ワンナイトミステリー
「カリブの海賊」殺人事件
吉村達也
[#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)]
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眠れない夜に――
ワンナイト ミステリー
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★
「やあ、おかえり、朝比奈君」
警視庁捜査一課の志垣警部は、刑事たちの詰めている大部屋にふらりと顔を見せた朝比奈耕作の姿を見かけると、大きなしぐさで手を左右に振り、自分のデスクの位置を相手に示した。
それに気づくと、朝比奈は真っ黒に日焼けした顔をほころばせて、志垣のいる窓際のほうへ足早に近づいた。
季節は夏の終わり――
ただでさえ外回りで日焼けしがちな刑事たちだが、太陽がぎらつくこのひと夏の間に、どの顔もいっそう黒さを増していた。
が、そうした刑事たちの誰と比較しても、朝比奈の黒さに勝てる者はいなかった。
彼の肌の焼け方たるやトースト色とか小麦色といった生やさしいものではなく、コーヒー色――それもブラックコーヒーの色に近い黒さだった。
「いやはや、すさまじい色に焼けたもんだね」
まぢかにきた朝比奈の顔をしげしげと眺めると、志垣は感心のため息をついた。
「真っ黒になるという言い回しはあるが、ほんとうにそこまで黒い色になった人間を見るのもめずらしいぞ」
「ぼくも自分で驚いていますよ。向こうで買ったサンオイルの効果でこうなってしまったみたいですけれどね」
「さすがバハマ帰りだわな。……ま、ともかくそこへお掛け」
「はい」
志垣にすすめられた椅子に腰を下ろすと、朝比奈はまず黒人の女の子の絵柄の入ったビニール袋を二つ、志垣警部のデスクの上に置いた。
「はい警部、これ、バハマのおみやげです。こちらが志垣警部用で、こちらが和久井さん用」
「ほんとうかい。やあ、すまないねえ。そんなに気をつかってくれなくてもいいのに、和久井には……。あはは」
迷コンビを組む部下の和久井がその場にいないのをいいことに、志垣は勝手なことを言った。
「警部用にはナッソー・ロイヤルという向こうのラム酒と、それから奥さんにピンク・パールという香水、あとお子さんに名物の麦ワラ細工の人形を買ってきました」
「そりゃどうもありがとう。やさしいねえ、朝比奈君は。家族のぶんまで心配してくれるなんて。でも、ウチのカアちゃんは、あらたまって外国の香水などをつけるガラじゃないんだがなあ。トイレの芳香剤でじゅうぶんだよ」
「またまたそういうひどいことを」
「それにしても、繰り返しになるが、マックロケのケってやつだねえ」
志垣は、あらためて朝比奈の顔を見つめた。
「朝比奈耕作、日焼けしなくてもいい男だが、焼けるともっと二枚目になる」
「そんな……急にホメないでくださいよ」
「おみやげのお礼ってやつよ、あはは」
豪快に笑ってから、志垣はちょっと表情を引き締めて、朝比奈のほうに身を乗り出した。
「で、いま国際刑事課のほうに立ち寄ってきたんだろう」
「ええ、バハマ警察の管轄ではありましたけれど、被害者も日本人なら、加害者も日本人という殺人事件でしたからね」
朝比奈も、そこでまじめな顔になる。
「詳細に事情説明をしてきました」
「日本のマスコミでも、その事件はかなり大きく取り上げられたんだぞ。『カリブの海賊』殺人事件っていうふうにな」
「でしょうね。カルロス山東《さんとう》は、ボクシングマニアだけでなく一般にも広く注目されはじめたところだったですからね」
「それで朝比奈君、二度手間になってすまんが、いったいどんな事件だったのか、もういちど当事者のきみの口から聞かせてくれないかね。私も詳細はほとんど知らないんだ。だから、それがなによりのみやげ話になるんだが」
「わかりました」
うなずくと、朝比奈はカフェオレ色に染めた髪に片手を突っ込んで、話を整理するために少しだけ黙った。そして、ゆっくりと語りはじめる。
「被害者はライトヘビー級のプロボクサーで、海外で武者修行中のカルロス山東。ニックネームが『カリブの海賊』。メキシコのリングでデビュー以来、向かうところ敵なしの連戦連勝で、あと二、三人ランキング上位の選手を倒せば、日本人初の世界ライトヘビー級タイトルマッチに登場するのも夢ではなかった。そのカルロス山東が、バハマのホテルで何者かに金づちで殴り殺される事件が起きました。それも真正面からです。
容疑者は三人。いずれも日本人関係者で、いずれもパンチ力ではカルロス山東の敵ではなかった。それどころか容疑者のうち二人は女性なんです。残る男性のほうも、体格は大きいが超肥満体質で、これまたカルロスと真っ向から力で張り合えるような人間ではない。
にもかかわらず、やはり犯人はその三人の中にいました。金づちという凶器を使ったにせよ、ライトヘビー級の世界タイトルマッチにすら出られそうなプロボクサーを真正面から殴り殺し、しかも自分は抵抗ひとつ受けなかった。
かといって、そのとき被害者は眠っていたわけでもなければ、酔っていたのでもありませんでした。しっかりと起きていたんです。そこを、犯人は真正面から襲った。そして殺したんです」
「なるほど、それだけ聞いたら謎だわな」
「その死体には、さらに不思議な謎がありました」
朝比奈はつづけた。
「カルロス山東というボクサーに『カリブの海賊』というニックネームがつけられたのは、まさに海賊船の水夫のようなコスチュームでリングに上がるからでした。つまり、赤いバンダナを頭に巻き、髑髏のマークが入った眼帯《アイパツチ》を片目に掛けて、赤と黒の横縞Tシャツに黒のスパッツという格好で登場するんです。もちろん、試合中にはバンダナやアイパッチをしているはずもありませんけれどね。そういったコスチュームで自分を観客に印象づけようとしていたわけです」
「そりゃプロとしては当然のショウアップかもしれんな」
「ええ。ところがですね、その彼はいつも決まって髑髏マーク入りの眼帯を右目にしているんですが、リングコスチューム姿で殺されたときは、なぜか眼帯を反対側の目にしていたんです、左目にね」
「ほう」
興味を持ったように、志垣警部は唇をまるめた。
「そうしたこまかいところまでは、マスコミはもちろん、おれのところにも情報として入ってきていないな」
「なぜカリブの海賊は、いつもと反対の目に眼帯をして殺されていたのか――これが、ぼくをずっと悩ませた謎でした」
「しかし、けっきょくその謎の答えをきみが見抜いたから、事件は解決をみたわけだろう」
「ええ」
「いったい、どういう着想から正解にたどり着いたんだね」
「警部、コロンブスっていう人がいますよね」
朝比奈の話が急に飛んだ。
「ああ、そりゃもちろん知っているさ。アメリカ新大陸を発見したあのコロンブスだろう。たしか『イヨー国』で一四九二年の出来事だったか」
「そうです」
「ゴロ合わせの年号記憶術も、意外と長持ちするもんだな。この齢《とし》になってもパッと出てくるなんて。おれの記憶能力も捨てたもんじゃない」
志垣警部は自分で感心した。
「スペインを出航して新大陸めざしてやってきたそのコロンブスが、長い航海の果てに最初に上陸したのがサン=サルバドール島といいまして、それが今回殺人事件の起こったバハマの領土内にあるんです」
「それで?」
「べつに、それに引っかけるわけじゃないんですけれど、犯人の仕掛けたトリックは、あまりにも単純といえば単純。そしてあまりにも盲点といえば盲点でした。つまり……」
志垣警部の目を見つめて、朝比奈は言った。
「まさに『コロンブスの卵』ってやつだったんですよ」
「コロンブスの卵?」
「そうなんです。自分でも、なぜこんなかんたんな着想に最初から気がつかなかったのか、答えを知ってあっけにとられるほどでした。被害者のプロボクサーがトレードマークの眼帯を反対側の目にして殺された――その理由は……」
「待った、待った」
志垣はそこで片手を挙げた。
「朝比奈君、きみ、まだ時間はあるかね」
「ええ、きょうはいくらでも」
「それなら喫茶室で冷たい飲み物をごちそうしよう。そこで話を最初からゆっくりと聞かせてくれよ。な、そしてその話を聞きながら、おれはおれで推理してみるから」
「わかりました」
朝比奈は日焼けした顔に白い歯をみせてにっこり笑った。
「それでは警部にも『コロンブスの卵』感覚を味わっていただきましょうか」
「よーし、おもしろい」
パンと手を打つと、志垣は庁内の喫茶室へ向かうために自分の席から立ち上がった。
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1
「あ、朝比奈さん、朝比奈さん、事件です!」
港書房編集者の高木洋介が血相を変えながらそう言って駆け込んできたのは、八月はじめのことだった。
そのとき推理作家の朝比奈耕作は、例によって世田谷区成城にある日本家屋の和室書斎に引きこもり、筆ペンを片手に、もう一方の手で髪の毛をかきむしりながら、文机に置いた原稿用紙に向かって呻吟していた。
こう書くと何やら老作家を彷彿とさせるが、朝比奈はまだ二十代後半。髪の毛は白髪どころか、Jリーグのサッカー選手も顔負けの、金のメッシュ入りカフェオレ色に染めている。
ファッションは若者で生活様式はご隠居、と朝比奈自身が冗談半分に言うように、彼が優雅な独身生活を送っている古風で広々とした日本邸宅は、かつてこの一帯の大地主だった祖父が建てたものである。そして朝比奈は、ハデな外見からは想像もつかないようなミステリアスかつドラマチックな人生経験の持ち主だった。(『花咲村の惨劇』ほか≪惨劇の村五部作≫参照)
しかし、本人はそうした人生の重みをまったく面《おもて》に表さずに毎日を過ごしている。基本的には楽観主義者で、なんでも物事をいいほうに解釈してプラス思考に生きる男なのだ。
とはいっても、作家である以上はご多分に漏れず、締め切りが迫ってくるとブルーな表情を隠せない。
いまもちょうどその状態なのだが、そこへ編集者の高木が飛び込んできた。しかも彼は、玄関から上がってきたのではなく、手入れの行き届いた日本庭園のある中庭を通って、靴を脱ぐのもそこそこに縁側から転がり込んできた。
けれども、朝比奈がウンウン唸りながら締め切りに追われているのは港書房の仕事ではなかった。角川文庫の書き下ろしである。だから朝比奈は、現れる編集者が違うのではないかといったけげんな顔で高木を見つめた。
「どうしたの高木さん」
「だから事件なんです、朝比奈さん」
「そんなふうに言われたって、ぼくは金田一耕助じゃないんだから、いきなり『ど、ど、どうしました、高木さん』なんていうふうにあわてたりはしないよ」
「いや、あわててください」
汗をぬぐいながら高木は言った。
「カリブです、カリブ」
「カリブ?」
「はい、カリブの、海賊」
こめかみのあたりから汗をタラタラ流し、肩を激しく上下させながら、高木は途切れとぎれに言った。
あわただしい彼の雰囲気とは対照的に、軒先に吊るした風鈴がチリリンと鳴って、のんびりした雰囲気を醸し出す。
朝比奈の自宅は、夏涼しくて冬暖かいという日本家屋の特徴を活かした構造になっている。だから朝比奈はクーラーというものをまったく使用しなかったし、扇風機すらめったにつけない。自然のそよ風が入るにまかせて、ときおりウチワを使う程度だった。そして、そこかしこの窓には日よけの簾《すだれ》がかかっている。
そんな環境の家だったから、冷房がギンギンに効いた出版社のオフィスを出て、これまた冷房がギンギンに効いた電車に乗ってやってきた高木としては、朝比奈邸到着と同時にどっと汗が噴き出してしまうのを抑えられない。とくにきょうは外も蒸し暑く、高木本人が興奮しているせいもあって、サウナから出たばかりかと思うほどの汗の量である。
「ねえ朝比奈さん、どうでもいいけど、そろそろクーラー買いましょうよ。いまどきクーラーのない家なんて、前近代的ですよ」
ハンカチをぐしょぐしょに濡らしながら、高木が言った。
「これじゃ、ぼくだけでなく他社の編集者も、この季節に原稿を取りにくるのがイヤになるんじゃないですか」
「そこがねらいなの」
と朝比奈は涼しい顔。
「そんなねらいはヤメてください。クーラー一台つけるお金くらい、朝比奈さん稼いでいるでしょう」
「ううん、ぜんぜん。新しいウチワを買うのがせいいっぱい」
「またまたー」
「とにかくさ、高木さん、よ〜く冷えた麦茶を出してあげるから。ね、それと風鈴の音色で涼んでよ」
「風鈴の音なんかじゃ涼しくなりませんよー」
「なるってば、日本人でしょ。日本の夏は風鈴、蚊取り線香、蚊帳《かや》というふうに風物詩が決まっているわけだよ」
そう言うと、朝比奈は台所へ立って高木のためによく冷えた麦茶を入れてきた。
特大のグラスには、冷蔵庫で作る角形の氷ではなく、大きな塊をアイスピックで砕いたブッカキ氷がドカッと入っている。麦茶の上に氷が浮かんでいるのではなく、氷のすきまに麦茶が注がれているという感じで、これには高木も感動。
「おー、強烈な氷の大きさ。ほんとに身体が冷えそうですねー」
「ね、見ているだけで汗がひいてきたでしょ」
「半分くらいは」
と言って、高木はグラスを傾けて麦茶をあおった。
カコン、と氷が歯に当たる音。
「で、高木さん。落ち着いたところで、事件とは何かを話してよ」
「ハガ……ハガ……」
「なに?」
「氷が……大きくて、かめまへん」
「もう少し溶けるまで待ったら」
「はひ」
口いっぱいにほおばった氷をパホッとグラスの中に戻してから、高木はため息をついた。
「あー、苦しかったー。舌が凍るかと思っちゃいましたよ」
「まったくせわしない人だなあ。いちおうぼくは執筆中だったんだよ」
「でも、どうせ髪の毛をかきむしっているだけだったんでしょ」
「まあ、そうだけど」
「それでいて、編集者がくると急に筆ペンを動かしたりするんですよね」
「そこまで意地悪な見方をするのは高木さんだけでね。角川書店の人はやさしいよー。ぼくが頭かきむしってうなっていると、先生、身体がいちばんですから絶対無理はなさらないでくださいって」
「………」
高木の視線がナナメになる。
「まあどうせ私は嫌われ者の編集者でしょうけどね。ともかく朝比奈耕作さん、このクソ暑い中をすっ飛んできたんだから本題に入らせてもらいます」
そこで高木は、朝比奈のほうへにじりよった。
「じつはですね、カリブの海賊を見に行きませんか、という話なんです」
「カリブの海賊?」
「ええ、ついさっき社内の編集会議で決まったことなんですが」
「ちょっと待ってよ、高木さん」
朝比奈がさえぎった。
「外は暑いわ、子供は多いわという時期に、いい齢をした男が二人でなにもディズニーランドなんかに行かなくたっていいと思うけど」
「ちがうんですってば、朝比奈さん」
高木は顔の前で手を左右に振った。
「ぼくが言ってるのは、ディズニーランドのアトラクションの『カリブの海賊』じゃありません。カルロス山東《さんとう》っていうボクサー、知りませんか」
「いや、ぜんぜん」
「日本人としては珍しくライトヘビー級で活躍しているボクサーなんですよ。日本ではミドル級までしかランキングがないので、もっぱら海外で武者修行をしているんですが、このところ連戦連勝で、ひょっとしたら世界タイトルに挑戦するんじゃないかとさえ噂されている話題の選手なんです」
「ふうん、ぼくはぜんぜんボクシングには興味ないから」
ほんとうに興味なさそうな顔をして朝比奈は言った。
「で、そのカルロスって人はハーフなの」
「いえ、れっきとした日本人です。本名は山東|力雄《りきお》。年齢、二十四歳」
「リキオかあ。いかにも強そうだね。それにライトヘビー級というからには、すごい巨体なんだ」
「いえいえ、そんなことはありません」
「だってライトヘビー級でしょ」
「そうですよ」
「ヘビー級よりは軽いんだろうけれど、それに近いものがあるわけでしょ。だったら巨体だと思うけど」
「いや、ヘビー級というのは百九十ポンド、およそ八十六キロより重いクラスを指すのでいくらでも巨漢が出てきますけれど、その下のクラスのクルーザー級以下には、ちゃんと上限というものが設けられています。だから、やたらと巨体になるわけにはいかないんですよ。ちなみに朝比奈さんの体重は」
「ぼくは六十五キロだけど」
「ああ、それだとジュニア・ミドル級ですね。ライトヘビー級というのは、それより三階級上になります。ミドル、スーパー・ミドル、そしてライトヘビー」
「ぼくの体重の三階級上が、もうヘビーと名のつくクラスなの?」
朝比奈は、ちょっとびっくりしたように言った。
「ぼくの身体だったらフェザー級くらいかと思っていた」
「とんでもない。ボクシングの選手っていうのは、ほんとうに軽いんですよ。日本人にいちばんなじみのあるフライ級っていうクラスがあるでしょう」
「あるある。よく日本人の世界チャンピオンを出すクラスね」
「あれがたしか、上限が五十一キロ前後ですよ。下限が四十九キロくらい。実際にはポンドの単位で規定されていますから、キロ換算だと端数が出ますけれど」
「へーえ。そこらの女の子のほうがよっぽど体重があるんじゃない?」
「おっしゃるとおりです」
「するとモスキート級ってのはもっと軽いんだ」
「ああ、あれはアマチュアのクラスの呼び名で、プロの場合はストロー級といいます。これなんか、四十六キロとか四十七キロという体重どうしで闘うんです」
「ふうん。こんなこと言っちゃ怒られるかもしれないけど、なんだか戦闘用に体重を強制的に制限された特別な生き物って感じがしてくるなあ」
「ある意味でそれは当たりですよ」
高木はうなずいた。
「ヘビー級をのぞけば、ボクサーは試合の前にまず減量との闘いがあるわけですからね。なにしろ軽量級の場合は、クラスごとの体重幅がわずか三ポンドないし四ポンドしかないんです」
「えーと、一ポンドは?」
「四百五十三・六グラムです」
高木が即答したので、朝比奈は目を丸くした。
「百科事典みたいな人だなあ。ふつう小数点以下まで答えるかあ?」
「いちおうボクシング関係は付け焼き刃で勉強しましたから」
「すると三ポンドないし四ポンドというと、キロに換算して一・三六キロから一・八一キロくらいの幅の中に、自分の体重を収めなければいけないんだね」
「ちょっとー」
こんどは高木があきれ顔になった。
「朝比奈さんこそ、そこで小数点二位まで暗算をしないでくださいよ」
「そういうところにはムキになるの、ぼくは」
「やれやれ」
高木はため息をついて、ふたたびグラスの氷をかみ砕くことにチャレンジした。
そして、こんどはうまくカリコリと音を立ててから、話をつづけた。
「とにかく各クラスの体重の下限は決められていませんから、痩せすぎるぶんにはいいんですけれど、あまり減量しすぎると持久力でも筋力でも不利になりますからね。だいたい日常の体重の三ないし五パーセントくらいまでが、健全な減量のリミットと言われているんです」
「なるほど」
「ちなみにカルロス山東が属するライトヘビー級の場合だと、体重制限の幅は七ポンドに広がります。つまり、ざっと三キロの幅ですね。でも、たいていは上限ギリギリでの調整になるみたいですね。もちろん、少しでも規定値をオーバーしたら、あえなく失格です」
「むかし、内輪でいちばん近い金額を当てた人が勝ちというクイズ番組があったけど、そういう世界だね」
「ええ」
「それで、そのカルロス山東というボクサーとカリブの海賊が、どういうふうに関係するの」
「カルロス山東のニックネームが『カリブの海賊』なんですよ」
高木は朝比奈に、カルロス山東がリングに上がるときのいでたちを説明した。
「で、本日の高木さんの訪問目的というのは、そのカリブの海賊なるボクサーの試合を観《み》に行こうと」
「はい、そうです。世界タイトル戦ではないんですが、その前段階となる重要な試合なんですよ」
「気乗りしないなあ」
カフェオレ色に染めた髪に片手を突っ込んで、朝比奈はつぶやいた。
「なんでまた港書房の企画会議で、ぼくにそんなものを見せようということになったわけ?」
「じつはこんどウチから『サウスウインズ』という、メンズ月刊誌を出すことになったんです」
「サウスウインズ……南の風ね」
「はい。スポーツあり、音楽あり、アウトドアあり、ヘアヌードありのヴィジュアル月刊誌で、来年のはじめに創刊となる予定ですが、そこで我が社の小説部門のホープである朝比奈耕作さんを盛り上げようと」
「それ、皮肉?」
「またまた、そうやってヒネて受け取る。ほんとにホープだと思ってますよ。……でね、次代を担う推理作家・朝比奈耕作を新しい読者にもアピールしようという観点から、カリブの海賊ことカルロス山東との対談を企画したわけです、このぼくが。そしたらそれが会議で通っちゃいまして」
「推理作家とボクサーが、いったいどんな共通テーマで話すんだよ」
「それはこうです。推理界とボクシング界の明日のヒーローが夢を語り合う『これからはおれたちの時代だぜ!』」
「だぜ、なんて言葉は、ぼく使わないけど」
「そこはそれ、言葉のアヤというもので」
「なんだ……それが高木さん言うところの『事件』なの?」
朝比奈はがっかりした表情をみせたが、そんな彼に、高木はじれたように身体を揺すった。
「わかってないなあ、朝比奈さん。最初にぼくが言ったでしょう、カルロス山東は海外で武者修行中だと」
「ああ」
「ですから、こんどの試合も海外で行われるんですよ」
「え?」
突然、朝比奈の目が輝いた。
「すると海外で試合を観て、対談もそこでやるわけ」
「ほらほら、急に先生、前のめりになって。そうですよ、海外に行くんです。だから事件と言ったんじゃないですか。いままで国内の取材旅行ばっかりだったのが、ついに初の海外遠征ですよ。なにしろ雑誌の創刊企画だから、編集費も特別潤沢なんです。もちろん、朝比奈さんの担当で企画立案者であるぼくもごいっしょします」
「場所は?」
「カリブです!」
どんなもんだいと胸を張って高木は言った。
「太陽とレゲエの島、カリブへ行くんですよ!」
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2
「うわーっ、きれいだなあ。うわーっ、なんですか、この海の色。イラストに描いたみたいに鮮やかで。わーっ、ここでほんとに泳げるんですか。嘘《うそ》みたいだなあ」
ただでさえ海外旅行がはじめてだという高木は、ぐんぐん高度を下げていく飛行機の窓際で、子供のようにはしゃいでいた。バハマの首都が置かれたニュープロビデンス島のナッソー国際空港へ向けて、ニューヨーク発のアメリカン航空機は最終着陸態勢に入っている。
「高木さん、ほとんどイモリだね。その窓にへばりついてる格好は」
「だって朝比奈さん、感動じゃないですか。いやあ、海ってこんなにきれいなものだったんですか。知らなかったですよ、ぼくは」
「そんなに気に入ったなら、こんどは男どうしじゃなくて新婚旅行できたらどう?」
「いいですねえ、彼女とカリブのハネムーンか。いいなあ、きっとこの島なら星空もきれいだろうし。……でも、彼女いないから」
後半でいきなり現実的になる高木。
「あ、そういえば朝比奈さんこそ、草薙葉子さんとの仲はどうなったんですか。≪惨劇の村・五部作≫のドキュメントを読んだ読者から、その後朝比奈さんは葉子さんと結婚なさったんですか、っていう問い合わせが編集部にもいっぱいきてますよ」
「あ、そ」
「ねえ、どうなったんですか、ほんとに。ぼくも知りたいですよ」
いままで窓に向けていた身体を朝比奈のほうに転じて、高木はしつこくきいた。
「もしかして、二人の恋は〜終わったのね〜、なんて事態に」
「途中から歌わないでよ」
「あ、その不機嫌さは、真相を突き止められたことによるものだったりして」
「そうではありません」
朝比奈はきっぱりと言った。
「いまでも二人の関係は、清く正しく健全につづいております」
「いまになって、依然として清く正しい交際しかしていないのは、むしろ不健全というべき状態なんじゃありませんか」
「うるさいなあ、もー」
と朝比奈がふくれたとたん、ガタンと飛行機の車輪を出す音がした。
そして翼を左に下げて旋回がはじまる。コバルトブルー、マリンブルー、インディゴブルーと、明るい青から深みのある色へと見事なグラデーションが眺め下ろせる。
朝比奈耕作の結婚問題を追及しはじめた高木の関心は、そこでまた窓の外の風景に移った。
高木ばかりでなく、窓際に座った乗客のほとんどが、この息を呑むように美しいカリブの海に目を奪われている。
その中のひとりに、黄色いつば広の帽子をかぶり、黄色のサンドレスを着た美女がいた。通路をはさんで朝比奈の斜め前にあたる席の窓際にひとりで座っているのだが、その隣はずっと空席で、ほかに連れらしき人物はいない。
朝比奈は、さきほどトイレに立ったさいにこの女性の存在に気づいてから、ずっとそちらが気にかかっていた。
年齢は朝比奈と同じ二十代後半か、あるいはもう少し年上かもしれない。浅黒い肌の色合いや黒い髪、それに顔立ちからすると中国系かひょっとすると日系のハーフではないかと思われた。白人と黒人が搭乗客の大半を占める中にあって、みるからにアジア系という顔をした人間は、朝比奈たちと彼女くらいのものだった。
朝比奈が関心を抱いたのは、ともすれば帽子のつばに隠れがちな彼女の横顔が、ハッとするほど美しかったせいもあったが、それよりも、その頬に流れていた一筋の涙に驚かされたからだった。
女は泣いていた。
ニューヨークからバハマへと南国の休日を楽しみにきた観光客がほとんどという機内にあって、彼女のところだけがぽっかりと異質な雰囲気に包まれていた。
ファッションそのものはレモンイエローを基調にした明るいものだったが、雰囲気の暗さまでは洋服ではカバーしきれていなかった。
(なぜ、彼女は泣いているのだろう)
その謎が、推理作家としての朝比奈耕作の好奇心をかき立てていた。
やがて飛行機は、ナッソー国際空港の滑走路へ滑るように降りていった。その瞬間、女は膝の上に置いたハンカチの下に隠した数珠をギュッと片手で握りしめた。
が、通路をはさんだ斜め後ろに位置する朝比奈のところからは、その様子は窺うことはできなかった。
* * *
朝比奈と高木の宿泊先は、パラダイス・アイランドの中にあるカジノを持つ大型ホテルだった。そのカジノに特設リングを設けて、カルロス山東の試合が行われる予定になっている。
対戦相手は地元バハマ出身で、いまはアメリカ合衆国の国籍を取得しているエルセーラ・ジュニア。エルセーラとは本名ではなく彼の通称で、生まれ故郷の島の名前からとっている。
エルセーラ島は、首都ナッソーのあるニュープロビデンス島のすぐ東に位置し、その島の属島のひとつにハーバー・アイランドがある。まだ日本ではさほど知られていないこの小島は、砂の色がピンクをしていることで有名で、七百を超すバハマの島々の中でも屈指の美しさを誇っていた。
赤いサンゴや桃色をしたコンク貝の貝殻が砕けて白砂とまざったために、なんともいえない上品で淡いピンク色を呈しているのだが、世界でもほかに例を見つけるのが難しいほどファンタジックなムードにあふれている砂浜だ。
そのピンクビーチにちなんで、エルセーラ・ジュニアのトランクスはいつも淡いピンク。それが漆黒の肌と見事にマッチして美しい肉体美を醸し出し、そのセックスアピールに熱狂する女性ファンも多かった。
一方のカルロス山東は、ほかの場所では観客受けしていたカリブの海賊のコスチュームも、海賊の本場であるバハマでは、あまり芳しい評判を呼んでいなかった。くわえて、チョビ髭を生やした顔が、純粋な日本人というよりも、ハリウッド映画の悪役に出てくる香港マフィアみたいな雰囲気で、女性ファンのみならず男性ファンからもそっぽを向かれていた。
しかし、試合の勝負に関する地元の前評判は、圧倒的にカルロス山東のりだった。めきめきと頭角を現してきた山東の実力のほどはバハマのボクシングファンにも聞こえており、それゆえに、なおさらカリブの海賊ことカルロス山東は、美しきエルセーラ・ジュニアの敵役といった役回りを押しつけられることになった。
その話題の一戦≪エルセーラ・ジュニアVSカルロス山東≫を告げるポスターが、いまニュープロビデンス島のあちこちの街角に貼り出されている。
「ねえ、朝比奈さん」
メーターのないタクシーに乗ってホテルへ向かいながら、高木が言った。
「いま気がついたんですけど、バハマって日本と同じで、車は右ハンドルで左側通行なんですね」
「イギリスの植民地だった影響じゃないかな」
「ああ、なるほど。そういえばイギリスは右ハンドルの左側通行でしたね」
納得して、高木は車窓からの眺めに視線を戻す。
タクシーは島の北海岸に沿って道路を東に走り、やがてベイストリートに沿って首都ナッソーの中心地に入ってきた。
首都といっても高層ビルなどは見当たらず、大半が簡素なコンクリート二階建ての建物である。外壁の色は、強烈な太陽を跳ね返す白か、バハマのシンボル・コンク貝の貝殻と同じピンク色が多い。
建物の白にピンク、空の青、人々の黒い肌、そして赤・青・緑・黄色といったカラフルな原色の服装が目立つ。
「ねえ、朝比奈さん」
外を見ながら、また高木が口を開いた。
「やっぱり本場カリブですよね。そこらじゅうからレゲエのリズムが聞こえてきませんか」
と言って、高木は「スッチャカ・スッチャッ、スッチャカ・スッチャッ」と二拍子のリズムを口ずさむ。
「いや高木さん、レゲエの本場はここバハマじゃなくて、ジャマイカだったと思うけどなあ」
「ああ、そういえばそうでした」
朝比奈の指摘に高木はうなずいた。
「どうもカリブというと、どの島もいっしょくたになってしまいますけれど、レゲエの教祖ボブ・マーリーの出身地は、バハマじゃなくてジャマイカでしたもんね。でも、このバハマでも、縄のれんヘアの若者がゴロゴロ歩いていますよ」
「縄のれんヘア?」
高木の表現に、朝比奈はプッと吹き出した。
「なるほど、うまい表現だなあ」
「でしょ?」
「作家になれるよ」
「またまたー」
「だけど高木さん、よく見たら、あの髪形をしているのは外国人観光客が多いんじゃないかな。ほら、女の子たちはほとんど白人だよ」
「ああ、たしかにそうですね。地元の人間はチリチリヘアのまんまですもんね」
「街角のあちこちに、ずいぶん多くの観光客目当ての編み屋さんが店を広げているらしいからね。ドレッドヘアの編み屋さんが」
「ドレッドヘア?」
「そう、高木さんいうところの縄のれんヘアのことだよ」
「どういう意味なんです、ドレッドって」
「日本語に直訳すれば『恐怖ヘア』とでもいうのかな。ドレッドロック――つまり『恐怖編み』ともいう。ただし、バハマのほうではバハミアンヘアとかコーンプレイトとかいう呼び名のほうが一般的らしいけど」
「へえー。しかしすごいですね、恐怖編みっていうネーミングは。それにしても、ちょっと間違えると、新宿駅の地下道で段ボールにくるまって寝ているおっさんと変わらなくなっちゃいますよね。髪の毛を編んでいるんだか、汚れでくっついてるんだか区別がつかなかったりして」
「実際、あの髪形だとゴシゴシ洗うというわけにもいかないだろうしね」
「シャワーの湯を含ませながら手のひらで押し洗い、って感じでやるんですかね。どっちにしても、あの髪形にしてしまったら小まめにシャンプーしようという気にならなくなりそうですね」
最近、日本の若者でもレゲエファンを中心に珍しくなくなってきたドレッドヘアだが、もともとこの髪形は、カリブ海のジャマイカというよりも、アフリカ大陸のエチオピアにその思想的なルーツを持つ。
一八九六年(明治二十九年)、伝説の人物『シバの女王』の血統を引くとされる皇帝メネリク二世率いる総勢十一万人のエチオピア軍が、一万七千のイタリア軍を撃破して、アフリカの黒人軍がヨーロッパの白人軍に勝利するという歴史上まれにみる戦果を飾り、エチオピア帝国の独立を勝ち取った。これをアドワの戦いという。
そのメネリク二世の従兄弟の息子として、このアドワの戦いの四年前に生まれたのがラス・タファリ・マコンネン。そして彼は、一九三〇年(昭和五年)三十八歳のときにエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ一世として即位し、エチオピア近代化推進路線をすすめた。
しかし、即位から五年後の一九三五年、あのアドワの戦いの屈辱を晴らさんと、イタリア首相ムッソリーニがおよそ四十年ぶりのエチオピア侵攻を計画。こんどはたった二日でアドワを攻略し、七カ月後には首都のアジスアベバを制圧した。
これによりエチオピアはイタリアに併合され、ハイレ・セラシエ一世はイギリスに亡命を余儀なくされるが、第二次世界大戦開始後まもなくイギリスの支援によってエチオピアの首都アジスアベバが解放され、ふたたびハイレ・セラシエは皇帝に復位した。
ちなみに、一九六〇年(昭和三十五年)のローマオリンピック、一九六四年の東京オリンピックとマラソンで連続金メダルの偉業を果たした『裸足の英雄』アベベ選手は、このハイレ・セラシエ皇帝の親衛隊に勤務していた。
ハイレ・セラシエは長寿だったが、八十二歳になる一九七四年(昭和四十九年)、ついに革命軍事政権の誕生によって皇帝の座を追われ、その翌年に、幽閉されたまま病没する。
それによってシバの女王以来三千年近くつづいたエチオピア王家はその幕を閉じることになるのだが、ハイレ・セラシエが初めて皇帝に即位した一九三〇年代に、ジャマイカ出身のマーカス・ガーベイという社会運動家が、こんな主張を唱えた。
すなわち――奴隷として新大陸に連れてこられた自分たちのルーツであるエチオピアで黒人の王として即位しているハイレ・セラシエこそ神であり、彼を崇めることによってジャマイカをはじめ、カリブ海域や新大陸に移住した黒人たちも精神的に救われる、と。
彼は神格化したハイレ・セラシエ皇帝のことを『ジャー』と呼び、物質万能主義の欧米文明に対抗して、大自然の恵みを受けたアフリカ文明への回帰を主張した。
この思想は、ハイレ・セラシエの即位前の名前であるラス・タファリ・マコンネンからとって『ラスタ思想』と呼ばれる。
そして、ラスタ思想の信者であるラスタファリアンは、『血の赤・太陽の黄色・大自然の緑』を表すエチオピア国旗の三色をラスタカラーと呼び、自然と神秘の世界を重視した。
もちろんレゲエの教祖的存在であるボブ・マーリーもラスタファリアンで、彼の歌にはジャーへの帰依とアフリカ回帰が強く歌い込まれている。
このラスタファリアンの食事は菜食中心の自然食で、それと同時にガンジャ――すなわちマリワナを愛用する。さらに、自らの髪の毛は自然に任せて伸びるままにして編み込み、決して短く切ることはしない。
これがレゲエ・ファッションのシンボルにもなっているドレッドヘアの思想背景である。
教祖ボブ・マーリーを真似て、洗髪しにくいドレッドロックを決め込んでいる日本の『あんちゃん』たちも、まさか自分のヘアスタイルのルーツに、あの裸足のマラソンランナー、アベベ・ビキラまでが絡んでくるとは想像もしていないだろう。
朝比奈たちを乗せたタクシーは、バハマの麦ワラ民芸品を売るストローマーケットや、世界十数カ国から集まったファッション・宝石・香水などの免税店が並ぶインターナショナル・バザールのかたわらを通り過ぎてゆく。
ところどころの街角に立つバハマ警察の警官は、金の紋章に白と赤の帯で彩られた制帽と、純白の半袖ユニフォーム。そして、その襟章にも鮮やかな赤。それが黒い肌とマッチして、おもわずカメラを向けてしまいたくなるような美しい色彩のコントラストを見せていた。
やがて道を左に折れて、タクシーは大きな橋を渡りはじめた。
これがパラダイス・アイランドへ渡るパラダイス・ブリッジ――楽園大橋である。
両側には、まばゆいばかりに陽光を反射して輝く青い海。海というのはこの色をしていなければ、という青さだ。
パラダイス・アイランドへ渡ってしばらく進むと、行く手にヤシの木に囲まれた純白の二階建てホテルが姿を現した。
「へー、ここがぼくたちの泊まるホテルですか」
高木は、やや拍子抜けした口ぶりでつぶやいた。
「カジノがあって、そこの特設リングでボクシングをやるというから、ラスベガスのホテルみたいなところを想像していたんですけれど、日本だと沖縄の離島にちょこっと建っていそうなリゾートクラブって感じですね」
「でも、おしゃれな雰囲気でいいじゃない」
朝比奈は肯定的な感想を洩らした。
「ぼくはこういう解放的なホテルは好きだな、いかにも南国らしくてさ。きっと部屋から直接芝生の庭へ出られるようになっているんだと思うよ」
「そして、芝生を横切ればすぐにビーチってわけですね」
高木が目を向ける方向には、ヤシの木越しに白い砂浜が見え隠れしている。
「どうせだったら、ビーチバレーじゃなくてビーチボクシングっていうのをやれば、日本からの取材陣も大勢きたかもしれないなあ」
そんなアイデアを高木がつぶやいたところで、タクシーはホテルの玄関前のロータリーに到着した。
高木が慣れないドル札での支払いに手間取っている間に、朝比奈は先に車から降りてホテルの玄関周辺の景色をぼんやりと眺めていたが、新たな車の音で、彼は後ろをふり返った。
もう一台のタクシーが客を乗せてやってきて、朝比奈たちのタクシーの後ろに着いたところだった。
その後部座席に乗っていた客は、手慣れた様子で運転手にドル札を渡し、自分でドアを開けると、まずきれいな脚からスッと外に出した。
その脚線美に、いきなり朝比奈が目を奪われた。つづいて黄色いサンドレスの裾が目に入る。
そして女が車から完全に降り立ち、つば広の黄色い帽子まで見えたとき、朝比奈は口の中で「あ」と小さくつぶやいた。
飛行機の中で涙を流していた女だった。
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カルロス山東とエルセーラ・ジュニアの試合が行われるのは、朝比奈たちがバハマに到着してから四日後の日曜日だった。
そして朝比奈との対談は、試合前々日の金曜夜にホテルの一室で行われることに決まった。
海外武者修行中のカルロス山東には、ゾロゾロと日本人スタッフが同行しているようなことがなかった。いっしょにいるのは、山東の妻の里佳子と、彼をマネージメントする如月《きさらぎ》ジム会長の如月|勇人《はやと》の二人だけ。
そして、朝比奈はもちろん高木も驚いたのが、例の黄色い帽子の美女の存在だった。彼女は、港書房の新雑誌『サウスウインズ』の編集部が撮影を委託したカメラマンだったのだ。
彼女は、ふだんはニューヨークを拠点に活動している女流カメラマンだったが、個人的にカルロス山東というボクサーに興味をもち、その海外武者修行の様子をずっと追いかけつづけているという。つまりカルロス山東とは知己の間柄で、今回の港書房の仕事で「はじめまして」とあらためて挨拶するような関係ではなかった。
しかし、高木のほうは彼女とまったく面識がなかった。
その美人カメラマンの名前は、早川瑞樹《はやかわみずき》。
もちろん高木とて、これこれの名前のカメラマンと現地で落ち合ってくれという指示は雑誌編集部のほうから受けていた。しかし、そのさいに詳細な説明がなかったために、相手は男だとばかり思い込んでいたし、朝比奈にもそう話してあったのだ。
無理もない、早川瑞樹という字面を見たら、たいていの人間が男性を想像してしまうだろう。
「いやあ、びっくりしました」
到着した日の夜、はじめて瑞樹と顔を合わせた高木は、彼女を朝比奈との夕食に誘った席で正直に告白した。
「ボクシングのジャンルに詳しいカメラマンということでしたから、頭を五分刈りにしてチョビ髭を生やし、顔はやたらと日焼けして、カメラマンベストを着込んだ『いかにも』という風体の男を想像していたんですけどねえ。いやー、こんなにお美しい方が、むさくるしいボクシングの世界を撮影されるなんて」
「むさくるしいなんて言ったら、カルロスさんや他のボクサーの方に叱られますわ」
パイナップル風味のラムをベースにしたピニャコラーダというカクテルを口にしながら、早川瑞樹は、笑みを浮かべながらも高木を睨むようにした。
その姿がまた色っぽい。
高木はそんな瑞樹にすっかりまいっている様子だったが、朝比奈は機内で彼女の泣いている姿を目撃していただけに、いま艶然と微笑まれても、どことなくそのしぐさが嘘っぽく感じられた。
とりわけ、彼女が手に握りしめていたあの数珠は何のためだったのか――それがいちばん気になった。
「ところで早川さん」
いままで高木にしゃべるのを任せていた朝比奈が、はじめて口を開いた。
「カルロス山東って、いったいどんな人なんでしょうか。正直に打ち明けますと、突然ふってわいた対談企画なものですから、基礎資料は港書房からもらったものの、人となりについては、まだよく把握していないんですよ」
「そうね、ひとことで言ったら……」
ひとことで言ったら、の後、瑞樹は言葉を選ぶようにして、じっと考え込んだ。
そして、自分で納得した表現が見つかったのか、軽くうなずいてから朝比奈に向き直った。
「露悪趣味の人かしら」
「露悪趣味?」
「ええ、彼はボクシングが強くなるために、本来の自分とは違う性格を作り上げようと思ったみたいですね」
「本来の自分とは、どういう自分なんですか」
少しでも対談の座が白けないように、朝比奈は積極的にカルロス山東に関するデータを仕入れようとしていた。
「本来の彼は、気のやさしい……というよりも、気が弱い人ですね。でも、それでは闘争本能をむき出しにして闘うボクシングの世界ではやっていけないと判断した。それで彼は、あえて自分から積極的に嫌われる人間になろう、と決心したみたいですね」
「人に嫌われる人間に?」
朝比奈は聞き返した。
「どうしてそんな方向に性格を変えていく必要があるんです」
「彼は私にこう言いました。イヤなやつになれば、みんながおれの不幸を願う。カルロスが潰れてしまえばいいとみんなが望む。その願望を跳ね返してやろうとしたときに、はじめて真剣な闘争本能が生まれる。それもたんに暴力的なものではなく、きわめて知能的な闘争本能だ、と」
「へーえ」
「彼は嫌われ役を演じることで自分自身を精神的に追い込み、それをきっかけにして強い性格になるよう自己改造を試みたのだと思います。たとえば」
瑞樹は、このホテルのレストランの中にも貼ってある、エルセーラ・ジュニアVSカルロス山東のポスターに目を向けて言った。
「自ら『カリブの海賊』を名乗ってあんな陳腐な格好をして、しかも欧米人が小馬鹿にしたがる典型的な日本人の雰囲気を出すために、わざわざ似合わないチョビ髭を生やしてみる。そうやって、『あんなヤツには勝たせたくない』というムードを意識的に周囲にばらまいているんです。それが彼の狙いですから」
ポスター写真のカルロス山東はバンダナを頭に巻き、右の目に髑髏のマークが入った黒の眼帯をかけ、海賊風横縞Tシャツを着て、腕組みをしながら憎々しげな表情で正面を見据えていた。
ふつうボクサーの写真といえばグローブを構えているものが使われるが、カルロス山東は、あえてその決まりの構図を拒否し、面構えといいファッションといいポーズといい、どちらかといえば三流プロレスラーをわざと意識しているようだった。
「ようするに評判の悪さを意図的に演出して、それを精神面でも肉体面でもバネにして闘争本能をかきたてるわけですね」
ポスターを見ながら朝比奈が言った。
「ええ。ただし、ひとむかし前の悪役日本人プロレスラーのイメージで考えないでくださいね」
瑞樹が言った。
「悪役レスラーは、客に嫌われるためにリングに上がり、ヒーローである白人レスラーの強さを引き立てるために、いつも滑稽で無残な負け方をするわけですよね。でも、ボクシングではそんなお芝居は通用しませんから、弱い悪役はありえないんです。悪役に徹しようと決心した以上は、とにかく勝ちつづけていかないと、ボクシングのリングでは生き残れないわけですよね」
「なるほどねえ」
納得してうなずいてから、なおもポスターに目をやりながら朝比奈はたずねた。
「ところで早川さん、なぜカルロス山東は眼帯までするんですか」
「ですから、それは海賊のムードを出すために」
「ええ、それはわかります。こうしたポスター撮影をするときはね。でも、彼は試合のときも髑髏マーク入りの眼帯をつけてリングに上がるわけでしょう。もちろん、ゴングが鳴ったらはずすにしてもね」
「はい」
「しかし、試合直前のほんの数分にしても、片目をふさいでおくのはまずいんじゃないんですか。つまり、片方の目が試合場の光とか遠近感に慣れないわけですから。そうすると、パンチを繰り出すときの微妙な距離感というか、そういうのが狂ってくると思うんですけれど」
「鋭い人なんですね、朝比奈さんて」
早川瑞樹は、称賛の目つきで朝比奈を見つめて微笑んだ。
「じつは私も、最初に彼の演出方法を見たときにそう思いました。カリブの海賊の格好をするのはいいけれど、アイパッチだけはしないほうがいいのに、と。……と、いいますのも、私もカメラマンですから、片方の目で物を見るときと、両方の目で物を見るときの感覚の違いをよく心得ていますから」
「ああ、なるほどね」
「それで私は質問したんです、カルロスに。ちょうどいま朝比奈さんが疑問に思われたようなことを」
「そしたら、どんな答えが返ってきました?」
「大丈夫、問題ない――彼は即座に答えました。あえて眼帯をしてリングに登場するのは、海賊ムードの演出のほかにいくつかの理由がある。第一に、自分の利き目は左目だから、右目を眼帯でふさいだままでも違和感はない」
「利き目といいますと?」
たずねたのは高木だった。
「かんたんな実験をしてみましょうか?」
瑞樹は質問をした高木のほうに向き直ると、テーブルにセットされたナイフとフォークを取り上げ、垂直に立てたナイフを持った右手をめいっぱい伸ばして高木のほうに近づけ、左手に持ったフォークは自分の顔のすぐそばに立てた。
「私はナイフの方を左右に動かしますから、それを両目で確認して、高木さんの位置からみてちょうどナイフとフォークが重なったところで合図をしてください」
瑞樹は、垂直に立てたナイフをゆっくりと横に移動した。
「ハイ、そこです」
高木が言った。
「いまちょうどぼくの位置から見て、ナイフとフォークは重なっています」
「では、そのまま顔を動かさずに、右目だけで見てください」
瑞樹の指示にしたがって、高木が左目を閉じる。
「どうですか」
「かわりませんね。重なったままです」
「では、反対に左目だけで見てください」
「あれれ」
ウインクしたポーズのまま、高木が驚きの声をあげた。
「ものすごくズレちゃった」
「ということは……」
ナイフとフォークをテーブルの上に戻しながら、瑞樹が言った。
「高木さんの利き目は右、ということなんです。つまり、両方の目で均等に物を見ているからこそ立体感が出ているように思いがちですけれど、人間の目はステレオの左右のスピーカーのバランスとはちがって、必ずどちらか一方の目が主で、残りの一方が従なんです。高木さんの場合ですと、両目を開けて見ているときの左右のバランスは、右目だけで見ているときに等しいんです」
「はあ、そうなんですか。知ってました? 朝比奈さん」
「知ってた」
あっさり言われて、コケる高木。
「ですから、高木さんとは逆に左目が利き目のカルロスにとって、右目をアイパッチでふさぐことには、まるで抵抗感がないんです」
「左目をふさいだら?」
朝比奈がたずねる。
「逆はいやがるでしょうね」
「なるほど」
「それからもう一つの理由は、対戦相手にバカなやつだと思わせる狙いがあるんです。……あ、これは雑誌に書かないでくださいね」
高木にクギを刺してから、瑞樹はつづけた。
「つまり、私たちがカルロスの演出を疑問に思ったように、相手選手もアイパッチをしてきたカルロスを見て、バカにするわけですよ。ボクシングの試合前に、いくら観客にアピールするためとはいえ、片目をふさいで出てくるやつがあるか、と。そんな相手なら大したことはないな、と最初からこちらを見くびらせる効果があります」
「なあるほど」
朝比奈が納得の声をあげた。
「相手の油断を誘う戦略ですか」
「そうなんです。それを聞いて、私もカルロスの計算には感心させられました」
「ですねえ」
朝比奈は何度も小刻みにうなずいた。
と、そのとき、レストランに人目を引く一団が入ってきた。
一団といってもたった三人なのだが、その風体があまりにも際立っているので、静かに食事をとっていたホテルの宿泊客もみな驚いた顔でふり返った。
先頭の一人は、まさにいま朝比奈たちが話題にしていたカルロス山東その人だった。
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問題の眼帯こそしていなかったが、バンダナを頭に巻いて横縞Tシャツに黒のスパッツというカルロス山東のいでたちは、試合用ポスターからそのまま抜け出したといった格好である。
そして、その後ろに小柄な若い女性。
小柄ではあるが、決して控え目な印象はない。それどころか、その逆である。男に媚びるような水商売風のメイクをしており、その品のないハデさかげんが、他のテーブルの男たちの視線を集めていた。
とりわけ、白めのファウンデーションを顔に塗りたくり、唇には真っ赤なルージュをさすという、その毒々しいコントラストが、見る者に強烈な印象を与えた。
しかし、なんといってもいちばん目立つのが、しんがりに控える男だった。
彼は、風船をふくらましたような巨体をしていた。LLLL……と、いくつLの文字を並べたらいいのか迷ってしまうほど特大サイズの体格で、おそらくオーダーメイドと思われる白のジャケットに白のパンツを着ていた。
そしてなんと頭は、高木が縄のれんヘアと称したあのレゲエスタイルのドレッドヘアである。
しかも、ただのドレッドヘアではない。黒髪の一部を焦茶色に、別の一部を白にと、三色に染め分けているのだ。これには、レストランのウエイターをやっている地元の青年たちもびっくりといった表情だった。
この巨漢、髪形だけでなく、ギョロ目にぶあつい唇という暑苦しい顔立ちそのものも日本人ばなれしていたが、しかしまちがいなく彼は日本語を使って、先頭のカルロス山東に話しかけていた。
「カルロス、そっちじゃない。ここだよ、ここ。おれたちのテーブルはここだ」
ダミ声というやつである。本人はそれと意識していなくても、レストラン中に響き渡るような音量がある。
その男が『ここ』と指さしたのは、朝比奈たちから二つおいたテーブルだった。
すると、行きすぎたので後戻りする形でふり返った山東が、目ざとく早川瑞樹の顔を見つけて「おう」と声をかけてきた。
気のせいか、その「おう」の一声には、特定の男女関係にのみ通用する独特の親しみが含まれているように朝比奈は感じた。
その横に立つ水商売メイクの女は、山東の態度とは対照的に、早川瑞樹の姿に気づくなり、こわばった表情でそっぽを向いた。
そして巨漢の男は、瑞樹よりも、その左右にいる朝比奈耕作と高木洋介にじろりと警戒の視線を放った。
「どうしたんですか、如月さん、その頭」
早川瑞樹が驚きの声をあげた。
「まるでチョコレートパフェみたいだわ」
如月と呼ばれた太った男は、チョコレートパフェという瑞樹の指摘に苦笑いをして、黒・焦茶・白の三色に染め分けたドレッドヘアに手をやった。
「なあに、郷に入れば郷に従えということわざがあるだろう。カリブにきたから、この髪形にしてみたまでよ」
「いつドレッドヘアにしたの」
「バハマ入りしてすぐだよ。だから十日ほど前かな」
「ふうん……でも、すごいわ」
「どうすごいんだ。瑞樹ちゃん、内心バカにしてるだろ」
「そんなことはないけれど、その色づかいがすごいわよね」
「似合うって意味かい」
「似合わないっていう意味」
「ばかやろ」
早川瑞樹と如月という男は、顔見知りのようでくだけた調子の会話がつづく。
「まあ好きなように言ってくださいよ。カルロス山東ご一行様は、海外に出たら『ヒンシュクを買ってでも目立て』というのがモットーだからさ。それで、マネージャーのおれもこんな格好をしてみたわけだ」
「ごくろうさま」
「ほんとうなら、カルロス本人にこういう髪形をやってほしいんだが、さすがの彼も、バンダナにアイパッチまでは踏み切れても、ドレッドヘアまでは無理だとさ」
「やってみればいいのにね」
「ほら、ヘビー級にシャノン・ブリッグスっていう若手がいるだろう」
「ヘアスタイルがそういう感じの選手でしょう」
「この十倍はハデだがな。そのおかげで、マスコミがインタビューにくると、なにはさておき髪形の話題から入ってくる。それはブリッグスの演出というか計算なんだが、カルロスは、そこまではしたくないって言うんだよ」
「その気持ちはわかるわ」
「ところであんた、バハマくんだりまできて両手に花の日本人かい」
如月は立ったまま、ふたたび無遠慮な視線を朝比奈たちに向けてきた。
「ああ、そうだわ。こちらのお二人とは、おたがい初めてだったわね。ちょうどいいから紹介するわ。カルロスとの対談の仕事で日本からやってこられた港書房の高木洋介さんと、それから対談相手で推理作家の朝比奈耕作さんよ」
瑞樹の言葉に合わせて朝比奈と高木も席から立って会釈をすると、先方の主役であるカルロス山東は、何の挨拶もせずにチラッと朝比奈たちを一瞥しただけで、自分の席に座ってしまった。いかにも無愛想な感じである。
そして、水商売メイクの女も軽く会釈しただけで、夫の隣の席につく。
ところが、意外にも如月と呼ばれた巨漢だけは、特大サイズのジャケットの胸元をさぐって名刺を取り出した。
「どうも、カルロス山東のマネージャーの如月勇人と申します」
差し出してきた名刺には、マネージャーではなく、如月ジム会長という肩書が印刷されてあった。まるまるとした指にはさんだ名刺を高木と朝比奈に手渡しながら、山東がお世話になります、と如月はもういちど丁重に頭を下げた。
「この人はね、日本のドン・キングを目指しているのよ」
横から瑞樹が口を出した。
「つまり、ボクサーの甘い汁を吸って大儲けする悪徳興業主」
「バカ言いなさんな、あなたが女じゃなかったら殴ってるよ。キングと似ているのは体型だけだ。仕事のやり口までいっしょにせんでくれ」
笑いながら瑞樹に応じる如月は、ドレッドヘアのせいか、あるいはビヤ樽のような体型のせいか、年齢は見当をつけにくかったが、たぶん四十代の後半くらいだろう、と朝比奈は推測した。
それにしても、第一印象がかなり傲岸不遜といった感じだったのに、朝比奈たちが仕事相手だと判るといきなり腰の低い態度を見せてくるところなどは、なかなか油断のならない男だという印象を抱かせた。
「ところで、もう瑞樹さんの口からお聞き及びかもしれませんがね」
高木の名刺を受け取りながら、如月は後ろを気にしつつ巨体に似合わぬ小声で言った。
「ウチの山東は、ああみえても人見知りをするタイプなので、きょうのところはご挨拶を失礼させていただきます。それから……」
如月は、カルロス山東たちのテーブルに背を向け、一段と低いささやき声になってあとをつづけた。
「いっしょにいるのは、カルロスの年上の女房で里佳子というんですが、あれはちょっとその……カルロス以上に難しい人間ですから、ひょっとしたらお二方に失礼があるかもしれませんけれど、どうかなるべく気になさらないようにしてください」
そう言ってごつい肩をすくめると、如月は山東夫婦が待つテーブルのほうへ戻っていった。
「ほんとよね、里佳子は悪い女」
如月が席につくのを見届けてから、カメラマンの早川瑞樹はポツンとつぶやいた。
「そんな里佳子の実家のお金を頼りたくて、したくもない結婚をしたのが、あの人の間違いなんだわ。そして、やり直したくても、もうやり直しの利かない過ち……。バカよ、カルロスは」
その言葉は、朝比奈や高木に聞かせるというよりもむしろ独り言に近かったため、朝比奈は、その背景を詳しくたずねることは遠慮した。
そして朝比奈が驚いたことに、たったいままで如月と笑いながらやりとりをしていた瑞樹の瞳が、急に涙で濡れはじめた。
ちょうど、飛行機の中で目撃したときのように……。
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★★
「なるほど、なるほど、これで被害者と三人の容疑者が出揃ったというわけだ」
警視庁内の喫茶室で朝比奈耕作から話を聞いていた志垣警部は、溶けた氷ですっかり薄くなったアイスコーヒーをストローですすりながら、面白くなってきたぞという表情で目を輝かせた。
「殺されたのはライトヘビー級のプロボクサー・カルロス山東、容疑者は、まず彼の年上の妻である山東里佳子、それから女流カメラマンの早川瑞樹、そしてカルロスのマネージメントを一手に引き受けているジム会長の如月勇人」
「そういうことです」
朝比奈がうなずく。
「そして、事件後に判明した事実関係も含めて、彼らの相関関係をまとめますとこうなります。カルロスの妻・里佳子は、資産家の娘でお金には何不自由しない生活をしていた。ただし資産家といっても、彼女の父親はかなりダーティな手法で金を作ってきた裏の世界の人間で、里佳子自身にも品というものがほとんど感じられないんです。だが、日本ではまったく認知されないライトヘビー級のボクサーとして成功を夢見るカルロス山東こと山東力雄としては、海外での武者修行から栄光の座を勝ち取るために、おのれの肉体の研鑽に励むだけでなく、どうしても金づるがほしかった」
「そこで、里佳子を口説いて逆玉の輿にのったと」
「ええ。ところが、いざ結婚してみると、カルロスはわがままでヒステリックな里佳子の性格にすっかり嫌気がさしてしまった。そして、いったんは別れ話を持ち出すんですが、別れるならいままであなたに投資したお金も含めて十億円の慰謝料がほしいなどと切り返されて、どうにもならない状況になっている」
「なるほど、カミさんとしては、ダンナが金の成る木と思ってるな」
「その一方で、山東力雄は自分を被写体として追いかけてきた女流カメラマンの早川瑞樹と相思相愛の仲に陥ってしまいました。そして、おたがいに結婚を望んでいるのですが、その障害として里佳子夫人の存在がある」
「えーと、彼らの齢はいくつなんだっけ」
「カルロス山東が二十四歳、妻の里佳子が二十九歳、そして早川瑞樹は三十歳です。あと、年齢不詳だった如月会長は四十七歳だとわかりましたけれど」
「どちらにしても姉さん女房か」
「この結婚問題で頭を悩ませていたのは、如月会長でした。彼は彼で、カルロス山東をライトヘビー級世界チャンピオンにするという夢をもっていた。そしてライトヘビーを制したら、その上のクルーザー級へとランクアップして、最終的には夢のヘビー級王座挑戦というところまで考えていたんです」
「そりゃすごいわ、目標としては」
「けれどもジムとは名ばかりで、抱えている選手が山東ひとりという状況では、会長の如月も金銭面でかなり苦労をしていました。とりあえずはいまのところ山東が連戦連勝なので、当座の資金繰りには困ってはいなかった。けれども、もしも山東が早川瑞樹との愛を貫いて里佳子夫人と別れた場合、頼りの金脈が途絶えてしまうわけです」
「そういう意味では、如月会長にとって早川瑞樹の存在はジャマなわけだね」
「そうです。この如月という風船みたいな太っちょの会長は、大ざっぱな見てくれのわりには相当したたかな男で、邪魔者だと思っていても、山東本人の機嫌を損ねては元も子もないので、早川瑞樹に対しては表面上は非常に友好的な態度をとっています」
「ところで、朝比奈君の話をここまで聞くかぎりでは、美人カメラマンの存在が気になるねえ」
志垣は言った。
「飛行機の中で涙を流していたり、夕食の席できみらの前で泣いてみたりと、いささか情緒不安定だという気がするのだが」
「おっしゃるとおりです」
「おまけに数珠をはめていたんだろう、機内では」
「ええ、それについてわかっていることをお話しします。まずこれを読んでいただけますか」
朝比奈は、一枚の紙を志垣警部に差し出した。
それは事件が起きる一カ月ほど前の、日本の週刊誌の切り抜きだった。海外でめきめきと名を挙げているカルロス山東に対するインタビュー記事である。
インタビュアーはあまりボクシングには縁のなさそうな女性キャスターで、記事のタイトルは≪夢は誰にもジャマさせない≫となっていた。
――おれはね、あえてみんなに嫌われるような生き方を選んだんだ、あえてね。なぜって? そのほうが人間ってやつがよーく見えてくるからだよ。周りから嫌われると、どうしたって猜疑心がどんどん強くなる。なぜなら、みんながおれという人間に対して正直な話し方をしなくなるからさ。そりゃそうだよな、嫌いな人間にホンネを打ち明けるやつなんていないもんな。ウソ、タテマエ、おせじ――そういったもので本心をガードしまくっちゃうんだよ。
そうなるとこっちはこっちで、そのガードを崩しにかかるわけさ。ボクシングと同じでね、相手のガードを崩すために左のジャブを繰り出していく。おまえの本心はどこにあるんだよ、ってね、いつも探りを入れるクセがついてしまう。わかるかな。
でも、その猜疑心のおかげで、ものすごく人間観察力が鋭くなったって気はするな。もちろん、そうした観察力がリングの上の試合運びにもいい影響を及ぼすよ。いろんな意味で対戦相手が見えてくるから。
ま、おれは二十四歳にして悟ってしまったわけよ。つまり、人生とは疑いの連続だ、とね。
「人生とは疑いの連続だ……か」
カルロス山東の言葉を口に出してつぶやくと、志垣は下唇を突き出した。
「素直じゃないなあ」
そして、記事のつづきに目を通す。
ところで知ってるかい。プロボクシングの頂点と言われるヘビー級のすぐ下のクラスは、いまはクルーザー級だが、もともとはおれのいるライトヘビー級だったんだ。つまり、ヘビー級王者というスーパーチャンピオンの予備軍としての位置づけがライトヘビー級にはあった。明日のヘビー級王者へと駆け上がる夢があったわけだ。日本じゃ、はなっから興味をもたれていないクラスだけれど、アメリカではライトヘビー級に対するファンの関心も高かったんだ。
そして、その夢を最初に果たした男が、マイケル・スピンクスだ。彼はライトヘビー級チャンピオンの座を十回も防衛した後に、ワンランク上のヘビー級に転向して王者になった。ただし、せっかくのベルトも『世界一凶暴な男』マイク・タイソンに1ラウンドKO負けを喫して奪われてしまうんだけどね。
ところで、スピンクスがヘビー級のチャンプになったころには、すでにヘビー級とライトヘビー級の間にはクルーザー級という新しい階級が設定されていた。イベンダー・ホリフィールドは、ライトヘビー級からクルーザー級に移って王者になった男だ。そして彼は、さらにヘビー級に転向した。
もしもマイク・タイソンが、一九九〇年に行われた東京ドームでのあの世紀の大番狂わせでKO負けしていなければ、ホリフィールドは同じ年にタイソンと統一世界ヘビー級王座を懸けて闘うことになっていたんだ。ところがタイソンがよもやの敗戦を喫したので、勝者のダグラスと拍子抜けしたようなタイトルマッチを行い、あっさりと3ラウンドKO勝ちでチャンピオンになった。
おれだってできればホリフィールドのような道を歩みたい。体重を増やしてヘビー級まで上がってみたいよ。夢のような大金をつかむためにね。
婦女暴行のムショ暮らしから出てきたタイソンは、出所明けの興業契約だけで何十億円も手にした。まぐれあたりのパンチで二十年ぶりに奇跡の復活を遂げたジョージ・フォアマンも、あの一発ですごい金を手にした。一発何十億円――これこそが最強のヘビー級王者に与えられた夢の特権ってやつだよ。
しかし日本人の体格ではしょせんかなわない夢だ、ヘビー級王者っていうのはね。ウェルター、ジュニアミドル、ミドル、スーパーミドル、ライトヘビーと、なんと五階級制覇という快挙をやってのけた天才シュガー・レイ・レナードだって、クルーザーには上がれなかった。ましてヘビー級には。
でも、せめておれはライトヘビーの世界チャンピオンにはなりたいと思っているし、いまの自分の力だったら、その目標を実現できる可能性はじゅうぶんあると思っている。いや、絶対になってみせる。絶対にだ。
いや……やっぱり謙遜ヌキでホンネを言っておこうか。さっきの言葉は撤回する。日本人の体格では絶対無理だといったヘビー級だって、少なくとも世界タイトルへの挑戦というところまでは、決して不可能ではないと思うんだ。チャンピオンベルトを獲るところまでは難しいにしてもね。
だからおれの目標は三段階になっているわけだ。第一段階でライトヘビー級の王座を獲る。第二段階でその上のクルーザー級の王座を獲る。そして第三段階で、夢のヘビー級王座へのチャレンジさ。ヘビー級の場合は、チャレンジャーになっただけでも一つの栄光だからね。その栄光へ向けて、おれは酒もタバコも節制して身体を作ってきた。
野望実現の可能性はどうかって? 百パーセントさ。そう思わなきゃやってられないだろ。まあ、もしもおれの夢を阻むものがあるとすれば、それは同じリングに立つライバルじゃなくて、もっとすごい怪物だろうな。
そう、人間じゃなくて怪物だ。死という名の怪物――そいつだけが、おれの夢をジャマできるのさ。
「ふむ」
記事を読み終えると、志垣警部は朝比奈に顔を向けた。
「それで?」
「問題は最後の一行です」
朝比奈はそこを指さした。
「死という名の怪物――そいつだけが、おれの夢をジャマできるのさ……って、ところかい」
「ええ、サラッと読んでしまうと、その言葉はカルロス山東の絶大なる自信の表れのように受け取れますね」
「おれもそう思ったが、ちがうのか」
「じつはその時点で、彼は自分の生命に限りがあることを知っていました」
「なに?」
志垣は眉をピクリと吊り上げた。
「ガンか」
「いえ、ボクサーにとっては、ある意味でもっと致命的な病気です」
「というと」
「脳腫瘍」
「………」
黙りこくる志垣に向かって、朝比奈はつづけた。
「かつてプロ野球の広島カープに在籍していた津田投手がこれで命を奪われましたが、山東も同じ症状を呈していたんです。ときおり襲ってくる激しい頭痛、そして間歇的な手足のしびれ。自分の身体の異常を不審に思った山東は、会長の如月にはないしょでカナダで検診を受けました」
「カナダで?」
「そうです。日本やアメリカでは、最悪の結果が出たときにボクシング協会に伝わってしまうと考えたのでしょう。ニューヨークを拠点にしてトレーニングをしていたとき、彼は如月会長のみならず妻にさえ黙って三日間の空白を作り、国境を越えてカナダへ行き、専門病院で精密検査を受けました。もちろん、場合が場合ですから彼のブロークン・イングリッシュでは用を足さない。そこで通訳をかねて同行したのが……」
「早川瑞樹か」
「そのとおりです」
「すると、彼女だけは最悪の結果を知ってしまった」
「ええ。診断は非常に冷酷なものでした。もって一年」
「………」
「ただし、それは静養して治療に専念した場合の話で、リングに上がって殴り合いでもやろうものなら、一日たりとも生命の保証はしないというものでした。また、入院加療したところで、腫瘍の増殖のしかたでは、明日にでも身体のマヒが起きる可能性もある。そして、最悪の事態からのがれる唯一の手段は開頭手術しかないが、腫瘍の部位からみて、それは不可能」
「うーん」
「激しいショックを受けたのは、本人よりも早川瑞樹のほうでした。酒もタバコもやらずに節制に努めてきたカルロスが、なんでまたこんな不治の病に冒されねばならないのか。あまりの不条理に、瑞樹は、医師の宣告を本人にはとうてい通訳できないと思いました。けれどもそばにいたカルロスは、真っ青になった瑞樹の顔を見てこう言ったそうです。おまえだけがひとりで苦しむなよ、と」
「つらい話だなあ」
鬼のような見てくれのわりには涙もろい志垣は、もうそこで目を潤ませていた。
「自分の人生が、あとわずかで幕を閉じると知ったカルロス山東は、しかし引退の道は選びませんでした。自分からボクシングをとったら何も残らない。このまま病院のベッドで生命の灯が消えていくのを待つよりは、死神との追いかけっこをしたほうがマシだ。そう瑞樹に言ったそうです」
「死神との追いかけっこ?」
「つまり、せめて野望の第一段階――世界ライトヘビー級チャンピオンになるという夢を実現するまでは死ねない。彼はそう決心したんです。ベルトを獲るまでは死神には絶対に追い越させないぞ、と。このインタビュー記事における最後の一言には、じつはそうした背景が秘められていたのです。……まあ、こういったいきさつも殺人事件が起こって山東の命が断たれてしまったあとに明らかにされたエピソードですが」
朝比奈は軽いため息を洩らした。
「ともかく、死の宣告後の第一戦は、カルロス山東はみごとに1ラウンドKOで勝利を飾りました。彼の集中力もすごかったし、相手が弱すぎたのも事実でした。だから山東は、ほとんどパンチらしいパンチを受けないまま勝つことができました。
けれども、ぼくが観戦に訪れた対エルセーラ・ジュニア戦は、そうはいかないのはわかっていた。実力も前評判もカルロス山東が上回っていたものの、エルセーラ・ジュニアは国籍こそアメリカに移していたが、地元バハマの出身です。日本流にいうなら、故郷に錦を飾るためにガムシャラにファイトを燃やしてくるのはみえていた。だから、仮に勝つにしても、相当のパンチを浴びることは覚悟しなければならない状況でした。
つまり、日曜日の夜に行われるエルセーラ・ジュニア戦が、カルロス山東にとって最後の試合となる可能性はじゅうぶんにあったわけです。ボクシング生命と同時に人間としての生命も断たれてしまう危険性がね」
「その試合の日が刻々と迫っていたことが、早川瑞樹の涙の理由だな」
「ええ、そうです。あとになってわかったことですが、彼女はなるべくそうした深刻な現実を忘れようとしていました。ぼくらの前ではつとめて明るくふるまおうとしていたし、如月会長に対しても笑顔で冗談などを言っていた。しかし、それもすべては山東力雄の秘密を悟られまいとする努力だったんです。そして瑞樹は、山東の夢がなんとか果たされるよう、彼の信仰する宗派の仏に向かって、いつも祈っていたそうです」
「数珠を握っていたのは、そのためか」
「そのようです」
「そういえば保険金はどうなっていたんだ」
ふと思い出したように、志垣警部がきいた。
「彼が死亡することによってトクをする人間は」
「保険金は掛けられていましたが、それは決してびっくりするような金額ではありませんでした。というのも、ボクサーを職業とする人間には、おのずから保険金額の上限が設定されているからです」
「なるほど」
「具体的な金額は保険会社によって多少のバラつきはありますが、山東力雄が契約していた保険会社の場合は、受け取り金額の最高は三千万円でした」
「生命保険としては知れたもんだな」
「ですね。同じスポーツ選手でも、プロ野球選手などにはこうした制約がないんですが、やはりボクシングともなると……」
「で、その保険金の受取人は」
「奥さんの山東里佳子です」
「金に不自由していないお嬢さんだろ」
「お嬢さんというイメージではありませんけれどね。ともあれ、純粋に金銭的な理由では、里佳子が夫を殺害する意味はないわけです。たった三千万円の保険金を受け取るよりは、離婚に応じて何億という慰謝料をもらったほうがいいわけですからね。ただ、彼女は意地になって離婚に応じないわけですよ。いくら莫大な慰謝料をもらっても、自分が捨てられて、早川瑞樹と夫が幸せな暮らしを営むのは、とうてい容認できない」
「では、この段階で話を整理するとだ、三人の容疑者のそれぞれについて、山東力雄を殺害する動機として、いったいどんな事情が考えられたんだね」
「まず妻の里佳子については、純粋に憎悪でしょう。駆け出しのころから支えてきてあげたのに、結婚してみたらこんなはずじゃなかったとばかりに捨てようとする夫の行為は、絶対に許しがたいものだった。まあ、彼女の置かれた立場からすると、夫を殺すよりも早川瑞樹を殺す動機のほうが、はるかに強そうですけれどね」
「おれもそう思うなあ。で、美人カメラマンのほうは?」
「本人と医者以外にただひとり山東の生命の期限を知っている早川瑞樹は、おそらくこう考えていたと思うのです。死ぬ前にお願いだから私と結婚して、と」
「なるほど、そりゃそうだろう。そりゃあ、ようくわかる心境だ」
志垣警部は大きなしぐさで首をタテに振った。
「しかし、その希望が絶対に叶えられないとなったときに、彼女が精神的にどんな爆発をするか、それはわかったものではありません。殺人というよりは、心中を図る可能性だってなきにしもあらずです」
「殺意はなくても、心中の意思が強烈にあったかもしれない、ということだな」
「ええ」
「では、如月会長は」
「彼にも動機は存在していました。これも事件後に明らかになったのですが、如月勇人は山東から三下り半を突きつけられていたのです」
「ほう」
「今回のバハマでの一戦を最後に、あなたとのマネージメント契約は白紙に戻したい、と。そして山東は、その理由を一切明らかにしなかった。死の宣告を受けたことを如月に話してしまえば、ボクシングを辞めさせられるか、その逆に利用されると思っていたからです」
「如月としては寝耳に水だったろうな」
「こうした人間模様があったとは、ぼくも高木さんも、もちろんそのときは知る由もありません。そして、ぼくとカルロス山東との対談が予定されていた金曜日の夜――つまり、試合の前々日の夜、事件は起きたのです」
「いよいよ、眼帯が反対側の目に掛けられていた謎に迫るわけだな」
「そうです。いつも右目に眼帯を掛けるカルロス山東が、左の目に眼帯を掛けたまま殺されていた――その様子について、詳しくお話ししましょう」
朝比奈は、ふたたびカリブの島の出来事に話を戻した。
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5
パラダイス・アイランドのホテルでは、山東と妻の里佳子は、一階の111号室をとっており、ジム会長兼マネージャーの如月勇人が隣の110号室、そしてカメラマンの早川瑞樹が山東の部屋をはさんで反対隣の112号室を割り当てられていた。
フロントに近いほうから如月会長、山東夫妻、早川瑞樹の部屋が並ぶ格好で、それぞれの部屋のベランダは、そのまま芝生に出られるようになっている。
よくよく考えたら、防犯上危ないといえば危ない設計で、ベランダのガラス戸を開けておけば、誰でも庭から自由に部屋に入ってこられるし、仮に鍵を掛けておいてもガラス戸をたたき割ればあっさりと侵入が可能となる。
一方、朝比奈と高木は、二階の207号室と208号室のツインルームを、それぞれ一人で使う形でとっていた。
カルロス山東との対談および撮影は、午後の八時から一時間と時間を区切ったうえで、朝比奈の部屋――207号室で行われる段取りになっていた。
このカジノ付きリゾートホテルはスタンダードクラスの部屋でもかなり面積が広いが、とくに朝比奈の使っている207号室はデラックスタイプで、日本ならばジュニアスイートと呼んでもいいような、ちょっとしたリビングが備えられていた。
そして山東夫妻が泊まっている111号室は、朝比奈の部屋のさらに倍以上はある、れっきとしたスイートである。
海外旅行がはじめてだからというわけでもないが、高木は今回朝比奈に教えられるまでは、ホテルのスイートとは『甘い』という意味で、恋人や夫婦、とくにハネムーンカップル向けの部屋を指すのだとばかり思い込んでいた。
じつはスイートとは、背広の『スーツ』と同系統の言葉で『続き部屋』という意味だとはじめて知った高木は「そうしますと、もはや甘い関係でなくなった夫婦が泊まっても、スイートはスイートですね」と、へんな念押しをした。
ただし、高木は出来の悪いシャレを言うつもりでそう口走ったのではなかった。結婚してわずか一年半しか経っていないというカルロス山東と五歳年上の里佳子夫人の関係が、|甘い《スイート》とか仲睦まじいといったものからおよそ程遠いものだと、二、三日の滞在のうちにわかってしまったからである。
そして悲劇は午後七時四十五分――対談予定時刻の十五分前にはじまった。
* * *
そのとき朝比奈耕作は自室207号室で、対談に備えて高木が集めてくれたカルロス山東に関する資料を読み返していた。その中には、のちに志垣警部に見せた週刊誌のロングインタビュー記事なども含まれている。
だが、なかなか内容が頭に入ってこない。やはりどう考えても世界がちがいすぎるのだ。
新雑誌で推理作家・朝比奈耕作を盛り立てようとする港書房や高木洋介の好意はありがたかったし、めったにこられないカリブまで連れてきてもらったのだから、それに感謝してベストの仕事をしなければと思うのだが、しょせん興味のない世界のことは頭に入らない。
それだけならいいが、実際にカルロス山東と顔を合わせたときに、話の接点が見つからずにおたがい白けてしまいそうな予感がしてならなかった。
「あーあ」
重いため息をつきながら、朝比奈はバハマ時間に合わせた腕時計に目をやった。
七時四十五分。
「あと、十五分か」
また独り言が洩れた。
「引き受けなきゃよかったかな、この仕事」
頭を振ると、朝比奈はソファから立ち上がって洗面所へ向かった。昼間ホテルのプールで長時間泳いだために赤く日焼けした顔がヒリヒリと痛みだしてきたので、ホテル備え付けのココナツミルクで作られた乳液を塗っておこうと思ったのだ。
と、そのとき、ドアをコンコンとノックする音がした。
「はい」
もう本人がきたのかなと思って、朝比奈は洗面所へ向かいかけていた足を止めて、ドアのほうへ進んだ。
このホテルの各部屋のドアにはマジックアイがついてないので、朝比奈は相手の確認をするためにドア越しに声をかけた。海外のホテルで油断は禁物である。
「どなたですか」
高木か早川瑞樹か、あるいは如月会長の返事が戻ってくるものだとばかり予測していた朝比奈は、
「山東です」
と、女の声が返ってきたので驚いた。
「カルロスさんの奥さんですか」
「はい、里佳子です」
朝比奈の確認に、よりはっきりとした返事が聞こえた。
ドアを開けると、目を真っ赤に泣き腫らした山東里佳子が駆け込んできた。
「どうしたんです、奥さん」
「ぶたれたの、山東に。もう耐えられない、あの人の暴力には」
よく見ると、カルロス山東の妻の右頬が赤く腫れていた。そして、例の毒々しい赤いルージュが、唇からはみ出している。
「お願い、あなた、これから山東と対談をするんでしょう。だったら、その中でうんとあいつを怒ってやって、力雄のことを。ね、お願い」
里佳子は、朝比奈の腕をとって揺すった。
「あんたみたいなひねくれた性格で世の中を渡っていけると思ったら大間違いだって、そういうふうに教えてやって。あいつの目を覚ましてやってよ。そうじゃないと、もう私やってけない。お金ばっかり力雄にとられて、少しも愛してくれるわけじゃなし、もう私の人生はメチャクチャだわ。ちょっとでもグチをこぼすと逆上して怒るばかりだし……見て、朝比奈さん」
里佳子は、いきなり朝比奈の前でスカートの裾をまくりあげた。
日焼けしていない白い太腿がむきだしになり、一瞬、朝比奈はドキッとした。
が、里佳子の太腿のあちこちに浮かび上がった赤紫色のアザが目に入って、こんどは朝比奈は顔をしかめた。
「どうしたんですか、それ」
「蹴られたのよ、狂ったみたいな勢いで」
スカートの裾をまた元の位置に下げると、涙をボロボロとこぼしながら里佳子は訴えた。
「力雄は気に入らないことがあるたびに、こうやって私に殴る蹴るの暴力を働くの。女である私によ。よく考えて、朝比奈さん。これ、誰につけられたアザだと思う? 世界ライトヘビー級何位とかいうプロボクサーにやられた跡なのよ」
もちろんカルロス山東が本気で殴ったり蹴ったりしているはずもないが、それにしても常人とはパンチ力の基礎が違う。里佳子の身体についた暴力の痕跡は、あまりにも痛々しかった。
「どうかお願い、朝比奈さん」
いつのまに名前を覚えたのか、里佳子は朝比奈に向かって言った。
「対談の中で、夫婦の問題を突っ込んできいてみて」
「夫婦の?」
「そうよ。あなたは奥さんのことをどう思っているんですかって、きいてみて。妻の助けに心から感謝して、今後もずっと愛しつづけてくれるつもりなのか、それとも成り上がりのための踏み台にすぎないと思っているのか。それを、編集者の人のいる前ではっきりたずねてほしいの」
「奥さん、それはできない相談ですよ」
朝比奈は率直に答えた。
「初対面の席で、そんなことまできけるわけがありません」
「どうして」
「どうして、って……」
「力雄に殴られるのがこわいの?」
「そりゃ殴られたくはありませんよ、プロボクサーには」
「弱虫! 私は殴られているのよ。蹴られてもいるのよ。ほら」
またもや里佳子はスカートをまくりあげた。
こんどは下着までがはっきりと見えた。
(これはヘンだ。この人、おかしい)
朝比奈は直感的に思った。
(どこかで神経が切れているぞ)
夫から受けた暴行のせいなのか、それとも別に理由があるのか、ともかく山東里佳子は、変わり者とか激しやすいタイプといった表現を超えた、どこか異常な雰囲気を持っていた。
まともな人間であれば、いくら仕事関係者といっても、見ず知らずの男の部屋に一人で入ってきて、下着が見えるまでスカートなどをまくりあげたりはしないものだ。
しかもそれは、朝比奈を誘惑しようといったたぐいの意図が込められているものでは決してなかった。他人の前でそんな行動はすべきでないという、ごくごく基本的な常識のブレーキが利かないのだ。
「それにしても、あのカメラマンの女、憎たらしいわ!」
あれだけ必死にいろいろな訴えをしながら、いまや朝比奈の存在など眼中にないといった様子で、里佳子は表情も険しく、空中に向かって言い放った。
「今回も仕事の顔をして力雄を追っかけてきているけど、あの早川瑞樹という女はね、力雄と浮気しているのよ。私から力雄を奪い取ろうとしている、とんでもないやつなの。そんな女にここまで入り込まれて……私……くやしい」
歯軋りをしたかと思うと、里佳子はいきなりその場にくずおれ、声をあげて泣きはじめた。
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6
七時五十分ごろ、高木洋介は、ホテル一階の廊下をフロントから110号室方向へ向かって歩いていた。
高木はさきほどまで自分の部屋――208号室にいたのだが、急にあることが心配になってきた。朝比奈耕作と話がかみ合わず、カルロス山東がいきなり対談の最中に怒り出すのではないかという不吉な予感に襲われたのだ。
そこで彼は、マネージャー役の如月勇人に、どんな話題から切り出していくのがもっとも適切か、そのあたりのアドバイスを受けておこうという気になった。
対談開始直前になってドタバタあわててやるようなことではなかったが、それでも不安を解消するためには少しでも情報を仕入れておいたほうがいいと思ったのだ。
夜になって淡い照明のついた廊下は静かである。
そして向こうのほうから、どこかの部屋にルームサービスを届けたボーイが、空になった銀のトレイを肩のあたりにのせてこちらへ歩いてきた。
(でかいなあ。黒人って、どうしてあんなに体格がいいんだ。脚も長いし……。コンプレックス持っちゃうよな、ジャパニーズとしては)
外国にもガイジンにも慣れていない高木は、他に誰もいない廊下で、漆黒の肌を持ち身長も百九十くらいありそうなボーイと面と向かうと、妙におろおろした。そしておもわず目を伏せてしまう。
「グッドイブニング、サー」
向こうのほうから、声をかけてきた。
そのとたん、うつむきかげんに歩いていた高木の心臓がドキーンと高鳴った。そして反射的に顔をあげる。にっこり笑う黒人のボーイと目が合った。
「あ、どうもイエス。あ、はい」
へらへらと笑いながら、反射的にそんな言葉が高木の口をついて出た。
(ばかやろー、なにが『どうもイエス』だよ。そうじゃないだろって)
頭の中で自分を叱る声がするのだが、情けないことに、ではどう応じればいいのかがわからない。
ボーイのほうはにっこり笑ってすれ違っていったが、こちらに劣等感があるものだから、相手の笑顔が、なにかあざ笑っているのではないかと思えてしまう。
(あーあ、せめて中学生の英語くらいしっかり勉強しときゃよかったな)
自己嫌悪に陥りながら、高木は、背の高いボーイが廊下の角を曲がって姿を消すのを見送っていた。
しばらく間をおいて気を取り直したところで、また如月のいる110号室のほうへ歩きだす。
そして、まさに目的の部屋の前にさしかかったとき、そのひとつ向こうのドアから人影が飛び出してきた。
「キャッ!」
人影は悲鳴をあげた。
廊下に出たとたん、いきなり高木と鉢合わせをしたからである。
「早川さんじゃありませんか。どうしたんです」
高木も驚いた顔で問い返した。
人影は、カメラマンの早川瑞樹だった。しかし、彼女が飛び出してきたのは自分の部屋――112号室ではない。山東夫妻のために割り当てられたスイートルーム111号室から、彼女は出てきたのだ。
「里佳子さんは? 里佳子さんはどこ」
瑞樹は、あわてた口調で高木にたずねた。
顔色は真っ青で、唇は震えている。その表情を見ただけで、なにかとてつもない異変が起きたのだと高木にもわかった。
「カルロスさんの奥さんだったら、この部屋の中じゃないんですか」
「ううん、ここにはいないのよ」
「だったらぼくにはわかりませんね、カルロスさんの奥さんの行動までは。……それよりどうかしたんですか」
「たいへんなことが起きたの」
瑞樹はギュッと高木の腕をつかんだ。
「カルロスさんが死んでる」
「ええっ!」
高木は、叫ぶと同時に目を見開いた。
「死んでる?」
「そうなの。頭や目の周りから血を流して……あおむけに床に倒れて……ぜんぜん息をしていなくて……」
震えながら説明する早川瑞樹の目に涙はない。
ショックがひどすぎて涙が出ないのか、それとも必死に気丈さを保とうとしているのか、それは高木にはわからなかった。
「部屋の中ですか」
「ええ、リビングの床に」
高木は反射的に、瑞樹の肩越しに部屋の中をのぞこうとした。
が、部屋から飛び出してくるときに瑞樹が無意識にそうしたのか、それとも勢いでそうなったのか、111号室のドアは固く閉ざされている。
すがりついてきた瑞樹をふりほどくと、高木は111号室のドアノブに手をかけて、それを強く手前に引いた。
が、完全にオートロックが掛かっていた。
いったん閉まってしまえば、中から開けてもらう以外には、フロントに頼んでマスターキーを持ってくるしかない。
ノックをした。チャイムを連続して鳴らした。大声で何度も「山東さん」と呼んだ。けれどもまったく反応はない。
高木の不安は募った。
カルロス山東が中にいて、まともな状態ならば、これだけ呼びかけて反応のないはずがない。
「ほんとうにカルロスさんは中にいるんですね」
震えながら廊下の真ん中にたたずんでいる瑞樹をふり返って、高木はきいた。
「ええ」
「ほんとうに倒れているんですね」
「はい」
「そして死んでいるというのはたしかなんですね」
「たぶん」
「たぶん?」
急にニュアンスが変わったので、高木は瑞樹をさらに問い詰めた。
「ちゃんと確認しなかったんですか」
「………」
「たったいま、あなたはカルロスさんが頭から血を流して倒れていて、ぜんぜん息をしていないと言ったばかりじゃないですか。それは違うんですか」
「死んでほしくないの」
涙はまだ出ていないが、いまにも泣き出しそうに瑞樹は喉をヒクヒクさせた。
「信じたくないの。カルロスが死んだなんて絶対に信じたくないの。殺されたなんて絶対に……絶対に信じたくない」
「殺された?」
瑞樹のその言葉は、高木にとって衝撃だった。
カルロスが死んでいると聞かされてすぐに高木の頭に思い浮かんだのは、発作による病死のイメージだった。世界ライトヘビー級の新星として連勝街道を驀進中の腕力をもつプロボクサーが、まさかホテルの一室で殺されるなんて、そんな発想は高木にはまるでなかった。
しかし、瑞樹は繰り返した。
「殺されたのよ、カルロスは頭を割られて殺されたのよ!」
「………」
「聞こえる? カルロスは殺されたの! 殺された! 殺された!」
瑞樹は大声で叫んだ。
「わかった、わかりました。まず落ち着いてください。ね、冷静に」
ヒステリー状態になりかかった瑞樹を、高木は必死になだめた。そして、頭の中で考える。
(どうする……どうすりゃいいんだ)
まず真っ先に思い浮かんだのは、二階で対談がはじまるのを待っている朝比奈耕作の顔だった。
これまでの高木は、朝比奈とともにいくつかの修羅場をくぐっている。推理作家としてはめっぽう締め切りに信頼のおけない朝比奈だが、こと犯罪が発生した場合における彼の頼もしさは、ふだんとはまるで別人のようである。
だから高木は、すぐに朝比奈のところへ助けをもとめに飛んでいくしかない、と思った。
が、二階へすっ飛んでいこうとした高木が、二、三歩踏み出したところで、ふと足を止めた。隣の110号室の表示が目に入ったとたん、風船のような巨体の如月会長の存在を思い出した。
もともと高木は、110号室の如月をたずねるつもりで一階へ下りてきたのではないか。しかも、如月はカルロス山東が所属するジムの会長である。なにはともあれ、彼に知らせない手はない。
そう思ったときには、もう高木は110号室のドアを激しくノックしていた。
が、それに顔色を変えたのが瑞樹だった。
「やめて!」
彼女は叫んだ。
「え?」
意外な言葉に高木はふり返ったが、すでにノックはした後である。
その高木を見つめながら、瑞樹は怒ったように言った。
「どうしてそんなことするんですか、高木さん! 会長が犯人かもしれないのに」
「な……なんですって」
しかし、それ以上彼女の真意を探る時間はなかった。
「だあれ」
高木のノックを聞いて、中から野太い声がした。
「カルロスかい」
「いえ、高木です」
瑞樹の反応を見つめながら、高木が声をかける。
瑞樹は、いっそう怒りの表情を強めて睨みつけてくる。
「高木さん?」
中から確認してくる如月の声。
「そうです、港書房の高木です」
「もう対談がはじまる時間なのかな」
「いえ、そうじゃなくて、ちょっとすみません。急用ができたので開けてください」
「急用?」
そこまでがドア越しの声。
それから四、五秒後にドアが開いた。
顔をのぞかせたドレッドヘアの如月勇人は、赤・黄・緑のラスタカラーでデザインされたTシャツに、真っ白い短パンというラフな格好だった。
「おお、なんだ、瑞樹ちゃんもいっしょか」
早川瑞樹も廊下に立っているのを見て、如月が言った。
「二人そろってどうした。対談の件でなにかモメごとかい」
「いえ、じつはですね、如月さん」「カルロスが殺されたわ」
高木が説明しようとする横から、瑞樹が割り込んだ。
如月の目がいったん大きく開いて、すぐそのあと細くなった。
「なんだって」
「隣の部屋でカルロスが殺されているのよ」
如月は、確認するように高木に目を向けた。
「いや、ぼくは見ていないんです」
高木があわてて弁解じみた口調でつけくわえた。
「だけど、早川さんがそうだと言われるものですから」
「どういうことだよ、瑞樹」
「どういうことかは、あなたがいちばんよく知っているんじゃない?」
「なに?」
「あなたでしょう、カルロスを殺したのは! どうしてそんなことをしたのよ。どうして、どうしてどうしてどうして!」
いままでこらえていたものが一気に爆発したように、早川瑞樹は泣きじゃくりながら如月につかみかかり、そのはちきれそうな肥満体をがむしゃらに叩いた。
もちろん、如月にとっては蚊が止まったような攻撃である。
「高木さん」
瑞樹の攻撃を適当に手で払いのけながら、如月は言った。
「とにかく隣の部屋へ行こう」
「それが、ドアが閉まっているんですよ」
「チャイムを鳴らしてみたのか」
「ええ、ノックもしました。大声でカルロスさんの名前を呼んでもみました」
「それで?」
「反応はありません」
「………」
如月が眉をひそめた。
「たんに外出しているだけならいいのですが、しかしウチのほうでセッティングしている対談がまもなくはじまるというのに、どこかへ出かけているとも思えませんし」
「だから何度言ったらわかるの、彼は隣の部屋で倒れているのよ」
また瑞樹がヒステリックに叫んだ。
「奥さんはどうした。里佳子は」
如月の質問に、瑞樹は首を左右に振った。
「いないわ」
「ねえ、如月さん」
高木が言った。
「こうなったらフロントを呼びましょう。緊急事態ですよ、これ」
「いや待ってくれ」
如月は、あせる高木を押しとどめた。
「ホテル側への通報は、部屋の状況を自分たちで確認してからだ。カルロスは一般の客じゃない。いまやナッソーでいちばん有名な外国人なんですよ、高木さん。できるかぎり騒ぎは起こしたくない」
「でも、中を確認するっていったってどうするんです。ドアは開かないんですよ」
「あんた、どこから入ったんだ」
如月が瑞樹にたずねた。
それではじめて高木はハッとなった。
部屋の中にカルロス山東しかいなかったとしたら、その部屋から飛び出してきた早川瑞樹は、いったいどのようにして部屋の中に入ったのか。
最初からドアが開け放されていないかぎり、山東自身が彼女を招き入れたとしか考えられないではないか。そして、その山東が殺されているならば……。
高木ははじめて疑惑の視線を瑞樹に向けた。そして、如月も彼女を睨みつける。
「ドアは……」
自分のおかれた不利な立場を悟ったのか、瑞樹は二人の男から目をそらせてつぶやいた。
「ドアは、半開きになっていたのよ」
「それで?」
冷たい声で如月が聞き返す。いまや攻守逆転といった感じだった。
「それであんたはどうしたんだ。半開きになっていたからといって、勝手にカルロスの部屋へ入っていったのか」
「ええ」
「なんでまた」
「気になったからよ」
「なにが」
「十分くらい前まで、カルロスの部屋で、激しい言い争いをする声が隣の私の部屋まで聞こえてきたから」
「カルロスの部屋で? だけど、おれのほうには何も聞こえてこなかったぞ」
瑞樹の部屋は112号室、如月は110号室。ともに、カルロス山東夫妻が使っている111号室をはさんだ隣どうしにある。
「そっちに聞こえなくても、私のほうには聞こえたの。カルロスの部屋はスイートだから、たぶん私の部屋寄りでケンカをしていたんだと思うけれど」
「誰と」
「里佳子さんとよ」
瑞樹がそう返事をしたとき、
「どうしたんです、みんな。何かあったんですか」
という声がしたので、ドアをはさんで廊下と室内でやりとりをしていた三人が、いっせいにそちらを見た。
朝比奈耕作が、泣き腫らした顔の山東里佳子を支えるようにして、廊下をこちらへ歩いてくるところだった。
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★★★
「もういちど、『カリブの海賊』殺人事件の概要を整理しておきましょう」
ひととおりのいきさつを語り終えた朝比奈は、志垣警部に向かって言った。
「カルロス山東こと山東力雄は、スイートルーム111号室の寝室ではなく、応接セットがあるリビングルームのじゅうたんにあおむけになって倒れ、息絶えていました。ちなみに、スイートの寝室は早川瑞樹のいた112号室寄りにあり、現場のリビングルームは如月のいた110号室寄りにありました」
「で、早川瑞樹は部屋にいて隣室の夫婦ゲンカの声を聞いたといっているが、その口論は寝室で行われたのかね」
「そうだと、里佳子夫人は認めています」
志垣の質問に朝比奈は答えた。
「例によって、早川瑞樹の問題でモメたようですね」
「そのときのカルロス山東の服装は、すでにカリブの海賊になっていたわけか」
「ええ、港書房の新雑誌編集部のリクエストもあって、ぼくとの対談は、トレードマークのリングコスチュームを着て行うことになっていました。対談風景の撮影がありますからね」
「夫婦ゲンカをしたときは、眼帯は?」
「それはしていなかった、と里佳子夫人は言っています。もちろんこの証言は、彼女が犯人ではないという前提に立たないと信用できません」
「そりゃそうだな」
アゴをさすりながら、志垣警部はうなずいた。
「で、夫人はそこで夫から暴行を受け、思いあまってきみの部屋へやってきた」
「ええ、そのときの興奮状態には驚かされました。たぶんこれまでにも夫と早川瑞樹との関係について精神的なストレスがたまっていたんでしょう。言動にずいぶん常軌を逸したところがありました」
「そして同じころ、早川瑞樹は隣のやりとりが気になったので、様子を見に廊下へ出た。すると、111号室のドアが半開きになっているのを見て中に入った」
「そこも本人の言い分を信じれば、の話ですけれどね」
「だが、カルロス山東と早川瑞樹の関係を考えれば、ドアが開いていれば遠慮なしに入っていっても不思議はないと思うが」
「いや、そこで里佳子夫人の証言と矛盾が生じるんです。夫人は、カルロス山東に殴られたあと、憤然として部屋を飛び出した。そのときに、まちがいなく自分はドアを勢いよく閉めたおぼえがあるというんです」
「ほう……」
空になったアイスコーヒーのグラスを意味もなくもてあそびながら、志垣がきいた。
「ちなみに、スイートルームのドアの数は」
「一つだけです。コネクティングルームとはちがって、部屋の中で寝室とリビングに別れているというだけで、ドアはリビングルーム側にひとつ設けられているだけです」
「そのドアを、里佳子夫人は閉めたといい、早川瑞樹は半開きになっていたという」
「ええ」
「里佳子夫人が111号室を飛び出してから、早川瑞樹が111号室に入るまで、どれくらいの間があったんだね」
「これも当事者がウソを言っていれば崩れるのですが、高木さんの話も含めて推測すると、およそ五分ほどとみられます。夫婦ゲンカの声がおさまってから五分ほどの間をおいて、自分は廊下に出てみたと、瑞樹は言っています」
「では、里佳子夫人も瑞樹も真実を言っており、如月会長、もしくは第三者が犯人だとしたら、犯行はわずか五分間のスキを狙って行われたことになるな」
「そうです」
「なおかつ、犯人はカルロスにドアを開けさせ、彼を殺してから、こんどはドアを半開きのままにして出ていった」
「仮に如月会長が犯人であれば、そうした行動をとったことになります」
「ふむ……」
志垣は渋い顔をして腕組みをした。
そして、そのままの格好で朝比奈に確認を求める。
「で、夫人を連れて一階へ下りてきたきみは、事件を聞かされて、まずもういちど部屋のドアを確かめてみたわけだね」
「そうです」
すっかりぬるくなったグラスの水を飲んでから、朝比奈はつづけた。
「たしかにドアは閉まっていました。そして高木さんがやったのと同じように、ノックをしても、チャイムを鳴らしても、大声で呼びかけても反応はありませんでした。それで私は、如月会長の部屋の庭に面したガラス戸を開け、表から様子を窺うことにしたんです」
「なるほど、現場は一階だからな」
「でも、芝生の敷き詰められた庭に出てみても、様子はわかりませんでした。庭側のガラス戸は内側からロックされ、カーテンがすべて引かれていたので、中の様子はまったくのぞくことができません」
「それでけっきょくホテル側に連絡をしたと」
「はい」
「それは朝比奈君が知らせたのかね」
「そうです。ぼくがフロントに電話をかけて、副支配人にきてもらいました。そして、マスターキーを使って中に入ってみると」
言葉を区切ってから、朝比奈は吐息とともに言った。
「たしかに、カルロス山東はリビングルームの床にあおむけになって倒れていました。カリブの海賊の格好をして」
「眼帯をかけて?」
「はい。ただしいつもとは逆の、左目に眼帯をかけて絶命していました。誰がみてもわかるほど額が陥没していて、そのそばに金づちが転がっていたんです」
「特殊なものかね」
「いえ、バハマではどこででも手に入れられるような家庭用のハンマーでした。この金づちの柄などから関係者の指紋は検出されなかったものの、これが凶器に使われたことは明白でした」
「それが直接の致命傷かね」
「他に三カ所。いずれも、頭や顔の前のほうです」
思い出したくもないというふうに、朝比奈は顔をしかめた。
「どの傷が最初なのかわかりませんが、あおむけに倒れてから、さらに金づちで殴打されたんでしょう。眼帯をはめていないほうの右目まぶたのすぐ上にも、パックリと大きな傷口が開いていて、そこから血が流れ出していました。眼球そのものは無事でしたが、その上がポコンと凹んでいて、人相が変わってみえるほどでした」
「カーッ」
その場面を頭の中で想像してみた志垣は、なにか酸っぱいものでも口に含んだような顔をした。
「じゃあ、即死かね」
「正確にいえば、その時点でもまだかすかに脈はあったんです。しかし、ホテルが呼んだ救急車がやってきたころには、もう……」
朝比奈は首を左右に振った。
「プロボクサーのカルロス山東が、何の抵抗もできないまま、真正面から額を割られてしまったわけか」
「後頭部に損傷はみられませんでした。つまり、後ろから襲われた形跡はないんです」
「しかし、なんだなあ」
しばらく間を置いてから、また志垣がつぶやいた。
「プロボクサーなんだから、反射神経は人一倍鋭いはずだと思うが、それでも抵抗の跡ひとつなかったのかね」
「おっしゃるとおりです。たとえば体格だけ較べてみれば、如月会長のほうが数段大きいわけですよ。でも、たとえ金づちを凶器として持っていたって、それだけでカルロス山東を倒せる確証など何ひとつなかったはずです」
「逆にやり返されるわな」
「そのとおりです。瀕死のカルロス山東をまのあたりにしたホテルの副支配人なども、やはりまっさきに如月会長の巨体を疑わしげな顔で見ていました。体格という点でいえば、彼がもっとも犯人らしいですからね。でも、すぐに彼も自分の推測の欠点に気がついたようでした。パンチをよけることでは天才的な動きをみせるボクサーが、こんなにあっさりやられるはずがない、と」
「カルロス山東の利き目は左だと言っていたな」
「ええ」
「いつもとは逆に、利き目のほうがふさがっていたために、相手の攻撃をよけそこなって……ってなことはないわな」
志垣は、言葉の途中で自分の意見を撤回した。
「ボクシングの試合中に、相手のパンチを受けて片目が腫れ上がり、完全にふさがってしまうなんてことは、しょっちゅうあるもんなあ。それくらいで、完全に防御不能になることはありえないし」
「………」
「で、悲惨な現場を前にしたときの、それぞれの反応はどうだったんだね」
「里佳子夫人は失神寸前、如月会長はソファにへたりこみ、高木さんもびっくり、そして早川瑞樹だけは、いちど部屋の中に入って状況を見ているせいか、全員の中でもっとも冷静でしたね。もちろん、心の中までは読み取れませんが」
「なるほど」
「しかし、いずれにしてもみんなはすっかり動転していたものですから、ぼくが指摘するまで、誰ひとりとして、倒れているカルロス山東がいつもと逆の目にアイパッチをしていることに気がつきませんでした。……いや、犯人だけは、その状況に当然気がついていたはずですけれど」
「わからんなあ」
志垣警部は、頭の後ろで手を組んで伸びをした。
「朝比奈君との対談が迫ってきたので、カルロスが眼帯をしてからきみの部屋へ向かおうとしていた。ここまでは想像できるよ。しかし、なんでまたいつもと反対側の目にそれをしなければならなかったんだ。そしてそのことと、プロボクサーの彼があっさり殴り殺されてしまったことが、どう関係するんだ……うん、待てよ」
何かに思い当たったように、志垣は前かがみになった。
「ひょっとしたら彼は、倒されてから眼帯を逆につけかえられたんじゃないかね、犯人の手で」
朝比奈は黙っている。
「え、どうかね、朝比奈君。これが正解なんじゃなかろうか。カルロス山東は、いつものように右目に眼帯をして、対談開始に備えていた。そこへ犯人がくる。なんらかの方法で、カルロスは抵抗もできずに殴り殺される。そして倒れたところで、犯人はカルロスの眼帯を右から左へつけかえる」
「どんな理由で?」
「そこがわからん。まったくわからん」
ついに志垣警部は、お手上げのポーズをした。
「降参だよ、朝比奈君。答えを教えてくれ。犯人は、どうやってカルロス山東を無抵抗のまま正面から殴り殺すことができたんだ。そして、眼帯がいつもと逆の目につけられていたのはなぜなんだ」
「最初はぼくも惑わされました」
ゆっくりとした口調で、朝比奈は言った。
「なぜ、右目ではなくて左目に眼帯が掛けられていたか――別の言い方をすれば、なぜ左目ではなく、右目のほうが見える状態になっていたのか――その必然性を、まったく探し当てることができませんでした。しかし、たんなるきまぐれで山東が逆の目に眼帯をしたとも思えない。如月会長にきいても、早川瑞樹にきいても、カルロス山東が逆の目にアイパッチをしたことは、かつて一度もないと言っているのです。
けれども、その眼帯の謎はさておいて、ぼくはカルロス山東を殴り殺した犯人は、その時点でもうとっくにわかっていました」
「なんだって」
志垣がギョロ目をむいた。
「現場を一瞥しただけでわかったのかね」
「いえ、現場を見るまでもなく、111号室に入る前からわかっていました」
朝比奈は、こともなげに言った。
「ただ、その犯人がどうやってプロボクサーを金づちで殴り殺せたのか――その方法がわからなかっただけです。コロンブスの卵ってやつに、すぐに行き着かなかったんですよ。正解があまりにもあっけないものでしたからね、完全に盲点になっていたんです」
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7
スイートルームの惨劇を見て血相を変えたホテル側が警察と救急車を呼び、それが到着するまでのしばらくの間、111号室の中には、沈痛とか悲愴といった表現をはるかに超えた、息が詰まりそうな雰囲気が漂っていた。
そうした中で、朝比奈耕作は壁に寄りかかったまま、カフェオレ色に染めた髪に片手を突っ込む得意のポーズで、物言わぬカルロス山東を見つめていた。
夫婦ゲンカをして部屋を飛び出してきたという妻の里佳子。隣の様子が気になって半開きのドアから中に入ったところ惨状を発見したという女流カメラマンの早川瑞樹。高木たちが騒ぎたてるまで自分はまったく異常に気づかなかったという如月会長。そして、瑞樹が部屋から飛び出してきた一部始終を語ってくれた高木洋介……。
ひょっとしたらどこかに嘘が含まれているかもしれないこれら四人の証言と、副支配人がマスターキーで部屋を開けるまでの朝比奈耕作自身の観察によって、すでに犯人とおぼしき人物の見当はついていた。
だが、プロボクサー相手に正面から殴りかかるという無謀な方法が成功した理由と、いつもと反対側の目に掛けられた眼帯の謎がわからない。
(凶器は金づち……)
山東のそばに転がっている金づちに目を向けながら、朝比奈は考えた。
(あの金づちを見て、いまの時点で推理できることが二つある。
まず第一に、凶器が現場に残されていること――これは、犯人にとって凶器を隠したり持ち帰ったりする余裕がなかったことを意味する。つまり、ぼくの考えている犯人像とこの状況とはぴったり一致するのだ。
犯人が妻の里佳子にしても、早川瑞樹にしても、如月会長にしても、いずれも凶器を隠す時間はないし、安全な隠し場所もなかったはずだ。ヘタに隠してそこから見つかるよりも、そのまま現場に残しておいたほうがいい――そういった判断をしたにちがいない。もちろん、その代わりに指紋は完全に拭き取っているはずだ。
第二に、このほうがもっと重要なポイントだが、なぜ犯人は、カルロス山東を襲うのに金づちという凶器を選んだのか、だ。
検視の結果を待たねばなんとも言えないが、少なくとも里佳子夫人と早川瑞樹という利害関係が対立する二人の女が、事件発覚直前までカルロスが夫婦ゲンカをしていた事実をそろって認めている以上、彼がしっかりと起きていたのは間違いない。睡眠薬を盛られて眠りこけたところを襲われた、という前提は成り立たないのだ。それからカルロスは酒も飲まないから、酔ったところを、という仮説も不成立。
また、あんな金づちがホテルの部屋に常備されているはずもないから、犯人が殺害のために前もって用意していたのは疑いのないところだ。となると……。
金づちさえ使えば、相手がライトヘビー級で連戦連勝中のプロボクサーであっても、堂々と正面から殴り殺せる――そういう絶対の自信を、犯人は最初から持っていた。そういうことになるじゃないか)
こうした現場では、死体に手を触れてはいけないのが鉄則だったが、朝比奈たちが部屋に飛び込んだときには、まだカルロス山東の生死は不明だった。だから、これまで数々の事件で血なまぐさい場面に慣れている朝比奈は、あおむけに倒れたカルロスの頭の下にそっと手を差し込んでみた。
が、頭蓋骨の後頭部や頭頂部に陥没はみられなかったし、出血もそこからはない。ダメージは頭と顔の前面だけなのだ。すなわち、カルロス山東は後ろから襲われたわけではなかった。
この点も朝比奈を悩ませたところだった。
仮に金づちで殴り殺すことを決めていたら、相手がボクサーであることを考慮して、スキを狙って後ろから、というのが常道ではないか。少しでも安全な方法を選ぶのが、犯人の心理としては当然ではないか。
それなのに、なぜ攻撃は前からだけだったのか?
「みなさん」
朝比奈はポツンとつぶやいた。
ほんとうはそこで何かをしゃべるつもりではなかったが、自然と口をついて言葉が出てきた。
半分失神状態の里佳子夫人をのぞく日本人三人が、いっせいに朝比奈のほうに向き直った。
スイートルームの中には、黒人のホテル副支配人や宿泊部長、それに警備員もいたが、彼らは日本語を解さないので、カルロス山東の無残な姿を見つめるばかりである。
「もしもぼくが推理作家として、自分の書くミステリーの中でこうした事件を起こしたならば……」
天井を見つめたり、壁に目をやったりしながら、朝比奈は言った。
「犯人は、関係者の中から出さなかったでしょう」
如月と早川瑞樹は、いったい何を言いたいのか、という顔で朝比奈を見つめている。
「小説の終わり近くになって、まったく新しい人物が真犯人として登場するのは、日本の推理小説では絶対にタブーとされていますが、じつは欧米のミステリーではわりとよくあることなんです。もしも今回の事件がぼくの作品の中の出来事だったら、少なくとも犯人はあなたがたの中からは出さなかったでしょう。奥さん、会長、早川さんの中からはね。そして、犯行はカルロス山東と対戦するエルセーラ・ジュニアの熱狂的ファンの仕業だった、というオチにしたのではないでしょうか。
推理小説としてはアンフェアな結末と非難されても、そのほうがまだ救いがある。これまでぼくはボクシングという世界にまったく興味を持っていなかったし、持とうとも思わなかった。正直言って、さっきまで対談がはじまるのを待っていた間も、憂鬱な気分だったんですよ。カルロスさんと同じ土俵にのって話ができるかどうか、それが心配だったんです。
けれども、こうやってひどい目に遭った山東さんを見ていると、犯人に対して猛烈な怒りを感じざるをえません。素手にグローブをはめただけのファイトに命を懸けていた彼を、金づちで殴り殺す――いったい、こんな卑劣な方法があるでしょうか。ボクサーにとってこんな残酷な結末があるでしょうか。だったら、むしろリングの上で対戦相手のパンチを浴びて息絶えたほうが、よっぽど山東さんにとっては幸せだったはずです」
ウッという嗚咽が聞こえた。
早川瑞樹が片手で口元を押さえていた。惨劇にもかかわらず、いままでずっと涙をこらえていた彼女が、とうとう耐えかねたように涙をあふれさせていた。
「だからぼくは」
朝比奈がつづけた。
「犯人が内部関係者から出てほしくはなかった。カルロスさんがどれだけボクシングを愛しているかじゅうぶんに承知している関係者だったら……変な言い方かもしれませんが、仮に殺意を抱いたにしても、こんな殺し方だけはしてほしくなかったです」
一同がシンとなった。
その中で、早川瑞樹のすすり泣きの声だけが聞こえる。
朝比奈は『殺し方』という言葉を使ったが、生死不明のカルロス山東の顔からは、すでに生命の灯は消えていた。
「ぼくには、すでにカルロス山東さんを襲った人間がわかっています」
唐突に朝比奈が言ったので、高木を含めた日本人全員が、えっ、という顔で彼を見た。その中には、失神同然だったはずの里佳子夫人も含まれている。
「如月さん」
「バカッ、何を言ってる。おれじゃないぞ!」
「そうじゃなくて、質問があるんですよ」
名前を言われたとたん、犯人として名指しされたと思ったのだろう、如月は顔を真っ赤に紅潮させ、Tシャツの布地をパンパンに膨らませた太鼓腹を出したり引っ込ませたりしていた。
荒い息をついて興奮するその様子を冷静な目で見つめながら、朝比奈がたずねた。
「さっき、庭のほうへ回り込むためにあなたの部屋に入ったとき、部屋に備え付けのテレビはついていませんでしたね。それを確認したいのですが」
「ああ、つけていなかったよ。それがどうした」
「では、何をなさっていました」
「なんだよ、けっきょく疑っているのか」
「質問にお答えください。高木さんや早川さんが異変を知らせたとき、あなたは何をなさっていました」
「本を読んでいた」
「何の本です」
「ホテルの部屋に備え付けの、よくあるだろう、体裁ばかり大仰だが、中身は香水やら宝石やらの宣伝ばかりというつまらない代物だ。あんたとカルロスの対談がはじまるまでのヒマつぶしに、そんなものをパラパラとね」
「なるほど。では、早川さん」
朝比奈は、ハンカチを目に当てて肩を上下させている早川瑞樹に向き直った。
「山東さん夫妻の口論が静まり返ってから五分くらい経ってから、あなたは廊下にその様子を見に出たということですが、その言い分にいまも変わりはありませんね」
「はい」
ハンカチで口元を押さえたまま、瑞樹がうなずいた。
そのとき、リビングのガラス戸越しに、遠くのほうからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
パトカーなのか救急車なのか朝比奈に聞き分けはできなかったが、おそらくこのホテルからの通報で駆けつける緊急自動車のサイレンなのだろう。ホテル側のスタッフの動きもあわただしくなった。
警察がきてくれれば、ある程度犯人を興奮させても大丈夫だろうと思った朝比奈は、そのまま話をつづけた。
「では、なぜ廊下に様子を見に行ったのです」
「え?」
朝比奈の質問の意味がわからず、瑞樹は顔をあげて聞き返した。
「なぜ、とは?」
「そのときたまたまこの部屋のドアが半開きになっていたから、あなたは中に入れたかもしれませんが、ふつうはホテルの部屋のドアは閉まっていると考えるのが常識でしょう。となると、仮に廊下に出たところで、何の様子も窺うことはできないじゃありませんか。ちがいますか」
「………」
瑞樹は答えに詰まった。
そこですかさず、カルロスの妻の里佳子が叫ぶ。
「やっぱりあんたがウチの人を殺したのね。自分が力雄と結婚できなくても、せめて私からは引き離したくて、それで殺したんでしょう。私が憎いから、やつあたりでカルロスを殺したんでしょう。なんていう人でなしなの!」
「そうじゃありません!」
瑞樹が言い返した。
「私が山東さんを殺すはずがありません。なぜなら、彼のことは誰よりも私が、奥さんのあなたよりも私のほうが、何百倍も強く愛しているからです」
「なんですって」
「奥さん、ちょっと待って」
朝比奈が激高する里佳子を制した。
サイレンはいよいよ近くなってきた。警察がくるまでに時間はない。言うべきことだけは言っておかなければ、と朝比奈は先を急いだ。
「瑞樹さん」
朝比奈は、美貌の女流カメラマンに向き直った。
「あなたは、この部屋の様子を窺うといった漠然とした目的で廊下に出たのではありませんね。様子を窺うのだったら、むしろ庭に出て芝生に面したガラス戸越しに、なんとか部屋の中が見えないかと試してみるほうが自然です」
「………」
「そうではなく、あなたは夫婦ゲンカで興奮した山東さんをなだめるつもりもあって、彼と直接顔を合わせて話をしようと、廊下に出たんでしょう。そしてこの部屋のドアをノックするか、あるいはチャイムを鳴らして、山東さんにドアを開けてもらおうとしたわけです。ところが、廊下に出てみたら、なぜかドアが半分開いていた。それが正解なんじゃありませんか」
「そうとはかぎらないわよ」
また里佳子が叫んだ。
「最初から殺す狙いがあって、この女は力雄に部屋のドアを開けさせたのよ。そして力雄を殺し、ほんとうなら誰にも見られずにまた自分の部屋に戻るつもりだったけれど、まずいことに部屋から出るところを出版社の人に見られてしまった。だから、ドアは開いていたと言うよりなかったのよ」
「では奥さん、ぼくからおたずねしますけれど」
こんどは朝比奈は、里佳子に向き直った。
「ご主人とケンカをして部屋を飛び出したとき、あなたはドアを閉めたことに間違いはないんですね」
「もちろん」
「思い切り強く閉めましたか」
「はい」
「どれくらい強く」
「バターンとですよ、バターンと」
言葉そのものに力を込めて里佳子は言った。さっきまでの憔悴しきった様子が信じられないほど、彼女の口調は強かった。まるで、早川瑞樹に対する憎悪が里佳子に元気を与えているようだった。
「そうしますと早川さん」
また朝比奈が瑞樹に向く。
「あなたは、里佳子夫人が部屋を出ていくときの様子に気づいておられたのではないでしょうか。思い切り強くドアを閉めたら、隣室にもその音は聞こえるはずですから。ねえ、如月さん」
急にまた自分に話がふられたので、太っちょの如月会長はあわてて返事をした。
「あ、ああ、とりたてて気にしてはいなかったけれど、ドアがバターンと閉まる音は聞いた気がするな」
「でしょうね、あなたはテレビなどもつけずに本を読んでおられましたから、夫人がドアを思い切り閉めた音は、無意識のうちに頭の片隅に残っているはずです」
「うん、それは記憶にある」
白い短パンからむき出しになった毛ずねを掻きながら、如月はうなずいた。
「あんたはそのことを確かめたくて、テレビは消していたのかとか、何をしていたのかと持って回った質問をしたのか」
「ええ」
「まったく推理作家というのは、こういうときも芝居がかった演出をするんだな」
如月勇人は不服そうに言ったが、それにかまわず朝比奈は瑞樹を見つめてたずねた。
「では、あらためて早川さん、確認させてください。ぼんやりと本を読んでいた如月会長ですら頭の片隅に残ったドアの音です。まして、隣室の様子に聞き耳を立てていたあなたが、それを聞いていないはずはありませんね。部屋の中の会話は聞こえにくくても、ドアの開閉音は廊下に直接響きますから、たとえ隣の部屋でなくても意外とハッキリ聞こえてしまうものです」
「………」
「そこでドアが閉まる音を聞いたと認めると、では、あなたが入るときに111号室のドアが開けたのは誰かという話になり、自分が不利になる――おそらくあなたの心理はそのへんにあると思いますが、このさいよけいな気を回さずに、正直に答えてみていただけませんか」
「ええ、聞きました」
朝比奈に問い詰められて、瑞樹は真実を答えた。
「おっしゃるとおり、奥さんが部屋を出ていったときの激しいドアの音を、私は聞きました」
瑞樹が言い終わったちょうどそのときに、緊急自動車のサイレンの音が最大限に達し、そして急に止んだ。ホテルの玄関に到着したのだ。
「しかしねえ、早川さん」
カフェオレ色に染めた髪に片手を突っ込みながら、朝比奈は言った。
「あなたは隣室の夫婦ゲンカが収まってから五分くらい経ったところで、自分の部屋を出たとおっしゃった。つまり、里佳子夫人がバタンとドアを閉めて出ていったのを聞いてから五分後に、カルロスさんの部屋へ行こうとした」
「はい」
「では、なぜ五分も待ったのです」
朝比奈は言葉鋭く追及した。
「すぐに駆け込めばよかったじゃないですか、カルロスさんの部屋に。それからもうひとつ『なぜ』の質問があります。ぼくがあなただったら、里佳子夫人が出ていったらしいと思ったらすぐに電話を入れますけどね。自分の部屋から111号室に内線電話を。そしてカルロスさんに、いったいどうしたのよと、まずは状況をたずねてみると思うんですけれど」
そうだ、そうだというふうに、高木がうなずいた。
「でも、あなたはそうした電話をかけはしなかったんでしょう」
「かけませんでした」
「それはなぜです」
「なぜって……」
次から次へとなぜかときかれても困る、といった顔で瑞樹は言いよどんだが、そのとき急に自分の行動の根拠を思い出したらしく、彼女は涙に濡れた目をハッと見開いた。
「鳴ったんです」
瑞樹は言った。
「なにが」
朝比奈がきく。
「チャイムが鳴る音が聞こえたんです、隣の部屋で」
「チャイム?」
「はい。私、彼がこんなことになったのですっかり気が動転して忘れていましたけれど、奥さんが出ていくドアの音がしてしばらくすると、隣の部屋のチャイムが鳴るのが聞こえました。だから、ああ、また奥さんが戻ってきたのかと思って、私はカルロスのところへ行くのはやめて、自分の部屋のバスルームへ行ったんです」
そのときのことを思い出す表情で、早川瑞樹が言った。
「朝比奈さんとカルロスの対談がはじまるまであまり時間もないので、彼に夫婦ゲンカのいきさつをたずねるのは後にするしかないと思って、私は仕事のほうに気持ちを切り替えて、バスルームで身支度を整えはじめました。まずは髪の毛をブローするためにドライヤーを使って……」
「なるほど」
「そのあとかんたんなお化粧直しをして、それが終わるのに四、五分かかったと思います。それで、また隣の様子が気になったので……そうです、さっきはいったん否定しましたけれど、やっぱり私はほんとうに様子を窺うだけのために廊下へ出てみたんです。そうしたらドアが半開きになっているのが目に入った」
「まあ、言うことがクルクル変わるのね」
里佳子が吐き捨てるような口調で言った。
「墟を重ねると、そういうふうになるのよ」
「いや、必ずしもそうとはかぎりませんよ、奥さん」
朝比奈が言った。
「早川さんが聞いたチャイムの音こそ、殺人者の訪問の合図だったとしたらどうです」
「なんですって」
「そして犯人は、きわめてすばやく静かに山東さんに襲いかかり、出ていくときには、わざとドアを半開きにしておいた。いろいろな人間に嫌疑がかけられるようにです」
「じゃあ朝比奈さん、あなたは私のことを……」
唇を震わせながら、カルロスの妻の里佳子が言った。
「私のことを犯人だというのね。おおげさな音を立てて部屋を出ていったけれど、すぐに引き返して彼を、自分の夫を……」
里佳子がぜんぶ言い終わらないうちに、スイートルームにバハマ警察の人間がドヤドヤと入ってきた。純白のユニフォームに金と赤の徽章《きしよう》が随所にちりばめられ、真っ黒な肌と美しいコントラストをなす、あのいでたちの警察官たちである。それから担架をかついだ救急隊員の姿もあった。
それを見て、朝比奈が鋭く言い放った。
「早川さん、あなたがいちばん英語が達者でしょうから、警官に言ってください。あそこにいる人間が、この事件を引き起こした犯人だ、と」
朝比奈が指さしたのは、ドレッドヘアの太っちょ会長、如月勇人だった。
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8
「バカなことを言うな」
ソファから立ち上がった如月が、破《わ》れ鐘《がね》のような声で叫んだ。
「おまえなあ、推理小説を書いているのとはワケがちがうんだぞ。人を勝手に殺人者よばわりしてタダですむと思っているのか。名誉棄損で訴えるぞ」
「その前に、あなたは殺人未遂罪で……いや、殺人罪で訴えられますよ」
カルロス山東の脇にかがみこんだ救急隊員が絶望的な表情で首を振るのを見ながら、朝比奈は言った。
「あなたは大きなカンちがいをなさっている。それにまだ気がついていないから、シラを切りとおせると思っているんです」
「なんだ、それは」
朝比奈と如月の緊迫した日本語のやりとりを、いったい何が起きているのかという顔でバハマ警察の人間が見つめていた。
「さっきもぼくが言ったでしょう。ホテルの部屋のドア周辺や廊下での物音は、部屋にいても意外なほどよく聞こえると。だからこそ、如月さんも里佳子夫人がドアを音高く閉めるのを聞いたんですよね」
「ああ、そうだ」
「でしたら、当然、早川さんと港書房の高木さんが廊下で大騒ぎしたのも聞こえていましたよね」
「あ……ああ」
「早川さんは、『殺されている』というようなことを何度も叫び、高木さんはこの部屋のドアを何度もノックし、何度もチャイムを鳴らし、何度も大声でカルロスさんの名を呼んだ。もちろんあなたは、そうした騒ぎを耳にしたはずですね。聞こえなかったとは言わせませんよ。テレビもつけず、静かに読書をされていたのですから」
「あ……」
「ほかでもない、自分がマネージメントしている大切なカルロス山東選手のことを、殺されたの死んだのと廊下で大騒ぎをしているわけですから、その緊迫したやりとりが聞こえたら、ジム会長であるあなたはびっくりして廊下へ飛び出していったはずですよね。まさか自分のドアを激しくノックされてもなお、そろそろ対談がはじまる時間かい、などと間の抜けた反応を見せたりはしなかったでしょうね」
「………」
朝比奈に畳みかけられて、如月はもはや絶句するよりなかった。
「そうかあ」
いまになってやっと気がついたという顔で、高木がうめいた。
「ぼくはぜんぜんそんなところに気を回していませんでしたよ、朝比奈さん」
カルロス山東をめぐる二人の女――瑞樹と里佳子は、ものすごい目つきで如月を睨んでいる。
朝比奈も高木も、如月をじっと見据えた。
そして、日本語のやりとりがわからないバハマの警察官たちですら、場の雰囲気から如月が追及されていることを察して、彼を見つめた。
そうした視線の集中砲火を浴びて、如月勇人は完全に立ち往生した。誰が見ても、自分自身に疚しいところがあるのを隠せない態度である。
だが、如月は必死に踏ん張ろうとした。
「おまえがなんと言おうと、おれにカルロスが殺せるはずがないだろう」
如月は叫んだ。
「いくらおれの身体がデカくたって、おれはプロボクサーでもプロレスラーでもない。ただのデブにすぎないんだ。空気デブだ。水ぶくれだ。こんなおれに、世界ライトヘビー級タイトルマッチを目指して連勝中のカルロスを殴り殺せるはずがないじゃないか。金づちで襲いかかったって、あっさりと攻撃をかわされて、逆に殴り倒されるのがオチじゃないか」
そこを突っ込まれると、朝比奈もつらかった。
まだ答えが出ないのだ。カルロス山東が真正面からあっさり襲われた事情も、それからカリブの海賊の格好をした彼が、なぜかいつもと反対側の目に眼帯をしている事情も……。
「いいか、朝比奈」
おととい夕食の席でみせた丁重な態度はすっかり姿を消し、如月は朝比奈を呼び捨てにした。
「この騒ぎが一段落したら、おまえとははっきり決着をつけよう。少なくともバハマ警察の連中の前で犯人よばわりされた以上、やつらだって日本語がわからなくてもおれを疑いの目で見てしまうのは間違いない。これで警察に引っぱられて拘留でもされることになったら、ボクシング界でのおれの信用は一気に失墜だ。
そうなったら、おまえを名誉棄損で裁判所に訴えたうえで、慰謝料を一億ドル請求してやる。もしもマイク・タイソンがジョージ・フォアマンとの対戦を承諾していたら、この金額がファイトマネーになったといわれる一億ドルをな」
そう言うと、カルロス山東の死体をはさんで向こう側にいた如月は、凄みを利かした視線を返しながら、朝比奈のほうへとゆっくり歩み寄った。
如月としては、狼狽《ろうばい》を怒りに置き換えてごまかすよりなかった。彼は明らかに朝比奈耕作を殴ろうと考えていた。
朝比奈にもそれがわかったが、彼も逃げるつもりはなかった。受けて立ってやるという気概で、朝比奈はまるで動じなかった。
(まずいな、これは)
と、高木は心配した。
(こんなところで殴り合いをはじめてもしょうがないぞ)
高木は二人の間に割って入ろうかと思った。が、そのとき奇跡が起こった。
あとで、その場にいた誰もが、あれは『カルロスの怨念』が真相を明らかにしてくれたのだ、と口をそろえて言った現象が起きた。
朝比奈を睨みつけながら詰め寄ってきた如月は、足元にまるで注意を払っていなかった。朝比奈からズバリ殺人犯だと指摘されて興奮の極にあったため、とても周囲に目を配るゆとりがなかったのだ。
だから如月は、リビングの床にあおむけに倒れたカルロス山東のそばを、いま自分が通過しつつあることをまったく意識していなかった。
と、死んだはずの『カリブの海賊』の右手が、まるで生き物のように如月の片足にまとわりついた。
冷静に観察していれば、それはたんに如月が死体の右手につまづいただけだとわかるのだが、朝比奈にも高木にも瑞樹にも里佳子にも、あるいは死体の脇に陣取っていた救急隊員にとっても、片目に眼帯をしたカリブの海賊が、いきなりギュッと如月の足をつかんだかのようにみえた。
如月はハッとなって、自分の足元を見た。
死体を踏みつけそうになっていることに気づき、彼はびっくりして足をもつれさせた。バランスを崩した巨体は大きくよろけた。死体の上に倒れることこそ避けられたが、そのそばにあったテーブルのほうに、如月は倒れ込んだ。
その勢いで、そこに飾ってあった花瓶が倒れ、赤いブーゲンビリアの花が投げ出されるとともに、中に入っていた水がテーブルの上にサーッと広がった。
そして、その水はそのまま端からこぼれ落ちて、尻もちをついた如月の白い短パンをぐっしょりと濡らした。
「あ」
朝比奈の目が、如月の短パンのある部分に吸い寄せられた。
水に濡れたため、短パンの白い布地が透けてしまい、ポケットの中に突っ込んであるものの色が浮かび上がって見えた。
それは黒い『何か』だった。
いや、色が透けて見えただけでなく、その物体の一部がポケットの口からはみ出してしまっていた。それは、黒い紐だった。
つまり如月勇人のポケットの中にあったものは、髑髏のマーク入りの黒い眼帯――
息絶えたカルロス山東が左目にしている眼帯とまったく同じ形の眼帯が、如月会長の短パンのポケットにも入っていたのだ。
それを見た瞬間、朝比奈の脳裏に事件の真相がひらめいた。
「コロンブスの卵だ!」
おもわず朝比奈は、口に出して叫んだ。
[#改ページ]
★★★★
「いつもは右の目に眼帯をしている『カリブの海賊』が、なぜか殺されているときには左の目に眼帯をしていた――そういうふうに解釈するかぎりは、永遠に謎は解けなかったかもしれません」
喫茶室のテーブルをはさんで向かい合った志垣警部に、朝比奈は言った。
「じつはカルロス山東は、如月に襲われたとき、右の目にも左の目にも眼帯を掛けられていました。つまり、まったく両目が見えない状態におかれていたんです」
「なんだって!」
まったく予想もしていなかった話の運びに、志垣警部はおもわず大きな声をあげた。
「両目に眼帯だと」
「如月が、カリブ警察の追及に耐えられずに告白したところによりますと、事件はこうして起きました。カルロス山東から唐突に、こんどの試合かぎりで契約を解除すると言い渡された如月は、その背景に悲劇的な病気の問題があるとは知らず、金づるを失うあせりと同時に、カルロスの『裏切り』に対する怒りで、猛烈な殺意を心に抱いてしまいました。飼い犬に手を咬まれた、と感じたときの怒りはまた格別でしょう。その怒りの暴走に、歯止めがかからなかったわけです」
朝比奈の話は、いよいよ最終場面にきていた。
「そして如月は凶器を準備しました。なんと金づち。というのも、プロボクサーを真正面から無抵抗で殴り殺す名案を、如月は考えついたからです。そのポイントは、カリブの海賊に扮するときに使う髑髏のマーク入りの眼帯でした。
こうしたトレードマークのコスチュームは、汗をかいたり汚れたりしたときの替えを最低でも一組は用意しておくのがふつうです。そして実際カルロス山東の場合も、カリブの海賊衣装セットを二組作ってありました。つまり髑髏マーク入りの黒い眼帯も、まったく同型のスペアがあったというわけです。
さて、里佳子夫人が大ゲンカをしてドアの音も高く部屋を飛び出したあと、如月はすかさずここがチャンスとばかりに、準備を整えて山東の部屋のチャイムを鳴らします。そして彼にドアを開けてもらい、リビングスペースでさっそく相談事に入ります。
ちなみにスイートルームのリビング側は、如月の部屋――110号室寄りにありましたから、寝室との境のドアを閉めておけば、反対側の112号室の早川瑞樹には会話も聞かれないわけです」
「そうした部屋の中の会話が聞こえるか否かについては気配りをしたのに、廊下での騒ぎ声については、まるで神経を働かせなかったんだな」
志垣は苦笑いをした。
「だいたい凝った犯罪を犯すやつは、思わぬところで間抜けなことをやらかすものなんだ」
「如月は、ぼくとの雑誌対談が十数分後に迫っている状況を利用して、山東にこうもちかけます。おいカルロス、たまにはいつもと逆の目に眼帯を掛けて写真に撮られてみたらどうだ、と」
朝比奈はつづけた。
「山東は、なぜ如月会長がそんなことを言い出したのか、さっぱりわかりません。すると、けげんな顔の彼に対して如月が言うのです。カルロスは左目に眼帯をしたほうが写真のあがりがいい雰囲気になりそうな気がするわ、と瑞樹ちゃんが言ってたぞ、と」
「山東の早川瑞樹への信頼と愛情を、そこでうまく悪用したわけだな」
「そういうことです。そして如月は、山東が自分で保管している眼帯の紐の位置を調整させて、まずはいつもと反対の左目につけさせてみます」
「わかってきたよ、朝比奈君」
志垣がそのあとを引き取った。
「きっと如月はこうつづけたんだろう。いや、やっぱりいつもどおり右目にやったほうが似合っている気がするな、という具合に……。それを聞いた山東は、左目にした眼帯を右目につけ替えようとしただろうが、それを制して如月はスペアの眼帯を取り出した。いちいち右だ左だと替えるのは面倒だから、このスペアを右目にやってみてくれ、そうすれば左右いっぺんに比較できる、とでも言ったのだろう」
「おっしゃるとおりです。会長の邪悪な計画を露ほども知らないカルロス山東は、なんだか変だなとは思ったかもしれないが、ともかく言われたとおりに、もうひとつの眼帯を右目にします。山東は笑いながらこう言ったそうです。会長、両方の目に眼帯をしちゃったら、何も見えないじゃないですか、と……。そしてその瞬間に、ハンマーの一撃がカルロス山東の額めがけてぶち込まれたのです」
朝比奈の言葉に、志垣がビクンと肩をこわばらせる。
「山東は笑ったまま悪魔の一撃を受けて、あおむけにひっくり返りました。両目に眼帯を掛けた異様な格好のまま倒れながらも、なお彼の口元は笑みを浮かべつづけていたそうです。衝撃が激しすぎて、脳神経がいま起こった出来事を理解できず、笑顔を急に引っ込めることができなかったのでしょう」
「ひどいな……」
笑いながら死んでいく『カリブの海賊』の姿を思い浮かべて、志垣警部は顔をしかめた。
「如月は、山東が昏倒するとすぐに片方の眼帯をはずそうと計画していました。片方を取れば、襲われたときに山東はちゃんと片目で物が見えていたことになる。そこが如月会長の狙いでした。金づちを使ったにせよ、犯人はなぜ世界レベルのプロボクサーに真正面から効果的な一撃を与えることができたのか、大きな謎が残ります。
そして、後ろから不意打ちをするのではなく、わざわざ前から襲うことによって、警察がこんな判断をすることを如月は期待していました。すなわち、カルロス山東はよほど相手に対して油断をしていたにちがいない。となると、犯人は女。妻か愛人のどちらかだろう、と。
その名案の最後の仕上げとして、如月は、両目に眼帯をした山東の顔から片方の眼帯を取りはずしにかかります。ところが最初に左目、後から右目に眼帯をさせたため、下になったほうの左目の眼帯を先にはずすわけにはいかなくなりました」
「なるほど、それでいつもとは反対側の目に眼帯が残されたというわけか」
「ええ。ヘタにその事実が気になったものですから、ぼくはよけいな惑わされ方をしてしまったんです。おまけに如月は、片方の眼帯を取ったのち、さらにカルロスの顔や額に攻撃を加えましたから、そこにもうひとつの眼帯が存在していたとは、なおさら想像しにくい状況になったのです」
「いやあ、恐れいったね」
すべての解決がついたところで、志垣警部は首の後ろを掻いた。
「まさにコロンブスの卵といった真相だが、しかしそれとて、犯人が土壇場で転んで花瓶の水をこぼさなければ、謎は謎のまま残されてしまったかもしれないな」
「怨念はこわいですよ」
朝比奈はポツリと言った。
「この事件は、殺された死者自身が、おのれの命を奪った犯人をあばいたようなものです。だからぼくは、こんどカルロス山東のお墓にお参りにいってこようと思っているんですよ。高木さんといっしょにね」
「それがいい」
喫茶室の椅子から立ち上がりながら、志垣は言った。
「心から供養してやらんと、笑いながら殺されていった男は浮かばれんぞ」
[#改ページ]
一枚の写真A カリブの思い出
コロンブス上陸[#「コロンブス上陸」はゴシック体]
「おめーの水着姿なんか見たくねーんだよ」
と、このページを開いたとたん怒り出した人、ごめんなさい。じつはこの写真においては、私が主役ではない。この場所そのものに意味があるのだ。
こんな格好で寝そべっているからには、私が見ている方向には海が広がっているのだろうと容易に想像がつくと思う。しかし、海は海でもタダの海ではない。ここは、アメリカ新大陸を発見した、かのコロンブスが最初に上陸した地点を間近に控える海岸なのである。
新大陸発見の年といえば、誰もが一度は歴史の時間で暗記したはずの年号|一四九二《イヨークニ》。そして、その499年後の一九九一年、『吉村達也、コロンブス上陸ノ地ニテ日光浴ヲスル之図』が左の写真というわけだ。
この島の名前はグアナーニ島、またの名をサン=サルバドール(聖救世主)島という。フロリダ半島の東に広がる七百二十三の島から成るバハマの中にあり、キューバ東端から真北の線上に位置する地図にも載らないような小さな島だ。
ここへは首都ナッソーから水上飛行機に乗って着いた。ちなみに後ろの建物は『海の家』ではない。れっきとしたホテルである。だが、各部屋に電話がないのはもちろん、ホテル全体でたった一個。おまけにこの時点で、島全体で電話回線が一本だか二本しかなく、島のどこかで電話を使うと、たった一つしかないホテルの電話すら使用不能となるありさま。さすがに仕事大好き人間の日本人も、ここへきたら『報告・連絡・相談――略してホーレンソウを忘れずに』などと神経質なことは言っていられなくなる。仕事《ワーカ》中毒症《ホリツク》の治療にはもってこいの場所かもしれない。
しかし、かくいう私は、さすがにサン=サルバドール島へはワープロを持ち込まなかったものの、首都ナッソーのパラダイス・アイランド――その名も楽園の島――においては、しっかりとワープロを叩いて仕事をしていた。ちなみに、バハマで書いていた原稿は『大井松田―御殿場渋滞20キロの逆転』というすばらしく陳腐な題の(わざとですよ、わざと)短編である。目の醒めるような美しいマリンブルーの海を望む天国の島のホテルに滞在しながら、なんでまた東名高速の渋滞をテーマにした推理小説など書いていたのか。思い返すと、私は情けないですよ。
じゃ、それはいったいどんな中身なんだとご興味をお持ちの方は、著作リスト72番の短編集『ダイヤモンド殺人事件』にこの作品が収録されていますのでご一読を。
さて、このワンナイトミステリーのシリーズは、じつに単純な発想から生まれた。
いまから三年ほど前の冬のことだが、締め切りに追われながら、毎晩徹夜徹夜の執筆生活がつづいていたころ、どうしても深夜に食事を取りたくなる。しかし、腹に負担をかけすぎては頭が冴えなくなる。そういうときには、コンビニで売っているミニサイズのラーメンやうどんが、腹五、六分目程度でちょうどいいサイズだと気がついた。レギュラーサイズや一・五倍の増量タイプは、食後に自然と身体を動かす日中に摂るならばよいが、深夜にはあまりにヘビーすぎる。
おっ、ひょっとしたらミステリーもラーメンと同じではないかな、と思った。つまり、眠いけれど眠れない――そんな夜に、『同じ質の味わい』を持つミステリーでありながら、読み終えるまで体力的時間的に消耗しない手頃な分量の小説がほしくなりはしまいか、と考えたわけである。そして、思いついたらやってみないと気が済まないタチなので、構想三年、ついにこうやって『新商品発売』にこぎつけた。
発想の原点がコンビニの商品にあったせいか、一冊のお値段がこれまたなんと画期的。♪勉強しまっせ、吉村の推理――である。
角川文庫『「カリブの海賊」殺人事件』平成7年8月25日初版発行
平成12年10月15日3版発行