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踊る少女
吉村達也
目 次
モナリザの微笑
美和さん
隣の江畑氏
踊る少女
ぜったいナイショだよ
親 戚
11037日目の夫婦
[#改ページ]
モナリザの微笑
1
親友の倉田から警告を受けるまで、ぼくは森直美との結婚に何の疑問も抱いていなかった。
直美は、ぼくが勤める会社に三年前、短大卒の新入社員として入ってきた。そして、事務職として隣の部署に配属された。倉田のいる第二営業部だ。
形としては、よくある社内恋愛ということになるが、通常のそれとはいささか雰囲気が異なっていた。
ぼくが直美とつきあっていると知った会社の連中は、びっくりはするけれども決して嫉妬《しつと》はしなかった。うらやましがるどころか、笑うのだ。ごくろうさんだねえ、とハッキリ言葉に出して言う人間もいる。おまえも物好きだな、という表情を込めて……。
たしかに森直美は変わっていた。そこをぼくは魅力的だと感じ、他の人間は変人だと思う。その評価の違いが、ぼくへの妙な同情となって表われているようだ。
直美は決して美人ではないし、可愛いというタイプとも違う。彼女の魅力をなんと表現したらいいだろう?
元気――そう、この言葉がピッタリだ。
直美は、いつも全身から力いっぱいエネルギーを発散している、元気そのものといった女の子なのだ。
彼女はいま二十三歳だが、この歳まで小学生みたいな無邪気さを失わずに育ってきたように思える。
もちろん、ぼくが直美より五つ年上だという点も、彼女を子供っぽく感じさせている一要因かもしれない。
しかし、二十三歳の女性の平均像からみれば、やはり彼女は子供だった。
直美の性格は、目もとによく出ている。大きくてクリクリした瞳《ひとみ》は、いつもすばしこく動く。そして感情の起伏の激しさも、その目にすぐに表わされる。
直美はよく笑うし、よく泣くし、よく怒る。そうそう、よく驚くし、よく喜ぶという点も忘れてはならない。
たとえば彼女に何かをプレゼントしたとしよう。すると直美は、包みを開けるなり、ただでさえ大きな目をまんまるに見開いて、感嘆符付きの『うれしい!』を瞳いっぱいに表現する。
そして、何秒後かには、その大きな瞳から感激の涙がわきあがってくる。十代の女の子みたいな言葉をぼくが使うのもヘンだが、直美が感動で涙ぐむさまは、まさに『うるうる』という表現がぴったりだった。そしてそのあと、ぼくに飛びついてキスの嵐《あらし》を浴びせてくる、という展開なのだ。
それも、たとえば高価な指輪やバッグをプレゼントしたときばかりでなく、キーホルダーなどの小物を買ってやったときですら、感動の嵐、なのである。
こちらとしても、なんて素直で率直な子なんだろうと、あきれたり感動したりだ。男なら誰でもそうだろうが、女性への贈り物というのは、その喜ぶところを見たいからあげるようなものなのだ。
その点からいえば、直美はほんとうにプレゼントのしがいがある子だった。
他の連中は、そんな直美の態度を「出来の悪いミュージカルでも見ているようだ」という。なるほど彼女の言動は、演技過剰の芝居だとからかわれても仕方ないところがある。
だけどぼくは、ここまでストレートに自分の心を表現できる素晴らしさのほうを強調したい。直美という彼女の名前は、『素直さの美』と読み替えてもいいくらいだ。
二十八になるまでの間、ぼくはいろいろな女性とつきあってきたが、生まれつき鈍感なためか、複雑な女心を理解できずにフラれてしまう失敗ばかり重ねてきた。ああ、彼女は内心でこんなふうに思っていたのか、と後になって気づく不手際があまりにも多すぎた。
そこへいくと直美は、これ以上ないほど単純明快に心の動きがわかってしまう。こんなタイプの女の子と付き合うのは、まったくはじめての経験だ。
直美の喜怒哀楽の激しさをみていたら、彼女が『裏表のある人間』とは正反対の位置づけにあることがよくわかる。いままでタテマエとホンネを巧妙に使い分ける女にふり回されつづけてきたぼくは、直美とつきあってはじめて、安心感というものを恋人に対しておぼえた。
「おまえみたいに裏表のなさすぎる人間も珍しいよな」
ぼくは、ある種の感動を込めて彼女にそう言ったりもした。
なにしろ直美は、感情を心のうちに隠しておくことがまったくできない。すぐにそれを外に向かって爆発させてしまうのだ。
たぶん彼女の頭の中には、感情を一時的にためておくコンデンサーみたいな回路が欠落しているに違いない――ぼくとしては、そう解釈するしかなかった。
幼い子供は、こうした感情蓄積装置を持っていない。だから、笑う・泣く・怒る・喜ぶといった行為に、遠慮やためらいはない。
直美もそれと同じだった。おかしければ声を立てて笑うし、悲しいと大声で泣きじゃくる。気に入らないことがあるとガマンなどせずにわめきちらすし、うれしいことがあると全身でその喜びを表わす。
だから直美は子供も同然だ、という理屈が成り立つ。
そんな直美を、うるさい女だと敬遠する連中の言い分もわからないではない。けれどもぼくは、彼女といっしょにいるとホッとするのだ。それに楽しい。なぜなら直美は、物事の面白さを何十倍にも増幅する能力をもっているからだった。
それは彼女自身の感じ方だけでなく、人にその感動を伝えるさいにも言えることだった。
たとえば会社の夏休みに友だちとハワイへ行ってきたという、いまでは珍しくもなんともない話が、直美の口にかかると、波瀾万丈《はらんばんじよう》の大冒険物語になる。
彼女の語り口はじつに面白い。「ねえ、きいて、きいて」と直美が腕をつかんで引っぱると、ぼくは何をおいても彼女の話に耳を傾けることにしている。
どちらかというと無口な部類に入るぼくは、自分と同じように口数の少ない女の子は苦手で、かえって直美のように一方的にしゃべってくれるほうが気が楽なのだ。
そんなわけで、いつしかぼくは、恋人という関係を越え、直美を結婚相手として意識するようになった。
ぼくが直美とつきあっているのを笑った連中は、その交際が結婚にまで至ると知って、呆《あき》れたり驚いたりだ。
どうやら、元気印で感情過多の直美を妻に迎えるのが、よほど奇特な行為にみえるらしい。
ぼくにとって直属の上司にあたり、仲人《なこうど》を頼むならこの人しかいないと思っている谷口部長でさえ、「石井もフラれることには慣れているんだから、苦い経験をもっと積んで、どうせなら人に羨《うらや》ましがられる結婚をしたらどうだ」などと忠告してくる始末だ。
直美と同じ部署にいる倉田は、谷口部長よりもっと深刻な表情で、「ああいう子をカミさんにしたら、気の休まるヒマがないぞ」と警告してきたが、ぼくにとっては直美の『けたたましさ』が安らぎを与えてくれるのだ。
不思議といえば不思議かもしれないが、夫婦になるカップルとは、そんなものではないだろうか。たがいの相性のよさなんて、当人どうしでないと決してわからないものなのだ。
だから、周りからどんなに茶化《ちやか》されても、ぼくとしては、どうぞご勝手にという気分だった。
そして、挙式の日取りも式場も決め、予定どおり仲人を谷口部長夫妻にお願いして、結婚式まであと二週間たらずというときになって、倉田が妙な話を持ち出してきた。
2
「なあ、石井」
それは会社の帰りに、一緒にゴルフ練習場へ行ったときのことだった。
たがいに百五十球ずつ打って適度に汗をかいたところで、倉田がぼくのそばへやってきて、冷たい缶入りのコーラをすすめながら言った。
「ちょっとそこに座らないか」
7番アイアンのクラブで彼が指したのは、打席の後方に並べてあるベンチのひとつだった。
いつもは会社帰りのサラリーマンやOLで混雑している練習場も、その晩はめずらしく空いていたから、他の客を気にせずゆっくりしたペースで打てる。
「きょうはダメだな。打つ球がぜんぶスライスしちゃって」
ベンチに腰を下ろしたぼくが、コーラを一口飲んだあとそう言うと、倉田はまったく脈絡のない言葉をつぶやいた。
「スプーンが曲がるっていうんだよな」
「え?」
ぼくはおもわず倉田の手にしているクラブを見た。
だが、彼が握っているのは7番アイアンで、スプーン――すなわち3番のウッドではない。
念のためにぼくは聞き返した。
「スプーンで打ったときに、まっすぐ飛ばないのか」
「そうじゃない。スプーンが曲がるっていうんだよ」
「……?」
「スプーンだよ、スプーン。食べるときに使うスプーンだ」
倉田は、匙《さじ》を口にもっていくしぐさをした。
「そいつが曲がるんだ。いや、曲げることができる、っていうんだ」
「それ、もしかして超能力の話?」
「ああ」
「あははは」
ぼくは、興味がないよ、といった笑い声をあげた。
「悪いけど倉田、ぼくはその手のたぐいの超常現象はいっさい信じないんだ。あんなのはぜんぶインチキに決まっている。それに二十年前ならともかく、いまどきスプーン曲げなんて流行《はや》らないぜ」
「だけど曲がっちゃったんだよな」
「おまえが曲げたのか」
「いや」
倉田は、なんとなく暗い表情で首を左右に振った。
「じゃ、誰だよ」
「石井のよく知っている人間だよ」
「会社のヤツか」
「そうだ。ウチの部の人間だ」
その答えに、ぼくはまた鼻で笑った。
「本気でそんな時代遅れの冗談を言うやつがいたら軽蔑《けいべつ》するね。スプーン曲げだなんて」
「それが直美でもか」
「え?」
こんどは、ぼくはびっくりして聞き返した。
「いまなんて言った、倉田」
「おまえの婚約者の、元気印の森直美。彼女がスプーンを曲げたんだよ」
ぼくは二、三秒沈黙してから、「へー」と間のヌケた声を出した。
「ほんとかよ、直美にそんなパワーがあったなんて、知らなかったな」
「ほかの人間が曲げたら信じなくて、直美なら無条件で信じるのか」
「ああ、そうだよ」
ぼくは当然といった顔でうなずいた。
「直美みたいに嘘《うそ》のつけない子はいないからね。あの子が曲がったというなら、ほんとうにスプーンは曲がってしまったんだろう」
直美の率直すぎるくらい率直な性格に惚《ほ》れまくっているぼくとしては、半分ノロケのようなつもりでそう言った。
だが――
なぜか倉田の表情は暗いままだ。それが気になって、ぼくはもう少し詳しい話を聞こうとした。
「で、直美がいつどこでスプーン曲げをやったんだ」
「昨日だよ」
倉田は答えた。
「おまえと結婚するので、彼女は来週いっぱいで退社するだろう。だから、仲のいい同期の女子社員四、五人で独身最後のドンチャン騒ぎをやろうと、ゆうべ祐子とか慶子なんかに誘われてカラオケバーへ繰り出した」
「ああ、その話なら本人から直接聞いてるけど」
「でも、スプーン曲げの話は知らなかったんだろ」
「うん、何も聞いていない」
「じつは、そのカラオケバーに偶然おれが居合わせたんだ」
倉田はつづけた。
「こっちは男どうしで飲んでいると、突然、女の子たちのいる一角でキャーッというにぎやかな声があがった。どうしたのかと思ってたずねると、慶子が興奮してこう言うんだよ。『倉田さん、すごいのよ。直美がね、スプーンを曲げちゃったの』って」
「倉田は現物を見たのか。そのスプーンを」
「もちろん見たよ。店のティースプーンが、こんなふうにグンニャリと曲がっていた」
倉田は、指先でUの字を描いてみせた。
「直美は、例によってまんまるな目をして、おれに向かって言ったよ。『倉田さん、どうしよう私……自分が超能力者なんて知らなかった』ってね」
「結婚相手のおれだって知らなかったよ」
「そのあとしばらくは、直美は一座のスターだった。話題の中心人物って感じで、立て板に水のごとく、いろいろな不思議体験を話しはじめる。UFOを目撃した話、予知夢を見た話、幽霊に出会った話、心霊写真を撮った話」
「おい……」
ぼくはびっくりしてたずねた。
「ほんとか、それ」
「ほんとうだよ。疑うなら、ほかの女の子にも確かめてみたらいい」
ぼくは、ちょっとイヤな予感がした。
直美から、そのようなオカルト体験談を聞かされたことは、いままで一度もなかったからだ。
「ひとしきり直美の話で盛り上がったあと、またカラオケがはじまって、みんなが順番に歌い出した。そして……そうだな、三、四人が歌い終わったころ、またしても直美が大声で叫んだんだ。きゃー、たいへん。またスプーンが曲がっちゃった!」
「………」
「直美がほんとうに指でこするだけでスプーンを曲げたのなら、おれも彼女の超能力を認めてもいい。だけどな、おれは見ていたんだよ、石井」
「何を」
「みんなが歌っている人間に気をとられているスキに、直美が背中の後ろへこっそりスプーンをもっていって、椅子《いす》の角で力まかせにそれを折り曲げるところをね」
「ようするに、みんなを冗談で驚かせたかったんだろう」
「いや」
倉田はゆっくりと首を横に振った。
「おれだって、たぶんそのうちにネタばらしをするのだろうと、そばで黙って見ていた。だが、直美は最後の最後まで、自分に超能力が授かったのだと言い張った。そして、あまりにもそれがくどいので、経理部の祐子が『バカみたい。どうせインチキなんでしょ、それ』と言ったんだ。もちろん、悪気なんかナシにだよ。そしたら、直美はどんな反応を示したと思う?」
「さあ」
「泣き出したんだ」
「泣いた?」
「あの大きな目を見開いて祐子を見つめ、そのうちに唇がわなわなと震えて、涙が洪水みたいにあふれ出してきた。そして、そばにあった自分の水割りを祐子の頭からぶっかけた」
「なんだって」
「そのあとヒステリックに意味不明の言葉を叫んで、泣きながら店を飛び出していったんだ。一同あぜん、って状態だよ」
「………」
不安の黒い風が、ぼくの頭から背筋に向かってサーッと吹き抜けていった。
ゆうべぼくのマンションに電話をかけてきた直美は、同期の女の子たちが送別会をやってくれて、すごく楽しかったとうれしそうに話してくれていたのに……。
「石井にとっては大きなお世話かもしれないけれど」
マットを敷き詰めた練習場の床をクラブでポンポンと軽く叩《たた》きながら、倉田は言った。
「直美と結婚するのって、まずいんじゃないか」
「どういう意味だよ、それ」
「ハッキリ言わせてもらうよ」
倉田は顔を上げ、ぼくをまっすぐ見つめた。
「おまえの耳にはなるべく入れないようにしてきたんだけど、直美に関しては、これまでもいろんな問題があったんだ。遊びのときだけでなく、仕事に関してもね」
「問題って」
「直美が大嘘つきだという事実だよ。いや、むしろ『大ボラ吹き』といったほうがいいかもしれない」
3
「恋をすると、相手の欠点が見えなくなる。それは仕方がないだろう」
倉田は、ぼくから目を離さずにつづけた。
「けれども、もしも石井が直美と結婚するつもりならば、その欠点をきちんと認識しておかないとまずい。おまえは部が違うから知らないかもしれないが、第二営業部では、森直美のホラ吹きは有名なんだぞ」
「え……」
「周りの女の子は、それを承知で話を合わせているところがある。スプーン曲げのときなんかもな。心の中では、ああ、また直美の病気がはじまった、と思いながら、その場を白けさせるのも気まずいからキャーキャー盛り上がっている。ところが当の直美は、そうした気遣いを知らずに、ホラを吹きまくってひとりでノッている、という図だよ」
「直美が大ボラ吹きだって?」
「そうだ。嘘というのは、どこかに論理性を含んでいるものだが、ホラは合理性や論理性のない嘘だ。だから罪がないともいえるが、あまりにも脈絡のないデタラメを連発する頭脳構造は、根本的に疑ってかかる必要があるかもしれない」
「おい!」
「怒る前に、具体的な例を聞いてくれ」
倉田は、片手でぼくを制して言った。
「たとえば、仕事先に書類を届けてほしいと直美におつかいを頼むだろう。すると、すぐ近くの場所なのに一時間も二時間も帰ってこないことがあるんだよ。そのうちに仕事先のほうから問い合わせの電話がかかってくる。森さんがまだおみえじゃないんですけど、ってね。これ、一度や二度の話じゃないんだぜ」
「何をしているんだ、直美は」
「外出できたのを幸いに、思う存分息抜きをしてるようだ。映画を見たり、ショッピングをしたり」
「うそだろ」
「ちゃんと目撃者もいる」
「………」
倉田の言葉にぼくは黙った。
まったく初耳だった。
隣どうしの部とはいえ、ぼくは外回りが主だから、直美のふだんの仕事ぶりは、じかに見る機会があまりない。だから、彼女がおつかいに出たきり帰ってこなかったという騒ぎは、まるで知らなかった。
「で、帰ってきた直美がどんな言い訳をすると思う?」
倉田がぼくに返事を求めてきた。
「車が混んでいた……とか?」
「それだったら、まだまともな弁解だよな。でも、彼女の場合は違うんだ」
「たとえば?」
「電車のホームで飛び込みがあったとか、乗っていたタクシーが接触事故を起こして警察を呼ぶ騒ぎになったとか、とにかく突拍子もない理由を並べたてるんだ。もちろん、ぜんぶ嘘《うそ》だ。いや、ホラだ」
「まさか」
「疑うのなら、他の連中に確かめてみろよ」
「だけど、そんな言い訳が部長に通用するはずもないだろう」
「通用させちゃうんだよ、直美の場合は」
「どうやって」
「怒りを爆発させるんだ。あの鬼の桑原部長に向かって、『部長は部下の言い分を信じられないんですか。私って、会社にとって何なんですか!』というふうにね。周りはシーン、だよ。どういう雰囲気の静けさか、想像できるだろ」
「……ああ」
ぼくの耳にはゴルフボールを打つ音が絶え間なく聞こえているはずだが、それが雑音としてすら認識されない。直美の叫び声に静まり返った第二営業部の雰囲気が、そのままぼくの頭の中で再生されている。
「いいか、石井」
倉田は、眉《まゆ》の間に深刻な縦皺《たてじわ》を刻んで言った。
「たしかに森直美は天真爛漫《てんしんらんまん》な子だ。どちらかというとネクラなタイプのおまえが、彼女の自由奔放な魅力にまいってしまうのも理解できる。だけどな、彼女はメチャクチャだぞ」
彼女はメチャクチャだぞ――その表現は、あえてぼくが目をそむけようとしている直美の本質を、ズバリ衝《つ》いている気がした。
でも、認めたくない。倉田の指摘が当たっているとは認めたくない。
あたりまえだろう、結婚式はもう目の前に迫っているのだ。招待状だって発送済みだし、全員から出欠の返事ももらっている。もはや結婚相手の人格に疑問など持っている余裕はないのだ。
……けれども、心の中では危険信号が点滅しはじめている。
「よーく考えてみろ、石井」
倉田は、ぼくの顔をのぞき込むようにして言った。
「直美のハイな気分は、あまりにも不自然だよ。人間って、あそこまで感情をむきだしにできる生き物か?」
「それじゃまるで、直美が人間じゃないみたいな言い方だな」
さすがにぼくはムッとした。が、倉田は容赦なくつづけた。
「喜怒哀楽が激しいのにも限度がある。そう思わないのか」
思っている。だからこそ、倉田の言葉がぼくを苛立《いらだ》たせる。
「恋人のおまえに対しては、直美も喜怒哀楽のうちの『怒』の部分は見せないかもしれない。でも、怒ったときの彼女の顔つきのすさまじさは寒気がするくらいだぞ」
「ぼくの前で怒ることもあるさ」
「あったとしても、それはすねている程度だろう。本気で怒った直美を、石井はまだ見ていないはずだ。見てしまったら、結婚に二の足を踏むだろうからな」
「おい、倉田」
いささか腹に据えかねて、ぼくは言った。
「おまえ、他人の結婚を妨害したいのか」
「そんなつもりで話をしているんじゃない。ただ……」
「倉田こそなんだよ。一度結婚に失敗している身で、他人にえらそうなアドバイスができた義理か」
ぼくと同期の倉田は、二十八歳にしてすでに離婚経験者である。相手は一流自動車メーカーのショウルームでコンパニオンを務める、すこぶるつきの美人だった。ぼくの場合と違って、それこそ人もうらやむ結婚だったのだ。ところが、詳しい理由は彼も明らかにしないが、わずか三カ月で破局に至っている。
それはほんの半年前のことだ。そんな離婚ホヤホヤの人間が、わかったような口を利《き》くのが、滑稽《こつけい》というよりも腹立たしかった。
「そんなに直美の悪口を言うなら、ぼくたちの結婚披露宴には出席してもらわなくて結構だ」
「石井、誤解するなよ。おれはなにも直美の悪口を言っているわけじゃないんだ」
「言っているじゃないか」
「言葉の選び方がよくなかったら謝る。けれども、おれは確信があって忠告しているんだ。このまま結婚を強行したら、おまえは不幸になる」
ざわっ、と首筋のあたりに鳥肌が立った。
不幸になる、不幸になる、不幸になる……と、倉田の言葉尻《ことばじり》が頭の中で勝手にエコーする。
なぜ、そんな感覚に襲われたのか自分でもわからない。だが、さっきから波状攻撃のように不安感が、いや、恐怖感が身体を駆け巡るのだ。
その恐怖の根源は……そう、もしかしたら……。
「倉田」
ぼくは、おそるおそるたずねた。
「おまえ、ひょっとして、直美の別の顔を知っているのか」
4
ゴルフ練習場でのやりとりが心の片隅に引っかかったまま、ぼくは直美と予定どおり式を挙げた。
倉田に対して、いったんはこちらも感情的になり、結婚式にこなくてもいいなどと言ってしまったが、そこは親友である。挙式当日は彼も友人代表として祝辞を述べてくれたし、ぼくもそれがとてもうれしかった。
新婚旅行は直美の希望で、七泊八日パリの旅に出た。
その間、直美はいつものように元気で、いつものようにダイナミックに感情を表わしたが、そうした彼女の性格は、二人の新しい門出にとって、プラスの効果だけしかもたらさないように思えた。
おまえは直美の別の顔を知っているのか、という問いかけに、倉田は口をつぐんだまま何も答えなかったが、彼のもったいぶった警告は、けっきょく完全に杞憂《きゆう》にすぎなかった――少なくとも、新婚旅行の中盤までは、ぼくはそう思っていた。
直美との結婚を考え直すべきだという倉田の主張は、ようするに彼の嫉妬心《しつとしん》から出たものに違いない、とぼくは勝手に結論づけた。なんだかんだ言っても、半年前に離婚した男にとって、親友の結婚はうらやましいに決まっている。
優越感といってもいいそんな気持ちから、ぼくは直美に、倉田から大きなお世話を受けた話を洩《も》らした。たしかあれは旅行の五日目の夜、オペラ座の隣にある『キャフェ・ドゥ・ラ・ペ』でお茶を飲んでいるときだった。
「倉田のやつったら、まるで怪談話でもするような声でこう言うんだ。このまま結婚を強行したら、おまえは不幸になる、ってね」
直美に向かって、ぼくは笑いながら言った。
「やっぱりアレだよなあ。半年前に離婚した人間にとっては、おれたちの仲の良さは刺激が強すぎたのかもしれないな。直美の友だちで誰か適当な子がいたら紹介してやれよ、倉田に。あいつもこのまま独身でいる気はなさそうだし」
当事者どうしでノロケ話をするような、新婚カップルならではの、たわいもない会話である。
ぼくはそう思って、その言葉を口にした。このあとひとしきり倉田を肴《さかな》にして、笑い話が展開すると思っていた。
が――
直美の表情が変わった。
カチンと音を立ててコーヒーカップを受け皿に置くと、直美はいきなり立ち上がった。
「どうしたんだよ、急に」
驚いて見上げるぼくに、直美は目尻をキッと上げて答えた。
「不愉快」
「なんで? いまの話が?」
「そう」
「どうして不愉快なんだよ」
「不愉快ったら不愉快なの」
「そりゃ倉田の言い方は失礼だけれど、本気で怒るようなものでは……」
「帰る、私」
直美の物腰があまりにも険《けわ》しいので、カフェにいたフランス人たちがいっせいに注目する。
「ちょっと待てよ、直美」
周りの目を意識しながら、ぼくは直美を呼び止めようとした。が、彼女は聞く耳を持たなかった。
「淳《じゆん》って最低」
店の出口に向かって早足で歩きながら、直美はぼくの名前を吐き捨てるように発音した。
「新婚旅行先まできて私にイヤな思いをさせて、それでもまだ気づかないなんて最低、鈍感、バカ」
日本語がわからない客にだって、この異常な雰囲気は察せられる。
みんなの視線が直美からぼくへと移った。まるで、彼女を怒らせた全責任はおまえにあるのだろう、と咎《とが》めるように。
「直美、いったい何を怒っているんだよ。ぼくにはさっぱりわからない」
カフェの外でようやく直美の腕をつかまえると、ぼくは彼女に説明を求めた。
が、直美は一言――
「説明なんかしたくない」
さすがにぼくもカッとなった。
「そういう返事はないだろう。ぼくたちは結婚式を挙げたときから、もう他人じゃないんだ。夫婦なんだぞ。夫婦の間でワケのわからない秘密を作ってどうするんだ」
「なにその言い方、いやらしい」
「いやらしい?」
「そうよ。ぼくたちは他人じゃないんだ。夫婦なんだぞ、だなんて」
直美は、いままで見せたことのない憎悪のこもった目でぼくを睨《にら》んだ。
「いろいろと命令されたり束縛されるのが妻の役目だったら、そんな結婚なんかしたくない」
「したくないって……もうしているんだぞ」
「だったらやめる、こんな結婚」
「直美!」
パリの街のイルミネーションの輝きがぼやけて見えるほど、ぼくは怒りでめまいをおぼえた。もう少しで、自分の右手が直美の頬《ほお》めがけて飛んでいきそうだった。
「おまえ、結婚を遊びだと思っているのか」
「思ってないわよ」
「だったら、もう少し真剣におたがいの理解を……」
「理解はそっちがすべきなの。私の仕事じゃないわ」
「なんだって」
「私って、すごーくわかりにくい女なのよ。そんなことも気づかないで妻にしたの?」
ぼくは信じられない思いで直美の言葉を聞いていた。感情をストレートに表わす直美は、まれにみる単純明快な人間だと思っていたのに……。
「とにかくホテルに帰る。タクシー拾って」
「タクシーなんか拾わなくても、そこの階段を降りていけば地下鉄があるよ」
ぼくは目の前にあるオペラ駅の入口を指さしたが、直美は納得しなかった。
「車で帰りたいの。だからつかまえて」
「わかったよ。じゃ、話のつづきはホテルでゆっくりしよう」
「つづきなんかしないわよ」
「………」
「淳のお説教なんかたくさん」
それだけ言うと、直美はプイと横を向いた。
ぼくはそれ以上の会話をあきらめるしかなかった。そして、通りがかりのタクシーを手を上げて停めた。
が、驚いたことに直美はぼくがいっしょに乗り込むのを拒んだ。
「淳は地下鉄で帰って」
「どうしてだよ」
「あなたといっしょにいたくないの。それじゃね」
後部シートに座った直美は、手を伸ばすとタクシーのドアを自分で閉めた。
そして、あぜんとするぼくを尻目に、車は赤いテールランプを光らせながらホテルの方角へと走り去っていった。
5
その晩から、楽しかった新婚旅行の雰囲気が一変した。
ホテルへ別々に帰ってからも、ぼくたちは口を利かなかった。シャワーも別々に浴び、たがいに黙々とパジャマに着替えた。
ダブルベッドというのは、こんな場合とても不都合だった。ゆうべまではベッドの幅がもっと狭くてもいいと思っていたが、今夜はその逆だった。
ベッドの幅が許すギリギリまでおたがいに端のほうに離れ、背を向けあった格好で目を閉じた。
直美はすぐに寝息を立てはじめたが、ぼくは夜明けまで寝つかれなかった。
いったい、なぜこんな状況になってしまったのか。それを頭の中で何度も何度も繰り返し考えた。
きっかけは倉田の忠告の件だ。それを直美に聞かせたとたん、彼女の態度が変わってしまったのだ。
倉田は、ぼくの知らない直美の顔を知っている。そして直美は、倉田に自分の本性がバレていることを知っている。だからこそ、倉田がぼくに警告を発したのを聞いて逆上したのだ――そうとしか考えられなかった。
たしかにゴルフ練習場での倉田の表情は、かなり真に迫ったものだった。ぼくの結婚が不幸になるという彼の予言は、たんなる脅しや推測といったものを超えた迫力があった。
では、倉田がつかんだ直美の秘密とは何なのだろう。
一瞬……ほんの一瞬だが、ぼくはあらぬ疑いを抱いた。倉田と直美が過去に関係を持っていたのではないか、と。
だが、それはあまりにも非現実的な邪推だった。倉田が直美に対して女としての興味を抱いたとは、とうてい思えない。
かといって、たんに同じ部で働いているというだけで、直美の本質をぼくが知る以上に把握できたとも考えにくい。
いったい倉田は、直美のどんな本質を、どうやって見抜いたというのか。
じつは倉田は、結婚披露宴のあと、直美がそばにいないのを見計らって、ぼくにこんなことをささやいたのだ。
「ハネムーンがパリなら、ぜひルーブル美術館に立ち寄ってモナリザを見てくるといい。ぜひ……」
言葉だけ聞くぶんには、あの世界的な名画の実物を見られる機会を逃すな、というふうにしか受け取れない。だが、目つきが違っていた。
(もうおれは、おまえたちの結婚についてあれこれ意見をはさまない。でも、モナリザを見れば、おれの言わんとしているところが理解できるはずだ)
考えすぎかもしれないが、倉田の目はそう物語っていた気がした。
直美はパリがはじめてだが、ぼくは前にも仕事で二度ほど訪れたことがある。そしてその際に、パリ見物の定番ともいえるルーブル美術館へ足を運び、モナリザをまのあたりに鑑賞した経験があった。
倉田もぼくがすでにモナリザを見たことは知っている。それなのになおモナリザを見ろと強調するのは、そこに特別な意味合いがあるとしか思えなかった。
しかし、モナリザを見て何を感じ取れというのか……。
なんでもかんでも撮影禁止、模写禁止で、そのうえ作品をガラスケースなどで厳重に鑑賞者から隔離してしまう日本の美術館と異なり、欧米ではフラッシュさえ使わなければ基本的に作品の撮影は自由だし、他人の鑑賞の邪魔にならないよう留意すれば、作品の前でキャンバスを立てて模写をはじめても咎《とが》められないところが多い。
おまけに、誰もが知っている世界的な名画が驚くほど無防備に――その気になれば手で直接触れられるような場所に飾ってある点も、日本とは大きな違いだ。
光を反射するよけいなガラスカバーなどを抜きに、美術愛好家にとって最高の条件で作品を鑑賞してもらおうという配慮があるからだ。
パリのルーブル美術館も、多くの絵画についてはこうした鑑賞者に対する信頼を根底においた展示体制をとっているが、ドノン翼二階、吹き抜けと吹き抜けの間にはさまれた回廊の中ほどに飾られた一枚の絵――天才レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『モナリザ』――に対してだけは、例外的に厳重な措置《そち》がほどこされている。
美術史上あまりにも有名なこの作品は防弾ガラスのケースに収められ、しかも撮影も禁止。一九一一年にいちど盗難事件にあっているからだ。
そのさいに左右数センチずつ切り取られ、七十七センチ×五十三センチというサイズになった名作は、周辺に飾られた他の絵画に較べてずいぶん小さく感じられるが、それでもつねにその前には、世界中から訪れた美術愛好家や観光客が押すな押すなの人垣を作っている。
よく知られたことだが、この名画に描かれた女性は、ちょっと見には微笑んでいるように思えるが、しばらく眺めているうちに微笑が消えて、代わりに深い悲しみが浮かび上がってくる。
動かないはずの一枚の絵に描かれた女性の表情が、鑑賞者の気持ちが揺らぐと、それに合わせて変化をするように感じられるのだ。
だから、モナリザの微笑にはミステリアスな印象がつきまとう。楽しいのか悲しいのか、真意が読み取れない微笑なのだ。
しかも、この女性が着ている黒いベールの上衣は喪服だという説もあり、それが彼女の謎《なぞ》めいた微笑をさらに複雑なものに見せていた。
だが、その名画と直美との間に、どんな関係があるというのだろう。
なんとか眠りにつこうとして、ぼくは倉田の意味ありげな言葉を頭から追い出そうとしたが、なかなかそれができなかった。
直美の激怒を招いた原因が倉田の警告にあるとハッキリしているからには、彼の発言の裏を徹底的に探ってみたくなる。
いろいろ考え事を重ねるうちに、枕元の時計がどんどん時を刻んでゆく……。
6
緯度でいえば稚内《わつかない》よりも北にあるパリの朝は遅い。七時をだいぶすぎてから、ようやく空が白みかけてきた。
そのころになって、ぼくはやっと眠気を催してきたのだが、隣で眠っていた直美が逆に起き出す気配がした。
きっとゆうべの諍《いさか》いを引きずって不機嫌きわまりないだろうと思い、ぼくは彼女に背を向けて、目をつぶったまま眠ったふりをしていた。
と――
「おはよう、淳《じゆん》!」
快活な声とともに、直美がおおいかぶさってきた。
「朝のキッス、ん〜」
いきなり唇が押しつけられる。
それに応じながら、ぼくは戸惑いをおぼえずにはいられなかった。ゆうべあれだけ怒り狂っていた直美はどこへいったのだ。
「どうしたの、淳。目が真っ赤よ。まるで泣いてたみたい」
「あ……ああ。ゆうべあまり眠れなかったものだから」
「どうして」
「どうしてって……」
「アレしたいのに、私が先に寝ちゃったから〜?」
「………」
冗談じゃないぞ。どうなってるんだ、直美の頭は。昨日の晩の出来事が、もう記憶から消えてしまっているというのか。
話しかけてくる語尾は甘ったるく鼻にかかり、顔はぼくに対して媚《こび》を売るような笑顔に満ちている。目の玉が飛び出さんばかりの勢いで激高したゆうべの様子が嘘《うそ》みたいだ。
「ねー、それできょうはどこに行くの〜ん」
「そうだな、きょうは……」
今回の新婚旅行はお仕着せのツアーに入っているのではなく、いちおうパリ経験者のぼくが、その日その日の行動を決めることにしていた。
もともとパリ滞在の最終日はここへ行こうと決めていたので、ぼくは身体の上に乗ってきた直美を抱きしめながら言った。
「ルーブル美術館に行こう」
その瞬間、直美の顔が曇ったのがわかった。
まずいぞ、と思った。もはや直美の感情の移り変わりに規則性がないことはハッキリしていた。笑いから怒りへの変化、怒りから笑いへの変化は、あまりにも唐突にやってくる。
普通の人間でも、何かのきっかけで態度を豹変《ひようへん》させることがあるが、直美の場合は、そのきっかけが他人にはまるで見えない。気分のムラなどといったレベルではないのだ。
恋人どうしでいたときは、そんな直美のありさまが新鮮で魅力的に思えたのだが、こうやって夫婦として同じ時間と空間を共有するようになると、彼女の特異な性格が早くも負担になってきた。
よく笑い、よく泣き、よく怒り、よく喜び、よく驚く――それは感性の豊かさゆえだと思っていたのに、テレビのチャンネルをリモコンでパッパッと切り替えるように、あまりにも目まぐるしく、しかもあまりにも無秩序に気分が変わるとなると、もうぼくにはついていけなかった。
こうなったらものは試しだと思い、ぼくは開き直ってつけ加えた。
「きょうはルーブルに行って、ふたりでじっくりとモナリザを鑑賞しよう。レオナルド・ダ・ヴィンチのあの名作を」
最後まで言い終わらないうちに、直美は弾かれたようにぼくの身体から飛びのいた。
そしていきなり目に涙を浮かべ、ダダをこねる子供みたいに首を振りながら、泣き叫んだ。
「いや、モナリザは見たくない。モナリザなんて大っ嫌い! 淳のいじわる。どうして私が嫌いなものを見させようとするの!」
7
親友の倉田は、とびきりの美女と結婚してわずか三カ月で離婚した。そして、その原因を彼は決して語ろうとしない。
そんな倉田を哀れんだり、内心どこかで面白がっていたぼくが、彼よりももっと短い期間で、同じ危機に襲われていた。
新婚旅行先のパリから帰ってわずか一カ月――
ぼくはすでに区役所から離婚届を取り寄せて、いつでも判を押せる状態にしてあった。
おそらく直美のほうは、ぼくがそこまで決意を固めているとは知るまい。彼女は相変わらず猫の目のような機嫌の変わりようを見せていたが、口先でこんな結婚なんかやめてやるとわめいても、それを実行に移すつもりはないようだった。
だが、ぼくの心はほとんど決まりかけていた。芸能人じゃあるまいし、わずか一カ月で電撃離婚なんて、会社ではいい笑い者になるだろう。けれども、もはや直美との暮らしをつづける気力が、ぼくにはまったくなかった。
怖いのだ。
直美が嫌いになったからではなく、怖くなったから別れようと思った。
こんな理由は、他人にまともに聞いてもらえないのはわかっている。だからぼくは、離婚してもその真の理由を語るつもりはなかった。倉田と同じように……。
そう、いまになってわかる。倉田もあの美人の奥さんに対して、猛烈な恐怖心を抱いたからこそ、三カ月で離婚を決心したのだ――
ぼくの心を最終的に動かしたのは、倉田の手紙だった。
毎日会社で顔を合わせるのに、彼はわざわざ手紙を書いて、それをぼくに直接手渡してきたのだ。
「どうしてもおれは、石井をほうってはおけないんだ」
例によって真剣なまなざしでぼくを見つめながら、倉田は言った。
「でも、おまえに伝えたいことはとても立ち話で言える内容ではない。だからここに書き記した。なるべく早いうちに読んでほしい」
そこでぼくは、退社後ひとりで喫茶店に行き、コーヒーを片手に手紙を開封した。
最初に封筒の中から出てきたのは、美術書に掲載されたモナリザの絵のカラーコピーだった。
(モナリザだ……)
ぼくは緊張した。
そして、封筒にはさらに数枚の便箋《びんせん》が折り畳んで入れてあった。
そこには、モナリザの微笑と直美を結びつける話が――にわかには信じられない話がしたためてあった。
≪唐突だけれど、モナリザの話から切り出す。
結婚してからというもの、石井の表情がどんどん暗くなっているのをこれ以上見過ごせなくなったので、いままで控えていたこの話をおまえに伝えようと決心した。
レオナルド・ダ・ヴィンチの名画に描かれたモナリザは、微笑を浮かべているようにも、悲しみをたたえているようにも見える。この独特の『ゆらぎ感』は、美術に素人のおれでも知っているくらい有名な話だが、モナリザのあいまいな微笑の原因は、あくまで絵を鑑賞する者の心の揺れ動きしだいによるものだと――つまり、百パーセント心理的な錯覚だと、おれは長い間信じてきていた。
だが、モナリザの微笑のゆらぎには、明快な物理的要因が存在していた。それを最近教えてくれた人間がいる。大学時代の友人で、いまは心理カウンセラーを職業にしている秋山という男だ。
同封したモナリザのカラーコピーを広げてくれ。そしてモナリザの顔を紙で半分ずつ覆って眺めてほしい。つまり、右半分と左半分を別々に鑑賞するのだ。
どうだ? 左と右とでは、受ける印象がずいぶん違うので驚いただろう。
モナリザの向かって右半分の顔は気味が悪いほど明るいのに、向かって左半分の顔には物悲しげな表情が浮かんでいる。
顔の右側と左側とで、まるで対照的な表情をしている。それなのに全体で見ると、双方が中和しあい穏やかな微笑となる。そして、その違和感に誰も気づかない。
これがモナリザの微笑の秘密だ。
ダ・ヴィンチが意図してそのような描き方をしたかどうか、それはわからない。しかし、結果として顔の右と左とで別々の表情を構成するモナリザは、鑑賞者の視点が右半分に置かれるか、それとも左半分に置かれるかによって、『明るい微笑』を浮かべているとも、『諦《あきら》めの悲しみ』をたたえているとも受け取れる。
だが、おれの旧友の心理カウンセラーは、そうした表情の左右分裂はモナリザの絵にかぎったことではないと言う。
つまり、画家の手で描かれた絵の中の人物のみならず、日常生活を営んでいる生身の人間の顔にも、こうした分裂現象がときとしてみられるというのだ。
すなわち、ダ・ヴィンチのモナリザの微笑とは、人間の奥底に秘められた心の多重性を描いた恐ろしい絵だというわけだ。どうだ、こんな解釈はいままで耳にしたことがないだろう。
二重人格者のようにきわだった例を求めなくとも、人間は、二つもしくはそれ以上の性格を同時に有することがごく普通にある、と秋山は語った。
犯罪のニュースにつきものの決まり文句――まさかあの人にかぎって――は、一人の人間は通常一種類の性格しか持たない、という誤った既成概念に基づく驚きだというのだ。
人が複数の性格を保有することは、決して異常ではない。その真理を肝に銘じていないと、我々は人間関係のうえにおいて、重大な危機に直面するおそれが十分にある――と秋山は強調した。仕事においてのみならず、男女関係でもそれが言えるのだ、とね。
そして、おれと同い年の彼はこんなエピソードを打ち明けてくれた。
秋山は二年前に見合いをした。相手はいかにもお嬢様育ちの人柄が良さそうな女性で、第一印象は抜群だった。
交際を重ねるうちに、ますます彼は相手を気に入った。向こうの反応もよかったし、双方の両親ももろ手を挙げて賛成だったので、正式に結婚を決めようと思った。が、そのときふと、モナリザの微笑の一件を思い出した。
そして秋山は、相手の女性の見合い写真を引っ張り出してきて、それを半分ずつ紙で覆ってみた。すると……。
彼はおもわず叫び出しそうになった。いままでおっとりとして清純そうにみえた見合い相手の顔に、思いもかけぬ表情が浮かび上がってきた。彼女の顔の右半分は、底意地の悪さをもろに露呈して、醜く歪《ゆが》んでいたのだ。だがそれは、左半分の異常ににこやかな表情によって完全にカモフラージュされていた。猛烈なアンバランスだった。
人の顔を半分ずつ観察するなんてことは、まず誰もしないから、ふつうは顔全体をひとかたまりとして、その人物の印象が決定される。そして、それによって人柄が推測されていくわけだ。
だが、それこそ大きな誤りだと秋山は言う。普通に見ただけではわからない性格の悪さ、弱さ、ずるさ、あるいは凶悪犯罪に結びつくような異常性――そうしたものが、分割観察法によって驚くほど鮮やかにあぶり出されるというのだ。
秋山は、予想もしなかった見合い相手の『素顔』を知って、結婚をどうするべきかためらった。が、けっきょく自分の判定法を信じて、彼女との交際を白紙に戻した。
その判断が結果的に正しかったか否か、そこまでは彼にもわからない。だが、その翌年に新たに知り合った女性は、秋山がいうところの≪モナリザ式判定法≫でも好印象に変わりがなかったので安心して結婚し、いまも幸せな結婚生活を送っているそうだ。
そんな話を聞かされたのが、おれが由起子と結婚して二カ月が経ったころだった。じつは、すでにそのとき、おれたちの新婚生活は早くも破綻《はたん》をきたしていた。
女優にしてもいいような美貌《びぼう》の由起子が、なぜこれほど性格の悪い女なのか、その外観と内面のギャップに、結婚後はじめて気づかされて、おれは愕然《がくぜん》となっていたころだった。
おれは心理カウンセラーの友人と別れるなり、すぐに由起子の写真を引っ張り出した。いまさらノロケるのも馬鹿馬鹿しいが、結婚当初は、こんな美人がよくおれと結婚してくれたと心から感動していたので、彼女の写真をいっぱい撮って、それを大きく引き伸ばしてパネルにしたものが何枚もあったのだ。
その中でもっとも気に入っているものを取り出して、モナリザ式判定法を試みた。
左側を隠して右半分だけ眺めると、実物以上に艶《つや》っぽい女の表情が浮き彫りにされた。いい女だった。だが――
右側を隠して左半分の顔だけにしたとき、おれは正直いって全身が総毛立《そうけだ》つような恐怖感に襲われた。
それはすさまじい顔だった。悪魔が由起子の中に隠れ棲《す》んでいることがハッキリとわかった。
ほんとうだぞ、石井。顔を半分ずつ隠して眺めると、いままでに見られなかった別の表情が、そこに忽然《こつぜん》と現われてくるんだ。これは怖い……ほんとうに恐るべき現象だ。
いったんそれを見てしまったらもうダメだった。同じベッドで眠っている由起子が、寝返りによって左半分だけおれのほうに見える体勢になると、おもわず彼女の身体を遠くに突き飛ばしたくなるほどだった。
わかるか石井、そこまでいくともうノイローゼだよ。恥ずかしい話だが、あれほど魅惑的な女に対して、夜の生活が不能になった。そして、以前にもまして由起子の性格の悪さがいっそう目につくようになった。
これが、誰にも言わなかったおれの離婚の真相だ。
だけど、こんな話は他人には打ち明けられないだろう。結婚相手の顔を半分ずつ分けて眺めたら、そこに悪魔の表情が見えたなんて、そんなことを口走ったらこっちの頭を疑われるのが関の山だ。
けれども、由起子以外にもこの方法を試してみたら、同じようなケースがほかでも発見できたのだ。
石井……もうわかっただろう。直美がそうなんだよ。
おれは同じ部に所属する人間として、彼女の性格に大きな疑問を抱いていた。
直美の言動にはあまりにも嘘《うそ》が多い。それも、この間も言ったと思うが、ホラに近い突拍子もない嘘だ。これは病的な虚言癖といってもいいだろう。
彼女がそんなたぐいのホラ話を連発するのは、決してあの感情過多の性格とは無縁ではないと思う。
ひとことで言えば、潜在的な現実逃避願望が、直美にはあるのではないのだろうか。
現実を見つめるのが怖いから嘘をつく。そして、自分の心の動きを認識することすら怖いから、オーバーな感情表現でそれをごまかす。
直美がおおげさに怒るときは、じつは怯《おび》えているのかもしれない。直美がおおげさに笑うときは、じつは恥ずかしいのかもしれないし、あるいは悲しいのかもしれない。
そのまやかしの感情表現の合間に本音が入り交じったりするから、いかにも喜怒哀楽の転換に脈絡がないと感じられるのだろう。
ところがおまえは、そんな直美の風変わりな性格にぞっこん惚《ほ》れ込んでしまった。おれは心配だった。
だから直美の顔について、例の判定法を試してみようと思ったんだ。写真は、部内旅行に行ったときのものを部分的に引き伸ばして使った。
その結果は、あえてここには書かない。知りたければ、石井が実際に自分で確かめてみればいいことだ。
ところでおれは、ひとつだけ出すぎたマネをした。そのことを正直に告白する。直美に、この話をしてしまったんだよ。モナリザ式判定法で直美の顔を分析した話をね。おまえの本性をのぞいてみたら、じつはこれこれしかじかだった、という結果を……≫
8
手紙を最後まで読み終えても、ぼくはまだ半信半疑だった。
でも、同封されたコピーを使ってモナリザの絵を半分ずつ隠してみると、少なくともこの名画に関しては、表情の左右分裂説が間違っていないとわかった。
では、実際に直美の顔もモナリザ風に左右別々の表情を形成し、倉田が総毛立ったような悪魔の姿がそこに垣間見《かいまみ》えるのだろうか。
確かめるのが怖かった。
直美の感情の変化のすさまじさから推して、彼女の心の中に『妙なもの』が棲みついているのは確実だと思った。だから、モナリザ式判定法を試してみたら、必ず恐ろしいものが見えるという気がした。
それは見たくない。見てしまったら倉田と同じように、もう後戻りのできないところへ追い込まれる。
どうせ直美と別れるつもりならば、よけいなテストなどしたくないというのが本音だった。だが、その一方で、直美の本質をこの目で確かめたいという欲求があったのも事実だった。
実験に必要な直美の写真は、もちろん山ほどある。倉田の言い分を確認するためには、数ある写真の中の一枚を選び、手近にある紙で直美の顔を半分ずつ隠して眺めればいいのだ。
手紙を受け取ったその夜、直美が寝静まってから、ぼくはこっそりと寝室を抜け出し、リビングのテーブルについた。
目の前には一枚の写真が置いてある。真正面を向いた直美だ。大きな目をクリクリさせて笑っているカットで、ぼくも本人も特別にお気に入りの一枚だ。
どうせ実験をするならば、直美がいちばん魅力的に写っている写真を使おうと思った。その写真を用いておぞましい結果が出たならば、これはあきらめざるをえまい。
だが、決心がつかなかった。
妙に青白い蛍光灯の下で、ぼくはじっと写真の直美に見入った。
どういう角度から見ても、直美は直美であり、それ以外の何物でもない。はたして、顔半分を紙で覆っただけで、まるで別人のような姿が浮かび上がってくるものなのだろうか。
しかし、少なくともモナリザは大きな変化を見せたではないか。ならば、直美の顔も同様の変化が生じたとしてもおかしくはない。だとしたら、とてもではないが、実験など怖くてできたものではない。
そうした心理に陥《おちい》るのは、決してぼくだけではないだろう。写真の上に一枚の紙を載せるだけで、愛する人の顔が悪魔に変わるかもしれないとしたら、そんな実験を誰が好きこのんでやるだろうか。
真夜中のひっそりとしたリビングルームで、ぼくは悶々《もんもん》として悩んだ。
だが、ついに意を決して、ぼくは真っ白な紙を手に取った。写真に写っている直美の顔の半分を隠すために……。
当の直美は、寝室で深い眠りに陥っている。空耳かもしれないが、彼女のやすらかな寝息が、ぼくのいるリビングルームまで聞こえてくるようだった。子供みたいに無垢《むく》な、罪のない寝息だ。
実験をやってみるぞ、と意気込んだぼくの決心が、それで一瞬鈍った。
と、そのとき、かたわらに寄せておいた写真の山の中から、別の一枚が目にとまった。
どうしてなんだろう。白い紙を握ったぼくの右手は、誰かに操られるように、そちらの写真のほうへと無意識に動いていった。
三分後――
ぼくは恐怖に青ざめながら、顔半分が隠された写真を愕然として見つめていた。
(このまま夫婦生活をつづけていったら、直美の身に大変な事態が起きてしまう)
いつのまにか身体が小刻みに震え出した。
(やっぱり別れよう……別れる以外に危険を回避する手段はない)
どうしても全身のわななきが止められなかった。眠気覚ましに用意したコーヒーのカップが、ぼくの震えを受けてカタカタと音を立てて鳴った。
顔半分だけになった写真に、ぼくは悪魔を見た。ギラギラとした殺意と、どすぐろい憎しみに満ちた悪魔の姿を……。
(そんな馬鹿な!)
信じられなかったし、信じたくもなかった。だが、見まごうことのない悪魔の顔が、邪悪な笑みを浮かべてこちらを睨《にら》んでいるではないか。
「嘘だろう!」
耐えかねたぼくは、声に出して叫ぶと、白い紙を写真から払いのけた。
と――
悪魔の姿は瞬時にして写真上から消え去り、カメラを真正面から見つめるぼくの弱々しい笑顔だけがそこにあった。
[#改ページ]
美和さん
1
結婚とは何か、という大テーマについて哲学的な答を見いだすこと――これが学生時代から仲田|早百合《さゆり》がこだわっている問題だった。
≪結婚とは、愛し合う男と女が永遠の絆《きずな》を誓うこと≫という類いの答は、ロマンチックな結婚願望に取り憑《つ》かれた友人たちからよく聞かされた。
≪結婚とは、男の墓場である≫という使い古されたつまらぬ冗談は、会社の上司がひとつ覚えのように言うセリフだった。
≪結婚とは、おのれの忍耐力をためす修行の場である≫という、ややひねった答を出すキザな男もいた。
≪結婚とは、やすらぎの場となる人生の港をつくりあげる作業≫と答えたマイホームパパもいた。
しかし、どの答も結婚の本質を言い当てているとは言いがたく、早百合を満足させるものではなかった。そして、このテーマについて納得のできる答を見いだすまでは、納得のいく結婚もできないだろう、と早百合は思っていた。
彼女は、女性向けの実用書を主力とする出版社に勤めていた。職場では仕事優先で生涯独身を貫く女性も少なくなかったため、三十歳の誕生日がすぐそこまできていても、結婚のメドひとつついていないことに精神的な焦りはまるで感じなかった。
が、事を急《せ》いていたのは早百合の母だった。
「もしもあんたが嫁に行く気があるのだったら、大台に乗る前のほうがいいよ」
ある日、母は急にそんなことを言い出した。
「男の人からみれば、二十九の女と三十の女とでは、受ける印象が大違いだからね」
スーパーに並べられた食品じゃあるまいし、娘の年齢を賞味期限ギリギリみたいに言うのは失礼よ、と言い返したものの、母親が焦り出すと自分も妙に落ち着かなくなってきた。
『彼』と出会ったのはそんなときだった。
雨の降りしきる昼下がり、会社の近くにある喫茶店で原稿を書いていると、窓際に座っている男にふと目がいった。
男はひとりでコーヒーを飲んでいた。ビジネススーツがよく似合い、タバコをくゆらすときの横顔が素敵だった。
まさかこの年になってひとめ惚《ぼ》れをしようとは思わなかったが、その男は周囲から浮き立つような不思議なオーラを放っていた。
ボーッとして見とれていると、急に相手がこちらを向いて目が合った。早百合はあわてて視線をそらしたが、自分の心の中を見透かされたようで、頬《ほお》が熱くなるのを抑えられなかった。
すると、ほんの少し間をおいて、男が早百合の目の前に席を移してきた。
「おひとりですか」
まるで出来の悪いメロドラマのような幕開けだったが、それが彼との出会いだった。
男の名前は、北嶋|三樹夫《みきお》。
一流都市銀行の新宿東口支店に勤務する三十五歳。いまだ独身。
独身ときいて、早百合はこれが運命的な出会いになるのではないか、と直感した。
そしてその直感は、一カ月もしないうちに現実のものとなった。
おたがいある程度の年になれば、この人と、と決めたらその後の展開は早いものだ。北嶋のプロポーズを、早百合は一も二もなく承諾した。
現金なもので、いままで早百合の頭を悩ませつづけてきた『結婚とは何か』という問題の答など、もうどうでもよくなっていた。北嶋の前では、こむずかしい結婚論など霞《かす》んでしまったのだ。
ところで、銀行員という職業柄、北嶋にはほぼ三年ごとの転勤がつきものだった。いまは新宿東口支店勤務になって丸一年がたったところだが、その前は札幌で、その前は静岡、さらにその前は大阪というふうに、あちこちの支店を転々としてきたという。
勤務先の銀行の規模が大きいだけに、支店網は全国各地に広がっており、二年ほどたてばまたどこへ行かされるかわからない。
早百合は結婚しても編集者としての仕事はつづけるつもりだったが、もしも北嶋がまた地方へ異動となったら、いまの出版社を辞めなければならない。そうなったらそうなったで、その土地で何か新しい仕事を見つければいい、と早百合は考えていた。これからは夫に頼って生きていけるのだと思うと、なにかと気が楽になってしまう。
唯一の懸念は、北嶋が一人っ子で、しかも早くに父親を亡くし、母親の手ひとつで育てられてきたことだった。
だが、これもとるに足らない心配だと、早百合は楽観視していた。なぜならば北嶋は、まるで早百合の心配を察知したように、プロポーズのさい、母親との別居を前提にしてくれたからだ。
母が健康なうちは、ぼくときみとの新しい暮らしの中に母が入り込むことは絶対にない――と、北嶋は断言した。
しかも早百合が安心したのは、決して北嶋が母親を説得してそのような譲歩を引き出したのではなく、北嶋の母の美和《みわ》みずからがそう言い出したという点だった。
「母は賢い女性だから」
北嶋はそう言った。
「だから、息子の新婚家庭のジャマをすることがあってはならないと、ちゃんとわかっているんだよ」と――
たしかに北嶋美和は聡明《そうめい》な女性だった。それだけでなく、美しい人だった。年はちょうど六十だったが、表情も物腰も若々しく、しかも優雅で、女優にしてもいいような華やかさがあった。
と同時に、『美和』という名前の雰囲気に似つかわしい、独特のなまめかしさを感じさせる女性だった。
つまり、年はとっても依然として北嶋美和という人は『女』なのである。
その女の魅力に直面したとき、早百合は、自分もそういう年のとり方をしたいと思った。そして、これほど美しい北嶋美和を『お母さま』と呼べることを、純粋に心から喜んでいた。
2
春うららかな大安吉日の日曜日、北嶋三樹夫と仲田早百合との結婚式はめでたくとりおこなわれた。
披露宴の列席者は、双方合わせて三十名という、意外なほどこぢんまりとした規模だった。新郎側の出席者が少なかったので、新婦側もそれに合わせた結果こうなったのである。
そこまで招待者を絞り込んだ理由について、北嶋は「結婚式がハデなのは好きじゃないから」と説明した。
早百合もそれは同感だった。そして、そういう細かいところまでいちいち北嶋と意見が一致するところが、彼女をよりいっそう幸せな気分にさせた。
何不足ない新生活のスタートを切った早百合だったが、少々変則的な状況が二点ほどあった。
まず第一に、早百合はいまだに入籍を済ませていなかった。
それは事務手続きを怠《おこた》っていたからではなく、夫の北嶋の指示によるものだった。
「誤解しないでほしいけれど、べつにぼくは何か含みをもっているわけじゃないよ」
妻の入籍をすぐに認めない点を不審に思った早百合に対して、北嶋は説明した。
「母さんが信じている占い師の見立てによれば、夫婦の入籍に最も適している日がちょうど過ぎたばかりだったんだ、結婚式の三週間前にね。だから一年後にその日がくるのを待って、正式に早百合の籍を入れようと思っている。それでかまわないよね」
そこで占いを持ち出されたことに早百合は違和感を覚えたが、苗字《みようじ》が旧姓の仲田のままでいるのは、仕事上は不便どころか、かえって好都合だった。
第一、愛する北嶋から「それでかまわないよね」とやさしくたずねられたら、ノーとは言えないに決まっている。
さらに、北嶋の母美和のせいで変則的な新婚生活となったことがもうひとつあった。結婚から三カ月たった現在も、まだ二人はハネムーンに出かけていないのだ。
もちろん、当初は世間一般の通念にしたがい、結婚式の翌日に新婚旅行へ出発する段取りになっていた。行先は北嶋の希望によりハワイである。
ところが、美和が結婚式の半月ほど前に階段から足を踏み外して右脚のスネにヒビを入れてしまい、式や披露宴にも松葉杖《まつばづえ》をついて参加するという状態だった。それで北嶋は、ハネムーンを先延ばしにしたのだ。
けれども、よくよく考えてみるとおかしな話だった。
新婚旅行には母親自身が参加するわけでもない。それなのに北嶋は即座に旅行延期を決めてしまった。
さすがに早百合の勤務先の人事部長は、早百合が結婚しても入籍せず、さらに新婚旅行も妙な理由で延期したことにけげんな表情を隠さず、「なんだかヘンな結婚だねえ」と言った。
なんだかヘンな結婚――
バラ色の幸せに包まれた北嶋三樹夫との暮らしが、まさに『ヘンな結婚』だと早百合自身も感じはじめたのは、ある金曜日の晩だった……。
3
その日、勤め先の銀行から帰ってきた北嶋は、早百合とともに自宅で夕食をすませると、ちょっと話があるんだと言って、テーブルの上に彩《いろど》りあざやかなパンフレットを置いた。
それは旅行会社が出しているハワイ旅行のパンフレットだった。
「母さんのケガで延ばし延ばしにしていたハネムーンだけれど、どうにか脚の調子もよくなったみたいだし、ぼくも改めて休暇を申請できるメドがついた」
「ほんと?」
早百合の顔がパッと輝いた。
どんな事情があったにせよ、ハネムーンなしの新婚生活には、彼女も多少は物足りなさを感じていた。だから、ようやく新婚旅行に出かけられると聞いたときのうれしさは格別だった。
「それで、だいたいいつごろになるの」
早百合がきくと、北嶋は、銀行の名前が金文字で刷り込まれた小さな手帳を開いて答えた。
「だいたいじゃなくて、日にちは具体的に決まっている。来月の第二土曜日から翌週の土曜日までの八日間だ。無理すれば日曜日まで入れて九日間の旅もできるけれど、時差ボケの調整に一日はみておきたいからね」
「……そうなの」
「なにか不満かい?」
「あ、ううん」
あわてて首を振りながら、早百合は心の中でつぶやいた。
(私だって仕事があるのに……)
北嶋は自分の都合だけで新婚旅行の日程を再調整してしまったが、ちょうどその時期に、早百合の担当する料理本の重要な撮影スケジュールが入っていた。
その週さえ避ければなんとか仕事のやりくりはできるのだから、北嶋も少しは幅をもった日程を相談してくれればいいのに、と早百合は思った。
それが、幸せいっぱいの新婚生活において早百合がはじめて感じた夫に対する不満だった。
だが……。
「ごめんね」
早百合の心の中を読んだように、北嶋が謝ってきた。
「母さんの占い師の見立てで、ハワイの方角へ旅行に行くには、その時期しかないということになったんだよ」
またもや美和ご用達《ようたし》の占い師の登場だった。これからもこんなように、新婚生活が占いで振り回されるのかと思うと、早百合は漠《ばく》とした不安を感じずにはいられなかった。
けれども、やさしい夫の怒る顔を見たくなくて、早百合はすぐに納得の笑顔を浮かべた。
「もちろん私のほうも、その日取りでだいじょうぶよ。仕事のスケジュールはなんとか組み直せるから」
「ほんとうかい」
北嶋は、不安そうに早百合の顔をのぞき込んだ。
「なんだか、母さんとぼくとで勝手に日取りを決めたことがきみを傷つけたんじゃないかと思って」
「そんな、傷つけたなんて……」
おおげさな北嶋の心配ぶりに、早百合は笑った。
「だって、一生に一度のハネムーンなんですもの。編集長にだって無理が言いやすいわ」
「無理が言いやすい? ということは、やっぱりきみは無理をしないとその日程では出かけられないんだね」
「そんなことないってば」
いちいち言葉尻《ことばじり》を気にする北嶋を、早百合は煩《わずら》わしいとは思わずに、やさしいと思った。
夫のすることは、なにもかも好意的に受け取りたい時期なのだ。それが新婚だ、と早百合は思った。だから彼女は、たったいま夫にかすかな不満を感じた自分を内心で責めていた。
「それで、前と同じツアーがとれそうなの?」
話題を変えるように早百合がきくと、
「いや、もっと豪華にしたんだ」
と言って、北嶋はパンフレットを開いた。
「え……こんなに……すごいの?」
早百合の口から驚きの言葉が洩《も》れた。
それはワイキキビーチの中でも超一流にランクされるホテルに泊まるプランで、しかも部屋はすぐ目の前に海を望む豪華なスイートルーム。
とりわけ早百合が目を丸くしたのが、居間と二つのベッドルームすべてを合わせると部屋は二百|平米《へいべい》近い広さがある、という表記だった。
ゴージャスなスイートルームに泊まる企画は、新婚旅行の場合にはさほど珍しくはなかったが、この広さと豪華さは格別だった。政府要人や皇族王室関係者、あるいは大富豪などのために用意されるような部屋なのだ。
「ほんとうにこのお部屋に泊まれるの」
「もちろん」
「私たちが?」
「そうだよ。だからパンフレットを見せているんじゃないか」
北嶋は早百合のほうに顔を向けて笑った。
「どう? このプランは」
「夢みたい」
早百合は即座にうれしさを表した。
「こんなお部屋に泊まれるなんて、信じられない」
「よかった」
北嶋は安堵《あんど》の笑みを浮かべてつぶやいた。
「きみに反対されたらどうしようかと思っていたよ」
「そんな、反対だなんて……。どうしてこんなすてきな計画に私が反対しなくちゃならないの」
そう言って笑うと、早百合は甘えるつもりで夫の肩に自分の頭をもたせかけようとした。
が、北嶋はそんな妻に肩透かしをくわせるようにすっと立ち上がると、やけに事務的な口調で言った。
「じゃ、日にちも内容もこれで了解ということでいいね」
「うん……でも、どうしたの。急に立ったりして」
「ちょっと電話」
短く答えると、北嶋は少し離れた電話台のところへ行き、ピポパと早いテンポでどこかの番号をプッシュした。
「ああ、もしもし、母さん?」
電話がつながると、北嶋は明るい声を出した。
「早百合もオーケーしてくれたよ、母さんが占いでみてもらった日取りでいいって」
(なんでいちいちお母さまにそんなことまで報告するの?)
不思議に思っていた早百合は、北嶋の次の言葉を聞いてびっくりした。
「そう、もちろん母さんが希望していた豪華パーラースイートに泊まるプランだよ。……うん、海が目の前でね。うれしいだろ、母さん。いっしょにのんびりしようね」
4
電話のあとしばらくたって、北嶋の母が二人の新居にやってきた。
まさに『いそいそと』と表現するのがぴったりの様子だった。
あぜんとしたまま口も利けない早百合をよそに、 姑《しゆうとめ》 の美和は、可愛い一人息子と並んでダイニングテーブルにつき、顔を寄せあうようにしてハワイ旅行のパンフレットをながめていた。
「まあ、すばらしいお部屋じゃないの。えーっ、ほんとに広さがこんなにあるの。うわあ、夢みたいね」
皮肉にも早百合の口癖と同じ言葉を洩らすと、美和は両手を合わせて頬《ほお》のところにつけた。
まるで少女のような初々しいしぐさだ。還暦を迎えた美和なのに、それが妙に似合っている。
(きもちわるい)
突然、早百合の背筋を寒気が駆け上がった。
「いいわねえ、あなたたち。こんなお部屋に泊まれるなんて、お母さんうらやましいわ」
「なに言ってるんだよ」
北嶋は、電話のときと同じ明るい笑顔を浮かべて言った。
「だから母さんもいっしょに行くんだってば」
「まあまあ、三樹夫さんったら」
美和は、濃密な愛情のこもった目で北嶋を見た。
「お母さん思いなのはうれしいけれど、これはあなたたちの新婚旅行でしょう。お母さんがじゃましたら早百合さんに申し訳ないわ……ねえ」
美和が早百合に目を向けた。
その瞬間、瞳《ひとみ》の奥にたたえられていた愛情がスッと消えて、どろりとした憎悪の塊が渦を巻いて浮かび上がってきた。
口元には微笑み、そして目には強烈な敵意。
早百合は、金縛りにあったように何も言えない。
「早百合はいいんだよ」
夫の声が、遠くのほうで聞こえた。
「母さんがいっしょにくることは、彼女も了解しているから」
(していない……承知していないわ、そんなこと)
心の中では叫ぶのだが、それが言葉になって出てこない。
「いけませんよ、三樹夫さん」
また瞳にやさしさを取り戻すと、美和は息子に向き直って猫なで声を出した。
「そんなふうに早百合さんの厚意に甘えては。せっかく二人きりのハネムーンを楽しもうと思っているのに、お母さん、早百合さんから叱《しか》られてしまうわ」
「冗談じゃないよ」
あはは、と北嶋は笑った。そして、笑いつづけながら言った。
「もしも早百合が母さんをのけものにしたら、ぼくが絶対に許さないから」
早百合は、頭のてっぺんから足の裏まで、氷の槍《やり》で貫かれたようなショックに見舞われた。
(それが私の前で笑いながら言うセリフだろうか)
表情も身体もこわばってしまった早百合をよそに、母と息子のなごやかな会話がつづく。
「こないだから母さんは言ってたじゃないか、またハワイに行きたいわね、って」
北嶋は、妻の様子などにはまるで頓着《とんちやく》せずに、母親ばかりを見ていた。
「右脚の調子もだいぶよくなったみたいだけど、リハビリにはやっぱり暖かいところに行くのが一番だよ。そして日のあるうちは、プールでのんびりすごせばいいじゃないか。ゆっくりと水の中を歩くだけでも、脚の回復にはちょうどいい運動になると思うよ」
「それもそうねえ。たしかにハワイは療養にはうってつけのところだわ」
「それに、ぼくもひさしぶりに母さんの水着姿を見たいしさ」
至近距離で、北嶋が母親をじっと見つめると、
「もう三樹夫さんたら」
と言って、美和は、恋人がじゃれあうように息子をぶつまねをした。
「ほんとに、お母さんをからかうものじゃありませんよ」
「だって、母さんスタイルがいいんだもん。母さんの年代にしては抜群に脚が長いし、おっぱいも大きいし」
「いやあねえ、恥ずかしいじゃないの、早百合さんの前で」
(おっぱい!)
早百合は我が耳を疑った。信じられないやりとりだった。
おまけに、母親の美和は息子の前で赤くなっていた。それも耳のつけねまで。
早百合は、これ以上黙って二人の会話を聞いていられなくなり、必死の思いで口を開いた。
「あの……あの……」
美和と北嶋が、パッとふり向く。
「三樹夫さん、あのね」
夫の名前を呼びながら、早百合は目を伏せていた。
夫とは目を合わせたいのだが、その隣にいる義母の視線が怖くて顔を上げられないのだ。
「あのね、私、いま思ったんだけれど」
「なんだい」
心なしか、北嶋の声は冷たかった。
「私、そんなに贅沢《ぜいたく》なお部屋に泊まらなくてもいいわ。三樹夫さんの気持ちだけでうれしいから」
「………」
返事がない。
仕方なく、早百合はしゃべりつづける。
「私、三樹夫さんといっしょにいられるだけで楽しいの。だからお部屋はどんなに質素でも、どんなに狭くても」
「あらまあ、早百合さん」
軽やかな美和の声が飛んできた。
「もしも私がじゃまだったら、はっきりとそう言ってくださってもいいのよ」
「母さん」
北嶋があわてて取りなすように割って入った。
「そのへんは早百合もちゃんとわかっているから」
「そうかしら。でも、いまの早百合さんの言い方には、なんだかトゲがあったわあ。どうしましょう、私」
美和は、いかにも悲しそうな声を出して目を伏せた。
睫毛《まつげ》の長さが美しい。
こんな場合ですら、美和の身体はいちいち女の美を発散する。早百合はそこにいらだった。
「私ね、早百合さんのいいお母さんでいたいと一生懸命努力してきたつもりなのよ。でも、やっぱり嫌われちゃったのかしら」
「そんなことない、そんなことないってば。な、早百合」
必死に母親の顔色を窺《うかが》いながらご機嫌をとろうとする北嶋。こんな夫の姿は、早百合は見たことも想像したこともなかった。
はじめて喫茶店で彼を見かけたときの感動が、ズームレンズを引くようにスーッと向こうへ遠のいていく。
「な、早百合。このスイートは2ベッドルームなんだよ。つまり、居間をはさんで寝室が二つあるわけだ。もちろん各部屋の扉も閉まるから……」
早百合は、夫の必死の弁解が理解できなかった。こんなふうに妻の説得に四苦八苦してまで、なぜ母親を新婚旅行に連れていきたいのか。
いくら豪華な部屋に泊まったところで、母親がついてきたら、そんなものはハネムーンとは呼べないではないか。
世の中には、新婚夫婦のハネムーンにぞろぞろと一族がついていくケースもあるが、それはたとえば挙式そのものを海外で行なった場合であって、そのときでも、夫婦と両親とは部屋を別にとるのが常識というものだ。
ところが北嶋は、母親のために新婚旅行の日程を遅らせ、しかも豪華スイートを名目に、母親を同じ部屋に泊めようとしていた。いくら2ベッドルームだと説明されても、早百合の感覚ではひとつ部屋である。
しかも北嶋の様子を見ていると、妻の早百合よりも自分の母親といるほうが、仲睦《なかむつ》まじい新婚夫婦のようだった。
(まさか……)
早百合の脳裏に、突然不吉な空想がよぎった。
(たんなるマザコンだったらまだいいけれど、もしもそれを超えた母と息子の特別な関係があったとしたら)
特別な関係――ありていにいえば近親相姦《きんしんそうかん》。
その四文字が、早百合の頭の中で燐光《りんこう》のような青白い光を発しはじめた。
さきほど北嶋は何と言ったか。
母親の美和のことを、脚が長いとかおっぱいが大きいなどとほめたではないか。いったいそれが実の母親に対して――それも還暦を迎えた母親に対して言う言葉だろうか。
皮肉なことに、早百合は『結婚に関する百の悩み』という本を編集担当として手がけたばかりだった。そしてそこには、息子側のマザコンと母親側の溺愛《できあい》とが合体して、ついにはタブーの世界へのめり込んでいった実例がいくつも紹介されていたのだ。
しかし、そんな特異な事例が我が身にも降りかかってきそうになるとは、早百合は考えてもみなかった。北嶋がハネムーンの話を切り出すまでは、早百合にとって理想の新婚生活がつづいていたのに、だ。
けれども早百合は、ここで北嶋の母を排除するだけの決定的な勇気を持たなかった。強引にハネムーンへの同行を断ったら、最愛の北嶋との夫婦関係が崩壊してしまう。その事態だけはどうしても避けたかった。
少なくともきょうまでは、早百合は幸せすぎるくらいに幸せだった。この幸せは、何があっても壊したくない。
もちろん頭の片隅では、冷静な声も響いている。幸せを失うのを恐れるあまり、不幸に陥ることなかれ――と。
しかし天秤《てんびん》にかけると、やはり早百合は目先の幸せを確保するほうに動かざるを得なかった。
「ごめんなさい、勝手なことばかり言って」
早百合は、北嶋とその母の前で頭を下げた。
「私の言葉がお母さまを不愉快にさせてしまったらおわびします。私……決してそんなつもりで言ったんじゃないんです。でも、ほんとにごめんなさい」
うつむいたまま一気に謝ると、早百合は椅子《いす》から立ち上がった。
「コーヒー、いれてきますね」
こわばった笑みを浮かべてそこまで言うのが精一杯だった。
駆け込むようにキッチンへ入ったとたん、早百合は複雑な感情をこらえきれなくなり、声を圧《お》し殺して泣きはじめた。
5
新婚旅行の日まで、あと一週間を切った。
しかしあの日以来、早百合の気分は晴れない。編集の仕事が手につかないのはもちろんだが、夫の北嶋との関係もギクシャクしはじめた。
いちばんそれが顕著に現れるのは、やはり夜ベッドに入ってからだった。
新婚家庭らしく、二人の寝室には大きなダブルベッドが置かれている。そのベッドに、北嶋といっしょに入るのがいやになった。
もちろんいまでも早百合は北嶋を愛しているし、彼に抱かれたいと思うのは当然のことだった。だが、頭でいくらそう考えても、生理的な拒絶反応が出てしまうのだ。
身体は恐ろしいほど正直だった。北嶋の手がそっと伸びてくると、反射的に寝返りをうってそれを避けてしまう。なんとか応じようとしても、勝手に身体がそっぽを向く。
そんな早百合に対して、北嶋は強引な態度に出ることもあった。そういうときは、早百合はほとんど糸の切れたあやつり人形状態で応じるしかなかった。
これまでの甘い夜が嘘《うそ》のようだった。
それにしても、なぜそんな反応を自分の身体が示すのか――
理由ははっきりしていた。不潔だと思っているからだ。夫の身体が穢《けが》れていると感じているからだ。
早百合をさわろうとする夫の手が、すでに母親の裸をさわってきたように思えてならなかった。そして手だけでなく、ほかのところも……。
夜ベッドに入るたびに、『近親相姦』の四文字が青白い燐光を放って脳裏に浮上する。それだけでなく、母と息子がもつれあうおぞましい姿さえ、まぶたの裏に現れた。
消そうとしても消そうとしても、それは消えない……。
さすがに妻のぎこちない態度に気づいたのか、あるとき北嶋は、やさしく早百合の肩を抱きながら話しかけてきた。
「早百合の気持ちもわからないではないけれど、新婚旅行だと思うから母さんの存在が気になるんだよ。ぼくたち三人は一つの家族なんだから、家族でいっしょに旅に出るのはあたりまえだし、そのときに同じ部屋をとるのだって当然のことだろう」
早百合の髪をなでながら北嶋はつづけた。
「それにね、取引先の女社長からもこんなふうにホメられているんだ。新婚旅行にお母さまを連れていかれるなんて、あなたはほんとうに親思いのいいお子さんねえ。ふつうはそんなことはできないわよ、ってね」
(何もわかっていない、この人は)
早百合は、また泣きたくなった。
(私が何を恐れているのか、まるでわかっていない)
挙式後半年にも満たないうちに天国から地獄へ。待ち焦がれていたハネムーンが、どうしてこんな形で実現しなければならないのか。
ひとりきりになるたびに、早百合は不安と情けなさから涙をこぼした。
そんな早百合の葛藤《かつとう》を知ってか知らずか、母と息子は浮き浮きした顔で、ハワイへ旅立つ日がくるのを指折り数えて待っている。
そして出発を六日後に控えた日曜日、旅支度を整えるために三人でデパートへ出かけると、北嶋はまず真っ先に女性用の水着売場へと足を運んだ。
早百合の水着を買うためではない、母の美和のために水着を見立ててやろうというのだ。
「母さん、母さん」
ずらりとハンガーに掛けられたカラフルな水着の合間を縫って歩きながら、北嶋は例によって無邪気な声をたてた。
「ほらほら、母さん、これなんかどう。これ、いいと思うなあ」
信じられないことに、北嶋が示したのはハイレグカットの黒い水着だった。しかも胸元も大胆にVカットされており、開いた部分は靴紐《くつひも》を結ぶような格好でまとめあげている。
「母さんは色白だから、やっぱり黒が似合うだろうな」
ハンガーごとその水着を取り上げると、北嶋はそれを母親の胸元にあててみた。
「うん、このデザインだと母さん自慢の胸の谷間もはっきり見えるし、セクシーだと思うよ」
「いやだわあ、三樹夫さん」
また美和が赤くなる。
くやしいけれど、そうやってはにかむときの美和は、同性の女から見ても色っぽいと思う。それは早百合も認めざるを得なかった。だからよけいに、夫と義母の関係に疑惑が生じる。
「お母さんの年も考えて。もう六十なのよ」
美和は、身体をくねらせながら言った。
「いまさらこんな水着は着れないわあ」
「年のことなんか、ぜんぜん気にすることないよ」
北嶋は、鏡の前で母と並んで微笑んだ。
「母さんは実際の年齢より二十以上は若くみえるし、だいたい外国では年齢に関係なく、みんな大胆な水着を着るもんだよ。女はいつまでたっても女、ってことかな」
「でもこれ、前がこんなに大胆に切れ込んでいるでしょう」
息子が手にもった黒の水着の、いちばんきわどい部分を見つめながら美和は言った。
「そうしたら、下のお手入れもしなければならないものねえ」
早百合は気分が悪くなった。美和の言葉が、美和の表情が、そして美和のつけている香水の香りが、早百合の自律神経を狂わせた。
そして、めまいがはじまった。
陳列されている周囲の水着がぐるぐるとコマのように回り出し、極彩色が溶け出して自分の身体を包みはじめた。
その渦の中心に黒い点が見える。おぞましい水着の黒であり、姑《しゆうとめ》 美和の敵意に満ちた瞳《ひとみ》の黒だった。
デパートの床が歪《ゆが》みはじめた。身体が揺れる。
早百合は、貧血を起こしてその場に倒れたことに、まったく気がつかなかった。
6
「嫁というものは、それはそれは憎うございます」
遠くのほうで、念仏を唱えるような低い声が聞こえていた。
夫の母の声だ。
「どれほど憎いかということを数字で表せといっても、それは無理でございます。言葉で表せといっても、それも無理でございます。数字や表現を超えて、嫁というものはひどく憎らしいものでございます」
まだ早百合の意識は暗黒に包まれていた。だが、聴覚だけが先に覚醒《かくせい》をはじめたらしい。
そう、これは幻聴ではなく、明らかに早百合の鼓膜を振動させている現実の声なのだ。
「他の家庭の嫁と姑がどんな関係にあるのか、その実態を私は詳しくは存じません。なんでも昨今の姑は、若夫婦と同居をさせてもらえるだけでも幸せだと感謝せねばいけないそうで、家の中でも、それはもう小さく小さくなっていなければならないとか――そんな話を聞いたことがございます。
あるいは嫁のご機嫌とりに神経をつかい、はためには和やかな嫁と姑の関係のように見えながら、その裏では気のつかいすぎで姑が心身ともにぐったりしてしまっている、という話も耳にしたことがございます。
そのような情けない立場に我が身を置きたくないがために、私は、息子が嫁をとるときには必ず別居をしようと心に決めてまいったのでございます。
けれども、可愛い可愛い我が息子と離れ離れに暮らすのは、とても淋しゅうございます。ましてや、その可愛い我が子が、どこの馬の骨ともわからぬ女と夜ごと閨《ねや》でいやらしく睦《むつ》みあっているかと思うと、気も狂わんばかりのくやしさでございます。
かといって同じ家に住めば、嫁があられもなく悶《もだ》える声など否応なしに直接耳にせねばならず、それはまたそれでたいへんに耐え難い苦痛となりましょう。
ああ、どんなによくできた息子でも、母親に対してこのような親不孝をするのが宿命なのでしょうか。まことに結婚とは、忌《い》むべき儀式でございます。できることならばあのとき、結婚式場ぜんたいを黒白の不祝儀幕で覆いたい気分でございました。
披露宴の最後の場面で、私は嫁から花束を贈られ、おもわずそのときに涙いたしましたが、あれは感動の涙などではなく悔し泣きでございます。よくも息子を、よくも三樹夫さんを奪ったな……という、怨念《おんねん》のこもった悔し泣きでございます。
おそらく嫁は気づいておりますまいが、花束を受け取りながら、私はギリギリギリギリと歯軋《はぎし》りをしておりました。
ギリギリ、ギリギリリ……ギリギリ、ギリギリリ……ギリギリ、ギリギリリ。おお、ギリギリ、ギリギリリ……」
早百合はうなされはじめた。
悪夢と現実のはざまで、激しい恐怖に揺すぶられていた。
全身からは汗が噴き出し、胸の上に何か重いものが載せられているようなひどい圧迫感に襲われる。
「ギリギリ、ギリギリリ……ギリギリ、ギリギリリ……ギリギリ、ギリギリリ。おお、ギリギリ、ギリギリリ……」
しだいに言葉にメロディがついてきた。どこか郷愁を誘うような、それでいて陰惨な響きをもつ短調の旋律。
それを聞きながら、早百合はなんとか目を開けようとする。このまま美和の奇妙な歌を聞きつづけていたら、金縛りが永遠に解けなくなってしまいそうだった。
必死に目を開こうとする。しかし開かない。そして、不気味な呪《のろ》いの子守唄が彼女の鼓膜を震わせつづける。
「ギリギリ、ギリギリリ……ギリギリ、ギリギリリ……ギリギリ、ギリギリリ。おお、ギリギリ、ギリギリリ……」
そのうちに、それが言葉ではなく、本物の歯軋りの音に転じた。全身に鳥肌が立つような寒々しい音である。メロディをもつ歯軋りというものを、早百合ははじめて聞いた。
そして、その不快感が限界まできたとき、早百合はパッと目が覚めた。
そのとたん、彼女は短い悲鳴を発した。
あおむけに寝かされた自分を、角の生えた般若《はんにや》がのぞき込んでいた。
……が、すぐにそれは般若ではないとわかった。目尻《めじり》を吊《つ》り上げ、唇を歪めて歯をむき出しにした美和の顔だった。
「お母さま!」
かすれ声で早百合が叫ぶと、あっというまに美和の顔は柔和な菩薩《ぼさつ》の表情に転じた。
「まあ、やっと気がついた? 心配したわあ、突然倒れてしまうんですもの。だいじょうぶ? もう平気?」
「ここは……」
早百合はあおむけの格好のまま、首の動く範囲であたりを見回した。
「デパートの職員用休憩室よ。売場の人は救急車を呼びましょうかとあわてていたけれど、しばらく横になればきっと楽になりますからと言って、畳の部屋にふとんだけ敷いてもらったの」
「それで……三樹夫さんは」
早百合は夫の姿を求めたが、畳敷きの小さな休憩室の中には、美和と早百合のほかには誰もいない。
「三樹夫さんは買い物をつづけているわ」
「買い物?」
「そうよ。あなたたちの新婚旅行の準備にきたんじゃないの」
それで早百合は思い出した。なぜ自分が意識を失ったのかを。黒いハイレグカットの水着。それを身に当てながら、年甲斐《としがい》もなくはにかむ美和……。
「すみません、お母さま」
額に浮かんだ汗の粒を手の甲でぬぐいながら、早百合は言った。
「三樹夫さんを、いますぐここへ呼んできていただけませんか」
「呼んできてと言われてもねえ……」
美和は、心底困った顔をした。
「こんな広いデパートですもの。探しようがないわ」
「呼び出しのアナウンスをしてもらってください。お願いします」
早百合は必死に頼んだ。この狭い部屋で、姑の美和と二人きりでいるのは耐えられなかった。
しかし、美和はゆっくりと首を横に振った。
「呼び出しはいけないわ、早百合さん。そんなことをしたら、あなたに何か異変が起きたと思って三樹夫さんが心配するでしょう」
「………」
「それよりも、もう少し横になっていらっしゃい。きっと毎日の疲れがたまっていたんでしょう。新婚生活というものは、なにかと身体が慣れないですものねえ」
そう言って美和は、横目で早百合を睨《にら》み下ろしながら、おほほほほと笑った。
そしてすぐにその笑いを止めると、低い声で問いただした。
「それとも早百合さん、他に倒れる理由が何かあって?」
「あの……お母さま」
早百合は思い切ってたずねた。
「私が気を失っている間、枕元でなにかお話しになっていらっしゃいませんでした?」
「まあ、聞こえたの」
美和は、またにっこりと微笑んだ。
赤い口紅が前歯についていた。
強烈な悪寒が全身を走ったが、早百合はそれをがまんしてうなずいた。
「ええ、聞こえていました」
「そう……あれはね、お経よ」
「お経?」
「そうですよ。あなたが夢うつつで聞いたのは、たぶん私の呪いのおまじない」
美和は、ふとんに横たわったまま凍りついた表情を浮かべる早百合を面白そうに見下ろして言った。
「このお経、気に入ったら毎晩でも聞かせてあげてよ」
7
甘い思い出になるはずの新婚旅行は、三日後に迫っている。しかし、早百合の精神状態は最悪だった。
朦朧《もうろう》とした意識の中で聞いた義母美和のお経と称するひとり語りが、ことあるごとに頭によみがえって早百合を苦しめた。
あれは早百合が失神していると思い、油断して洩《も》らした独り言だとはとても思えなかった。しゃべっているうちに早百合が目を覚ます……あるいは、仮に意識を失っていても、早百合の無意識下の領域に働きかけて、怨念をそこに植えつけようとした行為ではなかったのか。
だとしたら、美和の嫁に対する憎しみは桁《けた》外れにすさまじいものとなる。
「嫁というものは、それはそれは憎うございます」
美和の声そのものが憎悪のかたまりだった。その声の記憶を脳裏で再生するだけで、早百合の精神はひどいダメージを受けた。
編集者としての仕事は、ハワイ行きの前日まで務めるつもりだったが、あまりにも体調が悪くて、休暇を一日早めてとることにした。
「だいじょうぶかね、仲田君」
人事部長は心配そうな顔で早百合にたずねてきた。
「このところ顔色が悪いし、なんだかげっそりとやつれたようだぞ」
そんな指摘をしてくるのは人事部長だけではなかった。仕事仲間の多くが、早百合の異変に気がついていた。そして陰で「結婚がうまくいってないんじゃないの」といった噂《うわさ》が囁《ささや》かれていることも、彼女は承知していた。
でも、なにからなにまで事実だったから、早百合は言い訳も反論もできなかった。「なんだかヘンな結婚だねえ」という人事部長の言葉が現実のものとなってしまったのだ。
会社を一日早く休んだものの具体的に何をするでもなく、早百合は、北嶋が出かけてガランとなった我が家のリビングで、ボーッと窓越しの風景を見つめていた。
天気は晴れ。空は青い。ハワイの空はもっと青いだろう。
だが、三人で行くハネムーンは、早百合には地獄への旅立ちのように思えてならなかった。
(いったい結婚って何なんだろう)
忘れていた大テーマがそのときふとよみがえった。
「まことに結婚とは、忌むべき儀式でございます」
枕元でつぶやかれた美和の怨念のひとり語り――ひょっとしたら、その言葉の中に結婚の真理が隠されているのではないか。
だが、いまの早百合には、それを深く掘り下げて考える余裕がなかった。
それよりも、土曜日からのハネムーンでどんな事態が待ち受けているのか、そのことばかりが気になった。
できることならば新婚旅行はとりやめにしたい気分だった。けれども、いまさら行かないとは言い出せない。それは夫婦関係の終焉《しゆうえん》を意味していた。
美和の存在の不気味さは日増しに募《つの》ったが、夫の北嶋に対する愛情は決して失われていない。だから自分からすべてをぶち壊しにするような真似は、早百合にはできなかった。
美和への恐怖と北嶋への愛情のはざまに立ち、早百合はどうにも身動きのとれない状況になっていた。
(こんなことなら、結婚なんてしなければよかった)
あれだけいろいろな結婚論の本を読み漁《あさ》り、編集者としても結婚に関する本を何冊も作り、つねに結婚とは何かを真剣に考えてきたというのに、実際の本番が大失敗に終わったとしたら、こんな滑稽《こつけい》な話はない。
また気分がどっと暗い方向へ落ち込んでいく。とそのとき、玄関のチャイムがピンポーンと鳴った。
早百合の目が扉に行った。同時に心臓が大きな鼓動を打った。
(お母さまだ)
目前に迫ったハワイ旅行の準備にかこつけて、美和はこのところ毎日のように新居にやってきた。おそらく今朝も、北嶋の身の回りの支度をもってきたのだろう。そのかいがいしい世話のやきかたは、母というよりも新妻のそれだった。
いまの早百合は、家の中に美和と二人きりになる時間をできるかぎり作りたくなかった。精神が極端に不安定になるからだ。
だが、訪ねてきた美和をまるで無視するわけにもいかない。
早百合は気持ちを落ち着けようとして何度か深呼吸をした。その間も、玄関のチャイムが繰り返し鳴らされる。
「いま行きます」
小さな声で返事をすると、早百合は玄関へ行った。そしてマジックアイで外を確認することもせずに、いきなり扉を開けた。
「あ」
早百合は声をあげた。
訪問者は、美和ではなかった。
まったく見知らぬ女が、青ざめた顔で突っ立っていた。
背が高く、全身がガリガリに痩《や》せて、針金細工のような女だ。
「あの……どなたですか」
ドアをすぐに閉められる体勢で、早百合はきいた。
「私は」
女は、声まで幽霊のようにかぼそかった。
「私は、北嶋三樹夫の妻です」
8
「あなたが、北嶋の……奥さん……ですって?」
はじめ早百合は、何かの聞き間違いかと思った。
しかし、ささやくような声ではあったが、女ははっきりと返事をした。
「そうです。私は北嶋三樹夫の妻です。お話があるので中に入れてもらえませんか」
「ちょっと待ってください」
早百合はあわてて女の前に立ちはだかった。
「変なことを言わないでください。北嶋三樹夫の妻は私です。あなたではなくて、この私です」
「いえ、私です」
「お名前は」
「北嶋三樹夫の妻です」
「ですからあなたのお名前は」
「北嶋三樹夫の妻です」
早百合は、姓名を名乗ることを求めているのに、痩せこけた女は一つ返事を繰り返すばかりだった。
「警察を呼びますよ」
震える声で早百合は言った。
「人のうちに勝手に入り込もうとしたら、警察にきてもらいますから」
「では玄関先の立ち話で結構です」
女は、その場から動こうとはしなかった。
「とにかくお話があるんです」
「あなたが何の目的で妻を名乗っているか知りませんけれど、私たちはこの春に結婚式を挙げたばかりだし、そのときに三樹夫さんの戸籍もちゃんと見せてもらっています。彼は今回が初婚です。私の前には一度も結婚していません。戸籍はぜんぜん汚れていないんです」
「戸籍が汚れていない……ですか」
女は目をそらしたまま、ふっと淋しげな笑みを洩らした。痩せすぎているために、そのまま頬骨《ほおぼね》の形が浮かび上がるような微笑だった。
「私もそう言って、現実から目をそむけようとしたことがありました。前の奥様が現れたときに」
「なんですって!」
早百合は目を見開いた。
「あなたの前の奥さんって?」
「私は静岡で三樹夫さんと結婚しました。けれども、私の前に大阪の奥様がいるのです。そして、私の次の妻はあなたではなく、その間にもうひとり、札幌の奥様がいるのです」
「………」
何がなんだかわからなかった。
また、あのデパートのときと同じように、周囲の光景がぐるぐる回り出しそうになった。
しかし、いまの女のセリフで気にかかる部分があった。
大阪、静岡、札幌、そして東京――
それはまさしく、銀行員である北嶋がほぼ三年ごとに転勤してきた経路と一致するではないか。
すると彼は、転勤するたびにその土地で妻を持っていたというのか。
「あなたが何を言っているのか理解できないわ」
早百合は激しく首を振った。
「三樹夫さんの妻は私ひとりです。私だけが彼の妻よ」
「あなたが妻というなら、私も妻です。そして私が妻でないというなら、あなたもあの人の妻ではありません」
痩せ細った女の口調は、興奮する早百合とは対照的に静かだった。
見知らぬ訪問客から次々と意味不明のことを言われ、早百合は混乱した。
たしかに北嶋はいい男だし、三十五歳の現在まで何人かの女性と深いつきあいがあったとしても不思議ではない。この女が北嶋と同棲《どうせい》していたと聞かされても、それは特別な驚きではなかった。
しかし、妻を名乗られては黙っていられない。ましてや彼女だけでなく、ほかにも妻がいたなんて……。
「見てください、これ」
早百合は、薬指にはめた銀の指輪を女の目の前に突きつけた。
三樹夫が選んで決めたシンプルなデザインの結婚指輪である。そのリングの裏側には、MtoSというように二人のイニシャルが刻まれている。
「三樹夫さんから結婚指輪をこの指にはめてもらった女は、私が最初で最後なんです。もしかしたらあなたは三樹夫さんといっしょに住んだ経験をおもちかもしれませんけれど、その程度の関係で奥さん気取りはやめてください」
「何から何まで同じなんですね」
女はまた淋しげな笑みを洩らした。
「私が大阪の奥様に噛《か》みついたときも、いまのあなたと同じセリフを言いましたし、逆に札幌の奥様から誤解されたときも、似たような言葉をぶつけられました。あの人はそうやって、いろいろな女性に同じショックを与えつづけているのです。罪な人です」
あまりにも冷静で、あまりにも悲しそうな女の言葉に、早百合はひるんだ。
「早百合さん……とおっしゃいましたよね。私はある人から、あなたが三樹夫さんと結婚したと聞いて、よけいなおせっかいとは知りつつも、どうしても訪ねずにはいられませんでした。
といっても誤解なさらないで。決していやがらせをしにきたのではありません。私を含めた三人の女のような悲劇を、あなたには味わってほしくない。それを伝えにきたのです」
「三人の女の悲劇?」
「私がこんなに痩せてしまったのも、あの人のせいです。でも、げっそりやつれる程度で済んだからまだよかった。大阪の奥様と札幌の奥様は、あまりにも精神的な打撃がひどくて、いまも病院の個室からお出になることができないそうです。なにからなにまであの人の仕打ちです。あの人が、妻の立場にある女の心をボロボロにしたのです」
「三樹夫さんが?」
「いいえ」
女は首を左右に振った。
「私が言うあの人とは……美和さん」
その名前が出たとたん、早百合は反射的に喉元《のどもと》に手を当てた。窒息しそうな苦しさに襲われた。
「これをごらんなさい」
女は玄関先に立ったまま、持参した封筒から六つ切りサイズのカラー写真を取り出し、それを早百合に渡した。
一瞥《いちべつ》するなり、早百合の膝《ひざ》が小刻みに揺れ出した。
女が示したのは、写真館で撮影した正式な結婚記念写真だった。正装した北嶋と、ウエディングドレス姿の女である。
写真の花嫁は、いま早百合の目の前にいる女らしい。だが、その顔立ちはまるで別人のようにふっくらとして幸せに満ちている。
早百合の手が震え、それにあわせて二人の記念写真が波打った。
「これは……これは……嘘《うそ》でしょう。何かの冗談で撮ったものでしょう」
「では、これも冗談だと思いますか」
女は、こんどは十枚近いスナップ写真の束を取り出した。
教会での結婚式の風景。ヴァージンロードを父親に介添えされながら歩く花嫁。それを迎える北嶋。
牧師に向かって誓いの言葉を述べる二人。結婚指輪の交換。ベールを上げて花嫁に接吻《せつぷん》する北嶋。
さらには場所を披露宴会場に移し、早百合のときの倍はいる八十人ほどの列席者の前で、ウエディングケーキへ入刀する北嶋と花嫁。お色直し後のキャンドルサービス。友人のスピーチに爆笑する二人――
早百合は声もなかった。
テレビか映画の撮影でもないかぎり、遊びでこれだけの規模の作り事ができるはずもない。
そして決定的だったのは、最後の一枚だった。
青い海を背景に、波打ち際で北嶋に抱きかかえられてはしゃぐ水着姿の女。
「私もハネムーンはハワイでした」
女は言った。
「そしてとても豪華で広々としたスイートルームに泊まりました。ただし、彼の母親もいっしょに」
早百合はとうとう叫び声を発した。
黒い水着姿の美和が、写真の片隅に写り込んでいたのだ。
9
早百合は、この事態をどうとらえてよいのかわからなかった。
自分以外にも、北嶋三樹夫と結婚式を挙げ、同じように 姑《しゆうとめ》 の美和といっしょにハワイへハネムーンへ出かけた女がいたとは。しかもホテルの部屋までいっしょなのだ!
しかし、北嶋は間違いなく早百合と結ばれるまでは独身を貫いてきたはずである。それは戸籍によって証明されている事実なのだ。
「早百合さん、まだ入籍していませんね」
応接間に通された女は、早百合の疑問を見抜いたように言った。
「もしかすると、占いで日取りが悪いからといった理由を持ち出されて、入籍を先延ばしにされたんでしょう」
何から何まで図星だった。
早百合の沈黙を肯定のしるしと受け取って、女はさらにつづけた。
「大阪の人も、静岡に住んでいた私も、札幌の人も、みんな同じ体験をしてきたんですよ。三樹夫さんの転勤先で結ばれた女は、みな早百合さんと同じ目にあっているのです。私が妻でないなら、あなたも妻でないと言ったのは、そういう意味なのです」
「そういう意味って?」
「早百合さんも含めて、いままで三樹夫さんと結婚した四人の女は、誰ひとりとして入籍をしてもらっていません。ですから、戸籍上で正式に北嶋三樹夫の妻となった女はひとりもいないのです。おそらくあなたも、北嶋の姓を名乗る日は永遠にやってこないはずです」
早百合は愕然《がくぜん》となった。
たしかに戸籍の上では、いつも北嶋三樹夫は独身である。そして、早百合は決して法的に認められた正妻ではない。その点からすれば、早百合も目の前の女と同格だと言われても仕方ないではないか。
「支店から支店へと転勤するたびに、三樹夫さんはその赴任先の土地で婚約者を作ります。一年くらい住んで、その土地の暮らしに慣れたころにです」
女は淡々と語った。
「そしてその女性と結婚。略式ではなくて、本格的に結婚式場で挙式するのです。もちろん披露宴には、銀行の上司をはじめ知人や友人を招きます。新居もちゃんと準備してあります。賃貸だけれども真新しい新居を。ここまでされたら、誰がこれをかりそめの新婚生活だと思うでしょうか」
「待ってください」
早百合は、真っ青な顔をしてさえぎった。
「そんなにたびたび結婚式を挙げたら、勤め先の銀行の人たちは不審に思うでしょう」
「不審というよりは、軽蔑《けいべつ》ですね」
女は言った。
「最初の大阪の人のときは盛大な結婚式が行なわれたそうですけれど、二度目の私のときは、彼の都合でずいぶん招待客の数を減らしました。籍は入れないままに先妻と別れ、懲《こ》りもせずにまた新しい女と――それも、またも入籍をせずにいっしょになるというのですから、私生活にうるさい銀行では、彼は大きく評価を下げています。幹部候補生失格の烙印《らくいん》を押されたも同然なんです」
そう言われてはじめて早百合は、自分たちの結婚披露宴の招待客の少なさが理解できた。北嶋は、以前の披露宴に出た人間はできるだけ招かないようにしていたのだ。
法的にはつねに未婚の立場にありながら、実際には再婚、再々婚、そして再々々婚だったから、事情を知った人間には列席してほしくなかったに違いない。
それで一度目よりは二度目、二度目よりは三度目というふうに、招待客の人数はどんどん減っていかざるをえなかった。四度目の早百合のときは、両家合わせてわずかに三十人である。
「でも」
早百合はたずねた。
「そうまでして三樹夫さんが結婚と離婚を繰り返す理由は何なんです」
「言葉尻《ことばじり》をとらえるようですけれど、正式な意味での離婚という言葉は、私たちには存在しないんです。だって、籍を入れていないのですから」
言われてみればそうだった。早百合は、指摘されてはじめて自分の立場がいかに不安定であるかに気がついた。
「とにかく、結婚当初の幸せな毎日が嘘のように、つらくてつらくて泣いてばかりの日がつづき、心がボロ雑巾《ぞうきん》のように破れてしまったところで、妻の立場の女はあっさりほうり出されてしまうのです。慰謝料を請求する気力もないような状況で……。それが事実上の離婚」
「それは誰のせいで?」
「さっきから言っているように、美和さんのせいで。三樹夫さんの美しい母親、美和さんが鬼となって嫁をいびり出していくのです」
柔和な菩薩《ぼさつ》顔の中から、ふっと怨念《おんねん》に満ちた般若《はんにや》顔をのぞかせる美和の姿が、早百合の前に幻影となって現れた。
「そのさいに三樹夫さんは、せめて相手の女性の世間体が守られるように、そして自分自身の世間体もまた守られるように、入籍という行為をとらないのです。籍を入れてさえいなければ、実態がどうであれ、戸籍上では結婚の事実も離婚の事実も存在しないことになるのですから」
「じゃあ三樹夫さんは、最初から私が美和さんに追い出されることがわかっていながら結婚したんですか!」
「そうです。入籍をしないのがせめてもの救いと考えて」
「そんな話は信じられないわ!」
大声を出せばすべてのことが否定できるかのように、早百合は叫んだ。
「どうしてそんなことがありうるの!」
「かわいそうに三樹夫さんだって、心の奥底では平凡な結婚をしたいと思っているのです。でも、美和さんとの愛情を天秤《てんびん》にかけたら、やっぱり妻よりも美和さんに傾いてしまうのです。そして、その美和さんの生きがいは、いじめ」
「いじめ?」
「ええ、嫁をいじめていじめて、最終的にはその心をめちゃくちゃにするのがあの人の生きがいなんです。なぜそんなことになったのかといえば、あの人自身も嫁の立場にいたときにひどいいじめにあったから」
女は、北嶋が打ち明けてくれた話だと前置きしてつづけた。
「美和さんは、最愛の息子を奪われた母親が、花嫁に対してどれほどまでに強い悲しみと強い憎しみを心に抱けるものか、それを身をもって体験させられたのです。そして美和さんは思い知らされました。結婚とは、その主役たちが最高の幸せを奪ったぶん、必ず誰かが幸せを奪われて泣く儀式なのだと……」
早百合は、おもわず心の中で「ああ」とつぶやいた。
学生のころから追い求めてきた大テーマの説得力ある答が、いまこんな形で見つかるとは思ってもみなかった。
「ともかく、姑から徹底したいじめを受け、美和さんは非常につらい花嫁時代をすごしました。そしてそのときの怨念を、幸せをもとめて北嶋家に嫁いできた次の世代の花嫁にぶつけることで、自分の被害者意識を晴らそうとしました。ただし、世間によくある嫁いびりの話とはまるでレベルが違います。
美和さんの憎しみのすさまじさは、一人の嫁をいじめるだけで満足できるようなものではありませんでした。あの人は、息子が銀行マンで転勤が多いのをいいことに、新しい土地へ移るたびに入籍をしない結婚を三樹夫さんにすすめ、それによって新たな獲物を手元に呼び寄せるのです」
女の口から次々と語られる信じられない話に圧倒され、早百合の頭はパニック状態になった。
しかし、異常の一語に尽きるその話が事実だと認めれば、最近になって早百合が体験しはじめた異様な出来事にも説明がつく。
「三樹夫さんも、最初は美和さんの計画に協力することにためらいがあったかもしれません。けれども、二度目となる私との結婚あたりからは、もう割り切ってしまったのだと思います」
肩をすぼめるようにして女は言った。
「母親のいじめ願望に協力して妻を追い出せば、自分もまた改めて新しい妻を迎えることができる――三樹夫さんは、これに味をしめたのです。考えてみれば、これほど男にとって都合のいいシステムはないですよね。昔から男の人が言うでしょう、女房と畳は新しいほうがいいって」
「そんな……」
早百合の瞳《ひとみ》に涙があふれた。
「三樹夫さんの私への愛情って、たったそれだけのものだったんですか」
「泣きたいでしょうね。早百合さんとしては絶対に認めたくない話ですものね。それは私も同じだったわ」
美和から受けた仕打ちの精神的後遺症が治らず、激減した体重が元に戻らないという女は、やはり目元を赤くしていた。
「でもね、早百合さん、三樹夫さんが新しい妻に飽きたころから、美和さんのいじめは本格化するんですよ。それはいつも結婚して三カ月から四カ月たったあたり。大阪と札幌の奥様の例もそうでしたし、私もそうでした。早百合さんももうすぐですね」
早百合は唇を噛《か》んだ。
言われてみれば、母親のケガで延期した新婚旅行の再調整を北嶋が言いはじめたのが先月――つまり、結婚から三カ月たったときではないか。
それでは、もうあの時点で北嶋は早百合に飽きてしまったというのか。これだけ北嶋に心からの愛を捧《ささ》げてきたつもりだったのに、それはすべて報われない運命にあったというのか。
「美和さんから言葉に言い表せないような仕打ちを受け、神経がボロボロになりながらも、私にはどうしても知りたいことがありました。別れる前に、どうしても聞き出しておきたいことが」
女はつづけた。
「それは、三樹夫さんがほんとうに私を愛してくれた時期があったのか。それとも私との結婚は、母親のための獲物をつかまえる手段にすぎなかったのか。そこを正直に教えてほしいと彼に詰め寄ったのです」
そこで言葉を切ると、女は深いため息ののちに言った。
「きみのことは愛していた。そしていまも愛している――三樹夫さんはそう言いました。けれども、もっと大きな愛情が存在する以上、仕方がないんだ。許してほしい、とも」
「もっと大きな愛情というのは、お母さまのことなんですか」
「ええ。けっきょく三樹夫さんにとって未来|永劫《えいごう》に愛しつづけられる女性は、母親の美和さんしかいなかったんです」
「それは……あの、それは……」
できれば避けたい質問だった。できれば知りたくない真相だった。だが、ここまできたら早百合はたずねるよりなかった。
「三樹夫さんとお母さまとの間に、あってはならない関係が存在したということですか」
「そうです、もちろん」
あまりにもあっさりと女が認めたので、早百合はショックを受けるよりも、ぽっかりと心に穴が空いた気分になった。
が、ほんとうのショックはその次にきた。
「三樹夫さんと美和さんの間には、男と女の関係がありました。いまもきっとあるでしょう。けれどもそれは近親相姦《きんしんそうかん》といった概念を超えたものなのです。三樹夫さんと美和さんの関係の本質を知ると、近親相姦という異常な言葉すらとても平凡に感じてしまう、それくらい二人の間に横たわる真実は、私の理解が及ばないものでした」
「どんな真実なんですか、教えてください」
「早百合さんはまだ知らないほうがいいかもしれないわ」
「いえ、かまわないから教えてください」
冷たくなった手のひらを握りしめながら、早百合は北嶋の『二番目の妻』に訴えた。
「どうか三樹夫さんとお母さまのすべてを、私に話してください」
「ほんとうにいいのですね」
「はい」
早百合の覚悟を決めた表情を確認すると、女も真剣な目で言った。
「では、ひとつの予告をしておきましょう。もうすぐ三樹夫さんは、あなたがいる前でも、平気で母親のことを『美和さん』と呼ぶようになると思います」
「美和さん?」
早百合は、すぐには相手の意味するところがわからなかった。
「いつもは彼は、自分の母親を『母さん』と呼んでいるでしょう。でも、じつは三樹夫さんの頭の中には、母を母として認める論理が欠落しているのです。そして、美和さんの年齢を考慮に入れる思考回路もありません。
その胎内から生まれ出た実の母親であり、しかもことしで六十歳を超えているにもかかわらず、三樹夫さんの心には、北嶋美和という女性が永遠の恋人として固定されてしまっているのです。そこには親子という認識などまったくみられません。
ですから誰も見ていないと思うと、彼は母親のことを『美和さん』と呼ぶのです。愛情のこもった声でね。偶然私は、自分の耳でそれを何度か聞いたことがありました」
「ほんと……ですか」
「ええ」
女は、認めたくはないのだが、といったふうにゆっくりうなずいた。
「これまで便宜上、私は『母』とか『息子』という言葉を使ってあの二人のことをお話ししてきましたけれど、実際には彼らにそうした意識はないのです。美和さんも、きっと三樹夫さんを息子とは思わずに、一人の魅力的な男性としかとらえていないはずです。信じられないことに、あの二人はいつの時点からか、おたがいを親でもなければ子でもないというふうに割り切ってしまったのです。
親子の縁を切るというと、ふつうは不祥事や感情の行き違いによるものだったり、あるいは修行の都合などから起きる事態ですが、あの人たちの場合は、愛情を道徳的に合法化するための手段でした。つまり、一人の男と一人の女として心ゆくまで愛し合いたいから、親子でいることをやめたのです」
「………」
早百合の顔から血の気が引いた。
「ですから三樹夫さんにも美和さんにも、近親相姦につきもののタブーを犯した罪悪感というものがまったくありません。母と息子がまじわれば禁じられた愛になるかもしれませんが、男と女の愛だと認識すれば、罪の意識が起きるはずもないのです。
三樹夫さんにとって、美和さんは永遠のマドンナなのです。そして彼は、三年に一度くらいのペースで世間の目をあざむく形の結婚を繰り返しながら、いじめられ役の生贄《いけにえ》をマドンナに提供しつづけてきたのです」
そこまでしゃべると女は口をつぐんだ。そして早百合もしばらくは無言だった。
予想していた最悪の事態をさらに飛び越えた、あまりにも残酷な結論だった。その驚愕《きようがく》の真実を、彼女は必死に否定しようとしてみた。
だが、それが無駄な作業だとわかったとたん、早百合は顔を覆って泣きくずれた。
その彼女を同情のまなざしで見下ろしながら、同じ被害者の立場にある『二番目の妻』はつぶやいた。
「美和さんは、結婚とは幸せの陰で犠牲者を生む儀式だというような考えを持っていたそうです。でも私は、女の立場からこう考えたいと思います。
結婚とは、いかなる安全保障もない、果てしなき暗黒世界へ足を踏み入れることだ、と……」
10
女が帰ったあと、何時間たったかわからない。
日の長い季節だったが、すでに外は暗くなっていた。しかし、部屋に明かりは灯っていない。照明のスイッチひとつひねる気力すら、早百合には残されていなかったのだ。
キッチンのテーブルに突っ伏したまま動けずにいる早百合を、禁じられた暗黒世界を象徴するような闇《やみ》が幾重にも包んでいる。
やがて、夜の静けさを破ってどこからかにぎやかな笑い声が聞こえてきた。美和と北嶋のものだ。
明かりの消えた我が家を不審に思わないのか、二人の楽しそうな笑い声はやむことなくどんどん近づき、玄関の前まできた。
「美和さん」
扉の向こうで夫の声がした。
「美和さん、もうすぐぼくたちのハネムーンだね」
その言葉に応じて、ころころと玉を転がすような笑い声がまた湧《わ》きあがった。
「そうね、三樹夫さん。美和、とっても楽しみだわ」
そして、玄関のチャイムが鳴った。
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隣の江畑氏
1
「ばっきゃろい、とうとう清水《きよみず》の舞台からドボーンで買っちまったぜ」
何を言ってるんだ、と自分でもおかしくなるが、ぼくは無闇矢鱈《むやみやたら》とはしゃいでいた。
日曜日、どこへ出かけるでもないのに、ぼくも妻の美代子もよそゆきの格好である。
いや、自宅にいるからこそパリッとした服を着込んでおしゃれをしたい気分だった。なにしろぼくたち夫婦は、狭いながらも自分たちの家を手に入れたばかりなのだ。
「やっぱりいいわあ、庭付きの家というのは」
美代子は感慨無量といった表情で、建て売りで購入したツー・バイ・フォー工法による二階建ての我が家を仰ぎ見た。
さすが新築、どこを見てもピカピカである。外装のすべてが陽光を反射して輝いている。いままで美代子といっしょに暮らしてきた目黒の中古マンションや、その前に住んでいた都営団地には、こんな輝きはなかった。
「やっぱり真新しい一戸建てはいいもんだ」
と、ぼく。
「マイホームというのは、マンションではなくて庭付き一戸建てのためにある言葉だよなあ」
やたらと庭付き一戸建てに固執するところは、なんだか立派な中年夫婦といった感じだが、ぼくはまだ三十三歳だし、妻の美代子も二十七歳。そして二人とも若づくりのほうだったから、学生夫婦といっても通用するくらいだ。
そんなぼくらが、多少金銭的に無理をしてでも一戸建てに固執したのにはわけがある。が、その事情を思い出すとせっかくの楽しい気分に水を差すから、あえていまは忘れておこうと思う。
「でも、思い切って都会を離れると、空気がいいわね」
美代子は両手を頭の上で組んで、思い切り伸びをした。
「ああ、ほんとうだ。田舎っていうのも悪くないよ」
あいづちを打ちながら、ぼくは、我が家の庭越しに見える緑に覆われた小高い山と、その上に広がる真っ青な空を眺めた。
ここは都心から電車とバスを乗り継いで二時間二十五分のところにある、山間の新興住宅地である。
とりあえず行政区分上は『村』ではなく立派な『市』だが、『大字』だの『字』といった、東京育ちのぼくたち夫婦にはなじみの薄い文字が住居表示に含まれていたし、山と畑と小川に囲まれた自然環境からみても、まさにここは田舎と呼ぶにふさわしい場所だった。
ちなみに、電車とバスを乗り継いで二時間二十五分というその基準点は、中央区日本橋にあるぼくの勤め先である。すなわち、この新居から会社まで通勤に片道だけで二時間二十五分を要するということなのだ。
もちろん往復だとその倍で、ほぼ五時間になる。いや、残業で少しでも遅くなると、電車は本数もまばらになるし通勤快速も終わってしまう。それにバスのほうも一時間に一本あるかないかという状況になるため、帰りだけで三時間を超すことも大いにありうる。
これは常識的な通勤時間を大幅に上回っている。はっきりいって異常だ。それはぼく自身よくわかっている。
そうまでして一戸建てにこだわるかねえ、という嘲笑《ちようしよう》まじりの声も耳にしているが、反論するつもりはまったくない。みなさんのおっしゃるとおりだと、ぼくら夫婦も思っているからだ。
にもかかわらず、ぼくらはこんなに遠くまで越してきた。それでじゅうぶんに満足しているし、往復五時間あまりの通勤時間も苦にならない。
若造のぼくの給料で一戸建てを手に入れようとしたら、山や森に手が届きそうな、自然百パーセントの場所までやってこないことには予算と折り合わないという事情も、たしかにある。しかし、少ない予算で一戸建てを買うためだけに、こんな遠くへやってきたのではない。
じつはぼくたち夫婦には、都会から遠く離れてしまいたい事情があった。以前の住まいがあった目黒から、できるだけ遠くへ離れたい事情が……。
しかし、いまはそのことを忘れたい。忘れたいから、ぼくも美代子も異様に明るくふるまっている。
「あー、やったもんだなあ」
ぼくは、緑鮮やかな芝生が敷き詰められた庭先で、スーパーマンのポーズよろしく、腰に手を当てて新居を見上げた。
「サラリーマンというのは苦労も多いけど、福利厚生の充実した大企業を選んでよかったよ。勤続十年以上の社員には、こうやって曲がりなりにも一戸建てを手に入れられるだけの融資の便宜を図ってくれるんだから」
「そうよね、個人で銀行にかけあっても担保不足で、二千万を超すお金なんかとても借りられないものね」
ぼくと結婚するまでのほんのわずかな間だけ都市銀行に勤めていた経験をもつ美代子は、実感をもってそう言った。
「それにしても、ついてるよな」
引越しにあたって、いいことばかりを強調しておきたい心理になっているぼくは、なかば自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。
「融資限度ギリギリの社内ローンを組んで一戸建てを買うと決めたとたん、係長昇進の辞令が出ちゃうんだから」
「そうよ、私たちってすごくラッキーなのよ」
美代子は美代子で、自分に言い聞かせるようにつづける。
「一戸建てと出世が同時に手に入っちゃうなんて、こんな運のいいことばかり重なっていいのかしら、って感じよ」
「おいおい」
ぼくは笑った。
「出世っていう言葉を使われると、なんかいかにもサラリーマンですって感じになっちゃうよ」
「だって出世したのは事実なんだもん。いいじゃない、堂々とサラリーマンしてれば。係長になったぞー、持ち家も手に入ったぞーって、思い切り素直に喜んじゃうのよ」
そして美代子はぼくの腕に自分の腕をからめ、リズムをつけて呼んだ。
「係長さんっ」
「おう、なんだ……なんちゃって」
答えてから、ぼくは頭をかいた。
「あ、パパ、照れてるう」
「ばかやろ」
人目がないのをいいことに、ぼくたちはじゃれあって、そして庭先に立ったまま長い長いキスをした。
山のほうから吹き寄せてくる緑の香りを含んだ風が、ぼくたちの頬《ほお》をそっと撫《な》でていく。
本来ならば、いまは幸福感に満ち満ちたときであるべきだった。
だが――
美代子の柔らかい唇を感じていても、頭の片隅に冷たく醒《さ》めた自分がいた。そして、それはおそらく美代子も同じだろうと思う。
こんどこそ、こんどこそ恐怖の対象から逃げられるかと、それを二人とも口に出さずに考えていたのだ……。
2
美代子はぼくのことを、通夫《みちお》という名前でなく、パパと呼ぶことが多かった。
だが、まだ子供がいるわけではない。また、子供ができたときのことを前提にそう呼んでいるのでもない。甘えっ子なのだ、美代子は。
彼女は幼いときに父親を病気で亡くし、三人姉妹の長女として甘える対象なしに少女時代をすごしてきた。
お父さんがいなくても、せめてお兄さんがいてくれたら、といつも思っていたそうだが、そんな彼女は、心のどこかで全面的に頼れる男性を求めていたのだろう。
ぼくがはたして頼りがいのある人間かどうか、それはちょっと自信がないが、父親みたいに甘えたいというニュアンスを込めて、美代子はぼくのことをパパと呼んだ。
そう呼ばれたからといって、ホステスとパトロンの関係に間違われるほどぼくも老《ふ》けていないから、「パパ、パパ」と呼ばれるのにはすっかり慣れっこになっていた。たしかに最初は違和感があったが、慣れてしまえばこういう甘えられ方も悪くはない。
そんな甘えっ子の美代子と結婚したのは、いまから五年前だ。ぼくが二十八で、美代子が短大を出て二年目の二十二のときだった。
友人と出かけたゴルフ場で、一組前でプレイしていた女性グループの中に美代子がいた。彼女たちは四人が四人とも若葉マークのゴルファーだったため、あっというまにこちらが追いついてしまったのだが、そのときに会話を交わしたのがきっかけで、おたがい惹《ひ》かれてしまったのだ。
いや、正確に言えば、ぼくの圧倒的な一目ぼれだったろう。美代子の笑顔は、これまで見たどんな女性の笑顔よりも魅力的だった。
結婚するなら笑顔のすてきな女の子、と決めていたぼくは、電光石火の早業で彼女の電話番号を聞き出して、その日以来猛烈なアタックをかけ、ほどなくプロポーズにいたった、という次第だった。
新婚当時、ぼくらは都営の団地に住んでいた。古ぼけた外壁に象徴される築年数の経ったコンクリートの生活空間は、決して見映えのよいものではなかったが、若い二人の暮らしに2DKの間取りはじゅうぶんだったし、なんといっても家賃の安さは代えがたいものがあった。
そこに三年半ほど住んだのちに、目黒の中古分譲マンションに引越した。親が援助をしてくれたおかげで、なんとか頭金の都合がついたからだ。
中古ではあったが、前の持ち主が完全にリフォームして出ていってくれたおかげで、住み心地は快適だった。ただし、都営団地の家賃とちがって月々のローンの返済はけっこう大変だった。
それでも目黒という場所の便利さに、ぼくたちは大いに満足していた。だから、本来ならばもっと長くそこに住んでいたかったのだ。あの男が隣に越してさえこなければ……。
「ねーえ、パパあ」
ぼくにもたれかかっていた美代子が、ふと思い出したように言った。
「荷物の運び込みが一段落したら、お隣の立花さんとか、ご近所の方に挨拶《あいさつ》回りをしなくちゃいけないわね」
「ああ」
「それと、引越しの挨拶状のほうも」
「ああ、そういえばそうだった」
美代子に言われるまで、ぼくはそのことをすっかり忘れていた。
いちおう三十三にもなり、係長という肩書もついたわけだから、たとえ形式的であっても「引越しました」という挨拶状はきちんと出しておくべきだろう。
「たしかこういうときの通知って、決まり文句があったわよね」
「ああ、『お近くへお出かけのせつは、ぜひお立ち寄りください』ってやつだろう」
「そうそう、それよ。……でも、そんなように書いちゃうと、お客さんがきたときに備えて、いつも家の中をきれいにしておかないといけないから、プレッシャーだなあ」
「バカだな、あれは社交辞令ってやつだよ」
ぼくは笑いながら美代子の額を人差指でつついた。美代子には、こういう天然ボケのところがあった。そこがまた可愛いのだが……。
「落語に出てくる長屋の世界じゃあるまいし、『おう、近くまできたついでに寄ったぜ』なんて、こっちの都合も考えずにそう気軽に立ち寄られてたまるかよ」
「それはそうだけど……」
「それに、だいたい都心からこんなに離れたところに遊びにくると思うか」
「まあねー、そうよねー」
美代子は山のほうに向き直りながら、納得してうなずいた。
「パパが言うとおり、こんな田舎までふらっとくる人なんかいないわよね」
「だろ? だけど、こないとわかっていてもだ、転居通知ではいちおう『ぜひお立ち寄りください』と書くのが決まりごとなんだよ」
「ようするに、タテマエとホンネの使い分けってことね」
「そのとおり」
「じゃ、割り切って出来合いの文章で印刷屋さんに頼んじゃおうか」
「いちいち自分で考えるよりも、それがいちばん手っ取り早いだろう」
「ぜんぶで何枚いる?」
「そうだな……会社の連中と、親戚《しんせき》と、おれの個人的な友だちと、それからおまえの友だち関係と、あと目黒のマン……」
マンションにいた連中、と言いかけてぼくは途中で言葉を引っ込めた。その戸惑いが美代子にも伝わって、彼女の顔が急に曇った。
そして、とうとう美代子のほうから、『あのこと』にふれてきた。
「目黒のマンションのほうに転居通知を送ったら、いつ江畑《えばた》さんの目に触れるかわからないわ」
そうなのだ。問題はそれだ。
「だけど、いくらなんでもこんなところまでこないだろう」
ぼくも表情をこわばらせて答えた。
「たしかに、引越し先を隠したって調べようと思えばいくらでもできる。だから、あいつがここへ一度くらい様子を見にくることがあるかもしれないが、まさか、隣近所へ引越してくることなんかありえないよ」
「………」
「だいたい右も左も前も後ろも、うちの周りはぜんぶ入居済みなんだ。第三期分譲地区では、ぼくたちが最後の入居者なんだぞ」
黙りこくる美代子に向かって、ぼくは語りつづけた。
「いまから越してこようにも、空きがまったくないんだ。それに、江畑は江畑で東京に仕事があるんだ。こんなところまで住まいを移したら、通勤そのものが成り立たなくなるだろう。やつは超有名企業の課長だろ。その仕事を棒に振ってまで、ぼくたちを追いかけてくるはずがないよ」
「ぼくたち、じゃなくて、私を追いかけてくるのよ」
硬い声で美代子が訂正した。
「狙《ねら》われているのは私なのよ」
「それはわかっているけど」
「あの人ならやるかもしれない」
宙に視線をさまよわせながら、美代子がつぶやいた。
「あの男なら、それくらいのことをやっても不思議ではないわ。パパ……私、こわい」
ズン、とぼくの心が重くなった。
3
「いやあ、これは偶然ですねえ、広瀬さんの奥さん」
あれは目黒の中古マンションに引越して半年ほど経ったときの夕刻だった。一人の男が、ぼくたちの部屋のチャイムを鳴らして玄関先に現れた。
その日は平日だったけれど、たまたま会社の創立記念日にあたっていたため、ぼくは自宅にいてのんびりと読書をしていた。が、応対に出た美代子と訪問者の男とのやりとりに、おもわず聞き耳を立ててしまった。
「私をお忘れじゃありませんよね。江畑です。都営団地のときに奥さんのお部屋の隣に住んでいた、江畑誠です」
いわゆる近所づきあいというやつが得意でないぼくは、前にいた団地の住人がどんな顔ぶれだったかロクに覚えていない。
しかし、右隣の住人は野田という苗字の親子六人家族だったし、左隣の部屋には『小野寺』という表札が掛かっていた。そしてそこには、老婆がひとりと、その息子に思える中年の男が同居していた。
その男とは、ときおりエレベーターなどで顔を合わせたが、たがいに軽く会釈を交わす程度で、親しく口を利くようなことはなかった。
ぼくだけでなく、向こうも自分から積極的にお愛想をふりまくタイプではなかったようだが、隣に住んでいた江畑誠という人物に該当するのは、その中年男しか思い当たらなかった。
ぼくのいる洋間からは、横向きになった美代子の姿は見えても、その左手にいるはずの戸口に立つ男の姿は確認できない。
引越して半年も経つと、隣人だった男の顔のイメージもだいぶ薄れてはいたが、モヤシのようにひょろっと背が高く、メガネをかけた貧相な顔の四十前後の男だった印象は残っていた。
大手企業の課長だという話を美代子から聞いたことがあったが、それにしては彼の妻や子供を見かけたことはない。実の母なのか、七十を越えたと思われる老婆と二人で、ぼくたちの隣の部屋に住んでいた。
「あの、あなたは小野寺さんではなかったんですか」
直接男と向き合っている美代子も、やはり不思議そうに名前の件を問いただしていた。
「ああ、小野寺というのは伯母《おば》の苗字でしてね」
「伯母さん?」
「ええ、ちょっと事情がありまして、都営団地では伯母と同居していたのです。しかし都営ですから、何かと入居資格がうるさいでしょう。それで、堂々と表札に江畑という名前を出せなかったんですよ。会社にも、現住所は『小野寺様方』にしてありましたしね。しかし、そんな暮らしも不便なので、やはり伯母のところからは出ることにしたんです」
「そうですか」
苗字の違いは納得したにしても、その江畑が、なぜ突然ぼくたちの新しい住まいへやってきたのか。
ぼくは読みかけの本を置いて、しばし耳をそばだてていた。
「いやあ、それにしても相変わらずおきれいですねえ、奥さんは」
ドキッとした。
ねばりつくような江畑の言い回しには、たんなるお世辞を越えた何かがあった。
「団地にいらしたころから、ああ素敵な方だなあと思っていました。あれから半年、こうやってまたお目にかかることができて、ほんとうにうれしいです。そして、奥さんが少しも変わっていらっしゃらないので安心もしました」
「あの、すみませんけれど……」
チラッとぼくのほうに視線を向けてから、美代子は相手の男に言った。
「どういったご用件でしょうか」
「引越しのご挨拶《あいさつ》にまいりました」
「引越しの?」
美代子が聞き返すと同時に、ぼくも心の中で疑問を投げかけていた。
「なぜ江畑さんが、わざわざ引越しのご挨拶にみえるんですか」
ぼくの疑問と同じセリフを、美代子が口にしていた。江畑が伯母の元を離れてどこへ転居しようと勝手ではないか。
すると、意外な答えが返ってきた。
「じつは私、このたびですね、またもや奥さんの隣の部屋に住むことになりましたのですよ」
「えっ」
美代子は驚きの声をあげた。と同時に、ぼくも反射的に椅子《いす》から腰を浮かせた。
「隣の部屋って……」
「ですから604号室ですよ、奥さん。お宅が603、私が604。都営団地のときは、おたくが212で、うちが213でしたよねえ。何の因果か、またお隣どうしです。どうぞよろしくお願い申し上げます」
「でも、あの……604は斉木《さいき》さんがお住まいでは」
「ありゃりゃ、ごぞんじなかったんですか」
江畑は妙にひょうきんな声を出した。
「斉木さんはね、小学校に通っておられたお坊ちゃんが、先月、雨で増水した目黒川に落ちて亡くなるというご不幸があって」
「ええ、もちろんそれは知っていますけれど」
「それでけっきょく、思い出の多いこのマンションには居づらくなったということで、お売りになったんですよ。その後釜《あとがま》に私がお邪魔するというしだいで」
「斉木さんが……そうなんですか。しばらくお顔を見ないな、と思ってはいましたけれど」
家族に不幸のあった隣人が部屋を売り払ってしまったことは、美代子にも初耳だったらしい。なにしろ、604号室の表札は、いまだに『斉木』となっているのだ。
だが、斉木家が出ていったそのすぐあとに、都営団地のときの隣人だった江畑が越してくるというのは、あまりにも話が出来すぎのような気がした。
本人は偶然ですねえと驚いてみせているが、世の中にそんな偶然があるのだろうか、という疑問が、まずぼくの脳裏に走った。
長男の事故死がなければ、斉木家の人々はこのマンションを出ていきはしなかっただろう。また、彼らがマンションの売却を決めたことを、江畑はどうやって知ったのか。そして、どうやって真っ先に契約にこぎつけることができたのか。
ここは賃貸ではない、分譲マンションなのだ。うまいぐあいに斉木家の部屋を買うには、かなりの情報収集が必要だったはずだ。
パッと思いついただけでも、そんな疑問が並ぶ。
都営団地にいたころは、ぼくも美代子も『小野寺』だと思っていた男にさしたる警戒心を抱いてはいなかった。美代子自身も、彼とも隣の老婆とも、団地内で顔を合わせたときに挨拶を交わす程度のつきあいだったからだ。
しかし、ぼくらの引越し先で、ふたたび彼が隣人になるというと、これは何か特別な意図があるのでは、と疑わざるをえなくなる。
「奥さん」
平日の夕刻だから、ぼくが部屋の中にいるとは江畑も思っていないのだろう。彼はねちねちとした声でつづけた。
「ふつう、引越しのご挨拶というのは、石鹸《せつけん》とかタオルとか、そういった無難なものにしますよねえ。実際、私はほかの方には、ちょっとおしゃれな石鹸の二個セットにしたんです。605の後藤さんとか、真下の504の三谷さんにはね。でも広瀬さんの奥さんには、やはり特別なものをお渡ししたかったんです。……で、これなんですが」
「何ですか」
「どうぞ受け取ってください」
「ですから、何が入っているのでしょうか」
美代子の声に警戒の色が強く出ている。
ぼくのいる場所からは、美代子に向かって薄べったい長方形の箱を差し出そうとする男の手だけが見える。ダークブルーの背広の袖口《そでぐち》が確認できた。
そろそろ出番かもしれないと思い、ぼくは、玄関に近いバスルームのドアの陰にそっと移動した。
「とにかく包みを開けてみてください」
江畑が、しつこく美代子に迫る。
「きっと奥さんに喜んでいただけると思うのです」
「いえ、開けられません。受け取ることもできません」
「なぜです」
「だって、小野寺さんは」
「江畑です」
「あ、ごめんなさい。江畑さんはウチにだけ特別なものを、とお考えになったのでしょう。みなさんと同じものならともかく、そうでないとしたら、その意味あいがはっきりしませんと……」
「お宅にだけ特別、ではないのです。奥さんにだけ特別、なのです」
「やめてください、そういう言い方は」
美代子の声がきつくなる。
「そんなことをおっしゃらずに、奥さん」
「いいえ、遠慮させていただきます。どうぞお気遣いなく」
「でも、私の気持ちですから」
「困ります。主人に叱《しか》られてしまいます」
「おやまあ」
江畑は、びっくり箱を開けたみたいな声を出した。
「広瀬さんのご主人は、そんなにやきもちやきなんですか」
ぼくはカッとなった。なんだ、その言い方は、と腹が立った。
だが、まだ出て行くには早い。江畑という男は、もっと問題発言をしそうだった。やつの前に飛び出すのは、もう少しあとにするべきだ。
「でも、たしかに夫婦間のモメごとが生じてしまうかもしれませんよねえ、このお届けものを差し上げると」
「いったい何なんですか、それ」
「パンティです」
美代子は絶句した。
4
ドアの陰で聞いていたぼくも、一瞬自分の耳を疑った。
しかし、聞き違いではなかった。江畑がさらにつづける。
「赤いレースの透け透けパンティなんですよ。もうほとんど何もかも見えちゃうような悩ましいデザインなんですがね、これを奥さんが穿《は》いているところを想像すると、私はもう……」
「どういう神経をしているんですか、あなたは!」
美代子が怒鳴った。
「さっさと出ていって。帰らないと警察を呼びますよ」
「あはははは」
江畑は笑った。
寒気をもよおす高笑いだった。
「いいなあ、奥さん。笑顔もすてきだが怒った顔もきれいだ。美人は喜怒哀楽のいずれをとっても美しいですね。いつかこんど、美代子さんの泣き顔を見てみたいなあ」
よくも気安く『美代子さん』などと呼んでくれるな、と思いながら、ぼくはもう少しだけガマンした。引っ込みのつかなくなるところまで相手にしゃべらせてしまったほうが、追及するときにとことんやり込められる。
もちろん、美代子の身に危険が生じたらすぐに飛び出すつもりだった。社会人になってやや身体はなまってきたが、これでも学生時代はレスリング部の選手だったのだ。ケンカになったら少々のことでは負けない自信がある。
が――
「私はね、はじめてあなたを見たときから、離れられない、と思ったんですよ」
江川のその言葉が、ぼくの心臓を突き刺した。
まともじゃないぞ、こいつは――背筋が冷たくなった。ひょっとしたらぼくたちは、とんでもない危険を背負ったのかもしれない、という気がしてきた。
怒りよりも危機感、危機感よりも恐怖感だ。そいつが、じわじわと背中を這《は》い上がってくる。
「美代子さんをはじめてお見かけしたのは、いまから何年前になるでしょうか。銀行の窓口に座っておられる姿を拝見したとき、そのうつむきかげんのお顔だちの美しさに、私は電気に打たれたように立ち尽くしてしまいました。周囲にたむろする客や、ほかの銀行員の姿など消えてしまい、もうあなたの姿だけがクローズアップされて私の目に飛び込んでくるのです」
驚いた。
なんと江畑は、美代子がぼくと結婚する前、銀行勤めをしていたころから目をつけていたのだ。
「あの銀行の制服が、また美代子さんにはよくお似合いでしたねえ。旧姓は尾崎さんとおっしゃるんでしたね、尾崎美代子さん。バッジにその苗字が書いてありました」
江畑は、美代子の旧姓まで知っていた。
「私、あそこの銀行に口座があったわけではないのです」
言葉を失っている美代子に向かって、江畑は勝手にしゃべりまくった。
「たまたま会社の用事でね、訪れたんですよ。そうしたら窓口に座っていたあなたを見て、なんていうんでしょうねえ、一目ぼれですかね、そうなってしまいました、はい」
話を聞いているうちに、ぼくは頭が混乱してきた。こんな男と、都営団地で偶然隣り合わせになったというのか。
小野寺という名の老婆は、新婚のぼくたちが入居する十年以上も前から、あの都営団地に住んでいた。そして、最近になってつれあいを亡くしたとのことだった。
一方、江畑誠なる男の同居は、ぼくたちの入居後にはじまったようである。
では、彼は美代子の隣室に住もうと狙《ねら》いを定めて、伯母《おば》の元へ引越しをしてきたのか。
しかし、それもまた不自然な話だ。都営団地にいくつか空きが出て入居者の募集があったとき、それは抽選で決められた。ぼくたちはラッキーなことに、一発当選となったのだが、クジ運で決まった部屋の隣に、美代子に一目ぼれした男の伯母がまえもって住んでいた、などという都合のいい偶然がはたしてあるだろうか。
ない。絶対にそんな偶然はない。確率論的には可能性があっても、現実問題としてはありえない。
となると――
ぼくは青ざめた。
江畑誠という中年男は、美代子の隣に住みたいがために、身寄りのなくなった見ず知らずの老婆の元に入り込んできたのではないか!
「私ねえ、おもわず美代子さんがお勤めの支店に口座を作ってしまいましたよ。そして、用もないのにお金を出したり入れたり……もちろんキャッシュカードといった無粋なものは使いません。通帳とハンコを持って窓口に行くのです」
江畑の声には不気味な明るさがあった。
「でも、あそこの支店は広いでしょう。普通預金だけでも、いくつも窓口があるんですよねえ。ですから、せっかく行っても順番の関係で、なかなかあなたが座る窓口に当たりませんでした。
だけど、たまに当たるとうれしかったなあ。お金を受け取るときに、おもわず手を伸ばして、あなたの柔らかそうなお手々をギュッと握りしめたくなりましたね。その衝動を抑えるのに、どれほど苦労したでしょう。私はね、そのとき以来、あなたの大ファンなんです」
有名人でもない一般の人間が、いきなり他人から「あなたの大ファンなんです」と言われたらどんな気がするか。
美代子の受けた恐怖は、そのままぼくにも伝わった。
「江畑さん、あなた、奥さんはいらっしゃらないんですか」
必死に動揺を抑えて美代子がきいた。
「いますよお」
語尾を妙に上げて、江畑は答えた。
「あれでしょ、美代子さん。私が家族もちかどうかで、異常者か否かを判断しようとしてるんでしょ。家族がいれば少しは安心と、そういう心理から出た質問ですよね、いまのは」
「………」
「いますよー、女房子供くらい」
「でも、都営団地にいたときは、奥さんもお子さんもお目にかかりませんでしたけれど」
「いっしょには住んでいないんです」
「どうしてですか」
「別居されちゃってねえ」
「別居?」
「あなたにはついていけませんから、とかいって。あはははは」
また耳障りな高笑いだ。
「でもまあ、ほら、私の勤め先が名門企業でしょ。だから女房としても、娘が私立校を受けるときに、ハクがつくと思ってるんじゃないんですか。それで別れ話は持ち出してこないんでしょう。
それに私も、会社ではいちおう課長でしょう。独り身でいるよりは、戸籍ばかりでも女房子供がいたほうが格好はつくんですよ。つまり、おたがいに打算から離婚はせずに別居どまりで踏んばっているわけです。とはいえ……」
江畑は、ハーッと大きなため息をついた。
「肉体的には独身であることに変わりはないですから、うずくんですよねえ、夜になると。ええ、四十すぎても男は男ですから。それでね、ついつい美代子さんの……」
「パパあ〜」
美代子が泣きそうな声で訴えてきた。
間髪入れずに、ぼくは玄関先へ飛んでいった。
ダークブルーの背広を着込んだ江畑は、ぼくの姿を見るなりあっと叫んで、美代子に渡そうとしていた包みをあわてて脇の下に引っ込めた。
よもやぼくが在宅していたとは予想もしていなかったのだろう、ひどい狼狽《ろうばい》ぶりだった。
「あんた、さっきから聞いていれば、変態じみたことばかり言って、いったいどういうつもりなんだ!」
猛烈な剣幕でぼくは怒った。
江畑は、『赤いレースの透け透けパンティ』が入った包みを抱え込むようにして後じさりをし、どうも失礼しましたと言って逃げ帰ろうとした。
が、ぼくはそれを許さなかった。
襟首をつかんで引き戻し、メガネがずり落ちそうになっているのを直す余裕もない江畑に詰め寄った。
「あんた、うちのカミさんに妙なことをしたら承知しないからな」
「いえ、べつに私はなにも」
「もうしてるだろう。なんだよ、その包みは。え、何が入っているんだ」
「いや、これは」
ぼくに奪われまいとして、江畑は身体を丸めるようにして、必死に包みを抱え込んだ。
「なんでもありません。ただの引越しのご挨拶《あいさつ》です。でも、奥さんがお気に召さないようですので、石鹸《せつけん》の詰め合わせを持って出直しますから」
「出直す必要なんかない」
相手の胸倉をつかんで、ぼくは言った。
「それより確認しておきたいことがある。あんた、斉木さんがいた部屋に引越してくるのは本当なのか」
「ええ、ほんとうです。嘘《うそ》だと思ったら管理人さんに確認してください。ついさっき、斉木さんの表札もはずしました。まだ私用のものは作られていませんけれど……。なにしろ、売買契約が成立したてのホヤホヤですから」
「ほんとうに越してくるのか」
その事実を認めたくなくて、ぼくはくどいくらいに念を押した。
「ええ、そうですとも」
ぼくの腕を片手で払いのけながら、江畑は言った。
「斉木さんが残していった大きな家具類は、業者が明日運び出す段取りになっています。そして、明後日から完全に私の手に部屋が引き渡されるという契約です。ですから、少々気の早い挨拶回りですが、まあ広瀬さんのお宅には、とくに早めにご挨拶しておこうと思いまして」
「目的はなんだ」
ぼくはズバリたずねた。
「引越しの狙いはなんだ」
「なんだとおっしゃられても……ようするに、前の団地は少々汚かったですからね。正直言って、私のような名門企業の課長さんが住む場所には似つかわしくないと思いましてね」
「そうじゃないだろう。あんたはぼくのカミさんを追いかけてきたんだ。たったいまそう言っていたじゃないか」
「いいえ、そんなふうには申し上げておりません。またお隣どうしになるとは、なんという偶然かと」
「嘘をつけ!」
しだいにぼくの興奮も募《つの》ってきた。
「この世の中で、まったく縁のない他人どうしが、立て続けに隣どうしになるはずがないだろう」
「………」
「あんたは、ぼくのカミさんにまとわりつきたくて、こうやって引越しを重ねてきたんだ。前の都営団地のときだって、そうだろう。小野寺さんが実の伯母というのは真っ赤なウソで、相手がお年寄りなのをいいことに、うまく言いくるめて同居人になりすましたんだ」
江畑に弁解のスキを与えず、ぼくは一気にまくしたてた。
「それでもあんたは、前の団地にいたときは、取り立てておかしな行動には出なかった。いや、出ようとしていたのかもしれないが、その前にぼくたちが引越してしまったというわけだ。
それであわてたあんたは、ぼくたちを必死に追いかけた。半年間チャンスを待って、そして斉木さんのお宅に不幸があったことにつけ込んで、また隣に越してきた。……まったく、ふざけた真似をするんじゃないよ、おい」
ぼくはしだいに乱暴な言葉遣いになっていった。
「おまえがうちの隣に引越してくるなんて、おれが絶対に許さないからな」
と、そこまで言ったときだった。
「広瀬さん、あなた何か勘違いしてやいませんか」
急に江畑が開き直った。
「なんの罪もない一人の善良な市民がですよ、A地点からB地点へと引越しをするのに、なんでよそ様から干渉《かんしよう》されなきゃならんのです」
江畑は目つきまで変わっていた。
「あんたみたいな若造に、なぜ私が引越してくるなと言われなきゃならんのです。え、あんた、ただの隣人でしょう。それ以上の資格が何かあるんですか」
「………」
「ないんでしょう。だったら、マンションの大家じゃあるまいし、偉そうな口を叩《たた》かないでくださいよ。なんの権限もないくせに」
表面上の言葉遣いこそていねいだったが、江畑の目には異様な光が宿っていた。彼が興奮しているのは、唇の端がピクピクと小刻みに痙攣《けいれん》していることでも明らかだった。
「私はちゃんと合法的に売買契約を取り交わして、このマンションの604号室を買ったんだ。その私を不当に排除するような言動は、それこそこちらが警察を……ああ、警察は民事不介入だから弁護士さんかな、そういった人を呼ばなくちゃなりません。いいんですか、広瀬さん、裁判|沙汰《ざた》になっても」
「裁判沙汰になって恥をかくのはそっちのほうじゃないのか。そもそも、おまえの持っているその箱の中身は何なんだ」
ぼくは、相手が抱え込んでいる包みを指さした。
「引越しの挨拶に、女性用のいやらしい下着を配って歩く人間がどこにいるんだよ」
「おやまあ、セクシーなパンティを人に贈ったら罰せられる法律でもあるんですか」
「法律がどうのこうのという問題じゃない。それは、おまえが変態だという証拠だと言いたいんだ。とにかくいまから管理人室に行ってくるから、そいつをよこせ」
ぼくは、江畑が小脇に抱えた長方形の箱を強引に奪い取った。
いかにも下着が入っているような軽い包みで、包装紙もピンクである。
「あ、困りますよ、広瀬さん」
江畑は、鼻まで落ちたメガネを人差指でずり上げながら、ぼくの手から箱を取り返そうとした。
「おたくの奥さんが要《い》らないのだったら他にも使い回しできますから、包みは開けないでください」
「何が使い回しだ。うるさい」
力の点では、江畑は敵ではなかった。片手で彼を押しのけると、ぼくはビリビリと包装紙を破いた。
そして、むきだしになった白い箱を開けた。
ところが……。
「あ!」
中身を見て、ぼくはあっけにとられた。
横で見ていた美代子も、意表をつかれた顔になった。
どんなに大胆なデザインの下着が出てくるかと思ったら、中に入っていたのは、ただのフェイスタオルだった。
そんなばかな、と思って、ぼくはタオルを箱から取り出した。しかし、その下には何も入っていなかった。『赤いレースの透け透けパンティ』など、影も形もないのだ。
拍子抜けしているぼくたちに向かって、江畑はネクタイを締め直しながら、それみたことかという調子で言った。
「なにがいやらしい下着ですか。だからあなたは勘違いしてると何度も言ったでしょう。ごくふつうのタオルを持って引越しのご挨拶に伺ったのに、胸倉をつかんで締め上げられるわ、変態だと罵《ののし》られるわ、勝手に包みは破かれるわ……冗談じゃありませんよ」
「だけどおまえは」
「パパ」
なおも食ってかかろうとするぼくに、美代子が「やめて」と言いたげな視線を投げかけてきた。この人をまともに相手にしたら危険よ、と、彼女の目は物語っていた。
たしかにそのとおりだ。相手の頭は絶対にまともじゃない。
実際にはタオルしか入っていない箱を持参して、これには猥褻《わいせつ》な下着が入っているのだと嘘をつくほうが、下着そのものを贈ろうとするよりももっと異常だ。
そんな異常感覚の人間をやり込めたら、その反動は恐ろしい。
ぼくはうなずいて、しぶしぶ美代子の警告に従った。
「とにかくお引き取りください」
破いた包装紙ごと箱を江畑に返すと、ぼくは相手の鼻先で玄関のドアを閉めた。
5
けっきょく江畑誠は、隣に引越してきた。
奇妙な引越し挨拶事件があって以来、ぼくも美代子もこの隣人には厳重な警戒心を抱いた。
団地のときと違って、幸いドアにはマジックアイがついていたから、もしもドアチャイムが鳴っても、相手が江畑だったら絶対に開けないように、と美代子に言い聞かせた。
ベランダにも注意させた。隣室のベランダとの境には、いちおう仕切りの石膏《せつこう》ボードが張ってあったが、その気になれば手すりのほうから身を乗り出して、こちらに入ってくることも可能だ。
だから、トゲの大きなサボテンの鉢植えをいくつか買って、それをベランダの手すりに沿って並べた。
他人からみれば馬鹿馬鹿しいほどの被害妄想かもしれないが、ぼくも美代子も本気で江畑の侵入を恐れていた。
「ねえ、パパ、私たちどうしてこんな目に遭《あ》わなければならないの」
あるとき、美代子が夕食の箸《はし》を止めて、急に涙ぐみながらつぶやいた。
「私たち、何も悪いことしていないのに。どうして?」
それは、おまえが愛らしすぎるからだよ、という冗談は、とてもではないが口に出せる雰囲気ではなかった。
江畑の言葉から推測するに、たしかに原因は美代子に対する彼の一目ぼれにあった。
しかし、いくら一目ぼれをしたからといって、その後の江畑の行動は、完全に常軌を逸したものだった。
おそらく彼は、銀行の窓口で見かけた美代子に関心を寄せると、気づかれないようにして帰宅時の彼女を尾行したのではないか。そして、独身時代に美代子が両親と住んでいた家を探り当てたに違いない。
やがて美代子とぼくの結婚を察知すると、いつのまにかぼくたちの最初の住まいである都営団地をも突き止めた。
ここまでは推測まじりの分析だが、そこから先は確定的な事実があった。
ぼくは都営団地のかつての隣人であった小野寺キミというお婆さんをたずね、同居人の江畑について聞き出したのだ。
結論から言えば、やはり小野寺さんと江畑との間に姻戚《いんせき》関係はなかった。つれあいを亡くして独り暮らしをしている小野寺さんのもとに、ある日、老人介護ボランティア研究家を名乗る江畑がやってきて、夢のような提案を持ちかけてきたという。
彼いわく――もしも小野寺さん宅に私を同居させてもらえば、団地の家賃を負担するうえに、生活費の一切もまた私がめんどうをみます。その代わりに、小野寺さんと生活をともにしながら『独り暮らしの老人に対する理想的な心の介護とは何か』を実地研究させてほしいのです……。
この言葉を鵜呑《うの》みにした小野寺さんは、団地の管理人には、体調がややすぐれないのでしばらく甥《おい》が同居する、と非公式に伝えただけで、江畑の同居を許してしまったらしい。
たしかに江畑は、金銭的なことでは小野寺さんに対する約束を守りつづけていた。しかし、それはすべて美代子の隣に住みたいという欲望を満たすための対価にすぎなかったのだ。
その証拠に、ぼくらが引越してしまったあとは、小野寺さんとの約束をほごにして、突然姿を消してしまったのだという。
江畑はその一方で、目黒のマンションを管理する不動産会社に、ぼくたちの部屋の両隣である602か604のどちらかに空きが出たら、最優先で連絡をほしいといって、かなりの額の内金を納めていたらしい。
どこまでも美代子を追いかけつづけるつもりだったのだ。
推測ではなく、それらのれっきとした事実を確認して、ぼくも美代子も青くなった。
中古で占有面積も狭いながら、せっかく交通至便の目黒に分譲マンションを入手したというのに、勝手にぼくたちを追いかけてくる隣人のために、平和な生活が脅かされるなんて……。
いったい、こんな不条理な話があってよいのだろうか。ぼくは憤《いきどお》り、美代子は嘆いた。
しかし、たしかに江畑がうそぶいていたとおり、彼の引越しを法律的に咎《とが》める手段はないのだ。少なくとも、彼が何か重大な違法行為をしないかぎりは。
「もう、こんな生活はいや」
夕食の途中、美代子はご飯の入った茶碗《ちやわん》を引っくり返したことにも気づかずに、テーブルに顔を伏せてワッと泣き出した。
「隣の人にいつ襲われるかとビクビク脅えながら毎日をすごすなんて、耐えられない。もう神経がもたないわ」
「だけど、あの挨拶《あいさつ》事件を別にすれば、なにか具体的な迷惑を蒙《こうむ》っているわけではない。だから彼を追い出す理由がないんだ」
「蒙ってるわよ」
泣きじゃくりながら、美代子はヒステリックに叫んだ。
「大迷惑を蒙っているわよ。私の精神的な被害がどれだけ大きいか、パパにはわからないでしょう」
「わかるよ」
「うそ、わかりっこないわ!」
美代子がここまで逆上するのは、結婚してからはじめてのことだった。
ぼくはあわてた。が、美代子の興奮はかんたんには鎮まらない。
「パパは会社に行っている時間があるからいいけれど、家に残っている私は、ほんとに神経の休まるひまがないのよ。江畑さんのほうがパパよりも早く帰ってくることのほうが多いから……」
肩を震わせながら、美代子がつづける。
「夜になってこの階の廊下にカツカツという足音が響くと、私はビクンとなるの。パパの足音は聞いただけでわかるけれど、それはパパのものじゃない。それなのに、どんどん近くにやってくる。その足音が隣までくるのを聞くと、どれだけ胸が苦しくなるかわかる? もしかすると、そのままうちのドアを開けようとするんじゃないかって。そう思うだけで、胸がキリキリ痛くなってくる気持ちがわかる?
私、玄関のところまで行って、ドアチェーンとロックが掛かっていることを何度も確認して、それからマジックアイで外の様子を覗《のぞ》くと……」
泣き濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》を上げて、美代子は叫んだ。
「廊下からうちの玄関ドアをじーっと見つめている江畑さんがそこに立っていたりするのよ!」
6
せっかく買ったマンションを、江畑ひとりのために手放すのか否か――迷いに迷っていたぼくたちに、一つの決断を迫らせるような事件がついに起きた。
それは、江畑が604号室に越してきてから半月ほど経った夜のことだった。
何も身につけずにダブルベッドですごす週末の深夜――そのときだけは、ぼくも美代子も、隣の江畑の存在を忘れて、二人だけの世界に浸ることができる……はずだったが、ぼくの下になって抱かれていた美代子が、突然、身体をこわばらせた。
ぼくはその変化にはすぐに気づいたが、原因がぼく自身の行為にあると思っていた。
それでさらに美代子を求めようとすると、いきなり彼女は両腕でぼくの身体を下から突き返すようにして、真剣な口調でささやいた。
「待って」
「え?」
下から見上げる美代子の目は、何かの気配を察知したかのように、宙を見つめて動かない。
「どうしたんだよ」
「しっ」
美代子が唇を丸めた。
そしてぼくの首のまわりに両手をからめ、ぐいと自分のほうに引き寄せた。
が、キスをしようとするのではなかった。美代子はぼくの耳元に唇を寄せてささやいた。
「となり」
「え、なに?」
「大きな声を出さないで」
美代子は、ぼくを咎めるように、首筋に爪を立ててきた。
「隣の壁で音がするの」
「なんだって」
「もしかしたら……聴かれているかも」
美代子の目が、ベッドの横の壁を見た。そしてぼくも同じほうに目をやる。
「そっと壁に耳を当ててみて」
美代子の言葉に黙ってうなずくと、ぼくは裸のままいったんベッドから降りた。そして、床にひざまずくポーズでそっと壁に耳を当てた。
最初は何も聞こえなかった。
が、しばらくすると、明らかにガサゴソと物音がする。それも、壁越しに聞こえる隣室の物音ではなく、直接壁に何かをつけている音だ。それがこすれて音を立てている。たとえばコップとか、あるいはそれに類する集音機。
そのときになってぼくは、こちらの寝室が江畑のいる604号室に隣接していることに気がついた。
まったく迂闊《うかつ》だったが、壁越しの盗聴という行為を、それまでぼくも美代子も考えてもみなかった。
コンクリート造りのマンションで壁芯《へきしん》もそれなりの厚さを確保していれば、通常の状態では隣室の会話など聞こえてはこない。
しかし、壁そのものには人の声が振動として伝わっている。だからそこにぴたりと耳をつければ、建物の構造しだいでは他人の家の様子が盗み聴きできる可能性があるかもしれない。
いや、少なくともこのマンションはそれが可能だからこそ、隣で江畑がうごめいているのではないか。
ぼくと美代子がベッドで愛し合っているとき、壁一枚隔てた隣の部屋では、江畑が、メガネをかけたままのパジャマ姿でコップの底を壁に当て、よだれを垂らしながら一部始終を盗聴している――ひょっとしたらそんな光景が、これまでにも数え切れないほど繰り返されていたかもしれないのだ。
そう思うと、ぼくはカッとなった。そして完全に『切れた』。
壁から耳を離すと、ぼくは隣に向かって大声で叫んだ。
「江畑、おまえのやっていることはわかっているんだぞ!」
叫び終えるやいなや、すぐにまた壁に耳をつけて向こうの反応をうかがう。
ベッドでは、美代子が片手を口に当てたまま、ぼくをじっと見つめている。
さすがに江畑はびっくりしたようだった。ガタンと大きな物音がした。
しかし次の瞬間、信じられないような言葉が、壁に当てたぼくの耳を震わせた。
「もう、こんな生活はいや! 隣の人にいつ襲われるかとビクビク脅えながら毎日をすごすなんて、耐えられない。もう神経がもたないわ!」
美代子が叫んだのではない。それは江畑の声なのだ。
江畑は、いつぞや美代子が激情に駆られて泣きわめいたときのセリフを、そっくりそのまま繰り返して叫んでいた。
それも、美代子の声色を使ってだ!
ベッドの様子ばかりでなく、リビングでの会話も含めて、ぼくたちの私生活は完全に江畑に筒抜けになっていた!
その事実を、いま彼はぼくたちに対して、常軌を逸した演出でハッキリと知らしめたわけだ。まったく、なんという逆襲だ!
ぼくはゆっくりと壁から耳を離すと、凍りついた表情で当の美代子を見た。
「どうしたの」
ぼくの尋常ではない表情に気がついた美代子がたずねてきた。
「パパ、向こうで何が聞こえたの。ねえ……ねえってば……パパ」
ぼくは、とても答える勇気を持たずに、ただただ無言で首を左右に振った。
そして、まさにその瞬間、ぼくはこのマンションを即刻去るべきだと、迷うことなく決断した――
7
そんないきさつがあって、ぼくと美代子は、この郊外の一戸建てに引越してきた。
懸命に明るくふるまおうとする二人の裏側には、こうしたおぞましいドラマがあったのだ。
どんなに通勤に不便でも、そしてどんなに街へ出るのが不便でも、ぼくたちにはこの環境が必要だった。
都心から離れれば離れるほど、名門企業の課長である江畑は、転居をしにくくなる。彼の勤務先はぼくの会社よりもずっと南西寄りにあり、ぼくたちの新居は都心からずっとずっと北東に離れた場所にあったからだ。
おまけに、ぼくたちの新居の周りはすべて入居済みの建売住宅で埋まっており、しかもそれらは分譲されたばかりなのだ。だから、少なくともここ何年かの間は、江畑が隣人として入り込むスキはまるでないといってよい。
そうした条件が整っているからこそ、ぼくと美代子は、この田舎の分譲地区で最後に売れ残った一軒を選んだのだ。
そして暗い過去を忘れ、三度目の新居で明るく再スタートを切ろうと思ったのに……。
どこまでも追いかけてくる江畑のイメージは、またしても美代子の心の中に、そして、ついでぼくの心の中に、アメーバに似た黒い触手を広げはじめていた。
この広い日本の中で、引越しても引越しても同じ隣人に追いかけられる夫婦が、いったいどこにいるだろうか。そんな恐ろしくも馬鹿馬鹿しい体験をする夫婦が、ぼくたちの他に、いったいどこに……。
「美代子」
輝ける新居を前に、転居通知のことから江畑の存在を思い出し、一気に暗く沈んでしまった妻にぼくは言った。
「こっちが勝つことを信じるんだ。追いかける江畑の執念よりも、あいつを寄せつけまいとするぼくらの意志が勝つことを」
「パパ……」
さっきまで明るい笑顔をふりまいていた美代子が、涙をいっぱいに溜《た》めた目でぼくを見つめ返した。
「パパ、ほんとにだいじょうぶ?」
「ああ、だいじょうぶだとも」
自信をもってうなずくと、ぼくは美代子の身体をしっかり抱きしめて言った。
「ここまで徹底して遠ざかったからには、あの男がぼくたちの隣に引越してくることは二度とありえない。絶対にありえないよ」
と、そのときだった。
遠くのほうでサイレンの音が聞こえ、それがどんどんこちらへと近づいてきた。
やがて、何台かのパトカーが赤い回転灯を点滅させながら、遠くの畦道《あぜみち》を右から左へと走り抜けてゆく姿が、背の高い雑草越しに見え隠れした。
そのサイレンの音にあぶり出されたように、田畑を潰《つぶ》して造られた新しい家々から、人々がバラバラと飛び出してくる。
ついさっきまで、そよ風と柔らかな陽射しに包まれていた平和な田舎の新興住宅地が、一瞬にして慌ただしい雰囲気に覆われた。
「どうしたのかしら」
いままでとは別の種類の不安に顔を曇らせた美代子が、緊急|車輛《しやりよう》の向かう方角に目をやった。
「ちょっと行ってみよう」
ぼくは美代子をうながした。
ふだんなら、サイレンの音に煽《あお》り立てられる野次馬を頭からバカにするタイプのぼくが、自分から率先してみんなが向かうのと同じ方角へ駆け出した。
そして、美代子もぼくの後にしたがった。
しばらく走ると、逆方向から駆けてくるハッピを着たゴマ塩頭の男に行き会った。
その服装から大工の棟梁《とうりよう》かと思ったら、ハッピには地区の消防団の名前が染め抜かれてあった。田舎の消防団は、火事を消すばかりが役目ではない。総合的な災害救助隊の役割をも担う。
「何があったんです」
すれ違いざま、ぼくはその男に声をかけた。
すると消防団の男は、ちょっとだけ走る速度をゆるめて返事をした。
「土左衛門だで。子供の土左衛門が川から引き揚げられただよ」
あまりにも生々しい言葉に一瞬たじろぐぼくに対し、ゴマ塩頭の男は、もう一言だけつけ加えた。
「ありゃどうも、立花さんとこの坊主じゃねえかと思うべ」
「立花さん?」「うそでしょ!」
ぼくと美代子が同時に声を挙げた。
立花といえば、ぼくたちの新居の左隣の家のことではないか。たしか、芝生を敷き詰めた庭先に、男の子用の三輪車が置いてあった記憶もある。
その子が、近くの川で溺《おぼ》れ死んだ?
どこかで聞いたような話だぞ。これはどこかで……。
そう、目黒のマンションで、江畑が越してくる直前に隣に住んでいた――
「斉木さんのときにそっくり」
顔面|蒼白《そうはく》となった美代子が、ぼくの腕をつかんで激しく揺すった。
「ねえ、パパ、斉木さんのときにそっくりじゃない。うちの隣に住んでいた人の子供が、近所の川で溺れ死ぬなんて」
「ああ」
「もしこれで立花さんが、ショックから他の土地へ引越すと言い出したらどうなるの。ねえパパ、いったい何が起きるの。隣に新しく越してくるのは誰になるの!」
「そ……それは」
「ダメよ、ダメ。そんなのダメ! やだー、パパ、やだやだやだやだ!
またくるわ、あれが……。あれが、またきちゃうわ!」
美代子は、完全にパニック状態に陥った。
そしてぼくも、自分の唇が、指先が、膝頭《ひざがしら》がワナワナと震え出すのを感じていた。
すべてが見えた。
斉木家に不幸があったから、ぼくたちの隣へ越してくるチャンスが江畑にめぐってきたのではない。
ぼくたちの隣に早く住めるよう、江畑は邪魔者を追い払ったのだ。
そしてこんども。
そしてこんども。
そしてこんども。
そしてこんども。
そしてこんども……。
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踊る少女
1
年が明けて間もない月曜日の朝、会社に出勤して早々のことだった。
「部長、部長の奥さんのお名前は、たしか『一つの絵』と書いて一絵《いちえ》さんとおっしゃいましたよね」
コートをロッカーにしまって着席したとたん、営業部長の岡田は、部下の鈴木から声をかけられた。
鈴木は若手のエースとして嘱望《しよくぼう》されている営業マンで、出社時刻もいつも群を抜いた一番乗りという熱心さである。
そのつぎに早いのが部長の岡田。二人とも定時より一時間近くも早めに出てきて、ガランとした人気のないフロアで朝のお茶をすすりながら新聞に目を通すと気持ちが落ち着くという、根っからの会社人間である。
他の部署に較べて早出の社員が多い営業部ではあったが、それでも毎日ハンで押したように八時前に出てくるのは、この二人だけだった。
「部長からいただいた年賀状に、たしか奥さんのお名前がそう印刷されてあった記憶があるものですから」
「ああ、うちの女房の名前は一絵に違いないが。……それがどうかしたかね」
いぶかしげな表情で岡田が聞き返すと、
「あの、これ……」
と言って、鈴木は読みかけの朝刊を持ったまま、部長席に近寄ってきた。
「ちょっとこれを見てください。このテレビ欄に投書を寄せてきた『岡田一絵・52歳主婦』って、ひょっとしたら部長の奥さんじゃないかと思って」
「なに、女房が投書を?」
「ええ。ほら、ここですよ」
鈴木が指さしたのは、朝刊の最終面、テレビ番組表の右隅に設けられた視聴者の声を載せる欄だった。
その新聞は岡田が自宅で購読しているのと同じものだったが、定時のニュースをのぞいてほとんどテレビを見ない彼にとって、新聞最終面の番組表はまるで無用の存在だった。
だから部下に指摘されるまで気づかなかったのだが、たしかにそこにはまぎれもなく妻の名前が記されていた。
岡田一絵という名前だけでなく、五十二歳という年齢も、主婦という立場も、そして東京在住である点も、すべてが妻のそれと一致していた。
岡田の目が、投書の中身を追った。
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≪いつも見ている「真夜中の料理教室」に出てくる若い出演者たちの箸《はし》の使い方が気になった。お吸い物の飲み方もよくない。料理とお色気をとりまぜた内容も問題だが、いくら深夜の時間帯だからといって、基本的な食事のマナーも知らない人間がこうした番組の司会を務めるのはいかがなものか。
東京 岡田一絵・52歳主婦≫
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自分の反応を窺《うかが》う鈴木の視線が横顔に突き刺さるのを意識しながら、岡田は、新聞に掲載された短い投書を二度三度と読み返した。
「どうですか」
遠慮がちに、鈴木がたずねてきた。
「やっぱりそれ、部長の奥さんが出したものなんですか」
「さあ……わからんな」
ようやく新聞から目を離すと、岡田は、戸惑いのまじった照れ笑いを浮かべながら首を振った。
「岡田なんて苗字はどこにでも転がっているし、こういうところに投書を寄せる連中は、自分の本名を出したくなくて、いきおい偽名を使ったりするんじゃないのか。それが偶然女房の名前と一致したのかもしれない」
弁解がましく言いながらも、岡田は内心では、かなりの驚きを覚えていた。
岡田という苗字は平凡でも、一絵という名前にはそうそう巡りあえるものではない。しかも、住まいの場所も年齢もピッタリ合っている。
いくら広い東京といえども、五十二歳の主婦で岡田一絵という本名を持つ人間が、そう何人もいるだろうか。
だが、そこまでの一致を見てもなお、自分の妻がこういった投書をするはずがない、と岡田は強く思った。
彼より二つ年下の一絵は、山陰の田舎で生まれ育ったせいか、いまどき珍しく、黙々と夫に従って生きる古風なタイプの女だった。
また岡田も、大正生まれの父親が典型的な亭主関白だったせいもあり、妻とは夫に絶対服従する存在であるべきだという哲学を持っていた。もしも、夫と対等に自分の意見を述べるような女性を妻に迎えていたならば、彼の結婚生活はとっくに破綻《はたん》をきたしていたはずである。
そんな岡田と波風立てずに四半世紀に近い時を過ごしてきた一絵には、自己主張という概念が、まるでないようにも思われた。
なにしろ、ふだんの暮らしの中で、彼女が夫に逆らうことはまったくなかった。反論のみならず、控えめな意見や単純な感想すら口に出したためしがないのだ。
たとえば、炊飯器とか掃除機とか洗濯機といった一絵自身が日常生活で扱う家電製品を買い換える場合でも、実際に手を触れることのない岡田があれこれ的外れな意見を言っても、黙ってそれに従い、使い勝手のあまりよくない新製品を文句の一つも言わずに受け入れる。
あるいは、会社から帰ってきた岡田が仕事のグチや不満を爆発させても、ただただうなずいて聞き役に徹するといったありさまである。決してそこに自分の意見を差し挟むことがないのだ。
そんな一絵が、たとえテレビ番組に対するたわいもない感想であったとしても、新聞への投書などするはずがないというのが、岡田の正直な気持ちだった。
おまけに、この文面にあるような『いかがなものか』という批判口調からは、日ごろの無口で受動的な一絵の姿はまるで浮かんでこない。
「どう考えても、うちの女房がこんなハガキを書くわけがないよ」
心の中で何度か自問自答を繰り返してから、岡田は口に出してそう言った。
「なにしろ結婚してこのかた、一絵は自分の意見というものを言ったためしがない。それくらい控えめな女なんだよ。そんな女房が、何百万部という部数が出ている新聞に自分の名前が載るような行為など、とてもじゃないが恥ずかしがってするわけがない。ましてや、テレビ番組の感想だなんてね」
「そういえば……そうですよね」
部下の鈴木がそこで納得したのには理由があった。社内でも、岡田のテレビ嫌いは有名だったからである。
本が大好きで趣味の筆頭に読書を挙げる岡田は、それと対照的な位置にあるテレビという娯楽媒体をずいぶん軽くみていた。
軽佻浮薄《けいちようふはく》な娯楽番組のたぐいにチャンネルを合わせるのは、まさに時間のムダ以外の何物でもなく、せいぜいニュース番組にしか価値が見いだせない、というのが、彼の持論だった。
中堅衣料メーカーの営業部長である岡田は、こうしたテレビ文化に対する批判を、若い営業マンに対する説教の中にもよく織り込んだ。自分たちのように本で育った世代と異なり、テレビ文化に毒されたおまえらは、やることなすことすべてがテレビの娯楽番組のようにちゃらんぽらんだ、という論調である。
また女性社員のいない席では、テレビ有害論が高じて、女性に対する差別的な発言にまで発展した。こんな具合に――
「もともと女の頭は論理的な思考には不向きにできているんだ。だから、テレビもラジオもなく、情報や娯楽を活字から得るしかなかった時代には、女の出る幕はまるでなかった。
それが放送がはじまってからはどうだ。とりわけテレビができてからは、女子供に迎合したレベルの低い番組が氾濫《はんらん》し、それが女子供にいらん知恵をつけはじめた。テレビが悪知恵を家庭に運び込んできたのだ」
そんな調子でことあるごとにテレビを悪役に回す岡田である。その彼の妻が、ひまな時間にテレビを見て、番組の批評を新聞に投書するなど、部下の鈴木としても、ちょっと考えにくかった。
「これはもしかしたら……」
平静を装いながら、岡田は言った。
「うちの年賀状をもらった誰かが、思いつきで勝手に女房の名前を使ったのかもしれん。ひょっとしたら、テレビ嫌いのおれに当てつけの意味も含めてな」
朝のやりとりは、それで終わった。
だが岡田は、そのあとも何か心の中に引っかかったものを抱えたまま仕事をつづけた。
昼休みになって鈴木が食事に外出すると、岡田は改めて新聞ラックから例の朝刊を持ちだし、テレビ番組表の掲載された最終面を上にして机に置いた。
どうしても、そこから頭が離れない。
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≪いつも見ている「真夜中の料理教室」に出てくる若い出演者たちの箸の使い方が気になった。お吸い物の飲み方もよくない。料理とお色気をとりまぜた内容も問題だが、いくら深夜の時間帯だからといって、基本的な食事のマナーも知らない人間がこうした番組の司会を務めるのはいかがなものか。
東京 岡田一絵・52歳主婦≫
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内容といい言葉づかいといい、何度読み返しても、とても自分の妻が書いたものとは思えなかった。
仮にレストランなどの場で直接若者たちのマナー違反を見たとしても、一絵という女は、眉《まゆ》をひそめる程度の反応すらしないだろう。
長い結婚生活の中で、大笑いしたり激怒したりといった感情の起伏を、一絵が夫に見せることはまずなかった。
それに、部下の鈴木も納得したように、彼女は、夫にならってほとんどテレビというものに関心を示さなかった。
百歩譲って、たまたま見た番組になんらかの不満を抱いたとしても、わざわざそれをハガキに書いて新聞社へ投書するなど、絶対にありえない。
岡田は、投書の主が自分の妻である可能性が低いことを、なんとか自分に納得させようと、頭の中でまたもやあれこれ検討をはじめた。
「どうしたんですか、部長」
昼休みの電話当番で居残っていたデスクの女性が、岡田に声をかけてきた。
「もしかしたら、きょうあたり雪でも降るんじゃないですか」
「え?」
「だって、テレビの嫌いな部長が、さっきからずっと番組表とにらめっこなさっているんですもの」
「あ……ああ、あはは」
事情を知らない女性社員から突っ込まれて、岡田は空虚な笑い声を立てた。
「いやなに……日本のテレビにもCNNのようなニュース専門局が出てこないものかなと思ってね」
ぎこちない弁解を口にしながら、岡田はあわてて新聞を片づけた。
だが、まだこの段階では、岡田はのちに引き起こされる破滅的な悲劇を予知するすべもなかった。
そのときの彼は、万一、投書の主が自分の妻であったら恥ずかしいとか、みっともないといった気持ちが先に立っていたからである。
2
まもなく結婚生活二十五年の銀婚式を迎えようとする岡田と一絵の間には、子供がいなかった。
意図的にバース・コントロールをしていたわけではなく、たんに子宝に恵まれなかっただけである。
最初のうちは、ことしこそ子供を、という意気込みが岡田にもあったのだが、結婚して五年が経ち十年が過ぎたころになると、子供を作ることはすっかりあきらめてしまった。
どちらの身体に不妊の原因があるのか、あえてそれを病院で調べようとも思わなかった。
夫婦いずれかの責任に帰することを避けた意味もあったが、それよりも――きわめて非科学的な考えだが――こんな淡泊な夫婦関係では、できるはずの子供もできまい、と思ったからだった。
岡田と同じ年格好の友人にも、子供のいない夫婦が何組かいた。しかし、彼らに共通した特徴は、きわめて夫婦仲が良いということだった。
どの夫婦も、結婚してから時が経つにつれて、ますますいいコンビになっていくようだった。中には、いまだ新婚カップルのような睦《むつ》まじさを見せつける夫婦さえいた。
そうした彼らに対し、子供をもつ側の人間は、「やっぱり子供がいない夫婦は、いつまでも友だち感覚でいられるんだな」と、異口同音にうらやましそうな感想を洩《も》らした。
けれども、子供なしで約二十五年を過ごしてきた岡田と一絵の夫婦関係は、よそとはだいぶ違っていた。
決して仲が悪いわけではない。しかし、仲が良いわけでもない。
岡田はこれまでに何度か浮気をしたことがある。一夜の遊びではなく、やや深みにはまった不倫もいくたびか経験した。そしてそれらの出来事の大半は、妻の一絵にバレている。
それでも一絵は、声を荒らげて夫をなじったり、あるいは取り乱したり悲嘆にくれたりすることがなかった。
「男の人だから、ある程度はしょうがないわね」と口に出して言うこともなく、ただ諦《あきら》めに似た表情を浮かべているだけだった。
こんなふうに、二人の間に子供もなく、しかも友だちのような楽しい関係も存在しないとしたら、いまだに夫婦でいつづける意義とはいったい何だろうか。
答えは二通りしか出てこない。
第一は、世間体である。
若いうちの失敗ならともかく、五十の大台に乗り、部長という責任あるポストについてからの離婚となると、体裁が悪いとの気持ちが先に立つ。もしもここで離婚を発表したら、会社の連中からどんな好奇の目で見られるかわからない、といったおそれがあった。
第二は、端的にいって、妻と別れたら不便だと思うからだった。岡田ひとりでは、とてもではないが日常生活の雑事はこなしていけない。
世間体と便利さ。
この二つの要素が妻の一絵との結婚生活を継続させている理由だった。
言葉を換えていえば、ほとんど惰性で夫婦関係をつづけているといってよい。
岡田は郊外に一戸建てを購入していたが、たいして広くもない家なのに、いまや夫婦の寝室は別々で、家の中で会話らしい会話もなかった。
疲れた、メシ、風呂、寝る、といった必要最低限のやりとりをすませれば、岡田はさっさと自分の部屋にこもってしまう。
眠りにつくまでの貴重な自由時間を、妻に邪魔されることなく読書に没頭したかったからである。
世間一般の家庭に目を向けても、じつは夫と妻の会話は本人たちが思っているほど多くはないのかもしれない。ただ、その間に『子供』とか『テレビ』といった要素が割り込んでくるため、夫婦間のコミュニケーション不足がうまいぐあいにカモフラージュされているだけなのだ。
しかし岡田家の場合には、子供もいなければ、テレビも機器としては存在しても一家の主がほとんど見ないから、事実上ないも同然だった。それゆえに、夫婦間の会話不足はきわだって目立つはずだった。
ところが、当の岡田はその現状に気づいていなかった。いや、気づいていても軽視していた。
夫婦とは、たがいに空気のような存在でいて当然という旧態依然とした常識が、五十四歳の岡田の頭の中には強くこびりついていた。だから、会話をしない夫婦が、彼にとっては少しも不自然な状態とは映らなかったのだ。
子供をあきらめた時点で、岡田は一絵とともに、たがいに夫婦でいる意味あいを、もういちど問い直してみるべきだったのかもしれない。
それを怠ってきたため、悲劇的な破綻《はたん》は彼の知らないところで、しかもまったく意外な形で進行していた。
「一絵」
その夜帰宅した岡田は、いつものようにメシとか風呂とぶっきらぼうに言う代わりに、いきなり新聞の投書について詰問をはじめた。
「おまえ、妙なものを新聞社に出さなかったか」
よほどの急用でもないかぎり、岡田は会社から自宅に電話をかけることがなかった。いまから帰るよという、俗にいう『カエルコール』の電話などはしたためしがない。妻とは、夫が何時に突然帰ろうと、温かい料理を用意して起きて待っているものだ、と彼は本気でそう思っていた。
夫婦の間で電話連絡をかわす習慣すら持たない岡田は、新聞の件も、家に戻り妻の顔を見てはじめて切り出したのである。
「妙なもの……ですか」
玄関先に出迎えに立った一絵は、水仕事をしていたのか、エプロンで手を拭《ふ》きながら、岡田に聞き返した。
皺《しわ》の目立つ化粧気のない彼女の表情には、これといって特別な反応は見られない。
「けさの新聞はどこにある。ちょっと貸してみろ」
乱暴に靴を脱いで家の中に上がると、岡田は妻に命じて朝刊を持ってこさせた。そしてそれを受け取るなり、最終面を表にたたみ直して、すぐさま一絵の鼻先に突きつけた。
「ほら、これだよ。この投書だ」
≪東京 岡田一絵・52歳主婦≫と記された投書の部分を、岡田は指先でパンパンと何度も弾いた。
「おまえは、おれの知らないところでくだらんテレビ番組を見て、どうでもいいようなことをハガキに書き連ねて新聞社に投稿しているのか」
「まあ……」
新聞紙面に目を落とした一絵は、ただ一言「まあ」とだけ言った。
岡田は妻の顔色をじっと窺《うかが》っていた。だが、とりたてて驚いたりあわてたりする様子もない。
「これは、私と同じ名前のようですわね」
「のようですわね、じゃないよ」
岡田は厳しい表情を作った。
「岡田一絵という名前の五十二歳の主婦が、そうそうあちこちにいてたまるもんか。おまえが出したんだろう、この投書は」
そうでないことを願いながら、岡田は一絵の反応を確かめるために、わざと断定的な言い方をした。
が、彼女は動じなかった。
「まさか……きっと誰かのいたずらでしょう」
そして、ほほ、と一絵は小さく笑った。
その瞬間、岡田は全身が総毛立つ思いがした。
一絵が声を出して笑う場面には、最近ほとんど出くわしたことがない。まして、いま岡田はこわもてで迫っているのである。そんな状態の夫を、笑いで軽くいなすような一絵ではないはずだ。
ところが一絵は、笑ったばかりでなく、その短い笑いのあとで、チラッと岡田の反応を窺うしぐさをみせた。
それは、時間に直すと十分の一秒くらいの、まさに一瞬の出来事であったが、悪寒をかきたてられるような視線が、妻の瞳《ひとみ》の奥底から飛んできた。
しかもそのとき、一絵の目は、三日月を伏せた格好の奇妙な形に変わっていた。
が、すぐに元の目つきに戻ると、いつもの晩と同じようにたずねてきた。
「あなた、お風呂を先になさいます? それともお食事?」
3
「超多忙の営業部長さんから、飲みに行こうというお誘いがかかるとは珍しいことだな」
カウンターに並んで座った相手からそう言われると、岡田は、バーテンダーの肩越しに並ぶ洋酒のボトルに目をやったまま、硬い声で返事をした。
「ああ……ちょっと折り入って相談にのってもらいたいことがあってね」
三日後の木曜日の夜――
会社を退《ひ》けた岡田は、大学以来のつきあいである親友の岸本治郎を銀座のバーに誘った。
エッセイストとして活躍している岸本は、岡田の学友の中で唯一の有名人だった。
だが、有名人だから頼りにしたのではなく、岸本のエッセイに見受けられる巧みな人間の心理描写から、彼ならばきっといまの自分に的確なアドバイスを与えてくれるに違いないと、岡田は期待したのである。
「おれなんかよりも、売れっ子のおまえさんのほうがずっと忙しいはずだから、よけいな前置き抜きで言う」
落ち合う場所をこのバーに決めたのも、岸本が出版社からカンヅメにされているホテルのすぐ裏手の路地にあるからだった。三十五年来の親友だからこそ、締切に追われたさなかにも時間を割《さ》いてくれたのがわかっていたから、岡田はすぐに本論に入った。
「女房が恐い」
それだけ言うと、岡田は口をつぐんだ。
その横顔を、岸本が呆《あき》れたようにしばらく無言で見つめていた。
「おいおい」
少し間を置いてから、岸本は笑った。
「おまえのところは、ことしが銀婚式だったはずだが、この期《ご》に及んで突然恐妻家になったのか」
「………」
「しかしねえ、おまえの家には数え切れないほど寄せてもらったが、一絵さんのほうから『主人が恐い』と相談されるならともかく、その逆なんてまったくありえない話だと思うがね」
「おれが『恐い』といっているのは、そういう次元の話じゃないんだ」
「じゃ、どういう次元の話なんだ」
「一絵は……」
オン・ザ・ロックの氷をカラリと揺らしてから、岡田はつぶやいた。
「化け物かもしれない」
「あはは」
「あははじゃないよ、岸本」
前を向いていた岡田が、隣の岸本をふり返り、真剣なまなざしで迫った。
「おれはたとえ話で言ってるんじゃない。ほんとうに女房は化け物かもしれないんだ」
「おいおい、酒も飲まないうちから酔っ払うなよ」
「まずこれを見てくれ」
戸惑う親友のエッセイストに、岡田はなおも訴えた。
彼は背広の内ポケットから折り畳んだ紙片を取り出し、それを岸本の前で広げた。
「何日か前の朝刊のテレビ欄をコピーしたものだ。ここのところにほら、女房の名前が出ているだろう」
岡田に言われて、岸本は岡田一絵名義の投書に目を通した。
「ふうん、一絵さんも意外なところがあるんだなあ」
片方の眉《まゆ》を吊《つ》り上げながら、岸本は言った。
「亭主関白のおまえにひたすら従うタイプの一絵さんが、テレビ嫌いの亭主にさからってテレビを熱心に見て、しかも番組への不満を投書するなんてねえ」
「どう思う?」
「どう思うって……べつに」
岸本は肩をすくめた。
「一絵さんにも人間らしいところがあったのを発見して、むしろホッとした気分だよ。だってね、岡田、おれは内心ずいぶん心配していたんだぞ。夫は絶対だという旧式な考えのおまえと長年暮らしていて、ひょっとして奥さんは窒息しそうになっているんじゃないかってね」
「そんなところに同情している場合じゃないんだ。とにかく異常だと思わないか」
「どこが? テレビ番組への不満をいちいちハガキに書いて、それを新聞社に投書することがおかしいというのかい」
「それもある」
岡田はうなずいた。
「社会問題についての意見を述べるならいざしらず……」
「たしかにこれは、一絵さんらしくない文章だし、一絵さんらしくない行動だとは思うが、とりたてて驚くにはあたらないと思うね。たとえばだよ」
ドライシェリーの小さなグラスを手元に引き寄せながら、岸本はつづけた。
「あの文豪森|鴎外《おうがい》の長女でエッセイストだった森|茉莉《まり》だって、週刊誌にテレビ番組批評を連載していたじゃないか」
「………」
「四十前から八十四歳で亡くなるまで、人生の後半をずっと独りで暮らし、しかも極度に人見知りをする森茉莉にとって、晩年、テレビはいちばん気のおけない友人だったんだ。おまえの奥さんもそれと同じなんじゃないのか。ようするに孤独なんだよ」
「孤独?」
「そうだよ。子供もいないし、かといって気晴らしに外出しようと思っても、亭主関白の夫からは、妻とは買い物以外は家にいるのが当然、みたいな原則を押しつけられる」
「そうじゃなくて、一絵はもともと社交的なタイプじゃないんだ。積極的に外へ出て人と接するのが苦手なんだよ。べつにおれは、あいつの行動を制限したおぼえはない」
「どっちにしても、一絵さんは一日の大半を独りぼっちで過ごしているわけだろう。いや、夫が帰ってきても、まともに話し相手にもなってもらえないのだから、二十四時間、終日独りぼっちといってもよい。そんな彼女にとって、テレビ以外の何がなぐさみになるというんだ」
「岸本、悪いけど、おれはおまえから説教されたくて電話をかけたんじゃないんだ」
「しかし……」
「この投書には、じつはものすごく重要な事実が隠されているんだ。おれはそこが異常だというんだよ」
「重要な事実?」
岸本は、あらためて番組批評の投書に目をやった。が、すぐに、わからないといった表情で顔をあげた。
「おれ自身も、はじめは気がつかなかったんだよ」
岡田はため息まじりに髪の毛をかきあげた。
「そこに記された番組名を見てくれ」
「『真夜中の料理教室』か」
「まだ気づかないか」
「わからんね」
「じゃあ、話を変えよう。岸本、学生時代のおれが、いかに寝つきの悪い男だったか、それはおまえもよく知っているだろう」
「ああ、おまえの下宿に泊まりにいったり、合宿で隣のふとんになったときは閉口したな。神経質というのか敏感というのか、寝つきは悪いわ、眠ってからも寝返りばかり打つわ、ちょっとした音でもすぐ起きるわで、おかげでこっちのほうが睡眠不足になったよ」
昔を思い出す表情で岸本が言うと、そこなんだよ、と岡田は畳みかけた。
「結婚してからも、その癖はずっと直らなかった。だが、結婚して五年か十年か……とにかくふと気がついてみると、いつのまにか学生時代とは正反対に寝つきのいい男になっている。家に帰って風呂を浴びてメシを食って、しばらく本を読んでいると、すぐに眠くなるんだ。それで床に入ったら、朝までぐっすりだ」
「それはたんに岡田が年をとっただけだろう」
岸本は笑った。
「それと奥さんの投書問題と、いったいどういう関係があるというんだ」
「ここに書かれた『真夜中の料理教室』という番組だが、調べてみると、真夜中どころか、平日の午前二時半というとんでもない時間帯に放送されていることがわかった」
声をひそめて岡田はつづけた。
「もしもこの投書の主が、ほんとうにおれの女房なら、あいつは毎晩こんな時間帯に起きてテレビを見ていたことになる。おれは、最初に投書の文面を見たとき、そこまで気が回らなかった」
「………」
「だが、そんな時間に女房が起きてテレビなどを見ていたら、おれが気づかないはずがない。それと、いつのまにか寝つきがよくなった不思議さを合わせて考えると……」
岡田は、さらに小声になった。
「もしかしたら、おれは一絵から毎晩睡眠薬を盛られているのかもしれない」
「なんだって?」
岸本は、おまえの頭こそ大丈夫か、といいたげに岡田を見つめた。
が、岡田は先回りした。
「いいか岸本、断っておくが、これは絶対におれの被害妄想じゃないんだ」
「しかしおまえは、こう言いたいんだろう。一絵さんは夫に内緒で深夜のテレビを見たいがために、おまえに睡眠薬を飲ませて……」
「そうじゃないよ。もっと事態は深刻なんだ」
グイとオン・ザ・ロックをあおると、岡田は濡《ぬ》れた口の周りをぬぐわずにしゃべりつづけた。
4
「この記事が出た翌日の火曜日の晩、会社から帰って家に入ろうとするところで、隣の家の奥さんとバッタリ出くわした。その家は、つい先日引っ越してきたばかりなんだが……」
岡田は、まるで気付け薬でも飲むように、オン・ザ・ロックをふたたびあおった。
「その奥さんが、おれにおそるおそるといった調子でこうたずねるんだ。あの、岡田さんの奥様は、この時間でしたらもう起きていらっしゃいますでしょうか、ってね」
「もう起きて? それ何時の話だ」
「夜だよ。夜の九時ごろだ」
「なんだ、それ」
「おれだって、いきなりそんなふうに話しかけられて面食らったよ。でも、詳しい事情を聞くうちに、なんといったらいいか……血の気が引く思いがしてきたんだ」
「聞かせろよ。どういうことだ」
さすがに岸本も表情を改めて、岡田のほうに身を乗り出してきた。
「彼女は、越してきたばかりなのでゴミ出しの日程や生協のことなどがわからなくて、何度か一絵をたずねたそうだ。朝とか昼間にね。ところが、家の中に人がいる気配なのに、いつチャイムを鳴らしても出てこない。何度目かの訪問で――それも真っ昼間なんだが――ようやく一絵が出てきたと思ったら、眠そうな目をこすりこすり、不機嫌な顔でこう言ったそうだ。『いったい、いま何時だと思っているんですか』と」
「真っ昼間に、そのセリフが一絵さんの口から出たのか」
「ああ」
「………」
「隣の奥さんがあぜんとしたのも無理はないよな。それで、おれにこうたずねるんだ。岡田さんの奥様は、なにか昼夜逆転のサイクルでお仕事をなさっていらっしゃるんですか、ってね。おれは取り繕《つくろ》うのに苦労したよ」
岡田は、そこで深いため息をついた。
「だが、その奥さんの言葉で、新聞の投書を見つけて以来、モヤモヤしていたおれの頭の中がパッと晴れたんだ。そうだ、一絵はほんとうに昼夜逆転の暮らしを送っているんじゃないだろうか、と思ったんだよ。ただし、仕事のためではない。たんに自分の時間を作るために」
「おいおい……」
そう言ったものの、岸本は後の言葉がつづかなかった。
「よくよく考えてみれば、結婚以来、一絵はどんなときにもおれより早く起きて、おれよりも後に寝た。おれが残業や接待で夜明け近くに帰ってきても必ず起きて待っていたし、しかも決して眠そうな顔一つしない。それから、毎朝会社に早出をするおれは、遅くとも六時には起きなくちゃならないんだが、一絵に起こされたときには、いつも完璧《かんぺき》な朝食の支度が調えられていた」
岡田は、しだいに声高になってまくしたてた。
「岸本に言わせれば、おれは時代錯誤の亭主関白だというんだろうが、自分のオヤジがオフクロに対し、妻の役目として当然のごとく要求していたことを、おれもやっていただけだったし、じつは一絵の実家もそういった家庭だったから、あいつも妻たる者、そうするのがあたりまえと考えているのだろうと思っていた。
実際、結婚当初は一絵はほんとうにそういう気持ちから、おれに尽くしてくれていたんだと思う。でも、結婚生活を長くつづけているうちに、おれたちの夫婦関係はマンネリを通り越して、空虚としかいいようのない状態になった。それでもなお、一絵は『夫より早く寝ず、夫より後には起きない』という、古典的な妻のありかたを守っていた。
そのことについて、おれは正直いって、半分バカにした態度で一絵を見ていた。二十年も二十五年も同じ毎日を繰り返していると、自動的に身体がスケジュールどおり動き、睡眠不足なんて気にならないのだろう、と。ところが……」
岡田は、ほとんど空になりかけたグラスを持ち上げて、それをじっと見つめた。
「とんでもないカラクリがあったんだ」
「カラクリ?」
「そうだ。妻の鑑《かがみ》のような生活パターンを送っているかにみえた一絵は、決しておれよりも早く起きて、おれよりも遅く寝ていたんじゃない。おれを会社に送り出してから床について、仮眠ではなく、本格的にぐっすり眠るんだ。そして、夕方になって目を覚ます。仮に朝の七時から夕方三時まで眠れば、たっぷり八時間は眠れるじゃないか」
「………」
「それから起きて、あいつは買い物に行く。これなら、どんなにおれの帰りが遅くなったって、眠気を催さずに起きていられるわけだ。真夜中の十二時だって、あいつのサイクルからすると、普通の人間の午後三時四時に相当するわけだからな。そして、どんなにおれが朝早く起きても、その前にきちんと目覚めているわけだよ。おれにとっての朝六時は、あいつにとっては、まだ宵の口の、夜の九時十時といったところだ。……驚いたもんだよ。一つ屋根の下に住む夫婦に、時差があったなんて」
「ちょっと待てよ、岡田……」
「待てない」
首を振って、岡田はつづけた。
「なんだかんだいっても、一絵はおれに束縛される人生がイヤだったんだ。何から何まで亭主の言いなりになる貞淑な妻の役なんて、御免|蒙《こうむ》るといった気持ちだったんだ」
「もしもそうだったら、普通は離婚の相談を持ちかけてくるだろう」
「普通ならね。けれども一絵は、おれと離婚したら、仮に慰謝料をもらっても先行きが不安だと思ったに違いない。実際、いまさらどこかで働くにしても、年も年だし、一絵のように他人と接するのが苦手な女には無理な相談だろう。だからあいつは考えた。表向きには、夫に従順な妻を演じながら、その夫が眠りに陥ったあと、誰にも干渉されない自分の時間をたっぷり持とうと。
その秘密の二重生活をおれに気づかれないよう、あいつは毎晩メシか飲み物の中に睡眠薬を混ぜた。そして、おれがぐっすり寝静まると、あいつの夜が……いや、一日がはじまるんだ」
「落ち着けよ、岡田、落ち着け」
岸本は、岡田の腕をつかんで揺すった。
「おまえ、どうかしているぞ。おれだから構わないが、ヘタに他人に聞かれたら、被害妄想か強度のノイローゼにかかっていると思われるかもしれない。一絵さんがテレビ番組の投書をしたことから、あれこれ推理を働かせているうちに、おまえの空想力は常識のレールをはずれて暴走しているんだ。それに気づかないと、まずいぞ」
「人間の心理を把握することにかけて定評のあるエッセイストといわれた岸本までが、そんな平凡な感想しか聞かせてくれないのか」
「平凡な感想じゃない。正直な感想および忠告だよ」
相手の腕をつかんだまま、岸本は言った。
「おまえは仕事が忙しすぎるんだよ。疲れているんだ。営業部長だから無理もないがね。それからなによりも、一絵さんとの会話が少なすぎるのが問題だ。夫婦の会話が少ないと、いきおいあれこれ相手の言動に含まれた真意を憶測しなければならなくなる。憶測には必ず誤解が伴う」
「聞けっ! 岸本」
いきなりグラスをガンとカウンターにたたきつけて、岡田は怒鳴った。
「おれは確かな証拠に基づいて真剣に相談しているんだ。人を被害妄想よばわりするなっ!」
「わかったよ……わかった。ちゃんと話を聞くから、もう少し声を落とせ」
バーテンダーや他の客の視線が集まったのを意識して、岸本が岡田の耳元でささやいた。
岡田がしぶしぶうなずくと、岸本は小声で言った。
「じゃあ岡田、おまえがつかんでいるという、一絵さんが二重生活を送っている確たる証拠を聞かせてくれ」
「ゆうべのことだ」
平静さを取り戻した声で、岡田は話しはじめた。
「おれは自分の推理が当たっているかどうかを確かめるため、ひとつの計画を練った。まず、晩飯を外で食ってきた。そして、そういうときでもふだんは寝る前にお茶漬けを一杯かきこむのだが、それもヤメにした。寝酒をあおるのもやめた。家に置いてある酒のボトルに、ことごとく睡眠薬が仕掛けられている可能性もあるからな」
「………」
「あいつがいれた日本茶すら飲まなかった。そして、風邪気味だから早く寝るといって布団にもぐりこんだ。あいつは貞淑な妻の顔をして、即座に風邪薬を持ってきたが、それも口にしなかった。そして、狸寝入りをしたまま、ひたすら時が過ぎるのを待った」
「それで?」
「………」
急に岡田は黙りこくった。
「それでどうしたんだ」
「案の定、いつもと違ってその晩は少しも眠くならなかった。やっぱり、と思ったよ。そして、たぶんあれは夜中の二時ごろだろう。一絵がおれの寝室にやってきた」
岡田の声がうわずりはじめていた。そして、その頬《ほお》のあたりに鳥肌が立っているのが、バーの暗い照明のもとでも岸本には確認できた。
「おれはあおむけになって目を閉じていたが、気配であいつがおれの寝顔をのぞき込んでいるのがわかった。息を吸ったり吐いたりしている音が、顔の上で聞こえるんだ」
話しながら岡田はブルッと身震いした。
「おれは恐くなった。もしかしたら、一絵は包丁を握ったままベッドのわきに突っ立っているのではないか。いや、そうに違いない。そう思ったら、全身が震え出してきた。まぶたも勝手にピクピクしはじめる。もう狸寝入りどころではなくなった。
……すると、まだこっちが目を開けないうちから、一絵がすべてを見透かしたような口調で言った。『人がどんなテレビを見ようと、文句をつけないでくださいな』」
岡田は黙った。
岸本の目が丸く見開かれた。
「……で?」
だいぶ間を置いてから、岸本がうながした。
「おれは覚悟を決めた。そしてパチッと目を開けた。豆ランプひとつの明かりの中、一絵がベッドに横たわるおれを見下ろしていた。おれはベッドにあおむけになったまま、金縛りにあったようにまったく身動きができなかった。そして一絵の目が……あ、あいつの両目が三日月を伏せた形になっていた。
ほほっ――一絵は笑った。恐ろしいまでに感情のない笑い方だった。その直後、三日月形の目は、また元の形に戻った。そして能面のような無表情に戻った一絵は、くるりときびすを返して、自分の寝室の方へスタスタと去っていったんだ」
「………」
「岸本、おれは恐い」
五十四歳の営業部長である岡田章は、いまにも泣き出しそうな顔になった。
「恐くてもう家では眠れない。おれが寝ているときは、一絵は起きているんだ。そして、あいつは月と星と夜の闇《やみ》が見守る中、まったく別の女に変身して、自分の世界を楽しんでいるに違いない。おれはその恐ろしい事実に、十年も二十年も気づかずにいたんだ。ああ……」
岡田はカウンターに両|肘《ひじ》をつき、頭を抱え込んだ。
「きっとバチが当たったんだ。結婚したら、女房なんてものは住み込みの家政婦みたいな存在で当然だと考え、女房の人権とか人格なんてまったく考えずにきた。夫の都合に合わせて生きるのが妻の義務だと、おれは何の疑いも持たずに信じてきた。いまだって、それが正しいと思っている。でも、それがこんな形で復讐《ふくしゆう》されるなんて……」
「まあ、飲めよ」
岸本は、そう言うしかなかった。
岡田から人間心理の分析力を頼られた岸本だが、その彼は、岡田とその妻のどちらのバランスが崩れているかと考えたとき、疑問の余地なく岡田にバツ印をつけるしかないと思っていた。
ただ、さすがにその冷静な判断を本人に告げるわけにはいかなかったので、場当たり的な慰めを口にするしかなかった。
「とにかく今夜は飲め。とことん飲んで、酒の勢いで寝てしまえ。おれもカンヅメの途中だけど、きょうは最後までつきあってやる」
5
猛烈な頭痛で、岡田章は夜中に目が覚めた。
気がついてみたら、彼は自宅二階のベッドで寝ていた。知らぬ間に、きちんとパジャマに着替えさせられている。
飲みすぎで頭はガンガンと割れるように痛んでいたが、おぼろげな記憶の糸をたぐっていくうちに、旧友の岸本と銀座のバーで痛飲したことまでは思い起こせた。だが、何のために彼に会い、何を話し、なぜここまで泥酔状態になったのか――そこまで思い出せるほど、岡田の意識は正常な状態に戻っていなかった。
彼はベッドの上に半身を起こした。
薄明かりの中で見るデジタル時計は、午前四時十三分を示していた。もちろん、外は真っ暗である。
彼は、枕元に水差しとコップ、それに一枚のメモ書きが載っているのに気がついた。
[#ここから3字下げ]≪岸本さんが送ってきてくださいました。明日にでも、お礼をおっしゃってください。冷たいお水を置いておきますので
[#地付き]一絵≫
[#ここで字下げ終わり]
酩酊《めいてい》状態の岡田は、自分が妻のもうひとつの顔に脅えていた事実を、すっかり忘れていた。
氷の浮いた水差しの水をコップにそそぎ、たてつづけに二杯飲み下すと、少しは頭がハッキリしてきた。
と、そのとき、階下からミシミシという音が聞こえてきたので、岡田は耳をすませた。
階段を上る音ではない。下の部屋で何かが動いているのだ。
岡田が建てた家は、彼の好みでほとんどを和室にしていたが、どうやら物音は岡田の寝室の真下に位置する畳敷きの茶の間から聞こえてくるようだ。
ドスンという音がした。ドンドンという音もしはじめた。まるでイタズラ小僧が跳びはねているような物音である。
午前四時すぎに、しかも子供がいるわけでもない家でこんな音がするのはただごとではない。
酩酊していた岡田の頭が、徐々にまともな働きを取り戻しはじめた。
(とにかく様子を見にいかねば)
そう思って、彼はベッドから抜け出し、階段を下りはじめた。
二階には暖気がたまっていたが、階段を一歩下りるごとに夜の冷気が足元から吹き上げてきた。
いや、それは冷気ではなく『霊気』のほうかもしれない――岡田は、そんな思いにとらわれた。電気を消した階段の下方に広がる闇には、まるで地獄か霊界を連想させる冷たい淀《よど》みがあった。
その冷たさに刺激されて、岡田は妻への疑惑を思い出した。と同時に恐怖が襲ってきた。
(そうか、下で暴れているのは一絵なんだ)
(おれの知らない世界に突入した一絵だ)
だが、いまさら後には引き下がれなかった。
見えない力で吸い寄せられるように階段を下りきると、岡田は、茶の間の前の廊下に立った。
その廊下も完全に電気が消されていた。だが、閉じたふすまのわずかな隙間《すきま》から、茶の間の明かりが洩《も》れていた。
ゾクゾクと強烈な寒気をおぼえながら、岡田はその隙間に目を当てた。
(あ!)
あわやそこで、岡田は叫び出しそうになった。
少女がいた!
頭にリボンを結び、襟元にフリフリのレースをほどこしウエストをキュッと締めたワンピースを着て、赤いハイヒールをはいた少女が、こたつの上に乗っていた。
口元には真っ赤なルージュ、そしてカールの利いたつけまつげまでつけている。
その少女が、こたつの上で腰をひねりながらツイストを踊っていた。
いや、格好こそ少女だが、その顔は一絵だった。
悪夢だった。
酒に酔ったまま悪い夢を見ているのではないかと、岡田は自分の神経を疑った。
五十二歳になる自分の妻が、五十年代か六十年代ごろのアメリカの少女といった格好をして、こたつの上で腰を振り振り踊っているのだ。
そして、ときおり勢いをつけてこたつの上から飛び降りたり、また飛び乗ったりを繰り返している。
よくよく見ると少女は――一絵は、ウォークマンをベルトにつけ、そのイヤホンを耳に差していた。
そんなものをいつ買ったのか知らないが、それで何かの音楽を聴きながら踊っているのだ。
だが、どんな音楽を聴いているのか、のぞき見をしている岡田にはそれがわからない。
とにかく、岡田は足の震えが止まらなかった。
妻が二重生活を送っている疑いは抱いていても、まさかここまでとは想像もしなかった。せいぜい深夜テレビを見ている程度だと思っていた。
ところが、一絵はどぎつい口紅を塗りたくり、頭にリボンを結び、赤いハイヒールをはいてツイストを踊っているのである。まるで別人――いや、別人というよりも、一絵の精神年齢は一気に後退していた。
戦時中に山陰の田舎に生まれ、その後二十歳すぎまでそこで育った一絵には、少女時代に経験したくてもできなかった格好だろう。そのスタイルを、五十二歳になったいま、夫が寝静まった夜更け、誰の目も気にせず、自分ひとりの世界で楽しんでいるのだ。
岡田は懸命に一絵のしていることを理解しようとした。理解する以外に、自分自身の発狂を止める手だてはないと思った。
厳格な両親に育てられ、自分の意思は何一つ主張できない少女時代を過ごし、親の決めた見合いで岡田と結婚し、そこでまた自分の意思が何一つ主張できない夫婦生活を送らねばならなくなった。
そうやって自分の人生なのに自分のものでない年月を過ごしてきた一絵は、どこかで反逆を企てることを思いついた。それが、夫婦の接点が少ないことを逆手にとった、昼夜逆転の二重生活だ。
そして、その隠された暮らしの中で、一絵はもういちど少女時代から人生のやり直しをしようとした。こんどは、自分の思いどおりの人生を……。
岡田は、目の前の悪夢のような光景を、一生懸命論理的に解釈しようとした。
が――
彼のその努力をぶち壊しにする歌声が、突然響きわたった。
[#ここから2字下げ]
「ウェル わたしはお茶目なハイティーン
先生はだめだというけれど
お出かけするときは ネ
まっかなハイヒール」
[#ここで字下げ終わり]
岡田の全身に鳥肌が立った。
[#ここから2字下げ]
「わたしもそろそろお年頃
おしろい口紅つけたいな
するとね みんなが
すてきだっていうの」
[#ここで字下げ終わり]
きっとウォークマンのイヤホンからは、その歌が流れてきているのだろう。少女と化した一絵は、大きな歌声を張り上げながら、自分で考えた身振りなのか、人指し指を左右に振りながら、いかにも楽しそうな笑いを浮かべて、くるくる回りながら踊り出した。
廊下からそれを見ている岡田の耳には、音楽は一切聞こえず、一絵の声しか届いてこない。だから、妻の歌声の調子っぱずれなところがやけに目立った。
[#ここから2字下げ]
「たまにはイカシた男の子と
うで組み二人で行きたいわよ
コーヒーのみに
すてきな人からさそわれて
ハートがドキドキしてきたら
それはね 恋でしょ
もうなんでもわかるの」
[#ここで字下げ終わり]
曲名は岡田にもすぐわかった。
彼の青春時代にはやった『子供じゃないの』だった。アメリカの曲だが、日本では弘田三枝子の持ち歌だった。
[#ここから2字下げ]
「隣のおじさんすてきだけど
いまでもガムを
買ってくれるからきらい
パパやママはいつまでもわたしのことを
子供と思っているけれど
そとをね あるけばホラ
みんながふりむくの
子供じゃないのよ」
[#ここで字下げ終わり]
皺《しわ》だらけの顔に少女の服装。
パントマイムのようなしぐさ。
そして、三日月形の目をした笑顔。
「だめだ……」
岡田はつぶやいた。
「だめだ、頭でわかろうとするのは無理だ。こんなのはガマンできない」
いきなり彼は、両手でふすまを思い切り開いた。そしてイヤホン越しに聞こえるような大声で怒鳴った。
「一絵! なにをやっているんだあ、おまえは!」
岡田に背を向けて踊っていた少女が、ビクンとその動きを止めた。
そして、ゆっくりとふり返った。
笑顔は凍りつき、つけまつげを付けたまぶたが一度だけパチリとまたたいた。
悲しげな、脅えたような五十二歳の孤独な女の表情がそこにあった。
だが、その変化に気づく余裕は、もはや岡田にはなかった。
彼は錯乱していた。
彼の目には、リボンをつけた少女の奇妙な笑いが残像としていつまでも灼《や》きついていた。
「いやだ、いやだ、おれはこんなことには耐えられない。やめてくれ。おれの前から消えてくれ」
わめきながら、岡田は少女の格好をした妻を押し倒し、その上に馬乗りになった――
6
「どうかね、容疑者の状況は」
警視の国枝がたずねると、直接の取り調べにあたっていた古参の仁村警部補は、どうしようもないといったふうに首を左右に振った。
「ここに、きょうの事情聴取の録音がありますが、お聴きになりますか」
「ああ、頼む」
国枝警視がうなずくと、仁村はカセットレコーダーの再生スイッチを入れた。
泣きべそをかいたような岡田の声が流れてきた。
「ねえ、刑事さん。わかってくださいよ。刑事さんも私と同じ世代で、やっぱり亭主関白なんでしょう。刑事さんみたいに不規則な職業なのに、奥さん、いつも寝ないでご主人の帰りを待っていてくれるんでしょう。そういう奥さんをね、女房の鑑《かがみ》だなんて思っちゃいけません。ウソだと思ったら、今晩寝ないでずっと奥さんの様子を見ていてください。そうしたら私の言ってることが正しいとわかりますから。奥さんはね、真夜中に自分の世界を持っているんです。一見、主人に尽くす貞淑な妻は、必ず裏があるんです。裏の世界がね。
だってそうでしょう、刑事さん。いくら女だからといって、一人の人間としてこの世に生を享けてですよ、夫や子供のためにごはんを作って掃除をして……そんな毎日で人生を終えることに満足できるはずがないじゃありませんか。誰にも干渉されずに好きなことをして遊べる時間なしに年をとっていくなんて、そんな人権を無視した話はないでしょう。
保証してもいいです。刑事さんの奥さん、夜中に起きて少女の格好をして遊んでいますから。ほんとですよ。刑事さんとこだけじゃない。よそのうちだってそうです。亭主関白の家庭の妻は、誰もが夜中に……あ、疑っていますね、私の話を。お願いですから信じてください。ねえ、信じてくださいってば」
「わかった、もういい」
国枝警視は片手を挙げてテープレコーダーを止めさせた。
「まいったものだね」
警視は、大きなため息をついた。
「岡田容疑者が演技をしていないとすれば、これは明らかに精神鑑定モノだ。そして、本来重刑に処すべき犯罪者が、また無罪の道へ逃れることになる」
「しかし警視……」
首をかしげながら、仁村警部補は言った。
「彼の言い分をすべて妄想と片づけるのはかんたんです。けれども、そうだとしたら、被害者はなぜあんな格好で殺されていたんでしょう」
[#改ページ]
ぜったいナイショだよ
1
「ねえねえ、お母さん」
学校から帰ってきたあと、しばらくの間テレビのアニメ番組を見ていたひとみは、ふと思い立ったように洗面所へ駆け込んだ。
そして、洗濯機に洗剤を入れている母親のエプロンの裾《すそ》を引っぱって言った。
「ねえ、お母さんてば」
「なによ、ひとみ、うるさいわね。もう宿題はやったの」
「やった」
「うそでしょ。テレビの音がしてたじゃない」
「………」
「あなた、もう小学校二年生なんだから、お母さんに言われなくても自分から宿題をちゃんとやらなくちゃダメよ」
「それよりお母さん、すっごくだいじな話があるの」
「そんな話を聞いてるヒマはありません」
母親の慶子が洗濯機の『どろんこ』モードのスイッチを押すのと同時に、六畳の洋間のほうから赤ん坊のむずかる声が聞こえてきた。
八歳のひとみにとって初めての妹となる、生後三カ月のさゆりの泣き声だ。
「ほらほら、さゆりちゃんが泣いてるでしょ。おっぱいの時間なのよ。お母さん、行ってあげなくちゃ」
手についた洗剤を水道の水でサッと洗い流すと、慶子は濡《ぬ》れた手をエプロンで拭《ふ》き拭き、赤ちゃんのいるほうへ急ごうとした。
と、それをさえぎるように、ひとみが前に回り込んで言った。
「お母さん、これ、ぜったいナイショだよ」
「はいはい、あなたはあとあと。さゆりちゃんが先よ」
「聞いてってば」
「なによ、もう」
「あのね、お父さんがね、お母さんの悪口言ってたよ」
「え?」
それまで、まとわりつく長女のひとみに対してうるさそうにしていた母親が、ドキッとした顔できき返した。
「ひとみ、あなたいまなんて言った」
「だから」
いかにも極秘の話をするように、ひとみは声をひそめながら、もう一度同じ言葉を繰り返した。
「お父さんがね、お母さんの悪口言ってたの」
「ちょっと……ほんと、それ」
「ほんとだよ」
「で、どんな悪口を言ってたのよ、お父さんは」
2
小学校二年生の山崎ひとみに、さゆりという名の妹が誕生したのは三カ月前のことだった。
八歳のひとみに、初めての妹――この八年間の空白が意味するところを、もちろんひとみはわからない。
けれども明らかなのは、さゆりができて以来、母親の関心は赤ちゃんに集中してしまい、ひとみはほとんど相手にしてもらえなくなったことだった。
商社マンである父親の英幸のほうは、妹が生まれる前から、ひとみにとっては『よそのおじさん』も同然の存在だった。仕事仕事仕事で、ほとんど家庭というものを顧《かえり》みることがなかったからだ。
英幸としても決して休みがないわけではなかったが、休日の前夜になるとゴルフクラブを鼻歌まじりに磨きだし、翌朝早々には車を運転して出かけてしまうといったありさまで、家族サービスなどまるで眼中にない。
物心ついたときから、ひとみには父親にどこかへ遊びに連れていってもらった覚えがなかった。それどころか、家の中で遊んでもらった記憶すらない。
その父親が、日曜日というのにめずらしく家にいた。接待ゴルフの予定が、前の晩になって相手の都合で急遽《きゆうきよ》キャンセルになったのだ。それで英幸は暇をもてあまし、ゴロ寝スタイルでテレビのゴルフ中継を見ていた。
母親の慶子はといえば、いまは赤ちゃんのさゆりを連れて近所の公園に日なたぼっこに出かけている。
出がけには母親は「ひとみちゃんもいっしょに行く?」とたずねてきたが、その問いかけの言葉の中に、どうでもいいような響きがあったのを敏感に察知して、ひとみは「ううん、行かない」と返事をして、家に残っていた。
いつもならそこでファミコンゲームでひとり遊びをするのだが、一家に一台しかないテレビを父親が独占しているため、それもできなかった。
ふだんから接点のない父と娘は、たいして広くもないマンションに二人きりでいても、会話が成立しない。
しかし父親の英幸は、その状況の危うさをまったく意識していなかった。だから英幸は、小学校二年生の長女にいろいろ話しかけて日頃のコミュニケーション不足を解消しようという努力も、格別しなかった。
それまでのひとみは、そんな父親に対して、自分のほうからも接近しようとはしなかった。
けれども、その日曜日だけは違っていた。ひとみは、テレビの前に寝そべって背中を向けている父親のところへ行くと、ポンポンと肩を叩《たた》いた。
「なんだよ、うるさいな。いまいいところなんだから」
ゴルフ中継のほうは、トップで並ぶ最終組の二人の選手が、大詰め18番ホールのグリーン上で、たがいにかなりの距離を残しながらもバーディパットを競う息詰まる場面にきていた。
英幸の視線は、まさに画面にクギづけ状態で、ひとみのほうをふり返りもしない。
しかし、ひとみはあきらめずに、またポンポンと父親の肩を叩いた。
そのとき、英幸の応援する選手のパットした球が、理想的なラインをたどって長い距離を進み、カップに吸い寄せられるように近づいていった。
「お、お、お、お、お」
英幸はガバッと身を起こした。
「ねえ、お父さん」
「おおおおお」
「あのね、秘密の話があるの」
「よーし、行ったあ!」
と英幸が叫んだ瞬間、白球はカップの縁に蹴《け》られ、クルッと半周した後に数十センチの距離に止まった。
「な……なんだあ……なんだよ、そんなのアリか」
落胆して肩を落とす父親の前に回り込むと、ひとみは言った。
「ねえ、お父さん、ぜったいナイショだよ」
「ちょっと、ひとみ、そこどけ。テレビが見えないじゃないか」
しかしひとみは、その場から動かずにつづけた。
「お母さんがね、お父さんの悪口言ってたよ」
「どけってば……え?」
途中で娘の言葉の重要性に気がついて、山崎英幸は、はじめてひとみのほうに顔を向けた。
「なんだって、ひとみ」
「ぜったいナイショだよ」
「だから、なんつった、ってんだよ」
「お母さんがね、お父さんの悪口言ってたよ」
父親の顔が引きつった。
そして彼は、たたみかけるようにたずねた。
「どんな悪口を言ってたんだ」
3
冷たい雨が降りしきる、月曜日の暗い夕刻――
蛍光灯の明かりの青白さが妙に目立つ六畳の洋間で、ひとみはベビーベッドの柵越しに、中にいるさゆりをじっと見つめていた。
三カ月になる妹は、身体はうつぶせに、顔は横に向けてスヤスヤと眠っていた。
(こんど生まれてくる子は、うつぶせ寝で育てようと思っているの)
(ダメダメ、うつぶせ寝は窒息《ちつそく》の危険があるわ)
(ううん、寝具を硬めのものにすればぜんぜん問題ないんですってよ)
(と思うでしょう? でも最近では、やっぱりうつぶせ寝はよくないという結論になってるんだって)
(ほんとォ? でも、生まれてくるのがもし女の子だったら、やっぱり頭の格好も大切でしょう。それを考えたら、やっぱりうつぶせ寝よ)
そんな大人の女どうしの会話が、八歳のひとみの脳裏にはっきりと刻まれている。
さゆりがまだお腹のなかにいるころ、母親の慶子は、子供を持つ親どうしで、よくうつぶせ寝に関する是非論を展開していた。
慶子がうつぶせ寝にこだわっていたのは理由があった。
長女のひとみは、日本の赤ちゃんの伝統的な寝かせ方であるあおむけ寝で育てたため、後頭部が『絶壁』になり、しかも顔の幅も広くなってしまった――慶子は勝手にそう思い込み、うつぶせ寝を選択しなかったことを非常に後悔していた。
慶子には、三人の女の子を欧米流のうつぶせ寝で育てたという友人がいたが、その娘たちの頭を真上からみると、いずれも見事な卵形になっていた。
顔の幅が狭く、しかし奥行きはじゅうぶんにあるという典型的なエッグシェイプというものだ。
外国製の乗馬帽は、基本的にこのエッグシェイプに沿ったデザインになっているのよ、と、その友人は自慢げに言い添えたものだ。
さらに友人は、こんな話もした。うつぶせ寝で育てられた欧米人の女性は、化粧のさいに頬紅《ほおべに》を強調してもよく似合うが、日本人はたいがいの場合、それをやると滑稽《こつけい》な失敗に終わってしまう。なぜなら、欧米人の顔は立体的なエッグシェイプになっているが、あおむけ寝の日本人には、奥行きのない幅広ペッタンコ顔が多いから、頬紅を強調する立体感は出ずに平面ばかりが目立ってしまうのだ……と。
そんな情報を仕入れたために、八年ぶりに第二子を妊娠した慶子は、男であっても女であっても、うつぶせ寝で育てようと固く決めていた。
そして、その決意を知人などに語るときに、いつも引き合いに出されるのが長女のひとみだった。
たとえば――
「ほら、ひとみもうつぶせ寝で育てていれば、もうちょっと顔が小さくなってスタイルもよさそうに見えたかもしれないと思うのよ」
とか、あるいは――
「ひとみは絶壁頭だから、髪型に苦労するのよねえ。困っちゃうわ、ほんとに」
といったぐあいである。
しかも、そんな愚痴めいた感想を洩《も》らすとき、そばに当のひとみがいても、慶子はまったく平気だった。まるで、八歳の女の子には、大人の話は百パーセント理解できまい、というふうに。
そして、慶子は必ずこういって話を締めくくるのだ。
「もう、ひとみのときの失敗は繰り返さないわ」
しかし、ひとみに母親が放った言葉の残酷さが理解できないはずはなかった。
「さゆり……」
ベビーベッドの中でうつぶせ寝で眠る妹に向かって、ひとみはつぶやいた。
「お姉ちゃん、あんたのこと大っきらいだからね」
そしてひとみは、ベビーベッドの柵を降ろすと、穏やかに眠っていた妹の身体を両手で抱えて、あおむけになるように引っくり返した。
突然、乱暴に扱われて、赤ちゃんは火のついたように泣き出した。
その泣きじゃくるさまを憎々しげに見つめながら、ひとみは吐き捨てた。
「あんたもゼッペキ頭になっちゃえばいいのよ」
4
ふだんは子供のないしょ話などまともに取り合わない山崎英幸が、いまは≪子供は正直だ≫という常識を疑ってみようともしなかった。
彼は長女のひとみがもたらした情報をすっかり信じ込み、そして少なからぬ動揺を覚えていた。
(お母さんがね、お父さんなんか大っきらいだって)
そう言うと、ひとみは相手の反応を待つように、大きな瞳《ひとみ》を開いてじっと父親の顔を見つめた。
生まれてすぐに瞳の大きな子だとわかったので、英幸は長女を『ひとみ』と名づけた。そのつぶらな瞳の中に、彼は嘘《うそ》のカケラも見いだすことができなかった。
英幸は長女の肩をつかんで揺すりながら、妻が自分のどんなところを嫌いだといったのかを問いただした。だが、ひとみの答は、
(とにかく大っきらいなんだって)
の一点張りだった。
これは、具体的な欠点を指摘される悪口よりもずっとこたえた。
家族のことをほったらかしで自分だけ遊んでいる、とか、家の中でだらしない、といった愚痴ならば、苦笑いで受け流すこともできる。
しかし、『とにかく大っきらい』というのはショックだった。つまり、別の言葉に言い換えれば『生理的にイヤ』というのと同じではないか。
愕然《がくぜん》とした顔の英幸に、ひとみは無邪気な声で言った。
(お父さん、私がこのことバラしちゃったって、ぜったいにお母さんには言わないでね。ぜったいナイショだよ)
(ああ、わかった)
硬い表情でうなずいてから、英幸は、長女の腕をとってささやいた。
(ひとみ、もしもお母さんが、またお父さんの悪口を言っていたら、そのときも教えてくれ。それから、お父さんがおまえにこういう頼み事をしたことは、お母さんには絶対にナイショだぞ)
(うん、わかった)
ひとみは、うれしそうにコクンとうなずいた。
そのときのやりとりが、月曜日になって会社に出てからも、しきりに英幸の胸のうちをよぎった。
(お父さんのこと、大っきらいだって。とにかく大っきらいなんだって)
振り払おうと思っても、その言葉が繰り返し繰り返し頭の中に響き渡る。
最初のうちはひとみの声だったが、いつのまにかそれは妻の慶子自身の声に変わっていく。
(あなたなんか大っきらいよ。とにかく大っきらいなの)
汚いものでも見るような、妻の顔が目に浮かぶ……。
いったい妻はなぜそんな言葉を娘に洩らしたのか。その理由が、いくら考えても英幸にはわからなかった。
もしも自分が浮気のひとつでもしていれば非難されても仕方がないが、仕事人間の英幸には――夜の繁華街での数度の遊びを除けば――これといって咎《とが》められるような心当たりがない。
いや、待てよ、と英幸は思った。彼の脳裏をふと横切った考えがあった。
それは、八年ぶりに慶子との間にできた次女のさゆりのことだ。
いつまでもひとみが一人っ子じゃかわいそうよ――ひとみが小学校にあがってまもなく、妻の慶子がそんなことを言い出した。
友だちの家に遊びにいくと、たいていそこには兄弟姉妹がいて、それがとても楽しそうだと、ひとみがうらやましそうに洩らすのだという。
仲のよいお友だちの中で、一人っ子でいるのはひとみくらいなものなのよ、と、慶子は、ひとみのためにももうひとり子供がほしいと主張した。
しかし、会社のことばかりに目がいっている英幸は、二人目の子供についてはまったく関心を示さなかった。というよりも、ひとりだけでもウンザリなのに、これからもうひとり増えるのは御免だ、という気持ちがあった。
けれども慶子は引き下がらなかった。あまりにも二人目の子供を強く望むので、英幸は、その動機を怪しんだ。ひとみが弟か妹が欲しいと言った程度では、ここまで慶子が執着するとは思えなかったからだ。
すると――
「ほんとは私、もうひとりの子に賭《か》けてみたいのよね」
ひとみのために、と言っていた舌の根も乾かないうちに、慶子は本音を洩らした。それは、受け取りようによっては、ひとみに対する愛情を完全に放棄した言い方でもあった。
「私、なんだかこのままじゃ、あきらめきれなくて」
ひとみは、名前どおり目のクリクリした女の子だったが、目元のみならず、その他の部分もすべて大造りにできていた。顔ばかりでなく、身体つきもごつかったのだ。
そのため、他人から「ひとみちゃんは可愛いわね」とほめられることがあまりなかった。そしてその状況が、母親の慶子にとっては、いたく不満だったらしい。
彼女は彼女なりに、女の子が生まれてきたときのイメージがあったようだが、それと現実の長女の容姿とは大きくかけ離れていたわけだ。
「似なくていいところがお父さん似になっちゃったのよね」
成長するにしたがって、ひとみの顔立ちが英幸似であるのが確定的になってくると、慶子は、なぜ娘が自分のほうに似なかったのかという愚痴を、たびたび夫に向かってこぼすようになった。
たしかに慶子は、とびきりというほどではなかったが、まずまずの美人といってよかった。一方英幸は、二枚目になりそこなった暑苦しい顔立ちをしていた。だから、女の子であれば母親似に生まれついたほうがいいに決まっていた。
それはそうなのだが、ひとみが思いどおりの可愛い子にならなかったことを自分のせいにされるのが、英幸としては不愉快でならなかった。そこで、妻の愚痴には愚痴で応じた。
「おれだってなあ、自分に似た女の子が欲しいと思ったことは一度だってなかったよ」
そんな不満のぶつけあいは、夜遅く、夫婦だけになったときに行なわれたが、狭いマンションゆえに子供部屋までその会話は筒抜けになっていた。
そのことを、英幸も慶子も知らなかった。また、ひとみには両親の愚痴の内容がじゅうぶんに理解できたことも……。
ともかく、あまりにも慶子がうるさく言いつづけるので、英幸はしぶしぶながら二人目の子供を作る提案に賛成した。
仕事の忙しさを理由に、英幸は、ここ何年も妻と肌を接していなかった。手狭な住まいだったから寝室を別にすることはなかったが、ダブルベッドはいつのまにかシングルベッド二台に買い替えられていた。慶子がそうしたのだ。
その狭いシングルベッドの上で、英幸は義務のように妻を抱き、そしてあっけないほどかんたんに慶子は妊娠した。
生まれてきたのはこんども女の子だった。けれども、さゆりと名づけられた次女は、現在まだ生後三カ月ではあったが、はっきりと母親の慶子に似ていた。父親から受け継いだと思われる部分は、いまのところ見当たらない。
期待どおりの展開に、慶子は大いに喜んだ。そして、長女のひとみはそっちのけで「さゆりちゃん、さゆりちゃん」と、新しく生まれてきた自分似の次女を溺愛《できあい》した。
だが……。
山崎英幸は、会社のデスクに座ったまま、ドキッとするような考えに取り憑《つ》かれていた。
(ひょっとしたら、さゆりはおれの子ではないんじゃないだろうか)
テレビドラマに出てきそうな設定に自分が巻き込まれようとは、英幸は思ってもみなかった。
しかし、考えれば考えるほど、その仮定が妙に現実味を帯びて感じられてきた。
(慶子は、腹を痛めて産んだ最初の娘がおれに似ているので、ひどく不満そうにしていた。しかしそれは、ひとみ本人ではなく、おれに対する嫌悪感の現れだったのではないか)
お父さんなんか大っきらい、という言葉が、また頭の中で響く。その声は、ひとみではなく、妻の慶子のものだ。
(そんなにおれを嫌っているのなら、たとえ子供が欲しいという理由にせよ、慶子がすすんでおれに抱かれたのは、ちょっと不自然だったのではないか)
(もしかしたら、おれに二人目の子供を作ろうともちかけた時点で、慶子はすでに別の男の子供を妊娠した可能性に気づいていたのでは)
自分の着想に、英幸は心臓の鼓動が早まるのを感じた。
(それであわてて、おれに二人目の子供の話をもちかけてきた)
(浮気相手の子供を孕《はら》んだかもしれないと思ったとき、慶子は中絶ではなく、思い切って産むほうの道を選んだ。そしてそのために、ダミーとして夫のおれが利用された)
(そんな裏の事情も気づかずに、おれはいまさら抱きたくもない慶子を抱いたというわけか)
想像はいくらでも膨《ふく》れあがっていった。そして英幸にとって、それは妄想ではなく、確度の高い推測に思えてならなかった。
(ピエロじゃないか、おれは!)
頭の中がカッと熱くなった。
(慶子……許せないぞ)
山崎課長、お客様です、という部下の声も、周囲で鳴り響く電話のベルも、いまや英幸の耳にはまったく聞こえていなかった。
(おまえは、おれをだましたんだな!)
5
山崎慶子も大いに動揺していた。
(お父さんがね、お母さんのこと大っきらいだって)
長女ひとみから聞かされたないしょの話は大ショックだった。
夫についての不平不満ならば、じつは腐るほど主婦仲間にこぼしていた。しかし、当の夫がこちらの悪口を言っているとは考えてもみなかった。
ご主人があなたのことを嫌っているわよ――隣近所の誰かからのご注進という形でもたらされた情報だったら、慶子もすんなりとは信じなかっただろう。きっと、「○○さんから、あなたが私の悪口を言っていたと聞かされたけれど、それってホントなの?」というふうに、事の真偽を直接夫に問いただしていたに違いない。
しかし、情報源が娘のひとみだっただけに、かえって慶子はその言葉を無条件に信じてしまった。
子供は正直である。おまけに八歳という年齢では、なにか他意のある嘘《うそ》をつくことなどできまい――慶子は、そう考えた。だから、夫が自分の悪口を言ったのは本当に違いない、と判断した。
それにしても『大っきらい』という言葉は強烈だった。そこまでいくと、悪口の部類には入らないだろうと、慶子は思った。悪口よりも、もっともっとタチの悪い代物だ。
悪口というのは、相手を批判したり相手に対する不満をこぼしたりすることだ。だが、『とにかく大っきらい』というのは、批判でもなければ不満でもない。極限の嫌悪感ではないか。だからショックなのだ。
しかもその感情を、夫は、よりによってひとみに向かって打ち明けた。この事実も、ショックに輪をかけた。
いったい夫は、私のどこを嫌ったのだろう――慶子はあれこれと考えた。
が、けっきょく心当たりは一つしかなかった。子供に関することだ。
夫に似たひとみに対して、あまり愛情を注げないのは、慶子自身認めざるをえなかった。その露骨な態度が、夫に不快な感情を起こさせた可能性は大いにあった。
夫はふだんから、ひとみに父親らしい愛情をほとんど示したことがない。だが、それはそれとして、長女に対する慶子の冷たい姿勢の遠因に夫への愛情の薄さがあったとわかれば、英幸としてもやはり面白くはなかろう。
しかも慶子は、長女のひとみを心から可愛がれないばかりでなく、どうしても母親似の子供が欲しくて、夫に対し、むりやり協力を頼んだ。これも夫の目からみれば、ずいぶん身勝手な行動と映ったかもしれない。
夫がほとんど事務的に自分の身体に乗ってきたのを、慶子はちゃんと感じ取っていた。でも、それでもかまわないと完全に割り切っていた。とにかく慶子は、自分に似た子供が欲しかったのだ。
そのことも含めて、英幸は妻に対する不愉快な思いを募《つの》らせたのかもしれなかった。
(ねえ、ひとみちゃん)
最初の衝撃からなんとか立ち直った慶子は、めったに出さない猫なで声で、ひとみに頼み事をした。
(もしもお父さんが、お母さんの悪口をまた言っているようだったら、そのときは、きょうみたいにこっそり教えてね。それも、もっと詳しくね)
夫が同じ依頼をすることになろうとは露《つゆ》知らず、山崎慶子は、たいして可愛いと思っていない長女の肩を抱いてそう言った。
6
それから十日ほどのちに、次女のさゆりが生後百日目を迎えた。いわゆる『お食い初《ぞ》め』の儀式を行なう日である。
仕事第一主義の英幸も、この日は会社を定時にひけて、夕食どきに間に合うように帰ってきた。さゆりのためではない。孫のお食い初めを祝って、ひさしぶりに徳島の実家から両親が上京してきたからだ。
それだけではない、慶子の両親も浦和から孫の祝いにやってきたので、ずいぶんとにぎやかなことになった。
家族サービスなどめったにしない英幸が、双方の両親の手前もあって、三脚にカメラを取り付けるなど、まめまめしく記念撮影の準備をした。
鯛《たい》の塩焼きにハマグリの吸い物を漆塗りの盆に載せ、慶子が抱いたさゆりを中心に、英幸、ひとみ、そして両家のおじいちゃんおばあちゃんを入れた一家の記念写真が、セルフタイマーによって何枚も撮影された。
ふだんは妹ぎらいのひとみも、カメラに向かってVサインを突き出しながら、ご機嫌でポーズをとっていた。このところ、父と母がひとみに対して急に愛想よくなったからである。
両親のそうした態度の変化は、自分が二人に与えたニセ情報によるものだとわかっていたから、ひとみはおかしくて仕方なかった。
お父さんもお母さんも、ことあるごとにそっとひとみを呼び寄せては、「ひとみちゃん、とくに変わったことはないかな」とたずねてくる。そのセリフの言い回しまでほとんど同じなので、ひとみはとうとうウフフと声を立てて笑ってしまったほどだ。
お父さんがひとみのために童話の本やケーキを買ってきてくれたことも満足だったし、あれほど妹にかかりきりだったお母さんが、ひとみのめんどうを優先的にみてくれるようになったこともうれしかった。
ウソの力ってすごい、とひとみは思った。家族の中での主役の座を、ひとみに取り戻させてくれたからだ。
でも、あれ以来、お父さんにもお母さんにも新しい情報は与えていない。これからもひとみちゃんを大事に扱ってもらうには、うんともったいぶっておいたほうがいいのだ。
記念撮影が終わると、慶子手づくりのちらし寿司がふるまわれた。今夜ばかりは、ひとみの父も母も笑顔を絶やすことがなかった。生後百日目のさゆりを囲んで、大人たちの笑い声がはじけた。
けれども、その中で自分の両親の笑いだけは芝居なのだと、ひとみにはちゃんとわかっていた。
八歳はもう子供なんかじゃない。そのことに気づかないお父さんもお母さんもバカみたい、とひとみはこっそり肩をすくめた。
食後の果物を囲んで話がはずむ中、父親側の祖母である山崎春江が、トイレのために席を立った。
すると、それを目ざとく見つけたひとみが、急いでその後を追いかけた。
「ねえねえ、おばあちゃん。ちょっと待って」
リビングにいるみんなから見えないところへくると、ひとみは祖母の背中を叩《たた》いた。
「トイレに入る前にお話があるの」
「まあまあ、なにかしら」
春江はふり返ってニッコリ笑った。
ひとみは、四人いる祖父母の中で、父の母である春江がいちばん好きだった。とりわけ、そのやさしそうな笑顔が。
だが、いまひとみは、祖母の笑顔に笑顔で応じなかった。八歳の子供が作れるせいいっぱいの深刻な表情を浮かべて、ひとみは例の決まり文句を言った。
「あのね、ぜったいナイショだよ」
「そんなに大切な話なのかね」
「うん。お父さんにもお母さんにも、それから浦和のおじいちゃんやおばあちゃんにもナイショだよ。どんなことがあっても言っちゃダメだよ。ひとみ、春江おばあちゃんにしか相談できないから」
「はいはい、おばあちゃんは秘密はちゃんと守りますよ」
孫が自分を特別扱いしてくれた嬉《うれ》しさに、春江の顔はいっそうほころんだ。
「何か困ったことがあるのなら、おばあちゃんが聞いてあげるわ。さ、話してごらん」
春江は、孫娘が耳打ちしやすいように、少しだけ身をかがめた。その耳元に唇を近づけると、ひとみはささやいた。
「おばあちゃん、大変なの。お母さんがね、お父さんを殺したいんだって」
春江の身体が、彫刻のように動かなくなった。
三十分ほど経ってから、こんどは母方の祖父である岩本良松がトイレに立った。
それを、またひとみが追いかけた。
「ねえねえ、浦和のおじいちゃん」
「ほいほい、なんじゃらほい」
良松は、おどけたしぐさでふり返った。
「あのね、ぜったいナイショだよ」
さっきと同じ硬い表情で、同じ決まり文句をひとみは口にした。
「お父さんにもお母さんにも、それから徳島のおじいちゃんやおばあちゃんにもナイショだよ。ひとみ、良松おじいちゃんにしか相談できないから」
「ほいほい、了解、わかったほい」
「あのね……あ、おじいちゃん、もっと背を低くして。秘密の話なんだから、お耳のところで話さないとダメなの」
「あらほい、そうかね。しゅるるる〜、たちまちおじいさんは一寸法師になりましたあ」
良松は膝《ひざ》を床について、ひとみよりも低い位置に頭を持ってきた。
明らかに孫娘の笑いをとろうとしたしぐさだったが、ひとみは笑わなかった。
そして、緊張した表情で、祖父のシミだらけの耳たぶに口を寄せた。
「おじいちゃん、すっごく大変なの。うちのお父さんがね、お母さんを殺したいんだって」
「な……な……」
膝立ちのポーズで身をかがめていた良松が、さらにぺたんと尻餅《しりもち》をついた。
「なんじゃら……ほい」
7
楽しげなお食い初めの儀式は、後半になって突然妙な雰囲気になってしまった。
山崎春江と岩本良松の二人が、それぞれ急に、心ここにあらずという様子になってしまったからだ。
彼らは、つれあいや子供夫婦から、具合でも悪くなったのかとしきりにたずねられたが、ぎこちない作り笑いで質問をはぐらかした。
しかし、あまりにも話がはずまなくなったので、英幸が納得のいかない顔のまま、さゆりのお食い初め記念パーティの終了を宣言した。
しかし、春江や良松が『ぜったいナイショだよ』というひとみの言葉を守ったのは、その場だけのことだった。
その証拠に、翌日から山崎家の雰囲気は一変した。
それぞれの祖父母から、英幸と慶子に緊急重大情報がいったため、夫婦の間に緊迫した空気が流れた。
英幸は母親から、慶子さんがあんたのことを殺そうと企んでいるらしいよ、と聞かされた。
慶子は父親から、英幸君がおまえのことを殺そうと考えているらしいぞ、と聞かされた。
いずれも、情報源はひとみだった。
ひとみは、祖父母に詳しい説明をしたわけではなかった。最初のひとことに動転した徳島のおばあちゃんや浦和のおじいちゃんから詳細を問い詰められても、「ひとみ、心配で心配でたまらないの」と言うだけで、すぐにみんなのいる場所へ戻ってしまった。
だから英幸の母も慶子の父もじゅうぶんな状況把握ができなかったが、それでも彼らは、孫娘の真剣なまなざしを見れば、その言葉を疑うわけにはいかない、と思った。彼らの頭には、年端《としは》もいかない子供が悪質な嘘をつくはずがない、という固定観念があった。
英幸も慶子も、それぞれひとみと二人きりになったときに深刻な表情で問い詰めた。
「お母さんがお父さんのことを殺したいと言っていたというのは本当なのか」
「お父さんがお母さんのことを殺したいと言っていたという話は本当?」
それらの問いに、ひとみは黙ってコクンとうなずいた。そして、いかにも心細そうな声を出しながら、父親には「ちょうど徳島のおばあちゃんがきてくれたから相談しようと思ったの。でも……こわくてぜんぶは話せなかった」と言い、母親に対しては「ちょうど浦和のおじいちゃんがきてくれたから相談しようと思ったの。でも……こわくてぜんぶは話せなかった」と答えた。
当然、父も母も『ぜんぶの話』をひとみから聞き出そうとした。しかし、ひとみは「もう何も言いたくないの」と言って、完全に口をつぐんでしまった。
これ以上思わせぶりな答はなかった。
それで英幸も慶子も焦った。
ふだんの夫婦ゲンカならば、おたがいに口を利かなくなるのだが、いまは逆に、夫と妻はよくしゃべった。これまでにないくらい、夫婦は毎朝毎晩、顔を合わせているときにはよくしゃべった。
でも、それは肚《はら》の探り合いなのだ。たがいに、相手の『殺意』を知っているのはこちらだけだと思っている。そして、恐怖と疑惑と憎悪を一分一秒ごとに募らせながら、相手に油断をさせるため、必死の作り笑いを浮かべながら駆け引きをする。会話の端々から、相手の真意を探ろうとするのだ。
傍観者のひとみにとって、それは最高のショーだった。そして、ときにひとみは、両親それぞれのメッセンジャーとなって、双方の本音を探るスパイ役を頼まれたりする。
いまやひとみだけが、山崎家が崩壊するのを防いでいるクサビのような存在になっていた。家庭の中で、ひとみはたんなる主役というだけではなく、父親にとっても母親にとっても、なくてはならない存在になっていた。
ひとみは、ますます得意満面だった。ほんとうにウソの力ってすごい、と思った。
けれども、ひとみはやはり子供だった。八歳の彼女には、じつに単純な見落としがあった……。
8
徳島のおばあちゃんと浦和のおじいちゃんを仰天させた、あのお食い初めの日の告白から一週間ほど経った夜――
ひとみはベッドの上でぐっすりと深い眠りについていた。もう時刻は真夜中に近い。
さゆりが生まれてからは、ベビーベッドを置いた奥の六畳に母親の慶子が添い寝をし、父親の英幸とひとみが寝室に置いた二つのシングルベッドに並んで寝るという習慣になっていた。
その片方のベッドで眠っていたひとみは、ちょうどそのとき夢をみていた。楽しい夢だった。家族三人で上野公園にお花見に出かけているのだ。
妹のさゆりは、その場にいなかった。夢の中のひとみは一人っ子だった。そして、父の英幸と母の慶子に両側から手をつながれ、ときおり二人の手にぶらさがって、自分の身体をブランコのように揺らしてはキャッキャとはしゃいだ。満開の桜のせいで、空気までピンク色に染まってみえた。
「こらこら、ひとみ、もう子供じゃないんだから、そんな幼稚園生みたいなまねはよしなさい」
「ほんとうよ、ひとみちゃん。小学校二年にもなって、お父さんとお母さんに両方から手をつないでもらっている子なんているかしら?」
父と母は軽くたしなめる調子で言ったが、その表情はやさしく和んでいた。めったに見たことのない、穏やかな穏やかな笑顔である。
幸せだなあ、とひとみは思った。こんなにやさしいお父さんとお母さんがそばにいてくれて、私ってなんて幸せな子供なんだろう、と……。
「あのね、あのね」
桜の花びらがひらひらと舞い落ちる小径《こみち》で立ち止まると、ひとみは両側にいた両親を自分の前に引き寄せた。
「ぜったいナイショだよ」
「なんだい、もったいぶって」「なあに、ひとみちゃん」
父と母が見つめる。その笑顔に向かって、ひとみは恥ずかしそうに言った。
「ひとみね、お父さんもお母さんも大好きなの!」
父と母は、一瞬キョトンとした顔をしていたが、それが『秘密の話』だとわかると、声をあげて笑った。
「ひとみー」「ひとみちゃんたら」
二人の手が伸びてきて、ひとみの頭をいい子いい子となでてくれた。
ひとみはうれしくなって、また両親の手にぶらさがってブランコをはじめた。
揺れる、揺れる。満開の桜並木が揺れてみえる。
揺れる、揺れる。もっと激しく揺れる。頭がガクガクと揺れる……。
「ひとみ、起きろ!」「目を覚ましなさい、ひとみ!」
お父さんとお母さんが私のことを呼んでいるなあ、と、ひとみはぼんやり思った。でも、さっきとはずいぶん声の調子が違っているけれど……。
「こら、起きろ!」「ひとみってば」
あまりの声の大きさに、ひとみはハッと目をさました。桜満開の世界は夢のかなたに消え去り、蛍光灯の青白い光に照らされたマンションの寝室に眠っていた現実が呼び起こされた。
薄目を開けると、父の英幸と母の慶子の怒りに満ちた顔が、上からひとみを覗《のぞ》き込んでいた。
「おまえ、いったいどういうつもりで、あんな嘘《うそ》をついたんだ!」
あおむけに寝そべったままのひとみの顔に唾《つば》を飛ばしながら、父親が猛烈な勢いで怒鳴った。
すると横から、母親も鬼のような顔をしてなじった。
「あなたね、親をなんだと思っているのよ。いつからそんなひどいウソつきになったの!」
夢の中に出てきた両親とは、まるで別人のような姿がそこにあった。
あまりのイメージの変わりように、ひとみが何も反論できずにいると、父親が掛け布団をはねのけた。そして、ひとみの右手をつかんで、強引に引っぱり起こした。
「やだー、手がちぎれちゃう」
「うるさい!」
パシン、と父親の平手打ちが頬《ほお》に飛んだ。
ひとみは、泣くよりも先に、その強烈な痛さにヒッと悲鳴を上げた。そして、反射的に、母親の慶子にしがみつこうとした。
「お母さあん」
「なにがお母さんよ」
母親は、すがりつく娘の手を乱暴に払いのけ、逆に髪の毛をわしづかみにすると、激しくその頭を揺すった。
「あんたのおかげでねえ、おじいちゃんやおばあちゃんたちがどれだけ心配したかわかってるの。お父さんとお母さんがどれだけ心配したかわかってるの。え、最悪だね、あんたは。そんな子供にしつけた覚えはありませんよ!」
「ひとみ、これはな、謝って済む問題じゃないぞ」
ひとみが何も言わないうちから、父親は一切の弁解と謝罪を許さないことを宣言した。
謝らせるために怒っているくせに、謝ってもいけないんだったら、私はどうすればいいの、とひとみは心の中で叫んでいた。
しかし、それを声にすることはできなかった。最高に幸せな夢をみていた途中で、いきなり引き起こされ、頬に平手打ちを飛ばされ、髪の毛をわしづかみにされ、夢の中とは百八十度性格が正反対になった父と母から乱暴と説教の総攻撃を受け、八歳のひとみは、ショックで言葉を失っていた。
だが、どんな事態が起こったのかは、一分も経たないうちに把握できた。
ひとみが寝入ったのちに、父と母が、たがいに情報交換をしてしまったのだ。そこで二人とも、ひとみからまったく同じ内容の内緒話を聞かされていた事実がわかったに違いなかった。つまり、ひとみが悪意に満ちた嘘をついていた、という事実がバレたのだ。
考えてみれば、いくら親に嘘の告げ口をしたところで、両親どうしが確かめあえば、たちどころに子供の嘘は見破られてしまう。
そういった展開は最初から予測できたはずだが、最初にみせた母親の慶子の反応があまりにも期待どおりだったので、ひとみとしては、同じ種類の嘘が父親にも通用するかもしれないと思ったのだ。
そして、父親の英幸もまた期待にたがわず、慶子と同じ反応をみせた。おまけに、その嘘は何日もバレなかった。
夫婦仲が冷えていたからこそ、娘の一言で、たがいの疑心暗鬼が一気に募ってしまったのだ。
それに味をしめたひとみは、さらに嘘をエスカレートさせたが、さすがに殺害計画まで話がふくらむと、英幸も慶子も、たがいを牽制ばかりしてはいられなくなる。正面きっての話し合いが夫婦間でもたれるのは時間の問題だった。
そしてそれは、ひとみの嘘が露見する瞬間でもあった。
けれども、父親と母親の冷たい関係を知っていたひとみは、まさか両親が手を結んで、ひとみだけを責める展開になろうとは考えてもみなかった。
(お父さんもお母さんも、一度は私のウソを本気で信じたくせに! 二人とも、おたがいのことを好きじゃないのに、どうして私を叱《しか》るときだけは、そういうふうに急に仲良くなっちゃうの)
くやしかった。メチャクチャにくやしかった。
このままでは、ふたたび妹のさゆりばかりが可愛がられて、自分は無視――それも、いままで以上に徹底的に無視される毎日がはじまることになる。
お父さんの顔もお母さんの顔も、ひとみなんかこの家にはいらない、と言っているようだった。
(私はどうやったってジャマ者なんだ。どうやったって……)
夢の世界に戻りたかった。あの桜吹雪の中を、やさしいお父さんとやさしいお母さんの笑顔に包まれながら歩いていた、あの世界に……。
そう考えたとき、どっと悲しみが押し寄せてきた。そしてひとみは、声をあげてワンワンと泣いた。
だが、それは許しを乞うための涙と受け止められたらしく、両親は、前にもまして大きな声で怒鳴りだした。
「ひとみ、泣きゃあいいってもんじゃないぞ!」
「そうよ、ひとみ。泣いてごまかすのがいちばん卑怯《ひきよう》よ」
「いったい何の目的で、親をからかうようなひどいウソをついたんだ」
「何のためなの。さあ、言いなさい」
「それをきちんと説明できるまで、きょうは寝かさん。明け方になったって寝かせないからな」
「ひとみ、明日は学校があるんでしょ。だから、遅刻したくなければ、さっさとお父さんに本当の説明をしなさい」
「ともかく立て! しっかり起きて、向こうのテーブルにつくんだ。ベッドの上に座ったまま、などという横着な格好は許さん」
「立ちなさい、ひとみ」
「早く言うとおりにせんかあ!」
父の英幸が、怒りのあまり耳たぶをつかんでひとみを強引に立ち上がらせた。
痛みと屈辱とで、ひとみはヒステリックな金切り声を発した。
9
濃紺の空が白みはじめた明け方――
山崎ひとみは、目を真っ赤に腫《は》らしたまま朝を迎えようとしていた。
父の英幸も母の慶子も、二時間あまりにわたってひとみを罵倒《ばとう》したいだけすると、すさまじい捨てゼリフをいくつか残して床についてしまった。
父親などは、さきほどまでの大騒ぎをすっかり忘れてしまったかのような豪快なイビキを立てて眠っている。
その隣のベッドがひとみの寝るべき場所だったが、とてもではないが、もう父親の隣などで眠れたものではなかった。
もちろん、母親と妹がいる六畳間のほうへも行く気がしない。
こういうときに狭いマンションは不便だった。仕方がないので、ひとみはリビングのソファにもたれ、カーテンのすきまから、夜が白んでいくさまをじっと見つめていた。
両親の追及は猛烈だったが、ウソをついた理由をどんなに問いただされても、ひとみは決して口を開かなかった。
ひとみはひとみで意地になっていた。
家の中でのけものにされた自分が、どれだけ悲しい思いをしていたかなど、いくら言葉に出して語ったところで、お父さんやお母さんはわかってくれっこない。いろいろなウソをついたすべての理由が、じつは両親の冷たさにあるなんて、絶対にわかってくれっこない。だから、説明なんてしてやるもんか、と開き直っていた。
ひとみの言い分に耳を傾け、その気持ちを理解してくれるような親ならば、最初から娘に対する態度はもっと別のものになっていたはずだ。そういうふうに、ひとみは考えていた。
つまり、もはや両親とのコミュニケーションは不可能だと、八歳は八歳なりに見切りをつけてしまっていた。
(けっきょく私なんて、この家にいてもしょうがないんだ)
父と母の叱声《しつせい》の嵐《あらし》を浴びながら、ひとみは絶望的な気持ちになっていた。
(もうこんな家なんて、なくなっちゃえばいい!)
ひとみは完全に投げやりになった。
しかし、八歳の娘が感情を爆発させる寸前にきていることを、英幸も慶子も気がついていなかった。
夫婦関係の亀裂《きれつ》ゆえに子供の嘘に振り回されてしまったみっともなさを、子供にだまされていたという怒りにすり替えることで、彼らはなんとか親としての、そして夫婦としての威厳を取り繕《つくろ》ったつもりになっていた。
「勝手な親!」
ひとみは、口にだしてつぶやいた。
「勝手すぎる」
そして彼女は、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「お母さん」
十分後、山崎ひとみは、豆電球の明かりひとつになった奥の六畳間に入って、ベビーベッドの脇で寝息を立てている母親に呼びかけた。
「ねえ、お母さん」
慶子は、すぐにはその声に反応しなかった。ぶつぶつと意味不明の寝言をつぶやきながら、掛け布団を頭からかぶろうとした。
が、こんどはひとみがその掛け布団をはねのける番だった。
「ねえ、お母さんてば、だいじな話があるから聞いてよ。ねえ」
ひとみは母親の身体を揺すった。
それでようやく慶子は目を覚ました。
「なによ」
そこに立っているのがひとみだとわかったとたん、母親は急に不機嫌な声を出した。
「あなた、明日学校があるんでしょ。早く寝なさい」
「お母さん、すっごくだいじな話があるの」
「いいかげんにしなさい!」
慶子が癇癪《かんしやく》を起こした。
「あんたの嘘はもうたくさんだって、お父さんもお母さんも、さっきさんざん言ったでしょ。とにかく寝なさいったら寝なさいよ」
その声の大きさで、うつぶせ寝になっていた妹のさゆりがパチッと目をさました。
だが、泣き出しはしなかった。
横向きにした顔を姉のひとみのほうに向け、右の親指をチュパチュパと吸いながら、何か物言いたげにじっと見つめている。
暗がりの中で、さゆりの瞳《ひとみ》だけが妙に輝いているのが、ひとみにとって印象的だった。
「あのね」
視線を妹から母親に戻すと、ひとみは言った。
「これって、ぜったいナイショだよ」
「くどいわね、もうやめなさい!」
「でも、だいじな話だから言うよ。そのかわり、ぜったいナイショだよ」
「ひとみ、お母さんはね、ウソつきっ子の話なんか聞きたくないの」
「お父さん、死んじゃったよ」
「……え」
慶子の身体の動きも表情も凍りついた。まるで彼女の周囲だけ、時間が止まったようだった。
しかし、ベビーベッドの中のさゆりの時間は動いていた。
チュパチュパチュパと親指を吸いつづける音がする。
母親の枕元に立っているひとみの時間も動いていた。
同じ言葉を繰り返すために、唇がもう一度同じ形に動いた。
「お父さん、死んじゃったよ」
慶子の時間だけは、ますます固く凍りついていた。
「血がいっぱい出ているよ」
ひとみはなおもつづけた。
「血がいっぱい出て死んじゃったよ。ひとみのこと、すごく怒ったから、そうなっちゃったんだよ」
突然、猛烈な震えが慶子の全身を襲った。
夫の名前を呼ぼうとしたが、声も出なければ唇も動かなかった。布団の上に起き上がろうとしたが、それもできない。
ほんの十数秒前までは、ひとみが何を言っても嘘だと思い込んでいただろう。しかし、いまの慶子には、娘の言葉が嘘だという確信がもてなかった。
ひとみの表情、ひとみの声色、それにひとみのしぐさが、魔術のように母親を金縛りにした。
もしもひとみの言葉が本当なら、私はパニックを起こして気が狂ってしまうわ、と慶子は思った。
しかし、もしもひとみの言葉が嘘であったなら――
つまり、父親が死んだという嘘を、冗談ではなく、まじめな顔で母親に向かって言い放つような八歳の娘と、今後もひとつ屋根の下で暮らしていかねばならないとしたら――
そのほうがもっともっと恐ろしい展開になりそうだ、と慶子は気がついた。
そして、目の前がまっくらになった。
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親 戚
1
「結婚は当人どうしの愛情さえあればいいというものではないんだよ。結婚とは、家と家との結びつきなんだからね。相手の家柄というものをようく見ておかなくちゃ」
というのが、南條《なんじよう》英二の母・松江の口癖だった。
父親が早くに亡くなり、一人息子である南條とふたりきりの暮らしが長かったせいか、母の松江は何かと理屈をつけては南條の結婚を先送りにしようとしていた。
南條はなかなかの男前だったから女性にはよくモテたし、いわゆる女遊びも盛んだった。
そうした遊びの範疇《はんちゆう》におさまっているぶんには、母も息子と女性の交際をとやかく言わなかった。
それに南條自身も、二十代のうちは結婚などまったく念頭になかったから、母親が古風な結婚哲学をぶっても、右の耳から左の耳へと聞き流すていどの注意しか払わなかった。
そして三十の大台に乗ってからも、南條は結婚などする気はまるで起こらず、相変わらずの女遊びと仕事に明け暮れていた。
彼の職業はコラムニスト。雑誌などのコラム欄に気の利いたことを書いては、それで原稿料をもらって暮らしている。
コラムニストとエッセイストはどう違うのかとよくたずねられるが、南條としては、たんに原稿枚数の差ではないかと思っている。
随筆すなわちエッセイよりも、コラムのほうが一般に原稿のサイズは短い。短いからこそ、そこに盛り込むウィットや皮肉は、エッセイよりももっと鋭角的にならざるをえない。
原稿の長さの差が、そのまま質的な差異にもつながってゆくというのが、南條の解釈だった。
そんなコラムの切れ味が南條の性に合っていたのか、彼はみるみるうちに人気コラムニストとしての地位を確立し、若者の間に支持層を広げていった。
そして三年前、三十二歳のときに、彼は二つの大きな転機を迎えた。
ひとつは、全国紙の日曜版に人生相談コーナーの連載を持ったことである。そのタイトルは『南條英二のマジメにやろうよ!』。
新聞紙面に掲載される人生相談の回答者としては、南條は年齢的にいささか若すぎたが、この抜擢《ばつてき》の背景には、二十代の定期購読者層拡大をめざす新聞社の狙《ねら》いがあった。
学生やヤングサラリーマン・OLなどに人気急上昇中の新進気鋭コラムニスト南條英二ならば、若者の関心を紙面に引きつけられるだろうと考えたのだ。
そのもくろみは見事に当たり、連載から三年たった現在では、南條英二の人生相談は新聞日曜版の名物コーナーとの評判が定着していた。彼の歯に衣着せぬ辛口の回答が大いにウケたのだ。
そしてこの連載のおかげで、南條本人の知名度も飛躍的に上がり、若者ばかりでなく、その親の世代にも彼の名前は浸透するようになった。
もうひとつの転機は、ちょうど新聞連載がはじまったころに、坂上麻衣子というひとりの女性と知り合ったことだった。
麻衣子は、南條がこれまで遊びとして付き合ってきた多くの女性たちとはまったく異なる環境に生きていた。歯科医の助手である。
容姿は十人並みだったが、南條は彼女のやさしくて素直な性格に強く惹《ひ》かれた。
そして彼は、はじめて結婚というものを意識した。
そんな息子の心境の変化に気づいたのか、これまで女性との交際にとやかく口をはさまずにいた母の松江が、猛然と反発してきた。
南條も今回ばかりは遊びではないという意識があったから、麻衣子を母に引き合わせようとするのだが、松江はそんな女には会う必要はないと、頑として拒否の姿勢を貫いた。
松江は、具体的に麻衣子のどこが気に入らないというのではなく、息子が結婚すると決めた相手だから、とことん反発しているのだった。
やがてその反発が高じて、まだ見ぬ麻衣子に対する激しい憎悪へと転じていった。
「そんなに麻衣子という女と結婚したいのだったら、母さんを殺してからにしなさい!」
松江はすさまじいセリフを吐いた。
南條は困った。彼は母親の性格を知り尽くしていたから、ここまでこじれてしまったら、いかなる説得も通じないと思った。
説得が無理なら、強行突破しかない。すなわち、坂上麻衣子との結婚を貫くには――まさか殺すわけにはいかなかったが――母を捨てる決心を固めるしかなかった。
母は六十一だったが、決して身体が丈夫なほうではなく、年齢以上に老けてみえた。その母を、この年になってひとりぼっちにさせるというのは、相当な勇気を要することだった。周囲からの批判も覚悟しなければならない。
けれども、いったん決まった南條の気持ちは揺らがなかった。なぜならば彼は、母親の猛反発が麻衣子個人に向けられたものでないことを、じゅうぶん承知していたからだ。
仮に麻衣子と別れても、結婚したいと思う別の女性が出てきたら、母の松江はまた同じ反応をみせるに決まっていた。要は、一人息子をよその女に奪われたくないのだ。
そんな状況だったから、南條としてはできるだけ早いうちに、母に対してきっぱりとした態度表明をする必要があった。
もちろん、面と向かってそれを述べるときは、母が傷つかないように、言葉の選び方ひとつにも配慮が求められた。
しかし――
「母さんの反対は、反対になっていないよ。いや、反対のための反対といえばいいかな」
よせばいいのに、南條はそんな言い方で母親を批判するところから入った。
いつもの辛口コラムの癖がつい出てしまったのだ。
「結婚とは当人どうしの都合ばかりで運ぶわけにはいかない、という母さんの言い分は、裏を返せば、私の都合だけ聞き入れなさいよ、ということじゃないか。でも、わるいけど、そんな意見はもうぼくには通用しないよ」
麻衣子との結婚について、これ以上抵抗されては困る――そのことばかり考えていたので、南條は母親の反論を完璧《かんぺき》に封じ込めようとして、口をはさむ余地がないほど論理的に、そして救いがないほど容赦なく責め立てた。
まるで弁論大会のような息子の演説を聞いているうちに、松江の顔色が真っ青になった。それでもかまわずに、南條は母親の結婚哲学に対する批判をやめなかった。
結果的に南條は、母親を完膚《かんぷ》なきまでに打ちのめしてしまった。
松江は泣いた。怒るのではなく、泣いた。
その様子を見て、はじめて南條はやりすぎに気がついたが、もはや引っ込みはつかなかった。
それからしばらくして、母は死んだ。
直接の死因は交通事故だった。赤信号を無視して車道を横断したところを、走ってきた車に撥《は》ねられてしまったのだ。
けれども南條は、母の死のほんとうの原因は自分にあると思った。
麻衣子との結婚問題で徹底的にやり込めて以来、母はボーッとして、心ここにあらずという状態がつづいていた。息子に捨てられたと思い込んでから、なにか緊張の糸が切れたように、焦点の定まらない目をするようになったのだ。
きっと事故に遭ったときも、信号が赤であることや、向こうから車が突進してくることなど、母の目にはまったく入っていなかったのだろう。
仮にそれが見えていたとしても、もはや母にとって、網膜に映った状況を脳で正しく認識するのは不可能だったにちがいない……。
やがて時は流れ、あまり思い出したくもないその悲惨な出来事から二年数カ月がたったころ、南條は、念願の坂上麻衣子との結婚式を迎えることになった。
もちろん、麻衣子には母の死をたんなる不幸な事故としか説明していない。そもそも、母親が結婚に猛反対だったことすら、彼女には教えていなかった。
結婚式の仲人《なこうど》には財界の重鎮を立て、招待客リストには華やかな顔ぶれがずらりと並んでいた。
それもこれも、南條本人の実力というよりも、新聞社の看板の威力だった。南條は、この看板を最大限に利用して、ホップ・ステップ・ジャンプと、人生の三段跳び計画を立てていたのである。
その麻衣子との結婚式をわずか二日後に控えた金曜日の昼下がり、一本の電話が南條の事務所にかかってきた。
2
挙式前に仕上げておくべき最後の仕事――新聞社に渡す人生相談の回答原稿をワープロで打ち終えたちょうどそのときに、電話のベルは鳴りはじめた。
完成原稿をプリントアウトして、それを新聞社にファックスしてしまうところまで一気にすませたかったので、タイミング悪くかかってきた電話に、彼は軽く舌打ちをした。
しかし、ほうっておくといつまでも鳴り続けていそうな気配なので、南條はやむなく受話器を持ち上げた。
無言――
電話の相手は、何の呼びかけもしてこない。一瞬、いたずら電話かといった考えが頭をよぎった。
「もしもし、もしもし?」
南條がうながすと、ようやく相手が口を開いた。
「あ……あの、おじさんですか」
若い男の声だった。
耳で感じた印象では、南條よりも若そうだ。たぶん二十代くらいだろう。
だが、この仕事場に電話をよこす人間で、南條をおじさんなどと呼ぶ者はいるはずもない。
(なんだ、やっぱり間違い電話か)
そう思って、南條は無愛想に問い返した。
「何番におかけですか」
「何番て……南條さん、南條英二さんですよね。新聞の人生相談でおなじみの」
「え、ええ。そうですけど」
答えながら、南條は相手の言い回しに引っ掛かるものを感じた。
何かの席上で紹介されるわけでもないのに、『新聞の人生相談でおなじみの』といった表現を電話で用いる相手に、南條はかすかな不安を覚えた。
(ファンが電話番号を調べてかけてきたのかな)
そう思ったが、相手の反応は彼の意表を衝《つ》くものだった。
「ああ、よかった。間違い電話をかけたかと思いましたよ。やっぱりおじさんですね、おじさん本人が直接電話に出てくれているんですね」
「ちょっと待ってくださいよ。『おじさん』とはどういう意味ですか。私は見ず知らずの人からそんなふうに呼ばれるおぼえはないけど」
「こんにちは、親戚《しんせき》の一郎です」
男は、電話口であいさつをした。
そのトーンが異常に明るいのが不気味だった。
「親戚の一郎?」
「そうです。ごぞんじありませんか、ぼくを。小島一郎というんですが」
「親戚の小島……一郎」
南條は、相手が名乗った姓名を口の中で繰り返してみた。
一人息子の南條には、彼が『おじ』の立場になる甥《おい》や姪《めい》たちはいない。それに、母の死後はほとんど親戚づきあいというものをしていなかった。せいぜい賀状の交換と、冠婚葬祭――それも葬儀にかぎってのつきあい程度だった。
だから、彼に向かって親しげに『おじさん』などと呼びかけてくる親戚はいないはずだし、第一、小島一郎という名前には最初から覚えがなかった。
南條が思い当たらない様子でいると、相手は「まいったなあ」とつぶやいた。
その「まいったなあ」は、イヤミがたっぷりこもった、非常に感じの悪い言い方だった。言葉づかいに敏感な南條は、それでカチンときた。
「いきなり電話をかけてきて、勝手におじさんと呼ばれても困るんですけどね」
「あれえ、それはないですよお」
男は、芝居がかったイントネーションで言った。
「ぼくは、れっきとしたあなたの親戚じゃないですか。だからおじさんと呼んでいるんです」
「冗談はやめてくれませんか。私は、いまいたずら電話などに取り合っているヒマはないんです」
「結婚式の準備で忙しいんですよね」
ズバリ切り込まれて、南條は黙った。
もちろん、結婚式を明後日に控えているのは秘密にしているわけではないが、それにしてもタレントのように大々的にマスコミに発表しているわけでもない。
相手がその日程を知っていたことでますます不安な気分が募《つの》り、南條は一刻も早くこの電話を切りたくなった。
「断っておきますが、あなた、私の甥の中に小島一郎という男はいませんよ」
「いーまーすーよ」
男は、ねっとりと尾を引くように言い返した。
「亡くなったあなたのお母さんの一番上のお姉さんで、秋田の山岡家に嫁いでいる菊江さんがいるでしょう」
「ああ」
「その菊江さんのご主人は、山岡|惣吉《そうきち》さんですよね。菊江さんとは一回り以上も年が離れていると思いましたけれど」
南條は、ますます気味が悪くなった。
たしかに、男の言うことは当たっていた。山岡の伯母《おば》夫婦が秋田に住んでいるのも、二人の年齢が一回り以上――正確には十五歳も――離れていることも事実だった。
ちなみに、南條にとっては義理の伯父《おじ》にあたる惣吉はまだ健在で、三年前の年賀状には、八十歳の誕生日を迎えた旨《むね》が記されていた。
「で、その山岡惣吉さんには姉と兄がいました」
電話の相手はつづけた。
「この二人はすでに亡くなっていますが、姉のほうの旧姓・山岡節子は、昭和のはじめに青森で米問屋を営んでいた三谷家に嫁いで三谷節子となりました。そしてその長女の春乃は、富山にある小島家へ嫁ぎました。これがことし六十五になる私の母です」
「ちょっと待ってくれませんか」
南條は、電話のそばにあったメモ用紙を急いで手元に引き寄せた。
「もういちど最初から言ってくれませんか。あなたは山岡の伯母の……どういう関係にあるんですって」
「いいですか、あなたのお母さんのお姉さんの旦那さんの、そのお姉さんの長女の息子――それが私です」
男は一気にまくしたてた。
「ぼくの母の姉の夫の……その姉の娘の息子?」
一度聞いただけでは、姉だ夫だ息子だという関係が入り乱れて、小島との繋《つな》がりがまるで理解できなかった。
そもそも、南條の伯母の山岡菊江までは血縁関係があるが、その夫の惣吉とは、親戚といえども血の繋がりはないわけだ。まして惣吉の姉の節子となると、顔を見たこともなかった。
その節子の外孫が、この電話の主の小島一郎だという。
そこまで遠い間柄になってしまえば、もはや親戚という概念ではとらえられないのではないか、と南條は思った。
ともかく、メモ用紙に系図を走り書きして、相手との関係をどうにか把握した南條は、それを眺めながら口を開いた。
「小島さん、『おじ』というのは、本来自分の両親の兄弟を指すわけでしょう。もう少し拡大解釈しても、両親の姉妹の夫どまりですよ。しかし、いまあなたが言われたのは、紙にきちんと書かないと理解できないほど入り組んだ関係です。それなのに、なぜあなたは私を、おじさんと呼ぶんですか」
「世代的にみれば、おじと甥の関係に置き換えてもいいからです」
「どうして」
「ぼくからみて二世代上の祖母・三谷節子と、その弟の山岡惣吉は同世代。山岡惣吉と妻の菊江も同世代。そして山岡菊江の妹であるあなたのお母さん、松江さんも同世代。その一世代あとが南條英二さん、あなたになるわけです。
だから、あなたはぼくよりも一段階古い世代ということになる。つまり、おじと甥の関係に等しい」
「こじつけじゃありませんか」
「そうですかあ。ぼくはそうは思いませんけど」
「ところで小島さん、あなたは、おいくつなんですか」
「四十二です」
その答えに、南條はびっくりした。
電話の声の若さからは、とうてい想像がつかない年齢だった。
「四十二ですって?」
「ええ、母が二十二か三で産んだ子供なんですがね」
「おじさんなどと呼びかけてくるからどれほど若いかと思ったら、私より七つも年上じゃありませんか」
「ですね」
「だったらあなたのほうこそ、おじさんと呼ばれてもいい年だ」
「いえ、絶対的な年齢がどうであれ、系図の相対関係からみますと、ぼくにとって南條さんはおじさんにあたるんです」
男はこだわった。
「だから相談をしたくて、電話をかけたんですよ」
「相談?」
「だっておじさんは、新聞で人生相談のコーナーを担当しているでしょう」
「そりゃしてますよ」
「ぼく、それを毎週楽しみに読んでいるんです。うまいなあ、なんて適切な回答をする人なんだろうって、すごく感心しているんですよ。こういう人がぼくの親戚にいるなんて、これほど頼りがいのあることはないじゃありませんか」
聞いていて南條は寒気を催した。
四十二歳にもなって青年のような声を出し、面識のない南條に向かって『おじさん』と呼びかけ、自分のことは『ぼく』という。どこかまともな常識が欠落していた。
「それで、相談事とは具体的にどんなことですか」
「じつはおじさん……」
「その『おじさん』というのはやめてくれませんか」
「じゃあ、南條さん――これならいいですか」
「ええ」
「南條さん、どうかぼくを泥沼から救い出してください」
「泥沼?」
「ぼく、痴漢がやめられないんですよ」
3
自分の身体からスーッと血の気が引いていく感触を、南條はおぼえた。
これまで若者のオピニオンリーダーとして順風満帆の道を歩んできた自分が、よりによって結婚式二日前に突然かかってきた一本の電話によって、地獄の底へ突き落とされる――そんな不吉な予感が全身をかけめぐった。
「痴漢が……やめられ……ない?」
かすれ声で南條が聞き返すと、
「そうなんです。どうしたもんでしょうねえ」
と、小島一郎は、あいかわらず他人事のような明るい声を出した。
「毎朝毎朝、ぼくは満員電車に乗るんですけど、その中で、OLや女子高生や女子大生なんかがそばにくるとですね、もう身体中がなんかこうウズウズッ、ウズウズッとしてくるんですよ。えへっ、えへへへ」
小島の声が、急に変態じみてきた。
「おじさん……じゃなくて、南條さん。若い女の人って、どうしてああいうふうにいい匂いがするんでしょうねえ。お化粧のせいでしょうか。香水の香りなんでしょうか。それとも身体からじんわりにじんでくる女の匂いなんでしょうか」
「………」
「ぼくね、電車の中で花のようなその甘い香りを嗅《か》いだだけで、もうガマンができなくなって、つい手がスーッと女の人のお尻《しり》のほうへ伸びちゃうんです」
「ちょっと待ってくださいよ」
南條はあせった。
「あなた、なにを言ってるんですか」
「なにって……ですから、痴漢がやめられなくて困っていると申し上げているんですよ、おじさん」
「おじさんと呼ぶのはやめろと言ったでしょう」
「だって親戚《しんせき》なんですから」
「やめろったらやめろ!」
南條は怒鳴った。
「人の仕事場にいきなり電話をかけてきて聞いたことのない名前を名乗り、あなたの親戚ですと言われたって、証拠もなにもないじゃないか。しかも、痴漢がやめられなくて悩んでいるとはどういうことだ。あんた、ほんとは赤の他人のくせに、私にいやがらせをするために、こんな電話をかけてきたんだろう。目的は何なんだ。もしかすると、私の人生相談に不満を持っている読者か」
「落ち着いてくださいよ、おじさん。ぼくのほうはあくまで冷静なんですから」
小島は、興奮してまくし立てる南條とは対照的に、気持ちが悪いほど平静な声を出した。
「そういうふうに疑われるかと思いましてね、ぼくが新聞でおなじみの南條英二さんの親戚であるという証拠はちゃんとそろえてあるんです」
「どんな証拠だ」
「戸籍謄本と運転免許証ですよ。ぼくや母の分だけでなく、亡くなった祖母が以前に取り寄せてあった古い戸籍謄本もあるんです。それをつきあわせてみれば、ぼくが間違いなくあなたの親戚である事実が立証されるでしょう」
南條は黙った。
相手がウソやハッタリを使っているのではないと、直観的にわかったからだ。
「あなたは……」
間をおいてから、南條は再度ていねいな言葉づかいに戻ってたずねた。
「結婚しているんですか」
「いえいえ」
「独身?」
「そうですよ」
「四十二で独身?」
「悪いですかあ」
脅すような口調である。
「いや、悪くはないけれど」
「この年になっても独身だから、それで欲求不満がたまって痴漢をしたくなるんだと思うんです。ぼく自身の分析ではそうなるんです。うらやましいなあ、南條さんは。明後日、結婚なさるんですよね。いいなあ、女の人と毎日いっしょに暮らせるんですね。それなら痴漢をする必要もないですよね」
「小島さんは、いまどこに住んでいるんですか」
結婚式の話題を避けるようにして、南條は話の矛先《ほこさき》を変えた。
「住まいですか。住まいは新丸子です」
小島は答えた。
「南條さんは、新丸子という場所をごぞんじですか」
「ああ、大田区のね」
「それは下丸子。新丸子は多摩川を隔《へだ》てて向こう岸の神奈川県側、川崎市中原区にあります」
「すると電車は東横線ですか」
「そうです。駅としては田園調布の次の次になりますが、こちらはぐっと庶民的な町でしてね」
「なるほど」
南條は、受話器を肩にはさんだ格好で壁の時計を見上げた。
時刻は昼の三時。
今夜は七時からフィアンセの麻衣子といっしょに、結婚式の司会者と打ち合わせをする約束があった。が、その前にこの一件を片づけないと、打ち合わせにも身が入りそうにない。
あまりにも異様な悩み相談をもちかけてきた小島とは、もはや電話だけで事が済むとは思えなかった。
南條の事務所は渋谷にある。そこから新丸子までは東横線で一本だ。時間はじゅうぶんにある。
「じゃ、すぐに会いましょう」
決断して南條が言うと、
「え、ほんとですか」
と、小島はパッと輝くような声で叫んだ。
「ほんとにぼくと会ってくださるんですか。……ああ、よかった。人生相談の専門家の南條さんが、個人的にぼくの悩みを聞いてくれるなんて、信じられないな。感激ですよ、これは。やっぱり、持つべきものは親戚ですねえ」
「相談にのるとかのらないの問題じゃないんです」
硬い声で南條は言った。
「あなたがどういう人なのか、一度お会いしておく必要があると思ったからだけです」
「どっちにしたって、会っていただけることに変わりはないわけですよね。では、ぼくのほうから南條さんの仕事場へおうかがいしましょう」
「いや、こっちから指定のところへ行きます」
南條は本能的に、小島という男にこちらの暮らしぶりを見せないほうがいいと思った。
「小島さんのほうで場所さえ決めてくだされば、いまから一時間後の四時に、そこへ出向きますので」
「でも、有名人にわざわざ御足労願うのも恐縮だなあ」
「かまわないから、そうさせてください」
「そうですか。では、新丸子の駅のそばにある大衆食堂に四時ということにしましょうか」
「大衆食堂?」
思いもよらぬ場所の指定に、南條は面食らった。
「そんなところで会うんですか」
「ええ、詳しい場所をいまから言いますので書き留めてください。よろしいですね」
4
何から何まで異常なやつだ――東横線の電車で目的地へ向かいながら、南條は心の中でつぶやいた。
自分を『ぼく』と称する四十二歳の独身男が、毎朝満員電車に乗っては若い女性の匂いに誘われて痴漢行為に走る。それを理性で止められない。
そして、いきなり南條の事務所へ電話をしてきて、彼を親戚のおじさんと呼んで、その悩みをぶつけてくる。
しかも、いざ面会するとなると、指定してきた場所が大衆食堂だ。
これが新聞紙上における人生相談の質問者なら、どんなに変わった相手でもきちんと回答のしようはある。
しかし、相手は親戚なのだ。
(親戚――)
この言葉を頭の中で繰り返すたびに、南條英二はゾクゾクとした恐怖心に襲われた。
(親戚が痴漢……)
(これが表沙汰《おもてざた》になったらどうなるのだ)
そう考えていくうちに、南條の顔色は貧血を起こしたように真っ青になっていった。
日本の場合は、犯罪なり不祥事を起こすと、すぐにその家族や親族にまで好奇と非難の目が向けられる。
南條のように新聞紙上で全国的に名前の知れた『親戚』であれば、なおさらマスコミの標的にされないわけがない。
ましてや、親戚の男が犯しているのは、破廉恥《はれんち》中の破廉恥行為である。
全国紙の日曜版でえらそうに人生相談の回答をしている『先生』の親戚が、毎日毎日、満員電車の中で若い女性のお尻を触っていた――その特ダネをつかんだときのマスコミの騒ぎ方を想像しただけで、南條は頭がくらくらしてきた。
身内の不祥事も抑えられずに何が人生相談だ、といった批判が噴出するのはもちろん、世間は南條英二を大いなる笑い者にするだろう。
自尊心の強い南條にとっては、真っ向から批判されるよりも、笑われるほうが何倍もこたえる。
南條英二というブランドにも大きな傷がつくのは間違いない。当然、人生相談コーナーの担当もつづけてはいられないだろう。そうなった場合のダメージは、計り知れなかった。
親戚が痴漢だったので人生相談を降ろされる、などというぶざまな降板劇を演じてしまったら、ほかの仕事への波及も大である。ドミノ倒しのようにレギュラーの仕事が続々と打ち切りとなるのは、火を見るより明らかだった。
(なんてことだ……)
南條は、思いもよらぬ事態に震えた。
(結婚式は明後日だというのに)
そのとき、南條は恐ろしいことに思い当たった。
なぜ、小島はきょう電話をかけてきたのか、ということである。
いやがらせにしろ何にしろ、南條英二に痴漢行為に関する相談を持ちかけたいのであれば、もっと早い時期に連絡をとってくるのも可能なはずだ。
それが、なぜ日を選んだように結婚式の前々日なのか。
(もしかしたら……)
南條の背筋を冷たいものが走った。
(この男は、おれの結婚式をぶちこわすために、こんな電話をかけてきたのではないだろうか)
吊《つ》り革につかまって揺られながら、南條は自問自答をつづけた。
(どうする……彼に会って、何をどうするんだ)
(とにかく、痴漢をやめるように説得するしかないだろう)
(そんなことが可能なのか。電話での話しぶりからしても、小島一郎は完全に変態じゃないか。異常者じゃないか)
(でも、説得して痴漢をストップさせなければ、もしも彼が警察に突き出されたらどうするんだ。南條英二の親戚にあたる男であるのが公になったら、おれは身の破滅だぞ)
(しかし待てよ、仮に小島をうまく説得して痴漢行為をやめさせることができたにしても、過去にやっていたという事実までは消しようがないじゃないか)
(そうだ。『あの南條英二』の親戚が痴漢だったという事実は、どうやったって変えられないんだ。いつその事実が表に出るか、つねにおれはビクビクしていなければならない。小島が生きているかぎり、ずっと……)
(ああ、おれは爆弾を抱え込んだようなものじゃないか!)
さして暑くもないのに、気がついたら額にびっしりと汗をかいていた。
やがて電車は田園調布をすぎ、多摩川の鉄橋を渡って神奈川県に入った。そしてまもなく新丸子の駅に到着。
開いたドアからホームに降り立った南條は、まばらな乗降客にまじって、おぼつかない足取りで改札口へと向かった。
5
小島が指定してきた大衆食堂は、街角によくある中華料理屋といった店構えをしていた。
のれんに書かれた名前は『三ちゃん食堂』。地元ではよく知られた店らしい。
そののれんをくぐってガラス戸をガラリと開けると、表から見たのとは違って、中華料理専門店でないことがすぐにわかった。
厨房《ちゆうぼう》寄りの壁にびっしり掲げられた品書きには、ネギマグロ、しゃけ焼き、冷奴、ポテトサラダなどといった、いかにも大衆食堂風の一品料理がずらりと並んでいる。
店の中には、大学の学食にありそうな簡素なテーブルがタテに三つずつくっつけて何列か並び、赤い座板の丸椅子《まるいす》が間隔を詰めて置いてあった。
午後の四時という中途半端な時間であるにもかかわらず、客は満席に近い状態で入っていたが、その大半がクラブ活動帰りといった学生たちである。そして、彼らの吐き出すタバコの煙で店内は薄紫色に霞《かす》んでいた。
いらっしゃいという声を聞きながら後ろ手に入口の扉を閉めると、南條は目指す相手の姿を捜し求めた。
学生以外の客は五、六人しかいなかったが、いずれも一人客で、スポーツ新聞やマンガ雑誌を広げながら食事をかき込んでいた。
そんな中で、南條のほうに背を向けてカウンターに座っている男が目についた。
男はネズミ色の作業服を着ており、その襟元には薄汚れたタオルをマフラーのようにして突っ込んでいた。横顔は無精髭《ぶしょうひげ》にビッシリ覆われ、髪の毛は長い間洗っていないのか、艶《つや》を失って埃《ほこり》っぽい。
そして男はモツ煮を肴《さかな》に、昼間から冷や酒をコップで飲んでいた。
(この男が小島かもしれない)
そうであったらイヤだな、と思う気持ちがある一方で、電話から受けた変態じみた印象とその男の姿が、妙に結びつくものがあった。
人違いであることを祈りながら、南條はその男の横に立ち、小さな声で呼びかけた。
「小島さん……ですか」
すると男はアルコールで赤くなった顔をゆっくりと南條に向け、ギロリと一瞥《いちべつ》をくれるなり、フンと鼻息を洩《も》らしてそっぽを向いた。
人違いだった。
南條は、ホッと吐息を洩らした。
と、そのとき、後ろから声をかけてくる者があった。
「おじさん、南條さん」
まさに電話で聞いたあの声だった。
とっさにふり向くと、壁際の席でマンガを読みながらラーメンをすすっていたサラリーマン風の男が、南條に向かって手を振っていた。
ボサボサの髪に、顔からはみ出しそうなほど大きな黒ぶちメガネ。ぜんたいとして風采《ふうさい》のあがらない印象の顔だったが、ちゃんとスーツを着ていた。
とりあえず南條は、相手が背広姿であることに最低限の安心感をおぼえ、軽くうなずきながら男のそばへ近寄った。
「あなたが小島一郎さん?」
「そうです。有名人をわざわざお呼び立てしてすみません」
「そういう言い方はやめてくださいよ」
小声で応じながら、南條は周りにいる学生たちの反応を気にした。
南條はテレビには出ていないから、タレントのように顔が売れているわけではない。だから、店に入った瞬間に注目を集めるということはなかったが、名前そのものはよく知られている。
だから、小島に大きな声でしゃべられるのは困るのだ。
「ま、おかけください、そこへ」
小島は、自分の向かいにある赤い丸椅子を指さした。
言われた場所へ腰掛けながら、南條は相手の風貌《ふうぼう》を観察した。
どこの会社にでもいそうな四十代前半のサラリーマンである。決してエリートには見えなかったが、窓際族のような哀愁も漂ってはいなかった。
ごくごく平凡な顔立ちなので、南條はいささか拍子抜けした。もっと異常性がにじみでた人物を想像していたからだ。
「なにかご注文をなさいますか」
小島がたずねてきたが、南條は首を左右に振った。
「いや、けっこうです。それよりも、もっと落ち着けるところに場所を移しませんか」
「ここがいいんですよ」
じっと南條を見つめながら、小島が言った。
「おじさんは、会う場所はぼくにまかせると言ったでしょう。だからここにしたんですよ。人に決めさせておいて、あとからそれはダメだはないでしょう」
「わかりました」
答えながら、いったんは安心しかかった南條の心の中に、また不安の芽が伸びはじめた。やはり相手は、平凡な男ではなさそうだった。
それに、七つも年上の相手から『おじさん』を連発されると、自分自身が奇妙な空間にいるような気分になってくる。
南條は、注文をとりにきた店の女性に、飲むつもりはないビールを一本頼んだ。そして本題を切り出そうとしたとき、小島のほうから先制パンチが飛んできた。
「南條さん、あなた、ぼくをバカにしていますね」
「え?」
「この店に入ってくるなり、あそこのカウンターで冷や酒をあおっている飲んだくれを見て、その男が小島一郎だと思ったでしょう」
「いや、そんなことは……」
「ありますよ」
小島は、南條の弁解をピシャリと封じた。
「どうせあなたが思い描いていた小島一郎のイメージは、あんなものなんだ」
その言葉には、南條を非難する強い響きが込められていた。
が、すぐに小島はにっこり笑ってつけ加えた。
「でも、本物はあんがい普通の人間なんで安心したでしょう」
「……あ、ええ、まあ」
「それで、いちおうこれが証明書関係です」
小島は、持参した茶封筒から何枚かの戸籍謄本を取り出してテーブルの上に並べた。
それに目を通した南條は、電話で彼が述べていたとおりの関係が事実であることを認めざるをえなかった。
たしかに小島は、南條の伯母《おば》の夫の姉の外孫になる。
「それで早速相談事なんですが」
運ばれてきたビールを南條のグラスに注ぎながら、小島は言った。
「ぼくの痴漢ぐせは、どうやったら直るでしょうか」
隣のテーブルにいた学生のひとりが、チラッと小島のほうを見た。まずい、と南條は思った。
「小島さん、その話は別のところでしましょう」
「どうしてです」
いぶかしげに眉《まゆ》をひそめて、小島は聞き返した。
「ぼくはここでおじさんから回答をいただきたいのです」
「しかし」
「いやだとおっしゃるなら、もっと大きな声を出しますよ」
南條のこめかみから汗が垂れた。
「わかりました。きちんとあなたの質問に答えますから、せめて小さな声でしゃべってください」
「ま、いいですよ」
小島はニヤッと笑った。
幸い、さきほどの学生はすぐに仲間たちの会話に戻り、ときおり大笑いをまじえる盛り上がり方になってきたので、こちらがひそひそと話しているぶんには、話の中身は聞かれそうになかった。
「ともかく小島さん、あなたがしている行為をやめるには、何かほかのことに関心を移すしかありません」
南條が『回答』を述べはじめると、小島はプッと吹き出した。が、笑いはほんの一瞬で、すぐに彼は怒りのこもった目を向けた。
「やめてくださいよ、南條さん。思春期の高校生じゃあるまいし、四十二歳のこのぼくに、性的欲望をスポーツで昇華させろというんじゃないでしょうね」
「そうは言ってませんよ」
「じゃ、冷水|摩擦《まさつ》でもしろっていうんですか」
「冷水摩擦?」
「あれ、南條さんの年代になってしまうと、もう知らないのかなあ。我々が子供のころは、親や学校の先生がよく言ったものです。毎朝冷水摩擦を繰り返したら、心も身体も健康になるぞ、ってね」
「そういうことを申し上げているのではありませんよ。私が言いたいのは、不特定の女性に関心を持つのではなく、特定の女性を愛する方向へと気持ちを変えていったらいかがですか、と」
「だからその気持ちが変えられないのです」
「しかし、過去に好きな人はいたんでしょう」
「いましたけれど、相手にされないんです」
「なぜ」
「少し話をしただけで、すぐに『あなたは変わり者だ』とか『気持ちが悪い』などと言われて、それっきり顔も合わせてくれなくなるんです。南條さん、ぼくって、気持ち悪いですか」
「ご両親は、そうしたあなたの悩みをごぞんじなんですか」
「話をそらさないでくださいよ、南條さん。ぼくって気持ち悪いですか」
メガネの奥からじっと見つめられ、テーブルの下で、南條の足は震えた。
「気持ち悪いなんて思ってませんよ」
心の中とは裏腹の返事をしてから、南條はコップに注がれていたビールをぐいとあおった。飲まなければやってられない気分だった。
「で、小島さんのご両親はなんというふうに」
「父はいないし母も入院中、私はひとりぼっちなんです」
小島の返事は投げやりだった。
「だから、ぼくは頼りになる親戚《しんせき》がほしかった」
南條の望まない方向へ話が発展しそうになってきた。
「南條さん、ぼくに痴漢をやめさせたかったら、女の人を紹介してください。ぼくと結婚をしてくれるような女の人を見つけてほしいんです。お見合いの段取りをつけてもらいたいんです」
「ぼくが、あなたのお見合いを?」
「そうです」
「それは困りますよ」
「どうして」
「あとで責任が持てませんから」
「どういう意味です、それ」
「べつにあなたがヘンだというのではなく、あなたが相手の女性にあとで不満を持たれても困りますから」
「不満なんて持ちませんよ。ぼくは南條さんが紹介してくださる女性だったら、どんな人とでもうまくやれる自信があります。もう女だったら、何でもいいんです」
いよいよ小島の言い分は支離滅裂になってきた。
「ねえ、南條さん。一族の中の有名人であるあなたが頼りなんですよ。あなたが仲介してくだされば、相手の女性だって安心するでしょう。ぼくという人間は誤解されやすいから、誰かの保証が必要なんです。おじさん、ぼくのために保証書を発行してください」
いったんは抑えていた小島の声が、また徐々に高くなってきたので、南條はハラハラした。
隣にいる学生グループのにぎやかな騒ぎがパタッとやんでしまったら、このとんでもない会話の内容が、店の客に筒抜けになってしまう。
「ぼくがどれだけ悩んでいるか、おじさんは気づいていないでしょう。たとえば、ぼくはこうやって背広を着てここにいますけれど、普通のサラリーマンなら、会社の外回りで一生懸命働いていなければならない時間帯ですよね」
そう言われればそうだった。
小島は、この新丸子に住んでいるというが、まともなサラリーマンなら、金曜日の夕刻に自宅近くの大衆食堂で人と会っているヒマはないはずである。
「ぼく、女の人だけでなく、男の人からも相手にされないんですよ。だから、会社に勤めてもすぐにお祓《はら》い箱になるんです」
「じゃあ、いまは……」
「無職です」
スーツ姿の小島は言った。
「かわいそうでしょう、おじさん。同情してくれますか。ぼくは女の人だけでなく、会社にも恵まれないんです」
「だけどあなたは、毎朝通勤電車に乗ってチカ……アレをしていると」
「満員電車に乗っているとはいいましたが、それが通勤の行き帰りだとは言ってませんよ。アレがやりたくて、ぼくは毎朝電車に乗っているだけなんです。そのさいに背広を着ていれば、少しは警戒されにくいですから」
「じゃあ、収入は」
「オヤジの遺産を食いつぶしています。ま、もうすぐそれもなくなりそうですけれどね。だから、いつまでも痴漢やってる場合じゃないんです。そのための電車代だって馬鹿になりませんから」
「いいですか、小島さん」
南條は決心した。
この男は危険だ。あまりにも危険すぎる。相談に乗っていったら、ずるずると深みにはまって、南條自身が底なし沼に引きずり込まれてしまうのは明らかだった。
「あなたの悩みは、ぼくの手に負えません。専門のカウンセラーなどに相談していただくのがベストではないんでしょうか」
「あれえ、親戚に向かってそんなふうに冷たくしていいんですか」
小島がからんできた。
「痴漢をやめられなくて困るのは、ぼくだけじゃないんですよ。南條さん、あなただって、親戚の人間がいつまでも痴漢をつづけていたら困るでしょう。専門家のカウンセリングを受けろと言われるけど、そのときに新聞の人生相談でおなじみの南條英二の親戚だと言っていいんですね」
「………」
「親戚は他人じゃないんですよ」
メガネ越しに睨《にら》む小島の目が、スーッと細くなった。
「困ったときに助けてくれるのが親戚でしょう。ことわざにも言うじゃありませんか。近くの他人より遠くの親戚、と」
「それは逆でしょう」
「逆ではありません、ぼくの世界では」
「小島さん」
南條はテーブルの上に載せた手を組み合わせて、低い声を出した。
「はっきりさせましょうよ」
「何をです」
「親戚の定義を、です」
「というと?」
「親戚とは……」
南條は、ぐっと相手を睨み据えて言った。
「第一に血の繋《つな》がりがあること。第二に、血縁関係なき親戚は、系図的にきわめて近い位置にあり、かつ日ごろから親密な交際があること」
「へえ、そんな定義があるんですか」
「この考え方からいけば、小島さん、あなたは第一のケースにも第二のケースにもあてはまらない。私と血の繋がりがあるのは伯母の菊江さんまでで、その夫の惣吉さん方一族とは、はっきりいって他人ですよ。
しかもあなたとは、これまで一度も顔を合わせたことがない。あなたは私の顔を新聞や雑誌でごぞんじかもしれないが、私はあなたをまるで知らなかった。その名前も、存在そのものもね。これでは親戚とはいえないでしょう」
「そんなことはありませんよ。ぼくと南條さんは、立派に血の繋がりのある血縁関係だ。親戚です」
「それがこじつけというんです」
南條も譲らなかった。
「小島さんのような言い分を認めれば、日本国中親戚だらけになってしまう」
「では南條さん、これでもなおぼくがあなたの親戚でないとおっしゃいますか」
急に改まった口調になると、小島は、いままでかけていた黒ぶちのメガネをはずした。
「あ」
南條は小さな叫びを洩《も》らした。
その程度のつぶやきですんだのが、奇跡といってもいいかもしれない。
実際には、南條の目はカッと見開き、心臓は猛烈な勢いで早鐘を打っていた。あまりにも驚きが大きかったために、喉《のど》のところで絶叫が押し潰《つぶ》されてしまったのだ。
「うそ……だ」
南條は、やっとの思いでそうつぶやいた。
「やっぱり、あなたにも見えましたか」
メガネをはずしたまま、小島は言った。
「ぼくの顔の中に、あなたのお母さんが棲《す》んでいるのを」
6
メガネを取った小島一郎の顔は、まるでSF映画の特殊効果を見るように、死んだ母の松江の顔に変化していた。
錯覚ではない。
いままでメガネのフレームとレンズの反射に隠されてそれと気づかなかったが、小島の眉毛《まゆげ》と目元は、まさに南條英二の母親・松江と瓜二《うりふた》つだった。
明らかに小島は、南條の母親と同じ血統の顔をしていた。しかし、小島の語った系図では、血の繋がりようがないはずなのに……。
「どういうことなんだ、これは」
「既成概念にとらわれてはいけない、ということですね」
鼻でフフンと笑うと、小島は松江そっくりの目を南條に向けて言った。
「あなたの伯母《おば》の夫である山岡惣吉氏の姉が、ぼくの祖母だと言いましたが、その祖母の嫁いだ青森の三谷家というのはね、あなたのお母さんの祖父母から分家した筋にあたるんですよ」
「なんだって」
「惣吉さんと菊江さんが結婚したのも、もとはといえば、ぼくの祖父母の繋がりから出たものなんです。
ぼくの祖母は、弟にあたる惣吉氏が良縁を探していたとき、こう言ったらしいですよ。『惣吉や、嫁をもらうなら勝手のよくわかった家がいい。三谷の本家筋なら安心じゃ』とね。それで祖母は、弟の妻として、夫の一族からひとりの女性を紹介したのです」
「それが、オフクロの姉さんになる菊江さん……」
「そのとおりです」
「じゃあ、あなたのおじいさんとウチのオフクロは、元をたどれば同じ家に行き着くというのか」
「ええ、そうです」
小島は、大きく首をタテに振った。
「ま、昔ならよくある話じゃありませんか、それぞれの親戚どうしを紹介しあって何組もの夫婦が誕生するというのは。だって南條さん、結婚というものは当人どうしの都合で決めるものではなく、家と家との結びつきなんですから」
母親そっくりの目元をした男から、まさに母の口癖だった言葉が出た。
(オフクロが生き返った)
非科学的な妄想だとは思えなかった。南條は、本気でそう思った。
(オフクロが生き返って、結婚直前のおれを脅かしている……)
「この事実に関してもお疑いならば、また新たに証拠書類を取り寄せてもいいですけれどね。でも、そんなことをしなくても、ぼくの顔を見れば嘘《うそ》でないことが一目瞭然でしょうが」
小島は、松江そっくりの目で、じっと南條を見つめた。
あいかわらず隣のテーブルでは学生のグループが声高にはしゃいでいるのだが、南條は奇妙な耳鳴りにとらわれて、現実世界の音を聴くことができなかった。
「じつはですね」
小島はつづけた。
「ぼくは、以前にあなたのお母さんから相談を受けていたのです」
「オフクロから?」
南條は、そんなバカな、という顔で聞き返した。
「あなたが、私のオフクロから相談を受けていた、ですって」
「そうです。なにしろぼくと松江さんとは、同じ一族ですからね」
一族、という表現が不気味だった。
「まあ、正確には相談というよりも愚痴を聞かされたといったほうが適当かもしれません」
「どんな愚痴です」
「息子の英二が、くだらない女と結婚したがって困る、とね」
「いつの話です、それ」
「そうですね、二年半から三年……くらい前ですか」
南條は愕然《がくぜん》となった。
それはまさに、坂上麻衣子と知り合い、結婚を意識しはじめた時期に一致する。
「松江さんは、泣きながら相談してきましたよ。英二は私を捨てて、ろくでもない女といっしょになろうとしている。私がおなかを痛めて産んだことも、どんなに苦労をして育ててきたかもすべて忘れて、産みの母を捨てようとしている、と」
「そんな話は信じられない」
大声になりそうなのを懸命に抑えて、南條は言った。
「なぜ信じられないのです」
「あたりまえじゃないか」
「なぜ、あたりまえです」
「仮にオフクロが私のとった態度に不満があったとしても、日ごろ親戚づきあいのないあんたなんかに頼るはずがない。それに……」
南條は深呼吸をしてから言葉を継いだ。
「ハッキリ言わせてもらうけど、あんたが変人であることは、誰の目にも明らかなんだ。オフクロだって、それくらいの人を見る目はあったはずだ」
「だからこそ、松江さんはぼくを頼ってきたんですよ」
「え?」
「いいですか、南條さん」
小島も身を乗り出してきた。
その顔との距離が近くなればなるほど、ますます南條は、母親に見つめられている気分になった。
「ぼくが松江さんと血の繋がりをもった親戚であるにもかかわらず、あなたはぼくの存在を今日までごぞんじなかった。それはなぜかわかりますか」
その問いかけに、南條は黙って首を横に振った。
「それはね、松江さんが避けていたからですよ、このぼくを」
小島は自嘲《じちよう》的な笑いを洩らした。
「そりゃあ同じ一族ですから、ぼくの悪い評判が松江さんの耳に入らないはずがない。毎朝、電車に乗って女の人のお尻《しり》をさわる癖なんかもね。そんな親戚がいるとなったら松江さんの恥でしょう。一人息子のあなたに近づけるわけにもいかなかったし、ご主人にも、とてもではないが、ぼくの存在は言えなかったでしょう。
だけど、そういう親戚だからこそ、いざというときに頼りにしたんです」
「どうして」
「復讐《ふくしゆう》のためですよ」
「復讐? あなたが私にどんな怨《うら》みがあるというんだ」
「ぼくの怨みじゃありません。あなたのお母さんの怨みですよ」
「………」
「松江さんは、息子に裏切られたショックが大きくて、自分はそんなに長く生きられないだろうと言いました。そして、こうつけ加えたのです」
そこから、小島は南條の母そっくりの口調になった。
「英二は、私が死んだらきっとホッとするでしょう。そして、邪魔者は消えたとばかりに、私が許さなかった女と結婚式を挙げるに決まっている。
でもね、そうかんたんにあの子の好きにはさせませんよ。ひとりの人間の人生は、個人で勝手に選べるものではないの。そこには必ず家というものが、血の繋がりというものがついてまわるの。そのことを、私に代わってあなたが思い知らせてやってちょうだい。
血の繋がりを拒否する者は、血族の糸でがんじがらめに縛ってやる必要があるのよ。一郎さん、あなたはこういうときにお家のお役に立つため、この世に生まれてきたのです」
松江そっくりの小島の口調が、ついには人間から悪魔へと変わった。
「さあ、英二にはこういう親戚がいるということを知らしめよ。母親が死ねばその束縛から逃れられると思ったら、それは大間違いなのだということを、あの子に知らしめよ」
南條英二は声もなかった。
小さな町の一角に立つありふれた大衆食堂で、こんな非現実的な会話が行なわれていることを、いったい誰が信じられるだろうか。
しかし、現実に目の前にいる男は、明らかに母そっくりの瞳《ひとみ》で南條を見つめているのだ。
どんなに遠い関係にあっても、少しでも血の繋がりのある親戚は、おたがいに容貌《ようぼう》に共通したものをもっている――ごくあたりまえなその常識が、これほど気持ち悪いものだとは、南條は思ってもみなかった。
南條の母と小島がそっくりの目元をしているということは、この痴漢男と南條自身も同じ目元をしているということなのだ。
「おじさん」
凍りついた南條に向かって、小島は元の自分の声に戻って言った。
「ぼくを結婚式に招待してくださいよ。明後日行なわれる坂上麻衣子さんとの結婚披露宴に」
「え……」
「盛大な会になるんですってねえ。でも、いろんな親戚にききましたけど、南條さん、結婚式に身内の者を誰ひとりとして招待していないじゃないですか」
「だって、自分は一人っ子だし、親戚とはふだんつきあいもないから」
「いけませんよ」
小島は睨《にら》んだ。
「親戚をよばない結婚式がどこにあります。え? それはいけません。あなたのような有名人が、常識外れのことをなさったら恥をかきますよ」
「そんなことを言っても、いまさら変更なんてできるものか」
「できますよ」
小島はかぶせるように言った。
「式場は商売なんだから、人数が増えるぶんには、いくらでも対応しますって。で、あなたのほうで招待者リストを改めて作るのもたいへんでしょうから、ぼくのほうでちゃんと資料をこしらえておきました」
「なんだって」
「まず、あなたの両親のそれぞれの家系を四代前まで遡《さかのぼ》ります。そして、そこから現在に向かって系図の枝葉を広げていきましてね、そこで広がった網に入ってきたよその家系の人には、またそれぞれのルーツがありますから、それをまた四代前まで遡っていき、再度その系図を現在に向かって広げる。
こうした作業を繰り返していきますとね、南條英二さんの親戚というのは、じつに驚くべき人数にのぼることがわかりました」
しゃべりながら、小島は封筒から別の紙を取り出した。
幾重にも折り畳んだその紙を広げると、そこには膨大な人数の名前が、米粒のような字で系図チャートにびっしり書き込まれていた。
こんなものすごいスケールの家系図は、南條は見たことがなかった。
そして南條は、系図の中の何人かに赤い線が引かれてあることに気がついた。小島一郎もそのひとりである。
「いやあ、いろんな親戚がいますねえ」
大衆食堂のテーブルの上に広げられた系図をみやりながら、小島は言った。
「それでね、ぼくが調べ得た範囲内で、親戚として南條さんの名誉を傷つけかねない要注意人物に赤線を引いておきました。たとえば、痴漢行為がやめられないわたくし小島一郎とか、それからこの女性は、いまワケのわからない宗教にはまってしまい、周囲の人に入信をすすめては顰蹙《ひんしゆく》を買っています」
小島の指が系図のあちこちをなぞる。
「それからこちらの女性は、中部地方の某都市に縄張りをもつ暴力団組長と結婚したんですよ。だから、入れ墨だらけの親分も南條さんの親戚の輪の中に入ってきちゃいました。やばいですよねえ。ぼくの痴漢なんて可愛いもんだ。……あ、それとこっちの男性は、詐欺で五回も逮捕されています。前科五犯です。
こんなぐあいに、存命中の親戚だけでもアブナイ人間がずいぶんいるわけですが、故人も含めればもっとすごいことになりますよ」
「やめてくれ、やめろ、もう」
南條はふりしぼるような声を出した。
が、小島はやめなかった。
「どうです、南條さん。こんな事実を知ったら、麻衣子さん、びっくりするでしょうねえ。麻衣子さんだけでなく、あなたのファンとかマスコミとか」
「事実じゃない、こじつけだ、こんなものは」
とうとうたまりかねた南條は、椅子《いす》から腰を浮かせ、大声で叫んだ。
「なにが親戚だ。おれには親戚なんてひとりもいないぞ!」
隣で騒いでいた学生たちがピタリと話をやめ、南條たちにいっせいに目を向けた。そして、店内にいたほかの客も。
「ほらほら、みんなの注目を集めちゃった。だめでしょう、おじさん、そんなことをしては」
怒りと衝撃でブルブルと身震いする南條に向かって、小島は明るく笑いながら言った。
「あなたの興奮を抑えるために、わざわざこういう場所を選んで会っているんですから。ね、もしもそれ以上興奮なさったら、ぼくも叫んじゃいますよ。あなたが新聞の人生相談の」
「わかった……わかったよ」
額にびっしりと玉の汗を浮かべた南條は、へなへなと椅子に腰を下ろした。
「落ち着いてくださってありがとうございます」
小島は会釈をすると、好奇心に満ちた視線が集まる中、向かいの席の南條のほうへ大きく身を乗り出し、相手の耳元でささやいた。
「それでね、おじさん、急なお願いで申し訳ないんですが、明後日の披露宴、親戚用のテーブルをひとつ作っておいてくれませんか。痴漢のぼくと、神がかったおばさんと、入れ墨の組長夫妻と、それに天才詐欺師の五人でお祝いにかけつけますから。できれば、スピーチもさせていただくとありがたいんですけど。親戚代表として、組長にね」
[#改ページ]
11037日目の夫婦
1
「あらたまって送別会などやらなくてもいいですからね」
いよいよ定年の日まであとわずかというころ、田崎茂は、まえもって後輩たちにクギをさしておいた。
「栄転のお祝いならともかく、左遷にせよ定年退職にせよ、本来送別会というものは、送る者は気が重く、送られる者は淋《さび》しさばかりが募る行事なのです」
そのころの田崎は、どんな年下の社員に対しても、敬語しか使わなくなっていた。会社から気持ちが離れて以来、そうなってしまったのだ。一生懸命身を粉にして働いてきたぶん、いったん冷めるとその反動は大きい。
田崎が送別会を断ったのは、決して遠慮からではなかった。部下たちが演出する『お涙ちょうだい』イベントの主役を張るなどまっぴら御免、という気分だったからだ。
彼らの段取りにのせられてオイオイと感激にむせび泣くなんて、それは現役で居残る連中の優越感をくすぐるだけの話ではないか、と思っていた。
だから田崎は、各所からの送別会の誘いをすべて断った。そして定年の日の夕刻五時、みんなよりも三十分早めに席を立ち、デスクからエレベーターホールまで進む間を社員有志一同の拍手で送られる、というセレモニーだけにしてもらったのだ。
田崎は『よくあるパターン』の哀愁を帯びたサラリーマン人生の終幕を迎えたわけでは決してなかった。五十五歳の定年の日における彼の肩書は営業部長である。
勤め先の金属加工メーカーは典型的な同族会社だったから、三十数年にわたる活躍にもかかわらず、田崎に役員昇進の道は開かれなかった。しかし、血縁関係にない一般社員としては、営業部長の地位は事実上の最高位だった。
だから本来ならば盛大な送別会が開かれてもよかったのだが、田崎はそれを頑《かたく》なに固辞した。
「人生、六十くらいまで生きられれば言うことないよ」
若いころからそれが口癖だった田崎は、健康管理そっちのけで、営業マンとしてがむしゃらに働いた。オーナー家にご奉公するという気持ちが、古いタイプの彼の忠誠心をなおさら燃え立たせた部分もあった。
働いて働いて働きまくって、そして最後は燃え尽きて死ぬのも一つの美学、と田崎はなかば本気で思っていたのだ。
ところが四十を超え、さらに五十の大台に乗ったあたりから、世の中ぜんたいの風潮として、会社人間を滑稽《こつけい》だとか、病的だとか、あるいは時代遅れだというふうに批判的な目でみる傾向が強くなってきた。そして、彼の会社に入ってくる若者たちも、その例外ではなかった。
過去の実績を買われて、田崎はすでに営業部長の要職に就《つ》いていたが、自分のサラリーマン哲学が後輩たちに年々通じなくなってくる現状に、怒りといらだちの募る日々が多くなってきた。
シゴけば人間は鍛えられる。ホメるよりもケナしたほうが人間は歯を食いしばって這《は》い上がってくる。
これが上役としての田崎の信念だったが、もはやそんなものはカケラも通用しなくなっていた。
そして、そういったサラリーマン気質の変化にいらだっているうちに、やがて田崎にもきたるべきものがきた。
会社員である以上避けて通ることはできない『定年』である。
六十歳定年に移行する企業もかなり増えてはいたが、田崎の会社は、いまだに五十五歳定年制を敷いていた。すなわち、五十五歳の誕生日を迎えた月の末日で、会社とさよならをしなければならない決まりである。
無理を言えば二年ほどは嘱託として会社に残れないでもなかったが、田崎はそうまでしてこの会社にこだわろうとは思わなかった。
かつての彼からすれば信じられない心境の変化だが、若い社員たちの働きざまを見ているうちに、すっかり白けてしまったのだ。こんな覇気のない自己中心的な世代の若者たちにまじって、いつまでも古参兵ヅラして居残ったところで決して楽しい思いはしないだろう、と……。
幸い退職金は、大手企業の平均値にははるかに及ばないが、それでもそこそこの額になることがわかっていた。おまけに妻との間には子供もいなかったから、将来に残すべき貯金も不要。持ち家のローンも終わったし、夫婦二人暮らしなら、ぜいたくさえ言わなければ、月々の生活費も知れたものだ。
だから、『第二の人生』と称してまた同じペースであくせく働くのはヤメにして、二、三カ月のんびりと休養をとったあと、デパートの駐車場整理係あたりにでも職を求めて、退職金を切り崩しながらのんびりマイペースで余生を送ろう、と田崎は考えた。
最初から人生六十年と決めていたのだから、あと残る五年ばかりを気楽に生きるつもりでいればいい。それよりもさらに長生きできたら、それはオマケと思えばいい――田崎は、おのれの人生の最終局面をそのように描いていたのだった。
定年の日の夕刻、いよいよ会社を去る場面になったとき、淡々としてオフィスを去るつもりだった田崎は、社員の盛大な拍手とともに、営業部員一同から英国製のディナーセットを、社内ゴルフ同好会のメンバーからゴルフのパター一本を、そして若手女子社員一同からは大きな花束を贈られることになった。
花束くらいはもらえるかもしれないと思ってはいたが、ディナーセットとパターに関しては、望外の贈り物だった。そして、なによりも戸惑うほどの拍手の大きさに彼は感激した。
泣くまいと思っても、自然と瞳《ひとみ》が濡《ぬ》れてきた。涙といっしょに、三十数年にわたるサラリーマン生活のいろいろな場面が、まさに走馬灯のように思い起こされた。
田崎にとって、会社生活は人生のすべてといってよかった。その会社をいよいよきょうかぎりで去るのかと思うと、いちどきに淋しさが込み上げてきた。
こんな気持ちになってしまうなら、頑なに「送別会は辞退します」などと言わず、みんなの好意をもっと素直に受け取ればよかった、と反省もした。
ともかく、田崎は感激と感慨とを胸いっぱいにたたえて会社をあとにし、妻の待つわが家へと家路を急いだ。
ところが――
そこに予期せぬ出来事が待ち受けていたのだ。
2
家は暗かった。
夫が三十数年にわたる宮仕え生活を終えた記念すべき日だというのに、郊外の新興住宅地に建つ一軒家の田崎邸には、門灯以外に明かりひとつ灯っていなかった。
(いったいどうしたんだ)
部下からの思わぬ贈り物に心を温かくしていた田崎は、不吉な予感にスーッと胸が冷えていくのを感じた。
一つ年上で五十六になる妻・頼子との結婚生活も、やはり三十年の長きにわたっていたから、いちいち言葉で確認をしなくても、この特別な日において、最後のお勤めから帰ってくる夫をどのように迎えるべきなのか、それくらい頼子はわかっているはずだと思っていた。
もちろん、朝出がけに帰宅時刻は告げてある。とくに送別会のようなものはやらないから、早ければ七時、どんなに遅くても八時までには帰ってくると伝えてあった。
そしていまは七時十五分である。
(おかしいな、絶対にヘンだぞ)
ギギギッと音を立ててきしむ門扉を開けながら、田崎は胸騒ぎを抑えることができなかった。
頼子はいたって生真面目な女である。シャレやユーモアをほとんど解さない性格だから、わざと家を真っ暗にしておいて夫を驚かそうなどという芝居を企てているはずもない。
(急にぐあいでも悪くなって病院にでも行ったのかな)
田崎は、無理にそちらのほうに考えをもっていこうとした。というのも、もっと確度の高い別の答えが頭にチラついて仕方なかったからだ。
定年の日の、妻からの三下り半――
テレビドラマや小説によくあるそのパターンが、まさか我が身にも降りかかってきたのでは、とイヤな予感がした。
じつは、これまでの夫婦生活において、そんな懸念がチラチラと頭の片隅をよぎらないでもなかったのだ。
田崎にとっては会社の仕事がすべてだったし、妻の気持ちを顧《かえり》みるゆとりなどまるでなかった。
夫が一生懸命働けば、会社での出世は早まり、年収は上がり、妻にとってもより安定した暮らしが保証されることになる。だから、頼子は夫が仕事に邁進《まいしん》している姿を見て頼もしく思うことこそあれ、それを不満に思ってなどいるはずがない、と彼はタカをくくっていた。
だが、炊事洗濯掃除に留守番といった以外にこれといった役目のない頼子が、まるで人生の目標を失ったような顔をして毎日をすごしている様子に、さすがに鈍感な田崎も、ある時期から気づきはじめていた。
「私はこれまでずっとあなたを支えてまいりました。でも、その義務もあなたの定年とともに終わりにしたいと存じます。これからは私は私で好きな道を歩ませていただきます。長い間お世話になりました」
そんな書き置きとともに、定年の日に妻が姿を消す――そういった夢を、田崎はここ半年ほどの間に二度ばかり見ていた。それは、無意識のうちに妻の不満を察知していた証しなのかもしれない。
(まさか、それが正夢になったというのか)
急に胸苦しさを覚えながら、田崎は玄関のチャイムを鳴らした。応答なし。
もう一度鳴らした、やはり応答なし。
仕方なく、ズボンのベルトにホルダーで引っかけてあった鍵束《かぎたば》をチャラチャラ鳴らしながら、玄関のそれを鍵穴に差し込む。そんなことをするのは何年ぶり、いや何十年ぶりという感じだった。
これまで三十数年のサラリーマン生活において、帰宅時に頼子が玄関口に迎えに出てこなかったのは、盲腸炎で入院していたときと、親が危篤になって実家に帰ったときくらいのものである。
それ以外は、帰りが午前様になろうと、あるいは完全に朝帰りになってしまおうと、田崎は決して自分で玄関に鍵を差し込んで開けることはしなかった。深夜であろうと早朝であろうと、亭主の帰りをきちんと出迎えるのが妻の務めだと思っていたからだった。
そんな彼にとって、自分でドアの鍵を開けるのは、なんともいえない侘《わび》しい気分だった。自分で家の中の明かりをつけるのは、さらに侘しい気分だった。
(なぜ、よりによって定年退職の日にこんな思いをしなければならないんだ)
そう考えたとたん、ムラムラと怒りが込み上げてきた。そして田崎は、まだ玄関に明かりがついただけの薄暗い家の奥へ向かって怒鳴った。
「頼子! どこにいるんだ。頼子、いたら返事をしろ!」
やはりシンとして返事はない。
田崎は、手にしていたパターの細長い包みも、ディナーセットの四角い包みも、それから花束もすべて下駄箱の上に置いて、靴を脱ぐのももどかしく家の中へ駆け上がった。
真っ先に彼は、六畳の茶の間の明かりをつけた。
冬には掘りごたつにもなる正方形のテーブルの上に、リボンをかけた小さな包みと、それから宛名《あてな》のない白い封筒が置いてあった。
「ああ……」
白い封筒を見た瞬間、その中身を確かめるまでもなく、田崎の唇からうめき声が洩《も》れた。まさかと思っていたことが、やはり現実になってしまったのだ、と彼はめまいすらおぼえた。
敷居につまずいて転びそうになりながら茶の間に駆け込み、田崎はまず白い封筒を手にとった。
封はしていない。裏を返しても何も書いていない。彼は、中に入っている便箋《びんせん》を震える手で引き抜いた。
入っていた便箋は二枚、うち一枚は白。もう一枚に、見慣れた妻の字で綴《つづ》られたわずか二行の文章。
[#ここから3字下げ]
≪三十年という大切な私の時間を奪われた代償に、あなたのこれからの五年間を奪わせてください
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]頼子≫
(何を言いたいんだ、あいつは)
まったく意表をつかれた田崎は、あぜんとして手紙を見つめていた。
最悪の事態は最悪の事態なりに、田崎として想像していた書き置きの中身というものがあった。例の夢に見たような内容の文面だ。
ところが現実の頼子のメッセージときたら、『お疲れさまでした』というねぎらいの一言もなく、あるいは『長い間お世話になりました』といった感謝の言葉もなく、あまりにも唐突な切り出し方だった。
田崎は理解不能のまま、何度も何度も、その短い文章を読み返した。
『三十年という大切な私の時間を奪われた代償に』という言い回しは強烈だった。これはまさしく、三十年間にわたる夫婦生活そのものが無駄だったと言っているに等しいではないか。
(いったい誰のおかげで生活の心配もせずに、毎日を過ごせたと思っているんだ。誰が日々の食いぶちを稼いできたと思っているんだ)
心の中で文句を言いながらも、しかし田崎は、それにつづく言葉の意味がわからずに戸惑っていた。
『あなたのこれからの五年間を奪わせてください』――この言い回しをどう解釈してよいかわからないのだ。
妻である自分がいなくなることによって、不便さを味わわせようというのか。それとも何か別の意図があるのか。
首をかしげながら、田崎はつぎに、テーブルの真ん中に置かれた小さな包みに目を転じた。
緑の包装紙に金のリボンが掛けられているところからみると、体裁は退職祝いのプレゼント、といった趣である。しかし、このような不可解かつ不愉快なメッセージが添えてあれば、単純に妻からの贈り物だと素直に喜ぶわけにはいかない。
ともかく田崎は、便箋を脇において、その包みを開けにかかった。
「なんだ、これ」
中身を見た田崎は、ますます妻のすることがわからなくなった。
頼子からのプレゼントは、いま流行《はや》りの電子手帳だった。
3
自他ともに認めるハイテク音痴の田崎は、パソコンはもちろん、ワープロさえも満足に打てなかった。そのことは頼子だって知っているはずなのに、なぜ電子手帳なのか。
しかもこちらは、ようやくサラリーマン生活から解放されようという人間なのだ。いまさらしちめんどくさい解説書を読んで、スケジュール機能だのアドレス機能だのを活用する必要などさらさらない。それともこれは、家庭を顧みずに仕事一筋できた夫への皮肉のつもりなのだろうか。
妻の狙《ねら》いがわからないままに、田崎はプレゼントを手に取った。
手のひらに載るほどのサイズのその電子手帳は、ラメの輝きをもった深緑色で、四隅はすべて丸みを帯びていて、何も説明がなければ女性のコンパクトと間違えられるような外観をしていた。
パカッと左右に開くと、頭が痛くなるようなキーの数々が並んでいる。それを眺めていると、せっかくサラリーマン生活のアカを落としてゆっくりのんびりしようと思っている田崎に向かって、電子手帳が「もっと働け、すぐに働け」と命じているような気さえした。
そして、添えられた説明書も、大きさは電子手帳本体とほぼ同型でありながら、厚さはかなりあった。
「まったく、どういうつもりなんだ」
腹立たしげにつぶやきながら、説明書をパラパラめくると、一枚の紙がはらりと落ちてきた。
≪説明書の123ページを読んでください≫
頼子の字でそう書いてあった。
謎解《なぞと》きのヒントのように提示されたその文章を目にすると、田崎はすぐに指定されたページを開いた。
そこは電子手帳の機能のひとつである『日付計算』について説明がされている部分で、ところどころに頼子自身が記したと思われる黄色い蛍光マーカーのラインが引いてあった。
≪ある期間の日数や何日後(前)の日付を調べるには≫という副題があり、日付計算機能の実例が出ている。
1993年10月7日から1994年5月15日までは何日あるか調べましょう、という例題があって、それが220日であるという解答を得るまでのプロセスが書かれてあった。
ようするに、キーを何回か押して日付計算機能のモードにしたところで、最初の日付を入れて『入力』キーを押し、つぎに第二の日付を入れてまた『入力』キーを押すと、たちどころに答えが出る仕組みになっているのだ。
ただし、これは起算日もしくは満期日のどちらかをいれない『片端落ち』計算なので、期間中の日数を数えるのであれば、出た答えに1を足さなければならない、という。
そうした説明は把握できたものの、田崎としては、なぜ妻がここを読ませたかったのか、まだわからない。
しかし、ふたたび説明書のページをパラパラとめくり出した田崎は、最終ページの直前のところでハタと目を止めた。
そこには、説明書よりも一回り小さな白い紙が数枚|貼《は》りつけてあり、非常に細かい頼子の字で、表裏両面に文章がびっしりとしたためられてあった。
書き出しはこうだった。
≪あなたは1940年8月8日に生まれました。したがって、きょう1995年8月31日までに20112日を過ごしてきたことになります。
どうですか、五十五歳まで生きてきて、ようやく二万日にしかならない。人生とは長いようでいてなんと短いのか、驚かされませんか≫
妻がどんな狙いをもってこの文章を書いているかは別にして、自分の生きてきた日数を示されて、田崎は純粋に驚いた。
(そうなのか……おれの歴史とは、たった二万日あまりなのか)
五十五歳になったということは、まるまる五十五年間を生きてきたことになる。その意識は、もちろん自分でもちゃんとあったのだが、それを日数に換算してみるという発想は、これまで一度たりとも頭に浮かんだことはなかった。
「生後何日目ですか」という質問は、せいぜい生まれたばかりの赤ちゃんに適用されるくらいで、幼稚園の子供にすらそんなたずね方をする者はいない。まして五十すぎの大人に対してなど……。
また、万一そんな質問を受けたにしても、概算でもいいから即答できる人間はめったにいまい。
もしも自分が「これまでどれくらいの日数を生きてきたと思いますか」とたずねられたら、五十五歳の誕生日を迎えた田崎としては、「ざっと五万日くらい」と答えていたのではないかと思った。
頭の中で55×365+αといった計算をしたのではなく、これまでの長い人生をふり返ると、五万回の朝を迎え、五万回の夜を迎えるくらいの日数は経った気がした。
ところが、計算してみればわずか二万日少々とは……。
実感としてこれだけ長く生きてきて、これだけいろいろな人生ドラマがあって、それでもようやく個人の歴史として二万日を刻んだにすぎないとは、人生はたしかに長いようでいて短いものだ、と田崎は妙な感慨にふけった。なるほど五万日だったら、およそ百三十七年にもなってしまう。
頼子の文章はつづく。
≪あなたは1963年4月1日に、いまの会社に新卒として採用されました。そして、定年になったきょうまで、社員として在籍した日数は11841日です。
会社が週休二日制度になったのはずっと後のことですし、五十の声を聞くまでのあなたは、土日も夏休みも正月休みも返上して働いていましたから、少なくとも一万日は会社に通っていた計算になるのではないでしょうか。つまり、人生のおよそ半分を会社で過ごしていたわけです≫
だからどうした、と思いながら、田崎は暦をめくるように、説明書に貼りつけられた小さな紙を繰って、さらに先を読みつづけた。
≪ところで私とあなたが結婚したのは、いまから三十年前の1965年6月12日です。したがってきょうは、二人の結婚生活11037日目にあたります。信じられないことに、やはり一万日以上も、私はあなたと夫婦でいるのです。
私はあなたよりも一つ年上で、きょうまで20598日生きていますから、割合からいえば人生の五十三パーセント以上を、あなたの妻として過ごしてきたことになります。
では、この五十三パーセントの人生は、私にとっていったい何だったのでしょう。11037日の人生は、何のために費やされたのでしょう。
あなたにとって11841日間のサラリーマン生活は、それなりに充実した日々だったでしょう。でも、それとほとんど変わらぬ11037日間、私はあなたから放ったらかしにされ、妻として、女として、人間として愛情を注いでもらうこともなく、ひとりぼっちでこの家に閉じこもっていたのです。
おまえはおまえで勝手にしていろと言われたならば、まだ私には自由もあったでしょう。けれども私は、すべての行動をあなたに束縛されておりました。
11037日の間、私にはまるで自分の時間というものがありませんでした。あなたが会社を休まないから、私も休めない。あなたに土曜も日曜もないということは、私にも土曜や日曜がなかったことを意味します。あなたに盆も正月もなかったということは、私にも盆も正月もなかったことを意味します。
そして、毎日のさりげない気分転換も私には許されなかったのです。大好きな油絵や活《い》け花の展示会があると聞いても、ちょっと遠くだと、もう尻込《しりご》みをしてしまう。留守中にあなたから電話があったらどうしようと思ってしまうからです。
子供もいなくて夫婦二人きりなら自由でいいわねえ、とよそ様から言われたりしますが、じつは私にはひとかけらの自由もありませんでした。目に見えない鎖で、私はこの家に縛りつけられていたのです。11037日もの間ずっと……ずっとですよ≫
読み進めていくうちに、田崎は頭がくらくらしてきた。
電子手帳の説明書に貼りつけられた小さな紙――そこにびっしりと並べられた妻の筆跡のひとつひとつが、そのまま彼女の鬱積《うつせき》した不満のエネルギーとなって、田崎に襲いかかってきた。
もうこれ以上読みたくない、と田崎は思った。しかし、頼子のメッセージはまだ終わらない。
4
≪あなたに奪われてしまった11037日は、どうあがいてももう戻ってはきません。くやしいです。私はほんとうにくやしいです。もっと早く離婚の決断をしなかったことが悔やまれて悔やまれてなりません。
けれども、仮に私のほうから別れてくださいと申し出ても、世間体を気にするあなたは決してそれに応じてくださりはしなかったでしょう。だから私も、もうこのまま一生鎖につながれたままなのねと、あきらめていました。
でも、いよいよあなたの定年が近づくにしたがって、あきらめの境地に達していた私を、もういちど突き動かす何かが生じてきました。
それは恐怖です。ものすごい恐怖です。いままでとは比較にならないほどの多くの時間を、田崎茂という男と共有しなければならないのか、という恐怖です≫
「なんだって!」
ひとりきりの家の中で、田崎茂はおもわず大きな叫び声をあげた。
「おれといっしょにいるのが恐い、だって?」
≪いまの会社を辞めたあとの人生設計について、あなたは例によって少しも私に相談はしてくださいませんでした。それでも、夕飯のときなどにポツリポツリと洩《も》らされる言葉から推測すると、二、三カ月はのんびり休養したあと、いままでとは比較にならないほど楽な仕事を探し、余生をのんびり楽しむおつもりのようですね。
それはそれで結構ですけれども、そのことによって、あなたがこの家にいる時間が飛躍的に多くなってしまうわけでしょう。それが私には耐えられそうもないのです。考えただけでゾッとしてしまうのです。
いままでと違って、朝から晩まであなたと顔を突き合わせるようになったら、私はきっと息苦しさで窒息してしまうかもしれません。
バカを言え! あなたのそんな怒鳴り声が聞こえてきそうですね。でも、考えてもみてください。明日からの暮らしは、私にとって第二の結婚のようなものなのです。五十六歳というこの齢になって、いまさら見ず知らずの人と夫婦生活を営めると思いますか[#「いまさら見ず知らずの人と夫婦生活を営めると思いますか」に傍点]≫
「バカを言え!」
田崎は妻の書いた文字に向かって、まさに頼子が想像していたとおりのセリフで怒鳴った。
つづいて心の中で叫ぶ。
(明日からの暮らしが第二の結婚だと? いまさら見ず知らずの人と夫婦生活を営めると思いますか、だと? おれが見ず知らずの人間というのか。ふざけるな!)
しかし、頼子の冷徹な言葉はつづく。
≪まったく家庭を顧みないあなたは、私にとってほとんど見知らぬ人。その見知らぬ人が会社を辞めて本格的に家に戻ってくる。それは私にとって、五十六歳で新たな結婚をしろと命じられたも同然なのです。
最初の結婚のときは、まるで戦前の花嫁のように、私は親の決めた路線の上を走っただけでした。夫になる男性がどんな人なのか、ろくに情報も与えられず、好きも嫌いも言う余地はありませんでした。けれどもこんどの結婚は、私はあまりにも花婿のことを知りすぎています。
見知らぬ人と言っておきながら、その言い方は矛盾するではないか、とおっしゃらないで。
少なくとも、あなたが私をまったく愛していないことはわかっています。逆の表現をすれば、あなたに関してわかっているのはそれだけ。
たしかに、夫婦生活を営んでいくにはそれだけの理解では不十分です。でも夫婦生活をやめるには、愛がないという理解さえあれば十分なのではないでしょうか。
私は決心しました。もう逃げ出すしかないのだ、と。離婚などを考えずに逃げるのだ、と。はっきりその考えが固まったのです。
それと同時に、私は逃げるだけではなく、あなたに復讐《ふくしゆう》をしようとも考えました。私の11037日を奪ったあなたが憎い。私ははじめてあなたに対してはっきりとした憎しみを抱きました。
では、どのような復讐をしたらよいのか。もちろん、私が姿を消すというだけでも、ある程度の復讐になるかもしれません。しかし、それだけでは私としては満足できません。
そのとき、ふとあなたの言葉を思い出したのです。人生、六十くらいまで生きられれば言うことない、というあの言葉を。
電子手帳で計算してみてください。あなたの六十歳の誕生日までは、きょうを含めないと、あと1804日しかありません。たった1804日ですよ。
あなたの人生が残り1500日となるのは、来年の6月30日です。
あなたの人生が残り1000日となるのは、さ来年の11月12日です。
あなたの人生が残り500日となるのは、四年後の3月27日です。
あなたの人生が残り100日となるのは、五年後の西暦2000年4月30日です。
そうやってあなたが人生の残り日数を数えられるように、私はその電子手帳を退職祝いに贈らせてもらいました。どうぞ、残り時間が減っていくようすを、ごゆっくりお楽しみください≫
(バカバカしい)
田崎は鼻を鳴らした。
(それが、おれのこれからの五年間を奪うということなのか)
(ふざけちゃいかんぞ。六十まで生きりゃあいい、と言ったのは、あくまで密度の濃い人生を生きようという姿勢の表明にすぎないのであって、なにもおれは、六十歳で死ぬと決めたのではない)
(第一、不治の病にかかって六十までの命と宣告されたわけじゃあるまいし、あと何日とカウントダウンしたって、少しも気持ちに焦りなど出るはずもないだろうが)
(だいたい、おれのもとから去ったところで、あの女にひとりで何ができるというんだ)
世間のことをほとんど知らずに、人生の大半を家の中ですごしてきた頼子が、いまさら自立して働きに出るとは、とうてい考えられなかった。かといって、身内を頼ろうにも両親はとっくに亡くなっているし、ただひとりの肉親である兄は学者としてアメリカに渡っている。
また、毎日変わり映えのしない留守番人生を送っていた頼子には、これといった友だちもいないはずだ。
つまり、頼子が長期間身を寄せられるような場所は、日本中探したところでどこにもないということだ。大見栄を切って家を飛び出したところで、どこかの知人宅にせいぜい二、三日厄介になるのが関の山だろう。
そしてけっきょく、彼女は田崎のもとへ戻ってくるよりほかにないのだ。
(そのときは許さんぞ)
田崎は唇を歪《ゆが》めた。
(おれの人生でもっとも記念すべき日に、こんなふざけたまねをしたことは、謝ってすむ問題じゃないからな)
たたきつけるようにして、説明書をテーブルに置いたとき――
「読み終わりましたか」
闇《やみ》の奥から頼子の声がした。
5
田崎はビクンとのけぞった。
聞き慣れた妻の声なのに、まるで幽霊に呼びかけられたような恐怖が背筋に走った。
「どこだ」
茶の間にあぐらをかいたままの格好で、田崎は四方を見回した。
玄関と、いまいる和室の茶の間以外は、まだ電気をつけていない。キッチンも洋間も真っ暗だし、二人の寝室がある二階もまだ明かりが入っていない。その薄暗い家のどこかから、頼子の声が聞こえてきた。
しかし、声がするのは二階ではない。一階のどこかだった。
田崎は片膝《かたひざ》立ちの格好になり、もう一度周囲を見回しながら呼びかけた。
「どこだ、頼子、どこにいる」
「ここです」
くぐもった声が返事をした。
だが、田崎にはなお方向の見当がつかない。
「こことはどこだ。早く出てこい。茶の間にこい」
「行けません」
「行けないじゃないだろう。いったいきょうがどんな日か、わかっているのか」
「承知しております。あなたの生きがいが終わった日です」
「なに」
妻の答え方に、田崎は一瞬ひるんだ。
「会社を辞めた記念日などという甘い考え方をしないでください。会社以外に人生の価値を見いださなかったあなたにとって、きょうという日は、生きがいを永遠に失った日なのです。仮にこのあとどこか別の会社に勤めても、それはたんに生活費を稼ぐための手段であって、これまでのような充実した時をすごせることは決してないでしょう」
田崎は愕然《がくぜん》とした。
いままで夫の言うなりに暮らしてきたはずの妻がはじめて反抗の意を表した。そのことじたいもびっくりだが、それ以上に驚かされたのは、頼子の話し方が論理的でかつ非常にクールな点だった。
田崎からみた頼子という女は、柔順かつ愚鈍というイメージがあった。だから、たとえ仕事がすべてという夫に不満があったとしても、それを感情的に訴える勇気もなければ、論理的に表明するすべも持たないだろうとみくびっていた。
ところがいまの頼子の言葉ときたらどうだ。まるで別人ではないか。いや、それともこれまでの頼子は、仮面をかぶって生きていたとでもいうのか。
田崎は立ち上がった。
そして、前にもまして大きな声で叫んだ。
「どこにいるんだ」
「ですから、ここです」
こんどは方角の見当がついた。
(あっちのふすまの向こうだ)
田崎のいる茶の間は、壁があるのは一方だけで、残る三方はふすまもしくは障子で仕切られていた。
どうやら頼子の声は、北側のふすまの向こうから、聞こえてくるようだった。その裏側には、廊下を隔てて和式のトイレがある。
「ちょっとここへこい」
田崎は、ふすま越しに命令した。
「ここへきて、自分のやっていることをきちんと説明しろ」
「そちらへは行けませんと申し上げたでしょう。それに、私の行動を説明する必要はもうないと思います」
何度聞いても、頼子の声は信じられないほど冷たい。
「いままであなたが私に対してなさってきたことの仕返しに、私は、あなたのこれからの五年間を奪いたい。それだけです」
「おれは死なんぞ」
田崎は、顔も姿も見えない妻に向かって怒鳴った。
「誰が還暦ていどであっさりあの世へ行くもんか。……それともアレか」
ハタと思い当たった顔になって、まさかと思いつつ田崎はきいた。
「六十の誕生日に、おれを殺そうとでもいうのか」
「勘違いはなさらないで」
頼子の声は、あくまでも落ち着いていた。
「あなたの五年間を奪うという意味は、そんなものではありません。いまから六十歳の誕生日まで生きていたとしても、たったの1804日。でも、あなたはそれすらも生き抜けるかどうか、私は疑問に思っております」
「なんだって」
「仮にあなたの肉体的生命があと五年かそれ以上もったとしても、心の炎はもはや燃え尽きる寸前」
「え……」
「充実した会社生活とともに、あなたの精神のともしびも、おそらくきょうで終わりになるのではないでしょうか」
「どういう意味だ」
「ふすまを開けてごらんなさい」
妻の指示に、田崎はゴクンと唾《つば》を呑み込んだ。そして、ゆっくりと立ち上がり、北側のふすまの前に立つと、一気にそれを引き開けた。
「………!」
声が出なかった。
予想もしていなかった光景に、田崎は叫ぶことすらできなかった。
自分の喉《のど》からスー、スーと空気が洩《も》れる音がする。形を失った言葉の残骸《ざんがい》が、ただの荒い息となって吐き出される音だ。
狭い廊下を隔てて茶の間とは向かいにある和式トイレのドアが、完全に開け放たれていた。
トイレそのものの照明はついていなかった。だが、その中は曖昧《あいまい》なオレンジ色の薄明かりに包まれていた。ロウソクの明かりである。
ゆらゆらと揺らめきながら、夜の黒い空気を必死にかきわけようとするロウソクの炎――その弱々しいオレンジ色の明かりに照らされ、妻の頼子が白装束を身にまとって宙に浮いていた!
6
状況を把握するまでに、ずいぶん長い時間がかかった気がした。実際には五秒もなかったかもしれないが、田崎の脳にはそれが十分にも二十分にも感じられた。
どこで手に入れたのか、頼子は死者がまとう白装束を身につけ、トイレに椅子《いす》を持ち込んでその上に立っていた。
その彼女を下から照らし出しているのが、ちょうど椅子を円形に囲むように床に置かれた八本のロウソクだった。
もうだいぶまえから火はつけられていたらしく、ロウソクはかなり短くなり、しかも溶け出した自らのロウによって醜く太りはじめていた。
一瞬、頼子の身体が宙に浮いているのではないかと思ったのは、そのロウソクの明かりが作る光と影の錯覚だった。
しかし、田崎が愕然となったのは、白装束の頼子の首元に目をやったときだった。
そこには縄が幾重にも巻かれていた。そしてその一端は、トイレの天井に取り付けられた照明器具の根元へと伸びている。
(首吊《くびつ》りをするつもりか!)
田崎の目が大きく見開かれた。
さらに足元へ目を向けると、白足袋《しろたび》を穿《は》いた足首も、縄でぐるぐる巻きにされていた。
そして、胸の前で組まれた両手にも縄が巻きつけられていた。こちらは自分で最後にやったのだろう。やや縛り方にずさんなところがあったが、手首を何度かひねったり回したりすることで、きつく締めていた。
もしもこのまま頼子が椅子を蹴飛《けと》ばせば、そのまま宙吊りになってしまうのは明白である。
そうなれば、仮に即死は免れても、ロープをほどくか切るかする間に、頼子の脳には決定的なダメージが加えられてしまう。
「なんということだ」
田崎は顔面蒼白となってつぶやいた。
「おまえは……おれが最後の会社勤めから帰ってくるのを、そんな格好で待っていたのか」
「ええ」
頼子は答えた。
それも笑いながら、だ。
八本のロウソクの炎に下からあおられて、頼子の顔には狂気と妖気《ようき》が漂ってみえた。
「よ、頼子、とにかく……」
「こないで!」
よろよろとした足取りで近づこうとした田崎に向かって、頼子は鋭く言い放った。
「廊下からこっちへ一歩でも近寄ったら、私はこの椅子を蹴飛ばします」
「………」
「それから、警察に電話でもなさろうものなら、やはりすぐにこの椅子を蹴飛ばします」
頼子は、自分で縛った両足のひざを少し曲げた。そうやっておいて体重を一気に移動させれば、椅子が倒れるより早く身体が宙に飛び出して、あっというまに首が絞められてしまう。
田崎は震えた。
そして、身体の震えがそのまま伝わった声でたずねた。
「いったい何のあてつけなんだ」
白装束の妻を前にして口から出た言葉がそれだった。
「何が不満でそんな真似をするんだ」
「だから申し上げたでしょう。説明はもう要《い》らないはずです、と」
「いや、わからん。わからんな」
田崎はブルブルと顔を振った。
「とにかくそこから降りて、落ち着いた状況でゆっくり話し合おう」
「説得は無理ですよ」
奇妙な笑みを消して、頼子は言った。
「私はもうここから飛び降りることに決めたのですから」
「バカなことはよせ!」
「どうせ私はバカです」
「そうじゃない。そういうつもりで言っているんじゃないんだ」
「いいえ、私はバカです」
白装束の頼子が、意地になって言い張った。
「バカでなかったら、あなたにおつきあいして11037日も人生をムダに費やしたりするものですか」
「………」
「もしも私がここで首を吊ったら」
ロウソクの炎が演出する不気味な影に彩られた頼子の顔に、また笑みが浮かんだ。
「あなたの人生はおしまいですね。たとえ六十、七十と長生きをなさっても、妻にこういう形で死なれては、あなたの人生はおしまいですね。あなたの最大の生きがいであった会社生活が妻を自殺に追い込んだとなれば、寝覚めが悪いどころの騒ぎではないでしょう。あなたはこれまでの有意義な人生を全否定され、なおかつ明日からはじまるはずの新しい人生から、希望と明るさを一切奪われてしまうのです。六十くらいまで生きられればじゅうぶんとおっしゃるあなたの残り五年を奪うとは、こういう意味だったのです」
頼子に一気にまくし立てられ、田崎の身体の震えはますますひどくなった。最悪の泥沼にはまってしまったことを、否応なしに思い知らされたからだ。
「頼子」
田崎は懇願する口調になった。それこそ11037日目にしてはじめて彼は、心の底から妻にお願いをした。
「たのむから冷静になってくれ」
「冷静じゃありませんか」
頼子の返事はとことん冷たい。
「あなたにあれこれ言われなくたって、私は落ち着いていますよ。人間、いったん死ぬと決めてしまえば肚《はら》は据《す》わるものです」
「死ぬと決めては困る。ここで早まったところで得なことは一つもない」
「あなたにとってはそうでしょうね。けれども、私にとっては違います。あなたとの新しい結婚生活をはじめるくらいなら、死を選んだほうがどれだけ幸せでしょう」
田崎は、怒りと困惑で歯軋《はぎし》りをした。
同じ夫婦が同じ屋根の下で暮らすというのに、なぜきょうと明日とでは別の結婚生活になるのか。自分は自分、頼子は頼子で、いったいどこが変わってしまうというのか。夫婦の関係に変化などひとつもないはずではないか――田崎にとっては、頼子の言わんとするところがまったく理解できなかった。
しかし、いまは頼子に話を合わせていくしかないと思い、田崎は表面的に理解を示すそぶりをみせた。
「わかった。そんなにおれと暮らすのがいやだったら、思い切って別れようじゃないか」
妻の発作的行動を思いとどまらせるにはこう言うしかなかった。
「自殺などされるよりは離婚したほうがよっぽどマシだ。おれにとってもおまえにとってもな。もちろん、慰謝料についてはできるかぎりのことをしよう。この家も土地もおまえに……」
「いいえ、そんなご心配などなさらないで」
田崎の妥協をまるで無視するように、頼子は突っ放した言い方をした。
「いまとなっては、私は離婚などするつもりはまったくありません。それよりも死を選ぶことに決めたのです。死あるのみです。そうでないと、あなたに復讐《ふくしゆう》したことにはなりませんから」
「頼子、おれの言うことに耳を貸してくれ」
異様な白装束やトイレの床に並べられたロウソクに目をやりながら、田崎は必死に説得をつづけた。
「今夜のおまえは、まともな精神状態ではない。しかし、一晩ぐっすりと眠れば、その状態も収まるだろう。いまのおまえに必要なのは、まず休息だ。たしかに、おまえには妻として大きな負担をかけてきた。そのことについては詫《わ》びる。このとおりだ」
田崎は、椅子の上に立って首吊り寸前という格好の妻に、深々と頭を下げた。
「そして、おまえが溜《た》めてきたストレスが、おれの退職の日を待っていたように一気に噴き出したのも理解できないではない。とにかくその縄をほどいて楽になろうじゃないか。な、頼子」
「………」
「さあ、はずすんだ、おまえの首にかかっているその縄を」
説得は受け付けないと言い張る頼子をなんとか説き伏せねばと思いながら、その一方で田崎は、最悪の事態となったときはどうするべきかを考えていた。
すなわち、頼子が椅子をパッと蹴倒したときの対応である。
全体重がかかってしまったロープをほどくのは容易なわざではない。それよりはまだ包丁でスッパリと切断をしたほうが早いだろう。
しかし、頼子が首を吊ってから急いでキッチンへ飛んでゆき、どこにあるのか置き場所さえ把握していない包丁を探し出して、それを取ってふたたびトイレに引き返す、というやり方が果たして間に合うものか。
ダメだろう。田崎は否定的な見方しかできなかった。奇跡的に息を吹き返しても、脳への血流が阻害されている間のダメージは大きい。意識障害はまちがいなく残るだろう。首に一気に体重がかかったときのショックで、重要な神経に損傷をきたすおそれもある。
かといって、先にロープを切る道具を用意しようとキッチンへ向かえば、頼子が興奮して即座に椅子を蹴ってしまう。
いまの田崎にとっては、頼子のもとへ近づくことも、その場を離れることも許されなかった。
だが、いつまでも立ち往生をしているわけにはいかない。
とりあえず首吊りを防ぐ方法はひとつだけあるように思えた。頼子のところへ突進し、彼女が椅子を蹴倒したとしても、間髪いれずに宙に浮いた下半身を抱きかかえてしまうやり方である。
しかし、そこで頼子の身体を預けられた田崎としては、そのあとをどうするのか。考えただけでもおぞましい光景が展開しそうだった。
白装束に身を包み、両手両足を縛った妻の身体を、必死に田崎が下から支えている。もしも田崎が手を離せば、たちどころに頼子の身体は宙ぶらりんとなって窒息《ちつそく》死してしまう。
片手で支えながら片手でロープをはずすのは至難の業《わざ》だ。というよりも、ほとんど不可能に近い。
それでも頼子に助かりたいという意志があれば、なんとか知恵を出しあって窮地を逃れることもできるかもしれない。だが、相手はチャンスさえあれば首を吊ろうとしている人間である。
となると、妻の命を守るには、夫である田崎が、永遠に頼子の身体を支えつづけていなければならなくなる。それは地獄だ。
そして、そのもつれあう二人の地獄図をロウソクが影絵にして、四方の壁に浮かび上がらせる――そんなイメージが田崎の頭をよぎる。
けっきょくは、田崎が力尽きて手を離してしまうことになるだろう。そしてその瞬間が頼子の死を意味するならば、結果的に田崎が妻を殺したも同然の形になってしまうではないか。
(冗談じゃないぞ)
最悪の場面を考えただけで、田崎のこめかみから汗が垂れはじめた。
(へたに頼子を助けようとしたら、最終的な責任をおれが負うことになってしまうわけだ。しかし、それこそ寝覚めが悪いというものではないか)
(だったら、いっそ何もしないほうがいいのでは……)
(そうだ、そのほうがおれは純粋な被害者になる)
(ここまで状況が逼迫《ひつぱく》していれば、どちらにしたって頼子の首吊りは避けられない。それならば、少しでもおれの精神的ダメージが少なくてすむように行動すべきではないか)
(それにヘタに頼子の身体に触れたら、自殺を偽装した殺人の疑いだってかけられるかもしれない)
(だいたい、おれをこんなに苦しめるような女房を助ける必要があるのか。え? あるのかよ)
田崎の自己本位な考え方は、どんどんエスカレートしていった。
(このさい、いっそのこと頼子には死んでもらって、おれは周囲の同情を買うという図式が正解かもしれない。そうすれば、一回りくらい若い後妻をもらえるかもしれないぞ)
そこまで思いを巡らせたとき――
「さようなら、あなた」
妻の声に、田崎はハッと我に返った。
7
頼子は、いまにも身体を投げ出しそうな体勢をとっていた。
考え事をしている間、田崎は、しらずしらずのうちにうつむいていたが、改めて妻の異様な姿に目を向けると、たったいままで頭に浮かんでいた自己中心的な考えはスーッとしぼんでいった。
やはりここで頼子に死なれては困るのだ。妻の自殺は、まちがいなく夫の社会的評価を貶《おとし》める。ましてや定年退職の日にそんなことをされたら、世間に対してどういった言い訳ができるだろうか。
それなのに、頼子には思い直すつもりはまったくなさそうだ。
「さようなら、あなた」
頼子がふたたび繰り返した。その繰り返しで、田崎は切れた。
焦りと怒りといらだちがいちどきに押し寄せてきて、彼の頭は爆発しそうになった。
「な、なにがさようならだ!」
田崎は唾《つば》を飛ばしてわめいた。
「自分さえよければ、それでいいのか。自分の鬱憤《うつぷん》さえ晴らせれば、そのあと夫がどのような迷惑を蒙《こうむ》ろうが知ったことではないというのか」
「何をおっしゃるんですか」
ロウソクが揺らめくごとに顔の形が変わって見える頼子は、いまは愚者を教え諭《さと》す菩薩《ぼさつ》の顔になっていた。
「自分さえよければという暮らしを一万日以上もつづけてきたのは、あなたのほうではありませんか。11037日も私を無視して……」
「そういう言い方はやめろ」
田崎は、妻の言葉をさえぎった。
「11037日という異常な言い回しはやめろ」
「どこが異常ですか」
「どこが、だと? そんなこともわからなくなっているのか、おまえは」
「わかりません」
「11037日だけではない、一万日という大ざっぱな表現だって異常だ」
「どうして」
「長い歳月を年とか月ではなく、日数の単位で表現しようという発想そのものが普通ではないのだ。おまえはな、頼子、狂っているんだ」
口に出してから、言いすぎたかと思ったが、しかし田崎はもう止まらなかった。
「11037日という言い方には、まるでおまえの一日一日が、すべておれのために犠牲になったかのような響きが込められている。なんという被害妄想だ」
「被害妄想ではありません。事実をありのままに表しただけです」
「それならば、おれに対して最初に不満を感じたときに、なぜすぐ口に出して言わなかった。いまになって、11037日間も我慢していましたと恨めしげに告白するのは、いやがらせ以外の何物でもないだろう」
田崎は、もはや自分の興奮を抑えることができなかった。
「おまえが自分の11037日を犠牲にされたというならばだ、おれはおれで、一万何千日かにわたる自分のサラリーマン生活を……」
「11841日間です」
「そうだ、その11841日間の努力を、最後の一日でいっぺんにフイにされた気分なんだぞ。わかるか」
「………」
「終わりよければすべてよし、というが、おれの場合はその逆になってしまった。おまえは自分の犠牲がどうのこうのと言うが、おれが会社から強いられてきた犠牲といったらな、おまえみたいな主婦がぶつくさ愚痴をこぼすようなそんな瑣末《さまつ》なレベルじゃないんだよ」
田崎は、妻の首に縄がかかっていることをすっかり忘れて興奮した。
「おれはな、入社依頼三十二年間、ほんとうに自分の人生を会社に捧《ささ》げてきたと思っている。自分のことは後回しにして、会社の発展のためにとことん尽くしてきたと思ってる。そういったおれの心意気は、どうせいまの若いやつらには通じまいとあきらめていたのだが、じつはそうではなかった。定年を迎えたおれを、みんなは割れんばかりの拍手で見送ってくれたんだよ。ほんとうにご苦労さまでしたと、心から感謝して送り出してくれたんだ。そのときおれは思った。ああ、これまでの努力は無にならなかったんだな、と」
「拍手だけなら誰にでもできます」
頼子の言葉はあくまで厳しかった。
「一日だけの尊敬なら、誰でもそれを演じてみせることができます」
「うるさい、聞け! ……ところが家に帰ってみたらどうだ。鍵《かぎ》は閉まっている、家の中は真っ暗、テーブルには奇妙な贈り物と恨みがましいメッセージ、そしておまえのその格好だ」
田崎は、白装束の妻に向かって人差指を突きつけた。
「サラリーマン生活の最後の最後にきて、自分の妻からこんな仕打ちをされる夫がどこにいるというんだ」
「どこにでもいますよ」
あくまで頼子の声は機械のように平坦である。
「定年にあたって、奥さんにざんげをしなければならない夫は、そこらじゅうにゴロゴロといますよ。ただ、奥さんのほうがあきらめの境地に達して事を荒立てないから、夫の側も自分の過ちに気がつかないだけなのです。
でも、みんな気持ちは私と同じはずですよ。あなた長い間お疲れさまでした、とお赤飯でも炊いて祝いながら、心の中では、ああ、この人の顔をいままで以上に見なければならないのか、とウンザリしているのです」
「頼子、きさま……おれに対する感謝の言葉をひとつも口にせず、そんなことばかりまくし立てて」
「とにかく私は死にます」
田崎の怒りを封じるように、頼子はピシャリと言った。
「あなたは、少なくともあと五年は生きるつもりでいらっしゃいました。その五年を私が頂戴《ちようだい》いたします」
両手両足を自ら縛ったまま、頼子はくねくねと身体を動かしはじめた。
首から天井へと伸びた縄が、その動きにつれて波打つ。
その不気味なうねりを見つめているうちに、強気と弱気が交錯する田崎の心に、ふたたび弱気の大波が押し寄せてきた。
「たのむ、頼子。バカなまねはやめてくれ。なにもおれの定年の日にそんなむちゃをすることはないだろう。たのむ」
しかし、もはや頼子は返事をしなかった。無言のまま、彼女は白装束に包まれた身体を大きく大きく揺らしつづける。
みるみるうちに、その揺れが大きくなっていく。両手両足の自由が利かない状況では、もはや身体のバランスを保つのが不可能というギリギリのところまで、頼子の揺らぎは幅を広げていった。
(助けなければ)
一瞬、田崎はそう思った。
(自分のために、頼子の命を助けなければ)
しかし、決して頼子自身のために彼女を救おうという気にはならなかった。
愛がない――
そう、まさに頼子が指摘したとおり、いま妻が目の前で自殺を遂げようかという状況に陥《おちい》っても、田崎の心の中に愛は浮かび上がってこなかった。
死なれては迷惑だ、という感情こそ湧《わ》いてきたが、頼子を失いたくないとは少しも思わなかった。
(もうすぐ死ぬ……もうすぐ、おれの妻が死ぬ)
前衛舞踏を思わせる頼子の身体の動きを見つめながら、田崎は、説得はもはや無効だと悟った。あと二、三分もしないうちに、頼子は椅子《いす》を蹴倒《けたお》して宙に浮く、と思った。
破滅を覚悟すると同時に、妻の動きとは対照的に、田崎の身体は金縛りにあったように動かなくなった。
後先をも考えずに妻の身体を支えるという行動は、けっきょく愛がなければできないことがわかった。一時間でも二時間でもいいから必死に妻を支えられれば、たとえ自分が力つきて手を離したとしても、そしてその結果、妻が死に至ったとしても、それは最高の愛がもたらした結末なのだ。
そこまで田崎の脳は理解した。が、しかし行動には移れなかった。愛がないからだ。
頼子の身体の揺れは、もう完全に限界を超えていた。
と――
一瞬、頼子と田崎の目が合った。
≪お願い、あなた、少しだけでもいいから私を支えようとして≫
妻の目は、そのように懇願していた。
なぜかそれが田崎にはハッキリとわかった。
だが、田崎はそれでも動かなかった。
とたんに、ロウソクの炎に照らされた頼子の顔が般若《はんにや》に変わった。
「デエエエエエエーッ!」
聞く者の髪の毛を逆立たせるような絶望の悲鳴が、五十六歳の頼子の喉《のど》からほとばしった。
それを聞いて、田崎の全身に鳥肌が立った。極限の恐怖のせいか、鳥肌のブツブツひとつひとつが、おろしがねのように堅かった。
彼女の身体が大きく前に倒れかかった。
足が椅子から離れた。
そこまで田崎は見た。しかし、それ以上は見ることができなかった。
田崎はギュッと両目をつぶった。
ダーンという大きな音がした。
8
狭い廊下を隔てた茶の間の端に立ったまま、田崎は目を閉じて全身をガクガクと震わせた。ガチガチと歯が鳴った。
その震えは一分、二分、三分とつづいた。
その間、田崎は目を閉じたままだった。とてもではないが、目の前の光景を直視する勇気を彼は持たなかった。
椅子を蹴倒す直前の、妻の形相がまぶたに焼き付いて離れなかった。
頼子はいま、あの顔のまま首を吊《つ》ってブラブラと宙で揺れているにちがいない。それを思うと、絶対に目は開けられなかった。
家の中は静かである。田崎の歯の根が合わない音がやけに大きく聞こえるほど、周囲は静かである。
その静けさが、ますます田崎に目を開けてみる勇気を失わせた。
(激しい震えが収まって、自分の足が自分の意思で動くようになったら、とにかく家から逃げ出そう)
田崎は思った。
(目を閉じたまま手探りで後じさりをして、玄関まで下がったら一気に外へ飛び出して近くの電話ボックスに駆け込むんだ。そして警察に連絡をする。頼子の死体を見るのは、警察官といっしょのときでいい)
五分ほど経ったころ、ようやく田崎の身体の震えが収まってきた。
そこで彼は、子供のようにギュッと目をつぶったまま、じりじりと後じさりをはじめた。
と、そのときである。
「えへへへ」
笑い声がした。
(な……なんだ!)
田崎はその場に凍りついた。
「えへへへへ」
誰の笑い声なのか、彼はすぐにはわからなかった。
「えへへへへへへへ」
笑い声が徐々に近づいてきた。
どう考えても、頼子そっくりの声をしている。けれども、目をつぶったままの田崎には状況判断ができない。
妻は首吊り自殺を遂げたはずである。まだ絶命には至らなくても、ピクピクと断末魔の痙攣《けいれん》をつづけているころだろう。そんな頼子が笑えるはずもない。
それとも死にきれずに、天井からぶら下がったまま、えへらえへらと笑っているのだろうか。
しかし、その笑い声が徐々に近づいてくるのはどういうわけだ。
「えへへへ、えへっ、えへっ、えへへへ」
ますますその笑い声が接近してきた。
田崎の身体の硬直度は、金縛りなどという生易しいものではすまなかった。全身が金属になってしまったかと思うほど、恐怖のために筋肉が突っ張っていた。
「えへっ、えへっ」
ついに笑い声は田崎の真ん前にきた。そして、息が顔に吹きかかる。
(首を吊った頼子が歩いてきた? まさかそんな……)
田崎は思い切って目を開けた。
(……!)
目の前に、妻の頼子の顔があった。
白装束姿の頼子は、いつのまにか手足に巻きついていた縄をほどき、自由になった両手に、短くなったロウソクを持っていた。
首にはまだ縄が絡みついていたが、その一端は天井に結ばれているのではなく、床を引きずっていた。
そして――
頼子は笑いながら泣いていた!
菩薩《ぼさつ》にみえたり般若にみえたりしていた先ほどまでと違って、彼女はいま完全に人間の顔をしていた。
くたびれ、やつれ果てた五十六歳の女の顔だ。それが、世にも情けない笑顔を作って泣いていた。
「頼子」
田崎は、やっとの思いでかすれ声を絞り出した。
「おまえ、いったい……」
それ以上の言葉は出なかった。
試されたのだ。田崎は悟った。
頼子は最初から死ぬつもりはなかった。ギリギリの状況を作って夫がどのような態度に出るのかを、彼女は試したのだ。
定年退職によって会社という生きがいを失った夫が、果たして妻である自分のほうにきちんと向き直ってくれるかどうか。愛のかけらが少しばかりでもいいから夫の心の中に残っているかどうか――それを知ろうと、頼子は田崎の土壇場の選択を見極めようとしたのだ。
しかし、あまりにも冷酷な結果を突きつけられ、頼子は自分の人生が何であったのかわからなくなったに違いない。そしてそのショックで……。
「えへっ、えへへへへ。おおっ、おおおおおおお」
笑顔まじりのすすり泣きが、いつのまにか腹の底からこみあげてくるような、嘔吐《おうと》にも似たうめき声に転じた。
「おおおおおおおおおおお」
こんどこそ演技ではなかった。
「おーおっおっおっ……うおーっ!」
白装束の頼子は、ロウソクを持った両手を高く突き上げ、天井を仰いで号泣しはじめた。
こめかみにも首筋にも、稲妻の形に青い静脈が浮かび上がった。
そしてその血管は、いまにも皮膚を突き破って赤い血をほとばしらせるのではないかとおもえるほど膨れ上がった。
頼子の号泣は、ほとんど獣の咆哮《ほうこう》のようになった。次から次へとあふれ出る涙が、皺《しわ》だらけの彼女の顔をてらてらと光らせた。
田崎は、呆然《ぼうぜん》自失の体《てい》でそれを見つめていた。
11037日目にして、とうとう自分は強引に妻の元に引き戻された――田崎は、その事実を認めざるを得なかった。そして、もはやこの先の自分の人生はなくなったのだ、と……。
本書は、’96年2月に中央公論社より刊行された単行本『家族の肖像』を改題し、文庫化したものです。
角川ホラー文庫『踊る少女』平成11年4月10日初版発行
平成13年11月30日7版発行