[#表紙(表紙.jpg)]
事物はじまりの物語
吉村 昭
目 次
まえがき
一 解剖《かいぼう》
二 スキー
三 石鹸《せつけん》
四 洋食
五 アイスクリーム
六 傘《かさ》
七 国旗
八 幼稚園《ようちえん》
九 マッチ
十 電話
十一 蚊帳《かや》・蚊取り線香《せんこう》
十二 胃カメラ
十三 万年筆
図版提供 林丈二・林節子
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
まえがき
――――――――――――――――――――――――――――
石井研堂《いしいけんどう》氏の『明治事物起原』という大著は、興味深い書物である。
たとえばスキーの欄《らん》には、オーストリアの参謀少佐《さんぼうしようさ》テオドール・フォン・レルヒが、新潟《にいがた》の高田師団の青年将校たちにスキーの扱《あつか》いを教えたのが、「日本に於《お》けるスキーの始め」などと書かれている。
物事のはじまりを知ることは、知的|好奇心《こうきしん》を満足させてくれる。私は、時折この分厚い書物を自由にひらいて、読むのを楽しみにしている。
そのうちに、この書物に書かれていない事柄《ことがら》が数多くあるのを知り、気がかりになった。それは、私が三十年以上歴史小説を書きつづけてきたからで、その史料調査で知り得た事柄がかなりあるのに気づくようになったのである。初めて日本人でスキーをはいたのは、高田師団の青年将校だったかと言うと、そうではない。それよりはるか以前にスキーをはいた日本人が複数いるのである。
そんなことから、私は、自分流の事物起原を書き残しておこうと思い立った。
たまたまそれを筑摩書房《ちくましよぼう》の編集者|松田哲夫《まつだてつお》氏に話すと、新たに新書発刊の企画《きかく》があるので、その一冊として書いて欲しい、という。
私は執筆《しつぴつ》をはじめたが、予想していた通り楽しい仕事であった。過去に歴史小説を書いた折に収集した資料を引き出してきて、それによって書く。小説を書いた当時のことが思い起こされ、しばし筆をとめて想《おも》いにふけることもあった。
蚊取《かと》り線香《せんこう》、アイスクリーム、電話機と、次々に思いつくままに資料を探し出して書く。それぞれに独自の歴史があり、それぞれに人の営みがある。
人間とはなんであるのか、書き進めるうちに面白い生き物だという思いが、胸の中にふくらんできた。
万年筆はFOUNTAIN PEN。FOUNTAINとは泉の英語で、輸入された直後は泉筆《いずみふで》と称《しよう》していた。その泉筆――万年筆で、私流の事物起原を書き進めた。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
一 解剖《かいぼう》
――――――――――――――――――――――――――――
日本で初めて死体の解剖がおこなわれたのは、二百五十年前の宝暦《ほうれき》四年(一七五四)である。
その頃《ころ》、人体を解剖するなどということは、神仏をも恐《おそ》れぬ断じて許されぬ行為《こうい》とされ、解剖などということは考えることすらできなかった。
京都に、天皇の侍医《じい》をしていた山脇東洋《やまわきとうよう》という医学の大家がいた。かれは、人体の内部がどのようになっているか知りたいという強い願いをいだき、人体の内臓が似ていると言われていた川獺《かわうそ》の解剖をしてみたが、むろんそれは他愛ない試みであった。
東洋の門人たちは、師の願いを知っていて、その年の初冬に京都の治安をつかさどる所司代に解剖を申し出た。たまたま罪人が斬首刑《ざんしゆけい》に処せられ、門人たちはその死体の解剖を願い出たのである。
それは全く前例のないことであったが、医学に深い理解をいだく所司代は、これを許した。
門人から連絡《れんらく》を受けた東洋は驚《おどろ》き、駕籠《かご》で急いで獄舎《ごくしや》に行った。当時は医者が解剖することは許されず、獄舎の雑役が体を開き、東洋はそれを見学し、克明《こくめい》に記録した。
その後、これが前例となって解剖がおこなわれるようになり、明和八年(一七七一)には、杉田玄白《すぎたげんぱく》、前野|良沢《りようたく》、中川|淳庵《じゆんあん》らがひらかれた刑死人の内部を見、それが後に「解体新書」として出版された。本格的な解剖書が誕生したのである。
幕末に至って、西洋医学が公認されて種痘所《しゆとうじよ》が幕府|直轄《ちよつかつ》の医学機関となり、初代頭取に大槻俊斎《おおつきしゆんさい》が任ぜられた。
解剖はおこなわれることがなくなっていたが、大槻は、人体の内部を知らずに医学は存在しないという信念をいだき、解剖の機会を得たいと幕府に願い出ていた。
明治|維新《いしん》成って、種痘所は医学校となり、医学者たちは、西洋の医学水準に少しでも近づこうと考え、その基本は人体の解剖だと考えていた。
それまでの解剖は、もっぱら刑死人の死体を対象としていたが、西洋と同じように一般人《いつぱんじん》の死体でもよいのではないか、という意見がたかまった。
かれらは、自然に医学校|附属《ふぞく》の黴毒院《ばいどくいん》に視線をそそぐようになった。
その医療所《いりようじよ》は、ひろく蔓延《まんえん》していた梅毒におかされた重症患者《じゆうしようかんじや》を収容していて、これといった治療法もなかったので入院患者は死を迎《むか》える者がほとんどだった。黴毒院は、貧しい梅毒患者のため設けられた医療|施設《しせつ》で、入院費は一切《いつさい》無料であった。当然、入院患者たちは黴毒院を管理する医学校に感謝しているはずで、その恩義にむくいるためにも死の確定した患者が、死後の解剖を受けいれることが期待できる、と考えたのだ。
しかし、あくまでもそれは、患者自身が望んでいるという形をとらねばならなかった。
これを念頭において、医学校では政府に嘆願書《たんがんしよ》を提出した。解剖が医学研究のため必要であることを訴《うつた》え、入院患者の中で重症の者が死後解剖を願う場合は、許可して欲しいと嘆願した。その請願書《せいがんしよ》は、政府部内で慎重《しんちよう》に協議された結果、許可することに意見が一致《いつち》したが、それには条件があって解剖後、遺体を手あつく葬《ほうむ》るよう指示した。
黴毒院に入院している患者の中に、みきという三十四|歳《さい》の女がいた。十代の折に吉原遊郭《よしわらゆうかく》に売られて遊女をしていたが、梅毒におかされ重症患者として入院していた。
みきの死は時間の問題で、医学校の教授たちは黴毒院におもむいて、これまで無料で治療につくした医学校の恩義にむくいるためにも、医学の進歩をうながす死後の解剖を受けいれるように、と言葉をつくして説いた。
みきの心を動かしたのは、解剖後、手あつく葬るという言葉であった。貧しい元遊女のみきが死んだ折には、戒名《かいみよう》もなく墓も建てられず野捨て同様にされるのがおちであったのである。
みきは、承諾《しようだく》した。
医学校では、早速《さつそく》、その旨《むね》を書いたみきの願書を代作し、みきが拇印《ぼいん》をおした。さらにみきの親族もそれに同意しているという書面を作成し、みきの両親、兄がそれぞれ拇印をおした。
これによって、みきの死後解剖の段取りがすべてととのい、医学校ではそれを政府につたえた。
明治二年八月十二日、みきは息を引き取った。医学校では、ただちに遺体を甕《かめ》におさめ、防腐剤《ぼうふざい》として甕に塩をつめこんだ。
これまでの解剖の対象はすべて刑死人の遺体であったが、病死者が生前に解剖を望んだということは画期的なことで、みきは日本で初めての篤志《とくし》解剖者となるものであった。
解剖は、多くの医師の見守る中で厳粛《げんしゆく》におこなわれ、多くの臓器が採取された。
解剖後、遺体は生徒たちによって清められ、病衣と腰巻《こしまき》がつけられた。
医学校では、政府よりの「解剖後厚く弔《とむら》」うべしという指示通りにすべてを推《お》しすすめた。
埋葬地《まいそうち》は、遺族の希望をいれて小石川|戸崎町《とざきちよう》の念速寺とし、僧《そう》の読経《どきよう》の後、遺体をおさめた甕が六人の男のかつぐ大型の駕籠にのせられ、二人の者が白張提灯《しらはりぢようちん》をかかげて先頭に立ち、葬列が組まれた。
長い葬列が進み、念速寺の門をくぐった。四人の僧の読経のもとに葬儀《そうぎ》がいとなまれ、みきには、釈妙倖信女《しやくみようこうしんによ》という戒名がおくられた。葬儀を終え、遺体をおさめた甕が寺の墓地に埋葬された。
医学校では葬儀費用の一切を負担し、みきの実家に手当として十両を贈《おく》った。さらに埋葬地に美幾《みき》女墓と刻んだ墓を建て、みきが日本での篤志解剖第一号となったことが裏面に記された。
私は、三年前に念速寺に足をむけた。東京ドームの後方の地にある寺を探し当て、寺の境内《けいだい》にある墓地に行った。
記録にある通り、碑面《ひめん》に美幾女墓ときざまれ、裏面にみきの高い志をたたえる文章が記され、医学校の教授がこれを建てたと書かれていた。
私は、その墓にかすかに手をふれた。
みきの死後、その遺体が丁重に葬られたことを知った黴毒院の患者の間から、自発的に死後解剖して欲しいという請願が相ついだ。それによって金次郎、竹蔵という二人の男の遺体が解剖され、さらに売春を業《なりわい》としていた志津《しづ》という女性も死後解剖され、いずれも手厚く弔われた。
医学所は大学東校と改称されていたが、政府は、重罪をおかして処刑された者の遺体を大学東校にもっぱら下附し、解剖を許可するようになった。大学東校では、長年の悲願が一挙に達成されることになり、正式の解剖場をもうけるなど準備をととのえた。
これによって刑死人の解剖がさかんにおこなわれ、谷中《やなか》の天王寺《てんのうじ》の広大な墓所に解剖後の遺体が埋葬された。
明治六年十一月には、来日していたドイツの解剖専門医デーニッツが、ドイツ人医師ホフマンとともに脚気《かつけ》病で獄死した二十六歳の男を解剖し、記録した。日本固有の死亡率の高い脚気病の病因をさぐるためで、これが日本での病理解剖の最初であった。
これによって、解剖が、内部の臓器を観察することから、病気の原因をあきらかにするという、新たな段階に入ったのである。
二年後には、画期的な解剖がおこなわれた。
東京府の高級|官吏《かんり》の妻であるおいね三十八歳は、心臓病で平癒《へいゆ》の見込《みこ》みはないと診断《しんだん》されていた。
おいねは、医学校で解剖学の講座がもうけられていることを知り、自分の死後、解剖して病原をしらべてもらえば、社会のためになると考え、解剖を請願したのである。
やがておいねは息を引き取り、デーニッツが解剖し、診断通り心臓肥大であることを確認した。
これは、日本最初の篤志病理解剖第一号で、著名な記者である岸田吟香《きしだぎんこう》は、東京日日新聞に、
「嗚呼偉哉《ああいなるかな》、おいね婦女ノ身ヲ以《もつ》テ、天下ノ率先トナリ……」
と、最大級の賛辞を寄せた。
その後、日本人医師による病理解剖がさかんになった。
医学校は、明治十年四月に東京大学医学部と名を改めた。
明治十四年に解剖遺体が千体に及《およ》んだので、谷中墓地にその霊《れい》を慰《なぐさ》めるため千人塚《せんにんづか》が建立《こんりゆう》され、その後、さらに二基建てられた。
十数年前であろうか、谷中墓地は、私の生まれ育った日暮里《につぽり》町の台地にひろがっていて、墓地の入口で思いがけぬ人に出会った。
私が二十歳の折に肺結核《はいけつかく》の手術を執刀して下さった、東京大学医学部|名誉《めいよ》教授の田中|大平《たへい》先生であった。なぜ、そこにおられるのかいぶかしんだ私に、年一回、解剖された人の慰霊祭《いれいさい》が東京大学医学部|主催《しゆさい》でおこなわれ、それに参列するために来ているのだ、と先生は言った。
その折、墓地内に千人塚が三基建てられていることもきいた。
後日、私は、日暮里駅で下車し、それに接した谷中墓地に入った。
人気《ひとけ》のない墓地内の道を進んでゆくと、右前方に高々と千人塚が三基建てられているのが見えた。予想以上に立派な碑で、私はその前に立って碑を見上げた。厳粛な思いがし、爽《さわ》やかな気分であった。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
二 スキー
――――――――――――――――――――――――――――
私の兄は、スキーを趣味《しゆみ》にしていて、冬になると、夜、スキー板を物置きから持ち出して来て、ワックスを塗《ぬ》ったり、板の裏面に貼《は》るアザラシの細長い毛皮を調べたりしていた。
昭和十年代のことで、現在のようにスキー場にリフトなどなく、雪の斜面《しやめん》をのぼるのに必要なアザラシの毛皮をスキー板の裏に貼りつけていたのである。
準備をする兄はまことに楽しそうで、休日の前夜、スキーをかついで家を出て行った。
私が初めて兄に連れられてスキー場に行ったのは、中学三年生の冬であった。行先は越後湯沢《えちごゆざわ》で、清水《しみず》トンネルを汽車で抜《ぬ》けると、川端康成《かわばたやすなり》の小説『雪国』の冒頭《ぼうとう》さながらに雪におおわれた夜の湯沢の町が忽然《こつぜん》と眼《め》の前に現れた。
駅には、提灯を手にした宿屋の番頭さんが待っていて、客は長い橇《そり》に乗る。曳《ひ》く人と押《お》す人で橇は進み、初めて橇というものに乗った私は、胸をはずませ、夜の町をながめていた。
宿は今でも営業している高半《たかはん》旅館(ホテル)で、通された客室の中央に大きな炬燵《こたつ》が置かれていた。寝《ね》る時になると、女中さんが炬燵を中心に放射線状にふとんを敷《し》く。ふとんの裾《すそ》が炬燵の上にかぶさっているのでふとんの中は温かく、いかにも雪国に来たという思いがした。
スキー場に行くと、兄は、私を気にしながらも雪の斜面を登ってゆき、やがて右に左に体をかたむけて滑《すべ》り降《お》り、時には直滑降《ちよつかつこう》をしてくることもある。私は兄に要領を教えてもらいはしたが、絶えず尻《しり》をついたりして倒《たお》れ、ひどく疲《つか》れた記憶《きおく》しかない。
その後、越後湯沢と志賀高原にそれぞれ一度ずつ兄に連れて行ってもらったが、上達は全くしなかった。
やがて、戦争が激化してスキーどころではなくなり、生家も空襲《くうしゆう》で焼《や》き払《はら》われた。戦後の社会混乱もようやく鎮《しず》まると、兄はよくスキーをかついで家を出てゆくようになったが、大病を患《わずら》った私はスキーに縁《えん》がなく、少年時代、三度スキー場に行っただけで終わった。
このようにスキーに関心のない私だが、歴史小説の史料に眼を通している時、思いがけずスキーそのものが登場し、自然にしらべる気になった。
西暦《せいれき》八四〇年、中国の杜佐《とさ》という学者が、北方アジア民族の風俗《ふうぞく》の紹介記《しようかいき》の中でスキーにふれ、それが最も古い記録とされている。
それによると、スキーは積雪期に猟師《りようし》が使う道具で、裏面に馬の毛皮を貼りつけた板の上に乗って、雪の上を滑らせて鹿《しか》などを追う。斜面をすべり降りる時には、逃《に》げる鹿を追《お》い越《こ》すほど速く、平坦《へいたん》な雪の上を杖《つえ》をついて進む時は、船のようだと記している。
スキーとはノルウェー語で薄《うす》い板という意味だから、ノルウェーなど冬期に雪の多い外国では、古くからスキーがあったのだろうが、日本でスキーが初めておこなわれたのは、明治四十四年(一九一一)である。
その前年の十二月に、オーストリアの陸軍参謀少佐テオドール・フォン・レルヒが、軍事研究の目的で越後の高田師団に赴任《ふにん》してきた。
師団長は長岡外史《ながおかがいし》中将で、かれのもとにスウェーデン駐在《ちゆうざい》全権公使の杉村虎一《すぎむらとらかず》からスキーが送られてきた。長岡は、飛行機に興味をいだいて、後に帝国《ていこく》飛行協会副会長になるなど好奇心|旺盛《おうせい》な将軍であったので、杉村から送られてきた初めて眼にするスキーに異常なほどの関心を寄せた。
長岡は、レルヒにスキーを見せ、それが北欧《ほくおう》でさかんに使われていることを知った。
長岡は大いに興味をしめし、スキーの達人でもあるレルヒを教官にスキー研究を思い立ち、連隊長|堀内文次郎《ほりうちぶんじろう》に命じて青年将校を集め、スキー班をつくらせた。これが日本でのスキーの初めであった。
長岡は、日本の職人にスキーを数多く作らせ、高田は積雪の多い地であったので、レルヒは青年将校たちに系統的にスキー術を教え、たちまち将校たちは上達した。
長岡は、師団のみならず一般にもスキーを奨励《しようれい》し、高田スキー倶楽部を作らせ、それによって高田方面を中心に急速に普及《ふきゆう》した。
当時、スキーには履橇という漢字をあて、高田、長岡、長野に支部を置き、競技大会ももよおされた。
長岡は、自分の妻、娘《むすめ》にも婦人用スキーをあたえて滑走技術を教え、それがきっかけで高田商業女学校などでもスキーが体操の課目に加えられた。
クラブ員は、すでに数百名にも達していて、年が明けた明治四十四年二月には、レルヒが一同を引率して妙高山《みようこうざん》にスキーで登り、頂上に達する成果をあげた。
レルヒは、高田にとどまってスキー教育をつづけ、翌年|旭川砲兵《あさひかわほうへい》連隊に転属し、青年将校をはじめ一般人にもスキー術を伝授した。その結果、三月には雪におおわれた後方羊蹄山《しりべしやま》にかれらを引き連れてスキーで登攀《とうはん》をこころみ、成功させた。
かれは、その年の秋に帰国した。
(挿絵省略)
レルヒのその後の消息は不明であったが、大正十年フランスに留学していた日本将校から、レルヒが少将に累進《るいしん》し、その後退官してウイーンで貿易商を営んでいるという通知があった。それについでレルヒからも同じような内容の手紙が、退役した長岡外史のもとに寄せられ、長岡はレルヒが健在であるのを知った。
このようにレルヒは、日本にスキーをつたえた恩人として、昭和五年一月五日、初めてスキーがおこなわれた金谷山の山頂に「大日本スキー発祥《はつしよう》の地」ときざまれた記念碑が建てられた。裏面には、「昭和五年一月、高田スキー団、雪之研究会、全国有志|建之《これをたつ》」という文字が記された。
これが日本へのスキー導入史で、日本人として最初にスキーをはいたのは、高田師団の青年将校たちとされている。
私は、『北天の星』(講談社文庫)という歴史小説を書いたことがある。
小説の主人公は、千島《ちしま》のエトロフ島の番人小頭《ばんにんこがしら》であった五郎治《ごろうじ》という人物で、文化四年(一八〇七)にエトロフ島を襲《おそ》ったロシア武装船に、左兵衛《さへえ》という稼方《かせぎがた》とともに拉致《らち》される。
二人は抑留地《よくりゆうち》から逃亡《とうぼう》をこころみ、シベリアの地を凄惨《せいさん》な放浪《ほうろう》をつづける。その間に左兵衛は激しい飢《う》えに堪《た》えきれず、海岸に打ちあげられていた鯨《くじら》の腐《くさ》った肉を食って死に、五郎治も捕《と》らえられた。
その後、五郎治は帰国を許されて国後島《くなしりとう》に送還《そうかん》されたが、かれは種痘法を習いおぼえていて、蝦夷《えぞ》(北海道)の一部で種痘をおこなった。日本に初めて西洋の種痘法をつたえたのである。
五郎治は、帰国直後、奉行所《ぶぎようしよ》で厳重な取り調べを受け、捕らわれた後のロシアでの抑留生活をくわしく述べ、その陳述書《ちんじゆつしよ》が「五郎治|申上荒増《もうしあげあらまし》」として残されている。さらにその補足として、ロシア人の生活を絵つきで説明した「異境雑話」もある。
私は、この二書にもとづいて『北天の星』を書き進めたが、「五郎治申上荒増」の文字を眼で追っているうちに、ある個所《かしよ》の記述に眼をとめた。
それは、左兵衛とともに逃亡した折の描写《びようしや》で、老いたツングース人の案内で他の地に移動する。
雪は深く、旅は困難をきわめたが、
「……五尺余りの、板にして製したるカンヂキ履行《はきゆく》事なれば……」
と、記されている。
日本では、カンジキとは雪中で草鞋《わらじ》の下などにはく、竹やつるなどを環《わ》にした道具を言う。五尺(一・五メートル)余りの長さの板とは、日本で言われるカンジキではなく、スキーであることはあきらかだ。
これにつづく文章に、
「右の年寄《としより》に追附事《おいつくこと》不叶《かなわず》、程なく見失ひ……」とある。
この部分に、雪杖《ゆきづえ》の図が描《えが》かれている。あきらかにスキーのストックで、今と変わりはない。
ツングースの老人に追いつくことができず見失ったというが、五郎治も左兵衛も初めてスキーをはいたので、日常使うことになれていたツングースについてゆけるはずがなかったのである。
このカンジキ(スキー)についてしらべてみると、主としてアムール川(黒龍江《こくりゆうこう》)下流一帯でツングース人が使用していたストーと称されたスキーであることを知った。五郎治と左兵衛が「カンヂキ」をはいたのは、黒龍江下流地域であった。
ストーというスキーは、幅《はば》が二〇センチほどもある広いもので、上り斜面をあがれるように滑走面にアザラシの皮が貼りつけられていた。私が少年時代、兄がスキーの裏面にアザラシの皮を貼っていたのを思い出した。
現在のスキーとちがうのは、ストック(雪杖)が一本で、ちょうど棹《さお》で進む小舟《こぶね》のようにストックを突《つ》いて進んでゆくのである。
この「五郎治荒増」の記述で、私は、レルヒに教わってスキーをはいた高田師団の青年将校たちよりも、百年以上前に五郎治と左兵衛がスキーをはいたことを知った。放浪の旅で丁髷《ちよんまげ》は乱れていただろうが、髪《かみ》も瞳《ひとみ》も黒い二人の日本人がスキーをはき、ストックを突いて雪上を進んだのである。
これまで江戸《えど》時代の漂流記《ひようりゆうき》をもとに七|篇《へん》の小説を書いてきたが、雪に見舞《みま》われるロシア領に漂着し移動を余儀なくされた漂民のことも、あらためて調べてみた。
樺太《からふと》から間宮|海峡《かいきよう》を越えてアムール川下流地域を探険した間宮|林蔵《りんぞう》の「東韃《とうだつ》地方紀行」という記録には、ツングース人がスキーをはいている図が描かれている。
(挿絵省略)
しかし、間宮は、それを物珍《ものめずら》しげに紹介しただけで、かれ自身がはいた形跡《けいせき》はない。
広島の水主《かこ》久蔵、伊勢《いせ》の船頭|大黒屋光太夫《だいこくやこうだゆう》、石巻の水主|津太夫《つだゆう》がそれぞれ漂流民としてシベリアでの生活を余儀なくされたが、かれらの記録を読んでも、ソリに乗ってはいるものの、スキーをはいたという記述は見当たらない。
とすると、日本人として初めてスキーをはいたのは、五郎治と左兵衛なのか。
さらに調べてみると、デンベイという人物がいた。デンベイは、ロシア側の記録でロシア領に漂着した最初の日本人とされている。
デンベイについては、ロシア側に「デンベイの陳述」という記録が残されている。
元禄《げんろく》八年(一六九五)、かれは廻船《かいせん》に乗って大坂から江戸へむかう途中《とちゆう》、大暴風雨に見舞われて破船し、約二百日間漂流した後、カムチャツカ半島に漂着した。五郎治と佐兵衛が拉致されてシベリアに連行された、百十年ほども前のことである。
デンベイたち十二人は、クリール人に捕らわれて十一人の消息は絶え、デンベイだけが、カムチャツカ川の岸に連行され、奴隷《どれい》としてこき使われている。
その後、カムチャツカに遠征《えんせい》してきたコサック隊の隊長アトラソフに発見され、保護される。
デンベイはアトラソフの問いに答えて、身ぶり手ぶりで、自分が大坂から江戸へ船でむかう途中、遭難《そうなん》したことをつたえる。デンベイの口にした江戸という言葉がイエンドときこえたことから、それがインドと解釈《かいしやく》され、大坂はウザカときこえたので、アトラソフはデンベイがインドのウザカ地方出身のインド人と解釈した。
その後、デンベイが日本人であることがあきらかになり、「デンベイの陳述」という記録の末尾《まつび》にかれ自身が書いた日本文がのせられている。自分の素姓《すじよう》を書いたもので、
「万九ひち屋
たに万ちと本り
立川一にすむ
伝兵衛《でんべえ》  」
その意味は、
「万九という質屋の子で
タニマチトホリ(谷町通り)
に住む
立川伝兵衛 」
「立川一」の「一」は区切りの印ではないかという。(高野明著『日本とロシア』中の服部《はつとり》誠一上智大学講師の解説による)
ピョートル大帝にも引見されたが、日本への進出の夢をいだいていた大帝は、ロシア人子弟に日本語を身につけさせようと考え、伝兵衛に日本語の教師になることを命じ、洗礼を受けさせ、伝兵衛はガブリエル・デンベイとなった。
かれを保護したアトラソフの記録の中に、
「この捕虜《ほりよ》(デンベイ)は、彼《かれ》ら(コサック兵)とともに五日間旅行したところで足を痛めた。それは彼がスキーに慣れていなかったためで、それ以上旅行をつづけることはできなかった」
という文章がある。この記録は、S・ズナメンスキー著、秋月俊幸《あきづきとしゆき》訳『ロシア人の日本発見』の中にある。
この記録をみるかぎり、日本人として初めてスキーをはいたのは、高田師団の青年将校ではなく、それより百年余も前の五郎治、佐兵衛でもなく、さらにその百十年ほど前の大坂出身の伝兵衛であるということになる。
五郎治、佐兵衛のうち、佐兵衛は死亡したが、五郎治は帰国できた。しかし、伝兵衛は、シベリアの地で望郷の念にかられながら死亡し、その悲哀《ひあい》が胸にしみる。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
三 石鹸《せつけん》
――――――――――――――――――――――――――――
スキーの部で、エトロフ島に来襲したロシア武装船に拉致された番人小頭五郎治のことについて書いた。
五郎治はシベリアですごしたが、石鹸のことについて「異境雑話」という記録に書き残している。石鹸はロシア語でメイラと言い、それについて、
「メイラは、魯西亜《ロシア》では貧富《ひんぷ》の別なく、最も使われる日用品である。顔を洗う時には手にメイラをすりつけ、水をすくって洗う」
と、ある。
これは、今でも変わりない使用法だが、石鹸が美容にも効能がある、と記されている。
「石鹸は、眼を清らかにして肌《はだ》をうるおし、色も白くする」
ロシアの若い婦人は眼が青く澄《す》み、肌の色の白い人が多いので、五郎治はそれが石鹸を使っているからと考えたのだろう。
さらに、「面瘡《めんそう》(顔にできる吹出物《ふきでもの》)をいやし」
と、薬用にも使われているとし、また、
「産婦が児《こ》をうむ時、胎児《たいじ》が出てくる部分に石鹸を塗って滑りをつければ、安らかにうむことができる」
とも、記している。
次に面白いことが書かれている。
「(石鹸)を温《ぬる》い湯でとき、水鉄砲で尻の穴から注入すると、熱がさがる」
水鉄砲とは、注射器のことである。
現在では、浣腸《かんちよう》をすることは少なくなったようだが、私が幼・少年時代は、消化器系統の病気や、発熱した折には必ずと言っていいほど浣腸をした。市販《しはん》のものに「イチジク浣腸」というものがあって、薬液を入れた容器の形態がいちじくの実に似ているので、それが商標名になっていた。
家庭用医学書によると、市販のもので効果がない場合には石鹸水で浣腸をおこなうのがよい、と書かれていた。いわゆる石鹸浣腸で、私も肺結核の末期患者であった二十歳の折にしばしば太い注射器で石鹸浣腸をされた。
この石鹸浣腸による治療法を、五郎治は水鉄砲|外科《げか》と紹介し、実際に自分も石鹸浣腸をしてもらったことを「五郎次(治)話」の中で述べている。
かれが熱病にかかった時、
「オホツカ(オホーツク)の一里(四キロ)程北ボウキンといふ所にあるポリイトム(病人小屋)に入り療治を受」け、モーリスという海獣《かいじゆう》の牙《きば》でつくられた水鉄砲を尻の穴にさしこまれ、石鹸水を肛門《こうもん》から注入された。
「これは熱毒を洗い去る」効果がいちじるしく、「三度ほど用ひて平癒」したという。
日本人で石鹸浣腸をされたのは、恐らく五郎治が最初なのだろう。
「五郎次話」には、五郎治が日本へ帰った時、「持帰《もちかえり》し品々」という記述があり、その中に水鉄砲外科に使う道具が記されている。モーリスという海獣の牙にちがいないが、現在は残されておらず、それは適当に処分されたのだろう。
石鹸の歴史は古く、日本にはすでに戦国時代にポルトガル人の手で導入されている。石鹸をシャボンというのは、ポルトガル語から来たものである。
慶長《けいちよう》元年(一五九六)、博多《はかた》の神谷宗湛《かみやそうたん》から石田三成《いしだみつなり》にシャボンを贈り、それに対する三成の礼状が残されている。それには、「志やぼん」を遠路はるばる贈っていただき、「満足に候《そうろう》」とある。この文面から、石鹸が、ごく一部の人たちの間に知られたものであったことがわかる。
江戸期に入ると、長崎《ながさき》に輸入された品々の中に、石鹸の溶《と》き水《みず》が記されている。それは、石鹸の溶き水にムクロジという植物の果皮を焼いたものをまぜ、その溶液《ようえき》を細い葭《よし》や藁《わら》しべの先にひたして吹《ふ》くと、多くの五色の玉が吹き上げられる。
つまりシャボン玉で、それを商人が、
「さあさあ寄ったりみたり、評判の玉や、シャボン玉、吹けば五色の虹《にじ》が出る」
と言って、売り歩いたという。
つまり、石鹸は、子供の遊び道具に使われていたのである。
石鹸が本格的に使われるようになったのは、明治に入ってからである。
明治二年(一八六九)に、横浜《よこはま》に住む堤磯《つつみいそ》右衛門《えもん》という人が、西洋人から製法を教えられ、牛の脂肪《しぼう》と茄子《なす》の灰汁《あく》で石鹸の製造をこころみた。
ついでかれは、六年に洗濯用《せんたくよう》の石鹸をつくって一個十銭で販売し、さらに翌年には化粧用《けしようよう》の石鹸の製造をはじめた。
これが、日本で石鹸を製した最初である。
さらに堤は、十一年に鯨油《げいゆ》を原料とした石鹸の製造を手がけたことが、横浜毎日新聞に報じられている。これは今で言う農薬の働きをするもので、創意|工夫《くふう》に長じた人であったようだ。
その鯨油でつくった石鹸を熱湯でとかした後、冷水でひやし、それを蝗《いなご》などの虫害におかされた田畠《たはた》に撒《ま》くと、たちまちその害がとり除かれた。「奏効の著《いちじる》しきは驚くべく」とあるからにはかなりの効果があったらしい。
この堤磯右衛門が、日本で最初に石鹸を製造した人だが、品質は、外国から輸入される石鹸にはとうてい及ばなかった。
外国製品にひけをとらぬ石鹸を製造し発売したのは、岐阜《ぎふ》の長瀬富郎《ながせとみろう》であった。
明治十八年に故郷から上京した長瀬は、二年後に石鹸をはじめとした外国から輸入される西洋雑貨の店を開いた。
かれは、高品質の石鹸製造を企《くわだ》て、工場をもうけて工夫をかさね、明治二十三年に外国製品に対抗《たいこう》できる石鹸の製造に成功した。
「顔を洗うこともできる高級石鹸」として、顔をもじって花王という商品名をつけ、一個十二銭、桐箱《きりばこ》に三個おさめて三十五銭で売り出した。
(挿絵省略)
長瀬は、すでに鉄道が開通していたことに眼をつけ、それを利用した石鹸の広告宣伝を思いつき、初めて汽車の窓から見える野立《のだち》広告を数多く建てた。この売価は外国製品の三分の一以下で、全国に販路がひろがっていった。この事業を基礎《きそ》として現在の花王株式会社へとつづいている。
石鹸には、顔、体を洗うもののほかに洗濯用石鹸が製造、販売されていた。私の生まれた町の隣町《となりまち》に旭《あさひ》電化という会社があり、その頭文字を商標としたアデカ石鹸が製造・販売されていたが、それは長さ三〇センチほどの長方形をした石鹸で、庖丁《ほうちよう》で四等分か五等分に切って使っていた。
大きな盥《たらい》に水を入れ、波型をした洗濯板の上に衣類をのせ、この石鹸をこすりつけてごしごしと洗う。女性の家事の重要な仕事で、重労働であった。
(挿絵省略)
戦後、電気洗濯機が登場して洗剤が使用されるようになり、洗濯用石鹸は姿を消して女性は重労働から解放された。そうした意味から、洗濯機は、人間の生活を変えた利器と言うべきである。
石鹸の歴史は古いが、それは日常生活に不可欠のもので、人類とともに永久に生きつづけることはまちがいない。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
四 洋食
――――――――――――――――――――――――――――
洋食を最初に口にした日本人は、江戸時代、大暴風雨で船が難破し、外国の地まで漂流した者たちであった。
漂着した地でその地の者に船の積み荷をうばわれ、殺される者もいたが、江戸時代後期に入ると、髪と瞳が黒く、風俗の異なる日本人が好奇の対象となって、保護される傾《かたむ》きが強くなった。
かれらは、外国人の口にする食物になじまず、激しく忌《い》み嫌《きら》う食物も多かった。
その一つに牛乳がある。
日本では、古くから獣《けだもの》の肉をいやしいものとして食べることはしなかった。牛は、馬とともに荷の輸送や農耕に使用する家畜《かちく》で、食用にするなど考えもしなかった。
仔牛《こうし》を産んだ後、母牛は乳を出すが、それは仔牛を育てるためのものであった。
漂流した者は、漂着した地で牛乳をあたえられる。白いその液を、百合《ゆり》の根を煎《せん》じたものなどと考え、それを好んで飲んだ。
ある漂流記によると、台所で調理する女が、毎日定刻に桶《おけ》を手にして家を出て行き、白い液をみたしてもどってくるのを知り、後をつける。
女は、粗末《そまつ》な小屋に入り、中で飼われている牛の腹の下にもぐり、乳房《ちぶさ》をしぼって乳を桶に入れる。それを眼にして牛の乳だと知り、以後、すすめられても顔色を変えて拒否《きよひ》した。
むろん牛の肉など、見ることさえ避《さ》ける。しかし、外国人の常食とするそれらの物を口にしなければ餓死《がし》の危険にさらされるので、牛肉を食べ牛乳を飲むようにもなる。
パンは抵抗《ていこう》なく好んで食べ、漂流記には麦餠《むぎもち》と記されている。
漂流民以外の日本人が、洋食に接したのは幕末である。
万延元年(一八六〇)、遣米《けんべい》使節一行が「咸臨丸《かんりんまる》」でサンフランシスコに上陸、初めて夕食を出された時の記録がある。
(挿絵省略)
「午後五時、サンフランシスコの料亭《りようてい》で晩飯を食べる。味はよくないが、空腹はいやされる。いずれも大きな皿に盛られ、フォーク(匙《さじ》に似た形をして四本の足がある)、ナイフ(小さな庖丁《ほうちよう》)、スプーン(食用匙)を人数に応じてテーブルに並べ、食事をする時には箸《はし》を使わず、この三品を使う」
さらにワシントンに行って食事をしたが、
「いずれも塩味が薄く、食べることができない。食卓の上に塩、辛子《からし》、胡椒《こしよう》等五六種の調味料が出ているものの、わが国の味ではなく、皆困惑《みなこんわく》した」
これらの料理は大御馳走《だいごちそう》なのだろうが、塩気もなく油の臭《にお》いがして食べることができない、とすこぶる不評であったと記されている。
明治に入ると、開港された横浜村に、外国人相手の西洋料理店が所々に店を開くようになったが、日本人には不向きであった。
東京では、仏光寺《ぶつこうじ》の用人であった北村|重威《しげたけ》という人が、西洋料理店をはじめようと企てた。
当然、店では牛肉を調理して客に出すが、周囲の者たちは、忌み嫌われる牛肉などあつかうのは寺の用人の、いわゆる仏門にあった者のすべきことではない、とこぞって反対した。しかし、かれは、それに耳をかさず、明治五年一月に丸の内|馬場先門《ばばさきもん》の前に西洋料理店を新築した。
翌年、建築が成って開店したものの、その日に旧|会津藩邸《あいづはんてい》から発した火で類焼した。かれはそれにもめげず、翌年、京橋区|采女《うねめ》町に店を新築し、開業した。立派な洋風建築であった。
店名を精養軒《せいようけん》と名づけ、この店が東京での初めての西洋料理店で、三年後に、上野公園内に支店をもうけた。
采女町の精養軒は関東|大震災《だいしんさい》で焼失し、その後は上野精養軒のみが営業をつづけ、現在に至っている。
その他、神田三河町に三河屋、築地《つきじ》に日新亭《につしんてい》、茅場町《かやばちよう》に海陽亭という西洋料理屋が店を開いていた。
(挿絵省略)
外国人の家に招かれた日本人は、西洋料理を出され、それを食べるが、さまざまな失策をおかしている。最も多いのは手洗碗《てあらいわん》と称されたフィンガーボールである。
「硝子《ガラス》の大きな碗に水を入れ、白布を添《そ》えて食卓《しよくたく》に置かれている」
それは指先を水に入れて洗い、白布で拭《ふ》くのだが、日本人は指先を洗うものだとは知らず、飲んで外国人に笑われた。
こんなしくじりをおかしながら、徐々《じよじよ》に西洋料理も日本人の間に浸透《しんとう》していった。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
五 アイスクリーム
――――――――――――――――――――――――――――
日本で最初にアイスクリームを口にしたのはだれか。沢太郎左衛門《さわたろうざえもん》ではないかと言われている。
沢は幕臣で、海軍創設につとめ、文久二年(一八六二)六月、オランダに留学、砲術、火薬等をまなび、帰国した。幕府|崩壊《ほうかい》後、軍艦《ぐんかん》「開陽丸」の艦長として榎本武揚《えのもとたけあき》に従い、新政府に反抗の姿勢をとって箱館《はこだて》におもむいた。
五稜郭《ごりようかく》に立てこもった榎本軍は敗れ、かれは榎本らとともに東京に押送《おうそう》されて投獄《とうごく》された。その後、放免《ほうめん》されて明治政府に仕え、近代日本海軍の発展のために力をつくした。
かれが、オランダへ留学する途中、バタビヤのホテルに滞在《たいざい》したが、その折のことを記した日記に、三食の食事が美味で、
「……アイスクリームの如《ごと》きは、別《べつ》して賞翫《しようがん》(ことのほかその味を賞《ほ》めたたえた)」
と、記している。かれは、余りのうまさに驚いている。
わが国では、明治二年(一八六九)に横浜馬車道通りの常盤町《ときわちよう》に、町田|房造《ふさぞう》という商人が店を開き、外国人からアイスクリームの製造法を教えてもらい、アイスクリームを売った。これが日本で初めてつくられたアイスクリームであった。
しかし、一般には普及せず、アイスクリームというものを知る者もいなかった。
成島柳北《なるしまりゆうほく》の「航西日乗《こうせいにちじよう》」という日記に、アイスクリームのことが記されている。
柳北は幕臣で外国奉行、会計副総裁を歴任したが、幕府|瓦壊《がかい》後、明治政府の誘《さそ》いも蹴《け》って野《や》に下り、後に朝野新聞の社長となって健筆をふるった人物であった。
かれは、明治五年、ヨーロッパに旅行したが、香港《ホンコン》を出帆《しゆつぱん》した折に船中で夕食をとり、「氷羹《ひようかん》を喫《きつ》す、太《はなは》だ美なり」と、日記に記している。
氷羹とはあきらかにアイスクリームをさし、かれのような知識人でもアイスクリームという存在を知らず、これをもってしても普及していなかったことがわかる。
翌年、明治天皇が、開拓使《かいたくし》の第一官園に行幸した時、アイスクリームを差し上げたことが当時の新聞にみられる。天皇がどのような感想をいだかれたか、当然のことながら記されていない。
明治九年(一八七六)九月の東京日日新聞には、「アイスクリーム製造機械納入」という見出しの記事がのせられている。
京橋区|五郎兵衛町《ごろうべえちよう》の輸入業者が、外国製のアイスクリーム製造機をある役所におさめた。役所では初めて購入《こうにゆう》したものであったので、言い値通りに値切りもせずに買い入れた。
(挿絵省略)
ところが、その役所の給仕の中に英文を読める者がいて、製造機に日本円に直して代価二円五十銭という札がはってあるのを見つけて、輸入業者が買い入れた値段を知った。
役所では、業者をすぐに呼び出し、いかに商売であろうと、あまりにも高く売りつけたではないか、と大いに叱《しか》り、業者は恐れ入って値引きをしたという。
二年後の六月八日に、東京|新富座《しんとみざ》で開業式がおこなわれ、その折に来賓《らいひん》にアイスクリームを出したが、それが新聞に特報として報じられたことからみて、まだ珍しかったのである。
明治十一年七月に、両国区若松町の西洋菓子本舗《せいようがしほんぽ》風月堂でアイスクリームをアイスキリムとして売り出し、その広告が新聞にのっている。「五拾銭より調進《ちようしん》 仕《つかまつり》 侯《そうろう》」とあり、当時かなり高価で珍重《ちんちよう》されていたことがわかる。しかし、この頃から一般にも普及していった。
(挿絵省略)
アイスクリームは、アイスクリンまたは氷菓子とも称されていた。そのことから、高利で人に金を貸す高利貸《こうりがし》を、アイスクリームと隠語《いんご》で呼んでいた。口にすると甘《あま》いが、歯にしみるほど冷たい人だという意味であった。
私の少年時代、アイスクリームは、焼《や》き芋《いも》を売る店でつくられ売られていた。
芋がこまかい黒石を敷いた鉄鍋《てつなべ》の上で焼かれ、少年少女がむらがっていた。その店に夏が近づくと氷と書いた旗が店先に立てられ、ガラスのれんが垂れる。
店ではかき氷が売られていたが、真鋳製《しんちゆうせい》のアイスクリーム製造機の中ではアイスクリームがつくられ、モナカに入れて渡《わた》してくれる。価格は一銭であった。
母に連れられて百貨店の食堂に入ると、夏は必ずアイスクリームを注文した。アイスクリームにウエハースが添えられているのが、嬉《うれ》しかった。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
六 傘《かさ》
――――――――――――――――――――――――――――
私の家には、高校卒の娘さんが住み込みで働いてくれている。妻も私同様、小説家なので、彼女《かのじよ》が家事一切をこなし、私と妻の秘書の仕事もして原稿《げんこう》の発送、編集者からの電話の応対もしてくれる。
ある夕方、帰宅した私は、携帯用《けいたいよう》の傘を食堂の隅《すみ》にある台の上に置き、
「今は雨がやんでいるので畳《たた》んであるけど、あの蝙蝠《こうもり》、雨に濡《ぬ》れているから干しといてね」
と、その娘さんに頼んだ。
娘さんは、いつも返事がいいが、はいと応ずる声がしないので、彼女に眼をむけた。
彼女は、無言で私の置いた傘を見つめている。恐れに近い色が眼にうかび、身じろぎもしない。
私は、一瞬《いつしゆん》なぜかわからなかったが、すぐに理解できた。傘は黒く、折畳んであるので、彼女は、実際の蝙蝠と思い、恐怖感《きようふかん》をいだいているのだ。
「ごめん、ごめん。私の若い時は、傘をコーモリと呼んでいたんだ。その癖《くせ》が今でも残っている」
私は、笑いながら説明した。
昭和十年代、私が少年の頃、傘と言えば和傘がほぼ主流と言ってよかった。生家は綿糸|紡績《ぼうせき》と寝具用《しんぐよう》の製綿業を営む、いわゆる商家であったので、事務所(帳場と言った)の壁《かべ》には、※という事業所名の略号を記した番傘が二、三十本垂れ下がっていた。
柄《え》と傘の骨は竹製で、油紙が貼ってあり、傘に壹《いち》、貳《に》、參《さん》と番号がつけられていたので、番傘と言った。柄も骨も太く粗雑であったが、丈夫《じようぶ》であった。
(挿絵省略)
上質の傘もあって、柄と骨は細く、油を塗った質の良い和紙が貼られていた。婦人用のものは、紫《むらさき》や緑の紙が貼られ、それをさす婦人の顔が薄い紫や緑の色に染《そ》まって、なまめかしかった。
蛇《じや》の目傘《めがさ》というものもあって、紺《こん》の下地に蛇《へび》がとぐろを巻いたような太く白い線がえがかれていた。
(挿絵省略)
雨が和傘に当たる音は快く、私は、夏など番傘をさして夕立の中を歩いたりした。
洋傘もかなり出まわっていて、私も小学校、中学校に通う時は、蝙蝠つまり洋傘をさしていた。
むろん洋傘は、西洋から伝来したものである。
安政元年(一八五四)、アメリカの使節ペリーが軍艦七|隻《せき》をひきい、神奈川《かながわ》に上陸した時の絵図に、洋傘を開いた形と閉じた形が描かれている。
鯨《くじら》の骨八本が放射状に組まれ、その上に薄い絹が張られていて、その形が「色黒くして蝙蝠の如《ごと》く見ゆ」と説明されている。洋傘を開くと、蝙蝠が翅《はね》をひろげた形に似ていて、早くもこの時から洋傘を蝙蝠傘と名づけていたのである。
安政七年(一八六〇)一月、軍艦奉行|木村喜毅《きむらよしたけ》や軍艦操練所教授|勝安芳《かつやすよし》(海舟《かいしゆう》)らがアメリカにむかった。
かれらは、ニューヨークにおもむき、道を往《い》き交《か》う男女が、「皆蝙蝠傘を携《たずさ》ふ」と日記に記している。雨天の日だけではなく、日除《ひよ》けにも使っていたのである。
木村は、蝙蝠傘を珍しがり、一本を買い求め、同行の者たちに、
「日本に持ち帰って、これをさして江戸の町なかを歩いたらどうだろう」
と、言った。
これに対して、
「芝《しば》のお屋敷《やしき》(木村の屋敷)から日本橋まで歩く間、命がいくつあっても足りないでしょう。西洋かぶれの許せぬ奴《やつ》だ、として、攘夷派《じよういは》の浪人に斬《き》り殺《ころ》されますよ」
と、一人の例外もなく答えた。
木村は苦笑し、
「それでは、屋敷の中で時折ひろげて見る以外にないな」
と言ったということが、福沢|諭吉《ゆきち》の自伝の中に記されている。
このように蝙蝠傘は西洋を象徴《しようちよう》する物騒《ぶつそう》なものであったが、幕末も終わり頃になると、武家がこれをさし、やがて一般にも用いられるようになった。
明治時代に入ると、さらに普及し、明治十四年(一八八一)の朝野新聞には、
「わが国では、晴雨の別なく傘と言えば蝙蝠傘というほどで、これまで使われていた和風の雨傘や日傘を使う者は少なくなりつつある。しかし、和傘は魅力《みりよく》があり、イギリスや清国《しんこく》では、和傘をさすのが見栄《みえ》のようにもなっていて、その両国に輸出する量が多くなっている」
という趣旨《しゆし》の記事が見られる。
蝙蝠という小動物は、夕方になると棲《す》む所から出てくる。私の少年時代、生まれ育った東京の下町にも、蝙蝠がどこからともなく出てきて、群れをなして飛び交った。その数はおびただしく、夕焼の空を背景にそれらが飛ぶ情景が眼に焼きついている。
そうした情景からの連想で、明治十二年五月、玉雪堂《ぎよくせつどう》という雅号《がごう》の人のつくった、
「蝙蝠が白昼に飛ぶ御一新」
という川柳《せんりゆう》がある。
夕方にしか出てこぬ蝙蝠が、明治の御代《みよ》になると、昼間でも傘となって姿を見せる、という意味である。
その後、洋傘は、蝙蝠、または蝙蝠傘として生活の必需品《ひつじゆひん》となった。第二次世界大戦|勃発《ぼつぱつ》までイギリスの首相であったチェンバレンの写真を見ると、常に蝙蝠傘を携行し、ステッキ代わりにもしていたのを知った。
また、喜劇王として名高いチャップリンは、蝙蝠傘を演技にいかしていた。
戦後、洋傘は依然《いぜん》として蝙蝠と称され、そのうちに携帯用の折畳み式の傘が登場した。
殺人をおかし無期刑の判決を受けて服役し、二十年近くたって仮釈放された男を主人公にした『仮釈放』(新潮文庫)という小説を書いたことがある。
仮釈放された者は、社会になじむ準備段階として、各地にもうけられた更生保護会で一定期間、寝起きしてすごすのを常としている。その実態を知るため、東京新宿区にある更生保護会に行き、主宰者《しゆさいしや》に会って話をきいた。
主宰者は、毎日のように仮釈放された者を連れて電車やバスに乗ったり、食堂、デパートなどに入ったりする。二十年近い獄舎生活の間に社会の変化は激しく、それになれさせるため連れ歩くのである。
デパートでは買物もさせるが、仮釈放者が驚くのは洋傘を買う時だという。デパートの店員が傘の柄についているボタンを押《お》すと、音を立てて傘が開く。仮釈放者は、例外なく後ずさりし、驚いて傘を見つめるという。
その話から、ワンタッチで傘が開く装置が画期的なものであるのを感じた。
このような改良はあったものの、洋傘の本質に変化はない。形態は幕末に輸入されたものと全く同じで、このような生活用具は珍しい。
名称だけは変わり、蝙蝠または蝙蝠傘などと言うのは、前世紀の遺物のような私ぐらいのもので、現在ではそのような呼び方はしない。単に、傘と呼ぶ。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
七 国旗
――――――――――――――――――――――――――――
国旗である日の丸は、江戸時代の廻船にかかげられた幟《のぼり》、旗の船印からはじまっている。
日本各地に幕府が管理する天領と称された地があって、そこで産した米が、御城米《ごじようまい》(年貢米《ねんぐまい》)として江戸の幕府に船で運ばれた。
この船には御城米以外にも銀や銅なども積まれ、一般の廻船と区別するため、白地に朱色《しゆいろ》の丸印をえがいた船印がかかげられていた。その船印には、御用、御城米という文字が記され、一般に朱の丸御用船と言われ、幕府御用の船として権威《けんい》づけられていた。
寛文《かんぶん》十三年(一六七三)二月には、御城米を輸送する船には、すべて朱の丸(日の丸)の船印を立てるように命じ、それは幕末に及んでいる。
このことについて、私は『朱の丸御用船』(文春文庫)という小説を書いた折に、史料にあたってその仕組みについて知った。御用船は、当然のことながら寄港する港で特別扱いされ、船も新造船、乗組員も選びぬかれた者たちに限られていた。
幕末になると、幕府は、諸藩《しよはん》に外国と対抗する必要から大船製造を許している。大船とは、この場合、西洋型の武装した帆船《はんせん》を意味し、まず幕府が嘉永《かえい》七年(一八五四)五月に浦賀《うらが》で完工させ、「鳳凰丸《ほうおうまる》」と命名した。
九州の雄藩《ゆうはん》である薩摩《さつま》藩では、それより半年後に「昇平丸《しようへいまる》」という西洋型帆船を完成させている。
その頃には開国によって渡来《とらい》する外国船が多く、それらの船と識別するため、まず「鳳凰丸」に日本|船籍《せんせき》であることをしめす必要から、日の丸の船印をかかげた。
ついで薩摩藩が「昇平丸」を幕府に献上《けんじよう》するため、日の丸の船印を立てて品川|沖《おき》につき、投錨《とうびよう》した。
この献上に際して、薩摩藩主|島津斉彬《しまづなりあきら》は、日本のすべての船に同一の船印を立てるべきだ、と老中首座|阿部正弘《あべまさひろ》に建言した。
斉彬は、すでに水戸、尾張《おわり》、宇和島《うわじま》の各藩主の賛同を得ていると前置きして、日本は日出づる国と言われていることから日の丸が最もふさわしい、と述べた。
阿部は大いに賛成し、他国に類似のものもないことから、
「異国船と区別するため日本の船印は、白地に日の丸とする」
と、一般に通達した。
これによって、日本でつくられた西洋型帆船には、日の丸の旗が立てられることになった。
安政七年(一八六〇)、幕府の使節としてアメリカに派遣《はけん》された新見正興《しんみまさおき》一行を乗せたアメリカ軍艦に随伴した「咸臨丸」は、日章旗をひるがえしてサンフランシスコ港に入港した。白地に日の丸という旗は、サンフランシスコの市民に強烈《きようれつ》な印象をあたえた。
その後、日の丸は船印にとどまらず、明治政府はこれを国旗とすることに定め、明治三年(一八七〇)正月二十二日、それを布達した。旗の大きさは横と縦《たて》の比率を十対七とし、旗の縦の五分の三とする日の丸を、中央に描くものとした。
(挿絵省略)
明治五年、天皇が長崎、鹿児島《かごしま》方面を巡幸《じゆんこう》した折には、旗を立てる家がなかったが、九年に奥羽《おうう》地方を巡幸した時には、山間部の家々まで国旗がかかげられ、日の丸が全国に浸透したのである。
日の丸は、薩摩藩が建造し完成した西洋式帆船「昇平丸」に船印としてかかげられたのが最初だ、ということが半ば定説化している。しかし、それよりはるか以前に、幕府御用船すべての船に、日の丸の船印が立てられていたのである。
海上を進む船の船印が、そのまま国旗に制定されたとは、いかにも四囲を海にかこまれた島国らしい。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
八 幼稚園《ようちえん》
――――――――――――――――――――――――――――
明治六年(一八七三)に和田|収蔵《しゆうぞう》という人物が、外国にある幼稚園を童子園《どうじえん》として、わが国に紹介したのが初めである。
かれは、オーストリアでもよおされた万国博覧会に事務官としておもむき、帰途ドイツにまわってそのような施設があるのを伝えたのである。
これを近藤真琴《こんどうまこと》が「子育《こそだて》の巻」という冊子で紹介し、日本にも幼稚園をもうけようと考えた。近藤は秀れた語学教育者であり、海軍兵学校教官となって海軍建設のため尽力した。語学教育を推し進めるため攻玉塾《こうぎよくじゆく》をもうけて多くの人材を育成し、塾は、その後も発展をつづけ、現在の攻玉社学園となっている。
ドイツでの幼稚園は、労働を余儀なくされている婦人が子供をあずける、いわゆる託児所《たくじしよ》であった。ドイツでは、多くの者が金を出し合って、幼児の面倒《めんどう》をみてくれる保母をやとう、いわゆる慈善行為《じぜんこうい》によって成り立っていた施設であった。
日本でも、女性で労働に従事する者が増していて、近藤はドイツ方式にしたがって幼児の世話をし、労働婦人の助けになろうと考えたのである。
しかし、それに対する反対の声は多く、近藤の努力の甲斐《かい》もなく、実現せずに終わった。
一方、そのうちに外国を視察する教育関係者が幼稚園の存在を知るようになり、それを幼児教育に必要であると判断した。そして、明治九年(一八七六)に、東京女子|師範《しはん》学校内に幼稚園をもうけ、これが日本での最初の幼稚園となった。
これは、同校の校長中村|正直《まさなお》の建議によるもので、三歳から七歳の幼児を収容した。
この幼稚園は、託児所の性格をもつドイツの幼稚園とは基本的に異なり、中流以上の家庭の幼児をあずかり、教育をほどこす施設であった。
主任教師には、松野|※[#「石+間」、unicode7900]《はざま》と結婚《けつこん》していたドイツ人クララを任命した。園児は百五十名、保母二人、助手五人であった。
(挿絵省略)
翌年十一月二十六日、皇太后《こうたいごう》と皇后が、女子師範学校内の幼稚園に行啓《ぎようけい》した。
学校の門前には、文部|大輔《たいふ》(次官)田中|不二麿《ふじまろ》以下校長らが出迎え、幼稚園に案内した。
園児たちは整列して頭をさげ、皇太后、皇后は園内を見てまわり、園児の作った手工品も見た。
皇太后、皇后は、園児たちに見送られて帰途につき、園児たちには菓子一折ずつを下賜《かし》した。
この幼稚園に保母として勤めていた近藤《こんどう》はまが、幼稚園を辞して芝公園内に近藤幼稚園を開いた。これが私立幼稚園の最初であった。
このように幼稚園は、中流以上の家庭の幼児を収容していたが、その性格は大正、昭和の時代に入っても変わりはなかった。外国の幼稚園が、幼児をかかえた婦人の手助けをしようとして発足したものであったが、日本では一貫《いつかん》して中流以上の家庭の幼児教育のためのものであった。
この傾向《けいこう》は、戦後、かなり薄らいだものになっているが、それでも基本的な姿勢はそのまま持続されている。
私は、昭和八年五歳の春、隣町である根岸の神愛幼稚園というカソリック系の幼稚園に入園した。
キリスト教に入信することを求めるようなことはなかったが、クリスマスには教会に入って長い椅子《いす》に座った。オルガンの演奏のもとに「清しこの夜」の美しい歌声に陶然《とうぜん》とした。幼稚園には「キンダーブック」という外国でつくられた絵本などがあって、別世界に身を置いているような気持ちであった。
その幼稚園は、今でもある。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
九 マッチ
――――――――――――――――――――――――――――
マッチは、人々の生活になくてはならぬ必需品であった。
米を炊《た》き、料理をつくる時には、マッチをすって火をおこす。仏壇《ぶつだん》に灯明《とうみよう》をあげる時など、すべて火をおこすにはマッチを使った。江戸時代は火打ち石をたたき合わせて苦労して火種《ひだね》を得たことからくらべて、マッチはまことに便利なありがたい発火具であった。
(挿絵省略)
マッチは、初めは経木でつくった箱に入っていて、後にボール紙でつくられたものに変ったが、小型の箱は携帯用、大型のものは台所用で、それらはいずれも各家庭にそなえられていた。西部劇の映画で、馬にまたがったカウボーイが、靴底《くつぞこ》でマッチをすって火をつけ煙草《たばこ》をすう姿を見て、外国にはそんなマッチがあるのかと驚いた。
これは摩擦《まさつ》マッチと言われるもので、終戦後、進駐してきたアメリカ兵が使うのを見た。摩擦すれば、どこでも発火するので、危険という理由で日本では普及はしなかった。
戦争末期から終戦後までは物資が極度に不足し、マッチは配給制になっていた。このマッチが粗悪きわまりないもので、マッチを二、三度すっただけで軸木《じくぎ》が折れる。その上、軸木の頭部についている薬品も質が悪いらしく、点火しない。
やむを得ず、虫メガネで太陽光線を集め、紙に火をつけたりした。
少年時代、夜おそく、生まれ育った町の家並を縫《ぬ》って火の番が錫杖《しやくじよう》を突き鳴らしたり拍子木《ひようしぎ》をたたいたりして歩く。「マッチ一本火事のもと、火の用心」という男の声を、寝床《ねどこ》で耳にした。マッチは、人々の生活に密着したものであった。
マッチは、西洋では古くからあって、江戸時代以前に日本に来たキリスト教の宣教師が、馬に乗って旅をする時、自分の爪《つめ》から火を発して煙草をすったという記録が残されている。それは摩擦マッチで、初めて見る日本人には、爪から火を発させたように見えたのである。
幕末になると、ヨーロッパやアメリカへ留学生や使節が渡り、西洋にマッチというものがあるのを知り、土産《みやげ》に持ち帰る者もいた。
さらに明治時代に入ると、珍奇な物としてわずかながら輸入もされるようになった。
(挿絵省略)
元|金沢《かなざわ》藩士に、清水《しみず》誠という人物がいた。
明治三年夏、清水は藩の命令でフランスに留学し、廃藩置県《はいはんちけん》の公布で藩が消滅《しようめつ》したので文部省留学生として、パリ工芸大学に入って工学をまなんでいた。
たまたまフランスに視察のため来ていた吉井友実《よしいともざね》に会った。吉井は元|鹿児島《かごしま》藩士で明治維新の戦乱に功績をあげ、宮内少輔《くないしようゆう》として政府に仕えていた。
吉井は、テーブルに置かれたマッチを手にとり、
「このようなささやかな物まで、すべて輸入せざるを得ないのは、まことに残念だ」
と言い、だれかこれを製造する者はいないか、と探したが、だれ一人として耳をかたむける者はいない、と嘆《なげ》いた。
清水は膝《ひざ》を乗り出し、
「私は、大学で製造工業を好んで研究して参りました。日本は幸いにも山林に富み、マッチに必要な軸木を入手するのに恵《めぐ》まれております。マッチを製造するには自信があります。帰国いたしましたら、マッチの製造に力をつくします」
と、力をこめて言った。
その言葉に、吉井は大いに清水をはげました。
清水は、明治七年十月に帰国し、翌年四月に金沢から東京に出て、吉井を訪れ、マッチ製造に取り組むことをつたえた。
吉井は喜び、三田四国町にある自分の別邸《べつてい》を仮工場に提供した。
フランスに滞在中、マッチの軸木に白楊樹《はくようじゆ》(ハコヤナギ)が適していることを知った清水は、四方に人を派して探しまわった。その結果、日光山中にみられることを知り、さらに信州(長野県)の諏訪《すわ》附近と富士山の山林に多いことを確認した。白楊樹は、それまでなんの役にも立たぬ樹木であるとされていたが、マッチの軸木として重要視されるようになった。
(挿絵省略)
軸木の頭部につける燐《りん》などの薬品も集め、フランスから持ち帰ったマッチを参考にして試作した。摩擦板もつくり、すってみると、発火した。
清水は、すぐに吉井に報告し、二人はマッチにともる火を見て喜び合った。
マッチが日本人の手で初めてつくられ、将来、有望な産業になると考えた清水は、官職を辞してこの事業に専念することを決意した。
かれは、吉井と意見を交わし、三田四国町の仮工場を閉じて本所柳原《ほんじよやなぎはら》町に新工場を建設し、新燧社《しんすいしや》という看板をかかげた。燧とは火打ち石のことで、それに替《か》わる新しい発火具という意をこめた社名であった。
当時、新しく事業を興す者は、国益を利するものでなくてはならぬという考え方が浸透していた。
明治時代に入ってあらゆる分野に大改革が目まぐるしくおこなわれ、それについてゆけぬ者が多かった。かれらは右往左往するだけで、金銭収入の道を得られずにすごしていた。これらの貧民を救済することが国の政策の重要課題となっていて、新しい事業を興す者はこれに応じて、かれらを積極的に雇《やと》い入《い》れるという風潮があった。
清水も、社会的意義を考え、マッチ製造はできるだけ機械にたよることなく、人を雇用《こよう》して人の手でつくる方針を立てた。事業の性格上、作業をするのは主として女性で、日本人の慣習から座業する方法をとった。
新燧社は、明治八年(一八七五)秋に創業し、輸入されるマッチとともに市場に姿をみせるようになった。品質は、輸入マッチより劣《おと》ってはいたが、価格が安いため、徐々に市場に出まわるようになった。
(挿絵省略)
清水は、鋭意《えいい》改良に改良を加え、翌年夏頃には、輸入マッチに劣らぬマッチを世に送り出すまでになった。
その頃、内務卿《ないむきよう》の大久保|利通《としみち》と大蔵卿|大隈重信《おおくましげのぶ》が新燧社を訪れ、女子の作業を観《み》てまわった。事業は貧民雇用の国策にそっていて、二人は清水を賞讃《しようさん》し国内産業の振興《しんこう》に努力するようはげました。
これがきっかけで、資本が少なくてすむマッチ産業が各地に興り、日を追ってその数が増していった。
清水は、十年九月、製品を横浜港より上海《シヤンハイ》に輸出した。上海の取り扱い商社は廣業《こうぎよう》洋行で、評判はよく、ぞくぞくと注文が寄せられるようになった。これは、翌年七月の朝野新聞に「新燧社製造の早附木《はやつけぎ》(マッチ)、輸入を駆逐《くちく》して更《さら》に支那《しな》へ輸出」という見出しのもとに大きく報道され、新燧社の社名はとみにあがった。
マッチ製造所は東京のみならず、大阪《おおさか》、神戸《こうべ》、名古屋、静岡《しずおか》にも設けられるようになっていた。
十一年七月、政府は、清水にパリ万国博覧会に出張している内務省|勧農《かんのう》局長|松方正義《まつかたまさよし》のもとに行き、甜菜《てんさい》から砂糖をつくる方法を調査してくるよう命じ、清水はフランスに渡った。
松方に会うと、その製造方法の調査はすでに他の者に依頼《いらい》してあるので、マッチの製造方法についてもっぱら調査するよう命じられた。
清水にとってそれは願ってもないことで、マッチを発明したスウェーデンのヨンコピンク製造会社の調査をくわだてた。しかし、同社は企業秘密に徹《てつ》していて、製造過程を外国人に見学させることをきびしく禁じていた。
清水は、なんとしてでも見学しようと考え、一計を案じた。日本政府の命令でヨーロッパの工業全般を視察する目的でやってきたと称し、各工場をまわって、その中にヨンコピンク社も入れてマッチ製造法を探ろうと考えたのである。
かれは、日本から来た工業視察員という名目でスウェーデンのストックホルム銀行頭取の添書《そえがき》を得、通訳をともなってストックホルムに行き、必要もない工場をいくつも観てまわった。さらにかれは、それらの工場視察をストックホルムの新聞に記事として書かせ、マッチ工場調査という真の目的をかくすことにつとめた。
かれは機会をねらい、その冬、雪の霏々《ひひ》と舞う中をヨンコピンク社を訪れ、銀行頭取の添書を見せて、見学を申し出た。これまでの周到《しゆうとう》な工作が効を奏して、社長はそれを受け入れた。ただし、会社は、見学させるにしても機械の傍《かたわ》らに短時間でも立ちどまることを禁じた。
かれは、製造過程を見て歩く間、会社の社員に質問をつづけた。それが専門家でなければわからぬ内容であったので、日本のマッチ製造家であると見なされ、見学を阻止《そし》された。
清水は、素人《しろうと》ながらマッチそのものに好奇心をいだいているだけだ、と通訳を通して弁解し、ようやく会社側も疑いを解き、ひきつづいて見学することを許した。ヨンコピンク社の規模は大きく、日に百トンのマッチを製造しているとのことであった。
かれのもとに、日本から悲報が寄せられていた。本所柳原町の工場が全焼したという報《しら》せであった。
かれは嘆き悲しんだが、目的のヨンコピンク社の視察を果たしたことで、ただちに旅装をととのえ、汽船に乗ってフランスをはなれ、帰国した。十二年四月であった。
かれは、早速、工場の再建につとめ、ヨンコピンク社視察で得た新知識を導入して商品の改良試作をし、新会社を設立した。
(挿絵省略)
事業は盛況《せいきよう》をきわめ、翌年には従業員八百名を越えるまでになり、売り上げは日に千円以上となった。輸出に一層力をそそぎ、上海以外に各国へ輸出するまでになった。
かれは、従業員の雇用に斬新な方法を採り入れた。事務職員から工員にいたるまで、すべて積立金を貯《たくわ》えさせ、社をあげて一致して相互扶助《そうごふじよ》の法をもうけた。
(挿絵省略)
また、工場で働く十歳から十七歳までの女子には、工場の二階に教室をもうけ、小学校の教科書を使用して授業をし、家庭に入って必要な裁縫《さいほう》、料理も習得させた。
これが評判になり、業績はさらにあがって、それまで市場に出まわっていた輸入マッチは完全に姿を消した。
しかし、マッチ製造所は全国に急速にふえ、競争も激化して清水の会社の経営状態が悪化、明治二十一年十一月に倒産《とうさん》した。負債《ふさい》は五十六万余円、債権者は三井《みつい》銀行、第一、第三銀行で、工場その他が公売に附された。
これが日本のマッチの創造史であるが、その後、マッチ工業は順調にのび、各家の必需品として需要も安定した。
私が初めてマッチ工場を見学したのは、昭和五十三年、今から二十六年前である。
その頃、私は、文芸誌「新潮」の依頼で一挙|掲載《けいさい》を予定された『遠い日の戦争』(新潮文庫)と題する長篇小説の執筆に手をつけていた。
主人公は、終戦後、福岡《ふくおか》の軍司令部に所属していた陸軍の将校で、実在の人物であった。
かれは、福岡市を無差別|爆撃《ばくげき》のため飛来し撃墜《げきつい》されたアメリカ爆撃機B29から、パラシュート降下した飛行士を斬首によって処刑した。やがて、アメリカ軍が進駐してきて、かれは戦争犯罪人として追われる身になる。
身許《みもと》がばれぬよう、沖縄《おきなわ》生まれの比嘉《ひか》という偽名《ぎめい》を使って各地に潜伏《せんぷく》し、最後に姫路《ひめじ》市|郊外《こうがい》の白浜《しらはま》という地にあるマッチ工場で働き、捕らわれる。
そのため、私は白浜に行き、かれが働いていたマッチ工場を訪れたのである。
経営者は死去し、三十代半ばの息子《むすこ》さんが社長をしていた。
終戦から三十三年もたっているので、むろん社長さんは、比嘉という偽名を使っていた小説の主人公のことは知らず、従業員の中にも知る人はいなかった。
社長さんは、親切に工場内を案内してくれた。製造過程はオートメ化されていて、工場内は清潔で美しかった。
社長さんは、時代の流れとともにマッチ産業も変化している、と言った。家庭で使われるマッチの需要は減少傾向にあり、それに代わって広告マッチの注文が増しているという。広告マッチとは、飲食店などで客に渡すマッチで、そこには店名、住所、電話番号が印刷されている。
なるほどと私は思い、その会社を辞した。
その後、マッチはどのようになったか。
ガス台に点火する時は、それまでマッチが使用されていたが、現在ではスイッチをひねると同時に点火するものが多い。喫煙時《きつえんじ》にマッチは不可欠であったが、百円ライターが急速に普及し、マッチを使う人は絶えてない。銀行などが宣伝用のマッチを、取引のある会社に配っていたが、眼にすることは全くなくなっている。
マッチは、時代の流れとともに消えてゆくのだろうか。
マッチをすると、軸木の頭部にともる明るい炎《ほのお》。かすかな匂《にお》いもして、心が安らぐこともある。それが今では、郷愁《きようしゆう》に近いものになってしまっている。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
十 電話
――――――――――――――――――――――――――――
電話は、一八七六年(明治九年)三月十日、アメリカ人のアレキサンダー・グラハム・ベルによって発明された。
翌年十一月には、早くも電話機が日本に輸入され、それは、アメリカにとって商品としての電話機の輸出第一号であった。
二台の電話機が横浜のパヴィア商会の手をへて輸入されたのだが、これが工部省という商工業指導の役所に納められた。
この電話機は、英語そのままに「テレフォン」と呼ばれ、新聞などでは「伝話機」という呼び名が用いられていたが、やがて「電話」という名に統一された。
(挿絵省略)
最初に電話が使用されたことについては、さまざまな説があるが、電話を輸入した工部省と築地《つきじ》電信分局(後の電信中央局)との間で、明治十年十二月ごろ試用されたという説が有力である。
その後、工部省では、ベル発明の電話機にならって模造品をつくり、明治十一年に二台、十二年に六台と、その数も徐々に増していった。もっぱら役所間に電話線が架設《かせつ》され、迅速《じんそく》な連絡を必要とする警察関係でも採用された。
電話で、私たちは最初に「もしもし」と言う。ふだん使っているのでなんとも思わないが、考えてみれば不思議である。しかし、最初に使用されたのが役所と役所の間であったことから、その理由を知ることができる。
明治維新後、役所につとめる吏員は武家またはそれに準じる人々が多く、電話の第一声として、
「もうし、もうし、そこを行かれる方」
などという武家の使った呼び方のもうしという言葉から、「もし、もし」という言い方が使われ、それが百年以上もたった現在でも使われているのである。
(挿絵省略)
このように、電話は官庁間の連絡に使われていたが、明治二十二年一月一日には、東京電信局と熱海《あたみ》電信局間で、民間人の電話通話がはじめられた。
(挿絵省略)
五分間の通話料は十五銭で、だれと話したいかをあらかじめ東京の本局につたえておくと、本局では、相手の人に連絡する。しかし、その人が九町以内の地にいれば五銭、十町から二十町までの間にいると十銭と、距離《きより》が遠くなるにしたがって増額する仕組みになっていた。
通話したい者同士、それぞれ定められた時刻に電信局に出向いて来て、受話器を耳にあてたのである。
このような面倒な方法でしか通話できなかったので、利用する者はほとんどいなかった。
電話|交換局《こうかんきよく》がもうけられ、それを機に電話機を設置するよう主として商人たちを大いに勧誘《かんゆう》したが、東京でそれに応じた者はわずか二百十五人に過ぎなかった。
日露《にちろ》戦争後、実業界がにわかに活気づいて電話の需要が急に増した。と言っても、それは、政治家、財界人など特権階級の人に限られ、一般人が互《たが》いに連絡をとり合うのは、書簡、葉書による方がはるかに格安で、電話を利用する者はごく少数であった。
大正期に入って、ようやく電話はわずかながらも普及し、官庁をはじめ、ことに警察関係や新聞社には不可欠のものとなっていた。
大正十二年九月一日に発生した関東大震災は、東京とその周辺地域の電話機構を潰滅《かいめつ》させた。
電線はすべて焼け、電信柱約六万本が焼失、または転倒した。
警視庁では、内務省に依頼して飛行機を飛ばして大阪府と連絡をとり、駆逐艦「川風」に電話線二十マイル分をのせて芝浦《しばうら》にとどけさせた。また、電柱は群馬、福島両県からとり寄せ、各警察、消防署等の電話線架設につとめたが、十月十日に至ってもその五分の一の復旧をみたにとどまった。
電話局の大半は全焼、大破し、電話が復旧するまでには三年を要した。
昭和に入り、電話は一般家庭にも徐々に普及していった。
電話機の横についている細いハンドルをまわすと、電話交換局が出る。交換手は女性で、通話を申し込むと、相手の電話機につないでくれる。
そのうちに自動ダイヤル式になり、ダイヤルをまわして相手と通話ができるようになった。
しかし、一般には電話のある家は稀《まれ》であった。
私の生家は、綿糸紡績とふとん綿製造を業《なりわい》とした商家であったので、帳場(事務所)に初めは一本、ついで一本増やして二本の電話があった。番号も不思議なことに鮮明《せんめい》に記憶していて、根岸局の四一八一番と四一八二番であった。
むろん、主として商用に使っていたが、呼び出し電話がかかってくることもあった。近所に住む人と電話で話したいことがあるので、呼んできて欲しい、という。近所に住む人は、封筒《ふうとう》や名刺《めいし》に※として、私の家の電話番号が記してあった。
呼んできてくれと言われても少しも迷惑《めいわく》とは思わず、母に命じられて私は、その家に走ってゆき、
「電話です」
と、つたえる。
私はその人と一緒に家まで走ってもどるが、見知らぬ人もかなりいた。
地方への通話は、申し込み制になっていて、余り眼にしたこともない人が来て、電話を貸して欲しいと言って電話局に申し込む。
電話が通じるまでにはかなりの時間がかかるので、その人は帳場の椅子に座ったりして待つ。母が茶菓《さか》などを出して世間話をし、ようやく通じると、その人が受話器を耳にした。
なんとも悠長《ゆうちよう》な話で、そのように近所の人に電話を使ってもらうことが、電話のある家の義務であったのである。
やがて、戦争がはじまり、大規模な空襲があって、東京の大半は焦土《しようど》と化した。
焼跡《やけあと》で、奇妙《きみよう》なことをしている男の姿を眼にするようになった。電柱が焼けてわずかに焦《こ》げた頭部が点々と地表からのぞいていたが、男は土中に残された電柱を掘《ほ》りあげているのである。
それは、かなりの労力を必要としたが、掘りあげられた部分は、想像以上に長く立派で、それが土中に埋《う》めこまれていたのを知った。男はそれをかついでその場をはなれていったが、貴重な薪《まき》にして売っていることを耳にした。
近時、電話機は目まぐるしく改良されている。
小説を書く私は、電話をかける描写でダイヤルをまわし、と書いていたが、今ではプッシュボタンを押し、としなければならない。「ダイヤルMを廻せ」などという題の洋画があったが、今ではそのような題では通用しない。
携帯電話の普及はすさまじく、それを耳にあてて歩く人は多い。今後、どのように進化してゆくのか、予想もつかない。
しかし、電話機がどのように改良されていっても明治初期に電話が輸入された時、「もしもし」と言った呼びかけ言葉がそのまま残っているのが、面白い。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
十一 蚊帳《かや》・蚊取り線香
――――――――――――――――――――――――――――
蚊ほどきらいな昆虫《こんちゆう》はない。
生家がふとん綿製造工場を経営していたので、少年時代、取引先の寝具店についての知識は持っていた。
寝具店の取り扱う商品の中で、蚊帳はかなり重要な商品であった。春も終わりに近くなった頃から蚊帳は売れ出し、夏の盛りをへて晩秋の頃まで売れに売れる。家庭になくてはならぬ必需品であった。
蚊帳は、古くから用いられていたが、『近世風俗事典』(人物往来社)には、初期の蚊帳のことが図入りで紹介されている。
蚊帳の四隅が井桁《いげた》の竹にむすびつけられていて、竹を張って蚊帳をひろげるが、しまう時には竹をたばね、蚊帳をたたんで棹にかけるという。魚を採る四《よ》つ手網《であみ》をたたむのに似ていて、これは簡単である。
(挿絵省略)
むろん私が知っているのは、蚊帳の四隅に環がついていて紐《ひも》で吊《つ》る方式のものだった。朝起きて、たたむのが一苦労で、蚊帳は重かった。
蚊帳の布は綿《めん》か麻《あさ》で、通常は緑色だった。江戸時代創業の蚊帳問屋の言いつたえによると、蚊帳をかついで地方に売り歩く途中、疲れて休息をとっていると、眼の前にひろがる樹葉の緑に疲れがいえたことから、蚊帳の色を緑にしたのだ、という。
(挿絵省略)
本当かどうかわからないが、それ以前は白色、茶色で、江戸時代半ば頃から緑一色になったようだ。
少年時代、緑以外に白いものがあり、裾が青ぼかしになっているものもあって、私はその蚊帳の中で寝るのが好きであった。
夜、浴衣《ゆかた》を着て縁日に行き、買った蛍《ほたる》を持ち帰り、籠《かご》から出して白い蚊帳の中に放つ。身を横たえて明滅する蛍の光をながめているうちに、いつの間にか眠《ねむ》りに落ちていった。
幼児用に母衣《ほろ》蚊帳というものもあった。
上部の要《かなめ》についている紐を引くと、たたまれていた針金が傘状にひらき、テントのように蚊帳がひろがる。一|畳《じよう》ほどの広さで、蚊帳は白く裾が青ぼかしになっていて、白い鴎《かもめ》の飛ぶ姿が刺繍《ししゆう》され、その中で幼児は安らかに寝ていた。
蚊帳の大きさは、部屋の広さに応じて六畳もの、八畳ものが売られていて、雷《かみなり》が鳴る時に蚊帳に入っていると安全だ、という説がもっぱらであった。
今は亡い落語家の古今亭志《ここんていし》ん生《しよう》さんに、貧乏《びんぼう》時代のことを書いた随筆《ずいひつ》がある。
かれの住むなめくじ横丁にある粗末な長屋に、蚊帳売りの商人が訪れてくる。その長屋は蚊が多く、蚊帳を持たぬ志ん生さんは、毎夜、蚊になやまされている。
商人は、売れ残った最後の一張りだから格段に安い値段で売ってもいい、と言う。
志ん生さんは、これはありがたいと考え、なけなしの金を商人に渡し、蚊帳を買う。
夜になって蚊音がはげしくなり、志ん生さんは今夜こそぐっすり眠れると、嬉々《きき》として蚊帳を吊る。ところが、蚊帳は上方の部分が全くなく、詐欺《さぎ》にあったことを知ったという。
夏になると、たしかに緑色の蚊帳を幾張《いくは》りか肩《かた》にして売り歩いていた小《こ》商人《あきんど》がいた。その記憶があるだけに、志ん生さんの随筆は実感があって面白かった。
夜、蚊帳の中でふとんに身を横たえると気分が落ち着いた。それが今ではなつかしく、蚊帳の中で就寝したい気持ちがある。
しかし、蚊帳は、終戦後、しばらくして徐々に姿を消し、今では寝具店にも見ることはなくなった。
家屋にサッシ(網戸)が普及したからで、地方に行ってもどの家にもサッシがあって、蚊帳は、この世から完全に姿を消したのである。
蚊帳とともに蚊取り線香は家庭の必需品で、蚊帳が姿を消したのとは異なって、現在でも私たちの生活になくてはならぬものになっている。
少年時代、蚊取り線香は箒《ほうき》や包装紙などを扱っていた雑貨屋で売られていた。
今でも市場をほとんど独占《どくせん》している金鳥《きんちよう》印以外に、月にむかって虎《とら》が吠《ほ》えている絵のついた月虎印や、鍾馗《しようき》様の絵がえがかれた鍾馗印などがあって、蚊取り線香を買いにやらせられる私に、母は、
「金鳥印だよ」
と、言うのが常であった。金鳥印が最も古くから売られている商品で、効能があると思っていたのだろう。
(挿絵省略)
蚊はいまわしい昆虫で、夜、就寝して蚊の羽音がするととび起きる。その音に総毛立ち、急いで蚊取り線香に火をつける。
これが絶妙な効果を発揮する。煙《けむり》が蚊に大打撃をあたえるらしく、飛ぶ力もたちまち失《う》せて落ちる。蚊を確実に死なせる蚊取り線香は、まことにありがたい存在だ。
ブラジルのアマゾン川の岸で、テントを張って野宿した記録を読んだことがある。高温|多湿《たしつ》の地なので、夜になると蚊の大群が襲来する。
日本から持っていった蚊取り線香を焚《た》くと、蚊が一斉《いつせい》にボロボロと落ちる。現地人は驚き、感嘆しきりであったという。
この記録を読み、蚊取り線香が日本独自のものらしいことを知った。
さらに、『ポーツマスの旗』という長篇小説を書いた時、その思いを一層深めた。
ポーツマスでおこなわれた日露戦争の講和会議の経過を追った小説だが、日本側の全権小村|寿太郎《じゆたろう》一行と、ロシア側のウィッテ一行は、同じホテルの遠くはなれた部屋で寝起きしていた。
ウィッテの秘書官であったコロストウェッツが、ポーツマス講和会議の経過を日誌として残し、それを島野三郎氏が和訳したものが書架《しよか》にある。
その記述の中に、「(ホテルの部屋の)窓には、此辺《このあたり》に無数にゐる蚊を防ぐための金網が張つてあつた」と、記されている。
私も現地取材のためポーツマス市に行き、郊外にあるそのホテルにも足をむけた。左右に翼《つばさ》をひろげたような木造二階建の大きなホテルだが、営業不振で閉ざされていた。ホテルは美しい原野の中に建っていて、いかにも夏には蚊が多そうな地であった。
さらに日誌のページを繰《く》ってゆくと、蚊に刺《さ》されぬ方法が記されているのに眼をとめた。
ウィッテのもとに、かれを支持する匿名《とくめい》の人から手紙が来て、
「蚊が国家的重大事の審議《しんぎ》を妨《さまた》げてはならない、蚊を防ぐには生肉の一片を自分の傍らに置くのが一番よろしい、蚊は此《こ》の生肉にたかって、貴方《あなた》を刺さないから」
と、書かれていたとある。
蚊に関心のある私は、蚊になやまされていたウィッテ一行も、このすすめにしたがったにちがいないと考え、小説の中にこの一條《いちじよう》を採用した。
当然、小村一行も蚊になやまされたはずだが、それをどのように避けたのか。蚊取り線香が日本に誕生していれば使用したのだろうが、どうなっていたのか。
蚊取り線香の原料は除虫菊《じよちゆうぎく》で、明治二十年頃に外国から輸入されている。
その頃は、乾燥《かんそう》させた除虫菊を粉末にして蚤取《のみと》り粉《こ》として使われていた。
和歌山生まれの上山英一郎《うえやまえいいちろう》が、蚊取り線香を初めてつくって商品化した人とされている。
江戸時代、蚊を追いはらうのに杉《すぎ》の葉などをいぶした蚊遣《かや》り火《び》というものが使われていたが、かれはそれにならって除虫菊の粉末におがくずを混ぜて火にくべてみた。効果はてきめんで、煙にふれた蚊は落ち、死ぬ。
(挿絵省略)
かれは、仏壇の線香に注目した。除虫菊の粉末を練って線香のように作り、その頭部に点火すれば蚊を殺すことができる。
工夫をこらし、明治二十三年(一八九〇)に「金鳥香」という商品名の棒状蚊取り線香をつくり、発売した。細長い紙製の箱に、長さ二十一センチの線香が細い束にされて入れられている。箱の中には線香を三本並べて立てる鉄製の台が附属品として入れられていて、そこに線香を立てて火を点じる。
これは売れるには売れたが、欠点もあった。線香は、短時間で燃えつき、他の線香を立てねばならない。線香を長くすることも考えられたが、それでは折れてしまう。
渦巻《うずま》き状のものにしたらどうか、とかれの妻が助言したとされている。
これによって渦巻きの蚊取り線香が誕生して明治三十五年(一九〇二)に発売され、箱も現在のように正方形のものとなった。
ポーツマス講和会議は、それから三年後におこなわれているが、小村一行は蚊取り線香を持っていったかどうか。
記録には、それについての記述は一切ないが、私は用意し持っていったと推測している。ポーツマスに乗り込む小村一行は、外交をはじめあらゆる点で細心の配慮《はいりよ》をはらっている。開催地のポーツマスの市民感情、生活、風習なども事前に調査し、周到な準備のもとにポーツマスに入っている。
蚊が多い地であることも当然、熟知し、蚊になやまされて寝不足にならぬよう蚊取り線香も持ち込んだはずである。
ロシア全権一行は生肉、日本全権一行は蚊取り線香。考えてみると、なんとなく可笑《おか》しい。
蚊取り線香は、蚊帳とともに日本の家庭になくてはならぬものだったが、戦争末期から終戦後の物資欠乏のあおりを食って他の生活用具とともに眼にできなくなった。環境《かんきよう》は悪化し、蚊が大量に繁殖《はんしよく》した。
夕方、外に出ると、蚊柱が所々に立っていて、人が通るとむらがって移動する。夜は家屋の中を羽音をさせて飛び交い、蚊帳の中にも入ってくる。
人々は、江戸時代の蚊遣り火がどのようなものであったか知識はなかったが、同じような方法で蚊を追い立てた。私の家の場合は、おがくずに火を点じていぶした煙を充満《じゆうまん》させた。
やがて、終戦後の社会混乱が鎮静化《ちんせいか》して物資も出廻《でまわ》るようになり、完全に姿を消していた蚊取り線香も手に入るようになった。
その後、品質は改良されているらしいが、形その他は少年の頃と少しも変わりはない。Mosquito Coil として外国に輸出されているというが、蚊取り線香はわが国で発明された傑作《けつさく》だと思う。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
十二 胃カメラ
――――――――――――――――――――――――――――
三十六年前の昭和四十三年(一九六八)九月、生まれて初めて海外への旅をし、十七日間、南アフリカのケープタウンに滞在した。
その前年、世界で心臓移植がおこなわれはじめていて、朝日新聞社からそれを素材に連載小説執筆の依頼を受けていた。承諾した私は、執筆準備をかさねた上、世界初の心臓移植手術がおこなわれた地であるケープタウンにおもむいたのである。
執刀者は、心臓外科医のクリスチャン・バーナード氏で、氏はブラジルに招待されていて留守《るす》だというので、手術がおこなわれた病院に行き、手術に関与《かんよ》した外科医たちに会って話をきいた。
長身の三十|年輩《ねんぱい》の外科医が、院内を見学させてくれた。
かれは、ある個所までくると、足をとめ、
「日本人は素晴らしい。この医療器具で、世界の人々がどれほど命を失わずにすんだことか」
と、厳粛な顔をして言った。
私は、かれの視線の先に眼をむけた。そこにはガラス張りの大きなケースの中に、十数本の胃カメラが整然とかけられていた。
かれの言葉の意味がわからなかったが、言葉の端々《はしばし》からこのような秀れた医療器具を発明した日本人に最大の敬意をいだいている、と言っていることを知った。
その時まで私は、迂濶《うかつ》にも胃カメラが日本人の発明によるものだということを知らなかった。医学の最高水準の領域にある心臓移植のことを調べに来た私が、そんなことまで知らぬのか、と思われるのも具合が悪く、私は無言でうなずいていた。
やがて執刀医のバーナード氏が帰国し、私はかれに会って話をきき、さらにアメリカのニューヨークに渡って、世界二例目と四例目の心臓移植をおこなった外科医たちに会い、帰国して小説の執筆に取り組んだ。心臓移植は、人体の聖域とされる心臓を剔出《てきしゆつ》移植する、神をも恐れぬ行為とする説があることから、『神々の沈黙《ちんもく》』という題のもとに筆を進め、それも終えて単行本として出版された。
私の胸の中には、ケープタウンの病院で外科医から胃カメラが日本人の発明によるものだと言われたことが、こびりついてはなれなかった。まちがいなく事実なのだろうが、自分の手で解明してみたかった。
前年に、私は初めて胃カメラによる胃内検査を受けていた。
二十歳の折に、東京大学附属病院の分院で肺結核の手術を受け、それによって死をまぬがれた。執刀医は田中大平先生で、その後、先生は分院の医長となり、私は定期的に検診を受けていた。
先生は、前年に私が分院におもむいた時、胃カメラで胃内検査をしてみる気はないか、と言われ、私は恩義のある先生の言葉だけに即座《そくざ》に承諾した。後に気づいたことだが胃カメラは東大分院で開発されたもので、先生は従順な患者である私に、人のいやがる胃カメラ検査をさせようと思ったにちがいなかった。
検査日に分院に行くと、咽喉《のど》に麻酔薬《ますいやく》を塗られ、暗い部屋に導かれて、ベッドに身を横たえた。
検査医が黒い胃カメラを手に近づき、私は口を開けた。現在使用されているものよりはるかに太く、それが咽喉から突き込まれ、私は何度も咽喉を鳴らした。
ようやく管が咽喉を越え、食道をへて胃内に入った。
胃内の撮影《さつえい》がはじまったが、カメラのシャッターボタンを押す音がきこえる度に私の腹部の一個所の皮膚《ひふ》が、あたかも蛍の光がともるように明るくなる。カメラの先端《せんたん》に装着されているランプが点灯すると同時に撮影がおこなわれるので、私の腹部の皮膚が明るくなるのだ。
私は、身を横たえながら灯《あかり》が点滅する腹部を見つめていた。
そうした経験をもつ私は、そのような医療器具を開発した人に人間的な興味をいだき、本格的な調査に取り組んだ。
胃カメラを開発したのはオリンパス光学で、早速、新宿にある同社を訪れ、広報部の奥村勝之《おくむらかつゆき》氏の指示にしたがって調査をはじめた。奥村氏は、日本画家の大家である奥村|土牛《どぎゆう》氏の令息である。
奥村氏の話によると、胃内をカメラで撮影することを思いついたのは、東京大学医学部分院の副手|宇治達郎《うじたつろう》という若い外科医で、その話がオリンパス光学に持ち込まれた。会社では、杉浦睦夫《すぎうらむつお》、深海正治《ふかうみまさはる》という二人の技師に研究開発を命じた。
杉浦氏はアイディアマンであり、深海氏はそれを実用化するのにきわめてすぐれた技術者であった。
深海氏は、戦時中、海軍航空|技術廠《ぎじゆつしよう》の技術士官であった。
氏が研究を命じられたのは、回転する零式艦上戦闘機《れいしきかんじようせんとうき》(ゼロ戦)のプロペラの間から機銃《きじゆう》の弾丸《だんがん》を発射する装置で、それまでは七・七ミリ機銃が使用されていたが、火力の増強をはかった海軍は、十三ミリ機銃の開発を技術廠に命じ、氏はその研究を担当した。
七・七ミリ機銃の弾丸より大きい弾丸を通過させるには、より性能の高い装置でならねばならなかったが、氏は鋭意研究に取り組み、見事に成功して技術士官としての存在がひろく注目された。
宇治氏の要求をいれるべく、二人の技師は、叡智《えいち》のかぎりをつくして試作を繰《く》り返《かえ》し、昭和三十年(一九五五)に胃内写真機と称された胃カメラが一応の完成をみた。研究を開始してから七年が経過していた。
しかし、使用する医師たちが操作をあやまることもあって故障が続出し、それらが会社にぞくぞくと返送されてきて、社では荷厄介《にやつかい》な商品になった。それでもオリンパス光学では改良に改良をくわえ、私が初めて胃カメラを挿入《そうにゆう》された頃には、広く実用に供されるようになっていた。
フィルムもカセット式にするなど、ランプの光度も増して、胃壁《いへき》が鮮明にフィルムに写し出されて、病変を的確に判断できるようになった。
さらにファイバースコープの開発によって、胃カメラは飛躍的《ひやくてき》な進歩をみせた。それは、光がガラス繊維《せんい》の中をつたわる性質を応用したもので、数万本というガラス繊維をたばねて外部から光を胃の中に送り込む。それによって浮《う》かび上がった胃壁を、外部におかれたカメラで撮影するのである。
つまり胃カメラの場合は、管の先端にカメラ部分があったが、ファイバースコープは管の手もと――体の外に設けられている。
私は、胃カメラ開発の経過を『光る壁画』(新潮文庫)と題する小説に書いた。
小説の中ではオリンパス光学をオリオンカメラ、小説の主人公とした深海正治氏の名を曾根菊男《そねきくお》としたが、克明な聴《き》き取《と》り調査をしたものの、確実な記録がないことから、社名も深海氏の名も変えたのである。
その後、胃カメラの研究、開発は進み、内視鏡として胃のみならず消化管、呼吸器官等、体のあらゆる部分に挿入され、外科手術にも使用されている。
『光る壁画』執筆後、自ら実体験する意味合いもあって、内視鏡検査を積極的に受けた。
それは、昭和四十三年に胃内に挿入された胃カメラとは、はるかに異なったものであった。第一、暗かった検査室は明るく、管は細くなっていて苦痛はない。むろん、腹部の皮膚が蛍の尾部が光るように明るくなることもない。
こんなことは、すでに昔話になっている。
[#改ページ]
――――――――――――――――――――――――――――
十三 万年筆
――――――――――――――――――――――――――――
昭和十五年(一九四〇)四月、十二歳であった私は、徒歩で通える地にある私立中学に入学した。
その記念に、母が万年筆を買ってくれて、私は、制服の胸ポケットにさした。それまでは鉛筆《えんぴつ》しか使ったことがなかったので、体のふるえるような喜びにひたった。頭部をはずして、スポイトでインクを入れる式のものであった。
万年筆は、一八八四年(明治十七年)にアメリカのウォーターマンが、試作をかさねた末に製品化し、十一年後に丸善が輸入した。ファウンテン・ペンと称されたもので、ファウンテンは泉、泉のようにこんこんとインクが湧《わ》き出《で》てくるという意味をこめて、そのような商品名にしたのである。
(挿絵省略)
日本では、それを直訳して泉筆と称したが、長い間インクが出るということから万年筆と名づけられたのではあるまいか。これはあくまでも推測で、たしかな記録はない。
その後、日本でも万年筆がつくられるようになり、徐々に一般に普及した。
私が母に買ってもらった万年筆も国産品であったが、必ずしも良質のものではなかった。インクの出が悪かったり、時にはインク洩《も》れもする。
私は、その後も胸ポケットにさしていたが、万年筆はほとんど使わず、英語の学習には、ペン軸のついたGペンと言われたペンをインク壺《つぼ》にさしこみ、アルファベットや文字を書いていた。
(挿絵省略)
その頃、縁日には、必ずと言っていいほど万年筆屋が、板の上に万年筆を並べて売っていた。かたわらには、少し焼けこげた万年筆が残骸《ざんがい》のように寄りかたまって置かれていた。
板に書かれた口上書きには、万年筆工場が火災に見舞われ、このように残焼物があるが、売っているのは工場から持ち出した立派な製品で、したがって価格は飛び切り安いと記されていた。
少年であった私にも、それがいかがわしいものであるという意識があったが、その口上書きを信じて買ってゆく大人もいた。
一般の家庭では、万年筆が実用に供されていたとは言いがたい。まだ、製品としては未完成の域を脱《だつ》せず、携帯品として外に出る時持ち歩いてはいたが、家庭で使うまでには至らなかった。
もっぱら、軸つきのペンが用いられ、ペン先をインク壺に入れて、書く。商家である私の家では、片方に青、もう一方に赤のインクを入れたインクスタンドというものがあって、事務員が、それにペン先を入れて帳簿《ちようぼ》づけをしたりしていた。
(挿絵省略)
戦後しばらくして、万年筆の質は飛躍的に向上した。スポイトでインクを入れるようなものは姿を消し、尾部に細長いゴムの袋《ふくろ》がとりつけられていて、それを押すとインクが入るもの、やがて現在のように尾部の部分をまわすとインクが入ってゆくものなど、操作も便利になった。
さらにカートリッジ式のものも出現し、それこそ泉の水が絶えず湧き出るような万年筆となり、進歩の極限に達している。
小説を書くことを業《なりわい》とする私は、万年筆をこよなく愛し、十本以上の万年筆を机上にそろえている。原稿執筆用、下書き用、日記、手紙を書く万年筆など、使用目的別に使うことにしている。
中学に入った折、上衣《うわぎ》の胸ポケットに万年筆をさした折の興奮は忘れられない。
そうした思いから、義理の甥《おい》が大学に入った祝いとして万年筆を贈ろうとしたが、辞退された。これまで万年筆を使ったことはなく、これからも使うようには思えぬから、という。
なにを筆記具にしているのか、とたずねると、ボールペンです、と答えた。
そう言われてみると、たしかにだれもかれもボールペンを使っている。
孫娘が中学校に入学したので、恐るおそる万年筆を、と言うと、孫娘は眼をかがやかせて、
「欲しい」
と、はずんだ声で言った。
喜んだ私は、親しい長崎の万年筆屋マツヤに中学生用の国産の万年筆を注文した。送られてきた万年筆の軸には、孫娘の姓名《せいめい》が金色で刻みつけられていた。
編集者にきいたところによると、文筆を業とする人たちの九〇パーセントはパソコンを使用し、万年筆を使っている人は数パーセントで、この傾向はさらに加速するだろうという。
それはそれでいいのだろう。しかし、私は長い間、万年筆で小説や随筆を書いてきて、今さらやめる気は毛頭ない。私は万年筆で文字を書くのが楽しく、この世を去るまで書きつづけるつもりだ。
[#改ページ]
吉村昭(よしむら・あきら)
一九二七年生まれ。学習院大学中退。作家。一九六六年『星への旅』で太宰治賞受賞、同年発表した『戦艦武蔵』や『高熱隧道』などで人気作家の地位を不動のものにした。七三年、菊池寛賞。七九年、『ふぉん・しいほるとの娘』で吉川英治文学賞。八四年、『破獄』で読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞。八五年、『冷い夏、熱い夏』で毎日芸術賞。八七年、日本芸術院賞。九四年、『天狗争乱』で大佛次郎賞。九七年より日本芸術院会員。『零式戦闘機』『大本営が震えた日』『陸奥爆沈』『総員起シ』など綿密な調査取材をもとにした戦史小説、『冬の鷹』『北天の星』『漂流』『赤い人』『ポーツマスの旗』『間宮林蔵』『破船』『長英逃亡』『桜田門外ノ変』『黒船』『朱の丸御用船』『アメリカ彦蔵』『夜明けの雷鳴』『敵討』『大黒屋光太夫』などの歴史小説で力作を発表している。その他、『神々の沈黙』『羆嵐』『光る壁画』『仮釈放』『東京の戦争』などの作品がある。
本作品は二〇〇五年一月、ちくまプリマー新書の一冊として刊行された。