備
[#2字下げ]日本艦隊の実情/米機動部隊の来襲/邀撃作戦の混乱/第二水雷戦隊の判断/軍令部の決意/ゆれ動く大和活用方針/人事異動の矛盾/出撃発令/出撃命令を受ける大和/特攻出撃の感慨/候補生の退艦/作戦計画/特攻作戦策定責任の所在/沖縄攻略部隊兵力/潜水艦による哨戒作戦/日本海軍の戦力に対する観測
作 戦 発 動
[#2字下げ]出撃/出港の情景/さらば内地よ/潜水艦発見/作戦遂行方針の疑問/敵潜との出会い/艦隊決戦か航空攻撃か/護衛機一四機/まぼろしの味方機/ばらばらの陸海軍/敵本格的空襲の算大ならず/機械整備に対する不熱意/敵機あらわる/空母部隊戦闘準備完了/敵大編隊接近/通信の実情/攻撃隊、日本艦隊を捕捉/頭上に大編隊/攻撃隊発進詳報/対空砲戦の実情
米攻撃隊来襲
[#2字下げ]襲撃第一波/緒戦の情景/襲撃第二波/第一次攻撃隊去る/一つの挿話──ディラニー中尉の幸運/航空機と対空防禦の対決/対空砲火の評価/虚実の応酬/砲側の明暗/第一次攻撃の成果と情勢判断/襲撃第三波/傾斜復元せず/襲撃第三波終了時における第一遊撃部隊情勢判断/襲撃第四波/巡洋艦「矢矧」の沈没/傾斜いよいよ進む/米海軍情報部調査記録
戦艦大和沈む
[#2字下げ]最期の時近づく/戦艦「大和」の沈没/総員退去セヨ/どうして沈んだか/沈みゆく大和/伊藤司令長官の最期/有賀大和艦長の最期/ついに大和を発見し得ず/渦にまきこまれて/極力生存者ヲ救助セヨ/大和で死んだ方がよかった/ディラニー中尉の幸運──続き/佐世保ニ帰投スベシ/護衛艦の命運/徹夜の逃避行/大和沈没状況/失意の戦艦艦隊
戦いのあとに
[#2字下げ]忠烈万世ニ燦タリ/戦果と被害損失/空陸はいかに戦ったか/作戦の基本に対する第一遊撃部隊の批判/米軍の戦法に対する評価/米軍に勝利をもたらした魚雷/戦術的戦訓/神話の崩壊/戦艦は無用の長物か/後日譚/戦艦大和のもうひとつの使命
あ と が き
参 考 文 献
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作 戦 準 備
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日本艦隊の実情[#「日本艦隊の実情」はゴシック体](著者注、以下「注」とあるは著者注)
昭和十九年十月の捷《しよう》号作戦(比島防衛)の結果、帝国海軍は潰滅《かいめつ》に近い打撃を受けた。連合艦隊といっても名ばかりで、司令部は横浜日吉にある慶応大学地下壕におかれていたため、司令長官をいただくはずの第一艦隊は、事実上存在しないという変則的な形であった。
二十年一月十日に改編された編制によれば、いくらか艦隊らしい第二艦隊(戦艦三隻、空母二隻、巡洋艦一隻、駆逐艦一一隻)があるほかは、潜水艦(二六隻)からなる第六艦隊、および南西方面艦隊(航空戦艦二隻、巡洋艦五隻、駆逐艦一一隻)だけという淋しさであった。
航空兵力も、三月初めの時点で、第一、第三、第五、第十の各航空艦隊を合わせて実用機一三〇〇機、練習機二〇〇〇機を保有していたが、空母の搭載機はなく、すべて基地航空部隊に編入されていた。
しかも燃料欠乏のため大量の燃料を使用する戦艦の洋上作戦は断念、多くの艦艇は港湾に繋留《けいりゆう》されたままであった。そのために作戦に可動の実兵力は、第二艦隊に所属する「大和」および第二水雷戦隊(巡洋艦「矢矧《やはぎ》」と駆逐艦)の計十数隻だけで、戦略単位の艦隊編成は至難と思われた。二月の第二艦隊改編実施前の連合艦隊司令部の作戦打ち合わせの席で、首席参謀|神《かみ》重徳大佐は「大和」については第二艦隊の旗艦とし、特攻的に使用したい意向を明らかにした。
彼らは瀬戸内海西部で修理整備を行ないつつ待機していたが、行動用燃料はいよいよ底をつき、ほとんど半身不随の状態にあった。たとえば二十年三月の第二艦隊に対する燃料補給状況を「浜風」砲術長、福士愛彦大尉「沖縄海上特攻隊に関する報告」によってみると、平常行動用の合計で概略戦艦、巡洋艦は一二ノットの一・五昼夜分、駆逐艦は一二ノットの二昼夜分という有様であった。
また捷号作戦で損傷をうけた艦船の修理について、作戦の中枢にある軍令部(陸軍の参謀本部と相対する海軍の作戦策定最高機関)当局は、駆逐艦以下の小艦艇を優先第一とし、余力があれば巡洋艦などにまわす、戦艦はこの際修理を諦める、という方針であり、このような緩急順序は、大型艦活用への不熱意を意味していた。
米機動部隊の来襲[#「米機動部隊の来襲」はゴシック体]
三月中旬、連合艦隊は米軍がいよいよ新作戦を企図して動き出すものと判断し、海上部隊に対して、
[#1字下げ]1、警戒ヲ厳ニシ、内海西部ニアツテ待機、特令ニヨリ出撃準備ヲ完成ス
[#1字下げ]2、航空作戦有利ナル場合ハ、特命ニヨリ出撃シ、敵攻略部隊ヲ撃滅ス
[#1字下げ]3、本作戦ヲ天一号作戦ト呼称シ、コレガ警戒並ビニ発動要領ハ、捷号作戦ニ準ジ本職コレヲ下命ス
との作戦要領を示した。
果たせるかな三月十九日、米機動部隊が来襲し、広島湾山口県通津沖にあった第二艦隊には、艦上機約七〇機が向ってきた。攻撃は主として大和に集中したが、被害はごく軽微で、また敵機に対する戦果もほとんどなかった。
戦闘終了後の研究会で確認された事項は、護衛駆逐艦の対空防禦に大きな期待はかけられないこと、大和の対空砲火も威力が小さく本格的空襲による被害が危惧されることなどであり、輪型陣の場合の各艦距離は、一五〇〇から二〇〇〇メートルが適当という結論をえたほかは、より一層の猛訓練が必要との反省が繰り返されたにとどまった。
その後艦隊の訓練は対空戦闘に重点を置き、なお夜間戦闘、電測射撃、電測発射、第二斜進魚雷の利用、水測訓練が重視されたが、燃料がきびしく制限されていたため、実行は思うに任せなかった。
「浜風」砲術長、福士大尉「沖縄海上特攻隊に関する報告」(前略)
駆逐隊の一二・七サンチ主砲は対空射撃に対し余りにも粗末にして、防空駆逐艦はともかく、特型駆逐艦においてその四式射撃装置はきわめて精度不良、特型以降の駆逐艦において、対空射撃には全量射撃を使用するのやむなき状況。
また二五ミリ機銃は、各駆逐艦とも単装には余り期待をかけられず、かつ連装機銃にありても、従動照準器を有せざる結果、対空射撃効果の発揮にはなお前途遼遠なるものありたり。
当日の戦闘において最も活躍すべき大和においてすら、目醒《めざ》ましき戦果を挙げ得ず、将来の戦闘に多大の危惧を抱かざるを得ざりき。
邀撃作戦の混乱[#「邀撃作戦の混乱」はゴシック体]
次に連合艦隊が打った手は、沖縄方面に強固な布陣を完成するおそれのある敵機動部隊を、わが基地航空機の勢力圏内におびき出して痛撃を加えようとすることであり、三月二十六日、その意図のもとに可動全海上兵力に佐世保への回航を命じた。第五航空艦隊は上空直衛の戦闘機も少なく索敵も思うにまかせず、攻撃兵力も第三航空艦隊が進出する三十日以降でないと成功の算はないと判断した。
内海西部から佐世保への経路は下関海峡が最も近いが、水深が約一〇メートルと浅く大型艦は坐礁の懸念があり、米軍の機雷に触れる危険も大きかったので、主力部隊は豊後《ぶんご》水道を通過するものとされた。
このため各艦は、装備補修、兵備増強の工事を中途で打ち切って出港準備を急ぎ、二十八日夕刻、呉を出港した。しかしほぼ同じ頃、米艦上機が大挙して九州南部および奄美大島に来襲し、わが方の誘発を待たずに機動部隊が接近してくる兆しが見えたので、連合艦隊は佐世保回航の必要がなくなったものと判断、直ちに延期を下命した。そして海上部隊の仮泊位置は周防灘《すおうなだ》と定められ、同夜はとりあえず広島湾兜島沖に仮泊、翌二十九日早朝、三田尻沖に向った。
関係者証言
○連合艦隊作戦参謀、三上作夫中佐(三十六歳)
連合艦隊司令部が大和以下を佐世保に回航する案を打ち出した時の考え方は、瀬戸内海西部に置いたのでは、太平洋に出るまでに時間がかかる。米軍としては、所在を確認さえしておけば安心である。しかし佐世保にいる場合は、夕方出港すると全速力でその日のうちに沖縄に着く。それだけでも米軍には脅威となり、作戦の目標になってくる。これを潰すために敵機動部隊が北上して来る。
一方わが艦隊は基地防空隊の砲火が加わり、防禦が強力になる。しかも敵が九州に近づけば、五航艦(南九州および南西諸島方面担当の航空艦隊、司令部は鹿児島県|鹿屋《かのや》基地)の足の短い飛行機と足の長い飛行機が、寄ってたかってこれを叩く事が出来る。少数の兵力で有効な作戦が出来る。いわば位を利かして敵を引きつける構想であった。単に敵を誘致するだけでなく、航空作戦がわれに有利に展開した場合、これを攻略船団撃滅に切りかえることが連合艦隊の真の狙いであった。
しかし作戦を実施する第二艦隊側は、この考え方に反対で、米機動部隊の空襲を受けた場合の回避運動の円滑さ、対潜防禦の観点からも、佐世保に回航するより、|ふところ《ヽヽヽヽ》の深い内海にとどまる方が有利であるとして容易に賛同しなかったので、この時期まで延び延びになったのであった。(本人の証言、以下特記のないものは同様)
○五航艦司令長官、宇垣纒中将(五十五歳)
佐世保回航の目的が残敵|掃蕩《そうとう》に便する点は若干許容すべきも、九州東岸南下により敵機動部隊を誘出し、当隊をして攻撃せしめんとする常套《じようとう》の小細工に至りては、笑止千万なり。
余はすでにビアク作戦において、敵をパラオ方面に誘引し、もって「あ」号(サイパン島防衛)作戦の成立に便ならしむべき命を受けたり。また比島海戦後、損傷の艦隊をもってスルー海に進入し、敵機を吸収してわがレイテ輸送を容易ならしむべく、行動せしめられたり。しこうして前者は実施に至らず、後者はその目的を達せざりしなり。
敵は容易に予定を変更せんとせず。また優勢をもってせば、機動の必要も少なしと見られ、牽制誘導になかなか乗らざるなり。乗りたりと思うは、偶然の一致に過ぎず。殊に燃料少なき現下、内海待機を適当とするなり。(『戦藻録、三月二十七日』)
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] 作戦担当部隊の反対を押し切り、確実な見通しもないまま下された佐世保回航命令とその延期指令は、最後の決戦を前にして、各艦が肝腎の整備補強工事を中途半端のまま打ち切るという結果を招いたに過ぎなかった。のちに突発した駆逐艦朝霜の機関故障は、その犠牲だとする見方も第二艦隊の中にはあったといわれている。
第二水雷戦隊の判断[#「第二水雷戦隊の判断」はゴシック体](古村啓蔵「大和二水戦特攻艦隊」、『東郷』一九七〇年四月号より)
第二水雷戦隊司令官古村啓蔵少将は、旗艦「矢矧」の電探が旧式で性能が低いため、もし出撃が予想されるならば新式に取り換える必要があると呉|工廠《こうしよう》に申し入れていた。しかし特攻兵器生産に忙殺されていることを理由に断られた。原為一「矢矧」艦長も、東京に出張して所管の部署である艦政本部や電波本部に同じ訴えをしたが、相手にされなかった。
第二水雷戦隊では、こうした状況を総合し、作戦当局が戦艦および巡洋艦を主力とする艦隊の出動を決意することは、まずありえないものと観測した。また貧弱な掩護《えんご》機しか持たない水上部隊を無理に突入させたとしても、途中で潰滅することは必至な戦局と判断した。
そこでむしろ水上部隊を解散し、その人員、とくに優秀な砲員と搭載兵器を陸揚げして艦自体を浮き砲台とし、たとえば大和は呉軍港の岸壁に繋留して軍港の防空に専念させるなど、本土決戦に備えるのが最も有利な方策であるとの結論に達し、古村少将は、第二艦隊司令長官伊藤整一中将に第二艦隊解散説を進言することにした。
伊藤中将は、海軍の作戦全般を実質的に統轄する軍令部次長の要職から第二艦隊司令長官に親補され着任したばかりであり、こうした弱気の意見を中央に具申するのは、誠に心苦しい立場であったと思われる。
古村少将は第二艦隊の森下信衛参謀長と山本祐二作戦参謀だけに打ち明け、同意を得て再三伊藤長官に進言した。ついに二十年四月四日、伊藤長官は、「いろいろと考えたが、古村司令官の説がこの際上策と思うので、山本参謀を呉に送り、連合艦隊長官に秘密電話で意見具申をする」と決意を明らかにした。
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] しかし現地部隊がようやくこのような判断を固めた矢先に、連合艦隊から航空総攻撃要領(菊水一号作戦)が指示され、さらに五日午後、海上特攻準備に関する次の命令が発せられたので、意見具申の機会は失われてしまった。
GF(連合艦隊)電令作第六〇三号
「第一遊撃部隊〔大和、第二水雷戦隊(矢矧及ビ駆逐艦六〕ハ海上特攻トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ、急速出撃準備ヲ完成スベシ」(駆逐艦は、のちに第一遊撃部隊の要請により、八隻に増強を認められた)
軍令部の決意[#「軍令部の決意」はゴシック体]
これより先、昭和二十年三月二十九日、軍令部総長及川古志郎大将は、南西諸島方面の戦況奏上の際、天皇陛下より「天一号作戦(敵沖縄上陸|邀撃《ようげき》作戦)ハ帝国安危ノ決スルトコロ、挙軍奮励モツテソノ目的達成ニ違算ナカラシメヨ」とのお言葉を賜わった。
軍令部総長は航空機をもって特攻作戦を激しくやると奏上した。これに対しさらに陛下より、
「海軍にはもう艦《ふね》はないのか。海上部隊はないのか」とのご下問があり、及川総長は非常に恐懼《きようく》して引きさがった。
このことは直ちに軍令部総長より連合艦隊司令長官豊田|副武《そえむ》大将に伝達され、同日一九時二二分、連合艦隊司令長官は、天一号作戦部隊に対し、「畏レ多キ御言葉ヲ拝シ、恐懼ニ堪ヘズ、臣副武以下全将兵|殊死《しゆし》奮戦誓ツテ聖慮ヲ安ンジ奉リ、靭強執拗飽ク迄天一号作戦ノ完遂ヲ期スベキ」旨の緊急電報を発した。
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] こうした経緯が、作戦当局の海上部隊活用方針変更の一つの伏線になったものと見ることもできよう。
ゆれ動く大和活用方針[#「ゆれ動く大和活用方針」はゴシック体]
以上のような経緯をへて、連合艦隊はようやく次のような情勢判断に到達した。
三十日一二〇〇における敵情判断(GF機密第三〇一三四五番電)
1、敵機動部隊ハソノ主力ヲモツテ九州以東ニ行動シ、掩護部隊ト協カシテ九州、四国方面ニアルワガ基地航空部隊ノ全壊ヲ続行スル算大ナリ
2、敵攻略部隊ノ主力ハ沖縄南東海面ニ待機中ニシテ、上陸前ノ作戦準備ヲ完了、一両日中ニ上陸ノ算極メテ大ナリ
すなわちこれまで連合艦隊が打ち出した水上部隊の用法の推移をみると、当初、三月中旬には航空作戦が有利に進展した場合、米攻略部隊の撃滅に使用する予定としていた。
次いで南西諸島周辺の制圧をくり返している米機動部隊に対し、これをわが基地航空機の攻撃圏内に誘致する企図と、あわせて待機位置を沖縄に近くかつ空襲時の安全度も高い基地に移す目的から、佐世保回航が発令された。しかしこれは、米軍の積極的来襲によって不要となった。
さらに三月末に近くなって、さすがに米軍の沖縄上陸は必至と認めざるをえない情況に追いこまれると、半月ほどの間に二転、三転して、鹿屋で航空総攻撃の決行が決定。そして日吉の司令部で沖縄への突入作戦が急遽案出されることになるのである。
人事異動の矛盾[#「人事異動の矛盾」はゴシック体]
関係者証言
○「大和」元航海長(レイテ海戦当時)、津田弘明大佐(四十歳)
昭和十九年の暮から翌二十年の初めにかけて、レイテ戦で活躍した歴戦の連中をみな海兵団に引き上げ、陸上訓練を行なったことがある。その頃軍令部は戦艦大和と二水戦各艦の定員だけを残し、あとのフネの乗員は陸に上げて本土決戦に備える方針だ、という噂があり、大和でさえ、内海のどこかに繋いで防空砲台にするという話も伝わった。
そういう背景もあってか、私は三月の人事大異動に引っかかって陸に上げられ、それまで戦艦榛名の航海長をやっていた茂木史郎中佐と交代することになった。普通なら書類だけまとめておいて、せいぜい半日で引き継ぎを終るのだが、特に艦長に申し出て、約一週間みっちり実地の引き継ぎをやった。それほどに大和の操艦は難しい。
実際に艦を動かしての訓練は、敵襲でもなければチャンスがないが、舵を一杯に回したあと元に戻す要領や、艦橋からの指令の呼吸、舵故障など複雑な応急処置まで、必要なことは一通りやったつもりだ。茂木航海長も熱心に協力してくれたが、こんな状況で近日に出撃することなど、よもやあるまいと思っていたようだ。
それより以前のことだが、大和の見張長を巡洋艦の掌航海長に栄転させるという話が出たことがある。そこで私は呉の人事部に出かけてゆき、もし大和が大事と思うならこの男を残せ、大和がどうなってもいいというなら替えたらいいだろう、とねじこんだ。それほどに虎の子の見張長で、全幅の信頼をおいていた。それからもずっと一緒に勤務することが出来た。
大和の有賀艦長は、沖縄に突入した時、乗艦以来わずかに六カ月ぐらいだった。正確な回避運動をやるのは非常にむずかしいことだが、沖縄戦においては小艦隊であったので、思い切った操艦がおこなえたと思う。
出撃発令[#「出撃発令」はゴシック体]
一、昭和二十年四月一日、米軍は沖縄本島に上陸を始めた。沖縄守備の陸軍部隊、第三十二軍はもともと三個師団編成のところ、一月に第九師団を台湾に引き抜かれたままであり、天一号作戦計画書から航空隊が使用する見込みのない北、中飛行場を即刻徹底破壊するよう中央に意見具申したが許可されなかった。司令官牛島満中将は兵力不足を考慮し、島南部の主陣地帯にたてこもって持久戦に徹する覚悟を固めていた。その結果、北、中飛行場地区は同日夕刻までに簡単に米軍の手に渡ったので、米軍の航空基地使用を封殺するため、陸海軍中央部、台湾方面軍等から第三十二軍に対し、きわめて強い攻勢移行の要望が出された。
第三十二軍は、攻撃実行の決意、中止、再決意、中止と曲折を重ねた末、ようやく四月七日を期して攻勢開始に決したので、その総攻撃に呼応し、連合艦隊司令長官はさきの緊急電報の精神を体して、四月五日、一五〇〇(一五時)、次の出撃命令を発した。これは前出の出撃準備命令が出されてからわずか一時間後という異例のあわただしさであった。
GF電令作第六〇七号
1、帝国海軍部隊及ビ六航軍(九州および沖縄本島北方面陸軍航空部隊)ハ、X日(六日以降)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺敵艦船ヲ攻撃撃滅セントス
2、陸軍第八飛行師団(石垣、宮古方面陸軍航空部隊)ハ右ニ協力、攻撃ヲ実施ス
第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始シ、敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス
3、海上特攻隊ハY-1日黎明時豊後水道出撃、Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入、敵水上艦艇並ビニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ
Y日ヲ八日トス
4、第一遊撃部隊の編成
[#1字下げ]第二艦隊 司令長官 伊藤整一中将
[#2字下げ]旗艦戦艦大和及ビ第二水雷戦隊九隻
[#1字下げ]第二水雷戦隊 司令官 古村啓蔵少将
[#3字下げ]旗艦巡洋艦矢矧
[#3字下げ]第四十一駆逐隊(冬月、涼月)
[#3字下げ]第十七駆逐隊(磯風、浜風、雪風)
[#3字下げ]第二十一駆逐隊(朝霜、霞、初霜)
二、この間、協同作戦を担当する陸軍および航空部隊行動予定は、次の通り定められた。
「沖縄島ノ我陸上兵力(第三十二軍)ハ南部地区ニ集結、菊水一号(沖縄の米軍に対する航空特攻)作戦オヨビ第一遊撃部隊突入作戦ニ呼応、八日ヲ期シ総反撃ニ転ズベク作戦準備中」
「味方基地航空部隊ニ関シテハ、天一号作戦発動セラレ、連合艦隊司令長官指揮下ノ第五航艦ヲ基幹トシ、第三航艦、第十航艦、海上護衛総隊|麾下《きか》航空兵力、第一航艦及ビ陸軍第六空軍ノ総力ヲモツテ南西諸島来襲敵部隊ヲ攻撃中、更ニ四月六日ヲ期シ菊水一号作戦ヲ実施シ之ガ一挙撃滅ヲ期シアリ」
三、特攻隊の警戒等に関し、連合艦隊はそれぞれ次のように下命した。
「呉鎮長官ハ六日夕刻マデニ、部下艦艇、航空機ヲシテ、第一遊撃部隊行動未掃面(瀬戸内海西部及ビ豊後水道)ノ掃海ナラビニ豊後水道ノ対潜掃蕩ヲ実施セシムベシ」
「海軍護衛総隊指揮官ハ、部下航空機ヲモツテ、九州南方及ビ南東方海面ノ索敵ナラビニ対潜警戒ヲ実施スベシ」
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] 作戦の成否は、待ち受ける敵潜水艦、航空機の警戒網をいかに突破するかにかかっていたが、肝腎の警戒行動に関する命令は、このように簡単なものであった。
四、四月五日一六四七から二一一〇にわたり、第二艦隊長官は順次番号をもって燃料、魚雷、弾薬の移載及び搭載を発令した。
四月六日〇六〇〇、第一遊撃部隊の大部分は徳山港外に仮泊し、前日に引続き不要物件、機密書類等の陸揚げを実施した。
出撃命令を受ける大和[#「出撃命令を受ける大和」はゴシック体] 関係者証言
○「大和」(以下特記なければ同じ)副長、能村次郎大佐(四十四歳)
四月五日午後、戦艦大和艦上では、毎日の軍艦日課である各種整備作業、兵器機関の調整、手入れが各分隊毎に行なわれていた。
私は、艦内作業を見まわって主砲第一砲塔右舷で一休みしていた。
艦長有賀幸作大佐は、主砲第二砲塔右舷の傾斜甲板途中にある通称「艦長ハッチ」から出て私の所へ歩み寄った。無言で手渡した一片の紙、それは再び帰ることのない特攻出撃の命令書であった。私の動作は反射的に命令に対する日頃の処置に移っていた。主砲第一と第二砲塔の間にある円形のアーマーに付いた雨覆のあるボックスから、マイクを取り出した。
「准士官以上集合 第一砲塔右舷 急げ」
約五〇名の士官、准士官が戦闘服装、作業服装のまま集合した。
有賀艦長は、連合艦隊の出撃命令を伝達し、私からは出港前に為すべき作業、訓練の方針、艦内閉鎖等を指示し、次いで「総員集合 前甲板」を下命した。
当直配置員を除く約二五〇〇名は粛然と前甲板に整列した。乗員は沖縄戦が始まったばかりであることを知っていた。その緊張感の中にある集合のため、辺りは特に深閑として、耳には機関と波の音のみが響いた。一同は列を正し、全神経を研ぎすましてわれを忘れ、無に帰って艦長の言葉を待っていた。
艦長は天一号作戦の大要を話し、「乗員各員捨身必殺の攻撃精神を発揮し、日本海軍最後の艦隊として全国民の輿望《よぼう》にこたえるように」と結んだ。続いて私は、「只今、艦長が読まれた艦隊命令の通り、その時が来た。日頃の鍛錬を十二分に発揮し、戦勢を挽回する真の神風大和になりたいと思う」と述べた。
太陽はすでに島陰に傾き、残陽は前甲板を埋める戦闘服の乗員の頭上を赤く照らしていた。「解散」、それぞれ受持甲板に散っていく乗員の駈け足の動作にも、気合がぐっと入っていた。
私は、しばらく当直将校の場所から作業の様子を見ていたが、自分の下した命令がどの程度執行されているか、下した命令に対する反応を見るために、艦内を巡回することにした。
可燃物、不要物の陸揚げに忙しい応急員。各分隊ごとに消火装置の点検および隔壁防禦扉蓋の閉鎖、機密書類の処分等、実施の手順は予め定まっているから、作業はどんどんはかどった。
乗組員は身の回りの整理に忙しい。服を着更え、頭を刈る。運用科では、全員手紙を書いた。「生きて再び内地に帰るとは思えんから、髪の毛と爪を形見として送れ」と叫んでいる者がいる。小山水兵長は有金の中から一〇〇円だけ家に送った。
分隊によってはなにもやらん所もあった。工作科の前宮上等水兵は、もちろん今度の出撃の意味は悟っていたが、手紙もなにも残さなかった。訓示の中で出撃の心構えを聞かされたが、年は若かったし、特攻隊≠ニ言われてもピンとこなかった。自分の艦(大和)は沈まんもんやと思い込んでいた。戦闘があって大和が沈んで、そしてどうのこうのというようなことは、夢にも考えなかった。それよりも出撃となれば十八歳でも酒が飲ましてもらえることがうれしかった。飲んで騒いで大いに歌った。
「酒保開け」当直将校の号令が艦内拡声器を通して響いた。
私はかつて第一戦隊司令官宇垣纒中将が捷号作戦後、大和から第五航空艦隊司令長官に転任する折、士官室にお招きしてお礼の言葉を送るとともに、別れの食事を士官一同で御一緒したことを思い起こした。そこで最後の夕食に有賀艦長をお招きし、士官一同で食事を共にすることにした。艦長は艦内におけるオールマイティーであり、詰らぬことに煩わされない配慮から、常に自室で食事をされることになっていた。
有賀艦長が士官室に入り席につかれると、向い合って立った私は、「数度の戦闘に参加した我々は、本艦の技量と兵器に絶対の信頼を持っております。各自最善を尽して艦長の期待にそうことを、一同に代り申し上げます。ここに杯をあげて、艦長のご武運をお祈りいたします」といって艦長に目礼をした。湯のみ茶碗に清冷酒「賀茂鶴」がなみなみと注がれた。有賀艦長は「ありがとう」とだけ答えた。
この時の状況は、別段緊張もなく、平素の食事と同じで、有賀艦長を中心に、左右に林紫郎内務長、高城為行機関長、茂木史朗航海長など三、四人のグループで雑談をした。大尉クラスのテーブルでも、特に緊張のために青い顔をしている者はなく、沖縄の戦況に対する所感とか、艦内の片づけ作業やそれに対する兵員のキビキビした動作の話題で、時々笑い声が聞えていた。
有賀艦長は士官室の宴会を中座し、私を伴って艦内を一巡した。第一士官次室(ガンルーム)に一升ビンを片手に下げた有賀艦長が現われたのは、それから間もなくのことであった。室長の臼淵大尉が「皇国の興廃のため、思いきって戦おうではないか……」と挨拶し、食卓には酒盃が配られ高らかに乾杯の音頭がとられた。
第二次室では、兵出身の鍛えぬかれた士官たちが、殺気立つこともなく、たとえ死んでも悔いなしと祖国の繁栄を念じつつ、まことにのどかな宴であった。
○機銃群指揮官、松本繁太郎少尉(三十三歳)
乾杯の後も、分隊士は出撃前の一カ月分の人事関係事務処理に忙しかった。各掌長は、不要物件の陸揚げ、戦闘時の応急処理、弾不足の時の処置等を打ち合わせ、直ぐ自分の分隊に散っていった。
機銃群の分隊では、自分の居住区に車座になって宴会が始まった。「明日はやろうぜ」「酒をそう持ってくるなよ、あっちもこっちも盃を受けなくちゃならんからな」とほがらかな宴会であった。
○運用科、藤田照夫上等水兵(二十歳)
二等下士官に居住区に連れて行かれ、最後の土産と言って整列させられ、どづかれた。これには本当に腹が立った。
○一番副砲砲員長、三笠逸男上曹(二十六歳)
六日朝、艦は燃料搭載のため三田尻沖より徳山沖に回航、錨を入れる。油船がなかなか来ない。駆逐艦が一隻横付けして、タンクの底をはたいて燃料をくれた。夕方、二回小さな油船が来た。
日没前、露天甲板で会った機関科倉庫長の笠井兵曹にきくと、燃料事務を受持つ彼は声を落として、「徳山海岸にずらり並んだ四十数個のタンクはすでに空で、僅かに残っている油は、護衛駆逐船が搭載してなくなってしまったであろう。こちらの島に残っている油を全力で集めている」とのことだった。
さらに「駆逐艦に搭載した油は大豆油だそうだよ。本艦の搭載量も、せいぜいかき集めて四〇〇〇トン位のものだろう」と話す笠井兵曹の瞳は暗かった。
海軍最後の出撃部隊の燃料が、なかなか集まらない程おさえこまれた日本が、果たして最後の勝利を得られるだろうか。(私記『油泥の海』より、以下同じ)
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] 四月五日。この日は、もう一つの出来事が歴史にしるされている。不評の小磯内閣が、比島決戦敗北の責任と和平工作失敗を直接の理由として、八カ月の短命で総辞職したことである。後継首相には、海軍出身の鈴木貫太郎枢密院議長が推され、鈴木内閣が成立したのは四月七日、戦艦大和沈没の日であった。
[#1字下げ] 鈴木内閣が、四カ月後に終戦実現の使命を果たすことを思えば、四月五日は、戦争から和平への転機をはらむ重大な日であったということができよう。
特攻出撃の感慨[#「特攻出撃の感慨」はゴシック体]
生存者証言
○第二艦隊砲術参謀、宮本鷹雄中佐(三十八歳)
B29がブンブン日本本土を襲っている時、銃後では竹槍の稽古をしている時、そして訓練の不充分な搭乗員が練習機に爆弾をつけて沖縄特攻に飛び立っていく時に、瀬戸内海で訓練を続けながら、この「大和」が本土決戦までジッと待っているわけにはいかないと思った。われわれの戦友が沖縄で次々と倒れるのを、見殺しにするわけにはいかないと思った。
今までの作戦は、負け戦さでも帰ってくる道が講じられていたが、今度は燃料片道で、死んで帰れという命令を受けたんだということが実感できた。そう思うと、出撃の前に駆逐艦に重油を分けてやる時も、母親が子供に乳をやるような、余裕のある気分だった。
○「雪風」砲術長、田口康生大尉(二十三歳)
徳山港沖で重油を積む時、一部の駆逐艦は満州からの大豆油をつみこんだ。馬力が出ない。それでも無理をすれば三〇ノットは出た。煙突から豆を炊いている匂いがした。「ハトみたいなものだな」と笑いながら、士気は上がっていた。
寺内艦長は、本当に死ぬことを恐れない人だと思った。特攻出撃命令をきいて大和から帰ってきても、平然としていた。ただ「大事な時が来たぞ」と言って、恩賜の酒をのんでおられた。
○測手、石田直義上曹(二十八歳)
戦争をやって、恐ろしいと思ったことはない。自分が死ぬとも考えていなかった。
運の強いことには自信があった。
大和乗艦が決まった時、大和はトラック島にいたので、空母龍鳳に便乗して赴任した。横須賀を出たあけの朝、魚雷が命中し、同室にいた五〇名中四十九名が戦死したが、私は便所にいっていて、二分間の差で一人だけ助かったこともあったからだ。
○見張長、渡辺志郎少尉(三十歳)
レイテでは直掩機なしの裸艦隊というハンデを克服して、あれだけの戦果をあげて帰ってきたのだから、対空射撃なら自信満々だった。国民に対する責任もある。われわれがやらずして、誰がやるんか。
九州から沖縄までは、わずか三五〇マイルしかない。十九年の十一月に奇襲に成功したウルシーまでの距離の、三分の一か四分の一しかない。一日分の航程もないから、まるで箱庭の池で戦さをするように感じた。完全ではないが、味方の航空機の勢力圏にあるともいえる。ヤケッパチではなく、命を捧げる代りに、必ず戦果をあげてみせるという自信にあふれていた。
出撃直前に、新井先任下士に命じて、船倉から航海日誌を持ってこさせた。そして大和の就役以来今日までの作戦行動航程を集計させてみると、約一万三千|浬《カイリ》という長さになった。この距離が、あとどのくらい伸びるんかな、と考えた。
われわれ兵隊上がりの特務士官は、特に百戦練磨の精鋭ぞろいだった。五日の夜は、所属する二次室で、最後の酒盛りをやった。格別殺気立ったこともなく、普段の訓練に出動するのと同じ和気あいあいの宴であった。お開きはわりと早かったが、遅くまで呑みつづけているものが約一割、平素と同じ相手で碁を打つもの二組、タバコを吸いながら談笑しているものや、遺書を書きに寝室にもどる者もいた。俺はいつもの仲間とダイヤモンド・ゲームを楽しんでから、出撃に備えて早目に寝た。寝ながら思ったことは、うまく言えないが、ただ祖国の発展と繁栄を祈りたい、というような気持だった。
遺書は二次士官室四〇名の分をまとめて、必ず家族のところに届くよう、特に郵便局長に依頼する手筈を整えた。
部下の中で新井兵曹と水測兵員長の海本兵曹は、共に新婚一週間ぐらいであった。
呉を出撃する折、分隊長の西下大尉から、「分隊士、後顧の憂いのある人間は退艦させる必要があるから、兵員の身上を調査せよと艦長より命令があった」と言われた。「大切な人事だから、分隊長と二人で調査しましょう」と答えた。
そこで、分隊長の室で、先任下士官以下、全航海科分隊員を一人一人呼んで、身上を調査した。「遠慮はいらないから何でも申してみよ」。しかし誰一人として退艦を望む者はなかった。
新井兵曹と海本兵曹両名の結婚許可願を受理したばかりで、その身上を知っているので、それとはなしに、出来れば退艦させてやろうというような配慮のある言葉を使ったが、彼らは微動だもしなかった。そこで「航海科員、全員、出撃前退艦を要する者、該当者なし」と副長に報告したのであった。
掌航海長花田泰祐中尉が、そんな想いを断ち切るように声をかけた。
「おい、見張長、上(艦橋)にあがろうぜ」
「もうこの二次室も見収めだな」
配給の虎屋の羊羹と軍刀を持ち、一番良い軍服を身につけ、肌着まで真新しいものに着がえて、艦橋に登った。
以後、花田中尉とは、二度と会うことはなかった。出撃三〇分前の出来事だった。
○艦長伝令、塚本高夫二曹(主砲幹部指揮所、二十八歳)
居住区は最下甲板左舷にあった。
最後の手紙には大判の写真一枚と爪、髪の毛だけを入れ、遺書は書かなかった。
「酒保開け」。副長から飲めるだけ飲め。士官も兵もない。酒はいくらでもあった。飲めや騒げや、前部指揮所一六名と後部指揮所八名。しかし出撃に関する話は出なかった。
「明日に備え、この辺で納めるように」と艦内放送。みな、なかなか寝つかれなかった。その時になって、死んだらどうするという寝話が出た。
○航海士、山森直清中尉(二十三歳)
自分の任務は、自艦の位置の確認と、艦橋中心の信号である。しかしどういうわけか、徳山沖にいつ行ったか、いつそこを出港したかの時間的記憶はない。
出撃に際して、軍刀をひと振り持っていた。名のある刀ではないが、郷里(富山)の鍛冶屋の宮本さんという人の苦心の作で、よく出来ていた。好きだった。フネが沈没して救助された時、惜しいことをしたなと、まず刀のことを思いうかべた。
出撃以来、大事に持っていたのは配給の菓子だ。酒もあまりのまず、タバコもやらず、菓子だけが楽しみで、虎屋の羊羹をたべずに沈めてしまったときは、本当に惜しかったと残念でならなかった。
特攻出撃だからといって、特別の感慨はなかった。
戦闘に対する考え方としては、自分に与えられた仕事を一〇〇パーセント全うするという使命感、責任感、それがすべてに優先していた。出撃の前に少なくとも私は、いよいよ明日は死ぬんだという悲壮な考えを、改めて確認する必要を感じなかった。
海軍に身を投じた時からそのつもりだったし、三年近く兵学校で鍛えられてそういう気持になり切っていた。いやしくもプロ(職業軍人)である我々が、その頃になって死に対して改めて確認せにゃならないとか、疑問を持つとかいうことはなかった。これは当時のすべての人にいえるのではないか。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
特攻出撃命令令達のため准士官以上が集められた時、副長から片道燃料である旨が伝達された。燃料搭載作業が終ってからは、ほとんどの乗員が片道の燃料しかないことを知っていた。
二次士官室は忙しい人ばかりで、飲んでいる暇がない。乾盃のあとも、座がまとまらず、「お前のところの弾薬、どうなってるか」「そうなったら、こうするんじゃ」と打ち合わせに忙しい。
副長や砲術長も来られて、「明日はやろうぜ」と気勢をあげたが、朗らかななかに、それでも一抹の打ち解けないものがあったことは事実だ。しかし酒盛りが終って帰ると、くたくたなので直ぐ寝てしまった。
翌六日の朝、不要物件の陸揚げ作業中も、空襲に備えて機銃員はいつでも射てるよう態勢を整えていた。
[#1字下げ]候補生の退艦[#「候補生の退艦」はゴシック体](海軍戦史、防衛庁戦史、高田静男候補生、秘録『知られざる大和の出発』および阿部一孝候補生『艦橋の長いラッタル』より)
大和の能村副長は五日夕刻、出撃命令下達の総員集合のあと艦内作業を見まわっている最中に、艦長に呼ばれて右舷上甲板の艦長室を訪ねた。有賀艦長は、「副長、少尉候補生は今夜退艦させることにした」と静かに言った。
副長は、次のように推測した──こういう重大な人事問題は、艦長独断というわけにはいかない。艦隊司令部と相談しなければ決められないので、当然同じ艦内におられる第二艦隊司令長官伊藤整一中将と相談の上、決定されたものであろう。
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] この推測通り、退艦は総員集合の解散後、有賀艦長が同期の森下第二艦隊参謀長に相談し、伊藤長官の同意を得て決定したものといわれている。
「候補生退艦用意」「候補生集合、艦長室前」の号令が発せられたのは、午後五時三十分であった。
ここで候補生というのは、兵科は七十四期、主計科は三十五期で、それぞれ海軍兵学校、海軍経理学校を三月三十一日に卒業し、数日を経た四月二日、内海西部の三田尻沖に着任したばかり、矢矧乗組を合わせて総員七三名の若者たちであった。
彼らは赴任の行動を秘匿するため、たとえば兵学校の場合は、表桟橋を出て江田島を一まわりし(高田候補生は、「大和の姿が泊地になく、一同落胆した」と記録している)、小用《こよう》桟橋からまた兵学校に戻り、四月一日まで養浩館(生徒の喫茶休養用の建物)で待機させられた末、ようやく配乗を許されたのであった。
このような特別な処遇を受けた感奮と、同期生中真っ先に第一線に馳せ参ずる幸運に、若者たちは文字通り血湧き肉躍る思いであった≠ニ回想している。
彼らは卒業まで一号生徒として自信をもって下級生を指導してきたが、もとより実戦経験はない。そこで一、二期先輩の歴戦の勇士から、二、三日の短い期間ながら実戦配置に即応した猛烈な訓練を受けたという。
戦艦大和の高い舷門を登り切った一同の眼にまず映ったのは、当直将校がきちっとした楷書で黒板に書いた「天一号作戦|云々《うんぬん》」の文字であった。いよいよ沖縄決戦も間近いぞ、と大いに気をよくしたことはいうまでもない。
艦ではすでに指導官、指導官付を任命して候補生の到着を待っており、翌日には早速各員の配置が発令され、配置訓練と艦内各部の訓練見学が始められた。初級士官として主砲から機銃群までの基本操作、艦橋勤務のあり方、機械室、罐室の概況などを把握しておかなければならない。その上、指揮系統の大筋をつかむことも要求された。
彼らは着任の際、内火艇が舷側に近づくにつれて、大和の雄壮な外観にまず圧倒されたが、乗艦後の番外教育として、ハンモックをかついだまま上甲板を一周しなければならなかった時、その途方もない広大さに今更ながら舌を巻く思いであった。
しかしそれ以上に驚異であったのは、上下左右に立体的に張りめぐらされた、迷路のような複雑な艦内通路であった。臨戦配備で主要通路が閉鎖された中を、駈け足で実施される艦内旅行では、息をつく暇もなく、艦内構造と各部配置を頭に叩きこむのにただ必死であった。
高田静男候補生証言
私は、注排水指揮所の分隊士を拝命した。着任して数日後の夜、「酒保開ケ」の号令が出てから配置で酒をのんでいると、「分隊士、分隊士」と呼ぶものがいる。呼ばれるはずがないので続けてのんでいると、眼の前にやってきて、機関科の高井兵曹長だと名乗った。「高田」の姓を乗艦者名簿で見て、もしかしたら前の家の長男で兵学校に行っていた高田さんではないかと思って、訪ねてきた、めったに家に帰れないので久しくお会いしてないが、とのことであった。
それから高井兵曹長の配置に行って、とっておきのブドウ酒を御馳走になった。煙草をすすめられて、「自分はまだ吸えないのです」と断るほど、純情なものだった。そして「拡声器で候補生を呼んでますよ」と言われて、それが二人の別れとなった。
その日の午後、出撃準備命令が出されると、早速駆逐艦が横付けして、燃料搭載作業をはじめた。候補生は「燃料搭載見学」を命じられ、中には馴れない作業を進んで手伝おうとする者もいた。しばらく前、特攻出撃命令を|じか《ヽヽ》に自分の耳で聞いた昂奮は、まだ胸に息づいている。そこに突然、退艦用意、艦長室前集合の命が下ったのである。
候補生がいぶかしげな表情で集まると、副長は艦長室に入り、「候補生揃いました」と報告した。艦長は候補生一同の敬礼を受けたのち、おもむろに口を開いた。その後の経過は、能村副長の手記『慟哭の海』を参考にすれば次のようである。──
「大和乗組は、皆の長い念願だったと思う。しかし熟慮の結果、今回の出撃には皆を加えないことになった。沖縄には我々が行く。出撃を前に退艦することは残念だろうが、君達には後に残ってやってもらいたいことがある。第二、第三の大和が待っておるだろう。それに備えてよく練磨し、りっぱな戦力になってもらいたい。では、ごきげんよう」
慈父のような言葉を、重い口調で語って艦長が立去ると、みな頭を垂れて茫然としている中で、われに返った候補生の一人が、
「副長、我々は大和艦上で倒れる覚悟は出来ております。いま降ろされては残念です。艦長にお願いして是非つれて行って下さい。お願いします」
「お願いします」が異口同音となって、五三名の口から叫ばれた。(海軍辞令公報によれば、大和乗組は四九名)
私は返事に窮し、しばらく皆の顔を見渡した。彼らの気持はよく分るが、艦上勤務に馴れないため、いまの修練程度では、とうてい戦闘の役に立たない。しかし生き残れば、これからさき国のために働きうる有為な青年たちである。今すぐお役に立てない者を出撃に参加させ、明白な死への道連れにする必要はない。私ははっきり言った。
「皆の気持はよく分る。私がもし皆の立場だったら、やはり同じことをいうだろう。乗艦して三日にしかならない皆をこのまま連れて行っても、足手まといになるだけだ。艦長の言われる通り、この際潔く降りることが一番よいと思う。出てゆくわれわれが国のためなら、残る皆もまた国のためなのだ。大きな気持になってよく考えてもらいたい。かげながら皆の健闘を祈っている」
もはや言葉を返すものはなかった。──
しかし候補生たちは、このまま引き下がるわけにはいかない。出撃を目の前にして艦長、副長からこもごも降りろといわれても、絶対承服出来ないという空気が大勢を占めた。一部には命令だから従うほかないという自重論もあったが、結局艦長に直訴して退艦を取り消してもらおうということになり、先任者の阿部一孝候補生が、代表として選ばれた。
艦長はすでに艦橋に上がっておられるという。戦闘艦橋では、戦闘服装に身を固めて配置に就いた有賀艦長が、待ち構えるようにしていた。そして阿部候植生の顔を見ると、やっぱり来たな、といった表情で向き直った。阿部候補生は、どのように意見具申をしようかといろいろ思案していたこともすべて忘れ、ただ何とかして沖縄に連れて行っていただきたいと、しゃにむに懇願した。
有賀艦長は、「君たちの気持は分るが、この戦さはまだまだ先が長い。若い者には、他にもっと働き甲斐のある機会があるだろう。よく聞き分けてくれ。たのむ」と諭《さと》すように言った。
そのとき艦長のそばに立っていた一人の士官が、連れていっても足手まといになるだけだ、ということを重ねてほのめかした。それを聞いて、阿部候補生は、ここまで言われては、いくら頑張ってみても駄目だ、と観念した。
先刻意気ごんで駈け上がった長いラッタルを、阿部候補生は今度は一段一段下りながら、自分一人だけが無理矢理に納得させられたが、帰ってから皆が承知してくれるだろうか、と自信がなかった。その頃、主計科の先任坂本克郎候補生は、経理学校時代、分隊伍長と分隊監事の関係で親しくしていた先輩石田恒夫少佐(第二艦隊副官)に、強硬に抗議していた。石田副官は、楠|正成《まさしげ》が桜井駅で、「われ亡きあと、わが遺志をついで忠勤をはげめ」との遺訓を残し、わが子|正行《まさつら》と別れた故事を引用して、粘り強く説得した。
艦長以下幹部の決意がここまで固い以上、兵科も主計科も、不本意ながら命を受けて退散することは、避け難い成行きであったと思われる。
なお候補生のほかにも、同じく実戦に役立たず足手まといとなるおそれのある重患の病人十数名と、戦闘配置に不馴れな新乗艦の補充兵十数名が、ともに退艦することになった。
以上のように大量の退艦者が出たのは、突入作戦の結末を考慮した特段の措置であったといってよいであろう。
作戦計画[#「作戦計画」はゴシック体]
一、連合艦隊参謀長より第一遊撃部隊司令官へ(GF機密第〇六〇八二七番電)
受信、四月六日 〇九五〇
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1) 出撃兵力及ビ出撃時機ハ、貴要望通リトセラレタルモ、燃料ニ付テハ戦争指導ノ要求ニ基キ、連合艦隊機密〇五一四四六番電通リ、二〇〇〇トン以内トセラレ度《タシ》(=米軍解読)
(2) 右ニ関連、掃蕩隊ノ兵力並ビニ行動ヲ機宜制限セラレ度(略)
[#ここで字下げ終わり]
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] このように、護衛駆逐艦を六隻から八隻に増強すべきであるとする第一遊撃部隊の要望は受け入れられたが、保有燃料は制限され、対潜掃蕩隊の活用にも大きな留保がつけられていた。
[#1字下げ] ただし燃料が片道分(二〇〇〇トン以内)に制限されていたという点については、これを否定する記録、証言がある。
出撃時の各艦燃料搭載量(戦闘詳報)
[#1字下げ]大和 四〇〇〇トン(満載六三〇〇トン)
[#1字下げ]矢矧 一二五〇トン
[#1字下げ]駆逐艦 全艦搭載量(九〇〇トンから五〇〇トン)
関係者証言
○連合艦隊参謀、小林儀作中佐(機関関係、四十一歳)
連合艦隊司令長官古賀大将が戦死された時、奥村参謀の後任として、二年間勤務した軍令部から連合艦隊に転任して来た。そういった関係で、燃料の補給作戦に関して良く理解していた。いつ質問されてもいいように、自分で勉強して答えられる資料を持っていた。
連合艦隊司令部で毎朝行なわれる作戦会議では、長官を補佐する立場にある幕僚が、大和出撃に関していろいろな意見を出した。敵に制空権を取られている時、大艦を出しても敵飛行機の餌食になるだけだ。無理だ。しかしこのまま沈めるより、軍艦としての華々しい最後を飾らせることの意味はある。万が一沖縄に突入したら、一八|吋《インチ》砲を射ちこませる。ただ燃料が片道だけだと、仮りに大和が無傷の場合、油がないから帰れないでは、武人の情を知らないといわれるじゃあないか。
豊田長官は侃々諤々《かんかんがくがく》の意見を出させて、じっと聞いていた。そして「大和は沖縄に突入さす」と断を下し、「協力しろ」と宣言した。第二艦隊への連絡は、電報だけでなく、参謀長自身が行けと言われた。
軍令部の掌握している燃料の状況では、国内に対する物資の輸送や潜水艦の警備等、いろいろ考えると余裕がない。しかし連合艦隊司令部は、どうしても沖縄に大和を突入させると決めている。そこで軍令部が首脳会議を行ない、その結論は「燃料は片道」ということになった。私は補給作戦実施のためにぜひ行かしてくれと特に頼んで、柱島に行った。
大和に行って機関参謀松岡少佐に会い「補給は僕がするが、いいか」「まかせる」。そこで高速艇で呉鎮守府の補給参謀、今井和夫中佐に会った。兵学校一号、三号の関係で仲が良かった。「重油の在庫を知りたい。帳簿外の油がなんぼあるか」と聞いた。今井参謀は「二、三〇〇〇トンあります」と答えた。
呉の傘下のタンクの許容量は三五〇万トンあったが、当時大部分が空になっていた。しかしタンクの底はお碗をふせたように山型になっているので、普通給油を終って油が引いても、両サイドには油がたまっている。実は大和を突入させるが、その油は軍令部の命令で片道だけだ。我々として、武士の情を知らんような事は出来ない。軍令部の言う分は帳簿から出して、それ以外は帳簿外から──空タンクの両側にたまっている分を手押しポンプで揚げて──出してくれ」。今井参謀は「それはぜひやります」と答えた。
タンクの底の重油は報告していない。これを集めれば約五万トンの在庫があった。「補給命令では片道分の重油搭載を発令したが、緊急搭載であわてて、積み過ぎた。積み過ぎた分を油バージに吸い取ろうとしたが、出撃に間に合わずその儘にした」ということにした。これで今井参謀の快諾を得た。
呉鎮先任参謀井上憲一大佐、参謀副長小山敏明大佐、参謀長橋本象造少将も「それはぜひやってくれ」と承認された。手筈をととのえて大和へ戻り、先任参謀山本祐二大佐に「こうなりました」と報告した。それで出撃した。(一部、『海軍生活の思い出』海軍機関学校三十三期級会編より)
○連合艦隊参謀、千早正隆中佐(砲術関係、三十五歳)
日吉の連合艦隊司令部で会議中、いきなり「第二艦隊を突入させよう」と神《かみ》参謀が言った。神参謀は良く物事を考える人であるが、口に出す時はいきなりポコッと言う人で、他の人から見ると思い付きにとられる面があった。私は「燃料は?」ときいた。関政一補給参謀が「二〇〇〇トン」と答えた。片道ではしようがない。それでは話にならない。会議中断。
私は別室で海図にコンパスを当て、沖縄までのコースを引いてみた。関参謀は、徳山にいる先任機関参謀小林儀作中佐に電話をした。彼は大和突入の話を聞いて、自分としても最後の務めをしたいと考え、軍令部に行って帳簿外を調べたら、あったという。そこで小林中佐から電話があり、出撃が決定された。計六〇〇〇トンを補給した。掌機長の腕の見せ所は、帳簿外の油を持っている事であった。
[#1字下げ]佐世保着時在庫量 出撃時在庫量
[#1字下げ]大和 ── 四〇〇〇トン
[#1字下げ]矢矧 ── 一二五〇トン
[#1字下げ]冬月 四〇〇トン 九〇〇トン
[#1字下げ]涼月 五八二トン 九〇〇トン
[#1字下げ]磯風 ── 五九九トン
[#1字下げ]浜風 ── 五九九トン
[#1字下げ]雪風 四一八トン 五八八トン
[#1字下げ]朝霜 ── 五四〇トン
[#1字下げ]霞 ── 五九九トン
[#1字下げ]初霜 三〇〇トン 五〇〇トン
[#2字下げ]計一七〇〇トン 計一〇四七五トン
(参考)
[#1字下げ]三月二十七日、第一遊撃部隊急速出撃準備時在庫量
[#3字下げ]駆逐艦 燃料満載
[#3字下げ]大和 三〇〇〇トン
[#3字下げ]矢矧 一〇〇〇トン
○海上護衛総司令部参謀、大井篤大佐(四十三歳)
四月六日、軍令部の通信諜報班の班員の一人が総司令部の参謀室にやってきて、「いま軍令部に行って、聞いたんですが、戦艦大和で沖縄に突入作戦をやるそうですよ」と参謀の一人に耳うちすると、そそくさと出て行った。それから間もなく、海軍省から電話が総司令部にかかってきた。
「この間、重油を七千トンやると約束したんだが、あれは駄目になったよ。大和が沖縄に突入するからどうしても四千トンやらなければいけないことになったんだ。だから、三千トンしか護衛総隊には渡せないことになったわけだ。しかし、えらいことになったな。大和は特攻だってよ。片道だけの燃料しかもって行かないんだそうだ」
電話に出た護衛総司令部の護衛参謀はビックリした。先程は「大和の突入」ときいても他人ごとのように聞き流したのであるが、七干トンの重油が三千トンに減らされるとなると、これは一大事である。北支航路(食料確保)の護衛計画は御破算である。まして朝鮮海峡の対潜哨戒は碌《ろく》なことが出来なくなる。そう思うと反射的に大和の特攻突入そのものが実に不合理きわまる腹立たしいものに考えられてきた。(略)
連合艦隊司令部との直通電話のハンドルをまわした。(略)「大和部隊の出動のことですか。そのことで、いまちょうどあなたのところに命令を伝えようとしているところでした」(略)
「しかし、沖縄に行って四六糎砲を射ちまくると力んでみても、そんな所に着くまでに撃沈されてしまうにきまっているじゃないですか」「その公算も大いにあるんですがね、ねらいは他にもあるらしいんです。航空部隊にばかり特攻をやらせて、水上部隊が手をこまねいてみているわけにはゆかないという気持が大いにあるようです。それでこういう訓示が電報で出されることになっています。短いから全文読んでみましょう」
「光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず」という句がでてきた。しかもこれが訓示全文の要点になっている。護衛参謀は先程から、むかっ腹が立って仕様がなかったが、この文句をきいてカッとなった。「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ、馬鹿野郎」、そうどなりつけるように言って、ガチャンと受話器をかけた。そう言った当人には「馬鹿野郎」と言ってしまったことも後悔せられたが、そういうより他に言いようのない連合艦隊の人達の頭のおき方がなさけなく感ぜられた。
彼は、長い間、連合艦隊主義の行き過ぎが、日本を毒していると考えてきたが、いま、その連合艦隊主義の毒素のありかを、ハッキリと、つき止めたような気がした。「伝統、栄光」、みんな窓の外に見える桜のように美しい言葉だ。しかし、連合艦隊主義は、連合艦隊の伝統と栄光のために、それが奉仕すべき日本という国家利益をまで犠牲にしている。この際、四千トンという重油があれば大陸からの物資輸送は活撥に行なわれ、又、日本海への敵潜の侵入を食い止めるのに大いに役立つのに、大和隊に使う四千トンは、一体、日本に何をもたらすのだろう。敵軍をして、いたずらに「大和討ち取り」の歓声をあげさせるだけではないのか。そう考えて護衛参謀は実に憂うつであった。
戦後になって聞くところによれば、呉鎮守府の軍需部の連中は、大和に対し、片道だけの油をやるに忍びず、コッソリ、その量は知らないが、帰り道の油をも供給したということである。人情美談といえば人情美談ともいえる。浪花節に感激し、講談に血をわかす、これらの人々はこれでいいかもしれない。しかし連合艦隊司令部というような最高度の責任を国家にもっておるところでは、それではすまないはずであった。お涙頂戴や武勇伝で戦略指導が出来るものではないからである。(『海上護衛戦』)
二、連合艦隊参謀長より天一号作戦部隊へ(第〇六一三三八番電)
四月六日 一三三八発
(1) 海上特攻隊ノ行動ニ関連、彼我ノ艦艇ノ混淆《こんこう》錯綜ヲ予期サルル所、ワガ飛行機ハ味方艦艇ニ接近セザル如ク注意セシムルト共ニ、右特攻隊ノ兵力、行動及ビ艦型ノ特徴等ヲ全搭乗員ニ教示徹底セシメ、味方識別ニ関シ遺憾ナキ様期セラレ度
二水戦戦闘詳報
三月二十九日、第一遊撃部隊は黎明時敵襲必至と判断、対空警戒を厳に航行中、伊予灘において〇五五六頃、敵味方不明機を発見。砲撃、二機撃墜。(三四三空、紫電隊と判明)
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 戦局|逼迫《ひつぱく》に伴い、前線の混乱のため同志討ちの続発を恐れた連合艦隊は、味方機の艦隊接近を強く規制するとともに、天一号作戦参加航空部隊に対し、初歩的な味方識別の指導を行なった。もともと掩護機の少ないことを心細く感じていた特攻艦隊が、これを受電した時の心情を想うべきである。
(2) 識別要点
艦艇ノ側方識別ニ当リテハ、先ヅ檣楼《しようろう》 (やぐら型マスト。通常その最上部に艦橋がある)及ビ煙突ニ着眼スルモノトシ、識別要点左ノ通リ(艦型名、隻数、特徴ノ順トシ、括弧内ハソノ類似艦ノ特徴ヲ示ス)
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(イ)大和 檣楼太ク艦中央ヤヤ後方ニ傾斜シ屹立《きつりつ》 (細ク直立)煙突一本ニシテ檣楼トノ間隔大
(ロ)矢矧 ホボ扁平ナル甲板上ニ檣楼及ビ一本煙突(艦中央ニシテ前者ヨリ低シ)ニシテ屹立 (英巡「レアニダー」型、両者同一)
(ハ)秋月型二隻 極メテ太ク後方ニ扁曲セル独特ノ本煙突ニシテ、変化ナク前方ニ扁在ス(艦首ヨリ全長ノ約三分一)煙突軸高ク扁曲セズ
(ニ)夕雲型六隻 艦橋前面砲塔一基ニシテ屹立(砲塔二段トナリ艦橋前面ニ傾斜シテ見ユ)一二本煙突ノ番煙突ノミ極メテ太ク艦橋トノ間隔大(二本トモ細長ク艦橋トノ間隔小)
[#ここで字下げ終わり]
三、四月六日一三〇五、第一遊撃部隊司令官は、同部隊の行動予定を、軍令部総長、佐鎮呉鎮司令長官、先遣部隊司令官、一航艦、三航艦、五航艦、第六艦隊、連合艦隊、沖縄根拠地部隊の各司令長官、呉防戦および第九五一海軍航空隊に無電通報した。
また通信連絡に関しては、五日二二〇三、第二艦隊参謀長名をもって、沖縄根拠地部隊司令長官と先遣部隊司令長官にあて次の無電を送り、直接通報関係を結ぶことを申し入れた。
「当艦隊ハ、八日黎明沖縄島ニ突入ノ予定ナルトコロ、七日十二時ヨリ直接貴隊ト連絡致シ度、使用電波暗号書、至急知ラセラレ度
ナホ当艦隊ハ佐鎮部隊通信系七四六〇KCニテ終始待機シアリ。沖縄付近敵情(特ニ西方海面、水上艦艇ノ動静)知ラセ。但シ電波輻射防衛上、『了解』信号出サザルコトアリ。念ノタメ」
これに対し、六日〇四三一、沖縄根拠地部隊司令長官から、返電があった。「使用暗号書、(アオ一四アテ六テニケ六)トス。ナホ四六三〇KCヲ待受サレ度」
さらに第二艦隊参謀長は、同日一五一九、佐鎮呉鎮司令長官あて「当艦隊、六日二〇時以降、呉通信系ヲ去ル」と無電した。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 以上は、内海出撃時点を境にして、第二艦隊が呉基地の通信系から沖縄根拠地通信系に移ることを予告したものであり、そこには内地海軍部隊に対する訣別の意がこめられていた。
四、一三〇〇、「大和」に駆逐艦艦長以上が参集し、作戦打ち合わせを行なった。
一四〇〇、九州鹿屋基地(連合艦隊前線作戦指揮所)に出張していた連合艦隊参謀長、草鹿龍之介中将が水上機で「大和に来艦し(水上部隊作戦担当参謀、三上作夫中佐随行)、本作戦に関する説明を行ない、第二艦隊長官訓示の後、参集者全員で首途を祝し乾杯した。
五、豊田連合艦隊司令長官は、六日、全軍に対し次の訓示電を送った。
GF機密第〇六〇〇〇一番電
「帝国海軍部隊ハ陸軍ト協力 空海陸ノ全力ヲ拳ゲテ沖縄島周辺ノ敵艦船ニ対スル総攻撃ヲ決行セントス
皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ挙ニアリ ココニ特ニ海上特攻隊ヲ編成シ壮烈無比ノ突入作戦ヲ命ジタルハ 帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ 光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揚スルト共ニ 其ノ栄光ヲ後昆《こうこん》ニ伝ヘントスルニ外ナラズ 各隊ハ其ノ特攻隊タルト否トヲ問ハズ 愈々殊死奮戦 敵艦隊ヲ随処ニ殲滅《せんめつ》シ以テ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ」
六、連合艦隊策定の作戦計画(命令作第二号、第三号)では、まず進撃接敵要領として、六日、一八時豊後水道を出撃、夜間大隅海峡を通過、南西諸島列島線西方を迂回進撃すべきことを命じ、沖縄への進撃航路については、東から第一、第二、第三と設定し、特令なければ第二航路を選ぶものとしている。続いて戦闘要領として、
「昼夜戦ヲ問ハズ、全軍結束、急速敵ニ肉薄、必死必殺ノ特攻攻撃ヲ本旨トス」
と示し、また計画策定上特に考慮した事項として次の四項目をあげている。
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(イ)敵機動部隊ガ奄美大島及ビ沖縄島東方ニアル現状ニオイテハ、突入作戦ハ東シナ海ノ北西ヨリ突入スルヲ可トス。突入時機ハ八日黎明ト定メラレアルヲモツテ、豊後水道ヲ六日日没時ニ通過、翌七日早朝ニハ大隅海峡ヲ通過シ、東シナ海洋上ニ出デ敵機ノ邀撃ヲ予期ス
(ロ)敵ノ有力ナル機動部隊出現ニ際シテハ、計画ニ捉ハルルコトナク東シナ海上ヲ北上シ、我ガ基地航空兵力ノ攻撃ノ成果ヲ俟《ま》ツテ突入スルコトアリ
(ハ)索敵及ビ対潜哨戒ハ、基地航空兵力及ビ掃蕩先遣部隊ノ兵力ニ依存ス 但シ大和搭載ノ艦 司水偵(一機)ハ対潜哨戒、矢矧機(一機)ハ突入前ノ偵察ニ使用ス
(ニ)海上特攻隊ノ本領ヲ発揮シ、弾丸ノ続ク限リ最後マデ奮戦シ生還ヲ期セズ
[#ここで字下げ終わり]
七、連合艦隊草鹿参謀長が大和艦上で行なった天一号海上作戦説明の骨子である「参謀長|口達覚《こうたつおぼえ》 (第一遊撃隊機密、第一号)は、まず心構えとして、次のように説いている。
作戦一般「(前略)戦局重大ナルハ特ニ述ベルマデモナク 国家存亡ノ岐路ニアリ 此ノ際海上部隊ノ最後ノ花形トシテ多年苦心演練シタル腕ヲ発揮シ得ル事ハ 武人トシテノ本懐コレニ過グルモノハアリマセン 此ノ上ハ弾丸ノ続ク限リ最後マデ一騎当千獅子奮迅ノ働キヲナシ 敵ノ一艦一艇ニ至ルマデコレヲ撃滅シ 戦勢ヲ一挙ニ挽回シ皇恩ノ万分ノ一ニ報イタイト存ジマス 海上特攻隊ト命名セラレタル所以モコノトコロニアルト存ジマス」
参謀長口達覚は、続いて夜戦および昼戦について各々腹案を練っておくべきことをあげ、さらに術科その他に関し、砲戦、魚雷戦、対空砲戦、対潜砲戦、対潜戦闘、および通信について綿密な着想事項をあたえている。
結語は次のようになっている。
「要スルニ当隊ハ海上特攻隊トシテノ任務ハ重大ナルモ艦隊ノ編成ハ変則ニシテ 更ニ乗員ノ交代後訓練不充分ナル点アリ 従ツテ各級指揮官ハ部下ノ能力ヲ充分ニ考へ 其ノ指揮統制ニ関シ超人的努力ヲ以テ細心大胆事ニ当リ ヨク個艦戦闘力ヲ万全ニ発揮センコトヲ望ム」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 参謀長口達覚は、続いて術科その他の作戦細目に関し中央の考え方を具体的に述べているので、以後関連箇所に引用することとしたい。
特攻作戦策定責任の所在[#「特攻作戦策定責任の所在」はゴシック体]
関係者証言
○連合艦隊司令長官、豊田副武大将(六十歳)
レイテ海戦をふり返ってみると、われわれはそのとき(日本艦隊が緒戦で大きな損害を蒙った時)に、これで果して作戦の遂行が出来るかどうかを非常に心配したものだった。このまま進撃を続ければ全滅するかも知れない。栗田長官は苦しくなって引き返すかも知れない。しかし今引き返したところで、水上を走る艦隊が飛行機の追撃を免れることは困難だ。進んでも退いても被害は五十歩百歩の差だ。それに、ひとたび退却をすれば再興は困難で、作戦全般を捨ててしまうことになる。
こう考えた私は、苦慮したあげく遂に意を決して、第一遊撃部隊に対し「天佑を確信し全軍突撃せよ」という電令を出したものだが、かけがえのない海上兵力の根幹と多数の最良の部下をみすみす死地に投ずる決意をするには、正に熱鉄を呑む思いをしたものである。すなわち昭和十九年十月二十四日、わが艦隊は、朝来頻りに敵機の空襲を受け、大艦は一隻また一隻と失われ、武蔵は落伍し大和は傷つき、その他にも被害続出するの報告を得た時、連合艦隊司令部の作戦室では、一同悲壮の感に打たれて多くを語る者もなかった。進むを可とするや、退くを利とするや。進めば全滅の危険あり、退くもまた万全を期し難い。私は苦慮した末、全軍突撃を下令したのである。
けだしレイテ敵手に落つれば比島失陥の端緒となり、比島失陥すれば日本本土と南方資源地帯との交通線は遮断せられ、持久抗戦の態勢は破綻するのみならず、海軍としては、その海上部隊は内地に在っては燃料も得られず、南方に在っては兵器、弾薬を得られず、全く無用の長物と化さざるを得ないと考えたからであった。
古来敗戦における "Fleet in being"(ただ無為に過ごす艦隊)は兵家の最も戒むるところであって、この際僅かな勝算に対しても、全艦隊の運命を賭するにしかぬ事は、事理として極めて明白であるが、国家存亡の危機に直面して、現実に海軍兵力の主幹と最愛の精兵とを、みすみす死地に投ずるの決意をするには、正に熱鉄を呑むの思いをした。
昭和二十年四月七日、戦艦大和、巡洋艦一隻、駆逐艦八隻をもって水上特攻隊を編成し、沖縄に対し決死的突入作戦を実施したが、恨むらくは空中支援の兵力足らず、中途で敵機動部隊の猛撃を受けて兵力の大部を失い、遂に計画は挫折した。
申すまでもなく沖縄水上特攻部隊は、海軍の有した最後の可動艦艇であり、燃料は真に最後の一滴を集めてこれに与えた。しかし高速では片道の燃料しかない。帰ってきてはいかんとはいわないが、燃料があったら帰ってこいということにした。
ただこの計画を裁決せざるを得なかったときの苦悩は、前年レイテ海戦に際して全軍に突撃を命じたとき以上のものであったことだけは事実である。
沖縄作戦はかくの如くして、陸海軍ともあらゆる戦力を傾倒して奮闘すること二カ月余りに及んだが、六月に入って大勢既に決し、戦勢|挽回《ばんかい》の望みは絶たれた。
そもそも太平洋戦争が海軍を枢軸とした作戦であることは明白な事実であるが、戦勢悪化した末期においても、反攻の機動兵力は専ら海軍の握るところであり、またその航空兵力は質量ともに陸軍のそれよりも優越していた事実からして、海軍の責任はますます加重するばかりで、私は祖国の存亡が全く私独りの双肩に懸っているとの重圧から、夢寐《むび》の間も免れることが出来なかった。
敗残の戦力を根こそぎかき集めたところで、圧倒的な敵の大兵力に対して、必勝の算の立ち難いのは自明の理であることは承知しながらも、雄心を振い興して戦備の促進と、戦勢転換の方策案画に文字通り脳漿《のうしよう》を絞った。行住坐臥の間|他所目《よそめ》には放心、無為に見えたかもしれないが、私の脳裡には太平洋の海図と敵機動部隊の動静とが、パノラマのように去来せぬときは寸時もなかった。
かくの如く、私は法規の定むる連合艦隊司令長官の職責に基づき、かつ現実の戦局が私に、至上の責務として命じたところのもの、すなわち作戦の大局を案画指導することに、心身ともに精魂を傾倒せざるを得なかった。
もし私が麾下《きか》作戦部隊に対し不法の命令を発し、または彼らの罪過を仮借するが如き懈怠《けたい》が些少《さしよう》でもあったならば論外であるが、私は麾下の部将にそれぞれ担任の作戦指揮と部下の統御とを委任して過誤なしと信じるだけの措置は、前述せる如く事前に講じてあったことをあらためて確信する。(国際軍事裁判口述記録昭和二四・七・一三、および『最後の帝国海軍』豊田副武述)
○軍令部次長、小沢治三郎中将(五十九歳)
連合艦隊から海上特攻の計画をもってきたとき、「連合艦隊長官がそうしたいという決意ならよかろう」と了解を与えた。その時は軍令部総長も聞いていた。全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う。多少の成算はあった。軍令部次長たりし僕に一番の責任あり。
(防衛庁戦史)
○軍令部参謀、大前敏一中佐(四十三歳)
私の知る限り小沢次長は、作戦の成功率に大きな不安をもち、その撤回を連合艦隊に申し入れたが、豊田長官、一部の幕僚は強硬にその決行を主張してゆずらない。
あらゆる考慮の末に、小沢次長は片道燃料以内の供給しか出来ないと通告した。連合艦隊は片道燃料でも決行すると回答してきた。(小沢治三郎「最後の提督」、『丸』)
○軍令部第一部長、富岡定俊少将(四十八歳)
海軍は沖縄作戦を最終決戦として、注ぎこみ得るものは一兵も残さず注ぎこむ肚《はら》であった。(略)海軍の航空は、これまで特攻で死闘を続けてきたが、まだ水上部隊が生き残っているではないか、皇国存亡のこの際、これを使わぬ法があるか、というような声も喧《やかま》しくなっていた。(略)
軍令部にこの案を持ってきた時、私は横槍を入れた。
「大和を九州南方海面に陽動させて、敵の機動部隊を釣り上げ、基地航空部隊でこれを叩くというなら賛成だが、沖縄に突入させることは反対だ。第一、燃料がない。本土決戦は望むところではないが、もしもやらなければならない情勢に立ち至った場合の艦艇燃料として、若干は残しておかなければならない」と。
ところが私の知らない間に、燃料片道でもよいということで、小沢次長のところで承知したらしい。(防衛庁戦史)
○連合艦隊通信参謀、市来崎秀丸中佐(三十六歳)
米軍の沖縄攻略が予知される頃になっても、大和をどうやって使用していいか、決定的使用方法がないので、大和は瀬戸内海に退避して訓練にはげんでいた。
菊水作戦の決行がきまって、今度の機会をなくしたらもう使い道がない。空襲も激しくなっている折、航空特攻だけに期待して、水上部隊は何もしなくていいのか? 成算があるかないかより、どうやって花道を飾るか、どうやって最後の花を咲かせるかだ。
沖縄に行ったあとは? という前にそこまで行けば上々だ。
第二艦隊からは、せめて本土付近は掩護機をつけてくれ、と要請してきた。
及川軍令部総長は、そこまでやらんでも、という気持であった。これが最後の作戦になるし、飛行機の使い方は慎重にやらないといかん、犠牲も大きいが、他に道がないということで軍令部総長に承認してもらった。
六日夕方、二艦隊の説得に出かけた草鹿参謀長が鹿屋に帰任した。そして伊藤司令長官は、はじめは無謀だと難色を示していたが、最後の二艦隊の空気は少なくとも表向きは、「いよいよ俺たちも出撃だ」と奮い立つ雰囲気だった、と語った。
これと入れちがいに六日、豊田長官は前線で指揮をとるため九州鹿屋基地へ向う途中、徳山沖の二艦隊の上空を通った。艦隊には知らせなかったが、それが見送りとなった。
○連合艦隊参謀長、草鹿龍之介中将(五十三歳)
残存水上艦艇である第二艦隊の用法と使用時機、場所に関しては、われわれは非常に頭を悩ましていた。一部のものは激化する敵空襲に曝《さら》してついに何ら為すところなく潰え去るその末期を憂慮し、かつまた全軍特攻として敢闘している際、水上部隊のみが拱手《きようしゆ》傍観しているのは、その意を得ぬというような考えから、これが早期使用を焦慮していた。戦艦の主砲を活用する突入作戦も、時機を得るならば、非常に効果のあるものと考えていたが、私はいずれ最後は覚悟しても、悔いなき死所を得させ、少しでも意義あるところにと思って、熟慮を続けている際であった。
「あ」号(サイパン防衛)作戦において味方の機動部隊が敗れた直後、サイパンに戦艦部隊を突入させ、浮き砲台的に巨砲をもって敵を攻撃する案があり、当時教育局勤務の神重徳大佐が戦艦艦長として突入することを熱心に申し出たが、軍令部は到達までの困難と、到達しても機関、水圧、電力など無傷でなくては主砲の射撃は行なえないこと等を理由に、これをしりぞけた。
沖縄作戦が始まってからも、連合艦隊参謀となっていた神大佐はしばしば戦艦の使用を要求してやまなかったのであるが、私は前述のような意味から、機会を見る必要があるからとしてなだめてきた。ところが、私が鹿屋の連合艦隊前進作戦指揮所に出張して菊水作戦を指導中のところへ、神参謀から電話で、大和の突入作戦が連合艦隊司令長官の決裁になったが、ご意見はどうですか、ときいてきた。私はすこぶる憤慨した。「決まってから、参謀長のご意見はどうですか、もないもんだ。決まったものなら仕様がないじゃないか」と答えるほかなかった。しかも更に悪いことには、本作戦を出来るだけスムーズに遂行するため、日吉の司令部の考え方を直接現地に伝える辛い役目を引き受けさせられることになった。
○連合艦隊参謀副長、高田利種少将(五十歳)
某作家が沖縄戦での大和出撃のことでインタヴューに来た時、「大和の特攻出撃を草鹿参謀長は知らなかったのですか」ときいた。私はカッとなった。冗談言うな、あれ程の大作戦をやるのに、参謀長が知らんで命令が出るか、と怒ってしまった。私は現在八〇歳七カ月で、人から聞いたことの記憶力は衰えているが、このことは間違いない。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 防衛庁戦史室の野村實編纂官は、高田少将の記憶には信頼を置いているといっている。
軍令部の計画では、大和は長門や榛名と一緒に軍港に繋ぐことになっていた。その計画をもって土肥軍令部員が相談に行ったら、連合艦隊司令部では、大和と矢矧は繋がないでもらいたい、作戦に使いたいんだということで、外した。
その後軍令部と連合艦隊司令部との間に大分掛け合いがあったが、どうしても大和と矢矧を使いたいということを、最も熱心に掛け合ったのは参謀長である。だから参謀長が大和、矢矧の特攻計画を知らなかったとおっしゃるはずがない。最後になって何時突撃するか、気象などいろいろの条件があるので、いよいよ明日出撃という場面を知らなかったのではないか、という話を聞いたことはある。
参謀課長が鹿屋に行かれる時、鹿屋出張中の参謀長の職務を、参謀副長である私にとらせるという命令はもらっていない。鹿屋と日吉の電話連絡はツーツーだから、代行の必要がなかった。もしやっていけない戦さなら、それが電話で決裁になったといってきたなら、鹿屋から飛んで帰って、テーブルを叩いて「長官」と言って反対しなくてはならない。
この件に関しては、連合艦隊司令長官、参謀長から、一度も「参謀副長の意見は?」と聞かれていない。参謀副長という職務は、本来連合艦隊にはなかった。福留中将が参謀長になられ着任後しばらくして私を呼んで、「とても参謀長一人では仕事ができないから、参謀副長を置きたいと思う。各参謀の意見を聞いて考えてくれ」と言われた。各参謀は参謀副長設置に絶対反対であった。その理由は、前の司令部時代、各参謀の起案した案件が、長官の決裁を仰ぐまでに非常に時間がかかった。そこへさらに新たに参謀副長を設置したら、いよいよ時間がかかるから、とのことであった。
その意見を福留参謀長に報告すると、参謀長は「よしわかった」と言って、自分で一文を書かれた。要点は、参謀長の職務は多端であり、作戦から戦務からすべて一人の参謀長では無理である。自分は作戦をやる。作戦には直接関係ない事をやる参謀が一人欲しい。新たな参謀副長は、作戦計画に関与させない。作戦命令は参謀副長に見せないで、先任参謀→参謀長→長官。長官が決裁してから参謀副長に見せる。参謀副長は補給、教育訓練、それから参謀課長直轄の職務以外の代理をするとの主旨で置きたい、ということであった。
それならよかろうと言うことで、小林謙五参謀副長が生まれた。小林参謀副長は、まことに穏やかな人格者であった。作戦会議に参列しても、意見も言わなければ質問もしない。補給だけをやっていた。私は参謀副長になった時、小林参謀副長の真似をしなくてはならないと思った。
神参謀とは鹿児島の同県人。同郷の先輩として、また海軍の先輩として親しくしてくれた。私の室にプライベートに来て、「大和特攻作戦をやらにゃあならんと思う。どうですか」「僕は参謀副長だ。作戦に関する意見は言わない」「いや参謀副長じゃあない。高《たか》さん、あんた個人の考えはどうですか」「個人の考えも言わない」とついに言わなかった。
僕の腹の中では、まあ作戦参謀としては、そのように考えるよりほかに考えようがないだろうと思っていた。みんな同じ事を考えていたのではないか。僕が作戦参謀なら、どういう事を考えるであろうと思ってみたが、しかし自分としても、作戦は変えられなかったであろう。
神参謀は、もし大和を柱島あたりに繋いだままで、大和が生き残ったままで戦争に敗けたとしたら、何と国民に説明するのか、というところを私に一番熱心にやりましたよ。長官、参謀長ともやったと思う。神参謀としては、成功の算は五分五分だ。成功率は絶無じゃあない。戦さというものは、成功不成功が五分五分でやるものではないか、成功の算が五分あるものをやらないということは、戦さのやり方に背くじゃあないか。いやしくも五分の成算がある限りは、やるべきじゃあないか。この五分の成功率でもし成功したら、これあたいしたものだ。
沖縄のあの浅瀬に大和がノシ上げて、一八吋砲を一発でも射ってごらんなさい。日本軍の士気は上がり、米国軍の士気は落ちる。どうしてもやらなくてはいかん。もしこれをやらないで、大和がどこかの軍港で繋留されたまま野たれ死にしたら──。非常な税金を使って(当時の金で一隻の建造費一億三千万円程度)、世界無敵の戦艦、大和、武蔵を作った。無敵だ無敵だと宣伝した。それをなんだ、無用の長物だと言われるぞ。そうしたら今後の日本は成り立たないじゃあないですか、という事を僕にさかんに言う。
僕は、これをやらないで今度の戦さに敗けたとしたら、次の日本を作る事が出来ないではないかというのが、神参謀の本心だと判断した。腹の中じゃあ、その事に関しては、その通りだと思った。それだから、止めなさいという事は言わなかった。しかし大賛成だとも言わなかった。大賛成だという程の気持は僕にないと同時に、参謀副長だから、余計な事は言わない方が良い。やるかやらないかということになると、軍令部の意向や、また全体から見にゃあならないから。燃料の残庫量・直掩機の事など、僕にはわからない。しかし、本当にスコールでも来て艦隊を包んでくれたら、これあ、ひょっとしたら、うまくいったんですよ。天佑があれば。……
それから作戦命令が出た時、神参謀は私の所に、「命令が出ました。参謀副長、人事局に掛け合って私を二艦隊参謀にして下さい」と言って来た。その時僕は、「断わる。参謀副長の職権外」とやった。「高田個人として一つ斡旋して下さい」「やらん。命令を発令する立場にあるなら、淡々と発令すればいいじゃあないか。命令を受ける立場にあったら、淡々と受ければいいじゃあないか。難しい命令を自分が起案したから、自分が行ってやらなくては、今の二艦隊ではやれない、というのか、そんな二艦隊ではない。君が行かなんでもやるよ」と言った。
僕がそう言ったから、神君が思い止まったわけではない。長官、参謀課長にも断わられて、手がなくなったのであろう。
その後私が軍務局次長の時、神参謀搭乗の飛行機が、エンジン不調で津軽海峡に不時着した。その時の様子を操縦士が報告してくれた。それによると、飛行機は沈んだが、天気は良いし、神大佐は兵学校以来水泳の名人と聞いていた。はじめ浮いて泳いでおられて、自分が助かったくらいだから、当然助かられたのです。しかし神大佐は、空をずうっと見まわして、一通り空を見まわしてから、ぶくぶくと沈んで、それ切り出て来ませんでした。申し訳ありません。
その時私は、神大佐は、第二艦隊参謀として戦死しなかった償いを自らしたんだな、と感じた。
○軍令部作戦課(二十年三月十日まで勤務)、野村實大尉(二十三歳)
艦隊編成の権限は天皇にある。軍令部総長、次長、第一課長が具体的に決定し、天皇の名において発令する。連合艦隊では、その艦隊編成に基づき各指揮官が兵力部署を決める。
昭和二十年、油がなくなってから、軍令部は戦艦を軍港に繋ぐ予定で、第一課事務担当の土肥中佐が連合艦隊と折衝して決める事になった。呉では戦艦伊勢・日向・榛名が、横須賀では長門が各鎮守府の下に繋留された。
戦艦大和を軍港に繋ぐ軍令部の考えに対して、連合艦隊は昭和二十年二月五日、第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした。そこで大和、矢矧の第二艦隊を残すことにした。
軍令部ではレイテ戦後は、大艦を局地作戦に使用することには問題があると、連合艦隊に表明していた。一方局地作戦に大艦をうまく使えるという戦術思想を特に強く持っていたのは、神参謀であった。昭和十七年八月八日の第八艦隊(長官三川軍一中将)のツラギ沖夜襲戦の勝利、サイパン島に対する水上特攻の進言、捷号作戦の水上部隊なぐり込み作戦の計画担当、小沢艦隊の囮《おとり》作戦成功から、大和出撃に至るまで、すべて神大佐の信念に基づくものであった。
第二艦隊に大和、矢矧を残した艦隊編成を、草鹿参謀長は知っていたはずである。突入作戦を実際にやるか否かは別にして、あのような水上特攻の使い方の背景は、承知していたと思う。
○連合艦隊参謀、中島親孝中佐(三十五歳)
神先任参謀は水上艦艇の突入作戦について一貫した考えを持っていた。
レイテ戦後、陛下より人事局長に対し、作戦の可否について御下問があった。軍令部では、作戦自体は良かったが、基地航空部隊の攻撃に対し突込み時期を早めるか遅らせるかが問題で、連合艦隊が作戦実施の指揮をもっとやるべきだ、司令部は航空基地のそばにいればよかった、と考えた。航空機なしに突入する問題はまた別であるが。
日吉において毎朝行なわれる作戦一般の打ち合わせでは、大和出撃の話はでなかったと記憶する。
神参謀は実直な人だが、もともと人の言う事をあまり聞かない。自分で命令書をつくり、直接長官の所へ持って行って決裁をあおぐという事をよくやる人であった。
「神《かみ》さん神がかり」
○連合艦隊参謀、千早中佐(三十五歳)
神参謀が海軍兵学校の教官をしていた時、私は生徒であった。神教官は恩賜の成績で卒業したが、二度海軍大学の試験に落ちていた。三度目が最後の受験資格。その時、生徒である私に、今度落ちたら鹿児島に帰って焼酎屋の親父になるんだと、個人的に話したことがある。
○元航海長、津田大佐(四十歳)
聞くところによると、大和の出撃は二期先輩の神重徳参謀が進言して決まったという。あのような戦況では、大和はいずれ敵の手に渡ってしまう。アメリカの凱旋観艦式に、大和が並べられることになる。敵に生きたまま捕えられるのを避けるため、大和に最後の死場所を見つけてやろう、帝国海軍の死花を咲かせてやろう、という主張が通ったものと思う。神参謀ならば、いかにも考えそうな構想である。
ありったけの燃料を集めても、片道だけというか、沖縄に着いて一寸《ちよつと》ひと暴れするくらいの油しかなかったというが、私が出撃直前に転勤を命じられた時、不覚にもそういうことは予期していなかった。操艦の経験二十年。燃料が乏しいという状況下でも、大和の操艦には充分習熟していたつもりだ。あの作戦に参加して、思う存分戦いたかった、と残念に思う。
○軍令部作戦課部員、土肥一夫中佐(三十九歳)
昭和二十年の初め、呉に立寄った時、伊藤長官にお目にかかった。その頃軍令部としては、いよいよ本土に敵が攻めてくるという時には、大和を使わねばならない、これならば大丈夫という見通しが得られたら、第二艦隊を突っこませよう、といった程度の考えで、沖縄戦にどう使うかは、まだ決めていなかった。
伊藤長官は、「いざという時は、この艦隊をつれて突っ込むことは考えているが、出来る限り有効な方法を考えてくれ」と言われた。
当時、印象に残ったことが一つある。海上特攻作戦は、作戦の担当者として、こんな辛いことはなかった。命令する立場として、お前死んでこい≠ニ平然と申し渡すには、余程修養を積む必要があった。ところが、作戦課の周囲にいる人たち、みずから特攻に行くでもなく、また特攻を命令する立場にもない人たちが、盛んに一億総特攻≠ニ言い始めたのである。
○連合艦隊参謀、三上中佐(三十六歳)
「大和」特攻作戦の決行は、実際は非常に短い間にきまった。本作戦を日吉の連合艦隊司令部が策定した前後の一般状況は、次のようであった。
米軍が沖縄に上陸してたちまち橋頭堡《きようとうほ》を確保した。日本陸軍が反撃する。それに対し敵も陸海空全力を集中して総反撃する。日本としては持っている戦力をすべて沖縄の一点に集中しなければならぬ。当時海軍は十九年十月の捷号作戦で大きな犠牲を払い、戦力が大いに低下していた。油もほとんど残っていなかった。しかし手持ちの最後の一艦まで、油一滴まで絞って、航空機の特攻に相呼応し、全力投球しようということになったのである。
その時、最強の戦力を持っていたのはむろん大和であるが、それを護衛するフネとしてはごく限られた十数隻しかなかった。仮に劣勢な艦隊が単独でやってみても、効果的作戦は出来るものではない。しかし沖縄での陸軍の総反撃に呼応してやれるとすれば、それは一つの立派な戦機である。敵は兵力においてバランスがとれ、勝に乗じて士気あがる大軍であるから、螳螂《とうろう》の斧《おの》ともいえるが、幸い先制の一撃をあたえて敵がアクシデントを起こすような場合には、あるいは勝機があるかもしれぬ。
一軍を編成するほどの戦力もないところまで追い詰められた状況では、誰が見ても合理的な作戦は無理である。航空戦でもこれ以外にないということで打ち出した特攻攻撃が敵の作戦方針を変えさせるぐらいに成功した。ドイツはすでに降服し、連合軍の全力がわが方に投入されている。
したがって連合艦隊としては、ここで最後の決死の作戦を仕組まざるをえなかったのだという事情を、伊藤長官以下幕僚、ならびに参加艦艇の全将兵に伝えるために、また作戦の展開を出来るだけスムーズにするために、草鹿参謀課長に随行して徳山沖におもむいたわけである。
実は私は、伊藤長官の意向を前々から的確に推測できる立場にあった。二艦隊長官に任命されたのでご挨拶にうかがった時、長官は、「最後の水上艦隊だから、無意味な下手な使い方をするなよ。不均衡な艦隊だから、総合的にその威力を発揮出来るような使い方を考えよ。例えば近く高速潜水艦も出来るし、航空部隊などとあわせ使用することも考察せよ」と、懇切に言われた。
私は私なりに、ひそかにその活用法に腐心しているところであった。それは大和を佐世保に回航する案であった。理由はいろいろあるが、要するに少数なる兵力で有効なる作戦が出来る。いわば位を利かして敵を引きつける構想であった。ところがたまたま鹿屋に出張して五航艦(九州中心の海軍航空兵力)司令部と打ち合わせ中であったわれわれのところに、突然日吉から特攻作戦決定の電話が入ったわけだから、全く寝耳に水のことで驚いた。その上ほかならぬ伊藤長官に引導を渡しにゆくのは、まことに辛い役目であった。
大和には後部右舷|舷梯《げんてい》から乗艦した。仰々しい出迎えのようなものはなかった。長官の公室はさすがに立派な部屋で、そこで参謀長から長官に、連合艦隊長官の真意を伝えた。公式の命令はすでに発せられているのであるから、くどくどと申し述べる必要はなかった。
伊藤長官としては当然ながら腑《ふ》に落ちぬところがあった。この作戦にどれだけ成功の算があるか。戦勢を有利に展開するために役立てる見通しがあるのか。もし成算がなければ、数千の部下をむざむざ犬死させることになる。連合艦隊の本当の考えを知りたいという面持ちで、ひと通りの作戦計画の説明では、なかなか納得されなかった。納得されないのも当然と思った。
草鹿参謀長としても、責任ある立場であり、軽々な発言は出来ない。そこで息詰まるような情景になった。伊藤長官は、「この作戦目的の範囲と成功度をどう考えるか」と言われた。私はたまりかねて、陸軍の総反撃に呼応し敵の上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまで本作戦は考えられていると申し上げた。長官は即座に、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と言われた。
○連合艦隊参謀長、草鹿中将(五十三歳)
この斬込み隊は特攻隊であるから、生きて帰らぬことは明白である。部隊指揮官たる伊藤整一中将は、軍令部次長をしていた人で、当然軍人としての覚悟は決まっている。ただ万が一にも心に残るものがあってはならない。最後を促し、心おきなく喜んで征《ゆ》くよう、参謀長から引導を渡してくれというのである。
これはまことに辛い役目であり、突然私に行けとはなんたることかと思ったが、考えてみると、それを言いにいくものは私の外にない。
そこで一度は怒ってみたものの、承知して、五日に飛行機に乗って、内海西部の艦隊泊地に行った。そして第二艦隊司令部に伊藤中将を訪ね、この絶対に生還を期し得ない特攻攻撃を行なわなければならない理由を説明した。 伊藤長官は、ニコニコして聞いていたが、「連合艦隊の意図はよく解った。ただ自分の心得として聞いておきたいことは、行く途中で非常な損害を受けて、これから行こうと思っても駄目だという時になったら、どうすればよいか」とのことであった。そこに一抹の不安がある。
そこで、私は、「一意、敵|殲滅《せんめつ》に邁進《まいしん》するとき、かくの如きことは自ら決することで、一つにこれは長官たる貴方の心にあることではないか。連合艦隊司令部としても、その時に臨んで適当な処置はする」と答え、私自身の経験などを話して最後の盃を交わした。
伊藤長官も喜色満面、いささかの陰影も止めず、「ありがとう、よくわかった。安心してくれ。気も晴々した」といって、しばらく雑談に時を費して名残りを惜しんだ。
全部隊は、何の興奮の色もなく、六日夕刻抜錨、出撃した。私も飛行機に乗って、それを見送った。
隊伍を組んで出てゆくのを、飛行機の燃料の尽きるまでその上を飛んで、全艦隊に最後の別れを告げた。海軍生活を通じて私には苦しい思いも多くあったが、この時ほど苦しい思いを味わったことはない。(『連合艦隊』)
○連合艦隊参謀、三上中佐(続き、三十六歳)
いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。それは明白な事実である。しかし最後はフネを捨てて敵陣に切りこめということであれば、もう戦さの上手も下手もない。連合艦隊の最高責任者が決めたことなのだから、忠良なる帝国海軍将兵として、全滅覚悟で出陣するほかないというのが、伊藤長官の心境であったと思われる。ただその前に自分の率直な気持を述べ、中央の真意も確かめておきたいと考えられたのは、当然至極であった。また当時、油の一滴は血の一滴以上に貴重であったから、なけなしの油を使ってゆくのだから、それ相応の成果をあげなければならないと、現場の指揮官として大変苦慮されたことと思う。
鹿屋を出る時、私は前日からすっかり身のまわりの整理をし、いろいろなことを考えながら夜を明かした。第一遊撃部隊を特攻に出してしまえば、水上部隊の作戦担当者としての用はなくなるから、そのまま大和に乗艦して作戦に従事したいと申し出る決心を固めた。
第二艦隊の山本首席参謀は、かつて軍令部の作戦課で先任、後任として共に仕事をしたことがあり、気心も知っていたので、長官の訓示が終ったあと、「私を連れていって下さい」と願い出た。しかし山本参謀は憤懣《ふんまん》やるかたない表情で、「連合艦隊の監視を受けなくても、われわれは充分にやってみせる」と強く拒否された。それでやむなく退艦した。
こうして心中全く生還を期さない人たちと別れたわけだが、そこには言うに言われぬなにかがあった。
生存者が佐世保に帰ってきた時、早速迎えにゆき、森下参謀長、原「矢矧」艦長にお会いした。原大佐からは、こういう無謀な無慈悲な作戦を計画した当事者として、長時間にわたって難詰された。ありとあらゆるひどい表現で叱られたが、返す言葉がなかった。
しかし今にして思うと、戦いの法則はその時々の状況によるのであって、いい悪いは簡単には言えない。正々堂々敵に勝つ方法もあれば、苦境にある時は、敵の錯誤に期待する方法もありうる。
仮に沖縄特攻作戦がなかったとしたら、大和の戦闘の記録はほとんどないことになってしまったであろう。比島沖ではたしかにある程度の戦果はあげたが、肝腎のレイテ湾突入は果たせなかった。それだけで、最後は瀬戸内海の海の藻屑《もくず》と消えたとしたら、それが帝国海軍の栄光になるのか、それとも油の最後の一滴まで戦った方が少なくとも形の上では後世に対し、帝国海軍のイメージを高めたといえるのか。私には分らない。
もちろん作戦立案者として、ある程度の責任は覚悟している。今でもあの特攻作戦で戦死した人々を弔う気持で一杯である。生き残ったことは心苦しいが、人にはそれぞれの立場があろう。
当時は、国家に対して忠誠をつくす、国民として団結し民族のために命をかける、というのが当然の務めであり、負けたあとのことなど考えていなかった。そうした環境を踏まえた上で判断すべきであって、今の民主主義だけを基盤にして、国家の存亡を双肩にになった人々をいろいろ批判しても、当時の真相は分らない。
○第二水雷戦隊司令官、古村啓蔵少将(四十八歳)
連合艦隊参謀長が大和に来艦し、再度指揮官参集があった。私達は作戦の打ち合わせがあるだろうと考え、いろいろと意見を持っていたのであるが、「特攻」だというので、意見を開陳するまでもないと思い、そのまま帰った次第である。
このときの参謀長の説明の中で、「一億総特攻の先駆けとなって欲しい」という言葉が強い印象となって残っている。この「一億総特攻」ということで、もう何もいう必要はなくなった。今となると、一億総特攻などということでは、その後の戦局はどうなるかなど、理論的には妙なことになるが、当時はスンナリと受け入れられてしまったわけである。(防衛庁戦史)
○第二艦隊参謀長、森下信衛少将(五十一歳)
草鹿参謀長の作戦細目説明に対し、第二艦隊司令部が研究して立てた意見を具申すべきであるという議論が盛んであったが、伊藤長官は「われわれは死場所を与えられた」と一言いわれ、議論は止んでしまった。(『別冊知性』一九五六年七月号)
沖縄攻略部隊兵力[#「沖縄攻略部隊兵力」はゴシック体](米資料より)
一、中部太平洋作戦部隊(第五艦隊)
[#1字下げ]総指揮官 R・スプルーアンス大将
(上陸部隊)
[#1字下げ]上陸軍(第十軍) S・バックナー中将
[#2字下げ]四五一、八六六名
[#1字下げ]統合派遣軍(上陸補助部隊) R・ターナー中将
[#2字下げ]艦船一二一三 上陸用舟艇五六四
(支援艦隊)
[#1字下げ]射撃部隊 M・デイヨ少将
[#2字下げ]戦艦(旧式)一〇、重巡九、軽巡四、駆逐艦二三
[#1字下げ]高速空母部隊(第五八機動部隊) M・ミッチャー中将
[#2字下げ]空母一八、戦艦八、重巡四、軽巡一一、駆逐艦四八、艦載機九一九
[#1字下げ]英空母部隊 H・ローリングス中将
[#2字下げ]空母四、戦艦二、軽巡四、駆逐艦一二、艦載機二四四
以上の支援艦隊を総合すると、空母二二、戦艦二〇、巡洋艦三二、駆逐艦八三、艦載機一一六三の大兵力となる。
二、米軍最高機密作戦計画(第五艦隊司令官、第一―四五番)
(1)自軍
[#1字下げ](a)この計画によって命令される本作戦は、"ICEBERG"と名づけられる。
[#1字下げ](b)本作戦計画は、合衆国太平洋艦隊司令長官兼太平洋戦域司令長官の作戦計画第一四―四四番から出ている。
[#1字下げ](c)南西太平洋戦域の基地航空部隊、第二〇爆撃主力部隊、第二一爆撃主力部隊、第一四空軍、戦略航空部隊(太平洋戦域)は本作戦の索敵、攻撃、および偵察のための支援を行なう。
[#1字下げ](d)太平洋艦隊潜水艦部隊は、敵海軍部隊の動静の情報の供給、および海軍部隊の撃滅、そして日本本土と台湾から沖縄に向う艦船の撃滅、および救難活動を行なう。もしも合衆国太平洋艦隊司令長官により命令されるならば、中部太平洋任務部隊の戦略および戦術支援のため、集結を準備するであろう。(略)
(2)想定される状況
[#1字下げ](a)硫黄島の奪取は、南西諸島への侵攻のための砲火支援と、航空支援部隊の利用を可能にするため、早い時期に完成させる。
[#1字下げ](b)日本本土、台湾および琉球に対し、本計画に先立って敵艦隊に対して行なわれた我が軍の 諸作戦の結果は、われわれが目標地域の制空権を引続き維持できるであろうことを示している。
[#1字下げ](c)本作戦に使用される上陸作戦用船舶、支援海軍部隊と陸軍司令部部隊は、フィリピン作戦からすばやく外される。
[#1字下げ](d)作戦は、日本本土の航空基地、支那、南西諸島および台湾から、また空母からの敵の猛烈な対空反撃を引き起こすであろう。
[#1字下げ](e)敵の潜水艦は作戦行動中である。
[#1字下げ](f)敵水上艦隊は、彼らの能力の限界に対抗して全力をつくすであろう。そして彼らの妨害は、恐らく我が軍の輸送部隊と支援ルートに対する奇襲の型をとるであろう。
[#1字下げ](g)沖縄の艦艇に対する攻撃は、瀬戸内海を夕暮に出撃し、南西諸島の西方海面を航行してくる敵愾《てきがい》心に燃えた水上部隊によって、黎明時に行なわれるとみてよい。同様の攻撃が、台湾からの水上部隊によって行なわれる可能性がある。
[#1字下げ](h)敵は沖縄の守備隊に増援を送る努力をするかもしれない。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 沖縄攻略の米兵力を第一遊撃部隊がどのように判断していたかは、戦闘詳報によれば概要次の通りで、特に主力艦および輸送船、上陸軍に過小評価が見られる。
三、(上陸軍兵力)
四月四日〇九〇〇現在、北及び中飛行場正面に増強中の三箇師団が主力
(水上兵力)
[#1字下げ]偵察時点が三日から六日、発見場所が嘉手納《かでな》沖、那覇沖、中城《なかぐすく》、慶良間《けらま》列島にわたり、また移動中のものも含むため、一部に重複あるいは推定を免れないが、空母六、戦艦九―一一、巡洋艦一七―二七、駆逐艦五三―六六、輸送船一八一
(機動部隊の動静)
[#1字下げ]沖縄本島周辺 本島制空権確保のため二、三群
[#1字下げ]喜界島の南一〇〇マイル圏 九州方面よりするわが航空攻撃の迎撃のため一、二群
[#1字下げ]石垣島の東ないし東南方 台湾、石垣島、宮古島制圧のため一群
潜水艦による哨戒作戦[#「潜水艦による哨戒作戦」はゴシック体](米資料より)
第五艦隊作戦計画(一―四五)
沖縄攻略作戦の展開にあたって、第五艦隊スプルーアンス司令長官は、高速空母部隊が敵の奇襲を受ける危険よりも、上陸軍が橋頭堡を確保した直後に、前夜内海の基地から出撃した敵水上艦艇によって、翌朝襲撃されるかも知れない懸念の方が大きいと考えた。
この結果、沖縄までの全コースについて、日夜にわたり哨戒機による一段と周到な警戒網が張りめぐらされたほか、常時六ないし七隻の潜水艦が、本州および九州水域に配置されることとなった。彼らは同時に、日本本土空襲により傷ついた艦載機の搭乗員を、救助するという重要任務をになっていた。
このうちの二隻は豊後水道、一隻は紀伊水道に、厳重監視の任務を帯びて待機していた。もし日本艦隊が沖縄上陸軍への攻撃を試みようとすれば、内海から太平洋への二つの出口のどちらかを必ず通過しなければならないからであった。
この推理の正しかったことは、やがて事実によって証明された。
日本海軍の戦力に対する観測[#「日本海軍の戦力に対する観測」はゴシック体](米軍記録より)
一、沖縄上陸作戦を開始するに当り、米太平洋艦隊司令部は、日本の全可動水上兵力を、戦艦四、航空戦艦二、空母二、軽空母一、重巡四、軽巡四、駆逐艦三〇と推定し、このうち重巡一、軽巡二、駆逐艦数隻を除いては、本土の海軍基地にあるものと観測していた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 敵戦力の推定(ウルトラ)は限定配布リストにある知る必要のある者≠ノ太平洋司令官より知らされる。又太平洋艦隊司令長官の報告書は主要な任務部隊と任務群指揮官に毎日ウルトラ電報て送られる。
[#1字下げ] 当時日本海軍の実勢力は戦艦三、航空戦艦二、空母二、軽空母一、重巡二、軽巡四、駆逐艦二二であり、米軍の観測がきわめて正確であったことを裏付けている。
[#1字下げ] グアム島にある太平洋艦隊司令長官は、暗号解読情報で大和出撃前にすでに特攻艦隊の戦力、出撃日時、航路、そして目的を知ったのである。
二、また航空兵力は九州を基地とする部隊を中心とし、数カ月来、搭乗員に対する厳しい訓練と飛行機の節約によって、相当程度増強されているものと判断していた。
三、日本海軍の作戦計画については、おそらく最後の残存兵力である水上艦艇の主力をこの段階になって投入することはないであろう、もし試みるとすれば、小艦隊による奇襲攻撃の公算が大きい、したがってその攻撃目標は、高速空母部隊ではなく、輸送船団および支援ルートであろうと予測していた。
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作 戦 発 動
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出撃[#「出撃」はゴシック体]
一、四月六日、第一遊撃部隊指揮官伊藤整一中将は、第一遊撃部隊命令(命令作第三号)を発し、連合艦隊電令作第六〇七号に基づき、海上特攻隊として敵水上艦艇、輸送船団を攻撃撃滅するため、沖縄西方海面に突入する旨を麾下全艦艇に伝えると共に、軍隊区分、進撃接敵要領、戦闘要領、進撃航路を明示した。
二、六日一五二〇 海上特攻隊一〇隻および対潜掃蕩隊第三十一戦隊三隻(駆逐艦花月、榧《かや》、槇《まき》は、徳山沖を出撃した。
曇天で雲量八、南東の風一〇・五メートル。
一六一〇 艦隊速力二〇ノット。
さきに大和艦上で行なわれた第二艦隊司令長官訓示が、各艦あて信号で送られた。「神機|将《まさ》ニ動カントス 皇国ノ隆替|繋《かか》リテ此ノ一挙ニ存ス 各員奮戦敢闘 会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この訓示の原文は、第二艦隊副官、石田恒夫少佐が、宮本鷹雄参謀から起草を命じられた。そのとき「もしこの作戦が成功したら、この文章は歴史に残る。長官の名誉にかけても、変なものを作ってはいかんぞ」と念を押されたことを石田少佐は記憶している。(児島襄「全艦隊大和を迎撃せよ」、日本本土進撃作戦A)
一六二〇 対潜掃蕩の要務を了えた第三十一戦隊の解列、帰還を下命。同戦隊は待機部隊に編入され、十一水戦司令官の指揮下に入った。
一六三〇―一七〇〇 二水戦九隻は「大和」を敵艦にみたてて襲撃訓練、高速編隊運動を実施。これは平生、燃料不足のため停泊訓練しか出来ず、しかも動力用燃料を節約して砲を動かすことも少なかったので、乗員の練度不足を補い、士気の高揚をはかる意図で行なわれたものである。
三、一六四五頃、連日飛来して部隊の動静を偵知していたB29が一機また飛来したので、一時|韜晦《とうかい》(所在をくらます)運動を実施した。
豊後水道の第一遊撃部隊進撃路付近は、一六一〇から二〇〇〇まで、連合艦隊命令を実施するため、常時対潜哨戒の佐伯航空隊零式三座水上偵察機一四機と、呉防備戦隊海防艦志賀、第一九二号が配備されて警戒に協力した。
この間、各艦それぞれに当直員を除き総員集合を命じ、特攻出撃命令の伝達と、皇居遙拝、君が代、万歳奉唱を行なった。
四、豊後水道は、水の子灯台を境にして東西両水道に分れており、一八〇〇 第一遊撃部隊は速力二二ノットをもって豊後水道西水道に入った。一九五〇 西水道を通過。針路二〇度。
西水道に入って間もなく(一八三〇頃)、佐伯航空隊の水偵が細島の一〇五度、一〇浬《カイリ》に敵潜らしきものを発見、攻撃を加えた(ただし米軍側には、それに該当する記録は見当らない)。
潜水艦の出現は当然予想されたところであり、この頃までに得られた敵潜情報は、豊後水道出口に二隻、日向灘に一隻であった。
一九三五 日向灘の敵潜を避けるため予定針路を大きく左に避けて一四〇度とした。
一九五〇 哨信儀にて艦隊全般に通報。「敵戦闘機ノ大部分ハ我ガ軍ノ敵攻撃ニ牽制誘出サレ、沖縄特別攻撃隊ハ大部分奇襲ニ成功セル如シ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第一遊撃部隊各艦が最も強い関心を持っていた、航空特攻の動静に関する第一報であり、その内容は中央から送られてきた情報の楽観的空気を、そのまま伝えている。
一九五〇 第一警戒航行序列に展開(先陣は駆逐艦五隻が横隊となり、その後方六キロに大和中心、五隻の輪型陣を配した対潜警戒隊形)。
二〇〇〇 之字《のじ》運動を開始(対潜回避と針路秘匿のため、全艦一斉にくり返し行なうジグザグ運動)。転針の時間間隔五分。
出港の情景[#「出港の情景」はゴシック体]
関係者証言
○副長、能村大佐(四十四歳)
一五時二〇分 森下参謀長は「出港」の号令をかけた。戦艦大和のヤードに旗旒《きりゆう》信号が昇った。「A」・「C」、これは「錨上げ」の信号である。
各艦の信号兵は、艦隊司令部から出される出港命令を注目していた。出港に際しての一挙一動は、海軍の習慣として各艦とも絶対他艦に負けまいとする猛訓練がしてあった。錨が上がるのが遅れると非常に恥であった。
大和では有賀艦長が森下参謀長の「出港」の号令を反対舷で聞いていて、直ぐ自艦に必要な命令を出した。第二水雷戦隊古村司令官は、艦隊司令部からの無線電話によって行動を起こした。
次いで「各隊、予定順序に出港、針路一二〇度」、各艦の信号兵は、その信号を寸秒を争って読み取り、艦長に伝えた。
直ぐ錨が上がり始めた。錨が海底の泥を撥《は》ね、海底を離れた瞬間が、「出港」だ。
「両舷前進微速(速力六ノット)」
各隊は、予め指示されている隊形に、時間内に結集するのであった。
さらば内地よ[#「さらば内地よ」はゴシック体]
生存者証言
○航海士、山森中尉(二十三歳)
出撃の日、第一艦橋で副長が艦長に、「二艦隊司令部を含め、総員三三三二名」と報告していた。
○第二艦隊参謀、宮本中佐(三十八歳)
四月六日の夕暮れ、別府湾の沖合いを通過した時、湯の煙の間に吉野桜の花が満開に咲き乱れているのが見え、これが内地の見納めだという実感がした。先立って死んでいった戦友たちにも申し訳が立つ、と思った。
第一艦橋の窓から見渡すと、護衛の駆逐艦が煙突のまわりに菊水の紋をつけ、出陣の幟《のぼり》を立てており、その姿に、自分はもう生きて帰らないという強い意志が漲《みなぎ》っているように見えた。
しかし大和は、ちがっていた。盥《たらい》のような甲板の上は物静かで、乗員の表情もいつもと変らずおだやかであった。海軍に職を奉ずるものとして、まことによき死場所を与えてくれたことがうれしかった。
○第二副砲射手、小川優上曹(二十七歳)
駆逐艦の煙突に巻いた菊水のバンドが、眼に沁《し》みるように鮮やかでした。その勇姿には何ともいえずこみ上げてくるものがあり、どうしようもありませんでした。
○高角砲発令所長、細田久一少尉(二十八歳)
最後の上陸の時、今度出ればたぶん特攻だろうとは感じていたが、家族の誰にも言わなかった。言いたくなかった。
呉を出て三田尻沖で待機していた。いよいよ出撃することになった。豊後水道を航行中、航海上必要な配員を残して全員が前甲板に集められ、台の上に立った副長から、われわれは水上特攻として沖縄に突入する、二度と帰って来ない、だからみんな心を引き締めてしっかり頑張ってくれ、という訓示があった。
準士官以上は乗組員と面を向きあって聞いていた。みなの顔が一瞬青くなったような気がした。みな一瞬|愕然《がくぜん》としたが、すぐ真赤な血色のいい顔になった。くそ、やっちゃろう≠ニいう気持が顔に出た。自分も同じだった。これがあくまで敵を叩きつぶそうという大和魂≠ネんだな、と思った。
○副砲長、清水芳人少佐(三十三歳)
食糧、水、酒と弾《たま》は十分積んでいた。全部下ろすと士気に関係してくる。特攻だというので、準備は忙しかった。
副長の「大和を神風ならしめよ」の訓示でみんなシーンとした。しかし次の瞬間、来るべきものが来た、大和の力を出したい、と思った。沈むとは感ぜず、意気込みの方が強かった。「大和こそ」の信念があった。「沈まんぞ」と部下に声をかけた。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
豊後水道には機雷原があるので、西水道の水路表示に示されたブイをたどりながら、速力一二ノットで進んだ。
日向灘を南下して大隅海峡に入ると、狭水道通過要領で種子島水道を通過することになった。乗員を配置につかせ、防水扉をしめ、錨当番に待機させて万一の座礁に備えた。沿岸航法では、一〇〇〇メートル以内に接近することは無謀とされていたが、六〇〇から七〇〇メートルまで接近し、そびえ立つ山並みのシルエットを見ながら粛々と進んだ。
右舷の二二号電探で陸岸との距離を測り、水中聴音機で水深を測りながら慎重に進んだ。そのあたりの水域は難所として知られたところで、米軍の海図にも、「この付近危険なり」と記入されていたという。
○一番副砲砲員長、三笠上曹(二十六歳)
遂に出撃命令は下った。全員第三種軍装(戦闘服装)に身を固める。甲板に吸いつけられたような重い足に鞭《むち》打って作業に走りまわる。深沈とした沈黙の中に、作業指揮の声のみが響く。かつてのサイパン戦、レイテ戦の出撃の時は、沸き上がるような士気が乗員の間にあふれていた。激しい戦闘を通じて勝利の向うがわに生きる望みがあった。今度は死ぬために戦う出撃だ。死よりほかには考えることが出来ない今、口やかましく作業の注意をされても、自分の意志で行動しているというよりも、長年の習慣や大きな作業の流れにのって動いているというほか言いようがなかった。
大声でどなる。わめいたり笑ったりする。声がカランカランと空洞のような胸に響く。「動け、走れ、肉体を虐待して胸の空白を押しつぶせ。何も考えるな。ただ全力をあげて戦えばよいのだ。射てばよいのだ」と心の中で叫ぶ。
「出港」、ギリギリとスピード・マークは上がる。「両舷前進半速」、左舷に護衛の駆逐艦が二隻、同航しながら甲板から盛んに帽子を振っている。自分達も整列のまま帽子を振ってこれに応じた。同航すること数分、大きく反転してなお帽子を振りながら遠ざかっていった。残陽に照らされた四国の山々が赤色に染まっている。小皺《こじわ》一つない海面に、先導駆逐艦の作る|うねり《ヽヽヽ》が静かに静かに拡がってくる。
それからしばらくして、「総員集合」があった。
岬を回る時みると、四国側の水平線の下の方の波打際は真暗になっている。ところどころ灯りがまたたいている。石鎚山脈が夕陽の中にぱあっと照らされている。そして二隻きた駆逐艦がさようなら≠ニ告げるように帽子を振っていた。
これが本土の見納めじゃなあ、と思った時には、何か胸の中を冷たい風が、さあっと吹いて行くようであった。
総員集合の終った後、同年兵の泉兵曹に会った。中央発令所の射撃盤長である。「おいどうや」「おお、おまえの所は鉄板も薄いし、直撃弾で、いちころやな」「なあに、おまえの所こそフナ底に近いから、よれよれしよったら魚雷が頭出すよ、そしたら、おまえら一番先に水漬けや」。みんな自分の配置が安全だと信じていた。自分の配置程、心強い所はない。
「うちの親父、一番最後の休暇で上陸のあった日、『わしの思うところでは、兵隊は死ぬ時が来たら、死なにゃつまらんぞ』と言ったぜ。親父は工廠勤務だったから、俺が出る(出撃)という事、知っとったんかなあ。死ぬ時が来たら死ねえと、親父どういうつもりで言ったんだろうなあ」。彼の家は男の子は一人きりであった。
○測的分隊長、江本義男大尉(二十四歳)
沖縄の敵上陸軍の真っ唯中にのし上げ、砲台になって最後まで戦うということであったが、私は本気にしなかった。
○測手、石田上曹(二十八歳)
上甲板に集合して皇居遙拝をした時、最後に出撃直前に家に帰った時のことが眼に浮かんだ。長男が誕生してちょうど一週間たった日で、それが別れになった。戦争に出てゆくのは恐ろしくはなかったが、なんだか女房のことが心配になって、家を出てからもう一度回り道をして家に戻り、こっそり家のまわりを回った。その時の家の様子が眼に浮かび、「君が代」を歌いながら、涙が出た。
○運用科(応急班長)、井高芳雄一曹(二十五歳)
豊後水道で副長の訓示があった。副長の訓示は出撃の時はいつもある事だが、この時だけは全員が泣いたと記憶している。捷号作戦の出撃の時は、元気でやろうなと笑って出かけたのに、「君が代」を歌いながら、涙がぽろぽろ落ちて来た。訓示は、これから特攻に行く、これが最後だ、今度は絶対に生きて帰ると思うな、沖縄の陸に乗り上げるんだ、というような話だった。
○測距塔旋回手、細谷太郎水兵長(二十四歳)
豊後水道航行中「総員集合」の号令がかかり、当直以外の者は上甲板に集まった。「君が代」を歌っていると、日が暮れかけて、四国の海岸の松の木が、ちょうど夕陽の影のように見えた。「いよいよ、もう内地には帰ってきいへんのやなあ」と思った。
「配置ニ就ケ」の号令で鉄梯子を登り、第一艦橋から測距塔マンホールに入った。電動機を動かして測距塔を回し、方位盤の砲術長に「側的所配置ヨシ」と報告した。配置には窓が二つあり、先任伍長は視覚測定機をもって向うがわの窓のところにいた。お互いに無言であったが、呼吸は合っていた。
配置に就いたら、いつもの気分になり、悲壮感はなくなった。しかし何もする事はなかった。
沖縄にノシ上げるのだと聞いていたが、沖縄まで行きつけるとは思えなかった。どこまでもつかな? 七日の夕方までもつかな? そうすると、酒保がまだ大分残っているから、今夜は御馳走でなければならないな、そんなことを考えていると、たのしかった。
○三番主砲左測手、西部音治一曹(二十五歳)
豊後水道を出る時、われわれは特攻として、最後の一兵になっても沖縄に突っ込む、二度と内地は踏まない、死にに行け、と初めて聞かされたが、実感はなかった。
今度の出撃は、予備候補生を退艦させる、病人を下ろす、ボートも下ろすというわけで、いつもと変ったことをするな、どこへ行くのかな、と思っていた謎が解けただけで、こうなったら、「ともかく死ぬんや」とあきらめていた。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
出撃してから副長の訓示があった。それをききながら、幸いにして沖縄まで到達することが出来たら、よし、主砲をぶっ放してやるぞ、とそのことだけを考えていた。
死んでしまうんだという気持には、なれなかった。どうしても助かる、という気持があった。家に残してきた坊主の顔がちらつき、母の顔がひらひらして、後ろ髪を引かれる思いであった。
三月の下旬に呉を出る時は、次は沖縄に行くということが分っていた。われわれの行き場所は、そこしか残っていなかったから。
たとへ沖縄に行くことになっても、ハワイで捕虜になって生きているらしい同年兵のことや、鉢巻きして出撃する飛行機乗りの勇敢な姿を思い浮かべて、ここで死んでしまうという気持にはとてもなれなかった。
そうはいうが、特攻出撃となれば、短い間にいろいろのことを考えるものだ。自分としては気持が決まっているつもりでも、死に対する観念が定まっていなかったのだろう。やはりあやふやな、ぐらついた気持、ふらついた気持でいたらしい。
そんな気持が変ったのは、「君が代」を歌ってからだ。訓示のあと、東の方を向いて「君が代」を歌いながら、誰彼となく涙をぽろぽろ流した。おいおい泣き出すものもいた。しかし歌が終ると、皆しゃんとした。死んでこいと引導を渡されたのを、初めて納得した。死ぬ気になり、やる気が出た。やっと覚悟が決まったのだ。
それまでは、ひとはどうだろうか、分隊のみんなは覚悟が出来ているのだろうか、そのことが心配だった。それで戦さがうまくゆくかな、と不安があった。
「君が代」が動機となって、死の覚悟に踏み切ることが出来た。それまで難しい顔をしていた者も、朗らかになった。たしかに、みんなの態度が変ったのだ。
○「雪風」砲術長、田口大尉(二十三歳)
出撃してから、砲の射撃訓練の機会がなかった。豊後水道を通過している時、寺内艦長から「カモメでも射って練習しておけ」と声がかかった。そこで射ってみたが、カモメには当らない。艦長が天蓋を開いて、「貴様、ヴァー(童貞)だから、当らんのじゃないか」「今度佐世保に入ったら、ヴァーを落としてきます」と答えた。
潜水艦発見[#「潜水艦発見」はゴシック体](戦闘詳報より)
一、二〇一〇頃 浮上潜水艦らしきものを発見。続いてレーダーが五〇度、七キロにこれを探知。敵潜電波四二三五KCを感受(感度五)探知方向に白波を認めた。
二一〇〇 一八〇度に変針。
二一三〇 敵潜のグアム基地あて作戦特別緊急信を傍受。感度きわめて大。この電波はのちに大和田通信隊通報によって、都井岬《といみさき》東方三〇浬付近に測定され、わが部隊を発見触接していたものと確認された。
二二〇〇 二二五度に変針。斉動運動(各艦一斉に指定角度に変針する陣形運動)をくり返しつつ南下。
二三三三 霞「一二〇度方向雷跡」。青青。緊急右四五度一斉回頭(各艦一斉に同一針路に変針する陣形運動)。
二三四一 霞「唯今ノ雷跡ハ海豚《いるか》ノ誤り」
二、翌七日〇二〇〇 大隅海峡に入る。速力一六ノット。緊縮陣形とし、各艦間隔を一・五キロから一キロに短縮して警戒をいっそう厳にした。
〇三四五 二八〇度に変針。
〇六〇〇頃 大隅海峡を無事通過。敵潜水艦から一本の魚雷も射たれなかったことは、思わざる幸運であり、むしろ奇異にさえ感じられた。
第三警戒航行序列に展開(大和を中心、矢矧を先頭とする対空警戒の輪型陣、各艦大和との間隔一五〇〇メートル)。
三、この間、〇〇〇〇頃、第一遊撃部隊は連合艦隊参謀長発電によって、六日の航空特攻(菊水一号)作戦による米機動部隊の被害が甚大で、空母を含む数隻沈没の報を受け、これを了解した。
[#1字下げ] 注[#「注」はゴシック体] 航空特攻の戦果について、早々と第二報がとどけられ、いっそう楽観的なその内容は、第一遊撃部隊を喜ばせたものと思われる。
[#1字下げ] しかし協同作戦の主要な眼目であった、陸軍第三十二軍による陸上総反攻の動静については、全く情報をえられなかった。もともと本特攻作戦が、天候、敵情、戦局推移等にかかわりなく突入日時、針路、作戦の細目を中央から一方的に指示されたことに、第二艦隊司令部は疑義を持っていた。
[#1字下げ] 豊後水道で敵潜を発見し、またその敵潜が魚雷攻撃を差控えたという新しい事態に直面しても、機動的な作戦展開を企図する余地はなく、ただ定められた作戦計画の枠組をなぞって行動するほかなかったのである。
作戦遂行方針の疑問[#「作戦遂行方針の疑問」はゴシック体]
関係者証言
○第二水雷戦隊司令官、古村少将(四十八歳)
「作戦目的が、航空攻撃を容易ならしめるものなるや、航空部隊の士気高揚のためのものなるや、あるいは陸軍第三十二軍の総攻撃に直接策応するためなるや、明確ならざりし点ありしため、行動決定上判断に迷いたり」と「第一遊撃部隊戦闘詳報」に書かれているが、それは突入作戦が開始される以前の心境であり、その頃しばしば幕僚にもその疑問について語ったので、作戦開始後も作戦目的に疑問を持っていたかのように書かれたのだと推察する。
しかし私自身としては、連合艦隊参謀長からはっきり特攻であるとの説明を受けてからは、疑問が氷解したことはさきに述べた通りであって、この作戦はシャニムニ突入すれば良いという風に解した次第である。
しかし、唯作戦をどう進めるかの方策については、疑問がなかったわけではない。出撃時機と到着時刻を固定して唯走れでは、途中の潰滅は必至である。これだけの部隊を潰すならば、それだけの成果はあげることを考えるべきである。
水雷戦隊の作戦は夜戦を主体としているものであるが、夜が明けてからの突入では方策の施しようがない。沖縄海域への進撃も、充分に迂回して天象気象等を利用すれば、必ずしも不可能なものではない、と当時考えていた。予めこのような計画があるならば、一カ月位余裕をもって研究し、戦備を整え、訓練しておき、中央と現地の意志の疎通を図る必要があった。
佐世保回航命令も突然なら、特攻の指令も突然であり、その間に関連した方策の指示等も何ら聞いていない。これでは作戦が成立するはずもなく、空海協同の打ち合わせの時間もない。もっとも、過去の実績、経験から、充分な航空機の掩護など期待していなかったのが実情であった。
このような行きあたりバッタリの作戦では、士気の高揚も何もあったものではない。出撃を半日早めただけでは航路の選定にも余裕なく、最初から定まった道を行くしか手がなかった。
佐世保帰着後、連合艦隊参謀副長矢野志加三少将が随行を一名つれて来訪し、「矢矧」のレーダーを整備しなかったことを陳謝していたと記憶するが、その他中央からの来訪者もなかったし、作戦に関する事後の研究会等も行なわれた記憶はない。二水戦の将旗をおろし、四月下旬に軍令部出仕となり上京した時、日吉で連合艦隊長官に報告を行なっただけのように記憶する。(防衛庁戦史より)
連合艦隊参謀長口達覚
○作戦一般(イ)省略。(ロ)今回ノ作戦ニオイテハ、主眼ハ基地航空部隊ノ必殺攻撃ニアルモ、敵兵力ハ厖大《ぼうだい》ナルヲ以テ、ナホ優勢ナル敵ト会敵スル事ヲ予期シナクテハナリマセン
優勢ナル敵ニ対シテハ、先ヅ夜戦ニ依ルヲ最良トスルモ、近時電測兵器ノ発達ト共ニ、敵ノ夜戦モ侮ルベカラザルモノアリ。夜戦ニオイテハ、分散突入攻撃ノ集中、一部ヲ以テスル牽制、煙幕ノ利用、誘致戦ニオケル二段斜進ノ利用等、機ニ応ジ実施シ得ル様、予メ研究準備シ腹案ヲ定メ置カレ度
ナホ決定的打撃ハ夜戦ニ継グ昼戦ニオイテ実施スル必要アリ。昼戦ニオイテハ、主隊ヲ中心トスル集団肉薄攻撃ニ依ル必要ガアリマス」
○(ハ)「従来トカク最初ノ計画ニ捉ハレ、情況ノ変化ニ即応シ独断専行ニ欠クル点ガアツタ様ニ見エマシタガ、刻々変化スル実状に即応し、命令指令等ヲ待タズ全般ノ作戦ヲ考へ、最善ノ処置ニ欠クル事ナキ様、予メ腹案ヲ定メ置カレ度」
敵潜との出会い[#「敵潜との出会い」はゴシック体]
生存者証言
○測手、石田上曹(二十八歳)
出撃直後B29が一機発見され、すでに敵から触接されているのは分っていたが、飛行機は少々来ても、レイテ戦の経験から、こわいとは思わなかった。潜水艦が恐ろしかった。出撃といっても、もう馴れているので深刻な気分にはならなかったが、潜水艦の恐ろしさは格別で、|こたえた《ヽヽヽヽ》。
○航海士、山森中尉(二十三歳)
豊後水道の出口は敵潜がウヨウヨしていることが常識となっていたから、遅かれ早かれ発見されるとは思っていた。電波を探知しても驚かなかった。
いつもあの辺の近海は荒波が多いのに、あの日は曇り空ながらとても穏やかで、戦さをするには快適な気候だった。非番に代ってから、第一艦橋の下の自分の休憩室で、一時間ほど寝た。
艦長も航海長も、この日は終日、休憩もとらずに頑張った体力には敬服した。私は昼間でも非番の短い時間に壁によりかかって適当に居眠りし、体力の回復に努めた。外海を航海するだけで、戦闘と同じような緊張と疲労があった。
○機銃員、小林昌信水兵長(十九歳)
朝豊後水道を出た時、潜水艦が近くにいるのを探知し、雷跡を発見したというので、機銃員は当直配置に就いて警戒したが、六日夜の潜水艦は知らない。われわれ機銃員には、フネ全体の状況はよく分らなかった。
乗艦は、大和が比島沖海戦から帰ってドック入りした時。三日間艦内見学したが、どこがどこか分らなかった。まず憶えたのは、自分の居住区の中甲板、食事の場所、機銃の弾薬倉庫、酒保、烹炊所《ほうすいじよ》ぐらい。
艦隊決戦か航空攻撃か[#「艦隊決戦か航空攻撃か」はゴシック体]
一、四月六日夕刻、B29一機が内海を南に出撃しようとする敵艦隊を捉えた。その日、終日にわたって沖縄周辺の米水上部隊に加えられたカミカゼ攻撃が、約四〇〇機と全期間を通じて最大の規模に達した事実は、ウルトラ情報の正しさを証明した。
特攻攻撃の成功に期待し、機動艦隊が応戦に忙殺されている虚に乗じて、沖縄上陸軍の最も弱い部分に日本艦隊が肉薄攻撃を仕掛けることは、充分予想しうる作戦と思われた。唯一のパイロット出身の第一空母任務部隊指揮官として、全搭乗員の輿望《よぼう》をになうミッチャー中将は、直ちに第五八機動部隊全艦船に、可及的速やかな補給の完了と、沖縄本島北東海面(N二六度五〇分、E一二九度四〇分の地点)への集結を命じた。
二、当夜、太平洋潜水艦部隊司令部が発信したウルトラ情報により豊後水道に待ち構えて監視の任に当っていた二隻の潜水艦のうち、まずスレッドフィンが一七四五、水上接触により日本艦隊を捉えた。続いて他の一隻ハックルバックが捕捉、「大型艦および多数の護衛艦を発見」の第一報を送ったが、日本の駆逐艦が三度、艦隊を離れて近づいてきた。しかし潜水を行なわなければならない程には接近しなかった。
ハックルバックはさらにしばらく追跡を続けてその所在を確認し、次の最終信を含め計四通の敵情報告を打電した。「敵艦隊南に向う、少なくとも戦艦一、護衛駆逐艦多数。針路一九〇度。速力二五ノット」。
この報告を機動部隊旗艦バンカーヒル艦上で受けたミッチャー中将は、第五艦隊司令長官スプルーアンス大将にさらにその旨を打電し、スプルーアンス司令長官は、魚雷による夜襲が敵艦隊を警戒させ、内海に逃げ帰らせる結果となることを恐れ、「敵艦隊を攻撃することなく追跡を続行せよ」と潜水艦に下命した。
スプルーアンス長官は、出撃艦隊の旗艦が大和と暗号解読情報で確認すると、これが艦隊同士の対決による最後の砲撃戦の機会となるものと判断、同日夜半過ぎ、四六隻の艦艇部隊を率いて沖縄北西方海面に待機する第五四任務部隊指揮官デイヨ少将に、水上戦闘のための出撃準備を下命した。電文は「この戦闘はデイヨ部隊のためのゲームだ」("Game for Task Force 54")と書かれていた。
一方ミッチャー司令官に対しては、配下の第五八機動部隊の攻撃力を、水上戦闘中、敵カミカゼ機の襲撃に対する哨戒邀撃任務に活用する予定であることを伝えた。
カミカゼ機による空襲は、きわめて重大な脅威を与えるものと予想されたが、高速空母部隊の哨戒機によって、これに対抗出来るものと考えたのである。
三、しかしミッチャーは、この巨艦を部下のパイロットたちに沈めさせる肚を固めていた。前年の十月二十四日、比島のシブヤン海で戦艦武蔵に執拗な攻撃を加えて敗走させたのは、同じ機動部隊の精鋭であったが、同夜七時過ぎに武蔵が海底に沈んだ時、沈没までの経緯を自分の眼で確認することの出来た米軍の将兵は一人もいなかった。
それが事実航空機のみによる戦果であったのか、あるいは潜水艦の協力による結果であったかは、機動部隊の責任者にとってきわめて重大な意味をもつ謎であり、その謎は是非とも同型艦の大和によって解かれねばならぬとミッチャーは考えた。
そこで集結した高速空母部隊に北進を急がせ、攻撃発進命令を日誌に記入する用意をした。たとえスプルーアンスが自分の攻撃を禁じようとも、飛行機ならより早くより正確に達成できる仕事を、戦艦に任せることは出来ないと彼は自分にいいきかせた。
ところが数時間後、スプルーアンス長官は意を決し、デイヨ司令官に、戦艦六、巡洋艦七、駆逐艦二一、計三四隻による作戦部隊(第一戦艦戦隊)の編成を命じた。この命令電報の写しを見せられたミッチャーは、黙って破り捨てた。
高速で北上を続ける空母の甲板上では、整備員が爆装雷装の準備に奔走し、攻撃員は昂奮を抑えて待機していた。「さあ飛んで行って、奴らをやっつけろ」ミッチャーは彼らに語りかけた。
四、指揮官たちの横顔。
○レイモンド・スプルーアンス大将(五十九歳)。
航空作戦には少しの経験と関心。用兵上は戦艦論者で、その機能を正しく判断していた。複雑な海軍作戦についての輝やかしい戦略家と調整官。もの静かな、快活な、寸分も隙のない厳格さ。計画的な思索家。
時には品の良い音楽にくつろぐ。自分の評判には用心深く、冷淡。ものうげで重々しい動作。作戦の判断に当っては、キイ・アドバイザーを尊重した。
○マーク・ミッチャー中将(五十八歳)。
わずかに聞きとれるくらいに、静かに柔和に話す。ほっそりして飾り気はないが、粘り強く屈強な人物。すべての航空士官の尊敬に値する、指導者の中の指導者。
五、決戦部隊に選ばれた第一戦艦戦隊の三四隻の艦内は、待ちに待った任務をあたえられて歓喜に沸き立った。少年のような主計兵でさえ、世界一の巨艦との夢にまでみた対決を、逆立ちをしてよろこんだ。
しかし限定された海域での戦闘では多数の艦艇は不必要との理由で、編成から洩れた一二隻の艦上では、嘆声と怒号が渦巻いていた。指揮官スミス少将は憤然として抗議したが、デイヨ司令官は耳を貸さなかった。
デイヨ司令官は、総合派遣軍司令長官ターナー中将の坐乗する旗艦エルドラドに幹部士官を招集し、敵艦隊と沖縄上陸部隊の間をいかに遮断するかの方策について協議した。
彼らは、すでに計画の大綱が決まっている以上、冷静に次の事実を認めねばならぬことを知っていた。──大和の一八インチ砲の射程(四二、〇〇〇メートル)は、米戦艦の一六インチ砲のそれ(三八、〇〇〇メートル)を凌駕《りようが》しており、最も速い主力艦でさえせいぜい一八ノットで、日本艦隊の二八―三〇ノットより相当遅速である。
しかも米戦艦の主砲は、上陸軍支援の陸上射撃に追われて、水上戦闘の訓練が不足していた。また必至と予想される夜戦の場合、小艦隊で高速の日本側が有利であり、日本の駆逐艦の熟達した魚雷攻撃が最強の武器と思われた。
数の優位が、よくこのハンディキャップをはね返すことが出来るだろうか。もし大和がわが艦隊の間をすり抜けることを許したならば、輸送船団が思うままに蹂躪《じゆうりん》されるのを防ぐ余地は全く残されていないであろう。
残された道はわずかしかない。それは日本側の牽制攻撃を早期に看破して速力差をなくすことと、側面に強力な重巡と駆逐艦を配して輸型陣を突破されないことであった。
しかし何があろうとも、米国海軍は最善をつくし、ジャップの巨大な獲物をのがすことはないであろう。たとえ配下のすべての艦艇、人員が犠牲になることがあったとしても、必ず大和と剌しちがえてみせると、デイヨは旗艦テネシー艦上で自らに誓った。
護衛機一四機[#「護衛機一四機」はゴシック体]
一、大隅海峡通過中(〇四〇〇頃)、第五航空艦隊長官から「七日〇六〇〇から一〇〇〇の間、五航艦の戦闘機が上空直衛を行なう」旨の電報を受電した。
〇五四五 磯風「敵味方不明機見ユ。方位二六〇度」。第一航艦彩雲隊の黎明索敵発進と判明。索敵範囲は列島線南東方および沖縄島周辺。
〇六〇〇「大和」の最後の水慎一機が対潜直衛のため発艦。任務を了えて指宿《いぶすき》に帰投した。
第二艦隊司令部付の水偵が対潜直衛のため夜明けと同時に「大和」右舷後部のカタパルトから発射された。
操縦士出雲雅成上飛曹は六日夜、艦長有賀幸作大佐から次の命令を受けた。「夜明けと同時に発艦する。艦隊の前路哨戒は三時間。後に『矢矧』の一番機が発艦したら交代せよ。指宿に帰り、次の日爆弾を積んで沖縄に突込め」
出雲上飛曹はフネの連中に、発艦直前「貴様の方が先に死ぬのではないか」と言われ、「死んじゃいられないよ」と冗談を言って飛び立った。電信係の松森知男上飛曹は、整備の連中が「うらやましい」と言うのを聞いて「すまないなー」と思った。
偵察員周東宗平二等飛行兵曹は艦隊の前方を扇形に右に左に行ったり来たりして飛ぶ水偵から敵潜水艦の発射魚雷を見張っていた。機の震動で双眼鏡を使用せず、肉眼で見張った。上空から見る戦艦大和の巨大さは、以前乗艦したことのある長門と比べて驚くべき大きさだった。見張りに熱中する今は、すぐそばに見える大和を見てもなんの感動もなかった。
出雲上飛曹は「矢矧」の一号機が飛び立つのを見てバンクし、艦隊に別れをつげ、空襲下の指宿に無事着水した。
〇六一五「対空電波哨戒、緊急対潜配備」
〇六三〇―一〇〇〇 味方戦闘機五―一〇機が常時第一遊撃部隊の上空を警戒。
〇七〇〇―〇八三〇 味方水偵一―二機が対潜直衛を実施。
〇八〇〇 海軍次官より海上特攻隊へ信号転電、「天皇陛下ニオカセラレテハ 戦捷ノ御念願御代拝ノ為 左ノ御予定ニ依リ高松宮殿下ヲ伊勢大廟ニ御差遣被|遊《あそばされ》 四月七日東京御発 八日|御参籠《ごさんろう》 九 十日御代拝 右謹ミテ貴長官限リ内示セラル」
二、七日早朝、第三五二海軍航空隊、植松真衛大尉は、司令官より「直ちに零戦を用意せよ」との命令を受けた。任務は、戦艦大和を旗艦とする海上特攻隊の直衛であった。当時、第三五二海軍航空隊の主任務は特攻機の直掩であり、その他の任務は計画に仕組まれていなかった。
九州の笠ノ原飛行場より、零戦五二型一五機が飛び立った。部隊の保有機数三十数機のうち、当日可動の全機であった。その日九州沖の海上は、雨雲が垂れこめ視界が悪かった。植松大尉は、大隅群島の硫黄島、黒島を確認しながら海上航法で飛行を続けた。この低空飛行は、多くの燃料を消費した。途中、笠ノ原飛行場を離陸した際誤って増槽を落とした一機が基地に引き帰した。
その後、直衛機隊は、海上特攻隊を雨雲の裂け目の開けた海上に発見した。植松大尉は、翼を振りながら特攻隊に接近した。艦隊は、輪型陣を組んで西へ進撃していた。中央に戦艦大和がいた(第二〇三航空隊所属一二機と第三五三航空隊及び大村航空隊所属一二機が実施)。
まぼろしの味方機[#「まぼろしの味方機」はゴシック体]
生存者証言
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
六時頃、開聞岳が見えるところにさしかかると、朝一番の飛行機が見えた。「ああ、行きよるなあ」。てっきり敵機と思った。ところが思いがけず味方機だという。零戦九機が、〇七〇〇―〇八〇〇と、〇九四〇―〇九五〇の間、直衛についてくれた。
○機関科、渡辺保上等水兵(二十歳)
七日朝、まだ九州の南端が遠くに見えるところを航行している時、後甲板で体操をしていた。そこに分隊長(電機分隊)が出てきて、「おい、また内地に帰れると思ったら、あかんぞ。今度は、生きて帰れんと思っとったら、間違いない。今のうちに、よう内地を見ておけ」「そんな馬鹿なことありますか。まさか、このフネが沈むなんていうことは、ありません」と笑って答えた。初めて大和を見た時、大阪城が海上に浮かんだようにみえるほど、物凄くごつく感じた。
間もなく、日本の艦載機が飛んできた。「飛行機ないというが、あるやないか」「頼もしいな」そのうち空が曇ってきて、見えなくなった。
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
零戦隊が三〇―四〇機、艦隊のまわりを何回もまわっていた。今度の戦さは直掩機をつけてくれるのかなあと喜んでいると、「味方機基地ニ帰投ス、対空警戒ヲ厳ニセヨと命令が下った。やっぱりな、と思った。
○第二艦隊参謀、宮本中佐(三十八歳)
作戦計画としては、沖縄まで護衛機がつくはずであった。しかし航空兵力が非常に弱体化してしまったため、それが出来なかった。乗員はそんなことは不服に思わず、ただ沖縄突入の任務を全うしたいと願っていたことは確かだ。
ばらばらの陸海軍[#「ばらばらの陸海軍」はゴシック体]
関係者証言
○連合艦隊参謀、三上中佐(三十六歳)
この第一遊撃部隊を無事沖縄まで進出させるには、当然充分な対空直掩が前提となるが、その役目を担当する第五航空艦隊は、特攻兵力を出すのが精一杯で、とても大和を守る力を割く余裕がない。もし余力があったとしても、味方を守るよりは、特攻機の護衛にまわす方がまだしも有効だというのが、五航艦の幕僚の大勢を占める意見であったが、宇垣長官は武士の情≠ナ、機数は多くなくても戦闘機の足が届く限りは、伊藤長官を護衛しようと自分の責任で決断された。
○五航艦司令長官、宇垣中将(五十五歳)
連合艦隊は大和及び二水戦を水上特攻隊とし、六日豊後水道出撃、八日沖縄島西方に進出、敵を掃蕩すべき命令を出せり。決戦なればこれもよからん。(『戦藻録』、四月五日)
第一遊撃部隊の進撃については最初より賛意を表せず。連合艦隊に対して抑え役にまわりたるが、今次の発令は全く急突にしていかんともなし難く、わずかに直衛戦闘機をもって協力し、敵空母群の攻撃をもってこれに策応するほか道なかりしなり。(同、四月七日)
○連合艦隊司令長官 豊田大将(六十歳)
この特攻作戦が成功しなかった主な原因は、やはり航空兵力の不足と、次には、基地航空部隊と水上部隊との協同動作が、充分しっくり行かなかった点に帰着しよう。(略)空中護衛が充分できなかったのは、航空艦隊が敵機動部隊に対する攻撃に頭を向け過ぎた、すなわち協同作戦に関する兵術思想に未熟の、宿命的欠陥があったからだとも考えられる。
しかしあの計画も、もし天候がさらに悪くて敵の飛行機が充分活動出来なかったら、特攻部隊は大隅海峡を抜けて、一昼夜後には沖縄に突っ込み得たはずだ。しかし現実はそんな飛行機の行動を阻害するような天候でもなかったし、また天気が悪くなるまで待てというわけにもいかぬ程戦況は危急で、一日も早くという心持ちが大勢を支配していた。(防衛庁戦史)
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 水上特攻に呼応した基地航空部隊による特攻攻撃は、ほぼ予定通り実行されたが、中央が大きな期待を寄せた陸上軍の総反攻との策謀については、意志の疎通が充分でなく、陸軍は協同攻撃の意義をはじめから認めていなかったと思われる節がある。事実、米軍の逆襲による脅威と天候不良を理由に、陸軍第三十二軍は七日の決行を見送り、結局十二日までこれを延期した。
○第三十二軍参謀、神直道少佐(三十四歳)
四月五日、この夜連合艦隊から次のような電報が入って来た。「戦艦大和を主とする艦隊をもって嘉手納付近の船団に対し、海上特攻を敢行する」。
漏れ聞いた軍司令部の将兵達は狂喜した。我が軍の総攻撃に呼応する海空総攻撃の一環として、海軍の至宝艦を以《も》って沖縄に立ち向わんとする熱意。一同の感激は筆舌に尽し難し。私は電報をわしづかみにして軍司令官室に飛び込んだ。牛島、長、両将軍はちょうど会談中であった。私はものも言わず電報をさし出した。
しかし冷静に純戦術的に考えると、沖縄周辺の敵制空権を無視して、この大事はあまりにも危険であることに間違いはない。両将軍はしばし黙然と電報に見入っていたが、感謝の意を表わしつつも、時期尚早、出撃を中止させるべき旨の電文起案を私に命ぜられた。直ちに緊急電報が発せられた。「ご厚志千万|辱《かたじけな》くは存ずるも、制空権未だ確保しあらざる本島付近に対し、挺身攻撃の至難なるべきに鑑《かんが》み、決行お取止め相成度」
間に合うか否かは不明であった。その後の模様もわからなかった。(『沖繩かくして全滅す』原書房刊)
○五航艦司令長官、宇垣中将(五十五歳)
四月五日 第三十二軍にその人ありといわるる彼《か》の長参謀も、遂に我を折り、七日を期し北方に対し攻勢をとることに決せり。しかして航空攻撃を同日に繰下ぐる要望を出せるが、これも撤回したり。よくぞ翻意せる。
四月八日 沖縄の三十二軍は、今夜より攻撃開始を公言す。大言壮語する反面、人に依存せんとする同軍が、どれだけ反攻の実をあぐるや、眉に唾して待つべし。(『戦藻録』)
○参謀本部戦争指導班「大本営機密戦争日誌」
四月八日
発GF(連合艦隊)参謀長 宛三十二軍参謀長「第一遊撃部隊は八日早朝沖縄西方海面に突入、所在献艦船及び輸送船を撃滅の上、献上陸軍を攻撃の予定。貴軍もこれに策応し、八日朝総攻撃を決行するを有利と認む」
本日午後沖縄に対する海軍総攻撃の発表あり。六日、七日の攻撃において献に与えたる損害は、撃沈破三十数隻にして、我が方は戦艦一、巡洋艦一、駆逐艦三を失えりと。
第二課の報告によれば、今回出動せる大和以下ことごとく撃沈せられたる趣なり。
前項GF電もまた笑い草となる。
皇国の運命を賭したる作戦の指導が慎重性、確実性を欠く嫌いあることは極めて遺憾なるも、戦艦の価値、昔日の比にあらざるをもって、驚くに足らず。
敵本格的空襲の算大ならず[#「敵本格的空襲の算大ならず」はゴシック体]
一、七日の夜が明けて引き続き曇天。雲量一〇、雲高は一〇〇〇―二〇〇〇メートルと低い。
この暗雲の下を、艦隊はほぼ真西に近い二八〇度で前進をつづけた。
この間、〇六五七、「朝霜」が機関故障で速力一二ノットに落ち、みるみる脱落した。
〇八一五「矢矧」の一号機が発艦、対潜直衛を行なったのち、〇九〇〇頃指宿に帰投。これで艦隊直属の艦載機はゼロとなった。
軽巡矢矧の一号機偵察員富原辰一少尉は、二水戦司令部参謀に敵襲がある前に水偵を発艦させてくれと意見具申をしていた。参謀は、「できるならば八日艦隊が沖縄に突入するまで発艦を待て。そこで、敵艦に突入せよ」と言ってゆずらなかった。
富原少尉は、「とにかく敵の空襲があってからでは間に合わない」と言って承知させ飛び立った。上空から見る「大和」は大きな艦《フネ》で、とても沈むとは思わなかった。命令は、指宿に行った後、奄美大島|古仁屋《こにや》基地で待機することだった。
一五分後に飛び立つ予定だった零式水偵二号機は、ガソリンを抜き八日の突入時機まで温存されており、艦と運命を共にした。
〇八三〇 「指宿基地、敵艦上機来襲中」との報。大和発艦の水偵は空襲下の指宿に無事着水。
〇八四〇 はじめて敵機を視認。グラマンF6F(艦上戦闘機ヘルキャット)七機が、坊ノ岬の二六〇度、六〇浬の地点で針路方向を通過。しかし攻撃の気配なく、艦隊上空を一周して飛び去った。
第一遊撃部隊指揮官より信号報告「艦隊速力二二ノットにて巡航運転中、『朝霜』は会敵二時間前より、巡航タービン減速装置温度過昇し(温度不明)、巡航タービンを離脱せんとせしに、離脱に約五時間を要する応急作業となれり」
二、以上の状況と情報を総合し、第一遊撃部隊は、次の理由から「敵本格的空襲の算大ならず」と判断した。
──この時機までに知得した敵機動部隊は、奄美大島東南方に第一群のみ。朝来、九州南部基地に小規模なる攻撃を加えつつあり。敵艦上機はわれを発見せる如くなるも、接触時間短く、すでに索敵限度に達しおる模様。その動静からすれば、あるいは味方の邀撃戦闘機を敵と誤認せるやも知れず。これに対する味方航空部隊の攻撃発進の報いまだ入手せず。敵機なれば、即刻攻撃指向を期待す。
その後、一〇〇〇頃、艦隊は米機動部隊第一群に対する特攻発進下命の電報を受電、また奄美大島および沖縄島東方に米機動部隊第二、第三、第四群発見の情報を受け取ったが、敵情に関する基本判断には変更の必要を認めなかった。
三、七日一〇〇〇 直衛戦闘機(零戦)は北方に飛び去った。
一〇一五 北寄針路の偽航路をとりたるも機雷堰の関係上充分ならず。
一〇一六 米マーチンPBM(カタリナ飛行艇)二機を、「大和」の二三〇度、四五キロの上空に発見。左一八〇度に一斉回頭。
一〇一七 主砲、副砲の砲撃を開始したが、敵機は射程外から触接を持続。
「大和」は米機の作戦緊急信を傍受、妨信を開始、のちに「矢矧」も妨信作業に加わった。
この間、各艦は敵機による艦隊針路判定を困難とするため
一〇二三 三二〇度に右一斉回頭
一〇四四 一六〇度に左一斉回頭と、斉動運動を展開した。
一一〇〇頃 後方から続航していた「朝霜」は、遂に視野外に遠ざかった。
機械整備に対する不熱意[#「機械整備に対する不熱意」はゴシック体]
艦隊准士官以上の出撃前の機械整備に対する熱意は、司令官の助言に対し極めて低調にして、工廠に全幅依存しおり。今回の「朝霜」機関故障の原因は、自己と生死を共にする機械に対する整備、操縦の不熱意によるところあるに非ざるか。(二水戦戦闘詳報)
敵機あらわる[#「敵機あらわる」はゴシック体]
生存者証言
○測距儀左測手、坂本一郎上曹(二十八歳)
八時頃、敵機七、八機が、雲の間からぽあっという感じで現われた。視界がひどく悪いことに気がついた。敵機はわが艦隊を発見すると、直ぐ引返した。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
味方直衛機が飛び去ると、入れ替わりにマーチンが来た。始終見え隠れつつついてきて、機数はその後六機にふえた。これほど探知されているのだから、艦隊は仮装針路なんかとらずに、琉球列島線に沿って最短距離を通り、真っ直ぐ沖縄に突っこんだ方がいいんだが、と残念に思った。
○第一艦橋見張員、上甲正好一曹(二十四歳)
直衛機が「これから帰る」と発光信号を送って帰ってゆくと、五分もたたんうちにマーチンが見えた。見張員は全員、配置に就いた。
一〇時頃だったか、マーチンがわが艦隊の状況を、平文《ひらぶん》で通信しはじめた。「敵の無線を極力妨害せよ」と艦橋から号令がかかった。かなり妨信をやった、ときいている。
マーチンに対しては、主砲発砲なし。
上空および水平見張員は、警戒警戒で追いまくられ、ほとんど戦闘配食をたべる暇がなかった。
○航海士、山森中尉(二十三歳) マーチンの出現。
いずれ発見されるとは覚悟していたが、一面の雲で視界がきかないし、一分でも一秒でも遅い方がいい、見つかったら必ず激しい攻撃を受ける、と思っていた。
敵機は雲の下に来なければ見えないから、こちらが発見するのは難しい。敵もこちらを肉眼でつかまえるには高度を下げなければならないから、自分で視野をせばめることになる。
だからマーチンに発見された時は、案外早くやられたな、とまず思った。いい気持しなかった。早く沖縄に行きたい。飛行機と戦争するために、われわれは来たのではない。
主砲発砲は数少なかったと記憶する。
○方位盤旋回手、家田政六中尉(三十一歳)
大和が警戒航行態勢をとっていると、前方にマーチン二機が水平線から上ってくるようにして現われた。そして二万四千―四万メートル付近を飛行しながら追跡してきた。徹甲弾は四万二千メートル飛ぶが、対空弾の射程はずっと小さい。射撃指揮所では予め対空弾を装填《そうてん》し信管を切ってあったので、砲測では射ちたくても射てない。マーチンは視界から消えるとまた現われた。
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
マーチンが肉眼で見えた。旋回手が視覚測定機の照準で十字線に目標を入れる。「方向ヨシ」「目標ヨシ」。主砲の砲身が目標を狙って上下する。
「空襲は時間の問題やな」、誰かの声がする。隣りの電波室をのぞくと、カーテンを下げて暗くし、当直員が三、四名体を固くしてブラウン管を見ていた。
○方位盤射手、村田元輝大尉(四十四歳)
大和の主砲は、届かん弾は射たない。
○艦長伝令、川畑光三二曹(二十四歳)
マーチンは二機で、二回来た。ちょっと緊張したが、問題にしていなかった。主砲も射たなかった。
○機銃員、小林水兵長(十九歳)
「来たぞ」敵マーチンが一機、右舷後方に肉眼で見えた。雨あがりで、たまにちょこちょこ陽が出て、南方特有の雲がうかび、さわやかな気分だった。
○気象班、野呂昭二水兵長(十九歳)
昭和十九年十二月初旬に乗艦したばかりで、第二艦橋前の副砲塔の下、最上甲板に気象班の配置があったが、まだ自分の任務を憶えるだけで精一杯だった。
七日朝、東支那海から低気圧が来ていた。あれだけの雲の低さ、厚さの原因がどこにあるかを追求したが、掴めなかった。
天候の現状から推測して、やっと天気図を作成した。豊後水道から南の方奄美大島にかけて、高度一〇〇〇メートル以下は層積雲がびっしり。
空母部隊戦闘準備完了[#「空母部隊戦闘準備完了」はゴシック体]
一、七日早朝、ミッチャーは索敵機を飛ばすことに踏み切った。四二機(第八三航空群一九機と第二二一海兵隊二三機)の艦上戦闘機は、四分の一円のパイの切身を重ねた形に散開した。分担範囲は三三六度から五六度の間を一〇等分し、機動部隊から三二五マイル先の遠距離まで捜索の網をひろげた。黎明時における日本艦隊の位置の予測は、バーク参謀長が潜水艦からの情報と測径器を活用し、徹夜で割り出したものであり、これに基づく早朝の索敵機発進の進言を、ミッチャーは喜んで受け入れたのであった。
バンカーヒルに乗り組んでいた英国の観戦武官は、かねて米国太平洋艦隊の作戦能力、高い効率に感服していたが、その朝のミッチャーとバークの行動には当惑した。大和の位置にどうしてそんなに自信が持てるのか。この疑問にたいしてバークは、「もし我々が大和であったら、そこにいると思われる海域に向って発進させたまでのことだ」と明快に答えた。
ミッチャーから哨戒機発進の報告をうけたスプルーアンスは、暗号解読情報(ウルトラ)で敵艦隊の戦力、意図、行先を既に知っており、確実にこれを発見撃沈することを望んでいた。
二、空から日本海軍最後の出撃艦隊を発見する名誉は、北西海域の捜索を担当した空母エセックスから飛び立った一機にあたえられた。〇八一五、緊急電の第一報が「敵艦隊、ダイヤモンド型の輪型陣中央に戦艦一、巡洋艦一―二、駆逐艦七ー八、N三〇度四四分、E一二九度一〇分の地点、針路三〇〇度、速力一二ノット(注 実際は二二ノット)」と報じた。
この吉報は、機動艦隊から一〇〇浬と二〇〇浬に配備された四機の通信中継機を経由し、VHF超短波によって受信された。この海兵隊員の操縦するコルセア四機は上空(二〇、〇〇〇フィート)の強い西風を考慮しなかったので母艦に戻れず、不時着水した。乗員三名は八日、米潜水艦に救助されたが、残り一名は発見されなかった。
触接地点の天候はきわめて悪く、「雲高三〇〇〇フィート、視界五―八マイル、時折スコール」とあり、攻撃側にとっては不利な態勢が予想された。しかし艦隊上空を直衛する敵機はわずか二機に過ぎず、その二機もいち早く遁走《とんそう》した。(特攻機を艦隊直掩機と誤認していた節がある)
三、艦隊針路三〇〇度、位置大隅海峡の西方一〇〇マイルという報告が、スプルーアンスに、日本艦隊がこのまま西進すれば、空母艦載機の攻撃圏外に出ることを懸念させた。しかも彼は、第五八機動部隊の正確な位置について、自信を持っていなかった。
三〇〇度は西北西にあたり、敵艦隊出撃の目的が沖縄への突入ではなく、基地変更のための佐世保回航であるかもしれない可能性を、示唆しているものと判断された。大和隊の動きは、大隅海峡から九州南端をかすめると、米機動部隊の北進を避けて大きく弧を描いて迂回しているようにさえ見えたのである。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 事実は日本艦隊の針路は二八〇度であった。哨戒機が日本艦隊のジグザグ運動に惑わされて報告した二〇度のズレは、指揮官の判断に小さくない影響を与え、その結果として戦艦対戦艦の海戦の夢はなくなったのである。
ミッチャーは、もはや我慢の限界にきたと思い、スプルーアンス長官あてに緊急信の詰問を送った。 "Will you take them or shall I ?" 作戦の岐路に立って苦慮していたスプルーアンスは、この詰問を受けて非常に安心し、かえって決断を促された形で、のちに記録上最も短い戦闘命令として広く知られるようになる返信を送った。 "You take them"
このことはまた、指揮官が任務を遂行するに当っての寛容さを、後進に教えるものである。
四、北に向う敵艦隊を発見した哨戒機はさらに詳細な報告を送り、続いて六分後に、艦隊が二四〇度に変針したことを報じた。この報告は、スプルーアンスとミッチャーに、日本艦隊の目標が沖縄以外にありえないことを確信させた。しかし、すでにサイは投げられていた。
〇九〇七―〇九一五 ミッチャーは、攻撃機が到着するまでの間、日本艦隊を追跡する特別追跡チームとして、戦闘機一六機、通信中継機八機、計二四機を発進させた。彼らは、やがて飛び立つ攻撃隊に対し、刻々正確な敵情を連絡する任務をあたえられた。
空母群は二五ノットの高速で北進を続け、甲板は雷装、爆装の準備作業で雑沓《ざつとう》していた。
各母艦の受令室(出発の前に命令、戦闘情報等を受領する室)は、第一次攻撃に出発する予定の飛行士で一杯であった。雷撃機は翼に落下可能な増槽が取り付けられており、これは異例の長距離飛行が行なわれることを意味していた。また無電通信兵は機内の油槽を取除き、代りに逆探知機と電波妨害装置のとりつけを急いだ。
敵大編隊接近[#「敵大編隊接近」はゴシック体](戦闘詳報より)
一、一一〇七「大和」のレーダーは、一八〇度、八〇―一〇〇キロに大編隊二群を探知、各艦に米機動部隊第一波近接を急報。全艦、対空戦闘の配置についた。(大和の対空用一三号レーダーは、波長二メートル、出力一〇KW、約一〇〇キロの探知能力があった)
一一一四 F6F八機をさらに発見。雲中に隠顕しながら触接を始めるのをみて、「大和」「矢矧」が砲撃を開始。一一一六から五分間隔で斉動運動をくり返し、また速力を二四ノットに増速、さらに二二ノット、二〇ノットに変速した。
一一一九 二〇五度に変針。ここで艦隊はようやく沖縄海域を目指し直進する予定針路に入った。
生存者証言
○「雪風」艦長、寺内正道中佐(四十歳)
変針点に来た。航路の関係から、突込む時期が決まっていた。変針して直ぐに行かなければ、命令時間に間に合わない。
敵が来ようが来まいが、ただ突込む。
天候は雲量一〇、小雨模様で、雲高一〇〇〇―二〇〇〇メートルと依然低く、一二メートルの南の風が吹いていた。
一一三五 レーダーは敵編隊二群以上を確認、しかもその位置は艦隊から七〇キロに接近していた。清水副砲長の証言によれば、一一〇七の敵編隊発見の際は艦橋ではまだ大和に向うとは見ていなかったが、遂にここで敵襲を覚悟、艦長は対空戦闘に備えて防空指揮所に上がった。
二、しかしこの時点でも、第一遊撃部隊はなお大規模な空襲の公算は少ないと見ていた。
「一一四〇における判断。敵艦上機の来襲必至と予期するも、小雨模様の悪天候、および既得の敵情に鑑み、その機数大ならざるべし。味方特攻第一次攻撃の成果に対し関心切なり」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 以上の根拠のうち、既得の敵情というのは、第一に沖縄島東方海面所在の米機動部隊から距離が遠いこと、第二にわが基地航空部隊による特攻攻撃の戦果大との情報と推定される。一一三〇頃、米機動部隊第二、第三、第四群に対しても「銀河」特攻全力攻撃が下命されたことを知った艦隊が、成果拡大に大きな期待を寄せたのは、やむをえないことであった。
敵情については、喜界島から「一〇五〇頃、喜界島上空、艦上機一五〇、北西進スルヲ認ム」との貴重な発信があったが、艦隊には遅れて達し、戦機に間に合わなかった。一一三〇頃、さらに喜界島から「大編隊二五〇機ガ北上中」との急報が発せられたが、不幸にしてこれも遅達した。
なお「浜風」砲術長、福士大尉の「沖縄海上特攻隊に関する報告」は別の記録をのせている。
「一一三〇 東方約二万メートルにPBM一機触接中なるを発見。
間もなく奄美大島監視哨より、小型機約二五〇機北上中、なる電報あり」
三、一一五三 伊藤長官は彼我の現況につき連合艦隊あて発信した。「F4U(艦上攻撃機ヴォート・コルセア)八機、F6F一〇機、付近ヲ旋回中、未ダ来襲セズ。地点、坊ノ岬灯台ノ二五〇度、一〇五浬。ワレ針路二〇五度、速力八ノット、一一四五」
一一五九 「朝霜から、「一三〇〇、機関修理完了ノ見込」と通報してきたが、その直後、一二〇八、「一三〇度方向ニ艦上機見ユ」、続いて一二一〇、「我レ敵機ト交戦中」と発信してきた。「冬月」は三〇度方向に、「朝霜」の交戦中らしい砲煙を認めた。
一二二一 「朝霜」は、「九〇度方向ニ敵三〇数機ヲ探知ス」と発信したのを最後に、消息を絶った。
一二二二 「大和」は二五〇度、四五キロに敵味方不明艦艇群を認めた。大島輸送隊と判明。
一二二八 「大和」はなお触接中の大型機を視認した。その大胆きわまる動きは、戦機近きを思わせるに充分であった。
通信の実情[#「通信の実情」はゴシック体]
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] わが軍内部における通信連絡の不備、遅達、未達は、当時陸海空を問わず見られた現象であり、情況把握を誤らしめる原因となった。
連合艦隊参謀長口達覚
術科其ノ他、通信(1)──艦隊通信ノ適否ハ、作戦ノ成否ヲ左右スル重大事項ナルトコロ、今次第一遊撃部隊ハ急編成部隊ニシテ此ノ点懸念サルルトコロ大ナリ。各艦ハ厳重ナル関心ヲモツテ最後マデ教育訓練ニ努ムルト共ニ、速カニ関係諸法ニ通暁シ、通信実施ニ当リテハ、幹部ノ積極的陣頭指揮ニヨリ遺憾ナキヲ期セラレ度
(2)今次作戦中、飛行索敵ハホトンドコレヲ基地航空部隊ニ依存スルノヤムナキトコロ、敵情獲得ノ成否ハ一ニ相互ノ通信連絡ノ適否ニ帰ス。水上部隊トシテハ基地航空部隊関係通信ノ全幅直接受信ニ努ムルト共ニ、重要入手事項ハ第一遊撃部隊司令部ヲ通ジ速報サレ度
米資料
最新式高速空母のために、米国の科学は、四チャンネルの高周波無線電話を開発した。それは、ある一隻の艦船から四つの独立した会話を可能にした。しかも、超短波であるために敵が聴取することは出来なかった。
戦闘情報部の士官は第一番目のチャンネルを通して、他艦の戦闘情報部と通信する事が出来た。二番目のチャンネルでは、空中にある自艦の操縦士を指揮することができた。三番目には、部隊上空の防衛戦闘哨戒機や対潜警戒機と接触を維持することが出来た。そして四つ目のチャンネルは、航行中、通信訓練のために使用することができた。
攻撃隊、日本艦隊を捕捉[#「攻撃隊、日本艦隊を捕捉」はゴシック体]
一、日本海軍最後の艦隊の攻撃に参加を許されたのは五八・一部隊(クラーク少将)、五八・三部隊(シャーマン少将)、五八・四部隊(ラドフォード少将)であり、五八・二部隊(ダヴィッドソン少将)は不運にも遠方海域で給油作業中のため、馳せ参ずることが出来なかった。
一〇一八 五八・一および五八・三部隊の空母群から戦闘機一一〇、爆撃機五一、雷撃機九九、計二六〇機の第一次攻撃隊が舞い上がった。目標は三四四度、二三八マイルにある敵艦隊と指示された。
帰還機の飛行距離を短縮するため、機動部隊はなお北進を続けるものとされたほか、パイロットは燃料消費に注意するよう警告を受けた。
第二次攻撃隊、五八・四部隊の一〇七機は、はじめ第一次攻撃隊と一緒に全機発進する予定であったが、整備に手間取って出発が一時間後に延期され、さらに四五分後に修正された。
一次、二次を合計して、結局三八六機が出撃に参加するにとどまり(ミッチャー報告)、手持ち機数の過半数が攻撃隊から除かれたのは、カミカゼ特攻の脅威を重視し、空母の上空パトロールに重点配置したためである。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] なお攻撃参加総機数について、飛行中隊戦闘詳報の合計では、索敵機を除外すると三六七機という数字が出ている。
スプルーアンス長官は、神秘的な威力を秘めた巨艦を迎え討つのに、充分過ぎるほどの航空兵力を割きえなかったことを、遺憾に思ったのであろう。大事をとって、デイヨ艦隊への出動待機命令は取り消されなかった。
そこでデイヨ司令官は、レーダーの威力を借りて夜戦に必勝を期する作戦を練りあげ、艦隊の出動時刻を七日午後三時半と予定した。その時刻には、ミッチャーにより大和が撃沈されるであろうことを、彼は知る由もなかった。
二、日本艦隊に対する九州の地上基地からの掩護は、三―五機程度の戦闘機に過ぎず、しかも一〇時頃までには全機帰投してしまったので、実戦には一機も参加しなかった。すべての動員可能な飛行機が特攻攻撃に投入されてしまった以上、それはやむをえない結果であったろう。
第二〇三空戦闘三〇三飛行隊長蔵田脩大尉は、大和出撃の上空直衛に関し次のよう回想している。
「最近、当時特攻艦隊の沈められた駆逐艦の生存者に会う機会があった。彼は、私に戦闘機の直衛がいなくなると、すぐ敵機が現われてやられてしまった。俺は戦闘機隊に恨みがあると言った。私はそれに対し、そんなことはない。俺たちは行ったんだが、命令が限られていたんだと答えた。
当時の命令は一度出ただけで、次の命令がこなかった。基地の若いみんなの気持は、とことんまで大和を守ってやればいいじゃあないかと言うことだった。五航艦司令部は、ちょうどその頃作戦が連続していたので、兵力の温存をはかるために大和の直衛のために多数の機をつぎこめなかったとのことだった。たとえ、大和が日本本土の近海で攻撃されても、命令がでていないのに出撃するわけにはいかなかったのが実状だ。
なぜ助けてやらなかったかの疑問をもっても、命令がないのに飛べないし、新手の敵機動部隊がきたから出撃しろと命令されれば飛び立ったであろう。当時の指揮官はそのような割り切り方をしていたようである」
伊藤長官は、出来る限り複雑な針路の変更を試みたが、ヤンキーの見張犬の鋭い眼をのがれることは出来なかった。哨戒機の群れに監視され裸のまま身をさらして走り続ける彼らの姿は、結局は米軍機に発見されるべき運命を、はじめから甘んじて受け入れていたように見えた。
三、〇九五七 慶良間《けらま》基地から飛び立ったマーチン飛行艇が二機、敵艦隊と接触した。この二機は、激しい対空砲火を浴びながら、一五三〇頃まで敵残存艦隊を追跡し、かつ海面に降下した搭乗員を救助する任務を全うした。
一一一五 特別追跡チームが、ついに敵との接触に成功し、その後はさらに正確な情報が得られることをミッチャーは喜んだ。そしてバーク参謀長に、「もし他に指示がなければ、一二時に大和隊を攻撃する計画であると、スプルーアンス長官に通知しよう」と話しかけた。
彼の賭けは当った。スプルーアンスの帰投命令が出されないまま、すでに攻撃隊は敵艦隊に近づき過ぎる位置まで進んでいた。
四、統合派遣軍ターナー長官は、日本艦隊に対する正面の敵ではなかったので、充分の情報をあたえられていなかった。そして戦艦戦隊が七日夜の夜戦に圧勝を博することを祈りながら、デイヨ司令官にあてて早手回しの祝電を送った。「貴官が明日の朝食のために、うまい魚を持って帰ることを希望する」
デイヨがこの祝電を手にした時、皮肉にももう一通の電報が彼のところに届いた。それはミッチャーからのもので、電文は混信のためひどく分りにくかったが、すでに第五八部隊の搭載機が大和の攻撃に向っていることを通報し、デイヨ艦隊のとろうとしている行動は、時間の浪費に過ぎないと警告しているように読みとれた。
デイヨは胃がムカムカしながら、ターナーヘの返電のペンをとった。「朝食のみやげを期待していただいて大変感謝します。私も喜んでうまい魚をたべたいと思います。ただし、もし沢山のペリカンが横から魚を全部食べてしまわないならば」
五、一二二〇頃から五八・一部隊の一機を先陣に、五八・一および五八・三部隊の各機が続々戦場に到着した。しかし天候は一段と悪化して暗雲がたれこめ、参加機数が多いこともあって、弾着を確実にするための協同攻撃の実行は、きわめて困難な状況と思われた。攻撃隊が遭遇した敵機はわずか三機で、いずれも敵艦隊と無関係な通過機のようであった。うち二機は撃墜、一機は雲間に逃げ去った。
敵の対空砲火は、第一感では予期以上に激しいとの印象をあたえた。しかし反面弾着は不正確と見受けられた。
頭上に大編隊[#「頭上に大編隊」はゴシック体]
生存者証言
○測的分隊長、江本大尉(二十四歳)
レーダーに大目標が映った。「大編隊来襲」を報告。空は一面雲で覆われていて、艦橋にいる人々は、電探で探知したとの報告を受けても、実際に敵機を見るまでは実感が湧かず、信じそうにない雰囲気と私は思った。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
電探の長谷川兵曹から数箇所に大編隊を探知したと報告してきたが、敵はなかなか近づこうとしなかった。ははあ、敵さん空中集合しとるな、とうなずけた。
○運用科(応急指揮官)、上遠野栄中尉(二十六歳)
第七応急指揮官を拝命、部下は一八名であった。
七日午前、艦は一路南下を続ける。中甲板にいるわれわれには、外はいっさい見えない。指揮所に部下を集め、タバコを吹かしながら、戦闘開始を待って伝声管の近くにいた。
部下に器具の点検をさせながら、どうせ死にに行く以外道はないんだから、あわてるなと声をかける。のんびりしたものだ。
艦が速力を増したのが、ブルンブルンという震動でわかる。応急用に準備した角材がふるえる。これが武者ぶるいというものか。
○機関科、渡辺上等水兵(二十歳)
「早めし食え」といわれて、一一時頃、後部甲板の居住区でいそがしくたべた。それから戦闘配置(副舵取機室)に就いた。任務は舵故障の場合に備えて、自分の席で電流計を見ていればよかった。
出撃といっても普通の航海と同じ気持で、配置は最上甲板からだいぶ下だし、「敵機来襲」という実感がわかなかった。大和に勤務して三年、このフネが沈むとは、絶対に思えなかった。沖縄で敵の上陸軍に大和が主砲を打ちこんだら、沖縄県民がたくさん死ぬんではないかな、とその方が心配だった。
○副砲長、清水少佐(三十三歳)
方向およそ二〇〇度。飛行機は一群また一群。「今の飛行機群近づく」。雲低く、全然見えない。「段々近づく」。三〇キロ付近。南寄りの方向にメガネを向けたが、なかなか見つからなかった。見張員が、雲の間、二〇キロ付近に敵機を見付けた。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
海図台で昼食をたべている時、「総員配置ニツケ」の号令がかかった。うで卵を半分ほおばっていたが、いっぺんにノドに詰まった。これでいよいよ死ぬのやなあ、と思った。第二砲塔の下の黒板に、白墨で「総員死ニ方用意」と書かれていたのを想い出した。
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
戦闘配食のにぎりめしと、ゆで卵二つのうち一つを食べている時、「敵ノ反射ラシキモノ、三〇キロ、四〇キロ、五〇キロ、ドンドン近付イテキマス」と伝声管。
低い雲の切れ間から、肉眼で敵機がチラチラとなんぼでも見えた。ぎょうさん来たな。レイテ戦では視界が良く、敵編隊を待ち構えて発砲出来たから楽だったが、と、とっさに思った。
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
敵を視認したときは、一万メートル以内であった。すでに編隊を解いて爆撃態勢に入っていた。主砲は「左対空戦闘」で発砲するだろうが、効果は少ないな、そんな直感がした。
○測手、石田上曹(二十八歳)
電探が目標を示すと、直ちに測距塔旋回手がその方向に照準する。艦の動揺に左右されないように、測距儀は転輪(コマ)で水平に保たれている。左、右、中と三名の測距手がザブトンに坐り、三名の測距離の平均をとって報告する。電探の測距離は測距儀より誤差が大きかった。
一五メートル測距儀の眼鏡で見ると、一〇〇機ぐらいの編隊が、わあっとクモの子を散らすように浮いているのが見えた。
じっと距離を測っていると、刻々近づいてくる。それから三、四群に分れ、さらに又何群にも分れて、攻撃の機会をうかがっていた。
○高射長付、中尾大三中尉(二十二歳)
電探が敵大編隊を探知し、電測士が逐一報告する声が聞こえてくる。「何分くらいで敵はやってくるかな」艦長が普段の声できいておられる。
間もなく二〇機ぐらいの塊に見える編隊機が、雲から雲へと飛び移りながら接近してきた。敵同士が衝突するのではないかな、と心配なほどゴチャゴチャといたが、残念ながらそういうことは起こらなかった。
攻撃隊発進詳報[#「攻撃隊発進詳報」はゴシック体]
一、攻撃隊の編成および発進は、次のようであった。
1、四月七日一〇〇〇 空母バターンから第四七航空群(戦闘機一二、雷撃機九)。
目標までの距離二四五マイル。魚雷調定深度は八フィート(約二・四メートル)。魚雷はすべて戦艦に叩き込むよう命令された。戦闘機は五〇〇ポンド通常爆弾二発を搭載。驟雨《しゆうう》を伴う悪天候に悩まされたが、発艦状況は順調であった。
ただし雷撃機のうち一機が発艦後プロペラ調整器故障のために取り残され、二時間半旋回したのち、空中哨戒機によって、過って絶好の標的(日本機)と報告された。また発進地点から五〇―六〇マイルの上空で、戦闘機一機がきりもみで墜落した。原因不明。(第八四航空群の一機と推定される)
編隊は途中六〇〇〇フィートに上昇、索敵機に誘導され、一二二〇、目標上空に到達した。
2、一〇〇五 空母エセックスから第八三航空群(戦闘機一三、爆撃機一二、雷撃機一五)。
この中隊はベエリー少佐によって先導され、同少佐は全攻撃部隊の空中標的調整官を兼ねていた。先導機は索敵用レーダー(ASH)を駆使し、距離三〇マイルに大きな反射波を捉えた。二四マイルで映像に分離が現われ、一九マイルで九つの目標が識別出来た。
やがて二五〇〇フィートの雲の裂け目から、距離四マイルに肉眼で日本艦隊の一部を発見、編隊は上空を自由に旋回するよう命令された。
3、一〇〇六―一〇一五 空母バンカーヒルから第八四航空群(戦闘機一五、爆撃機一〇、雷撃機一四、写真撮影専用機二機)。
この飛行中隊にとって、航行中の艦艇を攻撃することは初めての任務であり、全搭乗員は、日本艦隊の構成が大和の周囲に阿賀野型軽巡一隻と駆逐艦八隻であることを知らされて昂奮した。雷撃機は必ず戦艦を攻撃せよ、特別必要な状況が発生しない限り、他の艦船を攻撃してはならない、と厳命された。
編隊が奄美大島と喜界島の間を通過し位置を確認したことは、航法の苦心を軽減した。断続雲があったが、二〇〇〇フィートから上は晴れていた。しかし目標に接近するにつれて、密雲がますます重苦しく垂れこめていた。
4、一〇一〇 空母ベロオウッドから第三〇航空群(戦闘機八、雷撃機六)。
戦闘機のうち三機はロケット弾を搭載し、雷撃機は魚雷の代りに、各四発の五〇〇ポンド通常爆弾を搭載していた。
5、一〇一五 空母カバトから第二九航空群(戦闘機一〇、雷撃機九)。
高度二〇〇〇フィートから下は雲がびっしりと層をなしており、六〇〇〇フィートまでの積雲の雲量は一〇分の五であった。
6、一〇一七―一〇四五 空母ベニングトンから第八二航空群(戦闘機六、うち一機は写真撮影専用機、爆撃機一一、雷撃機一〇、海兵隊機一)。
7、一〇二五 空母サン・ハシントから第四五航空群(戦闘機七、雷撃機八)。空母ホーネットから第一七航空群(戦闘機一六、爆撃機一四、雷撃機一四)。
この中の雷撃機一機は、エンジンが不調で、しかも着艦用ギヤーが引っ込まず、魚雷と翼のタンクを捨て、危険を冒して無事着艦した。信号兵は "Well done" とこれを讃えた。
二、空母ベロオウッドとサン・ハシントからの発進機は、ベニングトンからの発進機に合流した。ホーネットの飛行大隊は約二マイル後方にあった。編隊は速力四〇ノットを指示され、接敵高度は三〇〇〇から六〇〇〇フィートと様々であった。
第一七戦闘機中隊が日本艦隊を捉えた時、目標海域はぼんやりと曇っていた。大和は中央にあり、右舷艦尾に巡洋艦、左舷艦首に他の巡洋艦を伴っていた。駆逐艦九隻は主力艦の周りに警戒陣を展開し、一〇番目の駆逐艦はさらにその一〇マイル東にいた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 脱落した朝霜か。なおこの観測は実際よりも巡洋艦一、駆逐艦二だけ過大である。
中隊が視認した時、戦艦は発砲し、艦隊は回避運動を始めた。全機は攻撃のため展開するよう命令された。
第八二爆撃機中隊のうち、大和型戦艦の攻撃に二度にわたって参加した操縦士は、四月七日に一瞥した時、その戦艦は広島湾で攻撃した戦艦と同じ外観を持っていないと考えた。二つの戦艦は異なった塗料で仕上げられていた。──呉の大和は明るいグレーで塗装されていたのに、九州の大和は暗いブルーの塗料をしていた。
彼がこのように、外観の異なる二隻の大和型戦艦がありうるという印象を待ったのは、ある報告書を読んだことに関係がある。それは空母ワスプから発進した飛行機が、三月十九日に呉で大和型戦艦を攻撃したという興味ある記述であった。ベニングトンの第八二航空群も大和型戦艦を攻撃したから、我々の飛行機は、同じ作戦中に広島湾の別々の位置に切り離して停泊した大和型戦艦を攻撃したことになる。その日、大和型戦艦二隻が停泊していたかどうかの決定は、より正確な最新の航空情報による他はない。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] ワスプの当時の戦闘詳報を分析すると、ワスプの攻撃機は戦艦榛名を攻撃したものと推定される。またガーモー少佐の指揮する第八二航空群は、大和に対し三、四発の直撃弾と二、三発の至近弾を与えたと報告しているが、大和には被害がなかった。他の戦艦と思われる。
[#1字下げ] なお日本側記録によれぱ、戦艦伊勢は直撃弾四発、至近弾多数、戦艦日向、榛名も命中弾と至近弾を受けている。
三、第八三航空群は他の飛行大隊が攻撃準備をする間、四〇分間、目標をレーダーで追跡しながら、六―一〇マイルの距離で艦隊の周辺を旋回した。大和の主砲が発砲したが、弾着は近くなかった。
高度二五〇〇―三〇〇〇フィートに厚い密雲があり、日本艦隊の提督が、上空からの攻撃を遮断する防壁として、この悪天候を頼りにしていることは明らかと思われた。しかしそれは日本艦隊を益するのと同じ程度に、われわれの攻撃行動をも助けるはずであった。暗雲は少なくとも攻撃の初期の段階では、視覚対空砲火の照準を著しく不正確にするものと期待された。同時に急降下爆撃に際しての中隊内部の統制は、視覚連絡から時間調整に切りかえられた。
第四七航空群が艦隊上空に達した時、敵の針路はほぼ真北と報告されたが、指揮官が編隊をしっかり締め直している間に、針路を東に変えたと報告が入った。
第八四爆撃攘中隊の隊長機が眼下に日本艦隊の陣形を目撃した時、出発前に充分予備知識をあたえられていたにもかかわらず、全く思いがけないことを発見した驚きに打たれた。情報はそれ程に正確で実物と寸分違わなかったからである。対空砲火がないことは、さらにいっそう意外な出来事に思われた。
中隊の攻撃目標としては駆逐艦を割り当てられた。
四、その駆逐艦は艦隊の警戒陣の一隻と思われたが、主力艦から何マイルか離れていた。上空は一面に雲で蔽《おお》われていたので、正確な距離は分らなかった。中隊長は燃料の消費具合を見て、攻撃を急ぐことを決意した。爆撃機は高度三五〇〇フィートの雲の上を飛行し、駆逐艦の航跡の右側から接敵した。爆弾投下はうまくいったようであった。 二回目の攻撃態勢をとった時、駆逐艦は対空砲火をやめた。艦は煙突の前から白い煙を数分間流し続けた。そして海上に死んだように停止していた。(攻撃が始まる前は全速力で航行しているようであった)
爆撃機が再集結を行なう前に、煙はすべておさまった。その直後、操縦士三名と砲手五名は、艦の後部第三砲塔付近に物凄い爆発を観測した。
最初赤みがかったオレンジ色の爆発があった。艦尾が持ち上がって艦は身震いしているように思えた。その直後黒い煙が大きくうねって上がった。
観測者は艦が後部に傾くのを目撃した。それ以上の観測は雲にさまたげられて不可能であったが、これまでの爆弾命中と爆発の観測は適確であると思われる。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 朝霜の最期であろう。同艦は艦隊から脱落後、日本軍に一人の目撃者もなく、その最期は謎に包まれていた。
五、ラジオ受信は定められた周波数で行なわれたが、極端に通信状況が悪く、ほとんど受信不可能であった。これは空中状態によってひき起こされたものか、あるいは、敵の電波妨害によるものか、または使用中のラジオに故障があるのか、不明であった。このような状態から、第二九雷撃機中隊への攻撃命令はついに受信されなかった。
六、第四七戦闘機中隊は攻撃前に艦隊からかなり離れた距離にいたので、射程の長い戦艦の主砲の目標になり、至近弾を打ち込まれた。
トリグ中尉機は方向舵と胴体後部の損害が非常に激しかったので、帰投してから母艦に着艦できなかった。そこでやむなく駆逐艦の近くに着水し、直ぐにひろい上げられた。
さらにイジュウー少尉機は、およそ四〇ミリの大きさの砲弾が左側の胴体に入って炸裂した。穴は一二×一二インチ(約三〇×三〇センチ)の大きさがあった。破片が飛び出した右側胴体の上部には多数の小さな穴があり、修理出来ない程の損害を与えていた。方向舵の操作線も操縦に支障をきたす程切断されていた。
クラアップ中尉機は、やはり四〇ミリの大きさの砲弾が左の水平安定板に入って爆発し、外被の上半分を切り裂いた。
こうした重大な損傷にもかかわらず、いずれも墜落を免れたのは、機体機材の堅牢さによることはもちろんであるが、各操縦士が強い意志力で自分の機を母艦に持ち帰り、更に無事着艦に成功した事は、素晴らしい偉業というべきであろう。
対空砲戦の実情[#「対空砲戦の実情」はゴシック体]
生存者証言
○砲術長、黒田吉郎中佐(四十二歳)
レイテ戦当時は、戦艦伊勢の砲術長であった。至近弾による被害修理のため呉に入渠《にゆうきよ》していると、ある日大和から参謀がやってきて、伊勢の戦闘状況を艦隊幹部に詳しく話すよう依頼された。そのための研究会で、私は次のような説明をした。
レイテ戦の天候は快晴で視界は遠く水平線の彼方まで開けていた。まず三六サンチ主砲を最大仰角とし、敵来襲機集団の中央に三式対空弾(弾片が約六千箇に細分して四散する榴散弾)を発砲し、次いでかねて定めておいた対空戦闘第二法を下命した。
これは全砲火の有効射程に応じ予めその照尺量を定めておき、号令一下一斉射撃により、立体的なしかも幅の広い漏斗形弾幕を作る方法であった。弾幕によって敵雷爆最適地点への進入を妨害し、照準を混乱させ、攻撃意欲を減退させ、強行突破するものは撃墜する方法であった。
それから数カ月ではからずも大和砲術長に補職された。(一部『丸』誌)
大和の対空弾幕は、次のように三段構えで規模の大きなものであった。
主砲(四六サンチ)射程一五〇〇〇メートル。目標、前方および左右正横。
高角砲(一二・七サンチ)射程八〇〇〇メートル。四周。
機銃(二五ミリ)射程三五〇〇メートル。四周。
主砲射撃のカナメは射手の指である。まず艦橋トップにある方位盤で目標を照準する。方位盤発信器から電動で示された基針に、砲側の追針が合うように砲を操作し、合致した時射手が引金を引く。この引金を引く呼吸が難しい。雑な心境からは散布界の広い雑な弾が発射される。これがうまく行くかどうかは訓練の成果であり、心技ともに一流中の一流人物が必要とされた。
砲術長の役目は、射出された砲弾が、水平線すれすれに見える目標の周辺に立てる水柱、しかもごく短時間に消える水柱によって近弾か連弾かを見きわめることであった。これも修練の極致ともいうべき任務であった。
○方位盤旋回手、家田中尉(三十一歳)
「大和」乗組は自分の誇りであった。これは他の乗組員も同じであった。艤装《ぎそう》の時から乗り組んで、三年以上一つの部署についている者もいたから、訓練の能率も上がり、自然に力がついた。
航海中は絶えず訓練をしていた。旋回手は艦橋トップの射撃塔にいて艦の動揺、旋回速力をキャッチし、データにとり入れて訓練予定を作った。大和の特徴は、フネの動揺周期が長いことである。フネの動揺が今度はこっちに返ってくるなと感じで分るようになると、手が先に動いてハンドルをまわす。むかしは一呼吸遅れて怒られたものだが、怒られても怒られてもへこたれない訓練をした。そのおかげで、頭より先に手が動くようになった。
眼もよく利くようになった。晴天の暗夜なら、一万四〇〇〇から一万六〇〇〇メートルの駆逐艦が見えた。港に入って上陸して休むと、それが見えなくなる。また訓練を始めると、二、三日で元に戻った。
主砲は対空戦では前部(二砲塔)と後部(一砲塔)に分火される。後部は後部指揮官が指揮する。射撃開始の命令は艦長がやる。
主砲は本来艦船撃沈用のものだ。航空機でもある距離を置いて、編隊で出てくる出鼻を狙うならよいが、急降下だと、フネが対応してすぐ転舵するので、照準をゆっくりやっている暇がない。懐ろに入ってきた敵は射てないのと同じだ。射撃指揮所(トップ)の元針に対して、砲側の追従動作に多少のズレがあることも不利だった。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
レイテ戦の時は、敵は戦闘機は艦橋を機銃掃射、急降下爆撃機は対空砲火の抑圧、雷撃機がとどめ、という原則で、順序よく来たので、それぞれうまく対戦すれば、五波来ようが一〇波来ようが回避出来た。前甲板に見張員を五〇名以上集め、平素から絶えず雷爆撃回避の猛訓練を実施した。
米機の千分の一の模型を作り、望遠鏡を逆さに使用して距離四万メートルを作り出し、有効弾を発射する前に確実に敵味方を識別する修練と、敵機の方向、速力、高度を測定して、自分の担当区域に入ったら何度で回避しなければならないかの回避点の教育を徹底した。 見張方向盤の上にはいつも表が置いてあった。見張員は回避点の五度前に見張長に伝えねばならん。「三度前、二度前、──角度になりました」肉声はとどかないので手真似も使った。こうしてレイテ戦では、至近弾二〇〇発で命中弾わずか二―三発、魚雷も四〇本は回避した。
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
私は測距手だから、戦闘中は測的所にいて距離を測る。ところが出撃の一週間ほど前に、測手ハンドルが突然焼きついて動かなくなったのだ。悪い予感がした。光学兵器のために中を開いて見るわけにいかない。原因もはっきりしない。ほかの測手のハンドルは故障がなかったから、測距儀の作動に支障はない。しかし測的分隊長には出撃前に報告しておいた。
○一番副砲砲員長、三笠上曹(二十六歳)
副砲の指揮系統は、副砲長→発令所→砲側→旋回手。
一砲塔三門。配置に就くと真ん中に砲員長。うしろでは砲台付准士官がメガネで常に外を見ている。
砲測伝令の電話で、砲員長が全員に号令を掛ける。「戦闘用意、敵は左〇〇度」旋回手は動力でハンドルを回し始める。装薬は人力で砲室へ。弾丸はいつでも揚弾できる態勢。装填角度は五度に固定、自動装填装置により弾をこめる。
対空戦闘の場合、号令を弾が待っている。「信管なんぼ」、プァプァプァプー、信管調定器を持って四番砲手が待っている。「信管五〇(五秒に調定)」
弾を装填する間も、敵機はどんどん動いている。直ぐ照準角度にもっていく。引金に手をかける。プァプァプァプァープァ、「打ち方始め」がくる。
引金を引けるのは、針が受信器に出てくるからだ。針が合ったら狙った所に弾が飛んで行く。弾に回転速度をあたえると、時間が来たら爆発する。装薬は万が一の事を考えて、一発ずつ。
元針を砲側の旋回手が追いかける。だが艦は転舵する。「大和」は初めは旋回速度がゆるいが、回頭しだしたらものすごく早い。それについていくのが大変。射手は上下の作動を一生懸命やる。
一名一名が全部自分の総力をあげてやらないと、その砲塔は動かない。訓練は体力の限界ぎりぎりまでやる。それだけの抵抗力をつけておかないと、いざという時役に立たない。戦闘中はちょっと待った≠ニ言っても待ってくれないのだ。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
右舷七群機銃群指揮官の配置は煙突の所。通常は管制塔にいて、鉄兜、防弾チョッキ、指揮棒とメガネを持って、目標の苗頭・距離を調節管制する。管制塔の中に入って首から上を出していればすむのだが、戦闘の最中は、いつの間にか膝の上まで乗り出している。
自分の指揮下の二基(六門)の機銃とは、少し離れた所にいることになる。ほかの機銃群の弾道と区別するために、五群の曳光弾《えいこうだん》は赤色であった。機銃群毎に赤、青、朱、白と色を分け、自分の弾がわかるようになっていた。
○測的分隊長、江本大尉(二十四歳)
大和に乗艦する時、有賀艦長から、君はレーダーの勉強のため高等科学生になる予定だったのを、特に頼んで本艦のレーダーをやってもらうことにした、と言われた。大和のレーダーは、当時帝国海軍随一の性能といわれていたが、実際は問題が多かった。ひと口に駄目だというのは酷だが、壊れやすいし、操作が難しい。しかも射撃の実戦にはほとんど役立たなかったので、ガッカリした。
連合艦隊参謀長口達覚
術科其ノ他(イ)対空砲戦
一、対空砲戦能力向上ノ具体的施策ハ従来研究セラレアルトコロ、コレヲ一々部下ニ普及徹底シ、生死ノ間コレヲ実行スル様指導セラレ度。
二、従来ノ戦訓ニ鑑ミ、敵機ノ来襲ニ際シテハ、回避ハ当然行ハルルヲモツテ、各対空射撃関係員ハ回避中モ充分射撃効果ヲ発揮シ得ル様工夫スルト共ニ、直衛配備ニアル駆逐艦ハ主力ノ掩護射撃ニ関シテ一段ト工夫セラレ度。
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米攻撃隊来襲
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襲撃第一波[#「襲撃第一波」はゴシック体]
第五八・一部隊(第五空母戦隊)戦闘詳報
(1)第八二爆撃機中隊(ベニングトン)
第八二爆撃機中隊のガーモー少佐は空母ベニングトンの編隊を先導していた。日本艦隊の推定位置に到速した時、"I am at my RTA."(自分は目標海域に到達した)と無線通信を送った。
日本艦隊は、あたかも攻撃機から身を隠すのを望むかのように、重苦しい雲の下を走っているところを発見された。艦隊は巡航速度で南に向けて航行していた。この付近の視界は四―八マイル、場所によっては二マイルぐらいで、雲高二五〇〇フィート、雲量一〇分の八で雨雲に蔽われていた。そこでASHレーダーを使用することにより、多くの索敵時間を節約することが出来た。対空砲火は、五マイルの射程内に入るまでは開始されなかった。
最初の砲火は、ありふれた黒色の炸裂を打ちあげ、続いて雲から見え隠れしている飛行機群を追いかけた。弾着は編隊のやや下で、射程は一〇〇〇フィート程短かった。搭乗員は艦隊に近づくにつれ、極彩色の炸裂を観測した。
その炸裂の色、大きさは、三月に呉を空襲した時、大和と護衛艦から打ちあげられたものと全く同じであった。また大和の主砲が対空用の特殊弾を使用したことも、あの戦闘で経験した通りであった。
先導機が視覚触接をしながら射程内に進入すると、すべての主力砲がいっせいに射ちはじめた。
五八・一部隊の計画では、空母ホーネットの搭載機が最初に攻撃することに決められていたので、ガーモー少佐はその道を切り開くため、ベニングトンの飛行大隊を率いて広い大きな軌道の旋回を行なった。しかし旋回の途中に、急いで戦端をひらくため、ベニングトン隊(一一機)が代りに最初の攻撃を行なうよう命令が変更され、同時にこの雷撃機中隊の主目標として、戦艦が割りあてられた。命令はこうであった。
"Sugar Baker Two Charly, Take the Big Boy."(最初の四語は防諜のためSB2Cの頭文字を取り入れたコード・ネーム。カーチス・ヘルダイバー爆撃機)
直ちに攻撃が開始された。各機がどの程度的確に戦艦を狙えるかの確率は、雲間から現われた時の場所に左右されるところが大きかった。分隊は五―六秒毎に二〇度の方向転換で避弾運動を行ない、故意に緊縮隊の態勢をとらなかった。標的にむかって緩降下してゆく場合の滑空角度は、飛行機の位置によって変化があった。緩降下の針路は首尾線上に沿って北から南に向い、投下を了えた機は増速して機首を南に向けた。また各機は一〇〇〇ポンド半徹甲弾二発ずつを携帯しており、高度二五〇〇―一〇〇〇フィートから一斉に投下した。
ウッド少佐機がまず大和を攻撃し、続いて急降下したスイビア中尉は、戦艦中央部に炎と黒い煙を伴う爆発によって明らかな命中を観測した。ウッド少佐は機を水平に戻した時、艦橋前方に一発、後方に一発、計二発の命中を観測した。
中隊長ガーモー少佐は、後部砲塔付近に爆弾の命中を観測し、護衛した戦闘機中隊のハンチントン中尉も、爆発に続いて空中高く燃えあがった火焔を目撃している。スイビア中尉機に続いて攻撃したフェリー中尉は、ウッド少佐の場合とほとんど同じ場所に、二発の爆弾命中を目撃した。
ウッド少佐機の砲手兼無線長リードは、艦橋前方に一発、直ぐ後方に一発、更に後方に一発と、計三発の爆弾命中を観測した。以上の観測のうち、どの命中が重複しているかを判別することは不可能であった。
しかし観測者の視覚がおおむね正常であったと仮定すれば、大和に少なくとも三発の直撃弾(前、中、後部に各一発)の命中を主張することは許されるであろう。一瞬の観測によるため、四名の目撃者が四発の命中を主張しても、それは一発の直撃弾であったかも知れないが、反対に一斉投下された二発の爆弾が同時に命中し、一発として報告される可能性もあるのである。
記録上、攻撃時刻は一二時三〇分となってぃるが、観測された命中がそれぞれいつであったかを細かく確かめることは不可能である。またこの時刻には、第五八・三部隊の空母バンカーヒル所属第八四戦闘機中隊、ヴォートコルセア一五機も、攻撃成功を記録している。この隊は各機、五〇〇ポンド通常爆弾一発を搭載しており、高度一五〇〇フィートから急降下して一斉投下を行なった。無事投下された一四発が大和に向い、上部構造物に一発命中が観測されたほかは、戦果不明である。
第八二爆撃機中隊では、フラー少尉が撃墜されて戦死、他の二機が対空砲火により損傷を受けたが、後に艦上で修理された。
(2)第八二雷撃機中隊(ベニングトン)
一二時三五分、ガーモー少佐はベニングトンの第八二雷撃機中隊一〇機を誘導して、日本艦隊の南端を西に向って降下させ、みずからは二機を率い、低く垂れこめた雲のまわりを回って左手に急旋回しながら降下した。
中隊の魚雷深度は一二フィートに浅く調整されていたので、大和の艦底の厚い装甲板を相手に魚雷を無駄使いしないためには、深度を深く再調整する必要があった。しかし再調整の命令を通報すべき無線士には欠員が多く、全機への徹底に自信を失ったガーモー少佐は、最も魅力的な標的を断念し、戦艦の艦尾にある二隻の巡洋艦に獲物を変更しなければならなかった。
二隻の巡洋艦は必死に回避運動をしていた。ガーモー少佐は配下の小隊に一隻を任せ、三機を誘導して三五〇〇フィートの上空から、西側の阿賀野型軽巡に雷撃の照準をつけた(矢矧であろう)。高度八〇〇フィートから投下された三本の魚雷は素晴らしく走り続け、艦の右舷に大きな爆発をひき起こした。
小隊の中の一機は僚機からはぐれてしまったので、機長ミーニー中尉は不安におびえながら魚雷を投下したが、機銃の砲手が "Bingo"(命中!)と、叫ぶのを聞いて満足した。すぐに眼をやると、ジャップのフネは中央部から激しい爆発を起こし、みるみる沈み始めた(浜風か)。この轟沈は帰投する他の戦闘機と爆撃機によっても確認され、この日の最も誇らしい、壮烈な戦果として賞讃された。
ウォーカー中尉は爆撃機(SB2C)が撃墜されるのを目撃した。救助|筏《いかだ》を投下するため高度五〇〇フィートまで降下して旋回したが、海面には生存者の痕跡が何ひとつ見当らず、しかも激しい対空砲火が彼を追い返そうとした。砲撃銃撃の勢いはすさまじく、射撃密度も高く、彼の景機が一〇マイル先に飛び去った時まで続けられた。
(3)第一七雷撃機中隊(ホーネット)
一二時三七分、空母ホーネットの第一七戦闘機中隊一六機は、目標として調整官から駆逐艦を割り当てられた後、攻撃命令が下った。
一二時四〇分、ベニングトンの第八二戦闘機中隊六機は、攻撃命令を受けた。駆逐艦を攻撃するよう予め決定されていたので、三機ずつの小隊で襲撃を開始した。
ちょうど同じ時刻に、ホーネットの第一七雷撃機中隊も攻撃態勢に移った。大和を目標に割り当てられたが、目標を確認すると、一回大きく旋回して攻撃を遅らせた。というのは、敵艦隊には巡洋艦が二隻いると報告されていたので、全機魚雷調定深度を一〇フィートに浅く揃えたのを、二〇フィートに再調整する必要があったからである。しかし目標到達の一三機中五機は混乱のため深度変更を行なえず、八機だけが戦艦向けに調整を完了した。
雷撃機八機は、高度平均六〇〇―七〇〇フィート、速力二五〇―二八〇ノットで、大和左舷を雷撃した。数名の操縦士と搭乗員によって四本の魚雷命中が観測され、その一部は、中隊の全機に取りつけられている魚雷鑑査写真機によって確認された。中隊の一機は戦艦の艦首の少し先で撃墜され、搭乗員は生死不明と報告された。
(4)第一七爆撃機中隊(ホーネット)
一二時四五分、ホーネットの第一七爆撃機中隊の一部、七機は、雲の裂け目をみつけ、高度三〇〇〇―一四〇〇〇フィートから緩降下姿勢に入った。そして一〇〇〇ポンド徹甲弾五発と一〇〇〇ポンド半徹甲弾五発が、高度一〇〇〇フィートから大和目がけて投下された。ウェアー少佐は上部構造物と煙突の後ろに各一発、ストーン大尉は艦首に一発、ズリストー中尉は煙突の後ろに一発、それぞれ爆弾の命中を主張した。
もしこの大きな戦果が事実とすれば、思い切って低高度から爆弾投下を試みたことが、高い命中率をもたらした理由と思われる。爆撃機のうち四機が特に激しい対空砲火の命中を蒙り、操縦士の一名は、中口径の銃弾で重傷を負った。
大和及び二水戦戦闘詳報(一二五〇まで)
(1)七日一二二九 敵艦上機二〇数機見ゆ。
一二三二 一六〇度五〇キロに、カーチスSB2C(爆撃機ヘルダイバー)、F6F、F4U、TBM(雷撃機グラマン・アベンジャー)計約一五〇機を発見、「大和」発砲。
一二三四 之字運動中止、二四ノットに増速、各艦対空戦闘開始。
一二三五 第一遊撃部隊指揮官は天一号作戦部隊に対し、「ワレ敵艦上機一〇〇機以上ト交戦中」と発信。
一二三七 各艦、一〇〇度に左一斉回頭。
一二四〇「大和」九〇度方向から急降下の艦爆敵機のうち一機を撃墜。
一二四一 敵艦上機群約二〇〇機、四囲より主目標を「大和」「矢矧」に指向来襲す。
一二四一 各艦「最大戦速トナセ」
「大和」単独に面舵《おもかじ》回避したが、後檣付近に中型爆弾二発命中。後部射撃指揮所、二番副砲、十三号対空電探破壊。
一二四三 「大和」の左七〇度、七〇〇〇メートルから雷撃機五機が向首してきたので、単独右に回避。左九〇度、一〇〇〇メートルに雷跡三本を発見。
一二四五 左舷前部に魚雷一本命中。
一二四五 「浜風」の後部右舷に爆弾命中、両舷推進器切断、航行不能となったが、一機を撃墜。
一二四六 「矢矧」魚雷および爆弾命中、航行不能。
一二四七 「浜風」に更に魚雷命中、火災発生、艦体を切断して沈没。(N三〇度四七分、E一二八度八分の地点)
一二四八 「冬月」にロケット弾二発、前部発令所、罐室に命中、いずれも盲弾(不発弾)。
一二四八 「大和」魚雷三本(左舷)、爆弾二発命中。
一二五〇 無電受信、「敵機動部隊第五群、空母二隻以上、四隻ノ公算大。午前ノ索敵ニテ発見シ得ズ。健在。第一遊撃部隊ヲ攻撃スルモノト推定。地点喜界島ノ一四七度、八〇浬」
(以上第一波被害の集計)
「大和」命中魚雷四本、爆弾四発。
「浜風」沈没。「矢矧」航行不能。
(2)「浜風」沈没に関する報告。
一二三〇 対空戦闘開始。
当日は雲量多かりしため戦闘すこぶる困難を極めたり。すなわち米機は雲間に隠顕するため照準妨害せられ、測距すこぶる困難、弾着観測は全く不能の状況なりき。かつ雲高低かりしため、機銃の如きは目標捕捉せる時には既に爆弾投下後なる如き現象を呈せり。
「朝霜」は当時第二艦隊の北方水平線付近に檣楼のみ視認し得たり。なお「朝霜」上空に米機及び対空射撃弾幕を認めたり。
一二五〇頃、本艦後部に爆弾命中。後甲板めくれ上がり推進軸は吹き飛び、瞬時にして行き脚停止す。引続き右舷より魚雷二番連管前部に爆弾命中。艦は右舷に傾斜沈没せり。
緒戦の情景[#「緒戦の情景」はゴシック体]
生存者証言
○「冬月」、中村俊一水兵長(二十一歳)
大和に旗旒信号の上るのを見て、全員戦闘配置に就いた。大和がいる間は大丈夫、親父《おやじ》がいるという感じ。
雲が低く、その雲の中に大和は三〇度くらいの角度で主砲を射った。物凄い砲煙で、大和は半分見えなくなった。
そのうちバアッと雲の切れ間から、飛行機の大編隊が出て来た。広島沖で戦闘機五〇機くらいと交戦した時、大和と一緒にいて、敵を寄せつけなかったので、我々の戦隊は、飛行機には強いと思っていた。
一波が去ると、直ぐ新しいのが来た。数にはかなわない。どうしようもない。
○副長、能村大佐(四十四歳)
艦長の対空戦闘の号令で司令塔の防禦総指揮官の配置に就く。折りたたみの海軍式のケンバスに腰かけ、いつもの通り計器をみつめていた。これによって全艦の状況が判断出来る。
各部、注排指揮所、応急班指揮所は、平素からの訓練で処置すべき事はわかっているから、副長の答えを待つまでもない。機関室注水など各指揮所の独断で出来ないことは、副長からの指示による。
後部に爆弾命中、第三分隊長戦死。それを聞いた時、徳山出撃の折、第三分隊の兵隊が病気になり、分隊長が自分でねんごろに送ってやり、「見送って来ました」と報告しにきたのを想い出した。兵隊はそのまま徳山に残った。その人が一番始めに戦死した。村重進大尉である。
無言で計器をながめていた。
○第二艦隊参謀、宮本中佐(三十八歳)
はじめ雷撃機が二〇機くらい、三〇〇〇―五〇〇〇メートルのところから急降下してきた。水雷出身の艦長はさすがに艦の扱いがうまい。敵も恐ろしいから初めは遠くから投下し、遠くから機銃を射っていた。しかし雨雲を利して、だんだん大胆になってきた。
○第二艦隊副官、石田恒夫少佐(三十歳)
森下参謀長は、第一艦橋右舷で、「こうやりましょう」などと言いながら、艦橋の中を走りまわっていた。
右舷艦橋直下に、魚雷が一本向ってきた。「よしよし」「きよる、あかん」命中。きゅっ、きゅっ、と艦が揺れた。
○主計長、堀井正少佐(三十一歳)
海がきれいなせいか、雷跡はよく見えた。大和の魚雷回避は最初は余裕を持っていた。そのうちに転舵、転舵で、右も左もない感じになった。
敵機は雲の間からチョット≠ニいう感じで現われ、サーカスのアクロバットのように突っ込んできた。敵は勇ましいなあ、と思うとともに、味方の対空砲火は当らんなあ、と思った。敵機の落ちたのは見なかった。
爆弾は初め小豆のようなものが落ちてきて、すうっと大きくなった。爆弾命中の報告が来ても、甲板の方をゆっくり見ている余裕はなかった。
機銃掃射で両側にいる兵がやられたが、その時もただムッ≠ニ感じたに過ぎず、自分のことは何も考えなかった。避けようと思う気持を持つまでもなく、ほんの一瞬の出来事だった。恐怖はなかった。
運用長は、魚雷が一〇本くらい命中しても平気だと、前々から言っていた。そのことを思い出していた。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
空中魚雷の投下、初めは分らなかった。なんであんなところに爆弾を投下しているのだろうと思った。すると雷跡がさざ波を立てて走ってきた。あたる──と思っていると、バァバァーンと命中。左舷中央から後部に集中した。
大きなものが艦橋に向って、ヒューと音をたてて来た。思わず首をすくめた。頭上すれすれを掠《かす》めて、後部の艦橋に当った。誰かがロケット弾だといっていた。 伝令(下士官)が血まみれになって、「後部がやられました」と艦長に報告に来た。われわれは配置から一歩も動かず、離れることはなかった。逃げようとしても逃げるところがない。陸上であれだけ飛行機が頭上に飛んできて機銃を射たれたら、すくんでしまうだろう。
○主計科、鶴見直市上等水兵(二十歳)
第二艦橋を下りて、戦闘配置、主計科のデッキ(中甲板)でにぎりめしとコンビーフの戦闘食をたべ終り、しばらくして「対空戦闘配置につけ」のラッパと号令が聞えた。
直撃弾、後部電探室付近から真っ直ぐすぽっと入って来た。これはまともに来たのではないかな、という直感で、無意識のうちに瞬間的に防毒面をつけた。訓練のたまものか。顔は焼けていなかった。両舷倉庫中甲板で炸裂した。上部を吹き上げ、熱風と火炎が通路を走った。それをまともにくらった。主計科の半分以上がやられた。みんな重なって、私も気絶した。頭から全部焼けた。爆弾の落ちてくるのが瞬間的にわかった。
しばらくして気が付くと、ハッチが閉まっている。状況は煙でわからないが、火災を起こしているようであった。
人間一人くらい通れる排気孔から、生存者がもぐり出た。煙突の前、最上甲板の機銃群の所に出た。機銃群はまだ射撃を続けていた。高角砲はかなりやられていた。甲板一杯に頭や手が飛んでいた。
電話連絡も出来ないから、「後部主計科、罐室付近、火災」を艦橋へ報告に行った。艦の動揺で空薬莢《からやつきよう》があっちこっちに転がっていて、その音だけでもすごかった。
取り換える間がないのか、銃身のささくれた機銃に重油をかけながら射っていた。
まだ大和は絶対に沈まんぞという気持があった。
○運用科、井高一曹(二十五歳)
配置は下甲板区画、八班応急班長。戦闘は一一時四〇―五〇分頃始まった。
第一弾命中、火薬庫火災。副砲に爆弾が当り、一番弱い副砲塔のアーマーを貫いて火薬庫に入った。火薬庫へ救援に行けとの命令。どこが火元かは確認出来ない。火は沈むまで消えなかった。
六班の応急指揮所からも電話で「副砲火災」、ほうぼうから注水した。かなりの水が弾薬庫に入った。主砲関係の兵員も救援に来た。その後第六班の人が集まったので、「他の班は引き上げろ」。
戦闘激しくなり、下の船倉を見に行った。早くも下から、ぶあーと海水が吹き上げて来た。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
雲の間に胡麻《ごま》をまいたように敵の大群が見える。三万から四万メートル。四、五カ所でくるくる回っていた。雲の切れ間に、あっちに大群見える、こっちにも見える。敵は襲撃しないでくるくる旋回していた。その間に自分の配置を下りて左舷に状況を見に行き、直ぐ帰った。
艦隊は防空のため輪型陣。上空の見張。雲が低く雲の切れ間が見える程度で、飛行機らしい姿は見えなかった。天候さえ良ければ、敵機の近づいて来るのがわかり、それに対応できる。
一番最初右舷から来た。ちょうど艦首方向七五度に一機だけ。密雲の中から飛行機がヒューと来るのと、黒い塊がツーと来るのが一緒。飛行機を見た時は爆弾を落としていた。管制塔の射手は自分の手足のように動く。自分の股の下に射手がいる。「あれ」といって狙わせた。機銃の旋回が間に合わない程の間に引金を引かせた。
突込んで来た時、一〇〇〇メートルにまで近付いて、敵機の搭乗員の顔が見えた。ヒューと落ちて来て、バババアーンという感じ。一番近い距離は三〇〇メートルもないくらいであった。
爆弾二発。高角砲指揮所に近い十三番の機銃座をけずり、直径二メートルの穴があいた。被害が中に広がった。機銃員被害なし。穴から煙が出ていたが、火の手は上がらなかった。同じところに二発。火災はわりと早く消えた。上甲板より下で爆発したように思った。
爆弾が落ちて二、三分後敵は右舷へ、右舷前部の機銃群発砲、一番砲塔横に至近弾。右舷前部に至近弾が多かった。雲が多いので、主砲副砲使えず。
○運用科、八代理水兵長(二十歳)
右舷後部(後ろから三番目の室)で、上等水兵二名と自己の責任区画に被害があるまで、じっと待っていた。ズダダァーン$k動。「あっ、今のは主砲発砲の震動やろか。爆弾やろか。魚雷やろか。どう思うか?」
伝令が来て「酒保の倉庫に注水せよ」。上等水兵に、あまりにももったいないと言って、酒を上げさせてからハッチを閉め、バルブを開いて注水した。注水後となりの室の伝令班に報告した。
それだけでは間に合わないので、次の室まで注水した。
○運用科、藤田上等水兵(二十歳)
志願兵のバリバリとして、燃料片道の訓示を聞いても、「行く所まで行く」と、別にこれが最後という気はしなかった。
上甲板から入って、流し場の奥、烹炊所のそばの戦闘配置にいた。
ズゥダーン≠ニやられた。「あっ、足をやられた」。上では戦闘しているのに、寝ころんで小説本を読んでいた古参の工作科上等下士、腰を抜かしてしまった。彼は戦闘配置の班長であった。反対舷(左)の奥田が「フジ、佐々田兵曹が爆風火傷した。応急箱持って来てくれ」と叫んでいた。班長を二人がかりで引っぱって短艇格納庫に運んだ。
格納庫にいると、魚雷でどんどんやられて、立っていられない。伏せている。ボカーン、横になったまま反対舷に飛ばされる。班長はいない。
横になったまま、後部へはって行った。運用科の班長がいた。「今日はこうなったら、何をやっても、あかん」と言っていた。
○運用科、小阪勝男一曹(二十四歳)
「わあー、あぶない」。瞬間、バーン、電灯が消えた。部下五名に防毒面をつけさせて、上甲板に上がった。
前部揚錨機室付近魚雷命中、初めにくらった。上甲板までマンホール開けっぱなしになっていた。直立ラッタルを駈け上がった。
兵長一名、上等水兵二名、二等水兵二名を引きつれて、前部注排水所に次の命令を受けに行った。途中電信室の前で若い通信兵(十五、六歳)、「大丈夫だっしゃろか、どないなりましたか」と心配顔であった。
折戸特務中尉(前部の応急指揮官)、上甲板で、軍刀持って折りたたみの椅子にすわって、「わー」とどなっていた。
前部管制塔、爆弾命中。上甲板は火炎でもうもうとしていた。「後部に水を入れてくれ。バルブがきかないから」。操作する機械をやられてしまった。後部に注水にゆく途中、四つん這いになる。兵員死んでいる。真っ暗。海水管は破れ、海水は流れっぱなし、生きた心地はしなかった。
○水測士、浅羽満夫少尉(二十四歳)
艦橋から左舷後部を振り返ると、舷側の二五ミリ三連装機銃の天蓋が、煙突左側直下の高角砲砲座のところまで吹き上げられているのが目についた。その天蓋の中には、つるつるの死体、手、足が見えた。このような死体を見るのは初めてだった。また後部の飛行機格納庫と第三砲塔付近に煙がたちこめていたが、煙の中に消火に動く人影が見え、白煙に近い状態だったので、消えかかっているなと思った。
至近弾が沢山あったが、前檣は艦の幅に対して細く、真ん中に直立しているためか、第一艦橋には、前部に魚雷が当った場合のほか、水しぶきはかからなかったように思う。
雷跡は、巨艦に対して深い深度に切ってあるので、よく見ないと分らないくらい目立たない。ほとんどが艦首のちょっと先をかすめるように通過した。しかし敵の魚雷攻撃は、さすがに執拗《しつよう》なものであった。
雷跡が白く白く何本も向ってくる。じっと眼をこらしていると、艦の五メートル前に見えた瞬間、どっと命中、がくんがくんと体に響く物凄い衝撃。
間もなく、左舷前部の水中聴音機のあたりに魚雷命中した。と同時に、水柱がぐっと盛り上がった。それが消えるまでに、三秒ほどかかったように思った。艦は二〇ノットで秒速一〇メートル進む。最大戦速二七・五ノットだと、盛り上がった水柱の中に突っ込み、艦橋に海水が飛びこんで海図台がぬれた。
水中聴音機室に勤務している部下の安否を確認するため、最上甲板まで下りて先を急いだ。途中弾薬莢が山になっている所があり、通るのに苦労した。防禦扉も邪魔だった。そこへ敵来襲の報があった。応急員が、被害箇所は水がいっぱいで恐らくダメだろうと言うので戻ることにした。応急員は腹這いになって、敵の攻撃に待機していた。
第一波と第二波の攻撃の間には、束の間の小休止しかない。いよいよ昼飯をくいはぐれたな、と思った。戦闘配食のにぎりめしは、対空戦闘警戒のためにたべる暇がなく、海図台の引出しの中にしまったままだった。沈没して泳ぎながら、「惜しいことをしたなあ」とそのことが気になった。
○艦長伝令、塚本二曹(二十八歳)
敵機現わる。
三波に分れて来襲して来た。艦隊上空を三周くらい旋回、主砲の射程内には大編隊として入らず。ずうっと主砲が敵機を追従しながら、射撃を開始するまでの気持、攻撃されるより恐ろしい。その時、すでに艦長は防空指揮所に上がっていた。「航海長! 艦長、防空指揮所」うなずく航海長。
攻撃の始まらないうちに、艦長が防空指揮所に上がられたと同じ頃、伊藤司令長官も、いったん上がって来られた。
防空指揮所に上がると羅針儀があり、第一艦橋と同じ設備がしてある。艦長が防空指揮所に上がっての第一声は、「敵機来襲、各長の命令で、射撃始め」。
雷爆撃機を見張る見張長の責任、重大。
電探の報告、刻々と伝令を通じて艦長にじかに来る。緊張の一瞬であった。
操舵室への「取舵、面舵」は艦長がやる。それは本当に忙しい。大きな伝声管で下に直接に命令する。
最初の攻撃は右舷前方向、「面舵一杯」。
編隊で艦隊を取りまき、それから編隊を解く。ずうっと飛行機を見ていると、さっさと高度をとるのと、そのままの高度を旋回するのと、さあーっと攻撃するのと三波に分れた。一回目は命中していない。
すぐ続いて二回目も右前方、この時は艦の右手に薄日がさしていたように思う。その方向から敵機の来襲が多かった。
「見張、右前方……」の報告多かった。
こっちも相当射撃していた。第一波の時の機銃員の張り切りようはすごかった。特に第二主砲砲塔上の特設機銃大活躍。「これぁー大丈夫だ」という感じを持った。
「後部指揮所爆弾命中、火災」の報告、防空指揮所から見ると煙の出る程度。
機銃群に爆弾が命中した際、飛び散った被服が火の付いたまま飛び上がって来た。
至近弾か、黒い水柱。
爆弾命中、右舷前方の艦首の波よけのある付近にヒューと来た。胸に切りこまれるようにヒヤッとした。
艦橋の下、何発かくっている。
目標の艦橋めがけて投下すると、後部に落ちる。
機銃掃射。魚雷。あそこに来て命中、ここに来て命中。わからないくらい、始終ぐらぐら。ドアン、ドアンという感じ、一五―二〇本、水が飛び敵る。艦がぐらぐらし、下に沈んで行く。
初め主砲は編隊に対し射っていた。それから敵が散開したので、射つ目標がなくなった。最初数機落ちた。火を吹いて帰って行くのもあった。
襲撃第二波[#「襲撃第二波」はゴシック体]
大和及び二水戦戦闘詳報(一三二八まで)
一二五七 艦上爆撃機数機「大和」右艦尾から急降下、面舵に転舵、一機撃墜。
一三〇〇 敵襲第一波終了近しとみて、「大和」一八〇度に定針。艦長、乗組員の士気を鼓舞、さらに決戦海面指示の旗旒信号を発信。
(注 この間の状況は生存者証言で補足)
一三〇〇 「矢矧」主隊と離隔、約二〇キロ。「磯風」二水戦旗艦に変更のため、「矢矧」に近接。
一三〇二 二〇〇度方向、三〇キロに敵新目標五〇機を認む。
一三〇五 魚雷一本「冬月」の艦底下を通過。
一三〇八 「涼月」前部に直撃弾命中、火災。
一三二〇 一二〇度に右一斉回頭。
一三二五 「霞」直撃弾二発および至近弾により航行不能。
「大和」被弾累加。
一三二五 「大和」より「初霜」へ、(信号)「通信ヲ代行セヨ」。
一三二七 速力二二ノット。
一三二八 「磯風」、「矢矧」に横付けを試む。
この間(一三一〇―一三四二)零戦四機、米攻撃第一群または第二群に突入。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第二波の被害は、「大和」被弾累加、「霞」航行不能、「涼月」火災、とあるだけである。それが米軍の戦果報告に比較してもはるかに小さいのは、すでに的確な状況把握の余裕が失われたことを示すものであろうか。
生存者証言
○艦長伝令、塚本二曹(二十八歳)
艦長、副長に「応急の状況を知らせよ」。それに対する回答、「大丈夫」。
警報機に赤ランプがつき、鳴り始めた。応急の状況が心配。「弾薬庫に注水」。しかし注水機能不良。
艦長命令。「本艦の任務は重大。本艦に力がある限り、全力をあげ、最後まで死守せよ」。
伊藤長官が上がってこられて、艦長に「とにかく艦《ふね》を頼む」。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
艦長「令達器は大丈夫か」。見張長、青い標識を見て、「令達器生きています」。
艦長「本艦任務を続行する。皆がんばれ」。乗員の士気を鼓舞された。大和の針路は、大局的にみて南であった。
○「冬月」航海士、鹿士俊治中尉(二十二歳)
大和から旗施信号が上がった。「決戦海面を北緯〇〇度〇〇分、東経〇〇〇度〇〇分とす、方向一八〇(ヒトハチマル)」。
決戦海面とは、その地点を決戦場として、最後まで頑張れという意味であろう。指定された海面は、男女群島の真南にあたる。
○第二艦隊通信参謀付、渡辺光男少尉(二十六歳)
森下参謀長が山本先任参謀と特に相談して案文を作った「決戦海面ヲ……トス」という通信は、旗甲板から旗旒でやった。
第五八・三部隊(第一空母戦隊)戦闘詳報
(1)第五八・三部隊所属機の攻撃順は、エセックス、バンカーヒル、カバト、バターンと定められていた。各艦所属機相互の統制はよく保たれていた。
一二五〇 空母バターンの雷撃機中隊が阿賀野型軽巡(のち大和に変更)、戦闘機中隊が護衛駆逐艦を攻撃するよう命令されたほかは、すべての雷撃機中隊と爆撃機中隊の目標は大和、すべての戦闘機中隊の目標は駆逐艦と、定められた。戦艦、巡洋艦を沈めるには魚雷が最も有効な武器であり、爆撃機と戦闘機は、魚雷攻撃を支援するのが最も効果的な活用法と考えられていた。つまり雷撃機が意のままに雷撃姿勢をとれるように、敵の対空砲火を破壊することが彼らの任務だったのである。
雷撃中隊長と爆撃中隊長の間の視覚連絡は悪天候のため不可能だったが、見事な時間調整の結果、最後の爆弾が爆発しているその時に、魚雷が投下された。したがって全機が同時に敵の砲火に身をさらすこともなく、米軍の損失は非常に少なかった。
(2)第八三戦闘爆撃機中隊(エセックス)
一二五九 エセックスの第八三戦闘爆撃機中隊(五機)の中で真っ先に攻撃したギブス中尉機は、高度二五〇〇フィートから一〇〇〇ポンド通常爆弾を投下し、操縦士二名が戦艦の左舷、上部構造物の前方に命中を確認した。他の四機は、空中調整官の援護をしていたために、投下の機会を失った。
(3)第八三爆撃機中隊(エセックス)
第八三爆撃機中隊(一二機)は大和を一・五マイルの射程距離内にとらえ、レーダーで追跡した。同時に、敵のレーダー操作による対空射撃を警戒し、妨害用の金属片を散布した。(しかし実際には日本の対空砲火はレーダーによって制禦されていなかった)
最初の急降下の約三〇秒前、大和は右回頭を始めた。一番機のベエリー少佐は、右後部から攻撃を加え、後続機はバラの蕾《つぼみ》のように折り重なりながら、右舷艦首付近に降下していった。そして一機が下げ翼≠使用しただけで、四〇度から七〇度までの様々な角度で、一一機が次々と急降下した。うち一機(ミッチェル中尉)は、六五度の降下角度で、高度一五〇〇フィートから一〇〇〇ポンド徹甲弾を投下し、中央部、艦橋構造物の近くに命中させた。機体の引き起こしは、高度八〇〇―九〇〇フィートで行なわれた。
雷撃機中隊の砲手は、艦橋構造物が命中の数分後に爆発したと報告した。爆撃機中隊の他の一機(サーマス少尉)は第一砲塔の前方に命中弾を命中させ、これと前の艦中央部の命中とは、戦果確認のために旋回中のベエリー少佐によって目撃された。少佐は護衛艦の艦上を飛び越えた時、第三砲塔の前方にもう一つの爆発を見たと報告したが、このことは確認されていない。なぜなら彼の機はその後撃墜されてしまったからである。
ただし第三砲塔前方の爆発は、同じ場所に半徹甲弾二発の命中を主張しているゴールドリッチ中尉の報告と符合している。また艦中央部の命中は、砲手自身によって確認され、さらに命中箇所から生じた炎と煙が、続いて急降下した三機によって観測されている。第一砲塔前方の命中も、砲手自身によって確認され、さらに最後尾として突っ込んだ爆撃機の砲手により、甲板上の燃え上がる環と穴と煙として報告されている。
この第八三爆撃機中隊は、以上のほかに前部檣楼の直ぐ前と第三砲塔の前方に、計二発の命中弾を得た。下げ翼なしで高度二二〇〇フィートからと、一五〇〇フィートからと、それぞれ急降下した二機が各一発の命中を主張しており、一機は砲手自身によって、他の一機は後続機の砲手が猛烈な煙と火焔を目撃したことによって確認された。また投雷態勢にあった雷撃機の操縦士二名も、二発の命中弾を報告している。
以上すべての報告について、観測者は火災およびそれから生ずる灰色と黒色の煙を確認しているので、砲火の閃光と見誤ることはありえないものと思われる。
(4)第八三雷撃機中隊(エセックス)
エセックスの第八三雷撃機中隊全一五機に割り当てられた標的は、戦艦であった。まず四機ずつの三つの分隊が、それぞれ縦隊を組み、同時に投雷態勢をとることになり、ホワイト少佐の指揮する第一分隊の四機が、大和の右舷に四〇度の角度で照準をつけた。しかし大和は右旋回を続けていたので、魚雷の角度は二〇―二五度に変っていった。
第一分隊のうちの三機は、見事な投雷を行ない、魚雷は標的めがけて突進した結果、少なくとも一本の命中を得たと信じられている。それは第一分隊の全機が大和を飛び越した直後に、艦正横のやや前部に近い右舷に起こった水中爆発として、第二分隊長機(ウェルデン中尉)によってはっきり目撃された。したがって、同時刻に第八三爆撃機中隊の一機が前部砲塔付近に生じさせた大きな爆発と、誤認することはありえない。
第一分隊の最後の一機(ジェイコブス中尉)は、雲の間から降下した時、大和からの距離が余りに遠過ぎることを発見、前方の駆逐艦に雷撃目標を変更した。その駆逐艦の速力は、五ノット以上はないように思われた。
第二分隊四機は右舷艦首に向って接近した。そして魚雷投下は、第一分隊の編隊が大和の艦首を飛び越えるのとまさに同時に隊長機が投下ボタンを押すという、絶好のタイミングで行なわれた。すでに右回頭をしていたこの獲物は、彼らが攻撃態勢を進めるに応じて、ますます狙い易い位置に身をさらすことになった。ウェルデン中尉、ボートライト中尉、ホッジーズ中尉とルコアルイン少尉は、魚雷が完璧な角度で直進して行くのを見た。そして操縦士四名と搭乗員四名全員が、左舷に魚雷三本の爆発を見た。
ビースン大尉の指揮する第三分隊も大和の左舷艦首に接近し、第二分隊の直ぐあと、短い間隔をへだてて雷撃態勢に入った。大和は右回頭していたため、左舷正横の全身をさらけ出しており、四名の操縦士全員は、今までに見た最高の雷撃目標が与えられたと信じた、と後に語っている。ビースン大尉、ラオウ大尉とシャラウガー少尉の三人が命中を主張したが、操縦士や搭乗員の間では、二つの爆発を見たという意見が有力である。
四人目のバアス少尉の位置は外側であり、彼は大和の艦尾を通過する雷跡を観測した。雷跡は右舷艦尾の先にいる照月型駆逐艦(冬月か)の艦底に走っていき、そこで見えなくなった。また彼は退避しながら、大和左舷に二つの水中爆発を見たが、その一つは、ビースン大尉のものにちがいないと語っている。
シャンウェイ中尉の指揮する第四分隊三機は、仕上げを命じられた。隊長機を含む二機が右舷から接近したが、大和の針路と逆方向に飛行していることに気付いたので、艦尾のところで一八〇度旋回した。それから左旋回し、右舷艦首の七五―九〇度で完璧の照準位置を得た。二機の搭乗員は、複数の命中を目撃した。
三番目のバアラット少尉は、単機で左舷艦尾から雷撃したが、大和を外れ、右舷後方にいた駆逐艦の左舷に向った。駆逐艦は中央部に恐ろしい爆発を起こして沈んだ。この雷撃は後方を旋回中のグランド・ハリス少尉によっても確認された。
この中隊の投下した一五本の魚雷は、すべてが正常に直進した。また操縦士は全員、大和の速力は一〇ノット程度と遅く、対空砲火が激しかったことを除けば、これまでに相手にした最上の標的だった、と語っている。
投雷高度は八〇〇―四〇〇フィートで、五〇〇フィート以下で試みたのは三機だけであった。速力は二二〇―二九〇ノット、射程は一二〇〇―一八〇〇ヤードであった。海面は大変滑らかで、風はほとんど無視してよい程度であった。
戦果について概括すると、一五機中一一機が「大和」に命中の公算大、と報告している。右舷には異った箇所で二度爆発が起きているので、重複はあり得ない。左舷には二つの分隊が三本の命中を、一つの分隊が二本の命中を主張しているが、これをはっきり分離することは出来ない。この間終始艦隊上空を旋回して監視の任に当っていたベエリー少佐は、それぞれ分離した四本の魚雷命中を目撃した。さらに駆逐艦一隻の命中と一隻の艦底通過も確認された。
命中の本数はともかくとして、魚雷投下が教科書通りに模範的に行なわれ、中隊全体の見事な統制と協同攻撃によって、「大和」が重大な損害を受けたことは、疑いもない事実である。
(5)第八四雷撃機中隊(バンカーヒル)
空母バンカーヒル所属の第八四雷撃機中隊一四機は、一二五〇 第五八・三部隊飛行隊長から攻撃命令を受けた。雷撃機中隊長スオンスン少佐は、レーダーで日本艦隊を捉えながら、高度五〇〇〇フィートで西へ雲を突き抜けて降下した。大和は南西方向に右回頭を続けており、小雨と薄雲が艦隊を包みかくしていた。中隊長は一三機の列機に直ちに "Break" 分れの信号を送り、挟撃態勢をとるため、第一分隊は南東に、第二分隊は南西に展開するよう誘導した。
左右から挟撃すれば、大和の回避運動の針路がどこに向うかと考慮することなく、効果的な雷撃を行なうことが可能なはずであるが、大和はそれに気付かぬように、攻撃側にとって最も都合のいい右回頭を続けていた。
第一分隊を率いるスオンスン少佐と第二分隊長ベリー大尉は、艦首挟撃を行なうのに絶好の位置に来たと判断すると、一斉に三機ごとの小隊に編成を命ずる信号を送り、標的に機首を向けさせた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この三機編隊は、小隊長の誘導が容易で、しかも相互に護衛する態勢がとり易いため、好んで用いられた。
大和は推定速力一七―一八ノットで、ゆるやかに右回頭していたが、投雷が始まった時、舵が利き出したのか回頭が強まった。対空砲火はいよいよ激しく、避弾運動をしながら突っ込んだが、第四小隊のウオルシュ中尉機は投雷前に炎に包まれ、海面に激突した。六機が接敵中に命中弾を受けた。ベリー大尉は左翼の先端から三フィートのところに四〇ミリ砲弾を受けたが、背中をピシッと打たれたような感じがした、と後に語っている。他の一機は砲塔のやや後ろの胴体に二〇ミリ砲弾を受け、無線士が負傷、砲手は意識を失った。
第二分隊の五機は回頭する艦首に向い、非常に難しい戦法であるが、内側から投雷し、第一分隊の八機は艦首の外側から投雷した。一三本の魚雷は平均射程一五七〇ヤード、投下機の高度五〇〇フィート、速力二一四ノットであった。小隊ごとの間隔は基準通り保たれ、一つの小隊が投雷している時、もう一つの小隊が艦の上を通過している、という間合いであった。
すべての魚雷を全く同時に投下するのが理論的には最も強力のように思われ勝ちであるが、実際には緊密に連続した一連の投雷の方が強力である。一三本中九本の魚雷命中が記録されていることは、激しい対空砲火という条件を考えれば、特筆すべき戦果といえよう。
魚雷攻撃中、ウェブスター少尉は右翼の付根に命中弾を受けて炎を発し、右車輪が垂れ下がった。炎は幸い二、三分で消えた。デイヴィス大尉は、対空砲火が余りに熾烈なので、戦闘記録に正直な感想を書き残している。「私は攻撃中は海軍のために働くが、魚雷を投下して退避する時は、搭乗員と自分のために働く」
レーイ中尉は発進以来右車輪が引っこまず、しかも攻撃中四〇ミリ砲の破片を受けたので、機を軽くするため機銃、弾薬、砲架、写真機、レーダー装置を捨て、ガソリンを一五ガロンだけ残して無事着艦した。
(6)第二九雷撃機中隊(カバト)
一三〇〇 空母カバトからの第二九雷撃機中隊(九機)が艦隊の右側へ降下しはじめた。大和は八ノットをこえない速力でゆっくり右回頭を続けていた。近くには駆逐艦が二隻いて、互いに反対方向に向いながら、ジグザグ運動をしていた。
第一分隊長アンダスン大尉は、魚雷調定深度二〇フィート、速力二三ノット、高度八〇〇フィート、射程二〇〇〇ヤードで、大和の右舷正横から、艦首前方全長三分の一のところを目標に魚雷を投下した。三機が直ぐあとに続き、分隊は弾幕の外側に出ると直ぐ西に退避した。隊長機が艦隊上空を通過して南に旋回しようとすると、何本かの雷跡と一つの爆発が見えた。大和は大きく右回頭しながら、やや右舷に傾斜しているようであった。
砲手は脱出の途中、二隻の駆逐艦に機銃掃射を加えた。後続機はアンダスン機の魚雷が正常に走行するのを認め、さらに二度目にふり返った時、同じ方向に向う四本の雷跡を認め、数秒後に大和右舷に二つの水中爆発を目撃した。他にどの雷撃隊が雷撃態勢をとっているかは不明であった。
スライドモア中尉は彼の分隊を先導し、艦隊への攻撃地点を考えながら数回のS旋回をくり返した。およそ五分後、大和は一回転してアンダスン大尉が攻撃したと同じ位置に来た。スライドモア中尉は日本艦隊の右側に達した時、大和右舷に魚雷三本の命中を観測した。二本がほとんど同時、一本はその三〇秒後であった。マガン中尉は投雷後およそ一分半で、艦首近くと艦尾付近に、計二本の魚雷命中を見た。スパイドル中尉は北西から接敵し、左艦首から大和を攻撃した。砲手と無線士は、艦橋の真下に魚雷命中による爆発を目撃した。
結局第二九雷撃機中隊は、確実な魚雷命中を二本と報告している。さらに何本かの命中があるとの意見も出されたが、悪い視界と、攻撃後低い高度で急ぎ回避しなければならなかったため、自信をもって観測結果の正確さを主張することは難しい。
しかしこの第二九雷撃機中隊が日本艦隊の主力部隊を攻撃したのはこれが五回目であり、そのことを大変誇りに思っている。もしこの記録を破った中隊があるとするならば、どこの中隊なのか、その名前を知ることに非常に興味を持っていると申しあげたい。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 以上第五八・三部隊の大和に対する魚雷命中報告が、右舷に集中しているのは、戦果報告において、右左の識別がきわめて重大な意味を持つだけに、奇異の感を与える。右舷にある程度の命中があったことは事実としても、その後左舷への傾斜増大により沈没するまでの経過からみて、大半が左舷に集中したと見る方が自然である。もっとも、ここでいう右舷の大部分が艦尾付近を意味していれば、左舷艦尾と混同し易いことは考えられる。なお攻撃機は目標に対し一八〇度の広がりで魚雷を投下したので、大和の右回頭は雷撃機に左舷腹をさらすことになり、多くの命中を受けたと解釈できる。
(7)第四七雷撃機中隊(バターン)
エセックスの雷撃機中隊が北東から日本艦隊の左側に沿って降下し、前方を横切って北と北西に旋回したのに対し、バターンの雷撃機中隊(九機)は単機の縦隊を組み、北から戦艦の左舷艦首を攻撃しようとした。
しかし魚雷投下地点に到達した時、隊長マーター少佐は攻撃を断念した。なぜならば高度七〇〇フィートの低空に雲があって視界が悪く、しかも護衛艦が中隊の真下から激しい対空砲火を射ち上げていたからである。彼は攻撃を急ぐ必要がないと心に決めると、回避運動をとりながら雲の中を出たり入ったりし、日本艦隊の周辺の上空を旋回し続けた。
この時一人の操縦士は、目標の戦艦の排水量を四五〇〇〇トンと観測した。このほか、飛行中隊戦闘詳報で、四二〇〇〇―四五〇〇〇トンと観測しているものが多い。事実は七二〇〇〇トンであったが、この大きな誤差は、設計者が空前の巨砲を装備しながら、艦形を出来るだけ小さくすることに異常な努力をそそいだ成果を裏づけている。
大和の左舷正横に並行して飛行した一機は、爆弾二発の命中を目撃した(エセックスの中隊と思われる)。エセックスの雷撃中隊は、激しい対空砲火を浴びながら、旋回して目標に接近した。バターンの雷撃中隊は、戦艦の南または南西の方向、艦尾から四―五マイルの地点から投下態勢に入った。このとき大和は右舷全体を中隊にさらしながら、東に向け回頭していた。
攻撃は個々の操縦士に任されず、マーター少佐指揮の下、全機一斉に行なわれた。大和は一二ノットぐらいでゆっくり回頭していた。マーター隊長は艦首に対し照準角九〇度、射程一五〇〇ヤード、高度三〇〇フィート、速力二五〇ノットで投下した。その直ぐあとにウィーラー中尉が、降下角度一〇度、高度七〇〇フィートで投下した。両機は南に向け右旋回して離脱しながら、標的に直進している雷跡二本を認めた。魚雷のうちの一本は一度海中から飛び出してから、正常な走行をはじめた。マーター少佐は集結地点に向う前に、写真をとるために上空にとどまった。彼と砲手、無線士、そしてウィーラー中尉の四人は、大和の右舷に、艦中央部と艦尾近くに、計二本の魚雷命中を目撃した。(後述の丸野二曹の証言と符合する)
二機に続いたダグラス大尉は、高度八〇〇フィート、射程一〇〇〇ヤード、速力二三〇ノットで、大和の艦首前方に照準角七〇度で投雷した。そこで左旋回し、大和の南一〇マイルにある集結地点に機頭を向けた。退避中は、操縦士はどんな行動、針路をとることも自由であった。
ダグラス大尉は、大和に向って走行する二本の雷跡と、艦尾付近の爆発を見た。しかしこの爆発は魚雷の命中よりも、爆弾の命中を示しているように思われる、と報告している。
第二分隊の攻撃は第一分隊と切り離して行なわれ、シュミット少尉が先頭を切った。彼は大和の艦首に対し、照準角度七〇度、射程一〇〇〇ヤード、速力二三〇ノット、高度三五〇フィートで攻撃した。そして離脱の際、巡洋艦(冬月の誤りか)の上空を通過するよりも、左旋回して大和の艦首方向に沿って北面に飛行する道を選び、しかも非常に接近したので、対空砲火の砲口が彼を追いかけながら上を向いているのがよく見える程であった。弾着の中には、紫色のトウモロコシのあられのようなボールが炸裂するのが目についた。
砲手のアームストロングが大和に五〇口径銃四〇〇発を射ちこむと、弾がハネ飛ぶのがよく見えた。駆逐艦の上空を通過したので、それにも機銃掃射を浴びせた。大和の艦尾方向に戻ってきた時、右舷中央部に魚雷命中を目撃し、さらに一五秒後に、右舷正横部のうしろに二本目の命中を目撃した。それから数秒すると、第三、第四の命中が観測された。
コリンズ大尉は、分隊長ウィリアムズ大尉に密着して攻撃した。分隊長は二本の雷跡が真っ直ぐに進んでゆくのを見て、本能的に命中を確信した。と同時に一つの小さな水しぶきを見た。それは魚雷投下のために起きたものと思われたが、その結果起こるべき雷跡は見えなかった。右旋回で南に機首を向け、直ぐ西に変針すると、右舷に魚雷三本の命中が見えた。最初の二本は密接し、わずかに遅れて三本目がややうしろに当った。そこで急いで南に飛び去った。
コリンズ大尉は艦首に対し照準角度九〇度、射程一五〇〇ヤード、速力二五〇ノット、高度一〇〇フィートから投雷した。しかし左旋回して戦艦の真横に出た時、二五ミリ砲弾二発の命中を受けた。一発は弾薬倉で爆発し、もう一発は右の翼を貫通し、座席の風防プラスチックを吹き飛ばして彼の首のうしろを横切った。水圧機が吹き飛ばされ、左の車輪も損傷したので、母艦に着艦の際は片車輪で下げ翼を上げたまま巧みに着地した。飛行機は捨てられた。
マーフィー少尉は絶好の位置から投雷したと思ったが、まだ魚雷を抱いていることに気がついた。そこで僚機から離れ、右舷から再び接近、高度一〇〇フィートで投雷した。今度は正常に走行するのを確かめながら離脱する時、駆逐艦が死んだように海面に横たわっているのが見えた。彼は一度目の離脱の間に右舷に二本以上の魚雷命中を、無線士は右舷正横に一本の魚雷命中を見た。針路は北西または北北西であった。
マーフィー少尉が二度目の雷撃態勢をとっている間に、フリット少尉が攻撃した。彼は南方向から戦艦の右舷後部に進入したが、攻撃中に右舷に魚雷二本の命中を見た。左旋回で南に飛び出そうとすると、右舷に三番目の魚雷命中が見えた。左旋回を続け、そろそろ自分の魚雷が命中する頃だと思って見ていると、四番目の命中が確認された。
この四七雷撃機中隊は、結局六本の魚雷命中の公算大と報告している。最低四本の命中は確実と思われる。搭乗員は、大和が一二―一五ノット以上で航行しているようには、一度も見えなかったと報告している。しかしこの中隊が爆弾命中を確認する前には、外見上損害を受けたと思わせる徴候は何もなかったところをみると、攻撃の成果を軽視することは正しくないであろう。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第二波攻撃隊に属する雷撃機の四個中隊は、一二時五〇分に攻撃命令を受け、一二時五八分から一三時八分頃までに四四本の魚雷を投下した。操縦士が命中の公算ありと報告したのは、計二一本である。同時命中が多く、かなりの重複も含まれているものと想像される。
第一次攻撃隊去る[#「第一次攻撃隊去る」はゴシック体]
生存者証言
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
無我夢中、攻撃は一〇分か二〇分で終った。今思うと不思議な気がするが、当時はいつかは死なねばならないという気持が強かった。恐ろしいという気持ではない。艦が大分傾いても、沈むという感じはなかった。沖縄に突入するのだと思っていた。
戦闘は無我夢中。一瞬のような感じで、表現できない。こちらから射つ音、爆弾の音、それだけ。魚雷命中の数、わからない。
○航海士、山森中尉(二十三歳)
主砲の発砲は少なかったと記憶する。防空指揮所の艦長、戦闘艦橋の航海長の操舵命令を聞いて記録し、海図台の上で作業する間に余裕をみて見張りをしたりしていた。見張りが一番大事。号令は書くが、あまり細かい事までは書かない。戦闘記録は航海科の先任下士官が書くことになっている。
後部に爆弾命中、そうひどい被害とは思わなかった。戦闘航海に支障はないと思った。魚雷が当ると艦が震動するが、最初の二、三本の命中は掠り傷のような震動。艦橋前方の魚雷命中は割りと早い時期だった。
中部、後部に魚雷が集中するようになると、艦が胴ぶるいするようなひどい震動があった。機銃掃射、魚雷の数は、爆弾より多かったように記録する。
魚雷の命中による水柱はあまり高く上がらないが、レイテ戦の時、B24の一トン爆弾の至近弾はすごかった。雷跡は一本で来たり、二本並んで来たりした。
学徒出身の予備士官は優秀な人達で、日本海軍の兵器も先ず使いこなしていた。我々兵学校出に刺激を与えた。そういう面であの人達の占めた役割は大きかったと思う。
○測的分隊長、江本大尉(二十四歳)
急に雲を破って敵機が現われました。こういう時は測的も何も、とにかく目の前の飛行機が見えているから射つだけです。
艦の一番上にいるから、爆弾がみんな自分目がけて落ちてくるみたいでした。が、スーッと外れて、ほかのところに命中しました。
雷撃機は三機から五機の編隊でやってきて、一斉に魚雷を落とします。なかなか避け切れない。雷跡がスーッと白く伸びてきたかと思うと、ボンボンと命中した。
大和は注排水が駄目になったのか、それとも命令が伝わらないのか、あるいは武蔵のことがあるので見合わせていたのか、とにかく注水するより、高速で取舵をとって(右に傾くから)、傾斜を直そうとしていると感じました。しかしその上に何本も何本も命中する。
上甲板には人がいっぱいで、タバコを吸ったりなんかし始めました。
○工作科、前宮正一上等水兵(十九歳)
配置は左舷後部第八応急班。ここに一番被害があった。後部指揮所に一番初めに爆弾が命中したように思う。
指揮所にいた阪束兵曹、防毒面をかぶっていたが、爆風でやられた。防毒面をかぶっている所だけきれいに残って、他のところは火傷で猿面冠者のような顔をしていた。
至近弾を探知。「かかれ」で指揮所に入ったら、うわーっと煙。これはえらいこっちゃ。至近弾ではないわ。吉藤少年兵(十八歳)、指揮所と共にやられて、軍歌のような譫言《うわごと》を言っていた。何箇所にも当った。戦闘が激しくなったら、とにかく、どこどこ探知、どこどこ補充せよ、と言われても、体が艦の傾斜で動かない。どの程度の傾きかわからないが、配置を守るというよりは魚雷命中の衝撃で、目と耳を抑えてみんなかたまる。指揮官、班長は、被害が大きくなるから散らばれと言うが、人間の心理か、怒られても、怒られても、かたまった。
○防空指揮所伝令、杉谷鹿夫水兵長(二十二歳)
伝令は鉄のアーマーの中に四名配置されていた。どこかに爆弾の当る響きがあったが、囲いの外に出てみなければ状況は分らない。
機銃四群の指揮官は学徒兵出身の予備少尉だ。戦争は初めて。敵機を射ち落とすのも初めて。それが一番初めに落とした。敵機は艦橋の前を通って右舷へ落ちたような気がした。「落とした」と指揮官が大きな声で報告してきた。高射長に報告。「わかった」。しかし何回も何回も「落とした」と報告してきた。
何十機と同一方向から来る。目標分らなくなる。機銃、高角砲の発射音で電話もよく聞えない。かすかに何か言っている感じ。
配置で戦死者が出た場合、指揮所に報告せねばならん。しかし機銃員は射つのに手いっぱい。戦死した、とも言ってこない。言っても聞えない。
射ち出したら常時射たなくてはならない。弾がなくなって、主計科に頼んでも弾は来ない。主計科そのものが、最初の爆弾集中でほとんど全滅してしまった。処置は生き残ったその配置の先任者が、判断してやる。
はじめは爆弾は当らなかった。機銃の弾も飛行機にどうしても当らん。飛行機も落ちんが、爆弾も当らんもんや、と思った。速力落ちてからあとは、よう当るなあ。
○気象班、野呂水兵長(十九歳)
レーダーの精度が良くない。主砲は、一回射っただけと記憶する。敵は連続波状攻撃。敵を見ずにおこうとしても、空中いっぱいの飛行機だ。見ないわけにはいかない。
機銃員がぼろぼろ空薬莢を海に投げ捨てているのが、一瞬見えた。
最初の機銃掃射の時、甲板に這いつくばった。恐怖心が絶えずつき纒《まと》っていた。はじめは紙一枚にも隠れたい気持であった。機銃掃射で第二艦橋は血の海。すると恐怖心がなくなってきた。なにくそ≠ニいう敵愾心が湧いてきた。
○艦長伝令、塚本二曹(二十八歳)
最初の二波までは被害がなかったようである。敵機はとんでもないところに投下するものが多かった。艦に近寄らんうちに投下して、さあーっと帰って行くのがあった。
艦長は、魚雷が当り始めると、下の機械のことを実に心配されていた。「機械室どうか」と繰り返していた。
攻撃は本当に間がなく、波状攻撃であった。その間、艦長も無我夢中。「敵機の位置を見張れ」と命令を下していた。測距儀に対しては、「とにかく距離を早く出せ」。
森下参謀長も、防空指揮所にいたり降りたり、こまめに動いていた。状況を見て指示。
戦闘激化。伝える報告が遅れ、次の報告とだぶった。どうしてもという大事な報告は伝えたが、十のうち三つくらい艦長に伝えるのを落とした。
機銃掃射、鉄カブトを直撃、そのまま通ってしまう。防空指揮所のリノリュームの所に砂を撒いた。走ったり、踏むと、血ですべるからだ。
防空指揮所の左舷の者がやられた。横にいた兵隊もやられた。右から攻撃し、帰りに後部から射つ。バリバリ。そのままの姿勢で羅針儀の下に入る。それでもやられる。バリバリピューピュー。「注水せよ」「復元せよ」、何回も号令をかけた。機械室、発令所、各砲塔から、「現在の状況知らせ」と言ってくる。
艦長の動きが激しくなった。防空指揮所を歩きまわった。「後部の状況は」ときかれたので、後部へ走って行って自分が見届けてから答えた。
「只今、敵機を攻撃中、大丈夫、がんばれ」
伝令は艦長の言った通り復唱して下に知らせた。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
左側にいた駆逐艦、爆弾を受けて二つに折れて沈んだ。駆逐艦って弱いものだな。
右前方の矢矧、水柱で艦形が見えなかった。
それぞれの配置に目を転じてみよう。
○第一艦橋見張員、上甲一曹(二十四歳)
上甲は水平見張専門、暗夜でも水平線の確認が出来なければダメだ。近距離見張は、水平線以下七度から一〇度を見る。しかしこうなったら、近距離も水平見張もなかった。
雷跡は二〇数本以上を見た。
普通だったら、魚雷が来て、「左〇〇度雷跡」というのだが、戦闘になったら「魚《ぎよ》 」いうても聞えん。航海長の所へ飛んで行って、肩をたたいて、
「こ、これだー」
艦橋に対する機銃掃射、音がよく聞えた。思わず「ふせー」と声を出した。機銃掃射する敵機の搭乗員の顔が見えた。
四、五機突っ込んで魚雷投下を終った頃は、次が来ていた。「雷跡。航海長もうだめだ」。どれに目標を立てたものか、回避出来ない。どこを向いても飛行機がいる。
○測手、石田上曹(二十八歳)
飛行機は艦の後部から進入しようとする。艦はそれに立ち向おうとする。すると敵は真上から突っ込んでくる。それが測距儀のメガネの真中に見える。ほんま、石でもあったら、ぶつけてやりたい。そんな場面が何回もあった。距離を測るだけが自分の任務だから、どうしようもない。
実際敵の攻撃は、マストの上から見ていると、乱射乱撃≠ニいう言葉がピッタリする。魚雷命中、グァグァグァとくる。上に震動がゴツいので、頭を打たないように体を支えていた。一所懸命やっていると、どこがどうなったのか、そんな余裕はなかった。また当ったなあ、それだけ。
しかし大和が沈むとは思わなかった。あんな沈み方をするとは思わなかった。沖縄まで行けると思っていた。
○運用科、上遠野中尉(二十六歳)
左舷第八応急指揮所に直撃、第八応急指揮官負傷。「タンカに指揮官をのせて連れてこい」。四十三歳の指揮官は意識|朦朧《もうろう》としている。「しっかりしろ。上遠野中尉、第七、第八応急指揮所の指揮をとる」
伝声管は通じなくて、伝令に頼った。「上はどうなっているんだろう」
「第七応急指揮官は、船倉甲板に注水して艦の平衡を保て」との命令。うやー、これで下に降りてゆくのか。有難くない命令だな。艦そのものの傾きで、椅子にも坐っていられない状況であった。
中甲板の指揮所は水びたし。下甲板に指揮所を移した。伝声管は直撃直後よりダメになる。立っていると傾斜で左舷に滑ってゆく。
後部機銃は射っていた。「勇敢な奴だな」
中根一等工曹(先任下士官)が、艦の中を泳いできた。
右舷のカタパルトが左舷にころがり落ちた。部下と顔を見合わせて、ひやっとした。
○運用科、竹中茂上曹(二十七歳)
配置は後部第二注排水管制所の応急班。水線下の配置。
最初、前甲板に爆弾命中、拡声器で知る。三番主砲のアーマーと舵取機室のアーマーの間に魚雷が当った。
舵取機室のポンプ員三名が上がって来た。相手が見えなくて、殺されるのを待つ時間、恐ろしく長かった。
通信ずたずた、連絡途絶えた。
海水の入ってくる音、良く聞えた。「こりゃあ、出なくちゃいかんぞ」。仲間は六名、「だめだなあ」。その時、戦闘食を食べようということになった。サイダー・ビンを割って口に持っていったが、ノドに全然通らなかった。みんなの顔、真っ青。
海水が通路を通って室に入り込んできた。後部に流された。
飛行甲板の上に出ると、煙がたくさんあったので防毒面を付け、一時そこにいたが、上にあがったら、後甲板に手や足のない人が相当いた。
「逃げにゃあいかん」。逃げられる人はタバコを吸っていたが、逃げられない人はタバコを持ったまま、じっとへたばってしまったように見えた。
○副長付、国本鎮雄中尉(二十二歳)
一一時、赤飯のおにぎりが昼食に配られた。これが最後の食事になるかも知れない。二十年の来し方をかみしめる思いであった。父母兄弟、故郷のことが次々と思い出された。
一二時二〇分、「対空戦闘配置につけ」「敵大編隊群続々と南方から近づく」「砲撃始め」で決戦に入った。主砲は真っ先に三万メートルあたりへ弾幕射撃を開始した。続いて副砲、高角砲。二五ミリ機銃は至近の敵機をなぎ払う。
私は厳重に守られた司令塔内で、副長補佐として防禦総指揮に当った。戦闘は熾烈を極め、大和にも被害が起こり始めた。中部左舷に魚雷命中、浸水。傾斜復元のため右舷に注水。後部副砲に爆弾命中、火災。
後部副砲射撃指揮所に爆弾命中、総員戦死。注排水指揮所に爆弾命中。注排水不能。五番機銃砲塔に爆弾命中。次々に被害が指揮所に報告されてきた。艦は次第に左へ傾斜し、作業困難になる。また艦内通信網寸断され、防禦総指揮所さえ、艦内外の状況が次第にわからなくなってきた。(「室蘭新聞」より、以下同じ)
○機関科、糸川重明二曹(二十六歳)
配置は予備舵取機員。本舵取機(九〇馬力、四台)の電源が止まった時、切り替えて応急操舵する任務。油圧ポンプを石油で運転する。
どんどん魚雷が命中する。初めての経験。「わあーこれだけ当ったら、だめだぜ」「いや、大和は沈むものか」
副舵取機室の浸水早かった。そこから避難してきたのか、まわりによけい兵隊がいた。
本舵取機室より「浸水はわずかにすれど、総員元気だ」と伝声管で言って来た。しかし、これが最後の連絡になった。
○機関科、渡辺上等水兵(二十歳)
戦闘始まって、一尺五寸のアーマーのあるところに魚雷命中、どたんどたんと高い音。ガガーンと震動すごい。体が飛び上がった。左舵の電気系統、早くやられた。
ビルジ(船底に溜る油と汚れ)ポンプにまともに当って、破れたバルブから猛烈に海水が吹き出る。これはあかん。早く脱出せねば死んでしまう。
戦闘配置でのんびりしていたので、慌てた。しかし毎日毎日そればっか訓練していたから、脱出早かった。やっぱり訓練はえらいものだ。
艦の傾斜で普通に歩けなかった。副舵取機室から全員ラッタルで脱出、やっと本舵取機の応急処置担当のところに避難した。
○主計科、丸野正八二曹(二十六歳)
朝七時頃より準備した戦闘配食を、一二時過ぎには給食を終り、掃除もして配置をきれいにしていた。まだ食べていない人が多かったと思う。
夜食に出す小豆の缶詰を用意するため、前甲板の倉庫から早う出せ、早う出せ。殺気立って人をなぐった。
弾薬(弾丸と装薬)通路が、機銃か高角砲の揚弾筒から、火が吹いて来た。上からか下からかは分らないが火を吹いて、「ボカンボカン」と爆発した。左舷の副砲にタマを揚げる揚弾機からも火が吹き出した。それを丸野が閉めに行った。鉄板を閉めていたら前から火でプァーとやられて、後ろからもやられて服がバラバラになった。
居住区に落ちた爆弾で主計科みんなやられた。居住区は中甲板、罐の真上右舷後部にある。目の前で魚雷命中。瞬間きれいな色、真赤な色、なんともいえない色の火が吹き上がった。左舷張出しの機銃塔、魚雷命中と同時に吹き飛ぶのを見た。
○主計科、金沢幹郎上等水兵(二十二歳)
二十一分隊の居住区の毛布を格納してある所で、防毒面を付けて伏せるのと、ザァーンと音がするのと同時。一五〇名がいっぺんにやられた。そのまま気を失った。
ちょうど谷川で砂をかんでじゃりじゃり≠ニして冷たいなあという感じ。誰かがなにか呼ぶ声で気がついた。一面真っ暗、わからない。手足が自由にならない。「おーい生きているか」と応急員の呼ぶ声。
右舷の高角砲の所に上げられた。土井室長は顔一面血が吹き出していた。そして露天甲板から担架で最後部短艇格納庫に運ばれた。そこに後部戦時治療室があった。
菅井中尉が片手で内臓を押えながらなにか言っておられる。「中尉」と言っても、聞えない。悲壮にも愛国心に燃えて、上部に上っていかれた。
○第二艦隊通信参謀付、渡辺少尉(二十六歳)
艦隊司令部の通信連絡は、作戦行動については、戦闘配置の電話指揮室で受けた小沢通信参謀の命令文を、三文字の暗号文にするため私から下の通信室に伝声管で伝えた。通信参謀は戦闘の状況を、頭の中で読みとるのに苦心しておられた。通信は最後まで暗号であった。
暗号文は、伝令が直通電話で上甲板電話室に連絡、超短波無線電話で、視界内の僚艦に作戦命令を伝えた。「舵故障」の僚艦への通信は短波でやり、後で手旗でもやった。
そのほか戦闘中は、対空見張や防空指揮所から伝声管で情報を受けて、超短波の無線電話機で全艦に知らせる任務も兼ねていた。
副砲の音が非常にうるさい。副砲発砲の発煙は見なかったが、砲煙の臭いがした。
末次参謀「魚雷の走向速度が予想より早いので、回避が難しいな」
護衛艦から──。
○「初霜」艦長、酒匂雅三中佐(三十二歳)
至近弾を受けたが異状なかった。ほとんどが後ろへ落ちた。
大和から手旗信号「通信ヲ代行セヨ」。通信機能をやられたのだろう。
戦闘概況や大和の司令部から来た手旗信号を全部やった。電文も打った。敵の襲撃や、暗号の解読など、いろいろな事があったので、これは重大と判断した電文だけを打った。
戦闘中は各艦ばらばら。大和は右舷中央に小さな傷が見える。
護衛艦が沈んだら意味をなさない。護衛の目的を達するため、全力を尽した。
個人の生死は考えず、艦の健在と乗員の安全を願った。
艦隊の速力より相当速い、ほとんど全力の三五ノットを出した。大和は二四―二八ノット。初霜は舵を大きく取って、艦隊速力に合わせた。
○「雪風」砲術長、田口大尉(二十三歳)
夕焼けの空に舞うカラスの大群みたいに、上空には飛行機がいた。
寺内艦長は敵が爆弾を持って突っ込んで来る、そのぎりぎりの線を見分けて回避をしておられた。爆弾の方位を見て、航海長、「これはくる」。今度は当ったかもしれないと思う場面が何度もあった。
大和は主砲を発砲していた。急降下爆撃をされ、銃撃され、片舷から突っ込まれると、大和の高角砲、機銃が一瞬沈黙してしまう。
砲が沈黙したところに、タイミング良く雷撃機が海面をはって魚雷を落としていった。敵は敢えてそれをやった。
雪風は特攻であるから、九三式魚雷を一六本持っていった。艦長「俺達は特攻だ。いくら被害が出ても、突っ込んで敵を魚雷でやっつけるんだ」
○「冬月」航海士、鹿士中尉(二十二歳)
最初の空襲を受けた時、すでに空一面の雷撃機であった。大和には進行方向左から、雷爆撃の同時攻撃。雷撃機は編隊で、魚雷を全機同時に投下してゆく。
爆弾の命中は魚雷程はっきり分らないが、煙突付近に集中していた。
魚雷の命中は、同時に三発の水柱が上がる状況を二、三回見ている。これでは応急処置が出来ない。一発一発の命中ならそれに即応して応急処置ができるが、回避のしようがない。
大和は戦闘中、最後まで三式弾を射っていた。仰角が低いからか、冬月のまわりに砲弾がいっぱい落ちて来た。
魚雷は左舷から次々命中した。最初の五、六本はどうってことなかったが、第三番主砲付近に同時に二、三本の水柱が上がり、だんだん左に傾いて来た。煙突付近の銃座に爆弾がいっぱい当るので、粘土をぶつけたようにむくんで見えた。その隙間から煙が出ていた。
一つの挿話──ディラニー中尉の幸運[#「一つの挿話──ディラニー中尉の幸運」はゴシック体]
一、第三〇航空群指揮官クラーク少佐は、雷撃機中隊の先頭にいるリーガン大尉とともに、空母ベロオウッド所属機の飛行隊長として行動した。
攻撃隊長から通信された命令は、駆逐艦には第三〇戦闘機中隊を、大和≠ノ対しては空母ベニングトン所属の第八二雷撃・爆撃機中隊を、また一隻の巡洋艦には空母サン・ハシント所属の第四五雷撃機中隊を割り当てていた。攻撃隊が「攻撃信号」を待っている間に、雲の層を通して打ち上げられる激しい対空砲火の集中に出会った。それは自動照準によるものと思われ、紫色をした炸裂も観察された。
この時、雷撃機中隊は爆撃機中隊の編隊より約五〇〇フィート上空を飛行していた。雷撃機中隊の操縦士は、二つの編隊の間に七〇発以上の対空砲火の硝煙を見た。この砲火の炸裂は、ほとんどが同じ高度であった。それまでに撃墜されたり重大な損害を受けた飛行機はなかった。
一二時四五分、第三〇雷撃機中隊(空母ベロオウッド)第二分隊のディラニー中尉(副隊長)は、大和に対し単独で攻撃を行ない撃墜された。そして日本艦隊の視界内で、PBM(マーチン飛行艇)によって奇跡的に救助された。ディラニーは生還後、次のように語った。──
われわれが日本艦隊を目撃した時、彼らは針路約二一〇度で航行していた。われわれは南東から接敵し、攻撃準備のためにリーガン大尉の分隊に続行した。雲は実に厚かった。最初二、三の雲の穴があったが、われわれが敵に近づくにつれ雲の状態はいっそう悪くなった。
私は急降下のため間隔をとって旋回中に、リーガンの分隊を見失った。自分の分隊とは雲から出た時は一緒だったが、しばらくしてもう一つの雲の中から出た時、一人になっていた。日本艦隊は右下に見えた。
私はこの時までに旋回を行ない、機首を北東に向けていた。近距離に巡洋艦を発見したので、これを攻撃する決心をした。搭乗員に声を掛け、攻撃態勢を調整するため機を二秒間雲の中に引き戻した。マットレスのような密雲が高度約二四〇〇フィートにあった。
雲から再び出た時、巡洋艦を飛び越えてしまった。しかし戦艦を見下ろしていることに気づいた。
戦艦を自分の視界内に入れるためには、少し旋回しなければならなかった。高度約一六〇〇フィートで、私は爆弾の投下装置に指をかけた。それを数分保持してから、非常投下レバーをぐいと引いた。(わが中隊は魚雷一本の代りに五〇〇ポンド通常爆弾四発を装備していた)
私自身の知る限りでは、目標の上空にいたことは確かだが、爆弾が命中するだろうという予感は全くなかった。高度五〇〇フィート、速力二五〇ノットでまだ海面に機首を向けている時、対空砲火が命中した。
二、砲弾は約四五度の角度で、爆弾倉と右翼付根を貫いた。ほかにどんな命中弾があったかは分らなかった。尾翼が持ち上がった。私は海面に突っ込むのを防ぐために、操縦|桿《かん》を引き戻した。
飛行機は火に包まれ、操縦室は直ぐ煙でいっぱいになった。計器を見ることは出来なかった。ハッチを開けた時、首尾良く外をちらりと見ることが出来た。
飛行機は高度約一〇〇〇フィートで急上昇していた。失速状態におちいらないためには、機を以前の速力のままに維持するしかなかった。
私は素早く水平飛行に切替え、火が消える事を念願しながら再び約二五〇フィートに降下した。開かれた右側のハッチのそばで、手首のようなものが燃えていた。飛行服の右袖に火が付いていたのだが、海面に着く時まで、それが自分の手であることに気がつかなかった。ほかに火がどこにあったか、正確には記憶していない。現状維持でいれば、これ以上悪くなることはないと思った。
私は二人の搭乗員を呼んだ。脱出するためには充分な高度を得る必要がある。そこで再び上昇を始めた。約一〇〇〇フィートで機から飛び出すように命じた。そして彼らが落下傘で飛び出すのを約一分間待った。
困ったことに操縦室の煙は私を息苦しくさせていた。何も見えなかった。座席はあまり熱いので坐っていることも出来なかった。出なくてはならないと思った。しかも今すぐに……。私は背中の紐《ひも》の先にある金具を回転させ、絞り弁を離した。
操縦席の外側から左翼の上に出たが、自分でもあまり敏捷な動作とは思えなかった。しかし翼の上に立つことがいかに容易であるか、われながら驚いたことを覚えている。プロペラの後流は邪魔にならなかった。煙が目にしみたが、片手で軽くつかまるだけでそこに立っていた。
パラシュートの使用法に沢山の規則があったなら、私は脱出できなかったであろう。
私は翼の上に立ちながら、右手を頭上に仲ばし開き綱を引っぱった。注意深く自分の手に赤い色の開き綱を握っているのを確かめ、翼の下にそれを投げた。後をふり向くと、パラシュートが直ぐになびかなかったので、幸運にも尾翼にからみつかなかったことが分った。
引き綱のききめが現われるまでは何も起こらなかった。飛行機の爆音がわずかに高まった。翼の端まで足を引きずりながら簡単に歩いていった。そこで尾翼にふれないように降下した。パラシュートは直ぐ開いた。
三、飛行機を離れてから、何も見えるものはなかった。搭乗員マーウィニーのパラシュートだけが、私の直ぐ下に小さく見えた。彼の顔を簡単に見分けられる程近く、一五〇ヤードくらいしか離れていなかったであろう。彼はパラシュートの横索を引っぱっていて、大丈夫なように思えた。もう一人の部下テリーも、マーウィニーの反対側で、同じくらいの距離の空中にいた。
私のパラシュートは、彼らが着水するのを見ることが出来ない方向に向って落ちていった。着水した後に、再び彼らを発見することは出来なかった。
着水した時、止め金をはずしてひもを取り除こうとしたが、足にからみついた。背負皮のもつれを解いている間に、体を浮かせるために救命チョッキの片一方をふくらました。パラシュートを脱ぐ間に、足にからみついていたものは取れた。救命チョッキはすぐふくらみ、私はひとまず安全になったと思った。
しかし日本軍が私を発見する恐れがある。それで、救命|筏《いかだ》には乗らずに、筏につかまって海中にいた。北寄りの風、約五ノットであった。海面はうねりはなく滑らかであった。
時計を見たら、一三時であった。正確な方向はわからなかったが、私の着水した所は大和の南西海面だと思った。
約五マイル離れた海上に、戦艦を容易に見ることができた。友軍機が断続的に攻撃しているのが見えた。二機の爆撃機と雷撃機一機と数機の戦闘機が、大和を攻撃していた。この攻撃が終ってから、戦艦から猛烈な煙がわき上がるのが見えた。複雑に入りまじった音が、海の上を私の所まで響いてきた。それはいろいろ多角的な攻撃が行なわれていることを感じさせた。
(以下後出)
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] ディラニー中尉はデトロイト出身で、ちょうどこの日、四月七日に結婚二周年を迎えたばかりの青年であるが、搭乗機が撃墜され、危うくパラシュートで脱出して着水に成功するまでの一部始終を、平静に克明に報告している。これはアメリカ人の国民性のほかに、いかなる場合にも正確な情況把握が可能であるために、日頃から訓練を重ねていた成果といえよう。
航空機と対空防禦の対決[#「航空機と対空防禦の対決」はゴシック体]
生存者証言
○高射長付、中尾中尉(二十二歳)
急降下爆撃機は爆弾を投下してから、艦橋目がけて急角度で突っ込んできた。指揮官機は非常に勇敢であった。後続機の状態は指揮官機の動きで判断出来た。指揮官以上に勇敢なのはいなかったから、先頭機の弾着により、後続機の投弾の腕前が予想出来た。
多数の爆弾が落ちてきたが、黒いものが自分に向っていると思ったのは二、三個で、それも艦橋に当らず、至近弾となって両舷に大きな水柱をあげた。
後部指揮所に爆弾が落ちたのは、人に教えられるまで知らなかった。上空からの攻撃に気をとられていると、左舷から海面すれすれに接近した五―七機の雷撃機の編隊が、各機照準角度をとりながら一斉に魚雷を投下した。左舷前部に二、三本命中したように記憶する。水柱は高くなかったが、地震のような震動がきた。ゆさゆさ。何も聞えない。
あんなところから来よるなんて、誰も気付かん。機銃はみんな上を向けて射っていた。分ってから転舵したので間に合わなかった。
小休止をとろうと思っても、敵機は次から次へと来た。部下は防空指揮所にある鉄の囲いの中の椅子に坐っていた。テレトークのレシーバーをつけ、担当機銃群の砲側指揮所と電話連絡していた。
「あの機銃群、タマが出んが、どうしたのか」
○航海士、山森中尉(二十三歳)
小編隊が弾幕をかいくぐってやって来る。同期の飛行機乗りから聞いた話では、艦からの対空砲火は非常に恐ろしい。飛行機が魚雷や爆弾を持って近づく。発射するまでが任務。任務を全うする一念で突っ込むが、投下してしまったら、一秒でもそこにいるのは厭だ、という事であったが、レイテ戦の時も、敵は魚雷、爆弾を投下した後もう一度機銃掃射してきた。
大和に機銃掃射しても蚊に刺されたくらいにしか感じない。反対に敵機は機銃弾一発命中すれば最後、それでも無謀と思われるほどの攻撃をして来た。ヤンキーは臆病者と聞いていたが、なんと勇敢だろうという印象を強くした。艦の横を通過する時、搭乗員の顔がわかるのが何機かあった。
対空砲火の評価[#「対空砲火の評価」はゴシック体](米軍記録より)
○第一七雷撃機中隊報告
日本艦隊の対空砲火について印象的だったのは、人間の頭くらいの大きさの黒い小球体が、ぐるぐる回っているのが目撃されたことである。小球体は爆発せず、たなびく煙のように浮かんでいた。燐《りん》のような煙の吹流しも観測され、搭乗員の何人かは、ロケット弾を見たように思う、と証言した。
艦隊上空の対空砲火は激しく、かつ正確であった。攻撃隊一四機のうち、六機が機械系統と電気システムを砕かれる損害を受けた。その結果、一機はあらゆる努力にもかかわらず、魚雷投下を行なえなかった。(一方わが方の機銃射撃も熾烈で、全雷撃機は三〇口径銃を五七〇発と、五〇口径銃一二〇〇発を射ちつくした)
○第二九雷撃機中隊報告
攻撃の期間中、敵艦隊からすべての口径の対空砲火が絶え間なく打ち上げられた。高度は正確であったが、方向と射程が悪かった。おびただしい数の白い燐火のような爆弾が、ゆっくり空中に打ちあげられたが、飛行中隊にはほとんど損害を与えなかった。砲弾の硝煙は黒、紫、暗い赤、白など極彩色であった。
われわれが初めて目にしたのは、数千の小さな銀片がキラキラ光りながら浮かんでいるのや、無数に分解した暗赤色の土のような塊である。この塊は直径八インチくらいの大きさで、あるいは紐状の無煙火薬であったかもしれない。ある操縦士がその中を突き抜けて上昇したが、無害であった。
大和が傾斜のひどくなるまで海中に向けて砲を射ち続けていたのは、海から立ち昇る水柱によって、低空で来るアベンジャー雷撃機を射ち落とすことを望んでいたためと思われる。雷撃機は接敵中と退避中、四〇秒毎にレーダー妨害用金属一片と、四秒毎にその細長い切片二包を射ち出した。
○第八三雷撃機中隊報告
対空砲火は激しく、またその正確さは、一五機中一一機が命中弾を受けたことによっても知られる。日本艦隊は、おそらく装備したすべての砲を動員して射ち上げたのでろう。
操縦士の一人が、大和の前方で雷撃態勢から機体を引き戻そうとした時、一六インチ砲(実際は一八・一インチ砲)の一斉射をくい、その衝撃だけで、もう少しで海面に叩き落とされるところであった。しかし大和の主砲の威力については、中隊の近くで爆発がなかったので、正確な結論は出し得ない。対空砲火はきわめて執拗で、六マイルも離れたところまで退避したのに、なお至近弾を射たれる場面もあった。
日本の火薬製造技術は特色がある。広い海面はオレンジ色、紫、赤みがかった茶色などの爆発や燐を含む吹流し型の炸裂でいっぱいであり、砲弾から強烈な白色の火のボールが飛び散った。操縦士の一人は、それを見てアメリカ独立祭の花火の華やかな配色を想い出した。
○護衛艦に対する評価
急降下した飛行機は、投弾投雷ののち、例外なく海面に向って降下を続け、それから機体を引き起こしたが、降下から機体引起こしの間中護衛駆逐艦から対空砲火を浴びた。いかなる種類の銃砲も、きわめて熾烈でないものはなかった。最も強力な砲火の九〇%は黒色の硝煙を伴うもので、あと一〇%ぐらいが白色の炸裂であり、これは黄燐のようであった。暗黄色の炸裂も数発観測され、また直径一インチくらいの燃え上がるようなボールが打ち出されたことが数回あった。
○艦隊行動に対する評価
攻撃の全期間中を通じ、日本艦隊はよく訓練された連繋《れんけい》と、すばらしい陣形を保っていた。命中弾が集中した後も、密集陣形は崩されなかった。
対空砲火の主力は、堅固な艦隊陣型が形作る部厚い弾幕にあり、しかもその目標は、攻撃準備中や退避中の飛行機よりも、もっぱら攻撃中の飛行機に向けられていた。
この事実は、日本艦隊の対空砲戦指揮官が、並外れた指揮能力の持主であることを信じさせるに充分であった。
虚実の応酬[#「虚実の応酬」はゴシック体]
生存者証言
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
最初主砲が射った。ストーブの熱気に顔を突っ込んだように、わっと熱かった。高角砲が射ち出したら、主砲の測距塔が高角砲の邪魔になるので、左七〇―八〇度で固定してエンジンを切った。そこから、がらん、がらん、と戦闘になった。
一寸間があったので、さっきうで卵を一つ食べ残したのを、食べようと思ったら、煙草盆の灰の中に落ちていた。
後部測的所付近に爆弾が命中し、助田少尉が包帯をまき、血だらけになって艦橋トップまで上がってきた。分隊長がやられました、と報告してまた戻っていった。
敵は最初は急降下爆撃機、次が雷撃機で左舷中部を狙ってきた。ああ、うまいことやりまんなあ。相当高く飛んできた奴が、三〇〇〇メートル位から降下して、避弾運動をしながら水面スレスレを飛び込んでくる。高角砲はその手前に砲弾を落として、そこから上がる水シブキで射ち落とそうとしていた。
米軍は勇敢だ。そのまま直線で突っ込んできて、艦を突っ切り、反対舷から旋回して上昇していった。自分がやられるのに落ちるなよ≠ニ拍手してやりたくなるような気持だった。
雷跡が段々近づく。水柱は上がるが被害箇所は見えない。当った、当った。震動ひどい。しかしレイテでひどい目にあっているので、気負いはなかった。
主砲は対空弾を装填したままだ。どうしようか。旋回がうまくいかないから、飛行機の方向に艦が向いたら射てと、上で言っているのが聞えた。そんなにうまくゆくんか。しかし実際射った。
測距塔の外に出て見ると、左舷の高角砲付近は、砲のあった所はなんにもなく、ぼこぼこ穴があいていた。薬莢がぱらりぱらり。死体もばらばら。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
沖縄戦では、敵はレイテ戦の経験があるので、原則通り(銃撃爆撃雷撃を順序よくやる)の攻撃法を捨てて、雷爆銃撃の同時襲撃でやってきた。同時攻撃を迎え打つ原則はなかった。合理的回避の方法はむずかしい。それぞれの機種に応じて、例えば雷撃にはこれ、といった正規の手段はなかった。
距離の目測は、三万メートルで誤差五〇〇メートルぐらいまでやれたが、雲高が一〇〇〇メートル以下だから、敵機が見えた瞬間、あかん、ということになる。機銃でさえ追尾に忙しかった。天運我に利あらず。
それでも最初の一、二波は、回避運動が右に左に合理的に出来た。ところが左舷後部指揮所に爆弾が当って、電話、伝声管が不通になった。部下が八名いた。早速状況を見に行かせようとしているところへ、渡辺兵曹が血みどろになって報告に来た。治療室に行くように言ったが、どうしても降りない。「もう一度後部指揮所にやらして下さい」。人手不足の折、やむをえん。
「後部見張をしっかりやってくれ」
煙突付近が陽炎《かげろう》で見にくい。そこを爆撃が後部後部からと来る。魚雷数本命中、概ね後部。左傾斜、六度。
敵の爆撃は単縦陣で、一番機、二番機と突っ込んでくる。観測データを出しながら、面舵取舵をとる。この時余り早く転舵すると、敵は突撃態勢に入る前にコースを外し、転舵した艦の新しい針路を見定めて再び突っ込んでくるので、出来るだけ敵を引きつけ、つまり後続機が突撃のやり直しのきかないところまで引きつけてから、より有効に転舵する。敵は仕方なく、そのまま初めの針路を入ってくる。
米軍の弾着の範囲はタテに細長い。そこで艦は弾着に向って真横になるように向ける。命中の公算が少なくなるし、敵機との距離が近づき、味方砲火の極度発揮が出来る。
この場合のデータ(表)も、すでに作成してあった。二〇〇ノットの速力で敵が爆弾を投下して弾着に要する時間は三〇秒と分っているので、自分の速力でどれだけの角度で回ればよいかを見越して転舵する。
それにしても敵の襲撃法は見事なものであった。雷爆の同時攻撃を更に実戦的に強化し、爆撃機が突っ込むと、その下を雷撃機が突進してくる。雷撃機は一万か二万まで二〇〇ノットぐらいで編隊で来て、死角のないよう隊列を整えて展開する。目標を中心に扇形の突撃態勢を作り、海面すれすれに這うようにしてやってきた。
見張員には、目標を発見したらメガネの中で分角を測り、瞬間的に計算尺で距離を判定する訓練もさせた。この計算尺は工作科に頼んで特製の大型の木のスライドを作ってもらい、各見張員は刀のように腰に差していた。対数表も全員に渡してあったんだが。
砲側の明暗[#「砲側の明暗」はゴシック体]
主砲
○方位盤射手、村田大尉(四十四歳)
一斉射ち方で、まず触接の戦闘機に対し発砲した。照準点は諸元の誤差を考慮に入れ、自分なりに工夫して斉射した。先頭機の少し後に狙いをつけた。こうして、初めのうちはかなり斉射を行なった、と記憶している。
○三番主砲砲塔長、梅村清松少尉(三十四歳)
対空戦闘が始まって、後部分火になり、後部射撃盤で射撃することになった。
後部艦橋のトップを掠めた爆弾が上甲板に落ち、それが副砲の火薬庫と主砲弾庫との中間部で爆発した。副砲の後部左舷にあたる。直径六メートルぐらいの穴から黒煙がもうもう。上からずいぶん消火したが、下部からの火災で手の付けようがなかった。第三主砲砲台で応急隊を編成し、副砲火薬庫に注水を行なおうとしたが出来なかった。上、中甲板の間が相当被害を受けており、副砲の注水弁(下甲板)までとても入れなかった。
後部射撃指揮所もやられた。指揮所系統の電気がやられただけで水圧機は回っていたので、主砲は動き、戦闘可能の状況であった。当てずっぽうに射つわけにいかないが、狙うといっても主砲砲塔自体、目がないのだ。砲台長にはメガネが一つあり、塔内から眺められるようになっていたが、それではとても視野が狭く、飛行機は発見出来ない。しかたなく固定位置に砲塔を戻し、火災の応急の方に奔走していた。
応急員長が、前部左舷に魚雷命中、上甲板の注水管制所で注水できなくなったといって、用材をかついで前部に歩いていった。
前部主砲は相当射撃していたように思う。後部では配置に就くとき、時限信管付きの砲弾は装填《そうてん》していないが、装填する瞬間の所まで弾が来ている状況下で待機している。砲塔そのものは、何時《いつ》なん時でも敵を発見出来れば一〇―一五秒で発射できた。
雷撃機目がけて水平に射ちたかったが、後部甲板にある機銃群を爆風で痛める事になる。主砲一〇度で射撃すると、三口径以内の人員が即死する状況。仰角をかけると、射程距離の関係で相当高い所のものしか狙えない。目標を発見できない。
対空弾を主砲が近距離で飛行機に対して射とうとしても、とてもじゃないが、まず発見そのものが問題。一万五千から二万メートルの飛行機に対して、威嚇《いかく》的には射撃できるが、近距離射撃はいろいろ制限を受け、とても難しい。
対空戦闘に備えて、三式弾を砲塔の中に上げておいた。後部方位盤指示になっていた。三〇〇―五〇〇メートルで散乱するように、信管調整〇秒―一秒で瞬間爆発にして待機していた。「信管ゼロで射て」と号令したが、目標みつからず沈黙のまま。
砲塔の上にあがって自分のメガネの筒に腰かけて、下に飛行機の方向を指示した。「右へ回せ、左へ回せ」
電話で坂本上部火薬庫長より「砲塔長、火薬庫はまだ大丈夫ですが、前部の火薬庫の副砲との境の隔壁が、かなり熱くなって来ました」
「爆弾が後部艦橋とうちの砲台の間に落ち、火災が発生した。応急班を出して消火に努めているからなあ、安心しろ」
火薬庫長は最後まで部署について、火薬の供給の段取りをしていた。
傾斜がふえても、艦が沈むまでの浸水とは予想しなかった。しかし主砲の砲塔まで水につかり、波に洗われはじめた時、もう砲はダメだ、人間の方が大事だ、と思った。
○砲術長、黒田中佐(四十二歳)
四月七日は雲が低く視界がきわめて不良であった。当時電探は真空管の技術水準が低く、大空の雲の中の一点を捉える程の精度はなかった。もし射撃用電探があれば、航空機に打ち勝っていたであろう。
射撃指揮所にある四つの望遠鏡、いわゆるカニめがねで敵機を探した。早く発見出来たもの目がけて何斉射かしたが、敵は波状攻撃で、一つのグループから分隊単位に分れ、五―六機の小集団でやってきた。注水排水の間のない位の攻撃で、大和の被害を大きくした。艦は敵機を発見すると、頻繁に面舵取舵をとるほかなかった。
時間の記憶はないが、早い時期に艦が傾斜して砲の旋回が出来なくなった。「早く傾斜を直して下さい」、数回砲塔から督促があった。「方位盤独立射ち方」で、用意の出来ている砲が発砲した。第一、第二の二砲塔あわせて、一発出る時もあり、また五発出る時もあり、ともかく各砲塔は死力をつくして射っていた。
主砲の射撃で機銃がどのくらい妨害されたかが気になっている。あれから三十年目の慰霊祭に運よく機銃群指揮官に会えたので、主砲発砲時の爆風はどうだったかを尋ねたが、答えはなかった。そばにいた人から、今になってもまだ心配しているのを横できいていて、印象的だと言われた。
捷号作戦における大和戦闘詳報より
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 主砲の射撃に関する問題点は、すでに前年の捷号作戦の戦訓において、充分に指摘されていた。
○砲台長用の観測鏡は、単眼にて仰角一五度以上は視認不能なり。三五度まで視認可能なるごとく改善を要す。
○信管最大秒時小なるため射撃の機会少く充分なる威力を発揮し得ざりき。長秒時(主砲対空弾用信管)一〇〇秒の信管供給を要す。
○敵は単機または二、三機に分離運動し、高角砲、機銃に対する顧慮、射撃制限目標の捕捉困難等のため、主砲射撃の機会は僅少なり。
○砲煙の障害、転舵回避等のため、測距精度不良。
○対空砲装も、一考の余地あるものと認む。
○二十六日朝来襲のB24編隊に対し、三万五千メートル付近より主砲射撃を開始せば、爆弾投下前に潰滅的打撃を与え得るものと認む。
副砲
○副砲長、清水少佐(三十三歳)
敵機は大和を中心に二〇キロ付近、右回りにまわって六―一〇機くらいが急降下。副砲は急降下機には仰角足りず。雷撃機専門に射撃。艦は回避運動を頻繁にやったので目標がつかめず。また視界照準内に味方駆逐艦が入ってきて、なかなか射てなかった。
○一番副砲砲員長、三笠上曹(二十六歳)
雲は空いっぱいあって、雲高は低く、今にも雨が降りそうだった。
戦闘配食のにぎりめしは、なかなかいいものだ。一一時頃、昼食を食おうか食わんかと思っていると、「敵機、左前方」、艦内拡声器が伝えた。「そうら、来た」「敵機約四〇機」、たいした事はない。「八〇機」「敵は大編隊」。それまで、副砲塔の後ろにあるトビラを開けて上空を見ていたが、扉を閉めると、すぐ、射ち始めた。
はじめ前部指揮所にいる清水副砲長の「射撃命令」で、雷撃機に対して、五、六斉射した。直ぐ機銃やらなんやらバンバン射つので、その硝煙で副砲長の所は照準できんようになり、砲側照準となった。左舷に雷撃機が来ると遠慮なくガバン、ガバン射つので、爆風で機銃が射ちにくくなる。結局敵機にはあんまり当たらなかったが。
射手の横に旋回手がおり、自分のメガネで調整して各門(三門)それぞれの所で針が動く。それに追従して狙った所に射つ。訓練時は敏速、方向等を計算尺で計算して信管なんぼ、と整調する。計算に一〇秒かかる。そして、弾をこめて飛んで行くまでに一〇秒、計二〇秒。直進してくる馬鹿な飛行機はいない。その結果、弾はとんでもない所に行くことになる。
そこで狙って射つより、待ってて射つ方が良いと考えるようになった。信管調整を三―四秒でやり、三〇〇〇メートルで炸裂する。ちょうど雷撃機が雷撃態勢を始めた所で、ボカン、ボカン炸裂すれば、その爆風で飛行機は充分な雷撃姿勢をとれず変針するのではないか、この方法が一番いいんじゃ、とレイテ戦当時から考えていた。それでも実際には四、五斉射しか射っていない。
砲側照準で砲塔を左一杯に回したが、機銃への硝煙、爆風の影響を考え、心配した事をおばえている(これは大和の右回頭の結果と思われる)。
艦長「主砲・副砲は射撃を中止。機銃、高角砲に全力を発揮させよ」
清水副砲長より「射ち方待て」
さあ、砲側ではやる事がない。砲塔の外に出てうろうろするわけにもいかない。副砲塔の防禦が弱いため、万一の場合直撃による爆発を心配して、装薬をなるべく少なくして待っていた。
砲塔の中にいると、艦がどこをやられているか、外の状況はわからない。デェーン≠ニ爆音、部下がみんな私の顔を見る。こっちもなんぼ慣れているからと言っても、内心ガダガタした。「大丈夫、大丈夫」と声を出す。
ますます左に傾斜して、立っているのが困難になってきた。飛び上がる程ではないが、「ガーン、ガーン」と衝撃がくる。
副砲長より「砲は旋回できるか」
「右旋回困難になりました」
○第二副砲員、丹波清水兵長(十九歳)
戦闘が始まって四、五斉射して直ぐ「バチイーン」と音がし、砲塔内に閃光が走った。
砲塔直撃ではないように思われた。砲は電源停止で動かない。真暗。油圧管が破裂して砲塔も動かない。右砲は防火配置に就いた。火薬庫との連絡全然なし。火薬の処置は? 砲塔は停止の位置になっていないので、手摺《てすり》を伝わって甲板に下りた。
直撃で烹炊兵員室がこわれ、ラッタルが曲っていた。
弾庫に腰まで水がきていたのが見えた。
中砲は一酸化ガスの中毒にやられた。
砲塔の内まで閃光が走ったのはどのような原因なのか、その時後部指揮所もやられていた。
甲板に下りて機銃の弾運びをやった。
○第二副砲射手、小川上曹(二十七歳)
私は副砲火薬庫にも影響あるやを察し、急ぎ伝声管に口を寄せ、火薬庫、火薬庫と連呼するも応答なく、火薬庫の砲塔の動力源である油圧室を呼ぶも、これ又応答なし。生か死か不吉の予感背中を走る。祈るような気持でその状態を確かめんものと塔外より火薬庫に至らんとしましたが、途中のラッタルはその用をなさないまでに破壊され、その場の様子は、そこここに転がる黒焦げの戦死体とあいまって、容易ならぬ火薬庫の事態を察知することができました。(略)
私たち砲員の顔は皆満足そうでした。どの顔にもかげるものが見えなかったことは、なすべきことをなしとげた安堵感か、使命を終えた者のみの持つ安心感か、私になんとすがすがしく感じられたものかと、今も不思議でなりません。(私記より)
高角砲
○高角砲員、細川秋司上等水兵(二十三歳)
配置は二番高角砲、左砲員。
居住区で、にぎりめしを食い終った途端、「三目標の大編隊、刻々近づく」。拡声器の状況報告、「各砲対空、戦闘射ち方用意」
ワイヤーを尾栓の一番尻に引っかける。砲を一度水平に戻すと、尾栓ぐーんと引っぱられる。弾を送る撃蹄《げきてい》引っぱられる。その下にへそ≠ェあって、弾を置くと弾の重みでへそ≠ェへっこむ。そうすると撃蹄が信管の尾管の尻を打って弾が中に入る。弾受けの尾栓、自動的に閉まる。射てる状態。
「射ち方始め」。射つと尾栓から火がぱあーと出る。火薬匂う。砲身が一ペん後退した時、撃蹄が引っかかる。尾栓開いて空薬莢がカラン、カランと出てくる。熱い。手袋して操作。足下に穴があいている。足で蹴る。空薬莢がその穴の中に入って行く。
連続発射。
砲側のまわりには弾を並べてある。二番砲の後ろに扉があり、その内側に弾庫直結の揚弾機がある。弾を横にして、カップン、カップン揚がってくる。
戦闘中、早う射つ事のみ考えていた。
出撃の際、二番高角砲付近のデッキサイドの手すりに、太いロープをはすかいにアミの目のように吊るして、弾片よけにしていた。
後部への直撃で発生した火災の煙が通路を伝わって、弾を取りに行くと煙に苦しめられた。火災が起こるとガス発生の恐れがあるので、内に入る時は防毒面を付け、外に出るとはずした。弾が来ないので振り向くと、後ろの者が倒れている。砲が動かないと思うと、機銃掃射で旋回手ぶち抜かれている、という状況であった。
左舷の副砲前(前部)付近に魚雷命中。ばあーと目の前赤くなった。水柱が滝のように、ざあーと落ちて来た。
中部舷側にある機銃砲台、付け根からやられる。兵隊が覆いの中に入ったまま、海中に落ちる。
弾を取りに行った時、爆弾命中で目の前が赤くなった。途端に飛ばされ気絶した。砲員の半数がやられた。気がついてから戦死した者の千人針を見て、自分のお守りを居住区に取りに行った。大きな穴があいていて、なんにもなかった。
左舷電路切れ、砲は電気発射から撃発発射に変えた。人力になると、敵機のスピードにおいつけない。「来たぞ」ボカーンと射撃した。
○高角砲発令所長、細田少尉(二十八歳)
大編隊を発見。上空視界きかず非常に不利。砲の指向が間に合わず、飛行機が爆弾投下して逃げる時、やっと砲が回った。一五〇―一六〇機が何回となく波状攻撃。急降下を狙って射った。魚雷命中、艦がものすごく揺れる。
爆弾は下甲板の上まで入って爆発した。消防管が破れて、我々の所まで上部から水が入って来た。
渡辺英昌少尉負傷。指揮継承。「誰が代って指揮をとるか」「発令所長、直ちに上がって指揮をとれ」。上部に上がろうと思うが、発令所のアーマーがなかなか開かない。上では、どんどん爆弾が炸裂する状況。そして水がどんどん入ってくる。上にあがらなくてはならない。そこで下の機関室に下りて、前部の主砲塔付近まで行った。主砲発令所だ。そこから上にあがった。
後部に辿り着いた。分隊長はひっくり返っていたが生きていた。機械(兵器)の損害より兵員の損害がひどかった。腕が飛んだ人がいた。
左舷に魚雷命中。傾斜をなおすため反対舷へ注水。吃水《きつすい》が下がって、上甲板の線ほとんど二メートルくらいに海水がきている状態であった。
分隊長の指揮を継承したその時点で、高射器を使って三砲塔を一つの目標に向け射撃することが出来なくなっていた。各砲側に電気的に指示し、受信器に針を合わせる仕組が全部利かなくなっていた。
指揮所で統一指揮が出来ない場合、各砲単独指揮となり、各砲側の射手、旋回手にまかせることになる。じゃんじゃん飛行機がくる。これを射ちなさいと指示するのではなく、とにかく、射て射て。各砲ごとに、めちゃくちゃに射撃した。無我夢中、そういう状態が約三〇分と記憶する。
○高角砲員、小野和夫水兵長(十九歳)
十六歳で特年兵に志願。配置は四番射撃盤の上下の修正、吃水線下の下甲板に勤務した。
四番射撃盤には九―一〇名がいた。
高射器が動けば白針が動く。砲側でそれに追従するのだが、射撃盤で急に針をぐっと動かすと、砲側で追従出来ないから砲側射手(下士官)から文句が来た。砲術学校で何をおぼえて来たのかと怒られた。
学校で覚えた自分の技術を思い出し、実戦にやってみる。先輩、古い人に虐《いじ》められて初めて覚えるんだな、一人前になるんだな、と思った。
一番初めに四番高射器がやられて使用不能になった。高射器の伝令員の電話に「ガァーン」と耳に裂ける音がした。伝声管、電話、あらゆる方法で連絡を取ったが全然応答なし。
そこで三番射撃盤から三番高射器に連絡をとってもらい、四番高射器の状況を聞いた。高射器使用不能。射撃盤全員が砲側に応援に行けということになった。中川兵長は、「わしら射撃盤にずっと頑張っている」と言って、配置に残った。
兵曹長の指揮のもとに、上のハッチを上げようとしたが上がらない。厚さ二五〇ミリ、油圧故障。消火栓が破れ、中甲板は水が溢れていて、上から水が落ちてきた。電動も手動もきかない。そこでボイラー室に降りた。その時も上から水が落ちてきた。ボイラー室から前部射撃盤に上がってから、十番高角砲に援助に行った。途中艦内は電気が消えて暗く、手さぐり状態で上に上がった。通路には行李等がひっくり返っており、中は水びたしであった。
十番高角砲は人員が半分やられていたが、まだ射撃をしていた。目標確認できない。旋回だけとって射撃する状況となった。雷撃機に対し、突っ込む前に弾幕をはるように射撃した。効果は半分、半分であった。
上部へ上がりしなに魚雷をくらうと、ぐうっと揺れて、いよいよ大和もおわりかなと思った。
レイテ戦の時はそんな事は考えなかった。艦は沈む、最後と思いながら、自分が死ぬとは思っていなかった。
上甲板に出た時、艦は傾いていた。上部甲板の高角砲のあたり、たいがいの人戦死。砲側に上がってからドーン=A大きな音。なにか飛んでいったかと思うと、乗組員の体が飛ばされてきた。
間なしに、ガーン≠ニいう大きな音を聞いて、艦内で爆発かな、と思った。
機銃
○機銃員、奥村昭二水兵長(十八歳)
配置は右舷十一群。飛行機の音は聞えるが姿が見えない。雲の薄いところを狙って、そこからぱあッと出てくる。当っても当らなくても、射撃しなければならなかった。訓練でやったような対空戦闘、出来なかった。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 機銃員は、「箱詰め」一連五〇発の鋼帯につながる弾薬包を銃側に運ぶ。連続発射(一分間二三〇発)。発射後、鋼帯と空箱は元の弾薬庫に戻す。
○機銃員、小林水兵長(十九歳)
初めての戦闘経験。にぎりめしと沢庵で早めしを食べ、「対空戦闘配置に付け」。右舷の後部副砲塔の近くにある、二五ミリ三連装特設機銃の配置についた。左前方に敵機を見た。
艦が最大戦速になると、風とエンジンの音が違って来る。普通グングン、それがグクーングクーン。うっかりしていると、急旋回で振り落とされる。
初めの射撃は右舷の機銃。自分の機銃群の個々の班長(上曹)の号令「打ち方始め」で右射て、左射て。
交戦中、赤とZの旗旒信号が揚がる。
いっぺんに三〇―四〇機が来たら、狙っていられない。自分の警戒範囲、一五度、高角三〇度に弾を間断なく射っていた。弾が飛行機に当るというより飛行機から弾に当ってくれる。
距離一五〇〇メートル、クモの巣型の照準器に標的を入れ射つ。訓練の時は良く当った。タマは銃側にある程度補充してある。
爆弾は、空気を切る。笛の鳴っているような音がして落ちて来る。自分がやられるという気にはならない。「あっ、来たな」
至近弾の海水の波で薬英をもっていかれてしまった。まわりの事は気にせず、飛行機を落とす事だけを考えていた。
無駄射ちを避けた。
機銃三連装の真中の銃が敵機の機銃掃射でやられた。弾ごめしていた轟《とどろき》上等兵、大腿部をやられた。射たれた衝撃でがく≠ニ来て、後ろへ倒れたら、おしまい。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
武蔵は一二時間浮いていた。大和が沈むとは全然考えないから、どうしても有効なものだけ狙って、遠いところは射たんようにする。また投弾、投雷した機には命中しない。追い射ちは無駄となる。向って来る機にはまぐれに当る事もある。
敵は左からの攻撃が多いので、銃側では左舷に重点的に弾を充足していた。右舷は一五、六機ぐらいしか来襲していない。左舷の機銃は、右舷の手持ちをもらってあるだけ射っている。左舷から飛んできて右舷に見える機は、建前として射っても効果がない。
高角砲の発砲時の爆発で顔面、眉毛が焼け、顔は変色する。レイテ戦では、それで一皮むけた。主砲発砲の赤ランプがつくと、ガーターを閉めて天蓋の中に入って、頭を引っ込める。
機銃群指揮官は、敵機が一万メートルに見えても、五〇〇〇メートルの距離に来るまで狙わない。風がどちらから吹いているかを見て苗頭、距離を出し、いつ射とうかと思っている。しかし艦長は艦に被害があっちゃあいけんので、右に敵機を見ると艦を直ぐ右に向ける、艦が転舵すると今までのデータがすべて変る。指揮官は、ぱっぱっと頭の切替えをする。
煙突の左舷側に、機銃掃射の跳ね返る音が聞えた。後部にはハンモックを吊るして防弾にしたが、米国の機銃弾は、不発が多かったように思う。それで助かった。
○機銃員、宮本岩三二曹(二十一歳)
十九年三月乗艦。その前は陸戦隊で南方にいた。生きたい、恐ろしい、とは思わん。これが最後という複雑な気持はなかった。運を天に任せるだけ。
早目の食事(にぎりめし)をたべていたら、「総員配置に就け」。それまでは二交代。めしを半分食べて、それを持ったまま左舷二十四番機銃にいって戦闘に備えた。機銃塔の外で見張にいた人は、食事をしていない。
主砲がまず射ち始め、我が機銃が射ち始めたのは遅かった。射程範囲に敵機がこなかった。前方から突っ込んできたものしか狙わない。指揮官「射て」の号令。その後命令なし。単独射撃。三五度に銃身をかまえて射撃した。銃身の先がとろけるぐらいに射った。
自分の頭上にくるまで射つが、あとは直ぐ次のを狙った。魚雷を投下したのは見送った。雷撃機専門に狙って射った。
大分傾いてから二十二番機銃台が吹っとんだ。最初は一発、機銃が飛ぶ前に付近に二、三発命中している。三度目の衝撃のしぶきで吹っ飛んだ。
自分の機銃も、衝撃でバアーッと銃身が右を向いたまま。故障で駄目。火薬のまっ黒な色、どぶの色が、わあーと上がってきた。戦闘服がどぶねずみ色で、びしょびしょ。砲塔の外に出た。「あっ、ない」二十二番機銃が外鈑から甲板の白線の引いてある所に飛んでいた。中に下敷になって挾まっている兵、二、三名いた。
配置なくなったので、しようがない。三番主砲塔の下で、タバコを一服していた。なんでもない機銃は射っていた。
○機銃員、後藤虎雄上曹(二十六歳)
レイテ戦で後部が至近弾でやられたので、その戦訓をとり入れ、強化することになった。艦尾旗竿付近には二五ミリ単装機銃が四基あったが、これを増強し、特設三連装機銃二基を後部最上甲板と同じ高さに台をして設置し、さらに単装二基という配備にした。
また防弾のため柔道の畳で機銃のまわりを囲んだ。
一一時三五分頃、右舷の後部郵便局の所で早めの戦闘食、むすび二個とゆで卵を食べていた。「対空戦闘」の号令とブザーで配置にすっ飛んでいった。当時二直配備であった。空には敵機が一杯いた。
雷撃機は狙わず急降下爆撃機だけを狙った。機銃の弾はなかなか命中しなかった。
魚雷は一一本命中までおぼえている。
爆弾の直撃で機銃群指揮官の首が飛び、手足ばらばら。第一弾は第三主砲の後部一帯。
一、二群の機銃、魚雷直撃でひっくり返った。
飛行機格納庫に水が入った。
○機銃員、前田忠夫水兵長(二十四歳)
十一群二十三番機銃の銃兵長をしていた。指揮官は鎌田兵曹。
「戦闘配置に付け」。すでに敵機は突込み体勢に入っていた。「射ち方始め」。敵は勇敢で、右舷後部から搭乗員の顔が見える所まで突っ込んで来た。
第一、二、三波までは上空から突っ込んできたが、対空砲火には敵《かな》わなかったのか、第三波を過ぎてからは左舷の水上攻撃に変ったように思った。敵機は海面すれすれに飛んで来て、魚雷を投下して行った。
爆撃機が胴体を開くと砲丸≠ンたいなものが自分目掛けて落ちて来た。後部は至近弾が多かった。機銃は四五―五〇度で、指揮官の「射ち方始め」「射て」の号令で、ずっと射ちっぱなしであった。銃側のオスタップ(たらい)に水を入れて、雑巾で銃身を冷やしながら射ち続けた。弾は銃側にぐるりと補充してあった。指揮所(管制所)で最後まで射った。銃側では弾をこめるだけ。
副砲塔横の銃側の指揮官は、直撃の爆風で首が飛んだという。
○機銃員、畑中正孝上等水兵(十九歳)
配置は三番主砲塔の左斜め前、特設機銃。三番主砲塔横に爆弾命中して、二番機銃員戦死。
特設機銃は、後部左舷に魚雷命中の水柱が滝のように落ちてくるので、海水ばかりかぶった。銃身は、自然に冷却していた。
○機銃員、西組安蔵一曹(二十七歳)
三番主砲砲塔上の特設二五ミリ三連装機銃、右舷側の旋回手。
缶詰と|こわめし《ヽヽヽヽ》を居住区で食べた。二、三名だけが食べ、ほかの者は配膳してあったが、ほとんど食べていなかった。その時、「戦闘配置に付け」のラッパが鳴った。
右舷の居住区よりマンホールを駆け上がり、最上甲板より垂直の立梯子を登った。指揮は予備少尉が取った。機銃員八、九名、砲塔の後部に覆いをかぶった指揮所があり、砲塔上の左右の指揮をとった。
配置に就いた時、肉眼で飛行機の塊が見えた。艦の進行方向、右舷側前方二万―三万メートルから突っ込んで来た。魚雷が初めに来て、次に急降下爆撃があったと記憶する。雷撃は第一撃が右舷前方、第二撃左舷、そして第三撃が後部からか?
艦尾方向から爆弾が斜めに、ばあーと自分の所へ落ちて来るような感じがした。高度一〇〇メートル。角度四〇―五〇度。
そんな時は、もう実際のところ恐ろしくて、むりに飛行機の方へ銃口を向けてダダダダ≠ニ射つ。命令を聞くどころの騒ぎでない。ほかの事、付近の人の事は構わない。ただ飛行機に向け無我夢中で射つだけである。弾は良く出た。
雷撃は艦尾に対して、三五―四〇度の角度で行なわれたように思った。左舷ばかり狙って来た。最初魚雷三本命中して艦はぐらつき、ちょっと傾いた。次の三本の命中で、艦尾が五、六メートル海面から持ち上がったように感じた。
と同時に三五―四〇度傾いた。雷跡は良くわかった。
第三主砲砲塔の左舷の機銃は艦の傾斜で仰角が利かなくなって、射撃が出来なくなった。そこで右舷側の機銃に弾薬を持って来て射った。ほとんど弾がなくなった。若い者がかついで上がってきた。
敵の機銃掃射ははじめからあった。砲塔に当ってピィピィとはねた。水柱で視界は見えなかったはずだが射っていた。戦闘中は射撃するのみで、精いっぱい。何もかも本当に瞬間的な出来事だった。
自動照準器が毀れているので、針が合えば弾は出た。一応配置はきまっているが、ああなったら射手も旋回手もなかった。
戦闘。あんなに恐ろしいものはなかった。爆弾を投下して上昇した時、敵機の搭乗員のマフラーが見えた。敵機が来るのは良く見えた。訓練は横に気球を引っぱるのを射撃するだけ、実戦では敵機は真っすぐに突っ込んで来た。
爆弾が落ち始めてから、煙と火が上にぐーっと上がった。
右舷の方へ移った。つるつるすべったので、靴を脱いで靴下だけになった。
捷号作戦における大和戦闘詳報
○機銃の威力不充分なり。敵機に対し近距離において相当良く銃火集中するをしばしば認めたるも、反響なし。
○これが対策として左の考慮を要す。
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
(イ)口径の増大
(ロ)射撃速度の増大
(ハ)照準装置の力量を三連三基一群とするか、あるいは多連装とするを可とす
(ニ)銃火安定性の増大(射撃の安定)
[#ここで字下げ終わり]
○敵機来襲多き艦首艦尾方向に対し、集中銃数不足なり。多数機異方向来襲および回避転射による射界制限等のため、元来不充分なる艦首艦尾集中銃数、更に不足することあり。可及的多数増備を必要とす。
単装機銃は、本艦大和型にありては利用価値余り大ならず。また主砲副砲爆風の関係上適当なる装備位置少なし。単装機銃はなるべく同銃数の三連装機銃として装備するを可と認む。(沖縄突入作戦時には、この点の改善が実施されたものと思われる)
○機銃の閃光覆は、約七〇〇―八〇〇発程度の射撃にて溶解破損す。
第一次攻撃の成果と情勢判断[#「第一次攻撃の成果と情勢判断」はゴシック体]
一、米海軍情報部調査記録(第二艦隊司令部及び大和乗組士官四名の証言)
(1)最初の攻撃は一二時三〇分頃始まり、少なくとも数分間続いた。攻撃が終った時、大和は三番砲塔付近に爆弾四発の命中と、左舷に魚雷二、三本の命中を受けた。傾斜は左に五、六度であった。
宮本砲術参謀は、爆弾命中三発のみと報告したが、他の三名の士官(森下参謀長、能村副長、清水副砲長)は爆弾四発が大和に集中して命中したと証言している。
爆弾四発のうち二発は、右舷一五〇番ビーム付近の甲板に命中し、一二・七サンチ高角砲二連装を破壊した。甲板上にあけられた穴は、直径一八―二二フィートあり、二五ミリ機銃三連装が数多く破壊された。火災は発生しなかった。損害報告を分析して、副砲長は二五〇キロ(米国式では五〇〇ポンド)通常爆弾二発の命中と推定した。
さらに二発の爆弾が、最初の二発の爆弾命中からおよそ五分後に、続けて命中した。その一つは副砲塔の中央線からわずか左寄りのところに落ち、他の一つは第二副砲射撃指揮所を貫通し、第二副砲の後部方位盤を破壊した。
この二発の爆弾は最上甲板、上甲板を貫いて中甲板上で爆発した。火災が発生し、消えることなく燃え続け、艦が沈みかけた時、ふたたび燃え上がった。消火活動の効果が上がらなかったのは、被害続出による混乱のためと思われる。この火災は、艦の転覆と同時に起きた弾薬庫爆発の原因の一つになったかもしれない。
副砲は内部を破壊され、脱出して生き残った砲員は一名だけであった(実際は数名)。副砲長はこの下士官から、くわしい被害状況をきき出すことが出来た。
(2)魚雷の命中数については四名の士官の意見は一致しなかったが、右舷には命中がなかったという点は、全員が同意した。
砲術参謀は三本の命中を報告したが、詳細な証拠を提供することが出来なかった。
副長は命中は四本、そのうち三本が前部の一つの箇所に集中して命中したが、防水区画のシステムがはたらいて、浸水はなかったと主張した。
参謀長は魚雷命中はわずか二本で、左舷の機関室付近に一発、第八罐室付近に一発あたり、隣接する防水区画にゆっくり浸水したと報告した。
副砲長は、参謀長の主張する魚雷二本の命中箇所と、ゆっくりした浸水という点には同意したが、さらに三本目の命中が、左舷後部(機械室の後ろ)にあったと主張した。
(3)舵が故障していたかどうかは、四名の士官の誰もが知らなかった。副長と副砲長が報告した艦の五、六度の傾斜は、艦中央部左舷に魚雷二本命中という主張を裏付ける証拠のように思われる。それが事実とすれば、報告された程度の浸水と傾斜は、充分ありうる結果だからである。逆に三番目の魚雷命中が左舷の第三主砲砲塔の後ろ、艦尾の一九〇番ビーム付近にあったという主張は、傾斜の程度からして裏付けに乏しい。もし命中があったとしても、二本の命中と同じ箇所以外には考え難い。
艦の傾斜は、右舷注水区画への注水の結果、一度まで復元された。
第一次攻撃ののち、速力が少し落ちたという点については、四名の士官全員が同意している。
第二次攻撃が始まるまでは、左舷機関室側面への浸水はくいとめられていたが、第八罐室は使用不能となっていた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] なお証言当時、能村副長は頭部の負傷後遺症に悩まされていた。
二、攻撃部隊による戦果報告(米軍記録)
第一次攻撃が終了したとき、その戦果は満足すべきものであった。大和は確実なものだけで少なくとも魚雷命中八本、爆弾命中五発の打撃を受け、艦中部から大きく煙をあげ、傾斜していた。われわれの襲撃の熾烈さを思うと、それが風評通りにきわめてタフなフネであったことに疑いはなく、あれ程傷つきながらなおかなりのスピードで行動していたことは、驚くべきものであったが、護衛艦の被害の状況からみても、引続き完璧な雷爆撃を加えることにより、致命傷をあたえうるとの確信をわれわれは強めた。
護衛艦からの掩護射撃は予想以上に強力であり、大和への攻撃を容易ならしめるため、われわれは多くの攻撃兵力を割いて彼らを沈黙させなければならなかった。その結果阿賀野型軽巡は大破して海上に停止し、駆逐艦一隻が沈没確実、他の一隻もほぼ確実に沈み、さらに駆逐艦二隻に重大な損害をあたえた。駆逐艦は照月クラスおよび高波クラスのように思われた。
三、第一遊撃部隊情勢判断(戦闘詳報)
(1)第一次攻撃隊約二〇〇機は主目標を「大和」「矢矧」に指向、ほぼ一二四〇―一三〇〇の間に襲撃を集中した。
第二次攻撃までの間には若干の時間があり、また「大和」の被害確実のものは魚雷一、爆弾二で大したことはなかったので、艦隊の一部には沖縄到達の望みなきにあらずとの観測もでてきた。
(2)その根拠となる判断は次のようであった。
──「大和」は当面の戦闘航海に支障なし。損傷艦、特に二水戦旗艦「矢矧」の被害状況確認のため、主隊から二〇キロの距離にある同艦の方向に向わんとす。もし被害増大の状況に至れば、突入期日、時機の変更を要す。
(3)しかし一三〇二、「大和」が二〇〇度、三〇キロに新目標五〇機を発見したことは、第二次攻撃の来襲近きを思わせた。
襲撃第三波[#「襲撃第三波」はゴシック体]
大和及び二水戦戦闘詳報(一三三〇から一三五六まで)
一三三〇 敵艦上機、約一五〇機来襲。
一三三二「矢矧」航行不能のため、二水戦旗艦を交代すべく「磯風」が横付けを試みていたが、敵機来襲により横付け作業を中止。もっぱら「矢矧」の警戒に任ずることとする。
一三三三「大和」の左六〇度、四〇〇〇メートルから雷撃機二〇機が向ってきたので、単独左に回避。
一三三四 左五〇度、二〇〇〇メートルに雷跡六本を発見。
一三三七 左舷中部に魚雷三本命中。副舵が取舵をとったまま故障した。
一三三七 左舷に魚雷攻撃が集中したため、左傾斜七、八度となったが、右舷注水タンクに三〇〇〇トンを注水して、ほぼ復元した。
一三四〇 二三〇度に右一斉回頭。
一三四一 左六〇度、七〇〇〇メートルに雷跡四本を発見。単独左に回避。艦首五〇〇メートルに雷撃機一機を撃墜。
一三四四 左舷中部に魚雷二本命中。
一三四五 副舵を中央に固定し、二〇五度に変針。右艦首から急降下に入る爆撃機(SB2C)数機を見て、単独左に回避。左舷で二機を撃墜した。
魚雷の追加命中により左傾斜が増加し、一五度となったが、速力はなお一八ノットを保持していた。
一三四五「矢矧」に雷爆撃機、約五〇機が来襲。
一三五六「磯風」後部至近弾により浸水、速力低下。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] このように海戦が終局に近づくにつれて、時間というものが広大な海と空を舞台にますます凝縮し、同じ時刻、同じ瞬間に数多くの出来事が、──艦橋で砲側で艦底で攻撃機の中で──それぞれ自分の任務に没頭している人間のまわりで──生起しているという事実をここで強調しておきたい。そして今われわれはそれを並列的に、立体的にではなく平面的に表現するほかないということを、読者にお断わりしておかなければならない。
第五八・四部隊(第六空母戦隊)戦闘詳報
(1)戦場到達
第五八・四部隊のうち、空母イントレピッド、ヨークタウン、およびラングレーから発進した第二次攻撃隊の隊長に、ラーヴィー少佐が任命された。彼の指揮下にあるのは、戦闘機二八機、戦闘爆撃機二〇機、爆撃機二七機、雷撃機三二機、計一〇七機であった。
一〇時四五分、まず空母イントレピッドの第一〇航空先発隊が、母艦から二七三マイル離れた日本艦隊に向けて飛び立った。空中集結ののち、針路を三五〇度に定め、高度一五〇〇フィート、速力一四五ノットで飛行を続けた。途中、戦闘機二機がエンジンと増槽のトラブルのために母艦に引き返した。
そしてちょうど一二時に、攻撃隊は喜界島と奄美大島の間を通過したが、天候はきわめて悪く、雲量は一〇分の一〇であった。スコールがたびたびあり、雨の海域を除いても、視界は五―八マイルに過ぎなかった。目標上空の天候が心配されたので、中継機を通じ索敵機に気象情報を求めたが、応答がなかった。
一三時一五分、空母エセックスの偵察機が、日本艦隊のより正確な位置を報じた平文(暗号文でない通常の文章)の通信文を傍受した。同時に雷撃機の中隊長が三〇マイルにレーダーの反射あり、と報告したが、やがてそれは環礁の映像であることが判明した。
ラーヴィー少佐は二七〇度に変針の命令を下したが、最も上空を飛行中の分隊は、雲に妨げられて命令を見落とした。そこで無線でそのグループを誘導しなければならなかった。なおも高度一五〇〇フィートで飛行を続けていると、米軍機の大編隊が、第一〇航空群の針路を横切って、一五〇度方向に飛び去るのとすれちがった。
一三時三〇分、攻撃隊の先頭約二マイルを飛行していたラーヴィー少佐は、眼下に航跡を発見した。雲をかいくぐって高度を下げると、それが小型艦、おそらく駆逐艦であることが判明した。直ぐ本隊に接触報告をして一分後に、対空砲火の閃光が炸裂した。スコールをおかして高度五〇〇フィートまで降下し、駆逐艦三隻と戦艦一隻を確認した。戦艦は散発的に発砲しながら右に傾斜し、炎上して艦首を少し下げ、針路一五〇度、速力五―一〇ノットで進撃を続けていた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 駆逐艦は冬月、雪風、初霜であろうか。また大和はこの時すでにかなり大きく左に傾斜していたはずで、たとえ左に緊急回頭をしたとしても、右舷傾斜は考えられない。単純な誤認と思われる。
少佐は、攻撃隊に戦艦のおよそ五、六マイル北を通過させ、距離を維持しながら、左旋回するよう命じた。そして飛行大隊、すなわち所属する空母ごとに分けて攻撃させることとした。
第五八・一部隊戦闘詳報
一三時二七分、帰投中の第五八・一部隊の攻撃機から戦果第一報がとどいた。その内容は、大和と軽巡一隻に重大な損害を与え、駆逐艦二隻を撃沈、他の数隻の駆逐艦に損傷を与えたというものであった。この報告を受けた第五八機動部隊司令官ミッチャー中将は、戦果の大きさ、残存艦隊の勢力、間もなく戦場に到達する後続の第五八・四部隊の攻撃力を考え合わせ、一三時四〇分、「これ以上攻撃隊を送るな」と命令を下した。一三時五五分、北東方面に艦隊を求めて索敵機を発進させる。理由は暗号解読情報(GF電令作第六〇七号)の日本艦隊は八日黎明時に沖縄の東方海域に到着する≠ノ基づくものと思われる。しかし実際の解読は誤訳で「東方」は「西方」海域であった。そこで第五八・四部隊の一〇五機は、日本艦隊と見《まみ》える殿《しんがり》の航空群として、有終の美を飾るべき運命を引きあてた。
(2)第一〇雷撃機中隊の攻撃
朝のうちから攻撃準備をしていたこの中隊一二機は、一一時〇五分に空母イントレピッドを発艦、宇治群島が望見される地点まで北進し、そこから西に変針して一三時三〇分、大和と護衛艦を発見した。雲が低く視界はぼやけていたが、一二マイルの距離で日本艦隊を捕捉できたのは、対空砲火の閃光のお蔭であった。こうして攻撃目標を確認するまで、レーダーは何も発見できなかった。
攻撃開始は一三時三五分、戦艦は時計の反対回りで旋回している護衛艦を伴い、針路一五〇度で航行していた。戦艦の大口径砲による対空砲火は、連続発射して弾幕を張る方法をとっており、正確に雷撃機中隊の方向を指向していた。用心のためレーダー妨害用金属片を散布した。
護衛艦の中では、攻撃目標として他よりやや大型の軽巡が選ばれた。このフネは戦艦のまわりをジグザグ航行していたが、のちに写真判定によって、照月型駆逐艦の誤りであったことが判明した。
雷撃機が投下地点に到達する直前に、艦隊は左回頭をした。この回頭は動きの自然さから見て明らかにジグザグ運動の一部であり、対空砲火を有効にしたり、魚雷回避を容易にしたりするための試みとは思われなかった。
しかも左回頭によって、全雷撃機に、目標の左舷艦腹に対する絶好の攻撃角度があたえられた。投雷は速力二四〇ノット、深度調整一〇フィート、高度五〇〇フィート、距離一一〇〇ヤードを基準として行なわれた。
海はおだやかであり、すべての魚雷はすばらしい正確さで直進した。軽巡の右舷に魚雷二本の命中、駆逐艦の右艦首に魚雷一本の命中が目撃され、さらに第一〇戦闘爆撃機中隊のクリフォード少尉は、他の駆逐艦が爆弾の命中により自爆沈没するのを見た。また多くの操縦士と搭乗員は、戦艦の左舷艦腹に中隊としては四本目の魚雷命中を観測した。攻撃終了後、参加機は目標海域の南一〇マイルに集結した。
この間、レーダーの調子は引き続き悪く、どの通信士も一五マイル以上の距離では攻撃目標を捕捉することができなかった。目標海域への飛行中、映像をとらえたのは四二マイル先に小さな島を発見した時だけである。しかも作動不良の原因は不明であった。
通信も最悪の状況にあった。特に主力艦とこれにつき従う護衛艦を攻撃する場合、飛行隊長と目標調整官の間には、つねに直通の確実な通信手段が確保されるよう、通報連絡体制を改善することが望ましい。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 米軍の通信系統が混乱した原因として、日本側の妨信作業が、状況によっては有効であった事実があげられよう。それは悪天候とあいまって、攻撃軍を悩ましたものと思われる。
(3)コールマン中尉の報告(米資料より)
ある爆撃機のパイロットが、「自分はいま日本艦隊の頭上にいるはずだが、ジャップはどこに行ったのか」と質問を発したのが、私の記憶する最後の通信になった。ラジオは初めはゆるやかに馬のいななくような音に変っていったが、だんだんに悪くなり、ついに頭に響く消防サイレンのようになった。
もはやわれわれは、見ることも聞くことも出来なかった。それは目隠しされたフットボールのゲームのようなものであった。日本軍がラジオによるわれわれの通信網を、妨信で滅茶滅茶にしたのだ。航空群の隊長であり攻撃調整官であるハーマン・アッターは、さぞ困り果てているであろう。彼は何一つ調整することが出来ない。だいいち、彼自身が見ることも聞くことも出来ないのだ。
(4)第一〇爆撃機中隊の攻撃
戦艦大和は、この飛行中隊によって確認される一五分前に、ASBレーダーによって捕捉された。
高度三〇〇〇から四〇〇〇フィートには密雲があり、視覚による接触を維持するためには、高度三〇〇〇フィート以下の低空を飛行する必要があった。
戦艦は針路を南にとり、速力約一〇ノットで右に回頭しながら航行していた。駆逐艦四隻ないし五隻が護衛していたが、うち二隻は大型で、おそらく照月型と思われた。
第一〇爆撃機中隊一四機は、攻撃目標として戦艦を割り当てられた。東から接敵し、北東に旋回していた雷撃機中隊と協同攻撃を行なうことになり、一三時三五分、まずラークス大尉の先導する第一分隊七機が、雲の底面を旋回したのち、戦艦の艦首上空から滑空爆撃を敢行した。
ヤコブソン中尉に指揮された第二分隊七機は、北に旋回してから大和の艦尾上空に入りこみ、速力一八〇ノット、角度三〇―四〇度で突っこみながら、一〇〇〇―一五〇〇フィートの高度から爆弾を投下した。
投下された爆弾二七発は、見事に計画された接敵コース、低い高度、低い速力、巨大な目標という条件の組み合わせによって、優秀な戦果をあげるものと期待された。
各操縦士、乗組員の報告を総計すると、二七発の爆弾のうち、命中を観測されたものは二〇発に達し、彼らは期待以上の戦果に満足した。ただし目撃者があげている命中の証拠は、大和の甲板上、左舷後部と煙突の真うしろ、艦中央部に同時に別々に起きた五つの爆発と、数本の水柱だけである。
各機は戦艦に急降下するあいだ機銃掃射を浴びせ、さらに続航しながら駆逐艦に機銃掃射を浴びせた。攻撃終了後の集結は日本艦隊の北約一〇マイルで行なわれたが、視界が極度に悪いため、残存艦隊を発見することはできなかった。護衛駆逐艦は軽微な機械的な対空射撃をくり返していたが、戦艦の対空砲火は激しく、爆撃機四機が被害をこうむった。テンプル少尉は右翼の先端に五インチの命中弾をうけ、操縦がいちじるしく困難になったが、自動羅針儀、矯正機の助けを借りてカバーし、無事母艦に着艦した。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第三波襲撃以降、日本艦隊の対空砲火がとみに弱まったことは、米軍の戦闘記録から飛行機損傷の事例が、ほとんど姿を消したことによっても知られる。この箇所は唯一の例外である。
(5)第一〇戦闘爆撃機中隊の攻撃
中隊で一二機のうち、ジャクソン大尉の率いる分隊四機は、九〇〇―一〇〇〇フィートから大和に向って滑空態勢をとり、一〇〇〇ポンド通常爆弾四発を投下、一発の命中(重大な損害を与えたと推定される)と至近弾二発を記録したが、一発は不発弾であった。また分隊の二機は護衛艦に機銃掃射を浴びせ、火災を発生させた。
傾斜復元せず[#「傾斜復元せず」はゴシック体]
生存者証言
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
一〇〇機ぐらいの大編隊が、左から右へ大きく回転しながら攻めてきた。襲撃は雷撃機の方が多かった。至近弾があたると、水柱が艦橋の上の高さまできた。艦は左舷をやられ傾いてきたが、まだ沈むという感じはなかった。
デッキ一旒。三角形の「舵故障」の旗旒信号が上がった。大和の舵故障を僚艦に伝えるためだ。艦は舵を左にとったまま、傾斜が復元しない。艦長が「復元を急げ、復元を急げ」と号令をかけていた。右舷の測的所の下の防水区画、機関室まで注水したが、それでも復元しなかった。
砲の弾運びに皆集まったが、左舷中部の高角砲も爆弾でやられた。こちらが射つ音と、爆弾の炸裂音で、ただ無我夢中。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
艦長「渡辺、傾斜はどのくらいか。傾いて砲が打ちにくくてしようがない。早く直させろ」。応急指揮所へ命令。この傾斜はすぐ直った。昭和十八年十二月、トラック島で被雷して五度傾斜した時、二〇〇〇トンから三〇〇〇トンの水を注水して傾斜を復元したこともある。
艦長は防空指揮所の正面羅針儀の前に、仁王様のように立っている。まわりには見張伝令、砲戦伝令がいる。私は見張長として、指揮所にある一六箇所のメガネを走り回り、全体の状況を見ては逐一艦長に報告していた。鉄カブトは着用していたが、防弾チョッキは走りまわるには重いので脱いでいた。
○方位盤旋回手、家田中尉(三十一歳)
艦が一五、六度も傾斜すると、主砲は発砲出来ない。二番砲塔より「弾が揚がらない。早く復元直せ。復元直せ」。上甲板まで水につかっても、反対舷に注水して水平に戻せれば、戦闘力はある、と聞いていた。しかしなかなか復元しない。注排水指揮官がいなかったのだという。
自分の配置というものは、死守せねばならない。多くの下士官兵が、自分の配置を守って死んでいった。
後部射撃所の下に測的所がある。そこに直撃弾が命中したので、助田少尉がねじり鉢巻で被害状況を前部指揮所に報告にきた。後部指揮所の射撃盤射手永見少尉が部下をつれて、前部の予備指揮所に移ってきた。助田少尉はその後司令塔に入り、最後の戦闘を見守っていたように思う。これらは自分の配置がやられてしまったので、やむをえず他の配置に移った例である。
砲術長は射撃塔の外に出て、雷跡を見ながら「来たぞ、来たぞ」。射撃塔は艦が傾斜してくると、アーマー(鉄扉)が開かなくなるので、ツナで縛って開けておいた。
艦の左傾斜が直らないので、見兼ねた森下参謀長が、魚雷が来たら右舷に当てようと考えた。うまく持っていって右に当てれば少しは傾斜が戻るだろう。しかしフネの操艦は参謀長の指揮系統とちがう。そうこうしているうちに、魚雷が艦の後部にまとめて命中し、右に当てるも何も、意味がなくなってしまった。
○方位盤射手、村田大尉(四十四歳)
主砲は五度以上、高角砲、機銃も一五度以上傾くと、射撃出来なかった。その時までにどのくらい主砲を射ったかというと、初めのうちはかなり斉射したが、一度傾き注排水して復元してからは、わずか三斉射と記憶している。
だから、これでもう艦が沈むんだとは、どうしても思えん。いっとき主砲は射てんでも、たった一五度くらいの傾斜なら、また復元するじゃろう。それまではひとつ、照準訓練でもしてやろう。そう肚が決まって、ちっとも動揺はしなかった。傾く方位盤室で引金を握りしめ、端坐の姿勢を崩さなかった。しかし傾斜が一五度をこえると、さすがに何かにつかまらないと立ちにくかった。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
艦は一度大分傾斜してから、復元した。主砲は、艦がすっかり傾いてダメになってからも、射ちたいと言ってきた。その悲壮な気持に打たれて、第一砲塔に射たせることにした。しかし軸先が焼けて、弾がただ水面を走っていった。
○主計長、堀井少佐(三十一歳)
舵をやられて艦がぐるぐる回り始めた時、これはいけないな、と思った。それまで後方は振り返らなかったが、その時はじめて振り向いてみると、軍艦旗が子供の頃日露戦争の絵葉書で見たボロボロの旗を思い出させるように、半分に千切れていた。それを見て勇ましいなあ、と感ずると同時に、これで終りだ、と自分に言いきかせた。
襲撃第三波終了時における第一遊撃部隊情勢判断[#「襲撃第三波終了時における第一遊撃部隊情勢判断」はゴシック体](戦闘詳報より)
一、敵機動部隊に対する神風特攻攻撃の戦果不明なるも、敵機動部隊がわが艦隊の二〇〇浬《かいり》圏内にあること確実にして、本日はなお反復、敵の空襲あるものと予期す。
二、突入作戦の中核たる「大和」はさらに魚雷五本の命中を受け、傾斜は一五度に達し、目的地到達の可能性少なし。二水戦旗艦「矢矧」また航行不能。
三、決心
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
(1)突入作戦は成立せず。
(2)生存者は救助、後図を策すべし。
(3)艦隊幕僚(参謀等幹部)は「冬月」に移乗、残存部隊の収拾に任ずべし。
[#ここで字下げ終わり]
四、情況報告
一三五〇 第一遊撃部隊より天一号作戦部隊へ(初霜通信代行)戦闘速報第一号。
「四月七日、敵艦攻艦爆二〇〇機以上ト交戦。『矢矧』魚雷二本命中、航行不能。『大和』魚雷爆弾命中。駆逐艦『冬月』『雪風』以外全部沈没マタハ大破」
一三五〇 第一遊撃部隊より天一号作戦部隊へ「ワレ連続空襲ヲ受ケツツアリ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第二波攻撃の終了時点では、大和が当面の戦闘航海に支障ないことを主な根拠として、沖縄突入の望みなきにあらずと判断し、たとえ被害増大の状況となっても、突入期日、時機を変更すれば足りるとしていた第一遊撃部隊司令部の強気論者も、執拗な第三波の追撃と、引続き予想される第四波来襲を前にして、作戦が根本から挫折したことを認めざるをえなかったものと思われる。
[#1字下げ] この際生存者を救助、残存部隊を収拾し、後図を策するという決心は、その間の心境変化を裏付けているが、その判断も意見として表明されることなく、ただ同じ特攻作戦に参加した実戦部隊、航空隊の仲間に対して、簡単な戦況報告が発せられたにとどまっている。
襲撃第四波[#「襲撃第四波」はゴシック体]
第五八・四部隊(第六空母戦隊)戦闘詳報
○第九雷撃機中隊の攻撃
日本軍に対する第五八部隊の攻撃は、いよいよ最高潮に達し、第九雷撃機中隊(ヨークタウン)は、戦艦大和と阿賀野型軽巡を、海底に葬り去る役割をになうこととなった。
一三機の雷撃機は、中隊長ステットソン大尉、第九航空群総指揮官、ハウク少佐に率いられ、ヨークタウンの他の飛行中隊とともに、一〇時四五分、母艦を飛び立った。発進地点からみると、日本艦隊はほぼ北西の方向、二六〇マイルの位置にあった。
日本艦隊の進路は西または南西、速力も二〇ノットを中心にいく通りかの報告があり、情報には乱れが見られた。雷撃機中隊は空中集結を終ると、直ちに日本艦隊の一〇時現在の推定位置を目ざして機首を向けた。針路は三五〇度に定針された(空母ラングレーからは、やや遅れて一〇時五〇分、第二三航空群の戦闘機一二機、雷撃機七機が発進した)。
天候は時折スコールのある悪条件で、そのため飛行は一五〇〇フィートと異例の低高度で続けられ、速力もやや低く一四〇ノットに抑えられた。
推定目標位置には、一三時五分に到達した。そこで針路二七〇度に変針し、一〇分後にレーダーは、首尾よく二〇マイルの距離に目標をとらえることができた。
一三時二五分、N三〇度五〇分、E一二八度五分の位置に、肉眼で日本艦隊を発見した。彼らは乱れた陣形を建て直しつつあるように見えた。
発見と同時に、第九航空群の編隊の真っ唯中に、しかも同じ高度の付近に集中して、対空砲火が強力な至近弾を炸裂させた。各機はレーダー妨害用金属片を射ち出し、攻撃の間中、照準を妨げる努力を続けた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 前にもふれたが、日本艦隊の対空射撃の正確度から見て、米軍はそれがレーダーにより制禦されているものと想像したが、日本の射撃用レーダーは、当時まだ実用化の域には遠かった。
雷撃を開始した時、日本艦隊はこれまでの攻撃による傷跡をはっきり露呈し、いくつかのグループに散り散りになっているのが確かめられた。攻撃隊に最も近いのが駆逐艦三、四隻を伴った大和型戦艦で、その北西約五マイルに、軽巡と思われる一隻がいた。
また戦艦の北西約一〇マイルには、駆逐艦を随伴した阿賀野型巡洋艦がいた。この巡洋艦はすでに命中弾により致命傷を受けており、左舷中央部から巨大な油の層を吐き出しながら、死んだように海面に横たわっていた。
大和も艦中央部に火災を生じ、重油を流し続けていたが、機関は健在で、南または西南に向けて高速で進撃していた。推定速力は二〇ノット、回避運動も機敏に遂行しており、まだ決定的なダメージを受けていないことは明らかであった。
戦艦の北方約五マイルには、さらに駆逐艦一隻があり、はげしく炎上していた。
第九航空群(ヨークタウン)が攻撃の位置につきつつある間に、第一〇航空群(イントレピッド)の隊長は、配下の攻撃隊を大和襲撃のために集結させ、彼らが見事な手際で雷爆撃に成功したのを見とどけると、最初の編隊の攻撃により大和が手ひどい命中弾をこうむり、かつ傾斜が増大したと報告した。そしてさらに少なくとも二、三本の魚雷命中があれば大和に止めを刺すであろうとの見通しをつけ加えた。
この報告をきいた第九雷撃機隊長ステットソン大尉は、急がなくてはならないと感じた。そこで日本艦隊続攻のため、彼の中隊を航空群から分離する許可を得たいと申し出た。許可が出て、彼自身の指揮する第一分隊の目標は大和とされ、第二分隊は第九爆撃機中隊、第九戦闘機中隊、第二三雷撃機中隊(ラングレー)とともに、阿賀野型軽巡と護衛駆逐艦を協同攻撃するように命じられた。
大和及び二水戦戦闘詳報(一四一〇まで)
一四〇〇「大和」右艦首より爆撃機数機、急降下に入る。右に回避。
一四〇二 左舷中部に中型爆弾三発命中。左舷への魚雷集中の影響さらに顕現化、刻々に傾斜増大。注水タンクの限度に達したので、右舷で最も容積の大きい空間のある機械室、罐室に注水して一時傾斜の進行がとまった。
一四〇三「矢矧」沈没。被害累計は直撃弾一二発、魚雷七本の多きを数えた。敵機、漂流する生存者を銃撃。
一四〇五「大和」右舷六〇度、八〇〇メートルに雷跡一本を発見。直ちに面舵に転舵したが、右舷中部に魚雷一本命中。
一四一〇 さらに左六〇度、一〇〇〇メートルに雷跡四本を認め、単独取舵で回避したが、左舷中部および後部に魚雷二本命中。
ここで針路〇度に定針。艦を推進する機械は右舷が注水のため使用不能。片軸運転で実速力一二ノット。しかし傾斜は、右舷魚雷命中もあって左へ六度まで復元した。
巡洋艦「矢矧」の沈没[#「巡洋艦「矢矧」の沈没」はゴシック体]
(1)第一〇航空群報告(米軍記録より)
攻撃隊長ラーヴィー少佐は、戦艦大和を発見してから三分後に、大和から一〇―一五マイル、方向三〇〇度の海域で航行不能に陥っている軽巡と、それを救助しようとして接近する駆逐艦を目撃した。
攻撃隊長は直ちに状況を報告し、高度三〇〇〇―五〇〇〇フィートの雲から出たり入ったりしながら、旋回して目標を偵察した。一分間に一〇―一五発の割合で約五分間、大口径による対空砲火が射ち上げられたが、巡洋艦と駆逐艦のいずれが発砲したものであるかは分らなかった。
対空砲火の射程は正確であったが方向誤差が大きかった。しかし攻撃機は慎重を期し、高速で回避運動を行なった。
後続の空母ヨークタウンの攻撃隊長が、現場に自分の大隊を導き、雷爆戦闘機の混合による協同攻撃を開始した。そこでラーヴィー少佐は、この攻撃に自分の分隊を参加させることが賢明と考えた。
急降下と緩降下は、高度四〇〇〇―五〇〇〇フィートで行なわれるのが理想であるが、そのあたりは一面の雲で埋めつくされていたので、雲の中に穴をみつけ出す必要があった。穴、つまり出入口の状況によって、降下角度は二〇度から四五度の間で、適宜の角度を選ぶものとされた。
ラーヴィー少佐が雲の穴を通って降下を始めるやいなや、同じ穴を通過して急降下しつつあるSB2C爆撃機、四、五機が目に入った。そこで彼らに順番を譲ってやることにし、急降下の態勢を元に戻してやり過ごした。緊急旋回をしていると、急降下するF6F戦闘機が見えたので、そのあとに続いた。
降下を始めた時、攻撃目標は視認できなかったが、高度二五〇〇―三〇〇〇フィートで、軽巡が視界に入った。目標の上空にきて、全景が照準器の視野に入った。軽巡の艦体は大きく見え、一〇〇ミル(ミルは射撃角度の単位、円周の六四〇〇分の一の弧に対する角)の輪に収まらず、両端から外に延びていた。
攻撃は右舷後部から、降下角度三〇―三五度で行なわれた。それまで対空砲火は非常に軽微であったが、機が体勢を立て直そうとしている時、多くの至近弾が観測された。軽巡はたちまち爆発して沈没した。攻撃開始から海底に沈むまで五分以上はかからなかった。
軽巡を護衛する駆逐艦は、一発の至近弾を受けたほかは、損害はなかったように見えた。[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 損害を受けたのはおそらく磯風であろう。この時磯風は至近弾により機械室に浸水し、航行不能におちいった。
(2)第九航空群報告
第九戦闘爆撃機中隊六機は、阿賀野型巡洋艦(六〇〇〇トン)と、高波型駆逐艦(二一〇〇トン)を割り当てられ、一三時四五分に日本艦隊と触接した。
高度一〇〇〇フィート以下に接近したので、軽巡と駆逐艦の甲板から、中口径銃と軽高角砲が射ちあげてくるのがよく見えた。低高度からの急降下にもかかわらず、六〇度の角度で突っこんだので、機体引起こしには苦心を要した。軽巡の艦尾に命中弾による爆発と立ち昇る茶色の煙が見えた。
第九戦闘機中隊一二機は、およそ一一時一五分にヨークタウンから発進した。目標の約六〇マイル手前で、ラーソン少佐の操縦席は煙で満たされた。エマーソン中尉は、航空群指揮官から、ラーソン機を護衛して帰還するよう命令された。
軽巡が空母イントレピッドの攻撃によって、海上に死んだように横たわり、煙を吐さながら重油を流しているのを見た。その上に最後の協同攻撃により、何本かの魚雷、さらに爆弾が命中し、軽巡は転覆して沈没した。
二隻のボートに多くの生存者が乗っており、海中にも多数の乗員が泳いでいたが、機銃掃射のためほとんどが戦死するか、溺死した。わが五〇口径機銃の命中率は、五〇―七五%ときわめて高かった。軽巡の護衛艦は燃えながら戦っていたが、おそらく後に沈んだものと思われる。
(3)「矢矧」艦長の苦心(コールマン中尉報告)
日本艦隊の各艦は、どれも蛇の巣のような形の航跡を描いて|のたうち《ヽヽヽヽ》まわっていたが、矢矧の艦長はただ走りまわるだけではなく、勇敢にも主力部隊から遠ざかるように、艦を走らせたのではないかと思われる。彼は熟慮して、殺到する米軍機を自分の方向に向けさせるように、大切な「大和」から遠ざけるように行動したのだ。そしてこうした応急措置を講じた上で、みずから犠牲となって撃沈されることに成功したのだ。
(4)強かった「矢矧」(米資料より)
矢矧はほとんど戦艦と同じくらいタフであることを、みずから立証した。なぜなら、沈められるまでに爆弾一二発、魚雷七本という大きな損害に堪えることができたからである。
(5)生存者証言
○「矢矧」応急科、大坪寅郎中尉(二十三歳)
第一波攻撃の被害状況を調べて待機場所に帰ると、内務長から「応急班上へ」の命があり、私は部下を連れて艦橋の下に行った。内務長からは、傾斜復元のため左舷の錨と錨鎖を捨て、また搭載中の水上機を海中投棄するよう命ぜられた。
折から第二波が来襲したが、部下を督励して錨鎖を落とし、飛行機を処理するため中部の発射管の所まで行くと、中本中尉が盛んに大きな声で何か部下に命令している。よく見るとやはり被害局限のため魚雷の海中投棄を命ぜられ、左舷に発射管を回して発射したが、機銃掃射あるいは爆弾の弾片のためか、発射用の空気が洩れていて、ちょうど一本の魚雷が実用頭部を舷外に突出したかっこうで、尾部は発射管の端に引っかかった状態になっている。これに敵機の機銃弾が当ると大爆発となるので、飛行甲板からチェーンブロックで頭部を吊り上げ、魚雷を水平にして発射管から抜き出そうとしているのであった。
魚雷が下の方へ曲がったような状態になっているので、非常にむずかしい作業であり、その作業をしているうちにも、第二波の敵機が爆撃、銃撃をかけてくる。私達応急班も懸命になって飛行機を処理し、すぐ発射管の所に下りて見ると、下でもやっと魚雷を抜き出そうとする所であった。
矢矧は沈没するまで全然火災も爆発も起こさず、従って大和に比して乗員の生存者も多かったが、これはひとえに中本中尉以下水雷科員の必死の努力により、魚雷の爆発がさけられたことによるものである。その中本中尉は、幸い脱出して重油で真っ黒な顔で泳いでいるのを見かけたが、ついに救助はされなかった。
そのうち航行不能となった矢矧は、四方八方から敵機の攻撃を受け、右舷に数本の魚雷が命中して、これまで左舷に傾斜していたのが、急に右舷に傾いて沈みはじめた。
私はちょうど艦橋の下に入ろうとしていたところであったが、艦は沈みながら二つに折れたような具合で海中に引きずりこまれ、下部の射撃発令所に入って指揮を続けていた八田中尉に、再び声をかけることは出来なかった。沈みゆく矢矧の渦に二度引き込まれた後で、海面に浮き上がったので、うねりの間に周囲の状況を見ると、すでに大部分の漂流者は相当離れたところにいたが、すぐ近くに私の部下が二名おり、しばらくしてやや離れたところに、重油で顔は真っ黒になってはいるが、中本中尉ほか数名の人が見えた。
その間にも敵機は執拗に漂流者に対して機銃掃射を加えてきた。
敵機が去った頃には、潮の流れの関係か浮いていた者もバラバラになり始め、中本中尉を呼んでも返事はなかった。
日没後夕闇迫る頃に、大和の生存者を救助した駆逐艦雪風が、私達の漂流している付近にきて停止し、私達は甲板上に拾い上げられた。そのあと上司の命令で、艦内を回って救助された矢矧の生存者を調べたが、八田中尉、中本中尉の姿を見出すことは出来なかった。八田中尉は最後まで射撃を続け、配置についたまま艦と運命をともにし、中本中尉もついに力尽きて東支那海にその身を沈められたのである。(海兵七十三期文集『海ゆかば』)
傾斜いよいよ進む[#「傾斜いよいよ進む」はゴシック体]
生存者証言
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
傾斜二三度、このくらいの状態が長かった。指揮所のデッキ(リノリュームの床)に血がたまる。滑るので、靴をぬいで靴下で走りまわった。
雷跡を見て回避する。舵のきき具合を確かめて、大丈夫かわせると思ったから、「艦長、よろしい」。艦長「戻せ」といって、次の目標に対応した。剣道と同じだ。のんべんだらりんと、一つ一つ受けてはいられない。
傾斜が二〇度をこえれば、目標が見えても合理的な回避は出来ない。右舷に魚雷を発見する。「面舵一杯」で右に舵を切らなければならないが、全速で航行していると、遠心力で左に大きく傾斜して転覆するような感じになった。
「取舵一杯、宜《よ》う候《そろ》」で左へ左へ回って、艦を振り起こすように操艦した。結果として、のたうちまわるような形になった。魚雷が次々命中しても仕方がない。
「右舷注水区画満水、余力なくなった」。傾斜三五度になった。運用科に傾斜復元を促す。
一番見張から報告「雷跡、右四五度、四〇(距離四千)に二本」
「艦長、傾斜復元のため、あの魚雷を右舷に命中させようじゃないですか」と進言する。「おおそうか。それあ面白い。右に穴をあけてみよう」
「宜《よ》う候《そろ》」。艦橋の直下に、七〇度の角度でばあーんと命中。ばあーんと波が上がる。
「艦長、穴もなにも開きやしませんよ」
「おおそうか、大和は、不沈艦じゃのう」と言って艦長はニンマリ笑った。
そこでやむをえず、罐室、機械室注水という段取りになった。傾斜二三度から三五度、そこで止まった感じになった。
艦長付の森一郎少尉は、傾斜二三度の頃、防空指揮所の高射長配置のすぐうしろ、伝令所の一番高い屋根の上で、鉄カブト、防弾チョッキの戦闘服装で指揮棒を持ち、見張員六名を把握、「しっかりせよ」と声を張りあげて士気を鼓舞していた。視界の大きな眼鏡を持ち、艦直上の奇襲に対する警戒に当っていた。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
攻撃と攻撃の間は、ずい分時間があったように感じられた。あがっちゃいけん。冷静になろう、冷静になろう。腹に力を入れ、攻撃が終るとタバコを吸い、次の来襲に備えた。一〇分も二〇分も時間があるような感じがした。焦っているな。落着け。「沖縄に行ったら、よけいアメさんがいるけん、それまで弾を倹約してなんぼでも射ってやるぞ」。わざと冗談を飛ばした。
魚雷命中は一四本まで記憶している。
先任下士が「分隊士、降りましょう。降りましょう」二回言いに来た。「地獄へ行く腹ごしらえでも、せんかい」。戦闘食食べながら「私らはここでいい。君らは先があるんだから、降りたらよかろう」
傾いた艦橋から参謀連中が降りてゆく姿に、ハッとして敬礼をすると、「来い、来い」と呼ばれた。山本参謀が一番あと。
○水測士、浅羽少尉(二十四歳)
傾斜が三五度ほどになった時、目の前のメーターを見ると、機関室に通じるメーターは一九ノットを示していたが、実際の波による測定メーターは、三ノットを指していた。この事実を航海長に報告すると、驚いていた。
○副長付、国本中尉(二十二歳)
戦闘開始後一時間余り、第四波の攻撃を受けたころは、傾斜二〇度、速力一五ノット。主砲、副砲が傾斜のため発射不能に陥っていた。他に傾斜復元の方法がなくなり、ついに数百の戦友が汗みどろに働いている右舷の機械室と罐室に注水した。脱出させる方途も暇もないまま、艦底から注水し水攻めに全滅させても、艦の攻撃力を回復しなければならないとは、何たる悲惨。ようやく傾斜をなおし、全砲火を開いて第五波、第六波の攻撃を迎え撃った。
しかし左スクリュー三本のみの航行では、速力わずかに一〇ノット。しかも右へ右へと回るため、傷ついた左舷を常に敵に暴露して戦わなければならない。一段と被害が増してきた。
舵故障。後部からしつこく狙い続けた雷撃隊に、ついに舵をやられた。左舷中部に魚雷三本命中。
再び左へ二〇度以上傾斜し、砲は全く発射不能、機銃のみで応戦。不気味な静けさがやってきた。その時下部防禦指揮所から「浸水間近し。……天皇陛下万歳!」の報告を最後に、連絡がとだえた。
能村副長は、対空戦闘指揮所との連絡が跡切れ、艦長の生死が不明になったと第一艦橋に上がって行った。最後の時が迫ったようだ。壮途半ばにして刀折れ矢尽き、ここに総員、艦と運命を共にするか。
午後二時を過ぎて、大和は大きく左へ傾き、艦中央部から後部へかけて大火災を起こしていた。すでに漂流に近い状態となり、敵もさすがに攻撃の手を休めたのか、すっかり静まりかえっていた。
傾斜二五度。机にしがみついて立っているのがやっとになり、部下三名にサイダーを配る。死を覚悟して伝令と羊かんを食べる。羊かんは普通革靴に波乗行平作仕込み短剣と共に入れ、棚に乗せておいたものであった。
○三番主砲左測手、西部一曹(二十五歳)
左舷後部の高角砲、機銃は全部爆弾で吹き飛ばされていた。後部副砲の排気口から熱い煙が出ていた。凄い火災。
主砲砲塔内の弾薬庫から、伝声管を通して、主砲弾で人間が拉《ひし》げる絶叫がきこえた。壮絶なものだった。
主砲塔の上にのばった。射撃所近くで爆風に吹きとばされ、海にほうりこまれた。
○三番主砲右砲員長、奥谷美佐雄兵曹長(二十八歳)
魚雷命中の震動がぐわーんと来て、腰かけていたのに砲塔の天井に当るほど。砲は使えないが、配置は死場所と選んだのだから、死守せねばならない。この分じゃあ、沈むんかいな。
大和に着任したのは、昭和二十年の一月七日。砲術学校の二年先輩が殉職死をしたので交代を命じられた。副直勤務で試運転中の水上機の下をくぐり、プロペラに当って顔と腕をやられ、即死という。ただ乗ったというだけで、まだどこがどこやら分らない感じ。
爆弾命中で後甲板火災。右舷砲員は全員消火班となった。火薬庫に連絡。「しっかりやれよ」。消火にかけつけると、砲塔の付根まで水が来ていた。
○運用科(第六応急班班長)、岸本輝夫兵曹長(三十一歳)
艦中央部の配置についていると、左舷舷側の三メートル前を爆弾が爆発せずに下に突き抜け、機械室の上で爆発した。主計科の向い側に火災発生。熱くて配置におれない。上部に脱出。
艦は二〇度傾斜していた。
砲身、焼けて弾が出ない。「一番砲打切」拡声器から聞えた。
右舷に魚雷三本命中。ものすごかった。いっぺんに水が入って傾いた。
カタパルトが衝撃ではねて、主計科員、首がはねられ戦死。
「補強の応急処置ができない」。艦長に報告。
米海軍情報部調査記録[#「米海軍情報部調査記録」はゴシック体]
(第二艦隊司令部及び大和乗組士官の証言)
一三時四五分頃始まった第二次攻撃によって、大和はさらに左舷に二本、右舷に一本の魚雷命中を受けたと推定されるが、証言の間に充分の同意は得られなかった。
宮本砲術参謀は左舷に二、三本、右舷に、二本の魚雷命中を報告したが、実証する資料は提供できなかった。森下参謀長は、右舷に命中したのは一本だけであり、それが右舷機関室の舷側付近に浸水を惹き起こしたと確信していた。
清水副砲長は、同じく右舷機関室の被雷を証言し、また左舷への魚雷二本の命中が、左舷第一〇罐室と機関室への浸水をもたらしたと付け加えた。能村副長は、魚雷三本が左舷機関室と第三主砲塔弾薬庫付近に命中したと主張した。
四人の士官の頭の中に起きた混乱は、命中魚雷の数と浸水部分の広さとの関係によって複雑となり、さらに反対舷への注水の効果を考慮すると、いっそう複雑なものとなった。
第二次攻撃により艦の傾斜は左へ一六―一八度に達し、しかも急速に増大した。副長は不確かではあるが、まだ注水していない右舷の第一と第三の罐室および水圧機械室に注水を命じたと記憶している、とのべた。この命令は直ちに実行されたが、傾斜がさらに増加するのをくい止める以上の効果は持たなかった。
間もなく、第三次攻撃が始まり、ふたたび傾斜がふえはじめた。それまで機関科員が必死に浸水を防いでいた右舷機関室の最後の区画も、ついに放棄された。最後の第三次攻撃による被害は、右舷の魚雷一本と、左舷への二本の命中が確実、さらに右舷の三本が命中の公算大と報告された。左舷命中のうち一本は第三次攻撃の初期に記録され、残りの五本は、一四時一〇分頃の最後の雷撃の成果と思われる。(空母ヨークタウン所属機の攻撃であろう)右舷への命中箇所は、艦正横から前、艦首までの部分と主張された。
大和の速力は急激に落ち、一〇ノット以下になった。作戦行動のためには、僅かに右舷内側の機械室が残されているだけであった。艦が左回頭をすれば右に傾斜するので、左舷への傾斜増大に役立たせるために、指揮官は取舵(左回頭)を命令した、と副長は証言した。これは右回頭が行なわれたという砲術参謀の報告と全く相容れぬものであった。副長は知りえた限りの情報を総合して再び強く主張したので、その意見が受け入れられた。
[#改ページ]
戦艦大和沈む
[#改ページ]
最期の時近づく[#「最期の時近づく」はゴシック体]
大和及び二水戦戦闘詳報
一四一五「大和」左九〇度、一〇〇〇メートルに雷跡一本を発見。取舵に転舵したが、左舷中部に魚雷一本命中。このため傾斜はふたたび急激に増加した。
一四二〇 傾斜左に二〇度。
一四二三 左舷に大傾斜、艦底露出。前部、後部の砲塔が誘爆、瞬時にして沈没。
第二艦隊司令長官伊藤整一中将、大和艦長有賀幸作大佐以下「大和」乗組員二四八九名は、艦と運命を共にした。
その位置、N三〇度二二分、一二八度〇四分。
第四十一駆逐隊(冬月、涼月)司令吉田正義大佐が、当面の部隊の指揮を執ることになった。 一四二五 敵機は一部を除き退散した。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 戦闘詳報の記事は、戦闘の経過とともに簡略になり、たまたま記録された報告、情報を、散発的に収録するにとどまっている。艦橋で指揮する幹部にも状況把握がきわめて困難な戦況下では、やむをえぬことてあったかもしれない。
生存者証言
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
左舷後部、副砲塔のあたりに、左三〇度、一〇〇〇メートルから来て当った魚雷が、最後だったと記憶する。これが致命傷。ぐーんと沈んだ。全体の魚雷命中数、分らない。
○砲術長、黒田中佐(四十二歳)
フネは五〇度に傾斜すると、水面がすれすれに見える。九〇度ぐらいに感ずる。
前檣《ぜんしよう》(一番高いマスト)の側面を、物につかまってやっと歩行出来る状態。艦橋の側面をつたって、バンザイバンザイと叫びながら皆上甲板に向ってゆく。普段脱出といえば艦橋から甲板に下りることなので、こういう傾斜した時にも足が甲板に向くのは、人間心理の為せる業であろう。
私は付近にいる者に絶対動くなと言った。状況をよく判断すれば、ここ(艦橋)が一番安全な良い場所だと思ったからだ。
○機関科、糸川二曹(二十六歳)
艦の傾斜で自力では立っていられないので、隔壁につかまって立っていた。
機関室の出入口は一つ、外部からわずかずつ水が入ってきた。
浸水を直通電話で報告すると、「後檣火災。操舵員全員応援に来い」。それを糸川兵曹が復唱している時、副舵舵取機室から退避してきた兵が扉を開けた。中甲板の水が機関室に入りこんできた。
機関はすでに運転不能。出るよりしかたがない。後部の出入口であるハッチから出た。いよいよだめだ。
応急科の大尉が「もう復元は不可能だ。みんな水に入る覚悟をしろ。艦長に総員退去の意見を具申する」と言って前部に駆けていった。
戦闘配置には水兵二名が残っている。
主舵舵取機室の兵もそのまま。最後にハッチをしめれば、ハッチ四枚下にはまだ当直兵がいる。いつまでも気になる。
衝撃で体をゆすぶられる。「至近弾だ」。操舵室と直通電話で連絡をとる。
○防空指揮所伝令、杉谷水兵長(二十二歳)
戦闘の合間に四群の機銃の方を見たら、吃水が八メートルあったのが、副砲のところまで波が洗っていた。前甲板は水に浸っていた。休息しようか便所に行こうかと思って、アーマーから出てみると、人がかたまって、わあっと雑談していた。艦はスピードがなくなっていた。全速で転舵する時とはまたちがった、いやな震動が常時あった。
五、六分そこにいたと思う。機銃はまだ射っていた。敵機に弾が当ると火が出るので分るが、落ちたかどうかは分らない。射っている人にはもっと分らないだろう。
高射長に「みんなで飛び込め」といわれ、発令所の左舷に行こうとしたが、傾斜で行かれず、仕方なく右に出た。海が沸き立っていた。「高いのう」。一〇メートルはあった。「これに入るんかいな」。飛び込めない。海がぐわっと泡を吹いて、沸き上がってきた。艦がひっくりかえるまで、機銃は射っていた。
これ持っていけと、高射長付の黒いカバンを渡されて飛び込んだが、どこで失くしてしまったのか、憶えがない。
○副長付、国本中尉(二十二歳)
ああ、いよいよ最後。傾斜三〇度に及ぶ。
その時、司令塔前部の操舵室から、境の鉄の扉を開いて操舵関係者一〇名ほどが出てきた。操舵室伝声管より、確かに退去命令が聞える。その頃から、転倒するように急速に傾斜が増大した。
主砲予備指揮所員と部下の伝令、全員約二〇名を司令塔の唯一つの出入口のハッチから脱出させ、最後に自分が出る。「しまった」と思う。皆、沈没時の経験がないのか、平常時の通路を通って上甲板出入口ヘ降りて行ってしまった。「待て」と叫んでも、誰にも聞えない。一瞬も早く艦橋の外へ出ることだ。結局脱出路が悪かったため、生存者が私だけだったのはまことに残念。
すぐそばに高角砲台へ出るハッチが開いていた。疲れ果てた水兵が一人、ハッチにひっかかっていた。六〇度も傾いていたであろう。床は壁となり、壁は天井に近い状態になっていた。這うのがやっとである。水兵を押し出し、一緒に艦橋外に出る。艦はもうすっかり横倒しになり、海面が持ち上がってきた。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
右五番の方向盤から飯田兵曹がうしろに走ってきて、「兵員長、早く降りなければダメだ」と言って下に降りていった。傾いているので、下に降りるというより、壁を横に伝わってゆくという状態だった。
だんだん傾いて、九〇度になった。後檣のマストの軍艦旗が、バサバサと水につかっている。艦は横倒しになり、しばらく止まったような感じがした。一四時から一四時一〇分くらいまでの間、小康状態を保っていた。右舷の真っ赤な横腹が見え、艦首や艦尾から、そこに向けて多数の乗員が上がっていった。人間の本能か、水のない方へない方へと行く。 戦いの間を通じて分隊員にいつも言っていたことは、私のような分隊士はそれぞれ一家の夫であり息子である人間を預かっているのだから、皆の母の役目をしなければならん。いま戦艦大和は祖国の危急存亡に際し、一億国民の期待をになって難局打開に邁進している。その職責を全うし、祖国を安泰にするために犠牲になるのがわれわれの第一の任務だが、みな家族もいることであるし、万が一の場合は生命を大切にして退避させるから安心せよ。しかしそれまでは、勝手に動いてはならんぞ、と言っておいた。
最後の場になって、五〇名余りの部下のうち、六、七名がまわりにいて、こちらの顔ばかり見ている。いつも言っていることを信用して、頼りにしているのだろう。
「分隊士、こういうものがあるんですが」といって、辻兵曹が堅パンを持ってきた。急に腹がすいて、口に入れてみるとうまい。
当時の状況は、水面上五〇メートルのところが〇メートルになっており、体は真横に倒れ、死が目の前に迫っていた。それでも腹がへったと感じ、食べればおいしいという味が分る。神経が図太いというのか、麻痺しているというのか、あるいはいつの間にが人間が出来たのか、自分でも不思議なくらい平素と変らなかった。
○艦長伝令、塚本二曹(二十八歳)
同年兵の西久保は、発令所の伝令だった。吃水がいよいよ上甲板まで来たとき、発令所は呼吸が苦しくなってきたらしい。伝声管で「下は苦しくなったよ。通風がダメだ。上はどうだ」と言ってきた。「上もおそらくダメだな」と答えた。
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
舵をやられて左旋回ばかりになっても、それでも大和が沈むとは思わなかった。あとから考えると、大和が沈む一五分ぐらい前、はじめて「もうあかん、大和もダメやな」という気がした。対空砲火の速度がめっきり落ちた。
測的分隊長の江本大尉が、「おい、出ろよ」と言った。見ると、軍刀を握っている。以前、分隊長に「その軍刀、何に使うんですか」と聞いことがある。「お前らが弾にやられて重傷で苦しんでいる時、息の根をとめてやるんじゃ」。気性の強い江本大尉らしいと思った。
大酒飲みの有福兵曹が、どこに隠しておいたのか、傾いた床に立って、ウイスキーの白ラベルの丸びんを、ラッパ飲みしはじめた。そこで私も、主計科からギンバイ(失敬)してきた砂糖を出し、見つかったら叱られるかなと辺りを見まわしてから、ペロペロなめた。
艦はどんどん傾いてきた。まともに腰かけておれなくて、立って体を支えていた。砲の音もしない。いよいよ大和もここで沈むんかいなあ。しかし悲壮感はなかった。
射撃発令所の測的にいる古城守水兵長(伝令)は、同年兵だが、外の様子が皆目分らない。最後まで電話は通じたので、本当はいけないのだが、「大丈夫、今のは至近弾だ」などと教えて安心させた。「おーい、がんばれよ、異常ないか」「上のほうはひどいらしいな」。大和がもう沈みそうだということは言えない。沈んでも、自分自身が助かるつもりはないのだから、言う気持になれん。
あたりはしんと静まった。前檣に水がかぶってくる。江本大尉がもう一度「おい、出ろ」とどなった。
有福兵曹が窓から先に出たので、それに続いた。測的所の側面に立った。
みんな別々。他人の事は分らない。下から甲板が見る見るせり上がってきた。右舷の腹にずり落ちないようにしがみついた人達が、スローモーションみたいに、横になったり上になったりしながら、蔽いかぶさってきた。
その時、諦めというか、覚悟みたいなものができた。いよいよ、わしの死ぬ番やな。
「おい、飛び込むぞ」。横の若い電測の兵隊に目をやると、三、四名が放心状態だ。しかし引っぱり出す間もない。砲の音はやんでいるのに、何かざわざわと声がする。自分も気が顛倒しているのか、まわりの状況は何も分らなかった。
ふと気がつくと、艦橋後部トップの軍艦旗が、手の届きそうなところで、ひたひた水につかっていた。あれを取りに行かねばならん、なんとか外しに行こう、と思った時、艦が急に傾き出した。
○運用科、藤田上等兵(二十歳)
どかん、どかん、やられる。しょうがない。落着こうや。最後まで、ゆっくり煙草でも分けあってのむか。小山兵長が、「フジ、じたばたしても、あかんな」。度胸を据えた。
それでも艦が傾くので、時間をかけて最上甲板にあがっていった。上空から真っすぐに一機。落ちるぞー、と手を叩いていたら、鳶《とんび》が油揚げをさらうような勢いで突っ込んできた。
大分傾いてから、艦尾に近い短艇格納庫から。どーん≠ニ物凄い火が出た。あかん、と思った(ヨークタウンのカーター中尉機による最後の魚雷命中と思われる)。
「総員退去」の号令は、きいていない。
○側的分隊、高橋実水兵長(十九歳)
敵は勇敢に来た。探照灯には覆いをかけてあった。艦の上部は、爆風であちこちやられていた。高角砲管制塔で情況を見ていた戦友、直撃をくらっていかれてしまった。機銃の応援をしろといわれて、ほっとした。
任務があると、それに専念することが出来るが、ないと恐ろしい。我々は命を捨てる気持だったが、補充兵はこわがっていた。
煙突のところから、上甲板に降りた。至近弾でうわーっと噴き上がった海水が、滝のように落ちてきた。機銃群は直撃弾をくらって飛び散り、ほとんどなかった。
○運用科、大村茂良水兵長(二十三歳)
応急員は爆弾、魚雷の命中音を体で探知して、即座に自分の哨戒区域を見てまわり、すぐ臨機の措置をする。これまでの戦闘では出番がなかったが、沖縄戦では度々あった。
ドカーン。体が一メートルぐらい上がる。今度のは凄いな。先任の納兵曹が、血だらけで部下に背負われて右舷にやってきた。これは左舷がやられたな。
艦尾の方から浸水が進み、水が入ってきた。班指揮の命令「後部に脱出セヨ」。七、八名で後部に向う。途中息が出来なくなり、防毒面を引き千切って、水をかき分けかき分け、やっと後甲板に出た。
今まであれほど頼りにしてきた大和の見るも無残な姿に、涙が出た。
戦艦「大和」の沈没[#「戦艦「大和」の沈没」はゴシック体]
第九雷撃機中隊報告
第九雷撃機中隊(ヨークタウン)中隊長ステットソン大尉は、第一分隊を航空群から分離して行動する許可が得られたので、TBM雷撃機六機を引きつれて本隊のコースから外れ、大きな円を描いて旋回しながら大和の後方に接近した。対空砲火の適正射程外ギリギリの位置から観察すると、大和は左に一〇度ほど傾斜し、速力もイントレピッドの攻撃で一〇―一五ノットに落ちたようであった。
大和の傾斜、速力、その他損傷の状況を確認した結果、ステットソン大尉は右舷から攻撃するのが賢明と判断した。なぜならば左傾斜のため右舷には厚い装甲板を外れた傷つき易い部分が露出しているはずであり、適切な深度に調整した魚雷をそこに命中させることは、充分可能と考えられたからである。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 大和の装甲板は、水線下二・五メートルまでは四一センチの厚さがあったが、それ以下は二〇―一〇センチと次第に薄くなり艦底部分は八―七・五センチに過ぎなかった。その代り吃水線下は、外側からバルジによって水中防禦されていた。
悪天候のため、高速力のまま敢行する通常の雷撃態勢は、はじめから考慮外とされた。高度二〇〇〇メートルという雲の低さが、ありきたりの襲撃法を阻んだのである。密雲をくぐり抜けるには、レーダーに頼るほかに手段がなかった。
レーダーは、大和の後方約四・五マイルの地点にステットソン大尉を導いた。彼は肉眼によってこの目標を観測しながら、四・五マイルの距離を保って左舷の正横に進出し、その地点の雲の上に第一分隊を誘導した。
編隊はさらにレーダーにより四・五マイルの間隔を維持しながら、大和の艦首方向に出て旋回運動を行なった。
幸い雲の状態は幾分よくなり、各機が大和の艦体を観測できる程度まで薄くなった。しかも飛行機は目標が小さいため、敵艦からは視覚で捕捉されないと思われた。また全参加機が緊密な編隊を組むには、恰好の雲の状態であった。
機が次第に高度を上げる間、搭乗員は胴体の内部にもぐりこみ、魚雷の深度調整を試みた。母艦を発進するとき、攻撃目標は巡洋艦以下を割当てられるものと予想されたので、すべての魚雷は飛行甲板で、一〇フィートの深度に固定されていた。それを二〇―二二フィートに調整する命令が下ったのである。緊急の場合にもかかわらず、搭乗員は充分の冷静さと技能を持っていることを空中で実証した。
分隊全機が雷撃の位置に就いたのを確かめると、ステットソン大尉は攻撃開始の信号として、魚雷倉を開扉する合図を送った。こういう場合、通常は翼を振るサインによることが多いが、部厚い雲と迷彩した飛行機の機体という背景の中で、開かれた扉の内側は真っ黒でよく目につき、信号としてはより効果的と思われた。
攻撃は高度四五〇〇フィート、距離四・五マイルの地点から開始された。高度二〇〇〇フィート付近は密雲で蔽われていたが、編隊は艦から二マイルの地点でそこを突破した。しかしステットソン大尉は、適切な雷撃態勢に移るには距離が余りに遠いことを見てとると、身を翻して雲の中に舞いもどった。
二度目に彼は、大和の艦首方向右舷、距離二五〇〇ヤードの絶好の攻撃位置にあらわれた。分隊六機のうち、ステットソン大尉、カーウィン中尉、ギブスン中尉とコリンズ中尉がほとんど一線で横に並び、カーター中尉とジーン中尉は、わずか後方につけていた。予定された攻撃態勢では、全機そろって横陣を組む突入を考えていたので、少し襲撃手順を修正しなければならなかった。
一四時一〇分、前に並んだ四機は、二二〇ノットから二八〇ノットに増速しながら、大和の右舷、艦首と横腹の間に照準をつけた。
投雷ののち、各機は大和の艦首と護衛駆逐艦のあいだ、わずか五〇〇ヤードほどの間隙をぬけて離脱するため、南に向けて方向転換したので、四本の魚雷がことごとく真っ直ぐに、すばらしい正確さで走行しているのを見ることができた。
後続のカーター中尉とジーン中尉は、右舷中央部に三つの異る爆発を目撃し、しかもそれが同一方向の投雷進路によってもたらされたものであることを確認したので、おそらく四本の魚雷すべてがこの箇所に命中したものと推定した。
やや遅れて雲間からあらわれたジーン中尉とカーター中尉は、それぞれ独自の攻撃姿勢をとった。まずジーン中尉は右舷艦首に照準して投雷し、命中が観測された。
|しんがり《ヽヽヽヽ》を引き受けたカーター中尉は、戦艦が左に回避運動を始めたので、艦の後方に旋回し、そこから投下した魚雷は、戦艦の航跡と鮮やかに交差し、左舷の艦尾に近い後部に命中した。
魚雷六本の相次ぐ命中は、しかし戦艦の傾斜を増しただけで、行き脚をとめることはできなかった。戦艦と護衛駆逐艦は、なおも中小口径の激しい対空砲火を射ち上げており、その弾幕をぬって次の数分間に何が起こったかを正確に視認し理解することは、容易でなかった。
分隊は艦隊の射程の外に出てから、大和の傾斜が急増するのを見た。大和はそれから五分以内に急速に傾きはじめ、傾斜はほとんど九〇度に達した。そして突然横倒しになり、左に転覆しようとした。恐ろしい爆発が起こり、艦を蔽いつくし、火柱が雲の中を突き抜けてそびえ立った。炎と煙がおさまると、大和の終末の痕跡を残しているのは、巨大な油の固まりだけであった。(沈没位置三〇―四三N、一二八―〇四E)
ステットソン大尉の分隊が大和の攻撃を開始した時、大和はすでに重大な損傷をこうむっていたが、まだ戦闘力を保ち、高速力で航行していたのを彼は思い出した。その日本最後の戦艦に、死の打撃をあたえることが出来たのだ。自分たちが大和を攻撃する最後の飛行分隊となる栄誉を賜わった事実に、彼は心からの感謝をおぼえた。
総員退去セヨ[#「総員退去セヨ」はゴシック体]
生存者証言
○副長、能村大佐(四十四歳)
司令塔内の応急指揮所で折りたたみの海軍式キャンバスに腰かけ、引き続き計器を見ていた。いざという場合、こうしなくてはならないというところは訓練してあるから、心構えは白紙で、どちらにも応ぜられる態勢。
罐室への注水は、艦長に報告してから、副長の権限でやった。「総員上甲板」の命令も、副長の判断でやった。傾斜計を見ていると、復元しない。右舷注水も出来なくなってきた。間もなく転覆してしまう。艦長からは何の指示もない。このまま行くと、全員が死ぬ。大海の真ん中で逃げられるとは思わないが、逃げる道を作るのが人道ではないか。
司令塔にいたのでは外部の状況が分らないので、第二艦橋まで登っていった。右舷は高くなり、左舷は海水に浸っていた。第二艦橋中央伝令所の電話をとって、「艦長、総員最上甲板に上げて下さい」。右舷の手すりにつかまっていると、足場が下がる。首まで水が来た。艦体が覆いかぶさってきた。
戦闘中、時間の観念がなくなった。いつ次の処置がくるか。次の現象が起こるか。それを待つ気持だけだった。
○第二艦隊通信参謀付、渡辺少尉(二十六歳)
「総員上甲板」の命令で、艦橋づたいに歩いて降りようとしたが、思い直した。暗号書を司令部の海図室に入れてから、脱出をやめ、艦といっしょに沈むため体をロープでゆわえようとしたところ、森下参謀長になぐられた。それでやむなく艦橋から脱出することにした。末次水雷参謀は機銃掃射でわき腹をやられていた。
戦闘中艦橋の通信科員が戦死して欠員が出来た時、私が司令部付だし参謀とも馴染が深いというので、竹中が代って出してくれた。その結果、私だけが助かることになった。竹中は上甲板の電話室に残ったままだった。
○第一艦橋見張員、上甲一曹(二十四歳)
「総員上甲板」の号令がかかってから、後ろにいた長崎二等水兵が、「昼飯をどうしますか」といって、飯盒《はんごう》をさげて持ってきた。
「われ、艦が沈むんじゃ。早く海に飛び込め」
若い二等水兵と、われわれ歴戦の下士官が、気合がちがうのは仕方がない。平常心これ特攻精神、使命感と責任感を心がけていた。
すべてが訓練の結果である。新兵で入って鍛えこまれ、三カ月たってから、演芸会で歌をうたわせられた。これまで好きでうたっていた歌が、うたえなくなっていた。
好きなものも忘れてしまう。それだけ裟婆《しやば》のことを断ち切るほどの訓練をやった。
○主計科、金沢上等兵(二十二歳)
左舷からどんどん水が入ってくる。うおーっと火の玉が入ってきた。艦全体がばりばり。ああ、これじゃだめやな。
右舷の赤腹が全部丸出し。艦尾に近い機銃員が一人だけ射っていた。「総員退去」の命令が出て、そのまま海にずぼん。
○高射長付、中尾中尉(二十二歳)
艦は二〇度以上傾斜すると、歩行が困難になる。傾いた最上甲板を、空薬莢がゴロゴロ音を立てて左舷に落ちていった。
艦長から退去命令が出たので、部下と鉄の囲いの中で別れの盃をすることにした。配給のサイダーを出して口を叩き割り、皆でのみまわして水盃にした。艦長は防空指揮所から第一艦橋に降りていった。
いよいよ傾いたので、二号電探にのぼろうとしたが、何万ボルトという高圧電流が流れているのを思い出した。電探が水に浸ってから、安全を確かめてよじ登った。そこで渦に巻きこまれ、浮いたり沈んだり、避雷針のあるところまでたどりついた。
もう最後と思ったとき、左舷高角砲の火薬庫が誘爆を起こして、ドカンドカン。あたりは煙で一杯になった。
○測手、石田上曹(二十八歳)
「総員上甲板」の命令が出た時さすがに落着いてはいられなかったが、自分が死ぬとは考えなかった。といっても、ほかの事を考える余裕はなく、無意識というよりも我を忘れている、そんな感じだった。普通言うあわてる≠ニいう意味とはちがうが、人間、死ぬか生きるかの瞬間には、そこまで落着いてはいられない。結果的にはあわてることになった。
測距塔の上にあがった。艦は横倒しになってゆく。一五メートル測距儀が海面に着いて、浮いている状態。そこで測距儀から手を放した。
○航海士、山森中尉(二十三歳)
後部に爆弾が命中したが、大きな被害とは思わなかった。魚雷は全部で命中九本まで数えていた。艦橋の一寸前に当ったのは、早い時期だったと記憶する。軍艦は水平なら九分九厘水につかっても戦闘力があるが、傾斜が復元しないと実に脆《もろ》い。大和は短時間であっという沈み方をしたわけではないが、艦長の「総員上甲板」の命令が出てからは、早かった。
傾斜の進み方がどんどん早くなる。左へ左へと傾きながら、艦の機関の惰力で走りつづけるだけだ。甲板に人が飛び出してきた。四五度以上傾いたフネの横腹に、人が一杯ひしめいていた。
○機関科、渡辺上等水兵(二十歳)
ああ、みんな水飲んで死なにゃあならんのか。窒息して死なにゃあならんのか。そのことが一番心配だった。本舵取機室の伝声管が、上から「退避命令やぞ」「早く上がって来い」と叫んでいた。
艦の傾斜で山をよじ登るよう。途中通路で負傷者が、うん、うん唸《うな》っていた。お母さん、お母さんと呼んでいるのもいた。上甲板は硝煙が立ちこめ、血生臭い。応急班があちこちにうろうろ。三番主砲砲塔横の機銃員が、まだ射撃している。副砲塔の上で裸になって、「万歳、万歳」と叫んでいるのもいる。カタパルトは、もうなかった。
レイテ戦では、戦闘が終って艦内から後甲板に出た時、ああ、やれやれと、なんとなく緊張感がほぐれていい感じだったが、沖縄戦ではそんな感じはなかった。あの時はああやったと思い出して喋《しやべ》っていても、今考えると夢のようなものだ。
○高角砲員、細川上等水兵(二十三歳)
魚雷命中。ぼんぼか、ぼんぼかと光る。写真のフラッシュをたいたと同じ感じ。水柱で前が見えなくなる。高角砲の射撃も一応止まる。
艦の傾斜で、左舷の高角砲は上に向けても水平と同じ、全然ダメ。電気も消えて戦闘出来ないから、前部右舷の一番高角砲に応援に行った。「総員上甲板」の号令はよく聞えた。
艦橋の後部からメガホンで、「元気な者は、もう一度、至誠をもって国のために働け」と怒鳴る声がする。みな東はこの方向と見定めて、「天皇陛下万歳」を叫んでいた。いよいよ艦橋横倒し。巨艦が沈むので、ビールの泡みたいに下から海水が、うわーっと吹き上がってきた。
○運用科、井高一曹(二十五歳)
爆弾が左舷の准士官室、搭乗員室、後部主砲の横にも落ちた。分隊士納少尉戦死、機銃員が飛ばされた。
応急作業はやられている所ヘホースを引っぱっていって、消火する。魚雷の場合、やられた隣りの室に浸水がいかないように、円材でつっぱる。
○運用科、小阪一曹(二十四歳)
前部に魚雷命中。体積容量が一番大きい揚錨機室に浸水。前部注排水管制所は第二船倉(吃水線の下)にある。直立ラッタルが上甲板まで、各層三―四枚開けっぱなし。わあ、危ない。
防毒面を付けた瞬間、バアーと電燈消えた。
放棄して命令を受けに上にあがった。そして注排水管制所の指揮所に行った。電話だめ。兵長一名、上等水兵二名、二等水兵三名がいた。「ここに待機していろ」。私は、「とにかく、自己の配置を死守してくれ」と言う。戻ると伝令が来て、「後部に水を入れてくれ」
しかし操作する器具をしょっぱなにやられてしまった。部署がないのと同じ。マンホールだけ開ける。四つんばい。これあ海水管じゃあ。暗やみ。触ったら、ぐにゃぐにゃの死体。布が下がっている。微かに拡声器の「総員退却」が聞えた。
注排水装置のバルブを開けば、いながらにして何区画、何バルジの何番と、油圧、水圧で自動的に海水が入るようになっていた。それが魚雷の命中で海水管をやられ、全滅してしまった。手動になった。それでも初めのうちはやっていたが、前部に魚雷がきて、ぐうーと傾斜した。
○副砲砲員、小野内健三二曹(二十六歳)
戦闘中右砲三番手として発砲命令が来るのを戦闘態勢で待っていたが、最後まで命令は来なかった。至近弾が起こす水柱の圧力が、副砲塔にものすごい勢いでたたきつける音が聞えた。十六歳の少年兵はさすがに青白い顔をしていたが、古参兵は平常とあまり変らない態度であった。
「総員退却」が出たので退却する際、副砲塔下部の者に総員退却の命令が出たのだからと何度も呼んだが、一人も上がってこなかった。左舷への傾斜の圧力でアーマーが開かなかったのか、自己の配置ですでに出撃の時から死ぬ覚悟をしてきたのであろう。
いざ副砲塔内より脱出しようとしたが、出入口のとびらが傾斜で開かなかったので、左舷のとびらをこじあけて外に出た。その時艦の傾斜は大で、左舷上甲板には水がおしよせて来ていた。上甲板に下り総員退却の儀式をして解散したが、左舷より右舷側に移動したくても、右舷側の二五ミリ三連装機銃の弾薬箱及び空薬莢がごろごろと音をたてて傾斜した上甲板を落ちてきたので、右舷側によじ登るのをやめてまた副砲塔天蓋の上に登った。
その時艦橋下の三連装機銃の配置員が、至近弾の水柱の水圧及び爆風でやられたのか、肌を赤むけにしてうなりながらたおれていた。艦はどんどん傾いていった。小野内は、後に続く二名の水兵(名前は忘れたが)に「飛び込むぞ」とどなって、副砲塔天蓋上より左舷側に飛び込むことにした。
はるかに高くなった右舷側には多くの人々がしがみついているのが見えた。間髪を容れず飛び込んだ。
ぽっかり浮かび上がってあたりを見回したが、確かに後に続いて飛び込んだ者がいるはずなのに、再び浮び上がってこなかった。
○運用科、上遠野中尉(二十六歳)
左傾斜のまま艦は転舵する。指揮所の床がグーッと左に傾き、立っているとズルズル滑る有様。艦橋から何の指令もない。ジリジリしている時、伝令到着。「艦長命令、第七応急指揮官は、直ちに右舷船倉に注水、艦を復元せよ」。艦はグングン左傾斜してゆく。命令は絶対。「全員ついて来い」。懐中電灯を手に中甲板→下甲板→最下甲板へと、ハッチを開けて艦底に降りてゆく。死なばもろとも。複雑な気持を秘めて懐中電灯に照らされた船倉へのハッチ。
「誰か注排水の位置を知っている者は」「私がまいります」「私がまいります」先を争って注水の重責に向わんとして必死の先陣争い。注水を遅らせていると、大和の復元が遅れる。「よし、急げ、注水弁を開けたら直ぐ昇って来い」。猿のようにすばやく梯子を降りて行く。「あったか」「はい、ありました」。注水蓋を開ける者。同時に魚雷の命中音。作業中の船倉内に海水がたちまち流れ込む。南無三。「ハッチを閉めろ」。艦の運命を握る部下二名、船倉内で壮烈な戦死。
「総員、指揮所へ」。戸惑う部下を叱咤《しつた》し、梯子を昇る。艦の傾斜で膝も没するばかりの浸水。「よく聞け、指揮官はこれから最上甲板に出て、外の様子を見て来る。お互いに流されぬよう一カ所に固まっておれ、中根、頼んだぞ」。最後部の入口ヘたどりつく。ハッチを開けて、上甲板に出る。見よ、後檣に翻る軍艦旗の竿は折れ海面に没するばかり。もう万事終りか。私は思わず、近くの兵に「退艦命令は出ぬか」と怒鳴る。「出ております」との返事。ただちに指揮所に戻るべく、出入口のハッチに。しかし艦内に入ろうとした時、すでに浸水は八分目ぐらいの高さまで来ていた。必死になって部下の名を呼ぶ。じりじりする数秒間、一人、二人、泳いで出てくる部下の元気な顔。
○氏名不詳
「総員上甲板」の号令で旗甲板の配置の者、露天甲板に下りていった。信号科の山本一等兵曹は「俺は大和と一緒に沈むんだ」と言って残った。それで助かったが、他の者は戦死。
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
艦長の「発令所長、お写真を守れ」という号令が出てから五分か一〇分で、「総員上甲板」の命令が下った。総員が戦闘配置を離れて退避の用意をせよというのだ。一〇年の海軍生活で初めて聞く命令だった。
外へ出てみると、右舷の赤腹が真っ黒になるくらい兵がたかって、「バンザイ、バンザイ」を三唱していた。高射長の「戦闘旗を下ろしたか、戦闘旗を下ろしたか」の声が耳に入った時、ガボッと水に吸いこまれた。
○前部主砲射撃指揮所、小林健(第九分隊員、二十二歳)
艦橋トップの主砲射撃指揮所内部は、もう身の置きどころもなく、機械計器が散乱して目もあてられぬほど、惨澹たる有様となっていた。砲術長、旋回手は額に大きな裂傷を作り、血がたらたらと滴り落ちていた。傾いて斜めになった床の上に、こわれた計器にしがみついて立ち、すべてが終ったという静まり返った一瞬であった。
その時突然、あたりの静寂を破って、最後の号令がとんだ。「総員退避」。やっとの思いで指揮所から外に出てみると、つい昨日まで堂々と実に頼もしげだった大和は、巨体を横転させ、ブザマな恰好の魔物と化していた。右舷の艦側には何百という将兵が必死にしがみつき、声を限りに「君が代」を歌っていた。大和はずんずん、横転しながら、目に見えて沈んでゆく。
一人が飛びこんだ。すると一斉に皆がそれに続いた。(『丸』誌一九六五年一月号より)
○主計長、堀井少佐(三十一歳)
「総員退去」発令の時期は、早過ぎるとも遅過ぎるとも思わなかった。ただ「これで死ぬんだな」と感じた。防空指揮所から艦橋側面をつたって右舷から左舷へまわったら、もうそこに水が来ていた。退去命令が出てからは、ほんのわずかな時間だった。飛びこむというよりは、そのままずるずると水に入った。
○気象班、野呂水兵長(十九歳)
第二艦橋のうしろの旗甲板にある一三ミリ二連装機銃は、機銃員が全員やられたが、とにかく射て射て、ということで弾を機銃まで持ってゆく途中、手すりをのぼっているところで「総員上甲板」の号令。命令には従わねばならない。
艦橋の側面を這い下り、旗甲板の発光信号機(五〇センチ)にうっかり触ったら、熱い。手をはなすと体の安定を失い、そのままドボンと海に落ちた。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
艦が四五度傾いた時、もうダメだと思った。副長が上がってきて(副長の証言によれば、この時第二艦橋にいた)、「もうダメです」と報告。「軍艦旗」と叫ぶ声がしたが、軍艦旗は飛び散って見えない。「総員退去」、わーっと艦が傾いて、右舷がせりあがった。
艦橋がぐんぐん上がってくる。登らねばならん。見ていると、艦の中に吸いこまれるものもいる。こりゃダメやな。しかし測距儀の一番先が水面に着くまで、飛びこまなかった。船腹には大勢の人がいた。右舷の人の方が小さく見えた。上に登ろうと思っても足が滑り、泳ぐ間もなく水中に引っぱりこまれた。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
「上甲板まで降りてもしょうがない。駆逐艦が来たら降りるよ」。そんなことを渡辺分隊長や細田兵曹長と言っていると、波が足もとまで来た。防毒面、防弾チョッキ、雨着そのままで水に入った。入っても泳ごうとせず、ぐっぐっと奥に沈んでいった。助かろうという気持は、全然なかった。結局それが助かる道であった。早く海面に出た人は、スクリューにまきこまれたり、艦の自爆で飛ばされている。
○方位盤旋回手、家田中尉(三十一歳)
艦長の号令、「九分隊長、お写真守れ」。服部分隊長の「御真影守った」という声が、発令所からの伝声管で聞えた。この服部大尉という方は非常に真面目な方で、ソロモン海戦の戦訓を生かし、日頃から熱心に電探射撃の研究、訓練をしていた。艦長は眼の下まで蔽う鉄カブトをかぶって号令をかけていた。
「総員上甲板」艦長から号令が出された。そのとき測距儀がグルグル回り出した。私は射撃塔の奥にいた。若い兵隊に「出ろ」と声をかけたが、一所懸命に靴をはこうとしている。
「ばかやろう」と怒鳴って蹴飛ばした。「俺について来い。下に降りたらいかんぞ」
そこから外に出た。艦の傾斜はどんどん進む。海水が上がってくるまで、射撃塔の外側に立っていた。そして海に入った。ぐーんと沈んでゆくのが分った。「沈んでいくなあ」と思った。
○一番副砲砲員長、三笠上曹(二十六歳)
自分のところの配置を守るのは、自分たちしかいない。生き残ったその場の先任が、判断を下してやる。
物につかまらないと立っていられなくなった頃、「総員上甲板」の命令がきこえた。下の配置の火薬庫長に「伝声管に出ろ」と呼ぶと、「ハイ」と返事があった。「総員退去だ」と伝えたが、返事をしない。どういう気持で返事をしなかったのか。全然その気持がなかったのに、「上へ上がれ」と言われて動揺したのか。自分には、何となく分るような気がした。
「砲員長、うしろの扉が開きません」「なに? |ねずち《ヽヽヽ》持ってこい」。艦の傾斜で、ケッチンが扉にかかってしまったので開かない。状況がそこまで行っているとは思わなかった。
ねずちで叩く。最後に引っかかる物がなくなって、ガタガターンと扉が開いた。「やれやれ、みんな出ろ」。ようようの思いで外に出る。分隊士の徳田兵曹長と副砲通風塔の上に立った。
分隊士が「砲員長、もうガスマスクを外そうや」「まことにそうですな。邪魔になりますな」。マスクは常時大事にしてきたんだが。「そんならマスク外せ」。外すと、パチャンと水に落としてしまった。
四機編隊が攻めてきて、後部格納庫のあたりに魚雷がデーンと当った。「これあ、だめでえ」。艦がガーッと傾きはじめた。(第九雷撃機中隊の攻撃であろう)。機銃の薬莢が、雪崩のように落ちてきた。上の一五メートル測距儀が、ぐるぐる回りはじめた。
砲塔から外に出ると、露天甲板の機銃員が、ずらりと並んでいて、どこにも行くところがない。「バンザイ」のその手を下ろさないうちに、水に入った。
火薬罐につかまっていた。川崎高射長に「つかまりませんか」「俺はいいよ」。元気であったが、生存者の中にいなかった。
○水測士、浅羽少尉(二十四歳)
第一艦橋の右舷の窓から脱出する時、頭で、誰か知らないが、上にいる奴を押しあげたような気がする。前檣楼の右側面に立ち、数歩歩いてみたが、そんな自分の行動が馬鹿馬鹿しくなり、その時まで着ていた雨合羽を脱いでキチンとたたんでいるうちに、そのまま海中に引きこまれた。一瞬、軍艦旗が手の届きそうな近くに見えた。バンザイを叫びながら、甲板の方へかけてゆく人も見た。
○運用科、八代水兵長(二十歳)
艦は傾いたままだった。戦闘が一段落して、あたりが静かになった。次の部屋に根本班長、市本班長がいた。後ろのハッチを開け、「班長、班長」。返事がない。下甲板に降りた。暗くて分らない。
最後部のハッチを開けたら、マンホールから海水がザァーッと逆流してくる。こりゃいかん。すぐ閉めて、戻った。班の兵隊に、「後甲板に退避せえ。前部伝令班も呼んでこい」。電灯で示して「ついてこい」。
マンホールをあけて水の中を潜ってゆくと、防毒面の吸気管が詰まって息が出来なくなる。必死になっているから、ガスで窒息するのかと感じる。どんなガスが発生したのか。
やっとラッタルのあるところまで行くと、上から上遠野指揮官が、「来たか、来たか」とロープをおろしてくれた。
班長の市本兵曹もそこにいた。部下が配置に残っているにもかかわらず、自分だけ退避したのだと思って、ムカッと腹が立った。自分の部下も目の前にいるので、「貴様、それでも班長か」と大きな声で怒鳴った。「部下を見殺しにして、貴様、退避するのか」。階級をのりこえて怒りが出た。班長は短艇格納庫に入っていった。
駆逐艦に拾いあげられてから、班長の姿が見当らないので気になった。あんな事言わにゃあよかった。自責の気持が身にこたえた。
それからは、カタパルトがバキバキ折れて落ちる。機銃がつるつると海中に落ちる。主砲の上で士官が鉢巻をしめ、裸になって軍刀持って歌を唱っていた。
手すりにつかまり、一本の煙草を一服ずつ吸っては分けてのんだ。同年兵の木村邦夫兵長に、「行こか」「行こう」、土手のようになった舷側を下りて、飛びこむと直ぐ渦に巻きこまれた。下を見たら暗く、上はまっ青。手を合わせたら、お母さんの顔が浮かんだ。僕は先に死にます。心の中で念じたら、故郷の景色が目に浮かんだ。
どうして沈んだか[#「どうして沈んだか」はゴシック体]
米海軍情報部調査記録(第二艦隊及び大和乗組士官の証言)
(1)沈没の情景
大和はすべての力を失うとともに、ゆっくり旋回をくり返した。艦長が「総員上甲板」を下命してから、傾斜が急激に増加した。転覆は余りに唐突であり、総員退去が命じられてからごく短い時間しかなかったので、甲板から下の配置で脱出した人員はほとんどなかった。巨艦の最期はおよそ一四時二〇分であった。
救助されたのはわずか二七〇名で、この中には二三名の士官と准士官が含まれていたが、大部分が艦の上部に配置していた者であった。
大和が傾斜一二〇度に達した時、大爆発が起こり、艦は全く姿を消した。副長はまだ司令塔内にいた。参謀長は艦橋の八階にいたが、そのまま海底に運ばれ、そこで意識を失った。そして最後に駆逐艦に拾いあげられ、ようやく息を吹き返した。副砲長は艦橋に上がりつつあったが、そこで艦が水中に没したので泳ぐことにした。
副長は、大和の傾斜が九〇度を過ぎてから爆発が起こった、と主張した。爆発は三つの主砲砲塔弾薬庫ごとに三回起きたが、そのうちの一回を目撃し、また大和からの距離二〇〇〇―三〇〇〇メートル付近を泳ぎながら、その最期を肉眼で見たと証言した。副砲長は、爆発は間違いなく艦の後部で起こったと証言した。
大和の艦体がほとんど直角に傾いてから転覆し、少しの間隔をおいて爆発が起きたことは、確かと思われる。この爆発の様子は、米海軍機によってカメラに収められた。
第九航空群ホウク少佐は、大和爆発の連続写真を撮影した。ハドソン大尉は第九航空群の攻撃前の大和の平面写真を、そしてブルワー少尉は戦闘中の護衛艦四隻と大和を斜めから撮影し、その爆発場面もとらえた。
大和のすべての生存者は、少なくとも一時間半のあいだ、海中にいた。大部分の者は、駆逐艦冬月に拾いあげられた。
(2)沈没の原因
大和が結局のところ魚雷攻撃によって沈められたことは、疑う余地がない。その最期が轟沈《ごうちん》の形をとったのは、弾薬庫の爆発によるものであるが、それは大和が浸水によって転覆してからあとに起こった現象に過ぎない。
弾薬庫爆発の原因は、明確にはつきとめられなかった。参謀長と副砲長は、次のような意見をのべている。「艦が転覆すると同時に、後部の火災が昇降機を通って後部副砲の火薬庫を発火させたと思われる。各弾薬庫の配置は、このような可能性を必ずしも否定するものではない」
こうした事態が、どの程度の確率で起こりうるかについて、さらに詳細な検討が行なわれた。副長は火災原因説に同意せず、主砲三砲塔の弾庫にある口径四六サンチの高性能徹甲弾、または高性能焼霰弾(対空砲火用の榴散弾である三式弾)が原因であると主張した。
すなわち主砲砲弾は直立に固定してあったので、大和の傾斜がおよそ一〇〇―一二〇度に達した時、砲弾は締め具から滑り落ち、弾頭が天井に激突し火薬を爆発させた、というのである(第三主砲、梅村砲塔長は、傾斜がひどくなったので、砲塔内の砲弾をロープでゆわえ固定した、と証言している)。
しかしすべての砲弾には、起爆の目的で弾頭に信管が備えてあり、信管には常時安全装置が施されていた。のちに米軍の爆弾処理士官が日本の着発式および遅発式信管を分析した結果、このような状況下で信管が起爆機能を発揮する可能性は、きわめて少ないとの結論に達した。この結論を尊重すれば、後部に発生した火災が大和自爆の最も分り易い原因ということになるであろう。
関係者証言
○神津幸直(元大和乗組、三十四歳)
信管を普通包んだままで射っても、いきあせん。何秒かたったら爆発する時限装置も、安全ピンを利して発火を防ぐようになっていた。
信管発火の原理は、発射された弾が旋条にそって早く回転し(旋条は口径の二八倍のところで、ちょうど弾丸が一回転する割合の右回りねじ溝)、そこで初めて安全装置が外れるようになっていた。つまり弾丸が規定の回転数に達すると、遠心力とのバランスで内針をかかえてとめていた力が外れる。自由になった内針がとんできて雷管に当る。
時限装置の方は、発砲の衝撃で時計がまわり始め、時間が来ると、内針をとめている計器が外れて爆発する仕組。そこで、発砲という手順なしに信管が起爆する可能性は少ないということになるが、火薬庫が熱や衝撃だけで爆発することも、考えにくい。外から火が入り炎が燃え易い火薬に直接燃え移らない限り、なかなか破裂しないようになっていた。
(3)注水能力への過信
大和型戦艦が、傾斜復旧のため浸水の反対舷に注水する装置の有効さは、実戦において立証されなかった。少しの傾斜なら、たしかに急速に復元することが可能であったが、たとえば片舷に同時に三本の魚雷命中を受けた場合、魚雷が水中防禦体制そのものを破壊する結果、本来の復元機能発揮が妨げられた。
右舷への二本の魚雷命中がなく全部が左舷に集中したならば、注水能力の限界は、もっと早い時期に明らかになったであろう。
右舷の機械室への注水は、大きな空間であるための復元効果はあるものの、走力を失う自殺行為であり、非常事態に際してとるべき最後の手段と考えられる。
傾斜が一五、六度に達し、上甲板が波に洗われるという状態は、戦闘には最も具合の悪いものであった。それ以上傾斜が回復しなかったのは、海水の注水によって右舷の空室の五五%しか満たすことが出来なかったからである。大きな傾斜が起こってしまったあとで、その部分を排水する一方、反対舷の空間を充分満たす程の注排水装置を欠いていたことが、戦艦大和と空母信濃の転覆を早めた根因であった。
艦の上部構造物に大きな損傷が生じていない場合でも、傾斜が一五、六度に達したならば、反対舷の機械室に注水する以外に準備された手段がないというのは、致命的な欠陥であった。より大規模な注排水装置を増備するか、最初の傾斜角度を小さくするために、海水、重油などの流動体を満たした区画を幾層も重ねて舷側に装備するといった抜本的な対策が、望ましいと思われる。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 実際には移動する重油が装備されていたが、作用が不充分であった。
関係者証言
○庭田尚三(海軍技術中将、造船部長、五十六歳)
大和は、けっして爆沈させられたのではない。自爆したんだ。自決したんだ。
普通、艦《ふね》は三〇度傾斜すると自爆する。設計上砲弾が横に並べられていたから、そのくらいの傾斜で砲弾が滑る。大和は砲弾が縦に並べられていたから傾斜九〇度で水平。一二〇―一三〇度の傾斜で初めて横滑りする。そこが難沈艦の難沈艦たる所以《ゆえん》であった。
○牧野茂(艦政本部員、四十三歳)
今度の大戦で米国の巡洋艦も沢山撃沈されたが、ガダルカナル攻防の初期に、わが巡洋艦部隊の主力が、加古、古鷹、次いで衣笠と潜水艦魚雷の一撃で横転沈没したことは、われわれ造船技術者に非常な衝撃をあたえた。日本の主力艦は、中央部の機関室の大区画を中心線の縦隔壁で左右に区切り、さらに横隔壁で区分し、ボイラー、主機械を各一基一室に配置するのを理想としていた。ところがそれが一発の魚雷攻撃で片舷の機関室全体に大浸水を起こし、横転したわけである。
そこであわてて中心線の縦隔壁に応急的に大穴をあけ、片舷だけの非対称区画への浸水を防ごうとしたけれども、部分的な手直し工事では技術的に限界があった。
米海軍は、この点に早くから注目しており、艦の大小を問わず、非対称浸水を極度に警戒して中心線縦隔壁を用いなかった。
米海軍が概して防禦、特に浸水防止に充分配慮したのに対して、日本海軍は攻撃に重点を置き過ぎた嫌いがあり、特に巡洋艦の水雷防禦構造を過信した点が責められよう。
防禦法は造船屋の守備範囲である。機関部の一基一区画配置は、被害局限の思想から出た第一次大戦の戦訓によるものであった。その後の二十年間、楯《たて》の半面のみを見て一つの方針を墨守した責任を感じ、深く反省したい。(『丸』誌「日米艦艇攻防力バランスシート」)
沈みゆく大和[#「沈みゆく大和」はゴシック体]
生存者証言
○航海士、山森中尉(二十三歳)
艦が沈む直前、茂木航海長がロープで自分の体をゆわえた(サラシでゆわえたという証言もある)。おっとりした人で、悲壮な感じはしなかった。落ち着いて立派なものだった。花田掌航海長も体を縛っていた。「航海長、降りましょう」と声をかけたが、彼は無言であった。艦はどんどん傾斜してくる。
ちゃわちゃわと水が上ってきて、そのまますぽっと水の中に体だけ残り、艦は惰性で沈んで行った感じ。途中、今でも瞼《まぶた》に残っているのは、顔を撫でんばかりに目の前を通っていった、軍艦旗の真っ赤な色だ。
○運用科、竹中上曹(二十七歳)
左に艦は傾斜して行く。飛行甲板のマントレットを切った。甲板が海水すれすれにきて、思わず飛び込んだ。巡洋艦「三隈」の沈没の経験から、貴重品は戦闘帽に入れておいた。一〇〇円と時計。水びたしになったが助かった。
海中で金づちで叩かれたような衝撃。
○三番主砲右砲員長、奥谷兵曹長(二十八歳)
死に場所と選んだ三番主砲右砲室にいたが、砲が使えないので砲員はみな消火班となり、後部上甲板に消火に行った。
泳ぎながら艦を離れる時、大和はまだ走っていた。沈むのは艦と一緒。水中で爆発音を開き、眼の前が明るくなった。水面に出てみると、大きな帆柱のような水柱が三本上がっていたが、大和は見えなかった。
○機関科、渡辺上等水兵(二十歳)
機関科の電動員として、火薬庫付近にはよく勤務したので、前から知っていた。早く逃げなかったら火薬庫が爆発して危険だ。早く艦から離れねばならんという観念が、こびりついていた。しかし早く飛びこみ過ぎるとまきこまれる。どっちみち、艦が傾いてきたら、そこにおられりゃせん。赤腹からどぼーんと飛びこんだ。艦が傾きながら惰力で走っていたので、まきこまれた。こりゃいけん。上を見ると、後光が射しているみたいだった。
これならいける。犬かきで上がっていった。
○第一艦橋見張員、上甲一曹(二十四歳)
二番見張の後ろで、花田掌航海長が晒《さらし》で自分を縛っていた。「コラァー」と走ってきて、体当りして文句を言うような、行き脚の良い人であった。
その頃は物に捉まっていなければならない程、艦は傾斜していた。参謀長が「貴様ら、ロープなんか持ってなにするか」と言って、間もなく水がきた。あっと思う間にザブーンときた。艦橋からどうしてどう出たかわからない。
○防空指揮所伝令、杉谷水兵長(二十二歳)
退去する時、森兼兵曹が親父の時計を持って飛び降りると言って、退避所まで降りていった。しかしそのまま。自分は自家製の短刀を取りに行きたいなと思ったが、行かずに飛び込んだ。
沈んでもがいてうき上がったら、艦が引っくりかえろうとしているのに、バンザイ、バンザイと叫んでいるのが聞えた。人が泳いでいるようだが、波があらく、うねりの下になると誰もおらん。さみしくなる。うねりの上にいくと、「ああ、おるのう」。波でいつの間にか一人になった。
○主計科、丸野二曹(二十六歳)
右舷カッターの短艇格納庫に入っていて、掌衣糧長が「寒い寒い」と言うので、野菜が積んである所へ連れて行った。毛布を取りに出たところ、右舷カタパルト付近に魚雷が飛び込んできた。ぼぁーんと火が吹き上がった。真っ赤な、なんともいえん色。きれいな色だった。
掌衣糧長は吹き飛んだ。私は逃げ、クレーンの根元に坐り込んだ。動かれないから、そこにずーっと居た。艦は左に沈んでいった。火傷で手足が動かない。
「先に飛び込め」「醤油樽持って、飛び込め」後部にいた整備科、主計科の計三、四名といっしょに飛び込んだ。
泳いでいて、目の前で沈んでゆくのがいた。今思うと、なんで拾ってやれなかったか、なにかしてやれなかったか、という気がする。
主計科は戦闘をしない連中なので、気合を入れるため殴る、殴られるは物凄い。そうして気合を入れないと、食事が間に合わない。大和の場合、戦闘配食は各配置から取りに来た。持って行くと、帰る道がわからなくなる。
七日の晩は小豆の缶詰を出す予定であった。昼食に良いものを出さなかったことが、悔やまれた。
○高角砲員、細川上等水兵(二十三歳)
沈みながらぐうっと海底に迫ってゆくのが分った。どうせ助かるまいと思って眼を開いた。もがいてもがいて海面に出た時、あたりは真っ赤。上からキラキラ落ちてくるものがあった。何が光っとんのや。
○「冬月」砲術長、番井章少佐(三十歳)
大和は最初、左舷中部の高角砲付近に爆弾が命中して煙が上がったが、爆弾では大丈夫と思っていた。そのうち雷撃機が左舷に殺到し、五本から一〇本くらい当る頃から、どんどん傾き出した。最終的には二〇本くらい命中したと思う。
右舷に集まっていた機銃員が、ポロポロ落ちて泳ぎはじめた。傾斜は四五度になった。速力もない。いずれ沈むとすれば、乗員を救助しなければならん。五〇度から六〇度傾いて、行き脚が落ちた。巨艦の静かな臨終だな、と思って見ていた。すると、お碗が返るみたいに引っくり返った。艦の赤腹にはい上がる点々と黒い粒が目に入る。
それからコンマ何秒かして、二番砲のあたりで、ボン、ボンと二回爆発した。人間が吹き飛び、破片が空に舞い上がった。
森下参謀長を拾いあげたら、「グラマンはどうした、どうした」と叫んでいた。
○「雪風」、正木水兵長(十七歳)
雷撃機は二、三機つづきで、ポロッと魚雷を落としていった。大和の前部にたくさん命中した。大和に向った雷跡は、全部で六〇何本かあったと思う。
だんだん左に傾いて、いかんな、いかんなと言っているうちに、引っくり返った。「あれまあ、大和が引っくり返った」と叫び声が上がった瞬間、赤腹がぶくっとふくらみ、バァーッと噴きあげた。そしてポキッと折れた。
○「冬月」航海士、鹿士中尉(二十二歳)
大和は最後には完全に引っくり返った。赤腹が見えた、と思う間もなく大爆発。真っ赤な火柱が、煙を含まないただの真っ赤な火柱が、ぼあーっとあがる。火柱が落ちた時、きのこ雲が残った。砲塔その他の重量物までも、高速度撮影の映画を見るように、上空を舞っていた。
それらすべてがおさまると、後は何もなく、ただ重油が浮いているだけ。
○「初霜」松井一彦中尉(二十三歳)
大和に向う雷撃機は、いずれも初霜の艦首すれすれを通り、飛行士の顔も見えるくらいだったが、ついに一機の撃墜も目撃することができなかった。大和が気息えんえんとしてくるに従って、敵機も上空で様子を見ているのか、攻撃が散漫となってきた。初霜の艦首直前で、大和は右舷を雷撃され、てっきりやられたと思ったが、水柱が上がらずうまくかわしたかとほっとした直後、左回頭を続けていた大和が一八〇度回ったところで、突如傾斜した左舷側に大水柱が上がった。そのとき空には雷撃機もなく、今もって不思議な気がする。
大和はますます左舷への傾斜を増して赤腹を見せ、その上にばらばらと蟻のように乗員がはい下り、七、八〇度の傾斜になったと思われたとき突如大音響とともに誘爆し、火柱とともに人も艦も天に吹き上げられ、水煙がおさまったときは、もはや艦影はまったくなかった。
午後二時二一分、大和轟沈。その時はすでに敵機の攻撃はなく、初霜の砲塔の兵員も鉢巻姿のまま上甲板に出て全員大和を見守っていたが、大火柱とともに瞬時にして沈没する大和を見入る兵員の悲痛な顔は、そのとき顔に受けた爆発の熱気とともに、昨日のことのように想起できる。
まさに荒野に親を失ったような気持であった。大和沈没のあとは重油と浮遊物が望見されるだけで、一人として生存者はいないように見えた。
(海兵七十三期文集『海ゆかば』より、以下同じ)
大和沈没時点(一四三〇)における第四一駆逐隊状況判断(戦闘詳報)
一、艦隊主力被害大にして「大和」「矢矧」沈没。残存艦は「冬月」「雪風」「初霜」の三艦のみ(第四一駆逐隊司令の視界内にあったのは、この三隻だけであり、「磯風」は応急運転で航行中であったが、所在を確認することができなかった)。
この残存兵力をもって沖縄突入を企図するも、目的地に到達しえず。
二、当面生存者を救助し、再起を図るを可とす。
三、臨機の措置。
一四三〇 第四一駆逐隊司令部より第一遊撃部隊へ(信号)
「生存者ヲ極力救助セヨ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第三次攻撃終了時点における判断と比較すると、旗艦大和喪失の打撃はさすがに決定的で、突入作戦は断念、生存者救出が最大の急務、という真意がはっきり汲みとれる。
伊藤司令長官の最期[#「伊藤司令長官の最期」はゴシック体]
生存者証言
○水測士、浅羽少尉(二十四歳)
森下参謀長が伊藤長官に、「もうこの辺で良いと思います」と言うと、長官は「そうか、残念だったな」と一言いわれ、皆に敬礼して、第一艦橋下の長官室に下りて行かれた。「総員上甲板」の命令は、防空指揮所備えつけの伝声管で、艦長と直接打ち合わせ済みだったのであろう。この時は、直接相談はなかったように思う。
○航海士、山森中尉(二十三歳)
伊藤司令長官は、艦長の最後の退去命令が出る前に、ひとりで艦橋の下の私室に降りてゆかれた。その後のことは誰も知らない。
○第二艦隊参謀、宮本中佐(三十八歳)
石田副官が伊藤長官に、「長官、死んではいけません」とずいぶん止めた。長官は、「お前たちは若いんだ。生き残って次の決戦に備えよ」と、副官を突き放すようにして、私室に下りていかれた。そして艦と運命を共にされた。
○第二艦隊副官、石田少佐(三十歳)
司令長官は、まわりの人に握手して、「私は艦に残るから艦隊を集合させてくれ」と言われた。それから先任参謀に「山本参謀、駆逐艦を呼ぼう」。その時すでに手旗信号は水しぶきで役に立たず、発光もとどかない状況だった。艦隊軍医長が、「副官、早く来いや」。茂木航海長、花田掌航海長はお互いに足をくくりつけていた。
参謀長は最後まで艦橋に残っていた。「副官、何をしおるんか。早く降りんか。お前、行かにゃいかんぞ」。立ち去ろうとする長官の後を追いかけると、「行ったらいかん」と叱られた。長官はそのまま私室に入られたと思う。
参謀長があまり怒るので、双眼鏡を外して海図室に退いた。下に行くより、上に出る方が良いと思って窓を出てよじのばった。参謀長は最後まで艦橋におられたが、中には炎が入って火の海になったという。
遺書
(夫人宛てのもの)
此の度は光栄ある任務を与えられ、勇躍出撃、必成を期し致死奮戦、皇恩の万分の一に報いる覚悟に御座候
此の期に臨み、顧みるとわれら二人の過去は幸福に満てるものにして、また私は武人として重大なる覚悟を為さんとする時、親愛なるお前様に後事を託して何ら憂いなきは、此の上もなき仕合せと衷心より感謝致しおり候
お前様は私の今の心境をよく御了解になるべく、私が最後まで喜んでいたと思われなば、お前様の余生の淋しさを幾分にてもやわらげることと存じ候
心からお前様の幸福を祈りつつ
四月五日
[#地付き]整一
いとしき
最愛のちとせどの
(二人の娘さん宛てのもの)
私は今、可愛い貴女たちのことを想っております
そうして貴女たちのお父さんは、お国の為に立派な働きをしたといわれるようになりたいと、考えております
もう手紙も書けないかも知れませんが、大きくなったら、お母さんのような婦人になりなさいというのが、私の最後の教訓です
御身お大切に
四月五日
[#地付き]父より
淑子さん
貞子さん
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この遺筆が書かれたのは、日付からみると、連合艦隊司令長官から公式の特攻出撃命令を受けとった直後のように思われる。このとき長女は十五歳、次女は十三歳であった。伊藤長官は五十五歳であった。
[#1字下げ] なお伊藤家には男の子が一人(叡《あきら》)あったが、伊藤叡海軍中尉は筑波航空隊所属の搭乗員で、沖縄特攻の菊水作戦に参加し、四月下旬に父のあとを追って戦死した。
有賀大和艦長の最期[#「有賀大和艦長の最期」はゴシック体]
生存者証言
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
艦の傾斜がますますひどくなる。副長から艦長に「総員退去を命令されたらいかがでしょうか」の進言。伝令が直ぐ伝えて、艦長の耳に入った。「よろしい」と言われるかと思ったが、黙ってきびしい表情。そこで「艦長了解」と副長に返答をした。
傾斜が九〇度から一〇〇度になる頃、艦長は無意識のように、「天皇陛下ばんざーい」としゃがれた声で叫んだ。私もそれにつれて無意識に「天皇陛下ばんざい」と叫んだ。まわりにいた川崎高射長、吉田兵曹、森少尉、辻兵曹もそれにならった。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
「総員退去」の命令を下してからも、艦長は羅針儀を握ったまま。「防弾チョッキと鉄カブトをとりましょうか」「いや、よろしい」と答えて、そのままの姿勢。
○艦長伝令、塚本二曹(二十八歳)
電探から報告の伝声管。艦長の直ぐ前にある。敵機の見えないうちから、刻々と艦長にじかに来る。
艦長の表情は強張《こわば》っていた。緊張されていた。
森下参謀長は落着いていたように思う。びくともせんと言う態度があった。
塚本はラムネを飲みたかったが、一口も飲むなんて余裕なかった。
艦長は戦闘中、タバコを何本か吸われた。それは苦しい時に気分をいやすためだったろうか。
舵が利かなくなり、艦長は伝声管で舵への命令を言いかけてはやめていた。
有賀艦長。頭が禿げていた。無駄口を話さない口の重い人。二日も航海すると眠くなる。何か言われても、配置に就いたまま寝入ってしまうことがある。艦長は言葉には出さない人。何にも言わずに、ぼんぼんと背中を叩く。ハッと緊張する。森下参謀長が艦長の時は、「コラァー何している。だめだぞー」と怒鳴った。
艦長はみずから、「総員上甲板」の号令をかけて、羅針儀にぐっとつかまっておられた。塚本が「艦長、防弾チョッキを」と申し上げた。自分がとるよりも先に、艦長自身にとっていただきたかった。「いや、責任上フネもろともに行く。それより君らは急げ」とはっきり言われた。指揮用の白手袋で羅針儀につかまり、ぐっと手を握りしめておられた。
塚本はもしか助かるものならば、という気持で、片手で自分の重心を支え、片手でテレトークを外そうと思った時、海中に入った。それが精一杯であった。
○運用科、上遠野少尉(二十六歳)
有賀艦長は、豪放|磊落《らいらく》、辺幅をかざらず、でっぷり太っておられ、無造作に帽子をかぶり、良い意味で田夫野人といったタイプ。おしゃれなわれわれ中、少尉にとって、奇異の感があり、それだけに親しみやすい感じの海軍大佐であり、野戦むきの士官であった。
ある晩、われわれ有志の数人が呉の町のレス(料亭)で高吟放歌の酒宴の最中、ずかずか入って来られ「おい!大和の士官か。一緒に飲もう」とおっしゃられて、帰艦時刻寸前まで酒杯を傾けたことがありましたが、いかにも、古武士を彷彿《ほうふつ》させる方でした。(私記『私はこうして生き残った』)
遺書
戦死の場合、開封のこと
それまで好子(夫人)保管のこと、
(母堂宛てのもの)
母上様
家運再興のため御老年にもかかわらず、永年にわたる御辛苦御努力、まことに感謝のほかなく、思いここに至れば常に涙なき能わず
厚く御礼申し上げるとともに、生前至らざることのみ多かりしを、深く御詫び申し上げます
御健康と御幸福を祈り奉ります
逆ながら好子並びに子供のこと、よろしくお願い申します(略)
(夫人宛てのもの)
好子どの
遇することの薄かりしにかかわらず、仕うることの申し分なかりしと深謝す
常々申し渡しありて、今更、別に述べることなきも、母上様への孝養と子供の養育を全うせられ度
なお
一、子供の養育上第一に必要なるものはおん身の健康なり 十分注意のこと
二、母上様より譲渡せらるるものは、子供の養育その他万やむを得ざる場合のほか貯蓄し、家運挽回の資とすること
三、金銭の貸借は絶対にせざること
四、故郷に永住は至難と思考するをもって、永住地はおん身の希望に任せる 子供の養育その他を考慮し、最適の方面選定のこと(略)
(子女宛てのもの)
正幸殿
良江殿
弘明殿
公子殿
兄弟相い援け、平素の父の訓えを守り、身心の鍛練に学業の成就に努め、忠孝の道を全うし、皇国臣民の本分を果すべし
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この遺書の日付けは、昭和十六年十一月十五日夜、となっている。すなわち日米開戦を間近に控え、新鋭の駆逐隊司令として参戦するに当り、生還を期し難いことを覚悟して書かれた遺書である。それから三年半、死の覚悟が現実のものとなる機会はなかった。しかし「戦死の場合開封のこと」と、夫人に託された遺書は、不変のものとして手を触れられることはなかった。
[#1字下げ] 戦死の時、有賀艦長は四十七歳であった。
思い出片々(生存者証言より)
○航海士、山森中尉(二十三歳)
茂本航海長は、大きくはないが、ガッチリした体格で、落着いた人だった。
森下参謀長は、艦長時代、回避運動の指揮が実にうまかった。沖縄戦でも操艦されたら、結果はどうなっていたか。もちろんそれは分らないけれども。
伊藤長官は、差し出がましいことは言わず、常にニコニコしておられた印象が強い。
○第一艦橋見張員、上甲一曹(二十四歳)
森下参謀長の思い出。
森下艦長の時代、戦闘中、見張についていたら敵機が来た。しかし腹の痛いのがどうしても我慢出来ない。後ろから見張長が「我慢せい、我慢せい」。
森下艦長が「軍医長を呼んでやれ」。軍医長「これは急性盲腸だ。直ぐ手術しますか」「やってやれ」簀巻《すま》きにされてラッタルを降り、一番震動の少ない最下甲板で手術を受け、命拾いした。
ついに大和を発見し得ず[#「ついに大和を発見し得ず」はゴシック体](米軍記録より)
第六航空群(空母ハンコック)報告
一〇時三〇分、TBM雷撃機一四機、SB2C爆撃機四機、F6F戦闘機一二機(写真班の四機を含む)およびF4U戦闘爆撃機八機は、第五八・三部隊に所属する空母ハンコックから、最後に報告された日本艦隊の推定位置、N三〇度四四分、E一二九度一〇分に向けて発進した。
一〇時に他の空母から発進していた攻撃隊は、第六航空群の空中集結完了を待つことなく、ひと足先に出撃した。第六航空群の空中集結、発進から一〇分後に、雷撃機二機が翼槽の吸いこみ不良のために母艦に帰投した。
一一時、第五八・三部隊指揮官から指示されていた進路、三四八度に向けて定針。一一時三五分、奄美大島の北東端から五マイルの地点を通過、一一時五六分、悪石島《あくいしじま》の西五マイルの地点を通過した。
そこからレーダー指示により六〇度方向に飛行して、一二時三三分、宇治島上空に到着。そこから針路二八〇度に定針し、第五八・三部隊指揮官に目標位置を確かめたところ、第六航空群はその情報を入手済みのはずとの応答を得、重ねて指示を仰ぎ、一〇時現在の日本艦隊の推定位置として、N三一度一〇分、E一二八度三五分の情報を入手。一二時五五分にこの地点に到着したが、何も発見出来なかった。
さきに得ていた推定位置との食い違いが大きいため、至急に点検を行なったところ、日本側の妨信により通話が妨害を受けていたことが判明した。
航空群を先導していたPBMマーチン索敵機は、一三時と一三時二二分に、それぞれ目標位置を指示、さらに攻撃目標は、小艦艇と護衛艦であると追報してきた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この目標は米軍の第一次攻撃開始直前に、第一遊撃部隊とすれ違った大島輸送隊を、日本艦隊の一部と誤認した可能性が強い。
航空群は索敵機から指示された目標位置、N三一度、E一二八度四〇分に向けて変針したが、三〇分前に作戦現場に向った指揮官からは、何の助言も得られなかった。目標地点に到達してから、二八〇度方向に向い、正方形の区域をくまなくチェックする索敵が始められた。
この針路をとってから七分後に、第八四航空群(空母バンカーヒル)が、「今われわれは連絡用の浮標マークの上空にいる。目標は浮標マークから三三〇度方向、三五マイル」と呼びかけてきた。新しく指示された位置はN三一度三〇分、E一二八度二〇分であり、針路二五度に定針してその地点に向った。
今度は別の索敵機から、「今、攻撃目標はわれわれの視界内にあり」と打電してきた。第六航空群は正しい針路を飛行していると確信していたので、上空の雲の上に索敵機を発見しようと注意を集中した。
しかし、この努力は無駄に終った。航空群の針路は、やがて索敵機の位置とは無関係のN三一度四八分、E一二八度五〇分の地点を通過した。針路の設定に始めから狂いがあったことがはっきりした。レーダーには三五マイル先の小さな島の映像が頻々とうつし出されていたが、敵艦隊については何のデータも得られなかった。
ここで飛行隊全員の胸中に迷いが生じたとしても、責めることは出来ないであろう。滞空時間はすでに三時間半を過ぎ、母艦からは二九五マイルも隔った位置まで来てしまっていた。燃料消費も大きく、例えばTBM雷撃機には、平均一四〇ガロンの燃料しか残っていなかった。
帰艦を急がねばならない。針路は母艦に向けて一七〇度、速力は一四〇ノットの経済速度に落とした。五〇マイルを経過したところで、燃料節約のためまず魚雷が捨てられた。
一四時五五分、諏訪瀬島の西、七マイルの地点を通過。航空地図に基づく航法によれば、そこは一五時八分に通過すべき地点であり、四時間半にわたる飛行のあいだに、少なくとも一九マイルの航行誤差を生じていたことが明らかになった。
燃料節減を徹底するため、戦闘機は住民のいることが確認されている島を除き、多くの無名の島に爆弾を落とし、機銃掃射を加えた。爆撃機は高度三〇〇〇フィートできびしい照準訓練を実施し、鬼界湾に全爆弾を投下した。一六時三〇分、カミカゼ特攻機のため被弾損傷している母艦ハンコックに、無事着艦出来たのが、せめてもの慰めであった。空しい長旅のあとに残された燃料は、各機平均三〇ガロンであった。
渦にまきこまれて[#「渦にまきこまれて」はゴシック体]
生存者証言
○第二艦隊副官、石田少佐(三十歳)
海の深いところに吸い込まれた。このまま地獄へ行くんかな。すうっと吸い込まれて息が切れた。上へあがろうと思ったが、息が続かない。水をのんだら浮くときいていたので、二、三回飲んだ。それでも浮かない。海軍の水泳訓練の習慣で目はあけている。きれいな海だ。仕様がない、勝手にしろと思っていると、ぽっと海面に出た。
「副官、眠っちゃいかん」、みると、すぐそばに山森中尉が泳いでいた。
○機関科、渡辺上等水兵(二十歳)
水面に浮き上がってから、防舷物を拾ってその上に乗った。そこへ機銃掃射を受けたので、また潜った。いっしょに泳いでいた戦友のうち、八名が背中を貫通されて戦死。しばらくすると、大和から火柱がぶあーっと上がった。物凄い火柱だった。
その光景も海の中から、上衣のボタンの穴からのぞいて見ていた、あちこちから、「助けてくれー」の声。歌をうたう声。寒くて歯がガチガチ。重油で真っ黒。初めは誰が誰やら分らなかったが、よく見ても、機関科の分隊員はおらん。その時、機関科はフナ底の方にいて、惨めやなあ、と思った。
○気象班、野呂水兵長(十九歳)
気がついた時、海の中が真っ暗だった。あとのことは憶えていない。海水を相当のんでから上に出た。爆発直後か、空は真っ赤だった。焼けた破片が落ちてきて、ジャブジャブと音を立てた。
○航海士、山森中尉(二十三歳)
海中に吸いこまれていたのは、長い時間に感じていたが、一分くらいと思った。いや、もっと長かったのかも知れない。苦しかった。それ以上のことは考えなかった。
爆発そのものは体に感じなかった。
○砲術長、黒田中佐(四十二歳)
波には馴れているが、渦がもの凄く、息が切れると思うほど沈んだ。ずいふんもがいたように記憶している。
○測的分隊長、江本大尉(二十四歳)
海の中で潮水を吸いこんでもがきました。そして気を失いました。気がついたら、重油いっぱいの海に浮かんでいました。気を失ったのは、水中爆傷でやられたからです。胸が圧迫されてほとんど息が出来ませんでした。
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
ガボッと、気持の悪い程深く水の中へ吸いこまれた。何分何秒たったら死ねるかと不安な気特になったが、意識ははっきりしていた。
吸い込まれる時は、体にたくさんの人が当ったような気がするが、水の中に揉まれている間、人間の影も形も感じなかった。突然、ぽこっと浮かび上がった。海は重油で真っ黒で、大勢の人がまわりに集まっていた。
○運用科、大村水兵長(二十三歳)
いよいよ沈む時、縛ってあった円材を、海軍ナイフで切ってまわった。甲板には四〇〇―五〇〇人並んでいた。ハンドレールを潜って右舷舷側に出、そこから左舷に向って滑りこんだ。
冷たいなあ。案外早く水面に着いたなあ。上から大和が覆いかぶさってきた。しかし惰力があるので、自分をおいて前に進んでいった。
艦がほとんど真っ逆様になった時、空に向ってスクリューが四本見えた。その中の一本、第一機関室のスクリューが、ぐるぐる回っているように見えた。ああ、第一機関室はまだ動いているのかなあ。
瞬間、火柱が上がって水に潜った。一面に真っ黄色。空からコルクが一杯降ってきたが、爆風がおさまったら、なんにもなかった。重油がじわじわと海面を覆いはじめた。
○見張長、渡辺少尉(三十歳)
防空指揮所で「ばんざい」の三唱を終った時、波がざあーっと押し寄せてきたので、前に出た。雨着がレーダーのアンテナに引っかかって吸い込まれた。「人はこうして死ぬるものか。今まで多くの先輩、同僚が戦死したが、さていよいよ自分が死ぬ番なら、ひと思いに早く死なしてくれ」と考える余裕があった。目の前が暗くなり、耳に水圧が伝わってくる。どうせ死ぬなら皆いっしょだ。無意識に腕を組む。それが幸いにも、結果として胃と腸を水中爆発から防ぐことになった。
いつの間にが渦の中から出て、艦が沈むときの吸引力がなくなっている。これはおかしい。楽になる。浮いてゆく感じだ、と思ったら、目の前が明るくなった。しかしその瞬間、バアンバアンと衝撃を受けて気を失った。この時頭に弾片を受けたらしい。
気がつくと、あたりは重油の海。ポツンポツンと一〇〇名から一五〇名ぐらいの人間が浮いていた。波は静か。自爆のために噴きあげられたのか、乗組員が降ってくるわ、鉄板が降ってくるわ。
水中爆発は体の内部にこたえる。音波は早く水中を突っ走る。|まとも《ヽヽヽ》にくらうと、腸がひきちぎれ、骨と筋肉がバラバラになる。
航海幹部付で天測をやっていた竹中兵曹が、泳いでいるのを見かけた。水泳の達人だ。重油の中だから、泳いでもなかなか近づかない。「渡辺分隊士、しっかりして下さい」と激励してくれた。しかしどうしたわけか、彼は救助されていなかった。
泳ぎながら時計を見ると、一四時二〇分で止まっていた。日本海流は六ノットくらいで流れていた。大和は徹底して可燃物を陸揚げしていたため、漂流しながら掴まえるものがない。弾薬庫に使用する防熱材のコルクが浮いていたので集めてつかまった。
○高角砲員、小野水兵長(十九歳)
水が胸まで浸ってから初めて泳いだ。泳いでも泳いでも引っぱりこまれた。息が出来ない。苦しい。いよいよ最後か。気を失った。
そのときショックがあって、浮き上がったように思う。重油が熱い、という感じで、意識がもどった。
四、五名ずつ集まって、ただ泳ぐだけ。
機銃掃射が、ザーッと筋を引いて襲ってくる。体をかわす。場所によってはかわせないものもいた。
駆逐艦の舷側にたどり着いた。疲れた奴からロープでくくって艦に引き上げるというのだが、くたびれているので、一本のロープが、二、三本に見える。影の方をつかんだら、だめ。あとでロープを輪っぱにして投げてくれた。
○機銃群指揮官、松本少尉(三十三歳)
水の中にひきこまれて、苦しゅうなったら海水を飲む。七回まで飲んだことを憶えておる。目を閉じたまま、一度も開かず。長《なご》う感じましたわい。夢を見るような気持だった。生きるとか、死ぬるとかの観念はなかった。どうだこうだということは、四月七日の夜明けとともに、一切考えまいと肚に決めておった。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
海の中は真っ暗。もう駄目だなあと思うと、父と母の顔が出てきた。ふわっとしたとたん、海面に出ていた。大和は影も形もなかった。すごい高波の中を、二〇〇メートルは泳いだ。
気がしっかりしていたので、助かったのだろう。腹に力を入れありったけの力を出して泳いだが、潮の流れに逆らうので辛かった。辛抱して辛抱して浮いているのは、ほんまに辛かった。
いま思い出すと、意識がなくなる前に、物凄い音が海中に鳴り響いたようだ。何も考えず、「こんなにして死ぬのやなあ」と感じただけ。水をのまんようにもがくだけで精一杯だった。救助されてから駆逐艦の人にきいた話では、大和は爆発で右舷にも水が入り、一度艦橋が浮き上がってから沈んだという。
○方位盤旋回手、家田中尉(三十一歳)
水の中で何かに足を挾まれた。方位探知機だったかも知れん。足を外して浮き上がったら、あたりには何もなかった。その瞬間、バアーンバアーンと音がして、下にぐーうと引き込まれ、もう一度潜った。
そしてまた浮き上がったが、まわりには何もなく、ただ大勢仲間が泳いでいるのが目に入った。五〇〇人か一〇〇〇人ぐらいいるように見えた。大和は一回転してから自爆したと、後で聞いた。
重油の上に、ハンモックや甲板の木片が浮いていた。かたまって泳いでいた兵隊の中に、時々ポコッと沈むのがいた。水中爆傷で内臓をやられたものがいたらしい。川崎高射長や飯田少尉が、「まだ本上決戦があるぞ、しっかりせい」「離れたらいかんぞ」とみんなを激励していた。みな真っ黒な顔をして、軍歌を唱っていた。泳ぎながら、機銃掃射でやられたのもいた。
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
二回ほど巻きこまれ、三回目に爆発の|ごつい《ヽヽヽ》ショックがあった。ピカッ、そのまま分らなくなった。
時間がたって、寒気がしたと思ったら、水面に浮いていた。右手の関節が外れていたので、左手だけで泳いだ。泳ぎながら、配置から出ろと声をかけてくれた江本分隊長に会ったが、話はしなかった。もう内地に帰れんのだな。戦闘を思い出してみると、何だか短い時間だったように感じた。
○主計長、堀井少佐(三十一歳)
防弾チョッキ、脚絆をいつの間にか外して泳いでいた。水泳は得意だった。
渦に吸いこまれ、一回目より二回目に強く吸いこまれた。爆発は何回あったか分らないが、二回目が印象に残っている。水面に上がったら、重油が一杯であたりは何も見えなかった。
泳ぎながら、川崎高射長が皆に軍歌をうたわしていた。しかし駆逐艦のそばにいってから、姿が見えなくなった。
○伝令、北川茂水兵長(十九歳)
水の中に二、三分巻きこまれた。耳と目に金火箸をつっこまれたように痛かった。
爆発の水圧でほうりあげられ、海から飛び出た。
重油の層は厚く一〇センチもあり、浮遊物を探したが見つからなかった。そのまま二時間以上泳ぎ、日の暮れる頃、雪風に助けられた。
○副砲長、清水少佐(三十三歳)
漂流中、水平線の夕日がきれいだった。今日の出来事は何もなかったかのように。静かに波にゆられながら生も死もない空≠フ気持。自然の中にとけこんでいるようであった。
○運用科、岸本兵曹長(三十一歳)
煙突に引っぱり込まれる人も、それを引っぱろうとした人も、ツッ、ツッ、ツッと引きずられて、煙突に吸い込まれていった。
二〇〇メートル離れたところで、大和はひっくりかえって自爆した。ショックがガバッときた。
○運用科、井高一曹(二十五歳)
防舷枠につかまって、そのまま渦にまきこまれた。一寸ほどの角材防禦板に無我夢中で飛びついた。体が沈んでいき、眼を開いたら真っ青。人事不省になり、水を飲むだけ飲んだ。
腹の底から声を出して、「轟沈の歌」をうたった。自分を元気づけるため、軍歌をうたった。
○運用科、八代水兵長(二十歳)
爆発で、じわっと渦がとけた。ポコッと浮き上がった。火の黄色い色が目に入り、鉄板がビューッと飛んできた。大和が自爆したとは考えていなかったので、爆弾だと思ってまた潜った。時計は一四時二二分二〇秒で止まっていた。
泳ごうとして下から足を引っぱられ、仕方なく円材にさわっていた。一〇メートル行くのに、一〇〇メートルと同じ感じ。駆逐艦から、|もやい《ヽヽヽ》を投げてくれた。その紐を伝って約五〇メートル先の駆逐艦まで行くのに、なかなか進まない。ロープにつかまって、やれやれ助かった。そこで力が抜ける。手を変える。また力が果てる。上がりかけて後ろからつかまれ、ドボーン。垂れた縄梯子の前で右往左往。服は水でダボダボ。一段一段が必死。やっと甲板から引きあげてくれた。そこまでいっしょに泳いでいた奴が、駆逐艦に上がったら、ありゃいやへん。そういう状態だった。
極力生存者ヲ救助セヨ[#「極力生存者ヲ救助セヨ」はゴシック体](戦闘詳報より)
一四四〇「矢矧」「浜風」の生存者を銃撃した敵機は、退去。
一四四五 第四一駆逐隊司令吉田正義大佐より連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長あて報告電。
「一一四一ヨリ数次ニワタル敵艦上機大編隊ノ攻撃ヲ受ケ、大和、矢矧、磯風沈没、浜風、涼月、霞航行不能、ソノ他各艦多少ノ損害アリ(この時磯風はまだ沈没せず、浜風はすでに沈没していた)。
冬月、初霜、雪風ヲモツテ生存者ヲ救助ノ後、再起ヲ計ラントス。一五五二送信」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] これは戦闘開始以来初めて中央に送られた情況報告であるが、電報の発信が情勢判断の時期より一時間以上も遅れたため(原因不明)、残存艦の意思統一に手間取り、各艦はやむなく相互に問合せを行ない、また別々に中央に対する報告を送った。
一四五〇 「初霜」、「浜風」の生存者救助を開始。艦長以下准士官以上一二名、下士官兵二四四名。
「涼月」より第一遊撃部隊指揮官へ「右舷至近弾ニヨリ、大破、火災。目下消火中」
「雪風」より「冬月へ」9信号)「コレカラ如何ニサルル決心ナリヤ」
「冬月」より「雪風」へ(信号)「極力生存者ヲ救助セヨ。人員ヲ救助シ、再挙ヲ図ラントス」
一四五〇―一六三七 「冬月」、大和乗組員を救助。第二艦隊参謀長以下准士官以上八名、下士官兵八九名。
「雪風」、同じく大和乗組員を救助。准士官以上一二名。下士官兵九三名。
一五〇〇 第一七駆逐隊(磯風、雪風)司令新谷喜一大佐より海軍大臣、軍令部総長あて報告電。
「第一遊撃部隊、一二三〇ヨリ一四三〇マデ、北緯三〇度四〇分、東経一二八度〇三分ニオイテ、敵戦爆延約三〇〇機ト交戦、大和、矢矧、浜風沈没。朝霜行方不明。霞航行不能。磯風(機械室浸水)オヨビ涼月(艦橋ヨリ前部大破)ハ一先ヅ北方ニ退避ス」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 一五分差で、同一部隊内の異なる司令から中央にそれぞれ情況報告が送られている事実は、そのとき艦隊が直面していた異常な事態をよく示している。報告内容はこの方が正確と思われる。
一五〇五 PBMマーチン飛行艇二機飛来、墜落せる米搭乗員の捜索救助作業に従事(ディラニー中尉救出の場面であろう)。
一五一五 「涼月」より「初霜」へ(信号)「残存駆逐隊ハ突入スルヤ」
一五二三 「初霜」より「涼月」に返信あるも、内容不明。
一五二四 「冬月」マーチン飛行艇に対し発砲。敵機遠ざかる。
一五二五 「涼月」より「冬月」へ「ワレ三罐、一罐二テニ軸運転可能」
生存者証言
○「雪風」、正木水兵長(十七歳)
「態勢を立て直して突っこもう」
「あくまで突入するんだ」
と呼んだ者がいる。しかし|うち《ヽヽ》一隻で突っこんでも、このくらいの兵力ではあかんな。あれだけ飛行機が来たら、とてもダメだ、と思った。
大和で死んだ方がよかった[#「大和で死んだ方がよかった」はゴシック体]
生存者証言
○防空指揮所伝令、杉谷水兵長(二十二歳)
足を怪我していたので、泳いでいる間、痛かった。駆逐艦に着いたら、痛さを忘れた。中尾と川瀬が、医務室までかかえていってくれた。寒いし、小さな駆逐艦にのっているのは、恐ろしい。あのまま大和で死んだ方が良かった、と思った。
○主計長、堀井少佐(三十一歳)
駆逐艦に拾いあげられてからはただ寒いばかりで、気つけ薬のブランデーをいくら飲んでも体が暖まらなかった。横になって寒さにふるえながら、このまま沖縄に行って捕虜になるのではないかと思うと、初めて恐ろしくなった。他人のフネに乗ると急に気が弱くなる。自分のフネでいかに戦果をあげるかを考えているのとは大きな違いだ。
○艦長伝令、川畑二曹(二十四歳)
駆逐艦初霜が救助にきてくれた。前に泳いでいた人が、やれやれと思って気を失ってしまうのか、縄梯子を掴んだまま沈んでゆくのを見た。これはあかんな。ありったけの力を出して、甲板まで上がったとたんに倒れた。尻を叩かれても、ウンウン呻《うな》るばかりだった。
○第一艦橋見張員、上甲一曹(二十四歳)
泳いで軍歌をうたったが、疲れるし、ノドが乾くから、物を言うなと言われた。
雪風に救助された。上がってくる者をバチバチなぐっていた。気付けのぶどう酒を飲ましてくれた。「元気な者は見張れ」の命令が出た。
大和が沈む瞬間まで、生きる、死ぬは考えていなかった。泳いで助けられてから、もう生きたいとだけ思った。
○一番副砲砲員長、三笠上曹(二十六歳)
駆逐艦に救助され罐室に入った。ぶどう酒飲んだら、ゴホン、ゴホン。コルクが出てきた。右肩をやられて手が動かないので、今度やられたら駄目だと思った。
○主計科、丸野二曹(二十六歳)
冬月に救助されて、佐世保までの途中、潜水艦に追いかけられた。おそろしくこわかった。火傷をしているので、着ているものを脱ぐ時、痛い。包丁で破って取ってもらった。冬月の軍医長に、「そんなことせんでもいいだろう」と言われた。
○方位盤旋回手、家田中尉(三十一歳)
駆逐艦雪風に救助された。丸裸になって、褌と脚絆を一枚ずつもらった。重油をのみながらさんざん泳いで救助されると、フネに上がってから気が変になるのがいる。誰の言うこともきかん。そういう奴は、なぐるのが一番いい。軍医長に言って、三つ四つ往復ビンタをくらわした。あとで「お前をなぐったのを知っているか」ときくと、「わしゃ知らん」と返事した。
救助された後、上のえらい人は何をしとったんか。寝台にもぐりこんで、ただ我関せず、だったじゃないか。
私は知らんうちに打撲傷を受けていたが、大和の生存者の点呼をとって、「総員一〇七名」と森下参謀長に報告した。ところが翌朝になったら、七名ふえていたのでビックリした。救助後すぐ暖かい罐室に入っていて、朝のこのこ出てきたのだということが分った。
○副長付、国本中尉(二十二歳)
海の中に放りこまれながらも、蔽いかぶさってくる大和の巨体に押しつぶされまいとして、数回バタ足をする。しかし大きな渦に巻きこまれてしまう。数分たつ。死んだものと自分自身すっかり諦めていたわが身。
ぽっかり海面へ浮かび上がって、太陽のぬくもりを感じた。大和の姿はすでになく、汚れた海面のところどころに、重油を浴びて真っ黒になった戦友の戦闘帽頭が、いくつか漂っている。
水中で受けた大きな衝撃のため、後頭部が割れるように痛む。生きていた。生きていたのだ。しかし島影一つない大海原。これからどうなるのか。さっきあのまま死んでいた方が楽でよかったのではないか。頭の痛みをこらえながら、まわりを見まわす。能村副長、清水副砲長、すこし離れて森下参謀長も泳いでいた。
「副長、ここにあり。生存者集まれ」。やっとわれに返って、副長補佐としての仕事をはじめる。負傷者を集め、そのまわりに人の輪を作る。東支那海の水は冷たく、一時間もすると歯がガチガチ鳴りはじめた。
○測距塔旋回手、細谷水兵長(二十四歳)
駆逐艦からは離れていたが、森下参謀長、能村副長のそばで泳いでいたので、この二人を助けに来た冬月の内火艇に、ついでに拾われた。私の次は石田副官だった。
救助されてからしばらく佐世保の浦賀島にいた。桜が咲いていた。その時初めて、これで助かったんだな、みんな死んだのに申訳ない、と思った。すごく淋しかった。
○測距儀左測手、坂本上曹(二十八歳)
駆逐艦が近寄ってきたので手を挙げると、泳いでいた高射長が怒鳴った。「残った駆逐艦は、これから沖縄に行かねばならん。助けてはくれんぞ。我々はここで死ぬんだ」。そばにいた信号員が、「これから救助にゆく」という駆逐艦の発光信号を読んだ、という。突入作戦中止は本当か。
駆逐艦は、まだ敵機がいるので停止するわけにはいかん。微速で走っている。ロープを下ろしてくれたので、それに掴まった。水をたくさん飲んで、あとで甲板に吐いた。
今夜いっぱいかけて、佐世保に回航するという。駆逐艦は挟いので、敵潜水艦を水中聴音機でとらえた「右〇〇度潜水艦」という報告や、「右〇〇度雷跡」という叫び声がよく聞える。傷は大したことないが、寒いし、折角助けられて又沈まにゃならんかと思ったら、恐ろしくなった。今度は命がないと思った。
○運用科、藤田上等水兵(二十歳)
自慢じゃないが、泳ぎが下手。外海でまともに泳いだら、一尺も泳げる自信がない。最後まで艦にさわって沈んだらいいのや。しかし足が海水にさわると、下敷になるような気がして、しようがなく飛びこんだ。艦体が引っくり返るのとスレスレのところにいたらしい。そこは救命用の円材にさわるにもスレスレのところだった。
大きな|ごっつい《ヽヽヽヽ》波。すり鉢みたいな波にキリキリ舞いさせられる。犬かきで潜って、何かにさわったら人の足。表兵曹が「オレを引きずりこむな」。爆発が起こった。四人くらいで円材につかまっていた。
表兵曹「フジ包帯ないか。足、切ったわ」。泳いでくる表兵曹のうしろ、白いモノがついてくる。豚のように見えた(表兵曹の足を見た幻影であろう)。
駆逐艦からロープが降りたが、重油が体についてズルズルして上がれん。その時、もうあかんと思った。それから縄梯子で引っぱりあげてくれた。艦が沈んだ時は多数人がいたのに、爆発後いなくなった。
ディラニー中尉の幸運[#「ディラニー中尉の幸運」はゴシック体]──続き
漂っている私のまわりで、穏やかな三〇分の時間が過ぎた。戦艦大和は、私に寄り添うように非常に近い距離で戦闘をしていた。私は筏に乗らず、直ぐそばの海中にとどまっていた。
その時、自分が標識用の染料の真ん中にいるのを発見した。これからも長く使用出来るよう、ジャケットの両ポケットの中に染料を貯めこんだ。いったいこの染料はどこから来たのか、考えつかなかったが、友軍機が私を見つけ、漂流している周囲に落としていったものと推測するほかなかった。
一四時頃、新しい航空群が攻撃にやってきた。日本艦隊のもう一隻の軍艦が視界に入った。それは駆逐艦のように思われた。
物凄い爆発が起こったのは、一四時から一四時一五分の間であった。巨大なオレンジ色の炎が、戦艦の上部構造物から真っ直ぐ上に立ちのぼった。爆発の後、二度とこの軍艦の姿を見ることはなかった。
SB2C爆撃機が、一機、非常に低空で私の頭上にやってきた。時刻は一四時二〇分頃であったろう。操縦士は翼を振って合図したので、私を見つけたのは確かだと思ったが、直ぐに飛び去った。
ところが一〇分後に、今度は日本の駆逐艦が、南西の方角から私の方にやってきた。その駆逐艦は損傷を受けておらず、高速で走りながら真っ直ぐに近づいてきた。筏の下にかくれて一心に祈っていると、四〇〇ヤードぐらいまで近づいてから、いきなり、左急旋回をして北東に去って行き、それから私に対する救助作業が行なわれる間、ほとんど同じ位置に留まっていた。
さらに三〇分ほど過ぎて、暗くなりはじめた。私の時計は一五時を示していたので、時計が止まっているのだと思った。それとも、ただ厚い雲が移動して空を暗くしているだけかもしれない、と思い直した(日本側戦闘詳報がこの場面を記録しているのは、三時〇五分である)。うす暗い中で、二時間前に大和がいたのと同じ場所に、もう一度その姿をみることが出来た(大和がすでに沈んでいたことは確実であり、錯覚または幻想と思われる)。
それから数分もしないうちに、北方から二機の飛行艇が、一度接近して立ち去った駆逐艦の上空を通過して、降下してくるのが見えた。近づくにつれて、PBMマーチン飛行艇であることが分った。私の上を通り過ぎると南に飛び、ほとんど視界外に去ってから、ふた手に分れ、高度五〇〇フィートで海面を捜索しながら戻ってきた。
私は染料のマークを破り、筏の上にのぼって気違いのように手を振った。彼らは私の上を通り過ぎてから旋回した。高度は低く、一機は操縦士の顔が見える程であった。今度こそ発見されたにちがいない、と確信した。しかし突然一機が、日本艦隊の方向に飛び去った(それはスイムス大尉機であることが、のちに判明した)。その行動は対空砲火を私からそらすために、危険をおかし最短コースを飛んで敵艦に立ち向っていったように思われた。
その間に別の一機は、西の方に飛び、戻ってきてから私を一〇〇ヤードほど通り越し、針路を変え、ゆっくり水上滑走しながら着水した。私はあらゆる力を振りしぼって筏を漕いだ。しかし私が着く前に、飛行艇は水面を滑ってきて私を通り越し、もう一度旋回して戻ってきてからエンジンをとめた。操縦士は飛行艇が漂流しながら、波に押されて私のところに近づくことを期待したにちがいない。また私が翼の下に入ってから大波のために浮き上がると、プロペラの回転で打たれるのを心配してエンジンをとめたのかも知れない。
そこで私は筏から飛び下りて泳ぎ始めた。しかしそれが良い着想でなかったことは、直ぐに分った。重い靴や装備が敏速な行動を妨げた。搭乗員が左翼の端に出てきて網を投げてくれたので、私は素早く網をたぐり寄せた。この時駆逐艦が射撃しながら接近してきた。私は余りに急いで飛行艇に乗ろうとしていたので、砲弾がどこに落ちたか分らなかった。何発かの至近弾が二〇〇ヤード以内に落ちたと、搭乗員があとで教えてくれた。
エンジンがすぐに始動し、一五時一五分に飛び立った。ヤング大尉の操縦は見事であり、海面に止まっていたのは、せいぜい五分以内の極く短い時間であった。
離水すると、まず私は仲間の搭乗員のことを尋ねた。ヤング大尉は黄色の救命胴衣も染料も、痕跡さえ認めなかったと答えた。その代り沢山の日本兵生存者を見たが、全員が暗い軍装を身につけ、救命胴衣も暗色で、また全然救命胴衣をつけていないものも大勢いた、と言った。そしてガソリンが少ししか残っていないので、遠くまで搭乗員を捜索することが出来ないことを謝罪した。
乗組員は私に熱いコーヒー、卵、トーストと乾いた軍装をくれ、腕に包帯を巻いてくれた。日本艦隊の視界内で自分を海面から拾いあげてくれた飛行艇の乗組員たちの勇気、沈着で熟練した行動には、感謝の言葉もなかった。へとへとに疲れ果てて、一八時三〇分に慶良間列島に到着した。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 米国は戦局の進展につれて、きわめて弾力的な航空機、艦艇の生産能力を発揮したが、それと並んで注目されるのは、戦場においても徹底して人命を尊重したことてある。ディラニー中尉ただ一人の救援のために注がれた執念と努力は、その一例に過ぎない。
[#1字下げ] 人命尊重は単に人道主義的理想の実践でなく、機械設備さえあれば航空機、艦艇の増産はいくらでも可能であるが、人間の再生産は不可能であるという戦略的考慮に基づくものといわれた。
生存者証言
○「初霜」、松井中尉(二十三歳)
生存者を救助し、佐世保に帰投せよ、ということになった。初霜はまず矢矧沈没のあとに急行し、二水戦司令官以下を救助して将旗を掲げ、次いで浜風の生存者を救助した。その時水平線の彼方に敵飛行艇が着水し、撃墜された搭乗員を救助していた。射程距離外であることは承知の上で、威嚇のため二、三発砲撃した。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] ディラニー中尉の報告と符合する。ただし二水戦戦闘詳報では、冬月が発砲したことになっている。
佐世保ニ帰投スベシ[#「佐世保ニ帰投スベシ」はゴシック体](戦闘詳報より)
一六三〇 第一七駆逐隊司令より第一遊撃部隊へ(通報)
「一先ヅ遭難者ヲ収容、各隊毎ニ損傷艦ヲ曳航シ北方ニ避退セヨ」
一六三九 連合艦隊司令長官より第一遊撃部隊司令官、第四一駆逐隊司令へ(通報)
(なおこの電信は天一号作戦部隊、海軍大臣および軍令部総長宛にも発信された)
GF電令作第六一六号
(1)第一遊撃部隊ノ突入作戦ヲ中止ス
(2)第一遊撃部隊指揮官ハ乗員ヲ救助シ、佐世保ニ帰投スベシ
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] これが戦闘開始以来はじめて、連合艦隊司令長官が公けにした意思表示である。その内容は残存艦が自発的にとりはじめていた乗員の救助、突入作戦中止、北上という一連の行動を、大和の沈没後二時間を過ぎて追認するものであったが、第一遊撃部隊が受信したのは、さらに遅れて一七五〇頃であった。
関係者証言
○連合艦隊参謀長、草鹿中将(五十三歳)
部隊は、大規模な敵機の来襲にあって雷撃爆撃をくらい、世界一を誇った戦艦大和を始め矢矧、朝霜、浜風が忽ち沈没してしまった。磯風、霞も航行不能になってしまった。あとに残ったのは駆逐艦だけである。これでは仕方がないので引き揚げることにした。
これは一方からいうと、真に無駄なようであったが、やむを得なかったし、また決して無駄ではなかった(略)。われわれは、大和などの最後は、電報でおよそ知っていたが、その沈みゆく寸前、わが飛行機隊の戦果を通報し得た事は、せめてもの功徳であった。(『連合艦隊』)
一六四五 「冬月」より第一遊撃部隊へ(信号)「人員救助終ラバ、佐世保ニ向へ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この通報は、第四一駆逐隊の指令と思われ、指揮系統の乱れが察知されるが、一五分前に発せられた第一七駆逐隊司令の北上避退命令と相まって、連合艦隊よりの佐世保帰投命令遅達という現実に対し、予めその準備作業を整えさせておく効果はあったであろう。
一七〇〇 「初霜」、「矢矧」の乗員救助開始。准士官以上七名、下士官兵五〇名を収容。
一七〇七 連合艦隊司令長官より天一号作戦部隊へ(通報)「第一遊撃部隊ノ犠牲的勇戦ニヨリ、本七日航空特攻ヲ敢行、戦果ヲ拡充。飽クマデ作戦目的ヲ貫徹スベシ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] この通報は、もともと航空部隊の士気鼓舞を目的としたものとはいえ、本作戦の主眼が特攻攻撃の戦果拡大にあり、第二艦隊はむしろ囮《おとり》にひとしかったという実情を、率直に述べている。
一七二〇 「初霜」、二水戦古村司令官を救助。二水戦旗艦を「初霜」に変更。第一遊撃部隊の指揮を継承す。
一七二〇―一八一五 「冬月」、「矢矧」の乗員救助。准士官以上二二名、下士官兵二五四名。同じく「雪風」も救助。准士官以上一三名。下士官兵一四三名。
これにて生存者の救助をほぼ完了。
一八〇五 二水戦より第一遊撃部隊へ(信号)「残存艦隊ノ艦船番号順序ヲ初霜、冬月、雪風ノ順トス」。「掃蕩隊作レノ命アラバ、本艦初霜中心、冬月ハ左、雪風ハ右、二〇度二キロニ占位セヨ」(実態は三隻の敗残艦隊であるが、新しい編制が定められた)
一八三〇 PBMマーチン飛行艇一機飛来。天一号作戦部隊宛、同機の触接状況を通報。
一九〇二 「冬月」先行して「涼月」の捜索を開始。針路六五度、速力二四ノット。
「初霜」「雪風」は、佐多岬の二六五度、一二〇浬にある「磯風」の方に航進した。(生存者救出の次に来る作業は、損傷艦への救援である)
生存者証言
○「雪風」砲術長、田口大尉(二十三歳)
寺内艦長から第四一駆逐隊司令吉田大佐に、「このまま沖縄に突入されたらいかがか」と意見具申をやった。特攻作戦で死を覚悟して来ているのだから当然、という面持ちであった。しかし人情として、泳いでいるものは見殺しに出来ないということか、「ひとまず生存者を救助せよ」と通信があった。そうこうしているうちに、連合艦隊から「沖縄特攻、取りやめ」の命令が来た。
日没時における第二水雷戦隊判断
一、情況判断
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(1)一四三〇以降敵艦上機の来襲なきも、敵機動部隊の動静、わが特攻機の戦果、依然不明
(2)敵大型飛行艇飛来す
(3)敵潜情報 今朝発見せる付近に一隻を測定
(4)沈没艦の生存者は全員救助せり
(5)明朝、敵艦上機の来襲をなお予期せざるべからず
(6)佐世保までの距離一六〇浬、安全海域まで一〇〇浬
(7)海軍戦備方針に徴するのも、被害大にして損傷艦の修理は当面見込みなし
[#ここで字下げ終わり]
二、決心
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(1)速やかに佐世保に帰投するを可とす
(2)今後なお被害の増大を極力避くるを要す
(3)「磯風」は乗員収容の上、処分することとす
[#ここで字下げ終わり]
護衛艦の命運[#「護衛艦の命運」はゴシック体]
「霞」の沈没
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体]「霞」はさきの駆逐隊司令の情況報告で「航行不能」とされていた。
一五三〇 「霞」より「冬月」へ(信号)「ワレ二罐被弾、一、二、三号罐室浸水。タダシ機械室(罐室から来た蒸気を艦の推進力に転換するための機械室)被害ナシ」
前部操舵室被弾、使用不能。魚雷二本投棄。極力応急処置実施中。
一六二二 「冬月」、「霞」の左舷に横付け、人員救助、准士官以上一五名、下士官兵二七〇名。
一六五七 「霞」沈没(N三〇度三一分、E一二七度五七分)。(「冬月」乗組員の中に、「霞」は「冬月」が五〇〇メートルの距離から、魚雷で処分したという証言がある)
「磯風」の苦闘
一五三五 「磯風」より「初霜」へ(信号)「長官、如何サルルヤ」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 大和の沈没から一時間後においても、運命を共にした第二艦隊伊藤司令長官の消息は、僚艦に伝えられていなかった。
続いて「ワレ左片舷航行。出シ得ル速力ハ一二ノット。電源関係全部故障。鹿児島湾口ニ向フ。針路ヲ誘導サレ度。ワレ初霜ノ乗員ハ救助シヲラズ」
一六三〇 第一七駆逐隊司令より第一遊撃部隊へ(通報)「磯風浸水、航行不能」
一九〇〇 二水戦司令官、磯風の乗員を収容の上、処分することが適当と判断。
一九一五 第一七駆逐隊より二水戦へ(信号)「ワレ磯風曳航ノ準備完成。雪風ヲシテ曳航セシメラレ度」
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 司令官に注文をつけるようなこの信号は、磯風と同じく第一七駆逐隊に所属する雪風が、苦闘しつつなお航行を続ける磯風を発見し、処分を急ごうとする二水戦司令部の判断に抗議する気持を表わしている。
一九二五 二水戦より第一七駆逐隊へ「曳航速力、何ノットノ見込ナリヤ」
第一七駆逐隊よりの返信なし。
二水戦情勢判断。──安全海域まで一二時間を要す。曳航開始を二一〇〇とするも、敵機動部隊の空襲に対し安全ならず。敵潜来襲の公算さらに大なり。
一九三九 二水戦より第一七駆逐隊へ(信号)「先ノ命令通り処分ノ上、退去セヨ」
二〇五〇 磯風、軍艦旗を降下、乗員は雪風に移乗。艦長以下准士官以上二〇名。下士官兵三二四名。
第一七駆逐隊司令駆逐艦を雪風に変更。
二二四〇 雪風の砲撃により磯風を処分、沈没(N三〇度四六・五分、一二八度九・二分)。
生存者証言
○「雪風」砲術長、田口大尉(二十三歳)
「磯風」が至近弾をくらって動けなくなった。風下から接近していったら、血の匂いがした。処分することになって、初め魚雷を射ったが、艦底を通過したらしい。そこでやむなく主砲を射った。戦後になって、主砲を射った時、艦上にチラチラ動く乗員の影を見た、という話も出た。「霞」の沈没は見ていない。鹿児島の見張が、日の暮れ頃に、坊ノ岬から一〇〇マイル付近に火柱を目撃したが、悲壮な光景だった、という。それが「霞」の最期だったかもしれない。
健闘する三艦
○「初霜」、松井中尉(二十三歳)
最後まで大和の周辺についていたのは、初霜、冬月、雪風の三艦だった。このグループを攻撃してくる敵機はいずれも大和に集中し、特に大和に近接した初霜は、ほとんど攻撃らしい攻撃を受けなかった。七万トンの巨艦の横に並んだ二、三千トンの駆逐艦など、空から見て問題にもならなかったのだろう。矢矧グループの駆逐艦は、おのおの相当にやられたようだ。
○「雪風」砲術長、田口大尉(二十三歳)
至近弾の水柱の中を突っ走っている時は、大砲も射てないので一瞬しーんとする。沈んだのかな、と思うと、また水中から出て走る。指揮所から後部を振り返ると、後甲板が衝撃でシナッているように見えた。それでも機関は故障がなかった。
○「雪風」、正木水兵長(十七歳)
艦の右前方に至近弾をくらい、水柱の海水を浴びたら、硝煙でよごれているのか顔が真っ黒になった。思わず寺内艦長をみると、「心配するな。俺が生きているうちは、お前たちを殺しやせん」。これほど心強いことはなかった。
魚雷の調定深度は、大和に合わせて深くしてあるのか、われわれ駆逐艦の艦底を通過していった。
機銃群指揮官に直撃弾が当り、全身が吹き飛んだ。三メートル測距儀も爆弾をくらい、測距手が眼をやられた。下に血が降ってきた。
徹夜の逃避行[#「徹夜の逃避行」はゴシック体](戦闘詳報より)
一九五五 二水戦より、「涼月」捜査中の「冬月」へ。「状況ニヨリテハ涼月ヲ処分シテ差支ヘナシ」
二二三五 「冬月」より二水戦へ。「涼月見当ラズ 先行シアルモノト思ハル」
二二五〇 「磯風」処分を完了せる「雪風」、「初霜」とともに佐世保に向う。速力二〇ノット。
〇〇〇五 「冬月」より二水戦へ。「ワレ甑《こしき》島付近マデ北上、捜索セルモ涼月見当ラズ。今ヨリ反転南下ス」
〇一二三 同じく「冬月」より。「涼月ノ情況不明ニツキ佐世保ニ向フ。時々敵潜電波ヲ感受ス」
〇二二五 「冬月」より二水戦へ。「敵潜二隻以上ヲ探知ス」
〇七四一 二水戦司令部は指宿《いぶすき》基地、出水基地の大和飛行長、矢矧飛行長宛て、「涼月」の捜索を依願。「七日一八〇〇頃、坊ノ岬ノ二五五度、一〇五浬ヲ、被害ヲ受ケ北上シアリシ涼月ハ、ソノ後消息不明。準備出来次第、右地点ヲ中心トスル八〇浬圏ヲ捜索ノ後、佐世保ニ帰投セヨ」
〇八四五 「冬月」佐世保入港。
〇九三二 「冬月」より指宿基地航空隊へ。「涼月、佐多岬ノ二六二度、一四〇浬ヨリ鹿児島マタハ佐世保ニ向ケ航行中ト判明。同艦ノ警戒ニ関シ、配慮ヲ得度」
一〇〇〇 「初霜」「雪風」佐世保に入港。
一四三〇 「涼月」後進にて炎上しつつ佐世保着。繋留せるも浸水増大。直ちに第七|船渠《せんきよ》(ドック)に入渠。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 二水戦から「状況によりては処分して差支えなし」との許可を得ていた涼月を、冬月が救援の望みを捨てずに捜索した苦心が読みとれるが、ついに断念したあと、重傷の涼月は単艦で、しかも連絡を絶ったまま佐世保まで帰り着くことが出来た。
生存者証言
○一番副砲砲員長、三笠上曹(二十六歳)
四月八日は風のない良い天気の日だった。フネをおりて、佐世保の海軍病院に着くまで歩いた。桜の花がいっぱい咲いていた。風も無いのに花びらがパラパラと落ちていた。俺、生きて帰ったのかなあと、はじめて生きていることを実感した。だがしかし、力の限り戦い、万死に一生をえたというのに、この空しさはなぜだろうと思った。
大和沈没状況[#「大和沈没状況」はゴシック体]
大和は、北緯三〇度四三分一七秒、東経一二八度〇四分の水深三四〇メートルの砂地の緩斜面に艦体を爆裂させ横たわっていた。
艦首から中央部一七〇メートルは緩斜面にある岩礁に乗り上げ、艦首を北西に向け約五〇メートルの高さで海中に突き出ていた。
艦尾部分八〇メートルは完全にひっくり返っており、副舵は損傷し、右舷外側のスクリューはなかった。
艦中央部は形状をとどめない程に崩れ、その南東一〇〇メートル離れた海底には艦橋部分があった。第一副砲は、逆さになってころがっていた。周辺の海底には機銃弾、薬莢、主砲弾の火薬缶、装薬、銃カブトが、そして艦体の小破片が散乱していた。
失意の戦艦艦隊[#「失意の戦艦艦隊」はゴシック体]
デイヨ司令官に指揮された第一戦艦戦隊三四隻の作戦部隊は、日本艦隊との決戦のための出動時刻を七日午後三時半と定められ、北西方向の指定集結地点に向って航行を急いだ。各艦には四つの陣形による配備の型が予め信号で知らされていた。「通常航行陣形配備」「対空砲火陣形配備」は円形陣であり、機動的な「接敵陣形配備」「戦闘陣形配備」に容易に展開出来るよう配慮されていた。
一六時七分、接敵陣形配備が信号で下命され、配備が終るとそのまま戦術的な艦隊運動の訓続に移行した。訓練は各艦の一斉回頭、敵状報告、戦闘陣形配備への全力展開などを含む高度のもので、一八時四五分まで精力的に続けられた。敵の艦隊が確実に至近の距離にいるという状況はめったにない機会であり、とりわけ多くの実戦未経験者にとっては貴重な訓練であった。
一八時四三分、未確認機が一機、方向六五度、距離一二マイルを飛行中と報告された。右側の巡洋艦群が対空砲火を浴びせたが、日本機は爆弾を抱いたまま、戦艦メリーランドの第三主砲砲塔に体当りすることに成功した。問合せに応じて、メリーランドは「状況はきわめて良好」と簡単に返信しただけで、次の日まで、第三主砲が使用不能である事実をかくしていた。
第五八機動部隊が、戦艦大和と護衛艦の大部分を撃滅したという報告は、その日の夜、戦艦艦隊がまだ日本艦隊の到着を待ちわびている間に受信された。この戦果はTOKYO=i情報)によって確認された。ニュースを耳にした艦隊所属の将兵の誰一人として、失望の苦さを味あわぬものはなかった。しかし第五八機動部隊の業績の真価を認めたがらぬほど、心の狭いものもいなかった。
デイヨ少将は、のちに次のように述懐している。「戦闘における偉業は、それを実現することが重要なのであって、誰が実現したかは重要ではない。空母部隊と航空群の行動は、感嘆に値する。ただ第二次大戦の全期間を通じて、艦隊同士の決戦の機会が非常に稀であったのは事実であり、あの戦闘が、日米両艦隊の実力を正しく評価する最後のチャンスであったことは、否定出来ないであろう」
航空機の戦艦に対する圧倒的優位を実証することによって、一つの大きな|もの《ヽヽ》が失われたことを嘆く点では、殊勲に輝くミッチャー司令官も、失意のデイヨ提督にひけをとらなかったであろう。大和を沈めて意気揚々と引きあげてくるパイロットたちを、ミッチャーは母艦の甲板でていねいに出迎え、一人一人労をねぎらった。即成の現像による巨艦撃沈の証拠写真が、目の前に並べられた。ついに彼の情熱は、あらゆる障害を打ち破って勝利をつかんだのだ。
しかし司令官の表情に少しの歓びの色もないのをみて、パイロットの一人がたまりかね、ご感想はとたずねた。ミッチャーは押し殺した声で呟くように答えた。
「あのフネは、海底に沈めるには、あまりに惜しいフネだった、というのが私の感想である」
一七時三分、第五八機動部隊司令官のメッセイジ「本日の戦果、戦艦一隻、軽巡二隻、駆逐艦三隻を撃沈。駆逐艦二隻は大破炎上。駆逐艦三隻は損傷なし」
[#改ページ]
戦いのあとに
[#改ページ]
忠烈万世ニ燦タリ[#「忠烈万世ニ燦タリ」はゴシック体](布告)
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 第一遊撃部隊の大部(戦死者)は、連合艦隊司令長官からその殊勲を認められ、特に全軍に布告された。
[#1字下げ] ただし布告の日付は、特攻出撃の日から三カ月半以上後であり、また戦果の具体的数字がなく、出撃命令では作戦目的として重点を置かれていた航空特攻、沖縄守備陸軍部隊の反攻との関連にも触れられていない。
[#1字下げ] 連合艦隊司令長官は、この作戦を決裁した豊田副武大将が更迭され、当時軍令部次長として「特攻の決断は僕に一番の責任あり」と自認していた小沢治三郎中将が後任となり、かわって布告を発する役割にまわっている。
機密連合艦隊告示(布)第一一四号
布告
[#地付き]第一遊撃部隊ノ大部
昭和二十年四月初旬、海上特攻隊トシテ沖縄島周辺ノ敵艦隊ニ対シ、壮烈無比ノ突入作戦ヲ決行シ、帝国海軍ノ伝統ト我ガ水上部隊ノ精華ヲ遺憾ナク発揚シ、艦隊司令長官を先頭ニ、幾多忠勇ノ士、皇国護持ノ大義ニ殉ズ
報国ノ至誠心肝ヲ貫キ、忠烈万世ニ燦タリ
ヨツテココニ其ノ殊勲ヲ認メ全軍ニ布告ス
昭和二十年七月三十日
[#地付き]連合艦隊司令長官 小沢治三郎
また大和艦長有賀幸作大佐は、別に布告第一九三号をもってその勲功を全軍に布告された。
戦果と被害損失[#「戦果と被害損失」はゴシック体]
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 戦闘の目的は、いうまでもなく最小の被害をもって最大の戦果をあげることにある。二水戦司令官が中央に提出した戦闘概報によれば、本作戦による確認ずみの戦果は、敵機撃墜二二機、撃破二〇機となっている。一方艦艇の損害は、第一遊撃部隊一〇隻のうち六隻が沈没、残存艦四隻のうち涼月が大破、初霜、冬月、雪風の三艦は軽傷で、一、二週間内に全力発揮可能とされている。
[#1字下げ] また人員の死傷については、戦死約三七二一名、戦傷四五九名の多きを数えているが、早い時期に突入強行を断念したためか、全滅した朝霜を除く沈没五艦を合わせて約一七〇〇名が救助されている。
海上特攻戦闘概報
二水戦司令官より連合艦隊司令長官、大臣、総長へ(第〇八五三〇電)
七日九州南西方海面ニオケル対空戦闘概況、既速報ノ外左ノ通リ
[#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]
1、戦果 敵機撃墜、確認一九(沈没艦ノ分ヲ含マズ)
コノホカ「大和」ノ戦果 撃墜三、撃破二〇
2、被害 大和、矢矧、磯風、霞ハ沈没、朝霜ハ機関故障、一二四〇頃敵艦上機ト交戦中トノ電報発信後消息不明(沈没ノ算大)
涼月ハ大破、自力航行ニテ佐世保ニ回航、入渠(浜風の沈没が脱落している)
3、被弾被雷数(確認セルモノ)
大和 魚雷一〇、爆弾六、至近弾無数
矢矧 魚雷七、爆弾一二
冬月 ロケット弾二(盲弾)
涼月 直撃弾一
磯風 至近弾一
浜風 直撃弾一、魚雷一
雪風 至近弾一
朝霜 不明
霞 直撃弾一、至近弾四
初霜 ナシ
4、戦死、戦傷者数
戦 死 戦 傷
大和 生存者二七六名ノ外全員 一一七名
矢矧 四四六名 一三三名
冬月 一二名 一二名
涼月 五七名 三四名
磯風 二〇名 五四名
浜風 一〇〇名 四五名
雪風 三名 一五名
朝霜 三二六名
霞 一七名 四七名
初霜 二名
5、救助収容人員
准士官以上 下士官兵
二艦隊司令部 四名 三名
大和 二三名(副長以下)二四六名
矢矧 三七名(艦長以下)四六六名
(二水戦司令部職員、異状ナシ)
磯風 全員 三二六名
浜風 一二名(艦長以下)二四四名
霞 一五名(艦長以下)三〇七名
6、各艦ノ現状
冬月 四月二十日以降、全力発揮可能
涼月 五月五日以降、保安碇泊可能、徹底修理ニハ三カ月ヲ要ス
雪風 四月十五日以降、全力発揮可能
初霜 全力発揮可能
[#ここで字下げ終わり]
米軍機の損失(米軍記録より)
出撃三六七機のうち、目標攻撃三〇九機。帰投三五九機。
撃墜 六機(爆撃機二機、雷撃機三機、戦闘機一機) 損傷 五二機 (内着水二機、他修理不能放棄五機)
戦死 一四名(内一名は七日後艦上で戦死) 負傷 四名
空陸はいかに戦ったか[#「空陸はいかに戦ったか」はゴシック体]
航空特攻(菊水一号作戦)の戦果と損害
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 四月六日に沖縄周辺の米艦船に対し行なわれた特攻攻撃は、全期間を通し最大規模のものであり、参加陸海軍機は七〇〇機、うち半数強が特攻機で、ほかに一三〇機の援護機が動員された。
[#1字下げ] 連合艦隊はその戦果に大きな期待を寄せ、かつ各方面からの報告を総合して、米艦隊に予期以上の打撃をあたえ得たものと確信した。
(1)連合艦隊参謀長より第一遊撃部隊へ(通信)
六日の菊水一号作戦における米機動部隊の被害甚大、空母を含む数隻の艦艇の沈没確実なるほか、引続き大混乱を惹起しつつあり(七日、〇時発)。
(2)五航艦、宇垣司令長官の回想(『戦藻録』より)
六日早朝索敵の結果、敵機動部隊四群(空母二隻)を発見、「ワレ空母ニ体当リス」というほか成果不明なるも、敵電話の狼狽ぶり、および救助要求等より、空母四隻を撃沈破せること概ね確実なり(略)また六日の戦果につき、第三十二軍(沖縄守備部隊)より左の通り打電し来れり(一部略)。
轟沈 九隻(うち戦艦二、艦種不詳大型三)
撃沈 六隻(うち空母五)
撃破 一九隻(うち戦艦一)
総計三四隻、ほかに火桂一四本、爆発三。今次菊水一号作戦の大成功を祝するものなり。
(3)五航艦先任参謀、宮崎大佐の回想
菊水一号作戦は概ね所期の成果を収め、敵にあたえた有形無形の効果は偉大なものがあった。
米軍の戦果と損害(米軍記録より)
(1)戦果
特攻機約四〇〇機のうち、撃墜二四九機
特に空母エセックス所属機は六五機を撃墜し、一日の戦果として新記録を打ちたてた。
(2)損害
[#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]
沈没 駆逐艦三、戦車揚陸船一
撃破 空母一(サン・ハシント、艦の前方五〇ヤードで撃墜された零戦一機による。戦死七二名、負傷八二名を出した)、駆逐艦一五、掃海艇六
特攻機によりハンコック、ハインスワースは戦死二八、負傷五二、不明一五。ノースカロライナは戦死一三、負傷四四名
同士討ちによる損傷 戦艦一、軽巡一
[#ここで字下げ終わり]
陸軍守備部隊(第三十二軍)の反攻作戦
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 本作戦には、初めから紆余曲折があった。第三十二軍が各方面から督促され、米軍の北、中飛行場使用を妨害する目的で七日の攻勢移行を決めたのは、四日のことであるが、四日夜米船団約五〇隻が沖縄本島の南方海域に現出し上陸の公算大となったので、これを八日に延期した。
[#1字下げ] さらに七日には、有力な敵輸送船団が近接中との情報があり、北方に攻勢をとっている最中に南部に上陸される恐れが出てきたのと、悪天候による障害を理由として、攻勢開始を再延期した。
[#1字下げ] こうして、陸軍が特攻機二〇〇機(菊水二号)の支援を得、ようやく攻撃を実行したのは十二日の夜襲である。しかし参加部隊のうち一箇連隊は地形不明のため戦闘不参加、残る二箇大隊が奮戦したが、一箇大隊は半ばを失い、一箇大隊は全滅に近い打撃を受けて作戦は失敗に終った。
作戦の基本に対する第一遊撃部隊の批判[#「作戦の基本に対する第一遊撃部隊の批判」はゴシック体]
戦艦大和及び二水戦戦訓(一部略、また文章を平明に改めた。以下同じ)
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 通常、戦訓といえば、第一線部隊が実戦の結果得た参考事項を中央に上申するものをいうが、ここでは基本作戦の不備を率直に指摘し、とるべき対策にも触れている。その明快な論旨は、中央と立場が逆になったような感じさえあたえる。
一、制空権を持たない艦隊がいかに脆弱であるかは、すでにマレー沖海戦以来、いく度かの戦闘において実証されたところである。完全な制空権を確保し得ない場合といえども、突入までは強力な直衛機をつけ、勢力の保存を期すべきである。また極力天象気象を利用し、基地航空部隊と緊密に連繋することが、絶対の要件と考える。
二、作戦はあくまで冷静かつ打算的でなければならない。特攻隊の美名を冠して強引な突入作戦を行なうことは、失うところ多く得るところ少ないであろう。
三、突入時期については、計画に捉われることなく、友軍機の戦果、敵情、天象などを考慮し、適切に選定することが肝要である。
四、作戦準備、特に整備および訓練と、作戦方針とは合致させなければならない。今次作戦に当っては、連合艦隊の水上艦艇使用方針と、中央の艦艇整備および配員の方針が合致しなかったため、整備不充分のみならず、訓練もほとんど実施することなく出撃のやむなきに至った。
水雷戦隊の工事は緩急順位第五位で後まわしにされたため進捗せず、熟練の配員も間際に交替した例があり、駆逐艦砲術長の中には、自艦の射撃を一度も実施することなく出撃したものさえ数名をかぞえる有様であった。
また第一遊撃部隊としての訓練は、低速力による対雷撃および爆撃回避運動のほか、わずか三回の戦務図上演習を実施したに過ぎない。
五、極度に機密を要する作戦においては、予め計画準備を完成しておき、電報一本で即応し得る態勢でなければならない。
天一号作戦ではもともと艦隊の突入は意図していないものと考えていたところ、突然実施を命じられたため、燃料搭載、出撃準備、警戒要領等に関し電報量が激増し、わが企画を察知されたと認められる点が多々あった。
六、いかに九死に一生の作戦といっても、目的完遂の道程においては、最も合理的かつ自主的に行動しうるように、細密な計画のもと、極力成算ある作戦を実施すべきである。戦局逼迫のため焦慮の念にかられ、また単に思いつきからする作戦は、精鋭部隊(艦船)をみすみす犬死させるに過ぎない。
七、作戦実施に当って、協同動作上適当な規制のあるのは当然であるが、画一的に過ぎることは適当でない。各部隊の実情を考え、その達成すべき目標を明示し、敵情および天象気象の状況に応じて、裁量の余地を残すべきである。
八、要するに将来水上部隊を特攻部隊として使用する場合には、予めその方針を明示し、万全の計画準備と訓練を実施することが、最も肝要と考える。
米軍の戦法に対する評価[#「米軍の戦法に対する評価」はゴシック体]
戦艦大和及び二水戦戦訓
一、敵機のわが水上艦船に対する戦法は、特に斬新なものは認められなかったが、比島沖海戦に比較すると、雷爆の協同攻撃法は一層巧妙となったように感じられる。
まず急降下爆撃をもってわが対空砲火を制圧した後、雷撃機が間髪を容れず来襲してくるのは対艦船攻撃の常道であるが、当日は雲高低く視界が不良だったにもかかわらず、大編隊がよく相互に連繋を保持して混乱することなく同時異方向より殺到し、被害があるや直ちにわが弱点、虚隙を狙い、反復攻撃を敢行した。
二、敵機はわが射弾を受ければ、照準不良となるものが多いが、被弾防火対策はほぼ完全に近いものと認められた。わが機銃は相当命中し、命中の結果火を発するもの多数あったが、間もなく消火し、撃墜まで至らないものが極めて多かった。
三、雷撃機の運動は巧妙であり、投雷技倆も従前に比して進歩したものと認められる。雷撃射点は三〇〇〇メートルないし一〇〇〇メートル。雷速は三〇ノット付近と推定する。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 戦訓が謙虚に認めているように、米機は小型戦闘機に至るまで防弾タンク、炭酸ガス、消火装置などを完備し、高角砲の至近弾や機銃弾が命中して発火したり機体が穴だらけになったりしても、容易に撃墜には至らなかった。米損傷機五二機の内二機は帰投後母艦に着艦できず付近に着水し失われ、五機は着艦したものの修理不能で放棄された。この点は日本機との大きな違いであるとして、くり返し戦訓が指摘したところであるが、対策らしい対策は講じられなかった。
米軍に勝利をもたらした魚雷[#「米軍に勝利をもたらした魚雷」はゴシック体]
一三型魚雷改良のけわしい道(米資料より)
米軍の航空魚雷改造の作業は、一九三〇年夏、それまで使用されていた一〇型の胴体後部に新しい装置を加え、より強力な一三型を作ることによって始まった。
その後の改善は、性能のよい雷撃機の完成が遅れたことによって、はかばかしく進まなかったが、欧州に第二次大戦が起きてからは、航空機による兵器としての魚雷の価値を疑う余地はなくなった。真珠湾奇襲の成功は、さらにその事実を決定づけた。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 日本海軍の誇る兵器の一つに、九一式改二型航空魚雷があり、それは開戦当初には、たしかに列国の水準を抜く性能を持っていた。一方米海軍の魚雷が速力が遅く、針路が不正確で不発が多いなど、多くの点に欠陥のあることも周知の事実であった。
[#1字下げ] しかし戦争の後半になると、米軍の航空魚雷は一歩一歩弱点を克服して日本の水準に追いつき、ついに戦艦大和に対する勝利をかちとるまでに至った。
開戦当時、一三型魚雷は、速力三三ノット、射程五〇〇〇ヤード、投下時の飛行状態は速力一一五ノット、高度六〇フィートというものであり、命中を期するためには低い速力、低い高度が望ましいという弱点のために、兵器として人気を博するに至らなかった。
ミッドウェー海戦は、性能の劣る魚雷、時代遅れの雷撃機と戦術訓練という不利な条件で戦われ、搭乗員たちは、多くの項目にわたって兵器局を告発した。
そこで登場した一四型の設計は、頻発する故障の内容を注意深く調べることから出発し、やがて兵器局はすべての問題が、海面から水中に突入する場合の角度を、航空力学上制禦出来ないという基本的欠陥に基づいていることを発見した。後部の翼面、方向舵、頭部の材質を強化し、形を変える工夫が重ねられたが、失敗に終った。投下角度、高度の調整により空中を長く飛行させ、水中での走行を少なくする方法は、反面で水面突入時にすでに安定を失ってしまう危険を伴うことが立証された。
一九四二年春、魚雷の水平翼に、複葉飛行機のように安定を補うための補助翼をボルトでつける着想が生まれたが、これも問題を解決するには不充分であった。兵器局は航空魚雷の改良が海軍関係では最も優先度の高い懸案であるとの認識のもとに、引続き精力的な研究を怠らなかったが、結果は惨めなものであった。
一九四二年の半ばに行なわれた実験ほど、一三型の不人気の背景を明瞭に示すものはない。一五〇ノット以上の速力で投下された一〇五本の魚雷を分析した結果、三六%が見当違いの方向に走り、二〇%が沈み、二〇%が針路の偏向を示し、一八%が不正確な深度を示し、二〇%は水上を走行した。結局満足すべき成績をあげたのは、わずか三一%であった(多くの魚雷は二つ以上の欠陥を暴露したため、合計は一〇〇%をこえている)。
全く新しい着想による設計に着手するのと並行して、それまでの中間的兵器として一三型の改良を進めてゆくほかには、途がないように思われた。そのためには莫大な予算を必要としたので、国防研究委員会は世論に訴え、航空魚雷開発のための白紙委任状を獲得した。発進速力三五〇ノットを持つ二五型は、その成果の一つであった。
一方、一三型の性能は、一九四四年に入ると飛躍的に向上した。それは走行中の抵抗力を増すことが安定性の強化に役立つという発想から生まれた。空中飛行のあいだパラシュートをつける実験は失敗に終ったが、魚雷の頭部に合板で組み立てた抵抗力を増す環をつける試みは、予想以上の成功を収めた。空中速力は四〇%減速され、海面に激突した際のショックをいちじるしく緩和した。その結果、魚雷投下の高度と速力を大幅に増加することが可能となった。
今や残された問題は海中での安定性であったが、一九四四年の盛夏、キャリフォルニアの研究所で行なわれた実験で、同じく抵抗力を増すため胴体の後尾を四角い合枚でカバーする発明が、最後の難問を解決した。魚雷の速力と射程がやや減少し、また初めは深く潜り過ぎる欠点が残っていたが、さらに再調整による制禦が可能となり、一三型魚雷が正常に直進する確率は、一挙に一〇〇%に近づいた。
腕白小僧≠フニックネームで知られる丸い胴体と、頭部と尾部に抵抗力を増すための合板の環を備えた外観は、逞しくしかも親しみ易い魅力を備えており、パイロットたちに気に入られた。古い部品と取り換えるために、兵器局から艦隊に送られた環のカバーつき尾部の組立て部品は、熱狂的に歓迎され、一九四四年の秋までに広い範囲に普及した。
改良型の性能は、高度八〇〇フィート、速力三〇〇ノットまでの魚雷投下を正当なものと認めた。そしてその後の経験は、こうした制限範囲をさらに拡げることが可能であることを示した。
一九四五年の初め、一三型魚雷六本を高度五〇〇〇フィートと七〇〇〇フィートから投下するテストで、五本がすばらしい正確さで走行するのが観測された。その年の春、巨艦大和と、軽巡、数隻の駆逐艦を海底に葬り去った戦果は、魚雷改良の長年の努力から生まれた当然の勝利というべきであろう。
米海軍情報部調査記録における日本側関係士官証言
大和に対して使用された航空魚雷は、弾頭におよそ六〇〇ポンドの高性能爆薬を内蔵していたということであり、破壊力があれだけ大きかったのは、当然と思われる。投下に際しての調定深度は、一八―二二フィート、空中、海中の走行は正常であった。
こうした条件は、すべて大和の水中防禦体制を打ち破るのに、有効に働いた。浸水の進む速さ、これに伴う傾斜の大きさが、そのことを示している。命中確実な魚雷は、いずれも浸水と傾斜の増大に寄与している。逆に左舷に命中した魚雷のうち数本が不確実とされているのは、浸水、傾斜と結びつける情報が不足しているからである。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 米軍の魚雷(特に航空魚雷)の威力を見直すべきであると警告する声は、かなり以前から実戦部隊を中心に広まりつつあった。例えばレイテ戦における戦艦大和の戦訓は、次のように米魚雷攻撃法の特色、物量作戦の脅威について述べている。しかし「雷跡見張」という項目にまとめられていることからも分るように、捉え方はまだ表面的であり、魚雷の性能向上や根本的対策にふれるようなものではなかった。
レイテ戦戦艦大和戦闘詳報
(略)七、雷跡見張
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(1)、雷跡は一般に集団的に来るのを常とする。雷跡を一本認めたか、魚雷が一方向から来たとすれば、必ず他方向にも雷跡がある。四周に対し見張を厳にする必要がある。
(2)、敵魚雷は、しばしば大偏射を行なうことがある。最初は本艦と並行し、まず安心と認められた魚雷が、旋回して危険な対勢となることがある。雷跡は必ず最後まで保続監視する必要がある。
(3)、雷跡見張は昼夜を通じ、可及的高所からするのが有利であり、また七倍の眼鏡あるいは肉眼の使用により、有効な見張を実施することが出来る。
(4)、航空魚雷は魚雷投下時、爆弾との識別が困難であるが、射点をしばらく監視しておれば、明瞭な雷跡を容易に視認することが出来る。
[#ここで字下げ終わり]
戦術的戦訓[#「戦術的戦訓」はゴシック体]
戦艦大和及び二水戦戦訓
一、砲戦
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(1)、各砲の環型照準器は、換装後間もなくのため精度が低い。行住坐臥、訓練に精進し、砲煙弾雨のうちにも、なお照準を誤らない域に達する必要がある。
(2)、機銃の角速度式照準器は、きわめて有効と認められる。ただし二五ミリ機銃弾は威力に乏しい。信管を改造するか、四〇ミリ機銃に換装することが望ましい。
また連装機銃は、艦の転舵や被害等により、一〇度ないし二〇度程度傾斜しても、なお円滑に旋回するよう改善すべきである。
(3)、電探射撃が可能となるよう、速やかに兵器を改善する必要がある。何故ならば、現在の測距儀は測手の精神的影響が強過ぎる。精神的影響をゼロにするには、科学的兵器にまつほかない。
(4)、機銃射撃の場合、小隊毎に主砲の薬莢を吊り下げ、「射ち方始め」は笛、「射ち方止め」は薬莢を叩いたところ、指揮上きわめて有効であった。
(5)、今次の戦闘を通じ、煙幕を展張すれば、あるいは有効ではなかったかと思われる。研究に値しよう。
二、通信
(1)、通信の遅達を避け、速達を期するには、水上部隊の本質を十分理解した陸上部隊、および通信機関の積極的かつ全幅の協力にまつほかない。
(2)、戦果を確認する上で、敵信(電話)の傍受は、きわめて有用であった。二水戦司令部付きである二名の少尉(特暗班)の取得した情報のみでも、わが攻撃の成果と敵企図の一部を窺い知ることが出来た。
(3)、妨信作業の効果は、少なくなかったものと認められる。緊急時には機を逸せず、独断で実施することを認むべきである。
(4)、大和の通信力は予想外に脆弱であった。その原因は最早調査の手段もないが、記録上は、戦闘開始後約一〇分で、大和が艦隊内の電話に出なくなったのは事実である。
[#ここで字下げ終わり]
駆逐艦戦訓
(涼月)
予備魚雷格納庫および発射管に竹のマントレットを施したところ、発射管に三発、魚雷格納庫に七発の機銃弾が当ったが、いずれも反発して被害がなかった。極めて有効と思われる。
(冬月)
大豆油の使用実績によれば、機関教範に定められた汽罐諸元で使用して差し支えない。
水中爆傷を防ぐには腹巻は有効であった。
被害時の被害箇所、敵襲状況の探知はなかなか困難であった。良く研究訓練しておく必要がある。
[#1字下げ]注[#「注」はゴシック体] 特攻作戦の完敗という事態にもかかわらず、個々の兵器、戦法に関する技術的な反省や改善意見が並べられるにとどまっており、中には水準の低いものも見受けられる。
[#1字下げ] 大和型戦艦の用兵に関しても、基本にふれる建設的な戦訓は見当らないが、この点については、生存者が戦訓の原案を起草するに当って、いろいろ議論があったと伝えられている。戦艦の特性を無視した護衛機なしの突入作戦に対する批判と、同型艦が一隻も残っていない事実への諦めが、「戦訓ナシ」という結果を生んだものと見ることも出来よう。
米軍側の戦訓
一、艦船を爆撃する場合、特に低高度からの急降下においては、わずかに遅発の調整を加えた信管が、精度を増したものと信じられる。
二、戦闘爆撃機(コルセア)は、各機少なくとも四発のロケット弾を搭載すべきであった。そうすれば、駆逐艦を一回の攻撃で撃沈あるいは大破することが可能であったろう。
三、最も効果的に魚雷の性能を生み出すには、損傷箇所に集中して命中させることである。そして魚雷の深度を飛行中に調整させる方法を体得することが雷撃の能率を向上させる。
雷撃攻撃は、急降下爆撃の関連と協同を考慮し、魚雷の投下は一八〇度の広がりで行ない、ある程度のミスは考慮すべきである。
神話の崩壊[#「神話の崩壊」はゴシック体]
大艦巨砲の実態
○大和元航海長、津田大佐(四十歳)
大和は他の艦《ふね》より幅が広い。舵を取ってもなかなか利かない。普通の艦では三十五度の舵を取った場合(それぞれ面舵取舵一杯)、半分の角度、一五度の当て舵(逆の舵を切って惰性をとめる)で、艦の回頭を止めることが出来る。大和の場合は四五度当てないと、勢いがついて止まらない。特に高速力で航行している時、自分の思う所、〇〇度の所定の針路にピタリともっていける人間は少ない。私は乗艦二年間の経験と勘で、もって行くべき針路にピタリと止めることが出来た。
結局、魚雷を避ける場合も、ピタリと止めるには、やはり相当の経験者でなくてはならない。急降下がぐーっと向ってきてから急降下≠ナは間に合わない。急降下に入る直前に、指揮官機が部下に知らせる動作の微妙な変化がある。その瞬間に急降下≠フ号令を出して舵をとる。
当日の風向、上空と海面の風速の違いを肚に入れ、急降下に入る一呼吸前に、艦の針路、速力を整えて爆弾の流れる方向に舵を取る。こういう場合に備えて、「左(右)〇〇度」と計算したものを図面にしてブリッジに置いてある。今日の風向風速いくら、どうくるかを早見表で見て回避する。
大和は舵を取ると、二七ノットが二二―二三ノットになる。針路を元に戻せば一〇―一五分で元の速力に戻る。
急降下∞面舵一杯$ト動の場合は、周囲の艦《ふね》に信号を上げる。各艦は旗艦に合わせてくる。輪型陣で単独回避、転舵する時は、単独回避の信号を上げ何度方向にとると知らせる。
これは自分に危険がない場合であるが、通報する余地がない程急な時は、緊急斉動といって、R(右)、L(左)の緊急回頭の旗を揚げる。
海軍では、旧戦艦「摂津」の上に鉄板を張って、実際に一キロ爆弾を投下して訓練した。その成績を参考に日本の主な航海長は、雷撃回避の訓練をし基本を憶えた。その上に大和の特徴を加え、私は自信を持って操艦したつもりである。
副舵の効果は、主舵が故障したら、戦闘行動を取れないから、その予備の意味であった。ただし雷撃を受けて穴があいたとか、艦の外にめくれが生じた場合に、その抵抗を抑えて行くまでの強さはなかった。低速力でやっと持ちこたえるくらいの効力。スクリューの回転数により調整し、バランスをとりながら舵を利かしてゆく位の力しかなかった。
猪口「武蔵」艦長は射撃万能論者で、砲撃効果を充分に上げるには、直進するのがよい、大きな舵をとったりすると、砲撃効果が落ちる、したがって雷爆回避の時には、変針の角度を少なくとる、という意見であった。
私は、雷爆を回避し得る最も有効な手段は、的確に舵を切る事である、飛来する飛行機を全部射ち落とせるのなら、真っ直ぐに航行して砲撃力を万全に発揮するのもよいが、現在の状態は、半分射ち落としても残り半分が来て、それをまともに受ける事になる、と主張した。
議論の結果、連合艦隊宇垣参謀長が決裁され、雷撃回避運動を第一とし、射撃を第二とするよう「雷爆撃回避内規」に明記してもらった。
戦艦は無用の長物か[#「戦艦は無用の長物か」はゴシック体]
五航艦、宇垣司令長官の見解
全軍の士気を昂揚せんとして、かえって悲惨なる結果を招き、痛憤復讐の念を抱かしむるほか何ら得るところなき無謀の挙といわずして、何ぞや。
退嬰《たいえい》作戦において、殊に燃料の欠乏はなはだしき今日、戦艦を無用の長物視するは皮相の観念なり。一度攻勢に転ぜば必要なること、敵が戦艦の多数をわれらの眼前に使用し、第三十二軍は戦艦一隻は野戦七箇師団に相当するとして、これが撃滅を度々要望して来れるに徴するも明らかなり。すなわち航空専門屋らは、これにて戦艦を厄介払いしたりと思う向きもあるべきも、なお保存して決戦に使用せしむるを妥当と断ずるものなり。
そもそもここに至れる主因は、軍令部総長奉上の際、航空部隊だけの総攻撃なるやのご下問に対し、海軍の全兵力を使用いたすと奉答せるにありと伝う。帷幄《いあく》にありて補翼の任にある総長の責任、けだし軽しとせざるなり。(『戦藻録』、四月七日)
浜風砲術長、福士大尉「沖縄海上特攻隊に関する報告」
本作戦は大胆不敵というべきよりは、むしろ無謀に近し。当時沖縄全海域は米軍の制空権下にあり。しかも味方航空部隊による戦果はほとんどなき以前に出撃せる結果、圧倒的多数の米機の攻撃に曝《さら》され、大和以下の被害を生ぜるは、当然の帰結というべきなり。
しかしながらわが艦隊は、瀬戸内海に潜伏せりとするも、なお所詮は沈むべき運命にあり。
われわれ艦隊乗員としては、「フリート・イン・ビーイング」(実力を発揮していない、眠れる艦隊)として自滅の道を辿らんよりは、華々しく戦場に出で断乎死地に突入し、敵船団と刺し違うを本望とせり。本作戦の意図につきては、何らの不平不満というべきものはなし。ただ突入時機を空挺隊(神風特攻攻撃の意味であろう)使用後に選択したらんには、所期の成果をあげ得たるべし。
[#地付き](昭和二十年十二月)
後 日 譚[#「後 日 譚」はゴシック体]
第二艦隊森下参謀長の上京報告(『戦藻録』)
特攻作戦から生還した森下信衛少将は、連合艦隊に報告のため上京する途中の四月十四日、九州鹿屋基地に立ち寄り、夕食後防空壕内に宇垣長官を訪問した。対談の内容を長官は次のように要約している。「語るべきところ多々あるも、落つるところは出撃に対する要点なり。森下少将はいく通りかの道は知れども、かく縛られては如何とも為し難しという。尤も千万とぞ思う」
参謀長の上京は単なる報告のためではない。陛下から改めて軍令部総長に対し、第一遊撃部隊の出撃と航空作戦の関係、その他二点について親しく御下問があった。総長としては参謀長の上京報告を待って、その上で上奏する予定とのことで、参謀長は身に余る重責を思い、苦衷の程を漏らしたのであった。
四月三十日、米内海相が人事内奏のさい、陛下から「天号作戦における大和以下の使用法、不適当なるや否や」との御下問があった。
宇垣長官は、さきに軍令部総長の、そして今また連合艦隊司令長官の情況判断の至らざるを嘆き、「森下参謀長の無欲。生もなし死もなけれど、等しく九死一生の身、慰めて官舎に帰す」と心情をのべている。
宇垣長官の慨嘆はなお続く。「第二艦隊はわれにとり追憶多き艦隊なるが、四月二十日をもって遂に解散の予定と聞く。いよいよ海軍としての伝統は、艦無くして精神に存することとなる。今後いかに処すべきか。
明治二十年前後、統制部、いな国軍の統一という陸軍側の挑戦に対抗せる海軍の伝統、先輩の苦心を思い合わすれば、思いは千々に砕くるものなり」
戦艦大和のもう一つの使命[#「戦艦大和のもう一つの使命」はゴシック体]
○迫水久常(内閣書記官長、四十二歳)の回想
開戦以来三年有余、奮戦力闘の甲斐もなく、わが海軍はその水上部隊の大部分を失っていた。昭和二〇年四月七日、鈴木貫太郎内閣組閣の親任式の後で、私は、戦艦大和沈没の悲報を聞いた。もっとも、閣議の席上での公式報告ではなく、控室にいる者にそれとなく伝わったのであった。
それを聞いた一同は、そこまで戦局が逼迫していたのかと唖然《あぜん》とした。
私はその刹那、口に出しては言わないが、この戦争を終結させうることを知り、かつ確信している者として、この戦艦大和沈没の悲報は、国民の間に大きな信頼を獲ち得ていただけに、これからの一つの使命を暗示しているように感じたのであった。
○松平康昌(内大臣秘書官長、文藝春秋誌「重臣たちの終戦工作」勝田龍夫より)
天皇陛下が無条件降伏を考えたのは、戦艦大和が撃沈されたとき。二十年五月末のことである。
「沖縄の救援に無謀な単独出動を敢行して戦艦大和が撃沈され、海上戦は絶望となった。然しビルマ作戦に呼応する雲南作戦に一縷《いちる》の望みをかけて梅津参謀総長に意見を訊いたが、そのような作戦は実施不可能とのことであったから、それで無条件降伏も亦已むを得ないと決心した」──。
[#地付き]〈了〉
[#改ページ]
あ と が き
[#地付き]吉田 満
戦艦大和は近代日本が歴史に残した栄光と転落の象徴であり、その最期は第二次大戦の終幕にふさわしい壮大な悲劇であった。
そこに語りつがるべき如何に多くのものが秘められていたかは、乗組員、作戦関係者、護衛艦乗組員、造艦担当者、戦史研究家、作家などの筆になるおびただしい量の出版物に明らかである。
しかしこの複雑多岐な海戦の全貌を、事実に即してくまなく伝えることは、容易な業ではない。どのような立場で書かれたものにせよ、一つの視点、ある人物、あるいは特定の資料に重点を置くかぎり、制約を免れないであろう。日米両国のあらゆる資料を渉猟し、これを客観的に整理構成する試みが待たれていたゆえんである。
原勝洋君は昭和十七年生れの戦無派に属する青年であるが、この十年のあいだ、大和の最期とそれに運命を托し生死を共にした人々の残していったものに取り憑《つ》かれ、内外の資料収集に没頭してきた。未公開の記録を求めて筆写し、全国津々浦々に足を伸ばして六十人をこえる生存者、関係者の証言を収録し、慰霊祭、記念式典には欠かさず出席し、米海軍省の責任者から機密の戦闘記録を直接入手する道を切り開いた。
原君は集めた材料を何に活用するかの目的なしに出発したが、ようやく入手可能な限界にまで到達してみると、集積された資料の豊富さが逆に彼に働きかけ、公開を促すようになったという。米国の資料も一つ一つ機密解除の手続きをとったものが多い、「記録作成から三十年経過したら解禁」という一般原則に従って、幸い全体に翻訳発表が公認される状況になった。
数え切れない程の人たちから与えられた好意と協力に報いるためにも、この機会にすべての記録、資料を集大成する労作にとりかからねばならない、と彼は決意した。
ただ彼がいかに熱心に大和を勉強したといっても、戦争とは異質の時代に生まれ育った未経験者である。私が協力者として名をつらねたのは、十年来の友人として、自分なりの経験を手がかりに、用語の選択、材料の検証と構成の面で、友情的応援を引き受けた結果である。
このドキュメントは、敵味方の多角的な記録資料を立体的に配列することによって生まれた。そこに描き出された海対空の対決という悲劇の全貌から、さまざまな意味を含む調和、アンバランス、落差、亀裂を読みとるという構想が、彼の苦心収集した膨大な素材を生かすのに役立っていれば幸いである。
[#地付き]原 勝洋
三十年前を回想して「あの時はああやったと語っても、今考えると夢のようなものだ」と、当時電気分隊員だった渡辺保氏は回想しているが、戦艦大和を旗艦とする沖縄突入作戦に関係し、参加した人々には、誰についても同じことを言うことができると思う。戦争も軍艦も何も知らないひとりの若者に、その胸に秘めた激闘の体験を、当時の心情のままに熱っぽく語り、忍耐強く協力してくれた多くの証言者の方々に心から感謝いたします。
米軍側の資料については、米海軍最高機密の作戦計画、まだ発表されたことのない大和攻撃飛行中隊の戦闘報告書、その他多くの公式資料を提供し、激励してくださった、米海軍省海軍歴史史料部作戦記録保管所所長ディーン・C・アラード博士、必要な文書を揃えてくれた秘書のキャサリン・レロイド夫人に謝意を表します。これらの文書は、海戦の全貌を解明するのに大いに役立ちました。
また国防総省広報課特別補佐官F・J・ファラトコ氏、国立記録保管所聴視覚記録部ジェイムズ・ムーア部長にもたいへんお世話になりました。
日本側の公式資料については、防衛研修所戦史室史料係藤田豊、杉浦基彦両氏に提供していただき、さらに多くの外国刊行物を探すための御指導もいただきました。また、石田直義氏は「戦死者名簿」を、坂上隆氏は自身の作「戦艦大和の図」を、蓬田二男氏は「旧軍艦大和|砲熕《ほうこう》兵装(大谷豊吉編)」を、また(株)大盛堂舩坂弘社長には、英霊についての貴重なお話をいただきました。
また米陸軍ドナルド・キッド曹長、小泉時氏、防衛研修所の小山健二氏、渡辺修正氏、友人関沢仁悦氏をはじめ、多くの方々に激励をいただきました。
私が集めた厖大《ぼうだい》な資料について、自分なりにこの海戦をまとめてみようとしたが、日米両軍が死力を尽したこの戦闘は、若いひとりの力にはあまるものがあった。吉田満氏の御協力によって、はじめてこのような形をとることができたことに、心から感謝いたします。
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参 考 文 献
特に出所を付記したもののほかは、次の文献を参考とした。
一、日本側資料
○戦闘詳報
沖縄海上特攻隊に関する報告
軍艦大和戦闘詳報
第二水雷戦隊戦闘詳報
○海軍戦史
太平洋戦争、日本海軍戦史(第二復員局編)
○防衛庁戦史
戦史叢書「沖縄方面海軍作戦」防衛庁防衛研修所戦史室著(朝雲新聞社刊)
○関係者証言
○生存者証言
出所を特記していないものは、原勝洋編
二、米国側資料
○米軍記録
第五艦隊作戦計画(一−四五)
第五八任務部隊作戦命令
参加各飛行中隊戦闘詳報
各指揮官戦闘詳報
○米資料
左記の資料を参考とした。
Okinawa, the last ordeal I.Weratein
Submarine Operations in World War II T.Rosoe
The Great Pacific Victory G.Cant
The Battle Report (Volume V) W.Karig
Many Sparrows M.Deyo
Admiral R.A.Spruance,U.S.N. "A Study in Command" E.P.Forrestel
USSBS Interrogation Report No.133 Navy No.32
The ONI (Office of Naval Intelligence) Review
Magnificent Mitcher T.Taylor
U.S.Navy Bureau of Ordnance in World War II W.Boyd
Admiral Arleigh (31-Knot) Burk Ken Jones and Hurbert K/Kelley.Jr
The Fast Carrier Clark G. Reynolds
単行本 昭和五十年十一月文藝春秋刊「日米全調査戦艦大和」を改題
〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年四月二十五日刊