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春、バーニーズで
吉田修一
目 次
春、バーニーズで
パパが電車をおりるころ
夫婦の悪戯
パーキングエリア
楽 園
[#改ページ]
春、バーニーズで
もしかすると、未だに若い男に入れあげて、精も根も尽き果てているのかもしれない。それとも少しは利巧になって、若い愛人が部屋を出ていくときには、貴重品をどこかへ隠すぐらいの図太さを持てるようになっただろうか。
あのころでさえ、ドモホルンリンクルを使いはじめるには十年遅すぎると嘆いていたのだから、現在、五十の大台に乗っていないわけはないのだが、今日の夕方、新宿のバーニーズ・ニューヨークで懐かしく再会したその人は、相変わらず花柄の派手なシャツを着て、指には大きなエメラルドの指輪をはめて、どこかバーニーズの客にしては垢抜けない青年を連れていた。
筒井は来週に迫った息子文樹の入園式用に、シャツとネクタイを新調するため、妻の瞳に引っ張り出され、久しぶりに新宿まで買い物に出てきていた。「シャツやネクタイなら聖蹟桜ヶ丘の駅前にだって売ってるよ」と、玄関を出る直前まで抵抗したのだが、「どこのお父さんだっておしゃれしてくるんだから、あなただけいつものネクタイじゃ、みっともないでしょ」と咎《とが》められ、「文樹はいつものパパのほうがいいよな?」などと、四歳の息子に助けを求めてみたのだが、仮面ライダーアギトの変身セットを買ってやるという密約が成立しているらしく、味方になってはくれなかった。
バーニーズ六階のスーツ売り場で、最初にその人の視線に気づいたのは瞳だった。「早くおもちゃ屋に行きたい」と太腿《ふともも》に抱きついてくる文樹を、脚だけであやしながら、鏡の前で瞳が選んでくるネクタイをシャツに合わせていると、「ねぇ、さっきからあの人があなたのことをジロジロ見てるんだけど、知り合いじゃないの?」と言われ、何気なく振り返ったフロアに、その人が立っていた。
筒井が顔を向けると、その人はまるで鼻っ柱をとつぜん弾かれたような動揺を見せ、慌てて視線を逸《そ》らした。無理にエレベーターのほうへ捻《ひね》った首が、見るからに痛々しかった。
「知ってる人?」と瞳に訊かれ、「いや、知らない」と筒井は答えた。その人の横には、まだ学生らしい若い男が立っていた。
筒井が改めて鏡に向かっていると、ほかの客たちの視線を気にして、ひどく恥ずかしがっているその青年の痩せたからだに、その人がとっかえひっかえシルクのシャツを合わせている様子が映っていた。
声が大きすぎるのか、それとも中年男の風体で女言葉を話しているからか、「この色はちょっと品がないわ。こっちのほうが似合うわよ」などと意見を述べるその人のほうへ、客たちの視線が集まっている。
鏡に映る二人の様子を眺めている筒井のもとへ、新たなネクタイを持ってきた瞳が、「ねぇ、あの人に頼んだら、あなたの服なんてすぐに決めてくれそうね」と笑い、「オカマさんかな?」と問うので、「さぁ、どうだろ……」と言いながら、筒井は手にしたネクタイの値札を眺め、「なぁ、こんな高いの無理に買うことないんじゃないか?」と話を変えた。
結局、そのフロアではシャツだけを買った。下の階で、素材のいいセーターを一枚探したいと言い出した瞳のあとについて、文樹と手を繋ぎ、エスカレーターのほうへ向かう自分を、その人がちらちらと見ていることに、もちろん筒井は気づいていたし、会釈でもしようかと何度もそちらへ顔を向けてもいたのだが、筒井が見れば、その人が顔を逸らし、筒井が歩き出せば、またその人が見る。ただ、歩みの遅い文樹を抱きかかえ、エスカレーターに足をのせる直前、一瞬その人と目が合った。筒井は慌てて微笑んだのだが、すでに両足はエスカレーターの上で、せっかくの笑顔もそのフロアには残せなかった。
筒井がその人と暮らしていたのは、今から十年近くも前のことになる。きっと自分も、さっきの青年と同じような仏頂面で、「これが似合うわよ。もっと小奇麗な格好しなさいよ」などと言われながら、あの人の横に突っ立っていたのだろうと思う。いつだったか、あの人に連れられて、ニューオータニの天麩羅屋へ行ったことがあるのだが、隣のテーブルにどこかで見たことのある青年が座っていて、その家族らしき人たちと愉しげに夕食を囲んでいた。
「なぁ、隣にいる奴、もしかして俺の前に、一緒に暮らしてた奴じゃないか? 前に写真で見せられたような気がするんだけど。ほら慶応かどっかの大学生」
筒井がそう小声で尋ねると、その人はいつになく真剣な顔になって、「違うわよ。あんまりジロジロ見ないの!」と、声を殺して注意した。ジロジロ見るなも何も、「あらぁ、この海老のぷりぷりしてること」「まあぁ、このお塩の美味《おい》しいこと」などと、いちいち奇声を上げるその人を、その青年の父親がさっきからどれほどジロジロと睨んでいたことか。
その夜、「ほら、絶対にこいつだったよ」と筒井はわざわざ写真まで持ち出して食い下がった。その人は、懐かしそうにしばらくその写真を眺めていたが、「あんただって、自分の親と一緒にいるとき、私なんかに声かけられたら迷惑でしょ?」と、写真を床に投げ出し、ごろんと寝返りを打ってしまった。
「そ、そりゃ、迷惑だけどさ。でも挨拶くらいしたっていいんじゃないか? 別に一緒に暮らしてましたなんて言わなくてもいいし、それに、あとでいくらだって言い様はあるよ」
「言い様って、一体あとでなんて言うつもりよ?」
「だから、ほら、たとえば……『あいつさ、俺に惚れてる近所のオカマなんだよ。迷惑してんだ』とかなんとか」
「それもひどい言い様だわね。結局、迷惑してんじゃない」
「挨拶もしないよりは断然いいと思うけどなぁ……。だってちょっと淋しすぎないか? 久しぶりに顔を合わせたのに」
筒井はパンツ一枚になってベッドに入った。そして、すぐに抱きついてこようとするその人を腕で強く押し返した。
「あんたに何が判るのよ? あんたが毎晩借りてくる、乳のデカい女ばかり出てるアダルトビデオ、その延滞料を払いに行かされる私の淋しさに比べれば、家族の前で無視されるくらいなんてことないわ」
その人はそう言って、もう一度抱きついてきた。
「やっぱり、さっきのネクタイ買ってくるよ」
筒井がそう呟いたとき、瞳は、「これだったら、お母さんも着れるかな?」などと言いながら、淡い色のカシミヤセーターを鏡の前で胸に当てていた。同居している義母に、またいくらか小遣いをもらってきたらしい。
「さっきのネクタイって、黄色に黒のドットが入ってるやつ?」
「そう。それ」
「どうしたの、急に? 買うんならさっき買えばいいのに」
「ちょっとここで待ってろよ。今、上に行って買ってくるからさ」
筒井はそう告げると、飾ってあるスカートのなかに潜り込もうとしていた文樹を抱き上げ、三階から六階までのエスカレーターを一段飛ばしで駆け戻った。
筒井が、瞳の実家で暮らすことを決心したとき、義母は声を震わせて喜んでくれた。当時、まだ一歳半だった文樹を抱きしめ、「この子のいい父親になってあげてください」と、筒井がいくら制止しても、何度も何度も畳に手をついて頭を下げた。今年四歳になった文樹には、「お父さんというのは二人いる」と今はぼやかしているのだが、いつか「本当の父親ではない」と告げなければならない日が来るはずだ。ただ、きっとそのときには、本当の父親になっているだろうと筒井は思う。
その人は、まだ六階フロアにいた。相変わらず、恥ずかしがる青年を鏡の前に立たせ、ああでもない、こうでもないと、せっかく店員が勧めてくれるシャツに何かしら文句を言っていた。
文樹を腕から下ろし、手を繋いでその人の背後に立った。気配を感じたのか、ゆっくりと振り返ったその人が、筒井の顔を見るなり、また慌てて視線を逸らそうとする。
「久しぶり」
筒井は本当に久しぶりにその人の名を呼んだ。ほとんど十年ぶりに、その名前を口にした。
その人はまだ警戒しているようで、筒井の背後に瞳がいないことを確かめ、次に、自分をきょとんと見上げている文樹に視線を落とした。本当に言葉を返してもいいのかどうか、まだ迷っているようだった。
「俺だよ、俺。覚えてない?」
筒井が一歩前へ出ると、その人が一歩下がって、店員にぶつかる。しばらくのあいだ、退屈そうにそんな筒井たちの様子を眺めていた連れの青年が、ちょうどよかったとばかりにその場を離れ、ぶらぶらと靴売り場のほうへ歩いていく。
「ほら、昔、俺もあいつみたいに買い物に付き合わされて、文句ばっかり言ってただろ?」
筒井はそう言いながら、向こうへ歩いていく青年の背中に目を向けた。
「あ、あら、そうだったかしら? で、でも、ほら、あんたにとったら、私は生涯で付き合った唯一のオカマかもしれないけど、ほら、こっちにしてみたら、ほら、あれよ、もう何十人も何百人もいるあれの、ほら、なんていうか、そのなかの一人にすぎないんだから、そう急に思い出せって言われても……ほら、あれよ……」
その人が自分のことを覚えていることは、そのしどろもどろな説明で充分に判ったのだが、こうやって相手に好意を示されるとすぐに、憎まれ口を叩くのがこの人だったなぁ、と思い出し、「覚えてないんだったらいいよ。なんだよ、せっかく戻ってきたのにさ」と言い返し、筒井はわざとその場を立ち去るふりをした。
「あ、ちょっと待って。今、思い出しそうなんだから……」
慌ててその人が呼び止める。筒井は改めて振り返った。
「ほんとに久しぶりだね」
筒井が笑顔を向けると、その人も懐かしい笑顔を見せてくれた。
「その子、あんたの子なの?」
「そう。俺の息子」
「そっかぁ。あんたも今じゃ、人の親なのね。名前は? 名前はなんていうのよ?」
「文樹。筒井文樹。……菅原文太の『文』に、成田三樹夫の『樹』」
「あら、二人とも私の好きな俳優じゃない」
「知ってるよ。それでこの名前にしたんだから」
「……え? う、嘘でしょ?」
その人の大袈裟すぎる驚き方も、不自然なほどの内股も、昔とまったく変わらなかった。
「ほ、ほんとにそれで文樹って名前にしたの?」
「……まさか」
「だ、だわよねぇ。もう、びっくりしちゃうじゃないのよ」
その人は昔と同じやりかたで、何度も肩を叩いてきた。妙に腰をくねらせる優雅なリズムで、何度も何度も嬉しそうに文樹と手を繋いだ筒井の肩を叩いてきた。
京王線の特急電車がゆっくりと新宿駅を出発し、長いトンネルを抜けて笹塚駅を通過するころには、歩き疲れたのか、すでに文樹は寝息を立てていた。蛙のように脚を縮めて、筒井の膝に座る文樹は、その小さな頬をぺったりと筒井の胸に押しつけている。規則正しい呼吸のたびに、熱い息がシャツを通して胸に伝わってくる。長いトンネルを抜けた途端、電車は一身に夕日を浴びた。窓から差し込むその光が、つり革を握る乗客たちの指をオレンジ色に染めて動く。人それぞれ、つり革の握り方も違う。
買い物を済ませ、バーニーズを出るときに、「ちょっと早いけど、どっかで晩めし食ってくか?」と筒井は尋ねたのだが、「これ以上いると、文樹がぐずりだすし、それにお母さんが、今晩ちらし寿司つくるって言ってたから帰りましょうよ」と瞳に言われ、人でごった返すアルタ前の横断歩道を駅へ渡った。
聖蹟桜ヶ丘駅に到着したときには、すでに日も暮れていて、電車のなかから瞳が携帯メールを打っていたらしく、改札を抜け、バスターミナルに出ると、義母の運転するパジェロミニが通りの向かいに停まっていた。筒井たちの姿を見つけると、義母はプップーッと軽快なクラクションを鳴らした。
筒井はまだ寝ぼけている文樹を腕から下ろし、「ほら、おばあちゃんが迎えにきてるぞ」と無理に歩かせた。
休日の聖蹟桜ヶ丘駅前には、筒井たちとどこか似ている家族連れも多かった。幼い子供の背中を押して、バスに乗せようとする若い父親、自転車の前にも後ろにも子供を乗せて、懸命に自転車を漕いでいる若い母親、そして、アイスクリーム屋のショーケースの前で孫を抱き上げ、中を覗かせているソフト帽の老人。
「ねぇ、さっき電車のなかで何考えてたのよ?」
文樹の手を引いて横断歩道を渡っていると、ふと瞳にそう訊かれた。筒井が、「え? なんで?」と尋ね返すと、「なんかニヤニヤしてたじゃない」と笑う。
「別にニヤニヤなんかしてないよ」
「してたわよ。調布を過ぎて、前に立ってる人がいなくなってから、窓ガラスにあなたの顔がずっと映ってたもん。なーんかニヤニヤしてた。いいことでもあった?」
「いいこと?……別に」
後部座席に乗り込む文樹の背中を押し、デパートの紙袋をなかへ押し込んでいると、「何、買ってもらったの?」などと文樹に話しかけていた義母が、「あ、そうだ。さっき新井部長さんから電話があってね、『明日の午後から呉のほうへ、二、三日出張してもらうことになりそうだから用意してきてくれ』って」と言う。
「部長から? あ、そうか、携帯持ってかなかったんだ」
後部座席のドアを閉め、逆へ回って助手席に乗り込もうとすると、すでに文樹を抱いて、後ろに座っていた瞳が窓を開け、「あ、ごめん。自転車に乗ってきてよ。この前、買い物に来たとき、急に雨が降り出しちゃってバス使ったの。駐輪場に置きっぱなしになってるのよ」と言う。
筒井は舌打ちしながらも、助手席へ回り込む足を止めた。開いた窓のなかから、「……でね、パパのお友達にも会った」と話す文樹の声が聞こえたが、義母は車の運転に集中しているらしく、「あら、そう。よかったねぇ」と答えながらも、繰り返しサイドミラーを確認していた。
「じゃあ、帰りにスポーツクラブに寄ってサウナ入ってくるよ」
筒井は歩道に立って、車のなかの瞳に告げた。
「遅くならないでよ」と言うので、「晩めしまでには帰る。水分取らずに戻るから、ビールをギンギンに冷やしといて」と片手を上げ、恐る恐る走り出した義母のパジェロミニを見送った。
駐輪場へ入ると、自転車はすぐに見つかった。どのあたりに停めたのか、瞳に聞いていたわけではなかったが、なんとなく歩いていった方向に、その自転車は停めてあった。きっとこういうことなのだろうと筒井は思う。あのころ、もしもあの人がどこかに自転車を停めっぱなしにしていたとして、自分はそれを見つけだすことができただろうか。いや、どんなに必死に捜しても、絶対に見つかるはずがないという気持ちが先に立って、永久に見つからなかったような気がする。
今日、バーニーズの六階で、文樹の手を握ったまま、その人と久しぶりに話していて、ふと気づいたことがある。言葉にすると、少し大袈裟かもしれないが、うんざりするほど誰かに愛されたことのある人間は、うんざりするほど誰かを愛する術《すべ》を身に着けるのかもしれない、と。
「それにしても、あんたがパパだもんねぇ、私も年をとるはずよ」
アルマーニを着せられた、もの言わぬ若いマネキンに囲まれて、その人は何度もそう呟いていた。靴売り場のほうへ歩いていった連れの青年を目で追いながら、「あの子みたいに若いうちによ、こうやって私がいくらセンス磨いてあげたって、結局はみんな、今のあんたみたいな、その辺にゴロゴロいるような子連れのパパになっちゃうのよねぇ。なんだか、やるだけ損してるみたいな気がしてきたわ」と。
妻の自転車を駐輪場から出して、筒井はスポーツクラブへ向かった。これからレストランにでも向かうのだろう家族連れを避け、傍らを抜き去ってゆく車のヘッドライトに伸びる自分の影をタイヤで踏みつけ、新興住宅地らしい整然とした街並みを走り抜けた。
スポーツクラブの受付で会員証を提示して、混雑しているロッカー室で服を脱ぎながら、横にあった全身鏡でふと自分の姿を眺めた。その辺にゴロゴロしているような子連れのパパ……。シャツを脱げば、贅肉《ぜいにく》のついた腹が映る。
『本日六時三十分より、一階のエアロビクススタジオにて初級クラスが始まります。受付にてご予約を承っておりますので、参加をご希望の方はお気軽にお申し付けください』
天井のスピーカーから響くアナウンスを聞きながら、筒井は腰にバスタオルを巻いて、ロッカー室からサウナへ向かった。休日のスポーツクラブは混んでいて、ジャグジーにはからだを滑り込ませる隙間もない。仕方なく、シャワーブースでからだを濡らし、冷水器の水を一口飲んでからサウナに入った。ジリジリと時間だけが動くなか、三分もすると、濡れた肌にじわっと汗が吹き出して、鼻の先からポタッと汗の雫が落ちる。落ちた雫《しずく》が、白木の床に水玉模様をつける。
何が原因で、あの人のマンションから逃げ出したのか、今、筒井はそのときのことをまったく思い出せない。もしかすると、そこを──、なんの苦労もなく生活だけはできたその場所を、逃げ出す理由さえ見つけられない自分に焦り、そして怯えて、飛び出してしまったのかもしれない。愛せない人に愛されることに罪悪感を感じたと言えれば格好もつくが、実際には、愛せる人を愛そうとしない依怙地《いこじ》な自分に嫌気がさしたのかもしれない。
バーニーズの六階で、心配そうにちらちらと連れの青年を目で追うその人に、筒井が別れを告げようとすると、「ねぇ、もしよかったら、今度どっかで食事でもしないかしら?」と誘われた。誘われたその瞬間、心のなかをふと冷たい風が吹いた。冷たい風が吹いて、すぐにそれが暖かいものに変わった。
この人は今、すでに三十を越えた自分ではなく、靴売り場をうろうろしているあの青年に夢中なのだ。それこそ命がけで愛している最中で、そんなとき、この人は他のどんなものにも興味を持てない。だからこそ、こんなにも気軽に自分を食事に誘えるのだ。もちろん靴売り場をうろついている青年が羨ましいわけではなかった。ただ、この人をいつか捨てるだろうその青年が、筒井には少しだけ輝いて見えた。
「もうイキそうだよ」と湿った声で筒井が告げると、その人は愛撫する手の動きをとめた。「なんだよ!」と筒井が抗議すれば、その人はまるで勝ち誇ったように微笑んだ。
お世辞抜きで、あの人の愛撫は絶品だったと筒井は思う。もしもこの人が女だったら、と何度恨めしく思ったか知れない。つい、そう口にしたこともある。あの人はそんなことなど言われ慣れているらしく、「あんたも馬鹿ねぇ、女じゃないから、こんなに巧《うま》くなったんじゃない」と笑っていた。
サウナを出て、冷たいシャワーの水で汗を流したあと、備え付けの石鹸で、丁寧にからだを洗った。あまりにも丁寧に洗ったせいか、それとも、もう十年近くも前に受けた、あの人の愛撫を思い出していたからか、腰のあたりがムズムズとして、筒井は慌てて冷たいシャワーを股間にかけた。しかし、それがまた別の刺激となって、性器がますます硬くなる。放っておくことにした。からだを洗うことに専念すれば、この程度の勃起などすぐにおさまるだろう。
石鹸をタオルにこすりつけ、泡を立て、乱暴に胸や腹を洗った。濡れた壁に泡が飛散し、ツゥーッと流れて足元のタイルに広がる。
バーニーズの六階で話をしている最中、手を繋いでいた文樹は、不思議そうにその人を見上げていた。
「ほら、このおばちゃんに挨拶しなさい」と、筒井はその人の前で自分の息子を抱きあげた。しばらく、文樹はきょとんとその人を見ていたが、「男の人だから、『おばちゃん』じゃないもん」と、まるで手品の仕掛けを見破ったように笑い出した。
「どうして? 男の人でも『おばちゃん』はいるんだよ」
そう筒井がふざけて言うと、「ちょっと、やめなさいよ。子供が混乱するじゃないのよ」と、慌ててその人が止めに入る。
「男の人は『おじちゃん』だもんねぇ」
そう言って、文樹の頭をやさしく撫でるその人に、「いいんだよ、おばちゃんで」と筒井は微笑みかけた。「こいつには、俺の息子のこいつにはさ、今のうちから、いろんなこと、混乱させといてやりたいんだ」と。
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パパが電車をおりるころ
線路沿いにぎっちりと建ち並んだ建売住宅の切れま切れまのその先に、とつぜん武蔵野の景観が、わっと広がる。それはまるで映画のフラッシュバックのようで、ある種の印象は残しても、記憶として蓄積されることはない。印象というのは不思議なもので、まだ一度もそこに降り立ったことがなくても、たとえば、その駅名から街の様子を思い描くことができる。七時五十六分に「聖蹟桜ヶ丘」を発車したこの快速電車は、まず寒々とした早朝の多摩川を越え、「中河原」「分倍河原」と停車して、現在「府中」駅に向かっている。京王電鉄の初代社長が「田園調布」に対抗してつくったと言われる「聖蹟桜ヶ丘」と違って、「中河原」「分倍河原」の駅に巨大なショッピングモールの入った駅ビルはなく、ホームや改札がその土地で暮らす住民たちと同じ目線の位置にあって、まるで蜂蜜がけのトーストが置かれた食卓や、朝の連続テレビ小説が流れるリビングを、快速電車がスピードを上げて走りぬけてゆくような感がある。今朝、義母が焼いてくれたトーストにはバターと苺ジャムがたっぷりと塗りつけられていた。いつもより十分遅くリビングに顔を出した筒井が、妻の瞳が選んでくれたネクタイを締めながら、「お義母《かあ》さん、俺、コーヒーだけでいいや」と声をかけると、台所から顔を出した義母はまだパジャマにカーディガンを羽織っていて、口にトーストを咥《くわ》えたまま、「あら、そう」と少し残念そうな顔をした。よほどたっぷりとバターを塗ったのか、少し焦げたトーストが黄金色に輝いていた。
「この人、昨日、帰りが遅かったのよ」と妻が言った。
「二日酔い?」と義母がまた台所から顔を出す。
「夜中に帰ってきたかと思ったら、『あ〜気持ち悪い。あ〜吐きそう』って、隣でずっと唸《うな》ってんだもん。眠れやしない」
「しじみ汁つくってあげようか?」
瞳にネクタイを結びなおしてもらいながら、筒井は薄いコーヒーを一口飲んだ。食卓の端には、息子の文樹がちょこんと座っており、ものも言わずにソーセージを手掴みで口に運んでいる。その小さな指はもちろん、赤い唇のまわりを脂でテカテカに光らせて。筒井は文樹の頭を撫でようかと思ったが、抗《あらが》われてワイシャツを汚されそうだったので、出した手を引っ込めた。三年ほど前、正式に瞳と籍を入れることを長崎の両親に報告したとき、意外にも強く反対したのは父親のほうで、「なにも好き好んでコブつきの女と結婚することもないだろう」というのがその理由だったが、籍を入れて聖蹟桜ヶ丘にある義母の家で暮らすつもりだ、と言った息子の言葉に、最後まで父は反対していたのではないかと筒井は思っている。式を挙げなかったので、入籍した翌月に長崎から両親を呼んだ。新宿から聖蹟桜ヶ丘へ向かう電車のなかで、「東京もピンキリやなぁ。これやったらまだ長崎のほうが都会に見える」などと呟きながら、父は車窓を流れる大根畑を目で追っていた。一方、母親は、「長崎と東京じゃ、あんまり遠くて嫁と張り合う気力も出ない」などと口では嘆いていたが、筒井に内緒で自分の指輪を瞳にプレゼントしていたり、嫁と孫が一挙にできたことを少なからず喜んでいるようだった。
筒井が急に指輪のことを思い出したのは、目のまえのガラス窓にダイヤモンドの広告シールが貼られていたからで、その広告にピタッと焦点が合ったのは、府中駅で乗り込んできた乗客の一人に背中を強く押されたせいだ。ガラス窓の広告に焦点が合うまえ、筒井は府中駅のホームの様子を眺めていた。行儀よく三列に並んでいた乗客たちが、電車の到着と共に、ドアの左右へ二手に分かれる。乗客たちがさっと道をあけたその先の売店にスポーツ紙を差し出している若い女の姿があった。紙面に「イチロー」という黄色く太い文字は見えたのだが、さてその「イチロー」がどうしたのかは判らない。若い女は白いふわふわのマフラーを巻いていた。店員に小銭を渡すとき、肩からそのマフラーがさらりと落ちて、マフラーよりもさらに白い首筋が、ちらっと筒井の目に飛び込んだ。発車を知らせるチャイムが鳴ってドアが閉まると、自分の立ち位置を確保するための小さな諍《あらそ》いが車内のあちらこちらで起こる。筒井の右側でも、つり革を掴もうと背後から伸ばされた男の腕を、隣に立っている別の男が首を捻って払おうとしていた。その男の手には時代小説らしい文庫本が開かれていて、「義経は歯がみした」「この霧では、敵が見えまい」などと書かれた箇所が、筒井の目にちらっちらっと入ってくる。ゆっくりと電車が走り出して、並んだつり革が同時に揺れた。窓の外、がらんとしたホームをさっきの白いマフラーの女が歩いている。ガラス一枚隔てたすぐそこを、白い息を吐きながら眠たそうな顔で歩いている。電車はスピードを上げて、長いホームを滑り出た。混んだ車内のどこかから、誰かが今朝飲んできたのか、甘い紅茶のにおいがする。二日まえの日曜日、筒井は文樹を連れて多摩川の河川敷に散歩に出かけた。文樹の小さな尻を押して、急な土手の芝生を駆けあがった。眼前に広がる多摩川には水嵩《みずかさ》がなく、川底の砂利が剥《む》きだしになっているせいもあって、いっそう北風が冷たく感じられた。文樹は水が流れているところまで行きたがったが、まえの週に微熱を出したと義母に聞かされていたこともあって、筒井は着膨れしてころころしている文樹を抱き上げ、土手沿いに駅のほうへ歩き出した。腕のなかで文樹はずっと「京王ちぇん」の駅の名前を数えあげており、「ちぇいちぇきちゃくらがおか」から始まった駅名が、急行よりも駅を飛ばして、終点「ちんじゅく」に到着したときには、その顔に洟《はな》が垂れていた。駅前に着くと、文樹が「のどかわいた」と言い出したので、マクドナルドに入った。日曜日のマクドナルドの店内は凄まじい混雑ぶりで、注文するまでに十分近くも並ばされ、やっと注文を済ませて奥へ向かうと、今度は空いたテーブルがない。筒井の脚に抱きついていた文樹が、ちょこちょこと離れていこうとするので、脚を伸ばしてその行く手を遮ったのだが、それでも振り切って歩いてゆく。文樹が向かった先は、四人がけのテーブル席で、そこには若い女がひとりで座っていた。それは微妙な四人がけの固定テーブルだった。二人がけで利用することもできるのか、テーブルが真ん中で真っ二つに分かれている。幼い文樹にこの微妙さ加減が判るはずもなく、遠慮なしに椅子によじのぼろうとするので、トレーを抱えたまま筒井はちらっとその女を見やった。女もとつぜんの合い席者に少し驚いている様子だったが、「どうぞ」とでも言うような笑顔を、すぐに筒井に向けてくれた。
「すいません」
筒井は頭を下げて、テーブルの端にトレーを置いた。ただ、置いたのはいいが、自分がどこに座ればいいのか判らない。文樹はすでに女のはす向かいに座っている。テリヤキのソースやマヨネーズが垂れることを考えれば、文樹の横に座ったほうが楽なのだが、そうなると自分がその女のまえに座ることになる。かといって、女の真横に座るのも間違っているような気がして、しばらく身動きがとれなかった。結局、筒井はすでにポテトへ手を伸ばしている文樹を抱き上げ、女のまえに移して、空いたはす向かいの席に腰を下ろした。
窓の外にじわじわとこちらへ近づいてくる電車が見える。京王線は高尾山口から走ってくるこの路線と、橋本方面からの路線がここ「調布」駅で合流する。しばらく距離をあけて並走していた両車輛が、ホーム手前で磁石にひきつけられるように急接近する。まるでこちらの窓とあちらの窓がぴったりと重なるようなその合流は、何度経験しても衝突のイメージを抱かせる。大学のころ、筒井は同じ京王線の「芦花公園」という駅の近くにアパートを借りていた。当時、歌舞伎町の居酒屋でバイトをしていたのだが、ある日、そのバイト先へ向かっていると、とつぜん電車が急停車した。筒井は最前車輛の前方から二つ目のドアに、凭《もた》れかかるように立っていた。急ブレーキがかかったその瞬間、自分の足元を何かがゴロゴロッと転がる鈍い音を聞いた。あとちょっとで「下高井戸」駅という場所にある踏み切りだった。その晩、筒井は当時付き合っていた美雪のアパートへ行き、かなりの枝葉をつけてこの出来事を語ったのだが、その話のなかで、筒井は一番まえ、それも前方が見渡せる運転士の背後に立っていたことになっており、「じゃ、じゃあ、その瞬間を見たの?」と美雪に訊かれて、「見たよ。あのぶつかる直前の、こっちをキッと睨んだそいつの顔が、まだ頭から離れないよ」などと情感たっぷりに様子を語った。もちろん、筒井はその瞬間など見ていない。電車に飛び込んだのが、男か女かさえ知らなかったし、実際にはとつぜん停車した車内で多少の混乱は起こったものの、すぐに事務的なアナウンスが流されて、十数分後には何事もなかったかのように電車は走り出したのだ。あの電車は、車輛の下にまだ転がっているはずの死体を踏んで発車した。そうしなければ、死体を片付けられなかったのだろうが。その晩、美雪に語ったとき、筒井の目に浮かんでいた踏み切りには、顔色が悪く、痩せたからだにぶかぶかの背広を着た三十代前半の男が立っていた。どうして男だと思ったのか。どうして三十代前半だったのか。考えてみれば、美雪は未だに筒井がその現場を目撃したと思い込んでいる。連絡を取り合わなくなってから、すでに十年近くの月日が流れているが、現在、美雪がどこでどんな暮らしをしているにしろ、筒井が見たこともない光景を彼女はまだ覚えているかもしれない。日曜日、文樹と一緒に入った駅前のマクドナルドにいた女が、その美雪に少し似ていた。それに気づいたのは、夜ベッドで瞳を抱いているときのことで、とつぜん動きを止めた筒井を見上げて、瞳は不思議そうな顔をしていたが、さすがに「昔の彼女と似た女を駅前のマクドナルドで見た」とは言えなかったし、いや、それだけなら言えたのかもしれないが、事のなりゆきとはいえ、携帯のメールアドレスを交換し合った仲だったので、敢えて何も告げなかった。
ふと誰かの視線を感じて、筒井は混み合ったドアのほうへ目を向けた。ドアのまえで窮屈そうに立っている初老の女性が、気味悪そうにこちらを見ている。筒井と目が合った瞬間、慌てて顔を背けたのだが、真横に女子高生の顔面があり、危うく鼻をぶつけそうになった。驚いた女子高生が思わず「あっ」と口を開いて、その白い歯に銀色の矯正器がちらっと見えた。もしかすると、マクドナルドでの出来事を思い出して、自分がニヤけていたのかもしれないと、筒井は無理に険しい表情で揺れるつり革を握りなおした。美雪も、そしてマクドナルドで会ったあの女も、とてもきれいな歯並びをしていた。あの女も美雪と同じように、毎晩デンタルフロスを使っているのだろうか。デンタルフロスというものを、筒井は美雪とつき合って初めて知った。細いナイロン紐を歯と歯のあいだで上下させる。最初その使用法を聞いただけで、歯茎が切れた感じがして、口のなかに血の味がしたのを覚えている。冗談半分にどうやって使うのか見せてくれよと彼女に頼んだことがあるのだが、美雪は恥ずかしがって決してその姿を見せようとしなかった。いつだったか、義母の買い物のお供で駅前のドラッグストアに寄ったとき、筒井が何気なく棚のデンタルフロスに手を伸ばすと、やはり義母にもその習慣がなかったらしく、筒井の説明を聞いているその顔にはすでに微かな痛みが現れていた。ドラッグストアで義母は「部屋干し」とラベルに書かれた洗剤をいくつも買っていた。そういえば義母に限らず、瞳も洗濯物をベランダではなく、リビング横の六畳間に干すことが多い。せっかく日当たりのいいベランダがあるのだから、そこにバーンと干せばよいものを、どうして彼女たちはわざわざ六畳間の長押《なげし》に物干し竿をかけるのだろうか。マンションの自治会でベランダに布団を干すことが自粛行為に挙げられているのは聞いているが、ベランダに干された布団が、街の景観を乱すと言われるようになったのはいつごろで、いったい誰の口からそんな言葉が出たのだろう。どうせ欧米では見かけないからといういつもの理由で、そんなことを言い出したに決まっているが、向こうは元々ベッドの国なのだから、ベランダに色とりどりの布団が干されているはずがない。ただ、布団の柄というのはたしかにセンスのいい模様ではない。ちょうど今、筒井の目のまえに座っているおばさんが、膝に大きなバッグを抱えているが、どうして布団の柄というのは、このバッグと同じ下品な花柄ばかりなのだろう。
いよいよ混み合ってきた車内には、足元から車輪の振動が伝わってくるだけで、不気味なくらいに音がない。朝の電車というものは、どうして混めば混むほど静まり返ってくるのだろうか。いつだったか、CBSのメインキャスター、ダン・ラザーが、今の東京を直撃取材する内容の番組をやっていたが、そのなかで彼が一番驚いたのが、満員電車の異様な静けさだったという。ただ、そのときに彼が乗っていた通勤電車など、マイクを自分の口元にちゃんと持ってこられるくらいなのだから、まだまだ満員電車と呼ぶには値しないが。
正真正銘の満員電車は、すでに「つつじヶ丘」「千歳烏山」をあとにして、今、渋滞の環状八号線に架けられた高架橋を渡っていた。とつぜん窓の外に開けた景観は、いつもながらの薄曇で、この場所に一度でも日が差したことはあるのだろうかと思わせる。昔、どしゃぶりの環状八号線を車で飛ばしたことがあるが、あれはいつのことだったか。雨が叩きつけるフロントガラスで、ワイパーのゴムが取れかかっていて、筒井は赤信号で停車するたびに上半身をぐっしょりと濡らしながら窓から腕を出してゴムを直した。あれはいったいどこへ向かっていたのだろう。かなり焦っていたような気もするが、その行き先が思い出せない。思い出せないといえば、つい先日、何気なく本棚から手に取った『羊をめぐる冒険』下巻のなかから、一枚のポラロイド写真が出てきて、そこに見知らぬ妊婦と肩を組んで写っている若い自分の姿があった。肩を組むくらいなのだから、一応親しい間柄だったのだろうけれども、どんなに眺めてみても名前はおろか、その妊婦がどこの誰かさえ思い出せなかった。『羊をめぐる冒険』自体は学生のころに読んだものだったが、ポラロイド写真に写った自分は、まだ若いとはいえ、すでにネクタイを締めている。瞳たちとの同居を機に、手元にあった写真のほとんどは処分してしまった。つい先日、ふと文庫のなかから現れたそのポラロイド写真に、自分の知らない自分の記憶というか、自分の知らない自分の時間というか、そんな得体の知れない何かを感じさせられた。ヘンに勘ぐられるのも面倒だと思い、筒井はそのポラロイド写真を瞳にも見せた。「まさか、このおなかの子があなたの子だったりしないわよねぇ?」などと彼女は茶化していたが、部屋を出ていくときに、「人ってほら、都合の悪いことは忘れちゃうから」と捨て科白《ぜりふ》を吐いたところを見ると、「ほんとにまったく覚えてないんだ」と言った筒井の言葉を真に受けてはいなかったのかもしれない。結局、そのポラロイド写真は、捨てるに捨てられず、かといって家族のアルバムに入れるわけにもいかず、元の場所『羊をめぐる冒険』下巻の百頁あたりに戻しておいた。そういえば先日マクドナルドで会った女も、テーブルに文庫本を載せていた。書店の紙カバーがかかっていたので、なんの本だか判らなかったが、印象だと、あれはきっと小説ではなく、幸田文あたりのエッセイ集ではないかと筒井は考えている。
「子供って……、ポテトを横にして口に入れるんですね?」
これが女の最初の言葉だった。目のまえでポテトをむさぼり食べる文樹の様子を、興味深そうに眺めていたのは知っていたが、いきなりそう言われても、すぐに返す言葉は見つからない。筒井は、「え?」と尋ね返した。自分でもつい口にしてしまったらしい言葉に、女は少し照れたようになって、「あ、ごめんなさい。でも、ほら、こうやって縦に入れればいいのに、横に食べてるから」と慌てて説明した。
女に言われて、改めて筒井は我が息子を見た。たしかに女が言うように、長いポテトなのだから、まっすぐ縦に入れればいいものを、掴んだまま無理やり口に押し込んでいる。ボールペンでもなんでもそうだが、横向きに、というか、伸ばした指と垂直になっているほうが、縦向きに、というか、指と平行になっているよりも掴みやすい。文樹の指は本能でそれを実践しているらしい。ただ、これがボールペンなら横向きでは口に入らないのに、揚げたてのポテトはやわらかいから押し込める。結果、文樹の口の端はテカテカになる。とつぜんの女の言葉の意味をようやく理解した筒井は、「はぁ……」と妙に納得してしまった。「はぁ……」以外どんな言葉も浮かばなかった。子供を産むと女性のからだには生理的な変化が生まれる。胸が張ったり、乳が出たり、妊娠中は髪の毛が抜けたりするという話も聞く。それに幼子を抱いた女性には、何かしらそのからだから醸《かも》し出すにおいのようなものがあって、それが母の強さを周囲に知らしめているような気もする。子供を持つことで女性のからだに変化があるのなら、同じ親として父親のからだにも何かしらの変化があってもいいのではないかと、ときどき筒井は思うことがある。精子を提供したわけではないが、文樹は誰がなんと言おうと自分の息子なのだから、彼を抱く自分のからだからも、何かしら醸し出されて然るべきだと。もしかすると、子供を抱いた女のからだから強さが醸し出されるのであれば、子供を抱いた男のからだからは、周囲を安心させる何かが醸し出されるのではないだろうか。だからこそあの女も、たまたま駅前のマクドナルドで合い席になった見知らぬ自分に、あんなにも無防備に声をかけたのではないだろうか。実際、郊外のホームセンターなどへ行くと、いかにも元ヤンキーでしたという若い男を見かけるが、彼にしてもひとりでいれば物騒だが、その腕に子供が抱かれていると、多少肩が触れたくらいでビクビクさせられることもない。子供ができると男は毒を抜かれるというが、これもあながち間違いではなくて、男のからだにも生理的な変化はやはりあるのだ。初めて文樹とふたりで電車に乗ったとき、走り回ろうとする文樹を脚のあいだに挟んで座っていると、とつぜん前の席に座っていた女子高生の二人組に、「可愛いですねぇ」と声をかけられた。上京してすでに十数年になるが、見ず知らずの女子高生に、それも電車のなかで声をかけられたことなど一度もなかった。まだ親の自覚がなかったのか、そのとき自分が「文樹を連れてればナンパし放題だな」と思ったことを筒井ははっきりと覚えている。マクドナルドで幸田文のエッセイを読む女相手に、筒井はそんな話をしたように思う。もちろんナンパどうこうの話ではなくて、子供を抱いたヤンキーと子供なしのヤンキーの違いについての話を。「この辺にお住まいなんですか?」と筒井が尋ねると、「いえ、知り合いのところへちょっと」と彼女は答えた。おそらく恋人なのだろうが、彼女はただ知り合いとしか言わなかった。筒井たちは混み合った店内で休日を過ごす家族にしか見えなかったはずだ。
「ここで待ち合わせなんですか?」
「いえ、これから帰るところなんですよ。おなかが空いちゃったんで、電車に乗るまえにちょっと」
「そうか。ここから都心に戻るには、腹ごしらえが必要ですからね」
「いえ、そんなつもりじゃ……」
「冗談ですよ」
彼女の携帯が鳴ったのは、そのときだった。相手は母親のようで、「今、どこにいるの?」とでも訊かれたのか、「聖蹟桜ヶ丘ってとこ」「京王線よ」「府中より先」とまるでヒントを与えるように答えていた。
悪い予感はしたが、彼女が電話を切って携帯をテーブルに置くと、すでにバニラシェイクを飲み干していた文樹が、「ぼくね、パパの電話からママに絵を送れるもん」と、脈絡のない自慢をはじめた。最初きょとんとしていた彼女だったが、「こっちの携帯で絵文字を選ばせて、それを女房の携帯に送るんですよ」と、筒井が申し訳なさそうに説明すると、「あら、ほんと」と彼女もわざとらしく驚いてくれる。おそらく彼女には身近に幼い子供がいないのだろうと思う。子供を喜ばせてしまうとどうなるか、彼女は判っていないようだった。案の定、テーブルに置かれた彼女の携帯に、ハートだの星だのを連ねた暗号を筒井の携帯から送りたいと文樹が言い出した。拒めばぐずり出すのが判っていたので、せがむ文樹の手を振りほどきながら、筒井はトレーを片付け始めた。すると、「いいですよ」と彼女が言う。一瞬、何がいいのか判らなかったが、彼女は、「私のアドレス短いから」と言葉を繋いだ。
井の頭線への乗り換え駅「明大前」に停車していた電車が、ゆっくりとホームを走り出していた。さっきまでこの車輛の乗客だった人たちが、電車を追ってホームを足早についてくる。重い足どり。軽い足どり。自分のまえを歩く者を大股でグングン追い抜いてゆく者。冷たい風に背中を丸めて歩く者。ホームで複雑に交差する脚。脚のあいだから見える別の脚。「聖蹟桜ヶ丘」でこの車輛に乗り込んで以来、ずっと同じ場所に立っていたのだが、筒井は自分の斜めまえに座っている女性が真っ赤なコートを着ていることに、今になって気がついた。電車が降車駅にたどり着くまで、窓の外を眺めるか、視線を落としてぼんやりするしかないのだから、そのコートが目に入らないわけはないのだが、自分の脚に微かに触れているその赤いコートの裾に、今になって気づいたのだ。そういえば、マクドナルドで文樹が彼女に送ったメールは、赤いハートから始まっていた。赤いハートが二つと黄色い音符マークが一つ、それに雪だるまの絵がついていたはずだ。送信するとすぐに彼女の携帯がテーブルで震えて、文樹がキャッキャッと声を上げる。彼女は送られたメールを文樹にも見せ、「ありがと」と小声でお礼を言っていた。いつまでも子供の遊び相手になってもらうわけにもいかず、「そろそろ帰ります」と筒井が告げると、「じゃあ、私も」と自然な動きで彼女も立ち上がり、結局一緒に店を出た。駅へと向かう彼女に、いつまでも文樹が「バイバイ」と言いつづけるものだから、何度も振り返るはめになった彼女は、道の段差を踏み外し、危うく転びそうになった。思わず「あ!」と筒井は声を上げたのだが、彼女はすぐに体勢を立て直し、「あはは」と照れくさそうに笑っていた。柱の向こうに姿を消す直前、彼女は大きく手を振った。その姿に筒井の手を握ったままの文樹が、何度も跳び上がって応えていた。彼女のアドレスをきちんと登録したわけではないから、この先、新しいメールが入ってくれば、いつの日にかそれは消去される。瞳は夫といえども筒井の携帯をチェックするようなことはない。携帯どころか、昨夜のように深夜二時に帰宅しても、愚痴をこぼすどころか、「ごめん。タクシーで帰ってきた」と、筒井がビクビクしながら告白しても、「たまにはいいんじゃない」としか言わない。もちろんふたりの関係がうまくいっていないわけではなくて、瞳という女は元々そういう何に対しても大ざっぱなところがあって、筒井としてはそのへんに惚れて結婚したのだ。ただ、筒井が初婚で、瞳のほうは再婚コブつき。お互いでは気にもしていないこの事実を、一番気に病んでいるのが義母で、普段はあまり酒を飲まないのだが、たまに晩酌に誘うと必ず涙ぐみ、「いつまでも瞳と文樹のこと、大切にしてやってねぇ」と繰り返す。一人娘の離婚がそうとう応えたのは理解できるが、義母のこの弱音を聞かされるたびに、筒井はまるで自分が貧乏くじを引いてしまった男に思えてしまう。実際にはまったくそう思っていないのに、まるで自分が何かを諦めて、この生活を選んだような、そんな気持ちにさせられるのだ。もちろん何かを諦めて、瞳の夫になり、そして文樹の父に立候補したわけではない。ただ、この選択をもしもしていなければ、間違いなく別の人生があったはずで、それを望んでいるわけでもないが、こうやって「聖蹟桜ヶ丘」からの快速電車に揺られていると、この満員の車内のどこかに、その選択をしなかったもう一人の自分が乗っているような気がしてならない。CBSのダン・ラザーも中途半端な満員電車に乗って、その不気味な静けさを伝えるのではなく、電車の乗客ひとりひとりの胸のうちにあるこの喧騒を、世界中に報道すべきだ。たとえばそう、自分の息子を、本当の息子の父親が迎えに来る朝、電車に揺られて会社へ向かっているもう一人の父親の胸のうちを。
つり革に掴まって、筒井はぼんやりと赤いコートの裾を見つめていた。電車はさっき「笹塚」駅を発車して、中村屋の工場まえを通過した。あと数秒で電車は地下へ潜ってゆく。「明大前」であれだけの乗客が降りたにもかかわらず、前にも後ろにも動かせない筒井の脚には、まだ赤いコートの裾が触れている。その裾に黒いシミのようなものがあって、それに焦点を合わせた途端、電車が地下に滑り込み、そのシミが飛び立った。シミは季節外れの黒々とした蠅だった。一瞬、ビクッとした筒井の背中が、うしろに立っている人の顔に当たって微かな舌打ちが聞こえた。飛び立った蠅は一度ガラス窓に音を立ててぶつかり、網棚を抜けて天井に消えた。ガラス窓に当たったときに、筒井と並んでつり革を握っている数人も蠅の存在に気づいたらしく、天井へ消えたその軌跡を見るともなく追っていた。蠅はすぐに戻ってきた。筒井たちのまえを羽音が聞こえるほどのスピードで右に左に飛び回り、乗客たちはそれぞれ控えめに近寄ってくれば首を捩ってよけるのだが、手で振り払おうとする者はない。蠅はしばらく網棚の辺りを旋回したあと、またどこかへ姿を消した。蠅に集まっていたいくつもの視線がそれぞれ元の位置に戻ってゆく。地下に入って、ガラス窓に自分の顔が映っていた。筒井は自分の隣に立っている男が、鼻の下にちょび髭を生やしていることに今になって気がついた。だからどうしたというわけでもないのだが、こんな顔をした奴がもう三十分近くも真横に立っていたわけだ。文樹の実父は髭を生やしているのだろうか。一ヵ月に一度、それも朝の九時まえには迎えに来て、文樹をどこかへ連れて行くその男は、自分よりも背が高いだろうか。まだ四歳の子供でも、親に気を遣うことはある。その男と会った日は、「パパ、パパ」といつも以上に文樹は筒井に甘える。甘えれば、筒井が喜ぶことを知っていて、いつもはママと寝るくせに、月に一度その日だけは、必ず筒井のベッドで眠ろうとする。その男に決定的な落ち度があって、破綻した結婚生活ではない。その男から文樹を取り上げる権利は誰にもない。それに筒井がいくら思い悩んだところで、文樹のあの小さなからだからその男のDNAが抜けてしまうわけでもないのだ。今夜も文樹はパパのベッドで眠りたがるだろうか。
電車は暗い地下を走り続け、「幡ヶ谷」「初台」と停車して、「新宿」駅へ向かっている。考えまい、別のことを考えよう、と努力すればするほど、文樹が自分だけの息子でなくなる日の通勤電車では、結局、降りる間際になって、無理に考えずにいたことをいつの間にか考えている。マクドナルドで会った女に、なにかしらメールでも送ってみようか。「先日は子供の相手をしてくれてありがとう」とか、その程度のメールになら向こうも返事をくれるのではないだろうか。
電車が「新宿」駅のホームに滑り込んで、乗客たちがもぞもぞと降りる準備をはじめたころ、さっきの蠅がどこからともなく戻ってきた。あれからずっとどこにいたのだろう。どこかで羽を休めているところを、とつぜん乗客たちが動き出したのに驚いて、慌てて飛び立ってしまったのか。まだ開かぬドアのまえで、焦《じ》れている乗客たちの頭上を黒々とした蠅が一匹、勢いよく旋回している。筒井がそれをじっと目で追っていると、プシュッとドアが開いた瞬間、誰よりも早く、その蠅が明るいホームへ飛び出していった。[#改ページ]
夫婦の悪戯
分厚いドアが閉まると、一瞬、部屋全体の空気が縮む。いや、実際にドアの開閉程度で、部屋の空気が縮むわけもないのだが、からだが一瞬、たしかに圧迫されたような感じが残る。部屋に入ると、窓際の椅子に座って誰かと電話をしている妻の瞳が、ちらっとこちらをふり返り、「おかえり」と唇だけを動かしてみせる。一時間も前に披露宴会場から先に帰ってきているはずなのに、まだ黒いドレスを着たままで、こちらに向けられた白い背中が寒々しい。
休日料金で平日より三千円高かったこのスーペリアのツインルームは、文字通り「superior」とは言いがたく、おまけに窓の外には隣接するオフィスビルの窓が切迫しており、まるで自身のからだだけでなく、部屋全体が圧迫されているように思える。あれは下関へ出張するときだったか、ネットで手ごろなビジネスホテルを探していると、一泊二千八百円のスーペリアルームというのを見つけた。すぐに予約を入れたのだが、スーぺリアという言葉と一泊二千八百円という値段に、どこか違和感を覚えてしまい、なんとなく意味は分かっていながら、わざわざ英和辞典で調べてみた。
【superior】(1)上位の、優秀な (2)≪叙述的に≫超越した、偏見にとらわれない (3)傲慢な
辞書にはそう載っていた。要するにスーペリアルームとは、上位の部屋という意味なのだろう。ただ、そのとき予約したビジネスホテルに、スーペリアルーム以下の部屋はなく、下関市全体にも二千八百円より安い宿はなさそうだった。
入口側のベッドに腰かけて、一日中、足の小指を締めつけていた下ろし立ての革靴を脱いでいると、息子との電話を続けていた瞳が再びふり返り、「文樹がパパと話したいって」と、ストラップをいくつもつけた携帯を差し出してくる。筒井は隣のベッドに寝そべるような格好で手を伸ばし、その重い携帯を受け取った。そのままごろんと横になって、「もしもし、文樹?」と声をかければ、やっと息子の長電話から解放された瞳が椅子から立ち上がり、大きなあくびをしながら浴室へ向かう。
「パパ? 文樹ね、いまからバーバにおはなししてもらって、もうねるから」
今朝、筒井たちが家を出るときには、「やっぱり、文樹も一緒に行く!」と泣き喚《わめ》いていたくせに、義母が駅前のナムコランドにでも連れて行ってくれたのだろう、受話器から聞こえてくる文樹の声は明るかった。
「お風呂は入った?」と筒井は訊いた。
「おふろ? あのね、バーバと、はいった。いまから、おはなししてもらうから」
「いいなぁ。バーバがお話ししてくれるんだ?」
「ほんとはパパでもいいけどね。きょうはバーバしかいないから、バーバがしてくれるって」
浴室から顔を出した瞳が、「お風呂は? お湯入れる?」と、唇だけを動かして訊いてくる。筒井も、「入る。入れて」と同じように唇だけを動かして答えた。実際は片方が電話中なのでこうやっているのだが、狭いスーペリアルームの中で声を出さずに会話をしていると、声が出ていないのではなく、その声が口から出たとたん何かにぎゅっと握りつぶされているように感じる。ちょうどこの部屋に入ってきたときの圧迫感と同じような何かが、ふたりの言葉をぎゅっと握りつぶしているような──。
一年前まで同じ会社で働いていた後輩社員の花原から結婚式の招待状が届いたのは、今から二ヵ月ほど前のことだった。当初は筒井だけが出席することになっていたのだが、後日、「ぜひ奥さんもご一緒に来てもらえませんか」という本人からの電話があり、「一泊くらいなら文樹の面倒は私がみられるし、たまには夫婦二人で出かけるのもいいんじゃないの」という義母の後押しもあって、結局、瞳もここ大阪にやってきている。
花原は一年前に退社して大阪の実家へ戻り、現在では、規模は小さいが創業大正元年の老舗和菓子屋を継いでいる。会社では筒井の直接の部下ではなかったのだが、たまたま同じ京王線の聖蹟桜ヶ丘に花原も一人暮らしのアパートを借りており、通っているスポーツクラブが一緒だったこともあって、駅前の居酒屋でたまに酒を飲むようになっていた。退社する半年ほど前からは、休日に筒井の自宅へふらっと現れ、瞳や義母の手料理を食べて帰る日もあったほどだ。もしも同じ部署や同年代であれば、社外でこのような気さくな付き合いを続けることもなかったのだろうが、筒井が営業部、花原が経理部、おまけに働いているフロアも違って、いつしか筒井も花原には会社の愚痴を素直にこぼせるようになっていた。
「ほんと、筒井さんの家に遊びに来るたびに、自分も結婚したくなりますよ」
そう世辞を言う花原を、瞳は弟のように可愛がっていたし、いつまでも根気強く遊んでくれる彼に、文樹もすっかりなついていた。そんな花原に、ある日とつぜん、「筒井さん、実は今、大阪に戻って実家の商売を継がないかって言われてるんですよ」と相談された。元々、実家の商売が嫌で、花原が東京の大学に進学したことは知っていたし、若い男なら誰でもそうだが、自分には父親よりも大きなことがやれると思っている。このとき花原はまだ二十六歳、筒井はすでに三十代で、瞳の連れ子だった文樹のことも心から自分の息子だと言えるようになっていた。これがあと三年早く、自分がまだ誰かの父親ではなく、相変わらず誰かの息子のままであったなら、「何も逃げ出してきた場所に、今さら戻ることはないだろ」と強がって見せていただろう。
「戻れよ。戻って家業を継げ。今ならまだ、職人の親父さんにいろいろと教えてもらえるんだろ? だったら、へんな意地は捨てて、戻ったほうがいいよ」
筒井はこう答えていた。
数ヵ月後、花原は退職願を出し、アパートを引き払って大阪の実家に戻った。きっと花原も誰かにそう言ってもらいたかったのだ。若いころには、確実な道が安楽な道に見えることがある。しかし若くなくなると、その安楽な道に必死に引き返そうとしている自分に気づく。
「二次会、行かなかったの?」
とつぜん瞳に声をかけられて、ベッドに寝ころんでいた筒井は「ん?」と目を開けた。足元に立っている瞳が、無理にからだを捩って背中のファスナーを下ろそうとしている。浴室からはバスタブにお湯を張る水音がする。筒井はからだを起こすと、何も言わずにそのファスナーを下ろしてやった。
「顔だけ出してきた。来てんのは、みんな新郎新婦の同級生たちでさ、なんか居づらくてな」
ファスナーを下ろすと、ドレスに合わせて黒いTバックをつけている尻の割れ目がちょこっと見える。
「未だに披露宴で、ああいう体育会ノリの出し物なんてやってんだねぇ。私、びっくりしちゃった」
「大阪だからだよ」
「それ、偏見じゃない? 大阪にだって控えめな子はいるんだから」
「偏見? よく言うよ、こんなスーペリアな人間つかまえて」
「何よ、そのスーペリアって?」
「偏見にとらわれない人間ってこと」
肩で押さえられていたドレスがすっと足元に落ち、筒井はまたごろんと横になった。瞳は床に落としたドレスを拾ってクローゼットにかけると、浴室で真っ白なバスローブを羽織って出てきた。
「でも、いい式だったよね。花原くんなんて、あんなに泣いちゃって」
「ほんとだよな、かっこ悪い」
「別にかっこ悪くなんかないじゃない。結婚式で自分の夫が泣いたなんて、隆子さんは幸せよ。一生、その弱みを握って生きていけるんだから」
どこまで本気で言っているのか、筒井はそう言って笑う瞳にちらっと目を向けた。
「でも、あれだよねぇ。花原くんが、『理想のご夫婦なんです』って、いろんな人に紹介してくれたじゃない。あれ、照れなかった?」
「ああ、照れた」
「でも、なんか急に、私たちも式ぐらいちゃんと挙げとけばよかったかなぁって、そう思っちゃった。あなた、思わなかった?」
「面倒だって言ったの、おまえだろ?」
筒井は思わず呆《あき》れて鼻で笑った。
「そりゃそうなんだけど、なんか、こういう感動的な式に出ちゃうとさ、なんとなく、そう思っちゃうじゃない」
「俺の友達が、下品なコントとか始めるぞ」
「いいよ。下品なコント大歓迎」
「花束贈呈で、俺も泣くぞ」
「日ごろの愛情表現が極端に少ないんだから、それぐらいやってよ。そうすれば式費用の元も取れるってもんよ」
そう言いながらも、瞳は筒井が脱いだ上着をハンガーにかけ、床に置かれた自分と筒井の靴をきちんと並べてクローゼットにしまう。狭い部屋を行ったり来たりする瞳の歩き方を眺めていると、毎日生活を共にしているはずなのに、そうか、たしかに瞳はこういう歩き方だったよな、と改めて思う。大きな特徴があるわけではないのだが、背筋を伸ばしてスッスッと足を出すその歩き方は、今にもこの狭い部屋から出て行ってしまいそうにも見える。
「なぁ、ロビーで別れたあと、おまえ、そのままこの部屋に戻ってきたんだろ?」
瞳の性格からして、今ごろ着替えていることがふと不思議に思え、筒井はなんとなくそう尋ねた。
「さっき帰ってきたのよ」
「さっき? どこ行ってたんだよ?」
「上のバー」
「上のバー?」
「そう。ほら、せっかく久しぶりにおしゃれしてるし、あのまま部屋に戻るのも惜しいじゃない。で、優雅に最上階のバーで、ドライマティーニなんかを飲んできちゃったわけ」
筒井はごろんと寝返りを打つと、首を締めつけるネクタイをゆるめながら、「おまえ、ひとりで?」と苦笑した。
「そう、ひとり。かっこいいじゃない、ドレスアップした女がひとり、ホテルのバーで飲んでるなんて」
「そうか?」
「そうよ。あなただって、そういう女がいたら気になるでしょ?」
「相手にもよるよ」
筒井は寝ころんだまま、ネクタイを外した。窓際の椅子に投げ置こうとすると、さっと手を伸ばしてきた瞳がそれを奪ってハンガーにかける。そろそろ風呂にお湯もたまっただろうかと、ベッドから起き上がった筒井が、「俺もちょっと飲み足りなかったんだよな。誘ってくれれば一緒に行ったのに」と言うと、「いやよ。今どきこんな白いネクタイしてる男が横に座ってたら、ただの披露宴帰りの女だってすぐにバレて、神秘的な雰囲気なくなっちゃうじゃない」と笑う。
「何が神秘的だよ。じゃあ、なんですか? その神秘的な魅力に、一人でも引っかかってきた男がいらっしゃるんですか?」
筒井は呆れてそう言い返しながら浴室のドアを開けた。
「それが残念なことにいなかったのよ。……たぶん、あれね、ちょっと神秘的すぎちゃったのね」
バスタブにはちょうどいい具合にお湯が溜まっている。
「なぁ、上のバーって何時までやってんだよ?」
筒井はシャツのボタンを外しながらそう叫んだ。「十二時くらいまではやってんじゃないの?」という瞳の声が返ってくる。「あとでちょっと行ってみないか?」と筒井は続けた。自分の声がユニットバスの中に籠もる。返事がないので、筒井が浴室から顔を出してみると、「もう着替えちゃったから、面倒くさい……」と顔をしかめる瞳がそこにいた。
「一人で行ってくれば?」
「一人? じゃあいいよ」
筒井はそう答えながら靴下を脱ぐ。
「ルームサービスでワインでも取れば?」
脱いだ服を早速拾いにきた瞳が、そう言いながら上目遣いに筒井を見上げる。
「ワインかぁ」
「そうよ。せっかく二人きりの夜なんだし、ちょっといいワインでも飲んじゃおうよ」
右足を入れると、お湯は思いのほか熱かった。背後から、「熱いの?」と瞳に訊かれ、なぜかしら、「いや、大丈夫」と筒井は首をふった。
ここ最近、文樹が子守唄代わりにお話をせがむようになっている。「昔、昔、あるところに」で始まる話なら、どんな内容でもいいらしいのだが、昔話も毎晩せがまれているうちに、だんだんと手持ちもなくなってくる。話の途中で寝るくせに、一度した話はきちんと覚えているようで、「昔、昔、あるところに、正直者のおじいさんとおばあさんが仲良く暮らしていました。おばあさんが川で洗濯を……」と始めると、「桃? 柿?」と先に文樹が訊いてくる。桃が流れてくれば『桃太郎』で、柿が流れてくれば、そこから白い子犬が出てきて『花さかじいさん』になることをちゃんと覚えているのだ。
「……あの子の年頃になると、みんな一緒みたいよ。ありさちゃんのお母さんも、さすがにしてあげる話がなくなって、絵本を何冊も買って勉強してるって言ってたし」
まだ濡れている髪をバスタオルで包んだまま、瞳がチーズをつまんでいる。窓際に置かれた椅子で向かい合い、お互いにすでに三杯目のワインを飲んでいた。ルームサービスで頼んだ白ワインはよく冷えており、一緒に注文したチーズの味も悪くない。
「ねぇ、昔話って、話してるうちに、なんとなく悲しくなってくることない?」
グラスを口元に寄せた瞳が、その手をふと止めて筒井を見つめる。
「結末が残酷だったりするからか?」
「うーん……、結末だけじゃなくて、なんていうか、話の中で使われている言葉が全部、どこか悲しい感じしない?」
「言葉が全部?」
「そう。言葉が全部」
瞳はそう肯《うなず》くと、やっとワインを一口飲んだ。
自宅も決して広いとは言えないが、この狭いホテルの部屋で向かい合っていると、瞳の存在がとても身近に感じられる。もしかすると、ホテルというのは少しでも部屋を広く見せるために、グラスやテレビやライトや椅子など全ての備品が、一般のものよりも小さめに作られているのかもしれない。置かれている物が小さくなれば、そこでは人間のからだだけが大きくなる。
いつの間にか、隣接するオフィスビルの明かりはすべて消えていた。ガラス窓に二人の姿があり、その向こうにこの部屋全体が映っているので、ちょうど繋がったこちらとあちらの部屋の中間で、二人がグラスを傾けているように見える。筒井は窓ガラスに映る自分を見ながら、『昔、昔、あるところに、正直者のおじいさんとおばあさんが仲良く暮らしていました』と、心の中で呟いてみた。言われてみれば、たしかに瞳が言うように、その言葉の一つ一つがどこか悲しい感じがしないでもない。実際、「昔、昔」が悲しいのか、「あるところに」がせつないのか、「正直者のおじいさんとおばあさん」が胸に迫るのか、それとも「仲良く暮らしていました」という言葉が、語る者をこんなにもむなしくさせるのか分からないが、全ての言葉が抽象的で、まるで自分が出来の悪い嘘をついているような感じがしないでもない。
「ねぇ、パパの話の中で、文樹が一番好きな話って何か知ってる?」
少し酔ったのか、瞳がそう言いながらふらつく足取りで入口のほうへ向かい、小さな冷蔵庫からミネラルウォーターを一本取り出す。
「さぁ? 何?」
「狼少年の話だって」
「狼少年?」と筒井は訊いた。
「ほら、『狼が来たぞ〜』って何度も嘘をついてた少年が、本当に狼が来たときに見捨てられるっていう……」
「ああ。それを言うなら『狼少年』じゃなくて、『羊飼の悪戯《いたずら》』だよ」
「へぇ。そうなんだ。そんな題名だったんだ」
「たぶん、そうだろ。岩波文庫の『イソップ寓話集』にそう書いてあったから」
「そんなの読んでんだ?」
「ありさちゃんのお母さんと一緒だよ。俺だって、いろいろ勉強しなきゃ間に合わないんだって……それにしても、文樹のやつ、あんな話が好きなんだな?」
「そうみたい。『なんでそれが一番好きなの?』って訊いたら、『羊さんがいっぱい出てくるから』だって……」
ミネラルウォーターを持ってきた瞳が、ことんと折れるように椅子に腰かける。
「あいつがいつまでも寝ないから、ほんとは羊なんて脇役なのに、一匹ずつ名前つけて、どんな性格か話してやったんだよ」
瞳がグラスに注いでいるミネラルウォーターを見ていると、甘口のワインで喉が渇いているのか、その透明な水がとてもおいしそうに見える。
「……さてと、俺は、そろそろ寝るぞ」
筒井はそう宣言して立ち上がると、ボトルに残っているほうのミネラルウォーターをラッパ飲みした。やはり喉が渇いていたようで、グビグビと喉が鳴って、あっという間に飲み干してしまう。
ベッドに入ろうと、マットの下に強く折り込まれたシーツを引っ張り出そうとすると、「ねぇ、私たちも狼少年ごっこしてみない?」と瞳が言う。筒井は、「なんだよ? 狼少年ごっこって」と訊き返しながらも、さっさと剥《は》いだシーツの中に潜り込んだ。
「だから、お互いに嘘をつき合うのよ」
「なんで?」
「なんでって……、だから遊びよ、遊び」
筒井は瞳を無視して、柔らかい羽毛枕の形を崩した。
「……お互いに一つずつ嘘つくの。絶対に嘘しかついちゃいけないのよ。……そうねぇ、何かルールがあったほうがいいな。……あ、そうだ、さっきあなたが言ってた、ほら、なんだっけ? 偏見にとらわれないのがどうたらこうたらって……」
筒井は拳で潰した羽毛枕に頭を落としながら、「スーペリア?」と訊き返す。
「あ、そうそう、それ。……それをルールにしましょうよ」
「なんだよ、それをルールにしましょうって?」
「だから、偏見がなければ、なんでもないことなんだけど、偏見があると許せないような嘘というか、その手の作り話をお互いにするわけよ」
「なんで?」
「だから、遊びだって! ゲームよ、ゲーム」
筒井はシーツを肩まで引っ張る前に、一瞬ちらっと瞳を見遣《みや》り、「……くだらない」と冷たく呟くと、乱暴にシーツを引き上げた。冷たいシーツがワインで火照《ほて》った頬に触れる。
「ちょっと寝ないでよ。……ねぇって、ねぇってば」
やはり酔っているらしい。椅子から立ち上がった瞳が、その尻をベッドに移し、まるで毎晩お話をせがむ文樹のように、「ねぇ、ねぇ」と筒井の肩を揺すってくる。
「……遠いところ、本当にありがとうございました。お会いできて良かったです。彼から、いつも筒井さんと奥さんの話、聞かされてるんですよ」
控え室で花原が紹介してくれたとき、花嫁の隆子は少し顔を赤らめてそう言った。そして、「どんな話か、ヒヤヒヤするな」と照れる筒井と瞳に、「お二人みたいな夫婦になりたいって。いつまでもちゃんと話のできる夫婦でいたいって。……お二人と知り合って初めて、この人、結婚っていいなって思ったんですって」と言ってくれた。
すでに背中を向けているのにもかかわらず、瞳が肩を揺すり続けている。筒井もいいかげん面倒になり、「……分かったよ。やるよ。うるさいなぁ」と寝返りを打つ。
「ほんと? じゃ、じゃあね、あなたが先攻でいいよ。でも、絶対に嘘しかついちゃ駄目なんだからね。いい? 分かった?」
やっと承諾した筒井に、瞳が甘えた声を出す。
「ああ、分かった。でも、これ、ゲームだろ? どうなったほうが勝ちだよ?」
「あ、そうか……。そうね、じゃあ、相手により強い衝撃を与えたほうが勝ち」
「どうやって判断すんだよ?」
「そんなの、お互いの顔を見てれば分かるでしょ? なんたって私たちは、若いカップルがお手本とする理想の夫婦なんだから」
瞳がふざけた言い回しでそう言って、自分で自分の言葉に笑い出す。自分がうれしかったように、瞳もまた、花原たちの今夜の歓迎がうれしかったに違いない。
「じゃあ、いいか? 言うぞ。嘘つくぞ」
筒井が面倒くさそうにそう言うと、「あ、ちょっと待った」と、瞳が慌ててベッドから窓際の椅子に戻る。二人の間に、近くもなく、かといって遠くもない距離ができる。
「いいか?」
「いいよ」
「……俺な、若いころ、男と同棲してたことがある。相手はオカマバーのママで、しばらく食わせてもらってた」
嘘など口を開けばいくらでも出てくると思っていた。相手を驚かす作り話など、いくらでも口から出てくるはずだと。
瞳は、最初きょとんとしていた。そして筒井の嘘が唐突に終わると、それに続く別の嘘を待つような、とても不安そうな顔をした。
「お、終わりだよ」と筒井は言った。今にも引きつりそうな自分の顔を、無理に無表情なままに保った。
「う、嘘でしょ……」
一瞬、絶句した妻の瞳が、「あ、そうか、嘘だ。……嘘なのよね」と慌てて平静を装う。
「そ、そうだよ。嘘だよ」と筒井も慌てて言った。
「う、うん。分かってる」と、瞳もますます慌てる。
「ほら、お、おまえの番」と筒井は急かした。
「あ、うん……」と瞳も肯く。
妙な沈黙が長引くのを恐れ、「ほら、早く嘘つけよ」と筒井がまた急かす。
「……えっと、ええっとね、……あ、そうそう。私ね、若いころ……」
瞳がそこで言葉を切る。そして、じっと自分を見つめている筒井から目を逸らす。
「……私ね、若いころ、一度だけ、オジサンにからだを売ったことがあるの。名前も知らない太ったオジサン。自分でやってみたいと思って、やったの」
瞳の嘘に筒井は思わず、「嘘だろ?」と訊き返しそうになり、慌ててその声を飲み込んだ。しばらくお互いに見つめ合っていると、「ひ、引き分け?」と瞳がますます顔を覗き込んでくる。「そ、そうだな」と筒井も肯き、負けじと瞳の顔を覗き込む。
意地の張り合いのようなにらめっこから、先に脱落したのは筒井のほうで、寝返りを打つと、椅子に座る瞳に背を向けた。しばらく嫌な沈黙が続く。もしもここが自宅の寝室ならば、逃げ道はあるような気もするのだが、空気さえ縮んでいるようなホテルの部屋では、小指一本動かしただけで場が緊張する。
「お、俺のは、本当に嘘だぞ」と、筒井は無理に明るい声を出した。
「私のだって、正真正銘の嘘よ」と、同じように明るい瞳の声が背中に届く。
「あ、ああ」と筒井は肯いた。そして、「もう、寝るぞ」と冷たいシーツで顔を隠した。
しばらく瞳がテーブルを片付けている音を背中で聞いていた。その音がやむと、立ち上がった瞳が、浴室のほうへ歩いていく。その後ろ姿を、筒井は薄目を開けて見送った。
「ねぇ、花原くんたち、いつ出発するんだっけ? ハワイって言ってたよね、新婚旅行」
いつもと変わりのない瞳の声が聞こえてくる。
「あさってだろ」と、筒井もいつものように返事をする。
「何泊だって言ってた?」
「なんで?」
「戻ったころに、お礼の電話しなきゃいけないでしょ」
浴室で歯磨きを始めたらしい。瞳の不鮮明な言葉が、水音に混じって返ってくる。筒井は無理に目をつぶり、早く眠ってしまおうと努力した。
『昔、昔、あるところに、正直者のおじいさんとおばあさんが仲良く暮らしていました』
何度も心の中で繰り返してみるが、もう幼い文樹のようには眠れない。
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パーキングエリア
腕時計は、なかった。
十五年以上も前に、置き忘れてきたものが、未だに残っているわけもないのだが、実際に自分の目で確かめてしまうと、すでに諦めていたことを、もう一度諦めるような感じを受ける。
当時、高校二年生だった筒井は、ここ日光に修学旅行で訪れていた。連日の寝不足で夢遊病者のような学生たちを、新米のバスガイドが引率していた。もちろん筒井も、その中の一人だったのだが、みんなが国宝の「眠り猫」を見に行ったとき、なぜかしらふらっとその群れから離れた。ただ、ふらっと群れを離れて、単独行動をとったわけではなく、陽明門を出たところにあったベンチに座り、みんなが出てくるのを一人で待っていた。待っている間に、手持ち無沙汰から腕時計を弄《もてあそ》んでいた。高校の入学祝に買ってもらった SEIKO の腕時計で、すでに革のベルトは汗が滲んで変色していたはずだ。
そこに腕時計をはずして置いた。正確にいえば、ベンチの裏にあった岩の窪みに自分の腕時計を置いたのだ。特別な理由があったわけではない。ただ、岩の窪みが腕時計の形に似ていたからだ。窪みにすっぽりとはまった腕時計を見て、筒井はとても満足だった。
で、そのまま、そこに腕時計を置き忘れたのだ。長い時間、そこでみんなを待っていたせいもある。置いたことを忘れるどころか、置き忘れたことさえ忘れていて、筒井が自分の腕から時計がなくなっているのに気がついたのは、観光バスが日光を離れ、次の目的地「東京」へと到着したころだった。
それから新しい腕時計を買うたびに、日光に忘れてきた腕時計のことを思い出していた。数年に一度の割合で思い出すせいで、日光東照宮の全体図は忘れ去っても、腕時計を置いてきた場所と窪んだ岩の形だけは、鮮明に覚えている。
「そんなの、残ってるわけないよ」
この話をしても、誰もがみんなこう言った。
「でも、ベンチの裏にある岩の、その裏側の窪みだぞ。観光客がわざわざあの岩の裏まで入り込むとは思えないんだよな」
自分でもすでになくなっているだろうとは思っていた。観光客が入り込まなくても、世界遺産なのだから、勤勉な清掃員だっているだろう。ただ、そう思いはするものの、心のどこかで、未だに残っているような気がしないでもなかった。
今朝、出勤の途中で衝動的にハンドルを左に切ったとき、日光東照宮のことも、もちろん腕時計のことも頭になかった。衝動的というのはどちらかというと熱い感情のイメージがあるが、今朝、実際に味わった感じでいうと、とても冷静沈着なものだ。ハンドルを切った瞬間、社員が一人失踪したことで、会社で騒ぎになることも、すぐに家に連絡が入ることも、連絡が入って慌てる妻の様子も、そしてすぐに後悔するだろう自分のことも、すべて頭の中で想像できた。おまけにサイドミラーで後続車を確認し、タイミングよく車線変更した上、これから衝動的に入ろうとしている首都高の渋滞情報まで確認したのだ。
首都高に入り、車の流れに乗って走り出すと、「『何も考えずに』というのが、衝動的だなんて嘘だな」と思わず呟いていた。
最初に会社からの連絡が携帯に入ったのは、九時十五分ごろだった。あいにくまだ首都高の渋滞にはまったままで、車は三宅坂の立体交差の上だった。今、出れば、まだなんとでも言い訳はつく。頭ではそう思うのだが、ハンドルを強く握っている手が、どうしても助手席に投げ出している携帯のほうへ伸びていかない。
「首都高が渋滞してて。入るときには空《す》いてたんですけど、事故かなんかあったみたいで……」
電話に出てもいないのに、そんな言い訳が次々に浮かんでくる。いつものように電車で会社に向かっていれば、ハンドルを衝動的に切ることもなかったのだろうと思うと、助手席で鳴り続けている携帯の着信音が、どこか非難がましく聞こえてくる。今日の午後に川崎へ航路確認に行く予定があった。最近、新人の和泉を一緒に連れて行くことが多いので、川崎や木更津へ向かう日は電車ではなく、家の車で出勤している。
助手席の携帯がおとなしくなると、急に車が流れ始めた。しばらくの間、ラジオをつけて何も考えないようにした。車線も変えずに、ただアクセルとブレーキを交互に踏んでいると、いつの間にか箱崎のジャンクションにいた。会社から二度目の電話がかかってきたのはそのころだ。今度はハンドルを握っていた手が、助手席に伸びた。ただ、せっかく伸びた手で、筒井は携帯の電源を切ってしまった。
ちょうどその直後、「東北自動車道」という文字が目に飛び込んできた。そしてその文字が飛び込んできた瞬間、「そうだ。行き先を決めなきゃ」と筒井は思った。どこに行きたいわけでもなかった。しかし、それにしても行き先は必要な気がした。ならば「東北自動車道」を目指せばいいと思ったのは、前を走っている車がたまたま仙台ナンバーだったせいもある。
東北自動車道の入口「川口」ジャンクションまで、車はときどき渋滞しながらも、どちらかといえばスムーズに流れた。料金所でチケットを受け取り、更にアクセルを踏み込んだ。車内にはずっとラジオが流れていたのだが、筒井はそこでやっとそのことに気づいて消した。ラジオを消すと、アスファルトを踏むタイヤの振動がシートの下から伝わってくる。速度を一二〇キロに保とうと決め、遅い車が近づけば、追い越し車線に移って抜いたし、速い車が背後に迫ってくれば、邪魔にならないように車線を譲った。不思議なもので、自分が抜いていくすべての車は、年配の男が運転しているように思え、逆に自分を追い抜いていく車はすべて、若い男が運転しているように思えた。もちろん確かめたわけではない。ただ、抜きながらそう思い、抜かれながらそう思っていただけだ。
不思議といえば、こちらも不思議なもので、東北自動車道に乗ったのはいいが、特に目的地があるわけではなかった。それなのに迫っては背後に流れていく緑色の看板をいくつも見ているうちに、自分でも気がつかないほどの自然さで、那須インターで自分が降りようとしていることに筒井は気づいた。
それでも目的地が決まると、急に呼吸が楽になるようだった。衝動的にハンドルを切ってしまった瞬間から、渋滞した首都高、そして東北自動車道へと、まるで自分が一度も息をせずにいたような気さえした。
考えなければならないことはいくらでもあった。妻も子もある一人の社会人が、とつぜん何の連絡もせずに、いつもの道から消えたのだ。動作としては、ただ車線変更のためにハンドルを四十五度左に傾けただけなのだが、そのたかが四十五度が、自分が考えている以上に大きな意味を持つことくらいは分かっていた。
部長や妻の顔がちらつくたびに、次のパーキングエリアに入って連絡を入れようと思った。ただ、今度はそのたかが四十五度、ハンドルを切ることができない。蓮田SAから羽生PA、羽生PAから佐野SA。東京から離れれば離れるほど、「電話したほうがいいぞ」という声よりも、「もう、電話しても無駄だよ」という声のほうが、耳の奥のほうで強くなる。
三十分の遅刻なら、どんな言い訳だってできる。一時間の遅刻でも、なんとか言い訳は考えつく。ただ、三時間となると、もう言い訳では足らなくなり、そこに「ある物語」が必要となる。
心では那須高原と決めていた目的地を、とつぜん日光に変えたのは、いつもの道から逸れて、その三時間が過ぎたころだった。
時間のことばかりを考えていたせいかもしれない。それまではまったく目に入らなかった「日光宇都宮道路」という文字が、十五年以上も前に置き忘れた腕時計の記憶とともに、とつぜん頭から離れなくなっていた。
筒井は宇都宮インターチェンジで「日光宇都宮道路」に入った。ハンドルを切ってしまえば、那須高原など途端に興味がなくなった。もともと那須高原に行きたくて、いつもの道でとつぜんハンドルを切ったわけではない。逆にいえば、ハンドルを切ってしまったおかげで、那須高原に向かわなければならなくなったのだ。
目的地を日光に決めた途端、腕時計のことばかりを考えていられるようになった。部長の怒声も、妻の嘆息も聞こえなくなり、岩の窪みに置いた腕時計のことばかりを考えていられた。汗が滲んで、ベルトの革は変色していた。最初の数ヵ月はとても大切に使っていたのに、あるとき校舎の壁でこすって、ガラスの表面に無数の傷がついた。いくら指でこすっても、もうついた傷は戻らなかった。いったん傷がついてしまうと、徐々に扱いも乱雑になった。ただいくら乱雑に扱っても、あの時計は決して針を止めることがなかった。
前触れもなく、とつぜん胃がムカムカしてきたのは、そろそろ日光出口という辺りだった。筒井は慌ててハンドルを切り、通り過ぎそうになっていたパーキングエリアに車を入れた。
駐車場に車を停めると、ドアを蹴り開けるようにして外へ飛び出た。目の前にトイレがあったのだが、間に合わなかった。幸い、出口手前のパーキングエリアにはほとんど車も停まっていなかったが、がらんとした白線だけの駐車場に嘔吐物が飛び散った。朝、食べてきたマーマレードの味がした。鼻の奥に紅茶の臭いが残った。
パーキングエリアの売店で、ミネラルウォーターを二本買った。一本で何度もうがいをし、もう一本を飲み干した。車に戻ってシートを倒し、窓を開けたままタバコを吸った。吐き出した煙が、窓から空へ広がっていく。雲一つない青空で、じっと見つめていると次第に空が降りてくるようだった。
高校に入学したばかりのころ、あれはどこへ向かっていたのか、父と二人でちょうどこんな風に、高速のパーキングエリアで休憩していたことがある。運転席のシートを倒した父は、今の自分と同じように窓の外へ煙を吐き出していた。
「そう何もかんも欲張らんで、まずは、今やれること、一生懸命やってみろ」
とつぜんの父の言葉だった。一瞬、何のことなのか分からずに、シートに寝転がる父のしかめ面に目を向けた。
「お前みたいに、あれやりたい、これやりたいで、いろいろ始めて、結局何にでもすぐに飽きてしまう。それじゃ、どうにもならんぞ」
父は続けてそう言った。そこまで言われてやっと、父が留学のことを言っているのだと理解した。二週間ほど前、筒井はアメリカの高校に一年間留学してみたいと父に告げていた。一瞬、父の目がきらっと輝いたのを筒井は認めた。その目に後押しされるように、どのような手続きを踏めば、自分が留学できるか、事細かに父に伝えた。
「自慢じゃないけど、知っての通り、英語の成績は良くないから、県の交換留学生制度には絶対引っかからないと思うんだよね。それにあれって年にたったの五人だし、市じゃなくて、県選抜だから見込みはない。となると、個人で留学するしかなくて、それで自分なりにいろいろ調べてみたんだけど、行けそうなのは、ニューヨーク州だと……」
そう言いながら、筒井は留学ガイドを指し示した。すぐにそのガイドブックをひったくった父が、まるで自分が留学するような期待に満ちた表情で、パラパラと分厚い雑誌を捲《めく》っていく。父の表情に応えるように、雑誌には紅葉に囲まれたボストンの高校の写真が、広大な芝生に建つロサンゼルスの高校の写真が載っている。
「ホームステイ先は、東京のエージェントがあって、ちゃんと探してもらえるんだって」
ページを捲る父の横で、筒井は何かと口を挟んだ。
小学生のころから、習字、絵画、スイミングクラブ、やりたいと頼めばなんでもやらせてくれる父親だった。ただ、その代わりに当時流行っていたゲームなどに使う金は一切くれず、「そんなもんはまとめてやれ」と、年に一度、お盆休みに出かけた旅行先の旅館で、それこそこちらがゲーム遊びに飽きてしまうまで、一晩中、連日でもやらせてくれた。
そんな父親だったので、息子が留学したいといえば、驚くにしろ、反対するとは思えなかった。
ただ、留学雑誌のページが巻末の料金表にさしかかった瞬間、ページを捲っていた父の表情がとつぜん曇ったのだ。もちろんすでに高校生になっていた筒井にも、自分の家がどの程度の生活レベルであるのかは分かっていた。市内に貸しビルを何軒も持っている清水のような金持ちではない。かといって、高校進学を諦めた市田のような家庭に育ったわけでもない。
父はすでに雑誌を投げ出していた。筒井は何か声をかけようとしたのだが、その言葉が見つからなかった。
留学に必要な二百万円という金が、はした金ではないことぐらい、筒井にも分かっていた。ただ、こんなにもあっさりと諦めてしまわなければならないほど、自分が育った家庭にとって、それが大金だとも思っていなかったのだ。せめてもうちょっと、せめて五秒でも、父が悩んでくれれば、筒井もこんなにショックを受けることはなかったはずだ。雑誌を投げ出した父が、部屋を出て行くと、とつぜん筒井は得体の知れない恐怖感に襲われた。自分の望みを無条件に諦めるしかない状況というものを、生まれて初めて味わったのだ。
「もしも、本当に留学したいなら、ちゃんと日本の大学に入って、そこでまた考えろ」
どこかへ向かう途中のパーキングエリアで、父はそう筒井に言った。もう留学について、というよりも、留学について話す父を見たくなかった筒井は、「うん、分かった」と、短く肯いただけだった。
高速を降り、日光東照宮に到着したのは、午後二時半を少し回ったころだった。平日ということもあり、駐車場はそれほど混んでいなかったが、それでも団体客用のバスは数台停まっており、陽明門へと続く砂利敷きの坂道にも世界各国からの旅行者たちの姿があった。
筒井は東照宮へ入るためだけのチケットを買い、まっすぐに陽明門へ向かった。のろのろと進む団体客たちを追い抜き、足早に石段を駆け上がる。もう十五年以上も前のことなのに、まるでさっきこの石段を下りてきたような気がした。
石段を上がると、そのまた上に陽明門が見える。門をバックに何人もの観光客が記念写真を撮っている。ふと門の左側に目を向けると、ベンチはなかったが、見覚えのある岩があった。
筒井は玉砂利を踏んで、その岩に駆け寄った。駆け寄って、その裏に回り込もうとした瞬間、ふと思い立って足を止めた。そして、その場で目を閉じ、「もしもあったら、絶対にあるはずはないのだが、もしもあの腕時計があったら、本当に、本当に、なにもかも置き去りにして、このままどこかへ逃げてしまおう」と思った。
今、目の前に、古い大きな振り子時計がある。
さっきからずっと眺めているが、ちょうど静かな海を眺めているようで、いつまでたっても飽きがこない。
東照宮の駐車場から車を出してすぐに、ここ「日光金谷ホテル」の看板が目に入った。あるはずのない腕時計がなかったことに落胆していたわけではなかったが、あるはずのない腕時計が、やはりそこになかったことで、東京が、自分が逃げ出してきた東京が、もっと遠くに感じられた。お土産屋の近辺で珈琲でも飲もうかと思ったが、どの店も旨そうな珈琲を出すようには見えず、諦めてとりあえず車に乗り込んだのだ。
急な坂道の上に日光金谷ホテルはあった。いわゆるリゾート地にあるクラシックホテルの典型で、鬱蒼《うつそう》とした森に囲まれたホテルは、一日を一年かけて過ごしているような、そんな落ち着きに満ちていた。
車を停めてロビーに入り、多少気後れしながら、ラウンジに向かった。ラウンジには座り心地のいいソファが並んでいて、窓の外に青々とした森が広がっている。ラウンジには筒井のほかに、静かにフランス語を話す老夫婦が一組と、何も話さずにじっと窓の外の景色を眺めている白人のカップルが一組いるだけだった。
筒井がなんとなく選んで座ったソファのすぐ前に、大きな振り子の時計があった。かなりの年代ものらしく、丁寧に磨かれて木肌がつやつやして見える。
時計の針はすでに五時を指していた。本来なら会社での事務仕事を終え、和泉を連れて川崎の港湾事務所に向かっているはずの時間だった。
ポケットから携帯を取り出して、おそるおそる電源を入れた。電源を入れたとたんに着信音が鳴るような気がしたが、幸い、音は鳴らなかった。もちろん予想はしていたが、留守電ありの表示がでている。筒井は一度大きく息を吐き、留守電を聞こうと携帯を耳に当てた。
二十六件のメッセージが入っていた。自分のような平凡な会社員が、無断欠勤した場合には、一日で二十六件のメッセージが入るのかと、まるで他人事のように思った。
一件目から七件目までは、部長や、和泉たち会社の同僚からのものだった。冗談っぽく「筒井さ〜ん、どこに消えちゃったんですかぁ?」と入っている声もあれば、「とにかく一本電話をしてくれ」と妙に深刻ぶった声もある。
八件目から十件ほど、無言電話が続く。間隔もほとんど一分おきくらいで、この無言電話は妻からのものらしい。とつぜん消えた夫に、きっと彼女もかける言葉が見つからないのだ。とつぜん消えた夫が、未だに妻にかける言葉が見つからないように。
無言電話のあと、また会社からの電話になった。ただ、一件ごとに、筒井の安否を確かめるものから、「久世産業の書類がないので、それだけでも連絡がほしい」などといった急を要する用件も加わっている。
そんな内容のメッセージのあとに、やっと妻、瞳の声が聞けた。
「……大丈夫よね」
瞳は、ただそれだけ呟いていた。
実際、理由が必要だった。このまま家に帰るにしても、会社に戻るにしても、何かしらみんなが納得してくれる理由が必要だった。たかが八時間、いつもと違った行動をしただけで、これまでの人生を、いや、これからの人生を語るくらいの物語を見つけなければ、元の場所には戻れないような気がした。
自分がどんな少年時代を送り、どんな気持ちで、一歳半の子供を抱えた瞳と結婚し、どんなつもりで働いているのか、それを事細かに言葉にしないと、きっと元の場所には戻れない。ただ、そう考えれば考えるほど、みんなが納得できるような思い出話や、妻が納得できるような夫婦間の問題や、会社への不満というものが、自分にはないことが分かってくる。
もちろん、たまには妻とも喧嘩をする。そしてもちろん仕事をしていれば、胃の辺りがきりきりするような、そんな状況にもぶち当たる。ただ、今朝、とつぜんハンドルを切ってしまったのは、そんな些細なことが理由ではなく、なんというか、もっと大きな何か、たかが言葉では表すこともできないような巨大な何かのせいだったのだ。
筒井は携帯をポケットに戻すと、改めて目の前の古い振り子時計を眺めた。チクタク、チクタクと、規則正しく動く振り子は、今にもぽとんと落ちそうにも見え、今にもゆっくりと停止しそうにも見える。ただ、決して落ちることもなく、決して止まることもない。チク、タク、チク、タク、と、ただ黙って時を刻む。
どれくらいそうしていたのか、気がつくと、窓の外はすっかり日が暮れていた。さっきまで窓際のソファに座っていた白人の若いカップルも、フランス語を話していた老夫婦の姿もない。すでに二階のレストランが開き、白いリネンがかけられたテーブルで、みんな夕食をとっているのかもしれない。ただ筒井だけが、誰もいないラウンジで、振り子時計の音を聞いていた。
筒井はポケットから携帯を出すと、何度か指先でためらいながらも、どうにか最後まで妻の携帯の番号を押した。
ほとんど呼び出し音も鳴らずに電話は繋がった。電話の向こうから、息を殺しているような雰囲気が伝わってくる。
「……もしもし」
筒井はとても静かな声で言った。
「……うん」
瞳の静かな声が返ってくる。
「ごめん」と筒井は謝った。謝れば済むとも思わなかったが、謝らなければ次の言葉が見つからなかった。
「……あ、文樹がね、今日幼稚園できゅうり食べたって」
「……ごめん。これから戻るよ」と筒井は言った。
いったん謝れば、実はとつぜん会社に嫌気がさして、とか、実はとつぜん遠くへ行きたくなってとか、嘘のような、本当のような、そんな言い訳がいくらでも浮かび、今にも口から飛び出しそうになる。ただ、誰もいない静かなこのラウンジを、そんな嘘のような、本当のような言い訳で満たしたくない。
「……大丈夫よね?」
瞳の落ち着いた声だった。一瞬自分が何を尋ねられているのか分からなくなり、「何が?」と大声で訊き返しそうになった。
しばらく沈黙があって、瞳がまた、「大丈夫だよね?」と静かに尋ねる。
筒井は携帯を耳に当てたまま肯いた。肯いた筒井の姿が見えるわけでもないのに、「私、ちゃんと待ってるから」と瞳が答える。
「今、日光にいるんだ。日光の金谷ホテル」と筒井は告げた。
「……ほら、お前にも前に話したろ? 高校の修学旅行で腕時計を置き忘れて……、それがさ、今でもあるような気がするって」
瞳は何も言わずに筒井の話を聞いていた。
「……で、さっき確かめに行ってみたんだけど……、やっぱりなかったよ。……なかった」
ちょうど時計が七時を指し、振り子時計がボーンと静かな音を立てた。誰もいないラウンジに、ボーンと静かな音が広がった。
「……帰るよ。あと三十分だけ、ここでぼんやりしたら帰る。ホテルのラウンジにいるんだ。大きな振り子時計があって、なんだか妙に落ち着くんだ」
筒井は振り子時計の音が鳴り終わるのを待ってそう言った。
電話を切って、タバコに火をつけた。ラウンジの照明がガラス窓に映っていた。まるで森の中から明かりが浮かび上がっているようだった。
ホテルのマネージャーらしき初老の男性がラウンジに入ってきたのは、それから十分ほど経ってからだった。泊り客でもないのに、ラウンジに長居する自分を不審に思ったのだろうと、筒井が慌ててソファから立ち上がろうとすると、「筒井様ですか?」と声をかけてくる。
背筋の伸びたその立ち姿は、長年このホテルを守ってきた気品に満ち溢れていて、まったく威圧的なところがない。
「は、はい。筒井ですが」
とつぜん名前を呼ばれて、筒井は慌てて肯いた。
「今、奥様からお電話をいただきました。今夜、こちらにお部屋をご用意させていただきましたので、もしよろしければ、ご案内させていただこうかと思いまして」
老紳士がそう言って笑顔を見せる。
「妻が?」
思いがけない言葉に、筒井は立ち上がりかけていた体をソファに戻した。
「はい。奥様からたった今、お電話をいただきました。『せっかく日光までいらっしゃったのだから、一泊くらいゆっくりしてきてください』と。……そうお伝えするように、と」
筒井はソファから立ち上がった。そして老紳士の笑顔に導かれるように、妻が取ってくれた部屋に向かう。
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楽 園
不慮の事故や悪天候によるダイヤの乱れがない限り、東京発の快速電車は十八時五十二分に新宿駅に到着する。月曜から金曜までの週に五日、急な残業や特別な用事がない限り、ぼくはこの電車で帰宅する。
「ねぇ、あなたにとって楽園ってどんなイメージ?」
彼女はこんな突飛な質問を平然とする女だった。真面目に答えていいものかどうか、その澄ました顔を覗き込んでみても、そこには何も書かれていない。
「楽園ねぇ。なんか口にするだけで恥ずかしいよ」
「なんで? 照れることないじゃない」
「別に照れちゃいないけどさ……」
「だったら、ほら、あなたの頭のなかにある楽園のイメージ、私に教えてよ」
彼女といると、ときどき馬鹿にされているような気分になった。なんの根拠もない妄想だったが、それはひどくぼくを苛立たせ、苛立たせながらも何故かしら屈服させる強さがあった。
「楽園ねぇ、……まぁ、まずは椰子《やし》の木だろうな。白い砂浜に高い椰子の木があって、その木陰に座り心地のいい椅子を置く。椅子の背凭《せもた》れには洗いたてのバスタオルがかけてあって、波が足元まで打ちよせてきて……」
「ねぇ、話の途中に悪いんだけど、あなたの楽園って、あんがい陳腐なのねぇ」
「陳腐ってなんだよ。人がせっかく真面目に答えてんのに」
「あ、ごめんごめん。続けて」
「もういいよ」
「いいから、ほら、続けて。で、そこからは何が見えるの?」
「別に、何も見えないよ」
「すねることないでしょ。ほら、何が見える?」
「何って、砂浜にいるんだぞ。海に決まってんだろ」
「どんな海よ?」
「だから……、どこにでもあるような陳腐な海だよ。真っ青で……」
「真っ青で?」
「真っ青で、……でも水平線の辺りだけ、その色が少し濃くなってるかな」
「ほら、ちゃんと見えるじゃない。海の上には何も浮かんでない?」
「海の上? 別に……、あ、いや、浮かんでる。ヨット。帆を降ろした白いヨットが遠くをゆっくり進んでる。そんで砂浜の波打ちぎわに大きな岩があって、その岩で波が砕けてるんだけど、そのリズムと遠くで動いてるヨットのスピードが、ぜんぜん合ってなくてさ、なんていうのかな、二つの時間を同時に過ごしてるみたいなんだ」
「二つの時間を同時に? だんだんイイ感じになってきたじゃない、あなたの楽園」
「そ、そうか? で、目を閉じるだろ、そうすると椰子の葉が風に揺れてて……」
「それが雨音に聞こえるんでしょ?」
「そう! なんで分かった? ほんとに雨音みたいに聞こえるんだ」
「それでぼんやりするのに飽きたあなたは砂浜を歩きはじめる」
「飽きないよ。日が沈むまでずっとそこにいる」
「いいから、あなたは砂浜を歩きはじめるの。波打ちぎわの濡れた砂を裸足で」
「裸足かぁ。気持ちいいだろうなぁ。海の水は冷たくて」
「ねぇ、そこに何か埋まってない?」
「え? そこって?」
「あなたの足元よ」
「別に何も……」
「想像してみてよ。あなただったらそこに何が埋まってると思う?」
「何がって……」
新宿駅西口から都庁方面へと伸びる長い地下通路には、浮浪者が段ボールハウスを作って棲みつかないように、安っぽいオブジェが両脇に並び、その剥げかけたペンキの色が通行者たちの心をひどく滅入らせる。数年前までこの通路には大勢の浮浪者が棲みついて、真夏日など彼らのからだから発散される臭気で、いくら足早に通りぬけても、やっと外へ出るころには胃を鷲掴みされるような吐き気がしたものだ。
この時間、新都心の高層ビル群から吐き出された人々が、この通路を通って駅へ向かってくる。その流れにさからうように、ちょうど鮭が川を上流へのぼっていくように、ぼくは地下通路を逆行する。押しよせてくる人波が、たとえばひとつの世界だとすれば、世界はいつも不機嫌で、どこか焦っていて、そして無口だ。ここで毎日どれくらいの人とすれ違っているだろう。数百、いや、千を超す日もあるかもしれない。膨大な不機嫌。膨大な無口。
今ふと、歩きながら彼女の部屋の浴室を思い浮かべたのは、すれ違った長い黒髪の女のあとに甘いココナツの香りが残ったからだ。──彼女の浴室にいつも並んでいた石鹸はなんという銘柄だったか? たしかフランス製の石鹸で、新品のまだ厚紙で包まれたものを手にしただけで、しばらくのあいだ指先にすっぱい匂いが残った。
地下通路を抜ければ、目の前に都庁舎やセンチュリーハイアットホテルが立ちふさがる。通りの街路樹が建物に比べて低い。通りを歩く人々は街路樹に比べてもっと低い。足元に煙草の吸殻が捨てられている。くの字に曲がった吸殻。踏みつけるつもりが、ふとそれが小さな人間に見え、慌てて足を引っ込める。──そうだ。たしか彼女が使っていたのはロクシタンという銘柄だった。ロクシタン。何度聞いても覚えられなかった石鹸の名前が、今とつぜんすんなりと甦る。
道は新宿中央公園に向かってまっすぐに伸びている。たとえば向こうから歩いてくる背広姿の若い男に、「昨日もここで会いましたね」と声をかけたら、いったいどんな言葉が返ってくるだろう。「そうでしたっけ?」「だからどうした?」「知るか、お前なんて」……。やはり気味の悪い奴だと思われるだろうか? でも思われるだけで、実際に「気味の悪い奴だな」などと声に出しては言ってくれない。──そういえば、さっき会社を出る前に上司の工藤さんから「一杯付き合わないか?」と誘われた。
「疲れてるんで」
そう言って無下《むげ》に断ってしまったのだが、少々ぞんざいな言い方だったような気がして、新宿までの電車のなか、ずっとその断り方をああでもないこうでもないと言い直していた。ちょうど銀食器を作る職人が、製品の形を整えるように、表面を均一に、出っ張りや歪みを矯正するため、何度も何度もハンマーで叩き、美しく彫琢するように。──プラナージュ。たしかその作業のことをプラナージュと呼んだはずだ。でも、どうしてこんな言葉をぼくは知っているのだろう? テレビのドキュメント番組で見たのか、それとも何かの雑誌で目にしたのか。
道は、ヒルトンホテル前を左折したこの辺りから、ゆるやかな坂道になる。坂をおりれば熊野神社があり、急に辺りが暗くなる。それでも坂の途中に四機の自動販売機が並んでいる場所があって、そこだけはいつも真昼のように明るい。ここで毎晩缶ビールを一本だけ買う。買うと、これで今日も終わったなぁ、と思う。ただ、そう思うだけで、哀しくなるわけでもないし、何かに焦るわけでもない。
「小学校のころ、クラスのみんなに仲間はずれにされたことがあるのよ」
彼女がとつぜんこんな話をはじめたのが、たしかここで缶ビールを買っているときだった。そう話す彼女の声は軽くて、ゴトッと落ちてきた缶ビールの音だけが重かった。
「何が理由で仲間はずれにされたのか、ぜんぜん身に覚えがないんだけど、とにかくある日とつぜん誰も口をきいてくれなくなったの」
「きっと可愛かったからだよ。他の女の子たちに妬《ねた》まれたんじゃない?」
自動販売機から缶ビールを取り出しながらそう答えたぼくの背中に、「私、あなたのそういうところ好き」と呟く声が聞こえた。心のなかで、『俺は自分のそういうところが嫌いだけどな』と言い返したことを覚えている。
彼女は道々その話を続けた。仲のよかった智子ちゃんまで、彼女が近寄るとすぐにどこかへ逃げたという。
「……そんな理不尽な毎日にかなり憤慨してたんだと思うの。私ね、みんなに仕返ししてやったのよ」
「仕返し?」
「そう、仕返し。ほら、給食用のスプーンがあるでしょ。あれを、みんなが使う前にみんなの分をぜんぶ舐めてやったの」
「なんで?」
「なんでって……。だから仕返しよ。でも、クラスって四十人くらい生徒がいるでしょ、途中から顎は痛くなるし、舌は腫《は》れるしで大変だったんだから」
給食の準備ができた誰もいない教室で、一番前の席から順番に、クラスメイトのスプーンを舐めてまわる女の子。長いおさげ髪を揺らしながら、女の子が必死にスプーンを舐めてまわる。冷たいスプーンが女の子の赤い舌の上で熱くなる。
結局、クラスのみんなは誰もその仕返しに気づかなかったらしい。自分が舐めたスプーンで、おいしそうにクリームシチューを食べるクラスメイトを、彼女は勝ち誇った気分で眺めていたという。
自動販売機で買った缶ビールをその場で飲むわけではない。寒い冬の夜にはダッフルコートのポケットに入れ、歩くだけで汗が吹きでる熱帯夜には、火照った頬や額にその冷えた缶を押しつけながらアパートへ帰る。熊野神社前の横断歩道を渡って、弁当屋の脇を入った細い路地の突き当たりに、ぼくが暮らすアパートはある。新宿駅から徒歩十八分。朝夕の駅への往き帰り、ぼんやりと彼女のことを思い出す割合も、最近では少なくなってきている。何度も同じ情景を思い出すこともあれば、すっかり忘れていた彼女の言葉がふと甦ることもある。そして、以前はうまく答えられなかった彼女の突飛な質問に、今になって気のきいた答えが浮かぶことも。
「ねぇ、そこに何か埋まってない?」
「え? そこって?」
「あなたの足元よ」
古いアパートの外階段を駆け上がり、一番手前のドアを開ける。週に五回。繰り返し。真っ暗な室内に留守電のランプが点《とも》っていることもある。彼女からのメッセージじゃないかと、未だに期待してしまう自分がいる。
彼女がぼくと違う時間を生きるようになって、まだ二年しか経っていない。ぼくの時間が規則正しく岩に打ちよせる波だとすれば、彼女の時間は遠く水平線へ消えてゆく白いヨットだ。
「……なんていうのかな、二つの時間を同時に過ごしてるみたいなんだ」
「二つの時間を同時に? だんだんイイ感じになってきたじゃない、あなたの楽園」
アパートにはたいてい十九時十分に着く。あの日のように不慮の事故や悪天候によるダイヤの乱れがない限り。
単行本 二〇〇四年十一月 文藝春秋刊