[#表紙(表紙.jpg)]
吉村達也
憑依 ― HYOU・I ―
目 次
プロローグ 見える人
一. 未知子
二. ニュース
三. ふたつの霊
四. 峠の地獄
五. 監視する眼
六. 午後の訪問者
七. 夜の煌めきの中で
八. 分析された心理
九. 悪魔のドライブ
エピローグ 新しい未来へ
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[#小見出し]  プロローグ 見える人[#「プロローグ 見える人」はゴシック体]
[#地付き]──四年前
「いいなあ、やっぱりハワイは最高だよ」
頭のてっぺんから海水を滴らせながら岸に上がってきた岡本龍一《おかもとりゆういち》は、ビーチマットも敷いていない砂浜にあおむけに倒れ込み、頭上で輝く太陽のまぶしさに目を閉じた。
「日本が冬だから、よけいに優越感を感じるよな」
と、龍一の隣に並んで寝そべった野口伸吾《のぐちしんご》が言った。
「ハワイでも、この季節はそれなりに寒くなるし、雨もけっこう降るのに、こっちにきてから連日のピーカンだし、気温も高いし」
「二月のハワイというより、七月か八月って感じだな。これでも北のほうへ行けば、それなりに波も高いんだろうけど」
「定番のワイキキビーチは穏やかなもんだ」
「ここならサメもこないし」
「サメがくるところで泳ぐほどうまくないし」
「そうそう」
後頭部で砂をジャリジャリ言わせながら、龍一は、あおむけになった恰好《かつこう》のまま、同意のうなずきを繰り返した。
「ぼくも伸吾も、サーフィンやるほど泳ぎが得意じゃないから、このあたりでチャプチャプやっているのがちょうどいいんだよ」
「でも、どうせならホテルのプールで優雅に時間を過ごすっていうのもやってみたかったよなあ」
「しょうがないだろ。あれだけビーチから離れたホテルで、周りをぜんぶコンドミニアムなんかで囲まれていたら、プールで泳いだって、ハワイにいるんだか東京のど真ん中にいるんだかわかりゃしない。だいたい、ワイキキビーチに寝そべっているのは、ぼくたちみたいに海沿いのホテルをとれなかった連中なんだよ」
「旅行代金、ケチるんじゃなかったかなあ」
伸吾が後悔をにじませてつぶやいた。
「ひとり三万円よぶんに出してりゃ、ビーチに面したホテルにグレードアップできたのに……。それを出し惜しみしたばっかりに、ホテルの窓から見えるのは隣の建物の壁、っていうのは悲しすぎないか」
「いいじゃないか、男どうしの旅行なんだから、ホテル代によぶんな金を使うことないって。日本じゃみんな厚着して震え上がっているときに、こうやって裸で寝転がっていられるだけでしあわせだろ」
「まあ、そうだけど」
「それに、うちのゼミで去年この季節にハワイに行った連中なんて、せっかく常夏の島にきたのに、寒くて海にも入れなかったってぼやいていたから、ぼくたち、相当ついてるんだよ」
「たしかに。卒業祝いの旅行だから、天の神様もごほうびをくれたんだな」
「あはっ」
伸吾の言葉に、龍一は噴き出した。
「おまえ、じいさんみたいな言い方するんだな」
「なにが」
「天の神様ってやつだよ」
「おかしい?」
「ひょっとして、伸吾って迷信深かったのか」
「そういう傾向はあるかもな。おれって、おばあちゃん子で、小さいころからいろいろな迷信を聞かされて育ってきたから」
「たとえば?」
「ウナギと梅干しはいっしょに食べちゃいかんよ、とか」
「それって、注意される以前に、いっしょに食わないだろ、ふつう」
「家の中に出てきた白い蛇は、神様だから殺しちゃいかんとか」
「いまどき、家の中に蛇なんか出ないって」
「それから、絶対に北枕で寝ちゃいけないとか……あーっ!」
砂を跳ね上げながら、野口伸吾は飛び起きた。
「もしかして、いまおれたち北枕で寝てないか? ワイキキビーチって、たしか南向きだよな。で、海のほうに足を向けているってことは……」
「いいから、つまんないこと気にするなよ、二十一世紀の大学生が」
岡本龍一のほうは、砂浜に寝そべった体勢で、まだ目を閉じていた。
「上から太陽、下から地熱で、気持ちよくて、このまま寝ちゃいそうだ」
「いや、おれはもう寝られないね。北枕だとわかった瞬間から」
伸吾はあぐらをかいた恰好で座ると、背中に付いた砂を手で払い落とした。
「だいたい、人は迷信、迷信っていうけど、年寄りが昔からの言い伝えを固く信じてきたのは、それなりの理由があるからなんだ。おれの婆ちゃんは、おれが小学生のころに九十で死んだけど、娘のころから、そりゃあ不思議なことをたくさん見てきたって、いろいろ話をしてくれたもんだよ。中でもキツネ憑《つ》きの話は恐かったなー」
「キツネ憑き?」
「婆ちゃんが少女時代に住んでいたのは秋田の山あいの村だったんだけど、都会からきた近所のお嫁さんが村の風習をバカにしていたら、ある日いきなりキツネに取り憑かれたっていうんだよ。人間の言葉を話せなくなって、二本足で立って歩くこともできなくなり、キツネそのものの恰好で家中を這いずり回っては、コーン、コーンと悲しげに鳴くんだ。そして、台所にあった油をぺろぺろと舐《な》めて……。そして、そのお嫁さんは、とうとう人間に戻れないまま死んでしまった」
「おいおい、伸吾。おまえ、そんな古典的な作り話をいまでも信じてるの? 小学生のころならまだしも、あと少しで大学も卒業して、四月からは社会人だぜ」
そう言いながら、龍一はあおむけのまま目を細く開けて、伸吾の顔を見た。冗談で言っているのか、そうでないのかを確かめるために。
だが、伸吾は龍一に背を向け、膝《ひざ》を抱え込んで海を見つめていたために、その表情は見えない。
「だって、婆ちゃんが実際に見た話だって言うんだ」
伸吾はつぶやいた。
「そのときまだ五歳か六歳だった婆ちゃんは、村の長老からきつく言い渡されたそうだ。古くからの言い伝えを迷信だと笑い飛ばす人間は、このようにひどいタタリに遭うんじゃと。だから決しておまえも、幽霊や呪いを作り事だと侮ってはいかん、と」
語る伸吾の口調そのものが、老人のようになってきた。
「そもそも、あそこの嫁は取り憑いたのがキツネだから、まだマシなほうじゃ。もっと恐ろしいものが取り憑くこともある」
「もっと恐ろしいものって?」
バカバカしいと思いながらも、反射的に龍一はきき返した。
すると伸吾は、背中を向けた恰好から首だけを龍一のほうへひねって言った。
「人の霊」
その瞬間、伸吾の背中一面に鳥肌が立ったのを龍一は見た。
半端な鳥肌ではなかった。粟粒《あわつぶ》ひとつひとつの盛り上がりが南国の太陽を受けて、頂点はまばゆく輝き、その周囲には暗い影を落とし、背中の皮膚全体が一瞬にしておろし金のような鋭い凹凸に覆われた。
「おい……」
片肘《かたひじ》を砂浜について、龍一は半身を起こした。
「おまえ、すごい鳥肌が立ってるぞ」
「わかってる」
「自分で話して、自分で怖がってるのかよ」
「婆ちゃんのことを思い出すと、いつもこうなるんだ」
「なんで」
「龍一みたいな現実主義者には話すだけムダだと思っていたから、いままで言わなかったけど、おれの婆ちゃんは、そういう村の環境で育ったせいか、人に取り憑いたものが見えるようになったらしい。そして、年を取って九十歳で死ぬときまで、その能力は衰えなかった」
「おまえの婆さん、超能力者だったってこと?」
「だね」
伸吾は膝を抱え込んだままうなずいた。その拍子に、前髪から水滴が垂れ落ち、焼けた砂浜にスーッと吸い込まれていった。
「おれが小さいころ、幼稚園の送り迎えはいつも婆ちゃんがやってくれたんだけど、その行き帰りに通行人や近所の住人を指差しては教えてくれたものだった。『伸吾、よーく見てごらん。あの人はね、ご先祖さまが買ってしまった怨《うら》みを、可哀相にそのまま引きずって生きているんだよ。その証拠に、肩のところにお侍さんの霊が乗っているよ』とか、『あそこの家の子は、早死にするかもしれないねえ。なぜって、汚らしいハエが身体中にたかっているもの。ふつうの人には見えない、死人にたかるハエがね』とか」
「伸吾もすげえ情操教育を受けてきたもんだな」
龍一は、あえて積極的に茶化した。そうでないと、自分までが強烈な鳥肌で全身を覆われそうだった。
「で、まさか婆さんに洗脳されて、おまえまで不思議なものが見えるようになったんだ、なんて言わないだろうな」
「超能力っていうのはさ」
徐々に龍一のほうに身体の向きを変えながら、伸吾は言った。
「隔世遺伝するらしいんだよ」
「おい……」
龍一は引きつった笑いを浮かべた。
「ってことは、おまえにもその能力が受け継がれているのか」
「らしいね」
「ウソだろ」
「いや、龍一にも隠してきたけど……見えるんだよね、おれには」
「なに……が」
「その人間に取り憑いたものが、見えるんだ」
「たのむよ、伸吾。そんなバカな話、マジな顔して言うなって。せっかくアロハ〜な気分で盛り上がっているのに、なんだか急に寒くなってきたじゃないか」
完全に起きあがった龍一は、両手を胸の前で交差させて、左右の二の腕をさすった。
あいかわらず頭上には常夏の島の太陽がギラギラと輝き、ビーチに集う海水浴客の歓声は絶えることがなかった。だが、間違いなく岡本龍一は、得体の知れない寒気に襲われていた。
「まさか、『龍一に取り憑いているものも見える』なんて言わないだろうな」
「それはないけど……。ところで、里奈《りな》とはどうなったんだ」
「なんだよ、急に」
相手が突然話題を変えたので、龍一はいぶかしげに眉《まゆ》をひそめた。
伸吾が名前を出した里奈とは、一年半前、大学三年の夏に六本木のクラブで知り合った女だった。それまで高校時代も大学時代も、つきあってきた子はすべて同じ立場の高校生であり、大学生だった。だが、里奈は龍一より四つも年上で、すでに都内の外資系企業で働いているビジネスウーマンだった。働く年上の女性の姿が学生の龍一には新鮮に感じられ、彼女との恋に夢中になった。
三年生の終わりに就職が内定したときには、龍一は里奈との結婚プランを真剣に考えるまでになっていた。自分が大学を卒業し、会社に入った段階で親にも紹介し、相手の親にも挨拶《あいさつ》に行って、できるだけ早い時期に結婚しようと、そこまで気持ちは盛り上がっていた。こちらも収入の道を確保した立場になれば、四つ年下であっても相手から不安には思われまい、と。
昔から龍一は結婚願望が強く、二十代のうちは遊びまくろうと考える仲間が多い中で、いい人にめぐりあったら、できるだけ早く結婚して家庭を持とうという思想の持ち主だった。高校時代に同級生の子に恋をしたときでさえ、将来の結婚を前提に考えていたほどである。
そんな龍一にとって、四歳年上の女性に恋をしたということは、即座に結婚を意味するものでもあったのだ。しかし、彼の真剣な思いも、いまから三カ月ほど前──昨年の十二月はじめに突然破れることになった。別れは、もちろん龍一から言い出したものではなく、里奈のほうから唐突に切り出されたものだった。
「私、ことしのクリスマスは、龍一といっしょに過ごせないと思う。だから、もし私のために何か予定を立てているんだったら、キャンセルして」
あまりにも冷たい別れの通告だった。
驚いて理由を問い質《ただ》す龍一に対して、里奈は少し怒ったような口調でこう答えた。
「やっぱり私には、年下は無理みたい」
ショックだった。まるで自分の幼稚さを指摘されたようで情けなかった。
(たぶん里奈は年上の男に言い寄られて、比較していくうちに、学生のぼくが頼りなくみえたんだろうな)
そう推測せざるをえなかった。だから龍一は、別れたいという里奈に対して、しつこく食い下がったり、あとを追い回すようなことはしなかった。龍一にもプライドというものがあった。里奈の別れ際の言葉に込められた軽蔑《けいべつ》まじりの怒りを感じ、侮辱されたと思った龍一は、意地でも未練たらしい態度はとるまいと決めた。
それから三カ月、龍一にはまだ新しい恋人はできていない。どちらにしても、つぎの恋は社会人になってからだと考えていた。そして彼は、里奈とのハネムーンで訪れるつもりだったハワイを、同級生の野口伸吾と男ふたりで訪れる卒業記念旅行の行き先として切り替えたのだ。
ビーチ沿いに建つゴージャスなホテルのスイートルームから、里奈とふたりで水平線に沈む夕陽を眺めながら未来|永劫《えいごう》の愛を語りあうはずが、海は見えず、反対側の山さえも見えず、隣接する建物の壁が目の前に迫っているような格安ホテルの格安ツインに男ふたりで泊まり、ショートパンツの下に水着を着込んでワイキキビーチまで『遠征』に出かけるエコノミーな旅になってしまった。
夢があったぶん、現実の状況が情けなかった。だが、伸吾が三万円をよぶんに払ってでも海沿いのホテルに変わればよかったと言い出したとき、龍一は意地でも反発したくなった。本来なら、男どうしでくる場所ではなかったのだから。
それにしても、そんな里奈のことを、伸吾が急に持ち出してきたのが意外だった。そもそも伸吾と里奈は、一度しか会っていない。里奈と交際をはじめてまもなく、彼に引き合わせたのだが、四つ年上の彼女と伸吾との間に盛り上がるような会話も生まれず、気まずい沈黙がつづいたために、それ以後、龍一が伸吾の前に里奈を連れてくることはなかった。だから、彼が里奈のことを、よりによってハワイという旅先で急に思い出すはずがないのだ。
「どうしてだよ」
龍一は重ねて追及した。
「どうしておまえが里奈のことを気にするんだ」
「いや、彼女が気になるんじゃなくて、結婚願望の強い龍一の行く末が気になっていた」
「ぼくの将来が?」
「ここまで話したんだからハッキリ言うけど、もし本気で結婚を考える女ができたなら、必ずおれに会わせろ。ちゃんと見てやるから」
「何を」
「龍一の未来の奥さんになる女が、妙なものに取り憑《つ》かれていないかどうかを」
「わかった。もういいよ、伸吾」
龍一は勢いよく立ち上がり、太ももに付いた砂を両手で払った。
「どういうきっかけでこんな話題になったのか忘れたけど、ハワイまできて、なんでキツネ憑きだ、死人の霊だって暗い話をしなきゃならないんだ。もう行くぞ」
「行くぞって、どこに?」
「ホテルに戻って着替えて、アラモアナ・センターに行って買い物だ」
「彼女のためにか」
「もうよせって、里奈の話は」
龍一は本気で怒っていた。
「彼女にはフラれたんだよ、去年の暮れに。それに、ここしばらく女とつきあう気もない。買い物は自分のために行くんだ。これだけ聞けば満足か」
「まあ、そう怒るなって」
野口伸吾も、遅れて砂浜から立ち上がった。
そして周囲の海水浴客を眺め回しながら、独り言のようにつぶやいた。
「それにしても、外国人の憑き物を見るのはしんどいな。連中は宗教観が違うから、取り憑くものも日本人とはぜんぜん違う」
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[#小見出し]  一. 未知子[#「一. 未知子」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
社会人になってから丸四年が過ぎ、五年目に入った四月のある夜、岡本龍一は残業をいっしょに終えた同僚の坂井省介《さかいしようすけ》と、六本木《ろつぽんぎ》にある洋風居酒屋で飲みながら、遅めの夕食をとっていた。
龍一と同期入社の省介は、社内でも有名な遊び人で、ビジネススーツを着ていても、ホストクラブの売れっ子と間違えられるような風貌《ふうぼう》をしていた。当然、女の子たちにはよくもてて、かなりの人数の女性と同時交際していることを公言して憚《はばか》らないような男だった。女性に関しては応用が利かないほどきまじめな龍一とは対照的なキャラクターだが、なぜかふたりは気が合った。
そして、いつものように飲みながら雑談をしているうちに、いつのまにか結婚談義になってきた。
「しかしさ、男も女も二十代のうちから結婚したがるやつの気が知れないよな」
グラスを目の高さに持ち上げ、キザっぽく片目をつぶって、赤ワイン色のフィルター越しに店内を眺めながら、省介が言った。
「おまえらバカじゃん、とか思うぜ」
「それって、目の前にいるぼくのこと?」
学生時代から結婚への憧《あこが》れを強く持っている龍一が、笑いながらきいた。
「龍一も含めて、みんなってことだよ。だってさ、よく考えてみ、おれたちいま二十六歳だけど、社会に出て、たかだか四年だろ。三十になった時点でも七、八年だよ。そんな段階で、よくもまあ残りの人生を固定できるもんだな」
「つまり、もっといい女が現れるかもしれないのに、ひとりに決めるのは早すぎると言いたいのか」
「ちがう、ちがう」
顔の前にかざしていたワイングラスをテーブルに戻すと、省介はおおげさに首を振った。
「女の選り好み以前に、自分自身の問題だよ。男にしても女にしても、二十代っていうのは、まだ人生がどっちの方角に向かうのかわからないじゃないか。必ずしもいいことばかりが未来にあるわけじゃないけど、何も結婚によって若いうちから人生の間口をせばめることはないんだ。男にしても、女にしても」
「結婚が、人生の間口をせばめる?」
「そう。わからないか?」
「わからん」
「単純な理屈だよ。一人より二人、二人より三人、三人より四人と、人生を共有するメンバーが増えれば増えるほど、生き方に小回りが利かなくなるだろ。親と同居していた高校時代あたりを思い返してみろよ。何から何まで親の都合に合わせなきゃならなくて、窮屈そのものだったろ。大学に入って何がよかったって、親から離れて暮らせる解放感だよ。これこそがひとり暮らしの最大のメリットじゃないか。それを結婚という形で、また元の共同生活に戻るなんて、おれはゴメンだな」
「省介って……」
龍一が遠慮がちに言った。
「地方出身だろ」
「おー、すげえな、その差別的発言は」
省介は肩を揺すった。
「東京生まれで東京育ちのお坊ちゃまが、名古屋という大都市でさえも地方とおっしゃるなら、私も逆らいませんけどね」
「そういう意味じゃなくて、大学のころ、地方から出てきた連中をずっとうらやましく思っていた、と言いたいんだ。実家から大学に通っていた自分と較べたら、すごく伸び伸びとして、しかもたくましさも感じられて、親元から離れた自由の素晴らしさを満喫しているように思えた。正直、親元から離れずにいるぼくは、劣等感を抱いていた」
「だけどいまはおまえも、賃貸マンションでひとり暮らししてるじゃないか」
「実家とスープの冷めない距離でね」
「はあ?」
省介が眉《まゆ》をひそめた。
「そんなに近かったのか」
「たとえ都内であっても、実家から遠く離れることを、オフクロが許さないんだよ。なんせひとり息子だから」
「ひょっとして、いまだにオフクロさんが料理や掃除にきてくれていたりして」
「まあね」
「すげーな。女には聞かせられないぞ、そういう話は。おれがおまえのカノジョだったら、一発で引くな」
「だからぼくにしてみれば、結婚こそが親離れする最高のチャンスなんだよ。ヨメさんがいれば、たとえ住まいは近くても、母親もいまみたいに介入してこないだろうし……。それにぼくは、ほんとうの意味で自分のための家庭を早く持ちたいんだ」
「なんだか悲しい早婚願望だなあ」
「省介だから言うけど、人事に転勤の希望を出しているんだ」
「転勤?」
「ああ、とにかくどんな場所でもいいから地方の営業所に行かせてほしいって」
「親と離れたいからか」
「それ以外に理由はないよ」
沈んだ調子で答える龍一を、省介はしばらくじっと見つめていた。が、やがて前のめりになって顔を近づけると言った。
「なあ、龍一。おまえ、もうちょっと女と気楽に遊んでみ」
「気楽に遊ぶ?」
「そうだよ。龍一には龍一なりの事情があるにしても、ちょっと気に入った女と出会ったら、すぐに結婚を考える思考回路は不健全だ」
「ぼくの考えが不健全だって?」
「とりあえず女はエッチや遊びの対象だ、と考えるおれよりも、はるかに不健全だと言いきれるね」
「なぜ」
「その前に、参考までにききたいんだけど、龍一がこれまでつきあってきた女の数は? もちろん、いっしょに寝た人数という意味だけど」
「そういう質問には答えたくないね」
「あまりにも少なすぎて、恥ずかしくて言えないわけだ」
「勝手にそう解釈してりゃいいじゃん」
「なるほどなあ」
省介は、納得したという表情で、椅子の背にふんぞり返った。
「やっぱり経験不足からくる甘さだな」
「なんだよ、えらそうに」
「いいか、龍一。ちょっと説教させてもらうけど、女とつきあうときに、その子が結婚相手にふさわしいかどうかだけで相手の価値を判断するのは、女にとっても失礼な話だぜ。女は男の結婚相手になるためだけに存在しているわけじゃないんだ」
「わかってるよ、省介の言いたいことは。飲み友だちもあれば、セックスフレンドもある、っていうんだろ」
「もちろんそうだけど、そんな思想がカタブツのおまえに通用しないことぐらいわかってる。だから岡本龍一にも通じる論法でいえば、だ、結婚を前提にして女を見たら、その女のほんとうにいいところの半分も見えないだろう、ってことだよ。そもそも結婚相手として女を評価するときの、おまえの物差しには、いったいどの程度の信頼度があるんだ。おまえの結婚観は、いったいどの程度の人生経験から出てるのよ。え?」
省介は、じっと龍一を見つめた。
「たとえば最初の結婚に失敗して、これから再婚しようという人間には、しっかりとした結婚への価値観が形づくられているだろう。奇跡的に二十年、三十年とうまくいっている夫婦にもそれがある。その反対に、不幸な結婚をガマンしてつづけている夫婦にも、逆説的な意味での確固たる結婚観が生まれているに違いない。しかし、おまえはどうだ?」
ん? という表情で、省介は龍一を見た。
「親離れを早くしたいがために結婚を急ぐ。その程度のものなんだろ? たしか大学時代に、年上のキャリアウーマンとつきあって、卒業したらすぐに結婚するつもりが、あっさり相手からフラれてしまった経験があったんだっけな。その彼女も、きっとおまえのそういう幼稚さを見抜いたから離れていったんじゃないのか」
「一方的に決めつけるなよ」
龍一は言い返した。
「省介には省介の人生観があるだろう。それは尊重する。だからぼくの生き方も尊重してほしい。たんに親離れしたいからだけじゃなくて、おまえとはぜんぜん違う女性観があるんだ」
「へーえ。いったいどんな女性観だ」
「もうこの年になったら、この人と一生ともに歩いていけるという確かな信頼感を持てる女だけとしか、つきあう意味はないんだ。中途半端な火遊びは人生の浪費だし、それこそ相手の女にも失礼だ」
「うは!」
龍一の言葉に、省介は大げさにのけぞった。
「いまどき、女でもそんな純情な考え方はしないぜ。おまえ、何十年前の世界からタイムスリップしてきたんだ? 天然記念物として、動物園にでも保護してもらったらどうだ」
「好きなように言ってくれ」
「そうか、わかった」
省介はパンと手を叩《たた》いた。
「何がわかったんだ」
「岡本龍一という男は、自分から一方的に女に一目|惚《ぼ》れするばかりで、女から好きになられた経験がないんだ。だから、ひとりよがりの理想論だけに溺《おぼ》れているんだよな。どう? ズバリだったりして」
「………」
龍一は、だいぶ飲んでいたワインのせいではなく、顔を赤く染めて黙りこくった。
たしかに省介の指摘は当たっていた。自分から女を好きになることはあっても、女のほうから言い寄られたことは、思春期を迎えて以来、一度もない。もてないタイプだとは思いたくなかったが、あまりにもきまじめな人畜無害ぶりが、男として物足りない印象を女に与えているかもしれないという気は、自分でもしていた。
「さっきから聞いていると、龍一って、『いい子ちゃん』でいることで親に安心感をもたらすのが子供の義務だ、って信じて育ってきた気がする。その義務感に、ずっと縛られて生きていないか」
「え?」
「うちはオヤジは死んじゃったけど、名古屋に残っているおれのオフクロなんか、省介は遊び人だから安心だって言ってくれてるんだ。生みの母が、そう言うんだぞ」
「どうして」
「中途半端な結婚をして、相手の女の人も省介も、おたがいに不幸になるよりも、遊びだと割り切ってつきあってくれていたほうが、よっぽど安心だ、ってね。できたオフクロだろ? ヘタな結婚するより、息子は遊び人でいてくれたほうが、相手の娘さんにとってもいいことなんだ、ってさ」
「………」
自分の母親とは大違いだ、と龍一は唇を噛《か》んだ。そこへ省介がたたみ込んだ。
「実際、おまえみたいに相手の都合も考えないで、なんでもかんでも結婚だ、結婚だ、って迫るのは、女にとって迷惑以外の何物でもないんじゃないかな」
「結婚を前提に真剣な交際を望むのが、女にとって迷惑だって?」
冗談じゃない、という顔で、龍一は口をとがらせた。
「納得できないな。まじめな交際を望んで何が悪いんだ」
「ま、いいよ。もういい。おまえとこの問題で論じ合ってもキリがないから、別の話題に行こうぜ」
省介は龍一の頑《かたく》なさに首を振ってから、タバコを一本くわえ、ライターを擦った。
だが、炎を灯《とも》したまま、彼は動きを途中で止めた。その視線は、右手のカウンターのほうへ向けられている。
「おい、龍一」
まだ火をつけていないタバコの先端を上下に動かしながら、省介は言った。
「せっかくのチャンスだから、おれの超絶テクニックを見せてやろう。少しは今後の参考にしてくれ」
「超絶テクニックって?」
「さっきから気になっていたんだけど、あそこのカウンターに座っている女が、おれのほうをチラチラ見ているんだ」
龍一は、省介が微《かす》かな瞳《ひとみ》の動きで示した方向へ、自分も目をやった。
右手横のほう、距離にして五メートルほど先のカウンター席に、女がひとりで座っていた。L字型に曲がった角にいるので、彼らのテーブルへ視線を投げかけやすい位置になる。ただし、いまの彼女はウィスキーの水割りを傍らに置き、指先にはさんだタバコの煙の昇ってゆく先をぼんやり見つめていた。
ショートヘアの髪型にほとんどメイクはしておらず、ボーイッシュな印象の彼女は、龍一たちよりも若く、二十代の前半と思われた。照明の影響で女の顔は淡いオレンジに染まっていたが、自然な明かりのもとで見たら、おそらく青白いまでに透き通った肌をしているものと想像された。
アンニュイな雰囲気を漂わせながらタバコをくゆらしていたが、頬を凹《へこ》ませて煙を吸い込むとき、左右の頬にえくぼが深く刻まれているのを見ると、笑顔になればそれなりに愛嬌《あいきよう》がありそうだった。
「あのけだるい感じの女か?」
龍一は、女の第一印象をそのように口に出した。
「けだるい?」
省介が龍一の感想を笑った。
「そうじゃなくて、遊べる男を探している目つきだって見抜かなきゃ。……っていうか、もう獲物を見つけたって顔だよな」
「まさか、自分のことだって言いたいんじゃないだろうな」
「そうに決まってるだろ」
「自信過剰もいいかげんにしろよ」
「そうかねえ。ほら、見ろ」
突然、女が龍一たちのほうに顔を向けた。
龍一は、省介ではなく自分と目が合った、と感じた。その直後、女はスッと目をそらし、顔の向きも変えた。
「な?」
省介が得意げに眉毛《まゆげ》を吊《つ》り上げた。
「おれの言ったとおりだろ」
「……かもしれない」
「かもしれない、じゃなくて、確実におれに気があるんだよ。向こうも遊びのために男を漁《あさ》りにきていたから、連れがいないんだ。そして、おれが放っている男のフェロモンを敏感に嗅《か》ぎ取った。同類の匂いを感じたんだよ。で、さっきからわざとおれの目につくように視線を飛ばしてきている」
省介は自信たっぷりにつづけた。
「いまは、おれたちが揃って見ていたのに驚いて、反射的に目をそらしたけど、また必ずおれのほうに顔を向けるから。そして、そのときが出会いのタイミングってやつだ。まあ、黙って見ていろ。おれの言うとおりになるから」
「省介、ひとつ言っていいかな」
「なんだよ」
「彼女、おまえじゃなくて、ぼくを見ていた気がする」
「はあ?」
省介は小馬鹿にした表情で、龍一を見やった。
「龍一のことを?」
「うん」
「いくらおまえの経験不足をおちょくったからといって、急に無理をしなくてもいいんだぞ」
「いや、たしかに彼女は、省介じゃなくて、ぼくを見ていた。彼女が関心を抱いているのは、坂井省介じゃない。ぼくだ」
「まさか」
と、省介が鼻で笑ったとき、カウンターの女がタバコを灰皿でもみ消し、スッと立ち上がった。龍一と省介は、反射的にその行動を追った。
スツールから滑り降りた女は、自分を見つめている男たちのほうへまっすぐ歩いてきた。こんどはまったく目をそらさずに。
「ほーら、見ろ」
省介が得意げにアゴをしゃくった。
「おれの言ったとおりだろ」
だが、省介の予言が当たったのはそこまでだった。
女は龍一たちのテーブルのところまでくると、立ったまま龍一に話しかけてきた。
「お名前、聞かせていただけませんか」
「え……名前?」
龍一は、意外な成りゆきに戸惑ってすぐに返事ができなかった。そして省介に、どうすればいいんだ、というふうに目で助け船を求めた。
自分に声をかけてくるものと確信していた省介は、まさかの展開にすっかりプライドを傷つけられ、ぶっきらぼうに言い放った。
「こいつはね、龍一っていうの」
「苗字《みようじ》は?」
女は、返事をした省介のほうは見向きもせずに、龍一に顔を向けたまま質問を重ねた。
「岡本だよ。岡本龍一」
またしても省介が、龍一に代わって答えた。が、それでもなお女は省介を無視し、龍一だけに話しかけた。
「岡本、龍一、さん、ですね」
「そうだけど」
龍一は女を見上げながら、おどおどした態度で問い返した。
「なにか用?」
「もしよかったら、あなたとふたりで飲みたいんですけど」
「あの、おれは?」
と、省介が、必死の作り笑いを浮かべて会話に割り込もうとした。が、女は、やはり省介のほうを見もせずに答えた。
「私は、龍一さんと飲みたいんです」
龍一は、うれしいよりも呆然《ぼうぜん》としていた。現実とは思えない展開だった。省介にとっても、別の意味で現実とは思えない展開だった。
「あのさあ、きみ」
省介は、なんとか女を自分のほうにも向かせようとした。
「おれは坂井省介っていうんだけど、きみの名前も聞かせてくれない?」
「あとで龍一さんだけに教えます」
そう答えるときも、女は龍一しか見ていなかった。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
一分後、憤然として席を立った坂井省介をレジのところまで追いかけた龍一は、必死に彼をなだめにかかっていた。
「怒るなよ、省介。なにも帰ることはないだろ」
「あそこまで邪魔者扱いされて、馬鹿づらこいて座っていられるかよ」
「じゃ、ぼくも帰るから」
「なに言ってんだ。龍一にとっては生まれて初めての、夢のような展開なんだから、ムダにすることはないだろ。おしあわせにな」
「何が『おしあわせに』だ。きっと、これには罠《わな》があるんだよ」
龍一は、テーブル席に残した女のほうへチラッと目をやった。
まだ名前も名乗っていない女は、省介が座っていた椅子に腰掛け、新しいタバコに火をつけて、知らん顔で煙をくゆらしていた。
「ああいう女の裏には、コワイお兄さんがいるのは世間の常識だろ」
「あのな、龍一」
レジ前で立ち止まった省介は、怒りをまじえた目で龍一を睨《にら》みつけた。
「ほんとうにその気がないんだったら、おれを引き留めるんじゃなくて、ここであっさり金を払っていっしょに出るはずだろう。心の中じゃ、けっこううれしがっているのに、怯《おび》えたフリすんじゃねえよ」
「………」
「それじゃな、がんばってくれや。お祝いに、少し多めに置いていってやる」
省介は札入れから五千円札と数枚の千円札を取り出し、龍一の胸元に押しつけた。
「いちおう、その金の中には、今夜どうなったかのレポート代も含まれているから、明日にでもゆっくり話を聞かせてくれ。……まったく、こんなことになるなんて、春の椿事《ちんじ》ってやつだよな」
そう吐き捨てると、省介は足早に店を出ていってしまった。
残された龍一は、省介に自分の本音を言い当てられてしまったことを認めざるをえなかった。警戒心がゼロというわけではなかったが、突然降ってきた夢のような「逆ナンパ」状態に、恐いよりも、興奮で胸がときめいている。ただ、そういう経験をしたことがなかっただけに、こういう場合の身の処し方がまるでわからなかった。だから遊び人の省介に、そばについていてほしかったのも事実だった。
「あの……」
女が待つテーブルに戻った龍一は、向かい合わせに腰を下ろすと、硬い表情でたずねた。
「ぼくの名前は教えたから、こんどはきみの名前もきいていいかな」
「未知子《みちこ》」
女は、鼻からタバコの煙を吐き出しながら答えた。
素っ気ないようでいて、淋《さび》しげでもあった。
「ミチコ? どういう字を書くの」
「『未知との遭遇』の未知」
「はあ……」
面白いたとえをする子だな、と思いながらも、『未知子』という字面を思い浮かべて、彼女のちょっとミステリアスな印象にぴったりだなと感じた。だが、それが本名だという確証はない。
「じゃ、苗字は?」
「月舘《つきだて》。お月様の『月』に、ダテはね……ちょっと手を出して」
未知子は手相を観るような形で龍一の右手を取ると、その手のひらに『舘』という漢字を書いた。くすぐったいというよりも、性的な刺激を龍一は覚えた。
「ぼくはサラリーマンだけど、きみは?」
未知子に預けていた手をゆっくり引っ込めながら、龍一はきいた。
「私も勤めてる」
「どこの会社?」
「あなたから先に言って」
龍一が勤務先の実名を言うと、彼女は、すかさず有名な広告代理店の名前を口にした。しかし、それも事実かどうかはわからない。
「ぼくは二十六歳。きみは?」
きいておきながら、刑事の職務質問みたいな話の運びに、龍一は我ながら無器用な男だと心の中でうんざりしていた。これが省介だったら、もっとスマートにやるところだろう。だが、未知子は省介には興味のかけらも示さなかったのだ。
「私は二十三歳」
「やっぱりそうか」
「やっぱり、って?」
「なんとなく三つ下ぐらいかなと思っていたから」
「ふうん」
つまらなそうな返事に、龍一は、せっかくのチャンスを逃しそうで焦った。
「で、きょうはひとりでここにきたの?」
「そうよ」
「いつも、ひとりでくるわけ?」
なんという退屈な会話の流れだ、と、龍一はまた心の中で自分を叱った。
と、そんな雰囲気を相手も感じたのか、月舘未知子は急に席を立った。怒ったのか、と龍一はあわてたが、そうではなかった。
未知子は、会社員の男女十人で盛り上がっているグループ席に近づくと、テーブルの上に置いてあったウィスキーのボトルを、断りもなしにいきなり取り上げた。
笑い興じていた一同が、急に静まり返った。彼らは何が起きたのか理解できず、突然登場した女をポカンとした顔で眺めていた。おもわず腰を浮かせて成りゆきを見守る龍一にしても、未知子がこれから何をするのか見当もつかなかった。
すると、ボトルにまだ半分以上ウィスキーが残っているのを確認してから、未知子は自分に注目する連中に向かって言った。
「新しいボトルは、あそこにいる人が入れてくれますから」
未知子は、龍一を指さした。彼らの視線が一斉に龍一に向けられる。その隙に、未知子はボトルのキャップをひねって開け、口に当ててラッパ飲みをはじめた。
「あーっ、無茶をするな!」
龍一は叫んだ。その声で会社員たちも未知子をふり返った。だが、あまりに突拍子もない行動だったので、誰もがあっけにとられた顔で、彼女のすることを見ているよりなかった。
けっきょく未知子の手からボトルを奪い取ったのは、あわてて駆け寄った龍一だった。だが、すでに時遅く、彼女は相当量のウィスキーをストレートで胃に流し込んでしまっていた。
「酔っぱらっちゃった」
未知子はショートヘアを片手でちょっと掻《か》いてから、龍一にしなだれかかって笑った。
「……っていうか、いまから一分以内に完全に酔いつぶれる予定。だからよろしくね」
それだけ言うと、未知子は龍一の腕に全体重を預け、目を閉じてしまった。
十人の男女の咎《とが》めるような視線を浴び、龍一は未知子を抱きかかえながら、呆然《ぼうぜん》となっていた。
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無線タクシーを携帯で呼んで、店の前に着けさせたときには、もう午前零時を回っていた。
その時刻になるまで、龍一は未知子の酔いが醒《さ》めるのを待っていたのだ。しかし、無駄だった。途中で彼女はトイレで二度も吐いた。ちなみに、龍一が抱えて連れていったので、男性用トイレのほうだった。店のみんなが注目していた。
そのあと未知子を席に連れ戻すと、龍一は彼女に水をたっぷりと飲ませた。だが、すぐにまた龍一の胸に倒れかかるような状態だった。
店の人間も例のグループも、龍一が未知子の連れだと思い込んでいるので、彼女を介抱する全責任はおまえにあるという目で見ていた。また、未知子が勝手に飲み干してしまったウィスキーのボトル代も龍一が弁償すべきだと考えており、そうせざるを得なかった。
夢のような逆ナンパのはずが、さんざんな展開だった。
やっとのことでタクシーの後部座席に未知子を担ぎ込み、何度も頬を軽く叩《たた》きながら、目を覚まさせて行き先を告げさせようとしたが、完全に眠りこけて反応がない。その様子を見た運転手が、龍一にエスコートの責任があるという口調で言った。
「お客さん、この女の人をひとりにしないでくださいよ」
仕方なく、龍一もいっしょに乗り込んだ。だが、未知子から得ている個人情報は、名前と年齢と勤め先だけだ。仕方なく、「開けるぞ」と形式的に断ってから、未知子が持っていたブランドもののバッグの中身を改めた。
揃いのデザインの、細長い財布があった。あとでお金がなくなったなどという言いがかりをつけられないよう、できれば財布には触れたくなかったが、自宅の住所を記した運転免許証などが入っていそうだったので、開けてみることにした。
予想したとおり、何枚かのクレジットカードとともに、運転免許証が差してあった。間違いなく本人の写真が貼られた免許証には、月舘未知子という名前が印字されてあった。やはりそれは本名だったのだ。記載された生年月日から、年齢もたしかに二十三歳であることが確認できた。免許証の住所は、タクシーならワンメーターの距離にある超高層マンションになっていた。金持ちだけが入居できるというイメージで世間に知られたマンションだった。部屋番号は3107。三十一階ということらしい。
(もしかして、資産家のお嬢さまか?)
意外だった。そして、おそらく家族と同居しているのだろうと推測した。
深夜でも燦然《さんぜん》と輝くそのマンションの威容は、乗り込んだときからタクシーのフロントガラス越しに見えていた。
運転手にその場所を告げてから、龍一は膝枕《ひざまくら》の状態で眠っている未知子をまじまじと見下ろした。いったいどういう家庭の娘なのだろうか、と。
あんな無茶飲みをしたのだから、泥酔は決して演技ではないだろうが、明らかにあの行動は、龍一を自宅まで送り届けさせるための捨て鉢な作戦だった。そうまでしてこの子は、龍一を誘惑したいのだろうか。しかし、家族と同居しているなら、そんな真似はできないはずだ。それとも超豪華マンションにひとり住まいなのか。
寝顔になってみると、アンニュイなムードも消え、月舘未知子は愛らしい表情になっていた。可愛い、と、率直にそう思った。これだけチャーミングな子なら、なにも飲食店でナンパのような真似をしなくても、男友だちには不自由していそうになかった。
そう考えていくと、龍一は、唐突に自分が誘惑された理由がますますわからなくなってきた。
十分後──
真夜中なのに渋滞を引き起こしている六本木の交差点を抜け、一流ホテルと遜色のないマンションのエントランスにタクシーが着いても、未知子はまったく起きようとしなかった。仕方なく龍一は、料金を払ってから彼女の身体を抱えて車外に連れ出した。
当然のようにオートロック形式だから、建物の中にはすぐ入れない。家族がいるならインタホンに出るだろうと思って、龍一は3107とボタンを押してみた。その時点で、もはや彼は、未知子の誘惑にのるという状況はありえないものと考えていた。
だが、何度押してもインタホンに応答はない。そうなると、未知子をなんとか起こすよりなかった。
「おい、着いたぞ。……おい」
何度か揺すっているうちに、糸の切れた操り人形状態だった未知子が、ようやく意識を取り戻して目を開けた。だが、まだ自分ひとりでは立てない状態である。
「どこ?」
「どこ、って、自分の家だよ。このマンションの三十一階なんだろ」
「ああ……うん……え? なんであなたが知ってるの」
「財布の中の免許証を見させてもらった」
「ドロボー」
「なに言ってるんだよ。そうしなきゃ、ここに送り届けられなかったんだから。いまこの場で、ちゃんと財布の中身を確かめてくれよ。泥棒扱いされるのはゴメンだから」
「ま、いいわ。信じるから」
「オートロックはどうやって開けるんだ。暗証番号は」
「お・し・え・な・い」
「だったら、自分で早く押せよ」
「ムリ」
「じゃ、どうするんだ」
「バッグの中……キーホルダーあるから、その鍵《かぎ》でも開くの」
言われるままに鍵を取り出し、龍一は、それをインタホンの下にある鍵穴に差し込んでねじった。大きなガラス戸が左右に開いた。
「じゃ、ここまで送り届けたからいいな」
省介にやっかみ半分であおられたにもかかわらず、龍一はすっかりその気をなくしていた。店でいきなり他人のボトルをラッパ飲みするような女は、たとえ資産家の令嬢であっても、お断りだった。なぜなら、結婚相手としてふさわしくないからだ。
いかに省介から遊びの心得を説かれても、そして夢のようなチャンスに恵まれても、頭に染み込んだ理想の女性像は変えることができなかった。龍一にとって愛すべき女性は、ひと晩の遊び相手であってはならなかった。あくまで結婚相手としてふさわしい女性かどうかが基準になる。そして妻になる女性は、月舘未知子のような無謀な行動に出る人物であってはならないのだ。もう一点つけ加えるならば、泥酔する前の彼女には、まだミステリアスな魅力を感じたが、酔っぱらったあとは最悪だと思った。まして、嘔吐《おうと》の後始末をさんざんさせられたあとでは。
ついでにいえば、龍一はタバコを吸う女もダメだった。彼が一方的に作り上げた理想の女性像は、酒もタバコもやらず、そしてハデな遊びは一切やらない。それが理想の女性像であり、すなわち理想の妻の姿であり、その点からいけば、月舘未知子は最初から失格だったのだ。
たまたま坂井省介という遊び人がそばにいたから、そして女のほうから声をかけられるという初めての体験をしたから胸がときめいたし、このマンションへ連れてくるタクシーの車内でも、すっかり寝入った未知子のあどけない顔を見て、可愛いと思った。それは事実だった。
だが、ふたたび彼女が起きてしゃべり出すと、やっぱりダメだった。
そんな龍一の内心の揺れを知ってか知らずか、月舘未知子は、タバコとウィスキーの強烈な匂いが混じった息を龍一の鼻先に吹きかけながら、甘ったれた声で言った。
「だ〜め、ちゃんと部屋まで連れてってくれなくちゃ」
あやうく彼女の唇が自分の唇に触れそうになったので、龍一は反射的にそれを避けた。ニコチンとタールの味がするキスは、本能が拒絶した。
「きみはここに親と住んでいるんだろ。だったら玄関まできてもらえばいいじゃないか」
「親? 親なんていないよお〜」
ロレツの回らない口調で、未知子は言った。
「だって、とっくに死んじゃったんだもん。パパもママも」
「じゃ、誰とここに住んでいるんだ。まさか、もう結婚してダンナがいるなんて言わないだろうな」
「わたし、ひ・と・り」
「きみひとりで、こんな豪華なマンションに住めるのか」
「住んじゃ悪い?」
「いいとか悪いとかの問題じゃなくて、可能か不可能かってことだよ」
「可能〜」
龍一に支えられた身体をくねらせながら、未知子は言った。
「パパがたっぷり財産を遺《のこ》してくれたから。このマンションの部屋もそうだし」
「………」
「だから早く部屋に連れていってよ〜」
「じゃ、ほんとに部屋までだぞ」
龍一は、前方に見えるエレベーターのほうへと未知子を抱きかかえていった。
エレベーターのドアは、それじたいが芸術作品のような存在感があった。そして低層階用と高層階用に分かれている。最上階三十一階は、もちろん高層階用を使うことになる。
そのケージはすでに一階でスタンバイしており、ボタンを押すとすぐに開いた。まず先に未知子を入れ、壁に寄りかからせてから龍一も入って「31」のボタンを押した。
ドアが閉じられ、ケージがゆっくりと昇りはじめたとき、突然、すすり泣きの声が洩《も》れた。龍一がびっくりして見ると、壁に寄りかかったまま、未知子が涙を流して泣きはじめていた。
「なんだよ。きみは泣き上戸なのか」
「ちがう……の」
後頭部を壁面にこすりつけるようにして、未知子は首を激しく振った。
「悲しいから泣いているの」
「だから、それを泣き上戸っていうんじゃないのか。飲むとやたらと涙もろくなるのを」
「ちがうってば。ちゃんと意味がある悲しさで泣いているの」
「あ、そう。とにかくね、ぼくは……いや、なんでもないけど」
龍一は、もう少しで本音を洩らしそうになった。酒を飲んで、やたら泣き出す女はきらいなんだよね、という本音を。
それをこらえて、エレベーターが目的の最上階に着くのを待った。
ほどなくしてドアが開き、淡い照明のもと、静まり返った深夜のフロアが龍一の目に入った。彼が住んでいる庶民的なマンションとは、その静けさからして質が違うと思った。そして、外が見えなくても、三十一階という高さにいるという、なんとなく空気の違いのようなものを感じた。
「どっちがきみの部屋なんだ」
未知子の腕を取ってエレベーターから出た龍一がきいた。
「こっち」
と、未知子は、涙で濡《ぬ》れた頬を手でぬぐいながら、もう一方の手で左の方角を指差した。
「じゃ、もういいね」
龍一は、エレベーターの前で未知子の腕を放した。
「だいぶ酔いも醒《さ》めてきたみたいだから、ぼくはこれで帰るよ」
「どうして? どうして部屋の前まできてくれないの」
「部屋の前まで行けば、『部屋の鍵を開けて』『中まで私を連れて入って』となるんだろう?」
「それがいけないの?」
「きみとの出会いは楽しかったよ。じゅうぶんにね」
皮肉も込めて、龍一は言った。
「だけど、これでおしまいということにしよう」
「なんで」
「なんでって……きみは名前のとおり未知の部分が多すぎる。そこがきみの魅力だと思うけど、ぼくにはついていけない。それに」
龍一は肩をすくめて静寂のフロアを見渡した。
「まるで超高級ホテルみたいな住まいにひとりで暮らしている女の子なんて、とてもじゃないけど、ぼくはついていけないよ。こっちは安月給のサラリーマンだし、実家も質素なもんだ。生活レベルが違いすぎる。結婚したって、うまくいきっこない」
今夜会ったばかりの、しかもロクにコミュニケーションもとっていない相手を、もう勝手に結婚の対象として評価している滑稽《こつけい》さに、龍一は自分で気づいていなかった。
だが、未知子はそんな龍一の言葉を笑うでもなく、真剣な眼差しで訴えてきた。
「私、どうしても龍一さんに言いたいことがあるんです」
急に彼女の言葉が、出会った最初のときのように敬語に戻った。
「真剣に聞いてもらいたい話があるんです」
未知子の瞳《ひとみ》に新たな涙が浮かんだ。また声を上げて泣き出しそうだったので、龍一はあわてて言った。
「わかった。それじゃ、ここで聞くよ」
「だめ。私の部屋の中じゃないと。とにかく、きてください」
そう言うと、未知子はふらついた足どりで廊下を進んでいった。まるで龍一がついてくるのを確信したように。
そして龍一は、磁石のようにそのあとをついていった。
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3107号室のドアが開けられ、未知子が部屋の照明を入れると、予想していたとおりの豪華なたたずまいが龍一の眼前に広がった。
入ってすぐの廊下の向こうに、おそらく四十畳はあるリビングルームが見えていた。それは、いつも龍一が、自分には一生縁がないだろうと思いながら見ていた『億ション』のモデルルーム写真そのものだった。いや『億ション』どころか、十億の単位を出さねば購入できない部屋であるのは確実だった。
両親の所有物で、その両親が亡くなって相続したにせよ、これだけの部屋を手放さずに相続税を払えたわけだから、月舘未知子の親というのは相当な資産家であることが容易に想像できた。
「上がってください」
未知子の言葉は、ほとんど催眠術のような効果をもって、龍一の行動をコントロールした。たったいままで、部屋に入ることを本気で拒絶していた彼は、言われるままに靴を脱いで、足の裏が沈み込むようなカーペットの上に立っていた。
「スリッパを履いて、こっちへきて」
その言葉にも、龍一は素直に従った。
彼は未知子と並んで、リビングルームの窓際に立った。
ガラスのテーブルに置いてあったリモコンキーを未知子が操作すると、白い電動パネル式のカーテンが左から右へと順に折りたたまれていって、深夜の大都会が眼下に広がった。その美しさに、龍一は息を呑《の》んだ。
魔法の絨毯《じゆうたん》に乗って夜空に浮かび、宝石の海を眺め下ろしているような気分だった。
「すごいな」
龍一は素直な感想を洩らした。
「こんな部屋で毎日暮らしているなんて、うらやましいよ」
だからといって、お姫さまのようなひとり暮らしをしているこの女と結婚して、自分もこの部屋に住みたいという発想は、龍一には浮かばなかった。結婚相手としての理想像から大きくかけ離れた女性は、たとえどんなにお金を持っていても、贅沢《ぜいたく》な部屋に住んでいても、それに惹《ひ》かれることはなかった。
また、ロマンチックなムードを醸し出すにはこれ以上ないシチュエーションにあっても、龍一には性的な欲望も起こらなかった。
しかし、さきほどまでと違うのは、すぐにでも未知子と別れて帰ろうという気持ちが失せていることだった。その理由のひとつは、いま彼が感じている不思議な感覚だった。
(どこかで、この景色を見た覚えがある)
岡本龍一は、既視感《デジヤ・ヴユ》に襲われていた。
(いつのことだかわからないが、こうやって大都会の夜景を、この高さから眺めた記憶がある)
これまでつきあってきた恋人とのデートで、あるいは仕事で得意先を接待したときに、さらには同僚の結婚披露パーティーなどで、これぐらいの高さにあるレストランや展望台には何度も足を運んだことがある。そこから夜景を眺め下ろし、美しさにため息を洩《も》らしたことも二度や三度ではない。東京に住んでいれば、感動的ではあるが、めったに見ない風景というのでもない。だが、いま龍一は、まさにこの角度から、この高さから、都心の夜景を窓際にたたずんで眺めていた覚えがあると感じていた。
つまり、この超高層マンションの3107号室にきたことがあるのではないか、という思いにとらわれていた。
ただ、それにしては室内の様子には見覚えがない。あくまで窓際から見下ろす夜景だけに覚えがあるのだ。いや、もうひとつ記憶に刻まれたものがあった。
(そうだ。この電動パネルカーテンだ)
龍一は、天井から床にかけて吊《つ》り下げられた細長い白のパネル板に目をやった。布のカーテンではない、吊り下げ型のパネルが、一枚一枚順番に折りたたまれていき、そして眼下に夜景が広がるという、その一連の流れが、頭の奥底に記憶としてあった。
(間違いない。ぼくは……この部屋にきたことがある)
(しかし、月舘未知子という女とは、どう考えても以前に会った記憶がない。それとも、その記憶が消えているのか)
そんなことをぼんやり考えているときだった。
「龍一さん、私と結婚してもらえませんか」
隣に並んで窓越しの夜景を眺めていた未知子が、突然、何の前置きもなくそう切り出してきた。
「え?」
驚いて、龍一は夜景から彼女に目を転じた。
「なんだって!」
「私と……」
未知子も下界の夜景から龍一に向き直り、まだ涙の余韻をたたえた顔でつづけた。
「結婚してもらえないでしょうか」
「どうしてそんなことを急に」
自分こそ、会ったばかりの未知子を結婚相手として適当か不適当かと、いきなりそういう物差しで見ていたくせに、そのことは棚に上げて、龍一は彼女の唐突な発言をいぶかしんだ。
「ぼくたちはほんの数時間前に会ったばかりだし、それに、その数時間のうち、満足に話をしたのは、五分もなかったんじゃないのか。なんせきみは、いきなり他人の酒を横取りして一気飲みをしたんだから。そしてあっというまに酔っぱらって寝込んで、やっと起きたのが、このマンションに着いたときだよ。ぼくはきみのことを、ほとんどまだ何も知らないし、きみだってぼくのことを何も知っていない。なのに、どうして結婚なんて話が持ち出せるんだ」
「でも、龍一さんは結婚にあこがれているんでしょう?」
「ああ……え? そんなこと、話したっけ」
「話さなくてもわかります」
「それはたしかにそうだ。認めるよ。ぼくは昔から結婚願望が強かった。ほんとうのことを言ったら、二十六でまだ独身というのは落ち着かない気分だ。それぐらい結婚生活に憧《あこが》れはあるし、飢えているといってもいい」
「だったら……」
「でもね」
龍一は、片手を出して未知子をさえぎった。
「でも、聞いてほしい。いいかい、気を悪くせずに聞いてほしい。こうなったら正直に言うけど、ぼくはきみのようなタイプは苦手なんだ」
「苦手……?」
「これは決して批判とか悪口とは受け取らないでくれ。きみは魅力的な女性だし、それにすごく可愛いと思う。チャーミングな人だ。おせじじゃなく、そう思うよ。でも、ぼくにはぼくの、勝手な理想像があるんだ。自分の奥さんになる女性の理想像が……。これは、いいとか悪いとかじゃなくて、趣味の問題なんだけど、ぼくはタバコを吸う女がダメなんだ。ニコチンの味がするキスなんて、とてもできない。それから大酒飲みもダメなんだ。とくに、あの店できみがやったような、酒の席で人が変わったような大胆な行動に出る女の子にはついていけないんだよ。申し訳ないけれど」
「私……」
瞳《ひとみ》を潤ませて、未知子が言った。
「タバコも吸わないし、お酒も飲まないんです。というより、ぜんぜん飲めないんです。タバコの煙は身体が受けつけないし、アルコールも体質的にダメなんです」
「はあ?」
「ほんとうです」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
龍一は苦笑した。
「たしかにきみは一気飲みして吐いたよ。吐いて、吐いて吐きまくったよ。汚い表現で申し訳ないけどね。それはアルコールに弱い証拠かもしれない。けれども、ぜんぜん飲めないんだったら、一気飲みそのものが不可能だろう。それにタバコだって、ぼくが見ていたかぎりでは、ほどんどチェーンスモーカーに近かった。それなのに、どうしてタバコの煙が受けつけない、なんて言えるんだ」
「取り憑《つ》いているからです」
「取り憑いてる?」
「お酒もタバコも大好きな女の人の霊が、私に取り憑いているんです」
「なん……だって……」
龍一は、無意識のうちにあとじさりした。
ここはひとけのない山あいの村でもなければ、不気味な森の中でもない。ガラスの向こうには、眠らない大都会の煌《きら》めきが広がっている。真夜中に出没する亡霊がこの世に存在したとしても、あまりの光の洪水に、彼らのほうから近寄りそうにない環境だった。その東京のど真ん中の超高層マンションで、龍一は『霊』という言葉におびやかされていた。そして『取り憑いている』という表現にも。
「きみに、霊が、取り憑いて、いる?」
「そうです。取り憑かれていないときの私は、タバコもお酒もダメなんです。だけど、その女の人が取り憑くと、吸えないタバコを吸って、飲めないお酒をどんどん飲んでしまえるんです。でも、それはほんとうの私じゃないの。お願い、信じてください。そして私を、助けて、ください」
「助けるって……どういうふうに」
「私を愛してほしいんです。あなたの愛で、私をこの地獄から救い出してほしいんです。男の人の愛以外に、私を救ってくれるものはないの。このままだと私……こんな立派な部屋に住んでいても、少しもしあわせじゃないから」
「あの、あのさあ」
さらに玄関に向かってあとじさりしながら、龍一は言った。
「ぼくは教会の神父さんでもなければ、エクソシストでもない。霊に取り憑かれた人を救うなんて、そんな大それたことはできっこないよ」
そう言いながら、龍一の頭の中ではふたつの疑念が渦巻いていた。この子はクスリをやって頭がおかしくなっているのか、それとも何かしたたかな計算があって演技をしているのか、と……。しかし、間違っても彼女に霊が取り憑いているとは信じなかった。
「それにね」
龍一はつづけた。
「なんで、きみにとって必要な男が、きょう初めて出会ったばかりのぼくじゃなきゃいけないんだ」
もっともな疑問だった。
「こんな立派なマンションに住み、ぼくの勤めている会社の何百倍も有名な広告代理店に勤めていれば、いくらでもきみにふさわしい男がいるはずだろう。どうせ愛を求めるんだったら、そういう男たちを頼ればいいのに」
「あなたじゃなきゃダメなの」
「なぜだ」
「驚かないでね、龍一さん。私に取り憑いているのは、首を切り落とされ、手足や胴体もバラバラにされた女の人の霊なの」
「バ、バラバラ?」
「苦しかった。だって、バラバラにされる直前まで、私、死にきれずに生きていたんですもの。わかる? 生きながらバラバラにされたのよ。痛かった……苦しかった……」
そう言いながら、月舘未知子は急にエッ、エッ、エッと苦しげな声を上げながら、胸を上下させた。
「おい、まだ吐くのか。吐くんだったら洗面所……どこだ、洗面所は」
龍一はあわてた。
だが、間に合わなかった。
よろめきながら窓のほうへ向き直った未知子は、リビングルームの大きな窓ガラスに向かって、身体の中から湧き上がってきたものを、思いきりぶちまけた。
しかし、ふつうの吐瀉《としや》物ではなかった。真っ黒な粘土状の泥だった。
(な、なんだ、これは!)
介抱するつもりで未知子に駆け寄ろうとした龍一は、反射的に飛び退いた。人間の体内から出てくるような代物ではなかった。強烈な土の香りが、豪華なリビングルームいっぱいに広がった。腐敗した沼地からさらってきたような、真っ黒な液状の泥。それが十数億円はしようかという豪華マンションのガラス窓にぶちまけられた。
呆然《ぼうぜん》として見つめる龍一の前で、窓に噴射された黒い粘液状の泥はゆっくりとガラス面を伝い下り、サッシのところまで落ちてきた。それから生き物のように床を這《は》って、龍一の足元に近づいてきた。
逃げ出したかった。だが、足がすくんで動けなかった。
そしてあと数センチで、スリッパを履いた龍一の足に触れようというところで、黒い粘液の動きは止まった。
「龍一さん」
窓のほうへ向いていた未知子が、ゆっくりと龍一に向き直った。
口の周りから喉《のど》にかけて真っ黒な泥で汚れ、白目をむいて別人の容貌《ようぼう》になっていた。そして未知子は──いや、彼女に取り憑いた死者の霊は──微《かす》かに震える声で言った。
「ワタシヲバラバラニシテ、コロシタノハ……アナタノ、オトウサン」
「なに! ぼくのオヤジが?」
「ハイ」
「ば、ば、ば、ば」
言葉がすぐに出てこなかった。
「バカなことを言うな」
何の脈絡もなく自分の父親のことを持ち出され、しかに残虐なバラバラ殺人の犯人と決めつけられ、龍一の混乱は極限に達した。
父は融通の利かないガンコオヤジで、ひとり息子の龍一に対しても、ほとんど愛情を示してくれたことのない、冷淡というよりも感情のない男だった。だから龍一も、決して父親のことが好きではなかったし、親子の情愛を覚えた経験もない。だが、女をバラバラにして殺すような人間でないことは、息子の自分がいちばんよくわかっていた。
「でたらめを言うんじゃないよ。なんでうちのオヤジが、おまえを殺さなきゃならないんだ! そんなことはありえない!」
「イイエ、コレハ、ホントウノ、ハナシ。アナタノオトウサンガ、ワタシヲコロシタ」
「おまえはいったい誰なんだ!」
裏返った声で、龍一が叫んだ。
「月舘未知子じゃないんだろ。彼女に取り憑いた霊なんだろ。だとしたら、おまえはどこの誰なんだ」
「イエナイ」
「言えよ! 死んだ女でも、生きているときには名前があったんだろう。言ってみろ」
「イエナイ」
「だったら、うちのオヤジの名前を言ってみろ」
「オカモト、マサハル」
「………」
龍一は凍りついた。ズバリ正解だった。岡本|正晴《まさはる》──それが龍一の父の名前だった。
「オカモト、マサハル」
死者に取り憑《つ》かれた月舘未知子が、明らかにそれまでの彼女の声とは別の声で繰り返した。
「オカモトマサハル、オカモトマサハル、オカモトマサハル。ワタシヲコロシタノハ、オマエノチチオヤ、オカモトマサハル。イキナガラ、ワタシノクビヲ、キリオトシタノモ、テアシヲ、モイダノモ、オマエノチチ、オカモトマサハルダ!」
白目をむいて怨《うら》みの言葉を吐きつづける女の唇のあいだに、黄褐色の細長いものが見え隠れしはじめた。
最初は一センチにも満たない何かの破片に思えた。だが、女がもごもごと口を動かすごとに、それはじわりじわりと外へはみ出してきて、やがて糸を引く黒い粘液の残滓《ざんし》を伴いながら、毛足の長いカーペットの上に静かに落ちた。
龍一の目が、そこに行った。
明らかに人間のものとわかる指の骨だった。
大東京の夜景が、ぐるぐると回転しはじめた。そして龍一は、気を失った──
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柔らかな春の日差しが頭上から降りそそいでいる。目の前の通りでは、大量の車がロードノイズを轟《とどろ》かせながら右に左に流れている。そして、昼休みの食事時間に近隣のビルから吐き出されてきた会社員の男女で、狭い歩道が混雑していた。
深夜の六本木は、さながら外国の植民地のように異邦人であふれ返るが、真昼の時間帯は一般的なビジネス街とあまり変わらない光景を呈していた。そして岡本龍一も、いつもならば同じように、この見慣れたランチタイムの都会の風景に溶け込んでいるところだった。
だが、きょうの龍一は違っていた。
社会人になって初めて、あわや無断欠勤扱いの大遅刻を犯し、これから会社へあわてて飛んでいくところだった。
いま彼が立っている交差点からも間近に姿を眺められる超高層マンションの3107号室で意識を取り戻したのは、なんと昼近くの十一時半だった。しかし、広々としたリビングルームのソファで、スーツ姿のまま横たわっている自分に気づいたとき、腕時計で時刻を確認するよりも、なぜこんな場所にいるのかがわからずに、しばし呆然としていた。
部屋の中は薄暗かったが、わずかな隙間から太陽の光が射し込んでいる。そちらへ目を向けると、開口部を大きくとったガラス窓を覆う白のパネルカーテンがあった。
それを見たとき、昨夜の一連の記憶がよみがえった。月舘未知子の顔と名前も思い出した。現在いる場所も把握した。
龍一はソファから跳ね起き、大きな声で呼んだ。
「未知子! 未知子! どこにいる」
だが、広い部屋のどこからも返事がない。
ともかく、あまりにも部屋が暗いので、龍一はガラステーブルに載せられてあったリモコンを操作して、パネルカーテンを開けた。レールに吊《つ》り下げられた十数枚の白いパネルが一枚、一枚と重なりながら端に引き寄せられるたびに、春の陽光がモデルルーム然と整った部屋に射し込んできた。その明るさに目をしばたたかせながら、龍一はガラス窓に目をやった。
死霊が乗り移った未知子の口から吐き出された粘液状の黒い泥で、ガラス窓は一面汚れているはずだったが、いまは美しく輝いて、眼下に広がる大都会のパノラマをきれいに透過させていた。床を見ても、カーペットのどこにも染みひとつない。まるでゆうべの出来事は、夢か幻かとでもいうように。
ガラスだけなら未知子が拭《ふ》き取ったと解釈できたが、カーペットにもまったく汚れた跡が残っていないのは理解できなかった。さらに未知子の口からは、黒い粘液状の泥といっしょに、人間の指の骨らしきものが吐き出されたはずだった。しかし、それらしきものも落ちてはいない。
(あれは……夢だったのか)
そう思いながら、昨夜会ったばかりの謎めいた女の名前をまた呼んだ。
「未知子……いるんだったら返事をしろ。未知子」
声を出しながら玄関のほうへ向かったとき、龍一は、そこに一枚の紙が置かれてあるのを見た。取り上げると、未知子のものらしい整った筆跡で、短いメッセージが書かれてあった。
≪何度起こしても起きないので会社に行きます。私の携帯番号とメールアドレスを書いておきますので、また会ってください。ただし、今夜は会社の新入社員歓迎会があるので、時間が取れません。土曜日以降でお願いします。
それから……あんな状態の私を見て、龍一さんは混乱しているでしょうけれど、私も混乱しています。ではまた。
[#地付き]未知子≫
その書き置きを読んで、龍一は昨夜の出来事が決して夢ではなかったことを確認した。
それにしても、新入社員の歓迎会が今夜あるというくだりが、謎めいた登場をした月舘未知子に、妙なリアリティを感じさせた。ゆうべ龍一に、霊から逃れるための救いを求めておきながら、書き置きでは会社の行事を優先させていた。死者の霊が取り憑いたときの彼女は、まさに化け物といってよかったが、そうでないときの彼女は、有名広告代理店に勤めるごくありふれたビジネスウーマンなのだ。
二十三歳という年齢から推し量るに、未知子は去年入社して、ことしが二年目なのかもしれない。新入社員歓迎会では、初めて「先輩」という立場を体験しながら、後輩のフレッシュマンたちを迎えるのだろう。そんな姿の未知子を想像すると、口から黒い粘液を吐き出し、呪いの言葉を吐いていた姿との落差が信じられなかった。
だが、その落差こそが憑依《ひようい》現象の恐ろしさなのかもしれなかった。
そして龍一にとってなによりの衝撃は、未知子に憑いた女の霊が、龍一の父親に殺されたと口走り、父・正晴の名前をはっきり出したことだった。昨夜、目の前で起きた信じがたい現象の中で、そこがいちばんショッキングな部分だった。そのことを考えると、言いようのない寒気に襲われた。
おかげで、龍一が自分自身の現実生活を思い出すまでに、さらに二十分近い時間を要した。やっとのことで、会社に行かなければと思い出したときには、腕時計の時刻は正午に限りなく近づいていた。
まずい、と思って、すぐに携帯を開いた。
案の定、メールと留守電メッセージが殺到していた。ゆうべいっしょに飲んでいた坂井省介を筆頭に、営業部デスクの女性、直属の課長、さらには部長まで、龍一の行方を探し求める着信のオンパレードだった。無断で会社に出てこないので大騒ぎになっている状況が、ひとめでわかった。会社からだけではない。母の恵津子《えつこ》からも留守電が五回も入っていた。
実家の近くとはいえ、龍一はひとり暮らしだったから、部屋で倒れている可能性もあると考えられ、会社から親に連絡がいったのだろう。そして母親は、息子が部屋に帰ってきた形跡がないのを見て焦っているに違いなかった。
(どうしようか……)
龍一は困惑した。このまま黙っていれば、うろたえた母親によって警察にでも通報されかねない。まずは会社に、そして母親に大至急連絡を入れる必要があった。
だが、母親はともかく、上司へのうまい弁解が出てこない。実家に連絡をとられてしまった以上は、親の病気という言い訳も利かなかったし、かといって、いくらなんでも、ありのままは語れなかった。第一、誰にも信じてもらえないだろう。たとえ、月舘未知子との遭遇の場に居合わせた省介でさえ、その後の展開を語っても、冗談と思われるに決まっていた。
だから龍一は、へたに遅刻を正当化するのはやめて、半分だけ真実を交え、ストレートに怒鳴られるよりないと覚悟を決めた。そして直属の課長に電話をかけた。
「お騒がせして申し訳ありません。女のところにいて寝過ごしました。これからすぐ社に行きます!」
あまりにあっけらかんと申し出たものだから、課長も一瞬、怒るより呆《あき》れたふうに沈黙した。だが、すぐに猛烈な雷を落としてきた。
しかし、いまの龍一にとっては、たとえ「ボーナスの査定はゼロだ」と言い渡されても、「おまえはクビだ」と怒鳴られても、動揺はしなかっただろう。あまりにも衝撃的な現象に巻き込まれたために、ほかの出来事はすべて些細《ささい》な問題に過ぎなくなっていた。
未知子が書き残したメモをひっつかむと、龍一は3107号室をあとにした。そのとき、彼はひとつの疑問を感じなければならなかったのだが、それに気づく余裕もなく、エレベーターで一階に下りた。
静まり返ったゴージャスな超高層マンションから一歩外に出たとたん、現実世界の騒音が龍一を取り巻いた。異常な別世界から日常に戻ってきた、という感じだった。おかげで、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
カンカンになっている課長が待ち構えている会社へ、昨日とまったく同じ服装のまま駆けつけなければならなかったが、龍一は、その前にやっておかねばならないことがふたつあった。ひとつは母親への連絡。そしてもうひとつは──
龍一は、ランチタイムに出てきた人の流れで混雑する交差点に立って、携帯電話の電話帳をスクロールした。ひさしぶりに連絡をとる相手なので、その番号は短縮モードにも入っていない。
五十音リストの中で見つけると、龍一はその人物の電話番号を選択して通話ボタンを押した。
「……はい?」
通話がつながると、相手の男は、いぶかしげな声を出してきた。
番号通知で発信したにもかかわらず、先方の液晶画面には番号だけ出て、龍一の名前は登録されていないことが、その反応からわかった。わずか四年の空白だったが、相手にとっても、やはり岡本龍一の存在は忘れ去られた存在になっていたのだ。あれだけ大学時代に親しくて、卒業記念のハワイ旅行もいっしょに行った仲だったのに。
それが社会人になるということかもしれなかった。
「もしもし、伸吾? ひさしぶり。龍一だよ、岡本龍一」
いま最も頼りにすべき人間は『見える人』──人間に取り憑《つ》いたものが見える超能力を持つ旧友、野口伸吾だった。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
昼過ぎになってようやく出社した仕事場では、「女のところで寝過ごした」という前代未聞の大失態を課長からさんざん絞られ、さらに上役の部長からも呼び出されて厳しく叱責《しつせき》され、夏のボーナスの査定に影響するのは必至の事態となったが、それでもいまの龍一にとっては大した問題ではなかった。
坂井省介と廊下ですれ違ったときには、「おまえ、すっげえことやっちゃったな」と、目を丸くして驚かれた。月舘未知子のビジュアルを思い出しながら、省介が勝手な想像をたくましくしているのは間違いなかったが、龍一はいちいち説明をしなかった。
たしかに省介は、あの洋風居酒屋で未知子と出会った段階までは、共通の体験をした仲間ではあった。だから彼は、社内で龍一の遅刻の真相をただひとり正確に知る『事情通』の顔をしていた。だが、省介が先に帰ってしまったあとの出来事を知るのと知らないのとでは、まるで話が違う。ゆうべ省介は、龍一に『詳細なレポート』を求めてきたが、当分それはできない話だった。
「省介、これ、とっとけよ」
龍一はとっさに千円札二枚を出して、省介の胸に押しつけた。
「なんだよ、これ」
「返金」
「返金?」
「ゆうべよぶんに払ってくれたぶんを返すよ。その代わり、報告義務はナシだ」
「え……」
何か問いたげな省介をあとに残し、龍一は仕事に没頭した。午前中いなかったぶん、夜遅くまで残業し、野口伸吾との約四年ぶりの再会を果たしたのは、その日の夜十時半過ぎだった。
場所は東京都の南端、羽田《はねだ》空港に近い蒲田《かまた》の歓楽街にある喫茶店だった。
「ひさしぶり。大学を出てすぐに一度会ったきりだもんな」
伸吾のほうから指定してきた喫茶店で顔を合わせると、龍一は、とりあえずは笑顔でそう切り出した。
「龍一はぜんぜん変わらないな」
と、先に待っていた伸吾は腰を浮かせ、テーブル越しに握手を求めてきた。
「伸吾こそ、ぜんぜん」
「いや、とんでもない」
握手した手を引っ込めると、伸吾は苦笑いを洩《も》らした。
「見てのとおり、だいぶ痩《や》せただろ」
「ああ、そういえばね」
実際には『そういえば』どころか、龍一は伸吾の姿をひと目見た瞬間から「ずいぶん痩せたな」と感じていた。病気ではないか、と。しかも顔色も青白く、ワイキキビーチでいっしょに日光浴をしていたときの彼とは別人だった。だが、しばらくぶりに対面したのに、開口一番「病気なのか」とも切り出せなかった。
「ま、いろいろあってね」
品のないステンドグラスを背景に座った伸吾は、龍一の内心を察したようにつぶやき、タバコのパッケージを取り出して、一本口にくわえた。
「龍一に連絡を取らなかったのも、自分のことで精一杯だったもんでね。……あ、タバコ吸っていいか。おまえ、嫌いだったんだよな、タバコ」
「べつに、人が吸うぶんには平気だからいいよ」
「そういや大学時代から、タバコの味がする女とのキスはできないとか言ってたっけ」
「まあね。でも、おまえとキスするわけじゃないから」
「あはは」
笑いながら、伸吾はくわえたタバコにライターで火をつけた。そして、口を歪《ゆが》めて煙を吐き出した。
そのさりげないしぐさに、学生時代にはなかった荒《すさ》んだ雰囲気を、龍一はみてとった。
「龍一は、仕事のほうは順調なのか」
「おかげさまで、なんとか」
きょうの大遅刻のせいで順調どころではなかったが、伸吾の様子に較べればはるかにマシだと思ったので、龍一はその程度の返事にとどめておいた。
「おれは、職を二回代わってね」
「証券会社は辞めたのか。たしか日本橋《にほんばし》の本店勤務だったろ」
「辞めたよ。一年足らずでね。それから世田谷《せたがや》のほうで、小学生相手の進学塾の講師をやっていた」
「証券会社から塾の講師?」
「すげえだろ、その変わりようが」
「なんでまた」
「その理由は、いまから話すよ。で、塾のほうは二年ちょっとつづいたんだけど、けっきょくそこも辞めてしまって、ことしの初めからこの土地にきた」
「蒲田に住んでいるのか」
「ああ、すぐそこのカプセルホテルに」
「カプセルホテル住まい?」
「じゃなくて、そこで従業員をやっているんだ」
「………」
「エリート証券マンの転落、って目をしてるな」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「いいんだよ。六本木だか青山だか知らないが、おしゃれな街に本社を構える一流企業のサラリーマンからみたら、たった四年で三度も会社を代わる男は、挫折《ざせつ》の代表例みたいにみえるに違いない」
「何があったんだ」
「おまえだから言えるけど、ようするに見えすぎるんだ。超能力ってものは、その種類を問わず、だいたい年齢とともに急速に衰えるものなんだが、おれの場合は年を食うごとに、ますます見えるようになってきた」
「もしかして、人に取り憑いたものが……見えすぎる?」
「ああ」
テーブルに向かって紫煙を吐きながら、伸吾はうなずいた。
「最近は株もネットが主流になってきているけど、それでも店頭にくる客は大勢いる。その連中が連れてくる『憑《つ》き物《もの》』を見ていたら気分が悪くなるぜ。金に目が眩んだ連中が大半だから、憑いているものも尋常じゃない」
「………」
「だからといって、その悩みを上司や同僚に相談するわけにもいかないだろ。だから、けっきょく一年もたずに辞めたんだ」
「なんだかわかってきたな、小学生の塾講師に転職した理由が」
近寄ってきたウェイトレスにコーヒーを頼んでから、龍一は言った。
「純粋な子供を相手にする職場だったら、妙な憑き物を見なくて済むと思った」
「そのとおりだよ。ところが」
さっきと同じ形に唇を歪めて、伸吾は苦笑した。
「最近のガキはハンパじゃないな」
「憑いているのか」
「憑いてるガキが、うじゃうじゃいる。それも魔物級がね」
「ほんとかよ」
「しかも、保護者もだ。とくに母親に取り憑いた霊に凄《すご》いのが多い。まったく……」
伸吾は煙まじりの長いため息をついた。
「いかに世の中に邪悪なものが満ちているかが、よくわかるよ。それでおれは開き直って、どうせなら、とことん見てやろうと思って、カプセルホテルの従業員になってみた」
「で?」
「意外にも、ここにくる客のほうがまだマシだった。憑き物率が低い」
「憑き物率……ねえ」
龍一は、伸吾の表現にコメントのしようがない、といった顔をした。
「だけど、それでも死人の霊を引きずってきたり、生《い》き霊《りよう》を抱え込んでくる連中と、それなりのペースで出会うんだよな」
「生き霊?」
龍一がきき返した。
「生き霊って、なんだ」
「文字どおり、生きている人間の霊だよ。霊っていうのは、なにも死者の専売特許じゃない。ときには生者の怨念《おんねん》が霊の形をとって、他人に取り憑くことがある」
「聞いたことないな」
「龍一が『生き霊』という言葉に馴染《なじ》んでないだけだよ」
伸吾は、自分にとっては常識だという顔で言った。
「本人がまだこの世に生きているにもかかわらず、肉体から強烈な怨念のエネルギーが噴出されると、それが遊離して独自の存在となり、憎むべきターゲットに取り憑くこともある。そして、ときにはそのエネルギーのかたまりが、狙われた人間の目に、はっきりと人の形として見えることもある。だから生き霊も、一種の幽霊といってよい」
「人間は、死ななくても霊になれるのか」
「もちろん生きている時点では、宗教的な意味での霊にはなれないよ。ただし、怒りや怨《うら》みのエネルギーは、じゅうぶんに心霊現象を引き起こす、ということさ。いや、むしろ、生きている人間の怨みのほうが、死者の怨みよりもはるかに大きいんだ。ほんとはね」
「なんで伸吾がそんなことに詳しいんだ」
「昔、話しただろ。婆ちゃんが超能力者だったことを。その婆ちゃんが、生きているときにいろいろ教えてくれたんだ。『ええか、伸吾。人間の心というのは、必ずしも身体の中にだけ存在するものではないぞ』とね。たとえていえば、ロケットが地球の強力な引力から脱して宇宙空間に飛び出すように、沸々と煮えたぎる怒りがあまりにもすさまじいと、その思いじたいが、宿主である人間の身体を離れて、はるか遠くまで飛んでいくことができるんだ」
「九十歳で死んだ婆さんが、宇宙ロケットのたとえなんか持ち出したのか」
「ま、いいさ。いちいち信じないならね」
伸吾が素っ気なく言い返したので、龍一はあわてた。
「待てよ。そこで機嫌を損ねるなって。いまのぼくには、伸吾しか頼れる人間がいないんだから」
「わかった。とにかく用件を聞こう」
野口伸吾が一息ついたとき、『ウェイトレス』と呼ぶのも憚《はばか》られる、首筋にちりめんのようなシワがびっしりと寄った老女が、不似合いなメイド服に身を包み、龍一の注文したコーヒーを、注文していないロールケーキとともに運んできた。
「なんだ、このケーキ。頼んでないぞ、こんなもの」
龍一が眉《まゆ》をひそめると、伸吾が肩をすくめて言った。
「夜の十時を過ぎると、ここの店は飲み物に自動的にロールケーキがついてくるんだよ」
「サービスか」
「サービス料だよ」
伸吾は笑って訂正した。
「そのぶん、深夜料金が上乗せされるわけだ」
「タクシーだって、深夜料金は十一時からだぞ」
「しょうがないだろ、店が決めることなんだから。ちなみにそのケーキ、パサパサに乾燥してるから、食ってもうまくないぞ。そのまま手をつけずに残しておけ」
「とんでもない店を指定してくれたよな」
「文句があるなら帰るぜ」
「わかったよ」
「ちなみに、いまのオバちゃんというか、オバアちゃんだが」
厨房カウンターのほうへ去っていくメイド姿の老ウェイトレスをアゴで指して、伸吾が言った。
「四十代の中年女の生き霊がへばりついている。死霊じゃなくて、生き霊だ」
「ほんとかよ」
おもわず龍一はふり返って見たが、彼の目には、メイド喫茶のウェイトレスの七十年後、といった感じの姿以外には何も見えない。
「たぶん、彼女がいじめにいじめている嫁だろう。よほどくやしい思いをしているんだろうな。あのシワだらけの首筋にかぶりついて、ぶらさがっているよ。そして、喉《のど》の肉をひきちぎりそうな勢いで、ぶらんぶらんと身体を揺すっている」
「おまえ……ほんとにそういうのが見えるのか」
「見える」
「死霊と生き霊の区別は?」
「死霊は半透明に見えるが、生き霊は、まさに生身の人間そのものが見えるんだ」
「あのバアさんの首筋に噛《か》みついてぶら下がっているのか、生身の中年女が?」
「そうだよ。生々しいだろ」
「おまえのような能力を持って生まれなくてよかったよ」
大きなため息をつくと、岡本龍一は伸吾に向き直り、昨夜の出来事をできるだけ詳細にわたって語りはじめた。
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
「どう思う?」
およそ三十分にわたって話してから、龍一は野口伸吾に感想を求めた。
「ぼくは現実に起きたことを見たのか、それとも昨日の出来事すべてがじつは夢で、自分の頭がおかしくなっていたのか……それがもうわからなくなっているんだ」
「すべて現実だろうな」
伸吾はあっさりと答えた。
「ただし、龍一が見た憑依《ひようい》現象の部分だが、月舘未知子の口から実際に黒い泥や指の骨が吐き出されたのではなく、おまえの神経に作用して起こった幻覚だと思う。しかし、幻覚を見たことそのものは現実だ。ややこしい表現かもしれないが」
「じゃあ、未知子に取り憑《つ》いた霊が、ぼくのオヤジに殺された女だというのは」
「事実だろう」
「そうかんたんに決めつけるなよ」
「霊は無意味なウソはつかない」
「そんな……」
龍一は、泣き出しそうな顔で伸吾にすがった。
「自分の父親が犯罪者であることを認めろというのか」
「そりゃ、誰だって親が殺人者だなんて話は認めたくないに決まっている」
毒々しいステンドグラスを背にした伸吾は、冷めかけたコーヒーをすすった。
「だけど、おまえの父親が関与しているからこそ、月舘未知子がおまえの前に現れたんだぞ。それも憑依状態で」
伸吾は『憑依』という言葉をひんぱんに使い出した。
「いいか、龍一。まずおまえが認識しておかなきゃならないのは、ゆうべの出会いは偶然ではない、ということだ。たまたま行った店で、女のほうからナンパしてきたのとはワケが違う。月舘未知子は、おまえを待ち伏せしていた。ただし、本来の未知子ではなく、死者の霊が取り憑いた未知子が、おまえを待っていた」
「だけど、なんでぼくが省介と──省介っていうのは、会社でいちばん仲のいいやつなんだけど──ふたりでその店に行くと相手にわかっていたんだ。前もって予約していたわけじゃないのに」
「そんなところまでは知らないよ。こんど取り憑いた状態になったとき、未知子に直接きいてみるんだな」
「………」
「ちなみに、おまえの友だちと龍一のどっちが、その店に入ろうと決めたんだ」
「ぼくだけど」
と答えてから、龍一はテーブル越しに手を伸ばし、伸吾の手首を引っぱるようにして握った。
「もしかして、もうぼくに取り憑いているのか。その死んだ女の霊が」
「龍一に?」
「だって、オヤジに殺されたというのがほんとなら、その息子であるぼくも憎いはずじゃないか。そして復讐《ふくしゆう》のために、まず息子のぼくに霊が取り憑いたとしても不思議じゃない。そいつがぼくの行動を操って、未知子に引き合わせようとしたんじゃないのか? な、どうなんだよ、伸吾。遠慮しないで、ほんとのことを言ってくれ。おまえなら見えるんだろ、もしもぼくに何かが取り憑いていたら」
「だいじょうぶだ」
伸吾は怯《おび》える龍一の顔を上目づかいにチラッと見てから、自分の手首を強く握りしめてきた彼の指を、一本一本ゆっくりとはがしにかかった。
「おまえには取り憑いていないよ」
「ほんとうか」
「いまのところはね」
「また、そういう思わせぶりな」
「それよりも龍一、いま聞かされた話の中で、ひとつ気になるところがある」
龍一に捕らわれていた手をほどいて腕組みをすると、伸吾は言った。
「おまえは、きょうの昼近くになって失神状態から目が覚めたんだよな。月舘未知子の豪華マンションのリビングで」
「ああ」
「そして、室内には未知子の姿はすでになく、玄関先に会社に行くという書き置きが残されてあった」
「やけに現実感のある書き置きがね」
「そのあと、どうした」
「自分も会社に行かなきゃならないことに気がついて、どうやって遅刻の言い訳をしたものかと悩んでいた」
「で?」
「女のところで寝過ごしました、という半分開き直ったような電話を上司に入れて、それでマンションを出た」
「そこだよ」
伸吾が腕組みをほどき、人差指を龍一に向かってつきつけた。
「そこがおかしいんだ」
「おかしい、とは?」
「六本木の超高級マンションってやつは、玄関がオートロック式なのか」
「あたりまえだろ」
「いや、おれが言ったのは建物の正面玄関のことじゃない。各部屋の入口だよ。そのドアまでが、ホテルの部屋みたいにオートロック式になっていて、いったんドアを閉めたら自動的にロックしてしまうのか、とたずねているんだ」
「そんなところまで気が回らなかったけど、常識から考えれば違うだろうな」
「だとすれば、龍一は鍵《かぎ》も掛けずに三十一階の部屋を飛び出した」
「そうだよ。会ったばかりの女の部屋の合鍵なんか、持ってるわけがないだろ」
「だから、そこをおかしいと思わなかったのか、というんだ」
伸吾は、龍一のほうへ身を乗り出した。
「超豪華マンションなんだから、そりゃセキュリティがしっかりしているだろうけど、それでも龍一が出ていったあとは、月舘未知子の部屋はロックされない状態のままだ。そんなことを彼女が平然と許すと思うか? それ以前の問題として、けさの未知子が憑依状態から覚めているとしたら、ゆうべ出会ったばかりの男を、ひとりで自分の部屋に残しておくものかね」
「……それはそうだな」
いま言われて、龍一は初めてそのことに気がついた。
「とすると、どういうことなのかな」
「おれにもわからん。その状況を合理的に説明するとしたら……」
伸吾は言った。
「出かけたと思わせて、じつは女はまだ部屋の中にいた、という可能性ぐらいしか考えられない」
「まだ部屋にいた?」
「ずいぶん広い部屋だったんだろ」
「ああ、ぼくの部屋の十倍ぐらいありそうだった」
「その室内すべてを、きちんと捜したのか?」
「いや、リビングをうろちょろして、声をかけただけだ」
「トイレやバスルームまでは見なかったんだ」
「見なかった」
答えながら、龍一は寒気に襲われた。会社に行ったと見せかけながら、龍一が目を覚ますのを未知子が物陰からじっと監視していたのだとしたら……。
だが、そのことよりもっと気になるのは、父・正晴がほんとうに殺人を犯したのかどうかという問題だった。心霊現象の解明よりも、そちらをハッキリさせることのほうが、龍一にとっては何倍も重要だった。
「それで、オヤジの件はどうしたらいいのかな」
「確かめるしかないだろう」
「オヤジ本人に?」
「ほかに誰にきくんだよ」
「………」
「勇気が出ないのか」
「まあね」
正直に答えると、龍一は水を一口飲んで天井を仰いだ。
「確かめるといっても、いったいどう切り出せばいいんだ。『父さん、もしかして、以前に女を殺したことがある?』とでもきくのかよ。……まあ、いいさ。そうたずねるよりないだろう。でも、その反応が怖い。『バカなことを言うな!』と怒鳴られるんだったら、まだマシだけど、もしもそこで『なぜおまえが知っている?』と驚かれたらどうする」
「龍一」
伸吾が静かにきいた。
「おまえのオヤジさんって、どんな人だ」
「ことし五十七歳で、ビルの管理会社で総務部長代理をやってる。部長代理って……わかるだろ? 少なくともオヤジのいる会社では、出世できなかったベテラン社員に、体面を保たせるために与えられるお情けの肩書らしい。だから、定年後も顧問で採用されるなんて望みは、まずないみたいだ。あと三年ほどで定年退職だけど、近ごろは再就職の心配ばかりして、しょっちゅう落ち込んでいるみたいだ」
「もしかして、気の弱いタイプの人なのか」
「大いにね。だから殺人なんて、ありえっこない」
「そうかな。気の弱い人間だから、殺人を起こすというケースのほうが世の中、多いような気がするけど」
その言葉に龍一がムッとするのもかまわず、伸吾はつづけた。
「なぜなら気弱な人間は、すぐに何かに怯えたり、何かを恥じたりする。そして、自分にとって好ましくない状況に堂々と立ち向かうよりも、その原因を作った人間をこっそり抹殺することで、恐怖や恥を打ち消そうとするんだ。人殺しは凶悪な人間のやることと決めつけるのは短絡的すぎる。むしろ現実に面と向かう勇気のない者が犯すことのほうが多いと思うんだ。だから、お父さんが気の弱い人だからといって、殺人者の可能性を否定するのは間違いだ」
「なんだよ、伸吾!」
龍一は怒った。
「おまえは、ぼくのオヤジを人殺しに仕立てたいのか。そうなったほうが面白いと思っているのか」
「最悪の事態に備えておけ、ということさ」
平然と答えると、伸吾は新しいタバコに火をつけた。
「で、龍一」
空中に吐き出された煙の向こうから、伸吾が問いかけてきた。
「おれに何をしてほしいんだ。話だけ聞いてりゃいい、って問題じゃないんだろう?」
「月舘未知子という女を、おまえの目で見てほしい」
興奮を収めた龍一は、低い声で頼んだ。
「そして、彼女にどんな死人が取り憑《つ》いているのか、しっかりと観察して、見たとおりのことをぼくに聞かせてもらいたい。できれば死者の素性も知りたい。最悪に備えるんだったら、殺された女とオヤジとの接点を知っておきたいのは当然だろ」
「当然だ」
「だから、オヤジを問いつめるのは、伸吾が未知子に取り憑いた霊を確認したあとにする。彼女の勤め先はここに書いてある」
龍一は、一枚のメモをスーツの内ポケットから取り出した。
「自宅のほうは、さっき話したマンションの最上階、3107号室だ」
「了解。できるかぎりのことはやってみよう。ただし、おれもヒマじゃないんでね」
「わかってる。礼はちゃんとするよ」
「バカ言え」
伸吾は、タバコの煙を龍一の顔に勢いよく吐きつけた。
「そういう意味で言ったんじゃない。たしかにいまのおれは安い給料で働かされて、おまえの収入の半分もありゃいいほうだ。だからといって、金目当てで動く人間だと考えるなら、この話は断るぞ」
「……ごめん」
「おれが言いたかったのは、ヒマじゃないんだから、女の生活スタイルに合わせた尾行なんかできない、ということだ。一流企業のみなさんと違って、土曜も日曜も休みじゃないんだ。休めるのは月に二回、多くて三回。隔週の水曜日だけだ。きょうが金曜だから、月舘未知子を観察するために動けるのは来週の……いや、再来週の水曜だから、十二日後になる」
「そんな遅くなるんじゃ困る」
龍一が首を横に振った。
「十日以上ものあいだ、ずっと中途半端な気持ちでいるわけにはいかない。伸吾が忙しいんだったら、ぼくが彼女をおまえの前に連れてくる」
「連れてくる? できるのか、そんなことが」
「だいじょうぶだ」
龍一は自信たっぷりにうなずいた。
「さっきも話しただろう。未知子は死霊を追い払いたくて仕方ないんだ。それでぼくに協力を求めてきた。除霊には愛の力しかない、と。そして、結婚まで求めてきたんだ。こっちの言うことなら何でも聞く状態なんだよ。だから明日の土曜、彼女もぼくも会社が休みだから、おまえのところへ連れてくる。カプセルホテルの客を装ってもいい」
「よせ」
「なんで」
「焦らずに、おれが動ける日を待て。そして、月舘未知子という女とは自分から接触するな」
「どうしてだよ」
「愛の力でしか、除霊ができないだって? それでいきなり結婚を求めてきた?」
「そうだ。しかも彼女は、ぼくが結婚願望の強い男だとわかっていた」
「どうしてわかってるんだ」
「さあ……たぶん第一印象からだろう」
「おめでたい男だな、龍一も」
伸吾は、あきれたというふうに首を振った。
「憑依《ひようい》状態から覚めたとおまえが勝手に解釈しているだけで、その時点でも、まだ未知子は死者の霊に取り憑かれた状態だったんだよ。だから、おまえの女に対する嗜好《しこう》が読み取れている。そして、あわれな顔で助けを求めるふりをして、岡本龍一の『結婚したい病』を利用しようとしているんだ」
「まさか」
「ハッキリきくけどな、龍一。もしも……いいか、もしもだぞ、月舘未知子に取り憑いた死霊が、おまえのお父さんに殺された女だったと確認されたら、そのあとはどうするつもりだ」
「未知子といっしょにがんばってみる」
「何をがんばるんだ。がんばってどうするんだ」
「誰だって、霊に取り憑かれたら苦しいだろう、恐いだろう。だから、その状態から救ってやるんだよ。あんな状態の未知子をまのあたりにして、見捨てるわけにはいかない。ぼく以外に、誰が助けてやれるというんだ。もしもほんとうにオヤジが殺した女が取り憑いているんだったら、息子であるぼくには、彼女を救う責任がある」
「責任を感じるところまでは理解できる。だが龍一は、さらにその先まで踏み込もうとしている」
「その先、って?」
「どういう展開が待ち受けているか知らないが、仮に、月舘未知子の除霊が成功したとしよう。おまえはどうする」
「どうするって」
「結婚するのか、月舘未知子と」
「そうなると思う」
「バカ!」
決して大きな声ではなかったが、野口伸吾はこめかみに青筋を立てて龍一を叱った。
「そんな未来を選ぶなら、ハワイの海でサメに食われてりゃよかったな」
「なんでだよ」
「ひとつ、恐ろしい予言をしておいてやろう」
テーブルに載せられた伝票をつかみながら、伸吾が言った。
「おまえが月舘未知子と結ばれるためには、大前提となる条件がひとつある。あたりまえだが、彼女から霊がひきはがされることだ。そしておそらくおまえは、そのためには父親の死が不可欠だと思うようになる。父親の死をもって、怨念《おんねん》に燃える霊を慰めるしかない、というふうに」
「え……」
「それじたいが、死霊が仕掛けてきた復讐《ふくしゆう》のストーリーだとも気づかずにな」
それだけ言うと、伸吾はレジへ歩いていった。
「ちょっと待て、伸吾」
龍一も席を立ってあわてて追いかけ、急いで財布を取り出した。
「ここはぼくが払うから」
「そんな心配をするより、自分の未来を心配しろ。きわめて近い未来を」
レジのところへ出てきたシワだらけの老メイドに向かって、伸吾は千円札を差し出した。そして、もうひとこと龍一に言い添えた。
「いいか、おれが動くまで、おまえは動くな。必ずこの約束は守れよ」
[#小見出し]    4[#「4」はゴシック体]
野口伸吾と別れ、暗澹《あんたん》たる気分で蒲田駅のほうへ向かった龍一は、ちょうど店を畳もうとしていた新聞売りのスタンドにさりげなく目をやった。まるで自分の意思とは無関係の何かが、彼の視線をそちらに向けさせた感じだった。
新聞スタンドの最前列に差してあった夕刊紙の見出しが、龍一の目を射た。
≪美人OLバラバラ猟奇殺人! 現場に残された謎のメッセージ『二人目』とは?≫
ふだんはセンセーショナルな夕刊紙の見出しなど、話半分程度に受けとめる龍一だったが、視線が吸いつけられて離れなかった。そして代金をほうり投げるようにして渡すと、残り一部だけになっていたその新聞を引き抜いた。
終電間近の駅へ急ぐ通行人の邪魔になるのもかまわず、龍一は舗道の真ん中で新聞を広げた。食い入るように記事を読みふけった。
≪一昨日、埼玉県|飯能《はんのう》市の山間部にある天目指《あまめざす》峠の頂上付近で山菜採りの男性によって発見されたバラバラ死体は、遺留品及び歯型の鑑定から、ことしの正月から行方不明となり家族から捜索願が出されていた佐々木里奈さん(30)と断定、埼玉県警飯能警察署に置かれた捜査本部は、猟奇殺人事件の犯人解明へ向け、本格的な捜査に乗り出した。
里奈さんは都内港区|西麻布《にしあざぶ》にある外資系の投資会社に勤めるOLで、社内でも評判の美人だった。しかし、休暇中の一月三日夜から突然姿を消し、心配した家族と会社から捜索願が出されていたが、最悪の形で発見されることになった。
遺体は頭部、胴体、各手足のところでバラバラに切断されており、それらは約二メートルの深さにまで掘られた土中に、まとめて埋められてあった。死後およそ三カ月前後が経過しているものとみられ、腐敗がかなり進行し、その一部はすでに白骨化していた。
しかし、腐乱した右手の先端が、まるで救いを求めるように地上に半分露出していたことが発見のきっかけとなり、捜査員のひとりは「きっとホトケさんが、ここに埋められているのよ、早く掘り起こして、と自分で知らせたんだよ」と青い顔でつぶやいていた。
また、その右手の小指は第二関節部分から鋭利な刃物によって切り取られた形跡があり、まだ見つかっていない。そして右手首には『二人目』と書かれた荷札が針金で巻きつけられており、勝ち誇ったような連続殺人の犯行宣言とも受け取れるメッセージに、捜査本部は色めき立っている≫
「里奈……」
通行人に後ろから突き飛ばされても、龍一はそのことにさえ気づかぬほど動転していた。
「里奈……おまえなのか」
自分よりも四つ年上で、港区の外資系企業に勤めている美人OL佐々木里奈──それは、龍一が大学三年の夏に六本木のクラブで知り合い、結婚を前提に一年以上つきあった末に、翌年のクリスマスを目の前にして、突然ふられてしまった、あの里奈に間違いなかった。
あれから四年以上の歳月が経ち、さすがに里奈のことなど思い出す日もなかったのに、突然、その名前が思いもよらぬ形で目に飛び込んでくることになった。
(誰が……誰がこんなことを)
そして脳裏に、父・正晴の顔が浮かんだ。
(まさか)
龍一は激しく首を振った。
(ありえない。いまになってオヤジが里奈を殺すことなんて、ありえない。その理由がない)
だが、龍一の視線は、おぞましい猟奇殺人を伝える活字の上を何度も行き来した。
『バラバラに切断』
『約二メートルの深さにまで掘られた土中に、まとめて埋められて』
『腐敗がかなり進行し』
『腐乱した右手の先端が、まるで救いを求めるように地上に半分露出』
『右手の小指は第二関節部分から鋭利な刃物によって切り取られた形跡があり、まだ見つかっていない』
それはまさに、粘液状の黒い泥を吐き、指の骨らしきものを口から吐き出した、ゆうべの未知子が暗示する惨状そのものではないか。
(だけど、だけど……)
龍一は荒い息で胸を上下させた。
(四年前に別れて、いまではまったく連絡もとっていない里奈が、うちのオヤジによって殺される理由は、どう考えてもない。何百回考え直しても、ない。当事者のぼくでさえ、いまになって里奈を殺す動機などないのに、どうしてうちのオヤジに彼女を殺す理由なんて見つけられるんだ)
それでも、ここまでくれば、もう知らぬ顔で通すことができないのは龍一にもわかっていた。なぜなら、捜索願が出されていた段階とは異なり、里奈がバラバラ殺人の犠牲者だと確定し、捜査本部まで置かれた以上は、必ず彼女の交友関係が洗い直され、たとえ四年前であろうと、たとえいまはまったく連絡をとっていなかろうと、龍一のところに刑事がやってくるのは時間の問題に思えたからだ。
終電の発車まであとわずかしか時間がないにもかかわらず、龍一は舗道の真ん中で立ち止まったまま、惨劇を伝える新聞を小脇に抱え、携帯電話を取りだして耳に当てた。
短縮番号でかけたのは、両親が住む実家の固定電話だった。無意識にその番号を選んでから、父親の携帯にすればよかった、と思った。だが、かけ直す前に相手が出た。
父の正晴ではなく、母の恵津子だった。
「龍一、あなた、ゆうべはどうしたのよ!」
息子からの電話だとわかるなり、母親は、きつい声で叱りとばしてきた。
そういえば、会社には怪しげな言い訳をしたものの、母親にはメールで「詳しい事情はあとで話す」と告げたきり、この時刻になるまでほうっておいたのだった。
「きょうはちゃんと帰ってくるんでしょうね」
「ああ、もちろん」
「いまどこなの」
「蒲田」
「蒲田? うちとぜんぜん方角が違うじゃない」
「仕事だよ」
「とにかくね、けさ会社の人から龍一さんが出てこないんですがと電話を受けて、びっくりしてマンションに行ったけど、そこにも姿がなくて、お母さんがどれぐらい心配したかわかってるの?」
「わかってるって」
「わかってるんなら、今夜はこっちにきなさい」
「いいよ」
「きなさい! お母さんもね、あなたからしっかり説明してもらいたいのよ。なぜ会社を無断欠勤するような真似をしたのか」
「だから無断欠勤にはならなかったって。遅刻で済んだんだって」
「いいから、きなさい」
「やだよ」
まるで小学生の子供と母親のやりとりのようになった。母と話すといつもこうなるのが、龍一はイヤだった。しかし、その一方では、今夜のうちに父親に会って真偽を問い質《ただ》さねばならないという気持ちもあった。
「ところで、オヤジは」
「もうとっくに寝ましたよ。お父さんの早寝早起きは、あなたも知ってるでしょ」
「オヤジも、怒ってた?」
「あたりまえでしょうが」
「じつはさ……オヤジに話したいことがあるんだ」
「だったら、明日の朝になさい。その前にお母さんがちゃんと話を聞きます」
「いや、オヤジじゃないとダメなんだ。それも今晩のうちじゃないと」
「なんで」
「そっちに行ってから話す。オヤジにね」
「なぜ、お母さんには話せないの」
「………」
「それは、けさの無断欠勤に関係した話?」
「欠勤じゃないんだよ」
「いいから答えなさい。お母さんには言えなくて、お父さんにだけ話せることって、何なのよ」
電話口で問いつめる母親に向かって、龍一は大きなため息をついた。
そして言った。
「母さんが知ると、パニックを起こすような内容だよ。だから言えないんだ」
「なんなの、それ……」
「とにかく」
腕時計を見て、龍一は言った。
「いまからそっちに行くよ。だから、オヤジを起こしておいて」
[#改ページ]
[#小見出し]  三. ふたつの霊[#「三. ふたつの霊」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
東京西部の青梅《おうめ》市は、その北辺で埼玉県飯能市と接している。その飯能市を東から西へ横切っているのが、都内の池袋《いけぶくろ》から埼玉県の秩父《ちちぶ》市方面を結ぶ私鉄の西武《せいぶ》池袋・秩父線。そして、鉄道線路と重なるようにして、国道299号線が通っていた。
299号線は、くねくねと蛇行する高麗《こま》川に沿っているために、飯能市を過ぎてからは長い直線はほとんどなく、カーブの連続だった。
土曜の深夜三時を回ったころ、あまり車の行き来もないその国道299号線を、ヘッドライトを灯《とも》した一台の乗用車が、西に向けて猛スピードで走っていた。ときおりオーバースピード気味にカーブへ突っ込み、遠心力に対抗するタイヤが激しく泣いた。
ハンドルを握っているのは、岡本正晴、そして助手席には息子の龍一。
彼らは都内の上池袋にある自宅を出てから首都高速に乗り、さらに圏央道《けんおうどう》に入って埼玉県の入間《いるま》インターで下りると、国道299号線をひたすら西北西に向かって進んでいた。その間、親子はまったく口を利かなかった。ケンカをしているわけではない。父・正晴の心理状態が尋常ではなかった。
正晴は、いつものように十時過ぎには布団に入って寝ていた。ところが深夜の零時近くなって、妻の恵津子から起こされた。息子の龍一が、どうしても今晩中に話しておきたい重要な話があるので、起きていてほしいという。そして戻ってきた息子は、母親には席を外させ、正晴とふたりきりになったところで、『美人OLバラバラ猟奇殺人』の見出しが踊る夕刊紙をいきなり目の前にほうり出し、こうたずねてきた。
「これは父さんの仕業なのか」
問い質された正晴の全身が、激しく震え出した。
「ちょっと龍一と出かけてくる」
正晴が妻の恵津子にそう言い置いて、庭先のガレージに向かったのは、すでに深夜の一時をだいぶ回ったころだった。土日の休みが控えているとはいえ、あまりにも唐突な夫と息子の外出に、恵津子は必死にその理由を問い質そうとした。
だが正晴は、顔面|蒼白《そうはく》のまま何も答えなかった。息子の龍一も無言だった。そして正晴は車の運転席に乗り込み、龍一を助手席に乗せた。
「お父さん! 龍一! あなたたち、何なのよ!」
庭先まで追いかけてきた恵津子の叫びを後ろに残し、父と息子を乗せた車は西へ向かった。
ハンドルを握った正晴は、目的地を息子に告げなかったが、龍一は車が進んでいく方角から行く先を察していた。夕刊紙の記事に書かれていた佐々木里奈の遺体発見場所──かつて飯能市と旧名栗村の境となっていた天目指峠である。そして、その推測が当たっているという確信が増すにつれ、龍一の気持ちは暗く沈み込んでいった。未知子に取り憑《つ》いた霊の語ったことが事実であると、父親自ら認めたようなものだった。そしてその霊が、ほかでもない里奈であることが決定的になった。
たしかに、大学時代つきあっていた里奈は、タバコと酒が大好きだった。酒はともかく、タバコ嫌いの龍一が吸うのをやめてくれと再三頼んだにもかかわらず、すでに社会人として働いていた里奈は「これは私のストレス解消。そしてこれは私の権利」と言い張って、決して喫煙の習慣をやめようとはしなかった。それは、自らに喫煙も飲酒の習慣もない、むしろどちらも体質的に受けつけないという月舘未知子が、洋風居酒屋で見せたあのグラス片手に紫煙をくゆらしていた姿と一致していた。
だが──
仮に自分の父親が里奈を殺害し、それを怨《うら》みに思った霊が月舘未知子に取り憑いたことを現実として認めるにしても、龍一にはどうしても理解できないことがふたつあった。
第一に、別れて四年にもなる里奈を、なぜ父親が殺さねばならなかったのかという疑問。第二に、里奈の怨霊《おんりよう》が、なぜ月舘未知子という女性に取り憑いたのかという、その選択の必然性が謎だった。
未知子の部屋でまのあたりにした驚愕《きようがく》の憑依《ひようい》現象にショックを受け、龍一は彼女に、取り憑いた霊との関係を詳細に確かめるだけの余裕がなかった。だが、明らかに未知子にとって、憑依した霊は見ず知らずの関係のようだった。そして龍一も、木曜の夜までは、月舘未知子とはまったく面識がなかった。
となると、もしもほんとうに父親が犯人であるなら、里奈と未知子を結ぶ接点は、父・正晴にあるということになる。
それをいつ確かめるか──
いや、龍一のほうから確かめるまでもなく、父は何かを息子に打ち明けようとしていた。里奈が殺されてバラバラにされた──あるいは、生きながらバラバラにされた──惨劇の現場で……。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
車は西吾野《にしあがの》駅を過ぎた先で国道から分かれて左に入り、川を渡って山あいに入っていった。天目指峠に向かう県道395号線である。
天目指峠の標高は四八〇メートルと決して高くはないが、旧名栗村へ向かう峠越えの道は急|勾配《こうばい》とヘアピンの連続で、かつては未舗装でガードレールもない林道であったため、一九七〇年代ごろまでは自動車ラリーのコースとして、おもに名栗村側から上るルートがしばしば使われていた。
いまは舗装され、県道に昇格しているとはいえ、それでも一般ドライバーがスピードを出して走れる道ではなかった。そこを定年間近のサラリーマンである岡本正晴が、右に左にとせわしなくハンドルを切りながら、可能な限りのフルスピードで峠道を上っていった。道の両側は鬱蒼《うつそう》とした樹林で、ふたりの乗った車のヘッドライトが濃密な闇を切り裂き、そして後方では、またその闇が閉じられていく。
カーブが連続する峠道を、まなじりを吊《つ》り上げて運転する父親の横顔を、龍一は遠心力で左右に揺さぶられながらじっと見つめていた。計器盤の明かりとヘッドライトの反射光に照らされた父親の顔は、鬼気迫るものがあった。
父親がこれほどまでに激しい運転をするのを、龍一は初めて見た。また、これほどのスピードで峠道を駆け上るにふさわしい運転技量を、父親が持っているという確信もなかった。だから龍一は、道が険しくなるにつれ、しだいに不安に襲われた。
「父さん」
家を出てから初めて、龍一は父親に声をかけた。
「あまり無理をするなよ。目的地に着く前にジコっちゃ、どうしようもないだろ」
すると正晴は、アクセルをゆるめずに答えた。
「急《せ》かされている」
「急かされている? 何に」
「後ろを見ろ」
父親の言葉に、後ろからほかの車が追ってきているのかと思い、龍一は半身をひねって後方に目をやった。だが、断続的に踏まれるブレーキランプの赤い光が闇の中で点滅している以外に変わった様子はない。
身体の向きを戻して、龍一は父親に言った。
「何も見えないけど」
「車の外じゃない。後ろの席だ」
「後ろの席?」
龍一は、もう一度身体をひねった。
だが、後部座席にはクッションがひとつ置いてあるだけだった。
「やっぱり何もないけど」
「いるんだ」
「え?」
父親の表現に、龍一の背筋を冷たいものが走った。
「いる、って……何が……いるんだよ」
「じかに見てもダメだ。これで見ろ」
ハンドルさばきの合間を縫って、正晴は左手でバックミラーの向きを変えた。龍一がバックミラー越しに後部座席を見られるように。
その瞬間──
「うわっ!」
龍一が両目を大きく見開き、短い叫び声を上げた。
鏡の中に、後部座席に座る女が映っていた。
里奈だった。
バラバラ殺人の犠牲者として報道された佐々木里奈が、赤いコートに白いマフラーを巻いた姿で後部座席に座っていた。いまの季節の服装ではない。そのことだけでも、まともな人間でないことがわかった。
バックミラーの中で、龍一の目と彼女の目が合った。いかにも怨めしげな眼差《まなざ》しだった。そのあと彼女は、淋しげに笑った。
「あう、あう、あう……」
何かを言おうとしたが、恐怖のあまり言葉にならなかった。
「わかったか」
短く言うと、正晴は龍一のほうへ向けていたバックミラーを、また自分のほうに戻した。父親も、恐怖と緊張で頬をピクピク痙攣《けいれん》させていた。
「ほんとうは、ミラーをあさっての方角へ向けたいところだが」
父親は、アゴをしゃくって言った。
「一度、鏡の向きを完全にずらしたら、ものすごい金切り声で叫ぶんだ。龍一の耳には聞こえなかっただろうがな。……どうやら、こっちをずっと睨《にら》みつづけていたいらしい。だから仕方なく、目を合わせつづけるしかなかった」
「い、い、いつから」
龍一は、必死に声を絞り出した。
「いつから彼女は座ってるんだ」
「乗ったときからだ」
「うちのガレージを出るときから?」
「そうだ。ずっといっしょについてきた」
「………」
抑えようとしても、龍一の身体の震えが止まらなかった。
「龍一」
ヘアピンカーブに沿ってハンドルを回しながら、父親が言った。
「恐かったら、もういちどふり返って、じかに見ろ。鏡越しでなければ姿は見えない」
「いや、そんなことで自分を……ごまかしたく……ない。ぼくは……逃げない」
あえぎながら言うと、龍一は震える手を伸ばして、父親が戻したバックミラーの向きを、また自分のほうに向け直した。
だが、こんどは何も映っていなかった。
「いなくなった……もう鏡の中にも見えない」
少しだけ安堵《あんど》の吐息を洩《も》らし、運転席に目を戻したとたん、龍一は口を大きく開けたまま凍りついた。
運転席に座っているのが父ではなくなっていた。赤いコートに白いマフラーを巻いた里奈がハンドルを握っていた。そして龍一のほうへ首をクルッと回し、唇の両端を吊り上げて笑った。
「ひさしぶり、龍一」
「だああああああーっ!」
龍一の開いた口から、果てしなくつづく絶叫がほとばしった。
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
同じころ──
上池袋にある龍一の実家では、寒々しい蛍光灯の明かりの下、母親の恵津子がダイニングテーブルに向かって座り、息子が持ち帰った夕刊紙に目を落としたまま、ショックから立ち直れずにいた。
その背後で、壁に掛かった時計が午前三時十五分を指している。だが、眠気などはまったく襲ってこなかった。
佐々木里奈──記事が伝える惨劇の被害者は、もちろん恵津子も知っていた。息子の龍一が大学生のときに夢中になっていた、四歳年上の女だった。記事の中に(30)という年齢の表記を見たとき、もうそんなに経ったのか、と、改めて月日の流れを感じた。
当時、ひとり息子の龍一が四歳年上のOLに夢中になり、卒業したら彼女と結婚したいというのを聞いて、恵津子は夫の正晴とともに猛然と反対したものだった。龍一は「一度里奈をうちに連れてくるから、本人に会ってみれば、父さんも母さんもぼくの判断が間違っていないことをわかってくれるよ」とまで言ってきたが、恵津子も正晴も、里奈に会うことすら拒んで反対の姿勢を貫いた。
里奈個人の人柄がどうこういう問題ではなかった。龍一がまだ学生なのに、相手が四歳年上の勤め人であることが、恵津子たちはどうしても引っかかった。息子がいいように遊ばれていると思ったのだ。そもそも、龍一の結婚願望はそのときにはじまったことではなく、高校時代のときから、クラスメイトの女の子を、将来この子と結婚したいと真顔で言って、家につれてきた。たしか久美《くみ》という名前で、可愛いというよりも素朴な感じの女の子だった。まるで子供のおままごと、という感じだった。
さすがにそのときは、高校を卒業すれば龍一の熱も冷めるだろうと思い、あえて親のほうから「結婚なんてとんでもない」という反対は表明しなかった。父親の正晴も「龍一も年ごろだからな」と苦笑して、軽く受け流していたほどだった。そして案の定、高校卒業とともに、ふたりの関係は自然消滅したようだった。
だが、大学時代に持ち上がった里奈との結婚話は、社会人になるときが目の前に迫っていただけに、ヘタをすればそのまま実現してしまいそうな予感もあった。だから恵津子と正晴は、こんどは真剣に龍一を思いとどまらせようとした。
しかし龍一の態度も頑《かたく》なで、「父さんや母さんが里奈に会ってくれないなら、ぼくも勝手に話を進めさせてもらう。結婚式は親抜きでも結構だ」と、猛反発した。さらには「親には、ぼくの人生を拘束する権利なんかない」と感情的にわめきちらし、ついには家出まで匂わせるほどだった。こうなってくると、同じ女として、恵津子は会う前から里奈に反感を抱くようになった。そして、なんとか息子と別れさせねばと焦りはじめ、自ら相手のところへ乗り込んで直談判《じかだんぱん》しようと決意した。
ところが、龍一が大学四年の十二月、急にふたりに別れが訪れた。龍一はその理由を決して親には語ろうとはしなかったが、どうやら、里奈に年齢相応の恋人ができたことが原因のようだった。
龍一の落胆ぶりは激しかったが、正直、恵津子はホッとした。と同時に、夫の正晴とも話し合い、あれほど結婚願望の強い息子ならば、社会人になるのをきっかけに、むしろ親の自分たちが安心できる縁談を先に持ち込んで、おかしな女に引っかかる前に、早く身を固めさせたほうが賢明だという結論に達した。つまり「お見合い」のすすめである。
しかし、龍一は意地になって親がセッティングした見合い話に応じなかった。そして実家を出て、賃貸マンションでのひとり暮らしをはじめた。
その暮らしをはじめるさいに、マンションを借りるにしても実家の近くにしなさいと、恵津子が頑なに言い張ったのは、なにも龍一をマザコン息子に仕立てたいためではなかった。ふたたび軽率な結婚話に踊らされないよう、監視をする意味合いがあったのだ。
二十六にもなる息子のところへ、ひんぱんに料理を届けたり掃除をしにいったりするのも、親バカから出た行動ではなく、女の気配がないかどうかのチェックのためだった。社会人になった息子の恋愛に干渉するという意識は、恵津子にはまったくなかった。むしろ龍一が遊び人であれば、よほどそのほうが気が楽だった。
その点で、龍一は誤解をしていた。龍一は同期の坂井省介が、母親から、息子が遊び人で安心だと言われたことをひどくうらやましがったが、じつは龍一の親も、省介の親とはまた別の意味で、息子がもっとゆとりを持って恋愛を楽しむことを望んでいたのだ。
なぜ龍一が、あれほど結婚というものに憧《あこが》れを抱いているのか、恵津子にはまったく理解ができなかった。
仲の良い両親の姿を見て、結婚とはいいものだと憧れる子供もいるだろうが、恵津子と正晴の夫婦関係は、子供が憧れるほど仲|睦《むつ》まじい関係ではなかった。かといって、結婚なんてするものか、と子供に失望を与えるほど不仲でもない。愛とか感動とは無縁の、淡々とした夫婦関係がつづいているといってよかった。見本としては、そこそこの及第点といったところか。だから恵津子は、自分たちの家庭環境が息子の結婚観に大きな影響を与えたとは思えなかった。だが、では何が龍一を結婚に駆り立てるのかという答えは、親として見いだせずにいた。
ともあれ、その龍一が、衝撃的なニュースの載った夕刊紙を持ち帰ってきた。大学時代に夢中になり、将来の妻と決め込んでいた里奈の惨殺である。だが、そのニュースはあくまで「昔つきあっていた女の身に起きた悲劇」にすぎないはずだった。それなのに、龍一だけでなく、夫の正晴までが血相を変え、恵津子には何の説明もせずに、夜中だというのに車でどこかへ出かけていった。
その理由がどうしてもわからなかった。電話かメールで連絡をとろうとしたが、ふたりとも携帯の電源を切っていた。
(いったい、何が起きているの)
センセーショナルなレイアウトの新聞記事を見つめながら、恵津子は胸騒ぎを抑えられず、両腕を抱え込みながらうつむいた。
と、そのときだった──
「おばさん」
後ろで若い女の子の声がした。
うなだれていた恵津子は、ビクンとして身を起こした。
いまは夜中の三時過ぎ。そして家の中には恵津子がひとりで取り残されており、戸締まりもしっかりしてあった。なのに、聞いたことのない女の子の声がした。しかも、自分の真後ろで。
(だ……だ……だれ)
心の中で問いかけてはいるが、声には出せない。
(空耳? そうよね。そうとしか考えられない)
幻聴であることを、恵津子は懸命に自分に言い聞かせようとした。だが、またしても後ろで女の子が呼びかける声がした。
「龍一くんのおばさん」
空耳ではなかった。恵津子の全身が冷たくなった。その声は、背中のすぐそばまで近づいていた。しかし、身体が硬直してふり返れない。
「覚えていますか。久美です」
「く……く……く……」
金縛り同然の状態から、恵津子はなんとかして声を出そうとした。
「くみ……ちゃん……って」
「高校のとき、龍一くんに仲良くしてもらった沢田《さわだ》久美です。一度この家にもおじゃましたこともあります」
「あ、あ、ああ、そう……だった……わね……久美ちゃんね」
と、応じながら、恵津子はなんとかいまの状況に論理的な説明を加えようとした。
龍一とは八年も前に疎遠になったはずの高校時代の同級生が、じつはいまも交流があって、何か重大な用件で龍一に大至急会う必要が生じたために、昔きたことのあるこの家を訪れた。また、恵津子としては夫と息子が帰ってくるまで戸締まりを完全にしていたつもりが、玄関かどこかが開いていて、そこから久美が入ってきた──そう考えようとした。
だが、すべてに無理があった。第一、いまの久美は龍一と同じ二十六歳になっているはずなのに、背後に聞こえる声は少女のそれだった。
「ね……ねえ、久美ちゃん」
自分の声が小刻みに震えているのを意識しながら、恵津子は前を向いたまま、背後に立っているはずの相手にたずねた。
「あなた、どこから入ってきたの。玄関、開いてた?」
「いいえ、閉まっていました」
「じゃ、どこから」
「さあ……」
「さあ、って、どこかが開いていたから入ってきたんでしょ」
「………」
「で、こんな時間に何の用なの」
「お水、飲ませてほしいんです」
その声を、恵津子は後頭部のあたりに感じた。相手は、もう恵津子の身体にくっつきそうな位置まできているようだった。
「おねがいです。お水、飲ませてほしいんです」
「それだけのために、こんな時間にきたの?」
「おねがいです。お水、飲ませてほしいんです」
恵津子の問いかけには答えず、久美の声が同じセリフを繰り返した。
「私、長いあいだ土の中に埋められていたから、喉《のど》がカラカラなんです」
「なんですって?」
と、きき返したとき、恵津子は、少し離れたところに置いてある、電源を切ったテレビ画面に自分の姿が映っていることに気がついた。そして、自分の背後にはセーラー服を着た少女が立っていた! 忘れようにも忘れられない、龍一が家につれてきたときの、高校時代の久美の姿だった。
激しい衝撃が全身を貫いた。そして恵津子は、勇気をふりしぼって後ろをふり返った。
いない──
真後ろに立っているはずの少女がいない。
恵津子はもう一度、テレビ画面へ目を向け直した。そこには間違いなく、セーラー服の少女が立っていた。
「おばさん」
実体として存在しない少女の声が、訴えてきた。
「私、くるしいんです。黒い土がお腹の中までいっぱい詰め込まれて、息ができないんです。……お水、ください。……お水、飲ませてください」
動けない。恵津子は動けなかった。彼女はいま恐怖による金縛りを生まれて初めて体験していた。
と、背後で「オエッ、オエッ、オエッ」と、苦しげなうめき声が聞こえてきた。そして、恵津子の肩先に粘液状の黒い泥がなだれ落ちてきた。さらに人間の指の骨が一個、黒い泥に混じってダイニングテーブルの上に転がった……。
恵津子は気を失った。
[#改ページ]
[#小見出し]  四. 峠の地獄[#「四. 峠の地獄」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
運転席にいた父親が、いきなり佐々木里奈の姿に変わった瞬間から、龍一は目を閉じ、歯を食いしばり、たすき掛けになったシートベルトを握りしめて震えつづけていた。
なかば白骨化したバラバラの腐乱死体となって見つかった里奈が、生前の姿で車を運転している。ありえない光景だった。だが、それを龍一は見たのだ。そして、それまでハンドルを握っていた父親がどうなったかは、わからない。考える余裕もなかった。
ヘアピンカーブで運転席側へ身体が持っていかれそうになるたびに、龍一は必死に足を踏ん張って体勢が崩れるのをこらえた。里奈の霊のほうへ倒れ込むことだけは絶対にしたくなかった。だから龍一は、ジェットコースターに乗ったような気分で、恐怖と激しい遠心力とに負けないよう懸命だった。
やがて車が急にスピードを落とし、止まった。龍一も身体の力をようやく抜いた。
雰囲気からすると峠の頂上に着いたようだったが、『隣にいるもの』を目にしたくなくて、まだまぶたを開けられなかった。
エンジンが切られた。それに伴って、ヘッドライトも消された。
静寂──
四月の峠では、まだ虫も鳴かない。そして、頭上にはぶ厚い雲が広がっているために、星ひとつ出ていなかった。窓ガラスを閉めきった車内には、音も光も流れ込んでこない。その究極の「無」の中で、龍一は依然として目を閉じたまま、こめかみのあたりで脈打つリズムだけを感じていた。
(里奈……なんで化けて出てきた)
震えながら、心の中で問いかけた。
(おまえとは四年前に別れた。しかも、おまえのほうからぼくを捨てたんじゃないか。だから里奈が、ぼくを怨《うら》む筋合いなどまったくないはずだ。それなのに、いまになってなぜこんな形で出てくるんだ。やっぱり、うちのオヤジに殺されたのか)
すると龍一の脳の奥底に、女の声が飛び込んできた。
「不幸な人間は、幸せの最後をいつまでも覚えている」
間違いなく、里奈の声だった。だが、それは物理的に鼓膜を振動させる音声ではなく、脳に直接働きかけてくる心のメッセージだった。
「五年経とうと、十年経とうと、不幸な人間は幸せだった最後の日を、いつまでも覚えている。いついつまでも」
(何が言いたいんだ、里奈。何が……)
そのとき、龍一の右肩に手がかかり、身体が激しく揺さぶられた。
「龍一、おい龍一。着いたぞ、峠の頂上だ」
里奈ではない、父・正晴の声だった。
びっくりして目を開けると、運転席には里奈ではなく、父・正晴のシルエットがあった。暗闇のために顔の表情は見えないが、その姿形、そして声は間違いなく父だった。死んだ里奈がそこに座って運転していたのに、また父親の姿に戻っていた。
だが、龍一は警戒を解かなかった。
(ぼくにも見えるようになったのかもしれない……人に取り憑いたものが)
龍一は、野口伸吾と同じ能力が自分にも備わったのかもしれないと思った。そして、かすれた声でたずねた。
「おまえは……誰だ」
「誰? 何を言ってるんだ。父さんに決まっているだろう」
「ウソだ。たったいままで、そこには里奈が座っていた」
闇の中で、龍一が言い張った。
「赤いコートに白いマフラーを着た里奈が、ハンドルを握って運転していたんだ。里奈、おまえがオヤジの声を出しているんだろう」
「明かりを点《つ》けるから、しっかり自分の目で見て確かめろ」
その声と同時に、ルームライトが点いた。決して明るい照明ではないが、暗闇に包まれていた龍一にとっては、まばゆいほどだった。
運転席には、間違いなく父の正晴がいた。おもわず龍一は、手を伸ばして相手の腕をさわってみた。生身の父親だった。
そのことを確認すると、龍一は後部座席をふり返った。人のかたちをしたものは、いなかった。つぎにバックミラーを自分のほうに向け、鏡越しにもう一度後ろを見たが、やはり里奈は映っていなかった。
「女は消えたよ」
息子の困惑する様子を見ながら、父親が言った。
「途中までは、バックミラーの中でこちらを睨《にら》んでいたが、急に後部座席から姿が消えたんだ」
「ウソだ」
龍一は首を振った。
「間違いなく、里奈はそこで運転していた。そして、助手席のぼくを見て笑ったんだ」
「おまえがそういうものを見たことを、否定しようとは思わん」
正晴が硬い声で応じた。
「父さんと龍一が、別の形で幻覚を見せられている可能性はある」
「幻覚?」
「取り憑《つ》かれているんだ」
正晴は、明確にその言い回しを使った。
「我々は、女の霊に取り憑かれているんだ」
「ぼくには憑いていない」
龍一が言い返した。
「霊が見える友だちに確かめてもらったんだ。ぼくには何も憑いていない。でも、父さんはどうだか、まだわからない」
「まあ、そう思うならそれでいい。時間のムダはしたくない」
「どうするんだ、これから」
「車の外に出る」
「出て、どうするんだ」
「いいから、ついてこい」
正晴は運転席の足元に備えられていた懐中電灯を取り、それを点灯すると、代わりにルームライトを消した。
オレンジ色の明かりが正晴の顔を下方から照らし出し、幽霊のような凄《すご》みを与えた。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
都内上池袋にある岡本家のダイニングルームで、恵津子が気絶をしていたのは、時計の動きで確認すると、わずか五分ほどのことだった。が、彼女にとっては何時間も経過したような感覚だった。
意識を取り戻すと同時に、失神直前の場面がよみがえり、反射的に自分の肩先を見た。苦しいから水を飲ませてほしいと訴えてきたセーラー服の少女が、背後から黒い粘液状の泥を吐きかけてきた。その中には人間の指らしき骨も混じっていたはずだった。
だが、いまはいくら周囲を見回しても、その痕跡《こんせき》がない。
(夢? それとも、私の頭がどうかなってしまったの?)
恵津子は戸惑った。そして、得体の知れない恐怖に包まれた。
(お父さん……龍一……どこにいるの……早く帰ってきて)
恵津子は手近に置いてあった自分の携帯を取り上げ、もう一度、夫と息子の携帯に連絡をとってみた。だが、やはりどちらも通じなかった。
(だめ……朝がくるまで、この家にはひとりでいられない)
蛍光灯の青白い光に照らされた部屋の中で、恵津子は震えた。ようやく身体が金縛り状態から解け、四方を見回すこともできた。テレビの画面に反射して映っていたセーラー服姿の久美は、いまは見えるところにいない。だが、この家の中にいないという保証はないのだ。
(いったい、あの子は何なの。人間? それとも幽霊?)
龍一の高校時代のガールフレンドが、いまも同じ姿でいるはずがなかった。だから、あれが人間だとはとうてい思えなかった。そして、その得体の知れない存在と、夜が明けるまでいっしょにいる勇気などなかった。
(どこかに逃げなければ)
恵津子はよろめきながら立ち上がった。
(どこでもいいから、夜中でもにぎやかな場所に逃げなければ)
いちばん近いのは、電車でわずか一駅の池袋だった。新宿、渋谷《しぶや》と並ぶ大きな街には、夜も眠らぬ繁華街が広がっている。終夜営業の喫茶店も数え切れないほどある。とにかくいまは、大勢の人がいる場所に自分の身を置きたかった。ただし、この時間は電車がまだ走っていないから、タクシーを呼ぶしかない。恵津子はテーブルのそばに立ったまま、携帯に登録した無線タクシーの呼び出し番号を押そうとした。
そのとき、廊下のガラス戸に沿って掛けたカーテンが、シャッ、シャッ、シャッ、シャッと鋭い音を立てて、勢いよく一枚ずつ開いていった。
驚いて立ちすくむ恵津子の前で、こんどはガラス戸の向こう側にある雨戸が勝手にはずれだした。戸袋のほうへスライドしていくのではなく、ガタガタと激しい振動音を立てながら、一枚ずつ庭のほうへ倒されていくのだ。
すべての雨戸がはずれ、ガラス越しに夜の庭先が見えた。恵津子は息を呑《の》んだ。いつも見慣れた我が家の庭ではなかった。
芝生の真ん中あたりに、サッカーボール大の真っ白な発光体が、おとなの背丈ほどの高さに浮かんでいた。その輝きは強烈で、あたりはカクテル光線が灯《とも》された野球場のような明るさになっていた。そして、その光の球体を取り巻いて、無数の白い蛾が乱舞していた。夜の闇が、謎の発光体に群がる蛾の大群で埋め尽くされているのだ。
一匹一匹は人の爪ほどしかない小さな蛾だったが、数千匹どころか数万匹という単位で集まって渦を巻いているために、それじたいが巨大な怪物にみえた。あまりの密度に、飛び交う蛾どうしが空中でぶつかりあい、大量の鱗粉《りんぷん》を舞い上げている。それが宙に浮かぶ発光体の輝きを受けて、白い砂嵐の様相を呈していた。見たこともない光景だった。
あぜんとする恵津子の前で、輝く球体はゆっくり回転しながら、ちょうど丸めた帯をほどくように、白くて長い布状のものに変化をしはじめた。
やがてそれは白いマフラーになった。身につける人間は存在しない。マフラーだけが、明るく輝きながら白い蛾の大群を指揮する司令官のように、夜の闇を踊りながら泳いでいた。……と、それがいきなり勢いをつけて、恵津子のほうへ飛んできた。
けたたましい音を立ててガラス戸が割れ、光り輝く白いマフラーが室内に飛び込んできた。そして恵津子がよける間もなく、その首に絡みついてきた。それに先導される恰好《かつこう》で、ガラスの割れたところから、数万匹に及ぶ白い蛾の大群も一斉に入ってきた。
部屋の中にもうもうと鱗粉が立ちこめ、その細かな粉末が、首を絞められて苦しむ恵津子の目に入り、鼻に入り、口に入り、喉《のど》から肺へと吸い込まれていった。
恵津子は激しく咳き込んだ。だが、マフラーがさらにぐいぐいと喉の周りに食い込んでくるために、咳《せ》き込んだあとの空気の取り入れが満足にできない。
片手に持っていた携帯電話をほうり出すと、恵津子は巻きついたマフラーを両手でほどこうとした。だが、こんどはマフラーと喉のあいだに差し込んだ指が抜き取れなくなった。それほど強烈な締めつけ方だった。
(息が……くるしい)
恵津子は、顔を真っ赤にしながら床に倒れ込んだ。
隣近所に助けを求めようとして叫ぼうにも、声を出せなかった。代わりに何百匹もの小さな白い蛾が、あえいでいる彼女の口につぎつぎと入り込んできた。
恵津子の口の中で、蛾の群れがバタバタと音を立てて羽をふるわせながら鱗粉をまき散らした。そのうちに、その気持ち悪さと息苦しさとで、恵津子は気が遠くなるのを感じた。
だが、最後の力をふりしぼってもがいていると、喉を締めつけるマフラーのあいだからなんとか片手が抜き取れた。恵津子は床に落ちていた携帯へ急いで手を伸ばし、白い鱗粉まみれになった指でボタンを押した。1、1、0と……。
一一〇番受付台のオペレーターが出た。しかし、携帯は伸ばしきった手の先にあり、しかも恵津子の耳の中にまで無数の蛾が侵入してきているために、警察側の呼びかけは聞こえなかった。鼓膜に向かって突き進む蛾の集団が立てるガサゴソ、ガサゴソという、やたらに大きな音だけが、耳の中で響いた。
恵津子は、自分の身体が蛾の大群に完全に覆い尽くされているのを感じた。目を開けようとしても、まぶたの隙間から小さな白い蛾が眼球に入り込もうとしてくるので、それができない。しかし、数ミリの幅で一瞬だけまぶたを開いたときに、恵津子は、倒れている自分を、赤いコートを着た女が見下ろしているのを確認した。
高校時代に龍一のガールフレンドだった沢田久美とは別人だった。もっと年長の、キャリアウーマン然とした顔立ちの女だった。
それが、龍一が大学時代に結婚を真剣に考え、親に引き合わせようとした佐々木里奈であることまでは、恵津子にはわからなかった。
コートの赤を網膜に焼きつけたまま、龍一の母親は暗黒の世界に落ちていった。
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
懐中電灯を持った父・正晴のあとを、龍一は無言でついていった。
真っ暗な峠の頂上は、懐中電灯の明かりが届く範囲だけが「存在の世界」だった。残りは「無の闇」である。その中を、正晴は県道からはずれて峠の頂上に広がる樹林の中へ入っていった。
彼が灯す懐中電灯の明かりに向けて、どこからともなく小さな白い蛾が集まってきて、まるでふたりを先導するように光の帯の中を踊りながら舞っていた。だが、いまの段階では、正晴も龍一も照明によって産み出された「存在の世界」に群がる蛾の数だけしか目に入っておらず、「無の闇」の中に、いかに膨大な数の蛾が隠れているかには気づいていなかった。
龍一は父の歩みが止まるまで質問をするのはやめていた。どこへ導かれるかは、きかなくても、もう決定的にわかっていた。そして、その予測が正しいことは、懐中電灯に照らされる地面に、雑草を踏みしだいた跡が目立つようになった点でも裏付けられた。それらはおそらく、捜査陣や取材に訪れた報道関係者によってつけられたものだった。
やがて警察によって張られた立ち入り禁止のロープが、樹林のあいだに張りめぐらされているのが見えた。
佐々木里奈の遺体が山菜採りの男性によって偶然発見されたのは、水曜日の午後。それから丸二日以上が経過していたが、捜査陣はまだ現場の保存が必要と考えているらしい。
そのロープをかいくぐって内側に入ると、四畳半ぐらいの大きさにわたって掘られた、大人の背丈ほどの深さをもった穴が、懐中電灯の光に浮かび上がった。
バラバラにされた里奈が埋められていた場所だった。
報道によれば、腐乱した右手の先端が救いを求めるように地上に出ていたから、山菜採りの人間が気づいたのだという。その表現を思い出して、龍一は背筋が寒くなった。死んでもなお里奈は生きている──そう思わせるにじゅうぶんな発見状況だった。
その遺体発見から三晩目が経過した現在、規制ロープの内側に残された穴の中には、遺体の断片も衣類も残っていなかった。しかし、目に見えるものはすべて捜査陣によって回収されていたが、死者の怨念《おんねん》は除去されずに穴の底に溜《た》まっていた。それが龍一はわかった。
父親の持つ懐中電灯が微妙に揺れているせいなのか、それとも心霊的な錯視なのか、頭部や四肢を切断された里奈が埋められていたあたりの土が、モコモコと動いているようにも見えた。
だが、それ以上に恐ろしいのは、このひと気のない淋《さび》しい峠で里奈を殺したのが、いまそばに立っている自分の父親である、という事実を受け容《い》れることだった。
新聞記事では、遺体が発見された場所は峠の頂上付近としか書かれていないのに、父の正晴は迷うことなく、林の中に張られた規制ロープのところまで歩いていった。それは月舘未知子に取り憑《つ》いた佐々木里奈の霊が語ったとおり、父がここで里奈を殺して埋めた証拠にほかならない、と龍一は思った。
いま父親は、龍一の一歩前に立って穴の底を懐中電灯で照らし、沈黙を保っていた。龍一が話しかけなければ、いつまでも無言で立ち尽くしていそうな雰囲気だった。仕方なく、龍一は後ろから問いかけた。
「父さん、そろそろ答えを教えてくれるんだろ?」
「何の答えだ」
「家で新聞記事を見せてたずねたじゃないか。これは父さんの仕業なのか、って」
「仕業……な」
その言葉遣いを咎《とが》めるように、正晴は繰り返した。
「仕業……か」
「ハッキリ答えてくれよ。父さんがやったのか」
「………」
「返事がないってことは、認めるんだな」
龍一が硬い声で念を押しても、正晴は返事をしなかった。その代わりに、手に持つ懐中電灯の光が激しく揺れだした。
「やっぱり、そうなのか。父さんが里奈を殺したのかよ」
なおも正晴は答えない。しかし、彼の手だけでなく、背中にも感情のさざ波が立っているのがわかった。それを見て、龍一は絶望的な気分になった。父親が殺人者──しかも、バラバラ殺人という猟奇的な行為を犯す人間だと認めざるを得ない瞬間が訪れたのだ。
龍一の膝頭《ひざがしら》が、ショックで笑い出した。その震えを止めようと必死になりながら、龍一は言った。
「たしかにぼくは大学のとき、里奈と結婚を前提につきあっていた。まだ学生の立場なのに、四つも年上の女と結婚しようとしていたぼくの態度は、父さんや母さんからみれば面白くなかっただろう。でも、本人に会ってもらえば、彼女のよさは絶対にわかってもらえると、ぼくには自信があったんだ。けれども、父さんも母さんも、彼女と会うことを頭から拒んだ」
過去をふり返る龍一の声は悲しげだった。
「そしてぼくは、親を無視して里奈との結婚を進めると言ったよね。ぼくの人生を拘束する権利は親にだってない、というような反発もした。だから、そのときに父さんが結婚を妨害しようとして里奈をどうかしたなら、まだ話はわかるんだ。だけど、ぼくは里奈にフラれた。くやしいけど、フラれた。それからもう四年も経っているんだ。なのに、なんでいまになって彼女を殺したんだ。理由を教えてくれ! わけを言えよ、父さん!」
と、突然、すすり泣きの声がはじまった。
一瞬、龍一は里奈の亡霊が泣きながら現れたのかと思った。だが、そうではなかった。泣いているのは、息子に背を向けている正晴だった。
「いまさら……泣くなよ」
龍一は、怒りと戸惑いの両方で声を震わせた。
「泣いたところで、時計の針は元に戻せないんだ。ここでバラバラに殺された里奈は、もう帰ってこないんだ。切り落とされた首は、胴体にくっつかないんだよ」
「そういう言い方を……しないでくれ」
正晴がかすれ声で言った。
「もうやめてくれ、龍一……。父さんを追及するのはやめてくれ」
「なに言ってるんだ。やめられるわけがないだろ。こっちを向けよ!」
龍一は父親の背中をつかむと、強引に自分のほうへふり向かせた。
その反動で、正晴の手にあった懐中電灯が地面に落ち、遺体を発掘した穴の中へと転がっていった。その光を追いかけて、周囲を飛び交っていた白い蛾の群れも、窪《くぼ》んだ地面の底と入っていった。
急に周囲が暗くなった。
「父さん」
龍一は、父親の肩を揺すって言った。
「殺人現場までぼくを連れてきたのに、いまさら何を隠すんだ。なぜ、里奈を殺した。なぜ、いまになって殺した。しかも、どうしてあんな残酷な殺し方をしたんだ。ぼくには知る権利があるはずだ」
「言えない……言えるもんか」
正晴は涙を流しながら首を振った。
「龍一……もう、うちの家族は終わりだ……ほんとうにおしまいだ」
正晴は、息子の前も憚《はばか》らずに声を上げて泣いた。
龍一は理解できなかった。久美も里奈も、結婚願望の強い龍一が、一方的に『お嫁さん候補』に決め込んで恋をした相手だった。高校時代から、龍一は結婚を前提に恋をしていた。それは親からみれば早まった暴走に思えただろう。大学に入ってからも同じような気持ちで、恋人を即・結婚相手とみなした。しかも相手は四つ年上のOL。これもまた親が警戒し、反対して当然だった。
だが、その当時でさえ、息子の結婚を反対するために親が相手を殺すなど、常識では考えられなかった。まして、いまは別れてから何年も経っている。それが龍一には理解できなかった。
そしていま父親が、うちの家族はおしまいだと言って号泣する理由もさっぱりわからなかった。
「龍一……」
嗚咽《おえつ》を引きずりながら、正晴が言った。
「殺したのは、ひとりではない」
「なんだって?」
龍一は真っ青になった。
「警察はまだ気づいていないが、この穴のすぐ隣に、もうひとり女が埋められている」
「………」
龍一は愕然《がくぜん》として、懐中電灯の周りに群れ飛ぶ白い蛾の集団に目をやった。
「里奈のほかにも殺したのか」
「そうだ」
父親が答えても、龍一はにわかに信じられなかった。里奈の遺体発見を大きく伝える夕刊紙には、ヘリから撮影した現場の俯瞰《ふかん》写真のほかに、警察犬も出動した地上の様子を伝えていた。だから二体もの遺体が接近して埋められていれば、その両方が同時に発見されるのが当然だろうという疑問があった。
しかし、そんな疑問にこだわるよりも、父親が殺したのがひとりではなく、ふたりだという衝撃に揺さぶられた。
「誰なんだ、もうひとりは」
「おまえの同級生だ」
「え?」
「高校時代の同級生で、仲のいい女の子がいただろう」
「もしかして……」
龍一は、信じられないという顔になった。
「沢田久美?」
「そうだ」
「なんでだ! どうして久美まで……。いったい、いつやったんだ」
「四年前になるか……」
涙に濡《ぬ》れた頬を手で拭《ふ》きながら、正晴は言った。
「おまえが大学を卒業する前、友だちとハワイへ行っただろう。その少し前だ」
「ありえない……考えられない……信じられない」
龍一は激しく首を振った。
「里奈にしても久美にしても、ぼくと別れて何年も経ってから、なぜ殺されなきゃならないんだ。しかも、父さんに」
「その質問には答えられない。その代わり、私がおまえをここにつれてきた理由を言わせてくれ」
「告白するためじゃなかったのか」
遺体が埋められていた穴を横目に見ながら、龍一は父親を問いつめた。
「自分のしたことを息子にすべて打ち明けるつもりで、ここに連れてきたんじゃなかったのか」
「違う」
「だったら、何なんだ」
「龍一、心して聞いてくれ。そう遠くないうちに、第三の殺人が起きる」
父の予告に、龍一は凍りついた。
「父さん、他人事《ひとごと》みたいに言わないでくれ。いったい、こんどは誰を殺すつもりだ」
「月舘未知子だ」
「………」
龍一は絶句した。
二晩前に出会ったばかりの女の名前が、その存在を知るはずもない父の口から出た。
「聞こえたか、龍一」
穴の中に落ちた懐中電灯の明かりに斜め下方から照らされ、幽鬼のごとき形相になった父親が言った。
「つぎの犠牲者は月舘未知子だ。そして、その運命は決して変えることができない」
「ふざけんなよ!」
龍一は怒鳴った。父親が月舘未知子のことを知っている理由を問いつめるより、感情の爆発が先に立った。
「なにが運命は変えられない、だ。父さんがやめりゃいいんじゃないか。息子のつきあってきた女を殺すというトチ狂ったことを、あんたが思いとどまりゃいいんじゃないか」
「無理だ。その未来は変えられない」
「冗談じゃないよ」
もう自制は利かなかった。
「こんな異常な話が受け容《い》れられてたまるか!」
龍一は両手で父親を突き飛ばした。
その勢いで正晴はバランスを崩し、佐々木里奈の遺体を掘り出した穴に転がり落ちた。唯一の光源である懐中電灯の上に身体がかぶさり、白い蛾の集団が舞い上がるのと同時に、あたりが一瞬、真っ暗になった。
だが、正晴が両手をついて身を起こすと、彼の身体と地面の隙間から懐中電灯の明かりが洩《も》れ、周囲の状況が見えるようになった。そしてまた白い蛾の集団が、光を求めて舞い戻ってきた。
「私に怒りをぶつけても無意味だ、龍一」
捜査陣によって背丈ほどの深さまで掘られた穴の中から、まとわりつく蛾を手で払いながら父親が言った。
「おまえが私を突き飛ばした気持ちは理解できる。いまのおまえにとって、父親の私は悪魔だろう」
「悪魔より最悪だよ!」
「いいだろう。それならそれでいい。罵《ののし》りたくなるのも当然だ。だが、無意味だ」
「なぜ無意味なんだ。何を言ってもムダだということなのか。息子のぼくがどんなに訴えても、父さんは殺人がやめられなくなっているというのか」
「いいか、龍一」
無惨な殺され方をした死者を埋めていた土を身体から払い落とし、正晴はゆっくりと立ち上がった。
「私がおまえに言えることは、どうやっても第三の殺人は止められない、ということだ。ただし、たったひとつの方法を除いては」
「ただひとつの方法って」
「憑《つ》き物《もの》を祓《はら》うことだ。それ以外に、つぎの殺人を止める方法はない」
六本木の超高級マンションで、月舘未知子のおぞましい憑依《ひようい》現象を見たばかり龍一は、父が発した『憑き物』という言葉におののいた。
「父さんに何が憑いているんだ。殺した里奈の霊か? 久美の霊か? それとも人殺しの悪魔なのか」
「龍一、これを見ろ」
正晴は地面から懐中電灯を拾い上げ、自分の周囲を照らした。
土が動いていた。
最初に龍一が穴の中を覗《のぞ》いたとき、土がモコモコと動いているように思えたのは見間違いではなかった。佐々木里奈の埋められていた穴の底が、そして穴の周囲がうねっていた。土の中で何かがうごめいているのは間違いなかった。
やがて、正晴を取り囲む土の壁がボロボロと崩れはじめ、土の中から長さ三十センチ以上にも及ぶ巨大な黄緑色の毛虫が、頭をくねらせながら、一匹、二匹、三匹と這《は》い出してきた。穴の底からもその化け物のような毛虫が湧き出して、あっというまにその数は百匹を超えた。
胴体の黄緑色は、蛍光グリーンと表現してもよいほど闇の中で明るく輝いている。それは懐中電灯の光を反射しているのではなく、自らが発光しているようにみえた。また、蛇腹状のくびれごとに蛍光ブルーの斑点《はんてん》が一個ずつ付いていて、胴体以上に明るい光を放っていた。その斑点からは半透明の針状の毛が無数に生え、自ら放つ光を反射して、キラキラと輝いていた。
その光る巨大毛虫が、死者を葬った穴の四方八方からつぎつぎと這い出してくると、周囲は真昼のように明るくなり、懐中電灯は、もはやあってもなくても同じ状況になった。その数が千を超えるころには、穴の中央に立つ正晴の全身が、毛虫の放つグリーンの光で染まるほどだった。
それまで懐中電灯の明かりに群がっていた白い蛾の群れは、自分たちとは比較にならないほど巨大な発光生物の登場に驚いたのか、光に群がる習性も忘れて一斉に飛び立ち、闇の中へ消えてしまった。
「見えるか、龍一。このおぞましい化け物の集団が見えるか」
正晴は、穴の中から息子を見上げて叫んだ。
「バックミラーに映っていた女といい、この毛虫の集団といい、恐ろしくもおぞましい代物だ。だが、現実には存在しないものが、こうやって私の目にも、おまえの目にも見えている」
「現実には存在しない?」
「そうだ。目に見えているけれど、実在はしていない」
「いるじゃないか、そこに。土を崩しながら這い出してきたやつがいるじゃないか」
「いないんだ、龍一。これが『なにかに取り憑かれる』ということなのだ。そして、こういう現象を引き起こしているのは、人の怨《うら》みであり、人の憎しみなのだ」
父親の言葉に、龍一は月舘未知子の部屋で遭遇した現象を思い起こした。
あのとき未知子の口から黒い泥と人間の指の骨が吐き出されるのを、龍一は自分の目で見た。大都会の夜景を映し出す窓ガラスもカーペットも、粘液状のもので黒く汚れた。だが、そのショックで失神してから一夜明けてみると、室内には異状の痕跡《こんせき》はかけらも残っていなかった。
たしかに憑依現象は、現実でありながら非現実であった。だが、いまの龍一にとって重要なのは、心霊現象の解説ではなかった。
「父さん!」
ますます増殖していく巨大な毛虫の群れに囲まれる父親に向かって、龍一は怒鳴った。
「こういう現象を引き起こした原因は父さんにあるんだろう? 殺された里奈や久美の怨みや憎しみをかき立てたのは、父さんなんだろう。その理由を教えろよ」
「何度きかれても、言えないものは言えない」
毛虫の大群が発する光で全身を黄緑色に染めながら、正晴は首を左右に振った。
「こんな事態を招いた原因は、おまえには教えられない」
「じゃあ、どうやったら憑き物を祓えるんだ。神に祈るのか、それとも|エクソシスト(除霊師)でも呼ぶのかよ」
「死ぬしかない」
「なんだって……」
「この幻を追い払うには、死ぬしかないんだ」
「誰が? 誰が死ななくちゃならないんだ。父さんか? まさか、ぼくだと言うんじゃないだろうな」
「………」
正晴は答えなかった。答えようにも、答えられる状況になかった。死者の墓場は、いまや数千匹にも増殖した巨大な発光毛虫で埋め尽くされ、その穴の中に立っている龍一の父親は、すでに下半身を毛虫の海に沈めていた。
龍一は、その光景を錯覚だと必死に思い込もうとした。だが無理だった。彼にとっては、バックミラーに映った里奈の姿も、毛虫の大群も現実だった。
グリーンとブルーの明かりを発する怪物の集団は、やがて正晴の胸元まで這い上がり、そして彼の顔を覆い尽くした。岡本正晴の全身が、毛虫に覆われた光の彫像になった。
彼の声がしなくなり、皮膚を食い破る音がはじまった。
「父さん!」
龍一は叫びながら、毛虫の大群が蠢《うごめ》く穴の中に飛び込んだ。
見えているものが幻覚ではなく、現実としか思えなくても、助けるよりなかった。自分のつきあってきた女をふたりも惨殺した猟奇殺人者であろうと、自分の父親であることに変わりはないのだから。
穴の底に飛び降りた瞬間、龍一は自分の足元で大量の毛虫が潰《つぶ》れる音を聞いた。草いきれに似た臭いが鼻腔《びこう》をついた。
その直後、侵入者への逆襲がはじまった。あっというまに毛虫の集団が龍一の身体に這い上がり、洋服の中にも入り込んできた。毛針でチクチク刺される痛みと、冷たく湿った胴体が動き回る感触に、龍一は悲鳴を上げた。
それでも彼は、化け物に覆われた父親のほうへ必死に手を伸ばした。しかし、その手が届く前に、龍一は黄緑色の光の洪水の中で意識を失った──
[#改ページ]
[#小見出し]  五. 監視する眼[#「五. 監視する眼」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
土曜日の朝七時──
六本木の超高層マンション3107号室のセミダブルのベッドで、月舘未知子は目を覚ました。
昨夜は新入社員の歓迎会で遅かったし、きょうは週末で会社もなかったから、もっとゆっくり眠っていたかったが、けっきょくいつも起きる時間に目が覚めてしまった。リモコンでカーテンを引き開けると、昨日までの晴天とは対照的に、東京の空は靄《もや》がかかって視界が悪かった。せっかく起きたのに、また眠気を誘うような空模様だった。
その灰色の風景にしばらく目をやってから、未知子は自分の寝室を出て、隣の大きな部屋へ入った。ここは元気だったころの両親が使っていた主寝室で、トイレはもちろん、シャワーブース付きのバスルームも備えられてあった。
だが、四年前の二月に突然訪れた悲劇によって、主寝室を使っていたふたりを同時に失った。そしていまは、両親の遺影と思い出の品々を飾った『思い出の部屋』になっている。その部屋で遺影に向かって手を合わせるのが、未知子の一日のはじまりになる。その日課は旅行にでも行かない限り、一日として欠かしたことはなかった。
(お父さん、お母さん、きょうも未知子をお守りください)
カーテンを開けて部屋を明るくしてから、未知子は目を閉じて、遺影の前で手を合わせた。そしていつものように両親の加護を願いながら、いつものように『あの日』の出来事を思い出してしまうのだった。
四年前の二月三日の節分は、全国各地で雪が降っていた。都心は冷たい雨だったが、当時まだ「名栗村」と呼ばれていた一帯では氷雨が明け方からみぞれに変わり、いつ雪に転じてもおかしくない状況だった。
鉛色の空は時間を追ってその濃さを加え、朝の十時ごろには、ほとんど日没と変わらない暗さになっていた。そして、みぞれはますます冷たさを増していく。そんな暗い朝を、月舘未知子とその両親は、名栗川の渓谷沿いに建つ一軒の茅葺《かやぶ》き屋根の家で迎えていた。
そこは月舘家の遠縁にあたる老夫婦が住む家で、未知子の父親は、老夫婦が所有する広大な山林の買い付けに訪れたのだった。ただしビジネスベースの話ではなく、あくまで親戚《しんせき》づきあいの一環だったから、前夜から家族揃って泊まりがけできていた。当時大学一年生だったひとり娘の未知子に、大都会とは対照的な、素朴な村の暮らしを見せておこうという父親の意図もあった。
実業家として大成功を収めていた未知子の父親は、六本木に自社ビルを持ち、超高級マンションの最上階に自宅を構える資産家だったが、その一方で慈善事業にも積極的な関心を持ち、都会のストレスで心に傷を受けた子供たちを元気にさせる『都会っ子のための新しい村づくり』計画を推進していた。親戚の山林を買い取ったのも、その土地を確保する目的があった。
そうした計画を、山林の所有者であった親戚の老夫婦に楽しげに話していた父の顔を、未知子は忘れることができない。そして、そんな父を信頼の眼差《まなざ》しで見つめていた母のやさしい笑顔も忘れることができない。
ひと晩の懇談を経て東京に帰ろうという朝、名栗村は、かき氷のような雪まじりの冷たい雨に見舞われていた。茅葺き屋根の茶の間は朝から薄暗く、そこにつけられているテレビが、北海道・東北ばかりでなく、北陸から山陰にかけて大雪になっているニュースを報じていた。
「こっちも雪にならないうちに、そろそろおいとまするか」
テレビを見ていた未知子の父が、そうつぶやいた。
仕事ではつねに運転手付きの外車に乗っている父だったが、今回は完全なプライベートということで、自分で乗用車のハンドルを握っていた。
名栗村から東京都心へ戻るには、小沢《こさわ》峠を越えて青梅市経由というルートもあったが、父親はきたときと同じように、天目指峠を越えて国道299号線に出て、飯能市街経由で圏央道に乗るコースを選んだ。
庭先まで傘を差して見送りに出た老夫婦が、峠道は雪になっている可能性もあるから、くれぐれも気をつけて、と何度も念を押したことを、未知子ははっきりと記憶に残していた。だが、そこから先が曖昧《あいまい》になる。たった四年の歳月が記憶を霞《かす》ませたのではない。外的な要因と内的な要因の両方が、未知子に二月三日の悲劇の再現をさせなかった。
はっきり覚えているのは『名栗木材』と書かれた製材所のところを左折して、峠道に入ってしばらくしたところで、気分が悪くなったことだった。もともと車に強いほうでなかった未知子は、前日、名栗村へ向かうときにも、この峠道で車酔いを起こした。ひとつには、いつも運転手付きの車に乗っている父親の運転が、あまり上手ではなかったせいもあった。
運転の上手下手は、カーブが連続する山道でその差が如実に現れる。ただし、スピードを出せるか否かではなく、遠心力を極力抑えた安定走行で、同乗者に不快な気分をさせずに済むかどうかという点に技量の差が出るのだ。その点では、未知子の父親は失格だった。上りということもあって、それほどスピードは出ていないのだが、カーブでのコーナリングがうまくないために、不必要に身体が左右に持っていかれ、そのたびに胃まで揺さぶられる不快感を味わった。だが、娘の立場で文句は言いづらく、がまんをしていた。
しかし、冷たいみぞれですぐに曇ってしまうフロントガラスを温めるため、フル回転で稼働しているデフロスターの暖気が、未知子の気分の悪さをさらに増幅させた。叩《たた》きつけるみぞれのために、窓を開けて外気を入れることもできなかったので、気分をリフレッシュさせることも叶《かな》わなかった。
車の中でも着たままだったコートを脱いで身体を楽にしようとしたが、効果はなかった。そして、車が天目指峠の頂上まで上りきったところで、未知子はついに吐き気を抑えられなくなった。
「止めて」
父親にそう言うと、車が完全に停止するのも待ちきれず、薄手のセーター一枚の恰好《かつこう》で外へ飛び出した。心配した母親が傘を持ってつづいて出てこようとしが、それを断り、未知子はひとりでみぞれに濡《ぬ》れながら、林の中に向かって走った。いくら両親でも、見られているところでは吐きたくなかった。
文字どおり葉を落とした落葉樹は雨除《あまよ》けにはならなかったが、林立する幹が目隠しになったので、その陰で未知子は身を屈《かが》めた。
一瞬、視野の片隅に、自分たちが乗ってきた車とは別の、グレーの乗用車が停まっている姿が入った。舗装された県道をはずれ、車が通るために存在するわけではない未舗装の小径《こみち》に、無理やり入り込んでいる感じで停まっていた。車内には人影がない。
だが、そちらに注意を払うよりも先に、腹の底からこみあげてくるものがあった。
「未知子〜、だいじょうぶ〜?」
車に戻った母親が、窓を下げて呼びかけてきた。
「だいじょう……ぶ」
と、小声で返事をしたそばから、二度目の嘔吐《おうと》の波がやってきた。
片手を木の幹に当てて身体を支え、苦しみながら未知子は吐いた。そして、ようやく気分を落ち着けて背筋を伸ばしたとき、数十メートル先の木陰から、自分のほうを見ている『眼』と出合った。
それが男の眼なのか、女の眼なのかわからなかった。だが、漢字で表現するなら『目』ではなく『眼』と表現したい鋭さがあった。
そして──
そこから車に戻るまでの記憶が欠落していた。
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つぎに気がついたときは、未知子は別の林の中で傷だらけになって倒れていた。緑色のセーターのいたるところが破れ、左腕の上腕部がざっくり裂けて血が流れ出ていた。骨折したのか両脚に激痛が走り、動かすことができない。
(お父さん……お母さん……)
声を出すこともできず、頭の中で叫びながら未知子は周囲を見回した。いつのまにかみぞれが雪に変わっていた。そして自分の置かれた状況を理解した。林の中といっても、急傾斜の崖《がけ》に沿った樹林の一カ所に身体が引っかかって、それ以上の滑落をかろうじて食い止められているのだった。
(なぜこんなことに)
その疑問は、自分の倒れている場所より数十メートル下方を見て明らかになった。父親が運転してきた車が、腹を見せてひっくり返っていた。そこまでに至る樹林のあちこちに、ロックしていなかったためにもぎとられたドアや、車内に積んであった荷物が散乱していた。
そして車より少しだけ未知子に近い木々の間に、身体を「く」の字にねじ曲げて倒れている母親の姿があった。父の姿は、いくら捜しても見当たらない。
峠の頂上で車を停めたとき、吐くために外に飛び出した未知子と、それを追いかけた母親は、その後、車に戻ってもシートベルトをしていなかった。ただひとり、しっかりとシートベルトをつけてハンドルを握っていた父親は、百八十度横転した車の中に取り残されていたのだが、未知子はそうした状況を理解するところまで至らなかった。
彼女が把握できたのは、家族三人で乗っていた車が、つづら折りの山道からコースアウトして落ちたこと、そして姿の見えない父と、離れたところに倒れている母の生死はわからない、ということだけだった。
転落のショックによるものなのか、頂上の林の中で吐いてから、崖を転がり落ちていくまでの記憶が完全に欠落していた。
「お父さん……お母さん……」
やっとか細い声が出た。しかし、それに対する返事はない。携帯電話で急を知らせようにも、携帯はバッグごと車内に残したままだった。転落途中に開いたドアから、崖の斜面に投げ出されているかもしれないし、まだ車内に残っているのかもしれない。だが、未知子は動けなかった。動こうとしても、両脚の強烈な痛みで歩くのはもちろん、這《は》うことすらできなかった。
雪はますます激しい降りとなり、やがて倒れている母の姿も、腹を見せている乗用車の姿も、白いベールに包まれて見えなくなった。未知子が着ている緑色のセーターも真っ白に彩られた。彼女の髪の毛も……。
そして未知子は、ふたたび意識を失った──
そのころ、四輪駆動のトラックを運転する製材業者が、名栗村から飯能市へ向けた下りのゆるやかなカーブで、車がコースアウトして転落していった痕跡《こんせき》を見つけ、警察に通報していた。その発見がなければ、一時間後に降雪で通行止めとなった峠道の中腹に取り残された未知子は、出血と寒さのために命を失っていた可能性が大きかった。
幸いにも彼女は無事に救出され、病院へ運ばれた。その一方で、父親は車の中で即死が確認され、母親も救急車で搬送される途中、死亡した。
現場検証の結果、みぞれから雪に変わって滑りやすくなっているカーブにスピードオーバーで突っ込み、ガードレールを突き破って転落した単独事故と断定された。
だが、その結論に疑念を抱いたのは、その朝、未知子たち一家三人を見送った親戚《しんせき》の老人だった。
「きみのお父さんは、妻や子供を乗せて無謀な運転をするタイプの人間ではない」
入院中の未知子を訪ねた老人は、深刻な顔で言った。
「おまけに、雨まじりのみぞれで滑りやすい山道だ。下りにさしかかったら、なおのこと慎重になるはずだし、峠道を猛スピードで飛ばせるほど腕に自信がある様子だったとも思えない。なにか彼を異様に急《せ》かせるような出来事があったのではないかね」
そう問いかけられると、未知子は自責の念で胸が痛んだ。車酔いをした娘のために、早く平らな道へ出ようとして、父は急いでいたのではないか、そして技量を超えたスピードを出したあまり、カーブでハンドルを切り損ねたのではないか、と。ほかに父が急ぐような原因は考えられなかった。
だから自分を責める気持ちは、四年経ったいまも変わらなかった。そして毎日の日課として両親の遺影に手を合わせるたびに、未知子は謝罪のことばを述べていた。
(お父さん、ごめんなさい。お母さん、ごめんなさい。私が車に酔わなければ……)
とりわけきょうのように灰色の空を眺めると、あの日をどうしても思い出さずにはいられなかった。いまは四月、あのときは二月、寒さの度合いはぜんぜん違うのに、灰色の空は、未知子に両親最期の日を思い起こさせ、震えがくるほどの寒気を感じるのと同時に、激しい後悔の涙があふれてくるのだった。
未知子は遺影の前で泣いた。閉じたまぶたのあいだから、熱い涙を頬に伝わせた。そして祈りを終え、ゆっくりと目を開けたとき、未知子は亡き父の声を聞いた。
(未知子、逃げろ!)
母の声もそれに重なった。
(未知子ちゃん、逃げて!)
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未知子は驚いて、父と母の遺影を見つめた。
写真の見た目に変わりはない。穏やかな両親の笑顔があるだけだ。しかし、間違いなく未知子は父と母の声を聞いた。逃げるようにと、深刻な声で指示をする声を。
(逃げろって、何から逃げるの? どこへ逃げるの?)
問いかけてはみたが、自分でその答えの見当はついていた。あの霊のことしか思い当たるものはない。知らないうちに自分に取り憑《つ》いてきた女の霊だ。
しかも、その霊はひとりではなかった。ふたりの女の霊が、代わる代わる自分に取り憑くのだ。ひとりはタバコと酒が大好きなOLの霊。そしてもうひとりは、文学が大好きな女子大生の霊。
いずれも自分がバラバラ殺人の犠牲者であり、私のために何かをして、と未知子に訴えてくる。とくに最近では、OLの霊のほうがひんぱんに出てきた。
その奇怪な現象を最初に認識したのは、両親を事故で失ってから一年半が経ち、身体の傷はすっかり癒《い》え、心の傷も時の流れによって少しだけ癒やされてきた時期だった。
大学の図書館で自習をしているとき、未知子は自分の左隣の席に、見かけぬ顔の女子学生が座っていることに気がついた。当時の未知子は大学三年生になったところだったが、皆が知り合いであるような小さなキャンパスにあって、それまで一度も出会ったことのない顔だった。自分と同じか、もしかするとひとつ年上ぐらいではないかと思われたが、ノーメイクで素朴な顔立ちは、第一印象としては好感が持てた。彼女は図書館所蔵のぶあついフランス文学書を読んでいるようだった。
もしかすると、ほかの大学からきた聴講生かもしれないと想像したあと、未知子は彼女に対する関心を失った。そして、その女子学生と並んで黙々と自習に没頭していた。
だが、三十分ほど経ってから、使っていたシャープペンシルをうっかり彼女のほうへ転がしてしまったので、未知子は「ごめんなさい」とささやき声で謝りながら手を伸ばした。と、そのとき、厚みのある文学書を支える女子学生の右手の小指が、第二関節からないことに気がついた。
見てはいけないものを見てしまった気がして、未知子は伸ばしかけた手を、一瞬引っ込めようとした。しかし、そのためらいを察したのか、女子学生は読んでいた本のページを静かに閉じ、小指の先が欠損しているほうの右手で未知子のシャープペンシルを拾い上げ、無言でそれを差し出してきた。
「あ……どうもすみません」
館内の静寂を破らないよう、またささやき声で未知子は礼を述べた。
すると、女子学生は未知子の目をじっと見つめ、唐突にこう言った。
「私の小指がないこと、気がついた?」
答えに窮していると、彼女の姿が未知子の見ている前でふっと消えた。その現象は、周囲の誰もが気づかぬほど突然に起きた。未知子は、見知らぬ女子学生が座っていた空間をあぜんとして見つめていた。と、わずかな間を置いて、いきなり自分の中に彼女が入り込んできたのを感じた。
身体の中だけでなく、心の中にも別人が入り込んできた。それが、衝撃の憑依《ひようい》現象を最初に体感した瞬間だった。
そしてことしになってから、こんどは別の女の霊が未知子に取り憑いた。ヘビースモーカーで酒豪のOLの霊だった。
だが、ふたりの霊が、よりによって自分を選んで取り憑いてきた理由が、未知子にはまったくわからなかった。どちらの女性も未知子の知っている人間ではない。だから、怨《うら》まれたり憎まれたりする理由はないはずなのに、ふたりの霊は、理由を述べることもなく未知子に入り込んできた。
取り憑かれた瞬間はそれとわかるが、直後から未知子は自我を失い、その霊になりきって身体も心も動かされてしまうのだった。しゃべり方も自分ではなくなった。しかし、一定の時間がくると、霊に占拠されていた肉体と精神とが元の自分を取り戻そうとする。そして両者が混在する時間が少しあってから、霊は離脱し、完全に我に返って憑依現象が終わる。ただし、憑依されていたときの記憶は、漠然とながら残っていた。そうした憑依と離脱の現象が、不定期に繰り返されていた。
木曜日の夜もそうだった。またあのOLの霊がやってきたと感じた瞬間、未知子は自分ひとりでは決して足を運ぶことのない洋風居酒屋に向かっていた。酒もタバコもダメなのに、その霊が入り込むと酒豪のヘビースモーカーになった。そして、見知らぬ男に声をかけていた。岡本龍一という名の、三つ年上のまじめそうな男性だった。
彼を求めていたのは未知子自身ではなく、女の霊だった。しかし、憑依状態から覚めかけている段階で、龍一に救いを求めたのは、明らかに自分自身の意思だった。初めて会ったばかりの男に向かって唐突に結婚を申し入れたのも、誰かに言わされているのではなく、自分自身の率直な気持ちだったと未知子は信じていた。現実世界での愛の力だけが、自分から死者の霊を取り払ってくれる唯一の方法だと。
未知子は、自分自身の身体と心が死者の霊に占拠される状態からとにかく抜け出したかった。そして、死者の霊に操られて岡本龍一と出会ったにもかかわらず、その出会いは自分自身が求めていたものだという気持ちになっていた。
だが、未知子の唐突な求愛宣言を怒るかのように、離脱しかけていた女の霊がまた舞い戻り、龍一の前で恐ろしい現象を引き起こしてみせた。口から粘液状の黒い泥を吐くという、あの現象を……。あれは龍一を自分から遠ざけるための威嚇であった、と未知子は感じた。
だからいま、未知子は亡くなった両親が「逃げろ」と叫ぶ声を聞いたのを、たんなる空耳とは思わなかった。憑依現象を完全に断ち切らないと、おまえ自身が危なくなるという警告であり、逃げていく先は──つまり、おまえを守ってくれるのは岡本龍一という男性なのだ、と教えてくれているのだと確信した。
昨日の朝、失神状態からまだ目覚めぬ龍一を残して、先に会社に出かけたのも、出会ったばかりの龍一に、自分の信頼度を示したかったからに違いなかった。そういう深層心理が、無防備な状態で、彼ひとりに部屋を預けることになったのだと思った。
そのとき龍一に自分の携帯番号とメールアドレスを書いたメモを残したが、逆に龍一の携帯番号は聞いていなかった。そのため、いまのところ龍一のほうから連絡をくれるのを待つよりなかった。
「龍一さん」
未知子は声に出してつぶやいた。
「私を地獄から救い出してください」
そのとき、窓のほうに何かの気配を感じ、未知子はふとそちらに目をやった。
キャッ、という短い悲鳴が彼女の口から発せられた。
地上百数十メートルに及ぶ超高層マンション最上階の窓ガラスの向こう側に、見たこともない巨大な蛾が一匹貼りついていた。
レンガ色をした胴体の長さは三十センチにも達し、異国情緒あふれる絨毯《じゆうたん》の柄を思わせる羽は、左右広げて一メートルにもなろうという巨大さだった。まさに蛾の化け物だった。そして長い葉っぱのような形の触覚を左右に動かしながら、真っ黒いふたつの複眼が、ガラス越しに未知子をじっと睨《にら》みつけていた。
そのあまりの異様な形態に、未知子は足がすくんで動けなくなった。
そんな彼女を奮い立たせるように、父親の声がまた響いた。
(逃げろ、未知子。その蛾が追いかけてこないところまで逃げろ!)
母親の声も、それにつづいた。
(未知子ちゃん、ほんとうに恐ろしいものの正体は、あなたに取り憑いている霊じゃないのよ!)
考えてもみなかった角度からの警告だった。
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大田区蒲田のカプセルホテルに勤務する野口伸吾が、岡本龍一から切羽詰まった声の電話を受け取ったのは、土曜日の午後三時を回ったところだった。電話は携帯ではなく、ホテルのフロントにかかってきた。
「もしもし、伸吾か」
伸吾がフロント係としての口調でホテル名を名乗ったとたん、その声で判断した龍一が、たたみ込んできた。
「ずっと携帯に電話していたのに、なんで出てくれなかった」
「何度もかかってきていたのは知ってたけど、勤務中だから」
フロントの業務用電話を耳に当てながら、伸吾は小声で言った。
「ここの支配人は、私用電話にものすごくうるさいんだ」
「世間話をするために呼び出しているんじゃない。例の件で至急会いたいんだ」
「例の件って?」
「ゆうべ話したことだよ。月舘未知子に取り憑《つ》いた霊の話だ」
「そういうことなら、こっちの仕事が終わってから……」
「聞いてくれ、伸吾」
龍一は、電話を切らせなかった。
「おまえが最悪に備えろと言っていたとおり、最悪の事態になった。オヤジが殺人を認めたんだ」
「なに……」
「しかも殺した相手は、ぼくがつきあっていた女だった。それもひとりだけじゃなくて、ふたりも」
「………」
「もしもし、伸吾、聞いているのか」
「ああ、聞いている」
「ゆうべおまえと会って帰るとき、蒲田の駅前で夕刊紙の見出しが偶然目に入った。いや、もしかするとそのことじたいが偶然ではなかったのかもしれない。新聞には、埼玉県の峠で発見されたバラバラ死体の身元が、佐々木里奈と判明したという記事が出ていた。伸吾はそのニュース、知らなかったか」
「あいにく、新聞やテレビを見るヒマもないほどコキ使われているんでね。でも、佐々木里奈といえば……」
「そうだよ。おまえも知ってるあの里奈だ。ぼくが大学時代につきあってた年上の女だ」
「じゃあ、月舘未知子に取り憑いた霊は……」
「里奈だった」
その答えを聞きながら、伸吾はフロントに近づいてきた人影に気づき、顔を上げた。
すべての部屋の掃除を終えた清掃係の女性が、完了確認のサインを求めてクリップボードにはさまれたチェックリストを差し出してきた。片手でそれにサインをして、相手が立ち去るのを見送りながら、伸吾はその清掃係に寄り添うようにしていっしょに歩く老婆の姿を見た。実在の人間ではない。憑依《ひようい》霊だった。
かつては他人に憑いた霊を見るたびに、いちいちその背景を詮索《せんさく》していたが、いまではそんなめんどうなことはやめていた。伸吾は、自分に取り憑いた霊に気づかず、きょうの仕事を終えて帰ろうとする清掃係の女性から眼を離すと、また龍一との会話に戻った。
「だけど龍一、おまえは里奈と、とっくに別れたんだろう。たしかハワイでも、そんな話を聞かされた覚えがある」
「そうだよ。大学四年のクリスマスを前にして、見事にフラれた。それなのにオヤジは、ことしの正月になって彼女を殺していた。それだけじゃない。おまえとハワイに行く直前に、オヤジはぼくの高校時代のガールフレンドを殺していたんだ。沢田久美という子だ。その子だって、高校卒業時点で別れていたのに」
「お父さんが打ち明けたのか」
「ああ。そんなことも知らずに、ぼくはおまえとハワイで遊んでいた」
「でも、なぜおまえのお父さんが、龍一の昔の女を殺さなきゃならないんだ」
「それはこっちがいちばん知りたいところだよ。だけど何度問いつめても、オヤジは殺人の動機を語ろうとしないんだ」
そして龍一は、里奈の遺体が見つかった天目指峠へ父親に連れていかれたこと、その途中で車内に里奈の霊が現れたこと、発見現場で父親がふたりの殺人を告白し、第三の標的が月舘未知子であると語ったこと──さらに、新たな殺人を止める手だては憑き物を祓《はら》う以外にないと父親が語り、その直後に不気味で巨大な毛虫の大群に襲われた出来事を一気にまくし立てた。
「とにかくあれは現実の生き物じゃなかった」
龍一は、あえぎながらつづけた。
「バカでかいだけじゃなくて、ネオンみたいに明るく輝く毛虫なんて、見たことも聞いたこともない。しかも一気に何百匹、何千匹と土の中から出てくるなんて」
「けっきょく、それも幻覚だったんだろ」
「未知子の部屋で遭遇した状況とまったく同じだよ」
答える龍一の声には力がなかった。
「毛虫の群れに襲われた恐怖で気を失ったあと、目が覚めると、死体が埋められてあった穴の底で、ぼくはオヤジと並んで倒れていた。いつのまにか、空には朝日が輝いていた。周りを見ても毛虫の姿は一匹もなかったし、ふたりとも土まみれになっている以外は、傷ひとつ負っていなかった。だけど同じころ、オフクロにも異常事態が起きていた。なんとか気を取り直して車で自宅に戻りはじめたとき、オヤジの携帯に警察から電話が入ってきた。ぼくたちが峠にいるときに、家では警察を呼ぶ騒ぎになっていた」
「何があった」
「わからない。一一〇番通報がつながったときには、オフクロは何も応答できない状態で、様子をたしかめに警察が駆けつけてみると、家は完全に戸締まりがされていた。それで警官が風呂場の窓を割って入ったところ、オフクロが居間のあたりで倒れていた。ケガはしていなかったけれど、呼びかけに応じないので、救急車ですぐ病院に運ばれた。一時間後には意識を取り戻したそうだが、言っていることが支離滅裂で、精神状態が疑われるような状態だという連絡だった」
「どんなことをしゃべっていたのか、聞いたか」
「まず、セーラー服の女の子がいきなり家の中に現れたそうだ」
状況を説明する龍一の声がうわずっていた。
「そのあと廊下の雨戸が勝手にはずれて、庭先に白い蛾の大群が現れ、それが白いマフラーに変わったかと思うと、空中を飛んでガラス戸を突き破り、家の中に入ってきて、いきなりオフクロの首を絞めはじめた」
「白い蛾の大群? それがマフラーに変わった?」
「むちゃくちゃだろ。信じられるわけないよな。で、オフクロがあまりの苦しさに口を開けると、白い蛾が大量に入り込んできて、よけいに呼吸ができなくなった」
「ひどい幻覚だな。それじゃ、お母さんが精神をやられても仕方ない」
伸吾は受話器を持っていないほうの手で、額を押さえた。憑依現象の目撃が日常になっている彼にとっても、龍一が語った内容は衝撃的だった。
しかし人に取り憑いたものは、その人に取り憑くべき理由を持っている。これが普遍の法則だと伸吾は思っていたし、特殊能力を自分に授けてくれた祖母からも、そう教えられていた。
「伸吾、キツネ憑きを見ても、キツネを悪者にしてはいかん。取り憑いてきたのが人間でもなければ悪魔でもなく、キツネである理由を考えねばならん」
祖母は、まだ幼い伸吾に自分と同じ能力が備わっていることを知ると、繰り返し繰り返し語った。
「ある者は、キツネ憑きとは、キツネが人をだますという昔ながらの言い伝えに影響された本人の強い思い込みという。しかし、それは違う。往々にして動物霊の憑依は、動物そのものが意思を持って取り憑いたのではなく、その動物を式神のように使う人間そのものの怨念《おんねん》であることが多いのだよ。
婆ちゃんはな、伸吾、娘のころから幾度となくキツネ憑きでおかしくなった人を見てきた。そして村人たちが、キツネを追い払う儀式を夜通し行なうのにつきあったことも、たびたびあった。けれどもな、婆ちゃんには見えていた。そのキツネを操る人間が、素知らぬ顔で除霊の儀式に加わっておるのをな。ときには除霊の祈祷《きとう》師そのものが、キツネを人に取り憑《つ》かせていた張本人であったりもした。これからおまえも、長い人生の中で数えきれぬほどの憑き物を見るであろう。だが、覚えておくがよい。憑き物は、意味もなくその形をとっているのではないことを」
伸吾はいま、その祖母の教えを思い出していた。そして彼は、龍一が語る異常現象の中で『蛾』と『毛虫』が幻覚の主役として出てきたことに注目した。成長した毛虫は、蝶か蛾になる。だから見た目は違っても、蛾と毛虫は同一の存在といってよい。だから岡本家の人々に幻の蛾や幻の毛虫を見せている正体は人間の怨念であり、その人物は蛾か毛虫になんらかのこだわりを持っている──そのように伸吾は解釈した。
≪白い蛾 巨大な毛虫≫
伸吾は、フロントデスクの電話脇に置いてあったメモ用紙に、無意識のうちにその言葉を書き連ねていた。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
「白い蛾の群れに襲われたオフクロは、意識を失った」
龍一の声に、伸吾は無意識のメモ書きをやめ、友人の言葉にふたたび意識を集中した。
「ただし、その直前に、赤いコートを着た女が自分を見下ろして立っているのが見えたそうだ」
「赤いコートの女?」
伸吾が聞き咎《とが》めた。
「そういう人間が、実際に家の中に侵入したという形跡は?」
「ないよ。いま言ったように、警察がきたときには、玄関もほかの出入口もぜんぶ鍵《かぎ》が掛かっていたし、庭の雨戸も完全に閉まっていた。ガラス戸一枚、割られていなかった。すべてはオフクロの幻覚だ。ぼくやオヤジと同じように、現実には存在しない光景を見せられて苦しんだんだ。ただ、赤いコートの女やセーラー服の少女が、オフクロの勝手に産み出した妄想とは思えない。なぜなら、ぼくとオヤジが車のバックミラーに見た里奈の霊は、赤いコートに白いマフラー姿だったからだ。そしてそれは、おそらくオヤジに殺されたときの彼女の服装だった」
「里奈の霊が、おまえの実家にもきたというわけか」
「そうだ。そしてセーラー服姿の女子高生は、たぶん高校時代につきあっていた久美の霊だ。オヤジの告白を信じるなら、久美が殺されたのは彼女が大学四年のときだけど、オフクロは高校時代の彼女に会っている。だから、その姿で出てきたんだと思う」
「なるほど……。ところで」
と、言いかけたとき、連泊している男性客が外出するためにキーを置きにきたので、伸吾は急いで受話器を手でふさぎ、「いってらっしゃいませ」と頭を下げた。この客には何も憑いていなかった。
客が出ていくときに開いた正面のガラスドアから、隣の大型パチンコ店のBGMが聞こえてきた。いつも聞き慣れた生活音である。しかし、そうした日常とはまったく別の空気が、電話回線を通して受話器から伸吾の耳に流れ込んできていた。
「ところで、警察からきかれなかったか」
伸吾は話をつづけた。
「お母さんが倒れたとき、家族はどこにいたのか、というふうに。とくにおまえのお父さんは、夫婦でいっしょに住んでいるんだから、夜中の三時に家にいなかったのは不自然だと思われたはずだ」
「だから、適当な言い訳をオヤジとふたりでデッチあげたよ。間違っても、人里離れた峠に行っていたなんて言えない。まして、里奈が見つかった天目指峠だなんて……。でも警察は、ぼくたちが何か隠し事をしていると疑っているみたいだ」
「そりゃ当然だな。警察は、おまえのお母さんの錯乱した説明を聞いても、心霊現象が起きたと思うわけがないから、たぶん家族間の深刻なトラブルという方向で納得しようとするだろう。そのストレスが、お母さんの精神を混乱させているんだろうと」
「そう受け取ってくれているうちは、警察もよけいな介入はしてこないだろうけど……」
龍一は暗い声でつづけた。
「里奈の死体が見つかった峠から、久美の死体まで出てきたら、もうおしまいだ。きっと久美の家族だって、娘がいなくなって捜索願を出しているはずだから、身元もすぐに突き止められてしまうだろう。そして、ふたりの共通項であるぼくが疑われるのは時間の問題だ。だからといって、自分を守るためにオヤジの告白をそのまま警察に話したら、それはそれで最悪の展開になる。だけど、実際に最悪の展開を迎える日が、遅かれ早かれやってくるのは間違いない。オヤジが、うちの家族は終わりだと泣くわけだよ。……いったい、どうすりゃいいんだ、伸吾」
龍一の悲痛な声を聞きながら、伸吾はフロントデスクの時計に目をやった。
きょうのシフトは夕刻六時に終わる。あと三時間足らずだ。大学時代の友人が陥った窮地を救うために、仕事が終わったらすぐに行動をとらねばならないと、伸吾は考えていた。ここまで強烈な憑依《ひようい》現象に襲われた友人とその家族を、なんとかして救ってやりたいと心から思った。と同時に、なぜ龍一の身にこんな奇妙な出来事が立てつづけに起こりはじめたのか、その疑問も頭をよぎった。
「龍一、基本的な質問をしていいか」
「ああ」
「おまえの正直な気持ちを聞かせてほしいんだ。ほんとうに自分の父親が、かつての恋人ふたりを殺したと思えるか?」
「思えるも何も、本人がそう言ってるんだからどうしようもないじゃないか。それに伸吾、うちのオヤジみたいに気の弱い人間のほうが人殺しになる可能性が高いと言い出したのは、おまえのほうだぞ」
「じゃ、もうひとつ。おまえや両親にとって、蛾や毛虫が特別な存在であったことはないか」
「は?」
龍一は、いぶかしげな声を出した。
「質問の意味がわからないけど」
「たとえば毛虫そのものは、たしかに気持ちの悪い生き物だ。蛾にしても、それが大量に襲いかかってきたらショックを受けるだろう。だけど、たとえばハチやトカゲやヘビじゃなくて、なぜ蛾や毛虫だったんだ」
「そんなこと、ぼくにきいたって答えられるわけがないだろう」
龍一はいらついた声を上げた。
「里奈や久美の霊にきいてくれよ」
「わかった。……で、これから龍一はどうするつもりだ」
「オフクロのほうは、オヤジが病院につきっきりでケアしている。いずれぼくも交代で見舞いに行かなきゃならないだろうけど、その前にやることがある。これから月舘未知子と連絡をとって、どこかのカフェかホテルのロビーか……とにかく人がたくさんいる場所で会う」
「会ってどうする」
「目的はふたつある。ひとつは、未知子が霊に取り憑かれたきっかけを詳しく問い質《ただ》すことだ。佐々木里奈や沢田久美と個人的な面識がなかったかどうかもたしかめたい」
「それは必要だな。で、もうひとつの目的は?」
「彼女をおまえに見せたいんだ。ゆうべも頼んだだろう。未知子に憑《つ》いているものを確認してほしいと。おまえは再来週の水曜日まで待ってくれというが、こういう状況になったら、もう待てないよ」
「わかった。今夜彼女と会うなら、協力させてもらう」
「ありがとう」
龍一は、少しだけホッとした声を出した。
「未知子と連絡がとれて場所が決まったら、すぐに携帯にメールを入れておく。伸吾に頼みたいのは、未知子に取り憑いているのがほんとうに里奈なのか、それから久美も憑いているのか、そして彼女たちの霊だとしたら、いったいどんな表情をしているのか、どんな怨《うら》みを持っているのか、それをたしかめてほしいんだ。できるなら、彼女たちのメッセージも受け取ってほしい」
「死者のメッセージを受け取る?」
「そうだ」
「そこまでの力は、おれにはない」
伸吾は断った。
「霊との会話をする能力は、それはそれでまた別物だから」
「役所みたいに担当別の窓口をいくつも作るなよ」
「でも、それが現実だから仕方ない。ただ、月舘未知子に憑いているものの正体は、しっかりチェックしよう。じゃ、そろそろ電話を切らないとまずいから」
「わかった。とにかく頼れるのは伸吾、おまえしかいないんだ」
「うん。できるかぎりのことはする」
そう言って、野口伸吾は受話器を置いた。
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
電話を切ったあと、伸吾はその場でうつむいたまま物思いにふけっていた。いままでの自分は、授かった特殊能力をあくまで観察の手段としてしか使ってこなかった。だが今回は、観察のみならず、得体の知れない憑依霊と対決を余儀なくされるのではないかという予感がしていた。
正直、恐ろしかった。いつのまにか額に汗が出ていた。だから、目の前にひとりの客がやってきたことに気づいていなかった。
「あの……」
その声で、ハッとなって顔を上げた。
ボーイッシュなショートヘアで、青白く透き通った肌を持った女が、フロントデスクの前に立っていた。笑うとえくぼができるはずの皮膚のラインが、両方の頬にあった。
きれいな女だな、と伸吾は思った。だが、このカプセルホテルには縁のない存在だ。
「はい。なにか?」
営業用の笑顔を急いで取り戻した伸吾がきくと、女は澄んだ目を向けて言った。
「きょう一泊お願いしたいんですけど」
「お客様が、ですか?」
「ええ」
「大変申し訳ございませんが、当ホテルは男性客専用で、女性のお客様をお泊めすることはできないのです」
「でも、泊まりたいんです」
「いえ、これはホテルの規則で例外を認めることはできないんです。もしよろしければ、近くのホテルをご紹介いたしますが」
「ほかではだめなんです。安全な場所は、ここしかないから」
「安全な場所?……と、おっしゃいますと」
伸吾が問い質したが、女はそれには答えず、フロントデスクに置かれていた宿泊受付票を勝手に一枚取って、それにボールペンを走らせはじめた。
「ちょっとお客様、それは困るんですが」
と、女を制止しようとしたとき、受付票に書かれた氏名を見て、伸吾は言葉を途中で引っ込めた。
月舘未知子、とあった。
驚いた伸吾は、相手を真正面からまじまじと見つめた。そしてたずねた。
「これは龍一君の指示ですか」
「いいえ」
伸吾が誰であるかを承知している顔つきで、未知子は答えた。
「私が自分で決めたことです」
そして伸吾をじっと見返した。
野口伸吾の全身から、一気に脂汗が滲《にじ》み出た。
見えた。月舘未知子に憑いているものが見えた。それは蛾や毛虫でもなければ、龍一の過去の恋人の霊でもなかった。予想もしなかったものが憑いていた。
フロントデスクの陰で、伸吾の脚が激しく震えだしていた。
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[#小見出し]  七. 夜の煌めきの中で[#「七. 夜の煌めきの中で」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
午後九時──
土曜日の六本木は国籍不明の街となってにぎわっていた。その喧騒《けんそう》の中心から少し離れたところに建つ外資系ホテルの最上階にあるラウンジバーには、ゴージャスな静寂という種類の空気が流れていた。
腰を下ろしたとたんに身体が深く沈み込んでしまうソファに身を委《ゆだ》ね、グラスを片手に会話する人々の声はいずれも低く、それに合わせて照明も落ち着いたものになっている。とりたてて音楽がかけられていないのも、客のしゃべり声じたいが優雅なBGMになっているからだった。
この空間では、誰もがこのホテルにいることを意識した服装に身を包み、誰もがふだんとは違った上品さを保とうとしていた。そして相手との会話の合間に、さりげなく周囲に眼を配っている。贅沢《ぜいたく》な空間を共有する人々の中に、顔見知りがいないかを確認するためだった。
夕刻まではどんよりとした曇り空だったが、いまは都心を覆っていた雨雲も去り、最上階のバーからは、煌《きら》めく都会の夜景を見下ろすことができた。
そのすばらしい眺望を約束された窓際の席のひとつでは、人気若手女優がマスコミの取材を受けていた。バーの雰囲気を壊さぬよう、そして窓越しの夜景がうまく映り込むよう、カメラマンはストロボなしのデジタル一眼レフで撮影をつづけていた。
一般の店ならたちまち客の好奇心に満ちた視線が飛んでくる光景でありながら、そのバーに居合わせた人々は意識的に無関心を装って、そっぽを向いていた。自分たちにとって彼女程度の有名人は、そして彼女程度の美人は毎日見慣れているから、珍しくもなんでもない、というふうに。
東京のこの『セレブな空間』で優越感を味わっている客たちは、たがいのあいだで上下関係は認めたくないのだった。すぐそこにいるのが、どれほど有名人であろうと。
しかし、そうした虚栄心の張り合いにあふれた空気とはまったく無縁な客が、窓際から遠く離れた壁寄りの席に一組いた。一時間ほど前にやってきた、岡本龍一と月舘未知子のふたりだった。
高層ホテルの最上階にいながら、ほとんど眺望の利かないその席は、一般的には敬遠される場所だったが、自宅に戻ればこのフロア以上の絶景をつねに得られる未知子にとっては、大都会のパノラマなど見飽きていたし、龍一にしても夜景を楽しむどころではない状況だった。
同じ六本木でも、未知子の住まいからはタクシーに乗らないと、歩くには遠すぎる距離にあるこのホテルのこのバーを待ちあわせの場所に指定したのは、龍一のほうだった。数週間前に仕事先の接待で使ったことがあり、ここの落ち着いた雰囲気が、異様な体験の連続に高揚している自分の精神状態を静めるには最適だという理由があった。それにもうひとつ、野口伸吾に未知子の様子を観察してもらうには、彼女が不気味な憑依《ひようい》現象を見せた自宅マンションの一室と似た環境に置いたほうがよいと判断したからだった。
三十一階にある未知子の部屋に較べれば、同じ最上階といってもこちらのホテルのほうがやや低かったが、それでもガラス越しに広がる夜景を伸吾にも見てもらえれば、何かの参考になるかもしれないと思った。
伸吾にはメールで段取りを指示してあった。最初は遠目から未知子を観察し、彼女に取り憑《つ》いたものをじかに見てもらう。そのあと、いかにも偶然出会ったように龍一に声をかけ、直接会話に加わってもらおうという作戦だった。
ところが──
約束の八時になっても、八時半になっても、そして九時になっても伸吾は姿を現さなかった。広々としたバーには、まだ空席もだいぶあったから、満員で入れないということはない。また、たとえ何か不都合があっても、メールで連絡をとりあうことになっていたのだが、それもない。
(伸吾が勤めているカプセルホテルとは天と地ほどの差がある場所だから、雰囲気に尻込《しりご》みして入ってこられないのか)
龍一は、そんな傲慢《ごうまん》な考えまで頭に思い浮かべた。
その一方で彼は、未知子がすでに伸吾に会ってきたことを知らなかった。午後三時過ぎに伸吾との電話を終えた直後、カプセルホテルのフロントに未知子が現れた事実を、しかも『あるもの』に取り憑かれた状態で訪れたことを、龍一はまったく知らなかった。そして、彼らのあいだにどんなやりとりがあったのかも……。
いま目の前にいる未知子はノーマルな状態だったから、龍一はそうした背景を察することもできなかった。
それよりも、この一時間のあいだに未知子の口から語られた話のほうがあまりにも衝撃的すぎて、龍一は伸吾が予定どおり現れないことを、とりあえず脇へ置いていた。
いったい、いつから霊に取り憑かれるようになったのか、という龍一の質問に対して、未知子は女子大生の霊は両親を事故で失ってから一年半後に現れ、ヘビースモーカーで酒好きのOLの霊が取り憑いたのは、ことしに入ってからだと答えた。その段階で、龍一は未知子に憑依するのが里奈の霊だけでなく、もうひとりいることを確認した。久美に違いないと思った。
そして『両親を事故で失った』のは、いつの出来事で、どんな状況だったのかと詳細をたずねたとき、龍一はショックで頭の中が真っ白になった。
「あま……天目指峠で事故?」
愕然《がくぜん》として問い返す龍一に、未知子は無言でうなずいた。ノーメイクで色素の薄さがより目立つ彼女の顔色が、悲劇を思い出すことで、さらに青白くなっていた。
「天目指峠……ほんとうに天目指峠で事故に遭ったのか」
龍一が繰り返すと、未知子はいぶかしげに目を細めた。
「知っているんですか、あの峠を」
「ああ……いや……なんか聞いたことがある名前だな、という気がしただけだけど」
ぎこちなく取り繕いながら、龍一は未知子の目を見ずにたずねた。
「で、きみは、両親を失ったその事故と、女の霊に取り憑かれるようになったことに、何か関係があると思う?」
「それは……」
少しためらったのちに、未知子は答えた。
「直接的にはないと思います。でも、事故のショックで私の頭に何かが起きて、いままで感じないものを感じたり、見えないものが見えるようになってしまったのかもしれません。けさだってマンションの窓に、見たこともない大きな蛾が……」
「蛾?」
「いえ、なんでもありません」
未知子はあわてて口をつぐんだ。そして、グレープフルーツジュースをベースにしたノンアルコール・カクテルを一口飲んでから、また話をつづけた。
「ただ、私が気になっているのは、事故の記憶の途中が欠けていることなんです」
「というと」
「あの日私は、峠の曲がりくねった道で車に酔って、峠の頂上で父に車を停めてもらって、林の中へ駆け込んだんです」
「林の中へ……ね」
と、相づちを打ちながら、龍一の脳裏には昨夜の光景がよみがえっていた。父・正晴が先導して入っていった、あの峠の樹林の光景が……。
「その途中、車が入ってきそうもないところに、一台の車が停まっているのを見ました」
「どんな車?」
「乗用車です」
「色は」
「覚えています。グレーでした」
「誰か乗っていたの?」
「いいえ」
「それで?」
「汚い話でごめんなさい、私、木の陰でもどしてしまって……それから顔を上げたとき、誰かに見られているのを感じました」
「誰に」
「わかりません。でも、その『眼』だけは覚えているんです。恐ろしい眼でした」
「なのに、顔は見ていない?」
「はい」
「でも、男だったんだろ」
「わかりません。女だったかもしれません」
ふたたび寒気に襲われたように、未知子は服の上から腕をさすった。
「変だよね」
龍一は首をかしげた。
「眼を見たのに、顔は見ていないの?」
「たぶん、眼だけが記憶に残っているんだと思います。そして……そのあとの記憶がないんです。道路で待っている父の車に乗り込んだ記憶もないし、父が運転を誤って崖《がけ》から落ちたところも覚えていません。気がついたら、車からいつのまにか投げ出されていて、崖の途中に引っかかっていたんです。離れたところでは、母が倒れて動かなくなっていました。お母さん、お母さんと呼んでも返事がなくて。そしてもっと下のほうには、うちの車がひっくり返っていて……」
未知子は声を詰まらせ、口元を押さえて話を中断した。泣き出すのを必死にこらえている彼女の肩の揺れが、龍一にはあわれに思えてならなかった。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
龍一は迷っていた。未知子の様子からみると、数日前に天目指峠で佐々木里奈の遺体が発見されたという報道は知らないようだった。また、月舘家の三人を襲った悲劇は、いまから四年前の二月三日──龍一が伸吾と卒業旅行でハワイへ出かける直前であり、ことしの正月に発生したと思われる里奈の悲劇とは、一致しない。
だが、龍一の父が四年前に久美を天目指峠で同じような目に遭わせていたとすれば、そしてその日付が二月三日だとすれば、月舘未知子はあの林の中で久美の殺害場面を、あるいはもっと残酷な場面を目撃した可能性があった。
そのことに思い当たった龍一の全身が冷たくなった。そして、いつのまにか脳裏で想像がはじまった。
(未知子は偶然、オヤジが久美を惨殺する場面を目撃した。それであわてて車の中に逃げ戻り、早口で事情をまくし立てると、父親にすぐ車を出すように急《せ》かした。すると、林の中で未知子を見ていた『眼』が……いや『眼』じゃない、人間が、殺人者が、目撃した未知子を殺そうとして追いかけてきた。最初は走って道路まで出たかもしれない。でも、未知子たちが車で逃げたのを見ると、急いで小径《こみち》に戻り、そこに突っ込んでいた自分の車を引き出すと、追跡をはじめた)
まるで自分がその殺人者になったように、雪まじりの雨が叩《たた》きつける中、ワイパーをハイスピードで動かしながらカーブの連続となる山道を猛スピードで下る光景が、龍一の脳裏で展開した。
わずかな直線部分では、はるか前方を逃げる月舘家の車の後ろ姿が見えた。しかし、すぐにカーブの死角に入って見えなくなる。だが、追いかける殺人者が可能な限りスピードを上げていくと、直線路での距離がどんどん詰まっていくのが確認された。
(逃がしちゃダメだ。あの女を逃がしたら、自分のやっていたことを警察に届けられてしまう。車のナンバーだって見られたかもしれない)
いつのまにか龍一の精神状態は、殺人者のそれと同化していた。
(この峠道が終わるまでに、やつらをつかまえて殺さないと)
距離はどんどん縮まった。先を行く車の中で、運転席の男が顔面|蒼白《そうはく》でハンドルをさばいているのが目に見えるようだった。
いつのまにか『雪まじりの雨』が完全な雪に変わっていた。あっというまに路面が白くなる。追われる車のタイヤの跡が、白い地面に黒い二本の線となって描かれていく。それを必死に追いかけた。
と、つぎのカーブを曲がったところで、二本の黒い線が道から大きくはずれ、ガードレールを突き破って車が転落した跡があった。
殺人者は急いで車を路肩に停め、下を覗《のぞ》き込んだ。急速に強さを増す雪のカーテン越しに、腹を見せて横転している車が見えた──
(たぶん……)
雪の峠道から、ホテル最上階のバーという現実の空間に意識を戻した龍一は、テーブルの上で小刻みに震えている未知子の指先を見ながら、心の中でつぶやいた。
(たぶん、そういう出来事があった。そして第二の殺人のときも、オヤジは天目指峠を死者の墓場として選んだのだ)
佐々木里奈の惨劇を伝える新聞記事の中に、なかば白骨化した右手首に『二人目』と誇らしげに書かれた荷札が巻きつけてあったと書かれていたのを、龍一は思い出した。連続殺人を誇示するようなそのメッセージに注目すれば、では『一人目』の犠牲者は誰で、どこに埋められているのかを、警察は当然捜すことになるだろう。そして、最初の遺体を求め、天目指峠の現場周辺を再発掘しようという動きになっても不思議はなかった。
じわじわと追いつめられていく焦りで、龍一は額に脂汗が浮かんでくるのを感じた。だが、未知子の話でひとつ引っかかるところがあった。
「きみが見た車だけど……」
オン・ザ・ロックを口の中にほうり込み、焼けるような感覚を喉《のど》に覚えながら、龍一はきいた。
「色はグレーと言ったよね」
「はい」
「そういうところは、ちゃんと覚えているんだ」
「ええ」
「グレーじゃなくて、ほかの色と見間違えた可能性は? たとえば……たとえばだけどね、ダークブルーのように、濃い色だったということはないかな」
「それはありません。でも、なんで?」
「いや、べつに」
首を振りながら、龍一は、そこにわずかな希望を見出《みいだ》そうとした。自分の父親が惨殺鬼ではないという、かすかな希望を。なぜなら、父の正晴にはマイカーを査定価格の高いうちに買い替えるという習慣がなく、龍一が大学に入ってすぐに購入した車を、八年ほど経ったいまでもまだ乗りつづけていた。車の色はダークブルーだった。ゆうべ天目指峠へ連れて行かれたときも、その車だ。
もちろん、犯行にはグレーのレンタカーが使われたということも考えられた。しかし、父の関与を否定する余地がある可能性には、とことんすがっていきたかった。
だがその一方で、いまの話で、ふたつの事情が明らかになった。未知子に霊が取り憑《つ》いた背景と、父親が第三の犠牲者に未知子を選んだ理由だ。
未知子が、最初の殺人の目撃者だったからだ。
(オヤジは、転落現場から月舘家の人々のプロフィールが明らかになるような、何かの資料を拾った。そして、三人家族の中で唯一生き残った未知子の存在がずっと気になっていたのだ)
ふたたび、父親の犯行という結論に整合性が出てきた。
しかし、そこまで考えても、まだ大きな疑問が残っていた。では、父親はなぜ息子の過去の恋人を殺さなければならなかったのか、という点だった。しかも恋愛関係がとうの昔に終わってしまった女性を。
それが龍一にはわからない。
「ねえ、未知子」
こうなったら相手にどう疑われようと、とことんたしかめるほかはないと思い、龍一は、自分と父親の立場を危険にさらすかもしれない名前を持ちだした。
「きみは佐々木里奈って女を知ってる?」
「ササキ……リナ……ですか」
涙に濡れた目で龍一を見つめ、未知子は首を横に振った。
「いいえ、知りません」
「じゃ、沢田久美は?」
「そんな人も知りません。誰ですか、その人たち」
「………」
「もしかして」
黙りこくった龍一に、未知子が怯《おび》えた顔で問いかけた。
「私に取り憑いている女の人の名前なんですか」
「………」
「そうなんですか? だとしたら、龍一さんは、なぜそれを知っているんですか」
「………」
「黙っていないで、教えてください。私、恐いんです。知らない女の人に取り憑かれているのも恐いけれど、誰かに生命を狙われているみたいで、それが恐いんです」
その言葉に、龍一はビクッと身体をこわばらせた。
「生命を狙われている? 誰に?」
「それはわかりません」
「どうして、そう感じたの」
「けさ、父と母が教えてくれたんです」
「亡くなったご両親が?」
「はい。父と母の写真に向かって朝のお祈りをしていたら、声が聞こえたんです。『未知子、逃げろ!』『未知子ちゃん、逃げて!』という両親の声が。そして母の声が、さらにこう言ったんです。『ほんとうに恐ろしいものの正体は、あなたに取り憑いた霊じゃないのよ!』と」
「………」
青白い未知子の顔色以上に、龍一は青ざめた。
「守ってください、龍一さん」
真剣な眼差《まなざ》しで、未知子が訴えてきた。
「私を恐ろしいものから守ってください」
「きみは、ぼくにどうしてほしいんだ」
「私を愛してください」
隣のテーブルにいた三人づれの男性客が、一斉にこちらへ目を向けるほど大きな声で未知子は言った。
「おとといの晩、あなたにマンションまで連れ帰ってもらってから、私が部屋で言ったことを覚えていますか」
「結婚してほしい、ということ?」
「はい」
「もちろん覚えているけど、その言葉を真に受けるわけにはいかないんだよ。だって、出会ったばかりなのに」
「出会ったばかりで結婚したくなっちゃいけませんか」
未知子の気迫に、龍一はたじろいだ。
「私、わかるんです。龍一さん以外に、私を守ってくれる人はいないって」
率直にいえば、龍一はうれしかった。こんなふうに女性から頼りにされ、ストレートな愛情をぶつけられたことはなかったからだ。それに、きょうふたたび月舘未知子を間近に見て、彼女の容姿に改めて魅力を感じていた。
「正直にいえば、ぼくもきみと結婚したい」
そう言ってから野口伸吾の顔が、そして会社の同僚である坂井省介の顔が浮かんだ。どちらの顔も、龍一の悪い癖が出た、というふうに笑っていた。
自分でもわかっていた。少しでも印象のよい女性に出会うと、すぐに結婚を考える性癖が決して冷静な判断とは言えないことを。だが、久美や里奈のケースと違って、今回は女のほうから積極的に結婚を求めてきた。しかも愛情だけでなく、そこには龍一を支えに頼ってくる弱い女の姿があった。これ以上、男としての心をくすぐるものはなかった。
だから龍一は、無条件に未知子の願いを聞き入れたかった。「きみと結婚したい」と、はっきり口に出したのも、素直な感情から出たものだった。
だが、できない自分の立場にすぐ気づき、その葛藤《かつとう》に唇を噛《か》みしめた。未知子を守ってあげる存在が自分であっても、未知子を脅かす存在は自分の父親なのだ。つまり、月舘未知子といっしょになるということは、真正面から父親と対決することになる。
しかも父は、深夜の天目指峠で不気味な宣告をした。未知子が第三の犠牲者になるのを避けるには憑き物を祓《はら》うことで、それには死ぬしかない、と。その言葉を聞いた瞬間、なぜか龍一は、父が自らの生命を絶って連続殺人に終止符を打つしかないという意味ではなく、息子の自分が死ぬしかないと言っているような気がして、父を問いつめた。
その問いかけに対して、父の返事はなかった。
(ぼくは、自分の親と生命を懸けて対決することになるのか……。でも、どうしてこんなふうなことに巻き込まれたんだ)
月舘未知子と出会ってからの急展開に、龍一は混乱していた。三日前の自分にとっては、殺人事件はまるで他人事《ひとごと》だったし、心霊現象など百パーセント嘘っぱちだと思っていた。それがどちらも最も身近な出来事になった。そして三日前の時点では、父親と生命を懸けた対決を迎えることになるとは予想もできなかった。さらには、結婚を真剣に考える相手が出てくることも……。
「龍一さん」
未知子の声に、我に返った。
「お願いです。私を守ってください。一生、私を守りつづけてください」
「一生……?」
「はい」
未知子の訴えにどう応《こた》えてよいか、龍一は迷った。そのとき、マナーモードにしていた携帯電話が鳴った。野口伸吾からの電話着信だった。
少し救われた気分になって、龍一は未知子に携帯を示し、席を立った。そして、携帯を使ってもよいウェイティング・スペースへと急いだ。
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
「もしもし」
龍一は少し怒った声を出した。
「どこにいるんだよ、伸吾。ずっと待っているんだぞ」
「だめだ」
伸吾は暗い声を出した。
「そっちには行けない」
「なんでだ。仕事が延びたのか」
「そうじゃなくて……カプセルホテルのほうには、ついさっき辞表を出してきた」
「辞表?」
思いもよらぬ言葉に、龍一は眉をひそめた。
「どうしたんだ。何かトラブルでもあったのか」
「しばらく静かなところにいたいんだ」
「意味がわからないよ。おまえ、いまどこにいるんだ」
「竹芝《たけしば》桟橋だ。浜松町《はままつちよう》の先の」
「竹芝桟橋? なんでまたそんなところに」
「これから船に乗る」
「どこへ行くんだ」
「利島《としま》」
「トシマ?」
あまりに唐突で、龍一は島の漢字さえすぐに思い浮かべられなかった。
「どこだ、それ」
「伊豆《いず》七島の利島だよ。いちおう東京都だけどな。大島の先にある小さな島だ。ちょうど土曜日だから、夜の十一時に出る船があるんだ。向こうには朝の六時四十分に着く」
「なんでそんなちっちゃな島に行くんだ」
「婆ちゃんの一番下の妹が、まだ生きているんだ。おれからみれば大叔母《おおおば》ってことかな。その息子一家が漁業と椿油の生産をやっていて、そこにいっしょに住んでいる。さっき急遽《きゆうきよ》連絡を入れて、しばらく身を寄せさせてもらうことにした」
「ちょっと待てよ、伸吾」
龍一は携帯を持ち替え、いままで受話口にくっつけていたほうの耳に噴き出してきた汗を手のひらでぬぐった。
「おまえにどんな問題が起きたのか知らないけど、今夜はぼくを助けてくれる約束じゃなかったのか。いまちょうど、未知子と重大な話になっているんだ。彼女から結婚を迫られているんだよ」
「結婚を?」
「そうだ。おとといの晩にも同じことを言われたけど、今夜のほうがもっと真剣だ。未知子は生命の危険を感じて怯《おび》えている。そして、私を守るのは龍一さんしかいないと訴えている。ものすごく真剣な眼差《まなざ》しでだ。その返事に困っているところだったんだ」
ほかの客が、やはり携帯で話をするためにウェイティング・スペースに入ってきたので、龍一は隅のほうへ移動し、他人の会話にじゃまされないよう、一方の耳に指で栓をしてつづけた。
「伸吾、とにかく大至急きてくれ。竹芝桟橋だったら、タクシーを飛ばせば六本木まですぐじゃないか。そして、未知子に憑《つ》いているものを早く見てほしいんだ。それまでぼくは、なんとか結論をはぐらかしているから」
「もしもおれがそっちに行かなかったら、龍一はどう返事をするつもりだ」
「彼女の申し出を受ける」
龍一はきっぱりと言った。
「結婚を承諾する。そして、何があっても未知子を守り通してやる」
「それはやめろ」
伸吾の声は厳しかった。
「悪いことは言わないから、それだけはやめろ」
「本人を見もしないうちから決めつけるなって」
「見た」
「え?」
「もう月舘未知子は見ている。というよりも、会ったというほうが正解かな。会話も交わしたよ」
「どこで」
「おれの勤務先にやってきた。昼間、ちょうどおまえとの電話を切った直後だ」
「なんで彼女がおまえのところへ……。そんな話、少しも言わなかったぞ」
「カプセルホテルに泊めてほしいと言ってきた。安全な場所はここしかない、と」
「………」
龍一は、伸吾の言葉に愕然《がくぜん》となった。
「うちのホテルは男性客専用だからと断っても、どうしても泊めてほしいと聞かないんだよ」
「なぜおまえんところのホテルが安全地帯なんだ」
龍一は目の前の壁に向かって、理解不能というふうに激しく首を振った。
「彼女はぼくを頼っているんだぞ、伸吾じゃない」
「わかっている。何も取り憑いていないときの彼女は、龍一を頼りにしているんだろう。それは間違いない。でも、恐ろしいものに取り憑かれたときの月舘未知子は別だ。カプセルホテルが安全地帯だというのは、たんなる言い訳にすぎない。最大の目的は、龍一がいちばん頼りにしているおれに会うことだ」
「おまえに会うのが目的?」
「そうだ。月舘未知子に取り憑いているものは、おれの特殊能力を知っている。そして、自分の正体を見せることでおれにショックを与え、おまえのそばから離れさせようとしたんだ。その目的は、見事に達せられたよ。もう当分龍一に会うつもりはないから」
「なにを言ってるんだ、伸吾。そもそもどうして未知子がおまえのいるホテルへ行けるんだよ。まだ野口伸吾のことは、未知子にはひとつも話していないんだぞ。もちろん、おまえの能力のことだって」
「龍一……」
伸吾は苦しそうな声を出した。
「これ以上の議論はやめよう。まだ乗船時刻じゃないけど、目の前の桟橋には伊豆七島をめぐる船が泊まっている。夜の桟橋はいいもんだ。この船で、おれは都会を離れる。他人のおぞましい憑き物に煩わされるのは、もうたくさんだ。利島の人たちは素朴だし、仮に憑いているものがあったとしても、もっと単純なものだ」
「何を見たんだ、伸吾」
龍一は厳しい口調で迫った。
「未知子に何が取り憑いているのを見たんだ」
「恐ろしいものだ。さすがのおれも想像もしなかった代物だ」
「もったいぶらないで、ちゃんと言えよ!」
「………」
「言えよ、伸吾」
ほかの客がびっくりするような声を上げて、龍一は問いつめた。
「未知子に憑いているものは何だ!」
「おまえだよ」
「え?」
「月舘未知子に取り憑いているのは、おまえなんだよ、龍一」
呆然《ぼうぜん》と立ち尽くす龍一の耳に、通話を一方的に切る音が聞こえた。
[#改ページ]
[#小見出し]  八. 分析された心理[#「八. 分析された心理」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
岡本龍一が月舘未知子との話を途中で切り上げ、六本木のホテルからタクシーを飛ばして竹芝桟橋に着いたのが九時五十分だった。
六本木にいたときは、高層ホテルの最上階から煌《きら》めく夜景が美しく眺められていたのに、いつのまにか上空に厚い雨雲が押し寄せてきて夜空の星を隠し、細かな霧雨を降らせていた。
午後十一時に竹芝桟橋を出て、大島、利島、新島《にいじま》、式根島《しきねじま》、神津島《こうづしま》と、この日は伊豆諸島の近距離五島を回るルートになっている大型客船さるびあ丸の白い船体が、銀色の霧雨を反射させる夜間照明に浮かび上がっている。その姿を横目に見ながら、龍一は客船ターミナルの建物に飛び込んだ。
ここからは遠距離フェリーや客船のほか、レストランシップも出ており、昭和時代の殺風景な桟橋から一変して、いまは夜のデートコースのスポットにもなっている。だが、夜の十時近くにもなるとレストランシップの運航も終わり、ターミナルには伊豆諸島行きの夜行便を待つ乗客がパラパラと数えるほどしかいなかった。誰もが乗船時刻がくるまでのあいだを、眠るように静かに待っている。その中で、龍一だけが伸吾の姿を求めて走っていた。
だが、人影もまばらなターミナルの中に、伸吾の姿はなかった。他人の注目を集めるのを承知で伸吾の名前を声高に何度も呼んだが、自分の声が虚《むな》しく反響するだけで、伸吾からの返事はなかった。トイレの中まで捜したが、やはり見当たらない。
六本木にいるときから、龍一は何度も伸吾の携帯にかけてみたが、電源を切っているようでつながらない。完全に龍一との接触を拒絶しているのがわかった。
窓口の係にきくと、乗船案内は十時からだという。もうあと数分だった。乗船口で待っていれば、必ず伸吾はそこにくるはずだった。だが、じっとしておられず、龍一はふたたびターミナルから出て、霧雨の中を歩き回った。しかし、建物の周りにも人影はまばらで、その中に伸吾の姿を認めることはできなかった。
いつのまにか額にじっとりと汗が浮かび上がっていた。精神的な興奮から出た汗だった。とにかく、なんとしても伸吾をつかまえて、彼が言い放った言葉をもっと詳しく説明させずにはいられなかった。
(未知子に取り憑《つ》いているのが、里奈や久美の霊じゃなくて、このぼくだって? そんなバカな)
ありえない、と思った。
未知子のマンションで見たのは、彼女の口からこぼれ出る黒い泥と、それに混じっていた不気味な指の骨だ。そして取り憑いた死者の霊が、龍一の父親に殺されたという衝撃の告白をつぶやいた。それじたいが幻覚であったにしても、なぜそれが自分自身の生き霊が巻き起こした現象だと言えるのか。
(だいたい、人に取り憑いたものが見えるという伸吾の言葉からして、信じられるかどうか、わかったものじゃない)
伸吾の告げた恐ろしい結論を否定するには、そう考えるよりなかった。
(あいつ、自分を超能力者に見立てて、ぼくを混乱させて面白がっているんだ。きっとそうだ)
伸吾が嘘をついているという考えは、必ずしも根拠がないことではなかった。さきほど彼が電話で未知子がカプセルホテルにやってきたと言ったが、もちろん龍一は、バーの席に戻ってすぐ本人に真偽をたしかめた。その答えは「私は行ってませんし、伸吾さんという人も知りません」というものだった。たしかに、未知子が知っている龍一の友人は、出会いのときにいっしょにいた坂井省介だけだ。
その段階で龍一は、伸吾よりも未知子を信じた。無条件に信じた。そして伸吾のほうが、いいかげんな話をデッチあげているのだと思った。
冷静に考えれば伸吾がそんな嘘をつく必要はないのに、未知子がカプセルホテルへやってきたという伸吾の話を、龍一は真実ではないと決め込んだ。未知子に取り憑いていたものが自分だった、という衝撃的な結論を拒むためだった。
だがその一方で龍一は、蒲田の喫茶店でひさしぶりに再会したときに伸吾が語った『生き霊』という概念を思い出してもいた。死者の霊ではなく、生きている人間の怨念《おんねん》が他人に取り憑くという定義に従えば、龍一の生き霊が月舘未知子に取り憑いているなら、龍一は未知子に対して激しい怨《うら》みや憎しみを持っていなければならないはずだった。だが、怨念を抱くもなにも、未知子とは初対面なのだ。だから、自分の生き霊が彼女に取り憑くなどということは絶対に……。
ない、と否定しようとして、龍一はひとつの事実に気がついた。未知子は久美が殺された場面を目撃していた可能性が大だということに。
(もしも彼女が天目指峠で起きた殺人の目撃者だったとしたら、見られた犯人は未知子を殺そうとするかもしれない。でも、その犯人はぼくのオヤジであって、ぼくじゃない)
混乱した。しかし、混乱しながら、自分が一歩ずつ恐ろしい真相に近づいていっている気もしてきた。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
いつのまにか顔が雨でぐっしょり濡《ぬ》れていた。見上げると、星ひとつない黒い空から、桟橋の明かりを受けて輝く銀色の雨が降りそそいでくる。その中で、ターミナルのスピーカーから乗船受付のアナウンスが流れてきた。
ともかく乗船口へ行こうとしたそのとき、ターミナルのほうへ小走りに駆けてくる人影があった。野口伸吾だった。
「伸吾!」
呼びかけると相手はビクッとして立ち止まり、ゆっくりと身体を龍一のほうに向けた。
「なんでぼくから逃げるんだ。あれだけ意味深なことを言うだけ言って、詳しい説明もせずに隠れるなんてことはさせないぞ」
龍一が詰め寄った。
「さっき電話で話したことについて、ちゃんと説明しろ。ぼくに何が取り憑いていると言ったんだ」
「間違えるなよ、龍一。おまえに取り憑いているんじゃない」
反射的にあとじさりしながら、伸吾は首を振った。
「龍一自身には何も取り憑いていない。月舘未知子に、おまえが取り憑いているんだ」
「だから、そういうデタラメを言うな! 未知子は否定したぞ。野口伸吾という人に会いにいったことはないし、そんな人は知りませんと」
「それは彼女がおまえの生き霊に操られていたからだ。だからその間の記憶がない」
「そんな言い分は信じないね。第一、生き霊だといったって、ぼくが見ず知らずの未知子に取り憑く理由がない」
「ほんとうに未知子が見ず知らずの女だったと言いきれるか?」
「なに……」
「こっちにこい、龍一」
龍一から逃げようとしていた伸吾が、こんどは逆に彼の手を取って、雨のかからない建物の陰に引き込んだ。
「思い出してみろ。おまえが月舘未知子の部屋で失神して、朝目覚めたときの状況を。初めて会ったばかりの男を部屋に残して、未知子が先に外出してしまうことじたいが不自然だと、昨日おまえに言ったよな」
「それについては、さっき未知子と話をしていたときにたしかめたよ。気を失ったぼくを部屋に残したまま会社に行って、不安じゃなかったのか、と。物を盗《と》ったりプライバシーを詮索《せんさく》するかもしれないと考えなかったのか、と。すると未知子はこう答えた。あなたを信じていたから……」
「なるほどね。彼女のその美しい信頼は認めることにしよう。でも、岡本龍一に対する信頼感と、防犯意識とは別のものだ。たとえ龍一という男は信用できても、外部からやってくるかもしれない侵入者に対してまで無防備になってよいと考えていたはずはないだろう。だから、ソファで眠っているおまえを置いて部屋を出るとき、未知子は廊下側からきちんと鍵《かぎ》を掛けて出たはずだ。それが習慣というものだ」
「それはそうかもしれない」
「そして、目を覚ましたおまえは、彼女の残した書き置きを読んでから部屋をあとにした。そのとき部屋のロックはどうした」
「ロックできるわけないだろう。鍵を持っていないんだから」
「ほんとにそうか?」
伸吾が、龍一の目を見据えて念を押した。
「では、鍵は掛けずに出たという明確な記憶があるか」
「そんな細かいことは、いちいち覚えていないし、覚えていられるような精神状態でもなかった」
「そうかな。もういちどよく考えてみろ。おまえが部屋から廊下に出ようとしたとき、未知子が掛けたロックを室内からはずすという動作をしたはずだ」
「かもしれない」
「ならば廊下へ出たときに、鍵を持っていないのでロックができないことに戸惑って当然だ。そういう気持ちになった覚えは?」
「ない」
「だとすれば、それは……」
「他人のマンションだから、どうでもいいと思っていたんだろう」
「そうじゃない。おまえはちゃんと鍵を掛けて出たんだよ。だから、その動作をいちいち記憶はしていなかった」
雨に濡れた前髪をかき上げて、伸吾はつづけた。
「家を出るときには、鍵を掛ける。これはひとり暮らしをしている人間に完全に染みついた習慣だ。龍一も実家で暮らしていたときは、お母さんがたいてい家にいただろうから、出かけるときに戸締まりを気にする習慣はなかったかもしれない。でも社会人になって、ひとり暮らしをはじめてから四年も経てば、家を出るときには鍵を掛けるという防犯意識の回路が頭の中に出来上がっているはずなんだ。そして、もしその基本的な行動を忘れたら、違和感を覚えるようになっている。その代わり、きちんと鍵を掛けたときには、その動作をいちいち覚えていない。そうして当然の行動だから、違和感はない。だから記憶にも深く刻まれたりはしないんだ。
ときどき出がけに鍵を掛けたのか掛けていないのか不安になって、たしかめに戻ることがあるだろう? あれはね、無意識の習慣となっている正しい戸締まりをしたときのほうが、戸締まりの記憶は残らないものだからなんだ。鍵をちゃんと掛けたときのほうが、掛けたという記憶は薄いんだよ。逆に掛け忘れたときのほうが、あとでふり返ったとき、掛けなかったという確信が明瞭によみがえる。だけど、ときどきその矛盾するような感覚を自分で疑わしく思って、掛けたか掛けなかったか自信がないときには、掛け忘れた可能性が大のような気がして、確認に戻ることになる。ところが大半の場合は、きちんと戸締まりがされている。おまえにもそういった経験があるだろう」
「あるけどね。だけどそれは自分の家だからこそ通じる論理だ。ぼくにとって3107号室は、あくまで他人の部屋だった」
「他人の住まいでも、空っぽの部屋を出るときには、鍵を掛けなくてもいいのかと疑問を持つのが、ひとり暮らしに慣れた人間の自然な思考なんだ。まして未知子が自分を信用してくれていると感じたら、なおさらだ。このまま鍵を掛けずに出て、泥棒にでも入られたら彼女が気の毒だと、それぐらいの心配はしたはずなんだよ。唐突な申し出とはいえ、おまえに結婚をせがんできた女だろう?」
「………」
「玄関の書き置きには携帯番号やメールアドレスも残されていたんだよな。だったら、すぐ彼女に連絡を入れて、鍵を掛けて出られないけど、どうしたらいいかとたずねたはずなんだ。それぐらいの気配りはする常識人だと思うんだけどね、岡本龍一という男は」
伸吾に長々とまくし立てられ、龍一は黙りこくった。
彼の分析に最初は反発を覚えたが、しだいにそのとおりかもしれないという気になってきた。たしかに他人の部屋とはいえ、開けっ放しのまま出かけるのはまずいと考えるのは自然だった。いくらそこがセキュリティの行き届いた超高級マンションであってもだ。龍一の自信はしだいに揺らいでいった。
(もしかすると伸吾の言うとおり、無意識のうちに廊下側からドアをロックして立ち去ったのかもしれない)
しかし、疑問は残った。
「でも、伸吾の言うとおりだとすれば、ぼくはその鍵はどこで手に入れたんだ」
龍一が問い返した。
「未知子がぼくのために、合鍵を部屋に残してあったのか」
「いや、おそらくおまえは、月舘未知子のマンションの鍵を最初から持っていたんだ」
「どうやって? その日まで会ったことのない女の部屋の鍵を、どうしてぼくが持てるんだ」
「さあね。そこまではおれにはわからない」
「わからないんだったら、もう鍵の話なんかやめよう。どうでもいいじゃないか。ぼくはもっと重要な話をするために、ここまできたんだ」
「重要な話に導くために、鍵の件にこだわっているんだ」
伸吾は言い返した。
「おまえたちが初対面ではなかったとすれば、龍一が未知子の部屋の鍵を最初から持っていた可能性が大きくなり、ドアロックの疑問についての説明はつく。だからこそ、おれはこだわっているんだ。鍵を掛けたか掛けないかの問題じゃない。おまえと月舘未知子が、初対面だったか否かの問題だ」
「何度言ったらわかるんだ。ぼくはあの晩まで一度も未知子に会ったことはない」
大きく首を振りながら、龍一は強調した。
「万一、どこかで会っていたとしても、合鍵まで持たされる関係になっていたなら、その状況を忘れるわけないじゃないか」
「合鍵を持たされたというケースとばかりは限らないな。未知子の持っていた鍵をおまえが奪っていたかもしれない」
「なんだって」
龍一は血相を変えた。
「ぼくが彼女の鍵を奪っていた?」
「ああ」
「そんな記憶はない」
「記憶を失っていることも考えられる」
「どこまでおまえは、屁理屈《へりくつ》をこね回すんだよ。言っとくけど、二十六歳のこの歳になるまで、ぼくは記憶を失ったなんて覚えは一度もない」
「その決めつけこそ根拠がないな。記憶を失った人間は、そのことじたいに気がつかない。他人から指摘されるまではね」
「いいや、客観的にみても、記憶喪失に陥るような体験はしていない。車で大事故を起こしたこともないし、どこか高いところから落ちて頭を打った記憶もない。病気で長いあいだ高熱を発していたような経験もない」
「じゃ、人をバラバラにして殺したことは?」
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
伸吾のその言葉に、龍一は凍りついた。
「人をバラバラにして殺した? このぼくが?」
「自分から引き起こしたこととはいえ、その強烈な体験を絶対に認めたくない場合は、自分から記憶を消すような作用が脳に働いたかもしれない」
「ちょ、ちょ、ちょっと待て。なにを言うんだ、おまえ」
龍一は伸吾を建物の壁際まで追い込み、その胸ぐらをつかんだ。他人が見たら、ケンカをしているような恰好《かつこう》だった。実際、乗船のためにターミナルまでやってきた数人の客が、少し離れたところで心配そうにふたりの様子を眺めていた。だが、他人の反応は龍一の視野には入っていなかった。
「いくら友だちでも、そんな言い方は許さないぞ。ぼくはちゃんとおまえに話したはずだ。オヤジが涙ながらに殺人を告白したことを。オヤジの告白が事実だとは信じたくないけど、そう言ったことじたいは事実なんだ。おぞましい話だけど、久美や里奈を殺した犯人が家族にいるとすれば、それはオヤジであって、ぼくではない」
「だけど龍一は、お父さんが彼女たちを殺すような動機は考えられないと言った」
「ああ、そのとおりだ」
「動機が思い当たらないのは、まさにお父さんが犯人ではないからだと、そう考えてみたことはないのか」
「犯人でなかったら、わざわざ告白することもないだろうし、第一、犯人じゃなかったら、どうして里奈が埋められた現場までまっすぐ行けたんだ。天目指峠の頂上であることは新聞に出ていたけど、峠のどのあたりかまでは、報道だけではわからない。なのにオヤジは、前にもきたような足どりで暗闇の中を進んでいった」
「それは、お父さんが以前にそこへ連れていかれたことがあったからだ。たぶん、最初の殺人のときではなく、二度目の事件の直後に」
「連れていかれたって……誰に」
「決まってるじゃないか。犯人に連れていかれたんだよ」
「それって、オヤジが殺したのではない、ってことか」
「おれはそういう前提に立って話をしている」
伸吾の冷静な返事に、龍一は小刻みに頭を横に振った。理解不能だ、というふうに。
「じゃ、犯人は何のためにオヤジを殺害現場へ連れていった」
「どうしたらいいか、という相談のためにだ」
「なんだって」
「二度も残虐な殺人を犯したあと、犯人は自分のした行為の恐ろしさに愕然《がくぜん》となり、どうしていいかわからなくなって、パニック状態になった。一度だけならまだしも、二度も繰り返した自分が恐くなったんだ。誰かに相談しなければ、ひとりで悩んでいたら頭がどうにかなってしまいそうだった。かといって、こんな問題を友人に打ち明けるわけにはいかない。いくらおれと親しくてもな」
「なに?」
龍一は伸吾の言葉尻《ことばじり》に目をむいた。が、それを無視して伸吾はつづけた。
「なんだかんだ言っても、窮地に陥ったときに頼れるのは家族しかいない。そして犯人にとっての家族とは、父親と母親しかいなかった。しかし、あまりにも衝撃的な内容だったから、母親に打ち明けられる問題ではなかった。そこで彼は父親に……」
「なにを言い出すんだ伸吾!」
龍一は大声を発し、伸吾の身体を乱暴に揺さぶった。霧雨に濡《ぬ》れて額にへばりついていた伸吾の前髪が、右に左に揺れるほどの激しさだった。
「ぼくがやったというのか。ぼくが久美や里奈を殺した犯人というのか! ふたりをバラバラにしたのが、このぼくだというのかよ!」
「大きな声で叫ぶな。周りに聞こえるぞ」
「うるさい。ちゃんと答えろ! おまえはこのぼくを殺人犯人に仕立てようというのか。本人にそういう記憶がぜんぜんないっていうのに! それでも友だちかよ!」
「落ち着け、龍一。興奮せずに、論理的に整理してみよう」
つとめて冷静な声で相手を制すると、伸吾は自分の胸ぐらをつかんでいた龍一の手をはずした。そして、乱れた胸元を整えてから口を開いた。
「おまえがお父さんから聞かされた話を総合すれば、時系列的にはこういうことになる。高校のときつきあっていた沢田久美が天目指峠で殺されたのは、高校卒業から四年経った冬──おれたちが大学の卒業記念旅行にハワイへ行く直前だった。そのようにお父さんから聞かされたんだよな」
「正確には二月三日だ。四年前の二月三日」
興奮で荒い息をつきながら、龍一は、その正確な日にちを父親からではなく、未知子から聞いたことを説明した。
「彼女の一家が乗った車が天目指峠で転落事故を起こし、両親が死んで未知子だけが生き残ったのがその日だ。そして未知子は事故の直前、峠の林の中からじっと自分を見つめてくる『眼』に気がついた」
龍一は、未知子の口から直接語られた事故の状況を、伸吾に早口でまくし立てた。伸吾は、初めて聞かされた事実を真剣な顔で咀嚼《そしやく》して、それからつぶやいた。
「なるほど、そういうことがあったのか……未知子が第一の殺人の目撃者だったわけか」
「感心してないで、おまえのバカげた推理の根拠をもっと詳しく話せ」
龍一の興奮は収まらなかったが、伸吾はどこまでも静かな口調でつづけた。
「その出来事から、さらに四年が経ったことしの正月、同じ天目指峠で佐々木里奈が殺された。そして第二の事件から三カ月ほど経ったおとといの木曜日、おまえは月舘未知子と出会い、奇怪な憑依《ひようい》現象に遭遇した。彼女に取り憑《つ》いた死者の霊が、私はあなたのお父さんに殺された、と告白したわけだ。驚いた龍一は翌日の金曜日──つまり昨日だ──しばらくぶりに、おれに連絡をとってきて、未知子に取り憑いたものを見てほしいと頼んだ。その帰りに駅前の新聞スタンドで、二日前に見つかったバラバラ死体の身元が里奈だと確認されたと伝える記事にショックを受けたおまえは、死者の霊が語った言葉を父親にたしかめるよりないと決意、新聞をお父さんに見せたところ、無言で天目指峠に連れていかれた。そして惨劇の現場でお父さんは泣きながら、ふたつの殺人を告白し、さらに第三の犠牲になるのは月舘未知子で、その運命は変えられないと言った。これで間違いないな」
「ああ」
「そうそう、それからもうひとつ確認しておかなければ。高校時代の交際相手だった沢田久美が殺された二カ月ほど前……いや一カ月半前ぐらいかな、おまえは結婚を前提につきあっていた年上の里奈から、予想もしない別れを突きつけられていた。つまり、現在進行形だった恋が破局してからあまり月日をおかずに、過去の恋人に悲劇が起きた」
「だからどうだっていうんだ」
「殺されたふたりの女は、いずれもおまえが結婚を真剣に考えた相手だった。ポイントはここだ」
「だけど、とっくに別れた相手でもあるんだ」
龍一が反発した。
「ふたりとも、殺された時点では、ぼくと別れてから四年も経っていた」
「別れてからはな」
伸吾が微妙な言い方をした。その表現を龍一が聞き咎《とが》めた。
「別れてからはな、ってところを強調するのは、どういう意味だ」
「別れてからは四年も経っていたかもしれないが、恋の未練を断ち切ってからはどれぐらい経っていたのかな」
伸吾は、龍一の反応を窺《うかが》うように、上目づかいになった。
「むしろ四年経っても、ずっと失恋の痛手を引きずっていたんじゃないのか。つまり、こういうことだ。|龍一の恋っていうのは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|別れただけでは終わらないんだよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。別れたあとも、二年、三年、四年と、ひとりでその恋を引きずっている。恋が終わったのは相手の女性にとってだけで、龍一にとっては、いつまでも終わっていなかったんだ。そうだろ?」
「………」
伸吾の指摘に、龍一は愕然となった。人に言いたくない心理を、ズバリ衝《つ》かれてしまった衝撃が顔に出ていた。
そして龍一は思い出していた。深夜の天目指峠で里奈の霊が現れたとき、その声がこう語るのを──
(不幸な人間は、幸せの最後をいつまでも覚えている。五年経とうと、十年経とうと、不幸な人間は幸せだった最後の日を、いつまでも覚えている。いついつまでも)
だが、その言葉は、そもそも里奈の霊が発したものではなかった。かつて龍一が里奈に向かって、そして久美に向かって発した怨念《おんねん》の言葉だった。
「不幸な人間は、幸せの最後をいつまでも覚えている。五年経とうと、十年経とうと、不幸な人間は幸せだった最後の日を、いつまでも覚えている。いついつまでも」
歯ぎしりをしながらそう言って、別れてから四年経ってもなお忘れられなかった沢田久美の首を、そして佐々木里奈の首を絞めた。
その記憶がよみがえった。封じ込めたはずの記憶が……。
[#小見出し]    4[#「4」はゴシック体]
「龍一、おまえとは大学で四年間いっしょだったけど」
呆然《ぼうぜん》と夜の霧雨を見つめる龍一に向かって、伸吾はつづけた。
「ひとりの女に対する龍一の執着ぶりを聞かされるにつけ、その純粋さに感動する一方で、ちょっと恐い感じもしていたんだ。おまえは高校卒業をきっかけに自然と別れる形となった久美への未練を、大学に入ってからも、ずっと引きずっていた。沢田久美という具体的な名前こそ、いちいち出さなかったけれど、高校時代のガールフレンドのことが忘れられないと、ことあるごとに言っていた。入学早々におまえと知り合ってから、おれはずっとその話を聞かされていたよ。その同級生とは結婚まで考えていた、なんてね。おれはびっくりした。高校生のうちから結婚を前提につきあっていたなんて、ふつうの感覚じゃないと思った」
「ふつうの感覚じゃない、だって?」
しだいに魂の抜け殻のようになってきた龍一が、小声でつぶやいた。
「前にも伸吾にそう言われたけど、理想的な恋愛のゴールは結婚に決まってるじゃないか。だから、好きになった女の子ができたら、結婚を考えるのがあたりまえだ。それがなぜおかしい。たとえそれが高校生のときだって、好きになった子とは、結婚を考えるのが常識だろう」
「好きになった女の子ができたら、と言うけどね、おまえの恋って、ほんとに相思相愛だったのか?」
伸吾は、容赦なく突っ込んだ。
「実情は、恋愛というよりも、おまえのひとり芝居みたいなものだったんじゃないのか。勝手に一目|惚《ぼ》れをしたあと、都合のいい妄想をふくらませるだけふくらませて、頭の中を空想でパンパンにさせてから、初めて現実の相手にアタックするんだ。実際に相手に声をかけた時点では、もう彼女はおまえにとっての婚約者も同然の存在になっていた。そのギャップを相手が知ったとき、うれしいよりも恐かっただろうよ。龍一の愛情の強さに感激するより、気持ちが悪かっただろうよ」
「久美が……里奈が……ぼくのことを気持ち悪がっていたって?」
「そうだったと思うね」
「勝手に決めつけるな」
「いや、これは大学時代の四年間、おまえを観察してきた末の結論だよ。三年の夏に年上のOL・佐々木里奈と知り合うまでのおまえは、高校時代の失恋の痛手を延々引きずっていた。ただし、失恋といっても、ほんとうの恋の段階などなかった。ほとんどは龍一の頭の中だけで盛り上がっていた架空の恋だったんだ。彼女は友だちとしての好意ぐらいは龍一に対して感じていただろう。だけど十七か十八の若さで、結婚相手として龍一の親に紹介されたりしたら、おまえの両親も驚いただろうが、久美も正直、引いたんじゃないのか。久美との別れの真相は、そんなふうに先走る龍一のことが恐ろしくなって、卒業をいいきっかけにして、彼女のほうから逃げ出したというところだった気がする」
「………」
沈黙する龍一の耳たぶが真っ赤になった。
「そのあと里奈に出会うまで、おまえは新たな結婚相手捜しに没頭していた。おれも同時進行形でさんざん話を聞かされたから、忘れもしない。おまえのやり方は、おれからみたら、ものすごく不健全な方法だった」
龍一を見つめる伸吾の目には、憐《あわ》れみすら浮かんでいた。
「同じ大学の子や、合コンで知り合った相手に猛アタックするなら、どんなに一方的でも健全な行動だと思う。だけど龍一は、銀行の窓口の子やデパートの受付嬢みたいに、あくまで客商売として感じよく接してくれる相手にクラクラッときて、その態度を個人的なものだと錯覚して恋に陥ってしまうんだ。そして、用もないのにその銀行やデパートに何度も足を運ぶ。挙げ句の果てに、相手と個人的な会話を一言も交わしていないのに、彼女は性格がいいとか、いまどきの女の子にしてはきまじめだとか、絶対に遊んでいないとか、家庭的な子だとか、そんなふうに自分の妄想に沿ったキャラクター付けを行なうんだ。そして、いざ交際を求めて話しかける段階では、もう心の中でお嫁さん候補としての理想像ができあがっている。そんな龍一の、すさまじいまでの結婚願望を前面に出して迫る態度に、相手は、表面的には微笑みをたやさずにいても、内心では顔を歪《ゆが》めて『最悪!』と罵《ののし》っている。おまえはそんな女の心理にも気づかず、『ぼくたちは結婚するために出会った気がします』なんて真顔で迫るから、ついには相手の嫌悪感も限界にきてキッパリと断られる──その連続だった。そうだよな」
伸吾の念押しに、龍一はもう答えない。
「ところが里奈にかぎっては、年上の余裕だったんだろう、意外にも龍一の妄想ラブをうまくあしらいながらつきあってくれた。それで一年以上もつづいたんだから、奇跡みたいなものだったかもしれない。だけど、最終的には彼女もおまえに愛想を尽かした。そうなんだよ、龍一。いつも女は、おまえのストーカー的な身勝手さに耐えられなくなって、逃げ出していくんだ。おまえはそのことに少しも気づかなかったし、おれが指摘しても認めようとしなかったけどな」
伸吾はため息をついた。
「そういえば、おまえはこんな愚痴をおれに洩《も》らしていたよな。『酒はともかく、里奈のタバコだけは絶対にやめさせる』とね。『ニコチンの匂いやタールの味がするキスだけは、何度経験しても慣れない。気分が悪くなって吐きそうになる。ぼくの妻になるからには、タバコは絶対にやめさせる。一カ月以内にやめさせる』──そんなふうに息巻いていたよな。おまえが里奈にフラれたのは、それからしばらくだったような気がする。里奈にしてみれば、酒もタバコも個人の自由だろう。龍一とは、たんに恋愛を楽しむだけの目的でつきあっていたのに、えらそうな亭主風を吹かせるもんで、カチンときたんじゃないのかな。そして、またおまえの迷走がはじまった。いまになって思えば、里奈にフラれたあと、昔のマドンナだった久美のことを思い出して、もう一度会おうと呼びかけたんじゃないのか」
「………」
「龍一、女っていうのはさ、自分の都合どおりに動いてくれるものじゃないんだぞ。たとえ恋人であってもだ」
伸吾は真剣に訴えた。
「そして恋っていうのは、相手の同意があってはじまるものだし、それとは反対に、恋の終わりは片方が『終わり』と言ったら、もうおしまいなんだ。でも、おまえの場合は逆なんだよ。自分の気持ちが盛り上がっただけで、すでに恋愛ははじまったと考え、相手がおまえに愛想を尽かしても、自分に未練があるかぎりは、その恋はまだ終わっていないと決め込んでいる。ものすごいエゴだと思わないか」
「エゴ……か」
「そうだよ。究極のジコチューだ」
伸吾は、無理やり苦笑を浮かべて言った。
「それが、そのときどきの『恋人』に嫌われた理由であり、別れを告げられて四年も経ってから、なお彼女たちに生々しい怒りを抱いた理由なんだ」
「………」
伸吾の指摘に、龍一は激しい衝撃を受けていた。
言われてみれば、たしかに恋の解釈が逆だった。自分にとって、一目惚れが恋のはじまりだった。そして遠くからその女を観察し、心の中で彼女に理想像をあてはめる作業が、恋の盛り上がりだった。起承転結で分けるなら、『起』『承』の段階までが自分ひとりの世界で完結した恋だった。そして、相手に自分の気持ちを告げたときには『転』の局面に入っていた。つまり、妄想から現実への転換点だった。そのギャップから、自分にとって好ましくない『結』が訪れる。しかし自分は、それを恋愛物語の結びとは認めない。そして……。
「おまえの結婚願望というのは」
ショックで凍りついている龍一の耳に、伸吾の言葉が聞こえてくる。
「通常の結婚願望とは違う。おまえが女に対して『結婚したい』と思うのは、自分の妄想を永久に固定化しようという欲望なんだ」
「自分の妄想を……永久に固定化?」
「そうだよ。そして、その願いが叶《かな》わなかったとき、おまえは生き霊となって、その怒りを相手にぶつける。これまでふたりの女を殺してきたという記憶がないのは、たんにおぞましい出来事を封印しようとしたり、惨殺のトラウマで精神的におかしくなったというだけではないと思う。彼女たちを殺したのは、おまえじゃなくて、おまえの生き霊だった。だから生き霊のしたことに覚えがないんだ。いまだってそうだ。月舘未知子に取り憑《つ》いているという認識がない。未知子が見せた憑依《ひようい》現象も、自分の生き霊が作り上げた幻覚でありながら、その認識がない」
「すべては……ぼく自身が産み出したものだというのか。黒い泥も、毛虫の大群も」
「そうだよ。きっと毛虫も蛾も、おまえにとっては何かの象徴なんだろう。そんな龍一にも、一度は目が覚めたときがあったはずなんだ。それはたぶん、ことしの正月、佐々木里奈を殺したあと、そのことをお父さんに告白したときだった。殺害現場まで父親を連れていき、第一の殺人も含めて自分の罪を泣きながら告白したときなんだ。そうだろ?」
問いつめられ、龍一の唇が震えだした。
「でも、おまえの生き霊が、その正しい認識をまた握りつぶした。そんなおまえの精神状態を見て愕然《がくぜん》としたお父さんは、妻にも伏せて、秘密を墓場まで持っていこうとしたに違いない。だけどおまえが──いや、おまえの生き霊が──自己弁護の幻覚をおまえに見せた。それが殺人の目撃者となった月舘未知子に死者の霊を取り憑かせ、父親が犯人だと語らせる、みっともないまでに姑息《こそく》な保身の妄想だ。自分さえ助かれば、親はどうなってもいいという甘えっ子の頭から出た妄想だ。それによっておまえは、自分のしたことを父親のしわざだと自分に思い込ませた。そしてお父さんに向かってヌケヌケと、あんたがしたことだと糾弾した。お父さんが情けなさと恐ろしさで泣き出すのも無理ないだろう。ついでに言えば」
しゃべりすぎて乾いた口を、霧雨に向かって潤してから、伸吾はつづけた。
「おまえが佐々木里奈の遺体発見を知ったのは、おそらくおれと会ったあとではない。蒲田の駅前で新聞スタンドの記事に目を留めたときが最初ではなかった。遺体の身元がわかったという報道の二日前に、すでに天目指峠でバラバラ殺人の遺体が見つかっていたんだろ。だとしたら、その時点でニュースになっていて、犯人であるおまえは、その記事に真っ先に気づいたはずだ。そして、四年前の久美の殺人を目撃した月舘未知子の存在を思い出した」
「じゃあ、未知子と出会ったのは」
「偶然じゃない。それどころか、おまえの生き霊が呼び寄せたんだよ。やはり彼女を生かしておくことはできない、という判断で」
「………」
「第三の犠牲を止められない、というお父さんの言葉の意味が、これでわかっただろう。おまえがやったことだから、お父さんにはどうにもできないんだ。おまえが生き霊の影響力から離脱しないかぎり、未知子の口を封じるという悲劇は止められない」
「伸吾……」
龍一は泣き出していた。
「どうすればいいんだ」
「目を覚ませ。それ以外に、おれがアドバイスできることはない」
震える友の肩に、伸吾は手を置いた。
「自分の犯した罪を、自分できちんと認識しろ。そして、そのことを誰よりもおまえを心配してくれるお父さんに話せ」
「いっしょにきてくれ」
涙をこぼしながら、龍一は訴えた。
「伸吾、オヤジにいまから話しに行く。だから、ぼくといっしょにきてくれ」
「それはできない」
「なぜ」
「もう時間がない」
伸吾は腕時計で時刻を確認した。
「早く乗船しないと、出発はまもなくだ」
「行くなよ。ぼくのそばから離れるな」
龍一は両手で伸吾の身体を押さえた。
「おまえだけが頼りなんだ」
「おれを頼るな、龍一」
伸吾は、首を横に振った。
「すべては自分の手で解決するよりない。だけど、ひとつだけ約束しよう。おれは秘密を守る。おまえが話してくれたこと、おれが見たこと知ったことは、一切口外しない。それだけは友として守る。おれの願いは、おまえが罪を認め、お父さんの心の負担をとって、お母さんの気持ちも和らげ、殺されたふたりの女の霊を慰め、未知子に手をかけないまま、静かに別れることだ」
「わかった……わかったよ、そうするよ。だから伸吾、利島になんか行くな!」
龍一の涙は止まらなかった。
「ぼくをひとりにしないでくれ」
「龍一……」
伸吾も目を潤ませて言った。
「できればそうしたい。でも最後に正直な気持ちを言わせてくれるか?」
「ああ」
「おれは、おまえが、恐い」
「………!」
龍一はショックで飛び退いた。建物の陰から、霧雨の中へと。
「ごめん。でも、それが本音なんだ。月舘未知子に取り憑いたおまえの生き霊を見てしまってからは、本物のおまえとも以前と同じような気持ちで会えなくなってしまった。だからもう、これっきりにしよう」
「そ……んな」
「暗い海だよ」
すでに乗船がはじまった大型客船さるびあ丸のほうへ目を向けて、伸吾はつぶやいた。
「卒業旅行でいっしょに見たハワイの海はきれいだったよなあ。あれはよかった。男どうしの旅だったけれど、あんなに楽しかった旅はなかった。でもな、龍一、あのときのおれの心を青い海にたとえるなら、いまのおれの気持ちは、この暗い夜の海だ」
「なんでだよ!」
伸吾と距離を置きながら、龍一が叫んだ。
「なんでぼくが恐いんだ」
「おれが龍一といっしょにいることを、おまえの生き霊は望んでいない。だから、取り憑いた未知子を動かして、おれの目の前に現れたんだ。おまえから引き離すために。そのとき見た生き霊の姿といったら……」
伸吾は、雨に濡《ぬ》れた髪の毛を片手でぐしゃぐしゃにかき乱した。
「女をバラバラにしたときの返り血で、顔を真っ赤に濡らしていた。顔じゅうに肉片をこびりつかせていた。たぶん、殺した女が完全に絶命する前に、息のある段階で解体をはじめたんだろう。そして生き霊は……」
伸吾は、最後はうめき声になった。
「口に小指をくわえていた。赤い糸を結んだ小指の断片を」
「………」
龍一の全身が痙攣《けいれん》をはじめた。
「さようなら、龍一。おれは行くよ」
霧雨の中で震える龍一を残して、野口伸吾は踵《きびす》を返し、客船ターミナルの中へと駆け足で消えていった。
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[#小見出し]  九. 悪魔のドライブ[#「九. 悪魔のドライブ」はゴシック体]
[#小見出し]    1[#「1」はゴシック体]
野口伸吾を乗せたさるびあ丸が、定刻の十一時ちょうどに夜の桟橋から離れていくのを呆然《ぼうぜん》と見送ったあと、我に返った龍一は、タクシーをつかまえて上池袋の実家近くにある独り住まいのマンションにまず戻った。それから彼は、マンション裏手の駐車場に停めてある自分の車に乗り込んだ。
すでに時刻は午前零時を回り、土曜日から日曜日に変わっていた。竹芝桟橋に着いたころから降り出した細かな霧雨は、いまは本降りになっていた。そのため、車の側面の窓ガラスは一面雨粒で覆われ、フロントガラスには滝のように雨が流れ、車内にこもると、闇と水銀灯の乱反射以外に具体的な風景は何も見えなくなった。
イグニッションキーを差し込んだものの、龍一はすぐにエンジンをかけなかった。ヘッドレストに頭をもたせかけ、ボディに叩《たた》きつける雨音を聞きながら目を閉じた。伸吾に分析された自分の心理と、実際に自分の分身ともいえる生き霊が犯した惨劇を認識させられたショックを、まだ引きずっていた。そしてそのショックは、永遠に癒《い》える見通しはなさそうだった。
いまの龍一は、ほとんど自分の意思とは無関係に、勝手に身体が動いている感じだった。だから、自宅マンションに戻ってすぐに駐車場へ直行し、こうやって車に乗り込んだ理由が、自分でわかっていなかった。車でどこへ向かうつもりなのかも、自分で把握していなかった。とにかく見えない力によって、この車に導かれた。
龍一が運転席に座った車は、大学三年のときに父親に買ってもらったもので、それ以来、六年にわたって乗りつづけているグレーのセダンだった。四年前の二月、天目指峠頂上で目撃した車の色がグレーだったと月舘未知子から聞かされたときも、龍一は、父親の使っている車がダークブルーである点との対比ばかりを気にして、自分の車のことまでは、まったく思い浮かべなかった。
この車を購入した時期は、ちょうど佐々木里奈と出会ったころと重なっていた。だから、デートのたびに彼女を乗せた。元気なときの里奈だけではない。のちに仮死状態になった里奈も、トランクに詰め込んで乗せることになる。それはことしの正月の話だ。そのことも、いまの龍一は完全に思い出していた。
その里奈にフラれて腐っていたころ──つまり、大学四年の冬──ひさしぶりに声をかけた沢田久美を、やはりこの車に乗せた。たんにお茶でも飲みながら、おたがいの大学生活を語りあうだけだと思って再会に応じた久美は、いきなり夜のドライブに連れ出されたので、助手席で身を硬くしていた。そのひきつった横顔を、龍一はよく覚えている。四年前の二月二日、時刻は午後八時ぐらいだった。そんな時間になったのは、久美が七時過ぎまで英会話学校に通っていたからだった。
四年ぶりに再会した龍一は、久美の姿をひとめ見て興奮した。高校三年のときと、大学四年になった現在とでは、女らしさに天と地ほどの差があった。セーラー服姿の女子高生だった時代には感じられなかった色香があふれていた。あきらめていたはずの恋心がまた蘇《よみがえ》り、龍一の胸はときめいた。
夜になって都内でも雪になりそうな冷たい雨が降り出したので、車の窓は完全に閉めきっていた。そうすると、狭い車内の空間に吐き出された久美の息を、自分がすぐに吸い込むことになる。
(これって、一種の間接キスかな)
そんな発想にとらわれ、運転しながら龍一は胸を高鳴らせた。そして意識的に何度も深い呼吸を繰り返した。その様子をいぶかしげに見ていた久美がたずねてきた。
「どうしたの、岡本くん。気分でも悪いの?」
「気分が? 悪いわけないじゃん」
龍一は笑った。
「なぜそんなこときくの。悪いどころか、気分は最高だよ」
「だって、さっきからすごく荒い息をしているから」
「ああ、これね」
龍一は肩をすくめ、さりげない口調で答えた。
「これはぐあいが悪いせいじゃなくて、息が弾んでいるだけなんだよね、久美とまた会えてうれしいから」
そして笑った。
「ハハハ」
久美は寒気を覚えた。無意識のうちにシートベルトのバックルに手をかけた。すぐにでも車から逃げ出せるように。そして、四年ぶりに電話をもらった段階から気になっていたことをきいた。
「さっき私に連絡をくれたとき、なぜ公衆電話からだったの」
「うーん……バッテリーが切れていたからかな」
「かな、って?」
「あ、そんなところで曖昧《あいまい》な返事をしちゃおかしいよね。切れていた。そう、バッテリー切れで携帯は使えなかった」
「いまは?」
「もうだいじょうぶだ。充電バッチリ」
「じゃ、そっちの携帯から私の携帯に電話してくれる?」
久美はバッグから自分の携帯を取り出して、そう頼んだ。
「いま?」
「うん。あと空《から》メールも送って」
「どうして」
龍一は、運転席で眉をひそめた。
「こうやって、もう直接会ってるのに、なんでいま携帯にかけたりメールしたりしなきゃならないんだ」
「………」
「もしかして、ぼくのこと疑ってる?」
「え、どうして」
「よくあるじゃん。殺人事件の犯人が、被害者の携帯から割り出されるっていう展開が」
「………」
「もしかして、そんなことを久美が連想しているのかなー、とか思ってさ。そんで、犯人の身元を記録しておきたいのかなー、とか思ってさ」
「まさか」
久美は、泣き顔に見えそうな笑顔を作った。
「なんで岡本くんのことを疑わなきゃならないの」
「だよね、だよね。こんな人畜無害の男、疑ってみるだけムダだよね」
「ただ、岡本くんのいまの携帯番号とか、メールアドレスを登録しておきたいと思ったから。それだけよ」
「じゃ、これからも電話とかメール、くれるつもりなんだ」
「え……ええ」
「その『え……ええ』っていう間《ま》はなに? やだな、そういう微妙な間は」
「………」
「知りたいんだったら、あとで教えるよ。いま運転中だから」
そして龍一は、助手席に顔を向けて念を押した。
「了解かな?」
「うん」
「だったら、携帯しまってくれる。なんかチラチラ出されていると、気になるから」
「はい」
久美は、携帯をバッグにしまった。それからしばらくのあいだ、彼女は助手席で黙りこくっていた。会話のない静かな時間がつづいた。
[#小見出し]    2[#「2」はゴシック体]
車は首都高から中央高速に入り、車のスピードが百キロを超えるのに合わせて、相対的に雨の激しさも増した。路面の水をタイヤがかき分けるロードノイズも激しくなった。
八王子インターで一般道に下りると、そこから先は、久美にとっては東京であってもほとんど土地鑑のないエリアだった。西に進むにつれて外気温はどんどん下がり、曇り止めのデフロスターを強めなければ、すぐに窓ガラスが曇るほどだった。おまけに、雨はますます降りが強まって、その天候が久美の不安を増していた。
「すごい雨だな」
龍一がつぶやいた。
「どうせなら、雪になってくれたほうがいいのにな。ぼくたちの再会を祝うロマンチックな雪景色になってくれたほうが」
「ねえ」
ずっと黙っていた久美も口を開いた。
「これからどこに行くつもりなの」
「夕食をおごるよ。郊外にいいレストランがあるんだ。真夜中まで営業しているところだから、時間は気にしなくていい」
「あの……ごめんね。私、もう食べてきちゃったの」
「うそ」
龍一は不機嫌になった。
「さっきまで英会話のスクールにいたんだろ。夕食なんて、食べるヒマないじゃん」
「夜のレッスンがあるときは、その前に早めに夕食をとるの。だから、おなかいっぱい」
「ふうん。ぼくはおなかペコペコだ。ひさしぶりに久美と会えるんだから、ゆっくり食事でもしながら話をしようと思ったのに」
「ごめんなさい。私はお茶だけのつもりだったから」
「そっか……」
「ほんと、ごめんね」
「やさしいんだな、久美って」
「え?」
「きみの確認もとらずに、勝手にレストランの予約をしたぼくがいけないのに、自分のほうから謝るなんて、人柄だよね。高校時代から、そういう久美が好きだった」
「あの……」
「ほら、最近の女ってさ」
久美が何か言いかけたのを封じ込めるようにして、龍一は会話をつづけた。
「なんかやたら自己主張ばっかりする子が多いじゃん。うちの大学の子もそうだけど、ウンザリするんだよね、男女平等、男女平等って、そういう権利ばっか主張する女は。これから社会に出て就職したら、それなりに優秀なキャリアウーマンになれるかもしれないけど、家庭ではどうなのかな。絶対、結婚には不向きだよね。最近、そういう不愉快な女に出会っちゃってさ。ぼくより四つ年上なんだけど」
クリスマス前に、いきなり別れを告げてきた佐々木里奈を念頭に置いて、龍一はつづけた。
「男女平等論者のうえに姉さん風を吹かせて、向こうが社会人で、こっちがまだ学生だからって、なにかにつけて子供扱いするんだ。彼女との結婚を真剣に考えていたけど、これじゃうまくいくわけないと思って、ぼくのほうからフったんだけどね。やっぱ年上の女より同年代だよね。世代感覚がいっしょじゃないと、結婚生活はやってられないよ」
久美が相づちを打たないので、龍一はどんどん話を進めていった。
「そんなことで、岡本龍一・二十二歳、現在フリー、恋人募集中、ってわけさ。じつは来週ハワイへ行くんだ、大学の卒業記念に。ほんとなら彼女と行ければ楽しいんだけど、そうもいかなくて、男ふたりで常夏の島に行ってきま〜す。あはは、しょぼい話だよね。四月から会社づとめをはじめたら、もうツアー代金が安い時期に旅行もできないっていうのに、青春時代最後の旅行が男とハワイじゃな」
「岡本くん」
ひとりで明るくしゃべる龍一の横で、雨に歪《ゆが》むフロントガラス越しの光景を見ながら、久美が言った。
「岡本くんって、もう具体的に結婚のこと考えてるの?」
「そりゃそうだよ。大学どころか、高校のころから……いや、ひょっとしたらもっと小さいころから考えていたかもしれない。ほら、よくちっちゃな女の子の夢が『お嫁さんになること』なんて言うじゃん。ぼくは男だけど、やっぱり小さなときから『お嫁さんを迎えること』が夢だったような気がする」
「あ……そう」
「いまだから言うけど」
ハンドルを握る手に力を込めて、龍一は言った。
「高校のとき、もっとはっきりとプロポーズすればよかったと思った。久美に」
「私に?」
久美はびっくりして運転する龍一を見た。
「だって、ぼくのこと好きだったよね」
「あ……うん……あのときは」
いまはそうではない、というニュアンスの返事をしたのに、龍一は久美の答えに納得してうなずいた。
「やっぱりね。そうだよね。だからあのとき、ちゃんとプロポーズをしておくべきだったんだ」
「高校生のときに?」
「もちろん、高校を卒業してすぐに家庭を持つことは、経済的な面から無理だったと思う。でも、プロポーズって一種の予約だよね。だから久美を予約しておけばよかった。売約済みの札をきみに貼《は》っておけばよかった」
「………」
龍一の異様な表現に、久美の顔がこわばった。そして、数秒の間を置いてから、久美は言った。
「あのね、岡本くん。私、結婚もいいけど、いまの歳だと恋愛のことしか考えられないの。まだまだその先までは」
「わかるよ。だから……もうこうなったら、ぶっちゃけ言うけど、きみを予約させてくれないかな」
水をはね上げながら走る前方の車を見つめながら、龍一は言った。
「結婚するのは一年先でも二年先でも、場合によっては三年以上待ってもいい。でも、ぼくのお嫁さんになってくれる約束をここでしてくれないかな」
「なんで?」
久美はなんとか明るい雰囲気を作るために笑おうとした。だが、表情筋が動かず、もう作り笑いさえできなくなっていた。
「なんで、会ってすぐにこんな話にならなきゃいけないの」
「なんで、会ってすぐにこんな話をしちゃいけないのかな。初対面じゃないのに」
龍一の切り返しに、久美は黙った。沈黙の間合いを計ってから、龍一は言った。
「久美、好きだ」
その言葉に、久美もきっぱりと言い返した。
「岡本くん、私、いま恋愛中なの」
「うそ」
顔だけは運転のために前を向いたまま、龍一の黒目がジロッと横に流れた。その目の動きが不気味で、久美は反射的に目をそらせた。
「それは嘘だよね。久美は、好きな男がいるのに別の男と夜のドライブに出かけるような子じゃない。好きな男がいるのに別の男と食事をするような、だらしない子じゃない」
「ドライブだなんて思わなかったもの。それに食事をすることだって」
「じゃ、きくけど、誰とつきあってるの」
「………」
「ほらね、嘘をついてるから答えられないだろ」
「十歳年上の人」
「え?」
久美の答えに、こんどは龍一の顔がこわばった。
「いま三十二歳で、テニスのインストラクターをやっているの」
「そんなオヤジと? ぼくたちより十も年上の中年かよ」
「すごく若々しい人よ。私たちと同じ大学生と言っても通じるぐらい」
「やめなよ」
龍一が険しい声を出した。
「悪いことは言わないから、そんなやつとつきあうのはやめろ。そいつは久美をだましているんだ」
「なんでそんなことが言えるの」
「十歳も違えば、学生の久美なんてだまし放題だろ。向こうは世間ずれしてるんだし、だいたいテニスのインストラクターなんて、生徒の女子大生や人妻と遊びまくっているに決まってる」
憤然として龍一は言ったが、久美が言い返さないので、そこで会話がまた途切れた。
強さを増す氷雨の中を走る車は、JR青梅線に沿う形で新奥多摩《しんおくたま》街道から奥多摩街道を通り、青梅市内に入ってから勝沼《かつぬま》交差点でT字路を右に曲がり、さらにその先を左に折れて成木《なるき》街道に入った。
青梅市内を走っているうちは、まだ明るい街明かりに包まれていたからよかったが、すぐにその明かりも減って、黒沢二丁目交差点を過ぎたあたりからは一気に周りが暗くなった。その先に、しゃれた郊外レストランなどありそうにもない雰囲気だった。
「ね、停めてくれる?」
久美が、意を決したように切り出した。
「停める? どうして。まだ話は終わってないよ」
「トイレに行きたいの」
「このへんにはトイレなんかないよ」
「岡本くん、レストランを予約したんでしょ。そこでもいいわ。キャンセルしなくていいから、そこへ連れていって」
「行くつもりだったレストランは、とっくに通り過ぎたよ」
「え……」
「久美が食べないのに、行っても意味ないだろ。それに、食欲が失せるような話も聞かされたし」
「だったら、どこかお茶飲めるところで休もう。ね?」
「まだいいよ。それに、いま車から降ろしたら、きみに逃げられそうだ」
「逃げないわ」
「逃げるよ。そのつもりで、さっきから久美のお尻《しり》が助手席のシートで浮いている。チャンスがあれば、外に飛び出そうって感じで」
龍一は、チラッと久美の腰に目をやった。
「最初っから、ぼくのことが恐かったんだろ。気持ち悪いと思っているんだろ」
「そんな」
「参考までに聞かせてほしいけど、今晩ぼくと会うこと、誰かに言った?」
「べつに。でも、なんでそんなこときくの」
「親には話さなかった?」
「親に? どうしていちいち親に」
「だって、両親といっしょに住んでるんだろ」
「親はいま大阪に住んでるの。お父さんの転勤があったから」
「あ、そうなんだ。じゃ、いまはひとり暮らしか」
「………」
久美は、よけいなことを言わなければよかったという顔で唇を噛《か》んだ。
「そうなんだよね」
「ううん、弟といっしょに住んでる」
「またまたー、急に話を作るなって」
「ねえ、岡本くん。私……」
「言っとくけど、もしも信号で停まったチャンスに車から逃げ出そうと考えているなら、それはムダだよ」
久美の気配を察して、龍一が機先を制した。
「もうここから先は信号はあまりないし、あったとしても、たいてい青だよ。交通量が少ないから、赤でも無視すりゃいいし。それに外に飛び出したって、助けてくれるような人通りなんてないよ」
「どうしてそんなふうに私を怖がらせるの」
「逃げようとするからさ。ぼくは久美ときちんと話をしたいんだ」
「話ならいくらでもするわ。だからどこかの喫茶店に……」
「こんな環境で喫茶店があると思う? とにかくおとなしく座っていてくれないかな」
龍一の語気に、久美は黙りこくった。
[#小見出し]    3[#「3」はゴシック体]
龍一が運転するグレーの乗用車は、やがて東京都から埼玉県に入る小沢峠の山道に入った。両側から鬱蒼《うつそう》とした樹林の迫る山道は、久美の不安をさらに増幅させた。
時刻は九時半を回ったところだったが、都会の九時半と山道の九時半とでは、まるで世界が異なっていた。時計の針が一気に深夜に進んでしまった感じだった。周囲の闇が急速に濃度を増し、それと対比して、ヘッドライトの明かりがまばゆさを増した。その光の中で、斜めに走る雨のラインがきらきらと輝いていた。
小沢峠を越えると、そこは埼玉県の名栗村だった。そして名栗渓谷沿いの道を走ってから、名栗木材の手前交差点を右に折れた。そこは翌二月三日の朝、月舘未知子の一家が逆方向から走ってきて天目指峠へ左折することになる場所でもあった。
龍一は、実家のある上池袋方面からくるときに使う飯能市経由のルートとは反対側から、天目指峠に入っていった。その峠は、過去に何度かバイクでツーリングをしたことがあったので、龍一には馴染《なじ》みがあった。夜中にもバイクで通ったことが何度かある。だから、この時間帯ではすでにほとんど車の通行がないことも承知していた。
そこへ車を向けた時点で、もう彼はつぎの展開を止められなくなっていた。
「ねえ、どこなの、ここ」
シートベルトにしがみつきながら、久美がたずねた。
「いったい私をどこへ連れていくつもりなの」
しかし、龍一は返事をしなかった。
やがて民家は完全に姿を消し、急|勾配《こうばい》と急カーブが連続する険しい峠道になった。久美は、こんな場所を車で走ったことがなかった。
気温はさらに下がり、中程度の強さにとどめているデフロスターの暖気が、外気温の低さについていけなくなっていた。フロントガラスは周辺から曇りだし、側面の窓ガラスは暖気の吹き出しが直接当たるところを除いて、完全に曇っていた。リアウインドウには熱線が張らていたが、それをオンにしても曇りが除去できない。車内の空間が、心理的に一気に狭まった。
久美は恐怖のかたまりとなって、四年前には仲のいい同級生だった岡本龍一の、別人となった姿を助手席から見つめていた。
と、彼女は妙なものに気がついた。
急カーブに沿って、ハンドルを右に左に忙しく切るたびに、赤い糸が大きな弧を描くように、暗い車内の空間を舞っているのだ。最初は、それが何なのかわからなかった。だが、よく見ると、龍一の左小指に長さ五十センチぐらいの赤い糸が結ばれていて、それが大きなハンドルさばきに伴って、まるで新体操のリボンのように宙を踊っているのだった。
さっきまで、久美はその存在に気づかなかった。実際、龍一はそんなものを小指に結んでいなかった。だが彼は、峠道に入る少し前の時点で、ポケットに用意しておいたそれを、すばやく小指に結びつけていた。
その階段で、岡本龍一は岡本龍一でなくなっていた。自分の期待を裏切った女に対する憤怒《ふんぬ》が生み出した生き霊にすり替わっていた。龍一に生き霊が憑依《ひようい》しているのではなく、龍一が生き霊そのものとスイッチしていた。
「岡本くん」
震える声で、久美がきいた。
「小指に結んでいるもの、それ、なに? その赤い糸」
「赤い糸の伝説さ」
ハンドルをせわしなく回しながら、赤い糸を宙に泳がせて、龍一の生き霊が答えた。
「大好きな人と結ばれるための赤い糸だ。ぼくの左の小指と、久美の右の小指とは、見えない赤い糸で結ばれている。それをもっと目に見える形で表現したのがこれだ」
「いや……」
「なにがいやなの」
「こんなことって……いや」
久美は泣き出していた。
「帰して。私をうちに帰して」
「無理」
龍一はきっぱりと言った。
「ぼくは久美を誰にも渡さない。ぼくのお嫁さんになるのは、きみしかいない」
「やだ、そんなのやだ!」
「抵抗はできない。ぼくの恋は、ぼくが決めたとおりの結末にならなければいけない。結婚は、ぼくが決めたラブストーリーの大切なエンディングなんだ。それを変えることは許されない。これはひとつの小説なんだ。小説は作家の思うままの筋書きで終結しなければならない。現実世界の恋もそれと同じだよ。自分の自由にならないことが多い人生の中で、せめて恋だけは自分の小説にしたい。久美、きみはぼくの小説の中の登場人物なんだ。作中の登場人物は、作家の思うとおりに動かなければならない」
ギアを落とし、エンジンの回転を上げて急坂を駆け上りながら、龍一は──龍一の生き霊は──しゃべりつづけた。
「だけど、いいかい、久美。どうしてもきみが拒否するんだったら、きみの身体はあきらめる。でも、心はもらいたい。その心が宿っているのが小指なんだ。そして、小指以外のきみの身体は壊す」
「壊すって?」
「バラバラにして、人間ではいられないようにする。ほかの男に渡さないために」
久美は恐怖でのけぞった。
「岡本くん、おかしいよ。おかしいよ、岡本くんは!」
「おかしいのは久美のほうだ。こんなに狂おしいぼくの愛を受け取らないなんて、きみのほうがどうかしている」
峠を上りきった。
龍一は車を停め、そしていきなり助手席の久美に覆い被《かぶ》さった。左手の小指に赤い糸を結んだまま、両手を相手の首に回した。
「いいか、久美。よく聞け。不幸な人間は、幸せの最後をいつまでも覚えている。五年経とうと、十年経とうと、不幸な人間は幸せだった最後の日を、いつまでも覚えている。いついつまでも。ぼくの中で、恋は終わっていなかった。そっちは終わっていても、こっちの世界では恋はつづいていたんだ」
久美の潰《つぶ》れるような悲鳴が曇った車内に響きわたり、そしてすぐに静けさが戻ってきた。車体を叩《たた》く雨音だけが、静寂の中に単調なリズムを刻んでいた──
[#小見出し]    4[#「4」はゴシック体]
強まってくる雨音が、混濁していた意識を覚醒《かくせい》させた。
気がつくと、龍一はマンション裏の駐車場に停めてある車の中にいた。エンジンもかけず、所定の駐車位置にずっと停まったまま動いていないのに、彼の意識はこの車で天目指峠までドライブをしていたのだ。沢田久美とともに。
ヘッドレストに頭をもたせかけたまま、龍一は、いま意識の中で再現された過去を、もういちどなぞった。
峠の林の中で、ひと晩かけての『作業』を終え、翌朝になって、左手に赤い糸で結びつけた久美の小指をぶらぶらと揺らしながら車のところへ戻ろうとしたとき、突然ひとりの女が樹林の中に駆け込んできた。それが月舘未知子だった。
龍一は大木の陰から、嘔吐《おうと》する女をじっと見つめていた。そして彼女が顔を上げたとき、自分と目が合った。相手の視線は龍一の目に、そしてつづいて彼の指先にぶら下がっているものに向けられた。
驚愕《きようがく》の表情を浮かべた彼女は、踵《きびす》を返して逃げ出した。まずい、と思った。彼女をこのまま逃がしてはいけないと追いかけた。
そのあとは、早送りのビデオを見るように、一気に再生画像が高速になった。
みぞれから雪へと変わり、いちだんと滑りやすくなった峠の下り坂を逃げてゆく車は、ついにはオーバースピードでカーブを曲がりきれず、ガードレールを乗り越えて転落した。その転落を確認すると、龍一は道路沿いにもっと下のほうへ車で回り込み、適当な退避スペースを見つけてそこに車を寄せた。対向する側から上ってきた製材業者のトラックが通りすぎるのを待ってから、龍一は車から出て樹林に分け入った。
しだいに強まる雪の中、転落場所を目指したが、腹を見せて転がっている車のところへも、未知子のところへも近づくことはできなかった。ただ、開いたドアから投げ出され、斜面に散乱した荷物のいくつかは手に取ることができた。そのひとつが未知子のバッグだった。
急いで中身を確かめ、そこに入っていたマンションの鍵《かぎ》らしきものと免許証とを抜き取った。そのあと龍一は、雪に覆われつつある悲惨な転落現場を改めて見回した。この状況では、車に乗っていた者は全員助からないと確信した。たとえいまは息があっても、降り積もる雪に隠されてしまえば発見はずっと先になり、手遅れになるだろうと。まさか、さきほどすれ違ったトラックが警察に連絡し、思いのほか早く救助がくるとは思いもしなかった。
現場をあとにすると、龍一はその足で、免許証の住所を頼りに、六本木にある目撃者の自宅を訪れた。
卒業が間近とはいえ、まだ学生の身分である龍一は、超高級マンションの威容にはさすがに圧倒された。だが、同時に強い好奇心もそそられ、拾得した鍵でオートロックを開けると、建物の中に入った。その姿は当然、防犯カメラに捉《とら》えられたが、正規の方法で入った以上、問題が起こるはずもなく、またのちに彼の画像が月舘家の交通事故と結びつけられることもなかった。
3107号室の中に入ると、その広さに龍一はまた圧倒された。そして窓際のパネル式電動カーテンをリモコンで開け、そこからの眺望に息を呑《の》んだ。
(何かのときのために……)
龍一は思った。
(この部屋の鍵はとっておこう)
翌日、龍一は新聞の報道で、転落した車には実業家一家三人が乗っており、夫婦は死亡したが、自分の姿をじかに目撃した娘だけが重体ながら助かったことを知った。彼女がどこまで記憶を維持しているかわからなかったが、目撃者がひとり生き残ったという事実は、無意識下に重くのしかかった。
しかし、週が明けて野口伸吾とハワイへ出かける段階では、龍一はそれらの記憶すべてを失っていた。自分自身の生き霊に、よけいな情報を遮断されてしまったことに、龍一はまるで気づいていなかった。
それから四年後──
社会に出た龍一は、伸吾が指摘したように、ひとり相撲の恋愛ゲームに没頭しては相手から疎まれ、夢が砕けてしまう連続の日々を過ごしていた。いつまで経っても理想の女性を引き寄せられないことに苛立《いらだ》った彼は『新規開拓』をあきらめ、久美のケースでは失敗した、昔の関係の復活に目を向けた。
それが佐々木里奈だった。
ふと思い返せば、年上の余裕なのか、里奈だけは龍一を変わり者とも思わずにつきあってくれていた。別れることになったのも、龍一が里奈に向かってタバコをやめろ、酒を控えろと、口うるさく言ったことが原因だった。だから決して本質的に嫌われたわけではない、というのが龍一の勝手な分析だった。そしてことしの正月早々に、四年ぶりに里奈を呼び出した。
沢田久美と違って、里奈は龍一からの連絡にさして不審な思いも抱かず、笑顔さえ浮かべて龍一が指定した喫茶店にきた。四つ年上の里奈は、まもなく三十の大台に乗ろうという年齢になっていたが、赤いコートに白いマフラーというスタイルでやってきた彼女は、むしろ以前よりも若々しくなった印象さえあった。
「ひさしぶりね。元気にしてた?」
まるで姉が、しばらくぶりに会った弟をいたわるような口ぶりだった。それが龍一には心地よかった。学生時代には、そんな里奈の態度がえらそうに思えたものだが、自分も社会人になってみると、それが里奈の魅力だと理解できるようになった。
久美と違って、里奈は夕食をともにすることにも同意した。そのレストランを決めるとき、龍一は迷うことなく、四年前に久美を連れていくはずだった八王子郊外の店を選んだ。その段階で、破滅を無意識下で予想していたのは間違いなかった。そして事態は、そのとおりの展開になった。
きっかけは、また結婚話だった。再会した里奈の対応が、あまりにもフレンドリーだったので、レストランの席で、龍一は彼女の反応を探るように切り出した。
「里奈も、もうすぐ三十だし……」
その一言で、相手がカチンときたのがわかった。
「もうすぐ三十だから、どうなの」
それまでの笑顔を一気に消し、すかさず里奈が言い返してきた。ああ、また失敗だ、と頭の片隅で悔やみながら、龍一は話の流れを変えることができなかった。
「そろそろ身を固めることも考えなきゃいけないんじゃないかな」
「身を固める?」
里奈は、吸っていたタバコの煙を龍一に向かって吐き出した。
「なにそれ? 男の奴隷になることが、身を固めるってことなの? そのリミットが三十ってこと? だれが決めたの、そんなルール。あんたなの、龍一。だとしたら、悪いけど私、ぜんぜん身を固めたくないんだけど」
「いや、そういう意味で言ったんじゃなくて……」
あわてて言い繕おうとする龍一に、里奈はたたみ込んだ。
「もしかして、あんた、また結婚話を蒸し返すつもりで私を呼び出したの? わかってないわけ? 私があんたから離れた理由が。ウザイんだよ、しつこくて!」
あんた呼ばわりされ、ウザイと言われ、龍一の血圧が一気に上がった。そして、生き霊とスイッチした。
三十分後──
龍一は、「とりあえず近くの駅まで送って」と腹立たしげに命令した里奈の首を、車の中で絞めていた。彼女が首に巻いていた白いマフラーをそのまま引き絞るやり方で。
「不幸な人間は、幸せの最後をいつまでも覚えている」
またその言葉をつぶやきながら、龍一はキリキリとマフラーを絞めていった。
「五年経とうと、十年経とうと、不幸な人間は幸せだった最後の日を、いつまでも覚えている。いついつまでも。ぼくの中で、恋は終わっていなかった。そっちは終わっていても、こっちの世界では恋はつづいていたんだ」
失神した里奈を死んだものと思ってトランクに詰め込み、龍一はふたたび天目指峠へと向かった。そして、事前に最悪の展開を予想してトランクに積んでおいた『道具』を使って、樹林の中で作業に入った。まず刃物を腕の付け根に当てたときに初めて、龍一は里奈が死んでいなかったことを知った……。
(それにしても……)
闇と水銀灯の反射光に閉じ込められた車の中で、龍一は自分自身に問いかけた。
(なぜぼくは二度目の殺人のあと、それをオヤジに相談したんだ。永遠に自分の中だけにしまっておけばいいことを)
「それは、オヤジとオフクロもいっしょに巻き込んでしまいたかったからさ。自分が味わった苦しみを、親たちにも味わわせてやろうということさ」
いきなり聞こえてきた声に、龍一はもたれていた運転席の背から身を起こした。そして反射的にバックミラーに目をやった。
後部座席に自分が座っているのが映っていた。
[#小見出し]    5[#「5」はゴシック体]
龍一は、初めて生き霊を自分の目で確認した。
そいつは服を着ておらず、全裸だった。そして、首から赤い糸のペンダントをぶら下げていた。ペンダントは、ふたりの女の右手から取った小指二本分の骨で構成されていた。
「自分がやってきたことが呑《の》み込めたか、龍一」
自分の顔をした真っ赤な怪物が、自分の声で問いかけてきた。
里奈の霊が現れたときのように、龍一は、身をひねって直接自分の目で後部座席を見ようとした。そうすれば幻覚が消えるはずだと思って。だが、身体が自由に動かなかった。
「おれを消そうと思ってもムダだよ」
龍一の意図を見抜いたように、後部座席の生き霊が言った。
「おれが生みだしたこれまでの幻覚と違って、おれは実像なんだから、おまえには消せない」
「お……おまえがぼくに」
バックミラーに向かって、龍一はかすれた声を出した。
「里奈の霊を見せていたのか」
「そうだ」
「バカでかい毛虫もそうなのか」
「そうだ。毛虫は岡本龍一にとって屈辱の象徴だから、そして蛾は復讐《ふくしゆう》の象徴だから」
「毛虫が屈辱の象徴?」
「覚えていないのか、龍一。小さいころのおまえは、女の子とままごと遊びをするのが大好きで、しかもおまえはそれを『ままごと』と呼ばずに『お嫁さんごっこ』と呼んでいた。三歳か四歳のうちから、新婚家庭のまねごとに憧《あこが》れていたんだよ。それが同年代の男の子たちには気持ち悪いものに映ったんだろう。おまえは気持ちが悪い生き物の代名詞でもある『毛虫』をあだなとしてつけられ、『毛虫、毛虫』と囃《はや》し立てられながら、男の子の遊びの世界から締め出されていた」
(思い出した。たしかにそうだった。ぼくはそうやって、同性の仲間からいじめられていた)
「しかし、どんなにからかわれても、おまえはお嫁さんごっこをやめなかった。そうした幼いころのままごと遊びが、おまえの頭の中に異常なまでに精密な仮想世界を組み立てる想像力を育むきっかけだった。『ナントカごっこ』というのは子供世界特有のヴァーチャル・プレイだが、おまえの場合は成長して小学校の高学年になっても、中学生になっても、そして高校生になっても、そこに現実的な物差しが入り込んでこなかった。いつもいつも一目|惚《ぼ》れした女の子を対象に、その子と結婚する将来を詳細に描き上げていった」
あいかわらず車体を叩《たた》く雨音が響く中、バックミラー越しの生き霊は語りつづけた。
「おまえ自身が認めているように、岡本龍一にとっての恋愛は、小説家がプランどおりに登場人物を動かすラブストーリーそのものだった。そしてその恋物語の結末には、必ず結婚があった。それもすべては、ままごと遊びで培った空想力のなせるわざだ。
だが、おまえの空想力はラブストーリーばかりを織り上げたのではなかった。同時にホラー小説をも執筆しはじめたのだ。その手はじめが、自分を『毛虫』と呼んで仲間はずれにした友だちへの復讐だ。それが巨大毛虫の大群であり、毛虫が成長してなる蛾の大群だった。その蛾は、小さくて白い蛾の群れであったり、ときには羽を広げた大きさが一メートルを超す巨大な蛾だったりした」
「それをぼくは彼らに……?」
「そう、いじめっ子たちの夢の中へ送り込んで苦しめた。ちなみにおまえが父親といっしょに天目指峠の頂上で襲われた、蛍光グリーンの胴体に蛍光ブルーの斑点《はんてん》を持つ毛虫は、日本国内で現実に存在する毛虫としては特大クラスのクスサンの幼虫──地域によっては『白髪《しらが》太郎《たろう》』とか『白髪《しらが》太夫《だゆう》』と呼ばれる──そいつを何倍にも拡大したイメージで作り上げたものだ。毛虫の白髪太郎も成虫のクスサンも、おまえが子供時代、祖父母のいる田舎で見た生き物だった。巨大な羽に眼の紋様を入れたクスサンは、おまえの空想世界の中でモンスター級に増幅され、復讐の怪物に育て上げられた。そして、ときにはそれを自分自身に襲いかからせ、その脅威を自分で実体験してもいた
やがておまえは、式神《しきがみ》として操るものが毛虫や蛾では事足りなくなり、おれという生き霊を生み出した。おまえは野口伸吾から生き霊の概念を初めて聞かされたようなふりをして自分を偽っていたが、はるか前に、自らの脳でおれという怪物を作り上げていたのだ。そして、おれに憑依《ひようい》の力を与え、復讐の悪魔として従えた」
「嘘だ!」
ハンドルを叩いて、龍一は怒鳴った。
「ぼくはそんな悪魔を生み出せるような人間じゃない!」
「自分を卑下するなよ、龍一」
小指のペンダントを首から下げた、全裸の生き霊が笑った。
「おまえの想像力はたいしたもんだぜ。こんな精巧な自分のコピーを、仮想世界から現実世界へと送り出してくるんだから」
「違う! ありえない!」
「おとなの感覚で子供の力を否定するな、龍一。既成概念にとらわれない子供の想像力はこれほどまでにすごいという証拠品が、おれなんだ。そしておまえは、自分の人生を空想どおりに運ぼうとした。それのどこが悪い? 恋愛を自分の思いどおりの筋書きで運ぼうとして、何がいけないんだ。いいことじゃないか。すばらしい発想じゃないか。他人の都合で揺れ動く人生より、自分の思いのままに他人を動かす人生のほうが楽しいに決まってるじゃないか。そして、おまえの決めたキャラクター設定を勝手に否定するような登場人物は抹殺されてしかるべきなんだ。監督の言うことを聞かない俳優が降板させられるようにな」
ペンダントの小指をいじりながら、生き霊が笑った。
「それにしても龍一、おまえの名セリフには感動させられるぜ。『不幸な人間は、幸せの最後をいつまでも覚えている』っていうヤツにはな。だから、おまえにとっては失恋があってもなお、その恋は終わらないんだ。……さてと」
龍一の生き霊が一息ついて言った。
「エンジンをかけろ」
「どうするんだ」
「実家に行け。歩いても行ける距離だが、この雨じゃ、車のほうが楽だろう」
「行ってどうするんだ」
「覚えているだろう、龍一。おまえの父親が泣きながら叫んだ言葉を。月舘未知子を第三の犠牲者にしないためには、死ぬしかないと言っていたことを」
「ああ」
「その意味がわかるか」
「ぼくが死ぬしかないということだろう」
「そういう解釈は悲しすぎるよな」
「じゃあ、なんだ」
「親の死によって、おまえが目覚めるしかない、ってことさ」
「まさか……」
「早く行けよ。そして、ふたりの最期を見届けてやれ。それから警察に連絡だ」
「なんだって!」
バックミラーに向かって、龍一は怒鳴った。
「ふたりの最期って、どういうことだよ」
「精神状態がおかしくなった妻を病院から強引に連れ帰ったあと、その先行きをはかなんで夫は無理心中を決行した。そういう筋書きになっている」
「ぼくはそんな筋書きなんて!」
「書いたんだよ」
生き霊が龍一の反論を封じた。
「そして、そのストーリーはすでに実行された」
「実行された……って?」
「ふたり並んで、茶の間で首を吊《つ》っているよ」
「嘘だ! 嘘だあ!」
「いまさら嘆くな、龍一。おまえは、自分の結婚プランが、常識にこだわる両親によって阻まれてきたと考えている。そしてそのことを怨《うら》んでいる。父親に連続殺人という大罪をわざわざ告白したのも、自分の結婚を妨害した親を精神的に苦しめる復讐の一環だ。母親にも霊を取り憑《つ》かせて、その精神をぶち壊した。みんなおまえの復讐だ」
「ありえない! 絶対ありえない!」
龍一は、またバンバンとハンドルを叩《たた》いた。いっしょにクラクションも鳴らしてしまい、雨音を切り裂いてその音が響きわたった。
「落ち着くんだ、龍一。多少のストーリー変更はあったものの、基本的にはおまえの小説どおりに人生は進んでいる。恋愛小説はもうすぐ完結の章に入るんだ。その前に、不要になった配役には舞台から退場してもらったわけだ。……さあ、息子として、最後のおつとめをしてあげようじゃないか」
生き霊がうながしたのと同時に、勝手に車のエンジンがかかった。
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[#小見出し]  エピローグ 新しい未来へ[#「エピローグ 新しい未来へ」はゴシック体]
[#地付き]──一年後
「えー、龍一君、未知子さん、このたびはほんとうにおめでとうございます」
マイクの前に立った会社の同僚・坂井省介は、ホスト系の顔立ちに礼服がよく似合っていたが、披露宴に招かれたおよそ三百人もの招待客を前にして、やや緊張気味に声をうわずらせながら友人代表の祝辞をはじめた。
「じつは、おふたりのそもそもの馴《な》れ初めを語るに、この私をおいてほかに適役はいないのではないかと思われます。と申しますのも、いまからちょうど一年前の四月、おふたりが出会ったまさにその瞬間、私も宿命の現場に居合わせていたからです。正直なところを打ち明けますと、最初に未知子さんに目をつけたのは、この私なんです。ですから、もしも私が龍一君よりもう少しいい男であったならば──というか、私のほうが絶対に男前のはずなんですが──彼に代わって、私が未知子さんの隣に座っていたかもしれません」
場内から、くすくすと笑いが洩《も》れた。
「そこはあるカフェレストランでした」
ほんとうは洋風居酒屋であったが、さすがに披露宴のスピーチ用に、省介は気を利かせて設定を変えていた。
「ひとりでお茶を飲んでいる未知子さんが目に入ったとき、私はその美しさに思わず見とれてしまいました。きょうのウェディングドレス姿も、もちろんまばゆいほどの美しさですが、そのときの未知子さんはカジュアルないでたちであるにもかかわらず、周りの風景から浮き立つような輝きを放っていました。美人を見たら声をかけるのが礼儀という、ラテン系の哲学を持った私としましては、もちろん黙ってほうっておける存在ではありません。すぐに席を立って彼女のほうへ向かいました。ところがです。私がアプローチをしたはずなのに、いつのまにか龍一君のほうが彼女との会話を独り占めにしているではありませんか」
そこも省介は事実をうまく変えて、未知子のイメージを崩さないようなエピソードに仕立て上げてくれていた。龍一は、友の配慮をありがたいと思った。事実、ほんとうの未知子は省介がアレンジしてくれたとおりの女性で、あのとき未知子のほうから言い寄ってきたり、よその客のボトルを一気飲みして泥酔したのは、佐々木里奈の霊が──正確には、龍一の生き霊が操作した里奈の霊が──取り憑いていたせいであって、その奔放な行動は未知子の真の姿ではなかった。
省介はそうした裏の事実は知らず、たんに披露宴の品格を考えて、少し話を変えてくれたのだが、意図せずして、それは未知子の素顔の雰囲気を紹介することになった。彼女は佐々木里奈とはまるで違う、控えめで落ち着いた女性だった。
そしてきょうの未知子は美しかった。どんな女性でも花嫁姿は輝くものだが、ウェディングドレスをまとったきょうの未知子は格別だった。それなのに龍一は、いまひとつ感激していなかった。一言も口を利かない段階でも、女性の第一印象だけで彼女との結婚までシミュレーションできてしまう龍一なら、未知子の美しさに惚《ほ》れ惚《ぼ》れしても不思議ではないのに、彼は新郎として主役の席についても、心が躍っていなかった。
来賓や友人の祝辞も、どこか他人事《ひとごと》のようにしか受けとめられなかった。龍一は何かがおかしいと感じていた。こんな形の結婚式を挙げることが、ほんとうに自分の願っていた人生のストーリーだったのか、と。
出だしの緊張がほぐれてきた省介が、本来の調子を取り戻してスピーチも滑らかになり、場内に笑いの渦が何度も起きた。その笑い声を遠いところに聞きながら、龍一は、未知子の亡父の人脈によって分不相応なまでに規模が大きくなった披露宴の出席者たちを見渡していた。そして、新郎側の友人を集めた円卓のところで視線が止まった。
そのテーブルはほかと同じように八人掛けだったが、招待客が六人しか着席していなかった。空席のひとつは、いまスピーチを行なっている坂井省介のためのものだったが、もうひとつは、客そのものがきていなかった。出欠の返事がなかったけれど、出席を前提に用意しておいた野口伸吾の席だった。
(やっぱり伸吾はきてくれなかったな)
空いた席を見ながら、龍一はふと淋《さび》しさを覚えた。
未知子に取り憑いていたのが龍一の生き霊だったという衝撃の事実を教えてくれた大学時代の友人は、雨の桟橋での別れ以来、龍一の前に姿を現すことはなかったし、連絡もくれなかった。以前の住所に出した結婚披露宴の招待状も、本人の手に届いたかどうかも定かではなかった。
だが、彼からその恐ろしい真実を指摘されなかったら、こうやって未知子と結ばれることもなかっただろう。未知子に取り憑いていたものが自分自身の空想力が生み出した分身であると知ってからは、龍一は、少なくとも未知子に作用を与えることだけは避けるよう、生き霊をコントロールする努力をしてきたからだった。
だから、できることならこのハレの席で、伸吾と再会したかった。そして、伸吾のおかげでトラブルは一件落着したのだと、直接礼を述べたかった。
それにしても、何かが変だった。この結婚披露宴じたいに違和感があった。主役として新郎の席に座り、自慢するにふさわしい美しき花嫁を真横に置いて、三百名にのぼる大勢の招待客を正面に見下ろしながら、それでも何かがおかしいと龍一は感じていた。
(これがほんとうにぼくが望んでいたストーリーの結末なのか? ぜんぜん違うじゃないか)
問題はそこだった。
たしかに月舘未知子は、たとえそれが霊の作用であっても、龍一の愛を求め、龍一との結婚を強く望んできた。その望みが現実のものとして叶《かな》えられ、花嫁姿の未知子はとてもしあわせそうだった。だが、龍一にとっては、この結婚は望んでいたものだったのか。
答えはノーだった。
自らが生み出した生き霊が指摘したように、子供のころのままごと遊びは、わずか二、三歳のころから龍一に結婚への憧《あこが》れを強く持たせ、詳細な仮想世界を作る想像力というものを、彼の脳内に育てることとなった。そんな龍一にとって、恋とは、相手の気持ちなどおかまいなしの、自分自身だけを感情的に昂揚《こうよう》させるひとり遊びといってもよかった。そこが一般の男と、根底から発想が異なるところだった。
恋の幕開けは、龍一からの一方的な一目惚れではじまる。
遊び人の省介なら、一目惚れの直後に相手に声をかけているはずである。どんなに外見がよくても、人間としての相性は別。そしてそれは、実際にしゃべってみないとわからない、というのが、女性経験の豊富な省介の哲学だった。
ところが龍一は、いいなと思った女性にすぐ声をかけたりしない。彼女を遠巻きに観察し、自分の頭の中で彼女の雰囲気に合った理想のキャラクターを設定する。そこが楽しいのだ。それが龍一にとっての、恋の盛り上がりというものだった。
その準備を経て、生身の彼女も自分が設定したとおりの人格であることを期待して、ようやく実物へのアプローチをはじめるのだった。
龍一には固い信念があった。それは、自分の愛が一途《いちず》なものでありさえすれば、必ず女性もその愛に応《こた》えてくれるはず、という法則への信頼だった。龍一にしてみれば、どんなに男性側が一生懸命であっても、女性に拒否されることも普通にありうる、という現実が認められないのだ。熱意と誠意さえ示せば、結婚への真剣な思いは必ず相手に伝わるはずという確信があった。最終的に女は、こちらの熱意にほだされるはずだ、と……。
それは幼年時代のままごと遊びで、自分が決めた段取りどおりに、お嫁さん役の女の子を動かそうとするのと変わりない感覚だった。女はこっちの思うままに反応してくれるという前提から抜け出すことが、龍一はできずにいた。ほとんど面識がない段階で、いきなり結婚への思いを熱く語られるほど女性にとって気味の悪いものはない、という認識が、龍一にはまるでなかった。
だから、結婚相手として勝手にリストアップした『候補者』に自分の熱意が受け容《い》れられなかったとき、その現実をすんなり認められず、激しいショックを受けることになる。そして、たとえ女性がもうあなたとは会いたくないと言ってきても、自分のほうが冷めてさえいなければ、その恋は決して終わったことにならないという一方的な解釈を平然とするのだった。
龍一の恋愛とは、おたがいに愛しあうことではなかった。自分のほうがいかに熱心に相手を愛するかという視点だけで完結していた。自分の愛が女性に通じれば、女性から自分への愛は、じつは必要としていないのだった。
したがって龍一にとっての結婚とは、自分の熱意を相手に認めさせ、それを認めた証拠に、戸籍上の婚姻関係を結ばせることにあった。そのあとの結婚生活の青写真は、じつはまるで描けていなかった。運転免許にたとえれば、試験場で合格点を取り、免許を交付されたところで満足して、その免許で一般道路を運転するところまではまったく考えていないようなものだった。
そうした思考の持ち主である龍一にとって、今回の未知子との結ばれ方は、未知子のほうは満足しても、自分にはまるで達成感のないものだった。基本的に人生でたった一度であるはずの結婚が、これほどまでに拍子抜けしたものになったことに、龍一は激しく落胆していた。
問題はそれだけではなかった。
(そもそも、未知子は殺人事件の目撃者なのだ。ぼくが犯したバラバラ殺人の生き証人なのだ)
ウェディングドレスの花嫁を、龍一は複雑な目で眺めた。
(たまたま未知子は、車の転落と『犯人』の恐ろしい姿を見た二重のショックで記憶を失っている。だから彼女は、両親を失った事故をたんなる雪道でのスリップと信じ込んでいる。でも、空白の記憶が永遠によみがえらないという保証はあるのか。犯人のぼくが夫という立場になったからといって、妻の彼女がだまされつづけるという保証はあるのか)
晴れやかな席なのに、背筋に冷や汗が湧いてきた。
(万一、未知子の記憶が戻ってしまったら、ぼくはどういう位置づけになるんだ。猟奇殺人鬼というだけでなく、未知子にとっては自分の両親を間接的に死へ追い込んだ憎むべき男ということになるじゃないか。それを未知子が理解したとき……どうなる?)
そんな事態は想像したくもなかった。
(ぼくの生き霊は、殺人の証人を抹殺するために未知子をぼくの前に引きずり出した。決して、ぼくと結婚させるための出会いではなかったはずだ)
龍一の父・正晴が警告したように、月舘未知子は『消されるべき目撃者』として、龍一の前に呼び寄せられたのだった。ところが父は、死をもって息子の新たな犯行を止めようとした。息子の精神を正常レベルに戻そうとした。母までも道連れにして……。その両親の死に報いる気持ちで、龍一は月舘未知子の望みどおり、彼女と結婚をした。
だが、どう考えても、これは理想の形ではなかった。
(ぼくは未知子に一目|惚《ぼ》れをしていない。未知子に理想の花嫁像を重ねることもしていない。ぼくは彼女に対して、愛の説得を何ひとつしていないじゃないか。こんな不完全燃焼の結婚はダメだ!)
その違和感ばかりにとらわれているうちに、いつのまにか省介のスピーチが終わって、司会者がつぎの進行に移っていた。
「さて、こんどはおふたりの門出を祝して、お友だちが歌のプレゼントをしてくださいます。歌ってくださるのは、新郎の古くからのご友人でいらっしゃる佐々木里奈さんと沢田久美さんです。どうぞお願いいたします」
(なんだって!)
驚いて、龍一はスタンドマイクが置かれたほうに目をやった。
赤いドレスを着た里奈と青いドレスを着た久美が、こちらににこやかな笑顔を向けて並んで立っていた。
(誰が招《よ》んだ)
龍一は顔面|蒼白《そうはく》になった。
(彼女たちは死んでいるんだぞ!)
「龍一さん、未知子さん、本日はほんとうにおめでとうございます」
新郎の激しい動揺などまるで気づかぬ様子で、里奈と久美は四つ違いの姉妹のように声をハモらせ、挨拶《あいさつ》を述べた。幽霊からの祝辞だった。
そして年長の里奈が、そのあとをひとりで引き取った。
「えーと、どんな歌をお贈りしようかなって、さっきから久美ちゃんといろいろ相談していたんですね。『世界に一つだけの花』とか『CAN YOU CELEBRATE?』とか、クラシックなところでは『てんとう虫のサンバ』とか、いい曲はいっぱいあるんですけど、歌詞がとってもいまのおふたりにぴったりなので、『永遠《とわ》にともに』……これを、心を込めて久美ちゃんと歌わせていただきます」
式場専属のエレクトーン係が伴奏をはじめ、里奈と久美は、情感たっぷりに歌い出した。
その歌詞の途中の部分が、龍一の耳に突き刺さってくる。
やっとここから踏み出せる未来
始まりの鐘が 今 この街に響き渡る
共に歩き 共に探し 共に笑い 共に誓い……
メロディが、歌詞が、そしてふたりの歌声が人々の胸を打ち、フルコースの食事を楽しむ食器の音や歓談でざわめいていた会場が、しんと静まり返った。
若者の歌を知らない老人、老婦人たちの中にも、感動で潤んだ目頭をそっと押さえる者がいた。すべての人々が、ナイフやフォークやグラスを持つ手を止め、ふたりの歌声に聞き入っていた。花嫁の未知子もだ。ただひとり、龍一だけが凍りついていた。
理想の結婚相手としてプロポーズしたのに、それに応えてくれなかったから、たとえ遺体の形であってもほかの誰かに渡したくなかったから、首と手足をバラバラに切断して殺した。そして、もはや人間の形すら留《とど》めていないはずのふたりが、龍一の結婚式に出て、声を揃えて祝福の歌を歌い上げている……。
ありえなかった。
(嫌がらせかよ、おまえら。ぼくに復讐《ふくしゆう》するために、よりによって結婚式の日に地獄からよみがえってきたのか? そうなのか、久美、里奈)
テーブルの下で、純白のスラックスに純白の靴を履いた龍一の足が痙攣《けいれん》を起こしていた。
(みんな、ほんとに彼女たちの姿が見えているのか。あのふたりの声が聞こえているのか。ぼくだけの錯覚じゃないのか?)
龍一は、信じられない思いで会場の人々の反応を窺《うかが》った。
すると──
会場の末席に置かれた新郎側の親族席に、モーニング姿の父・正晴と、黒|留袖《とめそで》姿の母が座っているのが目に入った。見間違いかと思った。だが、そうではない。
ショックで龍一はのけぞった。首吊《くびつ》り自殺を遂げたふたりが、何事もなかったかのように息子の結婚式に参列し、息子が殺したふたりの女が祝う旅立ちの歌に、感動の涙を流しているのだ。
それだけではない。新婦側の親族席には、写真だけでしか見たことのない未知子の両親も揃って座っていた。そして彼らも、龍一の両親と同じように感涙を流していた。
(どうなっているんだ、これは。もしかして、ここにいる全員が幽霊なのか)
おもわず龍一は、隣の未知子に目をやった。
すると、花嫁のまとっていた純白のウェディングドレスが、急に蛍光グリーンの光に包まれて輝きだした。何が起きたのかと見つめる龍一の前で、ドレスの隙間からゾロゾロと巨大な毛虫が這《は》い出してきた。輝く蛍光グリーンの胴体に蛍光ブルーの斑点《はんてん》を持つ毛虫の大群が……。
龍一は叫び声を発し、椅子を倒しながら飛び退いた。
そして、会場の人々に目をやった。
「なんだ、これは!」
里奈と久美という亡霊コンビの歌声が急にやみ、披露宴の会場は静まり返っていた。それもそのはずだった。前に出て歌っていたふたりも、その歌声に感激の涙を流していた龍一や未知子の両親も、友人代表の祝辞を述べてくれた省介も、ほかの出席者も、それからエレクトーン係やホテルの従業員たちも、みなマネキン人形のように動きを止めていた。
静止画像のように時間が止まっていた。
およそ三百名に及ぶ正装に身を包んだ会場の人々は、口を半開きにしたまま動かなくなっていた。そして、それぞれの口には、薄茶色をした大型の繭のようなものが一個ずつ詰まっていた。『透《す》かし俵《だわら》』と表現される、粗い編み目の繭に包まれた、毛虫から成虫の蛾に変態する前のサナギだった。それは実在の蛾・クスサンのサナギそっくりの形だったが、大きさがまるで違っていた。たった一個で人の口をいっぱいにするほどの……。
現実離れした光景に囲まれ、龍一は棒立ちになった。足元には、花嫁のドレスの隙間から這い出した巨大毛虫が輝く緑のカーペットを作って輝き、龍一の身体にまとわりつこうとしていた。
「やめろ……やめろ!」
龍一は後じさりしながら、隣の席にまだ座ったままの花嫁に目をやった。
時の流れが止まってしまった披露宴会場にあって、ウェディングドレス姿の花嫁だけは動きを止めていなかった。大量の毛虫をドレスの隙間から排出し終えたあと、花嫁はゆっくりと龍一のほうへ顔を向けた。
「………!」
あまりの驚愕《きようがく》に、龍一はもはや声も出せなかった。
ウェディングドレスをまとっているのは月舘未知子ではなくなっていた。
龍一自身だった。龍一が花嫁になっていた。
つぎの瞬間、真っ白なドレスが、突然細かな白い破片に割れて飛び散った。
それは無数の小さな蛾だった。『花嫁』がまとっていたのはウェディングドレスではなく、数え切れないほど無数の白い蛾の大群だった。
舞い上がる大量の鱗粉《りんぷん》で、披露宴の会場は霞《かすみ》がかかったようになった。その霞越しに、悪夢のような光景が見えた。マネキン人形と化した人々の口の中で、透かし俵状のサナギがつぎつぎに破裂していた。その中から、レンガ色をした羽に真っ黒い眼の紋様を持つ巨大な蛾が現れた。
*  *  *
「うわああああ!」
大声を上げて、龍一は飛び起きた。そして、すぐに周囲を見回した。
自分がいるのは、ホテルの披露宴会場ではなかった。住み慣れた自宅マンションのベッドだった。カーテンの隙間から朝の日差しが入ってきている。目覚まし時計の針は、会社に行くために余裕を持って起きられる午前七時より十五分も早いところを指していた。
セットしておいたアラームのストップボタンを押しながら、龍一は額に滲《にじ》み出た汗を手の甲で拭《ぬぐ》った。額ばかりでなく、全身の寝汗がすごかった。
(夢だったのか……いまの結婚式は)
ようやくそのことを認識して、気分を落ち着けた。だが、まだ恐怖の余韻で動悸《どうき》がしていた。もしもアラームが鳴り出すまでのあと十五分、さらに夢の世界の中にいたら、どんな光景を見せられたかわからなかった。
毛虫やサナギや蛾の大群に包まれた披露宴会場の変貌《へんぼう》も恐ろしかったし、里奈と久美が揃って自分の披露宴に現れたところも背筋が冷たくなった。首を吊って死んだ両親が、きわめて自然な形で着席しているのに気がついた瞬間もだ。しかし、何よりも不快感をもって驚いたのは、月舘未知子だとばかり思っていたウェディングドレス姿の花嫁が自分自身であったという場面だった。
それは、つねに結婚を前提にした自分の熱き恋が、どこまでいってもひとり相撲の世界であることを象徴していた。自分は女に恋をしているのではなく、自分の妄想に恋をしているのだ。それを示唆する夢だった。
目覚めてすぐに、そのことがわかったので、非常に不愉快だった。寝起きの気分が最悪だった。
(どうせなら、いま見た夢だけでなく、これまでの出来事すべてが夢であってほしい)
ベッドから降り立ち、いまだ震える指先でパジャマのボタンを外しながら、龍一はそう願った。
(久美を殺したことも、里奈を殺したことも、オヤジがオフクロを道連れに首を吊ったことも、ぜんぶ夢であってほしい)
だが、夢は結婚式の場面だけにとどまり、ほかのすべては現実の出来事であることを龍一に確認させるものが目の前にあった。窓際に置いた写真立てに飾られた両親の遺影である。その横には、両親の一周忌の法要を終えたときに親戚《しんせき》で集まって撮ったプリント写真も置いてあった。
そう、あの悲劇から一年が経ったのだ。息子に常識の目覚めを促すため、母を道連れにして父が首を吊ってから一年の歳月が……。
だが龍一は、自らの生命を差し出してまで息子を目覚めさせようとした父親に詫《わ》びなければならないと思っていた。一周忌の法要のときも、ずっと心の中で謝っていた。けっきょく第三の惨劇を抑えられなかったことを。
パジャマを脱ぐと、眠っているときにも身につけている手製のペンダントが胸元に現れた。赤い糸で首から吊《つ》り下げた『小指のペンダント』だ。
二本だった小指の数が、三本に増えていた。
それが彼に現実を教えていた。第一の殺人を目撃した女も、もうこの世にはいないのだという現実を。そして、両親の死は無駄に終わったという現実を。もちろん、その女と結婚式など執り行なうはずがなかった。
幸運にも、いまのところ岡本龍一の身は安全だった。懸念していたにもかかわらず、里奈の遺体が発見されてから一年が経過しても、すぐそばに埋めた久美の遺体はいまだに掘り出されていなかった。さらにその隣に埋めた未知子の遺体も。
寝汗を洗い流すために、龍一はバスルームへ行き、裸になってシャワーを浴びた。三人の女の右手から切り取った三本の小指をまとめたペンダントはぶら下げたままで……。
殺した女たちといっしょにシャワーを浴びている気分だった。
バスルームから出ると、洗った髪をドライヤーで乾かし、歯を磨き、ひげを剃《そ》り、クリーニングから戻ってきたばかりの、糊《のり》の利いたワイシャツを着込んでネクタイを締めた。一年前までは、近くに住む実家の母が、毎日通ってワイシャツやハンカチやネクタイといった身支度を前夜までに整えておいてくれたものだが、いまでは龍一がすべて自分でやっている。
鏡に向かって白い歯をむき出し、ニッと笑ってから、少し乱れた前髪を片手でそっと整え、背広を着た。どこから見ても隙のない、清潔感あふれるビジネスマンの姿が鏡の中にあった。
いまみた悪夢を完全にふり払うために、目覚めのコーヒーをすぐにでも飲みたい気分だったが、最近の龍一は、モーニングコーヒーは自宅ではなく、最寄り駅に併設されたスタンドで飲むことにしていた。
なぜなら、毎朝出勤の時間帯にそこで働く女の子が可愛かったからだ。
おそらく歳はまだ十代のはずだった。それなのに髪の毛を染めたりせず、つやつやとした黒髪のままで、しかもしっとりとした和風の顔立ちがたまらなく新鮮だった。幼な妻という言葉がこれ以上似合う子はいないと思った。なんだか、幼年時代のままごと遊びのさいに描いていた、理想のお嫁さんそのものという気がした。
彼女が駅のコーヒースタンドに勤めていることに気づいたのは一週間前だった。
一週間もあれば、オーダー以外によけいな会話を交わしたことのない彼女に対し、自分ごのみの性格づけをするのにじゅうぶんだった。だが、個人的なアプローチをするには、もう少し時間が必要だった。まだまだ仮想世界の中で、その子を大切に育てておきたかった。でも、すでに結論は出ていた。この子と結婚したい──そう決めていた。
ビジネスバッグを手に取ると、岡本龍一は自分の部屋を出た。駅まで歩いて八分。ますます喉《のど》が渇いて熱いコーヒーが飲みたくなった。
コーヒースタンドの自動ドアが開くと、けさもその子が柔らかな微笑みとともに声をかけてきてくれた。
「おはようございます。いらっしゃいませ」
ただの「いらっしゃいませ」だけではなく、「おはようございます」という挨拶が、自分だけに個人的に向けられた言葉のようで、龍一は感動した。たんに業務マニュアルに定められた挨拶《あいさつ》であるにもかかわらず、絶対に彼女は自分に好意をもってくれていると確信した。そして龍一も、プライベートな思いを込めた笑顔を作って言った。
「きょうもコーヒーひとつね。アメリカンで」
毎朝きていることを相手に意識させるように頼んでから、軽く握りしめたこぶしを口元に当て、カフンと音を立てて咳払いをした。こぶしに鱗粉のような粉がついた。
(この子を前にすると、どうも緊張して喉がいがらっぽくなるな)
そう思いながら、龍一はしあわせを噛《か》みしめていた。
恋をしている自分が好きだった。
「ああ、どうもありがとう」
その子が自分のために淹《い》れてくれた──といっても、これもまたマニュアルどおりに機械を操作してカップに注いでくれたにすぎないアメリカンコーヒーを、あたかも新妻が淹れてくれたもののように笑顔で礼を言ってから、龍一はそれを持って窓際の席に座った。そして、出勤する人々があわただしく改札へ駆け込んでいく朝の光景を、ガラス越しに眺めた。
(それにしても……)
湯気の立つコーヒーを口元へ持っていきながら、龍一は思った。
(人間の想像力というものは恐ろしい)
それが実感だった。
龍一は、子供のころから育んできた豊かな想像力が、生き霊という形で自分の心身から独立して動き出す様子を目のあたりに確認した。そしてそれが自分の恋人や両親を、殺人や自殺という形で死に追い込んでいくのを見てきた。
いまとなっては、龍一は完全に理解していた。惨劇の現場を偶然目撃してしまった月舘未知子に取り憑《つ》いた久美の霊も、つづいて未知子に憑依《ひようい》した里奈の霊も、じつは死者の霊ではなく、龍一の実体から遊離した生き霊のなせる業なのだ、と。
自分自身がこうした経験をしなければ、人の想像力が人間から独立して動き出すという現象は、絶対に信じられなかっただろう。生きている人間の怨《うら》みのほうが、死者の怨みよりもはるかに大きい、とは野口伸吾の言葉だが、言われてみれば、それはあたりまえのことだった。生者の怨念《おんねん》は、まさにライブのエネルギーを持っているからだ。怨みや憤りといった種類の感情に限らず、自分の心が生み出した想像力そのものが、物理的に他人に作用する恐ろしさを龍一は身に沁《し》みて感じていた。
しかし、巨大なエネルギーを持った想像力は、とくに現実とのギャップに出会ったとき、猛烈な反発を見せる。龍一が構築してきた仮想世界は、その存在を現実によって否定されることがいちばん腹立たしいのだ。それによって生じた猛烈な失望感と怒りは、相手を幻覚地獄の泥沼に引きずり込み、そして死に追い込む──自分自身が引き起こした一連の事件を総括すれば、そういうことになる、と龍一は考えた。
(ぼくという人間は、思い描いた理想を拒絶する現実のありかたが絶対に許せないんだ)
それが独自の憑依の力を呼んだ。
(しかし……彼女も可哀相な存在かもしれないな)
コーヒーの温かさが胃に沁みわたっていくのを感じながら、龍一はカウンターの向こうで忙しそうに働いている『最新のお嫁さん候補』に目をやった。
(ぼくの頭の中では、彼女との理想的な結婚生活のイメージがそろそろ完成しつつある。つぎの段階は、いよいよ本物の彼女へのアプローチだ。でも、そこで空想と現実との落差を感じたら、あの子は四人目の犠牲者となる。もしも彼女が理想に描いたとおりの女の子で、ぼくとの結婚を承諾してくれたとしても……)
そう、そのあとが問題だった。
現実の結婚生活が、イメージした理想の形どおりに二年も三年もつづくわけがない。それどころか、結婚後たったの数日で理想の世界は崩壊するかもしれない。それを龍一はわかっていた。
(だけど、ぼくは妥協はしない)
つぎのターゲットをじっと見つめながら、龍一は自分に言い聞かせた。
(もしも彼女と結婚したあと、やっぱり想像していたような花嫁にはなれないとわかったら、ぼくは彼女に人間であることをやめてもらうだろう。そして、また秘密のスクラップ倉庫に眠ってもらうのだ。結婚は一度かぎりと決められているわけではないんだから)
けっきょくのところ、岡本龍一という名の毛虫から吐き出される粘着質の糸に捉えられた女性は、よほど早い段階で逃げ出さないかぎり、『解体』の運命から逃れることはできないのだった。なぜなら、けさがたうなされた悪夢が暗示していたように、龍一にとっては、|自分自身が女になった姿以外に百点満点の花嫁像はありえない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のだから。
「ヨーコちゃん」
店長らしき男性が女の子に呼びかける声に、龍一はハッとなった。
「ちょっとこっちの手が放せないから、キャラメル・マキアート、トールサイズでひとつ作ってくれる?」
「はーい」
元気よく返事をする彼女の声を聞きながら、龍一はつぎのお嫁さん候補の名前が『ヨーコ』であることを初めて知った。
空想から現実に踏み出すきっかけをもらった、と思った。
(たぶん、太陽の『陽』を書く『陽子』だな)
漢字まで勝手に決めた。
(きみのように明るい性格の子が、ぼくは大好きだよ)
龍一は窓際の席から、カウンターの向こうのヨーコに熱い視線を注いだ。
(だって、ぼくがこんなに暗い性格だから)
龍一は、空になったカップを片手に席から立ち上がった。そろそろ電車に乗らないと会社に遅れてしまう。
「ごちそうさま」
カップをごみ箱に投げ込んでから、龍一は彼女に向かって笑顔で声をかけた。
「それじゃ、行ってきま〜す!」
その一言は、子供時代のままごと遊びでお嫁さん役の子に向かって発する『お出かけのセリフ』そっくりだなと思った。
店のドアを開けて外に出てから、なんだかおかしくて、龍一はくすくすと笑った。
『永遠にともに』(詞・小渕健太郎)より引用
角川ホラー文庫『憑依 ― HYOU・I ―』平成18年9月10日初版発行