吉村萬壱
ハリガネムシ
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ハリガネムシ
耳の中に蚊が突っ込んできた。突然の狂ったような巨大な羽音に反射的に耳殻《じかく》を叩き、ブルッと身震いすると全身に鳥肌が立った。
工事現場特有の埃臭さの中で、私はじっと息を殺していた。
時折吹く風が剥がれたトタン塀を揺らし、金属が擦《こす》れ合う嫌な音が尾を引いた。見上げると建設中のマンションを覆う萎れたブルーシートが、無数の皺を伸ばしながらゴボゴボと膨らみ、遥かな高みに浮いた小さな月を隠した。
「ぅらっ」と又声がした。
墨のような闇の中に、複数の人影が蠢《うごめ》いていた。砂袋を叩くような鈍い音、規則的なリズムを持った湿った音、くぐもった微かな声に全身で聞き入りながら、私は立て掛けられたコンパネの陰で蹲《うずくま》り、ネクタイを緩めて有らん限りの妄想を描き続けた。
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アパートに戻り、少し眠った。
嫌な感触に目を覚ますと、鼻の上を何かが這っている。ゆっくりと針金のような物が動いているのが見え、「わっ」と叫んで自分の顔を叩き、眼鏡ごと吹っ飛ばした。見ると五センチ程のカマキリが畳の上に着地して体を斜めに保ち、小首を傾げてゆっくりと鎌を持ち上げている。工事現場から連れ帰ったものらしい。
腕時計を見て慌てた。「亀の湯」は十一時で終わる。跳び起きてカマキリの上にコップを被せ、洗面器をひっ掴むと猛ダッシュを掛けた。小銭を台に叩き付けると、番台の老婆は「また滑り込みか、あんた」という顔で見下ろしてきた。
下着を脱ぐと背中に痛みが走った。見るとワイシャツに穴が開いている。下着を裏返すと瘡蓋《かさぶた》が貼り付いていて、手を回すと背中が浅く剔《えぐ》れていた。トタン塀の穴から出た時出っ張りに服を引っ掛けて派手な音が立ったが、その時出来た引っ掻き傷らしかった。
裸になり、ロッカーキーのゴム輪を足首に填《は》めると濡れていてヒヤリとした。
遅風呂は込んでいて、男たちが黙々とその日の垢を落としていた。洗髪を終えて髭を剃っていると、初老の男が「いてて、いてて」と股間を押さえながら近づいてきて、すぐ側の椅子に腰を下ろした。
「多分尿道結石だね、これは」と独り言を言っている。腰掛けたままビュッとロゼワイン色の血尿を放ち、見ている私に顔を向けて「石が出ればね」と笑い、すぐに真顔になって「むむっ!」と唸った。私は早々に髭を剃り終え、湯船に浸かった。
疲れ切っていた。耳まで湯に浸かり、くっ、くっと力のこもるロゼワイン男の背中を呆けたように眺める幾つもの顔の一つに連なった。
勤務先の高校で生徒指導の処理に追われ、その日は夜まで学校にいた。勤めて二年目だが、他校の女子生徒へのリンチ事件に関与した複数の生徒の中に、私が副担任を受け持つ三年二組の酒井英子が混じっていた。一見何という事もない生徒だが、担任の柴田女史は、彼女が一年次に同じような集団リンチの被害者だった事があると言った。「彼女、あそこの一部をカッターで切り取られたって噂よ」と柴田女史は平然と言い、しかし酒井英子側が一貫して黙秘した上政治的な圧力もあって、事件は結局|有耶無耶《うやむや》に終わったという。
今回の事件では被害生徒は両大腿部骨折の重傷を負ったが、酒井英子は取り巻きの一人に過ぎず、うちの高校で関与した残り二名の男子生徒とともに直接手は下していないと、既に先方の高校から報告を受けていた。生徒指導部会から出された停学一週間の原案が職員会議で可決され、その決定に沿って担任指導が行われた。彼女の母親に柴田女史が電話で事の次第を伝え終わった時は、既に八時を回っていた。柴田女史は週一回のパステル画教室に行けなかったことを何度も口にし、私はこの四十女の狭い了見に飽き飽きして腹が立ったが、彼女が回転椅子を回しながら手入れの行き届いた脚を組み、「ご苦労さん」と言った時|咄嗟《とつさ》に「いえいえ」と笑った。
酒井英子は生徒指導部長の車に同乗して帰宅し、残った我々が職員室を施錠して帰ろうとすると校長に呼び止められ、生徒の発するサインを見落とすなと、二人揃って指導を受けた。駅までの道々柴田女史は散々校長の悪口を言い、私はそっと彼女の裸の二の腕の平板な肉付きを見ながら歩き、恐ろしいほどの空腹を覚えた。駅の前で食事に誘おうとすると、その空気を察したのか「さて、帰って旦那に餌やらなくちゃ」と有無をも言わせぬ口調で言い、我々は小さく手を挙げて別れ、それぞれのホームに向かった。
電車を乗り継ぎ、最寄り駅の駅前で揚げソバを食べ、深夜営業の本屋を冷やかしてからアパートに帰る途中、建設中のマンションのトタン塀がガタガタと風に揺れた。塀にポッカリ開いた穴の前に真新しいポケットティッシュが落ちていて、街灯を浴びて艶を放っていた。それを見た時、何度か潜り込んだ事のあるこの塀の中に、久しぶりに入ってみたいという衝動を覚えた。一度この場所で、脱ぎ捨てた学生服の上で絡まり合っている男女を見て以来、ここを通るたびにトタン塀の真っ暗な穴が豊かな世界を抱えてじっと沈黙しているように感じてきた。その夜の光景はよく見えず、複数の人影が何をしていたのか分からなかったが、私の中に渦巻く期待は一定の範囲で満たされた。
ふと見ると、ロゼワイン男の背中に首がない。深く項垂《うなだ》れて、大股開きで痛い部分を精査している。風呂から出て扇風機に頭を晒《さら》し、冷蔵庫からコーヒー牛乳を抜き取って番台に支払いに行くと、さっきまでいた筈の老婆がいない。どこへ行ったかとちょっと番台を覗き込んだ拍子に女湯が視界に入り、両腕を後ろに反らせて体操している半裸の女性が見えた。慌てて首を引っ込めたが、お椀のような真っ白い乳房が目に焼き付いた。まだ三十前だろう、痩せた肩が印象的だった。私は走り出しそうになった。
「おらっ」
ドスの利いた声がしたので振り返ると、作業着姿の二人の男が、股間を押さえた素っ裸のロゼワイン男を囲んでいる。男の一人が無言で肩を突き飛ばし、ロゼワイン男はバランスを崩して体重計に寄りかかり、バネが撥ねるような大きな音がして皆が振り返った。もう一人が今度は頭を叩き、スカスカの西瓜のような音が響いた。更に耳を叩かれた上に脚も蹴られ、「あ……あ……」と情けない声を出している。小突いている二人は一切言葉を発せず、ロゼワイン男が銭湯内で放尿したことを咎《とが》めているというより、無抵抗の裸の人間を意味もなく嬲《なぶ》っているようで怖かった。周囲の人々は皆一様に仮面のような顔で、体を拭いたりボタンを填めたりと、ただ自分のことをしていた。
「やめろ……」と言うロゼワイン男のか細い声が、裏返っていて情けない。洗い場の片付けを始めていた若旦那が気付いて「まあまあ」と取りなしたので、作業着の二人は側の長椅子に腰掛けて煙草を吸い始めた。もうロゼワイン男など見ておらず、仕事の話をしている。私は、取り残されたロゼワイン男がロッカーを開ける時、一瞬何やら妙な品を作り、身悶えるように両腿を擦り合わせるのを見た。
アパートに戻りコップの中のカマキリを窓から捨てようとした時、ふと思い付いて新聞紙の上に出してみた。頭を指でピッピッと弾くと、鎌を振り上げてキッとこちらを見て怒る。細かく角度を変える三角形の顔、どこを見ているのか分からない真っ黒の目玉を見ているともっと何かしたくなって、力を込めて指で弾くと頭がちぎれて無くなってしまった。飛んでいった頭の落ちる音が、本棚の裏から聞こえた。首なしの部分から細い糸を垂らしながら、カマキリは盛んに鎌を振り上げて頭を探すダンスを踊った。仕方なく新聞紙で掴んで握り潰すと、尻から真っ黒いハリガネムシが悶え出てきたので仰天した。新聞にペタペタと体を打ちつけながら、女の髪のような光沢を放っている。英語でこの虫をヘアーワームということを思い出し、それが妙に生々しく全身が総毛立った。慌てて丸めてビニル袋に入れ、蓋付きのゴミ箱に押し込んだ。
小型ラジオを点けると落ち着いた女性の声が、「梅雨はいよいよ本格化。明日は雨模様でしょう」と言った。冷蔵庫から缶ビールを取り出して布団の上にひっくり返り、読みかけの本を読んでいると電話が鳴った。こんな時間に電話してくるのは大阪の弟ぐらいしかおらず、久し振りだなと思って受話器を取るとまるで記憶にない女の声がした。
「あたし」と言う。
間違い電話だろうと思い「はあ?」と言うと、
「忘れたかにゃ?」と言うので即座に思い出したが、俄《にわか》には信じ難かった。
「おーおー」
「サチコだよ」
「ああそやそや。あー、……半年ぐらい経つか?」
一度会った切りのソープ嬢である。
半年前のその日は底冷えがして、歯の根が合わないほど寒かった。外ではまだ雪がちらついている筈だった。
待合いは、桃色のカーペットがふかふかと心地よく、先客の若い男が一人漫画本を読んでいた。それが知った顔でないことを確かめてから、深いソファに腰を沈めて煙草を吸った。
「お客様。こちらへどうぞ」
この建物の裏を通る時いつも鼻腔をくすぐる石鹸の匂いを引き連れて、黒ずくめの店員が姿を現した。呼ばれた先客は、どこか難しい表情を浮かべながら、刑場に牽《ひ》かれていく罪人のような背中を見せて奥へと消えていった。
マガジンラックには、表紙のくたびれた成人雑誌が山になっていた。一冊抜き取って開いてみると、まるでそのためだけに産まれてきたような大柄な白肉モデルが見開き一杯に横たわり、頁を持つ手に力が入った。
「お客様。こちらへどうぞ」
判で押したような声がした。目に入ったズボンの折り目が、プレス仕立てのように鋭い。顔はマネキンのようで、業界特有の冷たさを湛《たた》えて引き締まっていた。「こちらへ」と囁くように言いながら掌を差し出され、廊下に漂う湯の香りが否応なく子どもの頃の風呂の匂いを思い出させた。それと同時に頭の中に母親の顔が膨らんだので、即座に叩き潰す。角を曲がるとエレベーターの前に驚く程小さな女が立っていて、ペコッと一礼した。体積からすると白肉女の三分の一程度で、夢が一気に凋《しぼ》んだ。
「サチコで〜す」と言って顔を上げ、茶髪の髪から香水が匂い立った。「さて、一丁ガンバって稼ぐか」と腕まくりでもしそうな気合いを全身から発しているのが妙に痛々しく、小柄な女特有の、現実に押し潰されそうな貧乏臭さを感じた。
ボロいエレベーターは三階に停止してもなかなか扉が開かず、この間の抜けた時間を利用してサチコは型通りの挨拶を済ませた。
「お仕事帰りっすか?」
「そんなとこです」
「寒いっすね」と言いながら裸の腕をシャーシャーと擦る。私はワンピースの胸元を覗き込んでから、サンダルの先に並んだお菓子のような小粒な足指を見た。
「ほんまに寒いな」
「あ、関西?」
「はあ」
「大阪?」
「はい」
「わあっ」
扉が開いた。三階廊下を歩きながら見たサチコの後ろ姿の脚は細く、不安定な足取りが竹馬を連想させた。痩せて小柄なのにサンダルの上の踵は赤くへしゃげている。O脚だとこういう歩き方になるのか。
「ここで〜す。サチコの部屋にゃ」
何が「にゃ」だと思いながら見ると、ベッドと小型のソファセットと三面鏡の置かれた三畳程度の部屋の奥に、何の仕切りもなく風呂場があった。トルコ人青年の訴えにもかかわらずこの店は依然として「トルコ」の看板を掲げていた。しかし、ベッドと風呂と裸の女さえいれば一応文句はない。ただもう少し静かにして欲しかった。この女は精一杯のハイテンションを拠り所に生きているらしい。
「ビールでもいくか? ん? ん? ん?」
「はあ」
「あ、もしもしサチコ。ビール一本ね」
手が小さいので、受話器が倍ほどに見える。
「仕事は、何してるだ?」
「教師です」
「ん? 中学?」
「高校」
「何教えてるだ? あ、ちょっと待って待って今当てるから。えっと理科だ」
「ちゃう」
「国語だ」
「ちゃう」
「えっとえっと、だはは、ちょっと待ってよ、あと何あったっけ?」
冗談ではなく、高校で習う教科名がそれ以上出てこないらしい。
「倫理です」
「何だそりゃ」
「宗教、哲学なんかを教える科目ですわ。仏陀とかパスカルとか国際平和とか青年心理とか、そんなんです……」
話し出した途端、サチコの目がワニのように凝固して瞳孔が開いたのを私は見逃さなかった。動物園の爬虫類はガラスを幾ら叩いても微動だにしないが、そんな死んだ目だった。この一刹那に彼女の脳は即死したらしい。
尤もそれはほんの一瞬の事で、ノックに続いて「失礼します」と声がすると目に忽ち表情が舞い戻り、届いたビールを「ありがとー」と言って受け取ると、「ま、ま、お兄さん、一杯一杯」と言いながら注ぎ始めた。その豹変振りもどこか爬虫類的で、私は注がれたビールを一気に呷《あお》った。
「そっかー、高校の先生なんだー」などと平然と話の続きを始める。
「この春に東京に来たんですわ」
「幾つ?」
「二十五ですわ」
「あたしは、ど?」
「二十三歳ぐらいですかね」本当は三十ぐらいに見える。
「ピンポ〜ン、お湯張るね」
ハムスターのように落ち着きがない。整った西洋風の顔立ちだが、少し出っ歯気味の前歯を上唇で覆って「もほもほ」と笑うとウサギのような顔になった。馬鹿話をしているうちに、湯が満ちた。
「立つずら、脱がしてあげるだぁよ」と言い、ワンピースを脱ぎ捨てて膝を突き、突っ立った私のベルトを外し始める。私の物を取り出すと素早く口に含み、すぐに派手な音を立て始めた。どうやって絞り出すのか実に大量の唾液で、思わず唸り声が出た。
二人で一緒に湯船に浸かると、溢れ出た湯が渦を巻いた。サチコは急に真面目な顔になり、湯船の中で膝立ちになって首に両手を回してきた。私は乳房に鼻を埋めながら、上目遣いに彼女を見た。二重になった顎の肉がふくよかさを醸し出し、細面の顔が一瞬弥勒菩薩のように見えた。私はこの時初めてこの女をちょっといいと思った。サチコは私の上に跨《またが》ると、手探りで自分の中に私を招き入れた。ちょこっと舌を出し、視線を宙に遣ったかと思うと目を閉じて「う……ん」と声を上げながらゆっくりと沈んでくる。互いの恥骨が密着すると今度は折れるほど強引に腰を回し始め、勢い余って湯船から何度も湯が飛び出した。
湯から上がって片膝立ちになり、洗面器に溶いたローションを自分の体に塗りたくるサチコに、「寝て」と言われるままエアーマットに仰向けになると滑るように重なってきて、絡まり合いながら目を閉じると、一体どんな姿勢で組み合っているのか分からなくなってきた。「ああ……あかん」と唸ると「まだにゃ」と意外に太い声がしてサチコが体を引き剥がし、見ると眼前に迫り上がった尻がローションの長い糸を引いていた。
体を乾かすと互いの肌がスベスベになり、灯りを落としてベッドで抱き合うと、つきたての餅を擦り合わせるような気持ち良さである。四つん這いになった彼女の背後から乳房を揉むと、中に何も入っていない程に柔らかい。「こんな柔らかいの初めてや」と言うと「子ども二人産んでるからよーぉ」と答え、子どもの名前を教えてくれた。行為自体はエレベーターの往復より早く終わり、灯りが点ると半分の大きさに凋んだ小女《こおんな》が避妊具を摘《つま》んでクルクル回していた。
「あれ? いつ着けた?」
「これでもプロだよ、プロ」
サチコの声が一層明るさを増した。貧しい体に対する失望も、一緒に肌を合わせた親近感も手伝って初めて会った男女のはしゃいだ語らいに取って代わった。実によく喋る女だったが、そういう女に限って感じる退屈さはなかった。この女は商売を度外視してこのひとときを楽しんでいるのかと思うとちょっと嬉しかったが、ふとミッキーマウスの置き時計に目を遣って「そろそろ時間かにゃ」と言い、互いに身繕いを済ませて金額を言われた時はさすがに商売の雰囲気が出て、「ありがとうございました」と頭を下げられると果たしてこの九十分間にその金額が妥当かどうか怪しくなった。すると突然、電話番号を教えてくれと言い出す。
「電話する」
「何でや?」
「いいから、愛の電話を待ってりゃいいだよ」
面白いと思い、アドレス帳に番号を記した。頁一面、癖のある下手な文字が並んでいた。
「ありがとうございました」
店員の声は厳《おごそ》かだった。入浴料二千五百円、サービス料一万二千円だった。外に出ると雪は止んでいて、電飾に瞬く木々を従えた駅前デパートには「1987年まであと7日」の文字が流れていた。クリスマスの夜だった。アパートの鉄製の階段を上って部屋に戻るとストーブを点け、机の下から成人雑誌を取り出して自涜したが、既にサチコの顔は思い出せなかった。
雨降りだった。停学の申し渡しの席にやって来た酒井英子の母親は「この子のことは、よく分かりませんから」という言葉を二度口にし、何に対しても怒りを抱く柴田女史は「あれでも親か」と憤然となった。申し渡しの最中、酒井英子はずっと俯いて唇を舐めていた。一度だけ顔を上げ、目を合わすと睨んできた。私は酒井英子とは殆ど口をきいたことがなく、正直彼女が何を考えているのかさっぱり分からない。つまり母親と同じだった。母子は雨の中を帰っていったが、校門を出てゆく二つの傘は赤の他人以上に離れていた。
その日の校務を終えると、私は七時に約束通り駅前の喫茶「りーべ」でサチコを待った。しかし八時になっても彼女は現れず、一人でエビピラフを食べ、雨上がりの夜道をアパートに帰った。途中例のマンションの工事現場を通りかかり、腹立ち紛れにトタン塀を蹴り飛ばすと派手な音が鳴り響いた。アパートで一息つき、早目に銭湯に行った。
湯から戻り、寝ようかと思っているところに電話があった。サチコだった。今すぐ会いたいから、出てきてくれという。小雨の中、私は再び「りーべ」に出向いた。この喫茶店は二十四時間営業で、よく水商売関係の怪しい人間たちが屯《たむろ》する。隅っこのテーブルで習慣になっている日記を書いていると、「おまたー」と、やたらテンションの高いサチコが現れた。タンクトップ姿で化粧が濃く、驚くほど派手に見えた。
「ちょっと色々あってトチ狂っちゃっててよーぉ。ゴメンねぇーっ」と大声で言いながら、薄暗い店内をチラチラ見ている。
「何か食べに行くか? ん? ん?」
「いや、腹減ってへん」
「そかそか、じゃあ何か飲むか」と言って座ってすぐに煙草を吸い始め、妙に落ち着かない。運ばれてきたアイスコーヒーを一気に半分ほど啜ると、突然すぐに行かなくてはならないと言い出し、実は頼み事があると切り出してきた。何も聞かずに五万円貸してくれという。
「絶対返す!」と言って手を合わす。香水が匂い、咄嗟に四回分かと計算した。私はオーケーし、「じゃあ、明日ね」と言い残して出ていったサチコの後ろ姿を眺めながら、「引き返すなら今のうちだぞ」と日記に書いた。彼女のコーヒー代は私が持った。
次の日は土曜日で、終日雨だった。私は約束通り二時に「りーべ」に現れたサチコに、銀行で引いてきた五万円入りの封筒を手渡した。「恩に着るぞ」とサチコは言い、前歯を上唇で覆って「もほもほ」とウサギの顔になり、私はこの時初めて彼女の顔を思い出したような気がした。サチコは今はちょっと時間があると言い、我々は初めて落ち着いて互いの身の上話をした。それによると、サチコは徳島の生まれで小中時代をK市内で過ごし、転居して富山の県立高校を出た後東京に出てきて結婚、二児をもうけたという。
「健一と健二にゃ」
その名前には、うっすらと記憶があった。
「で、旦那さんと子どもは?」
「別れ別れになってる」
「どこにおるの?」
「徳島の施設ずら」
「旦那さんは?」
「刑務所」
「何したんや?」
「殺し」
「人殺しか?」
「そーずら。ひっ……」この「ひっ」は笑ったのか、単発のしゃっくりなのか判然としなかった。
「誰を殺《や》ったんや?」
「チンピラだよ」
「何でや?」
「ホントは旦那の親爺が殺って、旦那は身代わり」
「親爺さんは、何でチンピラを殺ったんや?」
「シャブでトチ狂ってたずら」
私はカップの底の黒いコーヒーに視線を落としたが、そこには溶け切れなかった砂糖の澱《おり》がヘドロのように残っていた。店の奥から突然客の女の笑い声が上がり、私はつられて笑い出しそうになった。慌てて口元をカップで隠しながら、底に溜まった甘い砂糖汁を飲み干した。それがどんな毒であっても、ちょっとだけ舐めてみたい。
案の定それ以後サチコからの連絡はなく、五日が過ぎて暦は七月になった。
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その日の夕方、柴田女史と一緒に酒井英子の家庭訪問に行った。母親は仕事で不在で、家には酒井英子と小六の肥満の弟がいた。柴田女史がヒールを脱いで家に上がった時、爪先のパンストのよじれを直す彼女の真後ろで靴紐を解きながら、私は一瞬上目遣いになって固まった。こんな至近距離から彼女の脚を仰ぎ見たのは初めてだった。肉付きのよい脹《ふく》ら脛《はぎ》は熟れ切った果物のようで、思わず鼻孔を拡げると甘い芳香を嗅いだ気がした。その瞬間激しい飢《かつ》えに襲われ、発作的に果肉を噛みちぎり、濃い果汁にまみれる様を想像して思わず手に力が入り、靴紐をキュッと団子結びにしてしまった。慌てて解こうとして、三和土《たたき》にズボンの膝を擦り付けてしまう。
中は六畳の居間と三畳の寝室、台所がある切りで、長屋特有の臭いがした。居間の炬燵《こたつ》机の一辺に俯せに寝転がった弟が、「やめなよ」と言う姉を無視してテレビゲームを続け、セイウチのような背中が不意の闖入者を拒絶するように盛り上がっている。
「で、どうなの?」と言われた酒井英子は、無言で停学課題を柴田女史に突き出した。柴田女史はノースリーブの腕を伸ばしてそれを受け取り、点検を始めた。柴田女史に代わって何か言わねばならないと思ったが何も思い付かず、私は「時は金なり」と書かれた壁のカレンダーを眺めた。テレビゲームの剽軽《ひようきん》な音楽と酒井英子の視線が、妙に息苦しかった。
「ちゃんと出来てるようね」
「はい」酒井英子は気のない返事をした。
「でも、この反省文はどうかしら?」
柴田女史は反省文を私に示した。
「私はなにもしていません。止めなかったことは悪かったです。見ていただけでは、よくありませんでした。反省しています。二度とくわわらないように、したいです。でも、あいつらはしょっちゅうイタズラ電話をかけてきて(中断)早く率業(誤字)したいです」
混乱した文章になっている。
「これでは、停学を解除するのは難しいわね」
「どうすればいいですか」
「もっと反省している感じを出さなくちゃ駄目よ」
「原稿用紙がないんです」
「ここにあるから、書き直しときなさい」
柴田女史は新しい用紙を渡した。彼女は決して生徒の内面には踏み込まず、ビジネスライクに事を進めた。彼女の軸は決してぶれず、生徒もそういうものだと心得ているようだ。私はこの時、自分も何か言うべきだろうと思った。
「本当に反省してるんか?」
その瞬間、柴田女史の強い視線を感じた。失言だったとすぐに分かったが、酒井英子が無視したので続けざるを得ず、勢いで言葉を継いだ。
「見てただけって言うけどな、止めへんかったら暴力に荷担したのと同じやないか。お前そこんとこ、ホンマに分かっとんのか?」
酒井英子が、あからさまに敵意を含んだ目で睨み返してきた。私も負けじと怖い顔をした。やめておけばよかったと思ったが、流れに呑まれて後へは退けない。
「大変な事をしたっちゅうことがホンマに分かってんと、なんぼ上手に反省文書いてもおんなじやろが」
酒井英子の汚れた靴下が破れていた。息苦しい沈黙の中、高得点の金貨をゲットしたやたら明るい音楽が突然鳴り響き、弟が「やった!」と言ったので殺してやろうかと思った。
「とにかく、ちゃんと書き直しときなさい」と柴田女史が呆れたように言い、下を向いて押し黙った酒井英子は頻《しき》りに唇を舐めた。私は彼女のマッチ棒のような首筋を眺めながらその欠けた陰核を思い、この生徒に何か優しい言葉を掛けなければと焦った。
その時電話が鳴った。「姉ちゃん、電話」と弟が言ったが、三回コールしてすぐ切れた。
「何にせよ暴力はあかんのや。それは分かるやろ、な」
私は逃げ出したくなったが「それじゃあ、もう一頑張りしなさい」と柴田女史が言葉を継いで立ち上がりかけた時又電話が鳴った。「姉ちゃん!」と弟が言った。電話は再び三回で切れた。
「おらっ! お前が出たらええやろが。お姉ちゃんは今大事な話をしとんのじゃ!」と私は叫んでいた。弟は急に巨体を起こすと、私に向かってゲームのコントローラーを投げつけてきたが、コードが短く炬燵机の上に落ちた。見ると顔がチンに似ている。
「偉そうに言ってんじゃねーよ!」と弟が叫んだ。
「何やと!」
「うっとおしいんだよ!」
「何やと!」
同じ言葉を二回言ってしまい、しまったと思った。
弟はすぐにゴロンと俯せになり、ゲームに復帰した。首の後ろの肉が水牛のようだった。その時酒井英子が、下を向いたまま小さく「はい」と呟いた。何に対しての「はい」なのか分からなかったが、我々はその「はい」に縋《すが》り付くように立ち上がった。三和土でヒールを履く時に僅かに見えた柴田女史の足裏に、S字状に這うパンストの縫い目を見た。玄関扉を閉めて立ち去ろうとすると、又電話の音が聞こえた。
駅に向かう道を、会社帰りのサラリーマンや買い物帰りの主婦たちを縫って無言で歩く柴田女史に、半歩遅れて随《つ》いていった。駅前はごった返していた。食事にでも誘われるかそれともお茶かと思っていると、定期券を取り出した柴田女史が振り向き様に「あんた馬鹿じゃないの」と言った。うっすらと汗ばんだ彼女の裸の腕を、駅前のパチンコ屋のネオンがゆっくりと舐めていった。うっとりとしながら「馬鹿かも」と思い、人の背に埋もれていく彼女の後ろ姿を見送りながら、切符を買わねばならない私は券売機の前に取り残された。
期末考査を作っていると電話が掛かってきて、息を切らせて「慎一くぅぅん」と言った。
「会いたいのぉ」
待ち合わせた駅の改札前に、既にサチコは煙草を吸いながら立っていた。どう見ても、まともな女には見えない。十分も立っていれば、どこぞの誰かが声を掛けるに違いなく、手持ち無沙汰の男たちが周りに数人|彷徨《うろつ》いていた。
「慎一くんのお家に行こ」と言う。我々はコンビニでビールや摘まみを買い揃え、アパートに向かった。彼女は、高いので普段私が手を出しかねていた干し牛肉やサラミを次々に籠に放り込んだ。支払いは私が持った。
アパートに着いてビールを冷蔵庫に入れた途端、急に「ぅぅん、慎一くぅぅん!」と叫んで抱きついて来た。思い掛けない行動に私は虚を衝かれ、彼女を抱いたまま万年床に激しく転倒した。アパート中が揺れるほどの大音響が鳴り響いた。もう零時近い。階下に住む母子は仰天して跳び起きたに違いなかった。
我々は大急ぎで裸になり、鰻のように絡まり合った。どんなに静かにしようとしても、アパートの骨組みがギシギシ軋《きし》んだ。私は何度も階下の母子のことを考えた。
終わると裸のまま酒盛りになった。私は注意して、テレビやカセットのボリュームを下げた。サチコは幾らでも飲み、食い散らかした。包み紙やプラスチックトレイを床に撒き散らして一向に平気で、祭のように物を食う。こんな裸女を初めて見た。
午前三時になった時突然「帰るね」と言い出し、アッという間に服を着始めた。「泊まっていったらええやんけ」と言うと「電話貸して」と言う。気を利かせたつもりでトイレに立つと、「何馬鹿言ってるだよ。だからそれは別の話だろげ。バッカじゃないの。はあ? はいはい死にたいなら死ねよバーカ」などと言っている。その声が柴田女史に似ている事に初めて気が付いた。水を流してトイレから出ると台所の薄暗い中に立っていて、「上げて」と言いながら背中を向けて項《うなじ》を見せてきた。ファスナーを上げてやると振り返り、「駅まで行くから」と言った顔には照明の角度の加減から深い影が差し、頬骨の下がごっそり剔れて見たことのない顔付きである。
「誰か迎えに来るんか?」
「トチ狂った馬鹿が来るよ」
「送るからちょっと待ってくれ」
言い終わらないうちにさっさと部屋を出ていくので慌ててズボンを穿いていると、扉から流れ込む夜の静寂の中に、階段を降りる投げ遣りなパンプスの音が半鐘のように鳴り響いた。「こら、静かに降りろ!」と注意して忍び足で階段を降りながら覗き込むと、階下の部屋の灯りが煌々《こうこう》と点いている。そこには突如生活の安寧を脅かされた母子が、じっと息を殺しているに違いなかった。
駅前には真っ黒な大型車が一台止まっていて、静かにアイドリングしていた。シールドで車内はまったく見えなかったが中にはサチコの男が乗っている筈で、その男が電話で「死にたい」と言ったのだろうかと考えたが巧くイメージ出来ない。駅前ロータリーの歩道に人影はなく、遠くに一人だけステテコ姿の酔っぱらいが与太ついてポストに抱きついたりしていた。
サチコは酔った足をコツッと止め「ご苦労、ここでいいぞ」と言った。
「おお、ほなな」
「ねえ……」
「何?」
「慎一くんのところに行ってもいい?」
「はあ?」
「慎一くんと暮らすだ」
「誰かおるんやろが」
「どうでもいいだよあんなのは」
「とりゃああーっ」突然の声に二人して振り向くと、ステテコ男が夜空に向かって「しゅっ、しゅっ」と地獄突きをしている。
「ウッソー。ウソウソーッ。もほほほほほ。じゃっ!」
パンプスの踵を鳴らして走り去るとサチコは素早く助手席に乗り込み、ドアが閉まってから暫く経って車はゆっくりと走り出した。角を曲がって消える瞬間、窓から細い腕を振るサチコが見えて慌てて手を振り返した。その角の向こうにどんな世界があるのか、私は知らない。真っ暗な下り坂を深い淵に向かって落ちていく黒い車を想像しながら佇んでいると、でかいおくびが出て周囲に木霊《こだま》した。
アパートに戻ると母子の部屋の灯りは消えていたが、絶対に寝てないと分かった。息を殺して階段を上り、部屋に入ると泥棒にでも入られたかのような惨状で、今までになかった匂いが満ちていた。
数日後、酒井英子は停学解除になり、期末考査に間に合った。
試験中各教室には、問題作成者の教師が出題ミスの訂正や生徒からの質問を受けるために巡回してくる。二時間目の英語の試験中、引っ詰め髪に薄茶のワンピース姿の柴田女史が「何か質問ある?」と言いながら私が監督する教室に入ってきた。
蒸し暑い日だった。開け放った窓外の空気はピクリとも動かず、しかし彼女が颯爽と机間巡視し始めると、四十人の生徒の呼気に淀んだ空気が撹拌され、彼らの弛《ゆる》んだ精神が見る間に緊張感を取り戻していくのが分かった。キリッと結んだ口の端を少しだけ上げる独特の顔は私の最も好きな表情で、踵を返して教卓に近づいて来るサンダル履きの桜貝色のペディキュアが一際目を惹いた。
柴田女史はこの日は気分が良いのか、いかにも楽しげに教室内を歩き回り、「先生」と手を挙げた生徒の質問に「あら」と声を上げたかと思うと教壇に駆け上がり、座っていた私の肩に尻が触れた。「五番の問題だけど、間違い、分かるわね。『動詞』じゃなくて『動名詞』だからね」と言いながら、私の背後の狭い空間に割り入る恰好で黒板にカンカンと力強い字を書いた。書くたびに形の良い脹ら脛に力がこもる。書き終わると一瞬私に「どうして場所を譲らないのよ」という視線を投げ掛けたが、私には既に立ち上がれない事情があった。他の教室にも訂正を知らせる必要から彼女はすぐに教室を出ていき、私は黒板に残された「(5)動詞→動名詞」の文字を眺めながら、頻りに耳朶を揉んだ。
夜、「亀の湯」に行く。
この日、番台には若奥さんが座っていた。三十代半ばであろう。時々座っているが、男たちの裸を見ても表情一つ変えず、じっと番台に置かれた小型テレビを観ている。たまに馴れ馴れしく話し掛ける客もいたが体よくあしらわれ、ビジネスライクという点では柴田女史に似ていた。整った目鼻立ちの瓜実《うりざね》顔である。若奥さんが番台にいると、男たちは皆なかなかパンツを穿かずにあちこち彷徨き回り、「あーっ」とか「うーっ」とか意味のない声を上げながら全裸姿の大股開きで椅子に腰掛けたり、やり付けない体操をしたりした。
湯船に浸かっていると、見たことのある顔がこっちを見ていた。ロゼワイン男だった。近づいてきて「出たよ」と笑いながら、ラベルのない薬瓶を振った。知った事ではなかった。黄土色の結晶がカチカチ鳴った。尿道結石の石を持ち歩いているらしい。それは五ミリほどの金平糖のような代物だった。
「痛そうでしょ」と言う。早く消えて欲しかった。
「悪い油と牛乳からこんな物が出来上がるらしいよ。ふふっ」
そう言いながら彼は湯船に白い足を突っ込み、私の横に入ってきた。湯の中で太股同士が軽く触れ合った。
「お兄さんも、食生活には気を付けないと」
「はあ……」
「学生さん?」
「いえ……」
「じゃあ働いてるんだ」
「はあ……」
私が足を僅かに遠ざける分だけ彼の足が摺り寄ってくるのに気付き、一気に立ち上がって湯船を出た。背後に強い視線を感じ、ムカムカした。殊更ゆっくり体を洗い、ロゼワイン男が出ていくのを待った。しかし鏡に映る彼の顔はいつまで経っても微動だにせず、寧ろ私がゆっくり体を洗うのを変に勘違いして堪能している様子である。ふと、ロゼワイン男が労働者の若者たちに小突かれていた事を思い出した。あれは放尿のせいではなく、さっきのように裸の若者に馴れ馴れしく摺り寄って行った結果だとピンと来た。その途端この男を人間扱いする必要がないと思ったが、なぜか妙な同情も湧いて、何だかどうでもよくなって平然と洗髪を始めた。
ふと鏡を見るとロゼワイン男の姿はなく、入り口付近で年老いた海亀のように首を伸ばして体を拭いている。
風呂から上がって脱衣所に行くと、籐椅子に腰掛けたロゼワイン男が裸でコーヒー牛乳を飲んでいた。番台には若奥さんがいて、テレビに飽きたのかぼんやりとこちらを眺めている。私はタオルを絞って体を拭きながら、自分の裸体が若奥さんの視線に晒されているのを意識した。若奥さんが柴田女史に思え、同時にロゼワイン男のコーヒー牛乳を持った手が止まるのを見た。体の変化に気付かれたと思い、クルリと尻を向けて不自然な蟹歩きでロッカーに移動して急いでパンツを穿いた。側にいた子ども連中が突然大声で笑い出し、ドキッとして睨み付けると中の一人が横目で睨み返してきた。帰り際にロゼワイン男を見ると、気のせいか勝ち誇ったような顔になっていた。急にムラムラと腹が立ち、爺も餓鬼も死ねばよいと思った。
夜、期末考査の採点をしていると、アパートの階段から突然ゴン、ゴン、ゴン、ゴンという規則的な音が聞こえ、建物全体が揺れ始めた。それは暫く続き、やがてゴロゴロと雷のような音が鳴り響いた。
「慎一くぅぅーん、来ちゃったぁ」
慌てて扉を開けると、どでかいスーツケースを引きずるサチコの姿があった。スッピンで、本当の顔はこんなに黒いのかと思った。
「あきゃああああーっ! 慎一くぅぅぅーん!」
今度は両足を踏み締めていたので転倒する事はなかったが、この小柄な女が息をするだけでアパート中がグラグラ揺れるような気がする。
「早く早く」と言いながら、Tシャツを脱がしに掛かる。されるがまま裸にされ、気が付くと私は仰向けになって、這い下りる濡れた唇をじっと待っている。「美味しい……」と言いながら、大量の唾液を分泌して裏の方まで溶かしていく技は決して素人にはない離れ業に違いなく、こいつはまだ商売を続けているなと確信した。
明日までにしなければならない試験の採点や、又しても跳び起きたであろう階下の母子の暗闇に浮かぶ憤怒の形相などを気に病みながらも、勝手に高まっていく自分の体に次第に笑いが込み上げてきた。しかし「あっ、ちょっと待て」と思う間もなく終わった瞬間、その笑いは忽ち干しぶどうのように萎縮して、何か黒い燃え滓《かす》のような物がウヨウヨと頭の中に湧いて来た。サチコを見ると鶏のように上を向いて呑み下している。何だこいつはと思った。
「ちょっと仕事があるから、ゆっくりしといて」と言い、濡れたままの物をズボンに仕舞うとサチコに背を向け、怒った視線を浴びながら勝手に採点を再開した。暫くすると背後でガサガサと音がして、サチコが何か食べているらしい気配である。すると急に腹が減ってきた。そう言うと「腹減ったか? ん? 任しなって、いいのがあるでよ」と、今の今まで無視されていた事も気にならないのか、スーツケースから友達に貰ったという「きりたんぽ鍋セット」を引っぱり出してきて、忽ち真夜中の料理が始まり、酒盛りとなってしまった。まだ半分以上採点が残っていたが、チャイナドレスを私のTシャツに着替えてパンティ一つで胡座《あぐら》をかき、「プハーッ」とビールを飲みながら「きりたんぽ」をクチャクチャ噛んでいるサチコを眺めていると、何となく何もかもどうでもよくなってきた。「音楽音楽」と言うのでラジオを点けると巨大な音が鳴り、暫くするとドンッドンッと床下から突き上げるような音がした。「下の住人が箒《ほうき》で突っついてるだよ」とサチコはここに何年も住んでいるような顔で平然と言い、私はこの女の世慣れた態度にいたく感心した。ラジオから流れる悲愴な音楽をバックに、胡座をかいて煙草を吸うその姿は牢名主のようだった。
ほんの一瞬眠ったと思ったら、すぐにサチコに叩き起こされた。午前五時である。
「おい、仕事しろよ」とサチコが言い、「あたしゃ寝るけどよ」と言いながらすぐにコテンと横になっている。見回すと、饐《す》えた臭いに充満した部屋は酒盛りの残骸で溢れ返り、寝ているサチコまで生ゴミのように見える。睡眠不足には極度に弱いが、しかしここは踏ん張りどころだと立ち上がってコーヒーを淹《い》れ、猛然と採点に取り組み始めた。採点結果は、生徒がいかに私の授業から離れているかを如実に示していた。一区切りついた時、朝陽に当たって暑そうなサチコの左腕を何気なく眺めて眉を顰《ひそ》めた。
手首から肘にかけて、何十本ものミミズのような盛り上がりがびっしりと平行に走っている。変色は見られず、どれも皮膚の色をしていた。自分で切り付けたものに違いなく、リストカットの癖があるらしいと分かった。それにしても何というお粗末さか。どれも決して死に至る事のない、ままごとのような細さで整然と並んでいるのである。
「慎一くぅぅぅん……」と言いながら寝返りを打つ顔はあどけないが、この女が何者なのか殆ど知らないのだと改めて思った。時計を見ると時間がなく、しかし五時に起こしてくれた点は信頼に足ると無理矢理納得し、「ばんメシ、まっとけよ」と走り書きして部屋を出た。
「こんなのが続いたら、ホントに気が狂ってしまいます! 教師らしいけど、一体どこの学校なのよ!」
夕方に帰ると網を張っていた大家と階下のおばさんに忽ち捕捉され、階段の下で散々説教を食らった。大木という階下の中年女とは殆ど口をきいた事がなく、挨拶してもろくな返事を返さない印象があったので何の同情も湧かない。やたら濃い口紅を見ている内に、宙に浮いた唇だけが喋っているような錯覚を覚え、勝手に気が狂えばいいではないかと思った。しかし大家の中河の奥さんに「中岡先生、立場もおありでしょうし常識をわきまえて頂戴ね」と諭《さと》されるとさすがに意気消沈してしまい、一刻も早く眠りたくなった。階段が百段にも思えた。
入ると部屋はまったく朝のままで、「しんいちくーん(かん字しらないにゃ)おかえりー。ちょっとでかけてきまーす。愛してるよーん サチコより」と書かれたメモが一枚置いてあり、その尖った筆跡を眺めているうちに、普通は食器ぐらい洗っておくもんだろうと憤然となった。ええいビールだ、と思って冷蔵庫を開けると一本もなく、カーペットに落ちたサチコの煙草が直径数センチの焦げ痕を作っているのを発見した直後、電話が鳴った。
「もしもし慎一くぅぅぅーん、サチコー」
「……おお……今どこや」
「お店だーよ」
「どこの店や」
「ヒミツー、手紙見てくれたー?」
手紙とは、あの下手な殴り書きの事か?
「おう」
「嬉しかった?」
「おう……」
「仕事はしたずらか?」
「おう」
「あ、それじゃ又電話すっから! じゃーねー!」
激しく電話を切る音がした。背後でガンガンとロックが掛かっていた。何の店なのか分からない。スナックならカラオケの筈だ。夕闇の中、灯りを点ける気もせず、腹も減っていたがそのまま布団に倒れ込んだ。と、鼻に何か触れ、カマキリかと思って慌てて顔を上げるとティッシュの塊である。「けっ!」と叫んで、思わず布団を叩くと、間髪を入れず階下の大木のおばはんがドンッと突き返してきた。満を持していたらしい。
空腹と喉の渇きに目覚めると、汗びっしょりになっていた。真っ暗な夢を見たが、まるで思い出せない。腕時計を見ると十時五十七分である。三分しか猶予がない。なぜせめて十分前ではないのかと絶望的な気持ちになった。
「アウト!」
銭湯に滑り込むなり老婆がそう叫び、うんざりして見遣ると親指を下向きにして口をへの字にひん曲げている。この日の「亀の湯」は客が少なく静かだった。苺牛乳を飲みながら、後で「りーべ」でスパゲッティでも食べようと思ったら少し元気が出た。
喫茶「りーべ」の照明は薄暗い。
その中に半身を沈めた客たちが、ボソボソとくぐもった声で話していた。何やら不穏な言葉が、溜まった闇から浮き上がっては漂って来る。私はミートスパゲッティを食べた後、アイスコーヒーを飲みながら日記を書いた。
「国連がジェノサイドに対し、その理想主義に反して消極的なのは何故か」
二学期に、二十世紀の悲劇と国連の役割を扱うつもりだった。日記には万年筆で思い付く事を何でも書き、授業用のメモも少なくない。私は自分の幼稚な字が好きで、一日に大学ノート二頁は埋めないと歯磨きを忘れたように気持ちが悪かった。要するに文字になれば何でもよく、黒板に字を書く仕事がしたいというのが教師になった唯一の動機だった。
「国連の代表はその国の政府を代表しており、内政不干渉が致命的な制約になっている。国連にはそもそも、ジェノサイドを裁いたり根絶するような力は本来的に備わっていない」
倫理の教科書には、あたかも国連が正義の使者のように扱われているが、しかしこの世の悪を根絶するという発想そのものがナンセンス極まりないと思った。それにしても文字というのはどうしてこんなに可愛らしいのだろう。
「陰核切除に至ったリンチ事件を裁けない学校当局は、国連の事なかれ主義と同根である」と、忽ち筆が横滑りする。ペン先に付いた埃を頁の隅になすり付けると、陰毛のような線になった。フッと顔を上げるとどのテーブルにも深刻な顔が居並び、じっとこちらを睨み付けていたので驚いた。しかし彼らの視線は、私を素通りしてどこかもっと遠くを見ていた。おしなべて重大な問題を抱えてにっちもさっちもいかないという渋面で、水商売関係者には何故こんなに問題が多いのだろうかと思うと、突然訳もなく胸の中に嬉しさがこみ上げた。「りーべ」のようにまったく自分と無縁な人間の寄り集まった中で文字を書いていると、自分はここでは完全な局外者で、君たちのような深刻な問題などまるで持ち合わせていないよという意識が膨らんで大きな自由を感じる事が間々あった。そういう時には決まってこう書いた。
「皆さん、大変でんな」
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我々は夕陽の中、東名高速を一路南下していた。
サチコは素足をフロントガラスにペタペタくっつけて指跡を残しながら、やたらとスナック菓子を頬張った。タンクトップにジーンズのミニスカート姿で、食べるのに飽きると私の股間に顔を埋めてきた。高速運転中の射精は危険極まりなく、蛇行運転して後方車から散々クラクションを浴びた。
パンクしたまま放っておいた車を一月ぶりに修理するとサチコは大喜びして、どこかに旅行しようという話になった。学校は既に試験休みも終わりに近く、若干の会議と終業式を休んでしまえばその先には夏休みが待っている。こうして四国旅行は即決し、私は学校事務を通して自治体に六十万円の借金を申し込んだ。低利であり、この程度なら返済にも無理はないと踏んだ。終業式を休む旨を柴田女史に告げると「そ」とだけ言った。忽ちにして旅行資金と車が揃い、即出発という段取りになった。
既に夕方で、渋滞の首都高を抜けて東名に入り、足柄サービスエリアで玉子丼を食べた時には日がとっぷり暮れていた。サチコの勧めで十時以降まで車を走らせた。ネオンを見付けた彼女が「あった、降りろ!」と叫ぶと私は大きくハンドルを切り、出口に滑り込んでラブホテルに直行した。愛知県らしかった。一泊料金五千円とは二人分としては格安である。カラオケ、テレビゲーム、ビデオ、夜食、風呂、セックスを済ませてベッドに横たわると、溶けるような睡魔が訪れた。
天井の鏡を見上げながら、喧嘩が絶えなかったここ数日間の事をつらつらと思い出した。
夜中にアパートに帰って来るなり、サチコは異常なハイテンションで喋りながら執拗に迫ってきた。昼間もどこかで遊び歩いている様子で、それが連日となるとこっちには学校もあり、すぐに体が保たなくなった。
「お前の腕、何やそれ」
ある晩眠っていたところを起こされた私は、腹立ち紛れに腕のためらい傷を問い詰めた。と、反応がおかしい。頻りに長袖Tシャツの袖を引っ張っている。
「見せろ」と言うと「イヤ」とクルッと体を向こうに向ける。「もう知ってるんじゃ」とちょっと凄むと、「知ってたか……」と顔をこちらに向けて舌を出し「もうしないよ」などと言う。
「何回もしたんやろが」
「もう絶対しないだよ」
「ホンマか」
「ホンマにゃ」
と言葉を交わしつつ、何かチグハグな感じがして、
「ちゃんと口に出して約束してみろ」と鎌を掛けると、
「もうシャブはしねーだす」と言った。
シャブ歴は旦那がパクられる数年前からと言い、旦那の件があってきっぱり止めていたが、私との生活で昼間も起きていなくてはならない事が多く、友達の勧めるままついフラフラと打ってしまったと言う。勿論下手な言い訳である。
「アホか!」と叫んで頭を張った。スカンと音がしてサチコは目を閉じて首をすっ込め、子どもの頃によく叩いていた飼い犬を思い出した。
「犯罪やないかボケ!」
俯いたサチコの頭が、張り子の虎のように揺れている。
「どっちやめるんや! 覚醒剤か人間か!」
これでは政府広報だと気付き、塗り重ねるように言った言葉が「覚醒剤は白い悪魔やねんぞ!」では、サチコも鼻白み、舌でも出していたに違いない。そんな上目遣いで見上げてきた。
「で、どないなるんや?」
好奇心を抑えられず、ダニに食われたような針跡を眺めながらそう聞いた。
「シュワシュワするだよ」
首の後ろから全身の凝りが一気に蒸発していくような爽快感が訪れ、どこまでも全力疾走出来るような全能感に包まれるらしい。同時に爆発的に性欲が昂進し、食べず眠らずにいて一向に平気だと言った。そういう超人的な視点から見ていたのだとすれば、私のような疲れやすい人間などは滓のような存在に映っていたに違いない。
「シャブはやめとけ……」
天井の鏡にぼんやり映ったサチコに向かって、私は声を掛けた。
「あいよ……」
ベッドの中で体を摺り寄せて来たサチコを抱きながら、ドロリとした眠りに落ちた。
大阪南港からフェリーで淡路島に渡り、出来て三年目の鳴門大橋を抜けた。国道一一号線を南下して徳島市内に入り、サチコの故郷であるK市内へ続く五五号線に入りかけた時「寄り道してこ」とサチコが言い、吉野川に沿った一九二号線を西進し、当てもなく脇道を走っているうちに四国山地の山懐に迷い込んでしまった。日が傾いてきた時、温泉宿の小さな看板を見かけた。明日はいよいよK市内だから、今夜は張り込んでここに泊まろうという事になった。ロードマップにも載っておらず、看板だけを頼りに散々迷った末に辿り着くと、改装工事中だったが泊めてくれた。宿帳には「ロドリゲス慎一・サチコ」と書いた。冷えてはいたが遅い夕食にもありつけて満腹し、揃って風呂に行った。宿から露天風呂までビニルシートのトンネルになっていて、「遊園地みたいだ」とサチコがはしゃいだ。
露天風呂は混浴で、工事現場にあるような投光器が一つある切りだった。年輩の男たち数人が先客にいた。ひんやりした石畳が足裏に気持ち良い。すると遅れて入ってきたサチコの体に、バスタオルが巻かれていない。小さなタオル一つで前を隠しただけの恰好で入ってきて、歩くたびにチラチラと毛が覗く。私はその馬鹿さ加減に腹が立った。ふざけているつもりか。すると男たちの首が一斉にサチコの方に向くのが分かった。見るとサチコは投光器の放つ逆光で顔が分からず、一方その体はくっきりと細い光線で縁取られている。
フッとそれが、知らない女の裸のように見えた。
私は他の男たちと同じ目になった。ここに裸の女が入ってきた。しかもこの女は、どういう訳か私の意のままになる。そう考えた途端、下腹にドンと熱いものが突き上げ、黒々とした衝動が襲い掛かってきた。
どうせ……。
サチコは「熱っ」と言ってなかなか湯に入らず、座ったままのその姿勢は、ソープランドでローションを塗っていた時と同じだった。そのポーズが、私の衝動を加速させたのかもしれない。
湯の中には私を含めて五人の人間がいて、正面からじっとサチコの体を直視する恰好である。前を隠したままゆっくりと湯に足を浸けるサチコに近づくと、私は「湯の中にタオル浸けたらあかんやろ」と言い、素早くタオルを剥ぎ取った。忽ちサチコの裸身が露わになり、サチコは「あん」と言った。全員の視線が一瞬釘付けになり、慌てたように二人の男が前を押さえながら連れ立って湯船を出ていった。両手で体を隠そうとするサチコを、残った二人の男がまだじっと見ているのを確認すると、私はサチコの足を握って引っ張った。バランスを崩した彼女が手を突き、乳房や股間が一挙に露出した。
「ちょっと、やめてよ」とサチコが抵抗し、私は益々力を込めて、二人の観客にわざわざ晒すようにサチコの両脚を拡げようと努めた。男たちは岩のように固まっていた。きっと下半身が反応して湯から出られないのだと思った。内心喜んでいるのかもしれない。
「この女をどうにでもしてやって下さい」そんな言葉が頭の中を駆け巡った。何なら俺がここで犯ってしまおうか、と本気で考えた。
「ん……ん……」とサチコの痛がる声がして「慎一くん」と言った。同時に、男の一人が何も言わずにザバッと立ち上がり、続いてもう一人も立ち上がった。「おい、もう出るのか!」と頭が混乱し、反射的にサチコを見上げた。
横向きに姿勢を崩した体に、投光器の光が深々と陰影を作り出している。猫背によって生じた乳房と腹肉の皺が、老婆のように弛んでいた。更に顔を見てゾッとした。小鼻を精一杯膨らませて、チンパンジーのように唇の中に空気を溜めている。動物が怒った時の顔だった。
「何すんだよ! てめえはよっ!」
突然サチコが蹴り付けてきた。小さな踵が右肩を直撃し、かなりの痛みだ。その一撃だけなら、私はすぐに冷静さを取り戻したかもしれない。しかしサチコの蹴りは執拗に続き、木製の桶まで投げつけてきた。
「ざけんじゃねえよ!」飛んできた桶は私の頭を掠め、頭に乗せていたタオルをかっさらって後ろの岩に当たって派手な音を立てた。一瞬心配するような顔付きになったサチコを見て、仲直りのつもりで薄笑いを浮かべた腹の底に突如ゾクッとするものが突き上げ、気が付くと彼女の頬を張り飛ばしていた。思いの外大きな音がした。サチコは咄嗟に顔を背けた。私の掌は頬ではなく耳を叩いたようだ。
サチコが蹲ったまま動かなくなった。
脱衣所にはまだ人の気配がする。私はタオルを掬《すく》い上げ、固く絞って頭に乗せた。サチコから奪ったタオルを探したが、どういうわけか見当たらない。さっきの男の一人が立ち去る時、たまたま一緒にひっ掴んでいったのか。
「ってぇ……」
耳を押さえながら、サチコが声を出した。
「大丈夫か?」
「……」
その時急に話し声がした。上機嫌で、酔っぱらいに違いない。私は「おい、こっちに入ってこい」と言ったが、サチコはまるで反応しない。
「ほんなら、これで隠せ」と、私は頭からタオルを取って彼女の手に押し付けたが、サチコは岩のように固まったまま動かなかった。
予想外に早く泥酔客が乱入して来た。三人だった。三十歳代だろうと思われ、揃って太い腕の持ち主である。
「おおっ!」
「あああっ!」
彼らはすぐに裸の女を見付けると、素っ頓狂な声を上げた。ザブンと湯に飛び込んでくる。飛沫が顔にかかった。私と裸女との関係を窺うように覗き込みながら、「ど、しましたか?」とわざと外人風の抑揚でサチコに話しかけたりする。酒臭い。地元の人間ではないと思った。私はムカムカした。しかしどうしていいか分からずじっとしていると、突然サチコが顔を上げ、胸をグッと反らして乳房を晒した。「イエーッ!」と三人は拍手喝采し、サチコはグッと三人の方に体を押し出して「こっちもか? ん?」と言いながら股を拡げ始めた。
「イエエエエエエエエエーイッ!」
三人の声が絶叫に近くなった。三つの丸い頭が、川に浮かべた西瓜のようにぶつかり合いながらサチコの股間に吸い込まれていく。彼女の体の撓《しな》りがプロだった。男の一人が「けけっ」と笑いを押し殺しながら、突き出した人差し指を真っ直ぐに彼女の股間に伸ばしていく。
私は堪らず立ち上がった。水音を聞いて三人が私を見上げた。
「こら、行くぞ!」
タオルを腰に巻いて湯から出ると、サチコの腕を掴んで引っ張った。
「何するだよ!」
サチコを真似て三人が声を揃えた。
「何するだよぉぉぉぉっ!」
「さっさと来んか!」
私は力ずくでサチコを引っ張り上げた。サチコはすぐに抵抗をやめて立ち上がった。
「あの……」と男の一人が言った。
「何ですか」
見るとニタニタ笑っている。
「おたく、立ってますけど」
不覚にも腰に巻いたタオルが、暖簾を押す恰好で持ち上がっていた。サチコを引き連れて脱衣所に向かう我々の背後に、爆発的な哄笑が湧き起こった。
脱衣所では互いに無言で浴衣を着た。
部屋に戻る途中、サチコがそっと手を繋いできた。私がその手を弾き返すと、サチコが走り出した。追いかけて手を握り、トンネルの中を一緒に歩いた。不興だった粗末な芸を慰め合う、どさ回りの夫婦芸人になったような気がした。
その夜は何もせず、早々に床に就き、手を繋いだまま眠った。
観光気分で大歩危小歩危《おおぼけこぼけ》や祖谷《いや》のかずら橋などを見て回り、K市内に入ったのは夜だった。ラーメン屋で夕食を済ませてから、鄙《ひな》びた喫茶店に入った。
「慎一くん、ちょっと待っててくれる?」とサチコが言い出す。
「どっか行くんか」
「ちょっと知り合いに会って来るだよ」
「どれぐらいで戻って来るんや」
「一時間かな」
「ホンマやな」
「ホンマや」
私はちょっと嬉しくなった。独りになりたかったからだ。喫茶店のマッチを貰ってサチコに渡した。
「何かあったら、ここに電話してくんねんぞ」
「あいよ」
サチコは店の女に声を掛けた。
「ちょっと、タクシー呼んでくれる?」
彼女が行ってしまうと、知らない町の喫茶店に一人残された事が無性に楽しくなってきた。この見知らぬK市において、私は誰でもなかった。鞄から文庫本を取り出し、脚を組んで読み始める。晩年に発狂し、自分の糞を抽斗《ひきだし》に隠して取り出しては食べていたという天才思想家の自伝である。「ひとはいかにして本来のおのれになるか」という副題が付いていた。
「良心の呵責というものは、わたしには真実をひずませる一種の『|魔女の目《ヽヽヽヽ》』であるように思われる。自分のある行為が失敗した場合、失敗した|からこそ《ヽヽヽヽ》、なおさらその行為に対して敬意をもちつづける──このほうがわたしの道徳律にかなうのである」
アイスコーヒーを啜り、昨夜の事を考えた。
裸のサチコを数人掛かりで組み敷いて好きに弄《もてあそ》び、完全に壊してしまうという展開を想像する。アフリカの或る部族では、陰核切除を通過儀礼として用いる。酒井英子のように陰核を切除してしまい、餓鬼に過ぎないサチコを成人として再生させる事。彼女といると、時々無性に酷い事がしてみたくなった。何か別のものにすっかり造り替えてしまうか、いっその事消滅させるか。サチコは極めて不完全な生き物で、人をして何か手を加えずにおれなくさせる未完成な部分を常時露出させていた。
血まみれの股間を押さえながら悪態を絶叫するサチコの姿を想像すると、欲動の塊のようなものが下腹を突き上げてきた。陰核だけでなく、二度と使い物にならないぐらいグチャグチャに引っ掻き回して丸太のように蹴り飛ばす。この行為に「敬意をもつ」事が出来るだろうかと考え、そんな事は屁でもないと思った。
「如何なる失敗事に対しても、最大の敬意を払うべし」
日記にそう書いたが、書かれた文字が気に入らなかった。
厨房から出てきた店の主人が、テレビを点けた。画面を見ると群衆の騒乱が映し出された。民族紛争に揺れるアフリカのどこかの国の映像らしく、時折カメラが激しくぶれている。砂煙の中で人々が殴り合っていた。私は頬杖をつき、口を開けたままじっと画面を眺めた。群衆の中に、笑っているとしか思えない表情で、無言のまま撲殺されていくサチコがいた。何度もテーブルの下で脚を組みかえ、煙草を吸った。
「十時閉店なんぞ」と店の主人に言われてハッとした。
閉店時間を考え忘れていたので、慌てた。店を出て、駐車場から路上に移した車の中でサチコを待つ事にしたが、夜の国道は意外に淋しく、行き交う車が途絶えるとアスファルトと夜空の区別がつかないほど暗い。車内灯を点けて読書しようとしてみたが、すぐに目が疲れてきてやめた。そのうちに、サチコがこの店を覚えていないのではないかという疑念に捕らわれ始めた。渡したマッチをなくしてしまい、この闇夜の中を当てもなく彷徨《さまよ》っているのではないか。いや、ひょっとすると誰かに酷い目に遭わされているかもしれない。複数の男に四肢を押さえられて撲殺されていくサチコの姿が鮮明に浮かんできた。無抵抗のその顔は笑っていて、男たちの中に私もいた。手にした棍棒を振りかぶり、渾身の力を込めて振り下ろしている。
少しウトウトした。
腕時計を見ると、信じられない事に午前零時を回っていた。車を出てその辺を歩き回ってみたが、それらしい人影はまったく見えない。切れかかってピンッ、ピンッと音を立てている街灯に大小様々の蛾が舞い、親指ほどの腹を持つ蜘蛛がじっと獲物を待っていた。
不意に、捨てられたのだと思った。
サチコの目的はK市に来ることだけで、私は足として利用されたに過ぎない。こっちの男に再会した途端、用済みになったのだ。であれば、いくら待ってもサチコは二度とここに戻って来ないに違いない。今頃は、誰か別の男の股間に顔を埋めているのだろう。
背後からヘッドライトの光が差し、突如巨大化した電柱や雑木林の影が一斉に動き出した。通り過ぎる車のテールライトを見送ってしまうと、周囲の闇が一層濃くなった。こんな暗い場所で何時間も何をしているのか。私をこの場所に結びつけていた唯一の存在であるサチコがいなくなった以上、ここにいる意味は何もなかった。しかしこのままここを立ち去って、一体どこに行くべきか見当もつかない。サチコが約束の時間に現れないのは今に始まった事ではなく、今にもタクシーで乗り付け「ちょっと色々あってよーぉ」などと言いながら「慎一くーん」と抱きついてくるような気がして、私は結局動けないのである。
足元に五本目の煙草を踏み潰した後、車に戻って目を閉じた。エンジンを掛けっ放しにして、「ラジオ深夜便」を聴く。そして一睡も出来ないまま東の空が紫色を帯びるのを見た時、ようやく脳味噌に睡魔が満ちてきた。
人の気配がして目が覚めた。
「おら」という男の声。車の扉が閉まる音と、急発進するタイヤの音を聞いた。
シートを起こすと、歩道の上にへたり込むサチコがいた。項垂《うなだ》れて様子がおかしい。「どないしたんや」と駆け寄ってみると、一目でボコボコにされているのが分かった。
「何じゃお前!」
急いで助手席に乗せて体を調べてみると、体中|痣《あざ》だらけだった。特に腕と脚が酷く、青や赤だけでなく黄色く変色した打撲痕もある。
「叩かれたんか」
「やられた……」
「何でや?」
「色々あってよ」
「しょーがない事なんか、これは?」
「しょーがない事だ」
とある店の中で数人に袋にされたと言う。それは儀式みたいなもので、K市を出る時に踏みにじっていった何かの落とし前を付けたという事らしかった。これをしておかなければ市内をウロウロ出来ないから、と彼女は言った。
「お前、何したんや」
「ま、色々ずら」
実に幼稚臭いと思った。生徒とまるで変わらない。「やった、やられた、やり返した」の世界である。
「もう終わったんか」
「終わった」
相手がここまで車で送った事から考えても、終わったというのは本当だろうと思った。サチコは何か偉大な事業でも成し遂げたかのように、旨そうに煙草の煙を吐き出した。
駄目だ、とその時思った。どんな酷い目に遭わされてもこの女は決して生まれ変わる事はなく、いかに不完全に見えたとしてもこの女は既にこれで完成体らしい。
「何だよ」
じっと見ている私に気付いて、サチコが言った。私はどんなに心配したか彼女に分からせ、詫びの言葉の一つも言わせたいと思ったが、腹の中のどこにもそんな力は残っていなかった。
「とにかく何か食って、ちょっと寝ようぜ」
「んだな」
彼女は羽織っていたシャツの袖を腕捲りした。その時手の甲に煙草の焼き痕が見え、私は馬鹿らしくなって目を逸らせた。
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施設の職員木村氏は、四十ぐらいの真面目そうな男だった。私は久しぶりにまともな人間に会った気がして、型通りの挨拶すら嬉しく感じた。彼が連れてきた二人の子どもは、私を見て反射的に頭を下げた。
「いい子にしてまちたかぁ?」
しゃがんだサチコが抱きしめると、「いい子だったじょ」「いい子だったじょ」と揃って答えた。長袖シャツにパンツを穿いたサチコの体が、抱きつかれて微かによろけた。兄の健一は五歳、健二は四歳だという。忽ち身の上話と計算が合わない事に気付いた。
サチコが事務室に入って木村氏から何やら注意を受けている間、私は二人の子どもと玄関のベンチに座って待っていた。健一の方は下を向いてズボンのベルトを弄《いじ》くり健二はうろちょろしていたが、私が母親にとってどういう存在なのか分かっているようで、チラチラ見てくる。二人を見返しながら大あくびをすると、体をぶつけ合うようにして揃って逃げ出した。木村氏とサチコが戻って来た時、彼らは私に背を向けて、買ってやった缶ジュースを飲んでいた。
今度は私が呼ばれ、廊下で立ち話をした。サチコとの関係などについての形式的な質問を幾つか受けたが、木村氏はなぜか遠慮がちで、自信なげな笑いを何度も浮かべ、職務上必要であろうと思われるどんな突っ込んだ質問も極力控えているように感じた。
「期限守って貰わんといかんのんぞ」
玄関のサチコに、木村氏が声を掛けた。
「アイアイ」とサチコが手を挙げた。
木村氏が私を見た。
「よろしゅうお願いしときます」
「はい」
答えてから、半ば予想はしていた事だが、子どもを預かる事になったらしいと気付いた。一体いつまで預かる気か?
車を出すと、ミラーの中で木村氏はずっと手を振っていた。
「あたしもこの施設におったでよ」
「いつ?」
「中学ん時」
「その時木村さんはおったんか?」
すると、後部座席ではしゃいでいる健一と健二に聞こえないように顔を近づけてきて、低い声で「数え切れんぐらい寝た」と言う。
「中学生の時にか?」
「木村も若かったから、抑えが利かなかったんでしょ」
呆れた話である。
「お前、何歳で健一産んだんや」
「十八ん時」
「高校は?」
「中学中退だよ」
せめて中学は出たと思っていたが、甘かった。
「あたしに惚れて、もうメロメロだった」
「ほう」
「真面目な男ほどアレだね」
「そやな」
俺は真面目な人間ではないぞ、と考えた。
「ところでどこ行くんや?」
「野郎ども、どこ行きたいか?」
暫く考えて「海」「海」と言う。我々は高知県の海水浴場を目指した。
途中、スーパーで水着や水中眼鏡を購入したが、四人分だと何もかも高くついた。家族を持つとはこういうことかと思った。サチコは傷薬や湿布、バンドエイドや裁縫セットまで買っていた。
曇りがちの海水浴場は風が吹いていて日陰は特に肌寒く、体の打撲の痕を気にして、サチコは水着にならなかった。健一と健二の唇は瞬く間に紫色に変色した。私は周囲の水着女たちを目に焼き付けた。水着から飛び出しそうな肉付きの爆弾娘もいた。身長百五十センチに満たないサチコの肉体は格段に見劣りがする。ふと、どうしてこんな女とここにいるのだろうと思った。
規則的な波が音を立てて打ち寄せ、捨てられた菓子袋や焼きソバのトレイが波間に揺れていた。健一と健二は砂に穴を掘っていて、サチコはバカみたいに海を見ていた。ソープランドで見た脳死の顔だった。方言を捨て、「にゃ」とか「ずら」とか幼稚な言葉ではしゃぎまわり、化粧で化けて体を売るこの女は、波に漂うゴミのようだと思った。
又陽が出てきた。急に暑くなり、気絶しそうになった。
「何考えてるだよ」
突然背中にサチコの声がした。私はほんの一瞬、眠っていたらしい。
「ああ、別に何も……」
「母ちゃん、泳ぐじょ」「泳ぐじょ」
するとサチコが笑ってこう言った。
「お父ちゃんと一緒に行っといで」
「アホ、何言うねん」
「まあまあ、いいじゃねーの、お父ちゃん!」
「絶対にアカン」
「ほれ、行っといで。おらおら」
「海」「海」
私は二人を連れて海に入った。死んだ振りをしていやがったな、と思った。私のことを「お父ちゃん」と呼ばせて子どもに懐《なつ》かせようなどとこっそり考えていたに違いない。イソギンチャクのように私を取り込むつもりか。そうはいかんぞ。振り返ると、こちらに向けてニコニコと手を振っている。
陽を待ちわびていた人々が、砂を蹴ってドッと海に入った。
私は二人を投げ飛ばし、浮き輪に掴まらせて深い場所まで連れていった。境界のブイの近くまで来ると、海の色が濃くなった。「怖いか」と聞くと、「怖いじょ」「怖いじょ」と口を揃えて必死に浮き輪にしがみついている。「来いっ」と健一に肩を掴ませ、背負う恰好で「泳ぐぞ!」と言い平泳ぎで浮き輪から離れると、一人残された健二が泣き声を上げた。浜を見遣ると人間は芥子粒大で、サチコがどれなのかさっぱり分からない。咄嗟に両肩の小さな手を振り解き、目の前で健一が沈んでいくのを眺めた。
「浮いて来い! いち、にっ、さん」
そろそろだと思った時、立ち泳ぎする爪先で健一の頭を蹴ったのが分かってゾッとした。慌てて潜水し、必死に引き上げると浮き輪に掴まらせた。健二が「アホ、アホ」と私の肩を叩いた。健一は長いこと咳き込み、少量の水を吐いた。
サチコのところに戻ると、二人は砂の上にへたり込んだ。が、すぐに体を起こし、グッと顎を引いて黙々と砂遊びを始めた。「楽しかった?」と聞かれ、黙って頷いている。
海水浴帰りの車で国道は渋滞した。次第に暗くなり、腹も減ってきた。子どもらは後部座席で眠り込み、サチコは窓ガラスに頭を寄りかからせてラジオを聴いている風だった。私は前を走るマークIIが車間を空け過ぎている事に腹を立てていた。脇道から何台もの車に割り込まれては再び車間を確保するので、その度に自分の車がどんどん後退していくような気がした。蛇行運転したりハイビームを点滅させたりしたが、まったく反応がない。舌打ちをした時、健二の愚図る声がした。
「どちた? 健二」
健二の言葉は要領を得ない。「おしっこか?」「お腹空いた?」と聞かれても、甲高い唸り声を上げるばかりである。うんざりしてルームミラーを覗くと、健一がきつい目で私を睨み付けていた。マークIIが不必要なブレーキを踏み、腹が立って追突寸前まで寄せて急停止すると、健二が泣き出した。
「どこかに停めてよ」とサチコが言った。
「何でや」
「健二が泣いてるでしょうが」
「おしっこか? 腹減ったんか?」
「分からないよ!」
「けっ!」
交差点で信号待ちになった時、車を降りてマークIIに駆け寄った。
「ちょっと」
運転手は老人で、開いた窓から突然首を突っ込んできた私に驚いたのか「へっ」と声を上げた。
「もっと車間を詰めて貰わんと、割り込まれてばっかりやがな」
それで終わる筈が、この老人は言い返してきた。
「ほんなこと言うたってぞ、わしはこの車間でやっとんのやけんの」
ハンドルを持つ老人の指が微かに震えているのを見た時、私はこの弱々しい老人を叩き潰したいという強い衝動を感じた。一瞬自制したが抑え切れず、拳を振り上げながらありったけの大声を出した。
「こらじじい! 貴様のせいで後続がどんどん遅れていっとんのじゃ! ええ加減にせんと、いてまうどゴルァ!」
老人は目を真ん丸にして、咄嗟に節くれ立った手で顔を覆い隠した。
信号が変わったので車に戻ると、同時にサチコと健二も乗り込んできた。外で立ちションさせていたらしい。老人に浴びせた罵詈雑言を全て聞かれていたに違いない。マークIIは逃げるように交差点を左折していった。その道は暗い農道で、見ているとすぐに路肩に停車してエンジンを切り、死んだように闇の中に溶け込んでいる。
「あんた卑怯だ」
不意にサチコが言った。
「何でや」
「ほかの男と一緒だよ」
「そうか」
「暴力男」
その言葉の不自然なまでの語気の強さに、私は振り向いてサチコを見た。彼女はサッと顔を逸らし、視線を真っ暗な窓外に向けた。窓に映った顔の中に、シフトレバーを握る私の手の影が重なっていた。
「それ、どういう意味や?」
しかしサチコは黙している。
「どういう意味やって聞いとんのじゃ!」
私はガラスの中のサチコを嬲り回すように、激しくシフトチェンジを繰り返した。その度にサチコの体が揺れ、彼女の顔が次第に歪んでいくのを私は見た。洟《はな》を啜る音がして、突然感度の良くなったラジオが夏休みの各地の様子を伝えた。どの海水浴場も親子連れで賑わいましたなどと、詰まらない事を言っている。
不意にサチコが口を開いた。
「慎一くん……」
「何や」
「……」
「何や!」
「そういうの……嫌なの」
「何がや」
「……」
「何じゃい!」
「……」
「何じゃ何じゃ何じゃ!」
「何でもないだよ!」
急に息苦しさを覚えて窓を開け放つと、ブワッと磯の香りが吹き込んできた。何か話せたかもしれない機会が、その瞬間に飛んでいってしまったような気がした。海を見るとぼんやりと白い波頭が浮かんできては、音もなく漆黒の闇に呑み込まれていく。大事な言葉も又その闇の底に没したのかもしれないと思った。
四国のどこでそんなにウロウロ出来たのか、気が付くと我々は三週間も旅をしていた。
健一と健二を施設に返して別れる時のサチコの姿は、とても母親とは言い難かった。号泣と言ってよいぐらいに泣き叫び、私と木村氏が四肢を掴んで車に放り込まなければならなかった。木村氏が勢い余って下着を引きずり下ろしてしまい、下腹が露わになった時突然サチコが狂ったように反転したので、今度は尻が丸見えになったりして目も当てられない。靴などとうにどこかに飛んでいってしまい、木村氏が抱え持っている黒く汚れたサチコの小さな足裏を見た時、こいつは子どもとの別れを悲しんでいるのではなく自分の非力に絶望しているのだと分かった。健一と健二は口を開けて放心していた。『グレートハンティング』という映画で、ライオンに食われる父親を見ていた子どもの顔と同じだった。サチコは尚も暴れて、ついには股間からピュッ、ピュッと液を噴き出し始めた。失禁だった。ナマコのような奴だと思った。実に滅茶苦茶で子どもじみている。
「まだまだやと思います」
やっと車に閉じこめた時、木村氏が私に言った。
「何とぞよろしゅうお願い申します」とも。木村氏はこの女のことが気が気でない風で、私は彼のその深刻ぶった真面目な顔に不潔なものを感じた。久しぶりにサチコの尻を見て興奮したか、と思った。
それからサチコは死んだ。何も食べず、車から殆ど降りなくなった。ドライブインでトイレに行く時も、乱れ髪で人が振り向くほどの憔悴振りである。しかもなかなか出てこない。恥を顧みず「サチコーっ!」と呼んでも返事がなく、女店員に頼んで見てきて貰うと、鍵も掛けずに便器の横に蹲っていたという。腹が立ち、車の中で散々罵倒すると、運転中であるにもかかわらず鋭い爪で掻きむしってきた。
「おおっ、まだ生きとったか?」と言うと、今度は拳固で頬骨を殴られた。目の中に火花が飛び、前のトラックに気付くのが遅れた。慌てて急ブレーキを踏み込むとサチコがフロントガラスに頭をぶつけ、反動で揺り戻ってきたところを狙い定めて正面から殴り返すと、サチコは「うっ」と唸って腰を折り膝の上に顔を押し付けた。私は知ったことかと運転を続けた。十分ほど経った時、サチコが笑いながら顔を上げ、「ほれ」と言ったので見ると、前歯が一本なくなっていた。しかも口が生肉でも食ったように赤い。
「げっ!」
「どーしてくへんはよ」
「喋られへんのか」
「しゃへってるはねーか」
「何やと?」
「は、べんひょーひろよ」
弁償しろと言っている。やっと生き返ったかと思ったがそれは一時的なもので、それっきり何を言っても黙《だんま》りを決め込み、返ってくる音と言えば空気を吸う「シーハーシーハー」と血を吸う「チューチュー」だけになり、それが耳について仕方なかった。
こういう状態が丸一日続いたその夜、K市内の連れ込み宿で突然「胃が痛い」と言い出した。二口ほど食べたいなり寿司を吐き戻し、「医者は絶対に嫌だあ」と言いながら明け方まで布団の上を転がり回った。夜が明けて漸く寝息を立て始め、仕方なく連泊を決めた。別にどこに行く当てもなく、私は一刻も早くアパートに帰りたかった。
ウダウダと昼過ぎまで寝て、店屋物をとった。サチコはざるそばを少し食べ、又すぐに横になった。煙草を吸い終わると何もする事がなくなった。鞄の中に本と日記帳が入っていたが、ここ数週間出したことがない。「パチンコでもしてくる」と言って部屋を出ようとした時、洗面台の鏡に映った自分の顔が目に留まった。無精髭を生やした黒い顔がカラフルなアロハシャツの襟からヌッと突き出し、首を回すと自分の顔でないような離人症的なよそよそしさを感じた。私はじっと鏡に見入り、顔をくしゃくしゃにして自分本来の顔を探したが見付からなかった。部屋の方を見ると、薄い布団を股に挟んだサチコが、シューッとシーツを引きずり背中を向けた。風呂に入っておらず、足の裏が黒いままだ。猿の足を連想した。
私は、自分が確実に堕ちていることを悟った。どこに向かってかは分からないが、確実に堕ちている。そのことを、鏡の中の顔が物語っていた。私の顔はどう見ても、チンピラか浮浪者の放つ臭いを帯び始めていた。何とかしなければ、と思った。
ふと便意を催した。こんな事でも、何か為すべき事があるというのは有り難かった。和式便所は極端に狭く、座ると膝が壁につかえて尻餅をつきそうで、目の前のタンクに繋がる細いスチールパイプを両手で握って体を支えていなければならなかった。便秘気味で、じっとしているとすぐに足が痺れて頭が立ち眩《くら》みのような感じになった。後ろに倒れそうな気がしてパイプに体重を預け、重心を前に戻そうと踏ん張るとパイプの接合部が悲鳴を上げてぐらついた。ここに座った何千人もの人間の誰もが、一本のこのか細いパイプに縋りついてきたに違いなく、今これが折れる事が全ての終わりを意味するような気がして、私は両眼を見開いて息を殺した。
便所から出ると、私はサチコに一瞥もくれずに鞄を持って外に出た。そして適当な喫茶店を見付けると、猛然と日記を付け始めた。五頁ほど混乱した文章を書き殴った後、私は一つの結論に達した。
「如何なる失敗事に対しても、最大の敬意を払うべし」
天才哲学者の毒に当たり、最も困難且つ英雄的な道を選ぼうとしたらしい。喫茶店には二時間いた。店を出ると、買い物袋を提《さ》げたり自転車に乗ったりした人々が行き交い、普通の日常を生きていた。「けっ」と毒づいて道路に唾を吐き、肩に鞄を掛け直して歩き出した。殊更に大股で、片手はポケットに突っ込んでいる。巨大な積乱雲の盛り上がりを見ながら、肩の鞄をサチコに見立て、空までよじ登っていく二人の姿を想像して悦に入った。
宿に戻ると風呂から出たところのサチコが、まるで遠出から帰ってきたように「よっ」と手を挙げ、生き返っているのが分かって嬉しくなった。自分の力で状況を好転させることが出来るかもしれないという気がして、鏡を覗くとそこに自分の顔があった。
その元気を駆って宿を引き払い、T港近郊のホテルに投宿した。
何日か振りの性交が成立し、サチコが裸で「うんしょ」と言いながら風呂の重い扉を開ける姿を見ていると、その小さな体が急に愛おしく思え、言うなら今だと腹を括った。
「結婚したる」
長い沈黙の後、サチコが言った言葉はこうだった。
「もし嘘だったら殺すからね」
私は反射的に「分かった」と答えた。歯抜けの笑顔で「慎一くーん」と抱きついてきたサチコの頭を抱え込みながら、私は天井の鏡に向かって「しまった!」という顔になった。
T港からフェリーに乗り、和歌山に渡ることにした。「婚約指輪買ってくれ」とサチコが言うので、「よし。大阪で買うたる」と答えた。
和歌山港までの船旅は快適で、我々は甲板の手摺りから頭を突き出してずっと海を覗き込んでいた。飛び退る海水をじっと見ていると、時折白い潮を割って黒い深みがドロリと顔を出し、体ごと吸い込まれそうな気がした。
「落ちたら死ぬかな」
「そやな」
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大阪で二万円のペアリングを買い、我々はファミリーレストランで盆休み中の弟に会った。二つ下で、下着メーカーに勤務している。弟の目の中に、色黒で歯の抜けた無教養なチビ女が映っているのを私は見た。サチコは前歯を隠すため、常にウサギ面で「もほもほ」と笑い、すぐに馴れ馴れしい口をきき始めた。平気で歯を「チョッチョ」と吸ったりする。弟が何か言うと「慎一くんにそっくりだ」と大声を出し、抜けた前歯が丸見えになった。弟が目を剥くと慌てて口を押さえて「もほもほ」し、それが年老いた魔女のようで一層不気味である。
「何やあれは」
サチコがトイレに立った時、弟が聞いてきた。婚約した娼婦だと言うと、見たこともないような真剣な顔を突き出してきてこう言った。
「絶対にやめとけ」
「何でや」
「何でて兄貴、あれはオッサンやないか」
それは初耳だった。歯抜け女でも魔女でもなくオッサンとは。しかし客観的に見るとそう見えるのかもしれないと思い、帰ってきたサチコを見ると確かに女には見えないと納得した。長髪で背の低い土方の兄ちゃんといったところだ。
よせばいいのにサチコをスーパーの喫茶店に残し、私は実家に立ち寄った。父は不在だったが、既に弟から何かしらの連絡を受けていたらしい母は、テーブルで向かい合った私に「その首の傷は何?」と聞いてきた。私は首の開いたTシャツを着ていて、首筋にサチコの爪痕を何本も付けていた。女狂いの証拠を握られて恥ずかしかった。
「どんな娘やの?」
「……」
弟がどこまで喋っているか計りかね、私は忽ち返答に窮した。
「スッと言えんような娘なんか?」
「いや……普通の娘やで」
「どこで知り合ったんや?」
「喫茶店や」
「喫茶店で働いてる娘か?」
「そや」
「学生さんか?」
「いや、高校出て働いてるのや」
「高卒か」
「そや。高卒ではアカンのか」
「幾つの娘やの?」
「二十三歳や」
「そうか……」
これだけ聞くと母は以後この話題には一切触れず、私の好きな梨を剥き、父の昇進の話や趣味の日本舞踊の話をした。それから二人でテレビを観ながら茶菓子を食べ、「そろそろ行くわ」と腰を上げると、帰り際の玄関先で「これ持っていき」と二万円を渡された。
「結婚しようって考えてるの?」
二万円をポケットにねじ込んでいた私は、突然聞かれて不意を突かれ「んなわけないやろ」と答えて無理矢理笑顔を作った。その瞬間、顔中の産毛が逆立つような不気味な寒気に襲われた。逃げるように歩き去り、ふと振り返ると母が門の前で手を振っていた。私は小さく手を振り返し、やがて曲がり角を曲がる頃には目一杯腕を振り上げていた。
「喫茶店に戻った時の顔を見てすぐ分かったずら」と、その夜サチコは京都南のラブホテルでそう言った。「やっぱりアカン。結婚無理や。済まん」と私が頭を下げた時のことである。サチコが意外と冷静だったので最初から婚約など信じてなかったなと思ったが、それ以後石みたいになったので、今にも何かとんでもない突発事が起こりそうな夜を迎えた。
暗い部屋で枕に顔を押し付けながら、サチコの丸まった背中を見ていると、四人で遊んだ公園の情景を思い出した。アスレチック広場の隅にちょっとした崖があり、ロープを伝ってよじ登るようになっていた。私はこういうのが得意でスルスルと登り、上から三人が登ってくるのを見下ろした。しかし幼い健一と健二は言うに及ばず、サチコの腕にもまったく力がない。自分の体重を支えるだけの握力すらないのである。そのうちに、この母子はこの崖を絶対に登り切れないのだと分かってきた。ふと見ると、サチコが必死の形相で私を見上げている。
「ガンバレ!」と私は声を掛けた。
「うるさい!」とサチコが言い、健一と健二が「うるさい」「うるさい」と唱和した。私の足元に土塊《つちくれ》があり、私はそれを少しだけ蹴って、上から落としてみたいという衝動を覚えた。先頭のサチコが握ったロープを大きく揺らすので、下にいる健一と健二は散々翻弄されている。
「危ないから、もう降りろ」と言いながら私が数歩降りかけた時、足元の土塊が崩れた。大きくバウンドしながら落ちた土塊は、バラバラになって三人の頭に降り注いだ。サチコは突然子どもたちに「降りろよ」と言い、三人は無言で崖を降りた。
「車に行っとけ! 俺はこっちから行く」と私は叫んだ。
手を繋いで歩いていく三人の背中には、大きく「脱落母子」と書いてあるような気がした。それと同じ背中が今、目の前にある。私は上からロープを切断したに等しく、この女はどうやって谷底から這い上がるつもりだろうと人ごとのように思いながら、無責任な眠りに落ちた。
ハッと目覚めると、激しく叩き付けるような雨音が聞こえる。何か夢を見ていたようだが、思い出さない方がましだろうという気がした。暗い天井に自分の姿が貼り付いていると思ったら、鏡だった。その鏡にサチコの姿がなく、横を向くとやっぱりいない。起き上がってみると、雨の音ではない事が分かってきた。水音は風呂場から聞こえていた。
そっと近づいてみるとシャワーが出しっぱなしになっていて、バスローブを着たままのサチコが頭から冷水を被っていた。死体のように見えてギョッとしたが、「しゅぶるぶる……しゅぶるしゅぶしゅぶるる……」とシャワーの水を吹き飛ばす唇の音が聞こえた。灯りを点けると、床や浴槽などそこら中に血が飛び散っていて、安全剃刀が投げ出してある。どこを切ったのか調べてみると、左腕の真ん中辺りが一文字にパックリ裂けていた。今までのどの傷よりも格段に大きく、形の潰れた肉が中から湧き出している。腸《はらわた》が煮えくり返った。
安全剃刀をゴミ箱に捨ててシャワーを止めると、バスローブを脱がせてベッドに誘導した。サチコは抵抗したが、弱っていて造作もなかった。完全に泥酔していて、体が冷え切っている。傷口を何度もタオルで押さえたが出血が酷く、真っ白だったタオルを拡げてみると夥《おびただ》しい赤唐辛子型の図柄に染まっていた。私はそれを壁の額縁の上に引っ掛けて飾り、暫く眺めていた。
「こんなでっかい傷は縫わなアカン」と幾ら言っても医者を拒否して首を振り、「酒にゃ」と言ってウィスキーを呷ろうとする。「俺やったら、ええんか!」と言うと、「どーにでも、し・ろ・よっ!」という返事だった。恐らく何を言われたのかよく分かっていまいと思ったが、私はサチコの鞄の中から裁縫セットを取り出し、針に慎重に糸を通した。糸の色は黒にした。出来るだけ酔わせた方がよいと判断して喇叭《らつぱ》飲みするに任せ、ぐでんぐでんになったところを見計らって私も何口か呷ると、耳の中がドクドクと脈打ってきた。太鼓に合わせて踊る邪教徒のように、前後に頭を振った。バスローブの紐や持っていた洗濯ロープを使ってサチコの四肢を縛り上げベッドの脚に結わえ付けると、「にゃんだよぉ……」と半眼になっている。裸体を縛っているうちにゾクゾクしてきて、私は裸になった。大の字に縛られたサチコの腕から流れ落ちる血がシーツに滲みを作り、腹がヘコヘコ上下している。その上に乗ると、蛙のような声が出た。私は彼女の口の中に枕カバーを押し込み、その上に尻を乗せて割れ目で挟み込むように圧迫した。同時に、左腕を両腿で挟みこんでしっかりと固定した。
サチコが何か言ったようだったが、聞き取れなかった。
傷の両脇の皮膚をプクッと摘み上げ、縫い針を突き刺した。
針を貫通させて引っ張り上げると、突然サチコの体が鉄板のように硬直し、尻が跳ね上がった。相当痛いらしい。猛烈な抵抗に遭って手許が何度も狂い、とんでもない場所に針を刺したりする。通した糸に付着した肉の赤玉が数珠繋ぎになり、振るい落とそうとして強く引っ張った拍子に皮膚が破れた。釣り針のように曲がった針でなければ刺した針の頭を上向きにして引っ張り出すのが難しく、血糊で指が滑る事もあってなかなか巧くいかない。次々に増えていく黒糸はジグザグに折れ曲がり、縫い痕は次第に幼児の殴り書きのようになっていった。
仕上げに糸止めしなければならないのではないかと思ったが、傷口の血を拭い取った手で自分の物を握り締め、「フガフガ」言いながら律動するサチコの体に同調して腰を使っていると気持ちよくなってきたので、どうでもよくなった。鏡を見ると柴田女史が身悶えしていて、その上に跨って笑う私がいた。手が勝手に動いて自分の顔に血を塗りたくると、すぐに乾いて皮が突っ張った。私は大口を開け、犬のように歯を剥いた。見ると柴田女史は物凄い形相になっていて、私を睨み付けるその血走った眼を見ていると、逆に「もっともっと」と煽《あお》られているような気がした。口に詰められた枕カバーで息が出来ず、盛んに鼻提灯を膨らませている。
こういう事がしてみたかったのだと、この時初めて気付いた。人間の肉体を思い通りに切り刻みたいという欲望を、ハリガネムシのように体の中に飼っていたらしい。私は興奮し、糸で縛られてハムのようになった傷口に人差し指を突っ込んでねじ回しながら、猛然と自涜した。絶叫が耳を貫いた。
その瞬間の喜悦と、それに続く墜落感覚はちょっと譬えようがない。一瞬のうちに何千メートルも落下したように感じ、目の前の一切の光が消えた。二度と光が見えないのではないかと本気で心配になり、その恐怖は味わった事のないものだった。
血で固まった手をゆっくり開いてみた。血と精液にまみれたこんな不潔な手を、私は今までに見た事がない。切って捨てたいと思った。それから不自然に引きつったサチコの傷口を見た。素人が人間の肉体に加えたお粗末な施術痕は、人間の刻む最も恥ずかしい痕跡だと思った。
サチコを見ると、力尽きた顔で鼻水を噴き上げながら泣いていた。決して終わる事がないだろうと思えるような、さめざめとした泣き方だった。やがて縮かんだ陰嚢が温まって伸びていくように、彼女の裸体はゆっくりと四肢を伸ばして弛緩した。疲れ切ったのだろう。
途中薬局で消毒薬や包帯を買い求め、名神に乗った。サチコは車の中で自分で手当てをしている。怪我を舐めて治してしまう犬のように、自己流のやり方で盛んに細々と傷口を弄《いじ》くった。度々「止めて」と言い、振動を消すために路肩に停車してやらねばならなかった。脇を疾走してゆく車の風に煽られ、車体が不安定に揺れる。その合間を縫って、プチ、プチとハサミで糸を切る音がした。私が縫い込んだ糸を抜糸したいのだろう。肉から飛び出た糸を、爪の先で摘んで引き抜こうと試みている。しかし萎縮した肉にくわえ込まれた糸の根は深く、何度も歯の隙間から「シー」と息を吸っては「ウッ」と止めている。その息遣いから、傷の痛みが間断ないものである事が分かった。
諦めたような「いいよ」の声を待って、再び走り出す。
手当てする以外のサチコは、背もたれを倒して仰臥したまま一言も発せず、何も食べなかった。眠る事を許さない痛みなのだろう、飛び退る東名高速の水銀灯をじっと睨み付けている。その横でハンドルを握り、サービスエリアで買ったサンドイッチを頬張る私は、自分が思いの外「平気」である事に救いを求めた。「如何なる失敗事に対しても、最大の敬意を払うべし」という格率を、たとえ一瞬でも生き得たのではないか、と考えたりした。
速度が弛むと何かに追いつかれそうで不安になり、時速百二十キロを維持する。
冷たい缶コーヒーを喉に流し込むと、喉が渇いていたのか猛烈に旨かった。煙草を吸うと、サチコがわざとらしく咳をした。小さく窓を開けると狂ったような音がして、その時私はサチコの傷を「治療」したのだという考えが頭に閃いた。彼女が医者を拒否した瞬間、私に縫合する権利が与えられたのだ。確かに稚拙な施術だったが、これで傷口が閉じる可能性もあった。このような独自の治療を施す事を、国は法律で禁じている。その禁を犯してそれを為したという感触は、ハンドルを握る手の中にまだ生々しく残っていた。私は、水銀灯の光が舐めていく自分の手を見た。もし私に、何人もの人間に対して開腹や整形などの手術を施す権力が与えられたとしたら、疑いなく私はそれを断行するだろう。それを思うとゾクッとした。身震いと共にホテルでの強制施術に伴う記憶が全身に甦り、私は缶コーヒーを持った手をそっと脚の付け根に下ろした。
この女には私を傷害罪で訴えるような頭はない。そういうところとは別の世界に生き、暴力が日常化した次元に棲んでいる。とするならば、ひょっとするともっと酷い事が出来るかもしれない、と思った。私は路肩に車を止めてサチコを殺し、死体を雑木林の中に捨てることを空想した。不満足な縫合手術の始末を付けたいとも思った。こんな不完全な「作品」は、捨ててしまうべきかもしれない。
「おしっこ」と、サチコが言った。
黒々としたトラックが数台停まっているだけの、人気《ひとけ》のないパーキングエリアに入った。便所に向かう彼女の背中を見送り、煙草を吸いながら待った。その時、サチコをここに捨てていこうと思った。元々私はこんな女と一切関係がないのだ。本気で実行する気はなかったにもかかわらず、ギヤを入れてアクセルを僅かに踏み込んだ途端血が逆流した。車は瞬く間に便所を離れ、加速車線の手前まできた。ブレーキを踏んでルームミラーを覗くと、便所の前にサチコの姿が小さく映っていた。穴から出たウサギのようにキョロキョロしている。息が苦しくなるほど興奮した。アクセルをベタ踏みすると、エンジンが空噴かしになって手の付けられないほどの爆音が響き渡った。ギヤがニュートラルになっていたのだ。サチコがじっとこちらを見ていた。走り出さない車の中で私は石のように固まってしまい、その時鼻の奥に湿った煽痛を感じた。ゆるゆると車を回し、便所の前に着ける。
「乗れよ」と言うと、猜疑に満ちた視線を私に向けながら無言で乗ってきた。やはり置き去りにすべきだったかもしれないと思った。サチコは相変わらず無言で、「シー」「ウッ」という息遣いを繰り返し、肉から飛び出た糸を爪で摘む事に固執し続けた。そうする事で、私の所業を責め続けている。対抗する術《すべ》を持たない私は無意識に人差し指の関節を噛み続け、浜松を過ぎた辺りで皮が破れた。
日付が変わったが、走り続けた。ラブホテルには二度と泊まる気にならず、これはサチコとの数少ない合意事項だと分かっていた。トンネルに入った時にサチコの腕をチラッと見遣ると、オレンジ色の照明を浴びた傷口の肉の隆起が艶を帯びて黒花崗のように黒光りして見え、眼を逸らした。トンネルを出て暗い道をひたすら走っているうちに、この車がサチコの真っ黒な傷口の上を走っているような気がした。
午前四時近くにアパートに辿り着いた。
さすがにグッタリ疲れた様子で、横になりたいのだろう、踵を引きずりながらサチコも随いてきた。玄関扉を開けると、饐えた臭いが鼻を突いた。流しの隅に腐っていた一月前の生ゴミをビニル袋に容れて、玄関外に置いた。サチコは万年床に横たわっている。私は自分の部屋を見回しながら、自分が日常に帰還した事を実感すべく本棚の本を手に取ったり、愛用の灰皿に煙草の灰を擦り付けたりして暫く過ごした。
「ゴ…ゴゴ……」
見るとサチコが、傷に包帯も巻かずに大の字になって鼾《いびき》をかいている。私はこの時初めて、蛍光灯の光の下でその傷口をつぶさに見た。すっかり開いた裂け目には、滲み出た脂が幾つもの綺麗な球体となって浮き上がり、息を吹きかけるとその幾つかが転がってサチコの鼾が一瞬止まった。黒糸は生えかけの毛のように至るところから突き出し、肉の中を縦横に走りながら傷全体を激しく引きつらせている。既に膿んでいるところもあった。完全な失敗作である。
それから眼を上げ、壁に貼られた紙を見た。そこには「慎一くん命」という文字と、稚拙な私の似顔絵が描かれていた。もう一度サチコを見ると、小さな胸が盛んに上下していた。その呼吸は不規則で、時々「ぐ」と一声上げて数秒停止し、堰を切ったような鼾で再開した。こんな力任せの呼吸を初めて見た。「あたしの体は四十五歳だって医者が言ってた」という彼女の言葉を思い出した。じっと見ていると突然何かが込み上げてきて喉が押し潰れるような痛みを感じ、私は咄嗟に立ち上がった。何かに襲いかかられたような気がして、これに追いつかれてはならないと思った。そのためには、体を動かすしかないと考え、飯を炊こうと思い付いた。この時ほど米を研ぎたいと思った事はない。何かそういう、生きるために必要不可欠の営みでなければならなかった。
炊飯器を開けた瞬間に私は飛び退いたが、幾分かは肺を直撃したに違いない。自分で時限爆弾を仕掛けていたようなものだった。充分な時間と湿気さえあれば飯の色はこのように変色するのか、と眼を剥いた。炊飯器の中は赤を中心に、黄、緑、青、黒などの虹色を呈した黴《かび》に完全に侵食され、それが突如流入した空気によって無数の胞子を飛散させた。この一月間の無意味な営みがここに凝縮されているような気がして、私は息を止めて何度も中を覗き込んだ。見ようによっては美しい色の競演に思えなくもなかったが、杓文字で底から掬い上げてみると、腐臭と共に納豆のような糸を何本も引いた。何度洗っても釜の臭いは取れず、中に洗剤を溶いた水を溜めて放置し、サチコの横に寝転がって指関節の血を舐めた。
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二学期が始まった。
職員室で「中岡君、休暇はどうだった?」と柴田女史に聞かれ、四国旅行に行ってましたと答えると「お土産はないの」と言い置いて彼女は椅子を立った。勿論土産どころの旅ではなかったのだが、小さなキーホルダー一つも買えないほどの旅を強要された恨みが突如腹に満ちてきた。すると柴田女史に買えなかったたった一つのキーホルダーが何よりも重要だった気がして、車のトランクに入れっ放しのサチコの買ったくだらない「旅の思い出」の数々が思い出され、暗澹《あんたん》とした気持ちになった。
「亀の湯」に集う面々は以前と変わりなく、死なずに夏を越し得た老婆が「お久しぶり」と声を掛けてきたが完全に無視した。以前より人間を無視する事が簡単に出来るようになった。湯船の中にロゼワイン男がいて、チラチラと見てきた。しかし私はこの男に一切の人格を認めず、刃物でその白い肉を切り刻む事だけを想像しながら体を洗った。想像は精緻を極め、ロゼワイン男が骨になるまで止まらなかった。興奮が鎮まるまで立ち上がれず、不自然な二度洗いを余儀なくされる。湯煙の中の裸体の群に目を遣ると、どうして人間はこんなに薄い皮しか持たないのだろうと思い、それが実に不思議な気がして長い間観察した。気が付くと銭湯中に剥き身の肉塊が闊歩しているのが見え、激しく首を振った。
部屋の便所で大便をした時、ふと自分の出した排泄物をじっと見てみた。これは何だ、と思った。平凡な糞に過ぎなかったが、長いこと凝視しているうちに込み上げて来る衝動に抵抗出来なくなり、便器に手を入れて一気に握り潰した。指の間に盛り上がってきた物を左手ですくい取り、臭いを嗅ぐと目に滲みるほど臭い。便所に蹲りながら、何かを閉じこめていた筈の自分の袋が、どこか裂けているらしい事に気付いた。その衝動が生ずると、脚の付け根や股の辺りがゾクゾクして居ても立ってもいられなくなる。人間の体に何かもっともっと酷い事がしてみたいと、四六時中考えるようになっていた。
学年の教師で呑みに行った酒の席で、柴田女史と一緒になった。ビールを注ぎに彼女の席に行き、わざと酒井英子の話題を差し向けてみた。この話題になると、二人切りの秘密の空気が生まれる事を知っていたからだ。案の定彼女は私の方に向き直り、大きく開いた襟元を微酔《ほろよ》い色に染めながら、
「彼女は相当のワルだわね」と言った。
「そうですか」
「そうよ」
柴田女史はビールを呷り、大きく嘆息した。
「あなた、何年目だった?」
「二年目ですが……」
「ふっ」
それ切り何も言わない。テーブルには、焼き鳥や唐揚げの皿が並んでいた。私は唐揚げに箸を伸ばした。一口齧るとプルンと割れて、脂に濡れた薄桃色の肉が顔を出した。その色は、柴田女史の胸元の肌の色と同じだと思った。肉の表面をこっそり舐めると、舌が彼女の胸を這っているような気がした。見ると彼女の胸がうっすらと汗ばみ、微かな光沢を帯びて膨らんでいる。舌を固くして圧してみた。すると柴田女史が「うん……」と声を漏らし、私は歯で彼女のワンピースを齧り取った。素っ裸になった柴田女史を舐め回し、全身を唾液で濡らした。固く閉じられた彼女の股が徐々に弛み、私は堪らなくなってその肉に齧り付き、暴力的に噛みちぎってグチャグチャと咀嚼した。
「……だと思わない?」
「はあ……」
何か説教を食らっていたようだ。私は口の中の唐揚げを噛み砕きながら、荒くなった呼吸を誤魔化すために一気にビールを呷った。暫くすると酔いが回り、彼女の声が再び遠ざかった。私は彼女の足の裏をじっと見ながら、焼き鳥を頬張った。彼女の足指がギュッと曲がるのを見た瞬間、この串を柔らかな足裏に突き立てたいという衝動に襲われ、串を握った手を股ぐらに置いて固く目を閉じた。これ以上話をしても無駄だと思ったのか、彼女はツッと立って席を外した。薄い座布団が彼女の脚の形に窪みを残し、その温もりを掌で押さえながら、私は長いこと酔った振りをして項垂れていた。
ある晩、サチコから電話があった。まだ終わっていないのかとうんざりしたが、どこか安堵も感じた。「りーべ」に来いと言うので出向いてみると、長袖シャツにジーンズ姿のサチコがスーツの男と待っていた。サチコは「この人ヤクザだよ」と紹介した。
「これが約束を破られたと怒っているのです」と男は言った。
「はい」
「どうしましょうかね」
「はあ……」
黒い車の男だろう、サチコに電話で「死にたい」と言ったのはこいつに間違いないと思った。最初は緊張したが、慣れてくると相手の体から暴力の臭いが漂ってこない事に気付き、怖くなくなった。三十過ぎか。サチコに頭から丸呑みされている事が一目で分かる腑抜けた面に見えてくる。
「帰っていいよ」と突然男にサチコが言った。その言葉がどうしても解せないという顔でゆっくり立ち上がると、男は何度かサチコを見遣った。しかし無視されているのが分かると、「じゃ、後で」と言い残して渋々店を出ていった。私の方が断然格上らしい。しかし立ち去る男の頬の筋肉が不自然に隆起して凝り固まってくるのを見て、この男は私に対して激しい怨恨を抱き、それを懸命に抑え付けているのだと分かった。いなくなって初めて、この男が怖くなった。
「情けない男だ」
「……久し振りやな。どないしてた?」
「シャブやって酒食らって体売ってただよ」と、抜けたままの前歯を剥いてウソだと分かる事を言う。
私はこの女がまったく変わっていない事を知った。あんな事をされても、一向に平気なのだと判断せざるを得ない。以前にサチコから聞かされた幾つかの話、露天風呂を占領して覚醒剤漬けになって朝まで乱交し続けた、店の女の子に羽交い締めにされて体中に針を刺され「痛いか、痛いか」と何時間も責め続けられた、知り合いが一歳の赤子を殴り殺した、などの記憶が一挙に甦ってきた。こういう話をすると箔《はく》が付くという文化の中にサチコは生きていて、私の稚拙な施術もこのコレクションの中に加わったに違いない。
羽音がして、一匹の蝿が頭上を旋回し始めた。サチコは煙草を持った手を振って、頻りにそれを追い払っている。この女が一体何のために私を呼んだのか、まるで分からなかった。
取り留めもない事を話していると、急にこんな事を言い出した。
「旦那とね」
「何?」
「旦那と離婚するの」
「……」
「ホントだよ」
私は呆れた。サチコに旦那がいた事を、私はこの瞬間まですっかり忘れていたのだ。
「ホントも何もお前……そりゃあ離婚が先決や……決まってるやないか、そんなん」
サチコは僅かに俯いて「……だね」と言った。うるさく飛び回っていた蝿がストンと落ちるように降下して、アイスコーヒーのグラスに貼り付いた。
「で、旦那は承諾したんか?」
サチコは上目遣いにこちらを見た。
「離婚しないって……」
濡れたグラスの壁をよじ登っていた蝿が脚を滑らせてフッと落下し、テーブルに激突する寸前に見事な急上昇を試み、今度はグラスの縁に止まる。
「でもね、絶対離婚するよ」
蝿は神経質そうに体の位置を変えながら、太い管を伸ばして甘い汁を吸い始めた。
「今、調停中だべ」
汗でずり落ちてきた眼鏡を外し、お絞りで顔を拭った。何だか意地になって、何度も拭った。サチコが少し笑った気がした。見ると蝿も前脚で頻りに顔を擦っている。眼鏡を掛け、一段と精力的にアイスコーヒーを吸い始めた蝿を眺めながら、嘗てここでサチコの身の上話を聞き、カップの底の甘いコーヒーを啜っていた自分を思い出した。甘い汁に釣られて蝿はグラスの内側を下り始めている。
「うまくいくとええな……」
「大丈夫よ」
突然、蝿が脚を止めて動かなくなった。脚の一本がグラスから離れたり付いたりしている。落ちる事も飛ぶ事も出来ず、痙攣しているらしかった。サチコが勢い良く息を吸い込み、私はゆっくりと息を吐いた。にっちもさっちもいかなくなった蝿を見つめながら、我々の呼吸は止まっていた。僅かに踵を上げるとテーブルの裏に膝が触れ、太股の筋肉に微細な電流が流れる気がした。痙攣していた蝿の脚がピタッと止まったように見えた時、反射的に膝がテーブルをドンと突き上げていた。テーブルからライターが落ち、サチコが堰を切ったように、声の混じった長い息を吐き出した。私はライターを拾い上げ、サチコの方を見ずに煙草に火を点け、天井に向かって白い煙を吹き上げた。
そろそろ帰ると言うと、のこのこと随いてきた。歩いているとポツポツと雨粒が落ちてきた。アイスコーヒーのプールに落下し、クルクルと背泳ぎする蝿の姿がずっと頭から消えなかった。コンビニでビニル傘を買おうと彼女が言ったが「要らん」と私は言った。雨脚が急に強くなり、道行く人々が四方八方に散っていったが、我々は泰然と歩いた。
「もうずぶ濡れだね」
アパートで体を乾かすという口実を得たと考えたのだろう、サチコがはしゃいだ声を上げた。「二度と来ない」と言った事を、すっかり忘れているようだ。濡れたシャツが体に貼り付き、サチコの体のラインが見えて来ると「二度と来るな」と言った筈の私も自分の言葉を忘れていた。
工事現場のトタン塀にポッカリ開いた穴を見た時、ここしかないと思った。
以前にはなかった有刺鉄線が張られてあったが、それは切断されて折り曲げられていた。
「随いて来い」
「どこ行くの」と言う言葉を無視して、穴に潜り込んだ。トタン塀の中は外とは違う轟音が支配しており、滝壷に入ったような気がした。じっと立っていると、無器用な姿勢でサチコも潜り込んできた。
「こっちや」
ブルーシートの一部が剥がれていて、嘗て闇の溜まっていた場所は妙に薄明るく鉄パイプの櫓《やぐら》が組まれていた。その櫓の下の水溜まりに私は立った。
「ここでするんや」
「いいよ」と、サチコは二つ返事だった。服を脱ぐと、様々な記憶が染み付いたサチコの裸体が現れ、雨に打たれて忽ち光沢を放った。雨粒で何も見えないので眼鏡も外し、服の上に置いた。暗闇の中で立ったまま肌を合わせると、互いの脂でヌルッと滑った。それが得も言われぬ感触で、十日以上触れ合わなかった互いの体を精査するように撫で回し合う。私はサチコの腰に腕を回し、サチコは殆ど抵抗する事なく水溜まりの中に仰向けに倒れ、体の中に指を入れると火のように熱い。
その時、顔に降りかかる雨粒を吹き飛ばすように、サチコの唇が「しゅぶるぶる……しゅぶるしゅぶしゅぶるる……」と震え、ホテルでの記憶が一挙に甦った。こんな手ぬるい事をしていては駄目だと思い、周囲を見回した。タイガーロープが転がっている。手を伸ばしてひっ掴むと、サチコの肢体を強引に縛り始めた。サチコは一切逆らわず、腰を浮かせたりして協力姿勢を取った。
「慎一くんはやっぱり……こういうの好きなんだ……」と、ハムにされながら言う。その顔が笑っていた。私はこの女が私をサディズム男と断定し、ホテルでの事も巧妙に自分の中に取り込んでいるのを知った。「あんたの趣味なら、仕方ない」と言わんばかりのその笑いが俄然許せなくなり、暴力的な手付きで締め上げ始めた。しかし固いタイガーロープは皮膚になかなか食い込まず、五十メートルほどもあるので巻いても巻いてもなくならない。
業を煮やして体を二つ折りにして縛ってみた。すると初めて「痛い、痛い」と言い出した。前屈させたままの姿勢でグルグル巻きに固定し、余ったロープを放り投げ、頭上の鉄パイプの横木に引っ掛けて体重を乗せて引っ張り上げた。サチコの体は、頭を下にして一メートルほど宙に浮いた。「痛い痛い痛い痛い!」と叫んでいる。ロープを固定し、宙吊りになったサチコをクルクル回して、側にあったシャベルで叩いた。「げっ!」と叫ぶ。激しさを増す雨音に「もっと、もっと」と急《せ》かされているように思え、叩いたり、突き刺したり、擦ったりし続けた。振り下ろした一発が、頭蓋に当たって固い音を立てた。極端な前屈姿勢のために息が出来ないらしく、サチコは鶏のような声を出した。私は回転を止め、腕の上のロープをずらして傷を見た。「んご……んご……」と唸っている。傷は吸い付いた蛭《ひる》のように盛り上がり、薄皮に覆われていた。爪で摘み上げ、一気に破いた。ぶら下がったサチコが、釣り上げられた魚のようにビクンと大きく揺れた。もぎ取った皮を口に含み、舌で折り畳んで噛むと強い弾力があった。仁王立ちになって後ろから挿入し激しく腰を振ると、チャプチャプと音がした。
その時、マンションの足場の奥に鮮やかな光が踊るのを見て、度肝を抜かれた。光は不安定に動き回り、こっちに向かって近づいて来る。相当に速い。明らかに懐中電灯の光だった。しかも一人ではない。叩き付ける雨音を裂いて、複数の叫び声が聞こえた。私は慌ててロープを解こうとしたが、「いたぞ!」という声を聞いた途端、爪先走りでその場から駆け出して全力で逃げていた。暗い方へ暗い方へと闇雲に走った。水溜まりに跳ね回る何人もの足音が聞こえ、幾つもの声が響き渡った。眼鏡がないので足場のパイプに何度か体をぶつけ、鈍い音が鳴った。資材置き場の一角に、真っ暗な場所があった。その暗がりに鼠のように潜り込み、尻を地面に擦りながら移動して両膝を抱え、息を殺した。入る時に引っかけたのだろう、脇から突き出した針金がブルブルと揺れていた。
資材に被せたブルーシートを、雨粒が激しく叩いている。
間歇的に聞こえる笑い声や怒号、悲鳴が工事現場の中に木霊《こだま》し、その度に身が縮んだ。最初は警備員だと思ったが、ずっと彼らの声を聞いているうちに、若者の集団らしいと分かってきた。自分の指すら見えない暗闇に隠れながら、サチコがどうなっているかを懸命に考えた。サチコなら何をされても大丈夫だ、たとえ輪姦されも「平気だったにゃ」と言って受け流してくれるに違いない。
闇の中に、数秒間隔で四回続けてサチコの悲鳴が聞こえた。絞められた鵞鳥のような声だった。四回目の悲鳴を聞いた時、反射的に尻が浮いた。サチコが殺されるのだ、と思った。居ても立ってもいられず、立ち上がって水溜まりへと忍び足で引き返し始めた。膝が笑って、足が踏ん張れない。自分が裸でなく服を着ていたらと、激しく後悔した。見付かったら終わりだ。なぜ服も眼鏡も置いてきたのか理解出来なかった。
足場の陰から彼らの姿をチラッと見た時、胃が半分になった。十人ぐらいの人影が水溜まりに固まって、何かしている。サチコの姿は、しゃがんだ彼らの黒い影に隠れて見えなかった。中の一人が懐中電灯を持って、地面に横たわっているらしいサチコを照らしていた。再びサチコが叫び声を上げた。連中が一斉にどよめいた。彼女の悲鳴は言葉にならない咆哮《ほうこう》の如きものだった。私の名は呼ばなかった。その時連中の影の間から、サチコの裸の脚がゆっくりと伸びてくるのを見た。タイガーロープが足指に引っ掛かっている。ぐったりとした動きだった。何人かが「くくくっ」と唸った。私は自分の物を握り潰した。
「何だお前」
ギョッとして振り返ると、数メートル離れた場所に二人の若い男が立っていた。逃げようとした瞬間彼らは「げっ!」と叫び、一人がいきなり殴りかかってきた。咄嗟にパンチを避けた時、気付いた仲間がドッと駆け寄って来るのが分かった。私は地面に転がったサチコを見た。と同時に足が固まり、襲いかかってきた若者に足払いされて地面に倒れた。慌てて立ち上がろうとしたところを、誰かの靴に蹴り上げられて息が止まった。
咳き込む私に連中が蝿のように群がってきて、すぐに「ひっ」と声を上げて一斉に飛び退いた。「何だこいつ!」「化け物だ!」「こいつら妖怪だぞ!」「気持ちワル!」などと口々に叫んでいる。地面に突っ込んだ顔が泥だらけになったためだろうか、妖怪とは言い得て妙だと、雨に打たれながらそう思った。サチコまで妖怪呼ばわりされている。改めてサチコを見ると、タイガーロープで上半身がグルグル巻きにされていた。ロープの塊から脚が生えているような具合になっている。その状態でゆっくりと移動しようとして、モゾモゾと脚を動かす。サチコの両脚が一瞬大きく開いた時、その股間を見て仰天した。見た事もない充実した物が居座っていた。アワビのように大きくてどす黒い。すぐに股を閉じたのでそれが何か分からなかったが、彼女がとんでもない事になっているのは確かだった。
死んだ犬にするように、棒で背中を突っついてくる者がいる。私がのけ反ると、「うわあ」と、わざとらしい声を上げた。「金玉を突っついてみろ」と誰かが言い出し、尻の割れ目に棒が触れた途端、逃げるように上体を起こして連中の方に向き直った。しかし懐中電灯の光をまともに浴び、眩しくて顔が見えない。光が激しく踊って連中の顔がほんの一瞬照らし出され、中に女が混じっていて、ペロリと唇を舐めるのが見えた。
声を出そうとすると、うがいみたいな音が出た。ブンと頭を振ると彼らは悲鳴を上げて走り去り、遠巻きにして石を投げつけてきた。地面に跳ねる石の音から、拳大の物まで投げているのが分かった。こんなのが当たったら大怪我をする。私は咄嗟に逃げ出した。しかし彼らはぐるりを固めていて、忽ち腕に石が命中した。同時に頭にも一発小さいのを食らい、すぐにその場で頭を抱えて防御姿勢を取った。その時、マークIIの爺の顔を思い出した。地面に膝が擦れて皮が剥けた。じっとしていると、今度は地面に跳ねた大きいのが脇腹に当たった。まったく息が出来なくなり、ひっ掴んだ石を投げ返そうと腕を振り上げた途端、今度は顎に直撃弾を食らって倒れた。頭を抱え込んだ手がヌルッと滑った。雨ではなく血だと分かった。ドクドク出てきて顔に流れ落ちてくる。
私が動かなくなったので、連中は輪を狭めてきた。これから何をされるのかと思うと、途轍《とてつ》もなく怖かった。逃げる手段が頭の中に目まぐるしく回転したが、何一つ巧くいきそうになかった。本当に人を殺すような事はないだろうと、まだ心のどこかで私は高をくくっていたが、走ってきた靴が脇腹にヒットし、丸めた体をすくい上げるように鳩尾《みぞおち》を蹴り上げられた時、このままでは殺されると思った。突然、この連中に対する怒りが湧いた。力を振り絞って飛ぶように逃げ出すと「化け物野郎!」と数人に押し戻され、反対方向に逃げようとして同じように押し返された。足元がヘロヘロになり、どっちに逃げても弾かれる。顔に力が入らず、表情を作る事が出来ない。頬の肉を押し上げようとして口を開くと、「こいつ、笑ってやがるぞ!」と言われて蹴り回された。
もう駄目だと観念しそうになった時、あのゾクゾクした感じが下腹を蛇のように蠢くのを感じた。私はサチコを探してグルグル回った。目が痛くて、開けていられない。遠心力も手伝って充血が加速し、そのままその場にもんどり打った。
「おい、こいつ立ってるぞ」
「女とやらせろ」
「おい! 女が逃げてくぞ!」
何度も顔を擦って血を拭い、私はサチコを見た。彼女は脚を巧みに動かしてリズムを取りながら、かなりの速度で移動している最中だった。上半身にロープがグルグル巻きになっているので、その姿は下等な虫のように見えた。
どっと哄笑が湧き起こった。
「引っ立ていっ!」
蹴られながら、私の側にサチコが移動させられてきた。
「やれよ!」と怒鳴られ、私は四つん這いになってサチコを覗き込んだ。サチコは懸命に首を回しながら顔を出し、「しゅぶる……しゅぶしゅぶ」と呼吸を確保している。
「おら、やれっ!」と尻を蹴られた。
仕方なく下半身に回ると、蛸の卵のように数十個の小石をくわえ込んでいて、三倍ぐらいの大きさに膨らんでいた。一人が一つずつ順繰りに押し込んでいったらしい。それ以上入れられなくなった者が負けというこのゲームは、どこかで聞いた覚えがあった。私はその場に正座した。すると妙に落ち着いた気分になって、サチコの両脚を開脚させると、考古学者のように慎重に指先で小石を穿《ほじく》り出し始めた。小石はポロポロと崩れて、地面の上に転がった。
突然サチコの上体が起き上がり、何か叫びながら項垂れた私の頭を蹴ってきた。起き上がったサチコは顔をロープに縁取られ、メドゥーサのようだ。
「はは、怒ってやがるぞ!」
「妖怪同士、喧嘩させようぜ!」
「おもしれーっ」
「やれやれ!」
サチコは本当に怒っているようだった。私は彼女に蹴られるままになっていた。すると「反撃しろよ」と背中を小突かれ、仕方なくサチコの脚を叩いた。我々は座って向かい合ったまま、長いこと叩く蹴るという動きを続けた。既に互いに力尽きていて、ベチャッという情けない音を立てながら、サチコが私を蹴ると今度は私がサチコを叩く。その繰り返しを延々と続けているうちに、次第に何をやっているのか分からなくなってきた。双方共に項垂れて空振りが増え、ついには機械のような動作だけになる。誰の声も聞こえず、雨音だけがいつまでも激しかった。
いつしか我々は、向かい合ったままじっと動かなくなっていた。
私はふっと、このバカげたショーが終わったのではないかと考えた。その瞬間、急に怖くなってきた。塀の外から、何事もないような車のブレーキ音が聞こえた。自分が何をしているのか、幾ら考えても分からない。その分からないという事そのものが怖くて堪らず、顔を上げる事が出来ずにずっと雨に打たれ続けた。
突然遠くから声がした。
「中岡センセ!」
性別すら分からない程甲高く、バカにしたような声だった。同時に、遠ざかっていく足音を聞いた。暫くそれが何を意味するのか判断出来なかったが、連中の中に生徒が混じっていたのだと気付いた時、私はひん剥いた両眼を閉じる事が出来なくなった。
随分時間が経過したように思う。永遠に降り続いて欲しいと思った雨は、気が付くと止んでいた。私はずっとサチコを見ていた。彼女は目の前に横たわり、ロープの絡まった腹がゆっくり上下していた。見ているうちにそれが鞴《ふいご》のように思えてきて、彼女の口から炎が噴き上がってくるような気がした。
それから私は呆然と、掘削作業を再開した。
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一週間仕事を休み、アパートで死んだような時間を過ごした。学校からの電話が恐ろしく、電話機のプラグを抜いていた。あの生徒が誰だったのかは、考えないようにしていた。職を失うことよりも、それに至るあれこれの過程を思ってゾッとした。
我々が濡れた服を着て立ち上がり、アパートに辿り着くまでには気の遠くなるような時間がかかった。アパートに戻って暫くすると、サチコは例のヤクザに電話して明け方に出ていった。満身創痍で、彼女が座っていた絨毯は丸く濡れ、中央に点々と血痕が滲んでいた。小石を一つ残していったが、それを摘み上げて眺めているうちに、もう二度と来ないだろうと思った。
私は全身打撲を負い、頭を十二針縫った。外科医の使う物は針も糸も全然違って、その手付きには何の躊躇《ためら》いもなく、年寄りの医者だったが実に滑らかで清潔な手を持っていた。
もうどうにでもなれ、と思い、久し振りに出勤して授業をしたところ表面上は何事もなく過ぎた。国連についての授業中に感情が高ぶり「国連なんかに虐殺行為を根絶する意思はないんや!」と、手に持ったチョークを折りながら素っ頓狂に叫ぶと、机に突っ伏して寝ていた酒井英子がゆっくり顔を上げて唇を舐め、他の生徒も次々に舐め始めたので堪らなく怖くなり、「あとは自習」と言い置いて逃げ出した。
柴田女史はどこまでもビジネスライクだったが、職員室で彼女の机上の資料に手を伸ばしながら話し掛けた時、彼女の顔に息が掛かってしまった事があった。故意ではなかったがその瞬間、彼女は誰が見ても分かるぐらいにはっきりと顔をのけ反らせた。それ以来、明らかに彼女が私を気味悪く思っている事に気付いた。体全体から何か臭うのかと盛んに嗅いでみたが、自分の臭いは分からない。しかし、自分の内部で何かが腐っているのかもしれないという漠然とした不快感は確かにあり、職場で何度も歯を磨いた。
数日経った放課後、教室の後ろの黒板に描かれた図を見て息が止まった。丸い円の中に、小さな円が沢山描かれている。暫く眺めて、それが体育祭の応援合戦の円陣だと分かるまで足が動かなかった。蛸の卵だと思ったのである。これ程簡単で効果的な図はなかった。
あの悪童たちの溜まり場に、私はあれからも何度か足を運び、暗闇に潜んで彼らを待った。高校生ぐらいの男女が交接する姿を見、雨の中集団でシンナーを吸いながら次第に乱れていく様子などを観察しながら私は激しく身悶えし、暗闇の中で何度も墜落した。繰り返すたびに墜落の度合いは深くなり、余りの脱力感に立ち上がれなくなる事もあって、何カ所も蚊に食われながら長い時間放心していたりした。
或る夜久し振りに「りーべ」に行ったが、日記に書きたいような事は何一つ思い浮かばない。本も読む気にならず、吐き気が込み上げるまで煙草を吸い続けた。ふっと顔を上げると、店の暗がりに沈んだ客たちの顔がいつになく真っ当なものに見えた。角刈りの男が一人の商売女に懸命に何か説明していた。盛んに手刀を切りながら、理路整然と思える口調で懇々と説き続け、頭の悪そうな女も徐々に頷き始めた。私はその粘り強い姿勢に感心した。彼らは少なくとも、裏社会の論理に従って身を処しているに違いなく、そういう何か拠って立つものを持った彼らが羨ましいとさえ思った。日記をパラパラ捲ると「皆さん、大変でんな」の文字が幾つか目に留まり、一つ残らず真っ黒に塗り潰した。私は席を立つと便所の中で喉に指を突っ込み、唸り声を上げて汚物をぶちまけた。
そんな日々を送っているうちに、次第に体の芯の部分に力が入らなくなってきた。朝起きられずに度々遅刻し、食欲も湧かない。銭湯に行く気力もなく、流し台で頭を洗っていると腰の力が抜けて尻餅をついた。
ある朝、電話が鳴った。
「今日もお休みされるんですか?」と言う。学年主任らしかった。三日間学校を無断欠勤し、ろくな物を食べていない。「はぁ……」と答えると、すぐに切られた。舌打ちするような音を聞いた。買い物に行かないので、食べる物がなかった。
その夜、玄関のノブをガチャガチャする音で目が覚めた。私は布団の上に仰臥していたが、警察に踏み込まれたと思って咄嗟に頭を垂直に立てた。黒い影が、靴も脱がずに部屋を突っ切って真っ直ぐに入ってきた。アパート全体がグラグラ揺れた。私の体を跨いで仁王立ちになった影は、突然尻を落としてドンと体の上に乗ってきた。サチコだった。息が止まった。「はーはー」いう荒い呼気が、酒臭かった。
「約束だからね」と言って首を絞めてきた。
私は微かに首を縦に振った。約束は約束で殺されても仕方がないとは思ったが、実は全然苦しくなかった。寧ろこの女の非力さに同情さえ湧いた。自分の体さえ支えられない程度の握力しかない女に、素手で大の男を扼殺《やくさつ》出来る道理がなかった。私は力を入れて喉を大きく膨らませた。すると押し返されたのを感じたサチコが、「下に竹中さんもいるんだからね」と脅しを掛けてきた。竹中とは例のヤクザらしい。それがどうした、という気がした。
サチコが、尻の位置を少し前に移動させた。たったそれだけの事だったが、僅かにずれた彼女の小さな手が、首の中にすっぽりと食い込んできた。頚動脈を確実に押さえ込まれたのが分かった。忽ち頭の中が熱くなり、俄然苦しくなってきた。彼女の指は細いだけに、一度食い込むと首の肉に埋まって、同じ位置から動かない。私は鳩のように首を膨張させてみたが、まったく歯が立たない事が分かって焦った。
サチコの呼吸が整ってきた。まっすぐに私を見下ろす顔から次第に表情が消え、冷たい目付きになっていく。フッと表情が弛んだと思う瞬間があり、私はこの時を捉えて、こんなバカな真似はやめろと目で訴えた。しかしサチコの顔は一層冷たく固まり、やがて一切の表情が消え去った時、この女の本気を悟った。
何とか息は出来たが頭の中が圧迫感で一杯になってきて、或る一点を境に急に耳が遠くなった。換気扇と扇風機が点いていたが、ずっと聞こえていたその振動音が突然遠くなり、地平線で回っているような頼りない音に変わった。そんなに遠くで回っていても仕方ないだろうという程、遠い。同時に、目の前のサチコの顔に目の焦点が結ばなくなった。もっとずっと遠くを見ているような感じになる。世界そのものが遠ざかっていくような気がして、ひょっとしてこれは自分の方が世界から遠ざかっているのではないかと思った。このまま死んでいくのか、と考えた。
見ると私の分の空気まで吸い込む勢いで、サチコはしっかり呼吸している。ふっとサチコの左腕の傷が目に入った。それは私の頭の傷に較べると、失敗したタコ焼きのような無様な有様になっていた。私の作品であった。顔を見ると、いよいよだという決意のようなものを漂わせながら、どうしてそんなに私に死んで欲しいのかと思うほど一生懸命になっている。所詮私も彼女も地の底の妖怪ではないか。そう思うと、途端に爪先まで気持ち良くなってきた。呼吸は苦しかったが、脳の中が突然楽になった。もうこのまま殺されてしまおうと思い、目を瞑った。どうせ仕事も駄目になる。親にも弟にも見捨てられるだろう。何より、私は自分の欲望に飽きていた。体の中のハリガネムシが暴れるたびに死にたくなる。こんな生は要らなかった。すると益々気持ち良く、全身がとろけるような気がした。最期によく見ておこうと目を開くと、柴田女史の顔があった。靄《もや》が掛かったように柔らかな映像で、すぐにサチコに戻ったが再び柴田女史になり、その繰り返しが次第に速さを増して二つの顔が溶け合った瞬間、弥勒菩薩になった。
突如、アパートを揺るがす大音響が響き渡った。
私は上半身を起こし、喉を押さえながら魚のように口をパクパクさせた。見ると反対側の壁にサチコがひっくり返ってへばりついている。発作的に蹴り飛ばしてしまったらしかった。四肢が卍型に折れ曲がっていて、潰された蚊のようになっている。頭を打ったのか「んん……」と小さく唸っていた。突然、獣のような吼え声と共に階段を猛然と駆け登る竹中の靴音と、大木のおばはんが天井を突き上げるドンドンッという音が同時に聞こえた。私はその瞬間何もかもが余りに幼稚臭い気がして叫び出したくなった。しかし腹に力が入らず、そのまま後ろに倒れて仰向けになると、再びドンッと箒で突き上げられた。
衣擦《きぬず》れの音がした。頭を立てて見てみると、サチコが壁から体を剥がしてゆっくり移動してきた。四肢を直角に曲げて、イグアナのように這ってくる。振り乱した髪に隠れて、表情が読めなかった。私の側まで来ると四つん這いになったまま、殺す方法を思案するかのようにゆっくり頭を振っている。やがて彼女の手が股間に伸びてきた。私は勃起していた。人間は死に際にそうなるらしく、そんな死体の写真を見た事があった。突然その手が激しく揉み上げ始めた。やけくそな感じだった。強引にズボンを引きずり下ろし、その上に顔を埋めてきた。髪の毛が下腹に触れてくすぐったかった。口腔内に含まれると、とても熱く感じた。このまま噛み切られるのではないかと思い、少しでも歯を立てたら再び蹴り飛ばしてしまおうと尻の筋肉を引き絞って身構えた。
「おい……」と、その時野太い声がした。
見ると柱の陰に竹中の黒い半身が覗いていて、じっと我々の様子を見下ろしていた。しかしサチコは一向にお構いなしに、ジュパジュパと音を立てている。
「おい」
もう一度声がした。するとサチコが口を離し、顔を上げずにこう言った。
「うるさい。あっちに行ってろ!」
そして再び音を立て始めた。一旦は柱の陰に引っ込んだ竹中の影は、暫くすると再びヌッと現れて我々の姿を凝視した。しかしサチコが少しでも顔を上げそうになると、サッと隠れた。現れては消えるその影を、私はいつまでもじっと見ていた。と、ふと、この女に貸した五万円をまだ返して貰っていない事を思い出した。ひょっとするとこの女は、今その借りを返そうとしているのかなどと思いながら、このまま果てたら二度と立ち上がれないかもしれないなどと、ぼんやりと考えた。
初出誌 「文學界」平成十五年五月号
〈底 本〉文藝春秋 平成十五年八月三十日刊