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戦中派の死生観
吉田満
目 次
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戦中派の死生観
戦後日本に欠落したもの
青年は何のために戦ったか
戦中の青年たちは何を読んだか
三島由紀夫の苦悩
書いても書いても書いても……
――古山高麗雄氏の戦地再訪記――
「戦艦大和ノ最期」をめぐって
死者の身代りの世代
U
死・愛・信仰
病 床 断 想
一兵士の責任
異 国 に て
V
若者に兆す公への関心
あすへの話題
霊のはなし
W
ニューヨークの三島由紀夫
黒地のネクタイ
めぐりあい――小林秀雄氏
島尾さんとの出会い
谷間のなかの日系二世
映画「八甲田山」
江藤淳「海は甦える」
海軍という世界
同 期 の 桜
青年の生と死
伝説の中のひと
伝説からぬけ出てきた男
観 桜 会
重過ぎる善意――父のこと
あ と が き    吉田望
初出紙誌一覧
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戦中派の死生観
日頃頑健を自負していたのに、思いがけず食道静脈瘤出血に襲われ、七月末に入院した。
初めの数日は、幻覚と妄想の世界で、血を失う恐ろしさを思い知らされた。炎暑のなか、絶食の飢えや渇きよりも辛かったのは、今取りかかっている公務の長い仕事への気懸りと、家族の行末を案ずる不安が胸をしめつけたことであった。
その後、連日の注射、採血、検査、深夜までの点滴など、内科の病気で寝込んだことのない私にはすべてが初体験で、時に脂汗をしぼることもあったが、人間の苦痛の経験としては、かつての特攻体験のそれには遙かに及ばないと思った。自分が確実に死ぬことを予め知らされ、そのことの意味を考える時間を充分に与えられた上で、死に直面するというような体験は、正常な状態の人間の耐え得る限界を超えている。
戦中派は一度は捨てた命なのだから、戦後は付録のようなもので、生死には恬淡《てんたん》だといわれる。もしそれが自分の健康への無関心や命の軽視を意味するなら、まことに愚かなことである。私自身、今度の発病は長年の不摂生の累積によるもので、全くの自業自得と恥じ入っている。見舞いに駈けつけた七十八歳の母の顔つきが変わっているのを見た時、ただ申しわけない思いがした。
戦中派は、自分の一身を鳥の羽か虫っけらのように扱うことを長年教えこまれ、戦中から敗戦まで徹底的に肉体を酷使され、戦後の混乱期からようやく立ち直ると、ただがむしゃらに、戦争協力者の汚名をそそぐには身を粉《こ》にして働くほかはないようにして働き、妻子の愛し方も人生の楽しみ方もろくに知らず、肉体酷使の習性を身につけたまま、五十を幾つも過ぎないのにぽっくり逝《い》ってしまう奴が実に多い。腹立たしいほど不器用な、馬鹿正直な男たちである。
一度捨てた命だからこそ、本気で大切にすべきではないのか。戦中派生き残りは、すでに定年年齢を過ぎた。第二の人生の荒波はいかに厳しくとも、残された余生を充実して生きようではないか。死んだ仲間の分まで(こういう発想そのものが戦中派的であることはよく承知しているのだが)、大いに長生きしようではないか。
戦後三十四年が過ぎたことは、戦中派が戦争にかり出された頃の父親たちの年齢に、われわれが達したことを意味する。私は特攻作戦に参加した時の父の年齢を既に二歳越えている。又長男はその時の私と同じ二十二歳である。息子を戦場に送り出す父親の心境が今にして分ったというのは月並である。実感はそれとは違う。父親の年になるまで生きて、青春のさ中に散っていった仲間たちのことが、その悲劇の意味が、はじめて分ったということである。われわれの戦後の生活には、波瀾あり挫折あり悔いも多いが、彼らはそのかけらも経験することはなかったのだ。
「故人老いず生者老いゆく恨かな」菊池寛のよく知られた名句である。「恨かな」というところに、邪気のない味があるのであろうが、私なら「生者老いゆく|痛み《ヽヽ》かな」とでも結んでみたい。戦死者はいつまでも若い。いや、生き残りが日を追って老いゆくにつれ、ますます若返る。慰霊祭の祭場や同期会の会場で、われわれの脳裡に立ち現われる彼らの童顔は痛ましいほど幼く、澄んだ眼が眩《まばゆ》い。その前でわれわれは初老の身のかくしようがない。
彼らは自らの死の意味を納得したいと念じながら、ほとんど何事も知らずして散った。その中の一人は遺書に将来新生日本が世界史の中で正しい役割を果たす日の来ることをのみ願うと書いた。その行末を見とどけることもなく、青春の無限の可能性が失われた空白の大きさが悲しい。悲しいというよりも、憤りを抑えることができない。
戦後日本の社会は、どのような実りを結んだか。新生日本のかかげた民主主義、平和論、経済優先思想は、広く世界の、特にアジアを中心とする発展途上国の受け入れるところとなりえたか。政治は戦前とどう変わったか。われわれは一体、何をやってきたのか。
沈黙は許されない。戦中派世代のあとを引き継ぐべきジェネレーションにある息子たちに向って、自らのよりどころとする信条、確かな罪責の自覚とを、ぶつけるべきではないか。
ベッドから顔を上げると、窓いっぱいに秋の雲が、湧《わ》き立つように、天の涯《は》てを流れるのが眺められる。
おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか
と、明治の詩人はうたった。雲に対して、戦中派はこんなふうに呼びかけることはできない。ただ圧倒されて、しかし来るべきものにひそかな期待を寄せながら、高い雲の頂きを仰ぎ見るのみである。
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戦後日本に欠落したもの
太平洋戦争が終って、三十三年目を迎えている。この間に日本の社会は、いくつかの屈折点を経てきた。民主憲法の制定。極東国際軍事裁判の結審。警察予備隊の発足。対日平和条約、日米安全保障条約の発効。NHKテレビ放送開始。第五福竜丸のビキニ水爆実験被災。「もはや戦後ではない」論議。神武景気。安保闘争。新安保条約の自然成立。浅沼社会党委員長暗殺。国民所得倍増計画。オリンピック東京大会。大学紛争。日本万国博。そしてニクソン・ショック。田中首相の中国訪問。列島改造論。オイル・ショック。小野田元少尉の帰還。田中首相の退陣。ロッキード事件。
以上は、思いつくままに記憶に残るトピックを書きつらねたに過ぎないが、これだけでも、政治的、経済的に、また社会的に影響するところ大きい現象を多くふくみ、さらに国際的な面においても、幅広く多岐にわたる事件を包含している。三十三年といえば、ワン・ジェネレーションをこえる長い期間であり、この間に日本が、太平洋戦争とその総決算である敗戦によってえた経験を反芻《はんすう》し、学ぶべきものを学びとるには、充分な時間と試練の場が、あたえられたといっていいであろう。
昭和の初年にさかのぼる歴史の過程で、日本が戦争への道を選びとらなければならなかった最も決定的な要因は、何なのか。どの時期にどのような決断を下せば、戦争に追いこまれる事態を免れえたのか。列国の勢力角逐のなかで、日本が孤立化しないための必須条件は、何であったのか。国の存立を、何をよりどころとし、いかなる分野に最も重点をおいて主張することを許されたのか。要するに、日本人としてのアイデンティティー(自己確認の場)を、どこに求めるべきであったのか。
われわれが今もし太平洋戦争から充分のものを学んでいるとすれば、以上の設問に明快に答えうるはずである。戦争のために生命を捨てなければならなかった同胞二五〇万人の霊にたいし、彼らの犠牲の代償として、現在|これ《ヽヽ》だけの収穫がえられたと、報告しうるはずである。みずからを孤立化の袋小路に追いこむような過誤を、二度とおかすことはない、世界の中に日本が占めるべき場所を確保してみせると、誓いうるはずである。
しかし今われわれの前にある現実は、戦後最大の危機といわれる、不況と円高の内憂外患の窮境である。外からわが国に注がれる眼の冷徹さは、政治や外交面の弾圧にとどまらず、深刻な経済的利害、国民感情の高まり、価値観の致命的な亀裂を母体に、根強い憎しみが存在することを警告している。これは太平洋戦争の悲惨な、しかし貴重な体験から、われわれが結局何ものも学びとらなかったことの証左ではないのか。もしそうでないというなら、今日本が何をなすべきかについて、戦争中のわれわれ日本人の行動を批判攻撃する論者の口から、的確な、かつ実現可能な対策が明らかにされなければならない。
ポツダム宣言受諾によって長い戦争が終り、廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうとしたとき、復員兵士も銃後の庶民も、男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを、抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。
日本人は「戦争のなかの自分」を抹殺するこの作業を、見事にやりとげた、といっていい。戦後処理と平和への切り換えという難事業がスムーズに運ばれたのは、その一つの成果であった。
しかし、戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。要するに、日本人としてのアイデンティティーそのものが、抹殺されたのである。
戦中の時代は、ある意味では、アイデンティティー過剰の時代であった。日本人および日本の国家という、アイデンティティーの枠だけが強調され、その内容といえば、空虚きわまるものであった。戦争下に横行した精神主義「一億玉砕」に象徴される狂信的愛国心の底には、この実体のない、形骸だけのアイデンティティーがあった。
日本人、あるいは日本という国の形骸を神聖視することを強要された、息苦しい生活への反動から、十五日以降はそういう一切のものに拘束されない、「私」の自由な追求が、なにものにも優先する目標となった。日本人としてのアイデンティティーの中身を吟味し直して、とるものはとり、捨てるものは捨て、その実体を一新させる好機であったのに、性急な国民性から、それだけの余裕はなく、アイデンティティーのあること自体が悪の根源であると、結論を飛躍させた。「私」の生活を豊かにし、その幸福を増進するためには、アイデンティティーは無用であるのみならず、障害でさえあるという錯覚から、およそ「公的なもの」のすべて、公的なものへの奉仕、協力、献身は、平和な民主的な生活とは相容れない罪業として、しりぞけられた。
日本人はごく一部の例外を除き、苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務にしばられていた自分は、アイデンティティーの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さのなかに埋没した。
戦後生活を誤りなくスタートするためには、自分という人間の責任の上に立って、あの戦争が自分にとって真実何であったかをまず問い直すべきであり、国民一人一人が太平洋戦争の意味を改めて究明すべきであるのに、外から与えられた民主主義が、問題のすべてを解決してくれるものと、一方的に断定した。
敗戦によって、いわば自動的に、自分という人間は生れ変わり、あの非合理な戦争に突入した日本人の欠陥も、おのずから修正されるものと、思いこんだ。「自分は、はじめから戦争には批判的だった」「もう戦争は真っ平だ。戦争をひき起す権力を憎悪する」とさえ主張すれば、それがそのまま平和論になると、タカをくくった。
しかし抹殺されたはずのアイデンティティーは、もとより死んだわけではなかった。敗戦の痛手を受けた日本が、汲々《きゆうきゆう》として復興作業にはげんでいる間は、たしかにアイデンティティーをほとんど意識することなく、「私」の幸福の追求が、そのまま国の発展につながるように思えた。むしろアイデンティティーの枠から解放されていることが、国民労働の質、経済効率の向上に専心することを容易にした。
しかしこうした事情は、昭和三十年代の高度成長期をのぼりつめる頃から、変化の兆しをみせはじめた。日本の存在が、自由諸国のなかで無視できぬウエイトを占めるにつれて、外からの力は、当然のことながら、アイデンティティーの枠のなかで、日本を捉える方向に急速に変化した。
肝心の日本人だけは、相変わらずアイデンティティーを無視し、国籍の束縛から解き放たれたまま海外に進出し漂流することが、許されると楽観していた。ここに生れたギャップが、数年来日本を襲っている危機的状況の真の背景であり、日本がふたたび世界の孤児となる恐れをもたらした根因であることは、いうまでもない。
アイデンティティーの枠をいつまでも無視できると即断したところに、国際社会の一員として生きる資格のない、日本人特有の甘えがあった。敗戦を契機に、アイデンティティーの意味を改めて確認し、その内容を充実させるために努めるべきであったのに、アイデンティティーそのものが、日本人の発想のなかから、意図的に排除された。そもそも経済発展によってえられた国力の増強、発言力の増大は、それだけでは意味をなさないのであり、それを何に役立てるか、アイデンティティーの確立のためにどう生かすかが、問われている課題だったはずである。
われわれ日本人は、戦争と敗戦の経験を通して、本当に目覚めたのか。日本が孤立化の道を突き進んだ果てに、奇襲攻撃によって戦端を開かざるをえなかった経緯の底流にあるものを、正確に解明することができたのか。
自分は日本人であるという基盤を無視し、架空の「無国籍市民」という前提に立って、どれほど立派な、筋の通った発言をくり返そうとも、それは地に足のついた、説得力のある主張とはならないであろう。平和、自由、民主主義、正義。そのどれを叫んでも、言葉が言葉として空転するだけで、発言は心情的に流れ、現実の裏づけがないのである。
昭和年代の日本が戦争に傾斜してゆく過程で、最も欠いていたものは、眼前にある現実を直視し、世界のなかで日本が占めるべき位置を見抜く大局観と、それを実行に移す勇気であった。列国とのバランスの上で日本にあたえられるべき座標を、過たずに見定める平衡感覚であった。
戦時下の日本が持っていた最も|いまわしき《ヽヽヽヽヽ》ものは、おそらく「人間軽視」「人間性否定」だったであろう。したがって今日、その反動のように、「個人の尊重」を誰もが声を大にして叫ぶが、事実、人間は人間として尊重されるようになったであろうか。今の時代は、人間らしい生甲斐をあたえてくれているのだろうか。
人間が大切にされているように見えるのは、人間そのものとして尊重されているのではなく、ただおのれの権力を及ぼすべき対象として、自分の利害にかかわる貴重な要員として重視されているに過ぎないのではないか。
戦後日本がその出発にあたって、抹殺すべきでないものまで抹殺し、存立の基盤であるアイデンティティーまで喪失したことの愚を、その大きな欠落を、われわれ戦中派は黙視すべきではなかった。戦争のために死んだ多くの仲間にむかって、彼らの死の意味を解き明かし、納得させるためには、日本人のアイデンティティーがどのように戦後世代に引きつがれ、戦後の世界に開花するかを、見とどけなければならなかった。そこにこそ、戦争経験世代の生き残りであるわれわれの使命が、あったはずである。
われわれがそのことに、まったく気づかなかったわけではない。終戦直後から、すべてのことが急転直下、あまりに順調に滑り出した事実に、違和感を覚えてはいた。ほとんどすべての日本人が、それぞれの場でともかくも死を賭けて戦ったという過去が事もなげに無視され、自分が戦ったという事実の重さ、割り切れない苦しさ、憤りが、一夜にして消え失せたことに、なにか欺瞞《ぎまん》のようなものを、探りあててはいた。
しかし、そうした違和感の核心をつかむには、戦中派世代の体験は、一面的であり過ぎた。しかもわれわれは、つねにある「うしろめたさ」の感覚を免れることができなかった。
なぜなら、戦中から戦後までを一貫するアイデンティティーの確認こそが、戦後生活の出発点であると予感しながらも、それではアイデンティティーの中身は何か、自分が日本人であることの意味を具体的にどのように捉えるのか、と問われれば、答える用意がなかったからである。
戦中派は、無私無欲の世代だといわれる。おびただしい量で書かれた戦没学徒の遺書のなかに、自分たちの悲運を嘆き、青春の無限の可能性が戦争の暴力のために奪われることの不当さを訴える、ただ一行の恨み言も見当らないのは、自己中心で不平不満の絶えない戦後派青年と対比して、いかにも異様であるが、無私無欲は、かならずしもつねに讃えられるべき美徳ではない。死を賭しても守るべき「私」がないことは、アイデンティティーの中身が空虚であることを意味する。われわれは日本人という堅い枠だけをあたえられ、その内容を満たすための時間も精神的余裕もあたえられないまま、青春のさ中に戦陣にかり出されたのである。
われわれに終始、「うしろめたさ」がつきまとったのは、そのためである。われわれはいつも口|ごもり《ヽヽヽ》勝ちであり、戦後たびたび訪れた重大な転機にあたっても、明快な発言ができないままに過ごしてきた。戦争経験者ならば、ここで当然一言なかるべからずという時にも、想念はさまざまに湧き立ちながら、歯切れのいい態度表明ができないできた。
戦後日本の安易な足どりになにか納得し難いものをおぼえながら、結論を急いだりあえて妥協を試みたりすることをせず、いつか「敗戦の意味」を解き明かすことに希望をつないで、日本社会の復興に、それぞれの持場で協力することを心がけてきたのが、われわれの実態である。たとえば戦後日本の一つの帰結である高度成長路線の推進にあたって、戦争経験世代は、実施面の主役としてはたらいてきた。したがって高度成長から派生した広範囲の影響についても、責任を負わなければならないと思っている。
数年来、公害の激化、資源の枯渇、物価の大幅上昇等を理由に、高度成長そのものを否定する議論があるが、これは現実を無視した短見というほかはない。日本の持つ潜在可能性を開放し、さらに将来への発展の基礎作りをすること自体が、悪ではありえないし、逆に力がないのはいいことだというのは、見方が甘い。批判さるべきは、みずからのうちに成長率の節度を律するルールを持たない、日本社会の未熟さであり、こうして培われた国と民族の伸長力を、何の目的に用うべきかの指標を欠いた、視野の狭さ、思想の貧困さである。
もし高度成長政策のむかうべき基本方向が明らかであったならば、日本人としてのアイデンティティーに、はじめてふさわしい内容を盛ることができたであろう。
ここまでのべてきた考え方を、現代の若者はどう受けとるであろうか。その一例として次に引用するのは、国語の授業で学んだ戦争経験の記録の読後感として、高校三年生の女子が書いた文章の一部である。
――私たちの世代は、日本という国単位でものを考えることができないようになってしまっているけれど、そしてそれはそれでいいと思うのだけれど、自由の中ではたして私たちが一体何をしてきたか、というより、これから何をしていくのかを考えた場合、戦中派の人たちが戦争を経験しながら、必死になって日本の将来というものを考えたようには、私にはとてもできない。自分で自分の道を選ぶことができるという恵まれた状況にありながら、はたして私たちはしっかり自分をみつめているだろうかと思うと、全然自信がもてない。個人主義という言葉がいつのまにか利己主義になって、自分のことだけで精いっぱいで、いい意味で国家≠ニいうところまでおしひろげられなくなっているのではないだろうか。
国なんてなくて、地球という観念で進められたら、ステキだとは思うけれど、現実に国が存在し、私たちはまぎれもない日本人なのだから、やっぱりこれではいけないのだと思う。けれど思うだけで、そこから先へ進んでくれない。授業でも思ったことは思ったけれど、はたしてそこから自分が進歩したのかというと、なんか頼りないようで、結局何も分っていないような気がして、戦後三十年たった今、やはりみんなが、日本人全部が、もう一度戦争について考え、自分たちの今の生活について考えるべきで、考えた時点で、なにか(たとえそれがどんなにつらいことであっても)、変わらなければならないと思う――
日本人としてのアイデンティティーの確立にあたって、太平洋戦争の原因、経過、結末を客観的に分析することが、有力な手がかりとなることはさきにふれたが、たとえば連合軍の勝利は、正義の側に立つものが勝つという原則の当然の帰結であるとする単純な史観は、戦後の情勢変化によって否定されている事実を、認めなければなるまい。アメリカにとってのベトナム戦争、ソ連にとってのハンガリー事件、チェコ事件、中ソ紛争、中近東をめぐる列強の利害の衝突は、国家がかかげる正義の理想のあり方が、太平洋戦争以前と同じように、なお明白でないことを示している。
戦後の世界は新しい国際協調時代を迎え、有力な国家間の連合を土台にして和平が推進されると期待する見方もあったが、ナショナリズムの自己主張は、戦後逆にますます強まりつつあるのが実情である。オイルの争奪、通貨戦争は、その一端に過ぎない。
ナショナリズムの高まりという注目すべき事実に、目をつぶって戦後の過渡期を空費してきた日本は、独自の国家観をもたないまま今日に至った。そして国家観のないところには、正しい外交も、安定した国民世論の形成もないことは、いうまでもない。
戦後何度か訪れた政治の緊迫局面に対応して、日本人はその都度賢明な選択をしたと自認する意見もあろうが、国家観のないところに、国民の主体的な行動などありえない。平和憲法を作る、戦犯を裁く、自衛隊を創る、安保条約を結ぶ、日ソ、日中の和平を促進する。いずれも国の将来を決定づける重要な政策決定の場面であるが、この間に一貫した方針を欠くのはもちろん、それぞれどのような判断に立って国の政策を決定したかの根拠が、国民の眼にさえ明らかではないのである。
日本人は何を価値基準とするのか。国家の安全の確保、国民生活の向上、持てるものを最大限に提供することによる、他国との友好関係の推進。それぞれに、どの程度の優先度をあたえるのか。国益などどうでもよいと揶揄《やゆ》するのを好む新聞論調は、はたして国民の総意を反映したものといえるのか。
ニクソン・ショック、オイル・ショック、円相場の急速かつ大幅な騰貴、という一連の異変は、日本人の「私」の利益追求の努力そのものが、「公」的立場の確立なくしては、一歩も進みえぬことを実証した。日本および日本人は、世界のなかで歓迎される存在となりうるか、なりうるとすれば、具体的にどの分野で、どのようなバランスの上で実現されるのか。
資源らしい資源を持たず、花のように「かよわい」日本が、世界の孤児とならないために、日本を孤立化させてはならないとする世界の世論を、何を手がかりとして引き出すのか。
戦後日本に欠落したもの、日本人としてのアイデンティティーの確立が、現在ほど喫緊《きつきん》の課題として求められている時は、ないであろう。
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青年は何のために戦ったか
太平洋戦争が昭和史五十年の方向を決定づけ、その時代の歴史としての帰趨《きすう》の死命を制した事件であったことは、疑いをいれぬ事実である。しかし戦後三十年をへた今、この戦争が日本人にとって何を意味したかという課題は、まだ解かれていない。解かれていないどころか、正面から問われてさえいないと私は考える。
私がこの小論で試みようとするのは、みずから太平洋戦争を戦った青年たちを主役にして、この問いかけを捉え直すことである。彼らが書き残した手記、遺書、手紙を主な手がかりとして、彼らが何ゆえに戦争協力を拒否せず、何を目的として戦闘行為に殉じようとしたかを、解明することである。
青年を主役に選んだのは、彼らが最も率直に赤裸々に、戦争の本質に対面したと思うからである。戦死した青年の中では、数の上で下士官兵が圧倒的な大きさを占めており、また銃後にあって空襲の犠牲となった無数の市民の場合も、戦争体験としての重さの上で前線の将兵となんら変わりはないが、その感情、意志、思想をわれわれの眼にふれる貴重な資料の形で数多く記録してくれたという理由から、ここでは学徒兵に焦点をあてて論を進めることとしたい。陸海の職業軍人の場合も、その戦争体験にはたしかに独自なものがあるが、残念ながらその死後には、型にはまった遺書のほか、血の通った言葉はほとんど残されていないのである。
なおあの戦争を「満洲事変」から「太平洋戦争」まで、巨視的に「十五年戦争」として把握しようとする立場がある。昭和史の中の位置づけとしてはこの方がより的確かもしれないが、私があえて「太平洋戦争」としたのは、破局に近づく困難な戦局の中で、みずからの意志に反して戦場にかり出された学徒兵の運命に、この戦争が日本人につきつける何のためにという問いかけが、集約されていると考えるからである。
戦場では常に死の危険が身辺に漂うが、出撃を目前にした特攻隊員が直面しなければならないのは、それとはまた別の緊迫感であった。今さら何と差しちがえて死ぬべきか≠、思いめぐらしている余裕はない。私利私欲の醜さ、一身の軽さを思い、自分の生死を超えた使命、永続する世界の重さをくり返し想起して、それにすがりつく以外に、確実な死を迎え入れる平静さが保てない、というのが、一般の例であった。いや、平静さではなく、内心は煮えたぎるような苛立《いらだ》ちとたかぶりであったかもしれない。青年として未来にどのように豊かにも夢想しえた可能性が、寸分も狂いない出撃計画に従って、いっさい失われようとしているのである。
――人と生れ、誰か家郷を想わざる。私事私欲にとらわれぬ者がありましょうか。しかし、それら諸々の私欲、煩悩を越えて、厳然とそびゆるもの、悠久の大義に生きることこそ、最も大いなる私≠顕現することなのです。家を忘れよ、親を忘れよ、子を忘れよ。すべての私事から脱却し得るものこそ、真の忠臣であり、それがひっきょう、真に親を想い、子を想う所以《ゆえん》です。と、このようなことが艦の中で見た書物に書いてありましたが、全くそうだと存じます。――
これは海軍機関学校出身、都所静也の遺書の一節である。たまたま読んだ本からの引用だと断わっているところが職業軍人らしいが、私欲を没却して厳然とそびゆるものに生きることが、なぜ私≠最大限に生かす所以なのか。この矛盾をそのまま呑みこもうとする心意気に、むしろそのことだけに彼の思いがこめられている。そして悠久の大義≠ニは、こういう場合まさに打ってつけの慣用語であった。
学徒兵ならば、そこのところをもう少し複雑に微妙に言いあらわそうとする。早大出身の神風特別攻撃隊員、根尾久男は、父あての遺書に書いている。――父上様、久男入隊に際し、送別の宴を賜わりしその席上、「久男は私の意に叶《かな》えり」と言われしを、未だに唯一最大の誇りといたしております。幸いにして久男、御楯《みたて》として忠死いたす秋《とき》いたらば、その折こそ、「久男は意に叶えり」とお喜び下さい。唯一の願いであります。神前に御燈明を点《とも》してお祝い下さい。久男はすでに二十六歳となりました。人生の半ばを過ぎたるに、世間を知らず、女を知らず、金銭を持たず、今はその信条の貫徹に満足しているおりです。お笑い下さい。――
お笑い下さい≠ニいう結びが、いかにも哀切である。万感をこめて久男は私の意に叶えり≠ニ呼びかけざるをえなかった父の内心の苦衷にこの結びの一句は応《こた》えている。しかしそれほど配慮の行きとどいていた彼にさえ、特攻死の明確な意義づけはむつかしかったのであろう。みずからの死の姿は、御楯として忠死いたす≠ニしか描きえていないのである。
学徒兵以外の、特に若い下士官兵の場合はもっと簡明であった。悠久の大義≠ニして求めらるべきものは、ほとんどの場合、国≠るいは君国≠ニ、具体的な形で表現された。しかし天皇≠ニ明記されたものは、きわめて少ない。軍隊では日常茶飯事であった儀礼的な作文、上官の質問に対する作られた答弁の中では、天皇の名がしばしば援用されたのとはちがって、死の瀬戸ぎわまで追いつめられた一国民にとって、天皇は国と合体し、その背後にひそむ象徴的な存在に過ぎなかったのである。
しかしこの事実は、戦争で空費されたおびただしい数の生命に、天皇の名がかかわりがないということを意味しない。兵士の一人一人は、天皇の名において、天皇の名を借りた権力によって、あまりにも多くのものを強いられた。それは選択の余地のない重圧であった。その重さを最もよく知っていたのは、正真正銘、君国のために¥}じようと戦った兵たちであったにちがいない。
かけがえのない生命を捧げる対象として、どれほど立派な大義名分を持ち出してきたとしても、死者の筆がその内実にふれることはない。ただ大義の形を表面からなぞるだけである。そうした遺書はたいてい短く、文章が途中でプツッと切れてしまう。それ以上書き進めば、どんなに権威があるはずの大義も、内実が空《から》であることをかくせなくなるのが恐ろしい、とでも言いたげである。
そのように筆を折った遺書から、自分には空白しかない≠ニ正直に告白する遺書までは、ほんの一歩のへだたりである。その時もし彼が遺書ではなく自由な手記を書く時間をあたえられたならば、あるいは自分の心情を正確に分析し表現する習性を身につけていたならば、大義名分をかかげるのと同じ筆で、同じ真率さで、大義の全体が空虚であることを書き残していたであろう。大阪商大出身の回天特攻隊員、久家稔は、弟への最後の言葉をこう書いている。――愛する弟よ。兄は今永遠に不滅の世界にとびこまんとしている。貴様にはもう今更語ることもない。既に貴様の知識、思想は俺を凌駕《りようが》していることと信じる。俺の心には生もなければ死もない。ただあるは空の一字。死生観というのは生に、また死に拘泥するから起る。生も死もない、ただあるのは空の一字。
俺は貴様が必ず兄の後を継いでくれることを確信して征《ゆ》く。弟よ、堅固なる信念を持って真摯《しんし》なる学徒として、一日一日を無駄に過ごすな。これが至らぬ兄の最後の言葉。――
生も死もない、と言い切るが、現実はちがう。死だけがあるのである。空の一字、というのも、彼の本意ではない。一切が空白のみと悟り切った男が、弟にただ堅固なる信念、真摯なる努力を、と言いのこすだろうか。兄の後をつぎ、兄を凌駕してくれと願うだろうか。ここでは自分のあとに残るものへの誠意をこめた呼びかけと、埋めようのない虚無感とが、表裏をなしている。空の一字≠ニいう断定には、永遠に不滅の世界≠謳《うた》いながら、その実体をつかめぬままに死ななければならない無念の想いが、こめられている。
この無念さが昂じると、空≠フ一字を吐き出すにとどまらず、自分には空≠オかないことを実証する行動に出ようとする。海軍兵学校出身の回天特攻隊員、久住宏は、遺書の中で両親あてに、死後とるべき処置を具体的に依頼している。――次に二、三の御願い聞きおかれ度《たく》。第一に万が一此の度の挙が公にされ、私の事が表に出る如き事あらば、努めて固辞して決して世人の目に触れしめず、騒がるる事無きよう、葬儀其の他の行事も、努めて内輪にさるる様、右固く御願い申上げ候。又訪問者あるも、進んで私の事に就て話さるるような事の決してなき様、願わくば君が辺《へ》なる無名の防人《さきもり》として、南溟《なんめい》の海深く安らかに眠り度存じ居り候。――
彼は職業軍人であり、みずから求めて防人の役を引きうけたはずである。しかも回天特攻出撃の一員に選ばれることは、願ってもない名誉であった。特攻死という結末に、いまさら文句を言える筋合いはない。その意味で、ここに一言の恨みごとも書かれていないのは当然である。むしろ晴れがましい決死の出陣である故に、かえって勲功も世評も相手にせず、無名のまま安らかに眠りたいと切願する。その決然たる語調に、ただ特攻隊員でさえあれば死を恐れぬ英雄として無条件にもてはやした、当時の風潮に対する憤激がかくされているように思われる。そのような英雄讃美こそ、特攻隊員の胸中にあるものからは最も遠かったのである。
飛行機による神風特攻、あるいは人間魚雷による特攻の出撃の状況をつたえる写真が、戦後にわずかながら残っている。出撃する隊員は汗にまみれた軍装に鉢巻をつけただけといういでたちで、仲間と別れの盃をかわしたり、見送る人に敬礼したりしている。死出の旅を急ごうとする隊列の中に自分の顔を見出した生存者は、ひとしくある感懐を味わうという。それは写真の中の自分が、何と幼げな悲しみの表情をしているのか、という衝撃である。栄えある勇士たちの眼は、何も見ていない。もし何かを見ようと眼を見開いたら、ものの向うが見え過ぎてしまうことに堪えられない、という予感が、喜怒哀楽をこえて彼らを無表情にしているのであろうか。
悠久の大義におのれの生命を託すのと、その裏側に空白を見るのが紙一重の差であるとすれば、空白の中に身を沈めていった先には、もう一度おのれ≠ェ見えてくるはずである。世間がどれほど騒ぎ立てようとも、たとえ天地がくつがえろうとも、結局は自分の手で自分を始末するほかないのである。すべてが空だ≠ニいう嘆きは、それなりに正直な気持を吐き出したものにちがいないが、その言葉を書きつけてから短い時間のうちに死があたえられないと、ただ空白というだけではすまなくなる。空≠ニいう断定の鋭い余韻が、自分にはね返ってくるのである。
――大学の航空部の壮行会が雅叙園で開かれた。(略)出る者より残る者の方が楽しそうに騒いだ。もちろん行を壮《さか》んにする気だろうが、何かしら空虚な気持がした。今ここに至っては、我らが御楯となるのは当然である。悲壮も興奮もない。若さと情熱を潜め、己れの姿を視つめ、古《いにしえ》の若武者が香を焚き出陣したように、心静かに行きたい。征く者の気持は皆そうである。周囲があまり騒ぎすぎる。くるべきことが当然きたまでのことであるのに。――
早大生、市島保男は、学徒出陣を控えた大学の壮行会で、この戦争に臨む学徒兵の基本姿勢が、おのれをみつめる&ス静さにあるべきことを、いち早く見通している。彼がそれから神風特別攻撃隊員として散華するまでの一年半を、どのように過ごしたかは想像に難くない。征く者の気持は皆そうである≠ニ彼は強調する。学窓から陸海空の第一線にはせ参ずるにあたって、多くの学徒兵は青年らしい潔癖さと、学生としての誇りをもって身を守ることが、最善の道であると直感していた。戦乱の中でおのれを見失い、いたずらに悲壮感や昂奮にかられることは、なによりも学徒兵としての本分を忘れた、最も醜い所業であると肝に銘じていた。
くるべきことが当然きたまでのこと≠ニいう突き放した言い方には、平静さから生れた苦《にが》い認識がひそんでいる。日本の動静をめぐるあらゆる事態が、もはや抜きさしならぬ難局に向って直進していること、これまで祖国が孤立への道を転落してゆく過程で、時の勢いを阻止するのに自分たち青年は無力であったし、これからも無力であるほかはないことを彼は知っており、そこには重い悔恨と自責がうずいていたにちがいない。
ここで彼が身につけなければならないのはしたがって勇猛心ではない。いかなる困難に遭遇しても、おのれをみつめつづける平常心である。それだけが、時の流れに押し流されずに、おのれの死の意味を追い求める強さを生むはずであった。
このおのれをみつめる≠ニいう姿勢は、おそらくあらゆる求道的な思索、宗教心の出発点にあるものであろう。戦争は人間を動物のように利己的にするが、時として我欲を超越するほどの勇気をあたえることも稀《まれ》ではない。青年はとくに、生死の体験をくぐりぬけることによってロマンチックになる。詩人になり哲学者になる。我欲にとらわれていたのでは、彼らの若い感情が、課せられる試練の異常さに堪えかねるのである。
神風特別攻撃隊員として戦死する二週間前に、「追憶」と題して次のように書いた中大出身の溝口幸次郎は、すでに立派な求道者《ぐどうしや》であった。――私の父上も、母上も、農に生きぬいた偉い方です。両親の若い時の苦闘を聞くと、ほんとうにすまない気がします。もう何のお手伝いをすることもできない私の不孝をお許し下さい。どうぞ御体御大切に。(略)
生れ出てより死ぬるまで、我らは己れの一秒一刻によって創られる人生の彫刻を、悲喜善悪のしゅらぞうを刻みつつあるのです。私は一刻が恐しかった。一秒が重荷だった。もう一歩も人生を進むには恐しく、ぶっ倒れそうに感じたこともあった。しかしながら私の二十三年間の人生は、それが善であろうと、悪であろうと、悲しみであろうと、喜びであろうとも、刻み刻まれてきたのです。私は、私の全精魂をうって、最後の入魂《にゆうこん》に努力しなければならない。――
彼の場合明らかなことは、何のために戦争をするのかという課題が、二十三年の短い人生を賭けて善悪哀歓を超えようとした求道の完結と、一致しているという事実である。
おのれをみつめる≠ニいう営為は、おのれのうちに深く入ろうとすればするほど、おのれをこえる%w力に近づく。自己凝視がただそれだけにとどまる限り、終着点がないのが人間の限界というものであろう。自己凝視に徹するためには、自己を投げ出さなければならない。おのれを超える|あるもの《ヽヽヽヽ》の前に、投げ出さなければならない。しかし人間が真実おのれを超えられるかといえば、それはおのれをみつめる以上に、手のとどかぬ難事であろう。
京大で東洋史を学んだ柳田陽一は、太平洋戦争の開戦から五カ月ほど前の手記に書いている。――応召盛んなり。いよいよ非常時を思う。一刻一刻が、奈落への転落の刹那《せつな》にある。何時《いつ》か。今がその瞬間かも知れない。大きな、目には見えぬあらしがかける。かける。わけのわからないものが、渦巻のごとく身をとりまく。それが私を未知の世界にふき上げる。何ていう時だ。人間とは、歴史とは、世界とは、いったい何なのだ。誰が歴史を動かすのだ。はげしい怒濤《どとう》にもまれているような。幻《まぼろし》の馬車のわだちがきこえる。目に見えぬわだちの音が聞こえる。歴史とは何だ。人間とは何だ。いったい俺をどうしようというのだろう。――
いったい俺をどうしようというのだろう、という脅《おび》えた結びの一句は、おのれの運命を予告している。それからわずか半年後、開戦後間もなく彼は殉職して果てる。戦局がまだ初期の時代に、彼の鋭敏な頭脳と直感は、この戦争が自分を含めた日本人全体の存在の根底をゆるがすほどの奥深い意味をもつものであることを予感し、これまで身につけてきた知識、思想のすべてを動員して対決しようと身構える。未知の世界に立ち向うことはむしろよろこびであり、戦争こそその好機なのだと強調したい様子が、行間に読みとれる。
この張りつめた語調を、今の時代からみて幼いセンチメンタリズムだと笑うことは、あるいはやさしいかも知れない。しかし誰に笑う資格があるのだろうか。人間とは、歴史とは、世界とは、いったい何なのだ≠アの素朴な疑問に、誰か答えられようか。戦後史の三十年は、答える何かをもっているのか。一途におのれを超えることに専念した一学徒の苦悩は、既成の枠にはめこまれた解答を拒否しており、そのことによって遠く戦後史の混迷まで見通していた、ということではないのか。誰が歴史を動かすのだ≠ニいう詰問に、われわれはまだこたえるべき結論を見出していないのではないか。
おのれを超えようとする努力の一つの系列は、おのずから宗教に結びつく。欧米では、大多数の兵士は戦場で身にふりかかる様々な苦悩や困難を切りぬけるのに、キリスト教の信仰をよりどころとしてきた。一部の絶対平和主義にたつ教派をのぞいて、キリスト教の主流は、国民が義務として正しい戦争に参加することと、神への服従とは必ずしも矛盾しないという立場をこれまでとってきたから、信者である兵士は、そこに安んじて妥協点を見出すことが可能であった。例えばある激戦が終ると、投降した兵隊と攻撃軍の兵隊が同じ信者同士に返って抱きあったというような美談が、第一次大戦中にはよくきかれたものである。
東大で数学を学んだクリスチャンの大井栄光は、太平洋戦争の開戦前に華北の戦線で戦死したが、出征にあたって母あてに遺書を書いている。
――私にとっていわゆる最後の勝利が、生還によってはじめて成就されるものか、あるいは戦死してのみ与えられるものかは、今のところ全然わかりません。がそれだけに、いとも朗らかに出発していけますから、どうか留守の皆も楽しい日々を送って私の必生(必死)の修養を見守っていていただきたい。死すればそれはまた主《しゆ》の御旨《みむね》ですから、めめしく涙など流さぬこと、生還したとしても、それで最後の勝利が与えられたわけではないのですから、軽々に笑わぬことを願います。
以上何だか深刻な長談義になりましたが、その中から微笑だけを読みとってください。これからはもうすこしおもしろい、ひょうきんな快いこともたくさん書きたいと思います。――
主の御旨をたずね、最後の勝利を求めているのは、まぎれもなくキリスト者の発言であるが、彼が息子として母に真剣に訴えかけようとしている願いは、欧米人のような伝統的信仰の安定とは、別のところからあふれ出ているのではないだろうか。微笑だけをくみとってください∞これからはもっと面白いことを書きます≠アのように自分を抑えたさりげない呟きは、かえってよほど根の深い痛みからしかもれてこないものである。彼は信仰による救いだけに満足せず、そこを通り抜けてもう一度自分をあばこうとしている。もし自分が生還したとしても、軽々しく笑ってくれるなという母への呼びかけは、彼があの戦争の時代の直中《ただなか》に生きた知性ある青年であったことを、何よりも証《あか》しするものであろう。
おのれをこえる″s為が抽象的な想念にとどまらず、具体的な目標を求めずにはおれなくなった時、おのれとその目標とを結びつける関係が必要になる。おのれの側からみればそれが対象を護ろうとする″s動となるのは自然であろう。
悠久の大義は、それに向って一方的におのれを捧げるほかにかかわりようのないものであるが、護るべき目標は、どれほど広大なものであっても、手のとどく目標、少なくとも手がとどくと期待できる目標でなければならない。手がとどくと期待を抱かせることが、護るべき対象となりうる必須の条件である。
そもそも微力な一兵士が、自分をはるかにこえる広大な存在を護りうると考えるのは、はじめから錯覚ではないのか。今の平和な時代の傍観者は、当然そのように反論するであろう。しかし事実は、長い歴史を通じまた世界の多くの国で、無数の兵士は、戦争という巨大な虚妄のために命を捨てる孤独感に打ち勝とうとして、自分はある公的な存在、価値ある実体を護る使命をあたえられているのだと、みずから納得させてきた。そしてその護るべき対象の最大公約数は、祖国と同胞であった。
慶大出身の神風特別攻撃隊員、林憲正は、出撃に備えた猛訓練の最中の日記に書いている。――私は郷土を護るために死ぬことができるであろう。私にとって郷土は愛すべき土地、愛すべき人であるからである。私は故郷を後にして故郷を今や大きく眺めることができる。私は日本を近い将来に大きく眺める立場となるであろう。私は日本を離れるのであるから。そのときこそ、私は日本をほんとうの意味の祖国として郷土として意識し、その清らかさ、高さ、尊さ、美しさを護るために死ぬことができるであろう。
私はこんなことを考えてみた。そして安心したのである。まことに「私」の周囲のできごとは卑小である。私のこころは今救われている。朗らかである。――
彼のいう郷土は、愛すべき祖国とそこに住む人々の象徴である。郷土を護るためには死ぬことができると彼は言い切る。しかし護る≠アとによって、何をどうしようというのか。誰にどんな影響をあたえうるというのか。彼自身の筆が、そのことを正確に暗示する。郷土は彼から終始断ち切られている。むしろ郷土から断ち切られることによって彼ははじめて郷土が何たるかを意識する。郷土から遠く切り離されることによって、はじめて郷土は身近なものとなる。
彼はおのれの生命の卑小さと、祖国の清らかさ、高さ、尊さ、美しさとを対比させ、この大きなもののために殉死することができれば、自分は救われるのだと高言する。朗らかである、という口調の明るさに、日記を書き綴っている表情が見える思いがする。清く高く尊く美しい日本。なんと純真な、痛ましいまでに透明な祖国のイメージか。このような願望を吐き出す以外に、彼にはもはや指一本国にふれることは許されていないのである。
彼の死後、祖国はどのように変貌したか。彼の願望は、どんな形で充たされたのか。あの清純なイメージは、どこにいったのか。それとも、郷土≠ニいう捉え方そのものが、消え失せてしまったのであろうか。
遺稿集「くちなしの花」で知られる慶大出身の陸上攻撃機機長、宅島徳光は、恋人八重子あての返信にこう書いた。
――私自身の未来を私は予知することができない。そして私は私であっても、私の私ではない。このことは、賢明な君は良く理解してくれると信ずる。もはや、私は君一人を愛すること以上に、日本を、そして君を含めた日本の人々を愛している。(略)君に会える日はもう充分ないだろう。あるいは永久にないかもしれない。――
ここでの主題は、恋人との決別の予告である。結婚への段取りまで考えた相手に対して、この手紙の三カ月後、彼は、「はっきりいう。俺はお前を愛している。しかし、俺の心の中には今ではお前よりもたいせつなものを蔵するようになった」と書いて、二人の愛の終結を宣言する。私は私であっても、私の私ではないというのは、ましてやお前の私でもないということを、強調しているに過ぎない。そこには、恋人が素直にこの決別の辞を受けとってくれないかもしれないことへの不安が、かくされている。賢明な君は良く理解してくれると信ずると訴え、もう永久に会えないかもしれないと嘆いているのは、是非この愛を断念してほしいという祈りのほとばしりであろう。しかし彼自身決然と愛を断ち切ろうと努めているのに、われわれの胸に響いてくるのは、恋人にたいするまことに痛切な思慕の情である。これほどに力強い愛恋の火を、より大きなもののためには断念して悔いないとする。その大きなものの実体とは、何なのか。それは彼の表現によれば、君を含めた日本の人々≠ノ対する愛である。
恋人を失う苦しみに堪えるために、恋人を含めた同胞への愛という逃げ道を、彼が必要としたということであろうか。いや、逃げ道などではない。護るに値する日本の人々≠ノついて、彼には明確なイメージがあったのである。愛の断念を宣言する同じ手紙の中で、彼は書いている。――俺は昨日、静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔も見えない遠くから、俺達に頭を下げてくれた子供達のいじらしさに強く胸を打たれたのである。もしそれがお前に対する愛よりも遙かに強いものというなら、お前は怒るだろうか。否、俺の心を理解してくれるだろう。ほんとうにあのような可愛い子供等のためなら、生命も決して惜しくはない。――
この告白に、一言の解釈もつけ加える必要はあるまい。
いじらしい子供たちのためなら、死んでも悔いはないという言い方が、やや文学的過ぎるとすれば、京大で西洋史を学んだ林|尹夫《ただお》の、手記「わがいのち月明に燃ゆ」の中の次の文章を読んでいただきたい。偵察機搭乗員となるための非人間的な苛酷な訓練の中で、彼は軍隊や国家と自分とをつなぐ線を否定し、ただ身近にいる愛する人々と美しい風土を護るためにだけ、戦うのだと宣明する。自分は全体のために生きるのではなく、全体は個人の生命を全うするためにのみあるのだ、という発言は、その大胆さと明晰《めいせき》さによって、無言のまま死んでいった多くの戦友たちの共感を、よびさますにちがいない。
――しかしおれは、軍隊に奉仕するものではない。おれは現代に生きる苦悩のために働く。(略)おれは軍隊とか、あるいは機構的にみた日本の国のためでなく、日本の人々のために……いな、これも嘘だ。おれが血肉をわけた愛《いと》しき人々と、美しい京都のために、闘おうとする感情がおこる。つまらぬ、とも、わけが判らぬ、とも、人は言うがよい。
おれはただ、全体のために生きるのではないのだ。全体がその生命を得ぬと、個人の生命が全うできぬがゆえに、おれは生きるのだ。――
悠久の大義、いや空白のみ。空白の中を探り求めて、おのれをみつめ、おのれを超えようとする。そして祖国と同胞のために殉死する。……青年は何のために戦争に協力したのかという設問を解いていくと、われわれはこのようにからみ合う輪の中にとらえられる。それは難問がいく重にも折り重なって、青年の上におおいかぶさっているからである。……平和とナショナリズム、自由と同胞愛、正義の立場と不義の立場、戦争への疑問と忠誠義務。
(しかし世界をおおうこの混乱と矛盾は、三十年前も現在も基本的な変化はない。それを一挙に収拾する結論を、今日まだわれわれは手にしていないのである)
矛盾の中に落ちこんだまま脱却の方向が見きわめられないとすれば、残された道は、眼を現実から未来に向けることしかない。今自分がおちいっている混迷から、未来に向って一歩でも前進発展があることを期待し、期待から生れる願望、懇願を書き残しておくことしかない。書き残すその寸言|隻句《せつく》こそ、生命を代償にかちえた収穫であり、それが後の世代のただ一人の同胞の眼にふれただけでも、自分という人間がこの世に生をうけた意味があると、納得するほかないのである。
高知高校在学中に入隊し戦病死した池田浩平は、出陣前の手記に、真の愛国について所感を書いている。――ああ、矛盾は大きく悩みは深い。祖国日本への愛の中に死ぬることのできる人は幸福である。もちろんそれはりっぱな死である。しかし世界の行末を考えると、のんきな顔はしていられない。身にうれいをまとうて、真に日本を天壌無窮たらしめんとの悲願に刻々胸を痛めている者こそ、真の愛国者ではなかろうか。このうれいのないところに、今日の日本青年にとって、武士道的な形而上的な死はありえないと信ずる。うれいを、世界史における祖国の使命の上に馳せ、新しい秩序の何によって生れるかを、私は深刻に考えている。――
世界史の行末を考え、新生日本をどのように建設するかについて、多くの青年学徒が様々な未来図を描いて死んでいった。その一人は、祖国がなぜ太平洋戦争を回避できなかったかの反省から出発して、戦後日本の使命は、新しい世界史における主体的役割を担う≠アとにあると考えた。別の一人は、あらゆるものを根底から再吟味し、すべての面で混乱におちいらせる。マルキシズムも自由主義も、すべてその根本理論から究明し解決するところから、真の発展が始まるだろう≠ニ、予言した。さらに別の一人は、新緑の萌《も》え出るような希望と明るさ、生命の躍動した日本。本当に感謝し、隣人を愛し、肉親とむつび、みなが助けあいたい≠ニ、理想郷を造型した。われわれは広く深く歴史をさぐってみなければならぬ。そしてもっと謙譲であるべきだ。黙々として、永遠に全人類の心の底を脈打って流れる貢献をなそう≠ニ呼びかけたものも、また日本をマケドニヤや蒙古のように終らせたくない。ギリシャのようにフランスのようにあらせたい≠ニ念願したものもいた。
この戦争が無策な惨敗に終ろうとしていることについて、誰かを恨むというのではなく、国民の一人として次のように正直な自己反省を公けにし、将来の戒めとしているのは、青年らしい潔《いさぎよ》さというべきであろう。日本はあらゆる面で、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的に試練と発展が足りなかった。現在のような指導者の存在を許してきたのは、国民全体の頭脳に責任がある∞国民は軍人を非難する前に、軍人の存在を許容し、また養ってきたのだということを知らねばならぬ。結局の責任は、国民全体の知能程度の浅さ、歴史の浅さ、近世社会としての訓練と経験の不足にある∞日本が負けたのは当然である。物資に乏しく、科学性に幼く、人心は久しく腐敗し、盲目であった。敗戦を神の摂理として日本は生れ変るべきである
しかし彼らは戦争末期の世相に絶望し、いたずらに悲壮ぶっていたわけではない。青年たちの筆になる多くの手記、手紙、遺書を一貫して流れている基調は、未来に向っての明るさ、期待感の強さである。彼らは後からくる青年たちが、信頼するに足りることを確信していたのだから、それは当然であった。何をよりどころにして、後輩を信頼したのか。自分たちの死後にくる世代を信頼して望みを託する以外に、みずからの殉死の意味を納得する道はなかったのである。
東大出身の特攻隊員、久保恵男は、兄と姉にあてた手紙に書いている。――私の個体もこの大きな歴史の頂《いただき》に燃焼する。私はそれを快く見つめることができます。ただ私たちは、自分たちの思想や仕事をうけついでくれるべき人間をあとに遺したい。そして、私のなしえなかった生活と理想を完成させてください。――彼は到達しうる頂点まで戦い進んで、そこで燃えつきた。燃えながら後の世代に遺志を書きのこし、遺志を引きついで完成してほしいと懇願した。今日もおそらく、歴史のはるか彼方から、彼の懇願はつづけられている。戦後世代はその声を、どのように聴くであろうか。
以上に見てきたものとは傾向を異にして、戦争とはある距離を保ち、その中にまきこまれまいと努力した青年学徒の事例も、もとより少なくないが、その実態はいくつかの行き方に分けることができるように思う。
第一は、あたえられた現実を達観しようとする態度である。戦場にある兵士は傍観者であることを許されないが、出来る限り肉体の束縛から、精神を解き放つのである。むし暑い夜。一歩外の自由の世界。われわれの、遮絶されているいわば影の世界。表面われわれは強い光の世界、たくましい前進の世界だ。しかしわれわれの精神は陰《くら》い。兵隊とは、光栄ある囚人の世界にほかならぬ∞学徒は真理の使徒である。学徒の愛国は国家の真実を護ること。学徒の魂は真実のない国家よりも国家のない真実を求める=B第一線で戦った将兵が、このような公正な視点から格調高い文章を書きのこすには、よほどの勇気が必要であることを知らねばならない。
第二は厭戦《えんせん》の情をおもてにあらわす態度である。初めから軍隊生活に抵抗感の強い青年は数多く存在したから、彼らが学窓からいきなり破局的な消耗戦にかり出されれば、救われ難い思いに悩むのは自然な成行きであった。次に二つの例だけを引用しておきたい。はっきり言うが俺は好きで死ぬんじゃない。何の心に残ることなく死ぬんじゃない。国の前途が心配だ。いやそれよりも父上、母上、そして君達(妹たち)の前途が心配だ。心配で心配でたまらない。皆が俺の死を知って心定まらず、悲しんでお互いにくだらない道を踏んでいったならば、俺は一体どうなるんだろう∞わが愛する妻よ。海よりも深い、この人の世の航海よりもながい愛情のまえで、戦争など何物であろう。南十字星の見える海の上にきて、しかもあなたの姿は記憶をこえて激しく鮮かである
あからさまな厭戦の言葉を書き残すことも、勇気ある行為だと評価する見方はありえよう。今の例でいえば、前のが前線で書いた日記の一節、後のはひそかに知人に託して投函した手紙の一節であり、どれも発見されればただではすまされない。厭戦はたしかに戦争に抵抗しようとする意思表示である。しかしそれは反戦とは異る。反戦の芽とはなりえても、単なる戦争嫌悪にとどまる限り、自分の手を戦闘行為で汚すまいとする目的をみたすにとどまるであろう。積極的に戦闘に参加したものは内心で平和を嫌悪し、一方消極的に戦闘に協力したものは平和を愛好していたはずだという選別は、われわれが経験した事実と相違している。人間と戦争とのかかわり合いは、そのように図式化するにはあまりに多岐複雑であると思われる。
反戦は言葉や思想というよりも、意志であり、行動である。戦争は一言でいえば国家間の武力抗争であり、反戦の本質は、国家権力そのものに対する敵対行為という点にある。したがって実行に移された反戦行為は、国家権力によって規制され、処罰されるのが通例である。反戦という行動の背景が、文字の形で記憶されることが少ない理由の一つは、そこにある。その中にあって、ゾルゲ事件のスパイ容疑で処刑された尾崎秀実が、家族あてに書きのこした最後の言葉、大きく目を開いてこの時代を見よ。真に時代を洞見するならば、もはや人を羨む必要もなく、またわが家の不幸を嘆くにも当らないであろう≠ヘ、思想の大きさを示すものとして注目に値する。
真の反戦は、戦争の性格や平和の条件の判断をこえて、絶対平和の立場に立つものでなければならない。正義の戦争ならば支持し、不義の戦争には反対するという立場が、過去も現在も有力であり、第二次世界大戦の骨格も、正義の側に立つ連合国の当然の勝利として捉える見方が大勢であったが、戦後史の三十年は、この見方の正当性を裏付けてはいない。
朝鮮動乱、中東戦争、ハンガリー事件、ベトナム戦争、チェコ事件、中ソ紛争と続く戦後戦争史の流れは、正義の戦争、不義の戦争の判別基準をいよいよ不鮮明にし、逆に大国の権力思想、エゴイズムをますます露呈させているように思われる。ある種の戦争ならば支持するという主張を含む反戦が、真の反戦になりえていないことは、明らかである。
日本人は、そして特に青年は、何のために太平洋戦争を戦ったのかという設問が、まだ解かれていないという事実は、戦後史のこのような混迷にも、つながっているのではないだろうか。
[#改ページ]
戦中の青年たちは何を読んだか
このテーマをあたえられて、有難いと思った。われわれ戦争派世代にとって、戦中になめたさまざまな体験は、かけがえのない青春の証《あか》しとして、今なおそれぞれの胸中に深くくいいっているが、それがわれわれ自身の人生に真実どのようにかかわるものであったかを解く有力な手がかりは、「あの時何を読んだか」という自問の中に見出されるにちがいないと、久しく考えていたからである。
戦争の時代を通じて、青年がどのように生きたかを典型的に示すものは、学徒出陣によって戦場にかり出された、いわゆる学徒兵≠フ場合であろう。私はその一員であり、これから書こうとする小論も学徒兵としての経験を主題とするものになるであろうが、学園から直接戦場に追い立てられた学徒出身者が、あの苛烈な環境の中でものを読むこと≠ノ異常な執念を燃やし続けた事実は、軍隊と戦争に対する単に若者らしい抵抗という以上の積極的な意味を持つ。
それは何よりも自分の本分が学生であることを自負し、その本分に忠実であろうとする行為にほかならなかったが、むしろその故にこそ、一部の論者から農家や工場の若者、ひいては銃後の国民すべてが悲惨な運命にあったのに、学徒兵だけが特に悲劇的であるかのように強調するのは、思いあがりもはなはだしい≠ニ指弾を受ける結果になったのである。
このような攻撃に対する反論は、安田武氏の次の慨嘆によって代表される。――「教育」の軽視、むしろ徹底的な蔑視《べつし》が、戦前・戦中の日本を支配した。戦争は、むろん「国民すべて」にとって「悲惨」であったが、その戦争下、教育にたいする蔑視のなかで、若い知性の苦悩を抱いて、「死ぬまで俺という人間だけは失いたくない」と「きけわだつみのこえ」に書いて、死んでいった若者たちの運命を、その運命を私たちが何度思いかえしても、「センチメンタリズム」や「特権階級視」であるはずがない。――
昭和十八年九月の学生徴兵猶予の停止によって、明治以来連綿と続いてきた法文系大学教育を断絶させるという徹底的な教育蔑視を実行したことが、近代日本の歩みの上で歴史的な事実であるとすれば、蔑視の対象とされた学徒兵が必死にその流れに抵抗しようと苦闘したことも、歴史的な事実であろう。彼らはものを読むこと≠ヨの執着を支えにして、みずから考えみずからの言葉を書き残すという営為に殉じようとした。東京商大出身の板尾興市は、入隊を間近に控え、父宛ての手紙にこう書いている。――(略)それにしてもあまりに短い月日しか残されていないので、何ら今までの学問への努力をまとめた形で残すこともできそうもなく、読みさした本に|しおり《ヽヽヽ》をはさんで出かけねばなりません。
ふたたび帰って書物の前に坐るのはいつの日のことかと考えますと、まことに寂しいしだいです。我々はあくまで学生であり、学問をもって自分の生命とし、学をもって国に報ずるの決心まことに堅きものがありますが、国家の要請の急なるこの時、幾多の思いを学問と国家の上に残しながら、国防の第一線におもむかねばならなくなったのです。――
一方、戦時中も兵隊にとられることなく、内地に残っていた青年たちが、どのような生活をしていたか。勤労動員と空襲と飢餓に脅かされながら、ものを読むだけのゆとりがあったのか。読んだとしたら何を読んだのか。そこにはいろいろなケースがあったであろうし、私は具体的事例を多くは知らない。おそらく動員先の作業の合い間に、また防空壕のロウソクの灯で、肩身の狭い思いに堪えて読んだ本は、学徒兵の場合と同じく、当時わが物顔に羽振りをきかしていたベストセラーの類《たぐ》い、例えばヒットラー「我が闘争」、ローゼンベルク「二十世紀の神話」や、国粋主義的な歴史書、精神講話、煽動《せんどう》的な政治論、世界戦略論、といったものではなかったはずである。もっと身についたもの、自分の青春を育ててくれた、いく冊かの限られた本だったであろう。
われわれの時代は、旧制高校に入って自立を志そうとすれば、先輩から引きついだ必読書のリストを尊重し、まずそれを実行してみるという気風が残っていた。必読書の最大公約数は、阿部次郎「三太郎の日記」、倉田百三「愛と認識との出発」、河合栄治郎「学生と読書」、「第一学生生活」であり、すこし固いものでは、西田幾多郎「善の研究」、出隆「哲学以前」であった。もちろん文学書もひろく読まれ、ドストエフスキー、ヘッセ、ジイド、トルストイ、ゲーテ、ロマン・ローラン、チェホフ、さらに漱石、直哉、康成や藤村、白秋、高村光太郎の詩などが多くの読者を得ていた。左翼的なものは、発禁になってからかなりの期間がたっていた。
もとより戦中の青年の経験として、軍隊に身を投じ戦塵にまみれることだけが、最も苛烈なものであったとはいい難い。銃後にあって勉学の機会も少なく、非生産的な役割に甘んじて生きることも、それに劣らず辛い経験であったろう。彼らは学徒兵のように多くの手紙、日記、遺書を書き残して戦後広い層の読者に感銘をあたえることもかなわず、ただ黙々と青白きインテリ≠フ屈辱に堪えるほかなかった。だからこそ戦場にある学徒兵以上に、うちからの支えを必要としたかもしれない。そしてその支えは、ひそかに愛読書を読みふけること以外になかったはずである。自分というものを言葉や文字で吐露する機会が与えられていないとすれば、読書によって著者と心を通わせ、そこに自分を投影することが為しうる唯一つのことであった。それまで何度読み返したかしれない本、ボロボロになった文庫本の何冊かが、長い戦中を通じ、かろうじて彼らに生きる勇気と目標を与えていたのではないだろうか。
次に、学徒兵として陸海軍の営門をくぐったわれわれの場合に主題を移したい。そこで最初に出会うのは、最も軍隊らしい関門、陸軍でいえば初年兵教育、海軍でいえば二等水兵教育である。この点は同じ学徒出身者でも、戦中派前期に属する先輩たちが特別に優遇されていたのとはいちじるしく趣きを異にする。その典型は初期の海軍短期現役主計科士官制度であり、彼らは経理学校に入校を許されると同時に中尉に任官し、即日海軍大臣、軍令部総長に伺候、宮中に参内して任官御礼の記帳をすませてから、通常四カ月の教育を受けたのであった。昭和十八年十二月の学徒出陣組、例の十月二十一日の明治神宮外苑競技場における「出陣学徒壮行会」で送られたわれわれのクラスだけが、唯一の例外として志願ではなく召集の形を強要され、またわれわれ以降のクラスはすべて二等兵、二等水兵の経歴をふまなければならなかったのである。
われわれの二等水兵時代は、五十日ていどと短かったけれども、そこで味わった経験の重さを、時間の長さや量ではかることはできない。苦悩の第一は文字というもの≠ゥらの絶縁であり、第二は徹底して受動的な日常、すなわちに日夜の鉄拳制裁を甘受すればそれで万事がすみ、自己凝視、自己反省の余地が全くないという空白感であった。
学生生活のあと、いち度社会に出て浮世の風にあたるというような中間過程を経ることなくいきなり不毛の二等兵生活に追いこまれたわれわれの違和感は、いやしがたい文字への渇望≠ニなって表面化した。東大で国文学を専攻した竹田喜義は、海兵団へ入って間もない頃、食事時間の数分前、食卓当番が配食準備に走りまわっているのを横眼でみるというあわただしさの中で、食卓の堅い木の長椅子に腰かけながら、メンソレータムの効能書を裏表すみからすみまで読みかえした経験を、日記に書きとめている。私物の所持にうるさかった海軍も、無害な薬品類にだけは例外的に寛大であったから、空腹にたえかねてわかもと≠一瓶一度にのむというツワモノもあらわれたが、学生らしい知恵は、数ある効能書の中で最も読みでがあるのは、おそろしい程の細字で懇切丁寧に書きこまれたメンソレのそれであることを発見していた。「文字に飢えるとは、これほどまでに切実なことか」と、ややシニカルな調子で彼はみずからを分析している。読むものの内容への渇望ではなくて、何でもよい、文字さえあれば、乾いた海綿が水を吸うように貪《むさぼ》り読もうとする。それが国文学の専門学徒の行動であるだけに、渇望感の異様さがよく理解できよう。
その頃、学徒兵たちが最もしばしば見た夢は、|くい《ヽヽ》物の夢ではなくて、本に関するものであったろう。よく訪ねたことのある古本屋の店先。何かにせかされるように本棚に目を走らす。背文字が次々と流れて目に入る。手を伸ばしてつかみたい本。無性に読書欲をそそられる本。しかし手を伸ばしてみると、不思議に手がとどかない。焦りと落胆……そこで目が覚める。夜毎に見る夢も、なかなか本を開いて活字に目が触れるところまではゆきつかない。そのずっと手前で果ててしまうのである。
もちろんこんな他愛ない夢ではなく、読書への執着のありようを的確にとらえることの出来た学徒も、少数ながらいた。遺稿集「わがいのち月明に燃ゆ」を世に残した林尹夫は、その頃の日記に書いている。――本も読めず、無駄な時間の過ぎる今、ぼくのいちばん望むのは、家に帰り、ゆっくり話をし、本を読み、飯をゆっくりたべ、風呂のあと、すぐ眠る。そして自分で定めた目標にむかい、勉強することだ。――いまおれは、ゆっくり本が読みたい。このぶんでは、とても戦争には行けない。死≠ネぞいまのおれにとって、Coup de theatre(思索の外の突発事)だ。――
二等水兵時代の文字への渇望≠ヘ、娑婆《しやば》っ気を断ち切るため、公認の海軍関係資料のほかは一切読書禁止という仕打ちによって、いよいよ堪え難いものとなった。通常の日課によれば、夕食から巡検用意までが自習時間にあてられていたが、机の上に並べておけるのは、法規集や軍事学、躾《しつけ》教育の参考書など教科資料に限られていた。しかも机と机の間の狭い通路を、精神棒をひっさげた教官が絶えず往復して監視するという厳重さであった。
もし冒険を試みる勇士がいれば、分厚い参考書を開いた綴《と》じ目の上に、ごく薄い小さな本をはさむようにのせ、監視の目が近づけば間一髪、ページをめくってかくしおおすことは不可能ではなかった。そして現実に、そのような勇士は存在した。彼が持ちこんだのは、本の名前と著者名だけをビッシリ印刷した、ごく薄手の小冊子「岩波文庫書名目録」であった。私物点検のたびに置き場所を変えることは容易でなかったはずなのに、彼は平然とそれをやってのけ、しかも自習時間中、大胆にもまわりの戦友たちに素早く手渡しして自由に回覧させたのである。
書名目録といえば、蔵書の整理など特殊な目的に使われるだけの無味乾燥なものであるのに、なぜ危険を冒して読みまわすほどの魅力があったのか。いや、文字に餓《かつ》えたわれわれをいやすには、無味乾燥な目録だけで、じゅうぶん過ぎる程だったのである。「アルト ハイデルベルク」、マイアーフェルスター、番匠谷英一訳、星二つ。「若きヴェルテルの悩み」、ゲーテ、竹山道雄訳、星二つ。「即興詩人」、アンデルセン、森鴎外訳、全二冊、各星二つ。「出家とその弟子」、倉田百三、星二つ。「竹沢先生と云ふ人」、長与善郎、星四つ。「饗宴」、プラトン、久保勉訳、星二つ。「車輪の下」、ヘルマン・ヘッセ、実吉捷郎訳、星二つ……。
走るような視線が、ある書名をみつけてその上に釘づけになる。その本を初めて読んだ時の充実した感動がよみがえる。読みおわって目をあげると、まばゆいような陽の光り、木々の緑。友人を探して感動を語り合ったあの昂り。また別の本では、夜明けまで読みふけって、ふとわれにかえった時のあたりの静寂。あの時代の重苦しく活気のあった世相と、どこかにひそむ不安。それから今日までの、時の流れ……回想は一めぐりしただけで、もう隣りの席が回覧の順番を待っている。こんど目録を手に出来るのは、何日先になるだろうか、と案じながら手渡しする。
丸めて握りしめれば掌に収まるほどのこの薄い小さな本こそ、文字の空白のどん底にいたわれわれが、その渇きをうるおす芳醇《ほうじゆん》な美酒の泉だったのである。
さて、(われわれ海軍予備学生の場合は)ほぼ一年に及ぶ訓練時代が終ると、少尉に任官し初めて一人前の扱いを受ける身分になった。自分の責任を果たす範囲で、それに対応する自由があたえられ、私物の本も携行を許された。
任官すれば同時に任地があたえられ、荷物をまとめて出発することになるが、行先が外地、艦船、内地の実戦部隊のどこであろうと、いかなる状況変化にも対応するためには、可能な限り身軽でなければならない。またもし欲張って何冊も本をかかえていったとしても、前線ではそれを読むだけの余裕はないかもしれない。こうした事情は、陸軍で大陸や南方の島に送られた連中についても、おそらく同じようなものであったろう。要するに古今の名著、良書のたくさんの候補の中から、選りに選ってしぼられた一、二冊の珠玉の本だけを大事にかかえて、任地に向うのが一般の例であった。そのような意味での必携書の双璧《そうへき》は、私の知る限り、「万葉集」と「歎異抄」であった。もし戦陣にいる学徒兵を対象に「何の本を持ってきたか」というアンケートが可能であれば、この二冊が一位、二位を占めたことはほぼ間違いないものと思われる。
なぜこの二冊が、必携書として最もひろく人気を博したのか。その理由は、おそらく単純ではあるまい。学徒兵が一般の青年に比べて、より多くの読書経験を持っていたことは確かだが、この二冊を座右の書として愛読する自信のある者は、きわめて少なかったであろう。彼ら自身、その内容をよくわきまえていたというわけではなかった。近い将来に死ななければならないことを予期し、祖国と同胞を守るために一身を捧げる旅にのぼるのであるから、今生《こんじよう》の名残りに読む本は、欧米ものの翻訳ではなく日本古来のものが、人間や人生について一つの思想をもつものが、くり返し愛読するに値する高い内容と優れた表現を持つものが、望ましいと考えたのであろう。当時の環境からすれば、そう考えることが自然であったと思われる。
さらに同じような観点に、自分の好みや読書経験を加えて選択の幅をひろげ、たとえば「古事記」「正法眼蔵随聞記」「葉隠」「五輪書」などを携行した学徒兵も、少なからずいたはずである。
しかし以上にあげた必携書は、学徒出身の誇りを胸に一兵士に徹しようとする彼らにとって、「守り札」のような役割は果たしたかもしれないが、寸暇を惜しんだ読み耽《ふけ》り心の糧として活かしきることは、大多数の学徒兵には不可能だったのではないだろうか。「万葉集」「歎異抄」を戦火の合い間に愛読した生《なま》の感懐を、はっきり記憶している者がどのくらいいるだろうか。彼らはもともとみずからの必然性に導かれて、その本を選んだのではなかった。自分を抑えて戦争の中に沈潜するために、諦観《ていかん》をもって不本意な兵士としての死を受け入れるために、追いつめられて選んだのであり、これらの本がその目的にさえ役立たなかった事実は、悲劇というほかはない。この点欧米の青年兵士の大半が、バイブルという絶対の座右の書を持っていたのとは、根本的に事情を異にする。
人間性無視の上に成り立つ軍隊の惰性的生活の中で、自発的な読書の熱望に裏付けされない文字への渇望≠ェ、むなしく凍結するには多くの時間を要しなかった。メンソレータムの効能書に目を輝やかせた竹田喜義でさえ、それからわずか半年足らず後に、次のように書いている。――一時猛烈であった書物への飢えも、近頃は全然にぶくなってきた。単なる書物、それも極めて温和な、いわゆる文化的書籍に対する生理的な欲求などは、早くなくなってくれた方が、気持が楽になってよい。――
軍隊生活がある期間を経過すると、青年の順応力の大きさの故か、それぞれ自己流の工夫をこらして、自由の確保に努力する傾向があらわれはじめる。陸軍の状況はくわしくは知らないが、海軍士官には内務班向なプライバシーの拘束はほとんどなく、特にある部署の責任をまかされた所轄長の場合、狭い範囲ながら他人の容喙《ようかい》を許さない砦《とりで》を身のまわりに築くことは可能であった。そしてその中心にあったのが、自主独立の読書計画による軍の規律への抵抗であった。それはみずからを死に追いやるための読書ではなく、訓練時代に失いかけていた本来の自分を取り戻すための読書であった。死が間近にあることには変りないにせよ、青年学徒の誇りを賭けたひたむきな読書を通して、最後まで自分をみつめ自分を超克しようと努めることは、一つの生甲斐といえた。
私の場合は、乗艦が沈められ漂流してから与えられた特別休暇で、出征したときのそのままの勉強部屋に帰った時、最も読みたい本をひそかに持ち出すことを決心し、大学生活の最後の頃いちばん熱中して読み耽った四冊の文庫本、トーマス・マンの「魔の山」をカバンに収めた。戦傷をいやすための骨休めの配置であった呉の砲台勤務と、その後終戦までを過ごした土佐の特攻基地勤務を通じて、一〇分、二〇分のわずかな時間でも、私は読みさしのページをくる労を惜しまなかった。人間という存在をこれほど奥深く壮大に、光彩と陰影を織りまぜて描きあげた世界が、手のとどく近さにあるということだけで有難く、同じ文章を何ども何ども読み返すこともあった。この大作を死ぬまでにふたたび読了できるかどうかは、もはや問題ではなかった。
ある先輩の短現主計科士官は、空母の主計長を長く勤めたあと艦が轟沈し、救助されて帰還してから打ち明け話をしてくれた。大艦の主計長で少佐ともなれば、雑用に煩わされることはない。私室もある。大学で経済学を学びはじめてから、一度は実行してみたいと思っていた大計画を、そこでやっと達成したという。それは学生時代苦心して手に入れた「資本論」全巻を、納得のゆくまで精読することであった。内容はすっかり頭に入れたから、本をフネと共に海底に沈めてしまっても、もう惜しくはないのだ彼は笑った。
海軍では、このように発禁本の持ちこみさえ自由であったことを証明する実話は、いくらでもある。前に引用した林尹夫は、レマルク「西部戦線異状なし」の反戦思想について、日記の中でしばしばふれている。京大で西洋史を専攻した彼は、最後まで旺盛きわまる読書欲を失わなかった。夜間偵察機の搭乗員としての猛訓練と、本格的勉学とを両立させようとみずからを鞭打つ気力には、鬼気迫るものがある。日記の一節を引用してみよう。――おれは基礎教程が終了したならば、もしできなければ任官後、かならずドイツ語、フランス語、英語の勉強を再開しよう。それで航空の勉強ができなくなるとは思わぬ。煙草をのむ時間、雑談の時間を割くことにより、わが精神に若返り剤を与えうるのだ。馬鹿ばかしき生活がつづく――いったいおれが、生きて娑婆に還れるかどうか。その可能性はきわめて少ない。いな、ほとんどない。ましてそれまでに、外国語を使う機会があるなどとは、到底考えられぬ。しかしおれはいつまでも、「西欧的なものとはなにか」という問題を捨てないし、一生それを追いつづけてゆきたいと思っている。――それは予備学生である以上に、また一個の人間として、学んでゆきたいのである。――そして、戦場にもってゆく本は、シュニッツラー、カーライル、ジョン・スチュアート・ミル、デュアメル、となりそうだ。ああ、これは楽しい空想だが、どうかして実現させよう。――
これほどに徹底した学究の姿勢は例外であるが、たとえ文学青年ではなくても、学生時代西欧の古典文学に親しんだ経験がある学徒兵が、わが青春の記念として心にとどめている文学作品を、戦火の間に大切に読みつづけたという例は数多く認められる。短篇や読みやすい通俗小説は、そのような目的にはそぐわない。私が直接見聞したのは、例えば「ジャン・クリストフ」「カラマゾフの兄弟」「アンナ・カレーニナ」「大地」など、歯ごたえのある長篇力作が多かった。
この小論のはじめに、学徒兵はものを読むこと≠ノ異常な執念を燃やすことを支えとして、戦争をもたらした歴史の流れと、その中で自分たちに課せられる役割への抵抗を貫こうとした、と書いた。戦争のために生命を奪われた不幸な青年たちは、読書への切実な渇望を書き残すことによって、その使命を果たした。何を読んだか≠問われる前に、いかに読もうとしたか≠証《あか》しすることによって、その存在を明らかにした。
しかしわれわれ生き残った学徒兵≠ヘ、戦死した仲間≠ニは異る立場に立っている。われわれは戦時中の経験の上に、戦後三十年の経験を重ねて今日ここにある。戦後をどのように生きたかということは、戦中に何を読んだか≠ニいう自問につながっている。文字への渇望がいかにはげしかったかを証しするだけでは、戦後の生活を免責されるわけにはいかないのである。
戦中派世代が戦後史の中で一貫してになってきた役割は、社会と経済の戦後の復興から発展、高度成長への過程で、常に第一線に立って働くことであった。黙々と働きながら、われわれはしかしそのことに満足していたわけではない。自由、平和、人権の尊重、民主主義、友好外交、そうした美名のかげにある実体は|まやかし《ヽヽヽヽ》であり、戦後日本の出発には大きな欠落があることを、直感していた。にもかかわらず、そのことを公言するだけの勇気と見識が欠けていたことを、われわれは恥じなければならない。
歯切れのいい発言ができず、いつも口ごもりがちな$「代といわれるわれわれ戦中派の傷跡には、これまで見てきた戦中の読書経験が影を落としている。青春時代は人道主義的、理想主義的人生論にはぐくまれ、出陣にあたっては必携書として「万葉集」と「歎異抄」を流行のように選び、自由な読書が許されれば西欧の古典文学に心|惹《ひ》かれて読み耽る、そうした過去のなかに、われわれ世代の成長の基盤があるということの意味を、ここで改めて考えなければならないであろう。
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三島由紀夫の苦悩
三島由紀夫の苦悩は何であったか。彼を自決に至らしめた苦悩の本質は、何であったか。この設問を、彼とほぼ同じ世代に生れながら、たまたま太平洋戦争で戦死する|くじ《ヽヽ》を引きあてた青年たちの苦悩と対比して考察せよ、というのが編集部からあたえられたテーマである。私はやはり同じ世代に属し、一時友人として三島と親しくつきあっていたこともあるが、一個の人間、しかも多才な意志強固な行動力旺盛な文学者に、割腹死を決意させたものの核心が何であったかを、解明出来ると思うことがいかに不遜《ふそん》であるかは、承知しているつもりである。自分なりの結論にせよ、解明出来たと思う時は、永久に来ないであろう。三島はみずからの死の意味について、多くの読者にそれぞれ異る解明の糸口を得たと思わせて世を去ったが、糸口をたどってゆくとどの道にも、近づくことを許さぬ深淵が待ち構えている。彼の死はそのような死なのであり、そうであることをはっきり意図して、彼は|あの《ヽヽ》死を選んだとしか思えない。
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて取り組もうとした課題の基本にあるものが、戦争に死に遅れた℃鮪タに胚胎《はいたい》していることは、彼自身の言葉からも明らかである。出陣する先輩や日本浪曼派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征ったはずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
「八月十五日前後」という彼の短いエッセーの結びに、次の一節がある。――終戦のとき、妹は友だちと宮城前へ泣きにいつたさうだが、涙は当時の私の心境と遠かつた。新しい、未知の、感覚世界の冒険を思つて、私の心はあせつてゐた。――ようやく成年に達したばかりの若者が、平和の到来を前にして、なぜ焦る必要があったのか。戦争という異常な時代の|かけがえ《ヽヽヽヽ》のない生甲斐が、空しく過ぎてしまったことへの悔恨。これから訪れる新しい時代が、表面の晴れやかさにもかかわらず不毛に終るであろうという予感。早くもそうした重苦しいものが、彼の焦燥感の底にひそんでいたのかも知れない。
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、――当時は何だか居心地が悪かつたが、今となつては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかつた。――と述懐している。
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、やがてそれが予想をこえる実績を達成して世界を驚かせるのと平行して、国民の浪費への欲求、企業家の事業拡大の野望は、とどまるところを知らない状況となった。これにジャーナリズムの目ざましい発達が加わり、文化面や社会活動のあらゆる分野が未曾有《みぞう》の活況を呈する中で、三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二カ月前に行なわれたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、三島はこうまで言い切っている。――僕はいつも思うのは、自分がほんとに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた。否定して本を書いてきて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャス(罪の自覚、筆者註)だな。――
さすがの武田泰淳も、――いや、それだけは言っちゃいけないよ。あんたがそんなことを言ったらガタガタになっちゃう――と、たしなめるほかない様子だったが、三島はさらに、――でもこのごろは言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうこと言わなかった――と追い打ちをかけている。
自分は戦後の社会を否定してきた、という立場は、具体的にはどういう主張を含むのだろうか。戦後という時代がいかに空しいかについて、彼がもらした寸言隻句をあげていけば、際限がない。――戦後世界は、本当に信じられない。自分は多くの人に裏切られた。もはや、大衆社会の|ぬるま《ヽヽヽ》湯になんか、つかっていられない。戦後日本、こんなに空に近いものはない。しかし僕は信仰者じゃないから、空を支える情熱なんかない。――
自決に先立って自衛隊員に提示された「檄《げき》」は、三島らしからぬ悪文として批判を受けたものだが、その冒頭近くに次のような激越な表現がある。――われわれは戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗《こと》、自己の保身、権力欲、偽善にのみささげられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭《ふつしよく》されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかつた。――
三島が戦後世界の虚妄を痛撃するのを見るとき、ある意味では彼と対極にある存在として、臼淵磐という一人の青年の人間像が浮かび上ってくる。臼淵は三島より二歳、正確にいえば一年四カ月年長であるが、三島と似た都会育ちの俊才で、生来多分の稚気と人間味と洒落っ気を備え、芸術好き、哲学好きの香気を身につけた美青年であった。彼は父が海軍士官であった機縁から兵学校に入り、選ばれて戦艦大和に乗り組み、沖縄特攻作戦に参加して二十一歳で戦死する。
いかなる環境のもとにあっても、みずからを鞭打ってその職分に最善をつくすことが青年の本分であると考えるよう躾けられた臼淵は、絶望的な戦局の中で第一線指揮官の任務に精励しながら、同時に精一杯人間として生きようと苦心する。軍の中核に近い立場にあって多くの部下の生命を預かる身であればこそ、海軍社会の骨に巣くっている後進性、内容のない精神主義、物事の筋よりも因習、科学や技術よりも職人的修練が幅をきかす非合理さを知りつくし、それを少しでも是正することを願って、危険を冒してまで中央の権威に抵抗した。
彼は特攻出撃の前夜、若い士官たちの間に、自分たちがまだ春秋に富む若さのままで、帰趨の明らかでない戦争のために、目的も成功の目途も捉え難い愚劣な作戦のために死ぬということは、何を意味するのか、誰に対してどのような実りをもたらすのか、という疑問が提起された時、少壮士官を統轄する責任を賭けて次のように答えた。
――進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。
敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。
俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか。――
臼淵は|れっき《ヽヽヽ》とした職業軍人であり、もとより彼の苦悩は、死ななければならないことにはなかった。むしろ死の意味を、自分にあたえられた職責を果たすことを通して、平和の日が来るまで日本人の同胞を守ることに見出していた。ただ、自分の死んだあとに来る世代が、力及ばなかった自分たち世代に代って、戦後の新生日本を正しい方向に導いてくれることを、切に念願するほかないというのが、正直な心境であったであろう。
彼が残した「真の進歩を重んじる日本」という表現が、舌足らずだといって笑うことは易しいが、臼淵の短い一生の言動の一つ一つを虚心に見るものは、人間が人間らしく生きることへの切実な訴え、人間が本当の意味で尊重される社会への強い憧れが、「進歩への願い」の一句に秘められているのを認めるであろう。
そのとき彼に苦悩があったとすれば、戦後の平和日本に対する彼自身の期待がどれほど切実なものであったとしても、それが実現する保証は何一つない、という不安感だったであろう。しかし確実な死を前にした青年が、自分の願望の行末が不確かであるといって嘆くのは、贅沢なのかもしれない。事実、自分の死を納得するには、ただそのような願望を吐き出して後の世代に託する以外に道がなかったからであり、呼びかける相手の後輩を持つだけでも、幸せと思うほかなかったからである。
こうして臼淵磐が、そして彼とともに多くの志ある青年が、死を代償に待望した輝かしかるべき日本の戦後社会は、同世代の中の最も傑出した才能、三島由紀夫によって、完全に否定されるに至るのである。
しかしそのことは、三島が臼淵と全く異る地点に立っていることを意味しない。たとえば三島が全共闘への共感を表明し、――彼らが提起した問題はいまでも生きている。反政府的な言論をやった先生が、政府から金をもらって生きているのはなぜなんだ、ということだ。簡単なことだよ――と指摘するとき、彼は、臼淵の心情に近い場所に位置しているはずである。
さて戦後社会の否定から、文学者ではなく思索する武人としての三島が天皇への傾倒に徹するまでの道筋は、論理として明快である。戦後社会にただ空虚さを、現代文明にただ道義の退廃をしか見ることの出来ない三島は、天才児らしい性急さと潔さをもって、現世はもはや尋常な手段では救済する余地がないと絶望するところまで、自分を追い詰める。――この頃は何だか知らないが、無性に腹が立つ――という告白は、すでにモノカキの落着きを失っている。
そのあげくに、革命が必要になる。一切の虚妄を突き破るために、道義の基本、強固な倫理体系の確立が必要になる。そしてこの変革の原理をなすものが、民族の連続性を体現する存在としての天皇、文化共同体の象徴的概念としての天皇である。別の言い方をすれば、西欧化への最後のトリデとして、その腐敗と堕落に対抗する悲劇的意志が天皇なのであり、天皇が否定され、あるいは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、日本の、また日本文化の真の危機である、と彼は強調する。したがって実体である天皇制、人間天皇は、彼の認めるところではない。
彼の理念が描くこの天皇という象徴の落とす影の中に、観念としての自衛隊が姿をあらわす。三島は例の「檄」の中で説いている。――日本の軍隊の建軍の本義は、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しない。(略)われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。(略)われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることがないのを信じた。――
一方みずから戦場におもむき、「天皇の名のもとに」生命をなげうった青年たちの場合は、どうだったであろうか。たとえばさきに触れた海軍大尉臼淵磐は、われわれの知る限り、天皇に関する言葉を残していない。一片の感想も洩らしていない。当時のきびしい情勢の中で、自分のあり方を真面目に見きわめようとした軍人は、天皇についておそらく同じ態度をとったであろう。彼らにとって、天皇はその存在の是非を論ずる対象ではなかったのである。自分が確信する目標に向って最後まで忠実に行動することが、彼らの最大関心事だったのであり、天皇はそのための努力をより確実なものとする、規範の一つに過ぎなかったのであろう。
三島が自衛隊に全幅の信頼を寄せたのとは対照的に、帝国海軍の実態について、臼淵が内部告発者の眼で痛烈な批判をあえてしたことは、前にのべた通りである。
ここに、敗戦の二週間前、四国沖の上空で敵戦闘機と交戦して散華した海軍の攻撃機搭乗員、林|尹夫《ただお》という出陣学徒がいる。彼は京大で西洋史を学び、学者としての将来を嘱望された秀才であった。三島よりは三年年長であるが、頭脳の質において、探求心の強勒《きようじん》さにおいて、二人には共通の要素が少なからず認められるかもしれない。
林は戦死の直前まで、航空隊勤務という殺伐きわまる生活の場で、克明な日記を書き続けたが、戦後「わがいのち月明に燃ゆ」という題で公刊された厖大《ぼうだい》な量の日記文の中に、「天皇」という二文字を見出すことは困難である。彼の場合、「天皇」に代るものは、「国」であろうか。民族という「共同体」であったろうか。
林はこう書いている。――死地に敢然と突っ込む人は尊いのだ。けだし共同体を擁護するために、我等の祖先と、同時代人と、子孫と、伝統と、未来の擁護のために。それが日本において、時代的に強弱の差こそあれ、共同体の精神的中心となってきたことはいうまでもない。かく考えると、やはり我々は現在の些少事《さしようじ》を越えて、軍人として精強となるのがもっとも緊急の要務であることはいうまでもない。――ここで林がとっている姿勢は、三島の初心とそれほどの隔りがあるとは思えない。
しかしほぼ同じ時期に、――日本精神とは、新たなる生命を吹きこまれた道義力ではなく、むしろ慢心した惰性であるとおれは断ずる。これは極端な考え方であろうか――という平静な自問の言葉が記録されているのは、注目に値する。そしてわずか一カ月後には一転して、間近な死を予感した烈しさで、軍隊、国、そして「全体」を根本から否定するに至るのである。苛烈な訓練といよいよ絶望に瀕《ひん》した戦局が、抑えられていた本心を引き出したものと思われる。――おれは軍隊に入って、国のためにという感情をよびさまされたことは、軍人諸君を通じてというかぎり、皆無である。(略)ただ国民が直面する苦悩を反省させられて、おれは軍隊とか、あるいは機構的にみた日本の国のためでなく、日本の人々のために……いな、これも嘘だ。おれが血肉を分けた愛《いと》しき人々と、美しい京都のために、闘おうとする感情がおこる。つまらぬ、とも、わけが判らぬ、とも、人は言うがよい。おれはただ、全体のために生きるのではないのだ。全体がその生命を得ぬと、個人の生命が全うできぬがゆえに、おれは生きるのだ。
林はこれほど深く自分を苦悩の中に追いつめながら、なおおのれの姿を見失っていない。――おれは軍隊に奉仕するものではない、おれは現代に生きる苦悩のために働く――と書き、――おれは軍人として有能であるとともに、あくまで林尹夫君でありたい、それがおのれの偽らざる心境である――と書いたとき、彼は自分の苦悩の本質を見据えることによって、ほとんど苦悩を超え得た、といっていいであろう。
三島由紀夫自身、本来は、そのような自己凝視の平静さを身につけた人ではなかったか。もし彼が初期の作品に学徒出身の海軍少尉を登場させたとしたら、林尹夫の持つ一面を、肯定的にその人物の描写に加えたのではないだろうか。戦後の二十五年の時の経過の間に、三島はすべてを知りつくした上で、あえておのれを変身させたのである。
三島の展開する論理をここまでたどってきたが、割腹の決意との間にはなお一つの飛躍が、傍観者の憶測を拒む最も大きな飛躍が、横たわっているのをわれわれは見る。「檄」の結尾の近くにおかれた次の声高な叫びは、論理とは別の世界から響いてくるようである。――共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻してそこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは、生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。――
三島が死神を引き寄せようと企図しているのではないかと思わせる前兆が、死の決行の数年前から認められたと評者がこもごも指摘したのは、彼の死の波紋が収まってからである。芥川龍之介の自殺にふれて、――自分は自殺する人間がきらひである。武士の自殺といふものは認めるが、文学者の自殺は認めない。自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。自殺と芸術とは、病気と医薬のやうな対立的なものなのだ――といった趣旨のことを書いたのは、終戦後十年ほどのまだ早い時期であったが、死の年すなわち昭和四十五年の初めに行なわれた対談では、――ぼくら小説を書くときはそういう言葉を書くつもりで書いているのだから、そうしたらやらなければならない。そりゃ死んでもやらなければならない。だから「十一月に死ぬぞ」といったら、絶対死ななければならない。政治の言葉が文学の言葉と拮抗《きつこう》するのは、その一点を措《お》いてないのですよ――と、別人のような八方破れの発言をして周囲を驚かせた。
戦後過激な活動に走った多くの学生の中から、一人の自殺者も出ないことは、彼を激怒させた。死ぬ一週間前の対談で、三島は――彼ら、全共闘は革命のためには死なないね。危険に徹しぬいて、最後には生命を投げ出すところまで、どうして思いつかないのか、ぼくはそこが分らない――と、あからさまに彼らの殉死を督促している。
今にして読み返せば、それぞれの時に応じた彼の自然な発言は、疑いもなく一つのことを指向しているように思われるが、それが天衣無縫に語られているだけに、言葉と行動とを峻別《しゆんべつ》したがる文学者独特の習癖や、仮面とポーズに飾られた三島の本業以外の生活振りが、彼と親しく身近につき合っていた友人の眼をさえ、惑わすことになったらしい。まさか本心なら、これほど隙だらけで平然と構えているはずはない。もし異変が起りうるとしても、その前に何か決定的な予兆があるであろう。まわりがそう考えたとしても無理からぬほど、三島は迷いもぺースの変調もなく、一歩一歩計画実行の日に近付いていったものと思われる。
終戦から三年後に書かれた「重症者の兇器」というエッセーで、三島は自分たち年代の持つ論理をこう概括している。――苦悩は人間を殺すか? 否。思想的煩悶は人間を殺すか? 否。悲哀は人間を殺すか? 否。人間を殺すものは、古今東西唯一つ、「死」があるだけである。かう考へると、人生は簡単明瞭なものになつてしまふ。その簡単明瞭な人生を、私は一生かかつて信じたいのだ。――
賢明な三島は、二十三歳の若さですでに人生を達観し、人を殺すものは、ただ「死」そのものだけだ、と喝破している。そこから出発して、ひろく世界を舞台にした文学的名声と、いかに万事に負け嫌いでも充分に満足するに足る世俗的成功と、いく分かの虚名とを彼はかち得た。そしてそのような力を背景に、死の意義づけと苦悩について、さまざまな装いをこらして訴えつづけたが、戦後の日本社会は聴く耳を持たなかった。その作業にも倦《う》み疲れたとき、帰り着く先はやはりあの「死」の原点のほかにはなかった。平凡な、誰と比べても平等な、「死」そのもののほかにはなかったのである。
彼はそのことを知りぬいていたからこそ、死を前にしてあれほど平静だったのであろう。(死にざまがたとえ異様であっても、あの儀式的な緻密さは、狂気にかられた死ではない。)そして死にゆく者の孤独を、心ゆくまで味わったのであろう。
三島とは異り、臼淵や林のように、天から死をあたえられた青年の場合はどうであろうか。死はどのような苦悩の形をとったであろうか。
臼淵磐は、自分の死についても、天皇についてと同じく、その真意をうかがわせるような言葉を残していない。職業軍人として、それは自然なことであった。ただ彼の家は男の子は彼一人であったから、自分の死後の家族の行末に、細かな心遣いを残しているだけである。寡黙な彼が特攻出撃にあたってわずかにもらしたのは、戦争の空しさについて、人間は確固たる目標をもって生きるべきことについての、断片的な感懐であった。
学徒出身の林尹夫も、死の苦悩にふれようとしないのは、同様である。ただ日記の調子に、どことなく死を急ぐ風があらわれてくる。あの当時、真面目な平均的な青年にとって、生き残ることは一つの重荷であった。死の十日前、彼は学生らしいさわやかな詠嘆をこめて書いている。――夜 夏は真盛り 昨夜 飛行場で 流星が飛びかうのを見た ああ 秋までに おさらばしたいな――
この小論を書き進めてきた結びとして、三島、臼淵、林を含めた戦中派世代は、どのような世代であったのか、またその中で三島はどのような位置を占めるのか、について考えておきたい。
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。林尹夫の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとって過去と未来に一貫せる生き方を学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。――
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。――いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかはない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるかどうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わねばならない。――
林はこのような自覚に立ち、若い世代に向って、死にゆく者にそぐわぬ明るい力強い調子で語りかける。――若きジェネレーション 君たちは あまりにも苦しい運命と 闘わねばならない だが 頑張ってくれ 盲目になって 生きること それほど正しいモラルはない 死ではない 生なのだ――
三島は、自分たち世代のあり方を、どう要約しているだろうか。――われわれ世代を、「傷ついた」世代と呼ぶことは、誤りである。虚無のどす黒い膿《うみ》をしたたらす傷口が精神の上に与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷跡は存在しない。戦争は決して、我々に精神の傷を与へはしなかつた――という抗議には、苦《にが》い皮肉がこめられているように思われる。そこには、戦争時代への追慕の気配がある。終戦の日の焦りが暗示していたように、あの日の衝撃以上のものを、戦争の持つ緊迫した充実感をこえるものを、彼はついにみつけることが出来なかった。すくなくとも文学の仕事の上で、それを造型することは出来なかった。
彼はあの厖大な作品群の中で、何かを究極に肯定したとか、本気で構築したとかという自覚に、行き着くことはなかったのではないか。「仮面の告白」のように、自分というものの本質を作品に定着させることに成功し、あるいは「金閣寺」のように、戦後社会と自分の美の世界とを結びつけえた例外を除いて、彼の文学が読者を感心させ驚かせはするが、感動させることの少ない理由が、そこにあるのではないか。彼が最も実り多きものとして醗酵《はつこう》させ続けた戦中派世代の苦悩は、もともとその文学的才能の質とは異質のものだったのではないか。天賦の力量を美事に開花させた戯曲や短篇の名作は、「檄」の筆者と交差する接点がない。強いて接点を求めようとした「豊饒の海」は、その先に主題の展開のない遺作となった。
彼がまだ大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い切ったことがある。――なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場であるとは到底思えない。自分の社会性を思うように満たせるためには、はるかに広い場が必要なのだ。――こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、その歩みを止めなかったのであろう。
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命にたおれた彼らの不幸を、償いうるものは何もない。三島も、そのことは知り抜いていたにちがいない。そして彼はみずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
ここでただ一つ残る事実は、臼淵や林には戦後の生活がなかった、ということである。彼らは戦後の日本を生き、その発展を見とどける資格を奪われたのである。もし彼らが生き残っていたとしたら、どんな戦後生活を持ったであろうか。そんなことをただ空想してみても、おそらく無意味であろう。それよりも彼らの苦悩の中に入って、くり返しその苦悩の底を見きわめなければならないのであろう。
しかし確かなことは、死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったであろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。
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書いても書いても書いても……
――古山高麗雄氏の戦地再訪記――
戦争とは何であろうか。戦争という巨大な空白の底には、何がひそんでいるのか。それとも、何の象徴的意味もないのだろうか。戦争の災禍を最も手ひどく受けるはずの一般大衆が、いつの時代も飽きずに戦争に駆りたてられる事実は、何を意味するか。
日本人が、太平洋戦争という愚かな悲劇のなかで演じた役割は、何であったのか。あの戦争にたいする協力行為のことごとくが、否定さるべきなのか。どの部分を最も恥じなければならないのか。長かった戦争の結末を、あるものは不当に死に、あるものは不当に生き残っただけだと受けとるのは、誤りなのか。ごく一部の例外を除き、ほとんどすべての日本人が死を賭して戦わねばならなかったのは、ただ救いのない虚無にわが身を投ずるためだったのか。
あの戦争にかかわるもの一切は、戦後の三十二年の間に、どこに消え去ったのか。繁栄と混乱と挫折に彩られたこの平和の時代に、日本人はおのれの占めるべき場所を、どこに見出しているのだろうか。
以上、いささか大仰な問題整理で気がひけるが、こんど一本にまとめられた古山氏の「兵隊蟻が歩いた」を読み返しながら、それが提起しているテーマの広さが、二度の短い旅行から生れた雑感記録、といった水準をこえていることに、改めて印象づけられた。しかもその語り口は、全体に重く辛く鋭くて、時には激越に過ぎるように響くところさえある。これは古山文学の定評ある作風、たとえば開高健氏の表現によれば、――したたかな苦渋を濾過《ろか》したかるみ=Aほのぼのした微光のようなユーモア、風雨に漂白された流木のような美しい堅固さ、柔軟だけれど試練に耐えぬいた味――といったものとは、異質の文章と読みとれた。
昭和十七年十月、二十二歳で召集により仙台の歩兵第四連隊に入隊。翌十八年春、一等兵に昇進し、第二師団司令部に転属。七月、マニラに上陸。以後ルソン島北部、マライ(クアラルンプール)、ビルマ(イラワジ河畔)、中国雲南省、カンボジア(プノンペン)、ベトナム(サイゴン)、ラオス(俘虜収容所)を転々して終戦。九月一日、ポツダム上等兵に昇進したが、俘虜収容所勤務の関係で戦犯容疑を受け、二十一年春から一年あまり各地の刑務所を転々。二十二年四月に釈放されてから半年間復員船を待ち、二十二年十一月にようやく復員。ときに二十七歳。この間、兵長、伍長から軍曹に昇級していた。以上が古山古兵殿の軍歴の概略である。
今度の再訪旅行は、昭和五十年五―六月のフィリピン、シンガポール、マレーシア、翌五十一年七月のタイ、ビルマの二回に分れる。いずれも、ほぼ三十二年ぶりの再訪問ということになる。芥川賞作家の旅にふさわしく、周到に準備され、出版社の敏腕な青年編集者にかしずかれ、飛行機とクルマに支えられた取材旅行は、古山氏自身が大名旅行≠ニ認めるほどに充実したものであった。「兵隊蟻が歩いた」というタイトルはふさわしくないが、五年にわたる兵隊蟻≠サのものの軍歴の苦々しい記憶が、いく分かの皮肉をこめて、このタイトルを選ばせたのであろう。兵隊蟻の哀しい過去は、三十年の時間をこえて今日までつながっている。再訪旅行の報告文、印象記は、かつてその土地で、そこに住む人たちとの触れあいから生れた事件の回想記と、同時進行の形で織り重ねられながら展開するのである。
職業軍人としてではなく応召兵として実戦に参加し、辛酸をなめた体験をふり返って、懐しさ、うれしさをおぼえるような思い出をもつ人は、数少ないであろう。古山氏の場合、郷愁をそそる土地、風物や、おそらく今も無事にどこかで暮らしている旧知の人たち、恋人ともいうべきガール・フレンドへの、切なる再会の願いがあったことは確かであるが、戦地生活の追想の多くがそうであるように、後味はごく淡泊なものであったろう。あるいは長い歳月の変化の大きさに、かえって失望を味わわされる恐れもすくなくなかったはずである。
それにもかかわらず、まだ治安の定まらない地域を含む歴戦地の探訪に古山氏が二度も挑戦し、さらにまだベトナム、カンボジア、ラオスが残っているから、いつの日か必ず歴訪して旅行記を完成させたい、とまで公言しているのは、どんな動機に促されたことなのか。まず氏が強く執着しているのは、戦争の空しさ、日本人の愚かさを、徹底して確認する作業であるように思われる。それは反戦とか、絶対平和とか、ヒューマニズムとか、ナショナリズム否定の世界主義とか、そうした枠にとらわれない、より根源的な訴えとして主張される。紀行文のあちこちにちりばめられたエピソードは、どれも古山流の洒脱なものであるが、それもすべて、この根源的な訴えの熱っぽい基調に吸収されるように構成されている。もうすぐ満五十七歳になる古山氏の告白は、青年のように率直簡明で遠慮がなく、重要な論点をふくむ断定が、次のように性急に提起されるのである。
太平洋戦争が日本の恥辱であることを、はっきり認識する。これが出発点である。あの戦争によって東南アジアの諸国は独立の契機をつかんだとか、それは歴史的な必然であったとか、攻撃は最上の防禦だとか、アメリカにしてやられたとか、どんな自己弁護をしてみても、私は太平洋戦争を日本の恥さらしだと思っている。日本人はあの戦争で三〇〇万人も死者を出したからといって、被害者として戦争の悲惨を語るばかりでなく、加害者として恥辱をかみしめなければならない。
たしかに、日本の侵略のみが悪い、ということはないだろう。イギリスやフランスの植民地支配は、日本よりも巧妙であり、狡猾《こうかつ》であった、ということかも知れない。しかしイギリス人がマレー半島のことを考えたとき、私が朝鮮半島を考えたときに感じるのと同じ恥ずかしさを、感じるだろうか。
他国がどうであれ、自分の国のことを考えると、私は卑下しないではいられない。世界四大強国の一つだと戦力を誇りはじめて以来、わが国は邪宗に狂った一家のようなものであった。日本軍は、向こうところすべてに敵を作り、嫌われ、憎まれた。行く先々で聞かされる、虐殺や復讐の話。それもこれも戦争が悪いのだ、というようなことを言って逃げずに、日本軍がどんなひどいやり方をしたかを、反吐《へど》を吐きたくなるくらいまでわれわれは詳しく知っていたほうがいいのではないか。ソビエト兵の略奪や強姦、アメリカの無差別|絨毯《じゆうたん》爆撃や原爆投下が残虐だというが、私は恩給がつくほど一等兵をやらされた実感から、日本軍くらい、無法に人を殺す軍隊は、世界に少ないと思う。
敗戦後、進級の大放出をして、古山古兵を四階級も特進させるほど、帝国軍隊は最後まで愚かな形式主義者であった。生きて虜囚となることを恥とすることの恥ずかしさも、火事場泥棒的思考の恥ずかしさも、ついに分らないままであった。戦後は終った、などと調子のよいことを言うが、被害者である東南アジアの人たちには、戦後の終りなど、あるわけがない。
自分に敬礼しなかった者を牢に入れることに疑問を持たぬ連中が、腹を切って潔いところを見せてくれても、感動できない。勇気とは、帝国軍人の名誉のために玉砕しなければならないと考えることではなく、愚将よ、臆病者よ、と罵られながら、白旗を掲げて部下の命を救うことができることである。本間中将や山下大将の死を考えるより、奉公だ義務だと徴集されて、下痢便を垂れ流しながら死んだ無名の一等兵仲間の死を、考えたい。
太平洋戦争を通じて、私が尊敬させられた将校の筆頭は、松江という源氏名の、色が黒く器量も悪い慰安婦が子供を生んだとき、その子の父であることを自認して、負け戦さのなかを逃げのびながら、その女に出来るだけのことをしてつくした将校である。
以上、受太刀のしようのないほど、痛烈な指摘ではないか。
古山氏は、昭和十五年、三高の文科丙類に入学するが、日中戦争を正義と教える教育に反撥して欠席することが多く、翌年、出席日数不足のため落第すると、退学届を出して上京する。そして、今でいうヒッピー風の生活に明け暮れする。陸軍に入ってからも、この行き方は貫かれる。幹候から将校に栄進する道をみずから捨てて、なんの特権もない一兵卒に終始するのである。
ここで自分のことを持ち出すのは主題から外れるが、わたしは古山先輩より三歳年下ながら、ほぼ同時代を生きてきた。しかし、軍事教練強化に象徴される大学当局の弱腰に内心は反撥しても、直接行動に出る勇気はなくて、相応の勉強をつづけるタイプの学生であった。そして親を喜ばせるためと納得し、仮卒業の手続をすませてから海軍に入った。
海軍では、自分が軍人にはおよそ不向きであり、軍隊生活の毎日が苦業そのものとなることを知りつくしながら、劣等兵にはなるまいと努力し、士官への道を選ぶことになる。そして特攻の配置をあたえられて出撃するまで、戦うこと、戦って人を殺しみずからも死ななければならないことの矛盾に苦しみながら、あたえられた職責を果たし、平和の日がくるまで祖国と同胞を守る使命に、青年の生甲斐を見出そうとするのである。
わたしは、古山元一等兵殿の忌憚《きたん》のない叱責を、半ば被告席にすえられた気持で読み進むほかなかった。
古山氏の指摘は、一つ一つ事実に基づく適確なものであるが、読み進んでゆくわたしの胸中に、やがて重い澱《おり》のようなものが溜まってきた。――死者、生存者を含めた無数の日本人の自己犠牲、あの善意は、まったく報いられないで終るのか。救われる余地はないのか。彼らの無念の思い、果たされなかった願いは、戦後の仮初《かりそ》めの平和のなかで、どこに消え去ったのか。戦後社会は、何をもって彼らを裁くのか。戦後世代は、日本人として何を恥とし、何を誇りとしているのか。自分が日本人であるという事実そのものを、どう捉えているのだろうか。
こうした生々《なまなま》しい疑問に責められながら、戦地紀行の文章を再読してみると、かならずしも日本民族の全面否定だけが意図されてはいないことを示す箇所も、目についた。たとえば映画「戦場にかける橋」にふれて、この映画が大いに当ったということは、私には気持の良いことではない、あんな映画はお引き取り願いたい、という感想がのべられる。なぜなら、あそこに登場する日本兵はみな木偶《でく》であり、イギリスの俘虜の技術を借りなければ鉄橋をかけることができないという話は、事実に反するからだ。異常だったのは、わが為政者たちの思考であって、日本の工兵隊や鉄道隊の技術は優秀であった。その証拠に、終戦後、英印軍が鉄橋をかけるのに、日本兵俘虜の技術を借りなければならなかった、という実話があるくらいである。
これは技術の話だから、日本兵一般の恥さらしの問題とはちがう、というなら、別の話を引用しよう。古山一等兵がマラリヤにかかって野戦病院に入っていた時、ある下士官が、にこやかな明るい表情で、「病院は飽きた。ああ、前線にもどって、機関銃をぶっ放したいな」と呟いた。あの下士官に会えて、よかったと思っている、と古山氏は回想する。おかげで日本の兵隊の中にも、戦意昂揚の戦争映画に出てくるような、カッコのいい兵隊も、実際にはいくらかはいることを知ったのだから。
マンダレー連絡所での経験は、もっと劇的に描かれている。そこには兵隊はいなくて、将校と下士官だけが勤めていた。原隊を追求中だと申告すると、原隊の住所を教えてくれ、自動車便への便乗を頼んでくれ、夕飯をたべさせ、ドラム缶でシラミ退治の煮沸をさせてくれ、ロンジー(ビルマの腰布)まで貸してくれた。
しかし、不思議だな。どうしてあの人たちは、あんなに親切にしてくれたのか。おれ、なんと言ったらいいのか、わからない。おれは、あの人たちに感謝するよ。あの人たちとも、しかし、もう二度と会う機会はないのだ。自分は、これまで所属してきた中隊や衛生隊を、日本軍隊と相似形に重ね合わせがちであった。そこからはみ出したものがあることには、気がつきにくいものである。あの人たちは、不自由な環境の中にも、かなりの自由があり、人と親しむことの楽しさがあることを教えてくれた。あのような人に会えたことを、ありがたいと思う。
こんなほほえましい挿話をまとめてみると、これまでわれわれが古山流として親しんできた自由な捉われない感性表出が、むしろここで素直に展開されているのを発見する。日本民族否定の気負った語調は、もしかすると読者を主題に誘うための調子の高い前奏曲、とでもいうべきものなのではないだろうか。
では何が主題なのか。それはおそらく自分の手のうちをさらけ出し、肚《はら》の底まであばいてみせる、透徹した自己凝視である。その一端を見よう。
私は、日本軍の赫々《かつかく》たる戦果に感銘することのない青年であった。陸軍一等兵であるという境遇は、私に選べない。私に選べるのは、考え方だけだ。コレヒドール陥落バンザイと思わないでいることだけは、できるのだ。
国のために死ぬ気持など、私には持てなかった。これは、正しいの正しくないのというようなことではない。あの戦争は、今は否定されているが、当時私は、正しい生き方をしたわけでも、立派な考えを持っていたわけでもない。なにもかも、仕方がないと観念し、投げやりで狷介《けんかい》に生きただけだ。
私は、その頃戦争に関しては、何も知らなかった。戦争についての知識はみな、戦後、戦記や戦史を読んで知ったのである。もともとそれは、知り得るものではなかったわけだが、しかしよくもまあ、あれほど徹底的に何も知らなかったものだと思う。
軍隊だけではなく、日本全体が馬鹿げたことだらけであった。馬鹿は死ななきゃ直らないというが、死なない限り馬鹿げたことから逃れることはできない。だからといって、どうしようもない。私にできることは、うんざりしながら諦めることだけだった。
「ああ、戦争なんていやだな、どうして人間は戦争なんつことすんだべな」あるとき、ある下士官が、そういう言葉を漏らしたことがあった。私は、よくこんなことが言えたものだと感心した。私は、戦争を推進する巨大な力に対して、心の中でぼやいたり、心の中で反論したりしていただけで、保身上、上級者にはもちろん、同級者にも、言葉に出しては語ることができなかった。常にそれを押し込めて、口をつぐんでいた。
占領地で日本軍は、通行人がお辞儀をしないと、ビンタをくらわしたりした。私はそれに反撥して、歩哨《ほしよう》に立っているとき、こちらから挨拶をした。だが、あれは謙虚ではなくて、反撥に過ぎなかったのである。第一、先にお辞儀をすると決めるなんて、不自然である。どちらが先ということもなく、挨拶をする間柄にならなくてはならないのである。
私には戦意を持つ意志はなく、戦地に行ったら戦地に行ったで(愛などというのはてれくさい言葉だが)、何かを愛そうと心に決めて出征したのだ。それは、私が逃げ込んだ隠微な殻であったのだろう。そして私は、いろいろなことを、ちょっぴり愛した。
あの戦争によって、私は、間違ってもよい、稚《おさな》くてもよい、もっとみずみずしく持っていたかったものを、かなり失ってしまったような気がする。もうすっかりいい年になってしまったが、もう一度、稚いころにもどってやり直すことはできないものかな、と思ってみるのだが、そんなことはできるわけがない。
この赤裸々な表白を、われわれはどう受けとったらよいのか。戦場のどの局面にもつきまとう恐怖感に打ち勝とうとして、強がりを装うことはやさしい。逆に戦争憎悪の執念をかき立てて、仲間への義務を怠ることもむつかしくはない。何ひとつつきつめて考えず、おのれの我欲をみつめる眼力もなく、緊張の緩んだ毎日が夢のように過ぎてゆくことが、歴戦の体験から生れた沈着さだと錯覚することは、最もやさしい。みずからの手であばかれた古山一等兵のありようは、もちろんそのどれでもない。
戦争は人間を稀に高貴にするが、多くの場合、野卑にする。しかしそのことと、戦争によって低められた自分の足場を|しか《ヽヽ》と見据えることとは、もとより別のことである。ここで語られているのは、単に三十年前の古山青年ではない。一兵卒としての自分という人間が、戦後の長い重い時代を濾過して、現在の自分と重ね合わせながら語られているのである。そうでなければ、甘い懐旧談のもつ美化作用が、その影さえないことなど、ありえないはずである。
自分はあの頃、無知であり、身勝手であった。立派でも正しくもなかった。戦争嫌悪を口にする勇気もなく、ただうんざりしながら、諦めていただけだ。――これほど|したたかな《ヽヽヽヽヽ》捨て台詞《ぜりふ》を吐けるとは、余程の自信ではないか。
もっとみずみずしく持っていたかったものを、戦争によって失ってしまった。もう一度稚いころにもどってやり直すことは、できないものかな。現在のような不毛の時代に、もう一度、青春を取り戻してみたいというみずみずしい意欲を、古山氏は何を手がかりに保ってきたのだろうか。
昭和四十四年、四十九歳で短篇「墓地で」を発表するまで、復員してから二十二年、はじめて回覧雑誌に小品を書いてから二十九年の空白を、古山氏はどのように過ごしてきたか。数度の就職。結婚。編集事務から編集専従者へ。小説「プレオー8の夜明け」で文名が高まってからも、編集専従の姿勢は貫かれる。
戦後の混乱と不安、余りに目まぐるしい思想の変遷、世情の動揺の向うがわに、編集者古山氏は何を見てきたか。自分の境遇は選べないが、考え方だけは選べる。この確信を裏づけるものは、戦場だけではなく、戦後の地味な編集者稼業にも、根ざしているのではなかろうか。
さてわたしのささやかな経験によれば、戦争体験とどう取り組むかの一つのカギは、死≠フ捉え方にあるように思われる。しかも型にはまった死生観≠ナはなく、日常|坐臥《ざが》に死とどこまで親しくなれるか、死に直面して、うろたえるならうろたえてもよい、どうしたら自分らしい死に方ができるか、が肝要であるとすれば、古山氏独特の死≠フ論議が、期待できるのではないか。このあたりのことを、氏は次のように書いている。
私は召集されて入隊してから十日目に、死にたいと思った。死にたい、とはその後も何回となく思ったが、あのときは、死ねる、と思った。しかしそう思ったことを憶えているだけで、あの日の感情を呼び戻すことはできない。
いま私には、自分だけ生き残って、死者にすまない、という気持はない。しかし、死んで行った知人を痛ましく思う心は、どんなに薄れてもゼロにはならず、生涯負い続けて行くことになりそうだ。
それにしても、死ぬも生きるも紙一重。手や足を失って盛り場で物乞いする傷痍《しようい》軍人となるのも、今ベンツに乗って豪勢な戦地再訪の旅をするのも、紙一重。こういう気持がなくならない限り、いつになっても、こん畜生、という呟きは消えない。
私は、死のう死のうといつでも思っていた。天皇のためや国のために死のうというのではない。自分の国に愛想がつき、だが、だからといって、自分が日本国民であることを変えようもなく、おまえのような奴は、死んじまったほうがいいのだ、と自分に言い聞かせながら生きていたのであった。あのような思いでいられたのも、ひとつには、私が独身であり、しかも母や妹がすでに死んでいたからであろう。
だが私は、自殺ははからなかった。考えの中でどう思おうと、死がこわかったのである。
敵と撃ち合って死んで行った兵隊たちは、生きているうちは、まだ生きているぞ、と繰り返し感じたことであろう。そして、プツンと死んでしまったわけだろう。
彼らも戦闘が中断した時間には、親兄弟や妻子のことを考えたかもしれない。他人の心の中は知りようもないが、私が前線で思ったことは、主に過去の恵まれた日々のことであった。飯を炊き、穴を掘り、ヒイヒイと歩き、その合間にはかない感傷にふけっていたのが、私であった。
以上、死と生を語って、いたずらに深遠ぶることなく、露悪趣味でもなく、即物的におのれの心情をのべつくすのは、容易な業ではない。戦争体験者が死生の機微にふれて感想をもらす時、陥り易いキレイ事の型を、古山氏は一つ一つ見事に外してみせる。自分だけ生き残って、死者にすまない、という気持はない、と言い切るが、感傷がここまでふっ切れているのは、かえって戦友の死を悼む気持に、血の通《かよ》っていることを暗示してはいないか。
自分の意志や力で勝手に生き残れるわけではないのに、なぜ恐縮がらねばならないのか。すまん、すまん、といってみたところで、生死を分けた事実にチリ一つほどの変化も起るわけではない。他人の死にも気を配れるという恰好を、ただしてみせるだけのことではないのか。
もともと、死ぬも生きるも紙一重。生きているうちは、まだ生きてるぞと感じ、そして、プツンと死んでしまう。そこで「こん畜生」と啖呵《たんか》が出るとは、人間の強さも弱さもわきまえた、鮮やかな手際である。
しかし人間は、真実、それだけのものなのだろうか。生と死について、虚飾をはがして実体を語りつくせば、それが最善なのだろうか。考えの中でどう思おうと、私は死がこわかった、といわれれば、たしかに万事は「死がこわい」という事実からはじまるが、同時に「死がこわい」だけでは何事もはじまらないところに、死生の問題の真骨頂があるに相違ない。
古山文学の愛読者は、言うべきことの核心だけを言って言葉を断つ筆法では、あるいはあき足らないのではないか。軽やかな饒舌が飄々《ひようひよう》と流れる古山調の語り口を求めるとすれば、なんといっても二人の女性との再会のエピソードであろう。第一の舞台はマニラの北にある田舎町のカバナツアン。ヒロインは鉄条網の下から、何度もザボンをころがして贈りものにしてくれた娘、オニヤン。彼女が古山一等兵を、「あなたは花のように美しい」と讃えると、彼は「あなたは月のように美しい」と、讃辞のお返しをする。(巻頭の写真にある古山一等兵は、蕾《つぼみ》のようにつぶらな眸の美少年である。乞う参照)彼女は自分を好いてくれているかもしれないと思いながら、「あなたが好きだ」と言いたくて、とうとう言い出せなかった彼。
やっと家を探しあてると、彼女は夫と五人の子供を残して、二年前に病死していた。訪問旅行のアシスタント、三十八歳のT君が、「いっさい夢にござ候の心境でしょうな」と問いかけるのに、五十四歳の古山氏は、「なんと言えばいいんでしょうな」と答える。子供たちに持参したお土産を進呈し、喜んでもらったことにほっとしながら、自分はやはり、突然訪ねてきた変な日本人だったのではないか、ろくでもないことをしてしまったのではないかと、気になって仕方がない。
二人目のヒロインは、ビルマのネーパン村で、ビルマ語を教えてくれたウァインセイン。古山一等兵は空想の中だけで熱烈に彼女を抱き、現実には、頬笑みながら話しかけるだけの淡泊なつきあいであった。いちばん逢いたかったオニヤンには逢えなかったのに、ウァインセインとの再会は、あっさり実現する。三十三年前の顔立ちのままに、十人の子持ちになって老けていた彼女。彼の顔をみつめているうちに、私もだんだん思い出してきたと、言い出す。周囲の人たちがはしゃぎ過ぎるので、この万年ロマンチストは、もう少し静かに彼女を訪ねたかったと悔やむが、それも仕方がないことだとあきらめる。
読者は古山氏につきあって、美男美女の再会劇の進行に一喜一憂するハメになる。古山氏は主役のようでもあり、演出家のようでもある。あるいは客席の最前列で愉しく観ているのは、筆者自身であるのかもしれない。劇の進展は、古山氏が青春時代から軍隊に入るまで、そして戦後の忠実な編集者の時代を通じて、身辺に綾なした人間模様の追想と交錯する。二人のガール・フレンドは、自分にとって他人とはどういうものであるかをつきつめるための、仮象《かしよう》のようにさえ見えるのである。
この旅で、私は歓迎された。訪ねて、会えて、よかった、という再会であった。筆者は今度の旅行をこう総括する。しかし、それは今回の幸運に過ぎない。たまたま、こうなったのだということを認識し、それゆえに、幸運な新たなつきあいの始まりを、大切に延長させなければならないだろうと。
ここで古山氏は、江藤淳氏から「古さんは残酷な人だ」と指摘されたことを思い出す。確かに私は、残酷なところのある鈍感人間だ。そのことは、行為の結果いかんにかかわらない。しかし、残酷人間であることを反省する代りに、逆に、自分はそういったものとの古いつきあいも深めなければならない。こうして、江藤氏の指摘を逆手にとろうとするのである。
もともと古山氏は、何ごとも強いて限定することが嫌いのようである。限定すれば万事に決りがつき、安心して次の手順にとりかかりやすいが、極限まで限定しないで流すのが、氏の強さのように思える。私は旅に出ては、生涯に一度しか会わない関係を次々作っている、そして、多分もう会えそうもない人に、もしまた会えたら、などと言っている、と感想をのべたあとで、おそらくもう会えないと思いますよ、と言って別れるのと、もしまた会えたらうれしい、と言って別れるのとどちらがいいか、私にはわからない、とわざわざ断わり書きをつける。縛らず、縛られず、というかかわりあいが、無条件に好きだ、ということであろうか。
このあたりまできて、わたしはやっと古山氏の本音にめぐりあったような気がしてくる。生きるということは、続くということだ、と氏はさわやかに言ってのける。たとえば、その人にまた会うことがあるかも知れないということが、続くのだ。それなのに、前から切望していて、やればできないことではないことがあるのに、自分はやらない。そのうちに、そのうちに、と思いながら、ずるずると延引してしまう。こうして、私は死んでしまうのだろう。しかし、(ここが肝心なところだが)、そういう自分を、強いて変えようともしない、と決然と宣言するのである。
再訪紀行の豊富なエピソードに引っぱられてきた読者は、ここで何度目かに突き放された思いがするかもしれない。著者は何を伝えようとして、色とりどりの材料を並べてみせたのか。わが胸の切なる想いを言葉に捉え、人に訴えかける仕事に、どれほどの信頼をおいているのだろうか。
野戦病院に入院する時のわが身を、古山氏は次のように描写する。軍用毛布一枚、天幕一枚、背嚢《はいのう》、雑嚢、飯盒《はんごう》、手榴弾二コ、ゴボウ剣、空カン一コ、背嚢、雑嚢の中に、米を詰めた軍用靴下、ほかに靴下もう一足、襦袢《じゆばん》と袴下《こした》の替え一揃い、フォーク、万年筆、インク、突撃一番(衛生サックの名)をかぶせたマッチ数コ、歯ブラシ、手拭い、ちり紙少々、十ルピー以下の軍票、盛大なシラミ群。ただそれだけ。これ以外に、描写のしようがない、と開き直った古山氏の表情が、眼に見えるような気がする。これこそが古山一等兵の原型であり、三十二年を隔てて、歴戦の地に無目的な長旅を試みた作家、古山高麗雄の原型ではないのか。
しかもなお、氏は次のように書き添えることを忘れない。書いても書いても、言葉が不正確で、言葉を補えば補うほど、不正確な部分がさらに不正確になって行くような思いに駆られる。だから、さらに言葉を加えたくなるという泥沼に落ち込んでしまう、と。
いや、だからこそ、古山氏は情熱をこめて、戦争が自分の中に残していったものの細部を、その微細な極限まで書きつくそうとしているのではないか。書けば書くほど不正確になっても、言葉の不正確さの泥沼の底で、書きつづけることにいよいよ賭けようとしているのではないだろうか。
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「戦艦大和ノ最期」をめぐって
拙著「戦艦大和ノ最期」は、執筆から出版までに七年の歳月を要した。初稿を書いたのが昭和二十年の秋、翌年の春にある雑誌にのせることになったが、占領車の検閲によって全文発禁処分を受けた。戦時中の軍の統制よりもさらに厳しいといわれた米軍の検閲行政に、一矢《いつし》を報いようとする一部文壇人のGHQへの働きかけが功を奏して、文体を文語体から口語体に改め十数箇所を削除するという不本意な形ながら、二十四年春にはともかく本にすることが出来た。しかし無修正の原文のままを発表するには、さらに二十七年の講和条約発効まで待たなければならなかったのである。
したがって「戦艦大和ノ最期」(以下「大和」と略称する)の最初の最も熱心な読者は、この作品の生い立ちを象徴するように、当時CIE(情報教育局)に勤務した若手の日本語の堪能な検閲官ということになる。
こうして「大和」は、五人の作家、評論家の立派な跋文《ばつぶん》を得て、ようやく陽の目を見ることが出来たが、これを迎える世評は賛否両論というよりも、「否」が優勢であり、なかでも目立ったのは、戦争肯定、軍国主義鼓吹の文学であると断定する意見であった。出版社が推薦を依頼した知識人の中で、進歩的学者である評論家と、すぐれた戦争文学作品で世に出たある作家が、一度引き受けた推薦文を取り消すというようなことも起きた。
私が初版の「あとがき」に書いた次の一節には、自分なりにこの批判に答えようとする意図がこめられていた。
――この作品の中に敵愾心《てきがいしん》とか、軍人魂とか、日本人の矜持《きようじ》とかを強調する表現が、少なからず含まれていることは確かである。この作品に私は、戦いの中の自分の姿をそのまま描こうとした。ともかくも第一線の兵科士官であった私が、この程度の血気に燃えていたからといって、別に不思議はない。我々にとって、戦陣の生活、出撃の体験は、この世の限りのものだったのである。若者が、最後の人生に、何とか生甲斐を見出そうと苦しみ、そこに何ものかを肯定しようとあがくことこそ、むしろ自然ではなかろうか。(略)
このような昂《たかぶ》りをも戦争肯定と非難する人は、それでは我々はどのように振舞うべきであったのかを、教えていただきたい。我々は一人残らず召集を忌避して、死刑に処せらるべきだったのか。あるいは極めて怠惰な無為な兵士となり、自分の責任を放擲《ほうてき》すべきだったのか。
戦争を否定するということは、現実に、どのような行為を意味するのかを、教えていただきたい。単なる戦争憎悪は無力であり、むしろ当然過ぎて無意味である。誰が、この作品に描かれたような世界を、愛好し得よう――。
「大和」はもともと、私自身が復員後、平和な生活を始めるにあたって、戦争体験の「覚え書」として書いたものである。戦後の新しい時代から振り返ってみた反省や自己批判をまじえることなく、戦争の渦中にある自分の実体を赤裸々に描こうと努めたのは、そのためである。戦争が終ってから、自分は欺されて、あるいは抵抗の余地なく強制されたから戦闘に参加したのだ、と釈明するのは筋が通らない。たとえ内心は反対でも、兵士としての役割を受け入れた以上、自分の行動には責任を持つべきであり、一人の人間として戦中から戦後まで一貫した責任の自覚がなければ、戦後の生活を踏み出す足場もありえないはずである。なぜ日本はあのように戦争を始め、そして敗れたのか。国民の一人一人が戦い、苦しみ、二百五十万の仲間が死ななければならなかったことの意味は何か。そのことの解明なくして、新生日本の真の出発はない、と私は考えた。
「大和」を好戦的作品であると攻撃した文化人、知識人が、戦争中、どこでどんな生活をし、何を喋り、何を書いていたかを知ることは、資料が消されていない限り、難しいことではない。その中には軍の報道班員に徴用されてやむなくやった仕事もあるであろうし、あの時代の異常な雰囲気に押されて筆を曲げた文章もあるであろう。どの線まで良心的に抵抗し、どの線から妥協したのかを、先輩の戦前派世代として、是非われわれに率直に語ってほしいと私は思った。その願いが、「あとがき」に「戦争を否定するということは、現実にどのような行為を意味するのかを、教えていただきたい」と書いた真意であった。
戦争という巨大な暴力に抵抗して屈しないのは、どのような立場の人にとっても、生やさしいことではない。だからこそ、たとえそれが限られた弱いものであっても、抵抗の事実には重要な意味がある。それとは逆に、戦争否定の言動が、その意志さえあれば戦時下でも容易に可能であり、当然に為さるべき行為であったとするキレイ事の風潮が、敗戦後の日本社会に瀰漫《びまん》した。そのことが、戦後日本に大きな欠落を生んだのではないか。あれほど莫大な犠牲をはらったにもかかわらず、日本人が敗戦の事実からほとんど学ぶことが出来なかった有力な原因が、そこにあるのではないか。戦後派の青年たちが、「平和」への努力がいかに厳しい試練であるかを見落としがちであり、世界の青年に伍して自立が遅れているのも、そのことと深くかかわっているのではないのか。
しかし、これは私が「大和」に対する進歩派からの批判によって触発されたひそかな感想に過ぎない。マスコミは今よりもずっと静かであり、読者から直接私の耳までとどく読後感もほとんどなく、簡単な書評がいくつか出ただけであった。ただ注目されるのは、「大和」の検閲突破の実績が出版界を活気づけ、これがキッカケとなって、「戦記物ブーム」が起きたと指摘する声が、次第に高まったことである。
拙著が、戦記物の先陣をたまわるような内容のものであるかどうか。その判断は読者に任せたいが、ここに一つの事実を指摘しておきたい。それは私の「大和」が、佐官以上の職業軍人、ことに沖縄特攻に参加した歴戦の幹部士官の間で、大変評判が悪いことである。
――帝国海軍の実態は、あの作品に描かれたように、名誉ある特攻要員に選ばれながら、死生の問題に悩んだり、女々しく家族や肉親の上に思いをはせるような、軟弱なものではなかった。ただ従容《しようよう》、毅然《きぜん》として、任務の遂行に邁進《まいしん》するのみであった。私欲を超越し、純粋無垢であった。多情多感な学徒出身の著者の眼が、自分のことから類推して、見過ったのだ――。
こうした彼らの糾弾は、今日に至るまで少しも変っていない。
さて、俗ないい方を許していただくなら、左右両陣営からの攻撃を除けば、反響らしい反響もほとんどない状況が続くうちに、「大和」を一つの文学作品として初めて正面から取り上げようという企画があらわれた。それは筑摩書房の「現代教養全集」で、第三巻が「戦争の記録」にあてられ、臼井吉見氏が編集兼解説者であった。刊行は昭和三十三年秋であり、仮の姿の「大和」初版が世に出てから、十年に近い歳月が流れていた。
臼井氏の「解説」は、次の言葉で結ばれていた。
――「大和」初版には、吉川英治、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫、五氏の跋文がつけられている。これらの批評のほかに、ぼくとして加える言葉はない。だが、この作品に、ほめ言葉を与えているのは、いずれもいわば保守派と見られている人たちばかりである。左翼なり、進歩派なりは、いまにおいて、これをどう受けとるであろうか。この一篇の美しさの通じないものと、ともに人間と文学を語ることなど、とうていできるものではない――。
臼井氏の期待された進歩派からの反応は、私の知る限り、明確な形ではあらわれなかったように思う。ただ進歩派からの発言ではないにしても、その後いろいろな場合に眼にふれた書評のなかには、問題の核心をつくものがすくなくなかった。
その一つは、この作品の欠陥は、主題である沖縄特攻作戦の第二次世界大戦に占める位置づけが、明らかでない点にあるという指摘である。そのために、全篇に悲壮美がうたわれている割には戦争批判が弱いものとなり、「大和」のクライマックスの一つである臼淵大尉の遺言、「敗レテ目覚メル、真ノ進歩ヲ重ンズル国ニ生レ変ル、ソレ以外ニ日本ガ救ワレル道ナシ」も、現代の青年に対して充分な説得力を持ち得ない結果となっている。筆者は|いかに《ヽヽヽ》戦ったか、に限定して書いているつもりであろうが、|なぜ《ヽヽ》戦ったか、についての納得出来る分析がなければ、戦争の記録として万人に通じる普遍性を持ち得ない、と糾明する声もあった。
「大和」において沖縄特攻作戦の持つ歴史的意味づけが不明確だというのは、まさにその通りである。しかしあの昭和二十年春の時点で、誰にそのことが明らかであったのか。われわれ戦うものの最も深い苦悩は、指摘されるまでもなく、自分が生死を賭けた目標が、おぼろげで捉え難かった事実に結びついている。これが、一市民にとっての、現代の戦争の実態というものではないのか。
戦後、第二次大戦は勝者によって裁かれ、正義と悪の主役は誰の目にも明らかになったとされた。しかしそれからわずか三十年の間に、正義の側に立つはずの国、民族、国家群も、ほとんど例外なく、自己の利益追求を最高の行動原理としていることを暴露した。悪の側に立つものがそれで免責されることはむろんないけれども、歴史による審判には、やはり百年の時間の経過が必要なのではないか。戦争批判の腰が弱いという点については、次のようにさらに踏みこんだ指摘がなされた。
――それは「大和」に登場する人間が、国民が主体的に国を作り上げる「ナショナリズム」ではなく、国の方が国民を作り出してゆく「エタティスム」によって支配されていることとかかわりがある。若い兵士たちが、最後の人生経験である戦闘の場面に生き甲斐を見出そうと、いかに真剣に苦心しても、国家権力の|あやつり《ヽヽヽヽ》人形である限り、空しく響くだけである。著者は、戦争を宿命的なものとして、あるいは運命論的に受け入れてしまう本能に結局は支配されており、これからの日本社会をリードする若い読者の思想と、相容れないのではないか――。
このことに関連して、最近、鶴見俊輔氏が書かれたエッセーの次の文章は、胸にこたえるものがあった。
――私が吉田満氏の最近の主張に、いくばくかの不満をもったのは、(「大和」に見られた)戦争把握の深さにもかかわらず、なおも国家批判の権利をたもつところが、はっきりしていないということを感じたからです。
はっきりと国家批判の権利を保った上で、現政府の思想を支持するという立場に進み出るような形ならば、私は、それに、すくなくとも思想の形としては、賛成します。(略)(国家が)失敗したと思う時に、あともどりをするという先例を、はっきりと残すことが、日本の未来のために、重大な役を果すと、私には思えます。(略)
その傾向は、保守・進歩の陣営の|わく《ヽヽ》をこえて、戦後の改革にかけた過大な希望のはねかえりとして、私たちの間にあらわれています。――
「大和」に対する別の面からの問題提起は、文語体というスタイルの持つ限界に着目するものであった。この文体の独特の格調とリズムが、苛烈な戦闘の経過を描写するのに|うってつけ《ヽヽヽヽヽ》であることはしばしば指摘されてきたところであるが、逆にそのマイナス面として、美文のもつ内容的な弱点、つまり、登場人物が類型化されて生き生きした実態を表現し難いとか、将兵一人一人の死生の体験の深さ、重さ、複雑さを書き切っていない、といった欠陥がとり上げられ、論じられた。
どのような作品も、その作品としての限界をもつものであり、硬質の文語体による叙事詩的な文章が、自然な、語彙《ごい》の制約のすくない、饒舌な口語体の文章に比べて、おのずからある制約のもとにあることには、私も異論はない。しかし描かれる対象によっては、自由であるはずの口語文が、別の意味の限界を持っていることも事実であろう。読者が、もし「大和」に関心を持たれるなら、限界のある文体のままに受け入れ、読者自身の言語体験によってそれを補っていただくほかはない。どのような言語体験によって補われるかに、私は重大な関心を持っている。
さて、「大和」は昭和二十七年にオリジナルな形で発刊されて以来、四分の一世紀ほどの間に、新装本、文庫版、関連した作品との合冊本や豪華限定版など、単行本として出版を重ねたほか、十種類近くの文学全集に収録され、幸いに長い生命を保つことが出来た。
未見の読者からいただく手紙や問合せも次第にふえ、比較的中立の立場でこの作品を受けとめようとする読者層の存在を、あるひろがりで実感することが出来るようになった。
この本に寄せられた好意的な評言のなかで、最も多くの支持者を得たと思われるのは、「戦争というものの実体を描いた、正直な体験談」という評価であった。この見方は初版の跋文の中の「大変正直な戦争経験談であるということで、推薦の言葉は足りると思う。それほど正直な戦争経験談なるものが稀れなのは、残念なことである。(略)自分の過去を正直に語るためには、昨日も今日も掛けがえなく自分という一つの命が生きていることに就いての深い内的感覚を要する。従って、正直な経験談の出来ぬ人には、文化の批評も不可能である」という小林秀雄氏の文章が、先駆をなしたと思われる。ある評者は、世相や時代の変遷に左右されぬ、素直な体験記録であるがゆえに、事実の持つ強味が独特の迫力を生み、読者がさまざまな角度から追体験することを可能にした、と強調された。
会田雄次氏は、「正直な体験談」という評価から一歩進めて、それならばなぜ自分は戦闘体験の記録である「戦記」を書かないのか、という理由にふれ、「本当のところをいえば、どうも結局は嘘しか書けないと思うからだ」と告白しておられる。「いったい、これほどこだわらなければならぬ嘘とは、どういうことなのか。何でもない。自分の当時の精神と行動を、何とか正当化しようとすることである。一番大きな嘘は、自分は反戦思想を持ち、そういう行動をしようと努力していたと主張することだ。今日の自称進歩主義者の体験記の最も許しがたい点はそういう嘘にある」。そして、大東亜戦争の記録の中で、その点異色なものの筆頭に「大和」をあげ、「ここには当人の意図しない嘘はあるだろうが、私に書くことをためらわせている、あの嘘が極めてすくない、おそらくあらゆる戦記の中で嘘の最もすくない戦記なのではなかろうか」と、結論を出しておられる。
問題は、この結論にあるのではない。会田氏はつづけて、「それなら、お前だって『大和』のようなものが書けるはずだ、という声が、自分の心の中にしないわけではない。だが、どうもちがう。やはり『大和』には、吉田氏の執筆態度以外の特殊な条件がある」と自問自答する。それは何かといえば、世界最大の戦艦大和のほとんど生還を期し難い出撃という、「無比の道具立てのよさ」だ、というのである。「戦いにおいて人を死地におもむかせ得るものは、ぎりぎりの極点で何らかの意味で道具立てであり、それがあって初めて死への昂奮も戦意も持続し得る。そこでは書く必要のある嘘はすくないし、嘘を書いても救いにもなんにもならない」。氏の論旨は明快である。
「大和」が無比の道具立てに恵まれていたことには、私も異存がない。これまで受けた批判の中には、あのような劇的な特攻の戦記は、特殊な死の体験として美化される危険が大きいことを強調し、前線で人知れず野垂れ死にした無数の兵隊、あるいは空襲の業火の中を逃げまどって焼死した無数の市民に比べて、あまりにかけ離れた世界であり、戦争の悲惨さ一般を代表するものとはいえない、と指摘する見方もすくなくなかった。
しかし私はあの作品の中に、「大和」における死が、虫ケラのような「難死」に比べて、死の経験としてむしろ堪え易く、底の浅いものであることをはっきり書いたつもりである。ある体験は、他の体験によって乗りこえられない限り、限りある一つの体験に過ぎない。体験を選ぶ自由は私にはなく、ただ、あたえられた戦争の場における赤裸々な自分を、偽りなく再現しようと努めただけである。
「大和」が初めて世に出たとき、これを受け入れようとする声は弱く、進歩派からの攻撃のみが目立つ観のあったことは、はじめに書いたが、これは敗戦直後の異常な雰囲気、具体的にいえば戦争への呪いが強烈なあまり、戦争への直接の憎悪、全面的な否定の見られないものは、我慢がならないという庶民感情のためであり、その意味では早く活字になり過ぎたのが不運だった、という感想をのべられたのは、井上靖氏である。先に引用した「現代教養全集」の「戦争の記録」につけられた月報に、井上氏は書いておられる。
――私はこの作品は、戦後十三年経った今こそ、すべての日本人が読まなければならぬものであると思っている。是非読んでもらいたいものである。(略)それにしても、余りにも早く活字になり過ぎたと思う。もし、いまこれが初めて発表されたとしたら、大きい感動と衝撃の嵐を読書界にまき起さずにはおかなかったであろう。――
早く活字になり過ぎた、と井上氏がいわれる意味は分るのだが、くり返しのべてきた私の執筆の動機からすれば、戦争の中の自分を直視する仕事を世の中が受け入れない風潮にあったからこそ、たとえ罵声《ばせい》を浴びせられても、日本人が戦った一つの戦いの実態を文章で再現することが、生き残ったものの務めだと考えたのは当然であったと思う。あの当時、広い読者を得た戦争文学といえば、軍隊をもっぱら露悪的に描いた一連の戦記物があげられるが、ある評者は次のように書いている。
――こんな軍隊がどうして|まとも《ヽヽヽ》な戦闘ができたんだろうか、と疑問を抱かせる点で、こうした作品はまず事実を語っていない。日本軍は非常に弱かった、勇敢に戦った軍人はみな悪者だった、というだけでは、戦争の問題は片付かない。そのような捉え方では、かえって本当の意味の戦争反対や平和の追求を生かすことは難しいだろう。
戦争は、その全体を丸|ごと《ヽヽ》捉えなければ、実態を見たことにはならない。「大和」には、日本の軍隊が祖国の膨張過程で果たした有力な役割と、限界につき当ったために敗れ去った背景とを、納得させる事実の裏付けがある。「大和」の一部の士官は、戦争というものに根源的な疑問を持ちながら、青年としてあたえられた職責を忠実に果たそうとする。それを矛盾だといって否定してしまっては、戦争というものは分らない。
戦後派の若者たちが、親の世代に向って、なぜあんな愚劣な戦争をしたのか、と詰問する。そして、自分たちの時代はそんな馬鹿なことはしない、と高言する。しかし、どうして「戦争をしない」と確言出来るのか。そう言い切るには、戦争の本質を見抜いていなければならないが、戦争はそれほどくみしやすい相手だろうか――。
「戦艦大和ノ最期」の反響は、以上に見たように、さまざまな角度から生れ、多岐にわたっている。時代とともに変遷があり、その振幅も大きい。それはなぜかといえば、執筆の動機までさかのぼるが、そこに描かれた世界が、正確に実態を映そうと意図したために、すべてが未整理で、どろどろと生臭くて、混沌としているためと思われる。阿川弘之氏の書評の次の一節が、そのことを的確に表現している。
――「徳之島ノ北西二百浬ノ洋上、『大和』轟沈シテ巨体四裂ス 水深四百三十米 今ナオ埋没スル三千ノ骸《ムクロ》 彼ラ終焉ノ胸中果シテ如何」という終末の三行が象徴するように、硬質の文体でかためられたこの一編は、国家とは何か、戦いとは何か、日本人とは何か、死とは生とは愛とは何か、私たちの胸に潮のごとき勢いで問いかけて来るものを持っている。答えは出されていない。――
最後に、「大和」が一般の読書人のほかに、新しい若い読者を得るに至った幸運についてのべたい。それは、昭和四十六年度から、高校三年の現代国語教科書のノンフィクションの部に、文章の一部が収録されたことにはじまり、熱心な先生方や大勢の生徒たちから、率直な感想が送られてくる収穫を生んだ。
ある教諭は研究資料に、授業で「大和」を扱う場合の第一の着眼点は、この固有の体験からいかにして普遍性ある思想を引き出すか、この戦争の生と死の記録から、生徒たちの思考と行動の基準となるべき規範をいかに発見させるか、にあると発表しておられる。
たまたまこの問題提起にこたえるように、ある哲学者が、「大和」艦上で青年士官の間にたたかわされた死生談義にふれて書いておられる。
――我々はこの記事を読んで、最後の決戦を前にして艦上でこのような生死の問題をめぐって激論がたたかわされたことに、驚きと痛ましさを禁じ得ないのであるが、それと共にこの論議には、何か過ぎ去った昔の、殊に戦争中の話として簡単に読み捨てることの出来ないもののあることを感じるのである。それは我々の生きているこの現代にも何か象徴的な意味を持った論議であるように思われる。現代という時代は、人類全体が地球という有限の資源を積んだ宇宙船に乗って、或る運命的な戦場に向いつつある如くである。その戦いは人類生存の危機を乗り切るための戦いである。(略)これは差当っては諸国家間の協定によって処理さるべき問題、したがって政治的問題であるにしても、それは到底単に政治的に処理されて解決され得るような問題ではない。それを成功させるためには、我々の生活意識に根本的な変革が起らなければならない。我々もまた、あの青年士官達が論じ合った問題を自らの心の中に取り上げ、我々は何を目標にして生きて行くべきか、如何なるところに安心立命を見出したらよいかと、真剣に問うて見るべき大事な時にあるように思われる。(略)――
高校生たちから寄せられた文章は、一般読者に比べていちだんと多様性に富み、先入主にとらわれていない。ここに選んだのは主として授業前の感想文であり、特に個性豊かなものが多いように思われる。
――私は空想の中で一人の士官を見た。学徒出身士官殿。あなたは、本当は私に、何をおっしゃりたかったのですか。私に何をさせようとされたのですか。あなたが死んで海底に埋もれておられようとも、あなたの意志が今も生きておられるなら、私に教えてくれないでしょうか。――
――戦争はなぜ起ったのか。戦争を実際に起したのは軍人である。そしてそのかげにかくれていた死の商人たちである。そしてそれをなにくわぬ顔をして見のがした我々自身が、悪いのかもしれない。自分はここで言いたい。悪いのは、自分たちであり、政府であり、社会であり、歴史であり、すべてである。――
――「大和」は壮烈な戦闘場面を描いているのに、戦争の悲惨さ、残忍さが、直接にはあまり伝わってこないように感じた。我々がそれを容易に理解できないのはなぜか。かえってそこに、あの人たちの本当の悲しさがこめられているような気がしてならない――。
――読んで、なんにも感じなかったが、死ぬことより、生きることが人間にとって、大切であると思った。あのような時代には、生きることがどのようなものであったか、自分には分らない――。
――「大和」を読んで、我々がいかに幸せ者であるかは、十分思い知らされた。しかし、どうしたらいいか。悲しいことに、私は全くわからない。あの人たちの気持を満たすために、自分が何をしたらいいのか、恥ずかしいことに、とにかくこのまま無駄に時を過ごしてはいけない、それだけしか思い浮かばない。何かを提起してほしい。具体的な何かを。これは甘えだろうか。――
――僕は常に自分の殻に閉じこもり、自分本位に、自分が納得いくように生きている。美化していえば、今自分を磨いている最中というところだろうか。だが、それを何か他人の為に少しでも貢献出来るものとしなくては、意味がないのではないか。
――考えたこと三つ。(一)軍隊はあるべきだ。(二)いつの世でも報道機関が大切だ。(三)当時の人々は催眠状態だったのではないか。――
若者たちの清新な感受性は、好ましくさわやかである以上に、鋭く容赦なく、身の引きしまる思いがする。「大和」の反響が、これからもますます豊かなものになることを期待してよい、というのが私の目下の感想である。
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死者の身代りの世代
中央公論『経営問題』特集号に、「戦後日本に欠落したもの」という小論を書いたのは、昨年春であった。その中で私は、戦中・戦後を貫く日本人としてのアイデンティティー(自己確認の場)を、戦後の出発に当って軽視したことが今日の混迷の根因であり、いま日本が国際社会で真に自立することを志すならば、そのアイデンティティーを改めて確立することこそが喫緊の課題であるという趣旨のことを、戦中派の立場から、戦後の長い時期を無為に過ごしてきた悔いをこめて、述べた。
この小論を材料として、昨年八月号の『諸君!』に、鶴見俊輔氏との対談「戦後≠ェ失ったもの」が掲載され、それを追うように、同誌の十月号に粕谷一希氏が、「戦後史の争点について――鶴見俊輔氏への手紙」を書かれ、それへの返書として、同誌の本年二月号に鶴見俊輔氏が、「戦後の次の時代が見失ったもの――粕谷一希氏に答える」を発表された。さらに同誌が最近の七月号に企画した、司馬遼太郎氏と鶴見俊輔氏の対談「敗戦体験≠ゥら遺すべきもの」は、これら一連の往復文書と対話に対する、いわば締めくくりのような形で、読者の前に登場した。
したがってここで振り出しに戻って、私が同じテーマを再びとり上げようとするのは、おそらく企画の一貫性を損なうことになるであろうが、鶴見、粕谷、司馬三氏の発言には、啓発されるところきわめて大きなものがあったので、あえて再論を試みることとした。もっとも、私の所論に対して正面から批判を加え、問題点を指摘されたのは鶴見俊輔氏であり、これから書こうとする拙論も、主として鶴見氏を語りかけの対象として、展開することになると思う。
『思想の科学』を舞台に、鶴見氏と面識を得てから、すでに二十年をこえる年月が流れており、労作「転向の研究」では、「軍人の転向」の一素材として取りあげられるという機縁も生れたが、これまで私の立場の核心にふれる論評を、氏はまだ明らかにされたことはなかった。今回氏が私の論点の中で肯定的に評価されたのは、「戦争について深い捉え方をしていること」、「戦争が終って呆然としている中で、戦争中に自分に植えつけられた文体(文語文)で、戦艦大和が沈められて漂流しているときに、自分の中をゆき交った心情をそのまま定着したこと」「期待の次元での戦争像から手を放さないでいたこと」に要約される。最後の項目に「期待の次元」とあるのは、レッドフィールドの「期待の次元と回顧の次元」からとったもので、生きている人が、こうすればああなるだろうと、いろいろ期待を持って歴史を生きてゆくのが「期待」の次元。ある時点まで来て、こんど振り返る時は、筋が見えてしまう、これが「回顧」の次元。鶴見氏は、期待の次元と回顧の次元を混同すべきではないのに、敗戦の時の言論の指導者はその過ちを犯した、占領軍の威を着て、カサにかかって、回顧の次元だけで、この戦争を間違った戦争だったと見ようとした、と指摘する。
私の主張の中で鶴見氏が疑問を投げかける論点は、第一に、アイデンティティーの本来の意味からすれば、民族の自己確認、民族文化の自己確認を拠りどころにして、個人の自分らしさをどのように確立出来るかが問題であるのに、横すべりして国家としての同一性という議論に早く持ってゆき過ぎている点である。第二は、第一の点と関連して、日本民族の自己同一性は、そのまま日本国家の自己同一性ではない、もちろん現政府の自己同一性とも違うのであって、その区別の中に、日本国家批判、日本政府批判の根拠があるべきなのに、私の論調からは、国家批判の権利を保つ根拠がはっきりしないという点である。
これは、戦中派世代のよって立つ基盤そのものにふれる糾明であり、われわれ世代がどのような存在の意味と、限界と弱点とを持つかを、考え直させるに充分な説得力ある指摘であると思う。
われわれ世代の最も本質的な属性は、いうまでもなく、みずから戦場におもむいて生命を戦闘体験に賭けることであった。原則として同じ年代に属するすべての健康な青年が、(理工科系の学生その他一部の例外を除いて)ひとしく戦争参加を余儀なくされたのは、われわれの世代だけであった。
われわれ世代は、自己の肉体が戦場に召される時、それを命ずる権力に抵抗することを放棄した。内地に残してきた同胞、あるいは祖国を平和が訪れる日まで護るのは、われわれ健康な青年の任務であり、自分が拒否すれば、誰か別の仲間が代ってその役割を引受けるだけである、と考えたからである。
もちろん、徴兵忌避の行動に出た者が、絶無だったわけではない。その勇気は、敬服に値する。しかしその動機が、絶対平和の立場に立つものだとしたら、同じ行動を平凡な青年の群集に求めるのは、現実問題として無理である。またもしその動機が、自分は戦争にかかわりたくない、戦争で手を汚したくないという保身から出たものならば、それが平和のために、戦争の絶滅のために役立つとは思えないのである。
われわれを戦地に駆り出そうと迫る暴力に対して、われわれが苦しみながらもそれを受入れたのは、歴史の流れがすでに逆戻りを許さぬ深さまで傾いていることを知ったからである。先輩たち、すなわち戦前派の世代は、今に至るまで様々に釈明を試みているけれども、結局は彼らの責任において、日本は果てしない長期戦の方向に決定づけられた。しかし戦火に身をさらしたのは、彼らではなく、われわれの世代であった。
昭和六年以来の大戦争が、遠からず日本の完敗に終るであろうことを、軍の実情を知る立場にいたわれわれは、正確に予感していた。日本をしてそこまで戦争に深入りさせたものは何か。このような形で敗れねばならないのは何故か。敗れたあとに来るものは何か。われわれが学徒兵として、学業半ばに志を曲げて死ななければならないのは何故か。日本人はこの巨大な浪費と、そのあとにくる無残な破局から、何を学びうるのか。
そのために死の代償まで求められたわれわれが、こうした命題の究明に真剣でなかったはずはない。少なくとも、戦前派の大多数のように、開戦|劈頭《へきとう》の大戦果に酔い痴《し》れるような振舞は、戦中派にはありえなかった。自由主義者を自認する人たちでさえ、思いがけず祖国日本が米英の横暴さに一矢を報いる場面を、狂喜して歓迎した光景が今も忘れられない。われわれに精神の自由と人格の尊厳とを説いてきた教師や社会人が、一夜にして日本主義者に変身した異様な印象を、忘れることができない。
「日本人とは、何ものか。どこに行こうとするか」こうした設問と真っ向から取組みながら、われわれは次第に戦局の核心に追い詰められていった。実はわれわれ自身にはこの設問の解明に参画する権利はなく、許されていたのは戦争のために死ぬことだけであり、戦争のために死ぬことを通して、そのようにわれわれを殺すものの実体を探り当てることだけであった。
日本が犯した過ちに目覚め、そこから立直る再生の道を歩き出すことが可能になった時、われわれ戦中派世代の使命は、すでに終っている。われわれ世代の使命は、絶えず死の危険に身をさらしながら、世代としての生甲斐を賭けて、日本の目指すべき方向を暗示することにある。日本人を支える拠りどころを模索しながら、その過程で戦争に斃《たお》れることにある。
われわれ世代の最も優れた知性の一人、林尹夫は、手記「わがいのち月明に燃ゆ」に、次のような文章を書いている。
――一つの真実(おれの性格の中の政治的なもの)のゆえに、他の真実(非政治的なもの)を殺すほかはない。
それを説明するものは、なんだろう。一つには、「おれは歴史のゆえに、こうせざるを得ない」ということだ。そして我々は、「歴史より離れて生くるを得ぬものなるゆえに、しかせざるべからず」と考える。
ゆえにある人々のように、おれには恨むなどということはできないのだ。
いったい、恨むといっても、誰を恨むのだ。世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかはない。
そして我々は、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして意味をつくりださねばならないではないか。
日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるかどうかは疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わねばならない。(略)
おれは「歴史を恨み得ぬ」と考える以上、いたずらな泣言を捨てよう。
そしてたとえ現代日本が、実に文化的に貧困であろうとも、また健全なるよき社会でなかろうとも、欺瞞と不明朗の塊であろうとも、我々日本人は、日本という島国を離れては、歴史的世界を持ちえぬ人間であり、我々はこの地盤が悪かろうとも、しかもそれ以外に我々の地盤はなく、いわば我々は、我々の土壌しか耕せぬ人間であると考える以上、おれは泣言を言ってはならない。――
以上、戦中派世代を他の世代と峻別する特色が、みずから戦場に赴いて死の体験と直面しながら、日本人の究極の課題を追求する点にあることを見てきた。われわれ世代の中で、実際に戦死、戦病死したものの比率は、おそらく全体の二割、あるいはそれ以下と思われるが、そうした数字の結末と、世代に課せられた役割とは、関係がない。われわれは戦争のために死ぬことによって、ようやく後世への発言を認められる世代であった。そうだとすれば、その中で生き残ったものは、どのような存在でありうるのか。
戦中派世代の生き残りは、生き残ったことで存在を認められるのではない。本来ならば戦争に殉死すべきものであり、たまたま死に損なったとしても、生きて戦後の社会をわが眼で見たことに意味があるのではなく、散華した仲間の代弁者として生き続けることによって、初めてその存在を認められるのである。
戦中派世代は死を前にして、「われわれは何のためにかくも苦しむか」「われわれの死はいかに報いらるべき死か」と、みずからを問いつめるほかなかったが、それに対する答えが、まだ戦後日本の歴史から生れていない以上、生き残りは死者に代って、この問いを問いつづけなければならない。戦争が終り、時代がすっかり変ったのだから、自由にモノを言うのだ、というような態度にふさわしい話題を、われわれは持ち合わせていない。死んだ彼らが言えなかったことを、今こそ公然と言おう、というような使い分けは、われわれには用がない。彼らは、言いたかった最も重要な言葉は、はっきりと言い残していったのである。
戦後、戦中派世代の生き残りが長く沈黙を守ったのは、一つにはこのような背景から来ている。戦後の日本社会が熱狂的に支持した「平和と自由と正義」も、戦死者たちの本源的な疑問に答える足場を持たない限り、彼らの苦悩を癒やすことは、ついにないであろう。
戦没学徒の中から選りすぐった人物、例えば今引用した林尹夫のような青年が、戦後まで生き残ったとしたら、日本のどの辺りに住み、何を仕事とし、どんな男になっていたか、そういう話題が仲間うちの会話によく出るが、答えはいつも空白である。戦後日本の空気を呼吸して生き長らえた林尹夫の姿は、ひとコマも想像することができない。戦後はそういう時代なのである。鶴見俊輔氏は、「期待の次元で」戦争を観る、と書かれた。戦中派世代は戦後の短い期間だけでなく、それから三十年を経過した今日まで、期待の次元で、かつて戦場でおのれの存在の意味を自問したように、戦後の歴史の意味を問いつづけている。戦中派世代が戦時下に残した言動を、「回顧の次元で」いかに厳しく指弾されようとも、われわれは屈伏することはないであろう。批判する側に立つ人が、戦時中に何を考え、どのように行動し、それらの一切を、敗戦に当ってみずからいかに総括したかを明らかにしない限り、その一方的な断罪に承服することはないであろう。
戦中派世代の生き残りは、かくして死者と沈黙を共有して生きてきたが、全く無為に過ごしたわけではない。われわれはそれぞれの選んだ場所で、戦後日本の復興と発展という労役に服してきた。そして今や定年年齢を過ぎ、いっせいに第一線から退きつつある。日本人が潜在的に持つ可能性を引き出し、社会的、経済的な力として結実させること、これは戦後の確かな業績として評価さるべき目標の一つと考えられる。高度成長といわれるものは、その一面の象徴であるが、功罪ともに、戦中派世代はその責めを帰せらるべき立場にある。
高度成長から派生した諸悪をめぐって、その行き過ぎを攻撃するのが昨今の風潮である。大きな影響を伴う社会現象で、プラスのみあってマイナスのないものはありえない。高度成長それ自身が悪なのではなく、高度成長がもたらした力を、何のために活用するかの目標意識を持たぬ日本人の愚かさが、悪なのである。国民の大勢は納得して高い成長に協力したはずであり、その限界をコントロールできなかったのは、国民と、国民が選んだ政府の責任である。高度成長によって得られた豊かさや行動範囲拡大の余恵を、思う存分吸収しておきながら、その害悪面だけを強調するのは、身勝手というものであろう。それとも、高度成長を憎むあまり、低成長の苦難の道を、あえて受入れる用意があるとでもいうのであろうか。
新生日本が、かつてあの泥沼的な戦争にまきこまれていったように、再び世界の中で孤立することなく、与えられた位置にふさわしい発言の場を持つためには、潜在可能性を開発することが先決であり、その上に立って、思想的に、文化的に、もちろん経済的にも政治的にも、国際社会の期待にこたえることこそが、戦死者たちのわれわれに托した悲願であった、というべきではないだろうか。
私が戦前・戦後を貫くアイデンティティーの確立と、その基盤となるみずからの主体的な責任の確認に|こだわる《ヽヽヽヽ》のは、戦中派世代の提起した根本的な発顕が、そのことと密着していると考えるからである。個々の日本人は、およそ「公的なもの」と、どのような根拠で、どれだけの深さまでかかわるべきなのか。戦争の体験はそこにどう生かされるのか。鶴見氏からも、司馬氏からも、明快な答えはいただいていないように思われる。
くり返すが、戦中派世代は、国が決断した戦争への破局の最終場面で、最も大きな犠牲を強いられた世代である。日本が戦後どのような針路を進むかが、みずからの重大関心事である以上、国の犯す過ちに盲目であるはずはない。われわれ生き残りは、失われた仲間の生甲斐に賭けても、祖国があるべき基本路線から逸脱した事実を、見のがすわけにはいかない。ただわれわれは傍観者のように、局外者のようにではなく、あの戦争の重荷を負った同罪者の一人として、国の動静を監視したいのである。
鶴見氏は、私との論争点について、現政府がきめてしまったことを根本から批判する力を、どのようにして自分の中につくることができるか、という問題に集中させ、戦後におけるその具体例として、成田空港建設にあたり、土地所有者の合意を軽視した失敗をあげておられる。
政府が、そして国家が失敗したと思う時に、あともどりをするという先例を、はっきり残すことが、日本の未来のために、重大な役を果たす、という氏の主張には、全面的に賛同する。そうでないと、国家の決定をつねに拍手をもってむかえる大政翼賛会の流儀にふたたび近づいてゆくように思われ、その傾向は、保守・革新のわくをこえて、戦後の改革にかけた過大な希望のはね返りとして、私たちの間にあらわれているという氏の告白は、その率直さにおいて心を打つものがある。
しかし、あともどりしたそのあとには、何が来るのか。誰の手で、何が実現するのか。あともどりをさせた主体が市民の力だとすれば、市民の責任において、具体的な代替物が提供されなければならない。
アイデンティティー、すなわち自己確認の場が、民族から国家、さらに政府へと関連してゆく図を、鶴見氏は思想の分野で捉えられた。
それは氏の立場として当然であろうが、現実問題としては、政府の次元で捉えることも可能であり、意味がないことでもないように思われる。
結論的にいえば、戦中派は政治不信である。政治を軽視するというのではないが、われわれの命運が決するような緊迫した局面になると、政治はその機能を失うのが通例であった。
われわれ世代にとっては、社会と対決する思想の内容こそが究極の価値基準であり、政治はいかに有力な武器であっても、そこから派生する方便に過ぎなかった。
林尹夫は、同じ手記に書いている。
――日本の戦争による苦しみ、それはけっして本来的に、現在の為政者だけの責任ではない。もっと根深いものがあるのだ。この意味において、この戦争は日本、ならびに世界の現代の矛盾にもとづく、国家悪としての歴史的必然であるがゆえに、我等が頭上に宿命的なものとして迫る。
個人の批判と抵抗を排除して襲いかかってくる。この意味において、歴史はやはり必然の世界であるまいかと、ぼくは思う。(略)
ぼくといえども、国家と民族のためには銃を把《と》る。しかし人間には本来的に、どうにもならぬ領域がある。すなわち人間の自由精神は、絶対的に他の要素で没せられぬ要素である。これを前提として承認し、その責務を果す責任が国家にある。人間に自由を与えよ。おのおのがその分を尊重せよ。非常時はあくまでも一時的現象たらしむべきものである。人間は、国家そのもの、戦争そのもののためにのみ、生きるものではない。まさに人間は自己のために生きているのである。これあればこそ、国家のため、民族のために、死をいとわぬものなのである。自由精神の理想、失うべからず、みずから生くることが、まず中心の課題でなければならぬ。――
余談になるが、鶴見氏は私より六カ月年長、司馬氏は私より七カ月年少である。まさに同世代といってよい。同年代の誼《よし》みで、不躾な質問を許されたい。
鶴見氏は、今の保守派は「反《ヽ》革命」一色であり、真の自由主義は、「反反《ヽヽ》革命」の立場に立つべきだ、という趣旨のことをのべておられる。しかし戦後の日本に、思想としての「革命」と呼ぶべきものが、どの程度あったのであろうか。政治としての「革命」的動きは考えうるが、これは正確には対立する政治権力の抗争の一形態に過ぎないのではないか。
司馬氏は鶴見氏との対談の中で、――戦後の日本は、経済大国とか言われてますが、他の国に影響を与えるほどの思想を持っていない。もしあるとすれば、「私どもは思想なしで、なんとか東京も比較的に犯罪件数もすくなくすごしています」ということでしょうか――と、さりげなく語っておられる。
日本民族の本質をめぐって、数々の長大作をものされた氏が、明治維新に劣らぬ大変革であった敗戦の経験について、この程度の感想で片付けられるのは腑《ふ》に落ちないように思われるが、いかがであろうか。
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死・愛・信仰
戦争は私にとって一つの場であった。戦争はおよそさまざまの戦いをはらむ颶風《ぐふう》であった。それは私にも戦いを蔽《おお》いかぶせ、戦いの焦点に私を吸い込んだ。そして戦いは、私の臓腑から生命を奪わずに、私の胸奥に死の刻印をのこして行ったのである。
私は、太平洋の緒戦の、思い設けぬ戦果に声をあげた。だがそれが、ひいきチームの優勢をたたえるあの歓声とひとしく、無責任極まるものであることに気付かなかった。戦争の進展の彼方に、ささやかな夢を宿したこともあった。そしてそれが、ひとりわが身に僥倖《ぎようこう》を待つあのひそかな空想に劣らず、他愛ないものであることを知らなかった。相つぐ戦報に、狂喜しまた落胆しながら、これこそ戦いだと思い込んで昂奮した。戦争という一つの営みに向うにふさわしい、思慮も計量も備えるゆとりはなかった。やがて硝煙や爆音に身近にしたしまねばならなくなったとき、私はだから空虚な楽観に溺れるか、発作的な不安に屈するかしかなかった。私は戦争と戦いとを混同し、むしろとりちがえて、いたずらに戦争の前に自失していた。私をそのとき包囲しつつあったのは戦争であって戦いではなかったのである。戦争は、そのために責めを負い、また報いを受けることのできる、いなそうせねばならぬ一行の歴史に過ぎない。それは謳歌され、憎悪される。その動機は是非され、その巧拙は褒貶《ほうへん》される。私はその前に、自由に冷静に、しかも賢明に立つことができる。私は自ら判断し決意し、充分に納得して戦争を受け入れるべきであった。だがいったい赤裸々な「戦い」の旋風の前に、ついに人間は何であるのか。
多くの学徒が、ふさわしからぬ熱狂と共に、召されていった。私もその中にいた。私はその自分の位置をどのように解していただろうか。朝の日のしずかに射せる汝《な》が部屋を掃ききよめおりよき兵たれよ――或る母の作だといって、友人から送って寄こした。よき兵とは、愛国者とは、真に何を意味するのかを私は考えて見ただろうか。戦争が私を一歩戦いに近付けるというこの事態が、何であるかを思いはかっただろうか。水兵に召されてから一年の、躾と駈足と速成技術とを身につけて、羞《は》じらいもせずに任地に赴いた私は、それだけ少しでも戦いに近迫していただろうか。歴戦の戦艦というその配置での、昼夜をわかたぬ猛訓練に揉まれて、辛うじて肉体の極限に堪えながら、私はまさしく自分を戦いに据えようとしていただろうか。
本土空襲は激化し、急遽《きゆうきよ》出撃の噂は絶えなかった。もはや疑う余地のない祖国の非運が、悲愴めいた感傷に誘う。むしろ生きのこる人たち、とくに婦女子の苦難を想えば、いま散華する身が何か慰められる。そして、「特攻」という美名のひびきや、巨艦の一員として出陣するのだという矜持の意識が、死の予感の周囲に、異常な昂奮の綾を織りなして、死をくみし易く甘美なものに思わせる。私はそうした薄膜を、死のまわりに、従って戦いのまわりに張りめぐらしながら、その中に落ち込んだ自分の暗さを、安心立命の静けさだと思いあがっていた。たしかにこの安らかさは、思いがけぬわが心の堅固さよと、愚かにも自負さえしていたのである。こうした深くもない自己陶酔が、これほど長く破られないためには、第一線艦の、あの粗暴な殺気と無法な繁忙とが必要だったのである。そして私の青春の血が、ようやく見出したはけ口は、――夜毎の盃。月明の海に艇を走らせつつ口ずさむ歌。戦友との幼い昔がたり。同僚すべてを上陸させ、ひとり残務の処理を約す一挙手の敬礼の伸びた小指の小気味よい味。
しかし出撃の日は来た。それを知らされた時、艦はすでに進発を了えていた。あまりに飽気《あつけ》なく、私のさいごの日は眼前にあった。各艦とも煙突に菊水を描いた特攻艦隊で、全艦搭載燃料は往路をみたすのみ、ゆきてかえらざる文字通りの必死作戦であった。一点の疑念をもゆるさない、信頼に足る死がそこにあった。しかも出撃を知って、先ず私にこみあげて来たのが安堵《あんど》だったとはどういうことであろう。何よりも、底なしの猛訓練から解き放たれることがうれしかったのである。それに、今まで士官として身にあまる厚遇を受けながら、弾片一つ身を掠《かす》らせたことのなかった腑甲斐なさからも救われるであろう。私は、浮き浮きした。だが、それから内地を離れ去る翌朝までのあいだには、悲愁、感謝、憤りなどがこもごも私を襲わずにはおかなかった。自分を喪《うしな》っては、慰めるすべもない母の悲歎が、胸をしめつけた。この我がままな自分を、よくも友としてゆるしてくれたと、親しかった人たちの眸をなつかしんだ。つとめもつくさず、責めも果たさずに散るわが身が、情なくまたいとおしかった。艦内には着々と戦闘準備が整えられてゆく中に、私は幼な子のごとく、素直にしみとおる感動に揺られていた。だがそれらの起伏する感情も、私自身という焦点を外れて、あらぬかたを漂っていたといわねばならない。私という人間、いま終焉《しゆうえん》の間ぎわにあるこの私の生涯、そのゆくえ、これらが何であるかをいつかは見きわめねばならない。むしろ本能的にそう予感しながら、私は避けて避けて、ただ快い懐情に溺れていたのである。それが堰《せき》を切って、その深夜、私の口を衝いた。或る正規の若い士官が、俺達は国に殉じ君に報ずる、以て瞑《めい》すべしと断じ、以下問答無用と放言したのに対し、歯をならして喰いかかった。――むしろそれは、我々|戎衣《じゆうい》を纏《まと》える者の、当然の務たるに過ぎぬ。以て死をあがなうに足りぬ。そのことが更に何をもたらすのか。それ以上の、いかなる価値につらなるのか、窮極にそれは何なのか――問い詰める私の面上に、軽侮をふくんだ反駁《はんばく》が飛んだ。――観念の妄者《もうじや》。批判の中毒者。不言実行。笑って死すべし。潔く散華せよ。――当然至極のこと、そう咽喉の奥に呟いて、しかし私は彼等を軽蔑も羨みもする気持になれなかった。ただこの自分の訴えを彼等に通じさせられぬもどかしさと、それにもまして、みずから求め求めて得られぬ焦燥に悶えた。むろんこうした議論に結論は望み得ない。果ては、酔気が鉄拳の解決を促した。私達同志は、私語せねばならなかった。――戦いは必敗だ。いな、日本は負けねばならぬ。負けて悔いねばならぬ。悔いて償わねばならぬ。そして救われるのだ。それ以外に、どこに救いがあるのだ。――然り、めでたき敗戦の日までの決死行。俺たちこそその先がけ。新生へのはえある先導――微笑を含んだ声がこたえる。だがその微笑の何と弱く、寂寥《せきりよう》をさえ含んでいたことであろう。我々は、ぎりぎりの確信を欠いていたのであった。
私にも、二十歳を過ぎる頃、真面目な人生探求の時代があった。真理を追い、理想にあこがれ、絶対のものを捉えようと、師友に、書物に願っていった。求めて、数え切れぬ程のものが与えられたかに思われた。だがいずれも、私を充たし得ぬのみならず、かえっていよいよ偽りの色を濃くするばかりであった。私の心身はやがて鈍磨され、真理と一致すべき理性への信頼も、真実を希求すべき愛への奉献も、痛ましく損われ、懐疑がついに絶望と自棄とに流れようとしていた。いま戦いと取組むことは死と正対することであり、死を凝規することは更にわが手にわがいのちを確かめることであった。望むべくは私は、そのときその場所で、自らの生涯をありのままに想起し、くまなく吟味し、とるべきはとり、捨てるべきは捨て、平静に勇敢に、戦いに向うべきであったのである。だが自らの生命の真の値打ちも、ひとすじの生甲斐も知らぬ哀れな私に、どうしてそのようなことが可能であったろう。ただわけもなく、徒らに、心の波をかき立てねばならなかったのだ。
艦隊が内海を離れ、小雨降る外洋に滑り出てから、そして、潜水艦、偵察機の驚くべき巧みな触接が始められるに及んで、ますます艦内にあふれる笑声を聞いたとしても、だから何の不思議もない。日頃血肉を分け合った程の戦友同士が、きびしい敬礼一つに万感を托して別れてゆくかたわらに、何に戯れてか傍若無人の蛮声もしばしばきいた。笑いこける高声が、むしろ嬌声《きようせい》が、うつろにひびいた。笑み合う兵たちの、まなじりに光る残忍なかげ――まあ、俺は大丈夫さ、何とか生きてかえる、俺だけはね――唇はそう高慢にただれていた。一見豪放快活と見える挙動も、実はこれ程にはかない気休めに支えられていたに過ぎない。われわれを死から救うという、露ほどの保証さえあり得なかったのに。また沈着を装う者も、あいまいな諦観か、淡い回想かに縋《すが》って、死の輪廓をぼかしていたに過ぎない。こうした惨めなさまで、私達は死の掌中にひき込まれつつあったのである。そのときすでに、私の心は死んでいたのではなかろうか。なぜなら、私はもはや何一つまともにみつめることも出来ず、自分をしかと探り当てることも出来ず、まして生きている己れのいのちに触れることさえ出来なかったからである。
戦端は開かれた。その瞬間は、正確に予定されたようでもあり、全く唐突のようにも感ぜられた。とにかく事実が、唯一の、明白な裁きを下して行った。戦いがあり死があった。絶え間ない炸裂《さくれつ》、衝撃、叫喚の中で私の肉体はほしいままに翻弄《ほんろう》された。躍り匍《は》い走りすくんだ。こころは今や完全に機能を失い、感覚だけが目ざましい反応をつづけた。筋肉が神経が痙攣《けいれん》して、ただそれに追われるばかりであった。死が、血しぶきとなり肉片となって私の顔にまといついた。或る者は、まなじりを決したまま、一瞬飛び散って一滴の血痕ものこさなかった。他の者は、屍臭にまかれ恐怖に叩きのめされて失神し、身動きも出来ぬままなお生を保っていた。およそ人の訴えを無視し、ときとところを選ばぬ死神の跳梁《ちようりよう》、生の頂点をのぼりつめて、死の勾配を逆落ちながら、あばかれる赤裸々なその人間。蒼ざめたまま口を歪《ゆが》めてこときれる者。女神のような微笑みをたたえ、ふと唇をとじる者。人生のような、芝居のような、戦闘の一局面。そこでは、一切に対する、想像も批判も連想も通用しない。ただ見、触れ、押し、抱くことが出来るばかりであった。
やがて無惨に傾いた敗残艦に、沈没寸前の虚脱した小休止が来た。私がおそれ避けて来た「時」であった。果たして内心の声が抗しがたく迫って来た。――死にゆく者。死神の顔色でもうかがうか。それとも決算の用意があるのか。お前の生涯を飾る一切のうち、いま死にゆくお前に役立つものがあるか。あれば共に進むがよい――私は答えようと懸命に、追憶に向って救いを呼んだが、不安はつのるばかりであった。一枚一枚この肌をはがされ、むごい孤独のままに打ち捨てられようとしていた。それは余りに明らかだった。何もない、何一つない、これが俺だったのだ。一切だったのだ、と呻きながら――しかし私はそのまま、艦腹から波頭に落とされていた。波濤がひとたびは私を呑み、再び陽のもとに浮きあがらせた。極度の緊張と消耗の果てに、私は漂う藁《わら》のように、自分を投げ出していた。多くの兵が、救われんためにあがいて、その故に力つきて沈んでいった。私は自分というものを忘失して、ふっとこみあげる、ただそれだけの、ありったけのものに任せていた。予期以上の惨敗に、作戦は中止。人員救出、帰還が下命された。生きんとして生き得た者はなかった。しかしむろん、必ずしも死をねがう者に生が、生をのぞむ者に死が与えられたのではない。そこにも人生があり、死の姿があった。私は終始、人間らしいおのが心をしびらせたまま、戦い、死を掠め、よみがえったのである。一夜を、昏々《こんこん》と眠り呆《ほう》けた。翌朝、春の陽とみどりの山の前に、ただ抜けがらのように立っていた。美しい、とわずかに感嘆が湧くのみであった。
白いベッドに身を横たえながら、私は身をさいなむ問いを執拗にくり返した。――あれが死なのか。波にまかれしたたかに水を呑まされ、苦悶の極に明転し、そして俺は甦ったが若しあの時暗転していたならば、――あの眠りに似てより重く、窒息に似てより忌まわしい、瞬間が永遠につづくのであろうか。しかも一度限りの、終熄《しゆうそく》。いなそれよりも、あののがれようのない、孤独、寂寞《せきばく》、絶望はどうしたことなのだ。あのようにしか死ねないものとすれば、人間とは何なのか。何のためのものなのか。それだけではない筈だ。たしかに、何かが欠けている。あれを悲惨の極と感ずるこの心がある以上、それにこたえるものがなければならない。ささやかながら求めつづけるこの叫びに応ずるものがなければならない。そうでないならば、我々はただあるがままにあるだけで、苦しみすら持ち得ないだろうから――欠けたものは一体何か。俺の場合の、虚無の理由は何なのか。――次第にいたわりながら私は自問しつづける――お前は、本当に愛したことがあるか。もうそれだけですべてというような、渾身《こんしん》の愛を味わったことがあるか。全身全霊、生き生きとした、しかもしずかなよろこびに浴したことがあるか。単に知性の満足だけでもない、我意を全うしただけでもない、自分という人間全体の、しみわたり貫きとおるようなよろこびを受けたことがあるか。いな、自分の前に、もう一人の自分である本心を、偽らずにさらけたことがあるのか。真の孤独をたのしみ得たか。何ものにも打ち克つほどの、永遠にもつづくことをねがう程の、希望と感謝を抱いたことがあるか――なかった。たしかになかった。俺が求めたのもそれだった。しかし与えられなかったのだ。哲学が教えるものを、身辺のつつましい対人のことに適用しようとして、如何にしても成功しなかったときの淋しさも知っている。さりとて、恣意《しい》にのみ走ったあとの、悔恨と自嘲の苦さも知っている。努力も足りなかった。性根もかたくなだった。ゆるしてくれ。俺は愛したい。献身したい。ひとに押し付けひとを叩くための議論でなく、そのためにこそ自分が生きているということだけを語りたい。そしてそのように生きたい。俺が戦塵の前で目を蔽ったのも、死のかたわらで麻薬を求めたのも、当り前のことだった。あれが特攻のいくさでなかったら真相はより明らかだったろう。必死、決死という感傷に耽ることも出来なかったろう。右か左かを選ばなければならぬならば、素手のかなしさは更に堪えがたかったろう。欺かれてはならない。あのようなものが死ではない。死から充分にへだたり、生きることが平凡な確かさを持っているとき、そこにこそ死がある。死ぬか生きるかの刹那、あるのはただ肉体の、感覚の、動物の死のみだ。生きねばならぬ。正しく、愛をきずいて、生きるにふさわしく生きねばならぬ。一瞬一瞬に至誠をつくし、悔いなき刻々を重ねねばならぬ。刻々に死ぬことによって、死を超えるのだ。そこにこそいのちをいとなんでゆくのだ。――
ふたたび、特攻基地が私を迎えた。私は生活改造のためのこの適地を感謝した。なぜなら、そこでは、遠からず確実に訪れる、しかもいつとは分らぬ死のために、日々備えをすることが求められていたのだから。私は単純に、我慾を押えることに精進しようと努めた。基地の殺伐な空気がそれを援けてくれた。辛かった。しかし疑い得ぬよろこびもあった。私は一点をみつめ、そこから視点を外すまいと力をつくした。ともかくも、そうして死を待つことが出来た。
終戦。復員。私を迎えたものは、肉親の涙であり、和やかな生活の慰めであった。だが私は、はからずも戦陣の粗暴と荒涼をなつかしむ自分を見出して愕然とした。いつでも死ねる、いつでも死んでやる。それは何と毒々しい誘惑だったろう。そのおかげで、日常のこまかなつとめを、如何に平然と無視することが出来たろう。だが今ここにあるのは、父母につかえ、一つの文字を心して書き、大過なき一日をよろこばねばならぬ自分にほかならぬのだ。私に触れる如何なる些事《さじ》も、すべて死につらなるものとして受け入れることに、私のあの体験の成果、脱皮の効験があった筈だ。もう死ねない、いつでも死ぬというわけにゆかぬ、そうした思いに頬をこわばらせるような自分がまだのこっているのだ。あやういかな――私はこまかく戦いの事実を書きつづった。自らの心の鏡として、鞭として、貴い試練が与えてくれたものを保つための糧として。
その手記は人によまれはじめた。何とさまざまなよみ方をする人がいたことであろう。多くの場合、私は暗然とさせられた。人は感嘆し、嘆息を洩らす。だがそれが、戦いの特異な外貌に向けられるばかりで、散華した人たちの心情に、か程まで触れること少ないのはどうしたことであろう。ひと一人が死ぬということは、ただ興味をつなぎ気を呑まれて眺めていればいいことではない。彼等も、人間として、一つのいのちとして、夫々に絶えていったのだ。彼等も、さいごに、あの瞬間に、悲しく絶叫したに相異ない。私たちが、悪夢をはらい、心の生活を打ちたて、精神の価値を目ざすことを切望したに相異ない。そのように、自分の胸にひびかせてよんでくれた人が如何に少なかったことであろう。
また私は、共に乗組んでいて戦死した戦友の遺族の方にも、たびたび会わねばならなかった。その人たちの、夫は、息子は、兄弟は果てたが、私はそこにいるのであった。どのような目をして、私はその人たちをみつめ返すべきであったろう。どんな慰めの言葉を口にすることが出来たであろう。しかし私は今こうして生きています、と、私は身を以て、心から、愛の、真摯の、建設の生活を語りたかった。亡友をただ不運な同情すべき惜しまれる人だと、追憶するだけでどうしてゆるされよう。まともに顔をあげ、眸をかがやかし、謙虚に、しかし力強く立つことが出来たら、どんなによろこばしかったであろう。そうすることによってのみ、彼等に報いることが出来るのだと、どれ程嘆いたことであろう。私は、不甲斐なく、うつむいて、詫びたり、弱々しく希望を述べたりすることができるばかりであった。
或る友人の手から、たまたまその手記が、カトリックの邦人神父の手に渡った。その神父から、泊りがけではなしに来いとの誘いがとどけられた。私は宗教に対しては、無知と反感としか持ち合わせていなかったけれども、何か自分に訴える真実を求めるあまり、思い切って乗り込んでいった。その目の光りを、あとで殺気と評されたほどの勢いであった。どうよんだというのだ、何かそれにこたえるものを持っているとでもいうのか。容易にはだまされんぞ、――結んだ唇にそう問いつづけながら、私は神父の前に坐った。予期に反して、その人は、その夜ついに神ということばも、信仰、宗教ということばも、キリストの名も口にしなかった。一夜を語り、床を並べてまた語り明かした。その人は私を私の得意な話題にさそい、思うままに喋らせながら掘り下げてゆき、そのことの根底にまで話を持ってゆかせた。たとえば美について、美とは何か、美はどこにあるか、と突きつめてゆくように。それだけならば何か尤もなことを言いおおせたかも知れない。だが美、真理、理想、死、そうしたものを統一的にとらえねばならぬとなると、私のちょうど欠陥に触れてくる。そこからが問題なのだ。自分には何もないことを白状して、口をつぐむほかはない。私はそうしながらも、卑屈なまたニヒルな気持にはついにならなかった。私たちは互いに目の中の光りをみつめ合って話した。その人の態度ほど、皮肉というものから遠いものはなかった。分りません、ということばを、私は、自分にも意外な程晴れがましい口調で吐いていた。
その人は、ことさら私の意を迎えるような一言半句をも口にしなかった。その手稿を両の手に抱いてそれを握りしめながら、口を切った次の簡明な言葉――繰返し拝見しました。声に出してよみました――を私はどんな風に聞いたであろう。初めて、自分の苦衷を汲み共に進んでくれる人に逢えたよろこびが先ず私を領したのであった。
勉強しよう、痛烈に私は決意した。ありったけの自分をひっさげてぶつかろう。そう心に誓った。その人を得たという感動が私を励ましてくれた。しかも何と怠り勝ちな私の歩みであったろう。ただ全くの安逸を追うために、心にかかる努力の機会を敢えて捨てたこともしばしばであった。だがやがてその人にかえっていったとき、終始変らぬ明るい暖かい確信にみちた微笑が私を迎えてくれたのであった。
私は間もなく、自分の宗教に対する反感が、今まで思い込んでいたように理論的な根拠のあるものではなく、正反対に、全く感情的なものであったことを認めざるを得なくなった。こと宗教に関して、私の未知の分野は驚くべく広大|且《かつ》深遠であった。私はその人にただ得難い知己としてではなく、宗教、信仰に関連して、接してゆくことを努めていった。
私が神父という人を知ってから重ねたあらゆる勉強も行ないも、ただ真の謙遜にゆきつくための準備であったといってよい。教義を学ぶかたわら、私は徳というものに心を傾けていった。自分のけがれが、不完全さが、ずるさが目立って来てたまらなかった。今まであいまいに過ごして来たことも蔽いがたく眼前にさらけ出され、額には自責の皺《しわ》が刻まれるようになった。たとえば愛という行ない一つをとりあげて見ても、何と私は愧《は》ずべき人間であろう。この上なく親しい人に対して、或るとき恐るべき背信の心に走ることがないであろうか。嫉妬が軽侮が憎悪が、いつ忍び込むとも保しがたかった。しかもその人に自分の愛を誓うような笑顔だけを向けていることが許されるのだろうか。こうして私は内省の時を増して行った。だがそれは未だ真の謙遜からは遙かに遠いものであった。私は未熟だ、だからまだ信仰に近付く時期ではない、そのような弁明こそもっとも傲慢というべきではなかろうか。信仰が自分にふさわしいかどうかを決める力が何によって私に与えられたというのか。ただ、私はかくの如きものですと、ひれ伏すことこそ謙虚の名に価する。ゆるがぬ率直さを以て、自己のすべてを開陳し、一切を奉献するのみ。ああその如何に困難であることか。さいごの傲慢が頑強に私に抗《あらが》った。些《いささ》かなりとも、おのれ自身の一片を、わが自由のもとにのこして置きたい、或るときはそれによって寝そべり、放恣の夢をたのしみたい。その惨めさを知りつつも、与えられず創られざる何ものかをおのれが所有するかに妄想して、刹那の愉楽に耽りたい。――この傲慢に打ち克つためには、祈りが、神への愛が、むしろ神への切願が必要であった。わがうちなる傲慢の暗さをきよめていった果てに、ついに一点消しがたくのこる暗黒を救うには、圧倒的な光りが必要であった。私は祈って見た。神を愛そうと試みた。愛そうと努めた。若しあなたがあるなら私の中にも生きて下さいとくり返しねがった。神父のうちなる、近い面と遠い面とが、限りなくへだたっていって、そのとき思いがけず一つの人格の中に合致した。神父は私の前に、知友でも師でも兄でもなく、まさに父となった。その人間性の故にではなく、神へのわれとひとしい奉献の故に、神のごとくに父であった。私は神父を通して、そのかなたのものを実感した神父をして神父たらしめ、神父をつかわしたそのものの息吹きを感じた。聖寵がくだり洗礼がさずけられた。自らを空しくすることによって、かえって無限にみたされるゆたかなおのれを見出した。地のおもては新たにされた。私はしかと自分をとらえ、おのれを正視する勇気をとり戻し、きびしい内省のうちにおのれを愛する平安を与えられた。感謝に涙し発憤に微笑んだ。
祈るために跪き、十字を切るということがどうして躓《つまず》きとなり得よう。それを形式と見る人は、形式でない人間の振舞いをあげて見るがよい。一寸した挨拶のための会釈と、祈りの姿勢とのあいだに、どれ程の本質的差異があるというのであろう。人間が肉体をもそなえて生れたということを、すでに形式的だとでもいうのであろうか。心のうごきを助けるために、肉体が協力する、それだけのことに過ぎない。
私はみめぐみに協力の手を差しのべ、神を実感する。神を愛し神に祈る。神は愛しこたえたもう。堕落と昇華、精神と肉体、理想と現実、永遠と時間、あらゆる矛盾の相剋《そうこく》にある私は、この献身の一行為を以て、自然と超自然とを接合する。私はもとより朽ち果てるべきものであり罪と無知とを免れ得ざる者である。だが日々に浄化のときを持つ。祈りに於てみ前にわが身を捧げ、愛を以て聖寵を保つ。未熟にして愚かなれども、無限の希望に燃え謙虚なるかぎり不安動揺を知らぬ。一日の生が、死への一日の接近であることをしかと受けとり、ますます悔いなからんことに力をつくす。孤独を恐れず、むしろそのときを貴しとし、愛をみがく。愛の故に奉仕し、読書し、犠牲を求め、また悦楽する。この胸にはつきざる歓喜と平安とがある。かく生きることにつくしつつ、刻々の死を凝視する。そしていつかは私にも死が与えられるであろう。
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病 床 断 想
この一週間、ものを見ない。右の眼はまわりに縫いつけられたように、瞼もうごかない。左の方はどうやら無傷らしいが、かたく繃帯《ほうたい》にしめつけられている。日に一どの診察のとき、繃帯がほどかれ、右眼がおしひらかれる。しかし左眼もひとりではあかない。むりにひらくと、右の方の筋肉もうごくとみえ、ひどい疼痛《とうつう》がある。それでも、二度ばかり、チラリと天井がみえた。夏の日ざしが落ちてうす暗いよごれた壁だった。想像していたよりも、この世界は暗かった。
それでも夜は夢をみる。それも、むかし通りの明るい、かたちのはっきりした夢だ。だから朝目をさますとき、そのままいつものようにものを見ようとして、つい目に力が入るらしく、毎朝つづけて痛い目にあった。夢の仮象ではふつうにものが見えて、ひるは何も見えないということになる。むかしよんだことのある、たしか荘子の一節を想い出した。ある人が蝶々になった夢を見た。さめてから考える。自分は人間で、そして夢で蝶になったのか。それとも自分は蝶で、人間としてすごしているこの世界が夢なのか。何となく面白く感じたので、未だにおぼえているらしい。
むかしその話を面白いと思ったようにいまは自分の夢の経験が面白い。
目をふさがれていて、何も見えない。そのことが、どんな影響をあたえるか。それを知るには、ものが見えたとき、自分が何を一ばんよく見ていたかを想い出せばいい。
われわれ都会人は、人、とくにその顔と、書かれたもの、とくに字を一ばん見ているらしい。ほかのものは、急に見なくなったことがあまり気にならない。
ところが人の顔は、別のいみで、見なくなってもそのことをあまり感じない。面会謝絶で、かぎられた家族しかたずねてこないが、それでも毎日三人や五人の声はきく。声をききながらでも、その人の顔がしぜん目の中にうつる。話をしていて、やっぱりその人が見えている。もちろんじかに見るときとはちがうが、誰かのことを思い耽っているとその顔がうかんでくることがあるように、そのときどきに表情を描きながら会話している。あたらしい人が訪ねてくる。○○さんがいらっしゃいました、といわれると、ふっとその人が目に見える。そういう顔が、むろん人によってちがうが、大たい、一寸ななめ横から見た、生まじめな表情をしているのが不思議だ。これは僕の性格のためかも知れない。色はほとんど印象にのこらない。
ところが担当医師のK先生と、受持看護婦のSさんとは、どちらも顔を知らない。顔を見知る暇もなく目をふさがれてしまったからだ。二人とも声だけはすっかりきき馴れた。むしろ一ばんなつかしい、たのもしい声になっている。それで話しながら、顔がうかばないかというと、やっぱり見える。おぼえた表情のかわりに、いわゆるイメージがうかぶ。若いが重厚な医師と、賢いやさしい看護婦、それぞれについて僕の抱いていた理想の顔らしい。それでも充分実感を持っていて、親しみがもてる。
人の顔は、そういうわけで、急に見なくなってもあまり淋しくなく、かえって自分の好みなりに美しくととのえられた感じになるが、字の方はこれとはちがうようだ。怪我をしてからの毎日、何か物足りない気がして仕方がないが、その主な原因は、本をよめなくなったことにあるらしい。本がよめないと、退屈なだけでなく、自分の人生の射程が、急にせばめられた思いがする。本はもちろん、新聞も、手紙も、字という字がすべて姿を消すと、触角をもがれたような頼りなさにおそわれる。現代人は読書に中毒しているという。活字からよみとったものをたよらず、自分一人では、何一つ考えられも信じられもしないといわれる。たしかにわずか一週間本を奪われただけで、世の中から一人とり残され、成長がとまってしまったような錯覚におちいってしまう。これは裏を返せば、いままでは活字を追うだけで、自分の中身までゆたかになったような錯覚にとらわれていたことを意味する。ただ受身に字面を撫でるだけで、言葉の味や、考え方の筋まで、すっかり自分のものにしたつもりでいたらしい。だから現代人は、ときどき本をとりあげられると、自分の裸の考え方が洗えて有益だと、誰かが言っている。
たしかに読書からはなれるにしたがって自分の貧困さが目についてくる。自分という人間そのものが、いかに乏しい問題しかはらんでいないかにも驚かされるが、すべての思考のあやになる言葉《ヽヽ》が、水の切れた草花のようにひからびてゆくのも、あまり愉快でない。一人の人間の思想ないし人生観の特徴は、五つか六つの言葉に集約されるというが、自分の用語がいわばその骨格のいくつかの言葉だけに収縮してしまったような感じになる。しかもそれらの言葉は、どれも何かの愛読書からかりてきたものにすぎない。かりもののわりには身についているといっても、自分の血肉というわけにはいかない。何ものにも支えられない、自分の芯はどういうものなのかと、思案しつつ際限がない。
見舞にきた人から、怪我のときはどんな気持がしましたか、とよくきかれる。答えようとすると、あまりはっきりしていない。そこで少ししつこく分析しながら、想い出してみた。
サイダーびんをあけようと思って、屋内体操場を出た。あいにくせん抜きはないが、そとの鉄の柵《さく》で三本までうまくあいた。さいごの一本の口をこすりつけた瞬間、右眼のなかに、四、五本稲妻のような光りがひらめいた。鋭い黄色をしていた。同時に、ばぁーんと、はじけるような音が耳をついた。手をやると、瞼がまくれこんだように、ぬるぬるとくぼみ、なまあたたかかった。右の眼に、びんの口が三センチほど吹きとび、ささくれだっているのが映った。二、三度右眼をひらこうとしてみたが、眼全体がべったり糊をつけたようにだらりとして、てごたえがない。それからほんの二、三秒、そのままの姿勢で、僕は頭の中をまとめていたらしい。そしてびんをさげて、体操場のなかへ、皆のまえへ入っていった。
サイダーをのみたいといっていたSさんの横に、何となくびんを置いた。ちょうど入口のわきに大きな鏡があり、そのまえに立つと、異様な形相が、こちらを見ていた。運動に疲れた頬の上に、唇のそばまで、どろりとした半透明の汁が垂れ、眼の位置は、ただ赤味がかった白い穴になっていて、その垂れさがったものは、黒目の中身だと知られた。色合も感じも、しじみに似ており、およそ一つ分の量があった。
その頃まで、みんな手足がつったように、身動きもしなかったが、急にさわぎ出して、まわりをとりまいた。すぐ病院へ、ということになり、押されるようにして、急ぎ足に歩き出した。鏡にのこったさいごの自分の表情に、唇をゆがめて、ニヤリとした笑いがうかんでいたのが印象にある。
何の笑いか。ともかくいやらしい。不敵の微笑、などというものを、僕は信用しない。
しかしこの笑いは、怪我をしてから皆のまえに出るまでの二、三秒、頭を掠めた想念と、無関係ではないようだ。
わずか二、三秒でも、かなり微妙な複雑な連想をめぐらせるものだと、今考えて不思議に感ずる。まず、事の重大さを直感した。失明? 間ちがいなし、とうなずいた。では予感があったか? 何もなかった。予感めいたものさえなかった。しかも、他愛もない遊びの最中に、これ程ひどい事件が起きようとは、そのとき、何というか、人生が、柔軟自在な姿で、目の前に展《ひら》けた。幸運にめぐまれた今までの半生、その極致だった戦争の体験、その後も順境をのぼりつめた最近の生活、いつの間にかしみついていた人生への馴れ馴れしさ、いわば爛熟ともいうべき心の動き――こうした一連の心象がありありとうかび、反射的にそれと対比して、人生の真骨頂が、絶妙な呼吸とさりげない身振りで、眼前にあった。
砂浜に立ってあの大波がひたひたと足を洗うように、いかにも容赦ない人生の波が、この身を洗っていた。
それだけのことが、ページをめくるほどの速さに胸の中を走りすぎた。そして僕は、低く声に出して呻った。なるほど、というか、やられた、というか、人生のあたらしい味に、悪くない気持で感心していた。
ここで思わず一声呻ったということが、その後もついに頭の血を燃えあがらせずに終ったらしい。事の重大さは意識しながら、何となく人ごとのようなのんきさを持ちつづけたのも、そのためらしい。わが身の不幸より先に、人生の驚きの方が、心をとらえたわけだ。
病院への道を急ぎながら、息をきってそばを歩く妻に、僕は、「片目はとてもだめだ。それは覚悟してくれ」と言った。垂れさがった黒目を押える手拭に、血がにじみはじめていた。「でも左の方は大丈夫?」と妻は左の眼をのぞきこみ、「片目はのこっても、ずい分不自由ね」と涙をこぼした。僕は、人間の自由にも限界がある以上、不自由になっても、それは相対的な変化にすぎない、などと、いつもの癖で、勝手な理くつを自分にいいきかせていた。
あいにく休日で、病院がしまっていたため、眼科病室をさがすのに一寸手まどった。バスを待つ人たちが、もの珍しそうにわれわれを眺めているのが、落ちかけた日射しのなかに見えた。やっと診療室について、待つこと数分。この間、一しょにいたH君、O君、Sさん、Mさん、Kさんなどの奔走ぶりが、痛いように耳に入る。誰かの走る後姿が、目をかすめる。
診察がはじまった。「失明はまぬがれませんね?」「まずだめでしょう」「左は大丈夫ですか?」「異常ないようです」仕事のことが心を走る。片目でも支障ないものか。どの位休まねばならぬか。「片目になったらどの程度不自由ですか?」「馴れれば案外大したことはないようです。まわりの人は誰も知らないで、片目だという人が相当いるものです」「右眼はもと通りもどらないでしょうね?」「こんなにすっかり脱出してしまうのは、ごく珍しい。化膿の危険が多いし、まずくり抜くより仕方がないでしょう」「そんなにひどい傷ですか。そのわりに痛みがありません」「非常に痛む筈ですよ。しかし眼球だけでとまったからいいんで、もし眼底まで貫いていたら、脳から血が出るんで、いのちがありません。この傷でも、数時間ほっておいたら、致命傷でしょう」
結局、眼球を切ったガラスが、サイダーびんの破片で殺菌されていたことと、負傷後二十分ほどしか経過していないため、思い切って縫合することにきまった。少しでも化膿の気配があれば、すぐくり抜くということだった。
「痛いですよ」と宣告されて、固い手術台にのぼる。注射針が、眼球の中を貫いて、眼底に打ちこまれる。コカインが数滴点眼された。医師が二人、看護婦が三人、眼球をそとへ引っぱり出して、うすい表皮(角膜)を、曲った針に通した糸で縫付ける。傷は幅約一センチ半、真横に黒目を切っていた。(びんの口のあたりにひびでもあって、われたガラスの一片が、炭酸の力に吹きとばされ、狙いをつけたように飛びこんだものらしい。)頬の上の黒目がメスでかき集められ、傷口につめられるのが、真上から照らすライトに、真みどりにぶよぶよと見える。麻酔のせいか、頭痛と吐気がはじまる。パチパチと糸が切られ、こめかみがひきつれる。
やがて片付ける気配がし、終りかと思ったとき、眼球の傷口のあたりに、ペニシリンが打ちこまれた。約三十分の手術だった。
手術台から下りると、頭がフラフラした。眼は痛みに堪える力を入れにくいためか、全身がねっとり汗ばんでいた。
ベッドに横になると、疲れが出て、三時間ばかり眠った。九時頃眼をさまし、かるい流動食をとった。自分の不注意のため、多くの人に心労をかけていることが、ただすまなかった。
友人の代筆で、係長に報告を書き、安心して、ぐっすり眠った。朝まで起きなかった。
見舞の人は、心から同情して、「大変でしたね」といわれる。それからきまって「でも、気を落とさないように。まだ若いのだし、両眼がなくなったと思えば……」とつけ加えられる。
僕にはしかし、その慰めが奇異に感ぜられる。別に悲観の材料もないし、失望の余地もないような気がする。
いつの間にか、あの奇禍が、突発事件という印象を失い、平凡な出来事になってしまった。けさ起きたとか、誰かに逢ったとかいう事実と同じような、何でもないことになって、日常のなかに埋もれかかっている。あの怪我以来の幾日間というものが、これまでの人生とごく自然につながって、なだらかに今日まで流れてきている。自分の人生は、ただこの一本しかないということが、素直にうなずける。あの怪我さえなかったら、人生はもっと本筋を進む筈だった。それが、あの日以来、わき道へそれてしまった。そういうわびしい感じは、初めから一度もない。今踏みしめているこの人生こそ、唯一の真正のものだと、おのずから確信し肯定している。別に苦情をいう必要もない。
これは、多少の戦争の経験のあいだに体得した、現在を充実して過ごす|こつ《ヽヽ》かも知れない。「われ事において後悔せず」という言葉がある。現在為し得、かつ、し甲斐のあること、それのみが、いつも関心事となっている。
負傷する。「もしああしなかったら怪我しなかったろうに……」というようなことは、心に入る余地がない。化膿の懸念、失明の危惧、なども医師に一任して、憶測をつつしむ。ただ明瞭に肝要なことは、療養に万全を期すること、将来の不自由を予測し、準備をはじめること、――だからそれに専念する。
受身に、怪我による失地を回復するのでなく、積極的に、新しい事態に立向う。
こういうことは、いい傾向といえるかどうか。ただ自分には、幸いなことに思える。
見舞の人が、僕を慰めようとして、悲観するに当らない材料を、いろいろと並べた。あまりつよくいうので、しまいには醜い感じがしてきた。すると、自分にもやっぱりそういう傾きのあることに、思い当った。
怪我のもたらすマイナスをまずかぞえる。かなり決定的な不自由、当面の不健康、仕事のブランク、など。次にプラスをかぞえ立てる。わがままな自分の性格に対して適当な痛棒となること。節制がもたらす生活の規律化。しばらく沈思反省の時を与えられたことなど。――そして、そのプラスとマイナスを差引する。プラスをひいき目に過大評価する。結局大したマイナスにならない。むしろプラスに出来るかも知れない――こうした心理の動きに、自然おちいってはいなかったろうか。自分を元気づけるために、ショックを過小視するために、禍福を計量して、こじつけの楽観をひき出してはいなかったろうか。だとすれば、みっともないことにちがいない。
それと似たことだが、こうした突発事故から何か意味をくみとろうとして、いろいろ説明してくれる人がいる。何かの警告だとか、より大きな不幸への代償だとか、飛躍を期しての一歩後退だとか。
たしかにこの事故は、僕に何かの影響をもたらし、結局何かへの契機となるだろう。しかしそれは、結果であって目標ではない。この事件がどんな意味を持っていたか、それは僕の死の時、あるいは死んでからのちに、明らかになることだ。もしこれからの生き方が、僕を前進向上させるならそれはプラスになり、後退低下させるならマイナスとなるだろう。僕が今後つかみ得る変化だけが、この事件の意味となるだろう。
ただ現実を真っすぐに見、それを両手に着実に受けとる。そうした自然の姿態を持ちたい。もちろん反省の糧として、この奇禍にいかなる警《いまし》めをくみとることも差支えないが。
パスカルは、妻子を失って悲歎の底にある男が、いま自分の賭けた馬がスタートしたというだけのことで、この数分間有頂天になっている様を描き、そこから、人間の悲しみが一見深そうにみえてその実底の浅いものであることを辛らつに結論している。
片目を失うという事件は、その与える現実的な影響からいって、僕のこれまでの半生のうち最大の出来事といえる。とくにこの数カ月間というもの、僕の全生活は、決定的な変化を受けるにちがいない。多くの人がそのことのために、涙を流してくれた。
しかし僕がこのことをめぐって、やや深刻に思い耽るのは、一日のうちわずか何分間かにすぎない。あとは事故とは無関係な、多くは他愛もない物思いにすごしている。つまらない些事が関心をひき、感情が波立つことにも変りがない。
あるいはこれは、怪我というような簡単な事態がひき起した、割り切れやすい悲劇であるためかも知れない。このような場合、苦悩の方向も範囲も、即物的にはっきりしていて、打撃は直接なかわりに単純である。おそらく人生には、これより目立たず、平穏な、なだらかなかたちをまとった、はるかに決定的な岐路が伏在しているにちがいない。この方が悲劇とよぶにふさわしく、人は弱点をつかれて人間らしく悩むだろう。
しかしある人は、僕の心の平和を、経済的、社会的な安定のおかげだと指摘する。それはたしかに、|一つの《ヽヽヽ》理由とはいえるだろう。だがそれが根柢《こんてい》的な理由だとは、僕は思わない。もし今生活の困窮に責められるとしたら、僕は余裕をうばわれ、頭をなやますだろう。だがそれで、決定的に不幸になるだろうか。
またある人は、「片目だからそんなのんきなことがいっていられるので、もし両目ともやられたらどうします」という。これも、素朴な事実にちがいない。だが、ただ起り得るという理由だけで、より深刻な災難を心配するのは、愚かなことだろう。
不自由な生活にとじこめられてから、一カ月を過ぎ、その間の心境の変化にも、気付くようになった。一言にいえば、だんだんおだやかな、すんなりした気分になれたようだ。
「さぞうっとうしいでしょうね」といわれる。怪我の当初は、いや、大してうっとうしくないな、と自分にいいきかせる気味があった。それが近ごろ、「なるほど、うっとうしい」と、ただうなずける。前は、「つまらん災難でしたね」といわれると、しかし、それだけではない、というような不満があったが、いまは、全く災難でした、と割り切れる。あの頃は、こだわるまいと意識して、結局こだわっていたが、この頃は、自分のこだわりが、自分に分るようになった。
それに従って、片目の生活にも、急速に馴れてきたようだ。一方の目しか役立たないことを、意識するのは、時々にすぎない。最近までは、夢で見る視界が明るく広いので、目がさめてから戸惑いすることがあったが、それも、片目なりに右半分の暗い視界に統一されて、気付かなくなってきた。人間の順応力というのか、両目で見ていた、開けた視野の記憶も、ほとんどうすらいでしまった。
と同時に、不具になったという事態に応じて、一寸した心理や身構えまでも、それらしく身についてきたらしい。これは僕が、自分らしくなってゆく過程で、好もしいことにちがいない。
だがまだまだ、こだわりやしこりも、のこっているだろう。
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一兵士の責任
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戦争責任≠ニいういい方は、複雑な豊富な内容をふくんでいる。戦争行為全体が平和≠ノ対してもっている基本的な責任もあれば、戦争を直接ひき起したある特定の個人が負うべき責任もあり、また戦争に便乗して行なわれた残虐行為などにたいする責任もある。
このように多面的な戦争責任≠フすべてを、私はここで論じようというのではない。私にとってもっとも関心のある角度、つまり平凡な一国民が消極的ながら戦争に協力せざるをえなかったという事実に対して、その一兵士にどのような責任が課せらるべきかという点だけにしぼって、この問題を考えてみたいのである。
問題の焦点をしぼったからといって、戦争責任¢S体の視野からのがれることはできない。みずからの戦争体験のささやかな反省に過ぎないこの戦争責任論も、ひいては広く問題全般に対する私の姿勢を示すことになるだろう。
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平凡に生きるための手がかり……[#「平凡に生きるための手がかり……」はゴシック体]
以上の立場にたてば、私が如何に戦争に協力したかを概略のべることから、この小論をはじめねばならぬことは明らかである。
昭和十八年十二月、大学の三年であった私は、学徒出陣により海軍に入隊した。一年の教育ののち、翌十九年の暮に少尉に任官し、副電測士として戦艦「大和」に乗組んだ。この間、私は模範的な兵でも優秀な士官でもなかったが、かといって特に怠惰でもなかった。戦争というものの意味を疑い軍隊生活を嫌悪しながら、与えられた境遇には負けまいとがんばる、ほぼ平均並みの学徒兵だったといっていいだろう。
昭和二十年四月、大和以下十隻の特攻艦隊は沖縄方面に天号作戦を展開すべく、帰りの燃料を持たずに内海基地を発進した。目標は沖縄本島の米軍上陸地点に突入しそのまま陸兵となることであり、作戦の成功はすなわち確実な死を意味していた。
ほぼ征途の半ばに達しようとする頃、いち早く有力な米機動部隊に捕捉されたことが、結果として奇蹟をもたらした。二時間にわたる圧倒的な襲撃の末、十隻の僚艦のうち六隻が撃沈され、残りの燃料が辛うじて帰路を満たすに足りることをみてとった司令長官は、作戦中止と全員の帰投を下命した。無数の偶然が、沈む巨艦の大渦流の中からわれわれを救い出し、さらに駆逐艦の戦友の手が甲板の上に引き上げた。
四隻の敗残艦は、傷つき疲れ果てて、ようやく内地に辿り着いた。
それからの五カ月を陸上の特攻基地勤務に過ごした私は、そこで終戦を迎えた。まっ先にきたのは、いかに生きるべきかという自問だった。いつでも死ねるという自暴自棄な気楽さによりかかっていた身には、平和の日々は明るく|まぶし《ヽヽヽ》過ぎた。何をしてもそれが消えずに、自分が生きていることの証拠として一つ一つ残ってゆくということが恐ろしく、平凡に生きるための手がかりを必死に求める気持だった。
その時自分の一ばん身近にあったのは、もちろん戦争の体験だった。戦争の中の自分は、平和の時代にふさわしくないものに思えたので、出来ればそれを抹殺し、それを乗りこえたところから、戦後の新しい生活をはじめたかった。
しかし、この二年間の自分というものを全く無視したら、どこに新生の手がかりがえられるだろう。それがどんなにむなしい経験だったとしても、人生の最後のいく日かに生命をかけた|かけがえ《ヽヽヽヽ》のない生活がそこにはあったし、しかもほとんど無数といえるほど多くの人の生命の燃焼が、集約され累積されていたのだ。
敗戦を境いとして、われわれは生れかわらなければならないとしても、われわれの一人一人の人間としての存在が、そこで断ち切られるわけではない。私は私であって私以外のものではない。過去の自分を他人事のようにただ|さげすみ《ヽヽヽヽ》、冷たく葬り去ることから、何が生れるというのか。
もしこの二年間を、いや戦争中の数年間の時の流れをすべてブランクだと考えたら、私の新生の手がかりは、そのブランクをこえて、その前の時点に見出すほかはない。しかしどんなにさかのぼっても、それはすべて、やはり必然的に戦争中の自分に結びついているのだ。そこには終始一貫した自分という人間の生甲斐のようなものがあるわけで、それを勝手に分断したりすりかえたりすることは許されない。少なくともそのような身勝手な自己否定からは、建設的なもの、意味のあるものは生れてこないはずである。
つまり私には、戦争というもの、戦争の中の自分というものを無責任に呪うだけで、戦後の新しい生活への道が開けるとはどうしても思えなかった。そしてそれとは逆に、自分がどのように戦争に協力したか、戦争協力行為は何を意味していたか、そのすべてが責められなければならないのか、あるいは許される部分もあるのか、といった問題を正面からみつめ、その土台の上に、自分の一貫した責任を明らかにしてゆくことが、その時第一になすべき仕事だと考えたのである。もしあの戦争の体験が恥ずべき戦争協力行為として一切否定されなければならないとしたら、その根拠とそこから生れる結果とを、自分の手でつきとめたかったのだ。
戦争協力の事実[#「戦争協力の事実」はゴシック体]
私はその手はじめに、戦闘経験の記録をまとめることにした。戦後の立場にたつ反省や批判をしいて避けて、明白な事実だけを正確に残そうと心がけた。
この記録を改めて客観的によみ返すうちに、私はいくつかの事実、つまり戦争協力行為の核心のようなものを発見した。戦争の渦中にありながら、戦闘経験の意味をつき放して吟味することはむつかしい。敗戦による自分の中の人間≠フ復活が、はじめてそのことを可能にしたといえるだろう。
発見した第一[#「第一」はゴシック体]の事実は、戦争一般について、また特に今度の戦争の意味について、私が強い疑念をもっていたにもかかわらず、同時に召集令状に対しては、これを受入れることが国民としての最低限の義務であると考え、徴兵を拒否することにより戦争を絶対的に否定するという道をとらなかったことである。戦争を好む立場からは最も遠い地点にいたのに、それに押し流される以外に道がないと観念することが、私には自然に思えたのだ。
第二[#「第二」はゴシック体]は、軍隊生活の中で、私が意識的にサボろうとする態度をとらなかったことである。性格的にも肉体的にも、軍隊への適性をもたず、毎日の兵営生活は苦悩の連続にほかならなかったが、一方課せられた最低限の義務をすら怠ることは、いさぎよしとしない気持だった。職務に最善をつくすことは決してなかったけれども、普通の人間の当然な誠意だけは持ちつづけた。つまり平和の日が一日も早く来ることを切望する気持と、戦争稼業にたいするある忠実さとが、私の中に両立しえたのだ。
第三[#「第三」はゴシック体]は、戦争というものの本当の悲惨さの実感である。われわれの特攻作戦に参加した万に近い将兵に限ってみても、一人一人何十年かずつの人生をここまで引きずってきたあげく、一つの戦闘という虚無のルツボの中で一切が|うたかた《ヽヽヽヽ》のように消えさるほかなかった。悪徳士官の非業の最期というようなわり切れたことではなく、士官も兵隊も、善い人間も悪い人間も、すべてが無差別に戦争≠フ暴力の中で押しつぶされたのだ。戦闘に直接参加した奴は一様に好戦的で、だから当然の報いとして無意味な死しか与えられないのだとしたら、悲劇としての底はむしろ浅いといえるだろう。そうではなくて、あらゆる煩悩、あらゆる未練にさいなまれた無数の人間の前に、それとはまるで無縁のような無頓着さをもって、徹底した破壊力が横行するのが戦争なのだ。ある幹部将校、たとえば艦長をつかまえて、その非情な好戦的な行動を責めてみたところでどうなるものでもない。彼がなぜ職業軍人になったのか、なぜこのような死を遂げねばならないのか、もし社会が彼にそのような役割を求めず、たとえば平和の中で活動の場を与えたとしたら、彼はどのような人間になりえたか――こうしたところまで掘り下げなければ、戦争の悲惨さの本当の深さは、はかりえないのではなかろうか。
第四[#「第四」はゴシック体]には、戦争の悲惨さの一つの極致として、いよいよ死に直面した時のわれわれの心情をあげなければならない。出撃がほとんど生還を期し難い特攻作戦であることをはじめて知らされた時、まず胸にきたのははげしい無念さだった。学生として豊かな希望を恵まれながら一転して軍隊の鞭と檻の中に追いこまれ、しかも僅か二十二歳の短い生涯を南海の底に散らなければならないことへの憤り、自分が生れ、生き、そして死ぬという事実が、ついに何の意味も持ちえないのかという焦慮。――しかしいよいよ戦闘の最後の場面で、乗艦がほとんど真横に傾き水平線が垂直に近い壁となって蔽いかぶさってきた時、立てない程に疲れ果てた私にはもはや悔いも憤りもなく、純粋なある悲しさと、何かを訴えたいような昂りだけが残っていた。
何を訴えようというのか。――生き残った同胞が、特に銃後の女性や子供が、これからの困難な時代を戦い抜いて、今度こそは本当の生き方を見出してほしいと、訴えるというよりも祈りたいような、声の限り叫びたいような気持だった。――
戦争の真っ唯中でもがきながら、われわれの死をのりこえて平和の日がやってくることだけを、ただ願わずにはいられなかったのだ。
はじめは全く自分だけの心おぼえとして書かれた私の記録は、ある奇縁からジャーナリズムの目にとまり、やがて「戦艦大和ノ最期」として公刊された。
幸か不幸か、拙著はいろいろな意味で世評に上り、いわゆる戦記ものブーム≠フキッカケを作った。それだけに風当りも強かった。中でも最も有力な批判は、私の姿勢が根本的に戦争肯定であり、軍国主義鼓吹につながるとするものであった。
これは、私には実に心外だった。この戦闘記録を公けにしたことについて、もし責められる点があるとすれば、それは、平和な時代になってから、わざと赤裸々に戦争の実相を再現したことであるはずで、しかもこの問題については、むしろ戦争の中の自分を凝視することこそ戦後の新生の出発点だという反論を用意していたにもかかわらず、攻撃の重点は、私の戦争協力行為そのものに向けられたからだ。
なぜこの行為が、これほど糾弾されなければならないのか。――私の行動は、別に特異なものではなく、当時の五体健全な日本人の男として、ごくありふれたものだったのではないか。また不幸にして血みどろの戦闘にまきこまれた人間が、自分の生命を守るために敵愾心を燃やすのは当り前で、軍人精神とか戦争謳歌とかをいう以前の問題ではないのか。――
これらの攻撃に対する応戦を通して戦争協力の責任とは何か≠ニいう問題に、私は否応なしに直面することになったのである。
戦争からの逃避[#「戦争からの逃避」はゴシック体]
戦争協力行為そのものが攻撃の的となったのは、それが追いつめられたギリギリの結果ではなく、みずから選んだ好戦的な活動だと解釈されたからである。つまり士官となって特攻作戦にかり出され、大殺|りく《ヽヽ》戦の一員となり果てるまでに、これを避ける道はいくらでもあったはずだし、それをしなかったのは、平和への意欲が稀薄だったからだというのである。
まず私は、徴兵を拒否することが出来たはずだとキメつけられた。その当時、理由のない徴兵拒否は銃殺あるいはこれに類する極刑を意味したという反論も、言訳としては通用しないという。巧みに自分の肉体を傷つけるとか、精神異常をよそおうとかによって徴兵と死刑の両方を避ける手段はありえたし、現に少数例ながら成功した人もいると、その実証まであげて追及された。
そういう例がありうることは私も認める。そしてそれが、純粋に反戦という動機から初志を貫徹したものだと前提すれば、戦争否定の見事な模範例であることは疑いがない。しかし私がとりあげようとしているのは、平凡な国民一人一人のささやかな行動であり、平均人の能力しかもたない者が、どこまで戦争協力の責任を問われるのかという設問なのである。
徴兵拒否を戦争否定の有力な手段だというのなら、格別深い洞察も強い信念も持たない一市民でも、その道を選びうる基盤がなければならない。無力な一国民にとって、戦争を憎悪することと徴兵を拒否することの間には、越え難い大きなミゾがあったのではないか。
また誰もが徴兵を拒否すべきだという理由として、この戦争が正しい動機に導かれない悪しき戦争だから、これに協力することは人間の進歩に逆行するという点をあげるとしても、今度の戦争が歴史の中で与えらるべき評価を正しくとらえるだけの材料や機会が、その時一般大衆に充分に与えられていたとは思えない。――要するに、みずからに召集令状がまいこむような段階では、徴兵拒否は最も強力な戦争否定の手段であるが、これをもって組織的な戦争非協力のキメ手とすることは、空論に過ぎないというのが私の結論であった。
ここで第二の指弾として、もしやむなく徴兵をうけ入れたとしても、怠惰な不誠実な兵となり消極的ながら戦争非協力にはげむことは可能であり、だいたい第一線の士官となって直接戦闘に参加するなどは以ての外だという追及が加えられる。
たしかにわれわれの仲間にも、いわゆるやる気のない兵隊≠ェ少なからずいたことは事実である。彼らは味方の戦力に何ものかを加えるよりもむしろマイナスの存在であり、したがって結果的には、裏切りや利敵行為と同じ効果をもたらした。戦争非協力をもしその意味にとるなら、充分成績をあげたということになる。
このゆき方をもっと押し進めると、いざ実戦にかり出されるハメにおちいったとしても、その時こそ自分だけは一切の戦闘行為から手を引き、せいぜい傍観者の位置にとどまるべきだったという結論になるだろう。私の身辺にも、たとえば機銃弾が降りそそぐ中を細い柱でわが身をかばいながら走りまわる士官がいたことはたしかである。
しかしこれは戦争からの逃避であって、けっして戦争の否定ではない。こんな行動をいくら積み重ねたところで、積極的な戦争拒否への道が開けるということはありえないのだ。
軍隊生活への反逆が、はっきり反戦という立場に貫かれている場合はもちろんあるだろうが、それが必ず平和への熱意と密接に結びついているという保証はないのではないか。またひとたび軍隊というカベに屈服した以上、そこで課せられる職責から逃げることだけを考え、さりとて正面から立ち向うこともしないような根性から、平和推進という難事の遂行に役立つものが生れてくると期待出来ようか。
私は徴兵拒否を頂点とする立派な反戦行為の可能性を認めているし、そのように行動しうる人を賞揚するのにもやぶさかではないが、なぜ軍隊に反逆しなかったかという攻撃に結局承服しなかったのは、それを万人に求めることが余りに非現実的であるばかりでなく、国家というものの存在を認める限り、その基本的な要請に国民がこたえることは、古今東西を通ずる公理と考えたからである。
さらにいえば、そのような召集拒否だけで、戦争否定が可能となるほど戦争≠ヘ生やさしい敵ではなく、過去のわれわれの戦争協力だけを責めて足れりとする立場からは、また同じ過ちのくり返しが生れるだけではないか。ダマされたといってただ他を恨みみずからを省みないものは、また必ずダマされるだろう。
ヨーロッパあたりでは戦後でも珍しくなかったように、どこか強大な隣国がわが国にも触手を伸ばして、徴兵の鞭を打ち鳴らす可能性が絶無だとはいい切れまい。このとき、もしまたかつてのわれわれと同じような無力であれば、すべてはあの惨たる歴史をくり返すだけなのか。敗残と汚辱のあの戦争の経験が、すべてむなしいものに終るのか。
ここで私は、こう断ぜざるをえない――
召集令状をつきつけられる局面までくれば、すでに尋常の対抗手段はない、そこへくるまでに、おそくとも戦争への準備過程においてこれを阻止するのでなければ、組織的な抵抗は不可能となる。目に見えない戦争への傾斜≠フ大勢をどうして防ぐかにすべてがかかっている。――
このような血のにじむ結論を踏みこえてその上に実を結ばせてくれることこそが、われわれの何よりの念願だったといえるのだ。
政治への無関心[#「政治への無関心」はゴシック体]
戦争への非協力は、それを強制される立場にない限り一般大衆には不可能だとする考え方は、そのまま戦争協力の責任なしという結論に通ずるのか。
私自身、その点を明確にすることなく、久しく過ごしてきた。これまでの論調からすると、平凡な一兵士あるいは一市民に戦争協力の責任を問うことは、酷であり無意味であるから責任そのものが存在しないと主張すべきなのだろうか。しかし私はそこまではふみ切れないでいた。
このような混迷はまず、絶対非協力か屈服かだけを考えてその中間の可能性を軽視したことから来ているのではないか。
私は自分のしたことが、最善だったとか完全だったとか自負しているわけではむろんない。戦争憎悪がもっと深く私の中に根を下ろしていたら、戦争非協力に一歩でも近づく道をとりえたはずだし、もし真に平和を欲していたのなら、そのために、一つ一つは微細でも、無数といえる程多くの機会が与えられていたのではないだろうか。
混迷の第二の原因は、責任と犯罪の混同にあったように思われる。みずからの戦争協力行為が責められるべきか否かに私があれ程とらわれたのは、一種の犯罪行為として糾明されているという先入感があったからなのだろう。犯罪と責任は常に不可分なのではなく、犯罪のないところにも責任はありうる。むしろそのような責任こそ、根の深い、本物の責任なのではあるまいか。
――私はここで、このような基本的問題にたいする不明を恥じるとともに、みずからの戦争協力の責任を、はっきりと認めることを明らかにしたい。これを認めなければ、私の発言は、はじめからその支えを失うことになるにちがいない。また戦争中の経験をすべてブランクと考えたら、新生への糸ぐちは見出し難いと私が直感したのも、戦争協力の責任をそのあるべき形においてとらえること、そして終始一貫した私という人間の根柢にふれることを通じて、初めて戦争経験がのりこえられることを意味していたのではないだろうか。
このように考えると、責任というものの意味もおのずから異ってくる。すなわち、戦争協力の責任は、直接の戦闘行為あるいは、軍隊生活への忠実さだけに限定されるのではなく、さらに広汎に、われわれがみずからをそのような局面まで追いつめていったすべての行動、あらゆる段階における不作為、怠慢と怯懦《きようだ》とを含むはずなのだ。
私の場合でいえば、戦争か平和かという無数の可能性がつみ重ねられながら一歩一歩深みに落ちていった過程を通じて、まず何よりも政治への恐るべき無関心に毒されていたことを指摘しなければならない。また国家と国民の関係について、国家の意志のあり方について、自分の問題として具体的に取組んだことはほとんどなかったといっていいだろう。
他の人について論ずるのは、本論の主旨ではない。しかしこの意味では、おそらく大多数の国民が、ひとしく戦争協力の責任を問わるべきではないだろうか。
戦争から得た利益の度合や、これに関与した権限の大きさによって、戦争責任の具体的な訴追を論ずることも必要だが、それよりも前に、このような基本的な戦争協力責任、戦争否定への不作為の責任を改めて確認することが、敗戦によって国民が真に目覚めるということであるにちがいない。
またこのような、根源的な戦争責任を認めればこそ、さらに開戦謀議や、残虐行為などの責任問題を現実に処理することが、はじめて本来の意味をもつことになる。それらのいわば個別的な責任を、正義や平和の名において裁くための根拠が、ようやく国民の間に用意されるといっていいだろう。
平和への戦い[#「平和への戦い」はゴシック体]
責任があるということは、これを果たす義務があることを意味する。何に対して、またいかなる手段によって、この責任を果たしたらいいのか。
私はこれまでの論議を通じて、戦争協力責任の実体は、政治の動向、世論の方向に無関心のあまりその破局への道を全く無為に見のがしてきたことにあるとの結論に達した。したがって、もしこの責任を果たす道が残されているとすれば、それはみずからの無力をいたずらに悔いることではなくて、この愚をただくり返さないために、現時点に立って戦争阻止のために為しうる限りの努力を傾けることでなければならない。第二次大戦の|にがい《ヽヽヽ》経験は、われわれをいく分とも賢明にしたはずであり、これこそ戦争がもたらしたほとんど唯一の収穫と思われるのである。
ここでいう戦争阻止のための行動を、平和運動と表現することはもちろん可能である。しかしそれが、従来からの惰性的な平和運動の単なるくり返しに過ぎないとしたら、戦争防止のための実際手段として必ずしも有効でないことは、歴史の教えるところである。
どうしたら平和運動に活を入れ、新しい威力を加えることが出来るだろうか。――この点について、私がみずからの経験から胆に銘じて痛感させられているいくつかのことを明らかにしてみたい。
第一[#「第一」はゴシック体]は、戦争憎悪についてである。われわれが、戦争憎悪に燃えながら、しかも軍隊生活に精励しえたことは前にも書いた。戦争憎悪は、それほど戦争阻止と無関係なものなのか。
二千年の人間の歴史を通じて、一般国民大衆が、戦争嫌悪に燃えていなかった時代はないはずである。それなのに、実際に戦争がなかった年は、二千年の中の三分の一にも満たないというのは、どうしたことなのか。
戦争憎悪だけで戦争が防止出来るのなら、戦争が歴史の上に登場する機会は、ほとんどなかったにちがいないのだ。
「戦争憎悪は、当然過ぎて、無意味に近い」かつて私はある文章にこう書いた。戦争の悲惨さの極限にふれて、|しんそこ《ヽヽヽヽ》からこれを憎悪するあまり、ただそれを好まない≠ニいうようなことに、何か意味があるなどとは思えなかったのだ。
しかし、戦争憎悪は、やはり戦争阻止のための第一の土台でなければならないのではないか。一人一人が、自分の血の中の戦争憎悪の火を絶えずもえさからせることが、あらゆる平和運動の動脈となるのではないか。
ただ憎悪はあくまでも否定≠ナあり、否定が一つの力となるためには、さらに肯定≠ノよって裏打ちされることを要する。戦争憎悪をうち側から支えるもの、つまり平和への熱意が、つねに新しい|かて《ヽヽ》をえて豊かにされなければならないのだ。
そこで、第二[#「第二」はゴシック体]の問題は、平和への情熱がいかに燃えあがろうとも、その中に平和への裏切りを含んでいてはならないということである。平和は平和そのものの原理によって、つらぬかれていなければならないのだ。
平和は無条件に、それ自身の価値のために求められる。戦争は理由なしに、絶対的に憎悪される。ある意味からは望ましい戦争、というものはありえない。平和への手段としての戦争などというものは、それ自身一つの矛盾に過ぎないのだ。それは必ず、際限なく次の戦争を用意することになるだろう。
しかし平和への意欲は、いかにして真に平和そのものでありうるか、平和がむなしい絵空事に終らないためには、何が必要なのか。――平和≠ニいうものの実質的内容を、まず日常の生活の中で日々自分のものにしてゆくことが、平和への最も着実な歩みに結びつくといえるのではあるまいか。
例えば、人間性の尊重。真実のあくなき追求。相互信頼と協力、進歩への意欲。――これらのものを、われわれの血肉とすることから、戦争否定へのあらゆる道が切り開かれるのだ。
ところが、戦争という魔術のもつ圧力は絶大である。したがって、平和運動がいかなる戦術をもってこれを打ち破るかが、第三[#「第三」はゴシック体]の問題となる。平和運動にとっての最も大きな困難は、平和への歩みそのものの中には戦い≠フ要素を内包することが許されないために、それが本質的に受身であり、内向的であり、寛容であるという点にある。戦争の暴力に対して、平和運動が無力に終らないためには、受身の本質を失わないままで、しかも受身から攻勢にかわる転機を、見出すことが必要となってくるのだ。
このような転機は、一人一人の個人が、与えられた環境と資質の上に立ってなしうる限りのはたらきを続けるばかりでなく、それをさらに大きな組織に、絶えず結びつけようとする英知と、その接点に脈々と生命をかよわせる情熱があってこそ、はじめて与えられるであろう。
ここで第四[#「第四」はゴシック体]の問題を提起して、この小論を終ることとしたい。それは、国家と個人の関係についてである。私が、召集令状の背後にあるもの、つまり国家権力に対して無抵抗であったのは、基本的には国家の必要は個人の存在に優先するという認識によるものであった。しかもこの場合、国家の必要が何であるかを規定するのは、国家それ自身がもっている、ある象徴的な意志であると前提されていた。
ここに問題があるのではないか。現在あるような国家組織が、なお当面は最も有力な政治集団として存続することを一応認めたとしても、国家の意志は、ある超越したものとして与えられるのではなく、特定の個人ないしはそのグループによって、更にはこれを背後から支配する国民の世論によって導かれるものであることは、今や明らかなのだ。
この事実とそこから生れる結論とを徹底的に探求し、われわれの行動原理をそれに適合させること、これが現在の私にとって、平和≠フための最も大きな課題と考えられるのである。
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異 国 に て
異国に迎えられた勇者[#「異国に迎えられた勇者」はゴシック体]
私は昭和三十二年の初めから三十四年の春まで、勤めの関係で二年あまりニューヨークに滞在した。二年という期間は、旅行者というには長く、アメリカ生活を味わいつくすというには短く、駐在員の誰もが味わわされる|かりそめ《ヽヽヽヽ》の異国生活であった。
アメリカの土を踏むに当って、私には特に先入主はなかった。過去にアメリカ人と|じか《ヽヽ》に触れ合った経験といえば、戦争で相見《あいまみ》えたこと以外にはないが、海軍の戦闘には、陸軍のように一対一で撃ち合うというギリギリの敵対感はなく、むしろ海戦という壮大な悲劇の演出に協力し合う一種の共感がある。しかも彼らの戦闘振りが合理的、計画的で、単に敵を撃つのに勇敢であるよりも、与えられた任務を全うすることに徹し切っていた事実は、内からそれを支えるものが何であるかについて、一つの関心を私に植えつけていた。
私は自分の戦争の体験をとりまとめ、数年後「戦艦大和ノ最期」という形で出版した。これを書くについての私の姿勢は、自分がどのように戦争を戦ってきたかの跡を赤裸々に抉《えぐ》り出すことによって、戦後の平和な生活への足がかりとすることにあった。自分が、そしてあれ程無数の人間がすべての生甲斐をかけて打ち込むことを強いられた、あの戦争という混沌の世界、その一切が否定しつくされなければならないのだろうか。自分の戦争への協力の一切が否定されるとしたら、その深淵のような断絶を前にして、どこに新生へのいとぐちを見出したらいいのか。少なくともまず、それをみずからの中に試さなければならない、私はそのように念願した。
今日もまだ私は、充分の答えを見出していない。ただ私の関心は、平和な生活を、日々の明け暮れのつみ重ねの中で、如何に具体的に生きるかに向けられつつあった。アメリカ生活も、その一つの手がかりを与えてくれるものとして、少なからぬ期待の対象であった。
私は当然ながら終始、異国の人として扱われた。この国では、人種の差を離れた社交生活はほとんどありえない。しかし異国人は敵国人とは異なる。問われるままに自分がかつて第一線の海軍士官であったことを告白しても、われわれがあれ程激しく戦った生々しい記憶を、決して呼びさますことがないように、彼らの微笑と寛容は躾けられている。戦争は誰が、何のためにひき起したかというような連想とは無縁の場所で、ただそこにある一つの人生の雄大な背景として戦争を取扱うのが、彼らはお得意なのである。
特攻作戦に参加し乗艦が轟沈して泳いだという話でもしようものなら、たちまち「こんな勇士をわれわれの間に迎えようとは、実に名誉ではないか。乾盃!」というようなことになる。私の戦記がリーダーズ・ダイジェストにのったのを憶えている婦人があって、コピーを探し出して次のパーティーで朗読され恐縮したこともあった。身内から一人の軍人も出したことのない静かな家庭でも、この神風特攻隊の生き残りは、「われらの勇者」として率直に敬意を表されるのである。
ヤマトという固有名詞にさえ、意外の反響があるのには驚いた。今日日本で受ける以上の強い関心が寄せられたといっても言い過ぎではない。九つの男の子と仲良くなったら、堂々とヤマトのネームを入れた模型の軍艦をプレゼントされたし、米戦艦ミズーリーとの性能の比較をしつこく質問する老婦人もあった。
さて、海を渡った異国の果てまで、戦艦大和のレッテルを追いかけて私に降りかかってきたいくつかの宿命、機縁を以下に誌してみたい。
戦艦ミズーリーと菊の紋章[#「戦艦ミズーリーと菊の紋章」はゴシック体]
ハワイ訪問に私は一つの期待をかけていた。それは真珠湾の岸壁に近く、十五年の赤|さび《ヽヽ》と傾いた甲板を波に映して横たわる戦艦アリゾナを、アメリカの観光客にまじって見物することであった。そのための特別のボート旅行が、ある観光会社によって用意されていた。
今となっては全く旧式のこの戦艦の残骸に、格別の関心があったわけではない。ただ「真珠湾を忘れるな」という合言葉が、アメリカ国民をどれ程強く奮い立たせたかを充分思い知らされたからには、緒戦の惨敗を永久に記念するアリゾナ轟沈の跡が今日のアメリカ人にひき起す反応を、彼らの中に入って|じか《ヽヽ》に感じとることにいささかの興味をそそられるではないか。
羽田を東に飛び立った飛行機は、ひと頃まで必ず給油のためウェーキ島に立ち寄ったから、あの荒涼たる島の滑走路から簡易食堂までの乾いた道で、浅瀬に突き立った日本の輸送船の無慚な船首と、それに対するバスの車掌の冷たい戦勝報告≠ノ、不快な思いをした人も多いであろう。中年の女性の車掌は、たたみかけるような誇らしげなアメリカ英語の口調で、ウェーキ島奪還のために殺到した米機動部隊を前にして、この輸送船のような敗残の姿を残したまま日本軍が敗走した様子を巧みに脚色して説明した。それはインディアン討伐のとりで≠ニ同じように、勝利の愉しい追憶のためにわざわざ保存された記念品であった。戦争の惨禍に胸を痛めたり、再び戦争を起すまいと心を砕くこととは全く無縁の、残忍なまでの無邪気さがそこにあった。
しかし戦艦アリゾナの敗残の姿は、どのような調子で説明されるのだろうか。
さてアリゾナめぐりのボート旅行は、ついに実現しなかった。ホテルのフロントで申込みをすると、今日は出るかどうか分らないという。理由は強風のためで、午前の分は中止に決めたが、午後も今のところは覚束ないという返事。何時間も待たされて、とうとうキャンセルを言い渡された。ハワイはもともと風の強いところだが、ボートを出せない程とも思えない。さすがに危険防止には慎重なものだと、感心して引き下るほかなかった。
そこへホテルの主人があらわれた。日系の一世では指折りの成功者として著名なシゲナガ氏である。私とフロントの一こと、二ことのやりとりをきいて直ぐに察知したらしい。私に近づいてくると、無表情な日本語で釈明をはじめた。言い難いことだが、あのツアーに限って、旅行者の国籍と名前を聞かれる。日本人と答えると、OKされたためしがない。理由は風とか、客が少ないとか、ボートの故障とかで、客にはそのまま伝えることにしている。万事モノをかくすことが嫌いで、旅行者にもどこでも大っぴらに写真をとらせるアメリカだが、真珠湾だけは別である。シャッターを切った現場をみつかると厳罰に処せられる。あの古道具然としたアリゾナにさえ妙にモッタイをつけるのは、ともかくも軍港の真ん中にあるし、説明の中に日本人に聞かれては気がひけるところがあるためかも知れない。敗戦という経験のない国民として、だいいち沈められた軍艦を沈めた人間と一しょに見物することが肚にすえかねるのであろう。
ここでシゲナガ氏の話は、意外なところに飛躍した。わざわざあんなモノを見なくても、日本にはもっと立派な軍艦が沢山あったではないか。特に大和、武蔵は、古今東西を通じて比べるもののない巨艦で、アメリカ海軍の誇る戦艦ミズーリーでさえ、それより三割は小さいときいている。だから「戦艦大和」という映画が日本から来た時は、大いに期待して見に行ったが、惨めにも裏切られた。実物がないのだからムリもないが、模型があんまりチャチ過ぎる。あれではアリゾナの残骸の方がまだましである……。
シゲナガ氏は強気な国粋主義者で、今もって山下将軍や山本元帥の書を愛蔵している程だから、めったな返事は出来ない。私はその映画の原作者であることを名乗り、作品の不出来を詫びた。そして大和の雄大なイメージを画面に描き出せなかったことの弁明の代りに、こんな笑い話をした。
あの映画を作るに当ってスタッフが最も腐心したのは、いうまでもなく巨艦のボリウムの再現であった。その方法は、立派な模型を作るか、適当な替え玉を見つけるかしかない。模型はどんなに精巧でも迫真力に限界があるから、それを生かすも殺すも、急所に本物の軍艦を使えるかどうかにかかっている。およそ戦艦らしいもので手近にあるといえば、アメリカさんのものしか考えられない。一寸拝借、というわけにはいかないものか。
降伏の調印式の舞台となった戦艦ミズーリーが、特に正面から見た場合、大和に酷似していることは前から分っていた。調べて見ると、ミズーリーは朝鮮戦線で損害を受けて、ちょうど横須賀基地に帰投しているという。早速米海軍の高官への工作がはじまった。砧《きぬた》にある新東宝の撮影所に招かれたスウ司令長官が、数人のニューフェースに囲まれて悦に入っている図も見られるようになり、海上保安庁の幹部が、橋渡しに奔走をつづけたりした。
意外に簡単にOKが来た。武装した一千人のエキストラを甲板にのせて芝居することも差し支えないという。ハリウッドの戦争映画には、よく軍の全面的協力のもとに≠ニいうタイトルがうたわれているが、それにはそれなりの理由があるにちがいない。しかし日本の映画への協力の場合には、どんな必要があるというのか。
ともかくも朝鮮戦争の真っ最中に、主力艦を差し向けて遊ばせようというのである。たしかに大和の死出の旅となったあの特攻作戦の挫折は、終戦への重大なステップとなったから、これを扱った映画への協力には何かの意味があるともいえるし、終戦の日から直ちにデータ集めに狂奔した程その性能に異常な関心を寄せていた謎の巨艦≠フ身代りに、自分の国の戦艦を使う痛快さも分らぬではないが、それだけではどうも割切れない。
むろん協力は好意から出たものだから、特別の謝礼は無用である。スタッフが狂喜したのも無理はない。東京湾を縦横に走らせて、思う存分威圧感をキャッチしようといろいろプランがたてられた。このフィルムをつないで間にトリック場面をはさめば、迫力は満点である。
話があまりうまく運んできたので、厚顔な映画人はここでもう一つ欲を出した。正面からアップでとると、マストに日の丸をかかげただけでは一寸さびしい。どうしても菊の御紋章がほしい。そそり立った艦首のとっさきに、黄金色を輝かせたい、ここまでやらないと、軍艦マーチも泣こうというものだ。
戦闘任務に服役中の米艦隊旗艦に向って、この非常識な注文が出てはたまらない。事態は一変した。こんな話に司令長官がのってきたのが、もともと無邪気ないたずら心≠ニしか思えないのだから、こじれ出すと厄介である。最後には、「このフネを一寸動かすのに、そんな映画の二、三本を撮り上げるほども金がかかることを知っているのか」ということになった。ただとらしてもらえれば、というところまで後退したが、後の祭り。スウ長官は、興ざめた顔でこの高価な冒険から手を引いてしまった。
シゲナガ氏は、ミズーリー引っぱり出し失敗の|てんまつ《ヽヽヽヽ》をきいて、むしろホッとした面持ちであった。どんなチャチな玩具の模型でも、敵艦、いやれっきとしたアメリカ市民の彼には祖国であるアメリカの軍艦を、神聖なる大和≠フ身代りにされるよりは、まだまだ我慢出来るというわけであろう。
陶酔と恐怖の間[#「陶酔と恐怖の間」はゴシック体]
ニューヨークの芸術家の街グリニッチ・ヴィレッジの若い人ばかりのあるパーティーに、どうしてもお前に会わせたい奴がいるといってつれて行かれた。パンチをすすりながら古ぼけたピアノのそばでひき合わされたのは、見上げるような長身の青年だった。郊外の小さな新聞を一人でやっている、有能なジャーナリストという紹介であった。
パンチのグラスをカチッと合わせると、「十六回、十六回もやったのだ」といって彼は微笑した。精|かん《ヽヽ》な額と、涼しい目が印象的だ。彼は第二次大戦の若い学生パイロットの一人で、沖縄作戦にも参加し、大和を轟沈するまで、空母との間を十六回も往復してアタックを続けたという。
あんな素晴しい戦艦は見たことがないし、一機の掩護《えんご》機もない孤軍奮闘ぶりも実に見事だった。ああいう巨艦の乗員名簿に名前をつらねることの出来たお前は実にラッキーな奴だと言いながら、しまいには私の肩を抱きかかえるようにした。サッカーか何かの試合のあとでユニフォームを脱ぎながら、敵の選手から「今日はシュートを十六回もしたんだぞ。全く苦労させやがる」というようなことをいわれているゴールキーパー、私の気持はそれに近かった。執拗な攻撃をくり返したという報告は、恨み言でも詫び言でもなく、お互いに苦労したという共感につながる愉しい想い出話に過ぎない。アイムソリーという言葉も、そんな素振りすらもなかった。
だいいち彼だけが私に謝らなければならないという理由はない。彼は私のまわりに爆弾を雨あられと降りそそぎ、そのあげく大海の中にほうり出したが、われわれの機銃弾も数限りなく彼の愛機をかすめた筈だから、|あいこ《ヽヽヽ》というわけだろう。私は荒海を何時間も漂っている絶望感を、出来るだけ即物的に話してやった。彼は面白い世間話に対するようにそれに聞き入っているだけで、特別の反応を示さなかった。わが艦隊は弱かったから潰滅したのだし、海に棄てられた私は、いのちのある限り泳ぎつづけるのが当然で、それ以上の関心の持ちようがないというところかも知れない。
ほかの青年がわれわれの間に割り込んでくると、彼はさりげなく日本映画の評判に話題をかえた。話題への関心の重さも、戦争の話と変りがないというような屈託のなさであった。もしまた将来われわれが戦うことがあるとしたら、彼は事もなげにタフなアタックをくり返すだろうし、そしてまた再会の折があったら、同じ調子で私の肩を叩くだろう、私はそんなことを考えつづけた。
アメリカ南部を代表する若い工業都市ヒューストン、その未来を象徴するのが、長さ七〇マイルの運河の周辺に建設中の大工場地帯である。三十種に近い化学工業を集めた綜合工場もあり、未開の曠野《こうや》に思うまま設営を進めている構想の遠大さはすばらしい。
市のオーソリティーがこの運河を巡遊する三時間のボート旅行を運営していて、非公開だが、私は紹介状をもらい、終始、艇長自らの懇切な説明を与えられた。
がっしりした体躯、少し銀髪も見えるが、まだ若々しい浅黒い肌のつや、無表情のようでいて笑うと思いがけず顔一杯に愛嬌がこぼれる、艇長はそんなアメリカ人の代表的なタイプで、重い口から、この新興都市の無限の発展の夢を語ってくれた。きれいなケースに収まった分厚い資料ももらった。
さてボートが運河を一巡して帰途に向うと、艇長は私を船|そう《ヽヽ》の小さな食堂に誘った。熱いコーヒーをすすると、彼は急に雄弁になった。案内の任務が終って自由な話題に移れるのを待ち構えていたといいたげである。
君は日本人ではないかと推測するが、もしそれが誤りでなければ、自分には多少の縁がある。第二次大戦の後半、潜水艦の機関長として勤務した地域がほとんど太平洋方面で、特に終戦の年に入ってからは、日本の周辺にばかりいた。日本の国土はひと目も見たことはないが、日本の海の潮の重さは、いやというほど知っている。
私はネーヴィーだったと言うと、彼はまた一段と相好を崩して、軍艦生活のたのしさ、辛さについて、事細かな想い出話をはじめた。ネーヴィー同士にしか通じない、他愛もない経験談と相槌のやりとりであった。
一九四五年の春は、どんな任務についていたかを私は質問してみた。彼はしばらく考えこみ、チラチラと上眼づかいにこちらを見ながら頭をしぼっていたが、ついに豊後水道≠ニいう固有名詞を想い出した。一度想い出すと、どうしてこんな大事な話を忘れていたかというように、出撃する大艦隊を待ちうけて、これを追跡した自慢話が流れ出てきた。潜水艦二隻でこの重大任務を全うしたというのである。
私は仕方なしに、護衛していただいてどうも有難う、自分はその特攻艦隊の旗艦にのっていたのだと告白して手を差し出した。彼は両手で私の手をしぼるように握りしめ、破顔一笑すると、同じ調子で自慢話をつづけた。ボートが小雨の降り出した波止場につくまで、その話は終らなかった。そのあいだ何度か彼は、お前は本当にあの艦隊にいたのかと反問しては、破顔した。この奇妙なめぐり会いを、くり返し確かめてたのしみたかったらしい。ただ話題は、機関科員の苦楽の想い出と、大作戦に従事している緊迫感の不器用な描写だけに限られていた。アメリカ海軍の将兵の間にも、一種神秘的な響きをもって恐れられていたヤマトの名を彼が知らなかった筈はないし、彼の乗艦の追跡が見事それを沈めるキッカケとなった殊勲をきかされなかったとも思えない。しかしそんなことはすべて忘れ去って、今さら興味のなさそうな彼に、どうして沈められて漂流した苦労などを語る気になれよう。彼が私に熱をこめて語りかけてくれるのは、私も海軍の男≠フ生活を通して彼と同じすばらしい人生を知っている仲間だと思いこんでいるからに過ぎないのである。
この青年パイロットと中年の機関長は、どうして戦争をこんなに割り切っているのか。職業軍人意識に徹して戦ったのだ、などといってみても片付きそうにない。単に好戦的だとか、非情だとかいうのとも違う。戦争の苦悩や悔恨は一かけらもないが、ただスポーツのように、ただ狩猟のように戦ったという以上の何かがあるように思える。
アメリカ人の血の中には、どんなに善良で平凡な奴でも、戦い≠フ忘我と陶酔へのあこがれが流れているにちがいない。彼らの血はまだ生々しく荒れている。曾祖父はインディアンの矢きずをうけたかもしれないし、祖母は|ほろ《ヽヽ》馬車の中で生れたかも知れない。しかもそれは過去だけではなく、彼らの人生には今日もなお戦い≠ェ充満している。勝者にはつねに微笑があり、敗者にはつねに屈辱があるという鉄則はいよいよ固いのである。どんな激越な戦闘行為も、彼らの日常生活の延長の上にあるとさえいえるのだ。
しかし彼らのすべてが、このように戦争を戦ったわけではない。
ニューヨーク特有の寒気が肌を刺すような冬の夜、小さなバーでグラスをなめていると、隣りから話しかけられた。というよりも、いきなり目の前に両手を突き出された。子供のようにさくら色の、一面に|うぶ《ヽヽ》毛の生えた可愛い手である。
|くせ《ヽヽ》のないブロンドの髪の、小柄の青年である。彼はその手を、何度も握りしめたり開いたりして見せた。「この手が、この指が、五百人もの人間を、虫けらのように殺したということが、君には分るか」彼はそう切り出した。東洋人の私の風貌が、朝鮮戦線で彼の手にかかった黄色い犠牲者たちの断末魔の記憶を、いや応なしに呼びさましたのだろう。
生《なま》の、血のかよったこの自分の手が、指が、数え切れぬ程の若者たちの肉体を、余りにもやすやすと吹き飛ばし、空しく焼きつくしてしまったその手|ごたえ《ヽヽヽ》が、いつまでもつきまとって離れないという。帰ってから六、七年たった今でも、いや時がたてばますます、肌からにじみ出てくるようなあの実感が消えようとしない。それを忘れない限り、輝かしい未来も、いとしいガールフレンドも、夜ごとの美酒でさえも、すべて無用だと一時間以上も訴えつづけた。
グラスをいくら重ねても、童顔には酔いが出てこない。時々こちらに向ける眼は無表情で、私にではなく、ただ自分自身に訴えつづけているのである。彼がとりつかれているのは、大量殺人に対する良心の呵責《かしやく》とか、彼にそれを強いた戦争そのものへの憎悪とかではなく、火焔放射機のボタンを押し、バズーカ砲の引き金をひいたその実感への、ただ生理的な恐怖に過ぎないように思われる。このような苦悩には、人に訴えるだけの奥行きがない。
多少とも人間らしさを残した戦争の様式、つまりその中で人間が苦しんだり悲しんだり出来る余裕のある戦争はもう終ってしまって、もはや一瞬にすべてを|せん《ヽヽ》滅、破壊する虚無的な戦争しかないと考えるのは、性急に過ぎるらしい。原爆以後に起った朝鮮戦争でも、肉体は生きながらえたまま胸に深い|くさび《ヽヽヽ》をうちこまれた人間は意外に多いようだ。日本では、戦争の傷は大きく痛々しいが、むしろ過去のものとして骨にくい入っている。しかしこの国では、おびただしい青年たちが、昨日の怪我のような生々しい傷|あと《ヽヽ》を見せているのである。
だが彼らにとって、戦争そのものが憎悪の対象であったことはない。戦争はただ、彼らの青春の無限の逸楽の可能性を窒息させ、灰色によごしてしまう程度において、眉をひそめられるに過ぎないのだ。戦争そのものは否定されず、むしろ祖国の前進を阻む敵にたいして絶対必要なものだという確信は、決してゆらぐことはないだろう。そのために彼らは、例えば「自由と正義を守りぬくことが、平和よりも尊い場合がある」というようなスローガンを用意している。それは乳臭い若者たちを、近代兵器と圧倒的兵力に守られた戦線にかり立てるには多くの場合充分であった。
しかし朝鮮戦線は、そのような美しいスローガンとは無縁の、異質の空しさを以て彼らを迎えた。そこにはただ、無意味な無造作な、果てしない殺戮があるだけであった。彼のアタックの獲物がもし狩猟のようにケモノであったとしても、彼はその数の夥しさに飽きたであろう。狂気するには、その倦怠を覚えるだけの神経があればそれで足りたのである。
戦争に肉体的に陶酔する人間と、肉体的に恐怖する人間、この国にはこの二つのゆき方があるだけで、その中間がない。戦争のもつ泥臭い真率さや充実感を半ば受け入れながら、一方でその窮極の空しさに苦しむという苦悩は、彼らにはありえない。戦争が骨にくい入る傷にまで進むことは、ついにないであろう。
太平洋を越えての再会[#「太平洋を越えての再会」はゴシック体]
二世の中谷邦夫君は、抜群の秀才であった故に、キャリフォルニヤ大学を卒業すると、慶応大学に留学するために日本に渡った。世界の情勢が次第に険しく動きつつある中で、親戚や友人からの反対ははげしかったが、それを説得したのは、日系の二世として大成するために、両親が彼に寄せた期待と信頼の大きさであった。
やがて戦争は両国間の交通を杜絶《とぜつ》させ、仕送りの途を奪われた彼は、最低生活をさえ脅かされるようになったが、学徒出陣は、はからずも彼をその苦境から救い出した。しかしそこに待っていたものは、弟二人を米陸軍の下士官として持ち、日本語より英語の堪能なこの異端の士官にたいする、敵意と侮辱であった。しかも彼は、第一線の戦艦「大和」の通信科員として配属された。二世の秀才に時折見られるタイプの、無口で動作がやさしく内向的な彼は、黙々とその鞭に堪えた。堪え難いときは、暗号解読という任務にただ集中することに、必死にすがりついているように見えた。彼の戦闘配置は通信室であり、最後の出撃の時も轟沈の瞬間までそこに勤務していたことは確実である。
終戦後程へて、彼の母上からの手紙が海を越えて私のもとに届いた。すべての記録が失われてしまった時代に、私の名前と住所を探し出す困難な仕事をなしとげさせたのは、邦夫君の最後の様子を確かめたいという御両親の熱意であった。その日その日の生活もたて難いような苦境から、そのまま軍隊生活の屈辱と孤独に堪え抜いて特攻の死に辿り着いた彼の心境を想うと、母上は三月もベッドにふせる程胸を痛めたが、もし彼が自らに愧《は》じない死を遂げてくれたならば、それによって彼の短い苦難の生涯はつぐなわれるし、自分たちも初めて心を休めることが出来るというのが、母上の心づかいであった。彼自身の将来のために思い切って故国に留学させた両親の決断が、結果において彼の生命を無慚《むざん》に縮めたことについて、周囲の批判と攻撃は戦後一そうはげしさを加えた。自分たちの判断に誤りはなくただ環境が余りに不運であったとは確信しながらも、やはり邦夫にとっては更に実りの多い人生がありえたのではないかという恐れを、拭い去ることは出来ないとも洩らしてあった。
十三年の歳月と、数万マイルの道のりをへだてて、私はサンフランシスコ空港に母上と相対していた。典型的な一世の慎《つつ》ましさと強さとをうちに秘めたこの老婦人は、飛行場の明るい陽ざしに目を休ませておられるばかりで、二時間の間、私たちはほとんど黙って坐りつづけた。邦夫君の四番目の弟さんが、母上を車で届けてきて、そばに坐っていたが、日本語は片言ていどの理解で、時々ちょっと笑顔を見せるだけであった。
今さら何を語ることがあるというのだろう。たしか二度目にいただいた手紙には、邦夫君にはハイスクールの時から未来を誓ったフィアンセがあり、彼女を一日も早く悲しみの底から救い出すことが自分たちのつとめであると書かれていた。その手紙は、もしあなたにもそのような方がいらしたら、私から、そして邦夫のスイートハートからも、くれぐれもよろしく伝えてほしいと結ばれていた。そのような人を持たなかった私にも、母上の御厚意は胸に沁《し》みた。また、明日の世界はあなた達、戦争を生き抜いた青年の肩にかかっている、本当の未来を築くためにこそ、あなた方は選ばれたのだという励ましの言葉が、いろいろな表現で、何度もくり返し送られてきた。私たちは、文通の間に、全く旧知の仲になっていたのである。
父君はすでに亡かった。残った五人の息子さんたちは、長男の邦夫君に劣らぬ俊才ぞろいで、それぞれ電気、建築、原子力、機械、土木のエンジニアであるか、またはその道を進んでいた。上の二人は適齢期だが、白人のガールフレンドはいろいろあっても、母上が白人の女性に心を許しそうもないのを心配してか、結婚まで進みそうな気配はないらしい。
邦夫君が通信室潰滅の瞬間まで任務に専心していた様子を伝える私の手紙が届いた日、勤めから父上が帰られるのを待ち兼ねて、一番下の弟さんがその手紙を手に家を走り出て、門の外で父上に手渡し、父上は門燈の下でくり返しそれを読まれた。その弟さんも今や大学生で、アメリカを離れた頃の邦夫君に一番よく似ているという。
きょうだいの中でただ一人の女の子、邦夫君が誰よりも可愛がっていた妹さんの話になった時、私は救われたように笑い声を上げた。彼女は今や|さっそう《ヽヽヽヽ》たる米空軍中尉で、世界を飛び廻っており、去年はあこがれの日本に行って、多くの人たちの余りにも貧しい惨めな姿に心を痛めて帰ってきた。彼女も多くの立派な士官たちに囲まれているが、白人との結婚のことにふれると、邦夫君の若い命を奪ったのが、白人の造った爆弾であったという事実にこだわりでもするように、真顔になって否定する。一生結婚はしないという強い願いを、母親にもくり返すだけである……。
サンフランシスコでお別れしてからニューヨークに戻って間もなく、母上から届いた手紙には、申し上げたいことがあんなに山のようにあったのに、いざお会いしてみるとみな胸につかえてしまって、ただ黙ってばかりいたのは我ながら意外だった。あなたもさぞ気まずい思いをされたであろう。年甲斐もないこととお詫びしたい。帰ってから子供たちに、邦夫の想い出を語りつくすつもりだったのに、お目にかかったらただもうそれだけで充分だったと報告したら、やっとそれで自分の気持も収まったような気がする、というようなことがしたためてあった。邦夫君とともに南海に散華すべく定められていた私が、邦夫君を潮の底に残して生きながらえ、かつての敵国であり、邦夫君の第一の故国であったアメリカの地をいま踏み、異国での平和な明け暮れをたのしんでいるという事実は、彼女の思慮を超えて、測り難いものに映ったにちがいない。
それから二年、私は駿河台の宿屋から母上の声をきいた。娘と一人の息子はイギリスにおり、四人の息子を家に残して、一人で墓参と見物に帰ってきたという。私はさっそく妻をつれて参上した。彼女は妻にも初対面の挨拶はなく、日本流とアメリカ風の奇妙に混った大仰な仕種で、親愛と感謝の気持を投げかけた。四十五年振りに祖国に帰って、彼女は明らかに昂っていた。瀬戸内海にある生れ故郷に帰って、つき合いの|うるささ《ヽヽヽヽ》と身の廻りの|きたなさ《ヽヽヽヽ》のために一日もいられず直ぐにホテルに逃げ帰ったという話をききながら、私は彼女が、心身ともに二年前とは見ちがえる程元気になっているのを発見した。子供たちは相変らずみな独身で、毎晩食事のあと一部屋に集まり、日本語と英語をチャンポンに語り合うのが一番の楽しみだという。一家はまだ水入らずの気安さを大事にしているようだが、邦夫君を失った|かげ《ヽヽ》はついに消えつつあるのではないか。皆もう立派な社会人だし、それぞれのアメリカ市民としての人生が開かれつつあるのだから。
しばらく語り合う間に、母上は邦夫君の名前を一度しか口にしなかった。私たちを結びつける機縁となったあの悲劇から、彼女もすっかり立ち直ったにちがいない。日本に帰って余生を過ごそうという夢はもう捨てた。ここではすべてが貧し過ぎる。これからはせいぜい度々遊びに来て、お金をタンマリ落して行きたい。息子たちは使い切れない程のマネーをくれるから……といいながらみやげ物のプランを吟味する彼女は、まさにアメリカの気楽な観光客そのものであった。
一年以内に是非また来たい、もしあなた方もロスアンゼルスを通ることがあったら直ぐ電話してほしい、飛行場からは僅か四十五分だから……母上はそんな明るい別れの挨拶で玄関まで送ってこられた。十五年の年月の重みと、アメリカの風土の健康さが、彼女にも第二の人生を与えようとしていることは疑いがない。
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若者に兆す公への関心
「近頃の若い者は」という言葉を、近頃あまり聞かなくなった。これはもともと批判、あるいは慨嘆を含む言い方だが、この言葉で指摘されるような若者の状態が、最近急によくなったとは思われない。それなのに、大人たちの口にのぼることが少なくなったとすれば、その背景には、二つの変化があるような気がする。
第一は、戦後三十年をかけて大人たちが築いてきたものが、政治、経済、社会のどの面をとっても、急速に内部の矛盾を露呈し、優越感をもって若者に接する自信を失いつつあることである。
第二は、若者の考え方の基本、日常の行動には、これまでとはっきりした違いはまだないにしても、新しい胎動のようなものが、認められることである。それが何であるかは、まだつかみにくいが、自己中心主義からの脱却に向って、模索がはじまった、とでもいえようか。
昭和四十五年に、十八歳から二十二歳までの、二千人の青年男女を対象にしたアンケートがある。
いま何にいちばん関心があるか、といえば、四八%が「自分」である。「国、地域社会、国際社会」は全部あわせて、わずか一二%。人生の目標は、「私の仕合せ」が四六%、「仕合せな家庭」が三〇%である。自分の今の状態を一言でいえば、何か。「自由である」が五三%で、最も多い。しかし、今何をしたいか、という問には、三〇%が「したいものがない」と答えている。何をする意欲も持たない「自由」とは、どんな「自由」であるのか。
このアンケートの一連の回答の中には、「近頃の若い者は」と指弾されてきた問題の核心が、はっきり数字の形で浮きぼりにされている。ここにあるのは若さの魅力ではなく、無気力な、妙に老成した現実主義である。
しかし、主題からやや外れるが、なぜ若者がこうなったのか、と原因までさかのぼってみると、それはほとんど大人たち、古い世代の先輩たちの責任である、というのが私の感想である。戦後の社会は、若者に「生甲斐」を実感する機会を与えなかった。彼らが若い情熱を傾けて全力を投げ出すような場、自分の働きこそが求められていると確信できるような対象、それを、若者が求めなかったという前に、大人たちが、気を回して、「生甲斐」などは今の若者とは無縁であると思いこんで、求めさせなかった、といえるのではないだろうか。
したがって、もし若者の中に好ましい変化が起りうるとすれば、その兆しは、彼らが自分以外のものに関心を抱き、そこに生甲斐を求めること、社会が若者に本気で取り組むような仕事を与えること、を糸口とするほかないように思われる。
さて若者の意識は、その後どの程度変りつつあるのだろうか。前に引用したアンケートの最新版を入手することができないので、別種のデータの援用でご勘弁願いたいが、昭和五十年末現在で、十四歳から二十四歳までの青少年三千人を対象とした意識調査によれば、日本が世界に誇れるものは何か、という問に答えて「伝統と独自の文化」が四一%と、最も高い比率を示している。続いて高いのは、「国民の勤勉」「美しい国土」である。今の日本の社会をどう思うか、という設問には、「あきたりない」とするものが五六%で、まだ過半数を占めているが、五年前の六七%に比べれば、一〇%以上も減っている。なぜあきたりないと思うかの理由として、「正しいことが通らない」「真面目なものが報われない」が上位にあるのも、興味あることである。
若者たちの敏感な感性は、戦後の復興から高度成長までの安逸な時代とちがって、彼らが社会の第一線に出て自分の腕と知恵で身を立てなければならないこれからの時代は、「公的」なものに積極的にかかわることなくしては、「私的」な仕合せそのものが初めから成り立たないことを予感している。日本、日本の立場、世界の中の日本人、そういう発想も、今までは若者とは無縁の、古き世代の遺物と思っていたが、いずれ将来、自分たちがアメリカの、ソ連の、中近東の、アフリカの、中国の青年たちと協力し競争し、戦っていかなければならないことを覚悟し、そのことの意味を真剣に考えはじめている。問題の重点はわれわれが、この若者たちの変化の兆候に、どう対応し何を与えるかの選択に移っていくのではないだろうか。
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あすへの話題
五 十 年[#「五 十 年」はゴシック体]
二年半という期間に、卸売物価は三二%下落し、大企業の平均純益は三割の減少、株価はほぼ半値になり、米価も六割の水準まで落ちこんだ(米価が出てくるのだから、これは日本の話である)。勤労者の数は二割減り、東大卒業生の就職率は三割まで転落した。輸出、輸入とも半分以下に縮小し、政府手持ちの金《きん》は六割が海外に流出した。
ここでいう二年半とは、昭和四年下期から六年末までである。昭和の金融恐慌は、二年六月の渡辺銀行休業にはじまり、五年一月の金輸出解禁をもって決定的な段階を迎え、日本銀行の特別融通や損失補償、緊急勅令によるモラトリアム(三週間の支払い猶予)もおよばず、休業する銀行が相次いだ。
しかし、これは今から五十年も昔の話である。この五十年の間に、日本経済の体力はどのくらい増進したか。比較する指標がむずかしいが、たとえばエネルギーの中心となる発電電力量で三十倍、近代工業の代表である銑鉄生産で百倍、という数字も成り立つ。
昭和金融恐慌の大きな不幸は、史上もっとも深刻な世界恐慌の発生と重なったこと、政府当局の国力過信から、デフレ政策により産業界のゼイ肉を落とし対外競争力を強化しようと功を急ぐあまり円が一二%強くなった半面で経済の回復力そのものが圧殺されたことであった。
現在の状況は、物価、ことに米価と賃金が上昇基調にあり、株は活況をつづけ、輸出は著増し、政府の手持ち外貨も急増するなど、当時とはまったく様相を異にしている。いま当局が没頭しているのは、デフレ政策とは反対に、デフレの深刻化を防止する対策である。
昭和の恐慌が幸い破局まで至らずに立ち直りえたのは、近代日本が、なお黎明《れいめい》期の若さと混沌のさ中にいたからでもある。地下鉄の開通、第一回の全日本ゴルフ選手権大会、都市対抗野球の開催、冬季オリンピック初参加はそのころであり、最初の普通選挙、全国婦人同盟の結成、共産党員の初の大量検挙は、当時の重大ニュースであった。岩波文庫の刊行と赤旗の創刊、資源局の設置と特別高等警察課の設置、日ソ漁業条約調印と国民政府の日華通商条約破棄、河上肇の京大教授辞職と芥川龍之介の自殺が、相前後して起っている。
時代のもう一つの流れは、日本軍の山東出兵、ジュネーブ軍縮会議(不成立)、張作霖のなぞの爆死、ロンドン軍縮会議、統帥権干犯問題へと発展し、他国との協調を犠牲にしても、国をあげて惨憺《さんたん》たる不況の苦難から脱却しようとした努力が、結果において十五年戦争の悲劇につながる道を開いたことを歴史は教えている。
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陸軍と海軍[#「陸軍と海軍」はゴシック体]
先日機会があって、評論家の山本七平氏と対談をした。テーマは、かつての陸軍と海軍を対照させながら、日本人の行動のあり方を考え直すというもので、陸海両軍のあいだには大きな違いがあったはずだから、その相違点を浮きぼりにすれば、日本人の本質をとらえやすい、という前提に立つ企画と思われた。
ところがいざ対談をはじめてみると、話題がいっこうに予定コースに乗らない。陸軍も海軍も、結局は同じだった。同じように頭が固く、欠陥があった。そうだとすれば、現在の日本人も、あのころとちっとも変わっていないということになるのだろうか。話はそういう方向にばかり進むのである。
日本陸軍が、長い間ソ連を仮想敵国としてきたことは、だれの眼にも明らかな事実であった。それなのに、太平洋戦争開戦の半年前に日ソ中立条約を成立させ、現実に戦争をした相手は、それまで敵として想定したことのないアメリカであった。しかも、占領した島を次々にアメリカ軍が奪回してゆくなかで、いつの日か関東軍の精鋭がソ連軍と一戦をまじえる夢を見続けていたらしい。
山本氏によれば、陸軍が対米戦の教育訓練をはじめたのは、ようやく昭和十八年夏になってからだという。それまで前線の兵士たちは、適切な戦闘準備も一貫した戦術もなく、苦戦を強いられたわけである。二年に近いこの空白の間、軍の首脳はいったい何を考えていたのだろうか。
いっぽう海軍は、久しく仮想敵国と決めていたアメリカと戦うことはできたが、まったく予想しない戦場で、予期しない型の戦闘を強いられることになった。本来連合艦隊の編成、作戦の基本は、米艦隊を南西太平洋水域に誘い出し、艦隊決戦を挑むという方針で一貫してきたはずであり、これも国民周知の事実であったが、ついにそのチャンスは一度も到来しなかった。しかもそれは自分の手で、真珠湾の奇襲成功と、マレー沖でのプリンス・オブ・ウェールズ撃沈によって招いた結果であった。
日米海戦の舞台が、飛行機中心の機動作戦に移ったことが実証されてからも、マリアナ海戦、レイテ海戦と性|懲《こ》りもなく艦隊決戦を目指しては、完敗をくり返した。第一線の歴戦の将兵が、わが身を犠牲にしながら、よもや情勢の急変に盲目であったとは思えない。中央への情報伝達をはばむ壁が、存在したのか。上層部には、大局をとらえる眼力も、決断の勇気もなかったのか。
一つの組織を、これほど固定化させたもの、この不気味な力は、何なのだろうか。
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富士山の百七十七倍[#「富士山の百七十七倍」はゴシック体]
七十億五千八百万枚。この厖大な数字は、昨年一年間に、全国三十四カ所の日本銀行本支店が、窓口から受け入れたお札≠フ総枚数である。今年の年賀はがきの総売り出し枚数、二十一億枚の三倍半に近く、積み上げれば六百七十キロ、富士山のおよそ百七十七倍という高さになる。
日本銀行は、受け入れたお札一枚一枚について、真偽(ホンモノか、ニセ札か)と、正損(まだキレイで使えるか、汚れているか)を判別したうえで、正確な枚数を原則として二回以上数えることにしている。もしその作業をぜんぶ人間の労力に頼るとしたら、どれほど大量の、わずらわしく手間のかかる仕事になるか、ご想像いただけると思う。
モチつきのような単純な力仕事さえ、機械化される世の中である。ましてお札を判別したり数えたりする、同質でしかもボリュームの大きな作業を、人力だけにまかせておく手はない。手作業のスピードには限界があるし、疲労という制約もあるからである。
日本銀行がこの分野の研究に着手したのは、十五年以上前になる。枚数を数える作業の機械化は、それほどむずかしくなかった。目にもとまらぬ指さばきの神業も、機械に代用させれば、むしろ初歩的な段階といっていい。
問題は、真偽と正損の判別である。精巧なニセ札を直感的に見破るには、どうしても名人芸が必要であり、枚数を数える指が半ば無意識に汚れた札を探りあてるのは、鍛えぬいた手ざわりの勘しかないとされていた。
この難問を解いたのは、光学的な判別技術の進歩であった。札の長さと幅、形、図柄のいくつかの特徴をとらえ、どれか一つのポイントでもパスしない札があれば弾き出してしまう正確度を、一〇〇%まで高めることが可能になり、汚れた札も、どの程度のものまでぬき出すかの加減を、微妙に調整することが可能になった。
開発に成功したのは、郵便番号読みとり機を手がけた総合電機メーカー、T社である。まだ人手に頼っている面もかなりあるが、すでに五年をこえる実績があり、枚数を数えるスピードも最近は毎秒十枚に近く、機械一台の能力はほぼ十人分の人力に匹敵し、欧米のどの国にも負けない技術水準にある。
日本は、人口や、デパートが並べる商品の数や、札の枚数など、なに事につけ数と量の多い国である。この巨大なボリューム≠ニいう強敵に負けないために、時代おくれの典型のようにいわれる日本銀行でさえ、それなりに近代化の努力をはらっている事実を、紹介してみた。
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詩  人[#「詩  人」はゴシック体]
はじめて会って紹介されたときから、なにか気分が通じるように思えた。名乗りあってしばらく話をしてみると、気が合うのも当り前であることがわかった。われわれは、ほかならぬ海軍の同期だったのである。
同期といっても、飛行科専攻の彼と、一般兵科のわたしとでは、ずいぶん違う。彼はいまだに鋭い眼光と、妥協を許さぬ秀でたひたい、物に動じぬ落ち着きを保っている。飛行機乗りはとくに誇り高い人種だから、ふだんはややネコ背でも、いざとなるとシャンと背筋を伸ばして胸を張る。
彼はそのころ、副業として推理小説を中心に翻訳を出すかたわら、ある大学で英語の教師をしていた。「戦中派が、今どきの若い人たちに、何を教えるのかね」と意地の悪い質問をすると、彼は真顔になって、「二つのことを教えている。授業のたびに、東京で勉強する気なら、これだけは忘れるなといって、くり返し教えている。一つは毎日生野菜をくえ、ということ、もう一つは、交通事故に気をつけろ、ということだ」と答えた。
彼はまた、令名高い酒豪である。まだ若かったころは、痛飲して興いたると、「おれは世界一いい詩を書くぞ。世界一の詩人になるぞ」と、耳を打つような雄叫《おたけ》びをきかされた。
彼の天職は、つまり詩人なのである。その名を田村隆一という。詩誌「荒地」創刊のころから活躍し、戦後を代表する第一級の詩人である。詩はその一部を引用しても無意味だから、ここで一行も読んでいただけないのは残念だが、ともあれ彼の詩作品は、鋭く固く力強く高い。そしておそろしく底の深い、優しさのようなものがある。
彼が酒をつつしむようになった、といううわさをきいてから、もうかなりになる。かけがえのない詩人の健康のために、これは大変いいことだと喜んでいた。
ところが、ごく最近、ある詩人賞のパーティーで久しぶりに会ってみると、昔にもどって、開会前からすでにごきげんの様子であった。
受賞者本人である彼にとって、素面《しらふ》では式の晴れがましさが面映ゆくてかなわん、というのはよくわかるが、ただそれだけだろうか。今われわれが生きている時代、この社会のしらじらしさが、志高き詩人の酔いを、ことさらに深くしているのではないだろうか。わたしはそんな風に、想像をたくましゅうした。
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津軽海峡・冬景色[#「津軽海峡・冬景色」はゴシック体]
石川さゆりが心持ち眉を寄せて、「上野発の 夜行 列車 おりた 時から」と歌い出すとき、そして「私も ひとり 連絡 船に のり こごえ そうな 鴎《かもめ》 見つめ 泣いて いました」と、三音二拍子の調べに合わせて声をしぼるとき、花の都の東京人たちは、なるほど、これが津軽なのだな、と思うであろう。一節の結びは「あああ 津軽 海峡 冬 景色」。この「あああ……」という嘆息の高まりに、真冬の津軽のきびしさ、哀しさ、寂しさが、こめられていると信ずるであろう。
わたしはかつて津軽で三冬を過ごし、冬の津軽海峡を渡ったことも、なん度かある。この歌には、たしかに濃厚に、津軽らしさがもりこまれている。しかし、それは、現実の津軽とは、どこか違うのである。
津軽という土地を、はるか遠くから想像する都会人のイメージは、津軽三味線の五臓六腑にしみわたる響きとか、棟方志功が版木の上を踊らせてふるう刀《とう》さばき、恐山とイタコがかもし出す幻想と妖気の世界、あるいは自然の猛威と人間の愚かさを象徴する八甲田山遭難の悲劇、といったものであろう。どのイメージをとっても、たしかに津軽以外のものではない。しかしそれは、現実の津軽とは、どこか違うのである。
そうした古風なイメージではなく、明日の津軽を代表する若手芸術家やスポーツマンがいることを、忘れないでほしい。たとえば思いつくままに寺山修司、三浦哲郎(八戸出身)、作曲の間宮芳生。そして貴乃花、若三杉、卓球の河野満。彼らは花の都で都会人にひけをとらぬ活躍をしているが、津軽人らしいじょっぱり=i強情っぱり)と、雪国育ちの潔さが身上であり、津軽の土地に住む無数の若者たちと、同じ仲間なのである。
二節の結びは「さよなら あなた 私は 帰り ます 風の 音が 胸を ゆする 泣けと ばかりに あああ……」。心をこめた演歌の絶唱に、聞く人の胸はいよいよしめつけられる。しかし、津軽海峡に吹く風音も、北の海に落ちる涙も、雪のなかに消える「さよなら」の余韻も、大都会を吹く風音、街角で流される涙、ビルの谷間に残る「さよなら」の余韻と、変わりはないのである。
都会人の描く地方のイメージと、現実の地方の姿とのあいだには、つねにすれ違いがある。大きくはないが、微妙な、重要なズレがある。そこから時に誤解や摩擦が生れるが、時には夢も生れた。夢に誘われて、互いに好奇心を燃やし、自分にないものを求めあった。都会人は「津軽海峡・冬景色」をくり返し歌って、こころよく酔うことができるのである。
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文字に飢える[#「文字に飢える」はゴシック体]
最近の青少年白書によれば、一カ月間まったく本を読まない若者の割合は、昭和三十一年には六%に過ぎなかったのが、二十年後の五十一年には、四二%までふえているという。全体の四割をこえる青年が、テレビや劇画や音楽に気をうばわれ、友達づきあいに取り紛れて、本を読みたいという欲求を自覚することもなく、青春を過ごしているわけである。
国文学専攻の俊才であった竹田喜義は、学徒出陣によって海軍に召集された。学徒兵が軍隊に入って味わう一番つらい経験は、厳しい訓練でも鉄拳の痛さでもなく、私物の本の読書をいっさい禁じられることであった。それは、兵隊になっても学徒としての本分を守りたいとする願望を、断ち切るための措置のように思われた。
竹田二等水兵は、「きけわだつみのこえ」に収録された日記のなかで書いている。――食事時間の数分前、食卓番が配食の準備にごった返している食卓の堅い木の長椅子にすわって、メンソレータムの効能書を裏表丁寧に読み返した時などは、文字に飢えるとは、これほどまでに切実なことかとしみじみ感じた。――本にはうるさかった海軍当局も、薬の持ちこみは大目に見たし、あらゆる薬品のなかで、メンソレの効能書が最も細かい活字で、最も多い数の文字を刷り込んでいることを、彼は発見したのである。
竹田ほど、軍人に向かない男はなかった。飄々として、どこかシニカルで、しかし根は真面目な優しい人間だった。海軍はその彼を、潜水艦攻撃という、下積みの苦労ばかり多い、最も陰惨な勤務の専門家に仕立てようとした。昭和十九年春、少尉に任官してあたえられた配置は、排水量わずか九四〇トンの海防艦「能美」であった。文才あふれるばかりの彼が、物を書く自由を得たそのころから、ぷっつりと筆を絶った。ただ俳句をなん句か残しているだけである。たとえば「父母恋」と題する次の二句には、若くして両親を失った不幸な想い出が結晶している。
柿の皮さらさら剥けて母恋し
藤棚の葉のみ繁りし日々なりき
海軍軍人の作であることを示す句としては、
海図引く窓に春潮たたえたり
があるだけである。艦橋の海図台にむかって立直していると、窓から開けた視界いっぱいに、南海の春の潮がきらきらと輝く。彼には珍しい「生きる歓び」のきらめく句であるが、それから間もない四月十四日、「能美」は雷撃をうけて済州島沖に沈み、竹田も死んだ。二十二歳の若さであった。
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火 と 水[#「火 と 水」はゴシック体]
念入りに作った木製家具は強く、電気器具は弱い。陶磁器は強く、ガラス器は弱い。絵画は弱く、衣類、皮製品はしみができるか、においを吸いこみやすい。
火事の話である。
立派に製本したように見える本も、水をかけられ、一方から熱であぶられると、無残に形が崩れてしまう。その点意外に強いのは、メモ紙に手書きした資料である。まわりの余白は焼け焦げても、一枚ずつ乾かせば、書かれた内容はなんとか役に立つ。
昨年の今ごろ、まだ宵の口だったが、息子を一人残して家族が外出しているあいだに、自宅が全焼した。出火原因は、今もって不明である。風のない日で近所に延焼しなかったことと、けが人がなかったことが、不幸中の幸いであった。
さっそく大ぜいの方から、心のこもったお見舞いや励ましをいただき、つくづくと、人の世の情の厚さが有難かった。
「形あるものは、いつかはなくなる日がくるのだから、気を落とさないように」と、慰めて下さる方もすくなくなかった。本当にその通りだと思った。お世話になった方たちへの挨拶やら、焼け跡の片付け、仮住居の準備に忙殺されて疲れ果て、物を惜しんでいる余裕などまったくないのが、正直なところだった(もっともこれは、家事に責任のない男性の側からの、気楽な発言なのかもしれない)。
それにしても、こうした不時の災難に備えて、ふだんから手を打っておかなければならないことがたくさんあるのに、万事あまりにも手ぬかりであったことに、われながら情けない思いをした。重要書類や、かけがえのない手紙、記録、写真などの保管、保険の適切な処置がそうであり、むだな家財、不用品も思い切って整理して、身軽に動きやすい、すっきりした生活を心がけているべきであった。いつの間にかたまったガラクタを、中途半端に身のまわりに置く暮らし方は、火と水がひき起した混乱にさらに拍車をかけることも、よくわかった。
それでも、いろいろな幸運に恵まれて、拙速ながら、跡地に建て直す計画が進み、事故から一年足らずで元の場所にもどることができたことは、ただ感謝のほかはない。四人家族のうち二人が病に倒れ、それぞれ短くない入院生活を送ったが、それもなんとか回復し、長い間別居を余儀なくされていた息子も、ようやくわが家に帰ってきた。
多難だったこの一年をかえりみて、しみじみ思うのは、平凡な結論だが、「心身の健康、これにまさるものなし」ということである。
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書  斎[#「書  斎」はゴシック体]
五十歳代の半ば、つまり定年の年齢になって、思いがけず家を建てることになったので、はじめて書斎らしい書斎を持つことができた。といっても、うなぎの寝床のように細長い、四畳足らずのかわいらしい書斎である。それまでは、居間の一角を仕切ったり、子供部屋を借りうけたりしての書斎で、落ち着かなかった。専用の書斎となれば、狭い方が気が散らなくていい、そんな負け惜しみを言いながら、この小天地の住み心地に私は満足している。
ドアをあけると、窓にむかって廊下があると思っていただきたい。左は白い壁。右は天井まで作りつけの書棚。突き当りの窓ぎわに机と回転いす。ただそれだけの部屋である。なにか置くといっても、壁に二枚ほど絵をかけるのがせいぜいである。
天井までの本棚といえばきこえはいいが、八十四センチ幅のが三列並んでいるだけ。しかも下の方は開き戸の収納棚をたっぷりとったから、なにほどの収容力もない。常時手もとにおきたい本をこの中に収めるとなると、なかなかの難作業である。
渡部昇一教授のベストセラー「知的生活の方法」は、知的というだけで高踏的、抽象的になり勝ちな日本式発想とは打って変わって、かゆくないところまで手のとどく具体的アドバイスに満ちていて、そこが大きな魅力であるが、ことに書斎と書庫の作り方を設計図とイラスト入りで指導するくだりには、学生時代から本を買うことが唯一の趣味であった私のような人間は、それだけで胸の高鳴るほどの興奮をおぼえたものである。
渡部氏は、いやしくも知的生活を志すならば、身近なところに小さな図書館を持つくらいの気概がほしい、と説いているのだが、私は強く共鳴しながらも、すすめに従うことは断念した。なぜなら第一に、それは氏のような旺盛な著述家だからこそ意味があるのであり、第二に、一年前の不慮の火災で、物置きに積んでおいた駄本を除き蔵書のほとんどが灰燼《かいじん》に帰してしまったからである。
むしろ本の山から解放されたこの機会に、思い切って簡素な蔵書棚を作ろうと私は決心した。まず辞書、辞典。これはなるべく広い範囲で集めたい。次に自分が関心ある分野の基礎資料と文献。手に入りにくいのが難だが、権威のあるものは出来るだけそろえたい。あとは、特別に気に入った、ごく例外の書物だけを選んで書棚におこう。
それ以外の本、たとえば論文、エッセー、小説、読み物のたぐいは、図書館を活用する。区立の図書館も、なれれば至極便利である。
ささやかな書斎。ささやかな蔵書。マイペースで読み、調べ、書く。これが私の夢である。
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フ ォ ー ク[#「フ ォ ー ク」はゴシック体]
私がニューヨークで勤務していたころ、といえば、もう二十年も前になるが、ザ・ウィーヴァーズというグループの演奏会を広告で見つけて、何度か出かけた。たまにカーネギーホールでやる時は、一般の音楽会が終った夜の十一時半ごろにはじまる。聴衆はほとんど若い人で、入場は無料。ただし志ある人は応分のご寄付を、と張り紙がしてあった。
ピート・シーガーをリーダーとする四人のメンバーは、いつもギターをかなでながら、家族同士に似た雰囲気で、語りかけるように、静かに訴えるようにうたう。彼らが、戦後復活したモダンフォークの草分け的存在であることを、後になって知った。
日本に帰ってしばらくして、アメリカ帰りの友人が、みやげに一枚のレコードを持ってきてくれた。それが初めて聴くジョーン・バエズのLP盤で、胸の底の衝撃を吐き出すような反戦歌の歌声に、フォークの世界も広く深くなったな、と思った。
さて、日本のあるフォークの歌手のことを書きたいと思う。この文章は宣伝ではないから、名前はS・Mとしておこう。彼は昨年のレコード大賞、西条八十(作詩)賞をとったが、もともとはシンガー・ソングライター、つまり自作の歌をうたう歌手である。長崎生れらしい叙情的な、風景画のタッチに近い詩と曲に、自分の言葉と心をちりばめるのを得意とする。まだ二十五歳の若さで、自作の歌の基本テーマは、人間は死ぬものであり、生きている今の時間がどんなに大切なものかということだ、などと憎いことを言う。
幼いころからバイオリンをひき、文章も語りも抜群にうまい多才多芸を、シャイな風貌のかげに包みこもうとする。そして芸術至上主義者を自認する彼は、テレビには出ない姿勢を貫いている。
演奏会は、ハイティーンの女の子が圧倒的に多いが、彼女たちは、我を忘れるまで熱狂することはない。一曲終ると、なん人かがステージに走っていって、何かを投げる。彼は一人一人に頭を下げてあいさつする。一番多いのは、手製の縫いぐるみの動物だという。
近作の案山子《かかし》は、故郷を出て、遠い都会の真ん中で、かかしのように独りぽっちで暮らしている若者に、先輩が呼びかける歌である。――元気でいるか 街には慣れたか 友達出来たか 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る?――やわらかい、のびやかなメロディーに、作者の肉声を聴く思いがする。――手紙が無理なら電話でもいい お前の笑顔を待ちわびる おふくろに聴かせてやってくれ。――
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民  度[#「民  度」はゴシック体]
一昨年五月、家内をつれてマニラに短い旅をした時の話である。当地在住七年半というN君夫妻の案内で、近郊の名所、タガイタイ火山にドライブすることになった。
ちょうど暑い盛りで、雨期にはまだ二カ月以上あるというのに、途中で降り出した雨は、目的地に着くころには沛然《はいぜん》たる豪雨となった。仕方なくホテルの食堂に入って、名物の若いココナツの実に盛られたアイスクリームを注文した。とろけるようにおいしいのだが、むやみに寒い。早々に引き揚げることにした。
夕刻にやっと市の入り口の繁華街まで帰り着いた。排水設備がないから、道路は川のような泥水である。座席におろした足の向うズネあたりまで水が上がってくると、N君愛用のコロナはカタッと止まってしまった。
たちまち半裸の少年が七、八人あらわれて、有無をいわさずガレージらしいところまで車を押してゆく。ペンチを手にした老人がボンネットをあけたのはいいが、カチャッと中に落として、いくら探してもペンチが見つからない。業を煮やしたN君が道に飛び出していって、小型の貨物車をつれてきた。しかし五分動いては三十分止まる、といった状態をくり返すばかりである。見れば車という車が、鼻つきあわせてひしめいている。
時計が十時をまわって、急に空腹をおぼえたころ、助手台から運転手の妹だという十五、六歳の女の子がおりてきて、窓をたたく。全身に吹きつける雨と風で、歯の根が合わないが、声はしっかりしている。――このままここにいたら、明日の朝まで動けないでしょう。寒さが我慢できないので、これから歩いて友だちの家に泊まりにいきます。今おりてくれれば、ホテルまで案内します。これがラストチャンス――濁流を見ながら、私は思案した。三十年前、沖縄に特攻出撃して乗艦が沈み、東シナ海で何時間も泳いで苦労したが、フィリピンの海は知らない。そのとき失礼した罰に、今マニラの街を泳がなければならないのだろうか。
四人は声をかけ合い、女の子の小さな背中を見失うまいと必死に歩き続けた。突風にあおられた濁流が、波になって腰から下を洗う。私たちの胸中を察したらしいN君が、戒厳令以降、治安はかなりよくなったので心配はいりません、と大きな声を出す。貨物車の運転手にいくらチップをやったのかと聞くと、二百ペソ(八百円)、充分です、と答える。一時間ほどしてやっと遠くにホテルのネオンが見えたとき、私は両足の力が抜けるのを感じながら、ここは意外なことばかり起る民度の低い国だけれど、飾りがなくて憎めないところもある、民度とは、本当に何なのだろうか、と考えた。
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スーパースター[#「スーパースター」はゴシック体]
今から七年あまり前、イギリス生れの二人の二十歳代の若者が、一編のミュージカルのそれぞれ台本と曲を書き、ロック・オペラと銘打って二枚のレコードを出した。このレコードは世界各地で記録的な売り上げを続け、やがて舞台化されてニューヨーク、ロンドンで上演され、好評を博した。もちろん映画にもなってヒットした。以上が、キリストの十字架から復活までを扱った受難劇「ジーザス・クライスト・スーパースター」の生い立ちである。
成功したミュージカルがすべてそうであるように、まず音楽がすばらしい。ロックといっても、速いテンポの曲想が人間の内面をえぐり出す切れ味は、私のようにオールドボーイでさえ思わずひきこまれる魅力がある。
台詞《せりふ》は歌いやすいように抽象語を避け、即物的に書かれているが、愛の人イエスと、イエスの純粋さに惹かれながら裏切るユダが、鮮明なイメージをもって描き出される。欧米では、たくさんの青年男女が、このロック・オペラの感動から目覚めたとき、自分たちがどんなに愛にかつえていたかを、発見したという。
日本での初演は、昭和四十八年、劇団四季による中野サンプラザ公演である。日本の観客はまだロック・オペラになじまず、気の毒なほどの不入りであったが、三年後の再演は一転して熱狂のうちに迎えられた。出演者の若さと荒々しい群衆の動き、ドラマの精神的な高まりと強烈なロック・ビートを、渾然と見事な舞台に昇華させた卓抜な演出は、この年の芸術選奨・文部大臣賞を獲得した。
四季によるスーパースター公演のもう一つの収穫は、イエスを演じた新しいスターの誕生である。彼の仲間うちでの愛称は「たけし」。開放的な力強さと、緻密な集中力とがバランスした演技。雪国の文化都市、金沢の生れにふさわしく、奥行きの深い、さわやかな持ち味の青年である。
スーパースターの舞台が百回をこえるころ、「自分の内面性を絶えず高めないと、とてもこの舞台は続けられません」と、彼が告白したことがある。そうにちがいない、と私は思った。
昨年一月の西武劇場公演では、舞台も客席も狭いぜいたくな劇場なので、役者の息づかいが観客の胸にまで響くようであった。終幕に近く、イエスが「神よ 神よ なぜ私を見捨て給うのか」と訴える場面がある。彼はあふれるほどの情感をこめて、このクライマックスを歌い切った。ところが演出は、この場面にだけ、「神に訴えるのだ。もっと男らしくやれ」とダメを押したという。なるほど、と私は思った。
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白髪と軍帽[#「白髪と軍帽」はゴシック体]
戦後三十三年もたって、昔の軍隊仲間の集まりが、いまだに盛んである。というよりも、このところ年を追って、隆盛をきわめつつある。任官後実際に軍隊で勤務したのは、わずか八カ月なのに、われわれ海軍予備学生の四期会は、虎の門に専用のガンルーム(若い士官の集会室)を持ち、週三回の集会日には、当直の甲板士官まできめている。
年一回の同期の総会には、五、六百人から時には千人に近い海キチ(海軍気ちがい)どもが、家族同伴で全国からはせ参ずる。ホテルのロビーなどで、アミダにかぶった軍帽の下から白髪がはみ出した珍妙な群衆が、悠々|濶歩《かつぽ》する姿を目撃された方も多いであろう。何が楽しくてあんな恰好をするのか、と聞かれても、うまく答える自信はない。
われわれ戦争経験世代は、今まさに定年の年齢を過ぎようとしている。兵隊にかり出されて生き残るまでの軍隊生活が第一の人生。敗戦の苦難をのりこえて、がむしゃらに働いてきた戦後の生活が第二の人生。そしてこれからの老後が第三の人生である。戦争で大勢の仲間を失いながら、われわれ生き残りの第一の人生も第二の人生も、彼らの死に報いるだけの収穫を生まなかったことを思えば、安閑と余生を送るわけにはいかないのである。
しかも日本をめぐる内外の環境は、ますます厳しさを加えている。だからこそ第三の人生の出発にあたって、かつて同期の仲間を結びつけていた「荒っぽく朴訥《ぼくとつ》な友情」と、「利害をこえた団結の心意気」が、貴重な思い出としてよみがえるのであろう。
しかし、われわれ学徒兵が、今なおこれほど海軍の集まりに熱意を燃やしているのは、ただ、海軍があたえてくれた共通体験が懐かしいからではない。逆に、海軍の軍紀と力に反抗して守りぬこうとした学徒兵の本分、貫こうとした願望の痕跡を、お互いの白髪初老の身に確かめあいたいからである。
われわれはあのとき、兵士である前に学生として、自分の目で現実を見たいと願った。戦う人間である前に生きる人間として、自分が生きてきたことの意味を納得したいと願った。
予備学生隊長であった教官が、数年前、学徒兵教育の経験を回顧する著書を出したとき、出版記念会の席上で、われわれの二期先輩にあたる元大尉は、祝辞にかえて次のような趣旨のあいさつをした。――この本には、重大な誤植がある。「学徒兵の中には、自由主義思想を信奉するものもいた」という記述は、明らかな誤植である。「学徒兵の中には、自由主義思想を信奉しないものもいた」と訂正されるよう希望する。――
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社会の一年生[#「社会の一年生」はゴシック体]
四月一日、例年のようにたくさんの青年男女が、学窓を巣立って社会人の仲間入りをした。
「皆さんは、今日からもう学生ではない。社会の一員として、自覚と誇りを持ってほしい」――こんな切り出しで、あとに歓迎や激励の決まり文句がつづく社長の訓示を、新人たちは背筋を固くして聞かされたことであろう。
しかし、私にも遠い昔の記憶があるが、入社一日目のこの日は、舞台に上った新米の俳優に似た心境で、せっかく含蓄に富む名言を並べられても、なかなか耳にとどかない。たとえとどいたとしても、胸の底まではしみ通らない。
不況と円高の危機感を強調され、だからこそ今日新たに社会人となった諸君の若さに期待すると持ちあげられても、学生が一日で社会人に生れ変わるわけではない。昨日まで学生だった自分に何の変化もないことは、彼ら自身がよく知っている。彼らはそれから二年、三年の歳月と生活の積み重ねを通して、社会人としての自分を育ててゆくのである。
医学の常識では、生れた赤ん坊はほぼ三歳までに、性格の形成を完了するという。社会の一年生も、おそらく同じくらいの期間のうちに、自分という存在の形成を完了する。それ以後、職場の仲間の目と社会の鏡に映る彼の人間像、彼女のイメージを本質から変えることは、きわめてむずかしいであろう。
私の勤務する銀行でも、ささやかな入行式があった。印象的だったのは、新入生の表情が、ひところにくらべて個性豊かになったことである。戦後、新しい民主教育が全盛のころ、若者たちには、「自分こそだれも考えないことを考え、だれも見ない夢を見る」という気負いがあったが、実際は、みな似たりよったりだった。むしろ、自分はユニークな人間だと思いこんでいる点で、類型的であった。
感想の第二は、新人たちの歩く姿勢についてである。本店の採用者は百人に満たない小人数だから、辞令が一枚一枚手渡される。自分の席から、歩いて進み出なければならない。彼らは元気いっぱいに歩いているようでもあり、まだ自分の足どりをつかみかねているようでもあった。
ところで、人生の長い旅路に辛酸をなめたはずのわれわれ先輩たちの足どりが、しっかりと地を踏まえているのかといえば、困ったことは、それがさだかではないのである。これまでの経験も知識もほとんど役に立たぬ不透明な時代と、政治も経済も手探りで針路を模索するほかない混迷の現実を目の前にして、老兵どもはいま一年生並みの危なげな足どりで、歩きはじめようとしているのだろうか。
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人間の幸福[#「人間の幸福」はゴシック体]
人間はいかにすれば幸福になれるか。
人と生れて、自分の幸福を願わぬものはない。古来、幸福を手に入れる確かな道を模索することが、哲学者の主な仕事であった。そして彼らの思索に共通しているのは、人間がその欲求を制御するプリンシプルを持つことが、幸福の基本となるという認識であった。欲望の充足を本能のままに無制限に追求するとき、人はかえって不幸になり、欲望に打ちかって目指すべき人生の指標を自分のうちに持つとき、はじめて究極の幸福をかちえることを、彼らは発見したのである。
そうした人生の目標、理想として、ソクラテスは精神の徳をあげ、プラトンは知恵と勇気と節制の調和をあげた。ストア派は無欲自足の境地こそ賢者の道であると説き、乞食の生活を礼讃した。エピクロス派(エピキュリアン)だけが例外として、欲望そのものを肯定したというのは俗説に過ぎず、正確には「幸福は快楽のうちにある。そして最高の快楽は心の平静さにある」と説いたことを、哲学史は教えている。
しかし聖賢の教えと民衆の行動は、別のものである。一つの文化、一つの民族あるいは国家は、成熟するにしたがって草創期の緊張がゆるみ、自律の厳しさを失って飽くなき欲求の誘惑に負け、やがて爛熟滅亡する運命をたどった。
現代は、超大国アメリカを先頭に、いまだかつてない大きなスケールで、人間が無限の欲望の解放という冒険に挑んだ時代として特徴づけることができよう。かつては王侯貴族や一部の上流階級にのみ許された「どんな欲求も満たされないもののない」生活が、一般大衆にも手がとどきそうに見えたとき、実は繁栄の基盤は崩壊しつつあり、自由社会のリーダーを自負していたアメリカ人でさえ、生きる目標を見失って惨めな自己不信におちいったのであった。
欧米で二十五万部を売りつくしたロングセラー「スモール・イズ・ビューティフル」(シュマッハー著)は、今われわれを支配している「巨大主義」と「物質主義」こそが諸悪の根源であり、これを打ち破って人間性を取りもどし、物質を超えた価値を確立する以外に救いはないと、主張している。
しかし、なぜ小さいことは、よきことなのか。それを実現する秘訣は、何なのか。シュマッハーは東洋思想にも深い関心を寄せ、仏教徒の生活様式の完璧な合理性と、驚くほど小さな手段できわめて満足すべき結果を導く知恵に、高い評価をあたえている。日本人は、この言葉をどう受けとめる用意があるだろうか。
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独 行 の 人[#「独 行 の 人」はゴシック体]
「ケンブリッジで政治の勉強ではなく、英文学をやりたいと宣言したら、オヤジに、好きなことをやるがよかろう、ただし今後はいっさい面倒は見ないよ、とやられた。それ以来、親に無心をしたことはないね」、弊衣破帽の人は事もなげにそう言って、盃をほした。終戦後まだ一年あまりの万事に不自由な時代でも、この人のまわりは酒の絶えたことがなかった。
ともかくも、立派な風貌である。これだけの人品、風格は、一代や二代で出来るとは思えないが、それにしては服装が不釣り合いに、粗末過ぎた。一張羅の上着は裏地がスり切れ、兵隊帽の裂け目から髪の毛がはみ出している。もく拾いからカツギ屋までやったという貧乏物語が、まことしやかに流布していた。
そのころある酒席で、先輩の評論家が身だしなみをたしなめたことがある。「今を時めくワンマン首相の総領息子が、この寒空にオーバーも持たぬとは、キザだな。もしキザでないというなら、カミさんの悪妻ぶりを見せびらかすようで、悪趣味だ」
胸を張って、吉田健一さんは答えた。「日本人の優秀なることは、どんな外国人にもヒケをとらぬ。しかし秀才ぶりを発揮するのは、せいぜい三十歳まで。あとは根気がなくなり、白人の馬力に圧倒されてしまう。その差はどこからくるか。答えは簡単。子供の時からどれだけ牛肉をたべたか、ただその総量の違いである。奥さんなんか、関係ない。さて今の日本で、オーバーと背広をそろえる金があったら、子供に何十キロ牛肉をくわしてやれるか、考えてみたことがおありか?」
その後程へて、戦後処理という大事業に精魂を傾けた政治家の父は、文名しだいに高い文筆家の息子と、幸いに和解し、ことに晩年は、なにごとにつけ頼りにしたらしい。「オヤジが亡くなる前後は、さすがに問題が多くて容易ではなかった。われながら、よく過不足ない結末をつけられたと思うよ」と、健一さんには珍しい自足安堵の面持ちで、述懐したことがある。
さらにそれから歳月が流れて、昨年夏、その人自身の時ならぬ訃報《ふほう》が、われわれを驚かした。生涯愛してやまなかったロンドンの旅先でひきこんだ発熱性の肺炎が、帰国後に急変したのだという。息の長い、余情の豊かな文体はいよいよ磨きがかかり、愛読者の層も厚みを加えていたのに、あまりに唐突な悲報であった。
永遠の「乞食王子」を自認し、いつまでも同じ酒、同じ店と同じ座敷を好み、みずからの文学世界を守りつづけた吉田健一さんは、最後まで「独行の人」であった。
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エリート支配[#「エリート支配」はゴシック体]
日本はひと握りのエリートが強固な支配権を持つ特殊な社会と思われる。世界に冠たる官僚組織が、その典型的な例である。大蔵省にしても郵政省、農林省にしても、中央に君臨するキャリア組の上級官僚が、全国にあまねく散在する末端官署まで含めた系列下の総人員の中に占める比率は、せいぜい一%か、それ以下であろう。
戦後の日本は、民主主義は機械的な平等の上に成り立つという考え方が大勢を占め、多数者、つまり一般大衆の発言を最優先に尊重する傾向が強くなったが、社会の基本は変わっていない。
これだけ確立したエリート支配の体制は、一朝一夕に出来たものではない。過去にさかのぼってまず目につくのは、軍の組織である。陸士および海兵出身の少数者集団が、平時、戦時を問わず、それぞれの部内において絶対の発言力、指導力を保持していたことは、よく知られている。たとえば海軍の場合、全将兵の人数が、太平洋戦争中の戦死者四十三万人、終戦時の生存者百七十万人をあわせて総計二百十三万人であるのに対し、海兵出身者は、一期(山本権兵衛は二期)から最後の卒業生七十四期までを合計しても約一万一千人と、〇・五%のウエートを占めるに過ぎなかったが、その稀少性が、いよいよ彼らのエリート度を高める結果となっている。
また終戦間近には、われわれ学徒出身の予備士官が急膨張し、働き盛りの中尉、少尉のなかでは、海兵出のほぼ三倍の員数に達していたが、海軍当局は、助《すけ》っ人《と》のこの大集団を、どう評価していたのか。便利な消耗品以上のものとして活用する意図があったのか。エリートによる組織管理の恰好の教材として、事実を知りたいものである。神風特攻隊の戦死者約二千二百人の内訳は、江田島出身の本チャンがわずか百人、学徒出身が六百人、残り千五百人は、予科練中心の下士官であるが、この数字が正確に意味するところを、知りたいものである。
しかし少数者支配をめぐる葛藤が最も熾烈であったのは、ほかならぬエリート内部の異分子相互間であり、舞鶴の機関学校出身者は、直接戦闘行為に参加しない下積みの職分のため、常に日陰者であった。具体例をあげれば、海軍省軍需局長のポストは、燃料を所掌する関係から原則として機関学校出があてられていたが、陸軍との間で燃料の配分を決定するような重要会議には出席を認められず、作戦の基本にかかわる案件は、兵学校出の出世コースの一つである軍務局長が、軍備軍政の統轄責任者として取りしきっていた。部内の意思疎通の程度など、推して知るべしであった。
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平  和[#「平  和」はゴシック体]
地方に勤務していたころ、ある流派の家元を招いた踊りの会で、「青海波《せいがいは》」の華やかな舞台をみたことがある。三十人ほどの男性ばかりの立ち方が、千変万化の波の形を流れるような群舞に描き出すと、客席から嘆息がもれた。二十歳代の美男ぞろいの踊り手たちは、女性の観客からそそがれる熱い視線を意識してか、舞いながら陶然とした表情をかくせぬ風であった。日本は本当に平和なのだな、実感をもって私はそう思った。
(関係者の手に秘蔵されていた神風特攻隊の出撃の写真が、最近たまたま公開されたことがある。飛行服のえりに純白の絹のマフラーをなびかせ、別れの盃を高くかかげた場面とか、見送る人たちに手を振ってこたえる姿など、珍しい光景とはいえないかもしれないが、ある人にとっては、いまだにそれは正視し難い忌まわしい写真なのだ。
特攻隊の一員に選ばれながら発進直後に搭乗機が故障し、やむなく基地にもどって生き残った私の同期生は、写真の中に自分を発見したときの衝撃を聞かせてくれた。――そこにいるのは、たしかに自分なのだが、自分の顔とは思えない。表情が暗いとか、悲壮とかいうのではない。むしろ笑顔に近いのだが、笑いかける相手を見ていない。目はしっかり開いているのに、何も見ていない。何かが見えることを拒否している目なのだ)
後楽園でのキャンディーズさよなら公演の録画は、興趣つきない番組であった。ほとんどが中学生、高校生の男の子で占められた五万人の大観衆は、われがちに懐中電灯を振り、紙テープを投げて熱狂的なコールをくり返し、感動と愛惜の涙にほおをぬらした。ランもスーもミキも、それぞれの魅力を最大限に発揮しながら、全身に感謝と歓びをあふれさせて歌いかつ踊る光景は、まことに好もしい見ものだった。バック・スクリーンの巨大な電光掲示板に輝く横文字は、「フォー・フリーダム」と読めた。「私たちは自由がほしいのです」これが、「普通の女の子」になろうとする彼女たち三人の切実な声なのだ。日本の平和もここに極まれり、と私は思った。
戦争経験世代のひがみから、平和をうらんでいるつもりはない。ただ、ささやかな体験を通して、平和がいかにモロイものであるかを学んだことを、いいたいのである。平和は実に、はかないものなのだ。もしその平和が、人間の生きがいと結びついていないならば。自分が今どこに、何をよりどころとして立っているかの確かな手ごたえに支えられていないならば。
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ライフワーク[#「ライフワーク」はゴシック体]
小林秀雄氏の「本居宣長」の静かなロングセラーぶりが、評判である。出版界にもご多分にもれず不況風が吹く中で、定価四千円の豪華本が一万部単位の増版を重ねているらしい。三十歳代の半ばには早くも文芸評論界に指導的地位を確保し、戦争中は四十歳の若さで古典への沈潜を試み、さらに戦後も「モオツァルト」「ゴッホの手紙」「私の人生観」と問題作を書きつづけてきた人が、六十三歳からの十一年余りをこの一作に没入して完成した六百ページの大業は、まさにライフワークと呼ぶにふさわしい。
プルーストの「失われた時を求めて」が四十二歳からの十年間、マルタン・デュ・ガールの「チボー家の人々」が三十九歳からの二十年間のいずれも壮年期の所産であったのと比べて、古稀の齢をはさむ鏤骨《るこつ》彫心の苦業の重さを思いみるべきであろう。
数年前、武原はんさんの地唄舞の会で久しぶりにお目にかかった。「このごろは、ただ本居宣長だけをやっております」と、微笑をふくんで語られる風貌が壮年の盛りのころとは別人のように柔和でまろやかなことにおどろかされた。
この本の序章で、「宣長の述作から、私は宣長の思想の形体、あるいは構造を描き出そうとは思わない。実際に存在したのは、自分はこのように考えるという、宣長の肉声だけである」と、氏は書いている。この簡明な断定にふくまれた意味の深さ、あのふくよかな微笑に秘められた恐ろしさを知るものだけが、正しい読者となりうるであろう。
話はとぶが、昔ある作家の仕事部屋に通されたことがある。中二階に独立して設けられた四畳半ほどの和室に、粗末な机と座ぶとん、数冊の辞書があるだけで、無用な調度、道具のたぐいは一切持ちこめないように、階段は特別に狭く作られていた。こうして厳しく煩悩を断ち切りながら修練を積み、どんな題材でもこなせる文章力を身につけたのだという。
机に坐ると正面の壁に、「士ハ己レヲ知ル者ノタメニ死ス」と筆太の字でしたためた紙がはってある。由来をたずねると、答えがあった。「史記からとったこの一句こそ、わがライフワークのテーマである。ふだんは生きる方便として意に満たぬ作品を書いているが、それもただライフワーク成就のための礎石であることを自戒して、毎日この文字を眺めているのだ」
人間は筆の力を生業《なりわい》としての雑文と、生涯ただ一篇の渾身の大作とに使い分けることなど、出来るのだろうか。私は狭い階段を降りながら、そんな疑念を抑えかねた。
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よ き 時 代[#「よ き 時 代」はゴシック体]
第二次大戦が終って二十年ほどの間、つまりベトナム戦争に全面介入をはじめるころまでのアメリカには、まだ若さと誇りがあった。いまや無法と汚濁の街と化したといわれるニューヨークにも、「よき時代」の面影が残っていた。若者には青春の歓びを満喫させてくれる寛容さが、孤独に疲れた都会人には人間らしい生活を保証する暖かさがあった。
市内の公園や郊外を散策すれば自然はじゅうぶんに美しく、町の至るところに芸術や文化の一級品がさりげなく配置されて、心ある人の訪れを待っていた。若者の街グリニッチ・ビレッジは深夜まで活気に満ち、はじめて出会う様々な国籍の青年たちと語り明かすことも自由に出来た。
本場のディキシーランド・ジャズが聴きたければ、ハーレムの探訪を試みることも困難ではなかった。ただしそこでは何が起るか予測できないので、女性や白人の男性を同伴することは禁物とされていた。
カウント・ベーシーとか、デューク・エリントンなど名の通った店でも、客のほとんどは一日の労働を終えて疲れ果てた黒人の男女で、若い人はすくない。彼らが笑顔で迎えてくれたら、それだけでもう彼らの仲間なのだ。椅子はなく、あふれるばかりに大勢の群衆が肩をすり寄せるようにして立ち、手にはグラス一杯のビールだけ、サキソフォンやトランペットの吹き手が顔面をケイレンさせて即興演奏のクライマックスをのぼりつめると、組んだ肩がホットなリズムに合わせて波のように揺れ動き、エクスタシーの呻きをもらす。揺れる波にまきこまれながら、ジャズは彼らにとってこれほどに深く切実な癒やしになりえているのだという実感があった。
東京は、巨大都市の中ではとびぬけて安全な街として知られている。夜遅く若い女性が平気で一人歩きできる事実は、ニューヨークでは想像もつかぬ治安のよさであろう。しかも町並みは清潔で色彩と音にあふれ、道を行く人も車も生き生きと活動的であり、商店の店先はあり余るほどのモノで飾られている。
しかし、今われわれの眼の前にあるこの街は、あとから振り返って、「よき時代のよき東京」として、懐かしまれるだろうか。
スラムとなる日を待つだけの粗末な住宅街。無秩序にくり返し掘りかえされた地盤。見てくれだけで実質価値の乏しい商品のはんらん。一流レストランや社用バーの法外な請求書。カラオケがはやれば、どこにいってもカラオケ。排気ガスと騒音、そして交通渋帯の三重苦。――東京の街のこうした素顔は、後世から、どんな時代と評価されるだろうか。
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死[#「死」はゴシック体]
父を亡くしてから間もなく満七年になる。親は元気でいる限り、子を死からへだててくれているという。順序としてはまず親に死が訪れ、子供の番はその次だから、親が健在な間は安心していられるのである。
父が亡くなってから、自分はさえぎるものなしに死に向き合っているのだという実感が、少しずつ強くなっている。といっても、まだ五十歳代の半ばで、わが身の死の予感について語るのは、おこがましいことかもしれない。ただわれわれ戦中派世代は、青春の盛りの日に、戦場で、日常の出来事として死を見るという特異な体験をあたえられた。そのことに免じて、ささやかな死の感想をのべることは、あるいは許されるであろうか。
宗教学者の岸本英夫氏は、十年に及ぶ黒色腫(メラノーム)との戦いの末、六十一歳で亡くなられた。出張先の米国で顔面の主要な組織をほとんど切除する大手術をうけ、余命はわずか半年と宣告されたが、その後再発と難手術をくり返しながら、講義と研究活動、講演旅行、国際会議、東大の図書館長職、さらにはユネスコの特使と多方面に活躍された足跡は、名著「死をみつめる心」に明らかである。この稀有の闘魂を支えたのは、「死は実体ではない。生命に対する別れの時に過ぎない」という哲理の発見と、「最後の一瞬まで人間生活に徹して生きようとする」決意であった。
こうして十年の苦難を耐えぬいた自信から、ガンではもう死なないかもしれないという期待が生れたが、その矢先に、何の前ぶれもなくメラノームは氏の体内深く侵入を開始し、疾風の勢いで不屈の生命力を打ち倒したのであった。
スイス生れの女医、キューブラー・ロスは、瀕死の床にある患者との対話を集録した「死ぬ瞬間」の中で、長い旅路の果てに訪れる最後の休息について書いている。死との戦いを戦い終えた人たちは、もはや悲しみも痛みもなく、静かな期待をもって終焉の時をみつめようと身構える。彼らの関心の環は縮まり、見舞客よりも孤独な時間を、言葉よりも沈黙や微笑、指一本にこめられた優しい仕草を望むようになる。自分からは何ひとつ求めず、ただ欲するものすべてがあたえられて感謝するこの充足状態は、ほとんど乳幼児にひとしいと、著者は意味深い感想をのべている。
死の存在は、太陽のように明々白々であり、かつ測り難く奥深い。死は永遠の時を支配し、しかも人間の思慮をこえて唐突にやってくる。死にたいしては、ただ謙虚におのれを差し出して、一日一日を生きるほかないであろう。
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罪 と 罰[#「罪 と 罰」はゴシック体]
「ヨーイ、テッ」の号令一下、われわれ学徒出身の二等水兵は、兵舎の端からいっせいに走り出す。うしろから教班長の下士官が、銃剣術の木銃を構えて追いかけてくる。仲間より一瞬でも早く反対側の壁にとりつき、衣のう棚にもぐりこまねばならぬ。
海軍では、被服一切を収める大型の袋が衣のう、衣のうを壁に格納する間口四〇センチ四方ほどの木製の棚が、衣のう棚とよばれていた。奥行きは身長より短いから、大の男が五体を中に埋めるのは至難の業だが、少しでもハミ出た部分があれば、木銃のタンポの先が容赦なく突いてくる。
この罰を名づけて「鶴の巣ごもり」という。舞うように夢中で飛んでゆき、体ごと穴にもぐりこもうともがく哀れな姿を形容するのに、言い得て妙というべきか。教班長たちは、木銃をしごいてヤセた鶴を追い散らしながら、笑いがとまらぬ風であった。
軍隊という社会に永年培われた悪知恵は、懲罰の傑作を創り出した。傑作であるためには豊かなユーモアがなければならず、ユーモラスであればあるほど、罰の残忍さが増すという仕掛けであった。
「罪」と「罰」は、ドストエフスキーが長篇小説の題名に選ぶまでもなく、本来切り離しにくい関係にある。この関係を無視したのが日本の軍隊であり、そこでは原則として罪のないところに罰が成り立つものとされた。罰がどれほど残忍であろうとも、その原因となる罪が何であるかを問うことは、許されないのであった。
このことは、日本軍の軍紀が、冷静な状況判断に基づいて最善の行動を選ぶ努力ではなく、ただ無条件に服従し猪突猛進する習性を軸として成り立っていた事実と、同じ根から出ていると思われる。戦陣訓に次の一節がある。「死生困苦の間に処し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実をあぐるもの、実にわが軍人精神の精華なり」。
米国の戦史家が、日本軍の勇敢さを率直に評価する半面で、守勢に追いこまれた場合、攻撃時とは別人のように機動力が低下する弱点をあげているのも、このことと無関係ではあるまい。
ある学徒兵は、海軍に入って間もないころの日記に書いている。「祖国愛の感激。緊迫感。軍隊はそういう情熱を殺し、人間を無関心にし、惰性的に動く歯車に代えてしまうところだ」「ますます荒涼たる気持になり、粗雑な頭脳になる。そしてそれよりも恐ろしいのは、この強制的共同生活にたいする嫌悪と、それから結果する良心の麻痺なのだ」。
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遠い思い出[#「遠い思い出」はゴシック体]
横須賀線の終点で、浦賀水道に面した久里浜という町がある。戦後は海辺の工場地帯として開けているが、かつては東京近郊屈指の海水浴場であった。波はおだやかで砂浜が広く、遠浅で水もきれいだった。
私ども一家は久里浜が気に入って、十年ほど続けて夏休みをそこで過ごすことになった。小学校の低学年だった私は中学を卒業する年ごろになり、毎年きまって顔を合わせる友だちも出来たが、やがて時代が戦時色を濃くしてゆくなかで、夏のあいだ東京を離れて暮らすのは次第に難しくなった。
久里浜生活を通じて知り合った友だち仲間は、十五歳から二十歳までの男女を中心に、十五人ほどにふえていた。暗い明日への不安と緊張は、かえって互いの友情を堅いものにした。戦争がどのような試練を強いようとも、それぞれ自分らしく生き抜いて、「人間愛と真実」を求めつづけることを誓いあった時、そして戦争が終ったら、生き残ったものは必ず年に一回は集まろうと約束した時、われわれは真剣だった。
仲間のリーダー格で画家志望だったサブちゃん(水野三郎)に、真っ先に赤紙が来た。彼は陸軍に入って南方に行き、続いて三人が学徒出陣で召集をうけた。私は海軍予備学生の末期に通信学校で研修を受けるため、思いがけず久里浜で二週間を過ごすことになった。永年なじんだ広い砂浜をはいまわって陸戦訓練にアゴを出し、ヨットを走らせた青い海でカッター競漕に汗をしぼりながら、最後の久里浜の姿を忘れまいと、目を見開いて一つ一つの光景を眼底に灼きつけようとした。
今となっては、そうしたこともすべて、遠い遠い過去の思い出になってしまった。年に一度集まれるのは、わずか五人である。サブちゃんは南の島で行方不明のままであり、東京大空襲は女性の中にたくさんの犠牲者を出した。生き残った仲間も、様々に境遇が変わり、「人間愛と真実」は、戦後のかりそめの繁栄と忙し過ぎる生活のかげに埋もれかけている。しかし久里浜の思い出と友情は、けっして純粋さを失ってはいないと五人は確信している。
先日、その中の一人が次女を嫁がせることになり、私も披露宴に招かれて祝詞をのべた。晴れがましい席には不つり合いではないかと恐れながら――われわれの世代が、あなた方のように若かった時、戦争の暴力が無数の青春を傷つけ、奪い去った。ここに祈りをこめて、生きる歓びにみちた本当の人生をかち得ていただきたいと思う。花嫁の父も、おそらく私と同じ祈りをもって、娘の晴れ姿に目を注いでおられるであろう――そんな話を訥々《とつとつ》とした。
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真実を語る[#「真実を語る」はゴシック体]
ある民放の朝の時間帯に、「ミセス・アンド・ミセス」というワイド・ショーがあり、初めの三十分が、評論家、竹村健一氏の司会による「世相講談」にあてられている。身近な生活問題や時事トピックスをテーマに、その日の朝刊各紙の紙面に寸評を加え、ゲストを招いて討議をたたかわすのがこの番組の骨子だが、最近は視聴者のなかにかなりのファンが生れているらしい。
私も休みの時など何度か見たことがあるが、番組としての特色をあげれば、とり上げる話題が例えば牛肉や魚の値段、乱塾の現状、国鉄スト、防衛問題、北方領土、年金の官民格差等、ズバリ庶民の関心をそそるものが多いこと、ゲストには大物の関係者を選び、歯に衣着せぬ論争を挑む努力がみられること、などであろう。
司会者の立場は、いわゆるタカ派に近い面があり、この点の批判は予想されるが、視聴率が落ちて番組が姿を消すこともなく続いているところをみれば、日ごろ家庭の中に閉じこもりがちな主婦たちは、特定の思想のスクリーンにかけられた論評ではなくて正確な事実そのものに飢えており、またマスコミがよくやる日和見的な当り障りのない発言ではなくて、良かれあしかれ明快率直な主張を求めていると理解すべきであろう。
さて、われわれ国民は、これまで歴史の転変の中で、多くの人の様々な発言をきかされてきた。戦中派である私が経験したのは、ほぼ昭和以降の年代にあたるが、大正デモクラシーの衰退から戦争への傾斜期、戦中の暗黒時代、戦後のGHQ万能と民主主義の全盛期、安保と大学紛争、所得倍増から石油ショックへの混迷の時代を通じて、次々に政治家、軍人、思想家、文筆家、経済人が国民の前に登場し、声高に何ごとかを叫び、注目をひく文字を書き残し、そして消えていった。彼らの中で、「真実を語った」といま評価しうるのは、いったいだれであろうか。あるいは、「真実を語らなかった」と断定すべきなのは、だれであろうか。
自分の主張は絶対に正しく、意見のちがう相手とは議論の余地がないという高姿勢を崩さないもの。人間であれば、時に判断の誤りは避け難く、それを率直に認めるところから進歩成長も可能になると思われるのに、自分の過去には厚いベールをかけ、口をぬぐって語らないもの。器用に時流にのって、いつも日の当る場所を歩こうとするもの。自分こそは弱者であると、ことさらに誇張して訴えたがるもの。
彼らこそまれにしか真実を語ることのない輩《やから》であることを、われわれは歴史から学びとることができるのではなかろうか。
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決  別[#「決  別」はゴシック体]
宅島徳光が、恋人八重子との婚約について航空隊から父に手紙を書いたのは、予備学生から少尉に任官して間もなくであった。
しかしその数日後に、彼は八重子にむかって唐突に愛の断念を宣言する。「はっきりいう。俺は君を愛した。そして、今も愛している。しかし、俺の頭の中には、今では君よりも大切なものを蔵するに至った」。彼のいう「君よりも大切なもの」とは、「八重子のように優しい乙女の住む国」であり、「静かな黄昏の田畑の中で、まだ顔もよく見えない遠くから頭を下げてくれる、いじらしい子供達」である。「もしそれへの愛が君に対する愛よりも遙かに強いといったら、君は怒るだろうか。否々、決して君は怒らないだろう」と彼は言い切る。
さらに十七日後の日記に宅島は「八重子、極めて孤独な魂を慰めてくれ。俺は君のことを考えると心が明るくなる」と書いている。そこには、断念の底にかくされた愛の深淵を見る思いがする。
杉村裕は特攻隊員として航空隊に赴任する途中の深夜、Sさんの住む町に近い駅で下車した。それでもまだSさんのところに行こうか行くまいか迷っているうちに、見送りに来た彼女にみつかってしまう。「かえって来てくれなかった方がよかった。あなたは残酷よ。テニスだけでおしまいだったら、こんな悲しい目に会わなくてよかったのに」彼女は決別への憤りをこめて、逆説的に愛を告白する。
そぼ降る雨の中を、一つ傘に入って歩く。雨のたれこめた山。白い家。ずっと続く並木道。傍にいる人の存在感。次の言葉を、彼は手記に書きとめる。「俺は抱きしめて、接吻したいという欲望と強く戦わねばならなかった。しかし、やはり自然の心の声の命ずるままに振舞った方がよかったのではないかと、これを書いている今、残念だ」。それにしても、一時間あまりの束の間の逢う瀬であり、手記には続けて特攻隊配属の覚悟がのべられている。
宅島は終戦の年の春、杉村はやや遅れて初夏に、いずれも殉職死をとげている。
ここにあるのは、戦争によって強いられた無数の決別のなかの二つの場合である。今の平和な時代には、男女の決別のほとんどは、互いに我欲を主張し合った末の破綻《はたん》に過ぎないが、ここでは愛のひたむきさが、かえって愛の断念を可能にしている。しかし、別離の美しさを強調するために、私はこれを書いているのではない。生き残ったものが、死者の悲しみを美化して追想するのは、不遜である。何ものをもってしても、彼らの悲劇の深さを償うことはできないであろう。
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霊のはなし
本州の最北端にある下北半島の恐山は、イタコで知られた霊場である。年一度の地蔵講は七月下旬に一週間行なわれるが、全国から観光客をふくめた老若男女が数万人も集まるので、イタコが呼び寄せる死者の声にゆっくり耳を傾けているわけにはいかない。
手をつくして頼みこむと、夏の観光シーズンが終った初秋の一日、特別にイタコを用意してくれることになった。しばらく前に母親を亡くしたばかりの友人が、ぜひ口寄せをしたいからと同行を申し出た。来てくれたのは八十歳に近い全盲の婦人で、七歳のとき失明しすぐに巫女《みこ》の修業をはじめたと自己紹介をした。
しかしこの地方の方言はもともと難解なうえに、口寄せ独特の用語と節まわしが加わるので、素人にはとてもききとれない。許しをもらってテープに録音しておき、あとで土地の人に通訳してもらうことにした。
霊を呼び出したい人の性別と亡くなった年齢、命日をまず申し出る。イタコはしばらく瞑目してから数珠をくり、力をこめて梓弓《あずさゆみ》の弦《つる》を叩きはじめる。その音が高まるにつれて、「出」の歌をうたい出す。霊の世界に足を踏み入れる導入部である。この老婆にこんな力がと驚くほど、激しく波打つような抑揚の調子が早まって、いよいよ死者の口説《くど》きに入る。イタコはすでに恍惚境である。真打ちの霊媒のように、声や言葉つきまで故人そっくりに乗り移るわけではないが、何を語ったのかとあとで聞かれても、まるで憶えがないという。失神するほどの難行の修練と長年の経験が、自分をエクスタシーに誘いこむ|こつ《ヽヽ》を会得させたのであろう。
口説きの主題は、死者から生者への感謝と励ましと忠告である。母親の霊を呼んでもらった友人は、まず、遠いところをわざわざ弔いに来てくれて有難い、という挨拶に度胆を抜かれた。彼は最近青森から東京まで、|おふくろ《ヽヽヽヽ》の葬儀にかけつけたばかりであった。挨拶のあと、お前も三十人ほど人を使う身分になったが、くれぐれもこういうことには気をつけよと、五つほど細かなお小言を頂戴して、彼は神妙に頭を下げた。そして「なるほど数えてみると、俺の部下はちょうど三十人だが、|おふくろ《ヽヽヽヽ》さんはいつそれを知ったのかな」と呟いた。
恐山ほど有名ではないが、地元では恐山より由緒があるとされているのが、津軽の金木町川倉の地蔵講である。ここの宵宮《よみや》は恐山より一カ月遅く、盆踊りの祭りを兼ねている。賽《さい》の河原に筵《むしろ》を敷き、揺れる|ろうそく《ヽヽヽヽ》と煙だけを背景に四十人ものイタコが口寄せを競い合う様は、まさに壮観である。
なかに珍しく老婆ではなく、せいぜい四十歳代のイタコがいた。人気があるらしく、長い列が順番を待っている。しかし彼女はその方に背を向けて、一心になにかを唱えている。若いせいか口説きに癖が少なく、|よそ《ヽヽ》者にもどうやら理解出来る。きいていると、一つのことを熱心に仏に訴えていることが分ってきた。声を使い過ぎて出なくなってしもうた、どうか声を戻して下さい、そう哀願する声がたしかにひどく嗄《しやが》れている。
「お願えします。お願えします」とくり返す声が|はた《ヽヽ》とやんで、彼女は袂《たもと》に手を入れ、す早くなにかをつかんで口に持っていった。写真をとるために近寄っていたので、パッとほうりこむのがはっきりと見えた。アメリカの|のど《ヽヽ》の薬、ヴィックスの黄色いドロップのようなおいしそうなのが、二枚くっついたまま、ノドの奥に消えた。
地蔵講という行事の様式が出来上るには、余程の知恵者がいたのであろう。死者の声に涙を流し心を洗われた善男善女は、はればれした顔で隣りの広場に集まり、酒を汲みかわしては歌に興ずる。心憎いほどの変化の妙である。間もなく盆踊りがはじまると、歓楽はもうとどまるところを知らない。どんなにやかましい姑も、年にただ一度、宵宮の晩だけは夜明けまで嫁を解放してやるのが、農家の仕きたりである。踊りの輪の中には、初恋の人もいれば、飽きずに付け文をよこす男もいる。広場のまわりにはやわらかな天然の芝生がつらなり、それを森が囲んでいる。見上げる空には星がまたたき、酔った素足に夜露が気持よい。
村の平和には欠くことの出来ない、年に一度の無礼講。この一夜の主役は、なんといっても、イタコがよんだ霊たちなのである。
霊は人間の死と結びついている。人は畳の上でも死ぬが、戦場ではより多くの人が死ぬ。戦争からは、どんな「霊のはなし」が生れているだろうか。
ところが私の経験した軍艦の生活、海の戦さには、こういう話が意外に少ないのである。陸の戦さなら、たとえば無残に全滅した決死隊とか、怨念を胸に餓死した兵隊とかの亡霊が、荒野をさ迷い歩くというような話は、いかにもありそうにきこえるが、波の荒れ狂う海の上や、狭いところにぎっしり乗組員の詰まった軍艦の中では、亡霊も居心地が悪かろう。かといって幽霊船とか大入道の怪談では、こわいよりもユーモラスな感じが先に立ってしまう。
軍艦で時折きいたのは、名誉の戦死ではなく、事故死、不慮の死をめぐる噂であった。古い戦艦では、規律厳正に名を借りた凄まじい私的リンチが横行していた。バッターの制裁が行き過ぎると、なぐられた肉が腐り骨が腐り、ついに死人が出る。遺体を海に捨てると浮上してみつかる恐れがあるから、舷側に張りめぐらした電気通路、今でいうパイプスペースにほうりこむ。ここは外気も日光も入ることのない密室で、亡霊には絶好の|かくれが《ヽヽヽヽ》であった。
戦争が、時に戦死よりも事故死に近い死者を作り出すことがある。戦艦大和は昭和十九年秋、レイテ海戦に参加して直撃弾二発、魚雷命中一本の損害をうけた。魚雷は右舷の腹にあたって水面下に大きな穴をあけ、広い範囲に浸水した。命中箇所より下部にある区画は遮断《しやだん》され、孤立した。艦底に最も近い水中聴音機室には、二名の水兵が当直している。彼らを救出するには、傷ついた大和を呉軍港の乾ドックまで走らせ、まわりの海水を全部排水しなければならない。所要日数は、順調にいって一週間強と見こまれた。
幸い電話線だけが、切れずにつながっていた。先任の兵隊が、電気が消えて真っ暗ですが、寒くはありません、戦闘糧食の持合わせはなく、真水を満たした水筒が二人に一箇あるだけであります、と報告してきた。それだけで、なんとかもたせなければならない。いま水を一口飲め。一口以上はいかんぞ。これから眠れ、さあ起床時間だぞ。刻々電話の指令がゆく。内地に着く前日には、艦長自身電話口に出て、「明日はいよいよ呉だ。しっかり頑張れ」と激励した。ドックに入って扉をあけてみると、一度は飢《かつ》え死にを覚悟したはずの水兵は、二人とも安心とうれしさのあまり気を失って倒れていた。
海の戦さには、こわい「霊のはなし」は、やはり生れにくいようである。
私が格別のご厚誼《こうぎ》を願っている女性に、造型美術、音楽、舞踊、文学のあらゆる分野にひいでた、万能の芸術家がいる。彼女はまたスケールの大きな旅行家で、殊にインカの遺跡に深い愛着を持ち、最近は年に一度はかならずペルーを訪問する。これから紹介するのは、彼女がはじめてペルーを訪ねてからまだ間もない頃の話である。
首都リマに着いて、クスコと並ぶインカの中心、チチカカ湖までの飛行機をホテルで手配しようとすると、あいにく大がかりな調査団にぶつかって、いつもはすいているはずなのに、切符が一枚もない。キャンセルもないだろうという。
以下はこの旅にお伴をした、若い女性のお弟子さんの告白である。――先生は楽天家。「明日はきっといいことがありますよ」とおっしゃって、普段のようにやすまれた。翌朝、起されてあたりを見まわすと、トイレのドアが開いている。先生は少しきつい表情で、「旅先だからといって、髪を梳《くしけず》ったあと、きれいに始末をしないのはいけません」不思議そうな私の顔に、「洗面台に、十本ほど長い黒髪が残っていたわ。ほかに誰かいるの?」「私はけさまだ、洗面にいっていません」眠気がさめずにいた私は、そのまままた寝入ってしまったらしい。
また起された。今度はトイレの中から、手招きしていらっしゃる。洗面台をのぞくと、真っ白なクリームがたっぷりと、大きなヤマになって、底にうかんでいる。香りも艶《つや》も、いままで見たこともない高級品のよう。誰のかしら、と思った瞬間、背筋がゾクゾクした。「もう叱らないわよ」先生は悪戯っぽそうな笑顔になって、「これは、王族のお姫様ね。私たちがインカが大好きなので、ここでよろこんでお迎えしているっていうことを娘さんらしく黒髪とクリームで知らせているのよ。アンデスに住むアイマラ族は髪の毛が黒いし、スペイン人に滅ぼされたアタウアルパ王の一族に、きっと美しい、情熱的な王女がいたのね。待っていらっしゃい。いい知らせがくるから」
食事をすませて部屋で休んでいると、けたたましく電話が鳴った。先生がお出になって、「ほら、航空会社からよ」と歌うような声。思いがけずキャンセルが二枚あったので、すぐ飛行場に来てほしい、とのこと。さっそく荷物をまとめながら、はじめからなにもかも自然な出来事のような気がして、私はさわやかな気分だった。――
霊のことといえば、このように陽気で、人を不幸にするよりも幸せにするはなしが、好きである。
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ニューヨークの三島由紀夫
ニューヨークの≠ニいう言い方は大げさだが、今から二十年近く前のある日、朝から夜おそくまで三島由紀夫とニューヨークの街を歩きまわり、見物し、飲みかつ食べ、そして語りあった時の話を、これから書こうというのである。
それは一九五七年(昭和三十二年)十二月二十一日の土曜日で、前日が冷雨の降りしきる最悪の天候であったのと打って変わって、晴れ上った空から終日陽光の射す、すばらしい日和の一日であった。その年の夏、ドナルド・キーン訳の「近代能楽集」がアメリカで刊行され、出版元クノップ社の招きで渡米した三島氏は、メキシコ、西インド諸島、アメリカ南部をまわって、しばらく前からニューヨークに滞在していた。私はその年の二月に、勤務先である日本銀行のニューヨーク事務所に転勤し、海外駐在員の独身生活にもようやく馴れはじめた頃であった。
彼とのつき合いは、それよりほぼ十年前にさかのぼる。昭和二十二年十二月、二歳年下のこの後輩が東大法学部を出る前後から、なんとなく面識があった。すでに作品集「花ざかりの森」を出し、「中世」「岬にての物語」「春子」を発表していたこの新進作家は、まだ手書きの草稿のままの拙作「戦艦大和ノ最期」を読み、率直な感想をのべてくれた数少ない友人の一人であった。大蔵省銀行局国民貯蓄課所属の事務官、平岡公威君になってからは、仕事の上で多少の縁が生れた。貯蓄奨励の懸賞作文審査のため日銀の一室に出張していた彼は、素人の硬い文章を読み飽きると私に電話をかけてきて、しばらく駄弁《だべ》りながらお茶の小休止をたのしんだ。
そのころ同好の仲間が集まって、彼から「小説の書き方、味わい方」といったテーマで話をきこうということになり、二十人ほどの青年男女が参加した。気軽な内輪話でもするのかと思っていると、丹念な準備をうかがわせる細かなメモを前において、理路整然たる小説論が展開されたので、知識欲に燃えた聴衆たちはいたく感激したものである。
その会の帰り、酒をのまない彼を日本橋の橋のたもとの喫茶店に誘い、和菓子をほおばりながら文学論の続きをやった。「これからあなたは何を書くのか」と私がたずねるのに、「美というもの。日本の美。日本的な美。そういうものを書きたい」と明快に答えたのが、印象に残っている。
しかし翌二十三年九月、大蔵省を退官して作家生活に専念するや、たちまち流行作家の座へかけのぼった三島由紀夫と、一銀行員である私とはほとんど顔をあわせる機会もないままに時が過ぎた。遠い異国の地でのめぐり会いは、ひと昔前の友誼をよみがえらせてくれたのである。
六年前に半年におよぶ海外旅行を経験している三島氏は、さすがに旅馴れていた。英語の会話も楽しみな様子だったし、日本にいれば有名人にどこまでもついてまわる窮屈さがここにはその影もないのが、なによりも救いのようであった。
宿は予想した通りグリニッチ・ビレッジの中にあった。十一丁目イーストの、ヴァン・レンセラーというドイツ名前の小さなホテルで、作りは古いが味があり、部屋は明るくて静かだった。自分の定宿はここから近いがここではない、部屋がとれなくて残念だった、チャンスがあったら泊りなさいといって、グロヴナーというホテルを推薦してくれた。私はそれから一年あまり後、内地に転勤の命令が出てから出発までの一カ月ほどの間、彼の推すグロヴナー・ホテルに移り住んだ。グリニッチ・ビレッジ族のはしくれにつらなって、いささか自由な独立独歩の気分を味わえたのは、彼の友情のおかげである。
部屋に通ると、いま大事な電話を待っているので、しばらくつき合ってくれという。ニューヨークで近く「近代能楽集」が上演される予定で、それまでここに滞在して待機しているのだという話から、中南米への旅の思い出に話題が飛んだ。日本で会っていた頃の三島氏はどこか思いつめた風があって、年より二つ三つふけてみえたが、旅先ではかえって疲れもなく快活で、若々しかった。
そこに電話が入って、緊張した会話が交された。「近代能楽集」の上演が、当分延期ということに決まったらしい。不機嫌な素振りもなく、彼は別のところに電話して、早々にニューヨークを引揚げるから予定をたてるように、と指示している。それから二、三本電話のやりとりがあって、大晦日に近い二十九日にここを発ち、ヨーロッパをまわって一月十日頃に帰国するという基本プランがまとまったということで、無駄のない鮮やかな手際に感心した。
さてどこに案内しようかという段になって、彼がいわゆる名所旧跡、美術館、公園、著名なビルの類《たぐ》いはあらかた見ているから、すこし変わったところはないかと注文したので思いついたのは、ハドソン川を北にヨンカーズまでさかのぼると、その河畔に接して美しく瀟洒《しようしや》な姿を見せている作家ワシントン・アーヴィングの旧邸であった。スケッチ・ブックやリップ・ヴァン・ウィンクルなどの作品で知られ、最もアメリカ人らしい作風と評されることもあるこの小説家兼随筆家は、文学の上で三島由紀夫とふれあう面はほとんどないはずだが、その程度の作家がどれほど贅《ぜい》をつくした邸宅と庭を残しえたか、死後百年にわたってそれがどこまで立派に保存されているかは、彼の興趣をそそるものがあったらしい。
このとき彼が思いもかけぬ感想をもらした事実を、当日の日記に私はくわしくしるしている。「僕もいずれ家を建てることになるが、自分が死んだ後に、その家はこうして一般に公開されることになるのかな」彼はそう自問するように呟くと、しばらく考えこむ風であった。
このあとはどこを見るということはなく、地下鉄に乗り、広場を通り抜け、路を急ぎ歩き、コーヒーをのみハンバーガーをたべた。体がリズムをとって動いている時、彼は小声で歌をうたいつづけた。ハミングではなく、歌詞もついたちゃんとした歌で、それをいかにも気持よさそうに執拗にうたいつづけた。
前の年の三月半ば、ブロードウェーのマーク・ヘリンガー劇場で幕をあけた「マイ・フェア・レディ」は、数十年に一つのミュージカルの傑作との呼び声が高く、オリジナル・キャストのジュリー・アンドリウス、レックス・ハリソンの名コンビは二年の契約期間終了を間近にして、いよいよ熱狂的な人気を集めていた。三十ドルのヤミ切符を奮発した三島氏が殊のほか気に入ったナンバーは、主役の二人のうたうものではなく、花売娘イライザの父親ドウリットル、演ずるは名優スタンレー・ハローウェイが仲間と路上で歌いかつ踊る「運がよけりゃ……」(With a little bit of luck)であった。サビのきいた彼のバスは、この歌の洒脱《しやだつ》な諧謔《かいぎやく》調によく合った。
われわれを旅行者、滞在者として受け入れてくれているアメリカという国は、ほとんど話題になることはなかった。ただアメリカ人について、彼が辛|らつ《ヽヽ》きわまる批判をもらしたのは、やや意外な感じがした。――彼らはどんなに知性豊かな人でも、肚の中では日本人に抜きがたい優越感をもっている。われわれの親しい友人も、その例外ではない。彼らは初対面の時が最もよき友だちであり、三度目くらいから肚の底が見えてきて、あとは会えば会うほど悪くなる。彼らの胸の中に愛があるように見えたとしても、それは巧みに偽装された見せかけのものに過ぎない。偽装はすでに習性となって、身体にしみこんでいる。離婚を決意した一組の夫婦でさえ、その夜にはお互いに「ダーリン」と呼びあって恥じないが、毎日顔をあわせればいがみあっている日本人の夫婦の方が、それに比べればはるかに暖かい血が通っている。――
結婚のプランについて、彼が熱心に語りつづけて飽きないのにも、驚かされた。こんな文士|風情《ふぜい》に、堅気のいい娘さんは来てくれないよと、冗談めかしていうその眼は、真剣であった。女房に要求したい第一の条件は、亭主の書くものにつまらん興味をもたないことだ。三島由紀夫の小説なんか、一冊も読んだことのない|ひと《ヽヽ》が理想的である。いちばん嫌いなのは、T氏夫人のように、主人のあの作品は何の何年何月号にのり、評論家のAとBはほめたが、Cは見当ちがいの批判をした、といったお喋りのとまらない女だ。
しかし、それだけでは困る。第二の条件として、亭主と苦労をともにしてくれる女房でなければならない。亭主が原稿用紙と格闘しているあいだに、それを忘れて出歩いたり遊んだり眠ったりするのは以ての外だ。少なくともそのあいだ中起きていて、仕事をするなり本を読むなりものを考えるなり、亭主の苦しみを共感してくれる女房であってほしい。
女房への注文をいろいろあげてから、彼は、来年はきっと結婚するぞと予言した。それから半年後、芸術家の血をうけた才媛《さいえん》を見事射とめたという吉報を、日本の新聞は報じた。第一と第二の条件が、いずれも欠かせない大事なものであることを強調した口調の強さからすると、彼はここに理想の伴侶をかち得たにちがいない、と私は確信した。
またその日の散策のあいだ、レストランやコーヒー・ショップに入ると、三島氏はきまってカバンからノートを出して、あたりに細かく眼をくばりながらメモをとりはじめた。部屋の暗さ、ドア、壁、椅子、食器、ウェイター、客、なんでもひと通り細かく描写しておきたい様子であった。日本に帰ったら直ぐ手をつけたい長篇のプランがあって、その中にニューヨークの場面が出てくるので、情況設定の参考にするのだという。素材の実在性とはどういうものであるのかは別にして、若いのに全く几帳面なものだ、と感じ入ったのをおぼえている。それから三島氏は、この長篇小説は五人の青年が戦争中と戦後にさまざまな経験をし、それぞれ成長してゆく物語りだ、と構想を明かしてくれた。年譜をみると翌年三月のところに、長篇「鏡子の家」の稿を起す、とあるのは、おそらくその具体化であろう。
夜遅くなって、さすがに疲れを見せていた三島氏は、「いよいよ、とっておきのバーに行こうか」と私に誘いをかけたとたんに、不思議に目に見えて生気をとり戻した。グリニッチ・ビレッジのウェスト・サイドにある小さな小さなバー「メリーズ」。私の予感は的中した。ドアをあけたところに見張りのような中年男が立っていて、こちらの体をさらっと探る。無表情のようで、一瞬微笑めいたものが頬にうかび、奥へのドアをあけてくれる。中はカウンターとそれに平行した壁、ボックスが二つ、三つといった殺風景な作りである。
立ったり、腰かけたりしている十人ほどの男。どれも惚《ほ》れ惚《ぼ》れするような美男に見える。女形のやさ男は一人も見当らない。肩を抱くように囁きあっているいく組かを除けば、みなひとりで酒をのんでいる。若いのが壁に背をよりかからせて立つと、ビールのラッパ呑みをはじめた。ビンの口をくわえて|じか《ヽヽ》にのむ仕草を、意味ありげにくり返している。それをカウンターがわから、品定めでもするように眺めている男がある。会話らしいものはほとんど聞こえない。
今は東京にもそういう種類の店がたくさんあり、一つ二つツブれてもニュースにならないほどの普及振りらしいが、私は初めての経験でうす気味悪くなり、彼を促してほうほうの態《てい》で逃げ出した。冷やかしでのぞいたことが分ると面倒だから、落着いてドアの番人のわきを通り抜けるようにと注意され、表に出たときは正直ほっとした。
グリニッチ・ビレッジに住む若者たちは、相手が異性でも同性でも、同じように|ひと《ヽヽ》時を楽しむ実力がなくてはならないという言い伝えは、決して誇張ではなかった。そのことを確認しえただけでも、彼の友情に感謝しなければならない。そう思いながら私はホテルの前で別れて、深夜の街を地下鉄の駅に急いだ。
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黒地のネクタイ
吉田健一さんとは、一方的にお世話になるばかりのご縁であった。
終戦の翌年、沖縄特攻作戦に参加した経験をまとめた記録「戦艦大和ノ最期」が、「創元」という雑誌の第一号に載ることになり、活字に組んでゲラが出はじめるころ、占領軍司令部から「印刷は見合わせよ」と指令が来て、検閲通過のために可能な限りの手段をつくしたが、結局「全文抹殺」の|うき《ヽヽ》目にあったことがある。その時、自発的に応援の役を買って出られた方のなかの最も熱心な一人が、吉田健一さんであった。それまでまったく面識はなかった。この作品を支持し、検閲という非民主的な蛮行に挑戦する以外に特に意図はない、とみずからその動機を説明された。
氏の活動は強力かつ広範囲で、司令部の高官に直接抗議したり、ドイツ人の神父に仲介を依頼したりされた。現総理の長男という立場を利用することはもちろんなく、あくまで個人として、外国人に知友の多い一文学者としての行動であった。
マッカーサーの権威を背負う検閲の壁はついに破れなかったが、その前後に折にふれてお目にかかり、酒をのむ機会があったのは幸いであった。丸の内にある外国人の記者クラブにつれていってもらって、「健坊の英語は、外国人のなかにまじった|とたん《ヽヽヽ》に、われわれには分らなくなる」という噂が、正確な事実を伝えていることを知ったのも、そのころである。
酒は、痛飲快飲の絶頂期にあった。それと、今や半ば伝説化している「貧乏物語」も、クライマックスにさしかかっていたと思われる。弊衣破帽というが、文字通り兵隊帽の後《うし》ろが裂けて毛がはみ出し、真冬にオーバーはなく合服の上着が一枚、それも袖口がすり切れ、風が吹くとボロボロになった裏地が見える、といった風体《ふうてい》であった。
こわい物書きの先生方の集まりで、この風態が槍玉に上ったことがある。ワンマン首相の息子がそういう服装で平気でいるのは、キザか、もしキザでないとすれば、奥さんが夫に無関心である事実を暴露しているようなもので悪趣味だ、と手きびしい攻撃が集中した。
弊衣破帽の人は、真顔で抗弁した。「日本人の子供はもともと優秀である。外国にいると、わたしがそうであったように、すくなくとも大学までは、クラスでトップの成績を維持できることは間違いない。しかし抜群の存在であるのは、せいぜい三十歳まで。あとは凡人に堕《お》ちてゆくだけで、逆に外国人が着実に実力を伸ばしてくる。この差はどこから生れるか。答えは簡単。子供の時からどのくらい牛肉を食べたか、その総量の差である。だから自分は、万難を排して予供に牛肉を食わせてやりたいと思っている。今の日本で、上着とオーバーをそれぞれ一着ずつ手に入れる金があったら、牛肉をどんなに沢山食べさせられるか、諸君は知っているか。考えてみたことがあるか」
その子供さんたちが牛肉を腹一杯食べて父君の期待にこたえ、外国で立派に修業して活躍しておられると聞くのは、よろこばしいことである。
長いおつき合いの間に、約束したことが二つあったが、二つとも果たせなかったのは、思い返して心残りである。一つはイギリスの海軍作家モンサラットの名作「怒りの海」を吉田健一訳で出すことになったとき、海軍用語に分りにくい専門語があるので手伝ってくれないか、というお話があった。よろこんで引き受けたが、直後にこちらが地方勤務にかわってしまって、ご要望にそうことができなかった。
もう一つは、拙稿「戦艦大和ノ最期」の英訳である。これまでに日本文学の古典を翻訳した経験のある英米の専門家から数回申し出があったが、訳し出してみると、この文語体はとても手に負えないからと、次々に投げ出された経緯がある。「あの文章が訳せる男が、ここに一人だけいる。いつか時間を作って、やってあげよう」と有難い公約をいただいていたが、そのままになってしまった。
数年前、久しぶりにある席でお会いすると、あの独特の眩《まぶ》しげな眼差しで、全身をくまなく眺められた。それから「若いころに本を書いて多少名が知れると、身を誤るとよくいわれる。君はしかし、こうやって見たところ、身を誤ってはいないらしい。これは大変うれしいことだ。何か記念に、と思ったが、幸い今締めているネクタイは、親父《おやじ》が最も愛用していたものである。よければ、ひとつ進呈しよう」と、するする外して渡されたのは、黒地に滲《し》みこむような渋い縞《しま》のある、風雅なイギリスのネクタイであった。
この春、パーティーでお目にかかったとき、お礼を申し上げると、大人《たいじん》はこんな些事などきれいに忘れておられて、「道理で、あのネクタイだけ、なぜないのかと不思議だったよ」と、あとはグラスを高くあげ、例の天にもとどく高笑いが響きわたった。
あの黒地のネクタイは、もう二度と締めまい、わたしは今、そういう気持になっている。
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めぐりあい――小林秀雄氏
昨年夏、ある新聞の夕刊のコラム欄に、白洲正子さんが「鶴川日記」の一節として、次のような文章を書いておられた。「小林秀雄さんの頼み=vという題である。わたしは気が付かず、友人から教えられて読んだのだが、読み出すとすぐに顔が火照るのをおぼえた。
――戦争が終って、進駐軍が入ってきた。夫君の白洲次郎氏は、吉田茂氏のもとで終戦連絡の事務を扱っておられた。ある日旧知の河上徹太郎氏から「小林秀雄が是非会いたいといっている。用件は本人からきいてほしい」と電話があった。
小林さんとは初対面だが、お酒を用意して待っていると家から駅に続く田圃道を、せかせかと下を向いて歩いて来る人がいる。すぐ小林さんとわかった。――
小林さんの第一印象はこう書かれている。その場の情景がありありと眼に浮かぶような描写である。
――依頼の用件は、吉田満という人が「戦艦大和ノ最期」という事を書いた。これはぜひ出版しなければならない本だが、戦争文学だから、進駐軍が許してはくれない。「君、何とか先方に話してくれ」。それだけのことだったが、小林さんの迫力と私心のない話しぶりに心を打たれ、直ちに進駐軍のお偉方に交渉することになった。――
「せかせかと下を向いて歩いて来る人がいる。すぐ小林さんとわかった」わたしにもよく似た経験があって、小林さんという人の感じがよく出ていると思った。昭和二十一年の四月一日の午後、勤務先の面会の受付から、わたしの席に「コバヤシ・ヒデオさんという方が面会です」と連絡があった。心当りのない名前である。小林秀雄氏ならこちらはよく承知しているが、先方から訪ねてこられる道理はない。
エイプリル・フールにしても、妙なカツギ方をするヤツがいるものだ。半信半疑で行ってみると、殺風景な受付の椅子の間に、小柄な人が立っている。銀白色の髪。静かな強い眼差し。それまで写真を見たこともなかったが、紛《まご》うことなき本物のすご味がそこにあった。わたしは文学青年であったことはないし、二年の海軍生活の空白があって、かつて学生時代に読みふけった本の世界からも、すっかり遠ざかっていた。復員して、就職してから、まだいくらもたっていないころである。
だからわたしは、本物のすご味にも気圧《けお》されずに、その人の前に進み出て普通に会釈をしたのであろう。「ドストエフスキイの生活」や、「無常といふ事」のほか、いくつかのエッセーを読んだ程度で、難解なところが魅力だと独り決めしていた一読者には、その人自身が足を運んで訪ねてこられるということの重さが分っていなかったのである。
小林さんは、掌の中に、ボロボロになった大学ノートの切れ端を握っておられた。わたしの手書きの草稿が、友人の間を転々としているうちに、たまたま眼にとまったらしい。「いま創元≠ニいう新しい雑誌を企画している。その創刊号に、あなたのこの原稿をいただけないか」万事に単刀直入なのが小林流だと、あとで聞かされたが、一言そう問いかけて、あとはノートの切れ端を掌の中で、もむだけである。「もしそれに値するなら、いかようにもして下さい。お任せします」わたしは、なんの思惑もなしに答えていた。
椅子に腰をおろしてから、こんな話をされた。「自分が捉えた真実を、それにふさわしい表現、ふさわしい文体で描く。これが文学だ。君のこの作品は、発表の意図をもって書いたものではないが、はからずも一つの文学になっている。文語体が、一種の名文になっている。思い惑うことはない。この方向に進んでゆき給え」
白洲正子さんの文章を読んで、小林さんがそこまで出版に骨を折って下さったことを知ったとき、わたしが顔の火照るのをおぼえたのは「思い惑うことはない。この方向に……」という断定的な語尾の響きが、いよいよ厳しい言葉としてよみがえったからである。
「戦艦大和ノ最期」の初稿は、自分の覚え書きのつもりで書いたので、読者の眼に触れるものとしては、状況の説明など不充分なところが多い。しかし基調はやはり、わたし自身の主観による戦闘報告である。この辺のかね合いがむずかしく、だいぶ時間をかけて筆を入れて、当時小舟町にあった創元社に持っていった。
小林さんはまだ昼休みの時間というのに、味醂《みりん》を焼酎で割った直しという強い酒を湯呑みでのんでおられて、ぐいぐい傾けながら、ゆっくりと原稿に目を通してゆく。右手は、例の銀白色の髪の毛をわしづかみにして、ちぎれるのでないかと思うほどに揉みほぐす。すると、こちらの原稿も、粉々に揉みほぐされるような気がしてくる。いま思うと、あの時はまだ老大家には程遠く、四十五歳にもなっておられなかったとは、とても信じられない。
「創元」への掲載は、司令部の検閲によって全文不許可となり、小林さんはじめ多くの方が奔走されて、昭和二十四年に不本意な形ながら世に出ることは出たが、文語体の原文のままの公刊が認められたのは、講和条約の発効した昭和二十七年であった。
昭和二十四年春、ともかく出版の見通しがついたところで、私は是非小林さんから推薦文をいただきたいと思い、一日休暇をとって鎌倉の自宅にお邪魔した。
奥様が玄関まで出てこられて、まず「小林は東京に行っておりまして、留守でございます」というごあいさつである。そう度々は出てこれないので、未練がましいとは承知しながら「何時ごろお帰りでしょうか。よろしければ、また伺いたいのですが」と切り出してみた。奥様は、しばらく口ごもってから「九時半ごろでしたら、在宅していると思いますので、どうぞ」と、有り難いお許しが出た。
東京へ出られれば、終電車と決まっているのに「九時半」とはおかしいな、と思いながら、時間をつぶして再び参上すると、さあさあさあと招じ入れられた。大事な原稿のしめ切りで、珍しく居留守を使った。だれも入れるなと家内にいっていたら、君が来たので、一度は断ったものの、そのままでは申し訳ないし、困ったらしい。ともかくお詫びのしるしに今夜は飲み明かそう――思いがけぬ事態の展開で、世に名高い小林流シゴキ≠フお相手をつとめることになった。
ご自身で一升びんをさげてきてお燗《かん》をつける。つまみを補給する、それ以外は、徹頭徹尾、議論である。――「大和ノ最期」の末尾に、「虚心ナレ」という表現があった。虚心とは、何か。どうしてそれをとらえるか。「空《くう》」というものがある。お前さんには「空」が見えるか。戦死を覚悟した青年が、あとに残す人のために祈る場面を書いている。祈りとは何か。何を、だれに祈るか――ひとつ答えれば、次々と質問が核心に迫ってくる。「お前さんは、こんなことが分らんのか」数え切れぬほどのお叱りをうけて、朝方少しやすんでから、一番電車で東京に帰った。あとになって、そのころ小林さんは、「私の人生観」の講演速記に手を入れておられる最中であったことを知った。わたしは幸運にも、手頃な叩き台にしていただいたわけである。
それからは永らくご無沙汰して、時折パーティーなどでお目にかかる程度だったが、数年前、武原はんさんの踊りの会の幕合いに、久しぶりにお話を伺う機会があった。古稀を少し過ぎたご年配にはちがいないが、眼の光り、頬から顎への輪郭が、別人のように柔和でまろやかなのに驚かされた。彫りの深い風貌が、温かいままにやわらかな線になっている。あれからの三十年の歳月は、そこに何を刻みつけたのか。「この頃は、ただ本居宣長だけをやっております」かすかにそれと分るほどの笑みを含んで、小林さんはそういわれた。
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島尾さんとの出会い
わたしは常に島尾文学の忠実な読者だったわけではない。あの厖大な非小説作品群なども、一部に眼を通しただけである。世評のきわめて高い病妻ものや夢意識の作品でさえ、正直のところどこまで読みこなしているか心もとない。そのわたしが島尾さんを主題に小文を書こうとするのは、昨年の初夏、鹿児島の指宿で五時間以上も対話する機会を恵まれ、さまざまな感懐をえたからである。
この対話の記録は「特攻体験と戦後」というタイトルの対談集として公刊されているから、ここで重ねて内容にふれることは控えよう。ある雑誌がこの企画を持ってきたとき、「島の果て」「徳之島航海記」「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「その夏の今は」の一連の戦争文学の作者に会えるという期待から、わたしはよろこんで承諾した。
奄美の加計呂麻島に駐屯する震洋隊隊長として島尾さんが体験した特攻体験は、たしかに特異なものであった。その体験が、他に比肩するもののない戦争文学の名作にどのような道筋をへて結実したか。その道筋を究明しようとする評論を、わたしは何篇か読んだことがあるが、わたしが関心をもったのは、文学作品を生む母体としての原体験ではなく、島尾さんという人間が具体的にどんな体験をしたのかという事実の全体であった。まず生《なま》の体験があって、どうすればその中に文学の素材としての原体験を見出せるか、というような問題にはわたしは関心がなかった。
島尾さんは対談のあいだ、同じような特攻の体験をもつ仲間として、率直に語っていただけたのだと思う。純文学の作者は概して如才のない社交家であるはずはないが、島尾さんはとりわけ独特の風格のある謙遜《けんそん》家で、よほど奨められても床の間には坐ろうとしない人だときいていた。ところが初対面の挨拶がすむと、司会者のひと声でさっと上席に座を占めた。それは予備学生出身の海軍士官が一期後輩を前にしたとき、おのずから立居振舞にかもし出す貫禄のようなものであった。
島尾さんが特攻について語った多くの言葉の基調にあるのは、いったん特攻兵になることを約束したら、それはすでに一つの運命であって、戦況がどんなによくなろうと、ある作戦で自分が生き残ろうと、特攻という|しるし《ヽヽヽ》が取れることはないのだ、という自己規定であるとわたしは聞いた。このことは、死についての考え方にも通じている。自分は死ということを一番恐れていたし、今ならもうノイローゼになってしまうかも分らないけれど、その頃は若かったせいか、かなり耐えられた、そう目立ってあやしげな振舞いもせずにすんだ、と島尾さんは述懐した。
なぜ特攻なんか志願したのだ、日本がいずれ負けることは予想できたのに、犬死にをしてもつまらないではないか。――島尾文学の読者の中には、こうした疑問をもつ人もいるかもしれないが、その点も明快である。自分が特攻隊員として何かやって、それで戦局を挽回するとは考えられなかったけれども、自分が死ぬことによって、日本の人たちがあとでいくらかでもいいようになるなら、もって瞑すべしだ、ぐらいのことは考えていた、というのが答えである。
わたしはそれらの言葉を、全面的な共感をもって聞いた。島尾さんの体験は、第一線の海軍軍人の中でも特殊なケースといえるが、同じような体験をしたのは、もとより震洋隊隊長に限らない。広い意味の特攻経験者は、おそらく千人単位、あるいは万人単位をもって数える量に達している。特攻体験についての島尾さんの分析は、そのおびただしい数の仲間の中で、最もオーソドックスな、最大公約数的な立場を代表したものとわたしは了解した。
そこに、島尾さんの書く戦争文学が、特異な世界を扱っている反面で、人間の経験を描きつくしたという意味での普遍性を持ちえている基盤がある。特攻体験は戦争経験の極致、もしくはその異常さの極限をなすものであり、人間がその非道な体験に堪えようとするとき、とりうる最も|まっとう《ヽヽヽヽ》な姿勢が島尾さんを支えている。
しかしいうまでもなく体験することと、その体験を自分の中に内蔵することとは、まったく別の行為である。特攻体験者のほとんどは、信じ難いほど無造作に、したがってほとんど意識することもなく、特攻体験の重みを捨ててその制約から自由になろうとした。まだ自分の足場の定まっていない青年は、そのように過去と絶縁して生きる本性を持っている。
島尾さんだけは、今日まで、あの時と同じ濃度で、特攻体験を生きつづけてきた。自分が特攻体験をもったという事実を、日々新たに再体験しつづけてきた。この強靭な求心的な耐久力によって、特攻体験はここに初めて|人間の《ヽヽヽ》体験として造型されたのである。
島尾さんがさらに言葉をついで、戦争というものは本当に虚しい、人間世界では戦うことは仮りに致し方ないとしても、スポーツみたいなところにとどめておくべきだ、その中で殊に特攻はルールを外れている、特攻をくぐると人間が歪《ゆが》んでしまう、と説くとき、物静かな語り口が、物静かさの故に抗し難い説得力をもつ。
島尾さんが特攻体験にふれて強調するもう一つの点がある。それは、特攻、特攻といっても、結局出撃命令は出なかったから、自分は直接の被害を受けていない、一度も実戦を戦っていない、むしろ弱い姿勢に終始したわけで、実は恥じらいの経験だったのだ、という告白である。自分の周辺からは一人の戦死者も出さなかった、多数の死者が出てその死に無感動になってしまうような苦闘の経験とは、大きな距《へだ》たりがあると指摘する口調には、ある誇らしさの響きがあった。
わたしが参加した沖縄特攻作戦では、多くの戦死者を出しながら、その死がすべて無意味であることに堪えられない経験をしたからには、島尾さんのこの言葉を聞き流すことはできなかった。特攻体験は、特攻という任務を引受けた事実に本質があるのか。さらに特攻の死を(死の間|ぎわ《ヽヽ》まで)経験しなければ、その名に値しないのか、わたしは前者の考え方をとる。ひとたび特攻兵の下命を受けて了承した以上、現実に生死の関頭に立つかどうかは、決定的な問題ではない。ある評論家の島尾論が、わが身に特攻兵の刻印が刻まれることを拒まなかったその日以来、彼にとって人生の意味が解体し、輝やかしい未来が一片の幻想となり、きびしい聖別と汚れた頽廃《たいはい》の日常がくり返されただけだ、と評しているのは、その辺の機微を的確にとらえている。
もちろん島尾さんはそのような事理をじゅうぶんにわきまえている。大島海峡の潮のきらめきと、震洋艇のけたたましいエンジン音と、戦闘待機の重い緊迫感があれば、出発は遂に訪れずとも、特攻体験がすでに完結していることを知りぬいている。部下を一兵も殺さずにすんだ事実のもつ強さと、反面の弱さとを解明してみせる明晰さが、そのことを立証している。八月十五日について、ただ特攻隊に所属していただけでついに「特攻」を体験することのなかった自分は、その日のことを語るにはふさわしくないような寂しい気がする、と書くとき、この出撃待機と戦争終結の体験が自分の中に残していった衝撃の深さが、逆説的に明らかにされる。島尾さんほど徹底的に、内面の極限まで特攻を体験した人が、他にありえようか。誰が、「八月十五日を語るにふさわしくない」といいえようか。
島尾さんにとっての特攻体験の意味は、敗戦の受けとり方と、それに続く戦後生活のあり方に引きつがれている。――戦争が終って、生きられるかもしれない気持が湧いたとき、体じゅうがムズムズしてくるような、突き上げられるような感じがあった。文学が思う存分にできるぞと思って、力が出てきた。生き残って、いろんなものが見られるんだから、たとえば本土にもっと原子爆弾なんかが落とされ、ほんとうにむちゃくちゃになっていた方が、かえって生甲斐があるという気持さえした。どんなになっていたって、家族が全部死んでいたって、かえってそれをじっと見るんだというような、たかぶった気持があった。
島尾さんは実感をこめてこう回想したあとで、――そして帰ってきたところが、一向に変りばえもしなかったし、力も出てこなかった。一種の虚脱というか、つまらない日々を送って過ごした。生が突き上げてくるような感じを持つと同時に、自分が完全に胸を張って、戦後に生きる理由というのが、どうしてもつかめずに、なにか後ろめたい気持が消せなかった――と、きびしい断罪をみずからに宣告する。
日本が敗れたということ、自分が日本人の一人として戦争に参画し、そして生き残ったということ、それが何を象徴する事実であったかを、これほど容赦なく糺弾《きゆうだん》した言葉はない。完全に胸を張って戦後に生きのこる理由を、日本人の誰が見出しているのか。特攻という極限の戦闘行為を体験し、体験者としての責任を負いつづけて戦後の平和な日々を生きる以外に、あの戦争と敗戦の空しさに堪える道はないのではないか。
その島尾さんが、戦後三十年の歩みの中で、なんとなく日常というものが分ってきた、戦中に日常ではない異常な事態を体験したことの意味が、くっきりしてきたような気がする、という結論に達したのは、自然な帰結のように思われる。――戦争というのはいろんなことが非常に集約されて、それで異常な状態に見えるけれども、やっぱり人間の体験なのだから、日常の中にも違った形でそういうことはある。もし神がいるとしたら、その神の目から見たら、戦争の状態も、今の状況もそう違わないんじゃないか。――この率直な感想は、「自分にとって今一番大切なのは、日常なのだ」という宣言で結ばれている。
ここで島尾さんのいう「日常」は、われわれの周辺にある、ただの平板な日常ではない。戦後日本の発展に一切加担せず、戦後日本の仮りそめの栄光と繁栄にかかわることを拒否し、次々に課せられる課題が現実的に処理され解決されることに抵抗し、自己という一個の人間の存在に執着し、存在の意味の究明にのみ賭けた「日常」なのである。
島尾隊長が加計呂麻島時代、島に住む人たちから「ワーキャジュウ」(われわれの慈父)と呼ばれ、部下からは「ひるあんどんのような」上官と噂されていたことは、よく知られている。同期の仲間のあいだにも、有能で沈着で大人《たいじん》のような男、という評判が残っている。
慈父とか昼あんどんとかいう形容は、戦局も押し詰った第一線基地の息苦しい空気を考えると、軍人としても人間としても、最高級の讃辞というべきである。軍人としての最も肝要な資質を完備することによって、かえって軍人の枠をこえるほどの人物になりえたというのは、いかにも島尾さんらしい。
われわれの対談が進んでいよいよ興がのってきた頃、島尾元中尉は、従兵というものがどんなに調法な、また可愛い存在であるかを愉しげに語った。最近でも会合があると、昔の部下がいっしょに風呂に入って背中を流させてくれといってきかないという。わたしなど、従兵をコキ使う士官という身分の特権意識にいまだにこだわっていて、島尾さんの器にはとうてい及ばないことを悟った。
失礼ながらもう還暦を過ぎているはずなのに、訥々《とつとつ》と語りつづけて飽きない島尾さんは、たくましさと威厳を兼ね備え、今なお慈父のようであり昼あんどんの隊長さんのようであった。そのことの発見は、島尾さんとのあいだに初めて実現した出会いの、最もよろこばしい収穫であった。
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谷間のなかの日系二世
私はかねてから日系二世の問題に関心を持っている。なぜ興味を持ち始めたのかといえば、太平洋戦争中に日本軍に召集された二世の軍人が、両親の祖国でありアメリカ生れの自分には敵国である日本のために、生粋の日本人以上に勇敢に戦うのを目撃したからである。また民族と国籍、ナショナリズムと世界平和、忠誠義務と民主主義といった複雑な現代社会の絡み合いのなかで、二世の戦争協力行為が、同じ在日二世の仲間やアメリカに残した家族から、どう評価されるかに疑問と期待を抱いたからである。
海軍時代の戦友で沖縄特攻作戦に参加し戦死したN君は、カリフォルニア出身の秀才で、慶応大学に留学中、学徒出陣で予備学生にとられ、日本語よりもはるかに堪能な英語を生かすために、暗号士養成の特殊教育を受けた。彼の任務は米軍の通信を傍受し解読し、さらに偽の信号を送って妨害することであった。しかも弟二人はアメリカ陸軍の下士官としてヨーロッパ戦線で活躍していた。その彼が、戦艦大和の通信士として沈没の瞬間まで当直勤務のまま名誉の特攻死をとげたという事実は、アメリカからみれば許し難い敵対行為であるにもかかわらず、二世仲間からも家族からも無条件の称賛をかちえたのである。
アメリカ的な考え方によれば、戦場にある兵士が卑怯に振る舞って職務を怠ることは、直ちに平和の愛好者であることを意味しない。N君が多くのハンディキャップを克服し、生命を賭けて最後まで職責の完遂にベストを尽くしたのは、彼が軍国主義者であることを示すものではなく、二世が信頼するに足る人間であることをあかしする立派な行為である、というのが称賛の理由であった。
不運に見舞われたのはN君だけではなかった。開戦直後、N家は、大統領命令九〇〇六号によっていっさいの財産を没収され、住みなれた家から追い立てられた。N君の両親と弟妹たちは、あの長い戦争のあいだ、敵国にある長男の身を案じながら、僻地《へきち》の収容所で虜囚としての辛酸をなめつくした。
彼らの屈辱と絶望の生活についてここで詳しく紹介する余裕はないが、キャンプの一つ、マンザナ収容所の真相を伝える写真展が、二年間アメリカ各地を巡回して催されたとき、それまで事実を知らされていなかった若い世代のアメリカ人は手ひどいショックを受けたと報じられた。彼らの一人は「真実とは、面と向うのがこれほど恐ろしいものか」とつぶやいたという。歴史家はこの事件を、戦争という異常な事態の中で、アメリカ憲法の自由と正義の精神が、人種差別と経済的利害によって無残に踏みにじられた汚点として記録するであろう。
しかし、アメリカ軍と死闘した米国籍の青年の悲劇も、皮膚の色だけを理由に市民の権利をすべて剥奪された日系家族の悲劇も、戦後三〇年を経た現在、まだ完結していない。彼らはなお深淵のような谷間にとらえられたままである。
たとえば、日本に住み日本語をしゃべる二世が望みうる最高の職業は米系企業の日本支店の代表者のようなポストであるが、今も日本とアメリカの接点に生き続ける彼らは、戦時中の苦労や、戦後になって日本軍への協力行為を進駐軍から厳しく糾弾された忌まわしい記憶など、日米両国から受けた仕打ちへの恨み言は、口をつぐんでなに一つ語ろうとしない。
アメリカに住む二世たちは、戦後飛躍的に職業選択の幅が広がって成功者が続出し、経済的にも社会的にも、その地位は一世とは比較にならぬほど向上した。三世、四世はさらに輝かしい未来を約束されているが、彼らの生活、感情、思想が一〇〇%アメリカ人と等しくなったとしても、しょせん白人になりきることはできない。彼らは相変わらず隔離され、警戒心をかくした微笑で取り囲まれ、結婚難に悩み、真の母国を持たない悲哀を胸に秘めて、孤立した集団をつくっている。
これはただ移民と少数民族圧政の悲話として、聞き流してよいのだろうか。日本人の能力、勤勉さ、教育への熱意、あくなき向上心が、どんな逆境にも確実な成功を約束する半面で、土地に溶け込まず、ロングランな展望を持たず、いい意味のギブ・アンド・テークの付き合いを確立できないという欠陥が、そこに縮図のように表われている、と見ることはできないだろうか。
最近、日本人の海外進出はいよいよ活発化し、海を渡る日本企業、セールスマン、日本人家族は、新しい移民種族の大部隊を生み出しつつある。海外生活の長い子供たちの中には、早くも二つの国の谷間に落ち込んで、国籍を失いかけているものさえ現われている。民族、国籍の谷間を埋めるのは難事業であるが、そのことに成功した一つの極限の姿が、ほかならぬ日系二世の現実であることを忘れてはなるまい。ヒューマニズム、国境を越えた友情、寛容と理解、そんなきれい事では、世の荒波は乗り切れない。厳しい目、冷静な判断、地道な努力の積み重ねだけが、道を開くであろう。
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映画「八甲田山」
映画「八甲田山」を観た。青森では、これまで上映されたどんな映画よりも、大勢の方がこの映画を見に劇場に足を運ばれたことと思う。東京でも最近にない大ヒットで、特に若い女性がどっと押しかけ、涙をぬぐいながら悲壮な兵隊たちの最期をみつめて、感動を押え切れないという。神田大尉が叫ぶ「天はついにわれわれを見放したか」という台詞《せりふ》が、若い人たちの間で大流行し、たとえば麻雀で大きな手を振りこんだ時など、この台詞を真似すると実感がこもる、という笑い話さえあるくらいである。
わたしは正直のところ、映画の出来にはあまり感心しなかった。原作の重厚な力には、やはり及ばなかったと思う。初めの部分の展開がゴタゴタしているとか、もう二十分ぶん思い切ってカットしたら、すっきりしていただろうとか、専門家は批判を加えているが、わたしは描写された津軽の自然のすばらしい美しさに比べて、「無謀な雪中行軍と悲劇的な死」というテーマに、位負けしているように感じた。「二百人をこえる集団の死の彷徨《ほうこう》」という異常な事実の意味を、ぜんぶ否定するのか、少しは肯定するのか、肯定するとすれば、どの部分をどのように肯定するか、がはっきりしないのである。
あの事件が起きたのは、明治三十五年一月であった。話が飛躍するが、金木に斜陽館、つまり※[#「∧源」](やまげん)津島家の邸宅が完成したのは、明治四十年である。雪中行軍の教訓が生かされた結果、日露戦争の陸の主戦場、満洲で辛うじて勝利を収めることが出来、日露戦争後の国威発揚、景気好転が「みちのく」にまで波及して、この大邸宅を作りうる財力を生んだ、と考えれば、この二つの事件は一本の糸でつながっていた、と言えないこともない。
ここでわたしが指摘したいのは、「八甲田山死の彷徨」が、それ程に古い時代の出来事だったということであり、その古い事件に三年の歳月と数億の製作費をかけて、大作映画に仕上げた真の意図は何かという疑問であり、外国人が、この映画が日本の青年男女を熱狂させている事実をきかされて、何を感ずるだろうかという不安である。
着たいものを着、食べたいものを食べ、行きたいところに行って、非合理きわまる陸軍の社会には嫌悪と軽蔑しか感じないはずの都会の女の子たちが、なぜ明治の男の難行苦行には心を打たれるのか、社会心理学者によれば、現代の日本は、すべてが平和で物分りがよくて合理的で、「死の行軍」に匹敵するような「純粋な苦闘の体験」にふれたことがないからだという。
たしかに戦後の日本は、若い人たちに、修練の場を提供しなかったし、自分を超えようと努力することの意味も、教えなかった。なによりも修練を経て初めて得られる「生きる充実感」を、与えなかったのである。
わたしは青森第五連隊の行動が、徹底した愚行であったことを、描いてほしかったと思う。そこに人間性の燃焼を見るとか、指揮官のあり方や責任者の決断の仕方について、貴重な教訓が汲みとれるというようなことではなくて、人間の業《ごう》ともいうべき愚かさを、自然の美しさと対照させて鮮明に描き切ってほしかったと思う。人間が妥協せずに、自分の愚かさの中に立ち入って赤裸々な姿を描いてみせることは、映像化に堪える立派な行為なのではないだろうか。
外国の観客も、映画が日本兵の蛮行をこのようにとらえるなら、受け入れ易いのではないだろうか。
さて、堅い話を書いてしまったが、先日あるパーティーで、二人の俳優に会う機会があった。一人は北大路欣也、もう一人は栗原小巻。いうまでもなく、「八甲田山」の中で、青森第五連隊の神田大尉夫妻を演じたカップルである。
栗原小巻に青森ロケの質問をすると、寒い時に二度行きました、雪が大変きれいだった印象があるだけで、どこに泊ったかも憶えていません、という答えであった。役者はたいていそうだが、自分が出演した映画が、どれほどきびしい世界を描いたかということには、関心がない。彼女はそのあと、今年は芝居づいて、ずっと舞台に出ますから、ぜひいらして下さいと、例の人なつこい微笑をうかべながら誘ってくれた。
北大路は、最近ますます男っぽい役が好きになったという。その意味で、神田大尉の役は気に入っているし、新しいファンが沢山出来たのも有難い、という話も出たが、「八甲田山」の話題はこの辺までで、あとは熱っぽく、いまテレビで放映中の「天北原野」についての抱負を語りつづけた。
「死の雪中行軍」を観て涙を流す女性たちの眼には、神田大尉と北大路のイメージが、重なって映ったのであろう。だから余計に悲壮感に打たれたにちがいないが、ご安心あれ、彼は、あのような愚かな古き世界とは無縁の、近代青年であった。
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江藤淳「海は甦える」
昭和四十七年の秋、といっても私が住んでいた仙台は寒さが早いから、まだ初秋の頃だったと思う。「江藤さんが、いよいよ山本権兵衛を書くようですよ」と教えてくれた人がいる。「権兵衛というのは、たしかにいいテーマだけれど、一般読者に面白く読ませるとなると、大変でしょうね」とその人は言葉を続けて、それからわれわれはしばらくこの話題を論じあった。
仙台在住の友人で、これほどの消息通といえば、東北大学の池田清教授のほかにはいない。兵学校出身ながら戦後政治史を専攻し、江藤氏自身が「海は甦える」の参照資料としてあげている好著、「日本の海軍」の著者である池田氏は、山本権兵衛の評伝という試みが、どれほど野心的な冒険であるかを知りぬいていたはずである。――この一代の英傑が日本海軍の近代化につくした業績はかくれもないが、権兵衛個人を手がかりにその足跡を掘り起して読者を惹きつける物語りに仕立てるには、器量があまりに大き過ぎる。権兵衛は一組織の指導者というよりは歴史劇の製作者兼演出家であり、その影響は個々の事件にではなく、一つの時代全体にあまねく滲透している。単なる軍人でも政治家でもなく、思想や技術をこえて人間が歴史と切り結ぶ争闘そのもののゆくえに最大の関心を抱いていたこの人物は、どの面から迫ったとしても、おそらく概貌さえとらえることを拒むであろう。――
権兵衛伝「海は甦える」(第一部、第二部)の出来栄えを占う池田氏のこの懸念が幸い杞憂《きゆう》に終ったことは、「文藝春秋」誌の記録といわれる三年、三十六回にわたる長期の連載を達成し、この期間の大半を通じて巻末の創作欄を飾って多数読者に歓迎され、完結後昭和五十年度文藝春秋読者賞を受賞したという事実が、明らかに示している。
江藤氏はもとより、たまたま思いついてこの大作の構想をえたのではない。その背後にはほぼ十年にわたって、人間の「完結する」人生と、「完結しない」歴史とのかかわりあいを探り続けてきた執念の集積がある。「私」という実在を「一族」の歴史の中にとらえようとした「一族再会」(第一部)が書かれたのは、昭和四十二年〜四十七年の五年間であり、政治的人間、勝海舟が公的なものへの情熱に殉じた悲劇の中に「歴史」の建設と崩壊のダイナミズムを見ようとした「海舟余波」は、四十五年から二年半にわたって書かれた。さらに「海は甦える」の執筆は、その直後にはじまっている。準備期間を含めれば、この三部作は相互に重なりあいながら、一節の河の流れのように書きつがれてきたのである。
さてこれら一連の作品が発表された時期は、いわゆる歴史ものブームの高まりと一致している。殊に「海舟余波」によるこの巨人の人間像の再発見は、NHKの連続テレビドラマ「勝海舟」の沸騰する人気に先がけ、その道を開いたかのように見える。しかし「海舟余波」は濃密な内容をもつ政治研究の労作であり、それが一切のブームとはかかわりなく書かれたことを強調するために、江藤氏自身、ブームが静まるまで半ば意図的に単行本の出版を延期したと言い切っている。まだ四十歳そこそこという年齢にもかかわらず、みずからの可能性を切り開く勇気と行動半径の広さによって、氏はすでに警世家の風格を身につけつつある。氏は時流に乗って書くのではなく、書くことによって時流を引き寄せようとする。読者を招き受け入れるというよりも、読者を鞭打ち目覚めさせようとする。
「海は甦える」一部二部、あわせて一五〇〇枚に及ぶドキュメンタリー・ノヴェルは、卓抜な批評眼と想像力、厖大な資料、史実の裏付けに支えられて、山本権兵衛の言動とともに、はるかに多くのものを描きかつ訴える。読者の感慨は明治大正のあの時代から、太平洋戦争とその敗北、不安と混沌の現代までの間を往き来する。近代海軍の興隆はその崩壊の日を、列強諸国との和解への努力はその裏がわに世界の孤児となる悲劇を、若い日本のナショナリズムと高い戦意は、その頂点で驕慢《きようまん》と自己満足に身を滅ぼす宿命を暗示している。ポーツマスでロシアとの至難な媾和《こうわ》成立の大任を果たした全権小村寿太郎が、一銭の償金もとれない弱腰外交だとして国民の憤激を買い刺客の危険にさらされた時、海軍大将の軍服に身を固めて新橋駅に一行を出迎えた権兵衛の表情を、江藤氏は「しっかりと結ばれた唇にかつてない深い悲しみを秘め、虎の眼を怒りに輝かせ、なにものかに挑むかのように」と万感をこめて描写している。
「海は甦える」でもう一つ気付くことは、独特の眼が全巻を貫いていることである。それは「一族再会」や「海舟余波」にはない最前列の客席から身をのり出す観客のような貪欲な眼である。ただ観察し分析するのではなく、笑い悲しみ怒り、時に揶揄《やゆ》し挑発する眼である。そこからテレビ劇「明治の群像――海に火輪を」の台本執筆まではほんの一歩の距離のように思われる。
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海軍という世界
帝国海軍は二十八年前にほろんだ。これは事実であるが、海軍という世界が長崎伝習所以来九十年日本に存在し、今なおその余滴を後世に残していることも事実である。戦後についていえば、その直後の数年よりも昨今の方が海軍の存在を想い起すことが多いのは私だけではあるまい。
それはどんな世界であったか。第一に思いうかぶのはふところの深さである。私のように一年の速成教育で任官し一年足らずの実施部隊の経験しかない予備士官でもそれなりにネーヴィー生活への愛着があるし、江田島や舞鶴出身の現役士官はもちろん、短期現役主計科、飛行科、軍医科、さらには七つボタンの予科練と、それぞれにわれこそは海軍の魅力を深奥まで極めたものと自負しているのだから愉快である。馴染みが浅ければそれだけ執着も弱いのが普通であるが、兵学校七十八期のようにわずか数カ月、しかもいくつもの分校に分れて初歩教育を受けただけの連中でも、今もって立派な雑誌を定期刊行し旧交を温めあっている。海軍とは短いつきあいで失望の余地がなくかえって純粋なあこがれだけが残っているせいかもしれない。
これ程あらゆる立場からのアプローチに分けへだてのない魅惑を振舞った海軍という世界。誰にとっても海軍とのつながりは一つの味をもち、一本の共通の糸のようなものがあったのだろうか。このことに触れた司馬遼太郎氏の名言がある。氏はかの「坂の上の雲」を書かれるに当って、海軍で暮らした人間の生きた呼気と鼓動を探るため実におびただしい数のネーヴィー経験者と会われた。その結果、「海軍の人間にはどんな雑兵に至るまで今も共通の面差《おもざ》しが残っている。これは陸軍にはないものだ」と感想を洩らされたというのである。
これを名言と評するのはいささか面映ゆい。私のように軍隊にはおよそ不向きで辛い毎日をそこで過ごし終戦後三十年近く塩気の抜け切った生活を続けている男にまで、「共通の面差し」が刻みつけられているというのは、司馬さんの海軍憧憬がなせる過褒と受取るほかないからである。しかし海軍という世界の底に|何か《ヽヽ》を発見されたにちがいない氏の心象を形容するに、「共通の面差し」という着眼はさすがに卓抜といいたい。
海軍には合理精神があったといわれる。こういう安直な断定に私は不満である。むしろそれは矛盾だらけで、矛盾をそのまま呑みこむことをよしとした世界だった。途中で逃げないで矛盾をとことんまでつきつめる。矛盾をのりこえるというのでなく矛盾の中へ忍びこんで向うへ突きぬけてしまう。海という不可思議な恐ろしいものを相手に、しかも課せられた任務をなんとかこなすには、それ以外に身の処しようがないのである。黙って矛盾の直中《ただなか》に身を投げ出す。そこから独特の緊張と稚気と清涼感が生れる。「共通の面差し」には、そういうものの名残りが漂っているのではないか。もし合理性があったとすれば、それは矛盾をそのまま呑みこむことについて、各人がそれぞれ自分の流儀で納得していたということではないか。
海軍魂といえば、「スマートで目先きがきいて几帳面、負けじ魂、これぞ船乗り」という合い言葉がよく口にされる。これを私なりに解釈すると、まずスマートというのはもちろんカッコよさのようなこととは関係がない。海軍でいうスマートは早くて正確ということである。なんだ簡単な、と言うなかれ。早ければ不正確だし、正確なら遅いのだ。それを迅速かつ的確に、というのは本来無理な注文だが、こうでなければ戦さには勝てぬ。スマートでないものから先に死んでゆく。陸軍流に一つの型を作りそれに自分を当てはめて安心するのではなく、ただ無手勝流に早くかつ正確にだ。そしてスマートさを支えるものは訓練のくり返し以外にないのである。
目先きがきいて几帳面、語呂はよいが考えるとこれも難儀な注文である。目先きが利く奴はどこかで手を抜くに決まっている。几帳面なら目先きのカンは鈍いにちがいない。それを両方やれというのだ。そうでなくては、海という変幻自在の怪物を相手には出来ぬ。ましてやその中で常に最善の処置を目指すわけにはいかないのである。
こうした矛盾だらけの注文にもビクともしないのが負けじ魂である。早くて正確、俊敏で沈着、それを実戦で実行してみせるのが負けじ魂だ。陸軍流に旺盛なる攻撃精神などといわず、受身に|負けじ《ヽヽヽ》魂としたところがいかにも海軍らしいが、「共通の面差し」に負けじ魂の気魄《きはく》が少しでも秘められているとすれば、ご立派というところであろう。
さて、海軍という世界の持ち味が、海を相手にすることと多分に結びついていることはいうまでもない。戦争末期には、乗るフネもなく陸に上ったカッパ以上に不様《ぶざま》なネーヴィーがたくさんいたが、それでも教育訓練は艦上生活になぞらえて実施されていたし、海で戦っている仲間の塩っ気は、陸上勤務のどこかにしみこんでくるものなのである。
海はたとえようもなく大きく、深く、かつ魅力的である。海上勤務の第一の任務は、敵と相対することではなく、海と正面から対決することである、とさえ思いたいくらいである。海軍の仲間が持つ一体感は、同じ一つフネの上で運命を共にするという共感からよりも、偉大な海を相手にする人間の本能からきている。だからその共感が味方のみならず敵方にまで及んだとしてもおかしくはないのである。
海の戦闘にはいつの場合にも一種の美しさがあるが、それは人間同士の卑小な戦いを超えた、海を舞台とする壮大な悲劇のひと幕だからである。われわれは敵味方である前に悲劇の共演者であり、お互いに敵役《かたきやく》としてささやかな役を振りあてられているに過ぎない。敵味方が殺しあうというよりも、無数の人間が築きあげてきた成果をそれぞれの使命にかけて試しあうという共通の目標のもとにあることが、われわれを結び合う絆《きずな》なのである。
海を相手の生活から生れるさわやかさ、淡泊さの反映が、「共通の面差し」をいろどっていると期待するのは思い上りであろうか。
しかし海には別の一面もある。終戦後数カ月して、ようやく音楽会が復活しはじめた頃、私は無理して切符を手に入れ日比谷公会堂に出かけた。久し振りの生《なま》の音は私の胸にしみた。帰りの電車の中で吊り革につかまって物想いにふけっていると、左隣りに接して立っている女性が前の窓ガラスに映る私をじっとみつめているのに気がついた。顔の輪郭がおぼろげに見える。私は海軍の防暑服のズボンをはき、足には半長靴である。みつめ合ったままの沈黙が続いて、音楽会かなにかのお帰りですか、とその人が声をかけた。なぜ分ったのかときき返すと、あなたの雰囲気で分る、とその人は直接には見ないで、窓の中の私の目にむかって答えた。
なんだかうれしくなって、私は少しお喋りをした。学徒出陣で海軍に入る十日ほど前、バッハのマタイ受難曲をききに日比谷にいった。切符がなくて特別に頼んで二階の階段に腰をおろしたまま最後まできいた。むつかしかったけれど、コーラスが湧き上るように、たたみかけるように歌い進むところがよかった。……
こういう時代なのに、どうしてあなたはそんなにロマンチックでいられるのか、とその人は私の話をさえぎった。戦争は人をロマンチックにするから、と答えながら初めて左へ向き直ってその人を見た。若い、美しい人だった。電車からおりるとき、短い言葉で、結婚して三月で主人が戦死した、海軍士官だった、自分は近く働きに出るつもりだとその人は言い、あなたは仕合わせな人だとつけ加えてわずかにほほえんだ。
戦争は本当に人をロマンチックにするだろうか。海の勤務の場合は特に、と私には思える。そこには才覚も保身も入りこむ余地がない。素直にめぐり合わせを受け入れるだけである。長い訓練航海のすえに艦が入港することになる。問題は誰が上陸員を送り迎えするかだ。それをやれば自分が上陸できない。半人前の士官であることを自認していたわれわれ予備少尉は、自発的に常時上陸員送迎の艇指揮を引受けることを申し出ていた。上陸員が舷門に並ぶ。送られる士官も艇指揮も同じ正装である。黙って艇指揮の位置につく。内火艇が出る。灯火管制下、上陸員を満載した艇の操縦は容易でない。行き会い船があると目標を見失う。全力集注。どうやら波止場につく。待ち兼ねて上陸員が走る。士官は挙手してただ一声「願イマス」こちらも一声「了解」、後ろ姿が消えてゆく。直ぐ艇を出して艦に戻らねばならない。吹きつける風。暗夜の海を時折りいろどる夜光虫の群れ。舷側に当る波音。これをロマンチックといわずして何といおうか。
「願イマス」「了解」この短いやりとりが身上である。一言の釈明もなければ、恩着せがましい応答もない。この極端な寡黙さは、やはり海軍の伝統に根ざしたものであろう。日本海軍の創始者勝海舟は、自身なかなかの雄弁家であったが、肝心の時に男子が多弁であることを嫌ったという。「氷川清話」に白隠禅師の話がある。白隠が近所のある娘をはらませたとぬれぎぬをきせられた。白隠はそのままにしておいた。二、三年して良心に責められた娘が白状した。娘の両親は大いに驚いて白隠のところにあやまりに行くと、禅師は「はあ、そうか」と一言いっただけであった。勝はこれを面白い話だと感心している。天下の事にはこう大きくなければ当れぬと感心している。
海軍の人間が好む言葉の一つに「シレッとして」というのがある。シレッという音感がよいので、どんな意味かは説明しにくいが、たとえば上陸員送りの内火艇指揮を引受け身をひるがえして位置に就くときのあのキビキビとさり気ない風をいう。ここでも沈黙は大きな要素だ。多くを語りたい時こそ寡黙に、大事の際こそ万感をひめてただ「シレッと」行動するのである。
海軍士官はシレッとした動作が身につくよう心がけた。しかし今度の戦争で、その開始から終局まで陸軍を中心とする無思慮と蛮勇に海軍が押切られる場面が多かったのは、シレッとし過ぎた結果ともいえるのではないか。いつの頃からか、ネーヴィーの伝統に一種のエリート意識、みずからの手を汚すことを潔しとせぬ貴族趣味が加わり、受け入れ難い相手とトコトンまで争わずに、自分の主張、確信だけを出して事を決着する正念場から身を引くという通弊が生れた。福沢諭吉が明治国家に唯々として奉職する勝海舟を「瘠我慢の説」で攻撃したとき、勝が「行蔵《こうぞう》は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候」と返書にしるしたことはよく知られている。この短い言葉の背後には勝の後半生を貫いた新生国家造営の粒々辛苦があった。シレッと行動することを好む海軍の伝統は勝海舟まで遡《さかのぼ》るが、勝は他人の毀誉をきき流しただけでなく、粘りぬいておのれの行蔵に初志を貫徹したのである。
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同 期 の 桜
海軍時代の仲間が集まると、きまって会の最後に、腕を組み肩を波打たせながら歌う歌「同期の桜」。そういう意味では、これはわれわれと同世代の海軍経験者に共通の愛唱歌であって、わたしだけに特に思い出深い歌とはいえないかもしれない。
しかしそれを「青春の思い出につながる愛唱歌」としてあえて選んだには、自分なりの理由がないわけではない。昭和二十年の春、戦艦大和の乗組員として沖縄特攻に出撃する前夜、ガンルームの若手士官たちは、この歌を何度も高唱して飽きるところがなかった。「同期の桜」は正式の軍歌ではなく、いわゆる軍歌風歌謡のたぐいであるが、訓練時代の重要な日課である軍歌演習によってすっかり馴染んでいた多くの名軍歌よりも、耳でおぼえただけのこの一曲の方が、その時の気分にまさにピッタリなのであった。
見事散りましょ国のため……血肉わけたる仲ではないが……分れ分れに散ろうとも……花の梢に咲いて会おう……歌詞だけをとり出して書けば、どこかセンチで悲壮ぶって面映いほどだが、声を合わせて歌っていると、青春の生き甲斐、友情、献身のいさぎよさといったようなものが自然に通いあうところが、この歌の独特の魅力である。
戦後三十年をへた今でも、また戦争とはかかわりのない若い世代からも、この歌は酒席で、コンパで、バーで、しばしばうたわれる。しかし歌い手があまり美声だと、この歌には奇妙にそぐわない。ギターの伴奏も女性の声も、メロディーにあいにくい。やはり塩辛声か蛮声かを張りあげて、時々調子は外れてもあくまで力強く声の限りにうたいあげるのが、正調「同期の桜」のように思われる。そしてわれわれ戦中派世代は、「貴様と俺とは……」とくり返しながら、今そうしている自分が何か相すまぬような自責の気持にかられるのである。
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青年の生と死
学徒出陣で海軍に入った私は、少尉として戦艦大和に乗組み、昭和二十年四月、二十二歳で沖縄特攻作戦に参加した。大学時代は、平均的な学生として過ごした。聖書は時々読んだが、それまで教会に行った経験はなかった。
戦争の本質や、自分が戦争に参加することの意味について、艦上勤務のあいだに、苦しみながらくり返し考えたが、納得できる結論はえられなかった。しかし内地に残してきた日本人の同胞、とくに婦女子や老人と、祖国の美しい山野を、ふたたび平和が訪れる日まで護ることができるのは、われわれ健康な青年であり、そのために命を捨てることがあってもやむをえないと、自分に言いきかせるように努めた。
この沖縄作戦は、帰りの燃料を持たない必死の特攻出撃であった。したがって、はじめから戦死の覚悟は出来ていたはずであるが、米機動部隊との激しい戦闘が一段落して、小休止のような静寂が艦を包んだとき、私は肋骨《あばらぼね》の下から、何ものかが呼びかける声を聞いた。
――お前、死に瀕したる者よ 死を抱擁し、死の予感をたのしめ
死神の面貌はいかん? 死の肌触りはいかん?
お前、その生涯を賭けて果せしもの、何ぞ あらば示せ
今にして自らに誇るべき、何ものもなきや――
私は、身もだえしながら、その声に答えた。
――わが一生は短し われ余りに幼し 許せ 放せ
死にゆくものの惨めさは、自らが最もよく知る――
いよいよ確実な死を眼前にしたとき、自分の一生をかえりみて、そこに何一つとるに足るものがない事実を改めて知った、惨めな苛立《いらだ》たしい気持を、私はこのように正直に、手記(「戦艦大和ノ最期」)に書いている。
しかし死を前にした人間の空しさは、人間そのものの本質に根ざしていることを、聖書は明らかにする。
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ロマ書七・二四)
もし私が死神にとりつかれたまま戦死したとするなら、死を迎える瞬間に、無際限に深い空洞が、あるいは底の知れぬ暗黒が、私の落ちこむのを待ち構えていたにちがいない、と想像できる実感があった。事実、乗組員の九〇%以上が戦死したが、出撃の半ばで艦が沈没し、作戦が中止されたため、私は生き残った駆逐艦に救助されて、奇蹟的に生還した。
それから、入院して戦傷の治療を受けながら考えたのは、「いかに死ぬか」という設問は、すなわち「いかに生きるか」という問題ではないのか、ということであった。いざ死に直面したときに、ある悟りとか、特別の死生観とかが都合よく自分を助けてくれる、というようなことはありえない。あくまでも、平凡な毎日を生きている、ありのままの自分、頼りになるのは、それだけである、と思いあたるものがあった。そのことを、私は手記に次のように書いている。
――死、わが身に近き時、かえって遠ざかり、生、安らかに全き時、
はじめて死に直面するをうべし
不断真摯の生のほか、死に正対する道あるべからず
虚心なれ
この時をもって、常住献身への転機とせよ――
やがて終戦の日がきて、平和な生活にもどることになったとき、「いかに生きるべきか」が、新たな緊迫感をもつ命題として、私を待ち受けていた。自分を偽らず、最後の日まで力いっぱい生き続けるには、何を目標とすればよいのか。悔いなき人生は、自分を超える絶対の存在に、わが身をささげることにはじまる。どこに、その存在を見出しうるのか。
そこから、求道《ぐどう》の生活があたえられるまでは、自然な道のりであった。
パウロは、前に引用した個所のあとに書いている。
「わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう」(ロマ書八・一二―一三)
神からの霊によって、この世のものである肉の働きを殺すなら、お前は生きるであろう、というパウロのこの言葉は、われわれを勇気づける。ここで「生きる」といわれているのは、死に打ち勝つことであり、たとえ死が眼の前に迫ったとしても、もはや実りなき生涯の空しさを嘆くことなく、平安のうちに自分の死を直視できるという保証が、あたえられたということであろうか。
いな、キリスト者にとっても、生きることは、そのように簡明ではない。むしろキリスト者であればこそ、霊によって生きるには、限りない厳しさが求められる。パウロは、はじめに引用した「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」の句のすぐあとで、「わたしたちの主イエス・キリストによって。神は感謝すべきかな」といい、さらに「このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである」(ロマ書七・二五)と、痛烈な言葉をもって結んでいる。
人間は、人間であるかぎり、しょせん肉の重荷をまぬがれることはできない。「私」からはじまる線は、どんな方法によっても、救いや自由にはつながらない、「イエス」からはじまる線の上でだけ、自分自身から解放され、霊によって生きることができるのであると、バルトは「ロマ書略解」のなかで説いている。
私のような未信者ではなく、少数ながら、キリスト者として戦陣におもむいた学徒兵もいた。そのなかの一人、大井栄光は、数学を専攻し、大学卒業後陸軍に入り、二十六歳で華北戦線に散華した。次に一部を引用する母あての手紙は、生死の関頭に立った苦悩を率直に表白しながら、若者らしい純粋な信仰を証《あか》ししており、「きけわだつみのこえ」に収録された数多い書簡のなかの圧巻である。
――桜の花の美しき風情、春日ののどかな気分に落ち着きまして、自分の心をふりかえりますと、いろいろと新しい感情が湧くのでした。今までは人生だとか、悩みだとか楽しみだとか、その他のむずかしいことをお互いにわかったような気になって、話しあったり独り合点したりしていましたが、結局はほとんど全部は、過ぎゆくものにすぎませんでした。そしてただキリストによる救いということが、動かぬ世界への唯一の希望のかけはしとして、残されているような気がします。その信仰も決して非常に強固であるとはあえて申せませんが、他のもの、世の中のすべてに比べれば、はるかに切実なもののように思えるというわけです。
戦う兵士として戦場に召されたキリスト者が、(二千年の歴史のあいだに、無数といってもよいほど多くの信者が、同じ立場に立たされた)最後の日まで、主を求めて生き抜こうとする勇気が、その思いがけぬ明るさが、読むものの胸を打つ。肉の重荷を負った人間は、美しい抽象的な「平和」そのものを、生きることはできない。それぞれにあたえられた役割を果たしながら、「平和」を求めて自分を鞭打つことだけが、許されているのである。
――私にとっていわゆる最後の勝利が、生還によってはじめて成就されるものか、あるいは戦死してのみ与えられるものかは、今のところ全然わかりません。がそれだけに、いとも朗らかに出発していけますから、どうか留守の皆も楽しい日々を送って、私の必生(必死)の修養を見守っていただきたい。死すればそれはまた主の御旨《みむね》ですから、めめしく涙など流さぬこと。生還したとしても、それで最後の勝利が与えられたわけではないのですから、軽々に笑わぬことを願います。――
もう一人の青年、池田浩平は、旧制高校在学中に学徒出陣で陸軍に入り、二十一歳の若さで戦病死した。信仰篤い家庭に生れて十五歳で受洗し、教会では青年会のリーダーとして、また高等学校では生徒会活動の代表者として活躍した彼は、向学心に燃える学究の徒であり、一面では多感な詩人として珠玉の詩片を残した。出陣前に書かれた手記「運命と摂理」のなかに次の一節がある。
――ああ、矛盾は大きく悩みは深い。祖国日本への愛の中に死ぬことのできる人は幸福である。もちろんそれは、りっぱな死である。
しかし、世界の行末を考えると、のんきな顔はしていられない。身にうれいをまとうて、真に日本を天壌無窮たらしめんとの悲願に、刻々胸をいためている者こそ、真の愛国者ではなかろうか。このうれいのないところに、今日の日本の青年にとって、武士道的な形而上学的な死はありえないと信ずる。うれいを、世界史における祖国の使命の上に馳《は》せ、新しい秩序は何によって生れるかを考えている。――
祖国と同胞を包容する情熱と、世界史を展望した見識とを、これほど格調高く兼ね備えた文章は、「きけわだつみのこえ」のなかでも稀れである。そしてそれを支えているのは、透徹した信仰であった。
――西田幾多郎博士が言うように、「何をなすべきか」が問題ではなく、「自己が何であるか」が問題であるような、真に宗教的な問題のみが肉迫してくる。(略)私はこの時、「自己が何であるか」を問うごとに、かのルッターの命題、「死にいたるまで福音的、死にいたるまで祖国的」が、反射的に脳裏に刻印される。私はいったい、何であるのか。また何であればよいのか。答えは、キリスト者で|あり《ヽヽ》、同時に日本人で|ある《ヽヽ》、という一事をおいてほかにない。他のすべては、「エホバ(神)与え、エホバ取り去りたもう。エホバの御《み》名はほむべきかな」である。――
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伝説の中のひと
二十数年ぶりに訪れた久通《くつう》村小学校の校舎は手ぎわよく改造され、二つしかなかった教室が三つにふえていた。教室が二つというのは、四五六年と一二三年をそれぞれ合併した授業を、ご夫婦の先生が手分けして受持っていたのだが、奥さんが体をこわしたので低学年の方をしばらくみてくれないかという話が、終戦で軍務から解放されたばかりの私のところに舞いこんだ。私はよろこんでこの大役を引きうけた。
残暑の土佐の灼《や》けるような太陽が高くあがらないうちに始業の鐘を三つ鳴らす。すると三年生以下の子供たちが集まってくる。十二、三人の生徒は授業のあいだ、ひとりも先生の眼から視線を外そうとするものがなかった。体操の時間は駈け足で海まで引率してゆく。浜辺に立つと、見はるかす限りの砂浜と白波の線を厚味のある松林の群落が分断していた。
潮の香りが慕わしくて、私はしばしば野天授業の時間を延長した。海を背にして波打ちぎわにあぐらをかく。子供たちも列を整えてあぐらをかく。彼らの眼に入るものは、そと海につらなる一本の水平線と私のほかにはなかった。
教室が三つにふえて合併授業が二学年ずつにまとまったのはうれしいが、戸数百戸あまりのこの小部落でも、戦後のある時期、若者が復員して児童の数がふえたのであろう。土曜の夕方の学校は深閑としている。私はゆっくりと教室をまわり、小さな椅子に腰をかけた。人声がしたので校庭に出てみると、五、六年ぐらいの女の子が二人、陽やけした肢体を舞わせて鉄棒で遊んでいた。
「ここの山の上に、むかし海軍が陣地を作っていたという話をきいたことがある?」
「母さんから、きいたことある」
一人の子がハキハキと答えた。
「峠の先の頂上に洞穴を掘って、四角い大きな箱のような装置を据えつけたんだけど、そこは今どうなっているだろう」
「ぼうぼう、草がいっぱいはえてます」
「あの装置は敵の軍艦をつかまえる電探でね。コンクリートの陣地を作るのに、小学生が全員、いち日なん回も浜から砂と砂利を運びあげてくれたり、お母さんたちにもずいぶん手伝ってもらったんだ」
「ばあちゃんはいつもその話をします」二人は顔を見合わせてニッコリした。
高知から南西に汽車で一時間ほどの距離にある須崎は、広い土佐湾のまさに中央に位置する天然の良港で、四国では最大の人間魚雷基地が設けられていた。米軍が四国南岸に上陸した場合、海軍は水ぎわで百万人の将兵を殺傷する目標のもとに、五段構えの特攻攻撃を準備したが、その成否は上陸用舟艇、とくに指揮艇の動きを的確に捕捉できるかどうかにかかっており、対艦船用電探の設置場所として選ばれたのが、須崎湾の東の外延にある久通部落の切り立った断崖、標高二百八十メートルの法院山山頂であった。
私は設営隊長を命ぜられて八十名の部下と現地に駐屯し、建設期限の八月十五日を目ざして、昼夜兼行の突貫工事を続けなければならなかった。太平洋をへだててアメリカとにらみあうこの海岸線は、すでに文字通り第一線であり、午前と午後の一日二回の定期空襲から身を守るために、われわれ、海軍と村民は必然的に一心同体になった。婦人会、女子青年団、小中学生を総動員した建設工事の応援は、すべて自発的奉仕によるものであった。
やがて敗戦の日がきた。四国は中国軍に占領されるらしいという噂が流れると、女子青年団長がやってきて、「万一辱しめをうけるようなことがあれば、私たち一同、先祖伝来の毒薬をもって潔く自決する用意があります」と報告した。若い士官は戦艦長門にのせられて原爆実験に供されるという風評を伝えきいて、村長は私の身柄をあずかりたい、部落全体の責任でかくまってみせる、と言い切った。小学校代用教員の座は、世をしのぶ仮の姿でもあったのである。
ところが下士官兵が次々に復員していった九月半ば、私は特攻隊長から呼出しをうけてキツいお叱りをいただく羽目になった――村の善意に甘えて子供たちを相手にしていたい気持も分らんではないが、親兄弟があるなら、いちど家に帰って|けじめ《ヽヽヽ》をつけようとする分別もないのか、そんな中途半端な構えで、男子本懐の仕事に打ちこめると思うか。――
久通から須崎への道には押岡《おしおか》川という小さな川があって、その渡し場まで、女子青年団の全員が復員する私を見送ってくれた。二十人ほどの中から選ばれて渡し舟にのったのは二人。一人は団員切っての櫓《ろ》の名手であり、もう一人は私に日傘をさしかけてくれる役であった。舟が向う岸に着くまで、声をあわせてうたう「別れ出船」の歌声が川の面を追いかけてきた。
こんな晴れがましいことが許されようか、――私はいたたまれない恥ずかしさの中で自問した。もし許されるとすれば、それは今送られているのが私自身ではなく、「一日一日を死と直面して明け暮れた生活」を象徴する一人の人間だからであろう。部落の中に寝起きして生死をともにしたわれわれは、異常な時代の息苦しいような生甲斐、むき出しの同志愛を象徴する「伝説」の中のひととして、この人たちの追憶の中に残るであろう。
四半世紀ぶりに再訪して女の子たちとかわした会話は、この予感がまちがっていなかったことを暗示していた。戦後のめまぐるしい時代の流れに、むなしく過ぎていった歳月。置き忘れてしまった生甲斐と友情。しかしなお「伝説」は大切なものとして語りつがれているにちがいない。私は銀髪初老のわが身をかえりみて、伝説をけがしてはならないことを悟った。そして、部落の中を一本貫いている細い道を黙々と通りぬけると、あとも振り返らずに峠への坂道をのぼりはじめた。
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伝説からぬけ出てきた男
昨年三月号の本欄に「伝説の中のひと」という題で、終戦を海軍少尉として迎えた、高知県須崎の人間魚雷基地の話を書いた。私がそのとき八十名の部下とともに押岡という部落に駐屯していたのは、上陸用舟艇迎撃の電探基地建設のためだったから、敵は隊長がみつかれば生かしてはおかないだろう、部落の責任でかくまおうということで、しばらく小学校の代用教員に身をやつすことになった。
それから二十数年、再びこの地を訪ねてみると、戦争を知らない子供たちの間にも、われわれは伝説的な存在として生きていた。村民と海軍が一心同体で堪えた毎日の空襲、一日一日を死と直面して明け暮れた異常な生活、あの息苦しいような生甲斐、むき出しの同志愛を象徴する「伝説の中のひと」として、透明な追憶の中に生きつづけていた。私は銀髪初老のわが身をかえりみ、伝説をけがしてはならぬことを悟って、黙々と立ち去ったのであった。
さて本誌の読者層は、さすがに広い。この記事はたちまち部落の二、三の人の目にとまり、顔も見せずに退散するとは何事か、とお叱りをうけた。「伝説」からぬけ出して正体をあらわせ、というわけである。当時片腕となってよく補佐してくれた山下上等兵曹が、よろこんで同行したいと申し出た。かくして三たび、私はこの地を訪れることになったのである。
懐かしの久通《くつう》村小学校の校庭から見おろす風景が、すっかり変わっている。むかし子供たちを並ばせて野天の授業を楽しんだ頃の浜辺は、さらさらときれいな砂を盛っていたのに、全体が黒ずんで荒い波に噛まれている。小さなこの漁村はますます過疎化が進み、漁も網や小釣りが少しあるだけで細る一方だという。教室が三つ、先生が四人にふえたのは立派だが、生徒は十二人で、私が教えていたころの半分以下である。
全戸数七十戸、山裾にこぢんまりとかたまった部落のすみずみまでスピーカーが響きわたって、われわれ二人の来訪を伝え、知り合いの人は集まるように、とくり返し告げている。十分ほどの間に、十八人の人が集まってきた。ぐるっと輪の形に坐って、ただ気恥ずかしそうな笑顔をみせている。そのうちふっと昔の印象が、顔の輪郭が目にうかび、やがてまた目の前の映像のかげに消えたりした。
私が受け持っていた一年から三年までの、十二、三人の教え子たちは、四十前後の働き盛りのはずである。この狭い土地に、彼らを受け入れる仕事の場、嫁ぎ先があるのだろうか。授業のあいだ、けっして私から視線を外すことのなかった彼らの眼は、今なにを見ているのだろうか。「吉田少尉から字を習ったり、いろんなことを教わったと、いつも想い出して話しているもんもいたが、もう誰もいないな」「ブラジルに嫁にいった子もいますよ」
地肌に南国の陽射しがしみこんだ顔、その顔にうかぶ何ということのない安堵、善意の笑いをみていると、突然私の胸裡に、三十年前のここでの生活のすべてが、ありありと蘇《よみがえ》った。「海軍がいた頃のことで、いちばんの想い出といえば、なんですか」「さあね、やっぱりカルピスだね。カルピス、つうものの味を知らんから、ほしかった」「そんなもの、ご馳走したことあったかな」「戦争がすんだあと。海軍さんは気前がいいから、ヒシャクでのましてくれた。ゴクゴク、っていう、あの味は忘れられんですよ」
われわれ八十人が民家に分れて宿営していた押岡での夕食会にも、二十人ほどの人が集まってくれた。シラガ頭の隊長では感じが出ないというので、誰かが錨《いかり》のマークのついた白い軍帽をみつけてきてくれた。それをかぶると、目にみえて座が活気づき、昔話の調子が高くなった。「隊長さんは一人だけ、いつもキツイ顔して、精神棒いうんか、太い樫《かし》の棒持って、若いのに、なんや可哀相だったな」「皆さんのところに分宿させてもらって、|じか《ヽヽ》に娑婆《しやば》とくっついていましたからね。兵隊は若いし、われわれ海軍への信頼を傷つけないために、精一杯、規律を保とうとしたんですよ。心を鬼にして」「そういや、あの棒で部下を叩くのは、一度も見たことなかったな」
私が復員する時、渡し場で「別れ出船」を歌いながら、見送ってくれた女子青年団員は、何人かここに残っているけれど、恥ずかしいのか、気おくれするのか、いくら誘ってもこの会には出てこなかったという。
私自身、三十年のわが変わりように気が引けて、黙々と立ち去ろうとした、その心根以上に、彼女たちはいつまでも、あの頃の「伝説の乙女」のままでいたいと、願っているのだろうか。
その晩、おそくなって、私は山下兵曹と床を並べて寝た。二人を包む空気、二人を支える大地、これこそまぎれもない押岡なのだ。三十年前の若い盛りを部落の一員として寝起きし、ひそかにわが死に場所と思い定めた、あの押岡なのだ、そう思うだけで、それ以上多くを語りあう必要のないことを納得しながら、われわれは深い眠りに落ちた。
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観 桜 会
仁和寺の桜は、七分咲きくらいの見頃であった。四月十四日といえば、京都では大方の桜がすでに盛りを過ぎているのに、御室桜の名で知られるここの桜は、また遅咲きでも知られ、まして土曜日の午後とあれば、あふれるような観桜客を集めていた。
日が暮れかかって、花は重たいような、なまめかしいほどの夜の風情を、大地に向けて漂わせはじめていた。背の高い木は一本もなく、どれも四肢を踏まえて低くかがんだ枝振りである。そのあいだを縫って、三々五々、われわれはしばしば足をとめながら歩いた。
われわれ、というのは、海軍四期予備学生の同期のことである。毎年春のこの時期に、関西在住の仲間が京都に集まって、花見と慰霊祭を兼ねた会を持つようになってから、数年になる。今年の参加予定者は百五十人をこえ、今までにない盛会だという。私は、はじめての経験であった。慰霊祭のあとで、一時間ほど話をするように幹事から命じられて、この日の午後、東京から新幹線で着いたばかりであった。
重なりあうように密生した花の厚みの下に、点々と遠慮がちに縁台が置いてある。早くも膝をそろえて坐りこんだ中年女性のグループや、酒盛りの仕度に取りかかっている若者たちの組がいる。上野公園あたりなら、高い歌声があちこちから湧き上っている頃合いなのに、京都の桜見物は奇妙にひっそりしている。薄暮の中に影絵を見るような淋しさがある。
同期生の集まりに、夫人たちの参加がめっきりふえてきた。初めの頃は、海軍への愛着にとりつかれた男たちだけが主役で、夫人は何か異分子の感じがあったが、今日は仁和寺の桜という環境のせいか、奥さんたちも立派な主役に見える。いやむしろ、元海軍の会合らしく姿勢を正して生き生きと行動しているのは、彼女たちである。
亭主の方は、ごく少数の元気ものを除くと、紛れもない初老の男ばかりである。まだ髪は黒く童顔な奴でも、久しぶりに仲間と会えば競いたって蛮声を張りあげようとも、五体の芯に溜った疲れはかくしようがない。われわれ戦中派世代はここ数年で定年年齢を過ぎて、新しい人生に踏み出したはずだが、それと同時に、戦争が終ってからの三十年余りの人生の重みが、今更のように背中にのしかかっている実感がある。老朽船はもうひと働き新しい航海に出直そうと気分を引きしめても、サビついた錨が磐石《ばんじやく》の力で船脚を捉えて放そうとしないのである。
われわれがこうして集まるのは、過去がただ懐しいからではない。われわれは戦後の時代を生きてきて、奥深いところで満たされていないことを知っている。それぞれ自分の言動に釈明は出来ても、重大なことに道を過った悔いがある。生き残ったものに課せられた仕事を、怠ってきたのではないかという苛立ちがある。その不甲斐なさの共感が、仲間同士くり返し集まって語り合いたいという衝動にかり立てるのである。初めは軍隊時代の集まりを軽蔑していた夫人たちも、亭主どもの動機にある純情さがこめられていることを、今や理解するに至ったらしい。彼女たちが胸を張って夫につき従っているのは、「観桜慰霊祭」というこの試みの意図を評価している証拠であろう。
慰霊祭のプログラムは、観桜会の前に、四時半から組まれていた。仁和寺に隣接した東側に、抱かれるような形で御室蓮華寺がある。そこの住職、桑田善照師は、われわれ四期の仲間で、陸戦の出身である。今日は蓮華寺はもちろん借切りであり、彼がいるからこそ、京都でこういう会が出来ることを皆が知っている。新しい御堂にぎっしりスシ詰めになって、三十分の法要が営まれた。
筆で書いた「摩訶般若波羅蜜多心経《まかはんにやはらみつたしんぎよう》」のコピーの一節が配られて、ほとんど全員が唱和して読経が進められた。京阪神の連中は機会があるたびにここでやっているから、馴れたものである。「こうして皆と一しょにやれるのは、有難いことです」桑田は挨拶のときそう言った。
焼香だけが、どういうわけか慌しかった。なぜか順番が急がれて、焼香台の前は、押し合うような混乱があった。おもむろに形を整えて掌を合わせるゆとりがなかった。ここでわれわれが相対しているのは、戦死した仲間の霊である。彼らは青春のさ中に為すところなく死に、あとに生き残ったものが、今膝を屈して頭《こうべ》を垂れている。瞑目すれば、この眼に映るのは、若かりしままの彼らの風貌である。戦後歳月を経るにしたがって、彼らはますます若返って現われる。死によって若さを確保した彼らと、むなしく老いたわれわれとを、戦後という醜怪な時代が隔てている。退屈するほど長く、しかし一瞬に過ぎ去ったといえるほどに中身の薄い戦後日本が、その繁栄と自由と平和と混迷の歴史が、死者と生者の間を切り裂いている。われわれは、正坐して端然と焼香するような身分ではないのである。
大きな盆から、柏餅が一個ずつ配られた。盆を持ちまわっているのは、長身の青年僧である。桑田の長男で、昨年結婚した。「後つぎが出来て、桑田も安心やな」法要の前に声がかかると、桑田は、「お蔭さんで」と笑った。募金を集め、この寺の一角に土地を提供してもらって、われわれ四期予備学生全員の永代供養の慰霊塔を建てる計画が進んでいる。息子さんもこの話には大乗り気で、自分の代になっても、責任をもって慰霊塔を守ってゆくと言ってくれている。永代供養は、おそらく、何ものかを償うための象徴である。生き残ったものが、生命あるあいだに責めを果たしておきたいという願いを満たす、恰好の喜捨の対象である。自分の死期もそう遠くはない。供養は、戦争で死んだ仲間のためだけのものではない。
大正生れは短命だ、と最近説くものがある。明治生れは、なんのかのといいながら、普通にいけば八十までは固い。どうかすると、九十近くまでいく。しかし大正は精々七十まで。若い頃からの心身の使い方がちがう。ある時代、自分たちの世代が天下をとったという充実感がない。最も生甲斐を感ずべき年齢の時は、戦争の第一線にいた。戦後ゼロから始めて、粒々辛苦して、高度成長の頂点で働き盛りを迎えた。したがって、高度成長の咎めも、一身に受けるべきめぐり合わせにある。これは、恨み言としていっているのではない。恨みをぶつけようにも、相手がない。ただ、戦争で死んだ仲間の視線から、身をかくすすべがないこと、彼らに顔向けできないことが、辛いのである。戦後三分の一世紀。戦中派世代の時代は、はっきりと過ぎ去った。もはやわれわれの中から、新しいものは生れない。無駄に、生命だけ長らえるようなことにはなりたくない。大正生れ短命説が、大正生れの間でいよいよ有力であるのは、根拠のあることなのである。
法要の始まる前、控えの間で茶の接待があった。小まめに振舞って給仕をしてくれたのは、桑田の長男の若妻であった。まだ初々しいほどの人で、赤いスカートがよく似合った。せわしい中で、彼女は墨をすってくれた。私の著書を四、五冊持ってきたものがあって、署名を請われたからである。慰霊祭を控えた寸刻の間に、衆人環視の中で仰々しく著書に自分の名をしるす行為に、私は気恥ずかしさをおぼえた。
この日は朝から、自分の話が終らなければスケジュールが進まないことが、気持を重くしていた。話をするのが不馴れなのではない。戦争の話は、進んでやる気持はないが、断われずに引受けることも時折はあった。戦争の話をするとすれば、今日の聴衆以上にふさわしい聴衆はいないはずである。
今日は、三人の男のことを話さなければならないと、私は覚悟していた。三人ともわれわれの同期であり、「大和」で沖縄に出撃して死んだ戦友である。三人はそれぞれに、関西、殊に京都に縁がある。この席には、学生の頃から海軍時代を通じて、彼らと親しい友人だった仲間も、大勢来ているにちがいない。三人のことは、もちろん私の戦闘記録に書いてある。しかし本人が|じか《ヽヽ》に話をすれば、活字になったものとは違う話が聞けるだろうと、聴衆は期待するらしい。はっきり私にそう言った出席者も、なん人かいた。三人の男のことを、彼らを知りつくした友人にむかって話すのは、語り手として本望と思うべきなのであろう。しかし、これまでなかったことだが、自分のごく身近な戦闘配置で死んでいった仲間のことを語るのが、今日は心苦しくてたまらないのである。
西尾辰雄は、京大農学部出身の美青年であった。戦闘中、艦橋の配置で私と肩を接して立直していたが、機銃弾を脚に受け、出血多量でほとんど即死した。あとには、身寄りのない、ただ一人の妹さんが残された。松本素道は舞鶴出身で、東大経済に学んだ。北の海の育ちらしく、質実で、優しい男だった。詩を愛し、興がむくと、フランス語で詩を書いた。「大和」が沈む十分前、艦が急速に傾斜を増しはじめた頃、下の配置からラッタルを上ってきた彼と、出会った。「もう俺達も時間の問題だな」そう呟く表情は、さめた諦観《ていかん》をたたえていた。
森一郎は、三高から東大へ行き、東大の学徒出陣組の代表として壮行会で答辞をよんだ。酒が強く、気風《きつぷ》がよく、水泳の達人であった。艦が沈没するまで、遮蔽物のない吹きさらしの防空指揮所で、艦長付として健闘した。声をからして兵たちを激励するのを、私自身くり返し聞いている。最後に海中に飛びこみ、立泳ぎをしながら指揮をつづけた。目撃者は沢山いる。それなのに生還しなかったのは、おそらく機銃弾によって、その前後に致命傷を負ったためとしか思えない。戦後、父上と姉が亡くなり、一人残された母上の|いと《ヽヽ》さんは、今年の二月、九十歳で亡くなるまで、ただ息子の菩提《ぼだい》を弔うためにだけ、生きてこられた。耳は聞こえず、筆談を試みても文字が目に入らず、唯一の関心は、飽きずに息子の想い出を語ることであった。息子さんは特に優秀だったから、選ばれて危険な作戦に参加したのだと慰めると、優秀なんかであってほしくなかったのに、と新たな涙があふれ出た。
戦争に生き残ったものが、今のこの安気《あんき》な時代に飽食して、盛りの花を愛《め》でて、短い法要をすませた安堵感に身を任せて、死者への挽歌をうたうべきではない。どのような言葉を駆使しようと、どのような表情を装おうと、彼らの死の光景、死を迎えた時の心情、その生と死の意味について、得々と語ることは許されない。西尾。松本。森。格別に親しかった仲間にむかって彼らの想い出を語ろうとした時、三人の男は、死者としてではなく、眼の前に生きている人間のように、生き生きと蘇った。蘇った死者は、賞讃も慰藉《いしや》も必要としない。われわれは、ただ沈黙するほかはない。
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重過ぎる善意――父のこと
父はあと三カ月で満八十歳になるところであった。半年をこえる闘病で体力はめっきり弱っていたけれども、殊のほか暑かったその年の夏もようやく盛りを過ぎたので、ここまで頑張ればまだ半年くらいはもつだろうと主治医が保証してくれたのに安心して、私たち家族は延ばし延ばししていた夏休みの旅に出た。
平泉の中尊寺、毛越寺から小岩井牧場をまわって盛岡市内に一泊し、翌日は朝早くから八幡平の頂上まで車を走らせて沼めぐりの散歩からもどってくると、「至急東京の自宅に電話せよ」というメッセージがレストハウスに待っていた。取次いでくれたフロントの係員は、「どなたかが亡くなったそうで」と言い添えた。私は長男でしかもほかに男の兄弟はいないのに、父の死に目にあえないめぐり合わせを引きあてたことが申訳なく、医者の楽観的な見通しにうかうかと乗ってしまった軽率さが悔やまれた。しかし、頂上から見はるかす限りのトドマツの原生林と、その上にかかるいかにも夏の高原らしい明るく淡い霧をみていると、すこしずつ気持がしずまってきた。そして出来るだけ早い汽車で帰るから、今晩お通夜をやるということで準備を進めてほしいと、母に頼むことに肚をきめて長距離電話を申しこんだ。
主治医の話では、きびしい炎暑のあと急に思いがけない寒さがやってきたことが、いけなかったのだという。病人をいちばん消耗させるのは暑さとの戦いだと思いやすいが、暑さに馴れた体を襲って体温を奪う冷たい風の方が、もっと恐ろしいらしい。
それは昭和四十六年の八月十八日であった。夜が明ける前から時々呼吸の乱れをみせていた父は、八時頃、「これで吉田茂も終りだな」と独り言をもらした。吉田茂というのは、いうまでもなく自分の名前である。それから枕もとにいる母に向って、「この一生に、なにも思い残すことはないよ」と呟き、やがて二、三度深い深い呼吸をして、動かなくなった。
七十歳代の半ばを過ぎても、軽いリューマチがあるほかは至極元気で、毎日会社に通って仕事をしていた父は、二年あまり前の春、血尿が出て膀胱《ぼうこう》の炎症を手術した。その後はまたすっかり丈夫になり、排尿がすこし近くなっただけで毎日の生活もほとんど元にもどっていたが、この年の初め、真冬の熱海に一人旅をしたとき、暖房が故障していて風邪をひきこんだ。どうも風邪が抜け切らないと嘆きながら無理をして会社に出ているうちに、熱が高く上らない悪質の肺炎にかかっていることが分った。肺炎の症状がやっと収まる頃には手足が見ちがえるようにやせ細り、そこに食当りをおこして腸の機能が一時とまるという不運が重なった。
あとはもう床に就いたきりで、病院にいてもこれといった治療法もないから家に引きとり、ただ老衰の一途、というほかはない経過であった。それでも意識だけはしっかりしていたが、寝こんでから三月目くらいに会社の厄介な要件を持ちこまれ、昂奮して話しこんでいる最中に奇妙な悲鳴をあげてわれわれをおどろかせた。体全体がどこかに引きずりこまれるようで不安でたまらないのだという。そのときを境に時折意識が濁るようになり、あれほど好きで何種類も読みあさっていた新聞も、手にとるとすぐ投げ出して見向きもしなくなってしまった。
父は明治二十四年、一八九一年に富山県の農村に生れ、富山市の中学をおえると東京に出て私立の高商に学んだ。社会に出る頃、日本の経済界は第一次世界大戦の好景気にうるおいはじめており、ある新興の商事会社が、学業才腕ともに特に傑出したもののないこの地方出の学生を喜んでうけいれてくれたことは、幸運だったというべきであろう。そして入社早々から高まる建築ブームを背景に、もっぱら電設工事のセールスを担当させられた偶然が、この青年の一生を支配することになった。父はそれからの六十年の生涯を、この道一筋に捧げることになるのである。
大正の時代に商社マンとして修業を始めたという環境にふさわしく、父は二つの処世術を身につけようと努力したように思われる。それは一種の合理主義と、率直誠実な自己表現法であった。
ここで合理主義というのは、一世を風靡したアメリカの技術者テーラーの「科学的管理法」の影響をうけたもので、日常の行動から一切の無駄をはぶき、きびきびと能率化された生活から質の高い労働、新鮮な着想を生み出そうという発想であった。無駄を嫌う行き方は気の短い父の性分に特に合ったようで、学生時代、家によく来る大工が釘箱をいつも右前方に離して置く癖があり、釘を打つ度に左手の動きのロスが大きいので、左の目の前に置くように注意して感謝されたという話は、父の自慢話の一つであった。また東京の下宿に移ってから毎日道端で見かける乞食がいたが、身の上話を書いた立て札、投げられた金を受ける袋、乞食の坐る場所の関係がチグハグで気に入らず、もっと素直にお客の同情を買いやすくする工夫を申し出て変な顔をされたという話も、よくきかされた。
若い頃身につけた合理主義は、年をへると、小さなもの、狭いものを珍重する「ぜいたく嫌い」に形を変えていったように思われる。住む家、自分の部屋が大きく立派であってほしいという関心が全くなく、身のまわりにおく調度も簡単な実用品でさえあれば文句はいわなかった。そのゆきついた先が、晩年のほぼ十年間、家にいる時間の大半を過ごした「ささやかな城」であった。部屋の隅にベッドを作りつけ、壁面に本箱をめぐらす。足の先においたテレビとラジオ、スタンド、電気毛布などのスイッチは、枕もとにすべて集められている。好きな時にベッドに横たわり、本を読み疲れれば好きなだけ眠る。ベッドからおりて一歩歩けば、いつでも一服いただけるように整えた茶道具の用意があり、そばに煙草盆がおかれている。誰彼の区別なく父はこの城を見せたがったが、たいていの客人は、半ば羨むような半ば当惑したような、ほめ言葉も見当らぬといった不思議な表情で、しばらく立ちつくすばかりであった。
合理主義の別の一面は、酒の飲み方に発揮された。父はなかなかの愛酒家で、休みの日は昼からチビチビやっていることも珍しくなかったし、ワインを混ぜあわせた独特の保健酒を愛飲していた時期もあった。しかし「酒をのんでも酒にのまれるな」が口癖で、二日酔するほど深酒することを最も軽蔑していた。うんと若い頃はともかく、私の記憶する限り父が酔いつぶれたり、翌朝起きられなかったというようなことはなかったと思う。
酒席に出て客の相手をしなければならない機会の多い若い人が、のんでも酔わない方法を教えてほしいとたずねてきただけで、父はもうご機嫌であった。さっそく身振り手振りの指南がはじまる。並べられた料理のうち、まっ先に吸物を平らげる。お椀を下げないように女中にひそかに命じてから目の前に置く。蓋をわずかに傾けると隙間《すきま》ができる。つがれた盃をサッと口に持っていってうまそうに唇にふくむ。この「うまそうに唇にふくむ」ところがコツである。相手がそれを認めた瞬間には、盃が目にもとまらぬ早さで手前に倒され、中身の液体は大部分真下の椀の中に吸いこまれている。と次の瞬間、盃は元の位置にもどって、「一|献《こん》終り!」という次第である。お椀が酒で一杯になれば隣りの席のをとりよせ、最後は灰皿を動員する。その頃は相手も酔眼もうろう、露見した経験は一度もないという。
みすみす酒を捨てるなんて勿体ないですね、などと言葉をはさもうものなら、それこそ思うツボ。のみ過ぎて翌日まで不快感に苦しめられ、そのうえ体をこわすなんて、それこそ勿体ないですな、と反撃されるのが落ちであった。
父が身につけようとしたもう一つの処世術、率直誠実な自己表現法というのは、なによりも偽りない気持を吐露することが自分を正しく理解してもらう近道であり、また相手からも正直な反応を期待しうる秘訣である、という信念に基づくものであった。しかし父はやわらかな婉曲《えんきよく》な言いまわしが苦手で、ズバリと核心をつく断定的な口調が気性にあっていたから、時には誤解を招くこともないではなかった。父はそんなことはいっこうに意に介せず、相手を傷つけたなら「すみません」といさぎよく謝ればよい、そして正しく理解されるまで何度でも説明し直せばよい、と割り切っていた。
遠慮会釈ない大胆な発言が、自分を理解してもらう上でどんな予想外の効果をもたらすかを示す例として、こんな話がある。昭和二十三年の初め、帝銀毒殺事件で騒がしかった頃のこと。まだ平沢は逮捕されず、犯人の人相書きがあちこちに貼り出されていた。父は身長五尺二寸くらいで中肉、特徴は短く刈りあげたゴマ塩頭であった。それに風邪気味ということで大きなマスクをかけて夜道を歩いていると、近寄ってきた眼つきの鋭い男が、いきなり「マスクをとってもらおうか」と声をかけた。待ち構えていたように父が言い返した。「これは面白いじゃないか。そういう失礼な言い方をするのはどんな男なのか、正体を知りたい。いっしょに交番に行こう」と手首を握ってぐっと引っぱった。若い頃から柔道で鍛えているので、屈強な相手もこたえたらしい。やっと振りほどくと、「警察のものですが、これは失礼しました」と、深々と頭を下げたというのである。
次はいい話である。戦争がたけなわになると、父は家族をつれて奥多摩に疎開した。疎開先は青梅線で青梅から四つ目の二俣尾駅に近く、梅林で知られた吉野村であった。通勤時間が片道で二時間近くなることもあるから、なるべく長期間読むにたえる長篇で、しかも魅力的な読み物が欲しくなった。小説好きの友人にきくと、吉川英治という人のものがいいという。父は時代物には馴じまなかったので、これまでまったく読んだことのない作家であった。ところが「宮本武蔵」から読みはじめてみると、これがすこぶる面白く、歯ごたえがあるのである。しかもきけば同じ吉野村に疎開しておられて、歩いても家から十分足らずの距離であることが分った。
こういう場合、思い立ったらすぐに実行せずにはおれないのが父の流儀である。予告もなしに吉川邸の玄関に立って名を名乗ると、ご自身が出てこられた。父は下の土間から見上げるようにして挨拶をはじめた。「失礼だが、私はあなたの書かれたものを読もうと思ったこともなかったんですが、疎開して長い時間電車にのらなければならなくなったので、そのあいだ楽しめる小説はないかと探したところ、あなたの小説を推薦されました。そこで読んでみると、失礼だが、予想外に面白い。その作者が折角近くにおられるのに、このままにしておくのは申訳ないと思って、参上しました」
さすがの吉川氏も、これには苦笑するほかなかったようで、「これまでそういうご挨拶をいただいたことは、ありませんでしたな」と受け流してから、父の生れ年をきかれた。父が一歳年長であることが分ると、「やはり兄貴にはかないません」と、愉しそうな笑い声をあげられたという。それ以後父は、いつでも無断で吉川家の裏口から出入りできる数少ない訪問者の仲間入りを許され、私が四国の特攻基地から復員すると、さっそく気軽につれていって紹介してくれた。
父は反面まことにコマメで律義な|たち《ヽヽ》で、自分の気づいたことはそのまま放っておけず、一つ一つ片付けないと気がすまないところがあった。その一つのあらわれが「買物魔」である。七十を過ぎてからも、好きなものの買物ならどんなに混んだところでもいとわなかったし、暇さえあれば飽きずに珍しいものを探しまわった。買ったものは親戚や知人に次々とプレゼントして、それで満足していた。例えばわが家ではひと頃、鍋だけでも用途や大きさ、形が少しずつちがうものが二十以上もたまって、始末に困ったほどである。
父にはコレクションの趣味はあまりなかったが、例外として熱心に買い集めていたのは、小作りの急須《きゆうす》である。全国どこに旅行をしても、新しい掘り出し物がないかと探し求めた苦心が、棚に並べた三百あまりの急須に実っていた。それぞれを仔細に見ると、形か、うわ薬か、土か、どこかがちがっており、一つとして同じものはなかった。
しかもそれは飾るためではなく、実用に供するのが目的で集めたものであった。毎日一つずつ新しいのを選んでそこからお茶をつぐ楽しさは、こたえられんよと相好を崩しながら、父が掌に入るほどの可愛い急須をふきんで丹念に磨いているのを、よく見かけたものである。
文章を書く労をいとわぬという点でも、明治生れの実業人として、父の几帳面さはきわ立っていたように思う。若い頃は細かな日記をつけたり、小説風の自伝を書いたりしたこともあったらしいが、みな戦災で焼けてしまって、いま私の目で確かめられるのは、「手紙魔」の一面だけである。ことに私が家族をつれて地方暮らしをしていた数年間は、また来たかと驚くほど頻繁に、ドサリと分厚い封筒が送られてきた。粗末な便箋に鉛筆の走り書きで、いち度書きおえてから書き足したいことを思い出すと、どういうわけかきまってすでに書いた便箋の裏を使うのが癖で、合計七、八枚に及ぶ長い手紙が普通であった。
その頃父が手紙でいちばん熱心にとりあげている題材は、小学校の高学年に進もうとしていた私の息子、父にとっては孫のことであった。一例をかかげてみよう。――望君(息子の名前)、外国人の婦人の先生を見つけて、英会話が本当に面白くなった由、心から敬意を表します。望君よ、周囲の人たちが笑ってもよいから、どんどんどんどん英語で喋る練習を繰り返せば、自然と大胆になり、記憶を強くすることにもなるから、思い切って努力することを心掛けて下さい。そうすれば英語が死ぬまで使えるほどうまくなり、一生役に立つでしょう。どんな場合にも、知っているかぎりのことをどしどし勇敢に喋ることだね。――
――先日いただいた望君の作文が、感じたまま、思った通りを上手に書いてあったのには、驚き入りました。これからは一○○点少年≠ニ呼びたいと思います。
ところが次にきた手紙では、ミゾレがたくさん降ったので、ミゾレの下の道と|どぶ《ヽヽ》の区別がつかず、|どぶ《ヽヽ》の中に落ちこんだとか。お気の毒にも、一〇〇点少年の哀れな姿を思い浮かべました。ガンバレ、一〇〇点少年。――
――(これは私と家内あての手紙)望君の日常生活をみると、落着きはある方だが、多少|敏捷《びんしよう》さを欠くやに見受けられ、また同級生に対して指導力が不足しているように思う。これから三十年後には、望君も人を統率する立場に立つ可能性も多分にあるのだから、常に積極的行動と誤りなき判断を身につけるよう、家庭においても充分関心を持っていただきたい。――
その時期、わが家のもう一人の子供、つまり長女の方は中学から高校に進むところで、父の手もとに預けておいたのだが、この孫の成長ぶりについての報告も、父の手紙の主要なテーマであった。――ずっと以前から、未知ちゃん(娘の名前)は朝ベッドから出る時、まるで暴れん坊が床を踏んだような形で夜具をはねのけ、そのまま食事にとりかかることを年中行事にしていました。そこでこの二、三日、夕食後皆が顔を揃えたところで、私が「未知ちゃんに是非お願いしたいことがあるのだが、……それは二十秒以内で処理できることだから……是非とも頼む」とくり返し懇願しました。しかし本人はトッサのことで判断がつかず、けげんな顔をしているので、「アメリカでは、毎朝キチンとベッドを整頓できない主婦は、最下等の女性として笑い者になるそうだ。なにもアメリカ婦人を真似する必要もないかもしれないが、君自身の名誉を思ってね」とつけ加えました。
「わかった」という返事はなかったが、昨日も今日も、ベッドが見事に整頓してあったから、私は二日とも枕のところに、「ありがとう」とひとこと書いた紙を置いておきました。――
父は食べ物にはうるさい方ではなかった。いちばんの好物は子供の頃から親しんだ北の海の大衆魚で、凝った料理や高級な材料は自分から敬遠した。これも大好物の|おから《ヽヽヽ》と|ねぎ《ヽヽ》の味噌汁をうまそうにすすりながら、「天皇はこの味を知らんとは、お気の毒な人だな」と同情する声には、実感がこもっていた。夏の夕食どきには、裸の肩にぬれたタオルをかけ、ノドを鳴らしてビールをのみほすのが得意のポーズであった。
趣味といえば、四十歳代の半ばではじめたゴルフを除けば、無趣味というのに近かった。音楽は|からきし《ヽヽヽヽ》の音痴で、父がおよそ歌らしいものを唱うのをきいたものは誰もいない。戦争前のある日、宴会から帰った父がこんな話をしたことがある。宴が進んで余興の時間になり、地味な感じの女性が座敷に入ってきて何かうたい出した。一曲終ったところで手洗いに立つと、廊下に芸者や仲居たちがいく人も息をひそめて坐っている。なにをきいているのかとたずねると、「お客さん、勝太郎姐さんをご存じないんですか」と反問されたという。「勝太郎て何ものかね。別にどうという歌でもなかったよ」というのが、父の感想であった。
父の家系は数代前に「吉田公均」といって、地方では少々名を知られた南画の画家がいたが、その方の血筋もあまり伝わらなかったらしい。私の息子が小学校で音楽と図工の点がよくないことを知らせてやると、父は返事に慰めを書いてよこした。――私の家では医者をしていて死んだ兄も私も、音楽と図画はいつも十点満点の三点以下であったので、ずい分笑われたりもしましたが、今日まで長い人生を、重大なる支障もなくどうやら過ごしてきました。その意味において、これらの学科の成績が多少悪くても、懸念するには及ばないでしょう。――
その父が、四十歳を過ぎると急に焼き物に興味を持ちはじめたのは、自分でも意外だったらしい。なぜかは分らぬが、どうしても好きでたまらん茶碗や皿があるのは、やはり画|かき《ヽヽ》を生んだ血統というものかな、と述懐していたことがある。戦前には三回、茶碗を求めるためだけを目的に朝鮮に出かけて大いに満足して帰ってきたが、戦災でなにもかも灰にしてしまった。それからはすっかり諦めて、自分から遠ざかっている風であった。
碁将棋、麻雀にははじめから興味がなかったらしい。ある時友人が遊びに来て私が先をもって碁の対局をしていると、父が入ってきてしばらく見ていたが、「少し黒がいいかな」と言って出ていった。その友人が「相当な打ち手だ」と舌を巻くほど、それは的確な情勢判断であった。父はもちろん、碁のルールさえ|ろく《ヽヽ》に知らない。父はあとで、「ただ二人の顔色を見比べただけですよ」と種明かしをしてみせたが、友人は半信半疑の様子であった。
父が徹底して毛嫌いしたものに、映画があった。映画は多種多様な世界を手っとり早く知るのにいいからと誘っても、作り話なんか見ても詰まらん、と受けつけなかった。切符を買って強引に誘えばたまについてくることもあったが、映画館に入っても十分と座席に坐っていない。廊下に出て歩きまわる、煙草を吸う、劇場の施設を点検する、電気設備は専門なので念入りにやるという始末。映写中足もとだけを照らす照明器具の使い方には特に興味があって、案内嬢を呼びつけ、感心すればほめ、気に入らなければ文句をつける。ついていったものはハラハラし通し、ということになる。
そんな父が、唯一の例外的に夢中になってみたのが、「オーケストラの少女」である。み終ってから、あの女の子はいいなあ、とディアナ・ダービンを絶讃したのは、演技や歌をほめたのではなく、父を思う|けなげ《ヽヽヽ》な娘心に打たれたということであろう。ずっとあとになってから、一人だけで二度もこっそりみにいったことを、私に白状した。
映画とはそれほどウマが合わなかったわりには、父は文学好きの部類に属していたといってよいと思う。映画嫌いの延長でテレビのメロドラマなどのぞくのもイヤ、テレビはただニュースとボクシング中継しか見ようとしなかったが、それでたっぷり余った時間は、もっぱら読書にあてていた。時代物に興味がなかったことは前に書いたが、父の好みは石坂洋次郎、舟橋聖一、田村泰次郎、北原武夫、谷崎潤一郎といったやわらかいものに集中していた。父は壮年の盛りでもそれほど精力的であったとは思われないのに、いや、あるいはかえってそのためかもしれないが、ベッドサイドに積まれる本は、年を重ねるにしたがっていよいよ艶っぽいものに重点がおかれるようになった。そういう本の上に|べっ《ヽヽ》甲のつるの老眼鏡がおかれているのは、どこか微笑ましいような風景であった。
田夫野人《でんぷやじん》に近い父の風貌からみて、意外と思われることの一つに「英語好き」がある。特に専門的に英語を学んだわけではなく、海外生活の経験もなかったのに、いつまでも旺盛な関心を持ちつづけていた。戦後の進駐時代には、たまたま電車などで隣りあわせたGIをよく疎開先の家につれてきたが、大学出の士官から、ある英語の表現をえらくほめられて得意になったことがある。当時は食糧自給のために一町歩ほどの畑があり、近くの青年に頼んで農作業をさせていたが、その青年が通りかかった父たち一行にお辞儀をした。士官が「彼は誰か」と質問するのに、父は一瞬口ごもってから、ゆっくりした発音で答えた。「ヒー・イズ・マイ・ファームハンド(農業の働き手)」
父が病床に臥《ふ》してすっかり弱った頃、私の娘の親友でしばしば遊びにきて父とも馴じみが深かったお嬢さんが、見舞いにたずねてくれた。われわれには、それが彼女との最後の面会になるかもしれないという予感があった。父は彼女の顔をじっとみつめていて、思いがけず英語を喋り出した、「ユー・アーノット・ア・ストレンジャー・フォーミー」(あなたは私にとって、|よそ《ヽヽ》の人、見知らぬ人ではない)。父が口にしたのは、英語のこの短い一句だけであった。
父が亡くなってから一年足らずして、彼女ははからずもわが親戚の一員になった。私の姉の息子と結婚したからである。姉は戦争未亡人で、戦後ずっと父と一しょに暮らしていた。その一人息子は父にとって初めての孫であり、年の離れた息子のように可愛がって育ててきた。父の生前、彼と彼女の結婚話はその萌芽も存在していなかったから、死を目前に控えた父に、死にゆく人に特有の直感がひらめいたと思うほかはない。英語の一句を喋りはじめる前に、彼女をじっとみつめていた父の眼のかがやきは、今もありありと思いうかべることができる。
背は低いが引きしまった体格の父は、なかなかのスポーツマンで、学生時代は柔道と水泳と軟式テニスに熱中したらしい。私は小学校に入る前から、毎年の夏を海辺で過ごしてみっちり水泳を教えこまれた。泳法はやや古風な蛙足の平泳ぎで、息の続く限り泳ぎつづける耐久訓練はきつかったが、後年海軍に入って乗艦が撃沈された時、東シナ海の荒波の中を数時間漂流するあいだ、無駄な泳ぎをせず体力を温存することができたのは、自分の泳ぎに充分な自信をもつことのできたお蔭であった。
父の後半生は、ゴルフなしには考えにくいといえるほど、ゴルフに明け暮れていた。中年ではじめたわりには筋がよく、七十歳を過ぎてからも二〇前後のハンディを維持していた。ハイライトは七十二歳のとき、大箱根の東日本シニア・コンペ(出場資格は六十八歳以上)に出てネット七〇で優勝し、首相杯を獲得したことである。ゴルフ新聞の評には、「終始堅実さを維持した見事な勝利」とあった。得点はショート・アプローチで、暇があれば庭で八番、九番のクラブを振っていた。近所の広場でやる時は子供にグローヴを持たせ、それにむかって打つのだが、一〇発打てば九発は確実にグローヴに吸いこまれるほど、コントロールは絶妙であった。
父は二十五年勤めあげた商事会社から昭和十三年に独立し、友人二人と組んで小さな電設工事専門の会社を興した。駒沢クラブのメンバーになってゴルフを始めたのもその頃だが、昨今とはちがい中小企業の|おやじ《ヽヽヽ》でゴルフ・クラブをふる人などまったくない時代だったから、その道の先駆者といってよいであろう。戦後のゴルフブームの到来は、この先駆者に、「教え魔」として思う存分活躍するチャンスをあたえた。同業の仲間や後輩、学校友だちで、父から強引にすすめられ、しぶしぶ始めた経験をもつ人は、おそらく百人を下るまい。きっと好きになると見当をつけた相手には、黙ってクラブをワンセット送りつけ、本気でやる気になったら代金を支払えという条件で、手とり足とり教えこむという戦法であった。若い後輩の教え子たちは、どんどん父を追い越してうまくなっていったが、道を開いてくれた父にはいつまでも頭が上らなかったようで、「あの時無理矢理に誘われていなかったら、私の人生はよほど詰まらんものになっていたでしょうな」といった感謝の言葉を、よくきかされたものである。
私はその点まことに不肖の子で、運動神経が鈍いうえに不精者ときているから、父は早いうちに匙《さじ》を投げてしまった。その代りに姉の息子がみっちり仕込まれ、彼もその期待にこたえて熱心に練習を積んだ結果、三十歳になる前に準シングルの腕前になって父を喜ばせた。
父がまださかんにプレーしていた頃、そのフォームをスローモーションで八ミリに収めたことがある。現像が出来るのを楽しみに待っていたが、映写が終っても、こういうことには一家言のある父が一ことも言葉を発しない。もう一度うつしてくれといって見終ると、ようやく告白をはじめた。「なんと不様《ぶざま》な、おかしな恰好だろう。こんなぎごちないフォームで打っていたとは、夢にも思わなかった。これで百人もの人にえらそうに教えてきたなんて、恥ずかしいな」
しかし教え子たちの証言によれば、父は折紙つきの名教師であった。ともかく熱心なのである。相手が筋の悪い初心者でも、倦《う》むことをしらない。口が悪いのが玉にキズだが、自分が中年ではじめて体で会得したゴルフだから、指導が理屈に走らず実際的で、素直に受け入れれば必ず為になった、というのである。
父は善意の人であった。身内からいうのもおかしいが、やや誇張していえば、父の善意には底がなかった。ある人につくそうと思い立つと、たとえばなけなしの土地を分けてやる、ゴルフの会員権を譲り渡す、思い切って豪華なプレゼントを贈りつづける、希望はなんでもきいてあげる。しかも当の相手に、それだけのことをしなければならない客観的な理由はなにもない場合に、そうなのである。ひとたび相手に好意を持つと、抑えがきかなくなってしまう。どこまでも善意を貫いて振舞えることが、ただうれしくてたまらないという風であった。
他人にたいする底なしの善意に比べて、自分自身や身内への配慮が水のように淡いのは、不釣合いのように見えた。戦災による被害をまともに受けた不運はあるが、父の死後には家族が住む粗末な家とわずかな土地と、会社の非上場株券が若干あるだけで、未亡人である姉への細心の配慮をのぞけば、上場株や預貯金、保険といった貯えは、ほとんど残されていなかった。他人にはあれほど|しつこく《ヽヽヽヽ》不動産投資や保険への加入を勧誘したのに、みずからは「宵越しの金は持たぬ主義」で、蓄財というものの意味を軽んじていたのではないか、と思えるほどである。
しかし父という人間が身につけていた持味を今ふり返ってみると、これこそが最も父らしい生き方だったのだな、と合点がゆく。自分の利害を中心に行動するなどという気持は、もともと持ちあわせない人であった。この点は、いく分かその生い立ちとかかわりがあるかもしれない。父が時折半ば冗談めかして述懐するところによれば、吉田家は富山県の本籍地(中新川郡上市町字江上)に移る前は、京都の公卿《くげ》の家柄であり、さらにさかのぼれば何代目かの天皇家から臣籍降下して作られた名門であるという。その証拠には家紋がまさしく十六の菊の紋章で、提灯、屏風その他家具一式にこの御紋がついていたため、子供のころ家から葬式を出したときには、紙をはって菊の御紋をかくすよう政府から厳命されたという話もしてくれた。事実、父がひと頃愛用していた薬缶《やかん》は金をはった見事なもので、一面に十六の菊の紋がちりばめられていた。
そうした由緒のある吉田家も、祖父の代まで何代か当主が続いて若死にするという不運から没落し、今は父の兄一家が住む程度の土地が残っているにすぎないが、鷹揚で底なしに善良な父の性格の中には、その家系の血が流れているのかもしれない。
さて、「重過ぎるほどの善意」は、あたえる側からみれば、それが出来るというだけでも有難いことにちがいないが、これを受ける側からみれば、どういうことになるのであろうか。善意は重ければ重いほど、より多く感謝されるのであろうか。私の推測では、事はそのように単純ではない。人が受け入れられる善意には限度があり、限度をこえれば、人はその場から逃げ出すほかない、というのが私の推測である。
父とのつながりがそれほど濃くないのに、思いがけず重過ぎる善意をあたえられた人は、ほとんど目立たぬように父の眼前から消えていき、二度と父の視野には入ろうとしなかった。背負い切れぬほどに重い善意は、むしろ苦痛をあたえるものなのかもしれない。
父はそのことに、ひとことの感想ももらさなかった。話題がその人たちにふれることがあっても、黙っていた。重過ぎる善意は逆に人との交わりを裂くおそれがあるとしても、自分の性分でそれが抑えられないのだということを、父はよく知っていたのであろう。
父の葬儀のとき、参列者の人波の中に、重過ぎる善意を負い切れなかった人たちが、なん人か含まれているのを見ることができた。
父は「生」への執着のうすい人であった。私が学生の頃は、息子が大学を卒業してひとかどの社会人になるのを見とどければ、いつ死んでもいいとくり返し言っていた。戦争で家と本と大事にしていた焼き物をすべて失い、会社の社屋をとりこわされ、仕事の顧客の大半を奪われ、娘の主人に戦病死されてさすがにひどく落胆し、もう一度人生をやり直すだけの気力があるかどうかと自分で危ぶみながら、嫡子である私が無事復員してきたのだから、本当にもう死んでもいいのだ、とくり返し言っていた。その時父は、今の私と同い年の五十三歳だったという計算になるのだが、そのことはなかなか信じ難い。今の私よりも、ずっと年長だったような気がしてならないのである。
父の晩年でいちばん淋しかったのは、やはり昔からの親しい友人が次々と世を去ってゆくことであったろうと思われる。お互いの片方が死んだら、残った方が葬儀委員長をやろうと語り合っていたらしい数名の友人も、みな先にいってしまい、一人だけ残っていた親友は、父と同じ頃病いに倒れた。はじめはお互いに病状を案じあっていたが、父が死ぬ二カ月くらい前に亡くなったという知らせがあった。しかしこの事実だけは、どうしても父に伝えることができなかった。父の方からも、その親友の容態について、ふしぎに何の質問もないままに終った。
吉田家の墓は富山県の郷里の在にあるのだが、遠くて不便で墓参も困難なので、身内に不幸があったのを|しお《ヽヽ》に、父の亡くなる二年前、小田急線の生田に墓地を買い求めた。父は結局前後三回、お彼岸にその墓地に出かけたが、珍しいところに行くと持前の好奇心で元気に歩きまわるのが癖であるのに、その時だけは大変おとなしく、わが家の墓から少し離れたところにひとりたたずんでいた姿が、印象に残っている。
父は、自分が死んだら葬式はなるべく簡素にやってほしい、身内だけでとむらってもらえればいちばん有難い、といつも言っていたが、長年一つの会社を主宰していた関係で会社葬ということになり、青山斎場の告別式には千人をこえる方が参列して下さった。家によく出入りしていた知合いの一人は、「男と生れたからには、このくらいの葬儀をやってもらえるだけの人生を持ちたいですね」と言ってくれた。
父が死んでから一年あまり、私は地方勤務で一人暮らしをしていたが、居間、書斎、寝室を兼ねた一室の壁に、父の写真をかけておいた。正確にいえば、まだ元気でゴルフに精を出していた頃の陽やけした笑顔のカラー写真を、陶器の皿に焼きつけたもので、父自身が気に入って自分の部屋にかけていたのを、もらってきたのであった。
一人暮らしだから、ふだんその部屋で言葉がかわされることはない。静かに坐っていると、父と二人で、向きあっているような気持になってくる。狭い部屋だから、隅々まで父の眼がとどくように思えてくる。そんな日を過ごしているためか、父が死んだという実感は、なかなか湧いてこなかった。
父がもういないのだということをやっと実感できるようになったのは、東京に帰ってしばらくしてからである。父がいなくなってから、今年の夏でもう丸五年になる。その五年の歳月の重さが、父の死の実感をさらに濃くしているのかもしれない。親は生きている限り、子供を死から隔てているのだという。親が元気な間は、子供は死がまだ自分とは無縁のものだと割り切って平気でいられる。しかし親が死ぬと、子供を死から隔てていた壁がなくなり、子供は|じか《ヽヽ》に死と向きあうことになる。こんどは子供の番なのである。
父が死者の仲間入りをしたのだという実感は、子供である私を、たしかに死に近づけさせるようにはたらく。死に近づこうとする位置から父を見ると、そこには一人の人間の輪郭のはっきりした人間像が、改めてうかび上ってくる。「重過ぎる善意」を惜しみなくあたえることを許された人。最期の時に、妻にむかって、この一生に何も思い残すことはないと明言できた人。父は幸せな人であり、自分が幸せであることを知っていたのだ、と確信してもいいように思われてくる。そして子供として、これほど有難いことがほかにあろうか、と思われてくるのである。
[#地付き]〈了〉
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あ と が き
[#地付き]吉田 望
父が逝った数日後のことである。出版社の方から、父がここ数年に書いたエッセー、評論を一冊にまとめる意図を持っていた、ということを知らされた。その後、父の勤務先から戻ってきた遺品の中から、思いもかけず本のための目次の試案メモが見付かった。この本は、父の試案をすべて生かしたうえで、さらに、戦後すぐに書かれたエッセーや、遺稿≠ニいうかたちで発表されたものを含む近年の文の中から、何篇かを選び編集したものである。
巻頭の「戦中派の死生観」の草稿は、父が八月中旬に病床で母に口述筆記させた。句読点、改行も細かく指示し、その口調にはよどみがなかった。原稿が完成したのは死の三日前だった。父は横たわったまま、点滴が外される僅かな時間に、足を組み合わせた窪みに用紙を置き、最後まで書ききったのである。
父は、死の直前まで、退院後のスケジュールを口にしていた。私たちは、生きようとするその意志の力に強い印象を受けていた。父の心臓が止まったのは、自分の身体に取り付けられた種々の器具の意味と効果について、医師に尋ねている最中のことであった。
「戦中派の死生観」の原稿を読んだ後も、私たちは、父が死を覚悟していたかもしれぬということを、なかなか信じることが出来なかった。そればかりではない。私は「たわむれだけど」と笑いながら次のような詩を手渡されるまで、鏡も少ない病室で、父が自分の痩せ衰え方に気付いているとさえ、思っていなかった。
やせた
肥満型のこの初老の男は
四十日で十五キロやせた
見事にやせたものだ
病気はなるほど手加減をしない
呼吸を苦しくしていた水が抜け
人間らしくなったと思ったら行き過ぎた
洗濯板どころではなく
テントのへこんだ屋根のようにお腹がへこんだ
第二肋骨の先が欠けているところに
指がすっぽり入る
胸骨や腰骨は
アルプスのような角度でそそり立っている
寝返りを打てば 背骨がきしみ
膝をかかえれば 竹籠を抱くようである
足は
足というよりも剥製の鳥の脚であり
腕には無数の種類のシワが寄る
全身を眺めていると
ガンジーのハンスト姿を思い出す
ユダヤ人の捕虜たちとは
幸いまだだいぶ距離がある
このやせさらばえた五十キロの肉体は
しかし私に与えられた大切なものである
私には もはやこれしかない
ここから
ふたたび元気よく出発しよう
私は詩を読み終えて、思わず父の顔に目をやった。父は気持ち良さそうに病室の窓から雲を眺めていたが、私の方には顔を向けず、話し始めた。
「どうだい、頭の方は健康だろう? 能力的には平常時の九割、いや八割五分といったところかな。毎日眺めていると、雲の形だけで季節がわかるようになるね。ほら、秋の雲だ。見てごらん」
私は窓に近づき、雲を眺めるふりをしたが、涙に曇った目に、雲の形は定かでなかった。父の次の言葉を待っていた私は、しかし、父がすでに寝息を立てているのに気付いた。
私たち家族に対する父の態度を「まるで大きな翼で守っているようだ」と評した人がいる。父は家の中で愚痴や不平を洩らしたことがなかった。父がいつ仕事をしているのかも私にはよくわからなかった。私が親しく思い出すのは、よく気がつき、やさしい心づかいで家族の買物や旅行に気軽につきあってくれた父、多趣味で、ときには茶目っ気を出してトランプ手品などを演じてくれた父の姿である。
昭和三十二年二月から二年一カ月、仕事でニューヨークに単身赴任したとき、父は往復の飛行機の旅を含めて、毎日、家族に絵ハガキを出しつづけた。総計七七三通の絵ハガキには、父の毎日の行動が細かく記されていて、海を隔てていても父がすぐそばに居るようだったと母は言う。
父は、多忙な生活のペースを、身体に変調をきたしてからも、入院するまで変えようとしなかった。幾分、自らの命を粗末に扱ったといえるかもしれない。あるいは、社会的に成功することや、幸せな家庭を築くということと、かつての戦友たちの鎮魂を書きとどめ、死者の残した問いを問い続けることとは、どこかで矛盾するという思いを、父は心の奥で感じていたのではないだろうか。五十歳の誕生日に、父が家族の前で言ったこと、「自分に課せられた社会的な責務は一応果して来たように思う。これからは自分が長い間考え続けてきたことをやっていきたい」という言葉に、そうした父の思いがこめられていたような気がする。
父が死んで、四カ月が過ぎようとしている。朝、眠りから醒めかけたとき「ああ、今日もおやじはいないな」と思う。だが、まだ父の死を完全には了解できず、一瞬父が長旅に出かけているような錯覚に陥ることがある。父が自分の父の死を契機に「重過ぎる善意」としてその生涯を考えたように、私も父の心の軌跡を一歩一歩辿ってみたいという想いは、今ますます強くなっている。この本は、その意味から、私にとっても貴重な遺産である。
なお、本書中の「海軍という世界」「伝説の中のひと」「伝説からぬけ出てきた男」「観桜会」の四篇は、北洋社刊『散華の世代から』に収録されており、北洋社の御好意によって再録させていただいた。また、父の著書を読んで下さっていた、著名な画家、安野光雅氏に素晴しい装釘をしていただいたこと、文藝春秋の皆様はじめ多くのひとびとに、出版について尽力していただいたことを、深く感謝している。
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初出紙誌一覧[#「初出紙誌一覧」はゴシック体]
T
戦中派の死生観(絶筆)
文藝春秋/昭和五十四年十一月号
戦後日本に欠落したもの
季刊中央公論・経営問題/昭和五十三年春季号
青年は何のために戦ったか
諸君!/昭和五十一年七月号
戦中の青年たちは何を読んだか
歴史と人物/昭和五十一年五月号
三島由紀夫の苦悩
ユリイカ/昭和五十一年十月号
書いても書いても書いても……
季刊藝術/昭和五十二年夏号
『戦艦大和ノ最期』をめぐって
歴史と人物/昭和五十四年五月号
死者の身代りの世代(遺稿)
諸君!/昭和五十四年十一月号
U
死・愛・信仰
新潮/昭和二十三年十二月号
病床断想
わかあゆ 十号/昭和二十五年
一兵士の責任
論争/昭和三十七年九月号
(原題「戦中派の良心」を著者改題)
異国にて
新潮/昭和三十四年十二月号
(原題「『戦艦大和』異聞」を著者改題)
V
若者に兆す公への関心
プレジデント/昭和五十二四月号
「五十年」〜「決別」
『日本経済新聞』コラム「あすへの話題」
昭和五十三年一月九日〜六月二十六日の毎週月曜日に二十四回掲載(但し一月十六日のみ休載)
霊のはなし
オール讀物/昭和五十一年十二月号
W
ニューヨークの三島由紀夫
俳句とエッセイ/昭和五十一年十一月号
黒地のネクタイ
ユリイカ/昭和五十二年十二月号
めぐりあい――小林秀雄氏
毎日新聞/昭和五十四年五月二十三・二十四日
島尾さんとの出会い
カイエ/一九七八年十二月臨時増刊号
谷間のなかの日系二世
世界週報/一九七六年十月十二日号
映画『八甲田山』
桜桃 二十二号/昭和五十二年夏
江藤淳『海は甦える』
諸君!/昭和五十一年四月号
海軍という世界
勝海舟全集 第十六巻月報/昭和四十八年三月
同期の桜
文藝春秋デラックス/昭和五十一年十月号
青年の生と死
婦人之友/昭和五十三年四月号
伝説の中のひと
文藝春秋/昭和五十年三月号
伝説からぬけ出てきた男
文藝春秋/昭和五十一年四月号
観桜会
季刊藝術/昭和五十四年夏号
重過ぎる善意――父のこと
季刊藝術/昭和五十一年夏号