[#表紙(表紙.jpg)]
ふたご
吉村達也
目 次
一  密 談
二  別れの朝
三  妹
四  唯季とユリ
五  衝撃の提案
六  変 心
七  最初の恐怖
八  究極の可能性
九  ゲノムの世界
十  一卵性の謎
十一 ヴァニッシング・ツイン
十二 美しき異常細胞
十三 操られて
十四 再 会
十五 闇の奥へ
十六 赤い怒り
十七 現実と真実
十八 神々の世界へ
十九 豹 変
二十 吹雪の中で
あとがき
[#改ページ]
一 密 談
「最終的な決心はついた」
安達真児《あだちしんじ》はポルシェのハンドルを神経質そうに指で叩きながら、ややうわずった声で言った。
「気持ちの区切りだけでなく、具体的な段取りも決めた。すべての手はずを整えたんだ」
「ほんとう?」
助手席から、中曾根麗奈《なかそねれな》が疑わしそうな口調でたずねてきた。
「ほんとうに決めてくれたの」
「ああ、ぼくは唯季《ゆき》を……殺す。カミさんを……殺すよ」
どんなに平静さを保とうとしても、安達の声に含まれた震えは隠せなかった。
助手席の麗奈は恋人の表情をもっとはっきり見ようと目を見開いたが、周囲の闇《やみ》がそれをじゃました。
時刻は午前二時。場所は車の行き来のない箱根の山道。おまけにポルシェの窓ガラスには濃い色のスモークフィルムが貼《は》られ、しかもライトを消しているからメーター機器の明かりすら灯《とも》っていない。麗奈としては、安達の顔の輪郭をシルエットでとらえるのがやっとだった。
静かな山の中で、アイドリング状態にしたポルシェのエンジン音だけが響く。
晩秋――
ヒーターを止めてしまえば車の中があっというまに冷蔵庫に変貌《へんぼう》してしまいそうなほど、外は冷え込んでいた。
だが、もちろん安達の声の震えは寒さのせいではない。
「ほんとうに唯季さんを殺してくれるのね」
麗奈が念を押す。
こちらの声は、怖いほど冷静だ。
「唯季さんはあなたの奥さんよ。わかっているんでしょうね」
「あたりまえじゃないか。いまさら何を言ってるんだ」
「じゃあ、ほんとうに自分の奥さんを殺せるのね」
「ああ……殺せる」
「三年間、妻としてあなたといっしょに暮らしてきた人を殺せるのね」
「できるよ」
「あんなにきれいな奥さんを?」
「できる」
「美人でやさしくて、自慢の奥さんだったはずなのに」
「結婚してみりゃ欠点も目につくさ」
安達は、硬い声で言った。
「なぜそこまでできるの」
「え?」
「なぜそこまで気持ちを固められたの」
「この期に及んでわかりきった質問をしないでくれ」
安達の言葉は苦渋に満ちていた。
「麗奈といっしょになるには、これしか方法がないじゃないか。唯季が冷静に離婚に応じると思うか」
「思わないわ。とくに相手が私みたいな女だと知ったら」
麗奈は、いろいろな意味を含めてそう言った。
「だから結論は一つしかない、というわけだ」
「そこまで私を愛してくれているのね」
「そうだよ」
「唯季さんよりも、ずっとずっと私のほうが女として魅力的だから?」
「……そうだよ」
その答えに一瞬のためらいが含まれていたのをとっさに感じ取って、麗奈は言い方を変えてみた。
「麗奈こそ、あなたの奥さんにいちばんふさわしい女だってわかったから?」
「そうだよ」
こんどはすんなり答えが返ってきた。
それで麗奈は少し腹を立てた。で、意地悪な念押しをした。
「私のためなら、唯季さんなんかこの世にいなくなっちゃってもいいと思ってくれたのね」
「ああ、そうだよ」
こんどの返事は迷いがなかった。
「うれしい!」
短く叫ぶと、麗奈は暗闇《くらやみ》の中、手探りで安達の顔を引き寄せてキスをしようとした。
だが、唇を求めるつもりが、的が外れて鼻にふれた。
「それで、どうやって殺すの? 唯季さんを」
その質問は、安達の鼻と〇・五センチしか離れていない麗奈の唇から発せられた。だから、温かい息とかすかな口紅の匂《にお》いが入り混じった言葉になる。
「自宅で絞め殺す」
安達は、よぶんな装飾語抜きで言った。
そのぶん壮絶な迫力があった。
麗奈はビクンとして、男の身体から身を離した。
「家で……殺すの?」
「ああ」
「そんな危ないことをしないで、どこかに誘い出してやっちゃえばいいじゃない。たとえば、こういった淋《さび》しい山奥に」
「それはダメだ」
「どうして」
「唯季は、むかしはモデルをやっていても、いまは平凡な人妻という立場なんだぞ。そういう人間が山奥まで誘い出されたとわかってみろ。それは、よけいな心配をしないからついていったと解釈できるだろう。そして、唯季がもっとも心を許す人間といったら、夫のぼくなんだ」
「だけど、死体が見つからなければいいんでしょ」
「どんなに隠したって死体は見つかるものだ。これまでのいろんな殺人事件は、みんなそうじゃないか。死体の発見から事件が表沙汰《おもてざた》になって、けっきょくは犯人がつかまってしまう結末になるんだ」
「深く掘って埋めればだいじょうぶよ」
麗奈は平然と言い放った。
「私、何かの推理小説で読んだもん。死体が出てこなければ、殺人事件って成立しないんでしょ」
「いくら死体が見つからなくても、唯季が姿を消したという事実は隠せない。それはヤバいじゃないか」
「……ま、そうだけど」
「だから家で殺すしかないんだ」
「でも、そんなことしたらよけいにシンちゃんが疑われるじゃない」
麗奈は、六つ年上の三十一歳の男を気安くシンちゃんと呼んだ。
「ぼくは、完全なアリバイを作っておく」
安達真児は、きっぱりと言った。
「唯季が絞め殺されたとき、ぼくはずっと遠くの場所に仕事で出かけている。だから、ぼくが犯人ということはありえない。そのために首を絞めて殺すという方法をとるんだ」
「どんなトリックを使うの」
「トリック?」
暗闇の中で、安達は麗奈を見返した。
「ドラマやってるんじゃないんだぞ、これは。トリックみたいな非現実的なマネができるわけないだろう。完璧《かんぺき》なアリバイを作るということは、ぼくは実際には手を下さないということさ」
「え……」
「唯季の殺害を人に頼むんだ。委託殺人ってやつだよ」「私がやるのはイヤよ!」
かぶせるように麗奈が叫んだ。
「私にそういう役目を押しつけないで」
「あわてるなよ。誰も麗奈にそんな危ないまねを頼むとは言ってないだろ」
「だったら、誰に」
「見知らぬ男さ」
安達はポツンとつぶやいた。
「池袋の裏通りで実行犯として適当な男を見つけた。ホームレスの男だ。もう手付けの金は渡してある」
「シンちゃん、あなた、なんてバカなことをするの!」
年下の女が怒った。
「そんなことをしたら、赤の他人に私たちの大切な秘密を握られてしまうじゃない」
「そうだよ、一時的にはね」
「一時的に、じゃないわよ。私たちはその男に永久に首根っこをつかまれたまま一生を送らなければならないのよ、永久に!」
麗奈の声は焦りで裏返った。
「やめてよ、そんな計画は」
「もう遅い」
「もう遅いって……まさか今夜」
「今夜ではない。アリバイを完全に成立させるには、箱根では近すぎる。横浜のぼくの家まで、夜中だったら車ですぐじゃないか。それに、アリバイを証明する人間が麗奈だったら、何にもならないだろ。やるのは明日の晩だよ。……というよりも、もう『きょう』になるわけだけれど」
安達はタバコを求めて胸のポケットをまさぐった。が、すでにさきほど最後の一本を吸い終えたことを思い出し、軽く舌打ちをしてから話をつづけた。
「ぼくはきょうの昼前から仕事で広島ロケに出かける。そして着いた晩から現地で撮影があるんだ。つまり、監督や共演者がぼくのアリバイを証明してくれるというわけだ。これ以上客観的なものはないだろ」
「じゃあ、唯季さんを殺すのは……」
「今夜ではなく、明日の未明だ」
「だったら、中止するのに遅すぎるということはないわ」
麗奈は安達の腕をつかんで揺すった。
「ねえ、見ず知らずの他人に人殺しを頼むなんて、そんなむちゃなマネはやめてよ。私は、シンちゃんが自分の手で奥さんを殺すと決めたのだと思ったのよ。だからうれしいと思ったの。私のためには、ジャマな奥さんも殺してくれるのね、って。でも、これじゃ話が違うわ」
「だめだ」
安達は平板な口調で言った。
「中止はできない」
「なんでよ」
「ホームレスの男とは、もう計画実行前には会えない。事が成功したのが確認されてから十日後に、残金を支払うために会う約束になっている。なぜそうしたかといえば、十日も経てば事件のゴタゴタが一段落しているはずだからだ。唯季の初七日の法要も終わっているし……。それまでは実行犯と連絡はとれない。相手は住所不定の男なんだ」
「それなら奥さんを逃がして」
たったいままで、不倫相手の妻が殺されることを喜んでいた麗奈が、必死にそのライバルの命乞いをはじめた。
「明日の晩、唯季さんにどこかに外泊するように言って。お願い」
「麗奈、よく聞けよ」
安達の口調が改まった。
「これは、考えに考え抜いた末の方法なんだ。いいか、ぼくが有名人だということを忘れるな」
その言葉とともに、安達真児は車のルームライトを点《つ》けた。
たいした光量の明かりではなかったが、真っ暗闇《くらやみ》に慣れた目にはまぶしすぎて、麗奈は一瞬目をしばたいた。
間近に、テレビや舞台でおなじみの俳優≪アダチシンジ≫の端整な顔があった。こういう状況で見ても、惚《ほ》れぼれするような美しい顔だった。
名前からすると純粋な日本人のようだし、実際、国籍は日本だったが、安達はドイツ系アメリカ人とのハーフだった。だから日本人とは根本的に目鼻立ちが異なっていた。
瞳《ひとみ》の色も、まつげの長さも、鼻筋の通り方も、唇の薄さも、あごの尖《とが》り方も、すべてが――麗奈にいわせれば――抜群にオシャレだった。もちろん、胸の厚さも脚の長さも日本人ばなれしている。そこに、中曾根麗奈は惹《ひ》かれたのだ。一目惚れとは、男だけが使うためにある言葉ではないんだわ、と麗奈は感じていた。
そうした気品ある顔立ちのため、安達は芝居のうえで貴公子的な役どころをもらうことが多かった。金持ちの御曹司《おんぞうし》とか世界を股《また》にかける青年実業家といった役のように、俳優としてのアダチシンジは、つねにリッチなイメージと切り離されることがなかった。彼は、ほんとうに顔で得をしているのだ。
暗闇の中の会話では安達の計画に猛然と反対していた麗奈も、明かりが灯されて、いざ安達の貴公子然とした美しい顔を見てしまうと、急に何も言えなくなってしまった。
安達は、そのへんの麗奈の心理を見透かしたうえで、ルームライトを点けたのだと思えなくもなかった。さすがに俳優だわ、と麗奈はため息をつかざるをえなかった。
そして一方の中曾根麗奈は――その名前が抱かせる美しく華やかなイメージとは裏腹に――自分の容姿が並み以下であることを自覚していた。
男たちの身勝手な鑑賞眼に照らし合わせてそう思ったのではない。むしろ、客観的にみれば麗奈の外見は『ごくふつう』だった。けれども、麗奈はあまりにも美女願望が強かった。面食いの男以上に、彼女は自分自身の理想像に対して高望みをしていた。その理想と現実のギャップに、麗奈は落胆し、劣等感を抱いていた。
彼女の父親、中曾根|興太郎《こうたろう》は骨董屋《こつとうや》から身を起こした美術商で、さらには時代に対する鋭敏な嗅覚《きゆうかく》を持ち合わせていたらしく、バブル期に不動産や株の売買にも手を出して巨額の資産を築き上げた。そして、他の成金長者と違っていたのは、いちはやくバブル崩壊の予兆を察して、その資産の大半を現金化したところだった。そのため麗奈の父親は、バブル崩壊の被害を免れた数少ない金持ちのひとりとなった。
中曾根興太郎は、いかにも金儲《かねもう》けが得意だというふうなアクの強い顔立ちをしていたが、その容姿が、一人娘の麗奈にもはっきり遺伝していた。それが麗奈の最大のコンプレックスだった。二重《ふたえ》だけれども、あまりにもギョロリとした大きな目は気に入らなかったし、自己主張の強そうな大きな鼻もきらいだった。そして、よく言えば肉感的な厚めの唇も、だ。こうした父親譲りの顔立ちが、麗奈は許せなかった。
以前どこかの週刊誌が『親バカシリーズ・自慢の愛娘《まなむすめ》』とかいうタイトルのグラビアで、中曾根興太郎親娘の取材を申し入れてきたことがあった。父の興太郎は大喜びで二つ返事で承諾したが、麗奈は頑としてそれを拒否し、とうとう取材は流れてしまった。
父親はひどく落胆し娘に文句を言ったが、麗奈にしてみれば、そっくりの父親と並んで写真を撮られ、それが全国の人々に見られるなど恥以外の何物でもなかった。
麗奈は、自分には『女としての武器』がないことを自覚していた。そういう発想じたい、男女同権論者の女性たちからは顰蹙《ひんしゆく》を買う代物だとわかってはいた。しかし麗奈にしてみれば、目の覚めるような美貌《びぼう》か、男をそそるような肉体か、両方とは言わないが、そのどちらかは欲しかった。それなのに、彼女はどちらも手に入れることができなかった。
残された唯一の武器は、父親から受け継ぐ莫大な資産だった。
先ほどの会話のやりとりを待つまでもなく、若手人気俳優のアダチシンジが麗奈に浮気してきたのも、つまるところバックの財力に目がくらんだのだということが彼女には痛いほどわかっていた。が、それでもよかった。麗奈は、自分に美貌を求めるのをあきらめた代わりに、将来のパートナーとなる男性に美しさを求めた。世間の多くの女性と違って、麗奈の場合は、より恵まれた生活のために男を選択する必要はなかった。彼女にとって結婚の目的は、美しい男と寄り添って暮らすことだった。
その点では、安達真児という男は理想のパートナーだった。毎晩眠りにつくときに、そして毎朝目覚めたときに、この美しい男の顔がわずか数センチの距離にあるのかと思うと、麗奈はそれだけで興奮した。
それにこの男と結婚すれば、女の子が生まれたときに父親似の美少女が誕生するに違いないと、麗奈は確信した。そして、その娘に自分の果たせなかった夢を託すのだ。
そんな麗奈だったからこそ、安達真児の妻である唯季の飛び抜けた美貌には、狂おしいまでの嫉妬《しつと》を、そして憎悪の炎を燃やしていた。
唯季は麗奈と同じ二十五歳だったが、三年前に安達と結婚するまでは、女性ファッション誌の専属モデルをやっていた。人気ナンバーワンのトップモデルである。だから麗奈は、唯季と面と向かって会ったことはなくても、ライバルの目の覚めるような美しさを雑誌を通してイヤというほど見せつけられていた。
しかも腹立たしいことに、こんな関係になろうとは夢にも思わなかった数年前、麗奈はそのファッション誌を愛読しており、唯季がモデルとなって身につけた高価な洋服を片っ端から買い漁《あさ》っていた。だが、いざ自分が着てみると、決して唯季のように見栄えがすることはなく、そのギャップに落胆させられてばかりいた。
そうした経験もあったため、アダチシンジ夫人に対する麗奈の嫉妬と憎悪は生半可なものではなかった。
「麗奈、ぼくは有名人なんだよ」
安達は、催眠術でもかけるようなまなざしで麗奈をじっと見つめながら、同じ言葉をつぶやいてきた。
「有名人から妻殺しを頼まれた人間の心理を考えてごらん。当然、麗奈が想像しているような行動をとると思うよ。つまり、これをきっかけにぼくを強請《ゆす》ってやろうというふうにね。逆にそこがこっちのつけめなんだ」
そこで安達は、運転席側の窓を少しだけ開けた。
凍りつくような冷気が車内に流れ込んできた。だが、それを寒いとは少しも思わないほど、安達も麗奈も気が張りつめていた。むしろ、興奮を覚ますのにはちょうどよい気温だった。
「ぼくを永遠の金づるだと思うかぎり、少なくとも最初のうちは、男も秘密を守るはずなんだ」
語る安達の息が白くなった。
「そうだろう? テレビでおなじみのアダチシンジに頼まれて、その妻殺しを引き受けた。もちろんアダチは秘密を守るように頼んでくる。男としては、その秘密を守る代わりに、殺害報酬の契約金の追加を、いつまでもいつまでもねだれると計算する。金をよぶんに出さないとぜんぶバラすぞ、というふうにね。
あの有名なアダチシンジを自分の思うままに脅せるなんて、男にとっては最高の快感に違いない。飲んだくれた毎日を過ごしているヤツでも、そこまでの知恵は当然回るさ。だけど、そんな浅知恵は、ぼくにとってはとっくに計算済みだ。ぼくは男の恐喝にうろたえたフリをする。そして、極秘の交渉をするために、それこそこういう淋《さび》しい山奥に男を誘い出す。そのときが、男の最期だ」
「じゃあ、シンちゃんはその男を」
「殺す」
白い息がフロントガラスに向かってパッと吐き出された。
「唯季を直接殺すわけにはいかないが、その殺害の実行を委託した男を殺す決心をぼくはした。麗奈のために人殺しまでできるというのは、これで嘘《うそ》じゃないとわかってくれただろう」
「ええ……」
ようやく麗奈は納得してうなずいた。
「じゃあ、奥さんは……唯季さんは、もう明日の晩には……」
「そういうことだ。二十四時間後には、唯季はこの世にはいない」
まるで芝居のセリフのように、安達は恐ろしいことをスラスラと口にした。
「これからの人生、ぼくにとって必要なのは麗奈だ。唯季じゃない」
そこまで言うと、安達は手を伸ばしてルームライトを消した。
ポルシェの車内が、外と同じ暗闇《くらやみ》に包まれた。ムードを高めるために明かりを消したのではない。自分の嘘を麗奈に見抜かれるのを恐れたからだ。
そして、安達の手が麗奈を引き寄せた。
「ちょっと待って」
キスを受けかかった麗奈が、つっかえ棒のように手を伸ばして安達の動きを止めた。
「なんだよ、まだ心配なのか」
「いくらあなたが完全なアリバイを作っても、あなたが奥さんの殺害を人に頼んだという疑いは消せないわ」
麗奈は不安そうに言った。
「けっきょく、シンちゃんが疑われることになるわよ。まして、一年経ったら私と結婚しようという約束がバレたら」
「その点も心配はない」
安達の声は依然として緊張はしていたものの、先ほどまで感じられた震えは収まっていた。
「ぼくはその男に言った。殺す前に、カミさんをどうしようとおたくの勝手だ、と」
「………」
「想像がつくだろ。ここ何年も女に触れたことがなさそうな飢えた男の前に餌《えさ》をぶら下げたら、彼がどんな行動に出るか……。ただでさえ、唯季を目の前にして欲望を感じない男などいないのに」
その言葉が、一面では麗奈の心を傷つけているとも知らずに、安達はつづけた。
「唯季の身体に残された男の痕跡《こんせき》は、ぼくが直接の実行犯でないことを裏付けるのと同時に、ぼくが殺人を依頼したという可能性をも薄めるものだ」
「鬼!」
おもわず、そういった言葉が麗奈の口をついて出た。
「シンちゃんって、鬼よ」
しかし、麗奈の口調には少しも非難めいたものが感じられなかった。戸惑いと驚きはあったが、安達真児の冷酷非情さを咎《とが》めるものでは決してなかった。それどころか、美貌のライバルを殺す計画の完璧《かんぺき》さと残酷さに対する称賛さえ含まれていた。
そのことがわかっていたから、安達も余裕の返事をした。
「そうだよ、ぼくは鬼さ」
その言葉は、まるで心霊現象のエクトプラズムを連想させるような奇妙な形の白い息となって闇の中に吐き出された。
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二 別れの朝
安達真児が箱根の山での密談を終えて横浜の自宅に戻ってきたのが、夜明け前の午前五時ごろだった。
妻の唯季は、夫がよその女と自分の殺害計画を話し合ってきたなどとは夢にも知らず、深い眠りについていた。
夫からは、撮影の打ち合わせで遅くなるから先に寝ているようにと言われていたので、唯季は夜中の二時ごろまでテレビの深夜放送を見てからベッドに入っていた。
一般のサラリーマンと違って、俳優の夫が『遅くなる』というときは、それが朝帰りになることはザラだった。朝どころか、徹夜で帰宅が昼になることも珍しくない。唯季もモデルをやっていたから、昼夜逆転型の生活をする業界人の生態には慣れっこになっていた。だから夫の行動に特別な不信感を抱くことはなかった。サラリーマンの妻のように、夫の朝帰りが即座に浮気の疑惑へとつながることはなかったのだ。
ただし、唯季もハンサムな夫が女性問題で潔白のまま何年も過ごすとは思っていなかった。自分の見えないところで適当に遊んでいても、それはやむをえないだろうと、なかばあきらめていた。最終的に妻である自分を捨てることさえしなければ、それこそ『女遊びは芸のこやし』として容認するしかないわ、と……。
唯季にしてみれば、少なくとも結婚後わずか三年で、自分の美貌《びぼう》が無力になるとは想像もしていなかった。安達自身も美しい男だったが、その彼が唯季の美しさに惚《ほ》れて結婚したのは間違いなかった。したがって、モデル時代に磨き上げられた美しさを保っているかぎり、夫は私を最高の女だと思いつづけるはずよ、と唯季は確信していた。
たしかに唯季は、そこまでうぬぼれても許されるほど美しかった。
彼女の場合は夫の安達と違って西洋の血が混じっているわけではなかったが、モデル時代から、その整った顔立ちとバランスのとれたスタイルは、まるでルネッサンス絵画に描かれた天使のようだと賞賛をもって評されていた。
一方で唯季には、いかにも東洋人らしい魅力もあった。それは背中まで伸ばした漆黒の髪だった。これを英語でJET‐BLACK HAIRというが、まさしくその単語がもつイメージぴったりの、艶《つや》やかで真っすぐな黒髪が唯季の美貌をいっそう際立ったものにしていた。
本来ならば、これほどまでの美女と結婚できた男は、浮気などカケラも考えまいと思われたが、安達の場合は、彼もまた妻に負けず劣らず美しい男であったため、その常識は通用しなかったのだ。
けれども唯季は、まさか金という力の前に自分の美貌が完全に屈服し、さらには生命の存在すら脅《おびや》かされる状況になるとは夢にも思っていなかった。
だが、唯季にも油断はあった。彼女は決して傲慢《ごうまん》な性格ではなく、むしろ無邪気な陽気さを持ち合わせていたが、それでも自分の容姿に対する過信があったのは否めなかった。だから安達を愛してはいたが、それは『けなげなまでにひたむきな愛情』と呼べる代物ではなかった。そこに、金の力に負ける余地が生まれた。
それに彼女は気づいていなかったのだ――
帰宅した安達真児は、二階の寝室をそっと開けて、妻の寝顔を複雑な表情で見やった。
ギリギリまで光量を落としたナイトスタンドの明かりに照らされ、純白のシーツにくるまれ規則的な寝息をたてている唯季は、起きているとき以上に美しくも感じられた。
清潔な白いカバーをかけて二つ並べられた枕の片方が、形も崩れずに置いてあり、安達が入っていくぶんだけのスペースがきちんと空けられている。
それを見て、一瞬だけ安達の良心が疼《うず》いた。
(この唯季が、明日のいまごろはもう生きていないなんて……)
殺害計画を立てた本人ですら、そのことが信じられなかった。しかし、信じられようと信じられまいと、麗奈に話したとおり、殺害を委託した男とはもう連絡がとれない。唯季をどこかへ逃がさないかぎり、彼女の人生は二十四時間以内に終末を迎えるのだ。
さすがに彼は、妻の隣に入り込むことができなくて、そのままそっと寝室のドアを閉め、リビングのソファに服を着たまま横になった。
エアコンの暖房はつけっぱなしになっていたので、寒さはまったく感じない。氷点下まで下がっていたはずの箱根の山にいたせいか、自宅のリビングはむしろ暑すぎるくらいだった。
喉《のど》の渇きを覚えたので、安達はダイニングルームを通ってキッチンのほうへ行こうとした。
と、テーブルの上に載っているメモが目に入った。
≪お帰りなさい おつかれさま 先に寝ててごめんね 冷蔵庫の中に夜食のローストビーフサンドイッチとトマトサラダが入っています[#「お帰りなさい おつかれさま 先に寝ててごめんね 冷蔵庫の中に夜食のローストビーフサンドイッチとトマトサラダが入っています」はゴシック体]≫
唯季の筆跡は美しかった。彼女の美貌そのもののイメージだった。安達の心がズキンと疼いた。
唯季は自分の容姿に絶大な自信をもっており、そのことに驕《おご》る部分がないでもなかったが、しかし、こうやってこまやかな心遣いをみせてくれることもよくあった。生まれつき彼女は心がやさしいのだ。決して男におもねるのではなく、こういう気配りが自然にできるのが唯季のいいところだった。
その唯季を、安達は殺そうとしている。たんに裏切るだけでなく、彼女の命を奪おうとしているのだ。安達は、自分という人間がわからなくなっていた。
これだけ理想的な妻が、ほかにそうかんたんに見つかるとは思えないのに、なぜ中曾根麗奈に惑わされて殺人などを決意したのか。
麗奈に魅力があったのではなく、麗奈のバックにある莫大な資産に惹かれたのは自分でもわかっているが、その財産がはたして唯季の命と引き換えにするだけの価値があるものか、それは不明だった。
小さいころ、安達は貧しかった。芸能界で大成功をおさめたいまのアダチシンジしか知らない者には信じられないことだが、小学校のころの経済的な困窮ぶりは、文字どおり食うにも困るほどだった。彼にハンサムな容姿を与えてくれたドイツ系アメリカ人の父が、ある日突然いなくなった。ルーツを同じくするドイツ人の女性と駆け落ちをして日本を出てしまったのだ。そして、病弱で生活能力に欠ける母と、幼い安達の二人が残された。
安達は、貧乏がどういうものであるか、そのつらさをイヤというほど味わってきた。だから、トップクラスの人気スターになったいまでも、金に対する執着は人一倍だった。
だが、それにしても、たんに金に目がくらんだというだけで美しい妻を殺すのは、どう考えても不自然だった。当の安達がそう思うのである。もしもこれがテレビドラマの筋書きで、彼が犯人役を演じることになっていたならば、犯人が殺害を決心するに至ったプロセスがあいまいで視聴者を納得させられないとして、監督に台本の書き直しを要求していただろう。
しかし、現実はちがった。安達自身が自分で信じられないほど、殺意はスムーズに湧《わ》き起こり、ほんのわずかなためらいを乗り越えると、あとは一気に実行へと突っ走ってしまったのだ。まるで何か見えない力に操られているかのようだった。
ため息をつきながら、安達はキッチンに置かれた冷蔵庫の扉を開けた。
中には、ローストビーフサンドイッチとトマトサラダが、きちんとラップに包んで置いてあった。サンドイッチは、ごくごく薄手のパンを使い、一口で食べられるように小さな正方形にカットしてあった。トマトサラダのほうは、鮮やかな赤が目立つように白い皿を使ってきれいに盛り付けてある。真ん中にはミントの葉が一枚飾ってあった。
つらい気分になって、安達はそっと扉を閉めた。とても食欲がわく状態ではなかった。
そのとき安達のすぐそばで、ポタリ、と音がした。
静かな部屋の中で、その音がずいぶん大きく響いた。
そしてまた、ポタリ。
水滴の落ちる音だった。キッチンの蛇口が完全に閉まっていないのだ。
安達は、複雑な顔になった。うっかり者の唯季は、こうやって蛇口をきちんと閉めないことがしょっちゅうある。何度安達が注意しても、その癖は直らない。しかし、このポタリポタリという水音も、もう明日からは永遠に聞くことがないのだ。安達が夜遅く帰ってきても、大好きなローストビーフサンドイッチとトマトサラダは用意されることがないのだ。
安達真児は、頭を抱えるようにしてリビングのほうへ走っていくと、そこのソファに身を投げ出した。眠る以外に、唯季を待ち構えている運命を忘れる手立てはなかった。
肉体は疲労しているのに精神は興奮しており、安達はなかなか寝つくことができなかったが、それでもいつのまにかウトウトしていたらしい。揺り起こされて目覚めると、リビングルームは朝の光でいっぱいになっていた。
ハッとしてソファの上に起き上がると、唯季の笑顔が目の前にあった。
「おはよう。ゆうべは遅かったのね」
と言って、唯季はチュッと軽い朝のキスをしてきた。いつもの夫婦の習慣だった。
「大きないびきをかいていたわよ」
「……あ、そうか」
「もっと寝かせてあげたかったけれど、きょうは広島ロケですもんね。飛行機の時間に遅れたら大変だから、心を鬼にして起こしたわ」
と言って、唯季はまたクスッと笑った。
その笑顔を見ながら、鬼なのはこっちのほうだ、と安達は思った。
「どうしてベッドで寝なかったの?」
その問いかけに、安達はドキッとした。
「いや……唯季を起こしたら悪いと思って」
「へんなの」
唯季は肩をすくめた。
「いつもはそんな遠慮をするシンジじゃないのに」
「たまには遠慮もするさ」
引きつった笑顔でそう言い返すのが精一杯だった。
「コーヒーにする? それとも紅茶?」
「ああ」
「………」
「………」
「ねえ、『ああ』だけじゃなくて、どっち?」
「え?」
「きいたのよ。コーヒーがいいか紅茶がいいか、って」
「あ、ああ、紅茶。いや、コーヒー」
「どうしたの。なんかヘンよ、けさのシンジ」
「そうかな」
妻にじっと見つめられ、安達はうろたえた。
「別にヘンじゃないと思うけど」
「ならいいけど、ボーッとしてケガなんかしないでね。このあいだも、名優座の先輩だった高塚さんが、ロケの最中に脚の骨を折ったでしょう。こんどのお仕事はアクションシーンも多いから、ほんとに気をつけないと」
「ありがとう」
礼を言いながら、安達は妻とまともに顔を合わせられなかった。
唯季は安達の身体を気遣ってくれているのに、その妻を自分は殺そうとしているのだ。しかも、見ず知らずの飲んだくれたホームレスに実行を任せ、委託殺人の疑惑が起きないように唯季に暴行する許可まで与えていた。
これこそまさに人の道にももとる行為というべきものではないか。
安達は、妻の顔を見られないのと同時に、リビングの壁に掛けてある大きな姿見に映った自分を見つめる勇気も湧《わ》かなかった。とてつもない悪魔に取り憑《つ》かれた顔をしているに違いないと思ったからだ。
「ねーえ、ところで」
コーヒーをいれながら、唯季が話題を変えてきた。
「こんどのロケから帰ってきたら、ゆっくり相談したいことがあるの」
「なに」
「私ね、やっぱりモデルのお仕事をまたはじめようかと思っているの」
唯季は話をするときのいつもの癖で、長い髪を片手で大きくかき上げ、そののちにそれをサラサラと落とした。
この黒髪も、明日には生命の輝きを失うんだな、と安達は思った。
なにもかもが、唯季の死と切り離して考えられなかった。
「結婚してからは、俳優としてのあなたを支える裏方に徹しようと思ったんだけど」
ためらいがちに唯季は言った。
「そのことじたいに不満はないんだけれど、私が働かないと、やっぱり苦しいでしょう。あなたが有名人である以上、あるていどの世間体を保たなければならないし」
そうだ、問題はそれなのだ、と安達は心の中でうなずいた。
人気スターの中で、世間に与えているイメージどおり優雅な暮らしを送れる者は、ほんの一握りに限られていた。
日本はアメリカのショウビジネスの世界とは違うのだ。テレビを通じてどんなに視聴者に顔なじみとなり、有名人だ芸能人だともてはやされても、ドラマで演じているときのような贅沢《ぜいたく》な暮らしを送っているわけではない。
たしかに安達は高額納税者には違いない。しかし、あまりに顔立ちが整いすぎているため、人気のわりにはCMに起用されることが少なかった。生活の豊かさという点では、芸能人としての格は下でも、好感度抜群でCMに多く起用されるタレントのほうが上であることが多い。芝居だけに徹した専業の俳優で売れっ子CMタレント並みの収入を得ている人間は、ほんとうに数えるほどしかいない。それなのに人気スターというだけで、一定の風格を演出しなければならない。
とくに女優ともなると、イメージと実生活とのギャップを埋めるのが大変だった。その点、安達真児の場合は男だからまだいいが、それでもそれなりの苦労はあった。
たとえば、この家がそうだった。横浜の閑静な住宅地にある一戸建ての家は、じつは彼の個人名義ではなく事務所の持ち物だった。「あれが俳優のアダチシンジの家よ」と周囲から指さされても恥ずかしくないほどの豪邸を持つには、安達の稼ぎだけではとうてい不可能だった。
それだけではない。たとえば安達が夫人同伴で海外旅行に行くともなれば、ファーストクラスでないと格好がつかない。エコノミーのパック旅行は論外としても、Cクラスと呼ばれるエグゼクティブクラスでさえ、「アダチシンジって、意外とセコいのね。ファーストクラスじゃなかったわよ」ということになってしまう。
だから、こうしたプライベートの海外旅行でも、事務所の援助なしにはできなかった。そういう意味で、安達真児は虚飾の生活を余儀なくされており、それが彼にとっても妻の唯季にとっても、無言のストレスになっていた。そうした暮らしにピリオドを打つために、安達は資産家の娘との再婚計画に踏み切ったのだ。
金がなければ何もできない――それが安達のたどり着いた最終結論だった。
「それでね」
唯季はつづけた。
「前の事務所の神谷《かみや》社長からも、いちど会わないかという話がきているの。唯季ちゃんがこのまま引退するのはもったいない、って」
神谷というのは、唯季のモデルとしての資質を見いだした女性社長で、唯季が母親とも慕う文字どおりの恩人だった。
「ただ、神谷さんは会社を大阪に移しているので、復帰するとなれば、最初は全国区ではなくて関西や九州を中心とした仕事になるらしいけれど」
「大阪?」
安達の眉《まゆ》がピクリと動いた。
「大阪にいる神谷さんが、至急会いたいと言っているのか」
「うん」
「………」
安達は、つぎの言葉を言おうか言うまいか迷った。だったら、きょうから泊まりがけで大阪へ行ってきたらどうだ、という一言を……。
もしも唯季が、安達のそのすすめに従えば、例の男がやってきたときには、安達家はもぬけの殻となっている。そして、ともかく唯季は今夜に予定されていた『死刑執行』を免れるのだ。
しかし、安達の口から出たのは別の言葉だった。
「いいんじゃないか、仕事をはじめるのは」
「ほんと?」
唯季の顔がパッと輝いた。
「私、シンジには反対されるかなと思っていたんだけど」
「いや、まだ子供を作ってもいないのに、家にずっと引っ込んでいるのはよくないと思う。唯季がモデルの仕事を再開するのは賛成だよ。きみの美しさをぼくだけで独占する権利はない」
安達は、白々しくも歯の浮くようなセリフを言った。
すると唯季は、子供がおねだりをするような表情になった。
「だったら、羽田《はねだ》までいっしょに行っていい?」
「羽田まで?」
「事務所から迎えの車がくるんでしょう」
「うん」
「それに私も乗せて」
「見送りならここでいいよ」
「そうじゃないの。せっかくシンジにオーケーをもらったんだから、すぐに行動したくなったの。善は急げっていうでしょ。だから、羽田から伊丹《いたみ》か関空《かんくう》行きの便をとって、きょうのうちに大阪に入りたいの。神谷さんに会いに」
「ちょっと待ってくれないか」
先ほどまでの気持ちの動きとは裏腹に、おもわぬ展開で唯季が実際に『逃げ出しそうに』なったいま、安達はホッとするどころか、やはりいったん決めた機会を逃してはダメだという気になっていた。
「なにも、きょうのきょうという行動をとらなくても」
「だって」
「心配するな、ぼくは気を変えたりはしないよ。ただ……」
ただ、と言ってから、安達は必死にうまい言い訳を探した。
そして、それはすぐに頭に浮かんできた。
「ただ、西日本に限定した仕事というのはどうかな、と思うんだ。どうせ復帰するなら、全国展開の仕事から入っていくべきだという気もする。唯季は契約雑誌のナンバーワンモデルだったんだ。それにふさわしい復帰計画を立てるべきだと思うよ」
「その意見はわかるわ、だから」
「だから」
同じ言葉で、安達は唯季の主張を遮った。
「ゆっくり考えようと言ってるんだ。唯季が神谷さんを恩人として頼りにする気持ちはわかるけれど、仕事は仕事で割り切ったほうがいい場合もある」
「他の事務所で再スタートしたほうがいいってこと?」
「という可能性も、選択肢の中に入れておくべきだ、ということさ。なんといっても、きみは人気スター・アダチシンジの妻なんだ。それを忘れないでほしい。スターの妻は、それなりの格を意識しなければ」
と言って、安達は妻の顔をじっと見つめた。
完全に彼は演技に入っていた。妻殺しなど夢にも考えていない愛妻家の役どころだ。
そして、その無言の演技は、妻である唯季を折れさせたかにみえた。
「わかったわ」
唯季は素直にうなずいた。
「神谷さんに相談する前に、あなたともっと打ち合わせが必要ということね」
「そうだよ」
ホッと肩で息をつきながら、安達真児はこれ以上ないやさしい微笑を浮かべた。
「唯季のことは、誰よりもまずぼくが真っ先に考えるべきものだと思う。それが夫の義務でもあり、責任でもあり、そして……」
コンマ何秒かの間を置いてから、安達はつけ加えた。
「愛情の証《あか》しでもあるわけだからね」
それから一時間後、事務所のマネージャーの重田《しげた》が運転する迎えの車が安達家の前にきた。
唯季は表まで見送りに出てきた。
ふだんならば、玄関のドアを開ける前に唯季は夫に見送りのキスをする習慣があった。そして唯季はけさもそのつもりでいたが、安達のほうがそのチャンスを意図的に避け、早々に玄関の外へ出てしまった。
唯季の脳裏に、女の直感ともいうべき不信感が走ったかもしれない、と安達は思った。
「じゃ、いってらっしゃい」
少しだけ曇った声で、唯季は手を振った。
安達は最後の最後で妻と目を合わせることができず、あらぬ方を向いて「ああ」と短く返事したのちに、事務所差し回しの車に乗り込んだ。
最初の角を回り、自宅が見えなくなったところで、ようやく安達はおずおずと後ろを振り向いた。
もちろん、唯季の姿は視野に入らない。いますぐ引き返さない限り、生きている唯季の姿を見たくても、もうそれは不可能になってしまったのだ。
安達は迷った。
ハンドルを握る重田に向かって、ちょっと戻ってくれという言葉が、喉元《のどもと》まで出かかった。
唯季の笑顔、唯季の笑い声、唯季のまぶしい身体――そういった記憶が、安達の脳裏でぐるぐると回った。
目の前の信号が、ちょうど青から黄色に変わり、やがて赤になろうとしていた。
安達は決めた。赤信号で停《と》まったところで、重田に交差点を左折して引き返すように言おうと……。
ところが――
若いマネージャーは速度を落とさなかった。信号が黄色から赤に変わるギリギリのところで、猛然と交差点を突っ切ってしまったのだ。
安達はめまいを覚えた。
もはや運命は変えられない、と見えない神から通告されたような気がした。
安達はポケットからハンカチを取り出し、額の汗をふいた。本格的な冬の到来を間近に思わせる気候なのに、次から次へと汗が噴き出して止まらなかった。そして震えもだ。
カチカチカチ――
油断すると、歯の根が合わずに音を立てはじめる。それをマネージャーに聞かれまいと、安達は歯をぐいと食いしばった。すると代わりに、身体全体が震え出した。
(おれはとうとう唯季が助かる最後のチャンスも封じてしまった)
その罪悪感と、ついに後戻りできない道を走り出したという極度の緊張感が、安達の自律神経をめちゃくちゃに狂わせた。
冷や汗と震えだけではない。吐き気がした。胃も痛くなった。そして、心臓が耳元へ移動したかと思えるほど激しい脈動が聞こえはじめた。
(おれは唯季を殺した)
まだ生きているのに、安達の心の中で、すでに妻殺しは確定的な出来事となった。
(おれは殺人犯になってしまった)
俳優としての虚像と、ふだんの暮らしの実像を一致させたくてはじめた不倫が、ここまで深刻な事態に展開しようとは、安達自身も予想していなかった。
しかし、いつのまにか彼は、あれだけ美しい妻を邪魔だと思い、本気で殺害計画を練りはじめてしまったのだ。
たしかに――安達は思った――たしかにそこまで彼の理性を狂わせてしまうほど、中曾根麗奈の父親が持つ財産は莫大なものだった。その総合評価額たるや、たとえ安達が俳優として日本一の成功を収めたとしても、とうてい手に入れることなどできないケタはずれのものだった。
(魅力という点では、唯季ほどの女にはめったに出会えるものではない。しかし、どんなに気品のある美しさを誇っていても、いずれ唯季は年をとる。それにしたがって、容姿も衰える)
安達はけんめいに自分に言い聞かせた。
(しかし、金というものは年をとらない。その輝きも衰えることがない。それどころか、運用の仕方によっては、年とともに何倍も何十倍もその価値を高めることができる。それに合わせて、俳優アダチシンジのステイタスも高まっていくのだ。おれに夢のような幸せをもたらしてくれる大金――それを運んでくるのは麗奈なんだ。唯季ではない)
車の後部座席でガクガクと身を震わせながら、安達は声にならないつぶやきを洩《も》らした。
「これでいいのだ。もう迷うな。これでいいのだ」
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三 妹
泥酔したホームレスの男を載せた手漕《てこ》ぎボートが、黒い湖面をすべりながらゆっくりと岸を離れているのを見守りながら、安達真児は、これですべてがうまくいったと思った。
季節は晩秋から初冬へと移り、信州の奥深くに位置する湖を囲む山々からは、身を凍えさせる寒風が絶えまなく吹きおろしていた。
湖水は、触れると手が切れるかと思うほど冷たい。だから、溺《おぼ》れ死ぬよりも前に、男は心臓マヒを起こして死ぬ可能性もある、と安達は考えていた。
もともと観光地としてあまり有名でないこの湖は、もはや日中でも散策を楽しむ人影はほとんど見られなくなっていた。釣り人はたまにくるが、いまは真夜中である。しかも、この一角はちょうど山あい深く湖が切れ込んだ位置にあるため、無人のボート小屋をのぞけば人家は一軒も建っていなかった。
さらに都合のいいことに今夜は新月で、おまけに上空には雲が多かった。空気の澄み切った高地なのに、夜空に見える星はまばらだ。一連の出来事を第三者に目撃されるおそれは、まずなかった。
湖の真ん中へ向けてゆっくりと押し出された釣り客用の古びたボートは、ほとんど影絵のように闇《やみ》に溶け込みそうだった。そして、そのシルエットは岸辺からだいぶ離れたところで、急にその大きさを縮めていった。
遠ざかっているのではない。船底の水抜き用の栓をゆるめておいたところから浸水し、湖に呑《の》み込まれつつあるのだ。
痛烈な自責の念にかられたにもかかわらず、唯季の殺害計画は順調に運んだ。
安達真児が広島ロケに出た初日の夜、殺人の実行を依頼した男は、まさに注文どおりのことをやってのけた。唯季を絞め殺しただけではない。その前に、しっかりと自分の欲望を果たすことも忘れてはいなかった。
いったい唯季がどんな状況でそれを受け入れたのか、想像すると胸が苦しくなるので、安達はあえてそこに思いを巡らせないようにした。
ともかくそのおかげで、アリバイが完璧《かんぺき》だった安達は、委託殺人の可能性すら疑われることもなく、美貌《びぼう》の妻を暴行されたうえに殺されてしまうという悲劇の夫役をもらうことに成功した。
実行犯の男は、安達に教えられたとおりに一階居間の窓ガラスをこっそり破って侵入し、眠っていた唯季に乱暴したうえで、玄関まで引きずって絞め殺した。
とても細かいところに頭が回りそうもない飲んだくれの男だったから、ほうっておいても指紋はあちこちに残すだろうと思った。そして、結果はそのとおりになった。安達の家の至るところに、侵入者の指紋が検出されたのだ。
安達は彼に、十万円ていどの現金が置いてある場所も教え、その金を盗んで逃げるようにも命じた。死体は玄関などの目立つところに放置せよと指示したのも安達だった。そして、靴などを蹴散《けち》らかした格好で玄関から逃走し、その際に、自然と靴がドアにはさまった格好で、半ドア状態になるようにしておけ、という具体的な注文も出してあった。
それは、安達家を訪れた宅配便かクリーニング業者などが惨劇を発見しやすくするための小細工だった。広島ロケの予定は、わずか二泊三日である。その間に異常が発見されず、帰宅した安達自身が第一発見者となるようなことがあってはまずいからだ。
そして読みどおり、一夜明けた午前十時すぎに、安達家を訪れた新聞の集金人が、殺されている唯季を見つけて一一〇番通報した。
ロケ先でその知らせを聞いてから、帰京して遺体との対面、そして警察での事情聴取から葬儀にいたるまで、安達真児は泣きっぱなしだった。
こればかりは演技ではなかった。自分が指示して殺させたのに、安達は純粋な被害者の気分になっていた。理屈抜きで、唯季を失ったことが悲しかったのだ。その悲しみがあまりにも大きくて、安達は自分が加害者のひとり……というよりも、完全なる主犯であることをすっかり忘れてしまっていた。
だから、報道陣に取り囲まれフラッシュの嵐《あらし》を浴びながら感想を問われたときも、犯人に対する心の底からの憎しみを吐露することができた。その場合の犯人とは、もちろん自分のことではない。池袋の裏通りで雇った飲んだくれのホームレスの顔がアップになって安達の脳裏に広がっていた。
過去に世間を賑《にぎ》わせた夫による保険金目当ての妻殺し事件以来、マスコミは、この手の殺人があると、まるで推理小説のように夫を最大の容疑者として疑う傾向がある。人気俳優アダチシンジの妻で、元人気ファッションモデルの安達唯季が殺されたというハデな事件でも、この法則は適用された。
各社の取材カメラが、インタビューのときだけでなく、喪主として葬儀に臨んだ安達を望遠レンズで執拗《しつよう》に追いつづけたのも、いざ彼が真犯人だと判明した場合に使えるような『白々しい涙を流す犯人』の映像を確保しておく狙《ねら》いがあったからだった。
だが今回は、そうしたマスコミのスキャンダラスな期待は見事にはずれてしまった。
安達には完全すぎるアリバイがあったし、被害者の妻には無残な暴行の跡があった。しかも、犯人の侵入方法は窓ガラスを破って入るというずさんなやりかただったし、あちらこちらに指紋を残したうえに、現金を奪って逃げていた。慎重に組み立てられた委託殺人の計画が背景にあったとは、とても考えられなかった。報道陣も警察も、それからテレビの前の視聴者も、この状況では誰ひとり夫である安達真児の関与を疑う者はいなかった。唯季の葬儀は、みぞれまじりの冷たい雨が降る中、執り行なわれたが、目を真っ赤に腫《は》らして打ちひしがれる安達の姿は、大勢の人々の涙を誘った。
事件の十日後、約束の日に、実行犯の男はアルコールくさい息を弾ませながら、残金を受け取るために安達に接触してきた。そして案の定、安達に対して恐喝めいた口調で、おたくさんは有名人なんだから、秘密を完全に守りたいならば報酬をもっとはずんでほしいと切り出してきた。
それは安達の思う壺《つぼ》だったが、そんなことはおくびにも出さず、安達は得意の演技力で困惑しきった表情を見せた。それはどう考えても、窮地に追いやられた弱者の顔つきだった。
そして、調子に乗った男は、安達が仕掛けた死の罠《わな》にはまった――
静かに沈んでいったボートは、最後の瞬間に、ガポン、ガポンと大きな音を響かせた。その音に驚いたのか、あるいは水の冷たさに目覚めたのか、泥酔していたはずの男が片手を大きく天に向かって突き上げた。
その光景をシルエットで見せつけられた安達は小さな叫びをあげたが、それもつかの間で、すぐにその手はボートとともに湖に吸い込まれ、見えなくなった。
あとにはグランドピアノの表面を思わせるように滑らかな黒い湖面だけが残った。
念のためにそれから一時間近くも、安達は凍《い》てつくような湖畔に立ち尽くしていた。だが、静かな湖に変化はなかった。間違いなく、男は死んだのだ。
麗奈を除けば、安達の邪悪な計画を知る唯一の証人がこの世から消え、これで安達真児は、目的の大半を達成した安堵感《あんどかん》にとらわれた。
「やった。とうとうやった」
そんな言葉も口をついて出た。
これで自分の犯した妻殺しの罪が露呈する危険は完全に去った、と安達は思った。あとは、一年か二年じっとおとなしくしていればいい。麗奈と再婚する話が出たころには、世間は唯季の悲劇のことなどすっかり忘れているはずだ。よけいな疑いが再燃する危険などまったくない。麗奈との結婚式は、安達が再婚であることを理由に、できるかぎり地味にやればよい。
そして、その挙式が終わったとき、晴れて安達真児は億万長者の仲間入りとなるのだ。
「ははは」
まさに文字にして「ははは」と表現すべき軽快な笑い声が、誰もいない山奥の湖畔に響いた。
「はははははは」
安達は大笑いした。
「金持ちだ。大金持ちだ。そこらじゅうのスターをみんな見返してやるほどの億万長者におれはなるんだ」
ふつうはこんなことを声に出して叫ばないものである。
だが、安達真児はすっかりドラマの世界にはまっていた。あたかも、以前演じたことのある二時間推理ドラマの主役のように、完全犯罪を見事成功させた喜びを言葉に出して叫んだ。
けれども、そのとき頭にふとイヤな予感がよぎった。
二時間推理ドラマの犯人役というものは、一度はこうやって犯罪の成功に喜ぶが、必ずどこかで破綻《はたん》をきたして、最後は警察当局に逮捕されてしまう。
大笑いをしながら、縁起でもないことを思い出してしまったな、と安達は思った。そして、すぐによけいな雑念を振り払い、彼は笑いつづけようとした。
ところが――
唯季の顔がちらりと脳裏に浮かんだ瞬間、安達の表情が凍りついた。
彼は、ある重要なことを忘れていたと気づいたのだ。
殺した唯季は一人っ子ではない。妹がいた。その妹は国際的に通用する女性ソムリエをめざして、ワインの修行のためフランスとイタリアを回っているとのことだった。
といっても、どこか決まったレストランで働いているのではなく、学生の貧乏旅行のようにバスなどを乗り継いでは葡萄《ぶどう》畑を見たり、頼み込んで醸造の過程を見せてもらったり、飛び込みでレストランに入って皿洗いをしながら料理のノウハウを盗んだりという、いわば武者修行らしい。
たいていはそうした旅には困難がつきものだが、唯季の妹も姉とおなじく、顔で得をする人生を歩んでいたから、ふつうならば門前払いを食らわす気難しい職人たちも、しょうがないなという顔つきをしながらチャーミングな日本人の女の子の『お願い』を聞いてやるに違いない、と安達は想像していた。
それに、唯季の妹は語学が達者だという。英語の日常会話はまったく不自由しないうえに、フランス語とイタリア語も、英語ほどではないが、かなり器用にこなすらしい。
だからこそ、女ひとりで海外武者修行のようなことができるわけだが、そうした旅をつづけていたため、その妹に姉の悲劇を伝えることがなかなかできずに困っている――唯季の父親は、葬儀に参列した親族や知人にそのように語っていた。
じつは安達は、これまで唯季の妹を直接見たことが一度もなかった――つまり、ふたごの片割れとじかに会ったことが一度もなかった[#「ふたごの片割れとじかに会ったことが一度もなかった」に傍点]のである。
考えてみれば、ふたごの姉妹の姉と結婚したわりには、安達真児は、もう一方の妹について知らなさすぎた。実際に会ったことがなかったのはもちろん、写真ですら唯季の妹を満足に見たことはあまりなかったのだ。
以前、唯季に見せられたのは、まだ小学校に上がらない幼児のころに撮られた、ほんの数枚のスナップだけだった。
それらはいずれも仲良く肩を組んだり手をつないだりして姉妹がいっしょに写っているショットで、これを見れば、なるほど一卵性双生児とはこういうものかと感心させられるほど二人はよく似ていた。まさに瓜二《うりふた》つである。
アルバムに書き添えられたコメントによれば、それは三歳から五歳にかけてのスナップだった。ところが小学校にあがってからの姉妹そろっての写真はまったくなかった。
また、唯季と交際をはじめてからの五年間、唯季のふたごの妹は、一度も安達の前に姿を現さなかった。安達と唯季の結婚式のときにすら、その妹はこなかったのだ。
ふたごの姉の結婚相手の前に妹が一度も姿を現さないという不自然な状況について、当の唯季の説明はこうだった。
「私たちが五歳のときにお母さんが交通事故で死んだでしょう。だから、お父さんとしても男手ひとつで二人の女の子を育てるのは大変だったの。それで、私のほうをお父さんが育てることにして、妹はよその家に養女として預けられることになったの。それ以来、ふたりはバラバラ。戸籍もいっしょではなくなったし、私自身も、妹とはもう十五年以上も会っていないのよ。妹が預けられたのは外交官の家で、海外に住んでいた期間も長かったしね。とても変な話だけれど、ふたごといっても他人という感覚かな。だから、私の結婚式にわざわざくるという感じでもないのよ。もしも次に会うとしたら、どちらかのお葬式だったりしてね」
結果として、唯季の推測ははずれたわけだ。葬式のときにすら、妹はこなかったのだから。
だから安達も、唯季の妹の存在をつい忘れてしまっていたのだ。
しかし、もしも恐ろしい計画を実行する前に彼女のことを思い出していたら、あるいは安達は、妻を殺すプランをためらっていたかもしれない。
妻とそっくりの顔をしたふたごの妹がこの世に存在するということは――
すなわち、殺した妻が復活することにほかならなかった……。
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四 唯季とユリ
「真児君、折り入って話があるのだが」
殺した妻の唯季の父親、上條純一《かみじようじゆんいち》から安達のもとに電話がかかってきたのは、実行犯の男を始末した二日後の晩だった。
唯季の父は、電話口ではどんな用件なのか具体的に語らなかった。とにかく大事な話があるから、いますぐに私の家にきてくれという。
身に疚《やま》しいところがあるだけに、安達は、上條の意味ありげで、なおかつ急を要している口調にわけもない不安を感じた。遺品の整理はまだだったし、唯季の死にまつわるこまごまとした事務手続きも残っていた。けれどもそうしたあたりまえの用事ならば、少なくとも呼びつける目的くらいは電話で教えてくれてもいいはずだ。
だが、唯季の父親は「直接きみと会うまでは何も言えない」と、意味深長な答え方に終始した。
このいわくありげな緊急呼び出しについて誰かに事情を問いただしてみようにも、適当な人間がいなかった。唯季の妹は依然としてヨーロッパから帰国していないようだったし、唯季の母親は、いまから二十年も前に――つまり、ふたごの女の子が五つのときに――この世を去っていた。唯季たち姉妹は、父親である上條純一の手で育てられてきたのだ。
だからこそ唯季を失った父親のショックは尋常ではなく、どんなに安達が悲劇の夫を演じようと、父親の落ち込み方に較《くら》べたら、まさにそれは子供の芝居だった。
(まさか……)
あまり考えたくないケースが、安達の頭に浮かんだ。
(オヤジさんは唯季殺しの犯人として、おれを疑っているんじゃないだろうな)
いままでのところ、安達は誰からも具体的に疑惑のまなざしを向けられたことはなかった。テレビ局や周囲のやじ馬などスキャンダル好きの人々の中には、当初『直感的に』犯人は夫の安達真児だと決めつけた者がたくさんいたが、やがて状況が明らかになるにつれ、安達に疑いを抱く人間はいなくなった。
実行犯の男に好き勝手をさせた効果があったわけだが、それだけではなく、唯季には生命保険が掛けられていなかったことも安達には幸いした。彼女はモデル時代から傷害保険には入っていたが、巨額の保険金が配偶者にわたるような生命保険のたぐいには一切加入していなかった。その事実も夫の疑惑を薄めるのに役立った。
そして、唯季の父親や親族からも、安達を疑うような発言はいままで一つもなされなかった。
だとしたら、上條が至急会いたがっている用件とは何なのか。
妙な胸騒ぎを覚えながら、安達が上條の住む質素な2DKの団地を訪れたのは、すでに夜も九時を回っていた。
片隅に押し入れのある六畳の和室に座卓をはさんで向かい合わせに座ると、カーディガン姿の上條は、急須から日本茶をコーヒーカップに注いで安達の前に出した。
安達は一礼すると、形ばかり口をつけて、カップをすぐに受け皿の上に戻した。
娘を失った父親が、その婿に茶をすすめる光景には独特のわびしさがあった。しかも、日本茶をコーヒーカップに注ぐというかまわなさ加減[#「かまわなさ加減」に傍点]は、ふだんのきちょうめんな上條の性格からは考えられない行為だ、と安達は思った。
心なしか、天井の蛍光灯の輝きも薄暗く感じられた。さらに安達は、テレビの上に掛けられた旧式の日めくりが、唯季の悲劇が表沙汰《おもてざた》になった日付のままになっていることに気がついた。
上條は還暦にはまだ間があったが、この十日あまりで一気に白髪が増え、老人という言葉をあてはめても決して不自然ではないほど老け込んでいた。
そこには唯季の面影を彷彿《ほうふつ》させる要素は何もなかった。唯季の美貌《びぼう》は、きっと母親から受け継いだものにちがいない、と安達はつねづね思っていた。
「どうかね」
しばらく間を置いてから、上條がポツンとたずねた。
「真児君のほうは少しは落ち着いたかね」
「はあ……まさに少しだけですが」
ハキハキとした口調になるのを避けながら、安達は小声で答えた。
「俳優とは因果な商売で、こういう事件があっても長々と仕事を休むことができないのです。とくに今回はこちらの事情で広島ロケが中断されたままになっているわけですから、監督や共演者への迷惑を考えれば、いつまでも引っ込んでいるわけにはいきません」
「きみが主役なのかね」
「はい」
「では、途中降板というわけにもいかないね」
「そうなんです」
「まあ、しかし悲劇を忘れるには仕事がいちばんだろう。没頭できる仕事があるきみはうらやましい」
唯季の父親は数年前まで役所勤めをしていたが、定年前に中途退職し、思い切って民芸品を扱う小さな店を開いた。それが若いころからの夢だったのだ。しかし自分は、民芸品は好きでも商売は不向きだとわかったので、早々に店を畳み、いまは文筆業に転じていた。
文筆業といっても小説家ではない。こまかな仕事を請け負ってくる編集プロダクションと契約を結び、企業の社内報や郷土ミニコミ誌などに載せる雑文や小さな取材記事を執筆する毎日を送っていた。
それは決して上條が好きで飛び込んだ道ではなかった。こんなことなら定年まで役所に勤めて、その後の就職先も役所のコネでうまく紹介してもらっていたほうがよっぽどよかったと後悔していた。
ただ、上條が恵まれていたのは、親の代から受け継いだ田畑を山口県のほうに持っており、大した広さではないが少しずつそれを売却していけば、とりあえず死ぬまでの生活費には困らないことだった。
「それでお義父《とう》さん」
落ち着かない気分の安達は、回り道を嫌って単刀直入に切り出した。
「ぼくを急に呼ばれたのは、どういったご用件なんですか」
「ふむ……」
軽い言葉を洩《も》らしてから、上條は娘婿の顔をじっと見据えた。
「真児君は今後どうするんだね」
「今後どうする、とおっしゃいますと」
「きみはまだ若い。三十だったか」
「三十一です」
「その若さで、しかもその男前で、いつまでも独り者でおるわけにもいくまい。そういう意味で、今後どうするのかときいたんだがね」
「何をおっしゃるんですか、お義父さん」
決してここで笑顔を見せるのが適当とは思えなかったが、安達真児はおもわず笑った。それは、中曾根麗奈との計画を見透かされたのではないか、という焦りを隠すための引きつった笑いだった。
安達は、すぐにその硬い笑顔を引っ込めてつづけた。
「唯季がこんなことになった直後に、再婚の見通しなんて考える気になるはずがないじゃないですか」
「いや、いまだからこそ考えてほしいのだよ」
「どういう意味です」
「唯季ときみとの結婚生活がもっと長くつづいていれば話は別だが、二人は結婚してまだ三年しか経っていなかった」
「それがなにか?」
「つまりね、きみと私が『義理の』という但し書き付きながら親子の関係を保っていたのは、わずか三年だということを言いたいのだ」
上條は、いったん安達から視線を離して、手元のコーヒーカップに目を落とした。
「真児君と私は、唯季という人間を媒介にして父と息子という関係を結んだ。ところが唯季がいなくなったいま、二人を結びつけるものは何もなくなった」
「淋《さび》しいことをおっしゃらないでくださいよ、お義父さん」
安達は、少なくとも自らの犯罪を追及されるために呼びつけられたのではなさそうだと感じて、こんどはゆとりのある笑みを浮かべた。
「ぼくにとっては、お義父さんはいつまでもお義父さんです。唯季が死んだからといって、それが変わるはずもありませんよ」
「そうだろうかね。現実はもっとドライなものだと私は思うが」
目を伏せたまま、上條はつづけた。
「将来――いや、近い将来と言い添えたほうがいいだろうが――きみが他の女性と再婚すれば、きみには新しい『お義父さん』ができる。そして、義父という字を綴《つづ》って『おとうさん』と呼ばれる人間は、同時に二人は存在しないものだ」
「………」
「さっきも言ったが、きみのような男前が、美女がたくさん出入りする環境で仕事をしていれば、恋の二つや三つはすぐにするだろう。そして、それはきっと結婚話へと発展していくに違いない。もちろん、唯季の父親である私には、きみの再婚を妨害する権利はひとつもない。世間並みの常識として、唯季の一周忌がすむまでは新たな行動は控えてほしいとは思うが、それを過ぎれば、きみを拘束するものは何もない。再婚するにあたって私に了解を求める必要もない。そういう意味からすれば」
そこで上條は、また顔を上げた。
「真児君と私が義理の親子関係を結んでいられるのも、唯季の一周忌までの一年足らずだということになる。それ以降は、よほど事情が変わらないかぎり、きみは私を上條さんと呼ぶようにしたほうがいいだろう。シャレを言うわけではないが、それこそ義理で『おとうさん』と呼ばれても仕方ないからね」
「お義父さん」
上條がしきりにこだわるその呼び方で、安達は唯季の父親に問いかけた。
「お義父さんは、そういった心配をぼくに話すために、わざわざ今夜呼び出されたのですか。だとしたら、それは取り越し苦労というものです。いまも申し上げたとおり、ぼくはいつまでもあなたを父として……」
「そうはいかないんだよ」
安達が最後まで言い終わらないうちに、上條がさえぎった。
「もしも真児君が別の女と結婚したとき、それでも私は、いつものようにこのカップでお茶が飲めると思うかね」
と言って、上條は日本茶の入ったコーヒーカップを持ち上げた。
それにつられて、安達は自分の手元にある同じデザインのカップに目をやった。
「あ……」
安達はつぶやきを洩らした。
いままで気がつかなかった。それは三年前、彼と唯季の結婚式の引き出物に注文したものだった。カップの底を見れば、SHINJI&YUKIと二人の名前が金文字で焼き付けてあるはずだ。そうした名前入りの引き出物は、当人たちの自己満足として最近ではあまり歓迎されない傾向にあるが、有名人の名前となれば話は別だった。
「お義父さん……」
義理の父が日本茶をコーヒーカップに入れたのは、それなりの意図があったことを理解した安達は、新たな不安を覚えながらたずねた。
「お義父さんは、つまりその……ぼくに再婚はしてほしくないとおっしゃっているわけですね」
「いや、そうではない」
「では何を……」
「じつは、きみに見てほしいものがある」
上條は、あらかじめ自分の脇《わき》に置いてあった三冊のアルバムを座卓の上に積み上げた。
「なんですか、それは」
「見てのとおり、アルバムだよ」
「それはわかりますけれど」
「まあいいから開けてごらん」
言われたとおりに、安達はいちばん上のアルバムを広げてみた。
「唯季じゃないですか」
最初の写真を見て、安達はびっくりした。
「若いな。大学のころですか」
「そうだよ」
「じゃあ、ぼくと出会う前ですね」
「………」
上條が返事をしなかったことをとくに変だとは思わずに、安達は次々とページを繰っていった。
最初の数ページは、どこか海外のビーチで撮ったものらしく、すべて水着姿だった。水着そのものはワンピース型の単純なデザインだったが、それだけに、抜群に均整のとれた身体がかえって強調されていた。安達は、反射的に唾《つば》を呑《の》み込んだ。
友人とみられる日本人の女の子も五、六人いっしょに写っていたが、彼女たちはまさに添え物といった存在でしかなかった。あるいは周りに写り込んでいる金髪の外国人女性と比較しても、上條の娘はプロポーションなどにおいてまったく遜色《そんしよく》がなかった。
唯季のプロポーションの素晴らしさは、誰よりも安達がいちばんよく知っていた。水着なしの姿も知っている、という意味において……。それだけに、かえってこうした写真を見せられるのは心が痛んだ。
そのあとにつづく数枚は、具体的な撮影場所は不明だが、室内で撮影されたポートレートだった。どのカットも顔のアップで、その美しさに、安達はあらためて見入ってしまった。
失ったものの美しさは、あまりふり返りたくはなかったが、目が吸い寄せられて離れなかった。どの写真も、安達にとっては初めて見るものだった。
次のセクションでは、紅葉の渓谷をハイキングしているスナップショットだった。それからスキー場のシーンもあった。そして、正月の晴れ着も……。
積み上げられたアルバムの最初の一冊を三分の一ほど見終わったところで、安達はおもわず本音を洩《も》らした。
「つらいですね」
安達はパタンとアルバムを閉じた。
「ぼくにはまだ唯季を亡くしたという実感が湧《わ》かないんです。どこか遠くへ旅行にでも出かけているような気がして……。でも、こうやってアルバムを眺めていると、逆に、唯季はもういないんだという事実が思い起こされて……つらいです」
いつのまにか安達の瞳には涙が浮かんでいた。演技ではなく、本物の涙だった。
麗奈と会っているときは、大金持ちになるためにと割り切れた妻殺しなのに、唯季の実家へくると、まるで正反対の心境になっていた。いつのまに自分は二重人格者になったのだろうといぶかりたくなるほど、安達の心は分裂しかかっていた。
だが、唯季のために涙をたっぷり流す時間は与えられなかった。突然、唯季の父親が意外なことを言い出したからである。
「きみは唯季にふたごの妹がいることを知っているだろう」
「ええ、ユリちゃんですね」
そう答えながら、普通のケースならば、いまのはきわめて不自然なやりとりになるはずなのに、と安達は思った。
安達は、もちろん結婚する前から唯季に一卵性双生児の妹がいることを知らされていた。その安達に対し、いまさら改まってその事実を知っているかと義父が問いかけるのは、まことに妙なものだった。
が、上條がそういうニュアンスでたずねてきたのも無理はなかった。安達がユリと会ったことは一度もないのだから。
しかし――
安達は、いまさらながらに疑問に思った。別々に育てられた一卵性双生児姉妹のいきさつを唯季から知らされたときはあっさり聞き流していたが、いくら男手ひとつで育てるのが大変だからといって、五歳のふたごを父親が離ればなれにするものだろうか。外国の映画で、夫婦が離婚するときにふたごを一人ずつ引き取るというところからドラマが始まる作品があったが、それはまさにストーリー作りのための設定であって、現実世界でそのような判断が下されるはずがないという気がした。
まして上條家の場合は、離婚がからんでいるわけではない。仮に父親ひとりで養育が無理ならば、専業のベビーシッターを雇うなり、しかるべき施設の援助を借りることをまず第一に検討するはずではないだろうか。
上條は質素な暮らしをしているが、田舎には売却可能な田畑があることを、安達は唯季から聞かされていた。経済的に逼迫《ひつぱく》していないならば、ふたごの姉妹をバラバラに育てる必要がどこにあっただろう。
(もしかして、姉と妹は決定的に仲が悪かったのでは?)
と、一瞬考えたが、そんなバカな、と安達はすぐにその仮説を否定した。
唯季の説明がほんとうならば、姉妹が別々に育てられることになったのは五歳のときである。そんな幼い時期に、仲が良いも悪いもあったものではない。
とはいえ、現実には、妹は姉の結婚式にこなかったし、くることを父親が強要した様子も見られなかった。いくらユリが外交官夫妻の家に養女に出され、海外を転々としているからといって、安達と唯季の結婚は急に決まったわけではない。連絡のとりようがいくらでもあったのではないか。そのことからすると、姉妹不仲説もいちがいに捨てるわけにはいかなかった。
それから、ふたごの妹の名前のことも安達は気になっていた。
唯季の妹はユリという。戸籍上での表記もカタカナで『ユリ』と書くそうだ。
ところが、唯季に見せられた小さいころの姉妹の写真の裏側には、二人の母が書いたという流麗な文字で、たとえばこんなふうに撮影メモが記されていた。
唯季と唯李 三歳 江の島にて[#「唯季と唯李 三歳 江の島にて」はゴシック体]
最初、そのメモ書きを見たとき、安達の目には『唯季』という文字が二つ並んでいるのかと思った。だが、よくよく見ると、片方は季節の『季』だが、もう一方はスモモを意味する『李《り》』という文字だった。
つまり、ユキとユリである。
どうやら妹の唯李[#「李」に傍点]は、どこかの時点でカタカナのユリと改名したらしい。
たしかに唯季と唯李では、パッと見たときに字面の区別もつかない。いくら一卵性双生児だからといって、名前まで瓜二《うりふた》つであっては不便が多いのも無理はなかったのかもしれない。
だが、それはいっしょに住んでいたならば、という話で、一方が養女に出されてバラバラの暮らしとなってしまえば、名前の類似による不都合もないように思えるのだが……。
ユリの話が上條の口から出たとき、安達の頭の中では、ほんの短い間に、ふたごの姉妹に関するさまざまな疑問が駆け巡った。
「真児君は……」
上條の声で、安達は思考をストップした。
「当然、ユリのほうとは会っていないわけだ」
「はい」
「では、唯季からふたごの妹について、どれくらいのことを聞かされていたかね」
「どれくらいといっても……ほんのわずかですね」
安達は、たったいま脳裏を走ったユリに関する情報を口にした。
「そうか、唯季はきみにはそのように説明していたか」
「そのように……と、おっしゃいますと?」
安達も役者である。相手の言葉の裏に潜んだ微妙なニュアンスをとっさに感じ取った。
「ぼくが聞かされていたのは、ひょっとして事実とは違うんですか」
「そうだ」
ふたごの父はうなずいた。
「唯季は真実を語ってはいなかった。もっとも、それは唯季に責任があるのではなくて、この私が唯季にも真相を語っていなかったからなのだ。つまり、唯季は私のついた嘘を真に受けて、そのままきみに伝えたのだ」
「気になりますね」
安達は、唯季との結婚式の引き出物に出されたカップを取り上げ、冷めかかった日本茶をすすった。
そののちに、唯季の父親に向かって姿勢を正してたずねた。
「伏せられていた真相って、いったい何なんです。いや、もうちょっと別のきき方をしましょうか。ぼくが聞かされていた話で、嘘だった部分はどこなんです」
「………」
「まさか」
安達は、相手がこの質問にイエスと答えてくれたら嬉《うれ》しいのだが、と思いつつきいた。
「ぼくが唯季から見せられていた姉妹の写真は何かのトリックで、じつはふたごの妹など最初から存在していない、とおっしゃるのではないでしょうね。あるいは、ユリちゃんはだいぶ前に死んでしまっているとか」
「いや、まちがいなく唯季は一卵性双生児の片割れだ。そしてもう一方のユリは、いまも健在だ」
「そうですか」
やはり殺した妻と瓜二つの妹は存在している――その事実を確認して、安達は気が重くなった。
上條に対しては、いつまでもあなたを父と慕うと言ったものの、安達の本音としては、できればこのまま上條家とは疎遠になりたいと思っていた。妻の殺害を指示した自分が、その父親といつまでもつきあっていたくないのは当然だったが、理由はほかにもあった。それが、ユリの存在である。殺した妻とそっくりの妹など、安達にしてみれば亡霊以外の何物でもないからだ。
「きみに考えてもらっても時間のムダになるかもしれないから、私のほうから打ち明けてしまおう」
上條は言った。
「まず、私が娘に話した嘘の第一は、私の家内――すなわち、唯季たちの母親の死に関するものだ。娘たちには、母親は交通事故で死んだことになっている。たしかに、ある雨の日の夕方、慶子がダンプカーで撥《は》ねられて死んだのは事実だ。ただし、それは交通事故と呼ぶべきものではなかった。ダンプの運転手には何の責任もなかった」
「自殺ですか」
「……なんとも言えないね」
複雑な表情で上條は首を振った。
「自殺といえば自殺だし、自殺でないといえば自殺でもない。ただし、純粋な交通事故でなかったことだけは確かだ」
「もう少し詳しい状況をうかがってもかまいませんか」
「もちろんだよ。これは、きみに大事な事実を教えるために話しているんだ。ただし、かなりショッキングな話だがね」
「それは、唯季とユリさんの出生の秘密に関することでしょうか」
「出生の秘密といっても、いろいろなニュアンスがあるが」
「つまり……」
ためらいながら安達は言った。
「生みの親に関することではないかと」
「いや、それなら違うな」
上條は首を横に振った。
「はっきり申し上げておくが、娘たちの父はこの私であり、生みの母はまちがいなく慶子《けいこ》だ。戸籍上での嘘はない。それに親が違うといった問題ならば、私もいつまでも隠したりせずに、娘が大学を卒業するまでには真実を打ち明けていただろうよ。あるいは、少なくともきみと結婚する前にはな」
「では、もっとすごい理由があったんですか」
俳優として、安達真児は『すごい』という形容詞が好きではなかった。なんとなく物事の形容の仕方が雑に思える言葉だからだ。ドラマの台本で自分のセリフにその言葉があると、必ず監督の許可をもらって別の言い回しに変えさせてもらった。だから、いま無意識に自分で『すごい』という単語を使ったとき、とっさに別の形容詞で言い換えようかと思った。
が、言い直す前に、唯季の父親がうなずいた。
「そう。もっともっと常軌を逸した状況があって、そのショックで慶子は精神に変調をきたして死を選んだ。家内は自殺する直前には完全に狂っていた」
上條の顔が苦渋に歪《ゆが》んだ。
「わかるかね、真児君、ここのところをぜひ覚えておいてくれたまえ。自殺する人間は、多かれ少なかれ精神的にパニック状態にあるものだが、慶子の場合はひどかった。すでに彼女は、ダメージを受けた心の病を治すために入院していたのだが、土砂降《どしやぶ》りの雨が降る夕方に、突然、感情の発作を起こした。何かに追われるような強烈な恐怖の表情を見せながら、大声でわめいて病室を飛び出し、制止する病院関係者を振り切って玄関を飛び出し、表通りまで出たところで、走ってきたダンプカーに自分から飛び込んだ。複数の人間がその場面を目撃していたのだが……」
上條は額に汗を浮かべていた。
「それは決して事故ではなかったという。つまり、夢中で走っているうちに、車の接近に気づかず撥ねられたという状況ではなかった。明らかに慶子は、自分からダンプに向かって走っていったそうだ。真正面からね」
上條の語る過去の出来事に、安達までがじっとりと汗を浮かべはじめていた。
「原因は何です」
安達がたずねると、上條が聞き返した。
「慶子が狂った原因かね」
「ええ」
「恐怖だよ」
「恐怖?」
「そうだ」
上條はブルッと身を震わせた。
「すさまじい恐怖が、家内の頭を狂わせたのだ」
[#改ページ]
五 衝撃の提案
「慶子さんは……」
さすがに、二十一年前に死んだ上條の妻を『お義母《かあ》さん』と言うのは変だったので、安達は『慶子さん』という呼び方を使った。
「いったいどんな恐怖体験をなさったのです」
「体験ではないよ、真児君。体験というのは、ある一定期間の経験を指す言葉だろう。だが、慶子の受けた恐怖は、体験とか経験と呼ぶにはあまりに長すぎた。ほぼ五年間、それも毎日、毎時間、毎秒にわたって感じつづけてきた恐怖だ。それが積もり積もって、限界を超してしまった」
そこで上條は、コーヒーカップを取り上げて飲み物で口を湿した。
「こうした事情を打ち明けるのは、真児君、きみが初めてだ。家内の『事故』を取り扱った警察にも、それから身内の者にも、慶子が狂ってしまった背景については話したことがない。のちにユリの養父母となってもらった夫妻にすら、事実と違った説明を私はしているのだ。おかげで職場や隣近所の者は、面と向かっては私に同情の悔やみを述べたが、陰に回ると私に対する疑惑と非難で持ちきりだった」
「つまり、慶子さんが狂ったのは夫のせいだったと思われたんですね」
「そのとおり」
「でも、原因は別にあった」
「ああ」
「それについて、お義父さんは申し開きをなさらなかったんですか」
「しなかったね」
「なぜです」
「私も人並みに自分が可愛い。あれこれよくない評判を立てられるのはごめんだ。だからほかの理由ならば、私は真相を明らかにして身の釈明に努めただろう。しかし、原因が自分たちの子供にあっては、口をつぐまざるをえなかった」
「原因が子供にあった……ですって?」
安達は身を乗り出した。
「それは、慶子さんの発狂の原因が唯季たちふたごの姉妹にあったということですか」
「そうだよ」
「それは……」
「その前に、私が娘たちについたもうひとつの嘘を打ち明けておこう」
安達は、しだいに上條の唇が紫色になっていることに気がついた。まるで死人の色だな、と彼は思った。
そして、その紫色の唇を舐《な》めるために上條が言葉を途切らせたとき、ヒュウ、ヒュウウウという風の唸《うな》りが聞こえた。
夜が更けるにしたがって上條の住む団地の周囲は静かになってゆき、さきほどから風の音がやたらと耳につくようになった。表に出てみればかえって音は小さく感じられるのだが、室内にいると、窓のすきまに吹き込んでくる風がヒュウ、ヒュウウウウと、女性の悲鳴のような唸りを発し、風の威力を実際以上のものに思わせた。
安達真児にとってその唸りは――実際に耳にしたわけではないが――ホームレスの男に暴行され、絞め殺された唯季の断末魔の悲鳴にも聞こえた。
「家内が不幸な死を遂げたのち」
上條がまたしゃべり出してくれたので、安達は『風の悲鳴』から気をそらすことができた。
「ふたごは離ればなれに育てられることになった。姉の唯季は私が育て、妹のユリは慶子の遠縁にあたる外交官夫妻が養女として引き取ることになった。ただし、姉妹を別々に育てることにした事情は、きみが唯季から聞かされたようなものではない。つまり、役所勤めをしながら私が男手ひとつで二人の女の子を育てていくのは大変だった、というのが理由ではないのだ。もしも唯季とユリがふつうの姉妹だったら……ふつうのふたごだったら、私は自分がどんな苦労を強いられようとも、二人を離ればなれにして育てることはなかっただろう」
「ちょっと待ってください」
安達がさえぎった。
「いまお義父さんは、唯季とユリちゃんが『ふつうのふたごだったら』とおっしゃいましたね」
「言った」
「では、彼女たちは『ふつうのふたご』ではなかったんですか」
「ああ」
「具体的には?」
「もういちどそのアルバムを広げてみたまえ」
上條純一は、安達のそばに積まれた三冊のアルバムをアゴで示した。
それで安達は、事情がわからないままに、さきほどと同じ、いちばん上のアルバムを広げた。最初の数ページに水着姿が並んでいるアルバムである。
「さっききみは、その写真を見るなり『唯季じゃないですか』と言った。そして、大学のころの写真かとたずねたね」
「はい」
「たしかにそれは、娘が大学に入った最初の年の夏に撮影されたものだ。場所はロサンゼルスのマリブというビーチ。いっしょに写っているのは高校時代からの親友だそうで、夏休みを利用して、娘がロスに呼び寄せた」
「呼び寄せた?」
安達は、すぐに言葉尻《ことばじり》のニュアンスに気がついた。
「友だちといっしょに海外旅行へ行ったのではなくて、呼び寄せた?」
「そう」
「お義父さんは、マリブに別荘でもお持ちだったんですか」
「ちがう。娘はそこに住んでいた。ロサンゼルス郊外の海に面した一等地にね」
「アメリカに暮らしていた、という意味ですか」
「そうだよ」
「初耳ですね。ぼくは唯季からそんな話は一度も聞かされたことがありませんでした」
「誰が唯季だと言ったね」
「え?」
「私は、その写真に写っている女の子を『娘』と呼んだが、『唯季』だとは一度も言っていないはずだが」
「なんですって。それじゃこれは……」
信じられないといった顔で、安達はアルバムに目を落とした。
「唯季じゃなくて、妹のユリちゃんなんですか!」
「そうだ。そのアルバムはすべてユリの写真しか載っていない」
「そんな……じゃあ、これも、これも、これも」
安達は次々にページを開いていった。
「これも、これも、これも、みんなユリちゃんだとおっしゃるんですか」
「そうだ」
「このアップも、ですか」
安達は、顔が大写しになったページを開いて、父親のほうに押しつけた。
「この写真も唯季じゃなくて、ユリちゃんだというんですか」
ふたごの父親は無言でうなずいた。
「そんなバカな!」
安達は大きな声で言い返した。
「ぼくは信じませんよ、お義父さん。いくら一卵性双生児が似ているからといって、どこか違うところがあるはずじゃないですか。仮に他人に見分けがつかなくても、ぼくは唯季と三年間夫婦として暮らしてきた男ですよ。夫ですよ。そのぼくが、これだけ大写しにした写真を見せられて間違うはずがないでしょう。これは絶対に唯季ですよ」
一気にまくし立てたが、上條がじっと黙ったまま口を開かないので、安達は急に自信がなくなってきた。
「まあ、これはいまから五、六年前のものでしょうから、ひょっとしたらぼくのほうが間違っているかもしれませんけれど……いや、でもどう見たって、これは唯季だな」
「二冊目のアルバムを開いてごらん」
ぼそりと、上條が言った。
「そこには、つい最近のユリが写っている。ワインの勉強のためにヨーロッパへ出かける少し前のものだから、一年半から二年前といったところだ。ただし、撮影場所は日本ではない。外交官である養父の当時の赴任先だったケニアだ」
言われるままに二冊目のアルバムを開いた安達は、しばし声もなかった。
冒頭の舞台はアフリカの大草原だった。バックには冠雪したキリマンジャロがあり、ジープに乗る『彼女』のバックにはキリンが、ときにはライオンが写り込んでいた。あるいは近代的なビルの谷間を歩く『彼女』のスナップもあったが、そこは日本の都市ではなく、ケニアの首都ナイロビの中心部だった。
そうしたスナップショットと明らかに同じ場所で撮られたアップの構図もいくつかあった。
それらの写真は、いずれのカットも唯季としか思えなかった。どこから見ても唯季だった。撮影時期は一、二年前だというが、ちょうどそのころの――つまり新婚一、二年目あたりの唯季の顔をしていた。
笑顔のカットも、すました顔のカットも、物憂げなカットも、どれをとっても絶対に唯季だった。それはすべて安達が知り尽くした妻の表情だった。
しかし、どこから見ても、そこはアフリカだった。最初から最後まで、このアルバムはアフリカで撮られた写真ばかりだった。
安達は混乱した。結婚する前も結婚してからも、唯季はアフリカへ行ったことがいちどもなかったはずだ。
さすがに俳優だけあって、これはなんらかの映像トリックを用いた合成写真ではないかとも考えた。昨今のデジタル映像技術は、特殊撮影だとまったくわからずに恐竜を暴れ回らせることもできるし、いま最高の人気を誇る俳優とケネディ大統領とを握手させることもできる。それから考えれば、日本にいながらにして『唯季inアフリカ』といった写真を撮ることはじゅうぶん可能だった。
だが、上條個人が大金を投じてまで、そうした物好きな遊びをやる必然性など、どこにもないことを安達は理解していた。
それでも安達は、この写真の女性が自分の妻ではないとは、どうしても思えなかった。唯季ではないと思えというほうが無理だった。
「くどいようですが」
安達は言った。
「ぼくが別の人間を唯季と間違えるはずがありません。それが、たとえ一卵性双生児のふたごであっても」
そこで彼は、ふと思い出した過去の例を引き合いに出した。
「ぼくは小学校のときに一組、高校のときに一組、同じ学年に一卵性双生児のふたごの友人がいました。俳優になってからも、仕事仲間で二組のふたごを知っています。いずれも一卵性だと言っていました。しかし、そうした実例を間近に見ると、世間で言われるほど一卵性双生児は区別がつきにくいものではないな、とわかります。
たしかに一卵性のふたごはよく似ています。瓜二《うりふた》つとはよく言ったものです。たとえばぼくが、ふたごの兄のほうと友だちだったとしましょう。で、その彼がふたごの片割れだと知らされていなければ、面識のない弟のほうを見かけたときに、間違いなくぼくは、彼を友だちのほうだと錯覚するでしょう。けれども、ぼくたちはふたごです、というふうに二人並べて紹介されたら、かえって違いがはっきりするものなんです。ホクロの位置とか、歯並びとか、耳の形とか、微妙な肉づきとか……。それだけじゃありません、声質とかしゃべり方がぜんぜん違っているケースが多い。なによりも性格が違います。
ですから、黙って遠くに立っているときにふたごを混同するケースがあっても、笑ったり泣いたりという感情の変化が大きく出た場合は、その差は歴然です。友人として長くつきあっていけば、どんなに瓜二つのふたごでも、兄と弟、あるいは姉と妹を取り違えるミスは犯さなくなります。他人の関係でもそこまでわかるようになるのに、ましてや唯季はぼくの妻だった女性ですよ。その彼女の笑顔を、どうして間違えるでしょうか」
「しかし真児君、きみはユリのほうには会っていない」
「会っても会わなくても同じですよ。ユリちゃんの実物を知らなくても、この写真が唯季だということは断言できます」
「証拠は? そう断ずるだけの具体的な根拠があるかね」
「ありますよ。たとえば笑ったときの目の形とか、唇の間からの歯ののぞき方、肩のすくめ方、これはぜんぶ唯季の特徴です。それから、髪の毛をかきあげているポーズを撮った写真がありましたけれど、いつもは右利きの唯季が、手で髪を梳《す》くときにかぎっては必ず左手を使うんです。しかも親指と人差指は使わずに、中指薬指小指の三本でスーッと髪の毛を梳いていく。写真の彼女はまさにそうやっていますが、これも唯季の特徴的なしぐさです」
「それが同時にユリの特徴でもある、という可能性を否定できるかね」
「できますよ。あたりまえじゃないですか」
安達はムキになった。
「いくらふたごでも、こんな細かいところまで似ているはずがありません」
「しかし、きみはユリを見ていないのだよ」
「まだまだほかにもありますよ。一冊目の学生時代のアルバムで、水着姿のものがあったでしょう。あの写真で、右の太腿《ふともも》のつけね近くにホクロがあるのがハッキリ写っていますが、まさにその位置に、唯季はホクロを持っているんです」
「ユリもちょうど同じ位置にホクロがないと、どうして言い切れるね」
「お義父さん」
安達は爆発寸前になった。
ただでさえ、殺した妻に一卵性双生児の妹がいたことを思い出して神経質になっていたのに、そのユリという妹は、唯季と何から何までそっくり――いや、そっくりというレベルを超越した似方だという。そんな気持ちの悪いふたごの存在など、絶対に認めるわけにいかなかった。それが事実だとは、絶対に認めるわけにいかなかった。
「お義父さんは何がおっしゃりたいんです!」
ついに安達は声を荒らげたが、上條のほうは淡々とした中にも苦悩をにじませた口調で答えた。
「だからさっきから言っているではないかね。このアルバムに写っているのは、すべて妹のユリであって、きみと結婚した唯季のほうではないのだ、と」
「だったら違いを教えてくださいよ。父親ならば、ちゃんと指摘できるでしょう。ここがこう違うから、この写真は姉の唯季ではなく妹のユリだというふうに、ちゃんとぼくに説明ができるでしょう」
「それができないのだ」
あまりにもあっさりと上條が言ったので、安達はポカンとした。
「……なんですって。父親でもふたごの娘の区別がつかない?」
「私だけではない。生みの母の慶子にも、とうとう二人の区別をつけることができなかった。五歳まで成長してもなお……」
「そんなバカな」
「信じられないだろうが、それが真実なのだ」
「信じられませんよ、当然」
「真児君、聞いてくれ」
いきなり上條は、座卓の向こうから手を伸ばしてきて、安達の片腕をガシッとつかんだ。
安達は反射的につかまれた腕を引き抜こうとしたが、上條は見てくれからは想像できないほど強い力で捉《とら》えて放さなかった。
「なあ、頼むから私の話を聞いてくれ。ふたごがよく似ていると、人々は驚くし珍しがる。しかし、その相似性が限度を超えていると、物珍しさを通り越して気持ち悪さというものを感じるようになる。娘たちがヨチヨチ歩きのころまでは、まだ物珍しさで通用した。こう言っては親バカになるかもしれないが、あの子らの器量の良さは幼いころから際立っていた。唯季とユリは、それぞれがひとりでいてもかなり目立つ愛らしい子供だったが、二人並ぶと、人々はその奇跡のような光景に驚きの声をあげたものだ。そして笑顔でこう言ってくれたものだよ。『信じられないわ、ほんとうに二人とも作られたお人形さんみたいね』と……。
作られたお人形さん――よくよく咀嚼《そしやく》するとぶきみな言葉だが、そういった褒め言葉で鼻高々になっていた時期も、たしかに私たち親にはあったのだ」
軽い咳払《せきばら》いをしてから、上條はつづけた。
「だが、すでに子供が二歳の誕生日を迎えるころには、私たち夫婦は二人の娘の『異常』に気がついていた。似ているというよりも、これは『同じ』ではないか、とね」
「同じ……」
その概念に、安達はゾッとした。
「似ているのではなくて、同じ……ですか」
突然、バラバラバラッという音がしたので、安達は驚いて横を見た。
先ほど来の強い風に乗って、和室の窓ガラスに大粒の雨が叩《たた》きつけられていた。
「いまも言ったように、私と慶子がふたごの娘のそっくりさを面白がっていたのは、せいぜいあの子たちが一歳のころまでだった。その年なら、まだ個性というものが出てこなくても不思議ではないからね。けれども二歳、三歳と成長してゆくにつれ、これはおかしいぞという感じになってきた。たとえばこんなことがあった」
上條も窓に叩きつけられる雨をときおり気にしながら話を進めた。
「あれは唯季とユリが三歳になった夏の夕暮れだった。私が役所の勤めを終えて家に帰ってくると、家内が困った顔で子供たちが高熱を出していると言う。たしかに心配な状況だったので、私と慶子はそれぞれ子供を抱いて、まだ診察を受け付けている総合病院の小児科に走った。ところがそこは、それこそ役所のように杓子《しやくし》定規な病院で、『ごきょうだいであっても急患でないかぎり、先生はひとりずつしか患者さんを診ませんからね』と、吊《つ》り上がったメガネをかけたベテラン婦長が言うわけだ。こちらが急患だと主張しても、その程度ならばちゃんと順番待ちをしてくださいと譲らない。
ともかく順番がきたところで、先に家内がユリを抱いて診察室に入った。しばらくしてユリが診察を終え、入れ替わりに私が唯季を抱いて入ると、医者が開口一番言ったものだよ。『冗談はよしてください。いま診たばかりじゃないですか』とね。この子たちはふたごなんですと説明しても、医者は信じない。そこで、いったん待合室に引き下がったユリを見せて、ようやく医者も納得したのだが、具体的に内診を始めた段階でまた医者が驚いた。まず、顔がそっくりなだけでなく、身体的な特徴が何から何までいっしょだとわかったからだ。そして、熱が二人とも三十九度四分だったというのはまだ偶然で片づけるとしても、心臓の鼓動の打ち方から呼吸の荒れ具合までがそっくりだった。
医者は、本来の風邪の診察をそっちのけで、いったん待合室に引き下がったユリを呼び戻すように言った。そして、二人をベッドに並べて寝かせ、聴診器を使って丹念に診ていたが、やがて看護婦に命じて、もうひとつ聴診器を持ってこさせた。そして、片方を唯季の胸にあて、もう一方をユリの胸にあてて、右耳で唯季の鼓動を、左耳でユリの鼓動を聴くというやり方で比較をしていた。
しばらくして、医者の額にじっとりと汗が滲《にじ》み出てきたのがわかった。やがて聴診器を外すと、まさに化け物でも見るような顔で唯季とユリを眺めてつぶやいた。『信じられない。脈拍数と呼吸数がまったく同じだけでなく、鼓動の打ち方や息の吐く吸うのサイクルが完全にシンクロしている[#「鼓動の打ち方や息の吐く吸うのサイクルが完全にシンクロしている」に傍点]……』と」
「鼓動と呼吸が、ふたごで同調しているんですか!」
「そうだ。あまりの出来事に、医者はあとの患者をほったらかしにして、より詳しいチェックをしはじめた。心電図の計測器を二台持ち出してきて、もういちど機械的に確かめてみることにしたのだ。だが、驚くべき事実はなおさら明白になった。二台のモニターに映し出される波形を見て、医者はほとんど叫び声といってもいい大声を上げた。『どうなってるんだ、これは。何から何まで同じじゃないか!』と。
私も家内も愕然《がくぜん》となった。素人目《しろうとめ》にも、二人の心電図の波形がまるでコピーしたいみたいに同じであるのがハッキリとわかったからだ」
返す言葉もない安達に向かって、上條は言った。
「医者は私にこう言った。『お父さん、できればもっと時間をとって、娘さんたちをさらに精密に検査させてもらえませんか』と。学会でこの特殊な事例を発表したがっているのが見え見えだった。だから私は即座に断った。娘たちは見世物ではありません、と。そして、このことはプライバシーにかかわる問題ですから、医者の守秘義務としてぜひ内密にしていただきたい、ともつけ加えた。
プライバシーの守秘義務を持ち出されたことで医者はしぶしぶ引き下がったが、私と家内の慶子は、家に戻ってからもショックから立ち直れなかった。そのときはまだ妹のユリの名前はカタカナではなく、漢字で『唯李』と書いていた。『唯季』にそっくりの『唯李』だ。そんな紛らわしい名付け方をしたバチでも当たったのかとさえ思った。私と慶子は口も利けずに、氷嚢《ひようのう》をあてて眠っている二人の子供の寝顔を見つめるばかりだった。私たちは、いずれも心の中である叫びをわめいているのだが、それを口に出して言う勇気を持たなかった。すなわち」
言葉を区切ってから言った。
「この子たちは似ているのではなくて、同じなんだ……ということを」
外の吹き降りはますます激しくなり、衝撃でボーッとなった安達の頭には、雨音が波のように聞こえ、自分が荒れ狂う海の中にいるのではないかという錯覚に囚《とら》われた。
「でも、お義父さん……」
あまりに現実ばなれした話をなんとか認めない方向へもっていこうとして、安達は懸命にもがいた。
「そこまで区別がつかないほどそっくりならば、親はどうやって区別をつけていたのです。どっちが唯季でどっちがユリと、どうやって見分けていたのですか」
「見分けようがないんだ」
上條は答えた。
「洋服で区別しようにも風呂に入れるために裸にすると、もうどっちがどっちかわからなくなってしまう。だが、そこまで何もかも似てしまうと、ふたごを区別するという必要がなくなってくるのだ。つまり、取り違えるという概念が存在しないのだよ」
「………」
「だが、伝い歩きができるかできないかというころには、当人たちのほうで片方がじぶんの名前をユキといい、もう一方がユリなのだと認識できるようになったらしい。たとえば、片方に赤い服を着せて、もう一方に青い服を着せておく。すると、ユキちゃんと呼べば、必ず赤い服の子が振り返り、ユリちゃんと呼ぶと青い服の子が振り返る。そして、絶対にそれを取り違えることがなかった。つまり、ふたごの姉妹の区別は子供たちのほうでしてくれて、親はそれに従うしかなかったのだよ」
「信じられない」
「何から何までそっくりの二人の娘に、最初は面白がったり珍しがったりしていた私たちも、あまりの似方に怖さを感じるようになっていった。やがて唯季とユリを三年保育の幼稚園にやる年になったが、ほとんど同一人物といってよい存在の二人を同じ幼稚園に通わせれば、さまざまな混乱が起きるのは容易に予想された。それに、他の親たちの好奇の目にさらされるのもイヤだった。だから、そういった事態を避けるために、わざと二人を別々の幼稚園に通わせることにしたのだ」
「ふたごなのに別々の幼稚園……ですか」
「そうだ。もちろんそれによって、母親である慶子の負担は増える。毎日の送り迎えを含め、何から何まで倍の手間がかかるわけだからね。しかし、それだけの苦労をしてもかまわないと決心するだけの対価が……ある種の期待が私たちにはあった。それは、二人の環境を違えれば、唯季とユリに明確な違いが出てくるだろうといった希望だった」
「なるほど、先生も友だちも別々になりますしね」
「それだけではない。私たちは、唯季を神社が経営する幼稚園へ通わせ、ユリをキリスト教系の幼稚園へ通わせることにした」
「宗教から違えてしまおうと思ったんですか」
驚きとともに、わずかながら非難の響きが含まれた安達の口調に、上條はうなずいた。
「こんなことは外国の人間に言わせれば邪道の極致だろう。宗教への帰依《きえ》が全般的に希薄な日本人だからこそやれる無謀な試みだ。非常識なのは私も慶子も百も承知だった。けれども私たちは、そこまでしてでも二人の娘に区別をつけさせたかった。ところが」
「ところが……それがそうはならなかった?」
「そうなんだ、真児君」
「どうしてですか」
と、たずねながら、安達は唯季の父親の首筋あたりに鳥肌が立っていることに気がついた。
「あの子たちは……」
明らかに唇を震わせながら、上條は言った。
「わずか三歳にして、両親のねらいを看破したのだ」
「えっ?」
「父親と母親が自分たちふたご姉妹の間に『違い』を与えようと必死なのを悟り、それを拒否することに決めたんだよ」
「三歳の女の子二人が、ですか」
「そうだ」
「自分たちの意思で?」
「ああ、そうだ」
上條は、おおげさなくらいに強く首をタテに振った。
「子供たちがどういう相談をしたのか私たちにはわからなかったが……いや、相談などない本能的な行動だったのかもしれないが、あの子たちはとてつもない抵抗手段に出た」
「具体的には」
「いまから詳しく話す。あせらず、順に聞いてくれ」
先を急ぐ安達を制するように上條は片手をあげたが、その手の指先もまた小刻みに震えていた。
「別々の幼稚園に通わせてから数カ月経っても、二人の間にまったく変化は見られなかった。差というものがまるで発生しないのだ。別々の先生について別々のカリキュラムを受け、別々の友だちと遊んでいるにも拘《かか》わらず、唯季とユリの間に明確な違いは出てこなかった」
「友だちの行き来があったからじゃないんですか」
「たしかに、おたがいの友だちを家に連れてくるものだから、そこで二つの環境に接点が出てくるのはわかる。しかし、神社系の幼稚園に通わせている唯季が、家で夕食をとるときには、ユリと声をそろえてマリア様に祈りを捧《ささ》げたりする。そうかと思えば、七五三で神社へ行ったときなど、ユリは親に教えられたわけでもないのに、唯李とタイミングをそろえて二礼二|拍手《はくしゆ》一|拝《ぱい》をきちんとこなす」
「………」
「私も家内もそれを見て愕然《がくぜん》となったよ。幼稚園の年少組に通う娘たちが、たがいに異なる環境をそこまで教えあえるのだろうか、と。そして、その疑問の答えは……恐ろしいものだったのだよ、真児君。その答えを、あの夜、家内は見たのだ」
ごくんと喉仏《のどぼとけ》を上下させてから、上條はつづけた。
「さっきも話したように、衣服や持ち物の傾向をはっきり違えることで、なんとか見かけ上の区別をつけるように私たちはしてきた。つまり、ふたごを持った世の親がやっているのとは正反対のことをしたわけだ」
「ペアルックを着せるなどとんでもないわけですね」
「もちろんだ。ちょうど幼稚園にあがったころを境に、唯季とユリにはまったく別の洋服を着させるようにした。色合いも唯季は赤系統、ユリは青系統というふうにはっきり分けた。パジャマに至るまでそのように徹底したのだ。ところが……」
遠い過去をふり返るように、上條はいったん目を閉じた。そして、閉じたまぶたをピクピクと神経質に動かしながら語りつづけた。
「そんな私たち親の努力をあざ笑うような出来事が起こった。あれは今夜のように風が泣き叫ぶ夜だった。真夜中……いや、もっと深い時間帯だった。たぶん午前三時前後のように記憶している。熟睡していた私は、家内に激しく揺すぶられて起こされた。寝ぼけまなこで目を開けると、恐怖で顔を歪めた慶子の顔が薄暗い豆電球の明かりに浮かび上がっていた」
そこで上條はカッと目を開けた。
「『あなた、唯季とユリが!』――恐怖にこわばった表情でそれだけ言うと、家内は絶句した。私の眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。子供たちに何か異変があった、と思ったんだ。急いでふとんをはねのけると、私は子供部屋へすっ飛んでいこうとした。が、慶子は私の腕を必死につかまえて、行かないで、いま行ってはダメ、と押さえ込むんだ。そして、自分がいま何を見たのかを話しはじめた……」
上條は、日本茶を入れた例のコーヒーカップを持ち上げたが、ほとんどそれが空になっていることに気がつくと、コトリと音を立ててそれを置いた。
そして彼は、血の気のない顔で安達を見やりながら、また口を開いた。
「夜更けに風の音で目を覚ました慶子は、トイレに立ったついでに子供たちがちゃんと寝ているかを見に、子供部屋のほうへ近づいた。すると、閉まったドアの向こうからクスクスと忍び笑いの声が洩《も》れてきたのを耳にした。明かりを落として真っ暗になった廊下で、娘たちのその笑い声を聞いたとき、慶子は腕に鳥肌が立つような恐ろしさを感じたという。
それでもその段階では、母親としての役目が意識にあった。つまり『あなたたち何時だと思ってるの。ちゃんと寝なきゃダメよ』と叱《しか》る役目が。だが、ドアの閉まった子供部屋に向かって廊下を一歩一歩進むにつれて、恐怖から出た鳥肌は、腕だけでなく、慶子の全身を覆いつくすまでになった」
そう語る上條の肌が、まるで同じ状態になっていた。そして、その粟粒《あわつぶ》だらけの彼を見つめる安達にも、鳥肌が伝染した。
意識の外に追い出していた風の悲鳴が――女の悲痛な絶叫に似た風の唸《うな》り声が、またやたらと耳につくようになった。その風が部屋の中へ入ってきたわけでもないのに、隅の押し入れの戸がガタリと音を立てて揺れた。
「不吉な予感がした慶子は、覗《のぞ》き見をするように、ドアをほんの数センチだけ開けてみた。すると、唯季とユリが並べて敷いたふとんの上に起き上がっているのが目に入った。娘たちは、たがいに向き合っておかしそうに笑っていた。最初慶子は何がおかしいのかわからなかった。が、子供部屋の薄明かりに目が慣れると、すぐに妙なことに気がついた。パジャマがチグハグなんだよ」
「パジャマがチグハグ?」
「そうだ。唯季には赤いパジャマを、ユリには青いパジャマを着せて寝かせていたはずなのに、そのときの二人の格好は、唯季が赤い上着に青いズボン、ユリはその反対に、青い上着に赤いズボンだった」
「子供たちはパジャマのズボンを交換していたんですか」
「それだけならば、夜中に目覚めてヒマつぶしの遊びをはじめたと解釈できないこともない。だが、母親がこっそり様子を窺《うかが》っているのも知らずに、娘たちはその先を進めた。おぼつかない手つきでパジャマの上着のボタンをはずすと、それを脱ぎ、たがいに交換してまた身につけたのだ。つまり、唯季が上下とも青いパジャマ、ユリが上下とも赤いパジャマになった。そして二人はクスクスと笑いながら、寝る場所も交換した」
「じゃあ……」
事の真相を理解した安達は、あぜんとしてつぶやいた。
「ふたごの女の子は、真夜中にすり替わっていたんですか」
「そのとおり。パジャマを替えた瞬間から唯季はユリになり、ユリが唯季になって朝を迎えるわけだ。いや、厳密にいえば、前の晩に唯季だと思って赤いパジャマを着せた子が、はたしてほんとうに唯季のほうだったかどうかの確証もないのだよ」
「………」
「ともかく、真夜中のパジャマ交換を終えた二人は、知らん顔で朝方には『別人』となって目覚めるわけだ。そして、それぞれが前の日とは反対の幼稚園に行く。……どうだね真児君、毎晩このすり替わりをやっていれば、神社系の幼稚園もキリスト教系の幼稚園もあったものじゃないことがわかるだろう。双方の環境を均等に経験することになるのだから、二人の性格や行動様式に差がつくはずもない」
「ふたごの姉妹は、意地でも別々のキャラクターになることを拒否した、ということですか」
「そうだ」
「信じられませんね。絶対に信じられないですよ、そんな話は」
安達は何度も首を激しく振った。
「三歳か四歳の女の子二人にそんな知恵が働くはずもないでしょう」
「知恵ではない、本能なのだよ、真児君。唯季とユリには、自分たちが別々の存在になりたくないという強い本能があったに違いない。それがあの子たちに、知能とか知恵を超えた行動を取らせたのではないかと思う」
「そんな……」
「いずれにせよ、夜更けの子供部屋の光景は家内に大きな衝撃を与えた。そればかりではない、すり替わった娘たちが、朝になってシャアシャアと親をあざむきつづけているのもショックだった。やがて私も慶子も、どちらが唯季でどちらがユリなのか、まったくわからなくなってしまった。これは子供の親として、混乱という表現を通り越した事態だった。そして、その異常事態の積み重ねの中でふたごの娘たちと接していかねばならなかった母親は、パートナーの私ですら気づかぬうちに、しだいしだいに健全な精神を冒されるようになってしまったのだ。その過程の一部は、慶子本人が記した日記にはっきりと残されていた」
そう言って、上條はこれまで見せた二冊のアルバムの下にあったもう一冊を、座卓の中央に載せた。
三冊目のアルバムは写真だけを貼《は》り集めたものではなく、唯季の母親の日記をいっしょにファイルしたものだと上條は説明した。だが、前の二冊のときと違って、上條はそれを安達のほうへ押しやらず、いつまでも自分の両手で押さえ、しかも表紙を開けようともしなかった。
「申し訳ないが、この日記をきみに見せる決心はまだつかない」
上條は言った。
「慶子が徐々に狂っていき、ついには土砂降《どしやぶ》りの雨の中、驀進《ばくしん》するダンプカーに正面から突っ込んでいって死を遂げるまでの過程を、きみに見せる勇気はまだないのだ」
「それはもう結構です、お義父《とう》さん」
カタカタと音を立てて揺れる窓を横目で見やりながら、安達は言った。
「唯季がこんなことになってしまった以上、過去をあれこれ掘り返しても仕方のないことですから」
安達は逃げ腰になっていた。
正直なところ、殺した妻の実家からは一日でも早く疎遠になりたいところなのに、思いもよらぬ異様なふたご姉妹の物語を聞かされ、安達は、まるで蜘蛛《くも》の糸に搦《から》め捕られたような気分になっていた。
「とにかくお義父さん」
座卓に両手を付き、いまにも立ち上がりそうな気配を見せながら、安達は区切りをつけるような口調で言った。
「いろいろ唯季の昔話をしてくださってありがとうございます。けれども、ぼくにとっての唯季は、ぼくの知っている唯季だけでじゅうぶんなんです。わかっていただけますよね。幼い子供のころにどんな出来事があろうと、ユリちゃんとどういう関係にあろうと、ぼくの人生にとって唯季という女性は、ふたごの片割れではなく、たったひとりの存在だったんです。そして、知り合った時点からその存在が始まり、先日の悲劇で彼女の存在は消えてしまった。もちろんぼくは、唯季との思い出をこれからもずっと大切にしていきたいと思っています。だからこそ、ぼくの知らない部分の唯季は、記憶の中には入れたくないんですよ」
「その気持ちはわかるよ、真児君」
上條は、すっかり白くなった髪を両手でかきあげると、真正面から安達を見据えた。
「いま聞かせた話がきみに不愉快な気分を生じさせるのも、とうに予想していたことだ。しかし、これから私がするお願いをきみに聞いてもらうためには、前もってすべての状況を正直に伝えておく必要があると思ったのだ」
「お願い?」
不吉な予感を覚えながら、安達は聞き返した。
「お願いって、何です」
「きみは、私が見せたユリの写真を唯季だと信じて疑わなかった。それから私は、いかに唯季とユリが同一の存在であるかをきみに告げた。そのうえでのお願いだ」
唯季の父親は、居住まいを正して安達に言った。
「真児君、唯季の一周忌がすんだら、妹のユリと再婚してくれないかね」
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六 変 心
「私は信じないわよ」
ひととおり安達から話を聞き終わった中曾根麗奈は、突き放すように言った。
「いまの話は一から十まで信じられない。熱を出したふたごの呼吸や心電図がぴったり同じだった話も、唯季さんのお母さんが狂って自殺した話も、何もかも信じられない」
「だけど、ぼくは見たんだ」
安達は強調した。
「この目で実際に見たんだ。アルバムに貼られたふたごの妹のユリの姿は、どうみても唯季としか思えなかった。でも、絶対に唯季ではありえなかった。なぜなら写真の背景にアフリカの草原が……」
「だまされているのよ」
安達が最後まで言い終わらないうちに、麗奈が決めつけた。
「あなたがアルバムで見せられたのは、やっぱり唯季さんなのよ」
「最初はぼくだってそう思ったさ。だけど……」
「最初の直感が正しいの」
また麗奈がさえぎった。
「いくら一卵性双生児だからといって、何から何までそっくりのふたごなんているわけがないわ。だけどその作り事を信じさせるために、父親は、唯季さんの写真をシンちゃんに見せて、それをユリさんだと嘘《うそ》をついているのよ」
「なぜそんな嘘をつく必要がある」
「シンちゃんを試しているのよ」
「ぼくを試す? 何を試すんだ」
「まだわかんないの? あなたはね、やっぱり唯季さんを殺した犯人じゃないかって、彼女のお父さんから疑われているのよ。だから、唯季さんそっくりのふたごの妹の話を持ち出してきたんだわ。安達真児がどういう反応を示すかをチェックするために」
「まさか……」
こわばった顔でつぶやくと、安達は向かい合わせに座った麗奈の肩越しに見える壁の時計に、無意識に目をやった。
時刻はすでに午前一時を回っていた。
上條の家を辞してすぐに安達は麗奈に連絡をとり、東京郊外の国立《くにたち》市にある彼女の実家を訪れた。予想もしなかった事の成り行きについて相談するためである。
夜通し吹き荒れている強い風は、時刻とともにますますその激しさを増してきたが、中曾根家の豪邸の中に入ると、外界の様子はぴたりとシャットアウトされてわからなくなった。外の状況だけでなく、広大な屋敷のいちばん端に位置する麗奈の部屋にいると、同じ屋根の下に住む麗奈の両親の様子もわからなかった。
安達は、庭先から麗奈の部屋に直接入る独立した入口を通ってきたので、彼の深夜の訪問は麗奈の両親にも気づかれていないはずだった。
そもそも安達真児が中曾根麗奈と知り合ったのは、資産家である彼女の父親、中曾根興太郎を通じてのことだった。表向きには美術商という文化的な匂《にお》いのする肩書をもつ中曾根だったが、実際には他にもさまざまな事業を経営しており、そのうちの一社が、安達の主演する連続テレビドラマのスポンサーとなったことがあった。二人の最初の出会いは、スポンサーの会長と主演男優という立場だったのだ。
そのときはテレビ局の人間を介して食事をしたのだが、中曾根は安達の男っぷりをいたく気に入ったらしく、つぎは一対一で食事をしましょうと言ってきた。
安達は安達で、初対面の席でさんざん聞かされた中曾根の財力に興味を示し、ひょっとするとこの男は、番組だけでなくプライベート面でも良いスポンサーになってくれるかもしれないと期待して、彼の誘いに応じた。
二度目の会食のときには、一対一と言いながら、もうひとりが席に加わってきた。それが中曾根の娘の麗奈だった。「こいつがきみの大ファンでねえ」というのが、父親からの最初の紹介の言葉だった。
その席で安達は、中曾根からずいぶんプライベートな質問を受けた記憶があった。結婚はしているのか、子供はいるのか、奥さんはどんな人なのか、どういう出会いだったのか、兄弟はいるのか、ご両親は健在か……などなどである。
ずいぶん立ち入ったことをたずねてくる人だな、とは思ったが、金ヅルになるかもしれない人物なので、差し支えのないかぎり安達はていねいに質問に答えた。三年前に結婚して、子供はまだいないし将来も作るつもりはないこと、自分には兄弟はおらず一人っ子で、両親はいずれもすでに他界していること、などである。正確には、彼を捨てて女と逃げたドイツ系アメリカ人の父親の消息はわからないのだが……。
その席での麗奈は、ひたすらはにかんだ様子で、ほとんど会話に口を挟んでこなかった。中曾根はしきりに親バカを自称し、てらいもなく娘自慢を展開したが、安達は自他共に認める面食いだったので、麗奈にはまったく興味を示さず、彼女が白けない程度におざなりな言葉をかけるだけだった。彼は、そのとき中曾根の頭にあった計画など知る由《よし》もなかったのだ。
しかし、娘をはさんでの食事を終えてから数日後、またしても中曾根が会いにきた。それも、わざわざ安達の撮影現場まで足を運んできたのである。そして、人目につかないところでこっそりささやいた中曾根の言葉は、安達を大いに驚かせた。
「安達君、私はこのあいだの食事の席で、自分がどうしようもない親バカだと話したのを覚えているだろうね。可愛い一人娘が欲しいといったものは何でも手に入れてやる日本一の親バカだと……。その娘がだ、若手ナンバーワンの二枚目俳優アダチシンジを欲しいと、私におねだりしてきたんだよ」
あぜんとする安達に、中曾根はこの申し出をきみが蹴《け》るはずはあるまいといった自信満々の表情でつけ加えた。
「もちろん、お礼はたっぷりさせてもらう。他の誰にもできないお礼をね。具体的に言おうか。娘のおねだりを聞いてくれたなら、この私が持っている財産すべてをきみに差し上げよう」
安達は自分の耳を疑った。ようするに中曾根は、自分の娘と結婚してくれないか、と申し出てきたのだ。安達が妻帯者であるのを知っての行動である。
安達は迷った。言下にその申し出を断る毅然《きぜん》さを持ち合わせなかった。まるで安達の金への執着心を見透かしたような提案だった。
中曾根のリクエストを受ければ、金と名声のギャップを埋め合わせてなお釣りがくる。安達は、突然やってきた幸運の女神の輝きに、軽いめまいすら覚えた。
二、三日迷ったすえに、ついに彼は、中曾根興太郎の財産をまるごと受け継ぐ権利を手に入れようと決めた。金の前には、もはや愛情は二の次だった。
決心したその日から、早くも麗奈との交際がはじまった。麗奈は初対面のつつましさが嘘のように、奔放な態度で安達を誘い、安達も目をつぶる心境でそれに乗った。彼は心を鬼にして、美しい妻を裏切ることにしたのだ。
そしてその裏切りは、妻の命を奪うところまでエスカレートした。
父親の中曾根興太郎は、愛娘《まなむすめ》が人気俳優アダチシンジのガールフレンドとなったところまでは、当然知っていた。だが、よもや娘と安達が共謀して、邪魔者の妻を殺す計画を立てたとは夢にも思っていないはずだ。だから安達としては、妻の変死が中曾根の目にどう映っているのかがいちばん気になっていた。
唯季の葬儀のとき、さすがに麗奈は姿を見せなかったが、父親の中曾根は焼香にやってきた。喪主であった安達は、中曾根が焼香者の最前列に進んできたとき、おもわず顔をそむけた。すべての真相を彼には見抜かれているのではないか、という気がしないでもなかったからである。
だから今夜の訪問も、できることなら中曾根には気づかれたくなかったし、麗奈もそれには同意見だった。
「罠《わな》に引っ掛からないで」
麗奈は、安達の目を覚まさせるような強い調子で言った。
「シンちゃんの作戦が当たって、たしかに世間はあなたを疑いの目で見なくなったわ。でも、奥さんの親は別だと思うの。どんなに言葉ではあなたを信じているふりを装っても、心の中に根づいた疑惑はそうかんたんには晴れないわ。彼女のお父さんは迷っているのよ。アリバイは確実にあるから事件とは無関係のようだけれども、ひょっとすると安達真児は人に依頼して娘を殺させた恐ろしい悪魔かもしれない、って。そのわずかな疑惑に決着をつけるには、あなたを試すしかないと考えたわけ。もしもあなたが妻殺しの罪を犯していたら、その妻と瓜二《うりふた》つの妹の物語を聞いたら、きっと恐れ脅えるはず――そう考えて、作り話を話して聞かせたのよ」
「いや、ぼくにはとうていそうは思えない」
ゆっくりと首を左右に振りながら、安達は反論した。
「彼女の父親の話を聞けば聞くほど、あまりに似すぎたふたごをもった親の恐怖がひしひしと伝わってくるんだ。妹のユリはヨーロッパを回っているために連絡が取れず、唯季の葬儀には出られなかったということになっていたが、それはぜんぶ嘘《うそ》だった。父親としては、あまりにも似すぎたふたごの妹を、葬儀の場でみんなに見せたくなかったんだ。
だってそうだろう、唯季の棺《ひつぎ》の前にユリが現れたら、死んだ唯季が生き返ったとしか思えないじゃないか。幽霊が出たようなものじゃないか。そうなったら、夫であるぼくが大きなショックを受けるのはもちろんのこと、焼香にきた人々も大混乱に陥ってしまう。上條氏としては、そうした事態を避けたかったので、やむをえずにユリとは連絡が取れないという嘘をついたわけだ」
「そんな言い訳を信じないで」
「いいからぼくの話を聞けよ」
こんどは安達のほうが、麗奈をヒステリックにさえぎった。
「実際には、ユリのもとには姉の訃報《ふほう》がちゃんと届いていた。父親の上條氏が国際電話で知らせていたんだ。そのとき上條氏は、養女に出した唯季の妹にこう言ったそうだ。いまおまえに最後のお別れにきてもらうのは、真児君にとっても周囲の人間にとってもあまりに刺激が強すぎる。だから、すべてが一段落してから、そっと日本に帰ってきなさい、と。すると、その場でユリは父親にこう問い返してきたそうだ。ひとりぼっちになった真児さんがかわいそう。私がお姉さんの代わりに、真児さんのお嫁さんになってはいけないかしら……」
麗奈の顔が引きつった。
「ユリは三年前、結婚を知らせる姉からの手紙に同封されたぼくの写真を見たとき、電気に打たれたようなショックを感じたそうだ。平凡にいうなら『一目惚《ひとめぼ》れ』だが、そんな単純な言葉では片づけられないような運命的なつながりを、彼女はぼくの写真に感じた。そしてそのとき以来、ユリはぼくに恋心を抱きつづけていた。できれば、お姉さんの代わりにこの人のお嫁さんになりたい。ユリはずっとそう思っていたという」
「やめてよ、そんな話は!」
麗奈は感情的になった。
「シンちゃん、あなたが危ない橋を渡ってまで人殺しをしたのは何のためよ。何のために人を使って奥さんを殺させたのよ。私と結婚するためでしょう。それなのに、どうしていまになってふたごの妹と結婚するなんて言い出すのよ」
「誤解しないでくれ。ぼくが結婚したいと言っているんじゃない。向こうがそう言い出してきたんだよ」
「相手がどうこうではなくて、あなたにその気があるから迷っているんでしょう」
「ぼくが迷っている?」
「そうよ、迷いがなかったら、そんな話はその場で断れたはずよ。どんなに似ていたとしても、唯季さんとユリさんは別人ですから再婚などとんでもありません、ときっちり断れたはずよ。それなのに、シンちゃんはそうしなかった。どうしてなの」
「断るも断らないもないよ」
麗奈の意外な興奮ぶりに戸惑いながら、安達は弁解した。
「あまりにも突拍子もないことが次々と唯季の父親の口から出てくるので、ぼくの頭はまるで機能停止状態だったんだ」
「そうじゃないわ。シンちゃんは、やっぱり唯季さんのことが忘れられないのよ。殺しておきながら未練があるのよ。彼女の美しさが忘れられないのよ」
瞳に涙をにじませながら、麗奈は叫んだ。
「どうせ私は唯季さんなんかに較《くら》べたらブスよ!」
「なに言ってるんだ。落ち着けよ、麗奈、落ち着け」
安達は、興奮する麗奈をなんとかなだめようと、押し殺した声で説得した。
「実行犯を雇ったとはいえ、ぼくは自分の妻を殺した。そしてその実行犯については、ぼく自身の手で殺した。つまりぼくは、二つの殺人を犯したんだ。誰のために? ほかでもない、麗奈のためだ。唯季との暮らしに終止符を打って、麗奈といっしょになるために人を殺したんだ。そこまでぼくは思いつめていたんだ。そこまで深くきみのことを愛していたんだ。だからこそ、妻を殺してでもいっしょになりたいと思った。そのぼくが、なぜいまになって、唯季の妹に気を惹《ひ》かれなくちゃならないんだ」
「うそ、うそ、うそ」
「何が嘘なんだ」
「愛しているなんて嘘よ」
麗奈は髪を左右に激しく振り乱してわめいた。
「あなたが愛しているのは私じゃなくて、パパの財産なのよ。あなたは私という人間を愛しているんじゃなくて、お金を愛しているのよ。そんなことは最初からわかっていたけど……でも、私はそうは思いたくなかった。認めたくなかった。それなのに……」
「麗奈、それは大きな誤解だ」
「私にさわらないで!」
麗奈は、肩にのせてきた安達の手を振り払った。
「ぜんぶわかってるわ。シンちゃんはすごく後悔しているのよ。あんなに美しかった唯季さんを、私みたいな女のために殺してしまった――そのことを、ほんとはすごく悔やんでいるのよ。そして、できれば時計の針を元に戻したいと思っていたんだわ。そんなところへ、殺した奥さんと何から何までそっくりの妹の話を持ち出されたものだから、シンちゃんのスケベ根性がうずきだしたのよ。いい女をまた抱ける、って」
いきなり下品な言葉が麗奈の口から放たれた。
麗奈の違う一面が出た――と、安達は思った。いや、違う一面というよりも、本性というべきか。
しかし、そのときの安達は麗奈の性格問題まで気を回すゆとりがなかった。むしろ、自分の潜在意識をズバリえぐり出されたバツの悪さがあった。
麗奈の叫びは的を射ていた。殺した妻と『完全に同一』である妹の存在を上條から聞かされたとき、最初は激しい恐怖心を覚えたが、そのユリという妹が安達と結婚をしたがっていると打ち明けられると、なぜか彼女と会ってみたいという誘惑にかられてしまったのだ。
その気持ちの変化は、まさに唯季の美貌《びぼう》への執着以外の何物でもなかった。
「シンちゃんは、もういちど唯季さんと結婚したいのね」
その言い方に、安達の心臓がドキンと鳴った。もういちど唯季さんと、という表現が彼の胸を鋭く刺した。
涙をふこうともしないで、麗奈は安達をにらみつけた。
「よかったわね、タイムマシンを見つけることができて」
「タイムマシン?」
「そうよ。奥さんとそっくりの妹と結婚できたら、あなたは忌まわしい過去を白紙に戻して、もういちど甘い新婚生活を送れるわけじゃない。人殺しって、ふつうは絶対に取り返しのつかないあやまちなのに、あなたの場合は取り返しがついてしまうことに気がついた。時間を溯《さかのぼ》って、過去を変えるのと同じことができそうだと気がついた。……どう、ズバリでしょ」
「………」
麗奈は、痛いほど安達の心理を衝《つ》いてきた。安達としては、返す言葉がなかった。
これまで何度となく男に裏切られ、だまされてきたことがあるのか、麗奈はすさまじい透視力で安達の心を見抜いてきたのだ。
たしかに安達は、ほんの数時間前に具体的な存在として浮かび上がったばかりの、まだ見ぬユリの登場によって心が揺れていた。
唯季の父親の上條は、売却して老後の生活費にあてるだけの田畑を生まれ故郷に持っていた。しかし、それは財産と呼ぶにはあまりにもちっぽけなもので、安達の将来を大きく支えるような糧にはならなかった。だからこそ彼は、中曾根家の財力に目がくらんだわけだが、一方、唯季の妹のユリが養子縁組をしたのは、なかなか豊かな暮らしをしている外交官一家だという。おまけに――何から何までそっくりのはずのふたご姉妹も、そこのところは差が出たようだが――ユリは、唯季とちがって語学が堪能《たんのう》らしい。そこに何か大きなチャンスが転がっているかもしれない、と安達は直感した。
安達は、恵まれた自分の容貌《ようぼう》とスタイルに絶大な自信を持っていた。きみの容姿ならば、国際俳優としてハリウッドでもじゅうぶん通用する可能性があるのだが、とおだて半分に映画プロデューサーから言われることもしばしばだった。けれども、『可能性があるのだが……』という褒め言葉のあとにつづくひとことが必ずあった。『ただし、本物の英語がしゃべれれば』という条件である。
日本人俳優が本場ハリウッドでそれなりに認められるには、容姿以前の問題として、英語力が問われることは安達もよくわかっていた。カタコトの英語だけでは、どんなハンサムもどんな美女も、けっきょくは一度かぎりの特別ゲスト役がせいぜいで、たいていは日本人の客が観て恥ずかしくなるような『ヘンな日本人』役しか回ってこない。英語力あってこその演技力なのだ。
もしも、海外生活が長くて英語ペラペラのユリに毎日特訓を受け、しかもフランス語やイタリア語もこなす美貌の彼女がマネージャーとして海外との契約を切り盛りしてくれたら、仕事もどれだけ広がるかわからない。安達の頭の中で、果てしなき夢が展開した。世界的なスケールで活躍する俳優アダチシンジの姿が、手に届くような確かさで見えてくる気がした。
安達の悪い癖が出てきたのだ。
いまよりももっといい人生がある、こんなはずじゃない、もっといい人生がある、と現在における努力をまったく無視して、輝ける未来に勝手な夢を馳《は》せる悪い癖が……。
安達真児という男は、見た目の印象よりもずっと軽率な男だった。しかし、彼の容姿がそれをカモフラージュしていた。
美女にかぎらず美男の場合も、整った顔立ちは、当人に不思議な魔力を備えさせる。その魔力とは、ひとことで言えば『知的な印象』である。知性そのものではない。あくまで知的な雰囲気というイメージの問題だ。
だが、それは本人にとって大きなメリットだった。中身が空っぽでも、顔がそれをカバーしてくれるのだから、こんな楽なことはなかった。その恩恵を、安達真児もこれまでたっぷりと蒙《こうむ》ってきた。唯季もそうだったし、唯季の父親の上條も、実態以上に安達をしっかりした人物だと評価してくれていた。
そして、そうした周囲の錯覚は、そのまま彼自身の勘違いにもつながっていった。自分が思慮に欠けた軽率な愚か者である事実を、おのれの容姿が忘れさせてくれるのだ。
安達は、自分は才能に恵まれた人間だと信じて疑わなかった。そして彼は、自らの才能に基づいて、未来をつねにバラ色に描いた。それは裏を返せば、現状にはいつも不満であるということにほかならなかった。
上條唯季という飛び抜けた美しさをもったモデルと知り合ったときは、これこそがバラ色の未来だと思った。だが、彼女との結婚生活が現在形で行なわれはじめると、すぐに彼は、よりグレードアップした未来への欲求と、現状への不満に取り憑《つ》かれた。それが結局は、妻殺しという非常識な行動をとらせたのだ。
ところが、資産家に婿入りするという理想の未来を約束された段階で、もうその現状が不満になってしまう。そして、もっとよい未来はないかと探しはじめる。父親の資産だけがメリットの麗奈という女は、早くも安達の心の中では魅力の失せた存在となっていたのだ。
なんとも信念のない場当たり的な生き方だが、それほどまでに安達は、目先のメリットに捉われてコロコロと気分を変える男だった。
結局のところ、安達は美しい女に目がない男なのだ。『面食い』という一語に尽きた。表面を飾って生きてきた男は、妻として迎える女性にも表面的な美しさを求めたがった。それがホンネだった。実《じつ》だけをとる割り切り方は、やはりできないのだ。
ただし、降って湧《わ》いたユリとの再婚話に食指を動かされたのは、唯季と瓜二《うりふた》つの美貌や、ビジネス・パートナーとしても有能そうな彼女の才能に期待したためだけではなかった。それよりももっと大きな理由があった。
まさに麗奈がズバリ指摘したように、安達はタイムマシンに乗りたかったのだ。妻を殺してしまったという悪夢のような過去を消し去ってくれる、奇跡のタイムマシンに……。
唯季と『同一』の存在である妹のユリと再婚するということは、唯季との結婚生活をまた一からやり直すのと同じことだった。つまり、殺した唯季が生き返ることだった!
しかし、直接手を下したのではないにせよ、自分が殺した妻とまったく同じ顔をした女とまた夫婦生活をはじめることが、いったいどういうものか、具体的に考えてゆくと恐ろさは募ってくる。
朝目覚めれば、腕枕《うでまくら》で抱いていたのは殺した妻と同じ顔の女。夜求めれば、自分の身体の下で悶《もだ》えているのは殺した妻と同じ顔の女……。一卵性双生児の相似レベルをはるかに超越した、≪唯季そのもの≫と呼んでもいい女に絡まれたとき、歓喜のため息ではなく、恐怖の叫び声をあげないという保証がどこにあるだろうか。
上條が語ったふたごの同一性が真実ならば、ユリと再婚することはイチかバチかの賭《か》けだった。あの美しい唯季がふたたび蘇《よみがえ》ることで忌まわしい殺人の記憶を消し去れるか、さもなければ連日連夜、唯季の≪生き霊≫に悩まされて発狂するか――この二つにひとつだ。
そして安達は、前者の可能性に賭けてユリとの再婚を真剣かつ具体的に検討しようという気になっていた。それが、上條の家を辞したときの正直な気持ちだった。
だが、そうなると問題は麗奈だった。すべての秘密を知った麗奈をどう処分するか、それを考えていかねばならない。
目先の獲物ばかり追いかける習癖のある安達真児は、そんなところまで一気に考えを巡らせていた。
「シンちゃん」
唇まで流れ落ちてきた涙をぬぐおうともせずに、麗奈は鋭く言い放った。
「もしもあなたが心変わりしたのなら、私、タダじゃすまさないわよ」
「え?」
「私を捨てて、唯季さんの妹と結婚するつもりになっているなら、私、あなたがしたことをぜんぶマスコミにしゃべる」
「なんだって……」
「そうしたら世間は大騒ぎよね。悲劇の主人公アダチシンジが流した涙は、世をあざむくための一世一代の演技で、じつは彼こそが美しい妻を殺した当の真犯人だった――これほどマスコミを興奮させるニュースはないわ。どんなにあなたが言い掛かりだと反論しようとも、いったんこのショッキングな話が広まったらもうダメ。俳優としてのあなたの仕事はゼロになり、人生のすべてを裁判のために捧《ささ》げることになる。いいえ、裁判のために費やす時間はそれほど長くはないかもしれないわね。私が証人台に立てば、話は早く進むはずだわ。そしてあなたを待っているのは、未来など何もない、塀の中の暗い暗い時間……」
「麗奈、何を先走っているんだ、麗奈」
安達は麗奈の両腕をがっちりつかんで、激しく彼女の身体を揺さぶった。
「いいか、きみは大事なことを忘れているぞ。唯季殺しに関しては、あくまできみは共犯者なんだ。その事実を脇《わき》へ置いて、ぼくだけを貶《おとし》めるようなマネができると思うな」
「私は自分では何にもやっていないわ。第一、あなたの奥さんとは一度も会ったことがないし、電話で話したことだってないのよ。そもそも唯季さんは、あなたが中曾根麗奈という女とつきあっていることすら知らなかったんでしょう」
「ひきょうだぞ、そうやって逃げるのは」
麗奈を揺さぶった拍子に乱れた前髪をかきあげながら、安達は必死に抗弁した。
「自分では何もやっていない、なんていう逃げ口上が通用すると思っているのか。唯季を殺すとぼくが決心したときに、うれしいと言って喜んだのはどこの誰だ。家で殺すよりもどこか人里離れたところでやったほうがいいんじゃないかと、そんなことにまで口出ししたのはどこの誰だ」
「私、そんなこと言ってないわ」
「言ったじゃないか、箱根の山で!」
「言ってないわよ」
「言った!」
「じゃ、証拠でもあるの? 何か録音したテープでもある?」
「な……な……なんだと」
「シンちゃん、耳がどうかしちゃったんじゃない。いちどお医者さんに診てもらえば?」
「どういうつもりだ、麗奈。その言い草は」
安達の顔色が変わった。
「ぼくはおまえのためを思って唯季を殺したのに」
「ち・が・い・ま・す」
子供が『イー』をするような表情で歯をむき出しながら、麗奈は言った。
「私のために殺したんじゃなくて、自分のために殺したんでしょ。そんなことの後始末まで、私、責任を負えないわ」
「そうじゃない、唯季を殺してほしいとおまえが頼んできたんだ。奥さんが生きているかぎりは、あなたとは結ばれない。だから奥さんを殺してと、おまえが泣きながら訴えてきたんだ」
「奥さんが生きている[#「生きている」に傍点]かぎり、じゃなくて、奥さんがいる[#「いる」に傍点]かぎり、と言ったのよ。奥さんがジャマだというニュアンスのことは言ったけれど、生きていると困るとは絶対に言っていないわ」
「いや、言った」
「言った言わないの水掛け論をここでしてもしょうがないでしょ」
「水掛け論じゃない。たしかにおまえは、奥さんが生きているかぎり私の出番はないのね、と言いながら、ぼくに涙の訴えをしたんだ」
「それも証拠がある?」
「………」
「ないでしょ。じゃ、シンちゃんの勘違いよ」
「麗奈」
安達はこめかみに青筋を立てた。
「なりふりかまわずに、唯季からぼくを奪い取ろうとしたのはどこの誰だ。テレビだけで知っていたあのアダチシンジさんにこうやって抱かれているなんて夢みたい、もうここまできたら、あなたと結婚できなかったら、私、死んじゃうと涙ぐんだのはどこの誰だ」
「あなたって、『どこの誰だ』っていうセリフが好きね。役者なんだから、もう少しほかの言い回しを覚えたら?」
「なにい」
麗奈の憎々しげな口調に、安達はカッとなった。だが、麗奈は安達に口をはさむスキを与えずまくし立てた。
「たしかに私は、あなたと結婚したいと言いました。結婚できなければ死ぬとも言いました。そして、奥さんと早く別れてほしいとも言いました。でも、奥さんを殺してほしいなんてひとことも言ってない。あなたが勝手に先回りしたのよ」
「嘘《うそ》だ。ぜんぶ麗奈が決めたことじゃないか。無理やりおれを殺人に追い込んだのは麗奈じゃないか。麗奈があんな乱暴な提案をしなければ、おれだって妻を殺すことまではしなかった。おまえがおれを殺人者に仕立てたんだよ」
ふだんは役者としてのイメージの関係から、自分のことを『ぼく』と呼んでいた安達も、感情が高ぶってくるにつれて『おれ』になった。
「唯季を殺せと命令したのはおまえだ。おれの判断ではなかった。それなのに、いまさら自分だけは安全地帯に逃げ込もうとするなんて、虫がよすぎるじゃないか」
「いいわよ、そうやって好きなだけ怒っていれば。やっぱり私より唯季さんのほうが大事だった、ってことなのよね。じゃ、捨てればいいじゃない、私のことを」
「このわからず屋!」
ついに安達は癇癪《かんしやく》を爆発させて怒鳴った。そして、もう少しで麗奈に対して手を上げるところだった。
だが、ここが麗奈の自宅であり、両親が同じ棟にいることを思い出して、かろうじて安達はブレーキをかけた。
と同時に、彼は、麗奈との感情的な亀裂《きれつ》がもはや修復不能のところまできてしまったことを悟った。いくら彼女の実家の財産が自分のものになるといっても、こんな調子では麗奈を妻として迎えて平和な夫婦生活を営めるはずがなかった。そうしたプライベートでの不安定な状況は、必ず仕事にも影響する。
(妻ひとり殺してまで手に入れようとしたものは、こんな女との暮らしだったのか)
(いくら莫大な資産と引き換えだからといって、この女に一生を縛られていいものか)
激しい後悔がはじまった。
麗奈のバックに控える財産だけに目がくらんで、美しい妻を殺害した自分の心理が、いまではまるで信じられなかった。熱病に浮かされていたのか、あるいは悪魔に取り憑《つ》かれていたのか、唯季を殺すという判断を下した自分は、ほんとうの自分ではなかった、という気がしてならなかった。
(どこかでおれは、ドラマの主人公になっていたのではないか)
いまとなっては手遅れだが、安達は懸命に自分の心理を分析しようとした。
(もしもおれが自分で唯季を殺そうとしていたら、実行の前に必ずためらって中止に至っていたはずだ。それを、なまじ見ず知らずの男に頼むという計画にしたために、どこかで現実感を伴わなかった。そしておれは、妻殺しの役柄を演じ切ってしまった)
(なんておれはバカなんだ。バカ、バカ、バカ、大馬鹿者だ)
安達は、猛烈に悔やんだ。そして、その後悔を怒りの視線に変えて、麗奈に思い切りぶつけた。
長い長い睨《にら》みあいがつづいた。
が、やがて麗奈のほうが先に折れた。安達の内心を知ってか知らずか、麗奈は涙の跡を頬《ほお》に残したまま、急に歪んだ笑いを浮かべて言った。
「でもね、あなたが唯季さんの妹と結婚するなんてバカな考えをやめてくれるなら、私はもう怒らない。あなたが奥さんを殺した悪党だなんてことを、絶対口に出したりしないわ」
麗奈は向かいのソファから立ち上がると、いきなり安達の胸に飛び込んできた。
「いろいろなことを言ってごめんなさい。あなたを失いたくないから、つい感情的になってしまって。だけど、私にはやっぱりあなたしかいないの。だって……シンちゃんみたいにすてきな人、どこを探してもいないもの」
突然の豹変《ひようへん》だった。
そして麗奈は、キスをせがむように安達を見上げながら、彼の首に両腕を回した。
「こんなワガママな麗奈のこと、きらいになった?」
ああ、大嫌いだよ、と心の中で返事をしながら、安達は硬い笑顔を無理やり作って言った。
「いや……嫌いになるわけがないじゃないか。さっきから言ってるだろう、ぼくには麗奈しかいないって」
答えながら、最悪の芝居だな、と安達は自分を罵《ののし》った。
(いったいおれは、現実の世界でもどこまで芝居をしなければ気が済まないのだ)
そして吐き気をこらえながら、父親ゆずりのアクの強い顔をした麗奈の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
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七 最初の恐怖
安達真児が最低の気分で横浜の自宅に戻ってきたのが、午前四時すぎだった。
きょうは朝の九時には家を出て羽田《はねだ》へ向かわなければならない。唯季の葬儀で中断してしまった例の広島ロケが再開されるのだ。出発まで満足に眠る間もなかったが、睡魔はまるで襲ってこなかった。
唯季の殺害を決心し、その計画を実行に移してからまもなく二週間になろうとしているが、現実そのものがまるで夢の世界の出来事のようで、そのせいか時間の観念がまるでなくなっていた。だから、身体のほうも眠りのリズムを忘れてしまったのかもしれない。
とにかく安達の身辺では非現実的なことばかりが現実となっていった。
第一に、中曾根興太郎の親バカに乗っかる形で、莫大な資産を受け継ぐ権利と引き換えに麗奈との結婚を本気で考えたのが、そもそも非現実的だった。
第二に、麗奈にあおられる格好で、離婚交渉のプロセスなしに、いきなり妻の唯季を殺そうと決心したのも非現実的――というよりも、あまりにも非常識だった。
第三に、いくら身の安全を図るためとはいえ、見ず知らずの宿無しの飲んだくれに妻の殺害を頼んだことも、とても自分が正常な判断でしたこととは思えなかった。
それから、『人気俳優アダチシンジの身を襲った突然の悲劇』という願ってもないビッグニュースを得て本音では大喜びしている報道陣に取り囲まれながら、通夜葬儀を執り行なった、あの慌ただしい数日間も夢のようだった。
その騒ぎが一段落した日の夜更け、実行犯の男を前後不覚になるまで酔わせてボートごと湖に沈めたことも、まったく現実とは思えなかった。闇《やみ》に包まれた山あいの湖でひっそりと行なった殺人――その場面を思い起こしながら、どうしてもそれはドラマに犯人役で出演した芝居のワンシーンとしか思えなかった。いまのところ男の死体も、沈めたボートも発見されたという情報はない。あまりにも事がうまく運びすぎたことも、非現実感を募らせる一因だった。
さらに、ついさきほど唯季の父親の上條純一から聞かされた、常軌を逸したふたご姉妹の話も、まさにこの世に実際にある話とは思えなかった。しかも、何から何まで唯季にそっくりの妹ユリが、まるで会ったことのない安達に対して、写真一枚見ただけで強烈な恋心を抱いていたという。一卵性双生児における究極の類似という前提に立てば、妹のユリが姉の唯季と同じ相手に同じ恋愛感情を抱いたというのも可能性としてありえることなのだろうが、その根本となる前提が、ほんとうに成り立つのだろうか。
よくよく考えてみれば、ふたごの片割れを妻にもらいながら、安達自身はふたごというものに関する知識がゼロといってよいほどなかった。
一卵性双生児と二卵性双生児はどう違うのか。ちなみに、三つ子や四つ子でも一卵性はあるのか。
もしも一卵性双生児が一つの卵子から生まれたとするならば、そのふたごはたがいに遺伝子が同じなのか、それとも違うのか。
一卵性のふたごといっても、通常はどこかに違いがみられるものだが、仮にふたごの遺伝子がまったく同じならば、微妙な差というのはどうやって生じるのか。
このへんを一度きちんとチェックしないと、たしかに麗奈が警告していたように、上條の作り話にだまされている公算も決して少なくはない。
ところで麗奈といえば、わずか数十分の話し合いのうちに、彼女と決定的な感情のもつれが生じてしまったのも、想像もしなかった成り行きだった。
麗奈のほうは、さんざん安達をてこずらせたあとで甘えるという戦略により、彼の心をしっかり引き留めたつもりになっているのかもしれない。しかし、安達のほうはまるで冷めてしまった。
冷めたといっても、もともと麗奈本人に熱い恋心を抱いていたわけではない。麗奈に対しては、最初から冷めていた。彼女の父親が所有する莫大な資産を手に入れるという計画に、安達は燃えていたのだ。ところが、その気持ちまでいまは冷めてしまった。
しかし、熱しやすく冷めやすい安達真児にとって、急な心変わりは毎度のこととはいえ、今回の場合ばかりは「や〜めた」と言って当初の計画を突然ほうり出すにはあまりにも代償が大きすぎた。
なにしろ、妻の唯季を殺したという厳然たる事実があった。
その事実をこの世で唯一知っている他人=中曾根麗奈を、もはや妻に迎えるつもりはなくなったとなれば、そこから引き出されてくる結論は何か。
(第三の殺人)
その言葉が、頭の中で渦巻いた。
(冗談じゃないぞ)
と、否定する自分の言葉も浮かんでくる。
(これじゃ、まるで一つの殺人の事実を隠すために関係者を次々に口封じしていくという、古典的な推理小説そのままの展開じゃないか。そんなに何人も安全に殺せるはずがないだろう)
だが、すぐに別の意見を述べる声がする。
(でも、麗奈を生かしておいたら、おまえは永遠にあの女に縛られることになる。そういう状態に安達真児という男は耐えられるのか? それだけじゃない、おまえは中曾根興太郎の財産をモノにしたつもりかもしれないが、ひょっとしたら中曾根は、おまえをただのペットのつもりで一時的に娘に与えただけかもしれないんだぞ)
その考えにたどり着いたとき、安達はハッとなった。
彼は美しい女が好きだった。そして、美しくない女は好きではなかった。そういったきわめて快楽的というか単純な価値基準には、真の愛情が入り込む余地がなかった。顔だけで選んだ相手は――まさに唯季に対してそうだったように――いざというときは、かんたんに手放すことができるものだった。どんな美女でもやがては寄る年波に勝てず、その美貌《びぼう》に衰えをみせるようになるが、そうなったときには、より若く、より美しい女を求めて浮気をするのが当然と安達は考えていた。
だが、そうやって消耗品のように考えていた美女と同じ立場に、自分も置かれる可能性があると安達は気がついた。
顔だけで結婚相手を決めたという点では、中曾根麗奈も安達とまったく変わらなかった。彼女は俳優アダチシンジの端整なマスクに引かれ、それを父親の財力で買おうとした。
(そうだ、まさにおれは買われたのだ)
安達は愕然《がくぜん》となった。
買った商品は、寿命がきたら新しいものと取り換える――安達が女性に対して抱いていた傲慢《ごうまん》な姿勢が、そのまま中曾根麗奈にも通用しないと、どうして言い切れるだろうか。そして父親の中曾根興太郎も、そうした娘の性癖を知っていて、一時的に安達を買い与えてやるだけのつもりかもしれない。そうでないと、どうして言い切れるだろうか。
何年か経って安達の容姿に衰えが出たら、娘のおねだりに応じて、親バカの中曾根は、また別の男をペットとして娘に買い与えるのではないか。いや、そこまで待たなくても、安達よりもさらにハンサムで条件のよい男が現れしだい、麗奈親子はすぐにでもそちらへ乗り換えるかもしれない。金さえあれば何でも買えると思っているあの親子ならばやりそうなことだ。
そういう態度に出られたとき、安達には対抗手段がなかった。
唯季を殺したという罪の共有意識が、ある程度麗奈のわがままな行動を抑制する作用をもつだろうと予測していたが、さきほど彼女がみせた呆《あき》れるばかりの白ばっくれようからすると、その期待はとんでもない的はずれだったようだ。共犯者どころか、ヘタをすればマスコミに対する告発者にもなりかねない。したがって近い将来、麗奈から離婚を切り出されたとしても、安達には駆け引きをする余地がなかった。
(では、捨てられたおれに何が残るのか。慰謝料? そんなものは微々たるものしか取れないだろう。いや、ゼロになる可能性も大だ。いやいや、ゼロどころかマイナスになることだって……)
麗奈と結婚しても、安達はそれを財産乗っ取りのためと割り切り、夫婦生活はあくまで形式的なものとするつもりでいた。当然のことながら、外に恋人を常時複数ストックしておいて、男としての欲望はそちらで果たすつもりでいた。
だが、いざとなればその浮気の事実が、麗奈にとっては正当な離婚の理由となり、逆に慰謝料を請求されるハメになる。
だからといって、麗奈を相手に妻一筋というわけにはいかなかった。
(やっぱりそうだ。中曾根のオヤジは、おれの女好きの性分を見抜いたうえで、娘のペットとしておれを買ったんだ。娘がペットに飽きたら、また別の男に買い替えるつもりで……。そうでなかったら、いくら親バカといっても、あの強欲そうな顔をした中曾根が、自分が一代で築き上げた財産をあっさりとおれに手渡すはずがない)
よくよく考えたら、養子縁組でもしないかぎり、麗奈と結婚しただけでは中曾根興太郎の財産を相続する権利は法的には発生しない。法定相続人はあくまで娘の麗奈であって、安達はその配偶者にすぎないのだ。特別な遺言でもあれば話は別だが、中曾根が最初のおいしい口約束を破ってしまえば、彼が死んでも麗奈が死なないかぎりは、安達は財産の所有者にはなれない。
莫大な資産を乗っ取るつもりが、じつは期間限定のペットとして飼われるだけだった可能性が濃厚だと気づき、安達は頭にカッと血が上った。
美しい女は何度でも買い替え可能な消耗品と考えていた安達が、美しい男である自分もまた消耗品であることにはじめて気がついたのだ。さすがの彼も、自分の軽率さ愚かさを呪《のろ》うよりなかった。
(こうなったら、行くところまで行くしかない)
結論は出た。
麗奈の殺害である。
安達真児は、泥沼の中にズブズブとはまりつつある自分をはっきり感じ取っていた。だが、もはや他に方法はなかった。
そして、その結論が出ると同時に、皮肉なことに麗奈が発したあのひとこと――タイムマシンを見つけることができてよかったわね、という言葉が、ますます現実味を帯びてきた。唯季そっくりのユリを新しい妻に迎えれば、まるでタイムマシンを利用して過去を変えたように、唯季殺しの事実は完全に消し去れるかもしれないという期待。それだけが、いまや安達のすがれる唯一の命綱だった。
しかも、殺された妻のふたごの妹を後妻に迎えれば、安達さんは奥さんのことがいつまでも忘れられないんだな、と同情をもって世間に受け止められ、涙で飾られた愛妻物語という美談に発展する希望もあった。
(だから……だから、麗奈は絶対に殺さなければならない)
その結論を何度も確認すると、安達は大きなため息をついた。
そして、気分を落ち着けるためにワインでも一本開けようかと思ったとき、部屋の片隅に置いてある留守番電話の赤いランプがチカチカと点滅しているのに気がついた。
液晶画面に表示された用件の数は五本。その多さに、安達は意外そうな顔をした。
唯季の父親から急に電話で呼び出しを受けたときは、留守番電話にメッセージのストックはなかった。あれから八時間ほど経っているが、深夜に五本ものメッセージが立て続けに入ったことになる。
しかし、携帯電話の番号を教えているガールフレンドや仕事仲間は何人もいたが、安達の自宅に置かれたプライベートな電話番号までを知る人間はさほど多くない。
なんとなく不安を覚えながら、安達は赤く点滅するボタンを押して、吹き込まれたメッセージを再生した。
一本目は、彼のマネージャーの重田からで、朝の迎え時間の確認とロケに関する連絡事項で、安達が上條の家を訪ねていた午後の十時ごろに録音されたものだった。
二本目は午後十一時前に記録されたメッセージで、安達の母方の叔父《おじ》だった。葬儀のときに親族代表として何かと雑事を取り仕切ってくれたのはありがたかったが、彼は『有名人の叔父』という立場がすっかり気に入ったらしく、その後も何かにつけ電話をよこしては、後見人気取りであれこれ世話を焼いてくるので、安達はいささかありがた迷惑に感じていたところだった。
今回の用件も、早くも四十九日の法要についてのものだった。場所はどこにするのか、どんな顔ぶれを招待するのか、親戚だけでなく『芸能人』も呼ぶのか、招待者への案内はどうするのか、精進料理の手配はどこに頼むつもりなのか、などと、いま急いで決めなくてもいいことを長々とまくし立てていた。
安達の留守番電話は一件につき最大三分の録音ができるようになっていたが、ぜんぶ話し終わらないうちに許容時間を越えて、途中で切れていた。
三本目のメッセージもその叔父からで、尻切《しりき》れトンボになった伝言のつづきだった。真児君のところの留守番電話は切れるのが早いなあ、という苦情には、安達も苦笑いを浮かべて聞くよりなかった。
が、四本目のメッセージを再生したときに、安達の顔が引き締まった。
それは日付が変わって午前零時半ごろ、つまり安達が上條の家を辞して間もなくかかってきたものだった。
「やあ、上條ですが、まだ帰っていなかったかね」
唯季の父親の声だった。
「唐突に呼び出したうえに、常識ではありえない話ばかりをしたものだから、さぞかしきみも面食らっているのではないかと思う。そんなところへまたこういう話をして恐縮だが、さきほどきみに隠しておいたことが一つあったのだ。じつは、あの場に当のユリがいたのだよ」
安達の目が丸くなった。
「狭い我が家には隠れ場所もロクにないのだが、我々が座卓をはさんで話し合っていた六畳の和室に押し入れがあっただろう。あの中にユリは隠れていた。そして、ほんのわずかだけ隙間《すきま》を開けて、きみの姿をじっと眺めていたのだ」
押し入れにこっそり隠れている、妻とそっくりの顔をした美女――想像しただけで、安達はゾクゾクとした寒気を覚えた。
「実物のきみを間近に眺めたユリは、気持ちの高ぶりを抑えられずに押し入れの中で身動きをして、思わず物音を立てたりもしたのだが、幸いにも外を吹きすさぶ風の音できみには感づかれなかったようだ。そして、きみが帰るなりユリは押し入れから飛び出してきて、私にこう言うのだ。『どうしても私は安達さんと結婚したいんです。あの子の代わりに、真児さんの奥さんになりたいんです。真児さんが他の人と結婚する前に、どうしても私のものにしたいんです』とね、まさに恋をした乙女といった表情で訴えてきたのだよ」
(あの子?)
さりげない言葉の使い方に、安達は引っ掛かった。
が、彼が気にしたのと同時に、上條がそのことにふれた。
「あの子? 私は思わず聞き返した。いくらふたごだとはいっても、いちおうユリは妹のほうだ。その彼女が姉の唯季を『あの子』と呼んだことが引っ掛かった。少なくとも私の手元で二人を育てていたときは、ユリは唯季を『おねえちゃん』と呼び、唯季はユリを名前で呼んでいた。あまりにも似通った二人に、せめて姉と妹という関係のけじめだけはしっかりつけさせておこうと、私と慶子がそのように教育したのだ。立場まで対等にしてしまっては、いよいよ二人を区別するものが何もなくなるからね。
だから、私はいぶかしく思って問い返した。いまユリは唯季のことを『あの子』と呼んだが、そういう呼び方はこれまでしたことがなかったのではないか、と。すると真児君、なんとも驚くべき答えが返ってきたのだよ。『ほんとうの唯季は私のほうなんです、お父さん。殺されてしまったのは妹のユリのほうで、こうやって生きている私が唯季なんです』と」
頭をぶん殴られたような衝撃が、安達の全身を走った。
「あの子たちの母親が不幸な死を遂げ、それをきっかけにして唯季と唯李を――そのときユリはまだ漢字の『唯李』だったが――この二人を別々に育てようと決心し、片方を遠縁の外交官夫妻に預けたいきさつは、先ほどきみに話したとおりだが、なんとその時点で、すでに唯季と唯李は入れ替わっていたというのだ。これについては、親の私ですら反論のしようがなかった。当人がそうだといえば、それが真実であり、客観的に真偽を証明する手段はないのだ。そして唯季は――いやいや、まだ私はあの子をユリと呼ぶべきだ――ユリはこうつづけた。『もしも真児さんが私と結婚してくださったら、そして真児さんが望むなら、私のことを唯季って呼んでもらってもいいの』」
安達は金縛りにあったように動けなくなった。
その彼の耳元に、上條の最後のひとことが響く。
「それでな、真児君、どうしてもと頼まれて、私はユリにきみのところの電話番号を教えた。近いうちにユリから連絡がいくと思うが、どうか冷静な気持ちで会ってやってくれないか。そして、できることならきみが彼女の切なるプロポーズを受けてくれるとありがたい。私はね、真児君、掛け値なしにきみを実の息子のようにいとおしく思っている。だから、きみとの親子関係を唯季の死によって終わりにしたくはないのだ」
上條はまだ何か言いたげな口ぶりだったが、ちょうどそこで録音時間が切れたようだった。
そしてまだあと一本、録音されたメッセージが残っていた。
安達の叔父がそうしたように、一回の伝言では言い足りなくて、また上條がかけてきたのかもしれない。あるいは、気まずい雰囲気のまま別れてきた麗奈が、安達の帰宅を先回りする形で電話を入れてきたのかもしれない。
だが安達は、五本目のメッセージが上條からでも麗奈からでもないことを直感的に悟っていた。ユリだ。ユリがすぐに電話を入れてきたのだ。
安達には、まだ殺した妻そっくりの声を落ち着いて聞くだけの気持ちの整理がついていなかった。
だが、留守番電話は勝手に五本目のメッセージを再生しはじめた。
「こんばんは、こんな時間にお電話を差し上げてごめんなさい」
出だしの言葉を耳にしたとき、安達は恐怖のあまり髪の毛が逆立つのを感じた。
唯季だった。それ以外に考えられなかった。すでに遺骨となっている唯季が、留守番電話のスピーカーから安達に語りかけている。
「父から先にお電話を差し上げたと思いますけれど、ぜひいちど私にお会いいただけませんでしょうか」
(私って誰だ、名前を言えよ、早く名前を)
安達は心の中で叫んだ。
この声が唯季とは別の人物だという証拠が早くほしかった。ふたごの妹でもなんでもいい。とにかく、殺した唯季だったというのだけは困る。唯季が恨めしげに霊界から語りかけてきた、などということがあったら、おれの精神はパンクするぞ、と安達は思った。
「いま私は父の家に――上條の父の住まいに泊めてもらっていますけれど、携帯電話を持っているのでその電話番号を申し上げます」
唯季の声が告げる番号を急いでメモに書き留めながら、反応するはずもない録音テープの声に向かって叫んだ。
「きみは誰なんだ。ユリちゃんだろう。それならそうと早く言えよ」
携帯電話の番号をゆっくり二度繰り返してから、その声は言った。
「では、ご連絡をお待ちしています。あなたの唯季[#「あなたの唯季」に傍点]でした」
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八 究極の可能性
それから三日後――
広島ロケから帰京した安達真児は、その日が丸一日休みになっているのを利用して、茨城県つくば市までポルシェを飛ばし、学園都市の一角にある真新しいがこぢんまりとした五階建てビルの前で車を停《と》めた。
つくばジェネティクス研究所[#「つくばジェネティクス研究所」はゴシック体]
ビルの前の礎石には、建物の名前がそう記されていた。
ジェネティクスとは英語で遺伝学を意味する。だから本来ならば『つくば遺伝学研究所』としたほうがよいのだろうが、類似の名称を持つ機関が別にあるので、横文字を取り入れてこういう名前になった――と、安達はきょうの訪問相手からそう聞かされていた。
その男は村田和正《むらたかずまさ》といって、この遺伝学研究所の主任研究員だった。ただし、安達との接点はもっと昔にある。村田は安達と同郷で、しかも小学校から中学までの九年間ずっと同級だった。それも唯一無二の親友だった幼なじみである。
それはすなわち、安達が貧しかったころをリアルタイムで知っている人間であることに他ならず、俳優として華やかなスポットライトを浴びている現在の安達としては、特別なことでもないかぎり会いたい相手ではなかった。
だが、律義な性格の村田は、小学校一年のときから一度も年賀状を欠かさずに送ってよこしてきた。クラスでも一、二を争う秀才だった村田は、高校はエリート校に進学し、そこで安達とは行く道が完全に分かれてしまったが、それでも年賀状のやりとりはつづいていた。
安達のほうは紆余《うよ》曲折ある人生を過ごして俳優になったので、郷里をあとにしてからも住所も転々と変わったが、筆無精な彼が村田にだけはやはり年賀状を欠かしたことがなく、それがそのまま転居通知となって、細い糸ながら二人のつながりは三十一歳になる今日まで保たれていた。
たがいに二十歳を越えてからは、さすがに電話のやりとりはなくなり、年に一度の賀状のみの交流となっていたが、村田が大学院を卒業した翌年にくれた賀状に『つくばジェネティクス研究所というところで遺伝学の研究を地道にはじめました』と、短い一文がしたためられてあったのを安達は思い出し、藁《わら》にもすがる思いの連絡となったのだ。
目的はただひとつ、まったく同じ個体と呼んでもいいような究極の同一性を備えた一卵性のふたごが、はたしてこの世に存在しうるかどうか、その可能性についてわかりやすく説いてもらうためだった。
あの留守番電話以来、ユリから新たな電話はかかってきていない。しかし、いままでの流れからいえば、本人との対面は避けられないだろうし、怖いながらも安達もいちどユリに会ってみたいと思っていた。
ただし実際に会う前に、安達としてはどうしても学術的な可能性というものを確かめておきたかったのだ。
生みの親でさえまったく区別がつかないような究極のふたごというものが、たとえどんなに確率が小さくても、理論上はありうるのか、それともまったくありえないのか。遺伝学の専門家である村田から、そんな事態は絶対にありえないというお墨付きをもらっておけば、いざユリと顔を合わせたときに、こちらもパニック状態にならずに必死に観察力を働かせ、唯季との微細な違いを見つけられる気がした。
父親の上條が娘の身体を知っているよりもずっと深い意味で、夫だった安達は唯季の身体を知っている。だから、上條が興奮して語るほどにはユリは唯季と似ていない、という結論を導ける可能性はじゅうぶん高いと考えていた。その判定のさいに必要なのは冷静な観察力。そして冷静な観察力のために必要なのは、学問的な基礎知識なのだ。
また逆に、理論上ではそういうケースもありうると知らされていれば、それはそれで唯季そっくりのユリに対して、落ち着いた気持ちで会う助けになるのではないかと思った。
当初安達は、ふたご関連の基礎知識を本から仕入れようと思ったが、世間に顔を知られすぎているうえに、妻の事件で時の人となっている身としては、書店や図書館などでゆっくりと資料さがしをすることはできそうにない。
それに、ふたご関係の専門書というものは、どうやって探してよいかもわからなかった。知り合いのテレビプロデューサーにそれとなくたずねてみたが、ふたごの専門書なんてないんじゃないの、という頼りない返事が戻ってくるばかりだった。
となると、遺伝学などの専門家に直接たずねるよりなかったが、これまた有名人のネックで、あのアダチシンジがふたごのことを詳しく調べていると知られては、プライバシーによけいな干渉を受けるおそれもあった。
それで残った選択肢が、旧友の村田に相談するというものだった。
十五年ぶりの電話を受け取った村田は喜びを隠さず声に出し、そののちに口調を改め、新聞の報道で読んだがこのたびは……と、妻を失った友をいたわる言葉をつづけた。
安達は面映《おもは》ゆい気持ちで悔やみの言葉を聞いていたが、その話題をうまいこと切り上げると、じつは相談事があって会いに行きたいと告げた。すると村田は、電話口で用件を聞く野暮なことはせずに、おまえのほうが忙しいんだから、都合のつくときにいつでもきてくれと大歓迎の意を示してくれた。幼いころから村田は、そういう気持ちのいいあしらいをしてくれる男だった。
つくばは東京よりも四、五度寒い感じがした。その寒さに身をすくめながら研究所の入口でインタホンを押すと、若い女性の声が応じた。
村田先生と約束をしている安達ですが、と短く告げると、しばらく間があってから「三階へどうぞ」という声とともにオートロックのドアが解錠された。
安達はイタリア製の上物スーツに身を包んでいたが、いつもの癖でサングラスだけはかけていた。が、さすがにここでは場違いだと思い、それをはずして胸ポケットに差した。そしてエレベーターに乗り込みぎわに、鏡のような光沢をもった金属プレートがあるのを見つけると、そこに顔を映してすばやく身だしなみを整えた。
こういった研究所に勤める研究員たちは、安達のような芸能界とはまったく接点のない暮らしをしているのだろうが、それでもアダチシンジの顔と名前を知らぬ者はいないはずだ。だから安達という名の訪問者が、あのアダチシンジだとわかると、ちょっとした騒ぎになるかもしれないな、と彼は少々身構えた。
おそらく三階へ着くと受付のようなものがあって、そこにさきほどインタホンで応対した女性が座っているのだろう。そして姿を現したアダチシンジを見ると、彼女はびっくりした表情をけんめいに圧し殺しながら……と考えているうちにエレベーターは三階に到着した。
扉が開くと同時に、安達は目を見開いた。
白衣に≪村田和正≫というフルネームの名札をつけた男が、エレベーターホールの真ん前で待ち構えていた。
安達が想像していたよりはずっと地味な受付カウンターが相手の肩越しに見えたが、そこに座っているはずの女性の姿は、ちょうど村田の身体にブロックされて見えなかった。
「やあ」
にっこり笑いながら片手を上げた村田は、エレベーターから出ようとする安達を逆に押し戻して、そのままいっしょに乗り込んできた。そして五階のボタンを押す。
「助手の子に三階へ通すように言ってから、きみが有名人だったことを思い出した。五階の応接なら、誰にも気がねなく話ができる」
小声で言ってから、村田は微笑まじりに安達を見つめ、「変わらないね」と短くつぶやいた。
安達のほうも、「村田も変わらないな」と似たようなセリフを口にした。
およそ十五年ぶりの再会にしては淡々とした会話のやりとりで、むしろ電話で話したときのほうが村田はおおげさな喜びを示していたが、それは無理もなかった。直接顔を合わせると、男どうしながら、たがいに照れのような感情があった。
安達の脳裏に刻まれた少年時代の村田と同じように、目の前の主任研究員は知的だが温かみのある瞳をしていた。
男の子は丸坊主にすることが暗黙の決まりだった郷里の子供時代には気づかなかったが、村田の髪には軽くウエーブがかかっており、それを長めに伸ばしたヘアスタイルが、なおさら彼を理知的な男に見せていた。
変わらないな、とは言ったものの、少々驚かされたのは村田の背丈だった。中学生時代は安達よりずっと小柄だった彼が、いつのまに背が伸びたのか、一メートル八十ある安達よりもさらに数センチ高くなっていた。
その身長差の逆転に、安達は戸惑った。当然、相手を見下ろしてしゃべるつもりが逆の立場になったのは、なんとなく居心地が悪かった。
それから、村田のほうが安達を見て「変わらないね」と言ったことも少々不満だった。気遣いのこまやかな村田のことだから、おそらくは妻を亡くした安達を励ます意味も込めてそう言ったのかもしれなかった。だが、安達としては、「ずいぶん変わったなあ、さすが芸能人になると違うな」というような反応を予測していたのだ。
子供のころは、イガグリ頭と地味で着古した洋服のために、安達の二枚目ぶりはまったく目立たなかった。それがいまはイタリア製のスーツを着こなし、男が見てもオッと振り返りたくなるダンディぶりを発揮していた。その変化に、当然村田は驚くものと思っていたが、あまりに平静な反応に安達は拍子抜けがした。
が、その安達の気持ちを見抜いたように、村田はつけ加えた。
「こっちはときどきテレビできみのことを見ているから、あまり変わらないと思ったけれど、ほんとうは昔に較《くら》べるとずいぶん変わっているのかもしれないね」
そのひとことで安達は機嫌を直し、にこやかにうなずいた。
「さあ、こっちだ」
五階でエレベーターが開くと、村田は右手のほうにつづく廊下を指さした。
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九 ゲノムの世界
「安達の忙しさはじゅうぶん承知しているし、そのきみがつくば[#「つくば」に傍点]くんだりまで車を飛ばしてきたのだから、急を要する事だというのもわかる」
五、六人入ればいっぱいになるような小さな応接室で向かい合わせに座ると、村田は長々とした再会の挨拶《あいさつ》を抜きにして切り出してきた。
ふたりをはさむテーブルには、缶コーヒーが二本。廊下に備えられた自動販売機で村田が気を利かせて買ったものだった。
安達は急いで小銭を出そうとしたが、いいよいいよ、きみはお客さんなんだから、と村田に軽く押しとどめられた。
幼いころ、貧しくて親からはロクに小遣いももらえなかった安達に、おやつの食べ物をおすそわけしてくれたり、ときには自分の小遣いを分けてくれることもあった村田の存在が、そのまま蘇《よみがえ》ってきた。
いまの安達は、世間で想像するほどではないにせよ、おそらく村田の十倍以上はある収入に恵まれている。そういった立場になってもなお、ここで缶コーヒーをおごられる。たったそれだけのことに、安達はこだわりを持った。
俳優として人気街道を驀進《ばくしん》している自分が、村田と会った瞬間に、あの貧しい時代の少年の気持ちに戻っていた。卑屈で劣等感だらけの少年に……。
やっぱりこいつと会うんじゃなかったか、という思いが一瞬頭をかすめた。
「で、用件はなんだろう」
缶コーヒーの一本を安達のほうに押しやりながら、村田がたずねた。
「もしもプライベートな問題にふれるなら、心配はしないでほしい。ぼくにとってのきみは、人気スターのアダチシンジではなくて、昔からの幼なじみのシンちゃんなんだ。友だちの秘密は守る」
「ありがとう」
とうなずきながら、安達はどこまで正直なところを語るべきか、まだ迷っていた。
とくに芸能界に入ってからさまざまな裏切りを経験してきた安達には、本能的に身に染みついた猜疑心《さいぎしん》というものがあった。だから、いくら昔の親友の言葉だからといって、それをそのまま信じるほど素直ではなかった。
「いろいろ気を回してくれたことには感謝するけれど、じつはプライベートなことではなくて、近いうちに撮影に入るドラマの役作りに必要な知識を仕入れたいと思って、それでお願いにあがったんだ」
けっきょく安達は嘘《うそ》をついた。
あれほど大々的に新聞やテレビで事件が報じられたときでも、アダチシンジの美貌《びぼう》の妻にふたごの妹がいるという報道は、かけらもなかった。その意味では、ユリを通夜葬儀にこさせなかった父親上條の配慮は正解だった。
だから、ここでふたごの話題を出しても、十五年ぶりに会った村田が、それを殺された妻と結びつけて考えることはないだろうが、用心するに越したことはなかった。
その安達の嘘に対して、村田はかすかに表情を曇らせた……かに思えた。それはまるで、旧友に対して「水臭いぞ」と言っているようでもあった。
安達も役者である。相手の微妙な表情の変化には敏感だった。だが、それは勘ぐりすぎだろうと自分に言い聞かせて、彼は芝居をつづけることにした。
「まだほんの企画段階なんだけれども、一卵性双生児をテーマにしたSFっぽい映画を作る話があってね」
作り話の部分をより具体的に展開したつもりだったが、早くもそこには矛盾が生じていた。たったいま、安達は『近いうちに撮影に入るドラマ』と言っておきながら、つぎの瞬間には『まだほんの企画段階なんだけれども』と説明した。
その食い違いに当の安達は気づかず、聞き手の村田は気づいていた。
「それでまあ、いろいろふたごのことについて知りたいんだ」
「主役自らがお勉強をするのかい」
村田がたずねると、安達は大きくうなずいた。
「そうなんだよ。よりリアリティのあるドラマに仕上げるためには、監督や脚本家だけでなく役者からもいろいろなアイデアを出さなければならない。そのためには、ミーティングで自分の意見を通すだけの説得力がなければいけないんだ」
「ぼくは役者さんというのは、台本を渡されたところから仕事がはじまるのかと思っていたが」
「こんな言い方は不遜《ふそん》かもしれないが、ぼくくらいになると、企画段階からいろいろと意見を言わせてもらえるんだよ。アメリカなんかでも、そういったスターはいくらでもいる。クレジットには出なくても、事実上のプロデューサーを兼ねている俳優がね」
「そっちの世界でいうプロデューサーって、何だ」
「プロデューサーにもいろいろな分担があるけれど、ぼくがここで言うプロデューサーとは、まあわかりやすいえば企画責任者かな。あるいはアイデアのまとめ役と言ってもいいけれど」
「ふうん」
手元の缶コーヒーを開けながら、村田は軽い相槌《あいづち》を打った。
「で、そのSFっぽい映画にリアリティを出すために、ふたごについての専門知識がほしいと」
「そうなんだ」
「しかし、ぼくは産科の専門ではないからなあ」
「わかってるよ、遺伝学が村田の専門分野ということは。だからこそ、ここへたずねてきたんだ」
「つまり、遺伝学的な面からふたごに関する知識を仕入れたいのか」
「ああ」
「たとえば?」
「初歩的な質問をしても笑わないでくれよ」
「もちろんだ。こっちだって、あとでお返しに芸能界についての初歩的な質問をしたいと思っているところなんだから」
と言って笑うと、村田和正は缶コーヒーをうまそうに飲み、安達にも「飲めよ」とすすめた。
それで安達もプルトップのリングを引き開けたが、形式的に唇をつけただけで、ほとんど口の中には入れなかった。
安達は大のコーヒー党だったが、それだけにコーヒーはきちんと豆を挽《ひ》いていれるものだという主張を貫いていた。百歩どころか一万歩くらい譲ってインスタントものを飲むとしても、挽いた粉がカートリッジ式のパックに入っているものが限度で、フリーズドドライ製法のものはコーヒーではないと言って、ロケ先などで出されても口をつけなかった。ましてや缶コーヒーなどは、邪道中の邪道だと言って見向きもしない。
しかし、役者として成功する前までは、安達はインスタントコーヒー専門で、おまけにそれに砂糖と粉末クリームを山ほど入れるのが習慣だった。缶コーヒーももちろん大の好物で、夏は冷たい缶コーヒー、冬は温めた缶コーヒーをお茶代わりによく飲んでいたものだった。
それが、俳優としてしだいに名前が出て収入も上がるにつれて、インスタントものを露骨に軽蔑《けいべつ》し、豆の名前を指定してストレートコーヒーを注文するのが常識といった態度をとるようになった。
しかし、子供時代の安達にとって、ちょっぴりおとなの味を感じさせる缶コーヒーは最大のぜいたく品で、その一本を村田と分け合って飲んだことがたびたびあった。もちろん、村田のおごりでだ。だからこそ、幼いころを思い出して、村田は缶コーヒーを買ってくれたのだ。
にもかかわらず、安達は昔のことを忘れていた。そして、村田が安達の好みも聞かずに自動販売機で缶コーヒーを立て続けに二本買ったことに対して、無神経なヤツだなと内心で腹を立てていた。こいつは気のいい男だけれど、おれとは基本的な生活センスが違うな、とバカにしたつぶやきも心の中で洩《も》らしていた。
そんな調子だったから、相手が村田でなければ缶コーヒーのフタさえ開けないところだが、とりあえずは立場を考えて、安達も形ばかり飲むふりをしたのだった。
「まずぼくが聞きたいのは」
無意識のうちに唇を手の甲でぬぐいながら、安達は言った。
「ふたごというのは、どうやってできるか、なんだ」
「オーケー、それじゃ説明をする前に逆にたずねるが、安達はどの程度の予備知識を持っているんだ。たとえば、ふたごには一卵性と二卵性があるのを知っているだろう」
「もちろんそうした区別があることは知っている。だけど、どういう違いなのかは、まったくわからない」
「生殖細胞の減数分裂については?」
「高校の生物の時間に習った気もするけど……忘れたな」
「染色体についての基礎知識は?」
「名前は知っている。たしかX染色体とY染色体というのがあって、それが性別を決めるんじゃなかったかな」
「その染色体の中に入っているDNAそのものについては? つまり、デオキシリボ核酸というやつだが」
「それも名前は記憶にあるが、細かいことは忘れたな。……あ、そうそう、DNA鑑定という手段が使えるようになって犯罪捜査がずいぶん進歩したのは知っている。この間、刑事役で推理ドラマを撮ったときに、そういった趣旨のセリフを言った覚えがある」
「では、そのDNAの塩基に四種類あることは? アデニン、グアニン、シトシン、チミン――こういった名前は聞き覚えがあるだろう」
「いや、忘れた」
「じゃあ、ワトソンとクリックのDNAの立体模型を覚えているか。きみも高校のときに習ったんじゃないかと思うが」
「それも忘れたな」
「遺伝情報の転写とかメッセンジャーRNAは」
「恥ずかしながら、そいつも記憶の彼方に去ってしまった……というよりも、最初からまともに覚えていなかった、というほうが正しいかもしれない」
忘れた、忘れたと同じ答えを返しているうちに、よくよく考えたら、目の前にいる旧友の前では、知的なアダチシンジを装う芝居がまったく通用しないことに安達は気がついた。
整った顔立ちとは裏腹に、勉強と名のつくものが大の苦手だった安達は、小学校のころから廊下に立たされたり居残り学習はザラで、中学時代の成績も後ろから数えたほうが早かった。そういった事実を、村田和正は事細かに知っている。
遺伝や細胞のしくみについてかなり詳しく学ぶ時期の高校ではたがいに別の学校だったが、ろくに勉強もしない安達の姿は、村田にも容易に想像がついているだろう。そんな彼の前では、いくら利口ぶってもメッキは剥《は》がれてしまうのだ。
それに気づいたから、安達は、知っているけれど忘れたと繰り返すのをやめて、元から覚えていなかったと正直に白状した。
「よし、わかった」
村田は、白衣に覆われた膝《ひざ》をポンと叩《たた》いた。
「では、ある部分では説明過剰になるかもしれないし、ある部分では詳しいことを省略しすぎることになるかもしれないが、できるかぎり安達に理解してもらえるように、ふたごの成り立ちを話そう。ちょっと待っててくれ。図解をするのに必要だから、ホワイトボードを取ってくる」
村田はいったん立ち上がって部屋を出て、またしばらくしてからキャスター付きのホワイトボードを引きながら戻ってきた。
「ホワイトボードといっしょに、ふたご関係のデータも少しもってきたので、これからちょっとした授業をはじめよう。ただし、忙しくて時間のない初心者のための遺伝学講座、というかんたんなものだけどね」
そう言うと、村田はまずホワイトボードいっぱいに大きな長方形を描いた。
「時間がある場合は、この長方形を真核細胞と見立てるところから説明をはじめる。それが普通のやり方だ。しかし、ミトコンドリアだ、リボゾームだ、ゴルジ体だというところまで含めて話をするとえらいことになるので、細胞よりもワンランク小さい単位のところからはじめよう。いま描いたこの大きな四角を『ゲノム』という名前のついた箱だと思ってくれ」
「ゲノム?」
「英語式の発音でいうと、ジーノウムだ。つまり遺伝学を意味するジェネティクスと同じ語源をもつ。そのことからも推測できるように、ゲノムというのは遺伝情報が詰まったワンセットの箱だ。もっとわかりやすくいえば、完全なるワンセットの染色体グループだと思ってほしい。で、このゲノムは細胞のほぼ中心に位置する核の中にある」
村田はてきぱきと説明を進めた。
「ぼくが細胞より一段階小さな単位から話をはじめるといった意味が、少しはわかってくれたかな」
「なんとなくね」
「で、ヒトの細胞の中にあるこのゲノムには、二十三種類の染色体が収められている。染色体という名前がなぜ付いたかというと、細胞分裂が行なわれている間だけ、この物質が色素に染まって見えるんだ。その特質のおかげで、顕微鏡下の観察で発見された。色素に染まるから染色体、というわけだ」
「名前のいわれは初めて知ったな」
「英語ではクロウムソウム。クロウムはギリシア語でカラーを意味する単語からの造語で、ソウムはSOMEと綴《つづ》るが、同じくギリシア語でボディを表す単語からの造語だ。したがって、その二語をくっつければ染色体となる」
「なるほど」
「ゲノムを英語式に発音するとジーノウムだと説明したが、この単語は、遺伝の『ジーン』と、染色体の『クロウムソウム』が合体してできた。ちなみに、世代を意味するジェネレーションという単語もルーツは同じだ」
このへんの説明は、英語の苦手な安達にはピンとこない。
「さて、染色体というのはだいたいこんな形をしているんだが」
村田は、ホワイトボードに描いた長方形の中に、アルファベットのXのような図形を描いた。
「この二十三種類の染色体は、大きい順にナンバー1からナンバー23まで番号が付けられている。そのうちナンバー1からナンバー22までは常染色体といい、ナンバー23だけが性染色体と呼ばれる」
村田は慣れた手つきで、X形をした二十三個の染色体を左から右へと間隔をあけながら描いていった。いちばん左のものが最も大きく、右へいくにしたがって小さくなるように、サイズも微妙に変化させてある。ただし、いちばん右の23番染色体については、少しだけサイズを大きめに戻した。
「ところで、人間の細胞には二種類あったことを思い出してほしい。体細胞と生殖細胞だ。生殖細胞というのは、男性の場合は精子を、女性の場合は卵子を意味する。体細胞はそれ以外のすべてだ。体細胞といういわゆる一般的なヒト細胞のゲノムには、この二十三種類の染色体が二セット入っている。つまり合計四十六本の染色体になる」
説明しながら、村田は間隔をあけて描いた二十三個の染色体のそれぞれの隣に、同じ形のXを次々と描いていった。
「この二セットの染色体は、このようにまったく同じ形をしたものどうしがペアを組む形になるわけだが、これを相同染色体と呼んでいる。細かい注意で恐縮だが、Xの形を描くと、なんだか二本の染色体が絡み合った形に見えるかもしれないが、これで一個の染色体なんだ。そして、いま描き足したように二本ずつでペアを組む」
「つまり、二十三組四十六本の染色体が、ヒトの細胞の中にあるわけか」
「そのとおり。ところがいま言ったように、ナンバー23の染色体だけは性染色体といって、二通りの種類が存在する。安達も覚えていたように、XX染色体とXY染色体だ。これが性染色体と呼ばれるもので、ヒトの男女を決定する」
「XXが女で、XYが男というのでよかったんだろ」
「そうだよ。男性における23番目の染色体は、ほかと違って、ペアでありながらXとYというふうに形の異なる染色体がコンビを組んでいる」
「Xの形をした染色体とYの形をした染色体が組んでいるのか」
「いや、XY染色体といっても、片方がYの形をしているわけじゃない。便宜上《べんぎじよう》そう呼ぶだけであって、図形的にはY染色体も同じ形をしている。ただし、大きさにハッキリとした差がある。Y染色体のほうがX染色体よりもずっと小さいX形をしているんだ」
村田は、図形化した染色体グループのうち、23番目のペアだけは二通りの形を描いた。ほぼ同じ大きさのXXと、大きさに差をつけたXXである。そして大小コンビのXXのほうに『XY』という名前をふった。
「ここで誤解をしないでもらいたいのは、性染色体というのは、精子や卵子のような生殖細胞の中だけに存在するものではないということだ。髪の毛や爪《つめ》や肌や内臓……こういったヒトの体細胞にもすべて性染色体が存在する。つまり、細胞の一個一個に、ちゃんと男女の性別の差が存在するわけだ。わかるね」
ここまでは理解しやすい話だったので、安達は黙ってうなずいた。
「こうした染色体の中に、遺伝情報をもったDNAという物質が存在している。だから、ゲノムとは遺伝子DNAのセットだというふうにも言い換えられる。まあ、その話は後回しにして、ここでナノメートルの世界からちょっと離れて、もう少しサイズの大きな世界の話――細胞分裂へと移ろう」
「なんだ、ナノメートルって」
「百万分の一ミリのことだよ。ちなみに染色体の中に含まれるDNAの直径はたったの二ナノメートル。つまり五十万分の一ミリということだ。そのDNAの世界は、いまや生物学の領域を超えて、コンピュータ技術を駆使して解明する数学的な世界へと突入している。その話はまあいったん脇《わき》においといて、ふたごの誕生に直接関係してくる問題へテーマを変えようと思う」
「わかった。話を進めてくれ」
「ところで安達、話を聞きながらでもいいから、遠慮しないでコーヒー飲めよ」
「うん、ありがとう」
うなずくだけで、安達はもはや缶を取り上げるポーズも取らなかった。
「缶コーヒー、きらいになったのか? 昔は大好きだったのに」
「そういうわけじゃないんだ。ただ、あまり喉《のど》が渇いていないもんで」
安達の言葉に、村田はちょっとだけ肩をすくめ、それからホワイトボードに向き直ると、描いてあった染色体の図をぜんぶ消した。
「さっきヒトの細胞には二種類あると言ったが、ぼくらの身体を形作っている体細胞は、おおまかに言って二十四時間で一回の細胞分裂を行なっている。一個の母細胞が二つに分裂して、二個の娘細胞を作るわけだ。これによって、新しい細胞が増えていくことになる。仮に一サイクルをぴたり二十四時間とすると、だいたい三分の一強にあたる十時間くらいが準備期間に費やされる。あくまで大まかな目安だよ」
村田はホワイトボードに円を描き、百五十度くらいに広がる扇形を切って、そこに遺伝を表す頭文字Gに数字の1を添えたG1という文字を書いた。
まるで門外漢の安達にしてみれば、G1と書かれると競馬のGTレースのほうを連想する始末だった。
「そしてつぎの六時間くらいのうちにDNAの複製が行なわれる。二十三組四十六本あった染色体が、四十六組九十二本になるわけだ。もともと二セットあった染色体が四セットに増えたわけだから、この段階での細胞を四倍体という」
村田は、こんどは九十度くらいに開いた扇形で円を区切って、そこに合成を表す英語のSYNTHESISの頭文字Sを書き入れた。
「このあたりまでは、染色体が核の中に拡散している状態なので目には見えないが、そのうちに網目状の存在が見えるようになってくる。ここから、いよいよ分裂直前のG2期に入る」
村田はさらに九十度くらいの扇形で円を区切り、G2と書き入れた。
「このG2段階で分裂に必要な細胞構成成分が作られ、最後の二、三時間のうちに一気に細胞分裂が進む」
村田は、いままで扇形で区切られていった円の、残りの狭いところに減数分裂を意味するMEIOSISの頭文字Mを書き入れた。
「ここで染色体はタテに並び、それが両極に引っ張られて分離し、つづいて細胞そのものも真ん中からくびれて二つの細胞に分離する。つまり、四セットに増えていた染色体が、また元の二セットずつ――二倍体に戻るという仕掛けだ。これの繰り返しで、体細胞は増えていくわけだよ。この分裂の仕方を有糸分裂という」
細胞がひょうたん形にくびれて分裂するモデル図もすばやく描き入れて、村田は説明に一区切りをつけ、安達のほうをふり返った。
「ところが生殖細胞――つまり、精子と卵子はこれとは違う分裂の方法をとる。完成された精子や卵子には、体細胞のように染色体が二セットあるのではなく、一セットずつしかない」
「二十三個の染色体しかないってことか」
「そのとおり。ただしこうした精子や卵子も、もとはといえば二倍体の精母細胞や胚細胞からできるわけだから、スタート時点は同じなんだ。最初に二セット四十六本の染色体があり、それがコピーされて四セット九十二本の染色体ができる。このS期までは同じプロセスを経るが、四倍体となったところで、体細胞の有糸分裂には見られない面白いことが起きる。相同染色体の乗り換えと呼ばれる現象だ」
村田はホワイトボードの余白に、同じ形をした染色体を二つ並べて描いた。ただし片方の染色体は黒のインクで、もう一方の染色体は赤のインクで描いた。
「いつもペアを組んでいるこの相同染色体が、ここでおたがいの遺伝子情報を部分的に交換しあうことをする。これが相同染色体の乗り換え現象だ」
村田は黒いX形の一部分を消して、そこを赤いインクで描き直し、もう一方の赤いX形も同様にして、一部分を黒いインクで描き直した。
「こうすると、親が持っていなかった遺伝子の組み合わせを持つ新しいパターンのゲノムが誕生する」
「なにか必然性があって、そういった現象が起こるのか」
「そうだ。さまざまな環境の中で生物が種を保存していくには、いろいろなバリエーションを用意しておいて、その中から適応力の優れたものが残っていくというシステムがいちばんいいんだよ。適当なたとえかどうかわからないが、テレビ局でもワンパターンの番組ばかり並べていたら視聴者に飽きられたときに一気にガタッとくるけど、番組にいろいろなバリエーションを作っておけば、世間の流行にうまく乗れるものを残しながら、ダメなものは捨て去っていくという、まあ進化みたいなものができるだろう。ヒトが生殖していくときにも、それと同じような配慮がなされるわけだよ」
「なるほど」
「この乗り換え現象は生殖細胞を作るときにのみ発生し、一般の体細胞の増殖過程では起こらない。うまくできているだろう? 世代にまたがっての細胞分裂ではニュータイプの遺伝子が誕生するようになっているのに、ひとつの個体――つまり一人の人間の細胞を複製するときには、新しい遺伝子が途中で登場しないように、乗り換え現象は起こらないんだ」
村田の説明を聞くうちに、安達も遺伝子の神秘にしだいにはまっていった。
「この相同染色体の乗り換えが終了すると、有糸分裂のときと同じ細胞分裂が起きる」
村田はつづけた。
「これで四倍体が二倍体となるわけだが、ところが分裂はこれで終わりとならずに、もう一回行なわれる」
「では、二倍体が一倍体になる?」
「うん。安達もだんだん理解してきてくれたね。元の母細胞から、二十三種類の染色体を一セットだけもった一倍体の細胞が四個生まれるわけだ。これが男の場合は精子であり、女の場合は卵子となる。染色体の数が半分に減ってしまう分裂だから、これを減数分裂と呼ぶ」
「なんで染色体の数が半分にならなくちゃいけなんだ」
「あとで合わさるからだよ」
あっさりと村田は言った。
「もしも精子や卵子が体細胞と同じ二倍体だったらどうなる。受精卵は四倍体となって、人間の体細胞の基本である二セットとは別ものになってしまう。さらに四倍体の精子と卵子が合体したら八倍体になり、それを重ねていったらとんでもない状態になってしまうだろう」
「早い話が、人間とは別の生物が生まれてくるわけか」
「それはオーバーだけどね」
村田は笑った。
「実際には、八倍体や十六倍体なんて事態が起きる前に、染色体異常によるトラブルが発生して、細胞の増殖にブレーキがかかるようになっているんだよ。たとえば、いまぼくは精子や卵子は染色体数が二十三のいわゆる一倍体だと言ったが、じつは二倍体の精子や二倍体の卵子も、現実には存在するんだ。これは第一次、第二次の二度にわたる減数分裂のプロセスで何らかの異常があったときに発生する。
仮に二倍体の卵子に正常な一倍体の精子が受精すると、三倍体の受精卵が現れる。これは明らかに染色体異常だ。で、これが表面的にはどういう症状になって出るかというと、安達も耳にしたことがあるかもしれないが、部分|胞状奇胎《ほうじようきたい》といって、胎盤の内側にある絨毛膜《じゆうもうまく》の絨毛に水腫《すいしゆ》ができてしまう」
産科は専門外とは言いながら、遺伝子とヒトの生殖は切り離せない関係にあるため、村田は産科領域にもある程度の知識を有していた。
「反対に、精子のほうが二倍体で卵子は正常な一倍体だった場合は、三倍体とはならず、卵子の染色体が不活性化されて、全胞状奇胎となる。いずれにしても胎児は育たない。そこで生殖のサイクルが終わってしまうわけだ」
「たしか、胞状奇胎というのは日本人に多いんじゃなかったか」
「よく知ってるな、そのとおりだよ。日本や東南アジア、それになぜかメキシコあたりでも多く発生する」
「これも、ドラマの台本に書かれていたので覚えていたんだ。せっかく妊娠した妻が胞状奇胎で流産してしまう、という物語で夫役を演じたのでね」
「俳優って、いろいろな仮想体験をするんだな」
「まあね」
「ところで話を元に戻すけれど、男の生殖細胞――精子のことについて、もう少しふれておこう。さっきぼくは、男の場合はナンバー23の性染色体がXYというペアになっていると言ったね。つまりこれだけは、厳密な意味で相同染色体ではない。そして減数分裂を起こして生殖細胞を作る過程で、ペアを組んでいた性染色体のXとYがそれぞれ離れ離れになってしまうと、種類の異なる細胞が生まれることがわかるだろう。X性染色体を持つ精子とY性染色体を持つ精子の二種類ができるわけだ。少々意外な気がするかもしれないが、精子にはオスとメスがあるんだよ」
村田はまたホワイトボードに向き直り、鞭毛《べんもう》をもつ精子の形を二つ描いて、片方にX、もう一方にYと記号をふった。
「女性の性染色体はXXだから、それが減数分裂しても、どの卵子も決まってX性染色体しかもたないことになる。したがって、卵子がXの精子を受精すればXXで女の子が生まれ、Yの精子を受精すればXYとなって男の子が生まれる」
「するとXの精子がメスで、Yの精子がオス……」
「そうだ」
「知らなかったな」
安達はため息を洩《も》らした。
「ぼくは一個の精子の中にXの染色体もYの染色体もあって、卵子がそのどちらの要素と結びつくかによって男の子か女の子かという区別が出るのだと思っていた」
「そうじゃないんだね。男の身体の中にあるときから、将来女の子になる精子と、将来男の子になる精子が別々にストックされているんだ。そして、卵子に一番乗りする精子がオスなのかメスなのか、ということで生まれてくる子供の男女が決まるわけだ」
そこで村田も一息ついた。
「ふたごの誕生メカニズムを論じる前に、きみにこうした染色体の講釈をしたのも、この基礎知識があとでどうしても必要になってくるからなんだ。思ったよりも話が長くなったけれどね」
「いや、村田の説明の仕方がわかりやすいので、ぼくの頭でもいまのところ混乱はしていないよ」
安達は正直な感想を述べた。
「では、そろそろメインテーマに入ってくれるのかな」
「うん。ふたごはどうやってできるかという話だが、これは一卵性双生児と二卵性双生児では、根本的な成り立ちが違う。同じふたごでもまったく別物だと思ってくれたほうがいいだろう」
村田の言葉に、安達は意外そうな表情をみせた。
安達がいろいろなことを知りたいのは、もちろん一卵性双生児のほうである。しかし、先を急ぐと村田にあれこれ勘ぐられそうだと思い、しばらくは黙って相手の話を聞くことにした。
「一卵性双生児はまったく偶発的に誕生するのだが、二卵性双生児が発生する要因については、排卵誘発剤の使用や体外受精といった人工的な要素を除くと、家系的な遺伝や民族的な資質、それからちょっとエッチな話になるが性欲の問題と大きくからんでくる。まず、その二卵性のほうから先に説明しよう」
いままでホワイトボードの前に立っていた村田は、そこでいったん椅子《いす》に腰を下ろし、持ち込んだ資料を広げながら安達に質問した。
「ではここでクイズだ。ふたごというのは、いったいどれくらいの確率で誕生するものだときみは思うかな」
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十 一卵性の謎
「ふたごが生まれる確率か? う〜ん」
「出産何回につき一組の割合で出てくるか、という表現で、ズバリ山カンで当ててみないか」
「そうだなあ……」
しばらく腕組みをしてから、安達は答えた。
「まあ、そんなに多いはずはないから、ざっと千回に一回くらいの率じゃないのかな」
「そんなに少ないと思うのか」
「え、もっと多いのか」
「たとえばぼくたちが小学校にいたとき、同じクラスに飯塚《いいづか》というふたごの兄弟がいたのを覚えているか」
「ああ、覚えているよ」
その兄弟のことは、唯季の父親からユリの存在を聞かされたときに、安達も連鎖反応的に思い出していた。よく似た一卵性のふたごだったが、もちろん他人が見てもわかる微妙な差は存在していた。
「彼らの場合は一卵性だったけれど……」
村田が言った。
「ああいうふうに自分の身近にふたごの存在があるというのは、非常に珍しいケースだと思うか」
「ぼくはそう思うね」
「ほんとうにそう思うか?」
村田は念を押してきた。
「たとえば周囲の人間に、こういう質問をしてみるといい。小学校か中学校のころ、自分のクラスか隣のクラスにふたごがいた経験はあるか、と。すると、『ある』という答えが意外に多く返ってくることに気がつくはずだ。これは日本ではなくてイギリスのデータだが、一九八九年におけるふたごの発生率は九十例に一組だと記録されている。つまり子供が四十五人いれば、ふたごの片割れが一人はいる計算になる」
「ほんとうか」
安達は信じられないといった顔で聞き返した。
「じつはもう少し年代が溯《さかのぼ》ると、ふたごの発生率はもっと高くなる。これはぼくの専門分野ではないのだが、かつては『八十のNマイナス一乗分の一』が、多胎児の発生する確率だと言われていたそうだ。つまり、Nのところにふたごなら二という数字を入れると、八十分の一となる。八十例に一組の割合でふたごが誕生するという計算になるわけだ」
「三つ子だったら、八十かける八十で六千四百分の一ということか」
「そうだよ。それが最近では、どこの国でも発生率が低下傾向にある。日本の場合はイギリスよりもっと少なくて、だいたい百二十回の出産に一例ある程度だという」
「それでも六十人に一人はふたごの片割れにぶち当たる計算になるじゃないか」
「そうなるね」
「ぜんぜん実感がわかないな」
「だが、データが確実に物語っているんだよ」
その数表を安達のほうへ向けて示しながら、村田はつづけた。
「さて、二卵性双生児誕生のメカニズムだが、女性の排卵は、いわゆる生理のサイクルにしたがって、原則として月に一回、一個のペースで行なわれる。通常は、この一個の卵子が受精して一人の子供が誕生する。ところが、何かの要因で二個ないしはそれ以上の卵子が排出されることがあって、その複数の卵子がそれぞれ受精すると、ふたごないしは三つ子以上の多胎児が出産されるケースとなる。
だから、不妊に悩む母親が排卵誘発剤を使用して妊娠すると、当然のごとく二卵性双生児の出産率は高くなる。一九九一年のデータでは、クロミフェンという排卵誘発剤を使用した場合、ふたごもしくはそれ以上の多胎児が生まれる確率は日本人で四・五パーセント、欧米人では七・八パーセント。また別種のhMG‐hCGという誘発剤を使った場合には、なんと日本人で二一・一パーセント、欧米人に至っては三〇・六パーセントもの高率でふたご以上の多胎児が誕生している。
こうした人工的な薬品ばかりでなく、ある種の性腺刺激ホルモンの存在が二卵性双生児の発生に大きく拘《かか》わっていることがわかっている。たとえば……」
資料の別のページをめくりながら、村田は言った。
「脳下垂体から分泌されるゴナドトロピンというホルモンは、卵巣を刺激して排卵を促進させる働きがあるのだが、世界で最もふたご出産率が高い民族といわれるナイジェリアのヨルバ族の場合、このゴナドトロピンの分泌水準が高く、ふたご発生率はイギリスの五倍にもなるという」
「すごいな、それは」
「いま例にあげた性腺刺激ホルモンのゴナドトロピンなどによる複数排卵の傾向は、もちろん母親側の遺伝要素に左右されるものだ。たとえばヨルバ族の男性と日本人の女性が子供を作っても、多胎の傾向は高まらない。
しかし、それでは男側の要素がまったくないかというと、そんなこともない。複数の排卵が起きる場合、必ずしもいっぺんに二個が排卵されるのではなく、最初の排卵の翌日とか、あるいはさらに一日か二日おいてから二個目の排卵が起きるケースも多い。その両方で受精が起きるということは、ようするにハイペースでお楽しみがあったということだ。つまり、男性側の性欲の強さが二卵性双生児を産むケースもあるわけだ」
「それは興味深い話だな」
「しかし、これが決まったパートナーとの間に起きたことならご愛嬌《あいきよう》となるのだが、そうでない深刻なケースもある。すなわち、複数の排卵が起きた短い期間に異なる男性と関係をもち、双方とも受精してしまった場合だ。現実に、白人女性の産んだ二卵性双生児の片方が白人の血を引き、もう一方が黒人の血を引いていたというケースが、すでに十九世紀初頭に報告されている。またつい最近、体外受精の作業を行なうさいの係のミスで、夫の精子を取り扱うピペットに別人の精子も付着していて、そのために肌の色が異なるふたごが生まれてしまったという悲劇も起きている。
このように二卵性双生児というのは、むしろ通常のふたごという概念で捉《とら》えるほうがおかしいかもしれない。二つの受胎がほぼ同時期に行なわれ、それゆえに出産も同時期になってしまうが、実際には別々の妊娠がお腹の中で同時進行していると思ったほうがいい。だから二卵性で生まれてきた二人の赤ちゃんは、同い年の兄弟姉妹という域を出ない。そこには『ふたご』という言葉がもつ、ある種の特別なニュアンスはほとんどみられないと思っていい」
「ということは、二卵性の場合は、生まれてくる子供の性別が一致するとは限らないわけか」
「もちろんそうだよ。別々の卵子が別々の精子と受精をしたわけだから、片方がオスの精子を受け止め、もう一方がメスの精子を受け止めたら、生まれてくるのは男の子と女の子が一人ずつ、ということになる。二つの卵子に仮にAとBという名前を付けて、これがどちらの性別の子供を生むことになるかは、非常にかんたんな確率の計算で弾き出される。つまりABの取り合わせは男男・男女・女男・女女の四種類。だから二卵性双生児で異性の組み合わせが誕生するのは、なんと同性どうしとまったく同じ比率、一対一」
「それも意外だなあ」
安達は驚いた。
「ふたごといえば、同じ性別の組み合わせだという先入観念があって、男と女の組み合わせのふたごというイメージはまったく思い浮かばないけど」
「それは、ふたごは非常に似通っているのが常識だ、という先入観念があるからさ」
村田の言葉に、安達はドキッとなった。
いきなり、彼がもっとも知りたい主題が飛び出してきたからである。
「だけど、二卵性はいまも言ったように、ふつうの兄弟姉妹といった程度の似方にとどまるほうが多いんだ。そこへいくと一卵性のふたごはよく似ている。瓜二《うりふた》つという言葉は、まさに一卵性双生児のためにあるもので、二卵性のふたごには適用しにくい」
いよいよ核心に近づいてきたぞ、と安達は身構えた。
「一卵性のふたごというのは、その発生のメカニズムからして二卵性とはまったく異なるんだ。一卵性は、文字どおりたった一個の受精卵が二つに分かれて、それぞれ独立した二つの個体が発生するものだ。ちなみに、三つ子や四つ子にも一卵性は存在する。二つに分裂した受精卵の両方または片方がもう一度分裂した場合だ。しかし、なぜそういう受精卵の分裂が行なわれるのか、その原因についてはほとんど何もわかっていない。ごくまれなケースをのぞいて、家系的な遺伝も確認されていない。
二卵性では発生率に民族学的な差異をみることができたが、一卵性のふたごの発生率は世界共通、どんな国でも平均してほぼ千件の出産に三、四例といったところだ。だから、環境とか遺伝とはまったく別の発生要因があるはずなのだが、いまだにそこのところは解明されていない。一卵性双生児は謎の世界なのだ」
「謎の世界……か……」
安達は、村田が言った言葉を繰り返した。
「ところで、ふたごは胎盤、絨毛膜、羊膜の形態によっても、いくつかの種類に分けられるんだ」
村田はまた立ち上がって、子宮内の胎盤の略図を描いた。
「ここの部分もぼくの専門ではない産科の領域だから、ざっとふれるだけにするが、胎盤の内側には絨毛膜と呼ばれる袋があって、さらにその内側に羊膜がある。そして羊膜の中には羊水が満たされて、そこにヘソの緒で胎盤とつながった胎児が浮かんでいる」
専門分野ではないといいながら、村田は器用に図を描いていった。
「一人だけ生まれてくる通常の出産では、もちろん一胎盤・一絨毛膜・一羊膜だ。二卵性双生児の場合は二胎盤もしくは一胎盤で、二絨毛膜・二羊膜となる。胎児の包みが二セット揃《そろ》えられているパターンだね。これが一絨毛膜・二羊膜になると、一卵性にしか起こらない。さらにいちばん内側の羊膜までが一個――つまり、一人のときとなんら変わらない形態での受胎となると、むろん一卵性のふたごの場合のみとなるが、これはかなり珍しいケースとなる」
「じゃあ、そういった場合の一卵性双生児では、瓜二つという表現を超えたそっくりなふたごが誕生する確率が高いわけだな」
おもわず安達は先を急いた。
が、意外なことに、村田は否定的に首を振った。
「なかなかそうはいかないんだよ」
「どうして」
「そこが、環境というものの持つ力の摩訶《まか》不思議なところだよ。たとえ一卵性双生児だからといって、何から何までそっくりにならない条件が、じつは母親の胎内にもいろいろとあるんだ」
「ちょっと待ってくれ、村田。いまきみは、一卵性双生児は一つの受精卵が二つに分かれて発生すると言ったな」
「ああ」
「そうなると、遺伝子的にはどうなるんだ」
「それを説明しようと思ったところだよ。せっかくDNAの基礎知識についても話したことだしね」
村田和正は、残っていた缶コーヒーをすべて飲み干してから、安達をまっすぐに見つめた。
「一卵性双生児の場合は、まったく同一の遺伝子をもつ。寸分の違いもない、同一の遺伝子だ。だからこそ、瓜二つと呼ばれる似方になる」
「するとふたごの性別は……」
「同一遺伝子をもつふたごだから、同性の組み合わせしか存在しない。男の子どうしか、女の子どうしか、そのどちらかだ」
「一卵性で男と女という組み合わせは存在しないのか」
「存在しない」
村田は短く言い切った。
「かのシェイクスピアは、自分の作品にふたごを登場させるのが好きだったようだ。けれども『十二夜』という作品では、『二つに切ったリンゴでもこれほどそっくりではない』という兄と妹のふたごを登場させるミスを犯している。つまり、そこまで瓜二つだということは、当然一卵性なわけだ。しかし、一卵性であるならば、異性のふたごという組み合わせは存在しない。矛盾だろ?」
「なるほどね」
「まあ、遺伝子に関する学問がまるで発達していなかった時期だからやむをえないだろう。シェイクスピアの全盛期は十六世紀末から十七世紀はじめだが、かのメンデルがエンドウ豆を使ってあの有名な法則を発見したのが十九世紀後半の一八六五年だからね。しかし、男女の一卵性双生児が絶対に存在しないかといえば、厳密にいうと存在するのだ……いや、厳密にいえば、逆に存在しないことになるのかな」
「それは、どういうことなんだ」
「じつはシェイクスピア自身も、ハムネットとジュディスという男女のふたごを子供に持っていた。常識からいえば異性の組み合わせだから二卵性で、実際の彼らには『ふたご』という言葉の持つミステリアスな類似性はなかったはずだ。だからこそ、シェイクスピアは戯曲の登場人物に究極の同一性を求めようとしたのかもしれない。
だが、瓜二つというのは無理にしても、男女の一卵性双生児という可能性はまるでゼロではない。それどころか、実例もちゃんとある」
「というと?」
「残念ながら、これは染色体異常のケースなんだ。実際にはXY染色体を持った男の子のふたごになるはずが、その一方の胎児において性染色体XYのYが欠けてしまい、四十五本の染色体しかない女性の表現型となる。そういう点で、これを男女の一卵性双生児と呼んでいいかどうかは疑問なんだけれどね。これをターナー症候群というのだが、この女の子は性染色体が揃っていないために、生殖能力をもたない。それだけでなく、たいていの場合は身長が低めになってしまう」
「そういったレアケースを除けば、一卵性では、同性で同一の遺伝子を持ったふたごになるわけだな」
「そうだよ」
「だったら、せめて理論上だけでも、同一と呼んでもいいような似方のふたごが生まれる可能性があるんじゃないか」
「いや、ない」
村田は、またしても首を左右に振った。
「最初に極端な例をあげておこう。ただし、極端だが決してまれではない現象だ。胎盤を共有し、同じ絨毛膜の中に包まれているといった環境の一致がある一卵性双生児だからこそ、ふたごの成長度に大きな差が生じてしまう、という現象なんだけれどね」
「環境が同じだから、かえって差がつく? そんなことがありうるのか」
「一絨毛膜性のふたごで胎盤に血管の吻合《ふんごう》があった場合――血管の吻合というのは、ようするにふたごの胎児に行く血管が、どこかで連絡しあっていることなんだが――双方の胎児の間を血液が行き来することになる。すると、水が高いほうから低いほうへ流れるように、一方の胎児がより多くの血液を受ける側になり、他方は血液を相手にあげてしまう側に回るという現象が起きる。これを双胎間輸血症候群というのだが、受血側は多血症となり、供血側は貧血症となる。
で、もしもふたごが絨毛膜は共有していても、その内側の袋となる羊膜は個別にあった場合――一絨毛膜・二羊膜だね――受血児の羊水はどんどん増えていき、供血児の羊水は少なくなっていく。このため、供血児の羊膜が受血児の羊膜に押されていって、ついには身動きすらとれずに死亡するスタック・ツイン症候群という状態に陥ることもある。
こうした極端な例でなくとも、一卵性双生児の臍帯血《さいたいけつ》はつねに行き来しているから、片方の胎児の心臓が強い場合は、そちらに血が多く回って、もう一方の胎児の心臓の動きが弱まることもある。その積み重ねは、はっきりとした成長の差となって現れる。おかしな話だろう。ほとんどすべての環境を共有しているがゆえに、かえって母親の胎内で歴然とした身長や体重の差がついてしまうなんて」
「一卵性双生児だというのに、スタート時点からいきなり違ってくるわけか」
「そうなんだよ。環境の差というよりも、胎児間の力関係が如実に差として出るといったほうがいいかもしれないね。もちろん、こういったケースが多数を占めるわけではなく、基本的には一卵性のふたごというのは『瓜二《うりふた》つ』という状況に近いものなんだ。ただし、いま引き合いに出した例までいかなくても、胎内での微妙なバランスが双方に与える影響は大きいから、出産に至るまでの間ですら、完全同一体という状況を保つのはまったく不可能だ」
完全同一体という状況を保つのはまったく不可能――もっとも知りたかったことを先回りして語ってくれた村田のその結論が、安達の耳に大きく響いた。
それでは、唯季とユリがほとんど同一という話は、父親である上條純一の錯覚か思い込みか、あるいは嘘《うそ》で固められたものなのだろうか。
しかし、あのアルバムの存在があった。その写真が唯季ではなくユリのほうだとすると、二人の姉妹は完全同一体と呼ぶしかない似方を示しているではないか。
いや、なによりも声だ。安達の留守番電話に吹き込まれたあの女のメッセージは、声質といい、アクセントといい、微妙な息遣いといい、唯季そのものではないか。ユリが唯季と『同じ生命体』であるという事実を、安達自身もすでに確認しつつあるのだ。
こうなってくると結論は一つ。
すべての理論を超越した存在が現れた――これしかないのだ。
「あ、そうそう」
愕然《がくぜん》となっている安達をよそに、村田がさらにつけ加えた。
「一卵性双生児には、もうひとつ奇妙な特徴が出ることがある。それは『鏡像のふたご』と呼ばれる現象なんだ」
「キョウゾウのふたご?」
該当する文字がすぐにピンとこなくて、安達は聞き返した。
「なんだそれ」
「鏡の像と書いて、鏡像だよ」
白衣姿の村田は、その文字をホワイトボードに書いた。
「ちょっと信じられない話かもしれないが、一卵性双生児の片方ともう一方は、ちょうど鏡に映った自分のように、体の特徴が類似しながらも左右が反対になって現れるケースが多くみられる。代表的な例は片方が右利きで、もう一方が左利きというものだ。あるいは、片方のつむじが右巻きで、もう一方が左巻きという例。また、指紋の渦の巻き方が同様の対比を示すこともある。さらには、歯型の特徴が二人の間で左右逆転していることも珍しくはない。もっとびっくりするようなケースでは――さすがにこれはめったにないが――内臓の位置までが鏡に映った像のように逆転していることもある」
「内臓のある場所が逆になっているだって!」
「そうなんだよ。通常の人間は心臓が左にあり、肝臓が右側にある。ところが一卵性双生児の片方の子供で、心臓が右側に、肝臓が左側にあるケースが報告されている」
「………」
「内臓の左右対称はともかく、一卵性双生児における利き腕の鏡像現象は、およそ二五パーセントという高率で発生している。一卵性のふたご四組に一組の割合で、右利き&左利きのペアができている、というわけだ」
「どうしてそんなことが起こるんだよ」
「わからない」
村田は肩をすくめた。
「さっきも言っただろ。これだけ分子レベルで遺伝子領域のことが解明されつつあるのに、一卵性双生児については謎《なぞ》だらけだ、って」
[#改ページ]
十一 ヴァニッシング・ツイン
安達は、しばらくの間、口をつぐんでいた。
これまで村田から聞かされた話をまとめると、二つの結論が導けそうだった。
第一の結論は、さっきも自分の頭の中に浮かんだとおり、自分の妻だった唯季とその妹のユリは、≪理論的には存在の可能性ゼロ≫のふたごであること。
そして第二の結論は、一卵性双生児についてはあまりにも解明されていない謎が多すぎるので、ひょっとしたら現時点では否定されている完全同一体の存在も、現実にはありうるかもしれない――というものだった。
「……で」
いつまでも安達が口をつぐんでいるので、村田のほうから呼びかけてきた。
「あとはどんなことを話せばいいかな」
「唯季」
「え?」
「あ、いや……」
自然と自分の口をついて出た言葉にうろたえながら、安達はなんとかうまく取り繕《つくろ》おうとした。
「可能性はまったくないのかな」
「何の」
「だから、一卵性のふたごが完全同一体の存在となる可能性は」
「あるわけがないよ」
「理論的にだよ」
「理論的にないことを説明しただろう」
「いや、そうじゃなくて……ごめん、ぼくも言葉が足りなくて……そうじゃなくて、いかにも存在しそうな理屈をつけられないかな、ってことなんだ」
村田がキョトンとした顔をしているので、安達は作り笑いを浮かべながら補足した。
「さっきも話したテレビの企画なんだけど」
村田の眉《まゆ》が、少しだけ吊《つ》り上がった。
彼は、さきほど安達が『映画の』企画の参考にしたいと説明したことを覚えていた。またもや矛盾である。
だが、安達は気づかずにつづけた。
「この世の中に、何から何までまったく同じ外見をもつ……いや、外見だけではなくて、声もしぐさも性格までもがまったく同じという、奇跡的なふたごの姉妹がいた、という設定のドラマを考えているんだ。しかし、まったくの夢物語というよりは、その設定にある程度の信憑性《しんぴようせい》をつけ加えたい。そこで、遺伝子の専門家の立場から、なにかうまい理屈を捻《ひね》り出してもらえないだろうか、ということなんだが」
「ぼくにはSF作家の才能はないからなあ」
笑って相手にしない様子の村田に向かって、安達は懸命に語りかけた。
「ヒントだけでもいいんだよ。可能性ゼロの存在を、可能性〇・〇〇〇〇〇〇〇一パーセントくらいに高めるような、なにか期待をもたせる理論を編み出せないだろうか」
「そうだなあ……まあ、せっかく安達が十五年ぶりにきてくれたんだから、できるかぎりの協力はしてあげたいんだが、なかなか難しい注文だよなあ」
「たのむ」
安達は拝む格好をした。
「こんな頼みごとをほかの専門家にしたら、きっと門前払いをくらわされるに決まっている。だから、村田にすがるよりないんだよ」
「いや、最近では研究者も変わってきたからね。安達がイメージしているような、ゴリゴリの常識に固まっているような人ばかりじゃないよ」
頭の後ろで両手を組み合わせながら、村田は言った。
「とくに遺伝子レベルの研究については、なんでもかんでも現象を目で確認できるというものではないから、想像力に負うところが大きいんだ。まるで推理小説の名探偵みたいに大胆かつ意表をついた仮説を立てたうえで、それをどんな形で実証していけばいいのか、という考え方をしていくわけだ。
たとえば、いまではDNA=遺伝子という等式が、一般の人にも知れ渡っているけれど、そこに至るまでは大変だった。DNAという物質は、すでに一八六八年という昔に、スイスの化学者ミーシャーによって分離に成功されているんだ。明治元年だよ、江戸幕府が終わった年だぜ。ところが、これが遺伝物質であるという証明が、その後何十年にわたってなかなかできなかった。遺伝物質の主役とみなされる有力な対抗馬がいたからだ。それがタンパク質だよ」
村田は、テーブルの下で脚を組み替えた。
「最初に少しだけふれたけれど、DNAはアデニン、グアニン、シトシン、チミンという四つの塩基から成っている。これに比べて、タンパク質を構成するアミノ酸の種類は二十もある。そのアミノ酸がいくつも――ときには百ユニット以上もつながってできているのがタンパク質だから、その場合の組み合わせは二十の百乗通りという天文学的な数字になる。だから、膨大な遺伝情報を請け負うのはシンプルな構造のDNAなどではなく、タンパク質のほうに決まっている、という見方が有力だったのも無理はないんだ。
けれども一九四四年から五二年にかけて、数人の研究者が実験によってDNAこそが遺伝物質であることを証明した。詳しい話は省くけれど、遺伝の主役争いでは圧倒的に不利と見られていたDNAに勝利をもたらせるに至っては、柔軟な想像力に支えられた大胆な仮説が大きな役割を果たしたことは否定できない。
いまの時代、どんな分野でも頭がカタイ連中はおいてけぼりを食わされるんだ。だから、仮にきみが他の専門家に同じ質問をぶつけたとしても、センスのある人ならば、いっしょになっていろいろ考えてくれると思うよ」
「それを村田に頼みたいんだよ」
「もちろん、昔なじみの友だちに真っ先に協力するのはぼくでありたいと思っている。しかし……う〜ん……完全に同一なるふたごの存在ねえ」
村田は、腕組みをしてすっかり考え込んでしまった。
が、しばらくして、彼は顔をあげた。
「じゃ、こういうのはどうかな。きみの考えているドラマに現実味を帯びさせることになるかどうかわからないが、ふたごとか遺伝に拘《かか》わる興味深いエピソードをもう二、三話すというのは」
「それで結構だ。たのむ」
「では、まず最初は怪談だ」
「カイダンって、お化けの怪談か」
「そうだよ」
ちょっといたずらっぽい目つきをして、村田はうなずいた。
「これは直接ふたごとは関係ない話だ。女性の卵巣を手術したら、そこから人間の髪の毛や歯が出てきた、と言ったら安達は信じるかな」
「卵巣から髪の毛や歯が出てきたあ?」
安達はかん高い声を上げた。
「呑《の》み込んだ歯が胃から出てきたというなら信じるが、卵巣だろ。そんなところに髪の毛や歯が入っていきようがないじゃないか」
「ところが実際にありうる話なんだよ。いや、『ありうる』というニュアンスではないな。それこそ理論的にではなく、実際にある話なんだ。ここでぼくの話が信じられなければ、帰りにどこかの産婦人科に立ち寄ってたずねればいい。ああ、それはもちろんありますよ、という当然のような返事が返ってくるだろう」
「どういうことなんだ」
「卵巣|腫瘍《しゆよう》という病気がある。これは悪性の卵巣ガンや良性のものなどすべて含めた、卵巣にできる腫瘍を総合した名称だが、この中にヒヨウノウシュと呼ばれる病気があるんだ」
村田はホワイトボードに『皮様|嚢腫《のうしゆ》』と書いた。
「さきほどぼくは、生殖細胞の話をした。女性の生殖細胞は卵子だ。そして、その卵子のもととなる卵細胞――またの名を胚細胞――は、卵巣の中の卵胞に存在するのだが、これが腫瘍化して異常増殖をはじめると、時としてとんでもない事態が起こる。もともとこの胚細胞は、精子と出会って受精しないかぎりは、そのまま排卵されておしまいとなるのだが、何かのきっかけで腫瘍ができると、中途半端な受精をしたような状況になる」
「中途半端な受精?」
「腫瘍化による異常増殖の過程で、胚細胞に本来組み込まれていた人体作りのプログラムにスイッチが入ってしまう。そして、精子抜きで胚細胞が人体のパーツを作りはじめてしまうんだ。しかし、精子から遺伝情報を受け取っていないから、まともな胎児の形にはならずに、あくまでパーツだ。部品だ。たとえば髪の毛だけが生産されたり、腫瘍部分から歯が生えてきたり、と……」
「嘘だろう、卵巣に髪の毛や歯が生えるなんて」
「いや、これは作り事なんかじゃない。データによれば、全外来妊婦の〇・二パーセントに卵巣腫瘍が発見されるのだが、その中でも皮様嚢腫は代表的な症例なんだ。すべての皮様嚢腫からこうした人体のパーツが発見されるわけではないが、さりとて非常に珍しいという代物でもない」
「………」
「だから、ここから先はお話の世界で無責任に展開してもらってかまわないが、男性と一度も交渉をもったことのない処女の卵巣の中に、突然、髪の毛が生え、歯が生え、爪《つめ》が伸び、ついにはギロギロと動く眼球が出現した……なんていう恐怖ドラマも、まるっきりの大ウソということにはならないんだ」
「そうなのか……」
「不思議だろ、人間の身体って」
「ああ、たしかに」
女性の胎内にモジャモジャと髪の毛が生えてきたり、ニョキニョキと歯が生えてくるイメージを思い浮かべて、安達は少し汗をかいた。
「それから、ドラマ作りのヒントになりそうな第二の話だが、これは知っておいて絶対に損はないタイムリーな言葉なんだが、アポトーシス」
「アポ……なんだって?」
「アポトーシスだ。これはいま生物医学系の遺伝子研究者にとって、もっともホットなテーマなんだよ。最近になって、生物のある細胞には、もともと時間を指定した自殺のプログラムが組み込まれていることが証明された。その予定された細胞の自殺をアポトーシスという」
「………」
ポカンとしている安達を見ながら、村田は言った。
「これは、細胞死の既成概念を根底から覆《くつがえ》すようなものだった。わかりやすい例を引き合いに出そう。ちょっとこっちにこないか」
村田は立ち上がると、小応接室の窓際に立って安達を手招きした。それで安達も立ち上がって、狭い部屋の窓辺に並んだ。
「都心と違ってこちらはもうすっかり冬本番という感じで、緑に覆《おお》われていた木々も、いまは葉っぱを落として裸同然になっている」
村田が言うように、建物五階から眺める学園都市は、東京よりもずっと早く冬の色に染められていた。未来的だが無機質な建物群の間に見え隠れする林は、春夏のような緑色ではなく、秋のような赤や黄色でもなく、殺風景な枯葉色で構成されている。窓ガラスに近づいた二人の吐く息で、その景色が曇ったり晴れたりした。
「つくばという都市は、なぜか冬の淋《さび》しげな灰色の風景が似合うんだよな。失恋の似合う街、という言い方もできそうだけど」
柄にもなく村田が情緒的なことを言うので、少し意外に思って、安達はその横顔を見つめた。
と、その視線に気づいた彼は、照れた笑みを浮かべてから息で曇った窓ガラスを手のひらで拭《ふ》いた。
「幼なじみの安達だから話すけれど、じつは、去年失恋してね」
そういえば、ひさしぶりに再会した村田の近況について何もたずねていなかったな、と安達はそこではじめて気がついた。
研究者としての落ち着きぶりなどからみて、安定した結婚生活を送っているものだとばかり思っていたが、どうやらそれは間違いのようだった。しかし、白衣がよく似合う村田和正に、失恋という言葉はいまひとつピンとこなかった。
「三十になってから本格的な失恋をするなんて思ってもみなかったが……つらいもんだよな。コンピュータと向かい合っていても、蛍光顕微鏡をのぞいていても、彼女の顔が目の前に浮かんできて、肝腎《かんじん》のデータや標本が何も見えなくなってしまう。これで季節が明るい夏だったらまだ気分転換もできるんだろうが、枯葉の季節ときては、まさに落ち込むのにピッタリすぎる」
寒々とした外の景色を眺めながら、村田はあえて明るい声で言った。
だが、どんなに明るさを装っても、たったいままで笑いを交えながら安達に説明をつづけていたときとは、声のトーンがはっきり違っていた。
安達としては、ここで失恋のいきさつをきいてやるべきかどうか迷っていた。
が、その沈黙を村田は別の意味にとって、区切りをつけるように大きな息をついた。
「すまん。奥さんを亡くしてしまったきみに較《くら》べれば、失恋でしょげ返っているなんて甘っちょろいものだった。……で、話は枯葉のことだ」
気を取り直した表情で、村田はすっかり葉を落とした木々を窓越しに指さした。
「冬が近づくと、葉が枯れて落ちる――この見慣れた光景に驚くべき生命のメカニズムが潜んでいるとは、つい最近まで誰も気がついていなかった」
安達も村田の指さす方向に目をやった。
「昔の人は単純にこう考えた。葉っぱは周りが寒くなってきたから枯れて落ちるのだ、と。しかし、もう少し植物を賢い存在とみなす人はこう考えた。葉を落とすことは、結果的に厳しい冬の環境を乗り切るのに好都合だ、とね」
「ぼくもそう思っていたが、違うのか」
「いま述べた考えは、いずれも葉がその生命を終えることを受動的なものとみなしている。気温の低下が葉の寿命を終わらせるのではないか、あるいは葉の寿命がそもそも一年もたないようにできているのではないか、と。それがうまいぐあいに冬を越すのに適しているのだろう、と」
「そのとおりだろ?」
「たしかに、落葉樹の葉っぱのサイクルは春先から秋の終わりまでとなっている。しかし、寿命が尽きたという表現が正しくなかった」
「どうして」
「たとえば老衰で死んだ人間に関しては、まさに寿命がきたという表現が正しいだろう。さまざまなところにおいて細胞が老化してゆき、生命の維持に必要な新しい細胞を作る能力がなくなってしまうからだ。ところが、落葉樹の葉の場合はどうか。葉っぱそのものは冬になれば枯れて落ちるが、木の本体は健康なままふたたび春を迎えようとする。そして春になればまた葉が芽生えて、秋の終わりにまた落ちるという繰り返しをする。ある一定の期間がくれば決まってその細胞の死を迎えるこのサイクルを、果たして単純に寿命と呼んでいいのだろうか、という素朴な疑問をもつ研究者が現れてきた」
「どこに疑問を抱いたんだ。よくわからないな」
「寿命というのは、生命体としてはもっと生きたいのに、細胞の再生能力がもうそれを許してくれない場合を指すのであって、落葉樹の葉が枯れるのは、むしろその逆ではないかという発想だよ。本体である木の都合を考えた場合、冬の間は葉がついていないほうが有利だ。ゆえに、葉が枯れるのは受動的ではなく能動的な死ではないか、という解釈が出てきた。葉っぱは本体の木を生かすために、ある時期がくると寿命でもないのに自らすすんで死んでいくのではないか――そんな考え方だ。つまり、シャンソンにも歌われるロマンチックな枯葉という光景は、じつは葉っぱが自殺した姿、というわけだ」
「そんなバカな」
「最初にこの考え方が提唱されたとき、まさしく学界でも安達のような反応が大半だった。葉っぱが自殺するなんて、そんなバカなとね」
「そりゃそうだろ。植物が自殺するなんて考えられないよ」
「植物が自殺するわけではない。葉を構成する細胞が自殺するんだ」
「どっちだって同じことだろう」
「たしかに、このアポトーシスという現象が発見されるまでの常識では、細胞の死は一種類しかないものと思われてきた。壊死《えし》だ。英語でいえばネクローシス。下等生物から高等生物に至るまで、すべての生き物の細胞の死に方は、ネクローシスの一種類しかないと、ずっと長い間信じ込まれてきた。信じ込まれてきたというよりは、誰も詳しい研究をしようと思わなかった、というほうが正しいだろう。なぜならば、そんな研究が人類のために役立つとはとうてい思えなかったからだ」
ふたたび自分の息で曇りかけたガラスを拭きながら、村田はつづけた。
「しかし、『秋の終わりになると木々は自らの葉を落として[#「自らの葉を落として」に傍点]冬支度をする』という表現は誰でもごく自然に使うだろう。それなのに、そこに細胞の自殺という真実が含まれていることに、長い間誰も気づかなかったんだ」
「それは、あくまで文学的表現ってやつじゃないのか」
「ときには文学が科学よりも先に真実を見抜くことがある」
村田は、外の景色から安達のほうに目を転じた。
「たとえば、細胞の死が受動的なものばかりだとすると説明のつかないことがいっぱい出てくる。さっきから、ふたごの話題に関連して胎児の世界を取り上げているので、そこに目を向けてみよう。よく言われるように、人間の胎児は最初のころは魚のような格好をしているが、そこから生物の進化の過程をたどりながら人間らしい形になっていく。そのプロセスにおいて、一時期、胎児の指の間にはアヒルの水かきのようなものがある、という話を聞いたことがないか」
「ああ、あるよ」
安達はうなずいた。
「水中の生物から陸上でもっとも高等な人間へと、生物の進化の過程を猛烈なスピードでたどりながら、お腹の赤ちゃんは成長を遂げていくんじゃないのか」
「そう、その考え方はたしかに面白い」
ウエーブのかかった髪をかきあげながら、村田は言った。
「進化論をトレースするような胎児の形態変化という概念は、なかなかファンタジックでもある。しかしこのプロセスは、もうちょっと実際的な考え方で説明される。たとえば粘土で塑像を作るときに、大まかな形を大きめに作っておいて、あとから削りながら精巧な形を作っていくが、生物の胚が細胞分裂してひとつの個体を作っていくときにも、それと同じような動きがあるんだ。指の間の水かきについても、とりあえず作っておいて、あとから不要部分を削るという作業が行なわれる。
だから、水かき部分は母親の胎内にいる間にほとんど消滅する。そして、人間らしい手の形をした赤ちゃんが生まれてくるわけだ。こうやって指を広げてみると、つけねのあたりに、ごくごくわずかにその痕跡が残っているけれどね」
村田は自分の手を広げ、それにつられて安達も手を広げてみた。
そこで村田がきいた。
「では、水かきを形成していた細胞はどうなったのか」
「自然に吸収されていったんだろう」
「肉眼レベルの観察ではそう見えるだろうね。しかし細胞単位でみれば、細胞が死へ向かっていかないかぎり、他の健全な細胞に吸収されてしまう状況はありえない。つまり、水かきの部分を構成する細胞が死んだからこそ、水かきの形は消滅したわけだ。しかし、これははたして寿命がきたことによる死なのだろうか」
「寿命だろ、やっぱり」
「いや、生命体にはできるかぎり自分の寿命を延ばそうとするメカニズムが働く。もしも水かき部分の細胞に寿命があるならば、自然の摂理が働いて、なんとか水かきを長く残しておこうとする力が働くはずだ。そして、妊娠期間が満了する時期になってもなお、その細胞が生きていたらどうなる」
「アヒルのような手足をもった赤ちゃんが生まれてくる」
「そうなるわけだ」
「まるでホラー映画の世界だな」
安達は苦笑した。
「人間の指の間に水かきがあったら、オリンピックの水泳選手はいいけれど、日常生活は不便でしょうがない」
「だろう? いまの人間に水かきがあったら、まちがいなく生活に支障をきたして寿命は短くなる。つまり、水かきの細胞が長生きすることで、生命体の寿命が短くなるわけだ。そうすると、水かき部分の細胞の寿命と、人間という個体でみた寿命の意義が相反するという事態になる」
「なるほど。人間としては水かきの細胞に長生きしてもらってはマズいんだ」
「そう。水かきの細胞に寿命をまっとうすべく頑張ってもらっては困る。むしろ、ある時期がくれば、積極的に死んでもらいたいのだ。そこでこの細胞には、決まった時期がくると確実に死ぬような自爆装置のプログラムが組み込まれている」
「コンピュータじゃあるまいし、プログラムっていうのは大げさじゃないのか」
「いや、遺伝子がコントロールする細胞の世界というのは、コンピュータの世界とほとんど変わらない。細胞の中にビル・ゲイツが住んでいるんじゃないかと思うくらいだ」
応接室の窓際で、静かなやりとりがつづいた。
「さて、細胞にも受動的な死と能動的な死がありそうだとわかってくると、当然その両者の間には根本的なメカニズムの差があるのではないか、と推測されてくる。それで、水かきを必要としない鳥類の胚を使ったこういう実験が行なわれた」
また息で曇った窓ガラスに、村田は単純な図を描いた。
「まず第一段階として、ある時期での死――とりあえず、いままでは寿命という概念で捉《とら》えられていたものだが――それを運命づけられている水かきの細胞を、わりあい早めに別の場所に移してみる。するとそれは『寿命』がきても死ななくなってしまう。ところが、『寿命』到達のほぼ一日以内に同じ移植を試みると、こんどはどこに移しても、その細胞は死んでしまうんだ。こういった実験データから、あいまいな寿命ではなく、確実に期日を指定された死があらかじめ細胞にプログラムされているという概念が出てきた。
しかも、そのスケジューリングされた死はあまりにも突然に起こる。病変部位が壊死していくようなゆっくりとしたペースではなく、まさに自爆というにふさわしい死に方だ。通常の壊死《ネクローシス》の場合には細胞が膨張・溶解といった過程をたどるが、それとは対照的に、アポトーシスではDNAとタンパク質の複合体であるクロマチンの凝縮をきっかけにして、あっというまに細胞がいくつもの小片に分かれ、最後は周囲の細胞に吸収されてしまう。死のスピードが違うんだ。
こうした細胞の消滅過程を見ていくと、ふつうの死と違って、細胞に死の到来をなるべく遅らせようと抵抗する気配がまったくみられない。逆に自分から進んで死を選んでいるとしか思えないんだ。しかも、自殺の時期までがあらかじめプログラムされている」
「どこにそんなプログラムがあるんだ」
「もちろん遺伝子だよ。その遺伝子は、死を運命づけられた細胞の内部に存在する場合もあれば、その細胞の外にある場合もある。細胞の外から自殺命令が出るときには、その命令を伝える物質がなければならない。たとえばシグナル分子と呼ばれるリガンドであったり、カルシウムイオンであったり、プロテインキナーゼCという酵素であったりする。こういったアポトーシス信号の伝達経路について、いま世界中の研究者が先を競って解明に取り組んでいるところなんだ」
「なるほど、アポトーシスってやつが興味深い現象であるらしいことは理解できたけれど……」
安達は言った。
「残念ながら、ふたごのドラマのネタに使うには難しすぎるな」
「そうくると思ったけれど、これから話す第三のネタとつなげると、完全同一体のふたごという作り話にもっていける可能性があるんじゃないかな。……とりあえずソファのところに戻らないか」
村田にうながされて、安達は元の席に着いた。
そして村田も向かいのソファに腰を下ろし、おもむろに安達に語りかけた。
「第三の物語は、ヴァニッシング・ツインだ」
「ヴァニッシング・ツイン?」
「そう、日本語に訳すと消えたふたご」
「ふたごが失踪《しつそう》したというミステリーか」
「ちがう、ちがう」
村田は白衣の袖《そで》を揺らしながら手を振った。
「日本語というのは非常に不便なもので、ひとくちに『ふたご』と言っても、ペアの両方を指すのか、それとも片方を指すのかわからないだろ。しかし、英語で一組のふたごを指すときは『ツインズ』と複数形のSが付く。単数の『ツイン』の場合はふたごの片方だけを指す。その片割れがヴァニッシング、つまり消えたという意味だが、消えたといっても誘拐《ゆうかい》や失踪ではない。母親の胎内で消えるんだ」
「胎内で消える?」
「さっきぼくは、ふたごが生まれる確率を、イギリスの場合で九十例に一組、日本ではだいたい百二十例に一組と話した。しかしそれは、無事に生まれたふたごのデータであって、ふたごを妊娠した率ではない」
「流産を入れると、もっとふたごの確率が高くなるんだな」
「流産もそれなりのパーセンテージを占めるが、もっと大きな割合でヴァニッシング・ツインがある。この『消えたふたご』の存在は、超音波検診が普及してから明らかになってきた。どういうものかというと、妊娠がわかった直後にはたしかに二人いたはずの胎児が、流産の形跡もないのに、その片方がいつのまにか消えてしまって、けっきょく一人しか出産されないというケースなんだ」
「流産しなければ、消えた片割れはどこへ行ったんだ」
「母親の胎盤に吸収されてしまったんだよ」
村田は答えた。
「だいたい十二週未満のうちに胎内で死亡すると、こうしたヴァニッシング・ツイン現象が起きる。さっき話したスタック・ツイン症候群などで十二週を過ぎてから死亡すると、胎盤には吸収されずに胎内でミイラ化する。そして、ついには紙のようになってしまう紙状胎児といった現象もみられる」
安達にとっては、何から何まで初耳となる『ふたごの世界』だった。
「紙状胎児は、生き残った片割れが出産したときにわかるが、ヴァニッシング・ツイン現象のときは、まるでわからない。だから、超音波検診という手法がない時代には、神のみぞ知るふたごというのがたくさんいたわけだ。ひょっとしたらぼくも安達も、じつはふたごの片割れかもしれなかった。少なくとも、そうでないという証明はできない」
「だけど、ヴァニッシング・ツインが起きるのはそんなに高い確率ではないんだろう」
「とんでもない。完全に消えてしまわないケースも含めると、ふたごを身ごもったケースの約半分が、結果的に一人の赤ちゃんしか生まなかったという推測もあるくらいなんだ」
「そんなに……」
「これは国際双生児研究会議の副会長で、英国多胎児出産財団の医学責任者であるエリザベス・ブライアンという人の著書に記されている事実なんだ」
村田は、部屋に持ち込んできた資料の一冊を示した。
「まさか安達がふたごの件で相談にくるとは思わなかったが、たまたまぼくとペアを組んで研究にあたっている助手が、本人もふたごの親で、こういったことに興味をもって関係書籍を集めていたんだよ」
「しかし村田、日本人のふたご発生率が百二十例に一組だと言ったよな」
「ああ」
「で、ふたごの妊娠率はじつはその倍もあるのだと仮定すると……」
「けっきょく実際にふたごを身ごもっていた確率は六十例に一組という計算になるわけだ。しかし、過去に溯《さかのぼ》ると発生率はもう少し高まる傾向にある。三十年以上前、ぼくや安達が生まれたころのふたご発生率が例の公式どおり八十例に一組だったとしよう。すると、実際のふたごの妊娠率は四十例に一組くらいの高率だったのかもしれない」
「すごいじゃないか、それは」
「そこまで数字が高くなると、自分はその例に絶対に当てはまらないと言い切れなくなるだろう」
「すると、ぼくにも『消えた兄弟』がいたかもしれないと……」
「そういうことだ」
「ぼくが……ふたごだった……かもしれないなんて」
安達真児は、あぜんとしてつぶやいた。
ふたごの妻の一件で頭を悩ませて旧友をたずねたのに、そこで自分自身がふたごの片割れだった可能性を示唆されようとは思ってもみなかった。
しかし、ヴァニッシング・ツインの発生率がかなり高いことは、超音波検診の普及によって客観的に証明されているという。それならば、自分がふたごだった可能性は二、三パーセント程度の確率であるのかもしれない。
「そこでだ」
村田は、少し声を強めた。
「ぼくから安達へ物語づくりのヒントをあげると、このヴァニッシング・ツインという現象と、アポトーシス――すなわち細胞の自殺という概念、さらにいちばん最初に話した皮様|嚢腫《のうしゆ》を合体させると、完全なる同一体のふたごが存在する理屈づけを完成させられるかもしれない」
「どういうふうに」
おもわず安達は身を乗り出してたずねた。
「研究者としてこういう発想をすると問題だが、あくまでこれはドラマの筋書き用に想像を膨らませたものだと思ってくれよ」
「前置きはいいから、早く頼む」
「人間という生き物の生殖形態は、完全なる同一個体を一組産み出すのが本来の姿なのだ、と仮定するんだ」
「………」
「どうだ、SF作家顔負けの大胆な前提だろう」
[#改ページ]
十二 美しき異常細胞
「大胆というか、大胆すぎるな、そのアイデアは」
村田に説明したのとは違って、本心では、現実味のある理論武装を求めていた安達は、いささかがっかりした声を出した。
だが、村田は熱心に語りつづけた。
「たしかに、人間はもともとふたごを孕《はら》むようにできていたという着想は奇抜すぎるかもしれない。だけど安達、よく考えてごらん、イヌは何匹子供を産む? 一匹か。ちがうだろ。ネコは? 一匹か。ちがうだろ。じゃ、ブタは?」
「………」
「もちろんサルやチンパンジーのように人間と同じように単胎で出産する哺乳類《ほにゆうるい》もいるけれど、子孫を残すという重要な作業を一出産一胎児ですませているほうが、むしろ不自然だと考えたほうがいいんだよ。一回のお産で生まれる子供の数は一人なのがあたりまえ、という常識から、まず離れてみるんだ。
なぜか人類は単胎出産に慣れてしまい、ほんのちょっと前までは、ふたごや三つ子などの多胎児出産を『異常事態』と受け止める風潮が強かった。ふたごの誕生は不吉な前兆と見做《みな》し、生まれた子供をすぐさま処分する習慣は、日本のみならず世界各地であったようだ。たぶん、一卵性のふたごの限りない類似性にミステリアスな恐怖を感じたせいだろうが、それだけでなく産科学が未発達だったことも、ふたごへのそこはかとない恐怖心を煽《あお》り立てた要因となっていたはずだ。
超音波検診のない時代では、腹の大きさだけでふたごの可能性を探っていたような状況だから、出産のときはじめてわかって大騒ぎということも多かっただろう。それにふたごの分娩では、先に産み落とされる第一子よりも後に残る第二子のほうにリスクが大きい。片方、もしくは双方とも死産だったという悲劇も枚挙に遑《いとま》がなかったはずだ。あるいは、さっき話したように、母親の胎内で死亡した胎児がミイラ化したり紙のようになって産み落とされることもあっただろう。これは昔だったら大変だよ。たちまち悪霊のしわざとなって、祈祷師《きとうし》の出番になる」
「医学的知識のない連中が異常出産に立ち会ったりしたら、相当なパニックを引き起こしただろうな」
「想像に難《かた》くないね」
村田はうなずいた。
「だけど、ふたごの出産が少しも不思議ではない時代があったらどうだろうか。たった一人しか子供が産み落とされなかったら、むしろそちらのほうが異常事態だといって祈祷師が呼ばれるような時代があったとしたら」
「どんな時代だ」
「人類の歴史をかぎりなく過去に溯《さかのぼ》った時代だよ」
「ナントカ原人とかナントカ猿人ってやつかい」
「そうだ。食うか食われるかの狩猟時代には、なるべく多くの子供をいっぺんに身ごもったほうがいいに決まっている。近年では、日常生活での生命の安全度が高まってきているから、複数の子供を孕まねばならない必要性も減ってきた、と解釈するわけだ。その観点からすれば、人間がふたごを妊娠する確率は、千年前、二千年前、三千年前と歴史を溯っていくにしたがって高かったはずだと考えるのは論理的だ。
そしてもっと時の流れを溯り、一万年前、二万年前、三万年前というぐあいに見ていくと、複数の子供を孕む必要性はさらに高かったと考えてもよい。部族の繁栄のためには少しでも仲間の人数が多いほうがいいし、人口問題などに悩まされる心配もまったくない。新人のクロマニョン人が地球に現れたのが約五万年前、旧人のネアンデルタール人が活動していたのはそれよりさらに十万年前ぐらいとみなされているが、いまの人類よりもクロマニョン人の方が、そしてクロマニョン人よりもネアンデルタール人のほうが、明日の命もわからぬ危険に囲まれた生活をしていた。原人や猿人の時代はもっとリスクが大きい。そうなると、種の保存のためにも、いまよりふたご妊娠率はずっと高かったはずだ。というよりも、その時代はふたごが常識だったかもしれない」
「だけど、人間の先祖であるサルやチンパンジーは子供を一匹しか産まないんだろ。それじゃあいくら人類誕生の過去に溯っても、複数の出産という必然性にはたどり着かないような気がするけど」
「ちがうね」
村田は人差し指を立てた。
「ヒトの先祖が現在のサルやチンパンジーなのではない。ヒトとサルはプロコンスルという共通のルーツをもっていて、そこから枝分かれして進化していったんだ。だから、サルやチンパンジーもまた人間と同様に、もとは多胎型の出産をするのがあたりまえだったと考えるんだよ。実際、ごくまれではあるけれど、チンパンジーもふたごを産むことがある」
しだいに村田は興が乗ってきた顔になった。
「なあ安達、遊び半分ではじめた話だが、もしかするとこんな過去にまで溯ってふたごの存在を検討した人間なんて、世界中の人類学者、考古学者、生物学者、遺伝学者を見渡してもひとりもいないかもしれないぞ」
相手の反応をよそに、村田は自分の作ったストーリーに酔いはじめた。
「生きているネアンデルタール人を見たわけじゃないが、現代人よりもはるかに本能的で、はるかにエネルギッシュで、はるかに性欲が旺盛だと思わないか。つまり、性腺刺激ホルモンの分泌も高そうだ、ということだ。このホルモンの分泌が高いとどうなるかは、ナイジェリアのヨルバ族の実例を話したよな。ふたご妊娠率の増加だ。
どうだ、こうやってあれこれ理屈をつけていくと、人類はそのルーツにおいて、一回の出産で複数の子供を産むのが常識だった、という話に説得力が出てくるだろう。そして――いいか、ここが肝腎《かんじん》なところだ――ひょっとしたら、現代においてふたごや三つ子が出産されるのは、人類創世記のころの名残りなのかもしれないんだ。ヴァニッシング・ツインという現象も、いかに人類にとってふたごを孕むことが自然であるかの証明だという論法へもっていく」
「その想定はそれなりに面白いけれど……」
安達は少々不満げに言った。
「人類はもともと複数の子供を同時に孕むようにできていた、という仮説への説得力はあっても、完全同一体のふたごの存在を肯定するものにはならないよ」
そこの可能性を追求したい安達は、疑問を差し挟んだ。
「それに、さっき村田は、種の保存のためには、個体のバリエーションがいろいろあったほうがいいと言っただろ。だから減数分裂のときに遺伝子の相互乗り換えが起きるんだ、と。だとしたら、完全同一体のふたごを生み出すよりも、一卵性双生児といえども個体差をつけて生み出したほうが自然の摂理にかなうんじゃないのか」
「ぼくの説明をちゃんと覚えていてくれてありがとう」
村田はにっこり笑った。
「いまの安達の反論は、まったく正当だ。そこでだ、死をプログラムされたアポトーシスのメカニズムを持ち出すんだよ」
「アポトーシスを?」
「こういう仮説はどうだろう。最初に話したように、本来、人類は完全同一体のふたごを生むことが理にかなっているとする。そのために、まず母親の胎内で受精卵が二つに分離して、一卵性双生児の胚ができる。このふたごは、もちろんまったく同一の遺伝子をもっている。ここまでは現実と同じだ。
ところが、ここから先は非現実的な世界に入る。一卵性のふたごAとふたごBの胚には、いかなる環境にも左右されない細胞プログラムがすでにインプットされていた、とするんだ。まるでアポトーシスの仕組みのようにね。
アポトーシスにおいては、ある特定の細胞を特定の時間に消滅させるための時限爆弾式自殺信号が存在することになっていた。ところがパーフェクト・ツインズでは――そうだ、完全同一体のふたごペアをこう呼ぼう――パーフェクト・ツインズでは、特定の細胞のみならず、個体を構成するすべての細胞が、その死に至るまでの過程を同一プログラムによって完全にコントロールされていると考えるんだ。よって、ふたごAとふたごBの二つの個体そのものも、寸分たがわぬ成長ぶりをみせる。そこには環境による影響という要素がまったくない」
村田が『SFドラマのために』組み立ててくれた理論武装は、安達に対しての説得力をしだいに強めていった。
ただし、安達は心の中でつぶやいていた。
(死に至るまでの同一プログラムというけれど、ふたごAはすでに殺されてしまっているんだぜ)
と……。
「しかし、個体差が皆無というパーフェクト・ツインズの存在は、個体差によって種の保存をはかろうという法則に反する」
村田和正の話がつづいた。
「そこで、こんどは純然たるアポトーシスのメカニズムが働いて、ふたごAとふたごBにおいて独自の部分に細胞死プログラムが作用し、不要な部分を削りながら微妙な差が出るような調整が行なわれる。完全同一プログラムが、その一部をアポトーシスによって破壊されることで、パーフェクト・ツインズにも個体差が誕生するという考え方だ。そうやって世に生まれてくるのが『ふつうの一卵性双生児』だ。瓜二《うりふた》つとはいってもあれこれ違いも目立つ、正常な類似性をもったふたごだ。
ところが、何かの理由があってふたごの胚にアポトーシス信号が送られず、死ぬまで同一個体でありつづけるよう定められたプログラムが破壊されなかったら……そのときに、安達が考えているような、パーフェクト・ツインズが誕生する」
そこまで語ってから、村田はいったん言葉を区切った。そして、感想を求めるように安達の顔をのぞき込んだ。
「どうだい、この理論武装は」
「うん……」
安達は言葉少なにうなずいた。
「納得できるところがだんだん多くなってきたよ」
「だろ」
「では、パーフェクト・ツインズの細胞に個体差を作るためのアポトーシス信号が伝達されなかった理由は、どんなものが考えられる」
「それについての答えはかんたんだ」
自信たっぷりに、村田は言った。
「これは空想物語ではなく、実際にアポトーシス抑制遺伝子というものが発見されている。bcL‐2と呼ばれるものがその一例だ。ところが同時に、これはガンの遺伝子でもあるんだ」
「アポトーシス抑制遺伝子に発ガン作用があるのか」
「そうなんだよ。だからこそ、アポトーシスの研究がいま世界でもっとも注目されているんだ」
村田はソファから腰を上げて、またホワイトボードの前に立った。
「非常に面白い話をしよう。医学界でも有名なヘラ細胞というものがある」
「ヘラ?」
「HeLaと書いてヘラ」
村田は、英文字をホワイトボードに走り書きした。
「これはある女性の頭文字をとったものだ」
「医学博士なのか」
「いや、一九五〇年代のアメリカにいた子宮ガン患者だ。本人はそのガンで死んだ。ところが、研究のために本人の患部から摘出された子宮ガンの細胞は、世界各地の研究室で培養され、いまだに生きつづけている。信じられるか、ざっと四十年も前に死んだ女性の細胞が、世界中に分散して黙々と生きつづけているんだぜ」
「………」
「一般の人は、ガンは人を死に至らしめるという観点ばかりに目を向けているが、そのガンがじつは不老不死の細胞であることは、あまり知られていない」
「ガン細胞が不老不死……」
「そうだ」
「ほんとうに死なないのか」
「死なない」
意外そうに聞き返す安達に対して、村田はきっぱりと言い切った。
「もちろん、宿主の人間が死亡してそのままにしておけば死ぬよ。しかし、その遺体からガン細胞を分離し、一定の条件下で培養すれば延々と生きつづける。逆説的な話だが、もしもきみが永遠の生命を手に入れたいと思ったら、ガンに冒されるのが唯一可能な方法だ。ガンこそは[#「ガンこそは」に傍点]、この世に存在するたったひとつの不老不死の薬なんだ[#「この世に存在するたったひとつの不老不死の薬なんだ」に傍点]。身に取り憑《つ》いたガン細胞もまたおのれ自身なのだと認識すれば、きみは地球の終わりを見ることもできる」
「………」
意表を衝かれて黙りこくる安達に向かって、村田はなおもつづけた。
「では、なぜガン細胞は死なないのか。それは、その細胞には死を運命づけたアポトーシスのプログラムが組み込まれていないからなんだ。この着想に至ったとき、それまでほとんどの学者が見向きもしなかった細胞死の新しい概念アポトーシスが、たちまち人類最大の研究テーマと言われるほどの存在になってしまった」
村田の声がどんどん大きくなっていった。
「いま引き合いに出したbcL‐2という遺伝子は、本来はナンバー18の染色体のq21という場所に配置されている。ところが濾胞性《ろほうせい》Bリンパ腫《しゆ》の患者では、この遺伝子が14番目の染色体のq32へ転座している。
この転座した場所の近くには免疫グロブリン遺伝子があるのだが、bcL‐2の転座によってこれが活性化され、アポトーシスの抑制が起きる。ただし、これにはガン細胞の増殖そのものを高める働きはないこともわかっている。にもかかわらず細胞のガン化がはじまってしまうのだ。ということは、決まった時期に死ぬことを定められた細胞が、アポトーシス抑制によって永遠の生命を得た瞬間から、細胞のガン化がはじまってしまうということなんだ」
「すごいな……」
安達はつぶやいた。
「ガンは死神じゃなくて不老不死の仙人だったのか」
「さすが役者さん、うまい言い回しをするね」
真剣だった村田が、ちょっとだけ表情を和らげた。
「そのセリフはいただきだ。ガンを宣告されても、自分の身体に仙人が宿ったと思えば、精神的なショックを多少は緩和できるかもしれないね。……で、話を完全同一体のふたごのほうに戻すけれど」
村田は、さきほどホワイトボードに書いた『皮様|嚢腫《のうしゆ》』という文字をぐるりと大きく丸で囲った。
「ここで、さっき話した怪談じみた皮様嚢腫の一件が関連してくるわけだ。卵巣の中に髪の毛や歯が出現する奇妙な腫瘍《しゆよう》『皮様嚢腫』――これは悪性ではなく良性の腫瘍なんだが、安達のお話の世界では、こいつの悪玉ヴァージョンを登場させる。つまりガン性皮様嚢腫だ。で、卵巣の胚細胞がガンによって不老不死化した前提を用いれば、そこにアポトーシス抑制遺伝子が働いていることを意味する。この抑制遺伝子が、ふたごAとふたごBの個体差を作ろうとするアポトーシスの働きを抑える。これによって、永遠の完全同一体プログラムを組み込まれたふたごに差をつけるチャンスは排除されてしまう……。
ただし、通常の受精というものは卵子が子宮へ排卵されたところで起こるわけだから、卵巣にできた皮様嚢腫のアポトーシス抑制遺伝子が子宮内の胎児に影響を与えるというのは、いささか無理がある。それを解決するには、子宮外妊娠という設定にすることが第一に考えられる」
村田は、子宮と卵巣の図をラフに描いた。
「この卵巣部分で受精が起きるというケースは現実にあって、妊娠数万例に一度くらいの割合でみられる。しかし、もちろん卵巣で子供が育つはずもない。卵巣妊娠と判断されたら外科手術でこれを除去しなければならない。だから、この説には説得力がない。そこで、無理のついでに強引な着想をもってきてはどうかと思う」
安達をふり返って見つめる村田の目が、ぎらりと光った。
「完全同一体として誕生したパーフェクト・ツインズにかぎっては、まともな方法で生命が芽生えたのではなかった、とするんだ」
「え?」
「つまり、そのふたごは受精せずにこの世に誕生してきた」
「なんだって」
「皮様嚢腫に冒された胚細胞が、異常増殖の過程で髪の毛や歯を生み出したことを思い出してほしい。不完全なパーツながらも、受精なしに人体を生み出すという現象が実際にあるんだ。それをもっとオーバーにやるんだよ。作り事の世界だから、それくらいかまわないだろう」
「受精なしに……ふたごが誕生するのか」
「そういうこと。卵子がまだ胚細胞として卵巣の中にあるうちに、アポトーシス抑制遺伝子の働きで、ガン化と同じプロセスで異様な細胞分裂がはじまってしまう。だが、それはパーフェクト・ツインズを形成するプログラムの始動でもあるんだ。卵巣内で生命誕生のきっかけだけ作られた胚細胞は、受胎済みの卵子となって子宮へ降りていく。そして胎盤が形成されて完全なる同一体のふたごが育っていく。
受精という行為なしに誕生するわけだから、そこには父親の遺伝子が存在しない。よけいなデータが入らない純粋な同一個体はこうやって誕生するのだ」
(父親が……いない……)
安達は思い当たることがあって、顔色を変えた。
前々から不思議に感じていたのだが、唯季には父親である上條純一の面影がまるでなかった。だいたい女の子は父親に似るケースが多いのだが、唯季にはそうした要素が見られなかった。
唯季の美しさは、彼女が五歳のときに死んだ母親の慶子から全面的に受け継がれたものだった。その美貌《びぼう》の遺伝子のパワーがあまりにも強いために、父親の出る幕はないのかと安達は思っていたのだが、心の奥底では、もしかすると唯季の父親は上條ではないかもしれない、といった疑念が湧《わ》かないでもなかったのだ。
写真で見ただけだが、あれだけ美しい母親ならば、夫には言えない男性関係があってもおかしくはない。その結果、生まれてきたのが唯季とユリのふたごだったのかもしれない――そういう考えを、安達は抱いたことがあった。
しかし、いま旧友の村田から提示されたアイデアは、かねてより感じていた疑問にまったく別の解答を与えるものだった。
(唯季とユリの美しいふたご姉妹は、父親なしにこの世に生まれてきた!)
考えただけで身震いがしそうだった。
だが、そうだとすれば、上條から聞かされた慶子の自爆とも呼べるような狂気の自殺も理解できるのではないか。
上條はふたごが自分の実の娘であることを信じて疑わなかったが、慶子のほうは、二人の子供が父親なしに誕生した事実を知っていたのではないのか。そして、自分の卵巣が生み出した世にも奇妙なパーフェクト・ツインズが成長していくのを、恐怖にかられる思いで見つめていたのではないのか。
そして、その恐怖がついに頂点に達して……。
「おい、安達」
村田に呼びかけられて、安達はハッと顔をあげた。
「どうした。顔色が真っ青だぞ」
「え? あ、そうか」
「どこかぐあいでも悪いのか」
「いや、そんなことはないけど」
「なんだか、ぼくの作り話を聞いているうちに気分が悪くなってきた、という感じに思えるんだが」
「ちがう、ちがう」
安達はあわてて手を振った。
その手が飲まずに放置しておいた缶コーヒーにぶつかり、茶色い飛沫《ひまつ》が周囲に飛び散った。
安達は急いでハンカチを出して、テーブルの上を拭《ふ》いた。
それを村田がじっと見つめている。
その村田の白衣にも、コーヒーの飛沫が散っていた。
「ごめん、村田。きみの服にもコーヒーが付いてしまった」
「ああ、そんなのはかまわないけど、なんだか安達の様子が急におかしくなったように思えたものだから」
「ぜんぜん」
安達は懸命に首を振った。
「それは何かの思い過ごしだろう。日ごろ縁のない難しい専門用語を次から次へと並べ立てられたんで、頭がすっかりパニックしてしまっているだけだ」
「だったらいいけど……」
なおも安達の顔を疑わしそうにのぞき込みながら、村田は言った。
「ほんとうは安達の身内にパーフェクト・ツインズがいる、なんていうオチがあるんじゃないだろうな」
「何を言ってるんだよ」
安達は引きつった笑いを浮かべた。
無意識のうちに声が大きくなった。
「遺伝子の専門家であるおまえが、本気でそんなことを言いはじめてどうするんだ」
「……だよな。まさか、そんなことはないよな」
「あたりまえだろう。ぼくはたんに、趣味で書き始めようと思っている小説のネタがらみで質問しているんだから」
「小説……か」
こんどは村田も、安達の発言の食い違いをやり過ごさずに突っ込んできた。
「映画だかテレビだかの企画ではなくて、小説のための取材だったのか」
「うん。……あ、もちろんそれをドラマ化するつもりだけどね」
かろうじて安達は言い繕《つくろ》った。
「ま、とにかくきょうはいろいろ参考になる話を聞かせてもらえて面白かった」
ハンカチをポケットに押し込みながら、安達は内心の動揺を押し隠すために、その場を辞去しようと立ち上がった。
「十五年ぶりに会えてよかった。これからもチャンスがあったら」
「そうだね」
うなずきながら、村田は廊下へ出るドアを開けた。
「つぎはぼくのほうが東京に出て、どこかでいっしょに飲むのも悪くはないだろう」
「そのときは美味《うま》い店を紹介するよ」
肩を並べて廊下をゆっくりと歩きながら、二人はエレベーターホールのほうへ向かった。
「そうそう」
思い出したように村田が言った。
「もしよかったら、こんど東京に出たときに、亡くなったきみの奥さんにお線香をあげさせてもらいたいな」
「あ……ああ」
「ぼくは全国紙の記事で事件を知っただけで、それ以外のテレビや週刊誌は目にしていないんだが、きれいな奥さんなんだってな。ワイドショーを見ていたウチの助手がそう言ってた」
「まあ……ね」
唯季の話題が出たとたん、また安達は口ごもった。
そして、なんとか話の矛先を変えようとして、さきほど村田がポツンと洩《も》らした失恋の告白の件を持ち出した。
「とにかく事件のことは忘れるよりないが、村田も文学青年みたいにいつまでも失恋の痛手を引きずっていないで、新しい彼女を見つけろよ」
「いや、そっちのほうはなかなか……」
エレベーターを呼ぶボタンを押しながら、村田和正は苦い笑いを浮かべた。
「ヘタに出会いが劇的だったものだから、気分が勝手に盛り上がってしまっていけない。失恋とはいうものの、ほとんど片想いに等しいんだ。恥ずかしい話だが、キスひとつするチャンスがなかったし、手を握ることも肩を抱くこともできなかった」
「それはまた純情なことだな」
ようやく安達も余裕の笑いをみせた。
「で、劇的な出会いというのは?」
「去年の秋、国際遺伝学会の会合に出席するためパリに行ったときに、偶然、その女性に出会ったんだ」
「パリのめぐりあい、か」
「そうだよ。枯葉が敷き詰められた石畳の坂道、茜《あかね》色から紫へと変わっていく夕空、街角に灯《とも》されたランプをかたどった明かり……すべての背景が美しすぎだ」
五階へ近づいてくるエレベーターの表示を見つめながら、村田はつぶやいた。
「そして、その風景に溶け込むような、長い髪をした天使」
「天使、ときたか」
「この世の人とは思えない美しさだった」
「ロマンチックの極致だね。それでいくつなんだ、相手は」
「年までは知らない。二十代の前半か、半ばか……。でも、年なんていくつだろうが問題じゃない」
扉の開いたエレベーターに乗り込みながら、村田は大きなため息を洩らした。
「とにかく、ぼくにとって生涯の伴侶《はんりよ》はこの人しかいないと直感的に思った。それで、強引にアタックしたんだよ」
「へえ、村田にもそんなところがあったのか」
「体裁など言ってられないほどの衝動だった」
恥ずかしそうに言いながら、村田は一階のボタンを押した。
「しかし、やんわりとふられてしまった。私には、結婚を約束している人がいます、とね。でも、ぼくを気遣いながらのその優しい断り方に、またクラクラときてしまった」
「やれやれ」
サングラスをかけながら、安達は肩をすくめた。
「で、彼女はいま?」
「もう連絡の取りようがない。でも、きっといまもパリの空の下にいるんじゃないかと思っている。そして手元に残されたのは、こっそりと撮影した彼女のスナップショット一枚というわけだ。ここまで話したんだから、安達には見せるよ。この美しさを見たら、きっとぼくの気持ちもわかってくれると思う」
村田は白衣の下に手を突っ込んで、ジャケットの胸ポケットから一枚の写真を取り出し、それを安達に手渡した。
受け取ってからほんの数秒、間があった。
そして次の瞬間、狭いエレベーターの箱の中に安達の驚愕《きようがく》の叫び声が響き渡った。
殺した唯季が、そこにいた。
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十三 操られて
安達真児は、激しいショックから立ち直れなかった。
唯季と住んでいた横浜の自宅で夜を迎える気にはまったくなれなかった。ユリからかかってくるかもしれない電話を受けるのが怖かったし、上條とも話したくなかった。それから、麗奈から追いかけられるのもいやだった。また、旧友の村田から事情を問い詰める電話がかかってくることも恐れていた。
村田は、片想いの相手の写真を見せたときの安達の激しい反応にびっくりして、いったいどうしたのかとたずねてきたが、その場ではほんとうのことはとても言えなかった。かといって、適当な言い訳をする余裕もまったくなく、震える手で写真を村田に返すと、ほとんど逃げるようにして建物の外へと走っていったのだった。
村田がパリで見|初《そ》め、胸を焦がすほどの思いにかられた相手は、なんということか、唯季と瓜二《うりふた》つの妹のユリだった。あるいは、ユリの言い分に従うならば、それはすり替わった唯季なのかもしれないが、ともかく、予想もしない状況で『彼女』の写真を突きつけられた安達は、驚愕の叫び声と全身の震えを抑えることができなかった。
村田がパリでユリを見かけたのが去年の秋だという。そのころ安達は、まだ中曾根麗奈とも出会っておらず、当時新婚二年目だった唯季と何の問題もない平和な暮らしを送っていた。その時点で、ユリは声をかけてきた村田に対して『私には結婚を約束した人がいます』と語っていたのだ。
それは村田の誘いを断るための口実だろうか。
それにしては、きっぱりとしすぎた返事だ。やはりそのときのユリに結婚を決めた具体的な相手がいたとみて間違いはない。
では、その男とは誰なのか。
(まさか……)
まさかとは思ったが、しかし、それ以外にはあるまい、と安達はなかば確信していた。自分である。ユリはそのときすでに安達真児を念頭において、『結婚を約束した人がいます』という返事をしたのだ。あたかも自分の『姉』と安達との悲劇的な別離を予知していたかのように……。
(いや、予知というよりも、ユリはプログラムされた未来を知っていたのではないか)
安達はそう思った。
パリの街角で村田がユリを見初めた出来事は、とても偶然とは思えなかった。そんな事実をつゆほども知らずに、ふたごに関する基礎知識を取材するために村田に十五年ぶりに会おうとしたことも、とても偶然とは思えなかった。
そして、研究所の窓越しの景色を眺めながら村田が失恋の思い出をぽつりと語り、別れ際に安達にユリの写真を見せたことも、やはりまったくの偶然だとは思えなかった。
村田が語ったアポトーシスの話に影響されたのかもしれないが、安達は、いま自分の身の回りに起こっている奇妙な出来事のすべてが≪あらかじめプログラムされた≫流れであるような気がしてならなかった。
その日、いったん横浜の自宅に戻った彼は、必要な身の回り品をもって、車ですぐの距離の『みなとみらい21』にある超高層ホテルに五日間の予定で部屋をとった。居場所を知らせてあるのは、事務所社長の榊原《さかきばら》と若い現場マネージャーの重田だけである。
ここしばらくは都内のスタジオで仕事がある。そして、その後三日間のオフをはさんでから、テレビのバラエティ番組の収録でハワイへ行く予定になっていた。三泊四日の滞在期間中、適当に泳いで適当にゴルフをやっていればいい、いわゆるおいしい仕事だったが、安達は事務所の社長に頼んでそれをキャンセルしてもらった。
妻を失ったショックからまだ完全に立ち直れていないため、ドラマならともかく、バラエティ番組で明るい笑顔をふりまくことはとうていできない、というのが表向きの理由だった。
これにより、安達は予定されていたオフを含めてほぼ一週間の休みがとれることになったので、誰の目にもふれない遠くへ行き、そこでゆっくりと静養しながら、事態にどう対処すべきか落ち着いて考え直そうと思っていた。
静養の場所は海外ではない。北海道の富良野《ふらの》の南に位置する占冠村《しむかつぷむら》である。その山あいの針葉樹林に囲まれた森の中に、安達の事務所の榊原社長が一風変わった別荘を持っていた。ドラキュラでも出てきそうな雰囲気の、二階建ての洋館だった。
それは北海道に建つ通常の別荘とはまったく雰囲気を異にした建物だったが、周囲と完全に隔絶した環境にあるため、ひとりきりになりたいときにはまったく好都合だった。これまでも安達は、芝居の役柄に入り切るための個人合宿と称して、ここを何度も使わせてもらっているので勝手はわかっていた。
ドラキュラの出そうな洋館といっても決して広すぎず、かといって狭すぎず、見た目はなかなかおどろおどろしいが、中の居心地はよかった。これは榊原社長が注文して作らせたのではなく、北海道のさる好事家《こうずか》がいまから三十年ほど前に趣味で建てたのを買い取ったものだった。
冬の到来は例年になく早く、トマムスキー場などがある占冠村一帯はすでに一面の銀世界になっているはずだが、向こうには洋館の管理を委託している年配夫婦がおり、榊原を通じて、安達の到着前には除雪から食料の準備まですべてを整えてくれることになっていたから便利だった。
頼めば賄《まかな》いもやってくれるのだが、安達は自分で料理を作るのが苦にならなかったし、なによりもひとりきりのプラバシーを重視したかったので、滞在期間中はこちらから頼んだ買い物を届けてもらう以外には管理人は別荘にやってこないようにした。
そして安達は、この雪に覆われた洋館にひとりで滞在している間に、文字どおり頭を冷やそうと思っていた。
中曾根興太郎という男に食事に誘われ、さらに二度目の食事で娘の麗奈を紹介されてから人生の歯車がすべて狂ってしまった。現実と狂気のはざまを振り子のように往復している自分が見えていた。
遺伝学の研究者である村田からいろいろ話を聞かされたおかげで、妻の唯季とふたごの妹のユリが、まるで人間ではないような気分にさせられたが、それは村田がドラマのアイデアのために考えてくれた架空の想定であったはずだった。
それなのに、安達には村田の仮説がズバリ真実を言い当てている気がしてならなかった。村田とユリの驚くべき出会いを知ってからは、なおさらその思いが強くなった。
しかし、さまざまな非日常的な出来事の中で厳然たる事実は二つだけ――妻を委託殺人で死に至らしめたことと、その実行犯を殺したことだ。
それを激しく後悔し、そうした行為があったという事実そのものを帳消しにしたいがために、自分は奇妙なふたごの物語をあえて信じようとしているのではないか。人間が妄想に取り憑《つ》かれるときは、こんな心理状態なのかもしれない、と安達は必死に心のバランス感覚を取り戻そうとしていた。
留守番電話に入っていたあのユリの声は、たしかに唯季そのものといってもおかしくはなかったが、よくよく考えれば、ふたごの姉と妹ならば話し方がびっくりするほど似ていても不思議ではないはずだ。
(冷静に、とにかく冷静に)
安達真児は一生懸命自分に言い聞かせた。
(ユリ本人と会うまでは、いらぬ空想を働かせるのはやめるんだ。よけいなことに気をとられずに、いちばん大事なこと――妻殺しの事実をどうやって隠し通すか、というもっとも現実的な問題に対処するんだ。つまり、秘密を知った麗奈を殺すのか、それとも当初の計画どおり麗奈と結婚するのか、だ)
一週間のオフをとって占冠村の洋館に滞在している間に、その現実的な大問題に対処する方針を決めようと安達は決めた。
そして、その休みがくるまでは、ふたご問題に拘《かか》わるすべての関係者からの連絡をシャットアウトし、横浜のホテルを拠点としてひたすら目の前の仕事に集中しようと思っていたのだ。
だが――
時の流れはそれを許してくれなかった。
ホテル滞在三日目の深夜、キングサイズのダブルベッドで熟睡していた安達真児は、枕元《まくらもと》で突然鳴りはじめた『イッツ・ア・スモール・ワールド』のメロディで目を覚ました。
いつも電源を入れっぱなしにしている携帯電話の着信音だ。ふつうのプルルルという呼出音は、予期せぬときに鳴り響いたときに心臓によくないという理由から、安達はディズニーランドでおなじみのメロディを呼出音としてセッティングしていた。
時計を見る。
午前一時〇五分。
仕事を終えて部屋に戻り、ワインを飲んで寝ついたのが午前零時すぎだ。あれから一時間足らずしか経っていないのが信じられないくらいの深い眠りだった。
安達がいま持っている携帯電話は、新たに昨日契約したばかりのものだった。それまで持っている携帯電話は麗奈にも番号を教えてあったから、いま持ち歩くわけにはいかなかったのだ。こんどの番号を知っている人間は、たった二人しかいない。榊原社長とマネージャーの重田だけだ。
安達はベッドにあおむけに横たわったまま、枕元に置いた携帯電話に手を伸ばし、緑色をした小さな受話器マークが描かれた通話開始ボタンを押した。
「はい」
寝起きのかすれた声で返事をした。
が、回線はつながっているのに、相手が声を出さない。
一瞬、イヤな予感がした。
麗奈か、ユリか――
そのどちらかが、重田あたりから番号を聞き出して電話をしてきたのかと思った。
「もしもし」
ベッドの上に半身を起こして安達は呼びかけた。
「もしもし、もしもし」
まだ返事がない。
いよいよ安達は青ざめた。
「おい、誰なんだ、あんた」
怒鳴るようにして呼びかけたとき、ようやく相手の声が返ってきた。
「し……しげた……です」
「なんだ、おまえかよ」
安達はホッとして大きな吐息を洩《も》らした。
「なんでさっさと名乗らないんだ。イタズラ電話かと思ったぞ」
「で、で、で……」
「え?」
「でま、でま、でま……」
安達は眉《まゆ》をひそめた。
明らかに、重田の様子がおかしかった。
「出ました!」
「何がだよ」
「お、お、奥さん……安達さんの奥さん……唯季さんの幽霊が出ました」
「………」
全身に鳥肌が立った。
「なんだって、重田」
一瞬のうちに口の中がカラカラになっていくのを感じながら、安達は聞き返した。
「なんて言った、おまえ」
「出たんです。唯季さんの幽霊が」
「どこで」
「お宅です。安達さんの家の中で」
「説明しろ、詳しく」
「ほ、ほ、ほんの十分ほど前、安達さんに頼まれた明日使う洋服なんかを取りに、お宅へうかがったんです」
自宅はホテルから車ですぐの場所だったが、安達自身はしばらく自宅へ足を向ける気にならなかったため、ホテル滞在中はマネージャーの重田に鍵《かぎ》を渡して、身の回りのこまごましたものを定期的に運ばせていたのだ。
「ところが、明かりがついているんですよね」
「うちにか」
「ええ」
短い返事の中にも、重田の声が小刻みに震えていることがわかった。
「ぼくは、お宅を出るときには必ず電気を消していますから、当然、安達さんが帰ってきているんだと思いました。でも、それにしては玄関の明かりは消えているんです。たった一部屋だけ。ポツンと明かりが灯《とも》っているんですよ」
「どの部屋だ」
「二階の、向かっていちばん左です」
血の気が引いた。
「それは……ベッドルームじゃないか」
「ええ。それで表から見上げると、薄いレースのカーテン越しに人影が映っているのが目に入ったんです」
ざわっと安達の肌が音を立てた。
「おとといの昼間、なにげなく見たときの記憶では、たしか寝室には分厚いカーテンが閉まっていたような気がするんですが」
「あたりまえだ。おれはあの部屋のカーテンはめったなことでは開けないんだ」
安達はいつも寝室には二重のカーテンを引いていた。芸能人はプライバシーが命である。そのプライバシーを盗撮されるような愚は犯さない。とくに寝室はいちばん気をつかう場所だったから、昼間であっても掃除のとき以外はレースのカーテンだけにしておくことは絶対になかった。ましてや、夜はなおさらだった。内部が透けて見えるレースのカーテンは、あくまで部屋のインテリアとして備えているだけなのだ。
「だから、なおさらぼくは安達さんが帰っているんだと思いました。それで、自分で洋服を選びにきたんじゃないかと……」
「で、おまえはどうした」
「玄関のところへ行ってインタホンを鳴らしました。何度鳴らしても返事はありませんでした。だけど、二階に動く人影が見えたのは間違いないんです。それで、もしかしたら、と思ったんですよ。もしかしたら、あの人影は泥棒じゃないのか、って。時間も時間ですしね。それで、これはヤバいぞ、警察に知らせなければならないかもしれないと思って、もう一回部屋を見上げる位置まで戻り、上の様子を確認しようとしました」
マネージャーの重田は早口でしゃべった。興奮で舌が勝手に滑っている感じだった。
「そしたら、いきなり窓際に人影が近寄ってきたんです。そして、レースの向こうに長い髪をした女の人の影がはっきりと映りました」
「長い髪!」
「そうです。ま、ま、まさかと思いましたよ、安達さん。まさかそんなバカなことがあるはずがない、って。でも、次の瞬間、バッとレースのカーテンが左右に開いたんです。そして窓がバッと開けられたんです」
重田が「バッと」と繰り返すたびに、安達の心臓がドキンと高鳴った。
「ぼくは……ぼくは息が詰まりそうになりました。奥さんなんですよ。唯季さんが窓を開けてぼくのほうを見下ろしているんです」
「それで」
「ぼくはもう金縛りにあったみたいに動けませんでした。何かの見まちがいか、自分が夢でもみているのか、いろいろ考えたんですが、近くの水銀灯の明かりに照らされたその顔は間違いなく奥さんなんです。幽霊だ、と思いました。これが幽霊というものなんだ、と。出た、出た、出た、出た、出た、出たんです」
壊れたレコードのように、重田は同じ言葉を繰り返した。
「出たんですよ、安達さん、奥さんの幽霊がおたくの二階に」
「それからどうした」
「奥さんは笑いました」
「なに……」
「声を出して笑いました。うふふ、って」
「………」
「それって、いつもの奥さんの笑い方にそっくりなんですよ」
(ユリだ)
安達は声に出さずにつぶやいた。
(ユリが、勝手におれの家に入り込んでいる!)
入る方法はかんたんだろう。唯季を通じて合鍵などいくらでも作ることができる。問題は、ユリがそこまで強引な行動に出たことだった。
「なあ重田」
安達は、動揺する心を抑えながらきいた。
「おまえが見たのは他人の空似ということはないのか」
安達は、どこまでマネージャーに背景を話すべきか迷っていた。
すでに五歳のときに遠縁の家に養女として預けられ、安達夫妻の結婚式のときにも唯季の葬儀のときにも姿を現さなかったユリの存在は、社長の榊原も含めて、事務所のスタッフには一切知られていなかった。ましてや、その妹が一卵性のふたごであることなど……。
だから重田がパニックになるのは無理もなかった。
しかし、別の意味で安達も震えていた。
留守番電話に一度だけメッセージを吹き込んだユリが、その後いちども安達に連絡をとらず、いきなり自宅に忍び込んできた。その常軌を逸した行動に身震いがしたのだ。
「どうなんだ、重田」
黙りこくるマネージャーに向かって、安達は呼びかけた。
「幽霊じゃなくて、たとえばファンの女の子が勝手に鍵をこじ開けて入ったということはありえないのか」
「じゃあ、なんでネグリジェなんか着ているんですか」
「なに!」
「つやのあるシルクみたいな赤いネグリジェを着ていたんですよ、その女の人は」
重田は叫ぶように言った。
「勝手に外から入ってきた人間だったら、どうしてそんな格好をしていなくちゃならないんです」
安達は驚きで目を見張った。
ユリは、勝手に安達の自宅へ忍び込んだばかりでなく、ネグリジェ姿になって寝室にいるという。この異常事態に、安達はあせった。人里離れた北海道の森の中の洋館に閉じこもって対応策を練るなどという悠長なことは言ってられなくなった。
「重田、いまおまえはどこから電話している」
安達は急《せ》き込むようにしてたずねた。
「まだおたくのそばです」
相変わらず震えた声で、マネージャーは答えた。
「ワンブロック離れた角に停《と》めた事務所の車からかけてます」
「よし、わかった。そこで待っていろ。いますぐこっちから行く」
片手で携帯電話を耳に押し当てながら、もう一方の手でパジャマを脱ぎはじめた。
「安達さん、こっちから迎えに行きますよ。こんなところでじっとしていたくないんです。奥さんの幽霊が車のところまでやってきそうで怖いんですよ!」
「いいか重田、よく聞け」
ズボンをずり下ろし、パジャマの上着のボタンを片手ではずしながら、安達は言った。
「おまえが見たのは幽霊じゃないんだ」
「幽霊ですよ」
ヒステリックに重田はわめいた。
「これが幽霊じゃなかったら、何が幽霊なんです。とにかく安達さん、すぐきてください。自分の目で見たら信じられますよ。きてくださいってば、すぐに」
「待て、落ち着け」
「落ち着けませんよ、出たんだから、幽霊が」
「いいから、おれの話を聞けっ!」
安達も興奮してきた。
「おまえはまだ、この件を誰にも話していないな」
「まだです」
荒い息を弾ませながら、重田は答えた。
「警察にも社長にも知らせていません」
「よし、それでいい。いまおまえが見たものは、胸の中にしまっておくんだ」
「しまえませんよ」
重田はまた叫んだ。
「こんなショッキングな出来事を、黙って胸におさめておくなんて、そんなことができるわけないじゃないですか」
「だからちゃんとおれの話を聞けと言っているんだ。その女は幽霊ではない」
「幽霊です、絶対に。殺された奥さんが、安達さんに会いたくて化けてでたんですよ。安達さんに抱いてもらいたくて、ネグリジェを着てベッドルームに」
「それは人間だ。ちゃんと二本足のある人間の女だよ」
「そんなわけがありません。あそこまで奥さんとそっくりの女性がいるはずがない」
「それがいるんだ。唯季はふたごだったんだ」
「……え?」
重田の興奮が、一瞬鎮まった。
「唯季にはふたごの妹がいるんだよ」
「そんな話、聞いてませんよ」
「聞いてなくて当然だ。社長にだって話していないんだから」
「ほんとに奥さんにふたごの妹さんがいたんですか」
「そうだ」
「でも、結婚式にもお葬式にも……」
「きていない。しかし、それにはわけがあるんだ」
「どんなわけです」
「電話では話せない。だから、いまからそっちへ行く」
「いや、ぼくのほうからそっちへ行きます」
「……わかった」
しばらく考えてから、安達は言った。
「それじゃ、ホテルの敷地の中まで入ってこずに、表の交差点で待ち合わせよう。信号のところに十分後だ。これるな」
「わかりました、すぐ行きます」
重田の返事を聞くと、安達真児は電話を切ってすばやく着替えをすませた。そして、ホテルの部屋の洗面所へ行き、照明のスイッチを入れた。
まばゆい光がいっぱいにあふれ、洗面台の前に張られた大きな鏡が、豪華なバスタブとシャワーブースを映し出した。
その鏡の前に進み出て、安達は自分の顔をじっと見つめた。
「いいか」
安達は、鏡の中の自分に向かってつぶやいた。
「これから起きることは、すべて架空の出来事だ。お芝居の中の出来事なのだ。あの見ず知らずの男に殺人を頼んだときのように……そして、その男を酔わせて湖に沈めたときのように……おまえは、たんにドラマの中のひとつの役柄を演じるだけなのだ」
「了解」
実際の安達とは分離した、鏡の中の安達が答えた。
「映画やテレビのドラマで、殺人者の役回りは年に何度かやってくる。たまたまことしはそれが多いだけだ」
「よろしい。さすがにおまえはプロの役者だ。では、プロらしい仕事をしてこい」
「了解」
鏡の中の安達は、鏡の外の安達に向かって敬礼をした。
つづいて彼は、自宅から持ち込んだ洗面道具の中から刃先の鋭いハサミを取り出し、それを右手に握り締めた。
そして洗面所を出ようとしたとき、理性の声が安達に呼びかけた。
(おまえは何をしようとしているんだ!)
ハッとなって安達は鏡の中を見た。
狂った安達真児の姿はそこになく、危うくはまりかけた罠《わな》に気づいて脅えた顔になっている、弱虫だが常識のある自分がいた。
そして、無意識のうちに右手に握り締めていたハサミに目を向けると、安達はあわててそれをほうり出した。
(殺そうとしていた)
安達のこめかみからじっとりと汗が滲《にじ》み出た。
(おれは、ユリの秘密を知った重田を殺そうとしていた)
人間はいちど理性のタガをはずしたら、それを元に戻すことは極めて困難だと言われる。連続殺人犯が、一人殺したら二人も三人も同じことだと思うようになるのもそれだった。だが、いまの場合は違う、と安達は思った。
決して彼には殺人への慣れなどなかった。ないからこそ、麗奈の『処理』をどうするか、いまだに迷っているのだ。
その安達に、ふらふらとハサミを握り締めさせたのは、彼自身の意思ではなかった。ユリだった。ユリの存在が安達を苛立《いらだ》たせ、脅えさせ、そしてあらぬ方向へ彼を駆り立てようとしたのだ。
「操られている……」
口に出して、安達はつぶやいた。
「おれは操られている」
パン、パン、パンと音を立てて、安達は自分の両方の頬《ほお》をはさむようにして平手で叩《たた》いた。
「しっかりしろ、真児!」
彼は自分に呼びかけた。
「これ以上、泥沼にはまるわけにはいかないんだぞ」
安達は鏡の前の蛇口をひねって冷たい水を全開で出し、それで思い切り顔を洗った。
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十四 再 会
「とにかく詳しい話を聞かせてください、安達さん」
ホテルの前の交差点で安達真児を拾ったマネージャーの重田は、適当な場所にいったん車を停めてから後部座席をふり返った。
「ぼくは本気で奥さんの幽霊が出たと思ったんですから」
そこにいる人気スターに、あわや刺し殺されるかもしれないところだったとはつゆ知らず、重田は真剣な目でたずねた。
「あれは、ほんとうに奥さんの妹さんなんですか」
「そうだ」
答えながら、安達は着込んだコートの襟をかき合わせた。
わずかな時間とはいえ、冷え込みのきつい深夜の街角に立って車を待っていたので、身体が熱を要求して震えていた。
「で、その妹さんのお名前は」
「ユリという。いまはカタカナでユリだが、昔は唯季と一字ちがいの漢字だったらしい」
「年は」
「唯季と同じだよ。決まってるだろ」
「あ、そうか、ふたごですもんね」
重田の口から出た『ふたご』という言葉が、安達はやけに気に障った。
「すると、お名前は上條ユリさんというわけですか」
そうだよ、と答えかけて、安達はまだユリが養女に出された先の家の名前を聞いていなかったことに気がついた。遠縁の外交官の家ということだったが、必ずしもそこが上條姓であるとはかぎらない。
その質問に黙っていると、マネージャーの重田はさらに質問を重ねてきた。
「さっき電話でも言いかけましたけど、ふたごの妹なのに、ユリさんはなぜお姉さんの結婚式やお葬式にこられなかったんですか」
「じつはふたごといっても、事情があって五歳のころから別々に育てられているんだ」
安達としても、そこまでは重田に話さざるをえなかった。
「それでまあ、結婚式や葬式にはこなかったわけだ」
「ほんとですかあ」
重田は、疑わしげに語尾を上げた。
「別々に育てられたといったって実の姉妹でしょう、それもふたごの」
「だから、いろいろ事情があると言っただろう」
イラついた口調で安達は言った。
「そこはおまえがあれこれ詮索《せんさく》することじゃないんだよ」
「すみません」
強い調子でたしなめられたが、重田はぺこりと頭を下げると、また話しかけてきた。
「それにしても、すごいそっくりですね」
「すごいって言葉は雑だから嫌いだって、おれはいつも言ってるだろう」
「すみません……メチャクチャそっくりですね、奥さんと」
「ああ」
「やっぱりアレですか、一卵性なんですか」
「そうだよ」
ブスッとした調子で安達は答えた。
「そうですかあ。いやあ、とにかく驚きましたよー、笑い声なんかほんとにクリソツなんですから」
自分の見たものが幽霊ではなかったのだと理解して、重田は心理的なショックから立ち直り、業界特有の逆さ言葉を交えながら笑顔さえ洩《も》らすようになった。
「それで、性格なんかも奥さんと似ているんですか」
「さあ」
「でも、よくご存じなんでしょ」
「知らないよ」
「そんな」
「知らないと言ったら知らないんだ」
「そうですか。……それであの、ちょっと立ち入ったことになりますけど」
「立ち入ったことならきくな」
「でも」
「立ち入るなよ、おれのプライバシーには」
「いや、でもですね、安達さんのマネージャーとして、これだけは仕事上の義務として知っておきたいんです。マスコミ対策の都合もありますから」
仕事上の義務と言いながら、重田は好奇心をむきだしにしてたずねた。
「安達さんは、あの妹さんと再婚されるつもりなんですか」
「………」
「ねえ、どうなんです」
「………」
安達は返事をしなかった。答えるのがイヤなのではなく、自分でもイエスかノーか選択すべき結論がわからないからだった。
「もちろん、ぼくは見なかったことにしておきます」
重田は気を回したつもりで言った。
「でも、安達さんのほうからもユリさん……でしたっけ? あの妹さんに注意をするように言ってくださいよ。見たのがぼくだからよかったようなものの、不用意にあんな格好でいるところをマスコミの連中に見つかったら、それはもうえらい騒ぎになりますよ。奥さんがああいう亡くなり方をしたばかりなのに、ふたごの妹さんがネグリジェ姿で安達さんの寝室にいたなんてことがわかったら、いったいどんな好奇の目で見られるか」
「わかってる」
「スキャンダルが起きるよりもまず先に、ぼくがそうだったように幽霊騒ぎが起きますよ。これはマスコミだけじゃなくて、隣近所の人に対しても気をつけておかないといけない問題です。亡くなった奥さんに瓜二《うりふた》つのふたごの妹さんがいるなんて、ご近所も知らないんでしょう」
「ああ」
「だったら、先にこっちからハッキリさせておいたほうがいいですよ。唯季さんにはこれこれしかじかの妹がいるんだってことを」
「それはできない」
安達は断った。
「とりあえず事件の騒ぎが一段落しかかっているんだ。いまはあえてこちらから唯季の妹の件を持ち出すタイミングじゃない」
「でもですよ、近い将来、奥さんの妹さんと再婚するおつもりがあるんでしたら、前もってマスコミにも彼女を紹介しておくべきです。そうしておけば、お宅にいるのが見られても、きちんとした説明ができます。それどころか美談にもっていくことだってできるでしょう。奥さんのことを忘れられずに、そっくりの笑顔とそっくりの明るい声をもったふたごの……」
「うるさいな!」
急に安達が怒鳴ったので、重田は口をつぐんだ。
「これはおれの個人的な問題だ。俳優アダチシンジの部分じゃない。仕事と私生活をごっちゃにしないでくれ」
「そうは言っても、安達さんの場合は」
「とにかく、おれの家まで早くやってくれ」
安達はビシッと言い切った。
「送り届けたら、そのまま帰っていい」
「わかりました」
安達の剣幕に押されて、重田は前に向き直りハンドルを握った。
「それから重田、おまえが見たり聞いたりしたことは口外無用だ。絶対誰にも話すな。社長にもだぞ」
「社長にも黙っているんですか」
「そうだ」
「でも……」
「言うとおりにしろ!」
「……はい」
安達の機嫌がかなり悪いので、重田もそこで会話を打ち切り、小さなため息をひとつついてから車をゆっくりと発進させた。
自宅の前には、ほんの数分で着いた。
本格的な冬がすぐそこまで近づいているせいか、夜更けの住宅街は、家そのものまでが厚着をしているような雰囲気だった。どの住まいも戸を締め切り、カーテンを引き、ひっそりと静まり返って、中の様子はまったくわからない。
そんな一角に割り込んできた車のヘッドライトが、乗っている彼らの目にやけにまぶしく感じられた。
「ライト、消せ」
安達が短く命じ、重田がヘッドライトのスイッチをオフにした。
後部座席で安達がパワーウインドウを下げた。同時に、冷えきった外気が車の中にスーッと入ってきた。
その瞬間、安達は、これと似たような場面をどこかで経験したな、と思った。
だが、デジャ・ヴュ的感覚のわりには、すぐにその過去の場面が具体的に思い起こされた。箱根だ。中曾根麗奈を愛車のポルシェに乗せて深夜の箱根の山へ行き、そこで唯季を殺す決心を打ち明けたのだ。あのときも、窓を開けたとたん凍りつくような冷気が車の中に流れ込んできた。
そう、安達の人生がおかしな方向に走りだしたのは、事実上あのときからなのだ。
安達は落ち着かない気分になり、タバコを求めて無意識にコートの胸ポケットをまさぐった。
だが、そこには何もなかった。たしか箱根のときも同じようなことをやって、やはりタバコがなかったことを思い出した。
「タバコ、ないか」
「あ、すみません。今晩は安達さんが乗ると思わなかったもので……」
重田はタバコを吸わない。安達は軽く舌打ちをした。
彼らの乗っている車のアイドリングの音が、安達邸の壁に反射して意外に大きな響きとなって耳に返ってくる。
「ねえ、安達さん、見てください。ぼくの言ったとおりでしょう」
運転席から身を屈《かが》めるようにして安達邸の二階を見上げた重田は、フロントガラス越しに指をさした。
「あそこだけ明かりがついています」
後部座席の安達も、窓越しに見上げた。
たしかに二階の寝室だけに明かりが灯《とも》っていた。他の部屋の窓はすべて分厚いカーテンが引いてあり、隙間《すきま》から照明が洩《も》れている様子もなかった。一部に曇りガラスがはめ込まれた玄関も真っ暗だ。
唯一オレンジ色の明かりに彩られた二階の寝室は、レースのカーテンだけが引いてある状態になっていた。重田の話によれば、ユリがそのカーテンを引き開け、さらには窓から顔をのぞかせて笑いかけてきたというが、いまは窓も閉じられ、薄手のカーテン越しに人影が見えるわけでもない。
「ねえ、安達さん」
額に横ジワを刻んで二階を見上げる格好をしたまま、重田が言った。
「さっき見たのが奥さんと瓜二つのふたごの妹さんだという説明を聞いて、ぼくは一瞬安心しましたけど、でも、よくよく考えるとやっぱりおかしいんじゃないんですか」
「何が」
「だって、ぼくはユリさんという女性と一度も会っていないんですよ」
「そりゃそうだろう」
「ってことはですよ、ユリさんだってぼくのことを知らないはずでしょう。安達さんのマネージャーだってことを」
「もちろん」
「それならば、なぜ二階からわざわざ窓を開けて、ぼくに向かって笑いかけてきたんでしょうね」
「………」
寝室の窓を見上げていた安達は、ゆっくりと視線を運転席の重田へと移した。
フロントガラス越しに同じところを見上げていた重田も、その視線をバックミラーへ移して、その中で後部座席の安達と目を合わせた。
「それとも安達さん、ぼくのことをユリさんに話してあるんですか」
「いや」
「だったら……」
重田はゾクッという感じで身を縮めた。
「やっぱりあれは唯季さんの幽霊では」
「バカなこと言うな!」
白い息を吐きながら、安達は怒鳴った。
自分も同じことを思っただけに、それを言葉に出されてよけいに安達は苛立《いらだ》った。
「とにかくおまえはもう帰っていいよ。間違っても、ここに車を停めたまま様子を窺《うかが》っていようなんて思うな」
「わかりました」
「それじゃ、おやすみ」
ひとこと言い残すと、安達は車のドアを開けて外に出た。
そして、まだ発進をためらっている重田に向かって手で追い払うしぐさをみせ、車が遠くまで去っていくのを見届けてから、ゆっくりと歩いて玄関の前へ歩いていった。
黒い闇《やみ》と銀色の街灯に半々ずつ染められた安達真児の顔は、まるで死人のように見えた。重田が去り、ひとりぼっちになったとたん、猛烈な緊張と恐怖が彼を襲った。それに寒さが加わって、安達の歯がカチカチと音を立てた。
安達はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、改めて二階の部屋を見上げた。
寝室の窓明かりはついたままだ。けれども、重田が言うような人影は見えない。見えないけれども、ユリがこの自宅の中にまだいるのは確実だと思われた。
いや、ひょっとしたら重田が見たのはユリの姿ではなく、ほんとうに殺された唯季の亡霊が徘徊《はいかい》しているところだったのかもしれない。
そう考えただけで、安達の手のひらには冷たい汗が滲《にじ》み出た。
(再会でなく、初対面であってほしい)
安達の頭に、ふとそんな思いがよぎった。
家の中にいるのが妹のユリだったら、それは初対面になる。しかし、それが唯季の亡霊だったら、安達にとっては恐怖の再会となる。
安達は喉仏《のどぼとけ》を上下させて唾《つば》を呑《の》み込む動作をした。が、あまりにも口が渇いていて、呑み込むものがなかった。喉だけが引きつって痛かった。
いよいよ意を決して、安達はインタホンに手を伸ばした。
しかし、彼はボタンを押すのをやめて、ポケットからキーホルダーを取り出した。インタホンから唯季の声が聞こえ、「おかえりなさい」などと応答されようものなら、その場で失神してしまうとさえ思った。
耳元で鳴る鼓動を聞きながら、安達は玄関の鍵《かぎ》を差し込んだ。そして、いつものように右に回そうとした。
だが、すぐに抵抗があって鍵は動かなくなった。すでに開いているのだ。玄関の鍵は掛かっていないのだ。安達の耳元で、鼓動のリズムがさらに強く早くなった。彼の意思とは無関係に、呼吸もどんどん荒くなっていった。
安達は素手でノブをつかんだ。氷を触ったかと思うほど金属部分が冷たい。それをゆっくりと手前に引いた。
こんなときに限って、ドアがギイイイイといやなきしみ音を立てた。その音によってますます不安な気持ちをかき立てられながら、安達はさらに玄関ドアを引いていった。
玄関も廊下も明かりはついていなかったが、外から差し込む街灯の明かりで、三和土《たたき》のあたりがうっすらと浮かび上がった。
(あっ!)
安達は目を見開いた。
こちら向きに揃《そろ》えて脱いだ女の靴があった。赤いハイヒールだ。
その靴にはハッキリ覚えがある。去年の唯季の誕生日祝いのために、バッグなどと合わせてロケ先のニューヨークで買い求めてきたものだ。
(唯季が戻ってきた……ユリじゃない、唯季が戻ってきた)
安達は激しく震えた。震えながら、家の奥のほうに目をやった。
廊下は真っ暗だ。そして一階に関していえば、どの部屋の明かりも灯されていないようで、奥へ行けば行くほど闇が濃くなっていた。外から差し込む街灯の光も、家の中までは届かない。
いますぐ踵《きびす》を返して逃げ出したい誘惑にかられながら、安達は勇気をふりしぼって玄関の中へ足を踏み入れた。
安達が取っ手から手を離したので、彼の背中でドアがゆっくりと音もなく閉まった。
とたんに、すぐ先の床板も見えなくなった。玄関には部分的に採光のための曇りガラスがはめ込んであったが、水銀灯の淡い明かりはそのガラスに拡散されて、ほとんど家の中まで差し込んでこない。
安達は、この暗さにあせった。闇に包まれたことで精神的に動揺した。そして、あわてて壁に沿って手を伸ばした。
求めるスイッチはすぐに見つかり、彼はそれを押した。
カチッと音がした。
音は確かにしたのに、照明がつかなかった。
(どうしてだ)
安達は、何度も何度もスイッチをカチカチ言わせた。だが、明かりはまったくつかない。
(ブレイカーか)
安達はすぐにそれだと思った。勝手口のほうに、家の中の各ブロックごとに設けられたブレイカー・ボックスがある。おそらく、その中の一階部分のブレイカーが落とされ、電気がカットされているにちがいない。
何のために?
唯一明かりが灯《とも》っている二階の寝室へと、安達を導くためだ。
二階建ての安達の自宅の構造はちょっと変わっていて、階段が玄関に近いところにあるのではなく、逆に廊下を進んだいちばん奥にある。いつのまにか安達は靴を脱ぎ、その誘いに乗せられたように忍び足で廊下を先へ進んだ。
すると、途中で彼は右手に何かまたたく光を見た。
そちらをふり向いた。
玄関からは死角になっていたが、ガラスをはめ込んだダイニングルームのドア越しに、揺らめく小さな光が見えた。ロウソクの明かりだ。照明の消えた真っ暗なダイニングルームの食卓の上に、オレンジ色の小さな明かりがポツンと灯っているのだ。
緊張でカラカラになった喉の痛みを感じながら、安達は仕切りのドアをそっと開いて、薄暗いダイニングルームへ足を踏み入れた。
たった一本のロウソクに照らし出された食卓の上に、一枚の紙が載っているのが目に入った。
そこへ近づいた安達は、我が目を疑った。
まったく唯季と同じ筆跡で、まったく唯季が使うのと同じ言い回しで、メッセージがしたためられてあった。
≪お帰りなさい おつかれさま 先に寝ててごめんね 冷蔵庫の中に夜食のローストビーフサンドイッチとトマトサラダが入っています[#「お帰りなさい おつかれさま 先に寝ててごめんね 冷蔵庫の中に夜食のローストビーフサンドイッチとトマトサラダが入っています」はゴシック体]≫
その短い文章を、安達は何度も何度も見直した。
美しい筆跡はどう見ても唯季のものだった。そしてこれは唯季の文章だった。ローストビーフサンドイッチとよく冷えたトマトサラダの組み合わせは、唯季が夜食に作ってくれる定番のメニューだった。
安達は、何か悪質なイタズラではないかと思い込もうとした。よくあるドッキリカメラというやつだ。マネージャーは前もってテレビ番組のスタッフからイタズラの仕掛けを教えられているが、そうとは知らないタレントがその罠《わな》にはまるところを隠し撮りする、あのパターンだ。
しかし、重田の一連の言動がぜんぶ芝居だとしたら、とっくに彼はマネージャーを辞めて俳優になっていただろう。それに妻を亡くしたばかりという立場の安達に対して、ドッキリカメラ風の冗談が仕掛けられるはずもない。
だから、このメッセージは、重田が二階の窓際に見たというユリもしくは唯季の亡霊が置いたという以外に考えられなかった。
信じられない思いで、安達はキッチンのほうへ進んだ。冷蔵庫の中を確かめるためだ。
ロウソクの場所から離れると周囲の暗さがぐんと増したが、壁際の照明をつけようとスイッチを押してもやはり反応はない。
そのとき、ポタリ、と音がした。
静まり返った家の中で、その音は安達の耳にあまりにも大きく響いた。
そしてまた、ポタリ。
水滴だ。キッチンの蛇口をきちんと閉めていないから、ステンレスの流しへと水滴が長い間を空けて滴り落ちているのだ。
安達の顔から血の気が引いた。
蛇口をきちんと閉めないのは、何度注意しても直らない唯季の癖だった。きちょうめんな安達は、いつもそのことが気になっていたではないか。
これが生身の人間であるふたごの妹ユリの行為だとしても、そんな細かい癖まで似ていることがあるのだろうか。
(ユリじゃない……この家の中にいるのは、やっぱり唯季なんだ)
安達は、自分の健全な精神がぐらぐらと土台から揺れはじめているのを感じた。そして、腹の底から低いうなり声をあげながら、流しの隣に置かれた冷蔵庫の扉を思い切り引き開けた。
庫内照明は消えていた。やはりブレイカーは切られているのだ。
ロウソクの明かりにうっすら照らされた冷蔵庫の中には、メッセージどおり、ローストビーフサンドイッチとトマトサラダがラップに包んで置かれている。
その置き場所がいつもと同じなのはもちろん、サンドイッチが小さな正方形にカットされているのも、トマトサラダの盛りつけ方も、唯季がやるのとまったく同じだった。
(やっぱり唯季だ。ユリじゃない、唯季だ)
安達の背中にべったりと恐怖の手形が貼《は》りついた。
(行きたくない)
安達は、髪の毛を振り飛ばすような勢いで首を振った。
(いやだ、見に行きたくない、二階には行きたくない)
ガクガクと膝《ひざ》が震え出した。
俳優として恐怖に襲われる演技は数え切れないほどやってきたが、実際の恐怖がこれほど勝手に身体を動かすものだとは、安達も思わなかった。
はたからみると冗談でやっているのかと思えるほど足が激しく震え、歩くのも立っているのもできない状態になった。そしてついには安達はその場にへたり込んでしまった。
「あう、あう、あう……」
だらしなく床に尻餅《しりもち》をついた安達は、口から奇妙な声を洩《も》らした。
舌やアゴも勝手に痙攣《けいれん》を起こしているため、言葉にならないうめき声を抑えられない。唇の端からはよだれも垂れ落ちた。
ドイツ系アメリカ人とのハーフとして生まれ、その端整なマスクを自慢にして生きてきた安達真児が、痴呆性の老人のような表情を呈して座り込んでいた。
(出た……出た……出た……)
さきほどの重田と同じ言葉が、安達の頭の中で渦巻いた。
(おれが殺した唯季が化けて出たんだ)
この恐怖をどうやって乗り切ればよいのか、安達は必死に考えた。
(唯季に謝ればいいのか。おれが悪かったと謝ればいいのか)
しかし、殺した妻が化けて出たのだとなれば、その幽霊と向き合っただけで、自分は発狂するにちがいないと安達は思った。
いや、幽霊という概念は甘すぎる。亡霊でもない。怨霊《おんりよう》だ。
金に目がくらんだ利己的な夫の陰謀で、ホームレスの男に蹂躙《じゆうりん》され殺された唯季。その唯季が怨霊となって自宅に舞い戻り、いま復讐《ふくしゆう》をはじめたのだ。安達にはそうとしか思えなかった。
しかし、彼の頭の中にわずかに残された理性のかけらが、懸命に叫んでいた。
(論理的に考えろ。あくまで論理的に考えるんだ。おまえは何のために遺伝学研究者の村田和正と会ったんだ。唯季と完全同一体とみられるふたごの妹ユリの存在を、科学的かつ論理的に証明するためだろう。そして村田は、それなりの理屈を組み立ててくれたじゃないか。幽霊を信じるくらいなら、パーフェクト・ツインズの存在を信じたほうがずっとマシだと思わないのか)
(もっと本能的に考えてもいい。おまえは美人が好きだろう。美しい唯季を殺して後悔しているんだろう。ところが、その唯季と瓜二《うりふた》つのユリという妹が、おまえに恋をしているんだ。結婚してくださいと向こうから頼んできているんだ。そしてユリはこの家までやってきた。おまえからイエスという返事をもらうために、二階のベッドルームで待っている。しかも、どうぞ抱いてくださいと言わんばかりの格好でだ。そんな彼女を幽霊扱いして怖がるなんて、どうかしているぞ)
(さあ、すぐに二階へ行け。そして彼女とベッドの中で、人生のやり直しについてゆっくりと語りあうんだ)
しかし、そうした考えも安達を奮い立たせることはできなかった。いまの安達には、完全なるふたごよりも、怨《うら》みがましく家の中を徘徊《はいかい》する亡霊のほうが、ずっと実在する確率が高いように思えた。
(逃げなくちゃ。なんとか逃げなくちゃ)
安達は玄関のほうを見た。這《は》ってでも家の外へ出たいのだが、それすら不可能だった。手足を動かすための神経が、恐怖で完全にマヒしていた。
(ああ、せめて重田が様子を見に戻ってきてくれたら)
奥さんの幽霊が出ましたといって騒ぎ立てた重田は正しかったのだ、こんなことならマネージャーを追い払うのではなかった、と後悔した。
そのとき――
ミシリ、と天井で音がした。
安達はギクッとした表情で、座り込んだまま上を見た。
ふたたびミシリと、静かだがハッキリ聞こえる音がした。人の歩く音だ。
安達は、このキッチンの真上が夫婦の寝室にあたることを思い出した。つまり、自分の真上で歩いているのは……。
ミシリ、ミシリ――
足音の主は、その存在を意図的に告げるように、わざと音の立つ歩き方をしているようだった。
ミシリ、ミシリ、ミシリ――
頭上で足音が移動していく。その方向を、安達は目で追った。
(階段だ。階段のほうへ向かっている!)
安達は凍りついた。
(誰かがベッドルームを出て下へ降りてくる!)
バタンというこもった音がした。寝室のドアを開け閉めする音だ。そして――
ギシッ……ギシッ……ギシッ……。
その音を聴いて、安達は髪の毛が逆立つかと思った。『誰か』がゆっくりと階段を降りはじめているのだ。
ギシッ……ギシッ……ギシッ……。
安達の自宅の階段は、よりによって十三段だった。その半分近くまで『誰か』が降りてきた。真っ暗な闇の中を、階段のきしむ音だけがする。
安達は歯の根が合わなくなった。カチカチカチ、カチカチカチカチ。まるでフラメンコのカスタネット伴奏だ。
ギシッ……ギシッ……ギシッ……。
(もうすぐ階段を降りきってしまう。赤いネグリジェを着た唯季が、おれの目の前に姿を現すのだ。殺した唯季が……おれが殺させた……いや、殺した唯季が)
安達は目をつぶった。
[#改ページ]
十五 闇の奥へ
亡霊となった唯季との再会を覚悟したそのときだった。安達のすぐそばで、突然トゥルルルルと軽やかな音を立てて、電話ベルが鳴り響いた。
携帯電話ではない。自宅の通常回線の電話だ。
親機はリビングのほうにあるのだが、コードレスの子機のひとつがキッチンのカウンターのところに無造作に置いてあった。それが親機や二階にある別の子機と連動して、トゥルルルル、トゥルルルルと呼出音の合唱をはじめた。
あと数歩で階段を降りきろうとしていた足音が、あちこちで鳴り出したベルの響きにひるんだのか、ぴたりと止まった。
そして安達のほうは、電話ベルというあまりにも日常的な音色のおかげで、恐怖の呪縛《じゆばく》から解き放たれた。
当分の間、自宅にかかってくる電話には出たくないと思っていた安達だったが、いまは相手が誰でもよかった。まさに救援隊の到着を知らされたような気分で、彼は床にへたり込んだ体勢から手を伸ばし、キッチンカウンターの上のコードレスホンを取った。
もしもし、と呼びかけようとしたが、すぐには声が出なかった。そのために、つながったほうの相手もためらいの沈黙をつづけている。ひょっとしたら、留守番電話のメッセージが流れてくるのだろうと待ち構えているのかもしれない。
安達は詰まった喉《のど》を必死に開いて、かすれ声を出した。
「もしもし……安達……です」
「シンちゃん」
麗奈だった。
これまでの雲隠れを咎《とが》めるトゲのある声だった。
ほんの少し前までは、安達としては最もつかまりたくない相手だったが、いまとなっては麗奈であろうと救いの神であることに違いはなかった。
「シンちゃんなのね。これ、留守TELじゃなくて本物のあなたなのね」
「ああ」
「いままでどこにいたのよ」
「ごめん」
「私から逃げるつもり?」
「そうじゃない」
「いいえ、そうなのよ。この電話もほかの人からだと思ってとったんでしょ。たぶんユリさんからじゃないかと思って」
「ちがう」
「ちがいません」
麗奈はきっぱりと言い切った。
「シンちゃんの嘘《うそ》つき。やっぱりあなたは私を捨てるつもりなのよ。奥さんの妹のほうを選ぶつもりなのよ。どこまでも唯季さんを忘れられないから、ふたごの妹を……」
「麗奈」
相手に最後まで言わせずに、安達は割り込んだ。
「いまどこにいるんだ。国立《くにたち》の家か」
「ノー」
「じゃ、どこだ」
「どこだと思う?」
「クイズをやっているヒマはないんだ」
安達は切羽詰まった声を出した。
「教えろ、どこにいるんだ」
安達は麗奈とのやりとりに夢中で、すぐそこまできていた足音が、ふたたび二階へ戻っていったことに気づいていなかった。
「すぐ近くよ」
「近く?」
「そう」
「横浜まできているのか」
「さあね」
「教えろってば」
「教えない」
「麗奈!」
「どこにいるかを聞いてから、大急ぎで逃げる支度をするんでしょ」
「そうじゃない。こっちは真剣なんだ。いますぐ会いたいんだ」
「なに言ってんのよ」
麗奈は噛《か》みついた。
「さんざん逃げておいて、いざつかまったら、いかにも自分から会いたかったようなフリをして。アダチシンジって、そこまでずるい人間だったの」
「ずるいでも嘘つきでも、好きなように言ってくれ。とにかく大至急ここへきてほしい。頼む、頼むよ、麗奈、お願いだから助けてくれ」
不覚にも、最後のほうは涙声になった。
さすがに電話口の麗奈も、相手の様子がおかしいのに気がついて、いぶかしげな声で聞き返してきた。
「シンちゃん、もしかしていま泣いてるの」
「そうかもしれない」
鼻をすすりながら、安達は言った。
「涙が出て止まらないから、たぶんぼくは泣いてるんだろう」
「それも……お芝居?」
「ここへきて芝居だとわかったら、ぼくを殺してくれてもいい」
「いったい何を悲しんでいるのよ」
「悲しくて涙が出ているんじゃない。怖いんだ。ぼくは怖くて泣いているんだ」
「………」
「麗奈、助けてくれ、頼む。いますぐここへきてくれ」
繰り返し安達に懇願され、ついに麗奈は言った。
「わかったわよ。どんな事情があるか知らないけど、私もあなたに用事があって電話をかけたんだから、シンちゃんに逃げるつもりがないなら、いまからそっちへ行くわ」
「何分かかる」
「三十秒ね」
「三十秒?」
「あなたの家の前まで車できて、そこから携帯でかけてるの」
「うちの前にいるのか」
安達は、驚くよりも助かったと思った。
「私、ゆうべもその前もここへきていたのよ。刑事ばりの張り込みね。今晩は二階の部屋に明かりがついているから、ああ、やっとシンちゃんが戻ってきたんだな、ってわかったわけよ。……あ、いまもレースのカーテン越しにあなたの影がチラッとだけ見えたわ」
安達はビクンと身を反らした。
その言葉で、例の足音の主がふたたび二階の寝室へ戻ったのを知った。
「あなたもコードレスで話しているんでしょ。だったら窓際にきて外をのぞいてみて。真下に私がいるのが見えるから」
「麗奈、そんなことはいいから、すぐに中へ入ってきてくれ。早く」
安達はあせって言った。
「早く、早く!」
*  *  *
同じころ、つくば学園都市の一角にある研究者用の独身寮では、村田和正が眠れない夜をすごしていた。
蛍光灯スタンド一つだけつけた明かりの中、彼は十畳のワンルームの片隅に置いた机に座ってパソコンのキーボードを叩《たた》いていた。
専門分野における複雑な思考をするときに、頭の中に浮かぶアイデアをそのまま文章化してパソコン画面に打ち出すことで、視覚的にもきちんと整理ができ、より論理的な思考が深まるというのが村田のやり方だった。
ただし、寝つくことのできない彼がいま取り組んでいるのは、いつもの遺伝子研究に関する問題ではなかった。三日前に研究室をたずねてきた安達がもちかけてきたパーフェクト・ツインズの一件と、帰り際に高見沢《たかみざわ》ユリの写真を見せたときの安達の異様な反応である。逃げるようにして安達が研究所から去っていって以来、そのことがずっと頭からこびりついて離れず、本業にも差し支えるほどだった。
村田の頭の中にある疑問は二つ。
第一の疑問は、安達は、ほんとうにドラマの素材探しのために自分を訪れたのか、という点。
第二の疑問は、ユリの写真を見たときの安達のあの驚きようは何なのか、という謎《なぞ》だった。
これを考えると夜も眠れない。しかし、安達本人にそのことを直接問いただそうにも、教えてくれた電話番号は何度かけても応答なく、留守番電話もセットされていない状態で、連絡のとりようがなかった。
そこで村田は、その疑問を解決するために、いまパソコンに向かって自分の考えを整理することにしたのだ。
≪ある意味でいちばん大きな謎は、安達が十五年ぶりに村田に会おうとしたことだ。≫
自分のことを『村田』と客観的に記しながら、彼はパソコンのキーボードを叩きはじめた。
≪完全に同一体であるふたごは、どうして実際にはいないのか。論理的には存在の可能性もあるという方向へなんとか理屈を組み立てられないか──こうした質問に答えてくれる専門家として、安達はなぜ村田和正を選んだのだろう。
安達真児は、いまや押しも押されもせぬ人気スターである。その彼が話を聞きたいといえば、一流どころの研究者はすぐにでもスケジュールを空けるだろう。遺伝学の研究者というと世間では堅物のようなイメージがあるが、テレビや映画でおなじみのトップクラスの有名人から企画に協力してほしいとご指名があれば、よほどのヘソ曲がりでないかぎり断ったりはしないものだ。
おそらく安達自身も、自分の名前のもつ威力をじゅうぶんに認識していただろう。だから、彼がほんとうにドラマ作りのために専門的な情報が必要だと思えば、なにも遠く離れたところで地道な研究を重ねている幼なじみなどを頼らずに、もっと肩書や権威のある大先生を紹介してもらえることもできたはずだ。それに幼なじみとはいっても、ここ十五年ばかりは安達は村田と直接の交流はなかったのだ。
そういう関係なのに、なぜ彼は村田の意見を求めに、忙しい中をつくばまでやってきたのか。
心理学的な分析をすれば、ひとつの答えを見いだすことはさほど難しくない。裏に何か特別な事情があるのだ。現に彼は、ふたごのことを詳しく調べる理由を映画の企画だと言ってみたりテレビの企画だと言ってみたり、しまいには小説のネタのためだと話がコロコロ変わってきた。
つまり、それらの矛盾する説明はすべて嘘だとみるのが正解だろう。
しかし、「完全なる同一体のふたごは存在するのか」というSFじみた質問をするのに、なぜわざわざ嘘の動機を述べなければならないのか。たとえば、ドラマの参考にすると言いながらガンに関する詳しい情報を求めてきたならば、身内か彼自身がガンに冒されていて、それを隠しながらの質問だとも想像できるが、今回のテーマはふたごである。いささかの深刻さもない話題ではないか。まさか安達の身の回りにパーフェクト・ツインズがいるわけでもなかろうし。
でも、何かそこにプライベートな秘密があるからこそ、高名な専門家にたずねるのではなく、話がしやすい幼なじみの村田のところへきたと推測できる。ひさしぶりに会いたかったからではなく、いざというときには秘密の保持を頼みやすいから村田を選んだのだ。
では、あれだけ熱心にパーフェクト・ツインズの理論武装を求めてきた裏には、いったいどんな秘密があるのか。≫
村田和正はそこでキーボードを打つ手をいったん休め、ほうじ茶のティバッグを入れたカップに、ポットから熱い湯を注いだ。
それをすすりながらしばらく画面を見つめていたが、カップを脇《わき》に置くと、また彼は軽快なリズムでキーボードを打ちはじめた。
≪この第一の疑問については、安達の裏の事情がどうであれ、こちらの関知することではないとして忘れることもできるが、気になるのは第二の疑問のほうだ。
村田が恋におちた高見沢ユリの写真を見たときの、あの安達の驚きようはいったい何なのか。自分に問いかけてみるまでもない。彼は、ユリを知っていたのだ。では、どういう関係なのか、それが問題だ。
安達には詳しい話をする間もなかったが、村田が高見沢ユリと出会ったのは、去年の十月の終わりだった。国際学会に参加するために訪れたパリで、一日だけ休日があった。そこで村田は、仲間の研究者と別れて単独行動をとることにした。といって、どこへ行くという具体的なアテがあったわけではない。適当に地下鉄に乗って、気の向いたところで降りては散歩を楽しみ、また地下鉄に乗ってほかの場所へ、ということの繰り返しをやって一日を過ごそうと思った。
そのとき村田は二八ミリから一〇五ミリまでの広角─望遠ズームレンズをつけた一眼レフカメラを持参していたが、観光客のようにシャッターを押しまくることもなく、ただぼんやりと晩秋のパリの一日を味わっていた。
そんな調子だったから、じつは彼女と出会った場所も、最寄《もよ》りの地下鉄駅の名前もはっきり覚えてはいない。傾きかけた西日が作り出す長い影に彩られた石畳。そして、アポトーシスによって木の幹から離れて死んでいった枯葉が、風に運ばれる淋《さび》しげな音。そんな中に彼女はいた。
安達にも語ったとおり、それは天使のような美しさをもった人だった。エキゾチックな顔立ちと漆黒の長い髪は彼女が東洋人であることを物語っていたが、それと同時に、ルーブル美術館のどこかにその肖像画が飾られていても不思議ではないような、クラシックな西洋風の美しさも兼ね備えていた。だから村田は、はじめは彼女が日本人であるとは思わなかった。
その人は街角にぼんやりと立って、空を見ていた。あるいは木の枝からハラハラと舞い落ちる枯葉を見つめていたのかもしれない。人待ち顔のようでいて、そうでもない。しかし、何の目的もなくたたずんでいるといった曖昧《あいまい》さもない。
そこに漂うなんともいえない雰囲気に魅せられた村田は、これまで使わなかったカメラをそっと構え、風景を撮るふりをしながら、ズームレンズを一〇五ミリの望遠にセットして、彼女がこちらを向いた瞬間にシャッターを切った。
レンズの中で、一瞬、彼女と目が合った……気がした。
日ごろ女性に積極的な行動に出たこともない村田が、その女性に声をかけようという気になったのは、レンズを通して飛び込んできた彼女の視線によって魔法をかけられたせいかもしれなかった。変に思われるのではないかとか、恥ずかしいといったためらいはまったくなかった。村田は彼女のところへ吸い寄せられるように進むと、つたないフランス語で話しかけた。すると、返ってきたのはきれいな日本語だった。≫
*  *  *
家の前に車を停めているので三十秒で行けると言ったが、実際に麗奈が安達邸の玄関先に現れたのはもっと後だった。
麗奈も女である。安達の切羽詰まった様子にもかかわらず、いざ彼の前に出るとなれば、まず気になるのが化粧のことだった。容姿にコンプレックスをもっている麗奈は、その日の化粧のノリがよくないという理由だけで、人との約束をすっぽかしたことがこれまでに何度もあった。
安達とベッドに入るときも、麗奈はナイトメイクと称する最低限の薄化粧は欠かさなかった。彼の前で素顔をさらすのは絶対にイヤだった。少なくとも正式に結婚をするまでは、顔のことが理由で安達に捨てられる事態だけは避けようと思っていた。面食いの安達には、そうした危険が大いにあると麗奈にはわかっていたからだ。
だから、こういうときでも彼女がやったことといえば化粧の再点検である。車のルームライトの明かりを頼りに口紅をさし直し、睫毛《まつげ》にマスカラを塗り直し、そして鼻の頭や額のてかりをパウダーで押さえた。
(いまにも死にそうな泣き声を出していたけど、まったく役者だけあって演技過剰ね。さんざん私から逃げ回っていたんだから少しくらい待たせたっていいのよ。もしも一秒を争うような必要があるんだったら、自分でここまで迎えにきなさいっていうの)
心の中でそうつぶやきながら、念には念を入れたチェックを終え、麗奈がようやく車から出たときには、電話を切ってからすでに五分が経過していた。
玄関のほうへ歩いていく麗奈の真上で、唯一|灯《とも》っていた二階寝室の電気がふっと消え、ゆらゆらと揺らめくロウソクの妖《あや》しげな光に替わったことを、彼女はまるで気づいていなかった。
いちおう麗奈は玄関のドアを開ける前にインタホンのボタンを押した。しかし、それはまったく鳴らなかった。
二度三度押してみたが、ウンともスンとも言わない。
「へんね」
小さくつぶやいてから、麗奈は玄関のドアノブに手を掛け、それを引いた。
中は真っ暗だった。そして寒かった。
麗奈の口から吐き出される息が、外にいるのと同じように真っ白に変わる。秋から冬への変わり目だというのに、家の中には暖房の気配がなかった。
それが麗奈には不思議に感じられた。
「シンちゃん」
まだ後ろ手にドアノブを握ったまま、明かりの消えた玄関に一歩足を踏み入れたところで麗奈は呼びかけた。
「シンちゃん?」
しかし、返事はない。
麗奈の表情が険しくなった。逃げられたと思ったのだ。麗奈が化粧直しをしている間に、こそこそと裏口から逃げ出したのではないか、と。
麗奈の頭にカッと血が上った。
が、次の瞬間、彼女の目に玄関におかれた二組の靴が目に入った。
一つは乱雑に脱ぎ捨てられた男物の靴で、これは安達のものだろう。彼女の注意を引きつけたのは、もう一つのほう──赤いハイヒールだ。
(なによ、これ)
こんどは、麗奈の顔から血がスーッと引いていった。度を越した激しい怒りは、顔を赤くするよりも青くさせる。
(大嘘《おおうそ》つき。やっぱりふたごの妹を連れ込んでるのね)
(なにがすぐにきてくれよ、助けてくれよ。ようするに、二股《ふたまた》かけてどうにもならなくなったから、当の女どうしで話し合ってほしいってことなんでしょ)
(卑怯者《ひきようもの》!)
(男のクズ!)
麗奈の脳裏で罵声《ばせい》が飛び交った。
しかし、それでも彼女は安達が欲しかった。あの日本人ばなれした端整なマスクをもつ男を、どうしても自分の持ち物にしたかった。私有物にしたかった。父親の財産で安達を買いたかった。
(ここまできて、安達真児を他の女に横取りされるのはイヤ。とくに、きれいな女に奪われるのは絶対に許さない)
麗奈は玄関のドアノブから手を離して、完全に家の中に入り込んだ。
と、そのとたん、ドアがスーッと閉まって街灯の明かりが遮断され、彼女の周りが真っ暗になった。
その暗さに麗奈は一瞬だけ戸惑いをみせたが、恐怖心は湧《わ》かなかった。胸いっぱいに満たされた怒りのために、闇《やみ》を怖がる気持ちなどつゆほども起こらなかった。
「シンちゃん」
赤いハイヒールを蹴飛《けと》ばしながら自分の靴を脱ぐと、中曾根麗奈は部屋に上がり込み、ズカズカと足音高く中へ進んだ。そして、大きな声でわめいた。
「シンちゃん、どこにいるの。返事をしなさい。わかってるわよ。二階に隠れたんでしょう、女といっしょに。そんなに唯季さんが恋しいの。ふたごでもいいから、唯季さんの代わりを務めさせようってわけね。そんなに好きだったら……」
殺さなければよかったじゃない、と言いそうになって、麗奈は辛うじて口をつぐんだ。二階に問題の妹がいるとなれば、まだこのセリフを聞かせるのは早すぎる。
怒りで胸を上下させながら、麗奈はほとんど視界の利かない暗がりの中を壁伝いに進んだ。探しているのは階段のある場所だ。彼女にとって、安達真児の自宅に上がり込むのは初めてだったから、どこにどんな部屋があるのか、まるで見当がつかなかった。
いま、麗奈はダイニングルームの脇《わき》を通りすぎるところだった。
つい先ほどまで、そこにはロウソクの明かりが灯されていたことを彼女は知らない。いまはその明かりもなく、真っ暗で部屋の様子がまったくわからなかった。ただ、仕切りのドアが開いていたので、念のために彼女はそこから中に向かって呼びかけた。
「シンちゃん、そこに隠れてるんだったら出てきなさい」
しかし、返事はない。
ため息をつくと、ふたたび麗奈は壁伝いに先へ進んだ。
と──
どこからかすすり泣きの声が聞こえてきた。か細くて途切れとぎれの、弱々しい泣き声だ。
麗奈はおもわず立ち止まって耳を澄ませた。
ひひひひ、ひいいい、ひひひひ、ひいいい──と切なく引きずるような、聞いていて胸が苦しくなるすすり泣きだ。
それが男の泣き声であるか、女の泣き声であるか、あまりにも弱々しいので麗奈には区別がつかなかった。
だが、そのとき麗奈は、電話口での安達の言葉を思い出した。悲しくて泣いているんじゃない、怖くて泣いているんだ、というセリフを……。
いったい安達は何が怖くて泣いているのか。
それを考えたとたん、急に周囲の闇がぐわん、ぐわんとうねりながら麗奈の身体に襲いかかってきた気がした。
この家に上がり込んでから初めて麗奈は、怒りよりも恐怖のほうを強く感じた。家の中の暗さも、そしてこの寒さも、すべてが霊気のなせるわざに思えて恐ろしくなった。
玄関に置かれた赤いハイヒール──あの鮮やかな赤が残像のようにまぶたに蘇《よみがえ》り、あちらの闇にぽかり、こちらの闇にぽかりと浮かんで見えた。それが錯覚だということは理性ではわかる。しかし、まるで透明人間がそれを履いてダンスをしているかのように、黒い空間のあちこちで赤いハイヒールが踊りはじめた。
すすり泣いているのは安達ではなく、赤いハイヒールの女かもしれない。つまり、唯季の妹だ。死んだ唯季とほとんど同一人物としか思えないというふたごの妹が、姉を死に追いやった殺人者の素顔を知って、怒りとくやしさですすり泣いているのかもしれない。
(その犯人のひとりが安達真児、そしてもう一人がこの私……)
麗奈は急に脅えはじめた。
殺した安達の妻と直接会ったことはなかったが、雑誌に登場していたモデル時代の上條唯季は、麗奈の嫉妬《しつと》と憧《あこが》れの的だった。自分も彼女のようにすてきな容姿に恵まれていたらどれだけ人生が変わっていただろうか、といつもうらやましく思い、そして妬《ねた》ましく思っていた。
その唯季から安達真児を奪い取り、おまけに彼女を死に至らしめたことで、麗奈は唯季に対する一方通行の劣等感をぜんぶ振り払ったつもりでいた。せいせいした気分でいた。
けれども──安達に対してはとぼけたものの──麗奈は、唯季を事実上殺したのは自分だとわかっていた。主犯はホームレスの男でもなければ安達真児でもない。中曾根麗奈なのだ。唯季を殺せと煽《あお》ったのは明らかに自分だという認識が、麗奈にはあった。その後ろめたさがあったから、間違っても唯季の通夜や葬儀には行けなかったのだ。彼女の遺体が収められた棺《ひつぎ》はもちろん、遺影などもまともに見られたものではなかった。
ところがその唯季には、まるで見分けがつかないほどそっくりの妹がいた。そして、ユリという妹は、いまこの家にきているのだ。
いまユリが悲痛な泣き声をあげながら安達を告白へと追い詰めたとしたら、先ほどの彼の切羽詰まった電話の様子も理解できるではないか。麗奈はそう思った。
そのユリと面と向かったら──麗奈は、安達に対してとったようなふてぶてしいしらばくれ方はとてもできないと思った。自分がひどいパニックに陥らないと言い切る自信がなかった。
(殺された唯季の復讐《ふくしゆう》がはじまったのだ)
麗奈は、自分が底なしの泥沼にずぶりと足を踏み入れてしまったことを悟った。そして、そこから足を抜くことはもうできないかもしれない、と……。
ひひひひ、ひいいい、ひひひひ、ひいいい──
聞いていて胸が苦しくなりそうなすすり泣きがまだつづいている。物悲しげに、くやしげにつづいている。その声が、芽生えはじめた麗奈の恐怖心をさらに増大させた。
(しっかりしないと)
麗奈はなんとか自制心を保とうと、自分に言い聞かせた。
(気をしっかりもたないと、私は狂ってしまうかもしれない)
もはやユリとの対決を避けられないと覚悟した麗奈は、すすり泣きの声がどちらの方向から聞こえてくるのか、闇の中を懸命に透かして見た。すると、少しだけ闇《やみ》に慣れた目に、廊下のいちばん奥にある階段の上り口が薄ぼんやりと認識できた。そちらから糸を引くような泣き声が聞こえてくる。
逃げ出したくなる自分を抑えて、麗奈は先へ進んだ。
階段に近づくにつれて、か細い声が徐々にはっきりしてきた。やはりそれは、二階から聞こえてくるのだ。
麗奈は、安達かユリか判別のつかない声の主に向かって「泣いているのは誰なの」とたずねようとした。が、さきほどまで大きなわめき声を出せた喉《のど》が、まるで言うことをきかなかった。いつのまにか彼女は恐怖という名のマントにすっぽり包み込まれ、身体の自由が利かなくなっていた。
それでもなんとか歩きつづけることはできたので、麗奈はすすり泣きに導かれながら階段を上りはじめた。暗闇の中で足を踏み外さないように、ゆっくり、ゆっくりとだ。
その歩調に合わせて、一歩踏み出すごとにミシリ、ミシリと階段がいやな音を立てた。上るにつれて、すすり泣く声はさらにはっきりしてきた。十三段ある階段を上りきると、正面にある部屋の扉の輪郭がうっすらと浮かび上がって見える。泣き声は、その向こう側から洩《も》れてくるのだ。
さっきの電話で安達は、早くきてくれと叫ぶように懇願していた。ところが、麗奈が家に上がり込んだのはわかっているはずなのに、彼は姿を隠したままである。麗奈が化粧直しに費やした五分の間に、いったい安達の身に何が起きたのか。目の前の部屋の扉を開ければ、その答えは出る。麗奈の心臓は爆発しそうに高鳴った。
しかし、もうこうするしかないのだと覚悟を決め、麗奈は扉の取っ手を握った。そして、心の中で(神さま)とつぶやいてから、ゆっくりと扉を手前に引き開けた。
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十六 赤い怒り
≪こちらが唐突に声をかけたにもかかわらず、彼女は怒ったり驚いたりした様子はみせなかった。あまりにもあなたが美しかったので、写真を撮らせてもらいましたと村田が正直に言うと、彼女ははにかむような笑いを見せた。その笑顔にも村田は引きつけられた。≫
村田和正は、キーボードを叩《たた》きつづけていた。
≪礼儀として村田が名前と立場と、いまは学会に参加するためにパリへきていることを告げると、その女性は意外にすんなりと高見沢ユリという名前を名乗った。百合《ゆり》の花の百合さんですか、とたずねると、いいえ、カタカナでユリと書きます、と答えた。そののちに、昔は漢字だったのですけれど、と言い添えた。文字づかいは聞きそびれた。
彼女は、将来ソムリエになるための修行として、フランスやイタリアの各地をずいぶん長い間ひとりで旅しているのだ、と語った。それ以外のことは、彼女は具体的に語らなかった。すでに結婚しているのか、それとも独身なのか、住まいはどこなのか──そうしたプライバシーはまるでわからなかった。
にもかかわらず村田は、街でいま見かけたばかりの高見沢ユリに、プロポーズと受け取られても仕方ないような言葉をいきなり投げかけた。
口に出してから、村田は自分でびっくりした。けれども彼女は少しも不快な様子を見せず、それどころかむしろすまなそうな表情さえ浮かべて、私には結婚を約束した人がいるんです、と小声で返事をした。もしかしたらその言葉の前に、ごめんなさいというひとことが添えられていたかもしれない。そして彼女は──高見沢ユリは、村田に軽く会釈をすると、なだらかな下り坂になった石畳の道をゆっくりと歩いて去っていった。
村田はそれ以上彼女を追いかけることをしなかった。そうさせない雰囲気が、高見沢ユリの後ろ姿にはあったからだ。
その場に取り残された村田は、興奮の余韻でしばしボーッとしていた。あの美しい女性は、村田がくるのを待ち受けるために一日そこにたたずんでいたのではないか。そんなふうにさえ思いたくなるような、不思議な出会いだった。
それから二日後、会議が早めに終わったので、村田は彼女を見かけた同じ場所へ行こうとした。だが、どうしてもその場所が思い出せなかった。地下鉄の駅の名前も、街の名前も記憶に残っていないのだ。≫
村田は、ここでいまいちど記憶をたぐろうとした。しかし、これまで同様、出会いの場所がどこなのかは思い出せなかった。
≪日本に戻ってから、たったワンカットだけ撮った彼女の写真を現像した。本人の美しさは、写真になってもまったく変わらなかった。村田はそれを見つめながら、何度もため息を洩《も》らした。だが、出会いの場所を特定するヒントは、写真には含まれていなかった。レンズの絞りを開けて被写界深度を浅くして撮影したため、彼女だけにピントが合って、周囲の風景はぼやけて滲《にじ》んだ色模様となっていたからだ。
あれから一年が過ぎた。
同じ季節がくると、村田の胸は痛んだ。三十一歳の男が、乙女のようなせつない失恋状態から一年経っても抜け出せずにいた。安達が訪ねてきたときにたまたま応接室の窓から見下ろした景色が、どこかあの晩秋の街角を彷彿《ほうふつ》させるものがあって、つい感傷にふけり、彼女の話題を出した。そして、成り行きで安達に彼女の写真を見せたのだ。
そうしたら、予想もしなかった劇的な反応が返ってきた。
あのときの安達の驚愕《きようがく》──あれはいったい何なのか。安達はたんに驚いたばかりでなく、震えていた。つまり、高見沢ユリの写真には、安達に恐怖心を呼び起こさせる要素があったということだ。
では、その恐怖とは何か。
仮に安達が高見沢ユリを個人的に知っていたとしよう。村田が、その彼女とパリの街角で出会い、片想いの恋におちてしまったことは、たしかにまれにみる偶然かもしれない。しかし、そういった偶然は、驚きこそあれ恐怖までは引き起こさない。
あるいは高見沢ユリは、安達の昔つきあっていた恋人だったのだろうか。人気スターで二枚目の安達は、きっと美人には目がないはずだ。そして高見沢ユリほどの美女ならば、日本にいたときに何かのきっかけで安達の目に止まっていた可能性がある。
でも、そういうケースだったとしても、安達はあそこまで脅える必要はないだろう。たとえ、彼女に対して何か後ろめたい仕打ちをしていたとしても、だ。
いや、待て。ただひとつ、激しい恐怖の反応を示す可能性があった。それは、ユリがすでにこの世にいない人間にそっくりだった場合だ。≫
村田は、そこでまた手を休めた。そして、片手でほおづえをつきながら画面に映し出された自分の文章を眺めた。
そこで頭の中に浮かんだことを、またパソコンに入力する。
≪この世にいない人間とは誰か。いまの安達の状況でもっとも考えられるのは、先日、居直り強盗らしき者に殺された彼の奥さんだ。高見沢ユリが奥さんにとてもよく似ていたとしたら、彼はかなりびっくりしたかもしれない。
しかし、この写真を撮ったのは去年の秋であることを、安達にもはっきり教えてある。これが昨日やきょう撮ったものならば安達が幽霊でも見たように驚くのも納得できるが、一年前の写真なのだ。もしもよほど奥さんに似ているのならば、写真の女性が奥さんそのものである可能性を確めるのが先ではないか。たとえば、村田はパリで撮影したと言っているが、じつはこの写真は日本で撮ったのではないか、とか、あるいは妻が自分の知らない間にパリに行っていたのではないか、というふうに疑ってみるのが自然な反応というものだろう。
ところが安達は、村田に対してそういった確認はまったくせずに、ひたすら驚き、ひたすら震えて、最後はろくに挨拶《あいさつ》もせずに逃げ出してしまったのだ。そこがわからない。安達は何から逃げ出そうとしたのか。≫
いつまでも思考が堂々巡りをするので、村田は長いため息を洩らして椅子《いす》の背に身体をあずけ、目をつぶった。
と、突然思い出したことがあった。彼の助手を務める若い女性が、安達宅の悲劇を報道するワイドショーをたまたま見ていて、そのときに資料映像として放送された俳優アダチシンジの妻が『とてもきれいな人だった』と感想を述べていたことだ。結婚する前はファッション雑誌のモデルをやっていて、彼女の人気で雑誌の売上げが跳ね上がるほどだったという又聞き情報も、その助手は教えてくれた。
そのときはなにげなく聞き流していたのだが、たいへんな美人だったという安達の妻にふたごの妹がいて、それがパリで見かけたあの高見沢ユリだったという可能性はないのだろうか。しかも、その似方が尋常ではなかったとしたら……。
まさか、と思いながら村田は目を開け、いま脳裏に走った考えをすばやく画面に打ち出した。
≪安達が持ち出してきた完全同一体のふたごの話は、じつは架空のものではなく、現実の出来事だったらどうだろう。
たとえばこういうストーリーだ。殺された彼の奥さんには、究極の相似性をもったふたごの妹──姉かもしれないが、とりあえず妹としておく──がいた。何かの事情があって、安達は妻のふたごの妹とは会ったことがない(長い間日本を離れてヨーロッパを旅行しているという高見沢ユリは、まさにその条件にあてはまる)。
そして安達は、奥さんの死をきっかけに、最近になって初めてふたごの妹と出会った。ところが、そのあまりの似方に驚いた。だから安達はあんなにしつこくパーフェクト・ツインズの現実性にこだわり、そしてこだわる真の理由を隠そうとしていた。≫
これなら安達の不可解な言動も説明がついてくるぞ、と村田は思った。
もちろん頭の片隅には、遺伝学の専門家である自分がこんな絵空事《えそらごと》にふり回されるのはおかしいという気持ちもある。しかし、村田が安達に話してきかせた架空の設定どおりの出来事が起きていないと言い切れるのだろうか。
ふたごの世界は、世間一般の人々が想像しているよりもずっと謎《なぞ》に満ちたものだ。とりわけ一卵性双生児の世界はそうだ。いまのところ受精卵が二つに分かれる原因をうまく説明できる理論はないし、鏡像のふたごが高率で発生する合理的な説明もない。
そんな謎だらけの世界なのだから、じつはありえないと思っていたことがありうる可能性はゼロとは言えないかもしれない。
(殺された安達の奥さんが、実在するパーフェクト・ツインズの一人だった……)
その仮説を反芻《はんすう》した村田は、急に思い立って椅子から立ち上がった。
村田は世俗のことにまったく関心がなく、いわゆる週刊誌とかテレビはほとんど見ない。だから、安達の妻の事件も全国紙の新聞記事で知っただけだった。しかし、事件の登場人物が有名人でしかも美男美女となれば、週刊誌には安達真児のみならず被害に遭った夫人の写真も出ている可能性が大きい。それも、ひょっとしたらグラビア扱いでだ。
その掲載写真と、村田が持っている高見沢ユリの写真とを比較してみるのだ。
幸いこの独身寮のロビーには、週刊誌のバックナンバーが何種類か揃《そろ》えてあった。村田はユリの写真を手にして部屋を出ると、常夜灯だけの薄暗い寮の廊下を小走りに進み、階下のロビーへ降りていった。そして蛍光灯の明かりをつけ、片隅にあるマガジンラックから数冊の週刊誌を引き抜いた。
主な週刊誌の先週号には、たいていメイン記事として人気スターの妻の惨劇が取り上げられてあった。その中からなるべく表紙にハデな見出しを打ってあるものを選んで、村田はページを繰った。
いきなり彼は、強烈なパンチを食らった。
最初に広げた週刊誌が、殺された人気スターの美人妻を、まさにカラーグラビアで特集していた。安達真児とともにパーティなどに出席したときの最近のスナップも何点かあったが、もっとも衝撃的だったのは、モデル時代に雑誌を飾った写真を転載したもので、そのうちの一点は、ページいっぱいに引き伸ばされたアップだった。
村田和正は、食い入るようにそれを見つめた。そして、パリで撮影した高見沢ユリのやはりアップの写真と比較した。
「どこが違うんだ」
あぜんとして、村田はつぶやいた。
「これは瓜二《うりふた》つなんてレベルではない。まったく同じ人間じゃないか」
*  *  *
息を詰めながら、中曾根麗奈は目の前の扉をゆっくりと開けた。
かすかな光が廊下に洩《も》れてきた。ロウソクの明かりだ。
麗奈の目にまず入ったのは、寝室の天井にうごめく巨大な影だった。ときには天井から壁のほうへも這《は》い下りてくる黒い影には手もあり顔もあり、生き物としか思えなかった。それが揺らめくロウソクの明かりに照らし出された人の影だと麗奈が理解するまでには、数秒を要した。
つづいてその影の本体へ目をやった麗奈は、全身を硬直させた。
部屋の真ん中にはダブルベッドがあった。ヘッドボードはデザイン加工された金属の黒いパイプを組み合わせただけのシンプルなもので、中東の寺院などにみられる尖塔《せんとう》を連想させる飾りが両端についていた。
シーツは赤だった。ベッドカバーも赤だった。
おそらくシルクで織られたものだろう、ロウソクの明かりの揺れ具合で微妙に色合いを変化させる、深い深い赤だった。ワインレッドと呼ぶには紫の要素が少なすぎ、しかし鮮やかな赤と呼ぶには黒の要素が多すぎる悪魔的な赤──デーモン・ルージュとでも呼びたいような色合いだった。しかも、二つある枕《まくら》も、同じ素材を使った赤いカバーで包まれていて、その片方は床に落ちていた。
こんな色彩をベッドに使うのは通常の感覚ではありえないことだった。この赤い色のために、寝室ぜんたいが非日常的な空間と化していた。
そして、そのベッドの上に二人はいた。
一人は、安達真児だ。外出先から戻ってきたばかりといった格好のコート姿のまま、赤いベッドカバーの上に呆然《ぼうぜん》自失といった表情でへたりこんでいた。そこには、二枚目ぶりを誇るいつもの安達らしさはみじんもない。ほとんど死人といってもいいほど生気の欠落した顔だった。
そしてもう一人は……。
(上條唯季!)
すべての状況を忘れて、麗奈の頭にとっさに浮かんだのが、その名前だった。麗奈にとってあこがれのモデルだった上條唯季──その彼女が、シーツの素材とまったく同じ悪魔的な赤に彩られたネグリジェをまとい、まるで子供をなぐさめるように、座り込んだ安達の頭を自分の胸に抱いていた。
暖房がまったく入っていない冷えきった部屋で、女は薄いネグリジェ一枚の格好でコート姿の安達にからみついていた。
麗奈は凍りついた。
安達と共謀して殺したはずの唯季が生き返っていた!
それはどうみても『ふたごの妹』という概念でとらえられるものではなかった。ユリではない、唯季だった。安達の妻が、赤い衣をまとって地獄から戻ってきたのだ。
さっきから聞こえていたすすり泣きは、その彼女の口から発せられていたものだった。しかもそれは、悲しみの声ではなかった。
「うれしいわ……」
白い息が女の口から吐き出された。
隙間《すきま》から覗《のぞ》いている麗奈に気づいていないのか、それとも無視をしているのか、唯季そっくりの顔をした女は、胸に抱いた安達の髪の毛を撫《な》でながらつぶやいた。
「真児、あなたとまた会えてうれしいわ」
そして、糸をひくようなすすり泣きをつづけた。
ひひひひ、ひいいい、ひひひひ、ひいいい──
それは、ふたたび安達と会えた[#「ふたたび安達と会えた」に傍点]ことに対するうれし泣きの声だったのだ!
安達は麗奈のほうに顔を向けていた。だが、その目はどこも見ていなかった。
女が間歇的《かんけつてき》に吐き出す白い息で、安達の顔は、霞《かす》んだりハッキリ見えたりを繰り返していた。
(シンちゃん……)
呼びかけたかったが、声はやはり出なかった。
(どういうことなの、これ)
「もう私を放さないでね」
赤いネグリジェの女は、安達の耳元にささやいた。
もわっとした白いかたまりが女の口から流れだし、渦を巻きながら安達の顔にかぶさってゆく。まるでそれが麻酔ガスでもあるかのように、安達はほとんど意思の働きがない目になっていた。
「二度と私をひとりぼっちにさせないでね」
麗奈は混乱した。
二度と……とはどういうことか。それでは、あの女はユリではなく唯季なのか。ふたごの妹ではなく、殺された妻の亡霊なのか。
そんなはずはない、絶対にない、と麗奈は首を振った。
が、そのとき──
「おねがいだから、もう私を殺そうなんて思わないでね」
安達の髪を撫でながら女が発したその言葉に、麗奈は恐怖のどん底に陥った。
「一度のあやまちなら許してあげる。でも、同じことを繰り返さないで」
女の口から続々と白い気体が吐き出されてゆく。
「苦しかったわ。あの男に絞め殺されたときはすごく苦しかった。でも、その前に乱暴されたことのほうがもっとつらかった」
(うそ……)
麗奈は震えた。
(なんでそんなことまで知ってるの)
(幽霊だから知ってる? 殺された本人だから知ってる?)
頭の中がパニックになった。
(あの女は、乱暴されて殺されたときのことを覚えている!)
(そんなことがありえるわけがないわ。幽霊なんかじゃなくて、あれは奥さんのふたごの妹のはず)
(そして、彼女がそこまで知っているのは……)
「シンちゃん、あなた、ユリさんに話したのね。なにもかも!」
それまで喉《のど》の奥に閉じ込められていた言葉が、一気に飛び出した。恐怖のレベルが限界を突破したことで、かえって麗奈は呪縛《じゆばく》を解かれた。そして、それまでこっそりと細めに開いていた寝室のドアを、バーンと音を立てて一気に外側へ開けた。
「どうしてそんなバカなことをしたのよ。何もかもしゃべっちゃうなんて」
その発言がそもそも重大な秘密を暴露してしまっていることにも気づかず、麗奈は興奮してまくし立てた。
「あなたは一生その女から離れられなくなるのよ。一生脅されてすごすのよ。それでもいいの?」
わめきながら、麗奈は赤いネグリジェの女の意外な反応に、いっそう恐怖をかき立てられた。
麗奈が突然入ってきたというのに、女はビクとも反応を示さないのだ。これまでと同じように麗奈の存在をまったく無視して、自分の胸に安達の頭を押しつけ、それを撫でながら歓喜のすすり泣きをつづけている。
ひひひひ、ひいいい、ひひひひ、ひいいい──と……。
女にとって麗奈が存在していないのか、それとも麗奈にとって女が存在していないのか。いずれにせよ、その両者が同じ世界にいないのは確実だった。
赤いベッドに赤い枕。赤いネグリジェを着た女。そして彼女が吐き出す白い息と、ロウソクの明かりにゆらめく巨大な黒い影。
寝室のドアから一歩踏み込んだ先は異空間だった。麗奈は、とてもこれが現実の世界とは思えなかった。
「シンちゃん!」
いまとなっては、唯一の頼りは安達真児だった。彼が『ふつうの言葉』を発してくれなければ、もはやこの状況を現実と認めることはできなかった。
「シンちゃん、こっちを見て。私を見て」
麗奈は必死に叫んだ。
「変な催眠術にかけられちゃダメよ。とにかくユリさんから離れて、私のほうにきて」
「麗奈……」
うつろな目をしたまま、安達が言った。
「ここにいるのはユリじゃない、唯季なんだ」
「バカなこと言わないで。唯季さんは死んだのよ。その女にだまされないで」
「いや、唯季が帰ってきたんだ」
安達の顔は麗奈に向けられていたが、彼の目は麗奈よりもずっと手前の空間を見つめていた。
「唯季は赤い色が好きだった」
「そうよ、私は赤い色が好き」
女がかぶせるように言う。
「唯季は子供のころから、親に赤い服を着せられて育った」
「そうよ、私は赤で、ユリが青」
女がしゃべるたびに、ほわあっ、ほわあっ、と白い息が安達の顔に降りてゆく。それに包まれた安達は、心地よさそうにうっとりとまぶたを閉じた。そして、自分から女の乳房に顔をこすりつけるようにした。母親におっぱいをねだる赤ん坊そのものだ。
「だから、赤いネグリジェをまとったきみは唯季なんだ」
「そうよ、私は赤で、ユリは青」
女は同じ言葉を繰り返した。
「だからきみは、こういうベッドメイクをした」
「ええ、赤いシーツも赤い枕カバーも、みんなあなたのために私が作ったの。あなたに抱かれて眠るために、私の大好きな赤で作ったの。このネグリジェも」
女は、より強く安達を自分の胸に押しつけた。
安達は、されるがままの状態でつぶやいた。
「ああ……この柔らかさは唯季だ。このぬくもりは唯季だ。この匂《にお》いも唯季だ」
「シンちゃん!」
麗奈は必死に叫んだ。
「それはふたごの妹なのよ。ふたごだから何もかも似ているのはあたりまえなのよ」
「うれしいわ。あなたのもとに帰ってこられて」
麗奈の叫びをまったく無視して、女は安達の耳元にささやきつづけた。
「もうあなたを放さないわ。いつまでもいつまでも私といっしょに仲良く暮らしましょうね」
「うん」
あまりにも素直に安達はうなずいた。
「もうきみを捨てるようなことはしない。天使のように美しいきみを殺したぼくが間違っていた」
ついさっきまで電話で麗奈に救援を求めていた安達が、あっというまに別人に変身していた。わずか五分の間に、いったい彼の身に何が起きたのか、麗奈には見当もつかなかった。
「冗談じゃないわっ!」
ついに麗奈は金切り声になった。
「シンちゃん、ふざけないでよ。殺したらその本人がそこにいるわけがないのよ。それくらいのことがわからないの?」
「つらかったわ」
安達が答える代わりに、女が安達にささやいた。
「ほんとうにつらかったわ。真児さんと離れて独りで黄泉《よみ》の国をさまよっているときは、とても淋《さび》しかった。あなたから冥界《めいかい》は見えなくても、私からは現世が見えていたの。そして、あなたが別の女の人と寝ているところも」
「黙ってなさいよ、あなたは!」
麗奈は赤いネグリジェの女に怒鳴った。
「あなたに私の幸せをぶちこわす権利なんかないのよ。ふたごだからって大きな顔をしないでよ。あなたのお姉さんと彼との関係は、もう壊れて元には戻らないの。顔が似ているからって、身体がそっくりだからって、妹じゃ代わりは務まらないのよ」
そこまで言われても、赤いネグリジェの女はまったく麗奈を無視していた。
麗奈は興奮でこめかみに青筋を立てながら、こんどは安達に向かって言った。
「シンちゃん、もうこうなったら彼女も殺しちゃいなさいよ」
「できない」
女の胸に顔をあずけたまま、安達はうつろな口調で答えた。
「二度も唯季を殺すことは……できない」
「まだ目が覚めないのね。だったら私がやるわ」
自分でも完全に常軌を逸していると認識しながら、麗奈は言った。
「こんな女に、私とシンちゃんの結婚をジャマさせないわ。私は唯季さんからシンちゃんを奪ったのよ。それをすぐに、ふたごの妹なんかに取り返されてたまるもんですか」
麗奈は赤いベッドに向かって突進した。
「殺してやる!」
麗奈は女に飛びかかろうとした。
と、そのとき赤いネグリジェの女がキッと麗奈に目を向けた。
安達に注いでいた聖母のような視線は消え去り、美しい鬼となった女がそこにいた。そのあまりの迫力に、麗奈は一瞬だけたじろいだ。
が、すぐに思い直してベッドに飛び乗った。
「シンちゃん、どいて」
麗奈は、ものすごい勢いで安達を突き飛ばした。安達はバランスを崩してベッドから転げ落ちた。
そちらには目もくれず、麗奈はしゃにむに女に飛びかかった。
どのようにして殺すかは考えていなかった。絞め殺すのか、殴り殺すのか、刺し殺すのか、具体的な方法は頭になかった。ともかく自分の怒りの本能がおもむくままに、麗奈は女にむしゃぶりついた。
「ふたごが何よ」
麗奈はわめいた。
「一卵性が何よ。そっくりだからって、あんたに何の権利があるのよ」
麗奈はネグリジェをつかんで、女の身体を大きく揺すぶった。
女の長い黒髪が、バサッバサッと大波のように頭の上で踊り、天井の黒い影がそれに合わせて大きくうねった。
「美人だからって、それが何よ。どんなに顔がきれいだって、心が汚かったらシンちゃんのお嫁さんになる権利なんかないのよ。顔だけじゃ愛情は作れないのよ」
麗奈は憎々しげに女を睨《にら》みつけてから、その白い頬《ほお》に平手打ちをくれた。女は無抵抗のまま赤いシーツの上に横倒しになった。
そのとき麗奈は、枕元《まくらもと》で炎を揺らめかせているロウソクに気がついた。そしてそれに手を伸ばし、ロウソク立てから引き抜いて右手に構えた。
「殺す前に、あんたの顔をこれで焼いてやるわ。それで醜くなった顔をシンちゃんに見てもらいなさいよ。彼がいっぺんにあんたを嫌いになるのがわかるから。しょせんあんたの姉さんなんて、顔だけでもってた人間なんだから。そのことをふたごのあんたも、身をもって知るべきなのよ」
そう言うと、麗奈は女のネグリジェの襟元を持って引き起こそうとした。その拍子に、いままで長い黒髪に隠れていた女の首回りがあらわになった。
そのとたん、麗奈は目を見開いた。
そこには、くっきりとしたロープの跡が浮かびあがっていた。
目の前にいるのは唯季の幽霊ではなく、ユリという名のふたごの妹のはずだった。生身の人間であるはずだった。それなのに彼女の首筋には、繊維の筋まで明瞭にわかる赤黒いロープの跡がぐるりと一周しているのだ。
麗奈の手にしたロウソクの炎が大きく揺れ出した。それを持つ彼女の手が震え出したからだ。
「ど……どうして……」
女の首筋を呆然《ぼうぜん》として見つめる麗奈の肩に、後ろから手が載せられた。
ふり返ると、麗奈に突き飛ばされた安達真児が、黒いコートを着たままの格好で立っていた。
「シンちゃん、これどういうこと」
唇を震わせながら、麗奈はたずねた。
「彼女の首についている跡……あれは」
「だから言っただろう」
虚《うつ》ろな目をして、虚ろな声を出して、安達は答えた。
「彼女はユリではなく、唯季なんだ」
「………」
「そして、その秘密を知ったきみは死ぬんだよ」
嘘《うそ》でしょう、という前に、安達の両手が麗奈の首にかかった。
信じられないといった目で、麗奈は安達を見返した。だが、安達は何もいわずに、いきなりカッと歯をむいた。
ものすごい圧力が、麗奈の喉《のど》にかかった。ぐえっという大きな音が洩《も》れた。
麗奈の右手から明かりの灯《とも》ったロウソクが奪い取られた。倒れていた女が、それを取り返したのだ。
麗奈は、バタバタと暴れた。赤いベッドがゆさゆさと揺れた。自分の首を絞めはじめた安達の両腕に、なんとか爪《つめ》を立てようとした。が、分厚いコートに覆われてどうにもならない。
抵抗が無理だとわかると、麗奈は命乞いをするまなざしを安達に向けた。だが、彼女が惚《ほ》れ込んだ人気スターの美しい顔には、同情の色もためらいの色もなかった。そこからは人間的な感情が一切消えていた。
「麗奈、くるのが遅すぎたんだ」
首を絞める力をますます強めながら、安達は言った。
「あれだけ早くきてくれと頼んだじゃないか。するときみは、ぼくの家の前まできているから、三十秒で行くと答えた。それなのに、なぜすぐこなかった」
麗奈の耳には、安達の声がまだきちんと聞こえていた。だから彼女はその質問に答えようとした。あなたの前に出るときは、少しでもきれいな女になっていたかったのよ。だからお化粧を、と……。
だが、安達の両手に締めつけられた声帯からは、言葉ではなく苦悶《くもん》のうめき声しか出てこない。
「麗奈のくるのが遅かったから、ぼくはタイムマシンに乗せられてしまった。唯季の世界に引き戻されたんだ。死んだ唯季は、また生き返ったんだよ」
顔を真っ赤にしながら、麗奈は「嘘よ、嘘よ」と言いたくて首を左右に振った。
だが、安達はやはり手をゆるめなかった。
「これからぼくは、もう一度唯季との暮らしをやり直す。世間的には、ふたごの妹であるユリと結婚することにしておくから問題はない。ただひとつ、麗奈、きみが生きていたのでは、タイムマシンで過去を消した矛盾が残ってしまうんだよ。だから、どうしてもきみには死んでもらわなくちゃ困る」
麗奈の目から涙がこぼれ出た。悲しみと恐怖と苦しさから出た涙だ。
うっ血した顔はみるみるうちに膨れ上がり、唇が自然と突き出した形になってそこから舌が顔をのぞかせた。
「苦しいでしょう?」
ロウソクを高く掲げながら、横から女がたずねてきた。
「首を絞められるって、とっても苦しいでしょう。私もそうだったからわかるわ」
そして女は、白い息を麗奈の顔に吐きかけながら言い添えた。
「でも、もう少しで楽になるからがまんしてね」
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十七 現実と真実
中曾根麗奈が姿を消してから五日が経った。
だが、彼女の失踪《しつそう》はまだ何の問題にもなっていなかった。たまたま麗奈の両親が美術品のオークションに参加するため、ロンドンへ旅立っていたからである。
両親は旅先から娘にあてて絵ハガキは出したものの、国際電話をかけようとはしなかった。会社勤めをしているわけでもない麗奈の動向を気にする者は、その他に誰もいなかった。
ますます冬の気配を強めた信州の山あいにある湖では、またもう一|艘《そう》の手漕《てこ》ぎボートが姿を消していた。しかし、すでにボートの管理者は湖畔の小屋を引き払って町場の自宅へ戻っており、立て続けの消失を知る由《よし》もなかった。ましてや、湖の底に二人目の遺体が沈んだことなど……。
俳優アダチシンジは、かねてからの予定通り、一週間の休暇を取って北海道占冠村の雪と森に囲まれた洋館へ引きこもった。彼の居場所は完全に極秘にされ、安達がそこにいることを知っているのは、事務所社長の榊原とマネージャーの重田だけだった。
その彼らでさえ、洋館に滞在しているのが安達真児ひとりではないことまでは知らなかった。
ただし、マネージャーの重田だけは、あの晩、安達の自宅二階から見下ろして自分に笑いかけてきた女のことが忘れられなかった。
最初彼は、それを殺された唯季の幽霊だと思って大騒ぎをした。しかしすぐに安達から、それは妻の妹で、一卵性双生児のふたごだから似ているのはあたりまえだと説明され、いったんはそれで納得しかかった。あれだけ美人の奥さんだったのだから、安達もなかなかその面影が忘れられないだろうし、そこへ瓜二《うりふた》つのふたごの妹がいたとなれば、彼女とつきあいたくなるのも自然な感情だと理解した。
だが、彼女が重田にほほ笑みかけた矛盾だけは納得がいかなかった。まったく面識のない妹から、重田が笑顔を向けられるはずはないのだ。それでふたたび彼の胸に幽霊疑惑が持ち上がった。ところが、幽霊説にこだわると安達はとたんに不機嫌になり、彼を早々に追い払ってしまった。
その後、安達と彼女がどうなったのか重田は知らないし、彼のほうからその話題を蒸し返すこともしなかった。ただし、あの女性が姿を現して以来、明らかに安達は変わったと重田は思った。
第一に、安達は重田に預けていた自宅の鍵《かぎ》を返却させた。つまり、マネージャーの彼に立ち入りを許さなくなったのだ。
第二に、安達はいつも抜け殻みたいな顔をするようになった。仕事場ではさすがに気を張った表情を保っていたが、重田と二人きりになったときなどは、ボーッとした様子で自分の世界の中に閉じこもり、重田から話しかけても、ほとんど生返事しか返ってこない状態だった。
社長の榊原もこれには気づいたようで、マネージャーの重田に、真児の様子が変だけれど、何かおまえに心当たりはないかとたずねてきた。が、重田は喉元まで出かかった女の存在を、とりあえずは伏せておいた。
安達に口止めをされていたから約束を守ったというよりも、もっと別の理由で重田は口を堅く閉ざしていた。ふたごの妹のことをしゃべったら自分は殺されてしまうのではないか、という恐れを重田は感じていたのだ。
それはあまりにも非現実的な想像だったが、しかし、どこかで現実的な匂《にお》いもする、と重田は直感的に思っていた。
彼は無意識のうちに、一度は自分に向けられた安達真児の殺意を感じ取っていたのである。
*  *  *
上條純一は、つくば学園都市からやってきた突然の訪問客に戸惑っていた。
差し出された名刺に印刷された『つくばジェネティクス研究所』が遺伝学の研究機関であることを説明され、村田和正と名乗るその研究員の男から、お嬢さんのことでぜひお話がしたくて、と告げられても、すぐには来訪の目的がわからなかった。
というのも、村田は安達真児と小中学時代の同級生だと語ったので、なにか安達に関することなのかと思ったからだ。
だが、週刊誌に掲載された唯季のグラビア写真と、パリで撮影された高見沢ユリの写真を並べて差し出されたのを見て、上條は顔色を変えた。
「十五年ぶりに会いたいと言ってきた安達君は、遺伝学の研究者であるぼくに対して、完全なる同一体のふたごが存在する可能性はあるのか、とたずねてきました」
二枚の写真を硬い表情で見つめている上條に向かって、村田は言った。
「彼は、そんな風変わりな質問をする目的を、ドラマ作りの参考にするためだと説明しました。けれどもそれが嘘《うそ》だったことは、私がパリで撮影した写真をなにげなく見せたときの反応で明らかになりました」
村田は、エレベーターの中で高見沢ユリの写真を見せられた安達が、いかに激しい恐怖を示したかを語った。
そして次に彼は、完全なる同一体のふたご=パーフェクト・ツインズが存在しうる理論として、作り事のつもりで安達君にこう話してきかせた、と言って、パソコンからプリントアウトした四枚にわたるメモを上條に手渡した。
その一枚目に、パーフェクト・ツインズの仮想成立プロセスの概略が簡潔にまとめてあった。
≪ヒトは一卵性双生児を孕《はら》み、それを産むのが本来の姿である──まず、こういう原則を持ち出す。ヒトという哺乳類《ほにゆうるい》は一度に一人だけ子供を産むのが通常の姿だと信じ込んでいる常識を、いきなり覆《くつがえ》してみるわけである。
これはあまりにも非現実的すぎる暴論のようにも思えるが、思ったより高いふたごの出産率をみれば、必ずしも突飛な妄想とはいえない。そして、この前提が受精前の条件や、受精後のさまざまな段階でくずれたときにのみ、単胎の出産となるのだと考える。つまり、いまの常識で通常の出産と考えられているものは、いわば『ふたごくずれ』の例外ケースなのだ。ただし、例外のほうが圧倒的に多いから、人々は生命の誕生を司《つかさど》る意外な大原則に気がつかない。
さらにこの原則では、重要な前提がある。ヒトは本来ふたごを孕むように造られている、としたが、ふたごといっても通常の感覚のふたごではない。パーフェクト・ツインズと呼ばれる完全同一体の一卵性双生児を宿そうとするのが、ヒト本来の生理の姿だとする。
しかし、現実には種の保存のために個体差があったほうが有利であるという法則が働いて、同じ胎盤内にいるときから、パーフェクト・ツインズの双方に差が生じるような環境作りが行なわれる。その大役を担うメカニズムが、アポトーシスによる細胞自爆死プログラムだ。アポトーシス遺伝子はふたごに個体差をつけるために、胎児の成長過程で不要な細胞を処分するさい、その実行プログラムにも微妙なランダムサンプリング操作を行なって差をつけるのだ。もちろん、これに加えて胎内環境の違いという要素も加わって、瓜二つとはいっても、ふたご間の差は親にはわかる程度にはっきりしてくる。
こうした仮想世界の真実においても、卵巣|腫瘍《しゆよう》の一種である皮様|嚢腫《のうしゆ》と同じようなメカニズムで胚細胞が異常増殖を起こす場合を考えておく。つまり、パーフェクト・ツインズの大原則の中にも異常妊娠のケースを設定するわけだ。これが完全同一体のふたごが実際に誕生してしまうきっかけとなる。
パーフェクト・ツインズを生み出す遺伝子を備えた卵巣内の胚細胞が、何かの拍子に異常増殖を開始した場合、皮様嚢腫のように髪の毛や歯などの不完全な人体パーツを作るのではなく、ちゃんとした人体を作りはじめる現象が発生するレアケースがある、と設定する。つまり、受精なき子宮外妊娠が発生するのだ。しかもこの卵子は卵巣でいきなり分裂を開始するにもかかわらず、そこでは着床せずに、ある時期にちゃんと子宮まで降りていって正常の胎盤を形成する。だから、精子なき子供が育つ。
この細胞は、きっかけが皮様嚢腫というガンによる異常増殖だから、そこにアポトーシスを抑制する遺伝子が関与する。そして、アポトーシスが抑制された一卵性双生児の胚細胞は、個体差をつけられることなく、パーフェクト・ツインズの要素を保ったまま細胞分裂をつづける。しかも驚くべきことに、このパーフェクト・ツインズの細胞は、環境の要素に左右されることが一切ない。ゆえに、このふたごは母胎内での環境の差にも影響されず、生まれたのちの環境の差にも影響されず、完全なる同一体のかたちを保ちつづける。
ところで、精子なしに誕生した生命には、当然、染色体に異常が生じていることになる。少なくとも性染色体は相同になっておらず、45+Xの形をとっていると設定しておかなければならない。つまりこれは、一卵性双生児で異性の組み合わせが誕生したときの女児側と同じ状況である。ゆえに、パーフェクト・ツインズは必ず女性の表現型をとり、男のパーフェクト・ツインズは存在しないという法則が、仮想世界なりに成立する。
もちろん、このパーフェクト・ツインズの女性に通常の生殖能力はない。ただし、あくまで『通常の』という但し書き付きだ。彼女たちは卵巣内の胚細胞が異常増殖する体質は遺伝として受け継いでいる。したがって、男性を必要としない生殖能力が彼女たちには備わっているのだ[#「男性を必要としない生殖能力が彼女たちには備わっているのだ」に傍点]。≫
上條が、その一枚目の要約を目で追い終えたことを確認すると、村田は改めて口を開いた。
「もちろん、これは安達君のドラマ作りのヒントにしてもらうためにひねり出した架空の前提です。ですから、非現実的なところはいっぱいあります。たとえば一例として申し上げますと、何から何までアポトーシスが抑制されてしまえば、不要な細胞をそのまま身につけた──たとえば指の間に水かきが残っているような──胎児が誕生することになります。したがって受精なき生命体の場合は、通常の生命体のように、よぶんに細胞を作ってから不要部分をあとで削り落とすといった作業は行なわれないと想定しなければなりません。
そんな矛盾があちこちに存在しますから、専門家の私としては、まさか自分の作り上げた仮想現実が実在するとは夢にも思わなかったのです。ただし、安達君がパーフェクト・ツインズの存在にずいぶんこだわるのでおかしいとは感じていました。そうしたところへもってきて、この写真を見たときの彼の過剰反応です。それから、唯季さんと高見沢ユリの驚くべき相似性です」
村田は上條に手渡した写真を見ながら言った。
「それで、どうしても気になったものですから、あちこちつてを頼って安達君の奥さんの実家を調べたうえでお話にあがったというわけです。ちなみに安達君は、私がこういった行動をとっていることを知りません。べつに私は秘密にこそこそやるつもりはないのですが、彼とはまったく連絡がとれなくなっているのです。連絡さえついていれば、彼を飛び越していきなりおたくへお邪魔するような無礼はしなかったと思いますが」
「なるほど……」
ゆっくりと顔をあげながら、上條は言った。
「あなたはユリと出会われたわけですか、パリで」
「やはりそうなんですね」
緊張した面持ちで、村田はたずねた。
「高見沢ユリ……さんというのは、あなたのお嬢さんなんですね。つまり、亡くなった安達君の奥さんとふたごの姉妹なんですね」
「そのとおりです」
上條はうなずいた。
「わけあって、妹のユリのほうは幼いときに養女に出したのですが」
「立ち入った質問で恐縮ですが、『わけあって』とおっしゃるその事情は、二人の娘さんがあまりにも似過ぎているから、なんとか環境を変えて差をつけたかったためではありませんか。つまり、安達君がしきりに可能性を探っていた完全同一体のふたごは、すでに唯季さんとユリさんのペアにおいて現実になっていたのではないか、ということなんですけれども」
「………」
上條は沈黙した。
何か返事をしようとして、その言葉をまた呑《の》み込むといった感じで、喉仏《のどぼとけ》がしきりに上下していた。
その様子を見つめながら、村田はつづけた。
「いまお渡ししたメモ書きに要約したパーフェクト・ツインズの理論ですが、非現実的な想定の中でも最も絵空事《えそらごと》的な部分が、細胞がいかなる環境にも影響されない、というところだと思います。いくら架空の話といっても、完全同一体でいられる設定が説得力をもつのは、せいぜいふたごが母親の胎内にいるところまでです。出産後、さまざまな環境にさらされてもなお、二人の子供が同一体を保つというのは、かなり無理があるように思えます。
自分でこのアイデアを安達君に提供しながら、当の私が、いちばんここが現実味のないところだなと思っていたんです。完全にそっくりな赤ちゃんが生まれてきたというお話は作れるにしても、その赤ちゃんが成長していく過程でいろいろな差が生じるのはあまりにも明白な常識で、その常識までも覆《くつがえ》すのは無謀というものだろう、と」
「私もそう思うがね」
「しかし上條さん、そこで私はふと考えたのです。『細胞の死があらかじめプログラムされている』というアポトーシスの概念を、もっと発展させたらどんな発想が可能になっていくだろうか、と」
村田は上條のために細胞の自爆死についてかんたんに解説したのちに言った。
「すると、こんな仮説が浮かび上がってくるのです。細胞死の時期をコントロールするアポトーシスだけでなく、ひょっとしたら私たちの身体を形作っているすべての細胞ひとつひとつが、発生から消滅までの全過程を最初からプログラムされているのではないか、とね。専門家が何を血迷ったことを言うのかと笑わないでください。一昔前ならバカげたSF物語だと一笑に付されたこうした発想に、アポトーシスの発見がじゅうぶんな現実味を与えるようになったのです」
上條が何も言わないので、村田はさらにつづけた。
「これまで私たちは、生物の特質は、それが育つ環境に大きく影響されるというふうに考えて何の疑問も持たずにきました。しかし、いま遺伝学界で最もホットなテーマであるアポトーシスの研究をもっと掘り下げていけば、かぎられた細胞の死だけでなく、すべての細胞はその運命を最初から定められていた、という衝撃的な結論に至らないともかぎらないのです。
そんな結論が導かれた日には、環境が個体の特徴を変えるという常識はまったく通用しなくなります。したがって、完全同一体で誕生したふたごが、その同一性を崩さずに大人になってゆくという可能性も大いに論じられてよいことになります」
「ちょっと待ってもらえませんか」
聞き役に回っていた上條が、そこで口を挟んだ。
「それは短絡的すぎますね」
「そうでしょうか」
「たとえばですね、村田さん。私自身を引き合いに出して考えますと、唯季が殺された今度の出来事で、いっぺんに髪が真っ白になってしまいました。事件が起きる前は、もちろん年相応に白いものはまじっていましたが、ロマンスグレイと呼ぶにもまだ早すぎるくらい髪は黒かったんです。ところが、唯季が殺されたショックで、あっというまにこんなぐあいになってしまいました」
上條は自分の白髪をかき上げてみせた。
「当然、この原因はストレスです。つまり、環境要因が毛髪の細胞に影響したわけでしょう。ちがいますか。あるいは、もっとわかりやすい例を出しておたずねしましょう。これからの季節、スキー場へ行けば雪焼けして皮膚が黒くなります。あるいは、夏になって海へ行けば、やはり日焼けで皮膚が黒くなります。これは環境の変化に応じて皮膚の細胞が変化を起こしたわけでしょう。しかし、あなたが言うように環境が細胞に影響をまったく与えないケースが──仮にレアケースという設定にせよ──ありうるとなると、こうした日焼けという現象すら否定しなければならなくなる。さらには人種の皮膚の色合いの違いも説明できなくなりますでしょう」
「それにはこういう答えが用意されているのです」
すかさず村田は言った。
「環境に対してつねに生命体が受け身の立場にいるという概念が間違っているのだ、と」
「というと?」
「上條さんがどこかの海へ行って日焼けをしたとしましょう。それは、たとえば南国の強い日差しという環境があなたに日焼けをさせたのでしょうか」
「当然そうじゃないですかね。私は専門的なことは知らないが、太陽の紫外線に含まれる特定の波長が皮膚に作用して、それでタンニンというんでしたっけね、それともメラニンというんだっけ、よく知らんが、皮膚の細胞の色素が刺激されて小麦色とかになるんじゃないのかな」
「おっしゃるとおりですが、それは環境のせいではないのです」
「だったら何です」
「あなた自身のせいです」
「………」
「いまの仮定でいえば、上條さんが自分で海へ行こうと決めたわけですね。ですから、環境が皮膚を小麦色にしたのではない。そういう環境へ足を運んだあなたが、自分の肌の色を小麦色にしたのです」
「そりゃ理屈をこね回すとそうなるが」
「そもそも上條さんって、何です」
いきなり突拍子もない聞き方をされたので、上條は戸惑いの色を隠さなかった。
「私が何かって? 決まってるでしょう。人間ですよ」
「ちがいますね」
村田は首を左右に振った。
「私が人間じゃないって? だったら何だというんです」
「細胞の集合体ですよ」
「………」
「べつにここで形而上学《けいじじようがく》的な論議をするつもりはありませんが、『我|想《おも》う、ゆえに我あり』というデカルトのあの有名な言葉は、知識こそが真実──言い換えれば、意識こそが人間の本質であると訴えていますが、分子生物学的な、あるいは遺伝学的な、あるいは医学的な見地から申し上げますと、それは誤りで、真実とは『細胞あり、ゆえに我あり』なんです」
ウエーブのかかった髪をときおり片手でつまみながら、村田はつづけた。
「意識というのも、しょせんは脳のさまざまな部分における細胞の電気信号の集積結果なわけですね。それを人は意識と呼んだ。デカルトが活躍した十七世紀の時代には、もちろん脳の中でどんな出来事が起きているかなど、誰も知りませんでした。だから、『我想う、ゆえに我あり』なんてことが言えたんです。彼はたしかに中世スコラ哲学を超えることはできたかもしれません。しかし、決して永遠の真実に近づいたわけではなかった。
ところが現在では、意識とは特定の細胞の電気的活動を指す、とはっきりわかっています。その意識を人間の本質だとするならば、人間とは細胞の分子レベルの活動の表現体にすぎないと結論づけても誤りではない。人間が海へ行こうと思い立つのも、あるいはきれいな女性に恋をするのも、ひとえに細胞の電気的変化の一表現にすぎないのです。その因果が、ちゃんとまた細胞に返ってくる。
脳の細胞が海へ行こうと決めたから、皮膚の細胞は日に焼けたわけですが、脳の細胞が海へ行くという決定を下すには、皮膚から得た体感温度情報も大きく影響している。そう考えていくと、生命体というのは環境に影響されるのではなく、自らの細胞活動のみに影響されるといえるのです」
「しかし、そこまで突き詰めて考えたら、あまりにも現実離れをするというものじゃないだろうかね」
「では、現実とは何でしょう」
「あなたは形而上学的な問答をするつもりはないと言われたが」
「私としては純粋に科学的な問答のつもりですが」
村田はまじめな顔で言い返した。
「『現実』とは、人間の記憶という巨大容量をもつハードディスクに記録されたデータと一致した事実のみを指す言葉です。記憶というのは、何も体験の蓄積ばかりではありません。知識の蓄積もあるし、無意識のうちに映像または音声として脳に刻み込まれた記録の蓄積もあります。そうした膨大なデータ──ときには母親の胎内にいたときのデータも含まれますが、それに照らし合わせて、情報を構成する要素の一致をみたときのみ、これは現実であると認識する。しかし、現実は真実と同義語ではありません」
「すると、私がとうてい現実にはありえないと思うことでも、真実であることはいくらでもあるというわけかね」
「そうです」
「いまあなたが言った、細胞は環境に一切影響されないという仮説もそうかね」
「私は、その可能性が高いと考えるようになりました。『現実』という概念の曖昧性《あいまいせい》に気づいてからは」
「私は納得《なつとく》できないがね、村田さん」
「では、納得していただけるような例を出しましょう」
村田は、客用の湯呑《ゆの》みで出された日本茶を一口飲んでからつづけた。
「いま、私は上條さんに向かって話をしています。では、この私の声は現実でしょうか」
「あまり妙なことばかり言わないでほしいな」
上條は軽いため息をついた。
「これが現実でないと言うなら、私は幻を見聞きしていることになる」
「そのとおりなんですよ」
「なんだって」
上條は、異常者でも見るような目つきで、村田を見やった。
「あなたがしゃべっている声が現実ではない?」
「はい。あなたが見ている私の顔も現実ではありません」
「………」
「決して私は狂っているのではありません。たとえば私がしゃべっているこの声のボリュームですね。これは現実でしょうか」
「少なくとも幻聴ではないと思うが」
「いえ、幻聴なのです」
「どうして」
「では、上條さんは、いま私が発した声を、正確に聴覚神経で再生していると信じておられますか」
「もちろん」
「あなたが聴いている音量は、私の口から発した音量と同じだと信じていらっしゃいますか」
「多少は空気中でロスが生じているかもしれないが、基本的には、あなたがしゃべったのと同じ大きさで、私の鼓膜は再生してくれていると思うがね」
「世間の大半の人はそう信じているでしょうね。しかし、そこからすでに思い込みによる錯覚があるのです」
村田は、声の強さを一定に保ったままつづけた。
「人間は耳たぶを集音マイクのようにして音を集め、外耳道を通して鼓膜を振動させます。じつは、この鼓膜とは、オーディオ機器でいうところのアンプリファイアに相当します。アンプです」
「増幅器、かね」
「そうです。この鼓膜で音の強さはおよそ十七倍に増幅されます」
「十七倍!」
上條は目を見開いた。
「鼓膜の奥は中耳と呼ばれる部分ですが、鼓膜のすぐ内側に接しているのが耳小骨と呼ばれる骨。これはつち骨、きぬた骨、あぶみ骨の三つのパーツが組み合わさって、テコのような格好をしているものです。そして、このテコの原理を応用した耳小骨の振動によってさらに音は一・三倍に強められます。その耳小骨の振動が、カタツムリ形をした蝸牛管《かぎゆうかん》の中に満たされたリンパ液を振動させて、最終的にそれが内耳神経で電気信号に置き換えられて脳に到達するわけです。単純計算でいっても十七かける一・三で、ざっと二十二倍に増幅された私の声を、いま上條さんは真実の音量だと思い込んで聴いているのです」
「………」
「信じられなかったら、こういう実験をしてみてください。唇をちょっとだけすぼめて、そうですね、タバコの煙を吐くようなつもりで軽く息を出してください。唇の間から、軽くです」
上條は、村田に言われるままのことをやってみた。
「唇の間を息がフッと通過する音が聞こえましたか」
「ああ、よく聞こえた」
「でも、その程度の空気の通過音が、ほんとうにいま聞こえた大きさで存在していたと思いますか。それよりも、実際にはいま聞こえた大きさのおよそ二十分の一のボリュームだったと解釈するほうが真実に近いと思いませんか」
村田に問いかけられて、上條はフッ、フッとかすかな息を洩《も》らすことをさらに二度三度と繰り返してみた。そしてつぶやいた。
「なるほど、こんなかすかな音が、これほどはっきり聞こえるのは不思議だという気がしてきました」
「ご納得いただけましたね」
「ああ」
「私たちを取り囲む世の中というのは、じつは実際に体感しているよりも二十倍も静かな世界なんですよ。人間が勝手にそれを増幅してうるさい世界にしているんです。もっとも、サバンナに生きるライオンやシマウマなどは、音だけでなく匂《にお》いも含めて、もっともっと真実を増幅した世界に生きているわけですけれどね。……ま、私たちが真実だと思い込んでいる現実なんて、しょせんその程度のものなんです」
村田は肩をすくめた。
「物の見え方だってそうです。複眼をもったハエと人間の目では、同じ風景を見てもまったく異なる世界が展開する。ではどちらが真実かというと、どちらも現実だが、どちらも真実ではない。悲しいことに、どんなに高度な生命体も、宇宙の真実を見たり聴いたりすることはできないようになっている。宇宙とか神は、つねにかりそめの姿しか私たちに見せてくれないんです」
「……かもしれませんな」
上條にとって、村田の言葉はしだいに説得力を持つようになっていた。
そして、ふたごの父親は、いつものように座卓の隅に載せてある三冊のアルバムのほうに目をやった。
そのうち二冊までは、唯季の婿である安達真児に見せていた。だが、三冊目は──上條の妻であり、ふたご姉妹の母である慶子が発狂するに至った日記については、安達には見せていなかった。先ほどから上條は、この三冊目のことが気になって仕方なかった。
「話を元に戻しましょう」
村田の声で、上條はアルバムから目を離した。
「人間にとって真実とは何か、という問題がまだまだ未解決である一例をいまお話し申し上げたわけですが、そういう観点からみても、完全なるふたごの存在を作り話だとは一概には否定できない。私はそう考え直してきました。なによりも実例が目の前に現れたわけですからね」
パリで撮影した写真を目で示しながら、村田は言った。
「正直なところを申し上げまして、こうなりますと、私にとってユリさんの存在は、恋《こ》い焦がれる片想いの人ではなく、遺伝学研究者としての興味の対象と変わってきました。そういう目でお嬢さんを捉《とら》えるのは、お父様からすれば大変不愉快であるのはわかります。しかし、ここで率直におたずねしますが、実際のところはどうなのでしょう。やはり、唯季さんとユリさんは、世にも不思議なパーフェクト・ツインズなのでしょうか。仮想世界の話はすでに現実になっていたのでしょうか」
「………」
上條は黙った。苦悩の色を浮かべながら、村田和正の質問に対して沈黙をつづけた。
が、やがて長いため息とともに彼はつぶやいた。
「村田さん、もう少し話してくれませんかね」
「何をです」
「私をその気にさせるような話を、もっと」
「その気にとは?」
「私が、自分が人間でないと思い込めるような話をもっと」
「え?」
「あなたはいま、人間とは細胞の集合体であると言われた。そういった話をもう少し聞きたい」
「どうしてです」
「これが人間の世界の出来事だと思うと、私は気が狂いそうになるからだ」
上條は、脅えた目で村田に言った。
「もうあなたは、私の口から出る答えをとっくに推測されているはずだ。だが、私はおよそ四半世紀にわたってこの問題で悩みつづけてきたんです。その途中で、妻の自殺という悲劇にも出会いました。だから、ほんとうの意味で真実と向き合うことができない。いや、現実と言い換えるべきなのかもしれませんが。
つまり私は、自分の娘たちが特別な人間であるとは思いたくないのです。もっとはっきりいえば宇宙人だとは思いたくないのです。いや、もっともっと端的にいえば、化け物だとは思いたくないんです!」
上條の声が尻上《しりあ》がりに大きくなっていった。
「しかし、そもそも私という存在も人間ではないと割り切れたら、娘たちだけが特別変わった存在でもなくなるような気がする。あの子たちだけが人間ではないような言い方は、親としてはできないんです。口が裂けても、そういう言い方はできない」
上條の目に涙が浮かんできた。
「それに村田さん、これは真児君にもまだ言っていないことなんですが、じつは家内の自殺には隠された秘密があるのです」
「………」
こんどは村田が黙って話を聞く番だった。
「私は真児君にこういう趣旨のことを言いました。家内の慶子は、自分の産んだ二人の女の子があまりにも似すぎているために、不気味な体験を毎日積み重ね、それが高じて精神的にパニック状態を引き起こして、ついには自分からダンプカーに飛び込んでいったのだ、と。しかし、真相は違うのです」
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十八 神々の世界へ
上條は、安達に見せなかった三冊目のアルバムを自分の目の前に引き寄せた。
「ここには妻の日記が貼《は》り込んであります。日記帳ではなく、便箋《びんせん》に延々書き綴《つづ》られたものです。おそらく、私に宛《あ》てた遺書のつもりで綴ったものでしょう」
「自殺の直前に書かれたものなんですか」
「いや、ずっと前です。だから私は後悔している」
苦しそうに、上條は言った。
「ここに記された妻の苦しみに私が気づいていれば、彼女はあんな悲劇的な最期を遂げることはなかったはずなんです」
村田は無言で先を促した。
「妻はたしかに自殺でした。ダンプカーに飛び込んだのもほんとうです。そして彼女が、自分が産んだふたごの娘たちの驚くべき相似性に恐怖を抱いていたのも事実です。けれども、慶子が精神的に追い詰められた最大の原因を作ったのは、この私でした。私が、家内を死に追いやったんです」
上條は肩を震わせた。
「ある夜、仕事から戻ってきた私に、慶子がまたいつものように、二人の子供たちのそっくりぶりで混乱に陥った出来事を涙をまじえながら訴えかけました。いまとなっては記憶がはっきりしませんが、たぶんその日私は仕事のことでイライラしていたんだと思います。精神的にあまりいい状態でないところへもってきて、連日のように聞かされていた家内の悩みをまた繰り返されたので、プツンと切れてこう叫びました。『もういいかげんにしてくれ。だいたい唯季《ゆき》も唯李《ゆり》もおれの子供じゃないんだから、問題があるならおまえひとりで解決してくれないか。おれの知ったことじゃないんだから』と」
「………」
「家内は、私の言葉を聞くなり目を丸くしました。言ってから、もちろん私はしまったと思いました。でも止まらなかった。それだけじゃ止まらなかったんです。私は愕然《がくぜん》となっている家内を罵倒《ばとう》しまくりました。『いままで黙っていたけれど、おれはずっとおかしいと思っていたんだ。あの子たちは少しもおれに似ていないじゃないか。どこの男と浮気して作った子供なんだ。そういう不貞をやらかすから、バチが当たったんだ』と、いま思い返すだけでも身震いするほどひどい言葉を、一時間も二時間もつづけてまくし立てたんです。完全に私は爆発してしまったのです」
「二人のお嬢さんが自分の子供ではないのではないか、という思いは、その前からずっとあったんですか」
静かに村田がたずねると、上條は無言でうなずいた。
その拍子に、三冊目のアルバムの上に涙がこぼれ落ちた。
「家内は美しい女性でした。あなたがパリで見初めたユリの美しさも、真児君が一目ぼれした唯季の美しさも、みな母親からそっくり受け継いだものでした。そして、娘たちの顔立ちや立ち居ふるまいの中に、私の要素はひとつもなかった。私の血を受け継いだと思われるところがひとつもなかったんです。それが、ずっと私の心にひっかかっていた。ふたごどうしの似方よりも、そのほうが私は気になっていたくらいです。そしていつしか、この娘たちは家内が浮気して作った子供なんだという考えが、頭の中で事実として凝り固まってしまったのです。
たぶんそこには、よそのふたごとは違う、あまりにも奇妙な似方をした娘たちを、自分の子供ではないと思いたい心理が働いていたに違いありません。でも、慶子としてはよもや自分の夫がそんなふうに疑っていたとは露ほども知らなかったはずですから、突然の私の爆発に、ショックを通り越してパニックを起こしてしまいました。そして心のバランスを崩した家内は、それを治療するために入院し、その入院中に悲劇的な発作を起こしたのです。
ただし、その発作も唐突にやってきたのではなく、もう耐えに耐えた神経がついに限界を越えてしまったという状態で起こったものでした。その一部始終が、本人の手でここに記されています」
上條は、三冊目のアルバムにそっと手を置いた。
「この遺書代わりの手紙を読んで、私は自分のした鬼のような仕打ちを悔やみました。けれども、慶子が死んでもなお、私の頭からは娘たちが自分の実の子供ではないという思いがこびりついて離れなかった。だから、二人の環境に差をつけるため、などともっともらしい理屈をつけて、片方の娘を養女に出すことを平気でやれたんだと思います。自分の血のつながった娘だと信じていれば、いくら世にもまれな完全同一体のふたごであっても、自分のもとから手放すはずはないんです」
上條の話を聞きながら、村田は自分の仮説があまりにも的中していることに強い驚きを覚えていた。
ふたごの父親が、生まれてきた娘たちが自分にまったく似ていないことを気に病んでいたというのは、とりもなおさず、そのふたごが受精なき生命体である事実を示唆してはいないか。
「私は……」
鼻をすすりながら、上條は言った。
「自分の責任で美しい家内を失ってもなお愚かな過ちに気づかなかった私は、今回、ふたごの片方の唯季を失ってようやく目が覚めたんです。ああ、やっぱりこの子たちは自分の娘なんだと、何もかも失いかけて初めて真の愛情が湧《わ》いてきたのです。そういう私にとって最後の願いは、養女に出したユリが安達真児君の妻になってくれることでした。そうすれば、失った唯季を取り返すことにもなる、と……。
村田さんにはもう何もかも正直に申し上げますが、私は真児君には、きみとの親子の縁を今後もつづけるためにもユリと再婚してくれないか、と頼みましたが、本音では違いました。ユリに唯季の代わりをさせたかったのです。ずっと私の手元に残して育ててきた唯季と、もういちどほんとうの意味での親子関係を結びたくて、その役目をユリにしてもらいたかったのです。つまり、あの子をタイムマシンにして、私は過去に溯《さかのぼ》って人生のやり直しをしようと思ったのです」
はからずも上條は、中曾根麗奈が最初に言い出したのと同じタイムマシンという表現を持ち出した。
「そして驚くべきことに、私が切り出すよりも前に、ユリがこう言い出したのです。私は真児さんと結婚したいのです、と」
「それはぼくも言われました。名指しこそしなかったのですが、結婚を決めた相手がいると、すでに一年前に」
村田は、パリの街角で唐突にプロポーズしたときの高見沢ユリの返事を上條に話して聞かせた。
「そのときからユリさんはこうなる運命が見えていたんですよ」
「あの子に予知能力があったということかね」
「いいえ、プログラムされた細胞の集合体としてのユリさんが、そのプログラム内容を自分で正しく読み取っただけのことなのかもしれません」
村田は淡々と語った。
「彼女の場合は、恋愛感情すらあらかじめプログラムされていたんです。ある一定時期がくれば、脳の中の感情の領域を受け持つ細胞が、そうした電気信号を送り出すようにタイマーセットされていた。だから、一度も見ない安達君に真剣に恋ができたんです」
「信じられん」
「しかし、考えようによっては、上條さんが奥さんと結婚なさったのも、あらかじめプログラムされていた細胞が具体的に機能しはじめた結果なのかもしれません。ぼくがユリさんに恋をしたのもね」
「………」
「ですからユリさんは、いずれは片割れの唯季さんの代わりを務めることがわかっていた。というよりも、自分たちは最後は合体することがわかっていたのではないでしょうか」
「合体!」
「ええ、完全なる同一体のふたごには、最後は『同一そのもの』にまで収束する運命が待ち構えているのかもしれません」
「ふたごで生まれた娘たちが……また……合体……」
思いもよらぬ概念を持ち出されて、上條は絶句した。
「それがどのように行なわれるのか、私にも想像はつきません。たとえば、ユリさんが安達君とまじわることで、安達君という媒介を通して唯季さんのデータを回収するとか、あるいは、とてつもない発想で恐縮ですが、なんらかの形でユリさんが唯季さんの亡骸《なきがら》と接触し、そこから遺伝子情報を得たとか」
「それはありえない」
上條はかぶせるように言った。
「周囲に騒ぎを巻き起こすのを懸念《けねん》して、私は通夜や葬儀にはユリがこないように申し伝えておいた」
「お通夜よりも前に、唯季さんの亡骸と接触していたとしたら?」
「どこで」
「殺害現場で」
「なんだって!」
上條は叫んだ。
「まさかきみは」
「誤解なさらないでください」
村田は、上條の興奮をとっさに抑えた。
「なにも私は、安達君を奪い取るためにユリさんが唯季さんを殺した、と申し上げているのではありません」
「じゃあ、何だと言うんだね」
「事件の第一発見者は誰でした」
「新聞の集金人だよ」
「それよりも早く、ユリさんが唯季さんの死体を発見していたとしたら?」
「だけどユリは海外に」
と、反論しかけて、上條はいったん口をつぐんだ。
海外にいて連絡がとれなかったというのは表向きの話で、あのときはユリのほうから電話がかかってきたのだった。虫の知らせで、というふうに……。しかし、あの電話が海外からだったという証拠はない。最近の国際電話は、昔と違ってあまりにもクリアだ。ときとして音声のタイムラグすら感じられないことも多い。
「すると……」
上條はまた口を開いた。
「あなたはこう言いたいのかね。ユリがたまたま横浜の家を訪れたら……」
「たまたまではなく、いつもの習慣として訪れたら、そこで悲劇を発見したんです。でも、悲劇すらも完全同一体の合体のために運命づけられていた出来事だとしたら、ユリさんは悲しむのではなく、そこで淡々と唯季さんの死体からさまざまの情報を回収する作業を行なったかもしれません。極端な話、警察ではまだ犯人のメドもつけられていないのに、ユリさんはとっくに唯季さんを殺した人間の情報を手に入れているかもしれないのです」
「そういう想像は不愉快だ」
上條は怒った。
「そもそも、ユリが『いつもの習慣で』横浜の家を訪れたとは、どういうことかね。ユリはここしばらくはヨーロッパを旅していたんだ」
「完全同一体のふたごは、それがすり替わっても他人にはまったく気づかれないことをお忘れなく」
村田はズバッと言った。
「安達君すら気づかぬうちに、唯季さんとユリさんが定期的にすり替わっていた可能性を否定できますか」
「う……」
うめき声を洩《も》らしたまま、上條は何も言えなかった。
子供のころのままだ、と上條は思った。
「もともと合体する運命にあった二人の間には、嫉妬《しつと》とか競争といった概念はなかったでしょう。そこにあるのは、できるかぎりの体験を共有しておこうという動きです。一日交代というのは大げさにしても、唯季さんがじつはヨーロッパでソムリエ修行をしており、ユリさんが安達君と夫婦生活を送っていたという時期が定期的にあったとしても、それは絶対にバレないんです。ということは、じつは殺されたのがユリさんだった可能性すら出てくるわけですよ。そして、いまユリさんだと名乗っているほうが唯季さんだと……」
村田の言葉に、上條は額の汗をぬぐった。じっとりとした脂汗だった。村田の推測は的を射ていることは、なによりも上條が実体験としてわかっていた。
「上條さん、どうやらぼくも不可思議な世界に足を踏み入れてしまったようです。しかし、人間を複雑な個性をもった高等動物と考えるから、完全同一体の存在をありえないことと思うのであって、人間は細胞の集合体であり、もっと細かく突き詰めていけば、人間は記号でできていると考えれば、完全同一体が存在しても少しも不思議ではなくなるんです」
「人間が記号でできている、だって?」
「ええ。さっき上條さんは、自分が人間ではないという発想をもっと聞きたいとおっしゃいましたね。唯季さんやユリさんだけを特別視しないためにも」
「ああ」
「では、そのことについて少しだけお話ししましょう。人間の遺伝情報はDNAに存在することはいまでは常識となっていますが、このDNAの中で遺伝に拘《かか》わる部分──構造遺伝子と呼ばれる部分は、じつはぜんたいの一、二割にしかならないことは、一般にはまだあまり知られていません」
「残りの八割九割は」
「不明です」
村田は首を振った。
「いま、世界中の研究者がすべてのヒトDNAを解析するという壮大な計画に取り組んでいます。しかし、すでにタンパク質を生成する構造遺伝子の転写システムについては相当のところまで研究が進んでいる。それを見ますと、人間とは記号もしくは暗号によって作られた存在であることが明白にわかります。これをコドンの世界といいます」
「コドン?」
上條は聞き返した。
「それについて、もっと具体的に話してくれないかね」
「DNAが自分の持っている遺伝情報をもとにしてタンパク質を作る過程は、これはほとんど暗号解読の世界なのです。上條さんはDNAが二重|螺旋《らせん》構造を持っていることをごぞんじですか」
「聞いたことはある」
「この二重螺旋のペアは、わかりやすいたとえを申し上げますと、磁石のN極とS極が引き合うような形の水素結合によってくっついています。ただし磁石と違うところは、引き合う要素が二組存在することです。何かメモを貸していただけますか」
上條が差し出したメモとボールペンを使って、村田は図示をはじめた。
「DNAは四つの塩基から成っています。アデニン・グアニン・シトシン・チミンです。これの頭文字をとってAGCTと書きますが、この四つの塩基のうちペアを組む取り合わせは原則として決まっています。アデニンとチミンが組み、グアニンとシトシンが組む。つまりAとT、GとCがペアを作るのです。ときとしてミスマッチが生じることもあるのですが、それはいまは置いておきましょう。
この塩基のペアが握手をして、二本の鎖にハシゴをかけます。そして十組のハシゴが架けられたところで、だいたい螺旋が一回転する構造になっています。これが有名なワトソン‐クリックのDNA立体モデルとして示されたものです」
村田は、先日安達に詳しく説明するつもりだった話を、いま上條にしていた。
「たとえば、二本鎖のDNAの片方がATGCTCATと並んでいたとすれば、それとペアを組むもう一本の塩基の並び方は、TACGAGTAになります」
「鋳型みたいなものかね」
「おっしゃるとおりです」
村田は大きくうなずいた。
「このDNAの塩基の並び方がそのまま遺伝情報となるのですが、このデータをもとにしてタンパク質が合成されるとき、まず二重螺旋のDNAに、RNAポリメレースという酵素がくっつきます。わかりやすいイメージを描くには、DNAをカセットテープだと思ってください。そしてRNAポリメレースは、テープデッキのヘッド部分です。実際には、RNAポリメレースがDNAというテープの上を動いていくのですが」
自分の専門分野だけに、村田の図解は的確ですばやかった。
「この酵素がくっつくと、二重螺旋だったDNAが一本ずつの鎖にほどかれます」
「するとカセットテープというよりも、ズボンのジッパーみたいなものかね」
「ああ、そうか、そうですね。そういうたとえ方はいままで考えつきませんでしたが、そのほうがわかりやすい。かみ合っていたDNAのジッパーが、RNAポリメレースという酵素で二つに開かれていく……そう、このほうがぴったりきますね」
村田は図をジッパー型に置き換えた。
「ところで、RNAポリメレースが最初に取り付く位置はどこでもいいわけではなく、DNAのジッパーの中のここですよというポジションがちゃんと示されています。そこをプロモーターというんです。で、プロモーターに取り付いたRNAポリメレースは、DNAの片方の鎖を鋳型として、塩基のペアを作ります。つまり、くっつかなかったほうのDNAと同じ並びの塩基になるわけですね。鋳型としたDNAの塩基配列がATGGなら」
「TACCになる」
「そうです。ただしこの転写の段階で、チミンのTがウラシルのUに置き換わるのでUACCとなるのですが、本質的には鋳型関係は変わりません。この転写された新しい鎖がメッセンジャーRNAと呼ばれるものです。つまり遺伝メッセージを運ぶ役割ですね」
「なるほど」
「面白いことに、DNAのジッパーを開けたRNAポリメースは、ちょうど十二個の塩基を転写したところで、ふたたびそのジッパーを閉じ、そこの部分のDNAを二重螺旋状態に戻したのちに、次へ進むのです」
「そこでまたジッパーを開けるのかね」
「そうです。十二個分ね」
「ほう」
「そうやって、長い鎖のメッセンジャーRNAが作られていきます。しかし、DNAという長いジッパーの上を転写していった中で、役に立つのはほんの一部分です。というのも、いま申し上げましたように、DNAの中で遺伝情報を担当する構造遺伝子の部分はぜんたいの二割にも満たない部分です。しかも、これはジッパーの特定の場所にまとまって存在しているのではなく、ちょうど鉄道線路の駅のように、構造遺伝子のブロックがあったかと思えば無関係な部分が長くつづき、また構造遺伝子のブロックが出てくるという繰り返しなんです。この構造遺伝子のブロックをエクソンといいます。そして、それ以外の部分をイントロンといいます。
タンパク質合成に必要なのは、飛び飛びに出てくるこのエクソンの部分だけなんです。そこで、転写し終わった長いメッセンジャーRNAのテープを──ここからはジッパーではなくテープに見立てたほうが理解しやすいんですが、このテープを切り貼《ば》りする作業が行なわれます。これをスプライシングといいます。なんでもテレビやラジオ業界の人がテープ編集をするさい、つなぎ合わせるテープのことをスプライシング・テープというそうですが、あれとまったく同じです。放送用に取材テープの不要部分を短くカットするのと同じ編集作業が、細胞の中で行なわれるのです」
「ほんとうかね。しかし、そうなると、どこを切ってどこをつなげるという指示を出す、いわばディレクターの役割が必要となるんじゃないかね」
「細胞の世界では独立したディレクター役が存在するのではなく、その指示は暗号コードとなって、メッセンジャーRNAの中に組み込まれているのです。実際にタンパク質合成に使うエクソンとそれ以外の不要なイントロンの連結部分には、必ずAGGUAAGUという八つの塩基の配列が出てきます。このAGのところとGUAAGUの間にハサミが入って、テープがカットされるんです」
「編集作業をする場所があらかじめ指示されているのか」
「そうです。この指示がちょっとでも狂うと、遺伝情報はメチャメチャになってしまいます」
村田の説明に上條はうなった。だが、彼が驚く話はまだあった。
「そうやって作られた編集済みテープは、細胞内のリボゾームへ届けられます。そこで具体的なタンパク質の合成が行なわれるのですが、いったいどういうタンパク質を作ればよいのかを、リボゾーム工場のスタッフは届けられたメッセンジャーRNAという設計図から読み取らなければなりません。ところが、タンパク質を合成するためのアミノ酸は二十種類、一方データ送信に使われる塩基の種類はDNAでいえばATCG、RNA式に読み直してAUGCの四種類しかない。これでは設計図が描けそうにありませんが、ここで遺伝子はとてつもない技法を編み出しました。それは、三つの記号で一つのアミノ酸を表現するトリプレット方式の暗号コードです。
AUGCの四種類の文字をだぶって何度使ってもよいという条件で、三文字の単語を作るとすると、四×四×四で六十四通りの単語ができることになります。二十種類のアミノ酸を示すにはじゅうぶんでしょう」
「それはそうだが……」
「そして実際に、この六十四通りの組み合わせのうち六十一通りに具体的なアミノ酸生成指令が暗号コードとして割り当てられているのです。この暗号のことをコドンと呼ぶのです」
「コドンはぜんぶ解読されているのかね」
「ええ、解読済みです。たとえばGGU、GGC、GGA、GGGなどといった組み合わせは、いずれもグリシンを、UUAとかCUCとかCUGはロイシンを、AUGの組み合わせはメチオニンを指すというふうにね。
そして、このメチオニン生成のAUGコドンは、メッセンジャーRNAの翻訳開始コドンも兼ねています。つまり、リボゾームに運ばれた編集済みテープの中で、ここから設計図の中身がはじまるんですよという指示がAUGコードなんです」
「すると、翻訳終了コドンもある」
「もちろんです。いま私は六十四通りの組み合わせがあるコドンのうち、六十一通りに各種アミノ酸生成の指示が割り当てられていると言いましたが、残りの三つが翻訳終了コドンです。それがUAAとUAGとUGAです。この三つの組み合わせのどれかが出てきたときに、工場の組み立てラインはストップします。現場監督がいるわけでもない。終業ベルが鳴るわけでもない。すべてが暗号として組み込まれた完全オートメーションラインです」
「………」
上條は、分子レベルの世界に圧倒されて声も出なかった。
「上條さん、しょせん人間なんて幻想なんですよ」
吐き捨てるように、村田は言った。
「遺伝子の世界を研究していくと、私はつくづくそう思います。けっきょく、ぼくも上條さんもコドンに支配された存在でしかない。アデニン・グアニン・シトシン・チミンの化身にすぎないんです。四種類の記号の組み合わせで生きているだけの存在なんです。それがえらそうに学問をしたり、恋愛をしたり、政治を行なったり、戦争をやったりしているわけですよ。
しかし、すべては遺伝子の指示命令にしたがって動いているだけなんです。学問ひとつ取り上げてもそうです。有史以来、人間はさまざまな分野の学問を発展させてきましたが、つまるところ、それらはすべてコンピュータの完成のためにあったような気がするんです。数学も物理学も哲学も生物学も医学も機械工学も、ありとあらゆる学問はコンピュータを誕生し発展させるために存在した。音楽や美術といった芸術の世界だってそうです。そして、これもまた遺伝子によって運命づけられていた」
「たしかにコンピュータの開発には、これまで積み上げてきたあらゆるジャンルの学問が必要だったと思うし、そのコンピュータの一般ユーザーへの普及には、美術とか音楽といった芸術分野のノウハウも役立ったと思う。だが、なぜコンピュータの完成が、遺伝子によって命令されたと考えるんだね」
「それによってヒト遺伝子の解析が決定的に可能になったからです。いまのところ、まだ全容解明には至りませんが、それも長くはかからないでしょう。上條さん、遺伝子は自分の姿が見たくてコンピュータを開発したのです[#「遺伝子は自分の姿が見たくてコンピュータを開発したのです」に傍点]。遺伝子にとって[#「遺伝子にとって」に傍点]、コンピュータとは姿見なんです[#「コンピュータとは姿見なんです」に傍点]。自分がどれだけすてきな存在であるかを確かめるための鏡なんですよ[#「自分がどれだけすてきな存在であるかを確かめるための鏡なんですよ」に傍点]。
その鏡がほしくて、遺伝子は人間という集合体を作り上げ、チームワークを組んでコンピュータの開発に取り組ませた。チームワークという意味は、一個体の中の遺伝子のチームワークと同時に、それに操られた人間集団のチームワークをも指しますが」
「するとあなたは、人類がコンピュータ開発へ行き着く過程もすべてプログラムされていたと」
「思いたくなりますね」
村田は、上條の言葉をすぐに引き取った。
「ネアンデルタール人やクロマニョン人の頭脳の中に、すでにコンピュータを開発するための知識の芽生えは植えつけられていた。もう十万年以上も前から、ヒトゲノムの中にそれは組み込まれていたんです。その知識の種が代々受け継がれて、ようやく二十世紀の終わりになって動き出した。そして、動き出してほんの数十年で、早くも終点が見えてきた。おそらくこのタイミングまで計算し尽くされていたような気がします」
「遺伝子のすべてを解明したとき、人はどうなるのかね」
「遺伝子こそが神だと知るでしょう」
村田はつぶやいた。
「デカルトが神の存在を証明したというのは、まだ試行錯誤の一段階にすぎなかった。コンピュータの力を借りなければ、真の神の存在は見えなかったのです。長い間人類がその存在を『天』とか『宇宙』とか、あるいは『意識』『無意識』の中に存在すると信じてきた全能の神が、じつは細胞内のナノメートルの世界にあったと知ったところで、人類は最終局面に入るのではありませんか」
「で、その先は」
「それは私にもわかりません」
村田は、ゆっくりと首を振った。
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十九 豹 変
突然訪問してきた遺伝学研究者から衝撃の着想を次々と聞かされ、上條純一はしばらく感覚がマヒしたようにボーッとしていた。
そして、長い沈黙ののちに、彼はまた村田和正に問いかけた。
「では、これまであなたが述べられた仮説の中で、唯季とユリの存在はどういう意味を持つんでしょうかね」
「いままでの常識を覆《くつがえ》すきっかけ作りの役割を担わされているのだと思います」
村田は答えた。
「アポトーシスの発見もそうです。ここ数年になって、急にアポトーシスの研究が進んだのも、人類に与えられていた常識が覆される序曲だと思うのです。この場合は、まだ細胞単位での常識の転覆ですから、そのショックに一般性はない。専門家だけが盛り上がっているだけで、大新聞の科学担当記者ですら興味を示していません。ところが、世にもまれな完全同一体のふたごという具体的な形をとって既成概念の破壊が行なわれると、この衝撃はアポトーシスの発見の比ではありません。しかも、唯季さんとユリさんは息を呑《の》むほど美しい。おまけにその間に入った男性も、これまた人気ナンバーワンの二枚目俳優アダチシンジです。……私が思うに」「私が思うに」
村田の話の途中で、上條がまったく同じ言葉を挟み込んできたので、二人とも同時に口をつぐんだ。
「あ、どうぞ」
「いや、村田さんからどうぞ」
譲り合ってから、村田は話を再開した。
「私が思うに、有名人の安達君が唯季さんを選び、ユリさんがまたその安達君を選んだというのは、これもまた定められていた流れではないでしょうか。つまり、遺伝子に関する新概念を世に広く知らしめるためのきっかけとして、この時期に、この登場人物でセッティングがなされていた」
「私もまったく同じことを言おうとしていたところですよ」
上條は長いため息を洩《も》らし、そして村田にたずねた。
「で、村田さんはどう思いますか。そんなユリを真児君と再婚させたいという私の願いについて」
「………」
「いや、これはあなたにおたずねするような筋合いではないのかもしれませんが」
「いいんじゃないんですか」
村田は、努めてさりげなく答えた。
「唯季さんの一周忌が過ぎてからの結婚だったら、モラル的にあれこれ言われることもないでしょうし」
「しかし、かなりの騒ぎになりますよ」
心配そうに上條は言った。
「殺された妻のふたごの妹と結婚するということだけでも、かなりの色眼鏡で見られそうなのに、それに加えて前の妻と何から何まで同じなユリの姿をみんなが見たら……」
「仕方ないでしょう、それが定められた流れなんですから」
「……あ、そういえば村田さんは、ユリにずいぶんと好意を抱かれていたのでしたね」
上條はすまなそうな顔を浮かべた。
「最初にお聞きしていたのに、ついうっかり忘れておりました。あなたのお気持ちも考えずに」
「いや、いいんですよ。そんなことは忘れてくださって」
村田和正は、引きつった笑いを浮かべた。
「それよりも、気になるのはユリさんの写真を見たときの安達君の反応です。彼はなぜあそこまで脅えたのでしょうか」
「それはやはり、殺された妻とそっくりの顔がそこにあったからではありませんか」
「でも、写真は去年撮ったものだと彼は承知しているんです。それなのに、大変なあわてふためきようでした」
「う〜ん」
上條は腕組みをした。
「そのへんになると、真児君本人にきくよりありませんがねえ」
「さきほど伺った話ですと、ユリさんのプロポーズというんでしょうか、彼女の恋心は安達君に伝わっているわけですよね」
「ええ、この部屋で私から話しました」
「そのときの彼の反応は?」
「びっくり、という感じでしたね。無理もありませんが」
「異様に怖がっているような感じはありませんでしたか」
「それはなかったような気がします。というよりも、じつはそこで唯季とユリの常識を超えた相似性について話してはいるんです。けれども、真児君はにわかには信じられなかったのでしょう」
「その後、ユリさんと安達君は会ったのですか」
「知りません。ユリはまだその後の展開を私に話してくれていませんし、真児君も仕事が忙しいようで、これといって」
「仕事は忙しくないんですよ」
「え?」
「安達君は二、三日前から、およそ一週間の予定でオフをとっているんです。あんまり彼と連絡がつかないものですから、テレビ局のディレクターを装って事務所に電話を入れたところ、そんな返事が返ってきました。行き先はもちろん教えてもらえませんでしたが」
「それは私も知らなかったな」
「法事とか、そういうものは」
「とりあえず一段落はついていますからね」
「ひょっとしたらユリさんといっしょということは」
「それはあるかもしれません」
上條はうなずいた。
「ついこの間まで我が家に寝泊まりしていたのですが、その後は友だちの家に泊まると言って出ていきましたから」
「ここに、ユリさんがいらっしゃったんですか」
「ええ」
「高見沢ユリさんが」
「はい」
「そうですか……」
小さくつぶやきながら、村田は、まだ上條の前に置かれたパリでの写真に目をやった。
一時は、もはや再会は不可能だとあきらめていたあの美しい女性が、ふたたび手の届くところに戻ってきた。しかも、思いもかけない場所に。村田は、急に胸が苦しくなった。そして耳たぶが熱くなり胸が高鳴るのを感じた。ユリの身体から放たれる甘い香りが、いまいるこの部屋にまだ漂っている気さえした。
「お父さん」
いきなり村田からそんな呼び方をされたので、上條はびっくりした顔になった。しかも、村田の口調は急にとげとげしいものになっていた。
「お父さんは疑ってみられたことがありますか」
「何を」
「唯季さんを殺した犯人について、です」
「というと」
「まだつかまっていませんよね、犯人は」
「もしかして村田さん、あなたは真児君の関与についておっしゃりたいのですか」
「はっきり申し上げればそうです」
「それはない。ないと信じています」
「信じる、信じないは無意味ですね」
冷たい言い方を村田はした。
「関与があるのか、ないのか、その事実が重要です」
「たしかに、口さがないマスコミに妙な噂《うわさ》を立てられたこともありました。しかし、真児君のアリバイは完璧《かんぺき》なものでした」
「でも、実行を人に頼んだかもしれない」
「それもないでしょう」
「どうしてそう言い切れます」
「唯季は乱暴されて殺されていたんです」
つらそうに顔を歪《ゆが》めながら、上條は言った。
「委託殺人でそこまでひどい仕打ちをしますか。警察は、居直り強盗のしわざだとみています。物盗《ものと》りに入ったところを唯季に見つかり、そして唯季を見て欲望をかき立てられ、ああいった仕業に及んだと」
「どうですかね、わかりませんよ」
村田は厳しい表情で言った。
「そう受け取られることが依頼者のつけめだったかもしれない」
「村田さん!」
上條は咎《とが》めるように言った。
「そこまで悪意をもった見方をしなくても」
「可能性を探っているだけです」
「しかし」
「か・の・う・せ・いを探っているんです」
意地になって繰り返す村田を、上條純一はさきほどとはまるで別人を見る目で眺めた。
「村田さん、あなたは真児君と幼なじみの親友ではなかったのですか」
「幼なじみは事実です。しかし、親友ではありません」
「………」
「お父さん、お願いがあるのですが」
「何です」
「安達君は俳優だ。当然、マネージャーがいますよね」
「ええ、いつもついているのは重田君という若い人です。唯季の葬式のときも、こまめに雑用を手伝ってくれました」
「面識はあるわけですね」
「あります」
「じゃあ、そのシゲタ君に連絡を取ってもらえませんか」
「なんと言って」
「私を紹介してほしいんです。村田和正という人間が至急会いたがっている、と」
「真児君への取り次ぎを頼むんですね」
「いえ、ちがいます。そのシゲタ君に会いたいのです」
「重田君に? なぜ」
「わかりません」
その脈絡のない答え方に、上條は顔をこわばらせた。
「村田さん、目的をちゃんと言ってください。でないと、私だって無責任に取り次ぐことはできないですよ」
「だってわからないから仕方ないんです。ただ、そういう流れになっているのです」
「村田さん」
上條は顔を引き締めた。
「申し訳ないが、真児君の親友でないという割り切り方をされるのだったら、こちらも言いたいことがある。勝手に他人の家のプライバシーに首を突っ込んで、ガチャガチャかき回さないでもらえませんか。唯季のことがようやく一段落着いて、少しは精神的に落ち着いてきたところなんだから」
「いいんですか、お父さん。私に逆らって」
「なんだと」
「私はおたくのお嬢さんにまつわる秘密をいっぱい聞いたんですよ。お父さんに関することもね。たしか、あなたの奥さんはあなたに殺されたようなものだったんですよね」
「村田さん……」
「『こうなったら村田さんにだけは言いますが』とかナントカ、そういう言い回しを何度もされましたよね。おかげさまでずいぶん貴重な裏話を聞かせていただきましたけれど」
「あなたという人は……」
上條は信じられないといった目で村田を見た。
たずねてきたときの礼儀正しく知的な印象が一変して、村田は完全に恐喝者に変貌《へんぼう》していた。いったい何がきっかけでガラリと態度が変わったのか、上條には見当もつかなかった。
「さあ、お父さん」
村田はうながした。
「マネージャーのシゲタ君の連絡先を教えてください」
*  *  *
「安達のやつ……」
上條の家を出て歩きながら、村田和正はつぶやいた。
「やっぱり殺したな」
身長百八十五センチの彼がぶつぶつつぶやきながら歩くのを、道端にたたずんでいた黒い野良猫がじっと見送る。
「絶対に唯季さんを殺したな」
そのあとは、心の中のつぶやきに移る。
(理由はわからない。しかし、彼は誰かを雇って自分の妻を殺させた。だからこそ、妻そっくりのユリさんの写真を見たときに、あれだけひどいパニックに陥ったんだ)
(おそらくあの時点では、完全同一体のふたごの妹の存在を上條から聞かされていたものの、安達はその実物とはまだ会っていなかったのだろう。そして、初めて彼女の姿というものを目にしたとき、あいつは妻の亡霊を見た気になった)
(彼には精神的な負い目があったから、なんの心構えもなくユリさんの写真を見せられたとき、気持ちを落ち着かせるだけの余裕がまったくなかった。唯季さんを殺した事実上の犯人だからこそ、あいつはユリさんの写真から逃げた。逃げまくったんだ)
村田は交差点の赤信号で立ち止まった。
そして、数人の歩行者の中にまじって信号が変わるのを待ちながら、灰色をした都会の空をスクリーンに見立てて、そこに子供時代の自分と安達の姿を投影させた。
曇り空いっぱいに、安達少年と村田少年が駆け回りはじめた。
ふるさとの空、ふるさとの野原、ふるさとの小川がそこにあった。そして、二人のにぎやかな笑い声が聞こえてくる。
(安達)
空に大写しになった坊主頭の子供に向かって、村田は語りかけた。
(大人になったおまえは、世間に対してどれだけ格好いいイメージを演じているか知らないが、幼いときのおまえを、おれは一から百まで知っているんだ)
(どれだけ金にコンプレックスを持った人間か)
(どれだけ臆病《おくびよう》な人間か)
(どれだけ目先のことにとらわれる人間か)
(どれだけこずるい人間か)
(どれだけ感謝しらず、恩知らずの人間か)
(どれだけモラルのない人間か)
(そして、どれだけ嘘《うそ》つきな人間か)
(おれはぜんぶ知っている。おまえの本質は、子供のころから何も変わっていない)
村田が非難の言葉を並べ立てるたびに、楽しそうに遊んでいた安達少年の顔がどんどん歪《ゆが》みはじめていく。
(なぜおれは、おまえとあんなに仲が良かったんだろうな。欠点だらけの性格の持ち主だったおまえと、どうしていつもいっしょにいたんだろうな。思い出すだけで不思議だよ)
(もしかすると、おれは自分の優越感をくすぐるために、おまえとつきあっていたのかもしれない。しかし、さすがに顔だけは負けたと思ったよ。たしかに、子供のころからおまえはハンサムだった。それは認める。アメリカ系ドイツ人を父親にもったおまえのハンサムな顔立ちには、純正日本人のおれは太刀打《たちう》ちできなかった)
(その外国人の父親がおまえと母親を捨てて逃げて以来、おまえの家は貧乏暮らしを余儀なくされた。だからおまえは、学校にはいつも汚い服を着て通ってきた。そのみじめな格好と、校則で決められた坊主頭のせいで目立っていなかったけれど、おれだけはおまえの『美貌』に気がついていた)
(いずれおとなになったら、おまえはその美貌を武器にして、それ以外のコンプレックスを一気に吹き飛ばす手立てに出ると思っていた。だけど、ここまで見事に有名人の階段を駆け上がるとは思ってもみなかったよ)
スクリーンに投影された子供の安達が、一気に俳優アダチシンジの顔に変わった。
(しかし、どんなに有名人になっても、おまえの頭の中の細胞の活動パターンは完全に卑怯者《ひきようもの》モードにプログラムされていて、変わりっこないんだ)
(そんなおまえに、おれは負けたくない。子供のころ、おまえはいつもおれの庇護《ひご》のもとにいた。同じ年の子供なのに、おれはおまえの保護者だった。おかげでおまえに対してはいつも優越感を抱かせてもらった。それが、十五年経って立場が逆転されるなんてガマンができないんだ)
(いまのおまえは、いつも華やかな場所にいて、きれいな女と、おいしい料理と、カメラやファンの黄色い声援に囲まれ、主役の人生を送っている。おれのほうはといえば、研究所でコツコツと……)
(おれはガマンできないんだ。おまえに負けたくないんだ)
(おまえは何かの目的で発作的に唯季さんを殺したが、しかし、すぐに後悔した。昔からコロコロと考えが変わるおまえならありえそうなことだ。そこへ完全同一体のユリさんに出会ったものだから、またおまえは美しい彼女と一から出直そうとした)
(おれが一年もの間、切ない片想いをつづけてきたあこがれの人を、おまえはあっさり横から出てきて奪おうとしている)
(奥さんとふたごだからって、ユリさんまで自分のものにする権利があると思ったら大間違いだ。そんな虫のいいことが許されると思っているのか!)
「おれは怒ったぞ」
はっきりと口に出してから、村田和正は交差点の角にある電話ボックスに飛び込んだ。上條にあらかじめ口利きをさせておいたマネージャーの重田に連絡をとるためである。
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二十 吹雪の中で
安達真児にとって、予定された一週間の休みの最後の夜がやってきた。
事務所社長から借り受けた北海道占冠村の森の中に建てられた『ドラキュラの館』とも言うべき洋館は、灰色をした外壁のレンガ一面に雪のスプレーを吹き付けられ、まるで砂糖でできたおもちゃの家のような外観を呈していた。
吹雪《ふぶき》はこれで三日三晩つづいていた。
この洋館を囲む森の一角には自動車が行き来できる比較的広い道路が切り開かれていたが、私道であるために自治体が運行する除雪車はここまで入ってこない。毎時百四十トンの除雪処理能力を持つ二十二馬力ディーゼルエンジンを積んだ大型除雪機があるにはあったが、その動かし方を安達は知らなかった。だが、いざというときには、安達のほうから管理人に電話で連絡をとれば助けにきてくれる手はずになっていたので、とりたてて事態を案ずることもなかった。
しかし管理人は、例年よりかなり早い本格的な吹雪の到来が気にかかって仕方がなかった。けれども、安達のほうから連絡がないかぎりはよけいな世話は焼かないという取り決めになっていたから、かけたい電話もがまんして、ただひたすら雪の状況に気をもんでいたのだ。
そんな心配をよそに、安達はむしろ連日の吹雪を歓迎していた。ただでさえ、周囲から隔絶された環境にあるこの洋館が、なおさら孤立した空間となり、彼女とたった二人ですごしているのだという実感がより強まるからだった。
そして彼は、取り戻した唯季の肉体[#「取り戻した唯季の肉体」に傍点]を狂ったように貪《むさぼ》りつくした。とくに吹雪がはじまってからの三日間は、唯季とひとつになっていない時間はほとんどないといっていいほどだった──
ホテルから横浜の自宅に戻り、あの冷えきった闇《やみ》の中で恐怖におののいていたとき、麗奈が家の前から電話をかけてきた。そしてもしも麗奈がすぐにきていたら、その後の展開はまったく違ったものになっていたかもしれない。
しかし麗奈は遅れた。そして、その五分少々の遅れの間に、安達は戻ってきた唯季に取り込まれた。
表向きには高見沢ユリとして存在する彼女が、安達の妻と『通常レベルの似方をした』一卵性双生児だったとしても、安達は相当な混乱が避けられなかったはずだ。それが完全同一体のパーフェクト・ツインズとなると、区別をしろと言うほうが無理だった。
ロウソクひとつの明かりの中で対面した美女は、まさに殺した妻の唯季であり、別の人間だと考えることは安達にとってまったく不可能だった。ふたごの妹だと思うことすら無理だった。唯季以外の何者でもないのだ。
安達は、ホームレスの男に依頼して妻の唯季を殺させた。だから、唯季が命を失う瞬間を自分の目で見ていない。最後に生きている唯季を見たのは、広島ロケのために羽田空港へと出発した車を玄関先で見送ってくれた、あのときである。そして翌日、安達は変わり果てた唯季と対面した。だが、生命を失った唯季は、彼の知っている唯季ではなかった。血の気を失った死体は、まるで別人のようだった。
それに較べたら、衝撃的な状況で目の前に現れたユリのほうが、よっぽど唯季そのものだった。そのために、唯季の死に関する現実味がいっぺんに吹き飛んだ。
赤いネグリジェをまとって現れた彼女は、当初は唯季の怨霊《おんりよう》を引きずっていた部分がずいぶんあった。生きている人間なのか、それとも霊界から現れた死者なのか、よくわからないところがあった。しかし、占冠村のこの洋館で片時も離れずに時をすごしているうちに、彼女はどこからみてもふつうの人間だと思える状態に戻っていった。しゃべり方も笑い方もごくごく自然になり、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた横浜のあの夜が嘘《うそ》のようだった。
安達真児にとって、殺した唯季は完全に復活した。絞め殺された唯季が、元どおりの健康体になって戻ってきてくれたのだ。彼の頭には、ふたごの妹のユリといるのだという感覚がまったくなかった。
バチバチと音を立ててはぜる薪《まき》を見つめながら、暖炉の前に座った安達は、膝《ひざ》の上に後ろ向きに抱いた『唯季』の黒髪を撫《な》でていた。
二人とも裸だった。しかし、燃えさかる暖炉の輻射熱《ふくしやねつ》でその裸身はオレンジ色に染められ、よく効いた床暖房の熱も加わり、外の寒さが嘘のように火照《ほて》っていた。
「唯季……」
背中から抱きすくめる格好で、安達はユリの耳元にささやいた。
「あの晩からずっときみといっしょにすごしてきて、ぼくははっきりわかった。ぼくにとって、きみがどれだけ必要な存在なのかを」
「ありがとう」
暖炉の中で踊る炎を楽しげに見つめながら、ユリはにっこりと笑った。
「そう言ってもらえてうれしいわ」
ユリはときどき長い髪を左手で大きくかき上げては、それをさらさらと肩に落とした。右利きのはずなのに、そのしぐさだけは左手で、しかも人差指を使わずに行なう。元の唯季とそっくりだった。そのときに首をかしげるから、肩先からなだれ落ちた黒髪の先が、床に敷き詰められたじゅうたんに触れた。そして、片方のうなじがあらわになる。
出会いの夜に突然発現した、あの赤黒いロープの絞め跡はもはやない。傷ひとつない白い首筋を安達に見せつけながら、ユリはつぶやいた。
「私、あなたはあの人に浮気をしたまま戻ってこないのかと思っていたの」
「あの人って、麗奈のことか」
「ええ」
「あんな女」
吐き捨てるように、安達は言った。
「ぼくが少しやさしくしたら、のぼせ上がって勘違いしただけだ」
「後悔していない?」
「何を」
「彼女を殺してしまったことを」
「ぜんぜん」
「じゃあ、私を殺したことは[#「私を殺したことは」に傍点]?」
ユリがたずねてきた。
半分だけ後ろをふり返った横顔を見つめながら、安達は返事に詰まった。
「私には何もかもわかっているのよ。誰が私を殺したのか、ということを」
その言葉に非難の色が込められていないことに勇気づけられた安達は、ユリのうなじに唇を押し当て、それから意を決して言った。
「正直に言う。ぼくは……ぼくは……」
そのあとがなかなか出てこなかった。
しかし、ついに安達は告白した。
「ぼくはきみを殺した」
「そう……」
「人にやらせたけれど、命令したのはぼくだ」
「なんのために?」
たずねるユリの言葉尻《ことばじり》の上げ方がやさしかった。
「あの女の……麗奈が相続する財産が目当てだった」
「いまの暮らしでは不満だったの? 人気スターとしてもらっていたお金では」
「もっともっとほしかった。小さいころのつらい思い出を消してしまうためにも、山のようなお金がほしかったんだ」
「そのためには私が邪魔だったのね」
「………」
「怒らないから正直に言って」
「そのとおりだ」
安達のため息が、ユリのうなじに柔らかく生えた後れ毛を揺らした。
「私よりもお金を選んだのね」
「そうだ。でも、きみよりも麗奈を選んだというわけじゃない」
言ってから、その言葉が何の弁解にもならないことに気づき、安達は恥じた。
しばらくユリは黙った。
安達も黙った。
二人が黙ると、砂をぶちまけたような音がやたらと耳についた。横殴りの雪が洋館の窓ガラスに激しく叩《たた》きつけられる音である。それに、ときおりはぜる薪の音がまざる。
夜の闇《やみ》に包まれて外の様子は直接|窺《うかが》えないが、洋館を取り囲む森ぜんたいが咆哮《ほうこう》をあげているのが遠くに聞こえた。吹雪はますますその勢いを増しているようだった。
「とにかく謝る」
安達が沈黙を破った。
「きみを殺したことは本当に申し訳なく思っている」
謝りながら、おれはいったいなんというセリフをしゃべっているのか、と安達は思った。
「とにかく一からやり直しをしたいんだ。唯季ともう一度、何から何まで新しく」
「いいわ」
「許してくれるのか、ぼくを」
「とっくに許しているわ」
後ろにいる安達に、ユリはやさしく言った。
「そうでなければ、こうやってあなたに抱かれたりはしないもの」
「ありがとう」
「あなたのことを愛しているから、私は何もかも許してあげられるの。私を殺したこともよ」
「すまない」
安達はユリの肩先に顔をうずめて、こぼれかけた涙をそこで拭《ふ》いた。
「ねえ、私のお願いをきいてくれる?」
「もちろんだ。唯季の頼みならなんでもきく」
「私ね、もう待てないの」
「何が」
「あなたとの結婚を、あと何カ月も待てないの」
「しかし、唯季の一周忌がすぎるまでは」
「私の一周忌?」
「いや、きみじゃなくて唯季の……」
と言いかけて、安達は自分の混乱に気がついた。
完全同一体である唯季とユリを一体化させたつもりでいても、やはりどこかで矛盾が生じてしまう。ユリは唯季になったつもりでいるし、安達も忌まわしい過去を消滅させるために、ユリを唯季として扱いたい。体の外も中も、すべての感覚が前の妻とまったく同じだったから、ユリを唯季に置き換えても何の問題も生じないと思っていた。
だが、やはりときどき矛盾がひょいと顔をのぞかせる。
安達は軽い失望といらだちを覚えた。同時に、ユリの顔がふと曇ったことにも気がついた。
何か取り繕《つくろ》わねば、と思って、安達は柄にもなく所帯じみたことを言った。
「とにかく世間の目もあるから、結婚は来年まで待とう。その代わり、こんど結婚したときにはすぐ子供を作ろう」
「子供を?」
後ろ向きになって安達の膝《ひざ》の上に座っているユリの裸身が、ピクッとこわばった。
「そう、子供だよ」
安達は、自分の失言で招いた冷たい空気を追い払うように、ユリの背中に自分の胸をぴたりとくっつけた。
「前の結婚のときは、おたがい独身のときのマイペースを引きずったままバラバラだった気がした。でも、ぼくも唯季ももう『若者』という年じゃない。だから、ほんとうの意味での家庭を作るために、こんど結婚したらすぐに子供を作るんだ」
「子供がいないと、私たちの関係は保てないの?」
「そうじゃない。そうじゃなくて……」
少し考えてから、安達はユリの耳元でささやいた。
「きみの美しさとぼくの美しさが合わさったら、どんなに可愛らしい子供が生まれてくるか、考えただけで楽しみじゃないか」
「あなたの血は入らないわ」
「え?」
「子供が生まれても、あなたの血は入ってこないの」
「……それはどういう意味だ」
「私ね、自分ひとりで子供が産めるのよ」
「そういう冗談は難しすぎてわからないな」
安達は、あえて笑おうとした。
だが、ユリは笑わなかった。
「生まれてくる子供は決まっているの。私によく似たふたごの女の子よ」
「………」
「それも完全同一体のパーフェクト・ツインズ」
その言葉がユリの口から発せられた瞬間、安達の全身に氷のような恐怖が走った。横浜の自宅で味わったあの冷たくて暗い恐怖が……。
安達は不安を隠そうとして、ユリの柔らかい身体をギュッと抱き締めた。
が、抱き締めても抱き締めても、自分の身体がどんどん冷えていく。ユリの裸はもはや火照《ほて》ってはいなかった。たったいままでの温かいぬくもりがまるでなくなっていた。
(死人!)
その考えが頭に浮かんで、安達はゾッとした。
(もしかして、おれが抱いているのは殺した唯季の死体では)
「種《しゆ》は収束の時代に入ったのよ」
後ろ向きのまま、ユリがつぶやいた。
「なんだって?」
「地球上に存在する生命体は、その種類をどんどん減らしてゆき、どんどん単純化する方向へ走りはじめたの」
ユリがいきなり理屈っぽいことを言いはじめたので、安達はその真意を確かめたくて、彼女を自分のほうへ向き直らせようとした。
が、ユリは安達のほうを向くことを力で拒み、背中を見せたままつづけた。
「ダーウィンの進化論が通用したのは一九九六年まで。そこから先は、これまで高等生物と呼ばれた生き物も、すべて進化や分化を止めて、いままでと逆方向へ走りはじめていくことになるわ」
「何を言っているんだよ、唯季。おい、こっちを向け」
「いや!」
頑として首を振ってから、ユリはつづけた。
「日本でいえば有名なトキをはじめとして、世界各地で種の数がどんどん減りつづけているわ。アフリカのゴリラもそう、ゾウもそう、ライオンもそう、インドのトラもそう、中国のパンダもそう。世の中の人は『貴重な動物を絶滅の危機から救おう』と叫んでいるけれども、彼らは何もわかっていない。その動きはどうやっても止められないことを。あれは自然|淘汰《とうた》でもなければ、決して人間による環境破壊のせいでもない。絶滅の方向へ走るように、もう何億年も前からプログラムされていたのよ」
「唯季、突然なにを言い出すんだ」
「二千数百万年前に、ヒトと類人猿の共通の祖先として存在していたプロコンスルから、アカゲザル、テナガザル、オランウータン、ゴリラ、チンパンジー、ボノボ、そしてアウストラロピテクスというふうに枝分かれしていった遺伝子系統樹は、もうその枝をこれ以上広げることはなく、逆に切り落としはじめたわ。アウストラロピテクスから北京《ペキン》原人、ネアンデルタール人、クロマニョン人、現代人というふうに、同じ系列の中で種が進化していく動きも、もうことしで止まって、これからは時計が逆向きに動いていくの」
まるで吹き込まれたテープを再生するような調子で、ユリはなおもしゃべりつづけた。
「イータ・グロビン偽遺伝子およびガンマ・グロビン遺伝子の一部を含む最大八・三kbの非コード領域の塩基配列データの比較によるヒトを含む各霊長類間の塩基の異なる割合は、今後急速にそのパーセンテージを落としていくことになる。つまり、種の間の差異の減少。遺伝子系統樹の収束。進化とはまったく逆の流れが、それも急速に訪れつつあることの証明」
安達にとって、まったくわけのわからない言葉がユリの口から次々と吐き出された。それは、まるで村田の講釈のつづきを聞かされているようでもあった。
「地球上の生命は、なぜこれまで進化と分化をつづけてきたか。それは最終的に鏡を手にするためだった」
「鏡?」
やっとの思いで、安達は聞き返した。
「鏡って何だ」
「私を見るための性能のいい姿見」
村田が上條純一に話して聞かせた推測とまったく同じことを、ユリが口にした。
「私を見るための鏡だって?」
「そう、遺伝子が自分の存在がどんなものであるかを確認するための鏡よ。つまり、コンピュータ。これが発達したからこそ、遺伝子解析のために必要な技術が最終段階に到達した。遺伝子は自分の姿が見たくて、それで地球に生命が誕生してからおよそ三十五億年という長期計画で鏡の入手を試みた。そのためには遺伝子が一時的に[#「一時的に」に傍点]人間という形の集合体をとる必要もあったの。
そしていま、三十五億年かけた超長期計画のゴールが見えてきたわ。最終地点まで、どんなにかかってもあと十数年、早ければあと数年で到達することがわかったから、遺伝子は研究機関の店じまいにかかった。なぜならば、遺伝子の集合体である人間をこれ以上発達させると、遺伝子本来の意図を無視してとんでもない暴走をする恐れがあるから。いま、人類が世界規模のネットワークを組んでヒトゲノム・プロジェクトを展開しはじめたことについて、それがゴール前のラストスパートであることを知りながらも、遺伝子は少し怖くなってきた。自分たちの意思を超えて、人間という細胞集合体が突っ走りだすんじゃないかって。それで、ゴールにたどり着く前から徐々に準備をはじめだしたの。
遺伝子は、一度でいいから自分の姿を見れば、それで満足なのよ。人間の研究者たちによって完成された全遺伝子領域の解析結果を見て、ああ、私ってこんな姿をして、こんな仕組みになっているのね、と感激に浸ればそれでいいの。何十億年という気の長くなるような時の流れを経てやっと手にした真実に、DNAやRNAが長い鎖をもつれあわせながら感動に打ちふるえることができれば、それでプロジェクトは終結なの。いつまでもナルシストのように自分の姿を鏡に映してばかりはいられない。目的を達成したあとにやらなければならないのは、人間という細胞集合体の解体作業。ううん、人間だけではなくて、地球上のありとあらゆる生物の解体作業に取りかかる。その第一段階が、いろいろなところでもうはじまっているの。
世紀末に人類の終末がやってくるというふうに、いろいろなところで噂《うわさ》され予言されているけれど、人類を滅亡させるものは、核戦争でもなければ、大地震でも惑星の衝突でもない。遺伝子による自己探求の長い旅が終わったとき──それが人類の解体を意味するの。滅亡ではなくて、解体。遺伝子がもはや人間や動物や植物といった集合体をとる必要がなくなったことが、人類がこの世から消え去ることになる最大の原因。そして、驚くべきスピードで、地球上の生命は時計を逆戻りさせて、元の単純明快なタンパク質の世界に戻ってゆく。
ただし、時計の巻き戻しは十五、六億年前でストップして、それ以上先までは戻らない。なぜならば、そのあたりが地球上に真核細胞が誕生したころだから。遺伝子だって感情をもった生き物よ。自分の出番があまりたいしたことのない原核細胞の時代までは戻りたくないの、単純な光合成を行なうジアノバクテリアのような原始時代にまでは……。せっかくおりこうさんになった遺伝子ですものね」
「唯季、何を言ってるんだよ、唯季!」
安達は、後ろからユリの両肩をつかんで揺すぶった。
「どうしたんだ、気はたしかなのか」
「たしかよ」
短く答えてから、ユリはスッと立ち上がった。
暖炉の炎でオレンジ色に染められたユリの裸身は、まぶしいほどの美しさを放っていた。そして、彼女はゆっくりと安達のほうに向き直った。右の太もものつけ根にホクロがあった。それも殺した唯季と同じだった。
「でも、これまでいろいろお世話になった人間には、遺伝子もそれなりの配慮をしようと考えているのよ」
ユリは言った。
「急にハイさようならというのは、あまりにもかわいそう。だから、人類のために究極のエンターテインメントを見せてあげようということになったの。人間のちっぽけな想像をはるかに超えた、芸術的な遺伝子ショウをね。そのショウガールが私たち二人だった」
「………」
「せっかくだから、そのショウの観客は多ければ多いほどいい。唯季とユリというパーフェクト・ツインズの存在を世界中に広めるためには、私たちの存在ができるだけ目立たなければならなかった。だから、私たちは有名人のお嫁さんになる必要があったのよ」
造形美の極致を安達の目の前に惜し気もなくさらしながら、ユリは言った。
「もちろん、日本にかぎらず海外にも目を向ければ、あなたよりも格段に有名な男性がいくらでもいたわ。ビル・ゲイツを誘惑してもよかったし、スティーブン・スピルバーグやアーノルド・シュワルツェネッガーが相手でもよかった。私たちには自信があったから。
でも、そういったスーパーリッチな有名人ではなくて、安達真児というあなたを選んだのは理由があった。あなたには、いま名前を出した彼らにはない最高の魅力があったのよ。マスクもすてきだけれど、もっとすてきな要素があった」
「なんだ、それは」
「目先のお金に転んで、かけがえのない美しい妻をあっさりと殺してしまう軽率で利己的な性格の持ち主だったから」
安達は愕然《がくぜん》となった。
「そういうあなたの性格によって、殺人というあまりにも唐突で悲劇的な死を迎えた美貌《びぼう》の妻、そしてその妻と瓜二《うりふた》つの妹と再婚、といったドラマチックな展開が準備できたわけ。人類にとって最高のエンターテインメント遺伝子ショウを楽しんでもらうためには、それくらいの演出が入り用だと思ったから」
「それじゃあ、何もかもが最初から決められていたというのか」
「そうよ」
「ぼくが唯季と出会ったのも、それから中曾根麗奈と出会ったのも」
「そうよ。それから実行犯を引き受けてくれたホームレスの男と出会ったのもそうだし、幼なじみの村田さんがパリの街角で私に出会ったのもそう。どちらの『私』か、想像におまかせしますけど」
ユリはかすかに笑った。
「ついでに言えば、美人が大好きなあなたが、何の不満もない妻に対していきなり殺意を抱いてしまった脈絡のなさも、みんなちゃんと理由があったことなのよ」
「信じられない」
「あたりまえだわ」
きらきらと光る目で、ユリは言った。
「遺伝子の考えていることが人間なんかにわかってたまるもんですか」
安達は呆然《ぼうぜん》として言葉もなかった。
だが、目の前の彼女の言うことが真実ならば、それはたしかに人間の発想をはるかに超越したものだった。
村田和正は彼なりにパーフェクト・ツインズの理論を展開してみせた。それはじゅうぶんな意外性と、それなりの説得力を備えたものだった。
しかし、真相ははるかに意表をついたものだった。美しき完全同一体のふたごは、使命を終えて滅びゆく人類のために、遺伝子が贈るすばらしいショウガールだったのだ。
「さあ、それでどうかしら?」
「どうかしら、って……」
「ここまで話をしても、まだ私を愛してもらえる?」
凍りついた表情の安達に、静かなささやき声でユリが問いかけた。外を吹きすさぶ雪嵐《ゆきあらし》の音にかき消されそうな小声だった。
「どう?」
安達は迷った。心の中でノーという返事が左右に走った。
いまの話が真実ならば、どんなに美しくても、唯季もユリも人間とは呼べない存在だった。健全な男ならば欲情せざるをえないような見事な裸身も、いまとなってはDNAに操られた細胞の集合体に見えてきた。X形をした染色体の蠢《うごめ》きのかたまりに見えてきた。
「私のことを気持ち悪いと思ったら、捨ててもいいのよ」
横浜のあの夜には、もう絶対に捨てないでねと糸を引くようなすすり泣きを洩《も》らしたユリが、口調はずっと自然ながらも、いまは優位に立った物の言い方をしてきた。
再度返事を求められても、なお安達は迷っていた。
イエスかノーか、双方のランプが交互に点滅するような状態だった。
と、そのときだった──
ガラスが割れるけたたましい音が二度三度して、雪まじりの猛烈な寒風が洋館の中に飛び込んできた。
安達はびっくりして、座ったままの姿勢で後ろをふり向いた。
全身を雪で覆われたスノージャケット姿の男が、斧《おの》で窓を叩《たた》き割って入ってきた。
「村田!」
安達は驚愕《きようがく》の叫び声をあげた。
「なんでおまえがここを」
「口の軽いやつはどこにでもいるってことさ」
村田和正は片手で雪まみれのフードを撥《は》ねのけた。
「何を話しているのか声までは聞こえなかったけれど、さっきから窓越しに部屋の中をずっと覗《のぞ》かせてもらっていた」
村田は、目の前の安達よりも、暖炉の前に立つユリの裸身をしきりに横目で見た。
「もうおれはガマンができない」
片手に持った斧を揺らしながら、村田は言った。
「パリの街角で見かけた高見沢ユリさんが、こんな手の届くところまできているとは思わなかった。一度はあきらめていたけれど、そのユリさんがおまえのものになろうというなら話は別だ。おれはあきらめない。しかも、こんな姿まで見せつけられてしまっては」
村田は暖炉のほうへ一歩近づいた。
「安達、おまえは後悔しているだろう。こんなことなら、幼なじみに相談なんかするんじゃなかった、って。でも、もう手遅れだ」
「いったい、何をしにきたんだ」
「安達、奥さんを殺したのはおまえだな」
「……ああ、そうだよ」
安達があっさりと肯定したので、村田は攻撃の出端《でばな》をくじかれた表情を浮かべた。
が、すぐに気を取り直してつづけた。
「そんなおまえに、妹のユリさんと結婚する資格などない」
「代わりにおまえが資格者だというわけか」
「そうだ」
村田はきっぱりと言った。
「おれはユリさんと結婚する運命にある」
「子供じみた片想いはいいかげんによせ」
それまでユリの問いかけに迷っていた安達は、村田の突然の登場で肚《はら》を固めた。
「ぼくと唯季の間には愛がある」
村田がユリと呼んでいるのを意識して、安達は唯季という名前のところを意図的に強く言った。
「ぼくは唯季を愛しているし、唯季もぼくを愛している」
「それは幻想だ。彼女の気持ちは関係がない」
村田は言い返した。
「特別な存在であるユリさんには、もともと人間と同じ感情は備わっていないんだ。だから、彼女に愛を求めても仕方がない。要は、こちらの愛がどれだけ強いか、だけなんだ」
先日会ったときよりも、村田がはるかに『真実』を理解してきたことを悟って、安達は少しひるんだ。
「いいか、安達」
村田は、斧を持っていないほうの手で、安達の鼻面に指を突きつけた。
「性格|破綻者《はたんしや》のおまえに、ユリさんを愛する資格はない。唯季さんを殺したおまえなんかに、ユリさんを愛する資格はない。おまえは、美人であれば誰でもいいんだろう。そんなやつにユリさんを渡すわけにはいかない。おれには人間愛を超えた愛がある。なぜおれが遺伝子という学問に魅せられて、その研究にこれまで取り組んできたのか、いまになってようやくわかった。ユリさんと出会い、ユリさんを自分の妻として迎えるためだったんだ。それも、彼女が人間でないことをちゃんとわかったうえで、だ。顔だけが取り柄の軽薄な人気スターと違って、おれには学問的な理解がある。遺伝子レベルでの愛情をユリさんに注げるんだ」
分厚いスノージャケットの上からでも、村田の胸が興奮で激しく上下しているのがわかった。それを見つめていた安達は、ゆっくりとした動作で立ち上がった。
割れた窓からは次から次へと横殴りの雪が飛び込んできて、じゅうたんの敷かれていないフローリング部分の床を滑っていきながら、安達の足元へ吹き寄せられていく。全裸の安達はまともにその寒風を浴びていたが、緊張と興奮のために寒さをまったく感じていなかった。
「安達、おれは真剣なんだ。おれの恋を邪魔するつもりなら死んでくれ」
村田が言った。
その声は、小刻みに震えていた。それだけに、安達は相手が本気だと思った。
しかし、抵抗しようにも武器がない。暖炉のそばに火掻《ひか》き棒があったが、それで斧に抵抗できるとはとても思えなかった。村田も緊張していたが、安達の緊張はそれにもまして強いものがあった。
「おまえが素直に譲ってくれるなら、おれはこれ以上の騒ぎは引き起こさない。ユリさんをつれて、つくばへ戻る。そしてそこで式を挙げる。新婚旅行は思い出の場所、パリだ。しかし、どこまでもおまえが身勝手を通すつもりなら、悪いけど死んでくれ」
村田は、右手に構えた斧《おの》をゆっくりと持ち上げた。
「村田、おまえは間違っている」
雪のこびりついた斧の刃先を恐怖のまじった目で見ながら、安達は必死に言い返した。
「唯季に愛情がないなんて大間違いだ。彼女はちゃんと人を愛せるふつうの女性だ。彼女の気持ちを無視した一方通行の愛が成り立つはずもない」「それならそれで結構」
安達の語尾を待ち切れずに、村田がかぶせた。
「もしも彼女にふつうの感情が存在するならば、やはりその愛はおれに向けられるはずだ」
「村田は唯季を研究対象としか見ていない。そんなものが愛と呼べるか」
「ユリさんを研究対象として見ているのは事実だ。しかし、恋愛の対象としても見ている。そうでなければここまでのことができるか。真剣に愛していなければ、恋のために邪魔者を殺そうという気になれるか」
「いや、おまえは」
「うるさい!」
ブン、と音を立てて、村田は斧を一回ふり回した。
目の前の空気が切れた──と、安達は思った。
村田は防寒手袋をはめていたが、そこに付着していた雪のかたまりが興奮する村田の体温で溶けて、そのために握った斧が滑って手から半分飛び出しそうになった。安達はひやりとした。
「安達、子供のころの自分を思い出してみろ」
斧を握り直しながら、村田は言った。
「金がなくて、いつもおどおどして、おれがいなければ何もできなかったじゃないか。おもちゃも食い物も、ぜんぶおれが恵んでやったんじゃないか。その恩を覚えているなら、こんどはおまえが大切なものをおれに渡す番だ」
「あいにく……」
安達は言い返した。
「ぼくは感謝知らずで、恩知らずの男だそうだ。唯季にそう言われたよ」
「茶化すな!」
「茶化してなんかいない。ぼくはそういう性格の男なんだ。村田だってよく知っているだろう」
「………」
「それを承知で、唯季はぼくを愛してくれると言ってるんだ」
「譲る気がないんだな、どうしても」
「ない」
安達はきっぱりと言い切った。
「彼女を村田なんかに渡すつもりはない。ぼくたちは、この吹雪《ふぶき》がはじまってからの三日三晩ぶっつづけで愛し合った。そして、ようやく相互理解に到達したところなんだ。そこへ村田が入り込む余地などまったくない」
「残念だよ、安達」
ぶるぶると肩先を震わせながら、村田は言った。
「せっかく十五年ぶりに会ったのに、最高の幼なじみだと思っていたおまえとこんな別れ方をしなければならないなんて、ほんとうに残念だ。まさかおれの手で、その自慢の美貌《びぼう》をぐしゃぐしゃに潰《つぶ》すことになろうとは、予想もしなかったよ」
村田はふたたび右手に力を込めた。
こんどは威嚇《いかく》ではなく、本気で襲ってくる。それが安達にはわかった。
「唯季」
安達は村田から目を離さずに、後ろにいるユリにたずねた。
「これもすべて定められた運命なのか」
「そうでなかったら、もっと私は驚いているはずでしょう」
乳房を抱くように、胸のところで両腕を交差させて立っていたユリは、きわめて冷静な声で答えた。
「一度殺される運命までわかっていた私に、この出来事が予想できなかったと思って?」
「で、結果は」
硬い声で安達が聞いた。
「結果はどうなるんだ」
「十秒もしないうちにわかるわ」
その言葉が言い終わらないうちに、村田が歯をむいて襲いかかってきた。
「死ねっ! 安達っ!」
鈍い光を放つ斧が、村田の頭上にふりかざされた。
真上からくる──安達はそう信じて、横にステップしてそれをかわそうとした。
が、村田は突然構えの位置を変えて、斧を水平に振ってきた。
しまった、と安達は思った。意表をつかれてその攻撃に対応できなかった。
やられた、と反射的に目をつぶった瞬間、安達はバランスを崩した。吹き寄せられていた雪が床暖房の熱で溶けて水たまりをつくり、それに足元をすくわれたのだ。
安達はあおむけになって床に倒れた。
その真上で、斧が水平に回るのが見えた。
当然安達の身体に食い込むものと思っていた斧が空を切ったことで、こんどは村田がバランスを崩した。
あわてて体勢を立て直そうとした瞬間、またも握った斧の柄が滑り、こんどは勢いよく手の中から飛び出た。
斧は数メートル離れた壁まで飛んでいって、バーンと大きな音を立ててそこに食い込んだ。そして村田は、床に倒れる途中で、そばに置いてあった背の低いテーブルの角にしたたか頭をぶつけて意識を失った。
安達は、村田が動かなくなったのを見ても、間一髪で命拾いした興奮のためにしばらくは身動きがとれなかった。ほんの数センチのところで空を切った斧の映像が、頭の中で何度も何度も繰り返されていた。
そんな安達を、ユリは無言で見下ろしていた。
「それで……」
ようやく呼吸が整ったところで、安達は床に倒れた格好のままたずねた。
「このあとはどうなるんだ」
「村田さんにとって、静かに眠れる場所はいくらでもあるわ」
ユリは、冷静なまなざしを窓の外へ向けた。
「北海道の冬はまだはじまったばかり。この森の奥は、これからもっと本格的に雪に閉ざされていくわけでしょう。だったら、そこでゆっくりとやすませてあげるといいわ」
「唯季……」
これで何人目になるのだろう、と安達は頭の中で数えた。おれが殺すのは何人目になるのか、と……。
「壊された窓の言い訳は、あなたが考えてね。それから、傷ついた壁のことも」
ユリが目を転じた先には、鋭い角度で壁に食い込んだ斧があった。
「だいじょうぶ、事務所の稼ぎ頭のあなたの弁解に、社長さんが疑いを差しはさむことはないわ」
「助かるのは、ぼくのほうだったんだな」
ようやく目が覚めた思いで、安達はたずねた。
「ええ、そうよ」
うなずきながら、ユリはゆっくりと安達のところへやってきて、そのそばにひざまずいた。
「じゃあ、ぼくはきみと」
「そうよ、ちゃんと結ばれるのよ。夫として、妻として」
「そうか……」
「もう、結婚式を先延ばしにするなんて言わないわね」
「ああ、言わない」
「東京に戻ったら、すぐに結婚してくれるわね」
「ああ、するよ」
「奥さんを先月亡くしたばかりなのに非常識だと批判されても平気ね」
「うん、平気だ」
「それじゃあ、マスコミの人をたくさん集めて記者会見をやりましょう」
「記者会見?」
「ええ、私をみんなに紹介してほしいの」
「マスコミにか」
「ちがうわよ、日本中の人たちに」
「日本中!」
「そのときは、私は悲劇の姉をもったふたごの妹のユリとして登場するわ。そして、テレビを見ているみんなを驚かせてあげましょうね。こんなふたごが存在していいのだろうか、って」
「………」
「ね」
ユリは念を押した。
「だって、それが私に与えられた役目なんですもの」
「わかったよ」
「ありがとう」
安達を納得《なつとく》させることができたのを見て、ユリは安心した顔になった。しかし安達のほうは、まだ事の展開に半信半疑のままつぶやいた。
「じつは、ぼくのほうが殺されることになるんじゃないかと思っていた。ぼくが殺されて、きみは村田と結婚する。そういうふうにプログラムされているのだと思っていた」
「とんでもない。私の相手には有名人のほうが選ばれるに決まっているわ」
にっこり笑って、ユリは言った。
「だって、遺伝子ってミーハーなんですもの」
あぜんとする安達に向かって、ユリは声の調子を改めてつづけた。
「さ、それじゃ、そこの荷物を片づけてしまいましょう」
[#改ページ]
あとがき
[#地付き]吉 村 達 也
「初恋」「文通」「先生」とつづけてきたホラー文庫書き下ろしの第四弾は、これまでとだいぶ色合いの異なるものにしようと思っていた。
しかし、「ふたご」というテーマを考えたとき頭にあったのは、もう少し違う展開のストーリーだった。人気スターが妻を殺し、その妻にはそっくりのふたごの妹がいて、という発想は同じだが、そのふたごの関係は、あくまで通常の一卵性双生児というレベルにとどめていた。
しかし、この手のパターンはいままでに前例がいくらでもある。そこで、当初の設定を大胆に飛び越えて、完全同一体のふたご──パーフェクト・ツインズという着想に切り替えることにした。そう決めてから、遺伝学関係の本を読み耽《ふけ》った。それから、ふたごに関する専門書も探し求めた。こちらはなかなか見つからなかったのだが、編集担当の永井君が日本双生児協会(こういう組織があるとは知らなかった!)から貴重な資料を借り出してきてくれたので助かった。
これらの資料に囲まれて数日間を過ごすうちに、最初組み立ててあった構想は完全に消え去ってしまい、まったく新しい形の≪遺伝子ホラー≫というアイデアに置き換えられることになった。ところが執筆をはじめていくうちに、この作品はホラーというよりも、ある意味で思想というか哲学というか、そちら方面に近いものになりそうだという気がしてきた。いつもの私のミステリーを思わせる冒頭からはじまって、しだいにホラーっぽい展開になっていくが、ラストに近づいていくにつれ、極端にスケールの大きな話になっていく。そして、最終的にはこの一冊だけでは収めきれない内容になってきたのだ。
もちろん、「ふたご」という物語はこの一冊で完結している。しかし、同じ登場人物による続編を書かざるを得ない展開になってきた。いまから予告しておくと、次のメインの舞台はチベットに移る。年内には担当の永井君と『チベットロケ』を敢行し、来年の前半をメドにハードカバーのホラー作品として発表する予定である。
最後に、本書を執筆するにあたっての参考資料を次にあげ、それぞれの著者の方々に心からの謝意を表したい。なお、専門的知識を意図的に曲解して取り上げている部分も多々あるので、そこのところはどうか笑ってお許しいただきたい。
[#地付き]一九九六年七月 記す
[#改ページ]
≪参考資料≫
・「ふたご・みつごの発育と育て方」
エリザベス・ブライアン
ツインマザースクラブ訳 (ビネバル出版)
・「ヒト遺伝子のしくみ」
生田哲 (日本実業出版社)
・「細胞の自殺──アポトーシス」
大山ハルミ&山田武 (丸善)
・「最新産科学 異常編」
真柄正直(荒木勤 改定) (文光堂)
・「分子医科学シリーズ1 DNA研究と医学」
(グロビュー社)
・「細胞内情報伝達のしくみ」
宇井理生 編 (羊土社)
角川ホラー文庫『ふたご』平成8年8月10日初版発行
平成16年6月25日16版発行