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吉田修一
パーク・ライフ
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パーク・ライフ
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パーク・ライフ
日比谷交差点の地下には、三つの路線が走っている。この辺り一帯を、たとえば有楽町マリオンビルを誕生日ケーキの上飾りに譬《たと》え、上空から鋭いナイフで真っ二つに切ったとすると、スポンジ部分には地下鉄の駅や通路がまるで蟻の巣のように張り巡らされているに違いない。地上のデコレーションが派手でも、中身がすかすかのケーキなど、あまりありがたいものではない。
改札を抜けて、清掃中の濡れた床に注意しながら日比谷公園出口へ向かった。まっすぐに延びる地下通路の天井は低く、歩けば歩くほど自分の身長が縮んでいくように思える。途中、振り返ってみたが、一緒に電車を降りたはずの女の姿はそこになかった。日比谷線の車内でちょっとしたハプニングが起こった。しばらく霞ヶ関駅に停車していた電車が、説明のアナウンスも特にないまま空調を切り、まったく動かなくなってしまったのだ。場所が場所だけに何か異臭がしないかと辺りを嗅ぎ回りたくもなる。どれくらい停まっていたのか、ぼくはドアに凭《もた》れたまま、ガラス窓の向こうに見える日本臓器移植ネットワークの広告をぼんやりと眺めていた。広告には『死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です』と書かれてあった。よほどぼんやりしていたのだと思う。すでに六本木駅で電車を降りた先輩社員の近藤さんが、まだ背後に立っていると錯覚していた。
「ちょっとあれ見て下さいよ。なんかぞっとしませんか?」
ガラス窓に指を押し当て、ぼくは背後に立つ見知らぬ女性に笑みを向けてしまった。辺りの乗客たちが一斉にぼくを見た。とつぜん話しかけられて、その女性もきょとんとした。しかし、乗客たちのあいだで失笑が起ころうとしたとき、「ほんとねぇ、ぞっとする」と、その見知らぬ女がガラス窓の外へ目を向けて、平然とぼくの問いに答えたのだ。今度はこちらがきょとんとなった。
「……死んでからも生き続ける私の臓器ってイメージがちょっと怖いっていうか、不気味な感じするよね」
女は続けてそう言った。まるで十年来の知り合いに話すような口ぶりだった。赤面で済んだものが、腋《わき》の下にじとっと汗まで滲《にじ》んだ。乗客たちは、しばらく言葉を交していなかっただけで、この二人は知り合いなのだと判断したらしく、すでに興味を失っていた。
電車はその後もしばらく停車したままだった。女は何ごともなかったかのように、中吊り広告を眺めはじめ、ぼくはぼくで、なるべく目が合わないようにガラス窓に顔をはりつけ、早く動いてくれ、と心のなかで祈った。
細い地下通路を抜け、日比谷公園出口への階段を駆け上がる。店舗営業の途中に、ほとんど毎日この階段から公園へ出ているのだが、この通路で誰かとすれ違ったという経験がない。地下鉄の出口にも、数寄屋橋口のような花形もあれば、ここのように人気のない出口もあるのだろうが、こう毎回一人きりだと自分の名前がこの出口についてもおかしくはない。
薄暗い階段を昇りきると、公園派出所の裏に出る。公衆便所脇の低い柵を跨《また》ぎ、園内に入り込めば、地下鉄構内の空気とは違い、土や草いきれが鼻孔をくすぐる。園内では、なるべく俯《うつむ》いて歩くことにしている。遠くのものを見ないようにしながら、心字池を囲む雑木林の小路を足元だけを見つめて進み、イチョウ並木、小音楽堂を抜けて大噴水広場に入る。広場には死にもの狂いで餌をついばむ鳩たちがいる。踏まないように広場を横切り、噴水を囲むベンチの一つにゆったりと座る。このときすぐに顔を上げてはいけない。まずネクタイをゆるめ、地下鉄の売店で買ってきた缶コーヒーを一口だけ舐める。顔を上げる直前に、数秒だけ目を閉じたほうがいい。ゆっくりと深呼吸をし、あとは一気に顔を上げて目を見開く。カッと目を見開けば、近景、中景、遠景をなす、大噴水、深緑の樹々、帝国ホテルが、とつぜん遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくる。狭い地下道に馴れた目には少し酷だが、頭の芯がクラクラして軽いトランス状態を味わえる。なぜかしら、涙が込み上げることもある。ただ、その涙に理由をつけようとすると、逆にすっと何かがさめて、すぐに涙は乾いてしまう。
昨夜、宇田川夫妻宅マンションで『UNZIPPED/アンジップト』という映画を観た。相変わらず夫妻が戻らないので、彼らの愛猿ラガーフェルドと二人きりだった。最初は、肩に乗せてやったり、テニスボールを転がしてやったりと、リスザルの相手をしながら観ていたのだが、いつの間にか映画に没頭していたらしく、機嫌を損ねたラガーフェルドが、テレビの前に立ちはだかり、「キーキー」とヒップアップ体操のようなものをはじめた。機嫌を直してやろうと、ひまわりの種を台所から持ってきて、二十粒ほど手のひらに盛って差し出した。ラガーフェルドは一粒ずつ抓《つま》みだし、ガリッと奥歯で噛み砕くと、器用に毟《むし》って食べてしまう。
映画はアイザック・ミズラヒというニューヨーク在住のファッションデザイナーのドキュメンタリーで、94年春のショーを終えた翌朝、ニューヨークの街角で自分のコレクションに対する新聞評を立ち読みする彼のモノクロ映像からはじまっていた。新聞評にはこう書かれてあった。ショーは成功で失敗。それが彼のコレクションの総評価だ。雑多なスタイル、持ち味の色使いと素材選びは空振り。アフター・エイトのドレスも冴えなかった≠ニ。新聞をたたんだ彼は、静かに歩き出す。『ショーの翌日は最悪の気分だ。朝、起きるのがイヤになる。ショーで疲れているのによく眠れない……』と呟きながら。
映画を観ていて、ラガーフェルドという名の由来に気づいた。ぼくは主にバスソープや香水を扱う会社で広報兼営業を担当しているので、女性誌に目を通すことも多く、多少ファッション業界にはうるさいのだが、たしかFENDIやCHANELのデザイナーにカール・ラガーフェルドという人がいたはずだ。宇田川夫妻は自分たちの愛猿に「ファッション界の独裁者」と異名をとる彼の名前をつけたのかもしれない。
宇田川夫妻は現在それぞれの理由で家を出ている。大学の先輩でもあった瑞穂さんに飼い猿の世話を頼まれたとき、自分のアパートから歩いて三分で行ける距離だし、日ごろ何かと世話にもなっているので、二つ返事で了解したのだが、まさかこんなに長期間に及ぶとは思ってもいなかった。厳密にいえば、夫の和博さんが出ていったのが今から十三日前、その五日後に妻の瑞穂さんが出ていった。理由はよく判らない。ただ、彼らが現在どこにいるかは知っている。和博さんは品川のビジネスホテル、瑞穂さんは国際線のスチュワーデスをやっている高校時代の友人のところに滞在しており、連絡をとろうと思えばいつでもとれる。
六本木店に新製品のポスターを届けに行った近藤さんを待つあいだ、広場にいる鳩の数と、ベンチや噴水の縁に腰掛け、陽気のいい午後を無為に過ごしている人たちと、どちらが多いのだろうかなどと数えながら、日に三本しか吸わないたばこの一本を吸っていた。
広場の中央に目を向けると、ビニール袋に入った餌を売店で買ってきたらしい公園新参者のおばさんが、百羽もの獰猛な鳩に囲まれて真っ青な顔で立っていた。おばさんとしては、足元に寄ってくる鳩たちに優雅に餌を撒《ま》くつもりだったのだろうが、日比谷公園の鳩はそれほど上品には育っていない。広場の中央に人の形をした鳩模様のオブジェができている。数秒後、悲鳴を上げたおばさんは、ビニール袋を地面に叩きつけ、噴水広場を逃げ出した。おばさんの姿がなくなると、すぐに鴉《からす》が低空飛行でやってくる。鳩たちは、一羽の鴉に威嚇され、しぶしぶその場を明け渡す。
広場の向こうから、紙袋をいくつも提げた近藤さんが歩いてくるのが見えた。またチャレンジするつもりらしく、深く俯いたまま歩いてくる。近藤さんは何度やっても遠近の乱れからくるあのクラクラ感を味わうことができないらしい。
時間をかけてゆっくりと広場を横断してきた近藤さんが、ベンチの脇に紙袋を置くと、話しかけるなよ、と手のひらでぼくを制し、教えた通りに、まずネクタイをゆるめ、数秒だけ目を閉じて、一気に顔を空に向けた。広場の鳩が、日比谷通りのクラクションに驚いて一斉に宙を舞う。
近藤さんがなかなか反応を示さないので、「どうでした?」と横から声をかけたのだが、彼はそれでもしばらく、真剣な表情で帝国ホテルの方を見つめたまま、「やっぱり駄目だよ。何度やってもお前がいう快感が味わえねぇ」と、悔しそうに首をふった。
「快感なんて言ってませんよ。ただ頭がクラクラするって」
「だからクラクラだろ? それもねぇんだよ」
来月で三十五歳になる近藤さんには、二年前に離婚した奥さんとのあいだに、今年から幼稚園に通う春子という古風な名前の一人娘がいる。春子ちゃんとは二週間に一度だけ会わせてもらえるらしい。前に新宿高島屋の食料品売場で、春子ちゃんと手をつないだ近藤さんにばったり会ったことがあり、「これだよ。これが俺の娘」と照れ臭そうに紹介する彼の横で、「人のこと、これって言わないんだもん」と春子ちゃんはその小さな口を尖《とが》らせていた。
近藤さんは基本的にぼくの苦手なタイプだ。ただ、彼と一緒にいると、ときどき肩の力が抜けている自分に気づくこともある。近藤さんを苦手な理由は、「お前を見てると、若いころの自分を見てるような気がするんだよ」などと、無遠慮に同化してくるところや、「もしお前が仕事をほされたら、必ず俺があとの面倒はみてやるよ」などといった信じ難い空言を平気で口にできるその軽薄さからくるのだが、それとまったく同じ理由で、ぼくは彼を好いてもいる。苦手な理由と好きな理由がまったく同じだなんてことが有り得るのだろうか。たとえば、以前モーリス・ベジャールのビデオを瑞穂さんと観ていて、「ヘンな意味に取らないでよ」とまず前置きした彼女が、「私ね、バレエダンサーのからだを見てると、なぜかしらアウシュビッツを思い出すのよね」と言ったことがあるのだが、そのときはひどく不謹慎な比較に思えたものの、肉体というものが常に崇高であるとすれば、両極限で同じ輝きを放ってもおかしくないのかもしれない。
「近藤さんって、バレエ観たことあります?」
噴水広場を横切る若いOLを目で追い、「きっとああいう女が寝てる布団って花束の匂いがするんだよ」などと、珍しくロマンティックな空想を膨らませている近藤さんに尋ねると、「バレエかぁ……。前の女房がさ、春子に習わせたいとか言い出してんだよ」と顔をしかめた。
「へぇ、春子ちゃんがバレリーナか。いいじゃないですか」
「そうか? まあ、バレエやってる女って、なんかこうキリッとしたところあるからな。私には男なんて必要ありませんみたいなさ。春子もそうなってくれりゃいいんだけどな。母親があれだろ、ときどきぞっとするよ。結局、自分に自信がねぇから、男を次から次に代えて、その数で自分の価値を計るんだよな。何人から好かれたかじゃなくて、誰から好かれたかってことが大事なのによ、……まぁ、俺から好かれたって大したことないけどさ。とにかく、春子にはああなってほしくないんだ。前の女房の話だと、ロイヤルバレエ団なんて本人だけじゃなくて、両親や祖父母の体型まで見るんだってな。将来太る体質かどうか、そこまで調べるらしいよ。俺なんかフィットネスクラブ辞めてから、ますます腹が出てきてるしなぁ……」
目の前の噴水が高く上がっていた。ちょうど春風が広場を吹き抜けて、水|飛沫《しぶき》が辺りを濡らす。
日比谷シャンテ店でのミーティングは午後三時半からだった。ミーティングには銀座プランタンや数寄屋橋阪急店の店長ほか、本社から営業部長も参加して、昨年末に売り出したラベンダーシャワージェルの大量在庫をどう処分していくかを決定する。
「春子っていえば、この前あいつに『パパのお仕事はカッコいいお仕事だもんね?』なんて真顔で訊かれたよ」
噴水広場から心字池へのイチョウ並木を歩いていると、とつぜん近藤さんがそう呟いた。「なんて答えたんですか?」と尋ねると、「そりゃ、『もちろんそうだよ』って答えるよ」と心細い顔をする。
「春子ちゃん喜んだんでしょ? だったらそれでいいんじゃないですか?」
「お前も冷たい奴だなぁ」
第一花壇の入口に生えた桜の蕾《つぼみ》が色づき、少しだけ開きかけていた。ライカを持った老夫婦がその蕾を見ようと樹の下で背伸びしている。靴のサイズが大きいのか、奥さんの踵が飛び出していて、その丸い踵に絆創膏が貼ってある。
「自分で売っててあれだけどよ、お前、オレンジジュースみてぇな風呂に入りたいと思うか?」
近藤さんに肩を小突かれ、「オレンジジュース?」と振り返った。老夫婦の指先が、桜の蕾に触れたようだった。
「だって、今度の新製品って、そういう入浴剤なんだろ?」
「ジュースじゃないですよ。マンダリンオレンジの果皮油を配合した……」
「知ってるよ。たださ、朝オレンジジュースを飲もうとするだろ、そうすると、なんか風呂の水、飲んでるみたいな気がするんだよな」
近藤さんと肩を並べて、心字池のほとりを歩いた。なにげなく見上げた低い崖の上に、いくつかベンチが並んでいる。退屈そうにたばこを吹かす営業マンらしき中年男の隣に、見覚えのある女の姿があった。一瞬、視線はその先の大樹へと進んだのだが、「あっ」と声を上げ、改めて視線をそこへ戻した。とつぜん立ち止まったぼくの肩に、近藤さんの肩がぶつかった。「な、なんだよ?」とその肩を叩く近藤さんの力に押されて、ぼくは心字池のほとりを駆け出していた。
「お、おい!」
後ろから近藤さんの声が追ってきたが、「ちょっと待ってて下さい!」と叫び返し、崖の上へとのぼれる派出所裏の石段に向かった。
心字池を見下ろす崖上のベンチで、スターバックスのコーヒーを片手に、春風に乱れる髪を押さえていたのは、やはり日比谷線でぼくが話しかけてしまった女だった。石段を駆け上がってくるぼくを、女が振り返って見つめている。もしかすると、池の向こうからほとりを駆けてくる様子もずっと眺めていたのかもしれない。本当に彼女なのか、その横顔を確かめるようにゆっくりと近寄ると、「こんにちは」と女が先に声をかけてきた。不思議なことに、女に声をかけられるまで、なぜここまで走ってきたのか、その理由さえ考えていなかった。「あ、あの女だ」と思い、衝動的に走ってきたのだ。女にじろじろと見つめられ、無理にその理由を頭のなかで探していると、「こんにちは」と女が改めて笑顔をみせる。
「こんにちは」
つられて挨拶を返し、丁寧に頭を下げた。
「どこの出口から出たの?」
「え?」
「地下鉄の出口よ」
「あ、ああ。日比谷公園口ですけど」
「そうか。私は三井ビルの地下から。ほら、いつもこれ買ってくるから」
女がスターバックスのカップを持ち上げてみせる。カップを握った指は長く、透明なマニキュアをつけているのか、濡れているように見える。女はそれほど若くない。ただ地下鉄のなかで見たときよりも、こうやって春の日を浴びた頬のほうが張りもうるおいもある。近藤さんより年上かと思っていたが、もしかするとまだ三十を越えたばかりなのかもしれない。
「あの……」
女の勢いに押されっぱなしだったので、思い切って口を挟んだ。
「あの、さっき何か言い忘れたことがあるような気がして、つい走ってきちゃったんですけど……」
「さっき? お礼?」
「え?」
「ほら、知り合いのふりをしてあげたお礼。あのままじゃ、恥ずかしくて風船みたいに浮かび上がっちゃいそうだったでしょ?」
「あ、ああ、そうか。でも、そうじゃなくて……」
「じゃあ、何?」
眼下に見える心字池の深緑色の水面に、水鳥が作る幾重もの波紋が広がっていた。水鳥たちはときどき水中に顔を突っ込み、ぶるぶるっと身震いして羽を広げる。
「あなた、いつもあそこのベンチに座ってるでしょ?」
女が池の対岸を指差していた。枝を伸ばした黒松の下には、たしかにぼくが一人でここへ来るときにいつも座っているベンチがある。
「あなた、あのベンチに先客がいると、嫌がらせみたいに何度も何度もその人の前を通って、この前なんか、先に座ってたカップルの前で、わざとらしく携帯なんかかけてたでしょ? 三分くらい大声でしゃべって、そのカップルが迷惑そうに立ち上がったときのあなたのうれしそうな顔、私、未だに忘れられないもの」
一方的な女の話を聞きながら、その不思議な声に聞き惚れていた。声質というよりも、その声域に魅力があった。
女は手にハンカチを握っていた。スカーフのように薄い生地には真っ赤な薔薇が描かれている。女が飲んでいるコーヒーの香りがほのかにする。
「私ね、この公園で妙に気になってる人が二人いるのよ。その一人があなただったの。こんなこというと失礼だけど、いくら見ててもなぜかしら見飽きないのよね」
「見飽きないって……、ただベンチに座ってるだけですよ」
「それはそうだけど……」
女がじっと見つめてくるので、思わず視線を霞ヶ関の合同庁舎ビルへ逸《そ》らし、「で、もう一人は?」と空に向かって尋ねた。
「もう一人は噴水広場でたまに見かける男の人。六十代かな、いつも小さな気球みたいなものを飛ばそうとしてて……」
「あ、その人なら見たことあるな」
「ほんと?」
「ええ。あれって何やってんですか?」
「私もよく知らないんだけど、とにかくあの小さな気球を真っ直ぐ上空に飛ばしたいみたい。ほら、普通は風に流されたり、上がるときに回転したりするでしょ? そうならないように改良してるみたい。理由は知らないけど」
「それ、本人に訊いたんですか?」
「たまたまあの人が隣のベンチで携帯をかけてるのを盗み聞きしたの。たぶん相手は奥さんだと思うんだけど、夕食までには帰るからなんて言い訳しながら、速度がどうとか、重さがどうとか……」
ここへ自分が何をしにきたのか、まだ判然としなかった。改めて心字池へ目を転じて眺めていると、「ここから池を見下ろすと、ほんとに『心』って字に見えるでしょ?」と女がいう。言われてみれば、そう見えないこともない。池の上で「心」という字をなぞってみた。さっき自分が何を言い忘れたのか、まだはっきりとはしなかったが、もしかするとこれだったのかもしれないという朧《おぼろ》げな思いが浮かんだ。改めて口に出すのも照れ臭かったが、思い切って、「あの、さっき俺、別に馬鹿にしたわけじゃないですから」と口にした。唐突なぼくの発言に、彼女は風に乱れる髪を押さえたまま小首を傾げた。
「だからさっき、なんていうか、臓器提供する人のこと、別に馬鹿にしたわけじゃないですから。たしかに『死んでからもあなたの意思が生き続けるなんて、ぞっとする』と思ったけど、でもあれは別に……」
彼女はしばらくぼくの目を見つめ、「わざわざそれを言うために、あそこから走ってきたの?」と笑い出した。
背中に視線を感じて振り返ると、石段の途中に立った近藤さんが首を伸ばしてこちらの様子を窺《うかが》っていた。ミーティングに遅れそうだったので、「それじゃ」と頭を下げてその場を離れた。近藤さんの元へ向かっていると、「ちょっと、私だって馬鹿にしてないわよ」と笑う女の声は聞こえたが、敢えて振り返らなかった。近藤さんは、「何やってんだよ?」と少し厳しい顔をしたが、ぼくの肩ごしに見えるらしい女から最後まで目を離さなかった。
それから二日間、スタバ女は心字池のベンチに姿を見せなかった。
日比谷シャンテ店へ赴く前に、日比谷公園で遅いランチをとるのはぼくの日課だったし、彼女を待っているわけでもないのだが、いつものベンチで生ハム入りのクラブサンドに齧《かじ》りつきながら、気がつけば崖上のベンチへ目を向けていた。日比谷線で出会った彼女を「スタバ女」と命名したのは近藤さんで、あの日以来、顔を合わせるたびに「あの女とはどうなった?」「地下鉄でなんて声かけたんだよ?」などと詳細を尋ねてくる。「そういうんじゃないんですよ」といくらこちらが否定してもまったく聞く耳を持たず、いつの間にか「あの女」から「スターバックスのコーヒーを飲んでた女」になり、最終的に「スタバ女」に落ちついた。近藤さんがいうには、彼女が飲んでいたのはカフェモカという種類らしい。「持ってたカップにモカって意味の『m』って字がマジックで書いてあったろ?」と言うので、「よくそんなところまで見えましたね」と感心すると、「目はいいんだよ。ほら、向こうの棚に貼ってあるポスターの文字も、『フレッシュフルーツの豊かな泡が、肌をなめらかに洗い上げる』『マンゴー&ピーチでぴちぴち』『ラベンダーシャワージェルの効用は……』」などと、「もういいですよ」とこちらが止めるまで読み続けた。
ベンチの前を通りすぎた人の手に、スターバックスのカップが握られていて、慌てて目で追ってみたのだが、持ち主は中年の白人男性だった。公園のベンチで長い時間ぼんやりしていると、風景というものが実は意識的にしか見えないものだということに気づく。波紋の広がる池、苔生《こけむ》した石垣、樹木、花、飛行機雲、それらすべてが視界に入っている状態というのは、実は何も見えておらず、何か一つ、たとえば池に浮かぶ水鳥を見たと意識してはじめて、ほかの一切から切り離された水鳥が、水鳥として現れるのだ。では何も見ていないとき、あるいはすべてが視界に入っているとき、実際には何が見えているかというと、たとえばさっき通りすぎたスターバックスのカップの残像から、ぼくの目には、学生のころ一人旅をしたニューヨークで、生まれてはじめて入ったスターバックスの店内が広がっており、鼻先にはコーヒー豆を煎《い》る香ばしい匂いとシナモンの香りが漂っている。注文カウンターにはヘビー級のボクサーのような屈強な黒人青年が立っていた。睨むようにこちらの目を見つめて、早口に次々と何かを尋ねてくるのだが、その単語の一つとして聞き取れない。苛々とカウンターを叩く黒人青年の太い指には、シルバーリングがいくつもつけられている。仕方なくすべての質問にYESと答えると、彼はうんざりした顔で注文を奥に通した。しばらくしてカウンターに出されたカップを受け取り、店内を逃れてテラス席へ出た。椅子に腰かけ、ふっと息をつけば、ニューヨークの市街を歩き回った疲れが急に出る。からだを屈《かが》めて、ふくら脛《はぎ》を指で揉んだ。心地よい痛みで脚全体がジーンと痺れる。目の前の並木道を枯葉が埋めつくしており、遠くから漆黒のドーベルマンに手を引かれた白髪の老婦人が近づいてくる。その姿がとてもシックで、つい見惚れてしまった。ふと、近づいている老婦人が実は男性かもしれないと思ったのは、ワシントンスクウェア公園広場から聞こえるテナーサックスがスティングの「Englishman in New York」を奏でているせいで、そのミュージックビデオに登場していた老嬢が、実は男性で、クエンティン・クリスプというイギリスの作家であることを教えてくれたのが、高校時代の同級生ひかるだったことを思い出す。未だに帰省したおりには必ずひかると連絡をとる。二人きりで会うこともあれば、友人たちと集まることもある。十六歳の春、バスケット部だったぼくは、体育館で体操部のひかるに一目惚れした。その夏、勇気を振り絞って告白したのだが、どうしても恋愛対象として見ることができないと言われた。「弟にそっくりだから」という理由で、ぼくの告白は反古《ほご》にされたのだ。それでもぼくは一度だけひかるにキスをしたことがある。ひかるとではなく、ひかるに、だ。それは高校を卒業した翌々年の夏で、久しぶりに同級生が集まってドライブを兼ねた海水浴に出かけ、夜明け前に海岸に着くと、車のなかで仮眠をとることになった。ワゴン車の最後部にぼくとひかるが座っていた。また蚊に食われたなどとくだらぬことで騒いでいた友人たちの声が、ひとり、ふたりと消えていき、気がつけば、ひとりぼくだけがみんなの寝息を聞いていた。横でひかるも眠っていた。少しだけ口を開いて眠るひかるの顔が、月明かりを浴びて青かった。潮騒はすぐそこにあった。座席の背もたれから汗ばんだ背中をはがし、息を止め、ゆっくりとひかるのからだにかぶさるように、なるべくからだが触れないように、腕立て伏せの要領で、ぎりぎりの位置でからだを支え、ひかるの唇に、自分の唇を近づけた。触れてはいなかったが、その唇がやわらかいとすでに判った。どれくらいそうやっていただろうか、気がつくと、ぼくはひかるを抱きしめていた。抱き寄せすぎて、その顔は見えなかったが、ひかるが目を覚ましているのは判った。ひかるの顔のどの部分に唇を押し当てていたのか定かでないが、そうとう長いあいだ押しつけていたように思う。すぐ前の席で誰かが寝返りを打ち、慌ててぼくは身を離した。ひかるは何も言ってくれなかった。ただ、申し訳なさそうな顔で、しばらくぼくを見つめただけだった。未だにあの夜、唇がつくかつかないかの体勢で、からだを支えていた腕の二頭筋がぶるぶると震えた感覚は残っている。スターバックスのテラス席でなにげなく二の腕を揉みながら、並木道を遠ざかるドーベルマンと老婦人の姿に目を奪われていたせいか、背後の店内で騒ぎが起こっていることに気づかなかった。振り返り、耳に神経を集中させて店員の黒人青年とフレームのない眼鏡をかけた女性客との会話を聞いてみると、どうやらぼくが間違えて、彼女のノンファットだかローファットだかのミルク入りコーヒーを先に持ってきてしまったらしいのだ。こちらとしては次々と浴びせられた質問にすべてYESと答えたまでで、代金を支払ってカウンターにカップが出てくれば、それが自分の注文した品だと思う。女性客は店内にいるすべての客のカップを調べ上げそうな勢いだった。カップを持ち、慌ててそのテラス席から逃げ出すように、視界の遠近をゆるめると、心字池の石塔が、グンと目の前に迫ってくる。ベンチの前を若いサラリーマンが通りすぎ、ちらっとこちらを一瞥する。通りがかる人には、たとえばぼくがこのベンチでニューヨークのスターバックスの店内や、もう何年も前にひかるにキスをした車内を思い描いているとき、ぼくが何を眺めているように見えるのだろうか。視線の先にある池や石塔を眺めているように、ちゃんと見えているのだろうか。こうやってぼんやりした状態からふと我に返るとき、ときどき戦慄のようなものが走る。いま自分が見ていたもの、記憶のような、空想のような、どこかあいまいで、いわばプライベートな場所を、通りすがりの人に盗み見られたような気がするのだ。
足元に散らばる吸い殻を革靴の先で一ヶ所に集め、再びつま先で蹴散らした。顔を上げると、崖上のベンチにあの女の姿があった。向こうもこちらを見ていたらしく、ぼくが目を向けた途端、中腰になって両手を上げる。両手には二つのコーヒーカップがあった。もしかすると、ぼくの分まで買ってきてくれたのかもしれない。
自分でも不思議なほど軽い足取りで崖上に向かった。女はベンチの片側を空けて待っていた。膝の上に広げたハンカチにはピタサンドとシナモンロールが置いてあり、シナモンロールに一口だけ齧ったあとがある。
「もうお昼食べた?」
彼女はそう言うと、ここへ座るようにと、トントンとベンチを叩いた。地下鉄で初めて言葉を交したときもそうだったが、彼女の話し方は相手との距離をすっと縮めるような印象がある。グッと強引に手繰《たぐ》りよせられるのではなく、目の前にぴょんと向こうが跳んでくるように縮めるのだ。まだ何も知らない同士なのだが、「もうお昼食べた?」と自然に訊いてくるその口調は、まるでぼくの部屋の合鍵を持っているような親近感さえ抱かせる。
「それ、なに食べてるんですか?」
単に場繋《ばつな》ぎとしてそう尋ねたのだが、彼女の表情に「つまらないこと訊くわねぇ」という色が浮かび、「ピ、ピタサンドでしょ? 学生のころそれを扱ってる代官山のレストランでバイトしてたことあるんですよ」と慌てて付け加えた。そのとき、彼女の唇が思っていたよりも厚いことに気づいた。口紅の色が先日と違っているのかもしれないが、そのやわらかそうな下唇に砂糖がついている。
「店で食べてきてもいいんだけど、あそこたばこ吸えないでしょ。それにスターバックスってあまり好きじゃないの。あなた好き?」
少し意外な気がした。彼女はシナモンロールにこびりついた砂糖を指で弾いてとっていた。
「たばこが吸えないから嫌いなんですか?」
「そうじゃなくて、なんていうんだろう、あの店にいると、私がどんどん集まってくるような気がするのよ」
「え?」
「ちょっと言い方がヘンか? だから、あの店に座ってコーヒーなんかを飲んでると、次から次に女性客が入ってくるでしょ? それがぜんぶ私に見えるの。一種の自己嫌悪ね」
「ぜんぶ自分に?」
「だから、どういうんだろうなぁ、たぶんみんなスターバックスの味が判るようになった女たちなのよね」
「スターバックスの味?」
「ほら、よく言うじゃない、これは子供を産んでみないと判らない、これは親を亡くしてみないと判らない、これは海外で暮らしてみないと判らないなんて、それと同じよ。別に何したわけでもないんだけど、いつの間にか、あそこのコーヒーの味が判る女になってたんだよね」
さっきから何度も口に持っていきかけてはまた遠ざかるシナモンロールが気になっていた。彼女がコーヒーカップを差し出してくれたので、代金を支払おうと財布を出した。最初彼女は不思議そうにぼくを見つめていたのだが、「あなた、モテるでしょ?」と意味深な顔をする。
池の向こう側で、さっきまで自分が座っていたベンチだけが、ぽっかりと空席になっていた。通りすぎる人たちは目もくれない。
「この辺で働いてるんですか?」
しばらく沈黙が続いていたし、このままでは居心地が悪くなりそうだと思って尋ねたにすぎないのだが、彼女がひどくびっくりしたような顔をして、まじまじとぼくの顔を見つめ、「ほんとに知りたい?」と険しい表情で訊いてくる。
「あ、いえ、別に……」
彼女の険しい表情に少し緊張してそう答えると、「うそよ、うそ。ごめん」と、今度は打って変わって笑顔をみせた。
「けっこうあなたも沈黙に弱いほうなのね。あそこに座ってるあなたをここから見てると、なんだか十時間でも相手と口をきかずにいられそうに見えたけど」
「気ぐらい遣うでしょ?」
「そう、この辺で働いてるの。で、晴れた日はたいていこの公園でお昼をとって」
普通ならここで「どんな仕事しているんですか?」と尋ねるのだが、敢えてその質問は飲み込んだ。
「いつも感心してたんだけど、あなたのシャツとネクタイの組み合わせってなかなかよね」
彼女はシナモンロールを食べおえ、紙ナプキンで口を拭いていた。実際はアパレルで広報を担当している瑞穂さんに、すべて買い揃《そろ》えてもらっているのだが、せっかく褒められたのだしと思い、「そうですか? どうも」と素直に頭を下げた。腕時計を見ると、すでに二時半を廻っていた。日比谷シャンテ店での約束は三時だが、その前に会社に電話を入れなければならない。「そろそろ仕事に戻ります」と、コーヒーのお礼を言ってベンチを立った。「今度いつ来る?」と彼女に問われ、「毎日来てますよ」と苦笑した。すでに彼女はピタサンドのビニールを破りはじめていた。
「あ、そうだ。ちょっと訊きたいことがあるんですけど……」
石段の方へ歩きかけて、足を止めた。振り返ると、ちょうど彼女がピタサンドに齧りつくところだった。
「この前、ぼくのことが妙に気になるって言ったじゃないですか? あれってどういう意味ですか?……あ、別にヘンな意味じゃなくて」
「特別な理由はないのよ。ただ、妙に気になるの。ただそれだけ。どうして?」
「あ、いや。なんていうか、ベンチに座ってるとき、俺、何を見てるように見えるのかと思って……」
「え?」
「いや、だから、向こうのベンチにいつも座ってるでしょ、それをここから見ると、ぼくが何を見ているように見えるのかと思って……」
彼女はピタサンドを咥《くわ》えたまま、首を傾げた。詳しく説明する時間もなかったので、「別に大したことじゃないんで、いいです」と、照れ臭くなって石段へ駆け出した。石段を一歩だけ降りたとき、「ちょっと」と呼び止める彼女の声が聞こえ、「大丈夫よ。あなたが見てるものなんて、こっちからは見えないから」という声が背中に聞こえた。思わず石段を踏みはずし、慌てて脇にあった大きな岩を掴んだ。どうにかからだを支え、改めて振り返ってみたのだが、すでに六、七段下まで降りていて、崖上の彼女の姿は見えなかった。
宇田川夫妻宅のリビングには、北側の壁一面に書棚が備え付けられており、日に一度しか外出できないラガーフェルドの格好の遊び場になっている。シャワーを浴びたあと、その書棚からレオナルド・ダ・ヴィンチの「人体解剖図」をなんとなく抜き出して眺めはじめると、しばらく鳴り続けていた電話がやっと留守録に切り替わった。部屋が広いせいか、ここの電話は切り替わるまでに二十回も鳴る。電話は瑞穂さんの母親からだった。「もしもし。和博さん? 何度もかけて悪いんだけど、瑞穂のこと、やっぱり迎えに行ってもらえないかしら。和博さんがちょっと頭を下げてくれれば、あの子もすぐに戻ってくると思うんだけどねぇ。あの子、身勝手なわりに単純だから……」
ぼくは「人体解剖図」を持って寝室へ向かった。遊び足りないのか、ラガーフェルドが慌ててあとを追いかけてくる。瑞穂さんの母親は、和博さんがこの家にいると思っているらしい。三十を過ぎてやっと片付いた身勝手で単純な娘を、どうにか離婚の危機から救いたいと願う親心は判るが、和博さんが頭を下げて元通りになるほど、二人の関係が単純だとは思えない。結婚当初から二人を見てきたが、おそらく夫婦のあいだに問題という問題はないのではないかと思う。敢えていえば、それが問題。互いに自立した現代的な夫婦の典型のようなカップルなのだ。あるとき、瑞穂さんがこんなことを言っていた。「和博と暮らしてて、つくづく自分が貧乏くさい女だなぁって思うのは、ふと気がつくとね、彼以上の人を望んでいることなのよ。もちろん和博のことが嫌いなわけじゃないの。大好きなの。でも……」よく意味は判らなかったが、「誰だってそうなんじゃないですか。別に貧乏くさくないですよ」とぼくは答えた。
もちろん和博さん側にも言い分はある。無口な人で、日ごろはほとんどその手の話をしないのだが、あるとき一緒にラガーフェルドを駒沢公園に連れていった帰り、こんなことを言い出した。「たとえば瑞穂がリビングでテレビを観てるだろ、そうするとなんていうか気を遣うっていうのかな、いつも一緒だと息も詰まるだろうなんて思ってさ、俺は寝室で本を読むわけ。で、瑞穂が寝室に来ると、明るいと眠れないだろうと思って、今度はリビングへ。一緒にいたくないわけじゃないんだよ。一緒にいたいもんだから、部屋から部屋へ移動してるんだよな」と。
リビングから「ツーツー」という電話の音が聞こえた。瑞穂さんの母親は、三分間きっちりメッセージを吹き込んだらしい。寝室のダブルベッドに寝転んで「人体解剖図」を捲《めく》っていると、さっき与えたひまわりの種を頬袋いっぱいに貯めこんだラガーフェルドが、ぼくの肩から頭へ飛び乗り、頭から「解剖図」へと飛び降りる。何度も繰り返されているうちに、だんだん面倒臭くなり、ベッドから突き落とした。たまには厳しい躾も大切だと思ったのだが、ラガーフェルドには新しい遊びでしかないようだった。
ダ・ヴィンチの「人体解剖図」には、性交中の男女の正中断面図という素描があった。真っ最中の男女のからだが、背骨に沿ってすぱっと切断されているのだが、解説の見出しに「レオナルドによる最も不正確な解剖学の素描のひとつ」と書かれてあり、どこが不正確なのか「間違いさがし」をはじめると、簡単にその一つ目が見つかった。ペニスと脊椎が、なんと尿道で繋がっているのだ。これでは精子が脊椎でつくられることになる。もしやと思って目を転じれば、やはり女性のからだにも大きな間違いがあり、子宮は脊椎と繋がっているし、心もとない細い管がその子宮と乳房を結んでもいた。名画「モナリザ」も、こんな認識で描かれたのかと思うと、ありがたみも失せてくる。
肝臓やら心臓やらグロテスクな素描ばかりを見ていたせいか、味の濃いものを食べたくなり、台所へ向かって開けた冷蔵庫にローマイヤのスモークサーモンがあって、欲していた味ではなかったが、フランスパンに挟み黒胡椒をかけて食べた。
ラガーフェルドの世話という名目で、誰もいない宇田川夫妻宅に毎晩やってくるようになって二週間になる。「泊まっていってもいいよ」と和博さんが言ってくれたので、ここ数日はその言葉に甘え、広い2LDKのマンションを独り占めしている。歩いて三分しかかからない自分のアパートへ戻らないのは、三日前に上京した母がそこのベッドを占拠しているからで、ここ数年、彼女は、春と秋、季節がいいころを見計らって上京してくる。特に用事があるわけでもなく、十日ほど息子の狭い部屋に滞在し、芝居を観たり、美術館に出向いたり、ショッピングをしたりと、忙しく動きまわると、すっきりして田舎に帰る。半年に一度、息子の部屋で過ごすことで、母は気持ちが若返るらしい。遠回しに「迷惑だよ」とでも言おうものなら、「泊めてもらってるだけで、何かしてくれって頼んでるわけじゃないでしょ。それにね、親に離婚されるよりはましよ」と脅かす。わざわざ来ておいて、「かまってくれるな」というのも失礼な話だ。
いつだったか瑞穂さんが、「私がここで落ち着いて暮らしていられるのは、この生活が、私じゃなくて、和博のものだからかもしれないわね」と言ったことがあるが、もしかすると母も、そんな感覚を味わっているのかもしれない。残念ながら部屋に連れ込む女もおらず、家に残される父には悪いが、今は母の上京を拒む理由も見当たらない。
土曜日の朝、ラガーフェルドを連れて駒沢公園へ向かう途中、主にアンティークの小物を扱っている雑貨屋で、ペアの「人体模型」を発見した。学校の生物室に置いてあるような大きなものではなく、リカちゃん人形を肥大化させた程度のものだったが、ぱっかりと開いた胴体には、精密に造られた内臓がびっしりと詰められていた。ラガーフェルドを肩にのせ、通りからぼんやりとショーウィンドウを眺めていると、若い女性の店員が現れて、「ドイツ製のおもちゃなんですよ」と説明してくれた。ダ・ヴィンチの「人体解剖図」を見ていなければ、立ち止まって眺めることはなかったと思う。
「これ売り物なんですか?」
「一応ね。でも不良品なの」
「不良品? 肝臓がないとか?」
彼女は声を上げて笑った。耳たぶにピアスというのだろうか、指輪のような太い金具が埋め込まれ、丸い空洞があいている。空洞の先には、駒沢通りの渋滞した車列が見える。
「肝臓はあるんだけど、二体とも女なのよ。ほら、おちんちんついてないでしょ」
そう言われて初めて気づいた。たしかに人体模型の股間は、二体ともつるんとしている。
「いくらなんですか?」
「え? 買うの?」
「売ってるんでしょ?」
彼女に五万円だと教えられ、最初からほとんどなかった買う気も、完全に消え失せた。ラガーフェルドが「早く公園に行こう」と耳を引っ張るので、「それじゃ」と挨拶して立ち去ろうとすると、「店長には内緒だけど、値切れば三万円くらいになるわよ」と教えてくれる。「三万でも高いよ」と笑って歩き出した背中に、「ラガーフェルド、バイバイ」と叫ぶ彼女の声が聞こえた。
ラガーフェルドには知り合いが多い。駒沢公園のサイクリングコースを散歩すれば、あちこちから声がかかる。ラガーフェルドは犬が好きで、特にゴールデンレトリバーなどの大型犬が好みらしく、いつも第二球技場の裏で会うシンディの前では、心なしか目をとろんとしてみせる。シンディの飼い主の朝野さんは、現役のトライアスロン選手で、我が社の主力商品「ミルクバスジェル」の愛用者でもあり、「トレーニングのあと、あれをたっぷりと入れたお風呂につかると、からだのあちこちがリラックスしていくのが判るのよねぇ」と言ってくれる。ラガーフェルドとシンディが楽しそうにじゃれ合っているあいだに、新製品のフレッシュフルーツシリーズも勧めておいた。
朝野さんの素肌は、年齢のわりにピチピチしている。日を浴びているときなど、思わず指先で触れてみたくなるほどだ。我が社の製品を愛用する女性の肌が美しいと、なんだか自分まで誇らしい気分になれる。
公園からの帰り道、また雑貨屋に寄った。さっき声をかけてきた女の子はおらず、不良品の人体模型を買う気も更々なかったのだが、店主に頼んで触らせてもらうことにした。人体模型は思いのほか手のひらにずっしりと重かった。なんともいえない、実にリアルな重さだった。「これ、いくらですか?」と尋ねると、「一応、五万円だけどまけるよ」と店主がいう。ぼくは二体の人体模型を箱に戻して、「また来ます」と店を出た。
日比谷公園で女にコーヒーを奢《おご》ってもらった翌日、そのお返しにスターバックスでカフェモカを二つ買って公園に向かった。久しぶりにスターバックスに入ったのだが、前日の彼女の話が心に残っていたこともあり、ひとりずつ各テーブルのしゃれた椅子に座り、携帯でメールをチェックしたり、ファッション誌を捲ったり、文庫本を読んだりしている女性客たちの姿に、どこか近寄り難いオーラを感じた。注文したカフェモカが出てくるのを待つあいだ、カウンターの隅に立って彼女たちを観察していると、奇妙な共通点に気がついた。ふつう喫茶店にひとりで入れば、まず窓側の席を探し、飽きることなく通りを眺めるはずだが、誰ひとりとして、店の外へ目を向けている者がいないのだ。外へ目を向けないだけではない。彼女たちは一様に高価そうな服をセンスよく着こなし、髪型にしろメイクにしろ、テーブルに置かれた小物類にしろ、非の打ちどころがないほど洗練されているというのに、その誰もが「私を見ないで」という雰囲気をからだから発散させていた。以前、近藤さんが、「あの店にいる女って、なんかお高くとまってる感じしねぇか? 『日本にもスタバ増えたよねぇ。私がロスにいたころには一軒もなかったのに』なんて横で話されると、その口をつまみ上げてやろうかと思うよ」と笑っていたことがある。
カフェモカを受け取って、日比谷公園に向かった。しかし、心字池を見下ろすベンチにはすでにカフェモカを飲んでいる彼女の姿があった。二人で三つになってしまったコーヒーカップをどうしようかと考えていると、「ねぇ、あの人に話しかけてみない?」という。あの人というのは、この公園で彼女が妙に気になっている二人のうちのぼくではない方、噴水広場で小さな気球を上げている老人で、「一度、話しかけてみたかったんだけど勇気がなくて、でも二人でなら話しかけられるわよ。それにおみやげもあるし」と今にも駆け出しそうな勢いでベンチから立ち上がる。
「話しかけてどうするんですか?」と尋ねたが、彼女はすでに噴水広場へと向かう石段のほうへ向かい、「早く早く」と手招いていた。
噴水広場へと続く並木道で、さっきスターバックスの光景を見て感じたことを彼女に話した。彼女は最初あまり興味がなさそうだったが、しつこいほど力説したせいもあり、小音楽堂裏で足を止めると、「なーんにも隠してることなんかないわよ」と、ぼくの顔を真っ直ぐに見てそういった。
「でも、なんか触れられたくない秘密でも隠し持ってるように見えたんですよ。別に悪い意味じゃなくて。かっこよく見えたんですから」
「なんにも隠してることなんてないわよ。逆に、自分には隠すものもないってことを、必死になって隠してるんじゃないのかな」
彼女はそう言うと、「さ、行きましょ。あの人、いるかなぁ?」と気を取り直すように明るい声を出し、ぼくの背中を強く押した。
残念ながらその日、噴水広場に気球を上げる男性の姿は見当たらなかった。早目に仕事へ戻らなければならないという彼女とはそこで別れた。まだ時間があったので、たまには園内をぶらついてみようかと思い、日ごろほとんど足を向けない官庁街寄りの草地広場に向かった。広場にはベンチも少なく、人影もまばらで、青々とした芝生や砂地に、春の日だけが無駄に降り注いでるように見える。草地広場の先に、高いフェンスで囲まれた六面ほどのテニスコートがあり、手前三つのコートでは大学のサークルらしい集団が、ある者たちは乱打をつづけ、ある者たちは円になり先輩から素振りの指導を受けていた。フェンス越しに彼らの様子を眺めていると、大学時代などそれほど遠い昔でもないはずなのに、彼らに紛れたスーツ姿の自分が、ワンテンポずれて素振りをしている姿が浮かんだ。彼らよりもワンテンポ速いのか、それとも遅いのか判らない。球が来る前に焦ってラケットを振っているのか、それとも球はすでに背後にあるのか。
同じ日比谷公園でもその場所によって雰囲気は大きく異なる。テニスコート裏に建つ記念碑「自由の鐘」の付近では、鳩よりも鴉が多い。巨木が生い茂っているせいか、昼間でも薄暗く、噴水広場のベンチのように、膝にカラフルな弁当を広げるOLの姿はなく、どのベンチにも毛布にくるまった浮浪者のからだがあった。息を止め、足早に過ぎようとしたとき、ふとピンク色の毛布が目にとまった。牡丹を描いたそのボア毛布は、現在ぼくが部屋で使っているものと紛れもなく同じだった。見かけのわりに軽く、喉元に当たる肌触りもいい。どんな人が寝ているのかと思い、少しだけベンチに近寄ってみたのだが、男の顔を見ることはできなかった。ただ、足の方は少しだけ出ており、真っ黒に汚れた親指が破れたスニーカーから突き出していた。
すぐそこに祝田通りが見える健康広場まで出て、長いベンチの隅に腰掛けた。通り向かいに建つ合同庁舎ビルの窓を見上げてみたが、何千人もが働いているのだろうに、まったく窓には人影がない。
座り込んだベンチのすぐそばで、白いワイシャツの袖を捲った中年男が、両手を水平に広げ、片足を上げた奇妙な格好でふらふらしながら立っていた。その様子を眺めていると、男はすぐに足を地面についてしまった。男が照れ臭そうに、「これじゃ、七十代ですよ」と苦笑いをこちらへ向ける。最初なんのことだか判らず、同じように苦笑いを返したのだが、男の傍らへ目を転じれば、厚いプラスチック製の板に「開眼片足立ち」と書かれてあり、その下には年齢別の平均値を示す折れ線グラフが示されていた。辺りを見回せば「垂直跳び」「立位体前屈」などといろいろな簡易測定設備も並んでいる。
「やってみませんか?」
一通り広場の設備を見渡したとき、男にそう声をかけられた。本気で勧めているわけでもないのだろうが、また両手を広げ、片足で立ってみせる。「いや、ぼくはいいですよ」とすぐに手を振ったのだが、なんとなくベンチを立って男のそばへ近寄った。
「私なんかまだ六十前なんですけどね、今、これやったら七十代の指数しかないんですよ。やっぱり何十年もデスクワークばっかりやってると駄目ですねぇ」
男はそう言うと、からりと笑った。男の指が二十代で頂点に達する折れ線グラフの徐々に下降した右端を指している。
「あなたなんかまだお若いから、これぐらい立ってられるはずですよ」
男の指がグラフの折れ線を逆戻りして頂点を指す。足型の描かれた測定用の台を男が譲ろうとするので、「いや、ぼくはいいですよ」と改めて断った。
「二十代では百秒近くも立ってられるものが、七十代ではたったの十五秒ですよ。……この減った分だけ、別のなんかが増えてればいいんですけどねえ」
男の苦笑いに何か言葉を返そうとしたが、その言葉が浮かんでこなかった。男は袖を元に戻すと、一度だけ空に向かって大きく背伸びをし、「それじゃ」と片手を上げて、霞門の方へ軽い足取りで歩いていった。
最近、宇田川夫妻宅の広い台所で、よく料理をつくる。瑞穂さんが書いたらしい手書きのレシピを順番に作っているのだが、そのメモには料理のタイトルがなく、ただ、@たまねぎはみじん切り、しょうがはすりおろす。Aボウルにとりひき肉、みそを入れて粘りがでるまでしっかり混ぜる。溶いた卵と@を加えて、さらによく混ぜる……、などと作り方しか書かれておらず、自分が何を作っているのか、実際に最後まで作ってみないと判らない。午後、レシピの手順だけで作った料理は、中華風のいなり寿司のような奇妙な代物で、味は悪くなかったが、妙に胃にもたれた。
夕方遅く、スーツの替えを取りに自分のアパートへ戻った。
母は相変わらず遊び歩いているらしく、カーテンレールに何着も派手な洋服がかけられていた。いつの間に買い揃えたのか、日ごろはソースやマヨネーズ、雑誌や灰皿などが散乱しているテーブルの上がきちんと片付けられ、高価そうなガラスの花瓶にゆりの花が生けてあった。花瓶の横に小さなメモがあって『近藤さんよりTEL20:15』と書いてある。
会社の先輩の近藤さんが自宅に電話をかけてきたことはない。だとすれば、高校の同級生だった近藤かもしれないが、もう半年ほど連絡を取り合っておらず、それにもし彼女であれば携帯のほうへかけてくる。気にはなったが、先に着替えのスーツとワイシャツを揃えることにした。ついでにフィットネスクラブ用のTシャツもバッグにつめこむ。
ここ数日、夕方からの仕事が長引いて行けなかったが、ふだんは週に三度、必ず会社帰りに市ヶ谷のフィットネスクラブに通っている。月会費は一万五千円と高めなのだが、総務の五十嵐さんのようにテレフォンショッピングで新しい腹筋マシーンが紹介されるたび、張り切って購入するのはいいが、効果も出ず、そのままお蔵入りさせるよりはよほど経済的だと思う。
フィットネスクラブには、ビール腹を気にしていた近藤さんに誘われて入会した。ただ、仕事帰りに「進まない自転車」を漕《こ》がされたり、わざわざ金を払ってまで「重い物」を持たされているかと思うと腹が立つと言い出して、近藤さんだけその翌月には辞めてしまった。当初はぼくも、からだなど鍛える気もなかったし、勝ち負けのないスポーツにまったく興味も湧かなかったのだが、クラブのサウナで話しかけてきたエアロビ初級クラスのインストラクター桂木くんに、トレーニングの効果に関する自論を力説され、しばらく騙《だま》されてみる気になった。彼はこんな風に言ったのだ。
「やっぱりトレーニングすると、自分のからだが見る見る変化していくのが判るんですよ。別にぼくはナルシストじゃないですけどね、たとえば上腕二頭筋だとか大腿四頭筋だとか、そんな一本一本の筋肉がいとおしくなってくるっていうか、なんていうのかな、余分なものが削ぎ落とされていく感じっていうか、必要なものだけが残っていくような感じっていうか……」
自分の筋肉の一本一本がいとおしくなるとは、一体どんな感覚なのだろうか。
以来、桂木くんが作成してくれたメニューを週に三回こなしている。桂木くんは「腹筋運動をしているときは、腹筋にだけ意識を集中しろ」という。血にまみれた腹の筋肉が震え、縮み、弛緩する様子を想像しろ、と気味の悪いことをいう。
桂木くんの筋トレメニューとは別に、ここ半年はプールでも泳いでいる。当初は、筋トレのあとからだをほぐすつもりで軽く泳いでいたのだが、地下のプールに降りていくと必ず顔を合わせる男がいて、最近ではからだをほぐすどころか、お互いに対抗意識を燃やしてしまい、彼が百メートル泳げばこちらも百メートル、彼がバタフライを披露すれば、こちらも得意の背泳ぎと、筋トレ以上に体力を消耗してしまう。男は近藤さんと同年輩だろうか、熊なみの胸毛があり、こちらが泳ぎ疲れて「ぜぇぜぇ」と肩で息をしていると、心なしか「ふん」と鼻先で笑ってみせる。それでもその男が向こうからこちらへ泳ぎだせば、負けじとぼくもこちらから向こうへと泳ぎだし、プールの真ん中ですれ違うとき、水中で、ゴーグル越しに睨み合う。地下の二十五メートルプールには、たったの三レーンしかないのだが、二人の静かなる闘いがはじまると、他の会員たちはおずおずと一番端のレーンに移動する。一コースがぼく、二コースが胸毛男で、三コースでは五、六人の人たちがぶつかり合いながら泳ぐことになる。
スーツやワイシャツを揃えたあと、冷蔵庫を覗くと母が買ってきたらしい牛乳があったので、プロテインをたっぷりと入れて飲んだ。
宇田川夫妻宅へ戻る前に、近藤さんの携帯に電話を入れた。近藤さんは二週間ぶりに春子ちゃんと会う日だったらしく、「今、前の女房の実家に送りとどけて、これからアパートに戻るところだよ」といった。「きのう、うちに電話しました?」と尋ねると、「俺? してねぇよ」と素っ気無い。
「そうですか。じゃあ、やっぱり友達のほうだったんだ」
そう言って切ろうとすると、「おい、ちょっと待てよ。それだけかよ?」と近藤さんが遮った。環七はひどい渋滞らしかった。
「珍しくお前が休みの日に電話なんてかけてくるから、なんか相談でもあるのかと思って、ビクビクしちゃったよ」
「別に相談なんてないですよ」
「いや、ないならいいんだけどよ」
「それになんでビクビクするんですか? 何の相談だと思ったんですか? 気になりますよ」
「いや、だからさ……、仕事を辞めたいとかなんとか言い出すんじゃねぇかと思ったんだよ」
「俺が? 仕事を? なんで?」
「なんでって……」
「そんな風に見えてました?」
「いや、別に見えちゃいないけどさ……」
休日に会社の先輩に電話をかけない後輩という存在は、ぼくと近藤さんとでは、まったく別種の人間なのだろう。
アパートから宇田川夫妻のマンションへは、駒沢公園の西側に位置する硬式野球場の裏を、ちょうど三塁側から一塁側へ逆走するようなかっこうで歩いていく。今ごろのように桜の季節だと荘厳な夜桜を満喫できるのだが、夜間のひとり歩きは危険なので、なるべく母には駅からタクシーを使うように言ってある。
宇田川夫妻宅へ戻りながら、今度は高校の同級生だった近藤に連絡を入れた。公園のフェンスを越えて、桜の花びらが歩道にも落ちてくる。ラガーフェルドは桜の花びらを極端に嫌う。散ってくる一枚一枚の花びらを、まるでまとわりつく蠅のように追い払う。長いあいだ呼び出し音が続き、やっと電話に出た近藤が、開口一番、「きのう、ひかると会ったんだけど、結婚するらしいよ」といった。思わず、足がとまった。ここ一年ほど小学校の教師といい付き合いをしているのは知っていたが、二ヶ月前に電話で話したときには、「結婚相手としてはどうかな?」とその本人が言っていたのだ。
「だ、誰と?」
暗い夜道に自分の声が響いた。塀の向こうで犬が吠え、慌てて歩調を早めて歩き出した。近藤が、「知らなかったの?」と少し憐れむような声を出す。
「小学校の先生やってる人だって聞いたけど、でも、私も詳しく聞いたわけじゃないから……。ねぇ、お正月こっちで会ったんでしょ? そのとき、ひかる、何も言ってなかった?」
ふと気がつけば、また足が止まっており、力なく電信柱に凭れ掛かっていた。立ち小便でもしているように見えるのか、走ってきた自転車が弧を描くように避けて通る。表通りへ目を向ければ、巡回中の警官が自転車をとめて、遠くからこちらを睨んでいる。職務質問されると面倒なので、「今、外だからまたあとでかけ直すよ。なんか急用でもあった?」と尋ねると、「あ、そうそう。私ね、先月、二人目の子が産まれたの。それを報告しようと思ってたんだ」という。思わず、「え?」と聞き返してしまった。聞き返した途端、近藤が三年前に最初の子を死産したことを、忘れていたわけではないがハッと思い出し、「二人目」と平然と告げた近藤の言葉が重く心に響いた。
「前に電話したときには、何も言ってなかったじゃないか」
「半年以上前でしょ? だって、あのあと判ったんだもん」
男の子だったのか、それともまた女の子だったのか、尋ねたい気持ちはあるのだが、なかなかその質問が声にならなかった。まずその赤ちゃんが健康であるのかないのか、それが判らないと「おめでとう。よかったな」とも言うに言えない。
「三千二百グラムもあってね、今度は男の子。……早く教えたかったんだけど……、早く教えて、誰よりも高価な出産祝いを贈らせるつもりだったんだけど……。妊娠したことを誰かにいうと、なんかまた……」
近藤の声を聞きながら、二人目の赤ちゃんが間違いなく順調に育っていることを直感した。少し涙ぐんでいるような近藤に、「おめでとう。贈るよ。一番高いプレゼント贈るよ」といった。
最初の子を死産したあと、近藤はかなり長いあいだ入院した。からだではなく、心が回復しなかった。有給休暇を取って見舞いに出かけたのだが、近藤は何も話そうとせず、ぼくも黙ってベッドの横に座っていた。夫も毎日見舞いにきていたらしいのだが、どうしても出なければならない会議があり、その週はソウルに出張中だった。
近藤がぽつりぽつりと声を出すようになったのは、まったく箸をつけなかった夕食を看護婦が回収にきたあとのことで、窓の外には濃い夕焼けが広がっていた。近藤は、「おなかにいるときから、可愛くて仕方がなくなるっていうでしょ? あれ嘘よ」と微かに笑った。「おなかにいるときは、ほんとに単なる異物なの。なんだか誰かに無理やり何かを詰め込まれたみたいなの……」と静かに続ける。
「……でもね、赤ちゃんが私のからだから離された途端、自分のものだって、この赤ちゃんは自分のからだの一部だって気持ちが湧いてくるのよ。離された途端、私が赤ちゃんで、赤ちゃんが私なの。赤ちゃんが私の一部で、私が赤ちゃんの一部なのよ」
近藤は涙をこぼすでもなく、無理に笑顔をみせるでもなく、ただ淡々とそう語った。面会時間が終わり、「また明日も来るよ」と病室を出て行こうとすると、近藤がベッドからぼくを呼び止め、「もういいよ。なんかあんたに会ったら元気が出た。いつまでも入院してるわけにもいかないし」と言って、玄関先まで見送りに出るから、と自力でベッドを降りた。
「最後に無理を言って、赤ちゃんを抱かせてもらったんだぁ。この子のためなら、なんだってしてあげたいと思ってるのに、あの子、わがまま言うどころか、目も開けてくれないんだもん……」
エレベーターのなかで、その日、近藤が初めて笑った。
宇田川夫妻宅のリビングで、三十分ほど音声を消したまま「ニュースステーション」を眺めたあと、ラガーフェルドを風呂に入れた。ニュース映像、特に戦禍を伝える映像を音なしで眺めていると、人間とはからだのことなのだと、ひどく当たり前のようで、新鮮な衝撃を与えられる。テレビのボリュームを上げていれば、ビン・ラディンもブッシュもパウエルも、シャロンもアラファトもニュース解説者も、難しい言葉を並べ、あたかもその言葉が思考を生んで、生まれた思考で何かが起こっているように思えるが、その音を消してみれば、人間の思考などどこにも見えず、ただ歩き、座り、横たわる人間のからだしか映っていない。ビン・ラディンの痩せたからだが、何か悪さをするとは思えなかったし、健康的なブッシュのからだが、逆に何かを解決できるとも思えなかった。音のないニュース映像では、なぜかしら、からだだけが不当な被害を受けているようだった。
ラガーフェルドは風呂が嫌いで、毎回からだを洗ってやるときには必ず格闘になる。嫌がるラガーフェルドを押さえつけ、無理やりその毛にシャンプーを垂らしていると、旅行用の大きなトランクを引きずった瑞穂さんが久しぶりに帰宅した。彼女は風呂場のドアを開け、ちょっとだけ顔を覗かせると、泡まみれになっているぼくの顔を見つめ、「悪いわねぇ」と気のない声で労《ねぎら》ってくれた。「戻ってきたんですか?」と問えば、「着替えを取りにきただけ」だという。特に、何か言って欲しそうでもなかったので、ぼくはラガーフェルドとの格闘に戻った。
ずぶ濡れの猿をタオルに包んでリビングへ戻ると、すでに支度を終えたらしい瑞穂さんが、やはり音を消したまま「ニュースステーション」を眺めていた。タオルから飛び出したラガーフェルドが、久しぶりに会えた飼い主の肩にのぼろうとしたのだが、「乾いてからにしてよ」と邪険に払われ、悔し紛れにかわざと親しみを示すかのように、ぼくの脚に飛びついてきた。
「また友達のところに戻るんですか? 久しぶりに帰ってきたんだから泊まってけばいいのに」
ぼくはラガーフェルドのからだを拭いてやりながらそういった。瑞穂さんが何も答えないので、「友達のところとはいえ、気兼ねするでしょ?」と尋ねると、「今、フライトでローマに行ってるから留守なのよ」という。
「あ、そうか。彼女、スチュワーデスでしたよね」
「なんか最近スチュワーデスって人気ないんだって。昔はほら、女の子たちの将来の夢ベスト1だったでしょ? でも今じゃベスト10にもランクインしないらしくて、いざというときは大変な仕事よ……」
瑞穂さんと和博さんはときどき電話で話をしているらしい。問題の解決へ向けての話し合いなのだろうが、その問題というのがいまひとつはっきりしないので、きっと苦労しているのではないかと思う。
ラガーフェルドのからだを拭き終わり、瑞穂さんにストロベリーアイスを出した。「なんか疲れてるみたいですよ。泊まっていけばいいのに」と改めて勧めると、「下に車を待たせてあるのよ」と呑気なことをいう。
「車ってタクシー?」
「違うわよ。会社の後輩に送ってきてもらったの」
ソファから立ち、窓を開けて通りを見下ろすと、あれをエコカーと呼ぶのだろうか、昔流行したおもちゃのような小型のオープンカーが、マンション前にハザードをつけて停まっていた。「何してる?」と瑞穂さんが訊くので、「えーと、カーナビいじってるみたいですね」と教えた。
久しぶりに飼い主が戻り、ラガーフェルドが興奮していた。ソファからテーブルに飛び移り、うるさく喚《わめ》きながら書棚を一気に駆け上がると、カーテンレールへ飛び移るという離れ技までやってのける。
「和博さんと話し合い進んでるんですか?」
ソファに戻り、瑞穂さんが手をつけないストロベリーアイスを横取りしてそう尋ねた。
「お互いに気遣っちゃって、なかなか進まないってのが現状かなぁ。ほら、腹割って、なかにあるものを全部吐き出せるような性格だったらいいんだけど……、でもお互いにそんな性格だったら、こんな状況にもならなかったわけだし……」
「この前、日比谷公園でヘンな女に会ったって話を電話でしたの覚えてます?」
「地下鉄で人違いして話しかけちゃった人?」
「そう。その人と最近、公園でたまに話すんだけど、その人がなんかおもしろいこと言ってたなぁ、何も隠すものがないから、それが嫌で無理に何かを隠してるふりをしてるとかなんとか……。スターバックスにいる女性客の話からそうなったんだけど」
「いくつぐらいの人なの?」
「瑞穂さんと同じくらいかな」
「眼鏡かけてる?」
「眼鏡? どうしてそんなこと訊くんですか?」
「別にただなんとなく……」
「かけてませんよ」
外の通りで激しいクラクションの音が響いた。慌ててソファを立ち、窓から通りを見下ろしてみたのだが、瑞穂さんの後輩はまだカーナビをいじり続けていた。クラクションは、路肩に寄せずに停められたエコカーに向けて、別の車が鳴らしたものらしい。
「そろそろ行かなきゃ」
振り返ると、瑞穂さんがトランクを引いて廊下へ向かおうとしていた。そのあとを追いかけるラガーフェルドの背骨が、心なしか淋しそうにみえる。
「今のクラクション、別の車みたいですよ」
「ほんと? 彼女、何やってる?」
「まだカーナビいじってますけど」
結局、瑞穂さんは出ていった。廊下を駆け戻ってきたラガーフェルドを肩にのせ、窓から通りを見下ろしていると、トランクを引きずった彼女が肩を落としてとぼとぼと現れ、部屋の窓を見上げることもなく小型エコカーの助手席に乗り込んだ。別れる気力さえなくなるまで、二人は別居を続けるのかもしれない。
まったく眠れなかった。眠れない夜など特に珍しくもないのだが、それでも目が冴えて、自分の体温にさえ眠りを邪魔されているような気がした。以前は、こうやってぼんやりと暗い天井を見つめる時間が長引くと、さっと気分を切り替えて夜の街をジョギングすることが多かった。最近ジョギングの回数が減ったのは、眠れない夜が減ったわけではなくて、市ヶ谷のフィットネスクラブでくたくたになるまでトレーニングをし、ベッドに入るとスイッチを切ったように眠れるからだ。もしかするとぼくは、うまく眠るために、バーベルを挙げ、自転車を漕ぎ、スクワットで太股を強化し、桂木くんに誘われればエアロビクラスで有酸素運動までこなしているのかもしれない。
水でも飲もうとベッドを這い出た。ベッドの下でラガーフェルドが背中を丸めて眠っている。台所へ向かい、冷蔵庫からエビアンを取り出して暗いリビングのソファでらっぱ飲みしていると、青い大きな月が居心地悪そうに夜空の隅っこにあるのが見えた。エビアンを冷蔵庫に戻し、スウェットの上にブルゾンを羽織った。どうせ眠れないのだし、駒沢公園の周りを疲れるまで歩こうと思った。
マンションを出ると、春の夜特有のシーツに残る体温のような生あたたかい風が頬を撫《な》でる。もう五年も着続けているスウェットパンツのゴムが伸びていて、歩き出すとずるずるとずり下がってくる。紐を結ぼうにも、片方の紐の先端が穴のなかに引っ込んでいてつまみ出せない。
走る車も疎《まば》らな駒沢通りを、のんびりと陸上競技場の方へ歩いていくと、例の雑貨屋の前を通った。電気がついていないせいか、気にもせずに素通りしかけたのだが、人体模型が目に留まった。二体は真っ暗なショーウィンドウの箱のなかに、手を繋ぐようにして置いてあった。いつの間にか真新しい値札がついており、五万円と書かれた文字が赤い×印で消されているが、改定価格が書き込まれているわけではない。人体模型は月明かりで、その肌がより青白くみえた。一体は内臓開陳、もう一体はきちんと腹が閉じてある。箱から出して持たせてもらったときよりも、なんだか重そうだった。ふと、腹が閉じてあるほうの「人体模型」には内臓が詰まっていないのではないかと思った。もちろんガラス越しに見ただけでは判らないが、なぜかしら閉じられた腹のなかが空洞であるような気がした。とすれば、中身はどこに置いてあるのか。暗い店の奥へ目を向けると、通りの向かいにあるビデオ屋の看板に書かれた「レンタル」という文字が、奥に飾られた鏡に映っていた。その横で、背後の青信号が点滅しはじめたので、走って横断歩道を渡った。
この辺りはモデルハウスが建ち並び、いかにも夢の実現であるかのように夜通しライトアップされている。二十四時間営業のファミリーレストランにも、ほとんど客の姿はない。以前、真夜中にとつぜんコーンポタージュスープが飲みたくなり、ひとりで入ったことがあるが、それ以来一度も利用していない。
モデルハウスの一郭を抜け、一般住宅地へと細い路地を入っていくと、急に辺りが暗くなった。見上げれば、電柱の外灯が三つ並んで停電している。周囲の家々の窓にも灯りはついておらず、その闇のせいか、妙に耳の聞こえがよくなり、遠く公園の中央広場で遊んでいるらしい少年たちが、コンクリートの上をスケボーで滑っている音まで微かに聞こえた。
この辺りには一戸建ての住宅が多いのだが、なかにはオーソドックスな形をしたアパートも建っており、アパートにはちらほらとまだ灯りのついている窓もある。宇田川夫妻宅を出てきたのが三時半過ぎだったので、そろそろ新聞配達のバイクが走り出すころかもしれない。
行き止まりのL字路を曲がると、道に青いシャツが落ちていた。どこかに干してあったものが風で飛ばされてきたのか、クリーニング屋の簡易ハンガーがついている。拾い上げてみると、GAPのコットンシャツで、サイズは男物だった。辺りを見渡せば、目の前にアパートがあり、一階の一番手前の部屋の外に同じような洗濯物が干してある。アパートの一階にはワンルームタイプの部屋が四つ並んでいた。どのサッシ窓にもカーテンが引かれ、灯りのついている部屋はひとつもない。シャツを戻しておいてやろうと思い、低い塀を跨いで敷地へ入った。洗濯機が置いてあったので、そこに載せておくつもりだったのだが、握ったシャツが完全に乾いていたせいもあり、反射的にハンガーを外し、さっと手元でたたんでしまった。きちんとたたんだシャツを洗濯機の上に置くと、干しっぱなしになっている他のトレーナーやTシャツに目がいった。腕を伸ばすと、指先がアディダスの白いトレーナーの袖に触れる。トレーナーは物干し竿からすぐに取れそうだった。部屋の住人はこのサッシ窓の向こうで、すやすやと眠っているに違いない。朝起きて、あくびをしながらこのサッシ窓を開けたとき、干しっぱなしだった洗濯物がきちんとたたまれてあったとしたら──。そのとき、隣の部屋で物音がした。何かが倒れたような音だった。慌ててその場を離れ、低い塀を飛び越えた。振り返ると、白いトレーナーだけが物干し竿で揺れていた。
住宅街を宇田川夫妻のマンションへ戻りながら、家々のベランダばかりを見ていた気がする。これまで気にもしていなかったが、洗濯物を干しっぱなしで寝てしまう人は意外と多い。通り抜けてきた街は、干しっぱなしの洗濯物で溢《あふ》れていた。
アメリカのアトランタ郊外にクライオライフ(CryoLife)社という急成長中の企業があるらしい。「インク」誌でも「フォーブス」誌でも最優良企業の一つに挙げられ、高品質のサービスをモットーとしている。同社が販売しているのはヒト組織だ。世界各国から送られてきた心臓弁、血管、肝臓、軟骨、アキレス腱を加工し販売する。この会社の存在を教えてくれたのは、週明け早々の午後、心字池のベンチで顔を合わせた彼女で、たしかぼくがレオナルド・ダ・ヴィンチの「人体解剖図」の素描は間違いだらけだったという話をしたのがきっかけで、この会社の話になったと思う。人体売買が法的に許されているとは思ってもいなかったので、彼女の話にはかなりショックを受けた。「でも、買えるけど売れないのよ」と彼女はいった。意味がよく判らず、「買って、加工して売るんでしょ?」と訊き返すと、「そうじゃないの。無償提供してもらって加工して売るのよ」という。
「じゃあ、原価ゼロ?」
「まあ人件費やなんかはあるけど、原材料費はゼロね」
ふと、ショーウィンドウに横たわる人体模型の姿が浮かんだ。
「というより、原材料は善意よね」
「え?」
「だから……」
彼女はそこで言葉を切ると、何かを思い出したように笑い出し、「そういえば、私たちが知り合ったのって臓器提供を呼びかける広告の前だったわよね」とぼくの顔を覗き込んだ。『死んでからも生き続けるものがあります。それはあなたの意思です』思わず、二人で声を揃えて呟いた。人の善意を加工して販売し、「フォーブス」に掲載されるような優良企業になった会社が、この世に存在していることにリアリティを感じられなかった。
「でも、やっぱり不気味だな。なんていうか、世の中が進んで、だんだんそれが自然になったりしたら……」
「そう深刻に考えることないじゃない」
「だって、なんていうか、たとえば俺の心臓だとか肝臓だとか眼球なんかも、いずれは他人の物になるんだって考えたら、なんだか自分のこのからだが、借り物みたいじゃないですか」
「借り物かぁ……、ほんとよね。外側だけが個人のもので、中身はぜんぶ人類の共有物。ちょうどマンションなんかと正反対。マンションは中身が私物で、外は共有だもんね」
マンションという言葉を聞いて、宇田川夫妻宅を思い出した。現在ぼくは夫妻宅で寝起きし、その夫妻はそれぞれ別の場所で生活し、主が留守中のぼくの狭いアパートでは、上京中の母が羽根を伸ばしているのだ。
三時半に待ち合わせしていた近藤さんがなかなか現れなかったので、十五分ほど延長して彼女としゃべっていた。春休みのせいか、園内には子供たちの姿も多く、のんびりと午後のひとときを過ごしている大人たちをわざと邪魔するかのように、ジャージャーとうるさくスケボーの音を立てている。たしかこの公園ではスケボーや自転車の乗り入れは禁止されていたはずなのだが、ああいう子たちは禁止されているから来るのだろうとも思う。
「あなた恋人いる?」
「え?」
彼女の質問はかなり唐突だったが、たとえば桜の花びらが池の水面にひらりと落ちてきたような、とても自然な唐突さだった。
「恋人はいませんよ」
「きっぱり言うわね」
「もったいぶっても仕方ないでしょ」
「もうずいぶん長くいないでしょ?」
「きっぱり言いますね」
「もったいぶっても仕方ないんでしょ?」
それから五分ほど経って、「遅くなるから先に行け」という近藤さんからの連絡が携帯に入った。その五分のあいだに、なんとなくぼくは、彼女にひかるのことを語っていた。初めてひかるを見たときの印象からはじめて、たった一度だけキスをしたこと、その後も友達として付き合い続け、近い将来ついに結婚するらしいことを最近知らされたという現状までを、特に誇張もせず、逆に何かを省くわけでもなく、淡々と伝えていた。彼女はときどき「ふーん」とか「へぇ」とか気のない相槌《あいづち》を打っていた。話し終わった途端、彼女が奇妙なことを言った。「……ねぇ、そのひかるって子、ほんとにいるの?」と言ったのだ。一瞬うろたえてしまった。「い、いますよ。え? ひかるが実際にいるかってことでしょ?」と尋ね返すと、「いるならいいわよ。そんなにムキになることないじゃない」と笑う。
どうも会話がちぐはぐなまま、二人で心字池の水鳥に目を向けた。
「どうりで、そんな顔になったわけだ」
彼女は水面に波紋を広げる水鳥を目で追いながらそういった。
「そんな顔って?」
「おでこに『どうせ』って三文字が書いてあるような顔」
思わず手で額を撫でると、彼女が横目でちらりとこちらを見て笑う。
「じゃあ、あなたは十年も実らぬ思いを抱えて生きてきたわけだ」
「そんな大袈裟なもんじゃないですって」
「照れることないじゃない。俺は一人の女を十年も思い続けているんだって胸張りなさいよ」
「そう言いますけどね、部屋の床に寝転んで、サッカーボールのクッション抱えて、テレビ見ながらゲラゲラ笑ってる姿を見たら、そんな科白《せりふ》すぐに撤回したくなるって」
その辺りで近藤さんからの電話が入った。電話を切ると、彼女もそろそろ仕事に戻ると言うので、一緒にベンチを立った。彼女とは心字池のほとりで別れた。別れ際、「ねぇ、明日なんだけど、ちょっと早目に来られない?」と言われ、その理由を尋ねると、「もしよかったら、一緒に写真展に行かないかと思って」という。特に断る理由もなかったので、「いいですよ」と快諾した。写真展は銀座八丁目のギャラリーで催されているらしかった。
彼女と別れ、ひとり日比谷口へ歩いた。噴水広場のベンチは、少し疲れ気味の会社員たちで満席だった。以前、「どうしてみんな公園に来るんでしょうね?」と近藤さんに尋ねたことがある。近藤さんは珍しく真剣に考えあぐねていたのだが、「ほっとするんじゃないのか」とあっさりと言ってのけた。捻《ひね》りのない回答だったので、返事もしないで済まそうとすると、「ほら、公園って何もしなくても誰からも咎《とが》められないだろ。逆に勧誘とか演説とか、何かやろうとすると追い出されるんだよ」という。今度は、「たしかにそうですね」と肯《うなず》いた。近藤さんは満足そうにぼくの肩を叩き、「だから俺は、お前みたいに公園が好きになれないんだな。ほら、性格的に何もやるなって言われると、なんかやりたくなるほうだから」と笑っていた。
その夜、久しぶりにひかるに電話をかけた。ひかるはちょうど風呂から上がったばかりらしく、少し慌ただしげだったが、今年の正月一緒に行ったイタリア料理店の味を褒め、ここしばらくひどい花粉症に悩まされているのだと、いつもと変わらぬ屈託のない応対をしてくれた。ラガーフェルドにひまわりの種を与えながら近況を聞いていたのだが、ひかるの話し方は、ちょうど雪道を歩いているような感じがする。一つ一つの言葉に力があって、決して早足になったり駆け出したりしない。ときどきズルッと滑ることはあるが、尻もちをつき雪を払いながら立ち上がるときの笑顔は、その場の雰囲気をとてもあたたかいものにする。
話の途中に何度か、「特に用もなかったんだけど」と、とつぜんの電話に対する詫びのようなことを言ったのだが、その度にひかるは、用もないのにかけてくるから友達なのだと、まるで往年の青春ドラマのような科白を吐いていた。ビデオの時計は、電話をかけたときが「20:34」で、受話器を置いたときが「20:43」だった。あと一分でちょうど十分だったのだが、その一分で何が話せたというわけでもないのに、その一分で何かが話せたような気もした。九分間の会話で、ひかるは最近ビデオで観たらしい『永遠と一日』というギリシャ映画の話をした。髪を乾かしながら話しているようで、ときどき受話器にガサッとバスタオルが当たる雑音が響いた。結局、ひかるの口からは結婚の話はでなかった。
電話を切った途端、床を駆け回っていたラガーフェルドがいきなり背中に飛びついてきて、トレーナーの襟を掴もうとしたその手が、首筋をさらっと撫でた。思わず背筋をのけぞらせたその格好が、目の前の鏡に映っていた。日比谷公園で「胸を張りなさいよ」と言った彼女の言葉を思い出し、ふと笑いが込み上げた。
シャワーを浴びたあと、ラガーフェルドを連れて外へ出た。昼間だと首紐が切れるほどあちこち駆け回ろうとするのだが、夜だとひどく怯えるらしく、まったく肩から降りようとしない。ほかほか弁当屋の店内に、近所の体育大の学生たちの姿があった。週に三度フィットネスクラブに通っているとはいえ、何かに勝つために本格的に鍛え上げられた彼らのからだは、やはりどこか殺気を感じる。弁当屋を過ぎた辺りで、通りを挟み、細い路地の奥へ目を向けると、自分のアパートの窓に灯りがついているのが見えた。特に用もなかったのだが、用もないのに会いにいくのが親子なのかもしれない。
母は、ラガーフェルドを見ると悲鳴を上げた。近づけないでくれ、と部屋の壁から壁へ逃げ回り、「産まれたときのあんたのほうがよっぽど人間らしかったわよ」と訳の判らぬことを言った。伊勢丹の紙袋に囲まれた彼女は、狭いユニットバスにお湯をはって入るらしく、ぼくが会社から持ってきた幾種類ものバスジェルの見本品を並べ、どれにしようかと選んでいる最中だった。
少し可哀相だったがラガーフェルドを冷蔵庫の取っ手に繋いで台所に隔離し、母が淹《い》れてくれた番茶を飲んだ。今回はいつまでいるつもりなのかと問うと、明後日の昼の便で帰るという。なんでも、昨夜から父が熱を出し、「早く帰ってこい」という催促の電話があったらしい。「それでも明後日なんだ?」といじわるく尋ねた息子に、「明日だと割引チケットがないのよ。ほら、けっこうお金使っちゃったから」と伊勢丹の紙袋を持ち上げる。手元の紙袋には、父用らしいVネックセーターが入っていた。
「息子の俺が言うのもヘンだけど、お母さんたちって意外とうまくいってるほうだよね」
番茶を注ぎ足しながらそう言った。何か重大なことでも聞かされると勘違いしたのか、母の顔に緊張が走る。
「何よ、いきなり」
「いや、ふとそう思ってさ」
「あんたが泊めてもらってるところのご夫婦、まだ戻ってきてないの?」
「うん、まだ」
「あんた、そこで何やってんのよ?」
「何って別に……、ただ猿の世話して、広いリビング独り占めして」
お湯がたまり、母はミルクバスジェルを持って風呂に向かった。ラガーフェルドとの距離を取りながら恐る恐る台所を通り抜け、「まさかその猿、今夜ここに泊めるわけじゃないわよね?」などとユニットバスのなかから話しかけてくる。「連れて帰るよ」と叫び返したと同時に、ざぶんと湯につかる水音が聞こえ、「ハァー」と、こちらまで気の抜けるような声がした。
首紐をほどいてラガーフェルドを部屋に入れてやり、机の上に目を向けると、折りたたまれた便箋が置いてあった。悪いとは思いながら開いてみれば、父宛ての手紙らしく、ちょっと息子の口からは言えない甘い言葉がしたためられてあった。最後のほうに、ぼくの近況がまるでついでのように報告してあり、三行しかない文章に「相変わらず」という言葉が四回も使われている。今回はたまたまラガーフェルドの世話という名目で、外泊しているせいもあり、上京中の母と滅多に顔を合わせていないが、普段ならば毎晩顔を突き合わせることになる。月曜から金曜まではフィットネスクラブへ寄っても九時までには必ず帰宅するし、土日はたいてい部屋でテレビを見たり、本を読んだりして過ごす。母が上京していようといまいとこの習慣は変えていないのだが、ときどき「お母さんのことは気にしないで、遊びに行っていいのよ」と言うところをみると、ぼくが土日に予定を入れないのを、自分のせいだと勘違いしているらしい。学生のころから出不精ではあった。それでも友人にしつこく誘われれば、渋谷へ飲みに出たり、一泊二日のスキー旅行に参加することもあった。ただ、しつこく誘ってくれていた友人も、就職すれば誘いの電話を何度もかけてくる時間もなくなり、自然と疎遠になってくる。どこかでぐっと足を踏ん張ればいいのだろうが、気がつくと、いつもそのタイミングを逸しているような気がする。ここ数ヶ月に至っては、ときどき宇田川夫妻に誘われて夕食をごちそうになりに行くことこそあれ、休日に電車でどこかへ出かけたという記憶もない。そしておそらく、この数日、足繁く宇田川夫妻宅に通えているのは、結局そこに、彼らがいないからなのだ。
アパートの隣室に若い女が住んでいて、窓際で電話をするくせがあるのか、その会話が筒抜けになることが多い。まだはっきりと顔を見たことはないが、土曜日の昼ごろになると、必ず五、六人の友人に、これからどこかへ遊びに行かないかと誘いの電話をかけまくる。うまい具合に約束を取りつけられる日もあれば、すべての友人に断られ、とつぜん隣室から音楽が大音量で聞こえてくることもある。彼女に土日の予定ができると、なぜかしらこっちまでほっとさせられる。この話を近藤さんにすると、「俺も似たようなもんだよ。土日ぐらいたっぷりからだを休めないとな」と笑っていたが、ぼくの場合、からだを休めるというよりも、言葉を休めるといったほうが正しいのかもしれない。一緒にいたいから部屋から部屋へ移動するという和博さんではないが、周りの人たちとうまくやっていきたいからこそ、土日くらいは誰とも会わず、誰とも言葉を交わさずにいたい。
母が書いた父宛ての手紙を元の位置に戻し、久しぶりに自分のベッドに寝転がった。よりによって母は本棚から飯島愛の「プラトニック・セックス」を選び出したらしく、枕元にちょうど半分ほどのところを開いて伏せてあった。
その後、カーテンを掴んで登ろうとするラガーフェルドを引きずり下ろしながら、パソコンを開いてメールをチェックした。一週間ほど開けていなかったのに、受信したメールはたったの二通で、一通目は先日注文したニーナ・シモンのCDが在庫切れだったというお知らせで、もう一通は「ぼくの分身」が現在フィレンツェを旅しているとの報告だった。これはあるHPのアトラクションで、分身に名前をつけ「旅に出る」を選択すると、勝手にその分身が世界各国を放浪し、訪れた街の写真や様子をメールで送ってきてくれるのだ。これでぼくは、すでにドイツとカナダを旅行している。
翌日、午前中から販促会議があった。前夜、パソコンを宇田川夫妻宅に持ち帰り、朝方までいろいろなHPを眺めていたせいで、会議がはじまるとすぐに強烈な眠気に襲われて、隣に座っていた新宿地区担当の猪口さんに、机の下で何度も太股をつねられた。議題に上っていた女性誌に見開き三ページで載せる広告写真の件で、急に部長から意見を求められ、「フルーツごとに動物を決めて撮影したらどうでしょうか? たとえばオレンジシリーズは猿、マンゴー&ピーチが牛で、ライムシリーズが馬とか」と、思いつきで発言すると、意外にも採用されてしまい、フルーツごとにアジアンビーチを紹介するという案を出していた渋谷地区チーフの田所さんに代わり、デザイナーたちとの話し合いに立ち合わされることとなった。
会議は昼過ぎまで延々と続いた。小さな会社なので、取引先の社長の娘の結婚式に何を贈るかまで議題に上る。
午後、地下鉄で日比谷へ向かっていると、また一つ手前の霞ヶ関駅で電車が動かなくなってしまった。乗る車輛も立つ場所も毎日同じなので、ガラス窓の向こうには必ず日本臓器移植ネットワークの広告看板が見える。なんとなく、また彼女が背後に立っているような気がして振り返ると、そこには薄いスプリングコートの下に桃色の看護衣を着た十五、六歳の女の子が、奇妙なリズムで頭を揺らしながら立っていた。
電車の空調が戻り、ベルが鳴ってドアが閉まった。移植ネットワークの広告がゆっくりと窓の外を流れてゆく。ガラス窓には相変わらず奇妙なリズムで頭を振っている偽看護婦少女の姿が映っていた。
いつもより三十分早く日比谷公園に入った。昨日、彼女には、「ちょっと早目に来られない?」と言われただけで、具体的な時間も決めずに別れていた。きっと早目というのは三十分くらいでいいのだろうと勝手に判断し、心字池を見下ろす崖上へ上がってみたのだが、彼女の姿は見当たらなかった。早すぎたのか、それとも遅すぎたのか、十分ほどベンチで待っていると、池の対岸に立ち、必死に手を振っている姿が目に留まった。これまでは垂らしていた髪を、うしろでまとめているせいか、遠くからでもその細い首の白さが目立つ。立ち上がって手を振り返した。人目があるので大声は出せないようだが、「ふんすいひろば」とその口が動いている。「わかった」と大きく肯いて、すぐに広場の方へ目を向けてみたのだが、樹木が邪魔をして何も見えない。視線を戻すと、すでに彼女の姿はそこになく、広場へ向かって歩いてゆく後ろ姿が並木道に消えようとしていた。慌てて鞄を抱えてベンチを離れ、広場へと続く池裏の小路を駆け出した。ちょうど広場の入口でかち合った。「どうしたんですか?」と問えば、「見てよ、今日は来てるのよ」と興奮気味に広場の隅のほうの低い空を指差す。そこには小さな気球が浮かんでいた。遠いから小さく見えるのではなく、実際に人の頭くらいしかない赤い気球が、背の高い男ならジャンプすれば届くほどの低空に、今にも落ちそうな危うい感じで浮いているのだ。
「写真展に行くんじゃないんですか?」
すでに歩き出していた彼女の背中に尋ねると、「そんなの明日でもいいじゃない。あの人、最近滅多に現れないんだから」と振り向きもせず進んでいく。
昼時を過ぎ、人出のピークは越えていたが、それでも噴水広場のベンチには所在なく時間をやり過ごしている会社員たちの姿が目立つ。ただ、その誰もが広場の隅の低空に浮かぶ気球に目を奪われているかというとそうでもなくて、何人かはぼんやりと眺めている者もあるが、その何人かの興味さえすぐに失わせてしまうほど、その気球の浮力は心もとない。
白髪で恰幅《かつぷく》の良い老人が気球を真下から見上げていた。彼女に腕を引かれ、その老人のそばへ近寄ると、気球には細い紐がついていて、それが地面に置かれた金庫のような箱と繋がっており、それ以上は高く上がらないようになっていた。
「こんにちは」
彼女が声をかけても、男は気球を見上げたままピクリとも動かなかった。ぼくの脇腹を突ついた彼女が、「あなたも声かけてよ」と小声で非難する。
「声かけてどうするんですか?」
「彼が何をやってるのか知りたくないの?」
「何をって、気球を上げてるんでしょ?」
二人で声をひそめて言い合っていると、男がするすると紐を引っ張り、浮いていた赤い気球を手元に抱きかかえてしまった。
横で彼女が何度もぼくの脇腹を突つくので、「あ、あのぉ」と遠慮がちに声をかけると、男はやっとこちらへ顔を向け、ひどく面倒臭そうに、「なんで? って訊かないんだったら教えてやるよ」と唐突にいった。
「え?」
一瞬、男が何を言ったのか理解できず、その目をじっと見つめてしまった。
「だから、なんで? って、理由を訊かないんだったら教えてやるって言ってんだよ。どうせ、これのことを訊きにきたんだろ?」
男はちょうどぼくがラガーフェルドを抱くように、赤い気球を腕に抱えていた。そのとき、彼女が一歩前へ出て、「はい。なんで? って訊きませんから教えて下さい」と男にいった。男のぶっきらぼうな態度もあって、ぼくはあまり関わりたくなかったのだが、彼女が腕を組んでいるせいで、彼女が一歩前に出れば、自然とぼくも男の前に出てしまう。広場にはこれだけの人がいるというのに、誰もぼくらを見ている者はいなかった。
「まだまだ改良しないといけないんだが……」
男は丸くまとめた紐を段ボール箱に戻しながらそういった。彼女が男と一緒に屈みこむので、腕を引かれて仕方なくぼくもしゃがみこんだ。
「……風のない日には真っ直ぐに上がってくれるからな、それはいいんだよ。ただ、やっぱり回転がひどくてな、ほら、上昇しながら気球がクルクル回るんだよ。この回転を最小限に止められないことにはどうにもこうにも……」
男は一方的に話し出したが、気球の回転が何に支障を来たすのか、さっぱり判らぬままだった。
「あの、回転すると何か……」
彼女も同じ疑問を抱いたらしく、勇気を持って男の説明に口を挟んだ。そのとき初めて、男がにこっと微笑んだ。微笑めば、取っつき難さも軽減されて、抱いた気球が初孫にも見えてくる。
「そうかそうか。まずそれを教えないとな……」
男は照れ臭そうにそう言うと、彼女の質問に答えはじめた。要約すれば、彼は上空からこの公園を見たいらしかった。将来的には気球のケージの底に小型カメラを取りつけ、真っ直ぐに空へ上げる。カメラからの映像はモニターで見ることができる。
「ぐんぐん上がっていくんだよ。最初は足元だけしか映っていないのが、ぐんぐん上がって、まずは噴水広場全体が真上から映し出されて、次に公園全体が映って、最後にはビルに囲まれたこの辺り一帯がこのモニターに映るんだ」
興奮した男の説明に一段落つき、「それを見てどうするんですか?」という質問が、喉元まで出かかったのだが、『なんで?』という言葉が禁止されていたことを思い出し、無理にそれを飲み込んだ。
一方、彼女は男の説明で充分に満足したようで、男と別れ、心字池のいつものベンチへ戻る途中、「そうじゃないかと思ってたのよ。ただ気球を上げようとしてるだけには見えなかったし、絶対にそんなことじゃないかと思ってたのよ」と、男の話にひどく興奮している。
「でも……、今は二人だけだからいいですよね? でも、なんで?」
彼女に向かって、やっとその言葉を吐いた途端、胸の辺りがすっとした。
「なんでって、真上から見たいからでしょ?」
「いや、だからどうしてそんなもの見たいんだろう?」
「さぁ、それは私にも判らない。ただ、私ね、前々から思ってるんだけど、あの人、私たちの先輩だと思うのよ」
「先輩?」
「そう。この公園のOBよ。定年でリタイアしたけど、何十年もこの公園を利用してきた人なのよ。ね、そう考えれば、ああやってこの公園を上空から見たいって気持ち、少し判るような気がしない?」
その日、彼女と園内の松本楼でカレーを食べた。彼女はあまり辛いものが得意ではないらしく、食べ終わるころには鼻の頭に汗をかいていた。ジャケットを脱いだ彼女は、半袖のサマーセーターを着ており、テーブルに載せられた、初めて目にする彼女の腕の曲線が、横にある銀のスプーンと重なった。カレーを食べながら、ときどき会社の近所にやってくるカレー専門の移動屋台の話をした。そこで働いているインド人と思われる美人女性は、ボディソープの試供品をあげると、ライスを大盛りにしてくれる。話の途中、彼女が何かを言いかけてやめ、その代わりに、以前仕事でカルカッタに行ったことがあると教えてくれた。お互いにここで相手の職業を尋ねるのが自然だったのだが、彼女が言いかけてやめた言葉が、そのことだったような気がして、敢えて質問しなかった。彼女はそんなぼくの気持ちを知ってか知らずか、食後のコーヒーを飲みながら、最近自分のアパートの近所にできたそば屋が本格的な十割そばだったことを話したあと、渡辺淳弥というデザイナーが、猫背や反り身、極端なイカリ肩の体型に合わせた服を作り、それらの服を標準的な体型の人が着ると、その不自然な歪《ゆが》みがとてもエレガントに見えるのだというような話をしていた。
彼女によれば、この日比谷公園は明治三十六年に開園したらしい。ふたりで指折りかぞえてみると、来年がちょうど開園百周年にあたる年だった。
銀座店での棚卸し作業が完了したのが夜の九時で、そのままみんなで飲み会へ流れた。銀座店は、都内でも売上げ一、二位を争う優良店舗なのだが、それでもここ一年の成績は予想を遥かに下回っている。重田店長の行きつけらしい炉端焼き屋に出向いたのだが、全員が座れるテーブルがなく、店を変えようかという意見も出たものの、誰もが一刻も早くビールを飲みたいという状態でもあり、カウンターの手前に二人、奥に三人、テーブル席に三人という奇妙な編成で席についた。離れ離れに座ったせいで、一時間もすると「先に帰ります」という者も現れ、棚卸しの慰労会は盛り上がることもなく、ラストオーダー前にはお開きとなった。
店を出る少し前、カウンターで一緒に飲んでいた重田店長に、最近奥多摩へ家族で出かけたときの写真を見せられ、以前、彼が会社に連れてきたことのある一人息子、翔太くんのその成長ぶりに驚かされた。聞けば来年から中学生になるらしく、「そろそろ、親にもついてこなくなるよ」と、店長はうれしそうに微笑んでいた。見せてもらった写真は、そのほとんどが日原《につぱら》鍾乳洞で撮られたものだった。
有楽町のマリオン前で散会したあと、地下鉄へ降りようとしたのだが、日ごろほとんど酒を飲まないせいもあり、このまま電車に乗ると気分が悪くなりそうだったので、すこし風に当たってから帰ることにした。マリオン前の交差点は、まだ人通りも多く、晴海通りには客待ちのタクシーが行列をなしている。通りに架かる高架橋を山手線が走り抜け、そのあとに新幹線が続いて通る。高架橋のすぐ先に日比谷公園の黒い杜《もり》があり、昼間よりもこちらに迫って見えた。いつも自分が座っているベンチが、銀座でも一番賑やかなこの交差点から、こんなにも近かったのかと意外な気がした。
公園入口の派出所前には、若い警官が立っていた。この時間、園内に一人で入るのは多少気まずかったのだが、警官は一度こちらに目を向けただけだった。
園内に一歩入ると、酒で火照った頬をひんやりと夜風が撫でた。遊歩道には、ぽつんぽつんと外灯が立てられており、その下だけが青くぼんやりと闇に浮き上がって見える。いくつかの青い光のなかをくぐり抜け、第一花壇へ入ってみれば、花壇を囲んだベンチには、ちらほらとアベックの影がある。そのねっとりとした雰囲気に思わず足が竦《すく》んでしまい、そのまま踵《きびす》を返して遊歩道に戻った。夜の心字池はまるでそこにないようだった。昼間にはたしかにそこにあった池から、色だけが抜けおちていた。夏場に枕を裏返したときのような、ひんやりとした園内の遊歩道を歩いていると、からだから酒の火照りが抜けていき、特に行き先も考えず、イチョウ並木をただ足の向くままに歩き続けた。気がつくと、テニスコートの裏へ出ており、健康広場の先、まだちらほらと灯りのついている合同庁舎ビルが現れた。先日この広場で出会った男のことを思い出し、真っ暗な健康広場に入ってみると、「開眼片足立ち」と書かれた板が、ぽつんと中央に立っている。近寄って、自分の年齢での指数をグラフで確認し、足型の描かれた台に乗ると、両手を水平に広げ、ゆっくりと右足を上げてみた。「1、2、3」と小声で数えていくうちに、酔っているせいもあって、からだの揺れが大きくなるにつれ、自然と声が大きくなった。背後から差す外灯で、片足立ちした自分の影が、ふらふらと、長く遠くへ伸びている。「二十代では百秒近くも立ってられるものが、七十代ではたったの十五秒ですよ」と言った男の声が蘇り、大声で「25」まで数えた途端、足首で起こった小さな揺れが、からだ全体に広がって、抑えられずに足をついてしまった。すぐそこのベンチで、眠りを邪魔された浮浪者が、非難がましく寝返りを打ち続けていた。
広場の時計がすでに十二時を廻っていたので、日比谷門でタクシーを拾おうと思い、遊歩道へ戻り、イチョウ並木から噴水広場へ向かった。噴水広場は無人のベンチに囲まれていた。その光景はひどく不気味なものだったが、近くのベンチに腰を下ろし、ひんやりとした木目を指の腹で撫でた。目の前に広がる暗く静かな噴水広場に、昼間の賑わいを、行き交い集う人々の姿を浮かび上がらせてみようとするのだが、なかなかその像が結ばない。ないものをそこに思い描くのは得意であるはずなのに、どんなに意識を集中させても、誰ひとりとして夜の広場に浮かび上がってこないのだ。ただ彼らの声だけがかすかに聞こえた。これまでにこの広場で耳にしたはずの会話、「明日から大阪出張でしょ?」「だから私、あの手の男は信用しないのよ」「鎌倉なら通勤圏内ですよ」「そりゃ、こっちも向こうの足元みて言ってるわけだから」……、誰もいない夜の広場に言葉だけが蘇る。まるで彼らの言葉だけが、昼間この広場にあふれ、休憩をとっていたように。
もう一度意識を集中させ、再度チャレンジしてみようと、遠近を乱す要領で、まずネクタイをゆるめた。目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。ここで顔を上げ、カッと目を見開けば、昼間の賑わいがそこに立ち現れるはずだった。しかし、見開いた目に浮かんできたのは、なぜかしら、さっき重田店長に見せてもらった日原鍾乳洞の写真で、洞窟の入口に立った翔太くんが、ふざけて中指を立てていた。日原鍾乳洞には、数年前まだ独身だった瑞穂さんたちと温泉へ行った帰りに寄ったことがあった。暗い洞窟のなかへ入っていくと、誰だったか、「人間のからだのなかも、こんな感じなんだろうね」と言い出す者がいて、その後の探索は、「あ、この岩って肝臓っぽい」だとか、「ここは直腸ね」などと暗い洞窟内に笑い声を響かせることとなった。鍾乳洞というのは人工的にライトアップされていなければ、実は真っ暗な洞窟で、からだの内部というのもそれと同様、胃カメラなどの映像だから赤味を帯びて見えるのだ。ただ、全身に日を浴びたりしていると、やはり肌を通して光線が差し込むのだろうか。ふと、赤い気球が目に浮かんだ。この噴水広場を離陸した気球が、ぐんぐんと高度を上げて、公園全体を俯瞰しはじめる。上空から見れば、公園は縦長の長方形で、ちょうど人体胸部図のように見える。心字池がその形の通り心臓の位置にある。桜門からのイチョウ並木が、食道のようにくねくねと延び、胃袋に当たる草地広場のなかを抜け、そのまま日比谷図書館あたりで腸のようにうねうねと蛇行する。とすれば、中幸門が肛門になる。日比谷公会堂の形をした膀胱がある。雲形池が肝臓で、第二花壇は膵臓になる。上空からは園内をうろつき回る人々の小さな姿も見える。大勢の人々が細い小路を抜け、噴水広場を横切り、あちこちの出口から外へ出てゆく。まるで汗のように、人々は園内からあふれでる。
そこでとつぜん、目の前の暗い広場が蘇った。公園全体の俯瞰図が霧散して、あとに残された暗闇が、なぜかしら眩しかった。
八時前には宇田川夫妻の家を出て自分のアパートに寄り、昼の便で帰るという母をマクドナルドでの朝食に誘った。まだパジャマ姿だった母が、「顔洗ったり化粧したり、準備に時間かかるからいいわ」とせっかくの誘いを断るので、仕方なく、「じゃあ気をつけて」とだけ告げてアパートをあとにした。
気持ちのいい朝で、空はその先の宇宙まで感じられるほどに青かった。駒沢公園を駅の方へ歩いていると、第二球技場の角を曲がったあたりで、ジョギング中の朝野さんが、向こうから走ってくる姿が見えた。シンディは連れておらず、フッフッ、ハッハッという規則的な息遣いを朝靄《あさもや》の並木道に響かせ、険しい表情で近づいてくる。朝野さんはまだこちらに気づいていないようで、十メートルほどまで近づいたとき、「おはようございます」と声をかけると、ふと顔を上げ、いったんそのままのスピードでぼくの傍らを駆け抜けたあと、「あ、ああ!」と奇妙な声を上げて引き返してきた。それでも立ち止まったぼくの周りをグルグルと走り続け、ナイロン製のウェアがシャカシャカと耳障りな音を立てる。
「おはようございます」
改めて挨拶すると、朝野さんが落ち着きなくぼくの周りを走りながら、「あなた、ヘンな噂が立ってるわよ」と少し声をひそめていった。
「ヘンな噂?」
「ほら、ミミちゃんってチワワを連れてくる奥さんがいるでしょ?」
「髪が紫色の?」
「そう。あの奥さんが……」
朝野さんは徐々にスピードを落とし、大股で歩き出していた。ぼくを中心に半径三メートルの円を描き、グルグルと回る彼女を追っていると、こちらまで目が回ってくる。
「私はまったく信じてないんだけどね」
朝野さんがやっと立ち止まった。肩で大きく息をしながら、首にかけたタオルで顔の汗を拭きはじめる。
「その奥さんが言うのよ。あなたが、っていうか、最近小さな猿を連れてくるようになった人が、この前、近所のアパート裏に忍び込んで、下着を盗もうとしてたなんて」
「え?」
「だから、あなたが……」
「あ、あれはただ、道端に落ちてたシャツをベランダに戻してやっただけですよ」
「やっぱりねぇ、そんなことなんじゃないかと思ったのよ。あの奥さん連中、あることないこと言って暇つぶしているから、ほんと手がつけられないのよね」
朝野さんは中断されたロードワークを再開すべく、すでに屈伸運動を開始していた。長く引き止めるのも悪いと思い、「じゃ、会社なんで」と頭を下げると、「気にする必要ないと思うけど、私だったらしばらく顔を出さないようにするな。ほら、あの手の奥さん連中は相手にしないのが一番だから」と笑い、片手を上げてそのまま第二球技場の表門の方へと走っていった。
日比谷公園で待ち合わせていた彼女に連れられていったギャラリーでは、平凡な風景写真ばかりを展示していた。その日、彼女の印象がいつもと違ってみえたのは、スカートではなく、パンツスーツを着ているせいだった。「似合いますね」と言おうかとも思ったが、言わない方がまた近いうちにこの姿を見られそうで、敢えてその言葉を飲み込んだ。銀座の表通りから地下への階段を降りる途中、「写真に興味あるんですか?」と尋ねたのだが、彼女は、「別に」と答えただけで、白壁をその長い指でなぞりながら、一段一段ゆっくりと狭い階段を降りていった。それほど広くもない地下のギャラリーは真っ白な壁に囲まれており、息苦しい感じだった。ぼくらの他に観覧者の姿はなく、受付にいる女の子も、退屈そうに爪の甘皮を剥《は》いでいる。
作品はさして奇抜なものでもなく、自宅のアルバムを探せば、似たような写真が一枚や二枚ありそうな、何の変哲もない住宅地を二階の窓から撮ったようなもの、遠くに新幹線が走っている田園風景のなかに数十軒だけ集まって建つ民家、小さな川べりの集落、坂の上に見える変電所……。
「写真に興味がないのに、どうしてこの写真展に来ようと思ったんですか? なんか特別な理由でも?」
傍らで、彼女は後ろ手を組み、顎《あご》をつきだして写真を見上げていた。ぼくの質問には黙って首を振っただけだった。彼女は一つの作品を特に興味もなさそうに見終えると、横に立つぼくにわざとぶつかり、次の作品の前へ移動させる。初めて気づいたのだが、彼女の頬には耳の下から伸びる顎の線上にほくろがあった。それは顎の裏に隠れそうで隠れない、微妙な場所にある色の薄いほくろだった。
「私ね、ここで産まれたのよ」
「え?」
彼女が目の前の写真を指差していた。それはどこにでもあるような住宅街のバス通りを撮影したもので、停留所の前に「杉浦産婦人科」という古い看板が写っている。看板は通りの一番奥に位置しており、彼女の指が指し示さなければ見逃してしまうほどのものだった。
「ここって、この病院で産まれたんですか?」
「そう。杉浦産婦人科」
「じゃあ、この辺に住んでたんだ?」
「実家はあっち」
彼女がさっと振り返り、背後の壁に飾られた写真を指差す。そこには遠くに新幹線が走っている田園風景のなか、数十軒の民家が写っていた。
「あの写真に実家が写ってるんですか?」
「屋根だけね。ほら、あの緑色の」
「今も誰か住んでるんですか? ご両親とか」
「私が高校のころ引っ越したから、今は別の家族が住んでるんでしょ。それよりほら、川の向こうに病院が写ってるの判る? あの病院にはよく通ってたのよ。私、小児喘息だったから」
彼女にそう言われて、ハッとした。それまで気にもかけていなかったが、どの風景写真のなかにも必ず小さな病院が写っているのだ。
「あ、ここにある作品ってそういう意味なんだ」
「そういう意味って、どういう意味よ?」
「……いや、よく判らないけど」
彼女はまたぼくにぶつかり、次の作品の前へと移動させた。
「もしかしてここにある写真って、ぜんぶ、あの……、あなたの地元の写真なんですか?」
「へぇ。あなたって、人のこと『あなた』なんて言える人なんだ?」
「だって、他に言いようないじゃないですか。名前は知らないし……」
彼女はくるっと踵で回転すると、奥の小さな部屋へ入っていった。少し遅れてあとを追い、「そうなんですか?」と改めて尋ねると、「そうみたい。ぜんぶ見たことある風景だし」と肯く。
「もしかして、この写真家を知ってるとか?」
「知らないわよ。ただ、雑誌でさっきの『杉浦産婦人科』の写真を見つけて、行ってみようと思っただけ」
「ここどこですか?」
「秋田県の角館の辺り。聞いたこともないでしょ?」
「あ、俺、そこなら行ったことありますよ」
「え? うそ?」
ギャラリーに響いた彼女の声が、目の前にある作品の風景のなかを、遠くへ抜けていったようだった。
「あ、いや、行ったことあるっていうか、ヘンな話なんだけど、インターネットのHPに『自分の分身』を旅行させるみたいなものがあって、今はフィレンツェにいるんだけど、その前に国内旅行を選択したとき、秋田で『竿灯《かんとう》まつり』を見物したあと、田沢湖に寄ったんですよ。角館って田沢湖のすぐ近くでしょ?……あ、だから実際には行ったことないんだけど……」
ぼくの説明を彼女は小首を傾げて聞いていた。詳しく説明しても、なんだか無駄なような気がして、「とにかく写真やなんかで見たことあるんですよ」と一方的に話を終わらせた。彼女は納得したのかしないのか、「そっか。あなた私の田舎を知ってるのね」と少しうれしそうだった。
すべての作品を一通り鑑賞し終えると、さっき降りてきた狭い階段を、再び肩を並べてゆっくりと上った。階段の途中で、彼女が足をとめ、何度かヒールの爪先で階段を軽く蹴る。つられて足をとめ、その横顔を眺めていると、「ふん」と鼻から息を吐くような声で、彼女がとつぜん強く肯き、すっと顔を上げてぼくを見つめると、「よし。……私ね、決めた」と呟いた。
「え?」
一瞬、呆気にとられたあと、すぐにそう声をかけたのだが、彼女はすでに階段を上がりはじめており、その背中はたった今、何かを吹っ切ったようで、「決めたって何を?」という質問など、尋ねる前から撥《は》ねつけられそうな、妙に肝のすわった背中だった。彼女を追って階段を駆け上がり、賑やかな表通りへ出た途端、今まで見ていた風景写真のすべてが、目の前でとつぜん動き出したようだった。そのなかでふと立ち止まった彼女が、くるっとこちらを振り返り、人差し指で、右? 左? と左右の通りを指し示す。ぼくが自分の背後を指差すと、「それじゃ」と軽く片手を上げて、そのまま振り返って歩き出した。初めて公園の外で別れようとしているせいかもしれないが、しばらくその背中を見送っているうちに、なぜかしら二度と会えないような気がして、辺りの視線も気にせずに、「あの!」と呼び止めた。彼女は人ごみの向こうで振り返った。こちらへ歩いてくる男の顔が邪魔をして、彼女の姿がよく見えない。
「あの、明日も公園に来て下さいね!」
そう叫んだぼくの声に、人々が一斉にこちらへ顔を向けた。人ごみの先に、ちらっと切れ長の眼が見えた。一瞬、肯いたようにも見えたが、彼女はそのまま人ごみのなかに姿を消した。消えた彼女に背を向けて、ひとり公園のほうへ歩きだすと、「よし。……私ね、決めた」と呟いた彼女の言葉が蘇り、まるで自分まで、今、何かを決めたような気がした。
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flowers
その人、望月元旦と初めて会った時、僕は一目で彼に吸いよせられた。四つ年上の従兄、幸之介を思わせたのだ。似ていたのは、顔ではなく、からだの重さで、譬《たと》えるなら羽毛に近い。風が吹けば舞い上がり、しばらくすれば落ちてくる。ふたりとも、そんな印象を僕に与えた。
初出勤の朝、妻の鞠子に見送られ、僕は帝国ホテルから仕事場へ向かった。エプロンでもつけていたら、今にも手を拭《ふ》きそうな気軽さで、格調高いロビーまで下りてきた鞠子が、「いってらっしゃい」と普通に言うものだから、多少照れながら、アタッシュケースを提げた外国人たちの間を縫い、厚い絨毯を踏んで外へ出た。振り返ると、ドアマンに扉を開けてもらった鞠子が、黒塗りのハイヤーが並ぶ車寄せまで出ていて、のんきに手を振っていた。
せっかく東京での新生活が始まるのだし、最初くらいは豪勢にいこうと、僕らは有り金をはたいて帝国ホテルに泊まり込んでいた。就職、住宅、その手の情報誌を買い込んで、柔らかなバスローブを羽織り、一週間ですべてを決めた。
その朝、日比谷公園を一周りしてから地下鉄に乗った。つい二日前に採用された飲料水の配送会社へ着くと、言われた通りに川沿いの裏門から入って、二階の事務所でタイムカードを押した。面接をしてくれた社長が待っており、「もうアパートに移ったのか?」と聞くので、「メンテナンスが入るそうで、あさってまで入居できないんですよ」と答え、新品の作業着に袖を通した。すでに従業員たちは、駐車場で荷積みを始めているようだった。
「じゃあ、あさってまでホテル暮らしか? 高くつくなぁ」
「一生に一度の贅沢ですから」
面接の時、履歴書の連絡先に帝国ホテルの電話番号を書いてくるような奴を、たとえ同じ九州の出身だからとはいえ、よくも採用したものだと思う。
事務所で、改めて仕事内容の説明を受け、社長に連れられて駐車場へ向かった。倉庫を抜ける時、天井まで積まれたビールケースに圧倒され、かなり不安になったが、気のいい社長が、僕の緊張をほぐそうと、笑顔を浮かべて話しかけてくれた。
「アパートは、この近くに借りたんだろ。家賃はいくらだ?」
「七万二千円です。管理費別で」
「帝国ホテルの一泊分だな」
「そんなに高くないですよ。でも二泊は無理ですね」
「……どうかしてるよ」
「女房からも毎晩そう言われますよ。自分は大理石の風呂場で、一時間もお湯に浸かって喜んでるくせに。今朝出てくる時なんて、『戻ってからビール飲むんだったら、買ってきてよ』って言われました。部屋にあるのは高いでしょ」
倉庫を抜けて、砂利敷きの広い駐車場へ出た。そこに元旦の姿があった。一瞬、従兄の幸之介がいるのかと思った。日を浴びた彼は、ズボンの尻ポケットにタオルを突っ込み、鼻唄混じりでケースを積み上げていた。まず地面からケースを持ち上げ、荷台に置く。片手をついて、さっと荷台へ飛び乗ると、またケースを持ち上げる。
社長が声をかけた時、彼はちょうど荷台から飛び降りる瞬間で、ふわっと地面に降り立ち、こっちを見てニコッと笑った。不意に近寄ると、遠ざかってしまいそうだった。
「新しく入った石田くんだ」
僕のことを紹介する社長の背後から、「よろしくお願いします」と声をかけた。彼は片手を上げて挨拶を返すと、すぐに別のケースを持ち上げる。
「この前まで、こいつも助手だったんだよ」社長が言った。
「そうなんですか」
「先週から、この四号車を任せてる。なぁ元旦?」
「俺、助手の方が気楽でいいんだけどなぁ」ケースを担いだ彼が答えた。
こっちを見たので、「よろしくお願いします」とまた頭を下げると、「なぁ、お笑いタレントの穂積けい太がやってる深夜の番組知ってる?」と聞いてきた。唐突に話の流れを変えるところも、従兄の幸之介そっくりだった。
素人のカップルが出演して、彼が浮気しただの、彼女がセックス好きで困っているだのといった下品な会話を売り物にしているトーク番組のことで、「見たことある?」としつこく僕の顔を覗き込むので、「えぇ、何度か」と答えると、「俺さ、あれに出たことあるんだよ」と言う。
「そうですか……」
「今度、ビデオ見せてやるよ」
嬉しそうに笑う元旦の肩を叩いて、「じゃあ、頼んだぞ」と社長が姿を消した。彼はまた鼻唄を歌い出し、ケースを荷台に積み上げ始めた。突っ立っているわけにもいかず、僕も見よう見真似で手伝った。初出勤の緊張で、胃の辺りに鬱積していた不安が、彼の歌う鼻唄の音符に形を変えて、口から出ていくようだった。
四つ年上の従兄、幸之介は、地元の九州で叔父が経営する墓石専門の石材屋で働いている。まだ高校生だった頃、僕も休みの日には小遣い稼ぎにアルバイトをした。親方である叔父は、「勉強もあるだろうから」と、バイトの僕だけ日盛りを過ぎた午後三時で家へ帰す。幸之介が運転するトラックでうちまで送ってもらい、真っ先に風呂場で水を浴びて汗を流した。日の匂いのするタオルでからだを拭き、新しい下着をつけると、押入れから枕を持ち出して、縁側へ出た。「今日はどこの墓地だったのか?」などと話しかけてくるばあさんに、生返事しながらごろんと横になれば、押入れから出したばかりの枕が、いつも首筋に冷たかった。
「幸之介はまだか?」
「ああ」
「晩ごはん食べさせるけん、今度、連れてこい」
「ああ」
ばあさんの声を聞きながら、たいてい眠り込んでいた。縁側の昼寝では、いつもすけべな夢をみた。幼い頃に亡くした両親の遺影は、仏壇の上に飾られ、台所を向いている。
あるとき、ふと目を覚ますと、横で花を生けているばあさんが、その手を休め、僕の方をじっと見ていた。
「なんや?」と問えば、「いや、お前の首に蚊がとまっとって……そんな歌があったような……」と首を傾げる。
「歌?」
「……そう、そう。あ、今思い出した。虔《つつ》ましきしゞまに 対《むか》ふ汝がうなじに 一つゐる蚊を わが知りて居り」
「……知っとるなら、殺せよ」
ばあさんの前には、広口の花器と万年青《おもと》の束が置かれてあった。
「お前も学校出たら、幸之介と一緒に働くんか?」
「たぶん」
ばあさんは、万年青の葉をパチンと切った。
「幸之介も幸之介なら、お前もお前やねぇ」
ばあさんのため息に、また始まるのかと、寝返りを打つ。
その前の年から幸之介が一人暮らしを始めていた。ばあさんに言わせれば、「借家とはいえ、せっかく広い家があるのだから、なにも好き好んで神社の物置きに住むことはない」ということになる。幸之介が住み着いた神社は、代々うちが管理しており、段々畑を見下ろす丘に建つ小さな社《やしろ》には、神主もおらず、色の剥げた鳥居と、お粗末な賽銭箱しかなかった。子供の頃、幸之介はいつも賽銭箱をひっくり返しては、度胸があるところを見せようとするのだが、出てくるのはビールの蓋《ふた》かビー玉で、結局僕が賽銭箱を起こさなければならなかった。管理していたと言っても、掃除夫かなにかだったのだろうとばあさんは笑っていたが、とにかく朽ちた神社は、僕と幸之介のいい遊び場であり、物置きの鍵は代々うちに伝わっていた。
ばあさんの愚痴を聞き飽きた僕は、枕を持って畳から立ち上がり、自分の部屋へ逃げようと思いながら、なんとなく、花を生けるばあさんの前で胡座《あぐら》をかいた。広口の花器にたっぷり張られた水へ、青々とした万年青の葉が挿される。その手元辺りが、妙に静まっていた。
「幸之介に、早う家へ戻るようにお前からも言え」
「言うてきくもんか」
「あんな所で人間が暮らせるもんか」
花器の水に触れようとする僕の指を、ばあさんが邪慳《じやけん》に払う。
物置きといっても、自宅から運んだ畳も敷いてあり、中へ入れば普通の部屋と変わりなかった。ただ困るのが便所で、小便ならそれこそ鳥居にかけて済ませばよかったが、大の場合は尻を押さえて坂を駆け下り、僕とばあさんが暮らす家まで走ってこなければならない。歩いて三十秒とかからなかったが、それでも急を要した時などは、真っ青な顔でやってきた。そして便所から出てくると、用もないのに必ず二階の僕の部屋へ上がり込み、タバコを二、三本吸って帰る。あるとき、いつになく深刻な顔でやってきたので、「下痢や?」と尋ねると、幸之介はベッドでごろんと横になり、「なぁ、一人で死ぬのと、一人だけ生き残るの、どっちが怖いやろ?」と呟いた。僕が高校を卒業する年だったので、幸之介は二十二かそこらだ。
「とうとうイカれたや? 神社で暮らすせいぞ」
こちらが相手にしないでいると、幸之介もすぐにいつもの笑顔に戻り、「あ、そうそう。来週、窓に網戸をつけるの手伝え」とベッドから起き上がり、大きな音を立てて階段を下りていった。
神社の裏には、蚊の多い薮があり、夏になると辺り一面に白いなでしこの花が咲いた。ばあさんがそこで花を摘んでいるのは知っていたが、僕らは小便がしたくなると、容赦なく花を踏みしだき、足を広げてそこを汚した。
墓石の運搬に比べれば、東京で始めた飲料水の配送は楽な仕事だった。助手として元旦のトラックに乗り込み、新宿区を中心に居酒屋や大学の食堂へ配達して回る。移動途中のトラックでは、「あれが都庁だ」「この道をまっすぐ行くと原宿に着く」などと、元旦が東京案内をしてくれた。
仕事を始めて、まだ一週間もたっていなかったと思う。すでにアパートへは越していたが、地元から送ってもらった段ボールさえ片付いていない頃だった。新宿区にある大学の地下駐車場にトラックを入れて、荷台からケースを下ろしていると、「今夜、ビデオを見に来いよ」と元旦に誘われた。穂積けい太の番組のことを言っているらしかった。運転席のうしろには、空き缶や汚れたタオルと一緒に、その番組が放映された日の新聞が置いてあり、初めてトラックに乗った時、「ほら、出てるだろ」とテレビ欄を見せられていた。そこには「脳なし巨根男VSフェロモン過剰女」と書かれてあって、笑っていいのかどうか、かなり迷った。
学食分のケースを台車に積みながら、「奥さんもつれてこいよ」と元旦が言うので、「分かりました」と適当に答え、「学生ホールの分も一緒に積みますか?」と尋ねた。
「ホールの分はいいや、積めないだろ?」
「戻ってくるの、面倒じゃないですか?」
「戻るのはお前だから、俺は面倒じゃないだろ」
大学の構内には、食堂も含めて十七カ所に自動販売機が設置してあった。地下駐車場から台車で缶ジュースを運ぶわけだが、エレベーターは日曜のデパートみたいに各階で止まるし、廊下でたむろする学生たちは、声をかけないと道をあけてくれないが、元旦と一緒に台車を押して長い廊下を進み、学生食堂へ入れば、あとは機械的に自動販売機へジュースを補充するだけだった。
作業が終わると、「休憩だ」と元旦はすぐに学生ホールの椅子に座り込む。有能な助手ではない僕も、あとの時間配分など考えず、一緒にタバコに火をつける。穂積けい太の番組に出た女とは、ここで知り合ったんだ、と彼が何気なく教えてくれた。辺りを見回したが、まだ午前中の早い時間だったせいか、ホールはがらんとしていた。
その日、仕事が終わって一旦うちへ帰った僕は、面倒臭がる鞠子を連れて、隣駅にある元旦の家を訪ねた。教えられた通りに床屋の先を右へ曲がると、突き当たりに古い屋敷があった。まさかここじゃないだろうと思いながらも、表札を確かめてみれば、「加山」と彫られたりっぱな表札の下に、望月元旦と書かれた小さな紙が、二つの画鋲《がびよう》で留めてある。
今どき珍しく、彼は一軒家の奥座敷を間借りしていたのだ。表玄関を開けようとすると、台所らしい小窓から、品の良いおばあさんが顔を出し、「望月くんなら、裏へ回った方が早いよ」と教えてくれた。
手入れの行き届いた赤松のある庭を抜けると、縁側を改造した木戸が開けっ放しになっていて、中を覗き込めば、風呂上がりらしい元旦が、パンツ一枚で熱心に髪を拭いている。
「あのぉ、来ましたぁ」
胡座をかいた彼の背中に声をかけた。ビクッと背中を反らせて振り向いた彼が、「おう、来たか? 上がれ、上がれ」と手招く。一目見て、「どこが幸之介に似てるのよ」と鞠子が小声で呟いた。彼女を紹介しながら、縁側で靴を脱いでいると、元旦はズボンに足を通し、「奇麗な奥さんだなぁ」と、誰にでも分かるお世辞を言った。
鞠子は一目見て美人というタイプではない。ただ、見れば見るほど美しくなる、梅の花ぐらいのひかえめな器量はある。
「へんな所に住んでますねぇ」
鞠子は、遠慮とはさせるもので、するものではないと思っている。僕は慌てて彼女を睨《にら》んだ。
「だって、へんじゃない!」
「そう、へんだよ。へんな所を捜したんだから」元旦が言った。
「こういう部屋が好きなんですか?」
「好きっていうか、床の間あるし……」
元旦の視線を追った僕と鞠子は、驚いて顔を見合わせた。床の間に、細長い花器に、しょうぶの花が高々と生けられていたのだ。
「生け花? もしかして自分で?」
「そう、俺が生ける。でも、てきとうだよ。ちゃんと習ったことないし、我流だよ、我流」
「珍しいですね。男の人が生け花やるなんて。でも、うちのも、こう見えて結構、花には詳しいんですよ」
「石田も、生けるのか?」
大袈裟に驚く元旦の目から逃れるように、僕はもう一度床の間へ視線を戻した。
「いや、田舎で一緒に暮らしてたばあさんが、よく生けてたんで、ちょっとだけ真似たことあるけど、すぐに飽きちゃって……。でもプラモデル作ってるみたいで楽しいですよね」
高々と伸びたしょうぶを眺めているうちに、ばあさんの家を思い出していた。僕らの上京を機に取り壊され、幸之介夫婦と彼の両親が二世帯住宅を建てることになっていた。新しい家は洋風で、床の間はないはずだった。
昔、花を生けているばあさんに、「床の間って、花を飾るための場所や?」と聞いたことがある。ばあさんは「床の間ってのは、その家のゆとりたい」と答えた。
「ゆとり? 俺には無駄に思える」
「ゆとりってのは、無駄のことさ」
そう言ってばあさんは、白椿の一輪生けでそこを飾った。
鞠子とは上京して来る前年に結婚した。鞠子の父親が酔っぱらって僕を殴った結納から、平安閣での安価な挙式までを手早く進めたのは、ばあさんを安心させてから逝かせてやろうと考えた僕らの気持ちからだった。僕らというのは、僕と鞠子ではなく、僕と幸之介のことだ。ばあさんが死期を待つだけの肝臓癌だと知らされた翌日、二人で病院を訪ね、「ばあさん、おっ死ぬ前に何がしたい?」なんでもしてやるぞと、それが冗談ではないことを悟られぬよう、細心の注意を払って、いつものように悪態をついた。まだ元気に見えたばあさんは、「お前たちの結婚式に出たい」と力なく笑った。そのとき隣のベッドに腰かけていた幸之介が、「さすが、ばあさん。よう分かったなぁ」と意味不明なことを言い出したかと思うと、僕の肩を叩いて、「今日はその話で来た。俺もこいつも来月結婚することにした」と言ったのだ。
最初ばあさんは全く信じなかったが、幸之介があまりにも熱心に話すので、最後には「むこうさんのご両親たちは承知か?」と、厳しい表情で僕らの顔を見比べていた。
病室を出てすぐに、悪い冗談だと僕は幸之介を非難した。しかし彼はのんきなもので、「どうせめぐみと結婚するのやもん。来月やろうが、来年やろうが、かまうもんか。お前も鞠子と結婚しろ!」と言ったのだ。
幸之介の口調は、まるで川で溺れているばあさんを、お前は救わずに逃げるのか、と言っているようだった。
「そう軽く言うけどなぁ……」
しかし僕は、結局翌日には承知していた。いずれは鞠子と結婚しようと思っていたし、高校を卒業して、幸之介と同じ石材屋で働くようになってすでに四年、仕事にも慣れ、なにより鞠子がそれを望んでいた。幸運にも平安閣にキャンセルが出て、二組同時の結婚式は無事に行われた。帯を新調したばあさんは、車椅子で式に出席した。そして、何度か入退院をくり返したその年の秋、急にからだが軽くなり、消えるように亡くなった。幸之介が泣いている姿は見ていない。もちろん僕も、彼の前では泣いていない。市内の火葬場から、お骨を抱いて家へ戻った。喪服を脱ぐ鞠子を手伝い、何気なく家の中を歩き回った。縁側にばあさんが置いたものらしい底の浅い竹笊《たけざる》があって、白菜と柚子と金柑が入っていた。飾りのつもりか、すすきが一枝そえられて。
叔父の石材屋を辞めて上京したのは、僕の意思ではなく、鞠子がとつぜん東京の劇団に入って喜劇女優になると言い出したからだ。地元から送った写真と履歴書が、世田谷にある聞いたこともない劇団のオーディションに受かったのだ。お互いにまだ二十二歳になったばかりだったし、僕の場合は、あれこれとうるさいはずの両親もすでに他界している。毎日毎日、重い墓石を運んでいれば、時にはふわっと浮かんでみたい気にもなる。僕は鞠子の口車に乗せられて、東京までやってきた。
元旦が出演した番組を見る前に、ピザを注文した。すでに十時を廻っていたので、配達人が老いた大家夫婦を起こさないようにと、元旦は十五分前から表玄関の前で待った。部屋に残された僕は、同じように退屈そうな鞠子を相手にプロレスの技をかけて遊んでいた。ヘッドロックをかけ徐々に力を込めながら、「痛い? 痛い? もう我慢できないだろ?」と聞くと、彼女はいつも、「まだよ。ぜんぜん、まだよ」と痩せ我慢する。
ピザを食べながら、三人揃ってテレビの前に並んだ。画面にタレントの穂積けい太とアシスタントが現れ、その週のカップルを紹介する。竜宮城をイメージしたセットには、本物の水槽が並び、ライトを浴びた青い熱帯魚が群れをなして泳いでいた。竜宮城の門が開き、元旦と彼女が手を繋いで現れた。
「これってどれくらい前に出たの?」
テレビの前で鞠子が聞き、「半年前」と元旦が答えた。会って一時間しかたっていないのに、まるで幼なじみのような彼らの唇が、ピザの油で光っていた。
「彼女、美人ですねぇ」
会話から外れないように、僕も口を挟んだ。
「ほんと、すごく奇麗な髪だし……」
「これ、出演料とかもらえたんですか?」
「電車賃も出ないよ」
そのビデオを見るのが、何度目かは知らないが、画面に登場した自分を、元旦は熱心に見つめていた。
「彼女と長いんですか?」
「里美? もう別れた。この番組に出て、すぐ」
「そ、そうなんですか」
トークの内容は、信じられぬほど元旦を侮辱したものだったが、それを見ている本人が無邪気に笑っているのだから、僕と鞠子も笑わないわけにはいかない。一応、悩み相談という名目らしく、里美という元彼女が、元旦は漢字が読めないだの、常識がないだのと馬鹿にするのだ。
「最初に驚いたのは〜、一緒に渋谷で買い物した時なんですけどぉ、パルコの壁に『Christmas Sale』って書いてあって、それを『チャ、リ、ストマス?』って小声で読んでるの。今どき小学生だって、クリスマスぐらい読めるでしょ?」
画面の中で照れ臭そうに俯《うつむ》いている元旦を、ピザをくわえた本人が見ている。その上、何が可笑しいのか、場内の客と一緒に無邪気に笑う。鞠子も、笑っていいものかどうか、彼の様子を確かめているようだった。
「彼、一般常識ないんですよ。ぴあの占いに出てくる漢字程度でもつっかかるし……、計算とかも、とにかく遅いの」
画面の中で、元旦を馬鹿にし続ける元彼女を、やっと穂積けい太が遮った。
「君もボロクソ言うなぁ。でもなにかしら取り柄もあるんやろ? そうやないと、付き合ってられんやろ?」
笑顔をこわばらせていた僕と鞠子は、ほっと息をついた。
「彼の……彼のあれがね、大きいの」
やっと吐き出した息を、僕らはまた吸い込んだ。鞠子がピザを喉《のど》に詰まらせ、咳き込む彼女に元旦がティッシュを渡し、ニコッと笑う。
「そ、それほどでもないですよ」
画面の中で、初めて元旦が口を開いた。
「そやかて、彼女が離れられんくらい、立派やて言うてるで」
「普通ですよ。普通」
画面を食い入るように見ていた元旦が、僕らの方を振り返り、一段と深い笑みを浮かべた。僕と鞠子はもちろん引いた。その後もトークは続いたが、僕にはその記憶がない。ふと我に返った時、画面の中では、穂積けい太に手を引かれた元旦が、舞台の端へ連れて行かれ、客席に背中を向けてファスナーを下げていた。元旦の一物を見た穂積けい太が声を裏返し、「馬並みやでぇ。ようアンタも、こんなもん突っ込まれて平気やなぁ」と客席を沸かせていた。ファスナーを下ろす自分の背中を、元旦は黙って見ている。画面の右下には、途中からずっと「脳なし巨根男」と出ていた。
やっとCMになり、時間が正常に動き出した気がした。元旦はCMを早送りしなかった。なにかしらの感想を待っているらしい彼に、「こ、これってセリフとか決まってるんでしょ?」と鞠子が恐る恐る声をかけると、「いや、ぜんぶアドリブ。リハーサルもない」と平然と言う。
「い、いいなぁ。立派なもんをお持ちのようで……う、羨ましいですよ」
「あはは、普通だよ。普通」
なんと彼は、本当に喜んでいた。呆気にとられた僕は、次の言葉が浮かばなかった。それなのに、彼はまだ番組に対する感想なり意見なりを聞きたいらしく、僕と鞠子の顔から視線を逸らさない。
「な、仲がいいから、彼女もこんなことまで言えたのね」
鞠子が気を遣うのは珍しい。
「こんなことって?」
「いや、だから……」
助けてやりたかったが、どうしようもなかった。沈黙は飴のように伸びるし、三人が三人とも、誰かが話し出すのを待っていた。
「うちのなんか、和風で」
長い沈黙に負けたのは、鞠子だった。
「和風?」
「そう。和風のおチンチンなもので」
番組は海外旅行を当てるコーナーになり、元旦と元彼女は籤《くじ》を外した。
配送中のトラックの中で、あるとき元旦に、「毎日毎日、同じルートを廻ってると、ふっと外へ飛ばされるような気がしないか?」と聞かれたことがある。新大久保の居酒屋へ向かう途中だった。いまいちイメージが掴めなかった僕は、「どういう風にですか?」と尋ね返した。しかし彼は、少し考え込んだあと、「俺もうまくは説明できないよ」と早々とその話題を投げ出した。しばらく僕も考えてみた。地球を回っている人工衛星が、ふっと力を抜き、「いち抜けたぁ」なんて言いながら、地球の引力から外れ宇宙の彼方へ飛んでいく──そんな姿が目に浮かんだ。もしかすると彼も、このようなイメージを伝えたいのかもしれないと思ったが、敢えて確かめはしなかった。
配送を始めると、首にかけたタオルは、朝のうちに汗臭くなる。窓を開け放っているから、臭いが籠ることはないが、信号待ちで停まってしまうと、臭いは湯気のように立ち昇る。汗には人それぞれの臭いがある。鼻の先を流れる臭いが、元旦の汗か自分の汗かは判断がつく。
助手席に座っている時、僕がいつも何かを握っていると、元旦に指摘されたことがある。配送票を留めるクリップだったり、たまたま拾った百円玉だったり日によって握るものは違ったが、確かにいつも何かしらを手のひらで弄ぶ癖が僕にはあった。配送中だけではなく、家でテレビを見ている時や、鞠子と話をしている時も、知らず知らずに手近な物を手にとって、手のひらで転がしたり、天井へ投げたりする。テーブルに置かれたライターやペン、マニキュアの瓶やワインのコルク、手のひらサイズの物なら何でもいい。ガムテープをブレスレットのように腕にはめ、小一時間は遊んでいられる。「赤ちゃんのおしゃぶりみたいなものね」と鞠子は言う。別に非難されることはないが、さすがに鋏《はさみ》を持った時には、「見てる方が冷や冷やするからやめて」と言われた。
元旦のトラックで助手として働くようになってひと月が過ぎようとしていた。昼めしの時、彼がそば屋では親子丼を、ラーメン屋では焼飯を迷わず注文する程度のことは分かるようになっていたし、鞠子が劇団の練習で遅くなる日などは、仕事帰りに飲んで帰るくらいの仲にはなっていた。しかし、乱交に誘われるほど親密な関係だったとは思えない。
初台のスタンドでガソリンを補給している時だった。「今日、暇なら遊びに来いよ」と元旦からふいに誘われた。ちょうどその時、助手席の窓から大きな蜂が入ってきて、二人とも慌てて外へ逃げたことを覚えている。子供の親指ほどもある蜂は、ハンドルの周りを旋回したあと、ハンドブレーキにとまった。運転席と助手席の両側から、タオルを武器に叩き出そうとしたものだから、蜂は逃げ場を失って死にもの狂いで暴れた。騒ぎに気づいたスタンドの店員が、殺虫剤を持ってやってきた途端、蜂は飛び去り、『洗車割引セール』と書かれた看板の赤や黄色の安っぽい造花にとまった。
ガソリンの補給が終わってトラックに乗り込んだ元旦が、「お前、浮気したことあるか?」と唐突に聞くので、「ないです」と正直に答えた。
「したいと思わないんだ?」
「というか、恥ずかしい話、女房と一緒にいるのが楽しくて仕方ないんですよね」
おそらく彼には、冗談にしか聞こえなかったと思う。
その夜、半ば強引に彼の部屋へ連れて行かれた。縁側を改造した木戸を開けると、女がいた。女はこちらに背を向けて、座布団を枕に眠っているようだった。赤いワンピースを着ていたが、背中のファスナーが途中まで下ろされていた。
元旦は、僕に声を出すなと囁き、ヤモリのような格好で、青畳を女の元へ這っていった。白い靴下の裏が、ひどく汚れていた。女の足元へ廻り込み、臑《すね》のあたりをペロペロと舐める元旦が、上目遣いにこちらを見てニヤッと笑い、「あがって来い」と手招きをする。
からだを起こした女の顔が、蛍光灯の明かりではっきり見えた。どこかで見たことのある顔だった。女は、僕のことを見て見ないふりをした。女の指が元旦の顎を撫で、その指を彼の舌が追っていた。
靴を脱いで木戸を閉めると、甘ったるい花の匂いがした。意識してはいたのだけれど、僕は床の間に飾られた花を見なかった。ただ、おにゆりのような大輪の花だと直感し、花弁のうちで、葯《やく》の花粉が熟々と香り立っている様子を思った。
これから何が起ころうとしているのか、どのような役割を演じればいいのか、何の指示もなかった。後ろ手で木戸のノブを握ったまま立っていると、元旦がまた手招きをする。僕は気のない素振りで二人のそばへ近寄った。
女の長い指が、青畳を蜘蛛のように這い、僕の足の甲にのったのはその時だった。女の髪が青畳に広がっている。目を逸らすと床の間が見えた。飾ってあったのは、赤いアンスリュームの花だった。
立ち尽くす僕の足元で、女が黒い紐を使って元旦の性器を縛り始めた。何の説明もなく、それは唐突に始まった。女は長い指で、勃起した彼の性器を持ち上げ、根元をきつく縛った。睾丸の裏へまわった紐が、二重に巻かれて結ばれる。性器の薄い皮膚に血管が浮き出し、縛られた睾丸がまるで葡萄のようだった。女の息が、彼の性器にかかるたび、びくんと痙攣するのが分かる。突き出された女の尻が、うっすらと汗ばんでいた。
女の両目が僕を見上げていた。指を握られ、座るようにと引っ張られた。立膝のまま女の顔を跨ぐと、元旦と向かい合う格好になった。
その時、元旦の手が、僕の肩に置かれた。ひどく重い手だった。女の指が、ゆっくりと僕のファスナーをおろす。握られ、しゃぶられ、あっという間に射精した。蘭麝《らんじや》の香りを放ち、女の顔に白い精液が飛び散った。女は笑った。日を浴びたような笑いだった。その時、ふと思い出した。この女を、僕はやはり見たことがあった。一号車を運転する主任の永井さんが、「女房と砧公園へピクニックへ行った時だ」と照れ臭そうに写真を見せてくれたことがあったのだ。同僚の奥さんがピクニックで見せた笑顔の上に、僕は精液をぶち撒けていた。
木戸を蹴り破るようにして逃げ出した。うしろから、「おい、閉めていけよ!」と叫ぶ元旦の声が追ってきた。線路沿いに走り続けて、児童公園に駆け込んだ。ベンチに座って、落ち着こうと目をつぶると、元旦の部屋の花が匂った。からだ中が敏感になっていた。シェービングクリームを塗られた肌を、剃刀が舐めているようだった。真っ裸で床屋の椅子に寝転んでいる僕の性器に、白衣の女がクリームで泡を立てる。僕は手を伸ばして勃起した性器を隠そうとするのだけれど、手首が椅子に縛られていて身動きがとれない。性器から流れた泡が、睾丸の裏へ垂れる。そこをゆっくりと剃刀の刃が舐める。ひやっとする刃の感触で、からだの芯がびくんと震える。
ばあさんが花を生ける姿を、僕はいつも縁側で寝転がって眺めていた。
簡単に言えば、花を生ける時には花器の上に透明な球体があると考えればいい。花は球体の内部に生けられる。花器から上方中心へと伸びる役枝を真《しん》といい、真に添って陽方へ副《そえ》が伸び、陰方へ体《たい》が伸びる。生花は、この三つの役枝によって構成される。
あるとき、「やってみるか?」とばあさんが花を差し出すので、ゴロゴロと畳の上を転がって、面白半分に挿してみた。切り口の鋭い茎を、水の中の剣山に差し込むと、ひやっと指先が引き締まった気がした。
「そう挿したら、乱れてしもうて、落ち着かんやろ」
「そうかな」
「ほら、こう挿せば、葉裏が見えて風情がある」
抜き取られた花は、ばあさんの手で挿し直された。からだを起こし、胡座をかいて眺めてみると、確かに違う。
「風情って、何や?」
「何やって言うて、風情は風情さ。涼しそうに見えるやろ?」
「涼しければ風情や? それなら扇風機もクーラーも風情やっか」
「扇風機やクーラーをいくら見たって涼しくならんけど、氷を見れば涼しくなる。そこが違う」
初めて挿した花は、薄紫のかきつばただったと思う。
花には性情がある、それを生かしてやればいい、とばあさんは言っていた。いつの頃からか、縁側で寝転んでいる時、ばあさんが花を生け始めると、ついつい手を出すようになった。蚊に食われた足を掻きながら、胡座のままで花を生けた。ばあさんも真剣に教える気など更々なく、僕が自分用の花器に水を張って横に座ると、子供におもちゃを与えるように花を渡してくれた。そして口を出すこともなく、熱心に生ける僕を完全に放っておいてくれた。ただ、何度も挿し直す僕に呆れて、「あんたも執念深い男やねぇ。そう何度も挿したら、花が傷む」と、ときどき叱ることはあったが。
僕は、花しょうぶやかきつばたのような長葉物より、頑丈な梅や椿などの枝物を好んだ。もちろん一人で生けることはなく、あくまでもばあさんがやっている時にやるだけだ。自分で花を買ったこともなければ、庭で摘んだこともない。ただ一度だけ、ばあさんが入院した時に一人で生けたことがある。お見舞で貰った花があまったから持って帰れと言われ、その日一人で生けてみたのだ。濃い紅葉色のアネモネだったと思う。ああでもない、こうでもないと一人で挿し直しているうちに、急に寂しくなった。新聞紙で花を包んで、ゴミ箱に投げ捨てた。濡れた新聞の匂いが、いつまでも手に残った。
この世にある花の数だけ、人には感情がある。これもばあさんから聞いた言葉だが、なんとなく、そんなもんかなと思うこともある。
元旦と永井さんの奥さんとの情事に、まるで影のように参加してしまった翌日の土曜日、無理やり鞠子に引っ張られて、フォーシーズンズホテルに泊まりに行った。帝国ホテルで過ごした贅沢な日々が、どうも癖になってしまったらしかった。劇団の練習から戻った鞠子が、どうしても車で行きたいと言うので、社長に頼み込んで社用のバンを借りた。後部座席には、工具などが散乱していた。「これが最後だからな」と念を押すと、鞠子は「うん。最後、最後」と助手席に飛び乗った。さすがに汚れたバンを正面玄関に横付けするのは憚《はばか》られ、駐車場へそっと入れた。
僕は、元旦の部屋でのことを包み隠さず白状するつもりだったのだが、ホテルの部屋へ入るなり、一緒に風呂に入ろうと鞠子が急《せ》かすものだから、つい肝心なところを端折ってしまった。結局、僕は永井さんの奥さんだと気づいて、部屋へは入らなかったことになり、呆れる鞠子と一緒に、たっぷり張ったお湯に浸かったのだ。
「若い女とテレビに出たかと思うと、今度は会社の先輩の奥さんと不倫? 同じトラックに乗ってるからって、真似しなくていいんだからね」
香りのいい石鹸を、僕のからだに塗りつけながら鞠子が言った。
「大丈夫だよ、心配ご無用」
「なんで、言い切れるのよ?」
「だって、自信ないよ。奥さんとあんなことやっておいて、会社で永井さんと顔を合わせる時は、普通にしてられるんだから。俺だったら絶対に顔に出るし、ばれる」
会社の近くに借りたアパートは、玄関を開けると部屋の隅々まで見渡せる。ただ、取り壊されたばあさんの家の二階で暮らしていた時よりも、互いのからだに触れていることは多くなった。それでも、風呂でからだを洗ってもらうのは初めてだった。
「でも、そういう人って、あんがい多いのよ」
「そういう人って?」
鞠子の手から石鹸を奪って、濡れた乳房に泡立てた。
「だから、昼と夜の顔が違う人。二重人格なのね」
「あの人ってそういう感じじゃないけどなぁ。ただ掴みどころがないって感じはするけど」
「二重人格なのよ」
「お前が今度やる芝居がその手の内容だから、言ってるんだろ?」
「違うわよ。今度の芝居はそうだけど……私が言ってるのはそうじゃないわよ」
「いや、絶対そうだね。でもさ、普通、二重人格って、いい人と悪い人で裏表だろ。いい人といい人の二重人格ってあるのかな? 裏も表もいい人」
「それ、二重って言わないでしょ?」
「種類が違うんだよ。ちょっと違ったタイプのいい人が、二人」
「そんなの困る。そんなキャラクターの役作りできない……」
彼女が蛇口を捻り、冷たい水が背中に当たった。
「役作りって、今度のお前の役、ただ舞台に出て殺されるだけだろ?」
「そりゃそうだけど、いい人に殺されるとなると、なんか憤り感じるじゃない。その点、悪い奴に殺されれば、なんていうか、迫真の演技で死ねるでしょう」
「そういうもんか。ところで、どうしてコメディ女優を目指している奴が、屍体の役なんだよ」
「屍体って笑えるじゃない。絶対に笑わないのよ」
風呂を出て、ガラス張りのシャワーブースで泡を落としながら、「なぁ、なんで、からだ洗ってくれたり、そんなにやさしいわけ?」と尋ねてみた。鞠子は、「別に意味はないわよ。ただやさしくしたかったの」と嘯《うそぶ》いた。
「そんな不気味な話を、俺が信じると思うか? 狙いは何だよ?」
バスタオルを巻いて、鏡に向かった鞠子が、「ねぇ、月に一度だけ、今日みたいにホテルに泊まることにしない?」と言った。
彼女を無視して、歯を磨いた。鏡の向こうで、彼女が必死に説得を続けていた。僕の給料が二十五万、自分のアルバイト代が二十万弱で、生活にはゆとりがある。お互いにこれといって金のかかる趣味もないし、ギャンブルだってやらない。月に一度くらい贅沢なホテルに泊まれないわけではない、と。
「賢い妻は、そういう金を貯金するんだろ?」
「貯金なんかしてどうするのよ。私は女優になりたいのよ」
「コメディ女優だろ。それに女優は貯金をしないのか?」
「するわけないでしょ。ゴージャスに使うだけよ」
月曜日からどんな顔で元旦と働こうかと悩んでいたが、鞠子と話しているうちに気が楽になった。また誘われたら断ればいいし、誘われなかったらそれまでだ。今まで通り、馬鹿話をしながらルートを回ればいい。ただ、主任の永井さんには合わせる顔がなかった。
鞠子といると、ときどきふっと力が抜ける。他の誰といても味わえない不思議な感じで、軌道を離れた人工衛星の、やる気のない後ろ姿が目に浮かぶ。
週が明け、いつものように調子っぱずれな鼻唄を歌いながら朝の荷積みを始めた元旦に、「何を企んでいるんですか?」と攻め込んでみた。しかしその鼻唄は、平常を装う仮面ではなかったらしい。彼は思いもよらぬといった表情で、「なんだよ、いきなり?」と身を引いた。
「なんだよって、金曜日のことですよ。あの人、永井さんの奥さんでしょ」
隣のトラックで荷積みをしている土谷さんたちに聞こえないよう、僕は声をひそめた。彼は本当に忘れていたらしく、「あ、ああ。誰にも言うなよ」とやっと思い出したように呟いた。
「い、言いませんよ……って言うか、言えませんよ」
「そうだよなぁ。あんなにたっぷりブッ放しておいて、今さら正義漢ぶるわけにもいかないもんなぁ」
「そういう問題じゃないですよ」
配送票を持って事務所から出てきた慎二さんが、「喋ってないで、さっさと出発しろよ」と僕らを叱った。恰幅のいい男で、柔道や合気道、「道」という文字がつくものなら何にでも手を出す格闘技マニアだ。当時から二代目である慎二さんが、社長の代わりに社内の業務を取り仕切っていた。慎二さんがいなくなるまで、僕らは話を中断した。
「そのうち絶対、ばれますよ」僕は、荷台にケースを置いた。
「誰に?」荷台でケースを引き摺りながら、元旦が言った。鉛入りの重い安全靴が、荷台で音を立てる。
「誰にって、永井さんにですよ」
「なんで?」
力任せにケースを押すと、元旦の足元まで滑って、ぴたりと止まる。重量感のあるものは、勢いさえ操作できれば、軽いものより扱いやすい。
「とにかく、共犯者にしようと思ってるんだったら、僕はごめんですからね。他の人を当たって下さい」
「そう深刻に考えるなって」
「だって気分悪いじゃないですか。知ってる人の奥さんと……」
「考えすぎだよ」
「考えなさ過ぎですよ」
「おっ、先輩に向かって、お前はそういう口をきくんだな」
また事務所の窓から、「おい、元旦! なにもたもたやってんだよ。さっさと行けよ!」と慎二さんに怒鳴られた。元旦は、「はぁーい」と間の抜けた返事を返し、「ああいう筋肉馬鹿とは関わりたくないもんだねぇ」と小声で言うと、地面に泡立った唾を吐いた。
「お前、知ってたか? 永井さんとあの二代目、中学からの同級生なんだよ」
「そうなんですか」
「厭なもんだろうなぁ……同級生の下で働くってのも」
彼の話によれば、たびたび永井さんから夕食に誘われているうちに、彼の奥さんと親しくなったらしかった。あるとき、食事のあとで、永井さんがタバコを買いに出た。元旦の表現を借りれば、天使の羽根をばたつかせて部屋を出ていった。台所で食器を洗う奥さんの手伝いをするふりをして、元旦が強引にキスをしてみると、予想はしていたが、奥さんは抵抗しなかったという。お互いに秘めた恋心を抱いていたわけでもない。キスをする二人の横では、蛇口をあけたままの水道から、じゃーじゃーと水が流れていて、汚れた皿で跳ねた水が、ズボンをびしょ濡れにしたらしい。その翌週、元旦が奥さんを家へ誘うと、二度目からは誘わなくても来るようになった。「一ヵ月もすると、舞台で泣いたり笑ったりしている下手な女優を、しらけて見ているような気分になった」と彼は締め括《くく》った。
話す相手によっては、聞いているだけで胸の悪くなる話だが、元旦の口からだと、不思議なくらい自然に思えた。ただ、女優と聞いて、ふと鞠子の顔が浮かんだ。走り出したトラックのルームミラーには、鞠子が買ってきた交通安全の御守りがぶら下がっていた。当時、鞠子は日曜日のたびに劇団の仲間たちと群れをなし、渋谷や新宿の駅前でゲリラ的に芝居をやっていた。
一度だけ鞠子に隠れて駅前でのゲリラ芝居を見に行ったことがあるのだが、我が若妻は、なんと金太郎の格好で、真剣に熊と戦っていた。
鞠子のいない退屈な日曜日を、元旦の家で過ごすようになったのは、その頃からだったと思う。ただ驚いたのは、日曜日の夕方、飲みに出るには早いし、かと言って他にやることもないので、退屈しのぎに元旦と二人で花を生けたりしていると、ときどき永井さんがふらっと顔を見せることだった。彼はいつも六缶入りのビールをぶら提げてやってきた。
大家の老夫婦ともすでに顔見知りらしく、庭へ出ている彼らに、声をかけ世間話さえしていた。しかし、その声を初めて聞いた時には、驚いて畳から跳び上がった。浮気がばれ、殴り込みに来たと思ったのだ。ちょっと考えれば、間男した奴の家へ殴り込みに来た男が、そこの大家を相手に、「天気がいいのに、出かけないんですか?」なんて声をかけるわけがないのだが、動転した僕は、「あ、あれ、永井さんの声じゃないですか!」と笹ゆりの葉を揃える元旦の肩を掴んだ。
「あ、ほんとだ」
「あ、ほんとだじゃないですよ! 永井さんですよ!」
「今週末、奥さんが実家に帰ってるらしいから、暇なんだろ」
のんきな元旦は、相変わらず笹ゆりの葉をむしる。笹ゆりは大家の庭からお裾分けしてもらったものだった。開けっ放しの木戸から、永井さんが顔を見せ、「おう、石田も来てたのか?」と僕を見た。そして、手に提げた六缶入りのビールパックをかざした。
「女房が実家に帰ってるから退屈でさぁ」
そう言いながら永井さんが胡座をかいた場所は、彼の奥さんが大股を広げ、あえいでいた場所だった。
「なんだよ、また花生けてんのか」
永井さんは缶ビールを一本ずつ僕と元旦に投げてよこし、「高そうだなぁ」と花瓶を触った。
「永井さん、焼き物に詳しいですか?」
「詳しくはないけど、なんとなく高そうに見えるじゃないか」
「大家さんに借りてるんですよ。信楽焼だって言ってたから、そこそこするんじゃないかなぁ」
「なにしてんだよ、石田」
永井さんにそう言われ、缶ビールを持ったまま突っ立っている自分に気づいた。殴り込みどころか、妻を寝取られた旦那が、当の間男を相手に信楽焼の花瓶について話しているのだ。居心地の悪さは、彼の奥さんの顔に精液をかけてしまった時を遥かに超えていた。
渡されたビールをちびちびと飲みながら、注意深く二人の会話を聞いていると、どうも永井さんは、元旦と自分の女房の関係に全く気づいていないらしかった。微塵《みじん》の動揺も見せない元旦の態度は堂々たるものだし、笹ゆりを剣山に挿す静かな彼の手|捌《さば》きを眺めていたせいもあって、次第にその場の緊張もゆるんでいった。
元旦も、僕と一緒で、胡座をかいて花を生ける。日に灼《や》けた指が、花器に張られた水面を揺らし、濡れた爪から雫が落ちる。爪の先に垢がつまって黒ずんでいる。僕と永井さんは、見るともなく、花を生ける彼の指を追った。
あしらいに加えた矢筈《やはず》すすきが、縁側からの風に、しだれて揺れた。とつぜん永井さんが、中堅居酒屋チェーンとの契約が打ち切られた話を始めた。
「あんなの、あの筋肉馬鹿のせいじゃないですか」元旦が言った。
永井さんも、筋肉馬鹿が誰なのか知っているらしく、フフッと軽く鼻で笑う。
「あの馬鹿、なんか自分がしくじると、ぜんぶ永井さんのせいにするからな」
元旦は散らばった葉を新聞紙で包み、ゴミ箱に投げ捨てた。
僕は、数日前の朝礼を思い出していた。その朝、永井さんは慎二さんから激しく、そしてねちねちとみんなの前で説教された挙句、慎二さんがたまたま手にしていたマッサージ棒で、思い切り頭を殴られたのだ。まだ半分寝惚けていた僕は、その音で目が覚めた。慎二さんの話では、居酒屋チェーンとの契約がとつぜん解約されたのは、すべて永井さんのミスによるものだとのことだった。慎二さんは、乱暴に耳を引っ張って永井さんをみんなの前に立たせ、「全員の前で謝れ!」と、俯《うつむ》く彼の顔を無理やり上げさせた。「どうもすいませんでした」永井さんがそう小声で呟くと、「聞こえねぇよ!」と慎二さんが怒鳴る。正直言って、見ていられなかった。永井さんはもう一度、「どうもすいませんでした!」とみんなの前で頭を下げた。
とにかく不快な見世物だったが、僕は実際に永井さんがミスをしたのだろう、と思い込んでいた。しかし、花を生けながら語られる元旦と永井さんの話を聞いていると、どうも事情が違った。
「あれで、あいつはあいつなりにいろいろ大変なんだよ。俺は単なる従業員だけど、慎二は経営者だからな。俺がみんなから馬鹿にされる分には問題ないけど、経営者が馬鹿にされるようになったら会社も終わりだろうし……」永井さんが言った。
「そんなの関係ないじゃないですか。実際に向こうの部長に足元みられて、契約が打ち切られたのはあの馬鹿のせいでしょ?」元旦が言う。
「おい、やめろよ。石田がいるじゃないか」
「大丈夫ですよ。こいつは味方ですから」
二人の顔が急にこちらへ向けられ、僕は戸惑った。なにかしらの反応を待っているようなので、そのまま目を逸らすわけにもいかず、ゆっくりと様子を見ながら頷いた。
「なんか格好悪いよな」
照れ臭そうな永井さんに、僕はふと思いついた質問をした。
「あの……慎二さんって、昔から格闘技が好きだったんですか?」
「いや。子供の頃はいじめられて、よく泣いてたよ。たぶんその反動だな」
「永井さんもいじめてたんですか?」
「はは、もう忘れたよ。それに、今じゃ、こうやって元旦に愚痴を聞いてもらってるんだから、勇ましいことも言えないだろ」
タバコに火をつけた永井さんに、灰皿を差し出した元旦は、笹ゆりを生けた花器を持ち上げ、丁寧に床の間を飾った。一、二歩下がって眺め、「なかなかいい出来だよな?」と僕を見る。「あの葉は、いらないんじゃないですか?」と口を挟むと、「どれだよ?」と言いながら、床の間へ近寄っていく。
「それですよ。その一番上の花の、すぐ下の……いや、それじゃなくて」
青畳を這って行き、花の下に重く垂れる一枚の葉を指差した。
「言われてみれば、そうだなぁ」
元旦が葉を引き千切り、しだれた笹ゆりが大きく揺れた。もう一度離れて眺めていると、「でも、それを取ると、なんか間が抜けた感じだな」と、永井さんまで口を出してきた。
しばらくの間、ああでもない、こうでもないと三人で言い合った。これまでも永井さんの愚痴を聞きながら、元旦はこのように花を生けていたのかもしれない。さっき僕は味方だと言われて戸惑ったが、無骨な指で花をいじる二人の背中を見ていると、だんだん名誉なことにも思えてきた。ただ、元旦は、永井さんの妻を寝取っている男なのだ。花びらをいじりまわす二人の背中を、僕は改めて見下ろした。
「考えてみると、花って、いやらしいですよねぇ」と元旦が言い、「どうして?」と尋ねる永井さんに、「だって、この花びらの中に男と女、二つの性器が揃ってるんですよ」と笑っていた。
ふとした偶然から、永井さんの奥さんと東京駅でばったり会ったことがある。元旦の部屋での秘事から、どれくらい経った頃だったろうか。その日、僕は上京してくる幸之介を迎えに東京駅へ行っていた。久しぶりに会えるので、鞠子もついて来るとばかり思っていたが、彼女からは「今夜、演出家も交えての飲み会があるので、行けない。幸之介によろしく」というメッセージが留守電に入っていた。二週間も前から言っておいたのに、と文句の一つも言いたかったが、そこをぐっと堪えて、ひとりで東京駅に向かったのだ。
この頃から鞠子は、劇団仲間と夜な夜な飲み歩くようになっていた。二、三人の男たちに担がれるように帰って来ることさえある。玄関へ飛び出して、「何時だと思ってるんだ!」と怒鳴ったところで、「時計見なさいよ!」と怒鳴り返される。一度だけあまりにも遅かったので頭を殴ったことがあり、彼女を支えていた男たちが、「まぁその辺で許してあげて下さい。飲ませた僕らも悪いんです。謝りますから」と慌てて僕をとめに入った。頭を殴られた鞠子はといえば、すぐに威勢を失って、「へぇーん」と泣き崩れ、「この人には何も分からないのよ。いつも重いものばっかり運んでいるから、楽しむってことができなくなっちゃったの」とわけの分からぬ講釈をぶっていた。
ただ、月に一度のホテル滞在だけは、僕の意思に反して続けられていた。紀尾井町のホテルニューオータニ、虎ノ門のホテルオークラ、新宿のパークハイアットに、恵比寿のウェスティンホテル。ウェスティンホテルでは、たまたまアルバイトをしていた中学時代の同級生がルームサービスのフレンチフライを持ってきて、翌朝仕事明けの彼と一緒に一階のテラスで朝食をとった。「働いていながら、ここで食うのは初めてだよ」と笑う彼は、僕がどんな仕事をしているのか興味津々らしく、「配送トラックの助手だ」と教えてやると、不思議そうな顔をした。続けて鞠子が、ご丁寧に月給まで教えたものだから、彼は「なんかやけになってないか?」と心配までしてくれた。
相変わらず鞠子といると楽しくて仕方なかった。ただ、東京へ来てからの彼女の変化を僕は気づいてもいたのだ。ブラッド・ピットの大ファンだった彼女が、劇団仲間に感化され、いつの間にかルイ・マルというフランス人監督にのめり込んでいた。ブラッド・ピットの「セブン」や「テルマ&ルイーズ」なら、一緒に見ていても楽しいが、肉体労働で疲れ果てた平日の夜に、いくら厭世的な中年政治家の官能世界や、戦時下の子供たちの繊細な心の動きが完璧に表現されているからと、鼻息荒く説明されても、眠気に負けてしまうのは仕方がない。それなのに鞠子は、「あなたと私は、住む世界が違うのかもしれない」とまで言うようになっていた。東京の狭いワンルームアパートにできた溝は、日が経つにつれて幅を広げつつあった。鞠子は、僕にも変化を求めた。重い荷物を置き、軽い跳躍で飛びまわれ、と。けれども僕は、もしそんなことをすれば海中を浮かび上がる泡のように、どこまでも浮かび、最後には破裂しそうで怖かった。
飛行機恐怖症の幸之介は、一張羅を着込んで東京駅の新幹線ホームに立っていた。僕を見つけるなり、「これはお袋から。これはめぐみからだ」と次々にみやげを紙袋から出す。「ちゃんともらうから、慌てるな」と遮ると、「それもそうだ」と出したみやげを袋に戻した。「鞠子は?」と聞くので、「用があって来られない」と答えた。「うまくいってるのか?」と言うので、「まあまあな」と言葉を濁した。幸之介にこの微妙なニュアンスが伝わるわけがない。彼はしばらく僕の顔を眺めたあと、とってつけたように、「久しぶりやなぁ」と僕の肩を叩いた。何か言い難いことがあると分かった。
「何しに来たとや?」
「何しにって、お前の顔を見に来たに決まっとるやろ?」
「俺の顔? ほら、好きなだけ見ろ」
ホームからの階段を下りながら、幸之介に顔をつき出すと、彼は昔と同じ笑顔を見せた。一泊とはいえ、幸之介を泊めてやるスペースがうちにはなかった。ちょうど夕飯時だったので、新宿のホテルへ行く前に駅ビルに入って食事をすることになった。駅ビルの一階に案内所があって、幸之介はずかずかと近寄ると、「このビルで一番高級なレストランはどこね?」と、うす桃色の制服を着た受付嬢に尋ねた。女は笑いを噛み殺しながら、「すいません。ここ、交通関係の案内所ですので……」と断ったが、「六階と七階がレストランフロアですから、そちらでお尋ねになってみれば」と教えてくれた。
「高級レストランなんて羽振りよかなぁ。墓石がバカ売れして大儲けしたや?」
「するもんや。相変わらずさ」
エレベーターで七階へ上がると、幸之介は一番高い店を捜し始めた。懐石風の日本料理屋があって、そこへ入ろうとするので、「いいよ。そこのそば屋で」と腕を掴むと、「たまに会うたのに、けちけちするな!」と振り払う。ミニチュアの日本庭園を抜けて座敷に座った。メニューを開くと、弁当でも四千円の値がついていた。
飛行機に乗れない幸之介が、わざわざ九州から新幹線で運んできた話は、僕にとって、どうでもいい話であり、少し哀しい話でもあった。幸之介と僕の名義になっているばあさんの土地を売ってくれというのだ。すでにそこには、幸之介家族の二世帯住宅が建っていた。ばあさんが死んだあと、鞠子のわがままから東京へ出てくることになった時、そこに二世帯住宅を建てると、幸之介が言い出した。彼とは幼い頃から兄弟のように育っていたから、そのアイデアが彼のものではないことぐらいすぐに分かった。ばあさんの家が取り壊され、幸之介夫婦と彼の両親の家が建てば、必然的に僕の帰る家はなくなる。人工衛星と同じ、一度軌道を外れれば、二度と同じ場所へは戻れない。それでも僕は、嫌な顔も見せず、快諾した。東京へ出ていく罰だと思った。幸之介は、「いつでも好きな時に帰ってこい」と言ってくれるが、そのたびに僕は、彼の両親が遠方のうまいラーメン屋を捜してカローラに乗り込む休日の姿を思い出す。
四千円の懐石弁当を前に、何から食べようかと思案している幸之介に、「土地をひとり占めしようってのは、お前の考えや?」と皮肉っぽく聞いてみた。彼は珍しく神妙な顔をして、首を横に振った。田舎町の、車も入り込めない土地だ。僕としても金がどうのという問題ではなかった。
「俺にはどうでもいい話やけど、めぐみとお袋がなぁ……」
幸之介は、箸で摘んだ銀杏《ぎんなん》を落とした。
「いやな、めぐみやお袋が言うには、俺らの代はかまわん、ただ、俺らの子供の世代になった時に、面倒なことになるって言う。俺とお前のように、俺らの子供らがうまが合うかどうか分からん、そう言うて聞かん」
「大した土地じゃないやろ?」
「おう、知れたもんぞ。金なら一括で払う」
「そうじゃなくて……」
「お前が嫌なら、無理にとは言わんぞ。子供らに争わせればよか」
そう言って笑う幸之介を見て、実際に子供が出来たのかと思ったが、彼は「いや、まだだ」と素直に答えた。
その時、ミニチュアの日本庭園に入ってきた客があった。運よく女将が反対方向の座席へ案内したので目が合うことはなかったが、ふたり連れの客は、間違いなく永井さんの奥さんと、筋肉馬鹿の二代目、慎二さんだった。
「な、なんや。真っ青な顔して。そんなに嫌なら、断ってくれてよかぞ」
幸之介の声で我に返った。彼らの姿は一瞬つい立てで隠れたが、ちょうど葉の模様にくり抜かれた部分から、席につく二人が見えた。こっちに気づいている様子はなく、テーブルにつくなり、手を握り合っている。
「どうした?」
「い、いや」
「知り合いや?」
「い、いや違う」
桜の花びらの形によそった炊き込みごはんも、甘そうな煮付けも、喉を通らなかった。前に座った幸之介が、無遠慮に箸を出して僕の分まで食った。
「ホテルに荷物置いたら、遊びに出るぞ。藤田のおっさんがここに行けって、歌舞伎町のファッションヘルスを教えてくれた」
幸之介がポケットから出した紙切れの乱暴な文字を見て、僕は関節ごとに濃い毛の生えた、藤田のおっさんの太い指を思い出した。彼には右親指がなかった。作業中、あやまって竿石と上台の間で押し潰されたのだ。白|御影《みかげ》の墓石に流れた血は、まるで石から溢れ出たようだった。
レジで勘定を払う幸之介の肩越しに、永井さんの奥さんと慎二さんの様子を窺った。足元に小さな旅行バッグが置かれ、奥さんが慎二さんの湯飲みにお茶を入れていた。
元旦は、彼女が慎二さんとも関係を持っていることを知っているのだろうか? 日頃、筋肉馬鹿と呼んでいる奴が、自分と同じ、彼女の情夫だと知ったら、彼でも激怒するだろうか? と思った。
新宿のホテルへ向かう電車で、僕はほとんど黙り込んでいた。人の多さに圧倒されながらも、幸之介は吊革に掴まって窓からの東京を眺め、ときどき心配そうに僕を見た。彼は、僕が土地のことで悩んでいると思っているらしかった。しかし、電車へ乗り込む間際に、すでに返事はしてあった。
「都合のいいようにしてくれ」
彼は「そうか」と頷き、「どうしても返して欲しくなったら、いつでも相談にのる」と笑った。むごい言葉は、たいてい笑みを浮かべた唇から出てくる。
四ツ谷駅で大勢の客が降りた。空いた席に幸之介が座った。彼は、荷物を膝に置くと、眩しそうな顔で僕を見上げた。
「叔父さんが、俺に会社を継げって言うてきた」
背後で、閉まりかけたドアに飛び乗ってくる客の気配がしたが、間に合わず扉は閉まったようだった。
「叔父さん、子供がおらんやろ」
「石材屋の社長かぁ……よかったなぁ」不思議と僕は笑っていた。
「よかったのか、どうか知らんけど……それで、お前も呼び戻して、『一緒に』って言うた。でも……」
「叔父さん、まだ怒っとるやろ?」
「お前が、叔父さんの反対も聞かんで、東京に行ったりするけんぞ」
電車の窓から吹き込む風が、俯いた幸之介の髪を乱していた。
叔父さんの石材屋では、丸四年働いた。白御影の青糠目、黒御影のベルファースト、毎日運ぶ墓石は違ったが、筵《むしろ》で巻いて、縄を張ってトラックに積み、市内の墓場を巡る単純作業の繰り返しには変わりない。親族だから叔父さんも僕と幸之介には目をかけてくれ、五年たったら営業にまわすと言われていた。
今でもときどき、墓石の冷たさを思い出す。うだるような真夏日に、汗まみれの頬をつけると、そのひやっとした感触で生き返るような気がした。すでに鞠子と結婚していたから、墓石に抱きついている僕を見て、藤田のおっさんたちが、「女房がかまってくれんのやろ?」とからかった。
あるとき、卒塔婆《そとば》立てを運んでいる最中に、激しい夕立が降った。とりあえず現場まで運び、立てるのは後回しになった。香炉や墓誌はすでに置かれてあったが、本体は中台までで、墓は中途半端な姿をしていた。どしゃぶりの中を、慌ててトラックへ戻る藤田のおっさんの後ろ姿を、僕はなんとなく見送った。ふと気がつくと、見渡す限りの丘に建てられた、何百もの墓石の中に、ひとりずぶ濡れで立っていた。
雨は容赦なく墓石も濡らした。どの墓石の前にも、色とりどりの供花があり、同じように雨に濡れていた。
どしゃぶりの墓地を歩き回りながら、無意識に花のない墓石を捜した。ぬかるんだ足元で泥が跳ねた。ふと「東京へ行ってみようかなぁ」と思ったのはその時だった。再三、鞠子からは説得されていた。ただ、どうもいまいちピンとこないところがあった。この土地を離れる自分が。墓石の運搬から解放される自分が。
その時、暗い空で音が立ち、強い風が吹き抜けた。濡れた作業着がバタバタと鳴る。丘に建ち並んだ墓石さえ、なぎ倒されるようだった。倒れた墓石は、自らに供えられた大輪の菊を潰す。
その後、雨は上がって、からっと晴れた。中途半端だった本体に、上台と竿石がのせられた。百二十万円もする黒御影の竿石には「南無阿弥陀仏」と金文字で彫られてあった。家名よりも見栄えがいい、と思った。
どんなに疲れていても、作業が終わると、僕らは墓石の前で一列に並び、顔も知らない死者のために、手を合わせてから、そこを去る。
予定通りに歌舞伎町のファッションヘルスを二軒はしごした幸之介は、どこか物足りなげな顔つきで、翌日の新幹線に乗り東京を去った。彼の見送りには二日酔い気味の鞠子もしぶしぶついてきた。
アパートに戻った僕らは、退屈な日曜の午後をどう過ごすか相談した。彼女は寝ていたいようだったが、僕は新聞の折り込み広告に出ていた近くのマンションのモデルルームを見学に行こうと提案した。面倒臭がる彼女を立たせるのに一時間かかった。もちろん買う気も、買う金もない。
見学したマンションは、たいした部屋ではなかった。壁も薄かったし、天井も低い。居間に立っているだけで、圧迫感さえ感じた。鞠子は五分で退散してアパートへ戻った。ひとりで駅前をぶらついていると、花屋から出てきた元旦とばったり会った。
「ハイビスカスを生けるんですか?」
彼の肩を叩き、呼び止めた。
「大家さんに頼まれたんだ。……買い物か?」
「いえ、分譲マンションを見に行ったんですよ」
「マンション? 買うのか?」
「まさか」
ハイビスカスを抱えた元旦と並んで歩いた。線路沿いに彼の家へ向かっていると、風にのって甘い花の匂いがした。どういうつもりか、僕は従兄の幸之介が、土地の売却の相談で上京してきたという、鞠子にも話していないことを熱心に彼の前で話していた。たぶん、その流れから、慎二さんと永井さんの奥さんのことを切り出そうと思っていたのだろう。幸之介に無理やり高い懐石料理の店へつれて行かれ、四千円もする弁当を食った話をしたあと、いかにも無関心な素振りで、「あ、そう言えば、慎二さんと永井さんの奥さんが、その店にいたんですよ」と言った。元旦は、「へぇー、そう」としか答えなかった。僕以上に、彼の方が無関心のようだった。
「へぇーそうって、慎二さんと永井さんの奥さんですよ」
「だから、分かったよ」
「知ってたんですか?」
「知ってるもなにも、二人を会わせたの俺だもん。どうやって会わせたかは、お前も身に覚えがあるだろ?」
元旦は笑った。つられて笑い出しそうになるくらい朗らかな笑い方だった。
「ちょっと待って下さいよ。だって、慎二さんのこと、いつもボロクソに言っているじゃないですか。あの筋肉馬鹿とか。永井さんだって、もし知ったら……」
「怒るだろうなぁ。でも、相手がお前でも怒ると思うけどな」
「そりゃ、そうだけど……」
「お前はよくて、慎二さんは駄目?」
「『俺なら、いい』なんて、言ってないでしょ」
「だったら気にするな」
踏切を越えて、元旦はタバコの自動販売機の前に立った。五千円札しかないので、小銭を貸せと言われ、なにか理不尽な気がして、出すのをしぶっていると、「早く、貸せよ」とせっつく。
「俺、なんて言うか、望月さんと永井さんとは、もっと信頼し合っているっていうか、尊敬し合っているっていうか……何年も永井さんの助手だったわけでしょ」
「笑わせるねぇ。だったら、なにか、お前は俺のこと尊敬してんのか? 俺の助手だろ」
「茶化さないで下さいよ……ただ、俺だったら出来ない。毎日、一緒に働いている先輩の奥さんに手を出すなんて、まして他の男まで紹介するなんて」
「どうでもいいから、早く二百円貸せよ」
僕は言われるままに二百円を渡した。自分のポケットから十円玉を何枚か取り出して、彼はマイルドセブンのスーパーライトを買った。
「だったら、どうして、いつも慎二さんの悪口を言ってるんですか? 慎二さんのことを嫌いだっていつも言ってるじゃないですか」
歩き出した元旦の背中に尋ねた。彼は振り返りもせず、「もちろん嫌いだよ。ただ、嫌いな奴とでもうまくつき合えるんだよ、俺は」と笑った。そして、「……と言うか、嫌いな奴のことが、そんなに嫌いじゃないんだな」と付け加えた。
僕は、彼の部屋でビールを飲み、生け花の出来を論じ合っていた永井さんの姿を思い出し、「じゃ、永井さんは?」と元旦の背中に叫んだ。
元旦は振り返った。胸に抱えたハイビスカスが、夏の日を浴びて毒々しいほど鮮やかだった。
「永井さんねぇ……同級生に小突かれて、『へぇ、へぇ』って頭下げてる男だぞ。どう考えたって、好きになれないね」
自動販売機の前から動かない僕に、「うちに寄ってくか?」と元旦が声をかけてきたが、僕は首を横に振って断った。
「ちょっと寄ってけよ」と叫ぶ彼の声が、一度だけ背中に聞こえた。
助手の田口がハンドルを大きく切り、トラックは砂利敷きの駐車場へ入った。タイヤに踏みつけられる砂利の感触が尻に伝わる。駐車場には、ほとんどのトラックが戻っている。日が長くなったとは言え、並んだトラックの車体で茜《あかね》色の夕日が輝いている。砂利から立ち上がる土埃の饐《す》えた匂いが、窓から入り込む。
何度か切り返して車庫に入れると、田口がエンジンを切った。「おつかれ」と声をかけ、僕は助手席から飛び降りた。三号車の荷台に座った土谷さんが、額から垂れる汗を必死にタオルで拭きながら、「遅かったなぁ」と声をかけてきた。
「今日、暑かったですねぇ。また夏ですよ」
僕はタバコに火をつけ、土谷さんのトラックに凭れて休んだ。五号車と六号車の荷台で、新庄たちが新装開店したパチンコ屋の話をしている。
「今日から、またシャワー使えるってよ」
「修理、終わったんですか? それにしてもよく故障するシャワーですよ」
土谷さんは立ち上がって、学生アルバイトが運んできたケースを引き上げた。今日が初日だったらしい学生アルバイトは膝が笑っていた。
「土谷さん、また手加減しないで、こきつかったんでしょ? 彼、くたばってるじゃないですか?」
学生は心細げな笑顔を浮かべて、倉庫の方へ戻って行った。
「大学でアメフトやってるって、たらたら自慢するからさ、陽楽ビルの配送、全部やらせたんだよ。ラグビーじゃなくて、アメフトってのが気に入らねぇ」
「陽楽ビルって、あのエレベーターなしの四階でしょ?」
背後で、すでに田口が明日の分の荷積みを始めていたので、手伝おうと荷台に飛び乗ると、事務所の方から聞き慣れた怒鳴り声が響いてきた。今日は何が気に入らないのか、慎二さんがまた永井さんをいたぶっているらしかった。いつものことで、気にする者など誰もいないが、途切れ途切れに聞こえる声から察すると、どうやら慎二さんは、汗で汚れた受領書をそのまま渡されたのが気に入らないらしい。
「人間、ああなったら終わりだな」
隣の荷台から聞こえた土谷さんの声に、僕は屈めた腰を伸ばして振り返った。
「慣れちゃってるんだよ。自分でも知らず知らずのうちに、馬鹿にされることに慣れちゃってるんだ。人間、馬鹿にされるのに慣れるようになったら、終わりだよ」
そう呟く土谷さんには返事をせず、事務所の入口へ目をやった。比較的早く解放された永井さんが、小慣れた足取りで階段を降りてくる。僕に気づいた彼は、軽く片手を上げ、「おつかれ!」と声をかけた。同じように片手を上げて応えた。馬鹿にされる自分に慣れるべきじゃない。なんとなく土谷さんの言葉をくり返していると、首からタオルが落ちた。それを拾った田口が土埃をはたきながら、「どうして頭が上がらないんですか?」と小声で言った。彼も、階段を降りてきた永井さんの姿を見ていたらしい。
「なにが?」
「永井さんですよ。どうしていつもあんなにペコペコしてるんですか?」
「知らないよ」
僕はタオルを受け取って、荷台のケースを足で揃えた。田口は、改めて尋ねることもなく、倉庫の中へ姿を消した。昔、同じことを元旦に尋ねたことがある。元旦は、「あの人、マンションを買った時の頭金を慎二さんに借りてるんだよ。その金で買ったマンションにあの奥さんと暮らしているんだ」と教えてくれた。
肌の汗が、風で乾き始めていた。田口がケースを運んでくるのを荷台の上で待ちながら、手の甲をペロッと舐めた。しょっぱいせいか、腹が鳴った。田口がコーラのケースを三つ重ねてやってくる。西日を浴びた彼の表情に、疲労の影が濃い。
「田口、一服してからやろうぜ」
「さっさと終わらせた方がいいですよ」
田口は手を休めず、次々と荷台へケースを積み上げる。事務所へ戻った土谷さんや新庄らがシャワー室へ入ったらしかった。電気がつき、開いた窓から水が跳ねる音が聞こえる。同じように二階のシャワー室を見上げていた田口が、「シート被せるから、そこ降りて下さい」と、勢いよくシートを広げた。
言われるままに、荷台から飛び降りると、シャワー室の窓から水の冷たさに大袈裟な悲鳴を上げる新庄の声が聞こえた。いつの間にか日は落ち、隣接するパチンコ屋のピンク色のネオンが、駐車場の砂利を染めていた。
荷台にシートを被せ、シャワー室へ向かう田口を、無意識に呼び止めた。振り返った彼に、何を話すつもりだったのか、自分でも分からなかった。
元旦がとつぜん会社を辞めたのは、二年前の秋のことだ。まだ入社して半年の田口には経験がないだろうが、真夏の繁忙期ともなれば、ベテランの僕でさえ眩暈《めまい》を感じるほどの苛酷な労働が続く。積み荷は冬の三倍に膨れ上がるし、容赦なく照りつける夏日が、からだから力を奪いとる。萎えた腕は蛇のようにケースに絡まる。石材屋で働いていた頃、幸之介が教えてくれたので、僕はどんなに喉が渇いても、水のガブ飲みはしない。脱水状態に近いからだに、大量の水分を急激に摂取するのは危険だ。それでも、素人の学生アルバイトは、噴き出す汗と渇く喉に耐えられず、僕の目を盗んで水を飲む。しかし水は疲れや渇きや暑さを、癒してはくれない。トラックの中で嘔吐した奴もいた。からだの不調を訴えて、病院に運ばれた奴もいた。そして彼らは、翌日何の連絡もなく辞めていく。
ハイビスカスを抱えて花屋から出てきた元旦とばったり出くわしたあとも、僕は彼のトラックに乗り、以前と変わらぬ仕事を続けていた。ただ、永井さんの奥さんと慎二さんのことは口に出さなかった。その夏、僕は初めてのボーナスでアパートにエアコンを取りつけ、温度を十六度に設定して、部屋を冷蔵庫のように冷やし、鞠子と二人で、「寒い、寒い」とタオルケットにくるまっていた。
真夏日がもう二十日以上も続いていた。元旦でさえ、配送中にしゃべろうとしなかった。積み荷が増えたせいで、必然的に残業も多くなり、配送ミス、苦情の電話、学生バイトの無断欠勤、トラックの故障……誰もがいらいらし、感情を昂らせている頃だった。
その夜、事務所の駐車場に戻ったのは、夜の八時半過ぎで、それでもまだ倉庫には煌々と灯りがつき、一日中、夏日になぶられた仲間たちが、重い息を吐きながら明日の分の荷積みをしていた。
エンジンを切り、運転席から飛び降りた元旦が、受領書の束を持って事務所へ向かった。僕はいつものように荷台へ凭れてタバコに火をつけた。その時、元旦の踏む砂利の音がとつぜん止まったかと思うと、振り向いた彼が、「おい! 先に荷積み始めろよ!」と怒鳴ったのだ。彼から仕事に関して怒鳴られたのは初めてだった。きょとんとした僕を、「何を積めばいいかぐらい、もう分かるだろ!」と睨む。僕はまだ心のどこかで、冗談だろうと勘ぐっていた。様子を窺うように、「は、はぁ」と返事をすると、「いちいち言われなくてもやれよ!」と捨てぜりふを吐き、彼は事務所への階段を上っていった。
火をつけたばかりのタバコを捨て、足で踏み消した。急に、胸の辺りが熱くなった。
倉庫へ入ってケースを担ごうとすると、土谷さんのトラックが戻り、運転席から降りた彼が、僕の姿を見つけるなり、「なんで、お前らの方が早く戻ってんだよ! お前らの量が多いから、俺らに陽楽ビルが回ってきたんだろ!」と叫んで、乱暴にドアをしめた。僕は目を逸らし、足元のケースを肩に担いだ。
元旦が慎二さんを丸め込んで、自分に都合のいいルートを決めているという噂が立っていた。険悪なムードや視線は、彼の助手を務める僕にも、ひしひしと伝わってくるのだが、当の元旦はまったくお構いなしで、蠅でも払うように、そんなムードや視線を扱っていた。それがまた土谷さんらの機嫌を損ねた。元旦のロッカーの扉に、誰かの唾が吐かれていたこともある。
事務所から戻ってくる元旦を、土谷さんが睨んでいた。しかし彼が元旦にからむことはない。元旦が出てきたドアの向こうには、若い女子事務員をからかっている慎二さんの姿がある。
荷積みを終えた者たちが、次々と事務所へ上がっていった。階段で早々と作業着を脱ぎ、背中の汗をタオルで拭いている者もいた。元旦は事務所から戻っても機嫌が悪く、僕らは淡々と荷積みを済ませた。いやな速度で、汗が背中を流れていた。トラックにシートを被せ、元旦のあとを追って階段を上がった。事務所に入ると、慎二さんの前で、また永井さんが叱られていた。もう見たくもなかった。僕らがそこを素通りしようとすると、ベテラン事務員の栄子さんに、頼んでいた書類を渡された。幸之介との土地売買契約で使う書類だった。
ロッカー室で作業着を脱ぎ、奥のシャワー室へ入った。ドアを開けた途端、むっと汗の匂いがした。また故障しているらしかった。汚れた裸の男たちが群れ、水が出るのを待っている。疲れ果て、コンクリートの床に座り込んでいる者もいた。
叱られていた永井さんが入ってきた途端、シャワーから水が噴き出した。暗い歓声が起こって、裸の男たちが壁のシャワーの下へ、まるで花が咲くように散らばった。みんなの汗を流した水が、コンクリートの床を流れる。
僕は濡れた壁に両手をつき、足を広げた格好で頭から水を浴びていた。全員が一斉に使うせいで水の出は悪く、髪の中から垂れた水が生温かくなって背中を流れる。誰かが使っているシャンプーの甘い匂いがした。そのとき、背後でバシッという鈍い音が聞こえた。振り返ると、土谷さんが濡れたタオルを壁に叩きつけている。水に潤んだ目にもはっきりと見えるほどの黒々とした蠅が一匹、そのタオルを逃れて飛び立った。蠅は黄色い染みのある天井にとまった。いつの間にか、みんながその蠅を目で追っていた。蠅は動こうとしなかった。僕らを馬鹿にしているようにも見えるし、脅え切っているようにも見えた。
新庄が、助走をつけて飛び上がり、天井の蠅を濡れたタオルで叩いた。しかし今度も蠅は巧く逃れ、着地した新庄の性器が、腹に当たって音を立てただけだった。シャワー室に、疲れた笑いがこもった。それぞれが濡れたタオルで、蠅を追い、あちこちでバシッという鈍い音が立った。そして、最終的に蠅を殺したのは、僕だった。
投げやりな歓声が上がり、床に落ちた蠅は、羽を震わせながら、水に浮かんで排水口へと吸われていった。
みんながまたシャワーに向かおうとしたそのとき、ドアが開いて、慎二さんが怒鳴り込んできた。ごついからだに似合わず、ヒステリックで甲高い声が、シャワー室に響いた。たぶんその場にいた誰もが、耳を塞ぎたかったはずだ。吐き気さえした。彼は、永井さんに書かせた業者への注文表に間違いがあったと怒鳴り立てた。一番奥でシャワーを浴びていた永井さんの背中に、みんなが目をむけた。ミスをしたのは、どうせ慎二さんだろうと思いながらも、「さっさと謝ってくれよ」と内心願っていたのだと思う。
みんな早くシャワー室から逃げ出そうと思ったらしく、タイミングを合わせたように蛇口の閉まるキュッという音が揃った。そのせいで、永井さんが浴びているシャワーの水量が、勢いを増した。例のごとくねちねちとやり出した慎二さんがドアの前に立っているので、誰も外へ出られなかった。疲れた男たちが、亡霊のように濡れた壁の前に立ち、永井さんが謝るのを待っている。異様な雰囲気だったのだと思う。裸の男たちに囲まれた慎二さんが、一瞬|怯《ひる》むように後退り、「ど、土下座してあやまれ!」と怒鳴った声は、不様なほど裏返っていたのだが、それでも口を挟む者はおらず、他人事のように「早く謝れよ」と思っている。永井さんは背中を向けたまま、じっと耐えるようにシャワーを浴びていた。
「今回は許さん! みんなの前で土下座してもらうからな!」
慎二さんが怒鳴れば怒鳴るほど、周囲の雰囲気はしらけていった。誰もが何の疑いもなく、永井さんが土下座するのを待っていた。
しかし、その日に限って、永井さんがなかなか謝ろうとしなかったのだ。いつの間にか、慎二さんではなく、僕らの方が、土下座をしない彼に苛々していた。とにかく早く終わりにして欲しかった。
「できない……」
そのとき濡れた永井さんの背中がピクッと動いた。
「あ? 何て言った?」
慎二さんが笑った。
「土下座なんてできない!」
永井さんはみんなに背中を向けたまま、きっぱりとそう言った。バランスの悪い沈黙が流れた。下手くそな歌を無理やり聞かされているようだった。その時だ。一歩前へ出た元旦が、「土下座くらいなんでもないじゃないですか……ほら」と濡れた床で土下座したのだ。
呆気にとられるみんなのタオルが、ぶらぶらとだらしなく揺れていた。
「ほら、一緒にやってあげますから、早くやって下さいよ。でないと、俺らが帰れないらしいんですよね」
身の毛がよだつほど、それはつめたい声だった。
一世一代の永井さんの反抗を、「早く帰りたい」という元旦のあさましい苛立ちが茶番に変えた。永井さんの胸に芽生えた小さな蕾を、元旦が無残に踏み潰したのだ。土下座している元旦の首が亀のようにちぢみ、背中の雫が、尻を伝ってコンクリートの床へ落ちた。床を流れるシャワーの水が、足の指をくすぐっていた。足の裏を、床から離した。踵を尖らせ、土下座した彼の肩を蹴りつけた。間違いない。真っ先に蹴ったのは、僕の濡れた足だった。彼の肩で滑った足は、勢いあまって顎を蹴り、足の裏に彼の体温が伝わった。驚いて僕を見上げる彼の顔を、もう一度踏みつけた。グシャッといやな音がした。とっさに足を引くと、からだが震えた。身震いは激しくなって、あの日の風景がとつぜん浮かんだ。壁が、濡れた墓石に見えた。何百もの墓石に囲まれ、見渡す限りの丘に立つ。夕立の中、ひとり墓場でずぶ濡れだった。濡れた男たちが、蹲《うずくま》った元旦を囲んでいる。身震いする僕の足元へ、血の混じった唾が流れてくる。紅い唾は、シャワーの水に攫《さら》われて、排水口で渦を巻く。僕の肩を誰かが掴み、押し退けるように前へ出て、元旦の腹を蹴り上げた。一斉に、みんなが彼を踏みつける。毛の生えた臑《すね》が、長々と伸びた脛《はぎ》が、次々と彼のからだを蹴りつける。あちらこちらで水が跳ね、彼のうめきが底から聞こえる。逃げ出そうとした元旦が、足を滑らせ床に倒れた。墓石の供花、花びらから雫が落ちた。どしゃぶりの雨の中、僕は墓地を歩き回った。ぬかるんだ泥が靴を汚した。腐った花が散乱していた。風が丘を吹き抜けて、濡れた作業着がバタバタ鳴った。丘の墓石が、なぎ倒される。供えた花が、押し潰される。花のない墓石が見つからなかった。遠くから、藤田のおっさんの声がした。長いこと、僕はひとりで捜し回った。白菊、黒百合、鈴蘭、水仙、どの墓にも花がある。「やめてくれ」しゃくり上げたのは、元旦だった。彼は檻《おり》の中にいた。男たちの臑で組まれた檻の中。押し退けられた僕のからだは、濡れた壁を抱いていた。頬をあてると、生あたたかい。目を閉じた。花びらが、裂けた天井から降ってくる。床に落ちた花びらが、次々と水に攫われる。渦を巻き、排水口へ吸い込まれていく。床に広がる花びらの渦。一枚残らず吸い込まれていく。こらえきれずに目を開けた。コンクリートが剥き出しになり、蹲った彼が泣いていた。打ちのめされた。彼のからだ。濡れた肌に。残る。花びら。
薄くなった石鹸が、排水口で回転している。つま先で蹴ると、濡れた床を滑って、壁に当たった。
「ラーメン屋でも寄っていきますか? 今日も鞠子さん、遅いんでしょ?」
シャワー室を出て、田口が言った。改めて見ると、この半年で肩に肉がついている。
「なんで知ってんだよ?」
「なんでって……今朝、そう言ってましたよ」
振り返ってシャワー室を見渡した。田口と自分の他には誰も残っていなかった。
元旦は、次の日もちゃんと出勤してきた。さすがに最初の数日は気まずく、自分が踏まれた花にも、踏んだ靴にも思えていた。しかし、話を蒸し返す奴はいなかったし、いつの間にか前と同じように、馬鹿話しながら仕事をするようになった。そして二ヵ月後、彼は何も言わずにいなくなった。
田口と一緒にロッカー室で着替えていると、事務所の方から、永井さんを最近できたキャバクラに誘っている慎二さんの声が聞こえた。永井さんの奥さんが未だに慎二さんと付き合っているのか、僕は知らない。靴下を穿《は》いている田口を置いて、先にロッカー室を出た。入れ替わりに永井さんと慎二さんがシャワー室へ入って行った。結局キャバクラへ行くことになり、慎二さんもシャワーを浴びて帰るらしい。
給与計算のため残業していた栄子さんから、「先月はどこに泊まったの?」と呼び止められた。女手一つで子供を三人も育て上げた彼女は、僕と鞠子がホテルを泊まり歩けるのも子供ができるまでだと呆れる。
「新宿のパークハイアットに泊まりました」
「一泊いくらぐらいするもんなの?」
「五万弱ですね」
栄子さんはいつものように大袈裟なため息をつき、「いい気なもんねぇ」と呟いて、計算機を叩き始めた。
鞠子が劇団の練習で遅くなると言うので、先月のパークハイアットは別々に行った。先についた僕は、これといってやることもなく、いつものように大画面のテレビをつけ、ベッドに寝転んで巨人─阪神戦をビール片手に観戦していた。八回の裏あたりで鞠子が現れ、彼女もまた、別に何をやるという風でもなく、いつものように自分に宛てた手紙を書き始めた。ホテルのフロントから自分のアパートへ送るのだ。これまで泊まったホテルの中でも、パークハイアットは最高だと思う。落ち着いたインテリアで、部屋も広々としている。カーテンを開ければ、眼下には日頃トラックで走り廻っている東京の夜景が広がる。空中に浮かんだような豪華な部屋で、僕らはほとんど口も開かず、一人はプロ野球中継、もう一人は自分に宛てた手紙を書いて時間を過ごす。最近では、「せっかくホテルに泊まっているのに、野球なんか見ないでよ」と注意されることもなければ、「自分にどんな手紙を送るんだよ」と後ろから覗き込むこともない。野球中継が終わればテレビを消し、風呂に入ってベッドにもぐる。遅くまで、部屋の片側にだけ灯りが残る。
タイムカードを押して事務所を出ると、あとを追ってきた田口が階段の上から、「ちょっと待って下さいよ。一緒に帰りましょうよ」と声をかけてきた。
振り返らずに階段を下り、三段目から飛び降りた。踵から脳天へ痺れが走った。
今年の正月、元旦から年賀状がきた。『謹賀新年 元旦』ハガキには、それだけしか書かれていなかった。たぶんこの「元旦」というのは、自分の名前のつもりなのだろうと、空白の多いその紙面を眺めた。どこかで元気にしているわけだ。
階段を下りてきた田口と、事務所ビルの壁に沿って歩いた。壁を這う下水管が破れ、永井さんたちが浴びているシャワーの水が地面に飛び散り、水たまりができている。
「どこか寄っていきますか?」
前を歩く田口に聞かれ、「いや、うちで何か作って食うよ」と、その背中に答えた。
田口の真似をして、水たまりを飛び越え、振り返って下水管を見上げた。錆びた下水管は、シャワー室の排水口に繋がっている。
初出誌
パーク・ライフ「文學界」2002年6月号
flowers「文學界」1999年8月号
単行本 2002年8月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十六年十月十日刊