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かげろう日記
吉村達也
目 次
プロローグ
一.陽炎
二.仁美と茜
三.執念・情念・怨念
四.継続された日記
五.雨の夜の謎
六.時の流れを追いかけて
七.ふたりのクリスマスイブ
エピローグ
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プロローグ[#「プロローグ」はゴシック体]
鑑識課員の焚《た》いたストロボが、死者の喉元《のどもと》を青白く浮かび上がらせた。
錆《さ》びたギターのスチール絃《げん》が、皮膚の一部を破って、首に深く深く、巻きついている。一本ではない。太い絃から細い絃まで、合わせて六本――
「驚きましたね」
刑事のひとりが、現場の指揮を執る警部補に向かってつぶやいた。
「被害者は六回も首を絞められていますよ。六回も」
「ああ」
遺体を見下ろす警部補が、硬い表情でうなずいた。
「ギターの絃を一本巻きつけるごとに、力いっぱい絞め上げた。それを六回繰り返す……六重殺[#「六重殺」に傍点]だ。見たことがない、こんなやり方は。殺すだけなら一度でじゅうぶんなのに」
* * *
吉井満智子《よしいまちこ》は、凍りついた顔で一冊のノートを見つめていた。
何の変哲もない市販の大学ノート。
表紙には細字のサインペンで、きちょうめんな字で「かげろう日記」と記されている。その下に「茜《あかね》」という名前がポツリと一文字。
驚愕《きようがく》の事実が、およそ一年にわたって記録されているという日記帳だった。
「『かげろう日記』を見れば、すべてがわかります」
そう語った人間の声が、いつまでも満智子の耳に残っていた。
「ただし、最後まで読み終えたあと、あなたが精神的に持ちこたえられるかどうか、それは保証できません」
携帯電話を通じて、途切れとぎれに聞こえてきたその言葉は、満智子にとって、一生記憶から消すことはできない。
「恐ろしい日記です」
相手はささやくように言った。
「ほんとうに恐ろしい日記です」
性別も判断できないような弱々しい声で、相手は繰り返し強調した。
電話を受けた満智子が、なんと応じてよいのか言葉に詰まっていると、長い間をおいて、相手は不思議な問いかけをしてきた。
「世界中の恋愛の数と、世界中の失恋の数を較べたら、いったいどちらが多いのでしょうか? 失恋を知らない恋もあれば、恋を知らない失恋も……あるんですよね」
「ねえ」
電話回線のこちら側にいる満智子は、ようやく口を開いた。これ以外に、言うべき言葉はなかった。
「とにかく、死なないで。ね、わかるわね。死んだらぜんぶおしまいになるのよ。がんばって。すぐ救急車を呼んであげるから。だから教えて、あなたはいまどこにいるの」
「いいんです」
相手の言葉は、あきらめに満ちていた。
「もういいんです」
「どうしてそんなことを言うの!」
叱りながら、満智子は泣いていた。
悲しみというよりも、恐怖と混乱が生み出す涙だった。
「どこにいるのよ。自宅じゃないなら、どこだっていうの。早くしないと、あなた……」
「わかってます」
その声は、ほとんど息だけだった。
「さいごに……おねがい、が」
「なに。なによ」
「母に……ごめんなさいと……つたえ……て」
そして、電話回線がつながったまま、相手はこの世に背を向けた。
もしもし、もしもし、と満智子は金切り声で呼びかけた。
「死なないで。死んじゃダメよ!」
だが、返事は聞こえてこなかった。いつまで待っても、聞こえてこなかった。
その翌日、睡眠薬自殺を遂げた人物によって投函《とうかん》された一冊の大学ノートが、吉井満智子の自宅に郵送されてきた。それが、茜という名の女性が書いた『かげろう日記』。
このままページを開かずに警察に、あるいは関係者に渡すべきか、それとも死の直前に自分あてに送ってきた相手の気持ちを尊重して、中身を読むべきか――ノートを前にして、満智子はためらっていた。
好奇心からすれば、もちろん、読みたい。
けれども、ゆうべ聞いた電話越しの言葉が忘れられない。
「ただし、最後まで読み終えたあと、あなたが精神的に持ちこたえられるかどうか、それは保証できません」
そこまで言わせるような日記とは何なのか。それを読み終えたあと、ほんとうに自分の精神状態が危うくなってしまうのか。吉井満智子は、迷いに迷った。
彼女は、自殺直前に交わした会話内容の詳細や『かげろう日記』が送られてきた事実を、警察にも遺族にも伏せたまま、葬儀に出た。事情が事情だけに、身内のみでひっそり執り行われた密葬だったが、満智子は相手の母親から特別にすすめられて参列した。そして、棺《ひつぎ》の中に入った本人の遺体と対面した。
(怖かったのね)
声には出さず、満智子は白装束に包まれた相手に語りかけた。
(あなた……ほんとうに恐ろしかったのね)
満智子の半分ほどしか人生を生きずに、自らの命を絶った若者は、黄色くなった指を組み合わせたまま、何も答えなかった。
背後では、母親が、こらえきれずに嗚咽《おえつ》を洩《も》らしていた。その悲しみのうめき声を聞いても、なお満智子は、遺族に最期の電話の内容を語ることができなかった。
もしもそれを伝えるなら、まず自分が例の日記を読んでからだ、と考えていたからである。
そして、若者が煙となって天に昇っていったその日の夕方――
葬儀から戻った吉井満智子は、ようやく覚悟を決めて、大学ノートの表紙を開いた。『かげろう日記』の扉を……。
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一.陽炎[#「一.陽炎」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
朝から木枯らしが吹き荒れていた。
十二月中旬の東京は、例年になく早い寒波のせいで、真冬並みに冷え込む日がつづいていた。
都内の精密機械メーカーの宣伝部に勤める町田輝樹《まちだてるき》が住んでいるマンションは、隣接する神奈川県の郊外にある。葉を落とした広葉樹がみすぼらしい姿で立ち並び、地面で枯れ葉が渦を巻いて踊っている光景は、ますます寒々しさを募らせた。
だが、輝樹はそんな窓の外の景色に注意を向けていられる状態ではなかった。
午前七時半。日の出が遅い十二月でも、さすがにこの時刻になれば、空は明るい朝の色に変わっている。もうそろそろ会社に出かけなければならない時間だった。しかし、輝樹はまだスーツにも着替えず、独り暮らし用の小さなダイニングテーブルのそばに、寝巻代わりのスウェット姿で立ち尽くしていた。
テーブルの上には、一冊の大学ノート。
その表紙には、細字のサインペンで「かげろう日記」と記されてあった。その字には、もちろんはっきりと見覚えがある。忘れられるはずもない。大学三年のときにつきあいはじめた一学年下の女子学生で、おたがいに社会人になってからもその関係をしばらくつづけていた内藤《ないとう》茜の筆跡である。題名の下にもちゃんと「茜」と記されてあった。
しかし彼女とは、すでに去年の八月に別れていた。四年四カ月つづいた交際にピリオドを打つことを言いだしたのは、茜ではなく、輝樹のほうだった。茜は決して輝樹との関係を終わらせたくはなかったのだ。それを無理やり切った。
すんなり別れられたわけでは決してなかった。だが、いまとなっては精神的にも物理的にも、内藤茜は過去の人間だった。なぜならば、茜はもはやこの世にいない。別れてから十カ月後の、ことし六月十六日、大雨の日に彼女は死んでしまったからだ。
病気ではない。事故でもない。自殺でもない。殺されたのだ。
しかし、正直なところ輝樹は、意外なほど茜の死に対して悲しみを感じていなかった。ショックではあり、大きな驚きではあったが、悲しみは湧いてこなかった。むしろ、お荷物が消えた、というのが率直な感想だった。そんな反応が、いかに冷酷なものであるかを自分で意識しないわけではなかったが、それが嘘偽りのない本音だった。
もちろん、その本音は永遠に自分の胸にしまっておくつもりである。
茜とつきあったうちの、少なくとも最初の二年は、熱愛といってよかった。おたがい学生どうしだったからなのだろう。十年後も二十年後も、愛しあいながら仲良くふたりで暮らしていることを、輝樹も信じて疑わなかった。
しかし、輝樹が一足先に卒業して社会に出たあたりから、熱愛の温度が微妙に下がっていった。
さらに一年後、茜が千葉に本社がある食品会社に就職すると、彼女のほうも自由になる時間が減ってしまったこともあって、輝樹としては「会わなくても済む」状況が増えた。それによって、彼の茜に対する気持ちはさらに冷めていった。
一方、茜のほうは、出会いのときとまったく変わらない愛情を、輝樹に注ぎつづけていた。それは輝樹にもわかっていた。わかっていたから、煩《わずら》わしかった。
縛られている、と輝樹は思うようになった。単純な拘束ではなく、人生そのものを茜によって規制されていると感じた。学生のときは、それでよかった。愛する女性に縛られる人生も悪くないと思っていた。だが、社会に出てから、すっかり変わった。
茜以外に目移りした女性がいた、というのが原因ではない。そうではなく、男女の恋愛よりも面白くて刺激的なことが、仕事の世界にあったのだ。学生時代にはなかった興奮だった。それにのめり込みはじめたとき、輝樹としては、茜に一歩|退《ひ》いていてほしかった。決して愛が冷めたのではなく、新しい世界が拓《ひら》けたので、しばらくそちらに集中したいというだけだったのだ。
もしも茜が同時期に社会に出ていれば、そういった輝樹の気持ちも自分の身に置き換えて理解してくれただろう。だが、輝樹が仕事の面白さを知ったとき、茜はまだ大学四年生。学生には社会人の気持ちは理解できなかった。
茜は輝樹が自分から逃げ出そうとしていると誤解し、その言い訳として仕事を持ち出したのだと思い込んだ。学生だから、被害妄想をふくらませる時間は無限にある。その結果、彼女が輝樹を束縛しようとするエネルギーは、ますます強まっていった。
そしてそのことが、かえって輝樹に新しい恋人を作らせるきっかけになった。よくある展開ではある。ただ、めったにない展開は、茜が死んでしまったことだった。二十四歳という若さで――
それは輝樹にとっても、青天の霹靂《へきれき》ともいうべき出来事だった。ある朝テレビを見ていたら、「内藤茜さん」の死を伝えるニュースをやっていたのである。
土砂降りだった前夜七時半ごろ、帰宅途中の茜は、午後八時まで開いている自宅近くのATMで現金を引き出した直後に、フルフェイスのヘルメットをかぶった男に襲われた。おろしたばかりの金を入れたバッグごと奪われそうになり、茜は必死に抵抗しながら「泥棒!」と叫んだ。その叫び声を聞いて駆けつけたのは、塾帰りのふたりの小学生だったが、彼らが直接助けられるはずもなく、できたことといえば、近所の商店に駆け込んで急を告げたことと、犯人の風体を証言することだけだった。
警察に連絡したあと、商店主が駆けつけるまでのあいだに、男は何も盗《と》らずに逃げた。いや、ひとつだけ奪ったものがあった。茜の命である。彼女は男が繰り出したナイフで致命傷を負わされた。その犯人は、半年近く経ついまもなお、つかまっていない。
放心状態でテレビのニュースを見たその日の晩、町田輝樹は刑事の訪問を受けた。内藤茜の交友関係をたどれば、捜査陣が元恋人の彼を調べるのは当然といえた。
だが、目撃談によれば、犯人の男は身長百六十五センチぐらいで小太り。それに引き換え、輝樹は身長が百八十二センチもあり、やせ型だった。しかも彼には事件当夜のアリバイが明白にあり、なによりも自分のしわざではないことは、輝樹自身がいちばん承知していた。
ほどなく、彼は捜査対象から消えた。
身の潔白が証明できたとき、輝樹はホッとした。自分のことではなく、茜がそういう死に方をしてくれたことに、である。茜は自分の前から永遠に消え去ったのだ、もう二度と目の前に現れることはないのだ、と認識したとき、いかに彼女の存在が精神的な重荷になっていたか、輝樹は思い知った気がした。
そして、時の流れが茜との日々の記憶を完全に消し去ってくれるのを待とう、と自分に言い聞かせたのだった。
ところが――
彼女の死からおよそ半年後、茜の字で書かれた日記らしきものが突然、輝樹の住まいに郵送されてきた。
それは昨日のうちにマンションの集合ポストに届けられていたものだったが、輝樹は前夜は遅くまで会社で残業をしており、くたくたになって帰宅し、郵便物を確かめる気力もなく、そのまま三階の自室に直行したのだった。
そしてけさ起きて、スウェット姿で朝刊を取りに集合ポストまで降りていったとき、郵便受けのいちばん下に、ノート大の茶封筒が入っていることに気がついた。
「町田輝樹様」という宛名や住所は、ワープロで印字してあった。しかし、裏返しても差出人に関する情報は何も書かれていない。不審に思いながら、部屋に戻って開封してみたら、中から一冊の大学ノート。そしてその表紙には、忘れもしない特徴的な字が記されていたのだ。
輝樹は愕然《がくぜん》とした。
たんに別れた元恋人の日記が郵送されてきても、その唐突さに驚いただろうが、内藤茜は半年前に死んでいるのである。すでにこの世にいない、かつての恋人の字で「かげろう日記」と記されたノートが届いたとなれば、凍りついたように動けなくなるのも無理はなかった。
寝起きに沸かしたコーヒーメーカーの茶色い液体は、煮詰まりすぎて、芳香を通り越して鼻につく焦げ臭さを発していた。が、そんなことにも輝樹は気づくゆとりがない。
間違いなく茜の筆跡である「かげろう日記」の文字を見つめたまま、もうどれほどの時間が過ぎたか、わからなかった。だが、まだ輝樹はそのノートを開いていない。中身を読む前に、誰がこんなものを郵送してきたのかを考える必要があった。
茜の両親が送ってきたのだろうか、とまず思った。茜はひとりっ子だが、両親は健在だ。悲劇的な死を遂げた娘の遺品を整理していたらこの日記が出てきて、その中身を読んだところ、昔の恋人に関する記述が多くあり、それならばと輝樹本人に郵送してきたのかもしれない。輝樹は茜の両親に直接会ったこともある。
だが、その推測には多くの疑問があった。
第一に、もうふたりの恋愛関係は終わっているのである。事件の十カ月も前に。
第二に、彼女の親が送ってきたものならば、差出人を記してないのがおかしい。そこはうっかり書き忘れたと解釈するにしても、宛名がワープロ印字というところに、差出人の正体を隠すような意図が感じられ、両親のやったことにしては不自然すぎた。
第三に、たとえそこに輝樹への忘れがたい恋情が――あるいはその逆に、怨《うら》みつらみが綿々と綴《つづ》られていたにしても、事情説明の手紙ひとつ添えずに、ノートだけをポンと送ってくるような非常識な真似を親がするだろうか。そんなタイプの人間でないことは、過去に数度顔を合わせている輝樹がいちばんよく知っていた。
第四に、消印が輝樹の住まいを管轄する郵便局のものになっているのも、かなり作為的だった。投函《とうかん》者は、直接届ければ済むような距離にきていながら、あえて郵送という手段を用いた。あるいは、最初から郵送するつもりでいながら、輝樹の暮らしぶりを自分の目で見たくなって、このマンションまできたような感じも受ける。
無気味だった。
どう考えても、親が送ってきたとは思えなかった。
親でないとすれば、ついで考えられる送り主の候補者は、茜にとって何人かいた仲のいい女友だちだった。『かげろう日記』が、輝樹に捨てられた悲しみにあふれていたものだとすれば、それを読んだ親友が茜に同情し、昔の恋人だった男を糾弾するつもりで郵送してきた可能性は大いにある。
そう思えば、差出人が書いてないことも、宛名が筆跡を隠すためのワープロ印字であることも納得できるし、消印が近くの郵便局であるのも、輝樹の近況への興味とみれば妥当な行動である。また、よけいな説明を加えずに日記だけを送りつけたのも、輝樹の気持ちを揺さぶりたいという、友人としての怒りが見えるようだった。
だが、これにも根本的な疑問があった。
茜が悲しみの末に自殺をしたというなら、この仮説は大いに説得力がある。しかし彼女は、いわば通り魔的犯行の犠牲者なのだ。ひったくりにあって抵抗したことが悲劇を招いたのであって、彼女の死は、自分がふったこととは何の関係もないはずである。だから、個人的な秘密に満ちた日記を、事前に友人に託していたわけがない。
わからなくなってきた。考えれば考えるほど、差出人の正体がわからなくなってきた。
そうこうしているうちに、ほんとうに会社に遅れそうな時間になってしまった。そこで輝樹は、誰がこれを送ってきたのかという疑問を棚上げして、とりあえず最初の数ページだけでもざっと目を通そうと気持ちを固めた。
大学ノートの表紙に手をかけたとき、「やめろ、やめろ」と警告する声が心に響いた。「読むな。死んだ女の日記など、読むんじゃない」と。
だが、指先の動きは止められなかった。彼はゆっくりと『かげろう日記』の扉を開けていった。小刻みに指先が震えているのを意識しながら……。
2[#「2」はゴシック体]
日記は、輝樹が茜と別れてから四カ月後の、昨年十二月九日からはじまっていた。
まだふたりが恋愛中だったころの日記だろうと想像していた輝樹は、まずそのことに面食らった。まさか、自分と別れたあとに書きはじめたものだとは思わなかった。
と同時に、この日記がいつの日付で終わるのか、それが気になった。
日記をつけはじめたのが去年の十二月なら、内藤茜は、そのわずか半年後には殺される運命にあるのだ。もちろん、書き出した時点で彼女はそんな自分の未来を知るはずもない。それだけに、最期の日に向かって日記が突き進んでいくのだとしたら、先を読み進んでいくのが輝樹は恐ろしかった。死ぬ日が決まっているのに、それを知らずに日記を書いていく人間を見つめるのが怖かった。
でも、彼は扉を開いてしまった。『かげろう日記』の扉を。
個性的な茜の文字が、圧倒的な迫力をもって輝樹の網膜に襲いかかってきた。
* * *
12月9日[#「12月9日」はゴシック体]
きょう、新しい日記帳を買いに街へ出た。ひきこもりアーちゃんにとって、ひさしぶりの外出(苦笑)。
けれども、残念ながら私の目的を満たす品がなかった。店先に並ぶ来年用の日記帳は、一月一日から書きはじめることを想定している。だから前の年の十二月分は付け足しのようなもので、せいぜい最終週の数日だけしか記入欄がない。
それでは私は困るのだ。なぜなら私は、ことしの十二月十二日、二十四回目の誕生日にある重大な決意をして、その決意を日記に書き残し、これからの自分の生きる目標として定めたいのだから。
でも、適当なものが売っていないなら仕方ない。代わりに近くのコンビニで大学ノートを一冊購入。これを日記帳代わりとすることに決めた。
表紙にこの日記のタイトルを書き込む。
かげろう日記[#「かげろう日記」はゴシック体]
ちなみに、古典文学の『蜻蛉《かげろう》日記』と違って、私の「かげろう」は「陽炎」のほうだ。いまの私は、陽炎に行く手を阻まれているから。
ことしの夏、最愛の輝樹に捨てられてからというもの、私は未来が見えなくなっていた。現在も見えなくなっていた。いまを見つめようとしても、先を見通そうとしても、ゆらゆら揺らめく陽炎に邪魔されて、視界が利かない。
ただ、私の後ろには陽炎は立っていない。過去をふり返れば、それはハッキリ見えるのだ。輝樹といっしょに過ごした甘い思い出の数々も、輝樹に捨てられた苦悩の日々も、それはもう、どぎついほど生々しく蘇《よみがえ》る。
意地悪な陽炎は、私に過去しか見せてくれない。私と未来とのあいだに「とおせんぼ」をして立ちはだかり、私と現在とのあいだにも、ぐるりとベールを張り巡らせる。
私はもう、過去だけ見つめて生きていくしかないのだろうか。
12月10日[#「12月10日」はゴシック体]
部屋の片隅に立てかけてあった白いフォークギターを手にとって、ボロンと弾いた。
大学二年の四月、まだ私が十九歳のときに、一学年上の輝樹と出会い、そしてその年の十二月十二日――二十歳の誕生日にプレゼントされたのが、このフォークギターだった。
最初は顔が映るのではないかと思えるほど輝いていた白いギターも、いまはだいぶくすんでしまっていた。
「まるで、オヤジの世代みたいなレトロ感覚の贈り物かもしれないけど……」
バースデープレゼントにしては、あまりにも大きな包みに驚いている私に向かって、輝樹は少し照れながら言った。
「でも、おれ、茜の声が好きなんだよね。ハスキーな感じで大好きなんだ。とくに歌声がね。茜の声って、フォークギターが似合うと思った。だから、これを弾きながら、おれのためにいろんな歌を聴かせてほしい」
じつは、私の最大のコンプレックスは声だった。
初めて私と話をする人は、たいてい心配そうにこうたずねてくる。風邪、引いたんですか、と。
地声です、と答えたときの、相手の気まずそうにうろたえる顔を、何百回見たかわからない。
小中高と音楽の成績が悪かったのも、ぜんぶこの声のせいだと信じていた。歌のテストがイヤだった。決して音痴ではないのに、声がかすれて途切れとぎれになるから、音楽の教師は「ああ、この子はダメね」という顔をする。教師としては、そんな表情をしたつもりはないかもしれないが、私にはそう見える。
音楽だけではなく、国語や英語の朗読で当てられるのもイヤだった。国語はまだしも、英語のほうは発音をチェックする意味合いもあって、聞き取りにくい私の声に対して、英語の教師はあからさまにこう言ったものだ。
「内藤さん、もっとハッキリ」
傷ついた。ざっくりと傷ついた。
私の心は、周りの人間が手にしたカッターナイフでぼろぼろに切り裂かれていった。
それなのに、輝樹は私の声がいいとほめてくれた。
たぶん――そう、たぶん、彼は私のコンプレックスを見抜いていた。そして、物心ついてからずっと背負ってきた劣等感を、逆に個性としてほめることで、私に明るさを取り戻させようとしてくれていたのだ。
うれしかった。
包みを開けて、白いギターを目にしたとき、私は泣いた。
「茜、ギターは弾ける?」
輝樹がやさしくたずねてきた。涙をこぼしながら首を左右に振ると、彼はにっこり笑って、まず自分でそのギターを手にとった。そして、慣れた手つきで六本の絃《げん》をチューニングしてから、私の知らない歌手の、知らない歌を歌ってくれた。
ギターはものすごく上手だったけれど、輝樹は、とてつもなく音痴だった。おもわず私は笑った。涙をこぼしながら笑った。
「おれ、歌はめちゃダメなんだよね」
かわいい、と思わず言いたくなる顔で、輝樹ははにかんだ。
そんな彼に、私は言った。
「じゃ、ギター、教えてくれる?」
「ああ、もちろん教えてあげるよ。茜の歌声をいっぱい聴きたいからね」
それが単純なおせじであってもいい。彼なりの心理療法であってもいい。私は、素直に自分の声が個性的な魅力を持っていることを信じようと決めた。ほかの人間があざ笑ってもかまわない。輝樹だけが認めてくれれば、私はそれでいいのだ。
「さあ、持ってごらん」
輝樹が私にギターを差し出した。
どうやって構えていいのかもわからない私に、輝樹が手を取って教えてくれた。寒い冬なのに、温かい手だった。
もちろん私は、コードなんて何も知らない。だから左手はどの絃も押さえず、ただギターのネックを支えるだけにして、右手でボロンと六本の絃を撫《な》で下ろした。
その響きは、いまでも覚えている。最初に私が奏でたギターの音色というものは……。
12月11日[#「12月11日」はゴシック体]
きょうも白いフォークギターをボロンと弾いた。力なく。
左手はどこのフレットも押さえていない。だから六本すべてが開放絃。そこまでは、初めてギターを弾いたときと同じだけれど、いまはチューニングが狂っている。
輝樹に捨てられたいま、このギターだけが輝樹の分身。フレットの部分にも、胴体にも、絃の一本一本にも、輝樹の指紋が付いている。指先からにじみ出た汗や脂が付いている。だから私は、このギターを拭《ふ》いたりできない。輝樹の指紋を消したくないからだ。そのせいで、日に日にギターはくすみを帯びてくる。
スチール絃も、とくにいちばん太いほうの五絃と六絃が錆《さ》びはじめていた。けれども、私は決して絃を取り替えない。輝樹の身体からにじみ出たエキスが付着した絃を、捨てたりできるはずもない。
おかげで、どんなに調整しても、すぐに絃は調子を狂わせる。だから最近ではチューニングもしていない。その状態で、六本の絃をまとめてかき鳴らすと、不協和音とさえ呼べない破滅的な音と音とのぶつかりあいが空気を不愉快に揺らす。
バッドチューニングの開放絃。いびつな私の心みたい……。
もしかすると、これは音の陽炎《かげろう》?
そうかもしれない。陽炎みたいにゆらゆらと揺らめく音しか出せなくなっている。そのギターをかき鳴らし、私は輝樹がほめてくれたかすれ声で歌うことにしよう。自分で作詞作曲した『陽炎』を。
バッドチューニングの開放絃という、たったひとつのコードのみの伴奏で。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
陽炎が燃えている
私の瞳《ひとみ》の中で
未来など、見るんじゃないって
陽炎が燃える
陽炎が揺らいでる
私の心の中で
現在《いま》のこと、信じるなって
陽炎が揺らぐ
陽炎が笑ってる
私の身体の中で
過去だけに、しがみつけって
陽炎が笑う
どこまでも、どこまでも
意地悪な陽炎
いつまでも、いつまでも
意地悪な陽炎
[#ここで字下げ終わり]
歌い終えたときの静けさが、たまらなくつらい。私の声が消えたあとも、かすかに残るギターの残響。その余韻も収まったとき、ギターを鳴らしているときには確実にあった輝樹の存在感も、いっしょに消えていく。
そして私は、ひとりぼっちであることを痛感する。
明日は私の誕生日。
二十四歳の誕生日。
祝ってくれる人は……誰もいない.
3[#「3」はゴシック体]
十二月十一日までの日記を読んだところで、町田輝樹はスウェット姿のまま、冷や汗を額に滲《にじ》ませていた。
明日は私の誕生日、という部分まできて、初めて気がついた。彼は、日記の入っていた茶封筒といっしょに持ってきた朝刊の日付に目をやった。
十二月十二日――
きょうは、死んだ茜の誕生日だった。生きていれば二十五歳の誕生日だった。
その事実を、輝樹はあっさり忘れていた。毎年毎年、その日だけはすべてのスケジュールに優先して茜のために時間を割いていたのに……。
五年前、茜の二十歳の誕生日には、輝樹は白いギターをプレゼントした。茜が日記で書いていたような、おせじでもなければ、劣等感を癒《いや》すための心理療法でもなく、心から彼女のかすれた声をセクシーだと思っていたから、本心からその歌声を聴きたくて、ギターを贈ったのだ。
四年前、二十一歳の誕生日は、おたがいにちょうど期末試験の中休みにあたっていたので、ふたりで伊豆《いず》へ泊まりがけの旅に出た。泊まったのは安いペンションだったが、徹夜で楽しく語り明かしたものだった。
三年前、二十二歳の誕生日は、輝樹は社会人一年生で仕事も忙しかったが、それでも茜といっしょに、かなり高級な店でイタリアンのディナーをともにした。
ただそのとき、仕事関係の女性と会食するときのような知的な会話を茜とは交わすことができず、社会に出た人間と、まだキャンパスで自由気ままな日々を過ごしている人間との落差を感じて物足りなく思ったことを覚えている。
二年前、二十三歳の誕生日は、茜も会社勤めをしており、ようやく同じ感覚で話ができると思ったが、一足先に社会に出たギャップが、どうしても埋められなくなっていた。同じ大学に通っているころは、一学年の違いなど、ないも同然だったのに。
もしもふたりの出会いが、たがいに社会に出てからであれば、それはそれで入社年度の差などまったく気にならなかっただろう。しかし、たった一年間だけでも、社会人と大学生というふうに立場が違っていた、その違和感が、のちのちまでずっと尾を引くことになった。
その一年で、輝樹は、愛というもののとらえ方が、自分と茜とでは決定的に違うことを思い知った。茜は相手を縛り、相手に縛られることこそ強烈な愛、と思っていた。輝樹は、おたがいの自由を尊重しあえることこそ、信じられる愛、と思っていた。その考えの差が、立場を異にする一年で一気に噴き出してしまったのだ。
そして去年――この日記で前日まで読むかぎり――茜は二十四歳の誕生日をひとりぼっちで迎えたらしい。輝樹のことを想いつづけたまま。
やがて、彼女は半年後に死んだ。二十五歳の誕生日は永遠にこなかった。だが、生きていれば、きょうがその誕生日なのだ。それなのに、輝樹にとって十二月十二日という日は、もはや十二月十一日と十三日に挟《はさ》まれた日という以上の意味あいは持っていなかった。
忘れていた。完全に忘れていた。そして、それを思い出させるために、この『かげろう日記』が届けられたのだ。
「誰だ」
輝樹は声に出してつぶやいた。
「誰がこれを届けてきた」
額から噴き出した冷や汗が、頬を伝って唇まで落ちてきた。
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二.仁美と茜[#「二.仁美と茜」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
「町田さん……ちょっと待って、町田さん!」
数十もの企業が入居しているインテリジェントビルの正面玄関からは、夕方五時半を過ぎると、退社するサラリーマンやOLたちがどっと道路へと吐き出されていく。近隣のビルも同じ状況なので、ターミナル駅に向かう道路は、車道のほうへ人がこぼれそうなほど混みあっていた。
冬の五時半は、完全な夜である。二週間ほど後にクリスマスイブを控えた夜の都会は、いつもより何倍も美しく輝き、家路につくために駅へ向かう会社員の人波も、飾り立てたショーウインドウの光を浴びてきらめいていた。
「町田さん、ねえ、町田さんてば」
その人ごみの中をかき分けながら、栗田仁美《くりたひとみ》は先を行く町田輝樹の背中に、また大きな声をかけた。この群衆の中に、同じ社の人間が交じっている確率は非常に高いので、いちおう社内で呼ぶのと同じ、他人行儀な「名字+さん付け」にした。
しかし、片手にアタッシェケースをさげた輝樹は、何の反応も示さずに、駅の方角に向かってどんどん歩いていった。着ているコートの裾《すそ》がひらひらと舞い躍るほど早足で、しかも長身であるぶん歩幅も大きかったから、小柄な仁美は白い息を吐きながら、ほとんど走らなくてはいけなかった。どうにか追いつけたのは、駅前の交差点の信号が赤になってくれたおかげだった。
「おいっ、町田輝樹」
信号待ちをしている輝樹の横に並ぶと、その脇腹を肘《ひじ》でつつきながら、仁美は荒い息をついて言った。
「聞こえているのに聞こえないフリっていうのは、まずいんじゃないの」
「あ……仁美か」
輝樹は、びっくりした顔で横に立った女をふり返った。
「呼んでた、おれのこと?」
「町田さ〜ん、町田さ〜んってね。いちおう社を出てから百メートル範囲内では、公私混同しないように、オフィシャルな呼び方をさせていただきましたけど」
と言って、仁美はキュッと口を一文字に結び、無視された怒りを表わした。
栗田仁美、二十四歳。
輝樹と同じ宣伝部に配属されている入社二年目の、キュートな顔立ちに、めまぐるしく表情の変わる感性豊かな女の子だった。百五十センチしかないコンパクトなボディだが、そのバイタリティには周囲のみなが感心する。
町田輝樹が栗田仁美と親密な関係になったのは、去年の五月。仁美が新入社員として宣伝部に配属されてすぐ、内藤茜と別れる三カ月前のことである。それ以来、一年半以上が過ぎていたが、社内でふたりの関係に気づいている者は、ごく少数しかいなかった。
彼らの上司にあたる宣伝部長は、吉井満智子という五十四歳のベテランだったが、さすがに女のカンというべきか、彼女はふたりの関係に気づき、こっそりと忠告した。社内でつきあうからには、結婚を前提とした真剣なおつきあいにしなさい、ただし、結婚が正式に決まるまでは、おおっぴらにしないこと、と。
社長は「社内結婚を否定はしないが、入社まもない段階で女性社員を私物化することは、経費をかけて新卒社員を採用した会社の努力を無にする行為」として、厳しく禁止していた。だから直属の上司として、吉井満智子は愛情のこもった警告を発したのであり、そのアドバイスにしたがって、ふたりはたがいの関係を見抜かれまいとして、過敏なほど気をつかってきた。
ただし、その背景にある心情は、輝樹と仁美とではだいぶ異なっていた。
仁美は、入社直後、二年先輩の輝樹をひとめ見たときから、結婚するならこの人しかいない、と直感した。彼と出会うために、私はこの会社に入ったのだという宿命的なものすら感じていた。
だから仁美としては、輝樹から誘われたときには天にも昇る思いだったし、宣伝部長の忠告どおり、彼の社内的立場がまずくならないように、適切な時期がくるまでふたりの関係を秘密にしつづけていた。もっとも、本音の部分では、私は町田輝樹と身も心も結ばれているのよ、と社内じゅうに言いふらしたくて、うずうずしているところがあった。
一方の輝樹は、スタンスがまったく違っていた。たしかに彼は仁美が好きだった。好きだから自分から誘ったし、そこには性欲以外の精神的な感情も間違いなく存在はしていた。だが、それは愛とは違っていた。愛と呼ぶまでには昇華しきれていない、「好意」の強まったものにすぎなかった。
仁美が輝樹との結婚生活をすぐ思い描いたのとは対照的に、輝樹は結婚を前提として仁美とつきあっているとは言い難かった。だからこそ、ふたりの交際はできるだけ周囲に知られたくなかったのだ。最終的に責任をとる自信がなかったから。
というのも、輝樹が栗田仁美を誘ったきっかけは、内藤茜の束縛から逃れるための、いわば緊急避難的なものだったからである。それが、いつのまにか一年半以上もつづいていた。その交際期間の長さを、仁美は、輝樹が真剣である証拠と受け取っていた。そこが輝樹としては心の痛むところであった。
茜に対してもそうだったように、いまの彼も、仁美との恋愛を人生のすべてとする気はなかった。とにかく仕事が面白いのだ。そして仁美は、同じ宣伝部にいて仕事上のパートナーでもあり、そちらでも非常に相性がよかったから、個人的な関係をつづけている部分が多かった。ずるいといえば、ずるい態度かもしれない。
そんな輝樹の心情を、仁美は知らない。
「とにかく、ほんとうに何も聞こえなかったんだよ」
長身の輝樹は、三十センチ以上も低い仁美を見下ろすようにして弁解した。
「もし仁美が呼んでいるってわかってたら、ちゃんと立ち止まるよ」
「そうかな。輝樹の後ろ姿は、私の声から逃げているようにしか見えなかったけど」
「後ろ姿だけで、人の心が見抜けるのかい。そりゃたいしたもんだ」
「ちょっとー」
輝樹の肘をコートの上からつかむと、仁美は、ぐいと自分のほうに引き寄せた。身長差があるので、その勢いで輝樹は身を屈《かが》めざるをえなかった。
「私の観察力を見くびらないようにしてよね」
少しだけ声をひそめて、仁美は言った。
「いまの輝樹は、絶対『心ここにあらず』状態だった」
「まあ、たしかに……そうだった」
仁美につかまれていたコートの袖《そで》をゆっくり引き離しながら、輝樹は身を起こした。
「間違いなく、おれは考えごとに夢中になっていたよ」
「どんな考えごと?」
「仁美にあげるクリスマスプレゼントは何がいいかな、って」
「ウソっぽい」
目に怒りの色をたたえてズバッと言いきってから、急にパッと笑顔に変わって、仁美は言った。
「ね、今夜いっしょに食事できない?」
「今夜?」
輝樹は困惑の表情を浮かべた。
「いきなりだなあ」
「べつに改まったところじゃなくてもいいの。居酒屋でも、そのへんのラーメン屋でもいいから、いっしょにごはん食べよ」
「う〜ん」
「私がおごるから」
「悪いけど……」
輝樹は、右手にさげていたアタッシェケースを小脇に抱え直して言った。
「先約があるんだ」
「誰と?」
たずねながら仁美の視線は、輝樹が抱え込んだアタッシェケースに行く。その中に何か秘密のものでも隠しているのではないか、といった目つきのように、輝樹には感じられた。
「知り合いだよ」
輝樹は答えた。
「知り合い?」
笑顔だった仁美が、またクルッと冷たい表情に変わる。
「なんか、すっごい微妙なニュアンス感じるんだけど、その『知り合い』っていう言葉に」
「そうかな」
「その人、男なの? それとも女?」
「なんでそんなこと気にするんだよ」
「ちゃんと答えて。じゃないと、ここで輝樹にキスする。信号待ち十回分ぐらい長いキスを」
「たのむよ」
輝樹は、おもわず周囲を見回した。家路につく会社員たちの数はあまりにも多すぎて、そこから自社の人間を見分けるのは難しかったが、群衆の中に知っている顔がいないはずはない。それに仁美は、そういうことをやるといったら、ほんとうにやる子だった。
観念して、輝樹は言った。
「女だよ」
「………」
「ほらな、ほんとうのことを言ったら言ったで、そういうふうに、ほっぺたふくらませるだろ。だからヤなんだよな」
信号が青に変わった。
後ろから押される形で、ふたりは歩き出す。輝樹は、抱え込んでいたアタッシェケースをまた右手にさげ直し、歩くピッチに合わせて、それを前後に揺らした。
このあと仁美の追及がどうつづくのか、輝樹は早足で歩きながらも身構えていたが、横断歩道を渡りきったところで、仁美は急に立ち止まり、彼の予想もしなかった態度に出た。
「いいわ、行ってらっしゃい」
「え?」
一瞬、後ろに取り残す形になった仁美をふり返って、輝樹はきき返した。
「なんだって」
「行ってらっしゃい、って言ったの。その知り合いの女の人に会いに」
仁美は、作り笑いはできないタイプの人間だった。それが作り笑いをしているので、輝樹は哀れになった。
「ちょっと妬《や》いちゃったけど、輝樹が嘘を言っていないのがわかったから、許してあげる。じゃ、いっしょにごはん食べるのは、イブまで待とうかな」
そう言って、仁美は人ごみの中で後ずさりしながら胸のところで手を振った。そして最後にもう一回、彼女は輝樹のアタッシェケースに目をやった。交差点を渡り終えたところで、また輝樹が無意識のうちに、それを小脇に抱え込んでいたからである。
輝樹は、何か言わなければ、と思った。
だが、仁美は彼の反応を待たずに背を向けると、駅とは反対方向へ小走りに去っていった。そちらの方角に何か目的があるわけでもないことは明らかだった。
仁美の後ろ姿を見つめながら、輝樹は「ごめん」と心の中で謝った。
彼女が、輝樹の嘘を見抜けなかったのではないことは、すぐにわかった。輝樹が嘘をついていると承知していながら、それ以上しつこく問い質《ただ》すことをやめたのだ。その複雑な心境が、後ろ姿に表われていた。
「ごめん」
こんどは小さく声に出して、輝樹は言った。「知り合いの女」に関して、仁美が誤解しているのは明らかだったが、かといって、その女のプロフィールを明かすわけにはいかなかった。
これから会いに行くのが、死んだ女であることなどは……。
2[#「2」はゴシック体]
12月12日[#「12月12日」はゴシック体]
二十四歳の誕生日。
祝ってくれる人は、誰もいない。だけど、淋《さび》しくはない。輝樹以外の人に祝ってもらってもうれしくないから。
ユキとミナが、私の様子を心配して電話をかけてきた。だいじょうぶだよ、と答えてみたけど、こういうときにかすれた声の持ち主は困るんだよね。なにをしゃべっても、つらそうに聞こえるから。……まあ、実際つらいんだけどね。
でも、いいんです。私は決めたから。
* * *
誕生日に重大な決意をし、それを日記に書き残して、生きる目標とする、といった記述が『かげろう日記』の冒頭にあったにもかかわらず、誕生日の日記はきわめて短かった。
(決めた、というのは、いったい何を決めたのだろう)
けさ、そこの部分を読んだとき、輝樹の脳裏に浮かんだ疑問はそれだった。もっと具体的な記述があるのかと思ったら、ない。これでは、茜が心に秘めたものが何なのか、まったく見当がつかなかった。
そして、二十四歳の誕生日を迎えたあとの茜の日記は、徐々に異様な雰囲気を帯びてきた。日記をつけはじめた十二月九日から誕生日の十二日までは毎日だったが、そこからは日にちが飛び飛びになっていった。
* * *
12月18日[#「12月18日」はゴシック体]
気がついてみたら、会社を休職していまのアパートに引っ越してから、私はほとんど一日中、誰とも口を利かずに過ごしているのです。ケータイも最近ではぜんぜん鳴りません。べつに番号を変えたわけじゃないのに、メールもこないです。
けっきょく私って、忘れられやすい女なんですね。
* * *
輝樹は思い出した。茜との共通の友人から聞かされていたことだったが、茜は、輝樹にふられたショックで、その直後から仕事をしばしば休むようになったという。さらに職場での言動にも異変が生じ、心配した人事部長のすすめで、十月の中頃から休職していたのだ。茜が日記の中で、自分のことを「ひきこもりアーちゃん」と呼んでいたのには、そうした事情があった。
彼女は誕生日だけを孤独な状況で迎えたのではなく、日常そのものが世間から孤立していたのだ。人づてに漠然とそうした噂は聞いていたが、いざ本人の日記をまのあたりにしてみると、輝樹は、自分が茜に与えた精神的打撃の大きさを実感し、罪悪感で胸が痛くなった。
誰とも会話しない孤独な毎日が、着実に茜の精神をむしばんでいたことは、日記の文面が明確に表わしていた。
* * *
12月22日[#「12月22日」はゴシック体]
明後日《あさつて》は、輝樹のいないクリスマスイブ。
彼に祝ってもらえない誕生日よりも、もっと精神的にこたえそう。なぜなら、誕生日は私だけのことだけれど、イブは日本中のカップルが愛を確かめあう日だから。
私ひとりで、みじめな思いをするわけ? みんなが楽しくデートしているときに、私ひとりで、このアパートに引きこもっているわけ?
信じられない。そんなの信じられない。
12月23日[#「12月23日」はゴシック体]
クリスマスイブなんて、くるな!
クリスマスもくるな!
全世界の恋人たちに呪いあれ!
12月24日[#「12月24日」はゴシック体]
てるきくん。ねえ、てるきくん。
誰とえっちしてるの?
ねえってば。誰と?
12月25日[#「12月25日」はゴシック体]
さびしいよう。アーちゃん、さびしいよう。
えーん、えーん、えーん。
12月26日[#「12月26日」はゴシック体]
泣きすぎて、腫《は》れちゃって、私のまぶたはギョーザみたい。
ふたつのギョーザが、眉毛《まゆげ》の下についてんの。
すっごいブスだね、私って。
3[#「3」はゴシック体]
クリスマスイブ前後の記述は、輝樹にとって耐えられなかった。
事実、去年のイブは栗田仁美と豪華な食事をして、そのままシティホテルのダブルベッドにもぐり込んでいた。陳腐なほどにパターンを踏んだクリスマス・カップルの行動である。
とはいっても、その夜は燃えた。仁美の積極性に、輝樹は圧倒されっぱなしだった。その夜だけは、仁美と結婚することになってもいいかな、と、いつものクールな方針を変えそうになったほどである。
しかし同じころ、茜はひとりぼっちの部屋で泣いていたのだ。『かげろう日記』を読まされて初めて、その同時進行ドラマの哀愁に気がついた。
燃えるように熱い恋の裏には、必ずみじめな失恋がある、という言葉を、町田輝樹は思い出さずにいられなかった。それは、まだ茜とだけつきあっていたころ、輝樹と同期入社で営業部にいる宮本卓郎《みやもとたくろう》という仲のいい男が、酒の席で語った言葉だった。
「おれは軽薄なプレイボーイだと周りから言われているけど、それのどこが悪いんだ、と思うね」
恋愛論から発展した酒席の話題の中で、社内一の遊び人であることを自他共に認める宮本卓郎は言った。
「たしかにおれは、女はとっかえひっかえだし、同時進行で五人、六人とつきあってるし、一日抱いたらバイバイって子もいる。宮本は、女とみればヤルことしか考えていないケダモノだと非難するやつらもいっぱいいるのは知ってるよ。でもな、まじめに熱い恋をする連中に較べたら、おれなんて罪のない善人だと思うぜ」
なんだ、その理屈は、という顔で見つめる輝樹に向かって、卓郎は力説した。
「ひとりの人間を一途《いちず》に思うことほど、ホラーな世界はないね。恋はホラーだ」
「恋はホラー?」
「そうさ。恋をしている人間っていうのは、精神が異常な状態なんだ。恐怖小説のテーマになってもおかしくないほど、頭が壊れかかっている。そういうことって、おまえ、考えてみたことあるか?」
「あるわけないだろ」
と、輝樹は首を振るよりない。
「そうか、ないか。ま、そうだろうな」
卓郎は、少し小馬鹿にしたように眉を吊《つ》り上げた。
「おれみたいに、チャラチャラと遊び半分で女とうまくやってる男は、相手もマジになってのめり込んでこないからさ、どっちも平常心で遊べるんだよな。ところが『私の目には、もうあなたしか見えていないの』みたいな態度で迫ってくる女とつきあってみな。うまくいっても、まずくなっても地獄だぜ」
「………」
輝樹は、まさにそのとき、どうやって別れようかと思い悩んでいた内藤茜の顔を思い出さずにはいられなかった。
「いいか輝樹、この世の中に、恋がきっかけで起きた刃傷沙汰《にんじようざた》がどれくらいあるよ。え、大変な数だぞ。金に目がくらんで起こした殺人と、思い込みの激しい恋が原因で引き起こされた殺人と、どっちが多いかと言ったら、おれは絶対に恋愛がらみのほうに賭《か》けるね。それぐらい、真剣な恋というものは、人間の頭をおかしくさせる。恋する気持ちが強ければ強いほど、そいつは精神が異常だと言ってもかまわないレベルに突入している」
「それは言い過ぎだろ」
「とんでもない」
卓郎は激しく首を左右に振った。
「たとえばさ、失恋の結果、鬱《うつ》状態になる、っていう話は聞くだろ。だけど、燃えさかるような恋愛もまた、躁《そう》状態という点では似たようなものなんだよ。ベクトルの方向がマイナスに向いているか、プラスに向いているかの違いだけで、平常心から大きく心のバランスがずれているという本質は変わらない。だから人間は、恋が壊れるときだけおかしくなるんじゃない。恋の真っ最中から異常心理に陥っている」
「納得できないな、その理屈は」
「じゃあ、世界史をひもといてみな.男と女の色恋沙汰が原因で起きた戦争がどれほどあるか。失恋がきっかけではなくて、恋をしたことが原因で戦争まで引き起こした例は、記録されているだけでも枚挙にいとまがない。個人レベルの決闘まで加えたら、そりゃもう数え切れないほどの惨劇を引き起こしているのが、一途な恋ってやつだ。ちゃらんぽらんな恋なら問題はないが、真っ赤に燃えた恋は、それじたいが人生の爆弾さ」
クイッと盃《さかずき》を空けてから、卓郎はつづけた。
「その証拠に、恋のトラブルが原因で起きた殺人は、その残虐性において特筆すべきものがある。可愛さあまって憎さ百倍、の言葉どおり、全身を突き刺す、めった打ちに殴り殺す、生きたまま焼き殺す、生きたまま海に沈める、死体を切り刻む、一部分を大切そうに持ち歩く、冷凍保存する」
「いいよ、もうやめろよ」
輝樹は手を振った。
「そんな話はたくさんだ。聞きたくない」
「聞きたくないほど、残虐な行動に人を走らせてしまうのが、思いつめた恋ってやつなのさ。どうだ、これでもおまえは『真剣に恋をすることとは、精神に異常をきたすこと』というおれの主張に反論するかい」
「………」
「もっと大事なことを教えてやろう」
手酌で盃に冷酒を満たしながら、卓郎は言った。
「恋愛の裏には、必ず失恋あり、だ。それを忘れるな」
「どういう意味だ」
「ひとりの男と、ひとりの女が出会ったとき、その出会いによって、夢も希望も打ち砕かれてしまう別の男や女が、その裏にいるということはわかるな?」
「ああ、わかるよ」
こんどは素直に、輝樹はうなずいた。
「カップル誕生の一方で、片想いのまま泣き寝入りする人間がいる、ということだよな」
「そのとおり。それから、もうひとつの観点がある。恋は失恋のはじまり、ということだ。はじめがあれば、終わりもあるのが物事だ」
「だけど、恋が成就したまま幸せになるカップルだって多いはずだ」
「おまえ、甘いんじゃないの」
盃片手に、斜めの視線で輝樹を見て、卓郎は肩を揺すった。
「そりゃ結婚式をゴールと考えているからだろ」
「まあ、そうだけど」
「結婚できたら、それで幸せなのか」
「………」
「おまえ、その年になって、考え甘くね?」
「おまえに言われたくないね」
「いいか、結婚したあと、その恋はどうなってる? つづいてるか? ほとんどの夫婦は、何年かのうちに恋愛感情なんか消えちゃってるんじゃないのか」
「そういうのは失恋って言わないだろ」
「言うんだよ」
かぶせるように、卓郎は言った。
「ふられるだけが失恋じゃない.恋愛気分を失うのも失恋だ.そして失恋しちゃったダンナはよその女と浮気に走り、いまの時代は、カミさんのほうだって負けずに出会い系で遊びまくりよ」
「嘆かわしいな」
「嘆かわしい? 輝樹、おまえ二十代で中年オヤジみたいなセリフを吐くなよ。たがいに浮気をしている夫婦っていうのは、異常な精神状態から醒《さ》めただけなんだから、ふつうなんだよ。夫婦のまま、たがいに失恋して、夫婦の形態を保ったまま、たがいに新しい恋を見つけにいく。これが現代の新しい夫婦像さ」
「バカ言うなよ」
「ほら、このあいだも総務の山城《やましろ》の結婚式に出たろ」
輝樹の拒絶反応にかまわず、卓郎はつづけた。
「おれなんて、みんなのしらじらしいスピーチを聴きながら、思ったもんさ。このカップルが誕生した裏で、歯ぎしりしている男や、泣いてる女がきっといるんだろうな、とか、でも、そうやっていっしょになったところで、ふたりに恋の終わりがくるのは時間の問題だよな、とか」
「卓郎、おまえこそ中年オヤジみたいに醒《さ》めすぎだよ。世の中を斜に構えて見過ぎなんだよ」
「輝樹、おまえ、茜ちゃんの件はどうなった」
いきなり相手が話題を変えて突っ込んできた。
4[#「4」はゴシック体]
「学生時代の真剣な恋が、いまになって負担になってきたんだろ」
卓郎の眼差《まなざ》しが鋭くなった。
「まあ……ね」
親友の卓郎には、あらかたのところを話していた。そして彼は、輝樹といっしょにいる茜と何度か会ってもいる。
「町田輝樹の性格だから、燃えるときは、とことん燃えたんだろうなあ」
「からかってんのか」
「だけど、社会に出てみたら、恋愛より面白い仕事があった」
「おれが説明済みのことを繰り返すなよ」
「繰り返してみたくもなるね」
盃越しに、宮本卓郎はからかうような視線を投げかけてきた。
「大変だぞ、輝樹。茜ちゃんを切るのは」
「………」
まだ栗田仁美が入社する前のこの時点では、ひたすら内藤茜という存在そのものが重荷となって、恋愛そのものが面倒になっていた時期だった。そして、別れ方をそろそろ本気で考えていたときだった。
だから、卓郎のセリフがグサリと突き刺さった。
「女遊びの達人として、ひとつだけアドバイスをしておいてやる」
真顔になって、卓郎は言った。
「茜ちゃんと別れるのは、別の女を作る前にしろよ」
「え?」
「おまえ、いまほかにいるのか、好きな女が」
「いない」
「ほんとうにいないんだな」
「いないよ」
「なら、いい」
「どういう意味だ」
「恋愛の裏に失恋あり、失恋の裏に恋愛あり、という終わり方をしたら、おまえの新しい恋はめちゃくちゃにされるぞ、彼女に」
「え?」
「あのな、輝樹」
あえて輝樹から視線をそらし、横顔だけ見せて、卓郎は言った。
「男と女が別れ話を切り出すときには、その原因には二通りの状況がある。どちらかが別の異性に浮気をしている場合がひとつ。もうひとつは、他人との比較はまったく関係なしに、相手そのものがイヤになってしまった場合。
たとえば茜ちゃんがおまえに捨てられる場合、町田輝樹に新しい女ができたというほうが、ちょっと考えると、まだ慰めがきくように思えるかもしれない。自分のことを嫌いになったと言われるより、自分よりもっと好きな女が現れてしまったなら仕方ない、というふうにあきらめるんじゃないか、とね。というのも、茜ちゃんみたいなタイプだと、彼女自身の人柄が嫌いになったという言い方をした日には、思いつめて自殺でもしかねない」
「よくみてるな」
おもわず輝樹は、正直な感想を洩《も》らした。
「さすが天下の遊び人だけある」
「マジに、そこが怖いんだろ」
「ああ、怖い」
嘘偽りのない本音だった。
茜に別れ話を切り出すときに「きみのここが嫌いになった」という言い方をしようものなら、まず彼女は「一生懸命悪いところを直すから、私を捨てないで」とすがりついてくるだろう。それでも冷たく振り切ったら、まさしく卓郎が見抜いたとおり、彼女は悲嘆にくれて自殺してしまいそうだった。……というよりも、かなり高い確率で「する」と輝樹は思っていた。
「卓郎、おまえだから言うけど――こういうことを肚《はら》を割って打ち明けられる友だちがいるのは、ほんと幸せだと思っているんだけど」
「ばかやろ、よけいな前置きはいいから、なんだ、言ってみろよ」
「最近、よく同じ夢にうなされるんだ。同じといっても、まったく同じという意味ではなくて、内容が似通っているということなんだが……」
早く先を言え、と、横目で卓郎がうながす。
「茜に自殺される夢をみるんだ」
「……なるほど」
「首を吊《つ》ったり、手首をナイフで切ったり、ガスを部屋に充満させたり、そのパターンはいろいろなんだけどね。しょっちゅう、おれの夢の中で自殺してくれるんだ、茜は」
「ふむ」
タバコに火を点《つ》け、煙をゆっくり吐き出す間をとってから、卓郎は言った。
「けっこう、きてるな」
「ああ、きてる」
「通常のカップルじゃ、絶対みないぞ、そんな夢」
「わかってる」
輝樹は、こめかみに汗をかいていた。そこに卓郎の視線が行く。
「無意識のうちにそんなところまでシミュレーションをやっているなら、よっぽど茜ちゃんのおまえに対する執着心はすごいんだな」
「ああ」
「その一方で、おまえの気持ちは完全に離れてしまっている。彼女との関係を早く終わりにしたいんだ。そうだろ。そのジレンマが、ひどい夢となって現れるんだ。そういうことだよな?」
「………」
「おい、そうなんだろ。輝樹的には、もう恋は終わってるんだろ」
「かもしれない」
「かも、じゃなくて、もっと素直に認めろよ」
「そうだ」
輝樹は白状した。
「おれの気持ちは冷めきったまま、元に戻らない」
「ただし、町田輝樹としては、思いつめた茜ちゃんに自殺などされたくない」
「そのとおり」
「だから、これから先、もしも自分のそばによさそうな子が現れたら、すぐにその子を新しい恋人にして、それを理由に茜ちゃんに別れ話を切り出そうと考えている。そのほうが、彼女を傷つける度合いが低いだろうと」
「それもそのとおり。まったく、そのとおりだ」
「だけど、おれは賛成しないね」
煙を自分の盃《さかずき》に吐きつけながら、卓郎は言った。
「茜ちゃんは、おまえからどんなに冷たい仕打ちを受けようと、最愛の町田輝樹を攻撃するような真似はしないだろう。けれども、自分から輝樹を奪った女がいるとすれば、それは決して許さない。そういうタイプの女だと思う」
親友の言葉に、輝樹は長い沈黙を保った。
その重い口が開くまで、宮本卓郎は、タバコを静かにふかして待っていた。
「悪いんだけど、卓郎」
輝樹の口から出た言葉は、頑《かたく》ななものだった。
「内藤茜とつきあってきたのは、このおれだよ。卓郎じゃない」
「わかってるさ」
「だから、おまえのほうが、おれより正しい判断ができるとは思えない」
「ってことは、いまの段階で、ストレートな別れ話は切り出せない、と」
「ああ」
「そして、好みの女ができたときに、その子を言い訳に使うんだな」
「うん」
「勇気のないやつだな」
「そう思ってくれて、かまわない」
「ほんとうにその選択で後悔しないか」
「しない」
「そうか」
あくまで顔色は変えずに、卓郎はタバコを灰皿に押しつけた。
「ま、おまえがはじめた恋なんだから、おまえがいいと思うように始末をすればいいさ。ただ、友だちとして、おれはいちおう忠告しておいたからな」
「ありがとう。いちおう聞いておく」
「もっと正確に答えろよ。いちおう聞いておくだけにする、とな」
そしてつぎの年に栗田仁美というチャーミングな後輩社員と出会ったとき、町田輝樹は、親友に宣言したとおりの別れ方を、茜に対して切り出した。八月の暑い日だった。
ただし、そのとき茜には、新しくできた恋人のプロフィールは一切語らなかった。そこのところは、宮本卓郎の忠告が頭の片隅に残っていたからだった。
もちろん茜は、「こんどの彼女、会社の人なんでしょ」と突っ込んできた。けれどもその答えは、事前にちゃんと準備してあった。
「うちの会社は、社内恋愛は絶対御法度なんだ」
あながち作り話でもないので、そこは力を込めて輝樹は言った。
「だから、社内の子というのは、絶対にありえない」
まずいセリフだった、と気がついたのは、号泣の末に、茜が別れを承諾した後のことだった。
[#改ページ]
三.執念・情念・怨念[#「三.執念・情念・怨念」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
『かげろう日記』のクリスマスイブ前後の記述を読んだとき、頭をよぎったのが、宮本卓郎の言葉だった。
「恋愛の裏に失恋あり、失恋の裏に恋愛あり、という終わり方をしたら、おまえの新しい恋はめちゃくちゃにされるぞ、彼女に」
間違いなく茜は、最愛の人にできた新しい恋人が誰であるかをつかんでいるはずだった。「誰とえっちしてるの?」と日記に書きながら、栗田仁美の顔を思い浮かべていたのは間違いない。「さびしいよう。えーん、えーん」と日記で泣きながら、仁美の姿を思い浮かべて、憎しみの炎を燃えさからせていたのは間違いない。
茜の執念を思えば、輝樹に気づかれないように勤め先までやってきて、仁美の姿かたちを確認した可能性も捨てきれない。それだけでなく、帰宅する彼女を尾行して、その住まいまで突き止めていたことさえ考えられた。
ちなみに仁美はひとり暮らしではなく、両親と大学三年生の弟といっしょに、家族四人で暮らしている。だから、茜が仁美を自宅までつけても、そこで無謀な行動には出にくかったはずである。
(とにかくよかった……)
とりあえず『かげろう日記』のノートを閉じながら、輝樹は安堵《あんど》のため息を洩《も》らした。
(ほんとうに、よかった。茜が異常な行動に出る前に殺されて)
朝の時点で町田輝樹が目を通したのは、十二月二十六日までの日記だった。会社に遅れてしまうので、そこで中断せざるを得なかったのだ。
ただ、『かげろう日記』を残したまま部屋を出る気にはなれなかった。
なんとも奇妙な感覚だが、もしも大学ノートの日記帳を置いたままにしておくと、誰もいない部屋に、死んだ茜がやってきそうな気がしてならなかったからだ。
ばかげたオカルト趣味の妄想だと理屈ではわかるのだが、いったんそのイメージを心に抱いてしまうと、もうそれを消すことができなかった。
それでこの日、輝樹は『かげろう日記』をアタッシェケースの中に入れてマンションを出た。さすがに通勤ラッシュの電車の中で広げる気はしなかった。その代わり、昼休みを利用して外出し、社内の人間がふだん使わない喫茶店でつづきを読もうと思っていた。だが、十二時になったところで、上司の吉井満智子部長から「町田君、たまにはいっしょにごはん食べましょうよ」と誘われたので、予定が狂った。
ようやく、午後の宣伝部会がはじまる少し前に、輝樹は一番乗りで誰もいない会議室に入り込み、『かげろう日記』に少しだけ目を通す時間を作ることができた。
会社で読むほうが、茜の残した怨念《おんねん》のようなものが薄らぐ気もしたが、十二月二十六日のつぎのページをめくったとたん、彼の顔面から血の気が引いた。
* * *
12月27日[#「12月27日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
12月28日[#「12月28日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
12月29日[#「12月29日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
12月30日[#「12月30日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
12月31日[#「12月31日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月1日[#「1月1日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月2日[#「1月2日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月3日[#「1月3日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月4日[#「1月4日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月5日[#「1月5日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月6日[#「1月6日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
1月7日[#「1月7日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
* * *
まったく同じ文章の羅列が、いきなり目に飛び込んできた。
どこまで行ったら終わるのかと、輝樹は、朝と同じように、小刻みに震えだした指で先をめくっていった。
くる日もくる日も一字一句たがわぬ同じ文章だった。しかし、何十日分かをまとめて書いたのではないことは、筆圧の違いや、インクの色の違いなどでわかった。
茜は、毎日毎日飽きもせずに、輝樹の人生から離れない、という決意だけを日記に刻み込んでいったのだ。誕生日を期しての決意とは、これだったのかと、輝樹は蒼《あお》くなった。
異様なのは、『かげろう日記』には大《おお》晦日《みそか》や元日の区別などないことだった。たとえ三日坊主であっても、日記をつけたことのある人間なら、一年のスタートにあたる元日ぐらいは特別な思いを書き記しそうなものだった。だが、孤独なクリスマスを過ごした淋《さび》しさに泣きつづけた茜は、「ギョーザみたい」に腫《は》れたまぶたも癒《い》えないうちから、ひとつの文章のみを日記に書きつづける作業を開始した。そして年が改まっても、新年の感慨など何もなく、昨日と同じ文章だけを日記に記した。
それは、そのときの内藤茜が、いかに世間と隔絶したひきこもり生活を送っていたのかを表わす明瞭《めいりよう》な証拠だった。
おそらく――輝樹としては、想像するのもおぞましかったが――このワンセンテンスを書き記すためだけに、茜は毎日の時間を費やしていたのだ。
寒気がした。
一月の中旬も、下旬も、この一行日記がつづいていた。
二月に入っても、やはり同じ文章だけを書き連ねる日々が繰り返されていた。
しかし、二月十三日まできたところで、ページにまだ余白があるにもかかわらず、同じ文面の繰り返しがプッツリ途切れていた。
つぎの日はどうなっているのだろうと、輝樹がページをめくりかけたとき、部長の吉井満智子や栗田仁美をはじめ、宣伝部員全員が、部会のためにゾロゾロと会議室に入ってきたので、輝樹は急いでノートを閉じた。
「あら、町田君、ずいぶん早いのね」
吉井満智子に声をかけられ、輝樹は「ええ、まあ」と、あいまいな返事をしながら、できるだけ自然なしぐさで、大学ノートを資料のあいだに隠した。
だが、会議がはじまっても日記のつづきが気になり、輝樹は部長を中心として議論が白熱した隙に、両隣の同僚に気づかれないよう注意しながら、読みかけのところをそっと開いた。
(………!)
どうやって悲鳴が洩《も》れるのを防いだのか、自分でもわからない。
あまりの衝撃に、声すら出なかったのかもしれない。
同じ文章の羅列が、まだ余白があるにもかかわらず二月十三日のところで終わっていたわけがわかった。
つぎのページを開くと、左右見開きのスペースをいっぱいに使って、乱暴な殴り書きがしてあった。
2月14日[#「2月14日」はゴシック体]
てるきく〜ん。私の手作りチョコレート、食べてえ〜。[#「てるきく〜ん。私の手作りチョコレート、食べてえ〜。」はゴシック体]
なんとその文章は、サインペンやボールペンではなく、チョコレートで書かれてあった。チョコレートの香りさえ立ちのぼってくるような、力を込めた強烈な殴り書きだった。
すさまじいバレンタインデーの記述――
パタンと音を立ててノートを閉じると、輝樹は荒い息をついた。
2[#「2」はゴシック体]
栗田仁美は、おそらく会議中の輝樹の異変に気づかなかっただろうし、退社後、彼女の誘いを断ってどこかへ急いでいるのを見ても、別の女とこっそり食事の約束でもしているのだろうと勘違いしたに違いない。
ある意味では、たしかにその晩、輝樹は女に会いに行くところだった。仁美には絶対に知られたくない女のところへ。だが、食事などの楽しい時間を過ごすためのものではない。墓参りである。あの世にいる茜に話をしに行こうと思ったのだ。
(これは、お参りをしないとダメだ)
うわのそらで会議のやりとりを聞きながら、輝樹は覚《さと》った。
(茜は決しておれをあきらめてはいなかった。そして、いまつきあっている仁美のことも遠巻きに観察して、必ずこの女から輝樹を取り返すのだと心に誓っていたはずだ。それなのに、ひったくりの男に殺されたことで、その決意は永遠に実行に移せなかった。
だから茜は泣いている。あの世で、くやしい、くやしい、と泣いている。その無念さを訴えるために、茜は『かげろう日記』をおれに届けてきた)
いまの輝樹は、心霊現象を本気で信じていた。
少なくともこの日記が自分の手元に届けられたいきさつに関しては、霊的な現象の存在を認めないわけにはいかないと思った。
『かげろう日記』を郵送してきた封筒には、宛先がワープロで印字されてあり、郵便局の消印もちゃんと押してある。そうした、きわめて現実的な要素がありながら、いまの輝樹は、この日記の差出人が、生身の人間ではなく、死んだ茜の霊だと確信していた。
幽霊にワープロが扱えるのか、幽霊が切手を買って投函《とうかん》したのか、といった検討は、もはや輝樹にとっては無意味だった。
(とにかく謝ろう)
その別れ方において、かなり冷たい仕打ちをしてしまったという負い目がある輝樹は、科学優先主義の考えから、一日にして神仏や霊魂を信じる立場に変わってしまった。
そして彼は、電車を乗り継いで、西へ西へと向かった。目的地は、山梨県大月市のはずれにある大きな霊園だった。
町田輝樹にとって、内藤茜の遺骨が納められている墓地に行くのは初めてだった。それどころか、じつは彼女の葬式にすら足を運んでいなかった。
ことしの六月に茜が不慮の死を遂げたとき、共通の友人たちから何本も電話がかかってきた。新聞で事件を知った宮本卓郎からも、社内でふたりきりになったとき、面と向かって切り出された。
「おまえ、どうするんだ」
いつものように、ほとんど表情を変えずに卓郎はきいてきた。
「茜ちゃんの葬式、行くのか?」
ほかの友人たちは、「行くだろ?」という、肯定の返事を前提としたたずね方をしてきた。だが、昔からのいきさつを熟知している卓郎は、むしろ否定的な答えが返ってくるのを予測した問いかけだった。
「行かない」
輝樹の返事はそれだけだった。卓郎に対しては、「つらすぎて行けないよ」とか「おれはもう茜にとって過去の人間だから」といったような、しらじらしい弁解を添えることは無用だった。
「わかった」
卓郎の返事もあっさりしたものだった。
が、そのあとすぐにつけ加えた。
「おまえ、まだ仁美とつづいているんだよな」
そのころには、輝樹は仁美との交際を卓郎には打ち明けていた。宮本卓郎は、社内でふたりの関係を知る数少ない人物だった。
「ああ」
「で、どんな気分だ」
「どんな気分か、とは?」
「仁美に災いが降りかかる前に、茜ちゃんが死んでホッとしているところがあるんじゃないのか」
「バカ言うなよ!」
図星を指されたので、輝樹は声を荒らげた。
まさにそれこそが、茜の葬儀に参列しなかった最大の理由だった。死んでくれて精神的に解放されたと思っている輝樹にとって、茜の遺影など、罪悪感でまともに見られたものではなかった。
3[#「3」はゴシック体]
茜の実家から車で十五分ほどの、小高い丘陵の斜面に沿って設けられた広大な霊園は、夜間でも自由に出入りができるようになっていた。
大学時代の仲間で茜の墓参りをしたことのある友人に電話をかけ、墓がある区画はきいてあったが、それでも無数にある墓石から目的のひとつを見つけるのはかなり苦労した。冬の夜で、しかも東京都内よりはるかに気温が低い山梨県の、さらに気温の低い高台である。ビジネスコートを羽織るだけで、手袋もはめていなかった輝樹は、寒さで震え上がった。
片手はポケットに突っ込んでいるが、もう一方の手はアタッシェケースをさげているため、寒気にさらされ、すっかりかじかんでいた。そのケースの中には大切な『かげろう日記』が入っている。
バレンタインデーのチョコレート書きの日記があまりに衝撃的で、輝樹はそのつづきをまだ見ていない。社内にいるときも、都心から大月まで電車に揺られているあいだも、輝樹はノートを開くことができなかった。
茜がひったくりの男に刺し殺されたのは、六月十六日。したがって、バレンタインデーからその日まで、まだ四カ月分の日記が残されているはずである。実際、大学ノートもそれに相応する厚みはあった。
それはすなわち『かげろう日記』における内藤茜の残された命が、あと四カ月になっている、ということでもあった。そうなると、自分が一ページ一ページ読み進んでいくことが、もういちど茜の命を縮めていく行為になるようで、輝樹はつらくて先へ進めなくなってしまった。
ちなみに輝樹自身は、自分の心情を表現するようなタイプの日記はつけていない。いわゆるスケジュール帳と同質の、何時に誰と会って何をしたというたぐいの、記録を中心としたものならば、いまでもつけているが、日々の感情を文字に表わすというのは、気恥ずかしいというよりも、根本的な疑問があった。
いったい誰が読むのか、という素朴な疑問である。
もちろん他人に見せるわけがない。では、自分が読むのかというと、これまでいろいろな友人にきいてみたが、自分の書いた日記をあとで読み返すと答えた者はまれだった。そうなってくると、感情吐露型の日記とは、書くことそのものが目的のように思える。喜怒哀楽を書き留めることに、何かの意味を持たせるように。
しかし、輝樹はそうした行為は苦手だったし、意味がないと思っていた。
会社員の日々は、笑えることも、怒《いか》れることも、泣けることもある。だが、そうした感情の起伏や、あるいは自分自身のものの考え方をいちいち文章に書き綴《つづ》るのは、まったく無駄な自己満足としか思えないのだ。
インターネットが普及して、誰もが気軽に自分のホームページを持てるようになったいま、最も多くの人が手がけるのが日記だという。たしかに検索してみると、その数は猛烈に多い。しかし、これは最初から不特定多数の人間に見せるためのものであって、日記と言いながら、じつはエッセイと呼ぶほうが正しい。公開を大前提としているから、ネット上の日記というのは、本心をありのままに表わしているとは言い難い。虚飾もあれば、意図的な省略もある。
また、たとえオンライン日記ではなく、手書きでしたためた場合でも、人に読まれることを前提として綴られたものは、どこまでいってもエッセイであり、あるいは記録文芸であって、本来の日記とは違う。
よく鍵《かぎ》付きの日記帳が売られているが、ああいったセキュリティを要するような、あるいはパソコンならパスワードをかけてロックしておくような、絶対非公開を原則としたものこそが、本来の日記である。そして、そうした日記は、輝樹の性に合わないのだ。悪く言えば、感情のマスターベーションだと思うから。
それに輝樹は、感情吐露型の日記をつける人間は要注意だと考えていた。
酒場で酔っぱらわないと本音が言えない男と同じように、日記という場で初めて本心を吐き出せる人間は、裏を返せば、日常の人間関係においては本音を伏せている、ということでもある。おそらく気の弱さから。
たしかに茜にはそうした側面が、学生時代からあった。熱愛中は輝樹もまったく気づかなかったが、あとになって思えば、輝樹の前に出たときの茜は、輝樹に気に入られることばかりを考えて、本音をストレートに出していたとは言い難い。それに較べれば、なんでもズケズケと物を言う栗田仁美のほうが、よっぽど正直で信頼が置けた。
そのように人間関係の摩擦を避けるために、本音をふところに包み隠すタイプの女だったからこそ、『かげろう日記』のような異常なバイブレーションに満ちた日記を書けたのだろうと思った。
それだけに、いまになって茜の本音を聞かされることになった輝樹のストレスは、ひどいものがあった。怨《うら》まれている、とはっきり感じた。謝罪をしなければ、復讐《ふくしゆう》を受けそうな気分だった。
すでに輝樹自身、『かげろう日記』の影響で思考回路に異常をきたしつつあったが、彼は自分の内面の変化にはまだ気づいていなかった。気づいていないからこそ、ブレーキもかけられなかった。
よく考えれば、夜になって墓参の人間が誰もいない墓を訪れることじたいが、まともではない行動だった。けれども、そのことには気づかず、広い霊園の中でひとり、輝樹は茜の墓を探しつづけた。
やがて、それは見つかった。
「内藤家之墓」というような典型的な墓石をイメージしてうろつき回っていた輝樹は、目的のそれを見つけたとき、予想していたものとあまりにかけ離れていることに驚いた。
石柱を立てたような日本式のものではなく、欧米式の平らな敷石風の墓で、しかも一家の墓ではなく、茜だけのために作られたものだった。
ちょうど近くに水銀灯の照明があったので、プレートに彫られた文字がはっきり読めた。英語ではなく漢字ではあったが、横書きで内藤茜という名前が大きく彫られ、誕生年と死亡年が西暦表記で添えてあった。さらにその下に、二十四歳と。
誰が供えたのか、可愛らしいブーケが一束。それを見て、自分も花を買ってくるんだった、と輝樹は少しだけ後悔した。だが、今夜訪れた目的は形式的な墓参ではなく、はっきりとした謝罪である。供花のあるなしは本質的な問題ではない。
冷たい夜風に前髪をなびかせながら、輝樹は平らな墓石の前にひざまずいた。そして、『かげろう日記』の入ったアタッシェケースを脇に置く。
墓石が日本式でないことが、輝樹の気持ちをだいぶ楽にさせた。和風の墓石は、どうしてもおどろおどろしい雰囲気を醸し出して気分が滅入《めい》る。それから、茜個人の墓であったことも内藤家の墓にひざまずくより、はるかに素直な心境になれた。
「ごめんね、茜」
手を合わせ、町田輝樹はボソッとひとことだけささやいた。そして目を閉じ、黙祷《もくとう》をつづけた。
風に揺れてぶつかりあう枯れ枝の音が聞こえる。
初めのうちは、声にこそ出さないが茜にいろいろ語りかけていたが、やがて輝樹は、言葉という形ではなく、ふたりで過ごした青春の日々を映像として頭に思い描きはじめた。もちろん、楽しかった日々のことばかりだ。だから必然的に、大学時代の情景が中心となる。脳の中のスクリーンは、茜の笑顔でいっぱいになっていた。
そして輝樹は、ふたたび問いかける。
(おれたち、どうしてこんなふうになっちゃったんだろうなあ)
それは茜に対してだけではなく、自分自身に向かっての問いかけでもあった。
(もういちど出会いのころに戻れたら、ふたりでもう少し別の方向へ歩いていけたかもしれないのに)
(日記を読んで、初めて知ったんだよ。茜がそこまでおれを愛してくれていたとは知らなかったし、そこまでつらい思いをさせていたとは知らなかった)
いつになく、きれいごとを言っているんじゃないのか、と、どこかで醒《さ》めた自分の声がしていたが、輝樹はその傍観者的な声をすぐに封印した。
そして輝樹はゆっくりと目を開け、脇に置いたアタッシェケースを開いて、大学ノートに記された『かげろう日記』を取り出した。
(なあ、茜。ききたいことがある)
声なき質問。
(これをおれのところに送ってきたのは、誰なんだ? きみなのか? それとも、ほかの誰かなのか。つまり……現実に生きている人間が郵送してきたのか)
「そう」
バクン、と心臓が鳴った。
カッと、目を見開いた。
間違いなく、いま、茜の声が聞こえた。ハスキーな、あの特徴的な茜の声が。
カチカチカチカチ、と歯が鳴り出す。寒いときには経験があるが、恐怖でここまで歯が鳴り出すのは、輝樹にとって初めての体験だった。
『かげろう日記』が送られてきたのは心霊現象に違いない、と、いまのいままで信じかけていたのに、死んだ茜の声を耳にしたとたん、輝樹は必死になってオカルト現象の全否定にかかった。
(なんだ、なんだ、なんだ、いまのは。聞こえるわけがないぞ。絶対に聞こえるわけがない。茜は死んでるんだ。だから声が聞こえるわけなんて……)
「輝樹」
全身の毛が逆立った。
さっきよりも明確に、茜の声が聞こえた。しかも、すぐそばからだ。
(墓の中?)
「違うわ」
(………!)
読まれていた。
心の中を読まれていた。
自分が思ったことに対して、即座に返事が聞こえる。
(墓の中から聞こえてきたんじゃなければ、どこだ)
「う・し・ろ」
「よせ」
おもわず輝樹は声を出して懇願した。
「そういう現れ方はやめてくれ」
「後ろ、見て」
「いやだ、できない」
輝樹は、髪の毛がぐしゃぐしゃになるほど激しく首を振った。
「たのむ、たのむから、消えて……消えてくれ」
自分の背後にいる何かを意識しながら、輝樹はうわずった声を出した。
まさに彼も、茜そっくりのかすれ声になった。ただし、恐怖によって声帯が狭められたためのかすれ声。
町田輝樹は恐怖で錯乱状態に陥った。だから、いま茜の声が答えた論理的な返事を聞き逃していた。
『かげろう日記』を彼のところへ送ってきたのは、死んだ茜なのか、それとも現実に生きている人間が郵送してきたのか、という問いに対して、茜の声は「そう」と答えた。会話の流れからいえば、当然それは後者に対するイエス、である。つまり、現実に生きている人間が『かげろう日記』が綴《つづ》られた大学ノートを送ってきた、と茜は返事をしたのだ。
しかし、霊の声が聞こえたという事態に、輝樹は完全なパニックに陥ってしまい、彼女の声に含まれた論理性に思いをはせるゆとりなどまったくなかった。
ぶるぶると痙攣《けいれん》する手で大学ノートをアタッシェケースにしまい込み、何度もフタをロックするのに失敗しながらようやく閉め、冷たい地面に手をつき、輝樹は必死の思いで立ち上がった。
そして、途中で何度も転びかけながら、人けのない霊園を出口に向かって走っていった。後ろを一度もふり返ることなく――
[#改ページ]
四.継続された日記[#「四.継続された日記」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
「信じられんな」
ひととおりの話を輝樹から聞かされた卓郎は、いつものようにポーカーフェイスで、そしていつものように片手に日本酒の盃《さかずき》を持ちながら、静かに答えた。
「ありふれた反応しかできずに申し訳ないが、信じられないというより返事のしようがないね」
十二月十三日――
茜の誕生日の翌日、すなわち『かげろう日記』を開封したつぎの日の夜、町田輝樹は、送付された日記のことや、大月市郊外の霊園で聞いた「声」のことについて相談を持ちかけるため、親友の宮本卓郎を居酒屋に誘った。
同僚と顔を合わせそうな行きつけの店ではなく、会社からだいぶ離れた場所を選んだ。そこならば顔見知りはまずこないから、気をつかう必要がない。それでいて、なじみの店のようににぎやかな環境であるのがよかった。
隠れ家レストランや隠れ家バーなど、いかにもヒソヒソと秘密の話をするのに適した環境は、今回の場合は不安や恐怖を増幅させるだけという気がして、輝樹は避けた。
タバコの煙でもうもうとした店内に響く従業員の威勢のいい掛け声や、あちらこちらで盛り上がる放歌高吟、さらには障子で仕切った一角からは一気のみのエールが聞こえてくる、このにぎわいが救いになるのだ。
例によって、退社後すぐに会社を出ようとすると、また栗田仁美の疑惑の視線に出合ったが、今回は「卓郎と飲みに行くんだ。男同士の話」と、正直なところを告げておいた。男同士の話という言葉に、かえって仁美は疑惑の視線を強めたが、いかように誤解されても、彼女にはほんとうのところを教えるわけにはいかなかった。死んだ元恋人の声を聞いた、などと真顔で語ったら、いったいどんな顔をされるかわかったものではない。
ましてその元恋人は、明らかに仁美に対して激しい嫉妬《しつと》心を抱いているのである。
「正確に言い直せば、だ」
宮本卓郎の声はあまりにも平静なので、ともすれば周囲の喧騒《けんそう》にかき消されがちだった。だから輝樹は、年寄りがやるように耳のところに手を当てて「え?」ときき返した。
「正確に言い直せば」
少し声を高めて、卓郎は言った。
「おまえの話には、信じられる部分と信じられない部分がある。茜ちゃんが、執念と情念と怨念《おんねん》に満ちた日記をつけていた、というところは信じる」
「すごい言い方をしないでくれよ」
「どこが」
「執念と情念と怨念に満ちた日記、ってところだよ」
「だって、事実そうなんだろ」
「……うん、まあ」
「言っておくけどな、輝樹。こういう、よく言えばファンタジックな、悪く言えば眉《まゆ》ツバもののストーリーを説明するときは、もうちょっと材料を揃えてこいよ」
「材料って?」
「第一に現物だよ。日記の現物だよ」
卓郎は不服そうに言った。
「おれとおまえの関係だから、これこれこういうことが書いてあった、という話を無条件で信じてやっているけど、ふつうはそこからして疑われるよ」
「ごめん」
と、素直に謝ってから、輝樹は、隣の椅子に載せておいたアタッシェケースをポンと叩《たた》いた。
「日記そのものは、あることはあるんだ。ちゃんとここに」
「なんだ、あるなら見せろよ」
「いや、それはちょっと困る」
「どうして」
「卓郎に見せることじたいは構わないんだ。ただ、きっとおまえのことだから、一気にバーッと最後まで見ていくだろう」
「当然じゃないか」
「それが困るんだ」
「なぜ」
「先に結末を知りたくないんだ」
「推理小説みたいなことを言うなよ」
基本的にポーカーフェイスの卓郎が、少しだけ笑った。
「むしろ輝樹にとっては、ちびちび読み進めるよりも、一気に結末を見てしまったほうがいいんじゃないのか」
「だけど、おれがどんな気持ちになると思う?」
輝樹は、テーブルをはさんだ向かいにいる卓郎のほうに身体を乗り出した。
「茜は六月十六日に殺されたんだ。つまり、日記はおそらく六月十五日で終わっている。それがどんな中身であっても、おれは読めないよ。とてもじゃないけど、つらすぎて読めない。だって卓郎、おまえは見たことあるか? 明日死ぬとは知らない人間が、人生最後に書いた日記を」
「………」
卓郎は無言でタバコ。
そこで輝樹は、さらにつづけた。
「自殺した人間の、決行直前の日記のほうが、まだしも平気で読めると思うよ。なぜなら、当人はあらかじめ死を意識しているんだから。それとか、病で死の淵《ふち》にある人間が書いたラストメッセージだって、涙は誘うかもしれないが、それなりに割り切れると思うんだよ。でもね、茜の場合は、まさかつぎの日に死ぬとは思わずに」
「わかった、もういい」
卓郎は手で制した。
彼は自分で理解点に達すると、相手が説明の途中でもそれをさえぎってしまう癖があった。その態度について輝樹は、「卓郎は将来、唯我独尊の経営者になれるタイプだよ」と、よく言っていたものだった。
「じゃ、おれの分析に戻る」
自分の吐き出した煙の行方を目で追いながら、卓郎は言った。
「信じられる部分は、いま言ったとおり『かげろう日記』の実在だ。それから、そこに記されていたような茜ちゃんの精神状態の崩壊だ。おまえのせいでね」
「おい!」
「おい、じゃないよ」
どこまでも卓郎はクールだった。
「おまえのせいだ」
「………」
「おまえが語って聞かせた日記の文面は、茜ちゃんの心がボロボロになっていたことを何よりもハッキリ表わしている。その内容も、信じられる部類に入れていい要素だ」
憤慨の表情を浮かべる輝樹に向かって、卓郎は淡々とつづけた。
「それからもうひとつ、これは非常に重要だが、おまえのマンションにその大学ノートが郵送されてきたということ――この事実を重く見ないといけない」
「どういうふうに」
「決まっているじゃないか。すべては生身の人間がやっている行為だ、ということだよ」
卓郎は、冷たい横目で輝樹を見た。
「それぐらいのこと、わからないのか」
「わかるよ」
「嘘だね、わかってないよ。『かげろう日記』が郵送されてきたという事実を重視していれば、真っ青になってオバケ騒ぎなど引き起こす必要性などないはずだ。いいか、輝樹。『かげろう日記』は茜ちゃんが書いた。これは事実だ。そしてその日記が、おまえの住まいの管轄地域の郵便局で投函《とうかん》された。これも事実だ。ここには幽霊の介在する余地はない。じゃあ、なぜおまえが顔面|蒼白《そうはく》でパニクってるかといえば、茜ちゃんの墓の前で、彼女の声を聞いたという、その一点だけだ」
「だけ?」
裏返った声で、輝樹が言い返した。
「その一点だけ、だって? その一点でじゅうぶんじゃないか、彼女の霊の存在を証明するには」
「落ち着けよ、輝樹」
「落ち着いてるさ」
「落ち着いてないよ」
「わかったよ。おれは落ち着いてない。落ち着いてなんかいられない。認めますよ。それで?」
「その精神状態がすべての根源だ、ということさ」
「おれの?」
「そう。いまのおまえに欠けているのは、『かげろう日記』はいったい誰が送ってきたのか、という論理的な追求だ」
「考えてはみたよ」
すぐに輝樹は言い返した。
「考えてみたけど、思い当たるところがないんだ」
「それで、死んだ茜ちゃん自身が送ってきたことにしたのかい。あの世にいた彼女が、現世に戻ってきて、そいつをポストに入れたんだと」
「そうとしか考えられないじゃないか」
「よく聞け、輝樹。三つの要素がある」
「なんの要素さ」
「おまえの精神を揺さぶった要素だよ」
「え?」
「第一に、死んだ彼女の日記が突然届けられた驚き。第二に、日記の内容が異常だった驚き。第三に、ふられた茜ちゃんがいかに苦しんでいたかを知った驚き――この三つの要素で、おまえの心はガタガタに揺さぶられた。とくにバレンタインデーの日記がチョコレートで書かれていたというビジュアル的な迫力にも打ちのめされた」
「それで?」
「おまえの心に幻覚を生じさせる要素はじゅうぶん揃った、というわけだ」
「ちょっと待てよ、卓郎」
輝樹は血相を変えた。
「おれがこんなに思いつめて、これだけありのままに話をしたというのに、すべてはおれの気のせいだというのかよ」
「気のせい、というほど軽いものだとは思わないよ」
「でも、錯覚だと」
「錯覚じゃなくて、幻覚といったほうが近い」
「どっちにせよ、枯れ木を見て幽霊だと騒いでいるようなもんだと……」
「まさしく、そういうことになるかな」
少し顔をしかめて最後の煙を吐き出すと、卓郎はタバコの火をもみ消した。そして、輝樹をまっすぐ見て言った。
「おまえが茜ちゃんの声を聞いたという場所は、ほかに人のいない暗い夜の霊園だ。しかも、彼女の遺骨が納められている墓の前だ。幽霊が出る道具立ては揃っている」
「そのとおり。だから出たんだ」
「出たんじゃなくて、作り上げたんだ。周りの雰囲気に影響されて」
「違う!」
大声を張り上げ、バンと激しくテーブルを叩《たた》いたので、空になっていた卓郎の盃《さかずき》が浮いた。
隣のテーブルにいたサラリーマンの三人組が、チラッと輝樹のほうを見た。が、すぐに彼らは自分たちの会話に戻った。
「卓郎、おれは聞いたんだ。この耳で聞いたんだ、茜の声を。茜の姿を見たというなら幻覚かもしれないが、声を聞いたんだよ」
「へーえ。目は間違えるけれど、耳は間違えないというのか」
「それも、たったひと声じゃないんだぞ。茜はおれの心を読み取りながら、おれと会話を交わしたんだ」
「心の中の会話なんて、いつだってやるさ」
平然とした顔で、卓郎は言った。
「たぶん、今夜帰りの電車の中で、おれは輝樹との会話を頭の中で思い返すだろう」
「何度言ったらわかるんだ。頭の中で作り上げたものじゃないんだ。実際に、おれの鼓膜を振動させた物理的な音声なんだよ。だからこそ位置もちゃんとわかった。おれの背中だ。後ろから聞こえてくると、はっきり特定できた。そして茜は言った」
「うしろ、見て……か?」
卓郎は苦笑した。
その反応に、輝樹はムッとした。
「ぜんぜん信用しないんだな、おれの話を」
「信用するしないじゃなくて、おまえが浮き足だっているのを鎮めてやろうとしているだけだよ」
「おれには、慰めなんか、いらないんだ」
「つまらんセリフを吐くなって」
手酌で酒をついでから、宮本卓郎は少し声を改めた。
「では、これからおまえを尋問する」
2[#「2」はゴシック体]
「尋問?」
「警察の取り調べのつもりで、まじめに答えろ」
「なんだよ、それは」
「『かげろう日記』は、どんな封筒で送られてきた?」
「茶封筒だ」
「特徴は」
「ぜんぜん」
輝樹は肩をすくめた。
「ごくありふれた事務用の封筒さ」
「消印の時刻は」
「届けられた前の日の朝だった」
「おまえの住所氏名を記したワープロ印字の部分だが、それは封筒に直接印刷されてあったのか、それとも……」
「シールだ。よくあるだろ、一枚のシールに住所氏名をプリントするのが」
「横書きか、縦書きか」
「横だったね」
「なるほど」
「何かわかったのかよ」
「いや、まだ。つぎは大学ノートのほうだ。それの特徴は」
「ノートそのものの特徴なんて、ないってば。そこらのコンビニでいくらでも売ってる平凡な品物だよ」
「厚さは」
「これぐらいかな、けっこう厚い」
輝樹は、親指と人差指とで厚みを再現した。そして、きいた。
「どうですか、名探偵さん。なにかわかりましたかね」
「ああ」
「わかったのか?」
「『かげろう日記』を入れてあった茶封筒は、誰にでも入手できることがわかった」
「バッカ」
輝樹は頭《かぶり》を振って吐き捨てた。
「さんざん人にまじめに答えさせておいて、結論がそれかよ。そんなことだったら百年前からわかってる」
「いやいや、わかっていなかったよ。誰にでも入手できるということは、誰もが日記の差出人でありうるということだ。おまえはおそらく茜の両親とか、彼女の交友関係とか、そのあたりしか差出人の候補を考えていないのかもしれないが、もっともっと網を大きく広げて考える必要があるんじゃないのか、ってことだ。それなのにおまえは、早々に幽霊のしわざだと決めつけている。バランス欠いてるぞ」
「おれが思いつかないような人間が、何のために送ってきたんだよ」
「いまのところ、ひとつしか考えられないね。内藤茜さんは、これほどまでに町田輝樹のことを思い、これほどまでに町田輝樹に捨てられて苦しんでいたんですよ、本人の日記を読んで、よーく反省なさってはいかがですか――ってところだろう」
「それならおれの考えと同じだよ。だからまず、おれを非難しそうな人物として、茜の両親を考え、彼女の友だちを考えた。でも、そう仮定するには疑問点も多いから、排除していったんだ。そして最終的には茜本人しかいない、という結論になるんだ。それに、送ってきたのが本人だと推測する根拠もある」
「どんな」
「誕生日の前日に届けられたってことさ」
輝樹は、これこそが決め手だという口調で言った。
「私の誕生日をまさか忘れてはいないでしょうね、って」
「オーケー、わかった」
話題を切り上げるように、卓郎は言った。
「そこまで幽霊説に固執しているなら、おれはもう何も言うことはない」
「冷たいな」
「温かい人間でも結論は同じになる。聞く耳を持たない人間にはな」
「親友の精神的ピンチを見捨てるのか」
「いったん見放さないと、おまえはまともな状態になりそうにないから」
「ふうん」
気まずい沈黙。
そして――
「……ちょっと待った」
急に思いついた表情で、輝樹は片手を前に差し出し、ストップのポーズを作った。
「わかったぞ。この日記を送ってきた人間が」
「誰だ」
「おまえだよ、宮本卓郎」
「は?」
「ご忠告にしたがって、もっと大きく網を広げて考えてみたら、なんと『灯台もと暗し』だ。犯人は目の前にいた」
3[#「3」はゴシック体]
「そうだ。なぜいままで気がつかなかったんだろう」
輝樹は自分の着想に自分で興奮し、声を高くした。
「日記を送ってきた人物は、いちばんおれの身近にいた男だったんだ」
「なぜ、おれがそんな真似をする必要がある」
「おまえなら、茜の立場に同情しておれを非難する動機がある。おれと仁美がつきあっている状況をつぶさに知っている数少ない人間のひとりだけに、ますます裏切られた茜への哀れみも増してきただろう。だから、いちどおれをガツンとやらないといけないと思ったんだ。説教好きの宮本卓郎君としてはね。しかし、口で言っても効き目はなさそうだから、『かげろう日記』を持ち出した。茜と何度か会っているおまえなら、彼女が日記をしたためていたことを知り得たし、彼女が死んだあとでも、その現物を入手することも可能だったろう。……いや、もしかすると……そうだ、もしかすると」
輝樹の声が大きくなった。
「おまえは、茜の相談相手だったんじゃないのか!」
「………」
「そうだろ。おれに捨てられた茜は、おれの親友であるおまえを頼って相談してきたんだ。そして、精神的にすっかり参ってしまった茜は、おまえの言うことなら何でもきくようになった。そこでおまえは茜に勧めたんだ。そんなにつらいなら、日記にすべてを吐き出してみればいいじゃないか、と。それが最高のストレス解消になるはずだ、と。宮本卓郎を心理カウンセラーとして頼り切っていた茜は、そのアドバイスにしたがって……」
「わかった、もういい」
さきほどと同じように、卓郎は相手の話を途中で打ち切った。
そして、静かに言った。
「立派な推理だと思うよ、輝樹。少なくとも、いままでおまえがこだわっていた幽霊説よりは何百倍も説得力があるし、茜ちゃんの両親や女友だちを差出人と仮定するよりも、やっぱり何十倍かの説得力がある」
「認めるんだな、おまえのしわざだと」
「非常に整合性のある仮説で感服している」
「認めるんだな、おまえが日記を送りつけてきた犯人だと」
「犯人という言い方はやめてほしいね」
「認めたな、とうとう」
「くどいな。誰が認めたと言った。犯人呼ばわりされるのは、どんなときでも不愉快だ、というだけのことだよ」
「……おい」
輝樹の表情がいちだんとこわばった。「犯人」という言葉で思い出したことがあった。
「卓郎、おまえ、身長は何センチだ」
「なんだよ、唐突に」
「いいから答えろよ」
「輝樹みたいに背が高くてカッコいい体型でないことだけはたしかだ」
「早く答えろ、何センチだ」
「百七十だよ」
その答えを聞いて、輝樹の目の色が変わった。
「百七十センチということは、百六十五センチとほとんど変わらない、ってことだよな」
「バカ言うな。大いに違うじゃないか。その五センチの差は大きいぞ。これでもおれは、ギリギリ百七十台であることにホッとしているんだから」
「小学生の目から見れば、百六十五も百七十も同じだよ」
「どういう意味だ」
「茜を刺し殺したフルフェイスのヘルメットをかぶった男は、身長百六十五センチで小太り。そしておまえも、少なくとも痩《や》せているとは言い難い」
「輝樹……」
日記の送り主だろうと名指しされたときは冷静だった卓郎が、さすがにこんどは顔色を変えた。
「冗談もそこまでいくと、ほうっておけないぞ」
「冗談ではない。まじめな推理だ」
「自分が何を言っているのか、わかっているのか」
「わかっている」
「宮本卓郎を、内藤茜殺しの犯人だと名指ししているんだぞ」
「そのとおり、犯人だと名指ししている」
極度の緊張のあまり、能面のような無表情になって輝樹は言った。
「おまえは茜の相談に乗るうちに、いつしか彼女に恋をした」
「………」
「そして自分の恋人になるよう求めたが、あっさり拒絶されたうえに、頼りにしていたのにひどい裏切りだとののしられた。もしかすると、輝樹に話してしまうとまで言われたのかもしれない。そこで焦った卓郎は、彼女の後をつけ回し、ひったくりを装って刺し殺した。あれは、金を奪おうとした男が抵抗されて刺したんじゃない。最初から茜を殺すつもりだった人物の犯行なんだ。通りがかりの人間ではなく、顔見知りのね」
「輝樹」
唸《うな》るように低い声で、卓郎は言った。
「おまえ、おれのアリバイを調べて物を言ってるのか」
「さあね」
「さあね、じゃないよ。茜ちゃんが殺されたあと、輝樹は昔の恋人という立場で警察に一度は疑われたろう。そして取り調べを受けたはずだ。しかし、おまえには明白なアリバイがあった。だから、無実ということになった」
「そうだよ」
「おれを疑うなら、同じように、ちゃんとアリバイの確認をしてもらいたいもんだな」
「じゃあ、あるのか、アリバイは」
「ある」
即座に卓郎は答えた。
「あの晩は、ものすごい土砂降りだったろう。おれは営業車で外回りをしていたんだが、川があふれて冠水した道路に突っ込んで立ち往生したんだ。それでけっきょく夜の十一時過ぎまで社に戻れなかった」
「よくもまあ半年前のことを、すらすらと思い返せるもんだな」
「それだけ特別な経験をしていりゃ、十年後だって覚えているさ。とにかく輝樹、おれはおまえとの友情を壊すつもりはない」
そう言って、卓郎は立ち上がった。
「なんだよ、逃げるのか」
座ったまま、輝樹が目で追う。
「帰るんだよ」
そう答えながら、卓郎は財布から千円札を三枚出してテーブルの上に置いた。
「まだたいして飲んでいないから、おれの分はそれで足りるだろう」
「ちょっと待てよ、卓郎」
「待たない。今夜はいくら話してもダメだ。頭を冷やして出直せ、輝樹。冷静になれたなら、明日また話を聞いてやる」
「やっぱり、まずくなったから逃げるんだ」
「ひとことだけ言っておく」
いったん背中を向けながら、半身をひねって卓郎は言った。
「こんど、この件でおれと話をする前に、『かげろう日記』を最後まで読んでおけ」
「え……」
「おまえのやっていることは、途中までしか読まずに、推理小説の犯人をああだこうだと論じているようなものだ。おれが茜ちゃんの相談相手になっていたと想像するのも結構、人生相談が恋に発展したと想像するのも結構、そしておれが彼女を殺したと想像するのも結構。だけど、それは日記を最後の一行まで読んでからのことにしてくれ。そして、おれに日記の内容をすべて聞かせたうえでのことにしてくれ」
立ったまま激しくまくし立てるうちに、卓郎は完全に輝樹のほうへ向き直っていた。
そして、人差指を相手に突きつけて言った。
「怖がるな、輝樹」
「なにを、だよ」
「『かげろう日記』の先を読むことを怖がるな。『かげろう日記』の結末を知ることを恐れるな」
「………」
「不自然だぞ、輝樹」
卓郎の言葉に、輝樹はギクッと身をこわばらせた。
「おまえは、日記をおれに見せたら最後まで読んでしまうからイヤだと言ったが、もしもおれがおまえの立場なら、朝それを開封した直後に、一気にしまいまで目を通しただろう。会社に行くのが遅れそうになろうがどうしようが、斜め読みでもいいから最後までページをめくっていっただろう。それが自然な行動というものなんじゃないのか」
「なにが言いたいんだ、卓郎」
「結末を恐れる理由が知りたいんだよ」
急に静かな口調になって、卓郎は言った。
「『かげろう日記』の結末にそこまで怯《おび》える、町田輝樹の深層心理を知りたいんだよ」
輝樹は、何も言い返せなかった。
言い返せない理由は、自分でもわからなかった。
4[#「4」はゴシック体]
とにかく肩が凝っていた。
筋肉の代わりに鉄板が埋め込まれたような感じで、肩がパンパンに張っていた。とくに右側の凝りがひどい。まだ二十代のくせに、仕事がハードになるといつもこういう状況になる。しかし、今夜はとくにそれがひどかった。
ストレスなんだ、と輝樹は胸の内でつぶやいた。
もちろん、突然郵送されてきた『かげろう日記』によってもたらされたストレスである。と同時に、それが引き起こした新たなトラブルに対するストレスでもあった。
卓郎と気まずい別れ方をして部屋に戻ってきた町田輝樹は、何をする気力もなく、リビングに置いたソファにぐったりと倒れ込んだ。目の前のガラステーブルの上には、アタッシェケース。仕事の書類のほかに、『かげろう日記』が入っている。
それに虚《うつ》ろな視線を向けながら、もうどれぐらいの時間が経っているのか、輝樹には見当がつかなかった。
実際のところ、時計はまもなく午前零時になろうとしていた。中途半端な状態で居酒屋を出て、この部屋に戻ってから、いつのまにか三時間が過ぎていた。
輝樹はひどく後悔をしていた。いや、後悔というよりも自己嫌悪だった。
まさしく卓郎が指摘したとおり、さっきの自分は、途中までしか読まずに推理小説の犯人あてを得意げに述べ立てているようなものだった。いまの自分にとって、もっとも信用ができて、もっとも頼りにできて、もっとも気が合う大切な友人を、きわめて安易に殺人犯扱いした。たいして酒も飲んでおらず、酔っぱらってもいないのに、あまりにも軽率な行為だった。
こんな思考回路を持ちつづけていれば、いずれこんどは、仁美のことを犯人扱いにでもしかねない。茜を殺したのは体型から間違いなく男のようだから、そちらの犯人とは考えられないが、『かげろう日記』の差出人は意外にもいまの恋人だった、という筋書きをデッチ上げかねない。
冷静にならなければいけない、と輝樹は自分に言い聞かせた。
(何をさておいても、おれがやらなければならないことは……)
ソファに背をもたせかけたまま、輝樹はアタッシェケースに目をやった。
(『かげろう日記』のつづきを読むことだ)
昨日の午後、宣伝部会中にこっそり開いて見た、バレンタインデーのチョコレート殴り書きメッセージ。あの衝撃が大きくて、その先を読む勇気がなかった。しかし、たしかに卓郎が言うとおり、結末まで読まなければ、誰がどんな目的をもってこの日記を送ってきたのかは、正しく推測できないのだ。それはわかっている。
一気に最後まで読まないことを、卓郎は不自然だと指摘した。まったくそのとおりだと思う。自分を信頼してくれている卓郎でなければ、すべてが作り話で、『かげろう日記』など最初から存在していないのだと疑われても仕方ない。
だが、現実の話として、茜の筆跡でしたためられた日記は目の前にある。
そして現実の話として、その日記の先を読む勇気がない。
その心理状態を、卓郎は輝樹の猛烈な恐怖心と捉《とら》えていた。だが、輝樹自身としては、恐怖もたしかにあったけれど、むしろ自分の予知能力のようなものが発している警告にしたがっている、という思いがあった。『かげろう日記』を最後まで読んだら、自分の精神が壊れてしまう、という予感である――
それが先へ読み進める手を止めているのだ。
けれども、その一方では卓郎が主張することにも納得している自分がいた。最後まで読まなければ、なにも解決できないのはわかっていた。とりわけ、ゆうべ墓地で聞いた茜の声をどう解釈するかは、『かげろう日記』の結末にかかっているという気もした。
(読もう。逃げちゃダメだ)
ようやく輝樹はソファから身を起こした。
そして、アタッシェケースのフタを開け、『かげろう日記』を取り出した。
最初のほうから順番にページを繰っていき、二月十四日の記述まできた。左右いっぱいに広がるチョコレートの殴り書きから目をそむけるようにして、つぎのページを開いた。
(なんだ……これは)
輝樹はすぐに前のページを見返した。
そしてまた、いま開いたページに戻る。
それでもまだ納得できずに、また前のバレンタインデーのページに戻り、そしてふたたびページを繰る。
いきなり日記の日付が飛んでいた。二月十四日のつぎが六月六日になっていた。そして、その文面は……。
6月6日[#「6月6日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月7日[#「6月7日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月8日[#「6月8日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月9日[#「6月9日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月10日[#「6月10日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月11日[#「6月11日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月12日[#「6月12日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月13日[#「6月13日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月14日[#「6月14日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
6月15日[#「6月15日」はゴシック体]
このまま、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
* * *
町田輝樹は、釈然としない表情で日記を見つめていた。
ノートが途中で破られた形跡はなかった。それなのに、二月十五日から六月五日までの記述がすっぽり抜けて、バレンタインデーのつぎは、いきなり六月六日からはじまっているのである。
そして、翌日の悲劇を予感しているかのように、例の一行日記の繰り返しが六月十五日でぴたりと止まっていた。
(だからイヤだと言ったんだ)
輝樹は泣き出したくなっていた。
(だから、先は読みたくなかったんだ)
しかし、彼の右手はノートの端をつまみ、つぎのページを読むべく、紙をゆっくり持ち上げていた。内藤茜、人生最期となった日のページへ――
「ああ……あああ」
すすり泣きに似た悲鳴が、輝樹の口から洩《も》れた。
見開きいっぱいに、こんどは血液で日記が書かれていた。
6月16日[#「6月16日」はゴシック体]
私は殺されました。血がいっぱい出ました。
それでも、輝樹の人生から去るわけにはいきません。
* * *
くらくらとめまいがした。
追い討ちをかけるように、かすれた声が後ろから聞こえた。忘れられないハスキーボイスが。
「てるきくん」
茜の声だった。
[#改ページ]
五.雨の夜の謎[#「五.雨の夜の謎」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
「栗田さん、ちょっと」
十二月十九日――
町田輝樹が『かげろう日記』を開封してからちょうど一週間が経った日の朝、宣伝部長の吉井満智子は、コピーをとって自席に戻ってきた栗田仁美に声をかけた。そして目が合うと、フロアの奥にある小会議室をアゴで指し、そこへいっしょに行くようにとうながした。ほかの部員は誰もふたりの動きに気づかず、それぞれの仕事に没頭している。
宣伝部長席の横にある柱には各部員の所在を示すホワイトボードが掛かっており、満智子は、ボード用のペンを取り上げて、自分と仁美の欄に「小会議室」と記入した。
「栗田」と印刷された名札の二つ上に位置する「町田」の名札は、まだ出社していないことを示す赤。そしてその横には「病休」と書かれていた。
「ほんとうに、あなたにも詳しい状況がわからないの?」
六人ほどしか入れない小会議室にふたりでこもると、部長の吉井満智子は単刀直入に切り出した。
「はい」
暗く沈んだ顔で、仁美がうなずく。
「いつかけてもケータイは留守電ですし、メールを打っても返事はこないし、やっと電話に出てくれたと思っても、とにかく具合が悪いから会いたくないって」
「彼の部屋には行ってないの?」
ふたりの関係を承知している満智子が、たずねた。
「行きました。毎日行ってます。でも、返事がないか、たまに声が返ってきても、会いたくないと言うばかりで……」
「私、町田君とは十二日にいっしょにお昼を食べたんだけど、そのときはとくに変わった様子もなかったし、部会でも――まあ、彼にしてはあまり発言もしないで無口だったけど――とりたてておかしなところもなかった」
満智子も表情を曇らせていた。
「それが突然、風邪だといって休んで、もうきょうで何日目かしらね。十四、十五、十六……土日をはさんで、きょうで六日目よ」
「そうですね」
「これで電話連絡がとれなかったら、死んでいるんじゃないかと心配するところだけど」
満智子はため息をついた。
「いちおう私も管理職として、毎日電話がつながるまで追いかけてるんだけど、そのたびに彼が言うセリフは同じ。『風邪をこじらせて熱が下がらないんです』。で、病院には行ってるのときくと、『ええ、行ってます』。……だけど、どうもそういう感じではないのよね。風邪とは思えないの」
「私も同じです」
と、仁美が重苦しい口調で相づちを打った。が、その先の言葉は出ない。
「ねえ、栗田さん。あなたたちふたりのあいだで、何かあった? プライベートなもめごととか」
「いえ、ありません」
「恋は順調?」
「はい。ただ……」
「ただ?」
「どことなくヘンだな、っていう感じはしていたんです」
そこで仁美は、十二日の夕刻、退社した直後の輝樹が「知り合いの女」に会いに行くと言って、仁美の誘いも断り足早に駅へ向かっていった状況を話した。その様子が、どうもただごとではないように思えた、と。
「それはちょっと気になる情報ね」
考え込んだ顔で、満智子は言った。
「町田君がほかの女の子と浮気しているという話なら、あなたたちの問題だから、私はいちいち介入しないけれど、仮にそうだったとしても、そんなことで会社を長く休んだりはしないわよね」
「ええ」
「でも、その『知り合いの女』というのが厄介な存在だったら、話は違ってくるわ」
「厄介な存在って?」
「たとえばお金がらみよ」
「………」
「まだ彼の身辺を探ったりするのは早いかもしれないけれど、金銭的なトラブルに巻き込まれていたとすれば、場合によっては深刻な展開になっていくかもしれないでしょ。お金の問題だったら、あなたにも言えないだろうし、上司の私にも相談できないだろうし、ひとりで抱え込んで思いつめてしまう危険もある」
「……はい」
「こうしようと思うの」
満智子は、キリッとした口調で言った。
「きょう一日だけ様子をみましょう。そして、明日も出てこないようだったら――あなたを誘うわけにはいかないから――高橋副部長といっしょに、彼の自宅に行ってくるわ。そして、何が何でも扉を開けさせて話を聞く。その行動に出るまでに、あなたのほうに彼から何か話があったら、夜中でもいいから私の携帯に連絡をちょうだい」
「わかりました」
「あ、それから」
先に立ち上がりながら、満智子がきいた。
「町田君といちばん仲のいい男の子は、たしか営業の宮本君だったわよね」
「そうです」
「彼は、町田君の欠勤について、何か言ってない?」
「心配はしているみたいです。でも、それ以上のことは……」
「そう。ま、あとで彼にも声をかけてみるかもしれないわ。じゃ、これで」
吉井満智子は、短い時間で話し合いを切り上げた。
2[#「2」はゴシック体]
その日の昼――
会社の車で得意先回りをしていた営業部員の宮本卓郎は、持ち合わせが少ないことを思い出し、オフィス街の道路沿いにあるATMを見つけると、近くに車を停めて現金を引き出しに入った。
あいにく正午を回ったところで、二台しかないATM機の前には、昼食のためにオフィスを出てきたサラリーマンやOLたちで長蛇の列ができていた。
(これじゃ並んでいるのは時間のムダだから、メシを食ってからにするか)
そう思いながら、なにげなく行列に目をやっていた卓郎は、並んでいる人々に関して、いつもなら見逃してしまうある「共通点」に気がついた。そこに並んでいるOLたちの多くは、改まったバッグを持っていないのである。手ぶらか、会社の紙封筒、あるいは、せいぜい小ぶりのクラッチバッグていどで、ハンドバッグやショルダーバッグなどを持っている女性は、列の中でごくわずかだった。
昼時のオフィス街だから、当然といえば当然だった。昼休みの食事に外出したついでにお金をおろそうという者がほとんどだから、よけいな荷物は持っていないのである。そんなあたりまえの光景は、これまで何百回と見てきているのに、きょうにかぎって、それが頭の片隅に引っかかった。
なぜ引っかかっているのか、営業車の運転席に戻るまで卓郎はわからなかった。だが、車を発進させようとして気がついた。
「そうか!」
冷静な彼にしては珍しく、大きな声で独り言を言った。
「おかしいじゃないか!」
十分後――
コンビニで昼用の弁当と飲み物を買い込んできた卓郎は、それを助手席のシートに置いたまま、ミニノートパソコンを膝《ひざ》の上で開いて、一心不乱にメールの文章を打っていた。
送信相手は、欠勤中の町田輝樹。
≪長い「病休」心配している。たぶん、例の日記がらみで、精神的に参っているんだろ。ケータイにかけてもしょっちゅう留守TELだし、メールの返事もくれないし……。居酒屋での一件だったら、もう気にするな。おれはなんとも思っていないから。
ところで報告がある。茜ちゃんが殺された事件のことだ。
おまえの彼女だった人間があんな死に方をしたわけだから、おれもショックで、事件を伝えるネット記事をパソコンに保存しておいたんだ。それをもういちど読み返したうえで、いまメールしている。
おかしなことに気がついたんだ。気づいたきっかけは省略する。
事件が起きたのは、平日の夜七時半だった。しかも、猛烈な土砂降りの夜だ。そして、茜ちゃんが襲われたATMは、彼女の住まいのすぐそばだ。これらの要素を頭に入れておいてくれ。
ふたりの小学生による目撃談を加えて当時の状況を再現すると、彼女はATMで現金をおろし、それをバッグに入れて外に出たところ、そのバッグを男に奪われそうになって抵抗し、ナイフで刺され、出血多量で死んだ。
だけど、六月十六日時点の茜ちゃんが、どんな暮らしをしていたか、思い出してみろ。言っちゃ悪いが、おまえにふられたショックで完全ひきこもり生活に入って、もう九カ月も十カ月も経っている。会社も前の年に休職扱いとなって、そのままだ。
もちろん、いくらひきこもっていたって、なにがしかの生活費は出ていくから、金をおろしにいくこともあるだろう。だけど、自宅の近所のATMへ出かけるのに、どうしてバッグを持って出る必要があるんだ? 報道記事だけでは、どんなバッグかわからないけどね。
それからもうひとつ。その晩は猛烈な土砂降りだった。そんなタイミングを選んで、わざわざ金をおろしにいくかね。一晩明ければ雨も上がるだろうという予想のもとに、外出は控えるのがふつうだろう。まして、ひきこもり症候群なら、出るか家にこもるかの二者択一だったら、こもるほうを選ぶに決まっている。なのに彼女は、大雨の中を外に出た。
そうやって考えていくと、おれとしては、ひとつの推測が成り立つような気がしてきたんだ。その夜の茜ちゃんは、ひきこもり生活を一時中断してでも、急遽《きゆうきよ》、誰かに会いに行く必要が生じていたんじゃないだろうか。そのさいにまとまった金が要った。しかも急に入り用になったから、あんな天気の夜に、閉店まぢかのATMに駆け込んだんだ。
彼女がATMからいくら引き出したのか、その金額は報道されていないから、家族にでもきかないとわからないが、どうも一万や二万というレベルではなかったんじゃないか。
それから気になるのは、彼女の服装がどんなものであったか、ということだ。もしもバッグがフォーマルなものであったなら、服装もそれなりに合わせた外出着だったはずだ。まさかスウェット姿でバッグを持っては出まい。やはり彼女は、大雨の晩に誰かに急に呼び出され、仕方なくよそゆきの格好で外出することになった。そして、金をおろしにATMに立ち寄った。
しかし、だ。そこでタイミングを合わせたように、フルフェイスのヘルメットをかぶった男に襲われたというのが気になる。おまえは、おれを犯人扱いしたときに、金が目当てなんじゃなくて、茜ちゃんの命が目当てだったというような論理を展開してくれたが、ひょっとしたら、それが当たっているのかもしれない。犯人の男は、茜ちゃんの外出を知って自宅から尾行してきたんじゃないだろうか……。
ずいぶん長い文章になったな。おかげでメシを食う時間がなくなったよ。
なんでこんなメールを送ったかというと、たぶん、おまえはいま茜ちゃんの亡霊に悩まされていると思うんだよね。だから会社に出てこられる精神状態ではないんだろうと察している。
おれはしょせん他人事《ひとごと》だから、霊の声が聞こえたなんてありえない、とあっさり言えるけど、おまえがそうかんたんには割り切れないのもよくわかる。
だから、茜ちゃんの死にまつわる謎を発見したよ、と報告することで、おまえが事件の真相解明に向けて、論理的な頭脳活動をはじめてくれればうれしい。おれはおれで、独自に調べてみることにするよ。なんせ身の潔白を晴らす必要もあるしな。
いや、いまのは冗談だが(笑)。
早く会社に出てこいよ。ことしが終わっちゃうぞ。
それに仁美とのクリスマスデートもあるんだろ。彼女、おまえの状況をかなり心配しているようだ。ああいう子だから、ふだんは気丈に明るくふるまっているけど、内心じゃ不安のかたまりになっているはずだ。電話かメールでも入れてやれよ。
おれのほうは、返事をくれても、くれなくてもいい。おまえの元気な顔を会社で見られれば、それでじゅうぶんだ。では≫
一気にキーボードを叩《たた》き終えると、卓郎はフーッと長いため息をついた。そして、メールの送信ボタンをクリックする。宛先は輝樹のパソコンアドレスである。
送信済みになったのを確認すると、つぎに彼は、輝樹のケータイメールのほうに短いメッセージを送った。パソコンのほうのメールを開いてくれ、という内容である。
そして卓郎は、腕時計とにらめっこして昼休みの残り時間を見計らいながら、営業車の運転席でコンビニ弁当をかき込んだ。
(これで、なんとか輝樹もまともな頭の働かせ方をしてくれればいいんだが)
超特急の昼食を済ませたあと、タバコを一服しつつ、宮本卓郎は少しだけ満足した気分になっていた。悩める親友のために、有効な手助けをしてやれたような気がしていたからである。
この先に待ち受けている、信じがたい展開を知るよしもなく――
[#改ページ]
六.時の流れを追いかけて[#「六.時の流れを追いかけて」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
世間が昼であっても、町田輝樹にとって、自分の生きている空間は闇だった。
この六日間というもの、輝樹は出社できるような精神状態ではなかったが、部屋の中にこもりっぱなしでいたわけではない。自分の精神が崩壊していくのをなんとか防ごうと、人ごみの中に出たりもした。あるいは寒さにもかまわず、海を見に湘南のほうへマイカーでドライブもした。気分転換になるかと思って、映画館にも入ってみた。
だが、ダメだった。
日記のことを忘れようとしても、少し油断すると、頭の中にメロディが流れてきたりするのだ。破滅的に乱れたギターの不協和音をバックに、内藤茜がかすれ声で歌う、その調べが頭の中にすり込んでくる。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
陽炎《かげろう》が燃えている
私の瞳の中で
未来など、見るんじゃないって
陽炎が燃える
陽炎が揺らいでる
私の心の中で
現在《いま》のこと、信じるなって
陽炎が揺らぐ
陽炎が笑ってる
私の身体の中で
過去だけに、しがみつけって
陽炎が笑う
どこまでも、どこまでも
意地悪な陽炎
いつまでも、いつまでも
意地悪な陽炎
[#ここで字下げ終わり]
周囲に人がいるときは、茜の歌声は頭の中で聞こえているだけだが、ひとりで部屋にいたり、マイカーを運転しているときは、それが物理的に鼓膜を通して聞こえてくる感じになる。これがたまらない恐怖だった。
その猛烈に生々しい声の存在感が、従来の幽霊という概念を超えて輝樹に迫ってきた。姿は見せないが、しゃべる声が、そして歌声が、自分の後ろから聞こえてくる――こんな幽霊のあり方は、作り話にも聞いたことがなかった。
その声が聞こえると、もう輝樹は居ても立ってもいられなかった。声が聞こえてくる後方は絶対にふり返れなかった。
自宅に『かげろう日記』が送られてきて以来、彼の理性は四方八方から揺さぶられ放題だったが、決定的なダメージとなったのは、六月十六日の悲劇そのものを、茜の筆跡が記録していたことであった。それだけではない。なんと、さらにその日以降も、彼女の字で綴《つづ》られる日記は継続していたのである。
しかも、茜の死亡した日から先は、日にち的には飛び飛びになっている代わりに、それまでの単調な一行文の繰り返しではなく、かなり記述が具体的なものに変わってきた。その内容も、ますます輝樹の心を破壊していく種類のものになっていった。
* * *
6月17日[#「6月17日」はゴシック体]
昨日、私は死にました。
でも、皮肉なことですね。死んだほうが、輝樹が近くなりました。だって私は、好きなときに好きな場所へ行けるんですもの。
輝樹のお部屋にだって、輝樹が女と寝ているホテルの部屋にだって、す〜い、すい。
6月20日[#「6月20日」はゴシック体]
輝樹が栗田仁美という女とつきあっていることを、私はよく知っています。
この女は、罰せられなければなりません。
どういう処罰を与えるべきか、いま考えているところです。
私は霊ですから、なんでもできるのです。
7月7日[#「7月7日」はゴシック体]
七夕の日。
空には、私の星と、輝樹の星が輝いています。
仁美の星など、あるはずがありません。
7月15日[#「7月15日」はゴシック体]
きょうは輝樹のお誕生日。二十六歳になったんですね。おめでとう。仁美に祝ってもらっているんでしょう? バースデーえっちをするんでしょう? くやしいから、ずっと見ていてあげましたよ。
なんであんな女がいいんですか。いまがよくても、あの女は、すぐにババアになるんですよ。だけど私は死んでいるから、いつまでも二十四歳のまま。とてもすてきなことだと思いませんか。
あいつが五十歳になっても、私は二十四歳。あいつが七十歳になっても、私は二十四歳。いつまでも、いついつまでも、若い身体でいられるの。憎たらしい栗田仁美が、醜くて見苦しい皺《しわ》くちゃババアになっても、私はきれいな乙女です。
どっちがいいか、較べるまでもない話でしょう。
* * *
内藤茜の死後の日記を読み進めていった最初のうちは、輝樹も、なんとかして論理的な説明を見出さなければならない、という努力はしてみた。
六月二十日、七月七日、そして輝樹の誕生日である七月十五日の記述に関しては、彼女が死ぬ六月十六日以前にも書けるような内容である。ただし、六月十七日は「私は死にました」とあるから、こればかりは無理のように思えた。
だが、必死に頭を働かせた末に、それさえも合理的に説明できる解釈を、輝樹はひねり出した。また、前日の六月十六日の「私は殺されました」という記述さえも、幽霊ではなく、生身の茜が書いたという可能性を見出した。
それは、彼女の死が不意の他殺ではなく、あらかじめ計画された委託殺人であったという場合である。自らを殺してほしいと頼む、委託殺人だ。
すなわち、他人の手を借りた自殺――
それを前提として、町田輝樹に捨てられた怨念を晴らすために、茜が究極の復讐《ふくしゆう》を考えたとしたらどうだろう。
つまり、死ぬ前に幽霊になっておくのだ。
すさまじいアイデアである。
あらかじめ六月十六日を自分の死ぬ日と定め、事前に死後の日記をしたためておく。殺されたという「事実」も含めてだ。それが『かげろう日記』である。そうした準備を整えたのちに、協力者に自分を刺し殺してもらうのだ。いざとなれば、殺される茜も演技ではない断末魔の悲鳴が出る。目撃者にとっては、どうみても悲劇的な殺人としか思えない。
そして数カ月経ってから輝樹のもとへ『かげろう日記』を郵送することを、協力者に依頼しておく。茜の誕生日、十二月十二日に間に合うように、だ。それを読んだ元恋人は、生前の茜の執念と情念に打ちのめされ、死後の茜の怨念に震え上がり、ついには精神が破壊される、という仕組みである。
自らに激しい肉体的苦痛を伴う死を与えてでも、冷淡になった男の心をめちゃめちゃにしたい。これほどまでに常軌を逸した計画があるだろうか。
(これだ……)
輝樹は確信した。
(これが茜の仕掛けた究極の復讐なんだ)
全身が震えるほど恐ろしい仮説であったが、この推測が事実であったならば、心霊現象の一部分は論理的に説明がつくことになる。死んだはずの茜の声が実際に聞こえるという問題は未解決だが、茜が死後も『かげろう日記』を書きつづけていたというショッキングな部分が否定されるだけでも、少しはホッとするものがあった。
だが――
さらにその先の日記を読んだ輝樹は、ようやく見つけだした論理的な解釈が、ふたたびガラガラと崩れていくのを感じ、呆然《ぼうぜん》となった。
* * *
7月17日[#「7月17日」はゴシック体]
輝樹は、仁美から誕生日のプレゼントにもらったゴールドのペンダントが気に入っている。お風呂《ふろ》に入るときも、寝るときも肌身離さずつけている。
いつか壊してやる。
7月22日[#「7月22日」はゴシック体]
いよいよ陽炎《かげろう》の季節です。
夏になれば思い出す。私が捨てられた季節だということを。
それなのに輝樹は、私が殺されたこともすっかり忘れて、ビデオショップからコメディ映画のシリーズを二本レンタルして、あの女といっしょに見ながらバカ笑いしています。冷えたビールをぐびぐび音を立てて飲みながら。
信じられません。私が死んでから一カ月しか経っていないというのに。
そういえば、輝樹は私のお葬式にもきませんでした。なんて冷たい男なんでしょうか。二、三度会っただけの宮本さんは、ちゃんときてくださったのに。
* * *
死後の日記は生前に書かれたものだった、という新仮説の大前提が打ち砕かれた。
たしかに仁美はゴールドのペンダントをプレゼントしてくれた。そして、たしかに輝樹はそれを肌身離さずつけている。といっても、仁美への永遠の愛を誓った証拠というわけではなく、つねに身につけていないと仁美がうるさく言うから習慣になってしまっただけではあったが。
茜の束縛愛を逃れるための緊急避難先であったはずの仁美が、一年以上のつきあいを経るうちに、いまでは茜と似たり寄ったりの束縛ぶりを示しているのは皮肉だったが、茜と違って、仁美のそれはカラッとした感じの縛り方なので、それほど輝樹は不愉快には思っていない。
ともあれ、七月十七日の記述は、茜が生前には決して知り得ない事実だった。また七月二十二日の記述も同じだ。この日記で示されるまですっかり忘れていたが、『オースティン・パワーズ』の一作目と二作目を借りて、マイク・マイヤーズお約束のギャグパターンに、仁美と大笑いしたのは事実だった。ビールを飲みながら。
そうなのだ、茜が悲劇的な死を遂げたことなど、一カ月後には頭の片隅にも残っておらず、コメディ映画に大笑いしている自分がいた。その二本は、ビデオ店に行ったとき、なんとなく輝樹が手を伸ばして借りることにした。その事実を、殺された茜が事前に書いておけるわけがない。
それなのに『かげろう日記』には、その映画のことが書かれている。題名こそ記されていないが、シリーズを二本借りたことまで詳しく……。
* * *
8月9日[#「8月9日」はゴシック体]
きょうは一生忘れられない日。
一年前、輝樹が私に「別れよう」と切り出した日。
なんとなく予感はしていた。彼が社会に出てからというもの、大学にいたときのような温かみが日に日に薄れていくのは感じていた。けれども修復は利《き》くと思っていた。彼が同じ会社の女の子とつきあいはじめたのは知っていたけれど、そんな浮気に私の愛が負けるはずがないと思っていた。
だから、別れようと言われたときは、ものすごいショックだった。しかも輝樹は、新しい女の正体を隠した。恋人ができたことは認めたけれど、それが同じ会社の同じ部署の後輩であることは、ひた隠しに隠した。社内恋愛は御法度なんだから絶対ないと言い切った。大ウソだった。
彼は私がすでに栗田仁美の存在を承知していることに気がついていなかった。平気で嘘がまかりとおると思っていた。情けなくて、悔しくて、泣けた。
そうですか、そんなに私のことが嫌いになりましたか、てるきさん。
私のどこがイヤなんですか? どうか具体的に教えてもらえませんか。私、バカだから、わかんないのよね、自分の不愉快な部分が。
それにつけてもあれから一年、殺された私は完全に無視され、輝樹はあの女といまだに腐れ縁をつづけている。
あんな女のどこがいいのよ! 私が死んだことも忘れてしまえるぐらい素敵だっていうの? ああそうですか、わかりましたよ。
それなら私にだって考えがあります。
考えがあります。
いい考えがあるのです。
おぼえていろよ、輝樹。
* * *
ここまでくると、もはや『かげろう日記』の存在理由について、いかなる合理的解釈を見つけることも不可能と輝樹には思われた。
茜の生々しい筆跡に凄《すご》まれ、輝樹は硬直した。
つぎのページを開くには膨大なエネルギーと勇気を要した。それでも彼は、結末まで読み通せという親友・宮本卓郎の言葉を思い出し、大学ノートのページをめくった。
* * *
8月16日[#「8月16日」はゴシック体]
冥界《めいかい》は暗い。夏だというのに、ここは冷たく湿っている。
きょう、輝樹さんは仁美といっしょにホテルのプールへ行った。
いいですね。そちらの世界は明るくて、ギラギラ輝いていて。
* * *
仁美とホテルのプールへ泳ぎに行ったのも事実だった。
すでに輝樹は、『かげろう日記』の記述を「科学的」に証明しようとする気力を完全に失っていた。殺された茜が、死後もなおこのノートに日記を綴《つづ》りつづけたという以外に考えようがなくなっていた。
そして――
輝樹を恐怖の奈落に突き落とす記述が、つぎの日付の日記にあった。
* * *
9月9日[#「9月9日」はゴシック体]
なぜ日記が飛び飛びになっているか、わかりますか、輝樹さん。
私は必死に追いつこうとしているのです。時の流れを追いかけて、いまのあなたがいる世界へ追いつこうと、過去から現在へ猛烈なスピードで走っています。
バレンタインデーのあと、一気に六月に飛んだのも、そのためです。もう、一日ごとの日記なんてのんびりしたことはやっていられませんからね。六月、七月、八月も駆け足です。九月まできました。
さあ、もうすぐです。
クリスマスイブには追いつきます。
2[#「2」はゴシック体]
携帯電話がメールの着信を知らせていた。パソコンメールのほうを見るようにとうながす、宮本卓郎からの連絡だった。
だが、その着信音には気づいていたが、輝樹は携帯電話へ手を伸ばそうとしなかった。会社を休みつづけているこの数日間、上司の吉井部長や栗田仁美からも含め、いったいどうしているんだと安否を気遣うメールや留守TELが、かなりの数にのぼっていた。けれども、それをいちいちチェックする気力も失せていた。『かげろう日記』の恐るべき通告が、彼の思考回路をフリーズさせていた。
十二月十九日。時刻はまもなく昼の一時になろうとしている。
きょうはまだ外出していなかった。会社を休んでも、できるだけ部屋にひきこもることはすまいと、意識して外に出ていたのだが、毎日少しずつ先に読み進んできた『かげろう日記』の内容がエスカレートするにともなって、彼は理性だけでなく、肉体的な行動力までもが恐怖で凍結された状態になっていた。
ストレスで肩もパンパンに張っており、そこに茜の霊が乗っているのではないかという妄想さえ浮かぶようになっている。
さあ、もうすぐです。
クリスマスイブには追いつきます。
六月十六日の悲劇の直前で終わっているとばかり考えていた『かげろう日記』は、そこで終わるどころか、茜の死後も書きつづけられていた。しかも、いまの輝樹が存在する時間へ向けて、暦の日付をすっ飛ばして加速をはじめたというのだ。
九月九日の最後の二行が、輝樹の身体を恐怖の十字架に磔《はりつけ》にした。
さあ、もうすぐです。
クリスマスイブには追いつきます。
きょうは十二月十九日。あと五日でそのクリスマスイブがくる。
(追いつく、って、どういう意味なんだ)
輝樹はうつろな目を宙に泳がせながら、考えた。
単純に、日記が十二月二十四日の記述までくる、という意味だろうか。そして、そこから先は、現実の日にちの流れと同調して、一日ずつリアルタイムで日記が増えていくということだろうか。
だが、茜の抱いている怨念《おんねん》からすれば、そんな生易しい意味あいだとは、とうてい受け取れなかった。
(おれが十二月二十四日まで日記を読んだところで、茜の霊が、声だけではなく、姿も現すということなのか)
それはありうる、と思った。
(クリスマスイブにこだわるということは、仁美への嫉妬《しつと》を爆発させるぞ、というメッセージなのかもしれない。おれが仁美といっしょにいるときに、突然、茜が姿を見せるという予告なのかもしれない)
ゾッとした。
(あれ、だけど、待てよ)
輝樹は、ひとつの疑問に行き当たった。
(おかしいな……そうだ、ものすごくおかしいじゃないか)
恐怖と驚愕《きようがく》で凍結していた頭脳回路の一部が解凍されて、論理的思考がふたたび流れはじめた。
(この記述には大きな矛盾がある。たとえ茜の霊が書き上げたものにしても、すごい矛盾があるぞ)
町田輝樹は、陽炎《かげろう》のごとく揺らめいて正体を現さない『かげろう日記』の本質を、一瞬つかまえかかった手応えを感じた。
(考えろ、考えろ、考えろ。なぜこの矛盾が存在するんだ。それさえ説明できれば、核心の謎が解けるかもしれない。『かげろう日記』の謎が)
複雑に見えるトラブルほど、シンプルな解決案を持つ――これは輝樹の勤務先の社長が、全体会議などを通じてたびたび社員に垂れる教訓だった。複雑なトラブルには難しい解決方法しかないと思い込む常識の誤りを、社長はその言葉でいさめるのが習慣だった。こんがらがった問題こそ、驚くほど単純なほどけ方を内包しているものだ、と。
その金言を思い出し、輝樹は必死に考えた。だが、一時間考えても二時間考えても、答えは見つけられそうで見つけられなかった。
じつは、まさにそれこそが輝樹の頭脳が装備していた自己防衛機能だった。自分の精神を破壊してしまうような恐怖は決して直視しない、という安全回路が、真実への道筋を遮断していたのだ。
内藤茜の文字が綴《つづ》る『かげろう日記』の真実――それは決して輝樹が触れてはならないものだった。その驚愕の本質に迫りかけた彼を、頭脳の安全回路が懸命に押しとどめていた。だから解答が見つからなかった。
そこであきらめていれば、『かげろう日記』および茜の霊に対する恐怖心は存続しつづけたであろうが、最悪の悲劇は起きなかったはずだった。
だが――
町田輝樹は、謎解きをあきらめなかった。
3[#「3」はゴシック体]
十二月二十日。
この日も町田輝樹は出社しなかった。しかし、朝一番で自分から上司の吉井満智子に電話を入れた。
「部長に大変なご心配をかけているのは承知しています」
少なくとも、その時点での輝樹の声は落ち着いていた。
「もう部長もお察しでしょうけれど、ぼくは風邪のためでこんなに長く休んでいるわけではありません。精神的な問題です。場合によっては年内いっぱいお休みをいただくかもしれませんが、こんど出社するときには、必ず問題をすべて解決し、スッキリした気持ちで部長にご挨拶《あいさつ》に伺いたいと思います。ですから、ぼくの部屋を訪問なさったり、電話をかけたりされることを控えていただくよう、お願い申し上げます。しばらくひとりでいたいのです」
輝樹の口調はゆったりしたものであったが、それだけにかえって吉井満智子によけいな説得をさせる隙を与えなかった。
電話連絡を受けたあと、満智子は、きょう行なう予定であった副部長との自宅訪問の計画を取りやめることにした。町田輝樹の抱えている問題が何であるのかは見当もつかなかったが、いまは彼をそっとしておいてやることが最良の方策だと決めた。部下の発した「精神的な問題」という言葉に、彼女はひるんでしまったのだ。世の管理職の多くがそうであるように。
宣伝部長との電話を終えた輝樹は、覚悟を決めた表情でパソコンに向かった。
四日後に控えたクリスマスイブを予定どおり栗田仁美と過ごすか、取りやめるかにかかわらず、問題を解決しなければ何かが起きることは確実だという焦りがあった。だからこそ、謎解きに集中するためにも、虚偽の理由で会社を休んでいるという引け目を解消しておく必要があった。
詳しい事情は伏せたままだったが、精神的な問題を抱えている事実を打ち明けたことで、上司からのよけいな介入を当座は封じた輝樹は、『かげろう日記』の記述に発見した重大な矛盾をじっくり考えるため、頭の中で思考するだけでなく、それを文章にして眺めてみようと考えた。
そして、パソコンのキーボードを叩《たた》きはじめた。
と、右の人差指にチクリと針で刺されたような痛みを感じたので、タイピングを途中で止めて、指の腹を見た。
渦巻き状の指紋を斜めに横切る形で切り傷が入っていた。出血はしていないが、それほど古い傷ではない。治りかけた傷痕が、キーボードを叩くときの刺激で痛んだらしい。
(こんな怪我、したっけな)
しばらく指先を見つめていたが、べつに大した問題ではない、というふうに肩をすくめ、ふたたび輝樹はパソコンに向かおうとした。
そのとき、視線がパソコンの横に置いたブックエンドの真ん中あたりで止まった。
そこには仕事に必要な資料や、いま読みかけている小説本などが立てかけてある。その背表紙の行列の中央に、彼の目をクギづけにしたものがあった。
ノートである。大学ノートの背表紙である。
背にタイトルの書き込みができるように回し込んで貼りつけられたラベルが『かげろう日記』に使われた大学ノートそっくりだった。そっくりというよりも、まったく同じだった。だが、『かげろう日記』は足元に置いたアタッシェケースの中に入っているはずである。
(茜の霊が部屋にきて、日記をカバンから取り出して移動させたのか)
いまの輝樹は、それぐらいの想像を平気で現実にありうることとして考えるようになっていた。
輝樹は椅子を回転させ、床に寝かせておいたアタッシェケースを取り上げ、フタを開けてみた。いつもどおり、『かげろう日記』はその中にあった。
(じゃあ、このノートは?)
ふたたび輝樹はブックエンドの中央に視線を戻した。
(二冊目の『かげろう日記』が現れたのか!)
きっとそうに違いない、と確信して、輝樹は背だけ見せている大学ノートの頭に右の人差指をかけて引き出した。
「いてっ!」
おもわず声を出した。
さっきよりも強く指の腹が痛み、こんどはふさがっていた傷痕《きずあと》から血がにじみ出てきた。ぷっくりと盛り上がってきた赤い血のしずくが、妙に無気味だった。
その指先を口の中に入れ、赤いしずくを吸い取ったが、また皮膚の奥底から血液が盛り上がってくる。強く吸い取ったことが、かえって出血の勢いを増したようだった。
ブックエンドから斜めに傾いた格好ではみ出しているノートをそのままにして、とりあえず輝樹はキッチンのほうに置いてある救急箱から傷テープを取り出し、指に巻いた。そして、また机のところに戻ってきた。
数日前にも同じことをしたような記憶がチラッとよみがえったが、テープで出血を抑えた後は、彼の関心はふたたび「新たに登場した大学ノート」へと戻っていた。
途中まで傾けたノートを、輝樹はこんどは左手で引っ張り出した。
やはり『かげろう日記』に用いられたのとまったく同じノートだった。だが――
表紙に書かれてある題名と、その筆跡を見て、輝樹の目が大きく見開いた。
そこに茜の筆跡で「かげろう日記2」とでも書かれてあることを予想していた彼は、その推測があまりにも意外な裏切られ方をしたので呆然《ぼうぜん》となった。
新商品「VR2」の宣伝戦略展開について[#「新商品「VR2」の宣伝戦略展開について」はゴシック体]
[#地付き]宣伝部 町田輝樹[#「宣伝部 町田輝樹」はゴシック体]
しばらくのあいだ、輝樹は麻痺《まひ》したように動けなくなっていた。
新商品「VR2」とは、輝樹の会社がこの秋に発売した精密機械の開発コードネームで、その商品の法人セールスをいかに効果的に展開するかという社内検討プロジェクトが、ことしの初めに立ち上げられた。そして輝樹は吉井部長の指揮のもと、その宣伝戦略の立案に深くたずさわったのだった。
このノートは、年頭から初秋にかけて――つまり、内藤茜の悲劇的事件をはさんで――書きつづけられたが、商品発売の直前に準備企画的なプロジェクトが解散したのに伴い、ノートの使用も終えたものだった。そしてブックエンドに無造作に差し込んだまま、その存在をきょうになるまで忘れていた。
輝樹は、傷テープを巻いた指先を気にしながらページを繰っていった。中身も間違いなく、彼自身が書いた戦略ノートであった。最後までチェックしたが、いろいろな資料の切り抜きが貼りつけてあるところも含めて、とくに異常はなかった。後半五ページほどは、未使用のままで白かった。
そして、輝樹は思い出した。
七月の中ごろ、ノートが一冊では足りなくなりそうだったので、自宅近くのコンビニまで新しいものを買い求めに行ったのだ。だが、その時期からパソコンに打ち込んだデータを部員で共有することのほうが多くなり、結果的に自分専用に作った大学ノートの必要はほとんどなくなってきた。それで買った二冊目はまったく使うことがなかったのだ。その二冊目をどうしたかという記憶はまったくない。
輝樹は急いでアタッシェケースからもういちど『かげろう日記』を取り出し、仕事用のノートと並べてみた。
まったく同じだった。
片方は自分の筆跡で、片方は茜の筆跡で題名が書かれている以外に、違いはなかった。
輝樹は仕事ノートの中を開き、つぎに『かげろう日記』の冒頭部分も開いて中身を比較してみた。
やはり片方は輝樹の筆跡で、片方は茜の筆跡である。しかし、使用されたインクが同じものだった。
すでに確認していたように、『かげろう日記』の記述に使用された筆記用具は一種類ではない。輝樹のノートのほうも一種類ではなく、そのつどいろいろなサインペンやボールペンを使って書かれていた。だが、驚くべきことに、その複数の筆記用具の種類が両者とも同じだった。
さすがに茜の『かげろう日記』のようにチョコレートや血液をペン代わりに使うことは、輝樹の仕事ノートのほうではなかった。しかし……。
輝樹は自分の右人差指に目をやった。
(まさか……)
輝樹は、ある突拍子もない仮定を用いれば、『かげろう日記』に感じた矛盾は解決することに気がついた。その矛盾とは、これまで読んだ『かげろう日記』のいちばん最新の日付、九月九日にあった。
9月9日[#「9月9日」はゴシック体]
なぜ日記が飛び飛びになっているか、わかりますか、輝樹さん。
私は必死に追いつこうとしているのです。時の流れを追いかけて、いまのあなたがいる世界へ追いつこうと、過去から現在へ猛烈なスピードで走っています。
バレンタインデーのあと、一気に六月に飛んだのも、そのためです。もう、一日ごとの日記なんてのんびりしたことはやっていられませんからね。六月、七月、八月も駆け足です。九月まできました。
さあ、もうすぐです。
クリスマスイブには追いつきます。
輝樹が気がつき、そしていままで明確な説明づけができずにいた矛盾とは「時の流れを追いかけて、クリスマスイブには追いつく」という表現だった。
クリスマスイブまでに、茜は何に追いつくつもりなのか。イブの夜に化けて出るのかとも思ったが、それでは「追いつく」という動詞が意味をなさない。「追いつく」動作は何かと突きつめて考えていくと、最終的にそれはひとつの解釈しか求めることができなかった。
茜が日記を書く速度ではなく、輝樹が日記を読む速度である。それが「追いつく」のだ。
いまになって輝樹は、親友の宮本卓郎が「なぜ日記を一気に最後まで読まないのか」という単純な疑問を呈した意味あいの深さに気がついた。
仮に、茜の死後も継続されていた『かげろう日記』に、まだ未来であることしのイブに関する記述がすでに書き込まれていたとしよう。それでも、輝樹がいますぐページをめくっていけば、ただちにそこに行き着くはずなのだ。
あるいは、きょう十二月二十日、もしくは昨日十二月十九日までのぶんまでで記述が止まっていたとしても、輝樹がいますぐページをめくればそこに行き着くはずである。つまり「追いつく」のはたやすいことなのだ。
ところが九月九日付けの茜のコメントは、少しずつ『かげろう日記』を読んでいる輝樹が、ちょうどクリスマスイブに、日記の日付に追いつくことを意味してはいまいか。
すなわち、追いつくのは茜ではなく、輝樹のほうなのだ。
では、なぜ茜の霊は、輝樹の行動を先読みできるのか。もしかすると、たったいま日記のラストまで見てしまうかもしれないのに。なぜ、輝樹がそうしないと言い切れるのか。
その答えは――
「ようやくわかったみたいね、輝樹さん」
声がした!
氷のように冷たいよそよそしさをもって、内藤茜の声がした。自分のすぐ後ろで。
4[#「4」はゴシック体]
輝樹は椅子を蹴立《けた》てて立ち上がった。その勢いで、キャスター付きの椅子が背後の壁まですっ飛んだ。
輝樹は立った姿勢のまま、机のいちばん上の引き出しを勢いよく引き開け、資料の紙や雑多な事務用品を跳ね飛ばして、ひとつの器具を取り出した。会議のさいなどに使用していた小型のICレコーダーだった。
「なにをしているの、輝樹さん」
茜が頭の後ろから問いかけてくる。
輝樹は答えなかった。録音機器のスイッチを入れるまでは何も答えなかった。ガタガタと手が激しく震え、単純なボタン操作がうまくいかない。
「どうしてそんなに震えているの」
茜がきく。
これも無視。
そして、何度もやりそこなった末にようやく録音ボタンを押すと、輝樹は緊張と恐怖のあまり裏返った声できいた。
「おまえは、誰だ」
「私は、茜よ」
「嘘をつけ!」
叫びというよりは、輝樹のそれは、悲鳴だった。
「嘘をつけ! 死んだ人間が声を出せるわけがないだろう」
「あら、出しているわ。現実に。機械のメーターが見えないの」
茜のしゃべる声に合わせて、ICレコーダーの赤いインジケータが点滅する。それは入力された音声に反応して点滅する仕組みだった。ICレコーダーが、物理的に茜の声をキャッチしている証拠だった。
「茜……おれにはわかったんだ」
「なにが」
「おまえの正体が、だよ」
「正体?」
うふっ、と茜が笑った。
尻上《しりあ》がりにキュッとトーンが上がる、嘲《あざけ》るような笑い方だった。
「私の正体は霊に決まっているでしょう」
「ちがう! 幽霊の声がこんなにハッキリ機械に録音されるわけがないだろう」
「だったら、何なの」
「おまえ……おまえ……おまえ……」
輝樹の声帯が恐怖でせばまり、締めつけられるような声しか出なくなった。
「おれと……おれと……おれと……」
「なによ、はっきり言いなさい」
茜の声も、締めつけられたようになっている。
「おれといっしょにしゃべってみろ」
「………」
「黙るな」
「黙ってないわ」
「そうじゃなくて、おれがしゃべっているときに、同時にしゃべってみろっていうんだ」
「………」
沈黙。
長い沈黙。
そして、茜は言った。
「できないわ」
その声を聞いた直後、輝樹はICレコーダーを止めた。
彼はすぐにそれを再生しようとした。だが、できない。気持ちが高ぶってできない。信じがたい事実を確認する勇気が出てこない。
(落ち着け、落ち着け)
輝樹は自分に言い聞かせた。
ふらふらとした足どりで、キッチンへ行った。冷たい水をがぶ飲みして、気持ちを鎮めようとするために。
冷蔵庫を開けた。そしてミネラルウォーターのボトルを取り出し、キャップをひねって開けたところで、輝樹は、いままで意識しなかったものが棚の中段に置いてあるのを見た。
チョコレートだった。ありきたりな板チョコ。
だが、その包装紙は乱雑に破られ、半分ほどむき出しになった茶色い板チョコの、角の部分が磨《す》り減っていた。まるで、それを筆記用具として何かを書いたように……。
輝樹は、手にした水の容器を落とした。
キャップをはずしたボトルから、水が四方に飛び散った。
心臓が跳ね躍り、過呼吸症候群の一歩手前まで息が荒くなった。何度も転びながら、輝樹は机のところに戻った。そして、ICレコーダーに録音したばかりの「会話」を再生した。
「おまえは、誰だ」
「私は、茜よ」
「嘘をつけ! 嘘をつけ! 死んだ人間が声を出せるわけがないだろう」
「あら、出しているわ。現実に。機械のメーターが見えないの」
「茜……おれにはわかったんだ」
「なにが」
「おまえの正体が、だよ」
「正体? うふっ、私の正体は霊に決まっているでしょう」
「ちがう! 幽霊の声がこんなにハッキリ機械に録音されるわけがないだろう」
「だったら、何なの」
「おまえ……おまえ……おまえ……おれと……おれと……おれと……」
「なによ、はっきり言いなさい」
「おれといっしょにしゃべってみろ」
「………」
「黙るな」
「黙ってないわ」
「そうじゃなくて、おれがしゃべっているときに、同時にしゃべってみろっていうんだ」
「………………………………できないわ」
たしかに輝樹と茜のやりとりがハッキリと録音されていた。だが、茜の声は女性のものではなかった。
輝樹自身の裏声だった。
「ぐわあああああ!」
その事実が何を意味するか知ったとき、輝樹はすさまじい咆哮《ほうこう》を放った。腹の奥底から恐怖のエネルギーで突き上げられてきた錯乱の悲鳴だった。
内藤茜の名前で記された『かげろう日記』は、輝樹自身が書いていたのだ。霊界から語りかけてきたと思われた茜の声は、輝樹自身が発していたのだった。
だが、それは輝樹の人格が分裂して、茜との二重キャラクターを演じているのとは異なっていた。演技ではない。茜になりきったつもりだけでは、彼女の筆跡を真似ることなどできない。
取り憑《つ》いてしまっていたのだ。茜の霊が、輝樹の心に。
だからこそ、輝樹の指先は勝手に動かされた。死んだ茜の思いのままに動かされ、彼女の筆跡で『かげろう日記』を書き綴《つづ》っていった。バレンタインデーの記述のさいはチョコレートを筆記用具に選び、また、茜が殺された日のことを書くときには、輝樹に右の人差指を自分で傷つけさせ、血液をインクにして「私は殺されました」と書かせた。
あの血は刺し殺された茜が身体から流したものではなく、輝樹自身の血液だったのだ。つい最近に自分で傷つけた指先から出た血。だから、赤褐色に変色していたとはいえ、そんなに古いものではなかった。
『かげろう日記』は、たしかに一夜にして書かれたものではなかったが、かといって、あの日にちの記述どおりの時間をかけて積み重ねられた記録ではなかった。それは、筆記用具を何種類も取り替えることで茜の霊が仕掛けたトリックで、実際には最近の数日間に集中して、したためられたものだったのだ。
だから輝樹は、肩がパンパンに張っていた。ストレスというよりも、手書きの日記を綴りつづけた疲労で。
自分で書いた日記だからこそ、死後の茜には知り得ず、当事者の輝樹しか知らないはずの出来事も、大脳の記憶領域から盗み出されて、茜の字でノートに書き出された。
そして、ある程度まで書き進んだところで、茜に心を奪われた状態の輝樹は、自分自身にあてて『かげろう日記』を郵送することにした。自分のパソコンで印字シールに宛名を印刷し、自分の手で、自宅そばの郵便局から投函《とうかん》した。その記憶は、本人の心には刻まれていない。
さらに茜の霊は、彼の声帯を借りて声を発していた。輝樹にしてみれば、それが自分自身の声である可能性など、最初から考えていなかったので、それを自分の背後から聞こえてくるものと思い込んだ。
無理もない。
人は、自分自身の発した声というものをふたつのルートで認識する。ひとつは、他人のしゃべり声を聞くのと同じように、空気中の振動を鼓膜で捉《とら》えて聞く。もうひとつは、自分自身の頭蓋《ずがい》骨を共鳴箱として響いた声を聞く。このふたつが重なったものが自分の認識する自分の声になる。テープに録音した自分の声が別人のように聞こえるのは、そのためである。
町田輝樹は、自分の頭蓋骨に反響する「茜」の作り声を聞き、目よりも後ろにある頭蓋骨のポジションを、声の出どころだと勘違いした。操っているのは、あくまで茜の霊だから、輝樹にはその意識がない。
それが「かげろう」の正体だった。
5[#「5」はゴシック体]
失神すらしかねない混乱の中で、町田輝樹は懸命に論理の力をふり絞ろうとしていた。
投函時点で、『かげろう日記』はどこまで書かれていたのかは、まだ確認していない。しかし、郵便受けに届けられたのが茜の誕生日前日の十二月十一日で、投函日は十日。だから、その段階ではどんなに先まで行っても、十二月十日までしか物理的に書くことはできなかったはずだった。茜の霊が取り憑いていようと、実際にペンを動かしていたのは輝樹の手だからである。
だが、郵送されたものがこの部屋で開封されてしまったあとは、いつどんなタイミングで、輝樹の手が操られて先を書き足したのか、それは定かでない。きょう十二月二十日まで進んできているのかもしれないし、もっと先まで書いてしまっているのかもしれない。
(見ろ)
命じる声があった。
(『かげろう日記』の最後まで見るんだ。もう、ためらう理由は何もない)
その声は、親友・宮本卓郎のイメージを伴っていた。
パニックで発狂寸前の精神状態にあって、親友の存在だけが支えだった。そして輝樹は、卓郎の声に励まされる思いで、『かげろう日記』を取り上げた。
緊張で冷たくなった手で、前のほうから順番にページをめくり、九月九日のところまできた。
「見るの?」
茜の声が、自分の口から出た。
「もう、先を見てしまうの?」
「うるさい!」
すぐさま輝樹は、自分の作り声に対して言い返した。
「おまえは黙ってろ!」
「………」
茜の声がやんだ。
それを確認すると、輝樹は意を決してつぎのページを開いた。
(………?)
拍子抜けした。
白だった。
まったく何も書いてない白いページだった。そしてつぎも、そのつぎのページも真っ白だった。最後の最後まで、一行たりとも、一字たりとも新たな記述はなかった。
(どういうことなんだ)
しばらく考えてから、輝樹はひとつの解答を見出《みいだ》した。
九月九日までしか書いてないことを、輝樹の頭脳に取り憑いた茜の霊がわかっているから、輝樹が読むのを九月九日まででストップさせていたのだ。まだ先ができていないから、そこで日記を読む行為を中断させた。
宮本卓郎が、輝樹はなぜ最後まで一気に読まないのかと問いかけた、その答えはそんなところにあったのだ。
自分の脳が茜の怨霊《おんりよう》に自在に支配されている状況を知って、輝樹は顔色を失った。
(……となると、この先は?)
考えながら、町田輝樹は無意識のうちに、さきほど巻いたばかりの右人差指の傷テープを、左手で剥《は》がしはじめていた。無意識に。
輝樹としては無意識にだが、その代わり、茜の霊の意識が彼を動かしていた。
やがて輝樹は、右指の傷を覆っていたテープを完全に剥がした。そして左手で、傷の部分を強く押した、チューブから歯磨きのペーストをひねり出すようにして。先ほどよりもずっと多くの血液が、指先からあふれ出してきた。
真っ赤なしずくを垂らしながら、右人差指を何も書かれていないノートに近づけ、輝樹はそれを筆にして日記を書きはじめた。
12月20日[#「12月20日」はゴシック体]
ほんとうのことを言いましょう。私は、私を殺した人間を知っているのです。
赤い液体を引きずりながら勝手に動く自分の人差指を見つめ、そしてその指が描き出す文字を見つめ、輝樹は愕然《がくぜん》としていた。
私を殺した人間は――
茜の霊に操られた人差指は、赤い大きな文字で犯人の名前をしたためた。
[#改ページ]
七.ふたりのクリスマスイブ[#「七.ふたりのクリスマスイブ」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
十二月二十三日――
この日は休日だったが、栗田仁美は宮本卓郎に呼び出され、夜遅くに彼の部屋を訪れていた。
男女の関係にない女が、男のひとり住まいを訪れるにはあまりに遅い時間だったが、欠勤中の町田輝樹のことについて、他人に聞かれない場所でふたりきりで、しかも大至急、話をしたいと卓郎から切り出された以上、仁美も彼の部屋へ行かないわけにはいかなかった。
軽量鉄骨造りのアパートで「荘」と名の付く卓郎の住まいは、輝樹のマンションに較べれば、ずいぶん男臭さに満ちた部屋だった。洋室はなく、六畳と四畳半の畳敷きで、奥の六畳間にだけカーペットが敷いてあり、シングルベッドが置いてあった。四畳半のほうは畳敷きのままで、そこに小型の炬燵《こたつ》。
玄関から上がってすぐの手狭なキッチンの向こうには、バスルーム兼トイレに通じるドアが開いており、その前に置かれた金属製の物干しスタンドには、靴下やブリーフが干してあった。仁美が深夜にくることがわかっていながら、意図的に下着類を見える場所に放置してあるようにも受け取れる。
その雰囲気にひるんだ仁美を気にかける風でもなく、卓郎は「男のひとり住まいなんて、こんなもんだよ」と言い放ち、彼女を炬燵の部屋に通した。奥の六畳との仕切りのふすまは開けっ放しで、ベッドが見えているのが、また仁美を不安な気持ちにさせた。
「まあ、炬燵入れよ、寒いから」
勧められ、仁美は卓郎と向かい合う場所に座って炬燵に足を入れた。ふとんを持ち上げたとき、むれた男の足の臭いがした。
仁美は、露骨にイヤな顔をした。
「で、町田さんの話って?」
なるべく早く切り上げたいという態度を露骨に示して仁美がきいたが、それをはぐらかすように、卓郎はのんびりした口調で言った。
「いろいろ調べたんだ」
「調べた?」
いきなり切り出され、仁美は何が何だかわからない、といった顔をした。
「輝樹の前の恋人が死んだ夜のことをね」
「それが私に何の関係があるの」
仁美の顔がこわばった。まさかそういう用件で呼ばれたとは思わなかった、という表情。そこには焦りの要素が色濃く出ていた。
「事情を知っている人間に、一からていねいに話すつもりはない。簡潔にいこう」
「なによ、その言い方」
仁美は突っかかったが、卓郎の眼光は、彼女の怒りをそのまま押し返すほど鋭かった。
「彼女は殺された日の夜、土砂降りであったにもかかわらず、よそゆきの服装をして、手持ちの中でいちばん値の張るバッグを持って家を出た。ひきこもり状態で、誰とも会いたくないと思っていた彼女が、いわば勝負服で外出したのは、これから会おうとする女性に位負けしたくなかったからだ。女と女の闘いに負けたくないという、彼女なりの意地があった」
「ちょっと待ってよ、卓郎さん」
仁美は、片方の糸切り歯だけが見えるような笑い方をした。
「茜さんと私を何か結びつけたいわけ? あの人がどんな死に方をしようと、私にはぜんぜん関係ないことだと思うけど」
「あれ、きみは茜ちゃんのことを知っているのか。おれはまだ茜のアの字も出していなかったと思うけど」
「………」
「それに輝樹も、前の恋人に関しては、一切仁美には話していないと言っていた。内藤茜の存在そのものを伝えていないし、彼女が不幸な死に方をした事件も、きみにはまったく教えていない、と……。というのも、あいつは茜ちゃんの束縛から逃れたくて、きみとつきあいはじめたわけだから、内藤茜のことは昔話という形でもきみに語りたくはなかったんだ」
「そんなこと、ないわよ」
ムキになって、仁美は言った。
「なにかのときに、輝樹から聞いたことあるもん」
「それならそれでいい」
卓郎の口ぶりは、嘘をつくなら勝手にどうぞ、と突き放した響きがあった。
「じつはおれは週末を利用して、内藤茜の実家に行ってご両親にいろいろ話をうかがってきた」
「なんでそんな真似をするのよ!」
仁美の頬に怒りの朱が差した。
「輝樹は、そのこと知ってるの?」
「いや、知らない」
「じゃ、なんで? 卓郎さんには関係ないことでしょう」
「まあね。きみが関係ないのと同じぐらい、関係ないかもしれない」
卓郎は淡々とした口調で、皮肉を放った。
「ともかくおれは、茜ちゃんの両親に会ってきた。目的は、彼女がよそゆきの格好をして出ていった事情を探るためだ。それから、豪雨の夜にわざわざATMからお金を引き出した、その額も知りたかった。ちなみに金額は五十万円だったそうだよ。たいした貯金もない彼女にとっては大金だった」
「………」
「そして警察は、大金ゆえに、それを狙ったひったくりの犯行説にあっさり傾いた。ところが彼女の両親と話しているうちに、非常に興味深い事実に行き当たったんだ。それは警察や身内も含めて、ほとんどの人間にはまったく気づきもしない些細《ささい》なことだが、輝樹と同じ会社にいるおれには、ピンとくる事柄だった」
「じらさないでよ」
仁美は、あくまで反発を露《あら》わにした姿勢を貫いた。
「私、輝樹以外の男の人の家に、長居はしたくないの。こんな遅い時間に」
「事件当初、輝樹はかなり警察に疑われた」
仁美のいらだちを相手にせず、卓郎は話をつづけた。
「昔の恋人だから、彼は事情聴取があるのも当然だろうと受け止めていた。だが、お母さんによれば、警察はもっと強い意味で、被害者の元恋人を疑っていたんだ。というのも、まず第一に、事件の十カ月前に別れたと輝樹のほうが主張しているにもかかわらず、茜ちゃんは、いまだに輝樹さんは私の恋人だと親にも言いつづけていた。第二に――これがポイントだが――茜ちゃんの携帯電話の送受信記録を調べてみると、事件の三週間ほど前から、かなりの頻度で送信・受信が行なわれている番号があった。この番号だよ」
卓郎は、あらかじめ炬燵の上に載せておいたメモ帳に、暗記している八ケタの数字を書き並べ、それを仁美のほうに向けて見せた。
数字を見た仁美の眉《まゆ》が、ぴくりと動いた。
2[#「2」はゴシック体]
「営業部のおれですら、その電話番号がどこのものかわかったぐらいだから、輝樹と同じ部署にいるきみなら、即座に理解できただろう。どう?」
卓郎がうながしたが、仁美は答えない。わかっていて、答えない。
「いうまでもない、宣伝部直通の電話番号だよな。この番号に、茜ちゃんはひんぱんに電話をかけ、逆にこの番号から彼女のケータイにひんぱんに電話がかけられていたんだ。警察はそれを、元恋人のふたりがやりとりをしているのだと思った。たしかに、社内電話配置表によれば、この番号は町田輝樹に割りふられている。そして輝樹の名刺にも、当時はこの番号が刷られていた。ところが」
仁美のほうに押し出したメモ帳を自分の手元に引き寄せると、卓郎は末尾下一ケタの4という数字を二重線で消し、代わりに5と書いた。
「内輪の人間であるきみは百も承知だろうが、ことしのゴールデンウィーク明けに全社的な机のレイアウト変更を行ない、それに伴って各部員の机に置かれた電話の位置も少し変わった。宣伝部の町田輝樹のダイヤルイン番号は、下一ケタが4ではなく5に代わった。そして、それまで輝樹が使っていた番号を割り当てられたのは、栗田仁美、きみだった」
いままで意地になって卓郎を見つめていた仁美が、初めて目をそらした。
「もしも茜ちゃんが、別れた輝樹と連絡をとろうとするならば、彼の携帯電話にかけるのがふつうだ。しかし、親しくもない――それどころか火花を散らすライバルである栗田仁美に用があるときは、会社の電話にかける心理も納得できるんじゃないかな。そして、その逆もね」
卓郎は、ゆっくりとした動作でタバコに火を点《つ》け、そのあいだ、仁美をじらせるように待たせた。
「警察の事情聴取で、おそらく輝樹はその電話の件を突っ込まれたはずだ」
煙を吐きながら、卓郎はつづけた。
「まだ本人に確認していないから、輝樹がどう説明したのか、おれにはわからない。いずれにしても、その段階で、あいつは察したんじゃないかな。自分をめぐるふたりの女が、じかに対決していた可能性をね。おそらくアプローチは、捨てられた女の側である茜ちゃんから行なわれたと思うけど」
「それで?」
ツン、とアゴをしゃくって、仁美がきいた。
「それで、とたずねたいのは、こっちだね」
卓郎は言った。
「ふたりの女の闘いがどういう展開を見せたのか、おれに推測しろと言われても無理だよ。ただ、精神的に追いつめられていた茜ちゃんが、バランスを欠いた交渉をしてきた可能性はある。栗田仁美になけなしの金を払ってでも、町田輝樹から手を引いてほしいとかね。そういった態度に出られたら、きみの性格だ、あけすけに相手の人格をけなしただろうし、同時に、茜ちゃんのことを、かなり気味悪い存在と恐れたことだろう」
「ちょっと待ってよ、卓郎さん。それじゃ私がまるで茜さんを殺したみたいじゃない」
「そうは言ってない」
「言ってるわよ」
仁美は、両手で炬燵《こたつ》のテーブルをバンと叩《たた》いた。
両手でやるところが、異様な興奮のレベルを表わしていた。
「言っときますけどね、茜さんを殺したのは男よ。フルフェイスのヘルメットをかぶっていた男よ!」
「なるほど、そこまでしっかりと事件に関心を持っていたわけだ」
「……あ」
仁美は、小さく「あ」とつぶやいた。
そのポッと開いた口の形を見据えながら、卓郎はたたみ込んだ。
「端的に言わせてもらう。きみは町田輝樹を愛していた。心の底から愛し、彼を独り占めしたいと思っていた」
「あたりまえよ」
「そして、彼にも同じぐらいのエネルギーを使って自分を愛してほしかった」
「当然でしょ」
「ところが輝樹は、きみが彼を愛するほどには、きみを愛していないことがしだいにわかってきた」
「………」
卓郎は大胆に決めつけてきた。が、仁美は炬燵の上に載せた両手を固く握りしめ、くやしそうに歯を食いしばったまま、反論はしなかった。
「そのうえ、自分以上のエネルギーで輝樹に対する情念の炎を燃やしつづけている内藤茜という女の存在を知ったとき、きみは猛烈な危機感を抱いたんだ。ほうっておけば、この女に最愛の男を奪い返される、と」
「仮にそう思ったとしても!」
ついに仁美は、卓郎の推理が正しいところを衝《つ》いていると認めた。
「仮にそう思ったとしても、私が彼女を殺すわけがないじゃない! そんなバカはしないわよ、私! 殺人なんかやったら、人生おしまいじゃないのよ!」
仁美の声は、軽量鉄骨アパートの全室に響きそうなほど大きかった。
「ふざけんじゃないわよ!」
「きみの怒りはわかる」
どこまでも、卓郎の声は静かだった。
「いまの叫びは間違いなく、きみの本音だ。いくら茜ちゃんに強烈な対抗意識、敵愾《てきがい》心、それに憎しみを抱いていたとしても、きみは殺人というバカげた行動はしない人間だ」
「どこかの男に殺人を頼んだりもしないわ!」
「それもそのとおり。なのに……それなのに!」
こんどは卓郎が語気を強めた。
「どこかの男が内藤茜を殺してしまった。そんなことまでは頼んでいないのに、殺してしまった。だから、きみの怒りと焦りと恐怖はすさまじいものがある」
「………!」
瞳《ひとみ》の中に感嘆符が浮かんでいるような表情で、栗田仁美は内心の驚愕《きようがく》を表わした。
「悪いけど、ぼくはこの週末に、きみの自宅の周りもうろつかせてもらった。ストーカーみたいで申し訳ないけどね」
「そんな、こと、まで」
「きみは四人家族で幸せな暮らしを送っている。両親と、きみと、大学生の弟と。そしてこの弟は大のバイクマニアらしい。立派なオートバイが玄関先に停めてあったね。ああいうマシンに乗っているなら、当然、フルフェイスのヘルメットも持っている」
「たく……卓郎……さん」
仁美は激しく動揺した。
「なにが……ねらい……なの」
「べつに」
卓郎は肩をすくめた。
「ぼくは警察でもないし、内藤家から雇われた探偵でもない。ただ、自宅にひきこもり状態だった茜ちゃんが、大雨の夜に自宅近くのATMへ行くのに立派なバッグを持っていたという不思議さを追及していったら、ここまできたということだよ。そして、ついでにもう一息、強引な推理をするならば、きみは憎き内藤茜を精神的に痛めつける相棒を弟に頼んだんじゃないかと思う。まとまった金を持って、きみとの交渉に出かけようとする茜ちゃんから、バッグごと金を奪い取る役を弟に命じたんだ。
栗田仁美の名誉のために言うならば、きみ自身は金が目当てではあるまい。戦利品は最初から弟にくれてやるつもりだったろう。きみは、そのことで内藤茜がショックを受ければじゅうぶんなんだよ。茜ちゃんだって、まさか現金目当てで襲いかかってきた男が、これから会うライバルの回し者とは思わない。だから、もしもひったくり事件で終わったなら、すべては通り魔的犯行で片づくはずだった。
ところが、予想もしなかった茜ちゃんの頑強な抵抗と悲鳴に、きみの弟はパニック状態に陥った。そして護身用に持っていたナイフで……」
「でたらめよ!」
こめかみの静脈が破裂しそうな勢いで、仁美が怒鳴った。
「そんなふうに勝手に話を作らないで」
「ぼくもそう思う」
「え?」
あっさり卓郎が引っ込んだので、仁美は肩すかしを食らった。
「ぼくもこんな話はでたらめだと思うよ」
前のめりになった相手をいなすように、卓郎は淡々と語った。
「だけど、ぼくがきみの立場なら、でたらめな話にそこまで興奮はしないけどね。でもまあ、それも性格的な違いということだろう」
「……なんなの、卓郎さん」
仁美の唇は震えていた。
「いったい、あなたの目的は何なの」
「さっきも答えたろう。べつに何でもないよ」
話しつづけているうちにすっかり灰の長くなったタバコを、卓郎はそのまま口元へ持っていった。
タバコと同じ太さの長い灰が、途中で炬燵テーブルの上にぽとりと落ちたが、彼は気にしなかった。
「ただ、ひとつだけきみに言っておきたいことがある。いや、もとい、ふたつあるな。ひとつは、フルフェイスのヘルメットをかぶっていても、至近距離で睨《にら》みあえば、目元の表情などはわかるということ。この事実を知っておいてほしい。そしてもうひとつは――この週末に栗田家を張っていてわかったんだが――きみと弟さんは、目元を中心にして、顔立ちがそっくりだ、ということだよ」
卓郎は、相手の顔に視線を張りつけた。
「たぶん、茜ちゃんはわかったと思うよ。自分にナイフを突き立てた人間が、いったいどういう立場の人間であるか、死の底へ引きずり込まれながらも、ハッキリとわかったと思うよ」
栗田仁美の顔は、真っ白になった。
「……ま、きょうの用件は、こんなところかな。遅くまでつまらない話を聞いてくれて、ありがとう」
タバコをもみ消すと、宮本卓郎は唐突に話を切り上げた。だが、仁美は凍りついたまま動かなかった。
「こんな失礼きわまりない作り話につきあってくれて、ほんとうに感謝するよ。きみがこの話を、真実からほど遠い滑稽《こつけい》なフィクションだと言い張るなら、きっとそうなんだろう。だからぼくだって、自分の名誉のためにも、こんないい加減な話を吹聴《ふいちよう》したりはしないさ。親友の輝樹にさえもね。……ああ、そういえば明日はクリスマスイブだよな」
壁に掛けたカレンダーに目をやって、卓郎は少し微笑んだ。
「輝樹はまだ会社に出てきそうにないけど、きみらはデートするんだろう。まあ、せいぜい仲良くやってくれ」
3[#「3」はゴシック体]
12月24日[#「12月24日」はゴシック体]
日記とは何だろう、つくづく私は考える。いったい、人は何のために日記をつけるのだろう、と。
「記録型日記」にせよ、「告白型日記」にせよ、日記の基本的な意義は、自分の過去が忘却の淵《ふち》からなだれ落ちて消えていくのをつなぎとめ、個人の人生に「歴史」を与えることにあるのだろう。
国家の歴史は、古くは歴史家の手により、現在はメディアの手により永久に保存される。とりわけ現代の歴史は一日、一時間、一分たりとも空白が存在しない、完璧《かんぺき》な記録である。だが一個人の歴史は、原則として本人が主観的な文章に記録しないかぎりは、過去を生きてきたという記憶が、時の流れとともに喪失してしまう。現に、ほとんどの人間にとって幼い頃の自分史は存在しないも同然である。客観的な映像記録はあっても、主観的な記憶はまったくといってよいほど保持されていないからである。
では、その幼少期を除けば、自分史の記憶は保存されるかといえば、そんなことはまったくなく、五年前、十年前、十五年前と、時を遡《さかのぼ》るにつれて覚えている要素は等比級数的に少なくなる。自分史を完全には覚えていないということは、極論をいえば、その期間は生きていないも同然となる。
おとなになるにつれ、人は意外な哲学的真実を知ることになる。時の流れには「過去・現在・未来」の三種類があると信じられているが、じつは人生には「現在のみ」しかない、という真実を。
過去も未来も、陽炎が形づくる「逃げ水」のように、手に取ろうとすれば逃げていくものでしかない。二十四歳でこの世を去った私ですら、その真理を生前に把握していた。
個人の歴史は、現在よりわずか一時間先の未来にはどう変わるかわからず、現在よりわずか一時間前の過去は、すでに変色や退色がはじまった写真のようである。それを食い止めるために、人は日記を書こうとする。過去を変色させまいと。
しかし人々は、その作業を継続する意志を途中で失ってしまう。たんに面倒だという理由もあるが、それよりも、つらい出来事や悲しい出来事を書き留めておくのが精神的に苦痛となるからだ。
たとえ、その苦痛に堪《た》えて日記をつづけたにしても、こんどはそれを読み返すのがつらくなる。楽しい出来事やうれしい出来事は何十年経ってもふり返りたいが、悲しみや苦しみは決して思い出したくない。
だから自分が写り込んだ写真というものは、基本的に幸せなときにしか撮らないし、撮らせない。このように、人は写真については取捨選択をして、自分にとって都合のよいものだけを残そうとするのに、日記の場合は「日々の記録」という文字づらにこだわるあまり、好ましくない要素でも、記録しなければ日記としてフェアでないと錯覚する。そして日記をつける行為に苦しむ。
それが日記の抱える本質的なジレンマである。
人間の頭脳のもっとも優れた点は、「怒り」「悲しみ」「苦しみ」といったマイナスの記憶情報を、時間の経過とともに忘れるという安全装置を保有していることである。忘却は、大脳の欠陥ではなく、きわめて秀逸な自己保護機能なのである。
だから、人は現在のみを生きていくのだ。
ところが、私のように日記に異様なこだわりを持つ人間は、そのすばらしい保護機能をすすんでキャンセルする愚を犯している。過去と未来を陽炎《かげろう》のゆらぎで曖昧《あいまい》に包み、「現在のみ」を見つめて生きるのが健全なやり方なのに、私は「過去のみ」を明瞭《めいりよう》に心にとどめ、現在と未来は陽炎に包んで見ないようにした。
日記をつけることに執着する、世の多くの人々と同じように、過去をいつまでも引きずり、現在を粗末にする人生を選択した。
でも、それでいいのだ。
この『かげろう日記』は、執念と情念と怨念《おんねん》の炎を燃やしつづける私、内藤茜の、愛と復讐《ふくしゆう》の記録である。
私が取り憑《つ》いた町田輝樹の右手が日記を書きつづけるかぎり、私も過去の世界を一日ずつ延長させながら生きながらえることになる。しかも輝樹は、手だけではなく、声帯も私に預けてくれることになった。
彼の手と、彼の声をもらって、私は彼と同化した。
『かげろう日記』によって、私を殺したほんとうの犯人を知ったことで、きっと輝樹は心から哀れんでくれて、私の立てた素晴らしいクリスマスイブの計画に賛同し、協力してくれることは間違いない。
さきほど、輝樹のところへ栗田仁美が泣きながら電話をかけてきた。きょうは会社があるにもかかわらず、休んでしまったという。私は知っている。有能なる宮本卓郎が、私の死の真相に迫ったことを。しかも、それでいながら仁美の罪を糾弾しなかったので、彼女はかえってひどいパニックに陥ってしまったのだ。
卓郎さんに感謝しよう。ほんとうに心から彼に感謝しなければなるまい。おかげで、あと一押しで、あの女の精神は崩壊するところまできたのだから。
チャイムが鳴った。
あの女がやってきたのだ。
輝樹はきっと彼女をやさしく慰める。何があったのか詳しくたずねることもなく、また自分がなぜ長く会社を休んでいたのかを説明することもなく、彼女の身体をやさしく抱きしめるだろう。おたがいに精神的な錯乱をきたしたものどうし、裸身と裸身を絡めあって、すべてを忘れるため淫《みだ》らな世界に深くのめり込んでいくだろう。
いいのです。許しましょう。嫉妬《しつと》などしませんとも。きょうはクリスマスイブ、日本においてはカップルたちの愛欲記念日。お好きなようになさいませ。私は決して怒りませんから。
ただし、ひとつだけお願い。快楽の絶頂をきわめたとき、輝樹の口から私の声が出ることさえ許していただけるならば……あとは、どうぞご自由に。
[#改ページ]
エピローグ[#「エピローグ」はゴシック体]
ふたりの可愛い部下を、衝撃的な状況で立てつづけに失ってしまった吉井満智子は、眠れない夜を過ごしていた。
クリスマスイブの夜、町田輝樹の部屋を訪れた栗田仁美は、周囲の住人に筒抜けとなるほどのすさまじい絶叫を何度か放ったのち、錆《さ》びたフォークギターのスチール絃《げん》を輝樹の首に巻きつけ、彼を絞め殺した。
しかも、一度だけでは事足りず、彼女はギターの絃六本すべてを輝樹の喉周《のどまわ》りに巻きつけ、そのたびに力いっぱい彼の喉を絞め上げた。仁美自身の手のひらもスッパリ切れてしまうほどの、すさまじい力の入れようだった。
そののち、錯乱状態の仁美は、輝樹の机の上に無造作に広げてあった『かげろう日記』を見つけ、呆然《ぼうぜん》となった。開かれているページは、仁美の弟が内藤茜殺しの実行犯であり、その裏には仁美の狡猾《こうかつ》な意図が隠されていたことも明らかにされていた。鉄錆色の血文字によって……。
二重のショックでさらに取り乱した仁美は、「好きな人を殺してしまいました」と匿名の一一〇番をしたあと、両手から真っ赤な血を流しながら急いで服を身にまとい、警察がくる前に逃げ出した。『かげろう日記』をたずさえて。
殺された輝樹は全裸でベッドにあおむけとなり、一糸まとわぬ姿で無惨に絞め殺されているのを捜査員に発見された。世の中に絞殺事件は数多くあれど、全力で六度も絞め上げられたケースは、日本の犯罪史上、過去に例を見なかった。加害者が、なぜそこまでの行為に至ったのか、ベテランの刑事たちにも有力な仮説を立てられる者がひとりもいなかった。
まさか六重絞殺の原因が声にあるとは、想像できるはずもない。最愛の男性の喉から湧き出てきた女の声にパニック状態となり、その声を封じるため、六度も恋人の喉を絞め上げたなど、理解されるはずもない。恋人の命を奪うためにではなく、喉から絞り出されてくる無気味な女の声を封印したくてやったこととは……。
部屋の片隅には、すべての絃を取り外された白いギターが一本、床に転がっていた。
去年の夏、輝樹から別れを切り出されたとき、茜が突き返した誕生日プレゼントだったが、その事実を知る者はいない。
上司の吉井満智子は、警察の事情聴取にも言うべき言葉を失っていた。
輝樹の無二の親友である宮本卓郎だけは、悲劇の本質を見抜いたが、彼はそれを捜査陣や関係家族に語ることは決してなかった。かつて仁美に約束したように。
事件発覚から二日後、吉井満智子は、大量の睡眠薬を服用したと告げる栗田仁美からの携帯電話を受け取った。彼女は自分の居場所は告げず、町田輝樹を殺したのは自分であること、その責任をとってこれから死に赴くところであること、そして、輝樹の部屋から持ち出した『かげろう日記』を吉井部長あてに郵送したことを告げた。
部長を「あなた」とよそよそしく呼ぶところに、満智子は、仁美の精神の崩壊を感じ取っていた。
携帯電話の発信記録から、彼女が都内の一角にある空きビルの中で睡眠薬自殺を遂げているのが見つかったのは、通話から七時間後のことだった。
犯罪者でもある仁美の葬儀が、身内でひっそり執り行なわれたのに特別に参列したとき、彼女の弟の号泣ぶりが遺族の中でもきわだっていたことを、満智子はいぶかしく思った。
そしていま、吉井満智子は『かげろう日記』を前にして、それを開いたものかどうか、ためらっていた。「恐ろしい日記です」と重ねて強調し、最後まで読み終えたら精神がもちこたえられるかどうか保証の限りではない、という趣旨のことを語った仁美のかすれ声が、ずっと脳裏にひっかかっていた。
だが、その恐怖よりも、事件の真相を知りたいという好奇心のほうが勝り、満智子は大学ノートの表紙をゆっくりと開いた。
12月9日[#「12月9日」はゴシック体]
きょう、新しい日記帳を買いに街へ出た。ひきこもりアーちゃんにとって、ひさしぶりの外出(苦笑)。
一ページ目は、そんな記述ではじまっていた。ノートの表紙に日記の所有者として書かれた「茜」がどんな人物なのか、まだ満智子は承知していなかったが、「恐ろしい日記」というには、あまりにも平穏な出だしで、いささか拍子抜けした。
ただ、気になったのは、ノート本文の一ページ目ではなく、その対向ページにあたる表紙の裏側に、奇妙な書き込みがなされていることだった。
こんどはあなたの手と声を貸して[#「こんどはあなたの手と声を貸して」はゴシック体]
不思議な文章に首をひねったとき、吉井満智子は、かすれた女の声を背後に聞いた。
「こんにちは」
角川ホラー文庫『かげろう日記』平成15年3月10日初版発行