ワンナイトミステリー
「香港の魔宮」殺人事件
吉村達也
[#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)]
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眠れない夜に――
ワンナイト ミステリー
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1[#「1」はゴシック体]
上空から見る夜の香港は、いつも以上にまばゆい輝きを放っていた。
今夜はクリスマスである。
成田を発ったキャセイパシフィックの航空機は、『百万ドルの夜景』を真下に眺める位置にくると、急角度で右旋回した。
機体が大きく傾き、いちばん右側の窓際に座っていた萩原晴美は、身体ごと巨大な宝石箱の中にほうり出されてしまうかと思った。
近づく、近づく――
傾きながら、飛行機はぐんぐんと香港の街の中に突っ込んでいく。
道路の真上まで張り出した香港特有のネオン看板が、その文字まではっきり読み取れるところまで飛行機は高度を下げた。
赤、黄、青、ピンク、緑、白……さまざまな色の洪水、そして漢字と英語の洪水の中で、サンタクロースをかたどったネオンが、ホテルやビルのいたるところに飾られているのが見える。
それでもなお飛行機は突っ込む。
もう街角の小さな看板の字まで読めてしまうほどだ。
(ほんとうにこのまま街の真ん中に墜落してしまうのでは……)
さっきよりもずっと本気でそれを心配したとき、突然、窓の外に滑走路と駐機中の飛行機が見え、晴美の身体に軽いショックが伝わった。
墜落ではなく、着陸――香港|啓《カイ》 徳《タツク》国際空港に着いたのだ。
飛行機を降りて所定のコースを進むと、入国審査以外はあっけないほどのノーチェックで、あっというまに到着ロビーに出た。
到着客の名前を書いたボードを高く掲げた出迎えの人々が、柵の向こうからいっせいに視線を投げかけてくる。
晴美もそちらに目を向けて、自分の名前の書かれたボードを探し求める。
萩原様――
あった。香港だからあたりまえかもしれないが、ちゃんと漢字で書いてある。
晴美は、そのボードを持っている青年に手を振った。すると向こうも晴美に気づいてボードを左右に揺らした。
香港カットとでもいえばいいのか、サラサラの髪の毛をおかっぱ風にして、その下半分を大きく刈り上げたヘアスタイル。たとえていえば、かつて60年代なかばにビートルズが流行《はや》らせたマッシュルームカット、あれの下半分をスパンと切ったような、ハーフマッシュルームとでもいうべき髪形の青年が、にこにこ笑いながら晴美に駆け寄ってきた。
「萩原さんですね、お待ちしてました。わたし、エンディと申します」
ちょっとアクセントにおかしなところはあったが、まずは流《りゆう》 暢《ちよう》な日本語である。
そこで晴美は、一夜漬けで暗記した広東語であいさつを返す。
「幸會《ハングウイ》、我叫《ゴーキウ》萩原晴美。請《ツイン》 多多《トートー》 指《チイー》 教《ガウ》(はじめまして、萩原晴美です。どうぞよろしく)」
「ワーオ、香港の言葉じょうずですねー、歡迎《ホンイン》《ようこそ》」
カタコトながらいきなり広東語であいさつをしてくる観光客はめずらしいのだろう。エンディという旅行会社の青年は、素直に喜んだ。
ただし、そのあともずっと彼が日本語をつづけるところをみると、私の広東語が超初心者レベルだとすぐにわかったのね、と晴美は思った。
「こちらにマイクロバス用意してます。どうぞ、どうぞ」
エンディは晴美の荷物を受け取ると、先に立って空港の建物を出た。そして、少し離れたところに停めてあったマイクロバスのところへと誘導する。
三十人くらいは乗れそうな車だが、乗客は晴美たったひとり。そしてほかには、案内役のエンディと、彼と同じ年頃の若い運転手がひとりだけ。ガランとしたバスの真ん中あたりに、晴美は腰掛けた。
フロントガラスをのぞく窓には、日よけのスモークフィルムが貼ってあるため、車内はずいぶん暗い。
「それではどうもようこそ香港にいらっしゃいました」
バスが動き出すと、前のほうでエンディが立ったまま晴美ひとりに向かって挨拶《あいさつ》をはじめた。
「今夜はクリスマスということでね、街の中はイルミネーションものすごいですが、道路もかなり混雑しています。ここは九龍《ガオロン》地区ですが、お泊まりのホテルは香港島にありますので、そこへ行く海底トンネルもけっこう混んでいるかもしれません。でも、島に渡ってしまえばね、九龍ほどではないと思います」
「香港島のホテル?」
「そうです、香港ヒルトン。そういうふうにご案内してますよね」
「えー?」
おかしいな、と思って晴美は旅程表を取り出した。
やはり違っていた。東京で受け取っていた旅程表には、別のホテルの名前が記されている。
「私は、ハイアット・リージェンシーを頼んでおいたつもりなんだけれど。たしかリージェンシーは尖沙咀《チムシヤツオイ》にあるでしょう」
「ええ、それはそうです。メインストリートの彌敦道《ネイザンロード》に面していますけれど……」
「ほら、これを見て。ちゃんとハイアット・リージェンシーになっているでしょう、予約したホテルが」
晴美は日本の代理店が郵送してきた書類のコピーを見せた。
「ほんとだ……そうなってますね」
エンディが戸惑った表情をみせる。
「でも萩原さん、こちらに住んでいるお友だちで沢村麻季さんという方がいらっしゃるでしょう」
「麻季? ええ、もちろん知っているけど」
初対面の男の口から、大学時代の友人の名前がいきなり飛び出してきたので、晴美はびっくりした。
「その沢村さんからウチの事務所に連絡が入ったんですよ。萩原さんの泊まるホテルを、自分の事務所がそばにある香港ヒルトンに変更してほしい、って」
「ほんと? そんな話ぜんぜん聞いていないわよ」
「でも、まちがいなく連絡が入りました」
エンディが言い張る。
「日本には自分から連絡をとるから、ぜひヒルトンを押さえてほしい、と。なにしろクリスマスの時期ですから、やれと言われたらパッと動かないといけませんので」
「だけど、そういうのは日本の旅行代理店のほうに伝えたの?」
「いえ……伝えてません。うっかりしてました」
エンディはバツがわるそうに言った。
「沢村さんとは、いろいろ知り合いなもので、つい勝手に動いてしまいましたけれど、ぜんぶお客様も了解のことだと思って」
「ホテルを代えろという麻季の連絡が入ったって、いつの話」
「三日前です」
「三日前……」
晴美はつぶやいた。
香港に住む麻季に、こんどそっちへ行くわと電話を入れたのも、三日前だった。
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2[#「2」はゴシック体]
沢村麻季は、晴美と同じ名古屋の出身で、名古屋の私立大学にいっしょに通っているうちに大の親友となった。そして卒業後、晴美はジャーナリストめざしてフリーのライター稼業に転じ上京、麻季のほうも東京のレコード会社に就職した。
そして麻季は、就職して四年目――二十六の誕生日を迎える少し前に、勤務先のレコード会社の香港支局に赴任することが決まった。いまから半年ほど前のことである。
彼女の仕事は、日本のヒット曲を香港の人気歌手に歌わせて、地元及び他のアジア地区でヒットを巻き起こすという、いわば音楽出版権のセールスがメインとなっていた。学生のころから人一倍頑張り屋だった麻季は、いざ会社にOLとして就職してみて、いまさらながらに女性社員の地位の低さに愕然《がくぜん》となったという。
「晴美はフリーで一匹狼でやっていられるからいいわよ」
会えば口癖のように麻季は言った。
「でも、OLなんてサイアク。結婚相手を見つけるつもりで腰掛け気分の女の子には居心地がいいかもしれないけれど、真剣に仕事をやりたい女にはどうにもガマンできない環境だわ」
だったら会社を代われば、と言う晴美に対して、麻季は大きなゼスチャーで首を左右に振った。
「だーめ、ウチの会社だけがダメなんじゃなくて、日本の会社はどこもダメ。ほんとに女の子をお茶汲み係か男性社員のヨメ候補としかみていないんだから。これからは香港よ。香港で働く以外に、ビジネスウーマンとしての私の欲望を満足させてくれるところはないわ」
そこで唐突に香港という地名が出てきたので晴美は戸惑ったが、香港では女性が男性と対等の立場で仕事をし、場合によっては女性上位であるところすら珍しくないのだと麻季は力説した。
そして驚いたことに、麻季は会社に長期休暇を申請して、香港島にある香港大学の広東語短期留学コースに入ってしまった。思い立ったが吉日、というパターンを踏まねば気がすまないのが、学生時代からの麻季の気質である。
三カ月、六カ月、二年とあるコースのうち、麻季がとったのは六カ月コース。そして、猛烈な勢いで広東語漬けの毎日をすごし、日本に戻ってきたときは、日常会話なら難なくこなせるところまで上達していた。
職場に復帰したとき、会社側はその語学力を見込んで彼女に香港支局への海外赴任を命じたのだが、もちろん麻季はそれを喜んで受け入れたものの、この異動は野望実現へのたんなる一ステップにすぎないと割り切っていた。
どちらにしても、麻季は日本企業に骨を埋めるつもりはなかった。レコード会社の香港支局駐在のチャンスを利用してしっかりと香港での人脈を作り、そして二、三年後には独立して自分のオフィスをもつ。香港ビジネスでの女社長――これが麻季の描いた第一のゴール。
そして最終的なゴールは、香港在住、もしくは香港に集まってくる世界の大金持ちの中からすてきな男性を選んでその妻の座に納まる。これこそ香港ドリームの最終目標なのよ、と麻季は熱っぽく語っていた。
ちなみに、夢の実現へ向けて邁進《まいしん》する彼女の人脈づくりの中には、ベッドを利用した作戦もあると、晴美は聞かされていた……。
(でも、それにしてもなんで麻季は私のホテルを勝手に代えたのかしら)
それを考えると、晴美は急にムッとしてきた。
晴美がハイアット・リージェンシーにこだわったのには三つほど事情があった。
第一に、ネイザンロードという香港最大の目抜き通りに面して建ち、地下鉄の尖沙咀駅が目の前、という立地条件のよさ。
第二に――これはこまかいことだが――過去に五回ほど香港にきたことのある晴美にとって、このホテルのカフェテリアの軽食がたいへん気に入っていたからである。
もちろん食の王国香港にきたのだからグルメに走るのも悪くはないが、取材のためにやってきたときには、いちいちおいしい店を求めて食べ歩きをするヒマなどないことがある。そんなときには、どうしてもホテルのカフェテリアで軽い食事と飲み物を、ということになる。
たしかにザ・ペニンシュラで室内楽の生演奏を優雅に聞きながら、あるいは香港島のマンダリン・オリエンタル・ホンコンの落ち着いた雰囲気の中で、英国式のアフタヌーンティーを楽しむのも悪くはない。
しかし、ハンバーガーとかスパゲティといった、ごくごく平凡な食事でお腹を満たして、すぐにまた部屋での原稿書きに戻らなければならないという状況のときには、一流ホテルではとかく軽視されやすいファーストフード系メニューの中にも納得のいく味を出してくれるカフェテリアがあると、ほんとうにうれしい。
そしてその希望を満たしてくれる店があるのが、このホテルだったのだ。とくに晴美のお気に入りは、ここのナシゴレン。ポピュラーなインドネシア料理の代表格だが、本場バリ島の某ホテルで出すものより数倍おいしい。
むろん味覚というものは個人差があるものだから、ここが絶対というふうに晴美は他人にすすめたりはしなかった。料理の評価なんて、たんに自分の口に合うか合わないかという問題にすぎない。自分が最高!と思ったものが、他人から「何、コレ」と冷たい評価を受けることもしばしばある。しかし、食べ物の好みは主観的であるからこそ、一人旅のときは、そうした相性のよさにこだわりたかった。
そして第三の理由は、今回の香港訪問の主目的である取材に協力してくれる人物と、明日の朝にハイアット・リージェンシーのロビーで待ち合わせの約束をしているという事実があったからだ。これがいちばん重要なポイントだ。
相手は香港人。そして、ひとりではなく三人だ。だから、こっちの都合で代えて混乱を招きたくなかったし、先方は晴美がそこへ泊まっているものと思っているから、今晩にでも確認の電話を入れてくるはずである。
「困るんです」
晴美は強い口調で言った。
「麻季が……沢村さんがどんなリクエストを出したのか知りませんけれど、私はホテルを代えたくないの」
「でも、ヒルトンもいいホテルですよ」
できることならホテルチェンジはしたくない、というみえみえの表情を浮かべてエンディは言った。
「とってもいいホテルよ。場所もね、ビクトリアピークに上る登山電車の駅が歩いてすぐの裏手にあるし、お買い物、有名なランドマークあるよ。一流ショッピンセンタ[#「ショッピンセンタ」に傍点]のランドマークね。グッチ、ヴィトン、ベルサーチ、バリー……いろいろあるよ。彼氏のおみやげ、いろいろ買えるよ。問題ないよ」
だんだん日本語があやしくなってきた。
「私は観光にきたんじゃないの」
晴美はピシッと言った。
「ヒルトンがいいホテルなのは認めます。前に泊まったことがあるから。でも、今回はそういうわけにはいかないの」
「……わかりました。でもクリスマスですからねー。とれるかなあ、部屋が」
「クリスマスでもなんでも、あたってみてちょうだい」
晴美の強硬な態度に、現地旅行会社のエンディもあきらめたらしく、携帯電話のスイッチを入れて、さっそくホテルに電話を入れはじめた。
バスはすでに九龍地区の南端、尖沙咀の繁華街に差しかかっている。
明るい。スモークフィルムを貼ったマイクロバスの窓越しでさえ明るいと感じられるネオンの洪水。
ただでさえ光の洪水の街なのに、クリスマスのイルミネーションが追加されていっそうまばゆさを増している。
そして人、人、人――人の洪水。
すでに夜の十時半を回っていたが、街にはクリスマスを祝う人がどっと繰り出して、たいへんなにぎやかさだ。そしていたるところで車輛進入禁止の交通規制が敷かれているために、渋滞、渋滞、また渋滞。中心部に入ってくると、バスはトロトロ運転でなかなか前に進まない。
しだいに晴美はいらだってきた。
「萩原さん、すみませーん」
携帯電話での通話を終えたエンディが、芳《かんば》しくない表情でふり返った。
「ハイアット・リージェンシーですけど、スイートなら一部屋空いているんですって。どうします?」
「冗談じゃないわよ」
晴美は口をとがらせた。
「三日前まではちゃんと予約をキープしていたんでしょう」
「ええ」
「それが実際に着いてみたら勝手にホテルが代えられていて、元に戻そうと思ったらスイートしか空いてないなんて……。料金の差額をあなたの会社がもってくれるのなら、私は喜んでスイートに泊まらせてもらうけど」
「いやあ……まいったなー、こまったなー」
エンディは額に汗を浮かべている。
「勝手に代えたといわれても、私、沢村さんから頼まれて……」
「知りません」
晴美は相手の弁解を封じた。
「私はそんなこと頼んでもいないし、日本の代理店から報告も受けていないもの」
「ま、それはそうですけど」
「とにかくホテルまで連れてって。そしてフロントで直接交渉してよ。電話よりも実際に顔をみせれば、なんとかなることもあるでしょう」
「はあ……」
エンディは気乗りしない様子で、しきりに腕時計に目をやっている。
その様子を、晴美が鋭く見とがめた。
「どうしたの。このあとまだ仕事が詰まっているわけじゃないんでしょ」
「ええ、まあ……」
「ディスコ、ディスコ」
いままで黙っていたマイクロバスの運転手が、渋滞にヒマをもてあましたのか、笑いながらエンディを指さし、たどたどしい日本語で言った。
「エンディ、彼女とデート。約束、ディスコ、十一時半。クリスマスのデート、キャンセル、たいへん。彼女、泣く」
内幕をバラされ、エンディは仲間の運転手に、よけいなことを言うなと広東語で怒った。
「ああ、そう。そういうことなの。じゃ、彼女に電話して一時間以上遅れるって言ってあげて」
晴美はますますヘソを曲げた。
「あ、そうだ」
窮地に陥ったエンディが、なんでこんなことを早く思いつかなかったのか、という顔をして叫んだ。
「萩原さん、沢村さんの自宅の電話知ってますよね」
「知ってるけど」
「だったらこれで電話、かけてください」
エンディは自分の持っていた携帯電話を差し出した。
「おねがいします。友だちどうしで問題解決、おねがいします」
エンディはペコペコと何度も頭を下げた。
ほんとうならば、こっちの知ったことではないと突っぱねたいところだったが、クリスマスのデートがフイになりかけて焦っている青年の顔を見ていたら、晴美も少しは可哀相になり、彼の手から携帯電話を受け取った。
「彼女がいまの時間自宅にいれば、問題は解決できるかもしれないけれど、いなかったらあなたが最後まで責任をとってよ」
牽制球《けんせいきゆう》を投げてから、晴美は携帯電話のボタンを押した。
「ハロー?」
麻季はいた。
広東語ではなく、英語でハローと応じてくる。
「もしもし、私、晴美」
晴美は、やや怒りを込めた声で言った。
「香港に着いたわ」
「あ、ほんと? だったら、いまから会おうか」
何事もないように麻季が言うので、晴美はますます声をとがらせた。
「まだ尖沙咀にいるのよ」
「尖沙咀に?」
麻季は、意外そうな声を出した。
「どうしてこっちにすぐ渡ってこないの」
「いま旅行会社のエンディという男の子からきいたんだけど、あなた、私のホテルをヒルトンに代えちゃったんだって」
「そうよ」
「どうして」
「だって、会うのに便利じゃない。私の会社も自宅もこっちにあるんだし」
こっち、というのは香港島を指す。いま晴美がいるのは維多利亜《ヴイクトリア》 港《ハーバー》を隔てて北側の九龍半島側である。
海をまたいだこの二つの地域を結んでいるのが、自動車用の海底|隧道《ずいどう》、地下鉄、そして天星《スター》小輪《フエリー》。人工の星明かりともいえるネオン輝く光の半島と光の島を結ぶ、まさに星空のフェリーという名がぴったりの船だ。
「麻季、わるいけど私、今回は取材できているのよ。たぶん好意でそうしてくれたんだと思うけど、ホテルを代えられたことですごく困っているの」
「あ、ほんと、ごめんねー」
麻季は謝ってはきたが、その口調がどうも口先だけなのが晴美は気に障った。
(なんだか私、香港に着いてから怒ってばかりいるみたい)
これじゃ性格の悪さ丸だしの女だわ、と反省して、晴美はやや声にやわらかさを取り戻して言った。
「三日前に麻季に電話したときに話しておかなかったのが悪かったかもしれないけれど、私、ハイアット・リージェンシーのロビーで、明日、仕事相手の人と待ち合わせをしているのよ。その相手の連絡先はオフィスしかわかっていないから、こんな時間だともう変更を連絡しようにもできないの。だから、いまエンディに頼んで、どうしてもホテルを元に戻してほしいと頼んだわけ」
「うまくいった?」
「ダメ。キャンセルしちゃった部屋は取り戻せないわ。クリスマスだからすぐにキャンセル待ちで埋められて全館満室。スイートルームがひとつ残っているだけだって」
「ほんと、ごめんねー」
また気のない謝罪の言葉が、電話越しに聞こえてくる。
「だからね」
晴美はつづけた。
「いまから直接ホテルに乗り込んで、エンディにフロント係に交渉してもらおうと思ってるわけよ」
「それは期待できないんじゃないかな」
自分で勝手に代えておきながら、麻季はそれこそ文字どおり他人事のような言い方をした。
「こっちの社会はね、ボスの権限が絶大なの。たしかに、満室といっても何かのときのために空き部屋が少しは用意してあるのがホテルというものだけど、とくにクリスマスの夜のスタンバイは、支配人級じゃないと融通できないはずよ」
「少しくらいチップをはずめば」
「ムリ」
麻季は、にべもない口調で言った。
「自分の権限を越えたことをやると、こっちではすぐにクビになるの。日本だと考えられないくらいかんたんに会社をクビになるのよ。だから、けっこうみんな保守的なところがあるの。気候が暖かい国にありがちなナアナアの馴れ合いは、あんがいできなかったりするんだなあ」
「だったら私はどうすればいいわけ?」
晴美の声が、また険しくなってきた。
「ほんとに予定どおりのホテルに泊まれないと困るのよ、明日からの仕事が」
「仕事って、なんの仕事」
「魔宮探索」
「マキュウ?」
「詳しくは会ってから話すわ。それよりもホテルの問題を片づけたいの」
「わかった。じゃ、私がそっちに行くわ」
ようやく麻季は行動に出る言葉を洩《も》らした。
「いま私からエンディに詳しく指示するけど、麼地道《モデイロード》という路地に入ったところで降ろしてもらってちょうだい。クリスマスの夜のネイザンロードは交通規制が敷かれて、たぶんハイアット・リージェンシーの前に車をもっていくのは大変だと思うわ。その向かいの路地がモディロードなの。ちょうどホリデイインと裕華《ユウホワ》デパートの間に挟まれた道よ。その目の前がネイザンロードだから、そこを渡ってホテルのフロントの前で待ってて。私は地下鉄に乗って向かうから」
「ありがとう。じゃ、ロビーで待っているから早くきてね」
やりとりを終えると、晴美は携帯電話をそのまま切らずにエンディに渡した。
どうにか自分が直接問題処理に乗り出さなくてすみそうだと察した香港の青年は、急に明るい顔になって電話を受け取った。
十分後、萩原晴美は麻季の指定したモディロードでマイクロバスから降り立った。
予想以上の人込みだった。
日本だと街を歩くというよりも、ホテルやレストランやテーマパークや映画館など、それぞれの目的の場所で、恋人どうしや家族とクリスマスの夜を楽しむものだが、まるで香港の人々は、街に出て歩くことそのものがクリスマスの楽しみ方のひとつかと思えるほどだ。
スーツケースはエンディが持ってくれたので、晴美はその後をショルダーひとつの身軽な格好でついていけばよかったが、わずか大通り一本を横切るまでに、はぐれないようにするのが大変だった。
人の流れが、前から後ろから右から左から押し寄せてきて、そのたびに勝手に身体があっちへこっちへと持っていかれる。にぎやかな広東語の渦の中にいきなり巻き込まれて、耳がワンワンした。
しかし、人込みにもまれながらハイアット・リージェンシーの中に入るとその喧噪《けんそう》もシャットアウトされ、ようやく晴美は落ち着いた気分になった。
大きなクリスマスツリーが飾られているロビーを行き交う人の歩みはあくまでゆっくりと、そして会話もいたって静かである。
ホッとして晴美がフロント前のソファに腰を下ろすと、
「じゃ、わたしはそういうわけで」
と、スーツケースをそばに置いたエンディは、罪のない笑顔でお役御免とばかりに手を振って言った。
「メリークリスマス!」
そのわずか数時間後に暗黒の運命が待ち構えているとも知らずに、晴美は、どこか憎めない香港の青年に向かって、しょうがないなあといった笑顔を返して言った。
「メリークリスマス!」
そして晴美は、色とりどりの電飾が点滅する大きなクリスマスツリーへ、ぼんやりとした目を向けた。
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3[#「3」はゴシック体]
魔宮に行くなら、ことしが最後のチャンス――年のはじめからそのことを自分に何度も言い聞かせ、萩原晴美は山のようにたまった雑文書きの仕事を必死にこなしてきた。
じつは四月のなかばに、晴美は置き忘れた財布の中から銀行のキャッシュカードを何者かに盗られたうえに、どういうわけかあっさりと暗証番号を解読されて二百万円あまりを引き出されてしまうという事件にあった。そのおかげで財政的ピンチに陥ったため、否応なしに猛烈な量の仕事を請け負わざるをえなくなった。
しかし頑張ったかいあって無事にすべてのノルマを消化し、失った二百万には満たないが貯金も少しはたまったので、年の終わりになって、なんとか香港へ飛ぶゆとりをひねり出すことができた。
一九九二年のクリスマスのことだった。
当時二十六歳、名乗るのは自由だから勝手にジャーナリストと称して、週刊誌や月刊誌のコラムに原稿を書いていた晴美は、九三年早々に、香港の 九《きゆう》 龍《りゆう》 城《じよう》 砦《とりで》 が壊されることになったというニュースを聞き、ぜひ取り壊される前に、自分の目でその姿を見ておきたいと思った。
九龍城砦《ガオロンセンガイ》――
それは東洋のカスバとも魔窟ともいわれ、香港の中の完全治外法権地域としてあらゆる無法がまかり通る悪魔の巣窟と噂されていた。
あの宝石のような香港の夜景の片隅に、伝説の魔宮は建っていた。
場所は、世界各地からの国際線が集まる啓徳空港のすぐそば、東《トウン》 頭《タウ》 林《ツエン》 道《ロード》 と賈炳達《カーペンター》 道《ロード》にはさまれた小高い一角の約一万坪の地域。
一万坪というと一見広そうだが、百坪の住宅が百戸分、日本の都会ではごくふつうの五十坪ていどの住宅でも二百戸分の敷地にすぎない。
そこに十三、四階建ての古びたビルがほとんど隙間《すきま》もなく林立し、さらにその南側に、いまにも壊れそうな木造バラックが、たがいにもたれかかるような格好でひしめいていた。
その九龍城砦には、最盛期で五万人を超える人々が住んでいたといわれる。
一万坪に五万人――一坪、すなわち畳二畳に五人の割合――四畳半の和室に、なんと十人以上も詰め込まれる換算となるすさまじい人口密度。
その超過密住居であるビルとビルの間に挟まれた非常に狭い通路には、日中でも陽光が射し込まず、ゴミやネズミの死骸が散乱し、汚水が溜まり、異臭を放つ。
そしてその通路は迷路のように入り組み、あるところからは博徒の歓声が、あるところからは売春婦の嬌声《きようせい》が、そしてあるところからは麻薬中毒者のうめき声が洩れ聞こえ、さらには官憲の追っ手を逃れた犯罪者たちが息を殺して潜んでいる。その悪魔の聖域にさまよい込んだヨソ者は、魔宮から二度と生きて戻ることはない、とさえ伝えられていた九龍城砦……。
外国人ばかりでなく地元香港に住む者ですら、ここを悪魔の巣窟として本気で恐れていたが、この魔宮も、もともとは香港の沿岸警備につく中国人軍隊の駐留地だった。海賊対策の監視砦といってもよい。
そして一八九八年に、清朝・英国間で締結された九龍租借条約により、香港が英国の統治下に入ったあとも、この九龍城砦だけは租借条約の適用外となった。つまり、香港を治める英国の警察が手を出せない地域になってしまったのだ。と同時に、統治権をもつ中国政府のほうも、あえてここに警察や軍隊を派遣しなかった。
そのため九龍城砦は、香港の中にあって英中両国から干渉されない不思議な領域となり、さまざまな悪を吸い込むブラックホールと化した。
だが、じつは二十世紀も終わりの一九八〇年になって、この領域内でも香港警察のパトロールが行なわれるようになり、一定の治安は保たれるようになった。
そして、香港の中国返還決定にともない、いよいよ暗黒の魔宮の取り壊しが決定し、それが目前に迫った一九九二年の段階では、これまで警戒心を解かなかった地元の人間も、九龍城砦には近づくなという警告の言葉を、あえて発することはなくなっていた。萩原晴美が最後の魔宮の姿を見にいこうと思ったのは、そんな時期だったのだ。
つてを頼って、九龍城砦へ案内してくれる地元のコーディネーターも見つけた。それはテレビ局の知り合いを通じて依頼した信頼できる筋だった。
取材日は、到着翌日。半日かけて魔宮の中を案内してもらい、そのあと関係者のインタビューを組んでもらう手はずになっていた。
(遅いな……)
明日の取材の段取りなどを頭の中で整理していた晴美は、ホテルのロビーに座ってからもう一時間近くがたったことに気がついた。
麻季の自宅マンションの最寄り駅である中環《セントラル》からこのホテルの前の尖沙咀までは、地下鉄で二駅、乗車時間はわずか五分たらずの距離だ。
仮にパジャマ姿から着替えをしてお化粧をする時間を入れたって、とっくに姿を現してもいいころではないか。
(そういえば……)
ふと、ホテルの前で見たものすごい人込みを思い出しながら、晴美の脳裏に疑問が走った。
(あの麻季が、クリスマスの夜にひとりぼっちで家にいるなんて、どうしてなんだろう)
そのとき、フロント係の女性が晴美のほうを見ながら「ミス・ハギワラ?」ときいてきた。
晴美がうなずくと、係の女性は一枚の伝言メモを差し出した。そこには英語で書かれた麻季らしき女性からのメッセージ。
≪待たせてごめんなさい。悪いけれど、そこのホテルの向かいのホリデイインのロビーのほうにきてください。そこで待っています。M≫
そういった内容の文章だった。
不審に思ってフロント係にきくと、たったいま若い女性の声で交換台に電話があり、フロント前のロビーで待っているハギワラという日本人女性にメッセージを渡してほしいとのことだったという。
その気になれば直接電話で話もできたはずなのに、どうしてなんだろう、と晴美はまたしてもいぶかしく思った。
(もしかしたらホテルの処理に困って、すぐそばのホリデイインで妥協しろということなのかしら)
たぶんその可能性が強そうだ、と晴美は思った。
(あーあ)
目の前に置いたスーツケースを見つめながら、晴美はため息をついた。
(麻季がよけいなことをしてくれるから、予定がメチャメチャだわ)
機内食には手をつけずにきたので、もう晴美のおなかはぺこぺこだった。ここのカフェテリアでお気に入りのナシゴレンを食べてから行動したかったが、そうもできない。
「もう、麻季ったら勝手な女なんだから」
おもわず独り言が口をついて出た。
そして無意識に出たその言葉こそ、いままでの長いつきあいの中で、沢村麻季という友人に対して自分が抱いていた不満の本質なのではないか、と晴美は思った。だから三日前にかけた麻季への電話も、自然とぶっきらぼうでおざなりな調子になってしまったのかもしれない。
上昇志向の強い麻季は、自分が上の段階へ進むさいに、周囲に迷惑をかけるのを何とも思わないところがあった。友情を犠牲にするのも平気だった。
「友だちって、その時期その時期の自分のレベルに合った人を選ぶべきなのよね」
麻季は、つねづねそう言っていた。
「だから、自分のレベルが変わったり、相手のレベルが変わったときは、友だち関係はそれでおしまい。それがふつうなんじゃないかなあ。友情は永遠だなんて、そんなの完全に幻想だよねー」
さらに『沢村麻季語録』が晴美の頭を横切る。
「ねえ、私たちってさ、とくべつ美人でもなければ可愛いってもてはやされるタイプでもないでしょ。だから、実力主義の世界でがんばるっきゃないのよ。黙ってたらレベルの低い男しか寄ってこないから」
さりげなく『私たち』という複数形を使って、晴美だって女としてたいしたことないのよ、と自分側に引き寄せているところが、いかにも麻季らしい言葉の選び方だった。
たしかに麻季は、容姿について異常なまでのコンプレックスをもっていた。いや、コンプレックスというよりも嫉妬心といったほうが正確だろうか。
晴美がごくごく平凡な外見であるのと同じように、麻季もありふれたといえばありふれた容姿の持ち主だった。逆にいえば、心の持ち方しだいで、いくらでも輝いてみえる可能性を秘めている。
一般的にみて、女なんてそんなものではないだろうか、と晴美は思っていた。テレビに登場する女性タレントや、あるいは小説の中に登場する架空の女性は、だいたい顔で勝負できると決まっているけれど、そういうのは実社会ではごく一部の人にすぎないはずだ。だって、男を見ればわかるではないか。俳優にしたいようなハンサムな男なんて、いったい自分の身の回りにどれだけいるというのだろう。
でも、そうした理屈は麻季には通用しなかった。
麻季は、自分の容姿そのものではなく、自分よりも美人、あるいは自分よりも愛らしい女性に猛烈な嫉妬を燃やした。そういった容貌に恵まれた女性と較べて、激しいコンプレックスに陥るのである。
較べる相手が悪いんじゃないの、と晴美はのんきにからかうのだが、麻季はいたって真剣だった。
「私、お金をためたら整形するわ。きれいになって何がわるいの」
これも麻季の語録のひとつである。
「黙っていても男が寄ってくるような女に私はなりたいのよ。それが理想。でも、そこに行き着く前に、まず実力の世界で徹底的に上に行かなくちゃ」
よくよく考えたら、そんな麻季と、晴美がいまもなお友だちづきあいをしていられるほうが不思議なのかもしれなかった。
晴美と麻季の間には、大学時代からの共通の友人が何人もいた。だが、彼女たちはことごとく麻季から離れていった。晴美とはまだ交友関係がつづいている者もいたが、それでも半分くらいは、麻季と仲がいいからというだけの理由で晴美とも疎遠になってしまった。
(もしかしたら、こんどは私の番かな。麻季の上昇志向に踏みにじられるのは……)
晴美はそんな気がした。
香港支局勤務で、夢に一歩近づいた麻季からすれば、日本で同じような毎日をすごしている同年齢のOLのことが、どんどんバカに見えてきているだろう。そんな中に、ジャーナリストである私も入れられてしまったかもしれない、と晴美は思った。
結果からいうと、晴美の予感は正しかった。
しかし、会いもしないうちからあれこれ考えるのはよそうと思い、晴美は指定のホテルへ移動することにした。
ただし、あの人込みの中をまたスーツケースを転がしていく気にはなれない。近場の香港旅行とはいえ、取材道具などの入った荷物はけっこう重い。そこで晴美は、ベルキャプテンのデスクでそれをあずかってもらうことにした。
もちろん部屋番号をたずねられたが、適当な数字を告げておいた。そして引き換えのタッグをもらい、ショルダーだけをさげて、晴美はふたたび喧噪渦巻くネイザンロードへ出た。
出て行くその彼女の後ろ姿をじっと見つめている一人の男がいた。
見た目はごくごくふつうのビジネスマン。一流ホテルのロビーにたたずんでいても少しも違和感のないいで立ちである。もちろんサングラスなどはかけていない。
実際彼は、映画および音楽産業にたずさわる表の顔を持っていた。が、同時に香港の裏社会に直結している人物でもあった。
香港では、映画や音楽産業は大きな金を生み出す主要ビジネスであると同時に、裏社会の金を浄化するマネー・ローンダリングの役割をも受け持っている。したがって、そこは表と裏の出会う場所になる。
たとえば香港ヤクザのファミリーがあったとする。その一族の中で、顔のいい娘を映画スターに仕立てるとか、声のいい娘を歌手にする、あるいは頭のいい息子をプロデューサーの地位に就かせるといった関わり方で、裏の金を表に、表の金を裏に回転していく『交換器』の機能を果たしていくケースが往々にしてある。
かつて香港には、ブティックの試着室に入っていった日本人女性がそのまま忽然と姿を消し、どこかに売春婦として売り飛ばされていったなどという話が、いくらでもあった。さすがに最近では、表立ってそんな話は聞かれなくなったものの、数十万円という単位で危ない仕事を請け負うルートはいまだに健在である。
そして、そうしたルートの末端にいる人物は、日本のヤクザのイメージからは想像もつかないほど、ごく一般的な顔を装って市民生活に溶け込んでいる。
晴美は、そうしたグループのひとつに狙われていた。
もちろん、彼女は夢にもそんな事実を知らない。
仮に、危険を察知したとしても、いったい自分がどんな理由で狙われているのか、想像もできなかったことだろう。明日の九龍城砦の取材などは、まったく無関係だった。晴美が命を狙われる理由は、もっともっと別のところにあった。
晴美にとっての魔宮は、九龍城砦ではなかったのだ……。
仕立てのよいスーツを着た男は、晴美があずけた荷物の色と形をしっかりと記憶した。さらには、晴美がその引換券をショルダーバッグの中にしまったことも頭にたたき込んだ。
そののちに、ゆっくりと玄関に向かって歩き出す。
彼にとって、急いで後を追う理由は何もなかった。晴美がどこへ向かっているのか、ちゃんとわかっていたからだ。
男は悠然とした足取りで、大混雑のネイザンロードを横切った。
群衆の中にあって、彼の姿だけが周囲から浮かびあがってくるような、独特のリズムの違いがその歩き方にあった。
男は、道の向こう側に渡ったところで正面の建物に姿を消した。晴美の呼び出されたホリデイイン・ゴールデンマイル・ホンコンである。
ロビーにたむろしている客層は、ハイアット・リージェンシーとはがらりと変わって、かなり庶民的である。
顔立ちも体格も派手なラテン系の女性の一団が嬌声をあげているそばで、まるで場違いのところにきた、という感じで萩原晴美がポツンと立っている。その姿が男の目に入った。
晴美は、ロビーのあちこちを目で追っていた。沢村麻季の姿を探しているのだ。
(いないよ、あんたのお友だちは)
男は心の中であざ笑った。
(かわいそうに、悪い友だちを持ったものだねえ)
……と、あたりを見回していた晴美の目が、男の視線と出会った。
まさにそのタイミングを見計らっていたように、男は軽く微笑をたたえて晴美のほうに近づいた。
「萩原晴美さん……ですね」
流暢な日本語である。
晴美は、びくんとして半歩後じさりしながら、男の顔をまじまじと見つめた。
「やあ、急に声をかけてすみません。私、沢村麻季の婚約者でウォーリー・チェンといいます」
「麻季の婚約者!」
「はい、そうです。晴美さんのお噂《うわさ》はかねがね」
お噂はかねがね、などという言い回しは、昨日やきょう日本語を習ってできるものではない。しかし、その顔は明らかに日本人の顔立ちとは異なっていた。
(それにしても、麻季が香港の男ともう婚約してしまったなんて!)
相手の男の素性を疑うよりも、まず晴美はその事実に驚いてしまった。
「あはは、麻季のフィアンセだと言ったものだからびっくりしていますね」
晴美の心を見透かしたように、男は笑った。
白く輝く歯が印象的だった。
「麻季はね、ぜひ晴美さんをびっくりさせたいと言って、自分ではなく私を迎えに行かせたんですよ」
「で、麻季は」
「ヒルトンホテルで待ってます。じつは、親友のあなたにだけは、みんなよりも早くぼくたちの婚約を知らせたいと思って、三人だけの小さなパーティを開こうというプランなんですよ」
「それでヒルトンを」
「ええ」
男はうなずいた。
「でも、かえってそれが晴美さんの迷惑になったみたいで、麻季はとっても後悔しています」
「そんな……私のほうこそごめんなさい。そういった事情も知らないで、麻季に怒ったりして」
晴美は、素直に申し訳ないという気持ちになった。
香港で出会った恋人とゴールインしたというビッグニュースを、突然発表することで晴美をびっくりさせようという計画だったならば、大きなお世話に思えたホテルチェンジの行動も理解できた。
そうとは知らず、こっちが元のホテルにこだわったため、けっきょく麻季の企画した『サプライズ・パーティ』がおじゃんになりそうだったとしたら、ほんとうにすまないことをした、と晴美は心から悔やんだ。
「明日の朝に、ハイアットで待ち合わせということを麻季から聞きました。ですから、その時間に間に合うよう私が責任もって晴美さんをお送りしますし、ホテルのオペレーターにも、もしも萩原晴美さんあての電話が入ったら、ホテルが代わったことを相手に伝えるよう、私からきちんと頼んでおきます。ですから、今夜はヒルトンの泊まりで許してもらえますか」
「もちろんです」
晴美は、心からの笑顔で言った。
「何もプレゼントは持ってきていませんけれど、お二人のご婚約を心からお祝いさせていただきますわ」
「ありがとう。ああ、よかった」
男は心底ホッとした顔で笑った。
「ぼくも麻季も、ホテルのこと、ほんとうに申し訳なく思っていました」
「もういいんです、それは」
応じながら、晴美は目の前の男を観察した。
寸分の隙《すき》もない、という表現がぴったりの人物である。着こなしも、物腰も、すべてにおいて欠点が見当たらない。満点すぎて、かえってどこか不完全にみえる――そんな男だった。
(いかにも麻季が好きそうな人ね)
晴美は思った。
(あとで詳しく紹介してくれるのだろうけれど、きっとどこかの財閥の御曹司《おんぞうし》なんでしょう)
しかし、晴美の推測は完全にはずれていた。
男は麻季の婚約者ではなく、現金五十万円で彼女に雇われた関係にすぎない。財閥の御曹司どころか、三十万円という低料金から殺人を請け負う、裏社会のプロだった。
邪魔者は消す。しかし、しかるべき立場にある人間は、自分の手を汚してまで人殺しをすべきではない。それは専門の職人を雇って任せればいいことだ――この哲学を、麻季はベッドをともにした香港のとある資産家から聞かされた。
日本にかぎらず、イギリスでもアメリカでもそうだが――その資産家は裸の麻季を抱き寄せながら、特大の葉巻をくゆらせて言った――ミステリー作家は現実ばなれしたストーリーばかり書くからあきれてしまうよ。よくあるだろう、殺人犯をとらえてみたら何不自由ない大金持ちの男だった、というのが。あんなことは、少なくとも香港ではありえない。なぜなら、殺人の必要があれば、苦労してアリバイ工作やらトリックなどを考えずに、人を雇えばいいからだよ。
そして男はワッハッハと大声で笑い、麻季の乳房に葉巻臭い唇を当てた――
そんな場面があったことを晴美は露ほども知らない。
名古屋の大学で、肩を並べて同じキャンパスを毎日歩いた大の仲良しが、わずか四年たつかたたないうちに、そこまで恐ろしい魔宮に引き込まれているとは、考えも及ばなかった。
まして相手が自分の命を狙っていることなど……。
「さあ、車を用意してありますからどうぞ」
ウォーリー・チェンと名乗った男は、スマートなしぐさで晴美をエスコートして外へ連れ出そうとした。
「あ、ちょっと待って」
出口へ歩きかけた晴美が立ち止まった。
「私、荷物をあずけているんです。あっちのホテルに」
「だったら預かり証を持っているでしょう」
「ええ、これですけれど」
晴美は、肩にさげていた自分のバッグから小さな券を取り出した。
「じゃあ拝借します。うちの運転手にあとでヒルトンのほうへ回させますから」
あまりにも一連の行動が優雅だったので、晴美は何かを疑うひまもなく相手にスーツケースの引換券を渡してしまった。
「では、どうぞ晴美さん」
こんどこそ男は笑顔で晴美を外へと導いた。
モディロードの一角――さきほど、麻季の指示でマイクロバスを止めた場所のすぐそばに、一台のリムジンが停まっていた。ロールスロイスのリムジンである。
「え、これに……?」
「私の車です」
当然のように答えると、ウォーリーと称する男は人差指をカギ型に曲げて唇に当て、ヒュイッと甲高《かんだか》い指笛を吹いた。
資産家の御曹司にしては品のないしぐさだったが、ロールスロイスのリムジンに目をくらまされ、晴美はそこまでの疑問は感じなかった。
いまの指笛が合図となって、リムジンの運転席からダブルのスーツに身を固めたショーファーが降り立ち、後部座席のほうに回って、晴美に恭《うやうや》しいお辞儀をしながら重厚なドアを開けた。
そのショーファーが、たとえば禿《は》げ頭の大入道で国籍不明のプロレスラーのようなタイプだったら、晴美もそこで最後の警戒心を抱いたかもしれない。
ところが、車から出てきたのは非常に小柄な白髪の老人だった。力くらべをしたら晴美でも勝てそうな、身長も体重も彼女より一回りも小さい年寄りである。どちらかといえば、街の路地裏で鳥カゴに入れた自慢の小鳥の鳴き声を楽しみつつお茶でも飲んでいるのが似合いの、典型的な中国の老人といった顔をしている。
それで完全に安心して、晴美はリムジンに近寄った。
とそのとき、ちょうど車のそばを三、四歳の白人の男の子が通りかかった。星をちりばめたとんがり帽子を頭にかぶり、右手には風船を持った愛らしい金髪の男の子である。
「ワーオ!」
ロールスロイスのリムジンの威容に感心したのか、男の子は立ち止まって嘆声をあげ、車に乗り込もうとする晴美をじっと見つめた。
その視線に気づいた晴美は、なんだか照れくさくなって笑顔で手を振った。
「べつに私はお姫さまじゃないのよ、なーんて……メリー・クリスマース!」
最後の言葉だけ理解した男の子は、風船を揺らしながら手を振って笑顔を返した。
男の子にもう一度手を振ってから、晴美はリムジンの中に入った。高価な洋酒が並べられたキャビネットに、晴美の目が丸くなる。テレビもついていたしビデオデッキも備えてあった。
その外では、ウォーリー・チェンと小柄な中国人の老人が目くばせをしていた。
そしてウォーリーも遅れてリムジンに乗り込み、老ショーファーの手でバタンとドアが閉められた。
その様子を、白人の子供がじっと見つめる。しかし、スモークフィルムを貼ったロールスロイスの窓ガラスには、クリスマスを祝う人々であふれ返る街の雑踏を背景に、風船を持ったその男の子自身の姿が反射して映っているだけだった。
ブロロン、と静粛かつ重々しいエンジン音が響いた。
ヘッドライトが点いた。
ピピピピーと警笛が鳴る。
大混雑する路上の交通整理にあたっていた警察官が、方向転換を試みるロールスロイスのために、わざわざ通行人の流れをせきとめて誘導までしてくれた。
「唔該《ムゴイ》」
老ショーファーは、窓を少しだけ開けて警察官に礼を言った。
それは『ありがとう』を意味するごく単純な広東語だったが、晴美の耳には、それが『酷《むご》い』という日本語に聞こえた。
そして、その聞き違いは真実を予言していた。
光と人の洪水であふれかえる街をあとにしたロールスロイスのリムジンは、対岸の光り輝く香港島中環ではなく、暗闇に覆われた北の方角へと走っていった……。
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4[#「4」はゴシック体]
時が流れて一九九五年になった。
沢村麻季は、香港ではなく日本にいた。
レコード会社の香港支局勤務の経歴を生かし、独立して香港島の一等地にオフィスを構え、現地人と日本人のスタッフを雇って社長業に邁進《まいしん》し、最終的には資産家と国際結婚を果たすという彼女の香港ドリームは、あえなく破れたのだ。
原因は三つあった。
第一に、勤務先のレコード会社が経営不振に陥り、不採算部門の廃止統合計画の中に、香港支局の閉鎖も含まれていたこと。
いずれ会社は辞めるつもりだったが、この支局閉鎖はあまりにもタイミングが早すぎた。
第二に、ベッド戦略を使ってまで必死に仕掛けた香港社会での人脈作りが、最終的には何のはかばかしい結果も生まなかったこと。
これについて麻季は、悔しいけれども自分の女としての魅力が足りないせいだと痛感していた。このコネクションこそ絶対につかみたいという男が五人ほど目の前に現れたが、いずれも一度か二度麻季の身体を弄《もてあそ》ぶと、用は済んだとばかりにさっさと逃げていった。
彼らには、いずれも複数の美女が恋人としていた。中国系あり、北欧系あり、ラテン系あり……。彼女たちの美貌とスタイルは、麻季が太刀打ちできるようなものではなかった。
第三に、何をやるにしてもお金が足りなさすぎた。
会社の給料だけでは貯金はいっこうに増えず、おまけに日本から香港にやってきた晴美の『始末』に、大枚五十万をはたいてしまった。
萩原晴美――
その名前を思い出すたびに、麻季は胸が苦しくなった。
直接自分の手は汚さなかったとはいえ、大学時代からの親友を殺してしまった罪悪感と、それから絶対に後腐れのないルートを使ったはずだが殺人の実行者からさらに強請《ゆす》られるのではないか、という不安である。
(ひょっとしたら、私は被害妄想だったかもしれない)
麻季は、ふとそんな考えを抱いたこともある。
晴美は香港訪問の理由について、魔宮の探索にきた、という意味不明のことを言っていたが、じつは私を問い詰めるためにきたに違いない、と麻季は思い込んでいた。
日本において晴美のキャッシュカードを盗み、そしてある巧妙な方法で、絶対秘密のはずの暗証番号を解読し、二百万円あまりを彼女の口座から引き出した。
その犯人がじつは親友の麻季であると、晴美は気づいてしまったのではないか。そして、そのことを詰問しに、わざわざ香港へ飛んできたのではないか――香港訪問の三日前に晴美がかけてよこした国際電話の口調が妙によそよそしい気がして、麻季はそう思い込んでしまったのだ。
晴美の口座から盗んだ二百万円は、香港ドリーム実現のための軍資金にあてるつもりだった。だが、あっというまにそのたくわえは減り、おまけに、なけなしの五十万円を晴美殺害の『経費』として支出してしまった。
貯金はゼロ、男にはもてず、会社の支局は閉鎖され、親友を殺したという最悪の思い出をかかえたまま、麻季は香港を去った。
あれから二年半――
たしかに香港ドリームは無残にも破れたが、麻季は、どこかの平凡なサラリーマンと結婚をして平凡な主婦におさまるといったコースを歩むつもりは毛頭なかった。
そしておそるべき執念で、彼女は日本において復活の道を歩みはじめた。
まず第一ステップとして、麻季はレコード会社の本社勤務に戻されたのち、仕事で知り合った女性のキャッシュカードを盗み、かつて晴美に対して行なったのと同じ方法でキャッシュカードの暗証番号を解読して、彼女の預金を引き出した。口座には百十二万円ほどあった。
その直後に、麻季は勤めていた会社を辞めた。
手に入れた百十二万円をもとに、かねてよりの希望だった美容整形手術を受けてイメージチェンジを図るためである。もっと男好きのする顔にならないと私には幸せはやってこない、と麻季は本気で信じ込んでいた。
そして、ほんのちょっと目と鼻とアゴを直しただけで、彼女は格段に化粧映えのする顔になった。
麻季は、整形手術の経験者から術前に貴重な忠告を得ていた。
「素顔を大胆に変えようと思っちゃダメよ」
その経験者は言った。
「女にはお化粧という変身方法があることを忘れないで。手術では元の顔をほんの少しいじるだけでいいの。ちょっとだけでね。その違いを、お化粧が何倍にも何十倍にも増幅してくれるから」
そして実際にその通りになった。
新しい顔に自分が慣れるまでに三カ月。術後の状態が完全に安定するまでにさらに三カ月。計半年の猶予《ゆうよ》をおいて、沢村麻季は新しい会社に勤めた。中堅の広告代理店だった。
しかし新しい職場も、麻季にとってはほんの中間ステップにすぎなかった。
麻季はそこでも同じ犯罪を繰り返した。仕事先関係者のキャッシュカードを一年の間に二度盗んだのだ。とくに今回は効率をよくするため、お金をしっかりためている女性を狙い撃ちにした。
貯金がある程度の金額までたまると、普通口座から定期預金に移すものだが、通帳が総合口座になっていれば、定期預金の額面を担保にしてその九割まで、最高二百万円を限度として、普通口座からマイナス勘定で金を借りることもできる。
たいていの銀行は、キャッシュカードでもかんたんに借り入れができるようになっている。たとえば麻季自身が使っているカードでは、通常の引き出しのときとは反対向きにして機械に差し込めば、これは借り入れだと機械が判別してくれる方式になっていた。しかも都合のいいことに、暗証番号は一般の引き出しのときと共通にしてあった。
もちろん、担保となる定期預金がいくらぐらいあるのかは、日常会話でそれとなく探りをいれておく。
萩原晴美のときを皮切りに、麻季は合計四回この犯罪を試みて、四回とも成功した。注意すべきはキャッシュカードを抜き取るタイミングと、相手が盗難に気づいてから銀行に届け出るまでのわずかな時間に引き出しを実行すること、そして銀行で引き出すさいに防犯カメラに必ず顔が写されるから、そのときの変装方法だった。
最初は、付け髭にサングラスなどで男になることすら考えたが、それはそばにいる行員に怪しまれる危険性が大だった。そこで彼女は『四十代の下町の主婦』というイメージの変装で金を引き出しに出かけた。
あるときは割烹着《かつぽうぎ》で、あるときはスーパーの安売りで買った花柄のジャケットを着て、というふうに……。そして、一連の犯罪が同一犯人だとわからないように、そのたびにカツラは必ず新しいものを使った。
それにしても、あまりにもあっさりと事が運ぶので、麻季はいささか拍子抜けするようだった。
一般に、このようなカード犯罪が成立しないと考えられているのは、ひとえに暗証番号という安全装置が完璧だと信じられているからだった。逆にいえば、暗証番号がたやすく解読できるなら、預金口座はかなり無防備な状態にさらされるわけだ。
もちろん銀行側でも、他人にわかりやすい暗証番号は使わないようにと指導はしている。0000と9999は最初から暗証番号として登録できなかったし、あまりにも単純な数字の並べ方や、本人の誕生日や電話番号と一致する数字は避けたほうがいい、と忠告もしている。
キャッシュカードを入れた財布を盗まれたり落とした場合、その財布の中には免許証や身分証明証がいっしょに入っていることが多い。そして、そこに記された誕生日やマンションの部屋番号、あるいは電話番号などから暗証番号を類推されるおそれは大いにある。
だから、誕生日や電話番号を銀行のキャッシュカードの暗証番号にそのまま使う人はかなり減ってきている。カード社会があたりまえになったいま、利用客もそれなりに予防策を講じるようになったのだ。
しかし麻季は、仮に相手がまったく気まぐれな数字を四ケタの暗証番号として設定したとしても、それを探り当てる方法を思いついていた。
それは頭の中で考案したのではなく、自分自身のケースをふり返ってみたときに、ふと気がついたテクニックなのだ。
ただし、これにはある条件がそろうことが必要だった。キャッシュカードを盗む機会はこれまでに数限りなくあったが、ある前提条件が成立したときにのみ、盗みの実行まで踏み込む価値があった。
その前提条件とは、あまりにも盲点といえば盲点だった……。
自慢の方法で行なったキャッシュカード犯罪の、四度目の収穫は大きかった。
そこで麻季はふたたび会社を辞め、もういちど美容整形の手術を受けた。こんどは顔ではなく、豊胸手術と脂肪吸引手術である。今回は、スタイル改善に取り組んだのだ。豊満なバストが男をどうして本能的に引きつけるのか、女の麻季にはあまり理解ができなかった。しかし、少なくとも麻季が見てきた香港の男たちは、日本の男とは較べものにならないほど巨乳信仰が強かった。
それが麻季の考え方にも影響した。
また脂肪吸引手術では、お腹とお尻と太ももの脂肪をすっきり取り、豊胸手術と併せてきわだったプロポーション効果を生み出す狙いがあった。
ただしこの手術は、美容整形の中でももっとも危険なものと言われていた。皮下脂肪にカテーテルを差し込み、それを左右に動かしながら脂肪層を破壊し、砕いた脂肪をポンプで吸引していく。そのさいに重要な血管や臓器を傷つけたり、ときにはショック死の危険すらはらんでいるものである。
しかし麻季は、臆せずにその手術を受けた。そして見事な二度目の変身をとげた。
この肉体改造によって、麻季は次のステップへと進んだ。
彼女の新しい美の前には、二十九歳という年齢のハンディなど吹き飛んでしまい、一流企業に受付嬢を送り込む人材派遣会社の面接に行くと、即決で採用された。そして、都心に近代的な三十階建てビルを構える大手建設会社のメインロビー受付に、その社の『顔』として座ることとなった。
それが一九九五年の春のことである。
たちまち麻季の存在は、社内のみならず、そのビルを訪れる男たちの注目の的となった。中には、受付嬢・沢村麻季の顔を見たいがために、用もないのにこのビルを訪れる男もいるほどだった。麻季からみれば、まさに売り手市場のモテ方である。
そして受付嬢として採用されてからわずか一カ月後の五月に、麻季は『踏み台』として最適の男を見つけ、六月には早々と婚約をしてしまった。
相手の男は三十三歳の銀行員、西条雄一。
性格良し、頭良し、顔もスタイルも良し、おまけに収入良し。麻季にとっては、とりあえずは申し分のない相手だった。そう、とりあえずは[#「とりあえずは」に傍点]……。
麻季は、決してあの香港ドリームを忘れたわけではなかった。彼女の最終目標はあくまで国際的規模の幸福をつかむことで、銀行員の妻になるのが夢なのではない。
だが、西条を見初めたのは、まず男としての魅力がかなりあったこと、そして銀行に関するノウハウを仕入れることができると思ったからである。
(ま、彼の奥さんでいるのも、いいとこ二年くらいね)
麻季は、最初から平気でそう考えていた。
(だって、ハンサムな男の魅力なんて、女と同じで長続きするもんじゃないしね)
しかし彼女の周囲は常識人ばかりがそろっていて、結婚とは、少なくともそのスタート時点においては、永遠につづけるべきものと考えていたから、麻季に対して「あまりにも早すぎる結婚退職じゃないか」とか「世の中にもっといい男はたくさんいるんだぞ」と、やっかみ半分の声が飛んだ。
そんな男たちの反応をよそに、沢村麻季はインテリジェントビルの受付台から去る日を六月末と決めた。そして、西条雄一との結婚式は八月と。
すぐにやめてしまうつもりの結婚生活だったから、婚約から挙式までは、なにももったいをつけて間を置くことなどない、というのが麻季の超ドライな考え方だった。
むろん、相手の西条はそんな彼女の気持ちなど知る由もない。
そして退職まであと二週間というときに、麻季の心の中に、しばらく抑えていた悪の欲望が、ふたたびむらむらと湧き起こってきた。
結婚退職前に、もういちどキャッシュカード犯罪に手を染めたくなったのだ。なぜならば、暗証番号解読の前提条件を兼ね備えていながら手をつけずにいたターゲットが、同僚の中に一人残っていたからだ。
その獲物をみすみすやり過ごしてこの会社を去ることもあるまい、と麻季は考えた。そしてさっそく彼女は実行に移った――
[#改ページ]
5[#「5」はゴシック体]
精神《サイコ》分析医《セラピスト》の氷室想介《ひむろそうすけ》が、若いカップルの訪問を受けたのは七月上旬のことだった。心の歪みが引き起こすさまざまな諸問題をカウンセリングする彼のもとには、ときとして異常心理犯罪に結びつく不可思議な相談ごとが持ち込まれる。
それは一般の相談者《クライアント》だけでなく、警視庁捜査一課の田丸警部からも謎に満ちた殺人事件の解明を依頼されることがある。異常な様相を呈する犯罪は、おぞましい猟奇事件として偏見の目で見るだけでは解決に至らず、犯人の心理面を深く掘り下げてこそ真相に到達する場合も多いからだ。
これまで氷室想介と田丸警部とのコンビで解決した異常心理犯罪には、つぎのようなものがある。
一人の被害者が一瞬にして五通りの方法で殺され、犯人が忽然と部屋から姿を消してしまった『シンデレラの五重殺事件』。大富豪の双子美人姉妹の姉が東京田園調布で髪の毛を剃《そ》られて殺され、妹のほうは兵庫県芦屋の高級住宅地で髪の毛と大量の血痕《けつこん》を残して姿を消した『六麓荘の殺人事件』。あるいは、大企業の社長夫人が人魚の格好で溺死《できし》させられた『御殿山の殺人事件』。四人の大学生が同一時刻に同じ場所で、それぞれまったく違う方法で殺された『金沢W坂の殺人事件』。さらには、熱海の断崖から突き落とされたはずの青年の死体が、北海道小樽市郊外の海岸に打ち上げられた『小樽古代文字の殺人事件』などなど、枚挙にいとまがない。
その名コンビを組む田丸警部からの紹介ということで、氷室の前に若いカップルがかしこまって座っていた。
若いといっても男性のほうは三十三歳。西条雄一と名乗り、職業は銀行員。法人顧客係に所属しているという。つまり、会社相手のお得意さん回りが主な仕事である。
ハンサムでさわやかな青年だな、というのが氷室の第一印象だった。歯磨きのコマーシャルに出てもいいような真っ白な歯並びが、なおさらそうした印象を強めている。
女性のほうは栗原紀子といい、二十六歳のOL。明昭建設という大手建設会社の総務部に勤めていた、と自己紹介した。
美人ではないが理知的な顔立ちをしており、ピンと伸ばした背筋といい、膝の上の両手の置き方といい、さらに脚の揃え方といい、いかにも彼女のきちょうめんな性格を表しているようだった。
紀子のほうからかすかに漂ってくる清楚《せいそ》な花を連想させる香りは、ニナリッチのトワレ『レールデュタン』だろうと氷室は推測した。香水を嗅《か》ぎ分ける氷室の嗅覚《きゆうかく》には、かなり鋭いものがある。
「明昭建設に勤めていた、と過去形でおっしゃいましたが」
氷室は、まず女性のほうに向かって話を切り出した。
「もういまはお辞めになっているということですか」
「はい、一カ月前に」
紀子は、はきはきした答え方をした。
「というと、ご結婚で?」
そう言いながら氷室が男のほうに目を向けると、男は「いや」と気まずそうに首を左右に振った。
「事件に巻き込まれて、なんとなく会社に居づらくなって辞めたんです」
紀子のほうがすぐに引き取って説明した。
「それできょうは、その事件のことでどうしても氷室先生のご意見をうかがいたくて、時間をとっていただいたんです」
「事件といいますと?」
「キャッシュカード盗難事件です。私のカードが盗まれただけでなく、なぜか暗証番号が解かれてしまって、お金が全額引き出されてしまったんです」
「ほう」
「なぜ暗証番号がわかってしまったのか、それがとっても不思議なのと、それから犯人はもうわかっているんですけど、どう対応していいか困ってしまって、それで氷室先生にアドバイスをいただければと思って」
「犯人がわかっているんですか」
「ええ、そうです」
意外そうな氷室に対し、栗原紀子はきっぱりとうなずいた。
「でしたら、これは私よりも警察に相談すべき問題だと思うんですけれどねえ。どうして田丸警部は私を紹介したんでしょうか」
「犯人はわかっていますけれど、私、警察にはそのことを秘密にしているからです」
「なぜです」
「私の口座からお金を盗んだ犯人は、彼の婚約者だからです」
と言って、紀子は隣に座る西条雄一を見た。
雄一は、気まずそうにもじもじする。
「ちょっと待ってくださいね」
氷室はソファの上で腰の位置を直しながら、長い脚を組み替えた。
「私はてっきりあなたがたは恋人どうしだと思っていたんですが、その思い込みは間違っていましたか」
「恋人どうし、でした」
そこでも紀子は過去形を使った。
「私、ふられたんです」
ストレートな言い方に決していやみはなかったが、西条のほうが顔を赤らめた。
「でも、それは仕方ないと思っています。恋愛とか結婚は、ひとりだけの都合ではできませんから」
紀子は、あくまで客観的かつ冷静に言う。
「ですから私、沢村さんに対して嫉妬の気持ちはもうありません。前は少しだけありましたけれど。それよりも私、自分のためたお金が、こんな形で雄一さんの新婚生活に使われてほしくないんです。それと、雄一さんには絶対に犯罪者と結婚してほしくはないんです」
「ぼくも……そう思います」
紀子とは対照的に、ともすれば消え入りそうな声で西条は言った。
「正直言って、最初は紀子の言葉が信じられませんでした。彼女が被害に遭った口座はウチの銀行ではないんですが、そんなかんたんに暗証番号が解かれるなんて、銀行員のぼくがみても、ありうるはずがない出来事なんです。でも、以前の恋人として、ぼくは紀子の……栗原さんの人間性を信頼していますから、嫉妬などの気持ちからこんな種類の嘘《うそ》をつく人ではないとわかっています。それだけに気持ちが揺れて」
「いま紀子さんの口から出た『沢村さん』という名前が、犯人と疑われている女性であり、あなたの婚約者なんですか」
「そうです。沢村麻季といって、ことし二十九歳になります」
「何をしておられる方なんですか」
「人材派遣会社に登録して、いまは明昭建設の受付にいます」
「なるほど、紀子さんが勤めていたのと同じ職場ですね」
「ええ」
「で、もしかすると、西条さんは銀行の法人顧客係として、明昭建設に出入りしていた」
「おっしゃるとおりです」
バツが悪そうに、西条は答えた。明昭建設の本社ビルに出入りしているうちに、受付嬢の沢村麻季に一目ぼれし、浮気をして紀子から乗り換えたいきさつが、氷室にも容易に想像されてしまったからである。
大手企業の受付に座るからには、沢村麻季とはかなり美しい女性なのだろうと氷室は推測した。
「ご結婚はいつなんです」
単刀直入に氷室はきいた。
「八月です。八月の下旬ですが」
と西条。
「来月の話ですか」
「ええ、でも紀子から思わぬ話を聞かされたものですから、とにかく実態を正確に把握するまで正式な結婚は延ばそうと思ったんです」
「正式な結婚を延ばすとは、どういう意味です。正式じゃない結婚はなさるということですか」
「麻季のほうは、ぼくが疑い出したことをまるで知らないわけですから、急にすべてをキャンセルするわけにもいかないんです。中途半端な状態で騒がれては困りますから」
西条雄一は見た目はさわやかスポーツマンという感じだが、意外に優柔不断な性格の持ち主のようだ、と氷室は観察した。
「ですから、会社の仕事が忙しいのを理由に、披露宴と新婚旅行はとりあえず先に延ばして、二人だけでとりあえず教会で式を挙げようかと……。それで、入籍もとりあえず待ってもらって、まあ実質上の新婚生活ははじめるものの、法的にはとりあえず夫婦でない状態にしておこうかと」
とりあえず、とりあえずを連発する昔の恋人をとがめるように、紀子は聞こえよがしのため息をつく。
そんな二人の様子を見較べてから、氷室は栗原紀子のほうに言った。
「それでは、まずはあなたが被害に遭ったいきさつから聞かせていただけませんか」
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6[#「6」はゴシック体]
栗原紀子が、財布の中に入れておいたキャッシュカードがないと気づいたのは、六月最初の月曜日、夜六時ごろのことだった。
フランス製の細長い札入れは通勤に使うバッグの中に入れてあったのだが、なぜかそのサイフの中からキャッシュカードだけが消えていた。
昼、仲間と食事に行って支払いをした時点では、財布の中にキャッシュカードがちゃんとあったかどうかは確認していない。テレホンカードやクレジットカード、それに免許証や社員証など他のカードが何枚か重ねてあったので、キャッシュカードの有無だけが目立つ状態にはなかったからだ。
夜、会社がひけて駅から友人に電話をしようとして、財布の中からテレホンカードを取り出した。そのときはじめて、キャッシュカードが入っていないことに気がついた。最初紀子には、盗まれたという発想がわかなかった。隣合わせに入っていたクレジットカードなどは無事だったし一万円札や千円札の数も変わっていなかったからだ。
どこかに落としたという心当たりもなかったが、念のために、お昼にランチを食べに行ったイタリア料理店に電話を入れてみた。が、キャッシュカードの落とし物はとくにありませんとの返事。
ひょっとしたら会社で落としたのかもしれないと思い、駅から会社に取って返し、残業している男性社員を横目にしながら、デスクのまわり、廊下、トイレ、階段、給湯室、会議室、女子更衣室と探してみたが、キャッシュカードだけがぽつんと落ちているはずもなかったし、警備室にも届けはないという。
(あ、そうだ……)
ふと、紀子は思い出した。
おしゃれで身の回りのちょっとした色づかいのセンスにも気を配る紀子は、きのうまで使っていた札入れが、きょうのバッグや洋服には合わないと思い、朝出がけにちがう財布に中身を入れ替えたのだ。そのときに、キャッシュカードだけを前の財布に残したままだった可能性もある。
(きっとそうだわ、それしか考えられないじゃない)
紀子は自分で自分を納得させようとした。
念のために銀行の夜間直通番号に電話をして、キャッシュカード紛失の連絡をしようかとも考えたが、自宅に戻って確かめるまではやめておこうと思い直した。
いったん紛失届けを出してしまえば、その時点でカードは無効になるようにコンピュータ処理されてしまう。あとになってやっぱりありましたと申し出ても、けっきょくカードの再発行手続きをしなければならない。それは面倒だったし、なんといっても紀子は暗証番号による保護機能を信頼しきっていた。
紀子が持っていた銀行のキャッシュカードは、誤った暗証番号を六回インプットすると、自動的にカードそのものが無効になって機械に回収されてしまう。銀行によって無効に至る回数はまちまちだが、盗んだり拾ったりした他人のカードの暗証番号を、試行錯誤の繰り返しによって探し当てることができないよう、こうした保護機能がどんなキャッシュカードにも仕掛けられている。
(真剣に心配するのは、家に帰ってみてもカードが見つからなかったときね)
自分にそう言い聞かせると、紀子は友人に電話をかけ、予定より遅れたわびを入れてから約束の待ち合わせ場所へと急いだ。
その夜は仲の良い大学時代の友人とすっかり盛り上がってしまい、自宅に戻ったのは夜中の一時を回っていた。かなりお酒も飲んでいたから、キャッシュカードのこともすっかり忘れ、シャワーを浴びるとすぐにベッドで眠りについてしまった。
そして朝になって急にカードのことを思い出し、前の財布をチェックした。ない。リビングの床に落ちているかとかがんでみた。ない。2DKのマンションの部屋じゅうを探し回った。ない。
しかし、その時点でもまだ紀子に深刻なものはなかった。キャッシュカードを再発行せねばならない手間にうんざりしただけである。彼女は、自分がどこかでカードを落としたものと思い込んでいた。盗難の二文字はまったく頭になかった。
ところが――
キャッシュカードの差し止めを銀行に連絡した紀子は愕然《がくぜん》となった。
普通預金口座に入れておいた額面のほとんどが引き出されたうえ、総合口座の定期預金を担保にして、その九割にあたる金額が借り入れ扱いになっていた。
しめて被害総額三百二十七万円! ボーナスの貯蓄と、親からいずれ結婚資金にと融通してもらったお金がぜんぶ消えていた。
借り入れ扱いの分は、会社から一駅離れた支店のキャッシュ・ディスペンサー《CD》で三回に分けて、そして普通預金の分は、やはりその近くの他行のCD機から二回に分け、千円未満を残してほぼ全額引き出されていたのだ。
銀行員からその事実を告げられた紀子は、へなへなとその場にくずおれて、しばらくは立ち上がることができなかった。クレジットカードを不正使用されたときと異なり、銀行のキャッシュカードには保険は効かない。紛失届前に勝手に引き出されてしまったら、それはすべて盗られ損である。
(どうして引き出せたの)
しばらくしてから頭に浮かんだ疑問はそれだった。
(どうして犯人は、私のカードの暗証番号がわかってしまったの)
なんとか気を取り直した紀子は、銀行のアドバイスで警察に被害届を出し、一時間の遅刻をして出社するとすぐに総務部長にもいきさつを報告した。社内で盗まれたとしたら、社員に犯人がいる可能性があったからだ。
しかし、事情聴取にきた警察官も会社の総務部長も、なぜ紀子の暗証番号がバレてしまったのか、そのことをしきりにたずねてきた。
「たしかに不思議ですねえ」
途中まで話を黙って聞いていた氷室は、そこで口をはさんだ。
「愚問かもしれませんが、紀子さんご自身の誕生日とか、あるいはお住まいの住所や電話番号などを、そのまま暗証番号に使っていたわけではないでしょうね」
「いいえ」
紀子は、予想していた質問とばかりに、即座に答えた。
「警察の方にも同じ質問をされましたけれど、誕生日や電話番号などを暗証番号に使うのは、万一のときに危ないとわかっていましたから。社員番号、マンションの部屋番号、乗っている車のナンバー、そういった数字とはまるで縁のない暗証番号です」
「では、どんなふうにして決めた数字なんですか。なにかゴロ合わせのよい数字を選んだとか」
「いいえ、ゴロ合わせでもありません。学生のころからキャッシュカードには同じ番号をずっと使っていましたけれど、他人には絶対に見当がつかない数字の組み合わせなんです。ぶ厚い電話帳をパラパラッとめくって、パッと開いたところのページ数にしたんですから」
「はあ〜」
紀子の答に、氷室は腕組みをした。
「だったら、たしかにご本人以外には絶対に推測すらつかない数字ですね。……いや、ちょっと待ってください。いままで誰かにキャッシュカードを預けて、代わりにお金を下ろしにいってもらったことはありませんか」
「ありません」
「手帳に暗証番号をメモしていたことは」
「そんな危険なことはしません」
「なるほど」
うなずいてから、氷室は銀行員の西条のほうに目を転じた。
「専門家の立場からみても、これは謎《なぞ》ですか」
「ええ、まったくわかりません」
西条は首をかしげた。
「磁気リーダーとパソコンをつなげた解読装置を作ったとしても、膨大な比較サンプルがないと暗証番号の読み取りは不可能ですし、偶然当たったというケースも、まあゼロとはいいませんが、非常に少ない確率ですからね。四ケタの暗証番号は、ぜんぶで一万通り近くあるわけです。そんな中から正解のひとつを試行錯誤五回以内に当てなければならないというのは、あまりにも神だのみですし、そんな奇跡をたよりにしてキャッシュカードを盗むとは、ちょっと考えられないですね」
「そういえば紀子さん」
思い出したように氷室がきいた。
「暗証番号の解読も不思議ですが、キャッシュカードそのものはどこで盗まれたのだと思いますか」
「いまとなっては、それは見当がつきます。私がうかつだったんです」
紀子は、きちょうめんな自分のミスをくやむように唇を噛んだ。
「男の人とちがって、女性の場合は仕事中、財布を直接身につけていません。机の鍵の掛かる引き出しにしまっておく子も多いんですけれど、私の場合は財布を通勤に使うバッグに入れて、それごと女子更衣室のロッカーにしまっておいたのです」
「だけど、ロッカーには鍵が掛かるんでしょう」
「もちろんそうですけれど、ダイヤル式のかんたんなものなんです。右に二回、左に一回まわして数字を合わせるという単純な」
「それならば、それこそ何度か試行錯誤すれば、正解に行き当たりますね」
「ええ。社員に泥棒はいないという前提で、そんなロッカーですませているのだと思いますけれど、あれだったら誰もいないときに番号合わせのテストをするチャンスはいくらでもありますし、女子社員であるかぎり、女子更衣室の出入りは誰にも咎《とが》められずにできます。契約社員でもアルバイトでも、そして派遣社員の人でも」
「なるほど」
「そんな状況でしたから、ついみんなの前で、私のキャッシュカードを盗んだ犯人は会社の中にいるわ、と口走ってしまったんです。三百万円以上を失ったショックと興奮とで、周りへの気遣いをする余裕がなかったんですね。それでみんなからは、私たちを泥棒扱いするのかと反発されて、私も負けずに言い返しているうちに、すっかり気まずい雰囲気になって」
「それで会社に居づらくなった」
「そうです。自分でもどうしてあそこまで爆発してしまったのかわかりませんけれど、気がついたら、『こんな会社、もう辞めるわ』と叫んでいたんです。そこまで言っちゃったら、取り返しはつきませんよね」
栗原紀子は、悲しそうに笑った。
「で、紀子さん。あなたが犯人を特定したいきさつもお話し願えますか」
「はい」
うなずくと、紀子は膝の上に置いた手を握りしめて話しはじめた。
キャッシュカードの盗難が発覚し、しかも同僚社員との感情的な行き違いから会社を辞めると口走った栗原紀子は、興奮で胸を上下させながらエレベーターでメインロビーへと下った。
時刻はまだ二時すぎ。しかし彼女は、もう会社で仕事をする心境になかった。無断早退である。いや、総務部長には、きょうは四時には早引けをさせていただきますとあらかじめ申し出ていたから、無断で早退時刻を繰り上げた、というべきか。
当初から予定されていた早退の理由は、銀行へ行く約束があったからだった。その目的は、警察官立ち会いのもとで銀行備えつけの防犯ビデオを見るため。紀子のキャッシュカードを使って不正に口座から金を引き出した犯人の姿を、防犯ビデオがとらえていたのだ。
ポーンと軽やかなチャイムを鳴らしてエレベーターが一階に着いた。
明昭建設のビルのメインロビーは広々としていて、しかもフランス人デザイナーに発注したという抽象的なオブジェが随所に飾られ、前衛芸術を展示する美術館かと見まがう趣きがあった。
また、ロビーには小さな音量でクラシックの弦楽四重奏が流れていたが、このBGMの選択と前衛オブジェの組み合わせが、ともすれば男臭い職場である建設会社に、かなり文化的なムードを与えていた。
そしてそのイメージ戦略にさらに一役買っているのが、受付台に座る美女たちだった。メインロビーの受付台には常時二人の女性が座り、たがいに時間をずらしながら三時間交替のローテーションで勤務交替する。
社長の好みか、はたまた総務担当の常務の趣味なのか、とにかく人材派遣会社から送られてくる受付嬢は、よりすぐりの美女ばかりだった。
中でも、ことしの春から新たにスタッフに加わった沢村麻季は、男性社員や男性の訪問者の関心を一身に集めていた。ほとんどの男たちは、二十九歳という麻季の年齢までは知らないはずだ。とにかく若く見えて、輝いていた。
紀子は麻季よりも三つ下になるが、偶然にも自宅の最寄り駅が麻季と同じだった。それで――麻季の勤務態勢が不規則なので、毎日ではないが――朝か夕方の行き帰りに電車でいっしょになることがあり、いつのまにか親しく話をするようになった。
明昭建設では、派遣社員も正社員と同じように会社の施設を使ってよい規則になっていたから、お昼を女子更衣室でいっしょに食べることもあった。
麻季は紀子とはずいぶん気が合うそぶりを見せていたし、実際紀子とはよくしゃべったが、あまり自分の過去は語ろうとはしなかった。けれども、麻季に女として並々ならぬ野心があることは、紀子もずいぶん聞かされていた。
「人間にはね、その人特有の魔宮というものがあるのよ」
あるとき、麻季は紀子に語った。
「それはね、自分にとって最高の幸せを呼び込める場所のこと。それは日本の中に存在しているときもあれば、もっと遠くの地球のどこかにあるかもしれないの」
理解不能といった顔をしている紀子に向かって、麻季はつづけた。
「魔宮を海外に持つ人は、日本の中だけで幸せを見つけようと思ってもダメなのね。わかりやすい例でいうと、たとえば日本人でも世界的に有名なデザイナーがいるでしょう。ああいう人たちにとっての魔宮はパリなの。音楽家でニューヨークに移住して活躍している人は、ニューヨークが魔宮なの。冒険家で北極踏破に生きがいを見いだした人は北極が魔宮だし、世界の山々に魅せられた人は地球のあちこちに自分の魔宮を持つことになるわね」
「つまり、その人のラッキーポイントということですか」
「そう言い換えてもいいわね」
「でも、それだったらどうして魔宮というふうに『魔』の字をつけるんですか」
「いい質問ね」
たずねる紀子に、麻季は美容整形でかちえた妖艶《ようえん》な笑みをみせた。
「それはね、最高の幸せを呼び込む場所は、ときとして最悪の不幸に陥る場所ともなるからなの」
そんな説明をしてくれた麻季が、ちょうどいま受付に座っていた。
通りかかった紀子と目が合う。
「どうしたの」
たまたま周囲に外部の客がいなかったので、麻季のほうから声をかけてきた。
「なんでもないわ」
と、紀子。
「でも、顔色が悪いわよ」
そう言いながら麻季は、紀子が通勤用のバッグを肩にさげているのに目をやった。
「もしかして、早退?」
「まあね」
「さっき総務部長からキャッシュカードのこと聞いたんだけど……そのせい?」
「まあね」
同じ答を繰り返して、紀子はそのまま受付台の前を通り過ぎようとした。
が、ふと彼女は麻季の首筋に目をやった。
白いうなじにキスマーク。
(いやだ)
と思った。
受付という人前に出る仕事なのに、平気でキスマークを見せている神経が、紀子には理解できなかった。
しかも、そのキスマークをつけた張本人は――
ほんの少し前まで自分の恋人だった西条雄一の顔が脳裏に浮かんだ。
たしかに彼は、紀子に対してもよく首筋にキスをしようとした。ただし、潔癖な紀子は身体にキスマークをつけられるのが好きではなく、いつも「きつく吸わないで」と西条に注意していた。
「おいおい、キスされながら注意かよ」
しらけたようにつぶやいて西条が紀子の首筋から唇を離す。そんな場面が過去にたびたびあった。
(もしかしたら、そんな積み重ねで西条の心が私から離れていったのかもしれない)
うぶ毛に覆われた沢村麻季の首筋――そこにはっきりとついているキスマークを見つめながら、紀子はそう思った。たぶんこの人は何も言わず、うっとりとされるがままになっているのね、と。
西条は紀子をふって、この受付嬢の沢村麻季と婚約した。
そのニュースは六月に入ってすぐ、つまり先週の末に耳にした。美人受付嬢として注目を集めていた麻季の婚約は会社中の大話題となったが、その陰で紀子が捨てられたことには、誰も気づいていなかった。
銀行の法人顧客係として明昭建設に出入りしていた西条とは二年近いつきあいだったが、相手の立場が立場だけに誤解を受けないよう、紀子は二人の交際を会社に対して完璧に伏せておく気遣いをしていたのだ。
だから、麻季が紀子と西条の関係を知っている可能性は少ないだろうと思った。西条の性格からして、私の存在はあえて伏せたままで麻季との婚約に突っ走ったんでしょうね、と紀子は踏んでいた。
それにしても西条の心移りはあまりにもすばやすぎて、彼との二年にわたる恋は未清算のまま、といった消化不良の状態にあった。
けれども捨てられた側のプライドもあって、あえて紀子は麻季に悪感情は抱くまいとしていた。負け犬の遠吠えとみられるのは癪《しやく》だったから、自分のほうからは何事もなかったように振る舞おうと決めていた。少なくとも、まだこの時点では……。
「なにか私の顔についてる?」
受付の前を通過しかかった紀子が、急に立ち止まってじっと見つめてきたので、麻季はいぶかしげにたずねてきた。
「顔に? ううん、ついてないわよ。顔にはね」
硬い表情で答えると、紀子は、麻季の首筋のキスマークから目をそらした。そして、つけ加えた。
「もしかしたら、麻季さんよりも私のほうが早く会社を辞めちゃうかもしれないけれど、機会があったらまた会いましょうね」
「え?」
もうひとりの受付嬢の視線を気にしながら、麻季は椅子から腰を浮かせるようにして紀子のほうに身を乗り出した。
「それ、どういうこと」
しかし、そのとき正面の自動ドアが開いて、恰幅《かつぷく》のよい中年紳士が訪問してきたので、たちまち麻季は職業的な受付嬢の顔つきになって恭しい一礼をみせた。
仕方なく、紀子は目でバイバイと挨拶をしたが、麻季はもう紀子のほうをふり返りもしなかった。
一時間後――
栗原紀子は、衝撃的な映像を前にして口も利けずにいた。
銀行の一室で警察官立ち会いのもと見せられた防犯ビデオには、いかにも中年女性然とした趣味の悪い柄のジャケットにサングラスの女が写っていた。だが、その首筋にはキスマーク。さっき見た、沢村麻季の首筋とまったく同じ位置に……。
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7[#「7」はゴシック体]
「犯人が職場の仲間、しかも自分の恋人を奪った女。そんな衝撃的な真相を突きつけられたが、栗原さんは内心のショックを懸命に隠して、銀行関係者や警察関係者に対して、こんな人に心当たりはありません、と言った」
当の西条雄一と栗原紀子が帰ったあと、氷室はアシスタントの川井舞に、事のいきさつを話しはじめた。
スキューバダイビングが趣味で、一年中日焼けした顔にペコンとへこむえくぼが可愛い舞は、聞き上手で励まし上手、氷室のよきパートナーである。
精神分析医だって人並みに落ち込むときもあり、たまには自分自身にカウンセリングが必要なときもあるのだが、そんな場合は舞の笑顔がなによりの勇気づけになる。
それと同時に、氷室自身にはない舞のユニークな着想が、相談者に対するカウンセリングの手助けになったり、あるいはときとして異常心理犯罪の解明の参考になる場合も少なくないのだ。
「なぜ彼女は、その場で防犯カメラに映し出された女性が沢村麻季だと確認できたのに、それを口に出して言わなかったんですか」
舞がきいた。
「こうなったら、自分自身の手で徹底的に麻季に復讐をしようと決心したからだ、というんだよ」
氷室は答えた。
「恋人だった西条氏を奪われたうえに、自分の預金を全額盗まれ、しかもその金で西条氏との新婚生活を送られたのでは、栗原さんにしてみればたまらない気持ちだった。感情的に、警察に訴えればすむというところを通り越してしまったんだな。おまけに、同僚を泥棒呼ばわりして会社にも居づらくなった。すべてが沢村麻季のせいだった。そのときの心理がまともでなかったのは、いまになって彼女自身も認めているけれどね」
舞は黙ってうなずく。
「そこで彼女は思い切って総務部長に辞表を出し、真相の解明に執念を燃やすこととなった」
氷室がつづけた。
「栗原さんが追い求めようとした真相とは二点。沢村麻季は、なぜ暗証番号がわかったのか。そして沢村麻季は、なぜこのような犯罪行為に手を染めるようになったのか。
面白いことに――と言っては、栗原さんに失礼だが――彼女は、こうなったらとことん沢村麻季という人間像を研究しつくそうと思ったらしい。社の内外で評判になっている美貌の受付嬢が、どうして他人のキャッシュカードなどを盗まなければならなかったのか。なにか借金でも抱えているのか。そうだとしたらどんな借金なのか。そういった疑問が、栗原さんの頭の中に渦巻いた」
「私にはよくわかります、栗原さんの気持ち」
「そうか?」
「二年間ずっと自分を愛してきてくれた西条さんが、急に沢村麻季という女性に関心を移したわけでしょう。しかも彼女は栗原さんのすぐそばにいながら、知っているようでいて知らない存在だった。だとしたら、沢村麻季とはいったいどんな人間なのか、徹底的にその正体を探ってみたくなるのは当然だと思います」
「なるほどね。ただし、栗原さんは自分ひとりでは力不足とみて、興信所を使って、沢村麻季が人材派遣会社に採用される前の個人史を探りはじめた。すると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。まず、彼女は二度にわたって美容整形の手術を受けていた。目・鼻・アゴ・胸などを直して、化粧をすればまるでかつての本人とは同一人物とは思えないほど、派手な顔立ちに生まれ変わっていたわけだ。しかし、この程度はまだ序の口だった。
追跡調査を重ねるうちに、人材派遣会社の前にいた広告代理店、そしてその前に在籍していたレコード会社のいずれでも、沢村麻季の身の回りでキャッシュカード盗難事件が起きていた事実が判明した」
「ほんとうですか」
「広告代理店のときに二度、レコード会社のときに一度の計三回、彼女の仕事先の関係者などがキャッシュカードを盗まれ、どういうわけか暗証番号が解読されて、預金をほぼ全額引き出されていた」
「まるで同じですね、栗原さんの場合と」
「そうなんだ。だが、事件はまだあった。沢村麻季がレコード会社の香港支局にいたとき、大学時代の友人だったジャーナリストの萩原晴美という女性が、三年前のクリスマスに香港を訪れたまま行方不明になっている事実も掘り起こされてきた」
「その人はいまも……」
「消息不明だ」
深刻な表情で氷室は言った。
「地元の警察でも捜索を試みたが、あまり力が入らずに、よくある行方不明事件のひとつということで、あいまいなうちに処理されている。ところがだ、この萩原晴美もまたキャッシュカード盗難の被害に遭っていた」
「ええっ」
さすがに舞も驚きの色を隠さない。
「それは彼女が香港で姿を消す八カ月ほど前のことで、その時期は、沢村麻季はまだ日本にいた」
ため息をついてから、氷室は舞の顔を見た。
「いったいどういうことだと思う。合計五回にわたって沢村麻季の周囲で次々に起きるキャッシュカードの盗難と預金の不正引き出し。そして、被害者のひとりは謎の失踪をとげている」
「偶然の一致ではすまされませんね」
「さらに興信所は、沢村麻季がかねてより香港で女性実業家として大成功し、億万長者と結婚する夢を周囲に語っていたこともつかんだ。彼女にとって金が必要だったのは、この夢のためなのだろうか。その実現のためなら顔も変え、平気で他人の口座から金も盗み、そして盗難の罪を咎《とが》められそうになったら、さらに大きな犯罪をも犯してしまうのか……」
「西条さんは、栗原さんが興信所を使って調査したそういう結果を突きつけられたんですね」
「ああ。さすがにここまで客観的に不審点を並べられると、彼もそれを栗原さんの嫉妬から出たデッチアゲだとは思わなかった。それで沢村麻季との『正式な結婚』は見合わせているのが現状というわけだ」
「はっきりしない人なんですね、西条さんて」
舞は、ちょっと怒ったように口元を引き締めた。
「きっと沢村麻季という人の美しさに魅かれて、怪しいものは怪しいという決断ができないんですね」
「だろうな。べつにぼくは美容整形で美しさを得てもかまわないと思うが、美貌だけにこだわって本質を見ないような態度はよくないね」
「だけど、暗証番号が解けたのは不思議ですよねー。それも五回とも成功しているわけでしょう」
「そうなんだよ。問題は、暗証番号の解読方法だ」
「それは、銀行員の西条さんでも見当がつかないと言っているんでしょう」
「うん。栗原さんの使っていた暗証番号は、誕生日や電話番号などとはまったく無関係の数字で、人に知られるはずがないものだった。具体的には0928という数字だったが、その組み合わせを選んだ特別な理由はなかった。電話帳を適当にめくって、出たところのページ数にしたわけだ。そんな方法で決定された暗証番号を、どうやって探り当てたというんだ」
「他の人たちの場合は?」
「興信所の調査員は、かなり突っ込んだ取材力があったようで、萩原晴美をのぞく他の三人の被害者への面接に成功している。ひとりは既婚の女性だったが、事件当時は誕生日をそのまま暗証番号に使っていたという。ただし自分の誕生日ではなく、夫の誕生日だった。当然、麻季が知るはずもない数字だ。残りの二人も、本人だけに通用する思い出のある数字で暗証番号を構成していた」
栗原紀子から聞かされた話を、氷室がなぞった。
「このように任意で選ばれた暗証番号を――たった一度くらいなら奇跡的なまぐれあたりがありうるかもしれないが――連続五回も解読したとなると、これは何か論理的あるいは機械的な方法が確立していなければならない。ところが、本職の西条氏が言うように、そんなかんたんな解読法が存在していたら、それを活用するプロの犯罪者集団がとっくに現れているだろうし、銀行業界の中でも大問題になっているはずだ。が、もちろんそんな情報は少しも聞かない」
氷室がそこで口をつぐみ、舞もすっかり黙ってしまった。
が、しばらく間を置いてから、氷室は言った。
「しかし、せっかく田丸警部の紹介でやってきた二人だ。ただ、わかりませんねえというわけにもいかない」
「でも、どうします」
「舞に頼みがある」
と言って、氷室は一枚の紙を彼女に渡した。
「これは栗原さんからもらった被害者リストだ。ナンバー1の萩原晴美は行方不明だから仕方ないが、ナンバー2から4の三人の女性は、はっきりと自宅も勤め先もわかっている。そして盗難事件についての情報提供は惜しまずにすると言ってくれているそうだ。そこでこの三人に会ってきてほしいんだ」
「私が、ですか」
「類似の事件に関する調査だと言って、うちの名刺を持って三人に会ってほしい。西条氏の『とりあえず』の結婚式も迫っていることだから、あまり時間はかけられない。明日から三日間以内に三人に会ってくれるか」
「わかりました。それで面接の目的は」
「共通点だ」
氷室は言った。
「きょう訪れた栗原紀子と、他の三人の被害者の間になにか共通項がないかを観察してほしい。どんな細かなポイントでもかまわない。それがはたして暗証番号解読の謎に関わってくるかどうかわからないが、ぼくは、沢村麻季がある程度ターゲットを絞ってこの犯罪を行なっている気がしてならないんだ。預金口座に金がありそうな人物というのは当然だが、そのほかにも犯人にとって必要な前提条件があるような気がしてならない。四人の共通項を見つければ、それが暗証番号解読の前提条件である可能性も出てくるわけだろう。そうすると、そこから沢村麻季がどんなトリックを使って数字の組み合わせを探し出したか発見できるかもしれない」
「わかりました、先生」
真剣なときにも出るえくぼをペコンとへこませて、舞はうなずいた。
「三日間で、できるだけのことをしてきます」
*   *   *
三日後――
川井舞は、自信のなさそうな顔で氷室に報告をした。
三人に会って事件の前後のいきさつは詳しく取材してきたが、三人と栗原紀子の間には、これといった共通点が見当たらなかったという。容姿も雰囲気もしゃべり方も物の考え方も四者四様という。
「ただ、ひとつだけ……これは四人全員にではなくて、ナンバー3とナンバー4、それに栗原さんの三人についていえることなんですけれど」
舞は言った。
「同じ香りがするんですよね」
「同じ香り?」
氷室は眉をひそめて聞き返した。
「同じ香りって、なんだ」
「香水の匂いです」
「ひょっとして、ニナリッチの『レールデュタン』じゃないか」
「どうしてごぞんじなんですか、先生」
舞がびっくりした。
「ご本人には直接ききませんでしたけれど、たぶんあの香りはそうだろうな、と私も思っていました。とっても清楚でクセのない香りですから」
「そうか……レールデュタンか……」
氷室はじっと考え込んだ。
そして、一分たっても二分たっても動かない。
「香水ねえ……香水か」
と、ぶつぶつ口の中でつぶやく。しかし、すぐに口を閉じる。目は宙の一点を見つめたままだ。
こういうときは、精神分析医・氷室想介の脳細胞がフル回転しているときなので、むやみに話しかけないほうがいいと舞はちゃんとわかっている。だから彼女は立ち上がり、氷室の好きなハーブティーをいれるために奥の部屋に行った。
彼女が湯気の立つティーカップをトレイにのせて戻ってきたとき、氷室想介は眼を輝かせて舞を待ち受けていた。
「よくやってくれた、舞。四人のうち三人までが同じ香りを漂わせていたというのは、すばらしい発見だ」
「もしかして、共通の男が存在していた、ということですか」
ティーカップをそっとテーブルにのせながら、舞は自分なりに考えた推理を口にした。
「男?」
「ええ、彼女たちに同じ匂いを求める男がいた、とか」
「ちがう、ちがう。いいセンを行っているがちがう」
氷室はうれしそうに首を左右に振った。
「そんな間接的な意味合いではなく、もっと暗証番号問題と直接関わってくる可能性が出てきたぞ」
「香水の香りが、ですか」
「そうだよ。沢村麻季が見事に他人の暗証番号を解いた方法が、ぼくの頭の中に明確に浮かび上がってきた。ニナリッチらしき香水の匂いが、事件の真相を浮き彫りにしてくれたんだ。清楚な花の香りの『レールデュタン』、ここがポイントだ。もしも香りがもっと個性的で、むせかえるように情熱的なものだったら、ぼくは暗証番号の謎に思い至らなかったかもしれない」
「ねえ、教えてください先生。どういうことなんですか、教えて」
舞は、ソファに腰掛けた氷室の隣に座ってせがんだ。
「その前に、栗原さんに電話をかけてきいてほしいことがある。受付嬢として派遣されてきた沢村麻季と親しくなってから、なにか彼女に貸したものはないか、とね」
「貸したものですか」
「たぶんあるはずだ。ぼくは断言してもいい。それこそ暗証番号解読のキーポイントとなったものだよ」
「私にはまだ何のことかわかりませんけれど……とにかく電話をしてきますね」
「あ、ちょっと待って、舞」
立ち上がった舞を氷室が呼び止めた。
「それから西条さんにも電話をするんだ。暗証番号の謎は解けた。ついては、疑惑のフィアンセに対してどんな行動をとるべきか、ぼくからアドバイスがある、とね」
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8[#「8」はゴシック体]
外ではセミが鳴いていた。
クーラーを効かせるために窓はすべて閉め切っているのに、はっきりと聞こえてくる蝉《せみ》時雨《しぐれ》。八月中旬の日曜日、月末に予定された結婚式まであと一週間。
しかし、沢村麻季の表情に明るさはない。不審と不満と、それから不安。一種のおびえ。それが、彼女の表情を暗く彩《いろど》っている。
「なぜ」
新居となる西条雄一の部屋で、麻季は彼と向かい合っていた。
「なぜ、なぜ、なぜ」
麻季は繰り返した。
「どうして『なぜ』だらけの結婚になってしまったの」
「………」
西条は無言。
冷気を室内に循環させる扇風機の動きを、ただじっと見つめている。
「なぜ、みんなを招いての披露宴を結婚式といっしょにやらないで、もっと後にしようというの。なぜ、籍を入れるのは新婚旅行から帰った後にしようというの。そして、なぜ新婚旅行がここにならなくちゃいけないの」
麻季は、二人の間に置かれたパンフレットに目をやった。
その表紙には、ヒョウタン型をした島の航空写真が掲げられている。そして大きな活字で『東洋のハワイ 八丈島』――
「八丈島は……嫌いかい」
ポツンと西条がきく。
「好きとか嫌いという問題じゃなくて、納得できないの」
「どうして納得できない」
「だって」
「新婚旅行が海外でないとまずいという理由は何もないはずだ」
西条の言葉は決して冷たくはないが、さりとて温かみもない。
「でも、私たちはスイス八日間の旅を、もう旅行代理店に申し込んだのよ。その申し込み金をムダにしてまでキャンセルをして、代わりの場所が八丈島だと言われたら、どうしたっておかしいと思うじゃない。しかも、たったの三泊四日で」
「どうしてもそこへ行きたいんだよ。八丈島へ」
「なぜ」
「それは、現地に着いてから話すよ」
答えると、はじめて西条は麻季のほうに向き直った。
彼の瞳には、悲しみの色が浮かんでいた。その瞳の表情に、麻季はひるんだ。
「じつは、今回の休暇は新婚旅行ではなく、夏休みという形で上司に申請してある」
「夏休み?」
「そうだよ。今月二十七日、ぼくときみは教会で二人だけで式を挙げる。それがぼくたちの結婚式だ。そして翌二十八日から夏休みとして八丈島に旅に出る。正式なハネムーンは、後日銀行の同僚や上司を招いた披露宴を行なった後にしよう。そして、そのときはスイス八日間の旅にすればいい。今回はたんなる夏休みの旅行だと思えば、八丈島行きも理解してもらえるだろう?」
「理解できないわ」
麻季は首を横に振った。
「なんだか雄一さん、いろいろな理屈をつけて私から逃げようとしているみたい」
「そんなことはない」
「もしかして……」
麻季は不安そうにきいた。
「もしかして、私の過去を知ったから嫌いになったの?」
「きみの過去? なんだい、過去って」
西条の目が、少し鋭くなった。
「正直に言います」
麻季は深呼吸をしてから言った。
「私、整形をしているの」
しかし、西条の表情にとくに変わりはない。
「アゴの線を直しました。少しだけ細くするように。でもそれは、すこしでもきれいな自分になりたかったから」
告白には麻季なりのギリギリの計算があった。
目と鼻とバストと脂肪吸引の話は一切しない。アゴの手術だけを告白することによって、あとの部分はすべて『ホンモノ』だと思わせるのだ。
と、西条の瞳が動いた。
麻季のアゴに、そしてなぜか目や鼻や胸にも視線がいく。その動きに麻季は動揺した。
少し間を置いてから、雄一は軽い笑みを浮かべて言った。
「教えてくれてありがとう。でも、ぼくはそんなことはまったく気にしないよ。かえって気を遣わせて悪かったね」
そのやさしい言葉に、麻季は、いったんは表情をゆるめた。だが――
「だったらお返しにというわけではないが、ぼくも過去を告白しよう」
麻季の顔がふたたび緊張する。
「きみと出会うまで、ぼくには結婚を考えていた女性がいた。きみの前にね」
「そんな話はいいのよ」
こんどは、麻季がさえぎるように言った。
「私の前にどんな女性がいようと、私が最後の女になれたら、それでいいの」
最後の女になるつもりは少しもないくせに、麻季はそう言った。
「もしも、私のためにその人を捨てたという話だったら、聞きたくないわ。そんなことで雄一さんに気分的な負い目を感じてほしくないから」
「いや、いずれ何かのきっかけでこの話がきみの耳に入らないともかぎらない。そのときにスッキリしない気分を味わわせるよりは、いまのうちにきちんと教えておいたほうがいいという気がしたんだ。なぜなら、相手はきみのよく知っている女性だから」
「私の知ってる人?」
「栗原紀子――明昭建設の総務部に勤めていた。ちょっとした事件がきっかけで二カ月前に辞めるまではね」
*   *   *
(どこから流れがおかしくなってしまったのだろう)
白いウエディングドレスに身を包み、教会で二人だけの式を挙げている最中、麻季はずっとそのことを考えていた。牧師の言葉など、ほとんど耳に入ってこなかった。
日本の社会での女の地位の低さがくやしくて、納得できなくて、麻季は香港という土地に自分の人生の残りをすべて賭けたつもりだった。
しかしその夢が幻と消え、おまけに殺人という重荷まで背負ってしまった。
けれどもあきらめずに、日本に戻ってきた麻季は、顔もスタイルも別人のように変えて再度のチャンスに賭けた。それがまた、おかしな流れになっている。
(すべてはキャッシュカード)
そんな気がした。
いちばん最初に手掛けた萩原晴美のケースがうまく行き過ぎてしまったのかもしれない。晴美の場合は、純粋にカードを盗んだというよりは、置き忘れた彼女の財布の中にそれが見えたのがきっかけだった。
そして現金の引き出しそのものはうまくいった。けれども、もしかすると晴美は、すべてを見透かしていながら知らん顔をしているのではないかという被害妄想じみたおびえから、麻季はどうしても解放されることがなかった。
そのおびえが、晴美からの突然の電話で一気に爆発した。三日後に香港へ行くわ、というぶっきらぼうな口調の電話で。
きっと、晴美は私の犯罪に気がついたのだ、と思った。
(でも、もしも香港でなかったら)
麻季は、いまでもそう思う。
もしも香港でなかったら、自分は委託殺人などという狂った行為に走ったはずはなかった。日本にいたら、とてもではないがあんな恐ろしいことはやれなかったはずだ。
(あのときの私は、きっと私じゃなかったんだわ)
麻季はそんなふうに自分に言い聞かせた。
(あれは、香港という魔宮のなせるわざ……)
日本に戻り、麻季はキャッシュカードの盗難と暗証番号解読という犯罪を繰り返して、変身のための資金稼ぎをしてきた。そしていくつかのステップを踏んで西条雄一という男の愛をかちえたところで、その禁じられた行為に終止符を打つべきだったのだろう。しかし、「あと一回だけ」という気持ちが、どうしても麻季の心の中に残っていた。そしてその「あと一回」が、自分を最悪の流れへと導いていった気がした。
まさか栗原紀子が雄一の前の恋人とは、麻季は想像もしていなかったのだ。
そして、婚約直後から急によそよそしくなった西条の不思議な行動の裏には、絶対に紀子の存在があると確信していた。
そう、すっかり忘れていたが、西条雄一は銀行員だったのだ。銀行員の彼が、かつての恋人の身にふりかかったキャッシュカード盗難事件に関心を持たないはずがないではないか。
(でも、絶対にバレるはずがない)
麻季はそこで自信を失わなかった。
(私の使った暗証番号解読法は、専門の銀行員だからといって見抜けるようなものではないのだから)
しかし、不安は募った。なんとかこの流れを断ち切らなければ、よくないことが起こりそうだった。
そこで沢村麻季は考えあぐねたすえに、日記を書きはじめた。
それは、西条雄一の疑惑の視線をそらすため藁《わら》にもすがる思いでひねり出した、苦肉の策だった。
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9[#「9」はゴシック体]
8月27日[#「8月27日」はゴシック体]
どうしてなのだろう、ウエディングドレスをこんな複雑な気持ちで着ようとは思ってもみなかった。新婚生活最初の日記を、こんな暗い気分で書きはじめなければならないなんて、あまりにも悲しすぎる。
私たちの結婚式は、誰の立ち会いもなく、けさ二人きりで教会でとり行なわれた。いちおう私はウエディングドレスを着たし、彼も白いスーツに身を包んでいた。そして結婚指輪の交換も行なわれた。でも、彼の両親の姿すらそこにはなかった。
早くに両親を亡くしている私は、もうずいぶん長いあいだ家族の温かみというものを忘れていた。だからこそ、雄一さんと新しい家庭を築けることがうれしかったし、彼のお父さまやお母さまとも仲良くさせていただきたかった。それから彼のお友だちや銀行の上司の方にも紹介をしていただきたかった。それなのに雄一さんは、まるで人に知られたくないように、こっそりと式を挙げるやり方を選んだ。
おまけに新婚旅行は、八丈島だった。
これはハネムーンではなくて夏休みの旅行だと思ってほしいと言われたって、そんな割り切り方をするのは無理だ。羽田からジェット機でたった四十五分。二百九十キロ南の海上にあるといっても、ここは東京都なのだ。
スイスへの八日間の旅をとりやめて、三泊四日の八丈島旅行に代える意味がいったいどこにあるのだろう。それに、もしも雄一さんが純粋に『東洋のハワイ』を楽しむつもりでいたとしても、逆に三泊四日はあまりにも長すぎないだろうか。
ハネムーンには短すぎ、遊びのためなら長すぎるこの旅は、雄一さんにとっていったいどんな意味があるというのだろう。八丈島は思い出の場所だと言ったが、そこにはどんな思い出があるのだろう。
もしかしたら雄一さんは……そう、信じられないことだけれども、雄一さんは私のことを疑っているのではないだろうか。紀子のキャッシュカード事件のことで……。
……ああ、なんでこんなことで悩んでしまうのだろう。
いま、午前三時。明日は朝いちばんの飛行機で八丈島に向かうことになっている。早く寝なければ。
雄一さんはもうぐっすりと寝息を立てている。でも、私は眠れない。
寝室の壁にハンガーで吊り下げてある雄一さんの白いスーツ――きょうの結婚式で着ていた白いスーツが目に入る。
なぜか、涙が止まらなくなった。
8月28日[#「8月28日」はゴシック体]
八丈島に着いた。
ギラギラと音を立てていそうな夏。同じ東京でも、都心とはまったく違う太陽の輝き。昼すぎまで、ホテルのプールでずっと泳ぐ。まぶしくてサングラスなしでは目を開けていられない。目が痛いのは、半分は睡眠不足のせい。
ブーゲンビリアの花をあしらったトロピカルドリンクを飲みながら、プール越しに広がる海を見ていると、ふと、ゆうべの心配ごとを忘れてしまいそうになる。庭に面したホテルのスピーカーからは、スチールギターとウクレレのハワイアン。
「ランチをとったら、テニスをしにいこう」
雄一さんが水着になった私の腰に手をまわす。そして、テーブルに飾ってあったブーゲンビリアの花びらを抜き取り、私の髪に差してくれた。
「きれいだね。赤がよく似合うよ」
そう言って、白い歯をみせて笑う。私を抱きしめて首筋に軽いキス。ここにキスされるのは、大好き。
おねがいだから紀子、もう私たちの前に二度と現れないで。
テニスウェアに着替えるために、いったん部屋へ戻った。
ベッドの脇に立てかけてある小さなトランクに目がいく。雄一さんが持ってきたもので、ビデオデッキくらいの大きさだ。
トランクには三桁の数字の組み合わせでロックできるダイヤル錠がついていた。
でも雄一さんは、私にそれを開ける番号を教えてくれない。よほど大切なものでも入っているのだろうか。中身をたずねても「なんでもないよ」というそっけない返事が返ってくるばかり。
「旅先まで仕事を持ってきたの?」
「いや、ちょっと」
「ちょっと、何なの。何が入っているの」
「いいじゃないか、これはおれの荷物なんだから」
急に雄一さんは不機嫌になった。こんな彼の表情は、いままでに見たことがなかった。
でも、すぐに雄一さんは笑顔を取り戻して、私の頭をラケットで軽くたたいた。
「さあ、いくぞ。コートへ」
ねえ、雄一さん、それ、ほんとうの笑いなの?
夜になっても、彼は大事な話をしてくれない。何のために私を八丈島へ連れてきたのか、ということを。
それだけでなく、雄一さんは私を抱こうとしてくれない。
これはハネムーンじゃないから、きょうは特別な夜ではないというわけなの?
午前二時。今夜も眠れない。
まだあと三日もこの島にいなければならないなんて……。
8月29日[#「8月29日」はゴシック体]
彼に起こされて目覚める。時計を見たらもう九時。
明け方になってからウトウトしたので、こんな時間になるまで熟睡していたみたいだ。
きょうはレンタカーを借りて島内一周のドライブ。
遅い朝食をとってから十時にホテルを出発。彼ははじめに八丈名物の牛《うし》角力《ずもう》を見ようかと言っていたが、時間の関係で先に植物公園へ行ったほうがよいという結論になった。
どこへどう行こうと、私は彼まかせ。
八丈植物公園に吹きわたる南の風は、とても気持ちがよかった。夏休みも終わりに近づいたせいか、意外なほど人影はまばら。ソテツやガジュマルの樹をバックに写真を撮りあう。
「雄一さん、笑って。はいチーズ」
そう言わないとファインダーの中の彼が笑ってくれないのはどうして?
園内にキョンという子鹿のような動物がいて、葉っぱを差し出すとつぶらな目をうつむきかげんにして食べに近づいてくる。
「可愛い」と私が言うと、「ほんとだね」と、ようやく雄一さんにも笑顔が浮かぶ。それを見てホッとする。
なんだかこの旅は、彼の顔色ばかり窺っているみたいな気がする。
植物公園をあとにして、樫立《かしだて》の服部《はつとり》屋敷跡を見学。それから、近くの郷土料理店でお昼。二人とも、麦とアシタバと里芋を赤味噌で煮込んだ麦|雑炊《ぞうすい》を注文する。
二時半から中之郷《なかのごう》の自由ケ丘遊園で牛角力を見る。
牛と牛が角をつきあわせて闘う相撲に、子供たちが拍手を送る。ふと横の雄一さんに目をやると、彼はどこか遠くを見ている。
そのあと、名古《なこ》の展望台へ。海と空のパノラマに吸い込まれていきそう。
彼の肩にもたれて潮騒と風の音を聞いている、目を閉じながら……。
「すみません」という声で、雄一さんの肩が動く。
「あのう、写真撮ってもらえないでしょうか」
目を開けると、私たちとおなじ新婚らしいカップルが寄り添って立っている。たがいにそっくりの牛乳瓶の底みたいなメガネをかけたペアルックの二人。
「ああ、いいですよ」
彼は笑顔で応じると、男からカメラを受け取った。
海をバックにお決まりのポーズ。男はかしこまり、女はVサイン。ずうずうしくも女は、もう一枚おねがいしますといって、こんどは男にベッタリと腕をからめた。女の長い髪が風に泳いで、男の顔にまとわりついている。
「よかったら、そちらもお二人で撮りましょうか」
『牛乳瓶』の男が、雄一さんに礼を述べながら申し出た。
「いや、ぼくたちはいいです」
私の意見もきかず、彼は手を振って断る。
二人の写真を撮られたくないの?
島の東側にむけて周回道路をドライブ。八丈富士を左手に見ながら島の北部をぐるっと回ったころには、日差しもだいぶ陰ってきて、雲も紫色に染まりはじめていた。
「あの島を見てごらん」
急に雄一さんが大きな声をだした。
「あれが八丈小島だ」
私たちは南原千畳敷《なんばらせんじようじき》というところにきていた。八丈富士の噴火でできた幅百メートル、長さ五百メートルの熔岩原だとガイドブックに書いてあった。そこから海を隔ててすぐの距離に、もっこりとした形の島が浮かんでいる。
「明日、あの島へ渡ろう」
「えっ、でもあれは無人島じゃないの」
「そうだよ。でも、釣り人は渡っている」
「わるいけど、私、釣りには興味ないの」
「釣りをしようとは言ってないよ」
「じゃ、なんで?」
「さあ……」
「いやよ。それよりホテルのプールでのんびりしたいわ」
「だめだ」
彼はブレーキを踏んで車をとめると、正面を見つめたままつぶやいた。
「天気予報だと、明日は雨。プールにいてもしょうがない」
「お天気がくずれるのだったら、よけい行きたくない。私、船に弱いのよ」
「もう小舟を予約してしまった。キャンセルはきかない」
「どうして!」
とうとう私は声を荒らげた。
「どうして勝手にそんなことするの」
「向こうへ渡ればわかるかもしれないな」
運転席の雄一さんは、遠くの島を見ながらそう言った。
いよいよ旅の目的が明らかになるのだろうか。そして明日、島で何かが起きるのだろうか。まさか、まさかとは思うけど、雄一さんは私を……。
麻季、あなた何考えてんの! 自分で自分を叱る。
でも、二人の写真を撮られたがらなかった彼が気になる。
ああ、また今夜も眠れそうにない。そして雄一さんはゆうべと同じように、ダブルベッドに入った私に背を向け、さっさと眠りにつく。
そう、そういえば気になることがもう一つだけあった。
この日記、なんだか雄一さんに読まれている感じがするのだ。
夫婦でもおたがい犯してはならないプライバシーはあるはず。彼もそのことはわかっている。私はそう信じているから、あえてこの日記を雄一さんの目の届かないところに隠したりはしないし、鍵付きの日記帳を使っているわけでもない。
だけど、もしも雄一さんがここまで書いていた中身を盗み読みしていたら……どうしよう。ほんとうに、どう考えてもきのう置いた場所とは違うところに日記帳が移動しているのだ。お部屋のお掃除にきた人が片づけたふうでもない。
もしも彼が読んでたら、私、明日、あの小島で……
8月30日[#「8月30日」はゴシック体]
島に上がったとたん、レインコートのフードを打つ雨音が激しくなった。
耳もとに豆粒をひっきりなしに投げつけられているみたい。フードが目の前でブルブルとはためいて、そのたびにしぶきが顔にかかる。
「約束どおり三時間たったら迎えにいくけど、あんまり天気がひどくなりそうだったら早めにくるからな」
釣り舟の船頭さんが、中腰で舟の向きをかえながら言った。
「四、五キロばかりしか離れていなくても、外海は外海だからよ」
しゃべりながら船頭さんの頭が上がったり下がったりする。
島に着くまでに、私はこの激しい揺れのおかげですっかり酔ってしまっていた。
「きょうはあんたらのほかに釣り人もいないで、じゅうぶん気をつけるんだよ」
私の胸のあたりに目をやりながら意味ありげに笑うと、船頭さんは舟のエンジンを吹かし、白い煙を吐き出しながら、釣り舟を本島へむけて全速力で走らせていった。
二人は、しばらく黙ってそこにたたずんでいた。
雨と風と波の砕ける音が混ざりあって、巨大な滝壺のそばに立っているようだ。こわい、すごくこわい。
やがて雄一さんは、口も利かずに私に背中を向けると、雨の中を歩きだした。私は、そのあとについて行くしかない。
左手の山肌の傾斜は急だったが、正面は比較的なだらかで小径が一本通っていた。雄一さんはその道からもはずれ、緑生い茂る樹林の中へ私を導いていった。
傾斜に沿って足元を雨水が川のように流れ、スニーカーは中までぐしょぐしょになっていた。亜熱帯樹の葉に雨があたる音も加わって、大きな声を出さなければ先を行く雄一さんに私の声は聞こえそうにない。
「ねえ、教えて。何のためにこんなことをしてるの!」
私の問いかけに彼は歩みを止めた。だが、返事はない。
「なにか気に入らないことがあるなら言ってよ」
突風が吹いて、レインコートのフードが後ろに飛ばされた。横殴りの雨に襲われて、瞬間目をつぶる。
つぎに目を開けたとき、雄一さんが私を真正面から睨《にら》んでいた!
あんなに長い沈黙を、私はこれまでに経験したことがなかった。
ふたたび釣り舟が迎えに来てくれるまでの三時間、岩に腰を下ろしはしたが、二人はまったく言葉も交わさずに雨の中で向かい合っていた。
正直言って、私は雄一さんに殺されるかもしれないと本気でおびえていた。
ホテルに戻ってからも、きょうの空と同じように、私は日暮れ前から真っ暗な気分だ った。
やっと私にも事情が呑み込めてきた。やっぱり紀子だ。私に雄一さんを奪われてしまった腹いせに、自分のキャッシュカードを盗んだのは沢村麻季だという作り話を思いつき、それをまことしやかに雄一さんに話して聞かせたのだ。それで雄一さんは、ある時期から急に私を疑いはじめた。
でも、どうやって紀子の話が嘘だと証明すればいいの? ねえ、雄一さん。
「明日、昼前の飛行機で東京に帰るけれど」
夜、パジャマに着替えながら、雄一さんが乱暴な口調で言った。
文字どおり身も心も冷え切った雰囲気のまま夜を迎え、そのころには雄一さんの態度がすっかり変わっていた。
「ぼくは、朝のうち二時間ほど消えるからね」
「消えるって?」
「八時半から二時間ほどでかける。飛行機の時間にはまにあうように帰ってくる」
「どこへ行くの」
「ぼくが外出している間にたのみがある」
私の質問を無視して、雄一さんは一枚のカードを私に手渡した。
キャッシュカードだ。私はギクッとした。
だが、よく見ると、まぎれもなくそれは西条雄一名義のカードだった。彼が勤めている銀行のものだ。
「この島でカード使えると思う?」
銀行員なのだから、私にきくまでもなくわかっているはずなのに、雄一さんは、わざわざそんな質問をしてきた。
「きのう、島の中に富士銀行があるのを見たわ」
私は答えた。
「そこの機械で、ほかの都市銀行のキャッシュカードも使えるんじゃないの」
「よかった。それじゃあ、百万ほど下ろしてきてほしい」
「百万円! そんなにたくさんのお金を、どうしてここで下ろさなくちゃならないの?」
「とにかく言うとおりにしてほしい」
雄一さんは、有無をいわさぬ調子で命令した。
「暗証番号は0125、学生時代の学籍番号なんだけどね」
「0125ね」
私は、その数字を紙切れにメモした。
「それから、よけいなことかもしれないが」
雄一さんは、例の小さなトランクをたたいて示した。
「ぼくが出かけている間、絶対にこのトランクにさわらないで。絶対だよ、いいね……。それじゃ、おやすみ」
詳しい説明ぬきで一方的にたのみごとを命じると、雄一さんはさっさとひとりでベッドに入ってしまった。
二人だけの夜は、今夜もない。私の頭を悩ませることが、また増えただけ。
明日の朝、彼はどこへ何をしに行くのだろう。何のために百万円もの大金を私に下ろさせるのか。
そしてあのトランクの中には、いったい何が入っているというのか。
[#改ページ]
10[#「10」はゴシック体]
8月31日[#「8月31日」はゴシック体]
びっくりしただろう、麻季。
日記帳を開けてみたら、きょうの日付のところに、すでにこうやってぼくが書き込んでいたのだからね。
とにかく、なにか不自然だったんだよ。この島にきて以来、やけにぼくの目にふれやすいところに麻季の日記が置かれているのだから。どうぞ読んでください、と言わんばかりの場所にね。
そんなふうに置かれたら、こっちだって知らん顔はできない。きみのいないときを見計らって、そのページを開けてみた。
笑ったね……というよりも、なんだか哀れになった。
素直にこの日記を読むかぎり、きみは、栗原紀子によって身に覚えのないキャッシュカード事件の罪をなすりつけられ、ぼくの誤解と怒りにおびえる無垢《むく》な花嫁といったところだ。
キャッシュカードの盗難にあった紀子が、ぼくと婚約した麻季を逆恨《さかうら》みして、根拠もなく悪い噂をばらまき、それにきみが困惑している、といった様子がよく描かれている。
つまり裏を返すと、『日記の読者』からみれば、こういう文章を書いた当人がまさかキャッシュカード事件の真犯人とは想像だにしない、という仕掛けだ。
よく描かれている、とぼくは言ったが、実際この日記は自分の記録として書かれたものではなく、最初から誰かに読まれることを前提とした『小説』なんだ。
そうでなければ、どうして書き手本人にとってわかりきったことを、会話まで入れて細かく描写しているんだ。こんなに一日分が長い日記なんて、ふつう書かないだろう。それに考えてもみてごらん、日本語で日記を書く場合、『私』という一人称の主語はめったに使わないはずだよ。他人に読ませようとする気持ちが、無意識のうちに出てしまったね。
麻季は日記の中で「今夜も眠れない」とたびたび記しているが、『眠れない』のではなく、ほんとうは『寝る間も惜しんで』ぼくに読ませるための作り話を書いていたんじゃないのか。
感づいたぼくは、さっさと先に寝てしまう勝手な夫を演じたが、それは麻季にとって好都合だったろう。二時、三時までかかって話を書き上げ、日記帳をぼくの目のふれやすいところに置いておく。おかげで睡眠不足のきみはいつも朝寝坊。その間に、早起きしたぼくができたての『作品』を読む、という段取りだ。
話をはっきりさせよう。
じつは、きみが感づいていたとおり、最近になってぼくと紀子は、またひんぱんに会うようになっている。とはいっても、以前の恋が復活したとか、そういう問題ではない。
栗原紀子は、自分のキャッシュカードを盗んだ犯人をはっきり特定できた、とぼくに告げにきた。わざわざそれをぼくに言いにきたのには意味がある。
犯人がきみだったからだ。
銀行のCDコーナーに設けられていた防犯カメラが、はっきりと麻季の姿をとらえていた。きみは巧みに中年女を装っていた。だが皮肉なミスがあった。キスマークだ。
前の晩、ぼくがつけたキスマークが、会社の受付に座るきみの首筋に残っているのに紀子は気づいていた。そして、防犯ビデオに写された女もまた、同じ位置に同じ形のマークをつけていた。それで紀子は衝撃的な真犯人を知ることとなったんだ。
驚いたかい。紀子はわかっていたんだよ、自分の口座から金を盗んだ犯人を。それなのに直接きみを咎《とが》めたり警察に訴えたりしなかったのは、それだけショックと怒りが激しかったということだ。そして紀子は、沢村麻季という女の正体をあばくため、執念の追跡をはじめた。
そのことをいまここで詳しく書くのは省いておく。そんな時間はないからね。
ただ、いったいどうやってきみが、盗んだカードの番号を探し当てたのか――その方法をつかんだから、それだけは述べておこう。
ヒントはこの島だ。八丈島にあった。
麻季、きみはぼくがスイスに決めていたハネムーンを取りやめ、急遽《きゆうきよ》行き先を八丈島に変更したことで、大変な不安にかられたはずだ。『トリック』がバレたのではないか、とあせったのではないかな。
そのとおり、トリックはバレたんだ。ただし、謎を解いたのはぼくでも紀子でもない。氷室想介先生という、その道ではかなり有名な精神分析医の先生だ。
紀子が興信所の助けを借りて、過去にきみの周りで四人の女性が同様の被害に遭っていた事実を調べあげたのを知ると、氷室先生はアシスタントの女性に、そのうち居所のわかっている三人に会いに行かせた。すると、紀子も含めた四人中三人に、奇妙な共通点があることに気がつかれた。
匂いだ。香りだ。
紀子と二人の女性は、なぜかそっくりな香りがする香水をつけていた。そこに氷室先生は注目した。
まったく鋭い先生だよ。氷室先生は初対面で紀子のつけている香水が――というよりも正確にはトワレらしいが――ニナリッチの『レールデュタン』という種類だとわかったそうだ。
なぜ具体的な種類まで嗅ぎわけられたのかといえば、それは非常にクセのないさわやかな香りがするので、好き嫌いの個人差があまりなく、しかもニナリッチという女性に人気のブランドでもあるため、海外旅行のおみやげによく使われるということなんだ。氷室先生もね。
言われてみれば、香水のおみやげというのは難しい。恋人どうしの間なら相手の好みもわかるし、贈られたほうも好きな人からのプレゼントとなれば、やはり身につけてみようと思うだろう。だから、ときには大胆なまでに個性的な香りのものが選ばれたりもする。
しかし、もっと儀礼的なおみやげの場合――たとえば、女性から友人の女性へ贈る場合などでは、無難なセンにしておくのが結果的にいちばん喜ばれる。そうした銘柄のひとつがニナリッチのこの製品だという。けれども、ぼくが紀子とつきあっていたときにはそれをプレゼントしたおぼえもないし、彼女がその香りをさせていた記憶もない。ぼくとつきあっていたときは、紀子は香水そのものをそんなに好まなかったんだ。
いっしょに氷室先生のところへ行くときに、ぼくは紀子の身体からさわやかな香りが漂ってくるのに気がついてはいた。でも、ぼくと別れたあとに、新しい恋人の影響で香水をつけるようになったのかな、とその程度の関心しかなかったんだ。
ところが、じつはこの香りこそ、事件解明に役立つ重要な示唆を与えてくれていたんだ。
二度目にぼくらを呼んだとき、氷室先生は紀子にたずねた。あなたはその香水をどこで買ったんですか、と。
紀子は、瞬間なんのことかわからない顔をしていたが、突然ハッと顔色を変えた。紀子は自分でもすっかり忘れていた。その香水は麻季、きみからのプレゼントだったんだよね。
キャッシュカードが盗まれる一カ月ほど前――つまり、麻季が明昭建設ビルの正面受付に座るようになってひと月ほどたったころだから、すでに紀子はぼくと別れたあとだが――通勤帰りの電車で紀子といっしょになったきみは、海外旅行用のスーツケースをぜひ貸してほしいと頼んだそうだね。週末を利用してグアムまで旅をする予定があるのに、自分のスーツケースが壊れてしまって困っている。だけど新しいのを買い替えるヒマもない。できれば、あなたの持っているものを貸してほしい、と。
そして、紀子のスーツケースはどういうタイプなのか、ずいぶんこまかいところまでたずねたそうじゃないか。大切なものを入れていくから、きちんと鍵が掛かるものがいい。でも、キーを差し込む方式のものはキーそのものを失くすおそれがあるから、できれば数字を組み合わせるダイヤルロック式のものがいい、というふうに具体的な希望を口にした。
紀子が持っていたサムソナイトのスーツケースは、ちょうどそのタイプのロック方式だった。そこできみは、喜んでそれを借り受けた。そして週が明けて、きみは紀子にスーツケースを返すとともに、貸してくれたお礼にと、ニナリッチのトワレ『レールデュタン』を添えて渡した。
おそらく、日本に居ながらにして事前注文できる世界のおみやげ宅配サービスでも、それは入手できたと思うが、紀子は単純にグアムの空港の免税店で買ってきてくれたものだと思い込み、快く受け取った。
しかし、よくよく考えたらおかしなことがあった。たしかに麻季は、その週の金曜には休暇をとっていたし、月曜の早朝に日本に帰ってくる三泊四日の強行軍だったと語っていたが、それにしてはぜんぜん日に焼けていないんだ。
変だなと思ってそこを突っ込むと、きみは困ったような照れ笑いを浮かべて、じつは八丈島へ『ナイショの旅行』に行っていたの、と答えたそうだね。その当惑ぶりから、たぶん恋人との秘密の旅行なのだろうと思って、紀子はそれ以上追及はしなかった。
しかし、いまになってみれば、きみは八丈島にすら行っていなかったと想像できる。グアムに行ったという嘘がバレかかったとき、本能的に東京とグアムを結ぶルート上にある日本国内の『南の島』八丈がパッと思い浮かんだ。それでとっさに八丈島へ行ったことに切り替えただけじゃないのか。
要はきみの目的は、どこかの島へ行くことではなく、紀子の持つダイヤルロック式スーツケースを借り出すことそのものにあったわけなのだから。
氷室先生の指摘で、ぼくらはびっくりした。
麻季、きみは他人のキャッシュカードを盗んでからその暗証番号の解読作業にとりかかったのではなかった。先に暗証番号の解読ありき、だったんだ。暗証番号の見当をつけてから、チャンスをみてその人物のキャッシュカードを抜き取る行動に出る――この逆転の発想がなかなか思い浮かばなかったから、銀行マンのぼくもずっとお手上げ状態だった。
でも、氷室先生に言われてみればコロンブスの卵。きみの暗証番号解読法は、人間の心理を巧みに衝いたものだった。
最近はカード時代、リモコン時代で、なにかにつけて暗証番号というものが必要になっている。キャッシュカードだけでなく、クレジットカード、パソコン、留守番電話のリモコン操作などなどだ。しかし、一度決めた数字の組み合わせを忘れないために、ぼくもそうだが、さまざまな用途の暗証番号を共通にしておく人が大半なのではないだろうか。そこにきみは目をつけた。
紀子のスーツケースには三桁の数字を組み合わせたロックがついていた。それを開けるには928に合わせればよいと教えられたきみは、たぶん9月28日が紀子にとって何か記念すべき日なので、それを使ったと考えた。そして、彼女のキャッシュカードの暗証番号もきっと0928だろうと推測したのだ。
紀子はまったく別のやり方で、アットランダムに0928という数字を決めたのに、最初の位が0だったのが不運だった。
キャッシュカードの暗証番号を他人に教える人間はいないけれど、スーツケースのダイヤル式ロックの番号くらい平気で友だちに教えるだろう。まさか、そこから銀行の暗証番号を割り出されるなんて思ってもみないからね。その心理の盲点をきみはうまく利用したわけだ。おそらく他の四件についても、同様の方法で暗証番号をつかんだにちがいない。
三ケタでもいいから、その当人がよく使う数字の組み合わせを知っておけば、四ケタのキャッシュカード用暗証番号の類推もずいぶん楽になる。まったく考えたものだよ。麻季、きみはほんとうに頭のいい女だ。
紀子は、まさかスーツケースを貸したことが銀行口座のお金を盗まれるきっかけになったとも知らないで、喜んできみからのお礼の香水を受け取った。
そしてちょっと試してみたら、その香りが気に入ってしまったんだろう。いままで香水をつける習慣のなかった紀子は、外出のたびにそれをつけるようになってしまった。もはや贈り主が誰であるのか、意識することも忘れてね。
だから氷室先生から指摘されたとたん、紀子は自分の身体の香りに猛烈な嫌悪感を感じ、立ち上がって洗面所を借りにいった。
ましてや、身近にいた麻季が加害者とは知らない他の女性たちは、三人のうち二人までが、スーツケースのお礼に渡された同じ香水をいまだに愛用していた。
おみやげに最適の香水の香り――海外旅行――スーツケース――ダイヤル錠――そして暗証番号というふうに氷室先生の連想は働いていって、ついにはきみのキャッシュカード犯罪のトリックにまで到達したのだ。
さてと、手も疲れてきたし、いくらきみが夜ふかししていたとしても、そろそろ目を覚まさないともかぎらない。最終結論にいこう。
氷室先生のアドバイスで、ぼくはきみを八丈島旅行に誘い、旅のあいだじゅう、きみからの告白を待った。でも、どうやらそれは期待できないようだね。
ぼくはこれを書き終わったら、この日記帳を自分のトランクに入れてロックする。ごらんのとおりで、トランクには三ケタのダイヤル式ロックがついている。
きみはトランクの中身に興味を示しているが、これを開ける番号を知らない。
しかし、昨夜ぼくはきみに自分のキャッシュカードを預けて、その暗証番号を教えた。0125とね。そこからトランクを開けるための125という番号を類推するのは、おそらくきみにとってはたやすいことに違いない。
もしもいま、きみがこの文章を読んでいるとしたら……麻季、やっぱりきみが一連の事件の犯人だ。
どうだろう、今朝きみに下ろしてくれるよう頼んだ百万円は、手切れ金としては安すぎるだろうか。
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11[#「11」はゴシック体]
こんどこそ終わった、と麻季は思った。
自分の日記帳の最後の部分に記された西条雄一の文章を読み終えたとき、沢村麻季は誘惑の魔宮がガラガラと崩れ落ちてゆく音を聞いた。
自分の犯した罪は、氷室想介という見知らぬ精神分析医の洞察力によって徹底的にあばかれた。
それだけではない。教会で結婚式まで挙げた雄一が、いま麻季の人間性をとことん試していた。
なぜならば、彼女の手元には彼のキャッシュカードが残されている。はっきりと暗証番号のわかっているキャッシュカードが。
雄一は「百万円は手切れ金として安すぎるだろうか」と書き残しているが、その気になれば、彼の口座の残高すべてを引き下ろしてしまうこともできる。そしてその大金をつかんで、なんとかこの島を脱出するのも可能かもしれない。飛行機ばかりでなく、海路で島を出る方法もある。
きみの好きなようにやってみたらどうだ、という雄一の声が耳元で聞こえてきそうだった。
麻季はホテルの部屋の時計を見た。
雄一は二時間で帰ってくると言っていた。ズバッと核心をついてくる彼の文章を何度も読み返しているうちに、あっというまに一時間がすぎていた。
残りの一時間で決断をしなければならない。自分の残りの人生がどうなるのかという、決定的な決断を……。
雄一の預金を奪って逃げるのか。それとも彼の帰りを待ってワッと彼の胸にとりすがって泣くのか。妻として許しを乞い、どうぞ私をかばってください、あなたの奴隷になってなんでもいうことをきくから、籍を入れて正式な妻として守ってちょうだい、と涙の訴えをするのか。
一瞬、麻季はその泣き落としの方法を選ぶしかないと思った。だが、すぐに思い直した。彼女のプライドが、到底そんな真似を許さなかった。
麻季の犯罪の有無をチェックするために、入籍もせず、披露宴もせず、かりそめの結婚式だけを行なって妻の座を保留状態にしてくれた雄一などに対して、これ以上さらに頭を下げて何を頼むというのか。
(私は何のためにいままで他人のお金を奪ってきたのか。何のために殺人まで犯したのか。何のために自分の身体にメスを入れてまで美しくなろうと努力してきたのか)
(すべては香港の夢を実現するため?)
(いや、ちがう。男に負けたくなかったからだ。日本に住んでいるかぎり、少なくともビジネスの世界では女は男と対等の立場に立てない。その現実がくやしくて腹立たしいからこそ、私は香港で成功して男の上に立とうと思ったのではないか)
(その私が、なぜ男の胸に泣き崩れながら、すべての夢をあきらめなければならないのだ)
麻季は毅然《きぜん》とした表情になった。
「私は、男に屈するために生きてきたのではない!」
声に出してそう言った。
そして彼女は、一枚のキャッシュカードを手に取った。それは、さっき雄一から預かったものではない。沢村麻季名義の自分のカードだ。
この口座には、二カ月前に栗原紀子から奪った三百二十七万がそっくり入っていた。麻季はその全額を、雄一に返却しようと決心した。
雄一の口座から盗むのではない。盗んだ金を雄一の口座に返すのだ。
(私はプライドの高い女よ。ここまで試されたら、こっちだって意地になるわ)
麻季は憤った。
(返したお金で、紀子と結婚式でも挙げればいいのよ。勝手にやり直しなさいよ。そして二人で平凡な幸せを追いかければいいのよ。どうせあなたたちは、永遠に『魔宮』とは縁のない存在なんだから)
麻季は決心した。
その後、どういう展開になるかは、雄一の肚《はら》ひとつだった。しかし、どんな運命が待ち受けていようとも、麻季は哀願だけはやめようと思った。夢は破れても、最後まで女として毅然とした態度をとるのだ。
たとえ一九九七年七月一日を――香港が中国に返還され、夢に見た幸運の魔宮が地図上からも完全消滅する日を、獄中で迎えることになろうとも。
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一枚の写真B 香港の思い出
金網の向こうの中国[#「金網の向こうの中国」はゴシック体]
左の写真はいまから十四年前、一九八一年の香港・中国国境である。
観光客が眺めている向こう側は中華人民共和国。そしてこちら側が香港の新界になる。中央の、なかなか味わいのある服装のお婆さんは土産物売りで、手にしているのは国境風景の絵葉書など。写真の右端をよく見ていただくと、金網が張られた高いフェンスが見えると思うが、これが中国と香港を隔てる国境となっている。写真には写っていないが、もちろん国境警備兵もいる。中国側からの密出国者は後を絶たず、見つかって射殺されるケースもあるとのことだった。
この写真の三年後に、イギリスのサッチャー首相と中国のケ小平の英中会談によって香港が全面的に中国に返還されることが決定し、また中国側の国境に面した深《シエン》 |※[#「土+川」、unicode5733]《ジエン》経済特区の発展などもあって、もはや国境線にかつてのような緊張感は見られない。また、観光客の金網の向こう側を見る目にも『怖いもの見たさ』的な要素はまったくなくなったといっていいだろう。
また、十四年前の九龍城砦はまさに魔窟のイメージがあったし、近寄るだけでも危険だと言われたものだったが、それもいまは取り壊され、周囲にもその面影すらない。
すぐそばには啓《カイ》 徳《タツク》国際空港もあるが、返還後はランタオ島のほうへ空の表玄関が移動するため、本作冒頭で描写したような、昼はゴミ箱(失礼)へ、夜は宝石箱の中へ突っ込んでいくような香港着陸のスリリングな体験は、もはや一九九七年の六月いっぱいで打ち止めということになりそうだ。
返還後の香港がどうなるかは、そのときを迎えないとわからないが、五十年間は現状の経済体制を維持するという中国側の約束はあるものの、少なくともメディアを含めて思想的には中国大陸そのものに吸収されてしまうわけだから、いまの香港の面白さはたぶんなくなってしまうだろう。
だから、残り時間あとわずかになった英国領香港の雰囲気を楽しむために、ここ一、二年は、海外へ行くときには、できるかぎり香港経由にしようかと思っている。
さて、本作『「香港の魔宮」殺人事件』は、単行本としては未発表となっている四十枚の短編『花嫁は眠れない』(『小説non』一九八九年十月号)のメイントリックのみを活かし、氷室想介を探偵役にもってきて中編化したものである。
原案となった短編は、本作では後半に登場する八丈島での日記部分だけで構成されたものだったが、精神《サイコ》分析医《セラピスト》・氷室想介の起用と、香港を第一の舞台にすることで、かなり大胆な衣替えとなった。
雑誌に発表した短編は、そのまま自作短編集などに収録するのが通常の考えかもしれないが、いろいろな作家が作品を寄せる雑誌の中で個性を発揮しようとする場合と、作家個人の名前で出す単行本に載せる場合とでは、ときとして思い切ったリニューアルが必要、というのが私の考え方である。
ところで氷室想介のシリーズは、数ある私のキャラクターの中でも、もっともトリッキーな謎が展開する。と同時に、異常心理がクローズアップされることも多い。
朝比奈耕作や志垣警部、あるいは烏丸ひろみや軽井沢純子といったシリーズものとははっきりと雰囲気が異なるので、まだの方はぜひ長編のほうもお試しを。
なお、他の巻のあとがきでもふれているが、ワンナイトミステリーのシリーズは、文字どおり一晩《ワンナイト》で、しかも寝る前の一、二時間で読み終えることができる中編推理小説を意図して書き上げたものである。ベッドでの読書という環境を意識して、一ページあたりの行数や、一行の字数を通常の文庫よりも少なめにして、そのぶん活字はワンサイズ大きくした。
ちなみに、第一期発売の他の二作品においては、『「カリブの海賊」〜』では推理作家・朝比奈耕作が、そして『「巴里の恋人」〜』では、これまで長編で登場することのなかった特別犯罪捜査班≪チーム|4《クアトロ》≫の鷲尾康太郎警部が主役を張っている。
またこのシリーズは、私の長編で活躍する探偵たちの顔見世というか、各キャラクター物のパイロット版的な役割ももつ。中編で読んでみて気に入ったキャラクターがあれば、長編のほうも紐解いていただければ幸いである。
角川文庫『「香港の魔宮」殺人事件』平成7年8月25日初版発行
平成12年10月15日5版発行