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ついてくる
吉村達也
目 次
1 高速道路
2 赤ちゃん
3 出迎え
4 夢のはじまり
▼ 第一夜 京都伏見の黒い猫
5 二日目
▼ 第二夜 祗園花見小路の恋
6 三日目
▼ 第三夜 魔王殿からきた老人
7 四日目
▼ 第四夜 鹿苑寺無彩幻想
8 五日目
▼ 第五夜 株式会社「七福神」
9 六日目
▼ 第六夜 也阿弥ホテル
10 七日目
▼ 第七夜 比叡山ゼロの魔術
11 八日目
▼ 第八夜 源光庵「悟りの窓」と「迷いの窓」
12 九日目(一)
▼ 第九夜 嵯峨野さやさや二人旅
13 九日目(二)
▼ 第十夜 貴船夜風の灯籠流し
14 鏡 子
15 欲 望
16 柱時計
17 土蔵にて
▼ 第十三夜 京都十三夜物語
18 炎
19 高速道路
エピローグ
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私はあの日の悔しさを決して忘れない。
ああ忘れるものか。昭和四十年のことだ。売れない物書きであった私は、これこそ新時代の小説になると自信満々の着想を企画書にまとめあげていた。その意図に沿って一冊の本を世に出せば、必ずや私は世に認められるはずだったのだ。
だが|市ノ瀬恵造《いちのせけいぞう》のやつ、企画書を一瞥《いちべつ》するや最大級の侮蔑《ぶべつ》の言葉を投げつけて、私の夢をぶち壊してくれやがった。おかげで、そのあとの私の人生は……。
覚えてろよ市ノ瀬、きさまの末代まで呪ってやるからな! ああ、見えてきた、見えてきた。おまえの娘が自動車の中で楽しげに笑っている姿が見えてきたぞ。
よーし、ついてくる。
いついつまでも、ついてくる。
わかるかな、「ついていく」ではなく、「ついてくる」という、この意味あいが……。
わかるかな? はたしておまえに、わかるかな?
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[#1字下げ]1 高速道路
1
一秒前まで、RV車の運転席で永瀬和也《ながせかずや》は大笑いをしていた。
助手席に座る妻の晴美《はるみ》も、けらけらとにぎやかな笑い声を立てていた。
東京から京都へ、途中の浜名湖サービスエリアで一度休憩をとっただけで、彼らの車は深夜の東名・名神高速道路を西へひた走りに走ってきた。
きょうからゴールデンウィークの大型連休がはじまる。ことしは休日のつながり方がうまく、はざまの平日二日間も代休を申請していたから、永瀬は念願の九連休をとることができた。サラリーマン生活八年目にして初めての長期休暇である。
連休初日といっても、まだ夜明け前なので道は空いていた。スピード違反を捉《とら》えるレーダーの設置場所を熟知している和也は、その直前で少しスピードを落とすほかは、平均時速百三十キロで快適に車を飛ばしていた。
彼がヘッドライトに浮かび上がった路上の『そいつ』に気づいたのは、午前三時ごろ、関ヶ原のアップヒルを越え、琵琶湖《びわこ》の東岸方向へ一気に下ってゆく直線部分のところだった。
が、その発見の一秒前まで、和也と晴美は車の中で楽しげな笑い声をあげていたのだ。
いまから三年前、都内の出版社に書籍部門の編集者として勤めるふたりは社内結婚をした。晴美は結婚をきっかけにフリーライターに転じていたが、当時ふたりの仲人を務めてくれ、そのころもいまも書籍編集長の職にある葛城啓一郎《かつらぎけいいちろう》が、前日会社で引き起こした大珍事が話題だった。
連休入り直前の昨日昼、いつものように葛城が編集会議で部下たちに「もっと面白い企画が出せないのか」と雷を落としているさなか、突然、彼の「愛人」が約束の不履行をなじるため会議室に乗り込んできたのである。その愛人は、スカートを穿《は》いていたが女ではなかった。いわゆる、ニューハーフ。
「いやもう、おれたちはどういう顔してその場に座っていたらいいか困っちゃってさ」
さっきから何度も繰り返してきたセリフを、和也はおかしそうにまた口にした。
「不倫相手や奥さんに会社まで怒鳴り込まれたという話は、たまに聞くけど、こういうケースはめったに遭遇しないからなあ。編集長も完全に凍りついちゃってさ」
「人間ってわからないわよねえ。葛城編集長にそういう趣味があったなんて」
「相手の女……というか男というか、そいつも興奮して、本来女の声でなきゃいけないのに、すっかりドスの利いた男の声になっているんだよ。逆に、パニックした編集長のほうが声、裏返って、すっかりオネエ言葉になっちゃって、『会社まできて、どういうつもりなのよ、あなた』なんて言い方するんだよ、あの鬼編集長がだぜ」
「ほんと?」
「それでさ、おまえの同期の日向子《ひなこ》がいるだろ、チョーまじめな水島《みずしま》日向子。彼女なんか、自分のモラルの許容範囲外の事態が展開しているもんで、『編集長って、そんな人だったんですか。私、編集長といっしょの空気、吸いたくないです』とか言って、いきなり会議室を飛び出しちゃうわ、副編の谷《たに》さんは、興奮するふたりをとりなそうとして、逆に両方から突き飛ばされて鼻血は出しちゃうわで、もうドタバタコメディみたいな騒ぎ」
「あははー、もう最高ね。笑いすぎて涙が出ちゃう。その場にいたかったなー、私」
晴美は目尻《めじり》の涙を指先でぬぐい、そしてまた笑った。
会社を辞めてからもう三年経ったとはいえ、和也が面白おかしく語る話の登場人物はよく知った人間ばかりだったので、編集会議の混乱の様子が手に取るようにわかって、大受けに受けていた。なにしろ世田谷《せたがや》の用賀《ようが》にある東京インターから東名高速に乗って約四時間というもの、この話題だけでもっているのである。いつもなら深夜の長距離ドライブは眠気との格闘だったが、今夜ばかりは時間が経つのも忘れてしまうぐらい、ふたりは盛り上がっていた。きょうから九連休がはじまるということも、そしてゴールデンウィーク中はずっと快晴であるという天気予報も、ふたりの気分を高揚させていた。
あと一時間少々走れば、京都東インター経由で洛北《らくほく》の岩倉《いわくら》という場所にある一軒家に着くはずだ。妻・晴美の父親で民俗学者の市ノ瀬恵造が生前仕事場として使っていた築五十年の木造平屋建てである。そこを拠点にして、まだ子供のいないふたりは、たっぷり九日間の京都滞在を楽しむ予定だった。
2
市ノ瀬恵造は、民俗学者として古都・京都にまつわるさまざまな怨霊《おんりよう》の研究をライフワークとしており、一年のうちの大半は、東京に住む家族と離れて京都岩倉の古びた一軒家にこもり、論文の執筆作業に没頭していた。
彼がその岩倉の家で突然亡くなったのは、三年前の夏、娘の晴美が永瀬和也と結婚してわずか三カ月ほど後のことだった。京都にいったん引きこもると、市ノ瀬はめったに電話もかけてこないし、家族のほうから電話をかけてもうるさそうに応じることが多かったので、いつしか市ノ瀬が京都にこもったら家族からは連絡しないという習慣ができあがっていた。そのため発見が遅れたのである。
市ノ瀬恵造には妻の準子《じゆんこ》と娘の晴美がいたが、仕事に熱中すると、市ノ瀬は家族のことをまったく顧みず、ひとりきりになるのを好んで岩倉の家にこもりきりとなった。そのため晴美も、物心ついたときから母ひとり子ひとりの母子家庭で育っているような記憶しかなく、父親の存在は彼女の中では希薄なものだった。
それは父親の年齢とも関係していた。
市ノ瀬は晩婚で、ひとり娘の晴美は、彼が四十六歳のときに作った子供である。だから、晴美が二十四歳で永瀬と結婚したとき、母の準子はまだ五十歳になったばかりだったが、父はすでに七十の大台に達していた。夫婦は二十も歳が違っていたのである。
幼いころ、晴美は岩倉の家にこもって研究に没頭する父のところへ何度か遊びにいったことがある。父は無口で愛想もなかったが、それでもひとり娘の晴美にはやさしいところがあった。だが、晴美も中学生になったあたりから、研究一辺倒の父の姿勢にしだいに疑問を持ち、そして反感を抱くようになっていた。学問が大切なのはわかるが、妻と娘を東京に置いたまま京都にこもりきりの生活がつづくと、いったいなんのために父は母と結婚したのか、なんのために家族というものがあるのか、わからなくなってきた。
娘の晴美がそう感じているのだから、母の準子の不満はもっと大きなものであるはずだったが、すでにあきらめてしまっているのか、晴美は、母から父に関する愚痴を聞いたことはなかった。晴美は、父と母の結婚の背景にあるものを、まだ知らなかったのだ。
やがて思春期を迎えたころから晴美の父親に対する反感はますます大きなものとなり、彼を父親として認めたくないとの思いが強まり、あえて「親戚《しんせき》のおじいさん[#「おじいさん」に傍点]」ぐらいの感覚で受け止めるように自分に仕向けていた。
そんな家庭環境もあって、市ノ瀬恵造の孤独な死は、しばらくのあいだは誰にも気づかれなかった。発見者は妻の準子でも娘の晴美でもなく、ガスのメーター検針にきた係員だった。室内から洩《も》れる異臭に気づいて警察へ通報したのである。季節は真夏、死体の状況は、警察官もおもわず口もとを押さえて外に飛び出すほどだった。
解剖の結果、死因は脳溢血《のういつけつ》と判定された。
市ノ瀬が死んでから、彼の仕事場であった京都の家はめったに使われることがなく、管理を委託された業者が半年に一度の割合で風通しと清掃に訪れるだけだった。その家をひさしぶりに使うことにしたので、和也と晴美は、最初の一日だけは、部屋の掃除と庭の草むしりに費やす予定だった。
母・準子の配慮から、父親の悲惨な死にざまは晴美には具体的に知らされていなかったので、彼女は岩倉の家に行くことにまったく抵抗を感じていなかった。もしも父の遺体が、いかに腐乱していたかを小耳にでもはさんでいれば、一生そこに踏み入れるはずもなかったのに……。そして、その状況を承知している母が、あえて岩倉行きを止めなかったことに大きな疑問を抱いたはずだったのに……。
3
「ふだんからこわもてをウリにしてきたのに、そんな騒動があったから、もう編集長のイメージはガタガタだよ」
運転席の和也は、愉快そうに話をつづけた。
「当然、会議はそこで中断。編集長は『カノジョ』に腕を引っぱられて、どこかへ行っちゃったきり一日中戻ってこなかった」
「戻ってきたくても、みんなに合わせる顔がないもんね」
「大型連休が間にはさまっているのが不幸中の幸いってやつかな。このゴールデンウィーク中に、どれだけ精神的に立ち直るかが勝負だよ。それと、みんながこの出来事をどれほど忘れられるか」
「忘れられる?」
「いや、ンなワケないって」
ハンドルを握ったまま、和也は首を横に振った。
「夜中をすぎても、葛城さんの話題であちこちからケータイに電話かかってくるしね」
「みんな、うれしそうな声で、でしょ?」
「当然だよ。それに、この件でメールもバンバン回ってるし」
高速道路を運転中も、永瀬の携帯電話はメールの着信を知らせるメロディを何度も鳴らした。いずれも編集部の仲間からで、もちろん話題は「きょうの一件だけどさあ」である。カレンダーの日付は変わっていても、部長の不倫相手がニューハーフと知った部下たちにとって、衝撃の一日はまだ終わっていなかったのだ。
「正直言って、この話題はあっさり忘れるにはもったいなさすぎる」
「私もそう思う」
晴美はクスッと笑った。
「仲人さんの不幸をからかっちゃ悪いけど、やっぱり面白いものは面白いよね。それに、悪趣味かもしれないけど、編集長の奥さんやお嬢さんたちがどんな反応したのかなって、そこも見てみたい気がする」
「そりゃ大ショックだろう」
和也は一瞬、顔を曇らせた。
「編集長の奥さんって、いまどき珍しいくらいの古典的な良妻賢母って感じだから、こんどの出来事は相当こたえるだろうなあ」
「奥さん、もう知ってるかな」
「編集長が自分から打ち明けるとは思えないけど、カレシのほうが黙っちゃいないだろう」
「カレシねー。そうかあ、怒り狂ったカレシが黙っちゃいないか」
晴美が納得してうなずいた。
「会社に乗り込んでくるぐらいだから、自宅にも行っちゃうよね」
「ここ一日、二日が勝負だろうな」
「それにしても、チョー悲劇だよねー」
晴美は、いかにも他人事という感じで軽く言った。
「もしかすると、編集長の奥さん、自殺しちゃうかもしれないよね。それにふたりのお嬢さんって、高三と中三だよ。難しい年ごろのうえに、ふたりとも受験が目の前」
「たしか上の子は、名門私立大狙いだったよな」
「下の子だって、お金がかかるので有名な私立の女子高を受けるんでしょう。そんな時期にお父さんがオカマだかニューハーフだかと浮気してたなんてわかったらどうするのよ。や〜ん、もう、かわいそう」
「おい、晴美」
助手席の妻に向かって、和也は眉毛《まゆげ》を下げて言った。
「おまえ『や〜ん、かわいそう』とか口では同情して、顔は笑ってるぞ」
「えへへ」
バレたか、という顔で、晴美は舌をペロッと出した。
「こういうときの家族の肖像って、すっごい興味があるの」
「何が家族の肖像だよ。おまえ、いろんなところに言いふらしたくて仕方なさそうだな」
「うん」
晴美は大きくうなずいた。
「ついに明らかになった編集長の恥ずかしい秘密……あ〜ん、しゃべりたくてガマンできな〜い」
「こいつー、かなり口が軽い女かもしれないなー」
「そうだよ〜ん。私の口にはチャックが付いてないの。いつも開きっぱなし」
「もしかしておまえ、もう誰かにしゃべったりしてるんじゃないのか」
「もちろ〜ん」
ピンポーン、というリズムをつけて、晴美は言った。
「カズ、昼休みになってすぐ私に電話で教えてくれたでしょ。それを聞いて私もさっそくニュース速報をリレーしちゃった……」
「ほんとかよ、誰に」
「私と同じころ会社を辞めた、経理の優子先輩に」
「おまえ……」
和也は運転席でガクッとコケるポーズを作った。
「あのあともう一回おれが電話したときも、そんなことは言わなかったじゃないか」
「だって、おしゃべりな女だなんて思われたくないもん」
「思われたくなくても、もう思っちゃったぜ。口から先に生まれてきた女って、晴美みたいなやつを言うんだな」
「きらいになった?」
「なんねえよ」
和也はハンドルから片手を放して、晴美の額をコツンとこづいた。
「おしゃべりという点じゃ、おれもおんなじだから」
そして和也は、身をよじりながら妻の口調を真似て言った。
「私だって、いろんなところに言いふらしたくて死にそうなのよん。あ〜ん、ガマンできな〜い」
そして、ふたりでまた大笑いをした。
笑ったまま和也の瞳《ひとみ》は、わずか五十メートル前方の高速道路上に何か白い物体がふたつ置かれてあるのを発見した。彼らのRV車は、周囲に併走する車がいなかったので三車線の中央を走っていた。そして『そいつ』は、まさしく中央車線のど真ん中に忽然《こつぜん》とその姿を現した。
最初から路上に横たわっていた物体をヘッドライトが照らしたのではない。それならばもっと手前から見えていたはずだった。そうではなく、『そいつ』は舗装された高速道路の下から唐突にニュッと顔を出したのだ。だから和也は、直前までその存在に気がつかなかった。
時速百三十キロで走る車は、一秒間に三十六メートル進む。五十メートル進むのに要する時間は、わずか一・三八秒。和也は何もできなかった。唯一できたのは、笑い声を反射的に引っ込めたことだけだった。しかし、表情まで変えるゆとりはなかった。だから和也は、大笑いをした顔つきのまま『そいつ』を轢《ひ》いた。助手席の晴美に至っては、まだ声を出して笑っていた。
4
ガツンという激しい衝撃音が車体の下で聞こえ、晴美の足もとで、左前輪が何かに乗り上げた感触があった。
つづいてもう一回同じ衝撃音とショックが、こんどは運転席側の後方、右後輪で感じられ、車は二度にわたって大きく横に揺さぶられた。
(やった!)
と思ったが、和也は声に出せなかった。
アクセルペダルに載せていた右足を、ブレーキペダルのほうへ移動することもできなかった。かろうじてハンドルを握る両手に力を入れ、左に切っただけだ。しかし、すべてそれは手遅れの、意味のない動作だった。
笑ったまま、和也は何かを轢いた。
轢いてから笑いが凍りついた。
凍りついたまま笑いの表情が解けない。
助手席の晴美を横目で見ると、運転免許を持たない彼女も、さすがに二度の横揺れで異変の発生を悟り、やはり笑顔のまま固まっていた。
スピードメーターの針は時速百十キロのところまで戻っていた。和也がわずかにアクセルペダルを踏む力をゆるめたからである。だが、下り勾配《こうばい》のためスピードは大幅には落ちない。そして和也は、まだブレーキを踏む動作に移れなかった。ただ呆然《ぼうぜん》と前を見たまま、車が勝手に走るにまかせていた。ハンドルを握る両手に、びっしょりと汗をかいているのがわかった。
バックミラーを見ることは――できない。
「……ねえ、カズ」
ようやく晴美が、顔にへばりついていた笑いをほどいた。
「いま、なにか轢いた……んでしょ」
「うん」
喉《のど》に痰《たん》がからまったような声で、和也は短く答えた。彼も、笑顔の形のまま硬直していた表情筋をやっとゆるめた。
「なんだったの」
「なんだったと思う」
「私にきかないで、そっちが答えて」
「でも」
「運転していたのは、カズでしょ。私にわかるわけないじゃない」
震えてはいたが、激しいいらだちが晴美の声に込められていた。彼女がヒステリーを起こすときは、いつもこんなふうに、こんぺいとうの突起を連想させるトゲトゲの固まりが言葉にまぶされる。
しかし、問いつめられても和也は明確に答えられなかった。バックミラーを見る勇気はまだない。仮に見たとしても、現場からあっというまに遠ざかり、『そいつ』がどうなったのかは、闇の彼方にまぎれて確かめることはもうできなかった。
「白い……ものだったよな」
確認を求めた。が、晴美は答えない。
それでもういちど和也は念を押した。
「おまえも見たんだろ。白いものだったよな」
「だから、なんだっていうの」
「犬か猫だったと思うんだよな、おれは」
「白い犬?」
「猫かもしれない」
「だけど、二回轢いたわよ」
「………」
こんどは和也が黙りこくる番だった。
「高速道路に二頭の白い犬が、うずくまっていると思う? 車に轢かれるまでじっと」
「最初から轢かれていたんだ」
和也は、妻ではなく自分に言い聞かせるように言った。
「白い犬が二頭、車に轢かれてあそこに倒れていた。それをもういちどおれが轢いてしまった。それだけだよ」
「最初から轢かれていたら血が見えたはずでしょ。でも、見えたのは真っ白なものだったじゃない」
「撥《は》ね飛ばされたショックで死んでいたなら、出血がなくても不思議じゃない」
「二頭の犬が同時に撥ね飛ばされたっていうの? そしてほとんど同じ場所に落ちたっていうの?」
「それ以外考えられないじゃないか」
「だけど」
「それ以外ありえないんだよ、晴美」
晴美だけでなく、和也の言葉もピリピリしてきた。
「いや、待てよ。なにも生き物だと決めつける必要はない。あれは白い袋だったかもしれない。米とか野菜とか、そういうものが入った袋を運搬中のトラックが落としていったんだ」
しゃべっているうちに下り勾配がゆるくなり、和也たちの車の速度もかなり落ちてきた。右隣の追い越し車線を、猛烈なスピードで二台の車が通りすぎていった。仲間どうしでスピードを競っているのか、それとも見知らぬどうしでカーチェイスを繰り広げているのか、スポーツタイプの車が二台、テールとフロントノーズをこすり合わせんばかりにくっつけて、かっ飛んでいった。
しばらくすると、こんどは背中から強烈なヘッドライトが浴びせられ、和也たちの座る車内が真昼のように明るくなった。そのまばゆさに、和也はいままで目が向けられなかったバックミラーを見た。ハイビームにしたダンプカーが後ろからのしかかってくるのが大映しになっていた。つづいて、耳をつんざく警笛音。
その音にせかされて、和也はいちばん左の車線へ車を移動させた。すぐさま、真横を轟音《ごうおん》を立ててダンプカーが追い越していく。一台だけでなく、同じ運送会社の名前が入った大型車が二台、三台、四台と連なっていた。
いつもなら図体の大きなトラックごときに負けるものかとムキになる和也だったが、いまはそれらの一団を黙って先に行かせた。
「とにかく」
和也は結論を自分で決め込む感じで、ハンドルをバンと叩《たた》いた。
「いま轢《ひ》いた白いものは、運送用の袋だったんだ」
「じゃないわよ」
「どうして違うんだ。しつこいぞ、晴美」
「だって……見て」
晴美は震える指先で、自分の真横の窓ガラスを指さした。
「………」
妻が示すところに目をやった和也は、息を呑《の》んだ。助手席側のガラスの左下隅に真っ赤な血が飛び散っていた。
「見たでしょ。お米や野菜を踏んづけて血が出る?」
まっすぐ前を向いたまま、晴美は言った。
「最初から死んでいた動物を轢いても、こんなふうに血が飛び散るものなの?」
「わかったよ」
和也は小さくつぶやいた。
「おれが轢いたのは、生きている動物だった。白い犬か白い猫を、二頭立てつづけに轢いたんだ」
「動物? ほんとに動物だと思ってるの?」
「なんだよ、おまえ、何が言いたいんだよ」
和也の声に怒りがまじった。
「たったいま、おまえは生きている動物を轢いた以外にありえないとおれに言わせておいて、またそれが違うというのか」
「カズ、動物って、どこまで入るの」
「え?」
妻の問いかけがあまりにも単純すぎて、和也はその意味するところをすぐには理解できなかった。すると、晴美はいっそう小刻みに震える声でつづけた。
「動物っていう分け方の中に、人間も入るの? 人間も動物の一種だという意味で、カズは、動物を轢いたと言ったの?」
和也の顔が真っ青になった。
(晴美にも見えたんだ……あれが)
和也の全身の産毛が、ざわりと音を立てて一斉に起きあがった。
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[#1字下げ]2 赤ちゃん
1
疾走する車の運転席にいた永瀬和也にとって、深夜の高速道路上に現れたものの正体を一秒間で確認することは不可能に近い話だった。まして、轢いてしまった瞬間の状況など、車の真下に隠れて物理的に視野に捉《とら》えられるはずもない。
だが、和也には見えていた。路上にふたつ並んだ白い物体は――
赤ん坊の産着だった。[#「赤ん坊の産着だった。」はゴシック体]
もちろん中身は入っている[#「中身は入っている」に傍点]。名神高速道路の真ん中に、産着にくるまれたふたごの赤ん坊が置かれてあったのだ。
ひとつは中央車線の左やや前方に、もうひとつは同じ車線内の右やや後方に、斜めにずれた形で並んでいた。猛スピードでRV車がのしかかっていく直前、和也の目には産着にくるまれて泣きじゃくる赤ん坊の姿が見えた……。そう、間違いなく見えたのだ。
おそらくふたごだろう。生まれた直後の赤ん坊は区別がつかないとよく言うが、それにしても瓜《うり》二つというよりない、そっくりな顔をしていた。
ふたごの赤ん坊の姿が見えただけではなかった。死の危険を察知したオギャア、オギャアという切羽詰まった恐怖の泣き声までが、和也の耳に聞こえたのだ。その泣きじゃくる声までがそっくりで、奇怪なハーモニーを奏でていた。
わずか一秒の間に、和也ははっきりとそれを見て、それを聞いた。
まさか、と思ったつぎの瞬間、彼の車はそれを轢いていた。まるで最初から計算して置いてあったように、左前輪で第一の赤ん坊を轢いた直後、その横揺れでわずかに進路がずれて、こんどは右後輪で第二の赤ん坊を轢いた。
ぐしゃっ、ぐしゃっと立てつづけに潰《つぶ》れる音を二度、和也ははっきりと聞いた。そのときの真っ赤な映像まで和也は見た。同時に、生ぐさい血の臭いが鼻をついた。その直後、和也は背後から『怨念《おんねん》』が必死になって追いかけてくる気配を感じ取った。
それは耳に聞こえる音声ではなかった。目に見える映像でもなかった。大脳に直接訴えかける波動だった。轢き殺されて血まみれの肉片となったふたごの赤ん坊の怨念が、時速百三十キロで走り去る車を猛スピードで追いかけてきて、追いついて、永瀬和也の頭脳の中にグニュッともぐり込んだ。そして短く、強烈なメッセージを放った。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
幻聴かと思った。
だが、もういちどそれは和也の頭の中でメッセージを発信した。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
信じられるはずもない出来事だった。だが事実だった。現実だった。彼には轢いたものの正体がわかっていたのだ。そして妻の晴美にも……。
「晴美……見たのか」
爪が白くなるほどハンドルを強く握りしめたまま、和也はきいた。よけいな言葉をまじえずに、それだけで会話が成り立つはずだった。そしてそのとおり、晴美はすぐさま応じた。
「見たんじゃないわ。見えてしまったのよ」
そして彼女は、夫より青い顔できき返した。
「カズも、見たのね」
「見たんじゃない、見えてしまったんだ」
和也は、妻と同じ言葉で答えた。
「あれがふたつ泣いているのが。そしてあれが潰れる瞬間も」
「やっぱり……」
「見えてしまっただけじゃない。聞こえてもきた。オギャア、オギャアと泣く声。ぐしゃっと潰れる音」
「やめて!」
晴美は両耳を手のひらで押さえ、激しく首を振った。
「ぜんぶ錯覚だと思いたいのに」
「錯覚じゃない。現実だ。実際に見えていたんだ。そして実際に聞こえていたんだ。そうじゃなきゃ、ふたりで同時に錯覚するもんか」
「違うわ。錯覚よ!」
晴美の声は、ほとんど叫び声になった。だが和也には、それに対して大声で言い返す気力はなかった。
2
いつしか車の速度は時速七十キロにまで落ちていた。ここまで遅いと、いちばん左の車線を走っていても、後ろからしきりにあおられる。それでもなお速度を落としていくと、後続車は腹を立てたことを露骨に表わして、急ハンドルで右に出て追い越していった。
そんな他車の動きをぼんやり見つめていた和也は、ふとあることに気がついて急にウインカーを左に出し、減速しながら左車線からさらに左へ――路肩へと車を寄せていった。
「何をするの」
和也が完全に車を停止させ、チャッと音を立ててサイドブレーキを引いたのを見て、晴美が不安そうにたずねた。
「よく考えてみろ、晴美」
ハザードランプのスイッチを入れてから、和也は晴美に向き直った。
「もしもほんとうにふたごの赤ん坊を轢《ひ》いていたら、何事もなかったように、つぎからつぎへと車がくるかよ」
いったんは錯覚を否定した和也が、また錯覚を願う口調になった。
「あれだけ猛スピードで轢いてしまったら、赤ん坊のパーツは左の車線にも右の車線にも飛び散るはずだ」
あえてパーツという機械的な単語を使ってはみたものの、気持ち悪さが変わるわけではなかった。だが、それ以上生々しい言葉を用いて表現はできなかった。
「それに気づいて急ブレーキをかける車も出るだろう。警察にも連絡がいくだろう。動物の死骸《しがい》ならともかく、人間の赤ん坊の死体が散らばっていたら、そのままかんたんにやり過ごすわけがない。こんなふうに車の流れが順調でいられるわけがないんだ」
路肩に停まっていると、いまさらながらに高速道路を走行する車のエネルギーを思い知らされる。さしてスピードを出していないはずの軽自動車ですらレーシングカー並みのスピードに思えたし、量感のある大型ダンプが通過するときなどは、ユサユサと地震並みに身体が揺さぶられた。
「だから?」
と、晴美がきく。
「だから、あれがなんでもなかったというの? でも、私にははっきり見えたのよ。白いおくるみ[#「おくるみ」に傍点]に包まれた赤ちゃんがふたり、道路に置かれていたことを。そして、この車で押し潰されてしまったところまで見えたのよ」
和也とは逆に、晴美は錯覚だと思いたがっていたはずなのに、いまはそれが現実だと認めはじめていた。
「見て、カズ、もう一回見て、この血を」
晴美は助手席側の窓に散った血しぶきを指さした。
「この血がすべてを証明しているわ。それに……」
「それに?」
「カズも聞いたでしょう……っていうか、感じたでしょう。あの言葉」
「晴美」
高速道路の夜間照明を瞳《ひとみ》に映し込みながら、和也は妻の目をじっと見つめた。
「おまえも感じたのか、あいつら[#「あいつら」に傍点]が追いかけてきたことを」
「うん」
消え入りそうな声で、晴美は答えた。
「追いかけてきて……私の頭の中に……入り込んだ」
「おれの頭の中にも、だ」
和也は、恐怖で口の中が乾燥するあまり、舌が上顎《うわあご》にへばりついて取れなくなるような感触を覚えた。
「なんて言ってた、あいつら。晴美の脳味噌《のうみそ》の中で」
「言えないわよ」
晴美は、きれいに切りそろえたショートカットの髪を揺らして拒絶した。
「私からは絶対言えないわ、そんな恐いこと」
「じゃ、おれが言おうか。頭の中で、やつらがわめいたことを」
「ダメ、やめて!」
晴美は、さらに激しく首を振って叫んだ。
「やっぱり認められない。ふたごの赤ちゃんを轢いたなんて認められない。あの子たちの最後の悲鳴が聞こえたなんて認められない。あの子たちの怨《うら》みのエネルギーが追いかけてきたのを感じたなんて認められない。それに」
そこまで言ったときだった。
夫に向かってわめきちらしていた晴美は、フロントガラスのほうに妙な気配を感じ、横目でそちらをチラッと見た。
そして驚きのあまり、目を大きく見開いた。
妻を見ていた和也も、とっさに前に向き直った。
「う」
潰《つぶ》れた唸《うな》り声が彼の口から洩《も》れた。
四月の末ではあったが、深夜の関ヶ原一帯はかなり冷え込んでいた。しかし、曇り止めのデフロスターをつけるほどの寒さではない。にもかかわらず、突然の冷気に包まれたようにフロントガラスがみるみるうちにミルク色に曇っていった。
そして、その上を見えない指が動いてでもいるのか、透明な文字が浮かび上がりはじめた。
最初に「つ」、つぎに「い」、そのつぎに「て」――
見えない指は車の中にいるのか、それとも車の外から書いているのか、曇ったガラス面にゆっくりとひらがなの文字が浮かび上がっていった。
「ねえ、ねえ!」
恐怖のまなざしでそれを見つめながら、晴美は泣き出しそうな声で和也の左腕を揺すった。
「ねえ、ねえ、ねえ!」
同じ言葉を繰り返すだけで、その先が言えない。和也も奥歯をカチカチ鳴らしながら、つぎからつぎへと浮かび上がる文字を見つめていた。ここまでくれば、ふたりは四番目の文字が何になるのか、待たずともわかっていた。最終的にどんな言葉が綴《つづ》られるのか、ということもだ。
そして、彼らの予想どおりの単語がフロントガラスに浮かび上がった。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
停車中であることを示すハザードランプの点滅に合わせて、その五つのひらがなが、オレンジ色に輝いたり灰色に沈んだりした。
「だめ、だめ、だめ、だめ」
晴美が、酸欠の金魚のように口をパクパクさせはじめた。
「わたし……もう……だめ」
「くっそー!」
和也は叫んだ。
「こんなことがあってたまるかよー」
彼は、ハンドルの中央にあるクラクションのボタンを両手で思いきり押した。
ビッビーというけたたましい音が響き渡った。その音で悪霊を追い払えるとでも思ったのか、和也はムキになってクラクションを押しつづけた。脇を通りすぎる車が異常に気づいて停まってくれるかもしれないという期待もあった。
このままでは和也も狂ってしまいそうだった。妻の精神的なパニックを支えきれる自信などまったくなかった。
と――
突然、音が消えた。
和也の手はクラクションのボタンを強く押しつづけているのに、音がまったく鳴らなくなった。
バッテリーがあがったのではない。エンジンはかけっぱなしだし、ヘッドライトもハザードランプもきちんと点《つ》いている。それなのに、警笛音だけが急に鳴らなくなってしまった。
「生きて……生きているのよ」
晴美が、息だけの声で言った。
「赤ちゃんは死んでも、怨みだけが生きて私たちに取り憑《つ》いた。だから、ほかの人に知らせないように、クラクションを消した」
「見てくる」
「何を」
「外だよ。タイヤだ。それから車の下だ」
和也はシートベルトをはずし、ドアロックを上げた。
「もうこうなったら自分の目で直接確かめるしかない」
「ダメ!」
晴美は和也の腕をつかんで引っぱった。
「外に行っちゃダメ!」
「いや、もう自分の目で確認するよりないだろう。ほんとうにおれが赤ん坊を轢《ひ》いたなら、タイヤに、ちぎれた皮膚や肉のかたまりがついているはずだ」
「バカッ、どうしてこんなときに、わざわざそういう気持ち悪い言葉を使うのよっ!」
晴美はつかんでいた手を放し、それで和也の腕を何度も叩《たた》いた。
「カズの鈍感! 無神経! 大バカ! バカバカバカ!」
日常生活において、晴美は、和也のことをデリカシーがないといって猛烈に怒り出すことがしばしばあった。和也にしてみれば、自分の言葉がそこまで相手を怒らせるものだとは思っていない。しかも、晴美が怒り出すのはいつも説明なしに突然だったから、なおさら理解に苦しむ。だから謝らない。けれども謝らないと、よけいにまた晴美が怒る。その繰り返しの悪循環に陥ることがよくあった。
そして、時と場所と場合を選ばない晴美の瞬発的な癇癪《かんしやく》は、こんな状況でも起こってしまうのだ。
パシーン、と鼓膜に響く音を発して、晴美の平手打ちが和也の頬に飛んだ。
「おかげで目が覚めたよ」
頬を押さえながら、皮肉ではなく真顔で和也は言った。強烈な平手打ちのショックで、恐怖が飛んだ。そして彼は、運転席側のドアを開けた。
「とにかく見てくる」
「待って、私をひとりにしないで!」
怒りを爆発させたばかりの晴美が、一転して弱気な声を出した。
「私もいっしょに出る」
「じゃ、そっちから出ろ」
「無理よ、こっち側からは出られない」
晴美は、血しぶきに彩られた窓ガラスを指さした。
「わかった。じゃ、こっちにこい」
道路に降り立ってから、和也は運転席のほうへ晴美の身体を引っぱった。
「あ、見て」
助手席から運転席へ移ろうとした晴美が、フロントガラスを指さした。
例の文字が消えていた。
ドアを開けた拍子に夜明け前の冷たい空気が流れ込んできたせいなのか、それとも別の理由があるのか、ともかくミルク色に曇っていたフロントガラスがいつのまにか透き通って、不気味な文字は跡形もなく消えていた――
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[#1字下げ]3 出迎え
1
ふたりの乗った車が、晴美の父親が仕事場として使っていた京都岩倉の家――市ノ瀬家別宅に着いたのは午前五時を回っていた。すでにあたりは白々と明けており、東にそびえる比叡山《ひえいざん》の姿をくっきりと目にすることができた。
岩倉は京都市の北に迫《せ》り出してくる北山の山裾《やますそ》にあり、東へ行けば八瀬《やせ》を隔てて比叡の山並みに至り、北北東へ行けば三千院《さんぜんいん》や寂光院《じやつこういん》で知られる大原、真北へ行けば昼なお暗い鞍馬《くらま》と貴船《きぶね》の鬱蒼《うつそう》とした山あい、そして西の方角の杉坂《すぎさか》、|雲ヶ畑《くもがはた》といった地域から先も深い山々が控えている。つまり岩倉とは、南を向けば京都のにぎやかな街並みを望めるが、それ以外の三方向はすべて山に囲まれた場所であった。
岩倉という地名が、天から神が降臨してきた特別な岩――「磐座《いわくら》」に由来するのもうなずける独特の「気」が、その一帯には満ちていた。しかも市ノ瀬邸のある一帯は、このあたりで唯一の観光対象である実相院《じつそういん》や岩倉|具視《ともみ》旧宅からもだいぶ離れており、日が暮れたら人通りがすっかり途絶えるロケーションにあった。
淋《さび》しいのは日暮れ以降だけではない。明け方の五時過ぎも同じである。町中ならば新聞配達のバイクの音や、早起きした家から雨戸を開ける音も聞こえてくるだろうが、ここでは山あいから流れてくる冷たい朝の風に乗った野鳥のさえずりが響くだけだった。それぞれの人家の間には、広々とした空き地や畑などがはさまれており、軒と軒を接する洛中《らくちゆう》の家並みとはがらりと趣を異にしていた。
築五十年の平屋建てである市ノ瀬邸も、建物じたいはさほど大きくなかったが、その周囲には車が何台でも停められる敷地が広がっており、そこも市ノ瀬家の所有地になっていた。隣家は左右とも野菜を作っている農家で、向かいと裏の家は市ノ瀬の家と同じように別荘として使っているのか、人が常時住んでいるような気配はなかった。
駐車スペースのすぐ脇には物置がひとつあり、さらに北側の奥に古びた土蔵が建っていた。それも市ノ瀬邸のものである。
市ノ瀬恵造が死んだあとは、晴美の母・準子がこの土地と建物を相続していたが、いずれはひとり娘の晴美が継ぐことになる。和也はサラリーマンだったからすぐに東京を離れるわけにはいかなかったが、将来この広々とした場所に引っ越して、晴美の父親と同じように古都の歴史研究などしながら後半生を過ごすのも悪くないと思うこともあった。
出版社の書籍編集部員として勤務しているだけあって、彼は本が大好きで、それも小説より考古学や民俗学の書物をあさるのが好きだった。そんな彼が晴美と深くつきあうようになったきっかけも、彼女があの[#「あの」に傍点]市ノ瀬恵造の娘だと知ったからだった。
もちろん、だから晴美と結婚したというわけではなく、晴美個人を好きになったからというのが最大の理由であるのは当然だった。
しかし、晴美よりも先にその父親の名前を知っていた和也としては、結婚が本決まりになって初めて、この岩倉の家で市ノ瀬恵造と面会することになったときには緊張した。うちはずっと母子家庭だったから、という晴美の言葉も、市ノ瀬恵造に関する先入観を形成するのに大きな影響を及ぼしていた。
ところが実際に会ってみると、晴美から聞かされていたほどの変人という印象はなく、和也は少々拍子抜けした思い出があった。
「やあ、きみが永瀬君か」
意外にも、にこやかな笑みを浮かべて、市ノ瀬は永瀬に握手を求めてきた。まばらな白髪頭に老いを感じたが、しゃべり方はきわめて穏やかで、しかも明瞭《めいりよう》だった。
「娘のことを、よろしく頼むよ」
あまり会話を多く交わしたわけではなかったが、決して晴美の父親の印象は悪くなかった。気むずかしい人物だという印象も受けず、むしろその逆だった。だから、結婚後まもなく市ノ瀬が死んだという知らせを受け取ったとき、和也もショックだった。もっともっと「お父さん」と呼んで、いろいろな話を聞きたかったと悔やんだ――
自然環境と見事に調和しているせいか、市ノ瀬邸には『庭』という概念で捉《とら》えられるエリアがなかった。ふだん人が住んでいないから、人工的な要素が少ないのはなおのことだった。手入れをしていないために、四月下旬という季節ながら膝《ひざ》まで伸びた雑草で一面覆われている。そこへ和也はRV車を乗り入れた。運転席の窓を少し下げると、ひんやりした空気とともに、草の匂いが流れ込んできた。
和也は運転席のヘッドレストに頭をもたせかけ、しばらくは口も利かずに目を閉じていた。晴美も同じようにヘッドレストに寄りかかっていたが、彼女は目を開けていた。そして真横の窓ガラスに飛散した血しぶきをじっと見つめている。
周囲が明るくなって窓ガラスの反射が消えたため、附着した錆《さび》色の血しぶきは、空中にその形で停止しているようにも見えた。
血の花が咲いている――と、晴美は思った。
怪奇現象という言葉があるが、その現象が発生した理由について、たとえ突拍子もない着想であっても、少しでも筋道の通った説明がつくものであれば自分を納得させるすべもあるのだが、和也と晴美がわずか二時間前に体験した出来事は、幻覚という以外に説明のしようがなかった。
高速道路の路肩に車を停めた和也は、怯《おび》える晴美とともに、意を決して車体の点検をはじめた。ふたりそろって見た光景――ふたごの赤ん坊が和也の運転する車の下敷きとなって肉片と化した場面が現実に起きていれば、おぞましい痕跡《こんせき》が車に残っているのは間違いない。
ところが、懐中電灯を使って車体の外観、タイヤ、さらに下回りを覗《のぞ》き込んでも、想像していたような跡はまったく見当たらなかった。唯一、助手席側の窓ガラスに飛んだ血しぶき以外には何も……。
その血しぶきにしても、肉眼で見ただけでは、轢《ひ》き殺した新生児のものであると決めつける根拠は何もない。
しかし――和也と晴美は実際に見たし、聞いたし、感じたのである。ふたごの赤ん坊が時速百三十キロで疾走するRV車の下敷きとなり、無残に潰《つぶ》れるさまを。
そして、ふたごの怨念《おんねん》が追いかけてきて頭の中にもぐり込んできたのを。
(出ていってくれたのだろうか)
いまの晴美にとって、最大の恐怖は、轢いた瞬間の出来事ではなくなっていた。そうではなく、恐いのは「ほんとうに出ていってくれたのか[#「ほんとうに出ていってくれたのか」に傍点]」という疑いが強く残っていることだった。
頭の中に飛び込んできた怨念が、彼女に恐怖のインパクトを与えて、すぐにまた出ていってしまったのか、それともまだ脳味噌《のうみそ》の深いところにじっと潜んでいるのか。問題はそこだった。
夜の高速道路の照明に浮かび上がった血しぶきは、吐き気を催すまでに生々しく赤かったが、明け方の光で見るそれは、すでに錆色に変色していた。その教科書どおりの物理的な変化が、やはりあれは現実だったのだと教えているようだった。
その血しぶきを見つめている晴美の目の前で、突然、助手席のドアロックがカチャッと音を立てて上がった。いまの晴美には、その機械的な動きさえオカルト現象に思えてしまう。赤ん坊の霊がドアロックを引っぱり上げたのではないかと……。
和也が運転席のロックを持ち上げたために、自動的に助手席側も連動して開いただけだとわかって、晴美はやっと口を開いた。
「何をするの」
「洗うんだよ」
「洗うって?」
「いつまでも、それをくっつけていたくないだろう」
晴美の向こう側のガラスをアゴで示してから、和也は車の外に出た。そして雑草を踏みしだきながら庭先の水道まで進むと、リール状にまとめられたホースの一端を蛇口に接続し、栓をひねってから先端を持って車のほうへ戻ってきた。
晴美は身体を動かす気力もなく、ただぼんやりと夫のやることを車の中から眺めていた。和也がホースの先端に付けられたガン式の引き金を引くと、ジェット噴射状の水が勢いよく晴美の目の前のガラスにぶちあたってきた。
反射的に晴美は首をすくめた。
バババババ、というすさまじい音を立ててガラスを叩《たた》きながら、ホースの先端から飛び出してくる水の噴流は、血しぶきの跡をあっというまに吹き飛ばし、いっぺんで窓はきれいになった。
さらに和也は、晴美を助手席に乗せたまま、車ぜんたいを念入りに洗った。万が一にも赤ん坊の死体の断片などが付いていてはいけないと、とくに下回りの洗浄は徹底的に行なった。
その結果、たしかに車はきれいになった。けれども、洗い流した血はどこへ行ったのか。この世から完全に姿を消したわけではない。雑草生い茂る地面に染み込んだだけだ。もしも肉片などが附着していたら、それも水に流されて地面に広がっただけだ。とりわけ液状でないものは土壌に吸収されるわけにはいかない。草むらにへばりついて残ることになる。
晴美は、自分たちは間違った対応をしているのではないかという気がしてならなかった。給油所の人間にいぶかしく思われても、やはりガソリンスタンドが開くまで待って、そこで洗車を頼むべきではなかったのか。
あの醜悪な映像は幻覚の産物だったとしても、何かを轢《ひ》いた瞬間に助手席の窓ガラスに血が飛び散ったのは疑いようのない事実だ。そして、その血液をここで洗い流したのだ。その行為は、ふたごの赤ん坊の肉体の一部を庭にばらまいたも同然のことになるのではないか。
(カズ、そのことに気がついているの?)
黙々と車を洗いつづける夫を水滴だらけのガラス越しに眺めながら、晴美は心の中でつぶやいた。
(血を洗い流せばすべてが終わるの? そうじゃなくて、逆に何かがこの家ではじまってしまうんじゃないの?)
「終わったよ」
水が滴り落ちる助手席のドアを開けて、和也が晴美の腕をとった。そして外へ出るよううながした。
「もうだいじょうぶだ」
(うそ、だいじょうぶなんかじゃない)
晴美は本能的に抵抗しようとした。が、和也の引っぱる力が強くて、彼女は転がり出るようにして雑草まみれの庭に降り立った。
2
晴美は薄いベージュのパンツをはいていたが、木造平屋建ての玄関のほうへ歩いていくわずかな距離のあいだに、その裾《すそ》から膝《ひざ》にかけて雑草にふりかかった水滴がびっしりと附着した。
水滴だけならまだいい。そして雑草の緑が染みつくのも、いつもなら気にかかるところだったが、いまの晴美にはそれも許せた。だが――
身体をひねって自分の後ろ姿を見ると、ちょうど両脚のふくらはぎのあたりに、たんなる水滴でもなければ、草つゆでもない、パンツの生地の色合いに溶け込みそうな薄茶色の染みが点々と付いていた。
(洗い流した血が……付いちゃった)
刷毛で皮膚を撫《な》でられたような感覚が、足もとから背筋にかけて駆け上がってきた。
「晴美は先に家の中に入っていていいよ」
妻がどんな心境になっているかも知らずに、和也は気を遣っているつもりでそう言った。またそこで晴美の癇癪《かんしやく》が起きた。
「どうしてカズって、こういうときにも無神経なの!」
ついに、いらだちが口を衝《つ》いて出た。さっきと同じように、不満というよりも恐怖が晴美をとげとげしくさせていた。
「無神経?」
和也が眉《まゆ》をひそめてきき返した。
「おれが無神経だって?」
「そうよ。なんでカズは、いつもそうやって肝心なときに私の気持ちをわかってくれないの」
「言ってる意味がわからないな」
額に散った水滴を手の甲でぬぐいながら、和也は硬い顔で言い返した。
「おれは晴美を気遣って、先に家に入っていいよと言ったのに、どうしてそれに対してムカつくんだよ」
「わかんないの?」
「わからないね。ぜーんぜん、わからない」
和也は首を横に振った。
「意味のわからないことで怒られたら、こっちだって腹も立つ」
「あなたなんかに腹を立てる権利はないのよね。怒っているのは私なんだから、ついでに腹を立てたりしないで」
晴美は、和也をまっすぐ見て怒鳴るのではなく、うつむいて地面を見つめたままわめいていた。癇癪を起こすときはいつもこうだ。
「だから何が言いたいんだよ」
「いいの、もういい」
「よくないよ」
和也は晴美の腕を、ギュッとつかみ上げた。
「ぼくたちは、まだ精神的に興奮状態にある。一睡もしていないから気が立ってしまうのもしょうがない。ここでケンカをしたって意味がないことだ。それより、荷物を中に運び込んだら、まず一眠りしよう」
「一眠り?」
「そうさ。睡眠不足の頭じゃ、正しい方向に考えは進まない。この問題についてじっくり考えるのは、たっぷり寝て、それからだ」
「寝る前にお風呂《ふろ》に入らなくちゃイヤ!」
「じゃ、そうしろよ」
晴美がなぜ風呂に入りたがるのか、それをきこうともせずに、和也はあらかじめ晴美からもらっていた市ノ瀬邸の鍵束《かぎたば》をズボンのポケットから取り出した。
玄関、勝手口、表門、裏門、物置など、何本もの鍵が束になってまとめられていたが、いかにも築五十年の家屋にふさわしく、鍵の造りも旧式なものばかりだった。その一本、真鍮《しんちゆう》の色合いをもった薄い鍵が、正面玄関の引き戸を開けるものだった。二枚重ねになった格子戸の真ん中に鍵を差し込んで開ける方式だった。
このとき、波板ガラスの入った格子戸を一方の手で少し持ち上げるようにしておかないと、うまく鍵が回転しない。そういうちょっとしたコツというものが、この家では至るところで要求された。
和也がここを最後に訪れたのは、三年前、市ノ瀬が死んだあと、家財道具の後片づけを手伝うためだった。そのときは、名目上は夏休みとして五日間の休暇をとり、晴美とその母親の準子とともにこの家で寝起きしたから、おおかたの使い勝手は心得ていた。玄関の開け方のコツもまだ覚えていた。
まだ暑い季節にはほど遠かったが、管理を委託している業者が風通しのために入ったのは何カ月も前のことだ。きっと黴《かび》臭い空気が澱《よど》んでいるに違いないと、和也は新鮮な外気をたっぷり胸に吸い込んだ。そして、格子戸をガラガラと音を立てて引き開けた。
と、思いもよらぬものがそこに待ち受けていた――
「お帰りなさいまし」
白装束を着た白髪の老婆がふたり、上がり框《かまち》に並んで正座をし、声を揃えて和也たちを出迎えた。
3
永瀬和也は、音叉《おんさ》の響きに似た耳鳴りを聞いた。恐怖で耳鳴りが起きるなど、まったく初めての体験だった。
誰もいないはずの家に老婆がいた。
鍵を掛けてあった無人の家に老婆がいた。
そして、和也たちの到着を当然のように[#「当然のように」に傍点]待ち受けていた。
しかも、ひとりではなく、ふたり――
和也と晴美を見つめる眼差《まなざ》しは、やさしそうでもあり、悲しそうでもあり、そして怨《うら》めしげでもあった。しかも年老いているのにどこか生まれてまもない赤ん坊を連想させる純な瞳《ひとみ》をしていた。
そんな特徴的な風貌《ふうぼう》が、両方の老婆にほとんど同じ形で与えられていた。まばゆさすら感じる純白の髪型こそ微妙に異なっているが、かえってそれが不気味だった。
(ふたごだ)
和也は震えた。
老婆たちがまとっている白装束は死者の衣を連想させたが、同時に、高速道路上に置かれてあった、あのふたつの白いものをも思い起こさせた。ふたごの赤ん坊がくるまれていた白い産着だ。
二時間前に高速道路で轢《ひ》き殺したと思ったのもふたご。そして、長い間空き家にしていた家の扉を開けたら、またふたご。
最初は赤ん坊で、つぎは老婆……。
和也の横から部屋の中を覗《のぞ》き込んだ晴美が、悲鳴をあげることもなく、開いた格子戸によりかかる格好でずるずると腰を下げてゆき、無言のまま地面にへたり込んだ。限界を超えた恐怖が、晴美の意識活動を停止させてしまったのだ。そして晴美はゆっくり目を閉じた。
和也は晴美を助け起こそうとした。だが、気を失ったならば、そのままにしておいたほうが彼女のためだと思い直した。わざわざもう一度揺り起こして、こんなすさまじい光景を見させる必要などない。
倒れた妻をそのままにして、和也はまたふたごの老婆に目を向けた。それを待ち構えていたように、ふたりが同時に口を開いた。
「おまえは赤子を轢きよった。
可愛い赤子を轢きよった。
ぐしゃりぐしゃりと轢きよった」
ふたりは、あらかじめセリフを決めておいたような正確さで、同じ言い回しを寸分のズレもなく同じタイミングでしゃべった。しかし、微妙にピッチが異なっているために、ふたりの老婆の声はおたがいに共鳴しあって立体感のある響きになった。
「いかがじゃな。赤子を潰《つぶ》した感想は」
口で答えるより先に、和也の首が左右に動いた。否定のポーズのあとに、かすれた声が追いかけた。
「バカなことを言うな。おれはそんなことしていない」
「おやおや、しらを切りよるか」
白装束のふたりが、また声を揃えた。
「なんと小狡《こずる》い男じゃろ、見えすいた嘘などつきよって」
「嘘なんかついていない。おれは赤ん坊なんか轢いていない」
「では、なぜ車を洗ったか。いっしょうけんめいゴシゴシと」
「汚れていたからだ」
「なんで汚れておったのか」
「長い距離を走ってきたからだよ。虫の死骸《しがい》なんかがライトにこびりついていたから」
「それだけではないじゃろが。赤子の血などもべっとりと」
「そんなものは見ていない!」
初めはかすれ声しか出せなかった和也の喉《のど》から、しだいに大きな声が出るようになった。大声を出すことで、なんとか彼は自分の精神のバランスを保とうとしていた。
「助手席の窓には、血なんかついていなかった」
「おやおや」
ふたごの老婆は、同時に笑った。
「こちらが場所を言う前に、助手席の窓とわかるとは」
「………」
「嘘は容易につけぬものよのう」
「おまえら、いったい何者なんだ」
上がり框にちょこんと座るふたりに向かって、和也は意図的に乱暴な言葉で罵《ののし》った。
「人の家に勝手に上がり込んで、泥棒みたいな真似するんじゃねえよ」
「これはこれは」
皺《しわ》だらけの口をすぼめて驚きの表情を作ってから、ふたごの老婆はそれまでのような唱和をやめて、左の老婆が右の老婆に語りかけた。
「わしらはきつう叱られた」
すると、右の老婆がうなずいて言った。
「まるで泥棒よばわりじゃ」
「けれどもただの泥棒ならば、どれほど話は単純か」
「のう」
ふたりはたがいを見つめあいながら交互にうなずきあった。そのやりとりの異様さが、和也には我慢がならなかった。
「とにかくここはおれたちの家だ。おまえらの家ではない。出ていけ、いますぐに!」
相手が老人であろうと、和也は力ずくでも引きずり出そうと思った。ただし、じかにさわれるものであるならば……。
(こいつら、ほんとうに肉体を持った人間なのか)
その疑問が和也の脳裏をよぎり、老婆に手を伸ばすことをためらわせた。
(もしかすると……)
突拍子もない考えに和也は行き当たった。
(このふたりは、おれが轢き殺したふたごの赤ん坊なのでは)
「おや」
おたがいを見つめあっていたふたりの老婆が、同時に和也に向き直り、ふたたび口調を揃えて言った。
「わかったようじゃの。そのとおり」
(………!)
相手の言葉が短いだけに、和也の驚きは大きかった。明らかに和也の心の動きが読み取られていた。
二重の衝撃だった。こちらの心を読まれたショックと、ふたごの老婆の正体が高速道路で轢いたふたごの赤ん坊だったというショック。
「ウソだ」
和也は叫んだ。
「そんなことはありえない。赤ん坊を轢いたことだって信じられないのに、それがいきなりババアになってたまるか」
そのときだった。和也の頭に言葉が飛び込んできた。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
(うわっ!)
和也は悲鳴を上げそうになった。
またあれ[#「あれ」に傍点]が頭の中に飛び込んできた。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
目の前の老婆は、何も口を動かしていなかった。それなのに、言葉が和也の頭の中に響き渡った。怨念《おんねん》のエネルギーが和也の脳味噌《のうみそ》を内部から揺さぶった。
「おまえたちは……」
口に出さなくても相手には言いたいことが読みとられるとわかっていても、和也は声に出してたずねざるをえなかった。
「高速道路のあそこからついてきたのか」
その質問に、老婆たちは同時にニカッと笑った。
しかし、すぐに答えは返ってこない。
(いったい……こいつら何者なんだ)
心の中でそう考えたとたん、右の老婆が、和也の耳に聞こえる具体的な声でつぶやいた。
「痛かった。それはそれは痛かった」
それに応じるかたちで、左の老婆もつぶやいた。
「車に轢《ひ》かれてしまうのが、あれほど苦しいものだとは」
そこでふたりは、またたがいに向き合った。
「おまえが先に轢かれたのう」
右の老婆が左の老婆へ語りかけた。すると左の老婆が白装束の上から片手で腹のあたりをさすって言った。
「さよう、ちょうどこのあたり、車のタイヤがぐりぐりぐりと、思う存分こねくりまわし、通り過ぎていきおった」
左の老婆がそう言うと、右の老婆も同じ場所を手でさすった。
「わしもあんたと同じじゃわ。ほれ、この腹の真ん中を、ぶちぶちぶちと潰された」
「まことにむごいことじゃわな」
「いったい誰がやりよった」
「この男がやりよった」
四つの瞳が、和也を睨《にら》みつけた。それと同時に、ふたりが着ている白装束の腹部に突然赤い染みが現れ、みるみるうちに広がっていった。
(なんだ、これは!)
和也は目を見開いた。老婆たちの身体から、勢いよく鮮血が噴き出しはじめたのだ。
「ああああ」
右の老婆が腹を抱えてうめいた。
「お腹が張り裂けそうじゃわな」
「ああああ」
「中身が飛び出てきそうじゃわ」
老婆たちがまとった白装束の上から下へと、猛烈な勢いで赤いカーテンが降りていった。その赤い色は裾《すそ》の方向だけでなく、重力に逆らって、老婆の胸もとから喉もとへと顔のほうへも駆け上がっていった。それは毛細管現象といった言葉では説明のつかない激しい勢いだった。エネルギーを感じる出血というものを見たのは、和也にとって初めてのことだった。
そして、ついにはふたりの襟もとから真っ赤な噴水が勢いよく噴き上がり、肩まである白髪を赤く染め、老婆たちの顔に赤い血の花をバシャリ、バシャリと音を立てながら咲かせていった。
4
最初は花の形に開いた血しぶきは、やがて老婆の顔面に走る深い皺《しわ》の溝に入り込み、皺の筋に沿った無数の赤い流れとなって、ふたりの顔じゅうを駆けめぐった。ふたごの老婆は、顔の表皮が剥《は》がれて、その下にある表情筋がむき出しになったかと思える凄《すさ》まじい形相《ぎようそう》になった。
一方、裾のほうからあふれ出した血液は、音を立てて玄関の三和土《たたき》になだれ落ち、それじたいが生命体であるかのごとく、不規則に形を変えながら和也のほうを目指して迫ってきた。
そして、彼の足もとで失神している晴美のところへも、その触手を伸ばしていく。
「よいか、聞け」
筋肉の形をしたふたつの顔が、苦しみ悶《もだ》えながら交互にしゃべりはじめた。
「おまえたちふたりは呪われた」
「きょうこの日から十三夜」
「夜ごと悪夢にうなされる」
「夢はしだいに恐くなる」
「あまりの恐さに目が覚めて」
「全身ぐっしょり濡《ぬ》れねずみ」
「冷や汗びっしょり濡れねずみ」
ひとりの言葉|尻《じり》を、もうひとりが掬《すく》い取り、つぎの言葉尻をまた相手が掬い取る。その畳みかける速度がどんどん速くなっていった。
「逃げ出したいが」
「逃げられぬ」
「帰りたいが」
「帰られぬ」
「昼間は家から出らりょうと」
「夜には必ず戻りよる」
「しまいの夢をみるまでは」
「逃げ出したいが」
「逃げられぬ」
「帰りたいが」
「帰られぬ」
和也の恐怖は限界点に近づいてきた。
「やめろ、おまえら。黙れ!」
叫んだが無駄だった。赤い顔をしたふたごの老婆は、突如|苦悶《くもん》の表情を解いて、そこだけが白さの残る歯をむき出しニッと笑った。
「恐いかの」
「そうじゃろな」
和也の足もとへ、アメーバ状の血だまりがどんどん迫ってきた。気を失っている晴美が何かの気配を察したのか、目を閉じたまま唸《うな》り声を洩《も》らした。が、和也はそちらに目を向けるゆとりがない。
「おまえたち、きょうこの日から十三夜」
「夜ごと悪夢にうなされる」
赤い怪物と化した老婆ふたりが、また繰り返した。
「しまいの夢をみるまでは」
「逃げ出したいが」
「逃げられぬ」
「帰りたいが」
「帰られぬ」
そしてふたりは唱和した。
「ついてくる」
その一言に、永瀬和也は硬直した。
「逃げても逃げてもついてくる」
硬直した全身の中で、自分の歯だけが勝手にカチカチとカスタネットに似た音を立てていた。
「ぴたり、ぴたりとへばりつく。怨《うら》みの霊は取り憑《つ》いた」
「なぜ、おれが怨まれなきゃいけない」
必死になって和也は言葉を絞り出した。
「たしかにおれは道路で何かを轢《ひ》いた。それは認める。でも、仮にあれが赤ん坊だったとしても、あんなところへ置き去りにしたやつが悪い。あそこは高速道路だぞ。車が走るためにある道なんだ。たとえ赤ん坊を轢いたって、おれのせいじゃない。おれは何も悪くない」
「あれはまさしく私らじゃ」
老婆が声を合わせて言った。
「おまえが轢いたは私らじゃ」
「それはわかった。でも、お願いだ、たのむから……」
和也は一転して、泣き出しそうな声になって訴えた。
「おれたちを怨んだりしないでくれ。取り憑かないでくれ」
だが、ふたりはその頼みを突き放すように声を揃えて言った。
「ついてくる」
同時に、和也の足もとから悲鳴が上がった。
「カズ! たすけてー!」
声のしたほうに和也は目を向けた。
知らぬまに、老婆たちの身体からあふれ出した血液は和也の靴まで到達し、そこを通り過ぎて、後ろで倒れている晴美へ襲いかかっていた。
「いやー、溶けちゃう!」
目を覚ました晴美は、全身にまとわりついてくる血液の化け物にがんじがらめとなっていた。
赤い液体は、低いほうから高いほうへ流れるだけでなく、半身を起こした晴美の脚から腰へ、腰から胸へと這《は》い上がり、ついには顔にまでたどりついた。そして、血の通ったあとの皮膚はすべて剥《は》がれ落ち、筋肉が、ひどいところは骨までがあらわになっていた。
「おねがい、カズ、たすけて! このままじゃ私、ぜんぶ溶けちゃう!」
すでに晴美の唇は溶け出していた。
歯ぐきがむき出しになっていた。さらに和也の見ている前で、晴美の眼球がひとつ、粘りけのある糸を引きながら、ポロリと玄関の床にこぼれ落ちた。
「わああああ!」
和也は凄《すさ》まじい悲鳴を発した。妻のほうを見ても、老婆たちのほうを見ても、人間の顔をしていなかった。そして彼女たちを肉のかたまりにした赤い血だまりが、矛先を変えて、いよいよ自分に向かってきた。
「うおーっ!」
腹の底から、和也は吠《ほ》えた。恐怖で吠えた。
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[#1字下げ]4 夢のはじまり
1
「夢よ、夢よ、カズ!」
激しく揺さぶられて、永瀬和也は目を覚ました。
まず古めかしい天井板が視野に飛び込んできた。そして、上から覗《のぞ》き込んでいる晴美の顔。それは筋肉組織をさらけ出した人体標本図のような顔ではなく、まともな人間の外観をしていた。ただし恐怖に引きつっていて、いつもの晴美とは違っていた。
「夢よ、夢だったのよ」
「夢?」
そう問い返したものの、まだ和也の頭は混乱していた。
「ここは、いったいどこなんだ」
「うちよ、パパの家」
「岩倉の?」
「そう」
「何時なんだ、いま」
時間をたずねながら、和也はあおむけのまま改めて周囲を見回した。
たしかにそこは見覚えのある十畳の座敷だった。かつては晴美の父、市ノ瀬恵造がそこに和机を置いて民俗学の研究と執筆に時を忘れ没頭していた書斎であり、彼の死後、この家に泊まりがけで後片づけにやってきたときには、和也は晴美と枕を並べてこの和室で寝起きしたこともあった。
その場所に、いま和也は晴美と蒲団《ふとん》を並べて寝ていた。だが、いつここに蒲団を敷いたのか。少なくとも、自分で敷いた記憶はない。それだけではなく、蒲団の中に入って眠りについた記憶もない。蘇《よみがえ》ってくるのは、徹夜のドライブで東京から京都までやってきて、がむしゃらに車を洗ったこと。その時点では、夜が明けてまもない時間帯だったということだけだ。
いま、部屋の中に自然の光はない。天井からぶら下がった和風の蛍光灯が投げかける青白い光があるだけだった。
「いま、十二時よ」
晴美が自分の腕にはめた時計を見て答えた。
「十二時?」
とっさに和也は、それは深夜の零時のことだと解釈した。
「そんなに寝てしまったのか」
「ううん、お昼の十二時よ。……ほら」
晴美は、下半分にガラスを嵌《は》め込んだ奥の障子を指さした。
障子の向こうは廊下になっており、カーテンが取り付けられていない廊下の板張りの床に、雨戸の節穴から洩《も》れてきた陽光が射し込んでいた。
そういえば、ゴールデンウィーク中の京都は連日快晴であると天気予報が語っていたと和也は思い出した。
「いまが真昼ということは……ここに着いて、すぐ寝てしまったのか」
和也は蒲団の上に起きあがった。
彼は、いつのまにか自分がパジャマに着替えており、晴美もパジャマ姿であることに気づいた。だが、着替えた記憶もない。
額には前髪がべったり貼りついていた。首筋が汗で冷たかった。自分が寝ていたところをふり返ると、白いシーツが背中の形に沿ってグレイに変色していた。驚くべき量の汗をかいた跡だった。パジャマも汗を吸い取って重く湿っている。
(全身ぐっしょり濡《ぬ》れねずみ)
(冷や汗びっしょり濡れねずみ)
ふたりの老婆の声が蘇り、背中が氷のように冷たくなった。
「そうか……とにかく、いまのは夢だったんだな」
和也は、晴美に同意を求めて問いかけた。
ところが――
「なに言ってるのよ、カズ。私がきいてるのよ」
「え?」
「質問しているのは、私のほう」
パジャマ姿の晴美は、和也のパジャマの胸もとをつかんで揺すった。
「ねえ、おねがいだから夢だと言って。そうよね、夢だったのよね。私が大声で叫んじゃったのは、夢にうなされていたからなのよね」
「なんだって……」
和也は、たがいの会話が噛《か》み合っていないことに気がついた。
悪夢にうなされているところを晴美が揺り起こしてくれたのだと思っていたのに、晴美は晴美でひどい夢に苦しめられていたのだ。夢だったの、という彼女の言葉は、うなされた和也をなだめる言葉ではなく、逆に、自分の気持ちを鎮めるために和也に確認を求めていたのだ。いまのは夢だったのね、と。
ジジジと小さな音を立てる蛍光灯の明かりに照らされた妻の顔を、和也はじっと見つめた。晴美も額にびっしりと汗を浮かべていた。鬢《びん》のほつれ毛が、蛇そっくりの形を描いて彼女の頬にへばりついていた。晴美の蒲団に目をやると、和也のそれよりもっと大きな面積でシーツが濡れていた。
2
「晴美……」
たがいに蒲団の上に半身を起こした格好で見つめあい、それから和也がかすれ声で問いかけた。
「おまえ、いまどんな夢をみていた」
「言いたくない。思い出したくない。もう忘れたい!」
晴美は激しくかぶりを振った。
「夢だってわかったから、もういいの」
「よくないよ」
こんどは和也のほうから晴美の身体をつかんで揺すった。
「教えてくれ。いまおまえはどんな夢をみていた」
「やだって言ってるのに」
「いいから言うんだ」
「どうしてカズは、私のいやがることばっかりするのよ」
「ふたごの婆さんが出てきたろう」
「………」
晴美が息を呑《の》んだ。
髪の毛の間を縫って、こめかみから頬へと一筋の汗が流れ落ちてきた。
「おれが轢《ひ》いた赤ん坊が、ババアになって化けて出てきただろう。そしてこういうふうに言わなかったか。おまえたちは、きょうから十三夜つづけて悪夢をみるというようなことを。逃げ出したくても逃げられない。昼間は家から出られても、必ず戻ってきてしまう。最後の十三番目の夢を見終わるまでは、この岩倉の家から出られないと、そう言っていなかったか」
「なんでよ」
晴美の唇は、その形が二重三重に見えてしまうほど激しく痙攣《けいれん》していた。
「なんで私のみた夢がわかるの」
「おれも同じ夢をみたからだ」
「うそ……」
「嘘じゃない。その夢では、晴美はこの家の玄関口で気を失って倒れるんだ」
「そうよ、そうなの。玄関を開けたとたん、白い着物を着たふたごのお婆さんが座っているのが見えて、びっくりして気を失った。なのに、そのあとのことまでハッキリ覚えている。目を閉じていたのに、ふたごのお婆さんの白い着物が真っ赤に染まるところもちゃんと見えていた。すごい量の血が私のほうに押し寄せてくるのが見えていた。でも、夢だからそうなんだと思っていたのに」
「夢は夢なんだ」
晴美の両肩をつかまえたまま、和也は言った。
「たしかにそれは夢だった。だけどおれと晴美でまったく同じ夢をみた」
「そんなこと、ありえないじゃない!」
「だから、夢というふうに単純に呼んではいけないかもしれない。幻覚……といったほうが正しいかも」
「幻覚?」
「高速道路のあの出来事を思い出してみろ」
「おくるみを着た……ふたごの赤ちゃん」
「そうだ。あのときおれは運転をしていた。だからあの場面が夢じゃないのは間違いない。けれども現実でもない可能性も高いんだ。第一、赤ん坊が潰《つぶ》される場面なんて、猛スピードで走っている車の中から見られるはずがない。それなのに、おれにも、そして晴美にも見えた」
「夢でも現実でもなければ、じゃあなんなのよ」
「だからいま言ったろう、幻覚だと。でも……」
和也は言葉を切り、晴美の額に浮かぶ汗を手のひらでぬぐってやった。
「でも?」
晴美が先を促す。
「でも、なんなの」
「幻覚だと片づけるには、あまりにもはっきりしすぎていることがある。やつらは、ついてきた」
「………」
「おれたちの頭の中に入り込んだまま、あいつらはここまでついてきた」
「ねえ、どうして?」
晴美は泣き出していた。
「楽しいお休みのはずなのに、どうしてこんな目に遭わなければならないの」
「おれにだってわからない」
首を振ってから、和也は黙りこくった。
そして彼は、自分があれ[#「あれ」に傍点]を轢く一秒前まで、晴美といっしょに大笑いしていたことを思い出した。ふたりの仲人を務めてくれた鬼編集長が、オカマの愛人に乗り込まれて右往左往したエピソードに笑い転げていたことを。
あの時点では、他人の不幸が楽しくて仕方なかった。だが、いま和也たち自身が不幸のどん底にあった。なぜこんな目に遭わなければならないのか、それは和也のほうがききたいくらいだった。
「十三夜……」
涙声で晴美がつぶやいた。
「十三の悪い夢をみないと、ここから抜け出せないと言ってたよね。あのふたごのお婆さんたちが」
「ああ」
「その夢、しだいしだいに恐くなるって、言ってたよね」
「ああ」
「どうするの、カズ」
晴美は、濡れた瞳《ひとみ》で和也を見上げた。
「このまま夜になって、夢でうなされるのを黙って待つの」
「わからない」
「いまの夢だってじゅうぶん恐かったのに、あと十二個も、私、耐える自信なんてないわ。ぜんぜんない」
「いや、あと十二じゃなくて、残りはまだあと十三だと思う」
和也は、廊下に射し込む一条の陽光を見つめながら言った。
「まだ昼間なら、いまみた夢は、きっと十三夜の悪夢のうちには入らない。言ってみれば、たんなるプロローグにすぎないだろう」
「逃げよう、カズ」
晴美は決断を促した。
「夜にならないうちに逃げよう」
「無理だよ。逃げようとしても逃げられないと、あの婆さんたちが」
「そんなの信じていたら、いつまで経っても逃げられないってば」
晴美は立ち上がった。そして夫の腕を両手で引っぱって無理やり立たせた。
「とにかくここから出よう。岩倉から出よう。京都から逃げ出そう。車なんて置きっぱなしでいいから、タクシーを呼んで駅まで行って、新幹線で帰ろう」
しかし――
そのとき、ふたりの頭の中にまたあれ[#「あれ」に傍点]がやってきた。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
「くそー、頭がどうにかなりそうだ!」
永瀬和也は、髪の毛をかきむしって叫んだ。
「なにが『ついてくる』だ。ついてくるな、てめえら!」
障子を開けて廊下に飛び出すと、和也は庭に面したガラス戸のネジを急いで逆方向に回しはじめた。
「何をするの、カズ」
「まず太陽だ。太陽の光を浴びるんだ」
和也は躍起になってガラス戸のネジをはずし、雨戸を力いっぱい開けた。
おもわず目を細めずにはいられない、強烈な陽差しが飛び込んできた。
「こい、晴美」
まだ蒲団の上に座っている晴美を、和也は手招きした。
「太陽の光を身体中に浴びるんだ。ドラキュラだって、日光を浴びたらダウンするんだ。おれたちの脳味噌《のうみそ》に入り込んだ化け物も、きっと逃げ出すはずだ。殺菌だよ、殺菌。強烈な陽差しで、悪魔のバイキンをやっつけ……」
永瀬の言葉が途中で切れた。
「どうしたの」
呆然《ぼうぜん》と縁側に立ちつくす和也を見て、晴美が駆け寄ってきた。
「ねえ、どうしたのよ」
「あれ……見ろ」
和也が指さす先を追った晴美は、反射的に夫の身体にすがりついた。
庭じゅうに生い茂る雑草に半分ほど身を隠す格好で、二頭の白い犬が並んでこちらを見つめていた。そして、ふたりと視線が合うと、バウ、と短く吠《ほ》えた。
二頭、声を揃えて――
3
ゴールデンウィーク一日目の夜がきた。
けっきょく和也と晴美は逃げ出すことができずに、家の中にいた。食欲などわくはずもなく、車に積んでおいた缶入りウーロン茶以外は一切口にせず、夜を迎えた。
晴美は、私は絶対に寝ないと言い張った。だが、和也は逆だった。
「起きていたって、みるものは同じだ」
和也は、なかばあきらめの表情になっていた。
「どうせなら、夢の中でみたほうが、まだ恐さは減るかもしれない」
それでも晴美は寝たくないと言って、ふたり分の蒲団《ふとん》を押し入れに片づけた。パジャマも脱ぎ、いつでも外へ逃げ出せるよう、ジーンズにトレーナーという軽装になっていた。
だが、いつしか彼らは、片づけたはずの蒲団の中に入っていた。
明け方、この家にきたときと同じように、まったく記憶にないまま、和也と晴美はふたたびパジャマに着替え、並べて敷かれた蒲団の中にもぐり込んでいた。
こんどは日中の仮眠ではなかった。外には夜のとばりが降りている。悪夢の到来が予言された夜がやってきていた。
あれだけ眠りたくないと言い張っていた晴美が、和也よりも先に深い眠りにおちていた。そして和也も、麻酔をかけられたように意識が遠のいていくのを感じた。
真っ暗にするのが恐くて、点《つ》けたままにしておいた天井の蛍光灯が、不自然なまたたきとともに消えていくのをおぼろげに認識しながら、彼の意識もまた闇の中に溶け込んでいった――
第一夜の夢がはじまった。
ふたりは同じようにまぶたを痙攣《けいれん》させ、同じような顔のしかめ方をはじめた。
夢はオールカラーだった。
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[#2字下げ]第一夜 京都伏見の黒い猫
それは、合わせ鏡が形作る無限反射の世界だった。朱塗りの鳥居がびっしりと重なりながら、小高い山の頂に向かってつづいていく。
京都|伏見稲荷大社《ふしみいなりたいしや》の千本鳥居――果てしなく連なる鳥居のトンネルに入ったとたん、頭の上に広がっていたまばゆい青空が、一瞬にして朱色のブラインドで隠された。
日焼けしていない博美《ひろみ》の肌と、着ていた夏向きの白いブラウスが、鳥居の色を映して朱に染まる。右の目尻《めじり》にある泣きぼくろだけが、変わらず焦げ茶色のままだった。
問題の男は、無限につづくその鳥居のカーブの向こうからやってきた。
男の細い身体は黒一色で包まれていた。黒い帽子をかぶり、黒い上着に黒いズボン、黒いワイシャツに黒いネクタイを締め、口の周りには濃密な黒い髭《ひげ》を生やしていた。そして驚くほど大きく、驚くほど真っ黒な瞳《ひとみ》をしていた。
朱色の空間の中で、黒ずくめの男は異様に浮き立って見えた。
「やあ、奥さん」
なぜか最初の一言が「やあ」ではなく「ニャア」に聞こえた。
「よいところでお会いしました」
石坂《いしざか》博美は、自分に話しかけてきたものではないと思って、とっさに後ろをふり返った。
だが、そこには誰もいなかった。後ろから歩いてくるはずの仲間たち――いっしょに京都へ観光にやってきた、同じマンションに住む三人の主婦の姿も、ほかの観光客の姿も見えなかった。ただ朱塗りの鳥居が無限につづき、その奥で右にカーブを切りながら一点に収束しているだけである。
いまやってきた入口が封じられたような気分になりながら、博美はまた前に向き直った。男の肩越しに眺める反対方向も、やはり同じように無限の鳥居がつづくばかりで、そちらは左にカーブを切りながら鳥居の列が徐々に小さなサイズになってゆき、最後はオレンジの点となって宙に浮かんでいた。
博美は、自分が置かれた空間が急に特別なものに変化したように思えて、心臓のリズムが乱れるのを感じた。
ここは世界的な観光都市・京都、その洛南《らくなん》エリアのメインスポットのひとつが伏見稲荷大社である。大晦日《おおみそか》から元旦《がんたん》にかけての初詣《はつもうで》客の多さは、つねに全国で一、二を争うほどで、山の頂に向かって連なる千本鳥居の景観はあまりにも有名だった。とくにきょうは快晴の日曜日でもあり、大社は参拝客や観光客でごった返していた。だから、歩くのが速い博美は、ほかの三人とはぐれないように気をつけなけばならないほどだった。
それなのに――
鳥居のトンネルに入ったとたん、周囲の『気』が変わった。見えないはずの空気にまで鳥居の朱が溶け込んで見え、その代わりに、音が消えた。
観光地特有の雑踏がスッとどこかに行ってしまい、背中に聞こえていた仲間のにぎやかな笑い声も、突然、聞こえなくなっていた。姿も見えない。
(みんな、どこへ行ってしまったの)
黒ずくめの男と向かい合いながら、博美は元きた方向へ駆け出そうかと思った。が、そのとき――
「奥さん、あなた不幸ですね」
静寂の中で、男が決めつけるように言い放った。
「なんですか、いきなり」
問い返す博美は、自分の声があわてた響きになっていることに気がついた。見知らぬ男に対する怯《おび》えもあったが、心の底に隠しておいた本音をいきなり引きずり出された気がしたからだった。
その動揺を見抜いたように、男が畳みかけてきた。
「いまの平凡な暮らしが、この先何十年もつづくなんて耐えられない。できれば夫がこの世から消えてくれて、新しい人生をやり直せたらうれしい――奥さんの顔にはそう書いてありますよ。とくにその泣きぼくろのあたりにね」
主婦四人で出かけた今回の京都旅行は、夫に対する日ごろの鬱憤《うつぷん》を晴らすガス抜きという側面もあった。行きの新幹線の中から、彼女たちは「ウチの亭主のここがイヤ」という話題で盛り上がっていたのだ。だが、メンバー最年少の博美だけは、そういった話題にあまり乗っていかなかった。
博美はことし三十三歳だが、七つ歳上の石坂と結婚したのが短大を出てすぐだったために、結婚生活はもう十二年目、すでに小学生の男の子ふたりの母である。
夫の石坂は薬品会社に勤めるサラリーマンで、ずっと総務畑を歩いてきた。穏やかで敵を作らない人柄は仕事場でも高く評価されていたし、妻の博美にもやさしかった。
今回家を空けるときでも、石坂はわざわざ群馬から自分の母親を呼び寄せて子供たちの世話を頼み、家のことは心配しなくていいからゆっくり楽しんでおいで、と、にこやかに送り出してくれたのだ。
だから博美は、仲間の三人が道中でしきりに繰り広げる夫への毒舌大会ではずっと聞き役に徹し、「石坂さんのところだって何かあるでしょう」と水を向けられても「うちは何の不満もないわ。主人は私にとって最高のだんなさまだし」と答え、「新婚じゃあるまいし、珍しい人ねえ」とからかわれる始末だった。
だが、平凡こそが最高の幸せと感謝する自分の姿が、じつは演技であることを、博美はよくわかっていた。仲間の夫批判に積極的に加わらなかったのも、いったん口を開けば、抑えに抑えていた不満が一気に爆発してしまうような気がして恐ろしかったからなのだ。
(私の人生、こんなはずじゃなかった)
博美は、いつも心の中でぼやいていた。
(きのうと同じきょう、きょうと同じあしたが永遠に繰り返される毎日なんて)
と……。
「ところで奥さん、招き猫というものをごぞんじですか」
唐突に、男がきいた。
「招き猫? ええ、もちろん知っていますけれど」
博美は、警戒するよりも男の魔力に引きずり込まれるようにして答えていた。
「しかし奥さんがイメージされている招き猫の色は白でしょう」
「ほかに色があるんですか」
「ありますよ、黒がね」
黒ずくめの男は言った。
「ご承知のとおり、招き猫はこのように片方の前足を――いや、手と申し上げましょうか――手を顔の脇にくっつけています」
男はクイッと右の手首を曲げて、それを右耳の横まで持ち上げた。それを見た瞬間、博美の耳もとで「ニャア」という鳴き声がした。
男の口から発せられたというよりは、自分の耳のそばで聞こえてきた感じだった。
「一口に招き猫と申しましても、どちらの手を上げているかで、招くものが異なりましてね」
曲げた手首を顔の脇にくっつけたまま、男はつぶらな瞳《ひとみ》で博美をじっと見つめた。
「左手で、おいでおいでをしているのはお客様を招いているのです。ですから客商売には左手の招き猫がよい。反対に右手で、おいでおいでをしているのは、お金を招いているのです」
「じゃあ、色の違いは」
「白は福を招きます」
「黒は」
「病を防ぎます」
「やまい……」
「ええ、病気を防いだり追い出してくれるのが黒い招き猫なのです。このことはあまり知られておりませんがね」
「黒い招き猫なんて、そんなもの売っているんですか」
「もちろんですとも」
招き猫の格好をしたまま、黒ずくめの男はうなずいた。
「この伏見稲荷でも、参道のお店のあちこちに並べてあります。でも、ここでお会いしたのも何かの縁です。とくべつに私からあなたにプレゼントをいたしましょう」
そう言うと、男は耳の横に当てていた右手を下ろし、どこからともなく魔術のように黒い招き猫を取り出した。空中からつかんできた、という感じだった。
そして、あっけにとられる博美の手のひらにそれをそっと載せると、やたらと黒目の部分が目立つ瞳を大きく見開いてささやいた。
「さあ奥さん、この招き猫を使って、ぜひあなたの内にある病を追い出しなさい」
「でも、私には悪いところなんてどこにも」
「ありますよ。それはあなた自身がいちばんよくごぞんじのはずだ。悪いことは言わない。奥さんに取り憑《つ》いた人生の病を追い出してごらんなさい。きょうとは違うあしたが必ずやってきますから」
まるで博美の不満はすべて承知しているというふうに言い切ったところで、突然、男の姿がフッとかき消えた。
ニャア、とかすかな猫の鳴き声を残して――
そして博美の耳に雑踏が蘇《よみがえ》り、いつのまにか鳥居のトンネルは、行き来する観光客であふれ返っていた。
「やだあ、石坂さん、こんなところにいたの」「ずいぶん探したのよ」「急にいなくなるんだから」
後ろから追いついてきた仲間の三人が、口々に文句を並べ立てた。そしてそのひとりが、博美の手にあるものを見つけて言った。
「あら、黒い招き猫なんて珍しいわね。どこで買ったの?」
真夜中――
二泊三日の京都旅行から帰ってきた博美は、蒲団《ふとん》の中で目を覚ました。
子供たちも群馬からきている姑《しゆうとめ》も、別室へ早々に引き取っていた。そして夫の石坂も、博美と並べて敷いた蒲団の中で、軽い鼾《いびき》をかいていた。
その枕もとには、博美が持ち帰った黒い招き猫が置いてあった。
「そうか、黒い招き猫は病気を追い出してくれるのか。それはいいじゃないか」
京都のおみやげとして妻が買ってきた黒い招き猫の能書きを聞くと、縁起を担ぐのが好きな夫は素直に喜んだ。
「おまえは最近疲れぎみだと言っていたから、この猫に追い払ってもらうといいよ」
そう言って、石坂は寝しなに黒い招き猫を妻の枕もとへ置いた。だが、彼が寝てしまってから、博美はそれを夫の枕もとへと押しやっていた。
(あなたって、なんにもわかっていないのね)
豆電球の明かりに浮かび上がる黒い招き猫を見つめながら、博美は心の中でつぶやいた。
(私が追い出したい病気って、あなたのことなんだから)
と――
その黒い招き猫が、突然「ニャア」と小さな声を立てた。
びっくりした博美が見つめていると、黒い招き猫は右手でしきりに顔をこすりはじめていた。それから大きな口を開けてあくびをした。
あくびの拍子に、首につけた『福』の字を彫り込んだ鈴がチリン、と鳴った。
そのしぐさを見ると、なぜか恐怖よりも愛らしさのほうが先に立った。そして博美は、唐突に動き出した黒い招き猫に向かって、「おねがいね」と小さくつぶやいた。
すると、まるで了解したとでもいうように、猫は「ニャア」と返事をした。それから、いちだんと大きなあくびを繰り返した。
だが、その大きく開けた口に並ぶ鋭い歯並びに、博美は直感的な不安を感じ取った。
「待って!」
博美はあわてて取り消した。
「やっぱり、いまのおねがいは、やめるわ」
しかし黒猫は、博美のその言葉に対して、しっぽをパタンパタンと激しく畳に打ちつけた。猫が怒ったときにやる動作である。
(いちど決心したことを、勝手にやめてはいけませんよ、奥さん)
千本鳥居の、あの無限トンネルの中で出会った黒ずくめの男の声がした。
(そんな弱気では、幸せになれません)
「でも、やめて。うちの人に変なことをしないで!」
「ニャア」
了解なのか拒絶なのかわからぬ鳴き声を発したあと、黒い招き猫は、いままで生き物のごとく動いていたのが嘘のように、微動だにしない置物の姿に戻って、石坂の枕もとにいた。
だが、博美には妙な確信があった。きっと、自分が眠ってしまったあと、この黒い猫は動き出すだろうと。そして夫の喉《のど》もとに鋭い歯を立てるだろうと……。
そうまでして、自分は夫のいない生活を望んでいるわけではない。だが、幸せを招く黒い猫は、博美の願い事をキャンセルすることを拒んだまま、しずかに眠る夫の枕もとにたたずんでいる。
二時間後――
「ニャア〜〜〜」
薄暗い部屋に、糸を引くようなか細い猫の鳴き声が響いた。
そして黒い猫はゆっくりと動き出し、熟睡している石坂のところへ忍び寄っていった。黒い髪の毛をしたメス猫が……。
博美は、自分が蒲団から抜け出し、隣の夫のところまで猫そっくりの動作で這《は》っていったことを、まったく自覚していなかった。
「ニャア」
猫そのものの声を出すと、博美の開いた口から涎《よだれ》がダラリと垂れて、夫の喉元に落ちていった。
じゅるん、と音を立てて博美は舌なめずりをした。
じゅるん、じゅるるるん。
涎を何度も啜《すす》ってから、博美は夫の喉もとに噛《か》みつこうとしていた。
石坂の枕もとに置かれた黒い招き猫は、そんな妻の姿を、感情のない目でじっと見つめていた。片手を耳の脇のところでクイッと曲げた格好のまま――
[#改ページ]
[#1字下げ]5 二日目
奇妙な夢であることに違いはなかった。
疲れたときに着色した夢をみることはあるが、全編オールカラーの夢というのも珍しい。それ以上に不思議なのは、京都伏見稲荷の千本鳥居は、和也は一度も行ったことも、写真でも見たこともなく、そもそもその存在すら知らなかった場所だったのだ。それなのに、朱塗りの鳥居群が自分の目で見てきたように鮮やかに夢に登場した。
白い招き猫と黒い招き猫も強烈な印象で脳裏に焼きついたが、黒い招き猫というものがあることも、千本鳥居を知らなかったように、和也はまったく知識として持ち合わせていなかった。それなのに、知らないものが夢に出てきた。
しかし、右手を顔の横にこすりつけてニャアと鳴く黒い招き猫の姿は、自分の記憶から引き出してきたように鮮明だった。猫の首につけられた金の鈴に『福』の字が描かれているという細かい部分までちゃんと見えていた。
またその夢は、夢とは思えないほど設定が細かく定められていた。石坂博美という女の名前はどういう字を書くのか、年齢は三十三歳で東京都に住む主婦、夫の勤務先は薬品会社といったところまできちんと決められているのだ。しかも、ファンタジックな展開ながら、ストーリーに一糸の乱れもなく、夢特有の飛躍や破綻《はたん》がなかった。まるで短編小説を読まされているかのような錯覚を抱かされる夢だった。
千本鳥居の間から忽然《こつぜん》と現れた黒ずくめの男の、異様に黒くて大きな瞳《ひとみ》も印象的だったが、石坂博美の右|目尻《めじり》にある泣きぼくろも、クローズアップで何度も見せられた。その泣きぼくろのあるところが、和也の知っている女性によく似ていた。
とはいえ、決して震え上がるほど恐い夢ではない。
前日の早朝、この家の玄関を開けたとたん襲いかかってきた強烈な幻覚の中で、ふたごの老婆は「夜ごと悪夢にうなされる」と予告した。だが、第一夜の夢にかぎっていえば、恐れていたような内容ではなかった。
石坂博美が黒い招き猫に変身して蒲団から這い出す場面や、夫の喉もとに噛みつこうとするエンディングは、ゾクリとはするものの、悪夢というまでには至らない。
かといって、永瀬和也が、その夢に対して背筋の寒くなる思いをまったくしなかったわけでもない。なぜなら――起きてから晴美と話し合ってわかったのだが――晴美もまた和也とまったく同じ夢をみていたのだ。朱色に彩られた千本鳥居の無限トンネル、そこから現れた黒ずくめの男、黒い招き猫、そして石坂博美という名の女、彼女の変身……。その情景も会話も、何から何まで和也のみた夢と完全に一致していた。
「これは夢という概念では捉《とら》えられない、特別な何かだ」
和也は自分の意見として、晴美にそう述べた。だが、夢でないなら何なのかという答えはまだ見つからない。
そうこうしているうちに、二日目の夜がきた。真夜中近くなると、また和也と晴美は深い眠りの底に引き込まれていった――
[#改ページ]
[#2字下げ]第二夜 祗園花見小路の恋
その場にいない女の陰口を叩《たた》くのは、男として卑怯《ひきよう》だというのはじゅうぶんわかっていた。とりわけ、嘘で塗り固めた誹謗《ひぼう》中傷を並べ立てるのは。
でも、私はそうせざるをえない状況に追い込まれていたのだ――
約束の場所は祗園《ぎおん》の四条通《しじようどおり》を少し南に下った花見小路《はなみこうじ》にある割烹《かつぽう》だった。そこのカウンター席で、「楓《かえで》」は日曜日の夜六時から待っているという。
妻には出張だと偽って新幹線で東京からやってきた私は、駅に着くとすぐタクシーに乗り込み、花見小路へと向かった。
だが、約束の時間には少々早すぎたのと、目的地が近づくにつれ、尻込みする気持ちが強くなってきたのとで、タクシーを途中で降りると、私は店へまっすぐ向かわず、いかにも京都らしい小粋《こいき》な裏通りから裏通りへと、あてもなくぶらぶらと歩き回った。
六時前とはいえ、秋の京都は、すでにとっぷりと日が暮れていた。山あいでは紅葉がはじまっていたが、町中では景色ではなく夜風に秋を感じた。東京では不要だったコートを着込んできてよかった、と思いながら、私はその襟を立てた。
二十分ほど時間稼ぎをしてから花見小路へ戻り、指定された店の前に着いた。私は年甲斐《としがい》もなく緊張していた。店の扉を開けたときに、いったいどんなドラマが待ち受けているのか、新幹線の中で考えてきたさまざまな想定が、つぎからつぎへと脳裏に浮かんでは消えた。
いまから対面する女性に、私は恋をしていた。妻とふたりの娘がいる五十一歳の男が、この歳になってふたたび真剣な恋に燃えていた。
だが、相手の顔を私はまだ知らない。インターネットの掲示板を通じた「ネット恋愛」だったからである。
ひとつ歳上の妻・敦子《あつこ》とは、結婚直後からしっくりいっていなかった。だから私はこれまで六回も浮気をした。だが敦子の嗅覚《きゆうかく》は鋭く、その六回の浮気は、ことごとく見破られてきた。
とくに三年前に発覚した六度目の浮気のときは、敦子のヒステリー発作が強烈で、救急車の出動を要請しなければならないほどだった。その大騒動のおかげで、私は近所に対しても娘たちに対しても面目|丸潰《まるつぶ》れとなり、以後、火遊びは一切慎むことにしていたのだ。
ところが、ここにきてインターネットを通じた恋愛という、危険といえば危険な手段に興味を持ち、私の浮気の虫がまた頭をもたげてきた。敦子は携帯電話のメールは日常的に使っているが、パソコンはまるで扱えない。だから携帯ではなく、パソコンを通じてやりとりするネット恋愛なら、こんどこそ絶対に安全だと思った。
不思議なもので、異性とのネット恋愛は肉体の接触がないだけに、青春時代の懐かしきプラトニックラブの感覚が蘇《よみがえ》り、かえってふつうの浮気よりも真摯《しんし》な気持ちになってしまうところがあった。
相手の女性は「楓」。それがメールの最後に署名される名前だった。
@《アットマーク》の前に記されるユーザーIDも、やはり「kaede」となっていた。
年齢は二十八歳で、去年の初めに夫と離婚して、いまは京都市内のクラブに勤めているという。子供はいないので、離婚後は独り暮らしの自由さを満喫していたが、その一方で、ときおり耐え難いほどの孤独感にも襲われる、とメールで「楓」はつぶやいた。
そう、パソコン画面に出てくる文字だけなのに、つぶやく、という感じがにじみ出てくる文章を、彼女は打ってきた。
飾りけのないタッチの文章が「楓」の語る自己紹介に信憑《しんぴよう》性を持たせていた。よくある「ネットおかま」などの悪戯《いたずら》メールとは思えなかった。もちろん「楓」が本名とは思わなかったが、彼女が書いてくる話に根本的な嘘はない、と私は信じた。根拠はないけれども、そう信じた。またそう信じることが、ネット恋愛のマナーだと私は勝手に思うことにしていた。そうでなければ、あまりにもこれは馬鹿馬鹿しすぎる行為になる。
一方、私のほうは「銀の壁」というハンドルネームを使っていた。勤務先のビルがシルバーメタリックの壁面をもっていたからにすぎないのだが、こんなところにまで会社がらみの発想を持ち込むとは、私もサラリーマン生活が長すぎるのかもしれなかった。
ともあれ、自分のプロフィールについては、私はできるかぎり真実を書いた。さすがに会社の実名までは出さなかったが、都心の某メーカーで部長職にある五十一歳の男で、ふたりの娘がおり、年上の妻とはすっかり冷えきっている、と書いた。遠回しに浮気願望を告白したようなものだった。
そして、メール交換を重ねるうちに、たがいに書き連ねる内容が大胆に、刺激的になってゆき、とうとう直接会わずにはいられなくなる状況にまで進展してしまったのだ。私だけでなく、相手のほうもだ。だから彼女のホームグラウンドである京都で会うという約束が成立した。
根拠のない幻想だとはわかっていたが、京都の女というだけで、そそられるものがあった。それに東京から遠く離れた場所ならば、現地での行動は妻に見られるはずもないという姑息《こそく》な計算もあった。ただし「出張」先が京都であるとは、口が裂けても言えなかった。出張先に設定するには、あまりにも艶《つや》っぽいイメージが京都にはありすぎた。
しかし、いざ直接会う段になって、私の不安は急速に膨れあがっていった。これまで一抹の不安も不信も抱かずに、楓の女性像を勝手に作り上げてきたが、どんな形で彼女に対するイメージが壊されるかわからないからだ。それでも本人に落胆するだけなら笑い話で事は済むが、背後にヤクザがいて、私の社会生命が脅かされる危険性だってなきにしもあらずだ。
そこまでの心配に思い至らなかったことじたいが、いくらネット恋愛の熱に浮かされていたとはいえ、不思議だった。やっぱり私はどうかしていたのかもしれない。
約束の店の前に立つと、そうした不安はピークに達し、いっそのこと相手にすっぽかされるのがいちばん平和な結末だという弱気にもなってきた。だが、京都までやってきて、しかも花見小路の店の前までたどり着いたというのに扉も開けずにUターンするのは、あまりにも情けなかった。「楓さんを信じるんだ」と自分に言い聞かせ、私は店の引き戸を恐るおそる引き開けた。
お越しやす、という愛想のいい声に、「連れと待ち合わせなんだが」と応じながら、私はすぐさまカウンターに目を走らせた。
時間が早いせいか、カウンターの中ほどにふたりの客がいるだけだった。左側に中年の女性が、そして椅子ふたつ分空けて、右側には若い女性が、いずれも着物姿で座っていた。私の立っている場所からはまだ顔は見えないが、右手の若い女性は、後ろ姿に色香と気品が漂っており、二十八歳と称する「楓」と年齢的にはぴったり合いそうだった。美人でないはずがない、という雰囲気である。
(あれが楓さんだったら最高なんだが)
店に入るまでの不安が消え、私の胸は期待に高鳴った。しかし、店の引き戸がガラガラと大きな音を立てたのに、そして私がわざと靴音を響かせてカウンターへ近づいたのに、若い女性はふり向く様子がなかった。
やっぱり別人なのかと落胆しながら、もう一方の、少々くたびれた感じの後ろ姿を見せている中年女性にも目を向けた。
(これが自称二十八歳のホステスだったら、おれは帰るぞ)
そう思いながら近づくと、その女の右|目尻《めじり》に泣きぼくろのあるのが見えた。瞬間、私はその場に凍りついた。
まさかという顔で立ちつくす私を、女は座ったまま見上げてきた。
なんということか、妻の敦子だった。
「なぜ……おまえ……ここに」
うわずった声で問いかけると、敦子は自分の右隣の席を手で示し、怒りを圧し殺した声で冷たく言い放った。
「とにかくここへお座りなさい、『銀の壁』さん」
どれぐらい時間が経ったかわからない。料理を注文するどころではなく、渇いた喉《のど》を日本茶で潤しながら、私は敦子に向かって必死の弁解を並べ立てていた。
またも……またしても私の浮気は露見してしまった。たしかに妻はパソコンのパの字も知らなかった。だが、恐るべきは女のカンだった。書斎でメール打ちに没頭している私の様子にピンとくるものがあり、上の娘に命じて、私が会社にいる間にパソコンに保存してあったメールの送受信記録を点検させたというのだ。その母娘共同の探偵作業の前に、私と「楓」の愛のやりとりの一部始終がさらけ出される結果となってしまった。
浮気相手との通信を読まれてしまうほど格好の悪いものはない。それも一通や二通ではなく、こちらから送信したものも含めて、ぜんぶで百通以上もだ。しかもみっともないことに、私はプラトニックラブの境地に陥っていたから、思い返すのも恥ずかしい、まるで中学生のラブレターのようなセリフを並べ立てていたのだ。
それらすべてを妻と娘に読まれたと知り、頭の中が真っ白になった。そして顔は真っ赤になった。
だが私としては、妻に対してその事実をすんなり認めるわけにはいかなかった。夫として、父として、いやひとりの男としての威厳を取り繕うために、信憑性があろうがなかろうが、とにかく弁解をするよりなかった。
その方策として、とっさに思いついたのが「ストーカー説」だった。「楓」と名乗る女から、じつはメールだけでなく、会社に電話までひんぱんにかかってきて、私と交際しないと殺すと脅かされた。そのため、ネット上での恋愛ゲームを嫌々つづけざるを得なかった、と敦子に訴えたのだ。そして楓という女が、いかに異常性格者であるかを、私は一気にまくし立てた。
「きょう、こうやって京都まできたのも」
汗をかきながら、私は言った。
「もうこれ以上おれにつきまとわないでくれと、じかに会って説き伏せるためだったんだ。最後通告ってやつだよ」
「ほんとうに?」
必死の作り話が功を奏したのか、敦子は少し口調を和らげて問い返してきた。言い逃れまでもう一押しだ、と手応えを感じた私は、調子に乗って言った。
「あんなメールでつきまとうような気持ち悪い女と、誰が本気でつきあうもんかよ」
「ほんとに『楓』という女を気持ち悪いと思うのね」
「あたりまえだろう」
私は、いかにも不潔な言葉を口に出すように言った。
「カエデだかモミジだか知らないが、この女、妄想の世界に入り込んでしまっているんだよ。変態女なんだ、変態」
私は口を極めて罵《ののし》った。
「ほっといたら、おまえや娘たちにも危害が及ぶかもしれない。だからおれは、警告を発するために会うことにしたんだ。いいかげんにしないと、警察に通報するぞと」
すると敦子は、私の肩越しに視線を投げて言った。
「だったら、そちらのきれいなお嬢さんに、直接そう言ってくださらない」
「なに?」
私はびっくりして、妻と反対の席をふり返った。後ろ姿から想像したとおりの美貌《びぼう》をもった着物姿の女が、涙をいっぱい目にためて私を睨《にら》みつけていた。人工的とも思えるほどスッと高く通った鼻筋をしていた。
「その人が楓さんよ」
「えっ!」
「ひととおりの事情はきかせてもらったわ。あなたが二十分も遅刻している間にね。彼女、本気であなたに恋をしていたみたいよ。おたがい一度も顔を見ずに恋に溺《おぼ》れることができるなんて、まあ幸せな人たちですこと」
「………」
理想どおりの美女を見つめたまま絶句する私を横目に、敦子はツッと立ち上がり、板前に言った。
「はい、ごちそうさま。お茶一杯でごめんなさいね」
そして、凍りついている私に、言葉の刃を投げつけた。
「私は東京へ帰りますから、あとはふたりでよしなに……ね」
妻が店の扉を開けると、秋の深まりを思わせる夜風がそっと私の足もとに舞い込んできた。
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[#1字下げ]6 三日目
第二夜の夢は、第一夜よりもさらに恐怖感の少ないものだった。思わぬ形でネット恋愛が壊れてしまった男のぶざまな姿は、和也の上司、葛城啓一郎の滑稽《こつけい》な騒動を連想させ、状況が状況でなければかなり笑えるストーリーだった。
実際、目が覚めてまたおたがいに同じ夢をみたことを確認しあったあと、和也は晴美にこう言って少しだけ笑いを浮かべた。
「『銀の壁』って男は、まるで葛城編集長って感じだな。で、店で待ち構えている恐い奥さんが葛城夫人で、楓さんがオカマの愛人」
しかし、その和也の笑顔は、決して自然なものではなかった。高速道路での恐怖の瞬間に至る直前まで晴美といっしょに笑いころげていたときのような、心の底から湧き起こる笑いとはまったく異質の、形ばかりのものだった。それでも葛城編集長の例の話題を思い起こすと、自然と顔が笑いの格好に歪《ゆが》んだ。それは三日目に入って、和也の精神が恐怖に対して、かなり麻痺《まひ》しかかっていることを表わしてもいた。
どんなに恐ろしい出来事でも、時の流れはその衝撃を弱めていく効果がある。晴美のほうはまだ笑顔を浮かべる余裕を取り戻してはいなかったが、それでも、ふたりがまったく同じ夢をみるという異常事態を、決して異常とは思わなくなってきていた。それも一種の麻痺だった。それと合わせて、空腹という生理的な問題に気が回る状況にもなっていた。
岩倉の家に着いた初日は飲み物だけだった。二日目も車に積んであったクッキーをかじっただけだったのに、三日目になると、ふたりとも急に空腹感を覚えるようになった。そこで昼過ぎに、歩いて近所のそば屋へ出かけた。近所といっても歩いて三十分もかかるところだったが、和也は、まだあの車を運転する気にはなれず、徒歩で向かった。
食事を済ませたふたりは、そば屋の隣にあるコンビニに立ち寄った。トイレットペーパーやシャンプーなどの生活用品に、インスタントラーメン、インスタント焼きそば、それにスナック菓子と飲み物。和也たちはなんの疑問もなくそうしたものを買いそろえ、また岩倉の家へと歩いて戻った。
そば屋とコンビニで日常空間と接点を持ったのに、ふたりはまた自ら進んで市ノ瀬邸の異常な空間へ戻ってきた。逃げるという発想は、じつは一日目の昼の段階で、すでに彼らは放棄していたのだ。あの犬のせいだった。
一日目の昼、それが夢なのか、それとも現実なのか、まったく判別のつかぬ恐ろしい体験をしたあと、晴美は恐怖のかたまりとなって、すぐにここから逃げ出そうと言い張った。ところが、彼らは庭先にたたずむ二頭の大きな白い犬を見た。いや、見たというよりも目が合ったといったほうが正しい。こちらが気づく前に、相手のほうからすでに和也を睨《にら》みつけていたのだ。
その威嚇の意思を込めた眼差《まなざ》しは、ほとんど人間のそれだった。しかも二頭は、たがいに瓜《うり》二つの顔をしていた。
それを見たとき、和也と晴美は逃亡する気力をもがれてしまった。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
またしてもそのメッセージが、こんどは二頭の犬から発信されていた。
もうダメだ、と和也も晴美も思った。どこまで逃げてもついてくるなら、十三夜の悪夢と最後までつきあう以外に問題の解決はない。半分あきらめの境地だった。へたな抵抗をしたら、あの血まみれの場面よりもっと凄《すさ》まじい体験が待ち構えているに違いなかった。
それにしても二晩みた夢が、老婆たちが声を揃えて警告していたような恐ろしいものでなかったのは、和也も拍子抜けさせられた思いだった。
どちらかといえば気の利いたショートショートを読まされているようであり、悪夢と形容するに程遠いものだった。そして、夢が恐くないということが、和也や晴美の気持ちをゆるめたのは確かだった。そのわずかばかりの精神的なゆとりが、和也たちに事態の分析という論理的な作業をはじめさせることになった。
「これまでみた夢は、少しも恐くない」
夜、寝床に入った和也は、枕を抱え込む格好でうつぶせになり、隣の蒲団の晴美に声をかけた。
「たんに恐くないだけじゃない。最初の晩にみた夢より、ゆうべのほうが、さらにおとなしい内容だった。あの婆さんたちは、夢はしだいに恐くなると言ってたから、十三夜目にはどれほどすごい夢になるのかとビビっていたけど、この調子じゃたいしたことにはならないんじゃないかな」
枕の上にアゴを載せて、和也はつづけた。
「恐ろしかったのは、むしろ夢をみる前の段階だよ。いや、あれも夢のうちに入っているのかもしれないけど、高速道路での出来事、そして玄関にいた不気味なババアが血まみれになっていくところ――あの凄まじい展開に較べたら、夜の間にみる夢なんて子供だましみたいなもんだ」
「私もそう思う」
うつぶせの和也とは対照的に、あおむけになって蒲団に入っている晴美は、天井を見つめながら言った。
「でも、あとになってから初めて恐ろしさの意味がわかるようになっているのかもしれないわ」
「あとになってから?」
「カズは、夢の内容だけで、恐い恐くないを判断しているでしょう」
「ああ」
「夢の中身は、たしかに二晩とも恐くない。だけど、私たちに予告された夢の恐さって、恐怖の基準が、内容とは別のところにある気がする」
「別のところとは?」
「たとえば私たちふたりがまったく同じ夢をみることや、一度も行ったことのない場所が、すごく鮮やかに浮かび上がってくるという現象」
晴美は、和也のほうに身体を向けてたずねた。
「そのことをどう思う?」
「それはたしかに奇妙だけど、いまのおれは、その程度の奇妙さでは恐いと感じなくなっている」
「でも三つ目、四つ目と夢をみていくにつれて、最初はたいした中身じゃないと思っていた夢が、じつはものすごく恐ろしいと気づくことになるかもしれないでしょ」
「晴美……」
和也は、腹這《はらば》いの格好のまま妻と目を合わせた。
「何か引っかかっていることがあるのか」
「うん」
晴美はすぐにうなずいた。
「伏見稲荷の千本鳥居が舞台になった最初の夢だけど、あれに出てきた黒ずくめの男の顔を、カズは思い出せる? すごく黒目の大きな男」
「いや、石坂博美という名前で出てきた女は、わりあい記憶に残っているけど、黒い男はまったく思い出せない」
「私は思い出せるわ。前に見たことがある」
「見たことがある? 誰だよ」
「いまは言いたくないの」
「なんで」
「どうしても」
「思わせぶりだな」
和也は引きつった笑いを浮かべた。
「こんな状況で、おたがいに脅かしあうのはナシにしないか。気を持たせないで早く言えよ。黒ずくめの男が誰に似ていたのかを。ひょっとして、おれなのか」
「そうじゃないけど……」
晴美は、そのあとの言葉を濁した。そして暗い顔になった。
その表情の変化をいぶかしげに見つめながら、和也は和也で思い出すことがあった。同じ伏見稲荷の夢に出てきた石坂博美は、和也の知っている人間によく似ていたのだ。顔立ちぜんたいもそうだが、とくに右の目尻《めじり》に泣きぼくろのあるところがよく似ていた。だが、それはさほど気に留める問題でもないとして、受け流していたのだが……。
ピピッと音を立てて、枕もとにはずして置いた和也の腕時計が午後十一時を告げた。
また今夜も、夢の時間がやってくる。
三つ目の夢がどのようなものになるのか、予想をするひまもなく、和也の脳に睡魔が取り憑《つ》いた。
「まいったな」
大きなあくびをしながら、和也はつぶやいた。
「おれは宵っ張りなのに、この家にきてから、どうしてこんなふうに夜になるときっちり眠くなるんだろう。……なあ、晴美」
「………」
「晴美?」
返事がないので隣を見ると、すでに晴美は眠りに陥っていた。驚いたことに、薄目を開けたままだった。まるで天井の一角を見据えたような顔で、夢の世界に入っているのだ。
「おい」
妻の反応が返ってこないであろうことを承知で、和也は呼びかけた。
「おまえさあ、そういう気持ちの悪い寝方をするなよ。薄目を開けたままなんて。ちゃんと目を閉じろ、ちゃんと目を……」
妻の寝顔を覗《のぞ》き込んだ和也は、そこで言葉を呑《の》み込んだ。
半分開いた妻の黒い瞳《ひとみ》の奥で、満天の星がきらめいていた――
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[#2字下げ]第三夜 魔王殿からきた老人
本格的な冬の到来を思わせる冷え込みとなったその日、私は一編の短い小説を書き終えて、京都|鞍馬山《くらまやま》の麓《ふもと》にある小さな宿を訪れていた。
脱稿の瞬間は、物書きにとって何物にも代え難い至福のときである。最後のページを書き終えて出版社に渡すと、旅先の宿で湯に浸《つ》かりながら執筆の疲れを癒《いや》すのが、いつもの私の習慣になっていた。
と書くと、ずいぶん年寄りじみて聞こえるかもしれないが、私はまだ三十五歳、独身である。そして私が書いている小説のジャンルは、いま世間でもてはやされているSFだった。
しかし、世の中でSF小説が大人気を博していても、私はそんなブームとはまったく無縁のところにいる。二十代のころからこの世界に入って、黙々と作品を書きつづけてきたが、いまだに芽が出ずにいるのだ。
たしかに三十五歳という年齢は、平均的な作家像としてみれば圧倒的に若手ということになる。だが、SFのジャンルで名前を売り出すには、そろそろ焦りはじめないといけない時期だった。
けれども現実は厳しい。いつまで経っても本は売れないから書き下ろしの注文はほとんどなくなり、小説雑誌の単発注文も目に見えて減ってきた。ゆえに、生活は決して楽ではない。それでも物書きのはしくれとして、たまにもらった仕事の「打ち上げ」をやってみたくなるのは当然のことであった。ただし、すべては自前で、同行してくれる編集者もいるわけではないが……。
私は兵庫県の日本海側に近い豊岡《とよおか》市に住んでいる。近くには有名な城崎《きのさき》温泉もあるが、今回はちょっと京都へ足を延ばして、洛北《らくほく》の山あいにある鞍馬へきた。
泊まりの宿は、いまの私に似合いの質素な旅館で、風呂《ふろ》は温泉ではない。しかし、今回鞍馬へきた目的は、疲れを癒すよりもむしろ取材をすることにあった。鞍馬山の頂にある鞍馬寺《くらまでら》には、なんと六百五十万年前に地球救済のために金星からやってきた護法魔王尊《ごほうまおうそん》を祀《まつ》ってあるという。
六百五十万年前の金星[#「六百五十万年前の金星」に傍点]から、である。このダイナミックな宇宙スケールの伝説に、私はすっかり惹《ひ》かれてしまった。そして≪宇宙にいちばん近い山≫という表現がパッと頭に思い浮かんだ。鞍馬山を舞台にして、こんどこそヒット作が書ける。そんな気がしてならなかった。
そこで明日は、鞍馬山から貴船《きぶね》へと山歩きをしながら、新作のアイデアを練ろうと私は考えていたのだった。
その夜遅くなってから、私は宿の内湯へ行った。かなり古びた檜《ひのき》風呂で、こぢんまりした湯船は三人入ればいっぱいという狭いものだが、いまは人影もなく、立ちこめる湯気が仄暗《ほのぐら》い照明によって濃いオレンジ色に染められていた。
格別に冷え込む晩だったから、長湯をして温まろうと思っているうちに、いつのまにか私は眠りに陥っていたらしい。突然、呼びかけてくる人の声で目を覚ました。
「ひとり旅ですか?」
骨と皮ばかりに痩《や》せこけ、黒目の大きさだけがやたらと目立つ白髪頭の老人が、知らぬ間に私のすぐ横で湯に浸かっていた。
「ああ、これは失礼いたしました。眠っておられたんですね」
私が目をしばたたかせるのを見て、老人はにっこり笑いながら軽く会釈をした。
私も会釈を返しながら、どこかで見た顔だな、と思った。直接会ったのではなく、新聞か雑誌などで見かけた覚えがあるのだ。
(有名人?)
私は、半分眠っていた頭の中で記憶を呼び起こそうとした。だが、この老人が誰なのか思い起こせない。しかし、絶対に見たことのある顔だった。
「いいですねえ、鞍馬は」
ちゃぷり、と音を立てて、手もとの湯を筋張った首にかけながら、老人は言った。
「宇宙に近いから素晴らしい」
私が思っていたのと同じ感想だ。
「ほら、ごらんなさい。あんなに星が近くに見える」
私は、老人が指さす方向に目を向けた。湯気を抜くための小窓から、星空が覗いていた。
驚いた。ふたつ折りにした新聞紙ほどの大きさしかない窓の中に、まばゆい輝きを放つ星がびっしり詰まっていた。窓から風呂場の中に流れ込んできそうな密度だ。
いや、実際に星々は温かい湯船の中にこぼれ落ちて、私の身体の周りでキラキラ煌《きらめ》いていた。
「なぜ鞍馬にこられました」
不思議な光景に見とれている私に、老人が問いかけてきた。
私は、ぎっしりと星が詰まった窓の向こうに目を吸い寄せられたまま答えた。
「ここは、時の流れが違う気がしたんです。地球時間ではない、特別な宇宙時間によって支配されているような気がして……」
「よくわかりましたね。そのとおりですよ」
「は?」
宇宙の真理をすっかり把握しているような断定口調の答えが返ってきたので、おもわず私は老人を見返した。
「まさかあなた、鞍馬山に降りてきた金星人ではありませんよね」
半分シャレのようなつもりで問いかけると、老人はあちこちが欠けた歯を見せながら、あははと愉快そうに笑った。
老人が身体を揺すったので風呂が波立ち、そこに溶け込んでいた満天の星が、たがいにぶつかりあってキャラキャラと音を立てた。そして、そのいくつかは、筋肉とか脂肪の存在をまるで失ったような、ひからびた老人の身体にへばりついて、そこで輝きつづけていた。
「あなたはお勤めなんですか」
老人は、冗談めかした私の質問に返事をする代わりに、逆にきき返してきた。
「いえ、物書きです」
SFという言葉がわかるかな、と思いながら私は言った。
「SFを書いています」
「ほう、そうですか」
意外にもあっさりと老人は納得のうなずきをみせた。
「では、昔の私と同じような仕事をなさっておられるんですな」
「昔のあなたと同じ?」
「はい、私もかつてはSF作家でした」
もう一度びっくりした。老人に似合わぬ肩書きがその口から洩《も》れてきたからだ。
「もはやSFは儲《もう》からぬ時代になったなどと言われますが、私の場合は、作品がつぎつぎと映画や劇画になったおかげで、だいぶ稼がせてもらいました。もう金など要らないよ、と傲慢《ごうまん》な口を利くほどにね」
道理でどこかで見た覚えがあると思った。やはりこの老人は有名作家だったのだ。だが、SFが儲からぬ時代になったとはどういうことか。
東京オリンピックを機に、本格的なカラーテレビ時代を迎えたいま、これまでにない映像文化の発展とともにSF小説はますます隆盛をきわめるはずではないか。
この老人はいったい誰なのか。ともかく私はそれをたずねることにした。
「失礼ですが、先生のお名前は」
「諸星輝《もろぼしてる》です」
「もろ……ぼし、だって?」
私は浴室に響きわたる大声で叫んだ。驚いたなどというレベルでは済まない衝撃だった。
「諸星輝って……それは私のペンネームじゃないですか」
「はっはっは。あ〜っはっはっは」
ゴツゴツの喉仏《のどぼとけ》を上下させながら、老人は高笑いを響かせた。
「そう、私はあなたなんですよ。どうです、デキの悪いショートショートのオチのようでしょう」
それをたんなる冗談とは受け止められなかった。
もしも私が、かなり顔の売れた人気作家ならば、こちらが誰であるかをわかったうえでの冗談とも受け取れる。だが、私は悲しいまでに無名だった。だから老人が、諸星輝というペンネームを知るはずもないのだ。
それなのに、なぜ?
あぜんとしている私に向かって、老人は気味が悪いほど大きな黒目を見開いて言った。
「あなたが物書きとしてパッとしないのは、安易なオチを思いついたらそこで満足して、さらにもうひとひねりする努力を怠っているからです。たとえば、深夜の風呂場で不思議な老人と出会う。その老人が、じつは未来の自分だった、というアイデアを得たとき、これだ、と膝《ひざ》を叩《たた》いて書きはじめる。それを最後のオチにしてね。しかし、それでは作家は務まりません。話の落としどころは、もっと練らなければ」
いきなり老人の説教がはじまった。
「私も三十代の前半までは売れませんでした。あなたと同じように、アイデア一発で小説を書いていたからです」
「ちょっと待ってください。そこでおっしゃっている『私』とは」
「ですから、あなたのことです。あははは、とうてい理解できないという顔をなさっていますな」
「当然ですよ」
「しかし、私があなたでなければ、なぜあなたの名前を知っていたと思います」
「宿帳を見たとか」
「あなたはペンネームで泊まっているのですか」
「いえ……」
老人の言うとおりだった。私は川本一郎《かわもといちろう》という本名でここに宿泊している。すると老人は、こんどはその私の本名も口にした。
「こんな小さな宿で、川本一郎がふたり泊まりにきたら、いくら見た目が違っても宿の人は混乱します。まして諸星輝という変わった名前の人間が、別々に予約を入れたら疑われてしまいますからね。ちなみにあなたはいま三十五歳、そうでしたな。誕生日は七月七日の七夕です。ペンネームの諸星輝はそこからとった」
絶句、だった。老人は宿帳にも書いていない私の詳細なプロフィールを知っている。
「さて、話を戻しましょう」
老人は、またちゃぷりと音を立てて、湯を痩《や》せた肩にかけた。
「とっさにひらめいたアイデアというものはね、思いついた当人にとっては、ずいぶん独創的に感じるものですが、じつは誰もが考えつく平凡な着想であることが多いのです。専業作家でなくとも、そこまでは誰でもできるのです。そこからさらにもうひとつヒネリを加えてこそ、プロの職人芸というものですよ」
老人は、好みの湯加減に満足そうな顔をしながら、さらに話をつづけた。いわゆる思い出話というやつを。
「意外さと平凡さとは紙一重――そこに気がついた私は、創作姿勢をガラリと改めました。プロはもっとレベルの高いものなのだということを自分に再認識させたのです。それからですよ、私の書く小説が評判になりだしたのは。そして私は、遅蒔《おそま》きながら一時代を築くことができたのです。諸星輝の全盛期をね」
「信じられない……」
私は首を振ってつぶやいた。
「あなたが未来のぼくだなんて、そんなことが現実にあるわけがない」
私は老人の言い分など、受け容れられるはずもないと突っぱねた。だがその一方で、この老人が私自身ならば、ひと目見た瞬間に、どこかで会った気がしたわけも納得できる。だって、私なんだから。
そんな私の内心を見透かしたかのように、老人は静かに言った。
「私はあなたです。そして、あなたは私です。繰り返しますよ。私はあなたです。そして、あなたは私です。だからほら、あなたは私とそっくりの目をしておられる」
老人は、私の目を突き刺すように人差指をぐいと突き出してきた。
そうだ、何が見覚えがあるかといえば、老人の瞳《ひとみ》の大きさ、黒目の大きさだ。
じつは、白目と黒目のバランスが世間一般の人間とは違うことを、私は真剣に悩んだ時期がある。異様に黒目が大きいのだ。「つぶらな」と形容すれば美しい印象にもなるが、その限度を超えると他人に違和感を与える。私の黒目の大きさはそれだった。そして、いまここにいる老人も……。
「物差しが違うのです」
そうつぶやくと、老人は湯船の湯をゆっくりかきまぜて、その中に映り込んだ満天の星を踊らせた。自分の力で宇宙をコントロールするかのように。
「六百五十万年前の金星とつながっている鞍馬では、すべての物差しが違うのです。時の流れはたゆたう大河のごとし。部分的に逆流や変則的な渦が生じても気にしない。地球上のほかの場所のように、分や秒の単位まで気にするせせこましさは一切ない。それどころか、十年、二十年……いや、三十年、四十年ですら誤差範囲といえるほど、この場所における時の流れはスケールが違うのですよ。すなわち」
老人は、また大きな黒い瞳を私に向けた。
「一歩鞍馬山の魔界に入れば、人の一生など瞬きをするがごとしですよ。おのれの現在・過去・未来を同時に見ることができるところ、それがこの鞍馬山という特殊な空間なのです」
「まさか、そんなこと」
「明日、あなたは鞍馬山から貴船へと、山道を歩きながら新作のアイデアを練ろうと考えておられますね。こんどこそ大ヒットを生み出そうと」
「どうして!」
私は、おもわず声を大にした。
「どうしてそれがわかるんです」
「何度繰り返させるのでしょう。あなたは私だからですよ」
答える老人の口調は、どこまでも静かである。
「いかがでしょう。私も、ぜひ明日の山歩きにごいっしょさせていただければと思うのですがね」
「ぼくといっしょに?」
「ええ。貴船までとは申しません。鞍馬寺を越えて奥の院|魔王殿《まおうでん》、そこまでで結構です。私はそこからきたのですから」
「奥の院魔王殿から?」
「はい」
たわごとだ、と私は必死に笑おうとした。ボケ老人のたわごとにすぎないではないか、と。だが、笑えなかった。
「私は、あなたに素晴らしい創作のヒントを授けたいのです」
老人は、まっすぐ私を見て言った。
「そのヒントをもとに小説を書けば、必ずあなたは売れるようになります。ベストセラー作家として時代の寵児《ちようじ》となり、優雅な暮らしも送れるはずです。それがあなたの望みだったのでしょう?」
「で、創作のヒントとはどういうものなんですか」
つい勢い込んでたずねてしまう私に、老人は言った。
「明日、あなたが見ている目の前で、私は奥の院魔王殿の裏にある大きな木の幹に縄を掛け、その縄を首に巻いて自殺します。首吊《くびつ》り自殺です」
「なんだって!」
おもわず私はバシャリと大きな湯音を立てた。
「自殺する? ぼくの目の前で」
「人生とは波瀾万丈《はらんばんじよう》です」
老人は、目もとに翳《かげ》りをたたえてつぶやいた。
「売れずに苦労してきた私が、作家として猛烈に売れ出したとたん、それまで喉《のど》から手が出るほど欲しかったお金というものを粗末にするようになりました。金を弄《もてあそ》ぶ者は金に弄ばれ、そして金に滅ぼされる。……これだけ申し上げれば、それ以上の説明は必要ないはずです。愚かなる私は、自分の慢心から最後は自殺せざるを得ない状況にまで追い込まれてしまったのです」
「ちょっと待ってくれ」
私はあせった。本気であせっていた。老人の語る話を絵空事だと排除はできなくなっていた。
「あなたはぼくなんだろう」
「そうですよ」
「では、ぼくの目の前で、ぼくが自殺するというのか」
「はい」
あっさりと老人はうなずいてくれた。
「そんな体験は、めったにできるものではありません。ですから、ぜひその衝撃の体験をテーマにして小説を書いていただきたい。きっと、SFという範疇《はんちゆう》を超えた傑作をものにできるはずです。人生と時間を主題とした哲学的傑作をね」
「やめてくれ」
湯面を激しく叩《たた》いて、ぼくは叫んだ。
「自殺なんて、そんなことはやめてくれ。ぼくはまだ死にたくない。まだ三十五なんだぞ、ぼくは」
「あわてなくてもよろしい。自殺するのは私なんです。あなたではない。あなたはまだ死にませんよ。まだ間があります。私の年になるまではね」
「………」
「ちなみに、私がいま何歳であるかを申し上げましょうか」
「いい、いい。そんなことは聞きたくない!」
叫び散らす私に向かって、老人は、なんとも複雑な哀れみのまなざしを投げかけた。
「私が死ぬおかげで、あなたはこれから一度はいい目をみます。夢のような暮らしもできるはずだ。それを幸せに思いなさい。ただし、結末は変えられない。いちど世の中に発表した小説のようにね」
「たのむ」
私は半分泣き声になっていた。
「そんな恐ろしい経験をさせないでくれ。有名になんかならなくてもいいから」
しかし、老人は一方的に言い放った。
「いま申し上げたでしょう。私は奥の院魔王殿からきた、と。魔王殿は宇宙とつながっております。宇宙とはすなわち、現世ではない。いくらあなたが泣き叫ぼうと、諸星輝の運命を変えることはできないのです」
「いやだ、そんなのは、いやだ」
「なあに、あなたも私の年になれば、死ぬことが少しも恐ろしくはなくなりますよ。だから自殺するんですから」
「待ってくれ」
「では明日、鞍馬山のケーブルカー乗り場でお会いしましょう。時間など打ち合わせる必要などありますまい。あなたがきたときに、私はいます。私がいるときに、あなたはきます」
にっこり笑ってから、老人は湯音も立てずにスッと立ち上がり、脱衣場へと消えていった。
すぐに追いかけようとしたが、身体が動かない。そして、熱いと感じるほどに沸いていたはずの湯が、急速に冷えはじめた。みるみるうちに初冬の鞍馬の冷気が溶け込み、氷のごとき冷たい水となっていくのだ。
が、それでもまだ私の身体は動かない。
寒さに打ち震えながら自分の周りを見回すと、さきほど老人が踊らせた満天の星々が、冷たい湯船の中で、さらに大きく揺らめきながら、私の周りをぐるぐる回りはじめていた。
あざ笑うように、キャラキャラ、キャラキャラという音を立てながら――
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[#1字下げ]7 四日目
1
「カズ……」
四日目の朝、つまり第三夜の夢から明けたとき、晴美は青い顔で夫を揺り起こした。
「起きて、早く起きて」
「言われなくても起きてるよ。晴美が目覚めたときは、おれが目覚めたとき。おれが目覚めたときは、晴美が目覚めたときだからな」
永瀬和也は、蒲団《ふとん》からゆっくり身を起こした。
「十三夜の夢物語がはじまってから、おれたちの睡眠のサイクルは完全に一致しているんだ。……で?」
「やっぱりそうだったのよ」
「何がだよ。ちゃんとした文章で言えよ」
「やっぱり夢はだんだん恐くなる。それがわかったの」
乾いた唇を舐《な》めてから、晴美はつづけた。
「カズはいまの夢、どう思った?」
「第三夜は『魔王殿からきた老人』か。こんども映画みたいに題がついていたな。SF小説が盛んで、東京オリンピックを機にカラーテレビの時代がきたという設定だから、一九六〇年代なかばあたりが舞台になっていると思うけど、三つの夢の中では、恐怖度はいちばん上だろう」
和也は冷静に昨夜の夢をふり返った。
「自分の未来の姿である老人と出会って、その老人から、明日自殺することにした、死ぬところを見にこいと言われたら、それは恐いよ」
和也は、第三夜の夢に関しては、はっきり『恐い』という言葉を使った。
「でも、これ以上夢の恐怖度がエスカレートしていっても、おれはパニックなんか起こさないと思う。ゆうべ晴美は、夢の内容とは関係のないところに本当の恐さがあるんじゃないかと言ったけど、夢はあくまで夢だ。おれと晴美が高速道路やここの玄関先で体験した、あの強烈な幻覚体験とはまったく別種のものだよ。夢であるかぎり、そこにどんな化け物が出てこようとも、どんなおぞましい場面が出てこようとも、うなされることはあっても、目が覚めたらそれでおしまいさ」
「大事なことを忘れないで、カズ」
晴美は深刻な表情を崩さずに言った。
「夢は私たちが勝手にみているんじゃない。あれ[#「あれ」に傍点]がみさせているのよ。あれ[#「あれ」に傍点]が私たちの頭の中に棲《す》みついているから、私たちは同じ夢を体験しているのよ」
「それはわかっている。あの気持ち悪いふたごのババアどもが、おれの脳味噌《のうみそ》をいじくり回しているのはね」
「そうじゃないわ」
晴美は首を左右に振った。
「ふたごのお婆さんなんていないのよ。たぶん、白い二頭の犬も実際には庭にいなかったんだと思う。高速道路の上にふたごの赤ん坊なんか置かれていなかったのと同じように。でも、私たちは何かを轢《ひ》いたし、その何かが怨念《おんねん》となって追いかけてきて、私たちの頭にもぐり込んできた。その何かが私たちに夢をみさせているのよ。だから、夢はしょせん夢だなんていうふうに軽くとらえないで」
昨夜の段階で、和也は東京から持ってきたノートパソコンをデータ通信カードでインターネットにつなぎ、全国紙や地方紙のニュースサイトをチェックしたが、ゴールデンウィーク初日の夜明け前、名神高速道路上でふたごの新生児が轢き殺されたというようなニュースには一切出くわさなかった。
車体の下回りやタイヤにおぞましい痕跡《こんせき》が残っていなかったとおり、ふたごの赤ん坊を轢き殺したのは幻覚だったのだ。
しかし、それならば助手席の窓ガラスに飛び散った血しぶきは何なのか?
すっかり水で洗い流してしまった以上、もう確かめようがなかったが、ともかく新生児が轢き殺されたという客観的事実が存在しないことだけは確かめられた。あれが犬や猫だったら、仮に二頭つづけて轢いたとしても記事にならないのは当然だし、道路公団の清掃記録にもいちいち書き残されないだろう。だから、いまとなっては真実を確認する手だてはない。その代わり、明らかになったのは、和也と晴美がふたりそろって正体不明の幻覚に操られはじめているということだった。
「カズ、わかってきたのよ」
改めて晴美は夫の顔を見つめた。
「夢の恐さがどこにあるかがわかってきたの」
「同じ前置きばかり繰り返すのはそこまでにしてくれ」
和也はパジャマの上着を脱ぎ捨て、枕もとに置いたTシャツを頭からかぶった。そして、顔をスポッと出すと、真剣な顔つきで晴美に向き直った。
「わかったことは、ソク、口に出せ」
「じゃあ言うわ。伏見稲荷の千本鳥居の夢に出てきた黒ずくめの男が、私にとって見覚えのある人物だったように、こんどの鞍馬を舞台にした夢の登場人物も、やっぱり見覚えのある男だった」
「諸星輝かい」
「そう」
「若いときの? それとも年をとったときの?」
「両方よ。この三人に共通しているのは、黒目の大きさ」
「ああ、それはおれも感じていた。やたらと黒目のデカい男だなと」
相づちを打ちながら、和也は、そんな細かいところまで自分と晴美のみる夢が一致していることに改めて驚いていた。
「で、晴美はその三人に似た男たちを知っているというのか」
「たち、じゃなくてたったひとりよ。見た目は若いころの諸星輝にそっくりだけど、黒目の大きなところは千本鳥居の男にも似ているし、老人になった諸星輝にも似ている」
「その男の名前は」
「名前は知らないわ」
「だけど晴美にとって見覚えがある男なんだろう」
「写真の中だけでね」
「写真?」
「パパの研究アルバムに貼ってあった写真よ」
晴美は、父親の仕事場だった和室の隣につながる三畳間のほうへ顔を向けた。
そこには、ふすま紙を貼った小さな収納扉があった。
2
「パパは、民俗学のフィールドワークで撮りためた写真を整理して、百冊以上のアルバムにまとめてあの扉の中にしまっていたの。表紙に『京都壱』とか『京都弐拾参』っていうふうに旧式の漢数字で通し番号がふってあって、最後は『京都壱百八』で終わってた」
晴美は、三畳間の収納扉に視線を据えて語りつづけた。
「小さいころ、まだアルバムの数が三十冊にもなっていないころから、私はパパの撮った写真を見るのが好きだった。京都のいろいろなお寺や神社や、山や川や竹林なんかの写真がいっぱい並んでいて、そこに子供には理解できない難しい文章が並んでいたけれど、私はそれを眺めながら、自分で遠い世界に旅行をした気分にもなっていた。
パパが京都に仕事場を持っているからといって、子供の私がしょっちゅう京都へきたということはないし、たまにきても、パパがどこかへ連れていってくれるということもなかった。だから、私にとっての京都旅行は、パパのアルバムの中だけだったの」
「そうか」
晴美が言わんとすることを察して、和也は目を輝かせた。
「夢に出てきた伏見稲荷とか、花見小路とか、鞍馬の旅館は、晴美のお父さんのアルバムに貼ってあった写真で、それを幼いときに見たおまえの頭に記憶されていた……」
「そうなの」
晴美はうなずいた。
「花見小路は大人になってから何度か行ったことがあるけれど、伏見稲荷と鞍馬は、まだ一度もこの目で実際の景色を見たことがない。でも、パパのアルバムで写真としては見ていたことに気がついた」
「だけど、おれはその写真すら見ていないんだぜ。なのに夢にはっきりと景色が出てきた。それはどうなっているんだ」
「そこまではわからない」
「まあ、それはいいけど……で、見覚えのある人物というのは、お父さんが撮った写真の中に写っていたんだな」
「そうなの。いろいろな場面に写っていた。よく覚えているのは、その男が若いころのパパといっしょに、浴衣《ゆかた》姿でお酒を飲んでいる場面。どこかの旅館でね。ほかにも何人かの男の人たちがいっしょに写っていたけど」
「晴美がそのアルバムを最後に見たのはいつなんだ」
「小学校の五、六年だと思う。そのころ、パパはもう五十代の後半になっていたけど、その時分になると私も、ここはパパの仕事場で、やたらと邪魔をしちゃいけないってことがわかってきた。だから、そのころを最後に、自分から積極的に京都に行きたいと言い出すこともなくなったんだけど」
晴美は和也より三つ年下――結婚したときは二十四歳で、いまは二十七歳になっている。だから小学校の五、六年といえば十五年ほど前のことになるが、そんな時期に見た写真に写っていた人物を、「見覚えがある」と明確に記憶しているならば、晴美にとって、よほど印象の強かった人物ということになる。
それにしても和也には、百冊以上にのぼる研究アルバムの存在は初耳だった。
「お父さんが亡くなって、この家の後片づけにきたときは、百何冊ものアルバムなんて見かけなかったけどな」
すでにパジャマの下もジーンズに穿《は》き替えた和也は、三畳間へ行って、晴美が目で示した扉を開けてみた。だが、中は空っぽだった。
「アルバムはぜんぶ裏の土蔵の中に移してあるわ」
晴美が和也の背中に声をかけた。
「カズが手伝いにきてくれる前に、ママがそこにあったアルバムをぜんぶ土蔵の中に移して鍵《かぎ》をかけてしまったの」
市ノ瀬邸の土蔵は、家の北側にある。白壁の一部が剥《は》がれ落ち、壁には蔦《つた》がからまって不気味な紋様を描き出していた。
和也が預かっている市ノ瀬邸の鍵束には八本の鍵が連なっていたが、そこに土蔵の鍵は含まれていない。物置の鍵はあるが、土蔵はそれとは別である。晴美の母・準子だけが土蔵の鉄扉に掛けられた南京錠を開ける鍵を所持しており、ほかに合鍵はなかった。
「どうして土蔵なんかにしまっちゃったんだ」
晴美をふり返って、和也はきいた。
「お父さんの形見だろう」
「ママが見たくないって」
「記憶が生々しすぎるから?」
「そうじゃなくて、祟《たた》りそうだからって……」
「祟る?」
ザワッと、身体のどこかで異様な気配を感じながら、和也は問い返した。
「何が祟るんだよ」
「うちのママ、霊感が強いでしょう」
和也もそのことは何度となく聞かされていた。
「パパがこの家で死んで、ママがこの家に駆けつけたとき、真っ先にそこの三畳のふすまに目が行ったんだって。なにか奇妙な波動が出ている気がして」
「波動が出ていた?」
「怨念《おんねん》のオーラみたいなものが、その扉を通り抜けて畳の上に広がっているのが見えたっていうのよ」
和也は反射的にふすまから数歩あとずさりした。
「パパが京都で研究していたテーマの大きなひとつが、京都にまつわる怨念の歴史。それに全精力を傾けていたパパは、知らず知らずのうちに、よくないものを集めてしまった――ママは深刻な顔で私にそう説明したわ。だから、それは永遠に封印しなければならない、って」
「封印かよ」
和也はつぶやいた。
「まるで悪魔を封じ込めたみたいだな」
「そう、悪魔よ。ママは本気でそう思っている」
「本気でその百八冊のアルバムに悪魔が取り憑《つ》いていると?」
「うん。だから土蔵の鍵だけは私たちに渡してくれない」
「じゃあ、晴美のお父さんが集めた怨念研究のデータ写真が、おれたちの頭の中に入り込んで動き出している、ということか」
「写真だけじゃなくて、物語も……かも」
「物語とは」
「パパは、京都の土地にまつわる奇妙な物語をいっぱい集めて、それもアルバムの中に書き込んでいたらしいの。それは私は読んだことがないけど」
「その物語がおれたちの脳に入り込んだっていうのかよ」
「と思う」
「なぜ」
「わからない」
「おまえの記憶に焼きついた写真の人物は、どういう立場の人間なんだ」
「それもわからない。でも、パパの研究記録と、私たちのみる夢とが連動していることがわかってきただけでも……」
晴美はパジャマの上から腕をさすった。
「恐くなってきたわ」
「すると、おれたちのみた夢は、お父さんが集めた京都の伝承に基づいているのか」
「かもしれないし、パパの書いた小説かもしれない」
「小説?」
和也は眉《まゆ》をひそめた。
「おまえのお父さんは学者であって、作家じゃないだろ」
「そうなんだけど、京都で仕事をするようになってから、何かがおれにモノを書かせるんだ、というふうに口走ることが増えてきていたらしいの。実際そういう発言は、ママだけじゃなくて私も何度か聞いたことがある」
「じゃあ、ふたごのババアが血まみれになっていった場面も、おまえのお父さんが作り出した小説の一場面だっていうのか」
「かもしれない」
「かもしれない、ばっかりだな」
「私だって想像していくしかないのよ。でも、京都という土地にまつわる怪奇物語が私たちの頭に取り憑いたと考えれば、うまく説明がつくでしょ」
「うまく説明がつく?」
和也は怒ったように鼻を鳴らした。
「冗談じゃない。説明なんかつくもんか。第一、おれたちがこんなひどい思いをしなきゃならない理由なんて、どこにもないだろう。それに、なぜあの場所[#「あの場所」に傍点]からすべてがはじまったのかも説明がつかない」
「あの場所って」
「名神高速道路の関ヶ原|界隈《かいわい》で、ってことだよ。あそこは京都か? そうじゃないだろ、岐阜と滋賀の県境だぞ。京都なんか関係ないじゃないか。なのに、なぜあそこからおれたちの幻覚がはじまったんだ」
「関ヶ原のあたりが、京都の魔界に通じる入口かもしれないでしょ」
「聞いたことないね、そんな話」
怒ったように言い放つと、和也は晴美をその場に残したまま、勝手口ヘ向かった。
「カズ、何するの」
「決まってるだろ、裏の土蔵だよ。おまえの心当たりが正しいかどうか確かめるには、土蔵の中にしまい込まれたアルバムをこの目で見るしかない」
「でも、土蔵には鍵が」
「鍵なんかぶっ壊せばいい」
和也は勝手口の三和土《たたき》に置いてあったサンダルを突っかけ、大声で言った。
「鍵が壊れなきゃ、土蔵の壁を直接ぶち壊してやる。百八冊のアルバムにどんな写真が貼り込まれているのか、どんな物語が書き残されているのか、おれも興味が湧いてきたからな」
「だめよ、カズ、だめ!」
パジャマ姿のまま、晴美があわてて勝手口まで追いかけてきた。
「ママの言うことを信じて。うちのママは霊感が強いのよ」
「何度も言わなくたってわかってるよ」
「そのママが、パパの研究記録に猛烈な邪気を感じて封印したのよ。だから土蔵の封印を解いちゃだめ」
「もしかすると、その邪気ってやつが外に出たがって、おれたちに行動しろと命令しているのかもしれない」
勝手口のドアノブに手をかけながら、和也は言った。
「そいつを逃がしてやれば、おれたちもこの状態から解放されるかもしれないだろ」
「やめてよ、カズ。絶対だめ!」
晴美は必死に引き留めた。
「土蔵を開けたらとんでもないことになるわ」
「いやだね。ここまで話を聞いたら、爆破してでも土蔵の中に入ってやる」
和也は晴美の腕をふりほどき、そして勝手口のドアを開けた。
「あ……!」
感情的になっていた和也の表情が、外の景色を見たとたん、凍りついた。
3
和也の後ろから覗《のぞ》き込んだ晴美も、息を呑《の》んだままその場に立ちつくした。
昨晩までは、土蔵に至る裏庭は車を停めた場所同様、いちめん膝《ひざ》のあたりまで背丈のある緑の雑草に覆われていた。間違いなくあたりは緑一色だった。
だが、一夜明けたいま、朝の光に照らし出された裏庭は、びっしりと黄色い花に覆われていた。視野に入る景色のほとんどが黄色に染まってしまうほどの迫力だ。
その花はタンポポに似ていたが、そうではなかった。タンポポならばもっと背丈が低い。いまふたりが目にしているのは、人間の膝の高さまで伸びた雑草が、いっせいに黄色い花を咲かせている光景だった。
その黄色の絨毯《じゆうたん》の向こうに、蔦に覆われた土蔵が見えた。
「なんだ、これ」
「信じられない」
愕然《がくぜん》として見つめるふたりの前で、風もないのに黄色の絨毯がいっせいに彼らのほうへなびいた。
そして茎の一部をクイッと曲げ、タンポポそっくりの花が和也たちを真正面から睨《にら》みつけた。数千の黄色い花が、タイミングを合わせて和也と晴美に向き直ったのだ。
「見て、あの花……花が笑っている」
震えながら、晴美が指さした。
「やれるものなら、やってみろって、笑ってる……」
ふたりは後じさりして家の中に引っ込み、急いで中から鍵を掛けた。
土蔵を開けられないまま、四日目の夜がきた――
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[#2字下げ]第四夜 鹿苑寺無彩幻想
問題は、いつ、どうやって妻の真喜子《まきこ》を殺すかという具体的な作戦の決定だった。京都へ向かう新幹線に乗っている間じゅう、当の真喜子の隣で、私はそのことばかり考えていた。
だから、ふたりで京都駅に降り立ち、妻の希望どおり、京都半日観光のタクシーに乗り込んだときも、運転手が話しかけてきた言葉などにいちいち反応しているゆとりはなかった。
「そらご主人、京都にきはったら、まず金閣を見に行かなあかんのとちゃいますか」
馬のようにやたらと長い顔をしたタクシー運転手は、車をゆっくり発進させながら、そんなふうにまず私に話しかけてきた。
ダッシュボードのネームプレートに馬飼野俊兵《まかいのしゆんぺい》という名前とともに貼りつけられた彼の写真も、やはり傑作なぐらい馬面《うまづら》に写っていた。しかも、入れ歯かと思える不自然な白さをもった大きく長い歯が両唇の間から覗いているのも、馬を連想させた。
「いまさら……金閣寺っていわれてもねえ」
と、私の代わりに返事をしたのは、三十五歳の誕生日を京都で迎えようという企画に、何の疑いもなく喜んでのってきた妻の真喜子である。
「あそこは修学旅行のときに行ってるし、だいたい子供やおのぼりさんの行くところでしょう」
「さあ、どうでっしゃろ」
運転手は長い顔をかしげながら、京都特有の、疑問形でありながら否定の含みを持った答えを返してきた。
「金閣いう建物は、あれはあれで案外奥の深いもんやと思いますけどなぁ」
烏丸通《からすまどおり》をまっすぐ北へ走らせながら、運転手はつづけた。
「といいますのんは、金閣は人によって色の見え方がまるで違ってくるんですわ」
「人によって色の見え方が違うですって?」
妻がきき返した。
「だって金閣寺は金色に決まっているでしょう。天気によって多少は違うかもしれないけれど、きょうみたいに晴れていたら、誰が見たって金閣寺は金ぴかに輝いてみえると思うけど」
そう反論する真喜子の横で、私はといえば、結婚生活七年目になるこの女を、ホテルのベッドの上で絞め殺そうか、夜の鴨川《かもがわ》べりに誘い出して後ろから殴りつけようか、いっそのこと清水《きよみず》の舞台から突き落としてやろうか、などと頭をめまぐるしく回転させていた。
もちろん、現実にはそんな派手なやり方をしては危険すぎるのは百も承知だ。明日にでもレンタカーを借りて、京都市内からはるか北へ走った山奥で、夜中、作戦を実行することになるはずだ。私に、そこまで踏み切る勇気があれば、の話だが。
いや、勇気があろうとなかろうと、もうやるしかなくなっていた。妻より十も若く、そして妻より何倍も美しく、おまけに資産家の令嬢という恵まれた立場に育った新しい女が現れた以上、男としてそちらに乗り換えるのは当然の選択ではないか。
私たちの間には、親として責任を負うべき子供はいない。だとしたら、失敗であったと認める結婚に終止符を打っていけない理由などひとつもない。そして鈍感な妻が私の不満に気づかないなら、力ずくでもふたりの暮らしに幕を引こうとして、どこがいけないのだろうか。
人間は、つねに『もっといいもの』を貪欲《どんよく》に追い求める生き物であり、その追求のエネルギーこそが人生の歓びというものであるはずだ。現状に安易に満足する人間に、いったいどんな幸せが訪れるというのだ。
こんな考えの持ち主である私は、はたして傲慢《ごうまん》な男だろうか。
「ご主人はどない思われます?」
ずっと無言を貫いている私に向かって、運転手はバックミラー越しに問いかけてきた。
「やはり金閣は、誰が見ても金色にしか見えへんと思わはりますか」
「ああ……と思うね」
生返事をしながら、私は『ご主人』という呼ばれ方に、心理的な抵抗を覚えていた。真喜子との夫婦生活に、殺人という形でピリオドを打とうと決めた私にとって、『ご主人』と呼ばれるのは、かなり居心地が悪かった。
「まあ、とにかく百聞は一見にしかず、言いますさかい、実際に金閣を見はってから、また感想を聞かせてもらいまひょか」
そして運転手は、こちらの意見もきかずに、最初の目的地を金閣寺と勝手に決めて車の速度をぐいと上げた。
考えてみれば、その押しつけがましい態度は運転手として不自然なものだったが、ほかのことで頭がいっぱいになっている私は、とくに異論をはさまなかった。金閣寺へ行こうが銀閣寺へ行こうが、そんなことはどうでもよかった。
で、こちらが黙っていると、馬飼野という名の運転手は、金閣寺に関する蘊蓄《うんちく》をあれこれ一方的に述べはじめた。
もともと金閣寺は、室町幕府三代将軍の足利《あしかが》義満が西園寺《さいおんじ》家の別荘であった北山山荘を北山殿という豪華|絢爛《けんらん》たる私邸に大改造したおりに、舎利殿《しやりでん》として建てたものであること。
義満の死後、子の義持が舎利殿以外の建造物をほかの場所へ移築したり壊したりして、北山殿は大いに荒れ果てたこと。
それを孫の代になって義政が再整備して鹿苑寺《ろくおんじ》と称するようになったこと。その義政自身は、東山に慈照寺《じしようじ》を建てたこと。
そして後世になって、金箔《きんぱく》張りの鹿苑寺舎利殿を金閣、銀箔が張ってあるわけでもないのに慈照寺の観音殿を銀閣と呼ぶようになったが、それはあくまで通称にすぎないこと、などなどの話が、馬面の運転手から語られていった。
それらの解説は、私の右の耳から入って左の耳へと通過していったが、その言葉に鼓膜を震わされているうちに、いつしか私は奇妙な催眠状態に陥っていた――
「よう見ておくれやっしゃ」
運転手の呼びかけでハッと我に返ったとき、いつのまにか私は、修学旅行生や団体観光客の雑踏にまじって、鹿苑寺の境内に立っていた。そして、目の前には池越しに金閣が見えた。
だが――
「………!」
私は、我が目を疑った。
色がない!
金箔に覆われているはずの金閣寺から、黄金の色も輝きもすっかり失われているのだ。ほんのわずかに金色の余韻は残されていたが、それはほとんど白黒写真を見るのと変わりない光景だった。
そして金閣のみならず、周囲の木々までが、夏だというのに緑の色を失って雪をかぶったような風合いを呈していた。
無彩色の幻想世界が私の前に広がっていた。いや、正確に言えば、私の前だけ[#「だけ」に傍点]に広がっているらしかった。なぜなら、私の周囲にいる修学旅行生たちも、あるいは年輩のツアー客らも、晴天下の金閣を見て口々に「まぶしいくらいだな」「ちょっと品がなさすぎるほどキンキラキンね」などと口々に感想を洩《も》らしているからである。
そして妻の真喜子も「やっぱり金閣寺は金色をしているじゃないのよ」と、運転手に向かって咎《とが》めるように言っていた。
だが、私にはそうは見えていない。私の目に映る金閣は、色彩を失っているのだ。あっけにとられている私の耳もとで、馬面のタクシー運転手がつぶやいた。
「どないです、ご主人。私の言葉に嘘はおまへんでしたやろ」
「あ、ああ」
うなずく私に、彼はささやき声でさらにつづけた。
「金閣が金色にしか見えへんのは、人間ができてへん証拠ですわ。キンというよりカネのことで心がいっぱいになってるから金色に見えるんです。ここにうじゃうじゃ集まってる人間は、百人が百人、千人が千人、おカネのことしか考えん欲の皮の突っ張った者ばかりやさかい、わあきれい、わあまぶしい、金色のペンキが塗りたてなんやね、などとアホぬかして喜んでるんですわ」
「では、なぜいまの私には金色に見えないのだ」
「ご主人なども、本来でしたら金閣はキンキラキンの金ピカに見えなおかしいところです。けど、この私が、真の鹿苑寺舎利殿の姿をご主人に見せてさしあげてるんです。澄んだ無欲の心で金閣を見たら、どないなるかを」
「あんたの力で、金閣寺が金色でないように見えているというのか」
「さいです」
「あんた、いったい何者なんだ」
まじまじと見つめてたずねる私に、運転手は言った。
「その前に申し上げとかなあかんことがひとつおじゃります」
「おじゃる?」
運転手の語尾が急に変わった。
「いま、殿の心の中は、よこしまな考えがいっぱいに広がっておじゃりまするな」
「え……」
「しかしながら、それとまったく同じ考えを、奥方もまたお持ちでおられることを、殿はご承知でおじゃりますか」
「なんだって!」
驚きに目を見開く私の前方で、妻は池越しの金閣を見つめたままこう言っている。
「でも、バカにしてたけど、やっぱり金閣寺はいいわあ。きらきら輝いて、まるで金の延べ棒で作ったおうちみたい。きれいねえ」
その後ろ姿が、なぜか黒く澱《よど》んでみえる。
驚いて運転手のほうをふり返ると、馬面の男は、周囲の人々が一斉に振り返るほどの大声で笑った。
「おっほっほっほ、おっほっほっほ。フォッフォッフォッ。何百年経っても人間という生き物は生臭うてかなわんわ。こやつら応仁《おうにん》の乱のころから、ちいとも進歩しておらんわいの。やくたい[#「やくたい」に傍点]もないことに目の色変えて、欲の世界に溺《おぼ》れきっておる。あな、おろかしや。まこと情けないものでおじゃりまするな」
そして男は青空に向かってひひーん、と高らかないななき[#「いななき」に傍点]を発すると、私に向かって言った。
「殿、戦の血にまみれた都では、代々、馬は人の犠牲になってきよりました。その怨《うら》みを一度たりともお考えになったことがおありかな。京都には、人に化けた馬が大勢おりまする。その馬たちが、迷える人間どもの目を醒《さ》まさせるのに必死。なぜならば、人間が愚行に走れば、犠牲になるのは馬を代表とする動物でござりまする。たとえ馬が戦に用いられなくなった時代でも」
そして男は、パカポコと靴音を高く響かせて私の妻のほうへ歩み寄った。
その途中で、半分馬になった男は私のほうをいちどふり返り、頭に直接響き渡る声でこう言った。
「こんどは欲にくらんだ奥方の目を醒まさせてみせまする。金閣から黄金の色彩が消えてしまったら、欲に穢《けが》れたご自分の心がどのように変わるのかを、身をもって体験していただきましょう。黄金にかかわらず、色彩というものが、いかに人の心を惑わすものであるのか、それを思い知っていただきましょう。ただし」
馬は言った。
「永遠に色彩を奪わねば、奥方はいつ何時、また悪だくみをはじめるかわかりませぬ」
「真喜子から……永遠に……色彩を?」
「さようでおじゃりまする。無彩色の世界こそ、すべての欲から隔絶された清く美しき世界。奥方をその色なき世界に閉じ込めれば、殿も罪人とならずに済むことでおじゃりましょう」
そして馬は、ゆっくりと真喜子へ近づいていった。
黄金の金閣寺を、そしてすべての色彩を永久に彼女から奪うために。
もしも自分がそんな目に遭わされたら……精神は崩壊するであろうと、私は思った。少なくとも、いままでの自分ではない自分になってしまうであろうと――
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[#1字下げ]8 五日目
『鹿苑寺無彩幻想』と題された第四夜の夢をみたとき、晴美はこれが父親の採集した民話伝承、もしくは父親の創作物語に基づいたものである確信をいっそう強くした。なぜならば、男が馬に変身してヒヒーンといななく物語は、幼いころ父親が珍しくおとぎ話を語って聞かせてくれたときの題材のひとつだったからである。
もちろん子供に話すのだから、そこに夫婦間の殺人計画などといったテーマがあるはずもなかった。だが、欲のある人間たちには黄金に輝いてみえる金閣寺も、じつはその真の姿には色がついていないのだ、という訓話めいた骨格は、父・市ノ瀬恵造が話してくれたおとぎ話そのままだった。晴美の記憶では、その物語には『色のない金閣寺』というわかりやすい題名がついていた気がする。
(やっぱり、すべての秘密はあの中にあるんだ)
晴美は、キッチンの小窓越しに見える土蔵にじっと目を向けた。
昨日、突然黄色の花畑と化した裏庭には、きょうも満開の花が咲き誇っていた。ふつうならば目を見張るほど美しいと感じる景色も、晴美の目には妖気《ようき》の世界としか映らなかった。
だが、その不気味さゆえに、夫の和也は土蔵をこじ開けようとする衝動にブレーキをかけてくれた。晴美の母が封印した怨念《おんねん》のアルバムを、ふたたび青天白日のもとに出そうという行動を止めることができたのだ。
その点では救われた部分もあったが、しかし、彼がそのまま引き下がるとも思えなかった。永瀬和也という男は、かなり強情なところがあった。一度こうだと決めたら、多少の障害があってもそれを乗り越えてしまわなければ気がすまないタイプなのだ。彼にしてみれば、行く手に立ちはだかる困難よりも、自分のしたいことができない欲求不満のほうがいつも重大な問題だった。だから彼は、こうすると決めたことを容易には撤回しないのだ。
(たぶん、あの花が散ったら)
晴美は不安になった。
(カズは、また土蔵を意地でも開けようとするはず)
そのとき、車を停めてある空き地のほうでバラン、バラバラとエンジンのかかる大きな音がした。エンジンといっても、車のそれでないことは音から明らかだった。そして、それにつづいてチュイーンという甲高い金属音が響く。
何事かと思って、晴美は玄関から外へ飛び出した。
五日間、停めっぱなしになっているRV車のそばで、和也が小型のガソリンエンジンで動く刈り払い機を使って周囲の雑草をなぎ倒していた。
裏庭と違って、家の真横にあたる駐車スペース一帯には例の黄色い花が咲いておらず、以前と同じ緑の草むらになっている。その雑草を、和也は機械を使ってつぎからつぎへとなぎ倒しているのだ。
その刈り払い機は、小さなエンジンが取り付けられた長い棒を肩からベルトで吊《つ》り下げて保持し、その先端で高速回転する金属の旋盤で雑草や小枝などを文字どおり払いながら切断していくものである。
「カズ、どうしたの、それ」
離れたところから晴美が呼びかけたが、刈り払い機の立てるエンジン音で、和也は気づかなかった。そこで晴美は、すぐそばまで行って、もういちど呼びかけた。
「カズ!」
「あ? ああ」
やっと気がついた和也は、刈り払い機のエンジンを切って晴美に向き直った。
肩でベルトを保持したまま刈り払い機をだらりと真下に向けると、まだ惰性で回転をつづけている旋盤が和也の足もとの雑草にあたり、緑のスライスを四方に弾き飛ばした。
「こいつを動かしていたんで聞こえなかった」
「それ、どこにあったのよ」
「物置だ」
和也は、駐車スペースの脇にある木造の物置を指さした。
「これがしまってあったのを思い出したんでね、いま練習しているところなんだ」
「練習?」
「そうだよ。べつにおれはたんなる草刈りのためにこいつを引っ張り出したんじゃない。目的はあれだ」
和也は、土蔵につづく裏庭の黄色い花畑をアゴで示した。
「あと一日だけ、おれは待つ。でも、明日になってもまだあの気味悪い花が咲きつづけていたら、この機械で一本残さずなぎ払ってやる」
「やめてよ、カズ」
晴美は顔色を変えた。
「土蔵を開けるのは危険だって、何度言ったらわかるの」
「わからない」
「わからない?」
「そう。わからないし、おれは決めたことをやめない」
断固とした口調で、和也は晴美の懇願を突っぱねた。
「何がなんでも、おれは土蔵の中を見る。封印された怨念《おんねん》の研究資料を、おれは絶対にこの目で見る。いいか晴美、それ以外におれたちが呪縛《じゆばく》から解き放たれる方法はないんだ」
そして和也は、どこか理性の切れた目を宙に泳がせて言った。
「どいてくれないか。もうちょっと練習をつづけるから」
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[#2字下げ]第五夜 株式会社「七福神」
いや、このつるっぱげの頭とパンパンに迫《せ》り出した太鼓腹が、リストラの大ピンチに陥ったときに私を救ってくれることになるとはねえ。まったく世の中、何が幸いするかわかりません。
それにしても去年の秋口あたりは、カンペキに死んでましたな、私は。笑いを忘れて暗い顔の毎日でした。
何しろ、会社でリストラされただけでなく、家庭からもリストラされてまいましてね。どっちかだけやったら、私かてなんとか立ち直りようもありますけど、会社から追い出されるわ、うちからも追い出されるわで、茫然《ぼうぜん》自失でした。
このまんまやと路頭に迷うしかないんで、とりあえず職安行ったんですわ。いまはハローワークというそうですな。何をカッコつけとんねん、思いますな。何がハローや、と。こっちは仕事にグッバイされた身でっせ。そう気軽にハロー言われても信じられますかいな。
案の定、求人票見ても六十すぎのリストラオヤジを対象にしたものなんて、なかなかありません。私も図体だけはデカいほうなんですが、用心棒として雇ってもらうには年がいきすぎている。
それでボケーッと突っ立っとったら「失礼ですが」と私に声をかけてきた小柄な男がいるんです。口もとにチョビ髭《ひげ》をたくわえているんですが、それが貫禄《かんろく》を与えるどころか、かえって風《ふう》のあがらなさを強調していました。ま、雰囲気的には昭和初期の漫才師、といった感じでしょうかな。
その男が、やけに腰の低い態度で、こう申し出てきたんです。
「もしもお仕事をお探しでしたら、私どもの会社にぜひお力添えをいただけませんでしょうか」
私が疑わしげな目で黙って見返すと、男は愛想笑いを浮かべながら、一枚の名刺を差し出してきました。そこにはこういう肩書きが書いてあったんです。
「株式会社七福神 代表取締役社長 宇治左岸」
ウジ・サガン――なんだか人名というより住所みたいな名前でしたが、会社の住所は京都市の中心部になっとりました。宇治市じゃなしにね。
で、男はこう言ってきよるんです。
「ああ、あなたこそ、私が長い間探し求めていた最後のひとりですよ。とうとう理想の人と出会えました」
なんや、えらい大げさですな。それにこそばゆいですわ。この年になるまで、よそのお方から「理想の人」だなどと持ち上げてもらったことは、いっぺんもありませんのでね。
しかし、事実は小説よりも奇なりで、五分後、私は、なんとそのチョビ髭社長に雇われることになっていました。こちらは細かい条件などつけられる立場と違いますが、待遇は申し分ないものでした。予想よりはるかによい給料で、ただし三カ月分まとめて後払いということでしたが、住む場所もないという事情を話すと、給料日までの生活費は会社が面倒をみるし、アパートも借りてくれるというのです。やあ、夢みたいですな。そこまで親身にしてもろたら、身を粉にして働きますよ。早速つぎの日から仕事始めとなりました。
仕事の内容ですか? 宝船《たからぶね》の出前ですよ。面白いでしょう。
宇治という社長の名刺に「株式会社七福神」とあったように、七福神の格好をして老人ホームの慰問とか、企業の忘年会とか、あるいはデパートのイベントなどに派遣されるのです。いわゆる「営業」ですな。
ずいぶん変わった商売やと思いました。第一、ちんどん屋みたいな七福神の出前なんかで儲《もう》かるんかいな、と思いますわね。で、その疑問を問い質《ただ》すと、社長の宇治氏は笑いながらこう答えるんです。
「何しろ、うちの七福神は本物ですからね。ありがたみが違うから引く手あまたですよ」と。
本物の七福神、という意味がわからずにキョトンとしていたのですが、京都市内の会社に連れていかれて驚きました。なんと、そこにいたんですわ、「本物の七福神」たちが。
私たちがふだん頭に思い浮かべる「大黒さん」や「えべっさん」があるでしょう。まさにあのイメージぴったりの人間が、株式会社七福神に社員としてひとりずつ雇われていたんです。
いや、驚きましたよ。まったく世の中にはめでたい顔をした人もおるもんですな。大黒さんのそっくりさんは、何が入っておるんやら大きな袋を肩にかついどるし、えべっさんは小脇に鯛を抱えて挨拶《あいさつ》しに出てきた。鯛といってもナマやなしにロウ細工ですが、そんな格好をすると、もう宝船の絵から抜け出してきたようです。
寿老人《じゆろうじん》役のご隠居は、ほんまに立派な福耳をしておられるし、驚いたのは福禄寿《ふくろくじゆ》に扮《ふん》したお年寄りです。眉毛《まゆげ》から上の額が、まるでコック長の帽子をかぶったように長い。そういう頭をした老人が、ちゃんとおるんですわ。私はいま流行《はや》りの特殊メイクやとばかり思ったら、恐れ入ったことに、地のままやそうで。
毘沙門天《びしやもんてん》は、キリリとした顔だちの若者でした。それから七福神の中で唯一女性の神である弁財天《べんざいてん》は、そりゃもうべっぴんなおなごはん[#「おなごはん」に傍点]が務めとりました。ちょっと気の強そうなところが、また妙に色っぽくてね。
ところが七福神の残りのひとり、布袋《ほてい》さんだけが適役がいままで見つからずにいたというんです。布袋さんといえば、頭ツルツルでお腹がボーンと出た体型ですからね、そっくりさんはいちばん見つけやすいと思うんですが、かんたんなだけに、イメージどおりの人間がなかなかいなかった、と社長が言う。でも、中村さんならピッタリや、と。……あ、中村というのは、私の苗字《みようじ》ですがね。
かくして、めでたく七福神の揃い踏みとなったところで、七人がそれぞれの扮装《ふんそう》をして「宝船セット」という名の営業に出るわけです。
宇治社長は、不況なときやからこそ、こういう単純明快な商売が当たるのだ、と言うんですが、たしかに年末の忘年会シーズンはひっぱりだこでしたわ。来年こそはよい年にしたいと縁起担ぎをやる企業や団体がこぞって「七福神宝船セット」の出前を希望してきましたのでね。
それで現場に行きますと、居並ぶ七福神を代表して、図体のデカい布袋さん役の私が両手を広げながら「みなさん、しあわせですかあ!」と大声で呼びかけるわけです。そしてほかの七福神も、思い思いの方向に向かって「みなさん、しあわせですかあ!」とやる。それだけで大ウケになるんです。不思議ですよねえ、たったそれだけの言葉で、人々がドッと笑う。そして拍手|喝采《かつさい》です。
そうやって盛り上がったところで、さらにたたみ込んでこう言うんです。「みなさん、笑う門には七福きたる。さあ、七福神の私たちといっしょに大笑いをしましょう。せーの、うわーっはっはっはっは!」と、けたたましい大笑いを、私が代表でやる。ほかの七福神が、またそれにならう。
するとねえ、お客さんたちもみんな大笑いするんです。それはそれは楽しそうにね。老人ホームのおじいちゃん、おばあちゃんなんか、入れ歯がはずれるぐらい笑いますよ。
我々七福神のやる仕事といったらそれだけ。でも、そんなことで人々は腹を抱えて喜ぶんです。
自分でやりながら、この単純さに呆《あき》れている私に、社長の宇治氏は言いました。
「中村さん、なんで人々が大笑いを求めるかわかりますか。爆笑とは、現実逃避の発作みたいなものです。だから、現実と向き合いたくない人ほど大笑いをしたがるんです」
爆笑が、現実逃避の発作やて? そうきき返すと、宇治氏は、
「落語にしても漫才にしても、テレビ番組にしても、なんであんなに客は大笑いできるのか。それは、すべてがウソやから笑えるんです。現実が色濃く残るレベルでは爆笑には至らない。逆に言えば、私たちの実生活というものには、本来、大笑いとか爆笑と呼ばれる感情は存在しないはずのものなんですよ」
と、言い出しました。
大笑いは、本来実生活には存在しないはずのもの? そんなことはあるまい、と思いながらも、宇治社長がチョビ髭をヒネリながら真剣な眼差《まなざ》しでそう言うと、なんや真実味が出てくるから不思議です。
社長は、さらにつづけました。
「我々の出前七福神が大笑いのきっかけを与えると、人々は現実のつらい悩み事を忘れて、その瞬間はウソの世界に逃げ込めます。そして気分的に楽になる。その解放感に気づいているから、人は自分からすすんであんなわざとらしい大笑いを平気でできる。しあわせになるには現実を無視することがいちばんで、その虚構の世界へ自分を運んでくれる乗り物が大笑いなんです。ゆえに、人は笑えるためには大金のご祝儀も惜しまない。
けど不幸なことに、大笑いの虚構は長続きはしない。我々七福神の乗った宝船が帰ると、人々はまたハッと我に返って、現実の悩みに苦しむ日常に戻るのです。だから我々の商売が、何度でも必要になってくる。そういう仕組みです」
宇治社長は、そこで肩をすくめてつぶやきました。
「大笑いしすぎて現実に戻れなくなった人がいたとすれば、それはそれで幸せなんでしょうがね」
とにかく、宇治社長の指揮のもと、私たち七福神は働きました。一カ月、二カ月、三カ月――
そして、ようやく明日が三カ月分まとめた給料をもらえるという日に、大事件が起きました。社長が夜逃げしてもうたんですわ。我々が出前宝船の営業で稼いだ売上金をぜんぶ持って。私が借りていたアパートも、知らぬ間に解約されていました。
一同ボーゼンです。大黒さんも、えべっさんも、毘沙門天も……弁財天も、寿老人も、福禄寿も……そして布袋さんのこの私も、いよいよ明日ごほうびが手に入るという直前に、すべてをかっさらわれて言葉がない。七福神そっくりの顔をした七人が、目がテンになってしもてる。
やがて額の長い福禄寿役の老人が、例のチョビ髭《ひげ》社長の名刺を見て重大な事実に気づきました。
「宇治左岸――これはウジ・サガンと読むものだとばかり思っていたけど、ウチ・サギシと読めるやないか!」
ウチ、詐欺師――
あのチョビ髭野郎、最初から我々をダシに使って、金を独り占めするつもりやったんです。
そのことにやっと気づいた瞬間、七福神役の誰からともなく、急に笑い出しはじめましてね。あっというまにその笑いが全員に伝染して大爆笑になった。
弁天さんも、すそを乱して白い太股《ふともも》もろ見えの格好で大笑い。えべっさんにしても大黒さんにしても、もともと笑いの似合う顔だけに、おたがいの笑う顔見て、また大笑いという始末。
「こうなりゃ、もう笑うしかないわな」
「笑《わろ》てまうわな、ほんま」
「ああ、もう笑いすぎてお腹がよじれるで」
苦しそうにあえぎながら、ときおりそんなセリフがまじります。たしかにウジ・サガン……いや『ウチ詐欺師』社長の言うとおり、この悲惨な現実から逃避するには、ヤケクソの大爆笑をする以外に方法はありませんでした。それで私たち七福神は、夜通し笑いつづけましたよ。朝がくるまでずっとね。
あれからどれだけの月日が経ったでしょうか。七福神役を務めた人間は四方に散って、もう誰とも連絡がつかなくなっていますが、不幸中の幸いというか、私は爆笑体質を抱えたまま生きつづけております。爆笑は長つづきしない、とチョビ髭社長は断言しておりましたが、私はどうやら例外だったようです。
ところで突然ですが、みなさんは洛南《らくなん》にある黄檗山万福寺《おうばくさんまんぷくじ》の布袋さんをごらんになったことがありますか。
そっくりでしょう、この私に。おつむツンツルテンのところも、おなかポンポコリンのところも。そして、薄い布一枚しかまとっていないところも……。
あーはっはっは。
いまは二月。外は雪が降っています。京都の冬は冷え込みがきついですな。それでも私は、すっぱだかに薄布《うすぎれ》一枚で町を歩いてる。
あーはっはっは。
そんな気味悪そうな顔をして私を見たらあきません。私はしあわせやから、これでええんですワ。ちっとも寒くなんぞありませんしね。
あ、そこの街ゆくみなさん、ちょっとうかがいます。
「みなさん、しあわせですかあ!」
あーはっはっは。
あれれ、なんですか、その目は……。私のどこか、ヘンですか?
うわぁーっはっはっはっは。[#「うわぁーっはっはっはっは。」はゴシック体]
こいつは愉快や。なんや知らんけど、ホンマに愉快や。
うわぁーっはっはっはっは。あっはっはっはっは。[#「うわぁーっはっはっはっは。あっはっはっはっは。」はゴシック体]
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[#1字下げ]9 六日目
1
六日目の朝は、笑い声とともにはじまった。
「うわーっはっはっはっは!」
永瀬和也は、けたたましい笑い声を遠くに聞いていた。
「うわーっはっはっはっは!」
その笑い声は、耳|馴染《なじ》みのある声だった。
「うわーっはっはっはっは! みなさん、しあわせですかあ!」
(え……おれが……しゃべってる?)
和也は気がついた。自分の口が「しあわせですかあ」という形に動いていることに。しかも声まで出ていることに。
その事実に驚いて、和也は目を開けた。
蒲団《ふとん》にあおむけに寝た状態であるのを認識し、和室の天井もはっきりと視野に入った。だが、それなのに、まだ夢が終わらない。
「うわーっはっはっはっは!」
(うそだろ……おれが笑っている?)
信じられなかった。しかし、事実だった。自分が大きな声を張り上げて愉快そうに笑っていた。笑い声に合わせて、自分の腹が波打っていた。
(じょ、じょうだんじゃ、ない)
和也は必死に自分の哄笑《こうしよう》を止めようと思った。しかし、止まらない。
恐怖で頭が冷たくなった。それなのに、自分の頭脳の一部分は七福神の夢を引きずっておかしそうに大爆笑をつづけている。「恐ろしい」のと「可笑《おか》しい」のとの同居。
(ついてきた)
和也は、その言葉を使って認識した。
(「ついてくる」と宣言したやつが、ついてきた。おれの脳の中まで……そしておれの感情を、ふたつに分裂させている)
笑いながら、強烈な恐怖でもうひとつ別の叫び声を上げたくなった。そのときだった。突然、晴美の恐怖で歪《ゆが》んだ顔が上下逆さまになって視野に入ってきた。
逆向きなのは、枕もとからこちらを覗《のぞ》き込んでいるからだ、とわかった。と同時に、上からポタリと冷たいしずくが和也の顔に落ちてきた。
晴美の涙だった。
「恐い……カズ……こわいよ……おねがい、もう笑わないで」
その晴美の声が、現実世界に引き戻してくれる命綱だ、と直感した和也は、必死にそれにすがりついた。
(晴美、晴美、晴美)
意識の中で、何度も晴美の名前を呼んだ。一方では布袋尊《ほていそん》の声で笑いながら、和也は懸命に夢の世界から抜け出そうとした。
(晴美、晴美、晴美、晴美、晴美、晴美)
「はる……み」
声が出た。
高らかな哄笑が止まり、それに変わって、消え入りそうなかすれ声が出た。しかし、そちらが明らかにほんとうの自分だった。
「晴美」
二度目は、もっとはっきりした声になった。いまだ、と思った和也は、爆笑のために痙攣《けいれん》していた腹筋に思いきり力を込め、蒲団の上に半身を起こした。もう表情筋も笑顔ではなかった。
自分の顔を両手でさすってから、和也は枕もとで泣いている晴美の腕をとってたずねた。
「やっぱり、おれ、笑っていたのか。大きな声で」
パジャマ姿の晴美は、涙をためた目で和也を見つめ、無言でうなずいた。
「で、おまえは?」
和也はきいた。その短いセンテンスでじゅうぶん質問の意味は通るはずだった。これまでふたりはまったく同じ夢をみてきた。だから、和也が夢の主人公になりきって大声で笑っていたなら、晴美も同じ状況になっていなければならない。
「私も笑ってた」
「やっぱり……」
「でも、ちょっとだけ違うの」
「どういうふうに」
「夢の中で、カズは布袋様になっていたでしょう」
晴美は、和也の設定をちゃんとわかっていた。
「でも、私は布袋様じゃなかった。弁天様になっていた」
「七福神でひとりだけ女の、弁財天?」
「そう」
「じゃあ、同じ話の夢をみていながら、おれと晴美で視点が分かれたのか」
「たぶん」
「………」
和也は、第五夜にして夢の質が変化したことを知った。
夢を映画にたとえるならば、第四夜までは、和也と晴美は映画館の客席に並んで座って、同じスクリーンを見つめる観客だった。だが第五夜では、彼らはそれぞれに与えられた配役をこなす俳優になっていた。
たしかに、いまの夢を思い返してみれば、七福神の中で紅一点だった弁財天は、晴美の顔にそっくりだった。顔だけでない、気の強いところもだ。
だが、強気な女を自任する晴美が、いまはすっかり恐怖で泣き腫《は》らした目をしていた。
「いまみた夢の中で……」
晴美は言った。
「詐欺師の社長に騙《だま》されて、あまりの馬鹿さかげんに七福神が笑い転げる場面があったでしょう。あそこで、弁財天になった私も大笑いしていた。その途中で、これは夢なのに、眠ったまま実際に大きな声で笑っていることに気がついたの」
晴美は、ぶるっと身を震わせた。
「あ、私、なにやってるんだろう、って思った。それで、こんなバカみたいなことはやめなくちゃって、そういう頭はちゃんと働いているの。でも、笑いが止められない」
「まったくおれと同じだよ」
「ただ、そのときはカズは、まだ声を出して笑っていなかった。だから助けてって言おうとしたんだけど、それができないの。笑うことしかできないの。笑っている自分が気持ち悪いって感じているのに、私は弁天様なんかじゃないってわかっているのに、どうしても笑いが止まらないのよ。すごい甲高い声で『おほほほほほ』って」
「おまえ、そんなふうに笑っていたのか」
「そう。そんな笑い方、いままで一度だってしたことがないのに、まるで喉《のど》の中に笛でも入っているみたいな甲高い声で『おほほほほほ』って、ずっと笑いつづけているの。いやだ、いやだ、こんなことやめなくちゃ、って、必死にブレーキをかけるんだけど、ぜんぜん止まらなくて。それでね、それでね、こんなふうに……おほほほほほほほほほ……おほほほほほほほほほ……」
「おい、よせよ。気持ち悪いから再現なんかしなくていい」
「おーっほっほっほっほっほ」
「ちょっと、晴美、やめろってば!」
和也は晴美の身体を揺さぶった。
寝ながら笑い声を上げていたときの状況を説明しているだけのつもりが、いつしか晴美は自分の感情を制御することができなくなって暴走していた。
「おほほほほほほほ、おーっほっほっほっほっほっほ」
晴美は白目を充血させ、首筋まで真っ赤に染めて笑いつづけた。だが、可笑しくて笑っているのでないことは、顔を見れば明らかだった。
けたたましい笑いを響かせながら、いまにも眼球が外に飛び出しそうなほど大きく目を見開いている表情は、明らかに暴走する自分自身に驚き、怯《おび》えているものだった。
「晴美、夢は終わったんだ」
和也は、もっと激しく晴美を揺さぶった。
「早く夢から抜け出すんだ。早く!」
「おほっ、おほっ、おほっ」
あまりにも強烈に笑いすぎて、晴美は笑い声のまま咳《せ》き込んだ。
が、少し呼吸を整えると、ふたたびキンキン響く哄笑を再開した。
「おほほほほほほほほほ……おほほほほほほほほほ……おほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほほ」
「やめろお〜!」
耐えられなくなった和也は、右の手のひらで強引に妻の口をふさいだ。口だけでなく、鼻もふさいだ。が、それはまったく無意識の行動だった。
ウグ、ウグ、ウググググと苦しそうにくぐもった声が、和也の右手の下から聞こえてきた。呼吸ができなくなった晴美の顔は、みるみるうちに赤身を増して、さらに赤から紫色へと変わっていった。それでも和也は、晴美の口と鼻を押さえつづけた。
晴美は両手両足をバタバタさせて暴れた。
ふたつの瞳《ひとみ》が大きく見開き、夫の顔を睨《にら》みつけた。
何をするの、と、血走った目が訴えていた。死ぬ、死ぬ、と必死に訴えていた。もう晴美は笑い声を発していなかった。生命の危険を感じたことで、幻覚に操られている状況から抜け出したのだ。
いまなら和也が手をどかしても、もはやヒステリックな笑い声は聞こえてこない状態になっていた。にもかかわらず、和也はそれに気づかなかった。いや、気づかないというよりも、こんどは和也のほうが暴走していた。
妻を正気に立ち返らせるという当初の目的を忘れ、彼女を窒息死させる行為へと突っ走っている自分のことがわからなくなっていた。
限界まできた晴美は、死にものぐるいで夫の手のひらに噛《か》みついた。初めは少しだけしか口が動かなかったが、和也がひるんで少し手の力をゆるめた隙に大きく口を開き、思いきり彼の手のひらの肉にかぶりついた。
ぐわっ、と潰《つぶ》れた声を発して、和也は晴美の口もとから手を離した。晴美の歯形に合わせて右手の皮膚が破れ、真っ赤な血が流れ出していた。
2
「カズ、私を殺そうとしたでしょ!」
ようやく息ができるようになった晴美は、和也の手から流れ出た血を口の周りにいっぱいつけたまま、胸を激しく上下させて叫んだ。
「そうじゃない、殺そうとするわけがないだろ」
和也は急いで弁解した。
「ただ、おまえがおかしな笑いをやめないから、それを止めようとしただけなんだ」
「ウソ、絶対に私を殺そうとしていた」
「していないって」
「していた。カズの人殺し!」
「バカ、ふざけるな!」
和也は、かじりつかれて血まみれになった右手で、晴美の頬を思いきり引っぱたいた。
パシーンという音とともに、晴美の左頬に赤い手形がついた。
「あ……ごめん」
やってから、和也は謝った。が、鮮血の手形を押しつけられた晴美の顔は、怒りに満ちていた。その無言の抗議に、和也はたじろいだ。
「ぶつつもりはなかった。でも、こうでもしなければ、おまえは……」
「ひどい」
「待ってくれ、落ち着いてくれ。謝るから話を聞いてほしい。ここでふたりがケンカをしたら、あれ[#「あれ」に傍点]の思うつぼだ」
「もういい、知らない!」
晴美は蒲団《ふとん》の上に立ち上がると、廊下に飛び出してカーテンを開け、ガラス戸を開け、雨戸を開けた。
時間の流れから隔絶されていた暗い和室に、まばゆい陽光が一気に流れ込んできた。市ノ瀬恵造の仕事場だった築五十年の日本家屋の内部が、日常の流れと同調《シンクロ》した。
まだ蒲団の上にいる和也の位置からは、晴美の姿は逆光の中で黒いシルエットとして見えた。それが和也には、反抗的になった晴美の心を象徴している光景に感じられた。
狭い家の中で、常軌を逸した怪奇現象に連日連夜襲われたふたりは、初めは同じ立場であれ[#「あれ」に傍点]に対抗しようとしていた。だが、恐怖への反応を夫婦で完全に共有できたのは五日目までで、きょう六日目からは新たな局面に入ってきた。
ふたりはいま、別々の展開で悪夢を味わうようになっていた。それはすなわち、事態に対するふたりの受け止め方にも差異が出てくることを意味し、やがてその違いが深刻な対立を招くことになるかもしれないと、和也は予感した。
「私……もうダメになっちゃうかもしれない」
和也に背を向けて縁側に立った晴美は、小さな声でつぶやいた。
「ほんとにもう、ダメになっちゃうかもしれない」
そう繰り返すと、晴美はパジャマ姿のまま、裸足で庭に降りていった。
「おい、どこへ行くんだ」
「どこへも」
和也の呼びかけに、晴美はふり返らず背中で答えた。
「この家から逃げ出そうとしたって、それができないことは、よくわかってる。逃げても逃げてもあれ[#「あれ」に傍点]がついてくる――十三の悪夢をぜんぶみてしまうまで、この家から離れることを許されないのは、もうわかっている。ただ……ね」
「ただ?」
「カズとは少し距離を置きたいの」
「………」
「しばらくの間、そうしてみたいの。同じ家の中に閉じ込められるとしても」
(まずいことになってきた)
桜の木の幹に身体をもたせかけ、静かに泣き出した晴美の背中を眺めながら、永瀬和也は冷たい恐怖に包まれていた。
(晴美がおれから離れたいと思うのも無理はない。もう少しで、おれはこの手で晴美を殺すところだったんだから。あの夢のせいで……晴美を……)
和也は自分の両手をじっと見つめ、そして、ふたごの老婆が予告した夢のほんとうの恐ろしさを噛みしめていた。
夢そのものは相変わらず恐くない。七福神の物語など、ただのコメディである。しかし、コメディがじゅうぶんにホラーの下地となる仕組みが完成されていた。
恐怖とは対極の位置にあると思われる爆笑という動作が、じつは恐怖を何百倍にも増幅する要素となっていた。これが計算ずくの仕掛けだとしたら、毎晩強制的にみせられている夢には、右肩上がりの恐怖がプログラムされているに違いなかった。
きょうも朝から空は真っ青に晴れ渡っている。京都各地の名所では、ゴールデンウィークを利用して日本中から押し寄せてきた観光客でたいへんなにぎわいになっているはずだった。しかし、その喧騒《けんそう》はここには聞こえてこない。
この岩倉の家には鍵《かぎ》も掛けられていないし、ふたごの老婆も二頭の白い犬もあれきり姿を見せず、自分たちをこの家に物理的に束縛する存在は何もないように思えた。だが、ここから逃げ出せないことは、晴美と同様、和也も痛いほどわかっていた。
おそらく裏庭では、例の奇妙な黄色い花がケラケラと愉快そうに笑いながら咲き誇っているだろう。花というものに生々しい感情の存在を覚えたのは、和也ははじめてだった。間違いなく、あの黄色い花たちは植物ではなく、動物だと和也は感じていた。それも、かぎりなく人間に近い動物だ、と……。
不気味だった。なんとかあれを早く始末しなければ、自分と晴美の身に危険が迫ると和也は確信していた。けれども、物置で見つけたエンジン付き刈り払い機で、黄色い花畑を根こそぎ刈り取るプランは、あともう一日延ばすことにした。
いまのような不安定な精神状態だと、刈り払い機の鋭い旋盤を回転させはじめたとき、刈り取るのはあの黄色い花ではなく、晴美の首[#「晴美の首」に傍点]になるような気がしたからだ。
ふたりの間で、何かがおかしくなりはじめていた――
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[#2字下げ]第六夜 也阿弥ホテル
私にとって、こんな奇怪な元日を迎えようとは、大晦日《おおみそか》の除夜の鐘が鳴り出す前には想像もできなかった――
十二月初め、私、一条繁《いちじようしげる》は人事異動によって、会社の名古屋営業所から京都営業所へ移ることになった。主任から課長への昇格を伴う栄転だったし、私の祖父が京都の出身だったから、異動にはまったく抵抗がなかった。妻の蓉子《ようこ》も、京都見物が毎日できるのね、などと言って大はしゃぎだ。
高校一年生のひとり娘である万梨子《まりこ》にしても、東山《ひがしやま》区にある公立高校に転入させるとすぐに友だちを作って、昔から京都にいたような顔で学校生活を楽しんでいる。きっと私の祖父の血を引いて、京都の水が合うのかもしれない。
そして私たち三人は、一九九九年の大晦日の晩、西暦二〇〇〇年の初詣《はつもうで》のために、東山の知恩院《ちおんいん》をめざし、四条通《しじようどおり》の祗園界隈《ぎおんかいわい》を歩いていた。新千年紀に入る特別な変わり目とあって、例年にも増してたいへんな人出だった。
「じいさんが生きているうちにきいておけばよかったことがある」
マフラーを襟もとでしっかりかき合わせながら、私は白い息を吐き出して言った。
「京都には千を超える神社仏閣があるそうだが、それらがいっぺんに除夜の鐘を鳴らしはじめたら、いったいどうなるんだろう」
「なるほどー、その質問、すごく面白いかもしれないわね」
右隣を歩く妻の蓉子が、私の顔を見て目を丸くした。
「京都に引っ越してこないと考えつかない疑問だわ」
「だろ?」
「名古屋でも毎年初詣には出かけていたけれど、同時に二カ所以上の除夜の鐘を聞いたことなんてないもんね」
「きっと、めちゃうるさいよ」
左隣を歩く娘の万梨子が言った。
「別々のお寺が同じタイミングで鐘を撞《つ》くはずないから、ゴーン、ゴーン、ゴンゴンゴンゴン、ゴーンって感じで、あっちでもこっちでも鐘が鳴りだして、途切れることがないんじゃないかな。もしかして、こっちのお寺とあっちのお寺で、鐘がハモったりして」
「除夜の鐘の大合奏か……」
「けっこうシュール」
いつのまにそんな言葉を覚えたのか、娘が言った。
「私に小説が書けたら、町じゅう除夜の鐘がワンワン響いて、みんながムンクの『叫び』みたいに顔|歪《ゆが》めて耳をふさいじゃう話とか作るけど。『鐘』っていう題名で」
将来は作家になりたいと言っているだけあって、娘は、除夜の鐘の大合奏という着想からすぐに想像をふくらませはじめた。
その万梨子だが、最近はずいぶん大人じみてきた。髪の毛は栗色に染めるわ、ピアスはするわで、ファッションは一人前の女とほとんど変わらない。背丈もかなり伸びた。
私は男としては小柄で百六十五センチしかないが、万梨子の身長はすでに百六十センチを超え、加えて厚底のブーツを履いているから、完全に父親の頭を追い越しているのだ。
「でも、お寺だらけの町の除夜の鐘って、どんなふうに聞こえるんだろうね」
「そうだなあ……考えはじめたら、夜も眠れなくなりそうだ」
私と娘が想像をたくましくしていると、現実的な妻が、笑いながら口をはさんできた。
「パパも万梨子も悩まなくたって、あと何分もしないうちに答えがわかるわよ。そろそろ除夜の鐘が鳴り出すころなんだから」
「そりゃそうだ」
私は苦笑した。
「悩むだけ時間のムダか」
寒さを追い払う意味もあって、そんなとりとめのない会話をしながら歩いていくうちに、同じ方角を目指す人の波は、かなりの密度になってきた。
前後左右の参拝客にもまれながら歩いていくと、人ごみの頭越しに八坂《やさか》神社の朱塗りの楼門が見えてきた。ライトアップされた朱色が鮮やかだ。四条通と東大路通《ひがしおおじどおり》が交差する祗園のT字路には警察や機動隊の車輛《しやりよう》が出動し、参拝客の交通整理にあたっていた。
八坂神社と平行して走る東大路通は車が通行しているが、それと直角に交わる四条通のほうは、午後十一時から車をシャットアウトした歩行者天国になっており、ものすごい数の参拝客が道幅いっぱいに広がって順番待ちをしていた。私たち一家も、その群衆の中ほどにいた。
四条通の先頭、祗園交差点のところには規制ロープが張ってあり、東大路通側の信号が赤になって車の流れが止まるたびに、そのロープがゆるめられて、人々は道路を渡って八坂神社の境内へと階段を上ってゆく。
交差点には幟《のぼり》を立てた暴走族の若者たちなども、新撰組を連想させるようなデザインの特攻服に身を包んでたむろしていたが、関東地方で初日の出暴走を繰り広げる連中に較べればなんとも穏やかで、特攻服姿での参拝はできないと私服の刑事らに注意されると、ブーブー文句を垂れながらも、素直にそれを脱いでいるのだから可愛いものだった。
それにしても、さすが京都というべきか、成人の参拝者には着物姿が目立った。とくに女性はとっておきのゴージャスなものをまとっている。それに較べれば、私たち三人の格好はいたって平凡だった。よそゆきでない京都を味わえるところがうれしかったから、わざと普段着で初詣に出かけたのだ。
「ねえ、パパ。除夜の鐘って、何分前から撞きはじめるの?」
万梨子の口から素朴な質問が飛び出したとき、それに答えるようにタイミングよく、ゴーンとひとつ、最初の鐘が聞こえた。左前方、北東のほうからだった。
ゴーンというよりも、ダーンと表現したくなるような迫力のある音は、私たちが八坂神社でのお参りを済ませたあとに、そちらへ回ろうとしている知恩院の鐘であることを想像させた。
だが、知恩院は八坂神社のずっと奥である。そこで鳴らす鐘が、こんなところまで聞こえてくるものなのだろうか。なにしろ祗園交差点一帯は、交通規制を行なう警察官が鳴らす警笛や、拡声器を通じて人々に注意を促す声がひっきりなしに響きわたり、群衆のざわめきも大変なものだったから、いかに大迫力で有名な知恩院の鐘といえども、ここまではっきり鼓膜を震わせるとは思えなかった。
腕時計を見ると、十一時十分すぎだった。聞くところによると、除夜の鐘の第一打というのは意外に早く、だいたい十一時十分前ぐらいから撞きはじめるらしい。たしかにそうでないと、百八つ鳴らし終えたころには夜が明けるということにもなりかねない。
ということは、もっと前から除夜の鐘が鳴っていたはずなのだが、私の感覚では、いま突然、第一打が鳴らされたという印象だった。
そのあとしばらく、何も聞こえなかった。耳に飛び込んでくるのは交通規制の喧騒と、群衆のざわめきだけだ。ほかの方角から新たな鐘が聞こえてくるようなこともない。
そして、じゅうぶん間を置いてから、第二打が聞こえた。それはさらに迫力を増して大きく聞こえたが、さっきと同じ知恩院の鐘のような気がした。
「なんだ、もっといろんなところから鐘が聞こえてくるかと思ったら、そうでもないんだな。これじゃ名古屋で聞くのと変わりないな」
私は、いささか拍子抜けしてつぶやいた。
ところが――
ゴーン。
ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。
ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。ゴーン。
突然、東の闇からも西の闇からも、北の闇からも南の闇からも、つぎつぎと除夜の鐘が響きはじめた。遠い鐘、近い鐘の区別も含めれば何十という数ではきかないだろう。
最初はわずかながらも鐘と鐘のあいだに静寂の間《ま》があったが、除夜の鐘を撞《つ》きはじめる寺の数が増えるにつれて、たちまち沈黙の間隔は短くなり、やがて無数の鐘の音が重複して、ひとつの連続する轟音《ごうおん》となった。
「おい」
群衆の中で立ち止まると、私は妻と娘の腕を引っぱって注意を促した。
「これは……すごすぎないか」
「え?」「なにが?」
私に合わせて歩みを止めたふたりが、同時にきき返してきた。
「なにが、って……これだよ。鐘の音のすごさだよ」
「すごいって?」「どこが?」
と、また妻と娘はいぶかしげな表情で問い返す。
信じられないことに、彼女たちには、この異常事態を認識している様子がまったくない。さらに驚くべきは、周囲の群衆もまた誰ひとりとして変わった様子をみせず、白い息を吐きながら黙々と歩きつづけているのである。
耳を聾《ろう》するばかりのすさまじい除夜の鐘が間断なく鳴り響いているというのに、京都の人間にとってはこんな状況が少しも珍しくないというのだろうか。
「おい、ふたりともこれが聞こえていないのか!」
私は不安にいらだつ声で叫んだ。
「この音だよ、鐘の音だよ!」
私は夜空に向かって人差指を突き立て、東山を起点に、南、西、北、と視線を一周させた。
「いくら京都が神社仏閣だらけの町でも、これはおかしいぞ。鳴りすぎだ」
除夜の鐘の大合奏には表情ひとつ変えない妻と娘が、私のその言葉を聞いたとたんに眉《まゆ》をひそめ、顔をこわばらせ、たがいに見つめあった。まるで私の発言のほうが、除夜の鐘の大合奏よりも異様だというふうに。
その反応に私は戸惑ったが、そうこうする間にも除夜の鐘の連打はますます厚みを増し、圧倒的な響きに鼓膜が破れそうになった。たまりかねた私は、すさまじい轟音《ごうおん》を封じ込めるために両手で耳を覆い、左右から力を入れて押さえつけた。だから顔が歪《ゆが》んで、それこそムンクの『叫び』のようになった。
そのとき、頭上から何かがのしかかってくるのを感じた。
「あ!」
信じられない光景がそこにあった。古都の町ぜんたいをスッポリ包むほどの巨大な釣り鐘が、真上の夜空に浮かんでいるではないか!
そして、そのお化け釣り鐘の周囲を、幾百もの小さな鐘が、まるで巨大なUFOの母船に従う小型UFOといった様子で飛び交っているのだ。
私は口をあんぐりと開けて、その光景に見入ってしまった。一九九九年十二月三十一日の京の夜空が、無数の鐘に占拠されている驚異の光景に。
(なんなんだ、これは!)
と突然、私の頭の中でも鐘が鳴り出した。
ぐわーん、ぐわーん、と、ものすごい音で。
その低く重厚な響きは、私の脳を激しく揺さぶり、振動によって大脳が波立つのがわかった。頭蓋骨《ずがいこつ》もビリビリ音を立てて震え、いまにも割れてしまいそうだった。前代未聞の大合奏に、脳味噌が共振しはじめたのだ。
「おい、蓉子……万梨子……どうしておまえたちは平気なんだ。空に浮かんでいるあれが見えないのか」
声をふりしぼって訴えたが、ふたりはますます硬い顔で私を見つめるばかりだ。ふたりだけではない。私の周りにいた人々も歩みを止めて、気味悪そうに私を眺めているではないか。
信じられない。頭上に広がる現実離れした出来事よりも、それに驚く私の様子のほうが不気味なのか? まさか。まさか。
そのうちに大音響に頭の中をかき回された私は、正常な精神状態を保つことができなくなり、ついには気を失って、初詣客の人ごみの中で地面に倒れ込んだ。パパ、パパ、と叫ぶ妻と娘の声を遠くに聞きながら――
* * *
気がつくと、私は寝台の上で横たわっていた。
窓から差し込む光を感じたので、そちらに頭の向きを変えてみると、窓越しに広々とした庭園が眺め下ろせた。京都に越してきてまだ間もないはずなのに、私の目には、それはずいぶんと見慣れた光景に感じられた。
庭を眺める角度からみて、二階か三階か、あるいはもっと高いところの部屋に寝ているようである。
(もしかすると……ここは也阿弥《やあみ》……ホテル……)
自然と、その名前が脳裏に浮かび上がってきた。
(そうか、おれは也阿弥ホテルの部屋で目覚めたんだ。でも、なぜこのホテルに泊まっているんだ)
その疑問を解こうと考えていたら、小さく叫ぶ娘の声がした。
「ママ! パパが目を開けたよ」
声のするほうに向きを変えると、娘の万梨子と妻の蓉子が寝台から少し離れたところに立って、深刻な顔で私を見ていた。
「おう、おはよう」
私はあおむけに寝たまま、朝の挨拶《あいさつ》をした。
だが、返事はない。ふたりは無言で私を食い入るように見つめている。一家のあるじに挨拶も返さぬとは、女たちにそんな無礼な教育をした覚えはなかったが、それより、蓉子も万梨子もまったく時代にそぐわない不自然な服装をしているのが気になった。
「なんだ、ふたりとも妙にハイカラな格好をして。仮装舞踏会に出かけるんじゃあるまいし。とくに万梨子はひどいぞ」
私は掛け蒲団《ぶとん》から片手を抜き出して、万梨子の足もとを指さした。
「その滑稽《こつけい》な厚底の靴はなんだ。それに髪の毛を西洋人みたいな色に染めよって。おいおい、爪にも色がついているじゃないか」
その言葉に、妻の蓉子がいまにも泣き出しそうな顔で訴えた。
「何言ってるの、万梨子はふだんどおりじゃない。パパは万梨子のファッションを可愛い可愛いと、いつもほめていたでしょう」
「ファッション? ファッションとはなんだ」
私の質問に、万梨子が怯《おび》えた顔でその場から半歩後じさりした。その代わりに、妻が私が横になっている寝台のほうに歩み寄ってきた。
その距離まで近寄ってきて、はじめて私は、妻の右の目尻《めじり》に泣きぼくろがあるのを見つけた。結婚して十五年以上になるのに、私は妻の顔のそんなところにほくろがあることを気づかずにいた。
不思議だった。
「ねえ、パパ。聞いてちょうだい」
妻がきいてきた。
「ゆうべのことは、どこまで覚えているの?」
「ゆうべとは」
「八坂神社に初詣《はつもうで》に出かけたときのことよ」
「初詣だと? すると、きょうは元日か」
自分が完全に月日の感覚を失っているのに驚きながらも、私はゆっくりと寝台から半身を起こし、にこやかな笑みを作ってふたりに言った。
「それはそれは、明けましておめでとう。ことしも天皇陛下と大日本帝国陸海軍にとって輝ける栄光に包まれた一年であることを、おまえたちとともに祈ろうではないか」
「パパ……」
蓉子が絶句した。
が、その反応の意味するところがわからず、私はつづけた。
「日清戦争に偉大なる勝利を飾りながら、ロシア、ドイツ、フランスの干渉のおかげで、せっかく得た遼東《リヤオトン》半島を手放さなければならなかったのは、まことに憤慨至極。その屈辱に全国民うちそろって臥薪嘗胆《がしんしようたん》を合い言葉として耐えに耐えてきたが、忍耐にも限度あり、堪忍袋の緒も切れる寸前。かくなるうえは憎きロシアを打ち負かして、ふたたび大陸への大いなる足がかりを取り戻すよりなかろう。おまえらも承知と思うが……」
私は寝台の上にきちんと正座して言った。
「畏《おそ》れ多くも天皇陛下におかれては、あの日清戦争開戦に先立ち、このように詠《うた》われたのである。『国を思ふ 道に二つはなかりけり 戦の庭に立つも立たぬも』……おい、こら、万梨子!」
陛下の御製《ぎよせい》を披露しているときに、なんとだらしなく突っ立ったままの我が娘に、私は憤慨した。
「なんだ、その不謹慎な態度は」
すると、娘はいまにも泣き出しそうな顔で問いかけてきた。
「パパ、いつの話をしているの」
「いつ、とは」
「日清戦争って、一八九四年から九五年でしょう。私、日本史の授業でちゃんとそう習った」
「ややこしい西暦を使うな。明治二十七年から二十八年だ。わが国の大勝利に終わったのは、いまから五年前、まだ記憶に新しいところだ」
「なに言ってるのよ、パパ。五年前じゃなくて百五年前でしょ」
「百五年前? おまえこそ、なにを寝ぼけたことを言っておるか」
「日露戦争だって、その十年あとにとっくに終わっているのよ」
「なんだと……」
私はあっけにとられて娘を見つめた。
「日清戦争の十年後といえば、まだ先の話ではないか。おまえは予言者か」
「………」
「それからおまえにしても蓉子にしても、明治の女ならばパパはよさんか、パパは」
娘と妻は言葉を失った。
その反応が、またしても私には理解できない。何か私の知らない事態が起きているのは明らかだったが、それが何なのかがわからない。それから、私がなぜこの也阿弥ホテルにいるのかも不明だった。
急に苛立《いらだ》ちが募り、私はふたりの女を怒鳴りつけた。
「おまえら、おれに何か隠し事をしているならば、はっきりとそれを口に出して言え。そもそも、なにゆえにおれは也阿弥ホテルの部屋に泊まっていなければならんのだ。ちゃんとこの近くに家があるというのに」
「ヤアミ・ホテルって何よ、パパ」
いま叱りつけたばかりなのに、妻までが私をパパと呼ぶ。しかも、主人に向かって偉そうな口調で問いつめてくるではないか。
「だいたいそんなホテルなんて、京都のどこにあるのよ」
「おまえ、京都にいながら也阿弥ホテルも知らないのか」
「ここはホテルじゃなくて病院よ」
「病院? バカを言え。この景色には見覚えがある」
窓越しに見下ろせる外を指して、私は言った。
「これは間違いなく也阿弥ホテルの庭だ」
そのとき、横から聞き覚えのない女の声が割り込んできた。きれいな澄み切った声だった。
「新年明けましておめでとうございます、一条さん。ようやくお目覚めのようですね」
驚いてそちらを見た。なぜいままで視野に入っていなかったのだろう。妻のすぐ脇に、白衣を着た若い女が立っていた。どうも見たところ、医者のようである。声と同じぐらい顔も美しかった。
「奥さまがおっしゃるとおり、ここは病院の一室です」
美しい女は、同情を込めた笑みをたたえて言った。
「窓から見えているのは円山《まるやま》公園の庭ですよ、八坂神社の裏手の」
「そんなことはない。ここは間違いなく也阿弥ホテルだ」
「ええ、ご主人がおっしゃることも決して間違いではありません。この付近に也阿弥ホテルという名の宿が建っていたのは事実です。ただし、百年ほど前に」
「百年前?」
「はい」
「あんたも娘と同じような、ふざけたことを言うつもりか。いくら顔がきれいでも、男を侮辱すると承知せんぞ。そもそも、あんたは医者か」
「はい、そうです」
女は、なまめかしいとさえ感じる笑みを浮かべたまま、はっきり答えた。が、その自信に満ちた態度も気にくわなかった。
「女のくせに医者か」
「はい」
「もしもおれにどこか悪いところでもあるなら、ちゃんと男の先生を呼んでくれ」
「とにかく、もう少し説明をさせていただけませんか」
女医は私のそばから離れて窓辺へ歩み寄り、もっと見通しが利くように、窓の両脇に垂れ下がっていたカーテンを両脇の柱に細い帯で縛りつけた。そして、私に向き直ってつづけた。
「いま申し上げたように、ちょうど百年ほど前になりますが。也阿弥ホテルは火災で焼けてしまいまして、その三年後に再建されましたが、また四年後に火事にあって焼け落ち、もう二度と復興はしませんでした。いいホテルらしかったんですが」
「ちょっと待て。いまから百年も前といったら、江戸になるぞ。江戸時代にこんな場所にホテルがあるものか」
「いいえ、百年前は明治ですよ」
「明治は、いまだ」
「いまは平成の世の中なんですよ」
女の口調はまるで幼い子供に語りかけるようで、私は馬鹿にされた気分になった。女にこのような態度をとられる筋合いがどこにあるというのだ。
だが、ヘイセイとは何のことだ。
「わかりますか、一条さん。年号でいうと、明治のあとは大正になり、大正のあとが昭和で、そのつぎが平成なんです」
「おまえ……」
私は怒りで身を震わせた。
「畏れ多くも今上《きんじよう》陛下がお隠れになったあとのことを想像して物を言っているのか」
「想像ではなく、歴史的事実をお話しして、一条さんの回路を元に戻す手助けにしようとしているんですよ」
「未来がなぜ歴史的事実になるんだ」
「よろしいですか、一条さん。いまは西暦で言えば二〇〇〇年なんです。あなたがいるのは二〇〇〇年の京都です」
またしても女は突拍子もない数字を出してきた。私からみれば、診察されなければならないのは、この女医のほうだ。
「いまの一条さんにご理解いただけるかどうかわかりませんけれども、コンピューターの二〇〇〇年問題というのがありましてね」
「こん……ぴゅー?」
なんだ、それは。
「一九九九年から二〇〇〇年に移行するとき、下二|桁《けた》だけで年代を認識すると二〇〇〇年を一九〇〇年と機械が誤認してしまうのです。それを防ぐために、世界各国が懸命に対策をほどこし、それなりの成果は得られました。コンピューターに対しては、です。ただし、人間の頭脳にも同じことが起こりうる[#「人間の頭脳にも同じことが起こりうる」に傍点]という危険性を、誰もが見逃していました。その忘れられていたトラブルの可能性が、あなたに起きてしまったのです」
ますますわからない。
「あなたの頭脳は、除夜の鐘が鳴りはじめたころから異常をきたし、西暦二〇〇〇年の元日午前零時零分と同時に誤作動を起こして、時代認識が一気に百年ずれて、一九〇〇年になってしまったのです。也阿弥ホテルがまだ京都にあった時代に、です」
「私の脳が誤作動を起こした、だと?」
「はい。でもご心配なく、リハビリを重ねれば、きっとご主人の頭脳は元どおり回復します。それは奥さまにもお約束したとおりです」
それから女医は形の良い口を近づけ、妻と娘には聞こえないよう、そっと私の耳もとでささやいた。
「ただし、私の脳味噌《のうみそ》も百年前に戻っていますから、安全な治療になるかどうかは決して保証いたしませんことよ」
そして女は左手をふり上げ――
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[#1字下げ]10 七日目
1
永瀬和也にとって七日目の朝は、パシーンという鋭い平手打ちの音と、右頬への強烈な痛みではじまった。
「わ、びっくりしたー!」
そう叫びながら、和也は目を覚ました。
「えっ、どうしたの?」
と、隣で寝ていた晴美も、和也の大声に驚いて目を開けた。
晴美は右を下に、和也は左を下にして横向きに寝ていたので、同時に目を覚ましたとき、おたがいを見つめる形になった。
「ぶっただろ、おれのこと」
「あ……たぶん」
自分の左手を見つめてから、晴美は横向きのまま、ごめん、とひとこと謝った。
昨日の仕返しのつもりか、と口にしかけたが、和也はその言葉を引っ込めた。
和也の発作的な行動であわや晴美を窒息死させかけた一件で、昨日はかなり険悪な雰囲気がふたりの間に漂っていた。それを一日がかりでなんとか修復するまでにこぎつけたのに、またここで売り言葉に買い言葉のような言い合いになるのはまずいと判断した。
その代わりに、和也はすぐに着替えて、いまみたばかりの夢の内容について晴美と話し合うことにした。
「おれは一条繁という名前の会社員になっていた。一九九九年の大晦日《おおみそか》の夜、ミレニアムの初詣《はつもうで》のために、家族といっしょに八坂神社を目指して四条通を歩いていた。ものすごい人出だった」
キッチンに置かれた小さなダイニングテーブルに向かい合うと、和也は也阿弥ホテルを舞台にした物語を振り返った。
「夢の中のおれの妻は、晴美じゃなかった。ぜんぜん違う顔立ちの女だ」
と言いながら、たしかその妻には右の目尻《めじり》に泣きぼくろがあったんだったな、と和也は思い返した。
右の目尻に泣きぼくろがある女――これまでも夢の中に何度か出てきた。そうだ、いちばん最初の夢で千本鳥居をくぐっていく女。それから二番目の夢で、ネット不倫をした夫を花見小路の割烹《かつぽう》で待ち受ける妻。年齢設定に差はあるが、泣きぼくろという共通項があった。そしてその泣きぼくろは、和也の知っているあの女性にも……。
「おれには妻だけじゃなくて、娘もいた」
頭の片隅に泣きぼくろの女のことをしまい込んで、和也は夢をふり返った。
「その娘と除夜の鐘の話題で盛り上がっていたら、突然京都じゅうの鐘が鳴り出して、すごい数の鐘がUFOみたいに飛んできた。まるでSFXの映画だった。その不思議な光景を見ながら西暦二〇〇〇年を迎えると、コンピューターみたいにおれの頭脳が誤作動を起こして、一気に百年も時代認識が遡《さかのぼ》ってしまったんだ。その状態で病院に担ぎ込まれるんだけど……」
「担当の医師が私だったんでしょ」
「やっぱりあれは晴美だったのか。きれいな女医さんだなと思ったんだけど」
「………」
この程度の冗談は、微笑にもつながらなかった。
「おれはその医者に小声で脅された。私も二〇〇〇年問題で頭脳が誤作動しているので、どんな治療をするかわかりませんよ、とね。そんなふうに耳もとでささやくと、いきなり彼女は片手をふり上げて」
「患者のほっぺたをひっぱたいたんでしょう」
「そのとおり」
和也は、自分と晴美が同じ夢を同じタイミングでみていたことを確認した。
「えらい痛さだったぜ」
「彼女はたんに患者の頭や顔をひっぱたいて治すやり方しか知らなかったのよ。壊れたテレビをバンと叩《たた》いてつけるのと同じ、超原始的なショック療法」
晴美は、夢で演じた自分の設定を語ってから、ちょっとだけ肩をすくめた。
「これが第六夜の夢物語のオチ」
「物語としてのオチは面白い。だけど問題は、夢の中の女医や患者の動作が、現実の晴美やおれの実際の動作と完全に一致していたことだ」
「だよね」
晴美も硬い表情でうなずいた。
「夢で私は患者を叩いた。そして、実際にもカズの頬を叩いていた」
「左手で、だよな」
「そう、左手だった」
「おれはおれで、夢の中でひっぱたかれるのと同時に、現実に晴美にひっぱたかれていた。この重大さがわかるか」
晴美の答えを待たずに、和也はつづけた。
「夢と同じ状況を現実にも引き起こすには、晴美とおれが、タイミングを合わせて身体を動かさなければならない。いや、ここは受け身で言わなくちゃいけないな。タイミングを合わせて自分の身体が操られなければならないんだ」
「操られる?」
「おたがいにあおむけになっていたら、隣に寝ている人間の頬はぶてないだろ。晴美が右を下にして、おれは左を下にして向かい合ってこそ、おまえは左手でおれの右頬を思いきりぶてるんだ」
「ということは、私たちふたりが無意識に行動を合わせた……」
「というよりも、何者かがおれたちふたりの身体を操っていたとしか思えない」
和也の指摘に、晴美は青ざめた。
「頭の中にもぐり込んできた、あれ[#「あれ」に傍点]がやったってこと?」
「たぶんね」
和也は短い吐息を洩《も》らした。
「晴美は、たんに寝ぼけておれをひっぱたいたんじゃない。晴美のみていた夢は、おれのみていた夢と一秒の狂いもなく、まったく同時並行して進んでいた。そして、その夢に合わせてふたりの身体も動いていた。これは、夢という形のプログラムどおりに操られていたとしか考えられないじゃないか」
「そのプログラムを組んでいたのも……あれ[#「あれ」に傍点]ってことね」
「ああ、あれ[#「あれ」に傍点]の仕組んだことに間違いない」
そこまで和也が言ったとき、ふたりの頭で同時に同じ言葉が響いた。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
2
「正解、だってさ」
口調だけはおどけて和也が言った。
「本人がアタリだと言うんだから、間違いはないな」
「だよね」
と、晴美も唇の端を歪《ゆが》め、凍りついた微笑を浮かべた。
「高速道路で何かを轢《ひ》いた瞬間から、おれたちの頭はあれ[#「あれ」に傍点]に操られつづけてきた。夢をみることを義務づけられ、その夢の中でおれたちは、俳優みたいに役割を割り当てられている。そしてストーリーも完璧《かんぺき》に決められていて、夢特有の脱線や支離滅裂な飛躍は一切ない」
和也は、「ついてくる」という言葉が頭の中で響いた恐怖を払いのけようと、組み合わせた指の関節をやたらにバキバキと鳴らし、多弁になった。
「ふつうは、夢は人間自身が操るものだ。だからこそ突拍子もない、めちゃくちゃな展開になったりもするけれど、ここまで六晩つづけてみてきた夢は、まるで短編小説のように整然としている。ストーリーの展開じたいは、ずいぶん意表をつくものがあるけれど、それはあくまで小説としての予定調和からはみ出すものではない。こんな完璧なストーリーを持ったものは、夢とは呼べないだろう」
「自分たちの頭が生みだした話じゃない、っていう感じは、私も最初からあったわ」
かすれた声で晴美は言った。
「だいたいこんなにはっきりと色のついた夢なんて、ふつうはみないよね」
「ああ、色ね」
和也はうなずいた。
「そういえば、ぜんぶ色つきだもんな」
「さっきの夢にしたって、カズの娘役の女の子がつけていたマニキュアの色、染めた髪の毛の色、交差点にたむろする暴走族の特攻服の色、初詣の人たちの和服の色、パトカーの赤い回転灯――何から何まで、あまりにもはっきりと色がつきすぎている」
「八坂神社のオレンジ色も鮮やかだったしな」
和也は、言われてみれば、なぜ必ず夢に色がついていなければならないのか、と不思議に思った。ここまでみてきた夢はすべて、高画質のハイビジョンテレビを見ているように、細かなところまできっちりと色がついていた。色彩の省略は一切ない。第四夜の『鹿苑寺無彩幻想』と題された夢で、金閣寺がモノクロになっていたのが新鮮に思えたほどだ。
「ほんとに、どうしてすべての夢がカラーなんだろう」
和也は、その疑問を口に出してつぶやいた。
素朴で単純だが、じつはそれは事の真相に迫る疑問だった。だが、晴美の発したつぎの言葉で、真相へ向こうとしていた思考のベクトルが、また違う方向にそれた。
「ねえ、カズ。このままいって、だいじょうぶなのかな」
「なにが」
「私たち、眠っているときに頭の中を占領されただけじゃなく、身体の動きまでコントロールされちゃったんだよね」
「ああ……」
まさに当面の最大の恐怖はそこだった。
「それって、かなりまずいことだよね、カズ」
「と思うね」
「だけど、こうやって完全に目が覚めたらだいじょうぶだよね」
すがるように晴美が言った。
「こうやってしっかりと起きてしまえば、私たちがあれ[#「あれ」に傍点]に勝手に身体を動かされることなんて、ないよね」
「それは甘いかもな」
和也は言った。
「最初の日にここで見たものを忘れたのか」
「ふたごのお婆さん?」
「そうだよ。あいつらが玄関にちょこなんと座って出迎えやがったとき、おれたちはちゃんと起きていたじゃないか」
「ううん、あれもきっと夢だったのよ」
「違うよ。晴美は失神していたけど、おれは起きていた」
「それも錯覚だってば」
晴美は言い張った。
「だって、最後はおたがいに叫んで目が覚めたじゃない。そして、蒲団《ふとん》の中にいることに気がついたじゃない。そうだったでしょ? 時刻はお昼だったけど、私たちはいつのまにか和室に蒲団を敷いて眠っていたのよ」
「でも、いつ寝たのかがわからない」
「だから、いつのまにか、よ。徹夜で京都まで運転してきた疲れがどっと出て、知らないまにふたりとも寝てしまって、そこから最初の夢がはじまった」
「だったら、高速道路で何かを轢《ひ》いたのも夢だというのか」
「うん。車に乗っていたときのことも、この家に着いたときの出来事も、ぜんぶあれ[#「あれ」に傍点]が用意していた物語だという気が、私はしてきたの。だから夢の数え方も違っているかもしれない。もしかしたら、六つじゃなくて、八つぐらいの夢をみたことになっているのかもしれない」
「まあ、ひょっとしたら、あの気持ちの悪いババアたちは、すでに夢の中の登場人物だと解釈できなくはない。けれども、高速のあれは違うだろう。夢なんかであるはずがない。もしあれが夢なら、それじゃ現実に東京から京都まで運転してきた記憶はどこへ消えてしまったんだよ」
晴美に答えを求めるように、和也は言った。
「赤ん坊を轢いたのが悪夢なら、実際のドライブの記憶は、それとは別に保存されているはずなのに、そんなもの、おれの記憶領域のどこを探しても出てこない。晴美はどうだ? 赤ん坊を轢かなかったバージョンの記憶があるかよ」
「ないわ」
晴美は首を振った。
「東京からここまで走ってきた記憶は、一種類しかない」
「だろ?」
と、和也は、最初からぜんぶ夢だったのかもしれないという晴美の着想を否定した。だが、そもそも最初の異変からぜんぶ夢だったという晴美の仮説を認めれば、和也がこだわっていたひとつの疑問が解決することにはなるのだ。
すなわち、なぜ京都とは無関係の関ヶ原という場所を走行中に、不可思議な現象が突然はじまったのか、というその必然性である。
ふたごの赤ん坊がおくるみに包まれて忽然《こつぜん》と現れたその場所は、たまたまあそこであったので、それ以外の場所でもよかったのか、それとも、あそこでなければならない特別な理由があったのか――
そこに和也は疑問を抱きつづけてきたのだが、すべては、この家で眠っているときの夢だと解釈すれば、怪奇現象の原点はここ、市ノ瀬恵造の旧仕事場にあると理解できる。
「眠っちゃダメなのかもしれないな」
ポツンと晴美がつぶやいた。
「こうやってしっかり起きてさえいれば、私たちはあれ[#「あれ」に傍点]に支配されずにすむんだったら、起きっぱなしでいればいいのかもしれない」
「そんな発想は無意味だ」
即座に和也が否定した。
「徹夜するのも時間的な限界があるし、第一、あれ[#「あれ」に傍点]はおれたちをすぐに眠らせることができるんだ。それぐらいのコントロールは、やつら[#「やつら」に傍点]にとって難しいことじゃない」
和也は『あれ』と呼んでいたものを『やつら』という複数形に呼び替えた。
ふたごの赤ん坊、ふたごの老婆、二頭の犬――それらのイメージが強く残っているため、幻覚を演出している主体は、和也の頭では複数形の存在で認識されていた。
「実際、毎晩おれたちは麻酔でもかけられたように眠りに引き込まれていくじゃないか。あれは自然な眠気じゃない」
「それはそうだけど……でも、このままじっとされるままになっていていいの?」
晴美の口調はせっぱ詰まっていた。
「はじめは夢とシンクロして動かされるのは、声と顔だけだったよね。夢といっしょに叫んだり、夢といっしょに笑ったり……。だけど、けさは実際にこの手が動いたんだよ。そしてカズの顔をひっぱたいた。それもすごい勢いで」
自分の左手をじっと見つめて、晴美はつづけた。
「よせよ、そんな想像は」
和也は、こわばった顔で手を振った。
「おまえに刺されて死ぬなんて運命はごめんだよ」
「刺すのは私とはかぎらない。カズが私を刺し殺すかもしれないし」
「ありえない」
「どうしてそんなふうに決めつけられるの。昨日、私を窒息死させようとしたのは、いったいどこの誰よ!」
ものすごい剣幕で晴美が怒鳴った。
「もしも私が必死になってカズの手のひらに噛《か》みつかなかったら、私はあのまま死んでしまっていたのよ。カズは妻殺しの犯人になっていたのよ」
「………」
晴美の指摘に、右の手のひらの傷跡を見つめたまま、和也は黙りこくった。
「誤解しないでほしいんだけど、私はカズを責めているんじゃないの。それにカズを怖がっているんじゃないの。わかるでしょ。どっちがどっちを殺す展開になろうと、それは私たちの意思じゃなくて、あいつら[#「あいつら」に傍点]が決めることなのよ」
晴美が使う表現も複数形になった。
「しかも、もうその結末はプログラムされてしまっているのかもしれない。私たちの頭の中に」
「おれたちの……脳味噌《のうみそ》に?」
「そう。変更ができないよう、書き込み禁止にした状態でね」
夢はしだいに恐くなる――老婆たちの予告は、確実に現実のものとなっていた。
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[#2字下げ]第七夜 比叡山ゼロの魔術
「それで、あの、お父さん。じつはぼく、お嬢さんと」
思いつめた口調で岡部道夫《おかべみちお》が言いかけると、
「しかし、雪が降ってよかったな、道夫君。季節はずれの雪が」
と、坂井清二郎《さかいせいじろう》はすぐさま話をそらせた。
「比叡山《ひえいざん》といえども、この暖冬では雪はもう望めんかと思うたら、ちゃんと降ったやないか。まるで私らが行くのに合わせたように」
「はあ」
京都市街と琵琶湖との間にそびえ立つ比叡山は、大比叡《だいひえい》や四明岳《しめいがたけ》など五つの峰の総称で、もっとも高い大比叡は標高八四八メートル。暦が三月に入ってからもときおり雪が降る。そしてこの日も朝から小雪が舞う天気だった。
「白一色の比叡も、緑一色の比叡も美しい。そやけど、森の緑に雪の白を適度にまぶした春先の比叡山が私はいちばん好きなんや」
「そう……ですか」
「雪はどうせ白やから、一面の雪景色はカラーで撮っても白黒で撮ってもいっしょや思うたら大間違いや。どんなに雪がすべてを覆い尽くしても、隠しきれん色ちゅうもんが自然の中にはある。森の緑がそうや。土の茶色がそうや。ときには木の枝で芽吹く梅の蕾《つぼみ》のピンクがそうや。そういったわずかな色彩を引き立たせる雪の白に出会ったとき、私は白という色の存在感に打たれるのや」
「はあ……」
「人は、日常の生活で白というものを存在しないものとして扱こうとる。それが日本語の表現にもよう表わされとる。たとえば『テストを白紙で出す』というのがあるな。あるいは『頭の中が真っ白になる』という言い回しもある。いずれも『白』イコール『ゼロ』という既成概念で成り立っとる表現や。けど、私のように陶芸を生業《なりわい》とする者は、白は『白という色がついている状態』であることをちゃんと認識しとる」
「そうですか」
気のない相づちを打ちながら、助手席に座る岡部道夫は、ああ、またはぐらかされてしまった、と静かなため息をついた。そして、灰色の空からフロントガラスめがけて飛び込んでくる雪のつぶてをぼんやり見つめる。
その白い粒を車のワイパーが右に左に軽くふり払う動作は、こっちの意気込みをスイスイとかわしつづける奈美《なみ》のオヤジさんにそっくりだ、と道夫は思った。
「京都にきて、キンキラキンの金閣寺を下品やとあざ笑う、わかったような口を利く輩《やから》も多い」
運転しながら、なおも坂井清二郎は道夫にとって興味のない話をつづけた。
「けど、あの金閣寺に色がのうなったらどないや」
「色のない金閣寺、ですか」
「せや。そのときになってな、人は初めて理解するんや。ああ、色が自分の感情を動かしとったんか、と」
「はあ」
「銀閣寺が銀色でないというのは、誰でも知っとることやが、もしも金閣寺が金色ではなく銀色やったらどないや。あるいは、銀閣寺に名前のとおり銀の色がついておったらどないや」
清二郎は片手をハンドルから放し、リズムを取るように振りながらつづけた。
「京都伏見の千本鳥居の朱色が、朱ではなく、野宮《ののみや》神社の黒木鳥居のように黒やったらどないや。あるいは京都を彩る紅葉から色が取れてしもうて、白黒になったらどないや」
「ずいぶん感じが変わるでしょうね」
「感じが変わるんとちゃう。感情が変わるんや」
「感情が?」
「色というものは、人の感情を動かす。もしも金閣寺が銀色になれば、それを見る者の心の動きが変わる。もっと極端な仮定をするならば、金閣寺が真っ赤っかやったらどうや」
「落ち着きませんね」
「実際にあれがすべて深紅になったら、落ち着かないという表現ではすまんやろ。人の心は、おそらく不安定になりマイナスのエネルギーに支配されて気分も悪くなるはずや。このようにな道夫君、陶芸というものは、色が人の心を支配するという真理を頭に置いて初めて、見る者に訴える作品ができるんや」
「そうですか」
道夫はうなずいたものの、横道にそれた清二郎の話は、右の耳から左の耳へと素通りしていた。
嵯峨野《さがの》にある奈美の実家を出てからこの比叡山ドライブウェイに至るまで、道夫が意を決して結婚問題を切り出そうとするたびに、ハンドルを握る奈美の父・清二郎は、こうやって関係のない話をはじめてしまう。
アカの他人の若者が改まった口調で「お父さん」と切り出せば、それは娘との結婚を許可してほしいという申し入れに決まっている。それが明白だから、奈美の父は話をそらすのだ、と道夫は思っていた。
しかし、比叡山へのドライブに道夫を誘いだしたのは、清二郎のほうだった。それも、当事者である娘の奈美は家に残して、男どうし、ふたりきりで比叡山へ行こうと唐突に言い出したのだ――
静岡に住む岡部道夫は、一年にわたる坂井奈美との遠距離恋愛に決着をつけるため、京都を訪れていた。すでに奈美本人へのプロポーズは終わっている。自分の両親の了解も取りつけた。残るは奈美の親だけだったが、陶芸家である清二郎の反対が激しくて、奈美もまったくお手上げだと悲鳴を上げてきたのだ。
それも無理はないと道夫は思った。奈美は二十七だが、道夫はまだ二十一と六つも歳下。しかも道夫は、学生でもなければ定職についているでもない。大学は一年で中退し、プロめざして仲間とバンド活動をしている毎日だ。
奈美と知り合ったのも、京都の小さなライブハウスで歌っているところを、たまたま見にきていた彼女が一目|惚《ぼ》れしたといういきさつだった。そんな出会いではじまった結婚話など、父親にしてみれば論外というものだろう。
おまけに奈美はひとりっ子で、しかも晩婚の清二郎が子づくりをあきらめかけたころに、ようやく授かった愛娘である。清二郎の妻、すなわち奈美の母親は若くして亡くなっていたから、事実上、父の手ひとつで奈美を育ててきたようなものだった。これではおいそれと嫁にやりたくはないはずだった。
清二郎は六十七歳。白髪頭を五分刈りにし、陶芸家というより大工の棟梁《とうりよう》といった印象で、年齢以上に老けて見えた。「父親だと人に言っても誰も信じないのよ。おじいちゃんでしょ、って」と奈美は、引き合わせる前に道夫へ予防線を張るように語っていたが、娘でもあり孫でもある感覚なら、なおさら奈美を嫁にはやりたくない道理だ。
初対面の清二郎はいかにも気難しそうな風貌《ふうぼう》で道夫はひるんだが、しばし無言でお茶を飲んだあと、道夫をいきなりドライブへ連れ出した。男ふたりだけで、という条件で。それでまた道夫は緊張し、家に居残ることになった奈美が不安げに顔を曇らせたところまでは気づく余裕がなかった。
「道夫君、きみはこれまで比叡山に上ったことがあるかね」
曲がりくねった山道をかなり上ったところで、めずらしく奈美の父のほうから口を開いてきた。
「いえ、初めてですけど」
「そしたら、きみに見せておきたい景色がある」
清二郎は、左カーブを抜けたところにある展望台に車を寄せた。
「ほら、見てみ、あそこを」
「あ、あれは」
助手席から顔を浮かせて、道夫は眼下の光景を覗《のぞ》き込んだ。雪に煙る巨大な湖が横たわっていた。
「もしかして琵琶湖? ですか」
「そう、日本一の湖や」
「琵琶湖って、こんなに京都に近いところにあったんですか」
「京都側から比叡山に上った人間は、みなきみのように驚くね」
ほとんど表情を変えずに答えると、清二郎はシートベルトをはずし、ドアロックを開けた。
「道夫君、ちょっと外に出てみよか。雪が強うなってきたけど」
「はい」
道夫は、言われるままに車の外に出た。
京都市内にいるときには感じなかった寒さが、ここでは強烈に肌を刺した。風もかなり吹いている。道夫はハーフコートのポケットに両手を突っ込み、足踏みをはじめた。その揺れのせいで、唇から洩《も》れる白い息が小刻みに途切れる。
しかし、清二郎はグレーのカーディガン一枚で少しも寒そうな様子を見せなかった。そして道夫が自分の横に並ぶのを待ってから、清二郎はゆっくりとしゃべりはじめた。
「きみは京都へは何度もきとるそうやが、よもやこんな間近に琵琶湖があるとは思わんかったやろ」
「比叡山はいつも目にしていましたけれど、その裏に何があるのかは考えたこともなかったです」
「結婚もな、それと同じや」
「え?」
徹底的に避けるのだろうと思っていた話題に、父親のほうから飛び込んできた。それは道夫にとって意外な展開だった。
「きみは奈美といっしょになりたいんやろ。せやな」
「は……はい」
「せやけど、いまの道夫君から見た奈美は、京都市内から見た比叡山のようなものや」
「どういうことですか」
「いま、きみが言うたばかりやないか。比叡山の裏に何があるのかは考えたこともなかった、て」
清二郎は横手の山並みに目を転じた。
「山というものはな、それを見る人の心に不思議な魔術をかける」
「魔術?」
「山は、その後ろに隠れている風景の存在を、まったく人々に思い起こさせへん。これを私は『ゼロの魔術』と呼んでおる」
「ゼロの魔術……ですか」
「静岡に住むきみやったら、駿河《するが》湾と富士山を思い浮かべて海と山の違いを考えたらええ。浜辺に立って駿河湾の沖合をじっと眺めててみい。きっと、きみの想像力は水平線の彼方にある異国の存在を思い起こしたりもするやろ。ところが富士山はどうや。富士を眺める人間の視野は富士で完結し、富士の後ろに何があるのかという想像力をどこかに忘れてしまう。静岡県側から富士山を眺めるとき、その後ろにある山梨県の存在を考える者はほとんどおらへんやろうし、反対に、山梨県側から富士山を眺めるときも、その後ろにある静岡県の存在に思いを馳《は》せる者は、やはり皆無に等しいやろな」
たしかに奈美の父の言うとおりかもしれない、と道夫は思った。しかし、それで何を言いたいのか。
「道夫君、もういっぺん見てみ」
ふたたび眼下の琵琶湖を指す坂井清二郎の白い眉《まゆ》には、それと同じ色の雪が貼りついていた。
「京都の街から比叡山を仰ぎ見る者は、ゼロの魔術で想像力を山に吸い取られ、山の向こうに何があるのかを考えようとせず、山がそびえる姿だけに意識を集めてしまう。ところが、いざ山に上ってみると、その後ろに隠れていた琵琶湖を見つけて、また新たな驚きにひたるんや」
「ちょっと待ってください、お父さん」
道夫があわてて遮った。
「それは、奈美さんと結婚したあと、ぼくがよその女に目移りするかもしれない、というたとえですか。それとも、奈美さんよりももっと素晴らしい女性がいるかもしれないから、決めるのは早すぎるというたとえですか」
「そんな問題ではない。もっと大事なことや、道夫君」
天からだけでなく、足もとからも雪が吹き上げてきた。その寒風に道夫は身体を震わせたが、六十七歳の清二郎は、身震いひとつせずにつづけた。
「人間の表情というものは、そびえる山のごとく、その裏側に何があるのかという想像の余地を消してしまう力がある。人は面と向かった相手の感情を、ついその表情で判断してしまう。そうやろ」
「はあ……」
「表情の動きに惑わされて、その裏側、すなわち脳の中には別の感情があるかもしれんことをつい忘れてしまうのや。それから人の現在というものもまた山のごとく、そこを見せることによって、現在の裏側にどんな過去が隠されているのかを探ってみようという好奇心をゼロにさせてしまう魔力がある」
「現在が、過去を隠すんですか」
「せや」
うなずいてから、清二郎はつづけた。
「きみが惚《ほ》れとる奈美の顔の裏側に、いったいどんな心が隠されているのか、きみはまだ見届けとらん。奈美の現在だけを見つめるきみには、その裏側にある過去の存在に気づいとらん。比叡山の裏側に琵琶湖があるのを意識せんかったようにな」
「奈美さんの過去?」
不安げに問い返しながら、道夫は頭に積もりはじめた白い雪を手のひらで払い落とした。
「お父さん、ぼくは奈美さんの過去には何もこだわっていません。二十七という歳まで恋人がいなかったほうがおかしいし、たとえ婚約寸前までいった人が過去にいても、ぜんぜん気にしません。ぼくたちにとって大切なのは、過去よりも未来なんです」
いまが絶好のタイミングとばかりに道夫はたたみ込み、頭を下げた。
「お父さん、お願いします。ぼくと奈美さんとの結婚を認めてください。どうかお願いします」
「あかんな」
「どうしてですか」
顔を上げて、道夫は問い返した。
「認めていただけない理由を教えてください」
「奈美には、これまで深い関係にあった男が三人おる」
それはまったくの初耳だった。が、道夫は意地で言い切った。
「ですから、そんな過去の出来事は問題ではないのです」
「問題や、大問題や。そのたびに自殺騒動が起きたんではな」
「自殺騒動!」
さすがに道夫は目を丸くした。
「そのたびということは、三度も自殺……未遂を?」
「そうや」
「まさか、男の側の話じゃないですよね。自殺を図ったというのは」
「違う。男の側ではない」
「……知りませんでした」
寒さのせいではなく、道夫は真っ青になった。
「ぜんぜん知りませんでした。そんな話、まったくの初耳です」
「そうやろな、あの子が自分で打ち明けるはずもない」
清二郎は首を振った。
「だからきみは、奈美の裏にあるものを何も知らんというんや」
「でも」
道夫は必死の形相《ぎようそう》で訴えた。
「ぼくは奈美さんを絶対そんな目に遭わせたりはしません。自信を持って申し上げます。お父さん、ぼくはきっと奈美さんを幸せにしてみせます」
「何を勘違いしとるんや、きみは」
「勘違い?」
「三たび自殺騒動を起こしたのは奈美やない。この私や」
「お父さんが!」
叫ぶ道夫に向かって、奈美の父はカーディガンの袖《そで》をまくって見せた。左手首に醜い傷跡があった。それも一本だけではなかった。
道夫は言葉を失った。
「どうかね」
「どうかね……って」
「なぜ私が三度も自殺を図ったと思う」
「それ……は……」
「言いにくいかもしれんな」
清二郎は、ほんのわずかだけ顔に苦笑を浮かべた。
「おそらくきみは、いまこう想像しておるやろ。男手ひとつで娘を育て上げてきた老父が、娘をとられまいとして結婚話が出るたびに自殺騒ぎを引き起こし、縁談をことごとくぶちこわしてきたのではないか、と」
「正直言って……そうです」
「違うんや、道夫君。この傷はな、相手の男性に対して娘がしでかした不始末を、父として死んでわびようとしながら、けっきょく死にきれなかったみっともない傷跡や。手首から血を流すことはできても、三回が三回とも死ぬるほど深く自分を傷つけることはできず、醜態だけをさらけ出した恥の記録や。……弱いもんやな」
清二郎は、まくり上げた袖をそっと下ろした。
「日本地図であれだけ大きな広さを占める琵琶湖が、この比叡山ひとつで京都を訪れる客人の意識から消えてしまう。それと同じように、現在という概念は、いかなる大きな過去も平気で包み隠す」
「お父さん」
道夫は清二郎の腕をつかんで揺すった。
「奈美さんは過去の恋人たちに何をしたんです」
「きみは知らんでもいい。聞かんといてくれるか」
「そうはいきません。教えてください」
「何も聞いてくれるなと言っとるやろ!」
初めてそこで、坂井清二郎は感情的な声を張り上げた。が、すぐに冷静さを取り戻して言った。
「道夫君、きみは好青年やと思う。きみが推測しているような理由で、私はきみの望みを断っておるんやない。それだけは理解しておいてくれ。きみを助けたくて言ってるんや」
「助けたくて?」
道夫は清二郎の腕をつかんで迫った。
「もしもぼくが奈美さんと結婚したら、どんなことが起きるんです」
「もうええ」
「よくありませんよ」
「ここまでで勘弁してくれ」
清二郎は、自分の腕をつかんでいる道夫の手をゆっくりはずした。
「頼むから何もきかず、黙って奈美から離れてくれないか」
そして清二郎は、道夫の返事を避けるように天を仰いだ。
「さあ、そろそろ戻ろうか。雪もだいぶ強くなってきた」
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[#1字下げ]11 八日目
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これまでの六つの夢と違って、『比叡山ゼロの魔術』という題がつけられた七番目の夢物語は、晴美にとって内容そのものが深刻だった。なぜならば登場人物の三人――岡部道夫、坂井奈美、坂井清二郎は、明らかに永瀬和也、晴美、そして晴美の父・市ノ瀬恵造に置き換えられるからだ。
夢に出てきた三人の年齢や風貌《ふうぼう》、住まいや職業などの設定は異なっていたが、決定的なことが同じだった。それは、坂井清二郎の打ち明け話と、夫の和也にはいまもなお教えていない父の秘密との一致である。秘密とはすなわち、過去に父・市ノ瀬恵造が三度の自殺未遂をしている、ということだった――
その一点において、晴美はこの夢物語の中に父の存在を見た。いや、父の怨念《おんねん》を見たといってもよい。
ただし、もしもこの夢が例の研究アルバムに書かれた父の創作に基づくものだとすれば、そこには意図的に大きな嘘が組み込まれていると言わなければならなかった。
夢の中で坂井清二郎は、三回も手首を切った理由について、娘の恋人である岡部道夫にこう説明している。自分が娘の結婚話をことごとくぶち壊そうとして自殺騒ぎを引き起こしてきたと思うだろうが、じつは相手の男に対して娘が犯した不始末を、父として死んでわびようとしたものだ、と。そして、娘が婚約者に対してとった行為は、親として死をもって償わねばならぬほど凄《すさ》まじいものだった、とほのめかしている。
しかしそれは、実際に市ノ瀬恵造が犯した三連続自殺未遂の背景とは、大きく異なっていた。父は自分の犯したみっともない行為を取り繕うために、せめて物語の中だけでもいい格好をしようと嘘の衣をまとった――晴美にはそうとしか思えなかった。
晴美の父は、まさしく娘を取られたくない一心で三度も自殺を図った。娘の恋をめちゃめちゃに壊してしまうのを目的として、市ノ瀬恵造は三たび自殺未遂を引き起こしたのだ。
永瀬和也と結婚する前、晴美には結婚まで考えた恋愛が二度あった。二度とも相手は和也の知っている人間ではない。
最初に結婚しようと思ったのは、まだ女子大に通っているころだった。相手も学生だった。だから父親に猛然と反対されたときも、それも当然だろうと初めは冷静に受け止めていた。けれども、父を説得しようと恋人をじかに引き合わせたとたん、恵造は突然|激昂《げつこう》し、錯乱し、そしてその場で手首を切った。あまりの出来事に、晴美も相手の学生もパニックに陥った。
晴美がまだ幼いころ、父はアルバムを見せながらおとぎ話を聞かせてくれたことはあったが、成長してからはそんな親子の交流もなくなっていた。だから、よもや父親が自分に対してそれほど強い独占欲を抱いているとは、晴美は思ってもみなかった。そして、父をそこまで精神的に追い込んだことに罪悪感を覚え、晴美はつきあっていた学生とほどなく別れた。恋の終わりを知ると、父親はすぐに平静を取り戻した。
つぎに結婚を考えたのは大学を卒業して会社に入ったその年で、友人に紹介されたプロゴルファーが相手だった。その男は選手としてはまだまだ半人前だったが、スポーツに生きる男のたくましさに惚《ほ》れ込んだ晴美は、熱愛という言葉そのものの激しい恋に陥った。そして恋に陥るとすぐに結婚したくなる。それが晴美の習慣だった。
その展開を知って、またもや父親が同じ手口で自殺を図った。
ところが二度目には、父親に死ぬ気がないのがはっきりと晴美にもわかった。
手首を切るといっても、決して深くは切らない。周囲を驚かせるだけの出血にはなるが、一刻を争うような緊急事態になる切り方はしないのだ。まるで親を驚かせるために少女がやる、中途半端なリストカットみたいなものだった。それの逆バージョンを親にやられるとは思わなかった晴美は、父のあざとい芝居に腹が立った。
だから晴美はわざと反抗して、父親の手首の傷が癒《い》えないうちに、恋人の冬季トレーニングに伴ってハワイへ出かけた。市ノ瀬恵造の目からみれば、それは不道徳きわまりない婚前旅行と映った。
父の感情をひどく損ねることになるのは承知のうえの行動だったが、案の定、ハワイに着いた翌日、母の準子から国際電話が入った。またやった、というのだ。さすがに三度目ともなると、母親の口調には、うんざりした様子がにじんでいた。娘の晴美に対しても、お父さんを刺激するのもいいかげんにしなさい、と言いたげだった。
それでも晴美はプロゴルファーとの恋愛を貫こうとしたが、度重なる父親の自殺未遂に、相手のほうが気味悪がって去っていった。そして、しばらく間を置いてから、晴美は同じ会社の永瀬和也と、またしても結婚を前提とした交際をはじめたのである。
晴美は、過去の恋愛を和也にも語ったことがあったが、別れの理由については適当にごまかしていた。真の事情を和也には言えたものではない。晴美は、市ノ瀬家の暗い部分を伏せて和也とつきあってきた。
和也との愛が深まり、こんどこそ結婚に踏み切ろうと決心した晴美は、彼にプロポーズされるとすぐに父親に対して先手を打った。彼女はこう宣言した。もし、もういちどパパが私を困らせる騒ぎを起こしたら、こんどは私が死ぬからね、と。母の準子も加勢してくれた。母までが、父に同じセリフを突きつけてくれたのだ。これ以上家族に迷惑をかける真似をしてくれたら、私も晴美といっしょに死にます、あなたに抗議して死にます、私たちは本気ですからね、というふうに。
それは、あなたは最初から本気で自殺なんかする気がないんでしょう、と軽蔑《けいべつ》をあらわにしたも同然の言葉だった。それがこたえたのか、市ノ瀬恵造は、こんどは娘の結婚にひとことも文句を言わず、和也を恐るおそる紹介したときも、まるでこれまでとは別人のように、婿となる男をにこやかに歓迎するそぶりすらみせた。
たとえそれが演技だったとしても、晴美はホッと安堵《あんど》の胸を撫《な》で下ろした。ようやく父親も娘への過剰な独占欲をあきらめてくれたのだと思った。そして市ノ瀬恵造は四度目の自殺騒動を起こすこともなく、花嫁の父として、おとなしく結婚式に参列した。
和也は教会で式を挙げたがったが、晴美はすべて純和風に進めることを主張して神前結婚の形式を選んだ。おまえにそんな古風な趣味があるとは思わなかったよ、と和也は意外そうに言ったが、教会での結婚式を避けたかった理由は別のところにあった。父親にエスコートされ、バージンロードを歩くのが恐かったからだ。赤い絨毯《じゆうたん》の上で、父親に腕を捉《とら》えられたまま、やっぱりおまえは嫁にやらない、などと突然騒ぎ出されたらたまったものではない。
そんな背景を知らないまま、和也は神前で三三九度の杯を上げ、感激に目を潤ませていた。隠し事をしたまま結婚して申し訳ない、と晴美は心が痛んだ。そして、ふたりが新しい家庭を築いた三カ月後に、父親はこの家で仕事中に死んだのだ。
和也は生前の市ノ瀬恵造を評してこう言った。無口で一見とっつきにくそうだけど、いいお父さんじゃないか、と。とっつきにくそうな義父の裏に何があるかを、和也は知らない。もし知っていたら、父の死んだこの家に遊び気分ではこられなかっただろう。
2
悪夢の十三夜を通告されてから、一日、また一日と過ぎるにしたがって、晴美の心にひとつの疑惑がふくらんできた。すべての幻覚は、死んだ父親が生みだした怨念の所産ではないかという疑いである。その思いは夢を重ねるごとに強まってきたが、今回の比叡山の夢でそれが確定的になった。
(やっぱりパパは、私たちの結婚を許していなかった。死んでもまだ許してくれていなかった)
きょうもなお不気味に咲きつづける黄色い花畑の向こうに見える土蔵――それをキッチンの窓越しに眺めながら、晴美は思った。
(ひょっとしたら、パパがこの家で死んだのも、私たちの結婚が引き起こしたストレスのせいかもしれない)
挙式後三カ月目の突然死というタイミングが、いまさらながらに真実を暗示している気がした。
(そうだ! あの血)
突然、晴美の頭にひらめいたものがあった。
(あれは、パパが吐いた血なのかもしれない)
高速道路でふたごの赤ん坊を轢《ひ》いたという幻覚にとらわれたとき、血しぶきは晴美の座る助手席側の窓にだけふりかかってきた。
岩倉の家に到着する晴美たちを出迎えたふたごの老婆が身体から血を流し、噴き出し、その大量の血液が意思を持った生物のごとく、アメーバ状に形を変えながら襲いかかってきたのは、和也よりもむしろ晴美に対してだった。
あれは父・市ノ瀬恵造の吐いた怒りの血液であり、死んでもなお、結婚した娘を許さずにいることの象徴ではないかと、晴美には思えてきた。
(毎晩恐ろしい夢を私たちにみさせているのは、パパだったんだ)
晴美は、ひとつの結論を導いた。
(パパが私とカズを苦しめるために、あの世から怨念《おんねん》の波動を送りつづけているんだ。私たちの幸せを壊すために)
その結論を前提に、晴美はこれまでの怪奇現象を論理的にまとめようとした。
(やっぱり私は思っていたように、高速道路の出来事も含めて、ぜんぶがこの家で眠っているときにみた夢なのよ。パパの霊によって、私たちは眠りの領域をすべてコントロールされてしまっている。だから、知らないうちに眠りに引き込まれ、ふたりは同じ夢をみる。それだけじゃない。起きているときの記憶もまたパパに支配されてしまった。おかげで、昼間の行動もよぶんなデータは私たちの脳に保存されない)
昨日までの七日間が矢のように過ぎ去っていったのも、きっとそのせいだと晴美は思った。初めのうちこそ、そば屋へ食事に行き、コンビニで買い求めたインスタント食品を作った覚えもあるが、ここ数日は食事に出た記憶もないし、家で料理をした記憶もない。それなのにいつもおなかは満たされていた。それは食事の記憶が消去されたからだ。
風呂《ふろ》に関してもそうだった。晴美はこの家にきてから風呂を沸かした記憶も、風呂に入った記憶もない。だが、身体は清潔だったし、気がつくと下着も新しいものになっている。そうした覚醒《かくせい》時の日常的行動は、まったく頭脳にメモリーされないのだ。高速道路を実際に走っていたときの記憶が消されたように、だ。
きっとそれは、意識のすべてを夢に集中させるためだ、と晴美は考えた。起きているときに覚えていることといえば、ふたりで夢について語りあい、たがいに怯《おび》えていくその部分だけだった。恐いところだけに神経がいくように、自分たちは頭脳の活動をコントロールされているのだ。
(パパは、私たちを狂わせようとしている。夢はしだいに恐くなる、と告げたのは、ふたごのお婆さんじゃなくて、パパだったんだ)
父の怨念がこもっているのは、母屋だけではない。咲き乱れる黄色い花に守られたあの古めかしい土蔵の中に、おそらく母屋の何十倍、何百倍に凝縮された怨念が、うめき声を発しながら渦巻いているだろう。そんな様子が、晴美は目に見える気がした。
父の死後すぐに、霊感の強い母・準子が封印した百八冊のアルバム。そこに記録された物語は、あるものは父が取材した怨念の逸話であり、あるものは伝承に刺激を受けて父が書き記した創作物語。それらが、毎晩晴美と和也の脳の中へもぐり込んでくる。だから、ふたりそろって毎晩同じ夢をみせられるのだ。
(あと、どれだけの夜を苦しめばいいの。そして私たちは最後にどうなるの?)
晴美は震えた。
めったにとれない九連休は、どれほど長くて楽しいものかと思っていたのに、京都|洛北《らくほく》の岩倉周辺から一歩も出られぬまま、時はあっというまに流れ去った。
早くもきょうは八日目。和也の長期休暇は明日で終わる。予定では、Uターンラッシュを避けるため、明日の夜明け前に京都を出発するつもりだったが、もうそのスケジュールは実行できない。最後の夢をみるまで京都を離れることはできないからだ。
したがって、和也は十日目以降は会社を無断欠勤することになる。こちらから欠勤の連絡を出せるような状況ではない。ゴールデンウィークが明けても出社してこないとなれば、心配した会社の人間は連絡をとろうとするだろう。しかし、自宅に電話しても直接訪ねてきても、和也だけでなく妻の晴美もつかまらないのだ。
そういう展開になれば、当然、携帯にも電話やメールがどんどん入ってくるだろうが、すでに晴美も和也も、自分の携帯の電源を切っていた。この状況から逃げ出すために、外部と携帯で連絡をとろうとすれば、受話口からきっとあの言葉が流れてくるに違いないと思ったからだ。「ついてくる」と……。
ちなみに父の死後、岩倉の家の電話回線は解約されたままになっていたし、和也も休暇中の居場所をいちいち会社に伝えていなかった。だから、たとえ無断欠勤になっても会社側からふたりに接触する手段はなかった。和也のほうからデータ通信カードを使ってパソコンでメールを読もうとしないかぎりは。
いかなる手段をもってしても和也と連絡がとれないとなれば、直属の上司である葛城編集長は――自分自身のスキャンダル対応で頭がいっぱいだろうが――仲人という立場もあるから、和也か晴美の親に事態を打ち明けて、居場所を知らないかと問い合わせてくるだろう。
いきなりそういう展開になって驚かさないように、晴美は明日の段階で、独り住まいをしている母にだけは、携帯電話で短い連絡をとろうと考えていた。晴美と和也が体験した内容をそのまま語ってどこまで信じてもらえるかは疑問だが、霊感の強い母なら、きっとこちらの言っていることを理解して飛んできてくれると思った。母が本気を出して助けにきてくれれば、きっとあれ[#「あれ」に傍点]に対抗できると晴美は信じていた。
なぜならば、怨念の正体は晴美の父、すなわち母の夫であるはずなのだから。
3
それにしても、晴美の不安を募らせている要素がもうひとつあった。けさ起きてからずっと、和也が物思いにふけったまま口を開かなくなっているのである。
(カズは、私を疑いはじめている)
晴美はそう思った。
『比叡山ゼロの魔術』と題された第七夜の夢は、和也の目にも、それが自分たちの結婚をモデルにしていると映ったかもしれない。夢が現実の引き写しだとすれば、晴美の父・市ノ瀬恵造は過去に三度も自殺未遂の経験があり、その原因は、晴美が過去の恋人たちに対してとった異常な行為だということになる。
夢の中で坂井清二郎は、娘との結婚の許諾を迫る岡部道夫という青年に、こんなセリフを並べた。
「だからきみは、奈美の裏にあるものを何も知らんというんや」
「現在という概念は、いかなる大きな過去も平気で包み隠す」
「頼むから何もきかず、黙って奈美から離れてくれないか」
この『奈美』は妻の『晴美』のことだと当て嵌《は》めたら、和也はいったいどんな気持ちになるだろうか。今回の夢は、晴美が悪魔であることを暗示しているのだと和也が受けとめたら……。
ふたりきりの家で幻覚と夢に連日揺さぶられ、かなり神経をすり減らしたところへもってきて相手の人格を疑いはじめたら、疑心暗鬼の行き着く末が最悪の悲劇を招くのは想像に難くない。仲裁をしてくれる第三者はいないし、当事者のふたりに自分たちを客観視するだけの余裕はない。
比叡山の夢は晴美の悪魔性を暗示したもので、これまで直面してきた超常現象のすべては、妻の晴美が引き起こしたのだと確信したら、和也のとる行動はふたつにひとつだろう。怯《おび》えて晴美のそばから逃げ出すか、それとも『悪魔|祓《ばら》い』に出るか。
精神的なバランスを崩していれば、和也の選択は後者になる、と晴美は思った。
(カズは私を妖怪《ようかい》だと思うかもしれない。そうなったら、私は殺される)
なんとかいまのうちに夫の想像力にブレーキをかけなければならない。けさからの和也の沈黙は、妻の正体を疑いはじめた証拠だった。その眼差《まなざ》しは、明らかに晴美を人間ではないものとみなしはじめていた。
和也が悪魔祓いの儀式に踏み切るのは、もう時間の問題と思われた。こうなったら、早急に誤解を解かねばならない。恐ろしいのは晴美ではなく、死んだ父親の怨念《おんねん》なのだということを和也に理解させる必要があった。
(できればパパを悪者にはしたくない。ちょっと変わったところのあった人だったけど、私を可愛がってくれたパパであったことに違いはない。だから、世にも恐ろしい悪魔みたいな言い方はしたくない。でも、このままでは私のほうが悪魔だと決めつけられて……手遅れになる)
対応の遅れは、死さえ意味する。明美は気持ちを固めた。
4
永瀬和也は、膝《ひざ》を抱え込むようにして縁側に座っていた。こちら側の庭には、あの気色の悪い黄色い花は咲いていなかった。五月の陽差しはあくまでまばゆく、庭の緑はいきいきと輝いていた。こんな事態に巻き込まれていなければ、ふたりは好天に恵まれたゴールデンウィーク九連休を思う存分楽しんでいたはずである。だが、彼らの運命はまったく別のレールの上を走り出していた。もとの線路に戻ろうとしても、それはできない。
「ねえ、カズ」
和也のすぐ後ろに座ると、晴美は緊張した声で呼びかけた。
「話したいことがあるんだけど」
「おれも、ある」
後ろ向きのまま、和也も硬い声で答えた。
ああ、やっぱり、と晴美は思った。
「先に私の話を聞いてくれる」
「いや、おれの話を聞いてもらいたい」
「もちろん聞くわ、でも、お願いだから私からはじめさせて」
そして晴美は、和也の返事を待たず、よけいな前置きを省略して切り出した。
「この家は呪われているの。信じられないかもしれないけど、私のパパの霊が取り憑《つ》いているのよ」
「わかっていた」
「ほんと?」
「ああ、最初からわかっていたよ」
晴美にとって、それは意外な反応だった。あまりにもすんなりと自分の言い分を認めてくれたからだ。だが――
「晴美がそういう言い訳をしてくるだろうと、最初からわかっていたよ」
「カズ……」
「それこそ小説の中の登場人物になった気持ちだよ。いちばん信じていた人間が犯人だとはね」
「聞いて、カズ」
晴美は必死に言い訳をした。
「あなたがゆうべの夢から、そういう結論を出すことになったのは理解できるわ。でもね、それこそがパパの仕掛けた罠《わな》なの。もうこうなったら、ぜんぶ言うわ。いままでカズに隠していたことも。じつはパパは三度も……」
「そういうことじゃないんだよ」
「え?」
「おれが言いたいのは、夢の中身じゃない。現実におれの身に起こってしまったことだ」
「カズの身に? なにが?」
「これを見ろ」
背中を向けていた和也が、ゆっくりとふり返った。その顔を見たとき、晴美の喉《のど》の奥から小さな悲鳴が洩《も》れた。
白目の部分が真っ赤になっていた。片目だけでなく、両方とも真っ赤だった。しかも、いまにも赤い涙がこぼれてきそうな濡《ぬ》れ方をしている。
白い部分は、まったく残っていなかった。中央の黒い瞳《ひとみ》をのぞき、すべては赤。例の血の色だ。
「どうしたのよ! その目!」
「どうしたの、とはこっちが言うセリフだよ」
悲鳴を上げた晴美とは対照的に、無表情のまま、和也は静かに言った。
「さっき鏡で自分の目を見たとき、あまりのショックでおれは気絶しそうになった」
「どこかに……ぶつけたの?」
「とぼけないでくれ。晴美がかけた呪いなんだろう、これは」
「ちがうわ」
晴美は激しく首を左右に振った。
「私じゃない、パパよ」
「いや、おまえだ」
和也はゆっくり立ち上がった。そして、赤い目で晴美を見下ろした。
「すべてはおまえがおれを発狂させるために仕掛けた呪いだ。いったいおれに、どんな怨《うら》みがあるというんだ」
「ちがうってば。……ねえ、お願いだから私の話を聞いて、じつはパパがね」
「わかっているさ。おまえが女子大生のときにつきあっていた学生も、会社に入ってすぐつきあいはじめたプロゴルファーも、みんなおまえの呪いにかかって、精神的な廃人同然となった。その責任をとって、おまえのお父さんは三度も死のうと思った」
「それは夢の中の話でしょう。現実は違うのよ」
「言い訳はもういい。おれにはわかったんだ。これまでの夢は晴美、ぜんぶおまえがみさせていたんだ。いっしょに夢をみているようなフリをして、じつは恐ろしい体験をしていたのはおれだけだった」
「だから、ちがうの」
「おまえは化け物だ、晴美!」
いきなり和也は晴美の胸ぐらに手を伸ばし、ブラウスをひっつかんで立ち上がらせた。赤い目が、晴美の顔の数センチ先まで近づいた。
「やだっ!」
反射的に叫んで晴美は夫を突き放し、後ろに飛び退いた。背中に障子があたり、指先が障子紙を破いた。
「ふたりの人間が完全に同じ夢をみるなんてありうるわけがないと思っていたけど、おまえが嘘をついているのだと考えれば納得できる。なんでそんなかんたんな答えをすぐ思いつかなかったのか、わからないけどね」
距離をとった晴美にまた近寄りながら、和也は歪《ゆが》んだ笑いを浮かべた。
「たいした演技力だぜ。最初の日、玄関先でふたごのババアを見たとき、おまえは恐ろしさのあまり失神したけど、あれも最初から計算ずくの芝居だったとはな。ふたごの身体から噴き出した大量の血が地面を這《は》い回っておまえに襲いかかったのも、じつはおまえが操っていた妖怪《ようかい》のひとつだ」
「なにを言っているの。あれは私とカズが同時にみた幻覚なのよ」
「そうじゃない。白装束の老婆、高速道路で赤ん坊を轢《ひ》き殺したイメージ、毎晩みる夢、こういうものはぜんぶおまえの呪いが生みだしたものなんだ。裏庭に咲いている黄色い花もそうだ。おれにはわかっているんだ。このあと、いったいどんなものをおれに見せるつもりなんだ」
「お願いだから聞いて」
障子を部屋の中へ倒しそうになるくらい体重を後ろへかけながら、晴美は詰め寄る夫を懸命に説き伏せようとした。
「パパは、カズとの結婚にもほんとは反対だったの。私をカズに奪われたくなかったの。それをガマンして結婚を認めてくれたんだけど、怒りが収まらなくて、死んだあとも私を怨んだ。カズのことも怨んだ」
「違う。これはおまえのお父さんの霊が引き起こした現象じゃない。そうでないと言い切れる証拠があるんだ。論理的な証拠がね」
「なんなの」
「前の日にみた夢だよ」
「比叡山の夢?」
「その前のやつだ。知恩院や八坂神社が出てくる除夜の鐘の夢だ。おまえの父親・民俗学者の市ノ瀬恵造が夢に関与していない決定的な証拠が、そこにあった。おれもけさになって気がついたんだけどな」
血の色をした目で自分の妻を睨《にら》みつけながら、和也は言った。
「ことしは西暦何年だ」
「二〇〇〇年よ。ミレニアム」
「おまえのお父さんが死んだのは」
「三年前だわ」
「西暦で言えよ」
「一九九七年でしょ」
なぜそんな質問を和也がしてくるのかわからずに、晴美は答えた。
「それがどうしたの」
「第六夜の夢をもういちど思い出してみろ。あれは一九九九年の大晦日《おおみそか》から二〇〇〇年へと変わる瞬間が物語の主題になっていた」
「コンピューターの二〇〇〇年問題にひっかけたオチでしょ」
「そうだ」
「だからどうしたっていうの」
「まだ自分の失敗に気がつかないのか」
「私の失敗?」
「おまえは、すべての夢はお父さんが生みだしたものだと見せかけようとした。民俗学の研究過程で得た民話や伝承をベースに現代風なアレンジを加えて、パパは一風変わった物語集を完成させようとしていて、その素材が一連の夢に使われた、という説明はたしかにもっともらしかったよ。おまけに土蔵に封印された百八冊のアルバムなんてエピソードまでまことしやかにつけ加えられたんではな。
だけどよく考えてみろ、ミレニアムの三年前に亡くなったお父さんが、コンピューターの誤作動をテーマにした物語を書けるか? 書けっこないんだ。一九九七年といえば、アメリカでさえ、まだ二〇〇〇年問題に大きな関心が寄せられることはなかった。まして日本では、一般人の間では話題にもなっていなかった。だからお父さんが、ああいうテーマの話を作れるはずがないんだ」
「………」
「京都じゅうの除夜の鐘が鳴り出すという部分は、古都に伝わる怨霊《おんりよう》物語に出てきてもおかしくない設定だけど、コンピューターの二〇〇〇年問題は、いくら伝承をヒントにして現代風のホラー短編を編み出したと解釈しても、作者が一九九七年に死んでいたなら、テーマが新しすぎる。この夢だけじゃない、二日目の夜にみた夢もそうだ」
和也は、赤い目をいっそう大きく見開いてまくし立てた。
「『祗園花見小路の恋』という題がつけられたあの夢は、ちょっと洒落《しやれ》た男と女の物語だけれど、メールとインターネットが普及している状況でこそ成り立つ物語だ。お父さんが亡くなった一九九七年夏の時点では、たしかにメールもインターネットもあったけれど、ウィンドウズ95の登場で気軽にインターネットができるようになってまだ間もない時期だ。ウィンドウズ98は、もちろん世に出ていない。ネット恋愛が身近な出来事になるのは、日本の場合は携帯電話が急速に普及した九八年から九九年にかけてだ。おととしから去年あたりからなんだよ。だから、この夢のテーマも晴美のお父さんがタッチしたものではない」
「………」
晴美はすぐには反論ができなかった。
一九九七年の夏に死んだ父がコンピューターの二〇〇〇年問題をオチにした物語を創り得ないという点には、まったく気がつかなかった。ネット恋愛をテーマにした花見小路のストーリーについてもそうだ。父の頭から生み出された物語とするには、時代が先を行きすぎているのだ。
たしかに、和也は鋭いところを衝《つ》いてきた。父が死後もなお現世の変化に対応してイリュージョンを創り出せるとすれば、夫の指摘も無意味となる。しかし和也は、いわば時代考証という側面から、夢の幻影は義父ではなく、妻によって作られたと断定した。そしていくら晴美が否定しても、その決め込みを取り下げそうにはなかった。
「いったい何が望みなんだ」
和也は、歯をむいて晴美を問いつめた。
「おれを苦しめてどうするつもりだ。おれの前につきあっていた男たちに、おまえはどんなことをした」
「何もしていないわ。したとすれば、結婚をしようとしたことだけ」
「嘘をつけ、どんな魔術で男たちを苦しめたんだ」
「魔術なんて使わないって。使えないって。お願い、私を信じて」
「信じない」「信じない」[#「「信じない」「信じない」」はゴシック体]
「え……!」
瞬間、晴美は自分の耳を疑った。
声がふたつ聞こえた。それは夫の声ではなかった。忘れもしない、最初の日に晴美たちを玄関で出迎えた、あの白装束を着た老婆たちの声だった。
しかも、そのふたり分の声が夫の口から[#「夫の口から」に傍点]飛び出してきたのだ。
5
「カズ、いまあなたの口から……」
震えながらそのことを指摘しようとした晴美の言葉が途中で止まった。間近に詰め寄ってきた夫の顔に、晴美は信じがたいものを見た。
和也の赤く染まった両目の中央、わずかに残る黒い瞳《ひとみ》の中に、晴美自身の姿が映り込んでいる。それと重なるようにして、白装束を着た老婆がシャンと背筋を伸ばして正座をしている姿が見えたのだ。
右にひとり、左にひとり。
「おほほほほ」「くくくくく」[#「「おほほほほ」「くくくくく」」はゴシック体]
別々の笑い声が聞こえた。こんどは和也の喉《のど》からではなかった。彼の赤く染まったふたつの瞳から、笑い声が洩《も》れてきた。
右の瞳に鎮座した老婆は、皺《しわ》くちゃの口をぽっかりと大きく開けて笑っていた。
左の瞳に鎮座した老婆は、皺くちゃの口を両手で隠しながら肩を揺すっていた。
初日に、ずぶ濡《ぬ》れの血染めとなったはずの衣は、ふたたびシミひとつない純白に戻っている。
「カズ」
恐怖の痙攣《けいれん》が自分の頭を小刻みに揺らしているのを自覚しながら、晴美はつぶやいた。
「あなたの目の中にお婆さんが……カズの目の中に……座っている」
しかし、和也は答えない。口も動かさない。まるでその顔は死者のごとく固定されていた。そして老婆たちの声だけが、目から飛び出してくる。
「ひさしぶりじゃの」「七夜と八日、よくぞ耐えたの」
和也の代わりに、彼の両目がしゃべり出した。
「どうじゃろか」
右目に座る老婆が、左目のほうへ顔を向けてたずねた。
「はてさて、どうじゃろか」
少し遅れて、左目に座る老婆が右目のほうに顔を向けて答えた。
そしてふたりは同時に正面に向き直り、晴美を見据えて唱和した。
「十三夜までもつじゃろか。おまえの頭がもつじゃろか」
晴美は、小刻みに痙攣していた頭を無意識のうちに、こんどは左右にゆっくり振っていた。老婆たちの問いかけに、ノーと答えている自分がいた。十三番目の夜までは、とても精神がもたないと……。
その反応を面白そうに眺めながら、また右の老婆と左の老婆が交互に晴美へ語りかけた。
「夢はしだいに恐くなる」
「ゆうたとおりに恐くなる」
「逃げ出したいが」
「逃げられぬ」
「帰りたいが」
「帰られぬ」
「おまえのダンナが狂おうと」
「おまえのほうが狂おうと」
「この家からは逃げられぬ」
「しまいの夢をみるまでは」
「帰りたいが」
「帰られぬ」
つづいて老婆たちは。新しい予告を放った。
「わしらはずっとついてくる」
「おまえらふたりについてくる」
「最初はダンナの身体じゃが」
「つぎはおまえにもぐり込む」
(私の身体に!)
新たな恐怖で、晴美は全身が冷たくなった。
「男の身体は好まんて」
「おなごの身体がほしゅうなる」
「こんな皺くちゃオババじゃが」
「若い女が欲しゅうなる」
「柔らこうて、なめらかで」
「さぞかしえーえ気分じゃろ」
耐えられなかった。叫ばずにはいられなかった。晴美は、和也の瞳の中にいる老婆たちに向かって怒鳴った。
「やめて! おねがい、もうやめて!」
しかし、老婆たちは晴美の訴えを無視した。そして――
「よっこらせ」「どっこいしょ」
ふたりは和也の瞳の中で、ゆっくりと立ち上がった。
「………!」
晴美は絶句した。まるでそれは瞳の中に投影された映画だった。
ふたごの老婆は白装束の裾《すそ》を翻しながら、突然、盆踊りに似た振り付けで踊り出した。
「は〜あ、わしらはどこでもついてくる」
「逃げても逃げてもついてくるゥ」
「よいやさのさァ」
「はあ、こりゃこりゃエェ」
晴美は、夫の瞳という舞台で繰り広げられる老婆の舞を、金縛りになった状態で見つめていた。
いつのまにか和也のふたつの瞳の中に、農村の夕景が浮かび上がっていた。
赤い血だまりに囲まれた黒目ぜんたいが茜《あかね》色に変わり、夕焼け雲を背景にカラスが二羽三羽と横切ってゆく。
地面には黄金色の稲穂がいちめんに広がっており、収穫間近の稲田の中で、白装束の老婆がふたり、調子を合わせて舞い踊っている。そんな風景が、晴美の夫の目の中に広がっているのだ。
西洋的にレトロ感覚を表現するにはセピア色がふさわしいかもしれないが、日本人の郷愁をそそる色合いは、やはり茜色である。つまり夕陽の色である。和也の瞳は、いまその色調で統一されていた。
大自然を統率する八百万《やおよろず》の神を深く信仰していた時代の香りが、見つめる晴美のほうにも伝わってきた。それもまた色の持つ効果だった。茜色、黄金色、夕焼け色が、晴美の心に遺伝子として記録されている古代日本人の感性を刺激した。
老婆たちは、白髪の鬢《びん》のところに一輪の花を挿していた。土蔵の前に咲く例の黄色い花だった。稲穂のさざ波の中で舞い踊るその姿は、土着の神へ捧《ささ》げる聖なる儀式を行なっているようにもみえた。
(あ、あの山は……)
夫の目を覗《のぞ》き込んでいた晴美は、稲穂たなびく水田の向こうに、見覚えのある山が横たわっていることに気がついた。ここから真東の方角に位置する比叡山である。
まさしくそのシルエットは、この家の東側の窓から眺める比叡の山並みにぴったり一致していた。和也の瞳の中に映し出されている景色は、間違いなくこの場所から見たものだった。
やがて、茜色の空が徐々に翳《かげ》りはじめてきた。夜が近づいたせいではない。空を飛ぶカラスの数が急に増してきたのだ。
最初は二羽三羽のかたまりが途切れとぎれに飛来していたのが、いつしか空が暗くなるほどの数が集まっていた。奇妙な舞を舞うふたごの老婆に呼び寄せられたのか、カラスの大群が上空を埋め尽くしはじめていた――
6
黒、黒、黒、そしてまた黒――
夜の闇の代わりに、カラスの羽根の色が空を漆黒に染め替えていた。黒という色彩が、こんどは晴美の心に不安という感情を生み出していた。そして、中央の瞳が本来の黒の色彩を取り戻したことで、白目部分の赤い変色が、また生々しさを取り戻してきた。一瞬だけ忘れていた恐怖が、晴美の心に舞い戻ってきた。
いま晴美は、夫の瞳の中に展開する風景の色で、感情を自在に支配されてきた。さきほどの夢の中で陶芸家の坂井清二郎が語っていたように、色が彼女の心を操縦していた。
「はあ〜、黄泉《よみ》の国からよみがえる」
老婆の歌う声が、いちだんと哀愁を帯びてきた。
「娘よ愛《いと》し、とよみがえる」
「黒いカラスに誘われて」
「地獄の果てからよみがえる」
空に群れていたカラスの大群が、地面の一点を目指して一斉に舞い降りてきた。たちまちカラスの身体が黒い山を作ってゆく。その黒は、ちょうど和也の瞳の中心部に一致していた。
数百羽のカラスが群れるかたまりをかき分けて、白装束が現れた。老婆の着ている白装束だ。そして、ひとりが髑髏《どくろ》を拾い上げた。
落ちくぼんだ眼窩《がんか》からは雑草が顔を覗かせており、頭蓋《ずがい》のつなぎ目からも同じように緑が芽吹いていた。ぜんたいは土にまみれて茶色がかっている。老婆はそれのアゴの部分を開いたり閉じたりしながら、カスタネットに似た音を立てはじめた。
もうひとりの老婆は、カラスがたかっている黒い山の中から、もっと大きなものを拾い上げた。首の部分だけがない全身の骸骨《がいこつ》である。首なし骸骨でも、老婆の背丈よりはずっとある。その両手をとって、両脚は地面を引きずらせたまま、老婆は操り人形師のごとく巧みにそれを踊らせはじめた。
和也の左の瞳《ひとみ》では頭蓋骨が、右の瞳では首から下の骸骨が、それぞれ老婆の手によって奇怪なダンスを踊らされている。凄《すさ》まじい光景を夫の瞳の中に見出しながら、晴美の脳裏に、まさかという疑問が浮かんだ。
(あの骸骨……もしかしてパパでは)
セレモニーとしての葬儀は東京で行なわれたが、急死した父を荼毘《だび》に付したのは、この洛北の地であり、納骨も京都だった。この家からさほど遠くない霊園に、父は生きているうちに自分のための墓を用意していたからだった。
(パパの骨が、カラスたちに掘り出された)
そう思った瞬間だった。
「娘よ」
いままで老婆に身体の機能をすべて奪い取られ、動きを完全に止めていた和也が、突然しゃべりだした。が、またしても和也本人の声ではなかった。
忘れもしない、父・市ノ瀬恵造の声だった!
「娘よ、私は悲しいぞ」
夫の口を借りて、父親が悲痛な声を出した。
それと同時に、和也は目を閉じた。
舞い踊っていたふたごの老婆も、髑髏も首なし骸骨も、比叡山を背景にした古き日本の農村風景も、それからカラスの大群も、すべてが和也のまぶたによって隠された。そして、閉じたまぶたの間から赤い涙があふれ出した。
晴美は立ちすくんだまま、息をするのも困難になった。
(赤はきらい! 赤は恐い!)
「晴美」
目を閉じた和也は、赤い涙を流しながら、父の声で問いかけた。
「なぜおまえは、私の気持ちをわかろうとしない。三たび死のうとした父の気持ちを、遊び半分とでも思ったのか」
両目の縁からあふれ出した文字どおりの血涙は、左右の頬に赤い線を引きながら垂れてゆき、唇の両脇を通ってアゴへ伝わると、先端で一本の流れに合わさって、さらに和也の喉《のど》もとへと走っていった。
父の声に問いかけられても、晴美は答えられない。かすれ声ひとつ出すことも能《あた》わない。ジーンズを穿《は》いた両方の膝頭《ひざがしら》が大きく揺れて、サカサカ、サカサカとデニムの生地がこすれあう音を立てた。
(やっぱりパパだった)
晴美は、激しいめまいの中で、そのことだけを考えていた。
(やっぱりパパは、私の結婚を悲しんでいた。そして怒っていた。死んだあとも、ずっと怨《うら》みが消えないくらいに強く……)
(だけど、ほんとうにそれが理由なの?)
晴美の脳裏で、ふたつの考えがぶつかっていた。
(私がカズとの結婚を強引に押し切ったから、それだけでパパは私たちをここまで憎むの?)
それはどう考えても矛盾していた。和也だけに怨念《おんねん》をぶつけるなら、まだわかる。しかし、三たび自殺をするほど娘を愛していたならば、その娘にここまでひどい体験をさせるだろうか。
しかし一方で、自分と和也が強引に結婚したことが父親の命を縮める結果となったならば、徹底的に怨みを買っても仕方あるまいという思いもある。
そんな晴美の自問自答が伝わったのか、また父の声が語りかけてきた。
「権力の都、京には怨みがよく似合う」
次から次へと赤い涙をあふれさせながら、和也の口が動きつづけた。
「この土地は、いちど生まれた怨みの花を、永遠《とわ》に咲かせつづけてくれる場所。古くは平安の世から、武士の時代を経て現代に至るまで、いったい幾百万、幾千万の人々が、口惜《くや》しさと怨めしさに悶《もだ》えながら、血を流して死んでいっただろうか。神の鎮座まします磐座《いわくら》に通ずる地名を持つこの岩倉の家で、古都に伝わる怨念の研究をつづけるうちに、私は人の怨みというものが持つエネルギーのすさまじさを思い知ったのだ。
人は死んでも怨みは死なぬ。肉体は滅びても、怨念は消えぬ。時の流れという薬など、何の効き目も果たさない。
ああ、娘よ、晴美よ、この古都の土は、いったいどれほど多くの怨みに満ちた血液を吸い込んでいるのであろうか。どれほど多くの無念さに満ちた肉片をくわえ込んでいるのであろうか。そのおどろおどろしい土の世界に埋められた私は、絶望の底に蠢《うごめ》く死者たちに勇気づけられ、そしてふたたびおまえのもとへ戻ってきた。
よいか晴美、娘のおまえに裏切られたことを、私は決して忘れぬからな! どこまでも、いつまでも、私はついてくる。いやだと言うても、ついてくる!」
カッと、和也が目を見開いた。
むきだした眼球から、どす黒さを帯びた血のかたまりがドロリとあふれ出した。
それがボタッと音を立てて廊下の床に落ちた。そして動き出した。晴美のほうへ。
(また血の海に襲われる……)
頭の中が真っ白に……ゼロになっていくのを感じながら、晴美はその場にくずおれた。
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[#2字下げ]第八夜 源光庵「悟りの窓」と「迷いの窓」
結婚って、ほんとうに難しいですよね。もちろん結婚生活を平穏無事につづけることも大変でしょうけれど、まだ独身の私にとって最大のハードルは、結婚へ踏み切ること、そのことじたいなんですよ。やっぱり一生に一度のイベントを失敗したくないじゃないですか。
私、都心にある事務用品関係の会社に勤める平凡なOLです。もうすぐ三十回目の誕生日がやってきます。三十ですよ〜。
でも、いまの時代、女の子の適齢期なんてあってないようなものだから、三十の大台が目の前に迫っていることに対しては、あまり焦りは感じていません。
だけど、もしも……もしもですよ、結婚が失敗したら、やり直すには若いほうがいいなと思って、それでいま決断すべきかどうか、すごく迷っているんですよね。
じつは好きな人、いるんです。結婚してもいいと思っている男性が。プロポーズもされました。
彼、青柳健介《あおやぎけんすけ》といいます。若そうな名前だけど、四十五歳のおじさんです。いまつきあっている彼が四十五歳だと言うと、友だちはみんな口を揃えてきき返します。その彼って、もしかしてバツイチでしょ、って。
そうなんです。青柳さんは三年前に奥さんと別れています。三人のお子さんは、みんな奥さんが引き取りましたから、子連れというわけではありません。
離婚の原因はふたつあったそうです。ひとつは彼の浮気。そしてもうひとつは、仕事が面白すぎて家庭がつまらなくなった、というのが彼の言い分。意外だったのは、奥さんから一方的に切り出された離婚ではなくて、ふたりが同時に結婚生活の継続は無理だと投げ出してしまったんですって。
青柳さんは東京のテレビ局に勤めています、映画部というセクションに。映画を作る部署かと思ったらそうではなくて、テレビで放映するための洋画や邦画の権利を買い付けたりする仕事だそうです。
そのおかげで、私も役得させてもらっています。彼の権限で新作映画の試写にときどき同伴させてもらえるんです。大きな劇場の試写会ではなくて、配給会社の中にある小さな試写室でやるプレビューに、テレビ局のスタッフみたいな顔をして、くっついていくんですよ。もちろん、その日は私、有給休暇をとって会社を休んでしまいます。一般の試写会と違って、関係者のプレビューは、ふつう昼間にやりますから。
試写室にきているテレビでお馴染《なじ》みの映画評論家たちと親しそうに彼が話しているのを見ると、ああ、これがマスコミなんだなあと、なんだかドキドキしてしまいます。こういう刺激的な生活がしたかったんです、私。
青柳さんは、ぼくは歳も歳だから結論を急ぎたいと言って、プロポーズの答えをせかしています。その勢いにまかせて、すぐに首をタテに振ろうかと何度も思うのですが、そのたびに何度もためらって、まだ返事をしていません。
私、すごく男の人に尽くすタイプなんです。だから結婚したら、ほんとうにいい奥さんになれると思っています。離婚で傷ついた過去をぜんぶ洗い流してあげられるように、彼をいっぱい幸せにしてあげられる自信、すごくあるんです。でも、逆に私のほうは?
ときどきフッと不安になるんですよ。いまは恋人という立場だからこそ、青柳さんはこんなに私を楽しませてくれるんじゃないか。もしも結婚して妻という肩書きの女になったら、急に態度が変わるんじゃないか、って。
たとえば映画の試写だって、これからは妻を仕事の場に連れてくるなんて公私混同だ、ということになるんでしょうし。でもヘンな話ですよね、恋人のときは大目にみてもらえるのに、正式な妻になったら、そういうことが一切許されないなんて。
使い古された言葉かもしれませんけれど、「釣った魚にエサはやらない」というのが男の人の基本的な姿勢だとよく言われますよね。いえ、男の人ひとりひとりの主義じゃなくて、日本の世の中そのものが、まだまだ結婚した女を粗末にする仕組みを捨てられずにいるんじゃないでしょうか。
私、結婚を考えたとき、そこがいちばん不安なんです。
青柳さんが奥さんに飽きてしまったのも、育児とか家事の役割ばかりを奥さんに与えて、ひとりの女性として愛してあげたり、楽しませてあげることをしなくなったからでしょう。楽しませてもらえない女は、きっと老けるのも早いだろうし。
よく考えたら、結婚て、恋人という最高の立場を剥奪《はくだつ》される儀式かもしれないんですよね。恋人関係を卒業するのが結婚だったら、そんな悲しいセレモニーってないじゃないですか。
もしも私が青柳さんの妻という立場になったら、そのときは幸せに包まれても、けっきょくは捨てられた奥さんと同じ運命をたどることになるかもしれない。そんな気がして、すごく心配なんです。
いま私は京都にきています。たったひとりで……。結婚のことで迷っている心をはっきりさせるために、源光庵《げんこうあん》という場所をたずねてきました。
金閣寺の裏手の道を車で上がっていくと、鷹峯《たかがみね》というところに出るんですけれど、そこに光悦寺《こうえつじ》というとても素朴なお寺があって、その斜め向かいにあるのが源光庵。
ここも静かなお寺です。団体の観光客はめったにこないんじゃないでしょうか。いまもひっそり静まり返った本堂には私ひとりしかいません。お寺の人に訪問を告げるためにチリリンと鳴らした鈴の音が、まだ消えずに耳に残っているほどです。
緑の木々が揺れるのといっしょに、開け放った廊下から夏の風が入ってきます。外はうるさいほどの蝉《せみ》時雨《しぐれ》なのに、お堂の中に吹き込んでくる風は爽《さわ》やかです。いまが八月であることを忘れてしまいそう……。
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気がつくと夜になっていた。
だが、晴美は眠っていない。パジャマになって蒲団《ふとん》に入り、寝息を立てているのは和也だけで、晴美は着替えもせず起きていた。
和也の口を借りて語りかけてきた父の流す赤い涙――その常軌を逸した光景に気を失った晴美が意識を取り戻してみると、いつのまにか眠る夫の枕もとに座っていた。
それは病人に付き添って看病する姿にも似ていたが、彼女がしているのは看病ではなく、観察だった。
八日目の晩、また夢の状況に変化が訪れた。これまでは和也と晴美は同時に睡魔に引き込まれ、同じ内容の夢を同じタイミングでみてきた。が、今夜はなぜか晴美には眠気が訪れない。まもなく午前零時になろうとするのに、少しも眠くならないのだ。
対照的にぐっすりと寝入った夫の顔は穏やかだった。両目から噴き出したはずの血液の跡などどこにもない。
和也の真っ赤な瞳《ひとみ》の中で、老婆たちが語り、そして茜《あかね》色に転じた風景の中で踊り出したあの一幕も、やはりあれ[#「あれ」に傍点]の作り上げた幻覚だったのだろうか。
晴美は混乱していたが、ひとつだけ確かなことがあった。それは和也が、一連の怪奇現象はすべて妻の魔力が引き起こしたものだと決めつけ、晴美をまったく信用しなくなってしまったことだった。
ふたりきりの閉鎖空間で、一方の人間から疑いを持たれたら、もう一方の人間にとっての心の支えは何もなくなってしまう。
(私とカズの仲を引き裂くことも、パパの戦略なの?)
この家のどこかにたたずんでいるかもしれぬ父親の怨霊《おんりよう》に語りかけてみたが、返事はない。
和也だけが眠りについているのも、晴美を精神的に孤立させる狙いがあるとしか思えなかった。それも父の霊が仕組んでいるのではないか、という気がしてならなかった。
晴美は夫の寝顔にじっと見入った。
寝言もないし、寝返りも打たない。だが、ときおりまぶたの下で眼球がピクピク動くのが見てとれた。
(きっと夢をみているのね。また新しい夢を)
だが、起きている晴美には、その内容がわからない。それがもどかしかった。
他人のみている夢をリアルタイムで知り得ないのは当然なのに、いまの状況では、ふたりいっしょの夢を体験できないことが不安だった。
(知りたい。いま、カズがどんな夢をみているのかを)
晴美は、知らず知らずのうちに、和也のまぶたへ手を伸ばしていた。
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いま私は、源光庵の本堂にあるとても有名なふたつの窓の前に座っています。
その名も「悟りの窓」と「迷いの窓」。
円い窓と四角い窓が並んでいるんです。「悟りの窓」と名付けられているのは円いほう。悟りを開き、カドが取れて円くなったということを表わしているそうです。
もう一方の四角い形をした「迷いの窓」は、悟りの境地に達する前でまだカドがとれていない、というわけです。いまの私の心境ですね。
私はその真ん中に座って、両方の窓をじっと眺めました。円く切り取られた夏の緑と、四角く切り取られた夏の緑が、ふたつ並んで鮮やかに目に飛び込んできます。
不思議なことに、ふたつの窓の中にある草木は同じ風に吹かれているはずなのに、それぞれの揺らぎ方が違って見えるんです。その違いは、いつまで眺めていても見飽きることがありません。
しばらく経ってから、私は迷っている自分とまっすぐ向かい合えるかもしれないと思って、少し位置を右にずらして「迷いの窓」の真正面に正座しました。
すると、頭の片隅に青柳健介さんが登場して、私を必死に口説いてくるんです。
「離婚経験のある男だからこそ、ぼくはこんどの奥さんに対してやさしくなれると思うんだ。どういう形の結婚が妻となる女性にとってもっとも幸せなのか、その真実は、いちど失敗を踏んだ男でないと決して理解できるものではない。
ねえ、よく考えてごらん。結婚という、気が遠くなるほど長くつづけなければならない生活を、未熟な若者どうしがいきなりうまくやれると考えるほうがおかしいんだよ。試合に臨むスポーツ選手にしても、コンサートをやる歌手にしても、みんな本番前に練習を積むのに、どうして結婚だけはぶっつけ本番で、練習がないのが当然と思われているんだ。おかしいじゃないか」
青柳さんのそのユニークな発想に「ああ、そのとおりだなあ」と私はすっかり感心してしまいました。彼の言うとおり、結婚という人生の一大事業が、ぶっつけ本番の一回目でうまくいくのが当然と決め込んでいる世間の常識って、なんだかおかしな話ですよね。初体験どうしで結婚生活をはじめるより、結婚というものを前もって体験した男性にすべてをまかせたほうが安心。そういう考え方は、とても納得がいきます。
だから私は、自分に言い聞かせようとしました。結婚に失敗した経験を持つ青柳さんだからこそ、私は幸せにしてもらえるのよ。彼の離婚は、私に幸せを運んでくれるためにあったんだわ。だからもう迷うのはこれっきりにして、彼を信じて、これからの人生のすべてを委ねるのよ、と。
うん、気分が明るくなっちゃったかな。「迷いの窓」って、迷える人間に答えを導いてくれるものなんですね。
でも……。
でも、でも、でも、なぜか最後の一歩を踏み出せない自分がいるんです。
それはどうして?
その答えは「迷いの窓」の前に座っている間は出てきませんでした。そこで私は、座る場所をほんの二、三メートルだけ左に移して、こんどは「悟りの窓」の前に正座しました。そして静かに目を閉じ、答えが出てくるのを待ちました。
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こんこんと眠りつづける夫の様子をじっと枕もとで見守っていた晴美は、和也がどんな夢をみているのか確かめたくて、彼のまぶたに手を伸ばした。
まぶたを開いてみれば、いまみている夢が自分にも確認できると思うことからして、異常と言えば異常な発想だった。それを異常と思わず実行しようとする自分は、どこかおかしいはずだった。そのことも意識の片隅で認識していながら、晴美は自分の動作を止めることができなかった。
そして、まさに彼のまぶたに指先がふれようとしたとき、突然、和也がニヤッと笑った。
(………!)
晴美は、反射的に手を引っ込めた。
おそらく夢の中で何か愉快なことがあって笑っているのだろうが、晴美にしてみれば、眠ったまま自分に笑いかけてこられたようで気味が悪かった。
だが、どうしても和也の夢が見たい晴美は、突然浮かんだ笑いがゆっくりと消えていったのを見計らって、いちど引っ込めていた手を、またおずおずと夫の顔の前へ近づけていった。
もしかすると、また例の老婆が瞳《ひとみ》の中で座っているのを見ることになるかもしれなかったが、夫の頭の中を覗《のぞ》くには、そうするよりなかった。そして、まず左まぶたのほうを、おそるおそる指で開いてみた。
(………!)
またしても予想もしなかったものをそこに見て、晴美は後ろにのけぞった。
和也の白目は、もう赤くはなかった。どこにも血の色はない。しかし、瞳そのものがなくなっていた[#「瞳そのものがなくなっていた」に傍点]。黒い瞳が存在しないのだ。
瞳の代わりに、左目の中央には円い窓があった。円形のガラスが嵌《は》め込まれた向こうには、緑の草木が風に揺れている。
いまにも心臓が飛び出してきそうなほど激しい鼓動が、晴美の胸を内部から突き上げてくる。しかし彼女は、和也の右目のほうも確かめずにはいられなかった。
晴美は夫の左目をいったん閉じ、こんどは右目を開いた。
「ああ……」
小さな声が、晴美の唇から洩《も》れた。
右目も黒い瞳は失われており、こちらには四角い窓があった。やはり窓の向こうには風に揺らぐ木々の緑が見える。
左の目には円い窓、右の目には四角い窓。それが金閣寺の北方、鷹峯の丘にある源光庵のふたつの窓であることは、晴美にもすぐわかった。直接足を運んだことはないが、父親のアルバムで写真を見た記憶があったからだ。
左が「悟りの窓」で、右が「迷いの窓」。左右の位置関係までが、実際と同じだった。
(カズ……源光庵の夢をみているのね。いったいどんな夢?)
晴美が指を離すと、左のまぶたは、右のまぶた同様、自然に下りて和也はまたもとの寝顔に戻った。目を覚ます気配はまったくない。
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どれくらい「悟りの窓」の前に座っていたかわかりません。突然、私の頭にひらめいたものがありました。すごくいい考えが。
そしてその瞬間、私は、迷いを振り切ることができました。
(やっぱり結婚しよう。東京に帰ったらすぐ青柳健介さんと)
私はぱっちりと目を開け、円い窓に切り取られた夏の緑を見ながら、心の中で固く誓いました。
(私、絶対に幸せになってみせる。心から彼に尽くすの。そして死ぬまで愛しつづけるわ。私の二度目の夫になってくれる人を……)
そうなんです。私、決めたんです。一度目は練習結婚[#「一度目は練習結婚」に傍点]、そして二度目を本番にしようって。
青柳さんだけ練習アリなんて、ずるいじゃないですか。私だけぶっつけ本番なんて不公平じゃないですか。
どうせ最初の結婚は練習なんだから――そう悟った瞬間、急に気持ちが楽になりました。そうなんだ、最初の結婚は深く考えず、テキトーにやっちゃえばいいんだわ。青柳健介さんを練習台にして、私も結婚生活の真実を勉強させてもらえばいいのよね。
ああ、そのことがわかったら、なんだかとってもスッキリしちゃったわ。きゃっほーって叫びたいくらい。ここにきてよかったあ。
そして私は「悟りの窓」に向かって御礼を言いました。
「きょうはどうも、ありがとうございましたっ!」
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「きょうはどうも、ありがとうございましたっ!」
和也が、突然声を出して叫んだ。まだ目を閉じたまま。
おもわず晴美は、キャッと叫んで夫の枕もとから飛び退いた。と同時に、ボーンとひとつ、低い音を立てて柱時計が鐘を打った。
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[#1字下げ]12 九日目(一)
この家で聞いたことのない柱時計の鐘の音に、晴美はびっくりして周りを見回した。
和室の柱には、ごく平凡な円形の掛け時計が掛かっている。それがちょうど午前零時を指していた。だが、その時計が立てた音でなかった。鐘の音は、いま和也が眠りについている和室の外から聞こえてきた。
ボーン[#「ボーン」はゴシック体]
また鳴った。
それが午前零時を告げる時の鐘ならば、間隔を置きながらあと十回鳴るはずだ。その柱時計がどこにあるのかを探すために、晴美はこんこんと眠りについている和也の枕もとから立ち上がった。
(暗い……暗すぎる)
最初に感じたことが、それだった。家じゅうが暗い。二組の蒲団《ふとん》が敷いてある和室こそ天井の明かりが点《つ》いていたが、ほかの部屋に一切照明は灯《とも》っていなかった。晴美は、和也の瞳から血のかたまりがドロリと落ちた、あの場面で気を失ってから、意識を取り戻すまでの間に、いつのまにか夜になっていたことを思い出した。
それにしても、陽だまりの廊下に腰を下ろす和也に声をかけ、彼の目が真っ赤に染まっているのに気づいてからはじまった一連の白昼夢――あれはまだ真昼の出来事だった。それから丸半日も、晴美は意識を失っていたことになる。あまりにも長すぎるブラックアウトだった。それは『意識を失う』というよりも、何者かに『意識を奪われていた』と表現すべき感覚だった。
そして意識を取り戻すと、和也の枕もとに座り、ひとりで夢をみつづけている彼を眺め下ろしている自分がいたのだ。
ボーン[#「ボーン」はゴシック体]
三つ目の鐘が鳴った。
この鐘の音に導かれるようにして行動するのは危険かもしれない、という思いはあった。だが、いまの晴美には、とるべき正しい行動について相談する相手がいなかった。自分だけの判断で動いていかねばならないのだ。
(とにかく、どこで柱時計が鳴っているのかを確かめなくちゃ)
晴美は、真っ先に隣の部屋を開けて電気を点けた。が、そこには何もない。廊下の電気も点けたが、やはり柱時計はどこにも見つからなかった。
なんと、昼間和也が庭を眺めていたままに、廊下のガラス戸が開きっぱなしになっていた。不用心なかぎりだが、皮肉なことに、この家には泥棒よりも恐ろしいものが取り憑《つ》いていた。だから晴美は、戸締まりをしないまま夜を迎えていたことをなんとも思わなかった。
(もしかすると、庭に柱時計が置いてあるのかもしれない)
そんな発想も、ここまで信じがたい出来事が連続すると、決して突飛なものとは言えなくなっていた。
晴美は縁側から身を乗り出して周囲を見渡した。だが、月明かりに照らし出された庭には、格別変わったところはなかった。
(へんなの。星が出ていないのに、月だけが明るい)
無意識に夜空を見上げた晴美は、ふと首をかしげた。
隣家との距離が離れ、夜間に明るい照明を放つ建物もないから、晴れた夜には天の川すら見えることがある。しかし、いま夜空に星の輝きはまったくなかった。といって、曇っているわけでもない。その証拠に、上空には満月が煌々《こうこう》と照り輝いており、月明かりの届く範囲に雲は見当たらない。それなのに星は、ひとつたりとも浮かんでいない。
奇妙なバランスの夜空だった。
ボーン[#「ボーン」はゴシック体]
四つ目の鐘が鳴った。
晴美は自分の耳を疑いながら、後ろをふり返った。さっきとはまったく違う方向から鐘の音が聞こえてきた。それはキッチン、浴室、トイレなどが並ぶ北側のほうだ。
音の出どころが動いていた。
(柱時計だとしたら、位置を変えるはずなんてないのに)
まだキッチン周辺の電気は点けていない。家の北側部分は闇に沈んでいる。そちらへ足を向けるのは恐かった。
(カズを起こそうか)
それも考えたが、もはや彼は、いつもの彼ではない、と思い直した。
まぶたを開ければ瞳がなく、源光庵の「悟りの窓」と「迷いの窓」が浮かび上がるような状況なのだ。たとえそれが、晴美の精神に起因する幻覚であっても、いま和也を起こせば、助けになるどころか、よけいに事態は混乱の度を増すばかりだと思った。こうなったら、自分ひとりですべてに立ち向かうしかないのだ。
迷っているうちに、五つ、六つ、七つと、晴美の行動を催促するように午前零時を告げる鐘が鳴りつづけた。ボーン、と聞こえてきたのが、心なしかバーンという、いちだんとうるさい響きに変わったようだった。
晴美は深呼吸をひとつして気合いを入れ、音のしたほうへ進んだ。そして、窓にぼんやりと月明かりがにじむキッチンに一歩踏み入れた、そのときだった。
暗がりの中に父の気配がした。
なぜそう思ったかわからない。とにかく、パパがいる、と思った。
昼間、和也の肉体を借りて父の声が語りかけてきたときより、もっと明確な存在感があった。市ノ瀬恵造という人物そのものが暗闇の中にいる、という感じなのだ。
バーン[#「バーン」はゴシック体]
驚くほど間近で、八つ目の鐘の音が聞こえた。間違いなく、いま晴美がたたずんでいるキッチンのどこかで鳴った。
晴美は、薄明かりの中で懸命に目をこらした。だが、柱時計らしきシルエットはどこにも見当たらない。キュルルルと、冷蔵庫の冷却回路が循環する音だけが、まともな日常生活というものを思い起こさせてくれる。
が、それを打ち消すように……。
バーン[#「バーン」はゴシック体]
九つ目の鐘が鳴った。
こんども近かったが、聞こえる位置が、また少し移動していた。
(死んだパパが柱時計を背中におぶって、家の中をゆっくり歩いている)
ふだんの晴美の頭では考えつきそうにないシュールな光景が脳裏をよぎった。想像しただけで、晴美の全身の毛穴が一気に開いた。もちろん、恐怖のせいで。
日中は汗ばむほどの上天気だったために、夜になってもその暖かさが室内に溜《た》まっていた。しかし、さきほどから晴美は、室内を移動するとき、ところどころでヒヤッとした空気のかたまりに出会うのを感じていた。夜の冷え込みとは異なる、もっとねっとりした粘液状の冷たいものだった。たとえて言えば、冷蔵庫でよく冷やしたゼリー状のドリンクが、無重力状態で宙に浮いている。そこに顔からぶつかっていく感じだった。
ひょっとしたら、死者の霊気かもしれない、と思った。
(パパの霊が、うろつき回っている)
そう考えたとたん、晴美は動けなくなった。
バーン[#「バーン」はゴシック体]
十打目の鐘は、晴美の立っているところから急に離れた。
その音がした方角には風呂《ふろ》があった。築五十年のこの家が建ったときから変わらない、木製の湯船がある風呂場だ。音源はそちらのほうに移動していた。
(いま、へたに動いたら、また冷たいものにさわるかもしれない。歩き回っているパパの霊にぶつかるかもしれない。もう、いや。パパの身体にさわりたくない)
まだ電気も点《つ》けないままの薄暗いキッチンで、晴美は前にも後ろにも、右にも左にも動けなくなり、立ち往生した。
と――
ぺちゃっ[#「ぺちゃっ」はゴシック体]
と、何かが頬を撫《な》でた。見えない亡霊の手が頬に貼りついた、という感触だった。
反射的に身体をひねると、つづいて首筋のあたりに、
ぺちゃっ[#「ぺちゃっ」はゴシック体]
と、また何かが貼りついた。こんどは、かなり具体的な形状を晴美に認識させた。
手だった。[#「手だった。」はゴシック体]
死者の手だった。五本と五本、合わせて十本の冷たい指が、ピアノの鍵盤《けんばん》を叩《たた》くように、晴美の首筋を両側からはさむ格好で這《は》い回った。
恐怖は人に本能的な叫びをもたらすが、その度合いがひどすぎると逆に声も出なくなる。叫び声を上げることは、恐怖への対抗措置といってもよい。それすら、いまの晴美にはできなかった。
金縛り状態でいると、スッと、その手が離れた。同時に、バーン、と十一打目の鐘が聞こえた。鐘の音色は、かなり長い残響を伴っていた。風呂場の中で鳴っているからだ、と晴美は受け止めた。
こっちにこないと、またおまえをさわるぞ、という暗黙の威嚇を感じ、晴美は否応なしに風呂場のほうへ歩き出した。いつのまにか、柱時計のあり場所を探すという能動的な行為から、時を告げる鐘に操られるという受動的な立場に転じていた。
キッチンからトイレに通じるのれんをくぐり、その横手にある洗面所の扉を外側へ開くと、その奥がこぢんまりした風呂場になっていた。風呂場の扉は木製の引き戸式で、五十年前に製造されたままの薄い曇りガラスが嵌《は》め込まれていた。
引き戸を開けるときには下のレールと戸車がこすれてガラガラと大きな音を立て、嵌め込みのゆるんだ曇りガラスもガタピシと振動する代物である。だから、それが開け閉めされれば、家のどこにいても聞こえるほどだった。
だが、少なくとも柱時計の鐘の音がキッチンで聞こえてからのちは、風呂場の扉が開閉された様子はない。それなのに、ぴたりと閉ざされた浴室の中から十一打目が聞こえてきたのだ。
晴美は、深い紺色に染まった風呂場の曇りガラスをじっと見つめながら、十二打目の鐘を待った。
しかし、なかなか最後の鐘が鳴らない。いままで聞こえた鐘の数は間違いなく十一。そしていまは午前零時を回ったところだ。まだ姿を見せぬ柱時計に正確さを求めるならば、あとひとつ、鐘が鳴らなければいけない。
(どうして、もうひとつ聞こえないの?)
じれた晴美が、風呂場の引き戸に一歩近づいたときだった。
「ぶわわわわ〜ん」[#「「ぶわわわわ〜ん」」はゴシック体]
風呂場の中から時計の鐘ではなく、人の声が聞こえた。
晴美の父、市ノ瀬恵造の声が。
そして晴美の見ている前で、ガラガラ、ガタガタと音を立てながら、木製の戸がゆっくりと引き開けられていった。
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[#2字下げ]第九夜 嵯峨野さやさや二人旅
いまからちょうど一年前、大学三年のときの夏休みに、生まれ故郷の京都嵯峨野に戻って人力車を引くアルバイトをやろうと思い立ったのは、若いくせに運動不足がたたって、かなり身体の調子が崩れてきたのを感じたからだった。
ぼくは高校時代は陸上部の中距離ランナーだったが、東京の大学に入ってからは、パソコンにすっかりはまってしまい、暇さえあればコンピューターグラフィックスの制作に没頭するというありさま。おかげで、二十歳をすぎたばかりというのに腹のあたりに過剰な贅肉《ぜいにく》も付いてきた。これはまずいと反省し、バイト代を稼ぎながら身体を引き締めるという一石二鳥のアルバイトとして人力車の車引きという仕事を選んだわけなのだ。
やると決めたら、そこは京都嵯峨野育ちのぼくである。渡月橋《とげつきよう》、天龍寺《てんりゆうじ》、大《おお》河内《こうち》山荘、野宮《ののみや》神社、常寂光寺《じようじやつこうじ》、二尊院《にそんいん》、落柿舎《らくししや》、滝口寺《たきぐちでら》、祗王寺《ぎおうじ》、清凉寺《せいりようじ》、大覚寺《だいかくじ》、宝筐院《ほうきよういん》、そして化野《あだしの》念仏寺から愛宕《おたぎ》念仏寺に至るまでの嵐山・嵯峨野|界隈《かいわい》は、ぼくにとって小さいころから庭のようなものだった。
それに、観光人力車の元締《もとじ》めのおじさんとも昔から顔なじみだったから、頼み込んだらすぐに期間限定で雇ってもらうことが決まった。与えられた車は鮮やかな深紅で、幌《ほろ》が黒だった。
ぼくにとって、手甲脚絆《てつこうきやはん》姿に身を固めた車引きのアルバイトはシェイプアップが最大の目的だったから、ほかの「リキシャマン」たちと違って、ある程度体重のある客が乗ってくれることを歓迎した。
そうやって鍛えられたおかげで、二週間も経たないうちに、弛《ゆる》みきっていたぼくの身体は目に見えて引き締まってきたし、体調も素晴らしくよくなった。
そして、問題の客を乗せたのは、八月も終わりにさしかかり、期間限定のアルバイトもいよいよきょうでおしまいという日だった。
ひと夏の車引き体験の、最後の最後にやってきた客によって恐ろしい目に遭わされようとは夢にも思わず、その日のぼくはいつもよりずっと遅くまで車を引いていた。
まもなく九月になるだけあって、太陽が傾きかけたころには、山のほうから頬に涼しい風がさやさやと吹いてくるときもある。この日もそうだった。そしてそういう時間帯になると、車に乗ってくれる客もほとんどいなくなる。
日はまだじゅうぶんに長かったけれども、京都観光における一日の終わりは早い。すべては寺社の拝観時間に合わせることになるから、はじまりも早いけれど終わりも早いのだ。お寺の門を閉ざされるころが、だいたいぼくらの仕事の退《ひ》けどきになる。まばらになった観光客は、それぞれの長い影を引きずって歩き、「くるま、いかがですかあ」というぼくの呼びかけに興味を示す者はいなかった。
別名を嵯峨|釈迦堂《しやかどう》とも呼ばれる清凉寺の裏手にある、秋の紅葉が素晴らしく美しい宝筐院の門前で若いカップルを降ろしたあと、もうこれで引き揚げようと人力車の梶棒《かじぼう》を持ち上げたときだった。知らぬ間にぼくのそばにひとりの女性が立っていた。
「きれいな人力車ね。これ、乗ってもいいかしら」
しっとりと上品な声だった。
ふり返ると、夏むきの絽《ろ》の和服を着た、美しい中年女性がそこにいた。
若いぼくには、正確な年齢の見当はつかないが、五十を超えているのは間違いないだろうと思った。はっきり言えるのは、美人ということだった。二十歳そこそこのぼくが、その年代の女性を見て美しいと感じるなんてめったにないことだ。右の目尻《めじり》にある泣きぼくろが艶《つや》やかだった。
ひと夏のアルバイトの締めくくりのお客さんとしては、ぴったりと思ったぼくは、もちろんふたつ返事で「どうぞ」と引き受けた。すると彼女は、連れがあるそぶりで、人力車の幌の陰のほうに向かって手招きした。
これほど美しい人だから、ご主人がいるのは当然だろうなと思って待っていると、後ろから出てきた人物を見て、ぼくは息を呑《の》み込んだ。
彼女がもうひとりいた! 泣きぼくろの位置までまったく同じだった。
それが『ふたご』であることは、ぼくも頭の隅ですぐに理解した。だが、あまりにも似すぎていて、周囲の映像が二重に見えているのかと思ったほどだ。
美しく上品な顔立ちをした着物姿の中年女性のふたご――
不思議だった、ひとりだけなら美を感じるのに、同じ顔がふたりいると、背筋が寒くなる。
「よかったわ」
独り言なのか、ふたごの片割れに話しかけたのかわからない口調で、最初の女性が言った。
「もう人力車は終わりかと思っていたから……。それじゃ、乗せていただきましょうね」
その話しぶりから、ぼくは最初の女性をふたごの姉で、あとから登場したのが妹だと勝手に決めつけた。
しかし『妹』は『姉』の問いかけにうなずくだけで、ひとことも言葉を発しなかった。そこからして妙な雰囲気だった。
座席には姉のほうが先に腰を下ろした。木箱の踏み台を使って乗り込むとき、ぼくはいつもそうするように彼女に手を添えたが、年を感じさせないしっとりと柔らかな手をしていた。
つづいて妹が乗り込むときにも、ぼくは手を添えた。が、その瞬間、ぼくは反射的に自分の手を引っ込めようとした。相手の手が、氷のように冷たかったからだ。
そのぼくの戸惑いに気づいたのか、彼女は無言でぼくを見つめた。わずか一秒にも満たない間だったと思うけれど、その視線の中に含まれた哀しい訴えかけが、ぼくの心に突き刺さった。
「車屋さん、化野念仏寺まで行ってくださるかしら」
姉のほうの声に、ぼくはハッと我に返った。
「承知いたしました」
と言ってから、すぐにぼくは気がついて言い添えた。
「でも、いまから行っても念仏寺の拝観時間は終わってしまいましたけれど」
「いいのよ、かまわないから行ってくださいね」
その口調は穏やかだけれども、有無を言わせないものがあった。それでぼくは着物姿の美しい中年のふたご姉妹を乗せて、化野念仏寺をめざして黙々と車を走らせた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
[#ここから3字下げ]
和室に横たわった永瀬和也は、猛烈なスピードで夢をみつづけていた。
源光庵を舞台にした第八夜の夢が終わると、間をおかずにすぐつぎの夢がはじまった。もはや夢は一晩一幕のペースではなくなっていた。
(あれ[#「あれ」に傍点]が急いでいる)
眠りの世界をさまよいながら、わずかに覚醒《かくせい》している部分で、和也はそう認識した。
(なぜか、おれに一気に夢をみせようと、急いでいる)
その彼の意識の中で、「あれ[#「あれ」に傍点]」は「晴美」と同義語になっていた。
源光庵の夢は、和也にとって妻の裏切りを象徴する内容と受け取れた。理想の結婚相手と結ばれるため、最初の結婚はあくまで練習だと割り切る女。その主人公は、疑いもなく晴美当人だと思った。
きっと彼女は、好きになった男たちに愛を語りながら、腹の中では別のことを考えていたのだ。その邪悪な計算ゆえに二度の恋愛は崩壊したが、ようやく永瀬和也という獲物はつかむことができた。
父親の市ノ瀬恵造が結婚に猛反対したとしたら、それは娘への独占欲ではなく、きっと和也を不幸にすまいという必死の配慮からだったのだ。
そう考えれば、第七夜の比叡山の夢は、そこに出てきた父親の釈明が真実か否か、和也にとっては正解は明らかだった。
(けっきょく、おれは引っかかった、ってわけだ。練習結婚という踏み台に見事されてしまった)
眠りながら、和也は自分をあざ笑った。
と、同時に、晴美への猛烈な憎しみが募った。何者かの手によって見事に精神を操られているとも気づかぬままに。
そしていま、彼は第九の夢に突入し、夕暮れが近づく静かな嵯峨野をひた走りに走っていた。人力車の車引きとして。
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* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
ふだんならば、滝口寺や祗王寺にも立ち寄ったり、山下清の「裸の大将記念館」で車を停めて中に入ったりと寄り道をするのだが、時間が遅いことに加えて、ふたご姉妹には、目的地のほかは一切興味がないという様子がありありとうかがえたので、ぼくはまっすぐ化野《あだしの》念仏寺へ向けて車を引いていった。
途中の観光ガイドも無用と感じられたので、向こうから話しかけてこないかぎり、よけいな口は利かないことにした。そして案の定、ぼくに向けての質問は何もなかった。それどころか、ふたご姉妹の間でも会話はなかった。ずいぶん無口なふたりだなと思った。
洛西《らくさい》の化野は、かつては鳥辺野《とりべの》、蓮台野《れんだいの》と並んで知られる葬送の場所だった。いわゆる冥界《めいかい》への入口である。ことに化野念仏寺境内の、無縁仏を祀《まつ》る無数の石仏群は壮観である。
そのことが頭をよぎったとたん、ふたごの妹の手の冷たさを思い出し、ぼくはまた寒くなった。こめかみのあたりから流れかけていた汗がスッと引っ込んだ。
また、タイミングのいいことに、車を引くぼくを見下ろすような位置から、カア、カアと淋《さび》しげなカラスの鳴き声が聞こえてくるのだ。まるで冥界への案内役みたいに。そのカラスの声に導かれるようにして、あっというまに化野念仏寺へ上る階段の下まできた。
晩夏の太陽もそろそろその輝きを失ってくるころで、ほんの一時間前までは観光客相手のにぎやかさに満ちていた周囲の土産物屋も、いまはほとんどが店じまいして、人通りもぱったり途絶えていた。
階段のところで梶棒を下ろし、踏み台を置いて降りる介添えをしたとき、妹の冷たい手がまたぼくに触れた。
乗り込むときよりも、ますます冷たさを増していた。
「それじゃ三十分か、もう少しかかるかもしれませんけれど、ここで待っていてくださいね」
姉のほうがそう言って、規定料金の前払いプラス三千円ものチップをぼくに手渡し、先に立って、ふたりは階段を上っていった。
拝観終了時刻をすぎても平気なところをみると、寺の檀家《だんか》なのだろうか。そんなことを考えながら、ぼくは石段に腰掛けて、オレンジ色に染まりはじめた西の空をぼんやりと眺めていた。
(それにしても、あの姉妹はどういう人たちなんだろう)
ふだんは、乗せた客の背景などいちいち想像したりしない。このカップルは恋人なのか、夫婦なのか、それとも不倫の間柄なのか、などと、野次馬的な好奇心はほとんど抱くことがない。車を引いて走るというエネルギーを消耗する動作が、よけいな思考を妨げてしまうのだろう。
だが、きょうは違っていた。美しくも、どこか冷たい不気味さを感じさせるふたごの姉妹に、ぼくの好奇心はいやがうえにもかき立てられていた。
(もしかすると……)
ふと恐ろしい考えが浮かんだ。
(あのふたごの妹のほうは、ほんとは死んでいるのでは?)
いったんそんな考えに取り憑《つ》かれると、つぎからつぎへと連想がはじまった。
(なかよく育ってきたふたごの美人姉妹のうち、妹のほうが事故か病気で早く亡くなる。そしてその霊は、ときどき冥界からこの世に戻ってきて姉のところを訪ね、再会を楽しんでから、また化野念仏寺へと送り届けられるんだ)
(妹の手のひらの、人間とは思えない冷たさも、彼女を幽霊と考えるなら説明がつくじゃないか)
そのとき、時を告げる寺の鐘がゴーンと鳴りはじめた。手甲をまくって腕時計を見ると、いつのまにか午後の六時になっていた。
(え、もう六時?)
驚いた。時計の針がピューンと高速で回転したような、異様に速い時の流れだった。空もそれに同調して、一気に暗くなってきた。
「お待たせしたわね」
その声で石段の上のほうを見上げると、すっかり薄暗くなった境内の入口のところに、あの美しい姉のほうが立っていた。そして、まさにぼくが想像していたとおりに、妹は伴わず、たったひとりでゆっくりとこちらに降りてきた。
「あの……」
車のそばにきた『姉』に、ぼくは恐るおそるたずねてみた。
「妹さんは」
「妹?」
彼女は不思議そうに首をかしげた。
「妹って?」
「ああ、あちらの方がお姉さんでしたか」
「お姉さん? 誰のこと?」
その問い返しにぼくは青ざめた。
「だって、お客さんとそっくりのふたごの方も、いっしょにこの人力車に乗っていたじゃありませんか。そしてふたりでお寺へ上っていかれたじゃないですか」
「ああ、あなたの目にも見えていたのね」
「え! それじゃ、あれは……」
やっぱり幽霊だったのかと言葉を失うぼくに、着物姿の女性はどこまでも穏やかな口調で言い添えた。
「あれは私よ」
「私?」
予想もしなかった返事が戻ってきた。
「ええ。過去に置いてきたはずの私が、いまでもまだときどきまとわりついてくるのよ。私はすっかり生まれ変わったというのに……。ほんとに困るわ、しつこくて」
「あなたは……生まれ変わった人間?」
「そうよ」
ぼくにとってはまったく理解不能な言葉を、その女性は当然のように口にした。
「あなたが見たもうひとりは、私のぬけがら。でも、ぬけがらのくせに未練がましくて、まだ自分が生きているかのようにふるまうのよ。だから私も、彼女が生きているように調子を合わせてあげなきゃならないので大変なの」
美しい女性は深いため息をついてつけ加えた。
「とくに、毒を盛って殺した主人のお墓参りにいくときには、必ずついてくるのよねえ」
「ころ……した?」
「そうよ」
「あなたが、ご主人を殺した?」
「ええ。でも、その件については、彼女もずいぶん気が咎《とが》めているみたいなのよ」
自分のことを『彼女』と言って、美しい女は私に微笑みかけた。
「さ、それじゃ戻るわ。また乗せてちょうだい」
女は片手をぼくに差し出してきた。
恐るおそるその手を取ると……氷のように冷たかった。
暮れなずむ山のほうから、さやさやと静かな音を立てて風が吹いてきて、ぼくの身体をいっそう冷たくした。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
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こんどの夢の語り手である車引きのアルバイト学生は、和也自身の顔をしていた。
いま、風呂《ふろ》場で何が起きているか知らないまま、和也は化野念仏寺の前で、過去を捨てながら、その過去をふりきれずにいる女と対面していた。
だが、夢のおかげで「ふたご」の謎解きができた、と和也は思った。
ふたごの赤ん坊、ふたごの老婆、二頭の犬、そして夢に出てきたふたごの中年美女。
(そうなのか。それはふたごではなく、過去の自分と現在の自分を表わしていたんだ)
その解釈は、晴美を二重人格者にさえ思わせることになった。過去を必死に捨てようとする仮面の女に……。それもまた誤った解釈であるとは知らず、和也はますます妻・晴美への憎しみを募らせた。
ただ、気になったのは人力車に乗り込んできた中年美女の顔だった。それは晴美ではなかった。そして、またしてもその女は右の目尻《めじり》に泣きぼくろを持っていた。
千本鳥居を歩く女にも、花見小路の割烹《かつぽう》で待ち受けていた男の妻にも、除夜の鐘の大合奏に倒れた夫を気遣う妻にもあった目尻の泣きぼくろ。それがこんどの和装の美女にもあった。まったく同じ位置に。そして、それは永瀬和也が現実の生活でよく知っている女をまた思い起こさせた。
(なぜ、この人物が夢に出てくるんだ)
疑問を頭の片隅に残しながら、永瀬和也はさらに第十夜の夢へと誘われていった。
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[#1字下げ]13 九日目(二)
1
腐った手が、引き戸の隙間から覗《のぞ》いて見えた。
風呂場の戸を浴室側から引き開けようとするその手は、青黒く腐乱していた。黒ずんだ皮膚は一部分が剥《は》がれてボロ雑巾《ぞうきん》のように垂れ下がり、強烈な腐臭が見ている晴美のところまで漂ってきた。
だが、いまの彼女にはその臭いを不快だと思う神経すら麻痺《まひ》していた。
「ぐえぐえぐえ」
蛙に似たうめき声が浴室に響いた。
「ぐえぐえぐえ……身体をザブザブ洗いたい。けれども、洗うとボロになる」
潰《つぶ》れた声とともにガタピシ、ガタピシと、古い木製の引き戸が右に傾いたり左に戻ったりしながら、徐々に開けられてゆく。
その向こう側から出てくるものなど、絶対に見たくない。しかもいま聞こえた声は、昼間のときと同様、父親のものだった。つぎに自分の視神経にどんな刺激が与えられるのか、晴美にはおおよその見当がついていた。腐乱した|ゾンビ(死霊)と化した父親の姿だ。
できることなら、完全な闇がすべてを覆い隠してほしいと晴美は願った。だが、外の月明かりが風呂場の窓を通して射し込んできている。さきほどはぼんやりと窓ガラスににじむ程度だった月明かりが、いまや人工的な照明ではないかと思いたくなるほどまばゆい光を、浴室に浴びせかけていた。
ぺちゃっ[#「ぺちゃっ」はゴシック体]
キッチンで晴美の首筋に正体不明のものが触れたときと同じ音がして、引き戸の曇りガラスに、内側から何かが貼りついた。そこだけが濡《ぬ》れて、曇りガラスの目隠し効果が薄れ、半透明になった。
顔だった。
髪の毛もない、眉毛《まゆげ》もない、鼻もない、しかし眼球と鼻の穴と口の形だけは目立つ、包帯をほどかれたミイラのような顔が、透過率を増した曇りガラスに貼りついていた。
眼球が右に左にと動いたのち、まっすぐ晴美に向けられた。押し当てられて歪《ゆが》んだ唇が、なめくじの這《は》い跡を思わせる不規則な曲線をガラス上に描き、その顔が口をきいた。
「晴美ぃ、還《かえ》ってきたぞぉ」
その言葉とともに、青黒い手が一気に戸を引き開けた。
想像したとおり、いや、それ以上に醜く腐敗した父親が、そこに立っていた。
2
青白い月光を浴びた全裸の父親は、下水から這《は》い上がってきたかと思う強烈な悪臭を放ち、その臭気にふさわしいグロテスクな色合いをしていた。
ガラス越しに透けて見えていたとおり、眼球と鼻の穴と口と、それに耳の穴だけがわかる以外には人間の顔の形を成していなかった。にもかかわらず、それが父・市ノ瀬恵造であると晴美は直感的に理解した。
「耐えられん、この臭さは自分でも耐えられん」
青黒い死霊が首を左右に振った。黒い液体が周囲に飛び散り、それが晴美の顔にもかかった。
猛烈な臭気に嘔吐《おうと》しそうになりながら、晴美は、ただただ目の前に広がる悪夢の光景を眺めているよりなかった。まばたきすらできない彼女の目は、父親の後ろ側、シャワーホースが掛けられている壁に、時の鐘を鳴らしつづけていたとみられる柱時計がもたせかけてあるのを捉《とら》えた。
文字盤はクラシックな書体のローマ数字で表わされており、短針はローマ数字のVの間に、そして長針はZを少し過ぎたあたりにあった。
二時三十七分。現在時刻とは違う。まだそこまで進んではいない。
晴美は自分のいる時空間が歪んで、いきなりその時刻に進んでしまったのかと思った。もうこの家では何が起きても不思議はないからだ。だが、左手にはめたままの腕時計は午前零時五分を指していた。やはり柱時計の時刻は正しくはない。
だが、金色の振り子は一定のリズムで左右にスイングしていた。時を刻むカチ、カチという音が、風呂場のタイルに反響してかなり大きく増幅されて晴美の耳に届く。その規則正しさは、こちらの示している時刻こそが正しいのだと主張しているようでもある。
振り子が収められているスペースにはガラスが嵌《は》め込んであり、そこには金色の文字で『贈 第四十九期卒業生一同』と記されてあるのが薄明かりでも確認できた。
(第四十九期卒業生一同?)
恐怖に麻痺した頭の片隅で、部分的に思考回路が復帰した。その文字に心当たりがあるかどうかという検索作業が、晴美の脳内で行なわれはじめた。
けれども、該当するデータは記憶領域から引き出されてこなかった。晴美が通っていた学校は、小学校から大学まで歴史が浅いところばかりで、四十九期――すなわち、およそ半世紀もの歴史を持っているところなどひとつもなかった。
だから、自分の通っていた学校に置かれていた柱時計が記憶として残り、それが幻影として見えているのではなかった。
そんな柱時計の由来よりも、問題は目の前の腐乱した父親だった。
昼間、和也の瞳《ひとみ》の中で、ふたごの老婆はカラスの大群がたかる中から首と胴体がバラバラになった骸骨《がいこつ》を取りだし、それを操りながら踊った、こう歌いながら。
黄泉《よみ》の国からよみがえる、娘よ愛しとよみがえる、と……。
その白骨になっていた父親が、こんな形で地獄から復活してきたというのか。
「晴美よ、おまえは母さんから聞いていないだろう」
窓から差し込む月光を左半身に浴び、右半身を影の中に落としながら、グロテスクな顔の父親が語りかけてきた。
「私がどれほどむごたらしい死に方であったかを」
晴美は、やっとの思いで首を左右に振った。
「私がこの家で死んだのは夏の暑い盛りだった。そのことを忘れてはいまいな。そしていったん研究に没頭しはじめたら、自宅とはまったく連絡もとらない習慣だったことも覚えておるだろう」
話している最中にも、父親の身体から腐乱した一部分が離れて、タイルの床にぴたん、ぺちょっ、と音を立てて落ちた。
「そういう孤立した状況で、私が突然死したら、すぐに気づく人間がいただろうか」
「………」
「おるまいな。何かのきっかけで見つかるまで、私の肉体は猛暑の中、放置されたままになるわけだ」
晴美は思い出した。父親の死が判明したのは、ガスの検針にきた係員が異臭に気づいたからだった。職業柄、臭いに敏感な検針員は、木造家屋の中から漂ってくる悪臭に不吉な予感を抱き、即座に警察に通報した。
そして、いま和也が眠りつづけている和室で、市ノ瀬恵造が執筆用の和机に突っ伏したまま息絶えているのが発見された。犯罪の可能性も疑われたため、司法解剖に附された結果、死因は脳溢血《のういつけつ》で、死後半月前後が経過していると推定された。真夏の時期の半月である。
その解剖結果の内容は、もちろん娘である晴美も知っている。しかし、警察からの通報で京都へ駆けつけた母親からは、父親の具体的な死に様までは聞かされていなかった。
母が父親の遺体を自宅のある東京へ引き取らず、京都で荼毘《だび》に付したのも、そのまま京都に埋葬したのも、父がこよなく愛した土地に還してあげようという心遣いだとばかり思っていた。だが、事実は違っていたのだ。いま、当の父親から指摘されて、初めて晴美は理解した。遺体は腐敗がひどすぎて東京へ持ち帰れる状況でなかったのだ。だから母は岩倉で父を火葬にした。
晴美とは似ても似つかぬ気丈な母ゆえに、気絶してもおかしくない事態に直面しながら、気を確かに保って対応し、そして娘や娘婿の和也にはひとことも酷《むご》たらしい事実を語らなかったのだ。
父親の遺品を整理するため、和也にも手伝ってもらってこの家にきたとき、すべての畳は新しく取り替えられていた。畳を取り替えたのね、と母に話しかけたところ、「つらいから、パパの匂いを消しておきたいのよ」という静かな答えが返ってきた。
その『匂い』とは、あくまで『思い出』とか『面影』に言い換えられる心理的な残像のことだと思っていた。まさかそれが文字どおりの『臭い』――臭気の『臭』で表わす悪臭を意味していたとは思ってもみなかった。
たぶん、父親が息絶えたとき、クーラーは深夜になるとタイマーで切れるようにセットしてあったのだろう。寝冷えをことのほか嫌う父だった。父が死んだあと、主《あるじ》なき家の中でクーラーがふたたび作動することはなかったのだ。猛暑の季節、外気から遮断されて密閉された家の中で、死体が半月も経過していれば、どういう状態になるかは想像するまでもなかった。
「わかったかね、晴美」
青黒いゾンビが、風呂場から脱衣所のほうへと一歩踏み出してきた。クリーム色の足拭《あしふ》きマットがどす黒い汁を吸い込み、たちまち変色した。
「私がこの家の中で、どんなにつらくて、どんなにみじめな思いをしたのか、やっとわかったかね、晴美」
「こないで」
晴美の喉《のど》から、ほとんど無意識にその言葉がほとばしり出た。
「おねがい、こないで」
「冷たくしないでくれ、晴美」
腐乱した父親は懇願した。
「おまえは私の娘だ。そして私はおまえの父だ。その肉親の情をわかってくれ」
「そんなの知らない!」
晴美は叫んだ。
「死んでからそんなこと言わないで。生きてたときには、少しも私のことを考えてくれなかったくせに」
「とにかく私の話を聞いてほしいのだ、晴美」
「いやっ」
晴美は突っぱねた。
「帰って」
とっさにその言葉が出た。
「生きているときに死ぬ死ぬって三回も私を苦しませて、死んでからもまた苦しめるなんてひどすぎる」
「私をまた地獄へ追い返すというのか」
「そうよ。あなたはもうパパなんかじゃない。もともと地獄の住人なんでしょ!」
「待ってくれ。私が三度も自殺を図った理由をきちんと聞いてほしい」
「言い訳ならけっこうよ。死ぬ気もないくせに、自殺ごっこで私の幸せをいつも妨害して……私の人生は、パパのものじゃないんだから」
大学生の彼氏、プロゴルファーの恋人、いずれの交際も、晴美の面目|丸潰《まるつぶ》れという形で終わってしまった。その怒りがどっと込み上げてきて、晴美は恐怖を忘れて怒鳴った。
「せっかくカズと結ばれて、楽しい結婚生活を三年つづけてきたというのに、どうしてまたパパが出てくるの。死んだらもう戻ってこないでよ。もう私……私……わかんない」
感情が激して、晴美は泣き出した。
「どこまで夢なのか、どこまで起きているのか、自分でもわかんない。私の頭の中にパパがもぐり込んできて、すべてをめちゃめちゃにしちゃったから」
「それが誤解だというのだ。私がおまえと和也君に悪夢をみさせているのではない。じつは私も操られているのだ。決してこんな姿でおまえの前に出ていきたくはなかったのに、おれを操る者が、強引にこんなことをさせている。ただ、おまえの前に醜い姿をさらしてしまった以上は、すべての真実をおまえに教えておきたい。じつは」
「もういい、パパ。もういいよ、パパの言うことなんか聞きたくない。気持ち悪いから見たくもない」
晴美は泣きながら両手で耳を塞《ふさ》いだ。目もつぶった。
「もう、私をいじめないで。私の頭の中から出ていって!」
3
晴美は思いきり叫んだ。
そして、両耳をふさぎ、両眼を固く閉じた格好で父親の反応を待った。もしかすると腐乱した身体でいきなり抱きついてくるかもしれないと思って緊張した。
しかし、何も反応がない。父の声も、息遣いも、剥《は》がれた肉片が床に落ちるぺちゃりという音もしなくなった。それは耳をふさいだから聞こえなくなったというのではなく、青黒い死霊と化した父親がそこにいるという気配が完全に消えてしまったのだ。吐き気を催す腐臭も、いまはまったく感じない。
あれだけ話を聞けと迫っていた父の霊が、突然なりをひそめてしまったその反応のなさに、晴美はかえって気持ちが悪くなった。そして様子を窺《うかが》うために、耳たぶを押さえつけていた手のひらをゆっくりと離した。
カチ、カチ、カチ、カチ。
例の柱時計が規則正しく時を刻む音だけが聞こえてくる。父の声はしない。いくら耳をすませても父の存在を示す音は何も聞こえてこない。
晴美は恐る恐るまぶたを開き、顔を静かに上げた。
いない。気味の悪い化け物はどこにもいなかった。ただ、柱時計だけが薄暗い風呂場の壁にもたせかけられたまま、金色の振り子を左右に動かして時を刻みつづけていた。
窓から差し込む月光が、浴室の一部分に青白い扇を広げていた。その一部分が、柱時計にもかかっている。規則正しくスイングする振り子は、その月光の中に入って一瞬きらめいたかと思うと、また元のほうへ引き戻されて闇の中へもぐり込む。するとまた反動で月光の中へ飛び出してゆく。その繰り返しだった。
(パパは、どこへ行ったの)
柱時計だけを残して、風呂場はまた静寂に包まれている。
それにしても、なぜこんな場所に柱時計が持ち込まれているのか。いったい何のために自分はこのようなものを見せられているのか。晴美には見当もつかない。
柱時計は、時計の針がさきほどからまったく変わらず同じ時刻を示していた。ローマ数字で描かれた文字盤のUとVの間を短針が指し、長針はZを少し過ぎたあたり。つまり二時三十七分を示したまま変わらないのだ。
金色の振り子は右に左に、月光と闇の間を正確なピッチで往復しつづけている。しかし時計の針は二時三十七分でぴたりと止まっている。振り子の動きとは無関係に、柱時計の文字盤はひとつの時刻を指したままなのだ。
二時三十七分――
午前二時三十七分なのか、それとも午後二時三十七分なのか、アナログの柱時計では判別しようがなかったが、晴美はその時刻に妙な既視感があった。数字としての二時三十七分ではなく、長針と短針が織りなすその角度に見覚えがあるのだ。
(どこかで私は、この時刻を指している時計を見た)
父親の死んだ時刻と関係があるのだろうかとも思ったが、死亡日すら推定でしか想像できない状況で、正確な死亡時刻など知り得るはずもない。この時刻を示している時計を見たという記憶は、もっと最近のものだった。
(あ……高速道路でカズがあれ[#「あれ」に傍点]を轢《ひ》いた時刻?)
しかし、すぐにそれも違うと晴美は除外した。
幻覚の幕開けとなったのは午前三時を回ったところだった。車のダッシュボードに装備された時計の表示が3‥:00から3‥:01に変わった直後だったのを、晴美はしっかりと覚えていた。それに車の時計はデジタル式であって、二本の針が回るアナログ式ではない。だから、針の形で記憶が残ることはない。
だが、二時三十七分の角度に針が開いた時計を見た記憶は、京都へ向かったその近辺だという気がしてならないのだ。ゴールデンウィーク九連休のドライブへ出発した日か、その前日あたりの記憶ではないか、と。
深夜の二時三十七分に目を覚まして、なにげなくベッドサイドの時計を見たときの記憶かもしれなし、昼間の二時三十七分に、自宅でフリーライターとしての仕事をしながら、ふとリビングの壁時計を見上げたときの映像が焼きついているのかもしれない。
しかし、風呂場に柱時計を据え置くというシュールな幻覚で強調されるほど特別な時刻なのだろうか。晴美には、二時三十七分がそこまで特別視されるべき時刻だという心当たりがまったくない。
だが――
「二時三十七分が問題なのだ、晴美」
突然、晴美の心のうちを読みとったように、姿をかき消していた父の声がどこかで響いた。
「その時刻に大きな意味があるのだ。早く思い出せ、晴美。すぐにでも私から教えてやりたいが、あれ[#「あれ」に傍点]に操られて自由に物が言えなくなってしまった」
4
晴美は急いで周囲を見回した。だが、風呂場にも洗面所にもあのグロテスクな父親の姿は見当たらない。
「どこにいるの、パパ」
あれだけもう見たくないと叫んだにもかかわらず、声だけの存在となってしまうと、晴美は必死にその姿を探した。
「どこでしゃべっているの」
「外だ」
「外?」
「あれ[#「あれ」に傍点]が私をおまえのそばから引き離し、いま土蔵に閉じ込めようとしている。そして二度とおまえに接触させないつもりだ」
父親の声がだんだん遠くなってゆく。
「いいか晴美、ヒントをやろう。その柱時計が指している時刻は夜中ではなく、昼の二時三十七分なのだ」
「その時刻がなんなのよ」
「おまえが、あれ[#「あれ」に傍点]を怒らすきっかけを作った時刻だ」
「私が?」
きき返しながら、晴美は重要な質問をしなければならないことに気がついた。幾多の異常な幻覚を引き起こす主役であるあれ[#「あれ」に傍点]とは何か……いや、誰なのか。
和也は、それを妻の晴美だと決め込んだ。晴美は父の亡霊だと決め込んだ。だが、どちらも違うならば、何なのか。誰なのか。
まさか――晴美は認めたくなかった――まさか、あれの正体はママだというの?
「急いでくれ、晴美」
見えない父親の声が、切羽詰まった声で救いを求めてきた。
「私はもうすぐあれ[#「あれ」に傍点]によって土蔵の中に連れ込まれてしまう。頼む、晴美、もしも私が土蔵の中へ拉致《らち》されたら、どんな方法を使ってもいいから、すぐにその扉をぶち壊して開けてくれ。私を出してほしいという意味だけで頼んでいるのではない。土蔵の扉を開けることこそ、おまえが幻覚の苦しみから解き放たれる唯一の方法なのだ」
「土蔵を開けたら、なぜ幻覚から逃れられるの」
「密閉空間に閉じ込められた怨念《おんねん》は、その中で暴れ回り、憎悪のエネルギーを飛躍的に増加させる。すでにいま、土蔵の中では暗黒のエネルギーがすさまじいパワーで渦巻いている。それを解放させねば、おまえに直接危害が加わるのだ」
「危害って、どんなふうに」
「いま、和也君は悪い夢をみている」
ますます小さくなってゆく声で、父親は言った。
「その悪い夢に導かれて、おまえを殺しにかかるだろう」
「私を? 和也が?」
「そうだ。和也君に晴美の命を奪わせる――それこそが、あれ[#「あれ」に傍点]の狙いなのだ」
「信じないわ」
どちらを向いて言えばいいか戸惑いながら、晴美は突っぱねた。
「霊感の強いママが、パパの研究資料は絶対に封印しておくべきだって判断したのよ」
「それが過ちなんだ。準子のやったことは間違いだ。土蔵の封印を解け」
「いやよ。私はママのほうを信じる」
そのときだった。糸を引くような悲鳴が裏庭のほうから聞こえてきた。わあああああ、と、ズームレンズを望遠側から広角へと一気に引いたときに被写体が遠のいて見えるような感じで、ヒューッと遠ざかっていく悲鳴が聞こえた。
父の叫び声だった。いままでどこから聞こえてくるのかわからなかった父の声が、具体的な方角と距離感をもって晴美の耳に飛び込んできた。
とっさに晴美は勝手口へ走った。
すると、さっきまで薄暗かったキッチンが、驚くほど明るい光に包まれているのを見た。室内の照明が灯《とも》されたのではない。強烈な青白い光が半透明の窓ガラスを貫通して部屋じゅうを煌々《こうこう》と照らし出していた。晴美は、光り輝くUFOが裏庭に降り立ったのではないかと思った。
急いで彼女は勝手口のドアを開けた。
5
「………!」
晴美は目の前の光景に息を呑《の》んだ。
夜空の高い位置にあると思っていた満月が、土蔵に覆い被《かぶ》さるほどの低い位置まで降りてきていた。しかも土蔵の数倍にも及ぶ半径があった。
信じられない大きさの満月だった。
その巨大な満月に照らし出された黄色い花畑は、月光が放つエネルギーにあおられて、大荒れに荒れる海原のような激しいうねり方を繰り返していた。そして大海に揉《も》まれる小舟のごとく、横倒しになった父親が、花畑の上を土蔵のほうへと運ばれてゆくところだった。
そのありさまは、晴美が子供のころ運動会で体験した大玉送りという競技にそっくりだった。自由自在に茎を動かす奇怪な黄色い花々が、一斉に協力して市ノ瀬恵造を土蔵に向けてリレー方式で運んでいるのだ。
「あ!」
晴美は叫んだ。
あのふたごの老婆がいた。白装束を月光で銀色に輝かせながら、黄色い花畑の中で踊っていた。
その表情は鬼だった。しかし、恍惚《こうこつ》感に満ちあふれていた。ふたりとも鉢巻きを額の上に締め、和也の瞳《ひとみ》の中にいたときと同じような郷愁満ちあふれる声で歌いながら、舞を舞っていた。
「よいやさのさァ」
「はあ、こりゃこりゃエェ」
「は〜あ、わしらはどこでもついてくる」
「逃げても逃げてもついてくるゥ」
「月の明かりに照らされて」
「逃げる姿も丸見えじゃ」
ときどき、チラリチラリと晴美に目をやりながら、舞いつづける。
ふたごの老婆が踊るその姿が、地平線近くまで降りてきた巨大な満月の中にすっぽり入り、黒い紙で作った切り絵のようなシルエットで動いていた。
「よいやさのさァ」
「はあ、こりゃこりゃエェ」
「は〜あ、わしらはどこでもついてくる」
「逃げても逃げてもついてくるゥ」
「逆らうやつなど生贄《いけにえ》じゃ」
「お土蔵さまの生贄じゃ」
「おなかが空いたとおっしゃるて」
「よだれが出とるとおっしゃるて」
「早《はよ》うにお膳《ぜん》を運ばねば」
「早うに早うに運ばねば」
勝手口のドアのところに呆然《ぼうぜん》と立ちつくしたまま、晴美はその異様な光景に見とれていた。すると――
「晴美、晴美、助けてくれ!」
必死になって叫ぶ声で、晴美は視線を老婆から父親に戻した。
「私が閉じ込められたら、すぐに土蔵を開けにきてくれ」
黄色い花畑の海に浮かぶ格好から必死に半身を起こし、娘に呼びかける父を見て、晴美は驚いた。もはや、さきほどまでの悪臭を放つ腐乱死体の格好ではなかった。かつてこの家で晴美におとぎ話などを聞かせてくれた、あの無口だがやさしかったころの父に戻っていた。生きていたときそのままの姿だった。
「お願いだ、私を信じてくれ。私は嘘をついていない。封印は無意味だ!」
その瞬間、市ノ瀬恵造の顔めがけて、周囲から黄色い花が一斉に襲いかかった。彼の顔が、黄色い花に包まれて見えなくなった。
「ぐわああああ」
晴美の父は絶叫を放った。が、すぐにそれはくぐもった小さな悲鳴となり、消えた。
ムシャッ、ムシャッと肉を食べる音が晴美に耳に届いた。パリッパリッと骨の砕ける音もした。
晴美は目を閉じ、両耳をふさいだ。
それでもなお、奇怪な花畑のうねりはつづき、波のピークは土蔵の正面扉のところまできた。そして黄色い大波は、市ノ瀬恵造にむしゃぶりついた花の一群とともに土蔵の壁を突き抜けて中に消えた。
直後に、黄色い花畑のうねりがぴたりと収まった。
それと同時に周囲の夜景の色合いが変わってきた。まばゆく輝く巨大な満月が、スーッと上空へ吸い上げられてゆき、土蔵を包み込んで余りあるほどの白い円がみるみるうちに小さくなって、いつも見る月の大きさになった。
変化はそれだけに留《とど》まらなかった。満月は皆既月食に突入でもしたかのように、その縁を夜の闇に食べられてゆき、あっというまに赤い三日月に変わった。
強烈な月光で青白く輝いていた風景が、写真の現像室を連想させる赤味を帯びた闇に包まれた。それに合わせて、土蔵の守り神となっている花畑の色も、黄色から深い赤に変わった。
そして真っ赤な花々は、赤い三日月に向かってグイーンと一気に茎を伸ばしたのち、ギュンと先端を九十度曲げ、一斉に晴美のほうへ向き直った。
目を閉じている晴美にも、その気配は察せられた。
花畑のうねりがまたはじまった。こんどはさきほどとは逆に、土蔵のほうから晴美へ怒濤《どとう》のごとく……。
そのころ、永瀬和也は決定的な夢をみていた――
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[#2字下げ]第十夜 貴船夜風の灯籠流し
窒息しそうなほど長い口づけを相手に浴びせ終えると、水沢薫《みずさわかおる》は大きく胸をはずませ、そして男に背を向け、助手席の窓に顔をつけた。
薫の荒い息を受けた窓ガラスは、情熱の喘《あえ》ぎに合わせて曇ったり透き通ったりする。その様子が、ひとつだけ灯《とも》したマップライトの明かりに映し出された。運転席にいる男からは、女の右の目尻《めじり》にある泣きぼくろだけが見えている。
九月下旬ともなれば、京都北方にある貴船《きぶね》の山あいは、夜はかなり冷え込む。車の窓に頬が当たると、ひやっとした感触に驚かされるほどだった。
「ちょっと、タバコ吸っていいですか」
運転席の男が、乱れた前髪をかき上げながらたずねてきた。
薫は黙ってうなずくと、バッグからタバコを取り出し、口にくわえて男のライターで火を点けた。そしてそれを彼の唇へもっていく。自分の夫にはついぞしたことのない仕草だった。それからリクライニングシートをまっすぐ立て直し、髪と純白のスーツの乱れを整えた。
「驚きましたよ……いきなりでしたから」
煙とともに息を整えながら、男は戸惑いと興奮を掛け合わせた声を出した。
「山の中に車を停めてこんなことをされるのは、ふつうは立場が逆だと思いますけど」
「ごめんなさい」
薫は、激情のあとに襲ってきた恥じらいと後悔に包まれながら、小声で謝った。そのあと、不満そうにつけ加えた。
「でも、私と違って、宇田川《うだがわ》さんはずいぶん冷静なのね」
「冷静? ぼくがですか」
「だって……きょうもこのままご自分にブレーキをかけておしまいになって……それで、じゃあまたこんど、なんでしょう」
「ブレーキか」
宇田川と呼ばれた男は苦笑を浮かべた。
「たしかにぼくには、そういうところがあるかもしれません」
「あなたが一歩踏み出してくださらないのは、私に主人がいるからですか。子供がいるからですか。そういう家庭持ちの女は面倒だとお考えなんですか」
その問いには答えず、宇田川は運転席側の窓ガラスを少し開けた。土の香りを含んだ冷たい夜気が入り込んできて、車内にこもっていたタバコの煙をかき回した。
煙は車の天井近くで渦を巻きはじめ、それから白い帯を作って、開けた窓の隙間からうねりながら外へ流れ出していった。そして貴船の山あいの闇へと消えてしまう。
宇田川|伸吾《しんご》、三十六歳。京都の五条通《ごじようどおり》に自社ビルを持つ織物メーカーの御曹司《おんぞうし》。
ただし、そのプロフィールは男の口から一方的に語られたものである。御曹司と言いながら、父親の所有するビルが実際に五条通のどこにあるのか薫は知らされていなかったし、自宅の場所も会話の話題になった試しがない。
いつも彼が運転してくるベンツでドライブをするが、この車が宇田川の持ち物であるかどうか、それも確たる証拠がなかった。ふっと思い立ち、彼がいない隙にコンソールボックスを開けてみようとしたが、車検証が入れられているはずのそこには、しっかりと鍵《かぎ》が掛けられてあった。
年齢の三十六というのは外見的に合っていたが、それにしたところで実際はどうなのかわからない。そもそも宇田川伸吾という名前すら、本名だという証拠はないのだ。確かなデータとして薫が得ているのは、男の携帯番号だけだった。
ずいぶん危険な恋だった。それだけ出会いが突然だったということである。
ふたりの恋はこの夏、祗園祭《ぎおんまつり》のコンチキチンの音色とともにはじまった。
薫は、建築事務所を開業している十歳年上の夫とともに、滋賀県の大津市に住んでいた。滋賀県といっても、大津は京都の隣町といってもよい距離にある。現に薫は京都生まれの京都育ちだった。実家は洛中《らくちゆう》にあり、毎年夏休みになると、仕事のある夫を大津に残し、小学校四年生になるひとり息子を連れて、ひと月ばかり京都へ里帰りするのが習慣になっていた。
夏は京都の祭の季節である。その代表格が祗園祭。「祗園祭は暑うて長《なご》うて」というのが薫の老母の口癖だったが、その暑くて長い祗園祭のクライマックスともいえる宵山の夜に、薫は宇田川伸吾と出会った。
ことしの夏は「お祭りはもう飽きちゃったよ」と渋る息子を実家に置いて、薫は初めてひとりで宵山の雑踏に繰り出してみた。髪を結い上げた浴衣《ゆかた》姿で。
いつものように四条烏丸《しじようからすま》の交差点を中心にものすごい人出で、あちらこちらからコンチキチン、コンチキチン、と囃子《おはやし》の音が聞こえてくる。
しかし混雑は、表通りよりもむしろ烏丸通の西側一帯の狭い路地――東西は室町通《むろまちどおり》、新町《しんまち》通、西洞院《にしのとういん》通、油小路《あぶらのこうじ》通、南北は姉小路《あねがこうじ》通、三条《さんじよう》通、六角《ろつかく》通、蛸薬師《たこやくし》通、錦小路《にしきこうじ》通、綾小路《あやのこうじ》通、仏光寺《ぶつこうじ》通まで広がる一帯――のほうがすごかった。というのも、「山《やま》」や「鉾《ほこ》」と呼ばれる豪華|絢爛《けんらん》な山車《だし》が、祗園祭のクライマックスである山鉾《やまぼこ》巡幸が行なわれるまで、各地区の路地に祀《まつ》られ、そこにたくさんの夜店が並び、あるいは旧家などが家宝を蔵出しして、ライトアップされたショーウインドウに並べたりするからである。
それらを目当てにした人々が、ふだんでさえほとんどが一方通行の狭い路地にどっと押しかけるから、夏の盛りにおけるその混雑ぶりは息も詰まるほどになる。そして、ひとりの力で逆らおうとしてもどうにもならない群衆の流れに巻き込まれると、転んで押し潰《つぶ》されないようにするのがやっとで、そこを抜け出すころには、人々の浴衣は例外なく汗でびっしょり濡《ぬ》れてしまうことになる。
そうしたすべての情景が、薫にとっては見慣れた夏の夜の風物詩だったが、ひとり浴衣姿で歩く宵山は、子供づれのときとはまったく違った雰囲気があった。
なんとなく、ときめきの予感を覚えた。そして、事はそのとおりに運んだ。
宵山に繰り出した人々の流れに翻弄《ほんろう》されながら狭い路地を進むさなか、薫は雑踏のどこかから、自分を見つめる熱い眼差《まなざ》しに気がついたのだった――
「ことしも夏は終わりました」
唇の周りにはみ出した口紅を人差指でそっと拭《ぬぐ》いながら、水沢薫はつぶやいた。
「先月の五山《ござん》送り火と灯籠《とうろう》流し、あれで京都の夏は終わりました。私は子供の学校がはじまるのに合わせて大津に戻り、あなたはあなたで仕事に追われ、こうやって二週間に一度会うのがやっとの状況になってしまいました」
わずかに開けたガラス窓の向こうでは、秋の深まりを思わせる虫の音が聞こえていた。それは、彼らがいる山あいの静けさを際だたせてもいた。
「祭りのあと……ですよ、薫さん」
宇田川は、半分は自分に言い聞かせるつもりで言った。
「祭りそのものは長くてもいいけれど、祭りのあとの余韻は、あまり長引かせてはいけない。ぼくはそう思います」
「それはどういう意味?」
薫は、宇田川の横顔めがけ、咎《とが》める視線を突き刺した。
「私のようなオバさんとはつきあいたくないということ?」
「とんでもない」
宇田川は笑った。その拍子に、吸い込んでいたタバコの煙がふわっと口から流れ出し、いったん車内に渦を巻いてから、また窓の外の闇に吸い込まれてゆく。
「薫さんは美しい。あなたのような美しい方が、自分をオバさんなどと卑下して呼んではいけません」
「でも、私がこれほど真剣になっても、宇田川さんは少しも前に進んでくださらないじゃないですか」
泣きぼくろをつけた目が切なく訴えていた。
「三十九歳の女とひと夏つきあって、口づけだけで終わりなんてことがあっていいんですか」
「ずいぶん大胆なことをおっしゃいますね」
「これが大胆?」
薫は挑発するように開き直った。
「あなたって、そんなにストイックな人だったの」
「そうです」
「まあ……」
と、宇田川を睨《にら》んでから、薫は少しすねた口調で言った。
「嘘おっしゃい。私にはわかっていましてよ。好きな方がいらっしゃるんでしょ」
「………」
「沈黙で逃げるなんてずるいわ。ちゃんとおっしゃって。私も大人なんですから」
「います」
闇に沈む貴船の山並みを窓越しに見上げて、宇田川は答えた。
「好きな人、というより、ぼくは結婚しているんです」
「それぐらいわかっていましたわ」
薫は、ふっと横を向いて言った。
「あなたはプライベートなことを少しもおっしゃらなかったけれど、結婚なさっていることぐらい、最初から承知していました」
「ぼくは、妻を愛しているんです」
「それもわかっていました。だって、結婚してまだ三年目ですものね。私のような女と浮気をするのが早すぎるぐらい」
「え?」
びっくりして、宇田川は貴船の闇から助手席の薫に目を転じた。
が、相手は反対側の窓に顔をくっつけ、宇田川に顔を見せようとしない。
「なぜそんなことまで知っているんですか」
「私にはなんでも見えるんです。あなたがいくら独身のように見せかけても」
「たしかにぼくは、あなたにプライバシーをあまり明かしてきませんでした。無意識のうちに独身と見せかけていたかもしれません。ただそれは、おたがいに深入りをしないためのブレーキだと」
「もう、そういう物語の中の設定で語り合うのはおたがいやめにしません?」
「物語の設定?」
「ええ」
「それはどういう意味です」
宇田川は眉《まゆ》をひそめた。相手の言っていることが理解できなくなっていた。
と、薫が淡々と応じた。
「あなたは宇田川伸吾ではないの。宇田川伸吾は、あくまで物語の中の登場人物」
「ぼくが物語の中の登場人物ですって? バカなことを言わないでくださいよ」
宇田川は引きつった笑いを浮かべた。
「ぼくが宇田川伸吾でなければ、じゃ誰なんです」
「いいものを見せてあげるわ。ついていらっしゃい」
宇田川の質問をさえぎると、薫はスッと手を伸ばして、ひとつだけ灯《とも》っていたマップライトを消した。
車の中が一瞬真っ暗になった。薫の着ている白いスーツだけがボワッと闇に浮かんだ。が、すぐに前よりも明るい照明が点《つ》いた。彼女が助手席のドアを開けたのだ。
「こちらへいらして」
薫は先に立って、貴船の闇の奥に向かってどんどん歩いていった。ぴったり身体に沿った白いスーツが、暗がりの中で上下動しながら進んでいくさまは、後ろから眺めると人魂《ひとだま》が浮遊しているようにも見えた。
夜の貴船に行きたいと言い出したのは薫だったが、それはふたりの関係にけじめをつける舞台として適当な雰囲気だからだと、宇田川は勝手に解釈していた。別れ話を切り出すには似合いの場所だから、と。
だが、薫にはもっと具体的な目的があったらしい。それが何であるかという説明は一切しないまま、彼女は暗闇の中をどんどん歩いていった。その足の速さに、宇田川はついていくのに必死だった。
ふり返ると、狭い路肩に停めた車の姿はもう見えない。こんなことなら、目印にパーキングライトでも点けておくのだったと宇田川が後悔しはじめたとき、先をゆく薫が鬱蒼《うつそう》とした樹林の中で立ち止まり、彼をふり返って言った。
「恐いですか」
* * *
「え?」
問い返すのに、ずいぶん長い沈黙をはさんだような気が、宇田川はした。
直感的に恐怖を感じ取った沈黙だった。
さきほど車の中で薫から強烈なキスの嵐を浴びせかけられたとき、宇田川は、ふつうはそれは男のほうから仕掛ける行動だという意味で、立場が逆だと言った。そして、こんども同じセリフを言いたかった。
人けのない夜の山中に誘い込んでいくのは男のほうで、それに怯《おび》えるのが女だと、だいたい相場が決まっているのではないか。それなのに、また立場が逆だった。
「私が恐いですか」
薫は繰り返したずねてきた。
まっすぐ見つめて問いかけてくる、その感情のない言葉が、宇田川の心に恐怖の風を吹き込んだ。誰もいない真っ暗な渓谷の林の中で、そんな質問をいきなりぶつけられ、恐くならない人間はいないだろう。
返事に窮した宇田川は、薫や自分の立っている周囲の木の幹や地面が、明かりもないのに淡い黄白色に輝いていることに気がついた。その謎めいた光が薫の顔を照らしているために、暗がりの中でも彼女の表情がわかるのだ。
「月夜茸《つきよたけ》の輝きよ」
宇田川の疑問を先回りして薫が答えた。
「ブナの木に寄生するキノコで、裏側のヒダの部分が月明かりのようにボーッと黄色っぽく輝くの。そのキノコたちが放つ照り返しがこの明かり」
キノコたち、という複数形が、植物に人格を与えるようで無気味だった。
薫に言われて宇田川が改めて目を凝らすと、林の奥のほうまでその黄白色の輝きが点々と連なっていた。それは彼を異次元の世界へ導く道しるべにも思えた。
「さあ、もう少し先へ進みましょう」
薫は白いスーツの背を向けて、また早いピッチで歩きはじめた。そしてさらに百メートル以上進んだところで、ふたたび立ち止まった。
「ごらんなさい。これが私の、ひと月遅れの灯籠《とうろう》流しです」
宇田川は目を見張った。
貴船川とは別の、見たこともないせせらぎが暗黒の樹林の中を流れており、その岸辺が明るく輝いていた。月夜茸の明かりなどとはまったく違う、何かの炎の集合体である。
よく見ると、それはたくさんの灯籠だった。
嵐山の渡月橋のたもとから大堰川《おおいがわ》へと流される灯籠と同じ形のものがぜんぶで十三個、岸辺に並べられ、すべてに灯が入っていた。その明かりが、間近を流れるせせらぎに反射して、密生する針葉樹の中に影法師を踊らせていた。
「なんですか、これは」
ゆっくりとそこへ近づきながら、宇田川はたずねた。
「見ればおわかりでしょう。灯籠よ」
「それはわかりますけど……なぜ、こんな人けのない山の中でこれが輝いているんです。誰が中のロウソクに火を灯したんです。誰かいるんですか、この近くに」
「誰もいないわ」
「でも、誰もいなけりゃ灯を入れられないでしょう」
「私が灯したのよ」
「だけどあなたはずっとぼくといっしょにいたじゃないですか。何時間も前からいっしょに。それなのに、ロウソクはまだ灯されたばかりのように長い」
「離れた場所にいても、私にはこの火を灯すことができたのよ」
「どうやってです」
「………」
「答えてください。どうやってあなたは、こんなところにいくつもの灯籠を用意できたんですか」
問いつめる宇田川からふっと目をそらし、輝く灯籠を見つめ、そしてその炎のゆらめきで顔を黄色く染めながら、薫は言った。
「ねえ、和也さん」[#「「ねえ、和也さん」」はゴシック体]
* * *
「和也?」
宇田川伸吾は戸惑った。
突然、見知らぬ人物の名前で薫が呼びかけてきた。もしかすると、薫がつきあっている別の男の名前をうっかり口走ったのかと思って、彼は問い返した。
「いま、なんておっしゃいました」
「和也さん、と言ったわ」
薫は、言い間違いを否定した。
「誰のことです、和也って」
「あなたのことよ。さっき申し上げましたでしょ。あなたは宇田川伸吾ではない、と。永瀬和也――それがあなたのほんとうの名前」
うつむき加減でそう言い切る薫の瞳《ひとみ》には、十三個の灯籠が煌《きらめ》いている。
「薫さん、いったいどうしたんです」
宇田川は、声を少しうわずらせながら問いかけた。
「あなた、ヘンですよ」
「そうかしら。自分としては、どこもヘンだとは思っていないけれど」
「だっておかしいじゃないですか。ぼくのことをカズヤさんだなんて……。ナガセ・カズヤって何者ですか、そいつは」
「だから何度も言ってるでしょう。あなたのことですって。それから私も、もう水沢薫という名前ではないのよ」
「じゃあ、誰なんです」
「鏡子《きようこ》よ」
「キョウコ?」
「そう、鏡の子と書いて鏡子」
宇田川は混乱した。いったい誰がこんな経験をするだろう。真っ暗な樹林の中へ導かれると、そこには十三個の灯籠が灯っており、そして不倫相手の女性から、自分とは違う名前でいきなり呼びかけられる。しかも彼女も、じつは別の名前だという。
幽霊、という概念が宇田川の脳裏に唐突に浮かんだ。
(ひょっとすると、おれは幽霊とつきあっていたのか)
「違いますわ」
「え」
「私は幽霊ではありませんことよ」
「………」
宇田川は凍りついた。頭の中を完全に読まれていた。
「でも、なぜなんでしょう。世の人たちは、みな死者の霊を恐れますよね。あなたのように、自分の理解を超えた事態に出会うと、すぐに幽霊を持ち出してくる」
どこからともなく吹いてきた夜風が、鏡子と名乗る女の鬢《びん》のほつれをなびかせた。
「そして、幽霊といえば死んだ人のことだと決めつける。でも、ほんとうに恐いのは生きている人間の怨念《おんねん》だと、なぜわからないのかしら」
女は、炎をゆらめかす十三個の灯籠のそばにひざまずいた。
すると、下から照らすロウソクの明かりによって、それまで清楚《せいそ》な人妻の顔だった女の表情に、いきなり般若《はんにや》が現れた。
右の目尻《めじり》に泣きぼくろのある般若――
宇田川は叫びそうになった。
「灯籠流しは、お盆に帰ってきた先祖の霊をまたあの世に送り届ける儀式だけれど、私の灯籠流しは違うのよ。ここにある十三の灯籠は、みな私がこれまで怨《うら》みに怨んできた人たちを表わしているのです」
「なんですって」
「和也さん」
灯籠のそばにひざまずいたまま、女は宇田川に向かって、また和也さんと呼びかけた。
「あなた、さきほどどんな夢をごらんになりました」
「さきほど? 夢?」
宇田川は、引きつった笑いを浮かべた。
「冗談はやめてください、薫さん。ぼくは、きょうはまだ寝ていませんよ」
「私は薫ではなくて鏡子です、と申し上げましたでしょう」
「知りませんね、鏡子なんて女は」
「いいえ、知っているはずよ。あなたは永瀬和也なんですから、そのつもりになって夢を思い出してごらんなさい」
「思い出せといったって、みていない夢は思い出せません」
「嵯峨野さやさや二人旅」
女はポツンとつぶやいた。
「あなたは人力車を引き、そして私はそこに乗りました」
「人力車……」
黙ったまま、和也[#「和也」に傍点]は考え込んだ。
* * *
たしかに言われてみると、そんな夢をみた覚えがあった。
深紅の車体に輝く銀輪を持った人力車のイメージが、頭の中で徐々に形を成してきた。自分は人力車を引く学生アルバイトで、そのアルバイトの最終日、いよいよ店じまいにするかと考えていた夕暮れに、ひとりの女性が現れた。
そのときの女性は名前を名乗らなかったし、年齢的にも薫よりもう少し上だった記憶があるが、基本的な顔相というものが似通っていた。とくに右の目尻にある泣きぼくろ。
(千本鳥居をくぐる女。花見小路の割烹《かつぽう》で待っていた妻。初詣《はつもうで》にいっしょに出かけた妻。人力車に乗せたふたごの女。そして目の前にいる薫……ではなくて鏡子――なぜみんな似ている。なぜ、あの人によく似ているんだ)
いつのまにか意識の主体が宇田川伸吾ではなく、永瀬和也になっていた。
その変化に気づかぬまま、和也は、必死に考え込んだ。現実によく知っている女性が、夢の中に形を変えてたびたび現れるのはなぜか、ということを。
いま、実際の時刻は、真夜中の零時を二十分か三十分回ったところだった。そして和也は、十番目の夢をみているところだった。その夢において、彼は宇田川伸吾という男になりきっていたのだ。
しかし和也は、その夢からいったん抜け出して、目覚めているときとまったく同じレベルの意識をもって、夢の中で出てくる女について論理的な解釈を求めようと頭を働かせた。そして、永瀬和也の意識のまま、また深い夢の中に舞い戻ってきた。
場面はさっきのつづきなのに、彼はもはや宇田川伸吾ではなかったし、相手も水沢薫ではなかった。
「鏡子さん」
和也は、十三個の灯籠《とうろう》のそばにかがんだ女を、自然に鏡子と呼んだ。
「なぜぼくは、あなたによく似た人を知っているのだろう。顔だけじゃない。あなたの声にも聞き覚えがあるし、鏡子という名前にも記憶がある。なぜだろう」
「しだいにわかってきますわ、和也さん」
女は、和也の反応に満足の笑みを浮かべた。
「さあ、もういちど思い出してごらんなさい。嵯峨野さやさや二人旅の夢を」
女は澄んだ声で、節回しをつけて歌うように繰り返した。
「さが〜の〜、さやさ〜やあ、ふたり〜たびい〜……さあ、私がふたりいるところを想像して」
「あ」
和也は前回の夢を思い出した。夢の中で別の夢をふり返っていた。
「そうだ。ぼくが人力車に乗せたのは、あなたひとりではなかった。もうひとり、そっくりの」
「ええ、そうよ」
「ふたごの妹さん……」
「じゃなかったでしょう」
女はやんわりとした口調で訂正した。
「あれも私ですと説明したはずよ」
「ああ、そうだ、思い出してきた。あなたは毒を盛ってご主人を殺して……」
と、そこまで言ってから、和也はギクッとなって相手を見つめながら繰り返した。
「毒を盛ってご主人を……殺した?」
「ええ、嵯峨野を舞台にした夢の中では、私はすでに殺人を犯したことになっていましたわ。過去形でね。そして、過去の私と現在の私が、ふたり揃って化野念仏寺へお墓参りに行くの。あなたの引く車に乗せてもらってね。でも、実際には主人を殺すのはこれから先のことなのね」
「先のこと?」
「主人にはもう少しだけ生きていてもらわないと、上の娘の養育もありますからね」
和也には背景のわからぬ言葉を、鏡子という女は口走った。
「上の娘って……あなたは小学校四年生の息子さんがひとりいるだけだったのでは」
「それはお話の中の水沢薫の設定でしょう。間違えないでくださいね」
「………」
「ともかく、夢の中であなたは私の生霊と出会ったのです」
「イキリョウ?」
「ええ。清凉寺の裏手、宝筐院の前から化野念仏寺へとあなたが人力車に乗せたもうひとりの私、あれは私の化身。激しい怨念によって生まれる、生きたままの怨みの霊――それが生霊」
夜風がいちだんと強くなり、女の髪の乱れ方が激しくなった。白いジャケットと揃いのスカートも、裾《すそ》を小刻みに風に震わせていた。
「世の中の人は、死者の霊ばかり恐がるけれど、ほんとうに恐ろしいのは生きている人間の怨念――生霊です。怨みを相手にぶつける怨念の凄《すさ》まじさは、死者の怨みの比ではない。ただし、誰もが生霊を持てるわけではないのですよ。その資質を授かってこの世に生まれ、自らの能力に気づいた者だけが、生きながらにして化け物になれる」
生きながらにして化け物、という言い回しに、和也は頭の中が冷たくなっていくのを感じた。
「では、あなたがその生霊だと」
「いいえ」
女はゆっくりと首を振った。
「ここにいる私は、私本人です。私の生霊は別のところにいます」
「別のところとは」
「さあ……」
意味ありげな含み笑いをして、女は言葉を濁した。
「その生霊は、私とまったく同じ姿をしている場合もあれば、ぜんぜん別のものに姿を変えることもあるのです」
「別のものとは」
「たとえば二頭の犬」
「犬……」
その言葉が、何かの記憶と結びつこうとしていた。
「あるいはふたごの赤ん坊」
(赤ん坊? 待てよ、おれはどこかでふたごの赤ん坊を見たぞ。どこだ)
急に和也の頭脳が、夢の中から這《は》い出して現実へ戻ろうともがきだした。
「そして、ときにはふたごの老婆にも」
言ってから、女はニカッと笑った。
ゆらめく十三個の灯籠が作り出す光と影のダンスによって、女の顔は奇妙に歪《ゆが》みながらオレンジ色になったり黒くなったりした。
(老婆……ふたごの老婆?)
そのとき、女の着ている白いスーツの腹のあたりにポツンと赤い点が浮かんだかと思うと、みるみるうちに大きくなり、アメーバ状の形を広げながら一気に首と膝《ひざ》の両方向へ向かっていった。
あっというまに、女の洋服は血の色に染まった。
「どうじゃろか、わかったかの」
「え?」
和也は自分の視覚だけでなく、聴覚をも疑った。女の口調が、急に老婆のそれに変わったように思えたからだった。
が、すぐに女は元のしゃべり方になった。
「どうなさいましたの、和也さん」
「あ……いや、なんでもないです」
女の着ているスーツも真っ白に戻り、血の色をした染みなど、どこにもない。
(錯覚なのか?)
和也は、無意識のうちに額の汗をぬぐった。夢の中でも、現実でも。
* * *
「それからね」
和也にとっては、また長い空白をはさんだような気がしたが、女は灯籠のそばにかがんだまま、連続したしゃべりをつづけている感じだった。
「ときには、きれいなお花にもなりますのよ。黄色い花だったり、赤いお花になったり」
「ねえ、鏡子さん。もうやめませんか、こんな話は」
和也は、何かよくないことが起きる予感におののいた。とにかく車に戻らなければ、と思った。車を貴船川のそばに残してきたという部分は、宇田川伸吾として登場していた夢の設定がまだ記憶領域に残っていた。
「ぼくはすっかり寒くなってしまいました。車に戻って温まりたいんです」
「ええ、いいですわ。でも、その前に灯籠《とうろう》を流してしまわないと」
女は灯籠をひとつ取り上げて、せせらぎにそっと浮かべた。
「これは、私の生霊が最初に殺してくれたお友だちなのよ」
「え?」
「小さいころの、私のお友だち。……殺しちゃってごめんなさいね」
女は灯籠に向かって頭を下げた。
「私が自分のおぞましい力に気がついたのは、まだ幼いころでした」
和也のほうは見ずに、女は自分の手を離れてゆっくり流れ去っていく灯籠を見送った。
「いまから三十年以上も前、小学校に上がったころでした。私ね、とってもいじめられっ子だったんですの。ひとりっ子として甘やかされて育ったせいでしょうね。団体行動のできない子でした。それで小学校に入ると、すぐに仲間はずれにされて、あとは好きなようにいじめられ放題。おかげで毎日毎日泣いて帰ってばかり。笑顔なんてものが浮かぶ日は一日もなかったの……つらかったわ」
二つ目の灯籠を取り上げながら、女は語りつづけた。
「私をいじめるのは、いつも決まった女の子の三人組。怨《うら》んだわ。怨んで怨んで、憎んで憎んで、毎晩毎晩、三人の顔を思い浮かべては、耳のつけねまで真っ赤になるぐらい力を込めて、恐ろしい呪いをかけつづけたの。死ね、死ね、死ねって。起きているときだけではなく、眠りについてからも、無意識のうちに呪いの言葉を吐き出しているのよ。六歳の女の子がね」
「………」
「するとね、ある晩だったわ。ポッという感じで私の身体から何かが抜け出す感じがした。それが何だったのか、最初はわからなかった。でも、それが戻ってきたときに私は理解した。夜空の向こうから、自分が羽ばたきながら部屋の中に舞い戻ってきたの。コウモリみたいにね」
「コウモリ……」
「ええ、六歳の私の身体から、私の中身が抜け出して、大切なお仕事をしてまた帰ってきたんです」
「大切なお仕事って、何です」
「私をいじめた三人のうち、いちばん意地悪だった子を殺すこと」
女はサラッと言ってのけた。
「その子は、真夜中に犬に噛《か》み殺されました。ものすごく大きな野犬がいきなり家の中に入ってきて、子供部屋に飛び込んで、眠っていた彼女をズタズタにしちゃったんですって。つぎの日に担任の女の先生が、震えながら泣きながらクラスのみんなに説明するのを聞いて、私、おかしくって」
美しい顔立ちの女は、手の甲を口に当て、背中をのけぞらせながら愉快そうに笑った。
「ああ、私から抜け出した私がやったんだ。私の代わりに仇《かたき》を討ってくれたんだ。そう思ったら、うれしくて楽しくて、周りで泣いているクラスのみんなに合わせるのが大変でした」
和也は激しいめまいに襲われた。
貴船から鞍馬へかけての黒い山並みがぐるぐる回りだした。もう少しで地面に倒れそうになるところを、やっとのことで近くの木の幹に手をついて身体を支えた。そして、あえぎながらたずねた。
「じゃあ、あなたがいま手に持っている二個目の灯籠は」
「ええ、これは最初に殺した子の仲間なの。それから、もうひとつのこれもね」
女は二個目、三個目とつづけて灯籠をせせらぎに浮かべた。
ふたつの灯籠は左右に大きくゆれて、たがいにぶつかった。ロウソクの炎が大きくまたたいた。が、すぐに安定して、せせらぎの中を闇の彼方へと流れてゆく。すでに最初の灯籠は、樹林の間を縫って運ばれ、もうまったく見えなくなっていた。
「ごめんね、ミカちゃん。ごめんね、マリちゃん。ごめんね、アイちゃん」
心のこもっていない機械的な謝罪の言葉が、女の口から洩《も》れた。
「あなた、三人も立てつづけに殺したのか」
「いいえ、いくらなんでもそこまでやったら大騒ぎになってしまうでしょう。私の生霊って、小さいときから頭がよかったみたい。残りのふたりは殺さないで、精神的な半殺し」
「なに」
「精神的な半殺し、と言ったのよ」
「どういう意味だ」
和也は、もう詰問調になっていた。
すると、女はポツリとつぶやいた。
「ついてくる」[#「「ついてくる」」はゴシック体]
「え?」
「ついてくる――そう言って脅しつづけてあげるんです」
「何についてくるんだ」
「私がついてくるんです。どこまでもどこまでも、いつまでもいつまでも」
日本語としてまったく体《てい》を成さない答えだった。にもかかわらず、和也にはその意味が体感的にわかった。ぶるっと身体の奥底から突き上げてくる震えがきた。
そのあと女は、もうよけいな説明を加える必要もあるまいといった態度で、四つ目、五つ目、六つ目と、輝く灯籠をつぎつぎとせせらぎへ放していった。
どれがすでに殺されてこの世にいない犠牲者を表わし、どれが怨霊《おんりよう》に苦しめられながらも、いまもなお生きている犠牲者を表わしているのか、その区別は和也につかない。それぞれにどのような怨念《おんねん》のドラマがあったのかは知る由もない。
灯籠が女の手もとを離れてひとつずつ流れていくたびに、樹林の中の明るい空間が狭まっていき、四方から闇がじわじわと押し寄せてくる。
灯籠の一群が置かれた周辺の空気は、白に近い黄色の輝きを放っていたが、しだいにその黄色みが強くなり、やがて山吹色から濃い橙《だいだい》色へと変わり、その光のかたまりも小さくしぼんでいった。
それと入れ替わりに、周囲の林の中で月夜茸《つきよたけ》の輝きがまた点々と灯《とも》りはじめた。
(ぜんぶの灯籠が流されないうちに、ここから逃げ出すべきだ)
直感的に和也は思った。
が、たったいま女の口から出た「ついてくる」という言葉が、逃走はムダだと教えていた。それで和也は逃げ出せない。その感覚も前に経験したような気がする。
やがて、灯籠は残すところあと三つとなり、周囲はかなり暗くなっていた。そこで女は、十一個目の灯籠に視線を落として言った。
「十一個目のこの灯籠は、父です」
「あなたのお父さん?」
「ええ、血のつながった実の父親よ」
「じゃ、あなたは自分のお父さんも」
「呪い殺しました」
きっぱりと女は言った。
* * *
「生霊として苦しめるより、この人にはあっさりと死んでもらいたかった」
そうつぶやく女の声を聞きながら、これは夢なのか、それとも現実の会話なのかと、和也は混乱していた。
少なくとも、いまの彼は宇田川伸吾の視点ではなかった。
女がつづける。
「私を生霊の実験台に使った許せない男だからです。そして自分が抱えている個人的な怨みを、娘である私の身体を利用して晴らそうとした。娘をただの復讐《ふくしゆう》の小道具として使おうとした。それが許せなかった」
キリッと寒い音を立てて、女は短く歯ぎしりした。まさに般若の形相《ぎようそう》だった。
が、すぐに無表情を取り戻して語った。
「超能力を授かった子供の親が、誰よりも先に我が子の才能に気づくように、私の父も、私が人並みはずれた怨念体質の少女であることに真っ先に気づいていました」
「怨念体質の少女? あなたが?」
「そうです。いまお話ししたように、人を激しく怨んだり憎んだりしたときに、自分の分身とでもいうべき怨霊を生み出す特異な能力が、私には生まれながらに備わっていたようです。けれども、もしも私が誰からもいじめられない穏やかな少女時代を過ごしていたら、そんな特別な力に気づくこともなく大人になっていたでしょう。そして知らぬ間にその力も失われていたことでしょう……でも、あいにく」
女は、ちょっとだけ悲しそうに笑った。
「私を激しく怒らせるような友だちが多すぎました」
「で、お父さんはあなたの能力をどうしようと」
「仕事がパッとしないでくすぶっていた父は、私の異常な力に目をつけて、それを商売にしようと考えたのです」
「お父さんの職業は」
「作家でした。作家といっても純文学などではなく、SF作家です」
「待ってくれ。もしかして、あなたのお父さんは諸星輝という名前では」
「ええ、そのとおりです」
女は静かにうなずいた。
「諸星輝――それが父のペンネームでした」
「たしか本名は川本……一郎」
「はい。よくそこまでごぞんじですわね」
女はじっと目を細めて和也を見つめた。そう言われて和也は、不思議なことに気がついた。
(あれ? なんでおれは、そんなことまで知っているんだ)
和也は戸惑った。
(なぜだ。一度も会ったことのない、その作品を一冊たりとも読んだことのないSF作家のペンネームを、なぜおれは知っているんだ。それだけじゃなく、川本一郎という本名まで、どうして知っているんだ)
そうなると、鏡子の苗字は川本というのか、と和也は頭の片隅で考えた。
川本鏡子――ただし、それは彼女が結婚していなければの話だが。
「ぼくは……」
自分の意思とはまったく無関係に、勝手に口がしゃべっている感じになってきた。
「ぼくは、あなたのお父さんの小説の大ファンだった」
(おい、デタラメを言うな)
と、心の片隅でもうひとりの自分が咎《とが》めてきた。
(諸星輝の作品など一冊も読んだことがないと、いま思ったばかりだろう)
しかし、和也の口をついて出たのは、具体的な書名だった。
「中でも忘れられないのは『魔王殿からきた老人』だ。あれは諸星輝の代表作といってもいい」
「娘として、私もそう思います」
女が相づちを打った。
「鞍馬山を舞台にしたSFというよりホラー小説でしたね」
「そう、ひなびた一軒の宿で未来の自分と出会う話だった。すでに老人となっている未来の自分と、まだ三十代の現在の自分が出会うんだ」
「星の輝きが映し込まれた夜のお風呂《ふろ》で」
「うん。ぼくがとくに好きだったのは、そこの描写だった。静かな宿の湯に浸《つ》かって、老人と一対一で向き合うとき、夜空に浮かんでいた満天の星が浴槽の中に流れ込んできて、湯をかき回すたびにキャラキャラとにぎやかな音を立てる、あの場面」
和也は目を閉じてつぶやいた。
「あの幻想的な場面は、まるで映画を見ているみたいだった。映像だけでなく、星々が水中でぶつかり合う、誰も聞いたことのないはずの響きまでが耳に伝わってきた……」
ふたたび目を開け、和也はつづけた。
「そこで老人は、私は未来のあなただと告げ、私は明日、鞍馬山で自殺をするつもりだと告げる。それを知って、現在の自分は必死になって止めようとするけれど……ああ、あの小説は恐かった。思い出すだけで寒くなる」
腕をさすりながら、和也は女にきいた。
「あの作品は、たしか大ベストセラーになったんじゃなかったかな」
「父の妄想の中ではね」
「え?」
「父の予定では、そうなるはずだったんです。でも、書いても書いても売れないSF作家という現実は、最後まで変わることはありませんでした」
「………」
和也は、自分の理解が女の言葉によって修正される戸惑いを感じた。
「それで父は、別のことで収入を得ようとした。それが自分の娘を食い物にすることだったんです。父は、私が生霊を造り出して人々を苦しめるすさまじい能力があることを発見すると、それでお金を得て生活費に充てようとしました」
「それは、どういうことなんだ。あなたをモデルにして小説でも書いたのか」
「それなら罪はなかったでしょう」
女の眉《まゆ》は、悲しそうにひそめられた。
「でも、父がやったのは、私を京都のある大学の研究機関に預けることでした。いまから三十五年前、私が十歳のときにです」
女の回想は、彼女が十歳の時点へと進んだ。
「父と母と私の三人家族は、城崎温泉に近い豊岡市に住んでいました」
その場所は、たしか若いほうの諸星輝が、自分の住まいとして語っていた場所ではないか――和也は、また夢物語を断片的に思い返した。
「その家から、私だけが両親と引き離されて京都の大学に連れていかれたのです。実験動物として扱われるために……。そのとき私は、父とはまだこれからも会うことはあっても、母とは、一時的に引き離されるのではなく、永遠の別れになる気がしました」
女の瞳《ひとみ》に映っている灯籠《とうろう》の光が揺らいだ。涙がにじんできたためだった。
「世間に認められない小説ばかり書いている父は好きではなかったけれど、私は母は大好きでした。その母と別れなければならなくなったとき、私は父を怨《うら》みました。お金目当てで、大切な家族をバラバラにする父を思いきり憎みました」
女の顔に、また怒りと哀愁をたたえた般若《はんにや》の形相《ぎようそう》が舞い戻ってきた。
和也は、ふと最初にみた伏見稲荷の千本鳥居の夢を思い出していた。
無限につづくオレンジ色のトンネルを歩いていた石坂博美は、いま目の前にいる鏡子という女によく似ていたが、その一方で、無限反射を繰り返す鳥居のかなたからポッと現れた黒ずくめの男もまた、鏡子を男にしたような、顔の各部のパーツに共通する要素を持っていたことに気がついた。
第三夜の鞍馬での夢に出てきた諸星老人は、さらに鏡子と表情の動きなどによく似たものがあった。響子の父・川本一郎の未来の姿だという設定であるならば、それも納得がいく。
(ひょっとすると、黒ずくめの男や諸星老人の顔立ちは、鏡子の父親である川本一郎の特徴をそのまま映し出していたのではないか)
和也はしだいに理解してきた。なぜ自分が鏡子の父親のペンネームや本名、それに代表作を知っていたのか、その理由がつかめてきた。すべては、これまでみた夢の中で提示されていたのだ。それがいま、断片的な記憶情報となって、別の夢の中で蘇《よみがえ》ってきている。
「預けられた京都の大学では、怨念《おんねん》と怨霊《おんりよう》の科学的研究が極秘で行なわれていました」
和也は、女の語る話に注意を戻した。
「京都という場所で、過去にそうした研究が行なわれずにきたのが不思議だというくらい、この都は歴史的にも怨念に満ちた場所です。ですから、人間の精神エネルギーを研究するにはもってこいの土地柄だったのです。けれども、誰も怨霊の科学的研究などというテーマを、まともに取り扱おうとする機関はありませんでした。私が預けられた大学のほかは、どこも」
「それは、どこの大学?」
和也がきくと、女は全国的に有名な大学の名前を挙げた。
「そこでは考古学、歴史学、民俗学、大脳生理学、神経内科、心療内科といった分野のエキスパートだけでなく、いかにも京都らしく神仏の関係者も含めてメンバーが招集され、総合的な研究が行なわれていたのです。そのプロジェクトには『テンジン』という秘密のコードネームがつけられていました」
「テンジン?」
「怨霊の代表とでもいうべき菅原道真《すがわらのみちざね》のことです」
「ああ、天神様……北野|天満宮《てんまんぐう》に祀《まつ》られている」
「ええ。政敵・藤原時平に追放され、大宰府《だざいふ》に流されて傷心のうちに死んだ菅原道真の怨霊が、御所|清涼殿《せいりようでん》に雷を落としたり、さまざまな祟《たた》りを見せるようになったので、それを鎮めるために造られた鎮魂の社、それが北野天神」
「その名前にちなんだ怨霊研究プロジェクトがコードネーム『テンジン』だと」
「もちろん、当時の幼い私には、テンジンが何を意味する言葉なのかもよくわかっていなかった。生霊を生み出す力があるといっても、それ以外の部分はごくふつうの小学生の女の子でしたから」
女は、残り三つとなった灯籠の炎のゆらめきを見つめながら、さらにつづけた。
「とにかく変なおじさんがいっぱい集まっている場所に投げ込まれた、という感覚しかなかったわ。プロジェクトのメンバーは、最初から私を宇宙人みたいにものめずらしげに扱った。父親から聞いた実例を、自分たちの目で確かめようとして、私に生霊を出せというの」
ますます強まる夜風は貴船の樹林を揺るがし、ざわざわと不安げなざわめきを立てはじめていた。ときおり乱れる前髪を整えようともせず、灯籠のそばにかがんだまま過去を語りつづける女は、それこそ、いつ生霊の力を見せつける行動に出ても不思議ではない雰囲気だった。
和也は、緊張で両の拳《こぶし》を握りしめていた。
と、その彼の耳に、木々のざわめきに混じって女の声が聞こえた。目の前でしゃべっている鏡子とは別の声が。
カズ、カズ[#「カズ、カズ」はゴシック体]
弱々しい声だったが、たしかにそう聞こえた。
和也は、とっさにあたりを見回した。が、灯籠の炎が届く範囲はごくわずかで、そのほかの暗闇には、月夜茸《つきよたけ》の青白い明かりが点々と浮かんでいるだけで何も見えない。
(空耳かな)
そう思いながらも、和也は、いまの女の声はどこかで聞いた覚えがあるぞ、と感じていた。しかし、具体的な人物が浮上してこない。
「和也さん?」
こんどは、目の前の女の声だった。
「どうかなさって?」
「あ、いや、なんでもない」
和也は手を振って、女の話にふたたび注意を向けた。
「さあすぐここで生霊を出せと言われても、それはできなかった。そうした強制的な命令では生霊は出てこないの。本気で私が憎み、本気で私が怨まなければ、私の身体から生霊が飛び出してこないのよ。だから私は、ずっと首を振りつづけて同じ言葉を繰り返していた。できません、できません、できません、と」
そのときのことを思い出したのか、女の瞳《ひとみ》に涙が浮かんだ。
そこに灯籠の明かりが映し込まれて輝く。
「そうしたら、ひとりが突然、猛烈な勢いで怒りだした。おかしいじゃないか、絶対できるからやってみろって」
「誰が」
「プロジェクトのメンバーじゃなくて、私の父」
女は、涙をそっとぬぐいながら、悲しげに微笑んだ。
「私はそのテンジン・プロジェクトで実験動物扱いされたけれど、父親以外の人間に対しては、まだ生霊を産み出すほどの憎しみを覚える人間がいたわけではなかったの」
女は、残り三つのうちのひとつの灯籠に、じっと視線を注いだ。まるで、それが父親自身であるかのように。
「けれども、私ができないものはできないって泣きながら抵抗しつづけると、メンバーの態度がガラッと変わった。まるでインチキのスプーン曲げ少女みたいな目で私を眺めるの、全員がね。そしてメンバー最年長でプロジェクトの座長だった白髪の考古学者がこう言ったのよ。こんな大ウソつきの子供は、私は大嫌いだ。こんなチビのうちから詐欺師の片棒を担ぐとはとんでもない小娘だ。とっとと帰ってもらおうじゃないか、と。その瞬間、これまで感じなかった猛烈な怒りが湧いて、私の身体から生霊が……出た」
そう語るのと同時に、女の口から白い煙がドロッと吐き出された。
最初、和也はそれが寒さによるものだと思っていた。さきほどから、あたりの気温は急降下していた。煌々《こうこう》と輝いていた灯籠がひとつ流れて闇に消えるたびに、なぜか連動して冷え込みがきつくなり、いまでは足踏みをしていないと凍えてしまいそうなほどの寒さになっていた。
和也の吐く息もやはり白くなっていた。だが、女の口から出た白いものは、そうした水蒸気とは異なっていた。気体ではなく、粘りけのある液体のように口もとからこぼれ出ると、彼女の身体に沿って下りてゆき、いつまでもその白さを保ったまま、せせらぎのほうへ流れていった。
(なんだ、これは……)
和也があっけにとられて眺めていると、その白いかたまりは、せせらぎの中央で急速に大きく膨れあがってひとつの形を造った。人間の形を……。
それは、もうひとりの彼女だった。
鏡子と名乗る女の、まさに鏡像のごとく、まったく同じ白いスーツを着た、まったく同じ顔をした女が、せせらぎの上にゆらめきながら浮かび上がっていた。
* * *
あまりの衝撃に、和也はよろめいて背後の大木に寄りかかった。
本物の鏡子は、三つの灯籠の傍らに腰を落としたままだったが、彼女の口から生まれ出たもうひとりの鏡子は、立ち姿で宙に浮いていた。
その足もとは小川の水には浸《つ》かっておらず、水面から十五センチほどの高さのところに浮いていた。
「これが私の生霊」
鏡子は、木の幹にもたれて喘《あえ》いでいる和也に向かって言った。
「あのときは、こういう大人の私ではなく、少女時代の私そっくりのもうひとりが、みんなの前に現れました。私と生霊の私がふたり並ぶと、まるでふたごの姉妹」
「ふたご……」
「私を大ウソつきだと罵倒《ばとう》したおじいさん学者は、その場で腰を抜かしたわ。でも、私は本気で怒っていたから、それだけでは収まらなかった。そっくり同じ生き物をふたつ並べて見せられると、なぜか人間はものすごい恐怖に襲われる――そのことが直感的にわかった私は、生霊の私を、さらにふたつに分裂させて、ほかのものに姿を変えた。こんなふうに」
宙に浮かぶ鏡子の生霊が、真ん中からふたつに割れ、いったん粘液状のふたつのかたまりになってから、ふたたび明確な形をとりはじめた。
うめき声が和也の口から洩《も》れた。
白装束を着たふたごの老婆が、夜の樹林の合間を縫うせせらぎの水面に、ちょこなんと正座をして浮かんでいた。
あたりを吹きすさぶ風がさらに強まり、ぴちっとまとめあげた老婆の白髪は乱れなかったが、その白装束の袖《そで》のあたりがバタバタと音を立ててあおられていた。
「どうじゃろか」
右の老婆が、和也に語りかけた。
「これでわかってきたじゃろが」
左の老婆がすかさずあとをつづけた。
和也は背後を支えている大木の硬い樹皮を皮膚に強く感じていた。もう自分の足で立っていることができず、尻《しり》もちをつきそうになるところを、樹皮との摩擦でかろうじて食い止めているのだ。
そのとき、また彼の耳にさっきの声が聞こえた。
カズ、カズ、ねえ、起きて、カズ[#「カズ、カズ、ねえ、起きて、カズ」はゴシック体]
前より少しははっきり聞こえたが、それでも風のざわめきにまぎれて途切れとぎれにしか耳に届かない。
(誰なんだ、おれを呼んでいるのは)
視覚ではふたごの老婆に驚愕《きようがく》しながら、聴覚では声の主を探っていた。
(それに、起きてとはどういうことだ。もう起きてるじゃないか、こうやって)
「私の生霊が形を変え、ふたごの老婆になったのを見たとたん……」
鏡子の声に、和也は、またそちらへ意識を戻した。
「座長の考古学者は心臓発作を起こして死にました。ほかのメンバーも、金縛りにあったような顔でその状況を見守っていました。私の力を知っている父でさえ、こんな現象を見たのは初めてなので、蒼《あお》くなって震えていました。……もういいですね、これをお見せするのは」
鏡子がそう言って、ふっと力を抜くと、せせらぎに浮かんでいたふたごの老婆が、みるみるうちに透明度を増し、十秒も経たぬうちに闇に溶け込んで無に帰した。
和也からすれば、まるで魔術だった。
「でも、そこで生霊のパワーを研究者たちに思いきり見せつけたことが、はたして私にとってよかったかどうかわかりません」
灯籠《とうろう》のひとつに両手をかざし、鏡子は言った。
「おかげで私はテンジン・プロジェクトから追放されず、逆にそこに幽閉される形で研究対象になりつづけることになったわけですから……。もちろん小学生だった私は、義務教育を受けなければなりませんでしたけれど、通学困難な重度の病気に罹《かか》ったということにして、その大学の付属病院に入院して通信教育の形で義務教育を受けるという形で、教育委員会の追及をまぬがれる段取りが組まれました。そして川本鏡子という少女は、しばらくの間、この世から姿を消したんです」
そこまで鏡子が語り終えたとたん、和也の大脳の奥底に向かって、猛烈な速度でデータの激流が押し寄せてきた。
(うわっ!)
声を出さずに、和也は叫んだ。
反射的に、両手で頭を抱え込んだ。
それは、川本鏡子という生霊を操る特殊能力を持った少女が、その後どのような人生を送ったかということに関する大量の情報だった。それが言葉を用いず、一瞬のうちに和也の大脳に流れ込んできた。
「うわっ、うわっ、うわっ!」
とうとう声になって悲鳴が出た。
人間が日常で処理する思考データの何千倍、何万倍に相当する情報量が一気に送り込まれ、永瀬和也の脳細胞が急速に加熱した。そして、その熱が猛烈な痛みとなって和也に襲いかかった。
「たのむ……やめてくれ」
うめきながら、和也はずるずると木の幹に沿ってくずおれ、苔《こけ》むした地面を転げ回った。
[#改ページ]
[#1字下げ]14 鏡 子
1
大脳がオーバーヒートするほどの勢いで永瀬和也の思考回路に送り込まれてきたデータには、怨念《おんねん》のエネルギーで生霊を操る少女・鏡子に関するすべての情報が含まれていた。彼女の生い立ちなどの客観データだけでなく、奇異な実験動物として扱われることになった少女の、プロジェクトメンバーに対する強烈な憎悪や、彼女がこうむった精神的肉体的苦痛のすさまじさまでもが、主観的な感情の記録として和也の頭脳に送り込まれた。
それはまるでパソコン間の赤外線通信のように、鏡子の頭脳から和也の頭脳へと、物理的な結合手段をとらずに飛んできた。大量の情報は圧縮ファイルの形をとっており、それは和也の脳の中に取り込まれた瞬間、勝手に自動解凍をはじめた。
膨大な量のファイルが一気に展開し、思考回路のキャパシティをはるかに超えた情報の流入に、和也は猛烈に悶《もだ》え苦しんだ。とくに圧縮された憎悪と悲しみの感情ファイルが開いたとき、和也の脳は爆発しそうになった。
一定時間を経て、ようやくその展開のショックが収まったところで、和也の頭脳は、いちばん最後に開かれた、鏡子という女の父親に関する客観的データを再生しはじめていた。
それは、娘をテンジン・プロジェクトに預けることにより得た研究協力費で、どうにか生活のゆとりができた川本一郎が、本来の職業であるSF作家の仕事に戻り、諸星輝のペンネームで、また小説を書きはじめたというエピソードからはじまっていた。
小説は、テンジン・プロジェクトで知り合うことになった同世代の民俗学講師から聞いた話を題材にとったものだったが、その小説と、鏡子の生霊エネルギーを最終的に大爆発させることになった事件との関係を綴《つづ》ったエピソードが、和也の頭脳へ送り込まれた膨大な思考アーカイヴ(書庫)の最後の部分を占めていた。
それは、鏡子の感情を圧縮したファイルとは対照的に、客観的な視線で淡々と語られており、まるで子供向きの昔話のような、きわめて平易な表現スタイルをとった文章の形をとっていた――
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
[#ここから3字下げ]
娘の鏡子に特異な能力があることを知った川本一郎は、彼女をテンジン・プロジェクトの貴重な研究材料として提供する見返りに、毎月の生活資金を提供してもらう契約を取り付けました。そのおかげで、彼は経済的な心配をすることなく、SF小説の執筆に没頭できる環境が整えられたのです。しかしそれは、いうなれば娘の犠牲のうえに成り立った小説家としての暮らしでした。
ところで川本は、テンジン・プロジェクトにおいて、ひとりの民俗学講師と個人的に親しくなりました。その講師は川本より三つ年上でしたが、ほぼ同世代といってよく、何かとふたりは話が合いました。
テンジン・プロジェクト以外での「本業」として、民俗学講師は、京都にまつわる怨霊《おんりよう》の伝承から一般庶民の生活実態をあぶり出すというテーマの、独自の研究に励んでおりました。
彼は、古都の神社仏閣、山や川や森や農地、さらには葬送の地などにまつわる膨大な数の伝承、民話、史料を収集分析しており、その史料の山がSF作家諸星輝としての、川本一郎の創作意欲を刺激したのです。
講師の研究に大きな影響を受けた川本は、怨念をテーマにした連作短編を書きはじめることにしました。SF小説の分野でなんとしても名を上げたいと思っていた川本は、民俗学に裏打ちされた怨霊小説というコンセプトを得て、まさにスター作家にのしあがる絶好のチャンスをつかんだと小躍りして喜びました。そして一心不乱に執筆に没頭したのです。
それが一九六五年、昭和四十年のことでした。
民俗学講師との出会いは、作家としての川本を変えました。それまで自分も認めるかなりの遅筆だったのが、嘘のように筆が進み、十を超える短編がきわめて短期間のうちに書き上げられました。これは川本一郎の作家経歴において、過去いちどもなかったほどのスムーズさです。そして、それだけ書いても、まだまだ小説のネタは尽きません。いまや唯一無二の親友となった民俗学講師が、素材の宝庫を抱え持っていたからです。
執筆の好調ぶりに気をよくした川本は、とりあえず短編をあと三つ書き足して、ぜんぶで十三本になったところで一冊の短編集の形態にまとめ、その原稿を東京の大手出版社へ持ち込もうと考えました。その短編集の題名も、これぞという腹案がありました。『京都十三夜物語』です。
京都十三夜物語――それが一冊の本として出版されたとき、これまで報われなかった小説家としての自分の人生が必ず変わると、川本は大きな希望と期待で胸を膨らませたのです。
小説そのものの出来に自信があっただけではありませんでした。彼はその当時、どんな作家もどんな出版社も小説の分野では手がけようとしなかった、まったく新しい概念による本づくりを導入しようと考えておりました。そのアイデアの独自性にも相当な自負があったのです。
(おれは、一年後にはSF小説界のスターになっている)
川本一郎は、本気で信じ込んでいました。
ところが、川本が民俗学講師にそのプランを打ち明けたとたん、これまで二人三脚の蜜月《みつげつ》ぶりを示していたふたりの関係が、突如決裂してしまったのです。
きっかけは、川本が考えていたまったく新しい形の本づくりに関する意見の相違でした。川本のプランは、小説の表現としては邪道だと批判する講師と、小説のことをひとつも知らない学者の卵に何がわかるかと猛反発する川本との間で激しい口論となり、ふたりの間に走った感情的な亀裂《きれつ》は、修復が不可能なほど深いものになってしまいました。
悪いことは重なります。同じころテンジン・プロジェクトでも大事件が発生していました。それまでおとなしく大人たちの言うなりになっていた鏡子が、もう実験動物みたいな扱いはいやだと言って、研究施設から脱走したのです。
すぐに鏡子は発見されましたが、知らせを聞いて駆けつけた父・川本一郎は、プロジェクトメンバー全員が居並ぶ前で、思いきり娘の頬を平手打ちにしました。親としての面子《めんつ》を潰《つぶ》されたという思いもありましたが、それよりも、せっかく小説家として成功する展望が見えてきたというときに、親友と信じていた男から自信満々の企画を批判され、おまけに「資金源」としての人質にしていた娘がプロジェクトから逃げ出したとあって、そうした焦りが川本の手を娘の頬に飛ばしてしまったのです。
そしてその一撃で、いくら憎くても自分の父親だからと、いままで必死に抑えてきた鏡子の憎悪が爆発したのでした――
[#ここで字下げ終わり]
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
2
和也の大脳の中で最後のファイルが解凍され、それを彼の意識が超高速で認知し終えたのを見計らって、鏡子は十一個目の灯籠《とうろう》を静かにせせらぎへと放した。
最初は十三個あった灯籠も、とうとう残り二個となり、いっそう闇の占める割合が大きくなった。
「父は、私に呪い殺されました」
エピソードのファイルでは省略されていた最終結末を、鏡子はあっさりと口にした。
「怒り心頭に発した幼い娘が、生霊を操って実の父親を惨殺するという展開に、プロジェクトのメンバーはこんどこそ完全に恐れをなして、とうとう私に関する研究をやめました。そして川本鏡子に関する一切のデータを破棄する命令が下されたのです。
でも、私を元の生活に戻すという措置に猛反対した人間がいました。それがほかでもない、父と個人的に親しくなっていながら、最後に関係が決裂してしまった、あの民俗学講師でした。当時、三十八歳でプロジェクトの中でいちばん若かった彼は、川本鏡子は怨霊の時代から時の流れを超えてやってきた魔物であり、彼女の特異な能力は世に放っておくべきではない、と主張したのです。
わかります? 和也さん、その男がどういう意味で私をふつうの生活に戻すなと言い張ったのか」
「たぶん……」
データの流入ショックからようやく立ち直った和也は、鏡子の問いかけに答えた。
「研究者として、貴重な研究対象が手もとから離れるのが惜しかったんだろう」
「違うんです。川本鏡子という少女を実験動物同然に扱ってきたプロジェクトメンバーが、私に復讐《ふくしゆう》されるのを恐れたんです。なにしろ、実の父親でも平気で呪い殺すような化け物ですから」
自分のことを自嘲《じちよう》的に表現しながら、鏡子は言った。
「ほかのメンバーに対しても、どんな報復があるかわからない。ですから彼は、私を野放しにすることを恐れました。そして彼は、二代目のプロジェクトリーダーに就いていた心療内科の教授に向かって、こうささやいたのです。あの子は、生かしておくべきではありません、と」
「つまり、それは……」
と、和也が言いかけたのを目で制して、鏡子はつづけた。
「恐るべき生霊を操る子供も、死ねばその能力を失います。ですから、これ以上犠牲者を出さぬうちに、あの子を殺すべきです、と彼ははっきりそう主張しました。そして、こうも言ったのです。これはリーダーと私のふたりだけの秘密にしておきましょう。ほかのメンバーの誰にも知らせず、大学の病棟内で病死を装って処置することは、決して難しいものではないでしょう、と」
「あなたは、どうやってその会話を」
「聞こえるんですよね」
こともなげに、鏡子は言った。
「私の脳には、なんでも聞こえてくるんです。その能力を、彼らも知っていたはずなんですけれど……」
「………」
地面にへたり込んでいた和也は、圧倒される話の内容から自分を解放するように、顔を上に向けて深呼吸をした。
いままで気がつかなかったが、空には満天の星が輝いていた。それなのに、星明かりが地上まで届いてこない。不思議な煌《きら》めきだった。そして、これだけ星々が輝いているのに、月がどこにも見当たらなかった。
妻の晴美が月だけの夜空を見ていたのとは逆に、和也は夢の中で星だけの夜空を見ていた。その対比までは、彼も知らない。そして林の中でも無数の星がきらきら輝いている。そちらの例はキノコたち[#「たち」に傍点]が放つ光だった。
しかし、そういった光は彼の精神をさらに不安定にさせるばかりで、決してやすらぎは与えてくれなかった。深呼吸を繰り返してみても同じだった。
いま、永瀬和也は、自分がひとつの結論に近づきつつあることを感じていた。
すなわち、テンジン・プロジェクトの最年少メンバーで、鏡子の父・川本一郎に古都にまつわる怨霊伝承の数々を提供し、そして仲たがいしたあげく、鏡子殺害を企んだ民俗学講師が誰であるか、という結論が。
カズ、早く、早く、起きて[#「カズ、早く、早く、起きて」はゴシック体]
また例の声が暗闇の奥から聞こえた。
だが、それはずいぶん近くなってきた。そして、そちらの声の主も誰であるかがわかってきた。
それは――
「私は翌日、その講師のところへ行って、こうささやきました」
鏡子の声が思考を邪魔する。
「私を殺そうとしてもムダよ、と。すると彼は、目の玉が飛び出しそうなほど驚いて、それからわなわなと震えだしました。いつまでも、いつまでも、ブルブルと……」
鏡子は、残されたふたつの灯籠のうち、片方を静かに取り上げた。
「彼は、まだ子供の私の前にひざまずいて、許してくれ、助けてくださいと、涙を流しながら命|乞《ご》いをしました。みっともないほど取り乱して……。そして、これ、このとおりだ、と土下座をして床に頭をこすりつけました。そんな男を見つめながら、少女の私は言いました。いまは何もせずにおまえのもとから去っていくけれど、いつか私は、きっとおまえのそばへ帰ってくる、と」
一呼吸置いてから、鏡子は言った。
「ついてくる」
「………」
「ついてくる。どこまでもついてくる。おまえの人生だけでなく、おまえの子供、そのまた子供、と係累のつづくかぎり、未来|永劫《えいごう》、いついつまでも、どこまでも、ずっとおまえについてくる――そう宣言したのです」
言い終えると、鏡子は十二個目の灯籠を流れに放した。
灯籠はいままでとは違って、流れてゆくのを拒否するように、その場で左右に激しく揺れた。が、鏡子がフッとひと吹き息をかけたとたん、すべての抵抗をやめて、闇の果てへ流れていった。
濃密な闇が、またぐいと四方から和也に向かって押し寄せてきた。
残りの灯籠は、たったひとつ。
「その後、私は……」
せせらぎの彼方に消えていく十二個目の灯籠を見送りながら、鏡子は言った。
「この男に三十年越しの呪いをかけ、生きている間にもさんざん苦しめてあげました。そして最後には、むごたらしい死にざまになるよう、暑い夏の盛りに、ひとりぼっちの家の中で死んでもらいました。つぎに家族と会うときには、人間としての形がすっかり崩れてしまっているように」
「ひとつききたいことがある」
和也は、渾身《こんしん》の力をふりしぼって声を出した。
「その民俗学講師の名前は」
「私にきかずとも、もうおわかりになっているでしょう」
「じゃあ……やっぱり……市ノ瀬……恵造」
その問いに、鏡子は無言でうなずいた。
ああ、という恐怖と絶望のうめき声が和也の喉《のど》から洩《も》れた。自分がなぜこんな状態に置かれているのか、それがいちどきに理解できた。
「それで……」
和也の目は、残された最後の灯籠に向けられた。
「この最後の灯籠は、誰を指しているんだ」
「さあね」
鏡子は最後にひとつを取り上げて、目の前にかざした。
炎と影の揺らめきで、鏡子の顔が笑う鬼にみえた。そして鏡子は、恐怖に固まる和也をからかうような口調で言った。
「十三番目は誰にしてあげましょうか」
「………」
「さきほど申し上げましたけれど、私は主人も憎んでいます。でも、まだ呪うには早すぎる。おそらく十四番目の灯籠にはなるかもしれませんけれど」
「だから誰のぶんになるんだ、それは」
「あなたかもしれません」
「そんな!」
かすれた悲鳴を和也は放った。
「ぼくがあんたに何をしたっていうんだ。何も悪いことはしていないじゃないか」
「いいえ、しているわ」
「何のことだ。言ってくれよ」
「市ノ瀬恵造の娘と結婚したことです」
「晴美と?」
「はい。あの憎い男の遺伝子を受け継ぐ娘を幸せにしようとする、私からみれば許しがたい愛情を抱いていることです。そのことだけでもあなたは死に価する存在です」
「そんな……」
「ですから私は、あなたに取り憑《つ》きました」
「取り憑いた? もう?」
「そうです。その証拠に、すでにあなたは呪いのいくつかを、身をもって体験してきたではありませんか。ほら」
鏡子の言葉と同時に、和也の脳の内部で、おぞましい場面がつぎつぎとフラッシュバックした。
高速道路で轢《ひ》き殺されたふたごの赤ん坊。白装束の腹部から鮮血をほとばしらせるふたごの老婆。人間の首のように自由自在に茎を動かす奇怪な黄色い花の一群。真っ赤に染まった自分の瞳《ひとみ》。
さらに、これまでみてきた夢の数々が飛んできた。動き出した黒い招き猫、花見小路の割烹《かつぽう》での醜態、星が溶け込んだ宿の湯、馬になるタクシー運転手、笑う七福神、夜空を飛び交う無数の鐘、比叡山から眺め下ろす琵琶湖、円い窓と四角い窓、人力車を引いて走る視点から見た嵯峨野の動く風景――
それらのイメージが、映像だけでなく笑い声や鐘の音といった音響まで伴って、永瀬和也の脳の中で暴れはじめた。
「やめてくれ!」
頭を両手で抱えて、和也は叫んだ。
「おれの脳味噌《のうみそ》を壊さないでくれ!」
「怖いですか」
女がきいた。
「こわい……こわい……」
震えながら、和也は答えた。
「恐ろしいですか」
「おそろ……しい」
「十三番目の灯籠として、闇の彼方に流されたくないのですね」
「いやだ、いやだ」
「絶対にいやですか」
「ぜったい……いや……だ」
「そうですか。それならば、私の命令をお聞きなさい」
「命令?」
「私の生霊の助手をしなさい」
その命令内容に、和也は抱え込んでいた頭を上げ、信じられないといった顔で女を見つめた。
「生霊の助手になれ、だって?」
「そうです。市ノ瀬恵造の娘に、私の生霊が取り憑くのを手伝いなさい」
「なんでそんなことを、おれに手助けさせるんだ。おまえはその気になれば自分で何でもできるんだろう」
「共犯者にさせたいのです」
「え……」
「市ノ瀬晴美を精神的に崩壊させるお仕事の、共犯者になってほしいのです」
「できない」
「なぜ?」
「愛しているからだ」
和也は、かすれた声で言い返した。
「おれは晴美を愛しているからだ。そんなことができるはずがない」
「そう……」
女は、拍子抜けするほど穏やかに、和也の反発を受け止めた。
そして、もはや何も言わずに最後の灯籠《とうろう》を手に取り、それをそっとせせらぎに置いた。
「ちょ、ちょっと待て!」
和也は金縛り状態から必死に抜け出し、立ち上がると、せせらぎの上で解き放たれるのを待つばかりの灯籠を取り戻そうとした。
が、それより早く、女が灯籠から手を放した。
こんどは驚くほど速いスピードで、それは樹林の中を流れに沿って走り、闇の奥に溶け込んでいった。
すべての灯籠の明かりが消滅した。
同時に、漆黒の闇に包まれた樹林の中で、数え切れないほどの星々がキラキラと輝きだした。夜空に浮かぶ星の煌《きら》めきではない。林の中に群生する月夜茸《つきよたけ》が、いっせいにその輝きを増したのだ。
貴船渓谷の林の中を縫って、光るキノコたちが形づくる天の川が、音を立てて流れはじめた。その幻想的な光景に、和也は一瞬、恐怖を忘れて見とれた。
だが、すぐに現実に立ち返った。
「いまのは」
闇にかき消えて、どこにいるのかわからなくなった川本鏡子にむかって、和也はきいた。
「いま流していった灯籠は、どっちなんだ。おれなのか、晴美なのか」
しかし、闇の中から返ってきた声は、その質問には答えず、こう言った。
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
だが、どこからその声がしたのか、わからない。
すると、声だけの存在になった鏡子がつづけた。
「ついてくる、いついつまでも、ついてくる――市ノ瀬恵造にそう宣告した私は、長い長い歳月を経て、また彼のそばに戻ってきた。市ノ瀬が考えてもみなかった立場で」
和也はつぎの言葉を待った。
しかし、いつまで待ってもつぎが聞こえてこない。月夜茸の輝きのほかは何も見えないし、何も聞こえない。
それでもその場で、和也はじっと待った。待ちながら、考えた。彼女はいったいどんな立場で、晴美の父親のそばに戻ってきたというのか。
(結婚?)
まず、そう考えてみた。鏡子は、市ノ瀬恵造の妻として舞い戻ってきたのか、と。つまり、晴美の母親として。
うちのママは霊感が強いの、といつも語っていた晴美の言葉も思い起こされた。霊感の強さは、すなわち鏡子であることを表わしていたのではないか、と。
しかし、晴美の母の名前は準子であって鏡子ではない。顔立ちも違う。第一、ここまで怨念《おんねん》のかたまりになっていたなら、市ノ瀬恵造の妻という立場など、とりたくもないはずだ。仮にそうなったとしたら、鏡子にとって、晴美は自分の血を引いた実の娘ということになる。それならば、晴美に取り憑《つ》いて呪うという発想は浮かばないはずだ。
(いったい鏡子は、どんな形で市ノ瀬恵造のそばに戻ってきたというんだ)
和也は考えた。必死に考えた。
と、そのとき和也は、夢の中にさまざまな立場で出てきた女に共通する容貌《ようぼう》の特徴を思い出した。右の目尻《めじり》にポツンとひとつある泣きぼくろ――
(そうだ、あれだ。泣きぼくろだ。おれのよく知っている人とそっくりの位置に泣きぼくろを持つ女……その「よく知ってる人」って誰だっけ。おれはいったい誰の顔を思い出したんだ?)
いままでは、いくら考えてもその答えが出てこなかった。しかし、ようやく答えが出た。現実に存在する女性の顔と名前とが、はっきりと脳裏に浮上した。
和也は愕然《がくぜん》となった。
自分が導き出した結論を、すぐには信じられなかった。だが、たったいままで見えていた鏡子の姿は、たしかに「あの女性」に違いなかった。
「おい、おれの声が聞こえているか」
闇に向かって、和也は声を張り上げた。
「もしかして、あんたのいまの名前は……うわっ!」
別の苗字で相手を呼ぼうとしたとたん、和也は見えない力によって、いきなり身体を激しく揺さぶられた。
樹林の中を流れていた天の川が四方八方に飛び散り、それぞれの明かりが勝手に上下左右へと大きな振幅で跳ね回りはじめた。まるで、闇の中で無数の線香花火をふり回したようだった。無数にある光の点が暴れ出し、その残像が闇に輝く軌跡としていつまでも残り、その軌跡がどんどん増えてゆき、やがて闇にとって代わって、あたりが一面の光で覆い尽くされた。
すべてが白一色となり、そのまばゆさに圧倒され、和也は気を失った。最後に自分の名前を呼ぶ声を聞きながら――
カズ、起きて。ねえ、起きて。カズ![#「カズ、起きて。ねえ、起きて。カズ!」はゴシック体]
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[#1字下げ]15 欲 望
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「カズ、起きて。ねえ、起きて。カズ!」
何度も何度も激しく身体を揺さぶられ、永瀬和也は深い眠りから覚醒《かくせい》した。
光に満たされ白一色になっていた視野に、現実の光景が飛び込んできた。血の気を失い、髪の毛を乱しに乱している妻・晴美の顔が自分に覆い被《かぶ》さっていた。
「なんだ、晴美じゃないか」
まだ眠気を残した腫《は》れぼったいまぶたをこすり、パジャマ姿の和也は片ひじを蒲団《ふとん》について半身を起こした。その顔を不安げに覗《のぞ》き込んでいた晴美は、真っ先に夫の瞳《ひとみ》に異常がないことを確かめた。
「ああ、よかった。カズ……カズはいつものカズなのね」
「え?」
「目の中に変なものが住みついていたりしないよね」
「なんだって? 何のことだよ、いったい」
たずねながら、和也は自分の寝ていた周囲を見回した。
ここが晴美の父・市ノ瀬恵造が仕事場として使っていた京都岩倉の家だということは、すぐにわかった。ゴールデンウィークの長い休みを利用して京都まできたことも思い出した。しかし、そのほかの状況がわからない。なぜ自分だけが眠りについて、晴美が大騒ぎをしているのか、それが理解できないのだ。
そこが、いままでの寝起きとは異なっていた。
ずいぶん長く寝た気がするのは、いくつもいくつも夢をつづけてみたせいではないかと思った。たしかに彼は多くの夢をみた。だが、これまでみた夢に関する記憶のしまい場所を、和也は忘れていた。夢の記憶そのものを失ったのではなく、その記憶が格納されている場所へ神経がたどり着かない状態だった。
最後の夢の途中で急に晴美に揺り起こされたため、コンピューターにたとえるなら、作動中に突然電源が切られてしまい、ふたたび電源を入れて起動させようとしても、以前の状態に戻れないようなものだった。パソコンならそこでエラーの自動修正が行なわれるが、和也の頭脳にはそうした機能がない。夢の記憶を格納した場所へ導く地図が途中で破られてしまったに等しいのだ。
ただひとつ、灯籠《とうろう》が闇の奥に向かって流れていく映像だけは、彼の脳裏に焼きついていた。手でハンドルを回しながら短い動画を繰り返し繰り返し見るレトロなおもちゃがあるが、それと同じように、灯籠がゆらゆらとせせらぎを流れていきながら小さくなり、闇に溶け込んだかと思うと、またロウソクの炎を輝かせながら手前にポンと大きく現れて、ふたたびそれがせせらぎに乗って遠くへ運ばれてゆく――という繰り返しが、いつまでもつづいた。
まさに記憶が空回りしている状態で、それ以上先に進めないし、前にも戻れない。そうこうしているうちに、そのわずかな場面もどこかへ消え失せて、和也は夢の世界へ戻る手がかりを完全に失った。
とりあえず彼は、晴美に時間をきいた。
「いま何時?」
「夜中の十二時を過ぎたところよ」
「いつの」
「そんなことよりカズ、大変なの。パパが、パパが」
晴美は泣いていた。
「パパがお花に食べられちゃって」
「お父さんが、花に?」
和也は理解できない。
そもそも晴美の父は三年前に死んでいる。しかも、花に食べられたというが、その花とは何なのか。
黄色い花畑の記憶も、それを根こそぎ刈り取ろうとエンジン付き刈り払い機を物置から持ち出した記憶も、どこかへ忘れ去ってしまった和也には、晴美は意味不明のことをわめいているとしか思えなかった。
「聞いて、カズ。裏庭の黄色いお花は、やっぱり化け物だった。パパを土蔵のほうへ運びながら、途中でパパに襲いかかって、音を立てて食べはじめたの」
和也が混乱していることをまだ把握していない晴美は、ようやくひとりぼっちの戦いから解放された安堵《あんど》感と、いままでの恐怖の蓄積との両方から、声を出して泣きじゃくりはじめた。そして、涙に濡《ぬ》れた顔を手の甲で拭《ふ》きながら、また言葉を継いだ。
「パパは、そのまま土蔵の中に吸い込まれるように消えていった。そしたらこんなに大きかった満月が急に小さな赤い三日月になって、黄色いお花も真っ赤な色に変わったの。そして首をギューンと私のほうに向けると、波みたいにうねりながら押し寄せてきた。きっと、きっともうそこの勝手口まできているかもしれない」
「晴美……」
和也は困惑の笑みを浮かべた。
「おまえ、だいじょうぶかよ、頭のほうは。お父さんは三年前に亡くなっているんだぞ」
「わかってるわよ、そんなこと。わかっているけど……ああっ、そうだった。パパはこの部屋で」
父の死の背景に、どんなむごたらしい事実があったか、それを晴美は急に思い出した。風呂《ふろ》場で腐った身体を洗おうとしていた父の姿が、晴美の脳裏に臭いつきで蘇《よみがえ》った。
「この部屋で死んだあと、長いこと誰にも発見されないで……それで腐って……どろどろに溶けて」
しゃべっているうちに、晴美はまたパニックに陥った。
「こわい……カズ、こわい……もうだめ、私、神経がもたない、がんばってきたけど、もう……ほんとにだめ」
「晴美、落ち着け」
和也は、錯乱状態に陥った晴美の両肩に手をかけた。そして静かに言った。
「とにかく眠ろう」
「眠る?」
「起きているから恐いんだ。そうだろう。眠ればすべてを忘れることができる」
「いやよ」
晴美は首を激しく横に振って拒絶した。
「眠るのはもういや」
「どうして」
「恐ろしい夢をみるから。起きているときも怖いけど、眠っているときは自分の動きが自由にならないから、もっと怖くなる」
「そんなことを言わないで、おいで、晴美」
和也は掛蒲団をまくって、晴美を誘った。
「さあ、この中に入るんだ」
「カズ……」
そのときになって晴美は、和也が妙に落ち着き払いすぎていることに気がついた。
彼が眠っている間に風呂場や裏庭で見た光景があまりにも異常すぎたから、たしかに自分はひとりで強烈なパニック状態に陥っているかもしれない。
だが、和也だって今夜眠るときまでは、晴美とまったく同じ夢と幻覚経験を共有していたではないか。だから、死んだ父親が土蔵に運び込まれたとか、黄色い花が一斉に襲いかかってきたという話をすれば、もっと違う反応をしてくれてもよいはずだった。とっさに事態をのみ込み、もっと緊迫感に満ちた反応をしてくれてもいいはずだった。
それなのに和也は、晴美の言っていることを一から十まで妄言だと思っている。それはまるで事情をまったく知らない人間と同じではないか。
「晴美、抱いてあげるよ。おれがしっかりと抱いてあげる。そうすれば何がきたって怖くない」
「ちょっと待って、カズ」
晴美は、自分を引きずり込もうとする和也を必死に押しとどめた。
「寝ている場合じゃないの。とにかく私といっしょにきて」
「どこへ」
「キッチンのほうへ。そこから裏庭を見てほしいの」
「なんのために」
「私が見たものが、まだあるかどうか。黄色から真っ赤に変わったお花畑が、こっちへ押し寄せてきているかどうか、それを私といっしょに確かめてほしいの」
「そんな必要はないよ」
「どうして」
「もっと大事なことで、晴美には協力をしてもらわなければならないんだ」
「大事なことって」
「こういうことさ」
突然、和也は晴美の腕をとって力まかせに横倒しにした。そして、有無を言わせずに、晴美の唇を自分の唇でふさいだ。
うっ、ぶっ、という短い抵抗の音を合わさった唇の間から洩《も》らし、晴美は和也の顔を両手で押しのけた。
「なにするのよ、カズ。やだってば」
晴美は暴れた。
「こんなときに何よ!」
「安心するんだ、晴美。夢はもうすべて終わったんだから」
「終わった?」
和也に組み伏せられた格好のまま、晴美は問い返した。
「終わったって、どういうこと」
「夢は十三夜までつづかない。夢は十夜で終わるんだ。なぜなら諸星輝は、その先を書けなかったのだから」
「諸星?」
「彼はおまえのお父さんとケンカをした。詳しい内容はわからないが、小説作法に関して意見の対立があって……」
「何を言ってるの、カズ」
まともな状態に戻ってくれたと思った夫が、また意味不明のことを言い出したので、晴美は新たな不安に顔をひきつらせた。
「私にはカズの言ってることがわからない。それに私は七つしか夢をみていないわ」
「そっちは七つでも、こっちはもう十個みてしまったんだ」
夢の記憶に戻れないのに、和也はそういう部分はきちんと口に出した。自分ではない何者かがそう言わせていることを感じながら。
「とにかく、おれを信じるんだ、晴美。夢は終わった。すべての幻覚は終わった。さあ、抱いてあげるよ。もう何日もしていないから、おれははちきれそうな状態なんだ」
晴美は悟った。やっぱり和也は元に戻っていない、と。
瞳《ひとみ》の中でふたごの老婆が踊っていたり、丸や四角の窓が瞳に取って代わるというような目に見える怪奇現象は伴っていないが、和也の言動は完全に支離滅裂だった。
(もう誰も私の味方がいない!)
晴美は絶望で死にたくなった。
この呪われた一軒家の中で、ただひとり自分を守ってくれる味方であるはずだった和也が、完全におかしくなってしまったのだ。
「晴美、愛してるよ……好きだ、大好きだ」
あまりにも平凡で、あまりにも陳腐なセリフを並べ立てながら、和也は晴美が穿《は》いているジーンズを力まかせにずり下げ、自分もパジャマのズボンを下ろした。
なぜ、と晴美は頭の中で叫ぶしかなかった。なぜこんな状態のときに、和也は欲望を感じて、それが可能になるのか。
和也が割り込んできた。
いや、そうではない。何かもっと別のものが、晴美の子宮めざしてにゅるっともぐり込んできた。
それと同時に、晴美の大脳に強烈な刺激が走った。快感ではない、恐怖。凄《すさ》まじい恐ろしさによる全身の収縮。そして痙攣《けいれん》。
あうっ、あうっ、あうっ、と喘《あえ》ぎながら、晴美はあの言葉が頭の中から聞こえてくるのを感知した。
[#ここからゴシック体]
「ついてくる」
「わしらはずっとついてくる」
「おまえらふたりについてくる」
[#ここでゴシック体終わり]
黄色い花畑の中で、巨大な満月を背景に踊っていたふたごの老婆が、また現れた。こんどは声だけだった。しかし、鼓膜を通じて聞こえる声ではなく、自分の脳の中でしゃべっている。その異様な感覚に、晴美は悲鳴をあげた。
「最初はダンナの身体じゃが」
「つぎはおまえにもぐり込む」
「男の身体は好まんて」
「おなごの身体がほしゅうなる」
「こんな皺《しわ》くちゃオババじゃが」
「若い女が欲しゅうなる」
「柔らこうて、なめらかで」
「おお、こりゃこりゃええ気持ち」
「あたたこうて、ぬるぬるで」
「こりゃこりゃ、ほんにええ気持ち」
晴美は、愕然《がくぜん》となった。
(いま、あれが私の身体にもぐり込んできたんだ!)
全身に冷や汗が噴き出した。
(もうだめ……取り返しがつかない)
2
晴美の中に放出しながら、永瀬和也は不思議な感覚にとらわれていた。
性欲が満たされたという快感はまったくなかった。それよりも、いままで自分の身体の奥底に潜んでいた何かが逃げ出していった感触があった。その解放感のほうが圧倒的に大きかった。
と同時に、急に頭がはっきりしてきた。いままでフリーズ状態にあったコンピューターのエラー修復回路が働きだし、徐々に論理のタテ糸ヨコ糸が正確に編み直されてゆく感じだった。
正常な意識が戻ってくるにしたがって、夢の記憶も明瞭《めいりよう》に蘇《よみがえ》ってきた。
深夜、貴船の樹林の中で見た光景。十三個の灯籠流し。川本鏡子という名の女。彼女が語った生霊の話。父親の川本一郎が諸星輝の名で書きはじめた『京都十三夜物語』。その夢を十夜まで書き上げたところで民俗学講師と対立し、さらには娘の鏡子と対立し、ついには呪い殺されてしまった川本一郎。
(あれは誰だっけ。川本一郎に小説のヒントを与えた民俗学の講師は)
凍結していた思考回路がどんどん働きだし、網の目に張り巡らされた脳内ネットワークの隅々にまで電流が流れだしてきているのがわかったが、まだ一部分が凍りついたままだった。だから、その講師の名前が市ノ瀬恵造であることを思い出せない。
ともかく、和也は自分の体験してきた悪夢や幻覚が、諸星輝の書き上げた短編小説がもとになって生み出されたものだということを理解した。そして、小説を悪夢にアレンジしたのが、川本一郎の娘で鏡子という名の女であることも。
(たしかおれは、その女の正体にも気づいたはずだ。川本という苗字《みようじ》ではなく、結婚して別の名前に変わって、おれのすぐそばまできていたことを)
身体の下に晴美を組み伏せながら、和也はそちらの疑問に意識を集中していた。
(あの女は誰だった。おれも晴美もよく知っている……あれ? 待てよ)
鏡子の正体を思い出そうとしていた和也の意識が、また後戻りして、彼女の父親である川本一郎――諸星輝に向けられた。
(悪夢は諸星輝の小説にすべて基づいていた? そうかもしれないけれど、彼はいつ呪い殺されたんだ? 鏡子は明確な年代は言わなかったが、たぶんいまからざっと三十年以上は前の話だろう。その時代に死んだ男が、コンピューターの二〇〇〇年問題をテーマにした短編を書けるか?)
和也は、三年前に死んだ市ノ瀬恵造が、例の除夜の鐘の幻想物語を書き得ないことを晴美に向かって証明したのを思い出した。三年前でも書けない話が、三十年前に書けるはずもない。
ほかにもまだあった。花見小路の物語にはメールが出てきた。それを三十年前に死んだ男が書けるだろうか。七福神の夢では、たしかリストラされた男が職安のことを最近ではハローワークと呼ぶ、などと語っていたはずだ。三十年前にハローワークという言葉があったか? リストラという言葉もあったか?
(諸星輝も、悪夢の原作者ではなかった)[#「(諸星輝も、悪夢の原作者ではなかった)」はゴシック体]
和也は、いったん導いた結論を修正せざるをえなかった。
(やっぱりあの女だ。生霊を操る特殊能力をもってこの世に生まれてきた川本鏡子が、さまざまな資料をもとに悪夢のすべてを作り上げているんだ。その資料は晴美の父親が収集したもので、いまは裏庭の土蔵の中にしまわれてある。……そうか、あそこだ!)
黄色い花畑に守られた古びた土蔵の姿を、和也は思い出した。
(いまも川本鏡子はあそこにいる)[#「(いまも川本鏡子はあそこにいる)」はゴシック体]
結論が出た。彼女自身ではなく、彼女の生霊が土蔵の中にこもって、悪夢をつむぎ出しているのだ、と。
(諸星輝が『京都十三夜物語』を完成させなかったことなんか関係ない。彼が十夜までしか夢物語を作らなかったことも関係ない。『京都十三夜物語』を編み出しているのは生霊を産む女、川本鏡子なんだ。彼女がいるかぎり、夢は十夜では終わらない)
そして和也は、自分の身体の下で涙を流している妻の姿にようやく意識を向けた。
「晴美……」
和也は、自分が妻に対して行なったことの重大さを初めて理解した。
たんにセックスを無理強いしたのではない。あの女の命令を実行してしまったのだ。
と――
(和也さん、ありがとう)
鏡子の声が和也の頭の中で聞こえた。うれしそうに感謝を述べる鏡子の声が。
(生霊の手伝いをしてくれて、ありがとう。ね、わかったでしょう。こればかりは、あなたの協力なしにはできないことですものね)
なんということだ、と、和也は愕然となった。
鏡子に操られて自分がした行為が、いかに恐ろしいものであるかを痛感した。
「ごめん」
晴美の上にかぶさったまま、和也も泣き出した。
「おれは……取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。ほんとうに……ほんとうに……ごめん」
和也の涙がぽつりと一粒流れ落ち、無言で泣きつづける晴美の頬の上で、彼女の涙と混ざりあった。
泣いて詫《わ》びれば済む問題でないことは、彼は百も承知だった。しかし、泣いて詫びる以外に何をすればよいというのか。いま永瀬和也は、最愛の妻に生霊の呪いを注入してしまったのだ。
悪夢のつづきだった。
いま現在体験しているこれが、たぶん第十一夜の夢だった。
[#改ページ]
[#1字下げ]16 柱時計
1
人は目覚める瞬間まで、自分が眠っていることを自分で認識していない。そのときの永瀬和也もそうだった。さっきまで起きていたつもりだったのに、目を覚ますという動作をしながら、自分はいつのまに、また眠ってしまったのだろうと驚いた。
蒲団《ふとん》の中で腹這《はらば》いに寝返りを打ち、枕もとの目覚まし時計を探した。二時三十七分を指していた。周囲が暗いから、もちろん深夜の二時三十七分だろう。
しかし、時計の二本の針が織りなすその形を、和也はどこかで見たような気がした。しかもそれを見たのは深夜の二時三十七分ではなく、昼下がり、午後の二時三十七分だという記憶があるのだ。
そういえば、さっき起きたときは、この枕もとの時計を自分で見ないで晴美に時間をきいたな、と思い出した。いやがる晴美を無理やり抱いて、生霊の呪いを彼女に注ぎ込んでしまったことも思い出した。その晴美が同じ蒲団の中にいないことにも気がついた。
「晴美」
和也は掛蒲団をはねのけ、飛び起きた。
「晴美、どこにいるんだ」
パジャマを着たまま、彼は妻の姿を探し回った。鏡子という女の命じるままに、晴美の子宮の奥底へ怨霊《おんりよう》を注ぎ込んでしまった行為を猛烈に悔やみながら、和也は妻の名を呼んで家の中を探し回った。
照明を消したままになっている洗面所兼脱衣場まできたところで、和也は聞き慣れない音を耳にした。
カチ、カチ、カチ、カチ――
時を刻む正確な音である。最近の時計はここまで大きな音は立てない。半世紀かそれ以上も前に一般家庭で時を告げる役目を果たしていた大きな柱時計、その振り子の往復運動が奏でるリズムに違いなかった。
(なぜこんなところで柱時計の音が)
いぶかしがりながら、和也は脱衣所の部分に一歩足を踏み入れた。
風呂《ふろ》場との間にある引き戸は閉まっている。その引き戸に目を向ける前に、和也の注意は足もとのマットに行った。薄暗くてよくわからないが、ねっとりと黒いものが附着していた。かがんで顔を近づけると、猛烈な腐臭がした。
和也は口もとを押さえて立ち上がった。
(なんだよ、これは……)
つぎに彼は、旧式な曇りガラスが嵌《は》められた木製の引き戸のほうを見やった。時を刻む音は、明らかに風呂場の中から残響を含みながら聞こえてくるのだ。
(風呂場の中に、柱時計?)
その取り合わせを、和也はすぐに受け入れられなかった。
「晴美」
おそるおそる和也は、曇りガラスの向こうに声をかけた。
「おまえ、そこにいるのか。風呂場の中に」
返答はない。
ここで何かが起きるのを待てば恐怖感が募るばかりだと判断した和也は、まず最初に風呂場の電気を灯《とも》した。が、とくに人影のようなものは映らない。それを確認してから、引き戸に手をかけ、力いっぱい引き開けた。
ガタピシと音を立て、途中で何度か突っかかりながら戸は開いた。
「………」
洗い場の壁にでも柱時計が据え付けられているイメージを浮かべていた和也は、肩すかしを食った顔で狭い空間を眺め回した。蛍光灯の明かりに照らし出された風呂場には、すのこ、洗面器、シャンプー類以外に変わったものは何も見当たらなかった。
しかし、カチカチカチという残響を伴う音はつづいているのだ。やがて和也の目は、ふたをしたままの浴槽に移動した。音はその中から聞こえていた。
つぎにくるであろう精神的な衝撃を先取りして心臓の鼓動が急激に速くなった。だが、ここでも和也は、自分から進んでつぎの局面へ飛び込んでいくことを選んだ。
蛇腹式に巻き取るタイプのふたを一気にめくりあげた。バサッと音を立てて洗い場側にふたがなだれ落ち、浴槽の中があらわになった。
柱時計はそこにあった。水を抜いた浴槽の中で、ローマ数字の文字盤を上に向けて横倒しになっていた。それなのに金色の振り子は引力の方向に関係なく正確なスイングを繰り返し、カチカチと時を刻んでいた。
その文字盤は二時三十七分を指しており、水平状態でも正常に動く振り子を格納するガラス扉には――蛍光灯の反射でやや見づらかったが――金文字で『贈 第四十九期卒業生一同』と記されてあった。さらに外箱の側面には金文字で『聖坂《ひじりざか》第三中学校』と書かれてあるのが見えた。
だが、湯船の中の柱時計という超現実的な物体に和也の視線が行ったのは、わずか一秒もなかった。それよりもっと凄《すさ》まじいものがそこにあったからだ。
「うわ……うわ……」
猛烈な恐怖に後押しされた悲鳴が、肺の底から気管を通って和也の口の中にまで噴き上がってきた。
「うわあああああああああ」
まったく予想していなかったものと遭遇し、和也は子供のような悲鳴をあげた。
「だあああああああああああ」
ほとばしり出る叫び声を止められなかった。
セーラー服を着た見知らぬ少女が、横倒しになった柱時計の脇で血まみれになってしゃがみ込み、上目づかいに和也を睨《にら》んでいた。
青白い顔には血しぶきが飛び、唇は淡い紫色になっている。原因は左手首からの大量の出血だった。少女は右手にカッターナイフを握っていた。思いきり深く切り込んだらしく、財布の口を開けたようにパックリと皮膚が裂け、赤い肉が覗《のぞ》いていた。そこから流れ出た血液は、しゃがみ込んだ少女の周りにヌラヌラとした血だまりを作っている。
なぜこの家の浴槽で、見も知らぬ制服の少女が自殺を図っているのか。なぜ彼女のそばに、二時三十七分を指している柱時計が倒れているのか。そういった論理的整合性を求めることは後回しになっていた。和也は猛烈なショックに襲われて叫びつづけることしかできなかった。
死んでいるかと思ったが、少女は生きていた。虚ろな瞳《ひとみ》が、和也を見つめたまま動いていた。動いているのは瞳だけではない。かなり深い創傷を負ったにもかかわらず、またも少女はカッターナイフを同じ傷口に当てた。和也に見せつけるように。
(な、な、何をするんだ。やめろ……やめろ……よせ、もうよせ)
心では叫んでいるのだが、声にはならない。
和也をうらめしげに見つめたまま、少女は大きく開いた傷口に刃先を突っ込み、それをゆっくり手前に引き、つぎに向こうへと押し返した。
ぶちゅちゅちゅちゅ[#「ぶちゅちゅちゅちゅ」はゴシック体]
という音とともに、小さな鮮血の噴水が上がり、二時三十七分を指している柱時計のガラス盤に、赤い点々がばらまかれた。
それでもまだ少女は右手を動かしつづける。和也の顔を怨《うら》めしげに見つめながら……。
「はあ、はあ、はあ」
少女は、自分の手首に深く食い込ませたカッターナイフを往復させながら、苦しそうに喘《あえ》いだ。
「はあ、はあ、はあ」
耐えがたい声だった。
が、そのとき和也の頭の片隅で叱る声が聞こえた。
(だまされるな)
その声は、和也に呼びかけた。
(和也君。きみがいま目にしているのは幻覚だ。悪夢だ。決して現実ではない)
2
それは、和也にとって義父にあたる市ノ瀬恵造の声だった。だが、三年前に死んだ晴美の父の声を聞くことじたいが、すでにだまされているのではないのか。和也は警戒した。
市ノ瀬の声はなおもつづいた。
(その少女は、柱時計の側面に名前が記されてある聖坂第三中学校の生徒なのだ。そして彼女は、第四十九期卒業生が母校に寄贈したこの柱時計の傍らで、手首を切って自殺を図った。可哀相なことに、彼女は助からなかった。その時刻が二時三十七分なのだ。昼間の二時三十七分だ。ほかの生徒たちが授業を受けている、そのときに、彼女は校舎の片隅で静かに死んでいった。
その悲劇の一部始終を、あれ[#「あれ」に傍点]がきみに見せている。目の前に見えているのはまぼろしだ。どんなにきみの瞳に生々しく映る光景であっても、そこにあるのは現実の光景ではない。生身の肉体を持った少女がこの家に勝手に侵入して、風呂場の中で自殺を図っているのではないのだ)
市ノ瀬恵造の声に励まされ、和也は少しだけ落ち着きを取り戻し、恐怖をこらえて浴槽の中で展開する壮絶な光景を見つめた。
それにしても、少女はなぜここまで怨めしげな目でにらみつけてくるのか。まるで、和也のせいで自殺をしたような瞳ではないか。
もうひとつ不思議なのは、枕もとの時計が二時三十七分を指しているのを見たときに覚えた既視感――デジャ・ヴュである。この女子中学生が自殺を遂げた午後二時三十七分に、何か和也が特別なことをしたというのか。彼女の死に関して責任を負うべき行為をしたというのか。
(もしもこの子が学校で自殺したのが平日だとすれば、二時三十七分というその時刻に、おれは会社で仕事をしていたはずだ)
出版社の編集者である和也は、作家との打ち合わせなどで外出することも多かったが、担当作家の多くは夜型であったため、出かけるにしても夕方からのケースが多い。それに外出時に時間を確認するとすれば、腕時計よりも携帯電話の待ち受け画面に出ている時刻表示を見ることのほうが多かった。メールの着信を確認するついでに、時刻表示に目をやる、という習慣である。そして、その表示は時計の形をしておらず、デジタル文字である。
二時三十七分の形に開いた時計の針が印象に残っているとすれば、それはやはり社内の壁時計である可能性が高かった。
(でも、会社で二時三十七分を指している時計を見ながら、おれが何をしたというのだ)
と、浴槽の中の少女が、和也の疑問に答える形で突然口を開いた。
「人の不幸を笑った」
「え?」
和也は、セーラー服の少女は幻影なのだと自分に言い聞かせていたことをもう忘れて問い返した。
「おれが人の不幸を笑っていた?」
「二時三十七分、あなたは他人の不幸をおかしそうに笑っていた」
なおもカッターナイフを動かしつづけながら、少女がつぶやいた。
「あなただけじゃない。あなたの奥さんもいっしょに笑っていた。すっごく楽しそうに大きな声を上げて」
「晴美……も?」
「そうよ。ふたりはその前にもいっしょに笑っていた。十二時四分に」
十二時四分という具体的な時刻を聞いて、和也には思い当たることがあった。平日の昼間に、晴美と直接顔を合わせていることはまずないから、もしもいっしょに笑っていたとすれば、それはそれは電話を通じてしかありえなかった。
だが、他人の不幸を笑うために、わざわざ晴美に電話をかけることなど……。
あった。
和也は思い出した。他人の不幸を笑うために、わざわざ自宅にいる晴美に電話をしたことがあった。ゴールデンウィーク直前の最後の出勤日、例の騒ぎがあったときだ。会議中に編集長の葛城啓一郎のところへニューハーフの女性が……いや男性が乗り込んできて修羅場になり、編集会議は途中で打ち切りとなり、葛城編集長はいたたまれずに会社から姿を消した。
その騒動のあまりの滑稽《こつけい》さに、和也はすぐさま妻の晴美に携帯で電話を入れて、事の一部始終を笑いながら報告したではないか。その具体的な時刻の記憶はないが、十二時四分だと言われれば、だいたいそのあたりだった気がする。
さらに、晴美と電話で笑いあったのはもういちどあった。それから一、二時間のうちに編集長の愛人騒動は会社じゅうに広がり、誰もがその話題でもちきりで仕事もロクに手につかないほどの盛り上がりになった。その一種の躁《そう》状態に浮かされて、和也はまた晴美に電話を入れたのだ、レポート第二弾と称して。
そう、それが二時三十七分だった。
携帯電話を耳に押し当てたまま、椅子ごと後ろにひっくり返りそうなほど笑いころげる和也の目は、無意識にオフィスの壁時計に向けられていた。そのとき、時計の針はたしかに二時三十七分の角度に開いていた。
そして受話口からも、晴美のおかしそうな笑い声が聞こえていた。もしかすると妻も、自分と同じように、大笑いしながら家の時計を無意識のうちに見ていたかもしれない。
浴槽に横たわる柱時計はその時刻を指し示した状態で、カチカチと音を立てながら金色の振り子を動かしていた。しかし、いつまでも経っても針は進まない。二時三十七分の形に開いたまま――
「あなたから最初に電話を受けたあと」
少女はつづけた。
「あなたの奥さんは、大喜びでそのニュースを友だちに伝えた。同じ会社に勤めていた友だちの女の人に」
たしかに晴美は、京都へ向かう車の中でそのことを打ち明けていた。私の口にはチャックが付いてないの、いつも開きっぱなし、と笑いながら、元同僚の優子にすぐ電話で葛城編集長の事件をリレーしたと言っていた。
「その日、私は」
少女は左手首を切り込んでいたカッターナイフを、ゆっくり上に引き離した。繰り出した刃先から赤い液体がしたたり落ちた。
「学校が昼休みに入ると急いで家に戻った。午後の授業に必要なプリントを家に置き忘れたままだったから。玄関の戸を開けると、廊下の向こうで電話が鳴っていた。お母さんもお姉ちゃんもいない空っぽの家で、ベルがけたたましく鳴っていた。受話器を持ち上げると、それは優子さんからの電話だった」
「え? きみは、優子を知っているのか」
「優子さんは、会社に勤めていたとき、うちのお父さんといっしょに社内のゴルフ同好会に入っていた人だった。それに家も近かったから、朝早いゴルフに行くときは、ときどき車でお父さんを迎えにきていた。だから私もよく知っていた」
「ちょっと待てよ。お父さんって?」
「私のお父さんの名前は葛城……啓一郎」
「………!」
衝撃で、和也の頭は真っ白になった。
3
「きみは……」
和也は震えた。恐怖とは別の感情から、全身を震わせた。
「き、きみは、編集長の娘さんなのか」
「次女」
なんということだ、と和也はうめいた。
「優子さんて、もっといい人だと思ってたけど、あの人も、けっきょく親切そうにみえて人の不幸を面白がる人だった。あなたの奥さんと同じように」
鮮血をしたたらせながら、少女はしゃがんでいた浴槽からゆっくりと立ち上がった。右手にカッターナイフを持ったまま。
「私が聞いたらどんなにひどいショックを受けるかわかっていながら、優子さんはあなたの奥さんから聞いた情報を、私にそのまま伝えたの。お父さんが会社でどんな目に遭ったのかということを。『決してショックを受けちゃだめよ。お父さんを信じてね。いざというときは、私があなたの相談相手になってあげるから』って、すっごく押しつけがましい感じで優子さんはそう言った。そのくせ、このまま噂が広がっていったら、どれほど私がつらい目に遭うかということも、ものすごくオーバーに話すの。まるで、私の人生がそれでぜんぶおしまいになっちゃうような言い方で」
優子なら、そういう言い方をしかねない、と和也は思った。一時は晴美といっしょに同じ職場にいた彼女のことは、和也もよく知っていた。人の噂話が大好きで、人が不幸になると自分が楽しくなるタイプだった。それは妻の晴美にも言えることだった。
もしも晴美がこの少女と個人的に知り合いであったならば、きっと優子と同じことをやっていただろう。
少女は、目尻《めじり》からこぼれてきた涙を左手の甲でぬぐった。手首から噴き出しつづける鮮血が少女の頬を赤く染め、その中をまた新たな涙の筋が走っていった。
「お父さんにオカマの愛人がいた――それを聞いて、私、何が何だかわからなくなってパニックになった。学校の友だちや先生に知られたらどうしよう、そう思ったら身体中が震えてきてどうしようもなかった。とにかく学校へ戻ったけれど、授業なんかぜんぜん頭に入らなかった。とうとう六時間目の途中で、気分が悪くなったから保健室へ行ってきますと先生に断って教室を出た。そのときはほんとうに保健室で休むつもりだった。でも、自分でも知らないうちにカッターナイフを握っていた」
セーラー服の少女は、浴槽の中で語りつづけた。
「どの教室も授業の最中で、シンと静まり返っている。そんな静かな廊下を、私はひとりぼっちで保健室に向かって歩いていった。そして、職員室のそばの大きな柱時計の前まできたときだった。真っ黒な絶望感が、私の頭の上にドカーンってのっかってきた。ああ、明日からはじまるゴールデンウィークが終わって、また学校がはじまるころには、もう私はみんなの笑い者になっているんだ。お父さんがオカマと浮気してたっていう話がそこらじゅうに伝わって、学校にもいられないし、きっと近所でも噂になるから家にもいられない。優子さんが電話で吹き込んだ展開が、バーって頭の中で回り出して、それで、もう生きているのが恥ずかしくて恥ずかしくて、耐えられなくなって、カッターナイフで手首を切った。私って機械仕掛けの人形だったんじゃないかと思うぐらい、きれいな形の赤い噴水が手首から噴き上げてきたよ」
「………」
和也は言葉もなかった。
自分と晴美が電話で葛城編集長の滑稽《こつけい》な姿を笑いあっていたとき、晴美の口の軽さが原因でそのニュースを耳にすることになった編集長の次女は、生徒も教師も気づかぬうちに、ひっそりと学校の一角で命を絶ったのだ。
会社じゅうが爆笑する愛人騒動の裏で、そんな重大な悲劇が展開していたとは、その日の夜遅く車で京都へ向けて出発するまで、まったく和也は知らなかった。もちろん晴美もだ。編集長の家族に起きた悲劇は、まだ会社の誰の耳にも届いていなかった。
少女の霊が語ることが事実なら、いまごろは会社の関係者も大騒ぎだろう。すでにこの子の通夜も葬儀も済んでいるはずだが、編集長のことを笑いあった部員たちは、いったいどんな顔をしてそれに参列したのか。
そして、編集長や奥さんはどんな思いで娘の亡骸《なきがら》を送り出したのか。想像するだけで、和也は胸が切り刻まれる思いだった。
その哀愁のセレモニーに、和也は無断で欠席した形になっているのだ。
「あなたもあなたの奥さんも、人のお葬式でよく笑うでしょ」
血の滴る手をだらりと下げた格好で浴槽の中に立ったまま、編集長の娘が和也に問いかけてきた。
「ねえ、そうでしょ」
「人の葬式で笑う? そんな非常識なこと、するもんか」
「嘘ばっかし。あなたも奥さんも、悲しそうなフリをしているのはお焼香のときだけ。その行き帰りは、いつもケラケラ笑ってる。黒い喪服を着たまま、楽しそうにゴルフの話や他人の噂話で盛り上がっている。他人の不幸があると、なぜかウキウキしてしまう体質なのよ、あなたも奥さんも」
「わかったような言い方をしないでくれ」
和也は、相手がまぼろしにすぎないのだという判断を完全に失っていた。妻の欠点について鋭く見抜かれてしまった驚きと、じつは和也自身も同類項の人間であることを指摘された焦りが彼を激昂《げつこう》させた。
「きみは、おれや晴美とは一度も会ったことがないじゃないか。それなのにわかったふうな口をきくな。中学生のくせに」
「あら、そうかしら」
突然、セーラー服の少女の姿がぐわんと歪《ゆが》んで、和服を着た中年女性に変わった。
腰を抜かすほど驚く和也の前に、突然、薄絹の幕が降りてきた。
和也は紗《しや》幕の手前に、その中年女性は紗幕の向こう側に、と分かれた。しかし、相手の姿は透けて見える。
その女性が着ている着物の柄に、和也は見覚えがあった。そして彼女の目尻《めじり》には、少女にはなかった泣きぼくろがポツンとついていた。
やがて紗幕の向こうに、和也自身は一度も行ったことのない祗園花見小路の割烹《かつぽう》の店構えが浮かび上がってきた。まるで舞台を見るかのように、和也の目の前でひとつのドラマが展開しはじめた。
4
カウンターに着物姿の女性がふたり、椅子をふたつ分空けて座っている。左の女は中年で、右の女は若い。いまガラリと店の戸を開けて入ってきた男が、そのふたりの間のどちらが目的の相手なのか、迷った様子で立ち止まっている――それは、和也と晴美がそろって第二夜の夢にみた場面だった。
夢のときには気づかなかったが、入ってきた男は葛城編集長だった。そして、右の目尻に泣きぼくろのある中年女性が、くるりと編集長のほうをふり返った。
「鏡子!」
葛城が大きな声で叫んだ。
「なぜ……おまえ……ここに」
うわずった声で問いかける葛城に、鏡子と呼ばれた和服の女は、冷たい声で自分の右隣の椅子を示した。
「とにかくここへお座りなさい、あなた」
言われたとおりに葛城が席に着くと、鏡子は夫の向こう側に座る若くて美しい和装の美女にアゴをしゃくって言った。
「楓さんにもきてもらったわ」
右側の美女がゆっくりと葛城のほうをふり向いた。
その顔は和也にとって忘れようにも忘れられない、編集会議の最中に葛城をなじるために乗り込んできた、あのニューハーフの美女だった。
ふたりの女が両側から葛城を睨《にら》みつけた。とくに左側の中年女性の眼光に含まれた怒りは凄《すさ》まじかった。
(鏡子、鏡子、鏡子……)
葛城編集長の夫人という立場で現れた女の、その名前がぐるぐると回る。
何度も何度も正解までたどり着きながら、そのたびにフッとその答えが消えてゆく状況を繰り返していたが、とうとう和也はすべての事態を把握した。夢の中にたびたび登場してきた既視感のある女の正体が、ほかでもない、自分たちの結婚式で仲人を務めてくれた葛城編集長夫人であることを……。
これまでみてきた夢には、コンピューターの二〇〇〇年問題という、三年前に死んだ市ノ瀬恵造には演出しえなかった要素が含まれていた。だが、それよりも、もっともっと最近のニュースが含まれていた。葛城編集長の愛人騒動である。それが第二夜の夢のクライマックスにちゃんと組み込まれていたのだ。
葛城鏡子。そのフルネームが、いまのいままで出てこなかったが、彼女ならば、最新の情報を悪夢に取り込める位置にいた。なぜなら、いまも生きている人間だからだ。
(なんてことだ。すべての夢は葛城編集長の奥さんによって作られていたのか!)
「そのとおりよ」
浴槽の中に立つ和服の女が返事をした。
と、同時に、和也との間を隔てていた薄絹の幕がするすると上がっていった。
花見小路の割烹を舞台にした一幕が消え、ふたたび風呂場の中での一対一の対面となった。ただし、相手はもはやリストカットした編集長の次女ではなく、和服姿の編集長の妻――葛城鏡子だった。
「誰々夫人という立場にある女は、いつも下の名前を無視される。自分たちの仲人までやってもらいながら、あなたは私の名前をちゃんと覚えようとはしなかった。奥さん、葛城さんとこの奥さん、編集長の奥さん――そういう呼び方ばかりしてきて、あなたも晴美さんも、葛城鏡子という名前はぜんぜん頭に入っていなかった。いまだってあなたは、私を『葛城編集長の奥さん』と心の中で呼んだ」
「じゃあ、あなたが生霊を産む特殊能力の持ち主だった少女……鏡子という名の少女だったんですか」
「そうよ」
鏡子は、自分の瞳《ひとみ》の奥底まで見せるような視線で和也を見つめ、低い声で答えた。
「川本鏡子は葛城鏡子になって、市ノ瀬恵造のそばに帰ってきました」
帰ってきました、というところを、鏡子は凄《すご》みのある声で言い放った。
「我が子を小説の素材を生み出す金儲《かねもう》けの道具としか考えない父親のせいで、幼い時代を実験動物として扱われ、苦痛に耐えかねて研究施設から逃げ出したら、同情されるどころか鼓膜も破れんばかりに平手打ちされ、さらにはあなたの妻の父親によって命を絶たれようともした。そのつらさ、くやしさ、哀しさ、情けなさ、そして胸の底から突き上げてくる怒りを、私は決して忘れない。だから私は、市ノ瀬恵造という若き民俗学の研究者に宣言した。ついてくる、私はどこまでもついてくる、と。そしてその宣言どおり、私は葛城鏡子になって、市ノ瀬恵造のそばに帰ってきた」
「では、ぼくたちの仲人を引き受ける運命は……」
「最初から決まっていたのよ」
鏡子はすかさず答えた。
「私が結婚相手として選んだ葛城啓一郎が出版社の編集長となり、同じ会社をあなたと晴美が希望し、そして採用されることも、ふたりが葛城の直属の部下になることも、ふたりが愛しあって結婚することも、そしてふたりが編集長夫妻に仲人を頼みにくることも、みんな決まっていたの……というよりも、私が決めたといったほうが正しいかもしれない」
「………」
永瀬和也は言葉を失った。
三十何年も前に、ひとりの少女の心に芽生えた猛烈な怨念《おんねん》――どんなに時間がかかっても呪《のろ》いつづけてやると決めたその報復の決心に、自分の人生が組み込まれているとは想像もできなかった。
大学を出ていまの出版社を選んだのは自分の意思であり、少し遅れて晴美が入社してきたのは彼女の意思であり、たがいに書籍編集部に配属されたのは、ふたりともそのように希望を出したからであり、そしてふたりが惹《ひ》かれあって結婚したのも、あくまでふたりの気持ちがそうなったからだと思っていた。
だが、すべては上司である葛城編集長の妻・鏡子が仕組んでいたプログラムだったとは。それならば晴美も自分も、ずっと前から自分の意思を、自分の頭脳をコントロールされていたということではないか。
衝撃を受ける和也の耳に、途切れることのない葛城鏡子の言葉が飛び込んでくる。
「これであなたにも見えてきたでしょう。晴美の父親が、三度にわたって自殺未遂を図った、ほんとうの理由というものが」
5
「生霊を産む少女・川本鏡子から『いついつまでも、ついてくる』と宣告されたとき、市ノ瀬恵造は三十八歳にしてまだ独身でした」
浴槽の中に立つ葛城鏡子は、横倒しになった柱時計が刻みつづけるカチカチカチというリズムをバックに語りつづけた。
「彼も最初のうちは本気で私の報復を恐れていたはずです。どんな仕返しが待ち受けているかわからない状況では、新しい家庭など作る気にもなれなかったことでしょう。けれども、少女が自分の前から去って一年が経ち、二年が経つうちに、市ノ瀬恵造はしだいに恐怖心を忘れていったのです。私の研究が中断されるのと同時に、テンジン・プロジェクトも解散となったことも、記憶を薄れさせる大きな要因だったに違いありません。その解散から七年が経ったとき、四十五歳になった市ノ瀬は、二十歳も年下の準子という女を愛し、結婚し、そして翌年に娘をもうけた。それがいまのあなたの妻、晴美です」
風呂場の戸口のところで棒立ちになっている和也に向けて、葛城鏡子はつづけた。
「結婚を機に市ノ瀬は東京に自宅を構え、そちらに住みつづけるはずでした。美しい妻と可愛い娘に囲まれて、幸福感に満ちた家庭のやすらぎに浸ってもよいはずでした。けれども彼は、ほどなくして京都に舞い戻ってきます。妻と娘を東京の自宅に残し、京都岩倉のこの家に籠《こ》もりきりの生活に入りました。
彼がそのように妻と娘と事実上別居することになったのは、ふたつの理由があったはず。第一の理由は、ライフワークとしていた古都の怨念の研究には、現地にいる日数が多ければ多いほど都合がいいこと。研究者としては、ごくまっとうな動機です。けれども第二の理由もあった。それは、家庭を持ったことで、かえって私の言い残した言葉が強く思い出されてきたこと。いついつまでも、ついてくる、という言葉がね」
「じゃあ、お父さんは家族が復讐《ふくしゆう》に巻き込まれるのを恐れて別居を……」
「きっとそうでしょう」
鏡子は静かにうなずいた。
「京都において怨念の研究に取り組めば取り組むほど、市ノ瀬は怨霊《おんりよう》の恐ろしさ、とりわけ生霊の恐ろしさを痛感してきたに違いありません。たとえば『源氏物語』を目にしても、六条御息所《ろくじようのみやすどころ》が生霊となって現れる場面などを、彼は肝を冷やす思いで読んだはず。市ノ瀬にとって最大の恐怖は、死霊とか幽霊と呼ばれるものではなく、あくまで生霊、生きた人間の怨念。祗園祭にしても、病魔を流行《はや》らせる怨霊を退散させる目的からはじまったものですが、その怨霊とは、必ずしも死者の霊を意味してはいなかった。権力闘争に敗れ、不遇をかこつ敗者の生霊という解釈もありました。つまり……」
鏡子は和也の瞳の中に飛び込んでくるような視線を投げて言った。
「この都においては、いちど生まれた怨念というものは、その人間が生きていようと死んでいようと決して消えることはないのです。死んだから怨《うら》みが消えるわけでは決してない。けれども生きたまま怨みつづける霊を操られるほうが、もっと恐ろしい……。
そして市ノ瀬恵造は、ひとり娘の晴美が女として成長したころになって、私の言い残した言葉の恐ろしさに気がついた。『いついつまでも、ついてくる』という宣言の意味に。この世のどこかで川本鏡子という女が生きているかぎり、怨念の対象は自分だけで終わらず、自分が死んだあと、ひとり娘の晴美に取り憑《つ》くのではないか。いま、川本鏡子が静かにしているのは、市ノ瀬恵造本人ではなく、その子供に対して最も効果的に祟《たた》るタイミングを窺《うかが》っているのではないか、と気づいたのです」
鏡子は皮肉っぽく唇を歪《ゆが》めた。
「さすが怨霊研究の第一人者市ノ瀬恵造、怨みを燃え上がらせた者がとる最強の作戦を見抜いてしまった。本人を苦しめるよりはその身近な肉親である子供に祟り、さらにはもっと弱い立場の孫に祟るのがいちばん効果的だということを。そもそも私の怨みは子供時代に生まれたもの。だから私の復讐の矛先は、市ノ瀬恵造本人よりは、その血筋の幼い子供に向けられることになる、と彼は悟った」
「そうだったのか……」
ようやく和也にも、市ノ瀬恵造の自殺未遂騒動の真意が見えてきた。
「それでお父さんは晴美の結婚に反対したんだ」
「そのとおりです。市ノ瀬家に取り憑いた生霊を断ち切るには、市ノ瀬家の血筋を絶つ以外にない、と彼は判断した。そのためには、娘の晴美に結婚をさせてはならない。けれども、その理由を言うわけにもいかず、たとえ打ち明けても信じてもらえるはずもなく、窮余の策として市ノ瀬がとったのは、自殺騒ぎを起こして娘に結婚そのものをあきらめさせることだった。それがいかに場当たり的な処置であるか、おそらく彼もわかっていたことでしょうよ。けれども、ほかに手段を思いつかなかった」
「だけどお義父さんは、おれとの結婚は許してくれた」
「それはあたりまえ」
「なぜ」
「もはや抵抗は無駄だと観念したのでしょう。なにしろ、私が挨拶《あいさつ》に行きましたからね」
「挨拶に?」
「ええ、主人の葛城が、おたくのお嬢さまから仲人を頼まれたそうで、というふうに、仲人夫人としてご挨拶にお伺いしましたのよ」
葛城鏡子は、衝撃を受ける和也の様子を上目づかいに窺った。
「最初はキョトンとしていた市ノ瀬も、すぐに私が何者かわかったようでして。これを見て、ね」
鏡子は自分の右の目尻《めじり》にある泣きぼくろを指さした。
「生霊を操る能力を持ちながら、いつもおどおどして泣いてばかりいた少女の目尻にあったこのほくろを、当時のテンジン・プロジェクトのメンバーであれば忘れられるはずがありませんもの。気づいたときの市ノ瀬恵造の顔は、みものだったわ。その場で心臓発作を起こさなかったのが不思議なくらい」
「だからお父さんは、おれと晴美の結婚には何も言わなかった……いや、言えなかったのか」
「もはや口をはさめるわけがないでしょう。この私が『仲人夫人』として控えているんですから」
鏡子は笑った。
「この結婚を認めなければ、それは葛城鏡子、いえ川本鏡子に逆らうことであり、そうなると晴美に何をされるかわからない。ですから娘の結婚は認めるしかなく、認めた以上はじっとおとなしくしていなければ、披露宴の真っ最中に私が生霊を出すかもしれない。すべての運命は私に委ねられてしまったようなもの。晴美はあなたとの結婚にこぎつけた理由を、父親に対し、こんど自殺騒動を起こしたら自分が死ぬと迫ったからだと思い込んでいるけれど、真実はそんな甘いものではなかったのよ」
和也は自分たちの結婚の背景にあるものを知って慄然《りつぜん》となった。
「市ノ瀬恵造は、もはや抵抗をあきらめ、最愛の娘に心配をかけさせないために、一世一代の演技で結婚を喜ぶ明るい顔を装っていた。あなたに感じのよい父親として接したのも、もしも自分が死んだあと、娘の身に生霊が襲いかかってきたときは、この男に守ってもらわなければならない、と思ったからでしょう」
「………」
和也は、それで結婚前後の状況が理解できたと思った。市ノ瀬恵造は、永瀬和也という男が娘のボディガードを務めることを期待していたのだ。
「若き民俗学講師だった市ノ瀬恵造は……」
さらに鏡子はつづけた。
「三十年あまりの歳月のうちに民俗学者として名を成すようになっていたけれど、長い時を経て、かつての実験動物と再会したとき、あの少女が別れ際に放った宣告の重みに気づかされた。ついてくる、という言葉が決してハッタリではなかったということを知ったのよ。……それがよほど精神的にこたえたんでしょう、あなたたちが結婚して三カ月で、彼はこの世を去りました」
「あんたが呪い殺したのか」
「いいえ」
鏡子はゆっくりと首を左右に振った。
「私が何をするでもなく、あの男の身体が滅びていったんです。わたしの復讐がどこまでつづくのか、その果てを見届ける勇気はとてもなかったでしょう。市ノ瀬恵造にとって、死だけが恐怖からの唯一の逃げ道だった」
「だけどおかしいじゃないか」
和也は必死に勇気をふりしぼって、浴槽の中の生霊に向かって問いただした。
「そもそもあんたの怨みは、市ノ瀬恵造という男に向けられていたんだろう。さっきの夢でも、貴船の林の中で灯籠《とうろう》を浮かべながら、あんたはそう言っていた。その相手が死んだのだから、もうすべてを終わりにしてもいいじゃないか」
「もう忘れたのかしら? 市ノ瀬恵造のための灯籠は十二個目。そして十三個目の灯籠が別の人間のために用意されてあったでしょう」
「晴美のための灯籠なのか」
「もちろん」
「彼女はあんたの怨念とは関係ない」
「何を言ってるの、関係あるじゃないの!」
急に声を荒らげると、鏡子の生霊は腰をかがめ、浴槽の底に横倒しになっていた柱時計を和也に向かって立てかけて示した。そして叫んだ。
「これをごらんなさい!」
そのガラス面には血しぶきが飛んでいる。手首を切った少女が飛ばした血が、まだ生々しい赤さを保ったまま附着していた。そして文字盤は依然として少女が死んだ時刻を示したまま微動だにしない。対照的に、金色の振り子だけはカチカチカチカチと正確な往復運動をつづけていた。
「人の不幸を喜ぶ軽薄さが、どのような悲劇を生んだのか、おまえたちはまだわからないのか」
鏡子の言葉遣いが変わり、形相《ぎようそう》が妖鬼《ようき》のごとく凄《すさ》まじいものに変化した。
「この血、柱時計に飛んだこの赤くて哀しい血液は、誰の身体からほとばしり出たものなのか。誰のおかげで私の娘がこのような目に遭ったのか。この形をよく見ろ。私の可愛い娘がこの世に最後に残した血の形を。どこかで見た覚えがあるだろう」
鏡子は、ローマ数字の文字盤にかぶさるガラス面に散った血しぶきを指さした。
「あ」
和也の記憶ファイルのひとつが、シュッと音を立てて最前列に繰り出されてきた。
「ふたごの赤ん坊を……轢《ひ》いたときの」
「そのとおり。高速道路を走っているときに、助手席の窓ガラスに飛び散った血しぶき、あれは、私の可愛い娘がほとばしらせたもの」
鬼と化した鏡子は、歯をむいた。
和也はおもわず半歩下がった。上の糸切り歯が下の歯ぐきに届くほど鋭く伸びていた。
「ほんとうなら、憎い晴美の顔に直接ぶちまけてやりたかった。車の窓ガラスで済ませたのはこちらも遠慮のしすぎだったかもしれない」
「あああ……」
和也はうめいた。
6
なぜあの時点からおぞましい一連の現象がはじまったのか、永瀬和也はようやく理解した。
一時は市ノ瀬恵造の京都|怨霊《おんりよう》研究にまつわる呪いかと思っていたが、そうではなかった。白いおくるみに包まれたふたごの赤ん坊が忽然《こつぜん》と高速道路上に姿を現す直前まで、彼と晴美は何をしていたか? 葛城編集長の――つまり鏡子の夫の珍騒動を笑いに笑っていたではないか。笑ったまま赤ん坊を轢き殺してしまうほど、彼らは車の中で人の不幸話に盛り上がっていたのだ。
だが、すでにその時点で葛城家には大きな悲劇が襲いかかっていた。中学三年生の次女が、晴美の口の軽さが原因となって自殺を遂げていたのだ。そんなことなどつゆ知らず、和也と晴美は葛城啓一郎個人のぶざまな出来事を笑うだけでなく、編集長の家族がどれほど恥と苦痛にまみれるかを想像し、期待し、面白がっていた。
名神高速道路を走行中に突然はじまった怨霊の猛攻撃。そのきっかけは、関ヶ原という地点に意味があるのではなかった。そこが京都の外だとか、滋賀だとか、岐阜だとか、そういった土地の区分にはまったく関係ないことだった。和也と晴美が、編集長の醜態をとことん笑いまくり、それに伴う葛城家の不幸をふざけ半分に期待したときから、一連の出来事ははじまったのだ。
つまりそれは、復讐《ふくしゆう》のタイミングを窺《うかが》っていた鏡子の怒りを、飽和点に到達させた瞬間でもあった。
「市ノ瀬の娘から、まさかこちらが先にひどい仕打ちを受けようとは、夢にも思わなかった」
鏡子は猛烈な怒りで全身をわななかせた。
「復讐を遂げるにいちばんふさわしいときまで、豚は太らせてから食え、との言葉のごとく、晴美を幸せの絶頂に置いておこうと思ったのに。まさか、まさかまさかまさか……先に私の可愛い娘が犠牲になろうとは」
鏡子は、首を大きく旋回させた。
きれいに結い上げていた日本髪がほどけて、ぶわっと広がった。
ザンバラ髪を振り乱し、両手の指をカッと広げて上段に構えながら、鏡子は怨念《おんねん》の言葉を吐き出した。
「おのれ市ノ瀬恵造、そのような形で娘に私への復讐を委託していようとは、思いもよらなかったぞ。いかに私が激しい生霊つかいといえ、可愛い娘はふつうの人間。思春期の弱さを抱えた人並みの中学生だった。その抵抗力のない娘に対して、よくも、よくもよくも、ええい、よくもグサリグサリと言葉の刃を突き刺してくれたな」
「待て!」
自分に飛びかからんばかりの勢いで迫る鏡子に対し、和也は懸命に言い返した。
「それは責任転嫁というものだろう」
「なぜだ」
「おまえにとってみれば、すべてのきっかけはおれと晴美が大笑いした瞬間にあったのかもしれない。あの日の昼、二時三十七分の大笑いが第一のきっかけで、第二のきっかけは関ヶ原のあたりを走っていたときの大笑いだ」
「そのとおり」
「だけど、もっと前に原因があったじゃないか」
「なんだと」
「あんたのダンナだよ。おれたちの上司の編集長だ。葛城さんが男だか女だかわからない浮気相手に会社に乗り込まれたりしなければ、おれも晴美も、あんたたち一家のことで笑ったりはしなかった。そうだろ。もともとのきっかけは、あんたのダンナが作ったんだ。仲人を頼んでおいて、こんな言い方もないかもしれないけど、あんたたちの夫婦関係がぶっ壊れていたから、編集長はああいう突拍子もない形の浮気に走ったんだよ。きっと編集長は、自分の妻がふつうの人間じゃないことを察知したから、あんたから逃げ出そうとしたんだ。そうだ、きっとそうだ」
和也は興奮した。
「娘の自殺を、おれたちなんかのせいにしないでほしい。もともとはあんた自身が蒔《ま》いた種じゃないか」
「うるさい! ええい、うるさい、うるさい、うるさい。黙れ、この小僧!」
怒鳴りながら、鏡子はザンバラ髪をさらに大きく振った。
するとその髪の毛が、まるで漆黒の投網《とあみ》のように和也めがけて覆い被《かぶ》さってきた。
風呂《ふろ》場の一歩外にいた和也は、とっさに引き戸を閉めた。
が、バリーンと大きな音を立てて髪の毛の網は曇りガラスを破り、扉を蹴倒《けたお》して飛んできた。
和也は逃げた。脱衣場から薄暗いキッチンへ逃げた。
「待てええ」
鏡子の生霊が、自分の身体の何倍にも広げた髪の毛を泳がせながら、空中を飛んできた。風呂場に点《つ》けた電気の明かりを背後に浴びながら、髪の毛をあおりながら宙を浮いて進んでくるその姿は、まるで海中を泳ぐエイだった。
もはやその顔は和也の知っている仲人夫人のそれではなく、怨念に歪《ゆが》んだ鬼面となっていた。彼女が着ていた和服も、いつしか白装束に変わっていた。あのふたごの老婆がまとっていたのと同じ白装束に。
和也はキッチンの一角にあっというまに追いつめられた。
そのときだった。突然、キッチンの窓越しに、バババババと激しいエンジン音が聞こえてきた。さらに、キュイーン、ピピピピ、と何かを切断している甲高い音がつづいた。
和也には、それが何の音であるか、すぐにわかった。彼が物置で見つけたエンジン付き刈り払い機の作動する音だ。
三日前になるのか四日前になるのか、とっさに正確な日にちが思い出せないが、京都の怨霊に関する研究調査をまとめた市ノ瀬恵造秘蔵の百八冊のアルバムがすべての怪奇現象の根源だと考えた和也は、土蔵を取り囲む奇怪な黄色い花畑を殲滅《せんめつ》するため、刈り払い機の試運転をした。しかし、怒濤《どとう》のごとく襲いかかる夢と幻覚のために、現在に至るまで、それを実際に使うチャンスを逃していたのだ。
その機械を、いま動かして草花をなぎ倒しはじめた者がいる。晴美をおいてほかにはいない。あれだけ和也に土蔵を開けるなと言っていた晴美が、いまは逆の行動を取りはじめたのだ。
(晴美……なぜおまえが)
そう考えたとき――
「和也君」[#「「和也君」」はゴシック体]
いきなり男の声がした。
妖怪《ようかい》と化して宙を飛んでくる鏡子からキッチンの外へと、和也が視線を動かしたのは、一秒の十分の一にも満たなかったかもしれない。が、そのわずかな時間のうちに、黒髪を大きく広げて襲いかかろうと飛んできた鏡子の姿が忽然《こつぜん》と消えていた。
そして、三年前に死んだ市ノ瀬恵造の声だけが、どこからか聞こえてきた。
「急いで外へ行け。晴美を止めろ!」
「晴美を、止めるんですか」
事態の急変に思考回路が追いつかない。理路整然と物事を把握してから口を利いている余裕はなかった。だから和也は、まるで市ノ瀬が生きてそこにいるような調子できき返した。
「彼女を止めさせなきゃいけないんですか」
「そうだ。絶対に土蔵を開けさせてはだめだ!」
市ノ瀬恵造の声が叫んだ。
「怨霊《おんりよう》たちの封印が解けて大変なことになる。急げ、和也君、晴美を押さえるんだ」
その指示が、晴美に向かって発せられた市ノ瀬恵造最後の悲痛な叫びとはまったく逆の内容になっていると、和也は知らない。
「晴美に土蔵を開けさせるな。開けたらあの子も命はない。きみもだ」
瞬間、和也は迷った。
理由はわからない。だが、市ノ瀬の声にそのまま従ってよいのかどうか、迷った。
「どうして……」
和也は考えるよりも先にきいていた。
「どうして川本鏡子が突然消えたんです」
「先回りをしようとしているのだ」
市ノ瀬の声が答えた。
「あれ[#「あれ」に傍点]は土蔵の中に舞い戻ったんだ。きみよりも晴美を先に片づけるために」
「ほんとですか」
「耳を澄ませてみたまえ。もうあの振り子の音は聞こえてきまい。きみを脅すのは後回しにしたから、あれ[#「あれ」に傍点]はよけいなまぼろしを消した」
そのとおりだった。カチカチカチ、とリズムを刻む音はもうしない。
「早くしろ、和也君」
市ノ瀬の声がせかした。
「あれは標的を変えたのだ。きみから晴美に。だから、早く!」
「わかりました」
やっと和也の運動神経が起動した。
そして裏庭に通じる勝手口のドアを開けた。
「あ!」
目の前に展開する光景に、和也は一瞬立ちすくんだ。
彼の知らないまに黄色い花畑は一面の赤に変色していた。鮮血の色に。
そして、その中央で晴美が、なかば錯乱状態で刈り払い機をふり回し、つぎからつぎへと赤い花を刈り飛ばしていた。切り取られるたびに、茎の断面から血の色をした液体が闇に向かって噴き上げられていた。晴美の顔も「返り血」を浴びて真っ赤に染まっていた。
ふと視線を夜空に向けると、漆黒の天空には、悪魔の笑う口を連想させる赤い三日月が浮かんでいた。
その三日月の両端に白装束のふたごの老婆が腰掛けていた。
ふたりの老婆は、眼下に広がる赤い海での戦いを、身を乗り出して見つめながら、軍師のごとく扇をあちらへ向け、こちらへかざして、赤い月光に染められた花々に晴美を攻撃する指図を飛ばしていた。
「そうりゃ、そりゃそりゃ、押し寄せよ」
「ほうりゃ、ほりゃほりゃ、取り囲め」
「憎いおなごを血祭りに」
「お土蔵様の生贄《いけにえ》に」
「そうりゃ、そりゃそりゃ、食い殺せ」
「ほうりゃ、ほりゃほりゃ、食べ尽くせ」
囃《はや》し立て、煽《あお》り立てる老婆の采配《さいはい》にしたがって、無数の花々が自由自在に陣形を変えながら、四方八方から晴美めがけて押し寄せていった。
その波状攻撃に対し、晴美が孤軍奮闘、エンジン付き刈り払い機をぶん回して応酬し、花の首を刎《は》ねながら、一歩、また一歩と土蔵の前へ近づいていった。
あまりにも幻想的な光景に、和也は行動するのを忘れて、しばらくその状況を見つめていた。
(これは現実なのか? それとも夢なのか?)
だが、すぐさま頭の中で激しく叱りつける声がした。
「何をボヤッとしているんだ、和也君! 一刻も早く晴美を家の中に連れ戻せ、土蔵を開けさせるな!」
「はい」
和也は反射的に返事をした。そして恐怖心をかなぐり捨て、パジャマに素足という格好のまま、赤い戦場へ突っ込んでいった――
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[#1字下げ]17 土蔵にて
1
和也は赤い花畑の中を猛然とダッシュした。
何も履かない裸足の足裏に、グニュリ、グニュリと柔らかいものを踏みつける感触が伝わってきた。晴美に刈り取られた赤い花たちである。それは切り落とされたばかりの人の生首のように、うらめしげに花びらを震わせながら地面に転がっていた。
その累々たる死骸《しがい》の中を、和也は晴美のいるところをめざして突っ走った。
「晴美!」
走りながら、和也は大声で叫んだ。
「晴美、こっちへ戻ってこい!」
だが、近づくにつれて刈り払い機のエンジン音が大きくなり、その轟音《ごうおん》が邪魔をして、和也の叫び声は晴美に届かない。何度も何度も叫んで、ようやく晴美がふり返ったとき、彼女の顔は赤い液体に染まり、肌色の部分を探すのが難しいほどになっていた。
「いいか、晴美、土蔵を開けるな!」
長いスチールパイプの先に取り付けられた旋盤がまだ高速回転しているため、和也は近くまで寄れず、距離を取ったまま晴美に呼びかけた。
「土蔵を開けたら大変なことになるんだ」
「なに言ってるの。最初に土蔵を開けると言ったのはカズじゃない!」
赤く濡《ぬ》れた顔に赤い月光の照り返しを受けながら、晴美が叫び返した。
「やっぱりママの判断のほうが間違っていた。いますぐ土蔵の封印を解かないとダメなの。パパがこの中に……」
「違う、おまえのお父さんがおれに指示してきたんだ。土蔵を開けちゃダメだと」
「ウソ、そんなはずはない。パパはこの中に閉じ込められた。土蔵を開けてくれと必死に叫んでいたのはパパなのよ。そのパパが逆のことを言うわけ……いやっ!」
話している途中にも晴美めがけて赤い花が襲いかかり、それを刈り払い機の旋盤でまた払いのける。キュインという音とともに、高速回転する旋盤に刎ねられた花が宙に飛んだ。そして攻撃の合間に、また晴美が和也をふり返る。
「いまさらパパがカズにそんなふうに呼びかけるはずがないわ」
「晴美、よく考えろ。お父さんはもう死んでいるんだ。死んでいる人間を助けに行って何になる。それは罠《わな》だ」
「カズのほうこそ罠にはまっているのよ。もう食べられちゃったかもしれないパパが、カズのところへ助けを求めるはずがない」
「何もかもわかったんだよ、晴美。高速道路ではじまった悪夢のすべては、葛城編集長の……奥さんの……うわっ、やめろっ、こいつら」
ギュイーン、ギュイーンと和也の周囲で赤い花の茎が伸び、彼の首に巻きついてきた。両手で引きちぎろうとするが、和也が握ったそれは植物の感触ではなく、強靭《きようじん》なゴムの弾力を持っていた。それがぐいぐいと彼の喉《のど》を締め上げていく。
息ができなくなり、意識が遠のいていく。
「カズ!」
晴美の叫びとともに、和也の耳もとでキュイン、キュインと立てつづけに赤い花が刎ね飛ばされていく音がした。
とたんに呼吸が楽になり、巻きついていた茎がだらりと地面に落ちた。
和也を救った晴美は片手を刈り払い機から放し、咳《せ》き込む夫の腕を強く握った。
「私にはもう時間がないの。私は自分の身体に何が注ぎ込まれたのかを知っている。それが私の中でもうすぐ暴れ出すのがわかるの。その前に、あの土蔵に飛び込んでなんとかしなくちゃ!」
それを言われて、和也は自分がやったことを思いだした。もしもほんとうに晴美の身体の中に悪霊を注ぎ込む結果となったとすれば、鏡子の生霊に操られたせいとはいえ、自分のせいだった。百パーセント自分に責任がある。心が痛んだ。
「おねがい、私を信じて」
ぬらぬらとした赤い液体に顔を濡らした晴美が、和也を見つめた。
「ほんとにもう時間がないの。おねがい、カズ」
「……わかった」
心に訴えてくる晴美のまなざしを見て、和也は決めた。結果がどうなろうと、晴美の気持ちに従おうと。
だが、また市ノ瀬の声が和也の頭蓋骨《ずがいこつ》を震わせた。
「和也君、きみは晴美を守ってくれるのではなかったのか。晴美は操られているんだ。きみまでがいっしょに罠にはまらないでくれ。和也君!」
市ノ瀬恵造の声は、激しい怒りを含んでいた。
「土蔵は絶対に開けてはいかん。女房の準子がやったことは正しいのだ。本来ならば、私自身がすべての研究資料を自分の手で封印するつもりだった。怨霊《おんりよう》に関する研究がどれだけ危険なものであるか、誰よりも私がいちばんよく承知しているからだ。それを果たせずに私は死んだが、霊感の強い準子が、押し入れに残された資料の危険性を直観的に悟った。それで私の代わりに、膨大なエネルギーを持つ怨念《おんねん》のかたまりが働き出さないように封印してくれたのだ。その準子の行為を無駄にするな」
和也はまた迷った。市ノ瀬の声には説得力があった。
「なにやってるの、カズ」
ふたたび襲いかかってくる赤い花を切り散らかしながら、晴美は悲鳴に近い声を張り上げた。
「私を信じて! 私を助けて!」
「和也君、惑わされるな。力ずくでも、殴ってでもいいから、晴美を家の中に連れ戻せ」
「カズ、早くきて。いっしょに土蔵の中へ! ねえ、もう時間がないの!」
和也は混乱した。
晴美が罠にはまっているのか。市ノ瀬の声が罠にはめようとしているのか。
(どっちなんだ。どっちが正しいんだ)
判断がつかない。
「和也君。きみには私の正しさがわかるだろう。怨念の研究に一生を捧《ささ》げた市ノ瀬恵造が最大限の警報を鳴らしているのだ。なぜ晴美を連れ戻してくれないのだ。どうしてだ。なぜ私の言うことが聞けないのっ!」
「あ!」
和也は、目を大きく見開いた。
脳の中に響き渡る市ノ瀬恵造の叫びが、その語尾のところで突然ヒステリックな女の金切り声に変わっていた。
(やっぱりそうだったのか。正体を現したな、葛城鏡子)
ようやく和也は目が覚めた。
キッチンまで追いかけてきた鏡子が突然姿を消し、市ノ瀬恵造の声に切り替わったところこそ、罠だったのだ。
信じるべきは、やはり晴美だった。
「よし、行こう。晴美、おれにそれを貸せ」
和也は、晴美がたすき掛けにしていたエンジン付き刈り払い機のスイッチをアイドリング状態にして、すばやく自分の肩に掛け替えた。そしてふたたび旋盤を高速回転に戻すと、真正面に見える土蔵の扉を睨《にら》み据えた。
頭の中ではまだ市ノ瀬を装った葛城鏡子の声がわめき散らしていたが、和也は大声を出すことによって、その邪念を追い払った。
「行くぞ、おれのあとからついてこい」
和也は、土蔵の前で蠢《うごめ》く赤い花の群れに向かって突進した。
晴美がその後ろにつづいた。
2
行く手を阻む奇怪な植物をがむしゃらに旋盤で刎《は》ね飛ばし、全身を真っ赤に染めながら、ついに和也と晴美は土蔵の前にたどり着いた。おそれをなしたのか、わずかに残る赤い花たちは、もうふたりを追いかけてはこなかった。頭上の赤い三日月に腰掛けていたふたごの老婆も姿を消している。
土蔵の扉には掛け金が下ろされ、自由に上がらないように南京錠でロックされていた。しかし、頑丈な造りではあったが、五十年前にこの家が建てられたときから一度も取り替えられたことがないために、掛け金も錠も長年の風雨にさらされてかなり錆《さ》びついていた。
三年前に市ノ瀬恵造が死んだあと、研究資料を封印するために晴美の母親が一度開けたときの擦り跡らしいものが掛け金の周辺についている。すばやく観察して、和也は南京錠ではなく、掛け金のハンドル部分がいちばん腐食が進行していそうなことを見抜いた。
「ワンチャンスだ、晴美」
バババババというエンジンの爆発音を立てる刈り払い機を構えて和也は言った。
「ふつうなら旋盤の刃のほうがやられる。でも、腐った掛け金のほうが先に吹っ飛ぶかもしれない。失敗したらそれでアウト。うまくいったら土蔵が開く」
「やって、カズ」
額いっぱいに汗を浮かべた晴美がうながした。
「後悔はしないから」
「よし」
旋盤がフル回転していることを確認してから、和也は錆で茶色に変色しているハンドルのつけね部分にそれを押し当てた。
チュワーンとひときわ高い音とともに、和也の顔めがけて火花が飛んだ。それでもひるまずに、彼は旋盤を押し当てつづけた。本来は雑草を刈り取るための旋盤である。せいぜい硬い木の枝を切り取るのが使用法としては限度だったが、和也は旋盤か掛け金のどちらかがダメになるまで力を緩めるつもりはなかった。
ふたつの金属が激しい火花を散らしながら一歩も譲らない状態がつづいた。旋盤は取り付けられたポールごと何度も弾かれたが、そのたびに和也はすぐに元の位置に当て直した。実際には一分にも満たない闘いが、和也と晴美にとっては長い長い時間に感じられた。
やがて決着がついた。
ハンドルの腐食部分に亀裂《きれつ》が入った。そこから先は一気だった。
「やった」
荒い息をつき、和也は刈り払い機のエンジンをいったん止めた。
すかさず晴美が掛け金を持ち上げた。
あとは観音開きの重い扉を引き開けるだけだった。和也が左の扉の取っ手に、晴美が右の扉の取っ手にしっかりと指をかけた。
「行くぞ」
和也が合図をして、ふたりで同時に扉を開いた。
土蔵の内部は明かりひとつない闇……のはずだった。
だが――
ほんのわずかな角度だけ開けたとたん、中からすさまじい光の洪水が飛び出してきた。
「うわっ!」
和也と晴美は、その強烈な光の放射を、手をかざして遮ろうとした。しかし、ものすごいエネルギーがふたりの手を押し返し、彼らの全身めがけて飛びかかってきた。
光は一瞬にしてふたりの脳細胞を突き抜け、通過するさいに、無数の映像と無数の音声のフラッシュを産みだした。
桜が見えた。
京都の寺院が見えた。
神社が見えた。
鐘が見えた。
森が見えた。
夏空が見えた。
鳥居が見えた。
山が見えた。
川が見えた。
橋が見えた。
雷神が見えた。
紅葉が見えた。
竹藪《たけやぶ》が見えた。
石仏が見えた。
雪が見えた。
地蔵が見えた。
観音が見えた。
七福神が見えた。
鬼が見えた。
屍《しかばね》の山が見えた。
それにたかるカラスが見えた。
御輿《みこし》が見えた。
大蛇が見えた。
生首が見えた。
山鉾《やまほこ》が見えた。
籠《かご》かきが見えた。
人力車が見えた。
馬が見えた。
鎧《よろい》武者が見えた。
能面が見えた。
痩《や》せさらばえた民衆が見えた。
満月が見えた。
三日月が見えた。
読経、木魚、馬のいななき。
蹄《ひずめ》の音、鬨《とき》の声、刀がふれあう音。
悲鳴、歓声、雑踏、祭。
ピーヒャララ、コンチキチン、ワッショイ、ワッショイ。
灯籠《とうろう》が見えた。
送り火が見えた。
星座が見えた。
天の川が動いている。
キャラキャラキャラ。
星が音を立てて流れている。
煌《きらめ》く星をぎっしり詰めた天の川が、
うねりながら、ゆっくりと流れている。
その流れの中を、ロウソクの灯をともした灯籠が、
ひとつ、
ふたつ、
みっつと運ばれていく。
その無数の星の流れが、
やがて尾をくねらせながら進んでいく精子の大群に変わり、
流れの果てには、透明の球体が待ち構えていた。
星の大群は猛烈な勢いでその球体に突入し、
とたんに球体は白い濁りを生じながら分裂をはじめた。
分裂する球体の数は二の累乗で猛スピードで増えてゆき、
目にも止まらぬ速さで魚の形を形成した。
すぐさま魚が鳥に変わった。
さらに鳥が人間の胎児に変わった。
ひとつではない。ふたつ。
ふたごの胎児。
ふたごの胎児も、たちまちふたりの少女になり、
ふたりの女になり、
笑い、怒り、泣きわめき、叫び、さまざまな表情を見せたあと、
白装束を着てちょこなんと座る
ふたごの老婆になった。
「どうじゃろか」
左の老婆が口火を切った。
「今宵の夢はどうじゃろか」
右の老婆がたたみ込む。
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな」
「やあ、この、とおに」
「じゅういちで」
「これで十二の夢をみた」
「十三夜まであとひとつ」
「夢はもうひとつ恐くなる」
「この世を去っていくまでに」
「もひとつ夢をみてもらう」
「逃げ出したいが」
「逃げられぬ」
「帰りたいが」
「帰られぬ」
「わしらはずっと」
「ついてくる」[#「「ついてくる」」はゴシック体]
「いついつまでも」
「ついてくる」[#「「ついてくる」」はゴシック体]
「逃げても逃げても」
「ついてくる」[#「「ついてくる」」はゴシック体]
ブワッと音を立てて光の洪水が収束した。
そのあと、音もレベルゼロになった――
3
まばゆさに閉じていた目を開けてみると、和也と晴美は、いつしか土蔵の中に足を踏み入れていた。
おたがいの息遣いが聞こえるほどの静けさだった。
前方を見る限り、果てしない暗黒がつづいているように思えた。だが後ろをふり返ると、いま和也たちがこじあけた扉が左右に開いたままになっており、そこから赤味を帯びた月光が差し込んでいた。そして扉の外側では、例の赤い花の生き残りが茎をしならせて、中にいる和也たちの様子を窺《うかが》っていた。
それは、完全に生き物だった。
しかし、ふたごの老婆の姿はどこにもない。
奇妙な色合いの月光によって照らし出される土蔵の内部はごくわずかで、その部分には、使わなくなった机やソファ、食器類などが無造作に置かれてあるのが見えるだけだった。旧式の扇風機やラジオ、それに火鉢などもある。
古道具屋の倉庫といった趣だが、奥の様子がよくわからない。外部から判断していたところでは、土蔵の広さはおよそ二十畳。土蔵としては、かなり立派なものではあるが、薄明かりさえあれば内部ぜんたいが見渡せそうだった。それなのに、無限に深いほら穴を覗《のぞ》くように、ふたりの行く手には果てしない暗闇が広がっていた。
「カズ……」
晴美のほうから口を開いた。
「いまのでぜんぶ終わったの?」
「土蔵に閉じ込められた怨霊《おんりよう》のエネルギーが解放されたのか、ときいてるのか」
「うん」
「いや、まだだ」
たすき掛けにした刈り払い機に片手をのせた格好で、和也が答えた。
「アルバムを見つけなきゃ。おまえのお父さんがまとめた百八冊の怨霊研究アルバムを。葛城鏡子の生霊は、そのアルバムに収録されたデータを活用しながら、独自に幻覚を産みだしておれたちを混乱させている。その悪夢の源を絶たないとだめだ」
「葛城鏡子?」
薄暗い土蔵の中に晴美のいぶかしげな声が響いた。
「誰なの、それ」
「編集長の奥さんだよ」
「編集長って」
「葛城編集長だ。おれたちの仲人夫人のことだ」
そして和也は、その葛城鏡子の生霊が語る怨念の真相を、かいつまんで晴美に話して聞かせた。
意外な真実を聞かされ、晴美は声を出せなかった。
「おれたちが対決しているのは、漠然《ばくぜん》とした京都の怨霊という概念じゃない。この土地に根づいた自縛霊でもない。死者の亡霊でもない。葛城鏡子という、現実にまだ生きている人間が産みだしている怨《うら》みつらみの黒いエネルギー、それと闘っているんだ」
「私が……」
いまにも泣き出しそうな声で、晴美がきいた。
「私が怒らせちゃったの? 私がおしゃべりだったから、編集長のお嬢さんは死んじゃったの」
「いまはそのことは考えるな」
「そうなんでしょう、カズ! ちゃんと言ってよ!」
まただ、と、和也は内心で舌打ちした。こういう大事な場面にかぎって、また晴美はヒステリーを起こしてしまうのだ。
「ねえ、そうなんでしょう。ぜんぶ私の責任なんでしょう」
晴美の声が、静かな土蔵に響きわたった。
「私が優子先輩に面白おかしく話さなければ、編集長のお嬢さんは死なずに済んでいたのよね。そうよね」
「おまえだけの責任じゃない」
たのむよ、という表情で、和也は言った。
「それを言うなら、おおもとの責任はおれにある。会社から笑いながら速報を入れたのは、ほかでもない、おれなんだ。だから……」
柱時計とともに浴槽にうずくまっていたセーラー服の少女を思い出しながら、和也は声を震わせて言った。
「だから自分ひとりで罪悪感を背負い込もうとするな」
「だけど……だけど……」
晴美はとうとう泣き出していた。
「もう逃げられないよね。私のせいで娘を亡くしたと思っているなら、編集長の奥さんの生霊から逃げられないよね」
「少なくとも、ここまでの現象を見せつけられてしまった以上は、東京に戻って、生霊ではないほうの、人間としての奥さんに謝ろうと考えても無駄だろう。そんな悠長なことを許してくれるとは思えない」
「じゃ、どうすればいいの」
「だからアルバムなんだよ」
和也は、汗に濡《ぬ》れた前髪をかき上げた。
「葛城鏡子の生霊が、おまえのお父さんの霊を装ってまでして、土蔵の封印解除を阻止させようとしたのも、百八冊のアルバムを焼かれるのを恐れたからなんだ。あれこそが復讐《ふくしゆう》のエネルギーを供給する源だから、向こうは絶対に失いたくない。逆にこっちは、なんとしてでもそいつを処分しなきゃならない」
「でも、パパは私には土蔵を開けろと言ったのよ」
「それはまぼろしなんだ。そっちも編集長夫人の生霊が作りだした錯覚だよ。おれに対して、逆に土蔵を開けるなと命じたお父さんも、同じように幻影だった。つまりそれは、おれとおまえの間に諍《いさか》いを仕掛けようとしていたんだ」
「でも……」
「この土蔵の中を見てみろ。どこにおまえのお父さんがいる。黄色い花に食べられたお父さんの無惨な姿がどこにある。何もないじゃないか」
「でも、先のほうは真っ暗で何も見えない。そこにパパがいるかもしれない」
「あるのはお父さんの研究資料だけだ。それ以外は古道具しかない」
確信に満ちた声で断言すると、和也は前に進みはじめた。
「どこへ行くの、カズ」
「アルバムの保管場所を探すんだ。いくら真っ暗でも、土蔵の面積は限られている」
「だけど、この土蔵には電気が引いてないのよ。何か明かりを持ってきた?」
「ないよ。でも、そのうち目が慣れるさ」
「目が慣れたら、またふたごのお婆さんが出てくるかもしれないわ」
晴美は尻込《しりご》みした。
「轢《ひ》き殺されたふたごの赤ちゃんの死体を踏んづけちゃうかもしれない。……ううん、それよりも私のせいで自殺した子が……」
「やめろって、晴美!」
和也は、妻の身体を強く揺すぶった。
「もう恐がっているヒマはないんだよ、晴美。私には時間がないと言っていたのは誰だ。おれがおまえの身体に注ぎ込んだ怨霊を消すには、その供給源を絶つしかないんだ」
「あ……」
赤い花との格闘ですっかり忘れていたことを、晴美は思い出した。そして反射的に下腹部に手を当てた。
「私の……身体に……」
「それはおれの責任だ」
和也はきっぱりと言った。
「確実にそうだとは言えないけれど、おれの身体を通して、何かをおまえに注いでしまった可能性も少なくない。そいつが働き出さないようにするには、おれたちが勝つしかないんだ」
「勝つ……しか?」
「そうだ。だから、自分のために勇気を出してがんばるんだよ。さあ、いっしょに探しにいくんだ」
その言葉で、ようやく晴美もいっしょに進むことにした。ふたりは慎重に、しかし決して遅い歩調ではなく、土蔵の先へ進んでいった。覚悟を決めるよりなかった。
4
「ねえ、カズ。変だよ」
和也のパジャマの背中をつかみながら恐るおそる進んでいた晴美が、小声でささやいた。
「ここの土蔵は大きいけど、でも、こんなには広くないはず」
「わかってる」
晴美に言われる前から、和也は距離感のおかしさに気づいていた。進んでも進んでも、どこにも行き当たらないのだ。
「これも一種の幻覚だ。でも、ビビるな」
前を向いたまま和也は言った。
「不安になったら後ろをふり返れ。表の月明かりが見えるだろう」
晴美は、こわごわと後ろをふり向いた。
たしかに表から差し込んでくる赤い月明かりは見えている。だが、土蔵の入口の大きさを示す四角が、さっきよりもぐんと小さくなっていた。
それだけ扉から遠のいたということかもしれないが、二十畳程度の空間で、そこまで際立った遠近感を覚えるはずもない。明らかに自分たちは、実際の広さを超えた空間に踏み出している、と晴美は思った。
だが、いまその疑問を和也に話したところでどうなるものでもなかった。彼が言うように、残された時間はごくわずかしかない。ぐずぐずしていられないことは、晴美の身体が証明していた。じつは、怖くて和也には言い出せなかったが、光の洪水を浴びて土蔵の中に入ったときから、身体の奥底――子宮の奥で何かが蠢《うごめ》きだそうとしているのがわかるのだ……。
「痛っ」
前を行く和也が小さな悲鳴をあげた。
「どうしたの」
晴美はびっくりしてきいた。
「頭をぶつけた。こんなところにハシゴがある。木のハシゴだ」
和也に導かれて顔を近づけると、かろうじてその輪郭が確認できた。土蔵の二階部分へ上がってゆく急傾斜の階段だった。
手すりはなく、ハシゴの両端を握りながら上るよりない。とろりとした黒い闇の中でその手探りの行動はいかにも危険に思えたが、和也は迷わずハシゴに足をかけ、肩にたすき掛けしたエンジン付き刈り払い機を、背中に回して上りはじめた。
晴美もすぐ後ろからついていった。体内からの崩壊を実感した以上、ためらっていることはできなかった。
「着いたぞ。手を出せ、晴美」
先に二階に上がった和也が手を差し伸べて、晴美の身体を引き上げた。二階といっても、一階と同じ形で床が広がっているのではなく、土蔵の壁に沿って狭い幅の回り廊下が設けられているだけだった。内側は一階からの吹き抜けになっている。入口の明かりが、斜め下に見えることでもそれが確認できた。
「気をつけろよ、晴美」
埃《ほこり》っぽい空気に咳《せ》き込みながら、和也が言った。
「内側にいちおう手すりがあるけど、腐っているかもしれないから寄りかかるな。崩れたら、一気に下まで落ちるぞ」
「わかった」
と、答えたとき、晴美は斜め上からも弱々しい月明かりが差し込んでいるのを見つけた。
「見て、カズ。あそこ」
晴美が指さす方向には、鉄格子の嵌《は》められた明かり採りの小窓が開いていた。外から雨が吹き込むのを防ぐために、その小窓には扉も付いていたが、さきほどの光の洪水の余波なのか、その扉が外に向かって開け放たれ、例の赤い月光が差し込んでいた。
その光はかなり微弱で、周囲の様子を明らかにするほどではない。しかし、小窓の真下にうずたかくアルバムが積み上げられているのが確認できた。
「あっ、あれだわ。ねえ、あれがパパのアルバムじゃないかしら」
「ああ、たぶん」
緊張した声で答えると、和也は窓の下に駆け寄った。
間違いなかった。週刊誌を二冊並べたほどの大きさのアルバムが横に三列、タテに二列、計六つの山を作っていた。それぞれの山の高さはざっと見積もって二十冊前後だから、総計百八冊という話に合致する。
ぜんたいにうっすらと埃をかぶっていたが、晴美の母親によってここに運び込まれたのが三年前だから、埃の厚さは表紙の文字が隠れてしまうほどではなかった。
いちばん手前左の山の最上部に積まれたアルバムには『京都壱』と記されてあるのが読みとれた。隣の山のいちばん上は『京都壱拾九』、その隣が『京都参拾七』。奥の列の左の山は、いちばん上に『京都五拾五』、奥の中央が『京都七拾参』、そして奥の右の山は『京都九拾壱』。
「間違いない、これだ」
和也は断言した。ひとつの山が十八冊で、それが六山。合わせて百八。煩悩の数と同じ百八冊のアルバムが目の前にあった。
和也はそのアルバムの山にフッと息を吹きかけた。見た目以上の微細な埃が舞い上がり、月光の扇に沿って赤いカーテンを作り上げた。その埃を手であおいで飛ばしながら、和也は、一冊目のアルバム『京都壱』を取り上げた。
緊張の面持ちで、晴美も横から覗《のぞ》き込む。
「どうだ? 表紙のこの字、お父さんの筆跡だよな」
「うん、間違いなくパパの字よ」
「じゃ、開いてみるぞ」
和也は、いったいどんな写真からはじまるのか、緊張の面持ちで一ページ目を開けた。
5
「え?」
おもわず声が出た。
白紙だった。
大きな面積のアルバム台紙には何も貼られておらず、メモ書きのたぐいも一切なかった。つぎのページを開いてみた。やはり白紙。見開きにすれば週刊誌をタテヨコ二冊ずつ、四冊分の大きさにもなるのに、写真も文章も何もない。
和也はページを急いで繰っていった。だが、なんということか、最後のページまですべてが白紙のままだった。
「………」
和也と晴美は顔を見合わせた。
「ほかのも見てみよう、晴美も手伝ってくれ」
和也はいまのアルバムの下にあった『京都弐』を取り上げ、晴美は別の山から『京都九拾壱』をとりあげた。だが、結果は同じだった。つづいて和也は『京都参』、晴美は『京都九拾弐』を開いてみる。やはりすべてが白紙。
「中身がないはずはないわ」
納得がいかない口調で晴美が言った。
「だって私、見たんだもの、子供のときに。いろいろな京都の景色や、お寺や、神社を写した写真にパパの文章が添えてあるのを。レポート用紙にびっしり書き込まれた難しい調査報告書みたいなものが貼ってあるページもあったのよ。一冊だけじゃなくて、どのアルバムにも写真がいっぱい貼ってあって、書き込みもいっぱいしてあった。土蔵に封印するとき、ママだってきっと中身を見たはずだし」
「もしかすると……」
板張りの床に片|膝《ひざ》をつき、真っ白なページに目を落とした和也は言った。
「もしかして、中身はぜんぶ逃げ出しちゃったんじゃないのか」
「中身が? 逃げた?」
「さっき土蔵の扉を開けた瞬間に襲いかかってきた光の洪水……あれって、百八冊のアルバムに貼られた写真や研究資料がぜんぶ飛び出してきた、って感じがしなかったか」
「そういえば……」
と、つぶやいたあと、晴美は黙りこくった。
あの怒濤《どとう》のごとき映像と音声の津波は、たしかにアルバムの全資料が一気に土蔵の外へ飛び出していくイメージにぴったりだった。
「あれがたんなる京都の資料ならいいんだけど……」
和也がつづけた。
「そのひとつひとつに邪悪な怨霊のエネルギーが込められていたとしたら、逃がしてしまわないほうがよかったんじゃないのかな。晴美のお母さんの封印措置は、やっぱり正しかったんじゃないのかな」
「カズ、いまになってそんなふうに意見をコロコロ変えないでよ」
またしても晴美が、いらだちをみせた。
「じゃあ、私は何をすればよかったのよ。私の身体の中に何かが入り込んで、いまにも暴れ出しそうなのに、土蔵を開けちゃいけなかったんだったら、それじゃどうすればよかったのよ!」
「ちょっと待て」
和也が聞き咎《とが》めた。
「身体の中に入り込んだものが、いまにも暴れ出しそうって……ほんとなのか」
「べつに……」
晴美はそっぽをむいた。
「そんな感じっていうだけで、根拠はないけど」
「正直に言えよ。もう身体に異変が起きてるのか」
「だから違うって言ったじゃない!」
「晴美」
「もしそうだとしても、和也に言ってどうなるのよ。お医者さんの免許でも持ってるの? なんにもできないくせに、よけいな質問ばっかしないでよ。そうやって私の気持ちを不安にさせないでよ。もうやだ! やだやだやだやだ、やだっ!」
感情的に叫ぶと、晴美は整然と積まれてあったアルバムの山を手当たり次第に崩しはじめた。
埃《ほこり》を舞い上げながら百冊を超えるアルバムが二階の床になだれ落ちた。その大半は表紙を閉じたまま落ちたが、何冊かは中身を見せる格好で開いたまま床に投げ出された。
と、そのうちの一冊に、和也の目が行った。
「おい、晴美、ストップ!」
手当たりしだいにアルバムの山を崩していた晴美を、和也が制した。そして、床に落ちた一冊に注目するよう、しぐさで命じた。
この調子ではすべてが白紙のアルバムだと思っていたが、薄明かり中でもオレンジ色の色彩が明確にわかる千本鳥居の写真が貼ってあるページが見えたのだ。
「これは……」
和也は床に両膝をついて、そのアルバムの表紙を返した。『京都壱百参』と表紙に書いてある。ナンバー一〇三ということだ。
「これは夢の中に出てきた伏見稲荷の千本鳥居じゃないか。ほかにもまだ写真の残っているものがあるかもしれないぞ」
そのアルバムをすばやく繰っていくと、数ページの白がつづいたあと、セピア色に変色したモノクロの写真が現れた。
「あ!」
晴美が叫んだ。
「パパと、あの男だ」
その写真は、どこかの温泉宿に泊まったときのものらしく、旅館の名前が入った丹前や浴衣《ゆかた》姿の男五人が、宴会の卓を囲んで笑顔でカメラに向かっていた。その間には酌婦も何人かいた。いかにも昭和の匂いがする写真だった。
いちばん左の、オールバックにして丸メガネをかけている三十代とみられる男性が若き日の市ノ瀬恵造であることは、和也にもすぐわかった。
そしてその隣にいる髪を中央から左右に分け、黒目が異様に大きい男が、第三夜の夢にも出てきた諸星輝こと川本一郎だった。最初の夢に出てきた猫の鳴き声を出す黒ずくめの男も、この川本一郎のイメージによって作り上げられた可能性があった。川本はだいぶ酒が入っているらしく、単色の写真でも顔の火照りがはっきりとわかった。
その写真の下には、市ノ瀬の直筆で「川本一郎君らと痛飲、愉快なり」と書いてある。
「ほかの三人も、きっと生霊の極秘研究をつづけてきたテンジン・プロジェクトのメンバーだろう。慰労会か何かで温泉へ行ったときのスナップじゃないかと思う」
と、そのとき、写真が動いた。
「え?」
和也は声を出し、晴美は無言で夫の腕をギュッとつかんだ。
信じられないことが起こった。セピア色の画像の中で、晴美の父である丸メガネをかけた市ノ瀬恵造が、隣にいた川本一郎の肩をポンと叩《たた》いたのだ。
動いただけではなかった。声まで出した。
「川本、ちょっと折り入って話したいことがあるんだ。向こうの部屋でふたりきりにならないか」
晴美は震えだした。
だいぶ若々しかったが、間違いなく死んだ父親の声そのものだった。
「カズ……」
晴美は、ほとんど息だけの声しか出せなかった。
「なに、これ……ねえ……なんなの、これ」
「………」
こんどは和也が声を出せなかった。
セピア色の写真が、そのまま映画になったようだった。
市ノ瀬に声をかけられた川本は、肩のところまで浴衣の袖をまくり上げてご機嫌な表情だったが、一瞬いぶかしげな表情を浮かべたあと、盃を置いて立ち上がった。
そのコトリ、という音までが聞こえた。
目の前で起きはじめた現象が信じられず、永瀬和也と晴美はたがいにしっかりと手を握り合ったまま、『京都壱百参』のアルバムが描き出す立体映像から視線をそらすことができなくなっていた。恐ろしかったけれど、吸い寄せられた。
ふたりは知らず知らずのうちに、またも夢の世界へ引き戻されていった――
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[#2字下げ]第十三夜 京都十三夜物語
市ノ瀬恵造と川本一郎は、にぎやかな宴席のふすまを開けて退出し、簡素な笠《かさ》をかぶった電球の明かりひとつに照らされた薄暗い廊下に出た。そして、歩くたびにギッギッと鳴る板張りを踏みしめながら、少し離れた小部屋へと移った。
そこは六畳のこぢんまりした和室で、市ノ瀬と川本が寝るために割り当てられた部屋だった。すでに宿の人間によって二組の蒲団《ふとん》が敷いてあったが、市ノ瀬はそのうちの一組を敷蒲団ごとふたつに折りたたんでスペースを作り、座ぶとん二枚をそこへ放り投げて、川本に座るよう促した。
「で、なんだい、市ノ瀬。話というのは」
あぐらをかいた川本は、浴衣の襟もとをただしながらたずねた。
「ぼくはまだ飲み足りないんでね、用事があるなら手っ取り早く済ませてくれないか」
「おれが川本に貸した京都の写真だが、たしかきょうもここへ持ってきているそうだな」
市ノ瀬がきくと、川本は、なんだそんなことかという表情でうなずいた。
「ああ。きょうはテンジン・プロジェクトの若手だけで息抜きの集まりをしようという趣旨だが、せっかくきみと同じ部屋で一晩泊まるんだ。例の小説の企画をじっくり相談したいと思ってね、きみから借り受けた写真の使い方で、ぼくが考えているアイデアも話しておきたかったんだ。……そうだ、ちょうどいいから、市ノ瀬に目を通しておいてもらいたいものがある。心当たりの出版社に出してみようと思っている企画書なんだ」
川本は立ち上がって、床の間の脇に置いた黒革の旅行かばんを開き、そこからかなり厚みのある大判のクラフト封筒を取りだした。そして市ノ瀬の前に中身を広げた。
封筒からは、まず手札サイズに焼かれた大量のカラープリント写真が出てきた。神社仏閣や街並み、山や川や林や畑などの自然、祭りや行事、それに季節ごとの風物詩など、あらゆる角度から捉《とら》えた京都の姿だった。その枚数は百枚ではきかないだろう。
それらはすべて市ノ瀬から借り受けた写真だった。
大学の民俗学講師である市ノ瀬がフィールドワークで撮りためた写真はかなりの数にのぼっていたが、二年前まではそのすべてが白黒だった。当時はカラープリント写真は普及の緒《ちよ》についたばかりであり、写真といえば白黒が常識の時代だった。
非常に高価なものであったカラーフィルムを市ノ瀬が使うようになったのは、二年前の昭和三十八年に感度ASA64のフィルムが発売され、飛躍的にカラーフィルムの質が向上してからである。
川本が持参した封筒からは、さらに原稿用紙の束が出てきた。その内容は市ノ瀬も知っている。市ノ瀬と知り合って以来、彼の京都研究に刺激を受けた川本が、京都を舞台にして書きためた短編の数々である。
茶色い罫線《けいせん》が引かれた四百字詰めの原稿用紙が、短編ごとにふたつ折りにして輪ゴムでまとめられていた。
いちばん上に、最初の作品の題名が見えた。
『京都伏見の黒い猫』――
最後に封筒から取り出されたのが、一冊の事務|用箋《ようせん》だった。三十枚ほど綴《つづ》られた終わりのほうに黒いカーボン紙がはさまっており、ボールペンを使って複写をしながら文書を書いたことがわかった。
「出版社に出したあと、手もとに企画書の複写を残しておくのに、青焼きリコピーにしようかとも思ったが」
川本が言った。
「青い文字で読むのはピンとこないし、半分素通しの薄い紙に文字を書くのも好きじゃないのでね」
はさんであった黒いカーボン紙と、そのつぎのページに入れてあったボール紙の下敷きをサッと抜き取ると、川本は事務用箋を市ノ瀬のほうに向けて渡した。
市ノ瀬は黙って受け取り、すぐに一ページ目を開いた。
そこには『出版企画書』と表題が書かれ、さらに大きな文字で『京都十三夜物語』と小説の題が記されてあった。
その表紙部分だけは複写の都合を考えずに、文字を強調するため毛筆で書かれていた。決して達筆ではないが、個性的で力強い筆致だった。そして右下隅に、細筆で『昭和四十年十一月二十四日』と三日前の日付が書き添えられてあった。
つぎのページから企画書の本文に入る。そこからはボールペンで書かれていた。
行頭の文字は、たいがいその書き出しのところでインクが滲《にじ》んでいた。それを見て市ノ瀬が言った。
「カーボン紙を使う都合を考えるのもわかるけど、出版社に提出する書類は、やはりボールペンではなく万年筆にすべきだったんじゃないのかな」
川本より三つ歳上の市ノ瀬の口ぶりは、やや説教めいていた。
「なんといってもボールペンは本式の筆記用具じゃないからね。目上の人間に対する手紙にボールペンを使うのが非常識なのは言うまでもないが、最近は多少性能が向上したとはいえ、まだまだインクがドボッと出てしまう欠点が目立つ。それから……」
市ノ瀬は事務用箋に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅《か》いだ。そして、眉《まゆ》をひそめながら紙を顔から離した。
「この匂いだ。おれはこのボールペンのインクの匂いが苦手でね。きっと印刷所には勤められないだろうな」
「そんなことよりも、早く先を読んでほしいんだけどな」
少々気分を害した様子で、川本がうながした。それに対して、市ノ瀬は黙ってうなずき、本文に目を走らせた。
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企画のねらい
日本国民を熱狂の渦に巻き込んだ東京オリンピックから、早いもので一年が過ぎました。全世界の人々から注目された此のスポーツの祭典を国家的事業として成功に導いた我が国は、同時に社会的基盤においても革命的な進歩を遂げました。世界に誇る革新技術をもって完成した東海道新幹線や、モータリゼーションの爆発的普及をもたらした自動車高速道路の開通など、人の流れ、物の流れの速度は飛躍的に向上し、日本経済の前途は洋々たるものがあると申し上げても過言ではありません。
そのほかにも日本国民の生活で大きく変わったものがあります。それはカラーテレビの急激な普及です。昭和三十四年の皇太子さまと美智子さまのご成婚は、カラーテレビ普及の最初のきっかけとなりましたが、まだまだ当時は高嶺《たかね》の花の存在。しかし、五年後の東京オリンピックを機に、カラーテレビは、カー、クーラーと並んで豊かな国民生活を象徴する3C――三種の神器と言われるまでに普及してまいりました。
さて、カラーテレビの普及は、国民の間にカラー写真熱をも広めることとなりました。戦後まもない昭和二十三年に、富士フイルムが感度がASA10のブローニー判六枚撮りカラーフィルムを発売しましたが、これはいまとは発色方式をまったく異にするタイプで、現在の方式による国産カラーネガフィルムが発売されたのは、七年前の昭和三十三年、皇太子さまご成婚の前年です。二十枚撮りで感度はASA32。白黒フィルムの標準規格であるネオパンSSがASA100であったのに較べると、まだまだカラーフィルムは実用向きではありませんでした。
しかし、一昨年の昭和三十八年、現像後のカラーネガフィルムがオレンジ色となるタイプのASA64のフィルムが発売され、カラー写真の仕上がりの美しさが飛躍的に向上しました。これは自動色補正機能を持つ、着色済み発色剤を使用することによる改良です。
モノクロフィルムやこれまでのカラーフィルムと異なり、ネガフィルムがオレンジ色をしているというのは、何やらそれだけで新鮮な衝撃でありましたが、ついにことし八月、白黒と肩を並べる感度ASA100の国産フィルム『フジカラーN100』が発売。そして、これまで現像料込みだった販売価格から現像料が分離され、フィルム代金のみとなる新しいシステムが採用され、十二枚撮りの標準価格が二百九十円と劇的な値下がりをみることになりました。
しかも印画紙を含め、コダック準拠のオイルプロテクト型発色剤による現像方式を採用したことで、世界標準のラボで日本のフィルムが現像可能となり、我が国のカラー写真事情は、いままさに劇的な飛躍を遂げようとしています。
こうした品質改良と値下げにより、驚くべきことにカラーフィルムの売り上げは、すでに35ミリ判フィルム全販売量の一割にまで到達しようとしているのです。そして、現時点ではまだ噂の段階ですが、旅行ブームに呼応して、来春には、ついに三十六枚撮りの国産カラーフィルムが発売されるのではないかとの観測も出ております。国民の撮るスナップ写真の大半がカラーとなる日が、もうすぐそこまできているのです。
何十年か前には空想科学小説の中だけの夢の機械と思われていたカラーテレビが、一般家庭にごく自然に備えられている時代となり、いま述べたように、カラーテレビ普及の影響が、写真の世界にも一大変化をもたらしました。目に見えたものをありのままに記録保存し、ありのままに第三者に伝達する――これがしごくあたりまえの時代に世の中は突入してきたのであります。
一方、文学の世界はどうでありましょうか。同じ出版界でも雑誌にはどんどんカラーのページが増えてきているのに、小説や随筆などの領域では、色彩という要素を取り込むことがまるで文学を冒涜《ぼうとく》する行為でもあるかのように、いまだ黒一色の文字の世界にこだわりつづけております。
しかし、あと三十数年経って今世紀の終わりから新世紀を迎えるころには、保守的な出版界も大いに様変わりをし、おそらくほとんどの小説単行本が華やかな総天然色仕立てになっているのは疑いのないところです。小説だからといって文字だけにこだわるのではなく、作品の登場する各地の風景を撮影した鮮やかなカラー写真も積極的に取り入れるなど、未来の作家たちは、文字という表現手段だけにこだわらぬ自由な作品づくりを謳歌《おうか》しているに違いありません。
そうした≪ネオ小説≫ともいうべき流れがいつはじまったのかと歴史をふり返ったとき、一九六五年――カラーフィルムが白黒フィルムと同等の能力を持つに至った記念すべき年に執筆された、諸星輝のあの作品集が嚆矢《こうし》であったと誰もが認める、そんな将来を夢見て、いまここに我が国初の本格的な総天然色短編小説集『京都十三夜物語』の企画をご提示させて頂く次第でございます。
この短編集は京都を舞台にした幻想的な作品を集めたものですが、そこには舞台となった神社仏閣や美しい自然などを捉《とら》えたカラー写真をふんだんに取り入れます。ただし、本作品集において写真は添え物ではありません。いわゆる挿し絵的な脇役ではなく、それじたいが作品の重要部分を成しているのです。『京都十三夜物語』では、文字のみならず、写真画像も「原稿」の中に含まれます。文字と画像が立体的に融合して初めて成り立つネオ小説、それが『京都十三夜物語』なのです。
また、この作品においてカラー写真が重要な役割を果たす裏には、たんに世の中がカラーブームだということのみならず、色彩というものが人間に与える根元的な役割についても追求してまいります。
どうぞ貴出版社におかれましては、企画の趣旨をご理解賜り、同封の作品原稿をご一読のうえ、前向きにご検討下さいますようお願い申し上げます。
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「長いな」
開口一番、市ノ瀬恵造から出た言葉がそれだった。
「企画の狙いだけで、こんなに延々とあるのか」
そう言いながら、彼の指はさらにつぎのページをめくっていた。そこには『京都十三夜物語における≪色≫の位置づけについて』と書かれてあった。
が、もう読むまでもないといった態度でその事務|用箋《ようせん》を閉じ、川本のほうに突き返した。
「なんだ、読んでくれないのか」
不服そうに川本が言うと、市ノ瀬は丸メガネをはずし、そのレンズを丹前のたもとで拭《ふ》きながら言った。
「川本の短編は、できあがるたびに読まされているから、いまさらくどくど解説される必要もない」
「まあ、それはそうだが……。それで、どんなものかな」
「どんなものかな、とは?」
酒宴の席に立ちこめていたタバコの煙で曇ったレンズを拭《ぬぐ》い終えると、市ノ瀬はそれをかけ直し、改めて川本を見つめた。
その視線にかつてない厳しい光があることを見て、川本は媚《こ》びた笑顔を浮かべた。
「つまり、出版社に出す企画書としてどうかなと、市ノ瀬が読んだ感想を聞かせてほしいんだ。何しろ自分の原稿を売り込みにいくことはたびたびあっても、このように企画書の形できちんとまとめるのは初めてだからね。どうも勝手がよくわからない」
「感想ならいま言ったと思うがね。長いな、と」
「………」
市ノ瀬のそっけない返答に、川本は言葉に詰まった。が、気を取り直し、やや弁解じみた口調でつづけた。
「もし気分を害したなら謝る」
「この企画書で? おれが?」
「つまり、カラーフィルムの歴史のところだよ。写真はまったくの門外漢のぼくが、ここまで詳しく書けたのは、すべて市ノ瀬、きみのおかげだ。ハッキリ言って、そこの部分はまったくきみの受け売りだ」
「いいんじゃないかな、べつにそんな些細《ささい》なことは」
市ノ瀬はあくまで冷たかった。
「それよりも、ちょうどこいつが出てきたから話が手っ取り早くていいが」
市ノ瀬は、一編ずつ輪ゴムで止めた十束の原稿用紙を持ち上げた。
「おれが川本に話があるというのは、まさにおまえの小説本体の件なんだ」
「というと?」
「邪道はよせ」
いきなり市ノ瀬は斬り込んだ。
「最悪だ、こんな企画は」
「最悪とはどういうことだよ」
川本は媚びた笑みを消し、肩までまくり上げていた浴衣《ゆかた》の袖《そで》を戻して正座になった。
酔って上気していたために川本は丹前を脱いでいたが、市ノ瀬の態度が彼の酔いを醒《さ》まさせ、同時に寒さを思い出させた。
宴席の場には火鉢がいくつも出ていたが、この部屋には置き炬燵《ごたつ》がひとつあるだけで、それもいまは壁際に寄せられてあった。薄っぺらなカーテンの隙間から覗《のぞ》く窓ガラスは、外の冷気で灰色に曇っている。その向こうに広がる闇は、そのまま貴船の山あいにつづいている。そこは、川本が諸星輝名義で書いた短編の舞台となった場所でもあった。
テンジン・プロジェクトの若手メンバーだけで集まった慰労会の宿は、その貴船渓谷の最も奥まったところにあった。いまは十一月二十七日、洛中《らくちゆう》では晩秋でも、貴船ではすでに冬である。浴衣一枚の川本は、くすんと鼻を鳴らした。
それは寒さのせいで洟《はな》をすすったのと同時に、あまりにも敵対的な市ノ瀬の態度に不満を表明するしぐさでもあった。
が、丹前を着込んだ市ノ瀬は、厳しい語調を少しも和らげずに言った。
「川本、おまえもいちおう作家のはしくれだろう」
「はしくれの位置から脱しようともがいているけどね。きみにバカにされないためにも」
市ノ瀬の言葉|尻《じり》にカチンときた川本は、精一杯の皮肉で言い返した。が、市ノ瀬は突き放すように言った。
「作家が写真に頼ってどうするんだ」
その言葉は、川本に大きな衝撃を与えた。真っ先に理解者となってくれるのを信じていた人間から、あまりにも保守的な拒否反応が返ってきたからだった。
川本は大きな黒目を丸くしてつぶやいた。
「市ノ瀬までがそういう既成概念に縛られるのか」
「既成概念というよりは正論と言い直すべきだろうな」
市ノ瀬の言葉は、どこまでも氷のごとく冷たかった。
「作家は写真家じゃない。文字による表現の技を磨くのが作家のつとめではないか」
「それは古い固定観念だ。ぼくは小説の新時代をこの手で切り開きたいんだ」
「それをやるんだったら、まっとうな手法で書き上げた作品がきちんと世間に認められてからにしたらどうだ」
「………」
「え、川本。おまえは小説家として、どれほどの実績があるんだよ。これが私の代表作でございますと胸を張れるものがいくつあるんだ」
「たしかにぼくの書いたものは、世間では少しも反響を呼んでいない」
「反響を呼ぶも呼ばないも、諸星輝の名前で書いた作品そのものが、ほとんど陽の目を見ていないじゃないか」
「ああ、そうだよ。たしかにそうだ。よくぞ正確なところを言ってくれた。ありがとう」
アゴを突き出して、川本は開き直った。
「だからといって、ぼくは作家として失格の烙印《らくいん》を押されたわけではない。たまたま時代の流れにうまく乗っていないだけの話なんだ。時代の先を行きすぎるのが自分の欠点だとは、ぼくもよく承知している」
「ほう、まるで世の中のほうが悪いという論調だな」
「べつに時代や世の中のせいにするつもりはない。しかし、市ノ瀬が思っているほど諸星輝は無能ではない。現に、いくつかの雑誌からは短編の依頼だってある」
「穴埋め用のな」
「………」
「そうなんだろ?」
市ノ瀬は容赦なかった。
「おれも出版社に知り合いがいないわけじゃないから、そのへんの事情は知っているんだ。川本クラスの無名作家に原稿の依頼がいくときは、具体的な掲載月などは決められておらず、締め切りもない。とにかく原稿を書いてみませんかと言われて、書き上がるとそれを編集部に預け、常連執筆者の誰かが病気やアイデアの煮詰まりで連載を落としそうになったときに、急遽《きゆうきよ》穴埋めとして使われる。おまえという作家はその程度のランクじゃなかったのか」
「悪かったな」
川本の顔が、酒の酔いとはべつの赤味を呈してきた。
「だがな、ぼくの才能を認めてくれる編集者だって、ちゃんと出版界にはいる。こんなぼくに期待をかけてくれる連中がいるんだ。そんな彼らのためにも、ぼくは作家・諸星輝を世に出したい」
「そういう真剣な気持ちがあるなら、なおさら文章だけで真っ向から勝負するのが当然じゃないか。この企画書には、やれカラーテレビだ、やれカラーフィルムだと、総天然色ブームをクローズアップしているが、それは小説とはまったく別の世界の話だろうが。おまえは活動屋じゃあるまい。映画やテレビを撮る人間じゃないだろう」
「だから市ノ瀬、何度言ったらわかるんだ。そういう既成概念に囚《とら》われるのがおかしいんだよ」
「屁《へ》理屈をこねる前にちゃんと認めろよ」
市ノ瀬は川本の反論を封じ込んだ。
「まず自分に才能がないことを、きちんと認めろ。そのうえで、まともに文章だけでは勝負できないから、写真の力を、それもカラー写真の力をお借りするのです、と正直に言ってみろ。それなら少しは可愛げがある」
「なんだと……」
紅潮していた川本の顔が、こんどはスーッと青くなっていった。
「ぼくに対する侮辱じゃないか、それは」
「ほう、侮辱だと思ったか。それならもっと言ってやろう。川本、おまえなんか、しょせん本物じゃないんだ」
「どういうことだ」
「作家として本物ではないってことさ。別の表現ではニセモノとも言う。二流、三流の素質しかないということだ。素質がない者は、いくら頑張っても一流にはなれない。せいぜい三流から二流になるのが関の山だろう」
市ノ瀬は、川本が怒りで唇をわななかせるのを、丸メガネの奥から冷たい目で見つめていた。そして相手が口を開く前に、さらにたたみ込んだ。
「諸星輝などと一人前にペンネームをつけたはいいが、作家を自称するなどまったくおこがましい『作家もどき』の存在にすぎない。その自覚があるのかね。ないだろう。あればこんなバカげた企画を出版社に出すはずがない」
市ノ瀬は川本が書いた企画書をアゴで示してあざ笑った。
「無能とまでは言わない。しかし、おまえの作家としての資質は限りなく低い。そこから這《は》い上がってくるには人一倍の努力をしなければならないのに、精進の姿勢がなってないということだ。作家として自分の鍛え方がまったく甘いということだ。これじゃあ世の中に認められないのも当然だな。読み手はそんなに甘くないぞ」
市ノ瀬は川本の顔は見ずに、彼が書いた企画書に視線を向けたまま――まるでその企画書に向かって説教をするようにつづけた。
「そして、いよいよペンと原稿用紙だけじゃどうにもならないと悟って、悪あがきのすえに思いついたのが、世の中がカラーブームになっているのを利用した浅はかなアイデアだ。おい、川本、おまえ作家という看板を背負っていながらほんとうに恥ずかしくないのか、自分の描写力のなさをカラー写真に助けてもらおうなんて」
「ぼくは決してそんなつもりで写真を使おうとしているんじゃない」
「よせよせ、強弁は。そりゃな、読者だって小説の舞台を写真で見せられりゃ、状況を把握するには手っ取り早いだろうよ。しかし、それじゃおまえ、ガイドブックと何も変わらないじゃないか。おまえの小説はガイドブックかい。だったら作家の肩書きをはずしてもらおうじゃないか」
「市ノ瀬、なぜだ」
顔面|蒼白《そうはく》となった川本は、正座のまま相手ににじり寄った。
「なぜそんなにぼくを罵倒《ばとう》する。昨日までは、いや、たったいままで、いっしょに楽しくやっていたのに」
「おれだって、ほんとうはもっと穏やかにやるつもりだったさ。しかし、おまえの企画書を読んでいるうちに、無性に腹が立ってきたのだ」
「だから、きみの知識を無断借用したのは詫《わ》びると言ってるだろう」
「まだわからないのか。そもそも、おまえが書いた短編だって、おれが長年のフィールドワークで集めた民話伝承や、不可思議な体験をした人々のインタビュー収録、そういったデータをヒントにしたものじゃないか。おれが話して聞かせなけりゃ、おまえはこの十の短編を書けたか。このあとまだ三つも書くらしいが、それだって、どうせおれの民俗学研究の副産物を題材にしたものなんだろう」
「そうだよ、そのとおりだ。悪いかい」
「開き直るつもりか、川本」
「そう受け取るんだったら、ご自由に」
川本は歯をむいて攻撃的な表情を作った。
「しかしね、天下の芥川《あくたがわ》だって『羅生門』にせよ『鼻』にせよ、みんな古典から題材をとっているじゃないか。……というよりも、古典のリメイクと呼んでもいいほどだ。それが文学の金字塔だと持ち上げられているんだぜ。ぼくのやり方に問題があるんだったら、芥川の批判からはじめてもらおうじゃないか。彼の創作姿勢のどこにオリジナリティがあるんだい。話をまったく更地のところから考えたかい、彼は」
「問題をそらすな。芥川龍之介を論じるためにおまえを呼び寄せたんじゃない。おまえはおれの研究素材を無断で小説にしただけでなく、おれの撮影した写真までも作品の中に使おうとしている」
「その了解をとろうと思って、市ノ瀬から借りた写真をこうやって持ってきたわけじゃないか」
「了解? するわけないだろうが」
市ノ瀬は、原稿の束と企画書を川本のほうへ突っ返し、百枚ほどあるカラー写真は自分の手もとにかき集めた。
「おい、その写真は?」
「これは返してもらう」
市ノ瀬は、写真の端をきちんと揃えながら言った。
「おれはあくまで川本の執筆の参考にと貸したんだ。そのまま小説に取り込まれるために渡したんじゃない」
「待ってくれないか、市ノ瀬。ぼくはちゃんと印税の分配もきみに行くように考えているんだから」
「そんなご心配は無用だね」
市ノ瀬は顔の前で手を振った。
「だいたいこんな企画を通す出版社があったら、編集長や社長の顔が見たいものだ。いくら分厚い企画書をまとめたって、ゴーサインを出すところがあるものか」
「もういちどだけぼくの話を聞いてくれ」
「いやだね、堂々巡りにつきあうのは」
「そうじゃない。ぼくがこの『京都十三夜物語』という短編集で訴えたかった色彩に関する哲学を聞いてほしいんだ」
川本は真剣な口調で迫った。
「ほんとうは、この企画書のつづきの部分でじっくり説明してあるんだが、きみがもう読まないというから口で説明させてもらう。ぼくがきみの写真を借り、それを何十枚も掲載しようと考えたのは、たんに小説の舞台を読者にわかりやすく説明するためだけではない。じつは、残りの三つの短編でその真の狙いを明らかにするつもりなのだが、我々人間の感情が、いかに色彩という要素に左右されるかということを、ぼくは訴えたかったんだ。
たとえば第四の短編の題名は『鹿苑寺無彩幻想』だが、この作品には金閣寺から黄金の輝きが消えて、色のない金閣寺になってしまう話が出てくる。たしかにそれは、きみから聞かされた物語をベースにしているが、しかし、ぼくが与えた新しいテーマも含まれているのだ。もしも、ある日突然、我々の世界から色がなくなってしまったら、人間の欲望というものはどう変化するか、それを読者に問うてみたかったんだよ。
想像してみてくれ市ノ瀬、白黒映画のように、すべてが無彩色になってしまった世界を。果物とか野菜から赤や黄色や緑の色彩が失われ、オレンジジュースとコーヒー牛乳の区別がつかなくなった世界を。寿司屋に入って、黒いマグロや灰色のイクラが白いごはんの上にのっているのを見て食欲が湧くかい。
それから金銭欲もそうだ。金閣寺の物語でも書いたように、黄金という色彩が失われ、ルビーやサファイアやエメラルドの色彩が失われたら、人々は宝石の魔力に引き込まれて我を失うことがあるだろうか。
性欲もしかりだ。白黒写真の裸婦に欲情をそそられる男たちも、いざ生身の女がモノクロームになってみたまえ、それでも同じように性的刺激を感じるだろうか。どんな口紅を塗っても黒っぽく見えるのだったら、どんな店へ行っても白か黒か灰色の服しか売っていないならば、女たちは自分を美しく装うための努力をするだろうか。そして、ものを買う楽しみを維持できるだろうか」
川本は止まらなくなった。
「自然についてもそうだ。白い空と灰色の森と黒い海を眺めて、人々は心を和ませることができるだろうか。気持ちを安らげることができるだろうか。
青を見たときに起きる感情、赤を見たときに起きる感情、黄色を見たときに起きる感情、白を見たときに起きる感情、緑を見たときに起きる感情――色が人に与える心理的刺激は、その明度、彩度、色相によってじつに複雑に変化する。だからこそ、人間は感情が豊かでいられるんだ。
こうやって考えていけばわかるだろう、市ノ瀬。白黒写真というものは、あくまで色彩にあふれた世界に住んでいることを前提にした美学なのだ。無彩色から有彩色を連想できることを前提にした還元の美学なのだ。しかし、その大前提が崩れてしまったらどうなるか。いままでいかなる作家も描こうとしなかったそのテーマに、ぼくはこの短編集で挑戦しようと思っている。そのための補助表現として、カラー写真が必要なんだ。どうだ、わかってくれたかい。それで、十一番目の短編からどういう仕掛けになるか、ということなんだが……」
「もういい」
うんざりした顔で、市ノ瀬が遮った。
「カラー写真も小説の一部だなどと寝ぼけたことを言う人間とは、議論ができない。ともかく、おれの撮った写真の使用は一切断る。それから、おれが集めた物語の引用や流用もダメだ」
「ちょっと待ってくれ」
川本一郎は顔色を変えた。
「きみが写真について使用を拒むのは残念だけれども納得はいく。その写真は市ノ瀬、きみのものだからだ。仕方ないからぼくは、誰かに一眼レフのカメラを借りて、小説の内容に合わせた撮影をすることにしよう。幸い、舞台はすべてここ京都だから交通費はたいしてかからない。しかし、話の中身まで口をはさまれるのは筋が違う」
「どうしてだ。川本の書き上げた短編は、どれもおれが聞かせた昔話に基づいているじゃないか」
「しかし、ぼくはすべてそれを現代に舞台を置き換え、大幅な手を加えている」
「でも、あくまでもオリジナルはおれから出たものだ」
「オリジナルだって? じゃ、そのストーリーはきみの頭から考え出したものかい? 違うだろ。小説じゃないんだから。だったらオリジナルなんて言葉は使わないでほしいものだね」
「………」
川本は、市ノ瀬の一瞬のためらいを見逃さずにたたみかけた。
「フィールドワークで採集した土着の民話を、民俗学の研究成果として世に公表するのは自由だが、その話の中身まで自分に著作権があるとするのは大間違いだ」
「著作権がどうのという法律論ではない」
市ノ瀬は、急いで反撃に出た。
「ともかく川本が考えている本は、諸星輝の作品集ではなく、市ノ瀬恵造の本だ。おれの本だ。当然、出版を差し止める権利もこっちにある」
「おいおい、市ノ瀬」
川本の口調が皮肉っぽくなった。
「こんな企画を通す出版社があったら社長の顔を見たいと言ったのはどこの誰だ。出るあてもない本のことで、どうしてそんなムキになる」
市ノ瀬は返答に詰まった。
「自分で答えられないなら、代わりにぼくが答えてやろうか。きみは嫉妬《しつと》しているんだよ。言葉とは裏腹に、きみはぼくの本が成功すると思っている。必ず売れると思っている。ぼくを成功させたくないから、そうやって邪魔をするんだ」
「バカ言うな。誰がおまえのこんなゲテモノ企画を嫉妬するもんか」
「嫉妬しているさ。きみは万が一にもぼくが世間的に成功するのを見たくない。なぜなら、きみのほうこそ民俗学者としてまだまだ駆け出しのヒヨッコだからだ」
「なんだと」
「きみは、ぼくを作家として本物ではないと罵倒《ばとう》した。それを言うなら、きみだって民俗学者としてまだ本物じゃない」
「おれを侮辱するのか」
「他人を侮辱したことを忘れて怒るなよ。身勝手な男だな。だったら、もっと辛辣《しんらつ》な指摘をしてやろうか」
川本は市ノ瀬に向かって人差指を突きつけた。
「きみがぼくに語って聞かせた昔話は、ほんとうは足で集めた土着の民話などではないんだ。すべて市ノ瀬恵造の頭が作り出したものなのさ。だからきみはオリジナリティに執着する」
「………」
「ほらみろ、顔色が変わったじゃないか」
川本は、ここぞとばかりにまくし立てた。
「きみは民俗学の講師であると同時に、心のどこかで作家になりたい願望があるんだ。ぼくと個人的なつきあいを積極的にしてきたのも、ぼくが生霊を操る少女・川本鏡子の父親であるというだけじゃなく、ぼくが作家だからだ。
悲しいかな、きみが指摘したとおり、ぼくは世間的にはまったく成功していない。売れない物書きだ。それでも作家は作家だし、ときたま雑誌にも原稿を載せている。それでメシを食っている以上はプロの作家だよ。
一方きみは、ただの作家になりたい素人にすぎない。いつかは小説で世に出たいと夢見る、よくあるタイプだよ。その一方で、民俗学者としての本業では、京都の怨念《おんねん》をライフワークとしたはいいが、すでに先達が研究しつくして目新しい発見は何もない。そこできみはフィールドワークの成果をデッチあげることにした。それがぼくに話して聞かせてくれた、ファンタジックな昔話の数々だよ。そいつを、きみが発掘した民話ということにして研究成果にまつりあげようとした。もともと小説として考えられた作り話だから、オチもちゃんと利いていて、おかげさまでこっちも手を加えるのに楽だったけどね」
川本は笑った。そして、笑いながらつづけた。
「だけどなあ、小説ならばオリジナリティとか創造性と言われるものも、学問の分野でそれをやっちまったら、ただの捏造《ねつぞう》というんじゃないのかね」
「………」
表情を凍りつかせたまま何も反論できなくなった市ノ瀬恵造を見て、川本は笑顔を消して吐き捨てた。
「見損なったぞ、市ノ瀬恵造。きみが研究者としてそんな卑劣な嘘をつくとは思ってもみなかった。もしやという気がしたものだから突っ込んでみたのだが、やっぱりそのとおりだったとはな」
川本は、自分のほうに突き返された原稿の束を取り上げて、ふりかざした。
「もしもこのベースにある物語がほんとうに民間伝承を採集したものなら、写真はともかく、話をアレンジして使うことじたい、きみがムキになって阻止する理由など何もないんだ。民俗学者は民俗学者、作家は作家として、おたがいのフィールドに干渉してくる必要など何もないはずなんだ。
……やれやれ、これからは民俗学者・市ノ瀬恵造の研究発表など、何も信じられなくなるな。だって、きみが今後やりたいのは京都にまつわる怨念の民俗学的研究ではなく、京都を舞台にした幻想小説なんだから。どれがきみの作り話で、どれが本物の民話なのか見当もつかなくなるだろう。
どうだい、市ノ瀬。きみのほうこそ小説家としての技術などまったく自信がないものだから、カラー写真を多用した≪ネオ小説≫を考えていたんじゃないのか。正統派の小説という基準では勝負にならないが、この変則技を使った作品ならば、もしかすると異色の新人としてデビューできるかもしれない。そんなナイスアイデアを、なんと諸星輝こと川本一郎も同じように考えていた。そりゃあ、ムキになって止めようとするだろうよ」
川本は、パンパンと両手を交互に払うしぐさをした。
「さてと、どうしますかね。向こうで飲んでいるテンジン・プロジェクトの仲間のところへ行って、市ノ瀬恵造の人間性について一席ぶってみますか」
「殺してやる!」
突然、市ノ瀬が川本につかみかかった。
「おまえなんか殺してやる!」
市ノ瀬の両手が、浴衣の襟もとからむき出しになった川本の喉《のど》にかかった。
川本はとっさに片手で市ノ瀬の顔をひっぱたいた。丸メガネがすっ飛んで、離れた畳の上に落ちた。
メガネのはずれた市ノ瀬の顔は、とたんに目が小さくなって、まるで別人だった。
「死ね、死ね、死ね!」
丹前の胸もとをはだけ、呪いの言葉を吐きながら、市ノ瀬は川本の喉をぐいぐいと押さえつけていった。
みるみるうちに川本の顔面が真っ赤になり、こめかみに静脈がぷっくりと浮き上がってきた。
このままではほんとうに殺してしまう、と市ノ瀬は思ったが、ブレーキが利かない。
このままではほんとうに殺されてしまう、と川本は思ったが、反撃ができない。
そして最悪の結末へと暴走するかにみえたそのとき――
「川本さん、川本さあん、いますか」
廊下をドタドタと足音高く走ってくる者がいた。ひとりではなく複数だ。
その声にあわてた市ノ瀬が、川本の喉からとっさに手を放したのと、部屋のふすまがガラリと乱暴に開くのが同時だった。
いっしょに貴船へやってきたテンジン・プロジェクトの残りのメンバー全員が顔をのぞかせた。いずれも市ノ瀬よりは年上である。
「何やってるんだ、おまえら。酔っぱらってケンカなんかしてる場合じゃないぞ」
ふたりの状況を、酒のうえのたわいもない取っ組み合いとみなしたひとりが叫んだ。
「研究所のほうから、いま緊急連絡の電話が入った。すぐに戻ろう」
「どうしたんです」
乱れた丹前の襟もとをかき合わせながら市ノ瀬がきくと、男は川本のほうに向かって答えた。
「あんたの娘さんが、いなくなった」
「えっ!」
と、いままで絞められていた喉もとをさすりながら、川本が驚いて問い返した。
「鏡子が、どうしたんですって?」
「いなくなったんだ……というよりも、研究所から脱走したらしい。私は実験動物じゃない、という書き置きだけ残して」
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[#1字下げ]18 炎
1
「うそよ、うそだわ」
晴美は二重の意味で叫んだ。
写真が勝手に動き出して、その中の登場人物が勝手にしゃべり出すことなどありえないというのが第一の意味。そして、うそよ、と叫んだ第二の意味は、自分の父親がそのような卑怯《ひきよう》な人物であるはずがない、という意味合いだった。
「パパはこの京都の家にこもって、真剣に仕事をしていた。民俗学者として、一生懸命仕事をしていた。自分勝手に研究成果を作り上げてしまうような人じゃない!」
「感情的にならず、とにかく先を見よう。このアルバムはふつうのアルバムじゃない」
和也に言われて、晴美は仕方なしに興奮を収め、アルバムの紙面に視線を戻した。
川本鏡子脱走の知らせがきたところで立体映画はプツリと終わり、市ノ瀬恵造と川本一郎は、もとどおり楽しげな宴席の記念写真の中に収まっていた。最初の場面に戻ってしまったのである。そして、セピア色に変色したモノクロ写真の中の笑顔は、いくら見つめていても、ふたたび動き出す気配はなかった。
「ほかにもこんなヤツがあるかもしれない」
和也は、百三番目のアルバムを後ろに向かってどんどんめくっていった。
そのアルバムにはもう写真は残っていなかったが、つぎの番号『京都壱百四』のアルバムの中に、二枚だけ写真が残っていた。一枚はカラーで、一枚は白黒。
カラー写真のほうは、鬱蒼《うつそう》とした樹林の中にたたずむ小さな社殿を写したもので、そばに『奥の院魔王殿』の標識が立っていた。鞍馬山の奥深く、貴船寄りの山腹に設けられ、六百五十万年前に金星より護法魔王尊が降り立ったという伝承を持つ社殿である。忘れもしない、第三夜の夢の舞台になった場所だ。
そして白黒写真のほうは、こちらはさきほどのものとは異なり、プリントのセピア変色は見られず、白から黒への無彩色の階調ですべての情景が表わされていた。
湯けむりが立ちのぼる旅館の小さな浴室を写したものだった。ストロボを使わずにスローシャッターで撮影したらしく、夜の雰囲気がそのまま伝わってくる。そのカットには、骨と皮だけが目立つ痩《や》せこけた老人が肩まで湯に浸《つ》かっている姿が写されていた。
カメラに対しては横顔を見せているが、その輪郭には和也も晴美も見覚えがあった。第三夜の夢において鞍馬山で自殺を図ろうとした、あの老人だ。
「諸星輝だ」
和也はつぶやいた。
「老人になった諸星輝が写っている」
「でも、それは現実と違っているんじゃないの」
横から晴美が口をはさんだ。
「諸星輝は川本一郎が使っていたペンネームで、彼は娘の鏡子の生霊に呪い殺されたんでしょう」
「うん。たったいま、おれたちが見た不思議な映画……あのラストに貴船の宿の光景があっただろう。鏡子が研究所から逃げ出したという知らせが届いた場面だ。あのあと、発見された鏡子を平手打ちにしたことから、川本はわが子から激しい怨《うら》みを買い、そして呪い殺されたんだ」
「だったら、こんな年寄りになった川本一郎の写真なんてあるはずがないじゃない」
「だからこれは写真じゃないんだよ」
「写真じゃない?」
「さっきのだって写真じゃない。これは鏡子がさまざまな怨霊《おんりよう》を操るときに使った素材のひとつだよ。ぼくと晴美に見せる十三夜の夢のひとつに使われた素材が、こういう形で残っているんだ。決して晴美のお父さんがファイリングしたままの状態じゃない」
和也は、自分の頭で考えた論理的な説明を早口でまくし立てた。
「おれにはやっとわかってきた。あのふたごの老婆が、なぜ十三の悪夢をみせようとしたのか」
「なぜなの」
「一連の夢をみていく過程で、おれに晴美への不信感を抱かせ、最後は鏡子の狙いどおりの復讐《ふくしゆう》を晴美に対して行なわせることにあったんだ。おれの手を通じて晴美を殺させようと。そのための小道具として夢物語が用意されていた。そんな鏡子にとって、これを処分されることがいちばん恐かったんだ」
和也は崩れたアルバムの山を指さした。
「これをおれたちに見つけられ、生霊を操るためのさまざまなデータを壊されてしまうことを避けたかった。だから、お父さんの声を装っておれに話しかけ、晴美を土蔵から引き離させたかった」
「じゃ、ママがアルバムを土蔵に封印したのは間違いだったってこと?」
「封印をしたことじたいは間違っていなかったと思う。ただ、そのあと早いうちに資料は処分すべきだったんだ」
和也がそう言ったとき、『京都壱百四』と題されたアルバムに貼られた写真の画面が揺れた。静止画像のはずなのに、また揺れた。さっきと同じ感じだった。
和也と晴美は、何が起きるのかと息を呑《の》んで身構えた。
すると、たったいままで浴槽の中で横顔を向けていた老人が、いまはまっすぐ和也たちのほうを見つめていた。被写体の向きが変わっていた。
「カズ!」
晴美が悲鳴をあげた。
「おじいさんが……こっちを見てる!」
「だから、言っただろう」
必死に恐怖を抑えて、和也は言った。
「これはふつうの写真じゃないんだって」
「だけどさっきの写真は、私たちと関係なく動いていた。でもこっちは……私たちに話しかけてきそう!」
「そうですよ、お嬢さん」
晴美の言葉に反応して、痩せこけた老人がにっこり笑った。
「いかがでしたか、お父さんの市ノ瀬恵造氏がいかに卑怯者であるかという証拠を見せつけられて」
「うそよ、あんなもの、作り話よ!」
写真の中の老人に向かって、晴美が叫んだ。
その異常な状況を、晴美はもう異常だと思わなくなっていた。
「パパはあんな人じゃない」
「まあ、どうぞご勝手に。信じることも家族愛のひとつでしょうからねえ」
あくまで笑顔を絶やさずに、老人は晴美に語りかけた。
「けれども、私がいかに市ノ瀬恵造に対して怨み骨髄となったかはおわかりいただけましたでしょうな。私は悲しいことに、娘に呪い殺された。そんな結末を認めたくないから、私はせめて物語の中では鞍馬山で自殺をすることにしたんですが……しかし、いずれにしても、あなたのお父さんに対する怨みは消えない」
ちゃぷり、と音を立てて老人は湯をすくい、肩にかけた。
「私はねえ、ほんとうに作家として有名になりたかったんですよ。諸星輝が、年老いてついに念願のベストセラー作家となるような設定を話に織り込むほど、作家として成功したかった。なるほどあなたのお父さんが言われるように、私は物書きとしては二流だったかもしれません。ふつうのやり方では、あまたいる作家たちを追い抜けなかったのは、認めたくないが事実でしょう。そこで私はカラー小説というアイデアを考えたのです。そこには、いまあなたが見たように、色彩に関する哲学的考察というじつに重大なテーマも含まれていた。素晴らしいアイデアだったと思います。しかし、それもこれもついには陽の目を見なかった。……だけどねえ、晴美さん」
いきなり名前で呼びかけられ、晴美は和也の腕をギュッとつかんだ。
「もしもあの貴船の夜、あなたのお父さんから罵倒《ばとう》されなければ、私も研究所から逃げ出した娘に対して、もっと冷静な態度で会うことができたと思うのです。少なくとも、鏡子の言い分も聞かないうちから平手打ちにするようなことはなかったと思うのですよ。ところが、市ノ瀬恵造に作家のクズのような言われ方をされた怒りがずっと尾を引きずって、興奮状態のまま娘にも八つ当たりしてしまった。そしてそれが、娘の霊的本能を刺激してしまったんです」
「じゃあ、あなたが娘に殺されたのも、私のパパのせいだと言うわけ?」
「決まっているじゃありませんか、晴美さん」
ガラス玉のような目で、老人は晴美を見据えて答えた。
「鏡子は私を憎んで殺しました。けれども父親を呪い殺したあと、じつはあの子は痛烈な後悔に襲われていたのです。ほんとうに怨みを向けるべき相手は、父ではなく、利己的な損得勘定から父の夢を罵倒しまくった市ノ瀬恵造であったのだ、と……。
やっぱりね、殺すほど憎んでも父は父。実の父とは切っても切れない愛情でつながっているものなんです。それゆえに鏡子は、私のためという意味も込めて、市ノ瀬恵造を憎むことができた。そして鏡子は心に決めたのです。生霊として取り憑《つ》いて、市ノ瀬とその家族を呪ってやる。市ノ瀬が死んでも、その娘、さらにその子孫と、どこまでも、いついつまでも呪いつづけてやる、と」
晴美は全身が冷たくなった。
それとは対照的に、老人は湯加減に満足して火照っていた。
「それにしてもいいところですねえ、鞍馬は」
老人は、またちゃぷりと音を立てて、手もとの湯を筋張った首にかけた。そして、恐怖に引きつる晴美をよそに、天井を仰いでつぶやいた。
「何しろここは宇宙に近いから素晴らしい。ほら、ごらんなさい。あんなに星が近くに見える」
老人の指先は、鉄格子が嵌《は》められた土蔵の小窓に向けられていた。
反射的に和也と晴美がそちらに目をやると、いままで見えなかった無数の星が夜空に浮かんでいるのが見えた。闇の隙間を見つけるのが難しいくらいの密度で、たがいにぶつかりあいながら、星たちがキャラキャラと音を立てていた。
と、急に向きを変える魚の一群のように、いままで好き勝手な動きをしていた星たちが、一斉にパッと同じ方向へ向き直って進みはじめた。いつのまにかそれぞれの星にはムチの形をした細い尾が生えていて、それを波打たせながら、大星団は満月の方角めざして輝く大河の流れを作った。
鈍い赤みを帯びていた三日月は、いつのまにか輝く満月に姿を変えていた。ただしその満月は白でも黄色でもなく、透明の球体だった。まばゆい光を内部から発する透明の球体が夜空の一角に浮かんでいる。そこへめがけて、尾の生えた星が怒濤《どとう》の勢いで流れてゆくのだ。
「カズ、カズ、カズ!」
晴美が金切り声を発した。
いま自分が見せられている幻影の暗示するものが直感でわかり、恐怖が背筋を貫いた。
「なんで? なんで? ねえ、どうしてこんなものが見えるの!」
声がどんどんうわずって、どんどんかすれていった。
「どうして星にシッポが生えてるの。まるで……まるで……だめ、だめ、あたま、おかしく、なっちゃい、そう」
「落ち着け、晴美。だいじょうぶだから落ち着け!」
和也が必死に妻の身体を揺すった。
「はははははは」
写真の中の老人が、甲高い声を立てて笑いはじめた。
「あははははは」
「なぜ笑うんだ!」
和也が怒鳴ると、老人はピタッと笑うのをやめた。そして、喉もとにコウモリの翼を連想させる筋を広げ、鋭い目でふたりを睨み据えて言った。
「ついてくる」[#「「ついてくる」」はゴシック体]
その目は、諸星輝でもあり、川本鏡子でもあった。
「未来|永劫《えいごう》、ついてくる。宇宙の果てまで、ついてくる」[#「「未来|永劫《えいごう》、ついてくる。宇宙の果てまで、ついてくる」」はゴシック体]
「やめてー!」
晴美が絶叫した。
「こないで! ついてこないで! もう帰って!」
晴美は手を伸ばし、和也が見ていたアルバムをパタンと勢いよく閉じた。
鞍馬の湯に浸かりながら大宇宙を眺めて笑っていた諸星老人の姿が……消えた。
2
「耐えられない、カズ。私、もう限界」
ふたたび晴美がパニック状態に陥った。いったん止まっていた涙が、ぼろぼろと頬を伝い落ちた。
「おれもだ。おれも限界だよ。もうこんなものは燃やしてしまおう」
和也は決断した。
「一冊残らず燃やしてやる! それ以外にこの呪いから抜け出す方法はない」
「そうして、カズ。燃やして、なにもかも燃やして。百八冊ぜんぶ燃やして。パパが集めた大事な資料でもかまわないから」
「よし」
気合い鋭く応じたものの、和也はパジャマのまま土蔵に入ってきていたため、ライターひとつ、マッチひとつ持っていない。土蔵の中に着火道具があるとは思えなかったし、あったとしても、この暗さでは探し出せない。かといって、家の中まで取りに戻ったら、そのあいだに何が起きるかわからない。生き残りのあの奇怪な花々に襲われる危険性もあった。
「晴美、ポケットにライターか何か入ってないか」
「ないよ、そんなもの。タバコすわないじゃない、私」
「くそっ、まいったな」
和也は舌打ちした。
「すぐに燃やさないと、何をされるかわからないぞ」
言ってるそばから、晴美が閉じた『京都壱百四』のアルバムが、中からゆっくりと持ち上がった。和也も晴美もさわっていないのにアルバムの中から力が加えられて、さっきのページのところが開こうとしている。
その隙間から腕が見えた。老人の骨張った腕が……。
年老いた諸星輝が写真の中から腕を突き出して、閉じられたアルバムをまた押し開けようとしているのだ。
「よっこらしょっと」
かけ声とともに、バコンと音を立てて、アルバムが開いた。
水などないはずなのに、写真のふちがぐっしょり濡《ぬ》れていた。そして、湯船から半身を乗り出した小さなサイズの老人が、にっこり笑って和也を見つめていた。
「いやあ、フタを閉められては窮屈でねえ。あはははははは」
また諸星老人の声が響き渡った。
「はーっはっはっはっは」
その勝ち誇った笑いが和也の神経を逆撫《さかな》でした。
「うるせえ!」
こんどは和也が思いきり強くアルバムを閉じた。
「おお、痛い」
うめき声がページの中から聞こえた。
「フタが思いきり頭にぶち当たったぞえ」
「黙れ、おまえなんかアルバムごと切り裂いてやる!」
和也は肩からたすき掛けにしていたエンジン付き刈り払い機のスイッチを入れようとした。が、そのとき、ひとつのアイデアがひらめいた。
「そうだ、こいつだ」
和也は目を輝かせて手もとの機械を見つめた。
「こいつがあればアルバムを根こそぎ消滅させられるぞ」
「それで切るの?」
「そうじゃない、こうするんだ」
和也は、本来は雑草を刈り取るための道具を肩から下ろし、アームの途中に取り付けられている半透明の樹脂タンクを晴美に示した。
「これだよ、このエンジンは何で動いている?」
「ガソリン……あ、そうか」
「わかったろ。こいつを動かしている燃料でアルバムを燃やすんだ。ガソリンぶっかければ一発だ」
和也は樹脂製の燃料タンクのキャップを開け、長いアームに取り付けられた刈り払い機を両手で掲げ持った。そして、山積みにされたアルバムの上でそれを逆さにした。タンクからガソリンがこぼれ出した。さらに和也は、床へ崩れ落ちたアルバムのほうへもガソリンを撒《ま》いていった。
「でも、どうやって火をつけるの。マッチもライターもないのよ」
「マッチなんか要らない。晴美、さがってろ。階段のほうへ戻れ」
和也は、わずかなガソリンをタンクに残したところで刈り払い機の向きを元に戻し、燃料キャップをまた固く締めた。そしてベルトを肩に掛ける手間を惜しんで、両手だけで刈り払い機を抱えた。
そのとき土蔵の入口周辺で、赤い花たちがざわざわと動きはじめていることも知らず、和也は自信に満ちた声で晴美に告げた。
「安心しろ。これでおれたちを呪っていたあれ[#「あれ」に傍点]は完全に消滅する」
和也はスイッチをいれてエンジンを始動させた。
バババババというけたたましい音が土蔵の中に響き、ギザギザの刃を刻んだ旋盤が高速回転をはじめた。和也はその刃先を直接アルバムに当てるのではなく、土蔵の小窓に嵌《は》め込まれた鉄格子へ向けた。離れたところで見ている晴美にも、彼の意図が読みとれた。
回転する刃先を鉄格子に当てた瞬間、鼓膜を破りそうな金属音が起こり、星の形をした火花が四方に飛び散った。反動で刈り払い機が脇へはじき飛ばされた。だが、すでにそのとき、火花が気化したガソリンに引火していた。
バウ、と腹を揺する低い音とともに、青白い炎が一気に広がった。
いままで闇に閉ざされていた土蔵が一気に明るくなった。
和也と晴美の身体が、光と影のコントラストに二分された。
「カズ、早くこっちに!」
ハシゴの降り口で晴美が叫んだ。和也はそちらへ向かって駆けだした。
炎の広がり方は猛烈だった。あっというまに百八冊のアルバムが燃えはじめ、火炎の色彩が青白色からオレンジ色に変わった。
「うげえ、うげげげえ」
アルバムの中から老人の断末魔の悲鳴が聞こえた……ような気がした。
和也は一瞬立ち止まってふり返った。燃え上がるアルバムの一冊から、実際の人間と同じ大きさの手がはみ出し、鉤《かぎ》形に指を曲げて空をつかんでいた。
が、すぐにそれは炎に包まれて見えなくなった。
「早く、カズ。そんなもの見てないで、早く!」
晴美の呼びかけで、また和也は前に向き直ってハシゴを降りた。
だが――
「えーっ!」
先に一階へ降り立った晴美が、驚きの悲鳴を上げた。
「土蔵の扉が閉まっちゃってる!」
いままで薄明かりの長方形を作っていた土蔵の入口が、ぴっちりと一分の隙間もなく閉じられていた。階上で燃えさかる炎が、その状況を明確に浮かび上がらせていた。
3
「心配するな。ただ自然に閉じてしまっただけだ」
たぶんそれは気休めにすぎないだろうと頭の片隅で思いながら、和也は土蔵の扉に向かって突進した。
やはり、気休めにすぎなかった。思いきりぶち当たった彼の身体は、強烈な抵抗にあって跳ね返された。
床に倒れ込む夫の姿を、晴美は絶望的な目で見つめた。
「やっぱり開かないのね」
「晴美、力を貸せ。いっしょにぶつかろう」
起きあがると、和也はこんどは晴美とタイミングを合わせて扉にぶつかった。だが、結果はさらに肩を傷めるものでしかなかった。
「誰かが扉を外からロックしたんだ」
右肩を押さえながら、青ざめた顔で和也は言った。
「だけど、掛け金はカズが壊したじゃない」
「例の花の生き残りが押さえているのかもしれない」
「じゃ、出られないの? 私たち」
「待ってろ、考えるから」
「考えたらどうにかなるの?」
「うるせえな、考えなきゃ何もならないだろう!」
「考えているうちに死んじゃうじゃない、私たち!」
またしても、いつもの激情的な発作がはじまった。
「考えてるヒマなんかあると思ってるの、カズ。見てよ、もうあんなに燃えてるのよ」
晴美に言われて上を見た和也の顔色が変わった。
アルバムのところだけが燃えていると思ったら、すでに回廊式の二階ぜんたいに火が回っていた。いくらガソリンを撒いたにせよ、火勢は常識を超える速度で広がっていた。吹き抜けを取り囲む二階の手すりすべてが天井に向かって紅蓮《ぐれん》の炎を噴き上げていた。
そして一カ所が燃えながら一階へ落ちたのをきっかけに、手すりぜんたいがドミノ倒しのごとくつぎつぎに炎を上げて崩れはじめた。
「危ない、真ん中へ戻ろう!」
和也が晴美の身体を抱えて土蔵の中央へ戻った。
その直後、たったいまふたりがいた場所に、かなりの長さにわたって、手すりが火の粉を舞い上げながら崩れ落ちてきた。
中から開けられなくなった扉の前に、大きな炎のかたまりが陣取り、もはや和也たちは唯一の出口に近寄ることすらできなくなった。
「どうするの、カズ、どうするの!」
晴美は髪をふり乱してわめき散らした。しかし、和也にも打つ手はない。
すでに回廊式の二階の手すりはすべて一階へ落下し、ふたりを取り囲む形で土蔵の中に炎のサークルを作っていた。
さきほど明かりがなかったときは、土蔵の奥に無限の闇が広がっているように思えたのに、今度は逆に、約二十畳という現実の広さが隅々まで照らし出されていた。ふたりを取り囲む灼熱《しやくねつ》の輪は、決して大きくない。数歩近寄れば、もう炎の舌に舐《な》められる。
手すりだけではない。二階の回廊の床部分も、まもなく燃え落ちようとしていた。これが一階まで落ちてくれば、和也たちは、さらに何倍もの炎熱にあぶられることになる。
完全にふたりは追いつめられた。
「カズ、私たち死んじゃうの?」
「死ぬもんか。こんなところで死んでたまるか」
「カズがどう思うかは関係ないのよ。このままだと死んでしまうでしょって、きいてるのよ」
「おれがどう思うか関係ないんだったら、いちいちきくな!」
和也も怒りを爆発させた。
「はっきり言うけどな、おれはおまえのせいで死にかかっているんだぞ」
「………」
晴美は、夫の言葉に顔を引きつらせた。
「元はといえば、おまえがおしゃべりだったからこうなったんじゃないか」
「やっぱり……」
晴美は、こわばった顔で夫を見た。
「やっぱり、そんなふうに思っていたのね」
「それに、おまえのお父さんが奇妙な研究をやるから、おかしな化け物の世界に巻き込まれたんだ。何もかも市ノ瀬家のせいで、おれまでがこんな目に遭っているんだ」
「カズ……」
「自分のやったことを棚にあげて、人のことばっかり怒鳴るんじゃねえよ!」
絶体絶命の窮地に立たされたところで、結婚三年目の夫婦は最悪の状況に陥った。
怒鳴ってしまってから、和也は痛烈に後悔した。これもまたあれ[#「あれ」に傍点]の仕組んだ罠《わな》なのだ、と気づいたが手遅れだった。
命の危険にさらされた絶体絶命の土壇場で、和也は何もかも晴美の実家に責任をなすりつけるレベルの低い夫婦ゲンカをはじめてしまったのだ。まるで、自分たちの結婚は大失敗だったとでも言うように。
最悪だ、と和也は激しい後悔と自己嫌悪に陥った。
だが、いまさら謝るひまも、仲直りをする時間もなかった。こんな精神状態では、もうどちらにしても助かるまいと絶望的になった。
そんなときに、いきなりあれ[#「あれ」に傍点]が出た。
「ほほほほほ」「ほほほほほ」
けたたましい女の笑い声に、和也と晴美はその方角をふり向いた。
入口とは正反対の壁面に位置する二階回廊の一角、かろうじて残っている床部分がメラメラと音を立てて燃えさかる、その炎の中に、あの女が立っていた。
生霊を操る少女・川本鏡子として生まれ、いまは葛城鏡子と名前を変えたあの女が立っていた。声は笑っていたが、右の目尻《めじり》に泣きぼくろのある顔は、さきほどよりもさらに鬼に近づいていた。
4
身にまとっているのは白装束――死装束と言い換えてもよい白の衣は、炎に包まれているのに燃えもしなければ焦げる様子もない。
「引っかかったな、馬鹿者め」
二階の回廊から、炎の輪に囲まれたふたりを見下ろして、鏡子は言った。
「私の最終目的が、おまえらをこの土蔵におびき寄せることにあったとは思いもよらなかっただろう」
「………」
和也は、焦りの色を隠せなかった。
この期に及んでは、鏡子の狙いがそこにあったのは言われなくても感づいていた。それでも鏡子の生霊は、得意げに言い放った。
「私の父、川本一郎の書いた幻想短編小説や、市ノ瀬恵造の研究資料を組み合わせ、さらに私の手もそこに加えながらおまえたちに悪夢をみせつづけたのは、晴美の母親が土蔵の中に封印した百八冊のアルバムにあたかも呪いの根源があるように錯覚させる狙いがあったからだ。そうすれば、おまえらをこうやって、土蔵の地獄におびき寄せることができるからな」
「だけどあんたは」
徐々に狭まってくる炎の輪にあぶられ、額にびっしり汗を浮かべながら、和也が言い返した。
「晴美のお父さんの声を使っておれに呼びかけてきたじゃないか。絶対に晴美に土蔵を開けさせるなと」
「それも罠なのだ。さりげなく正体がばれるようにしながら市ノ瀬恵造を装い、土蔵を開けるなと命じれば、必ずおまえはその裏を読む。開けるなと言えば、必ず開けるだろうと、そういう計算が私にはあった」
「くそっ!」
和也は悔やんだが、どうにもならなかった。
「人の内なるエネルギーを侮った報いだ」
胸のあたりまで炎に包まれながら、鏡子の生霊は言った。
「人間の意思を物理的な力に換える方法は、手や足などの器官を動かすことだけに頼るものではない。肉体という形態に束縛されることなく、空間を自由に移動する怨念《おんねん》の波動――生霊こそは、生身の人間が持ちうる最大にして最強の破壊力を誇る。そのことを、おまえたちはようやく感じはじめているはずだ」
鏡子のまとう白装束の裾《すそ》や袖《そで》が、炎の勢いで大きく煽《あお》られていた。しかし、それでも火が燃え移る気配はない。
「よいかおまえたち、人体におけるエネルギー消費の十八パーセントは、筋肉でもなければ消化器官でもなく、意思の生産工場である大脳において行なわれることを知っておけ。だから頭脳労働者は、黙って机に向かうだけでも痩《や》せるのだ。少女時代の私を研究したテンジン・プロジェクトのメンバーは、生霊を使ったあとの私の体重が、たんに意識を集中させたからというだけでは説明がつかないほど激減する事実を発見していた。
三十年前の科学知識では、エネルギー消費量の詳細な測定まではできなかったが、いまの私は、ひそかに自分の特異体質の具体的な数値を把握している。一般人においては平均十八パーセントという大脳のエネルギー消費率が、私の場合はじつに七十五パーセントを超えることがわかっている。つまり、ふつうの人間が手や足の筋肉などに使う以上のエネルギーを、私の大脳は常時消費しているのだ。もちろん、たんなる精神労働だけではここまで極端なエネルギー消費はありえない。ボクサーやレスラーの運動と同じレベルの激しい物理的活動を私の生霊が行なっているからこそ、運動選手が肉体を酷使したときに匹敵するエネルギーを大脳が消耗することになる。
そうした生霊の活動が産み出す現象を、おまえたちは幻覚や悪夢とあっさり呼んでいるが、幻覚や悪夢とは、私の怨念がおまえたちの脳の中にもぐり込んだからこそ生じたもの。ひとりの意思が、他人の精神にもぐり込んだのだぞ。そのエネルギーがいかに強大なものであるか、まだまだおまえたちは実感していない。その真の迫力を、いまからおまえらは身をもって味わうのだ。生身の人間が本気で怨念のエネルギーを操ったとき、それがどれほどの力になるのか、それを人生最後の体験として実感するがよい!」
叫んだとたん、鏡子の生霊が立っていたところから左右へと、二階の回廊を形成していた木の床が、ついにバラバラと崩れ落ちだした。
その火勢は、手すりが落ちてきたときの比ではなかった。土蔵のいたるところで大量の火の粉が舞い上がり、それが灼熱《しやくねつ》のシャワーとなって和也と晴美に降り注いだ。
ふたりを取り囲む炎の輪はさらに狭まり、炎熱地獄にはまり込んだふたりの髪の毛が焦げはじめ、衣服が燃えだした。
「私の怨みのみならず、私が呪い殺してしまった父・川本一郎の怨みも、そして晴美の軽薄なおしゃべりゆえに、自ら命を絶つところまで追い込まれた哀れな我が娘の怨みもいっしょに晴らしてくれようぞ。さあ、おまえたち、地獄の苦しみとはかくも凄《すさ》まじいものなのかと、身をもって味わいながら死ね! 悶《もだ》え叫びながら死ね!」
すべての回廊が崩れ落ちても、鏡子の生霊は宙に浮いたままだった。そして、あたかもワイヤーで吊《つ》り上げられた宙乗りの曲芸をしているかのごとく、鏡子は白装束を翻しながら土蔵の天井に沿って移動し、炎に取り囲まれたふたりの真上まできた。
「おまえたちが怨念の炎にあぶられて焼け焦げるさまを、私はここから見ている。さあ、堕《お》ちよ、灼熱の地獄へ!」
「ママー!」
晴美は叫んだ。
叫んでどうなるものでもないと思っていたが、それでも晴美にとって最後に頼る存在は、夫の和也ではなく、母の準子だった。父・市ノ瀬恵造は、いざというときのボディガード役を和也に期待していたかもしれないが、さきほど和也から投げつけられた言葉が決定的だった。
(けっきょくカズは、うちの問題に巻き込まれて迷惑に思っていたんだ)
悲しかった。だから土壇場で、子供のように母に救いを求めるよりなかった。
「助けて、ママー! 晴美、死にたくなーい!」
泣き叫ぶ晴美の涙に、めらめらと燃える炎のオレンジ色が映り込んだ。
すでに天井の最上部に渡された長さ十メートルあまりの太い丸太の梁《はり》までが炎上していた。もしもそれが落ちてくれば、焼けるという問題以前に、梁の重さだけで押し潰《つぶ》されるのは確実だった。
「私の娘を死に追いやった女が、いまさら死にたくないなどと懇願して救われると思うのか。もうおまえの命はあと十秒とはもたぬ!」
鏡子の生霊が言い放つと同時に、頭上で燃えさかっていた巨大な梁の片方の端が天井から離れ、火の粉を散らしながら大きく斜めに傾いた。かろうじて天井にへばりついているもう一端も、梁の重量を支える限界にきていた。
それが晴美の視野にも入った。
(ああ……もうダメ)
あきらめたくない。しかし、もうあきらめるよりない、と晴美は観念した。
(もう終わりだ)
和也もそう思った。
しかし、そのとき彼は、自分が先に死のうと思った。
たとえふたりとも助からないにしても、自分の身を挺《てい》して晴美を護り、一秒でも彼女の死を遅らせようと思った。それが、さっきひどい言葉を投げかけ、傷つけてしまった妻への償いだと思った。
「晴美、ここへこい!」
これがおそらく晴美との最後の会話になるだろうと覚悟しながら、和也は叫んだ。そして晴美を強く手もとに引き寄せると、そのまま土蔵の床へあおむけに倒し、上から覆い被《かぶ》さった。燃えさかる梁の直撃を、すべて自分の身体で受け止めようとして。
和也は、晴美の頬と自分の頬がふれあうのを感じながら、激痛とともに意識を失う瞬間がくるのを覚悟して目をつぶった。
あおむけに倒された晴美の瞳《ひとみ》には、自分を護るために被さってきてくれた夫の肩越しに、火を噴きながら落ちてくる梁が映っていた。和也の背中に回した手に思いきり力を入れ、彼の頬に唇を当てて、晴美も死を覚悟して目をつぶった。
(おねがい、死ぬ前に気を失わせて)
死にたくないと叫んだ数秒後に、晴美の望みはそれだけになっていた。最後の願いはただひとつ、苦しみたくないということだけだった。だが、その望みを鏡子の生霊が許してくれるかどうか……。
和也と晴美は固く抱き合って、それがどんなものであるかわからない、まさに未体験の領域である「死」の瞬間がくるのを待った。
5
だが――
いつまで経っても、最後のときがこなかった。
何も起こらないのだ。
全身の骨が砕けるか、内臓が押し潰されるか、高熱のマグマをかぶるような痛みに襲われるか、いずれかの地獄を味わったのちに、この世での命を終えるものだと覚悟していたのに、十秒待っても二十秒待っても、その最悪の瞬間がこなかった。
それでも彼らは、あの巨大な梁がどこかに引っかかっただけで、死までわずかな猶予を与えられただけだと思っていた。だから目を固く閉じつづけ、歯を食いしばりつづけ、抱き合う腕に入れた力を緩めなかった。
しかし、巨大な梁が落ちてこないだけでなく、四方八方からバーナーの炎を吹きつけられているような灼熱地獄も、いつのまにか収まっていた。さらに、土蔵の空中に浮かび呪いの言葉を吐きちらしていた生霊の気配も感じられなくなっている。
「晴美……」
妻の上に被さったまま、和也がつぶやいた。
「どうしたんだろ」
「わからない」
まだ目を閉じたまま、晴美が答えた。
「おれたち、まだ生きているぞ」
「……うん」
「何も落ちてこないし、少しも熱くなくなった」
「……うん」
「晴美、目を開けてるか」
「まだ」
「おれは、いま……開けた」
和也は、そっとまぶたを開いた。
うつぶせになっているので、彼の視野には、身体の下にかばっている晴美と土蔵の床しか入ってこない。その体勢からゆっくりと首をひねり、周囲を見回した。
和也は自分の目を疑った。
あれだけ猛威をふるっていた炎が、まったく姿を消していた。
信じられない思いで半身をひねり、天井のほうも見上げた。白装束を着た鏡子の生霊はどこにもいなかった。長さ十メートルに及ぶ天井の梁《はり》も、燃え落ちてくるどころか、まったく無傷で本来の位置にとどまっている。
それだけではない、ドミノ倒しのごとく崩れ落ちたはずの二階の回廊部分も、完全に元の形に戻っていた。手すりもすべてちゃんとついている。
和也は、自分だけがまた新たな幻覚を見せられているのかと思い、晴美の身体を揺すった。
「おい、起きろ」
「え?」
「起きるんだよ。目を開けるんだ」
起きろなどという言葉をかけられることじたい、ありえないと思っていた晴美は、戸惑いながら薄目を開けた。
「だいじょうぶだから、しっかりと目を開けてみろ」
そう言って和也は、妻の両手を持って引っぱり起こした。
「どうして?」
あたりを見回した晴美は、助かった喜びよりも、事態を呑《の》み込めずに混乱していた。
すべてが炎上するのは時間の問題と思われていた状況から一転して、土蔵は何事もなかったかのように静まり返っている。炎が消えたにもかかわらず土蔵の中がよく見えるのは、閉じられていた扉がまた開いているからだと和也は気がついた。
しかも、そこから覗《のぞ》いて見える外の景色は、夜ではなく、朝の光に満ちていた。内部を窺《うかが》っていた奇怪な花たちの姿もない。
「何がどうなったの」
「おれにもわからない」
「いまのも夢だったの?」
「たぶんそうかも……いや、そうじゃない」
和也はクンクンと鼻を鳴らした。焦げくさい臭いが土蔵に充満していた。それだけでなく、白い煙が漂っているのが目でも確認できた。
「何かが燃えたのだけは間違いなさそうだ」
和也は立ち上がって、煙の出どころを追った。そしてその源を確認すると、壁際に設けられているハシゴを伝って土蔵の二階へ上がった。
狭い回廊部分の小窓の下のところで大量のアルバムが黒焦げになり、まだ白い煙を出してくすぶっていた。そのそばには、煤《すす》まみれになったエンジン付き刈り払い機が転がっている。
和也は、草刈りに使うその道具を拾い上げ、旋盤の先を使って黒焦げの山を掘り返した。中のほうでは、まだ赤い火を蓄えて最後の燃焼をつづけている部分もあったが、旋盤で掘り返されたとたんにその赤い火はパッと散り、パイ生地状に重なった真っ黒な紙片がサクサクと音を立てながら粉になった。
しかし、いくらかき回しても、あの諸星老人の姿は見つからなかった。温泉宿に集まったテンジン・プロジェクトらしき面々も出てこない。
市ノ瀬恵造の京都怨霊研究の全資料が灰燼《かいじん》に帰した――
和也はゆっくりと顔を上げ、小窓から覗く外の光景に目をやった。
朝の青空が広がっていた。
キャラキャラと音を立てながらひしめきあう、ムチの尾を持った星々も透明の球体も、完全に姿を消していた。
呆然《ぼうぜん》とする和也の耳に、遠くのほうで携帯電話の鳴る音が聞こえた。その着信音は晴美の携帯電話のものだった。ふたりとも電源は切っておいたはずなのに、晴美のほうの携帯が、かなりの音量で着信音を奏でていた。聞こえてくるのは母屋のほうだった。
「カズ」
まだ階下に残っている晴美が叫んだ。
「私のケータイが鳴ってる」
それが土蔵の外に出ようという合図だった。
和也は黒焦げのアルバム群に一瞥《いちべつ》をくれてから、ハシゴを伝って下へ降り、晴美の肩を抱いていっしょに外に出た。
間違いなく、外は朝だった。いったいどの時点で時間の流れに加速がついたのかわからなかったが、まだ延々つづくと思われた悪夢の夜は終わり、あたりには健康的なまばゆい五月の光があふれていた。
おぞましい花々は、跡形もなく消え去っていた。晴美が刈り払い機でなぎ倒した無数の『死骸《しがい》』が累々と横たわっているはずだが、それもない。見慣れた平凡な緑の雑草がいちめん生えているだけである。
北の鞍馬のほうからきたのか,あるいは東の比叡山のほうからきたのか、野鳥のさえずりがさわやかな朝の到来を告げている。小窓を通して見た小さな青空が、いまはふたりの頭上いっぱいに広がっていた。その青さの深みで、夜が明けてからすでにだいぶ時間が経っていることがわかった。
パジャマのままでいた和也は腕時計もはめていなかったが、ジーンズ姿の晴美は時計を左腕にはめていた。和也は妻の手首をつかんで、その時計に目をやった。
一瞬、二本の針があの忌まわしい時刻を指しているのではないかと思ったが、時計が示していたのは二時三十七分ではなく、七時十分すぎだった。
新聞配達かもしれないスクーターの走る音が聞こえてきた。それが和也と晴美にとって、ひさしぶりに聞いた平凡で平穏な日常生活の音だった。
和也と晴美は、いま出てきたばかりの土蔵をゆっくりとふり返った。
二階の高さにある鉄格子を嵌《は》めた小窓から、かすかに白い煙が流れ出していた。その流れは外に出たとたん、ゆらゆらと揺らめき、青空に向かって運ばれながらその白さをかき消した。
開けっ放しの扉からは土蔵の内部が見えたが、古道具類が積まれてあるのが目に入る以外は、特別な状況は何もなかった。成長した川本鏡子の生霊は、最初からそこにいなかったかのように、気配すら残っていない。
事実として目の前にあるのは、壊された土蔵の掛け金と燃やされた百八冊のアルバム、それだけだった。いや、いまのがたんなる夢ではない証拠がほかにもまだあった。
「カズ、すごい煤」
そう言って、晴美は夫が着ているパジャマを手で払った。
和也のパジャマは、いたるところ煤だらけで、あちこちが焦げていた。
「おまえの頭も」
と言って、和也は妻の髪の毛をつまんだ。
晴美の髪は、あちこちがチリチリに焼けて縮まっていた。そして彼女のブラウスやジーンズには、赤とも黄色ともつかぬ染みが点々と散らばっていた。
「やっぱり……夢じゃないよね」
「ああ、いまのは絶対に夢じゃなかった」
おたがいの姿を見つめながら、和也と晴美がつぶやきあった。
その間も、ふたりが戻ってくるのを気長に待つように、携帯電話の着信音が鳴りつづけていた。晴美は母屋に向き直ると、小走りになって、和也より先に家の中に駆け込んだ。そして、キッチンのテーブルの上に置いたままになっていた携帯電話を取り上げた。
「もしもし、晴美ね」
回線がつながったとたん、向こうから呼びかけてきた。
母の声だった。
「ママ!」
その意外さに、晴美はおもわず大きな声を張り上げた。死を覚悟したとき、必死に救いを求めた、その母の声だった。
6
「ママなのね。ほんとにママなのね」
「ええ、そうよ」
信じられずに何度も繰り返す晴美に向かって、受話口を通し、母・準子の声が、やさしく応じてきた。その声は、最愛の娘を包み込む、慈愛に満ちあふれていた。
「無事だったのね、晴美」
「どうして?」
晴美は驚いてきき返した。
「どうしてそんなことがわかるの?」
晴美のそばでは、遅れて入ってきた和也が、あぜんとした顔でそのやりとりを見つめている。
「まにあってよかったわ……なんとか、まにあって」
娘の問い掛けには答えず、準子は深い安堵《あんど》のため息を洩《も》らした。
「ねえ、ママ。こっちで起きていることが、ママには見えていたの?」
「そうよ」
短く準子は答えた。
「見えていたわ」
「じゃ、私たちが死ななかったのはママのおかげなの? ママが遠くから助けてくれたの? ママって超能力者だったの」
「いいえ」
準子はそこは明白に否定した。
「たしかに私は霊感の強い人間です。だから晴美と和也さんが、とても危ない状況に陥っていることは感じ取れました。けれども私は、それ以上の超能力を持っているわけではないのよ。ここ東京にいながら、なにか特別な力を発揮して、京都にいるあなたたちを直接助けることなどできません」
「だけど、私たちはもう少しで焼け死ぬところだったのよ。土蔵の中が火に包まれて、大きな天井の梁《はり》が私たちの上に落っこちてきてもうダメかと思ったのに、その瞬間すべてが消えてしまったの」
「葛城鏡子は死にました」
「え?」
突然、母の口から告げられた事実を、晴美はすぐには咀嚼《そしやく》できなかった。
「死んだ?」
和也が会話の意味を問いただす目つきをしているのが見えたが、晴美は携帯電話にかじりついてきき返した。
「葛城鏡子が死んだって、どういうこと?」
「晴美は生霊の恐ろしさを思い知らされたでしょうけれど、逆に言えば、生霊とは生きている人間があってこその存在なのよ」
「………」
「生霊は超越した力を持っているけれど、その発生源となっているのは、ただの人間。その人物じたいは少しも強くはない。むしろ、弱さをいっぱい抱え持ったコンプレックスのかたまり。だからそれを生霊で補おうとするのだけれど、本人はとてもとても弱い存在」
こんどは重苦しさを含んだため息で、準子は言葉を途切れさせた。そしてまた口を開いた。
「葛城鏡子は、ついさっき、自宅近くのビルから身を投げて死にました」
「身投げ……」
「ご主人の愛人問題で大恥をかかされただけでなく、そのことを悩んだ下の娘さんが中学校で自殺を遂げ、もう心身ともにくたくたになっていたんでしょうね。遺書も何も書かずに八階建てのビルから飛び降りてしまったのよ」
「そんな……」
一瞬、晴美はまた自分のせいで人がひとり自殺したのかと、胸が苦しくなった。が、すぐに、おかしいと思った。そんなはずはない、と、心のうちで母親の言葉を否定した。
(下のお嬢さんが死んだのは、たしかに私のせい。でも、そのことで私を激しく怨《うら》み、パパの代からの怨みも重ね合わせて、あれだけものすごい憎しみをぶつけて私とカズを苦しめ、そして焼き殺そうとしたあの女が、その最後の仕上げをしないで、この世から消えていくはずがない)
そして、いきなり真実が見えてきた。
「ねえ、ママ、隠さないでちゃんと言って。もしかしてママが……」
つぎに晴美が口に出そうと思ったセリフは「編集長の奥さんを殺したのね」だった。
だが、和也がじっと聞いているそばでは、さすがにその疑惑は口に出せなかった。
霊感が強い母は、晴美たちが置かれた絶体絶命の窮地を読みとった。だが、母には生霊を操る力はない。だから生身の自分が行動したのだ[#「生身の自分が行動したのだ」に傍点]。そして、生霊を操る悪魔の人形つかいと化した葛城鏡子――川本鏡子を、ビルの屋上から突き落としたのだ。
それが、土蔵の中で展開していた地獄絵図が突然消えた真相ではないか、と晴美は思った。それ以外には、怨念に満ちた生霊が急に姿を消した状況を合理的に説明できる方法がない。
「葛城さんのお宅には、ほんとうに気の毒なことをしました」
母の準子は、日本語特有の主語述語のあいまいな表現を使った。
客観的なコメントととも、自分のした行為に対する主観的なうしろめたさを表わしたともとれる言い方で、晴美の質問を打ち切った。
「さあ晴美、もうすべては終わったのだから、自分を責めるのはおよしなさい。これはあなたのパパが引き起こした問題なの。もしも市ノ瀬家で責任をすべて負う人間がいるとすれば、それはパパであって、あなたではないわ」
「ねえ、ママ、ひとつだけきいていい?」
晴美は勢い込んできいた。
「パパは、ママに霊感があるから結婚したの?」
「………」
「ねえ、そうなの? 川本鏡子の怨みが怖かったから、結婚するなら、彼女と対抗できるような特別な力を持った人と結婚しようと……そういう基準でママを選んだの?」
「………」
母・準子は電話口で沈黙した。
が、やがて静かに答えた。
「いいえ、ふたりを結んだのは愛よ。あなたと和也さんが結ばれたのと同じようにね」
「そう……」
「さあ、あまりそこに長居をせずに、和也さんといっしょに早く東京へ帰っていらっしゃい」
母は明るい口調に切り替えた。
「きょうでゴールデンウィークは終わりですよ。のんびりしていたら高速道路も混んでしまいますからね」
その言葉で初めて晴美は、世間と同じ時の流れに戻れる気分になった。ぜんぶでいくつの夢をみせられたのか、いまでは数えることもできなかったが、少なくとも実際の日にちは丸九日間の経過だということになる。
「晴美」
電話の向こうから、母が問いかけてきた。
「そこに和也さんもいるんでしょう」
「うん、いる」
「じゃあ、代わってもらってちょうだい。あなたたちも若いからいろいろ諍《いさか》いもあったでしょうけれど、最後に彼は、自分の身を投げ出してあなたを助けようとしてくれたのよ。そのことを決して忘れてはいけませんよ。だから晴美の母として、和也さんにきちんとお礼を述べておかなければ」
晴美は、何もかも母が知っていることに改めて驚きながら、ゆっくりと携帯電話を和也の手に渡した。
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[#1字下げ]19 高速道路
1
朝早く京都を出発したにもかかわらず、上りの高速道路はゴールデンウィーク最終日の帰省ラッシュで大混雑だった。京都東インターから名神高速道路に乗った和也たちの車は、琵琶湖の東、米原《まいばら》のあたりを過ぎて、関ヶ原方面へとノロノロ運転をつづけていた。
天気は快晴。どの車も窓ガラスにキラキラと太陽を反射させていた。空はぬけるように青く、雲ひとつない。渋滞するにはあまりにももったいない上天気だった。
ふだんならこれほどの大渋滞に巻き込まれれば、和也も晴美もいらだちを抑えられないところだが、いまはむしろ帰京までにたっぷりと時間を与えられたことを、ふたりとも感謝していた。
東京に戻る――つまり日常の生活に戻るためには、リハビリのための時間がいくらあっても多すぎるということはなかった。この九日間にわたって起きた一連の出来事を自分自身に納得させるには、四時間や五時間では不十分だった。
といって、ふたりで語り合っているわけでもなかった。京都岩倉の家を出てからここに至るまで、和也と晴美はほとんど言葉を交わしていない。おたがいがそれぞれの気持ちを整理するだけで精一杯だった。
途中で和也がラジオのニュースをつけると、アナウンサーが「長い人では九日間にも及ぶ大型連休もきょうが最終日、各地の高速道路や鉄道、それに空港では帰省ラッシュがピークを迎えています」とお決まりのセリフをしゃべっていた。だが、九日間どころか、すべてが一晩に凝縮されたとも思える濃密な体験をした和也たちにとって、アナウンサーが報じる連休ネタのニュースはまるで別世界のものだった。
京都岩倉の家に事実上幽閉されてからの九日間のうち、とくに後半は昼夜の区別がまったくつかず、しかも昼と夜が同じ数だけ繰り返されたという気もしなかった。夜のリピート回数が圧倒的に多いというアンバランスな印象は、たぶん悪夢から目覚めている間の記憶がほとんど残っていないせいだろうと和也は分析していた。
(ほんとにおれたちは、世間とは違う場所にいたんだな)
ハンドルを握る和也は、つくづくそう思った。
渋滞による低速走行のため、運転をしながらでも他車の中がよく見えた。連休ムードをいまだ引きずってカラオケで盛り上がっているワゴン車の一家。流れが止まるたびに助手席の恋人とキスをしてじゃれあうオープンカーの若者。運転担当のお父さん以外は全員遊び疲れて爆睡中のファミリー――いろいろな人間模様が三車線の高速道路を同じ方角に向かって移動している。
大型連休が楽しかった人、つまらなかった人、いろいろあるだろうが、少なくともおれたちのような体験をした者はほかに誰ひとりいないはずだ、と和也は思った。自分たちふたりと、地球上のその他全員との間に、明確な一線が引かれたという感じだった。
一方、助手席の晴美は、事件の奇怪さよりも何よりも、ひどい罪悪感に打ちひしがれていた。自分の不用意なおしゃべりがもとで、ひとりの少女が自殺してしまった。そのことだけは悪夢でも幻覚でもなく、現実に起きた悲劇であることが、母・準子との電話で確認された。晴美は、痛烈に自分を責めていた。
たしかに自分には底意地の悪いところがあった、と晴美は正直に認めた。和也から葛城編集長のエピソードを聞かされたとき、たんに編集長の失態を笑うだけなら、さほど罪はなかっただろう。しかし、そのときの晴美には、編集長の妻子がどれだけ面目を失い、どれだけショックを受けるかという、家族の悲劇を覗《のぞ》き見したい気持ちが強くあった。そして、葛城家の人々が最悪の不幸にうろたえるさまを想像すると、なぜか気持ちが弾んでくるのを抑えられなかった。
昔から晴美は、新聞の三面記事やテレビのワイドショーで事件の主役として恥をさらした人々を見ると、その当人よりも家族の不幸にすぐ関心が行ってしまうところがあった。葛城編集長の一件で、すぐさま会社の同僚だった優子に電話したのも、編集長の騒動を教えたいというよりも、編集長の家族はいったいどうするのかという、そちらのテーマで盛り上がるためだった。
そしておそらく優子も、晴美と同じ嗜好《しこう》があったのだろう。ゴルフを通じて編集長の家族とは親しいという恰好《かつこう》の言い訳をひっさげて、すぐさま当人の自宅へ電話を入れた。
たまたまそのとき下の娘が学校から一時帰宅して電話をとってしまったのは、あまりにも運の悪いタイミングだったが、優子のものの言い方も、まさしく『親切ごかし』の野次馬根性という以外の何物でもなかったはずだ。
あえて責任転嫁をするならば、編集長の娘の自殺は、直接的には優子の責任だと言えなくもなかった。しかし晴美は、自分の奥底に潜んでいた、いびつな性格を心から恥じた。そのいやらしさが優子にも伝わり、そして編集長の娘を精神的に追い込んでしまったと考えれば、おおもとの責任はやはり自分なのだ、と晴美は自らを咎《とが》めるよりなかった。
さらにもうひとつ、川本鏡子の生霊から娘たちを救うために、母親が何をしたのかということも大きな問題だった。
母が「じつは私も生霊を操る力があるのよ」と告白してくれたほうが、よほど気が楽だった。だが、母は超能力の持ち主であることを完全に否定した。霊感は鋭いが、それ以上の特殊な能力は持ち合わせていないと。
その母が、葛城編集長夫人となった川本鏡子をこの世から消したとすれば、その手段は殺人という方法以外にない。世間的には編集長夫人の自殺という形でケリがついても、晴美は、それは母の犯罪であると確信していた。
(ママは、私たちのために自分の手を汚した……)
それもまた、自分の軽口が生んだ悲劇だと思うと、晴美はつくづく自分という人間がいやになった。
それだけでなく、幻覚の中で父親の卑劣で姑息《こそく》な姿を見せられたのも精神的にはこたえていた。
あれが生霊のデッチあげた嘘であってほしいと心から願っていたが、一方で、それはきっと真実だったのだろうと信じてしまう自分もいた。
そんな苦くて辛い体験の中でたったひとつだけ救われたのは、土壇場で見せてくれた和也の真心だった。彼は晴美のために自らの命を投げ出そうとした。その強い愛情で晴美の全身をくるんでくれたのだ。そのことだけが長い悪夢の中で、唯一救われる部分だった。
「なあ、晴美」
無言でハンドルを握っていた和也が、ポツンとつぶやいた。
「やっぱりおまえのお父さんは、自分の結婚相手を考えに考え抜いて選んでいたんだな」
「え?」
晴美は運転席の和也に向き直った。
それは、けさがた電話で母親に晴美が直接問いかけ、そしてうまく答えをはぐらかされた部分だった。
「お母さんがどんなに否定しようとも、市ノ瀬恵造が準子という女性を妻に選んだのは、その霊感の強さを知ったからだと思う。そうでなかったら、お父さんは無理に結婚などしていなかったと思う」
「それは……そうかもしれないね」
晴美も認めた。
「だから晴美は、お母さんの力によって、子供のころから守られていたんだよ」
「ママに、子供のころから?」
「そうだよ。おれ、不思議に思っていたんだ」
前方に連なる渋滞の列を見やりながら、和也は言った。
「川本鏡子の生霊は、なぜおまえが子供のうちに復讐《ふくしゆう》を実行しなかったのだろう、って」
「………」
「鏡子が、子供時代に受けた屈辱を最高の形で復讐しようとするならば、市ノ瀬恵造の娘が――つまりおまえが同じように幼いとき、その子に取り憑《つ》いて苦しめるのがいちばん理想だったんじゃないだろうか。仲人という立場でおれたちの結婚式なんかを待たずに、おまえが子供のときに、いくらでも怨《うら》みの晴らしようはあったと思う。それができなかったのは、おそらくお母さんがおまえをずっとガードしてきたからなんだよ」
和也は晴美にやさしい眼差《まなざ》しを投げかけた。
「お母さんが晴美の命を救ってくれたのは、きっと今回が初めてじゃないんだよ。おまえが生まれたときからずっと、お母さんは晴美の守り神だったんだ。そうなり得ることを知って、おまえのお父さんは妻になる女性を決めたんだ」
「そうか……」
晴美はつぶやいた。
「気がつかなかったけど……そうだったのかもしれない」
「いいお母さんだよな」
「うん」
うなずいた拍子に、晴美の頬に涙が一筋流れた。
晴美は、心の中で「ありがとう、ママ」と何度も繰り返していた。
2
「それにしても、あのババアどもの予告どおり、夢がどんどん怖くなっていったのにはまいったよな」
もうすべては過去の出来事になった余裕で、和也は笑みさえ浮かべてふり返った。そして、ふたごの老婆の口調を真似て言った。
「しまいの夢をみるまでは、逃げ出したくても逃げられぬ……か」
「やめてよ、カズ」
晴美は、助手席から手を伸ばして、和也の左手を軽く押さえた。
「もうそれは思い出したくないから」
「わかった、ごめん」
「……でもさあ」
その話題はやめてと言っておきながら、晴美のほうから、また夢のことを蒸し返した。
「ふと思ったんだけど」
「なに?」
「ううん、なんでもない。やめとく」
「おいおい、そういう中途半端はよせよ」
和也は笑った。
「まだ引っかかるものがあるんだったら、ぜんぶ吐き出してスッキリさせようぜ」
「じゃ、言うけど」
晴美は和也の横顔をじっと見つめ、不安そうにたずねた。
「私たち、十三の夢をぜんぶみたんだよね」
「なんだ、夢の数を気にしていたのか」
和也は、そんなことはどうでもいいというふうに肩をすくめた。
「十でも十三でも二十でも、とにかく終わったものは終わったんだから関係ないさ」
「でも、気になるの。数えてみて。なんだか……足りない気がするから」
「じゃあ、チェックしてみるぞ」
渋滞の超低速走行だったので、和也はハンドルから片手を放し、夢に添えられていたタイトルを復唱しながら指折り数えた。
「第一夜『京都伏見の黒い猫』、第二夜『祗園花見小路の恋』、第三夜『魔王殿からきた老人』、第四夜『鹿苑寺無彩幻想』、第五夜『株式会社「七福神」』、第六夜『也阿弥ホテル』、第七夜『比叡山ゼロの魔術』、第八夜『源光庵「悟りの窓」と「迷いの窓」』、第九夜『嵯峨野さやさや二人旅』、第十夜『貴船夜風の灯籠流し』……」
そこまではスラスラと並べられた。が、和也はそこから先で詰まった。そのあとは、夢にきちんとした題名が付けられていなかったからである。
川本一郎が生前に完成を目指した『京都十三夜物語』は、十三のうち十の短編がすでに書き上げてあったとされる。それをベースにして、一部分には娘の鏡子のアレンジが加えられながら、和也と晴美の夢にその十の夢がたしかに登場した。
だが、正確に言えば、ふたりが共通の夢をみたのは第七夜までで、第八夜から第十夜までは和也だけがみた夢だった。さらに第十一夜は――必死に和也は思い出した――文字どおり夢うつつの状態で晴美の中に悪霊を注ぎ込んでしまったが、あれが第十一夜の夢だと考えた。これは晴美も体験している。
そして浴槽の中に現れたセーラー服の少女と柱時計、あの不気味な光景が第十二夜。この夢は晴美はみていないが、別立てのストーリーで、腐乱した父親のゾンビと遭遇している。それは和也が第八夜の夢を見終わった直後からの体験だ。このへんの数え方をどうすべきかは、はっきりしたところがわからない。
最後は土蔵だ。
赤い花畑での激闘を経て土蔵に入り込み、アルバムに貼りつけられた写真が動き出したり、炎に包まれた中で鏡子の生霊に死を宣告されたりという、あの土蔵の中での出来事すべてを第十三夜の悪夢とカウントすれば、和也は十三の夢すべてをみたことになる。
晴美のみた夢が十三個に達していないのがちょっと気になったが、和也はそこにこだわるのはやめた。
「どういう数え方が正解なのか、それは、それこそ鏡子にでもきかないとわからないけど、とにかくすべての悪夢をおれたちは乗り越えたんだ」
和也は力強い声を出して言い切った。
「そしてこうやって、平凡な日常に戻ってくることができた。見ろよ、この渋滞。連休を楽しんできた人の列、列、列……」
フロントガラス越しの光景を、和也は示した。
「おれは、きょうほど高速道路の渋滞が素晴らしいものに思えたことはないね。きざな言い方かもしれないけど、平凡であることのよさっていうのが、生まれて初めてわかったような気がするな」
「……だよね」
一抹の不安をまだ引きずりながらも、晴美は和也の言葉に勇気づけられ、笑顔を取り戻して言った。
「カズ、ほんとにありがとう」
「ん?」
「自分のことより私のことを先に考えてくれて」
「なに言ってんだよ」
和也は照れくさそうに肩をすくめた。
「あの地獄から助け出してくれたのは、お母さんじゃないか」
「でも、ママも言ってた。和也さんの愛情があったから晴美は助かったのよ、って」
「あれだけひどいことを言ったのに、かい。おれは死ぬ前に離婚届を突きつけられるんじゃないかと思ってたのに」
「離婚なんかしないもん」
晴美は唇をとがらせながら微笑んだ。
「死ぬまでカズとずっといっしょなんだもん、ねー」
晴美は車が渋滞でストップしたのを見計らって、ピンク色の口紅をつけた唇を丸め、和也のほうに突き出した。和也も晴美の首に片手を回し、静かに自分のほうに引き寄せた。
また車の流れが動き出すまでに、少なくとも十秒はキスをつづけられるはずだった。ふたりの唇と唇が最初はゆっくりふれあい、それからたがいに一気にその柔らかさをむさぼりあった。
と、そのとき――
突然、ブワッと音を立てて晴美が吐いた。[#「突然、ブワッと音を立てて晴美が吐いた。」はゴシック体]
3
黄色の吐瀉《としや》物が和也の顔に浴びせられた。あの奇怪な花畑を連想させる、あまりにも鮮やかな黄色の液体だった。
「晴美!」
びっくりした和也は、のけぞった拍子にクラクションを鳴らした。ビーッというけたたましい警笛音が自分の肘《ひじ》によって発せられていると気づくまでに何秒もかかった。それほど和也は動転していた。
「どうしたんだよ、晴美」
「きもち……わるい」
肩から腰へたすき掛けになったシートベルトを片手で握りしめ、晴美は身体をふたつに折って、こんどは自分の膝《ひざ》から助手席の床へまた嘔吐《おうと》した。
和也は後部座席に積んであったティッシュペーパーを箱ごと取り上げ、つぎつぎにそれを引き抜いて自分の顔をぬぐい、ハンドルをぬぐい、それから晴美の口もとにも当てた。ティッシュペーパーがあっというまに黄色く染まっていった。
「晴美、待ってろよ。車を路肩に寄せるから」
だが、中央車線にいた和也たちの車は、完全に流れを止めた車列の中で、右にも左にも、前にも後ろにも動くことができなくなっていた。
「あう……あう……あう」
苦しそうに晴美がうめいた。そして、こんどは腹を押さえながら言った。
「赤ちゃん……」
「なに?」
「赤ちゃんが、できた、かも、しれない」
「………」
和也の顔から血が引いていった。
「ゆうべ、カズに、無理やり……された、と……き……に……」
「ありえない」
和也は激しく首を左右に振った。
「そんなことはありえない。もう悪夢はぜんぶ終わったんだ」
「ううん、終わって……なかった」
苦しみと恐怖で涙を浮かべながら、晴美は吐瀉物に汚れた顔で和也を見つめた。
「まだ終わってなかった。やっぱり鏡子は、私に復讐《ふくしゆう》する最高のタイミングを考えていたのよ。ママに妨害されたからじゃなくて、私が子供のときに復讐してしまうより、もっともっと私を苦しめる時期を知っていたのよ。カズと結婚して子供を産む環境が整うまで待っていた」
「そんなバカな」
和也は否定しようとしたが、晴美はその否定を認めなかった。
「こうなることをパパは恐れていたのよ。だから三度も自殺を図ってまで私の結婚を止めようとした。私に子供を産ませないために」
「晴美、とにかく落ち着け」
「とにかく落ち着け、ですって? カズって、どうしていつもそういうワンパターンのセリフしか出ないの。とにかく落ち着け、とにかく落ち着け、そればっかり」
また晴美のヒステリーがはじまった。もう二度とないと思われた逆上がはじまった。
「誰のせいで、誰のせいでこんなことになったのよ!」
「興奮するな、晴美」
「無理よ、興奮するなと言ったって無理!」
「いますぐケータイで救急車を呼ぶから病院へ行こう。医者の診察を受けるんだ。まだ妊娠だと決めつけるのは早い。だいたい、つわりって、こんなに早くこないだろう。だからきっとほかの病気だよ。あれだけひどい経験をしたんだ。ストレスからくる吐き気だってこともじゅうぶんありうる」
「ううん、私にはわかる。これは赤ちゃんができた証拠」
「仮にそうでも、おれとの間にできた健康な赤ちゃんかもしれないじゃないか」
そう言いながら、和也は恐ろしい予測をしている自分に気がついてゾッとした。
(おれとの間にできた健康な赤ちゃんかも? かもしれない? じゃ、おれとの間にできたんじゃなかったら、誰との間にできたんだ)
鏡子――
その答えが出た。
生霊は、生きている人間が存在してこそ暴れることができる――これは、晴美の母・準子が提示した明確な定理だった。したがって生霊を支配する生身の人間を殺せば、生霊なるものは消滅する。これ以上ない明確な論法だ。ゆえに晴美の母は、殺人の罪を犯してまで葛城編集長夫人である鏡子の命を奪ったのだろう。家族崩壊のショックによる飛び降り自殺とみせかけて。
だが、明確な定理の逆もまた真なり、であった。
生霊とは指令塔となる生身の人間が生きつづけているかぎりは、消滅することは決してない、という真実がある。第一世代が滅びる前に、きちんと第二世代を作っていれば……。
黄色い液体と、噴き出してきた冷や汗とで顔をヌラヌラと光らせながら、どうしてよいかわからなくなった和也は、なすすべもなく周囲を見回した。
関ヶ原、という文字が目に入った。
(あ……)
知らぬ間に、あれ[#「あれ」に傍点]を轢《ひ》いた地点にきていた。下り車線と上り車線の違いはあるけれど、いま和也たちは、おぞましい幻覚がはじまった舞台に舞い戻ってきていた。
「カズ……」
晴美は助手席のヘッドレストに頭をもたせかけ、ピンク色のセーターの下腹部を両手で抱えた、目を閉じていた。さきほどの瞬間的な感情の沸騰も消し去り、すっかり弱々しい声になって和也に問いかけた。
「私たち、いま、どこにいるの」
「なんでそんなこと、きくんだ」
「答えて、どこにいるの」
「………」
「あそこなんでしょう? あれを轢いた場所なんでしょう?」
「………」
「いいの。隠したって、わかるから」
目を閉じたまま、晴美はつぶやいた。
「カズ」
「ん?」
「おなかの赤ちゃん、ふたごのような気がする」
「やめてくれよ、晴美。妊娠なんて勘違いだから。たのむからそんな話はやめてくれ」
「ううん、私の身体の中のことだから、私にはわかるの」
「もしもそうだったら堕《お》ろそう」
「堕ろす?」
「それ以外に方法はない。鏡子の生霊に操られた赤ん坊なんて、おれは絶対に産んでほしくない」
そうはいくもんか[#「そうはいくもんか」はゴシック体]
「………!」
突然聞こえた声に、和也は驚いて周囲を見回した。
晴美も目を見開いた。
「お腹のややこ[#「ややこ」に傍点]を堕ろしたら」
「母者《ははじや》の脳もついてくる」
老婆の声だった。
もう二度と聞くことはないと思っていた、あのふたごの老婆の声が、どこからか響いてきた。
「たしかに自分で言うとおり」
「おまえはふたごを孕《はら》んだぞ」
「めんこいおなごのふたごじゃぞ」
「めんこい、めんこい、めんこいな」
「めでたい、めでたい、めでたいな」
「赤飯炊いてお祝いじゃ」
「踊りを踊ってお祝いじゃ」
晴美は震える手で和也の腕をつかんだ。
あふ、あふ、あふ、という恐怖と悲鳴と涙の入り混じった声が、晴美の口から洩《も》れた。
「なのに堕ろすというならば」
老婆の声にいちだんと凄《すご》みが加わった。
「母者もいっしょに死ぬるじゃろ」
「子宮のややこを引っぱれば」
「母者の脳もついてくる」
「ずるずる、ずるずる、ついてくる」
「にょろにょろ、にょろにょろ、ついてくる」
「黙れ、おまえら!」
和也はバンとハンドルを叩《たた》いて怒鳴った。
「どこにいるんだ!」
「ここじゃ、ここじゃて」
「ここじゃ、ここ」
和也は、ウッと小さな叫びを発した。
すぐ前の乗用車の後部座席に、白装束を着たふたごの老婆が後ろ向きになって座り、和也に向かって笑いながら手を振っていた。
「早|呑《の》み込みは困るのじゃ」
向かって右側の老婆が言うと、すぐに左側の老婆がたたみ込む。
「あわて者は困るのじゃ」
「十三番目の夢はまだ」
「しまいのとこまできておらぬ」
「まだまだわしらはついてくる」
「いやじゃと泣いてもついてくる」
(落ち着け、冷静になれ)
永瀬和也は車のハンドルをギュッと握り、必死に自問自答した。
(こいつらは実態はないんだ。まぼろしにすぎない。幻影だ。生身の人間の怨念《おんねん》が形づくった生霊という名の幻影なんだ。だから、その指令塔さえやっつければ……)
と、そこまで考えた和也は、戸惑った。
(だけど、指令塔の鏡子はもう死んだじゃないか。それなのに、なぜ?……あ!)
和也は、ゆっくりと晴美の下腹部に目をやった。
(ここに、新たな指令塔が?)
晴美は、まだ膨らんでいない自分の下腹を両手で抱えた恰好で、絶望的な視線を和也に向けていた。
同じことを考えているのは明らかだった。
ふたりは言葉も出せずに見つめあった。
[#ここからゴシック体]
ほほほほほほ。ほほほほほほ。
ほほほほほほ。ほほほほほほ。
[#ここでゴシック体終わり]
得意げな甲高い笑いが響き渡った。前の車のリアウインドウ越しに、ふたごの老婆が笑っている。
だが、それだけではなかった。渋滞で止まっている車列のいたるところから、楽しげな笑い声が聞こえてくるのだ。
[#ここからゴシック体]
ほほほほほほ。おほほほほほほほほ。
はははははは。あはははははははは。
へへへへへへ。えへへへへへへへへ。
ふふふふふふ。うふふふふふふふふ。
ひひひひひひ。いひひひひひひひひ。
けけけけけけ。けーけっけっけっけ。
わははははは。わーはっはっはっは。
[#ここでゴシック体終わり]
「カズ!」
ヘッドレストから頭を起こした晴美が、周りを見て恐怖の悲鳴をあげた。
「見て、カズ! 見て!」
カラオケを歌っていたワゴン車の家族、オープンカーでキスをしていたカップル、爆睡していたはずの一家、それだけではない、コンクリートミキサーの運転手、観光バスの運転手、バスガイド、それに団体観光客――和也たちを囲む周囲の車に乗っている者全員が和也と晴美を見て笑っていた。無数の笑顔が「おめでとう」と言っていた。
やがてみんなは拍手をはじめた。それは万雷の拍手と表現するにふさわしい響きだった。新しい生命の誕生を祝う拍手だった。
そして、ふたごの老婆の音頭取りに合わせて、全員が一斉に唱和した。
[#ここからゴシック体]
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
「ついてくる。わしらはみんなついてくる」
[#ここでゴシック体終わり]
つぎの瞬間、渋滞の車列が突然スムーズに流れ出し、和也たちに向かってけたたましい笑いを発し、ついてくるの大合唱をしていた人々は、「そんなことをしていましたか」という素知らぬ顔で元の状態に戻り、運転席にいた者はハンドルを握り、それ以外の同乗者は、前と同じように歌ったり、話をしたり、居眠りをしはじめた。
ビビーッとけたたましいクラクションを後ろから鳴らされ、和也は、自分の車がいつまでもその場に止まったまま流れを妨害していることに気がついた。前にいた乗用車との距離は、すでにかなり開いていた。
後部座席にいた老婆たちの姿は、もう見えない。
夢から覚めたのか、それともまだ夢の中にいるのか判断がつかないまま、永瀬和也は、ゆっくりとアクセルペダルを踏みこんだ。
4
一分後――
ふたりのRV車は、動き出した車の流れに乗っているのではなく、高速道路の路肩に停まっていた。
「………」
和也は声を出せなかった。それだけでなく、思考も停止していた。
助手席の晴美は、目をつぶってしゃくりあげていた。
「………」
和也はしばらくの間、泣きつづける妻の姿を感情のない眼差《まなざ》しで見つめていた。
が、やがて彼は運転席のドアを開け、高速道路に降り立った。
さきほどまでの渋滞は、不思議なほど急激に解消され、彼の傍らをビュンビュン風を切って車が通りすぎていく。
それらには目もくれず、和也はフワフワとした足どりで車の後ろに回り込み、最後部のドアを開けた。そして、ドアの内側に格納してあった修理工具の中から、赤いグリップを持つプラスドライバーと、緑のグリップのマイナスドライバーを取り出し、手に取った。
(何をするんだ、和也君)
頭の中に声が響いた。
市ノ瀬恵造の声だった。
(おい、きみは何をしようとしているんだ)
「修理」
ボソッと、和也はつぶやいた。
そして彼はドアを元のように閉め、また後続車が猛スピードで走りすぎていく脇を歩いて、晴美が嘔吐した黄色い液体で汚れた運転席に戻った。
顔を汚したまま、晴美は、まだ泣きつづけていた。
夫である永瀬和也が、運転席を開けて何をしに出ていき、そして何を持って戻ってきたのか、彼女はまったく知らずに、閉じたまぶたの間から涙をあふれさせながら、しゃくりあげつづけていた。
(和也君!)
また頭の中で市ノ瀬恵造の声が響いた。
(きみ、気はたしかなのか!)
「はい」
和也は、義父の問いかけに答えた。
が、晴美にとっては、その返事は唐突だった。それで目を開けた。
夫が両手にドライバーを高くかざしていた。赤のドライバーと緑のドライバー。
(カズ……!)
信じられない光景を見て、晴美は絶句した。
(カズ……どういうつもり?)
声は出せなかった。心の中だけで問いつめた。
「修理です」
感情のない声で答えると、永瀬和也は妻が着ていたピンク色のセーターの裾《すそ》を、マイナスドライバーの先でめくり上げ、白い腹をむき出しにした。
「いやあああ!」
こんどは晴美も声を出した。すさまじい悲鳴だった。
「やめてえええ!」
(和也君、勘違いをしてはいかん!)
市ノ瀬の声が叫んだ。
(いないんだ。晴美の腹の中には何もいないんだ)
「ただいまより永瀬晴美の修理を開始します」
完全に人間の感情を失った目で、和也は、まるで手術チームにオペの開始を告げる医師のような口調で言った。
(聞け、和也君、聞け!)
市ノ瀬の声が絶叫した。
(晴美が吐いたのはつわりのせいではない。妊娠などしていない。そもそもきみは、娘の身体に妙なものなど注ぎ込んではいないんだ。すべては幻想だ。幻覚だ。錯覚だ。それに踊らされてはいかん!)
「おまえの言うことなど、もう何も信じない。絶対信じない」
頭の中でわめく晴美の父親に向かって言い放つと、改めて和也は妻に向かって宣言した。これ以上ない冷たい声で。
「そんなに難しい修理ではないので、すぐに済みますから楽にしていてください」
「カズ、カズ、カズ! なんでよ! どうしてなの!」
叫ぶ晴美を無視して、和也は両手に構えた赤と緑のドライバーを、ふたたび高くかざした。勢いをつけて妻の身体に食い込ませるために。
そのとき――
ついてくる[#「ついてくる」はゴシック体]
市ノ瀬恵造の声で、その言葉が発せられた。
一瞬だけ、和也の手が止まった。
そこへ市ノ瀬の声がたたみかけた。
(和也君、よく考えろ。なぜ『ついていく[#「ついていく」に傍点]』ではなく、『ついてくる』なのか、そこを考えろ。きみや晴美に取り憑こうとする怨霊なら『いついつまでも、ついていく』という言葉を使わねばならないのに、なぜ『いついつまでも、ついてくる』なんだ。その単純な疑問を、きみはきちんと検討してみたことがあるのか)
「修理中は静かにしていてくれませんか」
それが、少なくともまっとうな意識のあるうちに晴美が聞いた、夫の最後の言葉だった。
5
それからしばらくの間、名神高速道路上り線の関ヶ原|界隈《かいわい》を通過する車の中で、路肩に停まっているRV車の異変に気づいた者はひとりもいなかった。
車の運転席では、両手を黒い血で[#「黒い血で」に傍点]汚した永瀬和也がポカンと口を開け、呆《ほう》けた状態でシートに背中をもたせかけていた。
その彼の頭の中では、高らかな男の笑い声が響きわたっていた。
(あっはっはっはっは。うわーはっはっは)
どこかで聞いたような笑い声だ、と和也はぼんやりと思っていた。だが、晴美の父親の笑い声とは違っていた。
そう、何番目の夢としてみたのか、もう順番も忘れてしまったが、七福神の布袋尊《ほていそん》を務める、あの太鼓腹の男が放つ大きな笑い声だった。
そして、その声が愉快そうにたずねてきた。
(永瀬さん、しあわせですかあ?)
「ふざけるんじゃないよ」
ボソッと声に出して、和也は言い返した。
「こんな状況のどこがしあわせなんだ」
(そりゃそうでしょう。心よりご同情申し上げます)
あの黄檗山万福寺《おうばくさんまんぷくじ》の布袋尊に似た男が、声だけの存在でありながら、はじける笑顔が見えるような口調で言った。
(しかしあなたも、出版社に勤める編集者ならば、日本語の文法には注意を払わねばなりませんでしたな)
「文法?」
(怨霊があなたの外にある存在であるならば、ふたごの老婆はこう言わねばならないはずでした。『ついていく[#「いく」に傍点]、わしらはずっとついていく[#「いく」に傍点]』と。それがなぜ『ついてくる[#「くる」に傍点]』なのか、お考えになったことがありますかな)
「知るかよ」
(お考えください)
「そんなこと、知・る・か、と言ったんだ」
(おやおや、かなりのご機嫌斜め)
布袋尊似の男の声が、また楽しそうに笑った。
(では、仕方ない。私から解説を申し上げましょう)
「要らねえよ、解説なんか」
(まあ、お聞きなさい。聞いて損はしませんから)
男の声が、強引につづけた。
(ついてくるものが――つまりあれ[#「あれ」に傍点]ですな――そいつがあなたの外に存在するなら『ついていく[#「いく」に傍点]』でなければおかしい。しかし、すでにあなたの内部にもぐり込んでいたら、あなたの意識と合体して『ついてくる[#「くる」に傍点]』になって、少しもおかしくないのです)
「おれの、内部に、すでに、もぐり込んでいた?」
(ええ、あなただけでなく、晴美さんのほうにもですがね。だからふたりとも自分の意識として感じる『ついてくる』という視点を、老婆や鏡子の生霊に言わせていたのです。つまり、もう呪いはあなたや晴美さんの意識と一体化して不可分の関係にあるのです。これこそが、『いついつまでも、ついてくる』という言葉に秘められた真実なのです。おわかりですか、和也さん。逃げようがないということです)
「鏡子の本体が死んでも?」
(ええ。まったく関係ありません)
「そんなもの、いつ、おれたちの脳の中にもぐり込んできたんだ」
(いつだと思います?)
「あれ[#「あれ」に傍点]を轢《ひ》いたときか」
(とんでもない、もっと前です)
「もっと前……って」
(三年前です)
「………」
(あらら、まだおわかりになりませんか。結婚式ですよ、結婚式。あなたと晴美さんが永遠の愛を誓い合った結婚式に仲人として立ち会ったとき、葛城鏡子はしあわせの絶頂にいるふたりの脳に、怨霊《おんりよう》をもぐり込ませたのです)
「そんな……」
(それから三年、鏡子の注入した怨霊は、じっと熟成するのを待っておりました。ふたりの頭の中で。ですから、それが目覚めたとき、怨霊はあなたや晴美さんの視点に立って物を言いはじめたわけです。『ついてくる』とね)
和也の額に汗がにじんできた。
「じゃあ、鏡子の死は?」
(純粋な飛び降り自殺です。夫の愚行を恥じた娘が自殺をするという悲劇を受けて、そのあとを追ったものなのです)
「そうは思えない。それは違う」
と、和也は言い返した。
晴美は、鏡子の死を告げる母の言葉に、不自然な雰囲気を感じていた。それは、母・準子が娘の殺人を実行した――自分の手で鏡子を殺すことによって娘たちを守ったから、生霊の消滅に関する真実を言えずに電話口で口ごもったのだと判断していた。和也もその解釈に同感だった。
だが、男の声は容赦なくつづけた。
(ああ、和也さん、あなたはいちいち解説が必要な人ですね。たしかに晴美さんのお母さんは霊的直観力を持つ女性です。その能力で、あなたたち夫婦の危機を察知しました。そして、あなたたちの仲人でもあった葛城編集長夫人の鏡子が生霊を操っていることを見抜き、鏡子を殺しに出かけました。もともと準子さんは、仲人夫人に不穏な『気』を感じていた。だから、その行動は早かったんです。
けれども、準子さんが殺害を決行するよりも先に、鏡子は近くのビルから自ら身を投げてしまった。それは、準子さんが晴美さんに語ったとおりなのです。ただし、殺害を意図した相手に、先を越されて自殺されたという、その複雑な心境があったから、晴美さんの問いに言葉を詰まらせてしまったんですな)
「ありえない」
見えない男に向かって、和也はまた反論した。
「そんなことはありえない。あれだけ晴美を憎んでいた鏡子が、ギリギリまで追いつめたところで、先に死を選んだりするはずがない。あと一歩でぼくたちを殺せたのに、土壇場であきらめるはずがない」
(だから、ほんとにわからない人ですねえ)
また男の声は笑った。
(よーく考えてください、和也さん。仮に晴美さんのお母さんが殺したにせよ、あるいは鏡子が自ら死を選んだにせよ、生霊の消えるタイミングが絶妙すぎると思いませんか)
「え?」
(あなたが体験したことは現実と幻覚夢の融合世界ではあるけれど、小説や映画ではない。お客さんを喜ばせるパニック・アクションの主人公として出演していたわけではありません)
「あたりまえじゃないか」
(では、なぜ生霊が、ここぞという土壇場で消えたんです。それこそドラマ仕立てのように、あと一歩というギリギリのタイミングで、なぜ消えたんです。逆に言えば、あなたは絶体絶命の崖《がけ》っぷちまで追い込まれながら、もうダメだという間一髪のタイミングで、なぜ助かったんですか)
「だからそれは、晴美のお母さんが」
(そうですか? そんなに都合のよいタイミングで救えますかね。四方から炎の輪が押し寄せ、ふたりの真上にある天井の太い梁《はり》は、燃え落ちる直前でグラグラしている。それを見て、あなたも晴美さんも、ついに死を覚悟して目を閉じた。そんなギリギリのところで、なぜうまいぐあいに、すべての幻影が消えたのです。繰り返しますが、あなたたちは小説や映画の登場人物ではない。あなたがたのピンチをハラハラして見つめている読者や観客はいないんです。にもかかわらず、なぜドラマチックなタイミングで救われたんですか)
「いったい、あんたは何を言いたいんだよ」
(教えて差し上げましょう。土壇場で生霊が消えたのは、その指令塔となっていた葛城鏡子が死んだこととは関係がないのです)
「なんだって」
(さきほど申し上げましたでしょう。すでに鏡子の生霊は、あなたと晴美さんが華燭《かしよく》の典《てん》を挙げられたとき、ふたりの頭脳にもぐり込みました。その段階で、死霊でもなく、また生霊でもない、永久不滅の怨念《おんねん》となって取り憑《つ》いたのです。生身の鏡子が死んでも、なお怨《うら》みを継続させられるようにね)
「それじゃ、生霊ではなくなるじゃないか」
(ええ、そうですよ。それでよいのです。たしかに鏡子は生霊の力を強調しました。しかし同時に、鏡子は生霊の限界をも承知していました。指令塔となる本体の人間が消えれば生霊も消える、という弱点を。まさしく晴美さんのお母さんが理解したとおりです。だから、その弱点をまえもって消しておいたのです。怨む相手の頭脳に棲《す》みつけば、自分が死んでも、苦しめたい相手の命あるかぎり、怨念は継続する。それどころか、本体の死をもって、あなたたちに強烈な良心の呵責《かしやく》を引き起こすことさえできる)
「………」
(だからこそ『ついてくる』なのです。怨霊の意思を、寄生された側のあなたや晴美さんの主観で捉《とら》えたからこそ、怨霊は『ついてくる』という、あなたがたの立場に立った言い方になった)
男の声の指摘に、和也はハアハアと荒い息をつきはじめた。「ついてくる」の真実を思い知らされ、ひどい衝撃に心臓も肺臓もパンクしそうになっていた。
(忘れてはなりません。老婆の怨霊は『いついつまでも、ついてくる』と宣言したはずです。『未来|永劫《えいごう》ついてくる』と言い放ったはずです。つまり、裏を返せば、あなたたちにそうかんたんに死なれては困るのです。だから、あなたや晴美さんが『死にたくない』と本気で思ったとき、怨霊は壮絶なる悪夢を中断します。あなたも死にたくないし、怨霊もあなたをまだ殺したくはない。だから消えたんです、あの絶妙のタイミングでね。それはあなたたちの頭脳と怨霊との融合を証明する反応でもあったのです)
「くっそー!」
和也はハンドルを叩《たた》いた。鏡子の怨みの凄《すさ》まじさに敗北を感じて。
(鏡子の目的は、晴美さんとあなたの精神を痛めつけ、徹底的に苦しめることであって、そのためには生きつづけてもらわねば困るのです。さきほども怨霊は、市ノ瀬恵造の声を信じなくなったあなたの心理を逆用し、やめろといえば必ずやるに違いないと計算して、晴美さんのお腹をドライバーでメッタ刺しにするプログラムを発信しました。けれども、あなたが本気になったから、土壇場で惨劇を回避させた。晴美さんを殺すのは、まだ早すぎますからね。でも、神経を痛めつけるには効果的でした。最高でしたよ、あなたの迫力はね)
和也はその言葉を聞き、ゆっくりと目を助手席に向けた。
晴美は、さきほど和也に灰色の[#「灰色の」に傍点]セーターをまくられたままの状態で、白い腹を見せていた。だが、その皮膚は滑らかで一点の傷もない。その代わりに、精神が壊れていた。
晴美は視点の定まらない表情で宙を見つめていた。
「晴美……」
和也は呼びかけた。
が、返事はない。
二度呼びかけるのは無駄だと、即座にわかるほどの状況だった。
和也は、愕然《がくぜん》となって妻の顔を見つづけていた。
(晴美さんは、妊娠などしていませんよ)
和也の脳に、また男の声が響いた。
(それは市ノ瀬恵造の声を真似た私が強調したとおりです。シッポを震わせながら無数の星々が巨大な球体めがけて突進する幻影が伏線となって、晴美さんは生霊の子供を身ごもったと信じ込んでしまいましたが、そんな事実はありません。ですから、あなたもよけいな『修理』などする必要はないのです。だから土壇場で回避行動をとった。ご自分でね)
「うっ!」
急に両方の太ももに痛みを覚え、和也は自分の下半身を見下ろした。
左の太ももに黒い[#「黒い」に傍点]グリップのドライバーが、右の太ももには濃い灰色[#「濃い灰色」に傍点]のグリップのドライバーが突き刺さり、その両方の傷口から黒い血[#「黒い血」に傍点]が流れ出していた。
和也は、改めて自分の両手を見た。その手を汚していたのは、晴美の血液ではなく和也自身のものであったのだ。
しかし和也は、無意識に晴美への暴行を回避していたことよりも、自ら傷つけた太ももの痛みよりも、もっと重大な異変に気づいて青ざめた。
視野から色彩が奪われていた。
6
目に入るものすべてから色が奪われ、モノクロームになっていた。晴美が着ているピンクのセーターも、彼女が唇につけていたピンク系の口紅も、工具入れから持ち出してきたドライバーの赤と緑のグリップも、それから晴美が嘔吐《おうと》した黄色い液体も、すべてが白か黒か灰色のモノトーンになって見えていた。
車内の光景だけではない。傍らを猛スピードで通りすぎてゆく数々の車も、みな黒か灰色の濃淡に彩られているか、あるいは白だった。空も青ではなくグレイで、そこにコントラストを利かせた白い雲がぽっかり浮かんでいた。
「色が……」
和也は愕然としてつぶやいた。
「色が消えた……」
(それも鏡子の怨念です)
頭の中で男の声が答えた。
(というより、そこの部分は、鏡子の父・川本一郎の怨念といってもよいかもしれません。カラー小説の企画を市ノ瀬恵造に罵倒《ばとう》された、彼の怨みがあなたと晴美さんに取り憑いた、その結果です。しかし、あなたがたの身に起きる異変は、これで終わりというわけにはいきません。まだまだつづきます。十三番目の夢は、それまでとは較べものにならないほど長いのです)
「いったい、いつになったら……」
和也は、かすれた声で聞いた。
「いつになったら終わるんだ」
「さあ、どうじゃろか」
「………!」
頭の中でしゃべりつづけていた男の声が消え、いきなり隣から女の声がした。
口調も声質も、あの老婆そのものだった。しかし、しゃべっているのは晴美だった。
「はる……み……」
「いつになったら終わるじゃろ。そもそもしまい[#「しまい」に傍点]はくるじゃろか」
「おい、晴美!」
和也は叫んだ。
「おまえ、なにしゃべってんだ。しっかりしろ!」
和也は、二本のドライバーを太ももに突き刺したまま、助手席の妻を揺すった。モノクロ映画を見ているような色彩の妻を……。
だが晴美は、夫の呼びかけにはまったく反応せず、うつろな目を宙に漂わせたままつづけた。
「ついてくる。わしらはずっとついてくる」
「晴美……晴美……」
和也は泣き出していた。
この悪夢の九日間、妻の晴美が感情的になって泣く場面は何度もあったが、和也が涙を流すのは初めてだった。
だが、止められなかった。
あふれる涙をぬぐおうともせず、永瀬和也は妻の頬に自分の頬をすりつけてうめいた。
「おねがいだ、晴美。そんな声を出さないでくれ」
「ついてくる」
夫の涙とも、呼びかけとも無関係に、老婆の声で晴美は繰り返した。
「この世の果てまでついてくる。赤、青、黄色、茶に緑。金、銀、紫、桃、橙《だいだい》。すべては消えて、白に黒、灰色だけの世の中で、おまえら死ぬまで苦しめる」
そして、晴美の口から洩《も》れる老婆の声は、節回しをつけて歌い出した。ひとりの喉《のど》からふたり分の声を出して。
「は〜あ、わしらはどこでもついてくる。逃げても逃げてもついてくるゥ。よいやさのさァ。はあ、こりゃこりゃエェ。晴美と和也の脳味噌《のうみそ》の、ぬくい蒲団《ふとん》にくるまって、わしらは毎日ご機嫌じゃ。気分がようて、可笑《おか》しゅうて、お味噌の中で踊り出す。よいやさのさァ。はあ、こりゃこりゃエェ」
耐えられなくなって、和也は黒い血にまみれた片手を、歌いつづける妻の灰色の唇へ伸ばした。その歌声を完全に封じ込めるために。
「うっぷ!」
口をふさがれた晴美が、苦しそうな息だけの悲鳴を洩らした。
「ごめん、晴美、ごめん。おれは……もう持ちこたえられない」
泣いて謝りながら、和也はさらにもう一方の手で妻の鼻をふさいだ。
「うぎゃぎゃぎゃぎゃ」「おぎょぎょぎょぎょ」
押さえ込む手のひらの下で、老婆の声が暴れていた。
晴美の身体もバタついた。
だが、和也は手をゆるめなかった。
いつか前にも同じようなことをした覚えがあるな、と微かに記憶を蘇《よみがえ》らせながら、和也は両手に込めた力をゆるめなかった。
呼吸困難に陥った晴美の顔が、どんどん黒くなっていった。耳の付け根まで真っ黒になっていった。
晴美は、夫の身体を押し返そうと渾身《こんしん》の力を込めて起きあがろうとした。その勢いで、妻にのしかかっている和也の肩先がバックミラーにぶつかった。
そのバックミラーの中で、屋根の上の黒い回転灯[#「黒い回転灯」に傍点]を点滅させる白と黒のツートンカラーの車の形が急速に大きくなっていた。
渋滞状況の監視のために走行していたパトカーが、路肩に停まっているRV車の異常に気づいて急接近してくる姿だった。
警察官が気づいた異常とは、停車しているにもかかわらず、RV車のブレーキランプが何度も何度も点滅し、ときにはそれがずっと輝きっぱなしになっている状況だった。その様子が、かなり遠方から目立って認められたのだ。
その不自然な点滅は、晴美の抵抗にあって押し返される和也が、ブレーキペダルに足を載せて踏ん張っていることにより生じたものだったが、パトカーに乗車する二名の警察官には、そんな事情はわからない。だが、職業的な直感が匂った。なんらかの事情で危険な目に遭っている運転者が、ブレーキペダルを踏みつけてSOSをアピールしていると感じ取ったのだ。
もちろん、警察官たちの目には、その点滅する光は赤く見えていた。黒ではなく――
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[#1字下げ]エピローグ
事件から三カ月ほど経った八月の中旬、猛烈に暑い日、永瀬和也の勤務先である出版社の正面受付に、ひとりの男が現れた。
その一分後――
生き残った長女とともに別の場所でひっそりと第二の人生を送っている葛城啓一郎に代わり、副編から編集長へ昇格した谷のデスクで内線電話が鳴った。
谷が取り上げると、受付の女性のやや戸惑った声が聞こえてきた。
「書籍部門の編集長にということで、受付にお客様がおみえです。お約束はないそうなんですが」
「誰?」
「それがおっしゃらなくて……あ」
受付の女性が驚く声とともに、ガサガサという雑音がして、しわがれた男の声に変わった。勝手に受話器を奪った様子が谷にも察せられ、緊張した。
「ああ、もしもし、突然で申し訳ありませんが、編集長さんでいらっしゃいますか」
男の言葉遣いはそれほど乱暴ではなかったが、どこか押しつけがましい響きがあった。と同時に、谷と指定しての訪問ではなく、ともかく書籍の編集長なら誰でもよいことがわかった。
なにか出版された書籍の中身に関する抗議で責任者を出せということなのか、それとも原稿の売り込みなのか。前者だと面倒だな、と思う谷の耳に、男のつぎの言葉が飛び込んできた。
「ついてくる」
「は?」
おもわず谷はきき返した。
「なんですって?」
「『ついてくる』という題の小説を書いたのですが、おたくで出版できないでしょうか」
なんだ、そんなことで、と谷は安心しながらも苦笑した。そして、なるべくこの電話が早く終わることを祈りながら、相手に言った。
「申し訳ないんですが、我が社は持ち込み原稿は一切お断りしているのです。毎年春と秋の二回、新人賞を募集していますので、よろしければそちらで」
「ぜんぶカラーで出したいんですがね」
谷の言葉など、まるで聞いていないふうに、男は勝手につづけた。
「小説を、カラーで……ですか」
「そうです。京都の寺院や風景や、なんやかんやで、かなりの点数の写真を用意してありましてね、それをカラーで載せたいんです」
「すると、京都のガイドブックか何かを執筆なさったんですか」
「いや、小説だと言ったでしょう。写真も小説の一部なんです」
男のしわがれ声がしだいに大きくなってきた。
「それでね、文字にも色をつけたいんです。あと、大きさや書体なんかもいろいろ変えましてね。文字も写真も本のデザインも、すべてが作品であるという考えの小説なんですけどね」
「おあいにくですが……」
谷は、出張の仮払金を持ってきた庶務デスクの女性に、いかにも面倒な電話なんだと言いたげに顔をしかめてみせながら、伝票にサインをして現金の入った封筒を受け取った。
その動作のついでに、といった感じで会話をつづける。
「我が社ではそういう種類の作品は受けつけておりません」
「カラー小説がいけないんというんですか」
「いえ、カラーだとかモノクロだという以前に、いま申し上げましたように、一般の方からの持ち込み原稿は……」
「編集長も出てきますよ」
「は?」
「編集長も登場人物のひとりなんです」
「私が?」
「いやいや、葛城さんですよ」
「………」
前任者の名前がスラッと出てきたので、谷は沈黙した。
「それだけじゃありませんでね。永瀬和也さんと奥さんの晴美さんも出てきます」
「永瀬たちも?」
谷の顔色が変わった。
永瀬和也は実家のある茨城県水戸市の、妻の晴美は東京都内の、それぞれ精神科の病院に入院している。一時は、妻に対する殺人未遂の疑いで高速道路上において緊急逮捕された和也だったが、加害者とみられる夫も、被害者とみられる妻も、両名そろって精神に異常をきたしていることが判明し、和也は不起訴処分となり、いまは心のコンディションの回復を気長に待つ状況となっていた。
会社の温情で、和也は今月すなわち八月までは総務部付で休職扱いになっていたが、八月末日付けで依願退職の形を取ることが決まっていた。復帰のメドが具体的に立つ見込みがないと判断されたからである。
しかし、それまでのあと半月ほどは、あくまで自社の社員である。だから谷も、男の言葉を聞き流すわけにはいかなかった。
「もしかして……」
急に谷は声をひそめてきいた。
「あなたは永瀬たちの身に何が起きたのか、ごぞんじなんですか」
「もちろんですとも。それが妙な形で世に出たら、困る方がいっぱいおられると思うのですが、私がまとめる小説にかぎっては、そんな心配はご無用です」
「……わかりました」
これは小説の売り込みという名目を借りた恐喝かもしれないと察した谷は、左手で内線電話の受話器を耳に押し当てながら、右手で自分の携帯電話を開き、総務部の法務担当者の社内メールアドレスを出して、それに宛てて短い文章を打ち込んだ。
≪ヤバめの来客あり。同席|乞《こ》う≫
ところが、その文章を送信しようとする直前に、受話器の向こうで男が言った。
「私は、決してヤバめの来客ではありませんよ」
「えっ!」
びっくりして谷は、自分の後ろをふり返った。誰かが液晶画面を覗《のぞ》き込んでいたのかと。だが、彼の後ろは壁だった。
全身が冷たくなった。
「あ、あ、あの……」
おもわず舌がもつれた。
「おたくさまは、どちらさまで」
「急に対応がていねいになるんですな」
「いえ、まだお名前を伺っていないことに気がつきまして」
法務担当者に宛てたメールの送信をとりやめ、携帯を閉じてから谷はつづけた。
「恐縮ですが、お名前を頂戴《ちようだい》できますか」
「諸星です」
男は言った。
「SF作家の諸星輝です」
「もろぼし……てる……さんですか」
聞いたことがなかった。が、そんなことは口に出せない。
「では諸星さん、受付の奧に喫茶室がありますので、そこでお待ちいただけますか。すぐまいりますので」
「必ずあなたひとりできてくださいよ」
諸星と名乗った男の声が言った。
「大事な話は一対一でしたいものですから」
「わかりました。……ああ、そうそう、あなたを見つける目印は」
「目印?」
「ウチの喫茶室は、打ち合わせをする作家や編集者でけっこう混んでいますので、たとえばお年とか、おうかがいできれば」
「年齢は意味ありませんな」
「意味がないとは」
「そのうちわかります。まあ、あえて私の特徴を申し上げるなら、目、ですかな」
「目?」
「黒目が異様に大きい。あまりに大きすぎて、人から気持ち悪がられるほどです」
「それだけでわかりますかね」
「ご心配なら案内をやりましょうか」
「案内?」
この男は何を言っているのか、というふうに、谷は眉《まゆ》をひそめながら言った。
「まあいいです。もしわからなければ、諸星さんのお名前をお呼びしますから。……ああ、そうそう、大事なことを忘れるところでした。本になさりたいというその原稿は、きょうお持ちなんですね」
「もちろんです。だいぶ焦げておりますがね」
「焦げてる?」
「はい。原稿も焦げましたが、私もだいぶ焦げました」
「………」
意味不明の応答を聞いて、谷はまた冷たくなった。
「あなたも焦げたとおっしゃいますが、いったいそれはどういう意味ですか。……もしもし……もしもし?」
しかし、もう男は電話に出なかった。
受話器を置くと、谷は妙に心臓が高鳴るのを覚えながら、淡い水色のサマージャケットを羽織り、胸ポケットに携帯を入れた。そして五階のエレベーターホールへ行き、ボタンを押して箱《ケージ》がくるのを待った。
ポーンと軽やかなチャイムが鳴って、上から降りてきた箱が静かに停止した。
扉が開いた。
(………!)
谷は棒立ちになった。
遺体を連想させる白装束を着たふたごの老婆が、エレベーターの中にちょこなんと正座をして並んでいた。
エレベーターに人が正座をして乗っているところなど、生まれて初めて目にする光景だった。しかも白装束。
いっしょに乗りたくない、と谷はとっさに後ろへ下がろうとした。
が、その意思とはまったく反対に自分の足が勝手に動き、エレベーターの箱の中に入ってしまった。そしてすぐに扉がしまり、エレベーターはゆっくりと下降をはじめた。
ふたごの老婆と谷以外に、誰も乗っていなかった。
「はあ、ありがたや、ありがたや」
いきなり右の老婆が、谷の足もとで、靴に顔をこすりつけんばかりに深々と頭を下げた。
すると、左の老婆も同じ動作で頭を下げて言った。
「こりゃ、ありがたや、ありがたや」
「な、な、なんなんです、あなたがたは」
谷は驚いて壁際に後じさった。
すると、ふたりの老婆は正座したまま、また谷の足もとへスススススと近寄ってきた。そして交互に頭を下げながら言った。
「とうとう本が出せるとは」
「あの世で一郎も笑うじゃろ」
「鏡子もきっと笑うじゃろ」
「髑髏《どくろ》を鳴らしてカチカチと」
「喜び踊って泣くじゃろう」
「ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なな」
「やあ、この、とおに、またひふみ」
「ぜんぶで十三、夢をみる」
「しまいの夢をみるまでは」
「帰りたくても帰られぬ」
「逃げ出したくても逃げられぬ」
ポーンとチャイムが鳴って、頭上のインジケーターが『一』を指した。
(え?)
老婆の奇行に凍りついていた谷は、その表示を見て目を疑った。算用数字の『1』ではなく、漢数字の『一』になっていた。
七階建てビルのエレベーターに取り付けられていた7・6・5・4・3・2・1という通常の階数表示はどこかに消え去り、いつのまにか一・二・三・四と漢数字の表示に置き換わっていた。そして最後は『十三』。
しかも通常の並び方とは数字の大小が逆順になっていた。
ドア脇の押しボタンは、『一』がいちばん上で『十三』がいちばん下になっていた。まるで地獄の底を暗示するかのように。
「こ……これは」
足もとに正座する老婆に何かたずねようとしたが、それよりも早く、谷と向かい合っていたふたごの老婆は、正座したままクルリと百八十度向きを変え、エレベーターのドアのほうへまた向き直った。
「第一夜!」
右の老婆が声を張り上げると、左の老婆がそれにつづいた。
「京都伏見の黒い猫!」
ドアが開いた。
「………」
編集長の谷は、口を開けたまま声を失った。
朱色の鳥居がびっしりと重なりながら、左にカーブを切って無限の彼方へとつづいていた。
(な、なんだ、これは。どうして会社にこんなものが)
本能的に逃げ帰ろうとして、谷はきびすを返した。
が――
「ウソだろう!」
反射的に大きな声が出た。
エレベーターの中にいたはずなのに、後ろも同じように朱色の鳥居が重なり合って、こちらは右のほうへとカーブを切りながら、やはり無限につづいていた。
いつのまにか谷は、その無限トンネルの真ん中に立っていた。着ている淡い水色のサマージャケットも、自分の肌も、鳥居の朱色に染まっていた。
ふと気づくと、ふたごの老婆は姿を消していた。
谷は、愕然《がくぜん》とした思いでふたたび前へ向き直った。
と、無限反射の鏡像のごときの朱色のトンネルの果てに、全身黒ずくめの男がポツンと姿を現した。そして、ゆっくりとした足どりで谷のいるところへ近づいてきた。
黒い上着に黒いズボン、黒い帽子に黒いネクタイ、黒い口|髭《ひげ》をびっしり生やし、驚くほど大きな黒い瞳《ひとみ》をした男は、谷のすぐそばまでやってくると、にっこり笑って握手を求めるように片手を差し出した。そして言った。
「ようこそ、京都十三夜物語へ」
本書は二〇〇一年四月にアミューズブックスより刊行された単行本『ついてくる 京都十三夜物語』に加筆・訂正し、文庫化したものです。
角川ホラー文庫『ついてくる』平成16年3月10日初版発行