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新装版 逆密室殺人事件
吉村達也
目 次
プロローグ
第一章
T 金曜日の警告
U 月曜日の噂
V 火曜日の復讐
W 水曜日の疑惑
X 木曜日の罠
Y 金曜日の悪魔
第二章
T 東 京
U カサブランカ
V 東 京
W カサブランカ
X 成 田
Y 東 京
Z 法師ノ沢
[ 東 京
\ パ リ
第三章
T 解 明
U 告 白
V 収 束
エピローグ
自作解説
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*本作品は作者初期の作品です。背景の理解のために自作解説から先に読むことをおすすめします。
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登場人物[#「登場人物」はゴシック体]
[#ここから改行天付き、折り返して16字下げ]
柴垣 翔………………………………人気歌手
山添 宏………………………………柴垣翔のマネージャー
黒岩拓三………………………………フェアモント映像プロデューサー
草壁弓子………………………………   同    ディレクター
大野洋治………………………………   同    ビデオカメラマン
沖田正雄………………………………   同    ビデオエンジニア
広瀬五月………………………………ヘアメイク・スタイリスト。沖田の婚約者
アブデラリ・ベンジェルン…………カサブランカ警察警視
ハーリド・エル・ファラー…………アルジェリア情報部員
モハメッド・ハッジ…………………サハラウイ人民解放軍情報部員
ユーリー・アレクサンドロビッチ・ゴルシコフ……KGB
柴垣次郎………………………………柴垣翔の弟。私鉄車掌
沖田佳子………………………………沖田正雄の母。九段で小料理屋経営
陣馬市蔵………………………………国会議員
財津大三郎……………………………警視庁捜査一課警部
フレデリック・ニューマン…………   同   刑事
烏丸ひろみ……………………………   同   刑事
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プロローグ
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「十二月と四月はマグロ≠ェ多いからな」
縁起でもないことを始発駅の詰所《つめしよ》で話してきたばかりだった。
東京都世田谷区を通る私鉄の運転士|牧野三郎《まきのさぶろう》は、運転台の横に飾っておいた交通安全のお守りの紐《ひも》が突然切れたのに驚いた。
何気なく速度計に目をやった。時速八十五キロ。急行なのでかなりのスピードが出ている。
(いま飛び込みがあったらコマギレだな)
いやなイメージが浮かんでまた消えた。
十二月十二日十二時十二分。
十二という数字が四つ並んだ瞬間にそれは起きた。
突然、上の方から人が降ってきた。
それは五十メートル先の線路の上に落ち、バウンドもせずに半回転だけ転がった。
外人の女性だろうか、髪の毛がブロンドで白いTシャツを着ている。
牧野三郎が一瞬のうちに認識できたのはそれだけだった。
(やった!)
そう思ったが急ブレーキはかけなかった。
時速八十五キロで走行中の電車が急制動をかければ、車輛の後ろから前まで人が吹っ飛び、骨折や窓ガラスを突き破っての裂傷など、車内は大混乱に陥る。飛び込み自殺そのものより大きな新聞ネタになるだろう。なにしろ電車の乗客というのは、まったくショックに無防備な状態で乗っているのだ。
ゴッというイヤな衝撃を感じたあと、牧野はゆっくりと減速して電車を停めた。
最後部の車掌室では、二十歳になったばかりの新人車掌の柴垣次郎《しばがきじろう》がウトウトと眠りかけていた。
鉄道学校を卒業後、いまの電鉄会社に入社し、駅務掛かりを二年やった後に車掌試験に合格。ついこの間、見習いを解かれて一人前になったばかりである。
だが、毎日がストレスの連続だった。
まず車掌という職業がこれほどまで肉体的に疲れるものだとは思ってもみなかった。
始発駅から終点までの往復二時間を三回乗務。一日六時間立ち続けると足はパンパンに腫《は》れあがる。しかもその間、人と喋《しやべ》ることはほとんどない。
孤独で疲れる仕事なのだ。
十二時十二分。
昼の時間は一日の中でもっとも緊張が弛《ゆる》む時である。乗客数はぐんと減り、しかも老人が中心となる。
柴垣次郎は車掌室の仕切りカーテンを下ろしていた。
電車がゆっくりとブレーキをかけたので、彼は目を開いた。周囲の風景を見たが変だった。こんなところで停まるはずがない。
その時、車掌室のスピーカーから牧野運転士のダミ声が響いてきた。
「おーい、やったぞ。マグロ一丁あがりだ」
キーンという金属音が頭の中でした。心臓が音を立てて暴れだした。
飛び込み自殺――。
柴垣次郎にとって初めての経験である。先輩からイヤというほど話は聞かされていたが、聞くと見るとは大違いだ。
すでに牧野は運行指令センターに、動力電線に沿って走っている通信ケーブルを通じて一報を入れていた。
ATS装置が働くと同時に、指令センターからの連絡で後続電車に最寄り駅での待機指示が出た。
柴垣は車掌室に置いてあるバケツを持って線路に飛び降りた。
それ[#「それ」に傍点]は電車後方の線路上に取り残されていた。柴垣は、まず車輛沿いに走って運転席のドアを叩《たた》いた。すでに乗客が窓を開けて一斉に首を突き出している。
牧野運転士にとっては二十年に及ぶ運転歴でこれが七度目のマグロ≠セった。十一年前の師走《しわす》のある日などは、なんと一日に二度も飛び込み自殺にあい、さすがにこの時ばかりはショックが大きかった。
しかし、いまでは飛び込み事故も日常的な一コマとしてとらえられるほど無感動になっている。
彼は柴垣に言われるまでもなく、黒いビニール製の運転士カバンを膝《ひざ》の上に置いていた。
その中には運行表などに混じって、「白布《はくふ》」と呼ばれるシーツ大の布が必ず入っている。そして気色の悪いことに、木製の箸《はし》も一緒だった。
柴垣は牧野から、マグロ回収セット≠手渡され、ほとんど血の気の失《う》せた顔で現場へ戻っていった。
運転士は持ち場を離れるわけにはいかないから、イヤな役は車掌である次郎が一人で引き受けなければならない。
いまごろ隣接駅の駅長は、現場検証に立ち会わせるために助役をこっちへ急行させているに違いない。
同時に控えの車掌に交替乗務の指示も出ているだろう。
次郎は当座の遺体処理――肉片をバケツに入れ、遺体は線路|脇《わき》へよけて白布をかける――をすませたあと、この電車に乗って次の駅で車掌交替する手はずになっていた。
電車から降りたあとは、駅長に簡潔に報告を行なった上で、用意された車に乗って速やかに現場へ戻らなければならないのだ。
ザクザクと砂利を踏む音が、虚《うつ》ろな頭の中で大きく響いた。目の前に広がる息が白い。
首が線路脇に転がっているのが見えた。
胴体は血まみれで線路上に残っている。
その胴体が着ているTシャツにCASA BLANCA≠ニいう文字がプリントされているのを見て、柴垣次郎はバケツを取り落として失神した。
後続電車が微速前進で現場に近づいてきた。
自動車を巻き込んだ踏切事故などで、とても一人の車掌の手に負えない場合は、指令センターに要請して後続電車の応援を頼むことがある。二人の車掌で事故処理に当たるわけだ。
だが今回は情けないケースだった。
飛び込みにあった車掌が、ショックで気を失ってしまったのである。
後ろの電車から降りてきたベテランの車掌は、事情を聞いて呆《あき》れ返っていた。
運転士試験に二度落ち、生涯一車掌を義務づけられた彼にとって、何が嫌いといって、甘ったれ根性のしみついた最近の若い車掌ほど腹の立つものはなかったのだ。
彼は白布と箸《はし》とバケツを持って、顔色ひとつ変えずに現場へやってきた。
白布が一枚で足りることに気づいた彼は、自分が持ってきたそれを、倒れている新人車掌の身体の上に広げてかぶせた。
「お母ちゃんが迎えにくるまでそこでネンネしてろよ」
顔を出しておいてやっただけでも有難く思えと、そのベテラン車掌は心の中で毒づいた。
彼は状況把握のために現場一帯を見回した。
彼もこれまでに四回ばかりマグロ処理をした経験を持つ男である。一目で何かおかしいことに気がついた。
胴体の残り方が、とても急行電車に巻き込まれたとは思えないほどきれいなのだ。
たしかに内臓らしきものは飛散しているが、はたして本当にそうなのか――。
彼は線路|脇《わき》に転がってむこうを向いている金髪の首を見つけると、その場に駈け寄った。
しばらく呆気《あつけ》にとられた顔でそれを見ていたが、やがて信じられないように呟《つぶや》いた。
「なんだこれ、マネキンの首じゃねえか」
「こんなものは役に立たないぞ」
モハメッド・ハッジは、日本国と書かれた赤いパスポートを、机のむこうに立つ男へ放り投げた。
「おれたちの誰かが日本人に化けられるとでも思うか。ちゃんと考えてくれよ」
そう言うと、ハッジは手元にあるフランス、アメリカ、スペイン、イタリアなどのパスポートを揃《そろ》えて胸ポケットにしまった。
ハーリド・エル・ファラーは肩をすくめて投げ返されたパスポートについた赤い土埃《つちぼこり》を払い、ハッジと同様にそれを胸ポケットにしまった。
「使いもしないものをとっておくな。危険だぞ」
ハッジは座ったまま相手に注意すると、サハラの熱に当たってすっかり温《ぬる》くなった赤ワインを一気に飲み干した。
「いや、何かの役に立つことがあるかもしれないさ」
ハッジより十五ほど年上のエル・ファラーは、禿《は》げあがった額に浮かんだ汗を掌《てのひら》で拭《ぬぐ》って、それをカーキ色のズボンにこすりつけた。
「どこで手に入れた」
ハッジがきいた。
「カサブランカでね」
「モロッコか!」
相手の問いにエル・ファラーは黙って頷《うなず》いた。
「カサブランカの国連広場で殺しがあった。その被害者のポケットからうまいこと拝借してきたってわけだ」
「日本人同士の事件だったのか」
「だろうな」
エル・ファラーは、禿頭をペチッとたたいてから気がなさそうに答えた。
「このパスポートの持ち主が誰にどんな理由で殺されようが、こっちには関係のないことだ」
「あんたにとってみれば、偽造パスポートの材料さえ入ればいいわけだ」
「そういうこと」
エル・ファラーは笑った。
「ところで、モロッコのパスポートは要らんのかね。本物の自分のは」
「本物の自分?」
ハッジはキッとなって相手をにらんだ。
「おれはモロッコを捨てた男だ」
「わかってるさ」
エル・ファラーはフランス流に両手を広げて肩をすくめた。
「モロッコは捨てたが、アッラーの神は捨てていないと言うんだろ」
ハッジはそれには答えず、テントの中から彼方《かなた》に広がる赤い砂の海に目をやった。
アルジェリア最西端の都市、ティンドーフ。
大サハラ砂漠の西北を占めるイギディ砂漠のさらに西に位置し、モロッコ、西サハラ、そしてモーリタニアの国境が迫る要所である。
とりわけモロッコと西サハラにとって、アルジェリア民主人民共和国のティンドーフが持つ意味は大きかった。
かつてスペインの領土であった総面積二十六・六万平方キロの西サハラは、スペイン撤退後の領有権を主張するモロッコ王国とのゲリラ戦を展開していた。
西サハラの民族解放組織ポリサリオ戦線は、一九七六年二月にサハラ・アラブ民主共和国(RASD)の樹立を宣言、モロッコと共同戦線を張っていたモーリタニアを屈服させた。八〇年代に入って、すでにアフリカ統一機構(OAU)の過半数がRASDを承認、これを不服としたモロッコは一九八四年にOAUを脱退している。
RASDはその首都をモロッコに近い大西洋岸の都市エル・アイユーンに定めた。しかし、モロッコとそれを支援するアメリカの軍事包囲網にあって、実質的な行政府を西サハラにもっとも近いアルジェリアの都市ティンドーフに移している。
モハメッド・ハッジは、一九七五年十一月、モロッコ国王ハッサン二世の号令で行なわれた国家規模の領有権主張デモ緑の行進≠ノ参加して西サハラへ入り、そのままそこで消息を断った。
祖国を捨て、西サハラ側に転じたのである。二十九歳のときのことだった。
彼には野心があった。新しい国で新しい権力を持つ男になりたかったのだ。
ハッジはポリサリオ戦線の軍事組織であるサハラウイ人民解放軍(ALPS)に身を投じ、そこの情報部員として、主にアルジェリア国内で対モロッコ諜報《ちようほう》活動の指揮に当たっていた。
一方、アルジェリア生まれのエル・ファラーは、いわばたたき上げのスパイ職人[#「職人」に傍点]であった。
二十代の時にはアルジェリア独立戦争の際、パリにいてドゴール政府の情報を民族解放戦線(FLN)に流す大きな役割を果たした。
そして独立後は、アラビア語、ベルベル語、フランス語、ロシア語、そして英語を自由に操る多国籍スパイ≠ニして裏の世界で暗躍していた。
多国籍という意味は、彼がパスポート・マニアと呼ばれるほど多種多様のパスポートを入手し、それを自分自身が活用すると同時に、個人的な商売にもしていたからだった。
他国のパスポートが必要な時は、ハーリド・エル・ファラーに頼め、というのがモハメッド・ハッジの周辺では定説になっていた。
「これからどうするんだね」
エル・ファラーはハッジにたずねた。
ハッジが無言で彼をにらんだので、エル・ファラーは慌てて首を振った。
「そのパスポートの使い途《みち》をきこうなんてヤボなことは思っちゃいないさ。とりあえずここに残るのか、それとも西サハラへ戻るのかと思ってね」
「久しぶりに戻ることになるだろうな。明日の朝、セマラへ向かうつもりだ」
ハッジはそう言うと椅子《いす》の背に身体《からだ》をあずけて目をつぶった。
それは、用がすんだら出ていってくれ、という無言のアピールだった。
「それじゃ。もし、また会えたらな」
ハーリド・エル・ファラーは踵《きびす》を返してテントの出口に向かった。
「ハーリド」
ハッジが彼の背中に声をかけた。
「場合によっちゃ、あんたと組むことがあるかもしれん」
エル・ファラーは一瞬立ち止まったが、わかったよ≠ニ言いたげに自分の禿頭をたたき、そのまま外に出た。
風が強くなっていた。
シャツの襟《えり》で口元を隠し、砂埃《すなぼこり》を防ぎながら、エル・ファラーはテントのそばに停めてあったジープに乗り込んだ。
座席と自分の尻《しり》の間で砂がザラついた音を立てた。砂粒の一つひとつがそれ自身の影を作っている。
エル・ファラーは胸ポケットに入れた日本国のパスポートを取り出して、何気なく開いてみた。
MASAO OKITA――というサインの横に、カーリーヘアにあごひげを生やした浅黒く彫りの深い男の写真が貼《は》ってある。
その顔は、彼が知っている限り決して日本的なつくりとは言えなかった。
強風でパスポートのページが次々にめくれた。
ひんぱんに旅をしているらしく、各国のスタンプが所せましと押してあった。
ハーリド・エル・ファラーは、パスポートを助手席に放り投げ、サングラスをかけた。
キーをひねり、アクセルを踏み込む。エンジンの響きが周囲の風にかき乱され、すぐに砂に吸い込まれるため、実際の音よりはるかに小さく聞こえた。
彼は、強烈な太陽を受けて白く輝いているテントに一瞥《いちべつ》をくれてから、ゆっくりとジープをスタートさせた。
カサブランカ警察のアブデラリ・ベンジェルン警視は、大使館員が日本から持ち帰った週刊誌の束を床にぶちまけて怒った。
「モロッコの旧市街《メデイナ》は昼間でも安全とは言えないので、今回のような事件は起こるべくして起きた≠セと。奴《やつ》らは国連広場がメディナの中にあるとでも思っているのか。どの雑誌もそういった論調なんだな」
「はい」
若い大使館員は、床に散らばった日本の週刊誌をかき集めながら答えた。
「さすがに新聞はそういった主観を混じえていませんが、雑誌やテレビは我が国を誤ったイメージの下《もと》にとらえて、今回の事件をミステリアスに演出しています」
「ここまでわざわざカメラを担いで大挙してやってきながら、あいつらは何を取材していったんだ」
ベンジェルン警視は机を叩《たた》いた。
「カサブランカがあまりに近代都市なので、すっかりイメージが狂ったようですよ」
大使館員は苦笑した。
「しかも現場が国連広場のど真ん中ですからね。日本人が抱くモロッコのイメージはカケラもないわけです。結局、直接事件とは関係のないメディナへ行ったり、マラケシュまで飛んでジャマ・エル・フナ広場の大道芸人を撮ったりして、なんとか自分たちのイメージに合った画《え》を作って日本へ帰るのです」
「そんなジャーナリストとも呼べないような奴らは入国禁止だ」
「日本人というのはイスラム教に対する知識がほとんどありませんから、彼らより我々の方がずっと殺人に対する罪悪感が強いことを知らないのです。あの国は、学歴や経済力と犯罪は反比例するものと思い込んでいますからね」
大使館員は説明した。
「彼らはアッラーの神に代わるような信仰を持っていないのか」
「仏教をはじめいろいろあるのですが、形骸《けいがい》化しているものが多くて、倫理感の基準も甘いですね」
「そんな奴らに、モロッコは危ないところだ≠ネどとデタラメを言わせているわけだな」
「もちろん度が過ぎたら抗議します」
「これらの報道でも度が過ぎていないというのかね」
「この程度のレベルが日本人のガイジン≠ニかガイコク≠ノ対する認識なんです。もっとましだったら、国際外交的に子供扱いされていませんよ」
「とにかく沖田正雄という被害者を刺殺した犯人は、絶対に同行していた六人の日本人の中にいるはずだ。犯人はアラブ人だというイメージを植えつけようと必死なのは、一緒にカサブランカへきていた日本人連中なんだからな」
ついでに、モロッコ国民の三割強はベルベル人という非アラブ系であることも訴えておきたかったが、日本人にそうした知識を望んでも無駄だと警視は諦《あきら》めた。
日本人は、自国も含めて世界中の国家が単一民族で構成されていると思っているらしい。たとえばアメリカ人という表現をした場合、日本人にとってその単語は国籍を意味するものではなく、人種を指すものだと思っているようなのだ。
「カサブランカの警察の名誉に賭《か》けてでも、おれはこの中から殺人犯人を見つけ出してやる」
ベンジェルン警視は、捜査リストに並んだ六人の顔写真をパーンと掌《てのひら》で叩《たた》いた。
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第一章
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T 金曜日の警告
歌手の柴垣翔《しばがきしよう》は港区にある放送局のタレント控室で、ぼんやりとテレビを見ながらラーメンを啜《すす》っていた。
ランスルーを終えてから本番を待つまでの緊張感のない時間だった。
六時のニュース前のミニ番組で温泉めぐりのシリーズをやっていた。
「きょうは群馬県|三国《みくに》温泉郷の一つ、法師《ほうし》温泉長寿館をご紹介しましょう」
というナレーションの声で、柴垣翔はハッと我に返り、テレビの画面を見つめた。
標高一六三六メートルの三国山や、一五九八メートルの稲包《いなつつみ》山はすっかり雪に覆われている。それらの山々に囲まれて法師温泉ただ一つの宿、長寿館があった。
湯けむりの立ち昇るクラシカルな木造建築の外見と、とくにその大浴場は、入る者を一気に何十年も昔へタイムスリップさせるような魅力に満ちていた。
「変わらねえなあ……」
翔は呟《つぶや》いた。
「何年たっても、あそこの雪景色は変わらねえ」
彼の生まれ育った村は、法師温泉に近い山あいにあった。
家は林業で生計を営んでおり、新潟方面へ仕事で出かけることのある父親を除けば、母と子はほとんどその村から出ることがなかった。
翔が中学を出るまでは、毎朝五つ違いの弟の次郎と連れだって同じ道を学校へ通った。小学校と中学校の分校が同じ敷地内にあったからである。
テレビの画面が法師への分岐路に近い赤谷《あかや》湖を映し出した。翔の顔がふと曇った。いやなことから逃れるように、彼は高校時代の記憶を呼び戻した。
都会の華やかな生活とまったく無縁な暮らしをしていた柴垣兄弟の転機は、翔の高校入学だった。
とりあえず高校くらいは出ておけ、という父親の言葉で、月夜野《つきよの》町の高校に通うことにした。家からバス停まで徒歩三十分、それからバスに乗って一時間。あわせて片道一時間半の通学だったが、翔のカルチャーショックは大きかった。
そして高校一年の夏休み、友人と三人で東京へ遊びに行ったことが彼の運命を決定づけることになった。
タレントに会いたくて赤坂のラジオ局へ行き、そこでたまたまやっていた公開生放送のものまね歌合戦に飛び込みで参加し、グランプリを勝ちとった。
白のワイシャツに黒のズボンという、何ともあかぬけない格好で出たのだが、その服装がかえって彼の野性的なマスクを強調する効果を生んだ。もとより声量には自信があったから、司会者などにおだてられた翔は、その足で六本木の芸能プロダクションのドアを叩《たた》いた。
(いまから考えてみると、あのときはウソみたいにタイミングがよかったんだよな)
翔は当時を思い出し、心の中で呟《つぶや》いた。
そのプロダクションでは、来春デビューさせるはずの男性アイドル歌手が、厳しい特訓にいや気がさし、突然蒸発して郷里に帰ってしまうという事件があったばかりだった。
結果として、一年後、柴垣翔は蒸発したアイドル歌手に代わって、その事務所からデビューを飾った。もちろん高校は中退だった。
曲に恵まれ、事務所の政治力に恵まれた彼は、デビュー年の新人賞を総なめにし、二年目のジンクスも乗り切った。デビューから八年たち、二十五歳になった翔は、男性アイドル歌手としてAランクの地位を築いていた。何百分の一という栄光への競争を勝ちぬいたのだ。
兄の成功に伴い、小さな時から鉄道マニアだった五歳下の弟は、やがて東京の鉄道学校に入り、十八歳でそこを卒業すると同時に電鉄会社に入社した。兄とは違う、鉄道マンの道を歩みはじめたのである。
温泉紹介のミニ番組が終わってニュースが始まっても、翔は思い出にふけっていた。
画面に映っているのが自分の弟だと気がつくまでに、彼は数秒の時間を要した。
「次郎じゃないか」
翔は思わず叫んでテレビのボリュームを大の方へ回した。
「いや、最初はまさかマネキン人形とは思わなかったです。運転手もぼくも、てっきり外人の女の人が飛び込んだものだとばかり思ってましたから」
勤務先のどこかの駅舎で弟はインタビューされているらしい。兄と違ってテレビなれしていないから、カメラを前にして緊張しているのがわかる。
「車掌の柴垣次郎さんは事故の模様をこのように語っていましたが、マネキン人形が電車に飛び込むという前代未聞の出来事に、捜査当局もとまどいの色を隠しきれない様子です」
アナウンサーのナレーションを受けて、画面は飛び込み現場の画《え》になった。
現場検証をしている捜査陣のバックに、私鉄の電車が行き来する。
一番手前にマイクとメモを持った放送記者が立っていた。
「関係者の話を総合しますと、きょう午後零時十二分ごろ、東京都世田谷区××陸橋の下を通過しようとしていた上り電車に、突然陸橋の上から何者かによって女性のマネキン人形が投げ落とされました。
ただちに現場に停車し乗務員が調べたところ、そのマネキン人形は首と手足のみ本物のマネキン≠ナ、胴体部分はビニールのゴミ袋に犬の死骸《しがい》が詰め込まれており、これにTシャツをかぶせて人間に見せかけていたものとわかりました。
いったい、誰が何の目的でこのようなものを作り電車に投げ込んだのか、いまのところ目撃者も現れず真相は謎《なぞ》に包まれたままですが、猟奇的な匂《にお》いのするところから、変質者の犯行ではないかとの見方も出ています。
なお、マネキン人形に着せられていたTシャツは、白地に赤でCASA BLANCA≠ニプリントされており、警察ではこのTシャツの出所を調べています」
呆然《ぼうぜん》としてテレビを見つめている翔の後ろに、いつのまにかマネージャーの山添宏《やまぞえひろし》が立っていた。
「翔……」
振り向くと、翔より十歳年上のマネージャーの顔から血の気が引いていた。
「カサブランカだって?」
「ああ……」
答える翔の言葉にも力がなかった。
「弟が乗っていた電車にマネキン人形が投げ込まれたらしい」
「次郎が乗っていた電車に!?」
山添は大声をあげた。
「それは偶然なのか」
「偶然であるわけないよ」
翔は怒ったような声を出した。
「あんな過密ダイヤの路線で弟が乗るのは一日三往復だけなんだ。偶然なんかじゃないさ」
「狙《ねら》い打ちだとしても、そいつは次郎の乗務時間を知っていたことになるぞ」
山添は、百八十センチある翔よりさらに七センチも高い、ひょろっとしたモヤシのような男だった。顔も全体のバランスに比例して細長く、頬骨《ほおぼね》が出て神経質な印象だった。
「まずいな」
山添は顎《あご》に手をやった。
「次郎がおまえの弟だってことをマスコミに嗅《か》ぎつけられたら面倒だ」
「すぐバレるに決まってるさ。車掌仲間はみんな知っているんだから」
「モロッコでの一件は、ようやくほとぼりがさめかけているっていうのにこの騒ぎだ」
「誰かが企《たくら》んでるんだよ」
「誰かって?」
「カサブランカのことを忘れさせたくない誰かがね」
翔は立ちあがると、テレビのスイッチを乱暴に切った。
フェアモント映像のプロデューサー黒岩拓三《くろいわたくぞう》は、シャワーを浴びた後、バスタオルも巻かずに寝室に戻ってきた。
途中で姿見に自分の裸身を映してみたが、ハワイ灼《や》けした身体に贅肉《ぜいにく》はひとかけらもついていなかった。誰が見ても五十歳の身体とは思えないだろう。
電気を消した寝室のダブルベッドの上で、草壁弓子《くさかべゆみこ》はむこうを向いてテレビを見ていた。彼女の裸はテレビ映像のカラーに彩られている。
「一緒にシャワーを浴びればよかったじゃないか」
黒岩は煙草に火をつけると、どっかりとベッドに腰を下ろした。
「なあ、もう一回どうだ」
黒岩は弓子の胸に手を回した。
フェアモント映像ただ一人の女性ディレクター草壁弓子は、稀《まれ》にみる美人だった。
アングロサクソンの血が混じっているのではないかと思われるほど直線的なラインで構成された顔立ちと日本人離れしたプロポーション――ちなみに身長は百七十三センチあった――そして透き通った白い肌を持っていた。
三十三歳になるが、水泳とジャズダンスを日課としている弓子の身体はみずみずしく張りがあった。
「まだ十一時十分だぜ。一時からの打ち合わせまで充分時間があるだろう」
一時とは深夜の一時のことである。黒岩や弓子にとって、真夜中すぎのミーティングはザラだった。千代田区三番町にある黒岩のマンションからは、大抵の打ち合わせ先へは車で十五分以内で着く。
「ビデオに撮っておいたわ」
弓子は硬い表情で彼の方を振り向いた。
「何を?」
「十一時のニュース・ファイナルの頭のところよ。プレイバックするから見る?」
「急に何を言い出すんだよ。いまは仕事の話なんかやめようぜ」
黒岩は弓子のうなじに唇を這《は》わせた。
「そんなことしてる場合じゃないわ」
弓子は黒岩から身体をかわすと、ビデオのリモコンスイッチをPLAY≠ノした。
「七時ちょっと前に社の方に電話があったのよ。翔からね」
画面に、インタビューに答える柴垣次郎の顔が大映しになった。
沖田正雄《おきたまさお》の実家は、九段の靖国《やすくに》神社近くで小料理屋を営んでいた。父親は早くに亡くなり、母佳子が女手ひとつで彼を二十六年間育てあげてきたのだった。
「ほんとにこんなに素晴らしいお嫁さんにきていただくはずだったのに、馬鹿な子よねえ」
佳子はカウンター越しに、広瀬五月《ひろせさつき》に向かって泣き笑いを見せた。
二十四歳になる五月は、タレントのヘアメイク・スタイリストをしていた。ビデオエンジニア《VE》の正雄とはロケで時々顔を合わせているうちにどちらともなく好意を持つようになり、やがて二人は婚約した。
先月のモロッコ・ロケは彼らにとって結婚前の最後の仕事だった。柴垣翔の新曲プロモーション・ビデオの制作だったが、それは新婚旅行の下見でもあった。
カサブランカという響きに魅せられ、実際に行ってからはモロッコの虜《とりこ》になった。
「今度くるときは二人きりでこようね」
シティホールの塔から一面に広がるイスラム文化の街並みを見下ろしながら、そう約束したのに、そのわずか三日後に沖田正雄は刺殺体となって発見されたのだ。
「あんなに空手の強かった奴が……信じられないです」
大野洋治《おおのようじ》はそう言って、冷やの日本酒を一気に呷《あお》った。彼はフェアモント映像のビデオカメラマンで、正雄とは同期入社だった。
十一月十七日の早朝、カサブランカの中心にある国連広場で、ナイフを胸に突き立てられて死んでいる沖田正雄が発見された。
彼の死にはさまざまな謎《なぞ》があったが、その一つに、彼ほどの人間がどうして真正面からナイフの一突きを喰《く》らったのか、という疑問があった。
沖田正雄はケンカ空手で鳴らす格闘技空手流派の四段である。射殺ならともかく、真正面から何の抵抗もなくナイフを心臓に受けるなどとは考えられないことだった。
そのことからロケに同行した顔見知りの犯行ではないか、という説が有力視されたのだが、これについてはプロデューサーの黒岩が頑《がん》として否定した。
「たとえ婚約者の広瀬君が隙《すき》を狙《ねら》ったとしても」
黒岩は無神経なたとえ方をした。
「沖田だったら咄嗟《とつさ》に急所だけはかばうでしょう。それにウチのスタッフは彼の実力を知っていますからね、怨《うら》みがあったってナイフで狙う真似《まね》なんかしませんよ。逆に半殺しの目にあわされるのが関の山です」
黒岩は警察の事情聴取やマスコミの取材に対して、現地の人間の物盗り説を主張していた。
「いまも息子が夢枕《ゆめまくら》に立つんです」
正雄の母親はポツリと洩《も》らした。
「何か言いたげに哀《かな》しそうな目をして……」
「怖い……」
五月がブルッと肩を震わせた。
「ごめんなさい、五月さん。あなたを怖がらせるつもりはなかったけど」
「いえ……」
「でもね、なんだか正雄はまだ成仏《じようぶつ》していないような気がして、私も辛《つら》いのよ」
「そりゃ犯人がまだ見つかっていないんですから、沖田だって浮かばれませんよ」
大野は自分で一升瓶を取りあげ、それをグラスに半分ほど注いだ。
彼は時々会話に口をはさむほかは、黙って酒を飲みつづけていた。
「これだけ飲んだら帰りますから。な、広瀬さん」
「あら、お二人とももっとゆっくりしていらして。きょうはお店もひまだし、私もあなたたちから正雄の話をいろいろと伺いたいわ」
「すみません。きょうは正雄の奴《やつ》のことを思い出したら急にくやしくなって、少し飲みすぎました」
そう言って大野は最後の一杯を一気に飲み干してグラスを置いた。
「帰ります」
木の丸椅子《まるいす》を尻《しり》でずらして立ち上がった。
「ごちそうさまでした、お母さん。またきますから」
大野は半《なか》ば酩酊《めいてい》した目で正雄の母を見た。
「そう。じゃあ無理には引き止めないわ。またお二人でいらして下さいね」
佳子はカウンターを回って、店の外まで彼らを見送りに出た。
「大野さん少し飲みすぎたかしら」
心配気な佳子に、
「大丈夫です。私の車で送っていきますから」
広瀬五月がハンドバッグからキーを取りだして答えた。彼女は一滴もアルコールが飲めなかった。
「もう、十二時を過ぎていたんですね」
五月は何気なく腕時計を見て言った。三時間以上も話し込んでいたことになる。
薄暗い路地に五月のBMWが停めてあった。
彼女は先に助手席のドアを開けて大野を座らせると、反対側に回って運転席についた。
「それじゃあ失礼します。ほんとうにきょうはごちそうさまでした」
窓を開けて五月が挨拶《あいさつ》した。
「いいえ、何のおかまいもできなかったけれど、こうしてあなたたちと話しているのが何よりの気晴らしだわ。五月さん、またいらしてね。きっとよ」
窓に手をかけて佳子が念を押した。
「はい……おかあ……さま」
白い息ごしに、佳子と五月は見つめ合った。
「じゃ、気をつけてね」
佳子が車から離れて手を振った。
エンジンをかけ、五月は佳子に会釈をするとBMWをスタートさせた。
最初の角を曲がるまで五月はそのこと[#「そのこと」に傍点]に気がつかなかった。
急ブレーキを踏んだので、早くも助手席でいびきをかきはじめていた大野は、つんのめりそうになって目を醒《さ》ました。
「おい、どうしたんだよ」
「聞いて、この曲」
五月の目は恐怖に見開いていた。
カーステレオがメロディアスなナンバーを流していた。
「大野さん、覚えてる? ここへくるときは、私、ジョージ・ウィンストンのピアノを聞いていたわよね」
「そうだっけ?」
大野はあいまいな返事をした。
「それでカセットを入れたままエンジンキーを切ったのよ。だから、いまエンジンをかけると同時にまたそのメロディが流れてこなくちゃいけないのに、カセットテープはここに取り出されているわ」
五月はコンソールの脇を指さした。
「おれは全然カセットなんかさわってないよ」
「そして、いつのまにか別のカセットテープがセットされているの」
五月の声は震えていた。
「大野さん、この曲知っているでしょ」
大野は酒臭い生あくびをしながら耳を傾けていたが、そのうち真剣な顔になった。
「バーティ・ヒギンズの『カサブランカ[#「カサブランカ」に傍点]』だ……」
「そうなのよ……」
対向車のヘッドライトが二人を照らし出して通り過ぎ、また周囲は暗くなった。
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U 月曜日の噂
「ねえ、フレッド。お願いだからザルソバくらい音を立てておいしそうに食べてよ」
警視庁捜査一課強行犯担当刑事の烏丸《からすま》ひろみは、目の前で黙々とソバを口に運んでいるブロンドヘアの青年に言った。
「おソバとお茶漬けは音を立てて食べていいんだって何度も言ってるでしょ」
ひろみは頬杖《ほおづえ》をついてガイジン刑事《デカ》≠フフレデリック・ニューマンをにらんだ。
「ノー、ぼくにはできないね、そんなこと」
まったくなまりのない、いや、かすかに関西なまりを残した流暢《りゆうちよう》な日本語でフレッドは答えた。
「小さいころ、食卓でちょっとでもズルズル音を立てるとママの平手打ちがパーン、だよ」
身長百九十センチ、体重九十キロのフレッドは、イタリア系アメリカ人宣教師の父とポーランド人の母の間に生まれた。
大阪生まれの東京育ち、二十七歳。血統的にはヨーロッパ系アメリカ人となるところだが、国籍は日本。父は任地の東京で死に、母も三年前に他界した。
だから、一見ガイジンである日本人フレデリック・ニューマンに身よりはいない。
「ふーん、フレッドのママは厳しかったのね」
「それが当然だよ」
フレッドはこともなげに言って、青い瞳《ひとみ》をくるっと動かしてみせた。
「日本人もスープを音を立てて飲んじゃいけないってことくらいは躾《しつ》けられてるのよ。英語では eat soup であって、drink soup とは言わないんでしょ」
「よく日本人はその例を引き合いに出すけど、全然わかっていないね。たとえばコーヒーは明らかにドリンクするものだけど」
フレッドはdrinkではなく、日本語風にドリンク(dorinku)と発音した。
「でもホテルで音を立ててコーヒーを啜《すす》っているのは日本人くらいなもんだよ」
そう言ってフレッドは音もなく日本茶を飲んだ。
「そうかあ……」
そういえば、ひろみだって熱いコーヒーはつい音を立てて啜ってしまうことがある。
「要するにさ、空気と一緒に食べ物を吸い込んでしまうのが日本人の一般的な食べ方だろ。食べ物や飲み物が唇に近づいたとたんに吸い込んじゃうんだ。おまえは電気掃除機かってえの」
時々フレッドはべらんめえ調にもなる。
「でもそれはパパやママの国では決定的なマナー違反なんだ。ちゃんと食べ物は口の中に置くのが正しい。スプーンやフォークはそのための道具なんだからね。飲み物も同じ。飲むことと啜ることはまったく違う行為なんだよ」
「なるほどねー」ひろみは感心した。
「だから一課長に研修を命じられて座禅を組みにいったときはさ、音を立てて食べてはいけない世界だったのでホッとしたね」
そうだ、コイツは永平寺《えいへいじ》で禅の修行まで積んでいるのだ。ひろみは思い出した。まったくとんでもないガイジン、いや日本人が捜査一課に加入したものである。
「ところでさ、ひろみ」
フレッドは箸《はし》を箸袋におさめると、お姉さんそば湯ね、と頼んでから改めてひろみのほうに向き直った。
「ぼくと同じ日付で一課に異動してきた財津警部だけど、あの人、ひろみに気があるから注意しといたほうがいいぜ」
ひろみは瞬間的に「財津」というより「猪熊」という苗字が似合いそうな、あの警部の顔を思い出した。
彼は異動早々、第一日目の夜にひろみをお茶に誘い――とりあえずその日はお茶だけですんだが――こんなことを言ったっけ。
「私の女性の好みかね?」
ききもしないのに、こう切り出してから、
「まず、あんまりグラマーなのはダメだな。それと背が高すぎるのもいかん。自分が巨漢と呼ばれる体型のせいか、女性の理想は百六十をやや超えるくらいのどちらかというと小柄で、スリムなタイプ。で、プロポーションは抜群と。あ、別にバストのあるなし≠ヘこだわらないがね」
どうもこのへんからイヤな予感がしていたのだ。
「髪は、いわゆるショートは好きませんが、長すぎるのもどうも。顔はやはり整っていて、いかにも美人というのがよいな、ウン。でも、笑顔になるとお茶目、とこう変わるのが理想的。性格は、表面的には男っぽくてワイルドだが根は泣き虫。しかし泣き虫といっても気性が竹を割ったようにスパッとしていて、明るい泣き虫であるのがよい」
これじゃまるで私のことだわ、とひろみは思った。外見などは――美人顔ウンヌンも含めて――その通りである。
早い話が目の前に座った烏丸ひろみという女性を描写しているにすぎないではないか。
だが、そうだとしたら初対面なのに性格までズバリ見抜かれているのはどういうことなのだろう。
たまたま財津警部の理想像とカンペキに一致してしまったのか、それとも粗野な見かけに似合わず、この人あんがい鋭い洞察力を持っているのか……。
「ま、いろんなこと言っても私にはカアちゃんと三人の子供がいるからね」
ガハハハ、と天を仰いで笑うと、伝票をわしづかみにして財津警部は立ち上がったのだった。
警部と個人的にお茶を飲んだのはそのときかぎりだが、たしかにフレッドの指摘は正しいかもしれない。
「ひろみ、何考えてる?」
フレッドの言葉で、ハッと我に返った。
「ううん、何でもない。そろそろ戻らなくちゃね。新しい事件のブリーフィングをやる時間だわ」
腕時計に目をやって、ひろみは立ち上がった。
(財津警部が私の性格を一目で見抜いていたとすると、これはなかなかスルドイけれど、その警部を抜け目なく観察していたフレッドも……)
ひろみは、ふと思った。
(ひょっとしたら私に気があるのかもしれないな)
「ここだけの話ですけどね」
その言い回しを聞いて、マネージャーの山添は本能的に耳をそばだてた。
ここは、虎《とら》ノ門《もん》にある中央テレビの喫茶室。いつになく関係者でにぎわい、話し声と煙草の煙が充満していた。
外は雨模様なので、濡《ぬ》れた服が暖房で温められて生じる独特の匂《にお》いが満ちていた。
柴垣翔の出演する番組打ち合わせのために、アシスタント・ディレクターを待っていた山添の後ろには、いかにも業界然とした派手《はで》な背広を着込んだ二人の男が座っていた。
キャリアの長い山添が初めて見る顔だったから、テレビやレコード関係の男ではないのかもしれない。
彼らは周囲の騒然とした雰囲気に油断したのか、話し声が高くなっていた。
「カサブランカ・スキャンダルって知ってます?」
カサブランカと聞いて山添は身を硬くした。
「あ、まだごぞんじない」
相手の男が首でも横に振ったのだろうか、山添と背中合わせに座った男はそう言って、さらに話をつづけた。
「こないだ柴垣翔が新曲のプロモーション・ビデオを撮りにモロッコへ行ったでしょ」
「ああ、あれね。歌謡曲系がきばってプロモーション・ビデオなんか作ってもしょうがないのに、大枚はたいてカサブランカ・ロケをやったヤツか」
「そこでロケの最終日にVE《ビデオエンジニア》が殺されましたよね」
「現地人にやられたんだろ。危ないとこに女でも買いにいったんじゃねえの」
「とんでもない。それはプロダクションが故意に流しているニセ情報ですよ。それにあそこは国会議員の陣馬市蔵《じんばいちぞう》がバックについてますからね。真相のもみ消しなんてたやすいもんですよ」
「じゃ、本当はなんだっていうんだ」
「ロケスタッフの誰かにコ・ロ・サ・レ・タって噂《うわさ》が飛び交ってるんです」
立場が下らしい男が、もったいぶって一字ずつ区切って答えた。
「おまえ、業界の噂なんてアテにならないよ。誰かを妊娠させたり、麻薬中毒患者に仕立てあげたり、ひどいのになると婚約したタレントをエイズだなんて平気で言うからね。相手をおとしめるためには根も葉もない噂を平気でまき散らすんだ」
「鈴木さんも業界人のくせに、他人事《ひとごと》みたいに言わないで下さいよ」
若い方の男がこびるように言った。
「こんどの噂はけっこうマジなんですから。先週の金曜日、世田谷でマネキン人形の飛び込みっていう妙な事件があったでしょう」
「あったな、そういえば」
「そのマネキンはカサブランカっていう文字の入ったTシャツを着せられていたんですけどね」
「そういえばそうだったな」
「じつは、その電車に乗っていた車掌が柴垣翔の弟なんですよ」
山添は顔をしかめた。マスコミには手を打っておいたのだが、やはり柴垣次郎が翔の弟だという話は広まりつつあった。
「それからね。殺された沖田っていう男には広瀬五月という婚約者がいるんですが、彼女の車にね、夜中カセットテープを仕掛けた奴がいた。彼女がエンジンをかけたら、突然バーティ・ヒギンズの『カサブランカ』が鳴り出したんですよ」
「出来すぎだよ、おまえ」
「いや、これは広瀬五月の友だちの友だちから聞いた話ですから確実です」
男はいい加減な太鼓判を押していたが、その話は山添にとって初耳だった。
たんなる噂かもしれないが、噂にしては、カサブランカという妙な暗合があった。
「山添ちゃん、どうしたのよ冴《さ》えない顔してさあ」
そのとき、待ち合わせ相手の加賀《かが》というAD《アシスタント・デイレクター》がオー・ド・トワレの匂《にお》いをそこら中にまき散らしながらやってきた。
この男はすぐ人の隣に座って話したがる癖を持つ。例によって何の遠慮もなしにドンと山添の横に腰を下ろしたので、マネージャーは反対側へ尻《しり》をずらさなければならなかった。
「翔のことだけどさあ」
いきなり加賀がそう切り出した。プロデューサーより二段階も三段階も下っぱのアシスタント・ディレクターだが、タレントに直《じ》かに接する点ではスタッフ一である。この男も、すっかり翔を弟分扱いにしていた。
「もう二十五なんだから、いつまでもツッパリ・ロックの柴垣翔じゃないと思うわけよ」
背中の話し声がパタッと止《や》んだ。
「それでおれとしてはさ、ゴールデンのドラマ枠を一本やらせたいんだよ。オーストラリア・ロケありのいい台本ができてるんだ。もちろん主役級でね。ここらへんで一発イメチェンをはかってさ、ある程度お茶の間にも浸透しないと後がつらいと思うんだよ」
「そうですよね」
例の大風呂敷《おおぶろしき》がまた始まったと思いながら、山添は年下のADの言葉に頷《うなず》いてみせた。
「プロデューサーの飯森さんにはおれからよく言っとくから大丈夫なんだけど、それよりさ」
加賀は急に声を落とした。
「こないだのマネキン人形の飛び込み自殺事件だけど」
後ろの男が振り返った。
「あれに乗ってた車掌って、翔の弟なんだって」
「そうなんですか」
「とぼけないでよ、山添ちゃん。あなたが知らないわけないでしょうが」
「弟は弟ですからね。そこまでは関わりませんよ」
「ま、立場上肯定はできないんだろうけどね」
ADは山添を横目でチラッと見た。
「あのマネキンがカサブランカと書いたTシャツを着ていたというからすごく気になるんだけどね」
山添は相手の問いかけを黙殺してオレンジジュースのストローを咥《くわ》えた。
「きょう、ウチの制作の連中に変な招待券が郵送されてきたの知ってる?」
山添はジュースを飲みながら無言で首を横に振った。
「これはウチだけじゃなくて他のテレビ局にもばらまかれているらしいんだけど、映画の試写会の案内状なんだ」
「そんなもの別に珍しくもなんともないでしょ」
山添は素っ気なく言った。
「そうかなあ」
加賀はさらに声を落として、山添の耳もとで囁《ささや》いた。
「だってその映画、ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの『カサブランカ』なんだぜ」
「こういうイタズラは無視するに限る。騒げば騒ぐほど相手の思うツボだ」
黒岩拓三は大野洋治の持ってきた試写会の案内状を机の上に放り投げた。
「たしかにおれのところにも同じものが郵送されてきた。どうせカサブランカでの一件で柴垣翔のイメージダウンを狙《ねら》う業界の連中のイタズラだ。とくに年末にはこうした足の引っぱりあいが多いことは、おまえもよく知っているだろう」
「ええ、でも……」
大野は何かを言いたげに口ごもった。
フェアモント映像のプロデューサー室は個室になっていて、二十畳ほどの広さに机が一つ、中央に来客用のソファとテーブルがあり、コーナーに冷蔵庫付のミニ・ホームバーのセットが備えられている。反対側にはCD・レーザーディスク付のAVセットがあり、黒岩の社内的権力を象徴しているような部屋だった。
黒岩の机の後ろには大きなガラス窓があり、降りしきる雨がパラパラと軽い音を立てていた。
「でも、何だ」
黒岩は少し苛立《いらだ》ってきき返した。
イライラしている理由の一つは彼の部屋の空調が故障しているためであった。暖房は効くのだが換気が不調で、雨の日特有のじめっとした空気がよどんでいた。修理屋は年末で忙しいとかで、明後日にならないとこないという始末だ。
「大野、言いたいことがあるなら言ってみろ」
そう言うと、黒岩は椅子《いす》の向きを変えて暮れなずむ赤坂の街角を見下ろした。十階建てビルの八階にあるオフィスの眺めはまずまずだった。
「この案内状が気になるんです」
大野は黒岩の放り投げたハガキを手にとって呟《つぶや》いた。
宛名《あてな》も内容もワープロで打ってある。
案内の文面は横書きである。
ワナー映画「カサブランカ」
配役……ハムフリー・ボガート
イングリッド・ベルクマン
クロード・レインズ  ほか
監督……マイケル・カーティス
この映画はモロッコの首都カサブランカをめぐって展開する諜報戦線を背景に、偶然昔の恋人に出逢《であ》った人妻イルザとリックの戦争と愛の間に揺れ動く懊悩《おうのう》を描いたものである。
演技は『デッド・エンド』のハンフリイ・ボガート、そして第二のグレタ・ガルボとしてホリウッドの惑星と注目を浴びているイングリット・ベルクマン。さらに『会議は踊る』のコンラッド・ファイトや『情熱なき犯罪』のクロード・レインズなどの豪華キャストとなっている。
「ワーナー映画をワナーと表わしたり、ハンフリー・ボガートをハム[#「ム」に傍点]フリー、イングリッド・バーグマンをベルク[#「ベルク」に傍点]マン、ハリウッドをホ[#「ホ」に傍点]リウッドと、わざと旧式の表記にしています。文面も、配役とか諜報《ちようほう》戦線とか演技とか惑星など、いまの案内状では使わない言い回しをあえて使っています」
「だから何が気になるというんだ」
黒岩は振り返って机をコツコツと指で叩《たた》いた。
「つまり誰が見たってこれは本当の試写会の案内状でないことくらい、すぐにわかります」
「あたりまえだ。第一、試写室の場所も書いてないじゃないか」
「日にちもデタラメですしね。十一月十七日だなんて、ひと月前のものになっている」
大野はじっと黒岩の反応を窺《うかが》った。
黒岩は日本人離れした二重のギョロ目で、部下のカメラマンを睨《にら》み返した。
「黒岩さん、覚えていらっしゃいますよね、この日付――十一月十七日を」
大野はセーターの袖《そで》をたくしあげて黒岩に迫った。それはたんに部屋の中が蒸し暑いからそうしただけのことだったが、逞《たくま》しい大野の腕がむきだしになると相手を威圧する迫力があった。
ビデオカメラマンはVEと同じく、重い機材を抱えて迅速に行動しなければならないため、何はなくとも体力――とくに腕力が要求される。カメラを抱えてふらついていては画像のブレたみっともない画《え》になってしまう。
「十一月十七日、ね」
黒岩は大野の腕に目をやりながら呟《つぶや》いた。
「カサブランカで沖田が殺された日だな」
「そうです。誰だか正体はわかりませんが、この案内状の差出人は明らかにカサブランカの殺人にこだわっている。それに先週末にはこんなこともありました」
大野は広瀬五月の車にセットされていたカセットテープがいつのまにかすり替えられていた一件を話した。
「つまりカサブランカを忘れるな≠ニいう警告を発している人物がいることをぼくは強調したいのです。この試写会案内状は、ロケに出かけた我々だけでなく、広くテレビ局や雑誌・新聞社にも配られている様子です。あれはアクシデントではなかったのだ、とほのめかしたがっている人物がぼくたちの周りにたしかにいるのです」
「沖田は現地の物盗りに出会ったのだ。それ以外の何ものでもない」
驚くほど大きな声を黒岩は出した。
「しかし……」
「しかしもクソもない。アラブ人の強盗にやられたのだ。そうに決まっている」
「沖田ほどの男が正面からナイフで刺されるのは、どう考えても不自然です」
「モロッコに沖田より腕力のある奴がいて、どこが不思議なんだ」
「イスラム教徒は殺人に対する厳しい戒律を持っています。たんなる金目当てで外国人を殺すような真似《まね》はしないはずです」
「そんなことはない。どこの国にだって金に目がくらむやつはいるさ」
黒岩は椅子《いす》にふんぞり返って葉巻に火をつけた。刺激の強い香りが部屋に充満した。
「でも空手の有段者なら、いくら相手が屈強の大物でも一発で心臓に致命傷を負うようなへまはしないはずです。むしろ完全に気を許した相手のほうが、攻撃に対して無防備になっていた可能性があります」
なおも大野は言い張った。
「フン」
黒岩はせせら笑いと一緒に煙を鼻から吐き出した。
「だから犯人は身内にいるというわけか。どうしてもおまえは内輪の人間から殺人者を出したいんだな」
「そんなつもりはありませんが、クサイものにはフタという姿勢も納得ができません」
「誰がいつクサイものにフタをした!」
黒岩はドンと机を叩《たた》いた。
「犯人内部説はウチにとっても翔の事務所にとっても、それからレコード会社にとっても大きな迷惑なんだ。どの業界にもウチや翔や彼の所属レコード会社の快調ぶりを快く思っていない連中がいる。奴らにとってはカサブランカでの殺人事件は願ってもないスキャンダルなんだぞ。それを国会議員の陣馬先生の力添えもあって、なんとか大騒ぎになることを食い止めているのに、内部のおまえがそんなことを言い出してどうする」
一気にまくしたててから、一息ついて黒岩は呟《つぶや》いた。
「それになあ、大野。おまえの説だって矛盾はあるんだぞ」
一転して黒岩は余裕の笑みを浮かべた。
「おれは空手こそやらないが学生時代は柔道部だった。たとえばおれがここにいて、そうだな、おれがもっとも油断する相手でか弱き女性の草壁弓子が隣にいたとする」
黒岩は公然の愛人関係にある部下の名前を平気で例に挙げた。
「彼女がさんざんおれに酒でも飲ませて、隙《すき》ありとばかりに心臓めがけてナイフを突き出したとしようか。おれにとってはまさに意表を衝《つ》かれた一撃だ。しかし、それでも最低急所をかわすように身をよじるなりするだろう。それがおまえの言うように武術を心得たものの本能的行動だな。だが同時に、心臓を刺されたとしても、死ぬまでのわずかな間で相手にできる限りの報復をするはずだ。おれだったら刺した相手の右腕を捻《ひね》り上げて骨を折るくらいのことはやるね。沖田だったらもっと強烈な反撃が可能だったろう。彼はケンカ空手の有段者だったからな。つまり」
黒岩は火のついた葉巻を大野の方に突きつけた。
「ロケスタッフの誰かが沖田を刺したのだとしたら、自分も何らかのダメージを食らっているはずだ。ところが誰もケガをした者はいない。いいか、この事実で充分だろう。今後とも社の不利益になるような噂《うわさ》は口にしないことだ。わかったら出ていけ」
「ごめんなさい。足の筋肉がつりそうだから、きょうはこれまでにしておくわ」
草壁弓子は、広瀬五月が懸命に追いついて返してきたゆるいリターンボールを左手で掴《つか》むと、ネットに歩み寄った。
「大丈夫ですか」
五月はネット越しに弓子と握手を交しながら、心配そうにたずねた。
「たいしたことはないと思うわ。久しぶりのテニスだからね。水泳やジャズダンスをしょっちゅうやっているのに使う筋肉は別みたいね」
「私も去年初めてゴルフをやった時は身体じゅうが痛くて困りました。テニスで全身の筋肉は鍛えていたつもりなのに」
二人はラケットをケースにしまうと、クラブハウスの方へ並んで歩きだした。
この成城《せいじよう》のインドア・テニスクラブは弓子がメンバーになっていたが、利用することは稀《まれ》だった。
顔立ちもプロポーションも日本人離れしている草壁弓子はテニスウェアがよく似合い、たまに顔を出すと男性メンバーから相手を申し込まれることも多かった。
広瀬五月も決してスタイルは悪くなかったが、髪をアップに束ねると卵形の顔立ちと小さな唇が目立ち、和風美人といったつくりがテニスウェアとちぐはぐな印象を与えた。
「どう、気分転換になったかしら」
弓子はやさしくたずねた。
「はい」
五月はタオルでうなじの汗を軽く吸いとって頷《うなず》いた。
「あれ以来、大好きなテニスにも行かずじまいでしたから。本当にきょうは誘っていただいてありがとうございました」
「私なんかよりずっと上手なんだから、時々ここを利用するといいわ。私がいなくてもメンバー料金でやれるようにマネージャーに言っておくから」
弓子は自分の美貌《びぼう》を活用することに巧みだった。顔なじみのスポーツクラブやレストランでは、たいてい特別扱いになる。
ロッカールームに入ると、五月は束ねていた髪をほどいた。軽く二、三度首を振ると、艶《つや》やかな髪の毛がかすかな音を立てて肩の上に広がった。
「わあ、素敵じゃない」
弓子は思わず声をあげた。
「あなたが髪を下ろすの初めて見たけど、そのほうがずっといいわよ。アップも可愛《かわい》いけれど、下ろしたほうが大人っぽくセクシーね。あ、ごめんね、ヘアメイクのプロにこんなこと言っちゃ釈迦《しやか》に説法だわ」
「いえ、自分のことはかえってわかりませんから」
五月は恥ずかしそうに笑った。
余計なことだけれど、この子は処女かもしれない、と弓子は思った。
沖田正雄と婚約はしていたが、沖田も近ごろでは珍しい硬派だったし、広瀬五月も派手《はで》な仕事場に出入りする割にはいつまでたっても初々《ういうい》しさを失わなかった。
男性のヘアメイクアップ・アーティストにはホモも多いが、女にめっぽう手の早い者も多い。
だが五月はそうした業界色に染まることのない女だった。
「ちょっと触わってみて。筋肉がこんなにパンパンに張ってるわ」
弓子は形のよい脚を五月の前に突き出した。
「わあ、すごく硬くなってますね」
テニスをやるのは二か月ぶりだったが、やはりそれなりに筋肉はなまっていたのだ。出足の快調なフットワークが、一時間たらずのプレーで息切れしてしまうとは弓子も意外だった。
「私、フロントへ行ってサロメチールか何か買ってきます」
「いいわよ、わざわざ私のためにそんなこと。早くシャワーを浴びて着替えないと風邪ひくわよ」
「いえ、草壁さんこそ冷えちゃいますから先にシャワーを使ってて下さい。お洋服を着る前に薬を塗れるように買ってきます」
そう言うと五月は財布だけ持つとロッカールームを小走りに出ていった。
(それじゃ五月の言葉に甘えて、先にシャワーを浴びようかしら)
他人の風邪を心配したけれど、弓子の方こそ風邪らしく、少し頭も痛かったし鼻もつまり気味だった。外も氷雨がパラついているし早く着替えてしまわないとこじらせてしまいそうだ。三日後には北海道のロケがあるから、それまでには体調を完璧《かんぺき》にしておく必要がある。
弓子は鼻をかむためにティッシュ・ペーパーを探した。うっかり自分のは切らしてしまっている。五月のテニスバッグにふと目をやると、中にポケットティッシュがのぞいている。
(ティッシュ・ペーパーくらい勝手に使ってもいいわよね)
弓子は鼻をくすんと鳴らして、五月のテニスバッグの中に手を伸ばした。
が、うっかりティッシュと一緒に手帳を掴《つか》んでしまった。手帳はすぐに戻すべきだったが、心とは裏腹に弓子の手はそれを開いていた。
正直言って弓子に他意はなかった。
もののはずみで、ほとんど機械的な行為としてパラパラと手帳をめくってみた。
たまたま栞《しおり》のはさまっていたページで弓子の指が止まった。
そこは巻末のメモ欄だった。たいした内容を期待していなかった弓子の目が、そこで釘《くぎ》づけになった。
≪私は知っている。
正雄さんが殺されたあの日
夜中にこっそりとホテルを抜けだした人物がいることを。
その人は知らん顔できょうも仕事をつづけている。
許せない!≫
[#改ページ]
V 火曜日の復讐
「フレッド、起きて、出動よ」
烏丸ひろみは捜査一課のソファで仮眠していたフレッドの頬《ほお》を、両手ではさむようにパンパンと叩《たた》いた。
少々荒っぽいやり方だが、こうでもしない限り起きてくれないのだ。
「ん、いま何時」
「五時半よ」
「朝の、夜の?」
「何寝ぼけてんの。朝の五時半だってば」
外は真っ暗だからフレッドの言い分も無理はないのだが、ひろみは容赦なかった。
「はい、歯ブラシ、歯みがき、タオル」
さっさと彼の机から洗面セットを出して突きつける。
「三十秒以内にすませてね」
「ひろみは? あ、ノーメイクか」
「お化粧しなくたっていいの。私、肌きれいでしょ。だからね」
「顔と手の肌しか見たことないから何とも言えないな」
「バカ」
無駄な口をたたいているうちにフレッドはソファから降りて、どうにか正常な大脳の活動状態を取り戻しつつあった。
「現場は?」
歯ブラシで口をモゴモゴさせながらフレッドがたずねた。
「赤坂のフェアモント映像のオフィスよ」
「コロシ?」
「イエース」
「ガイシャは?」
見た目は外人のフレッドがガイシャ≠ネどと言うと妙なものである。
「フェアモント映像のプロデューサー黒岩拓三。きのうブリーフィングしたばかりの、マネキン人形飛び込み自殺がらみのカサブランカ殺人事件、あれの関係者よ」
「OK」
フレッドはひろみにタオルを投げつけた。
もう目つきは獲物を追う猟犬のそれになっている。
「きっかり三十秒だ、行くぞ」
「かっこつけないで」
ひろみは回し蹴《げ》りの寸止めをフレッドのお尻《しり》に見舞った。
「二分三十秒もたってるでしょ」
「どこにいるのかと思ったら、キミはそんな場所にいたのか」
寝ぼけ声で電話に出た草壁弓子を、フェアモント映像の総務部長は一喝した。
「何度自宅に電話しても応答がないから諦《あきら》めていたが、さっき連絡をとった大野君が、もしかしたらと教えてくれたのでかけてみたんだ」
弓子は三番町にある黒岩のマンションのダブルベッドの上でシーツを胸元に巻きつけて電話に出ていた。暖房は一晩中つけっぱなしにしてあるので寒くない。
彼女は、別に男と寝る場合でなくても、マリリン・モンローばりの全裸でベッドに入るのが習慣だった。風邪気味のときでもこの習慣を変える気はなかった。
「そこが黒岩君の別宅だということくらいわかっている」
総務部長はなおも怒気を含んだ声で続けた。
「そんなことがご遺族に知られてみろ。どんなにショックを受けられることか……」
「ご遺族?」
弓子はきき返した。
「そうだ。黒岩君が何者かによって殺された。ナイフで心臓を一突きだよ」
「どこで……」
「我が社のオフィスでだ。彼の部屋で殺されているのを守衛が見つけたんだ」
「翔、たいへんだ、起きろ」
柴垣翔が独り住まいをしているマンションの電話が午前六時かっきりに鳴った。
受話器を取るなりマネージャーの山添の声が響いた。
「何だよ、きょうのスケジュールはゆっくりだったろ」
「それどころじゃない。黒岩さんが殺されたぞ」
「えっ!」
翔は電話口で大声を出した。
「草壁ディレクターから連絡が入ったんだ。夜中にフェアモント映像のオフィスで殺されたらしい」
「誰に」
「わからない」
「どうやって殺されたんだよ」
「ナイフで心臓を一突きだ」
「………」
「わかるか、翔。このやり口はカサブランカで殺された沖田のケースとまったく同じだぜ」
「ウソ……」
大野洋治から報《しら》せを受けた広瀬五月の第一声がこれだった。
「いまから迎えにいくから待っててくれ」
「迎えって?」
「ぼくの家からフェアモント映像に行くには、きみのマンションが通り道にあたる」
「やめてよ」
五月は叫んだ。
「人が殺されたところなんて行きたくはないわ」
「金曜日のことを覚えているだろう」
大野はたたみかけるように言った。
「誰かがきみのカーステレオに『カサブランカ』のテープをかけた。そいつは明らかに、柴垣翔のカサブランカ・ロケに参加した奴《やつ》に悪意を持ったいやがらせをしている」
大野は、業界に配られた『カサブランカ』試写会の案内状のことを話した。
「その案内状なら私のところにもきたわ」
五月は震える声で、答えた。
「そうだろう。カサブランカ・ロケのスタッフに無言の脅迫をしかけている奴がいる。だから、少しでもそいつの尻尾《しつぽ》を掴《つか》むために現場へ行ってみるんだ」
「いやよ」
「このまま放っておけば、ぼくたちの身が危ないかもしれない。そいつがビデオのスタッフを皆殺しにしない保証がどこにある」
「とにかく私は行かないわ」
「ぼくたちの手で犯人を探し出すことが沖田に対する義務だろう」
「私は私で正雄さんのことを考えているわ。お願いだから構わないで」
五月は、大野が言うぼくたち≠ニいう言葉に含まれる微妙なニュアンスを感じとっていた。
「もうこのことで私のところに電話をかけるのはやめて下さい」
電話は五月の方から切れた。
大野は意外な面持ちで受話器を握りしめていた。
「こんな奇妙な殺人現場は見たことがない」
一足先に現場へ到着していた財津警部は、ひろみとフレッドがくるなりそう言って首を振った。
所轄の赤坂署員が現場検証に当たっていたが、黒岩の死体はまだそのままにしてあった。
黒岩の部屋はオフィスの一番奥に位置していたが、そこに一歩足を踏み入れるなり強烈な師走の寒風がひろみたちを襲った。
「アワワワワ」
寒がりのフレッドが両腕を抱えるようにして足踏みした。冬のニューヨークに降り立ったとたん、寒さで失神したというまことしやかな伝説を持つ男である。
「窓が開けっ放しよ」
ひろみがすぐに気がついた。
昨日から降り続いている雨が窓から吹き込んで、窓際にある黒岩の机を濡《ぬ》らしていた。
死体は窓から一番離れたミニ・ホームバーのそばにあった。
黒岩拓三はスーツ姿であおむけに倒れており、心臓のところに深々と果物ナイフが突き立てられていた。
「犯人は窓から侵入したんでしょうか」
ひろみの問いかけに、財津警部は即座にノーと答えた。
「たしかにその窓は人間が楽に出入りできる大きさだし、十階建てビルの八階だという高さを怖がらなければ、充分そういったことは可能だろう。しかし」
財津警部は大げさに手を広げた。
「開けっ放しだったのは窓だけじゃなかったんだ。この個室のドアが開いたままだったのはもちろん、オフィスぜんたいの暗証番号式のドアも開けっ放しだった。それだけならまだ驚かない」
警部は黒岩プロデューサーの部屋を歩き回りながら喋《しやべ》りつづけた。
「この部屋の様子をよく見てくれ。黒岩の机の引き出しがぜんぶ引っ張り出されている。つまり開けっ放しの状態だ」
「犯人が何かを探してたのかもしれませんよ」
寒さで鳥肌を立てた顔でフレッドが呟《つぶや》いた。
「ふん」
肯定とも否定とも受けとれる鼻息を洩《も》らして、財津は同じ捜査一課のニューフェイスをギロッと睨《にら》んだ。
「それだけじゃない。机の上に出してある瓶入りビタミン剤の蓋《ふた》が開けっ放し。そのそばのペンスタンドについているインクつぼの蓋も開けっ放しだ」
「そういえばオーディオセットもそうだわ」
ひろみが指さした。
「レコードプレーヤーの蓋は開いてるし、カセットやCDデッキもイジェクトボタンを押したままで蓋が開いている」
「ホームバーのガラス扉も冷蔵庫の扉も開いたままだよ」
フレッドが、かがみこんで調べた。
「ウィスキーのボトルには手がつけられていないけど、ミネラルウォーターの栓はぜんぶ抜かれている――つまり開けっ放しだ」
「マガジンラックの周りに週刊誌が散らばっているだろう。中には吹き込んできた風で閉じてしまったものもあるが、その大半はページを開いた状態で床に置かれてあった。それからそこの隅を見てくれ」
財津が顎《あご》で示した一角には、包装紙が乱雑に散らばっていた。
「早々と黒岩に届いた御歳暮の類《たぐい》が積み上げられていたらしいが、これまたすべての包みがほどかれている。しかもカニ缶、海苔《のり》の缶、クッキー、サラダオイル……それらの贈り物のことごとくが蓋を開けられている」
「でもウィスキーやブランデーの御歳暮には手がつけられていませんよ」
フレッドが指摘したが財津は聞こえないふりをした。まだ、決めの一言が残っているのだ。
「そして、ごていねいなことに」
財津はもったいをつけて死体を指さした。
「ホトケさんの社会の窓まで開けっ放しだ」
「密室の殺人というのはミステリーでよくあるけど、何もかもが開けっ放しの部屋で起きた殺人なんて聞いたことがないわ」
本庁へ戻る車の中で、ひろみはフレッドに話しかけた。ハンドルを握っているのはフレッドである。
「だけど犯人がダテやスイキョーであんな真似《まね》をしたとは思えないね」
「フレッド、ほんとによく日本の慣用句を知ってるのね」
「だから何度も言ってるだろう、ぼくは日本人だって。見た目は外人でもアタマとココロは日本人だよ」
「ごめんね、まだなれていないからヘンな感じなの」
「まあいいけどね」
フレッドはひろみの方を向いて笑った。
「ちょっとフレッド危ない。よそ見しないでよ。やだ、警察の車が事故なんか起こしたら最低よ」
「ひろみもこうやって近くで見ると可愛《かわい》いな、と思ってさ」
「ねえ、前向いて運転してよ」
「ぼくの視野は二百七十度あるから平気なの」
「バカなこと言ってないで、お願い」
「はいはい」
フレッドが前に向き直ったので、ひろみはため息をついてシートにもたれかかった。
「あなたの運転だと寿命が縮まるわ」
「ほら、こんなこともできるよ」
こんどはフレッドはハンドルから両手を放してバンザイすると、アクセルをぐんと踏み込んだ。
「ダメーッ!」
ひろみが慌てて横からハンドルを掴《つか》んだ。
「ジョーダン、ジョーダン。大丈夫だってば。これで直進しなかったら車のバランスが狂っているから修理に出したほうがいい」
「もう、フレッドなんか大っきらい」
「きらい?」
「冗談のレベルが日本人してない」
「そうかなあ」フレッドは肩をすくめた。
「そうよ」
ひろみは素っ気なく答えて外の景色に目をやった。
「わかったよ。謝る、ひろみ。話題をもとに戻そう。ね、事件のことをさ、検討しようよ」
「ほんとにマジメになってくれる」
「モチロン」
「じゃ、いいわ」
ひろみはプッとふくれてからホッペタの風船を人差し指で弾いて破裂させ、ニコッと笑った。
フレッドも微笑《ほほえ》み返すと、いきなり右手で運転席の窓を開けた。雨はあがっていたが、かわりに刺すように冷たい風が舞い込んできた。
「さむうい、何をするのフレッド」
「走りながらじゃ、ちょっと厳しいな」
フレッドは独り言を言って車を路肩に停めた。
「ひろみ、そっちの窓も全開にしてくれ。後部座席の窓も開ける」
さらにフレッドはコンソール・ボックスの蓋《ふた》を開け、灰皿を引き出し、レバーを引いてボンネットとトランクも開けた。
「黒岩拓三の殺害現場は、たとえて言えばこんな具合だったわけだ」
「あらゆるものが開けっ放しだったわ」
ひろみもフレッドの意図を理解してようやく安心した顔になった。
「黒岩拓三はあおむけに倒れ、果物ナイフで心臓を一突きにされていた」
フレッドはリクライニング・シートを倒してあおむけに寝そべり、目を閉じた。
「そして、ごていねいに死体の社会の窓まで開けっ放しになっていた」
フレッドはズボンのジッパーを引き下ろした。
「あーっ」
ひろみは大声をあげてフレッドの頬《ほお》を平手打ちにした。そこの窓≠ゥらは赤いチェックのトランクスがのぞいている。
「やだやだやだ。チャック下ろしてよ。じゃなかった、上げてよ、お願い」
ひろみはすっかり慌てて赤くなっている。こんなところを通行人に見られでもしたら大変だ。
しかしフレッドは平然と目を閉じたまま呟《つぶや》いた。
「すべてがこのように開けっ放しの部屋だったのでありました」
「ありました、じゃないわよ。もう実験なんかいいから本庁へ帰ろう」
ひろみは運転席のシートレバーに手をのばしてフレッドの座席を起こそうとしたが、そうすると妙な体勢になるので、ためらった。
「しかし、奇妙な殺人現場において、もう一つ奇妙なことがあった。これであります」
フレッドは腰を浮かせてゴソゴソやっていると、尻《しり》のポケットからカティ・サークのミニチュア瓶を取り出した。
「あなた、そんなものを持ち歩いてるの。もう頭が痛くなってきたわ」
ひろみは額に手をやって首を振った。いったいこのガイジン刑事は何なんだ。
「冷え症の刑事には欠かせない携帯品なのです。とくに冬場の捜査にはね」
そこで突然フレッドは真面目な顔つきになり、ジッパーを引き上げると、リクライニング・シートの背を元の位置に戻して起き上がった。
「いいかい、ひろみ」
フレッドはハンドルに片手をかけて、ひろみに向き直った。
「わ、急にマジメな顔」
「いつだってマジメだよ、ぼくは」
「ううん、フレッドって豹変《ひようへん》するタイプ」
「いいから、ちゃんと聞きなよ、刑事さん」
フレッドは片方の手でウィスキーのミニチュア瓶を振ってみせた。
「何の目的か知らないが、犯人は現場を開けっ放しの部屋≠ノしたかった。そして、えらい手間をかけて、ありとあらゆるもののフタを開けて回った。ところがそこまで異常なこだわりを持ちながら、犯人がただひとつ手をつけなかった品物があった」
「それがウィスキーのボトルね」
ひろみもフレッドの真剣さに気圧《けお》されたのか、一瞬前の出来事を忘れて相槌《あいづち》を打った。
「そのとおり。ミニ・ホームバーのコーナーでは栓抜きを使ってミネラルウォーターの瓶が五本も開けられていたが、ズラリと並ぶウィスキーのボトルは、どれも蓋《ふた》がしたままだった。
黒岩|宛《あて》に届けられた御歳暮にも片っぱしから手をつけていたが、ウィスキーの贈答品だけは包装紙すら破かれていなかった」
フレッドはミニチュアのウィスキーの瓶の蓋を開けた。
「犯人にとって、ウィスキーの栓だけは開けたくなかった何らかの事情があったんだ」
「ウィスキー以外のすべてのものを開けっ放しにしたかった事情だってわからないわ」
「それがわかったら事件は半分解決したようなものかもしれない」
フレッドはフロントガラス越しに前を見つめた。
「黒岩拓三は柴垣翔のカサブランカ・ロケのプロデューサーだ」
「そして、カサブランカで殺されたビデオエンジニアの沖田正雄とまったく同じ手口で刺し殺された……。こうなると、最初の事件がモロッコでの流しの犯行だなんて見方は希薄になりそうね」
「カサブランカ警察は最初から日本人犯行説を主張しているんだろ」
「現地人に襲われたという日本マスコミの論調に憤慨しているらしいわ」
「怒るのはあたりまえさ。それに現地へどっと取材に詰めかけた連中がデタラメをやったらしいじゃないか」
「日本の恥ね」
「たしかにね。ぼくは日本人のそういうところが大きらいだ。マスコミの連中だって、一人一人はジャーナリズムの何たるかを認識する良識を持ちあわせているに違いないのに、ブームとかフィーバーとか事件の渦中に入ると冷静さをかんたんに失うんだ。
ひろみ、賭《か》けてもいいけど夕刊各紙で論調はガラッと変わるぜ。カサブランカ殺人事件はやはり日本人の犯行か。赤坂、謎《なぞ》の逆密室事件の暗示するもの≠ニか言ってね。それでカサブランカはまた大騒ぎだ。取材陣だって、仕事でまたモロッコへ行けるんだから大喜びだよ」
フレッドは彼らの心理を見抜いていた。
「本庁に戻ったらカサブランカ警察に電話を入れよう。マイクやカメラを持った大群が押し寄せてこないうちに、日本側捜査陣としての見解や情報をきちんと与えておく必要がある」
「フレッド、言葉は?」
「アラビア語は喋《しやべ》れないけれどフランス語は不自由しないからね。たぶん相手もそれでOKだろう」
「フレッド……」
ひろみは金髪の青年刑事をじっと見つめた。
「何?」
「少しだけ見直したわ」
「たった、少し?」
フレッドは不満そうに唇を尖《とが》らせた。
「そう。ちょっとだけね」
ひろみは無邪気な笑顔を見せた。
「どうしておれの周りにこういうことばかり起こるんだよ」
テレビ局からレコード会社へ移動する車の中で、柴垣翔はマネージャーに八つ当たりしていた。
「カサブランカ・ロケの関係者が二人も殺されて、これじゃ新曲のイメージが台無しじゃないか。こんなことになるんだったら金を使ってモロッコまでビデオを撮りに行くことなんかなかったんだ」
「落ち着けよ、翔」
山添は、ただでさえ頬骨《ほおぼね》の出た顔であるのに加え、疲労でおちくぼんだ目の周りにクマを作り、骸骨《がいこつ》のような形相になっていた。
「落ち着いたからどうなるんだ。殺された人間が生き返ってくれるのかよ。おれのイメージが元通りになるのかよ、え」
翔は山添の耳もとでかみつくように叫んだ。
「おまえのイメージなんて損なわれていないよ」
「嘘《うそ》つけってんだ」
翔は怒鳴った。スターになった彼は、十歳年上のマネージャーをスタッフとして尊重するといった感覚をとっくに失《な》くしていた。マネージャーとは小間使いである。翔も若い人気スターにありがちな勘違いに陥っていた。
「紅白歌合戦やレコード大賞が控えているのに、事件のおかげでみんながおれを色眼鏡で見るじゃないか。ドタン場での紅白辞退だなんてごめんだぜ」
「賞レースは人に評価されるのがイヤだから出ない、紅白もイメージに合わないから選ばれても断ると秋口までゴネていたのはどこの誰なんだ」
山添もムッとして言い返した。
「結局、翔も人並みの歌手だったってことだな」
「山添!」
「いつからおれを呼び捨てにできるようになったんだ?」
「そっちこそおれの稼ぎで母ちゃん子供を養ってるくせに、でけえ面すんなよ」
「翔」
山添は腹の底から声を絞り出した。
「おまえ、そういうことを言っちゃお終《しま》いなんじゃないのか」
「お終い?」
翔はフッと笑った。
「別にいいよ、お終いでも。社長に言って新しいマネージャーをつけてもらうさ。人材は山添ひとりじゃないんだし」
「社長はタレントにそういう真似《まね》はさせない人だ」
「どうだか言ってみなきゃわからねえだろ」
「調子に乗るなよ、翔」
山添は片手で翔の顎《あご》を持ち上げた。すぐにその手は翔に振り払われたが、マネージャーは怒りを込めた笑いを浮かべてタレントを睨《にら》みすえた。事務所の運転手は、聞かぬふりで運転を続けている。
「おまえ、バレてないとでも思ってるのか」
「何が」
「草壁弓子とのことだよ」
翔の顔からみるみる血の気が引いた。
「おれはダテに十五年もマネージャーやってるわけじゃないんだ。そこらのチンピラ・マネージャーみたいにごまかせると思ったら大きな間違いだぞ」
山添は凄味《すごみ》を利かせた。
「何がよくって三十過ぎのキャリア・ウーマンとくっついたのか知らないがね。ま、おおかた、あっちの具合がよかったんだろうけどな、黒岩仕込みで」
山添は唇を歪《ゆが》めた。
「そんなことがバレたら、それこそおまえの将来はないだろうな。同年代の歌手とできたというより始末が悪い」
「どうしてわかったんだ」
翔はふてくされ顔をすることでなんとか動揺を隠そうとしていた。
「これまで新曲のプロモーション・ビデオを撮ったときには、必ずレコーディング・ディレクターが立ち会っていた。ところが今回のカサブランカ・ロケに関しては、示し合わせたように、おまえと草壁の両方から、レコーディング・ディレクターの葉山さんはこないほうがいいと言い出した。草壁の方は予算を楯に、葉山氏の分までアゴアシ代が出ないと言う。おまえはおまえで、葉山さんが現場にくると緊張するからなどと、柄にもなくしおらしいことを言う。
おれは一応仁義ってものがあるから葉山さんのところへ行ったんだ。そうしたら彼は事情を聞くなり苦笑してこう言った。山ちゃん、草壁と翔はおれの目が恐いんだよ、ってな」
山添は黙りこくっている翔を一瞥《いちべつ》して、さらに続けた。
「おれも葉山さんから指摘されるまで気づかなかったわけじゃない。おまえと草壁の会話の端々から、たんなる親しさ以上のものを嗅《か》ぎとったし、草壁が他の仕事で海外ロケに出かけた月に限って、おまえのマンションの国際電話代がはねあがった。かけた国と奴《やつ》の仕事先もほとんど一致していたしな」
「わかってたら何で黙ってたんだよ。そういうことは注意するのがマネージャーの役割だろ」
「おまえっていう奴は勝手な男だな、翔」
山添は言った。
「だからこそ黙っていたのさ。切り札としてね」
「………」
「どうした、すっかり大人しくなったじゃないか」
「それで、どうするつもりなんだよ」
「何を」
「おれたちのことをさ」
「おれたちねえ、結構な言葉だ。おれたち……」
「え、どうするんだよ。社長に言いつけるのか、マスコミにリークするのか」
「まあ慌てなさんな」
山添は翔の肩を叩《たた》いた。
「社長にも言わないし、マスコミに流すだなんてとんでもない。誰が可愛《かわい》いタレントを裏切るもんか。下手にバレたら、黒岩との三角関係まで疑われて、一気に容疑者扱いにもなりかねないぜ。なあ、そうだろ」
翔は不安の目でマネージャーを見た。
「いつまでもおれに逆らわないイイ子でいることだ。そうしていれば、おれたちの関係はいままでどおり平和に運ぶってもんさ。わかったか、翔」
「………」
「わかったら返事をしろ!」
「わかったよ。クソ」
「クソは余計だ、言い直せ」
「わかりました、山添さん」
山添はわざとらしい声をあげて笑った。
「それでいいんだ、翔。おい、荒井」
山添は運転手に向かって言った。
「いまの話は聞かなかったことにしろ。喋《しやべ》ったらタダじゃおかねえぞ」
事務所の運転手は硬い表情で頷《うなず》いた。
(これも山添の作戦だ)
と、翔は思った。
わざと事務所の若手に翔のスキャンダルを聞かせて、翔を精神的に包囲する。いかにもベテラン・マネージャーらしいやり口だった。
(山添の野郎……)
翔は心の中で歯ぎしりした。
(草壁さんのことさえなかったら、ぶっ殺してやる)
[#改ページ]
W 水曜日の疑惑
事件の翌日から関係者の本格的な取り調べが始まっていた。
財津警部は最初から攻撃の焦点を草壁弓子に絞っていた。
黒岩拓三の死亡推定時刻は火曜日の午前一時から二時の間と考えられた。
カサブランカ・ロケの関係者で、その時間帯に確たるアリバイを持っている者は一人もいなかった。
草壁弓子、大野洋治、柴垣翔、山添宏、広瀬五月、さらに沖田正雄の母親である佳子も含めて全員がその時間帯には一人で寝ていたというのである。
沖田佳子にまで捜査の視点が広がっているのは、柴垣翔の弟、次郎の乗務する電車にマネキン人形が投げ込まれたり、広瀬五月のカーステレオのテープをかけ替えたり――この一件は広瀬五月から警察に報告がなされていたが、そうした一連のイヤガラセの主謀者が佳子自身ではないかという疑いが持たれていたためである。
息子を失った母親が、黒岩拓三こそ正雄を殺した真犯人と思い込んで犯行に及んだ可能性もあるからだった。
この夜がたまたま佳子の経営する小料理屋の定休日に当たっていたことも、彼女のアリバイを証明できない要因になっていた。
一方、柴垣翔のマネージャー山添宏も、妻子が郷里《さと》帰りしていたために深夜のアリバイを立証する者がいなかった。
柴垣翔、大野洋治、広瀬五月はいずれも独り住まいのためにアリバイが成立しなかった。
しかし捜査陣がもっとも怪しんだのは草壁弓子だった。彼女が黒岩プロデューサーの愛人であることは公然の秘密だったし、犯行時刻に被害者のマンションに一人で寝ていたということじたい、疑惑の目で見られても仕方なかった。
「草壁さん、あなたは日ごろから黒岩氏のマンションの鍵を共有していたというわけですね」
財津警部は、それにしてもこいつはいい女だと思いながら、とりあえずこわもてを取りつくろった。
「はい。私も自分のマンションが町田にあるものですから、仕事柄、都心に近い拠点がどうしても必要でしたの」
ノーブル≠ニいうヤツだな、と財津は感じた。この女から発散する匂《にお》いはノーブルな気品に満ちている。
たぶんベッドの上では人が変わったようになるのだろうが、オフィシャルな場に出た時の背筋の伸ばし具合、目もと口もとの引き締め方、両手のあしらい方、そういった一つひとつの所作に、自らの美貌《びぼう》に対する傲慢《ごうまん》なまでの自信が溢《あふ》れていた。
取調室にはフレッドと烏丸ひろみ両刑事が同席していたが、ひろみも弓子に比べれば少女も同然だ、と財津は思った。
「黒岩氏の自宅は埼玉県の入間《いるま》市にある。やはり同じ理由で都心に拠点が必要だったのですかな」
「そうだと思います」
「しかし世間の目はそうは見んでしょう」
「と申しますと?」
草壁弓子は首をかしげて見せた。
「千代田区三番町のマンションは仕事の拠点というより、あなたたち二人の愛の巣だった。違いますか」
「まあ、愛の巣だなんて」
弓子は上品に笑った。
笑われてみると愛の巣≠ニはいかにも陳腐な表現だったと気づき、財津は熊のような顔を赤らめた。
「警部赤くなってる。可愛《かわい》い」
ひろみがフレッドに耳うちした。
「草壁弓子の美しさに参っているんだぜ」
フレッドも囁《ささや》き返した。
「私よりいい女かなあ」
「当然だろう」
次の瞬間、ひろみがフレッドの太腿《ふともも》を思い切りつねったので、彼は口をあ≠フ字に開けて目を丸くした。
「ところで」
財津は後ろのやりとりに気づかず、頬《ほお》の赤さを気にしながら質問を続けた。
「月曜日の夜から火曜日の未明にかけてのあなた自身の行動と、それから黒岩氏と最後に連絡をとったのはいつなのかということについて、詳しくお聞かせ下さい」
「はい。私はあの日、夕方五時から六時ごろにかけて、成城のテニスクラブで広瀬五月さんとテニスをいたしました」
「ほう? あの日は一日中雨が降っていたはずですがね」
「そこはインドアのコートですの」
「なるほど」
テニスといえば外でやるものと思い込んでいた財津は、また赤くなった。
「しかし広瀬五月さんが相手とは、よりによってという感じですが」
「彼女、カサブランカの一件でフィアンセの沖田さんを亡くし、すっかり精神的に参っていましたでしょう。ですから、あの場にいた者としてなんとか勇気づけてあげなくてはと思ってお誘いしました」
「それで?」
「はい、本当は二時間くらい思う存分汗を流すつもりでしたが、ひさしぶりのテニスで足の筋肉がつりそうだったのと、もともと風邪気味だったものですから一時間で切り上げて、それから近くのレストランで五月さんと一緒に食事をいたしました」
草壁弓子は何かを思い出すように宙を見つめ、上唇を軽く舌で舐《な》めてからまた喋《しやべ》り出した。
「食事の席で中座して、麻布《あざぶ》十番のアオイスタジオに電話を入れました。そこで黒岩さんが別のチームで作っているCFのアフレコに立ち会っていたからです」
「どんなことを話されました」
「三日後に行く北海道ロケの打ち合わせと、それから……」
「それから?」
「恋人どうしがふつうに電話で話すようなことですわ」
弓子はよけいな詮索を封じる口調で言った。
「その時に夜の約束はなさいましたか」
「夜の約束?」
弓子は咎《とが》めるように眉《まゆ》をひそめた。
「つまりアレです。今夜、マンションで会おうかという」
財津はどうも勝手が違っていた。この女を尋問すればするほど、自分が下品な男に思われてくる。
「いいえ、いたしませんでした」
「約束はしなくても、あなたが夜、三番町へ行くことは黒岩さんは推測できたんでしょう」
「さあ、別に私たちは互いに干渉しあいませんから」
弓子はわたくし[#「わたくし」に傍点]たち≠ニ発音した。わたしたち≠ナはないところが意図的な演出なのかどうかは、財津に判断がつかなかった。
「わかりました。先を続けて下さい」
財津は聞こえるようなため息をついた。
「五月さんと成城で別れたのが八時半ごろでした。私はそのまま自分の車で六本木に向かい、アクシスビルの裏手にあるバーでスタイリストとロケの衣裳の打ち合わせをして、十時ごろそこを出ました。その後、遅くまで開いている薬局で風邪薬を買って、十時半すぎ――もう少し遅かったかもしれませんけれど、そのころに三番町のマンションに着きました」
「その時は黒岩氏はどこにいたんです」
「まだアオイスタジオにいました」
「どうしてわかるんです」
「私がまたスタジオに電話を入れたからですわ。テレビで十一時のニュースをやっていましたからそのころです」
その証言は、スタジオで作業をしていたスタッフに聴取した結果と一致していた。
「その時の会話は? また恋人特有のざれごとですか」
「いいえ。ちょうど作業が一段落して、立ち会っていたスポンサーの偉い方を外まで送るからということで、ゆっくりと話す間もなく電話は切れてしまいました」
「それがお二人の最後の会話でしたか」
「そうです」
「具体的に、黒岩氏は最後に何とおっしゃっていましたか」
「これから軽く腹に何かを入れて、いったん社に戻る、と言っていました」
「それだけですか」
「それだけです。たぶん社から電話が入ることはないだろうと思っていましたから、私もお風呂《ふろ》に入ってすぐベッドに横になりました」
「なぜもう電話がかかってこないと思ったのです」
「成城のレストランから電話したときに、風邪気味であることを伝えましたから。きっと私がすぐやすみたいことを察してくれたと思うんです。あの人はそういうところに気の回る優しい人でしたから」
草壁弓子は涙を浮かべた。
彼女が答えた黒岩拓三の行動は、関係者の行動とほぼ一致する。
午後十一時十分にスポンサーを送った後、黒岩はスタッフ数人をつれて近所のラーメン屋でビールを二杯とラーメンを腹に入れている。
その店を出たのが零時前後。あとは黒岩の単独行動で正確なところは不明である。その夜、午後十時以降にフェアモント映像のオフィスに残っていた社員は一人もいなかったのだ。
「草壁さん、ちょっとぶしつけなことを伺いますがね」
「はい」
「あなた、黒岩さんが死ぬことによって金銭的な利益を受けることはありませんでしたか」
「いいえ」
弓子は、そんなことをたずねられることからして悲しいと言わんばかりに、唇をかみしめて首を横に振った。
「調べていただければわかりますわ。三番町のマンションだって全額黒岩さんの出資ですし、私が生命保険の受取人になっていることもありません。それに……私、愛人ではございませんから、お金のようなものを黒岩さんからいただく立場にはないのです」
「わかりました」
そう言って財津はひろみたちの方に向き直った。
どうも美人は攻めにくい。
その顔にはそう書いてあった。
重要な情報は広瀬五月によってもたらされた。
彼女の場合は質問役にフレッドが回っていた。
最初は五月も日本語ペラペラの刑事に唖然《あぜん》としていたが、彼の巧みな誘導で次第に口がほぐれてきた。
フレッドは、もっぱら今回の事件とカサブランカの事件の関連性に質問を集中した。
「そもそもカサブランカであなたの婚約者が刺し殺されたという一件を、広瀬さんはどう捉えておられますか。つまり、沖田正雄さんは、なぜ殺されたかということですが」
広瀬五月が悲しみの混じった疑わしそうな目を向けたので、フレッドは急いでつけ加えた。
「とりあえずは捜査権がモロッコ側にあるために、日本の捜査陣が何の意見も持っていないかのように感じていらっしゃるかもしれませんが、我々は我々なりに内偵をすすめているのです。少なくともマスコミの論調のように、現地人による流しの犯行という見方には賛成しかねます。むしろ、誰がマスコミ操作をしてそのような意見を広めさせたかというほうに興味があるくらいです」
フレッドの言葉に、五月は安堵《あんど》の色を見せた。
「我々も事件発生当時とはスタッフを組み替えて、新たな視点からカサブランカ殺人事件を見つめ直そうとしていた矢先なんです」
財津警部が脇《わき》から補足した。
「ですから、もう一度、なぜ沖田さんが殺されたのか、あなたなりの意見を聞かせていただきたいのです。こんなことは申し上げにくいのですが」
財津は少し間をおいてから続けた。
「亡くなられた沖田さんに関しては、必ずしもいい話ばかりが我々の耳に入ってきているわけではないのです。
なるほど婚約者のあなたにとっては最高の男性だったかもしれないが、一方ではかなりアクの強い性格でもいらっしゃったようですな」
これでも財津はオブラートに包んだ言い方をしたつもりだった。
聞き込みをつづけているうちに、意外にも沖田正雄が評判の悪い男であることがわかってきたのである。
いわく、あいつは打算的な男だ。陰で何を考えているかわからない。裏表がありすぎる……等々、言いたい放題を言う人間もいた。
「彼のそういった欠点には私も気づいていました。なんとか直してあげたいと思っていたんですけれど、私の前ではそうしたイヤなところをめったに見せる人ではなかったんです」
広瀬五月は、アップに詰めた額の生え際に手をやってから、うつむき加減に答えはじめた。
「いろいろな人から怨《うら》みを買いやすい性格だったことはたしかです。たぶん、あの人は一緒に行ったロケ・スタッフの誰かに殺されたのだと思います」
五月は膝《ひざ》の上に置いた両の拳《こぶし》を握りしめた。
「彼が殺されたのは朝の四時から五時の間ということですが、そんな早朝にホテルを抜け出して国連広場へ出かける必要なんかなかったはずなんです」
「沖田さんはカメラマンの大野さんと同室でしたね」
フレッドがたずねた。
「はい」
「ところが大野さんはぐっすりやすんでいたため、沖田さんが抜け出したことにまったく気づかなかったという」
「それはありうることだと思います。ちょうどロケの全日程が終わって、スタッフも安心感と同時に疲れがドッと出た夜でしたから」
「二人部屋は彼らだけで、あとは全員シングルでしたね」
「正確に言えばツインベッドルームのシングル使用《ユース》です。黒岩プロデューサーは他の人と同室になるのを嫌っていましたし、草壁ディレクターも一人部屋がいいと言われました。だから残る女性スタッフの私も必然的に一人部屋になったのです。翔クンはタレントさんですし、今回の主役ですから当然一人部屋。したがって山添マネージャーも一人になったわけです」
黒岩と草壁は別の理由で一人部屋にしたかったのだろうが、フレッドは、いまその話題を持ち出すことは避けた。
「そうなると夜中――というより明け方近くだったのかもしれませんが、沖田さんがホテルを抜け出すと同時に、誰かがその後を追ったとしても、他の人はまったく気づかずにいて不思議はないわけだ」
五月は少しためらってから、はいと答えた。
「あれ、違うんですか」
フレッドは五月の逡巡《しゆんじゆん》を見逃さなかった。
「い、いえ、その通りだと思います」
フレッドは広瀬五月の日本的な顔だちをじっと見つめていたが、相手はそれ以上の反応を示さなかった。しかし、何かを隠していることは間違いない。ひろみも財津警部も同じことを感じていた。
「広瀬さん、あなたとしては、沖田さんが誰かにおびき寄せられて――表現が変かな――誰かに誘い出されて、夜明け前の国連広場に足を運んだと考えるのですね」
「ええ」
「誘い出したのが誰か、という点は後回しにするとして、最初にもおたずねしたことですが、なぜ沖田さんは殺されたのだと思いますか」
「秘密です」
「え?」
フレッドがたずねると同時に、ひろみと財津が五月を見つめた。
「秘密を知っていたからだと思います」
「何の秘密を?」
「翔クンのです」
「………」
「人気歌手柴垣翔の秘密を知っていたから、彼は殺されたのに違いありません」
「初動捜査のスタッフは何をやっていたんだ」
広瀬五月が帰ったあとで、財津警部は怒りをあらわにして机を叩《たた》いた。
「殺された沖田正雄と歌手の柴垣翔は十一年前に接点があったんじゃないか。二人の人生は法師温泉の近くでクロスしていたんだ」
正雄の母、沖田佳子は早くに夫を亡くし、正雄を抱えて東京から福岡、福岡から広島、広島から神戸と繁華街を転々としながら、水商売の手伝いなどで生計を立てていたが、今から十一年前、正雄が十五歳の時に、一人の放浪詩人と知り合った。
その男は、佳子がつとめていた居酒屋に一回だけ顔を見せたのだが、水商売の世界に浸りきっていた佳子に新鮮な感動を与えた。
彼は、風と土と緑と光の中で暮らすのが人間の理想だと語り、裏街の酒とネオンの世界から自然郷への脱出を説いた。
それが子供にとっても一番望ましいことだ、という一言が佳子を決心させた。
十一年前の秋、沖田佳子は一人息子の正雄とともに、放浪詩人に連れられて群馬県三国山をのぞむ法師ノ沢の地を踏み、そこで自給自足の生活を始めたのである。
「沖田佳子が広瀬五月に語ったという話が本当なら、わずか半年足らずの期間だが、沖田正雄は柴垣翔と同じ分校に通っていたことになる。沖田が中学三年で、柴垣は一学年下の二年生だ」
財津警部は時折り調書に目を落として喋《しやべ》りつづけた。
「その男は、正雄が高校へ進む直前に肺炎をこじらせて法師ノ沢で息を引きとっている。そのため佳子はまた母一人子一人となって東京へ戻るのだが、半年間の間に二人の少年に何かがあったのだ」
「沖田はテレビなどで翔を見るたびに、口癖のように、おれはあいつの秘密を知っている≠ニ広瀬五月に呟《つぶや》いていた――でも最後まで彼女は、その秘密が何であるかを教えてもらえなかったんですね」
うーん、と可愛《かわい》い声を出して、烏丸ひろみ刑事は考え込んだ。ローヒールの靴を脱いで、丸椅子《まるいす》の上に膝《ひざ》を抱えて座っているさまは叱《しか》られた少女のようでもあり、財津警部はドキッとした魅力を感じていた。
「ということはさ」
フレッドが口を出した。
「何らかの秘密を握られている柴垣翔が一番怪しいということになるぜ」
「そうとは限らんさ」
「そうとは限らないわ」
財津とひろみが同時に声をあげた。
「どうぞ」
「どうぞ」
また互いに同時に譲りあったので、ひろみは声を立てて笑って、膝を抱え込んだ腕の中に顔を埋め、片目でちらっと財津を見た。
「つまりだな」
財津はとりあえず一言発しながら、草壁弓子といい広瀬五月といい、それにこの烏丸ひろみといい、今回の事件にはいい女、可愛い女が多すぎるぞ、とぜいたくな不平を心の中で洩《も》らしていた。
「えー、つまりだな、柴垣翔自身の秘密が洩れたら、その人物も困るというケースだってあるわけだ。たとえばマネージャーの山添宏がそうかもしれない」
「でもタレントの秘密を守るために人を殺しますかね」
フレッドが平気で疑問をはさんだ。
「ちょっと黙ってろ、フレッド。人の話してる最中に口をはさむのは日本じゃ失礼なんだぞ」
「アメリカでも同じだけどね」
「わかってたら黙ってろ」
「はいはい。でも警部、ぼく、日本人なんですよ」
財津警部は唇を突き出して言った。
「紛らわしいマネをするな、フレッド。日本人ならせめて髪を黒く染めたらどうだ」
金髪の刑事は肩をすくめてひろみを見た。ひろみも眉《まゆ》をあげてそれに応えた。どうもフレッドとつきあってると、顔の筋肉が大活躍するわ、とひろみは思った。
「他にも草壁弓子が該当する。彼女が実は柴垣翔とデキていたという有力情報が寄せられている。そうだとしたら動機としては充分だ。プロデューサーの黒岩はどうか。こいつが犯人だったとしたら、むしろ社内的な事情がからんでいたかもしれない。しかし、当の黒岩が殺されてしまってはな……」
フレッドとひろみが相槌《あいづち》を打たなくなったので、財津は拍子抜けしたが、口をはさむなと言った手前、いやでも一人で喋《しやべ》りつづけなければならなかった。
「ビデオカメラマンの大野はどうか。仮に沖田正雄が柴垣翔の致命的な秘密を握っていたとしても、そのために大野が沖田を殺す必要が生じたとは思えない。だが、だがだ。沖田が夜中にカサブランカのホテルを抜け出したのに、同室の大野が気がついていなかったというのは、どうも不自然な気がする。え、そうじゃないか」
財津は二人の若い刑事をにらんだ。
「おい、人が話をしているんだから、ウンとかスンとか相槌くらい打ったらどうなんだ」
「財津警部、やはりこの件は」
フレッドが大げさな渋面を作って言った。
「現地調査をしてみないことにはラチがあきません」
「ふん、そらそうだ」
「そこで、提案なのですが、私と烏丸刑事を法師温泉、じゃなかった、法師ノ沢に派遣していただきたいのですが」
「えーっ、私と?」
ひろみが声をあげるより早く、財津警部が目をむいた。
「おまえが烏丸君と一緒に温泉旅行だと?」
「何言ってるんですか、出張ですよ、出張」
「いかん。出張といっても旅行に変わりはない。二人きりで旅行などとんでもない」
「だって捜査の基本は二人一組でしょう」
「私が行く」
「え?」
「この財津大三郎が法師へ行くと言っておるのだ。捜査のキャリアはおまえたちとは雲泥の差だからな。宿は法師温泉長寿館を予約しておいてくれ。あのあたりは、あそこ一軒しかないはずだ。ちょうど冷え込みが厳しくなってくるにつれ腰の痛みがましてきたところだったんだ」
「それじゃまるで湯治に行くみたいじゃないですか」
フレッドはふくれっ面になった。
「うるさいな、湯治じゃない。これは捜査なのだ。それから烏丸君、きみも一緒に行くぞ」
「ノー!」
フレッドが叫んだ。
「財津警部と一緒だなんて。ひろみ、行っちゃダメだ。何されるかわからないぞ」
「人聞きの悪いことを言うな」
財津がぶ厚い唇を尖《とが》らせた。
「捜査の基本は二人一組だったろう。違ったか?」
まるで太陽のように≠ニでも形容してやりたいくらい顔を輝かせながら、財津警部が出張手続きをとっていた。
「ねえ、いいの?」
ひろみがフレッドのご機嫌伺いに来た。
「いいも悪いもないよ。上官の命令は絶対なんだろ」
「大丈夫かなあ」
「危ないに決まってるさ」
フレッドは素気《すげ》なく答えた。
「温泉に二人きりで行ったとなりゃ不倫も同然」
「ちょっと、やめてよ」
ひろみがフレッドのごつい肩をパンと叩《たた》いた。
その時、財津のデスクの電話が鳴り、警部が機嫌のよい声で応対していた。
「ほいほい、財津ですが。なに、ニューマン刑事に国際電話。ニューマンて誰だ、ああ、フレッドか。おーい、フレッドさん」
「何がフレッドさんだよ、調子に乗りやがって、ばっきゃろー」
小声の超早口で呟《つぶや》くと、フレッドは財津のデスクに向かった。
「モロッコの油揚げがどうたら、みたいな名前の奴からだそうだ」
フレッドは絶望的になって天を仰いだ。この警部は烏丸ひろみとの出張で有頂天になって、モロッコという言葉にすらまったく反応しなくなっている。
「アロー?」
受話器を受けとるとフレッドはフランス語で呼びかけた。
「ニューマン刑事ですか。カサブランカ警察のアブデラリ・ベンジェルン警視です」
淀みないフランス語が返ってきた。
「朝一番で連絡をと思いまして」
フレッドは時計を見ながら、なるほどむこうは朝か、と思った。
「日本で第二の殺人が起きたという連絡を興味深く検討させてもらいました」
ベンジェルン警視は意図的に第二の≠ニいう表現をした。
「この殺人がカサブランカで起きた沖田正雄殺人事件と同一犯人による犯行ではないか、というニューマン刑事の考え方には私も賛成です」
ベンジェルン警視としては心情的にも日本人犯行説をとりたいところだろうから、フレッドは少し割引いて相手の言葉を聞いていた。
「何か捜査の参考になるデータがありましたか」
フレッドがたずねた。彼は赤坂のフェアモント映像のオフィスで起きた黒岩拓三殺人事件の詳細なデータを、国際ファクシミリでカサブランカ警察に送っていた。
「大ありです」
ベンジェルン警視は力んで答えた。
「被害者が真正面からナイフで心臓を一突きされているところがまったくこちらのケースと同一である点は言うまでもありません。沖田正雄も黒岩拓三も抵抗ひとつせずに急所をやられている。不思議なのは、手でかばった様子もなければ、刺されたところを手で押さえた形跡もない。刺された人間は無意識にそこの部分へ手をやるものですがね」
「なるほどね……」
被害者の手がきれいだったという共通点は、フレッドにとっても新たな発見だった。
「それから、これは偶然とは思えない、非常に興味深い一致点があります」
ベンジェルン警視は資料をめくっているらしく、電話口でガサガサと紙の音がした。
「黒岩拓三は唇と右|眉《まゆ》の上に死後つけられたものと推定される擦過傷があるそうですね」
「ええ」
フレッドはそういえばそうだったかな、という程度の記憶しかなかった。
「実は、沖田正雄の場合も鼻と額に、死の直後に生じたと思われる打撲を伴う擦過傷があるのです」
たしかにそれはカサブランカ警察が提供してくれた沖田正雄の死体検案書に書いてあったことだ。フレッドはそれに目を通していながら、心に留めておかなかったのだ。
沖田正雄の鼻と額の擦り傷と、黒岩拓三の唇と右眉の擦り傷。このデータはいったい何を示唆しているのか。
「両者の傷とも面積としてはごく小さなものですが、ナイフで殺される時には抵抗ひとつしなかった被害者が、死の直後に顔の一部を傷つけられている。まだこちらには黒岩の現場写真は電送されていませんが、沖田の顔の傷に関していえば、なにか金属製の重い――と言っても骨折をさせるには至らない程度の何かで殴られたような跡でした。いや、別に金属と限定できるわけではない、陶器であってもよいのですが、片手で持てる程度の置き物で殴られたというような印象の傷ですね」
「それは黒岩拓三のケースも同じですよ」
フレッドが言った。
ベンジェルン警視がこだわればこだわるほど、フレッドは大変な見落としをしていたのではないかという気になってきた。
二人の被害者の顔面の傷が、死後、犯人によって意図的につけられたものだとしたら、このことから何を読みとらなければならないのか。
どちらか一方のケースだけなら、何かのはずみということで片づけられるが、カサブランカの死体も赤坂の死体も、申し合わせたように顔面に傷を受けているのだ。
犯人はまったく抵抗をされず一撃のもとに相手を倒した。被害者は刺された部位を本能的にかばうひまもなく死んだ。そして、死んでからさらに犯人は被害者の顔を鈍器のようなもので殴った。
「犯人が猛烈な憎しみを被害者に対して抱いている場合は、死体の顔をメチャクチャに殴るということも感情として理解できますが」
ベンジェルンは分析した。
「鈍器様のもので殴られた傷はきわめて軽いのです。それも殴ったというより、顔の上で重いものをひきずったという感じです。これがナイフで刺されて倒れた際にできたものでないことは、遺体の倒れ方からみて確実なのですが」
「それは黒岩の場合もそうですよ。現場はプロデューサー用の個室で、カーペットが敷いてありましたからね。仮に、顔面を下にして倒れても、ああいった傷はつかない」
「まあ私としては、二つの遺体に共通する顔の死後擦過傷が非常に気になるわけです。それと、今回の事件で特筆すべきなのは、すべてが開けっ放しになった部屋での殺人ということですね」
「そうなんですよ、ベンジェルン警視」
できることなら、アッラーの神の力を借りて真相を突きとめたいものだ、とフレッドは思った。
「日本側で捜査なさってることにあれこれ口をはさむべきではないと思いますが……」
「いえ、何かお気づきの点があれば、どうか遠慮なくおっしゃって下さい」
「たぶん、犯人は何かをカムフラージュするためにそういう真似をしたんでしょうね。死体が後ろ前に服を着ていたというミステリーは読んだことがありますか」
「クイーンですか」
フレッドが笑ってたずねた。
「そうです。あいにくフランス語の訳の出来が悪いやつでしたが」
「ぼくは日本語で読みましたが」
「ほう?」
相手が意外そうな声を出した。
「翻訳本に誤訳はつきものですからね。まあ、映画の字幕スーパーのことを考えればマシなほうですけれど」
と言いながら、そういえば『カサブランカ』の字幕スーパーも相当いい加減だったぞ、とフレッドは思い出した。
「すみません、話を脱線させてしまって。どうぞ先を続けてください、ベンジェルン警視」
「この異常な殺害状況は、じつはたった一つの正常な出来事≠隠すために犯人が仕立てあげた舞台だと思うのです。たとえば被害者が犯人に対して性行為に及ぼうと思い、ズボンのジッパーを下げた瞬間に刺殺されたとします。犯人はこのままでは犯行時のシチュエーションがバレてしまうと思い、死体のジッパーを上げようとした。が、何かにひっかかって元に戻らない」
フレッドは話を聞きながら、草壁弓子と広瀬五月の顔を同時に思い出していた。
「仕方なく犯人は机の引き出し、窓、プレゼントのパッケージ、インクのつぼの蓋《ふた》など、すべてのものを開けっ放しにした。こうすれば周辺状況の異常さにまず目が行き、ズボンのジッパーが開いてることはつけ足しにすぎなくなります」
たしかにそうだ、とフレッドは思った。
財津警部も、こう言っていたではないか。
〈ごていねいにも、社会の窓まで[#「まで」に傍点]開けっ放しだ〉と。
「しかし」
モロッコの捜査官は冷静だった。
「こうした仮説では、ウィスキーの瓶に限って手がつけられていなかったことの説明にはなりません」
「そうなんですよ。そこがキーだと思っているんですが」
「それらのウィスキーは分析されましたか」
「もちろんです。別に毒物や異物は検出されませんでした」
「犯人がアルコールを見るのもイヤなほど嫌っていたということは?」
「とりあえずそういうケースも考えてみましたけれどね。少なくとも柴垣翔のカサブランカ・ロケに参加したスタッフに、そうした癖のある者はいませんでした。ですがベンジェルン警視、いまのジッパー説は非常に面白く拝聴しました」
「そうですか」
「おっしゃる通り、それが正解ではないかもしれない。しかし正解に近いセンをついているような気がします」
「ニューマン刑事」
「はい」
「私はフランスで教育を受け、身体にはアラブの血が流れているモロッコ人です。そして、あなたは日本人的な心を持ってはいるが、身体に流れるヨーロッパ人の血とアメリカ的合理主義はやはり日本民族とは別のものです。つまり、我々二人でじつに多種多様な思考回路を持っているわけです」
「なるほど」
フレッドが納得した。
「たしかにそうですね」
「そこで、我々二人のマルチ思考回路を駆使してですね」
ベンジェルン警視は面白いことを言った。
「この事件をさまざまな角度から分析したら、正解は必ず見つかるはずです。だってたかが……」
カサブランカ警察の捜査責任者は断定的に言った。
「一人の日本人の犯行じゃありませんか」
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X 木曜日の罠
「そうね、きょうの夜八時からなら身体が空いているわ」
草壁弓子は年下の女性刑事に向かって、まるで部下のスタッフに対するような口の利き方をした。財津が同席していた時とは大違いである。
「それでしたら赤坂署の方までお越し願えますか」
烏丸ひろみ刑事は、ていねいにたずねた。
「赤坂署?」
相手は不服そうな声を出した。
「また警察署に行くの。いやだわ、警察って暗くって大きらい」
「そうおっしゃられても」
「ね、どこかお洒落《しやれ》な店で会いましょうよ。烏丸さん……とおっしゃったわよね。あなた、まだ若いんでしょ」
「二十五です」
この歳を若いと解釈するかどうかは好きにして、といった調子でひろみは答えた。
「あらあ、若いわあ。だったらもっといろんなところを知らなくちゃ。ディスコなんかも行ったことがないんでしょう」
「いいえ」
馬鹿にしないでよ、とひろみは思った。去年特別休暇を一週間もらってニューヨークへ行ったときは、パラディアムやセイントに入りびたりだったのだ。
「冗談よ、ムキにならないで。刑事さんをディスコへ誘おうとは思っていないから。でも、私とあなたが二人連れで行ったら事件でしょうね。男たちが放っておかないわ」
「はい、そうだと思います」
ひろみは平然と答えた。それは本当だ、と思ったからだ。
「まあ、おもしろい人ね」
草壁弓子はくすくす笑った。
「捜査一課の刑事にしておくのはもったいないわ。あなたほどの美人だったら女優になっても大成功するわよ」
「ありがとうございます」
ひろみは感情を殺して答えた。
「いいわ。とにかくお会いしましょう。ただし赤坂署なんて、そんなダサイところはダメ。青山のお店で八時半というのはどうかしら。お店の名前はカフェ・アメリカン≠諱v
(カフェ・アメリカン!)
ひろみは唖然《あぜん》とした。
(よくも偶然そんな名前のお店があったものだわ。それともこれは草壁弓子の挑戦かしら)
「どう? いい名前のお店でしょ」
「もしかして、マスターの名前はリックっていいません?」
「あら」
草壁弓子はわざとらしい笑い声をあげた。
「あなたの歳で『カサブランカ』を見ているとは思わなかったわ」
「いいですか。あなたたちの身の周りには一連の不思議な事件が起きている。二つの殺人事件と、それからカサブランカにまつわる妙な出来事だ」
財津警部は、赤坂署に設置された黒岩拓三殺人事件の特別捜査本部にビデオカメラマンの大野洋治を呼び寄せ、彼に対する三回目の事情聴取を行なっていた。
日に焼けた腕っぷしの強そうなこのカメラマンは、最初から警察に反抗的な態度を見せていた。そのことが財津警部のカンにさわっていたのだ。
週末に烏丸ひろみとの出張捜査を控え、財津はやたらと張り切っていた。
「殺人事件に関しては前二回の聴取でいろいろおたずねしましたが、今回はそれ以外の出来事について突っ込んで話を伺いたい」
大野は黙って煙草をふかし、時々けむたそうに目をしばたたいた。
その態度がまた妙に財津は腹立たしかった。
「まず十二月十二日金曜日、私鉄の線路にマネキン人形が飛び込んだ事件です。むろん、マネキン人形が自分で電車に飛び込むわけがない。この人形は私鉄系デパートの狛江《こまえ》店ゴミ置場から、前夜盗まれたものと判明しています。デパート関係者の話では首と胴体のはめ込み部分が壊れてしまったので、廃棄処分にするつもりだったらしい。
それを誰かが陸橋の上から電車めがけて投げ込んだ。私は、その人物は当該電車に車掌として柴垣次郎が乗務していることを調べあげた上で、その行為に及んだものと確信しています。
で、その時刻、十二時十二分ごろにアリバイがあった者は、事件関係者のうちで柴垣翔とマネージャーの山添氏だけです」
「ちょっと待って下さい」
大野が遮《さえぎ》った。
「事件関係者とは、いったい何をもってそういう範囲を決めているのです」
「カサブランカ・ロケに参加した者をもってそう称しているのですがね」
財津はこともなげに言った。
この生意気な若僧がどれだけ力があるか知らないが――財津は思った――学生時代、柔道部に財津ありと言われたこのおれだ、喧嘩《けんか》になったら負けんぞ。財津は年がいもなくムキになっていた。
「さて、当然、その時刻にあなたがどこで何をしていたかが問題になる」
「それは前にも答えたでしょう」
「わかっています。仕事先から車で移動中だったというのでしたな。しかし、それを証明する人物がいない。さらに大事なことが一つある」
財津は大野が座っている机の前に手をついて、唾《つば》がかかるほどの距離から相手をにらみつけた。
「マネキン人形に飛び込まれた車掌の柴垣次郎は、その事故処理のために一人で電車を降り飛び込み現場≠ヨ向かった。そして、こともあろうに、その場で失神しているのですな」
「それはそうですよ。マネキン人形には犬の死骸《しがい》が詰め込まれていたんでしょう」
「正確には、Tシャツの部分にゴミ袋入りの犬の死骸が包まれていたんですがね。マネキンは首と手と腰から下の部分しかなかった」
「いずれにしても肉片が飛び散ったことに変わりはないわけですからね。気の弱い車掌さんなら卒倒するのも無理はないんじゃないですか」
「違いますね」
財津がにべもなく否定した。
「私は車掌が失神したという話を聞いて、真っ先に疑問を感じた。たしかに柴垣次郎は車掌になって間もない男で、飛び込み事故も初めての体験だった。しかし、か弱き女性じゃあるまいし、その程度のことで失神するだろうか、と思いましてね。そこで本人に会って話を聞いてみたのです」
大野はピクリと眉《まゆ》を動かした。
「やはり失神するには事情があったのですな。彼は肉片にショックを受けたのではなく、マネキンの胴体に見せかけて犬の死骸を包んであったTシャツを見て、激しい衝撃を受けたのです。シャツにカサブランカ≠ニ書いてあったのでね」
大野は、それがどうした、という顔で煙草をふかしつづけていたが、右足が無意識のうちに貧乏ゆすりをはじめたことを財津は見逃さなかった。
「柴垣次郎|宛《あて》にね、前の晩遅く、寮に妙な電話がかかってきたというのですよ。それはほんとうに息だけの囁《ささや》くような声で私は、カサブランカのことで、殺される≠ニ告げて切れたそうです」
「ほんとうですか」
「嘘《うそ》を言ってもはじまらんでしょう」
そう言って財津はビデオカメラマンを見下ろした。
「それは女の声だったのですか」
「同じ質問を真っ先に私が当人にしましたよ。ところがね、後になって思い返してみるとよくわからんというのですな」
「よくわからない?」
「これは捜査本部でも実験してみたんですがね、声だけで私は、カサブランカのことで、殺される≠ニ、か細く呟《つぶや》くと、女性の声なんだか男の作り声なのかハッキリしないのです。録音して聞き直せばわかるんですが、電話をとっていきなりこう囁《ささや》かれると、たしかに女性と思い込んだら絶対女性としか思えなくなる。柴垣次郎に電話を取りついだ寮のおばさんも、柴垣さん、おねがいします≠ニまるで幽霊のような声を出していた、と証言するものの、その声が明らかに女性かと聞くと、そうだとは言い切れないと言うのです」
財津は大野に背を向けて、部屋の窓から冬色の街角をながめた。
「そんな電話があったものだから、Tシャツの文字を見たとたん、彼は予告飛び込み自殺だと思い込んだのですな」
「そういう話をぼくに聞かせてどうするつもりなんです」
大野は財津の広い背中に向かって問いかけた。
「あなた、カサブランカ・ロケから帰国された後、二、三回ばかり柴垣次郎の寮に電話を入れたことがあるそうですな」
財津警部のグレーの背広が、言葉とともに揺れた。大野は、窓ガラスの微《かす》かな反射を利用して相手の表情を窺《うかが》った。
「お兄さんのことで折り入って話をしたいことがある、と面会を申し出たそうじゃないですか」
ガラス窓の上で財津と大野の目が合った。互いに相手の顔が、薄曇りの空にとけこんで見えた。
「ところが、さすが兄思いの弟ですな。あなたの口調にただならぬものを感じて、これは会わないほうがよいと思い、再三にわたる面会の申し出を断った。当然、あなたがそうした行動に出たことは、兄の翔君のほうへは伝えたそうですがね」
財津警部は、コンコンと窓ガラスを指で弾《はじ》くと、ハアッとそれに息を吹きかけた。
たちまちガラスが曇って二人の顔がかき消された。
「大野さん。あなた、柴垣次郎にいったい何を話したかったんです」
くるりと向き直るなり、厳しい口調で財津が問い詰めた。
「早速、テレビ二社が年始特番の生放送からおまえを降ろしにかかった。ここの局はまだ何も言ってこないけどな」
中央テレビの控室で二人きりになったところを見計らって、山添が柴垣翔に言った。
「黒岩氏が殺されたことでカサブランカ殺人事件も含め、翔の周辺がどう展開していくか読みきれなくて安全策に出たんだな」
山添は咥《くわ》えた煙草にライターで火をつけようとした。が、つかない。
「ちっ」
ガスの切れた百円ライターをくずかごに放り投げ、代わりにそばにあったマッチで火をつけてから、山添はシーッという音とともに歯の間から煙を吐き出した。
「さて、あとは他局がいつこれに追随するかだ」
「他人事《ひとごと》みたいに言うなよ」
本番用の派手なコスチュームにメイクをほどこした柴垣翔が怒った声を出した。
「怒ったところでどうなるもんでもないぜ、翔。そもそも黒岩氏が殺された晩に限って、おれもおまえもアリバイがなかったのがいけないんだ。そりゃマスコミは騒ぎますよ。すわ、真犯人は柴垣翔か、ってね。すわ≠ゥ……まるで時代劇だな」
山添は、自分で言って自分で笑った。が、翔は撫然として言った。
「こんなことじゃ年末の仕事だって身が入らないよ。マンションの周りはそこら中カメラマンに張り込まれているし、仕事先という仕事先にレポーターが追っかけてくる」
「おかげで草壁弓子と会いたくても会えないぜ、か。でもかえってよかったんじゃないのか」
「うるせえ」
翔はソッポを向いた。
「この録《と》りが終わったら一応きょうはあがりになっているけど、どうだ、葉山ディレクターとの新曲打ち合わせにつきあうか」
「けっこうだよ」
翔は手で追い払う仕種をした。
「人のスキャンダルを掴《つか》んで嬉《うれ》しそうに自慢するディレクターなんかとはつきあいきれねえよ。次の曲から担当代えてもらってくれよ」
「馬鹿」
山添は、まだ長い煙草を灰皿に押しつけてもみ消した。
「そんな偉そうな立場にないだろう、おまえは」
「担当が代えられなかったら、レコード会社を代えようぜ」
「いい子だからワガママはそのくらいにしとけよ。それより葉山さんのアイデアを聞けよ。さっき電話で話したんだけどな、新曲のタイトルは犯人は誰だ≠チていうのにしないかって言うんだ」
翔は一瞬信じられないといった顔をしたが、次に近くの椅子《いす》をひっくり返して猛烈に怒った。
「人をおちょくる気か、てめえらは」
「いまの状況を逆手にとるんだよ」
「ふざけんなよ。そんなタイトルの曲を歌ったら、おれは完全に色モノ∴オいだぜ」
「今回は自分が詩を書くって、葉山さんも入れこんでいるし、おれは捨てた企画じゃないと思っている」
「馬鹿野郎、あんな奴に作詞印税を稼がせてたまるか」
「翔、おれの言うことを聞け」
「聞かねえよ」
「ハッキリ言っておくが、このまま流れに身をまかせていたら、おまえはカサブランカ・スキャンダルで潰《つぶ》されるぞ」
山添は新しい煙草を咥《くわ》えたが、マッチ箱も空になってしまったことに気がついて、それを鏡に向かって弾《はじ》き飛ばした。
「逃げ腰の姿勢がこういう時は一番いけないんだ。つまり、世間様に向かって後ろをみせるなってことだよ」
「いつおれが逃げてるよ。沖田や黒岩さんを殺したのはおれじゃない。だから逃げる必要なんかこれっぽちもないだろう」
「そう言いながら逃げているんだな」
山添は唇の端を吊《つ》り上げて笑った。
「イヤな噂《うわさ》を立てられたら、その噂を逆手にとる以外に否定の道はないんだよ、わかるか。知らん顔やマジな否定は火に油を注ぐようなものだ。他人から見れば、いまのおまえは逃げ腰にしか映らない。そうこうしているうちに、こっちの理屈はさておいて翔おろしの動きが広まってくる」
「世間なんて冷たいもんだ」
「冷たくないさ」
山添は薬指にはめた派手な金のリングをこすった。
「おまえのスタッフはいつだっておまえの味方だ」
「味方だったら、おれがこういう目にあっているときに番組を降ろすような非情なことはしないだろう」
「翔、おまえ何年芸能界にいるんだ?」
山添はこけた頬《ほお》を親指で掻《か》きながらたずねた。
「世論を横目で見ての番組を降ろすとか降ろさないとかは、制作プロデューサーじゃなくて、むしろ編成幹部が決めることだ。とりあえず現場で一緒に汗水流して仕事をやってきた人間とは別の人種のな。だから冷たいとか冷たくないとか、そういったレベルの話じゃない。基準の違う人間の判断に腹を立てても仕方がないぞ、翔。もっと大人になれ」
「なんだか知らねえけど、説教はたくさんだよ」
翔は吐き捨てた。
「山添はこのごろ説教くさくてよォ」
「あんまりこんなことは言いたくないが」
山添は声を落として呟《つぶや》いた。
「ウチには陣馬市蔵先生がついていることを忘れるな」
「ヘッ、あの国会議員のヘボじいさんか。あんなジジイに何ができるんだよ」
「とにかくこのピンチはおれに任せておけ。マネージャーとして、おまえの窮地は必ず救ってやる」
山添は翔の肩を叩《たた》いた。
「わかった、わかった」
翔はうるさそうにその手を掴《つか》んでどけた。
「とにかくきょうは早く帰って寝たいからよ。ADに十時までに終わらせろって言っといてくれよな」
カフェ・アメリカン≠ヘ、スタンダード・ジャズばかり流す、意外に落ちついた店だった。
イルミネーションを組み込んだ未来調のバーカウンターが中央にあり、それを取り囲むように黒一色のテーブル席が十五卓ほど並んでいる。
約束の八時半に烏丸ひろみが店に行ってみると、すでに草壁弓子は一番奥のテーブルでドライ・マティーニに口をつけていた。
ひろみは、白を基調とした中に大胆な黒のアクセントデザインを取り入れたスーツをコートの下に着ていた。
入口でボーイにコートをあずけると、店にいた客の視線が彼女に集まった。
待ち構える弓子は、鮮やかなブルーのセーターに漆黒のマフラーをあしらい、同系のブラックのスカートを合わせていた。
「驚いたわ」
カクテルグラスをテーブルに置くと、草壁弓子は素直にひろみの美しさを賞《ほ》めた。
「取調室にいるときとはまるで別人ね」
ひろみは黙って笑うとカンパリのグレープフルーツジュース割りを頼んだ。カンパリソーダにしたほうが白のスーツがもっとよく映《は》えていいかなと思ったが、まあ相手は女性である。細かいことに気をつかうのはやめにした。
「きょうは十時半までしか時間がないの。ごめんなさいね」
弓子はまずそう断った。
柴垣翔から今夜どんなに遅くなってもいいから会いたいと、さっきこの店に電話があったばかりだった。テレビ局のスタジオ脇《わき》からかけてきたらしく、バンドの音合わせの喧騒《けんそう》がバックに聞こえていた。
「十時までには終わるつもりだったけれど、ひょっとすると一、二時間延びるかもしれない」
翔は受話器に口をつけて喋《しやべ》っていた。
弓子は目黒区青葉台の閑静な住宅街の一角にある邸宅風のバーを指定した。業界にはほとんど知られていない隠れ家のような場所だった。翔のほうさえ尾行されなければ、関係者に出会う危険性はまずない。
個室を予約しておけばさらに安心で、周囲の目を気にせずに密会を楽しめるはずだった。
弓子はそこで午前一時、と翔に指定した。
翔はバーの電話番号と住所を確認して電話を切った。
「で、ご用は何かしら」
ひろみのオーダーがくるのを待って、弓子はグラスを合わせ、穏やかな声でたずねた。
「柴垣翔さんを愛してらっしゃるんですね」
まるで詩の一節を口ずさむように、ひろみは自然にそのことを口にした。
「さすが警察の方ね」
弓子は少しも動じた様子を見せずに答えた。カクテルグラスを握る手元もしっかりしている。
「そのことを詳しくお伺いしたかったんです」
「ちょっと。慌てないでね、刑事さん」
弓子は目だけで笑った。
「誰も『はいそうです』とは言っていないわ」
「だって……」
「さすがに警察の方ね、って申し上げただけでしょ。警察にはいろいろなデマやいいかげんな密告がくるのねって、そのことを感心しただけなのよ」
ひろみは一本取られたと思ったが、長い睫毛《まつげ》を伏せただけで、その悔しさは外に表わさなかった。
「それじゃあ、翔さんとのことはたんなる噂《うわさ》なのでしょうか」
「でしょうかって、あなた。私は三十三歳なのよ」
「三十三歳だからといって、二十五歳の男性を愛しておかしいという理由はないと思いますわ」
「それはあなたが」
弓子は今度は声をたてて笑った。
「芸能界というものを知らないからよ。柴垣翔ほどのスターが十代の人気アイドルとデキたというならともかく、八つも年上の、しかも裏方さんの私と恋をするなんて」
「でもテレビディレクターと女性歌手の恋は珍しくありませんわ」
「それとはまるで逆でしょう。男女の立場も年齢の関係もまるで逆よ」
草壁弓子は美しい顔に侮蔑《ぶべつ》の色を浮かべてたずねた。
「あなた、芸能記者みたいなことをたずねるためにわざわざ私を呼び出したの?」
「まさか」
こんどはひろみが微笑《ほほえ》んだ。
(まるで女の戦いだな)
と内心で呆《あき》れていた。
思いますわ≠ニか珍しくありませんわ≠ニか、日ごろ絶対に言わないようなお嬢さま言葉を使って、私もすっかり演技にのめりこんでるな、とひろみは思った。こんなところをフレッドが見たら何て言うだろう。
「これをご存知ですね」
ひろみはハンドバッグから折り畳んだコピー用紙を取り出して広げた。
そこにはB5判サイズに三つの広告が並んで印刷されてあった。ただし広告といっても一目で終戦直後のものとわかる、レトロ感覚にみちた書体のデザインである。
草壁弓子はいぶかしげな顔つきでそれを手に取って見た。
上段には頬《ほお》を染めた女性の横顔のイラストがあり、
〈凉風に吹かれるやうな化粧感
ポモナ水白粉《みづおしろい》
ポモナアストリンゼントローション
姉妹品
オイル ヘヤートニック
セット ローション
口 紅〉
などと書かれている。
中段はローヤル商會《しやうかい》の輪轉謄寫機《りんてんとうしやき》≠フ宣伝。
そして下段はまさにレトロなイラストで、片手をあげた洋装の女性のそばを燕《つばめ》が一羽飛んでいる構図で、
〈爽《さは》やかな初夏の感觸は
貴女《あなた》の洋裝から〉
というコピーが並ぶスミレ洋裝店≠フ広告である。
住所は牛込《うしごめ》區柳町一六二 都電柳町下車、とある。
「これ、いつの広告かしら。もしかすると私が生まれる前のもの?」
たずねながら草壁弓子はコピーをひろみに返した。
「ええ、戦後まもないころの広告ですから」
「じゃあ知るわけがないわ」
「では、これはどうでしょう」
ひろみは次に一枚のハガキを取り出して相手に渡した。
「それなら知っているわ。不愉快ないたずらハガキね」
弓子は露骨に嫌な顔をした。ひろみが見せたのは、差出人不明の映画『カサブランカ』への招待状である。
「月曜日から火曜日にかけて、業界に広くこの試写状が配られました。カサブランカ殺人事件を忘れるな、とでも言いたげな手の込んだインチキ招待状です」
「警察でも早くいたずらの主を捕まえてほしいものだわ」
「もちろん、そのつもりで毎日毎日捜査活動を続けていますわ」
ひろみは胸をそらして写真を見た。
「その結果、一つの事実が突き止められたのです」
ひろみは招待状の一部分を指さした。
「いたずらの犯人は余興のつもりか、ごらんの通りとても古い表記方法を使っています。ハムフリー・ボガートとかイングリッド・ベルクマンとかね。これは何かの資料を見ながらワープロを打ったなと思いました。
そして気をつけてみると、文中におかしな誤記が見つかりました。主役二人の人名表記のバラつきなんです」
ひろみが示したところに草壁弓子も目を落とした。
「配役≠フ欄ではハムフリー[#「ハムフリー」に傍点]・ボガートとなっているのが、解説文ではハンフリイ[#「ハンフリイ」に傍点]・ボガートになっていますよね。同じように、イングリッド[#「ド」に傍点]・ベルクマンが、後の方ではイングリット[#「ト」に傍点]・ベルクマンに変わっています。
イングリッドとイングリットの違いなら、濁点を落としたケアレスミスとも考えられますけれど、ハムフリーとハンフリイの違いは下敷きにした資料そのものの用語不統一を、そのまま流用したのではないかと思われます」
ビデオカメラマンの大野洋治は、人名その他の表記が古いことのみにこだわっていたが、ひろみはさすがにもっと細かいところに着眼していたのだ。
「これを元に映画関係者にいろいろたずねたところ、出典がわかりました。それは戦後まもなく日本でこの『カサブランカ』が公開された時の劇場用プログラムだったのです」
ひろみはさらに別の大きなコピーを取り出した。それは両面コピーになっていた。
メインの写真はトーンがつぶれ気味だったが、ハンフリー・ボガート扮《ふん》するリックが経営するカフェ・アメリカン≠ナのワンシーンだった。
主役のボガートは写っていないが、イングリッド・バーグマン演じるイルザと、夫のラズロのテーブルに、バーガーと名乗る男が接近するシーンである。
★ホリウッドは又もや世界を瞠若《だうじやく》たらしめた。完全にして最高のフィルム藝術、缺點《けつてん》の見出し樣がない
[#地付き](米)ヂャーナール・アメリカ紙
★世界を驚愕《きやうがく》せしめた運命の日・モロッコの首都カサブランカに起った物語|唯々《ただただ》感銘あるのみ
[#地付き](英)ロンドン・タイムス紙
といったような絶賛評がその下に並んでいる。
そのプログラムによれば、たしかに配役欄では、ハムフリー・ボガートとイングリッド・ベルクマンなのに、解説ではハンフリイ・ボガートとイングリット・ベルクマンになっている。
「試写会の案内状を差し出した人物は、明らかにこのプログラムを見ながらニセの招待状を作り上げたのです。だからこれと同じ場所で人名表記の不統一を犯しています。ちなみにこのプログラムに書かれているあらすじは、できあがった作品とは随所で異なっています。そこまで案内状に書かれていれば、もっと出典は確実になったでしょうけどね。じつは最初にお見せした化粧品などの広告は、このプログラムに掲載されていたものなんです」
「それで?」
草壁弓子は二杯目のマティーニを飲み干していた。
「このプログラムは四十年も前のものですから、かんたんに入手できるものではありません。それでもしやと思って有名な映画プログラムのライブラリーをたずねてみたら……カンがよかったんですね、即座に解答にたどりつきました」
ひろみは、弓子の瞳《ひとみ》にゆらめくオレンジ色のライトを見つめながら言った。
「今月のはじめに、『カサブランカ』のプログラムをコピーしたいという女性が現れたことをそこのオーナーは認めています。事件関係者及びまったく無関係な女性の顔写真十枚の中から、ライブラリーのオーナーは、草壁さん、あなたの写真をピックアップしました」
「ふうん」
弓子はカクテルグラスで下唇をなぞりながら、猫のような目になってひろみを見返した。
「いろんな意味で、今夜はあなたという女性の魅力を再認識させられそうね」
「どうなんですか」
ひろみは相手のペースに巻き込まれたくなかった。この女性ディレクターは想像以上にしたたかだった。
「草壁さん、プログラム・ライブラリーで『カサブランカ』について問い合わせをした女性はあなただと認められますね」
「烏丸さん」
弓子は妖艶《ようえん》な笑みを浮かべて首をかしげた。
「あなた、ルール違反よ」
「ルール違反?」
「そう。だって今夜は二人でお酒を飲みながら話すことが目的だったんじゃなかったかしら。正式な事情聴取じゃないんだから、私は何も答える必要も義務もないわ」
「そんな……」
「事件のことをおききになりたいのだったら、こんなシチュエーションてあるかしら。刑事さんがアルコールを飲みながら尋問するなんて、聞いたことがないわよね」
ひろみはしまった、と思った。最初から相手のペースにはめられていたのだ。
財津警部に知られたら大カミナリが落ちるだろう。
「さ、刑事さん。じゃなかった、ひろみさん」
草壁弓子は、ほとんど空になりかけたカンパリのグラスを目で指した。
「もう一杯お代わりはどうかしら」
広瀬五月が所属するヘアメイク&スタイリスト・オフィス飛鳥《あすか》≠ヘ、六本木から麻布十番へ抜ける坂を途中で右手に折れた袋小路にあった。
こぢんまりとした三階建てマンションの最上階にある3LDKがオフィスになっていた。
ふだんは四十歳になる女性オーナーと連絡デスクの若い女の子が常駐しているだけだったが、リースしたり買い取った衣裳のデポ場所としても使われていたから、契約スタイリストや仕事のクライアントが日中ひんぱんに出入りすることも珍しくなかった。
飛鳥に所属しているヘア&メイクアップ・アーティストは三人。スタイリストが四人。五月のように、その両方を兼ねる者が二人いた。
代官山スタジオでのちょっとした撮影を終えた広瀬五月が、小物を持って事務所に帰ってきたのは午後十一時五十分だった。
左手にメイク道具などを抱え、右手でキーホルダーを探ってオフィスの鍵を選び出し、それを鍵穴に差し込もうとした瞬間、ドアがスッと音もなく開いた。
「やだ、淳子またロックするのを忘れてる」
淳子とは連絡デスクの女の子のことである。おっちょこちょいで、よく戸締まりを忘れてオーナーにこっぴどく叱《しか》られている。
こりもせず、また戸締まりを忘れたらしい。
「あずかっている衣裳がたくさんあるんだから、泥棒にでも入られたら大変じゃない」
独り言を呟《つぶや》きながら、五月は照明のスイッチを入れた。
蛍光灯がまたたいて灯った。
メインスペースとなっているリビングルームは幸いきちんと整ったままだ。
「よかった、大丈夫みたいね」
五月は荷物を下ろして暖房のスイッチを入れると、自分|宛《あて》の連絡ボードに目をやった。
明日行なわれるコンサートでヘアメイクを担当する歌手の事務所からメッセージが一つ、来月のグアム・ロケの衣裳打ち合わせをしたいという出版社からの伝言、それに約束していた協力クレジットがテレビのテロップに出なかったという衣裳メーカーからのクレームが一件あった。
「ふーっ、またおわび大会か」
五月は呟《つぶや》いて、バッグから大判のアドレス帳を取り出した。
おわびの連絡は早いに限る。留守番電話にでも、とりあえずゴメンナサイの一言を吹き込んでおこうと思った。
そのとき、視野の隅で、衣裳部屋にしている隣室の入口にかけてあるロングコートがふと揺れたような気がした。
デパートのバーゲンセール広告用に使うコート類が二十着以上も移動ハンガーにズラリとぶら下げられていて、部屋の奥は蔭《かげ》になって見えない。
誰かいるのかしら、と一瞬五月はギクッとしたが、暖房の吹き出し口が近くにあったのを思い出してホッとした。
(なんだ、エアコンの空気でコートが揺れただけだわ)
ちょっと歩けば六本木の賑《にぎ》やかな街並みがあるのに、このマンション界隈《かいわい》は別天地のように静まり返っている。真夜中に一人でオフィスに残っているのは、決して気持ちのいいものではない。
五月はあえて恐ろしいことは考えないようにして、ノートを開いて相手先の電話番号を探した。
「えーっと、スタジオ・ディズナフは……と」
静寂に気圧《けお》されまいと、さかんに独り言を呟《つぶや》いている。
「あった、あった。四八六の……」
受話器を取り上げようとした瞬間、けたたましい音で電話が鳴りはじめた。
五月はビクッとして、思わず手を引いた。
しかし、よく考えてみればこの時間にオフィスの電話が鳴ったからといって不思議はない。なにしろ仕事相手は昼と夜を取り違えたような連中ばかりなのだ。
ベルはまだ鳴りつづけている。
「ほんとに淳子ったら、留守番電話をセットするのも忘れているわ」
また五月はデスクの女の子の忘れっぽさを罵《ののし》った。
だが、五月はデスクの女の子にまったく罪がないことを知らなかった。
彼女はちゃんとロックをして帰ったし、そのときに留守番電話もセットしてあったのだ……。
「はい、飛鳥でござ……」
受話器を耳に当てた瞬間、五月の顔が強《こわ》ばった。
相手は人間ではなかった。
いや、人間には違いないが生の声ではなかった。
録音された歌声なのだ。
英語の歌詞を確認するまでもなく、メロディでその曲はわかった。
『カサブランカ』――。
「いや!」
叫んで、五月は受話器を叩《たた》きつけて切った。
足がガクガク震えてくる。
(誰が、どこからかけているのだろう)
電話の主は、どこかで五月がオフィスに戻ってきたことを見ていたに違いない。
(帰る……帰るわ)
だが足が棒のようになって動かなかった。
五月は椅子《いす》に腰かけたまま立ち上がることすらできなかった。
またベルが鳴った。
恐怖に見開いた目で五月は電話をじっと見つめた。
(とっちゃダメ、とっちゃダメ)
そう自分に言いきかせながら、もう一人の自分が電話をとれと指示している。
(仕事相手からの電話だって可能性もあるじゃないの。そうだとしたら、相手が誰だってかまわないから、すぐきてちょうだいって助けを求めるのよ)
なおも三十秒近く電話とにらめっこしていたが、ベルは鳴り止まなかった。
意を決して、五月は震える手を伸ばした。
(もしもし……)
そう言ったつもりが声にならなかった。
「………」
相手も沈黙している。
五月が何も言わないから怪訝《けげん》に思っているのだろうか。
(助けてって言いたいのに声が出ないのよ)
五月は早く相手に何とか言ってほしかった。
(お願い、何か言って)
何でもいい。とにかく人の声を聞けば生き返るはずだ。仕事のクレームでも何でもいい。怒鳴られてもいいから、何か言って……。
相手が何か言った。
(えっ?)
あまり微《かす》かだったので五月は聞きとれなかった。
(何て言ったの?)
相手はもう一度、風のような囁《ささや》きを発した。
「あなた、カサブランカのこと知りすぎたから、コ・ロ・シ・テ・ア・ゲ・ル」
喉《のど》からふりしぼるような叫び声を出して、五月は電話を切った。
(いや、いや、いや)
涙が出てきた。
その時、恐怖に錯乱する五月の聴覚は、たしかに一つの音をとらえた。
チン、と電話の切る音を――。
五月はゆっくりと衣裳部屋の方を振り返った。
そうなのだ。相手はすぐそばにいた。あのコートハンガーのむこうにいたのだ。
オフィスには外線電話が二本引いてあった。
その片方を使って、相手はこちらのリビングルームに電話をかけてきたに違いないのだ。
(でも本当にそうだろうか)
確かめてみるしかない。なんとか自分の考えが間違いであってほしかった。
五月はオフィスのもう一つの電話番号を押した。指が目に見えて痙攣《けいれん》して何度もプッシュホンを押し間違えた。
つながった。
ルルルという呼出し音とともに、リビングルームにある二台の電話と、それから衣裳部屋の奥にある一台の電話が少しこもった音で鳴った。
この電話に誰かが応答したら、その人物は衣裳部屋にいる以外にありえないことになる。
ルルルル、ルルルル……。
耳元で呼出し音が鳴りつづけ、三台の電話がシンクロして合唱した。
(お願いだから、誰もこの電話をとらないで)
五月は目をつぶった。
次の瞬間、音が鳴りやんだ。
静寂――。
その意味を理解した時、五月は全身がスーッと軽くなって気を失いそうになった。
相手が出たのだ――。
[#改ページ]
Y 金曜日の悪魔
山添宏は舌打ちして電話を切った。
「翔のヤツ、さっさとフケやがったな」
後ろでは苦虫をかみつぶした顔で、歌謡番組のチーフディレクターが控えている。
「自宅に電話をかけたけれどいません」
「いません、じゃないだろう」
ディレクターがかみついた。
「マネージャーがタレントの行き先も掴《つか》めないでどうするんだよ」
「すみません」
同じ事務所の女性歌手がスタジオで収録中に腹痛を起こし、病院へ運んだりするのに現場マネージャーを手伝ってやったため、翔をハイヤーで一人で帰したのが間違いだった。
(それにしても、よりによってこういうときに限って撮り直しになるなんて)
山添は不運を呪《のろ》った。いまになってビデオの一部が撮れていなかっただなんて……。
ディレクターは自分の責任をそっちのけにして、翔だけが捕まらないことを怒っていた。
「他の連中はあと一時間もすれば戻ってくるって言ってるぞ。捕まらないのは、おまえのところだけだ」
山添はスタジオの時計を見た。
午前零時を回ったところだ。
いまごろ奴は草壁弓子とどこかにしけこんでいるな、と思った。
だが、弓子の行く先を追ってみても無駄だろう。密会の場所まで伝言を残しておくお人好しはいない。
「一時までにこなかったら、撮り直しは翔抜きでいくからな」
ディレクターはそう言い捨てると、その場を去っていった。
烏丸ひろみはすっかり自己嫌悪に陥って青山の街を歩いていた。
(もうこうなったら徹底的に飲んでやるもんね)
十時に草壁弓子と別れてカフェ・アメリカン≠出た後、ひろみは本庁に一報を入れてからバーを二軒ハシゴした。
どちらの店でも大学生らしい男が言い寄ってきたが、ひろみがスーツのジャケットから印籠《いんろう》のごとく警察手帳を取り出して鼻先につきつけると、男たちはギョッとして引きさがった。
「ちくしょーっ、草壁弓子がなんだっ」
人目をひくファッションで、とびきり可愛《かわい》い女の子が悪態をつきながら千鳥足で歩いているので、夜更《よふ》けの通行人たちは興味深そうに彼女をながめていた。
中には卑猥《ひわい》な言葉を投げる酔客もいたが、ひろみは向き直るなり、
「ばかやろーっ、うるせーんだよっ、このジジイ」
などと叫び返すので、相手は度胆を抜かれた顔で彼女を見送った。
「ちょっとそこのお嬢さん」
いきなりスピーカーでがなりたてる奴がいる。
「焼きいもだったらいらねーぞ、このっ」
振り向きざまにひろみは怒鳴った。足がもつれて歩道に倒れ込んだ。
「上品な服装の時は言葉遣いも上品にしましょう」
またスピーカーが大声を立てた。
「るっせえなあ」
路上にあぐらをかいて座り込んだひろみの脇《わき》に、パトカーがスッと滑り込んで停まった。
そこから警官の制服を着た金髪の――俳優にしてもいいような――外人が降りてきたので、通行人は映画のロケではないかと疑った。
「ありゃりゃ、こらいかん。目がすわってる」
ひろみのそばに屈《かが》みこむなりフレッドは呆《あき》れた声を出して、車内でハンドマイクを握っていた財津警部に向かって首を振った。
首都高速4号線を赤坂|見附《みつけ》から四谷《よつや》方向へ迎賓館を左手に見ながら走ると、赤坂トンネルへもぐる直前の路肩左側に鉄柵のゲートがある。
一般車はなにげなく見過ごして通るこの鉄柵だが、じつは必要に応じて開閉され、高速道路上の車をそこから外堀通りへ誘導することができるようになっていた。
主として国賓を安全最短距離で迎賓館へ送り届けるためにこのゲートは使用される。
そのときは外堀通りを通る車は一時通行止めにされ、臨時ゲートを使用し終わるまで紀尾井《きおい》坂の上下で待たされることになる。
しかし、その夜は――時間が午前零時すぎということもあって――とくに通行規制はとられなかった。
パトカーや白バイの伴走もない。
たった一台のリムジンが高速本線から減速して左側に寄り、鉄柵の前に停車してヘッドライトをスモールに切り換えた。
三人の警察官が駆け寄り、車内の人物を確認すると敬礼をしてゲートを開けた。
リムジンは再びヘッドライトをつけ、ひそやかに外堀通りへ出るとすぐに左折して、赤いテールランプを闇《やみ》に消した。
リムジンに乗っていたのは運転手以外に三人。
一人は国会議員の陣馬市蔵。もう一人は彼の第一秘書で英・仏・アラビア語に堪能《たんのう》な笹原誠。
さらにもう一人の外国人については、ゲートの開閉に当たった警官たちはその素姓を知らされていなかった。
顔つきからアラブ人であろうと見当をつけるのが関の山だった。リムジンには国旗も立てられていなかった。
その男は日本政府の未承認国、サハラ・アラブ民主共和国――別名、西サハラ政府の信任を受けた自動車輸入業者で、ひそかに日本政府の有力議員に接近するため、便宜上、敵対国のモロッコ国籍を取得して来日した――と、陣馬市蔵を信じ込ませていた。
モロッコ国王のパスポートに記された氏名は、アブデサラーム・バーヤ。
しかし、彼の正体は西サハラの軍事組織サハラウイ人民解放軍(ALPS)のエージェントで、防諜《ぼうちよう》活動の甘さにつけ込んで日本の軍事テクノロジーを盗むことを今回の任務と指令されていた。
本名はモハメッド・ハッジ。年齢四十歳。
つい一週間前まで、アルジェリア西部の砂漠に潜んでいた男だった。
広瀬五月は渾身《こんしん》の力をふりしぼって椅子《いす》から立ち上がった。
五月は頭の中に愛する沖田正雄のイメージをいっぱいに描いた。
(私を守ってくれるのは彼しかいないわ)
カーリーヘアにあごひげを生やし、プロレスラーの悪役に間違えられるほどの容貌《ようぼう》と体格を持っていた彼。
典型的な日本美人の五月と婚約したと聞いた周囲は唖然《あぜん》としたものだった。
モンスターとマドンナ。やっかみ半分でこうからかう者もいたが、五月にとって沖田正雄は欠点だらけの人間ではあったが、やはりかけがえのない男性だったのだ。
その彼がカサブランカで殺され、ロケ責任者の黒岩拓三は柴垣翔のイメージへの波及をおそれ、事をうやむやに処理しようとした。その黒岩も殺されて、いまはいない。
五月は闇《やみ》のむこうにいる人物が、彼女の婚約者の命を奪った人物であることを確信した。
あの夜、たまたま夜中に目がさめたのは虫の知らせだったのだろうか。
月明かりに照らし出されたカサブランカの街並みをホテルの窓から見下ろしていると、ロケ・スタッフの一人が小走りに玄関から出て国連広場の方向へ消えていくところだった。
(あの人が、正雄さんをおびきだして殺したんだわ)
ここで負けてたまるものか、と五月は歯をくいしばって恐怖に耐えた。
彼女の目に連絡ボードが映った。
(そうだ。もしも私に万一のことがあったら……)
彼女はマジックインキのキャップをあけて、急いでホワイトボードの広瀬≠ニ書いた欄に、その人物の名前を走り書きした。
さらに何か一言つけ加えようとした時、衣裳部屋の奥でコトン、と音がした。
五月は振り返ると、そちらのほうへ恐るおそる歩いていった。
ツイードや毛皮のコートがちょうど人の背丈のところからびっしりと吊《つ》り下げられていて、その奥は見えない。
電気のスイッチは中のほうにあるのだ。
一番手前の移動ハンガーのむこうには、それと直角に、少なくとも十五以上の移動ハンガーが並んでいて、担当スタイリスト別、仕事別に用意したさまざまな衣裳がかけられている。
その一番奥に小さな事務デスクが一つあり、電話が備えられている。
そいつ[#「そいつ」に傍点]はそのデスクのそばにいるに違いない。
「誰?」
ようやく五月の喉《のど》から声が出た。
「答えなくても、あなたが誰だか私にはわかっているわ」
強がりを言ったものの、その声は喉にからまって、ところどころで裏返った。
「私をどうするつもり。殺す気?」
言ってから五月は何も身を守る道具がないことに気がついた。無意識に右手に連絡ボード用の黒いマジックインキを握っているだけだ。こんなものが護身の役に立つはずがない。
(相手は二人の男をナイフで刺し殺したんだわ)
沖田正雄はケンカ空手の四段であり、黒岩拓三は柔道部の選手だった。その屈強な男たちがまったくの無抵抗で刺し殺されているのである。どう考えても彼女に勝ち目はなかった。
口笛が鳴った。
葬送行進曲のメロディだった。
衣裳の壁に残響が吸いとられて、妙にシンプルな、耳もとで囁《ささや》かれているような口笛だった。
「もうやめてよ!」
五月は叫んで、リビングルームとの境にあった大型移動ハンガーを思い切り手前に引っ張った。
部屋の中に並ぶ衣裳のすきまから奥のデスクが見えた。だが、そこに人の姿はなかった。
「どこにいるの」
それが罠《わな》だとわかっていながら、広瀬五月は衣裳部屋の中に一歩を踏み出した。
ハンガーの列の間を歩いた。時々肩に衣裳が触れて、ハンガーがカタンと鳴った。それ以外に音はない。
リビングルームの明かりが洩《も》れているからまったくの闇《やみ》ではないのに、相手がどこにいるのかわからなかった。それほど、きょうに限ってこの部屋は借り出してきた衣裳でいっぱいだったのだ。
突然、ブォーッと空気の吹き出す音がして、五月はその場に立ちすくんだ。繊維の温まるイヤな匂《にお》いがした。
五月は思い切って音のするほうへ進んだ。
(あっ)
部屋の片隅に、おそらくその人物がオフィス中からかき集めたのであろうヘアドライヤーとアイロンがそれぞれ十以上並んでいて、タコ足配線でそのすべてに電源が入っていた。
(こんなことをしたら……)
五月は相手の狙《ねら》いを見抜いた。
その瞬間、バチンという音がして、あたりはまったくの闇《やみ》になった。大量の電流を一時に使用したため、ブレーカーのスイッチが切れたのだ。
もう逃げ出すしかない。
五月は決心した。しかし、引き返すにも衣裳の列をかきわけていかなければならない。相手はそのどこに潜んでいるのかわからないのだ。
両側にはジャケット類が並んでいた。目が闇になれてみると、リビングルーム側の窓ごしに洩《も》れる街灯の間接光が、唯一のかすかな光源になっていることがわかった。
五月は息をつめて出口のほうへと歩いた。
右手に握りしめたままのマジックが借り物の白いジャケットの袖《そで》に触れ、黒い筋を残した。
が、いまとなってはそんなことはどうでもよかった。命さえ助かるなら、一着十万円以上する衣裳を全部弁償することくらい何でもない。
五月はわずかな光源のために無彩色の世界になっている衣裳部屋を、出口めざしてさらに歩いた。
そのとき、五月のすぐ右手に吊《つ》り下げられていた男ものの黒いボックスタイプのジャケットの右袖が、ゆっくりと持ち上がった。
五月は信じられない顔で左手で口をおさえた。
まるで衣裳に魂でも吹き込まれたように、ジャケットの右袖は彼女の目の前で胸の高さまで上がった。
髪の毛が逆立つ思いでそれを見ていると、その腕は九十度曲がって、彼女のほうに袖口を向けた。
そこから人間の手がのぞいていた。
その手にはライトグレーに映る鋭い刃先を持ったナイフが握られている。
五月はなすすべもなく立ち尽くしていた。
やがてジャケットの腕は後ろに反動をつけると、五月の心臓めがけてナイフを突き出した。
草壁弓子が青葉台の閑静な住宅街の一角に愛車のベンツを停めたのが、金曜日の午前一時を十五分回ったところだった。
「遅刻しちゃったわ」
一見して個人の大邸宅といった感じの玄関のブザーを押すと、タキシード姿の黒人女性が現れた。ファッション誌のモデル経験がありそうな抜群の美人である。
「いらっしゃいませ。ご予約は?」
巧みな日本語だった。
「草壁です。一時に個室を予約してあるわ」
「かしこまりました。どうぞ」
「連れはもうきているかしら」
「いえ、まだのようでございます」
「あら、まだなの」
コートをあずけながら弓子は不満そうに言った。弓子のほうが約束の時間に遅れることがあっても、翔が遅れることはこれまでになかった。
もちろんタレントの立場だから仕事がおす[#「おす」に傍点]ことはある。しかし、何の連絡もなく翔が遅刻したことはこれまでになかった。
「まあいいわ。部屋へ案内して」
「はい。こちらでございます」
入口から邸内は二手に分かれている。
左手に行くと広いリビングルームにソファ席がいくつかセットされている。どの席もカップルでいっぱいだが、どうしても他人に顔を見られたくない客は個室を予約すると、一般客と顔を合わすことなく廊下を進んで部屋へ入ることができる。
個室は十二畳ほどの広さで、本物の暖炉に火が熾《おこ》っていた。
弓子が入るとすぐにドアがノックされ、オーナーが挨拶《あいさつ》にきた。
「お連れ様がお見えになりましたら、すぐにご案内申し上げます」
二、三軽い世間話を取り交したあと、オーナーはそう言って引き下がろうとした。
「そうだ、ちょっと化粧室に行ってくるから、その間に彼がきたらオーダーを聞いといてあげてね。お腹《なか》を空かしているかもしれないから」
「かしこまりました」
「マニキュアを塗り直してくるわ」
そう言って微笑《ほほえ》むと弓子はソファから立ち上がった。
「あ、草壁様。化粧室は出て右手の方に変わりましたので」
「あら、前は左の方だったわね」
「はい、一般席のお客様と共通でしたが、やはり個室をご予約のお客様にはそれでは不都合がございまして」
「何かあったの」
「いえ、私どもの店ではございませんが、同じようなコンセプトの店を経営しているところでちょっと……」
オーナーは控えめに両手を前で組んだ。
「個室をご予約のタレント様と一般客にいた週刊誌の女性記者が化粧室で顔を合わせまして、その記者がすぐに本社に連絡をしてカメラマンを呼び、タレントの方がお連れ様と店を出るところを写真に撮ってしまったのです。当店ではそのようなことが起きないように、と思いまして」
「それはいいことだわね」
弓子は答えながら、自分もそんな目にあわないよう注意しなければと思った。
弓子は化粧室で身づくろいをして個室に戻ったが、翔はまだきていなかった。もう一時半になろうとしている。
気になったのでとりあえず彼の部屋へ電話を入れてみることにした。店の中で電話をするのは避けた。電話は廊下にあるので誰に立ち聞きされるかわからない。
弓子は表に停めたベンツに戻って自動車電話を使うことにした。
「ちょっと車に忘れものをしたわ」
玄関にいる黒人女性の係にひとこと言い訳をして外へ出た。吐く息が白かった。
ドアを開けて運転席に座ったとたん、何か様子がおかしいことに弓子は気がついた。
何か、といっても、具体的にここがおかしいと言えるわけではない。ただ、誰かがこの車に入ったような気がするのだ。空気の匂《にお》いに、自分の残り香とは違うものが混じっている感じがする。
まさかね、と弓子は否定してイグニション・スイッチにキーを差し込んだ。ロックはちゃんとしてあったし、わずか十分かそこらの間に泥棒にやられるなんてことないでしょう。ここはアメリカじゃないんだしね、と思い直した。
とにかく寒かったのでヒーターをつけようと、弓子はキーを回した。
一段回したところでアクセサリー・スイッチが入り、使ってもいないカーステレオが突然大きな音で鳴り出した。
「え?」
弓子は驚いてコンソールに目をやった。
空のはずだったカーステレオに、黒いカセットテープが差し込まれていてそれが回っていた。ボリュームは最大目盛になっている。
(そんな馬鹿な……、ありえないわ、そんなこと)
メロディはバーティ・ヒギンズの『カサブランカ』――。
「冗談じゃないわ!」
弓子は叫んでカーステレオのイジェクトボタンを押した。
「冗談じゃないわよ……」
草壁弓子は同じことをもう一度|呟《つぶや》いた。
ハンドルに両手を置き、そこに顔をのせて弾む呼吸をけんめいに鎮めようとした。
心臓の音が耳もとで聞こえるほど激しい。
(この店に停めるまでは私はカーステレオのスイッチを入れていなかった。誰かがこのテープを仕掛けたとすれば、私が店に入ってからまた戻ってくるまでのたった十分たらずの間しかないわ。でも……)
弓子は考えた。
(このお店にくることを知っているのは、私の他には翔しかいない)
尾行は考えられなかった。弓子は運転のとき、ひんぱんにバックミラーを見る癖がある。
少なくとも青葉台に入ってからは、後ろに一台の車もついてこなかった。
(だとすると、やっぱり翔……)
弓子はその考えを頭から否定しようとした。
だが他に誰が考えられるだろう。そういえば今夜に限って、翔は約束の時間を三十分すぎてもまだ姿を現さない。
(でも、でも考えられない)
彼女の心は否定と肯定の間を揺れ動いた。
(待って、あのとき彼は……)
弓子はふと、あることに思い当たった。
カフェ・アメリカン≠ナ烏丸ひろみ刑事を待っていたとき、店に柴垣翔から電話が入った。青葉台の店に午前一時という約束は、そこで決めたものだ。
では、その電話を翔はどこからかけていたか。
弓子はバックにバンドの音合わせのノイズが流れていたことを覚えている。そうすると彼はテレビ局のスタジオからかけていたことになる。いま、本番中なんだ、と言っていた気もする。
弓子は各テレビ局のスタジオを熟知していた。今夜翔が仕事をしている番組は、レギュラーでその局の第6スタジオがおさえられているはずだ。6スタには入口そばに二台の赤電話がある。翔は本番の合間をぬって、そこから電話をかけてきた公算が強い。
だが本番中ということは、当然、翔はステージ衣裳である。ステージ衣裳に小銭を入れて持ち歩くタレントなどどこにもいない。
つまり、誰かに十円玉を借りなければ電話はかけられなかったのだ。スタジオには他に外線電話もあるが、それはタレントが私用に使うことは暗黙のうちに禁止されていた。
(彼が十円玉を借りるとしたら、マネージャーの山添に決まっているわ)
いや、今回は違ったかもしれない。弓子は思い直した。
自分と密会の場所を決める電話なのだ。マネージャーにさとられるのはマズいと判断するのが普通だろう。そうなると顔見知りのADに借りたことが考えられる。あるいは他の人間から借りた可能性だってある。
そして、翔は電話口で弓子から店の電話番号と住所を聞いた。
(だけど彼だって記憶の天才じゃないんだから、必ずそれをメモしたはずだわ)
赤電話の脇《わき》にはボールペンとメモ用紙がついている。たぶん翔はそれにメモして一枚引きちぎり、衣裳のどこかに忍ばせたのだろう。
一枚引きちぎり――そう、たった一枚しか翔はメモ用紙をちぎらなかったに違いない。そんなところまで頭の回る子ではないのだ。もう二、三枚まとめて破っておかないと、ボールペンの筆圧で下までメモした内容が写ってしまうことなど……。
(誰かが翔の行動に目をつけていて、電話が終わるなりそのメモ用紙の一番上を入手すれば、ボールペンの跡からここを割り出したとしても不思議はないわ)
山添の仕業か。
いや、もう一人可能性がある。草壁弓子は大野洋治の顔を思い浮かべた。彼は今夜、同じテレビ局で仕事が入っていたはずだ。
こういう真似《まね》をするのは山添よりも大野の方がありえるように思えた。
弓子は急いで大野の自宅に電話を入れてみた。何十回コールしても相手は出なかった。
つづいて柴垣翔のマンション。ここも応答はなかった。
(いったい、どうなっているの……)
受話器を握りしめる弓子の姿を、街灯の死角から一人の男が見つめていることに彼女は気づいていなかった。
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第二章
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T 東 京
「この事件が持つ意味は大きい」
急報を受けて、六本木の広瀬五月殺害現場を訪れた財津警部は、重苦しい顔つきでフレッドに呟《つぶや》いた。
黙って頷《うなず》くフレッドに、財津はため息まじりに吐き出した。
「おかげで週末のひろみとの出張捜査はパアだ」
フレッドが呆れて見返すと、警部は残念そうに首を振ってくり返した。
「まったく憎むべき殺人事件だよ、人の楽しみを奪いおって」
事務所の時計が午前三時を告げた。
「二時すぎに別のスタイリストが仕事から帰ってこなかったら、発見はもっと遅れていましたね」
「ああ」
財津はうなずいた。
「ほんとうにこの業界の奴《やつ》らときたら夜光虫みたいな連中だな」
「それを言うなら夜行動物でしょ」
フレッドが素っ気なく訂正した。
財津は咳払《せきばら》い一つして親指で眉《まゆ》を掻《か》いた。
「それにしてもだ。カサブランカでの沖田正雄に始まって、黒岩拓三、広瀬五月。ロケに出かけた七人のうち三人が殺されてしまった。この調子で殺人が続いたらどうなるんだ。そして誰もいなくなった≠ノなっちまうぞ」
財津警部は鑑識課員の検証作業を横目でにらみながら、せわしなくオフィスの中を歩き回った。
「残る四人の関係者のうち、現在連絡がついているのはマネージャーの山添宏だけです。タレントの柴垣翔、ビデオディレクターの草壁弓子、ビデオカメラマンの大野洋治はいずれも自宅にいなくて行方が掴《つか》めません」フレッドが言った。
「早々に彼らを捕まえてアリバイを問い質《ただ》す必要がありますね」
「しかし今回もまた妙な殺人現場だな。衣裳だらけの部屋で例によってナイフで胸を一突きにされてガイシャは倒れていた。そのそばに、血に汚れた男もののジャケットが落ちていた」
「たぶん返り血を浴びないように、ここにかかっているジャケットを着たんですよ。男もののLLサイズだから、たいていの人間なら着られるはずです」
フレッドは財津警部の身体をジロッと見てつけ加えた。
「たとえ警部でもね」
「それはおまえにだって言えるぞ、フレッド」
「ぼくは胸囲はあるけど、腹回りは警部に負けますからね」
「大きなお世話だ」
財津は気にしているところをつかれたのでムッとした。夏までには大減量作戦を展開するつもりなのだ。なにしろ、烏丸ひろみと海外へ捜査に出かける可能性だってなきにしもあらずだ。そのとき、彼女に太鼓腹を見せてしまっては男がすたる。
「それからこのタコ足配線のヘアドライヤーとアイロンはどうだ」
「ブレーカーを切る作戦を立てていたんでしょうね。真っ暗闇《くらやみ》の中でグサリってわけだ。けっこう犯人は用意周到ですよ。準備がよいと言えば、これを見て下さい」
フレッドはオフィスの入口の柱を財津に示した。ドアの鍵受けになっている部分に、小さな透明プラスチックのプレートが貼《は》られていた。
「犯人がオフィスに忍び込めた仕掛けがこれです。さすがに人を殺したあとは気が動転したのか、このプレートを始末することを忘れたみたいですけれどね」
「それでドアがロックされることを防いだわけだな」
「ここのドアは鍵を回して閉める方法じゃないでしょう」
「内側のノブのボタンを押しといて、そのままドアを閉めるとロックされる方式だな」
「鍵メーカーにもよりますが、その手のものは鍵受けの方の穴がこうやってプラスチック板でふさがれていても、すんなりドアが閉まってしまうんです。もちろん、ドアを押してみるなりして確認すると、スッと抵抗なく開いてしまうので、アレッと気づくんですが、ロックされたものと思い込んでしまうと、この仕掛けには気づかない。
実はアメリカのホテルでの犯罪でこの手のやつが流行《はや》ったことがあるんです。たいていは女の二人組で、男性の泊まり客を狙って部屋をノックする。相手が女性だと思ってドアを開けると、一人があら部屋を間違えましたわ、ごめんなさい≠ネど言いながら、取るに足らないお喋《しやべ》りをして、相手の注意をドア周辺からそらせておく。宿泊客も、むこうが部屋の中へズカズカ入ってこないから、つい油断してしまう。その隙《すき》に、もう一人の相棒がこのプラスチック板を鍵受けの穴にペタッと貼《は》ってしまうわけです」
「なるほど」
「そうすると宿泊客が気づかないうちにドアはロック不能となってしまう。そうした準備をしたところで、しばらく経ってから彼を電話で呼びだすんです、バーなどにね」
「そういうわけか。下心のある男はすぐにひっかかりそうだな」
「注意して下さい」
「フレッド、おまえはいつもひとこと多いんだ」
財津警部は歌舞伎《かぶき》でミエを切るときのような顔をした。
「とにかく、これは透明な板ですから、なかなか細工をされたことに気づかないんです。鍵受けのところなんて、あんがい注意を払わないものですからね」
「じゃあ、昨日一日の間にこの事務所をたずねてきた人間をリストアップする必要があるな」
「はい」
「そういう地味で面倒な仕事はフレッド、おまえがやれ」
「そんな……」
「なんだ」
「そんな殺生《せつしよう》な」
「おまえな、もうちょっと外見に似合った言葉遣いをしろ」
「またそうやって差別をする」
フレッドは抗議した。
「ぼくは日本生まれの日本育ちなんですよ」
「おれはな、金髪で青い目の奴にそんな殺生な≠ネんて言われるとゾクゾクッとくるんだ」
「警部……」
「それよりフレッド、死体が黒のマジックインキを握っているのはなぜか、それを考えろ」
「それはですね……」
「ガイシャはそこの連絡ボードに何か書こうとしていたところを犯人に遭遇したんだ。見ろ」
財津警部は自分の方が先に発見したので得意気に言った。
「広瀬の欄に人の名前が殴り書きしてあるだろう」
フレッドは振り返って、ボードを見た。
「おまえ、漢字は読めるな」
「国語はずっと5でしたからね」
「声に出して読んでみろ。何て書いてある」
「大・野・洋・治――ですね」
「どうなってるんだ翔、これじゃ何もかもお終《しま》いになってしまうぞ」
山添はスタジオの壁を殴って独り言を吐いた。
番組の録《と》り直しは、結局翔抜きで行なわれ、さきほど――午前三時十五分に終了した。
そのことで腹を立てているのではない。スタジオに残っている彼に、警視庁捜査一課から緊急の電話が入り、広瀬五月の殺害が知らされたのである。
アリバイ捜査のためにも大至急彼の居どころを探せという。山添は午前三時すぎという迷惑もかえりみず、あらゆる心当たりに電話をかけまくった。
しかし八方手をつくしても翔の行方は掴《つか》めなかった。
(このままじゃ、広瀬五月殺しの嫌疑もかけられかねない)
山添は苛立《いらだ》った。
「弓子としけこんでるんだったら、いますぐ出てこい、翔。殺人容疑者になりたいのか」
「お水ちょうだい」
無意識に呟《つぶや》いてから、ん? ここはどこだっけ、と烏丸ひろみは考えた。
決して寝ごこちがいいとはいえないビニールレザーのソファ。タバコの匂《にお》いのしみついた毛布。
「しまった!」
大声をあげて飛び起きた。
「うっ」
頭が割れる。胸がむかつく。涙が目に滲《にじ》んできた。おかげでまわりの風景はぼやけて見えたけど、間違いようがない、ここは捜査一課の大部屋だ。
「起きたかよ、ヨッパライ」
当直で起きている二係の警部補がストーブに手をかざしながら、ひろみに声をかけた。
「いま何時?」
「四時だよ」
「朝の、夜の?」
「まだ酔っ払ってんのか。明け方の四時に決まってるだろ」
どこかでこんな会話をしたことがあったな、とひろみは霞《かすみ》のかかった頭の片隅で考えていた。
「どうやって私、ここに」
「やさしいボスが運んでくれましたよ。ガイジン刑事《デカ》と一緒にね」
「ええっ?」
「悪いことはできないもんだろ。偶然は恐ろしいとはよく言ったもんだ。彼らがパトカーで高樹町通りを流していたら、約一名、美女がクダを巻いているところに遭遇したらしい」
「ああん、ドジ踏んじゃった」
「大ドジだな」
「ねえ、私クビかな」
ひろみはすがるような目でベテランの警部補を仰ぎ見た。
「謹慎処分はかたいところだろうな」
「ほんとー?」
ひろみは泣きそうな声を出した。
「朝になったらすぐに警部のお宅におわびの電話を入れなくちゃ」
「なに呑気《のんき》なこと言ってんの」
警部補は沸かしたての番茶を湯呑《ゆの》みに注いで、ひろみに差し出した。
「これでも飲んでパッチリ目を醒《さ》ますことだな。財津警部もフレッドも出動中だぜ」
「あの……、何か、あったんで、しょうか」
「カサブランカ殺人事件の関係者がまた一人殺されたんだよ。今度はヘアメイク・スタイリストの広瀬五月だってさ」
「まあ、大野さん」
閉店後のガランとした店内にひとり呆然として座っていた沖田佳子は、いきなりドアを開けて現れた男を見て、びっくりして立ち上がった。
「あなた、こんな時間までどこに行ってらしたの」
「朝の四時か……」
大野は腕時計を見て苦笑いしながら言った。
「いくら沖田のお母さんの店が遅くまでやってるからって、四時じゃ遅すぎますよね」
大野は一礼をして立ち去ろうとした。
「ちょっと待って、大野さん」
正雄の母は慌てて前かけをはずすと、カウンターを回り込んで大野のそばにやってきた。
「あなた何にも知らないの」
「知らないの、って?」
「警察があなたのことを探しているわ」
「ぼくのことを?」
「さっきから何度もお店に電話があったのよ。連絡先は聞いてあるからすぐに警察へ電話してちょうだい」
「いったい、何が起きたっていうんです」
大野は訝《いぶか》しげな顔をした。
佳子は、彼の表情が自然に出たものか、それとも演技なのかを掴《つか》みかねて、しばらくの間、穴があくほど大野の顔を見つめていた。
「五月さんがね……」
そこまで言うと、急に佳子の両眼に涙が溢《あふ》れてきた。
「広瀬さんがどうしたんです」
佳子は顔をそむけて嗚咽《おえつ》をこらえた。
「黙っていちゃわからないじゃないですか」
大野は佳子の両肩を掴んで揺さぶった。
「殺されたのよ。六本木の事務所で」
「殺された?」
大野の手が力なく佳子の肩からはずれた。
「広瀬さんが殺された……」
「ああ、どうしてこんなことばかり起きるんでしょう」
佳子は涙をぬぐいながらつぶやいた。
「何時《いつ》の出来事なんです」
「発見されたのは二時すぎなんだけど、殺されたのはその二、三時間前らしいわ。ついさっきのことなのよ」
「畜生……」
大野は歯ぎしりをした。
「ねえ大野さん、お願い。早く警察に連絡をとって。あなただって、このままじゃ疑われてしまうのよ。あ、どこへ行くの」
佳子は大野が踵《きびす》を返して出て行こうとしたので、袖《そで》を掴《つか》んで引き止めた。
「放して下さい」
大野は彼女の手を振り払った。
「ぼくには行かなくちゃならないところがある」
大野はそれだけ言い残して、靖国《やすくに》通りの方へ走り去ってしまった。
「どうして……」
残された沖田佳子は壁によりかかって啜《すす》り泣いた。
「どうしてみんな殺されてしまうの。正雄と同じように……」
あくびを噛《か》み殺している陣馬市蔵を見て、モハメッド・ハッジはニヤッと笑った。
「すみませんね、私のほうだけ元気で。時差ぼけのせいか、どんどん目が冴《さ》えてきてしまいまして」
「いや」
秘書の通訳を聞いて、陣馬市蔵は苦笑いした。
「若いころは明け方の四時、五時くらい何でもなかったんですが――若いころと言っても五十代のときの話ですぞ」
ハッジはフランス語に訳された陣馬の言葉を聞いて、声を立てて笑った。この通訳のアラビア語では用は足せないと挨拶《あいさつ》を交した時点で判断した彼は、相手を傷つけぬよううまく理由をつけて、フランス語で通訳してもらうことにしたのだった。
「しかし、いいグラスですな」
ハッジはワインの注がれたグラスを賞《ほ》めた。
元赤坂にある陣馬市蔵の自宅応接間には、さまざまなグラス・コレクションが飾られていた。その大半は彼が事実上のオーナーとなっている陣馬|硝子《ガラス》の製品だった。
会談の第一段階が終わり、モハメッド・ハッジの持参した仮契約書に調印をするため、秘書が筆をとりに席を外した。その彼が戻ってくるまでの間をもたせるために、ハッジはひどいアラブ訛《なま》りの英語で陣馬市蔵に話しかけた。
「私もガラス芸術には相当興味がありますが、さすがに陣馬さんの会社の製品は素晴らしい。ガラスの作り出す光の反射一つひとつまでが計算しつくされているようだ」
「なに、弟がやっている会社ですからね。私はよくわからんのですよ」
建前を並べた陣馬の顔を、ハッジは意味あり気に見て笑った。
「ところでバーヤさん」
陣馬は、ハッジの仮の名前を呼んだ。
「根をつめた会談も終わったことだし、一眠りしたら明日はどこか面白いところへでもご案内いたしましょうか」
陣馬は英語でそう言ったつもりだったが、ブロークンだったせいか相手は意味不明の笑いを返すだけで何も言わなかった。
陣馬は少しプライドを傷つけられた気がした。
秘書が筆と硯《すずり》を持って戻ってきたので、陣馬はもったいをつけて墨をすり、鮮やかな筆さばきで署名をすませた。
「さてと」
モハメッド・ハッジは再びフランス語に戻って言った。
「これであなたの尽力により、日本製のトラックと四輪駆動ジープがアルジェリアを経由して、我がサハラ・アラブ民主共和国に輸入されることになったわけです。お礼に関してはすでにご指定の口座に振り込んでありますのでご確認下さい」
「ほう?」
陣馬は驚いた。
「手回しがよすぎやせんですかね。あなたは仮契約を結ぶ前から私の口座にコミッションを振り込んでいたんですか」
「日本にくる前からね」
ハッジは笑った。
「我々の意見は一致することがわかっていましたから」
「ふうむ」
陣馬は解《げ》せぬような唸《うな》り声を出した。
「日本はまだ我が国を承認なさっていないが、年に四、五十万ドル程度の輸入はぼつぼつと行なわれています。しかし、明白に軍事用に使われるとわかっている車輛を大量に輸入することは不可能だ。なんらかの手を打ちませんとね」
「それだったら何も日本車をわざわざ使わなくても、ヨーロッパからの輸入を画策すればよいことじゃないかね」
「いえ、やはり日本車は優秀ですから。それに何と言っても陣馬先生の影響力というものが」
「ふん」
そんなお追従《ついしよう》は聞き飽きているといった調子で軽く笑うと、陣馬は大きなあくびをした。
「さて、うかうかしていると夜が明けてしまう。もう四時すぎですぞ。すっかり話し込んでしまったが、明日もあるのでここらで寝室の方へ引きとられてはいかがですか」
「いえ」
ハッジは目を閉じてそう言うと、ゆっくり瞼《まぶた》を開け、陣馬の瞳《ひとみ》の奥底を見つめた。
「私は明日の夕方にでもまたモロッコの方へ戻らなければなりません。その前にもう一つお話ししておきたいことがあるのです」
「何だね」
陣馬市蔵は面倒臭そうに言った。
自分の独断でコミッションをとり、非承認国の軍事用に使われる車輛の輸出をあっせんした後ろめたさのせいも多分にあった。
「このグラスが欲しいのです」
ハッジは、底のほうに少しワインの残っているグラスを目の高さに掲げた。
「なんだ、何をおっしゃるのかと思ったらそんなことですか」
陣馬はホッとしたように言った。
「それでしたら朝一番に最新デザインのものを一揃《ひとそろ》い取り寄せさせますよ」
「いえ、陣馬さん、私が欲しいのはグラスそのものではなく、これだけ見事な芸術品を作りうる陣馬硝子の技術力なのです」
いぶかしげな陣馬に向かって、ハッジはたたみかけた。
「先生はノヴァ≠ご存知ですか」
「ノヴァ?」
「アメリカのカリフォルニア州リバモア市に一九八五年四月に完成した世界最大のレーザー発生装置のことです」
陣馬は浮かせかかった腰を再びおろした。
「ガラスレーザー方式のノヴァはターゲット室のある建物だけでも五階建ビルほどの高さを持ち、周辺施設まで含めると実に総面積一ヘクタールに及ぶレーザー照射装置で、十億分の一秒の間におけるピーク出力はなんと百兆ワットに至ります」
モハメッド・ハッジはメモも見ずにすらすらと言った。
「ターゲット室の中央には重水素と三重水素を詰めた微小球体があり、そこに十本のレーザービームを集中照射すると、一億度の高温と鉛の二十倍に相当する高密度が生じ、球体内の重水素と三重水素の原子核が融合します。
つまり、レーザーを用いることによって核兵器のシミュレーション・データが得られるわけです。このノヴァはガラスレーザー方式だと申し上げましたが」
ハッジは、ワイングラスをピンと指で弾《はじ》いた。
「ノヴァに使われているレンズ類は主として日本の大手ガラスメーカーHOYA≠フ子会社である在カリフォルニアのホヤ・オプティクス社≠フ製品が使われています。HOYAの高い技術水準が買われたわけですね」
ハッジは底に残ったワインを飲み干してつけ加えた。
「しかし、陣馬硝子の技術力も、それに優るとも劣らない素晴らしいものであると私は確信しています」
「きみ、弟の会社はただのガラス屋さんだよ。ビルの窓ガラスやごらんの通りのガラス食器類を作るメーカーにすぎない。野心と言えばグラスのデザインで世界的な賞を取ろうということくらいだ」
「それはまた控え目なご発言で」
ハッジは笑った。
「あなたが防衛関係者及び有力財界人を通じてアメリカ合衆国に対し、新規大型ガラスレーザー建設の際のレンズ・パーツ入札に関する強力なプロモーションを行なったことはわかっているんです。残念ながら好ましい結果にはならなかっただけのことでね」
秘書と陣馬市蔵は顔を見合わせた。
「だが、せっかくのその技術力を捨てておく手はありません」
「きみの国が大型レーザー装置でも作るというのかね」
「いえ、我が国ではなく」
モハメッド・ハッジは唇だけを動かした。
「レンズの技術力を欲しがっているのはソ連です」
「もう、おれは何もかもがイヤになったんだ」
柴垣翔は草壁弓子の膝《ひざ》で泣きくずれていた。
すでに閉店時刻の午前四時を過ぎていたが、オーナーは気を利かせてしばらく弓子に声をかけずにいた。
「辛《つら》いのね、翔」
弓子も涙ぐみながら、テレビ等で見せるツッパったイメージとは正反対の、一人の気の弱い青年に還《かえ》った翔の頭を撫《な》でてやった。
翔は約束を一時間も遅れて、午前二時に店へやってきた。弓子がその理由を問い質《ただ》す前に、翔はいきなり泣き始めたのである。
それから二時間。翔はようやく気分の落ち着きを取り戻しはじめていた。
「誰かに過去を話さなくちゃ、おれの心はパンクしてしまう」
「何か他人に言えない傷があるのね」
翔は弓子の膝の上で頷《うなず》いた。
「おれの周りで次々に人が殺されていくのは、きっとそのせいなんだ。おれは、過去に復讐《ふくしゆう》されているんだ」
柴垣翔は涙に濡《ぬ》れた顔をあげた。
「弓子さん、聞いてくれる?」
草壁弓子は首を横に振った。
「いまは言わなくてもいいわ、翔。別のところでゆっくり聞いてあげる」
「別のところって?」
「そう……、別のところよ」
弓子は遠くを見る目つきになった。
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U カサブランカ
「東京はまだ明け方の五時か……」
アブデラリ・ベンジェルン警視は、国際電話をかけようとしたのを思い直して受話器を置いた。
日本とは九時間の時差がある。警視庁捜査一課のフレデリック・ニューマン刑事を掴《つか》まえるのはもう少したってから、そう、こちらの時間で真夜中を回ったころがよさそうだ。
ベンジェルンは妻のラディアが作ってくれたクスクスを食べるためにリビングルームへ行くことにした。ラディアはベルベル人なので、郷土料理ともいうべきクスクスは得意中の得意である。蒸した小麦粉の粒に、スパイスの利いたシチューをかけて食べるもので、ラディアに言わせれば小麦粉をふるいにかけるところがポイントなのだそうだ。
ベンジェルンの帰りが遅かったので、子供たちは先に夕食をすませて部屋で遊んでいた。
フラッグスペシャル・ビールを一本空けて飲みながら、ベンジェルンは妻のラディアがあれこれと話しかけてくるのを、うわの空で聞いていた。
(パスポートだ。なぜ、いままでこのことに気がつかなかったのだろう)
彼は沖田正雄の事件が頭から離れなかった。
モロッコ王国の名誉にかけて、殺人犯人が自国民でないことを証明したかった。とにかく、彼は日本でのマスコミの報道ぶりにひどく怒っていたのだ。
その彼が、一つの捜査の死角に気づいたのは三時間前のことだった。
所用があってプリンス・ムーレイ・アブダラー通りを歩いていると、革製品店の前で途方にくれているフランスの老婦人に出会った。
「パスポートをなくしてしまったのよ。すられたのかもしれないわ」
ベンジェルンの制服を見て、銀髪の老婦人はすがりついてきた。
「そこの革細工屋でアクセサリーを買おうと思ったら、財布はあったんだけどパスポートがないのよ」
連れの仲間らしい別の老婆がおせっかいに口を出した。
「だからあんた、ホテルのセーフティボックスにあずけたままにしておけばよかったのよ。目と鼻の先での買い物だったんだし、フランが使えるんだから、小銭入りのお財布だけ持って出ればよかったんだわ。免税品を買うわけでもないのに、いちいちパスポートを持ち歩くなんて。だいたい出かける前からあれほど私は」
「うるさいわね、黙っててちょうだい。とにかく私はパスポートを何とかしなくちゃ、明後日にはマドリード行きの飛行機に乗るんだから。ねえ、お巡りさん助けてちょうだい」
ベンジェルンは機関銃のようにまくしたてる二人に辟易《へきえき》したが、ともかく、モハメッド五世通りにあるフランス大使館の場所と、パスポート再交付の申請方法を教えてやった。
はた、とあることに気がついたのは、老婦人たちと別れた直後だった。
〈だからあんた、ホテルのセーフティボックスにあずけたままにしておけばよかったのよ……〉
そのセリフがベンジェルンの頭の中で回転して、眠っていた一つの記憶をよびさました。
(そういえば、被害者沖田正雄のパスポートは死体からもホテルの荷物からも出てこなかったのだ)
事件直後の結論としては、沖田が殺されたあと、犯人によって被害者の身分を隠すために盗まれたのではないかという意見が大勢を占めていた。というより、正直に言って、殺人犯の割り出しに懸命で、誰も彼のパスポートが見当たらない事実を重視していなかったのだ。ジャケットの胸ポケットには財布が残されており、クレジットカードも含めてそれには手がつけられていなかった。
問題はパスポートがどうなったか、ではない。もしも沖田がパスポートを持ち歩いていたとしたら、それはなぜか、ということだ。
沖田正雄が殺害された推定時刻は午前四時から五時の間である。しかも一行の宿泊していたホテルは、国連広場のすぐそばだった。彼が犯人によって現場へ呼びだされたとしても、わざわざパスポートを身につけていくだろうか。
小銭程度の現金ならともかく、パスポートを持参したとはとても考えられない。しかし、もしそうだとしたら、いったいどんな事情が考えられるだろう。
ベンジェルン警視は大急ぎで、日本人スタッフが投宿していたホテルに向かった。
幸運にも事件当夜のフロント係がローテーション勤務についていた。ベンジェルン警視はつねに持ち歩いている沖田正雄の顔写真をフロント係に示してたずねた。
「この日本人が殺された夜のことをまだ覚えているだろう。ほんの一か月前の出来事だからな」
「はい」
フロント係の男は、ベンジェルン警視の勢いにたじろいだ。
「いいかい、よく思い出してくれ。この男がホテルを抜け出したのは午前四時になる直前だった」
「はい」
「ホテルを出ていく後ろ姿をきみは目撃していたね」
「はい」
「そのとき彼は、セーフティボックスから何かを出してくれと頼まなかったか」
「いいえ、いえ、あ、あの、はい」
急にフロントの係はしどろもどろになった。
「え、どうなんだ。はっきり答えろ」
ふだん温厚なベンジェルンが珍しく興奮して詰め寄った。
「言われました」
顔をつきつけてきたベンジェルンから逃れるように、フロント係は背を反らして答えた。
「その人に、セーフティボックスを開けたいからと言われましたので、部屋のキーを確認した上でボックスのキーを渡しました」
「彼は何かそこから引き出したんだ」
「貴重品だと思います」
「そんなわかりきったことを聞いているんじゃない。現金なのかパスポートなのか」
「さあ、それはお客様以外には私どもも見てはいけないことになっているので。あ、でも待って下さい。たしか、パスポートを出さなくちゃいけないので、セーフティボックスの鍵がほしい、というように言われた気もします」
「きみはどうしてそんな重要なこといままで黙っていたんだ」
ベンジェルンはカウンターをバンと叩《たた》いた。
「じつは、あのあの」
フロント係の若い男はどもった。
「ほとんどお客様の出入りもない時間帯ですし、フロントは私一人だったもので……」
男は消え入りそうな声で呟《つぶや》いた。
「ルームメイドの彼女を、こっそりここへ呼んでいたんです」
「なにィ」
「いろいろよけいなことを喋《しやべ》ると、そのことまでバレると思って……」
「わかった、もういい」
ベンジェルン警視はフロントのカウンターをもう一回叩くと、まわれ右をしてホテルを出た。
何ということだ――ベンジェルンは見落としに歯ぎしりした。
午前四時という街が寝静まっている時間帯に、わずか数分の距離にある国連広場へ行くのに、沖田正雄はパスポートを持ち出して出かけたのである。
ベンジェルンはこの新事実を、できるだけ早く日本の捜査陣に伝える必要があると考えていた。
モロッコ時間、木曜日午後八時。
日本時間、金曜日午前五時。
アブデラリ・ベンジェルン警視は、東京で第三の殺人が起きたことをまだ知らなかった。
カサブランカの西約七キロのところにあるビーチ・リゾート地アイン・ディアブ――。
その外国人観光客向け超一流ホテルの一室にジェームズ・ハッサンという名前で泊まっているアメリカ国籍の男がいた。
五番街かマジソン・アヴェニューあたりで上から下まで揃《そろ》えたといった身なりは、この五つ星ホテルの宿泊客にふさわしかったし、禿《は》げあがって広くなった額も、彼のかけている洗練されたデザインの眼鏡とともに、知性の象徴として他人に映ったとしても不思議はなかった。
「ハッサン様、テーブルのご用意ができました」
ウェイティング・バーのソファにゆったりとくつろいでいると、レストランのボーイが呼びにきた。一段と照明を落としたレストランからは、夜の大西洋が一望のもとに見渡せた。
海水浴シーズンは外れているが、このリゾートを求めてやってくる富裕階級の人間は多かった。
一人でテーブルにつくと、ジェームズ・ハッサンはワインを頼み、ディナーのメニューを選びにかかった。
十五分前に日本から朗報が入ったばかりである。たった一人きりだが贅沢《ぜいたく》にお祝いしてバチは当たるまい。
上機嫌でワインを楽しみながら、彼はオードブルがくるのを待った。
ガラス越しに見える夜の大西洋は少し荒れ気味だった。次第に夜風が強くなって、沖の方に白い三角波が立っていた。
ふと彼の頭の中にイヤな記憶が甦《よみがえ》った。カナリー諸島沖に停泊していたヨットに侵入したことが見つかって、命からがら脱出した時の思い出だ。
夜の大西洋に飛び込むのは二度とごめんだった。
不吉なイメージをかき消すために、彼はさっきモハメッド・ハッジから受け取ったばかりの国際電話を思い出した。
「陣馬が罠《わな》にはまったぞ」
陣馬市蔵宅の電話を借りているというのに、ハッジはベルベル語で堂々と伝えてきた。
「陣馬硝子の技術陣を極秘|裡《り》にフィンランド経由でモスクワへ送りこむことに奴《やつ》は同意した。一つの破綻《はたん》から穴を広げて、とうとう陣馬市蔵は日本国を裏切る行為に加担せざるを得なかったのだ」
「与党幹部がそのことを知ったらどうなる」
ハッサンはたずねた。
「日本政府の場合、陣馬市蔵の政治生命を抹殺するよりも、逆に政府ぐるみで不祥事を隠しに回るだろう。そういう反応に出てくれれば、こっちが握る相手の弱みはますますデカいものになる。軍事用車輛の不正輸入という餌《えさ》で、おれたちは日本という国を丸ごと釣りあげかけているんだ」
「ハッジ、やったな。おれも役に立ててうれしいよ」
禿頭をぴしゃりとたたきながらニヤリと笑ったとき、彼はアメリカ人ジェームズ・ハッサンではなく、アルジェリアのために働くプロフェッショナル・スパイ、ハーリド・エル・ファラーの顔になった。
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V 東 京
空はまだ明けきらず、上野駅の輪郭は哀愁を帯びた蛍光灯の明かりで辛うじてその存在を闇《やみ》と分かっていた。
大野洋治は長距離列車の発着ホームで、寒さに足踏みしながら時が経つのを待っていた。
午前六時二十二分、上越新幹線とき四〇一号が出発する。
それを待つ間に、なぜか大野は長距離列車ホームに立ってみたくなったのだ。
上野駅から北に向かって延びる線路は、そのまま彼を柴垣翔の過去へと導いてくれそうな錯覚を起こさせた。
信号機が夜霧のむこうに隠れて緑色の星を作っていた。
発車ベルが鳴った。東北本線各駅停車|黒磯《くろいそ》行きの出発である。
翔の故郷、法師ノ沢へは、地下ホームから出発する上越新幹線に一時間十分ほど乗って上毛《じようもう》高原駅で降り、そこから車をチャーターすることに決めていた。メーターは出るが金のことは気にならなかった。
(あいつの過去を知っていたことで沖田は殺され、黒岩さんも殺されて、そして五月まで……)
大野は広瀬五月を愛していたことを認めないわけにはいかなかった。沖田が彼女との婚約を発表した時には、驚きよりも猛烈な嫉妬《しつと》に襲われたものだ。
そして、沖田が殺されたとき、驚きよりもある種の淡い期待感に心を躍《おど》らせたことも事実だった。
(だが、彼女は勘の鋭い子だった。そんなおれの気持ちを見抜いて、事件以来日が経つにつれておれを避けるようになってきた)
大野はそう感じていた。
しかし、彼はその点に関して完全な思い違いをしていた。
あの日の夜、広瀬五月は偶然にも、大野洋治がホテルを出て国連広場へ向かうところを[#「大野洋治がホテルを出て国連広場へ向かうところを」に傍点]見てしまったのである。
五月はそのために、大野こそ愛する婚約者を殺した犯人ではないかと強く疑っていたのだ。
沖田の母の店の近所に停めておいた車に『カサブランカ』のカセットテープをセットすることだって、同乗していた大野だったら容易な仕業だった。
黒岩が殺された夜、わざわざ自分の家に電話をかけて現場へすぐに行こうと熱心に誘ってきたのも不自然だった。
考えれば考えるほど、大野に対する疑惑の念は強まりこそすれ弱まることはなかった。
大野は沖田佳子から五月の死を知らされてひどい衝撃を受けたが、五月が死の一歩手前まで大野を連続殺人事件の犯人だと信じ、ボードに自分の名前を書き残したことを知ったら、さらに強いショックを受けたことだろう。
だが、最後の最後で、広瀬五月は自らの過ちに気がついた。生命と引きかえに、一秒にも満たない短い間だったが犯人の顔を見たのである。
(おれは翔の過去を知っている――これが沖田の口ぐせだったという。それならおれが、その秘密というやつを探りあててやる。死んだ五月のためにも)
大野洋治は夜霧の果てに消えていくレールのかなたを見つめて呟《つぶや》いた。
「翔……」
草壁弓子はベンツの助手席に乗りこんだ翔の横顔を見つめた。
「あなた、今夜は約束に一時間も遅れたわね」
「ごめん」
「そのことはいいの。そうじゃなくて、あなた、その時間まで何をしていたの。局での仕事は早く終わったんでしょ」
翔は顔を強《こわ》ばらせたまま答えなかった。
「いいわ。べつにイヤなら答えなくても」
弓子はつとめて軽い調子でそう言うと、エンジンをかけた。
彼女はチラッとコンソールボックスに目をやった。例のカセットテープは外してセレクトレバーの脇《わき》に無造作に置いてある。
もし翔がこのテープを仕掛けた張本人なら、何か反応があるに違いないと思っていた。
だが、翔は気むずかしい顔をしたまま外を向いていた。
「行くわよ」
弓子はライトをつけ、ギアをドライブに入れてアクセルを踏み込んだ。
「どこへ」
「代々木深町のあなたのマンションへ」
「別のところでゆっくり話そうって言ったのは、おれの部屋のこと?」
「ううん」
弓子は首を横に振った。
「お部屋に戻ってパスポートをとってらっしゃい。あとは何もいらないわ」
「パスポート?」
翔は驚いた声を出した。
「パスポートって、いったいどこへ行く気なんだ」
弓子は左手でハンドルを支えると、右手でコンソールボックスを開け、二枚の航空券のチケットを取り出してひらひらさせた。
「いつかこんなことになるんじゃないかと思って、あなたと私の名前でオープンチケットを取っておいたの」
「どこ行きの切符なんだよ」
翔は呆然《ぼうぜん》としてたずねた。
「カサブランカよ。パリ経由でね」
弓子は真っすぐ前を見つめて、きっぱりと言った。
「お互いに片道切符しか買ってないわ」
山添宏はリクライニング・シートを倒した車の中で何度もあくびをくり返した。
アイドリングにしてヒーターを入れっ放しにしてあるので、時々デフロスターにして窓の曇りをとらないと、マンションの出入口を見張れない。
代々木深町のメゾン・ド・深町三〇三号室。
翔が自分の巣に帰ってくるまで山添は何時間でもこうして張り込んでいるつもりだった。
警視庁記者クラブからの情報で、マスコミはすでに広瀬五月殺人事件を知っているだろう。
とりあえず駅で買った各紙の朝刊には、事件の報道は間に合わなかったようだが、夜が明けて朝を迎えれば芸能マスコミが殺到してくるのは間違いない。
マンション周辺にそれらしき取材者の姿が見当たらないのは、山添にとってむしろ不思議なくらいだった。
だが、柴垣翔が昨夜十一時すぎから行方不明のままだと知られたらとんでもない大騒ぎになるはずだ。いまは、まさに嵐の前の静けさといった感じだった。
コンコンと窓ガラスを叩《たた》く者がいるので、山添はハッとして身構えた。
ギョロ目で鼻の穴が大きく唇がぶ厚い、すべてが大ぶりにできている警官の顔が窓越しにのぞいていた。
「マネージャーの山添さんですね」
警官は、ウインドウを下げて目で問いかけた山添に答えた。
「黒岩氏の件で二度ばかりお目にかかりましたね。捜査一課の財津です」
「あ、ああ、これはどうも」
山添は慌ててシートを起こした。
「いやいや、どうぞそのままで。柴垣翔待ちですな」
山添は頷《うなず》いた。
「それじゃあ我々もご一緒させていただきますよ」
山添が後ろを振り返ると、ライトを消した覆面パトカーがマンションの角に横づけされていた。運転席には見覚えのある金髪の外人刑事もいる。
(とうとう一番まずいケースになってしまった)
柴垣翔のマネージャーは全身から力が抜けていくのを感じた。
「こんなところにボヤッと座っていられないわ」
出動中のパトカーの無線交信をモニターしているうちに、烏丸ひろみはいても立ってもいられなくなった。
「着替えます」
そう言うと、ひろみはいきなり斬新《ざんしん》なデザインの白いスーツを脱ぎはじめた。
「お、おい、きみ」
警部補が慌てふためいているうちに、ひろみはスリップ姿になった。
「見ないで下さい」
言うだけ言うと、あとは相手の視線がどっちを向いていようと構わず、ひろみはスリップも脱ぎ捨てた。
「こ、こら。まだ酔っ払っているのか、きみは。え、烏丸君。おいったら」
白のブラジャーとパンティだけになったひろみは、つかつかとロッカーに歩みよると、そこから真っ黒な皮のレーシングスーツを取り出した。
白バイ隊は、捜査一課のワンフロア上、警視庁ビルの七階にある交通部に所属している。選考基準も厳しく、身長百六十五センチ以上、体重五十キロ以上九十キロ以下、肺活量三千cc以上で、握力三十五キロ以上……等々あって、さらに柔剣道いずれか初段以上、ついでにヘルニアや痔《じ》疾患がないこと云々といった条件がつけられている。
それらの基準をクリアし、書類・面接審査に合格し、さらに白バイ訓練所で一日八時間×六週間、徹底的に実技をシゴかれた上で仕上げの検定試験に合格してはじめて白バイ隊員になれるのだ。
さすがにひろみはそこまでの訓練を受けていないし、身長も百六十五センチに四センチばかり足りない。体重だって五十キロはない。
だが根っからのバイク・フリークで、足で稼ぐ捜査もバイクを使えばもっと効率的とかわけのわからない理屈をつけて、ひろみは自分専用の|450cc《ヨンハン》バイクを庁舎の駐車場に置いていたのだ。
とりあえずこの件に関して、いまのところお咎《とが》めはなかった。
ひろみはスーツのジッパーを首まで上げ、黒のブーツをはき、黒のフルフェイス・ヘルメットを小脇《こわき》に抱え、黒手袋をそろえて左手に持った。
「じゃ、行ってきます」
ひろみはブーツの踵《かかと》をカチンとそろえ、ニッコリ笑って二本指の敬礼を警部補に向かって飛ばした。
弓子の運転するベンツが代々木深町のマンションまであと五、六百メートルほどのところまできて、助手席の翔が急に声をあげた。
「しまった。パスポートは部屋に置いてないんだ」
「どこなの」
弓子が顔を曇らせた。山添が保管していたら日本脱出計画はアウトだ。
「中央テレビの仕事で来月オーストラリアに行くかもしれないんで、ビザをとるためにパスポートをあずけたばかりなんだ」
「いつのこと」
「きょうの夕方、山添が渡していたと思うよ」
「誰に」
「ADの加賀に」
「OK、だったら取り戻す可能性はあるわ。夕方に渡したんだったら、まだ手元に持っているでしょう。ADの加賀ちゃんね」
「いまから取りにいくの」
翔は驚いた。
「そうよ。中央テレビだってどこだって、私は顔だから大丈夫」
「だってこんな時間に彼はいないぜ」
翔は車のデジタルクロックを指さした。午前五時十五分である。
「いなきゃなおさら好都合じゃない。彼の机くらい座席表を見ればすぐわかるわ」
「勝手に取ってくるのか?」
「翔」
弓子は車を停めて、翔を見つめた。
「あなた、行く気になったんでしょ」
「………」
「どうなの」
「蒸発か……」
「自分の傷をほじくり返すには、それがもう一度かさぶたを作るまでの時間もみておかなくちゃいけないわ。日本で仕事に追いまくられる生活の中で、あなたをそれほどまでに苦しめてきた過去を懺悔《ざんげ》したら、あなた自身が潰《つぶ》れてしまうわ」
「とりあえず、けさ十時からラジオの生放送があるんだよな」
翔は呟《つぶや》いた。
「何言ってるの。そんな細かい仕事と一生の問題とどっちが大事なの」
翔は不思議な気がした。
あと三時間もすれば山添がマンションに迎えにくるはずだ。そこで翔がいないとなると大騒ぎになるだろう。
ラジオのキャンセルは何とか理由をつけてとりつくろうにしても、そのあと午後一時からは二時間ドラマの録《と》りがある。翔は準主役だったから、彼が行かないとほとんどのカットが撮影中止になる。主役の大物女優や、脇《わき》をかためるベテラン俳優たちの怒りが目に見えるようだ。
山添はあちこちから怒鳴られ、なじられ、ペナルティを要求されながら顔面|蒼白《そうはく》になって自分を探し回るだろう。
ここまで事態が発展してしまえば、もうごめんなさいとノコノコ顔を出したところで取り返しはつかない。蒸発の意志を翻すなら十二時がリミット。いや、いまが決断のリミットなのかもしれない。
「翔、蒸発を恐がっちゃだめ。あなたがいなくなっても芸能界は回ってるわ」
「わかったよ」
翔は頷《うなず》いた。
「中央テレビへとりにいこう」
|450cc《ヨンハン》バイク、愛称シルバー号≠ノ乗った烏丸ひろみ刑事は、霞《かすみ》ケ関《がせき》料金所から首都高速に乗り、翔のマンション目指して代々木出口へとぶっ飛ばした。
途中で反対車線を突っ走るベンツとすれ違っているのだが、そのことにひろみが気がつくはずもなかった。
背中を丸め空気抵抗を減らして、烏丸刑事はまだ明け切らぬ首都高速をメチャクチャなスピードで走り抜けた。
「いい、翔。あなたは車の中で待ってて。人に顔を見られないようサングラスをかけておいた方がいいわ」
虎ノ門の中央テレビに着くと、弓子はベンツを局内のパーキングに入れ、一人で建物に入っていった。
警備員ともすっかり顔なじみである。お早うございます、の一言で彼女はすんなりと中に入った。
制作のフロアは三階にある。この時間では誰もいないかと思っていたら、あちこちのソファやデスクに固まって打ち合わせをしているスタッフがいて、夜明け前とは思えないざわついた雰囲気である。テレビ局に眠りはない。
弓子もよく知っている直美という制作デスクの女の子が、山のようにコピーを取っていた。
「徹夜かな」
弓子が声をかけた。
「あ、草壁さん。お早うございます」
「目が点になってるわよ」
「そうなの、年始特番の追い込みで大変なんです。これ、台本の直しが出ちゃって……」
「タバコ差入れしてあげようか、一箱だけれどメンソールのピリッと効いたやつ」
「わ、ありがとうございます。いいんですか」
「ねえ、加賀ちゃんのデスクどこだっけ」
弓子はさりげなくきいた。
「あそこの観葉植物の鉢植えの隣です。ぐしゃぐしゃの一番汚ない机」
「わかったわ、ありがとう」
弓子は笑顔で手を振るとその場を離れた。
「草壁さんもこんな時間まで大変ですね」
直美の最後の一言は聞こえなかったふりをして、弓子はADの加賀の机に近寄った。こういう乱雑な机の持ち主は、タレントのパスポートをあずかっているからといって引き出しに鍵をかけるような神経の持ち主ではない。
案の定、一番大きな引き出しの中に、伝票に混じって無造作に紫垣翔のパスポートが入れてあった。
「よう! 弓子じゃないか、どうした、美人がこんな夜遅く」
山男のようにヒゲを生やしたディレクターが大声をあげて近づいてきた。
「ちょっと加賀ちゃんのデスクに用事があってね」
弓子は少しもあわてずに答えた。右手にはすでに翔のパスポートを持っている。
机《デスク》に用事とはいい加減な表現だが、これはこれで通用するところが妙な世界だった。妙といえば、いくら顔見知りとはいえ、外部の人間が夜明け前に一人でやってきて社員の机を開けていても、誰一人不審に思わないのが放送局の制作フロアの不思議である。
「弓子もたまには付き合えよな、冷てえんだからまったく」
「あら、星野さんが誘ってくれないからじゃない」
「よせよ、こんどいちどゆっくり飲みましょうよ≠ネんて決まり文句は。それよりさ」
弓子があくまでさり気なく机の引き出しを閉めたのには気もとめず、ディレクターは彼女に近寄ると急に声をひそめた。
「まだここだけの話なんだけどさ、翔が逃げてるんだってよ、六本木であったコロシの件で」
「えっ」
弓子は心臓が縮み上がった。
「何だ、知らないの。おまえが行った例の呪《のろ》われたカサブランカ・ロケな」
ディレクターは不吉な言い方をした。
「こんどはあれのヘアメイクをやってた広瀬って女が殺されたんだ。さっき報道部の連中が現場取材に飛んで行った。それで警察は関係者にチェックを入れたところ、翔の行方がわからないらしいんだ。マネージャーの山添が真っ青になってあちこち電話をかけまくってるらしいぜ。朝ワイドの連中も、もし犯人が翔だったら一大事だって色めきたっちゃってさ」
「それで何となくざわついているのね」
うなずきながら、弓子はパスポートをこっそり背中に回して、ディレクターの目にふれないようにした。
「そういや弓子、おまえだって関係者だろ」
「まあね」
弓子は作り笑いした。
「おまえが犯人でも、これはビッグニュースだぜ。これだけの美女が殺人を犯したとなりゃ画《え》になる」
「よしてよ」
弓子は長話になるとマズイと思い、その場を立ち去ろうとした。が、ふと思い直してヒゲ面のディレクターに声をかけた。
「私、いまから伊東に行くんだけど」
「伊東、何だそりゃ」
「温泉。たまにはお湯につかってのんびりしなくちゃね」
「男と一緒だったりしてな」
「あたりまえでしょ」
「おっ、おっ」
ディレクターは目の色を変えた。
「誰だ相手、え、誰だよ、そういう不埒《ふらち》な奴は」
「ナ・イ・ショ」
笑って弓子はバイバイをした。
それからまだコピーを取りつづけている直美のところへ行き、彼女にもごく自然にウソの情報を与えた。
「それじゃ直美ちゃん、お先に」
「あ、お疲れさまでしたあ」
「ちょっとこれから伊東温泉へ行って、骨休めしてくるわ」
駐車場の車に戻ると弓子はすぐにエンジンをかけた。
「パスポートあったわよ」
「どうしたの、顔色が青いよ」
「水銀灯のせいでしょ」
弓子はとりあわずに車を動かした。
「運命かな」
翔は呟《つぶや》いた。
「なに?」
「パスポートがこうもかんたんに取り戻せたってことは、カサブランカへ行けっていう運命かなと思ってさ」
「そういうことね」
「これでいよいよ大騒ぎになるな」
もう大騒ぎになっているのよ、と弓子は心の中で呟いた。
「それじゃ行くわよ、成田へ」
「ああ」
翔はもう迷わないといった風に頷《うなず》いた。
弓子は運転しながら自動車電話をとり、フェアモント映像の留守番電話の番号を押した。
「もしもし、草壁です」
片手ハンドルで喋《しやべ》り始めた。
「急に思うところあって伊東に出かけます。きょう入っている代理店との打ち合わせは山田君に代わりに出てもらって下さい。彼で充分わかると思います。勝手言ってすみません。私ひとりのことじゃないので。じゃ、よろしくお願いします」
「伊藤ねえ」
翔が驚いたように言った。
「まるでおれたち、逃亡者だな」
午前六時二十二分、上野駅地下ホームを上越新幹線とき四〇一号がゆっくりとスタートした。
大野洋治の怒りに燃えた顔が、その10号車の窓際にあった。
同じころ、三国山に近い法師ノ沢にある紫垣翔の実家では、父親の柴垣茂市が一睡もできぬまま朝を迎えようとしていた。
ふとんに横たわっていたものの、身体《からだ》は少しも休まっていない。充血した目には睡眠不足のためだけではなく、怒りと悔恨と情けなさの入り混じった涙が滲《にじ》んでいた。
あと八分経てば、いつものように六時半に合わせた目覚まし時計が鳴り、妻の時江が起きるだろう。
(そのときに、おれは何と言えばいいんだ)
茂市は隣の布団で寝ている妻の寝顔を見ながら悶々《もんもん》と悩んだ。
もしも真夜中すぎにかかってきた翔からの電話を時江のほうがとっていたなら、逆に妻がこうして悩み苦しんでいただろう。いや、時江だったらショックでその場で倒れてしまったかもしれない。
「かあちゃん……」
茂市は眠っている妻にこっそり声をかけてみた。
「翔がな、翔が人を……」
茂市の唇がワナワナと震えた。
「殺し……コロ、コロシ……」
茂市は枕に顔をうずめて嗚咽《おえつ》をこらえた。
「だめだ、そんなこと言えねえ」
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W カサブランカ
ハーリド・エル・ファラーは、自分より十五歳も若いモハメッド・ハッジの野望を見抜いていた。
祖国モロッコを捨て、西サハラ側に転じたハッジは、今のところサハラウイ人民解放軍のために身を投じているが、究極のところクーデターを起こし西サハラそのものを自分の掌中に握ってしまおうという、大胆極まりない野心を持っていた。
「わずか一握りの傭兵《ようへい》でクーデターに成功した例もある」
ハッジは過去の例をひきあいに出すことによって、自分の計画にも現実性があることを強調していた。
しかしクーデターのためのプライベート・アーミーともいうべき傭兵を雇うには資金が要る。武器とて彼ら任せにしておくわけにはいかない。ある程度の金と武器はモハメッド・ハッジ自身がそろえておく必要があった。
ハッジはその資金調達先として日本に目をつけたのである。
いや、正確に言えばそれをアドバイスしたのはエル・ファラーであった。
モハメッド・ハッジがどちらかというとヨーロッパ及び中近東にしか目を向けないのに比べ、スパイ職人のエル・ファラーはキャリアが長いだけのことはあった。欧米はもちろん、遠くアジアの国々に関してまで仔細《しさい》にわたる情報を吸いあげていた。
ハーリド・エル・ファラーが、日本の与党国会議員陣馬市蔵に目をつけたのはまったくの偶然であった。
先月、カサブランカの国連広場を未明に通りかかったら、噴水の植え込みに若い東洋人の男が倒れていた。胸にはナイフが刺さり、夥《おびただ》しい流血が衣服を染めていた。
パスポート・コレクターのエル・ファラーは、周囲にまったく人影がないのを確かめて男の背広を探ろうとした。外国人はパスポートを肌身離さず持っていることが多いからだ。
しかし、わざわざそうするまでもなかった。死体の脇《わき》に日本国の赤いパスポートが落ちていたのである。エル・ファラーは素早くそれを拾いあげると、中の写真と死体の顔が一致するのを確かめて足早にそこを立ち去った。沖田正雄という持ち主の名前を確認したのは、旧市街《メデイナ》の中へ入ってからだった。
パスポートはしばらくそのまま持っていたが、やがてこの殺された日本人のことで日本から大挙して報道陣が押しかけてきた。モロッコではこの馬鹿騒ぎに目を丸くし、地元各紙がカミカゼ・ジャーナリストの大群、カサブランカを襲う≠ニ一斉に報じる始末だった。
カサブランカ市内の国連広場は一躍極東の観光団に有名となり、観光バスから降りた日本人の一団が、死体の発見された噴水前でパチパチと記念写真を撮りあっては大喜びしていた。
もともとカサブランカはヨーロッパの玄関として開かれた都市で、いわゆるエスニックな雰囲気の乏しい街だったが、ここ十年あまりでその近代化に一層拍車がかかり、アラビア文字さえなかったらヨーロッパ地中海沿いの街とまったく変わりはない、と言われるまでになった。
自分たちの勝手なイメージを求める日本人観光団のために、民族衣裳をまとった楽隊や無許可の物売りが国連広場に続々集まってくるなど、モロッコ政府観光局としてもそのエスカレートぶりに警告を発するほど、事態は馬鹿げた様相を呈してきた。
そんな折り、ある地元新聞の日本特派員の記事がエル・ファラーの目を引いた。
殺された若い男は、紫垣翔という日本の人気歌手のビデオロケのスタッフで、人気スターが絡んでいることがマスコミを過熱させている。しかし、紫垣翔の所属するプロダクションは、与党のそれも大物国会議員が影のオーナーになっている。いまカサブランカで日本の報道陣及び観光客が巻き起こしている異常な騒動を聞き及んでいるのなら、関係する一政治家として、日本国民に常識を取り戻すよう呼びかけるべきだ――という趣旨の記事であった。
エル・ファラーは、その陣馬市蔵という政治家の経歴に興味を持った。
通産・運輸・農林水産の各大臣をつとめ、その間に防衛庁長官を歴任している。この防衛庁の最高責任者時代に築いた人脈は欧米にまで広がり、日本の軍事機密の深部まで首を突っ込んだ点では歴代長官に類をみなかった。
現在は閣僚を外れているが、いずれは官房長官あたりのポストで政界の黒幕ぶりを発揮するものと予想されていた。
その彼が芸能プロダクションの他にもう一つ、息のかかった企業を持っていた。むしろ、この企業に比べたら芸能プロダクションなど子供の遊びのようなものだった。
陣馬硝子――業界でも五指に入る大手で、代表権は弟の陣馬兼蔵が持っていたが、陣馬市蔵の大きな政治的基盤であることに違いはなかった。
エル・ファラーはこの人物及び陣馬硝子について、さらに詳しい情報を調べさせた。
そこで彼は、陣馬硝子がアメリカで計画されている新型巨大ガラスレーザー装置のレンズ・メーカーとして入札に参加し、工作のかいなく敗れ去ったことを知った。
これは使える――エル・ファラーは直感した。これまでの米ソ両大国の開発競争の例に洩れず、アメリカが一九八五年に建設した巨大レーザーノヴァ≠フ実績を下敷きにして、ソ連でも同様のプロジェクトが急ピッチで進められていた。
しかし、ノヴァ≠ネみの性能を誇るには、精密の粋をつくしたガラス・レンズ加工技術を導入しなければならない。この点ではHOYA%ッ様、陣馬硝子も世界最高レベルの水準を持っていた。
エル・ファラーはたちまち頭の中で電卓をはじいた。
ソ連のニーズと、陣馬市蔵の戦略と、モハメッド・ハッジの野望をコーディネートすれば、一大プロジェクトができるではないか。
その調査に一役買えば、自分の懐も大いに潤うというわけである。万が一、ハッジの狙《ねら》い通りにことがすすめば、エル・ファラーだってクーデター後の西サハラの政権の一翼を担えるかもしれない。
ハーリド・エル・ファラーの作戦にモハメッド・ハッジは喰《く》らいついた。冷静な顔を装いつつ、ギラギラとした征服欲を秘めてハッジは飛びついてきたのだ。そして、そのファースト・ステップともいうべき陣馬市蔵を罠《わな》にかける作戦は思わぬ大成功をおさめた。
「だから言っただろう」
エル・ファラーは得意気に電話のむこうのハッジに言った。
「あんたが捨てろって言った日本人のパスポート、やはり持っていてよかったじゃないか」
アイン・ディアブの高級リゾートホテルの一室で食後のリキュールを楽しみつつ、エル・ファラーはモハメッド・ハッジの感謝の言葉を思いだして、満足そうに笑みを洩《も》らした。
妻のラディアが作ってくれたクスクスを口に運びながら、アブデラリ・ベンジェルンは物思いにふけっていた。
妻は夫の様子にすっかり諦《あきら》めてお喋《しやべ》りをやめてしまった。
(この人は事件の捜査に夢中になるといつもこうなんだわ)
ラディアは、夫が国連広場で起きた日本人刺殺事件の解明に血まなこになっていることを知っていた。
(日本人のことなんてどうだっていいじゃないの)
正直なところラディアはそう思っていた。
(それより、私と子供たちをたまにはフランスへでも連れていってもらいたいわ)
ラディアはべつにパリへ行きたいとは思わなかった。テロに巻き込まれるのもイヤだったし、都会ならこのカサブランカでたくさんである。
それよりもブルゴーニュ地方のワイン街道をのんびりと散策するか、フランシュコンテ地方のサラン・レ・バンの農村の小さな宿に泊まって、ゆっくりと牧場地帯や大森林をながめて時を過ごすのがよかった。
とにかくコンクリートと砂はたくさんだった。ラディアは無限の緑にあこがれていた。
「パパー、ねえ、これ見てよ」
六歳になる娘のソフィアが、ベンジェルンの膝《ひざ》に飛び乗ってきた。
「うん? ああ、万華鏡《カレイドスコープ》じゃないか」
「友だちのソアードがくれたの」
「ふうん、きれいかい」
「すごくきれいよ、見て見て」
「ソフィー、パパは食事中よ」
ラディアが注意したが、ベンジェルンはどれどれと言って万華鏡をのぞきこんだ。
「ちがうよ、パパ。あかりの方に向けるの」
「ああ、こうか。なるほど、これはきれいだな。雪の結晶みたいだ。ソフィー、雪の結晶って本か何かで見たことあるかい」
「ううん」
「おっ、こんどはサソリみたいな形になった」
ベンジェルンは片目をつぶって万華鏡に夢中になった。
「ねえ、パパ。どういうの、私にも見せて」
いきなりソフィアが飛びかかってきたので、万華鏡の世界に没頭していたベンジェルンはバランスを崩して椅子《いす》から転げ落ちた。
万華鏡を両手で支えたまま落ちたためしたたか背中を打った上に、娘のソフィアまでがクスクスの入った皿をひっくり返しながら転がり落ちてきたので、一瞬にして食卓はひどいことになった。
「もうパパもソフィーも何ですか」
ラディアが怒った瞬間、クスクスまみれになったベンジェルンが床から身を起こして叫んだ。
「わかったぞ! カラテの有段者が一発で致命傷を受けた理由が」
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X 成 田
「定刻より遅れて十三時三十分に出発よ」
草壁弓子はパリ行きの便の時間を確認して翔に呟《つぶや》いた。
「あと三時間もあるわ」
「もう始まっちゃったな」
コーヒーラウンジのソファに深く身を沈めて、翔が呟いた。サングラスをした上に、弓子が買ってやった帽子を目深にかぶっているので、テレビでおなじみのスター歌手がここにいるとは気づかれていなかった。
「え、何が始まったの?」
隣に腰を下ろして弓子がたずねた。
「ラジオさ」
帽子の下からのぞいている翔の鼻と唇が、かすかに動いて答えた。
「けさ出演するラジオの生放送がもう始まってる」
時計は十時半を指している。
「山添はどんな顔してるかなあ……」
翔は長く伸ばした足でテーブルを下から軽く蹴《け》り上げて呟いた。
「きっと大騒ぎになってるよな」
弓子はそんなことよりも、警察の手が成田空港にまで伸びていないかと、そのことばかりが気になっていた。
中央テレビで意図的にリークした弓子のニセ情報をあの連中が心にとめていたら、柴垣翔が年上のビデオディレクターと伊東へ逃避行、というニュースが行き渡っているはずだった。
フェアモント映像の留守番電話も、朝九時半に出社した女の子が聞いているはずだから、ニセ情報の裏付けにもなっているだろう。
とにかく翔を伴って弓子が伊東方面へ姿を消したと警察にも信じてもらわなければならない。少なくとも国外逃亡の可能性をこれっぽっちも残してはならないのだ。カサブランカに着くまでは……。
「草壁さん」
「なあに」
「どうしておれのためにここまで付き合ってくれるんだ。あんたも一緒に何もかも失っちまうぜ。それでもいいのかよ」
弓子は滑走路に目をやった。
「そうよね」
「他人事《ひとごと》じゃないんだぜ」
「わかってるわよ」
ジャンボ機が曇り空のむこうから翼を広げてやってきた。弓子は点滅するライトがだんだん大きくなってくるのを見つめていた。
「翔、愛しているわ。平凡だけど言いたいのはそれだけ」
「黒岩さんとのことはどうだったんだ」
「打算的な愛と、何もかも捧げられる愛とは別よ。私はそう思うわ」
「信じられないな、そういう使い分けは」
「子供には無理かもしれないわね」
子供と言われて翔はムッとした。
「一人の男の人しか愛しちゃいけないんだっていう考えをやめたときから、なんだかとても楽になったの。何度も死ぬほどつらい失恋を味わわされた経験の産物よ」
弓子は無愛想なウェイトレスの運んできたコーヒーにひとくち口をつけて呟《つぶや》いた。
「でも結局、複数の男を愛しても一番好きな人は他の人とは違うのよ」
「それがおれってわけか」
弓子は黙って頷《うなず》いた。
「ほんとうにおれと心中してもいいのか。まあ心中ってのはたとえだけどさ」
「たとえじゃなくてもいいわ」
翔は弓子の迫力にドキッとした。
帽子を指で押し上げて女の顔を見た。草壁弓子がこれほど真剣な顔をしているのを、翔はいままでに見たことがなかった。
「わかったよ。じゃあおれ、カサブランカに着いたらすべてを喋《しやべ》るからな」
南ウイング出発ロビーの玄関に一台のハイヤーが滑り込み、一人のアラブ人と一人の日本人が降り立った。
アラブ人の荷物は小さなジュラルミン・ケース一つである。
「ここから先のお見送りには及びません」
アラブ人は、三十代後半と思われる年ごろの日本人男性を手で押しとどめた。
「あわただしい日本滞在でしたが、おかげで大きな収穫を得ることができました」
外国人はフランス語で喋《しやべ》っていた。
「もっと日本のフトンに寝ていたかったのですが、予想外の進展になりましたので早速国へ帰って準備をすすめなければなりません。帰り次第すぐに電話を入れます。それでは」
アラブ人はジュラルミン・ケースを右手から左手に持ちかえて、日本人に握手を求めた。
が、若い日本人はいまいましそうな目つきのまま、それに応じなかった。
アラブ人はしばらく右手を宙に差し出していたが、フランス人風に肩をすくめると、こんどは馬鹿ていねいな日本流のお辞儀をして言った。
「どうか陣馬さんによろしくお伝え下さい」
まだ頭を下げつづけるモハメッド・ハッジの前で、陣馬市蔵の秘書笠原誠はくるりと踵《きびす》を返し、乱暴な足どりでその場を去っていった。主人を危険な取引きにハメたハッジに対し、怒りをあらわにしているのだ。
笠原がハイヤーに乗り込んだのを見届けると、ハッジは頭を上げてニヤリと笑った。
「まだたっぷり時間があるな」
ロビーの出発時刻案内ボードを見あげてから、ハッジは軽くあくびをした。陣馬の家では結局一睡もしなかったのだ。
飛行機に乗るまでは何とか目を開けていないと、うっかり寝過ごしてしまうかもしれない。
モハメッド・ハッジはコーヒーラウンジへ下りて、柴垣翔と草壁弓子の隣のテーブルへどっかりと腰を下ろした。
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Y 東 京
午前十時を回り、柴垣翔の失踪《しつそう》が確定的になると、財津警部とフレッドは見張りを他のコンビに引きついで、いったん捜査一課へ引きあげることにした。
覆面パトカーの後ろからは、黒ずくめの格好で愛車シルバー号にまたがった烏丸ひろみもついてきた。
「ハイヨーッ、シルバーってわけか」
バックミラーを見ながら、財津警部はあきれ顔で呟いた。
「捜査一課に異動してきて何が驚いたといって、あの子のキャラクターほどびっくりさせられたものはないな」
「ぼくもね」
フレッドが同意した。
「甘やかしとるんじゃないかね、一課の連中は」
「でも、甘やかしてやりたくなりませんか」
「う?」
「ぼくはそうだな。なんか、ひろみだったらどんなワガママを言っても可愛《かわい》い感じがして許せちゃう」
「わ、私だってそうだ」
財津警部は怒ったように言った。
「結婚が……」
突然、財津が口走った。
「は?」
「結婚が早すぎたかなっ、という気がしてな」
「警部がですか」
「そうだっ」
「そう怒らないで下さいよ」
「怒ってなんかおらん」
「四十すぎて結婚が早すぎたもないでしょう」
「フレッド」
「はい?」
「おまえはナマイキだ」
「ちょっと。お願いしますよ、急にそんなこと」
「独身だというのがナマイキで許せん」
「どうしてですか」
フレッドが笑いながらたずねた。
「なにい?」
財津はハンドルを握りながら歯をむいた。
「わかりきったことをきくんじゃない」
そのとき、爆音を轟《とどろ》かせてシルバー号がパトカーの横に並んできた。ひろみが左腕でウインドウを開けろとサインしている。
財津はパトカーの窓を開けた。
|450cc《ヨンハン》バイクのエグゾースト・ノイズがバリバリと飛び込んできた。
「何だ」
財津警部のドラ声が風圧とバイクの排気音でかき消された。
こちらを向いているひろみの表情は、フルフェイス・ヘルメットのスモークガラスの風防に隠されて読めない。
「宇宙人みたいなヘルメットを着けおって」
財津はぶつぶつ言ってから怒鳴った。
「なんだあ、聞こえんぞお」
ひろみは左手をハンドルから離すとVサインを作って、財津たちに向かって振って見せた。
財津がポカンとしてそれを見ていると、ひろみは再び両手でハンドルを握り、スロットルを吹かして一気に加速すると、彼らを尻目《しりめ》にはるか前方へ点となって消えていった。
「なんだ、あれ」
財津が唖然《あぜん》としてフレッドにたずねた。
「酔っ払ってたのを介抱してやった礼のつもりじゃないですか」
頭を振りながらフレッドが答えた。
フレッドが捜査一課へ戻るのを待ち受けていたように、モロッコから国際電話が入った。
「アブデラリ・ベンジェルン警視です」
相手の声は興奮していた。
「ニューマン刑事、私は大変な見落としを一つしていました。と同時に、重要な新発見も一つしたのです」
まずベンジェルン警視は、パスポートの一件についてのべた。
「警視、それは非常に示唆に富んだ事実です」
フレッドは彼らしからぬ改まった言い方をした。
「それから重大な発見のことなのですが」
ベンジェルンは勢いこんで言った。
「被害者の沖田正雄はカラテの有段者でしたね」
「しかもケンカ空手で知られる猛烈にハードな流派のね。四段ですよ。ただものではありません」
「日本で殺された黒岩というプロデューサーも柔道の選手だったと聞きました」
「そうです」
「その彼らがまったくの無抵抗で一撃のもとにナイフで倒された。そのトリックがわかったのです」
「トリック?」
フレッドは驚いた。
「まるでミステリーみたいですね」
「いや、じつにシンプルな、それだけに現実的なトリックなのです。まず、なぜ私がそれに気づいたかをお話ししましょう」
ベンジェルンは夕食で娘に万華鏡を見せられ、それに夢中になっているうちに娘に飛びつかれてひっくり返ったエピソードを聞かせた。
「つまり私は万華鏡の世界に夢中になっていて、他の何も見ていなかった。右目は万華鏡、左目はつぶっていましたからね。だから、娘が飛びかかってくるのがぜんぜん見えなかった。それで、たかだか六歳の女の子にひっくり返されてしまったわけです」
「そうか……」
フレッドは呟《つぶや》いた。
「わかってきましたよ、ベンジェルン警視」
「たとえば沖田正雄がカメラをのぞいていたとする。片目はレンズ、片目はつぶっている。望遠レンズなどで遠くを見ていたら、すぐそばにいる人物の動きはまったく読めません。まして、その人物が顔見知りであれば、自分をナイフで狙《ねら》っているとは思わないでしょう。完全に沖田は犯人に対して無防備な状態だったわけです。しかもカメラを持っているから両手はふさがっている」
「心臓を刺された瞬間、すぐにカメラから両手が離れなくても不思議はないですね。思わず力が入って、そしてそのまま倒れてしまったんだ」
「沖田はカメラの紐《ストラツプ》を首からかけたまま殺された。犯人としてはカメラをそのまま残しておいてはトリックに気づかれるから、カメラを取りあげなければならない。もう死体だからと思って、ストラップを持って乱暴に首から引き抜いたので、顔面に死後のものと思われる擦過傷がついたのです」
「そうか、カメラか……」
フレッドは呟いた。
「きっと黒岩を殺したのも同じ手口だったんだ」
「おそらくそうでしょうね」
ベンジェルンは答えた。
「だから窓が開いていたんだ」
フレッドは独りごちた。
「犯人は黒岩に望遠レンズ付きのカメラを持たせて、何か言い訳をつけて遠くの風景を撮らせ、黒岩の両目がふさがった隙《すき》を狙って心臓を一突きした。これなら非力な者でも柔道の元選手を倒せるわけだ。ただし、黒岩の場合は場所がフェアモント映像のプロデューサー室の中だったから、望遠カメラの被写体となるべき適当なものが見つからなかった。そこで小雨が降っていたにもかかわらず、犯人は窓を開けて遠景を写させた」
「そうですよ」
ベンジェルンは力を入れた。
「そのことをカムフラージュしたかったから、犯人は部屋にあったあらゆるものを開けっ放しにしたのです。犯行後、窓を閉めたところで、吹き込んだ雨の跡は消えませんからね。むしろ開けた窓はそのままにして、周囲の状況をそれに合わせたに違いありません。カメレオンの逆ですね」
ベンジェルンは面白いことを言った。
(だが、そうだろうか)
フレッドはいまいちこの論法がしっくりこなかった。
(だったら、なぜ犯人はウィスキーの瓶だけに手をつけなかったのだ)
ウィスキーだけが明らかに『逆密室』の細工の対象になっていなかった。そのことは以前、ベンジェルン自身も指摘していた疑問だ。警視の説明は見事なようでいて、どこかにまだ見落としがありそうだった。
しかし、ともかく彼が重要な手掛かりを与えてくれたのは事実である。フレッドは丁重にその礼を述べた。
同時に、きょうの真夜中に起きた第三の殺人のことをベンジェルンに伝えた。彼は電話口で驚きを表わしたが力強い声でフレッドに言った。
「しかし、これで連続殺人の犯人は相当追い詰められたはずです。あとはそちらの捜査の成功を祈ります。ニューマン刑事、犯人はまもなく必ず捕まります。私はそのことを確信しています」
電話を切ってからフレッドはしばらく考え込んでいた。
ベンジェルン警視の仮説を成立させるためには、もう一つ調べておくことがあった。
彼は友人のアメリカ人のカメラマンに電話を入れた。その男はビデオの方も撮る男である。
「ハロー、アンディ。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
フレッドは前置きなしで本題に入った。相手もフレッドのそんなやり方には慣れていた。
「プロのカメラマンというのは、利き目でレンズをのぞいている時、もう一方の目はどうしてる?」
「つまり、プロも素人みたいに片目をつぶるかどうか、ということかい?」
「そうだ」
「ケース・バイ・ケースだろうな」
カメラマンの友人は答えた。
「おれの場合、屋外でモデルとかタレントを撮る時はまず両目を開けてるね」
「なぜ?」
「カメラのフレーム外の動きも見ておく必要があるからさ。たとえば顔のアップを撮っていても、じゃあ身体の向きはどうなのか、手は遊んでいるのか、ポーズをとっているのか、そういうところまで目を配っておかないと、ファインダーに切りとられた顔だけに向かって笑って≠ニかもの哀《がな》しく≠ニか演出をつけても無意味なんだ。それと、おれの場合、両目を開けているほうが明らかにピントを合わせやすい」
「へえ、そんなものかな?」
「だってそうだろう。人間、ふだんは両目でモノを見ているんだから、両目を開けた状態での目玉の力の入れぐあいがベストなんだ。素人が片目をつぶってしまうのは、ファインダーのフレーミングと、残りの肉眼で見ている周囲の光景の区別がつけられないからそうしているのであって、ピントの合わせは絶対に両目をオープンしておいたほうが都合がいい。とくに連続して撮る時はね。
ただし、フレーミングをギリギリにして、構図がきわめて限定されている時や、ものすごく極端にシャープなピンを要求される場合は別だけどね。それとカメラマンによっては、左右の視力に差があって、むしろ利き目じゃないほうの目はつぶっていたほうがよい場合もあるし、たしかに人によっては片目撮りのほうが絶対にピンもフレーミングも正確だという意見もある」
「じゃあ望遠レンズで遠くの山に焦点を合わせている場合でも、自分のそばに人が立っていて、そいつが殴りかかってきたら両目撮りのプロカメラマンならすぐわかるわけだ」
「そうだね、それはすぐわかると思うね」
「ビデオカメラマンはどうだろう。ビデオカメラを写すときは、スティル・カメラ同様に両目開けが多いんだろうか」
「これはもう両目を開けてないとどうにもならないよ」
カメラマンは笑って答えた。
「よく幼稚園の運動会などで片目をつぶったままビデオを撮っているパパを見かけるけど、これは素人の典型。ビデオカメラのプロは特殊な場合を除いて、まず両目開けに決まっている。
動きをとらえるのがビデオなんだから、フレーム外の状況をつねに把握しておかなくちゃならない。たとえば野球の試合でバッターを撮っていたとする。片目を閉じていたらボールを打った瞬間、その行く先が追えないだろう。塁上のランナーや守備側の動きもわからない。すぐにカメラを振れないわけだ。テレビ中継のカメラはまた別だけどね」
「なるほどね」
「あるいは階段をかけおりながらスターを追っていくときなんか、片目だと十歩もいかないうちに足を踏みはずして大恥をかくぜ。ピント合わせのほんの一瞬に片目をつぶることはあっても、ビデオ撮影の原則は両目開けだな」
これではベンジェルン警視の仮説が成り立たないかもしれないぞ、とフレッドは心配になってきた。
「VE《ビデオエンジニア》の場合はどうだ?」
「VEはカメラを担がないぜ」
「いや、そうじゃない。VEを職業とする男が普通の一眼レフカメラをのぞいたときはどうだろう」
「それは何とも言えないな」
しばらく考えてから、友人のカメラマンは答えた。
「VEはビデオカメラに接続されたモニターは見ることがあっても、めったにカメラのファインダーはのぞかない。だから、ビデオカメラにせよ一眼レフカメラにせよ、両目を開けて見る癖はついていないかもしれない。あくまでVEはエンジニア――技術者であってカメラマンじゃないから、とくに一眼レフの方のカメラの腕が素人であってもおかしくはないんじゃないか」
それならVEの沖田正雄は片目でカメラをのぞき、もう片方の目をつぶっていた可能性が高そうだ。黒岩のほうも、たぶんカメラの撮り方は素人っぽかったのだろう。
「どうだ、参考になったか」
「ああ、おかげで殺人犯人が捕まえられそうだぜ」
「殺人犯? カメラをのぞくときに残りの目を閉じているか開けているかが殺人の捜査と関係あるのかい」
「それが大ありなんだ」
フレッドはあらためて友人に礼を言うと受話器を置いて財津警部を見た。
「先生、大変です」
先生はいま電話に出られませんとお手伝いが言うのを拝み倒して、マネージャーの山添は陣馬市蔵につないでもらった。
「翔が、柴垣翔がゆうべから失踪《しつそう》してしまいました。けさから完全に仕事をすっぽかしているのです」
ラジオ局で平謝りに謝ったあと、山添は事務所に戻ってきたが、四方八方から問い合わせの電話が殺到して、その応対だけで気が狂いそうだった。
山添も事務所の社長も途方に暮れるばかりで頭が回らなかった。あと二時間もすれば、テレビドラマの録《と》りが始まる。だが翔がそれまでに姿を現す見通しはほとんどなかった。
山添はとうとう策に窮して、事務所の影のオーナーである国会議員に泣きつくことにした。陣馬先生なら何か智恵を授けて下さるかもしれない、と山添は淡い期待を抱いていた。
「先生、しかも翔には殺人の嫌疑までかけられているのです。フェアモント映像の草壁弓子と伊東のほうへ行っているという説もあるのですが、いまのところまったく……」
「何をゴチャゴチャ言っとるのだ、おまえは」
言葉の途中で陣馬市蔵のカミナリが落ちた。
「私を何だと思っているのだ。チンピラタレントの勝手な行動が、この私と何の関係があるんだ」
「いや、そんなつもりではございませんが先生……」
「どこの世界にタレントの不始末の尻拭《しりぬぐ》いをする国会議員がいる」
山添は運が悪かった。
ただでさえ短気な陣馬市蔵は、いま自分の政治生命を脅《おびや》かすほどの国際的陰謀にはめられてしまった怒りと焦りで、昨夜来一睡もしていなかったのだ。
「陣馬市蔵をそのようなくだらんことに使うつもりなら、今後おまえの事務所の面倒を見ることは一切やめるぞ」
山添の返事を待たずに陣馬は電話を叩《たた》き切った。
「ああ……」
山添は頭を抱えて机に突っ伏した。
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Z 法師ノ沢
積雪が本格的になる前に街へ下ろす材木の仕分けをすませておこうと、柴垣茂市は妻の時江とともに伐採区域の小屋へ朝早くから入っていた。
だから彼らは七時すぎからひんぱんに自宅の電話が鳴っていることを知らなかった。
柴垣時江はいつもより夫の顔色がすぐれず、何を話しかけても生返事しか返ってこないことに気づいていた。しかし、普段から無口な夫だったから、彼女はあまりそのことを気にとめず、夫について材木の仕分け作業を手伝っていた。
「お父さん」
一段落ついたところで、時江は魔法壜《まほうびん》からお茶を湯呑《ゆの》みに注いで夫に渡した。
「早いもんですねえ。ことしもあとちょっとになってしまって」
「うん」
相変わらず茂市は虚《うつ》ろな目で茶を啜《すす》った。
唐沢《からさわ》山、三国《みくに》山、向《むかい》山、稲包《いなつつみ》山、赤沢《あかざわ》山といった標高一〇〇〇メートルを超す山々が雪に包まれて彼らのぐるりを取り巻いていた。
沢から一歩山へ入ると雪を踏んで歩かなければならなかったが、ことしはまだまだ積雪も少なく、法師温泉あたりまではチェーンなしでも車が入ってこられる状態だった。
「お父さん」
また時江が話しかけた。
「次郎は正月には三日ほど休みがとれるのでこっちへ帰ってくるって言ってましたけど、翔はどうなんでしょうね」
時江は湯呑みで両手を温めながら、湯気のむこうに雪山を眺めながら言った。
「このところ何年も正月に帰ってきたためしがないけど、やっぱり芸能界ってところにいると無理なんでしょうか」
「………」
「いつか翔が電話をかけてきて、来年の正月は父さんと母さんをハワイへ連れてってやるよ、なんて言ってましたけど、ハワイなんてねえ」
時江は笑った。
「金髪や青い目の外人さんを見ただけでも緊張するんだから、ハワイに連れていってもらっても骨休めになりませんよ。でも、息子にそう言ってもらえるのは嬉《うれ》しいもんですよね」
「………」
「ねえ、お父さん。聞いているんですか」
あまりにも夫の様子が不自然なので、時江はたまりかねて聞いた。
「時江……」
こちらを向いた夫の目に涙が浮かんでいるのを見て、時江は驚いた。親が死んだときだって泣かなかった人が……。
「いいか、時江。驚かずにおれの話をよく聞け」
「いやだ、お父さん」
時江は片手で胸をおさえた。
「そんな言い方をされると、心臓が痛くなってくるわ」
「おれだってどうしていいんだかわからなくて、胸が詰まりそうなんだ」
茂市は日ごろの彼らしからぬ弱音を吐いた。
「だからおまえが取り乱してしまうと、おれまで一緒にガタガタとくずれてしまいそうなんだ」
「お父さん」
時江は目をつぶって首を振った。
「思わせぶりはやめて一息に言ってちょうだい。翔のことなんですか」
「そうだ」
「どうぞ、言って」
時江は湯呑《ゆの》みを置くと、目をさらにギュッとつぶって、握りしめた両手を胸に抱いて夫の言葉を待った。
「翔がな」
茂市の声がうわずって震えていた。
「人を殺していたことがわかったんだ」
時江は信じられないといった顔で、これ以上ないほど目を見開いた。
「ゆうべ、本人から電話があったんだ」
早朝七時三十四分に上越新幹線で上毛《じようもう》高原駅に着いた大野洋治は、タクシーを拾って法師ノ沢へ向かった。
一面の雪景色かと思っていたら、まだ道路には雪が積もっていなかったので、目的地まではスムーズに行けそうだった。
ただし気温は東京とは比較にならないほど低い。コートは持っていたが、とてもそれだけでは底冷えを防げなかった。
しかし朝早くでは洋品店も開いていない。大野は仕方なくそのままタクシーを走らせた。
国道17号線を北西に走り、右に猿ケ京温泉街を見ながら赤谷《あかや》湖を回り込むと、やがて吹路《ふくろ》の集落から左へ入る分岐路に出会う。法師入口である。
三キロあまり進んで右手に折れると法師温泉への林道がのびている。自動車道は法師温泉長寿館どまりとなっており、その先は法師ノ沢沿いに小路が続くだけである。
17号線から法師方面へ入ってしばらくした永井という集落にも学校があるが、柴垣翔と沖田正雄の通っていた分校はもっと奥にあった。
大野はそこでタクシーを帰した。念のために電話番号を聞いて迎えにきてもらうときの段取りだけはつけておいた。
時計を見ると八時二十分になるところだった。
分校ではそろそろ授業が始まったらしく、こぢんまりとした中にもざわついた雰囲気があった。
大野は旧《ふる》い木造平屋建ての校舎の中をのぞき込んだ。タクシーの運転手に聞いたところによると、もはやこの分校には中学生はおらず、三人の小学生を一人の先生が教えているだけだという。
窓越しにその男性教師の横顔が見えたが、まだ若い。おそらく二十六歳の大野といい勝負だろう。それでは十年以上も前のことを知るわけがない。
しかし、分校に当時の資料が何か残っているはずだった。それを片っ端から調べていけば、沖田がことあるごとに口走っていた翔の秘密≠ェ何であるかを知ることができるかもしれない。
小学生の一人が、野原と区別のつかない校庭に立ってこちらを見ている大野に気がついた。
その子が指さしたので、教師も授業を中断して大野の方を窺《うかが》うように見つめた。
大野はひるまず臆《おく》せずにそのまま分校の玄関に立ち、教師が中から開けてくれるのを待った。
柴垣翔の友人でテレビ局の者ですが、という一言で若い教師はパッと顔を輝かせた。
日本を代表する人気歌手を生んだことが、この分校唯一の自慢だった。さらにテレビ局≠ニいう言葉が、子供たちと同じくらい教師を興奮させた。
「テレビの人がこんなところへわざわざどうなさったんです。法師温泉の取材ですか」
たずねる教師の周りで、三人の小学生がすっかり授業そっちのけで、大野を外国人のように見つめてはハシャいでいた。
「じつは彼の半生記みたいなドキュメンタリーを作る企画がありまして」
大野は適当なウソを言った。
「柴垣さんがこの分校に通っていたころの資料を拝見したいのです」
「資料ねえ。それはべつに構わんですが、ぼくもここへ赴任してきたばかりなので、昔の資料がどこにしまわれてあるのか詳しく知らないんですよ。まあ卒業アルバムならここにありますけどね」
教師は大野を職員室兼用の八畳ばかりの応接室へ招き入れ、ブックエンドにたてかけてあった紺色のファイルを出して見せた。
「卒業アルバムと言っても人数が少ないですから、毎年卒業生を中心に分校の生徒全員で記念写真を撮り、それをこうして一枚ずつファイルしてあるだけのことなんです。分校ができたのが昭和二十八年のことですから、三十年分以上の在校生の顔ぶれが揃《そろ》っていることになります」
大野は真ん中あたりから写真をパラパラと繰っていった。
昭和四十三年度卒業生を囲んで≠フページから、坊主頭の翔少年が登場していた。この年、彼は小学校一年生だった。きかん気な顔は、そのままいまに面影を残している。
大野の目的は昭和五十年度のページにあった。
沖田と翔の接点はこの年度後半だった。何かヒントとなるような証拠をアルバムから見つけ出すことができるかもしれない。
大野は緊張してそのページを開いた。
ざわざわっと毛が逆立つような気がした。
まだ雪の残る山々を遠景に、校舎の前に勢揃いした小学生七人と中学生五人が、二人の教師とともに写っている。そしてもう一人、右隅に黒い四角のふちどりをした枠の中に中学生らしい子供の顔があった。
反対側のページに写真と対照できるようにそれぞれの子供の名前が印刷されてあった。
黒枠の子供は宮西勘平君≠ニ、他の子がすべて敬称略で記されているのに、ひとりだけ君づけになっていた。
「この子は?」
大野は教師にそこを示してたずねた。
「ああ、きっと在校中に事故か病気かで亡くなったんでしょう。中学三年生だったんですね」
「この子の死についての資料が残っていませんか」
「そんなことまでテレビにするんですか」
教師が不審そうにたずねた。
「いえいえ、もしその子の死にからんで柴垣翔さんの人情味あふれたエピソードが残っていれば紹介したいなと思いましてね」
「そうですか。じゃあ探しときましょう。みつかったら連絡しますよ。今夜は長寿館の方にお泊まりですか」
「いますぐ探してもらえませんか」
大野は焦っていた。
「いますぐはねえ……」
教師は三人の子供を振り返った。
「いちおうこの子たちの授業を続ける義務がぼくにはありますからね。そうだな、休み時間をはさんで十一時半に授業が終わりますからそれまで待ってて下さい。ここにはテレビも何にもなくて退屈かもしれないけど」
「わかりました。それじゃ待たせていただきます」
大野は教師が気を利かせて石油ストーブをつけてくれたので、ともかく十一時半まで待つことにした。それから二人で過去の資料探しだ。
「先生、行儀が悪いかもしれませんが、時間までここのソファに横にならせてもらえないでしょうか」
教師は驚いてたずねた。
「ゆうべは徹夜でもされたんですか」
「ええ」
大野は答えと同時に目を閉じてソファに倒れ込んだ。
「翔が中学二年生のとき、一級上だった宮西さんとこの勘平君が冬休みに赤谷湖で溺《おぼ》れ死んだろう」
呆然《ぼうぜん》としている妻に向かって、茂市は翔から打ち明けられた話を語りはじめた。
「勘平君が翔や他の子と五人ほどで湖のほとりで遊んでいたところ、うっかり雪に足をとられてボートのりばから湖に落ち、寒さのために心臓マヒを起こして溺れ死んだ。こういうふうにおれたちは警察から説明を受けたし、翔からもそのように話を聞かされていた。あのとき、勘平君が落ちる瞬間を見ていたのは翔と沖田正雄という子だけで、他の子たちは離れたところにいて事故にすぐには気づかなかった。だから翔と正雄の二人の子の目撃談だけで、警察は事故と片づけてしまったんだ。だが、実際にはそうじゃなかった」
茂市は自分で魔法壜《まほうびん》から湯呑《ゆの》みに茶をつぎ足すと、一息にあおってから先を続けた。
「本当は勘平君は翔に突き落とされたんだ。しかも、何かのはずみとか衝動的な喧嘩《けんか》というんじゃなくて、翔は狙《ねら》って勘平君を湖に……」
「うそです」
母は感情的な声をあげた。
「あの子にそんな恐ろしいことができるはずありません」
「翔がそう告白したのだ、時江。そんな重要なことで嘘《うそ》はつかんだろう」
「じゃあ、あなたの聞き間違いです」
時江は頑として否定した。
「うちの子に限ってそんな……」
「冬の間使われていないボートのりばに、ボートをたぐりよせるための鉤《かぎ》つきの竿《さお》が置いてあった。翔はそれで勘平君の膝頭《ひざがしら》の裏を突いて、バランスを崩させて湖へ突き落としたのだ」
「何を言ってるんですか」
時江は笑い飛ばそうとして途中から泣き顔になった。
「どうしてあの子が勘平君を殺さなくちゃいけなかったんです」
「苛《いじ》められていたんだ。二級下の小学校六年で前畑久美子という子がいた。おまえも覚えているだろう。前畑商店の娘だ。勘平君が彼女に気があったのに、彼女は翔のことが好きだったらしい。そのことを知ってから勘平君は翔に異常なまでに意地悪をしはじめた。教科書や靴を隠すのは序の口で、先生にはあることないことデタラメの告げ口をする。前畑の主人――久美子のオヤジさんのところへ行って、翔が久美子ちゃんにイタズラをした、などと言いふらす。道理であそこのオヤジがおれにいい顔をしなかったわけだ。その他にも椅子《いす》の上に画鋲《がびよう》を置く。持ってきた弁当に砂をまぶしておく。もう数限りないイタズラをされたそうだ」
「だったらどうして私たちや先生に相談しなかったんですか」
「それができるくらいだったら翔も悩まなかっただろう」
「だけど苛められた程度で学校の仲間を殺すなんて」
「殺す、という気持ちは翔にはなかったそうだ。ただ、勘平がいなかったらどんなにホッとするだろうか、といつも考えていたのは本当だし、こいつを湖に落としてやれ、と意図して突いたのは認めている。その結果、勘平君は死んだのだから、殺したことに違いはない」
「だけどもう一人のお友達が、勘平君は誤って足を滑らせたのだと証言していたんでしょう」
「そのことが初め翔は不思議だったそうだ。沖田正雄が事実を見ていたのなら、そんなことを言うはずがない。だから翔は、正雄がつい警官にいいところを見せようと、見もしない目撃談をデッチ上げたのだとばかり思っていた。とにかくそのおかげで翔は警察からも疑われずにすんだのだ。
だが十一年も経ってから、翔は偶然この男に会った。仕事仲間としてな……。時江、沖田正雄という名前を聞いて何か思い出さないか」
時江はしばらく考えていたが、やがてハッという顔をした。
「お父さん、もしかしてその人このあいだ外国で殺された……」
茂市は頷いた。
「翔はこの男と再び出会ったとき、彼がすべてを見ていたことを知った。どういう気持ちで警官に真実を話さなかったのか、本当のところはわからない。恐ろしいところを見て、ショックで咄嗟《とつさ》に無難な嘘《うそ》をついたのかもしれない。いずれにしても、翔が人気スターになってから再会した正雄は、口ぐせのように俺は翔の秘密を知っている≠ニ言っていたそうだ」
「じゃあ、その人は翔を……」
「ゆすっていたんだ。ゆすりといっても具体的に金をくれ、とかそういうんじゃない。過去を知っていることをほのめかして、精神的に脅《おど》しあげていたんだ。そのほうがかえって翔にはこたえた」
「それで翔はたまりかねてカサブランカでその人を殺したというんですか」
「いや」
茂市は首を横に振った。
「断じて自分ではない、と言っていた」
「そうですよね。翔が人殺しをするなんて、そんな子じゃありませんよね」
母は涙を浮かべて父親に同意を求めた。
「だが、十一年前に人を殺している事実に変わりはない」
茂市は厳しい顔で言った。
「十一年という月日ではまだ時効にもなっていないんだ」
分校の授業が終わってから、大野は教師に起こされて充血した目をこすりながら、当時の資料探しを一緒に始めた。
三十分ほど探して、書類戸棚の奥の奥からようやく目指す資料を見つけ出すことができた。
ワラ半紙にガリ版刷りしたその書類は、右端をひもで綴じられ、表紙に、
≪宮西勘平赤谷湖転落事故死報告書≫
と書いてあった。
大野洋治がその資料を開こうとしたまさにそのとき、分校前の未舗装路に車が停まる音がした。教師と大野が同時に振り向いて窓の外を見た。
群馬県警と書いたパトカーから二人の警官が降りてくるところだった。
彼らは分校の玄関へ出迎えた教師と大野を見比べて、その関係を推しはかろうとしていた。
「何のご用です」
緊張した顔で教師がたずねた。
「こちらへ柴垣翔という男が立ち寄りませんでしたか? 十年前の卒業生で、いまは歌手をやっている、こういう顔の男です」
警官が一枚の写真を差しだした。
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[ 東 京
烏丸ひろみ刑事は必死だった。
軽いノリでVサインを振って見せたが、内心ではどうしても前夜の失策を穴埋めしないと申し訳ない、という気持ちでいっぱいだった。
(こうなったら烏丸ひろみ、意地でも連続殺人事件の犯人を捕まえてみせるわ)
ひろみはひろみで一つの仮説を立てていた。それは何の根拠もなく、ただひたすら女の直感というやつで草壁弓子が怪しい≠ニいうものだった。
何か確たる証拠があって彼女が犯人だと決めつけたわけではなかった。ただ、いかにも胡散《うさん》臭い雰囲気が漂っているのである。
(男の人たちは彼女の美しさにごまかされるかもしれないけど、私は違うわ)
昨夜のカフェ・アメリカン≠ナの対決以来、ひろみは意地を張っていた。
愛車シルバー号を駆って乗りつけたのは成城のテニスクラブである。黒岩拓三が殺される七、八時間前に、草壁弓子と広瀬五月がテニスをしたところだ。
烏丸ひろみはバイクから下り、ヘルメットと手袋を脱ぐと、あっけにとられているフロント係に警察手帳を見せて聞き込みを始めた。
大筋は彼女たちの証言通りだったが、一つだけひろみの注意をひくエピソードがあった。
「とにかく草壁様にしては珍しく一時間ほどでプレーを切り上げられたのですが、ずいぶんひどい風邪をお召しになっているのだな、とそのことがとても印象的でした」
営業的な慇懃《いんぎん》さが身についている女性のフロント係は、笑顔の裏に好奇心を隠してひろみに対していた。
「ひどい風邪というのはどうしておわかりになったんですか」
「サロメチールの匂《にお》いがすごかったものですから」
「サロメチール?」
筋肉痛などにつける湿布薬の匂いで、どうしてひどい風邪とわかるのだろう。風邪をひいたからといって、喉《のど》や胸にサロメチールを塗るなんて聞いたことがないわ、とひろみは疑問に思った。
「はい。じつは草壁様は久しぶりのテニスで足がつりそうになったとかで、ご一緒にいらした女性の方がフロントまでサロメチールを買いにみえたのです。ちょうど私が応対いたしましたので、そのときの様子はよく覚えております。
しばらくしてお会計のためにフロントにいらした草壁様は、こんなことを申し上げては失礼なんですが、目が痛くなるほどサロメチールの匂いをプンプンさせていらっしゃいました。
ふだん、あれだけ香水の素敵な香りに包まれていらっしゃる方が、湿布薬の匂いに平気でいるのはおかしいなと思ったんです。
そのとき、私、少し風邪気味なのよ≠ニおっしゃったので、ああそうか、と納得がいきました。鼻がつまっていらして、刺激臭が気にならなかったのです。ずいぶんひどい鼻風邪をおひきになったのだな、とそのときそう思いました」
さすがに女性のフロント係らしい気のつき方だった。
なるほど言われてみれば、風邪で鼻がつまれば色々な匂いに鈍感になっていてもおかしくない。
テニスクラブの次に、二人で夕食をとったといわれるレストランを聞き込みに訪れたが、そこでもまったく同じ印象を弓子は周囲に与えていた。
「あれがいつもひいきにして下さっている草壁様でなかったら」
チーフ・ウェイターがひろみに言った。
「他のお客様のご迷惑になりますから、とお引きとり願うところでした。それほどメンソールの香りのきつい薬をつけていらっしゃいました。お連れ様の女性の方も、ちょっと困っていらっしゃったようです。きっとひどい鼻風邪でもひかれているから、そのことにご自分でお気づきにならないのだろうとは思っていましたが……」
その時、ひろみの頭の中でモヤモヤと固まりかけていた一つの考えが、突然ハッキリと見えてきた。
(そうだ、彼女は鼻風邪をひいていたんだ)
ひろみは瞳を輝かせた。
(しかもテニスで足の筋肉を痛めてサロメチールを塗っていた)
謎《なぞ》が解けた! とひろみは思った。
なぜ黒岩の殺害現場が何から何まで開けっ放しの世界になっていたか。そして、なぜウィスキーの瓶だけが開けられていなかったのか。
その謎が氷解したのだ。
カサブランカ・ロケで作られた柴垣翔のプロモーション・ビデオを改めて見て、フレッドと財津警部は一つの手掛かりをつかんだと感じていた。
「ベンジェルン警視にパスポートのことを指摘されるまで、このシーンを見逃していました」
フレッドはリモコンスイッチで、同じところの画像を、さっきから何度もプレイバックしていた。
歌を口ずさみながら柴垣翔がカサブランカ市内の国連広場をゆっくりと歩いている。
噴水が太陽の光にきらめいている。
噴水のアップから、カメラはそれを囲む植え込みをなめるようにパンしていく。
パスポートがあった。植え込みの蔭に落ちている。
赤い日本国のパスポートが光学処理でブルーやイエローに色変わりして、最後は金色に変わった。
そのパスポートがひとりでに開いて、中に貼《は》ってあった翔の写真が二番を歌い出すという趣向だ。
「見て下さい。このパスポートが落ちている位置は、沖田正雄の死体が発見されたその場所ですよ」
フレッドは興奮していた。
「ということは、ビデオ・エンジニアの沖田正雄は、プロモーション・ビデオの撮り直しなどを口実に誘い出された可能性が強いな」
財津警部は傍《かたわ》らの灰皿に毛むくじゃらの手で煙草を押しつぶした。
「事件があったのは一行が日本へ帰ろうとする日の未明です。夜中、VEのもとに電話が入る。どうしてもパスポートのシーンを撮り直したいのだがどうだろうか、アングルとかを見たいのでパスポートを持って至急噴水広場へきてくれと頼む」
「フレッド、それじゃディレクターの草壁弓子を犯人だと言ってるようなものじゃないか」
「まあね」
「しかし、そういう相談はふつうカメラマンのほうとしないか? それに沖田は大野と一緒の部屋に寝ていたのだから、草壁が夜中に彼を電話で呼び出せば大野まで起きてしまうだろう」
「そのへんのところは彼女を捕まえてから吐かせますよ」
こともなげにフレッドは言った。
「しかし、草壁弓子の動機は?」
「殺された沖田は口ぐせのようにおれはスターの柴垣翔の秘密を知っている≠ニ呟《つぶや》いていたそうですからね。マネージャーの山添が、柴垣翔と草壁弓子ができていたことを告白しています」
「草壁は黒岩プロデューサーの愛人だったろうが」
「だからこそ、彼女と翔にとっては黒岩が邪魔者だったと考えられませんか」
「うーん」
財津は腕組みして唸《うな》った。
「殺人の動機としてはいまいち根拠が薄弱だけれどな」
その時、彼らのいた部屋のドアが開いて、若い警官が顔をのぞかせた。
「財津警部、青葉台の住宅街で高級バーを経営している男から事件に関する耳よりな情報が入っています」
「耳より」
フレッドが笑った。
「いいねえ、そのクラシカルな表現」
警官はムッとしてフレッドをにらんでから財津へ向き直って続けた。
「彼はテレビのワイドショーで柴垣翔が行方不明になっているのを知って、いま驚いて電話をかけてきたんです。ゆうべ、いやきょうの午前一時から五時近くまで、柴垣翔はフェアモント映像の草壁弓子と一緒にそこにいたそうなんです」
「よし、ここの電話にそいつをつなげ」
財津が怒鳴った。
そのとき、もう一本の電話がけたたましく鳴り出した。
「フレッド、その電話をとってくれ」
奥から年配の巡査部長が声を張りあげた。
「烏丸ひろみから電話だ。成城からかけているらしい」
「OK」
フレッドは受話器に手を伸ばした。
「ひろみだと?」
バーの経営者からの電話をとりながら財津警部は不満そうに呟《つぶや》いた。
「どうして私でなくフレッドにかけてくるんだ」
「伊東だ、伊東だ」
中央テレビのアシスタント・ディレクター加賀おさむは、スタジアムジャンパーに腕を通しながら叫んだ。
「まいったよな、草壁さんが翔と駆け落ちだなんて。どうなってるんだ、コレ」
彼は身近な人間二人を巻き込んだスキャンダルに興奮していた。当事者の草壁弓子とよく仕事をして親しいということで、加賀に草壁弓子の行方を探す役が回ってきたのである。
とにかく手掛かりは伊東へ行く≠ニいう彼女の言葉しかない。
雲を掴《つか》むような話だが、ともかく伊東へ足を運ばないことには始まらない。同業者の連中も同じネライで来るだろう。
「おーい、加賀。下から電話だ。車はスタンバってるから、すぐ降りてこいってよ」
「わかったよ」
加賀はクラッチ・バッグを小脇《こわき》に抱えると、マフラーを首にひっかけて自分のデスクを離れた。
「おい、伊東に着いたらさ、うまい味噌《みそ》汁を飲ませる店が川奈の先にあるから行ってみろよ。海女の小屋≠チていうんだ」
「いいね、いいね、それ」
半分小走りになりながら愛想だけの相槌《あいづち》を打って、加賀はエレベーターホールへと急いだ。
彼の頭からは、机にしまった柴垣翔のパスポートのことがすっかり忘れ去られていた。
「烏丸ひろみ、ただいま帰りました。本当にゆうべはごめんなさい」
黒いレーシングスーツのまま、ひろみはペコンと頭を下げた。
「まあいい、まあいい。二日酔いにならなくてなによりだった」
目尻《めじり》を下げて財津警部が、そこのソファに座るようにと手で示した。
「あまい!」
フレッドが小声で、しかし聞こえよがしに財津の耳元で囁《ささや》いた。
財津はそれがどうした、なぜ悪い≠ニいった顔でフレッドを睨《にら》み返した。
ひろみが、かじかんだ両手を口のところへ持ってきてハーッと息をかけているのを見て、財津はそそくさと立ち上がると湯呑《ゆの》みに番茶をいれて戻ってきた。
「さ、これを一杯飲んで温まりなさい」
「わあ、うれしい。ありがとう、警部」
ひろみは目を輝かせて喜んだ。こういう感情を素直に表現できるのが、ひろみのいいところだった。
「財津警部って、やさしい」
肩をすくめると、ひろみは両手で湯呑みを抱くようにしてお茶を飲んだ。
財津はデレッと目を細めてその様子を見ている。
「あーあ、バカバカしい」
フレッドが大声を出して立ち上がった。
「オレ、ちょっと外へ行って頭冷やしてくるわ」
「どうして、フレッド」
ひろみが引きとめた。
「成城での聞き込みで、黒岩拓三殺人現場の開けっ放しの謎《なぞ》が解けたばかりなのよ」
「こっちもカサブランカ殺人事件のトリックが判明したけどね」
フレッドは財津警部を横目で見た。
「捜査報告を真剣に聞くには、ちょっと別のことでのぼせすぎてる人がいるからさ」
「なんだフレッド、熱でもあるのか」
財津がトンチンカンなことを言った。
「ひろみがせっかく事件の謎を解いたというんだから、そこに座ってゆっくり話を聞こうじゃないか」
「青葉台のバーの支配人にも会ってきました。そっちのほうでもいろいろと収穫があったんです」
ひろみは、どうにか思いとどまって腰を下ろしたフレッドに微笑《ほほえ》んでから財津にたずねた。
「六本木で殺された広瀬五月は右手にマジックインキを握っていたそうですね」
「ああ、大野洋治という名前をホワイトボードに書くためにな。おい、そういえば大野の居所がわかったという無線が入っていたな」
財津は、ひろみの笑顔でなんとか機嫌を取り戻しつつあるフレッドにたずねた。
「ええ、群馬県警から連絡がありました。法師ノ沢で翔が子供時代に通っていた分校にいたそうです。詳しい報告はもうしばらくしてから追って入る予定です」
「よし、じゃあそれはまた後で確認するとしてと。さあ、ひろみ、収穫ってやつをじっくり聞かせてくれ」
財津は桃色に染まったひろみの頬《ほお》をながめて、世にも優しい声を出した。
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\ パ リ
ユーリー・アレクサンドロビッチ・ゴルシコフは、パリ十六区パッシー地区にある高級アパルトマンの最上階にとった部屋で旅仕度を整えていた。
カサブランカでの滞在はそんなに長くなる予定はなかった。だが、場合によっては西サハラか、アルジェリアのティンドーフまで足を延ばさなければならないかもしれなかった。
いずれにしても、荷物は必要最小限にとどめるのを鉄則としている彼のスーツケースは、ちょっと近くまで一泊二日の休日旅行を楽しむ、といった程度の大きさにしかならなかった。
スーツケースに鍵をかけると、冷めかけたコーヒーの入ったカップを手にとって、ゴルシコフは窓からパリの街並みをながめた。
セーヌ河をはさんだ対岸にはエッフェル塔が見える。
ブーローニュの森が見渡せる反対側の窓よりも、ゴルシコフはこちら側の眺めのほうが気に入っていた。
コーヒーを飲もうと口をすぼめたとき、顔の皮膚が引きつったように痛んだ。
彼は思わず部屋の鏡をのぞき込んだ。
冬のパリではあまりお目にかかれないほど日焼けした顔がそこにあった。
「日焼けしたロシア人、というのはどうもイメージしにくくてね」
さっき日本の成田から電話で連絡をしてきたモハメッド・ハッジが言っていた。
「でも、オルリー空港の指定の場所で待っていて下されば、きっと見つけ出しますよ」
モハメッド・ハッジは北回りの飛行機でパリへやってくる。たぶん日本からだと十七時間以上はかかるだろう。
成田‐パリのノンストップ直行便は金曜日には出ていないから、アンカレッジ経由を利用してこざるをえない。モスクワ経由のほうが時間は稼げるが、その便はとれなかったそうだ。まあいずれにせよ南回りで丸一日かけてくるよりはましだろう。
到着はシャルル・ド・ゴール国際空港だが、カサブランカへの便はオルリー空港から出ることになっていた。
日焼けしてボロボロに皮がむけた顔で初対面、というのも感心しない。ゴルシコフはコーヒーカップを窓辺に置いて、洗面所へ行って、乳液を顔にすりこんだ。
ユーリー・アレクサンドロビッチ・ゴルシコフは、KGBの環太平洋戦略プロジェクトの一員だった。
太平洋を取り巻く様々な国家に、ソビエト連邦のクサビを打ち込むことが、そのプロジェクトのメイン・コンセプトである。
ゴルシコフの日焼けは、南太平洋の楽園フィジーの太陽の下で焼いたものだ。もちろん遊びに行ったわけではない。
ソビエト連邦太平洋艦隊の海外支援基地は、現在のところベトナムのカムラン湾に限られている。このことがソ連軍の太平洋における行動を大きく制約していた。
フィジーの北、赤道直下にあるキリバス共和国と漁業協定を結んだのも環太平洋戦略のクサビの一つである。
そのクサビを、さらにオーストラリアやニュージーランドに近い、元イギリス植民地のフィジーに打ち込めば、ソ連のメリット、そして米軍のショックは計りしれないものになる。
ゴルシコフのフィジーでの任務は、十二月現在でわずか六という与野党の議席差を、次の選挙で逆転させるべく、さまざまな世論操作を仕掛けることにあった。
与党の反対によって拒否されつづけてきたソ連大使館の設置が、野党が勝利すれば可能になる。当面のポイントはそこだった。
ゴルシコフの任務は四日前に次のスタッフに引き継がれ、彼は一旦パリへ戻ってきた。
そこで入ってきた情報が、アルジェリアの工作員と西サハラの工作員の共同作戦によって、日本の大物国会議員陣馬市蔵を罠《わな》にはめた、というニュースだった。
陣馬硝子の技術力は、ソビエトの軍事テクノロジーに欠けがちな精巧さ≠誇っていた。レーザーの開発研究において、陣馬硝子のノウハウを導入できるとすればこれは大きな収穫である。なにしろアメリカの新型巨大レーザー装置の入札で最後までその権利を争った会社である。
それだけではない。日本の与党議員がソビエトの軍事産業に加担していたとなれば、日米政界の混乱は大変なものになるはずだった。
北アフリカの小国のエージェントが仕掛けたシナリオにしては出来すぎというものだ。
その話を持ってきたモハメッド・ハッジとハーリド・エル・ファラーの野望も、ゴルシコフは見抜いていた。
(その大胆な野望は悪くない)
日焼けした顔に潤いを与えたところで、ゴルシコフは窓際に戻って、すっかり冷たくなったコーヒーを一気に口を放り込んだ。
(だが同じ環太平洋戦略でも、日本を相手に事を運ぶとなると慎重を期さなければならない。そのためにはチョロチョロと妙な動きをする奴は封じ込めておくことだ)
ゴルシコフは、エル・ファラーというスパイ職人の存在が気に入らなかった。今回の作戦の火つけ役であるには違いなかったが、頭の良すぎるスパイは目障りだった。
パスポート・マニアと呼ばれるほど、彼が多国籍の顔を使い分けることも知っていた。それもゴルシコフの気に入らなかった。
(ここはひとつ、話がまとまった段階で、モハメッド・ハッジにハーリド・エル・ファラーの処分を命ずるべきかもしれないな)
ゴルシコフは、スーツケースの中に頭痛薬を装って入れておいた青酸カリ錠のことを頭に思い浮かべていた。
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第三章
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T 解 明
「黒岩拓三が殺されていた部屋にあったものすべてが、開けっ放しの状態になっていた。ウィスキーの瓶《びん》を除いての話ですけど」
捜査一課のフロアの小部屋にこもって、烏丸ひろみは財津警部とフレッドをかわるがわる見つめながら話を始めた。
「もちろん、犯人が黒岩の部屋に入りこむ前からこんな状態になっていたわけではありません。氷雨の降りしきる深夜に、窓を開けっ放しにして仕事をしているはずがありませんしね。開けっ放しの部屋が出現したのは、こういういきさつだと思います」
ひろみは力をこめて二人を見た。
「犯人は黒岩の部屋に入り、ベンジェルン警視が指摘したように望遠レンズのついたカメラを黒岩に持たせると、うまい口実を作って夜景か何かを写させました。その隙《すき》を狙《ねら》ってナイフでグサッ」
ひろみはアクションをつけて説明した。
「犯人は倒れた黒岩の首からカメラを抜いて、大急ぎでその場を立ち去ろうとしました。そのとき、ハッとあることに思い当たったのです。そして部屋に備えつけてあるエアコンの換気スイッチを入れようとしました。ところがそのエアコンは調子が悪くて修理を頼んでいる最中だったということに気づき、犯人はやむを得ず窓を開け放ったのです」
「なぜ?」
財津がたずねた。
「空気を入れかえるためです」
「そうか……」
財津は、わかったぞという顔をした。
「犯人は香水をつけていたんだ」
「正解っぽいけど、もっと強烈なものです」
ひろみはフレッドを見た。フレッドは、ぼくにはわかりません、といったふうに金髪を揺らして首を振った。
「サ・ロ・メ・チ・ー・ル」
「何!」
財津とフレッドが同時に声をあげた。
「犯人はその日、テニスで足の筋肉を痛め、その痛みを和《やわ》らげるためにサロメチールを塗っていました。あの湿布薬の強力なメンソールっぽい匂《にお》いはご存知ですよね」
「だけど犯人は黒岩を殺しに行く前に、そのことに気づくべきじゃなかったのか」
フレッドが疑問をはさんだ。
「悪いことに犯人はひどい鼻風邪をひいていたのよ。だから自分の身体から発するメンソールの匂いに気づかなかったの」
「鼻風邪……」
「そうよ。女性はいつも香水とか化粧品とかを身につけているから、香りにはとても敏感なの。だから、湿布薬の匂いをさせながらレストランでお食事をするなんて、普通はしないものよ。だけど彼女は――あれほどオシャレに気を配る人が、平気でサロメチールの匂いをプンプンさせながら成城のレストランへ入っていった」
「彼女[#「彼女」に傍点]……」
フレッドが呟《つぶや》いた。
「そう、彼女よ。犯人は草壁弓子です」
財津とフレッドは顔を見合わせた。
「弓子は黒岩を殺して逃げようとする寸前に、自分がサロメチールをつけていたことに気がついたんです。あるいは、黒岩にその匂《にお》いを指摘されていたのかもしれません」
「たぶんそうだろうな」
財津が言った。
「そこで彼女は大慌てで窓を開けました。しかし、折りからの雨と寒風が吹き込んできます。黒岩が生前に窓を開けていたとするには、あまりに不自然な状態です。誰が見たって、窓を開けたのは犯人のしわざだと考えるでしょう。そして、なぜこんな雨の降る冬の夜にわざわざ窓を開けたのか、となると、その理由がバレてしまうかもしれない。弓子が湿布薬の匂いをふりまいていたことは、広瀬五月がよく知っています」
「それで彼女は、窓を開けた理由を見抜かれないよう、すべてのものを開けっ放しにしたのか。死体の社会の窓≠ワで」
フレッドがあきれたように言った。
「人を殺して興奮状態でいるときに、へんな頭の良さばかりが空回りしてそういうことをさせたんだな」
「だが、おかげで我々はすっかり目をくらまされてしまった」
財津は犯人の攪乱《かくらん》作戦の効果を認めた。
「それにしても、どうしてウィスキーの瓶《びん》にかぎって蓋《ふた》を開けなかったのだ」
「それも匂いのためです」
ひろみが答えた。
「あの部屋のミニ・ホームバーに並べてあったウィスキーと、御歳暮として届いていたウィスキーの瓶すべてを開けっ放しにしておけば、部屋にアルコールの匂いが充満する可能性があります。窓が開いていても、匂いの源がその場に残っているわけだから、警察が踏み込んだときに、まずその香りに気づくはずです。草壁弓子の心理としては、匂いを連想させる状況は一切残しておきたくなかったのです」
「うーん」
財津は腕組みをしてフレッドを見た。
「どうだ、フレッド」
「どうだって?」
「ひろみの話だよ」
「見事だと思いますね」
フレッドは両手をあげて降参という格好をした。
「酔っ払いの罪は許してやってもいいんじゃないですか」
四時間後、もうとっぷりと日が暮れて、都心にネオンがまたたくころ、群馬県警の警察官に付き添われて大野洋治が警視庁に送り届けられてきた。
彼の取り調べには、財津、フレッド、そしてひろみの三人が当たった。
大野は大野で、自分の犯した罪を素直に告白した。
犬の死骸《しがい》を詰めたカサブランカのネーム入りTシャツをマネキン人形に仕掛け、柴垣翔の弟、次郎が乗務する電車に投げ込んだのは彼のしわざだった。
「ぼくはあのままカサブランカ殺人事件がうやむやに片づけられてしまうことが許せなかったのです」
大野は悪びれずに、毅然《きぜん》とした態度で取り調べに応じていた。
「だからなんとか世間の注意をカサブランカに引き戻さなければいけないと思い、あんなことをしたのです。柴垣次郎の寮に女の声を装って電話をかけ、さらに毎日、始発駅で彼を観察して乗務時間が一定であることを確かめると、あの日、陸橋の上で待ち伏せして、彼が乗っているはずの電車めがけてマネキン人形を突き落としました。
事件が猟奇的であればあるほど、新聞やテレビで報じられる可能性は高いはずだと思いました。当然、犯人にも柴垣翔にもそのニュースは伝わることを計算していました。
カサブランカを忘れるな――真犯人に、ぼくはそのメッセージを伝えたかったのです」
「ということは大野さん、あなたは沖田正雄さんが殺される瞬間を見ていたのですか」
財津が身をのり出してたずねた。
「正確にはその瞬間は見ていません」
大野は背筋を正して答えた。
「あの夜、午前四時前にいきなり部屋の目覚ましが鳴りました。ぼくが手を伸ばすより早く沖田がそれを止め、そそくさとベッドから出ると服を着はじめました。彼がこちらに背中を見せて部屋を出ていくのをながめるうちに、急にぼくは気になりだしたのです。
最初は婚約者の広瀬さんの部屋へでも行くつもりなのかと思っていましたが、それにしては妙な時間です。ぼくは咄嗟《とつさ》に彼の後を追いました。ぼくの着ていたパジャマは、ジョギング用のジャージーみたいなものでしたから、そのままの格好で外へ出てもさほどおかしくはありませんでした。
沖田はエレベーターへ乗り込み、下へ降りていきました。それを見て、ぼくもすぐに階段をかけおりました。ロビーへ降りると、沖田がフロント係に命じてセーフティボックスの鍵をもらっているところです。パスポートを取り出すと、彼はそれをポケットにしまって出ていきました。
ぼくは沖田に気づかれないように、その後を追いました。幸い、フロント係はすぐに奥へ引っ込んだのでぼくの行動には気づいてないようでした」
それをたまたま寝つけなかった広瀬五月がホテルの窓から見ていて、とんでもない誤解をしていたとは、大野も捜査陣もついに知ることはなかった。
「沖田は歩いてすぐのところにある国連広場へ行きました。そして、そこにはなぜか一眼レフのカメラを肩に下げた草壁さんが待っていたのです」
三人の捜査陣は互いに顔を見合わせた。
「ぼくは噴水の反対側に身をひそめて様子を窺《うかが》うことにしました。でも、あれはほんの一瞬の出来事でした。小さな話し声が聞こえたかと思うと、突然植え込みに何かが倒れる音がして、それっきり静かになったのです。その場で五分くらい待ったでしょうか。ぼくの隠れているところからは二人の姿がまったく見えなくなったので、そっとその場を抜け出して、彼らがいたあたりに忍び寄りました」
大野はそこでナイフに刺されてすでに絶命している沖田を発見して、仰天してホテルへ逃げ帰ったのだという。
「ぼくはどうしても信じられませんでした。沖田は空手の四段です。その彼が、草壁ディレクターに殺されるなんて……。でも、あの場にはどう考えても彼女しかいなかった」
「それはね」
フレッドが大野の肩を叩《たた》いた。
「あなたがビデオカメラマンだからトリックに気づかなかったのですよ」
大野は不思議そうな顔をした。
「ふだんから両目を開けてカメラを撮る癖のある人には盲点となるような殺害方法だったのです」
フレッドはベンジェルン警視の推理を大野に話して聞かせた。
「それで彼女はカメラを持っていたのか……」
大野は呆然《ぼうぜん》として呟《つぶや》いた。
「たしかに沖田はビデオカメラをのぞく時でも素人風に片目をつぶっていました。ビデオエンジニアは直接カメラを扱いませんから、両目開けの習慣が身についてない連中はいっぱいいます」
大野はベンジェルン警視の仮説を裏づける発言をした。
「それにしても、なぜあなたは事件後の取り調べで、いまの目撃談を正直に話してくれなかったのです」
財津がぶ厚い唇を尖《とが》らせてたずねた。
「もちろん、現場にいたことであらぬ嫌疑をかけられるのが恐かった、という言い訳も考えられるが、その程度の説明では納得がいきませんのでね」
財津は先手を打って詰め寄った。
「こんな心理が理解してもらえるかどうかわかりませんが」
大野は苦笑して言った。
「ぼくは広瀬五月を愛していた。正直言って沖田が殺されているのを見た瞬間、複雑な気持ちになりました。と、同時に、犯人が草壁ディレクターであってほしくない、という気持ちにも襲われたのです」
「どうして?」
フレッドが理由を促した。
「これが身内の犯罪となれば、沖田の死そのものがドロドロとした怨念《おんねん》に包まれて、いつまでも広瀬さんの心の中にわだかまっているでしょう。反対に、アラブ人の強盗か何かに金目当てで刺されたとなれば、悲劇には違いないけれど、広瀬さんの受ける心理的ショックはまだ少ないはずです」
「驚いたな」
財津がため息を洩《も》らした。
「あなたは、いかに広瀬五月さんが早く気持ちを切り換えて、自分との結婚を真剣に考えてくれるかということのほうが、真犯人の検挙より大切だったんだ」
「そういうことです」
唇をかんで大野は認めた。
「ですから沖田の死は交通事故的なものであったほうが、ぼくにとってはよかったんです。でも、その考え方がいかに甘かったかは、帰国して時が経つにつれてイヤというほど思い知らされました。結局、広瀬さんにとっては沖田正雄という男がすべてだったんです」
大野はうつむいた。
「わかるわ」
ぽつりとひろみが呟《つぶや》いた。
え、という顔で財津が彼女を振り返った。
「大野さんの気持ち、すごくわかります。愛している人が一刻も早く過去の傷を捨てて、自分だけに目を向けてくれたら、という気持ちが……」
「ふうん」
また財津が唇を尖《とが》らせた。
「そんなものかね」
「広瀬さんが沖田のことを忘れられないとわかってからは、逆に草壁ディレクターをこのままにしておいてはいけない、という気持ちが強くなりました。かといって、いまさら警察に届け出るきっかけも失ってしまい、それで選んだ方法が草壁さんを心理的に圧迫する作戦だったんです」
「それにしても電車を止めてしまうほどの乱暴をやることは無茶だったんじゃないかね」
「自分でもいろいろなことを考えて興奮状態だったことは否めません。常識では思いとどまるようなことを、ぼくは平気でやりはじめました」
「広瀬五月さんの車に『カサブランカ』のカセットテープを仕掛けたのも」
「ぼくです。彼女が驚くさまを知らんふりして見ているのは辛《つら》かったのですが、とにかくあのロケに参加した者全員にカサブランカ・パニックを起こさせて、もう一度みんなが真相に目を向けるようにしむけたかったのです。映画『カサブランカ』のニセ招待状をわざわざ印刷させて発送したのもぼくです。いちいち黒岩プロデューサーのところへそのハガキを持っていって、それが持つ意味を力説したりもしました」
「待って」
ひろみが割って入った。
「そんなはずはないわ。あの『カサブランカ』のニセ招待状は戦後まもなく封切られたプログラムのほとんどコピーだわ。そして、そのプログラムは……」
ひろみはプログラム・ライブラリーの主人が、写真による首実検で草壁弓子と指摘した件を話した。
「捜査の方向がそちらへ向くような意味もこめて、黒岩さんや他の人たちにも、試写会の案内状はオリジナル・プログラムを下敷きにしていると強調したのです。じつは、ぼくは草壁さんに顔かたちの似ているモデルにたのんで、あのライブラリーで資料探しをさせたのです。捜査の手が伸びたときに、彼女一人に疑惑が集中するように」
「………」
ひろみは声もなかった。
道理でひろみの追及に対して草壁弓子が余裕の笑みを浮かべていたはずだ。
「でも黒岩さんが殺されるなんて……。ぼくは信じられませんでした。いまでもなぜ草壁さんが彼を、そして五月を殺したのか」
「こんな言い方は残酷かもしれませんけれど」
ひろみが穏やかな口調で言った。
「あなたの戦略に草壁ディレクターは見事にはまってしまったのだと思うわ。彼女は恐かったのよ。誰かが自分の犯罪を知っている。それは、いったい誰なのか――彼女は、まず愛人関係にあった黒岩が自分を脅している張本人だと思ったのかもしれないわ。そして、それが間違いと知って、こんどは広瀬さんを」
「やめて下さい」
大野は叫んだ。
「それじゃ五月は、まるでぼくが殺したようなものだ」
「だが、悪い効果ばかりを生んだわけでもない」
財津が大野の肩をたたいた。
「きみの心理作戦でもう一人恐怖におののいた者がいた。それが柴垣翔だ」
「翔は自分の身のまわりに次々と起きる不可思議な事件――これは大野さん、あなたが仕組んだことだ、それと次々に起きる血腥《ちなまぐさ》い殺人事件――これは草壁弓子の犯行だ、これらすべてが自分が十一年前に犯した罪の祟《たた》りだと思うようになった」
「じゃあやっぱり、あの生徒は柴垣翔に……」
大野は財津警部を見つめた。
「きみはいいところに目をつけていた。法師ノ沢の分校で、翔が中学生として在籍していた時に起きた一生徒の溺死《できし》事件を調べていたそうだな」
大野は黙って頷いた。
「あれから群馬県警のもう一台のパトカーが、伐採小屋にいた翔の両親を発見し、彼らの口からそのことを確認したよ。翔はゆうべ、耐えかねて過去の傷を父親に告白したそうだ」
財津警部は椅子《いす》から立ち上がって、話に一区切りつけるように窓際に立った。
「どうかね、これで事件の図式が見えてきただろう。柴垣翔は十四歳のときに、一人の少年を湖に突き落として殺した。たまたまそれを見ていた沖田正雄少年が、十一年経ってから人気スターとなった翔に再会し、その秘密を武器に彼を脅しはじめた。だが、翔を愛していた草壁弓子は、そんな沖田が許せなかった」
「ゆうべ、ぼくはテレビ局のスタジオで偶然翔に声をかけられました。電話をかけるから十円玉を貸してくれというのです。柱の蔭《かげ》に回ってその内容を立ち聞きしていると、草壁さんと夜中の一時に青葉台のバーで会うということでした。彼が電話し終わったのを見て、ぼくはすぐに赤電話の横のメモ用紙を破り取りました。ボールペンで強く書いた彼のメモの跡がそれに残っていたのです」
大野はそのメモを頼りに青葉台で彼らを待ち構えた。
「車のドアロックを開けるのはたやすいことです。ぼくは草壁弓子がバーの中へ消えるのを見届けてから彼女の車に『カサブランカ』のカセットテープを仕掛けました」
「そうすると……」
ひろみが呟《つぶや》いた。
「それは彼女が私と青山のカフェ・アメリカン≠ナ別れ、真夜中に六本木の事務所を訪れて広瀬さんを殺した後のことね」
「そうだったのか。あいつ、五月を殺した後で、平気な顔をして翔との待ち合わせ場所にきたんだ」
財津は悔しがった。
「それで思い出したわ」
ひろみが財津警部に言った。
「そのバーの支配人が変なことを覚えていたんです。草壁弓子の右手のマニキュアがひどくはげ落ちていたって」
「マニキュアが?」
「ええ。それで、化粧室へ行って塗り直してくるわ、と言っていたのをよく覚えているそうです。中指・薬指・小指のマニキュアが、まるで除光液《リムーバー》をこぼしたみたいにはげていたって」
「広瀬五月が殺される瞬間に、彼女の手にマジックインキをつけたんだ」
フレッドが即座に反応した。
「とっさに広瀬さんは右手に握っていたマジックインキを突き出した。それは何の防禦《ぼうぎよ》の役にも立たなかったけれども、犯人の右手を汚す結果だけは生んだ。草壁弓子は右手についた返り血を洗うとき、そのことに気づいてベンジンかアルコールで拭《ふ》き取った。きっとその時、一緒にマニキュアまで拭き取ってしまったんだ」
フレッドはひろみが推理していたのとまったく同じことを言った。
「なぜ彼女がマジックインキを、キャップを開けた状態で持っていたんです」
大野がたずねたので三人は顔を見あわせた。
「広瀬さんはね、あなたの名前を事務所のボードに書き残したのです。たぶん殺される直前にね」
財津が柔和な眼差しで大野を見つめて答えた。
「もしかしたら、最後の瞬間に、あなたに助けを求める気持ちになったのかもしれませんな」
草壁弓子は追跡の手をまくためのニセ電話を、成田を発つ直前にもかけていた。
友人の女性CMディレクターに、あなただから言うんだけど、と前置きした上で、いま柴垣翔と伊豆高原にいる。警察が私たちを追っているみたいだけれども、私たちは決して罪は犯していない。二、三日ゆっくりと二人で話し合ってから、みんなの前に顔を出すから心配しないで、といった内容の電話をかけたのである。
その友人が業界でも有名なお喋《しやべ》りであることを計算に入れての電話だった。
案の定、彼女はその後一時間のうちに、ここだけの話だけど≠ニ前置きした電話を十人以上の知人にかけまくった。
その噂《うわさ》は警察の耳にも入り、警察・報道陣入り乱れての捜査網が東伊豆一帯に張りめぐらされていた。
追っ手の中に、中央テレビの加賀ADもいたのだが、依然として彼は翔のパスポートをあずかっていた事実を忘れ去っていた。
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U 告 白
「パリか……」
十七時間の飛行を終えて夜遅くシャルル・ド・ゴール国際空港に着いた柴垣翔は、力なく呟《つぶや》いた。
一世紀も前だったらパリか……≠ニいう呟きには、とうとう逃げおおせたという感慨をこめることができたかもしれない。
しかし高度情報社会の現代では、犯罪者は地球の果てまで行っても犯罪者なのだ。どこへどう逃げても、十一年前の犯罪が消えるわけではない。
ある意味で翔は父親にすべてを告白したことをひどく後悔していた。
一徹な父である。息子が十一年前に犯した罪を、そのまま黙って胸に抱いたままでいることは考えられなかった。
生真面目《きまじめ》な父親の性格からいえば、きっと罪は一生かかってでも償え≠ニ言うだろう。
いまから日本に引き返しても、翔を待ち受けているのは殺人者の烙印《らくいん》だけだった。
(でも、この人はおれの告白をどう受けとめるのだろう)
翔は探るように弓子の横顔を見た。
成田を発ってからは二人とも死んだように眠りこけ、機内食を一回パスしてひたすら夢の世界に陥っていた。
くり返しくり返し、少年時代の情景が夢の中で浮かんできた。
雪の三国山、湯煙の立ちのぼる法師温泉、春の息吹き、夏の蒼空《あおぞら》、そして秋の紅葉。
紅色、柿色、蜜柑《みかん》色。
飴《あめ》色、鳶《とび》色、檜皮《ひわだ》色。
藁《わら》色、菜種《なたね》色、たんぽぽ色。
青竹色、松葉色、深緑。
桔梗《ききよう》色、茄子紺《なすこん》、若紫。
自然の織りなす色模様が美しかった。
自然の中で転げ回って遊んだ少年時代の笑い声が、自分の耳もとで響き渡っていた。
だが、そこに赤谷湖のイメージが出てくると、夢の情景は一転してモノクロームになった。
雪の白と湖の黒が不吉なコントラストをなして、その上を水に墨汁を垂らしたような渦を巻いて、雲が足早に通りすぎていった。
そのたびに太陽が隠されて、湖の岸で遊ぶ子供たちの影が消えた。
ボートのりばの端に宮西勘平が立っていた。
雪景色の中で半ズボン姿が妙に印象的だった。
彼が翔に何かを言っていた。
言葉は聞こえない。だが、その表情と唇の動きから、翔をあざけるようなことを言っているに違いなかった。
少年はあかんべえをして翔に背を向けると、湖にエサ針のついた糸を垂らした。
翔は彼の背中に燃える視線を投げつけながら、ボートをたぐり寄せるための竿《さお》を手に取った。
勘平は翔の動きに気づいていない。上半身を乗り出して、湖をのぞきこんでいる。
半ズボンから伸びた二本の足――その右足の膝《ひざ》の裏が翔の夢の中で大写しになった。
くぼみに竿の先が食い込んだ。
ガクッと膝を折ったとたんバランスを崩して、宮西勘平は頭から湖に突っ込んだ。
半ズボンの足が宙にバタついて、スッと湖に吸い込まれていった。
「翔」
電話ブースから戻ってきた弓子の声にハッとなって、翔は物思いからさめた。
「考えごとをしていると人にぶつかるわよ」
弓子のほうがよっぽど覚悟を決めているな、と翔は思った。彼女をここまでの行動に駆り立てている原動力は何なのだろう。
翔はまだカサブランカ殺人事件の真相を知らなかった。
「どこへ電話してたんだよ。日本?」
「たいした電話じゃないわ」
弓子は答えをはぐらかした。
「さあ、これから連絡バスに乗ってオルリー空港へ向かうのよ。空港そばのホテルで仮眠して、明日朝一番の飛行機でカサブランカへ飛びましょう」
草壁弓子は笑った。
充分に眠ったせいか、その表情は生き生きと輝いて危機感などカケラもなかった。
(きれいな人だ)
そう思ったとたん、柴垣翔は急に弓子を抱きたくなった。
翔たちと同じバスでオルリー空港に着いたモハメッド・ハッジは、指定のカウンター前に立っている背の高い日焼けした男を見つけた。
顔のちょうど半分くらいの位置に男の眉毛《まゆげ》はあった。かなり髪の毛が後退しているせいもあったが、それほど額の広い特徴的な顔立ちの男だった。
「モンパルナス大通りの一六二番地にお住まいでしたね、ロマン・ローランさん」
ハッジが日焼けした男にフランス語でたずねた。
「ええ、ただし八九番地にも住んでいたことがありますがね」
それが双方を確認する合言葉だった。
ロマン・ローランをとりわけ愛する読書家のKGBエージェント、ユーリー・アレクサンドロビッチ・ゴルシコフは、野望に満ちたアラブ人の同業者と、互いを探りあうような握手を交した。
「カサブランカへ発つまではたっぷりと時間があります。ホテルで一杯やりながらお互いをもっとよく知りあう努力をしたほうがよいと思いませんか」
ゴルシコフの言葉にハッジは薄笑いを浮かべて頷いた。
(なるほど。合言葉もそうだが、ロシア人てやつはいつのまにアメリカ人風にもって回った言い方をするようになったんだ)
ハッジはいわゆる言葉遊びが嫌いだった。
その点では陣馬市蔵との会談も、相当もどかしいものがあった。
禅問答といえば聞こえはよいのだが、基本的に日本人は政治家に限らず会話のルールを心得ていないように思えた。問いと答えがいつもチグハグで、ビジネスマンたちはよくこれで仕事がつとまるな、とハッジは驚いたくらいだった。
「一応ホテルの部屋は取ってありますが、私も南太平洋から帰ってきて間もないので体内の時計がすっかり狂っているし、あなたも日本とのとんぼ返りで時差ぼけがひどいでしょう。眠くて仕方ないとおっしゃるのなら別ですが、目が冴《さ》えて困っている状態なら、いっそのことホテルのバーでこのまま一夜を明かしたほうが時間も有効に使えそうですが」
ロシア人のエージェントは、日焼けのために真っ白く輝いてみえる歯を意図的に見せて笑った。
そういう仕種《しぐさ》までが妙にアメリカ的で、ハッジはなかなかこの男を好きになれなかった。
「ともかく、そのホテルへ行きましょう」
大国の権威をカサに着たエージェントに対して、モハメッド・ハッジは気後れを見せまいと、わざとぶっきら棒に言ってスーツケースを持ち上げた。
いまだかつてないほど激しく弓子を求めた後、柴垣翔は彼女を胸に抱いて決心したように言った。
「おれ、いまぜんぶ話すよ」
ツインベッドの片方は、使われないまま糊の利いたシーツがベッドカバーの下にのぞいている。
もう一方のベッドは、燃え上がった二人の跡そのままに乱れていた。
翔が身体の向きを変えてナイトテーブルの煙草に手を伸ばすと、シーツがめくれて弓子の裸体があらわになった。
「さむい」
そう言って弓子がシーツを引っぱると、それに巻き込まれる形で翔が彼女のほうに転がってきた。
フットライトのわずかな灯りの下で、二人はまた激しく抱きあった。
煙草が火をつけられないまま床に落ちた。
「ジェームズ・ハッサン――いや、ハーリド・エル・ファラーが、私とあなたを直接会わせてしまったのは、彼の大きな失策になるでしょうな」
ゴルシコフは、バーボンのオン・ザ・ロックを早いピッチで空けていた。酒の選択が、またハッジの気に入らなかった。KGBのエージェントがバーボンだと?
「すでに彼からお聞きになっていると思いますが、我が祖国が計画中の巨大レーザー装置の建設には、精巧なレンズ製品が不可欠です」
ゴルシコフは一段と声をひそめて呟《つぶや》いた。
ホテルの部屋よりも、こうしたバーの片隅でヒソヒソ話をやっていたほうが、かえって盗聴の危険性は少ないのだ。
「その意味で陣馬硝子の実質上のオーナーである陣馬市蔵をとりこんだことは大きい。あなたに別件で首根っ子をつかまれた彼は、彼の所属政党からみれば敵国に等しい我がソビエト連邦に偉大なるテクノロジーの協力をせざるをえなくなった。
一度裏切者になってしまうと、彼は一生その立場を続けなくてはならなくなる。防衛庁の最高ポストを占めたことのある国会議員を傀儡《かいらい》として押さえることができれば、それは日本に大きなクサビを打ち込んだも同然なのです。
そして、この件に対してあなたが要求してくる報酬も心得ています」
ゴルシコフはハッジを値踏みするように目を細めて見た。
「故郷モロッコを捨てた男が、こんどは闘う同志のALPSを裏切ろうというわけですな」
「ねえ、いまは話さなくてもいいわ。カサブランカに着いてからでいいのよ」
「いや、もう限界だ。おれの話を聞いてほしい」
「聞きたくない」
弓子は翔の下半身に手を伸ばした。
「ちょっと待ってくれ」
翔は弓子の手をはねのけると、ベッドの上に起き上がった。
「どうしてもいま、弓子さんには話しておきたいんだ」
翔は八つ年上の女に有無を言わせなかった。
弓子はあきらめたようにシーツを胸元までたぐりよせると、横になったまま翔を見上げた。
「おれ、じつは十一年前に人を殺しているんだ。中学生のときに……」
翔は弓子の反応を窺《うかが》うのが恐くて、懺悔《ざんげ》すべき過去を一気に話しはじめた。
「どうですか、私の取引条件を呑《の》んでいただけますかな」
ゴルシコフは日焼けの上にアルコールのためにさらに浅黒くなった顔を引き締めてたずねた。
目は友好的に笑っているようだが、瞳《ひとみ》は冷たかった。
モハメッド・ハッジは、もう少しであなたという人は恐ろしい人だ≠ニいう陳腐な台詞《せりふ》を吐きそうになった。
それほどゴルシコフは人の命を見事なまでに何とも思わないスパイだった。
「秘密が洩《も》れる確率は、それを知っている人間の数の三乗に比例するといわれています。二人が秘密を握っていれば一人だけ知っている時の八倍。三人が秘密を知れば二十七倍にもなる。三人よりも二人の方が三倍以上安全だというわけですな」
ゴルシコフの目もとからは笑いが消えていた。
「私とて任務の安全性は高いほうがいいに決まっている。秘密に携わっているのは三人より二人がいい。あなたが私の条件にウイと言わないのなら、あなた自身が秘密の輪から外れなければならない」
沈黙がしばらく続いた。やがてモハメッド・ハッジはゆっくりと重い口を開いた。
「わかった。条件を呑《の》みましょう」
「ありがとうございます。どうかあなたにアッラーの神の加護があらんことを」
「馬鹿なことを言わんで下さい!」
初めてそのとき、ハッジは怒りをあらわにして、拳をテーブルに叩《たた》きつけた。
日本では土曜日の昼前になっていた。
草壁弓子の遠い縁戚《えんせき》にあたる七十五歳の老婦人が西伊豆の松崎に住んでいた。
逃亡中の弓子と翔の立ち寄りそうな先は徹底的にマークされていたが、その遠縁の老婦人まではリストに挙げられていなかった。
しかし、彼女はなぜか若い弓子とよく気が合って、時々互いに電話で世間話などをする気のおけない仲だったのだ。
土曜日の早朝、弓子の声で電話がかかってくると、老婦人は慌てふためいた。
「弓子さん、どこにいるのよ。え、世間じゃ大変な騒ぎになっているの、あなた知ってるんでしょうね」
「ごめんなさい、お騒がせして。いまは、伊豆半島のある場所にいるとしか言えません」
ダイヤル直通国際電話も回線状況のよいときは、ほとんど国内の近距離通話と変わらないクリアな状況で聞こえる。
音声のずれにさえ気がつかなければ、弓子がパリのシャルル・ド・ゴール国際空港から電話をかけているとは、まずわからないだろう。
「柴垣翔という歌手の人とは一緒なの」
老婦人は懸命にたずねた。
「はい」
「一緒なんだね」
「いまからそちらへうかがおうと思います」
「うちへ?」
「はい。ご迷惑でしょうか」
「ご、ご迷惑とかそういうんじゃないけどね。弓子さん、なんて言えばいいのかしら、つまり、警察に追われているあなたたちがくるとわかった以上、私はどうしたらよいのか、その判断に迷ってしまうということなのよ。ね、もしもし、もしもし? 聞こえる? もしもし」
電話が切れたことを知った老婦人は、しばらく考えてから駐在所に緊急連絡を入れた。
昼前には、老婦人の家を中心に、東伊豆から婆娑羅《ばさら》トンネルを抜けて松崎町へ至る県道|下田《しもだ》松崎線、及び下田から南伊豆町を回り込んで海岸沿いに松崎へ北上するマーガレットラインを重点とした緊急配備体制がとられた。
また、国道17号線沼田以北の要所、及び関越自動車道の沼田、月夜野《つきよの》、水上《みなかみ》各インターチェンジにも多数の警官が動員されて厳重な検問体制を敷いていた。これは、伊豆へ逃げると見せかけて、翔の生まれ故郷である法師ノ沢へ二人が戻る可能性も捨てきれないためである。
だが、草壁弓子の電話作戦のために、捜査陣は完全にあざむかれていた。
土曜日正午の時点で、誰ひとりとして彼らの国外脱出に考えが及ぶ者はいなかったのである。
「万が一とは思うが」
午後一時十五分、ようやく財津警部がその可能性に気がついた。
「彼らが国外への逃亡を考えていないこともなくはないかもしれない」
財津がややこしい言い方をしたので、フレッドは混乱した。
「マネージャーの山添に至急連絡をとって、柴垣翔のパスポートは彼が保管しているのかどうか確認しろ」
十分後、フレッドはホッとしたような顔で報告した。
「山添と連絡がとれました」
「で、どうだった」
「草壁弓子はともかく、少なくとも柴垣翔の国外脱出の可能性はありませんよ。彼のパスポートは、テレビ番組のロケに備えてオーストラリアのビザを取るため中央テレビの制作スタッフにあずけてあるそうです」
「あまーい。詰めが甘あい」
財津が下顎《したあご》を突き出してフレッドをなじった。
「パスポートを受け取ったという中央テレビの制作部員を捕まえて、たしかに彼の手元にそれがあることを確認するんだ」
パリでは土曜日午前五時半を回ったところだった。
柴垣翔はすべてを語り終えて目を閉じていた。
興奮しているせいか、裸の肩が波打っていた。
「どうして弓子さんがおれと逃げる気になったのかまだわからないけど、結果から見れば殺人犯と一緒に国外逃亡しているわけだよ」
翔は目を開けて、弓子を見下ろした。
「話を聞いて驚いたかい」
弓子は彼から目を外して横を向いていた。
「こんな男の逃避行を手伝うために、あんたは築きあげたものすべてをパーにしたんだぜ。どうなんだ。正直言って後悔しているんだろう」
弓子は首を横に振った。シーツと髪の毛がこすれて衣《きぬ》ずれに似た音を立てた。
「私、ぜんぶ知っていたの、何もかも」
「何!」
「黙って聞いててごめんなさい。でも、あなたが過去に犯した罪のことは知っていたのよ」
「どうして」
翔は大声をあげた。
「弓子さんが知っているはずがない」
「いいえ」
弓子もゆっくりと上半身を起こした。
「沖田正雄から一部始終をすべて聞いていたわ」
翔は唖然《あぜん》とした顔で弓子を見つめた。
「あなたのほうこそ、殺人犯と一緒に国外逃亡しているのよ」
「それはどういう言味なんだよ」
草壁弓子は髪の毛をかきあげると、翔を真正面から見据えて言った。
「沖田正雄を刺し殺したの、私なのよ」
翔の裸に、さっと鳥肌が立った。
「沖田があまりしつこくあなたの過去を知っているとくり返し言うもんだから、私は彼に聞いたわ。いったい翔の過去って何なのって」
「………」
「もちろん、一回や二回聞いたくらいじゃ教えてくれなかった。でも、覚えているかしら、カサブランカ・ロケの四日目に撮影を早目に切りあげて夕方以降自由行動にしたことがあったでしょう。あの夜、私は婚約者の広瀬さんに断った上で、沖田をバーに連れ出して徹底的に飲ませてとうとう口を割らせたのよ。酔っ払ってしまえば口は軽いもんだったわ」
「あいつ、十一年前のことをペラペラと喋《しやべ》ったのか」
「そうよ。それを聞いたときの私のショックは大きかった。同時に、あなたが雑誌の取材とかで生まれ故郷の法師へ戻るときに、赤谷湖での撮影をいやがるわけが呑《の》み込めたわ」
「あいつは、おれが宮西勘平を湖に突き落とすところを見ていたんだ。その秘密を知っていることで……」
「スターであるあなたに対する心理的な優越感を味わっていたのよ。でも、彼が生きている限り、あなたは永遠に破滅の恐怖に脅かされ続けなければいけないわ」
「おれを守るために沖田を殺したの?」
翔は信じられないといった顔をした。
「あなたを愛しているから」
「いい加減なこと言うなよ。愛だけじゃ人は殺せないぜ」
「ううん」
弓子は首を横に振った。
「愛する人と同じ痛みを私も分かちたかったから。同じ苦しみを持たなければ、あなたの辛《つら》さは分からないわ」
「まさか……」
翔は身を引いて、あらためて弓子を見つめ直した。
「おれと同じ立場になるために沖田を殺したのか」
「そうよ」
弓子は自分の髪の毛の中に右手を突っ込んで頭を揺すった。
「沖田は自分だけの心にしまっておいた秘密を、ついうっかり私に喋ってしまったことでひどく後悔していたわ。ロケ最終日の夜、私は彼に呼び出されたの。午前四時に国連広場の噴水前へきてくれってね」
捜査陣も関係者も誤解していた。
沖田は犯人に呼び出されたのではなく、沖田が犯人を呼び出したのだった。
「私はそのときが一つの賭《か》けだと思ったわ。沖田は私に何らかの取引をしようとしている。その内容によっては、その場で沖田を何とかしなければ、あなたの立場が危なくなる」
「沖田は何て言ってきたんだ」
たずねる翔の顔から、血の気はすっかり失せていた。
「私を脅迫の仲間に加えようとしたのよ。あれだけ可愛《かわい》らしい子をお嫁さんにしようという直前に、よくもまあ恐ろしいことを平気で言う人だなと思ったわ。ごていねいにパスポートとクレジットカードまで私に見せてね、旧市街《メデイナ》の一角に終夜営業している非合法の金の販売店があるというのよ。共謀の手付け金として、私に相当額の金貨か金細工品をプレゼントすると言い出したわ。あなたをこれから長期にわたって脅せば、それくらいの投資はすぐに回収できると思ったんでしょうね。お金がからむと人は変わるわ。会社の上司である私に平気でそんな交渉をしてくるんですものね」
「それで弓子さんは……」
「こういうことになるかもしれないと用意しておいたナイフで彼を刺し殺したわ」
「だけど沖田は空手のセミプロだぜ。その彼をどうして……」
「そんなことはどうでもいいでしょ」
弓子は翔の質問をかわした。
「じゃあ黒岩さんを殺したのもあんたなのか」
「そうよ」
「なぜ」
「知りたいことだらけなのね」
「あたりまえだよ」
「私が沖田を殺したとき、誰かがそれを見ていたのよ」
「誰か?」
「日本に帰ってから、あなたの弟さんの乗務する電車にマネキン人形が飛び込んだり、『カサブランカ』のニセ招待状をあちこちに送ったりした人物がいたでしょう。その人物は、間違いなく私に対しての挑戦状をたたきつけていたのよ。ああいう事件が起きれば必ず身に覚えのある者は動揺する。それを狙《ねら》っていたんだと思うわ」
「それで最初に黒岩さんを疑ったのか」
「カサブランカの出来事を見られていたとしたら、彼である可能性が一番強いと思ったわ。彼は夜中でもかまわず私の部屋のドアを叩《たた》いて求めてきた。
あなたには言いにくいことだけど、あの夜だって、私が部屋を空けていたことに真っ先に気づくとしたら彼である可能性が強いと思ったの。
皮肉なものね。同時に複数の男性を愛することに決めたなんて偉そうなことを言っていても、いざとなると最愛の人のために他の男性にどんな犠牲を強いても平気だったわ。
私って、残酷な女だと思う?」
弓子は翔を見つめたが、彼は返事ができなかった。
「ともかく、カサブランカでの犯行を目撃したのは黒岩に違いない、と私は一旦は確信したの。そうだとしたら、彼には死んでもらわなければならなかった……。
でも、黒岩を殺すことになったあの日、五月ちゃんとテニスをしていたとき、偶然ロッカールームで彼女の手帳にあった走り書きを見てからすっかりわからなくなったわ。夜中に私が抜け出したのを見ていたのは彼女だったのよ」
弓子は、五月が見たのは大野洋治であるとも知らず、勝手に走り書きの内容を誤解していた。
「それなら知らんふりをして私を脅しているのは広瀬五月なのだろうか。そうだとしたらこの子はとんでもない二重人格の悪魔だわ。私は真相がわからなくなって迷い抜いた。
でも、一番手っ取り早いのは、黒岩と会って正面からこの問題を切り出してみること。そう思って、私は深夜、オフィスに一人で残っている黒岩をたずねたの」
「くさいな」
机に座っていた黒岩は、開口一番そう言った。
「なんだ、その匂《にお》いは」
「匂い?」
弓子はすぐにはわからなかった。
「メンソレータムみたいな匂いだよ」
黒岩は眉《まゆ》をしかめた。
「目にしみるぜ」
「ああ、サロメチールね。テニスで足を痛めたもんだから」
「よく平気だね、そういうのつけて」
「鼻風邪をひいてるからね、気にならなかったの」
「自分はよくても他人《はた》迷惑だ」
黒岩は立ち上がると、ホームバー・セットのほうへ歩いていった。
「とりあえず何か飲むか」
「待って、お酒はいまいらないわ」
「へえ、珍しいな」
振り返って、彼は弓子が一眼レフのカメラを肩にかけていることに気がついた。
「何だよ、そのカメラ」
「ちょっとね」
「こんどは女流写真家に転向か」
弓子が返事をしなかったので、黒岩は一人で笑った。
「急にどうしたんだよ。マンションで待っててくれればよかったのに」
「どうしてもいま、あなたに確かめておきたいことがあったの」
「おれに?」
「そう。あなた、カサブランカの事件では一生懸命だったわね」
「一生懸命とはどういう意味だ」
「アラブ人によるゆきずりの犯行だという説で一件落着するように、国会議員の陣馬市蔵のルートを使ってまで、マスコミ操作に必死だったわ」
「そりゃそうだろう。犯人内部説などをバラまかれちゃ、あのプロモーション・ビデオはパーだ。言っておくけど制作費三千万円は決して安い金額じゃないぞ」
「本当にそれだけの理由で動いていたの?」
「おい」
黒岩はせせら笑った。
「おまえ、まさかおれを疑っているわけじゃないだろうな」
「それはないわ。ただ、あなたが何かを知っているんじゃないかと思って」
急に黒岩の目が細くなった。
長い沈黙が流れた。
「弓子」
真剣な声だった。
「後々《のちのち》のために、一つ大事なことを教えておいてやろう」
「なあに」
黒岩はソファに腰を下ろし、シガレットケースから煙草を一本取り出して咥《くわ》えた。
それにライターで火をつけようとしたが、気が変わったらしく、また煙草を元に戻した。
「アルコールってやつはな、人の耳を遠くさせる働きがある。飲めば飲むほど鼓膜の機能が鈍くなる」
弓子は相手の意図がわからずに黙っていた。
「耳が遠くなると、こんどは人間どうしても声が大きくなる。互いにひそひそ話をしているつもりが、大声でそこら中に響き渡るようなお喋《しやべ》りをしていたということがよくある。つまり、秘密を話すときには酒ぬきの席でやれということだ」
そう言うと、黒岩は上目づかいに弓子を見た。
「あなた、聞いていたのね」
黒岩は微《かす》かな笑みを浮かべて肯定も否定もしなかった。しかし、弓子は悟った。黒岩は聞いていたのだ。ホテルのバーで沖田から翔の秘密を聞き出したとき、黒岩は近くの席にいてそれを立ち聞きしていたのだ。
迂濶《うかつ》だった。気がつかなかった。
「何もおれは、おまえが犯人だったなんて言ってやしないぜ」
黒岩は弓子の心の動きを見抜いたように言った。
「幸い、世間の目は現地人の流しの犯行説に傾いている。このまま余計な噂《うわさ》を封じ込めておけば、カサブランカ殺人事件も人の記憶から忘れ去られていくだろう。なんだかんだ言っても殺されたのは世間的にはまったく無名のウチのスタッフだ」
黒岩は弓子を隣に座らせて耳もとで囁《ささや》いた。
「そんなことより、人気絶頂の翔の秘密を握ったメリットは大きいぜ。おれに黙ってあいつと浮気しようなんてバカな考えは捨てて、もっと打算的におれと組まないか。どうせおれたちは損得勘定だけで結ばれた仲だろう。そんなことはわかっているんだよ、とっくにな」
弓子は決心した。
ふと黒岩のほうに向き直ると、彼女は男の首にカメラをかけた。
「おい、何の真似だ、これは」
「一枚写真をとってほしいの、何も身につけていない私の裸を」
弓子はレンズキャップを外しながら、氷のような目をして呟《つぶや》いた。
「広瀬五月はとても可愛《かわい》い子だったわ。でも私があの晩抜け出すところを見ていたとあっては、やっぱり生かしておけないものね」
弓子は淡々と話しつづけた。
「事前に彼女の事務所のドアに仕掛けをしてロックできないようにすると、私は彼女が深夜戻ってくるのを待っていたわ。彼女のスケジュールは本人に直接確かめておいたから間違いはなかった。『カサブランカ』のテープを聞かせてやったわ。驚いて声もなかったみたいね。殺人も三人目となると、そして相手が非力な女の子となると、だいぶ落ち着いてくるものだわ。彼女を殺してから、私は服を着替えると、あなたとの待ち合わせ場所に指定した青葉台の店に行ったの」
弓子はそれ以上の説明はしなかった。
ところが駐車中の彼女の車に、『カサブランカ』のテープを仕掛けた者がいたことで、弓子は心臓が止まるほど驚いた。目撃者は広瀬五月だと思っていたのに、またしてもカサブランカのいやがらせだ。
こうなると、弓子は翔にも疑いの目を向けてみた。
しかし、翔が待ち合わせに一時間も遅れたのは、実家の父親に告白の長電話を入れていたためだとわかると、残るは大野洋治しかありえなかった。
目撃者は彼だったのだ。
弓子は正解に最後までたどりつかなかった自分の不運を呪《のろ》った。
「さあ、私もこれですべて話してしまったわ」
弓子は両手で翔の頬《ほお》をはさんだ。
「私たち、もう何も隠すことはないわね」
激しい勢いで弓子は翔の唇を吸った。
が、しばらくして男がまったく無反応なことに気がついて、弓子は白けたように唇を離した。
翔は操り手を失った人形のように、ベッドの背に上半身をもたせかけて、虚空を見つめていた。
「いつのまにか朝よ。六時半だわ」
気まずさをとりつくろうように、弓子はベッドから下りて下着を身につけた。
「そろそろ仕度をして空港へ行かないと」
「弓子さん」
翔が呟《つぶや》いた。
「おれはあんたをもっと大人だと思っていた」
弓子はその言葉を聞いて愕然《がくぜん》とした。
翔に背を向けてフロントホック・ブラを止めようとしていた、その動作が途中で凍りついた。
「あんたなら、おれのことを救ってくれる。そう思ってここまでついてきたんだ。まさか、あんたもおれと同じ立場にいるなんて、思ってもみなかった」
翔は真正面の壁に向かって話していた。
「そう?」
弓子が呟いた。急に周囲が暗くなっていく気がした。
「私の思いは空回りしていたのかしら」
「もう、おれを助けてくれる者は誰もいなくなった」
翔は、黒い水をたたえた赤谷湖の底へ、ずるずると引き込まれていく幻覚に捉われた。
「翔」
弓子は愛する年下の男を振り返った。
「カサブランカ……」
その言葉が彼女の唇から洩《も》れた。
「せめてカサブランカまでは一緒についていって。お願い」
天を仰いだ草壁弓子の頬《ほお》に涙が伝わった。
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V 収 束
「ない、ない、ない」
制作部長命令で伊東から急遽《きゆうきよ》呼び戻された中央テレビの加賀ADは、自分の机の引き出しを掻《か》き回しながら呟《つぶや》いた。
「そうだろう。机にしまってあるというから探してみたんだけど、どこにもないじゃないか」
チーフディレクターの星野が白い目で加賀を見ていた。
「だいたい日ごろから机の整理整頓がだらしないからこういう騒ぎになるんだ」
制作部長もカンカンに怒っていた。
あずかっているはずの柴垣翔のパスポートを提出せよ、というのが警視庁捜査一課からの緊急要請だったのだ。
ところがそのパスポートがADの机から消え失せてしまった。
「おい直美ちゃん、おれの机の中にしまっておいた柴垣翔のパスポート知らないか」
加賀は苦しまぎれにデスクの女の子に声をかけた。
「直美が知ってりゃ世話ないよ」
冷たく星野ディレクターが言うのを、直美が手で制した。
「待って、けさ早くフェアモント映像の草壁さんが制作フロアにきて、加賀さんの机をかき回していたわ」
「なんだって」
周りにいた男全員が同時に声をあげた。
「どうして早くそれを言わないんだ」
「だって」
デスクの女の子は問い詰められて泣きそうな顔になった。
「私、徹夜明けで、いま出てきたばかりなんだもん」
「ほら、だから言わんこっちゃないんだ」
財津警部はフレッドに八つ当たりした。
「すぐに成田の出入国記録を調べさせろ。それから緊急配備もだ」
「これはぼくのカンですけれどね」
フレッドが言った。
「草壁弓子の行き先は十中八九カサブランカだと思いますよ」
「どうしてそんなことがわかるんだ」
「犯人は現場へ帰るっていうでしょう」
「私もそう思うな」
ひろみも同意した。
「追い詰められた二人が戻るとしたらカサブランカしかないわ」
「二人とも勝手な奴だな」
財津はいらいらと部屋の中を歩き回った。
「さっきまで二人は伊豆のどこかにいると信じていたくせに、翔のパスポートを草壁弓子が手に入れたらしいとなったら、もうこれだ」
「頭の切り換えは早くしなくちゃ」と、フレッド。
「ね」と、ひろみも頷く。
「警部、いまだったらまだ間に合いますよ」
「何がだ、フレッド」
「いまは夕方の五時――十七時だから大丈夫。あと四時間あるから何とかなります」
フレッドは手帳のメモを見て言った。
「ちょうど土曜日だから二十一時発のエールフランスがノンストップでパリへ飛んでます」
「わあ、最高」
ひろみが手を叩《たた》いた。
「そこからモロッコへ行くのはいろんな方法があるし、急を要すればチャーター便を飛ばしてもいい」
「私、いちどモロッコって行ってみたかったんだあ」
「それで?」
財津が目を小さな三角にしてたずねた。
「とにかくぼくは成田でスタンバってます。飛べ、という指示が出たらすぐに行けるようにね」
「そんな指示は出さんよ」
「私も成田でスタンバイします。草壁弓子を説得するには、同じ女性で、一対一で膝《ひざ》をつきあわせて話をしたことのある私が適役だと思うんです」
「思わんね」
「警部、捜査一課でフランス語がペラペラなのはぼくだけでしょう。むこうとの合同捜査をやるのにぼくがいなかったらどうするんです」
「ねえ、警部。お願い」
ひろみが財津警部の左腕をとって揺すった。
「ねえ、警部。お願い」
フレッドが右腕のほうをとって揺すった。
「おまえはオカマか」
財津警部は右腕にすがりつくフレッドを振り払い、左腕をとっているひろみはそのままにして大見栄を切った。
「最後はこの財津大三郎、捜査主任としてしっかり責任を取らせてもらいます」
日本時間十六時三十分、パリ時間八時三十分。
柴垣翔と草壁弓子、そしてユーリー・アレクサンドロビッチ・ゴルシコフとモハメッド・ハッジらの乗ったモロッコ航空の定期便がオルリー空港を飛び立った。
弓子は窓際に座って、雲の下に溶け込んでゆくパリの風景を見つめていた。
一つ空席をおいて通路側に座った翔は硬い表情で前を向いていた。
ホテルをチェックアウトしてから飛行機が離陸するまで、二人は必要最低限の話しかしなかった。
いつまでも逃避行が続くわけのないことを二人はよく知っていた。
とりわけ柴垣翔は絶望の淵《ふち》に立たされていた。
十一年前の過去を懺悔《ざんげ》して、その秘密を自分とともに抱いたまま新しい人生を切り拓《ひら》いてくれる人、と思っていた草壁弓子が、じつは翔の破滅を加速度的に早める役割をしていたのだ。
(おれの社会的生命はあと三時間で終わりだ)
彼はカサブランカ空港での逮捕を予感していた。
もうこうやって飛行機に乗って海外を飛び回ることは二度とないだろう。
華やかな照明の下、歓声を浴びながら歌うチャンスも二度とない。
分刻みのスケジュールに追われ、テレビ局からテレビ局へと駈け回る嬉《うれ》しい悲鳴ともお別れだ。
爽《さわ》やかな笑顔の彼が雑誌やテレビに登場することも、もうあるまい。代わりに、やつれ果てた犯罪者としての彼がクローズアップされるのだ。
弟の次郎が勤め先に居づらくなるのは必至だった。
生真面目な父や母はこの屈辱に耐えられるだろうか。少なくとも法師ノ沢にはいられないだろう。
(もしかしたら、両親は自殺をするかもしれない)
そう思うと、胃がキリキリ痛んできた。
考えれば考えるほど、きのうまでの華麗な暮らしを失うことがどんなに辛《つら》いことか、身にしみてわかってきた。
ただ、不思議といまの翔には草壁弓子を憎む気持ちはなかった。
憎むのは、あの赤谷湖での魔の一瞬だった。
(あのボートのそばに竿《さお》が残されていなかったら、おれの一生は大きく変わっていただろう。大スターになっていなかったかもしれない代わりに、一生の重荷を背負い続けていく必要もなかったはずだ)
スチュワーデスがドリンクのオーダーをとりにきたが、翔は首を振って断った。
彼の横で、弓子もそれにならっていた。
(おれを愛するが故に、おれと同じ痛みを――殺人の重荷をすすんで背負う気になったこの女を、やはりおれは愛しつづけるべきなのだろうか)
美しさの裏側に、そのような狂おしい執念が息づいていたとは翔は想像だにできなかった。
(カサブランカまでは一緒についていって……か)
その後、この女はどうするつもりなのだろうと翔は考えた。
モハメッド・ハッジは落ち着かなかった。
これまでに人殺しに手を染めたことが皆無ではなかった。しかし今回のように、長いあいだ仲間として行動し、自分を信頼しきっている相手を裏切るのはどう考えても楽しい任務ではなかった。
ゴルシコフは彼の隣でバーボンのロックを口に運びながら、雑誌の漫画に声を出して笑っていた。
(イヤな奴だ)
ハッジは思った。
しかし、イヤな奴と手を組み、憎めない奴を裏切らなければならないときもある。すべてはこの手に国家権力を握るためだ。
おまえは、緑の行進≠ナ祖国を捨てて以来、脇目《わきめ》もふらずにその野望の成就に邁進《まいしん》してきたはずだぞ。
ハッジは自分に言いきかせた。
彼のスーツケースには、ゴルシコフから受け取った青酸カリの錠剤が入っていた。古典的な代物だが、人の生命を奪うには手近でもっとも信頼のおける毒物である。
ハッジは、なるべくハーリド・エル・ファラーの顔を思い浮かべないようにして、カサブランカに着いてからの行動予定を頭の中でくり返した。
日本時間十八時、パリ時間十時、そしてモロッコ時間午前九時。
アブデラリ・ベンジェルン警視は日本からの緊急連絡を受け取った。
柴垣翔と草壁弓子の二人がパリ経由でカサブランカへ向かっているというのだ。
そのうちの草壁に関しては、カサブランカでの沖田正雄殺しをはじめとする一連の殺人事件の犯人である可能性が濃厚だという。
「それみろ。やはり真犯人は日本人だったのだ」
ベンジェルンは自説が正しかったことに満足して呟いた。
時計を見上げると午前九時八分すぎ。
彼らの飛行機はパリを現地時間で八時三十分に発っているから、カサブランカ到着はモロッコ時間で十時三十分ごろになるだろう。
カサブランカの国際エアターミナル、モハメッド五世空港は市の中心部から南西へ約三十キロのところにある。いまから車を飛ばせば到着には充分間に合う。
アブデラリ・ベンジェルンは、思いたってカサブランカの北東九十二キロに位置する首都ラバトの日本大使館に電話を入れた。大使館員による通訳の要請である。
「車を走らせてもいいが、万一遅れたら警視はお困りでしょう。こちらでヘリをチャーターしてモハメッド五世空港まで飛ばせます」
すでに警視庁捜査一課から協力要請を受けていた大使館の対応は素早かった。
「これはあくまで逮捕ということではないので、相手に対する言い方が難しいのです」
ベンジェルンは説明した。
「よく承知しています。詳細は空港へ着いてから手早く打ち合わせをしましょう。私は森本と申します」
「それではのちほど空港で、モリモトさん」
ベンジェルンは電話を切ると、署内でもっとも腕の立つドライバーを選んで緊急車輛に乗り込んだ。
「結局、おれは国際電話係だ」
フレッドはカサブランカとの通話を終わると、机の上に長い足を投げ出してため息をついた。
「結局、私は国際電話係のお茶|汲《く》みよ」
ひろみはインスタント・コーヒーをフレッドのために入れてやりながら力なく呟《つぶや》いた。
「結局、おれは」
机に頬杖《ほおづえ》をついて、熊のような顔をタコのようにつぶして、財津警部が不満の声をあげた。
「英語ひとつ満足に喋《しやべ》れんということで、海外出張の許可が下りなかった。この非常事態にだぞ」
「あーあ、カサブランカか」
フレッドが呟いた。
「あーあ、カサブランカか」
ひろみと財津が合唱した。
わざわざ相手に名乗ってもらうまでもなく、その男がKGBであることは陣馬市蔵も見当がついていた。
アブデサラーム・バーヤに――陣馬はモハメッド・ハッジの変名を最後まで本名だと信じ込んでいた――まんまと罠《わな》にはめられてから丸二日も経たないうちに、早々とソ連サイドの人間が彼にアプローチしてきたのだ。
その男はソ連の民族舞踊保存団体の役員という名刺を差し出してきたが、その肩書きはまるで何の意味も持たないことを陣馬はよく知っていた。
議員会館の陣馬の部屋にズカズカと入りこんで追い返されないだけの自信が、民族舞踊の保存といった程度の仕事から生み出されるはずもなかった。
「このたび我が国で建設しようとしているレーザー装置は、核融合のシミュレーションといったおとなしい目的のために造られるものではありません」
水色がかった灰色の瞳《ひとみ》をした男は、流暢《りゆうちよう》な日本語で物騒な会話を続けた。
「レーガン大統領がスターウォーズ計画をぶち上げて以来、宇宙兵器の開発はすさまじい勢いで進められています。とくにアメリカはノヴァ≠フ他にスーパー・エクスキャリバー≠ニ呼ばれる大出力X線レーザー装置の開発に成功している。ビーム兵器の進歩は、ひところのコンピュータ集積回路の進化なみに、等比級数的なカーブを描いて上昇しています。我々としてもここで陣馬先生のご協力を得て、陣馬硝子の技術力を導入することで……」
「もういい」
陣馬は遮《さえぎ》った。
「もう喋《しやべ》らないでくれ。あなたが喋れば喋るほど、私は深みにはまっていくだけだ」
陣馬は相手の目を見ずに言った。
「日本語で以心伝心という言葉がある。ひとつ、今回の件に関してはそちらのスタッフも腹芸の極意ともいうべきものを体得しておいて頂きたい。
とりあえずきょうのところは、無礼極まりないあなたの訪問に対して、私が何ら抗議の意志を示さなかったことで、こちらの真意をお汲《く》み取り願いたいものですな」
陣馬は葉巻に火をつけ、それだけ言うと回転|椅子《いす》をくるりと回した。
草壁弓子は、モハメッド五世空港に降り立ったところから監視の目にさらされていることに気がつかなかった。
入国審査から通関に至るまで、私服のスーツに着替えたアブデラリ・ベンジェルン警視と三人の警官、それに森本という日本大使館員が二人をぴったりとマークしていた。
「とうとう戻ってきたわ、カサブランカに」
草壁弓子は抜け殻《がら》のような表情で独り言を言った。
「ねえ、翔。ここで私の写真を撮ってくれる」
弓子はバッグの中から一眼レフのカメラを取り出した。
「最後の記念写真……か」
この女の最後の望みくらい聞いてやってもいい、と翔は思っていた。
空港を一歩出たら、弓子と一緒に行動する気はなかった。
翔は飛行機に乗っている間に心を固めていた。日本大使館に行って、すべてを話すのだ。カサブランカに着いてからもこの女と逃避行を続ければ、自分が立ち直れるチャンスは二度とやってこないだろう、と。
「シャッターはここを押すのよ。ピントはほとんど合わせる必要ないと思うわ」
弓子はそう説明してカメラの紐《ストラツプ》を翔の首にかけると、彼と五十センチも離れていないところに立った。
「おい、そんな近くに立ったんじゃピントが合わないぞ」
と言いかけた翔が片目をつぶってレンズをのぞいた途端、その言葉を引っ込めた。
「すごいワイドレンズなんだな、これは」
「24ミリの超広角よ」
ワイドな画面の右端に、歪《ゆが》んだ弓子の顔のアップが写っていた。
ベンジェルンもフレッドも、この点では推理を間違えていた。
弓子は望遠レンズで風景を写させた隙《すき》を狙《ねら》ったのではなかった。カメラには超広角レンズがついていたのだ。
超広角ならば、五十センチ前後の至近距離にもピントが合うし、それぐらいの近さでも人間の顔は画面にすっぽり入ってしまう。
「どうせだから空港ロビーの雰囲気も入れて撮るか」
片目をつぶったまま、翔は弓子の顔のアップを右端のアングルに寄せた。
通りかかった二人の旅客がさりげなくカメラを避けた。ゴルシコフとハッジだった。
翔はシャッターを押した。
「もう一枚撮って」
弓子が要求した。
ワイドレンズで歪んでも、彼女の美しさは損なわれていなかった。
「男の人って、どんなに唐突に切り出しても、女の人が写真を撮ってと頼めば絶対にイヤとは言わないのね」
「それは弓子さんがすばらしい美人だからだろう」
翔は最後のお世辞のつもりでそう言った。
「沖田君も同じセリフを言ってたわ」
「沖田?」
翔は完全にファインダーの中の弓子と会話をしていた。そのため、弓子がハンドバッグの口金をそっと開け、その中に右手を突っ込んだことにはまったく気づかなかった。超広角レンズでも、弓子の肩より下までは、アングルに入っていなかったのだ。
「そうよ、沖田君よ」
弓子は上品に微笑《ほほえ》んだ。
ハンドバッグに入れていた右手が引き抜かれた。銀色のナイフが光った。
「さあ、翔。この表情を写して」
弓子は唇をすぼめて官能的に顎《あご》を突き出した。
同時に、彼女の右手が翔の心臓の高さのところで思い切り後ろに弧を描いた。
「待て!」
アラビア語で怒鳴ると同時に、ベンジェルン警視が飛び出した。
しかし、たまたま彼の前を通りかかったユーリー・アレクサンドロビッチ・ゴルシコフが、彼の突進を妨げる形になった。
「どけ!」
叫んだが、ベンジェルン警視はそのままKGBのエージェントともつれあって床に転がった。
(しまった)
男は刺し殺された――そう思って、ベンジェルンは倒れたまま二人のほうを見た。
柴垣翔は、一瞬何が何だかわからなかった。
ワイドレンズ特有の歪《ゆが》んだ構図の中に、突然ナイフが現れた。
(危ない)
と思ったが、カメラを両手で持っているために防禦《ぼうぎよ》のしようがなかった。
(刺される――なぜ――刺される――なぜ)
恐怖と疑問がぐるぐると頭の中で回った。
人間、殺されるときはこんなものなのか。翔はファインダーをのぞいたまま、何もできぬ自分に腹を立てた。
だが、次に彼が見た光景はさらに意外なものだった。
ナイフの切先はそのまま弓子自身の方へ向けられた。
アングルからナイフが消えた。
同時に、弓子の顔が苦痛に歪むのが見えた。
「弓子さん!」
大声で翔が叫んだ。
彼の手からカメラが滑り落ち、床にぶつかってレンズが割れた。
草壁弓子は、自らの胸にナイフを突き立てていた。
「弓子さん、何をするんだ」
倒れる前に翔が駈け寄って支えた。
「救急車を呼べ」
ベンジェルン警視は部下にそう叫ぶと、起き上がって二人のほうへ走った。
ゴルシコフも立ち上がって、目の前で展開した光景を呆然《ぼうぜん》と見つめていた。モハメッド・ハッジが彼の肩に手をかけて、この場を早く立ち去ろうと促した。
彼はモロッコの警官とかかわりあいになりたくなかったのだ。
「弓子さん、死んじゃだめだ。死ぬな、弓子!」
空港ロビーにいた人々が集まって二人の周りに輪を作った。
「弓子、弓子!」
柴垣翔は、すでにぐったりとなった草壁弓子の身体を抱えて泣き叫んだ。
「何か言えよ、喋《しやべ》ってみろよ。黙ったまま死ぬなんてひどいじゃないか」
日本大使館の森本も、なすすべもなく傍《かたわ》らに立ちつくしていた。彼はベンジェルン警視と目を合わすと、絶望的な表情で首を横に振った。
翔の腕から弓子の身体がするりと抜けて床に倒れた。
「最後の最後でひとりぼっちにさせてしまうようなことを言って……ごめんな」
翔は血の滲《にじ》んだ弓子の胸に顔を埋めて号泣した。
「カサブランカまでじゃなく、どこまでも一緒についていってやればよかったんだ……」
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エピローグ
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「招待する立場の人間が招待されることになるのもバツが悪いですな」
ハーリド・エル・ファラーは、ゴルシコフがあらかじめカサブランカ沖に用意してあった大型クルーザーのキャビンで、夕食に舌鼓を打ちながらそう言った。
「いや、このほうが心おきなく三人で話ができるでしょう。船長やコックはこちらサイドの人間ですからご心配なく」
大したものだ――というより、大国ソ連の底力をこんなところにも垣間《かいま》見た気がして、エル・ファラーは少し緊張感を覚えた。
「船はお嫌いですか」
サラダを口に運びながらゴルシコフがエル・ファラーにたずねた。
「あまり顔色がよろしくないようだが」
「いや、夜の大西洋にはあまりいい思い出がないものでね」
モハメッド・ハッジは、チラとエル・ファラーの顔を見た。
「今夜は波も穏やかだし、ナイト・クルージングとしては絶好の天気です」
ゴルシコフが笑った。
ボーイがドアをノックして次の料理を運んできた。伊勢海老《いせえび》のグラタン・テルミドールだった。
「テルミドール?」
エル・ファラーが訝《いぶか》しげな顔をした。
「めでたい席には似合わない料理ですな」
「ほう、よくご存知で」
ゴルシコフが驚いてみせた。
「……と言っては失礼でしたな。私のようなロシア人よりも、アルジェリア生まれのあなたのほうがフランス料理に詳しくて不思議はない。しかし、これも革命の前夜祭と解釈していただければ、決して不吉な象徴にはならないと思いますが」
日本の結婚式では必ずと言ってよいほど宴卓にのぼる伊勢海老のテルミドールだが、テルミドールとはフランス革命暦第十一月(熱月)を指し、ロベスピエールが失脚した一七九四年七月二十七日(熱月《テルミドール》九日)のいわゆるテルミドールのクーデター≠連想させるとして、祝い事にはこの料理は控える人間が少なくない。
エル・ファラーがそれをひとくち、口に運んだ。
素知らぬふりで食事を続けているモハメッド・ハッジの頬《ほお》が軽く二、三度|痙攣《けいれん》した。ゴルシコフが空咳《からぜき》を一つした。
ガチャンと音を立ててフォークが皿の上に落ちた。
「なぜだ」
そう呟《つぶや》いて、エル・ファラーは椅子《いす》から崩れ落ちた。
瞳《ひとみ》に死の色が漂っていた。
「だから言っただろう」
モハメッド・ハッジは床にたおれて呻《うめ》いているかつての仲間を見下ろし、辛《つら》そうに呟いた。
「あんな日本人のパスポートなんて、すぐに捨ててしまえばよかったんだ」
「そういうわけで、今回、カサブランカでの殺人をはじめとする一連の殺人事件の解決に功績のあった三人を表彰することになった」
一カ月後の全体会議で、捜査一課長が集まった課員たちに告げていた。
「まず財津大三郎警部」
「はい!」
とドラ声を張り上げて財津が立ち上がった。
課員の視線が集中しただけでもう赤くなっている。
「財津警部は一課に異動早々、この難事件の捜査主任として陣頭指揮に立ち、前評判にたがわぬ優れた指導力を発揮し、事件を解決に導いた。直接犯人逮捕ができず、犯人を死に至らしめてしまったことを相当悔やんでいると聞いているが、その生真面目さは大いに見習いたいものである」
(一番悔やんでいるのは、ひろみとの温泉旅行が中止になったことじゃないか)
心の中で思っていたフレッドが、いきなり次に自分の名前を呼ばれて慌てた。
「次にフレデリック・ニューマン巡査。君は一課に異動早々、その秀でた語学力をフルに活かしてカサブランカ警察との連絡を密にとり、海外を舞台にした犯罪の解決に大きな貢献を果たした。将来を期待しうる新戦力である」
フレッドは、どうもありがとうございます、と深々と金髪の頭を下げた。
「そして、烏丸ひろみ巡査」
「はい!」
ひろみは勢いよく立ち上がった。
「よく頑張ったな」
急に一課長が優しい声をかけた。
「去年の春、ウチの課に配属となったときは、正直言ってとんでもない問題児を抱えたものだぞと思ったが」
課員の間から笑いが洩《も》れた。
「今回もジャジャ馬ぶりは変わらなかったようだな」
一課長は一枚の写真を机の上に放り投げた。
スピード違反検挙カメラに捉えられた愛車シルバー号にまたがる烏丸ひろみの図、であった。
「あっ」
ひろみの顔が上気した。
「首都高速4号線下りの代々木ランプ手前にある有名なレーダーの存在を忘れるめでたい人間が課内にいるらしくてな。なんと制限速度を七十五キロオーバーだ」
笑いの渦が広がった。
「あーん、すみませーん」
二日酔いのペナルティを取り戻そうと、代々木深町の張り込み現場へ飛んでいったときのものだ。
「こういう怪《け》しからん奴は徹底的に懲罰委員会にかけようと思ったが……」
一課長は、首をすくめてうなだれているひろみに言った。
「こんなスモークガラスの風防をしていたんじゃ誰が誰だかわからんじゃないか。それに最近目が悪くなったせいか、この写真に写っているナンバープレートの数字もよく読めん」
思わず顔をあげたひろみに、一課長はわざと渋い顔を作って言った。
「まあそういうわけだから、やむをえず今回の暴走バイクのドライバーについては検挙を控えることにした」
「本当にごめんなさい」
ひろみは文字通り身体を二つに折って謝った。
「しかしな……」
また一課長は柔和な表情に戻った。
「本当に今回の件ではひろみはよくやった。とくに黒岩拓三殺人現場における開けっ放し≠フ部屋の謎《なぞ》を解いた鋭い洞察力は賞賛に値する」
「えっ、そんなことまで」
ひろみは左手で口を押さえて財津警部を見た。
「烏丸君、きみの上司は公平な人だぞ。部下の功績はどんな細かいことも部下の功績として、きちんと上に報告をあげてくる」
「いやあ……」
一課長のほめ言葉に、財津はぶ厚い唇をゆるめて頭をかいた。
「警部、ありがとうござ……」
ひろみは口を押さえたまま、大きな瞳《ひとみ》に感激の涙を浮かべた。
「ほーら、こいつはふだんナマ言ってるくせにすぐこうやって涙ぐんじゃうんだから」
と言いながら、財津の瞳《ひとみ》も濡《ぬ》れていた。
パチパチ、と手を叩《たた》く音がした。
フレッドが二人の光景に拍手していた。
会議室に集まった捜査一課員が、初めは少しためらい気味に、やがて割れるような勢いで三人に拍手を送った。
「こういうとき、むこうじゃスタンディング・アプローズとかいうのをやるんだろ、フレッド」
そう言って捜査一課長が拍手をしながら立ち上がった。
課員全員がそれにならって、全員起立して財津、フレッド、ひろみに笑顔の拍手を送った。
「みんな、捜査一課に誕生した名トリオに、もっと盛大な拍手だ」
一課長が声を張り上げた。
拍手の嵐の中、烏丸ひろみは涙に濡れた瞳で仲間たちの笑顔を見つめながら、何度も何度もしおらしいお辞儀をくり返していた。
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自作解説
[#地付き]吉 村 達 也
ずいぶんいまの作品と感じが違う――
本作を読み終えられた感想は、まずそこに行き着くのではないだろうか。
この作品は烏丸《からすま》ひろみシリーズの第一弾だが、現在の私の作品と較べてはもちろん、シリーズ第三弾の『トリック狂殺人事件』などに較べても、かなりトーンが異なっている。
それもそのはずで、これはデビュー作の『Kの悲劇』につづいて発表した、私にとっての長編第二作目である。書き上げたのは『創刊号殺人事件』のほうが先だが、ともあれデビューまもないころの作品で、発表当時は『カサブランカ殺人事件』というタイトルだった。発売が一九八七年の四月である。
その時代性は、本文のあちこちに垣間見《かいまみ》られる。たとえば登場人物が都内に電話をかけるシーンで、電話番号を「四八六の……」とつぶやいている(P139)。都内の電話番号の市内局番の頭に3が付いて四ケタになる前の話である。さらに、主役のひとりの草壁弓子《くさかべゆみこ》がいったんバーの中に入りながら、人に聞かれたくない電話をする用があって、いちいち表に停めたベンツの中に戻って自動車電話を使っている場面(P158)。執筆当時も携帯電話なるものはあったのだが、長時間使うためのものは、まるで軍隊の無線機のような大きなバッテリーを肩から提げて、その上に受話器が乗っている形だった。それならば、自動車電話のほうがずっとスマート、というわけで、こういう場面設定になった。
電話というハードウエアにみる時代の違いは、そのすぐ先の場面(P161)において、もっと明確に出ている。歌手の柴垣翔《しばがきしよう》がテレビ局のスタジオから外部へ電話をかけるとしたら……と、草壁弓子が考える場面で、『誰かに十円玉を借りなければかけられなかった』という表現がある。そして『彼が十円玉を借りるとしたら、マネージャーの山添《やまぞえ》に決まっているわ』と。
いまの感覚で読んだら、笑ってしまうかもしれない。いまどきのタレントやマネージャーで携帯電話を持たない者などいるはずもないし、公衆電話を使うにしても、テレホンカードではなく十円玉を頼りにするなんて……。しかし、これまた執筆当時は、実際に芸能界のマネージャーは連絡用にいつも大量の十円玉をクラッチバッグに入れているのが常識だった。テレホンカードの使える公衆電話は、そうあちこちに設置されているわけではなかったのだ。私が毎日のように出入りしていたフジテレビの局内ですらそうだった。
もっと端的に時代を表わしているのは、なんといっても『ソ連』のKGBが出てくることだろう。さらに、成田からパリへの直行便は金曜日には出ていないからアンカレッジ経由で云々《うんぬん》という表現(P270)に至っては、若い読者は、作者が何かの勘違いをしているのではないかと思われるかもしれない。北回りの欧州路線はアンカレッジ経由という常識も、いまは昔、である。この最新版の自作解説を書いている時点からわずか十年前のことなのに、さまざまなことが変わってしまった。
しかし、本作を読まれておそらく最初に感じられたはずの『違和感』というものは、時代背景の違いによるものではない。まず第一に私の立場が、プロの作家である現在とは大きく異なっていた。
執筆当時、私は出版社に勤めるサラリーマンで、会社の許可を得て(厳密にいえば、当時フジサンケイグループ議長だった鹿内春雄氏の承諾を得て)作家活動をしていた。いわば『二足のワラジ』状態である。いや、二足のワラジというのは言葉のあやで、実際にはサラリーマン以外の何者でもなく、小説を書いて世に出してはいたものの、そういう立場は『作家』と呼べるものではなかったように思う。
専業作家になってから初めてわかったが、会社勤めのかたわらに原稿を書いている状況というのは、やはり作家活動と呼ぶにはあまりにも甘すぎる。サラリーマンが小説も書いていたというだけであって、その時期の自分が作家という存在であったとはとうてい思えない。この時期がおよそ四年あった。処女作『Kの悲劇』を一九八六年二月に出してから、一九八九年末に会社を辞めるまでである。
この間に、処女作以下『カサブランカ殺人事件』『創刊号殺人事件』『南太平洋殺人事件』『キラー通り殺人事件』そして『エンゼル急行を追え』と、合計六冊を上梓《じようし》しているが、当時の私にとって最大の難問は、原稿を依頼にこられる出版社のみなさんが、異口同音に『Kの悲劇』のようなものを、とおっしゃり、そのリクエストに応《こた》えなければならないことだった。
『Kの悲劇』を書いたいきさつは、同書のあとがきに詳しく述べたが、ケネディ暗殺をモチーフにしたこの処女作は、私の作品群の中で特別な位置にある。暗殺犯とみなされたリー・ハーベイ・オズワルドが日本の厚木基地にレーダー操作手として駐留していたという事実を追っていくうちに、私のあまりにも身近なところに、それと絡まっていく横糸タテ糸が張り巡らされていることが判明し、関係者にじかに取材できたという偶然。そして、それを取材していくうちにストーリーが自然と構築されていったという幸運――そういった奇跡的な巡り合わせがあったからこそ、私としては異色の国際謀略小説が書けたのであって、毎回毎回この手のパターンに恵まれるはずもなく、また国際謀略というのは、私が積極的に書きたいジャンルでもない。
けれども原稿依頼にこられる方は、当然のことながらこの『Kの悲劇』以外に私の作品をごぞんじない。したがって、期待されるところは『Kの悲劇パート2』であるのは致し方ない。一方で私は、このパターンは処女作かぎりだと思っている。けれども≪Kの悲劇のようなもの≫という注文をまったく無視することもできない。そういった流れで生まれたのが本作で、『トリック狂殺人事件』以降の烏丸ひろみシリーズに先に馴染《なじ》んでおられる読者には、まさか烏丸ひろみデビュー作が、西サハラ問題などを絡ませKGBまで出てくる内容だとは予想もできなかったろう。しかし、それもすべては≪Kの悲劇のようなもの≫というリクエストに引っぱられたためであることが、これで理解いただけたと思う。
こうした作風の違いが、違和感の第二要因である。
さらにもう一つつけ加えるならば、この時期は手書きで、ワープロを使っていなかった。つまり、書く速度が現在よりも数段遅かった。そういった道具の問題によるリズム感は、私の場合、作品のタッチに大きく影響したことは間違いない。
プロの専業作家ではなかったこと、処女作の余韻を引きずらざるをえなかったこと、そして手書きであったこと――この三つの要素が、いまの私の作品と大きな違いを感じさせる主要な原因となっている。
さて、当初『カサブランカ殺人事件』と題して発表された本作は、私がプロの作家になって一年後の一九九一年の五月に角川文庫に収録されることになった。しかし処女作のオーラとは強力なもので、その時点でもなお、吉村達也といえば『Kの悲劇』というイメージを、出版社サイドも私自身も引きずっていた。だからオリジナル版のタッチにまったく違和感を覚えておらず、文庫化にあたって『逆密室殺人事件』とタイトルこそ変えたものの、内容の加筆訂正はほとんどやらなかった。
しかし一九九二年ごろ――ちょうど『花咲村の惨劇』以下の朝比奈耕作《あさひなこうさく》の五部作と、里見《さとみ》捜査官の長編『時の森殺人事件』全六巻シリーズを書き出したころから、明らかに自分の作風が変わり、初期の作品群の雰囲気が「どうもおかしいな」と気になってきはじめた。作者がそう感じるだけでなく、読者のみなさんもやはり初期とそれ以降の作品の雰囲気のブレに戸惑いを感じられるに違いない。それは吉村ブランドの作品群ぜんたいにとってよくないことだと判断し、すでに文庫化されていた初期作品のうち、この『逆密室殺人事件』と烏丸ひろみシリーズ第二弾の『南太平洋殺人事件』、それから『創刊号殺人事件』の三冊を封印することに決めた。すなわち、市場での流通をストップしてもらうよう角川書店の方にお願いしたのである。
同じような違和感は、プロになって一、二年以内に書いた他のシリーズに対しても覚えるようになった。たとえば朝比奈耕作シリーズの最初の三作(『私が私を殺す理由』『そして殺人がはじまった』『雪と魔術と殺人と』)がそうである。そこで、こちらについては徳間ノベルス版から徳間文庫に移行するさいに、題名だけでなく内容も(ある作品については犯人までも!)変えてしまうという大幅リニューアルを敢行して、『「伊豆《いず》の瞳《ひとみ》」殺人事件』『「戸隠《とがくし》の愛」殺人事件』『「北斗の星」殺人事件』という新ラインナップが誕生した。
また、カッパノベルスから出した氷室想介《ひむろそうすけ》シリーズの最初の二冊『スターダスト殺人物語』『五重殺+5』も、光文社文庫に収めるさいにこれまたかなり手を入れて『旧軽井沢R邸の殺人』『シンデレラの五重殺』としてリメイクした。
だが――ちょっと内輪の事情になってしまうが――『逆密室殺人事件』のようにすでに文庫になっているものの内容を全面改訂し、ふたたび同じ出版社から同じ文庫で出すことは、いろいろな事情があって難しい。それで前記の三冊が日の目を見る機会は永遠にやってこないかと思っていたのだが、著作も百冊を突破し、読者のみなさんにも私の現在の作風がすっかり定着した感もあり、このあたりでガラリと雰囲気の異なる初期の作品をみなさんに読んでいただくのもいいかなと判断し、全面リメイクでないマイナーチェンジをほどこして、ふたたび本屋さんの店先にお目見えすることになった。
冒頭で述べたように、なにぶん十年前の作品なので、登場人物の電話の使い方ひとつにしてもずいぶんいまとは違うが、そういった部分にはあえて手を加えなかった。また、ぜんたいのページ数を変えられないという物理的な制約もあるので、朝比奈耕作や氷室想介の初期作品の文庫化のさいにやったような完全リニューアルもしていない。今回の封印解除にさいしての修正は最小限にとどめてある。つまり、これが初期の私の作品のタッチだったというものを、ほぼナマの形でお目にかけることになる。
これはなかなか勇気のいる行為だったが、最近になって角川ミニ文庫で≪香りの出る表紙≫という趣向付きで烏丸ひろみシリーズを復活させたこともあって、彼女のデビュー作品を原型に近い形で読んでいただくのもいいかなと思って割り切った次第である。
本作についていえば、いまの私なら西サハラの工作員やKGB、それに国会議員|陣馬市蔵《じんばいちぞう》といったキャスティングは一切登場させないだろう。なによりも、最初に殺される沖田正雄《おきたまさお》の生きているときの姿を、もっときちんと書き込むに違いない。これが初期と現在の私のやり方の大きな違いだ。
デビュー直後は、物語の開始早々に殺人事件が起こり、トリッキーな状況で人が死に、容疑者が大勢いて、その中からさあ誰が犯人だ、あててみよ、というパターンを踏んでいた。それに出版社によっては、プロローグで必ず人が殺されること、それも不可思議性の強い殺され方であること、殺人は一つだけではダメで、少なくとも二人以上が殺される連続殺人であること――といったようなマニュアル的要求を突きつけてこられる編集者の方もおられた。「つづいて第二、第三の殺人が……」というパターンである。
新人としては、言うなりになるしかなかったが、もちろん出版社側の気持ちもよくわかる。商業ベースのヒット作づくりに実績のない新人作家を乗せるときは、先達の成功例を引き合いに出して、そのデータにのっとった「これならきっと読者にウケる」という作品構成を指導する方式が確実のようにみえるからだ。
だが、このパターン化された≪冒頭に謎《なぞ》めいた殺人≫型マニュアルの致命的な欠点は、被害者の人間がじゅうぶんに描けない、というところにある。物語の最重要ポイントである殺人事件の犠牲となる人物が、場合によってはひとことのセリフも与えられないまま、舞台から去っていくのである。これでは、肝心の殺人の動機に説得力を与えることが非常にやっかいになってくる。
最初のころは、ミステリーを書くうえでいちばん難しいのはトリック作りだと思っていた。だが、現在では殺害の動機に説得力を持たせることがいちばん大変だと感じている。
ひとくちに≪殺害の動機≫というが、じつは≪殺す動機≫と≪殺される動機≫の両側面がある。犯人あてゲームの場合、被害者は最初から明確にしてかまわないわけだから、この被害者の背景をきっちり描くことが、事件の不可思議性とか意外性に関する謎解きに説得力を与えることになるはずだが、小説の冒頭で人が死ぬと、殺人事件の背景にあるものを≪殺される側≫から描くことが手薄になる。
では、≪殺す側≫から描くことになるのかといえば、それを限定的にやっては最初から犯人がミエミエになってしまうので、≪なんとなく怪しそうな数人の側≫から事件を描くという、あいまいな構図になってしまう。しかし、容疑者の中にあまりに事情を知りすぎた解説役を求めるわけにもいかないので、結局のところ、被害者の視点でも加害者の視点でもなく、さらには容疑者の視点からでもなく、探偵とか警察といった捜査側の視点から物語が進行していくことになりがちだ。
犯人あてがミステリーの醍醐味《だいごみ》である以上は、それは予《あらかじ》め定められた宿命のようなものであるには違いない。けれども、ある時期から私は、容疑者といったあいまいな視点や捜査側から事件を描くパターンばかりではつまらないと感じてきた。それで、犯人が最初からバレてもかまわない、という割り切りのもとに、加害者と被害者のドラマを描くように変わってきた。その第一弾が、朝比奈耕作の≪惨劇の村・五部作≫である。
また、人間ドラマという要素抜きの、犯人あてゲーム感覚での殺人事件を書くことも私は大好きだが、そのさいでも、やはり冒頭に殺人が起きるというマニュアル手順を踏んでは、さあ誰が殺されるんだろう、という恐怖にみちた期待というものが演出できなくなってしまう。それで、思い切って作品の三分の一くらいにきて、ようやく最初の事件が起きるという、当時の私にしては大冒険の構成をとったのが、『トリック狂殺人事件』である。いまでは、作品の半分をすぎてもまだ殺人が起きないというパターンはざらにある。
このように変容していった私の作風の、しかし原点は、本作や『南太平洋殺人事件』など一連の初期作品にあることは間違いない。そういった事情をご理解してくださったうえで、これらの作品に目を通していただければ幸いである。
そうそう、それから忘れてはならないことがある。今回は内容的にはマイナーチェンジしかしていないと申し上げたが、大幅モデルチェンジをほどこした部分がある。カバーだ。こんどの再発売に際しては、一九九三年後半以来、各社から出版される私の文庫本の八割以上のカバーを手がけてくださっている亀海昌次氏に新たにデザインをお願いした。作風チェンジ後の私のイメージは、亀海氏のビジュアル・センスに負うところも大きい。その意味で、これまでとは雰囲気を一新したニュー『逆密室殺人事件』をみなさんにお届けできたのではないかと思っている。
[#地付き]二〇〇〇年七月 田園調布の仕事場にて
本書は、'91年5月刊の角川文庫に加筆したものです。
角川文庫『新装版 逆密室殺人事件』平成3年5月10日初版発行
平成12年7月25日改訂初版発行