TITLE : 鎮魂戦艦大和(上)
講談社電子文庫
鎮魂戦艦大和(上)
吉田 満 著
目 次
文庫版に寄せて
臼淵大尉の場合
――進歩への願い
祖国と敵国の間
文庫版に寄せて
「鎮魂戦艦大和」の初版が出たのは、昭和四十九年秋である。私はその「あとがき」で、執筆の動機を、「戦争というものと、そのために命運を賭けなければならなかった人間とを、よりひらけた視野のもとで、戦後の時代を見通した展望のもとで、見直すこと」と書いている。
昭和四十六年夏のニクソン・ショック、つづいて四十八年秋のオイル・ショックは、戦後の長い平穏と安逸のあとで、日本にふたたび緊迫の時代をもたらした。われわれは改めてここに、みずから生きる道を見出すことを強いられたわけであり、世界の各国は、第二次大戦の敗軍の主役を演じた日本が、今その経験を反省の糧として、いかに変貌して国際政治の舞台に復帰するかを、注目した。
日本が世界の孤児となる愚をくり返さないためには、太平洋戦争とその結末を、他人事のように批判するのではなく、国民の一人としてみずから戦ったものの責任にかけて、それが自分にとって真実何であったかを常に発見し直すことが肝要であると、私は考えた。
日本人の立場から太平洋戦争の再評価を試みようとするとき、読者として期待し、呼びかける対象として想定したのは、学童疎開や空襲の経験も含めた「戦争体験世代」であった。
しかし、それからさらに三年あまりをへた今日、日本人は、政治、経済、世論の動向、生活の目標などすべての面で、いよいよ厳しく戦後時代の総決算を迫られている。外圧が要求しているのは、過去の清算にとどまらず、明日にむかっての決断であろう。
ここで日本の将来を方向づけるとすれば、その主役は、いかなる意味でも戦争とはかかわりを持たなかった「戦後世代」でなければならない。
このような時機に、より広い層の読者を対象として、文庫版が刊行されることをよろこびたい。若い読者は、かつてあの戦争に殉じた青年たちが、戦争というものの虚妄に死の間際まで苦しみながら、そこから逃避することなく、妥協することもなく、課せられた使命に最後の生甲斐と納得できる意味づけを見出そうとたたかった跡を、読みとるはずである。平和な社会、人間が人間として尊重される社会への、彼らのむなしい渇望の声をきくはずである。
「戦争の悲劇」を超えるとは、どのような行為を指すのか。彼らの短い人生は、そのことを問いつづけているはずである。
文庫版の機会に、「祖国と敵国の間」のなかで、戦後のアメリカにおける日系二世の環境変化を扱った箇所について、主題とは関係の薄い部分を中心に削除修正を行なった。
なお、戦争文学についての深い関心と造詣から力作の解説文を寄せられた野呂邦暢氏、出版の上でお世話いただいた講談社の梶包喜氏、宇山秀雄氏に厚く御礼申し上げたい。
昭和五十三年一月
吉田 満
鎮魂戦艦大和(上)
臼淵大尉の場合
――進歩への願い
それは奇妙にかすれたハモニカの音であった。眠りから覚めかけたきみの耳に、ハモニカはかすれながら切れ切れの響きをつづけていた。家の裏手を走る電車の地をゆるがす轟音も自動車の騒音も絶えてきこえないから、おそらくもう真夜中であろう。自分が寝てしまってから息子の磐(いわお)が帰ってきて、妹の汎子(ひろこ)にそっと玄関をあけさせ、いつも使う次の間にひとりで布団を敷いたに相違ない。目を閉じたまま、きみはそんなことを考えていた。
このまえ帰ってきてから、三ヵ月ほどになるだろうか。あのとき磐は久しぶりの帰宅の理由を、乗艦が修理で佐世保に立ち寄ったからと、例によって簡潔に報告した。それからあまり日もたたないのに突然また帰ってきたのは、何のためだろうか。母を起すまいと気遣うのは息子のいつもの流儀だが、いつまでもハモニカを吹きつづけているのは、自分も寝つかれないせいであろう。
昭和十九年も押し詰って、退役機関中佐の主人は仕事の出張で留守の日が多く、臼淵家は女二人だけの淋しい年の暮れであった。思いがけず息子が帰ってきたのはせめてもの慰めだが、せいぜい二日も家にいたら、骨休めもそこそこに慌しくフネに帰るのであろう。艦上勤務者が無駄に陸上にいて空襲に身をさらすほど愚かなことはない、というのが彼の口癖であった。
ハモニカが得意の磐が珍らしく掠(かす)れた音を響かせているのは、母の眠りを妨げぬよう息をひそめて吹いているからか。それとも母にきかれることを予期して、それが気持を昂ぶらせているためだろうか。
いつも姿勢のよい磐は、寝床の中でもめったに体を横に崩すようなことはない。闇を通してまっ直ぐ天井を見据えながら、ハモニカを口に含んでかすかにそれをふるわせている息子の表情が、ありありと目に映るように思えた。
長い長い間、きみは床の中でそのかすれた音を耳に沁みこませるように聴き入っていた。そして息子がいま自分に暇乞いにきたのだということをおのずから得心した。彼は繰り返しただ一つの曲を吹きつづけていたからである。
それはきみが最も愛好する筝曲の「千鳥の曲」であった。千鳥の鳴き声、波の音、松風の響きになぞらえた懐かしい調べは、トリル奏法のハモニカのすすり泣くような余韻にのって、きみの耳朶に呟きつづけた。磐は母が娘時代から親しんだという邦楽曲をいくつか選んで練習を重ね、自己流に編曲してレパートリーに入れていたのである。
臼淵磐は大正十二年八月、清忠、きみの長男として東京青山に生まれた。翌年七月には、長女の汎子が生まれている。臼淵家はその後土浦、横須賀に移り住み、昭和七年、横浜の保土ケ谷に居を構えた。
昭和十四年十二月、横浜一中四年から海軍兵学校に入学、七十一期である。卒業は戦争勃発のため予定を半年くり上げられ、十七年十一月であった。もともと律義な実際的な性格に生まれついた磐は、規律と自己放棄に貫かれた三年間の江田島生活で、その資質にいちだんと磨きをかけた。
兵学校では新入りの四号生徒を迎えると、一号(最上級生)が鍛えながらモノを教えこむ仕きたりだったが、臼淵一号生徒はまず正しい小便の仕方が大事だといって、シズクをこぼさぬよう朝顔の便器の前に進み出てやるコツを、身振り手振りで懇切に伝授した。こういう一号がいかに稀有(けう)の存在であるかを、四号生徒は後々まで思い知らされた。
そんな風だから、日常生活もまことにコマメでよく気がついた。酒保代や写真代、日用品の出費に小遣いを使い過ぎて足が出そうになると、事細かなメモを証拠品として母に送り送金を頼みこんでいる。夏の休暇で家に帰る前に、父の郷里である石川県に立ち寄る計画をたてたとき、何はさておき最初に手をつけたのは、訪問すべき家、会わねばならぬ人、参拝すべき墓の範囲と順序とを、必らず知らせてほしいと父に依頼することであった。これがはたち前の青年かとあやしまれるほどの気の配りではあるまいか。
母のきみは若い頃胸と心臓が弱くあまり丈夫ではなかったから、その健康がいつも磐の心痛の種であった。ことに休暇前の手紙では、自分一人の帰省受入れ準備に追われて、「万一お身体を損ねるなどといふことの夢ございませんやう願つてやみません」と繰り返し訴えている。臼淵家に長らく勤めたお手伝いのまさよが、戦争の激化でやめさせてほしいと言い出した。彼は真っ先に慰留の手紙を書き送り、「お母さん一人だとどうしても無理をして身体をこはしますから、まさちやん、どうか私の家で働いて下さい。家で母と朗らかに過ごして下さい」と懇願している。
生来のこうした心くばりは、時に神経質とも見える一面につながりやすい。兵学校で支給された雑巾がボロ過ぎるといって新しいのを早速四、五枚送らせたり、褌に馴じまず母親手製のゴムで止める式の猿股を愛用したことなどは、その一例であった。あまりに校庭の桜が美しいので大きな枝から一ひらとりましたと、押し花をきれいな紙にきちんと折りたたんで母に送りとどけた心やりも、職業軍人教育の真只中にある身としては、繊細に過ぎるといわれるかも知れない。
また磐は子供の頃から図画が大好きで、動物の毛並みや表情をペン画の細筆で微細にかき分けた絵がたくさん残っている。この好みは後年も変らず、兵学校時代に家族あてに出した手紙の多くは、詳細な挿絵入りの身辺報告で埋められている。
しかし彼自身は、神経が細かいと評されるのを嫌っていた。素直で忠実で何ごとにも手を抜かないのが取り柄であり、神経質というよりも人の情が分り過ぎるのだと自認していた。指導訓育の責任を持つある分隊監事がそこを見抜き、臼淵生徒の人物評を「きわめて真面目、一所懸命にやるたち、ただし軍人としてはロマンチックなところあり」と要約したのが痛く気に入って、さすがに正確に見ているものだと感心している。
臼淵のロマンチシズムは無骨な指導教官の目にさえとまった程だから、気分的なものにとどまらず、ときには文芸風な装いをまとってあらわれた。中学四年の頃書き散らしたと見られる「クレオパトラの殿堂」という未完の文章は、天女のような女性に導かれて幻想の中の大理石の階段を下ってゆく情景を、甘美な語り口で描写している。美しいものに人一倍多感な彼の本性は、“クレオパトラ”という名前の響きひとつにさえ酔いしれることができたのであろう。
――思ひ出の中からよみがへつたやうな天女がついてくる。窓も明りとりもないこの殿堂は、ふしぎにいつもやはらかな光がみちてゐる。殿堂ぜんたいがもくもくと湧く丸い雲の上に立つてゐるのではないかと私は思つた。それほど神秘な古代の香りがするのである。階段はいつまでも続いてゐる。下りきつたと思ふと、またはるかに次の階がつづいてゐるが、下に行くにしたがつて暗さを増すやうな気がした。
天女は、この殿堂に住む人たちは今から二千年ほど前に皆死に絶えてしまつて、この国の女王のクレオパトラだけが、その若さと美しさを失はずに、最も高い位置を占める部屋でしづかにくらしてゐるのだと教へてくれた。
私たちはさらに下つていつた。だんだんに光が射さなくなる下の方へ、永久に歩きつづけてゆくやうに思つた。そして地の果てまでつづいてゐる一番底には、暗黒と死魔と争闘と不潔とが待つてゐるやうに思つた。――
こうした要素のうえに、娘の頃から歌舞伎に親しんだ母の影響を加えると、無類に芝居好きな臼淵少年が出来あがる。兵学校下級生の時代はまだ平和だったので、休暇が近づくかなり前から東宝劇場、日劇、有楽座、歌舞伎座、その他目ぼしい出し物があったら全部、切符を手当てしておくよう家に念を押すほどであった。
しかし劇的なものへの興味が、こうして観劇に熱中することだけでは満たされなかったところをみると、彼にはもともと舞台の華やかさにあやかりたい気持があったのかもしれない。臼淵が子供の頃から、ひそかに自分の運命を劇的に、さまざまな姿に空想することが好きだったと思わせる材料は少なくないが、たとえば「或る印象」という仮題で書き残した中学二年の頃の作文の下書きでは、死刑執行を見守る群集にまじった劇中人物としての自分が、生き生きと描き出されている。目の前で絞首刑がはじまろうとするとき、臼淵少年はどのような行動に出たか。
――私は心臓がからつぽになつて、足がなくなつたやうな気がしました。恐ろしいほど夢中になつて死刑を見てゐる男たちの中をかきわけて、外へ出ようとしました。うしろをふりむけば、目をむき出し口を一ぱいあけた男が、絞首台の上からのぞきこむやうな気がして、必死で逃げました。あせればあせるほど外へ出られません。いくへにも重つてゐる群集は、私が通るのにじやまです。冷い汗が胸をツツーッと走りました。
やつと人ごみの外に出られた私は、なほもつつ立つて死刑執行を見てゐる男たちをあとに、夢中で逃げました。一秒も早くここを出たいと思ひました。足に満身の力をこめて土をけりました。やつと死刑場からだいぶ離れることができたやうに思ひました。その時です。またもやあの男の断末魔の声が、耳もとにギャア〓〓ときこえてきたのです。――
もとより細部の表現は幼く舌足らずだが、その頃仕合わせそのものの中学時代を過ごしていた磐が、恐ろしい力から逃げ切れずに結局群集の中に引きもどされる孤独な役を自分にふりあて、実感をこめて心のうちを告白しているのは暗示的である。
臼淵がいささか格式張ったことを好んだのも、劇的なものへの興味の一つの現われであろう。真面目に格式ぶればぶるほど、かえって自然のユーモアを醸(かも)していたのは、邪気のない人柄の故と思われる。その良い例が、兵学校に入って初めての夏休暇を前に、名誉ある海兵生徒の資格で、帰省当日準備しておくべき事項としてあらかじめ家族に提示した九箇条の厳命である。
一、なるべく多勢が駅に出迎えること
二、門の鉄の大戸をあけておくこと
三、玄関の戸もいっぱいにあけておくこと
四、玄関の敷石に軽く撒水すること
五、西瓜を冷やしておくこと
六、離れに雑巾がけしておくこと
七、神棚仏壇を整頓しておくこと
八、一輪ざし程度でよいから花をさしておくこと
九、和服、帯、シャツを用意しておくこと
このうち三、四、五、七、八の五項目には赤の○印がしてあって、これは必らず妹の汎子が責任をもって実行するよう、特命が添えられていた。
戦火たけなわのなかを卒業した七十一期の新候補生五百八十名は、直ちに戦艦扶桑に乗組んで乗艦実習を仕上げ、恒例の天皇拝謁をすませると、翌十八年一月、いっせいに勤務地に散っていった。臼淵にあたえられた配置は軍艦鈴谷(すずや)であった。
鈴谷は元来水雷戦隊の旗艦として設計され、昭和十二年に完成した排水量一万二千トンの最上型重巡で、当時は同型艦熊野とともに第二艦隊第七戦隊に属し、トラック島を本拠とする機動部隊の一翼をになっていた。昭和十八年前半は戦局が急転する重要な時期であるが、トラック島周辺の機動部隊には敵との会戦の機会が全くあたえられない。鈴谷には空襲もない。連日哨戒訓練、出動訓練を繰り返しながら、泊地警戒に専念するのみである。臼淵候補生は砲術士兼衛兵副司令を拝命したが、相次ぐ敗報をよそに、空しく日が過ぎるのを数えるほかなかった。
南の泊地では、午後の別科(体育訓練)に水泳をとり入れる習わしであった。碧(あお)く透きとおった海、ギラギラとまばゆい太陽、涼風を運んでくるスコール、珊瑚礁のリーフと真白な砂、やわらかなさざ波。これ以上水浴びにふさわしい理想郷があるだろうか。
臼淵は艦隊切っての水泳の達人として、たちまちに名をあげた。彼のクロールの速さはすでに兵学校最下級の四号の頃から評判で、三号になると全校でも数少ない特級の一人に進級し、体技成績で最も名誉とされるメダルを在学中二個もかちとったが、フォームの見事さがまた抜群であった。特別コーチに来校したオリンピックの競泳選手が、あと自分たちの身代りとして見習うべきはこの人だと名指しして帰ったことは、校内に知れわたった事実であった。
身長一六三センチと上背はないが、体重六〇キロ、胸囲八四センチで均整がとれ、胸が筒のように太く丸い。その胸が少しも浮き沈みせず、なめらかに両腕を回転させながら水の上を滑ってゆく動きの自然さは天性のものだが、体の左右の均衡、両肺の均等な発達を妨げる運動は、一切みずからに禁ずる努力家でもあった。たとえば少年たちに圧倒的人気のある野球の如きも、右が強くなり過ぎるとして子供の頃から一度もやった経験がないのである。
十八年四月、待望の移動命令が出て、北方作戦待機のため三ヵ月ぶりに内地に帰還。しかし瀬戸内海の柱島泊地と横須賀基地を拠点として、訓練に明け暮れる日課に変りはない。ただ秘かに山本五十六長官の戦死が伝えられた衝撃と、将来みずからの死に場所となる戦艦大和の巨大な艦影を間近かに望見しえた僥倖とは、無聊を破るわずかの変化であった。
六月、少尉任官と同時に砲術学校普通科学生を命じられ、一期上の七十期と混成の即成教育が始まった。教科の内容は砲術全般、なかでも小口径砲の射撃指揮法に重点を置くほか、心身を鍛え直す狙いで陸戦訓練が含まれており、急速に消耗の目立ちはじめた第一線砲術科士官、特に駆逐艦砲術長要員の養成を主目的とすることは明らかであった。
横須賀にある砲術学校は保土ケ谷の自宅から近く、休日には学生仲間を連れて家に帰ることも自由であったから、臼淵はこの恵まれた特権をせいぜい活用し、三ヵ月の学生生活を満喫した。妹汎子のその頃の日記は、思いがけずしばしば兄の顔を見ることが叶った嬉しさであふれている。
しかしこの短い間にも、戦勢はさらに傾斜していた。九月末に卒業した時、彼らを迎えるべき駆逐艦はも早やほとんどなかったのである。
同期五百八十名の中から選ばれて砲術学校に参集したのは、十六名であった。なぜ砲術専攻に選ばれたのか。砲術をやることを自分でどう受取ったか。彼はそのことについて一言も語っていない。兵学校時代、学科では数学と測的理論が得意であり、射撃訓練の実習でも優秀な成績をあげていたから、ある程度は予期していたのかも知れない。事実、砲術専修が本望であったかのように、彼は勉強に精進した。
砲術部門は英国海軍の伝統をうけて、明治以来久しく日本海軍の花形であり、鉄砲屋は秀才士官の巣であった。その中の一人として籍をおくことは、彼を満足させただろうか。後に詳しく触れるように、磐の父清忠は機関科出身でありながら、海軍航空隊の草分けの一人であった。砲術科に対して戦略上の対極に位置するのが飛行科であることは、いうまでもない。父は息子が跡をついで飛行機畑に身を投ずることを熱望し、かつそれを公言していた。そして同期の俊秀の多くは、飛行科学生に選ばれていたのである。
十月初め、臼淵少尉は第二の配置、軽巡北上に砲術士兼甲板士官として着任した。鈴谷時代と異って腕をふるうに足りる職分である。北上は開戦時の第一艦隊第九戦隊から第三艦隊第十六戦隊に移され、シンガポールを拠点に南方整備支援と西南部隊警戒に従事していたが、臼淵が乗艦する数ヵ月前から米機の来襲が始まり、すでに死傷者を出していた。八月には浮遊機雷触雷の事故があり、さらに陸軍兵輸送の新任務も加わって、勉学と実習訓練から解放されたばかりの臼淵には、戦勢の急変を肌におぼえる情勢展開であった。
臼淵は戦艦大和の副砲分隊長に転属するまで、ほぼ一年の長い期間をこの北上に勤務することになる。その間にガンルーム(若手士官の居住する一次士官室)の古顔になり、中尉に昇進し、やがてケップガン(ガンルームの長)になった。この花形の座に就いても、公務の上でことさらに目立った振舞いに出るのは最も嫌うところであったから、北上時代の彼の言動について記憶にとどめているものは、ほとんどいない。劇的な要素を好む性向は軍人の修業を始めてから影をひそめ、殊に公的生活では、みずからの職分を全うしようとする努力のかげに沈澱していた。
敵襲の合い間には相も変らぬのびやかな南国の生活があり、臼淵はことに夕暮れを好んだ。海に落ちる大きな入り日、絹雲のひろがりと残映、薄暮の中天にかかる天の川。そこには彼が少年時代を過ごした保土ケ谷界隈の、まだ開けない町並みや野山の上に立ちこめた暮色と、どこか似通った物哀しさがあった。
一つだけ持ってきていたハモニカを取り出して、ひとしきり吹いてから甲板に出てみると、すっかり夜の帳(とば)りがおりて、目に映るのはただ南十字星の青く冴えた光芒と、鱗光のようにきらめく夜光虫の群れだけであった。
北上は排水量五千五百トン、三本煙突の球磨(くま)型二等巡洋艦で、大正十年完成の旧式艦であった。開戦直前の昭和十六年、同型艦大井とともに雷装艦に改造され、一四サンチ主砲七門のうち後部の三門を撤去して代りに魚雷発射管八門を積みこんだが、それも戦局にとり残されて無用となり、臼淵乗艦の頃は一部発射管の代りに特型運貨船を搭載していた。そして臼淵の退艦後、昭和二十年初めには特攻兵器回天八基の搭載艦に再改造され、更に臨時工作艦になり果てた。しかし皮肉にも北上が最も活躍するのは、終戦後鹿児島港に繋留され、特別輸送艦としてはたらいた時期だったといわれる。
この戦争ですべて後手後手にまわった海軍用兵の欠陥を、象徴するようなこの老朽艦には、もとより新式の射撃装置もなく、最新知識を吸収してきたばかりの若い砲術長に期待するものなど、皆無にひとしかった。
毎日橙色に染まって沈む夕陽を眺めながら、彼は何を考えたか。彼の自負はどこにいったか。その頃しばしば往来して寄港したボルネオのタラカン、バリックパパンやセレベスのマカッサルが、父の手柄話を通してずっと以前から耳馴れた存在であったことも、屈辱の思いを増したであろう。
開戦直前、長い予備役のあとに思いがけず充員召集をうけた父清忠が、この方面の最前線で奮戦し、とくに緒戦の飛行場建設に勲功のあったことを、彼は存分に知らされていた。それからわずかに二年を経たいま、同じ水域でどれ程のことが可能だったであろうか。敵機襲撃と機雷触接の回避を至上命令として、せいぜい物資輸送の援護か陸兵の転進支援で憂さを晴らすことが、許されるすべてであった。
臼淵の持味の一つに、決して愚痴をこぼさないということがある。泣き言をいう代りに、この全く無為に過ぎた鈴谷、北上の二年弱の勤務で、彼は明らかに変貌したというのが仲間うちの定評である。臼淵はもともと山の手育ちのハイカラな秀才で、いかにも家庭円満な一人息子といった雰囲気があり、粗野朴訥には縁遠く、どこかに孤高の風があった。それが、どんな野暮な奴ともごく気楽につき合える、平凡な男に生まれ変ったというのである。
十九年一月、臼淵にとってはじめての本格的実戦の機会が訪れる。二十七日夜、北上、鬼怒の軽巡二艦は、陸兵輸送の帰途、五千メートル間隔で探照灯の照射訓練を行ないながら、マレー半島のペナン沖にさしかかった。この戦局、この状況下での照射訓練は、単なる油断ではなく、夜間航行の常識を無視した暴挙にひとしい。北上の舷窓に燃え立つような光が走るのが、鬼怒の艦橋から認められた。
タカタカタカタカと非常ラッパ。北上から平文の緊急信「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク」。鬼怒の艦内スピーカー「戦闘配置ニ就ケ」「第一戦速急ゲ」「爆雷戦用意」。
のちに臼淵の妹の汎子をもらう同期の谷光司は、鬼怒の副長附兼甲板士官で、たまたま哨戒当直にあたっていた。彼のとっさの操艦で一度北上に接近しかけるが、状況確認までは危いと思い直して反転、そこで艦長が指揮をとり、冷静にふたたび遠ざかった。鬼怒は雷撃を免れ、結局北上をドックまで曳航する任務を引受けることになる。
潜水艦による魚雷命中二本、弾庫雷庫は外れて誘爆を免れたが、前部後部に浸水し、兵器機関損傷のうえ戦死十二名を出した。惨敗である。臼淵は晴れの初陣の戦さのあと、次の日の朝早く戦死者水葬の指揮をとらなければならなかった。敵襲直後のため、葬儀式による弔銃発射やラッパ吹奏のゆとりはない。軍艦旗に包まれた柩は、薬莢のおもしをつけられ、一体ずつ舷門から投下されていった。
戦死者全員が海中に姿を没するまで、臼淵は挙手の礼をつづけた。手空きの乗組員が、別れを告げるため甲板に整列していた。被害箇所の応急修理に追われて、葬送者の列はまばらであり、その数があまりに少ないことが、臼淵には不当に思えてならなかった。
四月に谷が鬼怒から駆逐艦夕風に転属の命令を受けた時、北上はまだシンガポールのキングジョージ五世浮ドックで修理中であった。二人は一晩ゆっくりセレター軍港の水交社で飲んだ。同期でも谷は水雷専攻で畑が異るし、卒業以来かけちがって、親しく語りあうのは久し振りであった。
谷は一八○センチをこす大男で、柔道と相撲が得意の野人であり、水泳と登山、機械体操型の都会人臼淵とは、体質も気質も対照的であった。夕風は横須賀に帰投しているので、早速台湾経由の飛行機便でも手配して着任するという谷に、臼淵は部厚い封筒とわずかの遺品を託し、谷はそれを臼淵家に確実に届けることを約した。「俺のような田舎者は相手にしない近寄り難い男」と思いこんでいた谷は、臼淵の闊達な態度におのれの不明を恥じた。
谷を使者に立てて家族に音信を伝えようとした臼淵の試みには、切なる悲願がこめられていたことがのちに明らかになるのである。
人間の個性は多面的であり、一つの輪廓のなかに収まるように捉えることはむつかしい。まして短い生涯を凝集して生きた男は、矛盾する性向を矛盾したまま強引に貫き通したようなところがある。そういう意味では、臼淵は気鋭の第一線士官でありながら、餓鬼のような食いしん坊、憂愁を愛する詩人、そして人生論議を好む哲学青年であり、どの面をとっても、すべてに彼の本領があった。無垢な少年の本性を残したまま、同時に生死の奥義をきわめようとする大人(たいじん)でもあったのである。
旺盛な食欲は健康な若者の特権であるが、ただより多くを食らうことへの興味だけでなく、うまいものをそれにふさわしく味わう心得があると臼淵は自負していた。兵学校に入ったばかりの頃、すでにいっぱし食道楽のつもりで、それにハマッ子らしい洒落っ気が結びついていたから、地方から出てきた無骨なクラスメートの中には、娑婆っ気丸出しで怪しからんと憤慨するものもいた。
横浜のうまい食べもの屋の略図を家族に置土産に置いて出てきた程の彼のこと、時々無性にその頃のくいものが欲しくなると、せめて名前と形容詞だけでも書き綴った手紙を送り、たべたつもりになって我漫した。
盛上るような天丼、熱い熱い御膳しるこ、昔恋しい鯛焼、ホカホカした支那マンの黒あんこ、母の作ったトロリとねばいトロロ汁、最も濃厚なるアイスクリーム。――形容詞の凝り方が可愛らしい。そして最後に、どれもこれも見ただけで噛みつきたくなる奴ばかり、と書き添えたところなど、無邪気なものであった。
空想の中の珍味ではなく、それが自分の口に入る可能性が高まれば、情熱は倍加する。夏休暇を前に、帰省したら直ぐたべられるように揃えておけと妹に註文したのは、江田島でありつけないものばかり、氷水、牛乳、みつまめ、梨、バナナ、パイン、桃、びわ、いちじく、さらに巴やき、シュウマイとたたみかけるような調子であった。
兵学校から妹に送った手紙は、こまやかな筆遣いの人生論や芸術論のあいだに、思いがけず遭遇した御馳走の戦勝報告が、得意げに挟まれている。巡航航海の途中、四国の松山に上陸して一気に平らげたのは、うな丼とザルそばとかもなんばんと、クリームソーダとカステラであったし、日曜日に四号生徒の父兄から招かれて饗応されたのは、すきやき、卵、いも、ホットロール(パン)、デコレーション・ケーキ、餅菓子、羊かん、瓦せんべい、まんじゅう、ココア、ネーブルであった。食い物というといつも恥ずかしげもなく具体的なのが彼の身上だが、この時ばかりは「総攻撃を受けて、さすがの俺もひつくり返つたよ」と正直に降参している。
臼淵を知るすべての人が共通して心に留めている印象は、徹底した口数の少なさである。しかし外に向って無口であることは、かえって心豊かな詩人となるための第一の要件であるかもしれない。言葉多き人は、胸の深みにある憂いも喜びも、唇から流れ去らせてしまうのかもしれない。
臼淵の沈黙のかげにはどんな饒舌がかくされていたか。中学時代の文藻ノートにひそかに書かれた詩片をいくつか見ただけでも、すでにその年頃で、つきせぬ饒舌を控え目な微笑と夢想に包むすべを彼が心得ていたことは疑いようがない。
「悲しいおはなし」
唇をとぢてゐる人がゐますね
あれは先生です
教科書に三枚の椿の花びらがさしてあります
昨日女生徒が死んだのですよ
静かにおききなさい
かれの人生観を――
「退屈」
とことこと歩み去る人間は
ともすればあひるに似るものだ
それ ごらん
嘴のやうな
あくびをしたから
「曇つたうそ寒い秋の夕ベのこと」
夕闇が迫つて眼が疲れてきた
少年と少女はわかれねばならぬことを知つた
広い涼しい洋間
少年はえりまきを首にまいてやつた
野のはてに消える一筋の道を
あともふりかへらずに帰る女の子
少年はぼんやりしてしまつてゐた
部屋のなかをふり返ると
籐製のデスクの上に
ぶあつなフランス小説が置かれてその上にはうす青くすきとほつた小猫のぶんちんがある
「淋しい時」
何故に 笹の葉を 追ふのか
このせゝらぎの めだかは
するどい鎌で切られた若百合は
まだ青白い固いつぼみを持つてゐた
竹の多い山を行くと
大きな寺で美しい尼僧が
そでをからげて
しめやかに鐘をうつてゐる
蜜柑山のてつぺんに 一つ小さな墓があつた
犬猫は村の人家を 迷ひあるいた
この小さい村は 今静かに食事をしてゐる
沈黙の底に豊かな饒舌を蓄える素質は、兵学校時代にまで持ち越された。戦闘訓練の最中(さなか)にある戦士ほど、沈黙を強いられるものはない。感想をもらすことも弁明も許されず、終始黙々と行動して、きびしい講評と制裁を受けるだけである。
三号生徒のとき陸戦訓練に軽機小隊として参加した臼淵は、住民地の戦闘が行なわれたあと、心を許して妹に心境報告を書き送っている――小隊からはぐれて迷ひ子になつた俺は、軽機の旗をかついであちらこちら歩き廻つた。若い牛が退屈さうに啼いてゐた。山の際から人家におりる道をゆくと、とてつもなくよい香りがして、まだ開きそめたばかりの梅が、静かに馨つてゐた。道で逢ふ人は皆平和で善良な人達だつた。通りだと思つて首を出した所が人家の庭だつたり、狭い土蔵の前にまぎれこんだりした。何度も敵兵の後ろ姿を見た。本隊はどこかまだ不明。遠くで重機銃が鳴つては、とだえた。俺はただその響きに耳を傾けてゐた。――
臼淵はその環境と経歴の偏りにもかかわらず、哲学好きの青年であった。あるいはこの言い方は正確でないかもしれない。読書好きは子供の頃からだが、哲学めいた本に親しんだのはせいぜい中学までで、兵学校時代はもちろん、甲板士官とか砲術士とかいう勤務の即物的生活は、およそ求心的思考を拒絶する肉体奉仕の規律に満ちていたからである。
しかし磐は私に似て哲学が好きだった、と母のきみは回想している。明治三十年生まれの日本女性が自分から哲学を好きだという。どんな哲学をどのように、と詮索するよりも、潔癖で物事を筋道立てて考えようとする性向が、母から息子に遺伝したことを感謝する言葉と受取るべきであろう。
後年、臼淵は母が見通していたように、数ある江田島出身士官の中で、一人だけ別種の風格をもつ人間であることをみずから立証した。昭和二十年四月、戦艦大和が燃料片道の沖縄突入作戦に出動を決定したとき、青年士官の間に特攻死の意義付けをめぐってはげしい論争がひき起された。兵学校出身者は君国のため特攻の名誉のもとに散ることをもって瞑すべし、他の一切は無用と断じ、一方学徒出身の予備士官たちは、自分の死、日本の敗北が持つ意味を納得するため、より普遍的な裏付けを求めた。
戦勢は必敗への道を直進しつつあり、彼らが決行しようとする帝国海軍最後の艦隊出撃も、征途半ばでの挫折はのがれえぬ帰結であった。この段階まで追い詰められて、江田島と予備学生という対立が表面化したことが、重要なのではない。兵学校出には、青春のすべてを賭けた生甲斐に固執せずんばやまない執念があり、学徒出身者には、不本意な軍人としての死によって、人生の可能性が一切失われることを痛憤する、形を変えた執念があった。
論争が鉄拳と乱闘にまで発展したことに、彼ら全体の心情をひとしくおおう絶望の重さがあらわれている。臼淵は的確にそのことの核心を理解していたと思われる。
臼淵は若手士官を統(す)べるケップガンであり、事態収拾の責任を負っていた。論争のあとの深夜、彼は学徒出身者の中心となった数名の予備士官を集め、真率な口調で短い話をした。一つは、俺は貴様たちのように人生を考えるのが好きだということであり、もう一つは、江田島出の若い連中はあの世界しか知らんのだから勘弁してやれ、今日のところは俺に免じて収めてほしい、ということであった。
その翌日、当直に立った臼淵が、艦橋で薄暮の海面に双眼鏡を向けたまま低く囁くように吐いた次の言葉は、直ちに艦内に伝えられ、出動以来の死生論議の混迷を断ち切った。特攻の死をいかに納得して受け入れるかについて、これを論駁するに足る主張は出なかったのである。
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩といふことを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだはつて、真の進歩を忘れてゐた。
敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救はれるか。今目覚めずしていつ救はれるか。
俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望ぢやないか」
彼のいう進歩とは何か。彼が進歩という命題に生甲斐を賭けて悔いないのは、何故であろうか。このことについては、さまざまな議論が可能であろう。しかし生死の関頭に立った弱冠二十一歳の臼淵磐が、自分の思想、自分の言葉をもって一つの命題を提示したことだけは紛れもない事実である。
青年臼淵の人間形成のあとをたどっていくと、そこに父の影響が陰に陽に色濃く投影されていることに改めて注目される。
磐の父清忠は明治二十四年、石川県に生まれた。生家は鳳至(ふげし)郡柳田村といって、能登半島の先端に近い丘陵地帯の寒村にある。舞鶴の海軍機関学校卒業は大正二年で、二十二期である。兵学校の期別に引き直すと、息子のちょうど三十期先輩にあたる。
卒業から五年をへた大正七年、二十七歳で航空科学生を仰せつけられ、これが飛行科畑のスタートとなった。大正十二年、海軍大学校の教程を終了、続いて各地航空隊の教官、分隊長を歴任し、昭和二年にはカタパルトの研究によって、恩賜研究資金による賞品、賞状を授与されている。この時から海軍に奉職する最後の日まで、“カタパルトの臼淵”というニックネームがついてまわることになった。
それ以後昭和十年に四十四歳、中佐で予備役編入となるまでの経歴は、海軍工廠部員のポストが大半を占めている。
海軍大学校でも優秀な成績を収めながら、壮年の盛りで退役したのは何か特別の事情があったのか。臼淵家では、軍法会議に付されるところを危うく免れ、その代償として退役が早まったという風説を、必らずしも否定していない。
軍法会議にかかわりがあるとすれば、「人生ト航空」執筆による筆禍事件以外に理由を見出し難いが、もちろん公式の履歴にそうした記録は残っていない。恩賜賞を受けたのはこの論文の公開後であり、退役後は総合飛行機研究所を創立し、これを軌道にのせてから軍の支援を受けた兵器関係の企業に転出して活躍している。さらに昭和十六年十一月には占領飛行場の滑走路整備という緊急要務のため充員召集を受け、その翌年中佐に復していることなども考え合わせると、軍法会議云々は思い過ぎというべきであろう。その大胆な言説が部内で問題とされ何らかの警告を受けたことは事実としても、法に触れる程の逸脱があったとは思われない。
臼淵清忠は若い頃から正論の士であり、常に少数派であり、恩賜賞受賞後は不遇であった。その身辺に漂う一種爽快な孤独臭が、こうした風説を生む母体となったとみるのが真相に近いのではあるまいか。壮年で退役すること自体、軍縮の余波の残る当時としては、それ程稀れなことでもなかったのである。
論説「人生ト航空」の主張は、「航空事務統一研究記」という副題に集約されている。大正十四年四月という日付で、大判一八二ページに整然と細字の肉筆でしたためた原本が、現在も残っている。筆者は「立空学人手記」と匿名にされているが、清忠の手許にはそれが自分と同一人物であることを裏付ける証拠がそろっている。部内で真相を知らぬものはなかったであろう。
六章、十五節からなるこの大冊の論稿は、写真版でコピーをとり、海軍部内のみならず局外者にまで頒布された。そこには例えば次のような危険思想が、疑いをさしはさむ余地のない直線的表現で開陳されていたのである。
「空軍ヲ防クモノハ空軍ナリ。日本海軍カ大正十三年七月九日、相模洋ニ於テ行ヘル戦艦石見爆撃実験ハ、航空機ノ威力ヲ明白ニ表現シ、戦艦偏重主義者ニ余リニモ大イナル失望ヲ与ヘタリ」
「将来ノ戦争ハ空軍ニヨリ開始サレ、指導セラレ、勝敗ヲ決セラルヘク、国防ノ根拠ハ実ニ空軍ニアリ。華府会議ニヨル海軍比率約定ハソノ精神ニ於テ心外至極トスル所ナルモ、五対三ノ数字ハ敢テ不可トセス。ムシロ海軍力ヲ五対三トシテ国費ヲ節約シ、空軍力ヲ三対五ニ至ラシメンヲ望ムモノナリ」
帝国海軍が大艦巨砲主義の絶頂期にさしかかった矢先に、現役幹部の手になる空軍最優先の新説が、こともあろうに外部に向けてまで喧伝されては、放置を許されないのも無理からぬことであった。
本書執筆の動機は、空軍統一組織の成就を速やかならしめるよう、世論を喚起することにあると、冒頭に明言されている。そのため列国の航空状勢を分析し、「英吉利国」、「伊多利国」を代表として世界の趨勢が統一組織に傾いている事実を詳述している。「日本ノ如キ分立組織ニ於テハ、国防上ノ責任帰趨明確ナラス」「吾人ノ理想ハ空軍ヲ主トシ、単一国軍ニ合一スル建制ナリ」という踏みこんだ提言も見える。
この警告は全く無視されたのか。それとも朝野になにがしかの反響を呼んだのだろうか。
統一空軍の組織化が現実問題として討議される時期はたしかに到来したが、それは遥かに後年、太平洋戦争末期の敗色一段と濃い昭和十九年二月であった。しかもここまで論議が煮詰ったのは、戦闘局面の偏りのため、皮肉にも海軍の航空機消耗が陸軍のそれに倍するという非常事態の結果であった。そして全海軍を空軍本位に再編成し、全軍の航空機資材および生産を統一するという海軍案の是非をめぐって、陸海最高首脳は慎重協議を重ねたが、陸軍の反対を抑え切れず、原案は破棄され、海軍機の生産、資材に重点を指向すべきだとする次善の案すら、しりぞけられてしまうのである。
「人生ト航空」はさらに大胆な予言を多く含んでおり、純反動噴気機械、すなわちジェット機の出現や、電波による飛行機自動操縦の実用化を必至と見ていること、大都市絨毯爆撃の威力と惨禍を数字的に論証していることなどは、その立論がいたずらに観念論に走らず、的確な情報と技術研究に支えられていた事実を示すものであろう。特に本土空襲のあたえる致命的破壊力を詳細に予告していることは、それが大正年代から発せられているのを思うとき、驚異というほかはない。以下はその一部である。
「敵空襲ニシテ成功シ一度制空権ヲ奪ハレンカ、敵ハ根拠地ト随時往復シテ不断ノ空襲ヲ続行シ、日本ノ資源、策戦源ヲ破壊シ去リ、遂ニ手モ足モ出ツル所ナキニ至ラン。艦隊モ陸軍モ空ヲ守ルニ詮無シ」「焼夷弾攻撃ハ主トシテ軍用造営物、燃料貯蔵所、市街等ヲ焼キ払フヲ目的トス。(略)焼夷弾ハ五及至三〇瓩程度ノ小重量弾ニシテ、数種ノ爆薬、化学薬品ヲ混成シタル小榴弾、二〇〇及至三〇〇個ヲ抱有ス。コノ小榴弾ハ命中ト共ニ摂氏約一三〇〇度ノ白熱高温ヲ発シ、如何ナル消火剤ヲ以テスルモ之ヲ消ス能ハス。可燃物ヲ焼尽ササレハ止マサルナリ。一攻撃飛行機ハ約一〇〇〇瓩ノ焼夷弾ヲ携行スルヲ得」「大正震災ノ際東京市内ニ急発シタル火元ハ八八箇所ナリシモ、彼ノ如キ大災害ヲ見タリ。今モシ五機ヨリナル一攻撃飛行隊ノ来襲アラハ、一二〇〇箇所ヨリ火災ヲ生起セシムルコトトナリ、ソノ惨禍想フ可キナリ」「近時、新聞ノ報道スル所ニ依レハ、首都東京ハ防空施設皆無ニシテ全ク裸ニ等シク、敵空襲アランカ帝都ハ須臾(シユユ)ニシテ焼土ト化ササル可ラサル運命ニアリ」
軍人臼淵清忠の不幸は、先見の明が明達に過ぎて、度外れた遠い先きまで戦争というものの将来を見通させてしまったことにある。その透徹した眼力は、専門の航空機研究にとどまらず、みずから指揮をとる戦闘の渦中でも変りがなかった。
開戦直後、内地でさえ真珠湾の戦果発表に浮きたっていた頃、応召先の第一線から妻のきみ宛てにとどいた十二月二十四日付の出征第一報は、今読み返しても異様なほどに平静である。
――かうして大東亜聖戦は各方面で展開されつつあります。蒼惶としたやうな、愉快なやうな、神厳なやうな経過であり、悲観もせず、楽観もせず、恐れもせず、侮りもせず、これが日本人のとるべき態度といふものでせう。――
清忠の脳裡には、日本が旧態依然たる戦略思想を猛訓練と精神主義で武装することによって、開戦当初には予想外の勝利を博しながら、遠からずその限界を暴露するまでの足取りがありありと映っていたのであろう。
さらに開戦後ほぼ一年をへた昭和十八年の正月、内地にいる親しい知人五人の連名を宛名として送られた戦地報告は、士気高揚の明るさではなく、いちだんと辛辣な警告のきびしさで貫かれている。――今日、日本国民は、緒戦に勝つたので、戦さに勝つたかのやうな錯覚に陥つてゐるのかも知れませぬ。もしそんな安易な気でゐると、この戦さに負けることは必定ですな。今までのは彼等の油断に乗じこちらから仕掛けた局部的な奇襲であります。戦さはこれからであり、敵から仕掛けてくる長期戦となります。二十年かかるか、五十年かかるか。ワシントン攻略はいつになりませう。今までの一年は剣道でいへば、立合ひの姿で一太刀はまづやつた。この一太刀は確かに手答へがあつたんだが、お胴にはまだ入つてゐない。この一太刀を打ち込んだのも、軍部としては必死捨身でかかつたんだのに、国民といふ介添人はそれほどに察しない。当り前のことに見てゐる。――
臼淵清忠の達識に対比してわれわれの身辺にある現実は、あの明々白々たる敗戦のあと三十年近くを経た今日、なお空軍無用論を唱える論者がいるというあたりを徘徊している。例えばある戦史家は近著において、日本海軍の射撃の命中率がアメリカ海軍に比し少なくとも三倍であったという判断を根拠として、もしハワイ奇襲作戦の如き愚策をとらず伝統的な迎撃作戦に専心していたならば、外見上優勢なアメリカ艦隊は開戦後おそらく一年以内に、すなわち射撃用レーダーの普及以前に西進作戦を断行し、両軍総力をあげての艦隊洋上決戦の結果、わが艦隊は再び日本海海戦に類する大戦果をあげることが出来たであろう、と慨嘆している。
大正末期においてすら予見可能であった航空機の威力の認識は、どこへ行ったのか。その点は艦隊が多数の駆逐艦を護衛として戦略行動中、さらには作戦展開前の隊形においても、雷撃機の攻撃はほとんど成功しなかったとしていくつかの好都合な戦例を引用するにとどまり、空軍対艦船の優劣比較について、率直に世界の大勢を尊重しようとする態度は見られない。この事実から推しても、かつて若き臼淵清忠を威圧した全盛期の砲術万能主義の壁の厚さが、どれ程のものであったかが偲ばれるのである。
磐はお母さん子で、幼い頃から父には馴じまないところがあった。お父さん子は妹の方である。汎子はいつも父のそばにいたがり、気ままに甘えていた。
磐がついに父とは一定の距離を置いたままで終ったのは、そこに身近な肉親よりも軍人としての強い個性、明快な思想の存在を意識しないわけにはいかなかったからではないか。彼の構えた姿勢は、手紙の文面にいちばんよくあらわれており、その適例が、兵学校時代の末期、応召先にいる父に久々にしたためた書簡の次の書き出しである。
その頃父は、飛行場設営隊指揮官の激務を解(と)かれてやや気楽な海軍航空廠マカッサル支廠長の職にあり、きみにあてて「磐の奴、巣から飛び出したら、もう親鳥なんかあつたことを忘れたんか、一向に手紙も寄越さぬが、どうにか自分で餌を食つてるかね」と遠回しに音信の催促を言ってよこしたのを、母がこっそり息子に伝えたものと思われる。永らく無音をかさねたことへの後悔と、どんな調子で戦陣見舞を書いたらよいかの戸惑いが、彼の筆を余計重いものにしていたのであろう。
――謹呈、父上様には熱帯の風土気候にも冒され給はず、益〓御清適に御起居遊ばされ候由、大慶の至りに存じ奉り候。降つて私儀、父上様御勇戦の程承り、一筆拝呈を決心致し候事も数度にはとどまらざりしも、訓練学業の多忙に紛れ、何時か久しく御無音に打過ぎ申訳も無之候――
しかしこれでも詫びが足りぬと思ってか、追伸で母宛てにも珍らしく候文で、「同封の粗筆何卒父上様御許まで御送附有り度く、此段御願申上げ候。なほ今後はマカッサルとの連絡は、努めて維持する決心に候へば、御休心遊ばされ度候。恐惶謹言」と取りなしを依頼している。
父がいっぽう娘とはどんな調子で接していたかは、戦地からの便りの「汎子は月一回は必らず手紙と慰問状を出す義務ありと、東条総理大臣より御達示ありたる筈だが」といった一節からもうかがわれる。
磐の目に映った父と妹の関係はどうであったか。中学一年の幼い筆はそのあたりをさりげなく描いている。――いつもひろ子がおそく帰ると、お父さんは、「ははあ、ひろ助は(お父さんは大ていひろ子を呼ぶのにひろ助をもつてする)、又先生にしかられて立たされてきたよ。」ひろ子はあまえた口調で「いやだ、お父さん。ちがひますようだ。めつ」と上目でにらんでみせる。こんな事でお父さんはひろ子がたまらなく可愛いのだが、僕なら答へは「然らず」とか「ノー」で終りであるから、お父さんは笑ひもしない。――
この父と息子は、対話の場面にも独特の趣きがあった。兵学校時代、磐が休暇で帰ると、二人は酒をのみながらよく議論をした。酒は父の方がずっと強かった。父は終始徹底した空軍優位論を唱え、息子は制空権の重要さは認めるが、戦局を決定するものは艦隊同士の対決にほかならないという立場で、真正面から受け答えをした。
やがて砲術専攻に進むだけあって、磐が水上艦艇重視の基本線を譲ることはなかったけれども、父親がその主張を論破すべく新知識の蘊蓄(うんちく)を傾けたことは、海空対決についての息子の認識を一新させるに充分であった。磐はのちに砲術学校にたいして砲戦技法の後進性をはげしく批判する立場に立つが、父との論争が、砲術用兵の責任の衝にある母校の旧弊を堂々攻撃する自信に実ったとすれば、時代の変転が生む皮肉なめぐり合わせというべきであろう。
磐が真っ向から父に反抗したことが一度だけある。兵学校に入ってはじめての夏の休暇を前に、父から詳細をきわめた予定表が送られてきた。それは課題の勉強や見学旅行や学術研究を盛り沢山に含む、ぼう大なプランであった。磐は勇ましい啖呵が次々と飛び出す長文の返書を直接父に送りつけた。
――父上はいろいろ誤解をしてをられる。平時の緊張が物凄いのだから大いに遊ぶのが休暇といふもの。トランクに教科書を詰めこんで帰るなど愚の骨頂。気が遠くなる程あらゆる自由行動をとつてみたい。休暇は父上のものでなく私の事ですから、私自身が欲する事をしてゆくのが一番いいのではありませんか。父上はあまりに私を甘く見すぎてをられる。私もやはり脳を持つた人間であります。要するに今度の休暇には自由が欲しいのであります。――
兵学校に入って初めて一人前になったという矜持が、父親にたいしても対等でありたいという衝動を促した。これまで抑えられていただけに、筆が走り出すと止らない。そのことは自分でも気付いたのであろう。ところどころ文面をやわらげたり、「なにこの磐は、やせてもかれても父上のせがれ、あんまり無暴(〈ママ〉)な愚事は致しませんから、御心配なくお待ち下さい」というような合いの手を挟んで、調子を変えている。
恐る恐る帰省してみると、父はひと言もその手紙にはふれず、万事息子の望むようにさせた。豪気な人としては異例なことであった。それ以来、磐はこれ程父の面上に吐きかけるような抵抗の言葉を、二度と筆にも口にもしたことはない。
あるとき深夜まで父子が飲んでいて、酒を持って部屋に入った母のきみが、たまたま耳にした言葉に胸を刺されたことがある。父は「戦争で死ぬほど詰らんことはない」と低い声で言い、しばらく沈黙してまたそれを繰り返した。息子は体を固くして聞いていた。
清忠が一ばん好んだのは、軍人以外の世界の人と勝手な話をすることで、その時ほど幸福そうな表情をしたことはなかった。若い頃の写真をみると、額(ひたい)の広い精悍な相貌のなかに、年に似あわぬ洒脱さと知的な翳りが漂っていて、ただの少壮軍人にはない風格を備えている。
磐はそういう父をどう見ていたか。父が海軍の人間であることが相手に分ると、向うから近況をきかれる前に、中佐で退役したことを自分から切り出すのが磐の癖であった。父という人間の全体像にたいして、批評めいた感想を口にすることはめったにないが、親しい友人にだけは、「オヤジは軍人には向かない人だった」と洩らしていた。
(きみの述懐)
主人の清忠はきっぷのいい人で、なかなかの男前でした。私が女学生の頃から海軍さんにあこがれて、海軍の人をと先生に頼んで、世話をしてもらったんです。
あの頃の海軍ですから芸者遊びもやりましたが、わたしヤキモチは焼かないんです。焼けばますます遊びますもの。一度待合をのぞいたことがあります。出てきたのは中年の芸者で、女のお客の方がいいといって上手に取りもちをしてくれました。商売にはちがいないのに、すっかり楽しい気分にさせてくれて、あれではこっちの負けです。いい勉強になりました。
磐もいい男だって騒がれたようですが、海軍さんなら、あのくらいの男前でなくてはね。主人はどちらかといえばきつい顔、磐は優しい顔立ちでしたが、まあいい勝負でした。私だってこれで若い頃は、別ぴんのうちだったんですよ。
私は信州小諸の生まれで、あの時代としてはハイカラな方でしたでしょう。鉄道馬車で上田の女学校に通ったり、柄の長いパラソルをさし帽子をかぶって、松井須磨子気取りの頃もありました。家が代々地主で藤村もよく遊びにきました。そんなところで育ったんです。
磐は私の方によく懐(なつ)いていましたが、父親は父親なりに可愛がっていましたね。いつまでも子供に思えたようで、兵学校に入ってからも休暇で帰ると、「坊や、坊や」と呼ぶので、「せめて磐と呼んで下さい」なんて抗議していました。
主人はああいう考えの人ですから、磐が砲術の方へ行ったときは、ガッカリしていましたよ。でも最後に大和に乗ったらしいということを知ったときは、なにしろ不沈といわれたフネですから珍らしく上機嫌で、親の気持には変りがないんですね。
主人は昭和十八年の中頃に充員召集が解除になり、それからずっと外地にも支店のある大興鋼廠という民間会社を預かっていたんですが、終戦の年になると、皆の反対を押し切って、六月に香港に出かけて行きました。上海、台北と途中待たされながら飛行機を乗りついで、三十五日もかかる長旅だったようです。今思うと、終戦が間近いことを予想して、現地で後始末の責任を取ろうとしたんでしょう。
帰ってきたのは終戦の年の暮で、香港の赤柱収容所から直接そのままとか、それあ乞食のような恰好で、玄関に着くなり「磐はどうしたか」というわけです。「生きていてほしかった」とひと言。ヘタヘタと坐りこんでしまいました。可哀想でした。海軍を離れたうえにずっと外地だったので、大和がやられたという噂も耳に入らなかったようです。
その頃の日記が残っています。大体毎日欠かさず何行かずつ克明につけていますが、家に帰り着いた十二月三十日のところは、日曜、曇、のあと、「約二日間ノ鹿児島カラノ汽車ノ旅ヲツヾケ、夕刻保土ケ谷駅着。自宅ニ入ル。マヅ之ニテ無事帰ツタトイフ訳。早速風呂ヲ立テ、四ケ月間ノ垢ヲ落トス。酒モアリ。極楽ヘ来タ思ヒナリ」とだけで、磐のことには筆先ひとつふれていません。よほどこたえたのでしょう。
磐の名前が出てくるのは、翌年の四月七日がはじめで、「日曜。晴ノチ曇。磐一周忌命日ニツキ、家内心バカリノ回向ス」と短い記事が残されています。その二、三日あとに、「曇。桜ホトンド満開ナルモ、花見ノ気持モナシ」と書かれた文字をじっとみつめていますと、あの頃の主人の気持が、そのままよみがえってくるような気がします。
日記はずっと中判のノートに横書きですが、あとになって表紙をひょっと見ましたら、My Poemsなんて気取ったペン字で書いていました。そういえばどこか文学青年のようなところのある人で、上海に着いた日の日記に「黄浦江ハ褐色ニヨドミ、舟子雑然ト喧騒ス」と一行書きしるした時なんか、結構詩人の気分だったのでしょう。
それでいて、頭はいつも冴えていました。内地の空襲がひどくなり出した頃の日記に、「雨、在宅。電灯モツカズ。ラヂオモ聴ケズ。瓦斯モ来ナイ。配給モ無シ、今後ハ如何ニナリ行クカ。次ノ空襲ハドウ来ルカ。世ハ挙ゲテ陰ウツナ思ヒヲ秘メテ居ル」とありますが、どんな顔をしてこれを書いたのやら。こんなときにも、自分というものの姿を、他人の目で見抜ける人だったんですね。
ふだんはとても茶目っ気のある人で、面白い手紙をもらったことがあります。昭和十六年の十一月中頃でしたか、突然臨時召集を受けたままどこかへ出かけてしまったので、私たち心配な毎日を送っていたんですが、そこへいきなり部厚い封筒がとどいたんです。日付は十二月七日、発信先は佐世保局気附飯野部隊となっていました。
手紙の出だしが、おどろいたことに、甚句「征戦行」という歌でした。
今度このたび戦さについてネー
あまた勇士のその中で
われら二千有余人
軍用船にと乗りこんで
太平洋をおし渡り
敵陣目がけて進みゆく
すめら御国のためにとて
唯ひとすぢに大任を
全うせんとするからにや
残した親も妻も子も
心にかけるわけならず
生還誰か期すべきや
されば同志はお互ひに
日毎のつらさ、憂きことも
忍びてはげみ助け合ひ
からだ大事に規律よく
上命守り部下愛し
国家目的遂行に
一身打ちこむ決心は
岩をも透す桑の弓
引きしぼりたる満月の
清き心ぞ ヨーホホイ
エー さすがなれ
アー ドッコイ ドッコイ
そのあと便箋に十四枚、びっしりと書きこまれたのは遺言でした。ひとつひとつ、あの件はこう、この件はこう始末せよという私への言いつけです。甚句をもち出したのは、きっと真顔で遺書を書き出すのが照れくさかったんですね。それでも、軍艦にのって太平洋を渡るんだっていうことは、よく分りました。手紙の結びに、一番大事なことなのに追伸のような小さな字で、こんな風に書いてありました。
――日米会談もすでに外交ジェスチャーとしての段階に入り、いづれは英米を向ふに回はして実力行動に出ねばならぬとすれば、この手紙は或ひは遺言書とならぬとも限らぬ。若し私が戦死したら、磐が相続するから、家のことについて別段言ひ遺すこともないが、私のことはクラス会に始末をつけて貰ふがよい。磐も軍人のこと故、いつどうなるかも判らぬとすれば、汎子には将来養子を迎へて、家族として置いたら良いのではなからうか。とも角飢ゑることもあるまいから、心配することはありません。――
家に帰ってから、昭和二十八年の秋に六十二で亡くなるまでは、抜けがらっていうんですか、以前とは別の人のようになりました。昔から目付きの鋭い人で、近所の子供なんかに怖がられたもんですが、それがショボショボした二皮目になって、毎日磐の写真を眺めながら、夜になると酒をのんでいました。酔って「絶望の先に何があるんだ」なんて、自分に向って聞いていたこともあります。
南方でうつった病気が原因だと仰しゃる先生もありましたが、一種の皮膚ガンになって、三、四年患いましたが、最後まで意識はしっかりしていて、ああいうのを憤死というんでしょう。恩給が出ることになったのが二十八年の十二月でしたから、あと一と月足らずもっていればもう少し肩身の広い思いでいけたのに、よくよく運のない人です。
磐は妹の汎子とは年子だが、その割にはずっと年の離れた兄妹のように可愛がる風があった。中学生の頃、すでにこんなことを書いている。――ひろ子はあれで相当の自惚れやさんだ。いつかひろ子を無理にひつぱつてきてヘボな写真をとつた。その時ひろ子はぷうつとふくれてゐたので、顔が狐狸(こり)か豚牛(とんぎう)のたぐひのやうに見えた。さあ、ひろ子はだまつてゐない。「あたしの顔はこんな顔ぢやないよ。もつと可愛い顔よ」これには僕もあきれて、しばし言葉が出なかつた。するとお母さんが横つちよから「いや、実際お前のふくれた顔は見られたもんぢやない」。ひろ子は何か言ひたげだつたが、しやべる材料がないと見えて、困つたやうにだまつてしまつた。(略)
ひろ子はたまにお父さんにもしかられる。もちろん僕より軽くしかるのだが。お母さんはしよつちゆうおこごとだ。するとひろ子は、いつまでもめそめそしてゐたり、口答へしたり、生意気なそぶり手ぶりを見せたり、わざと反対のことをしたりする。お母さんは尚更しかる。お父さんはにが笑ひをしてそつぽをむいてしまふ。これはひろ子の気持が奥底まで理解できてゐないからだと思ふ。
夜おそくまで勉強し、つかれはてた心で物を見ればすべてがいらいらする。何か言ひたくなる。何ともいへぬ重苦しさを感ずる。この事がお父さん、お母さんに分るだらうか。僕はけいけんによつてよく知つてゐるから、怒らない。くはしくひろ子の心境を考へて見るのだ。そしてちよつと冗談を言つてやると、忽ちきげんがなほる。けれども、ひろ子は依然としてやつぱり生意気だ。――兄の貫禄を見せようと背伸びしている姿勢のなかに、年の近い競争者への反撥がちょっぴりのぞいているのは正直である。
兵学校時代に送った手紙でも、妹を見る眼は同じである。――つひにお下げにしたさうだね。どんな姿になつたかな。写真とつたら送つてくれよ。さぞかしチンチクリンだとは思つてゐるが――
その写真が母から送られてくると、返事にこう書いている。――汎子の写真拝見しました。見ちがへるほどまん丸く肥つて丈夫らしい様子、安心しました。お下げにすると如何にも働き者らしく見えますね。なかなか大人つぽくなつて立派です。その調子で家の手助けをさせて下さいよ。それから平均甲になつたさうで、万々歳――
彼の妹思いは、十六歳の時から離れ離れに暮らしたことで、いっそう募ったように思われる。普段は顔を合わせるチャンスもないから、出来るだけ新しい写真を送らせて手許におきたがった。ヴァイオリンを抱いた立姿の写真が愛らしくて気品があり、特に気に入っていた。この写真ばかり何度も繰り返し見せられたクラス仲間は多勢いるが、虫の好かん奴には、一度も見せようとしなかったのは彼らしい。
夥しい分量にのぼる兄妹の交換書簡の中で、最も重要な部分を占めるのは音楽論、文学論である。「論」という言い方が大げさに過ぎるとすれば、音楽と文学にことよせて、兄が思春期にある妹の成長を願い、はぐくみ導き、その成果を確かめた「よろこびの記録」といってもよい。
音楽の面でそれがあらわれている例の一つは、自分の作曲にふれた次のような感想である。――「日本人形のワルツ」は、初歩の頃の作品だから、幼稚なところもあるが、あつさりして純真な美しさがあり、自分でも気に入つてゐる。あとで作つたものは、馴れてきたので形は整つてゐるし華やかだが、徒らに派手なものが多い。それはさておき、お前も一つ作曲したらどうだい。出来たらぜひ送つてくれ。倶楽部のピアノか、俺のハモニカでやつてみるから――
汎子が自分のアコーディオンで「荒城の月」をひいてみて、曲想の美しさを見直したと書いて送ると、早速返事がかえってきた。――荒城の月は全部短音階の協和音によつてゐるので、全体が美しく調和してきこえたのであらう。あの曲を本当に美しいと感じたのは、えらい。お前にはもう「短音階の思想」が頭に入つてゐるらしい。
一、二個所変なところがあるといふのは、ラシドの組合せの和音ではなくて、シソファレの和音の個所であると思ふ。これは正しくG(♯)調に変調してC調のアコーディオンに合ふやうに編曲してあるのだ――
作曲や音階の議論を吹っかけているわりには、磐自身自由に操ることができた楽器はハモニカだけだったが、ハモニカの演奏だからといって、子供じみたお遊びばかりとは限らない。人並み外れた肺活量、柔軟な口元の筋肉という適性を発見した磐は、小学生のころからハモニカ奏法の上達に意欲を燃やした。中学一年のとき、すでにオクターブ奏法やタッタッとたたみかけるスタッカート奏法をマスターし、しかも曲に合わせて微妙な音色のベースを吹き分けられるのが得意であった。
兵学校に入ってからは、休みの日に倶楽部で飽きる程ハモニカを吹くのが重大な日課で、仲間たちもそれを聴くのを大きな楽しみとした。江田島にきてここまで自由にやれるとは予期しなかったので、手持ちのハモニカはほとんど、自分の部屋に大切に残してきていた。早速母に頼んで、音楽に関する全財産をそっくり倶楽部あて直送させたことはいうまでもない。――ハモニカはC調、C(♯)調、G調、G(♯)調、A調マイナー。楽譜は思いつくままに次々とオールハモニカメロディー、高等ハモニカ曲集、軽音楽集、名曲集、ハモニカ音楽学校、ハモニカ奏法、自作の作曲編曲を集めたノート。それに唇のあれどめクリーム――
汎子がひと通りアコーディオンをひけるようになったのも、兄から強く奨められたお陰である。基礎をおぼえた彼女は、江田島にいる兄に、練習用の楽譜を送ってくれるよう頼んだ。彼が毎日どんな生活を課せられているかを知りつくした身内としては、よほどの信頼がなければ出来ない芸当である。その返信の書出しが――譜を送れといふことだが、一体何に使ふのかね。アコーディオンかヴァイオリンか、はたまたピアノでもやるのか――とからかう調子になっているのは、妹の信頼をいじらしいものに受けとめる気持を、かえって鮮明にうき出させているように思われる。
スパルタ教育の暇を見て、「忙しくてぞんざいになるかも知れないが、そのつもりで」と断り書きしながら、彼は根気よくアコーディオン向けの編曲を送りつづけた。――ラ・エスパニョラ、ドナウ川の漣、青きドナウ、千一夜物語、波濤をこえて、マドリッドの一夜、東洋のバラ、トルコ行進曲、ハンガリアン・ダンス5番、キスメット、チゴイネルワイゼン、ハンガリアン・ラプソディー、エスタディ・マンティナ、風の結婚、軽騎兵――
妹のアコーディオン習熟に磐がこれほど執心したのは、おそらく自分のハモニカと合奏する楽しみを夢見たからであろう。汎子にもその願いが通じて、兄の言いつけ通り忠実に練習に励んだが、ついに一度も、落着いて兄のハモニカと合わせて演奏したという記憶を持っていない。磐の上陸はいつも風のような慌しさであったし、家にいる束の間は、何をするともなくただ兄のそばに黙って坐っている方がにつかわしく、それで不思議に気持が満ち足りるのであった。
磐と汎子の間にかわされた文学談義は、あるべき水準からすると、音楽論以上に他愛ないものであるかもしれない。あの時代の中学生が四年までに読みあされる本は、質量ともに知れたものであった。戦時中の女子大生であった汎子についても、事情は同じだったであろう。
文学を語る磐の熱っぽさは、むしろ自分の底の浅さをわきまえたうえで、それを埋め合わせようとするひたむきな精進を思わせる。文学はあくまでも仮象であり、それまでの生活で満たすことのできなかった“燃焼への渇望”をいやすために、汎子の中にいる自分の分身に向って訴えかけているとさえ思えるのである。
彼が詳細な読後感を添えて妹に推選しているのは、青い鳥(メーテルリンク)、幽霊(イプセン)、紅い花(ガルシン)、狂人日記(ゴーゴリ)、炉端のこほろぎ(ディッケンズ)、或る男、其姉の死(志賀直哉)であり、ゲーテの「若きヴェルテルの悩み」については、経験のないお前にはピンと来ないかも知れないが、愛の中の真実、美しい自然描写、人の心と思想の生長の捉え方には、強く惹かれるものがあると激賞している。
トルストイの「民話」の深い味わい、ジイドの「田園交響楽」の清純な世界を称揚しているのは彼の好みから分る気もするが、最も強い心象を残している作品として、中河与一の「天の夕顔」一冊をあげているのは、意外に思われる。――中学二年の時、古本屋から汚い藁半紙の本を借りてよんだが、あれ程自分に影響を与へた本はない。精神の気高さに打たれて、一週間は何か夢を見てゐるやうな気がした。ああいふ本がなぜもつと世間の人々に喧伝されないんだらう――という讃辞には、ほかの場合にない誇張が見られる。あるいは妹にむかって、自分の大人っぽさを強調する意識がはたらいていたのかもしれない。
汎子が国木田独歩の文章を散文詩風で美しいと言ってきたのには、「号外」「窮死」などの別の作風の作品を示唆し、佐藤春夫の抒情が魅力的だという感想には、彼の世界は決して少女的な浅いものではないと反論している。北原白秋の詩歌をうまいと評したのは彼を怒らせ、俺はあんな官能にとらわれた軽薄なものは真っ平ごめんだ、と意気ごんでいる。
お前の美はまだ色彩的美の域を出ない。俺のは同じ美でも心情的美だ。一人の男が一人の女を六十、七十のヨボヨボになるまで愛しつづけるのも、俺にとってはりっぱな美だ、――と「美」の論争を挑んだあとで、しかしお前が渇望してやまない美しい世界も俺にはよく分る。俺自身、全く同じ気持をもった時代があったからだ、といたわりを添えている口調には、口先だけでない真情がこめられている。
詩では萩原朔太郎と上田敏の詩集を愛読し、ほかに気に入った作品として、三好達治「春の岬」、伊良子清白「孔雀船」の所感をしるしている。
俳句も好んで読んだが、興味深いのは蕪村への傾倒である。兵学校時代、時間をかけてゆっくり「七部集」を読了し、その感銘に基いて妹に懇切に実作心得を指導している。――いい句を作りたかつたら、蕪村句集を買つて来て年中読め。芭蕉や一茶はだめだ。大き過ぎて若い女性には向かない。蕪村をよみ、その気持にひたつて陶酔しろ。特色のある成句、効果ある表現をみつけたら極力真似をしろ。蕪村を自分にとり入れて美しい句を作れ。飽きずに年中作つてみろ。――
汎子の追憶の中にいる兄は、無条件に懐しい親身な印象に終始しているが、ごくわずかのあいだだけ好ましくない後味を残している時期がある。兄が中学一、二年の頃、万事に自信を持ちはじめた気負いが妹にもじかに当って、突き放されたような淋しさを感じることが何度かあった。その頃の兄は、何よりもこわい存在であり、恐ろしさの実感は、次のような思い出に今も鮮明に残っている。
臼淵家の隣りに広い空地があって、大きな柿の木が毎年おびただしい実をみのらせていた。地主の顔は見たことはないが、管理人と称する老人が時折りあらわれた。その老人は昔海軍にいたとかで水交社の様子なども知っており、そんな縁で臼淵家とは格別昵懇という素振りをみせたい風であった。
柿の実を放っておいて、みんな腐ったまま落ちるにまかせるのは木のためにもよくない、好きなだけ取ってくれれば有難い、こんな話を老人が磐にしたのは、好意を示したつもりだったのであろう。あまりその勧めがしつこいので、とうとうある日受けて立つことになった。兄がするすると木に昇り、妹は下で籠をかまえて待ちうける役目であった。
作業がはじまると、待っていたように二人連れの男の子があらわれた。この辺りでは見かけぬ顔で、一人は磐と同年輩、もう一人は三つ、四つ年かさに見えた。この頃柿が盗まれるので、自分たちは地主から監視を頼まれたものである。地主の家族が熟するのを待っているのに、困るではないか。ひとの土地に生(な)ったものをとるのは泥棒だということを知っているのか――居丈高な詰問をききながら、磐はひとことも言い返さず、平然と柿の実をとっては同じ調子で投げてくる。下から汎子がおびえて「帰ろうよ」と呼びかけるのにも、逆に高い枝に乗り移ってゆっくりと投げ続けるだけである。
これで相手が怒らなければ不思議であろう。張りあげた罵声がひびく。「お前が誰かは分っている」「あんな家に住んでいながら、柿を買ってくう金もないのか」「よし、引きずりおろしてやる」二人は掛声をかけて幹を揺すぶりはじめた。それでも磐は巧みに足をからませながら実をとり続けていたが、泣き出しそうな妹の表情に初めて口を開いた。「お前はそれを持って先に帰っとれ」
家の庭に帰りついてほっとあたりを見まわすと、あちこちの窓に顔がのぞいて開き耳をたてている。結局三十分ほども粘って、あらかたその木の柿を採りおえてから磐は悠々下りてきた。向き合ってみると相手の肩ほども背丈がない。しかし声には二人分以上の力があった。
磐の論旨は明快である。自分は管理人からとってくれれば有難いと言われたので、その頼みをきいたまでである。地主が盗まれるので困って監視をたのんだということは初めて聞いたが、君たちも自分と管理人の関係は知らなかったはずだ。管理人と地主の関係を示す証拠はないが、君たちが確かに地主から頼まれたという証拠もない。要するに自分も君たちも資格は同じで差がないと思う。なぜ自分だけを泥棒呼ばわりするのか。一方的にそう主張する根拠はあるのか。
引け際がまた子供にも似ぬ鮮やかさで、「しかし今後は絶対に柿をとらないことを約束する」と言って相手の眼を見た。相手は気をのまれたように、「悪いことを言ってすみませんでした」と頭を下げてから帰っていった。
汎子が兄の中に見たこわさの核心は、怒声を浴びながら全く変らぬ身振りで柿をとり続けた冷静さにあり、平静さを崩さぬ時間の長さにあった。そしてひと度論争がはじまると、辛抱強く理屈を主張しながら、主張が正当かどうかをこえて、窮極には自分が正しいのだという確信に相手を引っ張りこもうとする気力にあった。
しかしそういう恐ろしい兄の記憶は、そのあと急に切れて、気持にムラがなく大きく包みこんでくれるような兄らしい人間像にまでいっきに飛んでしまうのだが、今でも時々汎子は、あの頃の尖鋭な自意識を兄はどこに収めてしまったのだろうかと、訝(いぶか)しく思うことがある。
兄に対する幼い頃からの畏敬の気持が、お互いに長じてからも、ありきたりの兄妹の間柄以上に、いよいよ頼もしいものとして兄を見上げようとする素地を作ったことは当然であった。その兄が戦地に赴(おもむ)くという事実が、傷つきやすい年頃にある汎子の乙女心に、どのような動揺をあたえたかは想像に難くない。
昭和十八年十月、砲術学校を辛業して北上勤務を拝命した臼淵少尉は、その月の四日、早や早やと飛行機便の割当てを受けてシンガポールに飛立っていった。汎子はその日の日記に、「兄を新橋第一ホテルまで送る」とただ一行書きしるしている。あわただしい出立に含まれたただならぬ予感が、余計な感想をさしはさむゆとりを許さなかったのであろう。
翌五日の記事は、短歌二首だけである。兄が句作をすすめたにもかかわらず、汎子は少し前からひそかに歌作りを試みていた。
秋の夜をしみ通りくる虫の音に昂ぶる思ひ如何で冷やさむ
還りきまさぬ君と知りてか夜をこめて露にすだくは鈴虫の声
そのあとはしばらく日附も記事もない日が続き、その余白の間に、汎子は一語一語を力をこめた書体で書きとめている。
「毎晩のやうに、私は鈴虫の声をきいてゐた。
リーンリーンと清らかに響きわたる鈴虫の声の悲しい余韻を、忘れる日があるだらうか。
それは失はれてゆくものの象徴のやうにきこえた」
兄との文通が次第に間遠になり、返事をもらうこともむつかしくなってくると、汎子は時折兄宛ての音信の形で日記を書くようになった。例えば二十年三月十八日は、こんな風である。
「お兄さん、また春がやつて来ました。
今年の春風は、B29の爆音の伴奏附で、私たちの無念の思ひをかき立てながら吹いてきます。お兄さんの頬には、どんな春風が吹いてゐるのかしら。
でも、B29つて、本当に美しい姿をしてゐるのね。本当にきれい。戦争さへなければ」
兄戦死の報は、九月初め、石川県の新保町の親戚にひとりで疎開していた汎子に、母からとどけられた。汎子の日記はそのことにはふれず、事件の記事としては、九月二日に「ミズリー艦上で降服文書調印式」とあるだけである。
汎子はすべての思いを、そのあとに書かれた四首の短歌に託したのであった。短い修業の間に、彼女は自分の選びとった言葉で心のたけをうたいあげるすべを会得したといってよいであろう。
荒浪のしぶきと散りし兄の霊安らかにあれわれら敗れたり
猛きこと焔のごとき海の君いま散り果てて眠り給ふや
氷雨ふる大海原も沸き立たん底に鎮もる若き血潮に
祈りつつ厨子のみ前に額(ぬか)づけば嬉しや兄の天にのぼりゆく
これ程に慕われ惜しまれた兄は、ただ妹を幼いものとして愛玩し、庇護すべき対象として導いただけではなかった。この上ない確かな贈物、立派な伴侶を妹の手もとに残すことによって、見事に兄としての務めを果たしたのである。
殊のほか多角的で持味の豊かな臼淵の人となりを、これまでいろいろに見てきたが、その底を流れる一本の太い筋は何かといえば、軍人としては並外れて情味に富んだ男、ということになるであろう。これはまた彼を知るものの衆目一致するところであり、なぜあれ程広く部下の兵隊たちから慕われたかを解く鍵も、この辺にあると思われる。
誰からも慕われ愛されたのは子供の頃からで、小学校四年生の磐は、自分には学校中で一番多い十八もの“あだな”がついていると数えあげている。それ程に人気抜群だったのであろう。――たぬき。お馬。赤んぼ。うす(臼)。赤臼。黒臼。臼もちつきゃぺったんこ。小猫。うす(臼)いべろ。どた臼。三つうろこれんたい。うっちゃん。こうくす。赤こうくす。黒こうくす。ぼろぼうし。やぶれぼうし。お馬の赤んぼ。
しかも、あだなをこんなにたくさんつけられたことを真底喜んでいるところが、臼淵らしい優しさであった。あだな王の心境を、彼はこう書いている。――あだなを呼ばれても、僕は怒らないで、「こらあ」などと、じょうだん半分に笑ひながら追いかけまはしてゐます。ですから僕はこれからもつとたくさんあだなが出来るでせう。――
兵学校に入りたての頃、外出すると街で必らず沢山の下士官兵に出会った。水兵よりも下士官の方がずっとよく敬礼をするのが、はじめは意外であった。水兵で真っ先に敬礼をするのは大てい海兵団出たての子供のような三等水兵で、それが彼には可愛くてたまらなかった。
下士官の中には普段学校で術科を教えてもらっている歴戦のつわ者もいたが、そういう者程パッと気持よく挙手をする。その都度、何となく済まないような有難いような気がして、「実るほど頭の下る稲穂かな」と、軍人らしくない純な感想を洩らしている。
しかし情味豊かというのは、ただ単に物分りがよいとか、思いやりがあるとかいうのとは違う。もっと人間臭いから、自分に情があって話が分り過ぎることが軍人として歯痒く思われれば、そういう自分に反逆する。そして彼のその正直な苦悩が、ひとりでに現われてしまうところが独特の魅力であった。
海軍に入った初めから敬礼というものに格別の関心を持っていた臼淵が、大和のケップガンになってから呉で出会ったクラスの仲間に、ある出来事について語ったことがある。それは臼淵が欠礼をめぐって一人の予備士官に鉄拳を見舞った話であった。――ある日、夜間訓練のあと、艦内の通路で欠礼したまま走り去ろうとする少年兵を、その士官が呼び止めるのを臼淵は目撃した。欠礼の事実を認めさせた上で、鉄拳数発の修正の代りに、予備士官は短い説教をしただけで放免した。欠礼をしていやな後味を残すよりも、たとえ後ろ姿にでも必らず敬礼をした方が、気持が楽だから実行してみろ、という趣旨の説教であった。
一部始終を見ていた臼淵は、「不正を見てもなぐれんような士官がいるか」と一喝してその予備士官を殴りつけた。説教して道理を納得させる方が、鉄拳制裁よりも効き目があるし正しい、と相手は反論した。臼淵は、「貴様のいうことにも一理はあるが、軍人の真価は戦場でしか分らん。砲煙弾雨の中で、俺の兵隊が強いか、貴様の兵隊が強いか、ひとつやってみようじゃないか」としめくくったというのである。
臼淵が身辺の小さな事件を、自分から細かく報告するのは珍らしい。話の最後に彼は、「大和ともなると、ガンルーム士官が五十人もいて、いろんな奴がおるから苦労だよ」と感慨を洩らしたが、こういう弱音も珍らしい。日頃の彼を知りつくした仲間には、彼のこの変調が、鉄拳制裁を軸とする軍の規律を軽蔑した予備士官の発想に、本心では共鳴したいのを抑えるための動揺と映った。そのときの表情には、殴られても自分に立ち向おうとする予備士官をいとおしむ気持が、はっきりあらわれていたというのである。
情味あふれる生まれつきに打ちかって、ついに鬼神の心をものにするまでにどれほどの努力を傾けたか、そこにどれほどの痛苦があったかを打明ける相手は、やはり父のほかにはなかった。外地を転戦する父宛てに艦上勤務の中から送った長文の手紙の一節に、一字一字を刻みつけるようなしっかりした筆勢で彼はこう書いている。
――小生の現在の信念は、昔日の中学生時代とは趣を異にし、努力誠心一点張りのコチコチにて候。誠心誠意努力してやまず、その為の成功失敗は論ずるに足らず、唯ひたすらに国を思ひ、海軍を思ひ、艦を思ひて一生懸命全力を傾ける、これが人間として又日本人としての本当の道には非ざるや。不肖かく愚考し愚信する次第に御座候。
されば本分を忘れて不正を働く者共を見る時は、猛然たる憤慨胸に充ち、物寂しき心地となるを如何ともしがたく候。されどこの信念の貫徹は人の為にあらず。たとへいか程人に憎まるるとも、仲間外れとなることあらうとも、排斥せらるるとも、罵倒せらるるとも、黙々と信ずる道を進むのみにて候。人は「かたくな」と言はん、「義理知らず」と言はん、「友達づきあひの悪き奴」と言はん、すべて問題外なり。鉄の意志、固き決意に決して動揺は無之候。――
父はこの手紙をどう受取ったか。磐がつねに一歩の距離をへだて言葉を慎しんで相対してきた父。軍人でありながらみずからの煩悶をかくそうとせず、奥底のはかり知れぬ父。その父にぶつけた過激な誓いの言葉は、どう受取られたか。
張りつめた語気のうちに、父に対して自立しようとする気構えが汲みとれることを、父は何よりも喜んだのではなかろうか。こういう場合の清忠の癖で、返信は磐にではなく、ほめ過ぎることを抑える筆致で、母を通して間接に息子に伝えられている。
――あれがあんな立派な心構へになつてくれたことは何よりもうれしい。優等の成績で卒業せよと、強要がましい手紙をやつたこともあるが、今にして思へば、良成績も望ましいには違ひないが、それよりも、精神がすでに確立したからには、技倆や智能は自啓、修得されるのであつて、むしろすまんことを申し進めたと思つて居ります。あれが今日の境地に至つたのは決して三年、五年の由来ではない。中学時代強情我慢の拗者(すねもの)であつたのも、ほとんどこの父その儘の相であつたことを思へば、永年祖先以来の伝統に培(つちか)はれ、養はれ来つたものの現れであります。(略)
磐が心身共に立派になつて来たといふ直接の導源は、母の愛であります。あれが幼時土浦で脳膜炎になりかけた時のことなどを顧みても、母の愛あればこそであり、世に母の一念ほど恐るべきものはない。真に人間の心性を造り世界を支配するものは母である。女には敵はぬのであります。
以上のやうに私は今思つてゐることを、先日手紙をもらつた礼も申添へて、磐へ知らせてやつて下さい。――
中学時代の磐を、父は自分同様強情者、すねものであったといい、磐自身は、“努力誠心、コチコチ”からは程遠い怠け者だったといっている。そこにはいささかくい違いがあるように見えるが、真相はどうであったか。小学校から中学校にかけて最も親しい友人であった一人は、その間の消息をこう伝えている。――
転入生だった臼淵君からはじめて強烈な印象をあたえられたのは、実に大胆に学校をサボったことだ。当時の小学校高学年は受験勉強全盛で、ことに優良校受験組は朝早くと放課後遅くまで、きびしい補習があった。彼はしばしばそれに欠席した。
その頃はまだ絶対だった先生という存在。軍人家庭から想像される厳格な躾け。転入生というハンディキャップ。しかも直ぐ最優秀クラスに入ったことへの両親の期待。ただ勉強のノルマに没頭することで受験の重苦しさを紛らわしていたわれわれの空気。その惰性の中で彼の存在は恐ろしく新鮮だった。
サボる理由をきいても答えはない。どんな叱正、処分を受けたのか、外からはまるでうかがい知れぬ落着いた顔色。ともかくそれが彼の自己主張の行動であることだけは、われわれにもはっきり分った。
彼の勇気に対する驚異の気持、羨望、というよりも、むしろ憎らしさ、ねたましさに駆られて、私も五年のとき一日だけ、朝から授業をサボって映画をみに行ったことがある。画面に目を走らせている間じゅう味わったスリル、自分の意志を貫いた誇り、彼の自己主張にあやかることの出来た共感は、今も鮮やかに胸に残っている。
幸い同じ中学に入って同じハモニカ部の仲間になり、富士五湖のキャンプなどにも一しょによく行った。その頃の臼淵には、ほかの誰にもない特徴があった。どんなことがあっても、たとえ病気で熱があっても、徹底的に自分のノルマは果たす。しかし疲れた仲間に、「俺が手伝ってやろうか」などということは、ゆめゆめ言わない。愛想も、スタンドプレーもない、カッコいいことの一ばん嫌いな、きわめて地味な存在だった。
彼が頑強に抵抗したのは、予定の安易な変更だった。半日ぐらい歩く計画で歩き出す。だいぶ歩いたところでたまたまバスが走ってくるのが見える。早く着けばそれだけ休めるじゃないか。乗ろうか。すると必らず彼が抗議する。一たんたてた計画は守り通すのが自分の主義である。楽になりたい奴は勝手にのれ。俺は一人でも歩く。結局は全員が彼に従うのがオチであった。
そうしてさらに親しくなって、新たに発見した臼淵という人間は、私をもう一度驚かせた。彼の話題が、もっぱら芸術めいたことに集中していたからだ。音楽、映画、小説、童話、詩……中学生らしい背伸びしたお喋りだったかもしれないが、本気で熱中しているかどうかは、お互いに直ぐ分るものだ。われわれは会えば必らず芸術論議に時を忘れた。
その彼が兵学校に入るとはどういうことか。父親からの影響は容易に想像できたが、彼自身は軍人になることをどう割切ったのか。問いかけたことはあるが、そういう話題になると、他人の容喙(ようかい)を許さぬ厳しさが表情に出る。それ以上追求する隙はなかった。
江田島の生活は現実に彼をどう変えたか。休暇で帰る彼の言動にあらわれる変化の質を、私は真剣に注目した。短剣をつったとたんに、国家とは、軍人とは、と得々と高言したがるような連中と、臼淵がまるでちがっていたことはいうまでもない。
休暇で家に帰っているあいだ、何度も遊びに来た。玄関を入るとまず家族に挨拶をする。勝手知った家だ。すぐ私の部屋に通る。短剣をカチャッと外して帽子かけにかける。ズボンにしわが寄らないように、大きく足を開いて椅子に腰をおろす。あとは黙々とレコードを聴くだけ。ききたいレコードのケースを予め揃えておいて片っ端からかけていく。
その頃彼が聴いた曲は、奇妙にバッハだけだ。私の手持ちのぜんぶのバッハをくり返しきいていた。ただ聴き入るだけで、感想を語るでもない。――この君と、兵学校の生活とは、どうつながっているのか。毎日どんなことをしているのか。あの芸術好きの君は、どこに行ったのか。いまこれ程熱中してきいている背後には、何があるのか。
たまりかねた私は、しつこく、問い詰めた。彼は得意のややうつむいた表情で眼をあげて、いつも何か答えるような仕草をした。モグモグと口を動かした。しかしついに答えは出てこなかった。なぜか私は、彼が答えないことにかえって満足していた。
十一
臼淵という人間のうちにはぐくまれてきた本性と、現実の人生との間の深淵を埋めうるものがあるとすれば、それはやはりあの遺言にこめられた祈りに求めるしかないであろう。
臼淵は新生日本の開花に先がけてその礎えとして散ることをもって本望とした。新生日本とはどのような日本であるか。それは生まれ変って真の“進歩”を求める日本であった。
彼のいう進歩とは何か。またこの提言が一挙に青年士官の死生論議を制する結論となり得た事実は、何を意味するか。このことをめぐって、戦後世代から疑問が出されている。その代表的なものは、ここでいう進歩が戦争に勝利するための技術の高度化にかかわっているとすれば、そして敗北の主因をその面の後(おく)れに求めているとすれば、これによって収拾された論争自体が不毛ではないかという指摘である。
たしかに砲術出身の第一線士官であった臼淵は、射撃技術の開発に非常に関心を持っていた。当時の日本海軍の実情は、累次の恵まれた実戦経験にもかかわらず、十年一日の如き標的訓練、電探訓練を反復実施するだけで何らの前進がなく、成績向上には大きな壁が存在していた。戦局が逼迫するにしたがい、射撃実績における敵味方の命中率に、懸隔があり過ぎる事実もいよいよ明らかとなった。しかし砲術学校から回付される戦訓は、相も変らず「これらの欠陥はほとんど射撃能力の低下、訓練の不足による」という結論に落着くのを常とした。
臼淵は、当局責任者の厚顔を黙視することが出来なかった。戦訓の表書きに朱筆で「この大馬鹿野郎」と大書し、その下に署名してから、あとに附箋をつけて例えば米英における射撃用レーダー、ロケット弾や、分銅をつけた鎖により円を描きつつ敵機をとらえる高角砲弾等の技術水準を披瀝し、科学的研究の熱意と努力を要望する強引な直訴を、繰り返したのである。
臼淵が残した“進歩”という言葉の含蓄が、彼の人間とその時代の制約のもとにあったことは、免れ難い事実である。彼は直接には、自分に許された視角から日本の将来を見通す道しかあたえられていなかった。その制約の中から、彼が真に祈願したものは何であったか。臼淵という人間の存在全体は、われわれに何を訴えているか。
日本が彼の断言したようにやがて戦いに敗れたとして、そのあとに何が新しく生まれることを期待していたかは、短い生涯の言動の一つ一つが暗示している。その背後には、自分らしい人生を生きることへの切実な願望が、かくされてはいないか。臼淵は明日に向って生きることへの空しい願望を、“進歩”の二字に凝結して後代に託するほかに道がなかった。“進歩”とは、人間が人間らしく生きる社会の指標、英知の象徴ではないのか。
彼がひたむきに、死を引き寄せるようにして人生との訣別を急いだのは、あるいは戦争が終ったあとの祖国が、戦争による忍苦と犠牲の経験にもかかわらず、ついに彼の願望を受け入れることのいかに実現し難いかを予感し、死者の特権をもって、生き残った仲間にはるかな声援を送ることを願ったからであろうか。
日本が新しく生まれかわるために、自分たちがその先導になる。新生の希望が目の前にあるのにむざむざさきがけて散る。この明らかな逆説の背理を笑うことはやさしい。負ける以外に救われる道はないという独断の愚を、いま笑うことはやさしい。しかしその笑いの向うがわには、何があるのか。その笑いは、臼淵が死に直面してなめたあらゆる苦悩を、虚妄だと決めつけるほどの高みから響いているのか。
臼淵の下した結論に、誰一人反論できる者がなかったのはなぜか。それは、学徒出身者も含めてそこにいたすべての士官が、臼淵と同様、沖縄特攻作戦の太平洋戦史における位置づけ、さらに太平洋戦争そのものの全体的、歴史的評価について、はっきりした認識をもっていなかったからだという批判がある。
時代を隔てた現在の平静な時点に立つならばともかく、あの混沌の渦中にあって、一人一人の青年に、全体の把握がどのようにして可能であったのか。いったい全体的視野とは、それほどに明白、簡明なものであるのか。またもし歴史の認識が得られたとして、そこからどのような責任ある行動が導き出されるというのであろうか。
更にそれと同じ基盤に立つ全体的な歴史理解は、戦後の平和と自由の時代をへた今、なおわれわれをとりまいている不安と混迷の世界の実体を、どう解明してくれるのだろうか。
ある歴史家は、臼淵のこの“進歩待望”の独白を、一語ももらさず太平洋戦争史に収録した。それは一青年士官の矛盾にみちた遺言が、明治開化から無謀な戦争の破局までの道を驀進した近代日本の運命と、からみ合う程の内実を持つことを認めたからであろう。
歴史は過去から未来に向って語りかける。戦後史は何を手がかりとして、臼淵の幼稚さを裁こうとするのか。戦後日本は、臼淵のいう“進歩”とどうかかわっているのか。どのような進歩をなしとげつつあるのか。それとも戦後時代の知性は、“進歩”などというものを超えて、より高次元の主張を実らせたというのか。どこにその証しがあるのだろうか。
十二
特攻死と敗戦経験の意味づけをめぐる青年士官の葛藤と、“進歩への祈願”をもってその論戦を制した臼淵大尉の言動をしるした記録は、最近高校三年の現代国語教科書に収録された。四十二歳のある高校の教諭は、授業でこの文章をとり上げるに先立って、準備資料のメモに次のように書いた。
――ぼくは初め臼淵大尉の考え方の中に一つの未来への展望を読みとって、大和乗組員がみずからを納得させる道は未来への展望を語るところにしかなかったことを確かめ、そこに人間(われわれ)の求める価値は未来の自由への道しかあるまいという見通しを考えてゆくつもりであった。臼淵大尉が他の兵学校出身者をぬきんでている点は、非論理的であるにせよ、“新生日本”という未来に自分の死を結びつけたところにあるとは、今もって変らぬ考えであるが、その未来への展望の質自身が、まことに十五年戦争末期のもつ意味それ自体であることに気付いて、驚いているのだ。
“新生日本”という語は、どこに学徒兵の求める普遍的裏付けをもっているか。たしかな死を前にした学徒兵が求める普遍的価値は、われわれの生活が未来にむかって発展していくと想定したとき、その未来を形成すべきものとして、われわれの生活全体と直接結びつくものである。人がかくありたいと主体にかかわる未来に願うものでなければ、学徒兵の言う普遍的価値たりえまい。(略)
日本は“私的な潔癖や徳義”にこだわって真の進歩を忘れていた、と臼淵がいうとき、それが何をさすかははっきりしないが、無私を尊んで私を殺すことを潔しとしたり、上官に絶対服従であったりしたこと、その結果としての保守的精神主義の横行、創造の原動力を失なった現実を指すのであろう。この主張には現象面の観察はあるが、組織論はない。彼の眼前にある現実は、真の進歩を忘れていて救いがたいから敗れるほかはない、敗れることによって現状は革新され新生するという考え方だけだ。
社会科学の方法をもてば、新生日本を支える原理が何であるかを考えたはずだ。といっても、社会科学専攻の大学教授が、敗戦を予測した話はしばしば聞くが、彼らがそれ以後の日本の持つべき原理について構想をめぐらせていたという話をあまり聞かないから、臼淵がたとえ社会科学の方法を身につけていたと仮定しても、それがすぐ新生日本の構想に立ち向かうとは言えないのだが。(略)
兵学校きっての俊才の持論も、新生日本の社会実態をイメージとして描き得ず、新生日本をになう力が何であり、その力は誰の中にどのようにして生じてくるかについての展望を持ち得ず、したがって日本が敗れることによって、果して進歩を軽んじ過ぎた因になっている部分が消滅するかどうかの保証も、更には敗れることが新生日本にどのようにしてかかわるのかという見通しも、何も持ってはいないということなのだ。
臼淵大尉の求めた新生日本は、人間の根源的願いにつながるものであろう。だがそれは臼淵大尉自身の中に発芽の根をもっていなかったがゆえに、そしてその当然の帰結として、無念にも臼淵大尉の戦死、戦艦大和の最期ともかかわり合いようがなかったがゆえに、彼を含めた戦艦大和の奮戦とその最期は、巨大な虚無の中に呑み込まれざるを得なかった。ああこの悲劇を如何せん。
そして、授業のおわりに何を語るべきか。八月十五日をもって崩壊する“君国”のために殉じて死んだ者がいる。“君国”は同時に“同胞”でもあるはずであった。しかし「同胞万歳」といって死んだ者はいなかった。君国は同胞と断絶していたのである。君国という閉鎖的な自己完結的価値とその崩壊について語らねばならぬ。一個の古い徳目について語らねばならぬ。
彼らの求めた普遍的価値への希求が無惨にうちくだかれたことを語らねばならぬ。敗戦は遂にこれらの悲劇からわれわれが受けつぐべきプラスのものを残さなかったということ、この悲劇をくり返すまいという形でしか受けつぎようがないということ、この更に深い悲劇について語らねばならぬ。
われわれは“戦艦大和の最期”という十五年戦争末期の一断面を、社会科学の視点をもちつつ、しかも感受性の中で受けとめねばならぬ。しかしてわれわれは、古い徳目にかわる、新しい普遍的価値を見出しうるのであろうか。――
こうして周到に準備された授業は、生徒たちに異例の昂奮と充実感をもって迎えられ、教室という枠をこえて、率直活発な対話がかわされたにちがいない。それがどれ程に深い衝撃であり、彼らなりのそれぞれ独自な反応に実ったかは、以下に引用する感想文にあきらかである。
――兵学校出身者だって学徒兵だって、矛盾したことさえも納得せざるをえないような、理性だけではやっていけないような状態においこまれていたのだ。それがわかると、私には臼淵大尉のあの強い強いことばも、ギリギリに追いつめられた人間の、感情だけにたよった、やりきれないような弱さをもった言葉に思えてきた。もちろん臼淵大尉自身の心中にはそんな弱さは見当らず、新生日本への願いは彼の頑固な意志にちがいなかっただろうが、私は戦争においつめられた、どうにもしようのないやりきれなさ、悲しさを感じてしまった。
――戦争を経験した人たちが、あの重油の海の中で死んだ人と生活を共にした人たちが、いまも生きている、この現在に生きているということが、強い印象で感じられる。それなのに、何故、日常生活ではそのへんりんさえもないのだろうか。この人たちの死の結果が、思いが、現在の日本のどこに見出せるだろうか。宙に浮いてしまっている。彼らはどんな気持だろう。
女の私でも、もし男であの時代に生きていたなら、きっと天皇を崇拝し、彼らと同じような行動をし、学徒兵をなぐっていたと思う。また学徒兵の人たちの気持も、私なりに感じられる。だからあのついにはなぐり合いの場になる第一次室の様子を思いうかべると、悲しくなる。戦争という極限状態において、自分の意志で動けるのは、死を迎えるか避けるかの、どちらかの道しかなかったであろう。まだほんの二十七年前のある日のある時の日本における光景。それから二十七年後の同じ日本の光景。何の違いがあるのか。何が違っているというのだろうか。
――確かに、現在の日本は、第二次大戦という多くの人命の犠牲の上にたって、平和で民主的である。では日本の進歩、新生のために、ほんとうに第二次大戦の敗北は必要なものであったのだろうか。何とか戦争をしないで、平和で民主的な国家をつくることは不可能だったのだろうか。でも、そういった疑問は現在だからこそ言えるのであって、いくら戦争を否定したくとも、彼らの前には現に戦争があったのだ。
――今、自分達の世代、戦争責任に対する罪の意識を持たず、戦争という宿命も背負っていない自分たちの世代こそ、何かができるのではないかという気がする。もしそれができれば、彼らの死や苦しみはむだではなかったことになるだろう。
――“反戦”という、いとも簡単に使われる思想の何と安っぽく聞こえることか。自分たちは(少なくとも自分は)、何もかもわかったつもりで、簡単に戦争をのろわしく、恐ろしく、憎むべきものとしてとらえていた。自分のその感情にうそはなかった。けれど、何とその浅はかに感じられたことか。――
高校生たちは心を開き、自分が直面する問題の核心に結びつけようと努めながら、この記録が提起する主題に肉迫している、彼らの読後感はまことに多様であり、多角的な眼で、しかも予想をはるかにこえた身近な場所から、戦争の中の人間をみつめている。
死者たちは、真心こめた挽歌が高らかにうたわれるのを、どんな想いで聴くであろうか。
――兵学校出身者が死に意味を見いだそうとして、また学徒兵が死を通じてもっと別の価値に結びつけようとしている。違う、そうじゃない。そんな言葉の上のことではないのだ。ただ兵学校出身者も学徒兵も、強烈に生きた。死を目前にして、ともかく出来るだけのことをしよう、死をもって自分達の全力を何かに捧げようとしたのだ。そこには甘さはひとかけらもない。きびしい、鋭く澄んだ透明な世界がある。
――臼淵大尉、このでかい心。彼の心を満足させるものが、一体あったのでしょうか。心の中は、はっきりしない、どろどろしたものでいっぱいだったのでしょう。それでも、何か分らないものに向って進むのです。
――読んでいる時は時代のものすごい流れを感じ、そこに生きた人の強烈な生き方を感じるのですが、少し離れて見た時、ちょっとばからしく感じたことがあったのです。それは多分、この戦艦大和の死が何にも結びついていこうとしないからなのだと思います。戦艦大和の中だけの美であってそれ以上の進展がない。
しかしそれでいいのだろうか。この美を決して僕たちはむだにしてはいけない。僕はこの鋭い世界を知らない者達皆に言いたい。なんて自分達がいい加減に生きているかを言いたい。虚無的になっている奴には、死を目の前にして学問を続けた学徒兵のこと、また何も生まれる余地のない世界で、何かを作り出そうとし続けた臼淵大尉のことを言って、なぐりつけてやりたい。
自分達はこの人々の死に学び、これを伝えなくてはならない。真剣に生きるということ。どのような状況にあっても、必ず進まなくてはいけないということ。死に直面した時、いいかげんな生き方をしてきたのではないかと自分に問うということ。――
クラス全体に縦横にたたかわされた白熱の討議は、生徒一人一人の胸奥にひそむものを掘り返し、臼淵の直面した世界と対決することを通して、それぞれ自分を再発見させることに成功した。その結果、教諭自身臼淵という人間に強い関心を抱き、進んで遺族に会い、三十年まえに昇天した若者の身辺に近づいた。そして授業を為しおえた経験と、臼淵の人となりに触れた感動をもとに、次のような私信をしたためている。
――この世に青年とかかわることを職としております私は、臼淵大尉の“新生日本”の願いを、受け継がねばならぬのでありましょう。私は臼淵大尉の“新生日本”を読みながら、その願いの持つ悲運は嘆きましたが、臼淵大尉らが持ち得なかった視点を持ちうるはずの私が、ではその“新生日本”を現在どう実現させようとしているのか、それを自分はどう受け継いで行こうとしているかを考えることに、不徹底でした。それは臼淵大尉の願いの意味を汲みとることに気をとられて、大尉の願いの激しさが、生き残った私たちにこそ向けられているものであったことに気付かなかったためと、もう一つは“新生日本”であるはずの現在の日本の行方に漠とした不安を感じ、未来の展望をたしかには持ちえないでいることのためでした。
私が、海軍嘱託大尉として同じように南シナ海に沈んだ父の墓前に立って、自分の内に父がどう生きているかを問うように、臼淵大尉をはじめ、あの戦いで“新生日本”を願いつつ散華(さんげ)された方々の願いを、私はみずからの内に問い続けるべきでありましょう。――
このように言い切った教諭が、授業の準備メモで扱った同じ主題に、言葉を改め新たな姿勢でふたたびたち向ったのは、自然な成りゆきというべきであろう。――この世界の中には一つの事実がある。その事実をどう裁こうと自由であるが、しかし裁きうるものは、われわれが現在作りつつある事実でしかない。ある事実を受けつぐというとき、その作業は、現在われわれが生きている事実を、過去の事実が持っていた悲劇をのりこえたものにするということによってしか、果たされぬはずである。
しからばわれわれの現在は、あの世界に描かれている事実をこえ得たと言えるか。戦争を防ぐ力において現在は過去をさほどこえていず、世界の中で正しい役割を果たそうとする努力を怠る体質において、現在は過去のままに近い。それならば、自分は教師として、具体的にその事実をどう作りあげて行くべきであるのか。――
十三
肩怒らせた臼淵の胸中に、悲しさ、弱さをみてとった高校生の眼、どろどろしたものを探りあてた直感は、おそらく正しいであろう。死を迎えた日の臼淵と彼らとは、三つほども年のちがわない、いちばん気心の分り合える兄弟のような間柄であるはずである。
臼淵はどろどろしたものの一つをきれいにする願いをこめて、妹にかけがえのない贈り物を残して姿を消すのであるが、汎子を同期の谷に嫁がせるという計画を、いつごろ思い立ったかは正確には明らかでない。クラス仲間の平均より二歳ぐらい年が若かった兄にたいして、さらに一つ年下の汎子は、同期の中から相手をみつけるのにまさに似合いの年恰好であった。人一倍妹思いの臼淵は、クラスの誰彼を、ひそかに候補に仕立てて思いめぐらしたのであろう。いつ死が襲うか行末のおぼつかない身とあれば、悠長に構えるわけにはいかなかった。
シンガポールで谷に手紙と遺品を渡した時、二人は久しい空白のあとにはからずも旧交を温めた程度の間柄だったから、それほど決定的な考えはなかったのかもしれない。谷も、ただクラス仲間の家郷の近くに立寄る人間の当然の務めとして、快くその役目を引受けるという風であった。
しかし時折り天来の鋭い嗅覚がはたらく臼淵には、何か閃めくものがあったようにも思われる。谷の追憶によれば、その夜の臼淵は後々の彼とは別人のように雄弁だったという。臼淵がいつも無口勝ちでありながら、その眼が、からだが、集約された意識が、ひとつの緊張を保つ時間のあったことに気付いた人は少ない。訴えねばならぬ対象を得たとき、彼はいつでも自分の言葉を駆使する用意があったにちがいない。
託された手紙には、両親への無音の詫びと近況報告のほかに、汎子あての「親展」が同封されていた。汎子はこの大事な使者を家に招じ入れてから、その人が携えてきた兄からの初めての親展文を、食事仕度の合い間に胸をときめかせながら読んだ。親展にふさわしい丁寧な言葉づかいで、兄は谷の詳細な紹介文をしたためていたのである。
――この男、谷光司は又の名を「南洋ゴリラ」と言ひ、姿、形は物凄いけれど、至つて明朗であつさりして、しかも案外気の優しい男ですから、皆さんの相手にはもつてこいの人間です。それに手荒く相撲が強くて、兵学校では特級であつたし、軍艦鬼怒では、彼に勝てる者は相撲部員の中にも一人も居なかつたといふから、凄いでせう。酒もかなりいけますが、性根は極めてしつかりした堅物です。
食ふことも相当のもので、まづ軽く七、八杯といふところですかな。それにお菜(かず)はおよそ口に入るものなら何でもうまいといふ、便利な口です。物のうまいまづいは問はず、要するに食へればいいのです。多分彼は、内地がめしが無くて困つてゐる事をよく知つてゐるので、内気なところを発揮して、随分遠慮するだらうと思ひますから、程よく食はしてやつて下さい。お願ひします。
奴は堅苦しいのは嫌ひですから、うんと打ち解けてやつて下さい。これでも鬼怒の甲板士官に、その人ありと謳はれた名物男、どうか大事にして下さい。
汎子が床屋さんがうまいと言つたら、「ヨシ、頭の毛を伸ばして行かう」と言つてゐましたから、もしも頭がばうばうだつたら、汎子、よろしく願ひます――
兄の想いが通じたのか、汎子はこの手紙を大切なものに扱い、全文を日記に書き写している。そしてそのあとに、「相変らず、らしいことが書いてある」と註書きしている。目の前に現われた谷という人物の好印象と、兄への懐かしさを二重うつしに感じとった嬉しさが、「らしいこと」という茶目っ気のある表現に滲み出ている。
しばらくして内地の谷から、臼淵家で大いに歓待されたという感謝の便りがシンガポールに届いた。息子との貴重なつながりを仲立ちした恩人が、生家で敬意を払われるのは当然かも知れない。しかしそれと前後して家族からもたらされた詳しい報告は、臼淵を驚かせた。汎子が谷を大層お気に召して、母と保土ケ谷駅まで送ったあと、ひとりでトランクを提げて東京駅までついて行き、列車が出るのを見送ったというのである。
きびしい母の躾は、若い娘が一人で男性を見送るなどはしたないことと教えていたから、汎子は今まで一度もそんな行動に出たことはない。両親がそれを許したのは家中で谷を気に入った証拠だし、谷ならその点の自信は充分あったのだが、汎子自身の心を射とめる決め手となったのは何なのか。
やがて送られて来た追報は半信半疑でいた臼淵を大喜びさせ、当分の間その文面を思い出す度に、彼は声を立てて笑った。ちょうど料理が好きになり出していた汎子は、時節柄乏しい材料ながら腕によりをかけて大ご馳走を作り、谷は一皿も残さずなめるように平らげた。その上卵丼を大丼に一杯と、お茶碗に二杯お代りをした。そしてすべてが終ったあとで、「実は帰る途中、台湾でビールをのみ過ぎて腹をこわしているのであります」と告白したというのである。
その日、つまり昭和十九年五月二十一日(日)付の汎子の日記は、普段の日の何倍もの長さにびっしりと書きこまれている。
――小雨、降つたり、止んだり。
今日は思ひがけず楽しい日だつた。
夕方六時半頃、ガラッと玄関の戸があいたが、おとなふ声がしない。母は畠に居る筈だ。をかしいと思ひつつ出てみたら、軍服の人が黙つて立つてゐる。
背が高いから、入野さんかなと思つて顔を見たが、入野さんの様でもあり無い様でもあり、又兄のやうでもあり、誰だか分らない。
顔がチョコレート色だが、真つ白な歯を見せて話す口元に品がある感じ。「臼淵中尉から手紙をことづかつて参りました。谷中尉です」
母も来て、それはそれはとばかり招じ上げる。とつときの内地米を出して御飯を炊き増し、まづ卵丼を作る。幸ひかれひの配給があつたので、明日の分にと取つて置いたのだが、それも煮て、すでに用意してあつたお菜のほか、裏の畠からゑんどうや葱を採つてきて、おすまし、シチューを手早く作る。――
食事の給仕をしながら、汎子は兄の「頭がばうばうだつたら願ひます」という注意を思い出した。ちらっと髪の毛に眼をやると、谷は敏感に感じとり、「ひどいなあ」と頭をかきながら、いきなり「禿げ」の由来を語り出した。前頭の左の方の一部が、理由も分らず禿げ出したことがある。全部禿げるかと心配したが、幸い癒ってしまった。「初対面なのに禿のことまですっぱぬくなんて、臼淵はひどいなあ。今度、何か仕返しをしなくちゃ」
それが谷のカン違いであることを釈明しようとして、汎子は言葉を控えた。谷の率直さ、無邪気さは快いものであったし、座の空気もそれで一挙に和(なご)んだのだから、兄を悪ものにしても許されると思った。よく見直すと、谷の頭は五分刈りにめかして、きれいに刈りこんであった。
この日の日記の後段は次のようである。
――御芳名。谷光司。二十四歳、お父様は海員でラバウル方面にをられるとか。妹さんは十六歳で亡くなられ、神戸の御宅にはお母様が御一人でをられる由。お兄様が御一人、今度奥様をお貰ひになつたので、そのお祝ひにやるんだと、白い厚ぼつたいタオルを荷物から出して、クシャクシャのまま、トランクの一番上へ押し込まうとされる。「重いのに買つてきてやつたちうて、うんと恩に着せてやります」
母が「お嫁さんお貰ひになつた御祝ひに、クシャクシャのタオルは、ちよつとひどいですよ」と申し上げても、「なーに、かまはんですよ」照れ臭いのかしら。それとも本気なのかしら。
十時、東京発の大阪行で家へ帰ると仰しやるが、荷物が多いので、東京駅まで御送りすることにする。母も懐中電灯を持つて、保土ケ谷駅まで見送りに来た。
電車の中で、もし気詰りだつたら嫌だな、と心配してゐたのに、全然反対で、最後まで楽しかつた。本当に明朗で、親しみのもてる方。お土産は、皆艦から直接内地に送つてしまつて何もないといひつつ、トロトロになつたキャラメル二箱と、マレーの軍票を頂いた。
兄が衿章の片方を落してゐて、鋏の片つ方とれた蟹みたいな感じだつたこと。お風呂に入らないのであかだらけだつたこと。一しよにガンルームで大いに騒いだこと。スラバヤのアイスクリームがおいしかつたこと。南方では脚気の予防にヱビオスを常用してゐるけれど、滓の方ではなく、元のビールを飲んだ方がよい。ただし南方のビールはまづいこと。
生徒の時のズボンをお母様がモンペにしてはいてゐらつしやること。腕の蛇腹がまだ一本しか附いてゐないので、子供に、海軍さんが来た来た、少尉だよ……(ひよいと上を見て)あ、中尉だよ、といはれたこと。中尉になり立ての人は、さはると危い。ぬり(塗り)立て注意だ。この手紙を持つてゆくと良いといふから、さうかと思つて来りや、禿まであばくとはひどい、と繰り返しボヤク。
そんなお話を、まるで長い間の知合ひか、兄妹のやうな親しさでして下さり、お陰で私は、一つも気詰りな思ひをしないどころか、すつかり愉快になつてしまつた。――
翌二十二日(月)の日記は、「きつかり七時三十五分に学校に着いた。朝礼なし。一時三十五分、警戒警報解除」という記事のあと、次のように書かれている。
――昨日の事はまるで夢のやうだ。パーッと家中輝いて、シャンデリヤの様に、私の心の隅まで照らしたかと思つたら、いつとも知れず、フーッと消えてしまつた。谷中尉の顔も、もうはつきり覚えてゐない。夢の中のやうで、ただ真つ黒い顔に、白い歯がチラチラしてゐた。大きな鼻と、口、あごの印象だけが頭の中をかけめぐつてゐる。――
谷の父はそれから半月もたたずに乗船を撃沈されて戦死し、臼淵家には、谷の几帳面な墨の字で書かれた報告が届いた。筆太の個性的な筆跡が、再び身近な存在としてその人を汎子のうちに蘇らせた。
谷の乗艦夕風はやがて内地を発進し、南方作戦に参加の任務をあたえられた。それから臼淵の死までの一年近く、たまたま二人のフネが同じ港に入って、一しょに飲む機会が何度かあった。谷はおおらかで淡白な、つき合う程にますます気持のよい男で、臼淵家での彼の評判がどこから来たかを、磐は確認しかつ喜んだ。臼淵が家に帰る機会を得た時、主として母との間で、汎子との具体的な話が進んだのは、当然な次第であった。
昭和二十年の三月下旬、臼淵の乗艦大和も夕風も呉に碇泊中で、谷は突然、夕食後大和に訪ねて来いという呼出しを受けた。大和出撃の風説が根強く流れていたが、臼淵の狭い私室は可燃物が陸揚げされてガランとしており、ベッドの下の引出しの中も空で、谷の眼にも事態は明らかであった。
特攻出撃とあれば、酒保物品をかかえこんでおいても意味がない。そう思わせるほど、従兵が次々と罐詰をあける豪勢なつまみで、錨のマーク入りのサントリー角瓶がたちまち一本空になった。酒量の実力は谷が断然差をつけていたが、その晩は臼淵も頑張って、ほぼ五分五分の勝負であった。
婚約ということにしてほしい、本人はもちろん家族も大変乗気だ、頼むと、単刀直入に切り込む臼淵に、俺もいつどうなるか分らん身だからと二度、三度固辞した谷も、重ねて迫る気合いと妹を思う真情に押されて、キッパリと承知した。
一年前の三時間ほどの短い出会いが、全体におぼろげな記憶を残しているに過ぎないのに、汎子という女性の可憐そのものの心象は、妹を想うのに近い切実さをもって谷の胸に刻印されていたのである。
臼淵はほっとした表情で少しく多弁になり、思いつくままに家のこと、家族のことを話した。しかし最後まで自分の出撃のことには触れず、また二人が会うと必らず話題になる当面の戦局判断も、ついに口にしなかった。
巨艦の総員がすでに寝しずまった重い静寂の中で、臼淵は、戦争は遠からず終るな、戦争というのはむなしいものだ、人間は確固たる目標をもって生きたいものだ、そんな言葉を低い声で断片的に洩らした。春の宵が更(ふ)けてから、谷は自分が一つのことを果しおえた満足感をおばえながら、内火艇で夕風に帰った。
終戦の日の翌日の日附けで、谷からの封書が臼淵家に届いた。幸か不幸か生き残ったが、情勢が一変し、自分一個の生活にも責任が持てない、白紙還元してほしいと、有無(うむ)をいわさぬ絶縁状である。臼淵家からは、書面をいただいたことだけを確認する返信がとどき、そのままに過ぎて、翌年の夏頃、汎子が結婚したらしいという噂が、クラス仲間から伝わってきた。
世の中が落着いてみると、一方的な婚約破棄がいかにも思慮のない、厚かましい行為であったことを心苦しく思い返していた谷は、臼淵の墓参と汎子へのお祝い言上に、お邪魔してもよろしいかと伺いを立てた。
二年ぶりの臼淵家の敷居は高かったが、汎子結婚の噂は誤報だったばかりでなく、息子の眼を信じて微動もせず待ち続けていた母の前で、谷は大きな身体をすくめることになる。復員後大事にとっておいて持参したウイスキー一本、しらしめ油一瓶のお土産が、慶びを飾るしるしとなったのである。
結婚式はその年の十一月五日、臼淵家に八幡社を招戴してごく内輪にとり行なわれた。ささやかな披露宴が続くあいだ、父清忠は、磐の眼が自分の身代りのように臼淵家の座敷に端坐している谷の晴れ姿に、暖く注がれるのをおぼえたかもしれない。その日の日記は、「無事、目出度ク、結縁成立ス」と簡潔に書かれている。
新夫妻は二晩をそこで過ごし、三日目にしゅうとは婿をつれて映画を観にいった。何をみたのかははっきりしない。映画好きで克明に記録をつけている清忠が、珍らしくその日だけは題名も書き残していないのは、何をみても同じだったということであろう。帰ってから親子四人はあわただしく夕食を共にした。汎子が夫の実家のある神戸に旅立たねばならぬ時間が迫っていた。切符は父が苦心して手に入れたものであった。
「最後ノ小宴ヲ張ル。夜六後頃、汎子、谷光司氏ニ伴ハレ神戸ニ向ツテ去ル。嗚呼、コレデイヨイヨ淋シクナリヌ」このように書いた清忠の胸の中で、いま見送った若い二人の後ろ姿とともに、より大きなものが永久に失われようとしていた。
十四
臼淵は美青年であった。それも一寸したナイス・ボーイという程度ではなく、飛び切りの美男であった。全体に男らしく引締った顔立ちだが、肌が白く眉が迫って目もとがすがすがしい。ネーヴィーらしいスマートさと精悍さの調和した風貌のうちで、唇だけがやや趣きを異にし、いかにもしなやかであった。笑顔が涼しげで特に魅力的だったのは、そのためかも知れない。
兵学校の下級生の頃から、彼は写真屋に全身像を撮らせるのが好きで、よくとれると十枚ぐらいまとめて家に送り、誰それさんに差上げてくれと一々指示している。うまくとれなかった時は枚数をうんと減らし、「今度のは少し下を向き過ぎたので、眼がぼんやりして失敗でした」とか、「次のはもつと荘重な感じにします」などと註書きしている。
彼のシス(妹)自慢はまた有名で、妹の汎子がいかに清らかな可愛らしい美人であるかをよく吹聴したものだが、そのあげく調子にのって、「もっとも、俺よりは少し落ちるがね」とふざけたりした。万事に謙譲な臼淵が、容姿にかけては自信満々で、ナイス・ボーイの士官とあらわに張合ってみせるのは、ご愛嬌であった。
汎子の追憶の中の兄が、一つだけ奇異なしこりのような後味を残しているのは、北上に乗っていた頃突然帰ってきて、街でたまたま小学校以来の親友に出会い、強引に家に連れてきて一晩泊らせたときの事である。二人は寝床を並べ、腹這いになって遅くまで話しこんだらしい。久し振りの兄の帰宅で昂奮した汎子も、なかなか寝つかれなかったが、ウトウトしかけて、ふと襖越しに声高な兄の言葉を聞いた。それは切れ切れに「女というものは……」とか、「芸者に追いまわされて……」とかいうようにきこえ、あとはまた低い声になった。
その言葉がどんな話のつながりで言われたのか、兄と女性経験がどう結びつくのか。その頃の汎子には深い関心もなかったので、ただ聞き流してしまったが、今になると、兄が残した唯一つの謎のように思えてくる。
しかし謎といっても、彼女に迷いがあるわけではない。妹という女の眼と直感で近い場所から見てきた磐のどこをとっても、女性経験を連想させる手がかりはなかった。そういう面の硬さ、無器用さには、昔と変らぬ確かな手応えがあった。その兄が、自分の女性経験など語れるはずがない。
大学生である友人に軍人という特殊社会を分らせようとして、そこまで話題が飛躍したのか。すでに立派な大人であることの確証に、相手の度胆を抜こうと背伸びしたのか。幼馴染みと寝床でだべっている気安さが、謹直な日常生活からのがれて、剽軽(ひようきん)な自分を取り戻したい悪戯(いたずら)ごころを呼びさましたのだろうか。たとえ自身は未経験でも、戦友から毎日のように女性経験の手柄話をきかされていたから、受け売りの材料には事欠かなかったであろう。
臼淵がヴァー(童貞)であるかどうかは、その頃仲間うちの重大関心事であった。それほど彼は選り抜きのMMK(もててもてて困る)で、はたからFFK(ふられてふられて困る)の連中が騒ぐには恰好の話題だったが、彼が正真正銘の童貞であったことを内心疑うものは、当時も今も一人もいない。彼自身そのことを問いただされると、勿体をつけるように笑うだけで答えないのが常であった。
こんな話が残っている。真冬の一夜、佐世保の旅館に一人で泊ったときのこと。夜が更けてから、暗やみの中を係りの女中が忍びこんできた。そんなところには珍らしい若い美人で、夕食の給仕のあいだ、さすがの臼淵も好意的な眼をかくさなかった相手である。
しばらく衣ずれの音がして、いきなり寝床の中に滑りこませたのは、裸身であった。そのままじかに、ぬく味が伝わってきた。
臼淵の戦果報告はそこで止ってしまったので、聞かされている相手は焦(じ)れて、野暮な質問と知りながら、思わず問い返した。「それで貴様はどうしたんだ」
「俺か? 俺は常に不動の姿勢だよ」
臼淵の異常なまでのもて方は、大和が内海泊地を中心に行動している頃、呉のレス(料亭)で中肉中背のナイスな士官がなん人も、見知らぬエス(芸者)から、「あなたが臼淵さん?」と訊ねられている事実からも知られる。彼女たちにとって、臼淵は競って射止めねばならぬ惑星の如き存在だったのであろう。
いのち短き現役士官が、せめて思いのまま遊んで束の間の歓をつくすのを当然とする風潮の中で、彼はなぜ頑(かたく)なに身を守ろうとしたのか。その動機について、彼を知る程の人が例外なく一致しているのは不思議なくらいである。彼は単純に、自分のような大事な身を、遊び女(め)との仮り初めの触れ合いでけがすことを潔しとしなかった、一つの理想に捧げた心身を、それにふさわしい装いで全うしようと念じたに過ぎない、というのである。
十五
磐がお母さん子であったことは前に書いた。それ以上に彼は大変母親似であり、母からみて誇らしい息子であった。母のきみははっきりした性格だったから、息子が一人前になってからも何一つ遠慮せずに物を言い、気に入らぬことがあれば容赦しなかった。息子も意見があれば言い返したが、母親の気心を汲んで大筋のところは自然に受入れていた。これ程緊密に気脈の通じ合った母子も、珍らしいであろう。
少年にとって、人生で初めて出会う恋人は母親であるという。この仲のいい母子の間に特別こまやかな情愛があったとしても、不思議はない。磐が中学三年生の時書いた「渡り鳥」という作文の中に、五歳のころ母と東京の祖父の家にしばらく滞在していて、「もう冬に近いやうな或る日の夕方、屋根の真上の高い上空から真つ黒な雁の一群が飛んで来た」のを回想する場面がある。彼はこう書いている。
――一羽一羽が砂粒ほどになつて、それでも一列になつたり横に並んだりして飛んでゆくこの鳥たちが、遂に雲の間に見えなくなつた時、僕は生れておそらく初めての悲しいやうな淋しいやうな、ああんと声を出さなければたまらないやうな不思議な気持を味はつたのを、はつきり憶えてゐる。
その時髪をうしろに丸めて急に若く姉さんのやうになつた母が、洗つたあとのぷんぷん匂ふ髪の毛を時々手拭でぬぐひながら、すすり泣くやうな声で細々と歌をうたつてくれた思ひ出と共に、この夕ぐれの渡り鳥の印象は、しーんと静かでもの淋しい時に僕がひよつと思ひ出す楽しい追憶なのである――
この息子は青年になってからも、照れずに母を讃美することが出来た。兵学校卒業の前年にこんな葉書を書いている。――風邪も直られお元気になられた由、この上ない良いことと存じます。お写真いつもながら非常にきれいでした。お母さんが三十歳位にしか見えぬ程若々しく、隣りにうつつてゐる同年輩の方に比して元気溌剌としてをられるのを、格別喜ばしく拝見しました。いつまでも、ますます若く美しくあられるやう祈ります。――
(母きみの述懐)
磐はよく出来る子でした。机にかじりついて勉強なんかはしないのに、サッサと試験に通って、先生も初めは東大に進むものと思いこんでいたようです。横浜一中、つまり神(じん)中の二年のときの通信簿だけが、どういうわけかこの間出てきまして、見るとなかなか面白いんです。いい方からいいますと、作文が十点、国語と英語、それに物理が九点です。音楽が九点なのに、体操が八点、教練が七点というのも、なんだかあの子らしいですね。席次は学年百九十三人の中で、十八番と書いてありました。
兵学校の成績も全体の一割ぐらいのところにいたんですが、努力すればもっと伸びると言われたといっていました。
とてもよく気がつく子で、たまの上陸で家に帰ってきても、食事がすんで私が立上ると、自分もすっと立ってきて片附けを手伝うんです。娘の方は、言わなければそんなことしたことはありません。なぜあんなに優しく気を使ってくれたのか。短い一生を生きるために、急いで自分を出し切ったということなんでしょうか。
もともと無駄口の少ない子でしたが、最後に夜中にひょっこり帰ってきた翌朝もそうでした。朝ごはんをたべて片附けを手伝ってくれると、砲術学校に顔を出さなければならないといって、直ぐ出て行きました。その間ずっと無口でした。
なぜ「千鳥の曲」だけきかせてくれたのか、なんて私からも聞けません。そんなことを聞いて、あの子に何かを答えさせるのは、申訳ないではありませんか。あの晩磐が吹きつづけていたハモニカは、一ばん古くから大切に使っていた分で、今もとってあります。時々出して吹いてみるんですよ。かすれないで、いい音を出します。でもこの頃はすっかり下手になって、磐には面目ないんですが、もう年ですね。
ハモニカといえば、もっと大事な想い出があります。あの子がフネに乗って危い戦さに出るようになってから、まわりで心配してくれても、わたし一人、まだ知らせもなんにもないから大丈夫、って強気で押し通していました。別に信心はしていませんが、何かの時には、磐の魂がきっと私のところに知らせに還ってきてくれると、固く信じていました。そういう子です。
このことは娘の汎子にも話したことはありません。でも、「まだ知らせがないから大丈夫だ」っていうことを私がフッツリと言わなくなったので、うすうすは感づいていたようです。あの日の明け方でした。聞き馴れたハモニカの音です。かすれてなくて、澄んだ響きでした。私、大事なことだけは日記につけているんで、はっきりしています。昭和二十年の、四月七日の朝でした。ですから、その時磐はまだこの世にいたんです。大和が外海に出てゆく頃でしょうか。
玄関の次の間をのぞいても誰もいないので、表へ出ました。ちょうどしらじらと夜が明けるところで、しばらく朝もやの中に立っていますと、その日が来ることが、私にはずっと前から分っていたような気がしました。私、はっきり自分で確かめられないことは納得しないたちで、ひと様がこんなこと仰しゃっても信じないでしょう。ですからそれからも、ひと様にお話したことはありません。
戦死の公報は、八月の末でしたか、気の抜けた頃に来ましたよ。
死ぬ者貧乏、っていうんですか、死ぬのは詰りません。私は精々長生きをします。息子のことも、決して愚痴を言いません。ただ菩提を弔ってやるだけです。私がちっとも悲しまないんで、息子のクラスの遺族会では、実の子ではないのかってきかれます。明る過ぎる年寄りは、年寄り仲間では嫌われ者ですよ。
こんなお話をしただけで涙ぐんでしまうことなんかなかったのに、今日は私らしくありませんね。
私が息子のことをめったに喋らないのは、婿の谷に遠慮しているからだ、なんていう人もいますが、そんなことはありません。谷はあの子の生まれ代りです。谷を見込んで妹にと決めていったあの子を、信じています。娘にはほかからもいろいろ話はあったんですが、私は見向きもしませんでした。谷は一つ会社を任されていますし、人物です。もっとも、本人の前でそんなことを言うと為になりませんから、いつも憎まれ口をきいていますけどね。
私は自分でお茶を作ることが好きなんですが、揉むのが大変でつい働き過ぎます。すると谷が本気で怒りましてね、こわい程きつく叱ってくれるんです。有難いことです。ずっと同じ敷地の中に一しょに暮していますが、住居は別で、普段は婿や娘の世話にはなっていません。いざという時迷惑をかけないように、大体の計算もしてあります。
今の若い人はつくづく可哀想ですね。何が本当に楽しみなんでしょうね。私なんか七十五になって、毎日仕合わせです。大体めぐり合わせがいいんです、私は。若い頃は弱かったんですが、すっかり丈夫になって、医者にも久しくかかっていません。
今のこの家は、磐が小学校三年の時に横須賀から移ってきました。保土ケ谷の駅まで歩いて四、五分で、庭も結構広いし、決めたのは主人ですが、金の工面は私がやりました。その頃は雁がよく飛んできたり、庭にはガマ蛙が三匹もいました。今でも梅や柿、ざくろ、プラムの木がたくさんありますが、ミミズは減りましたね。
若い時から、新しいことが好きでした。三十五、六の時でしたか、子供から手を離せるようになったので、そのころはやり出していた物療内科の治療法の勉強に、東京理科医学専修学校の紫外光線研究所に通いました。結局それで身を立てるところまではいかずじまいでしたが、「学科並ニ技術最モ優秀ナリ。依テ光療学士ノ称号ヲ授与シ、病院開設ヲ認許ス」という立派な免状をもらって、大切にとってあります。
いま私の楽しみは勝手な一人旅をすること。私は一人がいいんです。一人でひとが行く道の裏側の道を歩くんです。それと勉強。知らないことが多過ぎますよ。考古学とか。アポロがなぜ飛ぶかとか。
新聞は三種類とっています。日経は中外時代からファンでした。株は古いんです。昭和二十六年に少し当てまして、ずい分暮らしが助かりました。今も株屋さんは別格扱いをしてくれます。毎月配当があって、歌舞伎も株主招待です。
それに磐は戦死して少佐ですから、主人のと合わせて恩給は有難い程です。戦後しばらくパチンコをおぼえて、面白くて、おかず代を賄(まかな)ったこともありますが、もうやりません。あの頃の方が、遊びでもなんでも、世の中が型にはまっていませんでしたね。
これからの世の中は、どうなるんですか。見とどけたいですね。まだまだ当分、誰が死んでやるもんか、そんな気持です。
十六
昭和十九年十月初め、臼淵中尉は軽巡北上から戦艦大和に第四(副砲)分隊長、兼副砲射撃指揮官として着任した。大和の副砲は鈴谷クラスの重巡がかつて主砲として備えていた一五・五サンチ砲と全く同じ三連装装備で、彼には旧知のものであったが、重巡の主砲はすべて新鋭の二〇サンチ、二連装砲に換装されており、本来の使命の上では無用となった遺物であった。
しかも大和においても、臼淵がはじめてその雄姿をまのあたりにした頃、すでに副砲四基のうち両舷の二基、すなわち二番砲、三番砲が撤去され、代って一二・七サンチ連装高角砲六基、十二門が装備されていた。最後の決戦を控えて、臼淵の所掌する副砲は前部後部の二基、六門のみが残されたわけであり、さらにレイテ海戦をおえて呉に帰投すると、損傷個所の修理と並ぶ最優先工事として、機銃群増強の突貫作業が強行された。
これまで二年近くも、南方の閑地回りの三流艦勤務で髀肉の嘆をかこっていた臼淵が、大和乗組を拝命して歓喜しなかったはずはない。彼は副砲指揮官のかたわら、乗艦と同時にこの大艦のケップガンに任ぜられ、翌月大尉昇進後も、大尉以上はガンルームと縁を切る通例を破って、副長の特命で士官室士官のまま、最後の日まで少壮士官を統括するこの重責を守り続けた。
彼自身副長から受けた信任を感謝する言葉を残しているし、名ケップガンとしての盛名は艦内にとどろいたが、大和勤務そのものについての感想は、誰も耳にしたものがない。彼には感激と同時に、別の空しさの実感があったのであろうか。
大和の副砲には、装備の当初から秘められた屈辱の過去があり、臼淵はそのことに、ケップガンの栄誉をもってしても消し去ることの出来ない痛みをおぼえていたのかもしれない。それは砲としての対爆弾防禦上の致命的な弱さであり、本来この巨艦に居を占めるにふさわしくない代物であることを暴露した問題であった。
重巡から旧式砲を陸揚げしてそのまま流用した本艦の副砲は、砲塔全体が二・五センチ程度の薄甲板で、主砲砲塔の六十六センチに及ぶ前面装甲には比すべくもなかった。急降下投下の爆弾や戦艦の大口径主砲がこれを貫徹して弾庫に突入すれば、艦は誘爆を起して確実に轟沈する。さりとて重武装をすれば旋回が鈍重となり、小口径砲としての機能を放棄せざるをえない。結局弥縫策(びほうさく)として、揚弾薬筒が中甲板を貫通する部分の周囲に枠型の甲板を立て、砲弾爆弾の直接侵入を防ぐという応急措置を案出し、辛うじて存置を認められたのであった。
大和では多大の犠牲をはらって高角砲、機銃増備の緊急工事を実施しながら、副砲のうちなお半分の六門を温存するという歯切れの悪さを残したのに対比して、米軍が主力艦に思い切った改造を加えたという情報は、確かなものとしてひろまりつつあった。大和型とほぼ同時に設計、建造され太平洋戦争初期に米海軍の主役をつとめたノース・カロライナ型戦艦が、副砲を全廃し高角砲装備を徹底強化したらしいという観測を、専門家のあいだで疑うものはなかった。
臼淵が乗艦して半月後、大和はレイテ沖で米機動部隊と遭遇する。この千載一遇の艦隊決戦の機会が、栗田長官の謎の反転命令で不本意な無勝負に終る結末はよく知られているが、臼淵はここではからずも初めて水上戦闘指揮を経験する。副砲の主目標は射程内、とくに一万メートル以内に接近する巡洋艦と駆逐艦であり、一斉射六発、毎分七発の発射能力をもつ大和副砲は、スコールと煙幕の中を遁走する敵艦を追って、零式通常弾一〇二発を打ち放った。
確認された戦果は、主砲による空母一隻轟沈を除いて、駆逐艦撃沈三隻であるが、追撃戦には大和のほか重巡部隊の主砲も参加している。このうち少なくとも駆逐艦「サムエル・B・ロバーツ」の沈没が大和副砲による公算大とされているのは、その着実な射撃振りが認められた証左であろう。しかし射程四十一キロの主砲と並んで、最大射程二十七キロの副砲が、艦艇攻撃で活躍しうる独自の分野はどこにあるのか。まして肝心の対空射撃には破壊力が小さく、しかも水上戦闘用に標的訓練で慣熟した射撃技術は、精度において高角砲の専門技倆に遥かに劣り、対空実戦には全く役立たぬ点が致命的であった。
この戦闘でも、急降下爆撃機には仰角が足りず、水平降下の雷撃機にたいしては回避する艦の転舵に振りまわされ、傾斜と動揺のため照準点が定まらぬという弱点は、遺憾なく発揮された。さらに副砲分隊員に衝撃をあたえたのは、主砲の連続発砲による硝煙が風向風速により副砲射撃指揮所に吹きつけることで、方位盤射撃はしばしば不可能となり、やむなく砲側照準射撃による間、弾着の乱れは目を蔽うばかりであった。戦闘完了まで無策のままに終った重苦しい失意の中で、臼淵は初めて艦上生活を経験した鈴谷と、第二の配置北上の窮境を救援してくれた鬼怒が、この海戦であえなく航空魚雷の餌食となったという悲報を聞かなければならなかった。
臼淵の勉強振りには、兵学校時代からきわ立った特徴があった。第一は同僚が取組んでいる対象の一つずつ先をやることである。たとえば指導教官の重点とクラスの関心が航海術に集っている時、次の教科である天測に力を入れる。航海術は最高点はとれないが、一歩進んだ視野から大局的把握が容易になるし、天測についても理解を深めることが出来る。
第二は得意の分野を見定めて努力を集注し、その道の権威になることである。大和では射撃方位盤の動揺修正操作という難問に取組み、短時間で征服して、「これが完全にわかっているのは艦内で俺だけだ」と明言するところまでいっている。
最後にあたえられた檜舞台で、臼淵流の頑張りは報いられるところがあったのか。大和乗組についての彼の沈黙は、おそらく失望の大きさを示しているのであろう。しかしここで直属上官に副砲長清水芳人を得たことは、思わざる好運であった。清水少佐は臼淵の資質を評価し、その人間を愛した。射撃理論、対空戦術についての議論は激しくやったが、終始臼淵を信頼して分隊の掌握、訓練の細目をまかせ切った。
清水は臼淵とひとまわりほど年のちがう兵学校六十期だが、小柄で俊敏な体つき、遊びが嫌いで身ぎれいな立ち居振舞いには、いちじるしい共通点があった。大和に勤務した半年、臼淵の気合いはいよいよ充実して、兵隊たちはその前でいつもさわやかな緊張を味わい、清水もそれを好もしいものに眺めていたが、今思うと、臼淵がただ血気盛んな青年というだけでない、なにかあたたかい後味を残しているのは何故だろうか、この独特の懐かしさはどこから生まれるのだろうか、と回想している。
翌二十年一月、第十一(測的)分隊長、隠沢大尉に転出命令が来て、そのあとに、一クラス下の臼淵を是非ほしいという懇請が副長から出された。出撃目前の逼迫した情勢下、熟慮のうえの転属命令とあれば、黙って従うのが常識であろう。しかし清水は抵抗した。本人が測的にと熱望しない限り、自分の手許に置きたいと抗弁した。
人事問題で本人を引合いに出すのは筋ちがいである。しかしどうしても手放したくない。測的長は主砲、副砲、高角砲の射撃に関与する独立の責任者で、副砲分隊長より数段格が高い。臼淵が希望すれば、それまで抑えることはできないと清水は覚悟していた。万一残留の意向ならば、それだけが拒否の根拠となる。
臼淵は言下に副砲に残りたいとこたえた。不服めいた言辞が一切なかったことは勿論である。清水は断乎として副長に抗命し、隠沢のあとには、切れ者で知られた同期の江本大尉が発令された。臼淵はこうして清水と組んで働く道を選び、同時に後部副砲指揮所で直撃弾に斃(たお)れる運命をみずから選びとったのである。
十七
昭和二十年四月七日朝、戦艦大和は僚艦九隻をしたがえ、遥かに内地の水域を離れて進路をほぼ西にとっていた。目指す決戦場は沖縄であるが、予定変針点まで大きく迂回したあと、南進して目的地に向う予定であることを全艦隊が知っていた。
出撃すれば、副砲長清水少佐は前部副砲指揮所、分隊長臼淵大尉は後部副砲指揮所が定められた戦闘配置である。前部指揮所は前檣頭の第一艦橋直下に位置するため、艦橋をねらう前方からの襲撃にさらされ、後部指揮所に比較して被爆被弾の危険が格段に大きい。清水は自分が先に戦死する場合を想定し、もしなお前部指揮所が健在であれば、臼淵が代ってそこに勤務し、二基の副砲を一括掌握すべきことをあらかじめ命じておいた。
しかしこれはむなしい配慮に終った。この日砲撃の射程内に入る米艦船は一隻もなく、さりとて対空射撃を試みるには、千メートルの雲高は低きに過ぎた。副砲は来襲第一波の先頭編隊めがけて前部一番砲三門が五斉射の試し射ちを浴びせただけで、前部機銃群から爆風による射撃妨害の抗議を受け、その後戦闘終結まで砲弾千六百発を満載したまま、ついに一回の「弾コメ」下命の機会さえなかった。臼淵は全く無為のまま死を迎えるほかなかったのである。
顎を深く引き肩を怒らした得意の姿勢で、臼淵は立っていた。後檣頂の直下に位置する後部指揮所は幅四間、奥行き二間、横長の十六畳間ほどの広さで、両脇に向って左右二基の方位盤と照準装置が備えられていた。指揮官の位置は中央、窓を軽装のアーマーに守られ、眼鏡と伝声管、電話器、通報器に囲まれている。
射手、旋回手、動揺修正、伝令の上と下、弾着時計と計六名の兵が臼淵をとりまくように侍立していた。装備と当直員配置のものものしさは、かえって指揮官の視界をせばめる結果となっており、塔のようにせり出した鋼板の頂点からは対物鏡が突き出ているものの、有効な対空戦闘指揮のためには、視野が絶望的に局限されていることは明らかであった。
敵とぶつかることを確信して前進をつづけるフネの艦内は、静かなものである。時折驟雨が襲来するが、霧のように音もなく艦体にまといつくだけである。後部副砲指揮所から見おろす後甲板も、平生は各部の作業が錯綜して喧騒をきわめているのに、いっさいの露出物がとりはらわれてまことに整然としている。動くものといえば、豆粒のような後部機銃群の指揮官の上半身と、両舷高角砲砲塔に配置した射手の頭、そしてくだけちる波頭だけである。視野をさまたげて眼下に横たわる三番主砲の巨大な砲塔も、いまは銀白色にかがやく鉄塊に過ぎない。
艦尾には高性能をうたわれたカタパルトが二基、出撃とともに搭載機を全機内地に返して無用となった姿をさらしながら、それだけが周囲とは異質な金属性の材質を誇示しているように見えた。“カタパルトの臼淵”、かつて海軍部内で父清忠がそう呼ばれていた事実を、磐はひどく遠い世界のことのように想い出した。
臼淵は朝から殊のほか寡黙であった。兵隊たちはこの分隊長が、無駄口はたたかないが思いがけぬ時に娑婆の話を楽しむことを知っていた。気取らず形を作らず、いまどんな気持でいるかが何となく分る士官。最も嫌うのは怠慢で、最も好むのは正直さ。ガンルーム士官の中で兵たちに一番人気があり、第四分隊下士官兵九十名全員の士気を掌握している一人の人間。
長過ぎる沈黙は日頃の臼淵らしくないが、水兵たちもそれに気持よく従っていたのは、いつにも似ない挙動の端し端しに、かえって共感と和(やわ)らぎをおぼえるものがあったからであろう。臼淵は一つの予感を凝視するように、息をひそめて立ちつくしていたのである。
みずからを律することに精魂をこめて歩いてきたこの男は、短い人生の終幕に近づきつつあった。みずからを律するのを好むのはおそらく天性で、中学時代陸上競技の四〇〇メートルを走っていた彼は、雪が降るとわざわざグランドに出て、一人黙々と走りつづけるようなところがあった。大和の当直将校で立直中の四時間、新米の副直将校のように謹直に立ちつづけて、一度も折椅子に腰をおろそうとしなかったのは臼淵だけであった。
こうして自らに課しつづけた修練は、すこしの無理も伴わず気ままな言動が、すなわち範(のり)にしたがう域にまで達していた。
何を範として自らを律しようとしたのか。それは母によって描かれた息子の原型であるように思われる。母きみが望むままに磐は成人した。母はなに一つ指さすことはなかったが、息子は母の願望の内奥に見事に照応した。その見事さは彼が終局を急ぐことによって、無傷のままに完結しようとしていた。
清水副砲長は戦闘開始後どのくらいして伝令の報告を受けたかを、判然と記憶していない。後部の副砲指揮所と砲塔の一部、および対空見張用の十三号電探が被弾したという知らせは、後檣の付け根附近に集中して、一発ないし二発の直撃弾が見舞った事態を示していた。電源杜絶のため他に通報の手段はなく、重傷を負った伝令兵が後部指揮所から前部指揮所まで辿り着くには多くの時間を要したに相違ないが、その伝令も間もなく死に、彼が報告した後部指揮所被弾の正確な時刻を確かめるすべはない。
清水は戦闘の渦中にいながら、報告をきいてあたり一面が白けて見えるほどの気落ちをおぼえた。後を託した配慮が逆になった、自分の代りに生かしておきたかった、ただその思いだけが胸を衝いた。
それは後方から真っ直ぐに飛来した。被雷のため艦の速力が落ちてからならともかく、戦闘の初期に後方からの攻撃は稀である。その頃米軍は異方向同時攻撃という必殺戦術をとることを常としたが、この場合はむしろ低い雲高と驟雨、レーダー連絡に対するわが方の妨信などから余儀なくされた、攻撃隊形の混乱とみるべきであろう。いずれにせよ指揮所被害の状況から、臼淵を直撃したのは五〇〇ポンド通常爆弾一発と推定される。
米軍の戦闘記録によれば、この命中弾を得たのは機動艦隊旗艦、空母「バンカー・ヒル」のVB八四中隊、カーチスSB2C「ヘルダイバー」十四機のうち一機か、空母「ペリリュー・ウッド」のVF三〇中隊、グラマンF6F「ヘルキャット」の一機かの、いずれかである。投弾機以外からの観測者の報告は明確を欠き、どちらかの中隊の功に決定づける材料は見当らない。
攻撃時刻は両中隊とも十二時四十五分前後と記録しており、もしそれが正しいとすれば、戦闘開始から十数分を経過した時点ということになる。同時刻には、空母「ベニングトン」VB八二中隊の「ヘルダイバー」四機も、命中弾三発を報告しているが、そのすべてが一〇〇〇ポンド半徹甲弾であった事実が確認されている。
指揮所の中央に立ちはだかる臼淵の全身を斜めに突き刺す角度で、爆弾はまさにその一点を狙いすまして落下してきたのであろう。一きれの肉片も一滴の血痕も残すことなく、二十一歳七ヵ月の臼淵磐の肉体は、新生日本を切願した魂魄とともにあまねく虚空に飛散した。
祖国と敵国の間
序 章
「太田、貴様アよくそれで帝国海軍のガンルーム士官がつとまるな。軍人勅諭五ケ条をでかい声で言うてみい。正確な日本語で」
「まあそういじめるなよ。こいつは英語が日本語よりはるかにうまいだけが取り柄で、二世の中から特に予備学生に拾いあげられ、目下敵さんの暗号解読にご奉公というわけだからな」
「いつも無線機にばかり齧(かじ)りついているが、アメ公は軍の放送で歌や音楽のラジオも流すというから、こっそり毛唐の女の声に聞き惚れているのとちがうか」
「こんな気合いの抜けた乗組士官は、戦艦大和の歴史はじまって以来だろう。ピンと背筋の通った“気ヲ付ケ”を、一度でいいから見せてくれんか」
「いや、太田は真面目でよくやっている。司令部通信科では欠かせぬ戦力だ。ただ日本語がうまく喋れんだけだよ」
「海軍体操ひとつ満足に出来んで、下士官兵に恥ずかしいと思わんか、太田」
「二世といえば、よほどスマートな奴かと思うだろう。それがどうだ、この運動神経は」
「きょうだいもみんな米国国籍で、弟が陸軍の兵隊にとられヨーロッパ戦線にいるらしいというのは、日本人として信じられんことだが、うそではあるまいな」
「お前の弟なら、何人いたって役には立たんよ。せいぜいタマ運びか」
「貴様にスパイ容疑がかからんのが不思議だな。というても、家との音信は一切不通だから、通謀の仕様もないか」
「妙なもんだな、二世というのは。オヤジもオフクロも日本人だというから、お前も日本人にちがいなかろう。だいいち、その顔でアメリカ人といったって、通用せんよ」
「たしか、こいつらは二重国籍だったんだ。それで海軍に入るに当って、軍が米国国籍を剥奪した、というようなことをきいたことがある」
「貴様はネーヴィーのくせに金ヅチも金ヅチ、犬かきさえできんそうだが、アメリカはぜいたくばかりしているくせに、学校にプールもないのか」
「フネがボカ沈のときは、どうするんかな。アメリカにいるオフクロさんが泣くぞ。まあ、この不沈艦大和にのっている間は大丈夫だがね」
「オイ、なんとか返事をせんか。二世というのは、口惜しがることも知らん腰抜けどもか」
「母は、たとえわたしが大和で死んだとしても、いえ、わたしは死ぬつもりでいますが、母は、けっして悲しみません」
「立派そうなことをほざくな。いざ出撃になったら、泣き言(ごと)をいわんように、しっかり頼むぜ。真っ先に敵に見参するのは、お前の耳だからな。電波の雑音ひとつ聞きのがさんように、耳の穴をよくほじっておけ」
太田孝一は、一九二一年、カリフォルニア州北部で果樹園を営む太田家の長男として生まれた二世である。カリフォルニア大学一年から慶応大学に留学したが、日米開戦のため帰国の機を失い、学徒出陣による海軍に召集を受けた。そして英語の特殊技能を生かすため、暗号士の即成教育を叩きこまれ、少尉に任官後、第二艦隊司令部付通信士として旗艦の戦艦大和に乗組み、沖縄特攻作戦に参加して二十四歳の短い生涯をおえるまでの経歴は、これからくわしく述べる通りである。
太田孝一は、この時代に生をうけた若者として、あるいは数奇な運命をたどった一人であるかもしれない。それと時期を同じくしてアメリカで強制隔離の苦難をなめた太田家の不幸は、類例を求め難いほど特異なものであるかもしれない。しかし実態に立ち入ってみれば、それは私自身を含めた多くの同時代の青年が、また日本の無数の家庭、家族が、痛みをもってわかちあわねばならぬ悲劇にほかならないという感懐が、この小伝の執筆を思い立った動機である。
何がそう思わせたのか。太田孝一という二世の青年の死と死がわれわれに残していった意味が、人間の宿業にかかわる根の深さ、底辺のひろがりの広さに、おそらくそれは根ざしているのであろう。
第一章 苦難の結実
広島県佐伯郡に宮内という村があって、いまは廿日市町に合併されている。広島市から西に十五キロほどいって宮島の少し手前、南を広島湾に面し遠く厳島をのぞむ農村地帯である。
太田令三はここの農家の三男に生まれ、一九〇七年(明治四十年)に十八歳でアメリカに渡った。動機の一つには徴兵のがれもあったが、そのあたり広島湾沿いの一帯はかつて綿作で鳴らしたところで、安い輸入綿に駆逐されてから移民熱が急速にたかまり、当時アメリカ移民総数の三分の一を占めた移民王国広島のなかでも、主力の供給地域の一つだった。移民成功の噂は彼の地から絶えず流れてきて、将来に希望のもてないまま、安い日雇い仕事に追われている青年たちを刺戟した。
知合いの渡航者から今直ぐにでもと誘われたとき、実直勤勉な太田青年は、俺は夢を見ることが嫌いな人間だから裏切られることはないだろうとみずから納得して、ためらわずに決心をした。職業的な請負人や契約人の手を通じた話でないことも、余計な心配を無用とする材料に思えた。
衣服に縫いこんだなけなしのドル札と背中に巻いた毛布に守られて、二十日間の無言の行の長旅をおえた彼が、カリフォルニアの砂糖大根畑に労務者として迎えられたのは幸運だった。先着の渡航者のなかには、鉱山や鉄道保線工事、製材、サケ罐詰の作業員として重労働に追いまわされているものがすくなくなく、スト破りの臨時工や白人家庭のデイ・ワーカー(雑役夫)にやとわれて、やっとひと息つくものさえいたのである。
農業なら経験と根気があればよい。そしてすこしでも自分の土地をもつことだ。遠大な計画への第一歩は、広島県人会の連帯組織と頼母子講が支えてくれた。カリフォルニアは果実、野菜、穀類、綿花、タバコ、米、ビート、ホップと無尽蔵な農業の宝庫であり、畜産も盛んだった。時あたかも日本人がこの広大な州の果樹と蔬菜栽培の分野に大挙して進出し、年額一億ドルに近い生産をあげる興隆期にさしかかっていて、やがてその流通ルートまで牛耳るほどの勢いを示していた。令三がまず目をつけたのは苺(いちご)とぶどうと温室野菜の成長性であり、これは最少の資本投下、早い収穫という面でも賢明な選択といえた。
州の首都サクラメントから十三キロほど北にあるメイヒューという未開の寒村に、同県人の仲間数人と定着できたのが第二の幸運だった。ここは完全に日系人が支配権を確立することになる数少ない村落の一つで、白人は人口八人のうちわずか一人の割合を占めるに過ぎず、のちにアメリカの地元新聞が、サクラメント・ビー紙のような有力紙でさえ、一枚も配達されていないことで知られるようになった。
一八六八年(明治元年)の若松入植団にはじまった日本人の北米渡航は、年を追って増加し、特に一九〇〇年のハワイ併合で砂糖農園にはたらく数万の日本人契約労務者が解放され本土に流れこんで以来、その動静はしだいに西部諸州の関心を集めていた。それが本格的な排日運動に発展することを恐れた日本政府は、一九〇七年、移民法を改正して米国への入国制限を強めたが、渡航熱の高まりを抑えることは出来なかった。
米政府は情勢を眺めて戦艦十六隻をふくむ大艦隊に出動を命じ、露骨な威嚇の構えを示した。これにこたえたのが翌八年の紳士協定で、日本政府はすでに米本土に居住するものの両親、配偶者、養子と一時帰国者の再渡航以外は、旅券を発行しないことを一方的に確約して事態の収拾をはかった。
しかし日系人の大量移民が問題視されたといっても、その数はこれまでを累計して多く見積っても二十五万人、帰国者を差し引けば十八万人がせいぜいである。これにたいしヨーロッパ大陸からの移民は一八二〇年からの百年間で、ドイツ系が五百六十五万人、イタリヤ系が四百五十五万人という規模に達している。日本人の受難の禍根は数の大きさではなく、逆に既成事実の小ささ、歴史の浅さにあったとみる方が現実に即している。
新規の移入が自粛されると、攻撃のほこ先は土地所有にむかった。土地所有こそ一世が底なしの窮境からぬけ出す唯一の突破口であり、日系人の取得済および借用中の土地は、早くも一九一〇年には二十万エーカーの規模に近づいていた。一九一三年制定の外国人土地法は、機先を制して法的にその拡大をくいとめることを直接の狙いとし、一世が新たに農業用土地を所有しまたは譲渡すること、三年をこえて借入れることを禁止した。株主の過半数を一世が占める法人が土地を所有することも禁止された。
太田令三が頼母子講からの調達金を生かして土地保有を急ぎ、それまでに二十エーカーほどの農地を手に入れていたのは機敏だった。借入れの返済に骨身をけずる苦労をへて、ようやくメキシコ人労務者を何人かやとえる身分にまで漕ぎつけた令三が、自分の年齢も考え、花嫁を探してほしいと懇願する手紙を郷里に送ったのは、自然な成行きだった。
親戚の奔走で、海を一つへだてた能美島の大柿という漁村に、脈のありそうな話がみつかった。しっかりした働き者という唯一の条件にも太鼓判を押せる娘さんらしいという知らせは、令三をよろこばせた。仲立ちを通ずる写真と履歴の交換も無事にすんだ。未婚婦人の一人旅は認められなかったから、日本で入籍をすませ、妻の身分で呼び寄せる手続が進められた。
令三の妻となって節子がはるばる海を渡ったのは一九一八年で、彼女はそのとき多感な十八歳になっていた。あと二年足らずで全面禁止になる花嫁渡航もその頃が全盛期で、海をこえてくる日本人の三分の一が、ヨーロッパ系移民の知恵を真似たピクチャー・ブライド(写真花嫁)だった。結局総数では一万人をこえたといわれる大和撫子の写真花嫁のなかには、アメリカから送られた相手の写真が専門の周旋屋の手で思い切った修正をほどこされていたため、意外に老(ふ)けた貧相な花婿を発見して悲嘆にくれる例があとを絶たなかった。そこから起きる悲喜劇は、米国の婦人団体から人道問題としてきびしい糾弾を受けていた。
節子は長い船旅のあいだ、大世帯の家族の切り盛りからやっとのがれてきた解放感と、高く結(ゆ)ったカツラ、白く塗りたくった顔、一張羅に着飾った仲間の女たちへの好奇心で、ホームシックをおぼえるいとまもなかった。狭く暑苦しい三等船室でも、寝ているだけで充分たべ物をいただける身分は、はじめて味わう贅沢といえた。多勢のなかには世馴れた女や物知りもいて、世間話をきいていると飽きなかった。
途中で寄港したハワイは、強烈な印象を残した。それは海辺の風景や異国風な街の賑わいによるのではなく、大きな風呂、強い香りの石鹸、そして厳重な身体検査という思いがけぬ経験による衝撃だった。
写真顔だけで選ばれ、買われた商品のように運ばれてくる写真花嫁とは私はちがう。不自由ながら二回ずつの文通のやりとりで、お互い気持のツボは分りあえたことを節子は確信していた。船がサンフランシスコに着いた時、令三がさすがに他の多くの男たちのように山高帽にステッキとめかしこんだり、写真を手に目を皿のようにしたりして波止場に立っていなかったことは、彼女をほっとさせ、同時にすこし物足りない気持にした。
地道な気質、たゆまぬ探求心、苦しみに堪える受身の強靭さ。新時代をひらく先達に求められるあらゆる適性を節子は備えており、よき協力者を得て太田家の仕事は順調に発展した。
外国人土地法の締めつけに堪えかねた一世たちは、アメリカ市民である子供の名義を活用し、あるいは子供を株主の過半数とする法人を組織して土地を所有し、みずからは後見人となる抜け道を工夫した。その結果、事実上の日系人所有地はこの間にほぼ二倍半にふえ、令三もその知恵にならって合法的に土地を四倍近くまでふやし、苺の収量でも初期の頃の五倍をこえる模範農場に発展させた。
こうして拡大した一世の占有地は、ピーク時においてもこの州の総面積の一・六パーセントを占めたにすぎない。したがってさらに土地法規制の動きを刺戟したのは、所有地の広さではなく、営農方法の卓抜さ、ずばぬけた生産効率にあった。それまで誰もかえりみなかった荒地を切り開き森林を伐採し、切株を爆破し干拓地を手で掘り進んだ末に鍬を入れた狭い農地から、この州の市場向け野菜の実に九〇パーセントの収穫が生み出されていた。ことにメイヒュー周辺は浅い硬質地層の農耕不適地として知られており、ここを苺栽培の楽園としたのは、全く日系開拓者の創意と努力によるものだった。
しかし排日の執念に燃える西部諸州の勢力が、脱法行為の蔓延を見のがすはずはなく、連邦議会を動かして外国人土地法の規制をさらに強化することに成功した。
市民権のある二世の名義を利用した一切の土地取引は禁止され、農地借入も長期短期を問わず認められないこととなった。日本国内の世論が沸騰し、新聞が競って「米国討つべし」との論陣を張ったのはその頃からであるが、日系人を窮地に追いこんだ場合の危険を考慮して、すでに所有借用している土地は既得権として認められ、また市民権のある子供への相続も許されたことは、一世が営農の維持に余命をつなぐわずかの間隙を残した。
土地規制がゆくところまでゆき着くと、次に登場したのが移民制限の追い打ち措置である。一九二一年の比例制限法は、各国別移民総数の三パーセントを限度とし、毎年毎(ごと)の枠を人口比によって割当てる方式を定めたが、一九二四年制定の移民法(東洋人排斥法)は、日本人を帰化不能外人との理由をもって全面的に流入禁止する方針を確立した。その法的根拠には、前年の一九二三年、最高裁がオザワ事件の判決で、日本人一世を米国市民権不適格と断定した結論が有効に生かされていた。そして当然のことながら、日本側の一方的な譲歩を示す紳士協定は不要となり、即時に破棄された。
健康に恵まれた若夫婦は倦むことなく働き続けた。計画が挫折すればとめどなく堕(お)ちてゆくだけで、逃げ帰るべき行き先はなかった。同県人のなかには明日の希望もなく、陋屋で失意の毎日を送らねばならぬ人たちがすくなくなかったのにくらべれば、太田家の恵まれた環境はいくら感謝しても感謝し過ぎるということはなかった。
世界の移民史に光彩を放つ日系一世繁栄の秘密は、ただ骨身惜しまぬ労働と細心の生活設計と、勤倹貯蓄の累積のなかにある。一家の主人の平均像は、酒をのまず煙草を吸わず、外で遊ぶことを知らず賭け事をつつしみ、ただはげしく働き続けてかせいだ金を全部家に持ち帰るものとされていたし、主婦の理想像は、絶え間ない育児、料理、買物、裁縫、洗濯、皿洗い、そして農家ならば農作業のくり返しに結晶していた。
しかし新規移民の全面禁止措置は、彼らの労苦から生み出された収穫を刈りとるべき後継者が、まだ年端もいかない二世以下の子孫のほかにはないことを予告していた。それだけを楽しみに営々と汗してきた土地の所有、借用はいかなる形式によっても認められず、帰化を許される目安もなく、永遠の異国人として終ることを観念した一世たちが、すべての努力の目標を“子供のために”という一点に置いたことは当然の結果だった。子供の洋々たる未来への確信以外に、彼らの目ざすべき曙光は見当らなかったのである。
太田家は子宝に恵まれて、長男孝一のあと、十五年間に精二、武、誠、優、譲の計六男と、武、誠のあいだに一人娘の鈴代が生まれた。多くの一世がそうであるように、農作業の間をぬって子供の養育に精根を傾ける日が続いた。母節子の躾(しつけ)はきびしく、「日本人の子供はこうするものです」「いい子はこんなことはしません」が口癖で、常に競争に打勝つよう努力すること、他人と異る行動をつつしむこと、人種差別や不公平に恨みごとをいわず堪え忍ぶこと、そして日本人社会の名誉を重んじることが至上命令とされた。
しかし日系人をめぐる不穏な形勢は、学童の勉学さえ平穏に続けられることを許さなかった。一九〇六年、サンフランシスコ市教育局は、全市の学童二万五千人のなかのわずか九十三人に過ぎない日系二世児童を対象として隔離学校令を打ち出し、市外の僻地に東洋人学校を新設して隔離するという弾圧を加えた。ルーズベルト大統領は事態の悪化を憂慮して市当局に強硬な干渉を加え、一時復校を認められる時期もあったが、一九二〇年には西部諸州をあげて日本人学童をインド人、中国人とともに公立の教育施設から締め出す方針を確立した。もっともこうした背景も、彼らの向学心を抑えるどころか、かえって奮い立たせる結果となった。
逆境と試練に強い母の気質を、それぞれ少しずつの変化を伴って引きついだ子供たちは、誰もが辛抱強く勉強をし、孝一をリーダーとする太田ブラザーズの名は、一世の親たちの間で羨望の的となった。友だちのなかで勉強に専念できる生徒は多くはなく、農園で長時間のアルバイトをするか、白人家庭に月一ドルの月給でスクール・ボーイとして住みこみ、夜中の何時間かを勉強しなければならない連中に比べて、生活の雑事にわずらわされない太田兄弟の境遇は申分なかった。ただ彼らの成績がその環境のよさ以上に、努力する才に恵まれた結果であることは、誰しも認めるところだった。
孝一はその代表選手として、太田家の“希望の星”にふさわしい要件を備えており、弟たちは万事に兄を見習えばよかった。小柄で無口、顔の輪廓の丸味ある線と細い目、シャイなものやさしい表情。二世の秀才によくある孝一のそんなタイプは、半ばからかいの意味も含めて“テイプス”(ティピカルスの略)と呼ばれ、古風な日本人の原型を引きついだ二世のようにみられやすいが、それは表面に過ぎず、孝一にはそんな型にはまらない神経の太さ、筋を通すたくましさがあった。生来社交型ではないが、時折り意外に人なつこい面をのぞかせるところも、テイプスにはない可愛らしさだった。
小学校からハイスクール四年まで首席を通して“ライブラリーの虫”とよばれ、十九歳で日本に留学する時、政府が十年間も奨学金を支給してきたのにといって惜しまれたほどの俊才だが、控え目な物腰にはその片鱗もみせない。白人学生にまじって抜群の成績で通してきたのは、いつも絶やさぬ柔和な徴笑のかげによほどの芯の強さを秘めている証拠だが、体力のハンディキャップは、気力だけではどうにもならぬ。一六〇センチそこそこの背丈に短い手足、緩慢で優雅な動作からくる負い目は、その死に場所となる戦艦大和の艦上にまでついてまわって彼を苦しめた。
実りある目標に一歩ずつ近づくことを確かめながら過ぎてゆく時の流れは早い。やがて子供たちはそろって成人した。世界の情勢が緊迫の度を加えてゆくなかで、思い切って農地を縮小し、さらに一部を白人の知人名義に切りかえる英断で、太田家の平穏はなんとか保たれていた。しかし孝一が大学に進む頃になると、避けようのない難問が、息子たちの職業に何を選ぶかの決断が待ち構えていた。
二世の就業の場は数の増加とともにむしろせばめられる一方で、その気にさえなればこれまでチャンスのあった日本人社会での就職先も、不況の余波を受けて急速に間口を縮小していた。白人社会で普通にありつける仕事は商店の売子、下級のセールスマン、自動車運転手、臨時工といったところで、ホワイトカラーや専門職のポストは、二世である限りどんな優れた成績にも無縁だった。弁護士とか医師の資格をとっても白人が相手にしてくれず、れっきとした企業の場合、経営者としては有能な日系人を採用したいが、他の従業員が文句をいうだろうという理由で、断られる例が多かった。組合の妨害のために建築士が正業につけず、給仕をしたりウクレレの教師になったりするケースも珍らしくなかった。
日系人社会で一頭ぬきんでるためには日本語の修得が必須の条件であり、また将来万一白人社会にチャンスを得たとき日本との接点として活躍するためにも、日本で本格的な再教育を受ける方が賢明ではないか、という着想がそこから生まれる。二世学生が祖国を再認識するため渡来することを歓迎して、日本政府も一九三五年ごろからなにかと便宜をはかり、旅費を割引して勧誘を続けていた。
ところが渡日した二世のほとんどは、失望してアメリカに舞いもどった。彼らはそこで本当には歓迎されていなかったことを知り、言葉の壁と白人社会以上の分厚い偏見にとりかこまれている自分を発見した。二世は社会的下層の農業移民から生まれた子孫であるという先入主が、教育者の間にもゆきわたっていることは彼らを驚かした。
いつも誰かから監視されているように感じたものも、すくなからずいた。ある女性は印象記の中で、日本にいる間、自分の目の前にはいつもどんよりした霧があったと告白し、人々は暗がりの中で生き続けるためになぜ爪に火をともすようなことをするのか、学校で教わる授業の内容と人々の社会生活の間に何の関係もないのはどうしてか、と辛らつな疑問を投げかけている。
またある青年は、アメリカに向けて東京を発つ前夜、誇らしげにこう書いた。「日本の親友であり、それにもかかわらず日本に敵愾心を持ちつづける国民、いつも日本を理解し賞讃しようと努力する国民のところへ、私は帰るのだ。日本のことを誤解しながら、結局は日本を悪く思っていない国民! ああ私はアメリカにあこがれている。日本よ、さようなら」
しかしこのような短期の日本滞在者の悩みは、いわゆる。“キベイ(帰米)二世”にくらべればまだ割り切りやすい面を持っていた。キベイは比較的幼いころ、老後を日本で暮らすため帰国する一世に伴われ、あるいは家庭の事情で親戚に預けられるため日本に渡り、そこで本格的教育を受けた連中だった。総数は一万人をこえたともいわれるが、その後日系人社会の経済的成長と農業労務者の不足に対応して帰米を奨励する必要が生じ、旅費まで支給されて大量に再渡来した結果、まとまったグループを形作っていた。
キベイは親日派にはちがいないが、長年米国に住みついた一世の独特な世界との間のギャップは大きく、さりとて二世集団にとけこむことも、アメリカ社会への順応が未完成なまま別の鋳型をはめられたため無理があった。英語が不得手なうえ、日本人の頑迷な一面だけを身につけている傾向があるとして、ブルーカラーの職場からも敬遠された。
この特殊グループに冠せられた“キベイ”の呼び名は、したがって経歴を評価する意味の尊称ではない。彼らは二重に血を汚した雑種中の雑種であり、日米間に戦雲がただよいはじめてからは、日本人に対する疑惑と猜疑心の絶好の吐け口となった。
日本で本格的教育を受ける利点は認めても、そうした実情をまのあたりにしながら子弟を敢えて日本に送り出すことは、並々ならぬ勇気を必要とした。
しかし母節子は熟慮して、孝一の日本留学を決意した。自分たちと同じ地を這うような思いはさせたくない。この土地にしばりつけておいたのでは、折角の英才も羽ばたく空間がない。より多く勉強の場をあたえ、仕事への間口をひろげてやりたい。孝一の素質と性格は、おそらく母国日本の風土にはぐくまれてこそ開花するにふさわしい。自分たちが結局白人とのふれ合いに馴じまなかったように、この子も白人社会に自分を押し出してゆくタイプに生まれついていない事実を、むしろ感謝をもって認めよう、と節子は思った。
一九四〇年(昭和十五年)の夏、日本語の夏期講座受講を足がかりに渡日し、そのまま残って日本の大学受験に挑戦してみないかとおそるおそる切り出してみると、孝一は即座に、自分も前からそのことを考えていた、日本について何でも勉強してみたい、必らずサムシングを吸収して持って帰れると思う、と答えた。彼自身の日本行きの決意はまことに明確であり、自分の奨めがただキッカケを作ったように思えたことに母は安心した。
しかし子供のことは万事節子に任せっ放しの令三が、このことにだけは強く異議を申立てた。一世の間にはすでに国際情勢の急変をめぐる不穏な噂も流れていて、大事な息子をみすみす危地に追いやるなという忠告は、直接節子の耳にも入った。この仲の良い夫婦は珍らしくはげしいいさかいをした。妻がけっして初心を曲げないことを知っている夫は、もし志望の有力大学に入学出来なければすぐに帰国するという一線で妥協した。ここまで主張を通した節子の志操の固さは、しばらく近在の日系人社会で語り草になった。
父の強硬な反対はなによりも息子を襲う災厄への鋭い直感によるもので、不幸にもこの予感は的中することになるが、結局最後には節子と妥協して渡日を認めたのは、内心ひそかに孝一の日本訪問に期するところが大きかったためかもしれない。令三は青年時代日本で身に帯びた国粋的な熱気をそのままけがさずに持ち続けている典型的な一世の一人で、節子とはちがい子供たちを言葉で教え諭すことはめったになかったけれども、小学校ぐらいまでの孝一は父からスパルタ式に厳しく鍛えられた。二世全体が日本的なものから自然に離れてゆく風潮のなかで、節子とはちがった意味で息子の社会人としての本性が日本人に近いことを見抜いていた父として、じかに故国に触れる経験が孝一に何をもたらすかは、はかり知れぬ期待の対象だったのであろう。
太田孝一が身を落ち着けたのは、小田急沿線にある稲田登戸の“みづほ学園”である。ここには二世学生のための全寮制の日本語学校が特設されており、彼は夏期講座のあと大学受験まで、オリエンテーションの意味で日本語のクラスに出席した。
学園の経営には外務省の外廓団体である海外教育協会があたっていた。寮長のフランク松本は終戦後の短い期間外務次官を勤めた松本滝蔵と同一人物で、孝一の両親とは同県人であることから何かと目をかけてくれたし、内藤理事長もハワイ副領事を経験した人だった。孝一は居心地がよいので大学に入ってからもこの寮から通い、結局海軍に入るまで三年半近く、多摩川の川原を眺めて暮らすこととなる。
二世たちをこの学園にひきつけたもう一つの要素に、沢田美喜夫人の存在があった。夫人は野球チームのマネージャーまでつとめるほど、万事に親身になって世話をしてくれた。どれ程の恩を受けたか、今となっては見当もつかないと園生たちは回想している。せめてすこしでもご恩返しをしようと、夫人の申出をうけて仲間を誘いあわせ、日赤本社に無料の奉仕に出かけることも度々あった。
寮は全室二人部屋、女子が二棟、男子が四棟で、合計六十人あまりのささやかな世帯だった。寮生のなかには同じカリフォルニアの出身者や広島県人を両親にもつ二世もいて、気心の知れた仲間と一つ釜のめしをくう生活を、孝一はつかの間の平和のなかで大切に楽しんでいる風であった。
フランク松本は孝一に日本語の学習に力を入れることをくり返し奨めた。母の感化で、サクラメントの日本語学校の補習授業に真面目にかよい通した彼は、読解力では誰にもひけをとらなかったが、喋る方は生来の口下手もあって、はかばかしく上達しなかった。
同年輩の二世のなかでは下手な方ではないとしても、日本語も英語と同じアクセントでパッパッと短く切る発音はどこかぎごちなく、たとえ本場で習っても、この年になって急に口癖が直るはずはなかった。
彼がみづほ学園の寮に入って真っ先におばえ、もっぱら愛用した日本語は“オフクロ”である。どういうわけか、この英語に翻訳不可能な母親の愛称が彼は大そう気に入って、おかしいほど会話の中で連発した。しかし“オヤジ”という言い方は気に入らなかったようで、“父”とか“お父さん”とかいいあらわしていた。
漢字に関する孝一の知識は日本語クラスの集中授業で目に見えて向上し、二世の最も苦が手とする習字でも、しっかりした書体と筆勢は他の模範としてほめられた。やや右肩の上った四角張った筆跡は、独特の硬さのなかに、見る人に訴える個性を持っていた。
太田孝一の日本語の実力を要約すると、話し言葉の自由闊達さと日常会話のボキャブラリーだけが弱点で、この二つは中学生程度の実力のまま、彼は日本海軍の士官に仕立てられることになるのである。
翌四一年春、外国人学生に最も開放的なことで定評のある慶応予科を受験した。外国籍学生の倍率は十八人に一人という難関だったが、孝一は事もなくパスして、大学卒業まで留学を続けたいと希望する手紙を両親宛てにしたためた。再びアメリカの土を踏むチャンスは、この年の十二月、真珠湾奇襲攻撃が突発したことによって永久に失われた。
その頃在京者二千人といわれた二世学生の中で、四十人ほどが慶応に在学しており、台湾や韓国の学生も多かった。日本語の授業では、虎の巻を教科書の隣りにおいて首っ引きで答えるような芸当の出来ない太田は、漢字育ちの彼らをつくづく羨やんだ。その代り英語の時間は、米系二世は全時間免除だったが、太田だけはサボらずによく授業に出た。ある時英会話の先生が気まぐれに彼に当てると、応答があまりに素早いので先生がフォローできなくて、満座の失笑を買ったこともあった。
太田は終始、真面目に教室に出て克明にノートをとる模範生で通した。正確な日本語で授業のエッセンスを書きとれる二世など彼のほかには考えられず、その希少価値をわきまえた日本人学生の中には、好んで彼のノートを借りようとするものもいた。そしてしまいには、彼なら最も確実というわけで、代返を頼むものもあらわれた。
口先の小ワザが人一倍無器用な太田が、どんな苦心をかくして代返の務めを果したか、その表情を思うだけで微笑(ほほえ)ましい。彼の属するHクラスの中で二人も三人も頼まれたときは、さすがに困り果てて、出席日数が足りなくなるおそれがあるから、これからは出来るだけ出てくれと頼んでまわっている。彼の代返を見破ることなど、老練の先生にはたやすいことだったであろう。あるいはその真剣さがいじらしくて、わざと見のがしてくれたこともあったのかもしれない。
日吉は森を切り開いた広々した野っ原で、その中に点々と予科の校舎があった。四年後、この校舎の一角に地下壕を構築して陣取った連合艦隊司令部から、彼の死出の旅となる天一号作戦発動の秘電が打たれることなど知るよしもなく、校舎のうらの草むらに寝ころんでダベることを太田は何よりも好んだ。
ニックネームは“ライブラリーの虫”から“カント”に変っていた。その思索家ふうの風貌や世渡りの下手な律義さがあだ名の由来にはちがいないが、ボロボロになるまで読んだぺーパーバックスのカントの著作、例えば"The Critique of Pure Reason"とか"The Critique of Judgement"を彼がいつも手放さずにいるのを、からかう意味もいく分かは含まれていたであろう。息苦しい時勢のうつり変りの中で、哲理の美しい展開の跡を辿ることに彼がどれ程の救いを見出していたかは、不真面目な学生にも、おぼろげながら理解できたのである。
カントが、およそ人間が自発性を発揮しうる能力の中心をなすものとして“思考”という行為を捉えたこと、また経験の世界には時間、空間、カテゴリーという形式が人間存在に先立ってその行動を規制するものとして定められており、それ以外の超経験的な観念は信仰の対象に過ぎないと説いたことは、時代と世界情勢の変転のはらむ不安におびやかされていた太田にとって、その不安が堪え難い時、そこから逃げるのではなく、あたえられた試練そのものに立ち向うために、身をひそめる堅塁のような役割を果したのであろう。
哲学に親しむうちに、太田はいつの間にか批評家風の眼識を身につけたらしい。世間話の苦が手な彼は、なにか発言すると、大てい文明批評か社会時評の体をなしていた。気の合った二世の友人と何時間も英語で語りつくして飽きなかったテーマは、例えば「哲学と宗教と、どちらが次元が高いか」とか「日常生活の知恵は幸福論の研究にどの程度役立つか」といったようなものだった。とりあげる話題に、全くといっていい程“アメリカ”が登場しないのも、二世としては風変りだった。
太田はけっしてのん気な楽天家ではないが、悲観論者というわけでもなく、騒いだりふざけたりすることが嫌いな内向型で、何事にも一点もゆるがせにしない几帳面さが、つねに自分の内面を指向していた。
その彼が倫理学の課目で「大不可」をとったことは、しばらくクラスの話題を独占した。苦が手の軍事教練にさえ根気よく堪えた太田が、得意の課目で勉強を怠るはずがない。彼にはその先生の授業ぶりが徹底的に気に入らなかったのだ。暗記物として倫理を教えることに腹が立って、真っ向から批判する答案を書いたのだ。クラス中がそう信じた。
倫理学だけではない。日本の教育制度が相も変らず記憶万能主義を墨守していることに、彼は不満をかくさなかった。アメリカ時代はトップの成績から落ちることのなかった彼が、慶応予科の五十五人のクラスでは、真ん中ぐらいから上三分の一以上にどうしてもあがれなかったことは、秀才太田のプライドを痛く傷つけた。英語で答案を書くことを認められた一部の科目を除いて、日本語の制約が大きかったことを指摘するのはやさしいが、そういう理由にかこつけて自分を甘やかすのは、彼の最も嫌うところである。成績が気にならない二世たちは気楽なものだと批判しながら、ああいうペーパー・テストの出題の仕方では学生の能力開発は期待できないと、太田にしては珍らしく闘志をむき出しに攻撃してはばからなかった。
太田の論理的思考を好む性格についてはいろいろの面からみてきたが、同時にきわめて現実的、実践的な一面もあわせ持っていたのは興味深い。考え方の筋は緻密で妥協を許さないが、それを現実にあてはめるときは、現実そのものから出発する。現実に即してモノを見ようとする。この一種のプラグマティズムは、彼が両親から自然に学びとったものであり、アメリカ的な成功をかちとる力の源泉として、身につけたものと思われる。
実際家太田の手腕は、果樹園に育った生い立ちと結びついて、稲田登戸周辺の山野の探勝や、みづほ学園に附属した菜園のとり入れで発揮された。山芋を掘る手ぎわは素人のものではなかったし、栗の実を落としていがをむく、渋柿の皮をむき縄に編んで吊るし柿にする、そんな手早い作業も、無器用な彼にこんな芸当が出来るのかと仲間たちを驚かした。
太田の別の一面は、意外に神経が図太く、また悪戯(いたずら)好きだったことである。その頃の稲田登戸一帯は未開の曠野で、夜は見渡す限りの暗闇だった。山があり谷があり、中でも戦後川崎ゴルフコースに組み入れられた大きな池と窪地は、胆試しの絶好の場所を提供していた。
口には出さないが、太田には試胆会のスリルが大きな魅力だったらしい。誘われればけっして断らずに必らず参加した。池のそばの目印しの石の上に約束のものを置いてくる。次の者がそれを取って別のものをおいてくる。途中で待伏せておどかす。そんな意地の張り合いがくり返された。
臆病者のくせに威張りたがる二世学生がいた。彼が胆試しに出発すると、あの太田が恐るべき機敏さを発揮して近道を先まわりし、石の上の物をかくしてしまった。いくら探しても見当らないので、薄気味悪くなったその男は、しょんぼり帰ってきた。自分に気付かれずにひそかに取ってくるのは至難の業である。ではどうしたのか。いぶかしんで質問するその二世に、仲間たちは共謀して太田の悪戯を明かさなかった。
第二章 破局まで
米本土の西部諸州に住む日系人は、土地規制、移民制限などの政治的手段に加えて、社会の各階層から湧き出る憎悪と反感のために、日に日につのる肩身の狭さを味わっていた。一八八二年の中国人排斥法以来排斥運動のやり玉にあげられてきたチンク(中国人)に代って、その穴うめの下級労働者として忍びこんできたジャップこそ、はるかに悪質な侵入者だと名指しする声がたかまり、一九〇三年に中国人の入国が全面的に禁止されてからは、東洋人攻撃の火玉を一身に引き受けることになった。
一九三四年、アリゾナ州ソルト・リバーに突発した排日事件は、発砲、ダイナマイト爆破、水路放流の暴行の末、砂漠地の開拓に功績のあった多数の日本人を土地法違反のかどで逮捕するという非道なもので、その後頻発する集団排日行為の端緒となった。
日本人排斥の理由としてあげられた論点をたどってゆくと、どこまでも際限がない。そこにあるすべての事情が口実になりうるのであり、相互に矛盾衝突があっても主張する側はすこしも痛痒を感じない。例えば日本人移民は稼いだ金を全部本国に送金すると攻撃するかと思えば、中国人とちがい土地に大金を投資するのはけしからんという。
一世はアメリカ社会に同化しないと批判されるが、同化したくても帰化は認めない。日本人は低い給与に甘んじて他の勤労者に迷惑を及ぼすと非難されるが、すべての権力が日本人の苛酷な処遇に協力している。文化水準の低い劣等人種だとさげすむかと思うと、優秀な恐るべき競争者だと警戒する。
要するに、「日本人であるが故に」好まれないのであり、当時西部の地元新聞がこぞって指摘したように、「日本人が善良なアメリカ市民となりうるかどうかは問題でない。われわれはただ血の混合を恐れる。カリフォルニアは純白でなければならない」のであり、「われわれの不平のすべては、ただ日本人が近隣に居住するのを好まないということに帰着し、顔色、信念、言語、社会通念、道徳基準等の相違、そして窮極には人種の相違にもとづく」のである。
しかし同じ問題について、イギリスの一流紙は次のように指摘した。「在米日本人は、その生活、教育、道徳などの基準によってみると、アメリカ人に比べて遜色がない。最近多数入国している東ヨーロッパ人に比較しても、概して優秀ということができよう。黒人に白人と平等の権利をあたえようとして一大内戦をひき起したこの国が、日本人の皮膚が黄色いからといって帰化を許さないのは論理が一貫しない。
十九世紀後半に鎖国状態を脱した日本は、西洋諸国が夢にも考えなかった一大進歩をとげ、五十年にして世界の大国に列するに至った。このためアジア人は激励されて多年の惰眠から覚醒し、白人のみを世界の優等人種として崇拝していた通念は打破され、白人が世界をわがもの顔に行動することはも早やできなくなった。日本の勃興に伴うこれらの注目すべき現象が、白人による日本人排斥の背景とみることができよう」
日本政府は、このような人種的理由を正面にかかげた差別待遇の不当を、世界世論に訴える機会を狙っていた。その機会は、第一次大戦の事後処理のため、パリで開かれた平和会議に際して到来した。日本代表団は、国際連盟規約に人種差別撤廃問題を盛りこむことを主張し、具体的にはその前文に「各国民の平等は国際連盟の根本的主義なるをもって、連盟に属する各民族に対しては、平等かつ正当なる待遇をあたえるべし」との文言を挿入することを提案した。
この提案は出席者十六名中五名の反対によって採択されず、議事記録に残されるにとどまったが、討議の過程で各国から以下のような批判が出されたことは、銘記されなければならない。「日本が人種平等決議案を提出するようなことはありえない。なぜなら、日本が獲得した領土に他の東洋人が移住する場合、日本人と同等の権利をあたえていないことは、日本代表団が最もよく承知しているはずであるから」「日本国内では、朝鮮人、台湾人を、どの程度同等に扱っているというのか」「日本は朝鮮を不当な手段で合併し、台湾土着の蛮人にたいしては、絶滅の方針をとっているではないか」
一方日本国内にも、一九二八年の普選実施まで、女子および一定所得以下の男子に選挙権をあたえなかった事実に着目し、「アメリカの排日を憎み人種の平等を主張するのは結構だが、自分の国でさえ“参政権”をあたえていない野蛮人に対し、外国が市民権をあたえず平等に取り扱わないといって責めるのは、あまりに身勝手に過ぎる」とする有識者の声があったことは、注目に値しよう。
ヒステリックな日系人非難の高まりは、たとえば「パロマ山の誇り」という小説の「どん欲、利己的で勘定高く、けんか好き、疑ぐり深く小才が利き、怒りっぼく信頼出来ない、精神の高貴さ、寛容さはツユほどもない」といったジャップの描写によくあらわれている。州議会の公職にある一議員は、日系人の子供を「ガニ股のお化け、あわれな臆病者、サルに似た、堕落した、腐った小悪魔」と形容した。
煽動的な反日記事で売ったニューヨークのある新聞は、「憎しみの讃歌」を掲載し、その一節でうたいあげた。
アメリカ人よ、われわれが警戒するのが聞こえないのか
戦艦があるんだぞ、カリフォルニアの太平洋岸に! と彼らはいう。
彼らは微笑を浮かべてわれわれに接する。だが、彼らはいつも働いている。
彼らは、われらのカリフォルニアを盗もうと待っている。
だから、東郷元帥に気をつけろ。
彼のポケットにはいつも地図がいっぱいだ。
日本人なんて信用できない。
人種的偏見がある程度の差別を生むことは避け難いとして、きく人の感情をここまで刺戟しなければならぬほどの悪意は、何から生まれたのか。日本人の並外れた勤勉さが、ただの労働者以上の地位に自分たちを押しあげ、アメリカ市民が長年抱いてきた“資産家”という神聖な夢に割りこみ、手ごわい競争者として実害をうむところまで増長したことがその根因だという見方は、問題の核心をつくものであろう。飽くなき成功欲に憑かれたスラント・アイズ(目尻のつり上った奴)をのさばるままにしておくことは、黄金の西部を懐かしむ愛国者たちに我慢がならなかったのだ。
カリフォルニア州合同移民委員会の指導者の地位にある元ジャーナリストは、上院で証言した。「彼らは市民権を持たない他の黄色、褐色人種よりも更に精力的であり、更に決断力があり、更に野心的であり、しかも同じように低い生活水準、労働時間、婦人幼年労働者を持ち、経済的に見て、いっそう危険な競争者となっている」
このような憎悪と偏見に、日系人自身はどのようにして堪えることができたか。一九四〇年に書かれ上院で朗読された「日系アメリカ人の信条」は、その心情を率直に表明したものとして、長い戦争の苦難期のあいだ二世の青年の心の支えとなった。「私たちは、ある人々から差別待遇を受けるかもしれませんが、決して恨んだり、それによって信念をなくしたりすることはありません。そのような人々は、アメリカ人民の多数を代表するものではないことが、分っているからです。私たちはそのような差別を思いとどまらせるため、この国にふさわしく公明正大に、法廷を通じ、また私たち自身が平等な待遇を受けるに値する事実を証明することによって、出来るだけ努力をしたいと思います。アメリカ人のスポーツマンシップとフェアプレーの精神は、私たちの肉体的特色ではなく、行動と業績に基いて、市民としての資格と愛国心の強さを判断してくれることを、私たちは確信しています」
一九四一年夏には日系人の資産凍結の噂が伝わり、疑心暗鬼の深まるなかで、多くの日系人は財布の底をはたき、善良なアメリカ市民であることを誇示するために、多額の米国戦時公債を購入し、きそって米国赤十字社に寄附をおこなった。
その年の十二月七日、日曜日、サンデー・コンサートを中断した午前十一時半(西部時間)の臨時ニュースは、一世たちの汗と血と皺と屈辱から生まれた収穫の一切を粉砕した。
これまで祖国が事変を起して戦争に介入するたびに、はるか第一線に慰問団を派遣し、陸海軍、靖国神社に巨額の義捐金(ぎえんきん)を送りつづけてきた彼らも、今度だけは為すところなく色を失い、混乱と恐怖のなかに落ちこんだ。
真珠湾だまし討ちの見事な成功は、日本憎悪の勢力に決定的勝利をあたえた。奇襲作戦の背後には、有力な日系スパイの活躍があったにちがいない。次の侵攻地点は西部諸州の太平洋岸のほかにありえず、保安態勢はまさに危殆に瀕している。そんな流言が囁かれた矢先、一隻の国籍不明の潜水艦がロスアンゼルスに近いサンタバーバラの重油タンクに砲撃を加え、一人の負傷者を出した。ジャップはついに正体を暴露したのだ。ハースト系新聞のコラムニストはこう書いた。「奴らを苦しめ痛めつけ、空腹にさせ、死ぬ思いをさせよう。我々は敵とその血筋を引くものに我慢するのをよそう。個人的にいって私は日本人を憎む。どの日本人をというのではなく、すべての日本人をだ」
ハースト系の別の新聞は、「第五列の裏切り」という見出しで、ノックス海軍長官が日本人のスパイ活動およびサボタージュ行為を非難する談話をかかげたが、これが単なる噂を根拠にしたものだという部分は、意識的に伏せてあった。
翌月曜日の朝から、連邦政府の命令によって全日系人の銀行預金が凍結され、一切の引出しが不可能となり、保険金の支払も停止された。営業免許は取消され、国境での出入は閉鎖され、病院への入院は拒絶され、必需品の購入が困難となり、一せい首切りの結果、失職者の発生が相次いだ。夜間の外出は制限され、米国市民の基本的権利とされた短波受信器、銃器の保持も厳禁された。
敵性外国人は逮捕を免れないとの噂が日系人社会のなかを飛びかい、しかも自分たちの仲間にイヌがいて、無旅券などの不法入国者をFBI(連邦検察局)に密告するかもしれないという恐れが、混乱を深めた。
それは単なる風評ではなかった。直ちにスパイ容疑を含むA級の危険分子リストが作られ、FBIや地方警察当局の手によって、三日間に二千百九十二人の日系人が逮捕され、刑務所に入れられた。しかしこの非常措置は、反日熱を鎮静させるどころか続発する暴行殺害事件の導火線となり、戦局が一方的に日本側に有利に展開する背景のもとで、西海岸から日系人を一掃せよとのヒステリックな叫び声をあおった。日本人追放のために必要なあらゆる手段が、国をあげて着々と実行に移された。
まず翌四二年一月十九日、ビドル司法長官は太平洋岸に敵性外国人立入り禁止の機密地域を設定した。それは主として港湾、飛行場、工場、造船所、鉄道、ガス管、上水道、送電線に隣接した地域であり、特に日系人がその附近に蝟集(いしゆう)して居住している事実は、集団サボタージュの意図を裏書きすると指摘されたが、それらがいずれも騒音、煤煙、事故の危険にさらされた好まれざる土地であり、日系人に入手可能な例外的に安価な土地であるという事情は無視された。
二月に入ると、西海岸の議会代表団が、市民権の有無にかかわらずすべての日系人を西部諸州の海岸線から二百マイル以遠に隔離するよう請願を提出したのを受けて、十九日、ルーズベルト大統領は行政命令第九〇六六号に署名し、「“外国人たると非外国人たるを問わず”、アメリカの国防に危害を及ぼすと認められる者を、立入り禁止地域および防衛戦略地域から退去させる」権限を、軍事長官およびその指名する軍司令官に委譲した。
三月二日、スチムソン陸軍長官は、この権限を行使する軍司令官に、六十二歳のデウィット西部作戦地区司令官を任命、デウィット将軍は、日本人の血八分の一以上をもつすべての日系人は、太平洋岸三州(カリフォルニア、オレゴン、ワシントン)の西半分とアリゾナ州の三分の一から退去すべきことを決定し、議会は立退き命令違反は犯罪であることを議決した。立退き作業がおそるべき大規模な初仕事となることを予想し、その実施の主管当局としてWRA(戦時強制隔離事務局)が設置され、初代長官として、のちの大統領の実弟ミルトン・アイゼンハワーが任命された。
退去措置の対象者は十一万七千人をこえるものと推算され、しかもこのうち七万人以上が二世三世、すなわちれっきとした米国市民であった。大統領行政命令が“外国人たると非外国人たるを問わず”と耳馴れない表現をとっているのは、さすがに“米国市民”とは言い切れなかったためであることが露見した。また命令全体の表現に曖昧さがあるのは、起草担当者が、特定の人種を対象とする差別措置として違憲判決を受けることをおそれ、意識的に広義の規制を装った結果であることが読みとれる。
日系人と結婚した白人をどう処置するか。この難問に当局がいかに苦慮したかは、白人の夫と日系人妻の組合せは立退き対象外、日系人の夫と白人妻の組合せは立退き、ただし未亡人は対象外、とした不自然な解決からも容易に想像される。
米国内の世論ははじめ日系人に同情的な立場が優勢で、西部を除く中部東部の大勢は、すくなくとも中立だった。しかし良識的なアメリカ市民が直接にはほとんど日本人と接触がなかったことが致命傷となり、意図的な反日宣伝がこの無知の隙をついた。長年同じ町内で平和に暮らしてきたあの親切な庭師にさえ、FBIの武装警官が襲いかかってつかまえるところをみると、日本人なんか誰だって信用出来るものか、という単純な反応がひろまるのに時間はかからなかった。
ルーズベルト大統領がのちにこの日系人隔離劇を収拾した鮮やかな手ぎわからすると、もしこのとき行政命令ではなく得意の炉辺談話を決意し、「彼らはアメリカ人であり、裏切りや反逆行為を犯したことがなく、私たちの経済のためにも戦争がうまくゆくためにも必要な人たちだ」と魅力的な話法で放送していれば、開戦初期の世論の趨勢からみてそれだけで万事は解決したのにと悔やむ声は、今でも知日派の米国人の間にきかれるほどである。
もし軍事上の必要から日系人の追放が必要だとしても、危険分子だけの選別立退きで充分ではないか。それなら強硬論者も納得させる余地があるのではないか、という意見も一時よくきかれたが、忠誠組と不忠誠組を、自信をもって判別出来ると公言するものはなかった。日系人は皆同じように勤勉で善良な、アメリカ社会に協力的な市民生活を送っていたので、これを黒と白に二分するなど、はじめから出来る相談ではなかったのだ。
一斉立退き強行派は勢いを得て急速にふくれあがった。それは州の労働連合、農民連合、農業共済組合、農園事務所連盟、在郷軍人会、合同移民委具会、東洋人排斥同盟、黄金の西部郷土の会から市長会、商工会議所、地方政治執行会議、左派諸政党などの公的機関にひろがり、さらに全国に読者をもつ新聞や大衆雑誌の論調も、圧倒的多数で強制隔離を支持し、反対の論陣を張ったのはわずかに二人のコラムニストだけだった。
戦後その進歩的な言動で知られるようになる指導者でさえ、やすやすと立退き促進のキャンペーンに加担したことは、不可解というほかはない。たとえばあのリベラルなジャーナリスト、ウォルター・リップマンは、日系人がサボタージュ行為を控えているのは、最大の効果を発揮しうる好機を狙って意図的に鳴りをしずめているのだと書いたし、また最高裁長官として黒人の公民権運動推進に奮闘するウォーレンは当時カリフォルニア州検事総長の地位にあり、敵性外国人の処置は軍の問題であるとして文官としての態度表明を避けたばかりでなく、一世よりも米国社会にとけこんだ二世の方が潜在危険性が大きいなどと、不用意な発言を残している。
こうした附和雷同の動きに対して、団体として立退き反対を宣明したのは、全米国人の権利擁護の砦であるACLU(アメリカ市民自由権連合)と、絶対平和を信奉するクエーカー教会だけという淋しさだった。
もちろん個人の立場で、日系人に加勢する勇気ある人もいなかったわけではない。中学一年の男の子は開戦の日の想い出を綴っている。――そのニュースをきいたとたん、ボクは新聞を買いに表に出た。そのとき、隣りの家の人がボクにお入りといった。ちょっとこわかったが、しかし入った。するとその男の人は、「起ったことを心配しなくてもいいよ。この戦争がはじまらなかったのとおんなじ気持でいればいいんだよ」といってくれた。
その翌日、いじめられるのではないかと心配しながら、学校に行った。ところがほとんどの友だちが、何もなかったように接してくれた。ボクはそれがうれしかった。男の子のなかには変な顔をして、悪口をいう者もいた。しかしそれほどいやな気持はしなかった。なぜって、ぼくはアメリカ人だし、これからもそうだからだ。このことは、その後もいつもボクに勇気をあたえてくれた。――
カリフォルニア州上院特別委員会の公聴会で、証人に立った米国愛国婦人団体メンバーのある夫人は、米国憲法は少数者集団の権利を守るべきであると主張して、委員長との間に次のような激論をたたかわした。
夫人――私たちの委員会は、憲法で保障されている権利が脅かされているグループがあれば、どんなグループでも支援するつもりです。戦争中に、人種的憎悪に走らないようにするのは、とても大事なことですわ。
委員長(どなるように)――あんたは、共産主義者なのか。
夫人――私はこの三年間ずっと共和党員ですし、善良な市民としてやらなければならないことをいろいろやってきました。私が問題にしているのは、アメリカ人の市民権の問題で、日本人だからどうのこうのということじゃないんですの。
委員長――あんたに、もしジャップと戦っている自分の息子がいれば、今頃は違ったふうに感じているだろうとは思わないかね。
夫人――思いませんわ。太平洋で起っている戦争が、カリフォルニア州にいるアメリカの市民権所有者と関係があるんですか。日本人が太平洋岸にいてもよいかどうかは、陸軍省が決めるべき軍事問題です。ただ、私たちの委員会が、戦争中であってもアメリカの原理を脅かすようなことは一切してはならないといっているだけなんです。
委員長――ジャップどもの身もちのことを、知っているのか。家名を絶やさないために自分の妻君をほかの男に預けて子供を作らせるような国民を、自分の国の政府に守らせたいのか。
夫人――私、そんなことにはなんの関心もありませんし、何も知っていません。
委員長――あんたは、男と女が裸で混浴するような民族の権利を擁護してほしいのか。ジャップどもの家の匂いをかいだことがあるのかね。
戦後程へてから、当局責任者の何人かは、日本人を暴徒から守るため恩恵として隔離してやったのだと弁明しているが、事実に照らせば、これほど詭弁にきこえる言いのがれはない。強制隔離の舞台裏が、西部諸州の経済的敗者を主役にし、憎いジャップを敵役(かたきやく)にした復讐劇だったことは、ハワイでの日系人の処遇およびドイツ系、イタリヤ系の取扱いからみて疑いの余地はない。
真珠湾攻撃によって蒙った恥辱、卑劣な奇襲にたいする憤慨、米本土よりもはるかに深刻なスパイ行為の脅威からすれば、ハワイの日系住民こそ大量立退きに値するように思われるが、実際にはわずか九百八十人の一世が本土の抑留所に移送されるにとどまった。おそらくその最も重要な理由は、人口の三七パーセントを占め十六万人をこえる日系人は、ハワイの全食糧生産の九〇パーセントを握っており、経済的利害が米本土西部諸州と全く逆であるという事情に求められよう。また彼らの一部は準州兵としても重要任務に就いていたこと、これだけ多数の人員を輸送する船腹の準備がなかったこと、長年州昇格運動を推進するにあたって日系人の忠誠心を根拠の一つにあげ、彼らの協力に報いるためにも早期の昇格が望ましいと主張してきたことなども、副次的な要因をなしていたと思われる。
一方当時のカリフォルニア州には、市民権のないドイツ人が五万二千人、イタリア人が一万九千人おり、日本人に比べて遜色ない勢力を占めていた。彼らも同じ枢軸側の敵性外国人として立入り禁止措置の適用を受けたが、多数のスパイ逮捕者を出しながらついに強制隔離の準備を要求する声さえ起らず、しかも早や早やと四二年十月にはイタリヤ人が、同じく十二月にはドイツ人が敵性外国人の枠から外されている。
長い移民史と同化の実績をバックに、彼らが強力な政治的地盤に恵まれていたことはいうまでもないが、それ以上に、白人を見る眼ははじめから東洋人に向けられる眼と異るものがあったことも、否定できない。
敵性外国人の立退き問題調査を目的として連邦議会下院に設けられた委員会で、イタリヤ人弁護のためにおこなわれた証言を、さきの州上院委員長の日系人攻撃と比べれば、このことは明らかである。証人はイタリヤ系移民の代表としてディマジオ家の名をあげた。「ディマジオ家の両親は、五人の男の子と四人の女の子を育てました。男の子のうち三人は、スポーツ界の傑物です。ニューヨーク・ヤンキースの花、ジョーをはじめとして、兄のヴィンセント、弟のドミニックの活躍ぶりを知らない人はないでしょう。このすばらしい子供たちの疑問の余地のない忠誠心を考えますと、両親を立退かせることは、ゆゆしい事態を招く結果になりましょう。皆さんはこの私見に賛同下さるものと思います」。これがジョークであればまだ救われるが、一言一句が、もと連邦司法長官補佐である証人の公式発言として記録されているのである。
ある野菜農業協組代表者は正直に告白している。「我々は利己的な理由で日本人を追出したのだと批判されている。よろしい、その通りだ。彼らはこの谷間にやって来て住みつき、今や我々の地位を脅かしている。明日にでも日本人が皆いなくなっても何ら支障はない。白人の働き手がいるし、彼らの栽培していたものはすべて育てることが出来る。戦争が終っても戻ってきてもらっては困る」。しかし事実はそうではなかった。日系人の抜けた穴をうめるために、その後大量の黒人労働者の移入が続き、カリフォルニア州だけでその数は十五万人に達した。
政府は矢つぎ早やな追放措置の発表にさすがに気が引けたか、実行面ではまず下手(したて)に出て、三月上旬、禁止地域外ならばどこにでも移動を認める自発的退去を勧告し、その反応に注目する方針をとった。もしうまくゆけば、それが最も手間の省ける妙案であることはまちがいなかった。
当局の思惑は図に当って日系人は難なく釣り出され、早くも三月二十三日には、最初の大集団がロスアンゼルスを出発して東に向った。
しかしこれに続いて自発的放浪の群集が大きな流れにまとまりはじめると、当局の目算をこえる椿事が頻発し、流人(るにん)の波は伏兵に阻止された。追われる旅人は買いたくても思うようにガソリンが買えず、ホテルを追出されて車の中で雑魚(ざ こ)寝(ね)をし、レストランからしめ出されてオニギリをかじりながら、それでも牛歩のように東に進んだ。内陸各州の西に向う州境には「日系人お断り」のプラカードが立ち並び、大きな町の町外れには自衛団の群衆が待ち構え、一部は暴徒と化して疲れた群れを追い返した。流れをくいとめるためにはあらゆる手が、投獄という手段さえ動員された。
自発的立退きの方針はわずか三週間で撤廃され、三月二十七日にはその全面禁止が打出された。そして狼狽した当局は朝令暮改の混乱のなかで、一号から一〇八号におよぶ強制退去命令を乱発することになる。
太田は日米開戦をどのような衝撃をもって受取ったか。平静に受入れてその事実に堪える以外に道がない、そんなおだやかな表情で彼があの年の冬を過ごしていたのを、友人たちが記憶している。
最も親しくしていた二世の友人には、気を許して「戦争は悲しい。両親と弟たちを、いつか敵にまわさなければならない日が来るだろう」と打明けている。
みづほ学園の寮に、特高が訪ねてくるようになった。しばらく話をしていったり、時には憲兵が来て、部屋を調べて帰ることもあった。英語を喋る時の孝一が、天皇制や帝国主義の批判を雄弁に語るのを知っている仲間たちは、どんな応対をするかハラハラしたが、彼は正直に日本への期待、日本が自分に与えてくれる未来への抱負を語ったらしい。幼い日本語も思わぬ効果を生んだのであろう。ある刑事は寮長に、太田は国粋主義者で、生はんかな日本人学生より立派だと洩らした。
まだ平和なころ孝一が家へ送った手紙は、日本の風景の讃美に埋めつくされている。うららかな陽光、目にしみる山野の緑、優雅で繊細な四季の花々。母の感化もあって、若い二世には類を見ないほど、彼は端的に日本の自然が好きだったのである。
しかし日本の風光に魅了されたのとはウラハラに、日本社会の現状、日本人の実態に、太田が言葉には表わし難い痛烈な失望を味わったことは、残念ながら事実である。父と母、両親を通して親しい交わりのあった広島県人会の知人や一世の世話役の人たち。孝一の眼に映る日本人の原型は、そうしたアメリカに住む日系人であり、そこにあこがれの日本を求めつづける母体があった。なんとかして日本らしい日本に直接触れてみたい。日本人らしい日本人の側面を自分のなかに育ててみたい。彼はそのことを強く念願していた。
そういう気持の一つのあらわれとして、太田が日本人の学友との会話には努めて英語の単語をはさむまいとする苦心は、涙ぐましいものがあった。彼は強い意志でほとんどそれに成功した。思わず英語を口走るのは、何かにひどく憤慨してアメリカ風の舌打ちをする時、「ガッダム」というような使い馴れた発音が唇にうかびかけて、あわてて呑みこむ場合だけだった。
米国国籍を持ち英語をうまくあやつるというだけでとかく日本人に優越感を持ちたがる若い二世のあいだで、太田はしぜん異彩を放つ存在となった。そのくせ彼らの優越感のかげには、公的の場では一人前に扱われないことからくる劣等感と、世の中を白眼視するひがみ根性がひそんでいたのである。
太田がなによりも失望したのは、日本社会の閉鎖性、人間関係の煩雑さだった。渡日前にずい分きかされてある程度覚悟はしていたが、時に堪えられないほどに感じたのは、戦時下の息苦しい環境が、彼の感受性を余計いらだたせたためかもしれない。その点、アメリカ社会がたしかに開放的であることは、日本びいきの太田にも否定できなかった。しかし日本にはアメリカにない素晴らしいもの、例えば躾とけじめ、節度と奥床しさ、ピュアーな精神主義があるはずだ。このよさを生かして、更にアメリカ的な開放性を加えることは出来ないものだろうか。そんな難問について思いめぐらす太田の表情は、おそらく傍観者の眼に、単に青春の憂愁、心身の疲れを、異国の逆境のなかで堪えぬこうとする苦渋の色としかうつらなかったであろう。
日本とアメリカの橋渡し役を買って出るなどおこがましいが、日本のためと、アメリカのためと、二重の働きを心がけるようにと、おふくろはくり返し励ましてくれた。そしてこのむつかしい仕事を為しとげられるのは、日本人であるお前に備わった“優しい心”のほかにはない、そんなおふくろの言葉を、彼は語られた口調のまま想いうかべて、みずからを慰めた。
二世の学生仲間に、太田が“大和魂”という言葉を口にするようになったのは、いつの頃からだったか。「大和魂というのは、死ぬことだ。日本のために死ねばいいのだ」。およそ軍人に不向きな物静かな太田には似つかわしくない言い方だったから、友人たちは耳をそばだてて彼の言葉にきき入った。
親しい友人は、その頃彼が、「葉隠」とか「歎異抄」はむつかしくて歯が立たないが、和辻哲郎の「禅」や鈴木大拙の仏教入門書はよく理解できると話していたのをおぼえている。ベストセラーを続けたヒットラーの「わが闘争」は、露骨な“黄禍論”の主張もあっていい本とは思わないと断わりながら、ある時期熱心に読み耽っていた。二世仲間のあいだでは一ばん早く、先頭を切って彼が頭を坊主刈りにしたのもその頃だった。
太田の重い口から出る“大和魂”という言葉のイントネーションには、それだけで痛ましい響きがこめられていた。物心ついてからこのかた、生活のあらゆる面で排日の責め苦にさいなまれ、しかも自分たちの何層倍もその悲哀を味わいつくした両親から、「二世は善良な市民としてアメリカに忠誠をつくせ」ときびしく教えられてきた身として、「大和魂は日本のために死ぬことだ」と公言する決意は、もとより一時の昂ぶりから生まれたものではない。ひそかな自問自答の末に彼がここまで言い切った心情の底には、最も強い動意として、二世の誇りを賭けて血を分けた日本人の同胞におくれをとるまいとする意地があり、それによって一世の親たちの名誉をも守ろうとする念願があったものと思われる。すでに日米両国が決裂し同時に二つの国に仕えることが叶わぬとすれば、両親から受けた恩恵に報いる道は、祖国への殉死のほかに考えられなかったのだ。
自分たちの決意と勇気を行動にあらわすことによって“二世、二世”と侮られた恨みを晴らしたい、恥ずかしめをうけた汚名をそそぎたいという思いを、彼は二世仲間にむかって、口癖の"We will show them"という英語の断定にこめて吐き出した。彼はこの四語を、短く切った巻舌で力強く発音した。
しかし太田のようなゆき方は二世の中のひと握りの例外に過ぎず、彼らの多くは、迫り来る“母国アメリカへの裏切り”の重圧に堪えかね、課せられた問題から目をそらして刹那的な毎日を過ごし、自暴自棄におちいっていた。彼らへの批判をはっきり口にしてはばからなかった太田は、そのために目に見えて自分が孤立してゆくのを感じた。
それ以上に太田を怒らせたのは、日本人学生の態度だった。「日本の学生は何を考えているのか分らん。この重大な時に、自分が何をしなければならないか、考えたことはあるのか。自覚はないのか」珍らしくきつい口調で太田は憤激した。祖国の命運と正面から取組むこともせず、かといって勉強に打ち込むこともしない日本人仲間の煮え切らなさが、よほど肚に据えかねる風であった。
二世の青年にとって、日本軍の兵役に服するという選択は、のがれようのない絶体絶命の道では必らずしもなかった。彼らには、窮地を脱するいくつかのチャンスがあたえられていた。
一九四一年七月二十六日、米国は戦争準備の重要な布石として日本との通商航海条約を破棄し、アメリカにおける日本の公的資産を凍結するとともに、両国間の海運を停止したが、これに先立って同月初め、米国領事館は日本に在留する全アメリカ市民に対し、十三日までに帰国の希望を申出ない限り、今後は引揚げの実現について一切の責任を負わないことを通告してきた。しかしすべてを投げ出して突然の帰国勧奨に応ずることは、実際問題として不可能に近かった。
第二のチャンスは、開戦後の一九四二年夏に到来した。スイス赤十字を通して辛抱強く続けられた日米両国間の話合いは、交換船による双方の民間人帰国渡航という快挙に結実した。日本からの出発予定は七月初め、人員は千五百名以内、日本政府の提供する浅間丸とイタリヤ船籍の客船コンテ・ヴェルデに乗船してアフリカのモザンビークまでおもむき、そこまで日本人乗客を運んできた米政府差しまわしの船に交替に乗りこんで、大西洋を逆に西進する手筈がたてられた。
留学生にも、帰国の希望があれば申出るようにとの呼びかけがあった。しかし政府代表、外交官、そのほか公的任務に従事してきた官公吏、報道関係者、学者、米系企業の駐在員たちに、優先的にチャンスをあたえるべきだという暗黙の了解が、共通の危機に直面したこの集団におのずから滲透した。家庭事情その他の特殊な理由を添えて、強い希望を申しのべた学生はごくわずかに過ぎなかった。
太田は二、三の日本人の友人に相談をもちかけたが、それは自分を最終的に納得させるために必要な手順で、二世仲間には全くはたらきかけていないところをみても、はじめから残留の意志は固かったものと思われる。理論好きの太田は、その動機をみずから解明する筋道を立てていたにちがいないが、断片的にもらしていた口振りから察すると、自分の血はアメリカ人ではなく日本人のそれであること、白人社会のかかげる“平和”の理想は独善的で欠陥があり、有色人種がその補完の役割をになう余地があるとすれば、ここまで運命の手に運ばれてきた自分として、そのための日本民族の使命の達成、あるいは夢想の実現に青春を捧げて悔いないことが、残留の道を選ぶよりどころだったと推測される。
日頃父母への孝養や弟妹への思いやりを果たす機会に恵まれないことを嘆いていた太田が、家族ともども手をとり合ってこの苦難に立ち向う願いをこめて、帰国の可能性に最後まで未練を残していたことは想像に難くない。しかし両親の自分に寄せる信頼と期待は、たとえ一時的に親子が敵対し合うことがあったとしても、息子が日本人の血に殉じることを窮極には許しかつ喜んでくれるであろう。――そこまで思考を飛躍させて、肉親の住む母国への想いを断ち切るほかなかったのだ。
モザンビークでは、同じく日本人乗客千五百人をのせた中立国スウェーデン国籍のグリップス・ホルム号が待っていた。横浜を出る前日、解禁の日にわざわざ浅間丸に積みこまれたあゆの珍味は日本人をよろこばせ、交戦中の両国民は、タラップを上下しながら、お互いに旧知の相手をみつけると親しげに手を振った、という噂が流れてきた。
徴兵令による召集という決め手をのがれるもう一つの道は、一条の糸のような諜報要員志願のチャンスだった。これは一種の軍属として特殊任務を負わされた裏面活動、あるいはスパイ行為であり、それだからこそ、ひそかに留学生の間に特別志願者が募られたとき、軍は“兵役免除および生命の保障”を絶対の条件として持出した。
この仕事にどれほどの二世が応募し、どの程度の活躍を演じたかは、資料を欠くためつまびらかでないが、こうした露骨な戦略宣伝、後方攪乱工作にあり勝ちな陰湿さは、米国側の執拗な報復劇ともいうべき“東京ローズ”裁判の不明朗な顛末に、あきらかである。太田はもちろん、そのような誘いには一顧もあたえなかった。一部の二世グループの間では、ひと頃“エスケープ”という隠語が流行し、この言葉のニュアンスから兵役免除の恩典がもつ誘惑の甘さが汲みとれるが、彼らは太田とは全くつき合いのない連中だった。
開戦はやがて両親からの学資仕送りの道を断ち切った。海軍に召集されるまでの二年近い期間、孝一はどうして暮らしていたのか。母の節子は、終戦後三十年を経た今でもそのことを思うと胸が痛むが、彼はさいごまで少しも困窮の素振りを見せていない。当時のクラスメートは、気付かなくて申訳なかった。少しでもその気配があれば出来るだけのことはしたのにと残念がる。蓄積や副収入があってもしれたものだったろう。
彼が最も頼りにしていたアルバイトは、ジャパン・タイムスの校正である。二世には楽な仕事だったし、学校が終ると直ぐ飛んでいって夜中の十二時頃までやれば、いい小遣いになった。しかし勉強熱心な太田は、そう度々出かけて時間をつぶすことを自分に許さなかった。
同郷の二世の先輩で米系企業に就職している人のなかには、紹介状をもらってきている相手もいたが、彼らも例外なく勤務先が閉鎖されて失職しており、助けを求めるどころではなかった。
窮状を見かねた寮長のフランク松本が、個人の資格でいくらでも面倒をみるからと申出たのにたいして、理由のない援助は受けとれないというのが、太田の辞退の弁だった。結局彼が独りひそかに禁欲生活の底辺を匍いつづけたことは確かだが、平然とそれに堪えている様子には、いかにも太田らしいいさぎよさがあった。
終戦後明らかになったのは、努力の末にいかにしても処置のない金額にしぼって、太田はみづほ学園を通じ外務省から借財する道を選んだらしいということである。彼がもう何ヵ月か長命であれば、第一線勤務の戦時加俸をふくめて月三百円をこえる豊かな海軍少尉の収入は、不本意な借金の完済を可能にし、心残りを一掃するゆとりをあたえてくれたであろう。
日米両国の決定的衝突は、アメリカに住む日系人にとっていっそう苛酷な試練であった。これを契機に一世と二世の間の溝がいちだんと深まったことは、彼らを二重に苦しめた。一世の愛読する日本語新聞は、大国日本の威風を強調する東京電報を多くのせており、二世が親しんできた英字新聞とは、似ても似つかぬ論調が支配していた。
権利観念の発達した米国では、市民権のバックがなければ公的活動の発展は期待出来ない。二世グループの指導者は、日系人の権益援護の推進役は自分たちのほかにないことを自覚して、二世のみをメンバーとする全国規模の組織結成に努力を傾けた。一九三〇年、シヤトルの第一回大会で発足したJACL(日系米人市民連盟)がその成果であり、彼らは最初の仕事として、第一次大戦に参戦した一世の在郷軍人に市民権をかちとることに成功した。
開戦の半年前、若い俊秀の二世が書記長のポストにつくと、JACLの活動はさらに活溌の度を加えた。その人物は終戦後日系社会躍進の立役者となるマイク正岡で、ソートレークに育ち魚屋の四男坊である彼は、二十五歳の若年ながら統率と弁舌の才を認められ、請われてJACLのオルガナイザーと渉外責任者を兼ねることになった。さきに引用した二世社会のバイブル「日系アメリカ人の信条」は、彼がかくれた執筆者として信念を吐露したものであった。
二重国籍の板挟みとなって追いつめられた二世の苦悩は、彼ら自身の表現によれば次のように分析することができる。――自分はなにものか。自分はどこにゆくのか。自分の運命はどうなるのか。この愛する生まれた国で、正当な地位を要求するために、自分には何が出来るというのか。
自分の根源はなにか。戦争の試練のなかで、自分たち民族を支えてきた文化的遺産は、何ものでありうるのか。自分と自分たちの民族は、この国に何を貢献出来るのか――
マイク正岡は書記長の座につくと、直ちにこの苦境を打開する道を模索しはじめ、米国政府にたいして、自分たちの忠誠心を明らかにしうる機会をあたえてほしいと、公式の請願をおこなった。
この精神は、開戦の当日、JACL全国議長サブロー・キドの名で、ルーズベルト大統領あてに打たれた電報に継承されている。――この厳粛な時に際して、我々は貴下、大統領閣下とわが国に、全面的な協力を誓約する。日本がわが国土にかかる攻撃を加えた今、我々は我々の同胞アメリカ人ともどもに、この侵略を撃退するため、全努力を傾注する用意があり、その決意を持っている――電文は、ハワイと南方での惨敗のニュースが断続する間をぬって放送された。
二世にとって、そもそも二重国籍とは何であるか。二世という身分と日本国民の血はどうかかわっているのか。両国の国籍法の建前は、自動的に二重市民問題を生ずる仕組みとなっていたので、日米市民協会はその矛盾を取除いてほしいと再三要請した。これを受けて日本政府は、国籍放棄の便宜措置を制度化し、一九二四年以降の出生者については、両親が出生後十四日以内に日本国籍を要求する意志を表明しない限り、日本国民とは認めない方針を打ち出すとともに、それ以前の出生者にたいしては、領事館への意志表明によって日本国籍を離脱しうる道を開き、また日本に在住するいかなる二重市民も、アメリカにある両親の住所を知らせるだけで日本国籍を捨てることを認めた。
しかし二世のほとんどは、この便宜措置を知りながら敢えて二重国籍のままに放置した。そしてこの事実が、彼らの忠誠心に疑惑をもたせる有力な手がかりをあたえたのである。
真面目な二世にとって、国籍は手続上の補正を要するような性格の問題ではなかった。どのような意味でも自分たちは日本の市民ではなく、日本政府は一片の支配権も持たず、二重の忠誠心とは二枚の紙に書かれた宣誓のサインのようなものに過ぎなかった。むしろ自分たちがアメリカ人であることを否定する一パーセントの可能性もないことを明らかにするために、彼らは日本国籍放棄の簡易手続を利用しようと試みることさえ軽蔑したのである。
身の証しを立てようと焦慮する日系人の悲願に、アメリカはどうこたえたか。最も明快にその姿勢を代表しているのは、日本人強制隔離の全権をにぎったデウィット将軍が、のちに下院でおこなった有名な証言である。
「ジャップはジャップだ。忠誠であろうとなかろうと危険分子だ。彼らの忠誠心をはかる方法なんかない。アメリカ市民であるかどうかは問題ではない。つまり彼らも理論的にはあくまで日本人であり、誰も紙切れ(市民権)一枚ぐらいで日本人を日本人でないようにすることは出来ない」この露骨な断定は、さすがに米国内でも悪評をよび、ヒットラーの「わが闘争」にも全く同じ論旨の表現があると指摘する声さえきかれた。
マイク正岡は開戦当日、ネブラスカ州の旅先で敵性外国人としてFBIに捕えられ、刑務所にぶちこまれた。白人の友人が特別嘆願の手続をとってくれたおかげでようやく出所すると、さっそく対策協議のためJACLの緊急集会を開き、二百名の代表者にむかって次のように呼びかけた。「アメリカ市民として真に貢献出来るのは、ただ犠牲の一語あるのみ。我々は米国政府当局に絶大な信頼をおき、進んで立退きに協力し、そこに新しい世界を切り開こうではないか」
参集者の表情からなお消えやらぬ不安の色をみてとると、正岡は日系人の財産保護、家族の厚生問題、二世の兵役問題については、軍当局と鋭意折衝中であることを明らかにした。
正岡の訴えは、静かな波紋を伴ってたちまち日系人社会にひろまった。二世の大勢は同感を表明したが、一世の間では「二世どもの腰抜けめ」と酷評する声が支配的であった。
デモクラシーの伝統を誇示するアメリカで、憲法によって保障された個人の自由が、正当な法の手続も調査も一度の聴聞も弁明の機会もなく、剥奪されるというようなことが許されるのか。
一八六八年確定の修正憲法第十四条第一節は、南北戦争の結果、黒人に市民権をあたえることを目的として加えられた条文であり、読みあやまる余地のない明白な表現で書かれている。――合衆国で生まれ、または帰化したすべての人は、合衆国とその居住する州の市民である。いかなる州も、合衆国市民の特権や義務免除を縮小する法律を制定し、あるいは施行することはできない。正当な法の手続によらないで、生命、自由、財産を奪ってはならない。またいかなる人に対しても、法律の平等な保護を拒んではならない――
非常事態の前では、国民の良心の声も圧殺されるのか。日系人と直接かかわりのない全国の大学生を対象にしたアンケートでも、八〇パーセントが追放を支持し、こうした背景のもとで、立退き命令を違法とする訴訟は下級裁判所で次々と敗訴した。
良識派のなかに、反省が全くみられなかったわけではない。しかしその多くは、道義的立場にたつ自戒というよりも、政治的警告に近いものであった。強制退去の実務に直接参画したカリフォルニア州移民住宅局長は人道主義者として知られた人だったが、今我々がとろうとする行動こそが戦後の日米関係を解くカギであり、それ以上に米国が将来東南アジアで直面する複雑な問題を示唆する試練にほかならないと、大胆に予言した。
立退き命令の実施は結局延期されるのではないか、少なくとも市民権をもつものには、適用がくりのべられるのではないか。そうした期待は日を追ってたかまった。二世三世にとって、パールハーバーを奇襲攻撃したのは、自分たち自身の国ではなかった。そのわれわれが、生活の場を奪われるというようなことがありえようか。
しかし期待は無惨に裏切られた。サンフランシスコの一流地元紙が、たまたま号外のトップ記事の見出しに「カリフォルニアにいるすべてのジャップを即刻追放せよ」と特大の活字で書いたのをキッカケに、堰を切ったように細かな追放指令が打ち出された。一人の例外もなく、あらゆる日本人を強制的に住み家から追払った上で、まず馳せ参ずべき第一次の仮設収容所として、十六の施設が指定された。
収容所の設営の衝に当るWRAは、初めからこの作業に気乗り薄だったといわれ、所期のように態勢が整わず、やがて長官はデイロン・マイヤーに代った。そして仮設収容所の段階までは、司法省や軍との間でなすり合いが演じられたあげく、準備不充分のWRAに代って、陸軍当局に直属するWCC(戦時文民統制局)が監督にあたることが明らかにされた。
十六の仮施設のうち最大の二つ、タンフォーランとサンタアニタは、競馬場をそのまま転用するものであり、そのほかは家畜展示場、植林隊キャンプ地、製粉所跡地、共同作業場の空地等を活用するものとされた。
よもやと思った強制立退きの悪夢が眼前に迫ると、一世二世、男女の別なく、すべての日系人はおびえた。オークランド生まれの二世コレマツは、英語のほかは知らない完全なアメリカ人で、胃かいようのため軍の身体検査は不合格であった。白人の娘を恋するようになったとき、戦争が起きた。逃げ道を失った彼は、整形手術をうけて鼻の形を変え、姓名までかえたが、発覚してとらえられた。軍警察、仮設収容所、刑務所のあいだを転々としたのち、最高裁によって、日系人排斥命令違反の罪で終身刑を言い渡された。
最高裁が賛成六反対三の多数をもって有罪と認めた根拠は、日米両国が交戦状態にある特殊事情から、軍事上の緊急要請が憲法による保障に優先するという点にあり、かくしてコレマツ事件の判決は、アメリカ市民強制追放の合憲性を確立した画期的な決定として、また司法の権威が軍の主張に屈服した汚点として、永久に歴史に残ることとなった。
ある一世は第一次大戦に参加したのちカリフォルニアに帰り、漁船の航海士として身を立てていた。真珠湾攻撃があった日、船で港にもどってくると、有無をいわさず逮捕され、警官に荒々しく取扱われた。警官の一人に彼は言った。「ぼくは君がまだ生まれていないとき、そのような制服を着ていたんだよ。アメリカ陸軍に入って、民主主義のために戦ったのだ」
第一次大戦の勇士で名誉市民章をもつ別の一世の老人は、自分も強制退去措置の例外でないことを確かめてから、家出して郊外のホテルにたどりつき、一泊の料金を支払って自殺した。
WRA事務局は内務省内に設けられていたが、その所属が確定し、インディアン局と同じセクションに置かれるというニュースは、不吉なものにきこえた。七十九年前、巧妙な計画のもとに父祖伝来の沃野から一掃されたこの原住民の悲惨な衰亡史は、不快な前例を残していた。インディアン局と同じセクションに設置されるという配慮は、小民族の保管地行政に馴れた係員たちの協力を受けることへの期待を意味していた。
WRAが仮設収容所の次のステップとして定めた強制隔離の終着駅、すなわち十ヵ所の集結キャンプが、すべて国有地から選ばなければならないという制約があったとはいえ、例外なく山岳地帯か砂漠か荒野かに設営されたことは、偶然ではなかった。それはカリフォルニア州のマンザナ、ツールレーク、アリゾナ州のポストン、ヒラリバー、アイダホ州のミネドカ、ワイオミング州のハートマウンテン、コロラド州のグラナダ、ユタ州のトパーズ、アーカンソー州のローワー、ジェロームであって、いま米本土の詳細地図をひろげてみると、容易にみつけることのできない僻地だけをえらんで、十個の点が散在しているのを確かめることができるであろう。
追われる羊たちの従順さと一糸乱れぬ協力ぶりは、この計画が円滑に達成されることを約束した。一世にとっては、万事が“シカタガナイ”のであった。もっとも、監視する武装兵に感謝のお辞儀を捧げる老婆の姿は、さすがに賞讃よりも奇異の眼をもって見られたが、彼らの屈従は、相互理解と協力によって無から新たな共同社会を作り出さなければならない事態に迫られ、唯一の武器として必然的に生まれたものであった。自我を捨てたものだけが、この試練を生き抜くことができた。ある一世の学者は、キャンプに入るまでに書いたすべての手紙のサインの上に、「団結による勝利のために」と書き加えることを忘れなかった。
大集団の静かな悲しげな移動を、「機械から部品が取り外されるように手ぎわよく」と形容した新聞記者の筆は、まことに適切であった。ごく例外的に起きた騒動は、いずれも部品同士の間で、日系人の血の中にある世代の裂け目、親米対反米の軋轢(あつれき)から生じた雑音に過ぎず、転住に対するサボタージュの事例は、一件も記録されていない。
諦観と従順のかげに、日系人の集団はどのような願望を秘めていたのだろうか。ここでも登場するのはマイク正岡である。下院の立退き問題調査委員会で、彼は堂々と発言した。「国家の安全あるいは軍事上の必要に基くいかなる疎開政策にたいしても、我々は賛成であり、協力を惜しまない。しかしアメリカ市民としての我々の資格が完全無欠であることも事実であり、これを犯す立場にたつ強制退去は、いかなるものにも反対である。
外見上公共的な必要を装いながら、自己の利益を土台にし、あるいは政府その他の圧力団体をバックとする疎開政策にたいしては、我々は公正な判断を要求しうるあらゆる権利を持つことを信ずる」
これに対して政府を代表する委員の答弁が、「強制措置はその理由づけの是非をこえた至上命令であり、軍事上の必要のためには銃剣をつきつけても断乎実行する」という悪意的なものであったことは、正岡の正論がひき起した当局者の動揺と苛立ちを、かえって鮮明に伝えている。
こうしたディレンマにさいなまれた日系人の懊悩をよそに、十ヵ所の集結キャンプの誘致をめぐって熾烈な競争がおこなわれたときけば、奇異に思わぬものはあるまい。まず五百の候補地が紙上で検討され、このうち百が現地検証の対象となり、最後に十まで絞られたが、自発的流浪の群衆が歓迎されざる客であったのとは反対に、強制退去者は住居、秩序、最低生活を確保した安全安価な大勢力であり、遠からずキャンプ周辺の経済に活気をもたらすものと期待されたのである。現に収容がはじまると、たちまちその州で第三位の人口を擁する町に昇格したキャンプもあった。
マイク正岡が、自己の利益を土台とする強制立退き措置に反対を表明したのは、まさに核心をつく指摘であったことを、この事実が皮肉をこめて暗示している。
一九四三年九月下旬、法文系大学高専生の徴兵猶予令停止が発表され、二世学生もその例外でないことが通告された。日本政府が認めた国籍放棄の特典をすでに活用済みの二世に、そのまま徴兵令の網をかけることには無理があった。政府が国籍放棄に劣らぬ簡易な手続で、日本国籍回復の便法を認めたことはいうまでもない。太田は国籍法改正前の出生者であり、放棄の手続をとっていなかったので、生まれながらの二重国籍者だった。
恐れていたものが目の前に迫ってくる予感の中で、その年の十月、孝一は予科の課程を了(お)え経済学部に進んだ。二世学生としてはきわめて高いマークの成績で進学したが、それを知らせるべき宛先はなかった。
この月の二十一日、明治神宮外苑競技場で、文部省主催の出陣学徒壮行会が行なわれた。会の趣旨に反撥して欠席する学生も数多くいたが、忠実な太田は当然の務めとして出席した。
予科時代からの学生生活を通じて、彼が最も苦痛をおぼえたのはおそらく軍事教練の時間だったであろう。肉体的条件からすれば、およそ彼くらい軍人に不向きの青年も稀れであった。日吉の頃から、毎土曜の午後は軍事教練の特別補習でしぼられたが、海軍に入って一年たち、少尉として戦艦に乗組んでいても、「気ヲ付ケ」でまだ背筋が通らなかったところをみると、配属将校の特訓も無駄骨に終ったというべきかもしれない。
顔のわりに頭が特別大きかったせいもあって、もともと帽子はアミダになりやすい。ゲートルもなかなかしっかりと巻けず、駈足をすると塊りになってぬけ落ちることがしばしばだった。後になって、ばかにゲートルの巻き方が上手になったので、尋ねた奴がいる。すると太田は、苦心の末あみ出した手製の特殊兵器だといって、ゲートルの乱れを抑える長い針を見せた。
しかし何といっても配属将校の機嫌を損ねたのは銃剣術で、太田一人だけ構えがサマにならぬ。いつまでも「ヤーッ」と突きをくり返すが、それでも剣先が生きてこない。ただ最後まで同じ無器用さで押し通して力を抜かなかったから、配属将校からことさら意地悪に扱われる場面を見たものはなかった。
それほど体技の基本に劣る太田が、検閲、査閲や隊伍を組んだ行進の場合、列兵としては格別目につく欠陥を露呈することもなく、充分その責めを果していた事実を記憶している友人はすくなくない。当時は三泊とか四泊とかの本格的野外演習があり、千葉県の習志野や一宮、富士山麓あたりにも出かけたが、太田が匍匐前進や突撃の動作に人の何倍もの苦労を払っていた印象が強い反面、分隊の統制統御の上ではむしろ頼りになる存在だったことを、クラスの中隊長が証言している。
そのような太田にとって、外苑競技場のグランドに長時間立ちつくして型にはまった来賓の激励の辞をきき、整々と分列行進を演じ続けることは、さしたる負担をあたえなかった。はげしく降りしきる雨が顔に打ちつけるのも、その肌にしみるような冷たさが、かえってその場にふさわしいような思いで、陸軍戸山学校軍楽隊のくり返し演奏する「観兵式行進曲」「ああ紅の血は燃える」「抜刀隊」の単調なメロディーに、彼は耳を傾けた。
東条首相が壇上から白手袋をふりかざして「必勝の信念」と絶叫し、「ただ今諸君の前に立ち、親しくあいまみえて、私は神州の正気粛然として今ここに集結せられるのを感ずるものであります」と訴えかけるのをききながら、大学高専七十七校の二万五千の若人の只中で、太田は自分が孤独であることに誇らしさをおぼえた。
軽い近視だった太田は、大学に入ってから教室では時々メガネをかけたが、兵隊生活に馴らさなければならないという気持もあって、この日からメガネは一切使用しないことに決めた。観客席を埋めつくした何万もの女学生たちの白い制服が、切れ目ない秋の雨を通して、湧き立つ波のようにかすんで揺れていた。
野球の好きな太田にとって、神宮の森はとりわけ馴じみ深いものだった。まだ平和だった頃、応援団の隅に席をしめて怒濤の歓声の渦に身をまかせているひと時が、どれほどの憩いであったことか。視線をあげると、塀をめぐらしたその上に森のみどりがひろがり、さらにその上には、ほしいままに広さを誇示した空があった。東京にきて、これほど伸び伸びとその全貌をさらけ出した空を見たことはない、生まれ育った農園の視界いっぱいの空にもそれは負けない、彼はいつもそう思った。
翌日の新聞は、次のような見出しをもって壮行会の模様を報道した。――「歓声杜(もり)に轟く 感動に胸迫る壮行会場」「悠久の大義この一途 御楯の決意かくや 聖域に祈り捧ぐ」「壮(さか)んなるかな首途 米英撃つ雄叫び 外苑ゆるがす歴史的壮行会」
学資の杜絶によって太田が余儀なくされた最低生活は、なんとしてものがれ出ねばならぬ苦界であった。しかしどこにのがれ出る先があるというのか。それは学徒出陣によって臨時召集を受け、海軍四期予備学生として合格を目指す道のほかにはなかった。
日米間に風雲ただならぬ時期を選んで彼があえて日本に留学する冒険をおかさなかったならば、そして軍が一部の有能な二世を選抜し予備士官候補として召集する異例の措置に踏み切らなかったならば、帝国軍人としての肉体的適格要件を欠いたこの異端な海軍士官が誕生する偶然は、現実のものとなりえなかったであろう。
一九四三年十二月十日の入隊から翌年の二月初めまで、大竹海兵団で過ごした五十日間の二等水兵生活は、それまでに彼が持った最も辛い経験で、生まれて初めて、一日が終ると手帳に暗号で書いた日附の上にひそかに消しこみのマークをつけ、指を折っては一日一日が過ぎてゆくのを数える気分を味わった。
下士官の教班長がみせた理不尽な卑屈な指揮ぶりも不快だったが、それ以上に息の詰るほど重苦しく思えたのは、自主的な行動、自分に責任を負う判断の余地がいちじるしく限られていることだった。すべての問題の決着は、ただ受身に鉄拳、説教、懲罰の制裁を受け入れることで完結し、太田は自己責任の断絶に怒りともどかしさをおぼえた。
大竹から武山海兵団の基礎教育課程に移ったときは、正直いってホッとした。身分が準士官待遇の予備学生に昇格したことはともかく、ここにはある程度の自治があり、苛烈な肉体訓練に徹するさわやかさがあった。四四年の七月、基礎教程の終了間際に行なわれた武装駈足訓練に耐えぬいたことも、太田の自信を強めた。無風酷暑高湿度の炎天下、完全武装で十数キロの街路を走破するこの訓練では、三百人が熱射病に倒れ、うち一人が死亡、別の一人は落伍したことへの自責から割腹をはかったが、太田は最後の一キロでほとんど意識を失いながら、気力だけで完走した。
半年の武山生活が終ると、それぞれ術科教程に分散配属されることとなり、太田は久里浜の通信学校に進んだ。所属は第三分隊、すなわち特信班で、そこで一九四四年暮までの半年、暗号士としての専門教育を叩きこまれることになる。大学以外の高専出身者は第一期予備生徒の身分をあたえられ、これを含めた通信隊総員の三割に近い人員が特信班に充てられていたことは、誕生後日の浅いこの特殊任務を、海軍当局がいかに重視していたかをうかがわせた。
第三章 使命と服従
いよいよ強制収容のはじまる二週間前、サクラメントのある小学校の朝の星条旗掲揚式で、最前列に立たされた日系人の子供たちの写真が残っている。旗を上目づかいに見上げる眼とまつ毛、口を開いて国歌をうたいながら、のどが乾くのか舌があらわに見える。右手を胸にあて、どの子供も親指と四本の指のあいだが、硬直したように離れている。
別の写真では、明日の移住出発に備えて荷作りをぜんぶおえた父親が、木ぎれの上に腰をおろし、シャツに汗をにじませた背を曲げてうな垂れている傍らで、子供たちが唇を結びカメラの方を睨んでいる。また集結までに三日間の猶予をあたえられ、その間をどう過ごしたらよいか、街頭にたむろして相談している日系人農夫たちの群像や、ひと気のなくなったJACL事務所の大きな星条旗のあいだに、米チームとの交歓野球試合のカップ、記念品が飾られている寒々とした光景の写真にも、日系人の動揺の大きさがうき出ている。
オークランドにある野菜果物店の二世の主人は、カリフォルニア大学卒の青年だったが、店の看板をぬりつぶし、白地に黒の太い字でI am Americanと大書した。これとは対照的に、ある白人の理髪店は店頭に「ジャップのこのねずみ野郎ども」と書いた大看板を飾った。
六歳になる三世のある娘は、ごった返す荷物の中で「ママ、あたし本当のアメリカ人になりたいの」と訴え、お前は本当のアメリカ人だから心配しないでいいとなだめられても、「だって本当になりたいのよ」と駄々をこねた。そのほか「ああ、日本人に生まれてこなければよかった」という嘆きをくり返して、親を手こずらせた子供の例は数え切れない。
あと半年足らずで大学を卒業できることを楽しみに勉学をつづけてきた二世の青年は、誰に訴える手だてもないまま、これまでの努力の蓄積を一切放棄しなければならなかった。ある農家では、穀物の収穫が間近いのであと数週間だけ待ってほしいと家族全員が懇願したとき、出発の監督に来た役人は彼らが一生忘れることのできない言葉を吐いた。「どんな日本人も、バカかせむしか重病人でない限り、このバスに乗って出かけなければならないのだ」
行き先のあてもおぼつかない流刑の旅路に出て、日系人は渡米以来まとってきたよそゆきの装いを捨て、皆一様に着ぶくれて、昔この地に渡ってきた頃の懐かしいいでたちに立ち戻った。老人は鳥打ちにヨレヨレズボンの不体裁な風態ながら背筋をきちんと伸ばし、中年男は季節外れのダブダブの上着、女はツバの大きな帽子とこの場にそぐわぬ派手な花飾り、襟に毛皮のついたオーバーとめかしこみ、全員胸には名札をぬいつけた。子供たちはきまって短い上っ張りに白の運動靴、名札は首からひもでつるしてあった。白い風呂敷に包んだ位牌やカバンに縫いつけた魔法瓶と傘に、追い立てられた旅立ちの狼狽ぶりがのぞいていた。
あわてるな、落着けといっても、それは無理な話だった。日系人社会を指導してきた一世の壮年男子のうち、めぼしい人を狙い打ちして手まわしよく逮捕がおこなわれ、それに代るべき二世の有力者は、頭脳と発言力には恵まれていても、経験と指導力に欠けていた。二世の平均年齢はほぼ二十歳に過ぎず、六〇パーセントがティーンエイジャーおよびそれ以下の子供で、精神的にも肉体的にも最も手厚い保護を必要とする年代のさ中にいた。彼らのまだ柔らかな心身は、物事を公正な眼でみることを学ぶべき大切な時期にさしかかっているのに、不幸にも異常きわまる事態にぶつかって、老人や婦女子の世話はおろか、ただわが身の始末に精一杯だった。
彼らの拠(よ)りどころとしたJACLが組織化されてから、この破局を迎えるまでわずか十一年という短かさは、あまりにも酷な試練であった。あと十年でもよいから時間の余裕があたえられていたら、彼ら自身日系二世の正しいイメージを築きあげ、経済的地位を確保することは可能だったはずであり、日系人にとってもアメリカ社会にとっても、歴史は作り変えられていたであろうと今なお残念がる声が日系人社会にあるのは、あながち負け惜しみの強弁とばかりは言い切れまい。
強いられた出発の日、いわゆるDデーは、大てい一週間前には予告があった。まずWCC(戦時文民統制局)事務所に登録し、立退き者一人一人が、たとえば「市民第一三六五五号」といった囚人番号をもらわなければならない。たまっていた勘定の支払いをすませ、親しかった知人、隣人に別れを告げる。家の内外を丹念に掃除し、自動車や家具類を処分する。北の寒冷地に向って追われるものは、荷作りのさいごに重い長靴を買いこんでトランクにくくりつけなければならなかった。
退去命令が家族一人一人の所持品として義務づけていたのは、寝巻とリンネル、洗面具、当座の着替え、ナイフ、フォーク、スプーンと皿、コップであり、愛がん動物は、どんな種類のものも厳禁されていた。
仮設収容所のいくつかは町なかに位置しており、低い垣根をへだてて街路に面した共同作業場跡地のようなところでは、子供たちが休みの日に、「ジャップを見よう」と叫びながら見物にやってきた。一列に並んで柵ごしに眺めている姿は、いく分か動物園の光景に似ていた。
しかしなんといっても仮設収容所の時代を象徴するのは、最大数の流刑人に仮りの宿を提供した二つの競馬場である。本格的改造の時間的ゆとりはないので、馬小屋からとりあえず馬糞を掃き出し、応急の消毒をほどこして床を張るだけの作業がやっとだった。粗板の床はやがて乾いてくると隙間が出来、そのあいだから草が伸び出してきた。
馬小屋だけで足りない分は、駐車場をつぶして急ごしらえのバラックを建てた。こうしてタンフォーラン競馬場が収容した一万八千人という人数は、偶然にも最も人気のあるレースでここの観客席がのみこんだファンの数の記録に一致していた。
競馬場に着いた第一日目の出来事を、ある子供は日記に書いている。「ボクはそんなに多勢の日本人のなかに入ったのは初めてだった。家族はたった三人だったので、ボクたちの個室は馬小屋になり、馬小屋三十一番という番号をもらっちまった。そろそろ夕食の頃だと思い、食堂へ行った。
道は泥んこだった。行く途中、ちょうど着いたばかりの大ぜいの人たちに出会った。みんな晴着をきて、傘もささずにずぶぬれになっていた。子供や赤ん坊は泣き叫び、男たちは重い荷物を運び、女たちは眼に涙をため、泥んこの中を歩いていた。あたりに馬小屋の匂いがした」
三世の女の子は、馬小屋に着くと、「わたし日本はいや。アメリカのおうちに帰りたい」と叫んだ。
太田一家八人は、メイヒューのわが家と見事に整備された農場を捨て、大人は一人三箇、子供は二箇ずつの荷物の携帯を許されて、サンタアニタ競馬場に集結した。末っ子の譲は六歳になったばかりでまだ目を放せなかったが、ジュニア・ハイスクールに進んでいた姉の鈴代が、健気(けなげ)になにかと面倒をみた。
つましい生活から長年にわたって生み出された家財は、古物商が足もとをみて二束三文で買いとり、農地はやむなくメキシコ系の使用人四人を信用してその名義に分割し、内々に代理契約をとり交した。日系人の所有地はほとんどそのようにして処分されたが、三年後にキャンプから自分の土地に戻ってきたとき、ごく一部の例外を除いて全所有地が強制収容中に着服されるか、あるいは州政府に没収されているのを発見した。所有権を立証する法的根拠は何一つ残らないように、諸事取運ばれたのである。
競馬場だから当然のことだが、洗面所も便所も戸外にあり、シャワーと洗濯場は遠くグランドの端まで歩いていかなければならなかった。食堂の前には長い列が並んだ。そこでは一ばんのご馳走だった豚肉と豆の煮込みの水っぽい味は、馬場のグランドの白茶けた土の眺めとともに、馬小屋暮らしの忘れ難い心象として残っている。
仮設収容所への立退き者全員の集結は予想外に時間を要し、当局は八月七日にそれが完了した事実を確認すると、直ちに最終的な隔離キャンプへの移動準備を命令し、目標期限を十一月三日と定めた。八月七日は、奇(く)しくも米軍がガダルカナル島に上陸を開始した日にあたっている。戦局は明らかに逆転の兆しをみせており、“日本軍攻撃の危険、軍の防衛上の必要”という強制追放の大義名分を考え直すには、まさに絶好の機会だった。もしこの段階で計画を打切り、十ヵ所のキャンプに再転住させる方針を撤回していれば、強制隔離という高価な失策から生じた悲劇の大部分を回避することは可能だったのである。
しかも仮設収容所の設営はようやく軌道にのり、最低限その生活を居心地よくするためにとられた応急措置、たとえば上下水道の整備、わらとふとん地の配給、ごみ処理と衛生管理などが整備された矢先に、非情にも全部を捨ててまたゼロから出発せよというのだ。さすが従順な日系人集団も、未知の僻地を目ざす再度の旅立ちには抵抗の構えをみせたが、新たに責任を負って張切るWRA当局は容赦しなかった。大きな組織行動の常として、末端の実情と中央の指令とは、惨めなまでに遊離していた。
八月の終りに、やっと終着地であるアリゾナのポストン収容所に落着くまで、放浪の長旅を節子は気力で耐えぬいた。孝一を案ずる気持と、孝一のためにもこの一家が挫けてはならないとする張りが、辛うじて彼女をうちから支えた。あとから振り返っても、その間の記憶は半透明の膜におおわれているようで、さだかでない。
ポストンまでは専用の普通列車が仕立てられ、見物人はこれを“東洋人特急”と呼んで揶揄した。食堂車一、荷物車一をふくむ十輛編成で、客車毎にチョークで番号が書き入れてあり、太田一家は列車番号、車輛番号を指定した券をわたされた。この一団の移動を指揮するため、軍人である監督一名、民間人の案内者一名、看護婦と助手各一名が用意されていたことは、WRA当局の準備態勢の手厚さを思わせた。
ポストンはピーク時で一万五千五百人を収容した最大のキャンプだが、これだけの人間がすべて送られる人で、送る人が一人もいないのは異様な光景だった。車中で婦人たちは、大きな帽子を持ってきてよかったと思った。それは涙をふくのを隠す必需品だったから。窓のシェードは昼も夜もおろすことを義務づけられ、車内は常に暗かった。駅のフォームは周囲に有刺鉄線が張りめぐらされ、時々レンガを投げこまれたりした。
ポストン駅に降りたった時の印象を、太田家の家族は忘れることが出来ない。共通の不幸な経験は、人々の結束をつよめる。メイヒューに帰ってから、自分たちの苛酷なめぐり合わせを思い出そうとするとき、ポストン駅からの光景を一コマずつ語り合えば、それで十分であった。
あたり一帯はアリゾナとカリフォルニアの州境にひらけたコロラド河沿いのモハベク大砂漠で、インディアン予備地の一つだった。背の低い灌木があるほかは、見渡す限り無人の荒蕪地で、背丈二、三十フィートのサボテンに炎熱の太陽がふり注ぎ、ヤマヨモギの雑草が砂あらしの中を舞っていた。
これに似た風景を今まで目にしたことがあるとすれば、モーゼがユダヤの群衆を引きつれて四十年のあいだ、エジプトからヨルダンまでの道のりをさ迷った、あの荒涼たる荒野の絵が一ばんそれに近かった。
収容所は鉄条網(バーブ・ワイヤー)が張りめぐらされ、遠くから中央広場の見張り塔と星条旗掲揚台がながめられた。そのまわりには数百の長方形の小屋が立ち並び、日系人キャンプは陸軍の手で、住宅ではなく兵舎に似せて建設されたという噂が正しいことが確かめられた。門には白シャツ一枚の若い歩哨が銃を手に立っていて、その横をすりぬけた子供たちは、汽車旅から解放された喜びで砂漠の中を走りまわった。
広大なバラックのひろがりの中から、指定されたブロックの、更に指定されたセクションにわれらが棲み家をみつけ出すことは、たやすいことではなかった。
夫の令三が荷物保管所で禁制品のチェックを受けるのを待つ間、節子は目に入るもの一つ一つを眼底に焼付けるようにみつめた。自分たちの苦労が大きければ大きい程、孝一を襲う運命のきびしさがやわらげられるような気がした。“OHTA”の名前をタイプした紙が一枚壁にはりつけられて、ヒラヒラと風に舞っていた。壁といっても、打ちつけた板の上に黒いタール紙をのせただけのもので、外からのぞくと隙間を通して暗い床がみえた。
木製のドアが風にあおられてバタンバタンと音を立てるのを、子供たちは珍らしいものをみるように見守っていた。
ここに住むことに決れば、砂ぼこりが忍びこまないように、さっそく壁の内側にビニールを張らなければ、と節子は考えた。そんなこまごましたものも、忘れずに荷物に入れてきていればいいけれど……
縦百フィート、横二十五フィートの小屋を四つに区切った一画が、太田家に許された天地であった。鉄パイプをむき出しにしたベッド、粗い布のマットレス、裸電球が一つぶら下っただけでたんす一つないだだっ広い部屋、四軒で共有の台所と便所。しかし何を文句を言うことがあるのだろう。孝一をのぞく八人は、ここで仲良く暮らせるのだ。
ただ砂漠の酷暑だけは我慢がならなかった。彼らが着いた時は夏の盛りをすこし過ぎていたが、それでも戸外は摂氏五十度、室内でも四十四、五度の毎日が続いた。
砂漠の生活にも少し馴れはじめた頃、秋が来て夜が長くなった。コヨーテの遠吠えが耳につき、節子は夜の長さを持て余すようになった。見張り台から投射する探照灯の黄色い光りが窓に映り、砂漠を上から包みこむような夜空は、澄んで美しかった。日本から必らずサムシングを吸収して帰る、そう言い切った孝一の低い声が、まだ耳に残っていた。
十箇所に散在したキャンプに、予定された全流刑者の収容が完了するまでには、当初の計画発足から数えて十一ヵ月の繁忙をきわめた歳月と、報われることのない巨額の負担が費やされた。すべてが完結したとき、関係者全員が疲れ果てて喜ぶものは一人もなかった。戦局はいよいよ決定的に逆転して、事実上の必要があとかたもなく消滅したことは誰の目にも明らかであったが、時すでに遅かった。
海軍予備学生教育時代の太田はごく目立たない存在で、予備生徒をふくめて同期に十名いる二世仲間のあいだでも、とりたてて印象に残る学生ではなかった。強いて目につく点をあげれば、時にはしゃぎまわり騒ぎ立てるのを好む二世のなかで、終始変らず物静かな、てらいも気取りもなく生真面目な態度で押し通したことぐらいであろう。
二世たちは、チャンスさえあれば小さなグループに固まって、仲間だけで話し合おうとする傾向があった。好きなように英語の会話をあやつり意志を交換できる相手は、軍隊の檻の中ではそれだけで有難い存在だったにちがいない。しかし一般の学生にすれば、日本人の血を分けたこの同僚たちが、嬉々として敵性語を口にするのを見聞きすることは、さぞうとましい思いであったろう。
ところが久里浜の通信学校生活も後半に入る頃には、十人の二世グループが特信班の中核として欠かせぬ戦力であることは実績によって証明され、さらに数名のリーダーが一般学生との団結強化を心がけて適切に誘導したので、彼らを異端視する空気はほとんど消えうせた。十人の仲間は異国語のきずなに結ばれたまま、四期予備学生、一期予備生徒の同期意識のなかにとけこんだ。太田はうらおもてのない篤実さと頼り甲斐のある根性を認められ、おのずからリーダーの一翼に座を占めていた。
学生時代、軍事教練ですでに片鱗をみせた太田の無器用さは、専門の軍人教育課程に入ってさらに遺憾なく発揮された。ここでは彼の最も苦が手としたのは水泳で、しかも東京湾の恰好な内海に居を構える通信学校は、名だたる水泳訓練の難所として知られたところであった。カリフォルニアの内陸に生まれ育った太田が、プールでまともに泳いだ経験さえなかったのは、秀才としての勉学とクラブ活動と日本語学校の特別学習に追われて時間の余裕に乏しかったためと、画一性を嫌い、意欲のないものにまで初歩的トレーニングを強制することをしないアメリカ式教育の結果だったのであろう。
ネーヴィーの水泳訓練は次のように展開する。――砂浜の上に四斗樽を置く。赤帽に褌一本になって樽の上に腹をあて、四つん這いにうつ伏す。手足を宙にはわせ、あらかじめおぼえこませておいた屈伸をくり返して平泳ぎの基本型を叩きこむ。それからカッターで沖に出て、掛声もろともドブンと投げこむ。泳げなければ厳罰が待っているから、大ていのものが浮くだけは浮けるようになる。あと上達は練習次第だ。――ところが太田だけはどうしても浮かない。もがきながら奇妙に沈んでゆき、気を失って浮き上ったところを舟に拾いあげられるのが落ちだった。
しかし水中で気を失うというのは、海軍社会ではマイナス点の失態であるどころか、逆に高い評点をあたえられる特記事項である。徳育の中心をなす「気力」の判定で、最低は溺れかかった苦しさに手をあげて助けを求めるもの、最高は沈むまで頑張りぬくものであり、五体が水面下に没するまでもがき続ける難行がどれほど不屈の自制心を必要とするかは、経験しないものには到底分らぬ境地とされていた。
みずから浮くことも出来ぬ海軍予備学生を放置しておくことは、第三分隊、特信班の名誉にかかわる。水泳シーズンが過ぎてから、太田学生を対象に指導教官つききりの特訓がはじまった。そしてついに卒業の直前に、太田は浮く形だけは演じられるところまで漕ぎつけた。ただしそれは独立独歩を尊ぶネーヴィーではご法度の、教官が褌を上からつかんで引きまわす直接補助によるものであった。
たしかに特訓のお蔭で太田は浮けるようになった。しかしそこにはただの猛訓練とはちがう別の意味があったのだ。指導教官は苦笑をまじえて当時を回想する。――褌を上から持たれるほど動き難く、泳ぎづらいものはない。そのことをうかつにも自分は知らなかった。なるほどひとにやってもらうと、腰が突っぱり頭だけが沈んで、フワッと浮くどころではない。この苦行からのがれたい一心で、太田は自力で浮くコツを体得するに至ったにちがいない――
しかし太田にとってこの難行は、必らずしも苦痛をあたえただけではなかったらしい。任官後に会った友人が、泳げない海軍士官はさぞ困るだろうとからかうと、太田は「泳げんオレを、よってたかって海ん中へほうりこみよる」と笑いながら答え、つづけて「オレだってもう結構泳げるぜ」と自慢した。その声の愉しそうな響きは、肉体の鍛錬、酷使に堪える並外れた強靭さを示していた。
およそ体技課目の不得手な太田にとって、棒倒しだけは例外で、防禦陣のカナメになった時の執拗な頑張りは、同輩たちの注目をひいた。小粒な彼は、棒の付け根に対坐して身をもって芯を支える二名の代表選手に選ばれることはなかったが、それを取り巻くスクラムの垣根に組みこまれたら、どんなに踏みつけられ下敷きにされても、腕を離そうとはしなかった。
通信学校の駈足訓練では、よく校外に出て久里浜の街なかを走ることがあった。そのまま走り続けて学校にもどるのが普通だったが、気のきいた教官は、時たま海辺の砂浜で十分間の休憩をあたえてくれた。
久里浜の海岸は白砂がつきて道一つへだてた先きに、アメリカの海軍士官、ペリー提督の記念碑があることを太田は知っていた。ペリーは九十年まえ、四隻の黒船をひき従えて東京湾に入り、ここの沖合いに碇泊して幕府を威嚇し開港を迫った。石碑は背の高い駒の形の石を一枚立てただけの変哲もないものだが、その無造作な姿が太田はなんとなく気に入って、記念碑の近くで「休メ」の号令がかかることをひそかに期待した。
ペリーはそのとき中浜万次郎という通訳をつれてきていたことを太田は想い出した。黒船が艦影をつらねて石炭の煙を吐いたあたりは、今は小さな島に可愛らしい灯台が立っている。中浜万次郎は無人島から捕鯨船で救い出され、十年以上アメリカで生活していたから、自分たち二世と同じように、両国の言葉をあやつることが出来たのだろう。年頃も今の太田とあまりちがわないかもしれない。彼は長い別離のあとで故国の国土を見て、何を考えただろうか。――石碑のザラザラした手触りは直射する海の陽が残って熱く、掌にすくってみると砂粒も熱かった。休憩の十分はまたたく間に過ぎて、「集マレ」の号令がかかった。
通信学校時代に、二人の親しい友人を得たことも、太田にとっては思いがけぬ収穫だった。一人はみづほ学園で母親にも負けぬ親身の面倒をみてくれた美喜夫人の長男、沢田信一である。海外生活の長い沢田は語学の達人で、同期生の特信班配属を決めるにあたっては、教官に懇望されて適性判定のための語学テストに立合ったといわれており、母との機縁から、二世学生の処遇についても終始なにかと心にかけてくれた。太田はこの有能でしかも温厚な人柄の同輩を、特信班仲間では万事に見習うべき指標として最も尊敬していたが、海軍はこの二人の少尉任官に際して、意外にもほぼ同順位の総合成績をつけた。成績順位は公開されないが、もし太田がこの事実を知りえたとしたら、沢田を侮辱するものだとして、どんな当惑の表情をみせたであろうか。
もう一人は、同じカリフォルニア出身の二世、吉村生徒である。彼は明大予科から来た長身のスポーツ万能選手で、豪放快活な酒豪でもあったが、太田とは正反対の持味だったために、二人はかえってウマがあったのかもしれない。吉村の家族は父がひとり米本土に残っており、母がもっぱら子弟の教育のために彼と妹を連れて日本に帰ったところへ戦争が起り、東西に引き裂かれたままだった。母と妹を空襲下の内地に残して戦闘任務につかなければならない不安を吉村は訴え、太田は黙々とその訴えを聴いてやることで、すこしでも力づけようと努めた。
戦局は悪化の一途をたどっていた。第三分隊の分隊長は、特信班総員の士気昂揚に必要な方策として、二世学生に活を入れることが有効と判断し、中から最もやる気のある三名を選んで、総員の就寝後、みずから特訓をほどこすことに踏切った。名目は“日本語の補習”であるが、内容は彼ら二世の置かれた立場、覚悟についての自由討議に重点を置いた。分隊長は彼らがそろってけれんのない、頼もしい人間であることを確かめ、人選が正しかったことに自信を強めた。
その目に狂いはなく、この三名、太田、吉村と渡辺は選ばれて同じ特攻作戦に参加し、二世士官を代表してその名誉のために戦死したのである。
見かけによらず負けん気で図太い神経を持っていた太田が、一つだけどうしてもやり抜きたいとこだわった目標がある。それは無事予備学生の教科をおえて任官し、二世にふさわしい職務と処遇をあたえられることだった。万一失格して下士官兵に落とされるか除隊処分になったとき、どんな屈辱と非道な仕打ちが待っているかは、案ずるまでもなく明らかだった。
任官する一ヵ月程前、風邪をこじらせて高熱を出し、横須賀の海軍病院に入院した時の太田学生の憔悴ぶりを、見舞にいった同僚が記憶している。病状が悪いためというよりも、そのまま再起不能になって士官不合格の烙印を押され、兵隊に降等される不名誉の懸念が彼を悩ましたらしい。はたから見ても痛ましい程彼はそのことを気にしており、二つ向うの病棟は兵員用の大部屋だといって、毛布から白い腕を出し、その方向をくり返し指さしてみせた。
日系人が模範的だったのは、キャンプへの移動が混乱なく完了したことだけではない。がんじがらめの制約の下で、収容所生活の改善がはじまった。衣食住の最低線がWRA当局の発行するトークン(許可証)によって保障され、一人の餓死者も出なかったのは幸いだったが、住民たちの知恵と奉仕で水溜めのタンクが作られ、ささやかな菜園が出来、苗が植えられ、窓には日除けのひさしがとりつけられた。木ぎれを集めて部屋の中に細かな間仕切りを作ることもおぼえた。
集団生活が軌道にのると、役に立つ労働に対して、政府は安いながらも一定の報酬を支払う方針を発表した。令三は食糧増産の農作業に従事して月十九ドル、上の二人の男の子は皿洗いと力仕事、使い走りでひとり頭月十六ドルを支給された。三人あわせても貯えを作るには程遠い金額だが、米軍の兵隊の月給が二十一ドルだったことを考えれば、ぜいたくはいえないし、子供たちに自立心を植えつけるにも有難い措置だった。
収入が激減して親父の権威が地に墜ちたことを除けば、太田家の新生活は順調に滑り出しつつあった。翌年のはじめから、各戸持ち廻りの教室で変則的な授業がはじまった。太田兄弟がそろって優等生だったことは、ここでも大きな救いであった。
主人の令三は、渡米以来の過労と開戦後の心労ですっかりやつれ、自分からは何をするということもなく、別人のように寡黙になった。その上時折り体の不調を訴えたが、医療施設は何もない。思いあぐねた節子がキャンプの篤志医師や看護兵の経験のある一世の老人に相談してみると、単なる過労ではなく、甲状腺に異状があるのではないかという診断で、無理は禁物と警告された。
一家の采配を任された節子は、いよいよ気の休まる時がなく、不眠に悩まされるようになった。彼女がぼんやり我れを忘れることが出来たのは、奇妙なことだが、同県人が亡くなって、仲間うちで葬式をやるあいだだけだった。はじめの頃もっとも胸を痛めたのは、飾るべき花がひとつもないことだったが、庭師も花屋も仲間うちにたくさんいたから、やがて土地にあった花卉(かき)の栽培が軌道にのると、不釣合いなほど豪華な花輪がしつらえられるようになった。
板の間のゴザの上に坐ってお経に耳を傾ける。故人を偲ぶ広島弁のやりとりがきこえる。すると、能美島の見馴れた浜辺が目にうかんでくる。そして内海のさざ波が、四十五年前の向うから、こちらの浜にむかってひたひたと押し寄せてくるような思いに引きこまれるのだった。
日系人の粘り強い団結は、目に見えぬ歳月の積み重ねのうちに、キャンプ内の施設を一つずつ整備していった。ここでも最重点を置かれたのは子供の教育で、各戸の持ち廻りの代りに粗末ながら専用のバラック校舎が建てられ、背のないベンチが並べられた。教科書は極端に足りないので、共有にしたり、筆写したものを使った。それでも始業の鐘がカランカランと鳴ると、待ちかねた子供たちがそれぞれバラックからとび出してきた。熱心な先生と生徒にとって、熱心であるが故によけい悩みだったのは、間仕切りの板が薄く、隣りの話し声が筒抜けになることだった。
キャンプ全体を対象に“成人教育部”が設けられ、一世には英語、二世には日本語を学ぶ便宜がはかられる段階になると、太田家の上の二人の子供は、寸暇をさいて日本語クラスに通い出した。
こうして流刑者の手になった施設は、自治警察、消防団、開業医つきの病室、郵便局、日用品の売店、仏教およびキリスト教の教会とその数をふやし、ついにガリ版の日本語新聞が発刊されたとき、一世たちは遅々たる歩みがようやく一つの区切りに達したことを感じた。
ある老人は自作の歌で第一面を飾り、率直によろこびをあらわした。
ああ草分けの半世紀
困苦に堪へて戦ひし
努力も夢となり果てて
むなしく仰ぐ流所の空
あはれ信義を重んずる
わが民族の血をうけて
惰眠徒食は恥づべきと
決然として野に出でぬ
木さへ育たぬ荒ぶ地も
美田となさでやむべきと
固き決意にふるひ起(た)つ
われらに燦と陽は昇る
この歌はどんな節でうたわれるのにふさわしいだろうか。作者自身は“「煙も見えず雲もなく」の譜による”とわざわざ添え書きしている。
太田孝一は一九四四年十二月二十五日付で海軍少尉に任官した。通信学校卒業の前夜、ささやかながら仲間同志の送別会が催され、とっておきのわずかの酒も出て、彼ら学徒あがりの士官の卵は、一様に海軍入団以来初めての解放感を味わった。最後の機会とあれば教官たちも寛(くつろ)ぎ、これまで見せたことのない愛嬌のある顔を披露した。
やがて余興が出る。こうして肴もなしにのむ酒はまわりが早い。四、五人目の指名が太田を名ざしした。早い順番は、日頃いかにも堅物で歌ひとつ唄えそうにない太田を、からかってやろうという気配を含んでいた。
ためらわずに立上った孝一は、「夜のタンゴ」を滑らかにうたい出して、まず仲間を驚かした。うまい歌いぶりとはいいがたいが、原語のスペイン語にとつとつと想いをこめて、意外に身についた自然な節まわしは、カリフォルニア時代の秀才太田が、いかに恵まれた勉強生活を過ごしていたかを偲ばせるに足る趣きがあった。
任官と同時にあたえられた兵籍番号は「ヨト三九一八七」である。軍におけるすべての記録はこの番号で整理されており、彼以外に一人の該当者もない固有の背番号である。ヨトは予備特信、数字は一連番号で任官時の総合成績順位を示す。同期の予備学生九十四名の中ではほぼ中位を占めている。日本語の実力と体育体技のハンディを考えると、この成績は甘いのか、それとも辛いのか。同期の二世の中では、トップグループにランクされており、帝国海軍がこの青年をどう評価していたかが、おおよそ汲みとれる。
特信班の本拠は、電信傍受作業は埼玉県の大和田通信隊に、情報分析作業は霞ケ関の軍令部にあった。任官した四期特信班の大半はまず大和田に赴任し、敵信捕捉の触角につらなりながら、身分は軍令部特務班に直属して日夜の実習に励むことになった。
大和田は彼らにとって、初めて足を踏み入れる場所ではない。通信学校での術科教程は、最後の二ヵ月を主として教室での実習にあてていたが、それに先立って実戦の現場に触れておくことが実習の充実に役立つとの判断から、十月下旬、短期間の大和田出張が許された。
彼らはそこで予期せぬ足止めをくらい、出張期間が延長されるという収穫をえたほかに、望外の得難い体験をした。見学開始の時期がレイテ海戦の始動と合致したため、訓練がそのまま敵味方の情報の渦にまきこまれる実戦に切り替えられた。機密を握ったものが、作戦終了まで外出禁止処分をくうのは当然であった。
戦艦武蔵の沈没を頂点とする三日間の敗戦の詳細は、彼ら自身海戦の現場に臨んだかのごとき切迫感をもって掌中に集められ、当直員は、無線方位測定用の特殊地図の前にクギづけにされた。
決定的に明らかな事実は、状況を正確に伝えるのは常に米軍の電信であり、帝国海軍の通信網は支離滅裂というにひとしかったことである。わが艦隊各艦の細かな動静についてさえ、味方の情報は断片的な発信を散発するだけで、縦横に配置された米潜水艦からの豊富な情報源を整理してさえおけば、友軍を含めた全戦局の推移が手にとるように把握出来るという現実は、彼らに百万言の議論にもまさる教訓をあたえた。
大和田通信隊の実習訓練では、もう一つ、予想外の事件が待ち受けていた。しかも太田はその事件で主役を演じたのである。
海軍省教育局から大和田通信隊本隊との打合わせに出張していた担当官が、実習に来ているのであれば四期予備学生の仕上り振りを見たい、総員の分列行進を検閲出来れば結構である、と突然言い出した。学生の中から交代で出される分隊長のその日の当直は太田学生であり、その予定はすでに日誌にしるされていたから、変更する余地はない。
いざとなると肚がすわるのは母親譲りであろう。小粒な身体に緊張をみなぎらせ、「前ヘ進メ」の号令がしっかりした気合いで発せられた。隊員は安心して歩を進めた。しかし予定の位置に来ても停止の号令はない。太田は顔面を朱に染めて口をゆがめている。唇からもれかけているのは、どう聞いても押し殺した英語訛りだ。分隊はなおも前進を続ける。立合いの教官たちも気が気でない。
「分隊止レ」やっとその号令が出て総員がホッとした。太田は悪びれず所定の位置にかけもどった。担当官はさすがに渋い表情をあらわにみせたが、一言の叱正もなく、「概評、所見ナシ」ということで解散になった。
特信班に数多くの二世がいること、二世を対象にした場合、この即成の士官教育がもともと無理であることは、教育局の専門家として熟知していたはずである。公平な眼でみれば、教育の成果はむしろ予期以上にあがっていると判断すべきだったのであろう。
大和田通信隊は、朝霞に近い武蔵野の一角に、電波状況の安定した地帯を選んで設けられており、雑木林の真ん中に無線のアンテナが林立しているのが遠望された。海には程遠い丘陵地に位置しているからこそ、ネーヴィーらしさを横溢させようというのが海軍式の発想で、ここの名物はプールでの水泳訓練だった。ことに潜水による二十五メートル完泳は、どんな金ヅチでももぐるだけなら出来るはずだという理由で、のがれられない脅威のノルマだったが、太田がここに勤務していた一ヵ月半は季節が真冬に当ったことと、空襲への常備警戒体制から訓練中止の状況にあったことは、幸いだったというべきだろう。太田ならまたまた必死の形相でプールの底を匍ったであろうし、もしここで潜水泳法の極意を会得したとしても、彼にはそれを活用して海底から脱出する一度の機会もあたえられなかったはずだからである。
特信班といえば、一般に暗号解読を主任務とするものと解されやすいが、ストリップ・サイファーと称する米海軍の文字暗号はさすがに手ごわい複雑さで難攻不落を思わせ、無駄な謎ときに労力と時間を空費して役目のすむ時代は過ぎ去っていた。
特信班の任務の主眼は暗号解読よりも、敵の信号をしらみつぶしにキャッチする通信謀報活動と、その流れを分析する作業、いわゆるコミュニケーション・アナリシスの充実におかれていた。発信者、着信者、通報先といった米軍のコールサインはほとんど捕捉されており、緩急指定や戦艦、空母などの重要なサインも、経験的に分っていた。
コードに変更があった場合は、すぐ異状が明らかになり、捕虜からの情報収集がきめ手として役立つ。高級将校の収容所に二世士官が足繁く通って、短期間にカバーし修正することができた。また航空機の呼出し符号が全面的に改変された場合は、旬日を経ずして新しい作戦が発動される前兆を意味していた。
とらえられる限りの情報を記録し丹念に積み重ねてゆけば、一定期間後の敵の作戦の方向、規模、性格を予測することはそれ程難しいことではない。作戦部隊および基地の位置関係、発信送信の量、暗号および通信系統の種類、緊急度の変化などは分析の主要な材料であり、現に沖縄作戦では鹿屋通信隊が情報収集の主体となって、米軍進攻の時期をほぼ適確に予知し、本島上陸を三月末日あるいは四月一日と推定していた。
情報班の態勢は、A班(アメリカ)、C班(中国)、S班(ロシヤ)と地域分担を定めるほど整備していたが、当時すでに戦局は敵の動静を予知しても、それに対応する作戦に出る余地がないところまで切迫していた。
孝一が所属したV(ボイス)班は、更に情報班の先を行くもので、戦争末期ギリギリに開発され、全員が二世という構成である。ボイス班の特色は直接戦闘に参加することにあった。その任務は二つ、一つは敵の艦船および航空機相互間の超短波無線電話を妨信(ジャミング)により妨害し、あるいは平文の偽信を送って混乱させること、他の一つは平文で送られる緊急電話電信を傍受し、彼らの作戦意図、ことに作戦終結の時期を割り出すことであった。
このうち図に当れば望外の戦果をあげるのが偽信であるが、うまく操作するための最大の苦労は、敵がこちらの意図を見破って電波の波長を頻繁に変えるため、サイクルに合わせてコイルを調節しながら電波を模索しなければならぬことであった。ようやく見付ける頃には、間もなくまた波長が変ってしまう。うまく合わせてセットしてある間に偽電を飛ばす。
偽信の発信に必要な材料としては、一般的な電文のヘッディングとその構成、緩急指定、発信者、送信先のコールサインの種別などがあり、毎日コールサインを変える法則や、主要な基地、司令部の呼出し符号はもちろん、「モホーク、モホーク」という旗艦の緊張呼出暗号も捕捉されており、日本機の通称がボギー、さらに機種によってベティー、フランシス、ジョージとかジル、トニーなどと言い分けたり、カーティスSB2Cの急降下爆撃機をシュガー・ベーカー・ツー・チャリーと読みかえて識別する仕きたりまでわかっていた。潜水艦はビメクとかフェミーとかいう特殊暗号を使うので、所在をつかまえやすかった。
彼ら同士の通話の間に、彼ら愛用のそうした隠語をあやつりながら、「爆撃目標を戦艦から巡洋艦に変更」とか、「着艦する母艦はホーネットではなくイントレピッド」「降下角度を○○度に変更」「攻撃中止、命令あるまで避退せよ」といった指令を、得意のアメリカ訛りで早口に挟むのである。
米軍の戦史には、はじめは日本側の偽信に欺されて被害があったが、偽信はそのつもりで細心に注意していると、受信機の癖もあって、毎日きき馴れた電話と響きも感度もどこか違うことが分ってきたと書かれている。その反面、きき分けるための肉体的精神的負担は馬鹿にならず、全体としてのマイナスは小さくなかったと評価している記録も多い。
太田たちボイス班が大和田の実習で叩きこまれたのは、敵の無線電話に耳を馴らす実戦訓練である。訓練といってもナマの敵信を材料に使うから、情報の流れからみて、南方水域に危機的局面が近づいていることは、誰の目にも明らかであった。事実上残存する唯一の艦隊、第二艦隊の司令長官伊藤整一中将が、開戦以来軍令部次長として主要な海戦すべてに関与し、特信班の戦略活用にも通暁していることが、ボイス班の緊張をいやが上にもたかめた。ボイス班の優秀メンバーを狙い打ちして、近く転勤命令が発せられるのではないかという予感が、班内にひろまった。
自分が二世出身であることを最も有力に証拠立てる語学力が、一本の綱になって、彼らを死地の一歩手前まで引きずってきていた。自分の声に乗る偽電は、誰の利益のためにはたらくのか。アメリカに住む肉親に、何をもたらすのか。任務の果てにある死は、どのような報いを受けるのか。そのことに悩み抜かなかった二世士官は、一人もあるまい。
彼らの悩みは、それだけにとどまらなかった。特信班員として日米両国の暗号の実態に通暁した二世士官が、職掌柄、さらに二重三重の苦渋をなめさせられていた事実は、ほとんど知られていないに相違ない。英語という言語の成り立ちの身についた理解に加えて、特別補習を通じて一段と深められた日本語の特殊性に関する知識は、太田たち三名の二世代表者を絶望におとしいれた。言葉の本質に基いて、日本語は解きやすい脆(もろ)い暗号しか生み出しえず、反対に英語からは解読至難の暗号方式が生み出されうることを、彼らは看破した。
日本語のような表意文字の場合、通信さるべき原文は、カナまじりの漢字でなければ用をなさぬ。カナの五十音だけの構文とすれば、同音の表現が多いため誤読の危険が大きく、重要な通信文であればあるほど意志の疎通がむつかしいことは、テストで容易に確かめられた。原語として用意される語彙(ごい)はぼう大な量にのぼり、これを数字暗号に換字する表は辞典のごとき浩瀚(こうかん)なものとならざるをえない。したがって海軍が最も広く用いたD暗号やその後をうけた呂暗号は、暗号作成用と翻訳用の、分厚い二冊の暗号書を基本として成り立っていた。
もちろん実際に打たれる暗号文は、表で換字された五ケタの数字に複雑かつ頻繁に変更される同ケタの“乱数”を加算して作成されるが、乱数は有限であるかぎり理論的に解明除去は可能であり、さらに各作戦部署にいったん配布された暗号書は、戦線の拡大とともに改変を不可能とする状況にあったから、万一基本となる暗号書が盗まれれば、いかに精巧な乱数効果を加えても、解読達成は時間の問題と覚悟しなければならなかった。
艦船の沈没にさいしては、鉛表紙による沈下、海水によるインクの消滅など、廃棄処理に万全を期していた暗号書も、浅い水深で沈んだ潜水艦の場合は完璧とはいい難く、また陸上においては燃えにくい弱点が危惧され、相次ぐ孤島守備隊の玉砕でその懸念は現実のものとなった。例えばビアク島の場合、池に遺棄した暗号書が米軍の手に入った公算が大きいとされている。
これにたいして表音文字である英語の原文は、数字や句読点も含めすべて二十六文字に表わすことは容易であり、換字のためのぼう大な表が不要となることはもちろん、原字を一字一字別のアルファベット文字に読みかえるルールを定めてその変化を無限に近いものとすれば、暗号書盗用の危険もなく解読も不可能な完璧な暗号が出来上ることは、わが方も充分研究ずみだった。
ストリップ(細長い紙片)・サイファー(暗号)と称する米海軍の暗号方式は、無限多表式換字暗号とよばれるものの一種で、アルファベット二十六文字を順序を乱して書きこんだセルロイドの棒三十本だけが、暗号作成、翻訳両用を兼ねる用具のすべてである。この棒をそれぞれ三十の溝にそって横にはめこみ、真ん中に入った赤い線に合わせて縦のラインに原文を置けば、他のすべての縦線の文字が換字となりうるわけであり、換字の反覆性も乱数のわずらわしさも避けることが出来る。戦後の研究によって解読不可能と立証された暗号方式の傑作であり、しかも非常対策としてインクは真水にもとけ、セルロイド棒はマッチ一本で瞬時に燃えつきるように工夫されていた。
日本語の表現の微妙さが書く言葉として好きになりかけていた太田は、それが暗号のための言語として負わされている限界に、宿命的な非運を感じたらしい。彼はその絶望の思いを、「米軍の暗号が進んでいるのは、頭のせいじゃない。日本の暗号なら、わたしでも解いてみせるよ」と、挑戦的な言い方で吐露した。
実習予定期間が終りに近づき、勤務先の発令が迫ってくると、ひどい胃弱患者は艦隊勤務から外される、という噂にすがろうとする者が出てきても不思議はない。
戦局がここまでくると、「艦隊勤務」は即「轟沈待機」を意味していた。軍隊に伝わる悪知恵は、醤油を短時間に暴飲すると、急性の胃障害を起こすことを教えていた。二世の何人かがその誘惑に負けてみずから選に洩れたと証言する声もあるが、真相を確かめるすべはない。
太田と同じく第二艦隊付の内命を受けた吉村は、太田と二人だけになるのをまって、はげしく泣いた。あの強気な吉村も、自分の戦死を覚悟すると、身寄りのない母と妹を戦乱の渦中にとり残してゆく不甲斐なさが、身に負い切れぬ重荷となったのであろう。
彼が恐れていたように、終戦後吉村家は頼るべき長男を失って離散した。父は米国で失意のうちに亡くなり、米国国籍の妹は早い時期にアメリカに帰って自活の道を開くことが出来たが、一世である母には渡航禁止の壁は厚かった。息子の友人たちの奔走でようやく手続がすすむまでに、彼女は疲れ果てた。それから程へて、知人の力添えを借りサンディエゴで小さなドラッグ・ストアーをやっているという便りがとどき、長男の慰霊祭を伝える通知にたいしては、鄭重な礼状と金一封を添えた挨拶が送られてきた。
太田孝一が勤務先についてのそうした無用の心づかいを捨てて、天命を待ったことは確かである。一九四五年二月十日付で、第二艦隊司令部付の転勤命令を受けた彼は、呉に発つ前の晩、徴兵をのがれていた慶応時代からの二世の親友を訪ね、国際赤十字を通して何とか米本土に届くように手続をとってほしいと懇願して、遺書を手渡した。
軍服姿の太田は昂奮した様子もなく、静かな口調の日本語で、「自分はこれから日本人のために命を捧げにゆく」と語り、「二世というのはどんな人間か、見せてやりたい」と抱負をくり返した。友人はわずか一年のあいだの意外な変貌のなかに、むしろ太田らしい抑えのきいた自己主張の強さをみとめて、かえって安心をおぼえた。
一年まえ、海軍にとられる直前に、広島の親戚を訪ねるため帰郷するという太田について、宮島まで旅行したときのことをその友人は思い出した。あわただしい旅程をさいて、どうしても厳島神社にお参りしたいと言い張る太田には、なにかいつもの彼と違う様子があった。
渡し船が宮島に着くまでのあいだ、本土の方をふりむき、目を細めて野山を眺める太田の表情には、どこか遠くを、両親を生んだ故郷の風土全体を眼(まなこ)に収めようとする一途(いちず)な思いがただよっていた。頬にあたる風はつめたかった。
しばらくすると、たずねもしないのに太田は、「この神社のお札(ふだ)をもらうと、絶対死なないんだ」と自分から言った。「本気で信じているのか」ときき返すと、ニコリと童顔で笑って、「ナインティ・パーセントね」と答えた。「それは信仰じゃないね」と念を押すのに、「ぼくは信仰はない」と今度は真剣な顔で答え、それから長いこと太田は黙っていた。
続いて起きた面白い出来事も、記憶に残っている。厳島神社は社殿までに長い曲りくねった廊下があり、土足厳禁だから靴をぬいで廊下に上ると、帰りは出口まで靴が運ばれていて、五銭の料金をとられる仕組みになっていた。注意書のはり紙を眺めていた太田は、お札(ふだ)のことも忘れたようにアメリカ式合理主義をとりもどし、「こんな無駄は意味ないな」と呟きながら、自分の靴をかかえてさっさと歩き出した。
親友に手渡された遺書は長い道のりをへ、終戦というひと区切りをこえて宛先を探し求め、その年の秋、キャンプを出て古巣のメイヒューに落着いたばかりの両親の手許にとどけられた。よく練習をした硬い大きな漢字と平仮名で綴られた手紙は、細かい文意や表現も的確であぶなげがなく、息子の日本語の目ざましい進歩を証(あか)しするものとして母を喜ばせた。孝一はいよいよ戦線に立つこと、十八年間両親から受けた愛情に心から感謝すること、人間は自然を友として暮らすのが理想であること、自分の性格は人の上に立つのに適さないが、ベストをつくしてやってきた人生に悔いはないことを書きしるし、弟たちが白人に負けずに生涯の終りまで努力し通すことを念願する言葉で遺書を結んでいた。追伸には、自分の一生が幸せであったことを、親しかった人に伝えてほしいとあるだけで、父母の住む国、弟妹と友人たちの住む国を敵としてホコをとらなければならない悲運については、一ことの恨み言も吐いていないことが、かえって胸をしめつけるような重しとなって母をさいなんだ。
節子は、孝一たち二世学生が学徒出陣で召集されたらしいという噂をきいてから間もなく、同じ立場の母親たちと語らって、ワシントンのスイス大使館に息子あての手紙を送った。字数が制限されていると聞いたので、考えぬいた末、文面はごく簡潔に、「お元気ですか 私たちも元気でゐます ただ職務にベストをつくして下さい そして一しよに平和の日を祈りませう」とまとめた。
孝一の遺書を読みながら、自分の書いた一語一語がまだ胸の中に残っていた。お互いに知らずに書き送ったのに、この二つの手紙は呼吸をあわせて対話をしている、節子はそう思った。
第四章 幸福論
第二艦隊伊藤司令長官は、敵機動部隊との決戦に備えて司令部通信班の人員倍増をはかり、太田少尉と同じ発令で、予備学生出身の少尉四名と予備生徒出身の少尉候補生二名が、ボイス班に配属された。全員が二世出身の成績優秀者である。一回の作戦にこれだけの陣容補充は過大だが、長官の真意は襲撃による戦死者続発を考慮し、あらかじめ分散配置していかなる事態にも万全の要員確保を期する狙いと推測された。
太田たちが第二艦隊旗艦大和に乗組んでいたのは、わずか一ヵ月半の短期間で、最後の決戦用に徴発された、短命な特攻兵器のようなものであった。同時に発令を受けた六名のうち四名が大和に乗り、大和には一期上の三期のボイス班中尉がすでに乗艦していたから、二世士官そのものはさして珍らしい存在ではなかったが、その中で太田が最も軍人らしからぬ軍人として目立っていたことは、はじめの会話に書いた通りである。
他の者がいく分かずつは持っていた二世らしい才気、スマートさ、特信班員としての矜持、巨艦乗組の気負いといったような持味を、太田は何一つ持合わせていなかった。ことに兵学校出の若い中少尉にとって、時々象のように優しい眼をする猫背のこの二世が、少尉の襟章をつけた一種軍装を身にまとうことは、ガンルーム士官の沽券にかかわるように思えたとしても無理はなかった。
隙さえあれば太田少尉はつかまって、いいようにからかわれた。彼は最小限度の受け応えしかせず、いつも変らぬおだやかな顔色できいていて、どんなに暴言を浴びても表情に固さを見せることはなかった。年下の若造からあれほど馬鹿にされてなぜ怒らないかときかれて、自分について言われていることはおおむね正しいと思うからと答えたのは、正直な気持だったであろう。
しかし短い乗艦の間に太田の扱い方は変化を見せ、甲板士官が下士官兵の前で注意を与えるようなことも、だんだんなくなった。特信班員太田少尉の実力はそれほど群を抜いていて、しかも精励恪勤(かくごん)、通信参謀の信任も厚かったから、同僚の士官や下士官兵の態度にも、おのずからそれが反映するようになったのである。
太田が大和乗組の数ある士官の中で特異な関心を抱いた相手は、臼淵という大尉であった。臼淵はケップガン、すなわち若い中尉、少尉の所属する一次士官室を統轄する責任を負っており、五十名の若手士官の端くれに過ぎない司令部付の二世の少尉が直接かかわりを持つ機会は、こちらから求めない限りまずないといってよかった。
太田は出撃間ぎわになってから、臼淵とじかに言葉を交える勇気を持たなかったことを後悔した。それは大和乗組の通信士が、二つのことを知らせてくれたからであった。
その一つは、太田少尉の扱いを改めるよう、甲板士官や血気にはやる機銃群指揮官を強くたしなめて従わせたのは臼淵大尉であるということ、もう一つはその理由として、太田の勤務振りを称讃したということであった。
太田の勤務振りについて、英語育ちの人間が敵の暗号捕捉を得意とするのは当然だとくってかかる若手士官に、臼淵は自分の身につけた能力を思うままに駆使して職責に役立てることは、いかなる場合にも立派なことだ、と反論したというのである。
太田はまた、臼淵が遺言を残し、日本が“真の進歩を重んずる”国に生まれかわるために、その礎えとなるならば死んでも悔いはない、と語ったのを知っていた。その言葉が特に強く印象に残ったのは、兵学校出身の職業軍人が一つの命題の中に死の意味を捉えようとしたことの意外さと、進歩という表現から受けた違和感のためだったかもしれない。
日本にとって大事なのは“進歩”ではなく、“勇気”ではないか。本当のことを本当だと認める勇気ではないか。――太田は自問自答し、臼淵の真意を直接確かめる機会を逸したことを、重ねて悔やんだ。
出撃に備えて艦底に近い通信室に配置を完了し、臼淵にふたたび見(まみ)えることが全く不可能になってから、太田はもう一度そのことを思い直してみた。自分は“進歩”という表現にとらわれ過ぎていたのかもしれない。軍艦や戦場の仕きたりに逆らって自分らしい行き方を貫こうとした臼淵の日頃の言動は、“進歩”を目ざす念願のあらわれだったのだろうか。――目から鱗が落ちて、臼淵が言いたかったことはきっと自分と同じ意味にちがいなかったのだと、素直に納得できるように思えてきた。
太田は特に打ちとけた相手もなく、孤独のように見えた。しかしたまたま語り合う縁のあった仲間には、率直に自分をさらけ出そうとしている感じをあたえた。社交というものにははじめから関心がなかったので、自分が孤独だという意識さえないという風であった。
彼が一ばんよく話しこんでいた相手は、やはり通信学校以来の戦友、吉村候補生だった。性格のちがう二人がかえってウマが合う関係も相変らずで、英語のやりとりの間に太田が珍らしく声を立てて笑うこともあった。
ある晩寝室の吊り床の下で二人が荒っぽい英語で言い争っているのを、とがめてわけを訊ねた者がいる。吉村は酒好きで、その頃酒保から一本三円八十銭で買えたサントリーの角瓶を毎晩のようにあけていた。金が足りないので太田に借金を申込む。太田は無条件で貸す。貸しても返してもらうあてはない。だいいちお互いにあと束の間の娑婆の命である。太田が怒り出したのは、お前は節度がない、どんな時にも自分をコントロールできなくてはだめだ、と忠告したのに、吉村が、俺はもう何でも好きなことをやると答えたためだった。
アメリカにいる家族が強制収容所に入れられたという情報は、二世士官の間に前から流れていた。日本の新聞にも、開戦翌年の二月、リスボン発同盟電として、枢軸国側の在米民間人五千人が逮捕され隔離されたという記事がのった。その記事は、逮捕の順番は一にスパイ、二が日系一世、三が日系二世で、四のドイツ系と五のイタリヤ系を合計しても、全体の三分の一にみたないと、不愉快な細目をつたえていた。日本の世論の極端な対米感情悪化をまのあたりにしていると、米国が報復的にこの程度の措置に出たことはやむをえないようにも思えた。
続いて三月にはブエノスアイレス発特電として、西部防衛司令官デウィット将軍が西部三州に軍事地帯を設置し、枢軸国人は漸次この地帯から立退きを命じられることになるだろうという見通しが伝えられた。対象となる日系一世と二世の人数を、総員十二万人と具体的な数字で説明していることは、それが単なる風評でないことを予感させた。
孝一は、国際信義を踏みにじった真珠湾奇襲の余波の大きさに今更ながら驚いたが、不正確な材料をもとに、あれこれ臆測することはやめようと思った。非常の時ほどテキパキ切りまわして頼りになる母の性分を、彼は知りつくしていた。
令三の容態は日を追って少しずつ悪化しているように思えたが、節子が夫の健康以上に心を砕いたのは、岡本博子のことである。博子はサクラメントの、日系人社会では中流のマーケット経営者の長女で、両親とも広島県人であった。孝一とは同じハイスクールの同学年で、二人は三年生の時婚約した。孝一よりも先に節子が博子を気に入った。というよりも、まず節子が自分によく似た個性を博子の中に見出して話を進めた、といった方が正しいかもしれない。
数々の防壁で外界から遮断された日系人社会では、仲間同士の婚約は格別の意味をもつ。それは彼らの結束の固い結び目のようなもので、ことに似合いの両家の長男長女が自然に結ばれるこのような縁組は、理想の条件をすべて満たしていた。
節子が心配したのは、両家が別々の収容所に入れられることだったが、幸い岡本家は同じポストンの十数ブロック離れた区画に住居をあたえられた。博子がたずねてくれば、全く家族の一員として、長女として扱うのが節子の流儀で、この流儀は、カリフォルニアに帰ってからも、孝一の戦死公報がとどくまで貫かれた。
婚約した二人はどの位親しい関係にあったのか。節子はそのような関心の持ち方をしない。博子は孝一以上に口数が少なく慎しみ深かったので、二人が向き合っている時、孝一が彼らしくない雄弁で早口の英語を喋るのをきくのは楽しかった。博子のさりげない仕草に、孝一への敬愛の気持がこめられているのも好もしかった。実の妹である鈴代以上に、兄を慕う甘えを見せたかと思うと、一瞬、燃えるような熱い視線を注ぐこともあった。
孝一が日本に渡ってから開戦までの間、ほぼ一週置きぐらいの割りで手紙の往復があったことを博子は告白した。コウちゃんは本当に日本の自然の美しさに感嘆して、いつかヒロコにも是非見せてあげたいとくり返し書いてきたけれど、日本女性については一行も書いてこない、笑いながらそんな話もした。この二人は経験を積んだ大人たちのような深いところでお互いを理解し合っている、しかしだからこそ、一しょに暮らすことを許されない不幸にめぐりあっているのかもしれない、二人を婚約させたことをくやんではならない、と節子は自分にいいきかせた。
母は孝一の遺書を受取ってから、その中で自分の人生が幸せであったことを親しかった人に伝えてほしいと書いているのは、博子への控え目な感謝であり、彼女の新しい幸せを祈る訣別の言葉であることに思いあたった。
太田にはアメリカに残したエンゲ(エンゲージ、婚約者)のいることを、艦内の少数の者だけが知っていた。それは博子の写真を時々見せるからで、札入れから出して照れ臭そうにチラッと見せては、すぐに隠した。少しピンボケのスナップ写真の彼女は、白い半袖を着て、幼い髪形をしていた。そんな博子が、孝一はいちばん気に入っていたのであろう。アメリカ国籍の二世の恋人、とてもそんな華やかさはなく、笑顔の中で大きな眼がしっかりとこちらを見ていた。
ある夜、夜間訓練のあと、一期上の田中中尉が話しかけてきた。博子の写真を見た一人で、太田とは気が合っていた。黙ってさし出した便箋には、走り書きの字が書かれてあった。短い詩のようだ。急に日本語の詩の朗読をききたくなった太田は、「読んでいただけますか」と頼んでみた。田中が大学の国文科出身で、時々詩を書くことは前にきいていた。
あの日、野のはての森の蔭で
緑がしたたる光の中で
語り合つたのは何についてか
君の瞳に映つた哀しみの色
重い沈黙のあひだにちりばめられた言葉
生きること 愛すること
そして死ぬといふこと
死の彼方にあるもののこと
夕陽が地平線から忍び寄つてきて
君の瞳に溢れたとき
そこから溢れるものに ほとんどくちづけしようとする戦(をのの)きを
ぼくは息をひそめて堪へてゐた
甘くて恥ずかしい、今の自分には純粋なものが書けるはずなのに、こんなものしかできない。しかしこの詩のすくなくとも半分は真実だ。彼女はとてもいい子だ――。田中は朗読と同じ調子で続けた。「そのひとに送ってあげるのですか」という孝一の質問に、「同じような詩をもうたくさん送ってしまったからな」と笑った。
それから二週間ほどした夜更けに、太田は同期四、五人と酒盛りをしていた。ほとんど飲めない彼だが、気楽に酒を汲みかわす気分は嫌いでない。そこに田中中尉が入ってきて、太田に視線をとめた。酔いが顔に出ている。腰を下ろすと、一方的に喋りはじめた。――
貴様たちは青臭い顔して、まだヴァー(童貞)だと信じるが、かりそめにも童貞を落としてはならぬ。戦場で死ぬ間ぎわに、まだ女を知らなくて残念無念、と歯ぎしりするというのは作られた伝説だ。俺たちは風変りな星の下に生まれた。俺たちには青春がなかった。ただきれいに散る命があるだけだ。きれいに死ぬことだけが俺たちの特権だ。――そう考えてきた俺自身が、去年の秋の負け戦さのあと、マニラに逃げ帰って、ヤケ酒をくらって、不覚にもヴァーを落としてしまった。フィリッピンの女だった。女なんか下らん。得体の知れん女だからというわけじゃない。女なんか実に下らん。負け惜しみや、血気の勇なんかで、童貞を落としたりするなよ。――
田中の頬からあごに、涙がつたっているのを孝一は見た。詩の中の彼女を「とてもいい子だ」といった時の田中の実感が、かよってくるように思えた。
孝一はこのとき唐突に、親しく口をきいた唯一の日本女性のことを想い出した。正確には一人の女性ではない。一人であって、そして二人の女性なのだ。
慶応時代、二世以外で親密につき合った数少ない友人の一人、小川の二人の妹。名前はおぼえていない。名前などどうでもいい。彼女たちは単なる名前ではなく、彼にとってすでに生きた身近な存在になっていた。
予科に入った年の夏、誘われて小川の郷里に遊びに行った。生家は新潟市から西南へ二十キロほどいった山間の大きな醤油醸造家で、思いもかけぬ歓待を受け、引きとめられるままに三週間も厄介になってしまった。
日本の代表的な豊かな農村地帯の大地主であり、代々事業家でもある旧家は、なにもかも太田には珍らしいものばかりで、長い滞在が束の間の夢のように過ぎていった。がっしりと骨太の柱で組まれた玄関、一家の主人と主な親族の名をつらねた古びた表札、玄関から奥までずっと一本真ん中を通した幅広の土間。奥に向って右手には座敷が並び、左手には台所、手洗い、風呂、使用人の部屋、商用のための事務所が並んでいた。土間には左右の部屋をつなぐ板が何枚か渡してあって、黒々と磨かれたその肌理(き め)は、真夏でも足うらにひやりと気持がよかった。
土間の奥手に近いところから狭い急な階段が上っていて、その上に中二階のような涼しい小部屋があり、太田はそこに個室をあたえられた。座敷にいると高い天井、大柄な障子、異形な床柱に威圧されてくつろげなかった彼も、自分の部屋ではしばしば長々と寝ころび、体全体に畳の肌ざわりを受けとめることをたのしんだ。
二世が日本で受けるもてなしには、ことさらにおもねるか、好奇心をかくした慇懃(いんぎん)さか、どちらかの型があるが、小川家は、なによりも息子の大事な友だちを遇する誠意と節度をもって迎えてくれたことが有難かった。そこに着いた日から、一家が久しぶりに帰郷した長男を迎えるのと全く変らぬ親しみとよろこびをもって接してくれたことは、家族一人一人の仕草のはしばしからうかがわれたし、しかも濃(こま)やかな親愛の情が行きとどいた躾によって裏打ちされていることに、孝一は目をみはった。いま触れているものこそ本当の日本なのだ、彼は度々そう自分に呼びかけた。
二つちがいの姉妹は、姉が女学校の高学年、妹が低学年ぐらいの年恰好だったが、すでにその年頃でなにげない振舞いや挨拶ひとつにも、身についた形の美しさがみてとれたことは、それだけで心を豊かにする経験だった。朝、洗面に土間へおりようとすると、気配をききとった姉か妹かが、居間のあがり口に膝をついて待っている。そしてそこから折目正しい朝の挨拶をしてくれるのが、朝毎に訪れるたのしみだった。孝一も精一杯正しい日本語を心がけて挨拶を返した。
小川と二人で食事するあいだ、姉の方がかならずかたわらに侍っていて、目立たぬ団扇(うちわ)さばきで絶えず風を送ってくれた。二人の会話にいつも耳を傾けているだけで、自分から口をはさむようなことはなかった。
いずれ劣らぬ美しい姉妹だが、正面からみると、ずい分ちがった顔立ちに思われることもあった。姉が整った細おもて、妹はどちらかというと愛らしい丸顔で、孝一の好みは強いていえば妹の方に近かった。
いよいよ明日は東京に帰るという最後の晩、珍らしく酒をのみ過ぎた。床に入ってしばらくすると、人の気配がする。「気がつきませんで」と声がして、蚊帳の裾から水差しが滑りこんだ時、ほのかな浴衣のかげと腕の白さが夜目に輝やき、一瞬すべての映像がとまったようにみえた。それは姉であったか、妹であったのか。そんな思案を超えて、自分の目ではじめてしかととらえた理想の日本女性像が、胸のなかに刻印された。
それから二年ほどその理想像を大事にあたためていた孝一は、無事に勉学を続けることもむつかしいと予感しはじめた四三年の春休み、帰郷する小川に短期間のお伴をさせてほしいと頼みこむと、小川は快く受け入れてくれた。家中で君を待っているから、という言葉は、孝一を勇気づけた。
二年前と変らぬ小川家のたたずまいは懐しかったが、ただ変ったのはなんとなく騒がしかった夏の夜とちがって、悩ましいような春の宵の静かさと、見ちがえるほど成人した二人の妹だった。もう年頃の姉は姿をあらわさないことが多くなり、孝一歓待の主役は妹の役目にまわったようであった。前のときはトランプが大好きで無邪気によく打ち興じていた妹は、姉とはまたちがった魅惑的な少女に成長していた。食事のあいだそばに侍ってくれる彼女の横顔にみとれていると、こちらの気持を見抜いたように、いきなり顔を向けていたずらっぽく笑ったりした。その人が、英語についての質問をしてきた時、発音の美しさが孝一を驚かせた。
太田の胸にともったほのかな二つの灯から、大和艦上で散華する日まで射し続けた一本の光り。その光りが戦後にたどった運命の綾をもし知りえたならば、彼はどのような感懐を持っただろうか。二つの灯のうち姉は近在の大きな酒造家に嫁ぎ、幸い小川家の長女にふさわしい仕合わせをえているという。
二度目の訪問で歓待の主役を演じ孝一により濃い心象を残した妹は、兄の友人の医師と結婚し、仕事の必要に迫られてアメリカに渡った。それから二十数年、主人はアメリカに帰化し、事業は繁栄を続け、アメリカ国籍の二人の子供と幸福な家庭を営んでいるが、自分はパーマネント・ビザを持つ滞在者の身分にとどまっている。皮肉なことに主人がいつまでもアメリカ嫌いであることを除けば、なに不自由なく恵まれた生活を享受しているが、彼女は、かつて孝一が味わった人種、国籍の板ばさみに、どうして堪えているのだろうか。彼女に欠けたものは何か。友だちはいるだろうか。太田をあたたかく迎えてくれた小川家のような隣人は、アメリカにもいるのだろうか。
ポストン・キャンプでの生活は、明日のことが見通せない苛立ちと、驚きというものを見失った単調さ、郵便物や外部からの音信がほとんどとどかない淋しさを除けば、何事もなく過ぎていった。一片のプライバシーさえ尊重されない生活も、馴れてみればさばさばして気楽だ、と思うほかなかった。
WRA当局との間には、かりそめの平和が保たれていたが、子供たちは、いま加えられている仕打ちがどんな性格のものであるかを、本能的に嗅ぎあてていた。キャンプ内の学校で、やとわれた白人の女性教師が歴史の時間に「今日はアメリカの憲法の勉強をしましょう」と切り出すと、子供たちがゲラゲラ笑いこけ、結局憲法の勉強がお流れになってしまうこともあった。
抑留生活で最も手痛い打撃をうけたのは、おそらく青年たちであろう。自分を向上させ、鍛練する場があたえられない空しさ、無為な生活に馴れた安易さは、青年期に持つ経験として、致命的な自壊作用をはらんでいた。
冬の夜は多勢が一つのストーヴをかこんで、遅くまで雑談するほかすることがない。その中の一人の若者が言った。「すべてがいい加減過ぎる。ボクたちは食べるものがあり、家賃はただだ。しかし毎日のきまり切った生活がボクたちを鈍らす。ここにあるものは何ひとつとっても、生活を味気なく退嬰的にしないものはない。みんな自分のことしか考えない。石炭を奪いあい、落ちている木ぎれを奪いあい、配給の衣料を奪いあい、食料を奪いあう。子供たちも大人の真似をして同じことをする。ボクたちの誰もが無感動になり、内向的、閉鎖的になったとしても不思議はないだろう」
かりそめの平和のかげでは、二世の兵役問題をめぐる暗闘が続けられていた。カリフォルニア所在の部隊に配属されていた二世兵士は、真珠湾奇襲をさかいにして、一挙に厄介物の地位に転落した。彼らは危険分子としてとりまとめられ、武装を解除され、雑役勤務にまわされた。ルーズベルト大統領がそうしたべースの一つを視察した時、彼らはあらかじめ機関銃につつかれてガレージに入れられ、大統領が退去するまで監視された。
そのうちの一人は訴えている。「なぜ我々をはっきり危険分子だと言わないのか。なぜ軍法会議にかけないのか。なぜ軍隊から出してしまわないのか。自分は生きている限り、カリフォルニアとは何のかかわりも持ちたくない。民主主義とか、独裁政権とか、そんな類いの話を誰もしない国、ただ生きるためにみんなが働いている国に住みたい。もちろん私はほかのどの国よりもアメリカが好きだ。しかし自分の顔をどのように変えることが出来るのか。教えてもらいたいものだ」
二世兵士の扱いが州によって異るため、一九四二年六月には、すべての敵性国人を兵役から外す措置がとられた。これに対して二世たちは、JACL(日系米人市民連盟)を母体として、直ちに志願の受入れを求める請願を提出し、その前提条件として忠誠調査の実施を要求した。請願者の数はこの冬までに五千名をこえた。
当局の反応はす早く、翌四三年二月末には、志願兵受入れの方針が明らかにされた。しかしこれは請願の成果というよりも、兵員の不足を警戒する議論が軍の内部で急速にたかまった時期と符合する事実の方が、重要だと指摘する声があるのは興味深い。ルーズベルト大統領は方針決定に当り、それまで日系二世志願の問題を包んでいた濃い霧を吹きはらうような、響きのよい調子で宣明した。「アメリカ建国の精神であるデモクラシーは、精神と心の問題であって、決して人種や祖先の問題ではない。およそ米国に忠誠を誓う市民は、その祖先が誰であろうと、市民権に伴う責任を遂行する民主的権利を否定されてはならない」
二世グループは相手側の変節に乗じて、最も重く心にのしかかっていた疑問をぶつけた。「われわれが戦場におもむけば、その代りに家族は早く収容所から釈放されると期待してよいか」。志願の請願も忠誠調査要求も、真実はこの疑問から発していた。一世の途方もなく大きな労苦の歴史、そこから受けたはかり知れぬ恩恵にどうしたら報いられるか。身体を張る以外に、彼らには恩返しの手だてが思い浮かばなかったのだ。
答えは「ノー」であった。
答えは「ノー」であっても、ほかに手段がないとすれば、軍務に最善をつくして、それがよびさます反響の大きさに賭けること以外に、選択の余地はなかった。ともかくも志願への道が開けたことは、息の詰る幽閉生活のなかでみずからの存在の意味を見失っていた二世たちに、わらをもつかむ最後のチャンスをあたえた。
志願兵第一号はマイク正岡である。四人の正岡兄弟は全員が志願し、一人の戦死者、一人の重傷者を出し、兄弟だけで三十をこえる勲章を獲得した。
読書好きの太田は、戦艦乗組中もその願望をみたすことができただろうか。司令部通信班の同僚で、当直勤務の合間にトルストイの「幸福の書」を一行ずつ惜しむように愛読している中尉がいた。そのことを太田に話すと、彼は黙って手ずれた一冊の本を差出した。それがカール・ヒルティーの「幸福論」(Gl歡k)の英訳本だったので、不思議な暗合に思わず二人とも笑い出した。
いくら哲学好きの太田にも、粗暴殺伐な艦隊勤務の生活と、心の美しさ、自然の尊さ、神の愛の大きさを説く碩学の教えとは、かけ離れたものに映ったであろう。しかし死ぬまでにあと何時間、何ページ本が読めるかを数えなければならない人間にとって、本の中の何を読むかはもはや問題ではない。書かれたものの向うがわに何を読むか、かつてそれに読み耽った自分と今の自分とを重ねて、そこに何が見えるかが問題なのだ。
いま確かな手応えをもって自分の生涯と訣別するためには、人生をはじめて驚きをもって考えることを教えてくれたヒルティーに、どうしてももう一度立ち帰ることが必要だったのであろう。
あの頃共鳴してくり返し読んだ文章は、いまこの異様な環境のなかで読み返しても、同じような感動をあたえてくれることが有難かった。「幸福はこの世の中にあるものだ。しかし我々はそれを知らない。いや知ってはいるが、それを尊重することを知らない」
「幸福を得るには、あらゆる人間の性質の中で、勇気が最も重要である。まず勇気をもち、目ざめて利己心を捨て、永遠をとらえ、愛に導かれ、地上のものは手段として生かし支配する。これのみが世にありうる幸福の状態である。想像の描いた夢のような幸福ではなく、一つの現実としての幸福である」
太田は自分の短い人生に、ヒルティーの指摘するような一つの現実の幸福があたえられようとしていることを疑わなかった。しかし彼の眼前にあるのは“死”なのだ。
「死自体は、なんら恐ろしいものではない。願わしくないものでさえない。ひどく死を恐れるのは、人生の正しい道を歩いていない人である。恐ろしいのは、死にのぞんで、自分の生涯が過(あやま)った無益なものだったことを見る時、許され難い大きな罪が山積しているのを見る時である。死によって滅びるのは我々ではない。滅びるのはこの世である」
たしかに死はもはや恐ろしいものではないが、死によって葬られる自分の人生には、どんな意味がかくされているのだろうか。
「我々は絶え間なく、そして永遠に、ただ自分自身で生きなければならない。他人ではなく、我我自身がどんな人間であるかというその在り方が、何よりも我々の幸福を決定するのである。
自分の人生がより高いものであることを目ざすならば、苦しみを覚悟し給え。苦しみを避けるのではなく、苦しみをどう克服するかが、我々に地上の生活があたえられた意味である。苦しみがあたえられたら感謝するがよい。そしてその苦しみが何のためのものであるかをたずね給え」
日本人の血をうけた青年として散華することに肚をきめた太田に、舶来品や英語が思いもかけず艦隊勤務の中にまで追いかけてきたのは、皮肉としか言いようがない。士官浴室には、LUXの三文字を彫りこんだ大型の石けんが備えつけてあって、鼻をくすぐられるような芳香がした。顔のきく大和の主計科員が禁制品を調達してきたものにちがいない。
ある晩太田はのぼせたのか、よろけてLUXを踏んだ拍子に無器用に滑って転倒した。洗い場が狭いから足が湯槽にぶつかって大事には至らなかったが、後頭部に大きなコブが出来、横が切れて鮮血が滴(したた)った。医務科の兵隊を呼ぶというのを太田は強く断って、自分でオキシフルを塗り手拭で頭を縛った。それから無念そうに石けんを見下ろして、「こんな失敗をして、おふくろさんに申訳ない」と独り言をいったのは、太田らしいエピソードとして評判になった。
ネーヴィーは隊内の娯楽として映画を重視していたと思われる節がある。通信学校時代も広い営庭で月一度ぐらい見せてくれた。教育当局お気に入りの出しものは「無法松の一生」と「潜水艦西へ」で、この二本はくり返し見せられた。
大和はさらに豪華版である。「戸田家の兄弟」のようなホームドラマや、娑婆では禁制のアメリカ映画も大っぴらにやった。下士官兵は交替で搭載機の格納庫に集めて昼間見せる。士官は夜間訓練のあと士官食堂のソファーに集合する。一同着席して司令長官を待つ。長官がゆっくり着席する。主計科の先任下士官が声を張りあげて「唯今ヨリ オーケストラの少女 全三巻ヲ上映致シマス カカレ」。ここで電灯が消える。太田は「カカレ」のところで、吹き出しそうになるのを懸命にこらえた。
ディアナ・ダービンは日本人に近い顔立ちで、ことにあのおでこが前観たときから好きだったが、ストコフスキーは気取り過ぎていや味だ。やっぱりこの印象は間違っていなかった。しかし演奏につられて無意識に指が動き出し指揮をはじめるあの場面は、何度見てもいい。擦れたトーキーでも、きこえてくるのは紛れもないアメリカ英語だ。女性のきれいな声が英語を喋るのを聴くのはいつ以来だろう。
今自分は日本の海軍士官たちと肩をくっつけて、画面に映るアメリカの風景になつかしそうに見入っている。この太田少尉という男は、いったい何ものなのだろう――思い耽りながら、孝一はソファーに体をしずめた。士官用ソファーの坐り心地は申分なかった。
節子がスイス大使館を通じて赤十字に托した手紙は、出撃直前、最後の連絡便によって孝一の許に届けられた。母のさらりとした筆跡の簡潔な文面を、当直のあい間にくり返し読んだ。この手紙が、中立国を通して辛うじて届けられたという事実にただ感謝しなければならない。自分の遺書も、かならず届いているだろう。それ以上のことを期待して、甘えた感傷におちいってはならない、と彼は自分を引き締めた。
それから数日たった夜、ハンモックの中で手紙をよみ返していた孝一は、たまたま、最も親しい戦友と顔を合わせたとき、われにもあらず嗚咽した。頑なに閉じていた母への眷恋(けんれん)の想いが、気を許したすきにせきを切ったのだ。
「一しよに平和の日を祈りませう」という結びの一句。孝一に日本留学の冒険を選ばせ、報いられるところのない死の瀬戸ぎわに追いやった親の責任を、母がどれ程痛切にみずからに負おうとしているかが、この短い祈りから噴き出ていた。
第五章 死の代償
大和は最終的な改造の結果、完備した通信施設を三室持つこととなった。第一は上部通信室で上甲板にあり、後部の二番副砲と後檣楼の中間に位置する。
第二は下部通信室で下甲板にあり、後部二番副砲直下に位置する。前を注排水指揮所、後を主砲弾庫にかこまれ、一階下は主機械室および副砲弾庫が占めており、防禦上最強の条件を備えていた。唯一の欠点は室内の低温で、主機械室を冷やすことを主目的とした全艦冷却機室が隣接しているため、高速運転中は最低五枚の毛布をまとって勤務しなければならなかった。
第三は最下部通信室で最下甲板にあり、一層下は船艙甲板、さらに一層下は艦底であった。前部二番主砲直下の右舷に位置し、発電機室および主砲弾庫、黒色火薬庫が隣接している。室温は外界の寒暖にかかわりなく二十七度前後に保たれ、きわめて快適であるが、右側壁が直接防水区画に面しているうえ、艦底深部にはめこまれた形で配置されており、立地条件の安全度が下部通信室に劣る点が弱点とされていた。
大和の誇る防禦力の中核は、堅牢無比の甲板壁に囲まれた直接防禦区画(バイタル・パート)の設定によって、爆撃砲撃を遮防することにあった。上面、すなわち中甲板に厚さ二十センチ、側面に四十一センチ、前後面に三十センチの特殊鋼をめぐらし、前部砲塔から後部砲塔に至る箱の中に、艦の主要機能、機器、設備、弾庫をことごとく格納したのである。計算によれば、急降下爆撃の場合二百キロ以下、高度四千メートルまでの場合八百キロ以下の爆弾には、充分堪えることが出来た。
ここに収めることのできない射撃指揮および操舵機能、主砲以下の砲塔には、それぞれ万全の直接防禦装備がほどこされ、さらにそれ以外の部署は、間接防禦として防水区画により守られる建前であった。
設計者の誤算は、直接防禦区画以外の浮力保持、水線面積保持の能力を過大に見積った点にあったとされる。特に舷側甲板隣接部分の水防力は弱く、予想もされなかった通信室、注排水管制所、舵取室等の浸水潰滅をもたらした原因は、ここにあったのである。
第二および第三通信室は直接防禦区画の中に占位しており、ボイス班はこの両室に分散勤務するよう命じられた。太田の主たる配置は、最下甲板前部の第三通信室であり、彼が沖縄特攻作戦の征途半ばで、司令部通信科の幹部とともに当直勤務のまま奔入する浸水にくだけ散ったのも、最下部通信室においてであった。この作戦に備えて無電機の増備された室内は狭く、その前にかがむように坐った太田の最期は、レシーバーを耳に、手はタイプライターにという、通常勤務の姿のままであったと推定される。
一度でも沈められて泳いだことのある経験者は、新しい配置をもらった時、何よりもまず轟沈の場合の緊急待避ルートを確認しておく習癖がある。太田の直属部下のある歴戦の下士官は、艦底近くに定配置をあたえられた太田の心中を察して、そこがどんないわくつきの場所であるかを教えようとした。
――戦闘状況下では、当然艦内警戒閉鎖が発令され、すべての通路は非常扉がしめられる。通行ハッチ、すなわちようやく人間一人のくぐり抜け可能な小型の円型艙口のみとなる。ここ最下甲板から最上甲板に開口した救出昇降口まで、くぐらなければならないハッチは全部で十三箇所、このうち中甲板の二十センチ・アーマーを抜けるところに装備された特型の肉厚なハッチは、上から二名、下から一名の協力がなければバネが起きない仕組みで、戦闘中にそれだけの作業を実施出来る余裕は全く考えられないというのである。
下士官の助言は、一見ひ弱で優しげなこの二世士官に、早いところ引導を渡してやろうとする親切心から出たものであった。しかし太田少尉は事態をのみこむようにしばらく沈黙してから、「どこで御奉公して死ぬのも同じです」と古風な言いまわしで答え、その下士官と、彼の日頃の日本語を知る仲間たちを驚かした。
二世の志願兵をバラバラにして混成部隊に配属することは、同僚とのあいだで必らず紛争を招くとしてはじめから反対が多く、二世だけで独立の部隊を編成する方針がとられた。二世兵士自身のあいだには、特定人種による部隊編成は露骨な差別だと批判する声もあったが、忠誠心を証しするチャンスを確実に得るためには、独立部隊編成が最も有効であるとする考え方が勝ちを制した。
一九四三年三月、忠誠登録と身体検査の合格者は、ミシシッピー州、キャンプ・シェルビーの荒廃した工場跡地に集結して第四四二歩兵連隊を編成。貧弱な装備ときびしい寒さにもめげぬ厳正なる軍規は、すでにしてあたりに鳴り響いた。
続いて六月にいち早くこの集結地に馳せ参じたのは、ハワイの歩兵第一〇〇大隊である。彼らはオークランドから東へ軍用列車で送られてくる途中、沿道の群衆から歓迎されたので不審に思って質問すると、「われらが同盟軍である中国人の兵隊さん、御苦労様」という答えが返ってきた。
さらに五二二野砲大隊、二三二工兵戦闘中隊が参加して、特別日系米人連合戦闘部隊、総員二万五千七百八十八名が編成された。うち将校は四百三十八名、また米本土出身者は一万三千五百二十八名であった。
彼らはなんとしても武勲をたてずんばやまぬ意気に燃えていたが、こうして猛訓練に明け暮れたキャンプ・シェルビーの泥土と廃屋に、野生の花一輪のようなロマンスが花咲いた話を聞くのは、うれしいことである。
駐屯地から程遠からぬアーカンソー州ローワーとジェロームの両収容キャンプに、充分な人数の二世の少女がいることは情報で確かめられていたが、彼女たちが週末の特別外出許可証をもらって駐屯地を訪ねてくるためには、最小限のコストとして旅費が必要だった。二世兵士は互いに帽子をまわしてなけなしの小遣いから資金を集めた。
兵舎でのダンスパーティー、荒れた山野を歩きまわるデート。そんな環境から生まれたロマンスは長い道のりをへて、いくつかの結婚に実ったと報告されている。
敵地への第一歩は四三年八月、北アフリカ、オランへの上陸で、日本の学徒出陣に先立つこと四ヵ月である。その後イタリヤ戦線からフランスに転戦、四五年三月には再びイタリヤのピア附近に上陸して、戦闘終結まで七回の主要作戦に連戦敢闘した活躍振りは、ひろく知られている。
代表的な戦績をいくつかあげれば、ボルターノ渡河作戦では米正規軍として初めて着剣突撃を敢行、カシノの難攻不落な堅陣攻略戦では丸三日間携帯口糧だけで頑張り、ほとんど一大隊が全滅する激戦の末陣地を攻め落とした。
フランスのウルゲヤ山岳戦では、三百人のテキサス歩兵大隊が孤立し、“失われた大隊”とよばれて陣地を死守していたのを、五日間の激闘でドイツ包囲軍を突破した。テキサス兵は涙を流して小柄な二世の勇士に抱きつき、第四四二部隊は、戦後州民をあげての熱烈な運動によって、全員がテキサス州名誉市民として迎えられた。
さらにイタリヤのゴシック戦線では、五ヵ月間米軍を釘づけにしていた堅塁を、六〇パーセントの損害を出しながらわずか三十二分間で占領した。この作戦でカリフォルニア出身の宮森貞雄一等兵は、単身敵陣に切りこみ手榴弾をもって機銃二門を沈黙させ、砲手五人を殺傷し、さらに次の作戦では、投下された敵手榴弾の上に身を伏せてもろともに炸裂し、戦友二人の生命を救った。
イタリヤ平定作戦では、四日間に五十マイルを前進し、敵の占領下から十一の町を解放した。四週間ぶっつづけに戦場にいて、眠るのは毎夜二時間だけであった。
この間九千四百八十六名の死傷者は、全米部隊の中で空前絶後の犠牲率とたたえられ、中隊によっては、当初の編成の上に交代者の補充があり、しかも一人の戦士がしばしば数回の負傷を重ねたため、三〇〇パーセントを上まわる犠牲率をあげている例も少なくない。勇将タールクイスト将軍は、ある大作戦の終結後、二世大隊の武勲を表彰すべく賜暇行進を命じたが、隊列が整わないのを見て「全部隊が参加せよ」と叱りつけた。しかし将軍は、定員二百名の各中隊のうち生存者の平均は、軍医、歩哨、伝令、主計兵を含めて四十名に過ぎず、そこに参集したのが動けるものの全員である事実を知らされた。
彼らの戦功の大きさをはかる尺度はないが、仮りに叙勲の質と量によって見れば、大統領感状七、殊勲十字章五十二、銀星章五百六十、銀星勲章千二百、名誉負傷青銅章二千八百、その他を合計して個人勲章計一万八千百四十三という栄誉に輝いている。相次ぐ激戦にもかかわらず、一人の脱走兵も記録されていないことはいうまでもない。
しかし戦死者にあたえられる高位叙勲の場合でも、二世部隊には正規の軍隊礼式適用は考慮されなかった。遺族を代表する戦死者の母のブラウスに勲章をピンでとめようとしても、その母は軍でさえ手のとどかないところにいた。彼女たちは機関銃に監視され、鉄条網とサーチライトと見張り台の向うがわに、息子について何ひとつ知らされることなく隔離されていたのである。
強制キャンプ内に居住するものを含めて、二世の青年すべてに徴兵令が発動されたのは四四年一月である。太田家では、まず二男の精二が応召し、やや遅れて三男の武が志願した。適性検査と知能テストの結果、二男は野砲大隊に、三男は工兵中隊にそれぞれ一等兵として配属された。二人とも長兄に似た体格で、これという特技はなかったが、部署を離れるとか、課せられた責任を軽んずるとかいった心配が全くない性格は、頼りになる列兵として可愛がられた。
ゴシックの戦線でドイツ軍の撃った砲弾の破片が武の肩をかすめたのは、ちょうど孝一が大和に着任した頃である。弟たちが四四年の後半以降に軍に入っていたならば、ヨーロッパ戦線ではなく南西太平洋にまわされていたかもしれない。そしてその方面では、二世の多くは情報将校あるいは通訳として重用されていたから、長兄と商売がたきとしてじかに相見える日があったかもしれない。
軍当局も初めはこの方面での日系青年の活躍に、それほどの期待はもっていなかったと推測される。まず彼らの日本語の能力そのものに疑問がもたれたが、テストの結果、全体の三パーセントは優秀、さらにその数倍程度の範囲は、即成教育によって何とか日本語がモノになることが判明した。しかしその大半は、皮肉にも嫌われものの“キベイ”であった。精二、武の兄弟も、語学テストを受けるめぐり合わせにあえば、日本語クラスでの成績から見て、おそらく選からもれることはなかったであろう。
陸軍諜報学校での二世兵士の猛勉ぶりは今なお語り草である。朝からの詰こみ訓練に加えて、夜中まで懐中電灯で頑張らないとノルマには追いつけないとされ、逃亡者、自殺者も出た。六千人が難コースを踏破して学校を卒業し、うち三千七百人が戦闘前線に配置された。
後方勤務者も、前線に負けずに狂気のように仕事をしなければならなかった。前線から送られてくる大量の情報、たとえば捕獲した日本軍の地図、作戦計画、命令書、部隊日誌、盗聴した通信文は一刻も早い翻訳完了を待っていた。日本軍は敵にこれほどの日本語理解が可能であることを夢想もしなかったので、情報管理の粗漏さは、近代戦の常識を逸脱するほどのものだった。
前線に特派された情報将校の活躍は、更に広範囲で目を見はらせるものがあった。外見が敵兵と判別し難いため常に同志討ちの危険にさらされながら、全連合軍将兵の貴重な耳目として、捕虜訊問の専門家として任務を全うした。彼らの偉大な功績は終戦の時期を少なくとも二年早め、数万の友軍の生命を救ったにひとしいと評価されている。
連合軍翻訳通訳局指揮官マシューズ大佐は、日系二世を駆使して二億ぺージに及ぶ日本語文書の翻訳をやりとげた感想をのべている。「この難作業に従事した人々とその家族から受けた恩恵に、我々は何ものをもってしても充分に報いることは出来ないであろう」
二世部隊の合言葉は「ゴー・フォー・ブローク」、すなわち「撃ちてしやまん」である。この耳馴れない「ブローク」という言葉は、ハワイのさいころばくち仲間が「徹底的にやろう」というとき、愛用した用語そのままである。
彼らは何よりも日系人の名誉のために戦った。鬼神のごとく勇猛であったのは、はじめから死ぬ覚悟だったのだから、むしろ当然だと受取られた。それに加えて彼らの平均知能指数は、アナポリス卒業者を九ポイント上まわる一一九だったのだから、類例のない勲功は、まさに達成さるべくして達成された成果といえた。
自分たちの兵役復帰が日系人婦女子を釈放するのに無力なら、進んで死に赴こう。死の代償をもって懇願すれば、父母、姉妹を窮地から救うことも、あるいは許されるかもしれない。こうして彼らは肉弾突撃をくり返したのだ。
死の代償として守るべき肉親や係累を持たなかったものは、どうであろうか。三十二歳のある帰米二世は孤児として育ち、日系人からも毛嫌いされて職がなく、反動主義者と見過(あやま)られることだけは避けようとして青年民主党員になった。強制隔離がはじまっても、家族といい地位といい、なに一つ失うものがなかったが、ただ青年民主党員の白人の友だちに会えないことだけが辛かった。彼らは自分がジャップであることを忘れさせるようにつき合ってくれたのだ。
彼は敢然として日系人部隊に志願した。そしてその動機を、第一に大切な親友たちを支援するため、第二に帰米二世がアメリカ人に負けない戦士になれることを反動主義者に立証するため、と語っている。
二世の兵役復帰の公認と並行して、強制隔離の網を緩める方向に世論が動き出した。マイヤーWRA長官が収容者をキャンプ外に再定住させる計画に着手したのは、一九四二年六月と比較的早い時期であったが、陸軍長官の強硬な反対にあって、その構想は陽の目をみるには至らなかった。
しかし砂糖大根など季節的農作業のため一時出所を認める措置は、西部の農業労働力不足の解消と、日系人への世論の好転を狙って大いに奨励され、その数は同年の秋から翌年春までに総計一万人、収容された成人男子の五分の一を占める規模に達した。
仮出所者の実績と作業の好評ぶりをみて、さすがの陸軍当局も軟化した。一九四三年五月には、キャンプ外に仕事を求める者は雇主からの書類、それも形式的なものさえあれば出所を許可する方針が明らかにされ、同年末までに、陸軍に入った一万人をのぞいて一万九千人が、学校および職業への復帰を理由に収容所の門を出た。このうち八五パーセントが二世であり、彼らの足は防衛戦略地域を避けて中西部と東部に向った。
WRA当局は各人にそれぞれ目的地までの二等料金の旅費と、当座の生活費として一率に二十五ドルを支給した。これが新生活の出発にあたって、彼らの手にした全財産であった。
しかしこのような当局側の変化を、人道的な動機に基くものとみるのは単純に過ぎよう。戦局の進展とともに、アメリカ国民の生活水準低下が目立ってきたなかで、十万人以上の敵性の人間を無駄食いさせているのは怪しからんという議論が、そのころ議会筋でたかまった事実を記録によって確かめることは、容易である、
しかも強制疎開者が自由の天地に釈放されるためには、一人の例外もなく踏絵の試練を通らなければならなかった。四三年二月から三月にかけて、WRA当局は十七歳以上の居住者全員に質問形式による忠誠登録を実施した。調査の目的は、無制限出所許可を受ける資格の有無を審査するためと、就職の世話に必要な情報を確実にするのにいく分かは役立たせるため、とだけ公表された。
不幸にもこの時期は、陸軍が志願兵受入れに必要な忠誠調査の実施を決意した時期とたまたま合致しており、調査目的について数々の誤解を生む結果となった。
忠誠登録が個人の信条に対する当局側の不当な干渉であるとして、一方的に非難するのは当らない。WRA当局がその実施に踏切った背後には、JACL幹部の二世による強い要請があったとみるのが真相に近いと思われる。彼らは一世の良識への信頼と、アメリカの民主的良心の尊重から出発してこの行動に出た。いま日系人にとって最も緊要なことはキャンプ閉鎖の糸口をつかむことであり、その前提として、当局には釈放の根拠資料となる忠誠調査が、日系人には今後もアメリカに身柄をあずけるかどうかの決断が、不可欠の条件であると判断したのである。
問題は調査の仕方にあった。忠誠登録の質問はその一つ一つに、「イエス」か「ノー」かで答えなければならない。最も混乱をひき起したのは第二十八問で、例えば男性に対しては次のような質問であった。「あなたはアメリカ合衆国に絶対の忠誠を誓い、国の内外の敵によるすべての攻撃からアメリカを忠実に守り、日本の天皇、あるいはいかなる外国の政府、権力、組織に対する忠誠も服従も否認しますか」
この露骨な質問は外国人(一世)を対象にした場合、市民権もあたえないでおいて天皇への忠誠の断念を要求するのは非常識だとの批判を浴び、登録の進む途中でさすがに少しやわらげられた。「あなたはアメリカの法律に従い、アメリカの戦争協力を妨害するような行為をいっさいしないと誓いますか」
忠誠登録にたいする「イエス」か「ノー」かの回答の義務づけは、とくに一世を追いつめた。登録用紙の一部に「出所許可出願書」という文言が刷りこまれていたことが、出所後の生活への不安をかき立てた。「イエス」と答えて忠誠を誓約するのがおそらく無難な態度であろうが、忠誠を認められた結果釈放されても、皆もくあとの自活の目安がなく、かえって流刑者のままおいてもらう方が、食糧難がないだけでも安全のように思えた。
また自分が「イエス」と答えたという情報が万が一にも日本に伝わり、そこにいる親戚、日本に留学したまま人質になっている子供たちに危害が及ぶことは、ありえないだろうか。いつか日本に強制送還を受けた時、どんな仕返しが待っているだろうか。
「ノー」と答えて忠誠義務を否定した場合、自分たちが収容所内に永久追放されるのはむしろ望むところだが、親の立場としては許されない態度であろう。当然の罰として子供たちに容赦なく圧力が加えられ、入隊している身内の二世兵士は不当な取扱いを受けるだろう。
一方二世には二世なりの苦悩があった。彼らが最もおそれたのは、親と子が反対の回答をしたために引き裂かれる悲劇だった。年老いて幽閉生活に疲れ果て、英語も喋れずアメリカ社会への順応力もない一世が、子供たちの支えを失ったら、“獄につながれた家畜”になり果てるほかないであろう。
こうして混迷のうちに自信が崩れてゆく間隙を、一部の国粋派と帰米派が突いた。登録そのものを拒否するボイコット集団は、附和雷同組をあわせて大勢力にふくれあがり、全員が「最もたちの悪い不忠誠」の烙印を押された。
一世の婦人は語っている。――今思い出しても、真珠湾以来いちばん暗い重苦しい日は、あの息詰るような登録の日でした。私たちは呼吸をすることにさえ気をつかいました。ぴんと張り詰めた空気がみなぎり、当惑と混乱が絶頂に達しました。困惑した顔に涙を流しながら、言葉もなくただ苦しみにさいなまれて、人々は道を歩いていきました。若者たちは、ぼう然として目がくらんでいるようでした。
ほとんどすべての家で起きた恐ろしい争いには、私たちのバラックは小さ過ぎました。争いは両親と子供の間で、またアメリカに対して挫折感を味わいながら必死に忠誠を保とうとする者と、傷つき疲れ幻滅した者たちとの間で起きました。争いが静まったかと思うと、奇妙なほどの静寂が訪れ、その静寂がまた突如として破られました。誰かが反対派に襲撃されたのです――
登録がしめ切られてみると、男女を合わせて、米国市民では全体の八一パーセント、外国人では九六パーセントが「イエス」の回答をした。意外にも一世の方が「イエス」の回答の比率が高いのは、“囚われの楽園”からしめ出される不安にくらべて、目の前にある子供たちへの報復の恐怖が、いかに深刻であったかを示すものであろう。
逆に二世の約二割が「ノー」と答えている理由は、なによりも米国市民まで追放の対象とした政府当局への批判にあると思われる。極端な敵対行為は一世ではなく二世の中から生まれ、アメリカに絶望した一派と好戦的な帰米組は忠誠拒否に徹し、兵役忌避と市民権放棄の集団行動に走った。
幾多の困難をおかして決行された忠誠登録は、米国政府に何をもたらしたか。「もしあの時、キャンプ内に本当のスパイがいたとしたら、その男こそ間ちがいなく当局を満足させる百点の“忠誠”答案を書いたであろう」という辛らつな批判が、当局関係者のあいだでさえささやかれた。
忠誠登録への回答を拒否した三千人と、全質問を総合して非忠誠と断定された全員、および日本送還を希望する一世、市民権を放棄した二世をふくむ六千人は、家族から切り離され、アーカンソー州のツール・レーク収容所に送られることになった。そこは開戦以来スパイ容疑者や悪質の敵性人を隔離してきた悪名高い監視所で、彼らはやがて本国に強制送還され、これが肉親との永遠の別離になることを覚悟しなければならなかった。
このうち二世たちは裏切り者アメリカにたいする敵愾心に燃えて意気さかんだったが、一世は沈痛な面持ちに闘志をかくし、ひそかに日本の勝利に期待を寄せるほかなかった。折よく赤十字を通して、故国からはるばる味噌と醤油が送られてきた。老人たちはそのカビ臭い味に涙を流し、おしいただいて舌つづみをうった。
もともと毒性の強い入獄者のなかに更に危険分子をつめこむことは、はたして賢明な策であろうか。腐ったリンゴは分散した方がいいか、それとも一つ箱に収めて痛みを確実にした方がいいかの議論がむし返されたが、後者が勝ちをしめた。
転入者のスペースを作るため、彼らと交代にツール・レーク居住者の中から、改心して忠誠を認められた者が各地の一般収容所に復帰を許されることになった。東と西からきた列車は、ワイオミング州ですれちがった。地獄からのがれてきた連中は地獄に向う連中に叫んだ。「さっさと東京に帰っちまえ。このててなし子のジャップめ」
終戦は事態を一変させた。ツール・レークの住民のうち、非忠誠判定の根拠となった過去の言動を悔いて釈放されたものは三千七百人を数えた。彼らが異口同音に発する「私はいま自分がアメリカ人であることを発見しました」という告白は、係官を大いに満足させた。
最終的に本国に強制送還されたのは四百人に過ぎなかったが、米国市民を含む四千七百人がアメリカ社会との和解を断念し、自発的に日本に復帰する道を選んだ。
アメリカを見捨てた人数を示すこの数字は、多過ぎるだろうか。それとも少ないとみるべきか。強制隔離総数十二万人の中の五千人は、四パーセントをわずかこえる程度の比率であり、しかも半数近くを親に付添われた幼児が占めている。達観すれば、あれ程非道な仕打ちを加えたアメリカに対して、日系人の間になお失われていなかった信頼が、日本への不安定な期待に打ち克った結果とみるのが公平であろう。
アメリカ政府は莫大な代償と犠牲を支払って、九六パーセントの血みどろの忠誠をかちとった。日本人強制立退きに要した費用は、仮設収容所と十ヵ所の転住キャンプの建設費七千万ドル(しかも撤去後の利用価値はゼロにひとしい)、三年間の立退き者扶養費一億五千万ドルを含めて、直接費総計は三億五千万ドルの巨額に達したものと推定される。
通信室は三室とも平常時の倍の人員を収容し、さらに沖縄への進攻命令を受電してからは、異様な活気が加わった。太田の勤務する最下部通信室は、二十台の受信機と多数の大型コイルを備え、万全の臨戦態勢に入っていた。
一九四五年四月六日、天一号作戦が発動し、帝国海軍最後の艦隊出撃が燃料片道の特攻作戦をもって決行されることとなった。ボイス班の任務は一般通信情報班と切り離されていたが、同じ司令部通信科に所属していれば、作戦動向の概要をフォローすることはさして困難ではなかった。
戦争が最後の年に入ると、米軍は極く稀れな緊急機密電報を除き、一般の作戦情報をすべて平文で打つようになった。それは彼らが今後展開しようとする行動が、も早や二国間の組織的な戦闘と呼べるようなものではなく、ある種の狩猟の類いであることを暗示していた。沖縄本島攻略に立向う米軍総力が、軍艦三百隻、補助艦艇一千隻、兵力五十万、上陸軍十万という規模に達するものであることは、それまでの動静からおおむね観測出来たが、これを迎撃する日本海軍の主作戦天一号作戦は、駆逐艦八を含む十隻の小粒な艦隊が、なけなしの重油をしぼって辛うじて往路の燃料をみたし、一機の航空機掩護もなく、沖縄まで六百浬(かいり)の外洋を白昼突進しようとするものであった。
両軍の陣容、作戦規模がほぼ明らかになったとき、太田が仲の良い吉村とかわした英語の会話を耳にしたものがある。米軍の沖縄への周到雄大なアプローチ振りには二人とも感服した様子で、これがアメリカでありアメリカ人の行動方式なのだということで意見が一致したらしい。しかし日本はどうか。日頃日本びいきの太田をからかう調子で、吉村が「君の好きな日本は、こういうことをする国か」と質問した時、太田は全く表情を変えずに、「日本はそういう国ではない。日本は今自分を見失っているのだ」と答えた。
午後四時、徳山沖を出て南下をつづける大和以下十隻の艦影を、米潜水艦スレッドフィンが潜望鏡で捕捉したのは、早くも二時間後であった。スレッドフィンはさらに水上接触を続け、他の一隻ハックルバックは、艦隊の全容をレーダーで慎重に確認、同夜九時半、艦長ジャニー中佐は、旗艦バンカーヒルに坐乗する第五八機動部隊司令官ミッチャー提督あて、およびグアム島所在の米太平洋方面司令部あてに打電した。
「敵艦隊南ニ向ウ、コース一九〇(度)、速力二五ノット、少クトモ戦艦一、駆逐艦多数」
この電波は、米艦船、特に潜水艦の常用する四二三五キロサイクルに波長をセットした大和の受信機によって容易にキャッチされ、立直中の太田によって翻訳されて、直ちに艦隊各艦に伝えられた。ミッチャーから報告を受けた第五艦隊長官スプルーアンス大将は、出撃艦隊の旗艦が大和に相違ないとの追報を確認すると、恰好な戦場までおびき出すことが賢明と判断、二隻の潜水艦に「攻撃することなく追跡を続行せよ」と下令した。
これと前後して大和のレーダーは、艦隊参謀長の指示により特に警戒を厳にし、敵潜らしき三目標を探知した。護衛艦もそれぞれ敵潜の方位を測定し、レーダーからの報告は、敵信傍受の報告としばしば各艦艦橋で交錯した。
太田は敵との接触の発端を、自分の耳で捉え得たことを感謝した。当直を外れれば、通信室前に特設された仮眠室でまどろまなければならない。戦闘中は当直の交代は禁止されており、翌七日に敵が本格的襲撃を開始した時、太田少尉は幸運にもふたたび最下部通信室に当直勤務していた。
伊藤司令長官が、無謀愚劣な特攻作戦の制約にもかかわらず、この戦闘で妨信偽信と情報聴取の両面から特信班を最大限に活用した実績は、専門家のあいだで評価されている。妨信は七日朝、米偵察機および哨戒艇が触接を開始すると同時にいち早く試みられ、大和、矢矧の両艦が、敵に合わせた八○八○キロサイクルの電波を交互に発信している。
米軍の公式記録は、偵察機の日本艦隊発見の報に、空母群から攻撃隊が相次いで飛び立ったが、霧と雨に遮られて目標に到達出来ず、レーダー捕捉に切替えたところ、電波攪乱が頻発し、隊内電話による交信不能、編隊がたまたま真下から上った高角砲の濃茶色の硝煙で敵艦隊の位置を知りえたのは、全くの僥倖だったと述べている。
別の記録には、この戦闘はかつて見られなかった混乱した空戦で、飛行機が全機友軍機だったことだけが唯一の救いだった、という告白もあり、また攻撃隊員の一人コールマン大尉のアクション・リポートに、無線機が混信にかきまわされて火事のサイレンのような響きから次第に子供のすすり泣くような声に変り、間もなく使いものにならなくなったという描写があるのは、実感を伝えたものであろう。
米軍の攻撃態勢は、十時にクラーク隊、シャーマン隊が先発、四十五分遅れてラドフォード隊が発進し、十二時三十分過ぎに襲撃を開始した。先進隊は第一波、第二波の攻撃成功を確認して、正確な報告を送った。ミッチャー提督は、後続機の兵力も考慮し、一時十分、「更に雷爆撃機を増強する必要なし」との命令を下した。
この情報も太田の受信によって適確に伊藤長官に伝えられ、その後の戦況見通しを一挙に鮮明なものとした。長官が一時間後、大和の沈没確実という事態を前にして、特攻作戦中止、残存艦は生存者を救助して本土に帰投せよとの非常処置を決意したのも、この判断が基礎にあったことは改めてのべるまでもない。
太田少尉の戦闘振りについて、多くを語ることはできない。いうまでもなく通信科特信班員にとっては、通信諜報活動に専念するほかに本来の任務はなかった。乗艦大和の死闘、護衛駆逐艦の奮戦、敵来襲機の模範的な技倆と必殺の闘魂、相次ぐ被雷被弾の衝撃、艦の震動、傾斜、そのような戦況の推移は、太田にとっては飽くまでもあたえられた一つの環境であって、戦闘場面そのものではなかった。彼は刻々に死期に近づく時間の経過を五官に受けとめるだけで、その行き着く先を判断し、自己の行動で対応することは許されなかった。
兵学校出身者も含めた歴戦の職業軍人、帝国海軍中随一の精鋭とうたわれた大和乗組員に伍し、太田はいかなる意味でも優劣格差をつけ難い一戦士として、ただ職務の遂行に最善をつくした。母が遺書のなかで息子に托した「最後までベストを」との念願は、かくして、間然するところなく成就したのである。
「最下部第三通信室被害、通信機使用不能」の緊急電話が、上甲板電話室から艦橋の電話指揮室にかかったのは、後続編隊による第四波攻撃の直後、時刻にして二時十分過ぎであった。艦隊司令部は損傷が小被害あるいは被弾による衝撃程度であることを期待したが、「原因は魚雷命中の浸水による電源破壊」との続報を得て、巨艦の通信機能潰滅と、通信科幹部および当直員の全滅を覚悟せざるをえなかった。悲報は直ちに、超短波無線によって残存全僚艦に伝えられた。
通信室を破砕し沖縄突入の作戦企図に止めを刺したこの魚雷は、米軍の戦闘記録を尊重すれば、空母「ヨークタウン」から飛来したVT一九中隊、グラマンTBM3「アベンジャー」雷撃機十三機のうちの一機から投下されたものと推定される。雷撃深度は二十〜二十二フィートに設定され、十三機の編隊で計十三本を投下、うち六機が六本の命中魚雷を得たと報告している。
下甲板にある後部第二通信室も、ほぼ同時に連絡を絶ち、通信の全触角を失った巨艦は、このあと沈没までわずか十数分の経過を残すだけであった。
太田と共に、第二艦隊に着任した二世士官六名のうち、分散のため巡洋艦に配乗した一名を除いて五名全員が戦死、太田と同期の通信学校特信班中、実戦による戦死者五名のすべてがこの作戦によるものであった。
太田少尉が世界無比の超弩級戦艦に乗組んで重要任務をあたえられ、戦死の瞬間まで部署を離れなかったというニュースは、戦後みづほ学園から慶応の仲間に伝わり、ひろく二世のあいだに喧伝された。太田とは面識のない日系人にも、彼の軍人とは縁遠い人柄とその壮烈な最後をめぐる物語は、感動をよびおこしたらしい。それから三十年をへた今でも、ある二世は「オオタこそ大和魂というものを知っていたのだ」と誇らしげに語っている。
まして太田に少しでも親しんだ経験をもつ友人が、格別に強い衝撃を受けたことは当然であろう。教練の時間に中隊長として太田を徹底的にしぼらなければならなかった学友は、戦後長い間、おめおめ生き残った自分と太田を対照させて、いたたまれない恥ずかしさをおぼえた。戦艦大和の戦記が出たときも、恐ろしいものにふれるようで手が出なかった。しかし映画が上映されると、たまらずに出かけた。太田の役がその映画に出てくるかどうかを、予め確かめる勇気はなかった。
画面の一コマ一コマの動きに息をつめていて、若い俳優の扮した士官が「太田少尉」と呼ばれたとき、それだけで涙があふれ、涙がとめどなく流れた。筋も台詞もどうでもよかった。驚いた妻がそばからわけをたずねるのに、彼は一ことも答えられずに涙を流しつづけた。
時代の流れは、一つの方向にまとまると急展開をみせることがある。一つの小さな事件がそのきっかけを作った。一九四二年七月にサクラメントのミツエ・エンドウという未婚の女性が、キャンプへの収容命令を違法として人身保護をもとめた請願は、若いパーセル弁護士の地道な努力によって、四四年十二月、WRAが米国市民を追放することは、いかなる理由によるも憲法上認められた権利の侵害であり、ミス・エンドウは自由をあたえらるべしとする最高裁判決に実った。WRA長官への追放令撤回命令が有効となったのは四五年一月二日であるが、陸軍当局は判決内容を見越して、機敏にもその一日前に強制収容の禁を解く決定を行なった。
彼女は完全なアメリカ市民で、日本語の読み書きができず、長年勤めあげた仕事からも解雇されていたが、終始日系人仲間から顧みられず孤独で戦った勇気は、裁判関係者から賞讃された。
この裁判で賞讃さるべきもう一人の人物は、パーセル弁護士である。アイルランド系のカトリック教徒である彼は、この難事件に取組んで不退転の信念と偉大な手腕を発揮した。それまで日系人というものに接触がなく、ミス・エンドウとも面会の機会を与えられず、ただ文通によって意志の疎通をはかるという不利な条件を課せられ、しかも訴訟費用の一切、五千ドルをこえる金額をもっぱら自費で賄ったのである。
これと前後して政治家やジャーナリストが、一斉に正義とか公平とかデモクラシーとかを口にするようになり、これまでの沈黙の罪を償うような熱心さで世論に働きかけはじめた。こうした変化の背後に、二世部隊の犠牲と贖罪の事実に対する“うしろめたさ”の心理が隠されていたことは、今になってみれば誰の目にもあきらかである。
このようなアメリカ的良心の蘇りを、強制疎開者たちが息をひそめて注目したことはいうまでもないが、彼らに劣らぬ緊張をもってその成行きをみつめている別の人々がいた。それは西部諸州の防衛戦略地域以外に居を構え、初めから立退き計画にまったく含まれなかった二万人の日系人である。彼らはこの歴史的事件を第三者として経験し、アメリカがみずから信奉する民主主義の原則に忠実でなかった事実に衝撃を受けながら、いつどのような立直りが演じられるかを冷静に見守っていた。
この戦争がまだ継続している間に、米国政府と国民が過ちを認め、正義をとり戻すために誠実に努力しようとした勇気は、キャンプの外でひそかにこの国を信頼し愛しつづけてきた日系人を慰め、安堵させた。
彼らは隔離キャンプの閉鎖が、そこに閉じこめられてきた犠牲者をただ経済的、社会的に立直らせる故をもって、望ましいことと考えたのではない。そのこと以上に、祖国アメリカにたいする全日系人の信任回復に役立つことを確信して、久々のこの朗報を歓迎したのである。
無駄を嫌うアメリカ式の合理性から、大部分のキャンプは原則的に四五年六月までに閉鎖されることに決定し、これに伴う一切の事務も、四六年六月を最終期限として運営を急ぐこととなった。同時に日系人の防衛戦略地域立入り禁止も解除された。
この決定は流刑者に無条件に歓迎されただろうか。多数の一世は、防衛本能から収容所の閉鎖生活に馴れようと努めるあまり、その底に沈澱する習性を身につけてしまっていた。忠誠登録のときに頭をもたげた不安が、いよいよ現実のものとなった。ふたたび外界に出てもやってゆける自信がない、残留をみとめてほしいという嘆願が相次いで出されたことは、日系人の並外れた順応性を示す悲劇として話題になった。
予定期限の四五年六月が来たとき、なお四万四千人の人々が、あれほど忌み嫌い脱出の日を夢見てきた鉄条網と柵のなかに、踏みとどまって動こうとしなかった。
しかし彼らをいたずらに臆病な愚か者とよぶことは正しくない。残留希望者の抱いた危惧はあらゆる意味で正しかった。雷雨は上ったが、暗い雨雲が一掃されるまでにはなお多くの時間が必要だった。ある郡の役人は、日系人と再び競争を強いられる日を見たくない、全員に帰国を命ずる法を制定せよと公言し、州議会では、日系人の子孫を絶やすために少なくともキャンプ内では男女の住居を隔離せよ、男子の強制疎開者全員の断種手術に必要な資金を支出せよ、といった非常識な発言が真面目におこなわれていた。
キャンプ閉鎖を準備する動きに対応して、白人社会に新しい組織が続々と誕生した。いわく日系人問題同盟。日本人不要法人。銃後を守る特攻隊。にせ在郷軍人会連盟。日本人不買同盟。そのメンバーと活動内容の実態がどのようなものであるかをみるには、ハースト系新聞がくり返し掲載した次の広告を例示するだけで充分であろう。
「終戦後ジャップの国外追放を目的とする団体―銃後を守る特攻隊―に会員を勧誘する意慾的な男女を求む。年齢、職業を問わず。電話番号、面会希望時間を連絡されたし。条件は時間給」
ある町では、在郷軍人会が二世の帰還兵全員を勲功者名簿から外す手続をとったし、二世の息子の名義で確保していた土地を、一世がもともと非合法に取得したものであるとの理由で、無条件に州に帰属させる判決が、流行のように連発されていた。
しかし雲間からは陽が射しかけていたことも事実であった。次のような心暖まる挿話を紹介できることは、よろこばしいことである。
二世の少女メリー・マスダが、キャンプを出てようやく家にたどり着いたとき、男が数人訪ねてきて、ここにいようとすれば大切な体を傷つけられることになるかもしれない、と警告し、自分たちは夜の覆面騎馬暴力団であると名乗った。彼女は直ぐに家を離れなければならなかった。
彼女の長兄は、野菜栽培業者あがりの見習曹長だったが、イタリヤ戦線で名誉の戦死をとげていた。兄に殊勲十字章が授けられるという通知をきくと、ミス・マスダは勇気を出して家にもどった。
WRA当局は何らかの償いをしたいと考え、陸軍省に協力を頼んで、ジョセフ・スティルウェル将軍が手ずからこの勲章を贈るようにとりはからった。将軍は常々次のように公言していた人である。――二世は血をもってアメリカという恐ろしく大きな厚い切り身を買った。二世の青年たちは永遠にアメリカ人の心のなかにある。彼らを守るため、つるはしクラブを作るべきである。排日特攻隊がこの青年たちを苦しめたり、差別待遇したりするのが見られたら、いつでもつるはしで奴らの頭をぶんなぐってやろう。私は喜んでこのクラブの創立委員になろう。二世にちょっとでも不正が加えられるのを許しておくと、私たちが戦争によって求めてきたあらゆる目的が、すべて無駄になってしまうだろう――
将軍はマスダ家の家族が集っている正面玄関に進み、階段の上り口で挙手の挨拶をした。副官が代って感状を朗読する。この一家の長男が敵の砲火を浴びて二百ヤード歩き、一人で臼砲台を真っすぐに据え超人的な力で二十個の砲弾を発射したこと、夜間巡視のとき敵陣に向う道にびっしり敷かれた地雷をみつけ、部隊の全員を救うために地雷の上にわが身を投げ出したこと。感状はそうした次第を述べていた。
将軍はメリー・マスダに話しかけた。「私はこれまでに、徹底的に義務を果そうとしなかった二世を見たことがありません。殊勲十字章はとるに足らないものですが、それは勇敢さの象徴であり、これによってお兄さんはアメリカ人全体の尊敬と賞讃をかちとったのだ、ということをおぼえておいて下さい」
将軍が勲章を彼女のブラウスにピンでとめてやると、彼女はそれを外して母に渡してから、将軍に答えた。「兄はただ、わが愛する祖国の一兵卒として義務をつくしたに過ぎないと、この勲章に代って言ってほしがっているようです」
第六章 恢復と挫折
日系人は収容所のバラックの中で、心身にうけた深い痛手から恢復を許される日が近いことを知っていた。いや、彼らはすでに恢復をはじめていた。隔離収容所の柵の内がわに、新しい天地が作られようとしていた。ふだんは埋れがちな日系人の天賦の工夫の才は、のろわしい牢獄を悦楽とユーモアの楽園に作りかえつつあったのである。
ユタ州にあるトパーズ転住所は、一万人を収容する中位の大きさのキャンプだが、住人たちはその名に因(ちな)んでわが住み家を砂漠の“宝石”とよび、あだ名にふさわしく輝やかしい業績を築きあげた。彼らはまず教職経験者を集めて立派な高校を作り、収容期間中に千枚以上の卒業証書を発行した。成人教室を開講し、生け花からアメリカの社会常識、自動車修理に至る広範囲な勉強の場を提供した。土を掘って鏃(やじり)をさがし太古の内海跡から貝がらを採集し、鉱物、植物をあつめて博物館をつくり、精巧な装身具を製作した。
六十歳になるある一世は、戦争まで日系人社会の世話役の一人だったが、ヒラリバーのキャンプで夫人を亡くした。病気は急性肺炎で、医療施設さえあれば完治可能な症状だった。娘二人がキャンプを出て大学に復学出来る日に備え、彼はコックとして働き、次いでやや収入のよい日本語新聞の売り子になって稼いだ。
その頃の日記に彼は書いている。「この年になって、神経痛に悩まされながら新聞売りのボーイになろうとは思わなかった。しかしこんな仕事でも二紙売れば、一日に二、三ドルの収入になるなんて、良心がとがめる」。もっと正直なユーモラスな告白をきこう。「年はとっても、女性に対する関心は衰えない。キャンプにたくさんいる未亡人たちは、男と話をしたくないようなふりをしているが、本当はマンハンターのようにふるまいたい人もいるのだろう。ある人は可愛らしく、ある人は家庭的だ。私が美徳をわきまえない人間なら、思い通りにくどくことは易しいのだが。それに困ったことに娘たちは、父を本当の紳士だと信じているのだ」
主人の令三は引続き容態が思わしくなく、働き手の二人の子を軍にとられた打撃もあって、太田家がキャンプを出る決意をしたのは四五年の初夏であった。難行の旅を続けてメイヒューに帰りついてみると、案の定土地は代理人として預けたメキシコ人から無関係な白人の名義に変っており、手続上完璧な形で没収されていた。懐かしいすまいや作業小屋も無惨に荒廃しており、果樹は一木一枝まで枯死し、広大な温室も崩壊していた。家に入ると、捨てられた家具や荷物が、瓦礫のように積まれていた。
キャンプ閉鎖後、カリフォルニア州で公表された反日テロ事件だけでも三十件をこえ、各地で撃ち合い、衝突、集団乱闘が頻発したが、メイヒューには不祥事件が一度も発生しなかったのは幸いだった。ここはずっと日系人の町だったから、古い住人はほとんど見当らず、荒れ果てた農場と太陽の変らぬ日射しだけが残っていた。太田家の令名は見知らぬ人々の耳にも宿っていて、信用で二エーカー程の土地を借りることが出来たのは有難かった。
財産の争奪や原因不明の火災、電話脅迫の噂はキャンプを追われる人たちを迷わせ、四万三千人もの日系人がかつての安住の地を捨て、新しい土地を求めて転住していった。
最大の悩みは住宅難だった。この場合も救いの神は、日系人擁護の主張を貫いてきたクエーカー教徒で、教会や信徒がただ同様の家賃で大きな住居を自由に使わせてくれた。馴れない旅路の宿泊に、定住までの仮りの住まいに、その厚意がどれはどの恩恵としてはたらいたかは測り知れない。
日系人がふたたび安住の地を見出すのを秘かに助けた善意の中で、クエーカー教徒と並び、WRA事務局員の働きを忘れることは出来ない。彼らは職掌柄、立退き命令発動から転住に至るまで、実情をつぶさに知っていた。キャンプを追われた一世には、除隊手当もGI法による恩典もないことを知っていた。彼らは日系人の復帰に先立って、既得権侵害を訴えるおそれのある人たちを予め説得し、中立的なニュースが流れるように根まわしをし、各地の公共奉仕クラブに積極的に協力を求めて待ち受けていた。
令三を診た医者は、手術は早い方がよいと結論した。費用を稼ぎ出さねばならぬ。節子は、三年間の悪夢から醒めかけている自分を発見した。誠、優が幼いながらいっぱし手伝いの役を買ってでた。娘の鈴代はWAAC(陸軍婦人補助部隊)に志願して、ジュニアーの看護見習いを務めることになった。負傷した武が、近くヨーロッパ戦線から帰還するかもしれないという久しぶりのうれしい知らせがとどき、やがて日米終戦の日が来た。
カリフォルニアの秋は長い。何度かインディアン・サマーがきて暑さがぶり返すが、急に秋が深まり、黄金色に輝やく木の葉が高い枝から降り注ぐように散りはじめる。
孝一行方不明の手紙が広島からとどいた日、節子は、のどかな動作で落葉を集めるガーデナーの姿に目をとめながら、ずっと以前からいつかその知らせがあることは確実に分っていた、と思った。孝一最後の模様を確かめなければならない、自分に恥じない働きの末職務に殉じたことと信じたいが、証人を探さなければならない、と胸に決めた。
そのことがたしかめられるのを待つあいだ、心の張りは一そう高まるはずであるのに、節子は三ヵ月ほどの間、寝たり起きたりの毎日を過ごした。キャンプ時代の疲れが出たのか、体の芯に錘(おも)りをつけられたような感じが抜けなかった。
武は予定が遅れてやっと年末に帰還し、精二も年が明けてから元気な顔で帰ってきた。節子は少し元気が出て借金をふやし、主人の手術の準備を整えた。東洋人には珍らしい甲状腺の肥大で、手術は成功したが、手がふるえて筆が持てなくなり、キャンプ時代よりも更に気弱な人になった。
春のいちごシーズンが近づいて、狭い農園にも久しぶりに活気がみなぎる頃、節子の問合わせにたいする返信が次々ととどいた。孝一が身の安全をはかって卑怯な振舞いに出ることが一度もなかったこと、作戦のキー・セクションに正規のスタッフとして当直し、同僚の誰にもひけをとらぬ献身の気概を貫いてくれたことに、母は満足した。この知らせを感謝する手紙に、「私たち一家はいま改めて孝一を尊んでおります」と書いたのは、偽らぬ気持であった。
主人の令三はますます無表情な人になって、さまざまな出来事に彼がどのように感応するかを、節子はまったく気にかけない習性が身についてしまった。しかし孝一の最期を伝える手紙がとどいた日だけは、誰よりも先に夫に見せ、感動を分ちあいたい気持に駆られた。
気晴らしに近くの友人の農園を週に二、三度たずねてまわることにしている令三は、その日、夕方には帰ってくる予定だった。父の姿が遠くに見えると、待ち兼ねた末っ子の譲が手紙を手に家を走り出て、門の外で父に手渡した。もううす暗くなっていたので、父は門灯の下に手紙をかざし、長い時間読みふけった。その間、譲は父のそばに立ち続けて、顔を見上げていた。
令三はどんな感懐をもって、孝一の最期を伝える文章をくり返し読んだのか。節子はひとことの感想もきかされなかったが、門灯の下に立って身じろぎもしないやせた肩を見ているだけで、主人の言いたいことはひしひしと胸に迫った。病気になる前から、令三にはこんな無愛想な無骨過ぎるところがあり、それは太田家の血筋でもあることを節子は承知していた。
海軍に入る直前に孝一が二世の友人と郷里をたずね、まず広島に近い父の弟の家に立ち寄った時のことを、その友人が手紙で知らせてくれた。父に似てお百姓らしい一徹な風貌の叔父は、挨拶もそこそこに昼めしには何をくいたいかとぶっきら棒にきいた。「お茶漬けがほしい」と孝一が答えると、しばらくして仰々しいお膳が運ばれてきた。その上にちょこなんと置かれた茶碗には、なんと芋がゆのようなものがこぼれそうに盛られていた。三人がたべるあいだ、叔父はひと言も口をきかず、二杯お代りをして急いでかきこむと、会釈もせずに引っこんでしまった。
孝一もさすがに友人の手前バツが悪そうに、「悪気はないんだから、気にせんで」ととりなしてから、叔父は機嫌を損じたのではなく、米国国籍の甥をそうして戦争に送り出さなければならないことに、無性に腹を立てているにちがいないと、註釈を加えた。
戦争が終った翌年、そのとき同道した友人は、孝一行方不明の噂の真偽をたしかめるため、もう一度その農家をたずねた。叔父は顔を見るなり今度こそ真っ赤になって怒った。そして「なんであの子が、ああして戦死しなければならんのか」と友人を怒鳴りつけた。
慶応時代の友人の一人は、母にも思いがけぬ“孝一の未来の夢”を手紙で伝えてきた。まだ戦争が始まる前、大学を出て将来何の仕事をするかという話題になった時、彼ひとり具体的なプランを持っていて、しかも考えぬいた周到な説明で皆を驚かしたというのである。――日本で必らず伸びるのはミルク・プロダクトだ。アメリカを本拠にして、この国で農畜産品、例えばアイスクリーム、バター、チーズを製造販売したい。味、質、価格をいかに日本の実情に適合させるかが鍵だと思う。――
孝一の構想はその後さらに練り上げられ、仕事の本拠は米国に置くとしても、生産施設は満州を中心にするのが最適だと判断するに至ったらしい。親しい友人二、三人と協力して新天地を切りひらけば、洋々たる前途が待ち構えているように思ったのだろう。そういう孝一は頼もしくもあり、大学を出たら黙ってカリフォルニアに帰るものと決めていた親の甘い目からは、急に遠い存在になったようにも感じられた。
別の返信は、米軍が進駐して間もなく、MPが大学にもみづほ学園にもあらわれ、日本の軍籍に入り特に士官になった二世たちの当時の思想、行動、国籍についての考え方などを詳しく調査中であると知らせてきた。この手紙には、もし太田が戦争を生き残り、学生時代の彼を生真面目な“国粋思想”の持主だと評価する学校当局の記録でも残っていれば、余程きびしい糾明を免れなかったろうと書き添えてあった。CIAの調査が前後十ヵ月にわたって執拗に続けられたことを、節子はのちに知った。
同じ二世でも、日本の軍籍にとられた不運な青年ときわ立って対照的なのは、戦後進駐軍として乗りこんできた連中の羽振りのよさである。情報将校として激戦をくぐりぬけてきたものは厳正な軍規を保っていたが、なにほどの苦労も経験していない連中ほど、虎の威をかりて特権階級の座にのぼり、日系人の強味をフルに活かして卑屈な敗戦日本に君臨した。
一日でも日本の軍隊のメシをくっただけで反逆者のレッテルをはられた復員兵と、無傷の驕れる勝利者と、どちらが両国の裂け目に生ま身を横たえたいけにえであるか。米国の良識は、CIAの綿密な調査にもかかわらず、どちらが日米友好親善のための有用な代弁者たりうるかを判別しえなかったのであろうか。
日系人にたいするアメリカ社会の処遇は、終戦の山場をこえて基本的修正の段階に入った。長い冷遇のあいだに生じた莫大な損失からみれば、後の祭りという気もするが、間違っていたと分れば気のすむまで気永に事を改めてゆくのが、アメリカ流なのであろう。
世界の世論の流れにも大きな胎動が見られた。人種差別撤廃に関する日本代表団の提案がパリ平和会議で否決されてから三十年をへた一九四八年、国際連合第三回総会は、ソ連および東欧八ヵ国の棄権をのぞき、全会一致をもって「世界人権宣言」を可決した。その第二条は、次のように宣言している。
「なに人も、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的その他の意見、出身における国民あるいは社会の別、財産、出生その他の地位によって、いかなる種類の差別も受けることなく、この宣言にかかげられているすべての権利と自由とを享有することが出来る」。このような国際政治の変容が、その後の日系人の処遇改善を助ける背景となったことはいうまでもない。
フレッド・大山の訴えをアチソン元国務長官が弁護して、外国人土地法は修正憲法第四条違反であるとする最高裁判決を引き出したのは、一九四七年十月、終戦から二年を経過した時期であった。
戦後、日系人権益回復運動推進の主役の地歩を固めた二世の指導者たちは、土地法規制撤廃の成功に力を得、次の攻略目標としてまず一世の帰化、市民としての権利獲得、続いて移民法の差別撤廃をかかげた。
一九二三年、最高裁がオザワ事件の判決で日系一世は米国市民権不適格と烙印を押してから、最も致命的な負い目であった国籍問題については、三十年の道のりをへて、一九五二年、トルーマン大統領の拒否権を押し切り議会の多数をもって成立したマッカラン・ウォルター移民法が、簡単な手続で米国に二十年以上在住する一世が帰化の道を選ぶ自由を認め、かつ一九二四年の東洋人排斥法いらい久しく全面ストップであった移民を再開する手がかりを与えた。
移民受入れ再開後、日本人に対する入国割当ては年を追って増大し、出身国別の割当数になお残っていた若干の不平等も、一九六五年の新移民国籍法、いわゆるケネディ・ジョンソン法によって完全に払拭され、総枠の制限を除けば、国籍、人種、信条による移民条件はすべて平等となった。
市民権回復措置が現実に日系人社会にもたらした貢献を象徴しているのは、その頃よく報道された一世の老人たちの姿、すなわち最も新しい市民として連邦判事の前に背を曲げて立ち、二世三世の子孫の通訳に守られて忠誠の宣誓を行なっている、“安堵とよろこびの表情”であろう。
ジョンソン大統領はこの新移民国籍法の署名にあたり、わざわざ自由の女神の像の下まで足を運んで劇的な演説を試みた。
「この法律は、アメリカの正義を力強く構成するために、苦悩をもって、過去の欠陥を是正するものである。われわれアメリカ国民が犯した残忍な長期にわたる過ちに今加えられようとする修正は、われわれ自身を、国家としても国民としても、真実のものたらしめるであろう。これは無数の見えざる手段によって、われわれ自身を強固にするものである」
一連のセレモニーの大仰さは、この法にかけるアメリカの良心の真剣な姿勢と、いく分かのうしろめたさ、羞じらいの気持をうかがわせる。
ジョンソン大統領の背後にある台座には、次のような詩が刻みこまれていた。この詩句は女神像が一八八六年にフランスから寄贈されたとき、像と一体になって万国の貧しい人たちを勇気づけるものとして書かれた。
あなたの国の疲れた人、貧しい人
自由にあこがれながら狭いところにすし詰めになっている人たち
岸辺にあふれんばかりの困窮の人たち
こうした宿無しの人たちを私のところによこしなさい、嵐に乗せて
私は金の扉の傍らでランプを捧げていますから
(都留重人訳)
ジョンソン大統領がここを演説の場所に選んだのは、この美しい詩が、その人道主義的な装いにもかかわらず、精神においては東洋人を排斥する偏狭なものだと皮肉られてきたことを承知していたからであり、今その偏狭さが打破られることを宣明したいと願ったからであろう。
強制疎開が日系人にもたらした経済的損害については、サンフランシスコ連邦準備銀行がキャンプ設営直後に資産調査を行ない、総額四億ドルという推算を公けにしてしたが、こうした調査の常として、見積りは内輪のものだったと思われる。
政府は一九四八年、この推計を基にして、一ドルにつき十セントの割合で賠償金を支払うことを申出た。賠償行為の根拠となる「アメリカ人補償法」にたいしては、トルーマン大統領は拒否権を発動することなく自ら署名した。
日系人は、精神的損害が顧みられていないことへの不満と、政府が謝罪の気持を形にあらわして表明したことへの満足と、相半ばする表情でこの申出を受入れた。いずれにせよ政府の誠意ある努力を彼らが素直に評価しようとした気持は、虚偽の申告として摘発された事例が、わずか一件にとどまったという事実に、端的にあらわれている。
結局二万六千五百件を上まわる請求が提出され、最終期限の一九六四年末までに、総計三千八百万ドルが支払われた。うち七三パーセントが一件五千ドル以下の小口であり、これは一般に家財道具のみを対象とするところから鍋釜補償といわれた。また評価はすべて一九四二年当時の物価水準によっているため、補償の実額は一ドルにつき十セントでなく、せいぜい五セントとみるのが常識的とされた。
抑留中の不慮の死や精神的肉体的な苦痛、損失に対しては一セントの支払いもなされておらず、さらにその期間中の事業の利益、預貯金の利子や、当然えられたはずの賃金収入を償われたものも、一人もなかったことはいうまでもない。
二世部隊の華やかな凱旋と朝野をあげての熱狂的歓迎が、日米関係好転の頂点を作りあげた。一九四六年七月、第四四二部隊のイタリヤ戦線生残り五百名をのせたウィルソン・ヴィクトリア号は、ニューヨーク港に入港した。二世部隊の徽章「自由の灯火」のプラカード。紙吹雪におおわれた軍帽と軍装。
陸軍長官代理、市長以下綺羅星のごとくい並ぶ歓迎陣をうしろに従え、日系人を代表するニューヨーク歓迎委員会関根会長は、疲れ果てた戦士たちに向って語りかけた。「我々父母の年輩にあたる白髪の日系人は、諸君をこの上なく誇りに思う。血と銃をもって築いた土台の上に、諸君とその家族、その子孫は、平和と幸福のうちにアメリカの楽しい生活を享受することが出来るのである」
続いてワシントンでは、トルーマン大統領みずから上下両院議長をしたがえて表彰式を主催し、鉄兜、戦闘服に身を固めた五百人の勇者は、その前を整々と行進した。第五軍クラーク司令官は、訓示の中で激励をあたえた。「諸君は強敵を撃破して大勝利を得た。しかし諸君の真の戦いはこれからである。すなわち差別待遇と戦って勝利を得るまで、奮闘せよ。この偉大なる共和国を立たしめている憲法のため、あらゆる時代を通じてあらゆる人民の福祉のための戦いに、勝利を得るまで奮闘せよ」
アーリントンの国立墓地に、両親の希望する二人の二世兵士が埋葬される時、米陸軍将官、国会議員から成る多数の名誉棺側武官は、首うな垂れて牧師の弔詞に聴き入った。「兵士たちの背後に、彼らをよき米人として育て、年をとって働けない自分たちの分まで、アメリカのためにつくしてこいと激励した、両親たちのあることを忘れてはならない」
終戦を境にして一世の時代は終りを告げ、舞台は二世の栄光にむかって急展開するのであるが、二世は戦後の白人社会から、ただ第二次大戦における勲功を賞讃されただけではない。国の内外で戦争によって課せられた数々の試練は、彼ら自身の視野をひろめ、日本人であることの自覚と、ひろく大衆の中で自分自身を発見してゆく勇気をあたえた。キャンプ生活の屈辱から解放され、独力で東部、中部に新天地を切り開かざるをえなかった逆境が、埋もれていた闘魂と順応性を引き出した。そしてほとんどすべてのアメリカ人が、はじめて日系二世という人種にじかに触れたのである。
二世が戦後にかちとった成果、たとえば職業の知的レベルの高さ、模範的な家族制度、犯罪率・離婚率のとびぬけた低さは、カリフォルニアに農業王国を築いた両親たちも含めて、あらゆる少数異民族が残した足跡のなかで比肩しうるものがない。
北米の日系人社会は、戦後四十九州に広く分布して総計三十五万人に増加し、二世のリーダーシップのもとにはじめて少数民族集団としての地位を確立したのであり、抑留中の苦難期を通じて彼らの唯一のよりどころであったJACLも、大きな成長を遂げた。今や会員は二万人をこえ、大発行部数を誇る新聞と、ワシントンに職業的ロビイストを持ち、豪華なリゾート・ホテルで催される定例の会合は、盛況をきわめている。
JACLの悲痛な誕生から今日までの歩みを、メンバーの一人であるタジリ夫人は満足をもって回顧し、「JACL讃歌」でうたいあげた。――
私のために父が夢見た夢があった
それはすべてのものが自由な国
時は戦争のさ中、砂漠の収容所に見張り塔が高くそびえ
私の兄弟たちは戦場に散った
声なき声が私とともに叫び泣いた
私の夢はすべてのものが自由であること
私たちの信条に忠実に生きること
神よ、私たちを助け、この国から混迷を取り除き給え
平和に向い胸をはって歩ましめ給え
しかしそれにもかかわらず、一世が二世の将来に念願したような、アメリカ社会の土台に定着した真に幸福な生活を、彼らがかちえたかどうかは疑わしい。日系人は二世の代になっても相変らず仲間同士だけで集り、最も成功した人たちほど孤立している。
ロスアンゼルスとその周辺地域で働く五万人の日系人のうち、七人に一人が自分のビジネスを持っている。この比率は戦前に比べれば大躍進にはちがいないが、スモール・ビジネスほど、自力だけで営みやすい仕事はない。しかも日系人に最も多いビジネスの職種、第一位のガーデナー(庭園業)と第二位のチキン・セクシング(ひな鳥雌雄選別)は、“社会との連帯不要”な生業の典型なのである。
終戦後二十二年をへた一九六七年に、カリフォルニアで行なわれた世論調査が、日系人強制立退き措置を正しかったとする者の比率として一九四二年の八〇パーセントには及ばないとはいえ、なお四八パーセントの数字をあげている事実は、いったい何を意味するか。日本と海を隔てて対面する西部諸州との間の経済的社会的競争対立は、常に局面を変えながら根強く宿命的であり、二世がかち得た社会的地位と繁栄は、その上に浮く泡沫に過ぎないということなのだろうか。
日系人は白人になりたいという欲求不満に絶えずさいなまれ、経済面でどれ程成功しても、しょせんは中産階級的富の装飾品に過ぎないとさげすまれる。中身は白に似せても、いつまでも外は黄色い“バナナ”なのである。
日系人に対する最も辛らつな批判は、自分たちが人種差別の犠牲者であるのに、黒人問題に冷淡なのはなぜか、黒人を馬鹿にしたがるのはなぜか、という指摘であろう。
彼らが自分と利害を共にするはずの少数民族によろこんで力を貸そうとしないのは、強い勢力や権威には弱い反面、他人のトラブルには鈍感な民族性によるものだ、というのがアメリカ人一般の見方である。たしかに従順で義務観念の発達した日系人の美徳は、たとえば困難な転住計画を円滑に処置することに寄与したが、自分とは直接かかわりのない災難には、つとめて引きこまれまいとする保守主義にもつながっている。一九六五年、バークレーを席捲した学生騒動の語り草の一つは、日系人の学生が嵐の渦中にほとんど姿を見せないことだった。
要するに日系人について各分野の知日派が一致する見方は、日系人は年齢によって目ざす目標は異っても、同じようにレースに熱中し、はげしい努力、忍耐、重労働を反覆してゴールに殺到する流儀は、結局全世代を通じて変らないというのである。また日系人は三世、四世でさえ、表面だけアメリカ風の真似をし、舶来かぶれした日本のティーン・エージャーよりもはるかによく古来の日本を維持しており、明治の日本が見たければ、日本の古都ではなくカリフォルニアに来るがよいと、皮肉をまじえて忠告している。
しかし世代による意識のズレがたとえ小さなものであっても、それを最も敏感に感じとるのは取り残される世代であろう。祖父母と親の世代は、子、孫、ひ孫が若いアメリカに同化し過ぎた結果、直接語りかける言葉を失うことを恐れている。
切れようとする子孫との連帯を確かめるには、どんな手だてがあるだろうか。そのために、いまわしい追憶がかきむしられたとしても我慢せねばなるまい。セイイチ・オトウという一世の老人は、一九七四年五月、二百人の日系人をひきつれ、バス四台に分乗して、悪名高き隔離収容所、非忠誠組とスパイの獄屋であったツールレークを再訪した。一行のうち五十人は、かつてここに居住した経験をもつ人々であり、百五十人はその近親者と友人であった。
ピーク時には一万八千人の流刑者を収容した大キャンプの跡地は、二万六千エーカーの湖床を荒廃するにまかせたまま、今はわずか百五十人の人が住みつき、鎖のついた塀、見張り塔とバラックを利用して、ささやかな鶏小屋が作られている。鶏小屋とは、なんと賢くふさわしい活用法ではないか、ここに住んだことのある人は皆そう思った。
この地で三年半の虜囚の身を体験した一世たちが、三十年の歳月を経、国民あげて戦没将兵を記念するメモリアル・デーの日を選んで、ふたたび僻地の廃墟に足を向ける気持になったのは、第一にあのとき二つの祖国のどちらからも欲しくないといわれた“恥”の感覚をもう一度確かめるため、そして自由の脆さを暴露する出来事が、この国に二度と起らないことを確かめるためであった。
キャンプの西にそびえるキャッスル・ロックの切り立った砂山の山頂には、囚人の一人が立てた十字架が朽ちたまままだ置かれてあった。すべての希望の息の根をとめた鎖と柵の肌ざわりを掌によみがえらせながら、ある一世は、「ここにはただ一つもよい記憶がない。私の中には怒りの塊りが蓄えられている。このことに堪えられたのはただ人々の連帯の力だけだ」と呟いた。「ここで私は狂っていた。そして今も狂っている」という声と、「私は狂っていない。いま狂っていて何の役に立つか」という別の声が交錯した。
しかし一世が再訪計画を決行した主な目的は、自分たちに三倍する人数の“経験せざる世代”に呼びかけて、ここに伴って来ることであった。若い人たちはアメリカを信頼するあまり、ここで起きたことを信じようとしない。だから真実を知らせなければならない。それは彼ら自身が本当のアメリカ人となるために必要なことなのだ。
二世三世は廃墟の中におり立っただけで、どんな疑問もたちどころに消え去るのをおぼえた。ニコンを持って構えていた彼らの手はとまったままであった。両親がキャンプの話をいっさいしないのは何故か、両親がどのように子供を育てたかを完全には理解できないのはなぜか、自分たちの胸に残っているこの強い衝迫、成功へと意欲をかきたてる衝動の根源はなにか、こうした疑問は、すべて氷解した。
戦後の二十九年間、自分が日系二世であることを否定しようとあがいたあげくに行き詰り、勇気を出して自分を生んだ根の痕跡を探るため一行に加わった二世の青年は、望みがかなえられたことを感謝した。
強制隔離の愚行が紛れもない事実であることを確認して、なおかつこの国に忠誠をつくすのは、強固な意志を必要とする行為である。
祖国アメリカにたいする忠誠心においては、いうまでもなく二世の世代が模範を示した。二世は誇り高き米国市民として、星条旗に二〇〇パーセントの忠誠をつくしたとさえいわれ、このことはアメリカ人によって広く認められている。戦後、米国が日本との親善を強調しようと志すときは、二世の忠誠心に象徴される日系人の勇気と誠意を、臆面もなく繰り返し讃美するのを常とした。一九六九年五月、日本移民の渡米百周年記念式典が挙行されるにあたって、ニクソン大統領は大意次のごとき祝詞をのべた。
――日本人のこの国への移民の歴史は、それが日本政府によって重大な犯罪とされた昔にはじまり、まことに多くの困難をになわされてきた。それは疑いもなくその時代時代の不幸な風潮を反映するものであるが、幸いにして今は遠い過去のものとなった。
この国に定住した日本の移民たちは、公共精神に富み法を重んずる家族を育て、われわれコミュニティーの指導者となり、誰もが言葉にあらわしえなかった程、われわれの生活のあり方を豊かにした。彼らの勤勉と誠実さ、高い教育と才能を伸ばすことへの欲求、第四四二戦闘部隊の輝かしい戦績に反映された勇敢さ、科学と芸術に対する貢献、これらすべての、そしてより多くの理由によって、あらゆる人種、信条、身分のアメリカ人は、相携えてわが同胞たる日系市民に敬意を表したい。
あなた方がわれわれの国にもたらした大きな善行を心から評価し、引続きわが国家に奉仕されることによって、多くの利益を分ち得させてくれることを誇りとしたい――
祝詞というものが本来持つ仰々しさ、美辞麗句の底の浅さ以上に、このスピーチはなにか空々しく響く。この演説から四年後、ニクソン大統領の命運を賭けたウォーターゲート事件の公聴会で、被告の一人、ハルドマン前補佐官の弁護士は、ある日系二世をつかまえて「リトル・ジャップ」の罵声を浴びせた。反響の大きさにあわてた政府は翌日釈明を行なったが、この二世は、第四四二部隊の勇士として著名な片腕のダニエル・井上上院議員であった。
二世が最大の犠牲率をはらった報酬がこの罵声だとすれば、祖国アメリカに二〇〇パーセント忠誠であろうとした二世の血をわけたほかならぬ三世の世代が、祖父母の一世以上に忠誠義務に懐疑的で戦争拒否派が多いといわれるのも、むべなりというべきであろうか。
太田ブラザーズの名は今や秀才学生としてではなく、粒ぞろいのエンジニア兄弟として白人の技術者仲間にもひろがりはじめた。孝一が経済をやっただけで、あとは例外なく理工系の素質にめぐまれ、精二が細菌学、武がメカニック・エンジニア、誠が建築デザイン、優が土木工学、譲が電気とそれぞれの道を進み、志望のコースを選んで仕事に就いた。
兄貴のあとを追うものが一人もいないのは、共通の負けん気な性分をうかがわせる。娘の鈴代は米国空軍に入ってナースの課程に進み、愛称“スージー”の可憐な東洋娘ながら、トップの成績で昇進を続けていた。
父の令三は仕事をやめてから外に出ることもなく、家で一人で過ごす時間が多くなった。家族と顔を合わせても、ほとんど言葉を口にすることはない。殊に“孝一”の名前を節子にさえ一度も語ろうとしないのは、かえって心のうちをのぞかせたが、夫の余生が決して不幸でないことを、節子は信じたいと思った。精二以下の五男一女がそろって立派に成人し、失われた長兄の可能性を補うようにそれぞれ才能を開花させてゆくのを、どんな満たされた思いで夫が見届けているかを、節子は自分なりにはっきり受けとめることが出来た。
令三のような典型的一世の個性の要素として、父権社会の長たるにふさわしい性格がある。キャンプに入るまでの太田家は、その原型にしたがって営まれ、日常の家事は主婦に任せるが、一家の運営は家長が一手に握っていた。戦後、父権の崩壊は日系社会全体に及び、子供の世代が教育の力、社会への順応性と地位の高さ、収入などあらゆる面で主導権を握ってゆく過程で、令三が抵抗も苦痛も示さず、甘んじて大勢に従うように見えたことに、節子はいく分かの心残りをおぼえたが、結局はそれでよいのだと納得した。
夫の令三が一年足らず床について一九五七年冬に亡くなった時、節子は改めて身のまわりを見まわす気持になった。子供たちは学生時代を通して奨学金とアルバイトで身を立てていたから、経済的負担は小さく、戦後再出発のときに借りた農場はほとんどふやさずにすんでいた。二男と三男の勤務地がロスアンゼルスの近郊に集った偶然が、彼女の気持を動かした。メイヒューには辛い想い出が多過ぎる。戦後日系人の活躍の舞台となったロスは、伸び伸びと気楽で年寄にもいいように思える。ただパサデナやガーディナのような日系人のメッカは、煩わしいから避けた方がよいかもしれない――。
翌年の春に思い切ってメイヒューを引きはらい、ロスの海寄りのサンタモニカに近い下町に手頃な住居をみつけた。その秋から四男の誠が市内の建築事務所に職をきめて移ってきたので、太田家は一度に昔の賑やかさをとり戻した。
賑やかというのは、二男の精二がやがて結婚して家を出ただけで、二人の息子は独り者でそれぞれ家に部屋を持ち、末の二人も休暇でよく家に帰ってくるからだった。節子は腕ききのクックで、息子たちは母の味以上の料理を知らない。日本式、アメリカ式、中華式のいり混った独特の夕飯を家族そろってゆっくりたべる。米のめし、漬物、醤油瓶、箸、急須が食卓にのっていないことはなかった。
太田家独特のメニューは、薄く切った肉に何種類もの野菜をまぜてたっぷり煮こんだ一種のシチューで、ただ暖めただけの即製料理が出ることは一度もなかった。「簡単なものを作っておいたよ」と母がいうとき、それが大てい前日から用意したご馳走であることを子供たちは知っていた。
食後のお喋りがまたたのしみで、母が日本語、息子たちが英語という組合わせが一ばん柄に合って話が弾んだ。アメリカ社会に生きてゆくことは戦いだ、ここにいる時だけは好きなように休ませてほしい――口には出さなくても、子供の思いは母にはよく分っていた。
母のただ一つの悩みは、運よく似合いの二世の娘さんにめぐり逢った二男を除いて、適齢期の息子たちが誰もいっこうに身を固める気配を見せないことだった。白人のガールフレンドは多い。家にもつれてくる。しかしそれ以上には進まない。太田兄弟はそろって小柄で眼鏡をかけ、髪の毛も口元も典型的な日本系の風貌だが、能力中心のアメリカ社会ではそれは小さな条件だし、利発な娘たちは何が人生に肝要なのかをわきまえているはずだ。事実、日系人と白人との結婚を法律で禁止している州が十数州に及んでいた戦前と異り、戦後は東部を中心に日系人、白人の通婚が年を追って増加していた。
節子はずっと白人嫌いで通してきて、しかもそのことを息子たちにも隠さなかった。渡米直後のにがい経験がまず令三に白人不信を植えつけ、その感化を受けた節子は、キャンプ以来の見聞でいよいよ確信を強めた。白人の言うことを、何でもイエス、イエスときかなければらちがあかない口惜しさが内攻して、白人憎悪をつのらせていた。
それまで白人の良き友人に一人も恵まれなかった不幸が、さらに悪循環になって嫌悪感を倍加した。白人は、自分の利害をこえ真面目に相手の身になってつくす心根がない、これが彼女の信念だった。
といっても、二世の娘さんの間に候補者を探し出すことは、狭い社会の釣合いや仕きたりのうるささがあるし、孝一の婚約のときに比べて、日系人社会内部の羈絆(きはん)は、ずっとゆるいものになっていた。女親だけの顔の狭さも妨げになり、仕事熱心な子供たちには、自分で努力するだけの暇もなかった。
鈴代の場合は事情がちがう。仕事の責任が重くなるにつれて、家に帰るチャンスはほとんどなかった。いつも白人の将校たちに囲まれて暮らしている。日本女性の優雅さに対する神秘的なあこがれに加えて、スージーは才気ひらめく現代娘だ。単刀直入な結婚申込みがあとを絶たないが、彼女の答えはいつも、一生独身で過ごすことを心に決めている、というのであった。
かたくなな拒絶のうちにひそんでいるものはなにか。ある時ジョークにまぎれて彼女が洩らした言葉を、母は忘れることができない。――コウちゃんの生命を奪ったのは誰だろう。そのことをのりこえるために自分は毎日ナースとして働いているけれど、妹としての悲しみは、ついにその事実に打ち勝つことが出来ないのかもしれない。
子供たちは日本という国にどんな感情を抱くだろうか。これが子供の成人以来、節子の胸にわだかまる関心事であった。アメリカ市民として暮す日常生活は、日本について正しい認識を持つには誤解の種が多過ぎる。自分の眼と心で日本に直接触れるチャンスがあれば一番いい。
自分の意向に無理に仕向けることを控えて、自然に時が熟するのを待つのが節子のやり方である。息子たちが国内旅行と欧州訪問をひと通りおえて、日本に行ってみたいと言い出したのは六〇年代になってからだった。仕事の出張。白人仲間との休暇の旅。ライオンズ・クラブの団体観光。それに孝一に支給される恩給を確保する用件があったし、令三と節子の親戚たちは、立派に出世した太田兄弟の訪日を歓迎する手紙をたびたび広島からよこしていた。数年のあいだに二男、四男、五男、六男が別々に日本に旅立ち、それぞれ土産話をいっぱいもって帰ってきた。
彼らの印象は驚く程一致していた。この二世の俊才たちは、長兄の孝一がサムシングを吸収することを誓った日本に、痛く失望してかえってきたのである。
両親から長年にわたって聞かされてきた“あこがれ”の日本。敬愛する父と母を作り、一家の誇りとする長兄孝一が生命を賭けて悔いなかった日本。日系人であることの矜持を支えてくれた日本。そうした仮象の日本には、美しいもの、よき想いだけが結びついているのかもしれないが、それにしても現実の日本との隔絶は余りにも大きかった。
旅の先々で起きた小さなトラブルの連続は彼らを困惑させた。いつも理由なしに特別の優遇を受けている小グループの存在。ビジネスの世界も、約束事やコネクションがなければ動かない。平等のチャンスが働く余地がない。役所の窓口の恐るべき非能率。恩給を親戚が代って受領した実績が正規の手続として認められているために、母の節子に年金支給の手続はとれないと言い張って譲らない頑迷さ。
長いあいだ黙殺しておいて、手のひらをかえしたように大げさな親類縁者の歓待ぶり。人付き合いのわずらわしさは、彼らに嘔吐を催させた。あの時、必らず良き収穫を吸収すると意気ごんで日本に立ち向った孝一を、その人たちはどのように受入れてくれたのだろうか。祖国との戦火の中で孤立するほかなかった二世の苦衷を、共感でも同情でもなくていい、少なくとも理解しようと努めてくれた人が誰かいたのだろうか。
アメリカの人種差別を批判することに熱心な日本で、血のつながった日系人があからさまな差別待遇を受けることは、彼らを最も不愉快にした。彼らはアメリカ市民だが、もちろん白人以下の変種であり、別の意味では日本人以下に扱われた。二つの国の狭間(はざま)に身を横たえた二世の心情が、どんなものであるかについての恐るべき無神経さ、冷淡さは、どこからくるのだろうか。
日本に住みついた二世の友人が「半外人」と呼ばれて憤慨したという話をきいて、その言葉のニュアンスを訊ねられた節子は、返答に窮した。
鈴代はフィリッピンに駐屯していた間に一度訪日の機会があったが、もう二度と行きたくないと言い切った。――日本ではすべてが汚いし、貧し過ぎる。そこからぬけ出せないのは、“いつもひとのためにつくす”ことを生涯の念願にした孝一のような考え方が、戦後の日本から跡形もなく消えてしまったからではないか。アメリカから肉親を送りこんで戦争で死なせてしまった遺族を、これほど粗末にするような国が、世界の信頼を回復することなどありえようか。――
鈴代のように痛烈な失望を味わった若者は、けっして例外ではない。期待が大きければ大きいほど落胆は大きく、その結果、アングロサクソン名に改名した二世三世もたくさん出ている。
きょうだいで性格も似ているのに、コウちゃんだけは何故あんなに日本を好きになれたのだろうか。鈴代は何度も何度も考え直してみた。あの時代が、孝一を包みこんだあの環境が、一観察者として母国をみることを許さず、その中に飛びこむことを求めたからだろうか。日本人を理解するよりも、日本人になることを強いたからだろうか。それにしても、コウちゃんが日本人以上に日本人らしくみえるのは、どうしてだろう。――そんな思いに耽っていると、鈴代は珍らしく無性に悲しい気持に襲われた。
第七章 悔恨をこえて
しばらく御無沙汰申し上げておりますうちに、また一年近い歳月を経ました。月日の流れの早さに一入(ひとしお)驚き入ります。
過日、日本の総理府賞勲局という思いも設けぬ送り主から、厳重な小包が届きました。あけてみますと、勲六等単光旭日章の勲記勲章が収められておりました。孝一が亡くなりまして二十五年、日本では勲章というものはまだ大切にされているかと存じますが、申訳ないことながら、そのままもとに収めて屋根裏にしまいました。ですがこの小包のおかげで、私は孝一が本当に生きてはかえらぬことを悟ったのでございます。これまでは孝一戦死のことを承知しながら、どこかに二十五年生きている、そのように思い続けていたことを知りました。
この頃はモノ忘れがひどく、いつも笑われる身で、世の中の進歩につくづくついてゆけぬことを嘆いておりますが、孝一が日本に渡った頃のこと、送られてまいりました遺書、行方不明の知らせが届きました日のことは、不思議に昨日の出来事のように鮮やかに思い浮かびます。孝一の機縁でお知合いになれました貴女様にこうして便りをしたためておりますと、あの子のこと、もっともっと知りたい、これからもっともっと生きたい、そのような願いを、抑えかねる気持でございます。
私が貴女と親しく文通さしていただいておりますこと、聞き知って、一世の婦人の中には、話題にしている方もおありのようです。貴女の御主人様が孝一の戦友で、出撃間ぎわまで仲良くしていただき、帰られてから孝一の最期のことを詳しく知りたいという私共の願いにこたえて、ひと方ならぬ御骨折りを賜わりましたこと、今もくり返し感謝いたしておりますのは、信じていただけることと思います。その私の気持が分らぬと、申される婦人方がおられるのでございます。
お気を悪くされませぬよう、くれぐれもお願いいたしますが、私も、貴女様御一家と孝一の生涯とを分けました運命の岐れ路に思い至りましたとき、苦しみました。頭がクラクラして、何も分らなくなりました。人の世の不思議と申しましょうか、初めの頃のお手紙は、長いことペンを休めながら、一字一字ようやく書いたのでございます。何卒御両親様に孝養をつくされますようにと、あの頃の手紙で何度もお願いしました私の気持に、偽りはございませぬが、奇蹟的に救われたお方もあるのに、大切な大切な私共の長男が、なぜ奪われなければならなかったのでしょうか、考えても考えても分りませぬ。なんと弱い心、なんと狭い心、お許し下さいませ。
あれから久しい間に、私の好きな日本のものを、すっかり貴女様におねだりすることに馴れてしまいました。いま目の前にありますものだけでも、平棗(ひらなつめ)、風鈴、六角の小箱、竹の花器、郷土人形、青より出でて青より青い藍色の袱紗、赤肌の急須。そろって日本の食べ物の大好きな息子たちですが、貴女様のは、この辺で手に入るものとは違うのでございます。カリカリと香ばしいせんべい。精二は家にまいりますと、一人でカンを空けては、二つ三つ摘んでおります。丸い風味のしょうが糖、可愛らしい二人静、わかめ、かんぴょう、ひじき、塩昆布。
あなた様のお心配りに、私、肉親のような有難味を感じさせていただいております。今の時代に、日本に、こんなに細かなゆとりの残っておりますこと、有難いことに存じます。私の気持が分らぬと口を出す御婦人たちに、貴女は日本にいる私の娘だと思って大事にしている、そう申しているのでございます。
私は日本が大好きですが、日本に住んで余生を暮らす夢はもう捨てました。
いま私の日本の夢は、京都でゆっくりお茶のお稽古をさせていただくことでございます。こちらの裏千家の支部に手続をすすめ、三ヵ月程京都の寮にお泊めいただいてお家元手ずからのご指導をお願いできるだけの費用も収めました。あとは順番がまいるまで、ご通知を待つばかりでございます。
こちらで余生を過ごしますと、白人と同じ墓地に入らなければならないことが気になった頃もありますが、私も若かったのでございますね。もう気にもなりません。日本人のお仲間入りをするより、かえってさっぱりしてよいかもしれません。
いい子供たちを持って、今のままで私は幸せ過ぎるほどですし、子供たちのくれるマネーは、とても使い切れません。ただもうそれだけで有難いことです。
戦争が終って、私は日本の国が生れ変るものと思いこんでおりました。あの頃御主人様に、たとえ戦後の思想の混乱があっても、新しい日本のために正しく生き抜いてほしい、どの国にも負けぬよい国にしてほしい、それが生き残ったあなた達の責任です、と熱をこめて書き送ったことを憶えております。
敗戦とともに、日本人はすっかり変ってしまったように見えましたが、あれは生れ変るということとは、別のことだったのでございましょう。日本人があれほど毛嫌いしていた二世がGIとして進駐してまいりますと、手のひらを返したようにちやほやするなんて、もし孝一が生きていましたら、さぞ腹を立てましたことでしょう。
主人なども病(やま)いにふせりながら、日本人のなかに、自分は国を愛して戦った、信念をもって職責を果したのだと堂々主張する人が、一人もいないのはなんと情ないことかと嘆いておりました。
アメリカのために戦った精二や武は、晴れ晴れしく栄誉を認められて報いられましたが、孝一たちはどうなるんでございましょう。あの子たちは、どうしたら浮かばれるんでございましょう。
この頃は、分らぬことばかりでございます。世界中が騒がし過ぎますですね。アメリカはこれからどこに行きますのですか。街の一人歩きも油断が出来ませず、いい人たちばかりが失業しております。政治家の胸の内には何があるのやら、急に中国の商品が町に氾濫しましたり、あの中国という国は本当に静かな質素なよい国なのでしょうか。
税金の使い道も腑におちませんが、それよりも私には日本が分りませぬ。大学騒動は収まったようですが、あれでどんな反省が行なわれましたのですか。六〇年安保のニュースには世界中が注目いたしましたが、今の日本の若者は、国というものをどう考えているんでしょうか。あの頃は家でも毎晩議論をしまして、子供たちは、もちろん娘も、アメリカという国が持っている自由は血をもって勝ちとったのだから、万一の場合は一人一人が立ち上る、とこう申しました。つくづくこの子たちは、アメリカ人なのだと思わされました。
日本には分らぬことが多過ぎます。ピーナツ袋一つで買えるといわれます日本の株、ソニーというのは本当にいい会社なのでございましょうか。私どもが少し投資すれば、もうかる上に、会社をもっとよくするのに役立つんでしょうか。円の価値が上り、ドルの値打ちが下るといいますが、私にはそこのところが合点がいきません。日本の銀行がこの頃いくつも西部で開店いたしますが、どうやって営業してまいるんでしょう。一度御主人様にお教えいただきたいと存じております。
こんなことを、人さまには初めて申上げるのでございます。私、時々不安になります。これから先、私はどうなるのでございましょう。来世にどんな報いを受けるのでございましょうか。こちらで熱心に禅のレッスンに通ったこともございますが、外からいくらものを与えましても、心のなかには通りませんのです。どうしたら救われるのでございましょう。私がまだ、孝一への償いをすませていない、ということなのでしょうか。
いま考えますと、世の中にはよいことも悪いこともあるのでございますね。人間はいかなることがありましても、生き延びねばなりませぬ。貴女様方が立派に生きておられますことが、とてもとても有難く、どうぞ御身大切に、ことに子供さん方をお大事になさいますようお願い申上げます。御主人様にくれぐれもよろしくお伝え下さいませ。
太田節子
これまで太田孝一の短い生涯を追ってさまざまの面を綴ってきたが、彼自身の手になるもの、手紙でも日記でもいい、メモ書きのようなものでもいいから、彼自身の文体、その口癖、なにかの断片でもと求めた願いは、ついに充たされなかった。太田孝一が立ち去ったあとには、彼から生まれた何の痕跡も残されていない。あるのは、間接の反響のようなもの、不確かな残像に過ぎない。
彼が生きたのはそういう時代であった。彼と密接につながることを願った人は、その痕跡を消すことによって、彼との関係が維持されることを望んだ。わずかに残された足跡も、戦局の傾斜と敗戦の混乱のなかでかき消されてしまった。
太田孝一は、他人のうえ、外界のなかに、自己を主張すべき“実質”を持たなかった。彼のアイデンティティー(身元証明)は何かを為しとげることでなく、何かに堪えることであり、肯定することでなく、否認の意志を貫くことだった。そういう時代、そういう役割、そういう宿命が彼を待ち受けていたのである。
最も彼らしい残像を求めようとすれば、どこに見つかるのか。古ぼけた写真の中の太田の目はいつも眩しそうで、こちらを直視していない。全身像は影がうすく、実体というよりも白く濁ったネガフィルムに近いようにみえる。陽にかざしても肉体の中にあるはずの筋肉、骨、神経が見えないのだ。周囲の景色は黒々と鮮やかなのに、彼の姿だけが鮮やかに見えない。見えるとしても、それは空洞であり、われわれは空洞のへりを手探りでさわるほかない。しかもそれはけっして虚像ではなく、彼の唯一の実像なのだ。
しかし空洞の中に立ち入って、太田孝一の実体に肉迫しようとする試みが、不可能だとは思いたくない。それには勇気と愛情が要る。カナダ生まれのある日系二世は、彼より一世代若い年齢に属するが、共感と敬意をこめて「太田孝一論」を展開している。
――太田孝一はおそらく外見以上に強い個性の持主で、型にはまることを嫌い、利己的な行動を自分から厳しく抑える人だったのであろう。軍隊生活でも、仕きたりに従えば楽であるのに、安易な道を捨ててわが道を貫き通した。
彼は生来合理主義者だったにちがいないが、その反面、理性をこえようと努力した跡が明らかに認められるのは一つの謎であり、そこに彼の本当の悩みが隠されているのかもしれない。そしてこの謎が、我々に多くのことを考えさせる。
帝国海軍に入ることは、もちろん渡日した目的ではなく、選択の余地のない立場に追いこまれたのだから、軍務に最善をつくすことを義務づけられたわけではない。自分の祖国を敵とする戦争の目的に出来るだけ結びつけずに、二世が何をやれるかを証明するという個人的目標だけに限定して、行動することも許されたはずである。彼は本来そのようなことが出来る人であるのに、自分の意志で別の道を選んだのである。
太田は事実、日本の海軍士官として立派に戦ったが、戦争が戦争として戦われた目的と、彼が奉仕しようとした目的とは、明らかに別のものである。彼を単に「大和魂」とか「国粋主義者」とかのレッテルでとらえるのは間ちがっている。太田が日本の為に死んだことは疑いないが、それと同じくらい確かなのは、彼がアメリカを敵として死んだのではないことである。
太田は二世としては珍らしいくらい豊かに日本人的要素をもち、人一倍日本を愛していたが、精神の基本においては、アメリカ人そのものだった。別の言い方をすれば、国境というものの羈絆は彼には存在しなかった。彼こそ、そうした政治から派生する枠を超越した人間だった。
なぜ人間は一つの国に執着しなければならないのか。なぜ二つの国に同時に帰属することは許されないのか。一人の人間に一つの国だけを愛することを強いる如何なる制度、如何なる歴史的事件も、あまりに卑小であり、あまりに残酷であるといいたい。
しかし残念ながら、いま我々をとりまいている世界はそれ程大きくはない。ヒューマニティーを呑みこんで、それを不要にしてしまうほどには大きくないのだ――
二つの国を同時に愛そうと骨身を削る苦しみをなめたのは、むろん太田だけではない。そのように本気で努力したからこそ、適当に泳ぎまわるのでなく、一つの国だけを愛し、その国に運命を賭けなければならなかった悲劇も、太田の場合にとどまらない。
れっきとした一世でありながら、アメリカに殉じようとした例。ヘンリー・エビハラは日本で生まれ、二歳のとき両親とともにアメリカのニューメキシコに渡った。彼は一世だからアメリカ市民になる資格はないが、白人だけを友とし、完全なアメリカ人と何ら変るところのないアメリカ人としての自覚をもって育った。
二十一歳で開戦を迎え、真珠湾で多くの友人を失い、そのあるものは終身なおらぬ片輪となった。多勢の級友が志願して戦線にはせ参じた。しかし外国人であるため、友人たちを殺した日本に復讐する道がないことに憤った彼は、収容キャンプから陸軍長官に直訴する手紙を書いた。
「私はあなたが大変お忙しい方であることを存じており、もっと重要な事柄でお忙しい時に、こんなお手紙を出してお邪魔するのを心苦しく思っております。
ここに書くことは、誰か耳を傾けてくれる方を求めている、私の心からのお願いです。
私の皮膚が黄色だという理由で、私に市民権を認めてくれない法律は悪法です。悪法は変えようと思えば変えられるものです。しかし私が今とりあげたいのは、法律の改正問題ではありません。
ご承知のようにこの戦争は人民の戦争です。この戦争の勝負は、世界中の自由を愛する人々の運命を決します。私がただ願うことは、私が教えきかされてきた民主主義の原則を、どんな代償を払っても犠牲に出来ない民主主義の原則を保持するために闘うチャンスが、あたえられるということです。どうか私に、アメリカの軍隊で兵役に服するチャンスを与えて下さい。そうすれば、私はただ何もしないで傍観していたのではない、自由を愛する人々の運命が危い時に無為であったのではないと、自分自身に誇りをもっていうことができます。
私の忠誠心と真剣な気持については、白人の友人たちが皆、保証してくれるでしょう。私が今こう書いている時でさえ、彼らのある者は故郷から遠く離れた墓の下で、永遠の眠りについているかもしれません。彼らが愛し、心から信じた民主主義のために死んでいるかもしれません。
私は特別な好意や同情を求めているのではありません。お願いしているのは、ただ現役戦闘任務に応募するチャンスを下さいということです。民主主義国家が、自由人の権利を保持するために戦っている時、それを心から信じている人間がいるのに、出生国に関する法律上の技術的問題にこだわることが許されるでしょうか。
政府の高官たちは何度も、この戦争は、人種や皮膚の色のちがいには関係のない国民的闘争であると言いました。アメリカが戦って保持しようとしている民主主義を心から信じている人間が、その戦いに参加することを拒まれるならば、そんな戦いは国民的闘争といわれるでしょうか。
私の嘆願をきき入れ、充分にご考慮下さるよう伏してお願いします。
この件に関して何か処置がとられることを期待し、私はこの手紙の写しをルーズベルト大統領にも送りました。
親愛なるスチムソン陸軍長官閣下
ヘンリー・H・エビハラ」
アメリカ市民でありながら、アメリカの偏狭さに絶望し、日本にたいして忠誠を誓った例。ジョー・クリハラは天才的な知能指数を持つ二世で、時とところを得たならば、日系人とアメリカ社会を結びつけるために多大の貢献をすることを期待された人物である。しかし彼は次のような声明を出さざるをえなかった。
「アメリカ人の友人たちは、私の市民権放棄の理由を不思議に思うにちがいない。しかしこの決断は今日や昨日の決断ではない。それはデウィット将軍の強制立退き命令発動のときに始り、将軍が第一次大戦の退役軍人の声すらきこうとしなかったときに固まり、マンザナに入所したときに更に強められた。すくなくとも二世は、またみずから第一次大戦に従軍して忠誠を証明した人たちは、居住地にとどまることを許されると期待していたのに、『いったんジャップだったら、いつまでもジャップだ』と片づけられたとき、私は一〇〇パーセント日本人になること、この国が戦争をするのを助けるような仕事は一切しないことを誓った。
日本の政治的経済的再建を助けるため、出来るだけ早く日本に帰ることが、私の衷心からの希望である。子供の時から吹きこまれたアメリカの民主主義の精神は今もなお不動である。だからこそアメリカに裏切られた打撃は決定的である。いまや民主主義をかかげた私の生命は、日本に捧げられているのだ」
太田孝一とその一家を見舞った悲運の残忍さ、ここにかかげた多くの例が登場人物の上に刻んだ亀裂の大きさを、われわれはただ嘆いているわけにはいかない。そのどれもが故意に筋を入りくませた作り話ではないし、過去のものとして完結した物語でもない。人間の英知と善意はいよいよ無力であり、国籍と民主主義、平和と忠誠心をめぐる混沌からぬけ出る道を、現在われわれはまだ見出していないのだ。
国家と平和論のかかわり合いを解明しようとする試みの一つを、以下に引用してみたい。
――戦後日本の知識層においては、超政治的、絶対論的な平和主義が、一つの風潮であった。もちろん超絶的な絶対平和の思想を、わたしが尊重しないのではない。たとえばトルストイの平和主義は、国家権力の否定、徴兵制の否定であって、一つの政治形態を是とし、他の政治形態を非とするのではない。それは一言にして、国家否定の精神である。
ところが日本の平和主義者は、個人としての信条における平和主義のみならず、国家そのものを主体とする絶対平和主義もありうるかのように説いた。しかも憲法制定の直後ではなく、講和問題が間近にせまって、日本がふたたび独立国にもどらねばならぬという情勢のもとで、それが頂上に達した。
かねてある学者は、絶対平和のためには国家の独立を失ってもよい、と説いた。ある学者は、たとえ国が亡んでも戦争はせぬ、という平和主義を唱えた。またある学者は、他国の侵入を受けることも覚悟で平和を守らねばならぬ、と論じた。またある学者は、参戦するよりは侵略されるほうがいさぎよい、と主張した。そしてある学者は、国の滅亡をかけても平和の理想に仕えたい、と告白した。
これらのうち、キリスト教の信仰にもとづく一、二の人のものをのぞいては、平和思想としての系譜や思想構造の捉えがたいものである。一見して、トルストイの暴力否定と無抵抗主義を、民族そのものの立場に拡大した観があるけれども、それにしては議論があまりにも簡単に過ぎた。
戦争は天災地変ではない。戦争はつねに政治の延長であり、国家にのみ固有の行動である。この世に恐怖すべきものがあるとすれば、それは兇器ではなくて、権利としてこれを使用するものの存在である。
平和の問題に直面するものは、国家の問題に直面せざるをえない。戦争は人間の運命ではないにしても、国家はわれわれにとって運命だからである。平和主義の思想は、この精神を人類に省察させる力を持たねばなるまいと思うのに、日本的平和主義の思考の系譜は、その力を欠如していた。(略)
国民にとって究極的に必要なのは、国家が無防備にとどまることではなくて、一つの安定した平和的な政府の樹立である、という政治的自覚への到達は、それらの超絶的平和論の介入によって後廻しにされ、ゆるぎのない平和的な政府の樹立においてこそ、改めて国民としての忠誠を誓わなければならない、という政治的、実践的な心意への契機にいたっては、皆無であった。
もし「戦後思想」というべきものがほんとうにあるのならば、過去における自己の行動に内在する事実の解剖なしに到達できるとは思われないのであるが、戦後の「平和思想」は、そのような事実に起つ脚を持ちあわせていなかったのである。
(大熊信行「絶後の平和思想」。傍点は原文のまま)
現にあの惨憺たる第二次大戦の惨禍のあとでも、国家間の真の和平は回復していない。戦後三十年足らずの短い期間に、われわれはなんと両手に余るほどの多くの戦争を経験したことか。巨大国家の間の直接の抗争は、相互牽制がはたらいて、ベルリン封鎖をめぐる暗闘、キューバ事件ていどの小規模のものにとどまっているのは幸いだが、一国内の内戦や、戦後の政治処理の結果、一国から分割された国同士の紛争には、中国の国共内戦、パキスタン分裂、朝鮮戦争、ベトナム戦争があり、それぞれ強大な支援勢力をバックに共に正義を訴え、共に民主主義、人道主義をかかげて本格的抗争を展開している。
同一体制内で相桔抗する勢力が、利害の対立、思想の懸隔から分裂を表面化したものにはソ連の相次ぐ粛清、ハンガリー事件、チェコ事件、中国における劉少奇、林彪の失脚があり、その結末は民主的解決から程遠い凄惨な様相を呈している。
民族自立の動きとその抑止力の衝突にはインドシナ戦争、コンゴ動乱、アルジェリア解放戦争があり、ますます激化する国家間の対立は、中印国境紛争、印パ戦争、中ソ国境紛争を生んでいる。さらに国家、民族、宗教をふくむ錯綜した利害の角逐は、広域を戦場とするパレスチナ戦争、スエズ動乱、中東戦争の母体となっている。
第二次大戦の生んださまざまの罪過からますます混迷の色を深める戦後史を通じ、朝鮮戦争からベトナム戦争までの焦燥と自己喪失の時代を通じて、重要な責任の一環をになうアメリカ自身は、どのような反省の言葉を公けにしたであろうか。
「日系人に加えられた不正は、永久にアメリカ史の汚点となる。しかしこの不正をアメリカ国民が認識したことと、その損害賠償のための良心的な努力とは、いささかの慰めをあたえる。もちろんそれは惨めなほど不充分であり、失われたアメリカの自由、尊厳、信念をつぐなう方法は、全くない。
この悲劇が生み出す唯一の希望は、それが決して二度と起ってはならないこと、人間を人種や皮膚の色や人相によって判断してはならないことをアメリカ人が理解することである。合衆国に対する忠誠は、一つの理想に対する忠誠であり、この国の公的な行動に対して私たち個人の罪と個人の責任を認めるという理念に対する忠誠である」
(ワシントン・ポスト、一九六五年十月)
しかもこの間アメリカは、黒人問題をめぐって新たな不毛の苦難を経験しなければならなかった。
「日系移民が不幸な運命に挑戦して勝利をえた物語は、いうまでもなくただ単に一つの小さな人種的集団のみに関係する孤立した物語ではない。わが国の人口の大きな部分を占める特定の市民(黒人)に対し完全な平等と正義を適用する問題をめぐって、わが国が重大な危機に直面している現在、日系人の物語に改めて心を向けることは、はるかに広範な意味をもつことになる。
この物語はみずからの権利のために戦っている人々に希望をあたえ、すべてのアメリカ人にその理想が正しいことを教え、理想を全面的に達成しうる可能性について強い信念をあたえるであろう。われわれは理想を余りに高く掲げ過ぎたために、これまで遠く及ばない状態にいたが、今やわれわれが着実にその実現に向って進みつつあることを他国の人々に示すであろう」
(エドウイン・ライシャワー――一九六九年七月)
このような堂々たる反省が開陳されたにもかかわらず、ひと度犯した過(あやま)ちの傷跡は、消えることなく残っていた。強制隔離命令の合憲性を確立したコレマツ裁判で、判決に異議を唱えた少数派のジャクソン判事は、軍事上の緊急事態を重視して憲法の精神に優先させた多数説の考え方は、“権限のある人なら誰でも直ぐ使える装填されたピストル”のような先例を残した、と警告した。
この警告は、日系人の強制隔離が違憲とされたのちも不要とはならなかった。
「中国を主要敵国とする第三次大戦に備えて、FBIの準備は充分出来ているという未確認の噂が、私の関心を惹くようになった。在米中国人全部を強制隔離する収容所が、ひそかに準備されている、というのである。それは彼らをふるいにかけるためと、アメリカの戦争努力を妨害し短波の無線を北京に送るのをくいとめるための施設である」とある大衆雑誌が「貿易風」欄に書いたのは、一九六六年五月のことであった。
ベトナム戦争たけなわの時期には、ハノイに対する国民感情の険悪化につけこんで、もっとまことしやかな情報が、手のこんだ殻をかぶって相次いで登場した。一つ一つは滑稽きわまる記事も、全体がある傾向にまとまると無視しえない雰囲気を作り出す。こうした好ましからぬ前兆が、匿名欄に書かれた「今度はキャンプ計画も初めからうまくゆくはずがない。なぜなら日系人のような従順な羊は他に見当らないし、この主役がいなければ立退き劇そのものが成り立たないのだから」という巧みなジョークによってかき消されたのは、幸いであった。
しかしなお現実の脅威は存続していた。一九五〇年制定の国内安全保障法は、非常時において連邦司法長官および代理人は、ある個人が単独かまたは共謀して、スパイ行為、サボタージュ行為に従事していると信ずべき正当な根拠がある場合、逮捕状を発行する権限があるものと定めている。
このいわゆる「非常時拘留条項」にたいしては、JACLを中心に長期の抗議が続けられ、一九七一年、スパーク・松永下院議員によって提出された本条項廃棄提案は、圧倒的多数をもって両院で可決された。非常時拘留条項の発動に備え、連邦議会が一九五二年、七十七万ドルを出費してひそかに建設した全国六箇所の収容所は、根拠を失い、無用の長物として取りこわす方針が明らかにされた。
奄美群島の一つ、徳之島に戦艦大和慰霊碑建設への曙光が射しはじめたのは、終戦後五年を経た頃であった。その前後に公刊された戦闘記録のいくつかが、沈没地点に最も近い陸地としてこの島の名をあげたことが動機で、もしその記録が正しいとすれば、島の中でも最短距離に位置する西南端の伊仙町が、第一の候補地となるべきであった。しかもこの町には、島内随一の風光美を誇る犬田布岬があり、するどい断崖から東シナ海を望む広大な天然の芝生は、この海に沈んだ巨艦の慰霊の地として、望みうる最高の条件を備えていた。
一つの難点は、沈没地点の確認がむつかしいことであった。日本海軍自身の記録と、米軍の公式記録の間には六十キロをこえる相違があり、一九五〇年に日米合同で行なわれた海底調査も、水深五百メートルに近い深度で起る強い海流のため艦体が流されているおそれがあり、正確な地点をつきとめることは困難と報告した。
しかしその後十年あまりをへて、海上自衛隊が高精度の水中聴音機を使用した慎重な測定の結果、至近の陸地を徳之島とする事実そのものには過りがないと確認されたことから事が進み、一九六七年春、伊仙町議会は建設促進費として、町予算百万円の計上を可決した。そこの海底に永遠に眠る英霊に仕えることは、最も身近な地に生をうけた自分たち町民の責務にほかならないというのが、設立の趣旨であった。
この気運は全国規模にひろがり、二千五百万円を目標とする募金運動に発展し、鹿児島大学中村晋也教授の設計によって、大和の司令塔と高さを同じくする二十四メートルの記念塔と、そこから司令塔と艦首との距離百二十メートルを隔て、岩礁の上にそそり立つ高さ三メートルの青銅の慰霊碑をふくむ全計画が、一九六八年五月に完成した。塔の真下の中央安置所には、特攻艦隊の戦歿者三千七百二十一柱の英霊名簿が収められた。
太田家の家族は、節子が時おり衰えを嘆くのを除けば、夜毎の団欒にも何の変化もなく、年を重ねていった。鈴代は累進して、日系婦人としてはじめて中佐という高位に就いた。男の兄弟がそろって軍人に不向きであったのに、ナースという特殊任務とはいえ娘だけが適性をみせているのは、母親としてなにか面はゆいが、大胆な実行家の父と忍耐強い自分の血の両方を、娘が一ばん釣合いをとって受けついだためかもしれないと節子は思った。休暇でたまに帰ると、部下を多勢抱えていることが何よりも苦労だとこぼしながら、鈴代は母に甘えた。
大和遺族会の手で、徳之島慰霊塔の詳細と除幕式、第一回合同慰霊祭の模様が節子のもとにも伝えられた。そして毎年春、四月七日の沈没の日に行なわれる予定の慰霊祭に、ぜひ参加されたいとの勧誘状が同封してあった。
夫がなくなって十年あまり、子供たちを立派に育てあげて、気力が日に日に落ちてゆくのを自覚していた節子は、まだ遅すぎない時期に、この知らせがとどいたことを感謝した。孝一の死にかかわるものを、目に見える形で弟たちに繋いで残しておくこと、それが自分の最後のひそかな願望であったことを、はっきりとつきとめた思いであった。
孝一の直ぐ下で一番仲良しだった精二と、性格も顔かたちも孝一そっくりの誠と優が母への同行を申出た。こちらからすすめて連れてゆくべきではない、節子は初めからそう考えていた。
翌六九年四月七日の第二回合同慰霊祭に、特別参加することに決った。一行四人のスケジュール調整が大変で、航空切符と宿の手配に最後まで不安が残り、あわただしく出発したが、悪い予感が当り、太平洋をこえるのに事故にぶつかって、東京着が五時間ほど遅延した。機中で東京から先の予定変更を試みたが、チャーター機をのがすとあとは新婚シーズンで全便満席というだけで、らちがあかない。事情を説明してもとり合ってくれない。万策つきて羽田に着いたときは、後の祭り、むなしく引き返すほかなかった。あれほど無理してプランをたてたのに、なぜこんな無駄な旅をしなければならないのか、どうして誰も便宜をはかってくれないのか。息子たちの抗議に、母は返す言葉がなかった。
疲れて家に帰ってから、一年先までの長さを思いはかっていると、節子は突然動悸を訴え、心電図に異状が出て、安静を命じられた。それが少しよくなると、庭先で転んで肩と肱を強く打った。そんな傷でも直りがおそい。
しかしけっして焦るまい。かならず時があたえられる。そう思って待つうちに、やっと一九七二年の正月に、今年の春なら行ってもよいというドクターのお許しが出た。いざ実現するとなると、三年の辛抱が、すこしも長く感じられなかった。精二だけはどうしても仕事の都合がつかず、三人の旅程を念入りに作りあげた。
羽田に出迎えた遺族会の役員たちの歓迎は、予期以上のものであった。初めて迎える米国籍の珍客である。節子は何度も何度も頭を下げ、渡米以来の身の上話をさせられた。
飛行場で中学生ぐらいの男の子の姿を認めたとき、思わず親子三人は、互いの視線を求めてうなずきあった。きれいに坊主刈りにかりあげた大きな頭。前頭が出たその子の頭の形。それは海軍に入る直前の孝一の姿だといって、戦後大学の友人から送られた写真とどうみても生きうつしであった。その写真の孝一は奇妙に幼なげな表情をしていて、残された最後の、一ばん年のいった時の顔とはどうしても見えなかった。誠や優にもそれは兄ではなく弟のように思え、弟のような孝一と、目の前の男の子が、二重写しに一つの頭と顔に重なったのである。
誠と優は、飛行機が太平洋を飛ぶあいだ、自分たちは本当に何に惹かれて、この長旅に出てきたのかを改めて考えた。コウイチ兄さんは、もうこの世にいない人の中では、父についで一ばん身近な存在であることにちがいはない。しかし本当は、遠い遠い、手のとどかない人のようにも思われる。手をいくら伸ばしても、コウちゃんにまでとどくはずはない。自分たちとは全く別のところで生き、別のところで死んだ人だ。遠いところから、自分たちに何かを残そうと願いながら、死んでいった人。その願いだけが、コウちゃんと自分たちとをつないでいる。
その何かにふれるだけのために、はるばるここまでやってきたのだろうか。彼が死んだ場所を、彼が永久に身を横たえているであろう海を、この目で確かめるために。――
弟たちは遺族会の人に感想はときかれて、孝一を呑みこんでいる海の青さを、自分の眼でたしかめたいだけだと、正直に告白してよいものかどうか迷った。たとえ告白しても、自分たちの気持を正しく分ってもらうことは出来ないだろう。そのあげくひょうきんな優は、逆にこんな質問をして相手をまごつかせた。「今度の旅行は楽しみにしとったんですが、徳之島のホテルの朝めしにゃあ、パンやコーヒー出るんですか。それとも味噌汁ですか。日本じゃホテルいうても、いろいろあるそうですけん」
これが広島弁であるなどということは、彼には無関係である。つき合う日系人はほとんどが広島県人かその末裔だから、彼はこういう日本語しか知らない。精一杯上手な日本語を使ったつもりで、むしろ得意げであった。
鹿児島から奄美大島をへて二時間の飛行のあいだ、節子はただはるか眼下に、細かい無数のひだのような波のきらめきを見続けていた。
島におり立ったとき、まず頬を打つ風が、カリフォルニアと同じさわやかな肌ざわりだったことに、節子はほっとした。ハイビスカスやブーゲンビリヤの花に明るい陽がそそぎ、そてつやアダンの繁る自然林をこえた山間いには、純白のえらぶ百合が咲きはじめていた。自然を友として生きたい、遺書の中の孝一の言葉が、またしても耳元にささやいた。
コンクリートを打ちつけただけの荒々しい慰霊塔は、二本の柱を合掌作りにあわせ、鋭角に切った先端が見上げる高さから天に向って伸びている。巨塔の上部の手の甲にあたるところに、輪型陣になぞらえた五つの円輪がはめこまれていた。これと相対したブロンズの慰霊碑「海炎の像」は、燃えたつ炎とほとばしる海の潮の中に、青年の躍動する全身像と苦悩するいくつかの顔を組み合わせた構図であった。節子はその間を、芝生から岩までの道を行きつもどりつした。
慰霊式典は、儀仗隊と音楽隊にかしずかれ、四隻の自衛艦と編隊機に守られて、厳粛に進められた。総員献花のあいだ、くり返し演奏される「海ゆかば」のメロディーが、南海の春の潮の上を流れていった。直会(なおらい)のあと日没までの時間が、供養投花にあてられた。
芝生が切れて断崖がコバルト・ブルーの海に落ちるわずかの広さに、足場が設けられて、遺族は順々にそこから花を投げ、遺品を投げることを許された。節子が用意してきた重い花束は、手を離れると手前の方に岸にむかって落ちていった。キャンプへの転住の間に孝一の形見はペン一本残っていなかったので、節子は夫の令三が愛用し、孝一もよく使ったことのある朽ちかけた竹の物差しを持ってきていた。物差しは風に舞いながら小さくなって落ちていった。節子はそれが水中に入るのを見とどけると急に足が萎えたようになり、よろめいて誠に抱きかかえられた。
式典がすべての予定をおえてから、一行三人は多勢の参列者に囲まれた。伊仙町長はずっとつききりでそばにいたし、地元新聞の記者もインタビューの支度を整えて身構えていた。
祖国であり敵国である日本にきて、その谷間に息子を奪われた母は、今何を感じているか。皆の関心はそこに集っているのであろう。なにかを言わなければならない。今何かをこたえるために、自分はここまでやって来たのかもしれないと節子は思った。
自問自答していたあいだの重苦しい曖昧さが拭われて、自分の心が外に開かれるのを感じながら、節子はりんとした声でこたえた。「私はあの子にきびし過ぎました。むごいことをしました。もっと別の人生があの子にはあったのです。私たちがどんなに平和の日を祈っても、あの子に平和の日は戻ってまいりません。皆様のおかげで、ここでこうして、あの子に、心からお詫びができますことを、有難く存じます。本当に有難うございました。」
(附記)
執筆にあたっては、Harry H. L. Kitano "Japanese Americans"、ダニエル・I・沖本「仮面のアメリカ人」、ジョー・コイデ「ある在米日本人の記録」、トマス・K・竹下「大和魂と星条旗」、村山有「アメリカ二世」、若槻泰雄「排日の歴史」およびNewsweek, Time(いずれも一九七四年六月十日号)を参考とし、また引用は主としてC・マックウイリアムス「アメリカの人種的偏見」、ビル・ホソカワ「このおとなしいアメリカ人」、A・ボズワース「アメリカの強制収容所」によった。さらに二世の慶応大学およびみづほ学園関係者、海軍四期予備学生出身者、戦艦大和乗艦者から貴重な情報、資料をいただいた。以上をあわせてここに記し、感謝の意を表わしたい。なお、引照個所と出典を一々本文に附記することは煩瑣に過ぎるので、原則として省略させていただいた。
[著者]吉田 満 大正十二年一月東京に生る。昭和十八年十二月、東京大学法学部に在学中、学徒出陣により海軍に入り、昭和二十年四月、少尉、副電測士として戦艦大和に乗組み、沖縄特攻作戦に参加。戦後日本銀行に入行、国庫局長、監事を歴任。昭和五十四年九月逝去。著書に「青春讃歌」「散華の世代から」「提督伊藤整一の生涯」等がある。
本電子文庫は、講談社文庫『鎮魂戦艦大和(上)』(一九七八年三月刊)を底本としました。
鎮魂戦艦(ちんこんせんかん)大和(やまと)(上(じよう))
電子文庫パブリ版
吉田(よしだ) 満(みつる) 著
(C) Yoshiko Yoshida 2001
二〇〇一年三月九日発行(デコ)
発行者 中沢義彦
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
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製 作 大日本印刷株式会社
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