吉本隆明
悲劇の解読
[#表紙(表紙.jpg)]
目 次
太宰治
小林秀雄
付『本居宣長』を読む
横光利一
芥川龍之介
宮沢賢治
付 童話的世界
あとがき
文庫版のためのあとがき
初出一覧
著者略年譜
[#改ページ]
序――批評について
批評のいちばんの悩み、口にするのが耻かしいためひそかに握りしめている悩みは、作品になることを永久に禁じられていることだ。そこで批評はいつも身の振り方についておもいめぐらしている。先蹤はあるのだ。小説家か学者がそれだ。とるに足りない作品をえらんでも、また誰もが古典として尊重する作品をえらんでも、作品を対象とすること自体は作品から遠ざかることである。作品には骨格や脊髄とおなじように肉体や雰囲気がいるのに、作品を論じながらじぶんを作品にしてしまうのは、それ自体が背理としてしか実現されない。批評が批評として終りをまっとうすることは作品にならない言葉を、酒の酔いや幻覚など一切かりずに綴りつづけることを意味する。近代批評は、やっとひとりの批評家をのぞいて終りをまっとうしていない。
批評が批評であることは苛立たしい索漠でありつづけること、言葉の砂を口に押しこまれるような体験に身をおくことにちがいない。けれどこの体験を持続してゆく歳月のうちに、対象への視線が微妙に変容してゆくことがわかる。ここでいう変容の意味は〈立場〉とか〈理念〉とかの変容ということではない。対象である作品にたいする臨み方の変化のようなものをさしている。かつては作品は驚くべき明確な手触り、鮮やかな光線が、陰影や輪廓に沿った情操と一緒にあったのに、次第に骨ばかりに崩れて、どんな肯定的な空間形式も、延長性もない廃墟のようにおもわれてくる。ついには空虚そのもののように手ごたえもなくなり、ただ言葉だけを祭礼の寄付金のように募りつづけるようになる。それでも批評は持続されなければならない。何のために? それでどうするつもりなのだ? それともこんなことをしていても仕方のないことを批評はしているのか?
この問いにおいて批評は、はじめて何かを|している《ヽヽヽヽ》らしいのだ。何か歴史的な事象のようなものに、ただ言葉の予感、それも必然的に衰弱の表象をともなった予感によって、参画しているらしいのだ。それはただ対象になった作品を、批評が枯死させていることで識知される。じぶんを枯死させている言葉だけが、作品を枯死させることができる。批評は死につつある言葉、しかも自覚的に死につつある言葉だ。
批評は作品の言葉が行方不明でまったく消息を絶ったり、思いもかけぬ他所で人知れず横死していることなど、ありえないのをすでに熟知している。時代が言葉を囲んでいてその囲いの外へ言葉はとび出すことはできない。ただ粘土細工のような言葉の地表を、起伏に沿ってなぞっているだけだ。作品が生きているのにそれを書いた作家が自殺してしまったとき、作家は言葉の地表にじぶんで穴を掘って埋もれてしまったことになるのか、それとも地表の亀裂に墜ちこんで消えてしまったことになるのか。これは自然死とどこがちがっているのか。というのは自然死した作家もまた、地表に穴を掘って埋められるか、亀裂のあいだに身を横たえて眠るかすることにかわりないからだ。言葉の地表、時代的な囲いという概念、作品が彷徨できる時代的な範囲という概念を信じるかぎり、作家は自殺することも自然死することもできないで、ただ悲劇を演じることができるだけだ。
批評は悲劇を演じることができない。その力量がないといってもおなじだ。批評では悲劇はただ意識され解読されてしまうだけだからだ。どんなに逆説的に響いても、悲劇を演じることができるものは、幾分か幸福な存在たちである。いま作品が幸福な存在だとして、その幸福はどこに潜むことができるか、どこに棲みつくことができるかは明瞭である。言葉の時代的な地表を微かな足音で歩いている足|どり《ヽヽ》、地表を踏むときの響き、|かかと《ヽヽヽ》の裏側、その接地の仕方といったようなものがあれば、そこにだけ作品の幸福が潜んでいる余地がある。それを文体と呼ぶべきか形式と呼ぶべきかは不定だが、意味を排除したときの価値がありうるとすれば、そのことを指している。批評が説明し解釈せずに、作品のそのエロスの場所を浮彫りにできれば、その瞬間だけは批評もまた作品でありうるだろう。だがつぎの瞬間には作品のエロスは匿されてしまう。
ここで批評は悩みのほかに困惑と焦燥感をもいだいている。これは近代批評の古典時代には感じなくてよかったものだ。この困惑と焦燥は、批評の(ように使われる)言葉が粉砕機にかけてどんなに微粉化しても、なお粒子状であることをやめないという比喩でいうことができる。これで作品をしゃくりとろうとすれば、どんな理想的な状態を考えてみても、作品はいたるところ孔の開いた多孔質のものに変貌している。再現そのことは批評にとってたんに前提にすぎないし、その前提にしても志向された前提だけれど、まず批評の言葉の水準に作品がもたらされなければ、批評という行為が成り立たない。この前提のところで批評の言葉は、粗密と濃淡だけではなく亀裂と空孔、誇張と強調とで、作品をぼろぼろな布地に変形させてしまう。そして批評は現在でも作品の誇張や強調点と、批評の言葉の誇張や強調点とが織りあげる網目によって、原型とは似ても似つかない表情にされてしまうのを免れない。
わたしたちは生と死のあいだにはさまれて存在している。存在している現前の姿勢は、生のなかに死を調合し、その匙加減の難しさをいつも背負っていることを意味している。このあいだに批評の言葉はすこしずつ培養されているのだ。この言葉が倫理、理念、歴史のようなものの影と重力を背負わないということはありえないし、また遊戯や休息を惹きいれないということも嘘になるだろう。批評が知的な謎解き(究極にはその謎を解いたときの快感)になってゆき、その競合いの競技になってゆくのは、きわめて現在的な課題であるとともに、それが世界の水源から流れてくるとき、なによりも歴史の停滞を象徴しているのだ。批評の言葉が倫理、理念、歴史の重力をうけているとすれば、その重力を場とか雰囲気とかではなく素的な粒子としてとりだし、意味をもつ実体のように現前させるのは、これからの課題に属している。批評はいまのところ無意識に倫理、理念、歴史を包みこんでいるにすぎない。批評が倫理、理念、歴史を意図しているようにみえるとき、また露骨にその意図をむき出しにしているとき、ほんとうの倫理、理念、歴史は、その意図された言葉の個所でいちばん隠蔽されているのだ。
ある種の作品があり、その作品が言葉で感覚の波の動きを再現しようとしているばあい、批評の言葉はいちばん困惑にさらされるようにおもわれる。何かを解析しようとすると、作品は水のなかを潜りぬけているように頼りなく、また批評の言葉とその網目を透過して、直接自我に届いたり消散したりしてしまう。けれどこれは作品そのものであるような作品なのだ。感覚そのものが言葉と出遇い、言葉そのものが過不足なく時代の透明度になっている。批評はそのような作品に遭遇したときには、言葉を使わないでいるか、あるいは作品の水のような透明度を再現するために、言葉を無限に微細な粉末のように行使するのを余儀なくされる。けれど水のような作品を捉えるために言葉は無効であるようにおもわれる。言葉には網状の手かせ足かせがともなっているから。
批評の言葉はいま停滞する時代の厚い層のなかを通過している。そのために幾つかの装身具、以前ならば瞬間的に通過してしまうために、まったく必要なかった種類のあいまいな装身具が必要になっている。批評が現在当面しているのは究極的につづめてしまえばそれだけだ。裸でがむしゃらに通過できるとおもっていた批評は、ただ時代の空気だとみなしてきたものが意外にも重さや息苦しさになりうることを実感している。この厚い層はとりとめもないかわりに、離脱するのに無限の潜行時間がいるようにおもわれてくる。だれもその果てを指すことができないし、それを終らせることもできないように感じられてくる。装身具が必要だとして薄くても長い潜行時間に耐えるものでなければならないし、また耐えていくうちに鈍磨してゆく皮膚の感覚を恢復できなくてはならない。
批評の言葉は時代のこの空気のような、あるいは水ガラスのような層の厚さを変えることはできない。その層の厚さは現在の所与の総体で決められるもので、批評の言葉はそれに関与することはほとんどない。言葉は現実の所与の関係だが言葉の方から現在的な所与に遡行することは禁じられている。言葉はただ表現される。そして表現はその仕方自体によって、あるいは跳躍する距り(実現された言葉、あるいは言葉の実現までの距り)によって価値を測られるだけだ。この考え方が批評についての考え方としてどんなにペシミスティクにみえようとも、わたしたちは現在ふたつの方向(それがほとんどすべての方向なのだが)を禁じられている。ひとつは作品の価値を測るのに政治的な色わけを使うこと、もうひとつはいままで倫理的な独白だったものを知的な探偵術、通俗的な知的な稠密さの競りあいに変えてしまうことだ。そんなことは政治的教会か受験学生を相手にやってもらいたい。そこでは教儀にたいして如何に修業がたりないか、いかに戒律を犯した自己を鞭打つかが問題になりうるし、また陥し穴のような奇抜なワナを仕掛けたり、それを見破ったりすることが優劣につながるからだ。
批評の最初の体験はだれにでも思いあたるふしがある。作品の共感する個所、場面、修辞法をとりあげて熱心に語りあったこと。もし自分と同一の個所を同一に感じる相手に出遇ったとしたときのうれしさ。やがてそれは悪意に変わる。自分は書くことができないのに読むかぎりは作品を馬鹿にできるという体験。けれどもこの辺りから批評は決定的に錯誤してゆく。批評の言葉が作品となりえないことの根源はこのあたりに存在している。これは批評の言葉が高度になっていっても、いつまでもつき纏ってくるに相異ない。むしろ批評は作品ではなく、また作品について周囲からとやかくいうことでもなく、ただ世界に基準などのようなものが存在しないことの普遍的な態度の宣命のように考えられてくる。
批評の言葉が決定されるのは現実の社会の真ん中においてだ。けれどもこれをとりだすのはどんな音も聴こえない内部のふところの奥からのようにおもえる。凍っているのに冷たくはない、そして冷たくはないのに物音ひとつしないあの世界からしか言葉はやってこないような気がする。このことのなかに言葉の現在における運命のようなものがあるのではなかろうか。映像、イメージ、音響がすさまじい速さと規模で空間形式を埋めてゆく。言葉はじぶんを時間化してゆくよりほかなくなっている。言葉は坐したまま歴史に参加するのだが、その音声は嗄れている。
言葉というものの正体は、ほんとうは不明の部分があまりにおおすぎる。ただ批評は意味に惹かれて正体不明のまま言葉を使っているのだ。言葉を使っているとき、言葉は道具にならない前から使われ、道具になった後からも使われている、というように使っている。それは内的な軌跡であって軌跡でありつづけるようにしか使われえない。
言葉を使うべきだ、言葉を使う以前だ、言葉を使うことができない、こういう言葉にまつわる状態の全体のうち、もっとも困難にみえる極端なばあいはつぎのようにあらわされる。
[#ここから2字下げ]
何も思考を開始しないまえの集中の状態が息をつめたところにこしらえているようにみえる領域、その記述
それと、
人間より大きなあらゆる素材から成立っているかのように思考するとき出現する世界、そこに人間の影がないことからくる平等のようにおもわれる世界、その記述
[#ここで字下げ終わり]
このことで何をいいたいのかは明瞭であろう。批評の言葉はいつも作品のなかに作品の概念をささえているようにみえるこの極端を、網目にすくいとれないのではないかと危惧しているのだ。批評の言葉はいつもどんなにしても作品より真面目すぎる。忠実に作品を追いすぎるために作品を追越し変形させ色を塗りつけてしまうのだ。作品のでたらめさが現実の出来ごとのでたらめさと等しいとすれば、批評も作品のでたらめさと等しいでたらめさをもっていいはずである。だが批評はいつも作品より生真面目で直線的になる。この批評の悲劇は作品が悲劇であるときだけ辛うじて釣合っているようにみえる。
わたしたちのあいだで優れた〈作品〉はことごとく悲劇的にあらわれてくることは自明である。このばあいの〈作品〉はあくまでも具象的なものを指すので、作品という普遍性を指しているのではない。もっと厳密にいえば世界の屋根がどこにあるかを絶えず意識に計上しつつ形成される〈作品〉といってもいい。喜劇的な〈作品〉、機智をにぎやかにする〈作品〉、細密な細工のような〈作品〉、その他膨大な〈作品〉の群れ、それらはすべて〈作品〉である。だがそれらはまだ(あるいは永続的に)悲劇に到達しない〈作品〉なのだ。悲劇を介してだけ〈作品〉は普遍的に作品に到達するという公理系の発見こそは、ここで主題となっているそのことである。それを発見した途端に(あるいはその発見を発見するやいなや)読者もまた悲劇のなかに存在するはずである。なぜならばそれこそが公理が公理であるゆえんだからだ。
作品はいつも解読されることを待ちつづけている言葉であり、解読に着手されただけ遠のいてゆく言葉である。悲劇は作品と作者とを結びつけているとともに、作者よりも深いところでまだ意識されていない。もし批評がこれを意識させてしまえば作品はその作品以外のものとなってしまうが、批評はそれをそっともとにもどしておくことができる。はじめから作品といえるほどのものは可塑性と一緒に弾性ももっているからこのことが可能なのだ。
[#改ページ]
[#見出し] 太宰治
作品は読者に担がれて作者を超えて誇張される。ことに読者がじぶんを過大に評価しているばあいはそうだ。作者はむしろじぶんの作品を追いかけやっと作品に追いつく。そして追いついたとき生きていられる作者もいれば、緊張にたえずに死にいたる作者もいる。読者が責任を負わねばならないのはそういうときなのだ。わたしにも読者としてそういう作者がいた。かれらの画像が過大な誇張した描線や色彩にたえうることは、かれらの不幸であるのか読者の不幸であるのかは、なかなか決定し難い。いまわたしに関心があるのはかれらにじっと耳を傾けていてもらうことだけだ。
作品には浅いところから波紋のようにひろがってくる声もあれば、深いところから井戸の底に誘いこむような声もある。浅い声はスムーズにはいってきて快感のように滲みてゆくので、もしかすると気がつかないままに過ぎてしまう。意味や価値をみつけるまえに、作品の肉感を伝えたまま消えてゆくようなものである。
作品「走れメロス」の最後のところで、衣服が破れまっ裸になって親友セリヌンティウスの処刑場にかけつけたメロスに、ひとりの少女が緋のマントを捧げる。そしてこの可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのがたまらなく口惜しいのだ、とセリヌンティウスが気を利かせて説明する。作者によって「勇者は、ひどく赤面した。」と書かれたとき、作品に意味や価値が与えられたというより、ただ作品に肉体が与えられただけなのだ。これは作品の浅い声だが、もしかすると太宰治の文学はこの浅い声にあるのかもしれない。かれがしきりに〈心づくし〉と呼んだものは、読者がそれを受けとることを拒否しても、なおただ作品の肉体でありつづける浅い声をさしているようにみえる。効果でありながら含羞や軽口や皮肉のように曲線を描いて流れてゆくものに、読者は最初の印象が過ぎたあとですでに感染しおわっている。「みみづく通信」でもそうだ。わたしがはじめに聴いたこの作品の浅い声は、主人公が生徒たちに案内されて校長室に入ってきょろきょろしていると、生徒たちが、以前にこの学校へ芥川龍之介が講演にきて、講堂の彫刻を褒めていったと説明する。何か褒めなければいけないとおもって、あたりを見廻したが、褒めたいものもなかったという個所である。一瞬のうちに芥川という作品が、かれの作品のなかに揺らめきでて、すぐに皮膚の下に沈んでゆく。太宰の作品がもつこの滲透性を名づけるには言葉が微分されて意味を失うところでいうよりほかないようにおもわれる。「東京八景」で、田舎者と笑われまいかとためらいながら東京全図を買い求めてきて、下宿の部屋をしめ切ってこっそりひろげ「赤、緑、黄の美しい絵模様。私は、呼吸を止めてそれに見入つた。隅田川。浅草。牛込。赤坂。ああなんでも在る。」と「私」がかんがえるところにきて、誰もがそんな経験があるかのような感覚に誘われる喚起力が、かれの文学かも知れないのだ。だがそれはあくまでも浅い声である。それがかれの作品の声のすべてでないかぎり、もっと深い声のほうへ文学を超えて誘われてしまう。
太宰治の作品のもっとも深いところからはひとつの声が聴こえる。じぶんは〈人間〉から失格している、じぶんは〈人間〉というものがまるでわからないと疎隔を訴えている声である。この声はかれが生涯の危機に陥ちこんだとき、かならず作品からしみでてくる。けれど太宰治のいう〈人間〉は人間の本質をさしてはいない。他者の気持ちの動きがつかめないために他者との関係の仕方がまるでわからないと呼びかけている。他者に投影された人間の在り方からじぶんが異類のように隔てられているといった叫びに似ている。その果てに他者の振舞いは、じぶんの心の動きからまったく予測できないという失墜感があらわれる。こういった思いは、生き難い時代に生きている実感からもやってくるだろう。また他者との関係の仕方で打ちのめされた経験からも忍びこむにちがいない。そして人間は仮面をつぎつぎに身につけながら心の打撃に狃れてゆく。これが成熟の裏面についたカラクリである。太宰治にはこのカラクリが身についたことがなかった。かれが他者がまるでわからない、他者に投影された人間の在り方や、振舞いがわからないというとき、いつも、はじめて打ちのめされたような、新鮮な恐怖と不信がつきまとっている。いわば絶対的に他者がわからないという、不安なおびえた表情がみえる。
資質の限度を超えた力にひきずられて、不可抗的に作品の外へ連れだされてゆく人間の悲劇が作品から感じられるとしたら、作品の言葉が、ある絶対的な場所からやってくるからだろう。そういう作品に接したときは、じぶんの体験から作品をおしはかるといった読み方は成立たない。かりに成立ってもある処まででそのさきはありきたりの類推はとどかない。わたしたちは仕方なしに|こちら《ヽヽヽ》側に帰ってくるが、作品の方は|あちら《ヽヽヽ》側に去ってゆく。作者もまた|あちら《ヽヽヽ》側に、疫病神のように追いやられる。それで優れた文学作品をめぐる作者と読者との関係はおわりだ。読者はいつも危険を忌むからだ。だが|あちら《ヽヽヽ》側に去ってゆく作品や作者が他人事でなく気がかりだという読者は、かならずいるはずである。そうでなければ作品も作者もじつに哀れではないか。それらはただ紙の上で生き、紙の上で死んでみせるだけなのだ。気がかりな読者だけは作品や作家の跡から見え隠れに尾行をつづけ、ついに行き倒れて朽ちてしまう姿を見とどけなければならない。かれにはみすみす死地の方へ歩んでゆく作品や作者を、|こちら《ヽヽヽ》側におしとどめる能力はないが、他人事でない気がかりさえあれば、その死にざまを見とどけることだけはできる。文学の周辺にはそういう悲劇的な関係の仕方も、ときにあるのではないか。わたしは青年のある時期、太宰治の作品にそういう関係の仕方をしたことがあった。いまのわたしは死んだときの太宰治より年長になってしまった。これはかなり複雑な感じを伴ってくる。当時みえなかった処が、少しみえるようになっているかとおもうと、当時瑞々しくみえた処が色褪せてしまっている。良心的にいえばこちら側の感受性がちっとも豊かにならないのに、年齢だけはくってしまったためにちがいない。わずかに救いがあるとすれば、太宰治の姿がいまもじぶんよりはるかに生きぬいた完結した像であらわれてくることだ。太宰治が生涯にわたって精いっぱい|も《ヽ》掻き苦しみ道化てみせた軌跡は、いまでは作品の言葉にしか求められない。この変りばえもしない現実の社会に、かれのどんな爪あとものこっていない。ただ作品から人間と人間の関係について、深い淵をのぞきこむような、ある戦慄をうけとりうるだけだ。
太宰治は作品からうかがうかぎり、人間は不可解なものだという恐怖にとらえられ、ついにその恐怖から脱することができなかった。ひとは誰でも、じぶんの心と行動から他者を理解しようとし、その理解から人間と人間の関係の仕方を、少しずつおぼえこんでゆく。そしておぼえこみが深ければ深いほど、かれは人間にたいする洞察力が優れているということになる。おぼえこみが深くならなくてもそれに狃れれば、人間通にはなれる。この世界を人間と人間との関係の仕方としてみるかぎり、成熟とはこのいずれかひとつを択ぶことをさしている。太宰治に悲劇があったとすれば、じぶんの心の動きから他者を推しはかれない点にあった。いくらやっても他者はじぶんとはまったく異った根から養分をとり、まったく異った原則で生きている異類としかおもわれなかった。この思いは生涯にわたって深まる一方であった。かれの作品は人間洞察を深めてゆく成熟の道のりも、人間と人間との関係の仕方に狃れた風化への道のりをも示さなかった。最後まで人間がわからぬ、人間は怖ろしい、じぶんは人間から仲間外れになっている、という嬰児のような|おびえ《ヽヽヽ》のまま立ちすくんでいた。時には比較的安らぎをえた時期もあったが、誰よりも太宰自身がそういう時期のじぶんを仮初めの姿としかみていなかった。そう思わせるほど、安定した感情生活は短かく迅速におわっている。思いがけない出来ごとにぶつかって、不幸に見舞われる時期がひとにはあるものだといういい方ができるとすれば、太宰治は逆で、ときには思いもかけずに平安な感情生活をいとなむ時期があった、といった方がよいくらいだった。
[#ここから2字下げ]
さつきから、煙草ばかり吸つてゐる。
「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。」幼い子供たちが、いつか、あはれな節をつけて、野原で歌つてゐた。私は家で寝ころんで聞いてゐたが、ふいと涙が湧いて出たので、起きあがり家の者に聞いた。あれは、なんだ、なんの歌だ。家の者は笑つて答へた。蝙蝠の歌でせう。鳥獣合戦のときの唱歌でせう。「さうかね。ひどい歌だね。」「さうでせうか。」と何も知らずに笑つてゐる。
その歌が、いま思ひ出された。私は、弱行の男である。私は、御機嫌買ひである。私は、鳥でもない。けものでもない。さうして、人でもない。けふは十一月十三日である。四年まへのこの日に、私は或る不吉な病院から出ることを許された。けふのやうに、こんなに寒い日ではなかつた。秋晴れの日で、病院の庭には、未だコスモスが咲き残つてゐた。
[#地付き](「俗天使」)
[#ここで字下げ終わり]
作品の具象的な理解にはいるまえに「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。」という唱歌の言葉にはっと気がつき、その言葉に気がついて驚いて起きあがる「私」の感受性に共鳴ができるといった心の状態が、太宰治の作品がわかるということであった。この唱歌の言葉の匂いを嗅ぎわける「私」の不幸な心に共感できるかどうかが、いわば信者の印のようにかれの作品が読者に迫る撰択であった。この特有の体験を記しておかなければ、かれの作品をまじめくさって論じても仕方がないことになる。
じぶんは鳥でもない、獣でもないという鳥獣合戦の唱歌を、所属喪失感として読みかえる不幸な感性がありうる。これがかれの作品が隠密裏に読者に迫る入信の印のようなものであった。
この時期は構成的にはなげやりな作品をいくつも書いたが、実生活ではしかるべき結婚もして、安定した市民になりすましていた。手術後の痛みを和げるのに使った麻薬の常習から中毒にかかり、精神病院にぶちこまれたのは四年前である。かれの心の嵐は地層の深くを流れていて、そこに子供の唱う鳥獣合戦の唱歌がふとひっかかってくる。「わたしは、鳥ではありませぬ。また、けものでもありませぬ。」という|こうもり《ヽヽヽヽ》の歌は、人間洞察力を誇れる大作家にもなれず、人間の関係に狃れきった俗物にもなれないじぶんの暗喩として聴こえてくる。それは、太宰の心の嵐を「涙」として表層に誘いだした。「私は、弱行の男である。私は、御機嫌買ひである。」という言葉には通俗的な意味しかない。だが「私は、鳥でもない。けものでもない。さうして、人でもない。」という言葉にはおおきな意味があった。太宰の心のなかでは、人間洞察に形をあたえることもできず、人間を小馬鹿にして鼻でくくったような俗物にもなれないという嘆きは、どこか底のほうで「人でもない」という思いにつながっていた。なにが「人」であり、なにが「人」でないのか。この「人」という言葉の独特の理解の仕方に、太宰治が演じた生涯と作品の悲劇の鍵が秘されているようにみえる。かれの作品はなにが「人」であるのかポジティヴに説きあかしていない。すぐに「人」と「人」とが関係する世界を「世間」という言葉で置き代えてしまっている。だがなにが「人」でないか、そしてどうしてじぶんは「人」でないかは〈人間失格〉と名づけて生涯にわたって繰返しとりあげたのである。
[#ここから2字下げ]
その人と、面とむかつて言へないことは、かげでも言ふな。私は、この律法を守つて、脳病院にぶちこまれた。求めもせぬに、私に、とめどなき告白したる十数人の男女、三つき経ちて、必ず私を悪しざまに、それも陰口、言ひちらした。いままでお世辞たらたら、厠に立ちし後姿見えずなるやいな、ちえつ! と悪魔の嘲笑。私は、この鬼を、殴り殺した。
[#地付き](「HUMAN LOST」)
[#ここで字下げ終わり]
太宰治の決定的な人間不信感は、妻や友人のにこにこした笑顔にだまされて車に乗せられ、精神病院にいれられたという体験の時期からはじまっている。実際には手術の痛みを和げるためにつかった麻薬は、たちまち太宰の不安を捉え、ほとんど半狂乱になって、麻薬を手に入れるために泣き落し、だまし、借金に知友間を駆けまわり、ということになっていたはずである。享楽のために一本の麻薬を注射したこともなく、背後の家の重荷に打ちひしがれそうな苦しみを和げるため中毒になったとすれば、じぶんの半狂乱の姿を、妻や知友たちは苦悩の姿としてみてくれるはずだとおもっていた。「食はぬ、しし、食つたふりして、しし食つたむくいを受ける。」(「HUMAN LOST」)というのが太宰のいい分であった。妻や知人たちはそういう半狂乱を、文字通り半狂乱の中毒患者として遇した。その背後には実家の意向が働いていたかもしれない。妻は実家の意に逆らわぬために、その意向に諾々として従い、「十日間」も病院を見舞うこともしなかった。このことは太宰の心をずたずたにした。しかしどう考えてもここは太宰治の甘ったれた独り角力ということになるほかない。ただ太宰の甘えに分が無くても、打ちのめされたという体験の意味は変えることができない。この出来ごとを決定的な契機として、人間は信じられない、人間は不可解な、うらおもてをもった動物だ、愛とか憎しみとか、嫉妬とかいう感情に実感がない、人間は恐ろしい、等々の失墜感がおとずれるようになった。この失墜感は同時にむき出しの存在感と表裏をなしていた。ほど良いという感情は消えてしまい、砂漠のように渇いた無感情と、むき出しの苛酷な情緒反応で、他者との関係をつくり変えていった。
作品が真理なのか、作者が真理なのかということは尽きない謎でありうる。たしかなことは作品の誇張された強烈な描線がつくりあげる画像が、作者の真理だと錯覚させる力が作品を成立させていたということだ。一般に被害妄想と呼ばれている心の状態は異常ではないと後に、太宰治はこの時期を回想して学生たちに説いている。それが作品のなかの擁護すべき真理と作者の真理を結びつける体得であった。
[#ここから2字下げ]
「ひとことでも、ものを言へば、それだけ、みんなを苦しめるやうな気がして、むだに、くるしめるやうな気がして、いつそ、だまつて微笑んで居れば、いいのだらうけれど、僕は作家なのだから、何か、ものを言はなければ暮してゆけない作家なのだから、ずゐぶん、骨が折れます。僕には、花一輪をさへ、ほどよく愛することができません。ほのかな匂ひを愛づるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折つて、掌にのせて、花びらむしつて、それから、もみくちやにして、たまらなくなつて泣いて、唇のあひだに押し込んで、ぐしやぐしやに噛んで、吐き出して、下駄でもつて踏みにじつて、それから、自分で自分をもて余します。自分を殺したく思ひます。僕は、人間でないのかも知れない。僕はこのごろ、ほんたうに、さう思ふよ。僕は、あの、サタンではないのか。殺生石。毒きのこ。まさか、吉田御殿とは言はない。だつて、僕は、男だもの。」
[#地付き](「秋風記」)
[#ここで字下げ終わり]
太宰治はわがままな甘ったれ男のような語り口で、作品の「私」や「僕」に乗りだしている。読者はそう錯覚するがそれは作品の真理なのだ。その奥のほうに骨太で剛直に真理をいってのける歯に衣をきせぬ作者の真理がある。その場かぎりのどうでもいい感情を吐きだしているようにみせながら、生まじめに真理をいう力がかれの本質である。「殺生石。毒きのこ。」というのはむき出しの情緒反応をさしていた。感情が膜ひとつ隔ててしか他者にむかわないために、しだいに強い反応をしいて刺戟しながら、陥ち込んでゆく無感動の地獄といってよかった。ほとんど病者と接する境のところまで、じぶんを追いこんだ。ふつうの感情なら他者へむかってゆくことで意味をもってくるのに、膜で現実と隔てられているため、じぶんの感情がじぶんにたいして疎遠にしか感じられない。そして不安のあまりしいて他者への情緒をかきたてようとするが、つくられた擬感情としてしか他者に流れこんでゆかない。この世界は無感動な動きのない空疎が支配することになっていった。太宰が病者と紙一重で陥ち込んでゆく場所はいつもここだったといってよい。じぶんがじぶんから隔てられている、感情が動かなくなってじぶんが人形のようにおもえてくるという恐怖感は、内省することと、内省によってあらわれたものとのあいだに空隙がなかったら、充実した反省的な洞察ということになるだろう。洞ろな無表情や冷たい殺生石の匂いはそこからほんの少しの差異にすぎない。世界を内省する力と世界から隔てられてしまう意識とは、本来はおなじところに根拠をおいている。太宰の最終の声はいつもこの根拠からたち騰ってきた。それは致し方なく繰返される焦慮のようなものであった。
かれの作品の言葉を意味だけで読んでゆけば、病的な虚無の作家の像が得られてしまう。倫理的に中性のところからこぼれ落ちてくる享楽の感覚をうけとってゆけば、頼りない無力な遊冶郎の匂いがあふれてくる。この極端な分裂のなかにかれの作品が横たわっている。
[#ここから2字下げ]
僕には、昔から、軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も何も無かつた。人の真似をして、憎むの軽蔑するのと騒ぎ立ててゐただけなんだ。実感としては、何もわからない。人を憎むとは、どういふ気持のものか、人を軽蔑する、嫉妬するとは、どんな感じか、何もわからない。ただ一つ、僕が実感として、此の胸が浪打つほどによくわかる情緒は、おう可哀想といふ思ひだけだ。僕は、この感情一つだけで、二十三年間を生きて来たんだ。
[#地付き](「新ハムレツト」)
私は、人間をきらひです。いいえ、こはいのです。人と顔を合せて、お変りありませんか、寒くなりました、などと言ひたくもない挨拶を、いい加減に言つてゐると、なんだか、自分ほどの嘘つきが世界中にゐないやうな苦しい気持になつて、死にたくなります。さうしてまた、相手の人も、むやみに私を警戒して、当らずさはらずのお世辞やら、もつたいぶつた嘘の感想などを述べて、私はそれを聞いて、相手の人のけちな用心深さが悲しく、いよいよ世の中がいやでいやでたまらなくなります。
[#地付き](「待つ」)
[#ここで字下げ終わり]
これは偽善がきらい、いい加減なごまかしがきらい、というのと少しちがっている。そう受けとったとしたら倫理的な思い過ごしなのだ。むしろこれは疎隔感の表現である。感情の動きが人形のように死んでいるのに、生きた感情のように振舞わねばならないおりの苦痛が語られている。病者の光線がさしこんでくるのに、それを反俗の言葉のように告げねばならない秘められた格闘という主題は、かれの作品について一度はかんがえていいことのようにおもわれる。「お変りありませんか、寒くなりました、」という挨拶はそれだけとってくれば、お座なりの挨拶ということになるだろうが、この紋切り型には、慣習の歴史がつくりあげた〈暗黙の約束〉がこめられている。太宰がどうしても理解できなかったのは、これに含まれた〈暗黙の約束〉であった。身に覚えがないのに、脳病院に入れられた。じぶんに覚えがないのに、褒められたり、けなされたり、愛されたり、憎まれたりする。じぶんが求めないのに、他者との関係が仕掛けられる。太宰にはそのひとつひとつが恐怖としてしか感じられない。人間が、他者とかかわりあう部分には、かかわりあいの歴史があぶり出した〈暗黙の約束〉があって、じぶんたちの精神の閲歴を黙って認めあっている。紋切り型の挨拶はその意味では、少しもいい加減ではないのだが、太宰には本質的な意味で歴史感情が欠けていた。かれは他者とも疎隔されているし、自己の歴史であるじぶんとも絶たれて、ぽつんと偶然そこに在ったようにしか、存在感をもちえなかった。人間と人間のあいだの疎密さが不可解なのはもっともであった。〈暗黙の約束〉は約束の中味が、個人でどうちがっていても〈暗黙の約束〉という一般性さえあればよい。それぞれがあざむきあっているようにみえるか、いい加減のようにみえるかで、個々の人間は傷つく必要はない。
[#ここから2字下げ]
互ひにあざむき合つて、しかもいづれも不思議に何の傷もつかず、あざむき合つてゐる事にさへ気がついてゐないみたいな、実にあざやかな、それこそ清く明るくほがらかな不信の例が、人間の生活に充満してゐるやうに思はれます。けれども、自分には、あざむき合つてゐるといふ事には、さして特別の興味もありません。自分だつて、お道化に依つて、朝から晩まで人間をあざむいてゐるのです。自分は、修身教科書的な正義とか何とかいふ道徳には、あまり関心が持てないのです。自分には、あざむき合つてゐながら、|清く明るく朗らかに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》生きてゐる、或ひは生き得る自信を持つてゐるみたいな人間が難解なのです。
[#地付き](「人間失格」)
自分は、皆にあいそがいいかはりに、「友情」といふものを、いちども実感した事が無く、堀木のやうな遊び友達は別として、いつさいの附合ひは、ただ苦痛を覚えるばかりで、その苦痛をもみほぐさうとして懸命にお道化を演じて、かへつて、へとへとになり、わづかに知合つてゐるひとの顔を、それに似た顔をさへ、往来などで見掛けても、ぎよつとして、一瞬、めまひするほどの不快な戦慄に襲はれる有様で、人に好かれる事は知つてゐても、人を愛する能力に於いては欠けてゐるところがあるやうでした。(もつとも、自分は、世の中の人間にだつて、果して、「愛」の能力があるのかどうか、たいへん疑問に思つてゐます)そのやうな自分に、所謂「親友」など出来る筈は無く、そのうへ自分には、「|訪問《ヴイジツト》」の能力さへ無かつたのです。他人の家の門は、自分にとつて、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい龍みたいな生臭い奇獣がうごめいてゐる気配を、誇張でなしに、実感せられてゐたのです。
[#地付き](「人間失格」)
[#ここで字下げ終わり]
あざむく、あざむかれるという関係からどんなに深傷を負ったのだろう? 佇ちどまっているところはいつもおなじだ。太宰治の思考の順序をたどれば、存在しているということは虚偽なのだ。存在の関係から虚偽が生じるのではない。それなのに人々は何もいわずに「清く明るく朗らか」なのはおかしいということになる。人々の考える順序は逆である。存在し、生活していることは虚偽でも真実でもないそれ自体のことである。そして虚偽を意識したときだけ虚偽が生れる。存在し生活することはただそれ自体無意識が是認したことでしかない。余計なことを剥ぎとってしまえば「あざむき合つてゐる」という体験の傷口がすべてに先だってかれの傍におかれている。けれどもいつもそこにひきもどされるが「他人の家の門は、自分にとつて、あの神曲の地獄の門以上に薄気味わるく、その門の奥には、おそろしい龍みたいな生臭い奇獣がうごめいてゐる」といった個所に出遇ったときの、快楽ににた共感と誘惑を語らないとすれば、作品を不当に生まじめなうけとり方をしていることになるのだ。ここには誇張されたタッチもあれば、しいて暗い色に塗りつぶされた色価も感じられる。けれど本質的に太宰を悩ましつづけた関係の恐怖が、素直な実感で語られているとみて間違いはない。
太宰の疎隔感にもしお手柄があるとすれば、世のいわゆる「友情」なるもの「愛」なるもののうちにも〈暗黙の約束〉が含まれていることを、それとなくあぶり出していることにあった。もちろんこういういい方は、太宰自身には成立つはずがなかった。一見軽々しい調子で接触しながら人間は人間を信じうるか、人間はじぶんを愛するように隣人を愛しうるかという問いは、太宰には生涯かけた必死の問いだったからだ。「愛」の能力も「友情」の能力もじぶんにはないのではないかという不安感は、かれにとって致命的であった。世のいわゆる〈愛〉とか〈信頼〉とかは限度の自覚と、利害の自覚からできている。限度を超える危険と、利害に反する危険がほどよく意識されているため、逸脱したり境を超えたりしたときは、背きあってもよいという〈暗黙の約束〉が成立っている。だが太宰にはそんな限度や、限度を超えたときの背きあいが、てんから信じられなかった。〈愛〉や〈信頼〉はそんなものではないというあ掻きが、生涯に何度かあった破滅的な自殺計画の動機になっているとさえいってよかった。その度ごとにかれは〈愛〉や〈信頼〉に無感応な場所へ、じぶんを追い込んでいったのである。扉を叩けば開かれるという〈暗黙の約束〉がなければ、人間はひとの家を訪れることさえできない。それを頭から信じない場所に陥ち込んだとき、ひとの家の門は疎遠な怖ろしいものにみえる。かれがここで「|訪問《ヴイジツト》」の能力と呼んでいるものは、出来ないものからみれば神の能力にもひとしいものであった。
ここである穴の底のような世界をかんがえてみる。その世界に陥ち込むと他者の姿が傍にあっても、感情が動かないかぎり、いつまでもおたがいに黙って、知らぬ貌でいるだけである。そして感情の動きがあれば、最小限のことをそのまま言葉にするだけで済ましてしまう。他者に通じても通じなくてもよいし、他者の応答がなくてもさしつかえない。ひとはひとを愛したいとか、関係をもちたいという感情は起らなくてよい。暗い沈黙を背負ってひとは影のようにのろのろと動いて、何かあてどのないことをやっている。ただたしかなことは、粉飾や過剰や体裁は本質的に意味をなさない。こういう世界があまりに無感動や無関心で冷たくなったら、そこに倫理や体温を与えればよい。少なくとも願望としてはひとは、じぶんを愛するように他者を愛することができるし、他者を理解するには、じぶんがじぶんを理解しているとおなじ仕方で、他者をおし測れば絶対に間違いはない。じぶんを信頼するように他者を信頼すれば、あざむかれることもありえない。つまりふつうの世界では、すべての言葉や行為の信憑性は、それぞれの〈場面〉に附随して測られるために、ある〈場面〉で褒めそやされた言葉はべつの〈場面〉では悪しざまな言葉にとってかわられる。だがおなじことを盾の両面からいっているにすぎない。おなじことが〈場面〉によって歯の浮くような褒め言葉にもなれば、悪しざまな悪口になることもある。これはひととひととの関係の裏と表でかならずしも〈かげひなた〉の関係だともいえない。ひととひととの関係の仕方が〈場面〉に附随しているかぎりは、そんなことがありうるのだ。けれど太宰が願望した世界では、こういう関係の多義性や両価性はありうべくもない。そこはただひとつの意味が流れていなければならない。他者への判断や評価は〈場面〉で変るのではなく、言葉はただ世界の全体にかかわるだけだからある〈場面〉では歯の浮いたような褒め言葉が、べつの〈場面〉ではそのまま悪しざまな悪口にかわることは起りえない。太宰治が〈陥ち込んだ〉場所は同時に〈願望した〉場所でもあった。ここで〈陥ち込んだ〉ことにプンクトを打てば「愛」や「友情」がまったく不能な、影のような〈ひと〉だけが住んでいる世界である。また「軽蔑感も憎悪も、怒りも嫉妬も」ほんとうは実感できない。無関心や無感動でしか他者と結びつけない癈疾者のような世界であった。人間はただ立ちすくんだ「おう可哀想」という仕方で、影みたいにぽつんと存在している。少しでもポジティヴに他者との関係を想定すれば、情緒を削ぎとった|むき《ヽヽ》出しの関係しか成立たない。「ほのかな匂ひを愛づるだけでは、とても、がまんができません。突風の如く手折つて、掌にのせて、花びらむしつて、それから、もみくちやにして、たまらなくなつて泣いて、唇のあひだに押し込んで、ぐしやぐしやに噛んで、吐き出して、下駄でもつて踏みにじつて、それから、自分で自分をもて余します。」という情緒反応が、ほんとうの関係の仕方である。太宰はこんなじぶんの〈陥ち込んだ〉場所を人間失格の世界と考えた。けれどこういう場所だけが、本質的な意味で人間らしい関係が占めているのではないのか。この〈陥ち込んだ〉場所は、同時に〈願望〉の世界でもあるのではないか。こういうとき太宰治には倫理といってよいものが現われた。かれはじぶんの失墜感に閉じこめられた場所に、むきになって倫理的な意味を与えようと試みた。「その人と面とむかつて言へないことは、かげでも言ふな。私は、この律法を守つて、脳病院にぶちこまれた。」という無念の思いはかれの戒律とした倫理が、現世と衝突した最初の体験であった。病痛を和げるためにつかった麻薬の常習者になった太宰は、妻や知人にあざむかれて精神病院に隔離されたと感ずる。「人を、いのちも心も君に一任したひとりの人間を、あざむき、脳病院にぶちこみ、しかも完全に十日間、一葉の消息だに無く、一輪の花、一箇の梨の投入をさへ試みない。」(「HUMAN LOST」)妻を、自己流の倫理から別の世界へ追放してしまう。かれの被害妄想が加担しているのだが、それすら傍からもじしんでもどうすることもできない。一本の麻薬すら享楽のために打ったことはないという太宰治の倫理感では、どうして妻からあざむかれ、隔離されなければならないのかまったく不可解だった。じぶんが半狂乱の中毒患者なら、妻や知人は「面とむかつて」そういってくれるはずである。ひとはどうして用心ぶかくあたらずさわらずのことを、ぬけぬけと他者にむかっていいあいながら、陰ではぞっとするほどの悪口を叩きあい、それでけろりとして生きることができるのか。あざむきあっていながら「清く明るく朗らかに生きてゐる」ことができるのか。この世界を奥深くで支配しているのは、じぶんにも他者にも不利益なことは、あばき立てるよりも、流しさる方が|とくだ《ヽヽヽ》という計算にすぎないのではないか。人間は誰も人間を恐怖している。そしてこの恐怖をすこしでも和げたり、破局を死後にまでもちこすには、ただ〈現在〉をどんな一時逃れの嘘によってでも、回避するよりほかないのではないか。誰もがそうして生きているのは仕方がないとしても、心はひとかけらの戦慄を持続すべきなのに、なにやら自信あり気に生きているのは、どういうことなのか? この皮膚を剥いで赤いむき出しの肉をさらけださずにはおられないといった飽くなき問いの願望はどこからやってくるのか? 制度として個の存在を緩衝剤のように包む市民社会が稀薄なところで、根源的であろうとするかれの衝迫力が自縄自縛の地獄を出現させていった。真理をくるむにはそれ相当な堅牢な箱が必要なのに、薄い膜のようなひ弱いものにくるんでしか真理は提出されなかった。この印象は太宰の作品の印象を象徴している。
「人間失格」(あるいは Human Lost)といういい方で、太宰治の情緒や感性が陥ち込んだ場所は、〈比べる〉という概念のない世界である。言葉や行為に〈かげひなた〉が起りうるのは、ある眼にみえない〈尺度〉から、褒め言葉と悪しざまな陰口を比べてみることができるからである。ひとが他者を訪れある関係を結べるのは、じぶんの心の動きと他者の心を、比べられるからである。ひとが他者を愛したり憎んだりできるのは、じぶんの心の衝迫が他者に比べられるし、また無意識のうちに比べる〈尺度〉の共通性が、信じられているからである。だが〈比重〉も〈尺度〉もないとしたら、他者はじぶんではないという理由だけで、恐怖すべき不可解な生きものであり、他者との関係はただ怖ろしいだけになり、この怖ろしさから逃れるには、無感動と無関心を装うほかにない。かれが陥ち込んだ世界の扉には無関係という文字がかかれていた。ただそこに、人間の意志が住みつけるかどうかで病者と非病者とは区別される。太宰治がある時期病者の領域にあったか、そうでなかったか追及してもそれほど意味があるとおもえない。作品ではしばしば無意識のうちに病者と非病者のあいだの堰が破られ、その境を往き来しているようにみえる。かれはそういうじぶんの危うさを識っていて、しばしば助けをもとめる声をあげたり、半狂乱のうめきを発したり、超越者にすがりつこうとして|も《ヽ》掻いた。
太宰治の文学はこの世界の全貌を開示してみせるという意味では、けっして高度なものではない。人間とはなにか、その存在の仕方とはなにかという問いは、本質的にはかれの作品に一度もやってこなかった。ただ人間と人間との関係からこぼれ落ちる失墜感とはなにか、ひとが他者から疎隔されてしまうのはなぜかという問いは無限に展開されている。他者との関係で〈比量〉が利かないのに意味にみたされた世界は可能か、そういう世界に陥ち込んだものはどう受難するか。そこに作品が成立っている。
[#ここから2字下げ]
満月の宵。光つては崩れ、うねつては崩れ、逆巻き、のた打つ浪のなかで互ひに離れまいとつないだ手を苦しまぎれに俺が故意と振り切つたとき女は忽ち浪に呑まれて、たかく名を呼んだ。俺の名ではなかつた。
[#地付き](「葉」)
[#ここで字下げ終わり]
不信がユーモアへ流れる曲線、あるいは齟齬が融けて齟齬のままでとどまっている。それだけがかれの文学であり、そのあまりはかれの心中事件の告白録なのだ。そしてわたしたちは告白録を読みながら、文学のほうを感受してゆく。これは作品に関することだが、作者は何を望んでいるのかまったくわからない。かれは告白録を文学という形でしか記述することができなかった。何を望んでいるのかは自身でもわからなかったろうが、ひたすら書きしるした。たんに不信を描いているのではなく不信の感覚的な光景を、ある象徴の言葉にのせて描いている。心中のためにじぶんを海に投げ込みながら、故意に手を振り切ったり、相対の女がじぶん以外の男の名を呼びながら沈んでゆくのがわかるはずがない、とまぜかえしても仕方がない。それとおなじようにこの不信はあまりに軽薄だといっても不当なのだ。なによりも不信そのものを感覚的に現前させることが大切だった。ここでどう受難するかではなく、どう脱出するかと問い直せば、人間不信の極限で佇ちすくんだ場所から、脱出する可能性はあった。なぜなら女は死んだがこの「俺」は死を果たせなかったから。ともかくも生きているということは、時間にたいして何ごとかである。負債ばかり背負い込んだ商人のように、あるいは負け札ばかりになったヤクザのように〈負〉を返済して〈無〉にするためにでも生きつづけることはできる。
太宰治はなんべんも、じぶんが陥ち込んだ失墜感から〈人間〉らしい関係へ復帰しようと試みた。だがポジティヴであろうとするといつも未遂におわった。運命は〈負〉についているようであった。だから脱出の可能性と機会は、受け身のうちに生理的にやってきたというべきである。生理的な成熟がひとりでに連れ出してくれた。人間が観念をヤスリにかけては尖らせてゆく仕方が、どれだけ生理に依存した部分をもっているか気づくのは、生涯のあとの方になってからである。太宰はじぶんでもけわしい眼つきをした表情が、何やら軽々しく動かなくなったり、病気が治ってゆくときのように、思考が弱々しく繊細なふるえをとめてゆく理由がわからなかった。けれど秤りは〈生〉の方へ傾くために、ほんの少しずつ体重が太ってゆけばいいということはありえたのだ。
[#ここから2字下げ]
すこしづつ変つてゐた。謂はば赤黒い散文的な俗物に、少しづつ移行してゐたのである。それは、人間の意志に依る変化ではなかつた。一朝めざめて、或る偶然の事件を目撃したことに依つて起つた変化でもなかつた。自然の陽が、五年十年の風が、雨が、少しづつ少しづつかれの姿を太らせた。一茎の植物に似てゐた。春は花咲き、秋は紅葉する自然の現象と全く似てゐた。自然には、かなはない。ときどきかれは、さう呟いて、醜く苦笑した。けれども、全部に負けた、きれいに負けたと素直に自覚して、不思議にフレツシユな気配を身辺に感じることも、たまにはあつた。人間はここからだな、さう漠然と思ふのであるが、さて、さしあたつては、なんの手がかりもなかつた。
[#地付き](「花燭」)
[#ここで字下げ終わり]
じぶんを迅速な魂をもった特別仕立てだと無意識に思い込んでいる時期がすぎてみたら、ひとこまひとこま誠実にマス目を埋めるような、つつましやかな生活をしているじぶんがあったという発見を語っている。つまり誰もが通りすぎる天使に「負けた」時期をいっている。皆はもうそんな時期を忘れてしまっている。ただ青年だけがいつの時代もそのことを納得できないため、この現実に適応できないで思い煩っている。生理的な成熟が加担してくれるほかに誰も助けてくれなかった。「かれ」はじぶんの俗化を生理の|せい《ヽヽ》にしてごまかしたのではない。生きることのなかには、こういうことはありうるのだ。ただ生きつづけていたら、ひとりでにある場所を抜けていたということが。我慢してじっとしていると、どうにかなるということではない。生きつづけることは時間とのシーソ・ゲームに似ていて、あるときは時間を追い越し、あるときは時間に遅れをとるが、ときには生きることが時間の進行に、適合しているときがある。これは少しも意志による適合ではないから、精神は慰まないが生理がひとりで和いでくれる。
「自然には、かなはない。」といういい方には、生理的な成熟が自意識を追い越してゆくときの、名状しがたい苦々しさと安堵がこめられている。太宰が固執したり、逆に脱出しようと願った険しい失墜感の世界は、土産物の容器のように生理的にあげ底にされる。これを成熟と呼ぶならそうかもしれないが、太宰じしんの内面には成熟もないし、成熟の自覚もなかったのである。これに重なるように、戦争が自意識の過剰を、苅り込むことを教えた。太宰が同世代の文学の旗手としての旗を降ろしたのは、この〈人間らしい〉場所に復帰できそうな、戦争期の前後だけだったといってよかった。
戦争をめぐって人間にたいする死の残虐と大衆に加えられる悲惨を強調するのと、生命を捨てた献身、犠牲、勇気、健康などを強調するのと、どちらに軍配があがるのだろう。現在でもアジア的な風土では後者の方に分があるような気がする。外の思考としてかんがえれば、文学はさっそうとしていないこと、はかどらないで愚図愚図していること、ふっきれないことの代名詞に似ている。この反対であるばあいにも小さな切れ味でしかない。文学は外側を象徴するもの、たとえば権力、勢力それに牛耳られる多数にとっては、得体の知れない、無気味な、不健康なものなのだ。じぶんの得体の知れない疎隔感と不健康さに悩みつづけてきた太宰は、生理がつれてきてくれた無意識の健康さにひそかに安堵しながら、この安堵を歓迎しているような戦争期の風潮に微かな懐疑を含んでいる。
[#ここから2字下げ]
私は、矮小の市民である。時流に対して、なんの号令も、できないのである。さすがにそれが、ときどき侘しくふらと家を出て、石を蹴り蹴り路を歩いて、私は、やはり病気なのであらうか。私は小説といふものを間違つて考へてゐるのであらうか、と思案にくれて、いや、さうで無いと打ち消してみても、さて、自分に自信をつける特筆大書の想念が浮ばぬ。
[#地付き](「鴎」)
[#ここで字下げ終わり]
無惨なことに太宰治が、夢にも忘れずに願った〈人間〉らしい世界への復帰は、生理的な成熟と外からの戦争に促されてやってきた。そして内部から溢れでたものでないため、ほんとうの〈人間〉らしい感情生活とは、こういう白痴的な明るさのことなのかという懐疑が、ときとして訪れてくる。また文学とは、こういう白痴の明るさと健康さからやってくるものなのか、文学は悪や、退廃や、懐疑や、悔恨からやってくるものではないのか、という疑念にさいなまれる。じぶんはもはや同世代の旗手ではなく、いま時流に棹さして号令しているのは、健康で明るく建設的なことを、喋言っている連中である。じぶんは病気なのか、人間心理の不健康をおもうことは悪なのであるか、じぶんは所詮、辻音楽師としておわる運命なのではないか、という心のかげりがふと過ぎてゆく。太宰の生涯の嵐が小やみにやんだ、わずかの期間というようにみれば、貴重な日々はこういう形でしかも生理的な成熟と、戦争の現実から促されてやってきたのである。それが太宰治の感情生活の平安を支えた。いじらしいほど願った〈人間〉らしさとは、こういうことなのか。無気味なほど怖ろしかった隣人たちは、意外にもそれぞれが、いじましい温もりをもとめていることがわかった。思いつめてきたために、化け物のように歪んだ自画像も、塗り直してみれば案外に明るい色に修正できる。これがふやけた姿だというのなら、誰もがじぶんよりもっとふやけている。ひとを信ずることは悪なのか、ひとに献身すること、ひとを愛することは悪なのか、信ずるほど、愛するほど損をするということがあっていいのか。こういうかつての切実な問いは「純粋の献身を、人の世の最も美しいものとしてあこがれ努力してゐる事に於いては、兵士も、また詩人も、あるひは私のやうな巷の作家も、違つたところは無いのである。」(「散華」)というところに転化される。けれど「正義と微笑」や「右大臣実朝」のようなこの時期の長篇が、なお白痴のような戦争期の作品の群れのなかで文学らしさの象微たりえたとすれば、じぶんの明るい健康な姿は、ほんとうは滅亡の姿なのではないかという懐疑を、失わなかったからであった。「平家ハ、アカルイ」「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ」(「右大臣実朝」)と実朝のせりふを書いた太宰は、じぶんと戦争をそう描いたのである。
太宰治の不幸はかれの願った〈人間〉らしい感情生活が、生理的な成熟と戦争の現実から、いいかえれば精神を包む外側からやってきたばかりではなく、生涯のうちいわば例外的にだけやってきたというところにあった。
「黄金風景」で子供のとき無智でのろまなために、意地悪くいじめた女中お慶を登場させる。お慶は故里で馬車屋からいまは巡査になっている男と結婚して、子供をもうけ平和に暮している。麻薬中毒のあげく、胸を病んで籠っていた船橋時代に、たまたま戸籍調べにやってきたお慶の亭主を通じて、子供の頃別れたきりで一度も消息をきかなかったお慶のその後がわかる。お慶の一家は、その頃の「お礼」をいいたいからと訪ねてくる。「お礼」とは「私」の記憶の傷口では、いつも苛立ってお慶を意地悪くいじめぬき、足蹴にし、のろま加減を罵ったことに対する「お礼」である。ごうまんで冷酷な旧家のどら息子としての罪悪にたいする「お礼」である。だがお慶たちにとっては、旧主の息子にたいする懐しさと、感謝である。せっかく訪ねてきたお慶の一家を、用事があって出かけるからと追いかえして、町へとび出して荒んだあげく、海辺でお慶の親子が海に石を投げっこして、笑い興じている平和な姿をみかける。
[#ここから2字下げ]
「なかなか、」お巡りは、うんと力こめて石をはふつて、「頭のよささうな方ぢやないか。あのひとは、いまに偉くなるぞ。」
「さうですとも、さうですとも。」お慶の誇らしげな高い声である。「あのかたは、お小さいときからひとり変つて居られた。目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」
私は立つたまま泣いてゐた。けはしい興奮が、涙で、まるで気持よく溶け去つてしまふのだ。
負けた。これは、いいことだ。さうなければ、いけないのだ。かれらの勝利は、また私のあすの出発にも、光を与へる。
[#地付き](「黄金風景」)
[#ここで字下げ終わり]
のろまな女中お慶をいじめぬいたのも「目下のものにもそれは親切に」というのも、ともに「私」の子供の頃にあったことにちがいない。この掌篇のモチーフは、反転された失墜感の世界である。人間らしいお慶一家を描きそこに、じぶんの願望を托したのではなかった。ひとびとがいつもあざむきあいながら、明るく朗らかにつきあっているようにみえる不可解さにかれの失墜感があったとすれば「黄金風景」の世界は、意地悪くあしらわれていじめられた人間が、逆に「目下のものにもそれは親切に、目をかけて下すつた。」と口にできる不可解さの世界だといえる。そういう稀な感情生活が人間の他者との関係で、ありうるのだという作者の|戦慄《ヽヽ》である。これは少なくとも、人間は信じがたいと思いつづけてきた太宰治の失墜感を、そのままでくつがえすにたりるものであった。この時期の作品は「葉桜と魔笛」「新樹の言葉」「花燭」と並べてみていずれも回顧的な主題をとっているのは偶然とはおもえない。人間を失格した生の体験を一枚一枚、反転してみせている。この明暗とりどりの反転の世界で、逆上も、気取りも、金持の家に生れたという出生の負い目も、めくり返されている。他者との関係への恐怖や、無関心や、無力感はこの時期に影をひそめた。つまり暗い過去の回顧であっても、虚無はなにも生まないという太い線の上に立っていた。
そこから眺望したときじぶんがなぜともわからぬままに自滅を択ぶように、生涯を過してきたことに気付いた。なぜそうしたのかはわからなかった。変な〈マルクス主義〉におびえたともいえなかった。有産者の子弟に染みついた遊民性に、自己追懲を加えたといってもあたらない。病的な失墜慾から罪責感に転化したともいいきりにくい。何やらこの辺りで文学が撰択されたことの宿業のようなものにつきあたりそうだが、うまい言葉がやってこない。人間は出生や資質のようなある程度は偶然に与えられたものを、不可避の必然にまで作りあげたいと願うことがある。だが偶然からはどこまでいっても不可避性は生れてこない。それでもなお偶然に与えられたものを、必然と化したいなら、時として〈死〉のむこう側へ超出することで、生の偶然性を打消してみせるより仕方がない。たぶん太宰治はじぶんの出生や資質に懲罰を加えることで、じぶんの生を必然化したいとおもったのである。じぶんの出生や資質につきまとう曖昧さは、赦せない。人間は誰もそんなに厳しく生きているわけではないという〈比量〉の論理は、太宰には通用しなかった。チャンスではない意志だという思いは、けっして恋愛にだけ加えた考察ではなかった。それに意志を加えなければたちまち、おしゃれで道化た遊民の曖昧さに、あぐらをかいてしまうじぶんを、よく知っていたともいえよう。
太宰治が地区の学生組織のメンバーであったことのある戦前の〈マルクス主義〉政治運動における転向と非転向、殉教と背教といった問題は、もはやそのこととして左程の意味ある視点をもちえない。背徳と密教的な規範、人間の解放とは何かもわからないのに、共同性のために個を無化してしまう伝統的な様式、何ひとつ取柄のないような崩壊と残留、このようなものがそれでもなお知識にたいして宗教とおなじような献身と犠牲を喚起させる力があり、そこから背くときに背教と没落感を与えたのはなぜか、という問いだけが現在でも成立するかにみえる。〈マルクス主義〉がロシアの国家権力に膨大な虚言を真実とおもわせる力を与えたのはなぜか。この問いだけが生き生きとした意味をもっている。
どんな粗雑さと野蛮さで行使されてもマルクスの思想は本来的に、人間の内的意識から外的な制度や社会まで覆うにたりる総体性を具えている。その意味では西欧近代思想の最高の達成といってよかった。これをロシアのようなアジア的な国家が権力化するばあいにおこる飛躍と緊張は、共同性の神格化と個人性の圧殺によって辛うじて肉化されるほかなかった。そこでは殉教も背教も意味をなさないし、転向も非転向も意味をなさない。ただ信仰はすべて悪であるということしか残りそうにない。太宰が政治運動からの墜落を自己戯画化し、もともと軽薄な人間が軽薄な見栄から〈義〉に参加しただけで、女との心中未遂で政治的身振りの幕切れをむかえるのにふさわしいと自嘲の表情で語ったとき正当であった。いまかんがえれば〈知〉の信仰運動への入会と脱会とうやむやな終局とを価値の序列に結びつけないためにかれの体験がとりえた唯一の理解の仕方だった。
[#ここから2字下げ]
われは弱き者の仲間。われは貧しき者の友。やけくその行為は、しばしば殉教者のそれと酷似する。短い期間ではあつたが、男は殉教者のそれとかはらぬ辛苦を嘗めた。風にさからひ、浪に打たれ、雨を冒した。この艱難だけは、信頼できる。けれども、もともと絶望の行為である。おれは滅亡の民であるといふ思念一つが動かなかつた。早く死にたい願望一つである。おのれひとりの死場所をうろうろ捜し求めて、狂奔してゐただけの話である。人のためになるどころか、自分自身をさへ持てあました。まんまと失敗したのである。そんなにうまく人柱なぞといふ光栄の名の下に死ねなかつた。謂はば、人生の峻厳は、男ひとりの気ままな狂言を許さなかつたのである。虫がよいといふものだ。所詮、人は花火になれるものではないのである。事実は知らず、転向といふ文字には、救ひも光明も意味されてゐる筈である。そんなら、かれの場合、これは転向といふ言葉さへ許されない。廃残である。破産である。光栄の十字架ではなく、灰色の黙殺を受けたのである。ざまのよいものではなかつた。幕切れの大見得切つても、いつまでも幕が降りずに、閉口してゐる役者に似てゐた。かれは仕様がないので、舞台の上に身を横たへ、死んだふりなどして見せた。せつぱつまつた道化である。これが廃人としての唯一のつとめか。かれは、そのやうな状態に墜ちても、なほ、何かの「ため」を捨て切れなかつた。私の身のうちに、まだ、どこか食へるところがあるならば、どうか勝手に食つて下さい、と寝ころんでゐる。食へるところがまだあつた。かれは地主のせがれであり、月々のくらしには困つてゐない。なんらかの素因で等しく世に敗れ、廃人よ、背徳者よとゆび指され、さうしてかれより貧しい人たちは、水の低きにつくが如く、大挙してかれの身のまはりにへばりついた。さうして、この男に、男爵といふ軽蔑を含めた愛称を与へて、この男の住家をかれらの唯一の慰安所と為した。男爵はぼんやり、これら訪問客たちのために、台所でごはんをたき、わびしげに芋の皮をむいてゐた。
[#地付き](「花燭」)
[#ここで字下げ終わり]
「男」の自己省察の描写に生涯に何度か繰返した転機のパターンが普遍的にのべられている。殉教の概念を〈いと高きところ〉におく感性と自己卑下の感性とはまったく等価になっている。そのあいだにはさまれた揺れと誇張に作者があった。「そんなにうまく人柱なぞといふ光栄の名の下に死ねなかつた。」というのだけは掛け値ない実感であった。「男」はすべて作者よりもはるかに情緒が過剰になっている。いや作品が作者よりもすべて過剰になっているといってもいい。殉教の概念が修正されれば自己卑下も修正されるだろう。だがここで記述された普遍的な倫理の構図が作者を離れてしまうことはとても想像できないものであった。敗戦をむかえたあと太宰はもう一度〈マルクス主義〉の運動のときとちがって、尻込みし、ためらい、疑念をもちながらだが戦争にのめっていったじぶんから大転換を強いられた。そのときおなじ失墜感に直面したといっていい。かれはもう一度「花燭」とおなじ舞台を敗戦後の社会で演ずればよかったはずだ。
青年期のように生粋でしかも軽薄ではなく、ためらいと背反意識に悩まされはしたが、今度は充分の重味で戦争期のじぶんの行蔵出処を反すうできたはずだった。ただまったく反対な方向におなじ心性で動かされてしまった自己嫌悪があった。あれほど用心深く慎重に懐疑を重ねながらも時代が個をさらってゆく力の抗し難いことを味わったのである。
ここで「光栄の十字架ではなく」という作品の言葉にすがりついて、ある永続的な響きに変容させてみたい。戦後の太宰治の作品と行実をまとめるのに、〈負の十字架〉という言葉が、もっともふさわしいように思えるからである。〈負の十字架〉にかかって倒れようと意志した戦後に、かれは「灰色の黙殺」ではなく今度のときは熱狂的な支持者をもった俳優のように、舞台の中央に立たされた。逆上し照れて酒でもあおらなければ、とうていこの大役は果たせそうもなかった。そしてたとえ〈負の十字架〉であっても〈十字架〉にかかるためには、ただ「神の寵児」と自称するだけで済むはずがない。何らかの理念と思想が必要であった。だがもともと根っからの語り手である太宰治に、まとまった思想が棲みつけるはずがなかった。戦争に裏切られたものを見舞った崩壊感覚が、まだぞろ雪崩のようにあの失墜感の場所にかれを陥ち込ませただけだ。おなじ失墜感でもこんどは、初期とはちがっていた。つきつめてしまえばただ「生きてゐること」という「大事業」を経てきた何かが加わっていた。この何かをはっきりさせたくて太宰は、さまざまないい方をしている。もっともわかり易いいいまわしで「私のいま夢想する境涯は、フランスのモラリストたちの感覚を基調とし、その倫理の儀表を天皇に置き、我等の生活は自給自足のアナキズム風の桃源である。」(「苦悩の年鑑」)といった、政治風の言葉もつかってみた。こんなお座なりのいい方があぶくのように果敢ないことは太宰自身がよく知っていたはずだ。「私はサロンの偽善と戦つて来たと、せめてそれだけは言はせてくれ。さうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本棚に私の著書を並べてゐるサロンは、どこにも無い。」(「十五年間」)これは本音に近かったろうが、騒々しい敗戦後の混乱のなかで反響するには、あまりに弁解じみた弱々しい声だった。「身を殺して|霊魂《たましひ》をころし得ぬ者どもを懼るな。身と|霊魂《たましひ》とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。」という『マタイ伝』十章の言葉を、痛切な実感をこめて引きよせてもみせた。そして言葉は次第に核心に近づいていったというべきである。「僕はね、キザのやうですけど、死にたくて、仕様が無いんです。生れた時から、死ぬ事ばかり考へてゐたんだ。皆のためにも、死んだはうがいいんです。それはもう、たしかなんだ。それでゐて、なかなか死ねない。へんな、こはい神様みたいなものが、僕の死ぬのを引きとめるのです。」(「ヴィヨンの妻」)「僕」の死を引きとめる「こはい神様みたいなもの」が、初期の失墜感と戦後の失墜感のあいだに介在して、ともかくも生きつづけてきた「大事業」を象徴している。「こはい神様みたいなもの」が無かったら太宰治は、敗戦のすぐあとにもう何度目かの自殺を試みることになっていたはずである。太宰に敗戦直後の自殺を思いとどまらせたのは、名づけようのない年輪であった。この年輪は一切の規範と常識的な平安を破って、たとえ一歩一歩が自己破滅への道程であっても、道程自体を生きぬくことを教えた。それには〈負〉の意味しかないかもしれないが、たとえ〈負〉であっても、それを生きつづけることは死よりも宜しいことだという体得があった。跳躍や中絶よりも不可避の道程を、怯懦な生を択ぶべきである。何となれば人間は生きているのではなく、現実から生きさせられている存在だから。太宰治はたぶんこの体得を、最終的には「義」という言葉で要約してみせている。失墜した世界でもなく「人間」らしい世界でもなく「義」に相渉る世界とはなにか。
[#ここから2字下げ]
父はどこかで、義のために遊んでゐる。地獄の思ひで遊んでゐる。いのちを賭けて遊んでゐる。母は観念して、下の子を背負ひ、上の子の手を引き、古本屋に本を売りに出掛ける。父は母にお金を置いて行かないから。
[#地付き](「父」)
それは、たしかに、盗人の三分の理にも似てゐるが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれてゐる。その文字は、何であるか、私にもはつきり読めない。たとへば、十匹の蟻が、墨汁の海から這ひ上つて、さうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をゑがき印し散らしたみたいな、そんな工合ひの、幽かな、くすぐつたい文字。その文字が、全部判読できたならば、私の立場の「義」の意味も、明白に皆に説明できるやうな気がするのだけれども、それがなかなか、ややこしく、むづかしいのである。
[#地付き](「父」)
義。
義とは?
その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になつて地獄にはまり込まなければならぬ。その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似てゐる。
[#地付き](「父」)
[#ここで字下げ終わり]
はっきりといっていないが、胸中の神聖な祭壇に書かれた文字は、破滅的な生を〈ただ生きつづけてみせること〉と読めたはずである。「生きてゐる事。生きてゐる事。ああ、それは、何といふやりきれない息もたえだえの大事業であらうか。」(「斜陽」)という「大事業」の持続の自覚といってもよい。どうして生きつづけることがそんなに「大事業」なのか。たかが妻子を放ったらかして、あぶく銭を湯水のようにとりまきたちとの酒宴につかい尽してしまう生活が、アブラハムの子殺しや、佐倉宗吾郎の救民直訴の子別れとおなじような「義」に該当するか。「義」にはいつも身を殺して利他にかかわる世界に殉ずるという概念が含まれている。とすれば太宰治の「義」は私利にかかわりはなかったが、利他の世界が欠けている。かれが胸中に書かれた「義」の文字をはっきり読んでみせるのをためらったのはそのためである。それにもかかわらず「義」の文字を消そうとしなかったとすれば、かれになお「身と|霊魂《たましひ》とをゲヘナにて滅し得る者」という自負があったからである。かれははじめてわが近代に「|霊魂《たましひ》」の〈負〉の行方を確定してみせた。太宰治の信じたところでは、それはかつて何人もなしえなかった〈負〉の殉教であった。
[#改ページ]
[#見出し] 小林秀雄
青年はいつも奇怪な観念で頭脳をいっぱいに充たしている。そして過敏さの極限でじぶんの肉体さえも奇怪な形象に歪めてしまっている。醜悪だとみなすか善美だとみなすかはそれぞれだとしても、かれが奇怪な観念を封じこめた身体像を奇怪に歪めるまでに至ることは確かである。この奇怪さはまたきわめて単純な心の動きからできている。〈純粋化〉と〈極端化〉がかれの奇怪さの核心なのだ。かれはこの世界が|はじめて《ヽヽヽヽ》のことでいっぱいなのを体験する。〈性〉にぶつかるのもはじめてならば〈社会〉にぶつかるのもはじめてなのだ。そしてこのはじめての体験に出あったときほんとうは既に決定的におわってしまったものと、まったく未知のものとが意識されずにかれには混淆されている。この内的な状態がはたから奇怪に映らないとしたら不思儀なくらいだ。また自身には観念の〈純粋化〉と〈極端化〉だと考えられるのも当然である。はじめての事柄に殺到されてかれは迅速にそこを潜りぬけようと|も《ヽ》掻くのだが、時間は思いどおりには過ぎてくれない。それが何故だかわからないのだが、ほんとうはこの|はじめて《ヽヽヽヽ》のなかですでに決定されてしまったものと懸命にたたかっているのだ。心理学はそれを性格とよぶかもしれないし、宗教は宿命とよぶかもしれない。また文学は漠然と資質とよぶかもしれない。どんなよび方をしても青年はすでに決定してしまったものにだけ魅せられているのにそれに気がつかない。かれにできるのは〈純粋化〉と〈極端化〉いがいにない。時間の通路は収縮して未来はしだいに閉ざされてみえる。
この内的状態がどこに出口をみつけだすかは誰にもわからない。閉ざされたとみえた未来を、いつのまにか通過していたとしても、壁の向う側がみえないかぎりいつも一寸さきは闇なのだ。かれはいま宿命的な混乱を生きていると感じている。人が青年期に開示したものをある意味で逃れられないのは、あまりに困難におもえたその時期のたたかいを大事に記憶にしまいこんで手離せないからである。しかしたぶん、人間は青年期にじぶんがかんがえてしまったほど宿命的な存在ではない。すべての文学や思想がかなしいことに、はやい時期にじぶんで思い込んだ枠を逃れられないのは、青年期の体験を決定的なものと錯覚するからである。これが文学者は処女作に回帰するといういい方にふくまれた真実と虚偽の根拠である。
ここにひとりの優れた資質をもった青年があった。かれが錯乱し難渋したのは殺到してくる事物を極限までなめつくし〈純粋化〉せずにはおられないやみがたい自意識の欲望をかかえていたからであった。意識が意識された事物のことだとすれば、自意識は意識された意識のことをさしている。意識はいつも事物との関係のなかにあってじぶんをみつけだす。けれど意識を意識するところの意識のなかでは、事物との関係は絶ちきられて関係についての関係だけが意識にくりこまれてくる。この困惑はどんな生々しい体験もいざ反省的に意識にのぼせてみるとぼんやりしか浮んでこないといった具合にやってくる。これは体験の生々しさとけっして矛盾しない。意識を意識することが病いなら、どんな生々しい体験もこの病いのところまでは極端にひき込まなければすまされないのが、おおよそ自意識が演じる劇の特徴である。意識どうしが役者になって脳髄をはねまわり、意味にならない対話をかわし、しまいには舞台である脳髄を骨ぐみだけのこして荒廃させてしまう。たくさんの判断をかかえこんだはちきれそうに豊饒な内部が、どんなにぼんやりした鈍い外観をもってあらわれることか。やせてにやけた芸能歌手が敏捷でしなやかに肉体を鍛えこんでいるように、薄汚なく鈍重にみえる外貌の下に迅速で鋭利な夢想が充溢している。これが青年のいだく誰にも理解されないという病いと、理解されたいという病いの姿なのだ。この病いに時代的な必然があったのかどうかわからないが個性的な必然はあった。そこでは「母の病気の心配、自分の痛い神経衰弱、或る女との関係、家の物質上の不如意」(「一ツの脳髄」)などすべて現実上の出来ごとは、出来ごととして感じられずに「幕の中で」自意識を惑乱させ疲れさせるような疎隔としか感じられない。自意識を舞台にして演じられるこういう意識の劇は、意識内意識を役者として演じられるために、またべつの意識が観客になってそれを視ているという薄気味悪い世界を出現する。これはある種の資質にとっては共通した青年期の体験であるかもしれない。だがこの世界を極限まで歩むことを強いられるか、やがて通り過ぎてしまうかは誰にもわからない。この自意識の病態が演じる劇が、渋滞も通過も言葉の秤にかけて自在に統御できたら文学的な出発とかんがえることもできよう。青年の困惑や衰弱や苦渋が言葉の秤にふれて微かに無償の美に通ずることはありうる。また観客はじぶんの意識だけではなく、他者もこの無償の劇場に参加することができるはずだ。文学が初期にじぶんに快楽原則を禁ずればここに原型をおくことになる。
文学の質を決定するものはある意味では単純である。インセスト・タブーのような禁忌の縛めとその切断の意識が強いものと、はじめから快楽原則に受身にまかせたものと、このふたつがあるだけだ。禁忌も快楽もすべてが自己意識の内部で意識の監視下に遂げられるということは原型的であるとともに、すぐれて時代的であることを意味する。
[#ここから2字下げ]
丁度自分の脳髄をガラス張りの飾り箱に入れて、毀れるか毀れるかと思ひ乍ら捧げて行く様な気持ちだつた。然しいつの間にか、それは毀れてゐた。そして重い石塊に代つてゐた。
[#地付き](「一ッの脳髄」)
(此の男は何を云つてゐるんだらう――)、私は、間抜けた様子で男の顔を眺め、信玄袋を担いで来た赤帽の様に肩の上に乗つかつた石塊を振つた。
[#地付き](「一ッの脳髄」)
[#ここで字下げ終わり]
薄気味悪いが弱年の小林秀雄が自意識の病いに強いられて編みだした実在のように確かな手ごたえのある意識の光景であった。自意識の悪業と困惑の座が脳髄にあるとすれば、じぶんの脳髄を「捧げて」歩いているじぶんの像が実在のようにみえるのは、自意識が現実と等身大になり、現実にある条件はすべて自意識の世界にもあるような精神の状態をさしている。この意識の狂乱劇から脱出しようと|も《ヽ》掻いた青年期の小林秀雄に、文学的な出口を示唆したのは、フランス象徴派の周辺にあった詩人たちであった。近代の自意識が析出する宿命の詩はボードレールに、閉じられた未来の短命の意識はランボオにと仮托された。現在からみれば手製のボードレールやランボオの像が思い込みでつくりあげられただけかもしれなかった。理解には限度がないという意味では、かれは同時代のたれよりもこれらの詩人たちを理解したかもしれない。かれの体験した自意識の狂乱は稀にみる必然性をもってこれらの詩人たちをとらえたから。けれども理解はついには背景を呑み込んでゆくほかないのにかれにはおおよそ背景という概念すらなかった。素っ気なくいえば自意識が一般的であり抽象的であるかぎりにおいて、直接にわかったと感ずる感じ方の次元をかれは逃れることはなかった。たれも青年がじぶんを詩人に擬したがるのとおなじで、ここには自意識の幽霊にされた詩人が勝手にしつらえられたといっていい。小林秀雄の演じた自意識の劇の荒筋は、強いていえばポール・ヴァレリイにやや似ていたかもしれぬ。
[#ここから2字下げ]
僕は正確といふ烈しい病に悩んでゐた。理解したいといふ狂気じみた欲望の極限を目がけてゐた。そして、自分の裡に、自分の注意力の急所を捜し廻つてゐた。
[#地付き](ヴァレリイ「テスト氏」序、小林秀雄訳)
そこで僕は、自分が現に本当に[#「現に本当に」はゴシック体]所有してゐるもの以外、一切を捨てようと試みた。が、どう捨てたものかとなると、あまり自信がなかった。そして自分を嫌悪するに必要なものなら、自分の裡をさぐれば、いくらでも苦もなく出て来る始末であつた。併し一方、僕は自分の、正確に対する限りない欲望、信念と偶像とに対する軽侮、容易に対する嫌悪、己れの極限を嗅ぎつける感覚力には充分恃む処があつたのだ。僕は自分の裡に、一つの|内部《こころ》の島を拵へ上げ、これを認識し、これを鞏固にする為、徒らな時を過した……
[#地付き](ヴァレリイ「テスト氏」序、小林秀雄訳)
何故にテスト氏は存在し得ないのか――この疑問こそ彼の魂[#「魂」はゴシック体]である。この疑問が諸君をテスト氏にして了ふのだ[#「この疑問が諸君をテスト氏にして了ふのだ」はゴシック体]。何故かといふと、彼こそ可能性の魔自身に他ならぬからである。彼に可能なもの一切に関する顧慮が、彼を支配してゐる。彼は自省する、動作する、だが、動かされるが儘になるのは嫌なのだ。彼は、行為化された意識の二つの価値、二つのカテゴリイ、つまり可能事と不可能事[#「可能事と不可能事」はゴシック体]以外を認めないのだ。哲学は殆ど信用されず、言語はいつも痛めつけられてゐるこの不思議な脳髄のなかには、思想などといふものはその場凌ぎのものだといふ感じを伴はない思想は棲んでゐない。決定的な計算の期待と遂行とがあるだけだ。既知のものと未知のものとの関係を設立し組織するメカニズムの監視に、彼の緊迫した短い生活は費される。一歩進めて言へば、無限といふものが全く姿をみせぬ孤立した一体系の様々な特性を、執拗に想ひ描かう為、その捉へ難い卓抜な力を振はうといふ生活なのだ。
[#地付き](ヴァレリイ「テスト氏」序、小林秀雄訳)
[#ここで字下げ終わり]
自意識のすみずみまであまねく、探針の及ばないところがあってはならぬ、毛一筋の通れる暗点を余してはならぬ、という青年の妄念が生みだした純粋人間が、ヴァレリイの「テスト氏」だとすれば、ヴァレリイの解説するように「テスト氏」は青年の一時期しか生きられない「短命」を決定されている。「テスト氏」は明晰でなければならぬ「曖昧な事物」「不純な事物」を許容してはならぬという意識につかれたのだが、小林秀雄の「一ツの脳髄」や「からくり」や「Xへの手紙」に登場する一人称の人物は、自意識の壁のなかに情念や夢魔や欠如感を密封し、そのうえに完璧に目張りを施して外部に漏らすまいという極度の欲求に衝かれた人物である。外部に漏れたが最後、おこるだろう外界との妥協や融和をけっして許すまいとかんがえている人物である。この人物は「テスト氏」のように明晰でもないし、明晰を志向してもいない。ただじぶんの情念を完璧に把んで離すまい、少くとも意志した時いがいは手離すまいという極度の観念に憑かれているのだ。情念は突然に行動を起し、暴威をふるい、鎮静する。そのあとにくる反省を練りあげることで明晰さが獲られるのだが、この人物はそんなことを欲しがっていない。情念が、突然に目張りをやぶって発動することが許せないのだ。そのために、完全に壁を塗りめぐらし、その中に情念を封じ込めればいいと考えている。情念そのものの解放ではなく密封であるために、決して明晰にはゆきつかない。この人物を小林秀雄の青年期の写像だとすれば、この像は、明晰さや論理とは縁遠く、明晰になろう、論理的でなければならぬとかんがえればかんがえるほど、明晰さの余剰や論理の影の方を、明晰さや論理そのものよりも愛してしまう。こういうじぶんの資質のメカニズムについて、弱年の小林秀雄ははっきりと自覚してなかったにちがいない。そこがおなじ自意識の劇でもヴァレリイと小林秀雄とがまったくちがうところであった。そこで「テスト氏」の不幸には不幸の影はないが、小林の初期作品のなかの第一人称の不幸には、不幸そのものはなくて不幸の影があった。明晰さがこの世でもたらす不幸はなくて、あらゆる不幸の影が世間の人々に名状し難い哀しさや憐みの眼を誘い出すような種類の不幸があった。つまり一種の素朴な善良さを小林秀雄はどこか無垢のまま保存していた。
[#ここから2字下げ]
俺は雑沓の裡を行き乍ら、いつもの通り不幸であつた。黒色がすべての輻射光線を吸ひ込んで黒色である様に不幸であつた。俺は俺の不幸をいつくしまうとは思はない。が、なるたけならば何時までも、人の指先きにつゝかれる事なく(たとへその指が蝋細工であらうとも)噛みしめた儘でゐたいと念ずる。だが、生得さもしい俺の根性はなかなかさうはさせてくれない。俺は無意味に脅されて、一種抒情的な奇蹟を夢みて了ふ。
[#地付き](「からくり」)
[#ここで字下げ終わり]
こういう「不幸」を世の人々は不幸だとはいわないで痛々しい表情をしてみせるだけだ。なぜならば「俺」の「不幸」は、ただじぶんの自意識を悩ませている錯乱が、とうてい世間の人々にわかるはずがないという孤独の思いからやってくるので、世間の関係で「不幸」なのでもなく、世間の中で「不幸」なのでもないからだ。だからこういう「不幸」は、たえず生々しい現実にひきもどされる。あの近所の魚屋のおやじは、ただ変な眼でおれの挙動をみているとか、学校の教師や友人は、あいつは極端癖と純粋癖とで神経を痛めているとおもっているとかいった風に。つまり孤独なということは〈知〉にとっては自明なことだという取り澄ました顔もできないし、孤独について意識を張りめぐらしてとり込んでしまうこともできない。ただ魚屋のおやじやじぶんの恋人や近親や師友との具体的な関係のなかで、たえず孤独を意識させられてしまうような「不幸」であった。ここまで一般化したとき、この「不幸」は近代日本の知識人を襲った不幸のひとつの型を象徴した。だが誰でもそうだったといえないのは小林秀雄の「不幸」の本格さ、そのはてまでゆこうとする徹底さにもよるだろうが、かれがこの「不幸」をどこにも転化せずに孤独な自意識の壁のなかに密封して手離さなかったからであった。「一ツの脳髄」のなかに「鎌倉の家で、夜、壁を舐めた事があつた。」という「俺」の異様な振舞いを描いた個処がある。「壁を舐めた」というのは象徴的である。「俺」は壁を破ろうと叩いたのでもなければ、幻覚の壁が迫ってくる密室恐怖にかられて、壁土をこわして室の外へとび出したのでもない。閉じられた壁をむしろじっと許容したとき自意識の魔がしずまるのを感じたのである。つまるところこれは小林秀雄が自意識の監視下にじぶんの意識を極度に行使したときの、他者にたいする関係の仕方全体を象徴していた。「女とポンキン」のなかで、ヒステリイの極に狂気じみている女の異常な言葉や動作を、異常ともおもわずに許容している自意識の動きが描かれている。狂ったように回転する独楽が、まるで静止にみえるように「男」はここでも壁の内側でじっとしている。
太宰治の作品に、子供が糸を結んで小石をひっぱって路をあるいているのに、それをただ〈石が動いている〉と感じ、そのことに驚きもしないし、子供が糸で曳いているのだなともおもわないでぼんやり許容してしまう主人公の哀しみを描いた短篇がある。ほぼそれとおなじ寂かな異常な心を許容しているじぶんという主題は、初期の小林秀雄にとっても充分な重さでありえた。太宰治の作品の主人公の哀しみは、他者にも外界にも、じぶん自身にも、なにが起ってきても無感動なところに陥ち込んでしまった意識の哀しみだが、「女とポンキン」の主人公には他者にむかって無感動になってしまった哀しみも、錯乱もない。そういう状態の全体を異常とかんがえることもなく、許容している無感動な世界そのものを提示しているだけだ。それが哀しいことかどうかを問うには、他者がこの自意識に登場しなければならない。小林秀雄には他者はやってこなかった。女とどんな錯乱した手ひどい生活をおくったとしても、他者との関係が悩ますのではなく、壁を塞いで内側にじっとしている意識に投影してくる他者の影が問題なだけである。この状態は〈ウルトラエゴイズム〉の問題ともとれるだろうが、ドストエフスキイの『白痴』の主人公のような〈無私〉の極限とうけとることもできる。つまりどういってもおなじことなのだ。初期の小林秀雄の自意識の劇に資質らしい必然があるとすれば、ここにしかない。才能の豊かな青年の自意識の演出法はさまざまでありうるだろうが、最後にあらわれるのは脆弱さであるのは共通している。かれはじぶんを自意識にからみつかれた怪物のように思いなすことはできるだろうが、怪物を生き通すことはできない。ヴァレリイの言葉を借りれば、誰でも青年はじぶんのなかに「テスト氏」を持つことができるだろうが「テスト氏」はいずれにせよ「短命」をまぬがれない。やがては脆弱さがほころびをとおって滲入してくるだろうから。この脆弱さがいうまでもなく青年期の倫理の質を決定する。たとえばヴァレリイにとって「明晰」という概念がかれの脆弱さであり、それは倫理であるとともに自他がそこで救済される仕掛けになっている。小林秀雄にとって脆弱さとはなんであったか。
[#ここから2字下げ]
俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだといふ事を信じたまへ。――これは俺の手紙の結論だ。真つ先きに結論を書いて了つたが、人はよくこれを俺の詐術だと言つて非難する(君も知つてゐる通り、いつとは知らず俺は文学に関する批評文を製造して口を糊するまはり合はせとなつてゐる)、だが俺にしてみればなんの事はない俺の不幸な性癖の一つに過ぎない。こゝをよく了解して欲しいものだと思ふ。
[#地付き](「Xへの手紙」)
何故約束を守らない、何故出鱈目をいふ、俺は他人から詰られるごとに、一体この俺を何処まで追ひ込んだら止めて呉れるのだらうと訝つた。俺としては、自分の言語上の、行為上の単なる或る種の正確の欠如を、不誠実といふ言葉で呼ばれるのが心外だつた。だがこの心持ちを誰に語らう。たつた一人でゐる時に、この何故といふ言葉の物蔭で、どれ程骨身を削る想ひをして来た事か。今更他人からお前は何故、と訊ねられる筋はなささうなものだ。自分をつゝき廻した揚句が、自分を痛めつけてゐるのかそれとも労つてゐるのかけぢめもつかなくなつてゐるこの俺に、探る様な眼を向けた処でなんの益がある。俺が探り当てた残骸を探り当てて一体なんの益がある。
[#地付き](「Xへの手紙」)
[#ここで字下げ終わり]
「俺の様な人間にも語りたい一つの事と聞いて欲しい一人の友は入用なのだ」というばあいの「一つの事」や「一人の友」は具体的な緊急事でもなければ、じっさいに気心の知れたひとりの友人ということでもない。明瞭に自意識のなかにあらわれる自己の影のことをさしている。この「Xへの手紙」は不特定な他者を設定してそれに語りかけるという体裁をとった書簡体の自己告白でもないし、表現技術上の必要からえらんだ形式でもない。「X」は自意識が語りかけるべき自己の仮象であって、仮象であるかぎり架空の設定ではあるが、明瞭なひとりの自己というものの仮象である。「俺」はすこしも他者を必要としていない。壁の内側でのたうちまわっているようなものだ。これはヴァレリイの「テスト氏」の方法をまねて着想されたかもしれないが、まるでちがう。ヴァレリイの「テスト氏」は、明瞭に対象化された自己であり「僕」が「テスト氏」について語ったり「夫人」が「テスト氏」について観察したりというようなことは、表現技術のうえで必須だった一形式にすぎない。「Xへの手紙」にはそういう用意はされていないし、そういう余裕もない。「語りたい一つの事」も「聞いて欲しい一人の友」も「俺」には必要だとかかれてはいるが、これはじぶんの自意識の混乱や渋滞にも倫理がいるのだし、じぶんで塗り込めてしまった壁の内側にも、外への風穴は必要なのだといっているのだ。ほんとうに自意識の外側に「語りたい一つの事」や「聞いて欲しい一人の友」が必要なわけではなかった。かれは言葉がじぶんの意識の動きを追いつくし、表現しつくせないところで、他者が登場してきて不誠実をなじられたりするやりきれなさを嘆いている。いいかえれば社会の不完全さを、自意識の問題として悩んでいる。だがかれはまったく他者を寄せつける必要のないこととして錯覚している。たぶんここのところで小林秀雄の文学は決定された。「短命」にきまっている自意識の魔を論理にして明晰にしてしまうこともできず、さればとて片づけて掃き捨ててしまうこともできない。じっと耐えている上を「短命」が通り過ぎてくれればいいはずであった。小林秀雄の劇には関係の意識が不足していた。また対象化の能力を欠いていた。いつも他者との関係に躓くし、また明晰さがないために他者との関係を保ちながら自意識の果てまで探索をつづけるという二重性をもつことができない。ヴァレリイの「テスト氏」はあきらかに自意識の権化だが、この権化が社会的な関係に躓くところを読者は想定することはできない。「テスト氏」は社会的な関係のところでは仮面をかぶることも脱ぐことも自在であることを誰でも納得できるようになっている。「Xへの手紙」の「俺」はそうではない。「約束を守らない」とか「出鱈目をいふ」と他人からなじられる関係を、どうしても「自分の言語上の、行為上の単なる」不正確さによるとかんがえている。言葉上の、あるいは行為上の探索が、他人との約束ごとを超えていってしまうのは、他者との現実的な関係の重さを超えて、より正確な言葉と行為とを求めているときだ。こういう観念と現実の行為が世間的な約束ごとを破るにいたることは、かくべつ不思儀なことではない。また不誠実なことでもない。誠実という概念を現実上の約束という次元にとどめておけないのは、自意識がちょうど自我の大きさと同じ容積のところにとどまることができないのとおなじである。それくらいのことなら「俺」は充分承知のうえで壁の内側にとどまっている。「俺」が強いられているのは、とどまることなく極限まで意識を行使してしまうじぶんを眺めているおそろしく現実的な関係である。意識を果てまでじぶんで探り出したり、ほじくりかえしたりしてしまうことへの恐怖でもなければ、明晰さの果てに空無な認識人間がじぶんの像として出来上ってしまう恐怖でもない。まったく和解できそうもないありふれた他人の眼が、いつでもじぶんを現実へひきもどし醒めさせてしまう困惑と嫌悪の予感なのだ。これが小林秀雄の自意識の劇を近代劇にさせないで、ともすれば新派劇にひき込んでしまう根本の理由であった。
弱年の小林秀雄がじぶんの救助を夢みるとすればおおよそふたつの方向があったろう。ひとつは自意識を弄ぶことをはじめから免除されたような存在に帰りつくことである。もうひとつは自殺である。どちらも容易ではないかもしれないが、言葉ひとつ吐いても他者を傷つけることとじぶんを傷つけることと区別がつかないし、言葉はあいまいで他者にもじぶんにも判らせることができないものだと思い悩んだ経験があるものにはそういう思いが起って当然であった。ただかれのように現実意識をおおいつくすまで自意識を弄んだものには、いずれも不可能な救助法であった。
[#ここから2字下げ]
和やかな眼に出会ふ機会は実に実に稀れである。和やかな眼だけが恐ろしい、何を見られてゐるかわからぬからだ。和やかな眼だけが美しい、まだ俺には辿りきれない、秘密をもつてゐるからだ。この眼こそ一番張り切つた眼なのだ、一番注意深い眼なのだ。たとへこの眼を所有することが難かしい事だとしても、人は何故俺の事をあれはあゝいふ奴と素直に言ひ切れないのだらう。たつたそれだけの勇気すら何故持てないのだらう。悧巧さうな顔をしたすべての意見が俺の気に入らない。誤解にしろ正解にしろ同じやうに俺を苛立てる。同じやうに無意味だからだ。例へば俺の母親の理解に一と足だつて近よる事は出来ない、母親は俺の言動の全くの不可解にもかゝはらず、俺といふ男はあゝいふ奴だといふ眼を一瞬も失つた事はない。
[#地付き](「Xへの手紙」)
言ふまでもなく俺は自殺のまはりをうろついてゐた。この様な世紀に生れ、夢みる事の速かな若年期に、一つぺんも自殺をはかつた事のない様な人は、余程幸福な月日の下に生れた人ぢやないかと俺は思ふ。俺は今までに自殺をはかつた経験が二度ある、一度は退屈の為に、一度は女の為に。
[#地付き](「Xへの手紙」)
人は女の為にも金銭の為にも自殺する事は出来ない。凡そ明瞭な苦痛の為に自殺する事は出来ない。繰返さざるを得ない名附けやうもない無意味な努力の累積から来る単調に堪へられないで死ぬのだ。死はいつも向うから歩いて来る。俺達は彼に会ひに出掛けるかも知れないが、邂逅の場所は断じて明されてはゐないのだ。
[#地付き](「Xへの手紙」)
[#ここで字下げ終わり]
「和やかな眼」も「自殺」も小林秀雄には不可能であった。「和やかな眼だけが恐ろしい、何を見られてゐるかわからぬからだ。」とおもっているものに「和やかな眼」が飛び込んでくるはずがない。いいかえれば自意識の壁を目張りして閉じこもっているものに肉体を具えた「和やかな眼」が入り込んでゆけるはずがない。「和やかな眼」とは無智な眼、考えない眼である。何もかも視とおしているようにおもえるのは、じぶんの錯乱した眼が限度をこえて物を視すぎたとおもっている錯誤の反映なのだ。「和やかな眼」はなにも強いて視ようとしない眼だから、べつになにも理解しているわけではない。また意味をつけようがない眼である。こういう無意味を充たすものがあるとすれば過剰な自意識のその過剰さだけである。もっとべつのいい方をした方がはっきりするのかもしれぬ。
おおよそ限度をこえてよくみえる眼とか、極限までかんがえ抜くため程よいところでとどまれないくらいよい脳髄をもっているという自意識の倒錯を、根こそぎ覆滅する方法は自意識の操法を巧みにすることからはえられない。可能性はただ生活意識からしかやってこない。つまり現実の事物にぶつかったからはじめて考え、現実の事物を処理することを強いられたからはじめて内省し、そしてついに現実の事物をこえて考えることはしないという方法によって、はじめて「和やかな眼」に出遇うのだ。それができないならはじめから「和やかな眼」を拒絶すればよい。
おなじことになるが「人は女の為にも金銭の為にも自殺する事は出来ない。凡そ明瞭な苦痛の為に自殺する事は出来ない。」というのも自意識の魔がいわせた言葉である。あらゆる文学的な自殺の背後には現実上のささいな原因が要るといってもおなじなのだ。「繰返さざるを得ない名附けやうもない無意味な努力の累積から来る単調に堪へられないで死」んだ人間など、かつてこの地上に存在したためしがない。ただ必要上そう思い込むことを強いられた精神の自殺ならあらゆる文学的な自殺の背景に大なり小なり存在した。もちろんこのばあいの「俺」もそう思い込むことを強いられている苦痛をのべているだけだ。「繰返さざるを得ない」「無意味な努力の累積」「単調に堪へられない」、いずれも小癪ないい草だが、これが小癪ないい草であることは半ば弱年の小林秀雄にわかっていたにちがいない。しかし自意識の行方に漠然とじぶんの夢の行方を托そうとするかぎり、そこに実生活から独立した観念の城廓を形成し、その城廓の内部の現実乖離を絶対化するほかになかった。小林秀雄の演じた内的な劇の徹底した性格は日本の近代知識人の内心にあるものを拡大鏡にかけた意味をもっていた。
小林秀雄は内的な劇に実生活との脈絡をしいたのは女性体験だったと告白している。現在では中原中也と同棲していた長谷川泰子との恋愛、同棲生活、その束の間の破綻といった三角関係をさしていることが知られている。この体験が書物から書物へたどって獲た擬眼で現実をみるときの、現実嫌悪とある不確かさに内実をあたえた。人間のあいだのすべての関係の狃れは可変で、契機があればどんな疎遠さにも逆もどりできるが〈性〉の狃れは逆もどりすることができない。できたとしてもきわめて稠密な過程をひきずってゆく。かれの自意識の早急な劇に男女の三角関係ほど逆らうものはなかったはずだ。いずれ自意識の余剰は現実の出来ごとから補充されねばならない。だが、どんな契機に最初にあうかはだれにもわからない。それが女性体験しかも、女をはさんだ友人との三角関係の形でやってきたことはいちばん難かしい形でやってきたことになる。この生活の主題は夏目漱石や芥川龍之介などには重たい文学的な主題であった。これを文学的にではなく思想的なモチーフと体験におき代えてみれば、血縁に殺到してくる優位な〈異質なもの〉に惹かれる親和力の問題とみなすことができる。この意味は文明史の問題でもあったし、個性的な問題でもあった。誰でも血縁的にやってきた優位の〈異質なもの〉に惹かれることはありうる。血縁だけで共同体をつくっていた原始的な心性を無意識のうちに触発されるからだ。惹かれるということを貫徹するか、ひき返すかはひとによってちがっている。おおくの人々がひき返すのは、不可能の予感が身を破ることと同義であるのを、いわば理性的に判断するからであろう。例外はただはじめから不可能をじぶんの意識に(現実にではない)課したことのない精神と〈異質なもの〉という意識を(現実をではない)じぶんに課したことのない原型的な心性にだけ訪れる。たぶん小林秀雄はこの二つの点で外界とじぶんとの境界も、じぶんの意識とじぶんの肉体の境界もまるで区別できない心的状態におかれていた。
[#ここから2字下げ]
俺のして来た経験の語り難い部分だけが、今の俺の肉体の何処かで生きてゐる、さう思つただけで心は一杯になつて了ふのだ。どうやら俺は、自分の費して来た時間の長さだけに愛着を感じてゐる様な気がする、たとへその内容がどうあらうとも。俺は別れた女に愛着を感ずるといふよりも寧ろ、女が俺に残して行つた足跡に就いて思案してゐる。
俺は女と暮してみて、女に対する男のあらゆる悪口は感傷的だといふ事が解つた。
[#地付き](「Xへの手紙」)
女は俺の成熟する場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた。と言つても何も人よりましな恋愛をしたとは思つてゐない。何も彼も尋常な事をやつて来た。女を殺さうと考へたり、女の方では実際に俺を殺さうと試みたり、愛してゐるのか憎んでゐるのか判然しなくなつて来る程お互の顔を点検し合つたり、惚れたのは一体どつちのせゐだか訝り合つたり、相手がうまく嘘をついて呉れないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却つてがつかりしたり、――要するに俺は説明の煩に堪へない。
[#地付き](「Xへの手紙」)
[#ここで字下げ終わり]
女性体験が「書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癩な夢を一挙に破つてくれた。」ということには、さしたる重要さはない。興ざめた生活の繰返しに耐えたことのないその種の青年期の夢は、いずれなにかが破ってくれるからだ。それがたまたま友人の同棲者との三角関係であったため「一挙」に破られたのと複雑で重い形でやってきたというだけだ。
こういう女性体験は事実としてみればごくありふれた誰でもがそうやっている程度のことで、まただれでも賢く切抜けられるわけでもなく、また特に愚かに振舞うわけでもない。けれど体験が深刻に心を傷つけるかさり気なくさしたる内省も与えずに通りすぎるかは個性的だ。一般的に通用する切抜け方もないし、誰にでも通用する尺度などあり得ない。そうだとすれば有りふれた三角関係をどう体験したのかだけが重要なので、三角関係そのものが重要なのではないともいえる。
小林秀雄の特徴は、こういう体験に出遇い|も《ヽ》掻き破綻したという経緯をたどりながら、他者との関係への覚醒とはならず、他者との関係が自意識に落とす影の苦渋の問題になってあらわれるところにあった。これはかなり特異なことである。特異だとおもう能力があれば、のことだが。そこで「女は俺の成熟する場所だつた。」というのは、三角関係にまつわる苦渋を通じて〈他者〉との関係について観念と体験の一領域が別個にあることに覚醒したのではなかった。もともと三角関係によってはじめて男女の関係は〈性〉としてだけではなく〈社会〉としての性格を同時に強いられることになる。小林秀雄のばあい独立した観念と体験の領域にはじめて〈社会〉が登場したのではなかった。「俺」の自意識の困惑のなかに現実の影が滲透し、実生活との脈絡がはじめてつけられたことを意味した。それが「成熟する場所」の意味である。そういういいかたをすれば、三角関係の恋愛でも小林秀雄には一角関係にはかわりなかった。〈他者〉も〈社会〉も影としてしかかれの自意識には登場しなかったからである。もちろんこういってみてもさまざまな未練がのこる。小林秀雄はそんなことはとうに承知していたかもしれない。たしかに男女のあいだにおこることをよく知っていたとしても忘れていることはあった。例えばつぎのような個処がある。
[#ここから2字下げ]
俺は恋愛の裡にほんたうの意味の愛があるかどうかといふ様な事は知らない、だが少くともほんたうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺ひ知れない様々な可能性をもつてゐるといふ事は、彼等が夢みてゐる証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達は寧ろ覚め切つてゐる、傍人には酔つてゐると見える程覚め切つてゐるものだ。この時くらゐ人は他人を間近かで仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従つて無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取つて代る。一切の抽象は許されない、従つて明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらゐ人間の言葉がいよいよ曖昧となつていよいよ生き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食はない時はない。惟ふに人が成熟する唯一の場所なのだ。
[#地付き](「Xへの手紙」)
[#ここで字下げ終わり]
たしかになまじの恋愛小説よりもよく男女の一対が閉じられてゆく世界で生き生きとし、生き生きとしてゆくほど外界は消えてゆくときの姿が認識の筆致でつかまえられている。このとき「他人」も「間近かで仔細に眺め」られて「俺」の識知に登場してくる。言葉はあまりいらなくなって、なおすべてが通じているという感じもつかまえられている。けれどもここにはただひとつの識知が語られていない。恋愛にともなう甘美さ、陶酔、快楽や歓喜といったものが欠けている。恋愛はかれを単独の苦行僧の苦行にしてしまっている。甘美さや陶酔や歓喜があってもとくに書く必要がないからはぶかれているのではない。それらは糧として苦行に喰われてしまっているのだ。かれは恋愛をしてもふつうのありふれた愛のかたちになってゆかないじぶんの孤独に思いをこらすはずなのに、自意識と自意識の出あいの劇に関心をうつしてしまっている。青年は〈ひとりの他者〉という意味を恋愛ではじめて体得する。けれど〈他者〉はひとりだという理由だけで自意識のなかに繰込まれ融けてしまう。「俺」にとって「成熟」とは自意識の劇場が拡大されたにすぎなかった。これは〈他者〉が思考のなかに登場することとは本質的にちがっていた。〈他者〉は自意識の余剰を刈り込むようにしか登場してはこない。「俺」の恋愛がほんとに三角関係だったら、恋愛はほとんど裸のままの〈社会〉の原型として登場し、閉じられてゆく男女の意識の世界に矛盾をもち込むはずである。「俺」はうまくこの矛盾を削りおとして、ただ一組の男女だけの世界にし、一組の男女だけの世界を、じぶんの自意識の世界の問題に転化するはずだ。けれどそうはいかなかった。この自意識の軌跡は小林秀雄の文学の独特な性格を暗示していた。かれの文芸批評の核心にあるものはどこから出発しても最後は自意識の劇にゆきつくという点にあった。
文芸批評は作品とそれを手がけた作家の存在なしには成り立たない。だが作品はいつも自意識の劇をみせようとして創造行為の核心に自意識を展示しているとはかぎらない。これは自明のことだ。時代的にいえば自意識の発見は無意識の発見と同時にやってきている。ふたつはある意味でおなじ心の働き方の別な照射だからだ。フロイトがやったとおなじことを、もっと捨て身で危ない綱渡りのような感受性だけでやった詩人たちがいた。かれらは通常頭脳がいいと呼ぶことの向う側へ立ち入ることを強いられた存在であった。そして強いられたかぎりで反〈社会〉的な存在であったが、無〈社会〉的な存在だったわけではない。そこに小林秀雄に決定的な影響をあたえたフランス象徴主義の周辺の詩人たちがあった。かれはこれらの詩人たちを理解しようとした。その理解を学者の研究の疎遠さや、飲み屋でくだをまく次元から身にこたえる理解の次元におき直すことはできた。けれど内的な意識の体験という以上に解することはできなかった。かれが〈社会〉の意味を世俗とか世間とかいう以上に理解しえないかぎり、これらの詩人たちの反〈社会〉の意味が理解できるはずがなかった。幸や不幸をいっても仕方がない。そこに時代的な夢とかれの個性の夢の限界があるかぎりそうなるよりほかなかった。
作品は自意識と無意識の資質を基準にしてみれば、意識の内部劇の深刻さが作品の深刻さになり、意識の内部劇の無垢さが無垢な作品と呼ばれ、意識の内部劇の激烈さが激烈な作品となり、無意識の実現は自然な作品ということになる。それ以外に深刻さや無垢さや激烈さや自然さをはかる基準はないことになる。そんな馬鹿気たことはないはずだ。深刻な作品を生みだすには自意識の錯乱を極限まで味わったあげくに狂気に至らねばならぬ。無垢な作品を生むには自意識を解体させたあげく痴呆にならなければならぬ。激烈な作品を生むには自意識の狂暴な夢を果てまでこじらせねばならぬ。言葉と自意識のあいだに裂け目を体験したものは意味を喪失したあげく、ただ無意味のあいだに停滞し漂流する劇をつくりあげなければならぬ。ランボオが、ロートレアモンが、マラルメが、そしてポオやボードレールが実現した作品がそれだといえばいえたかもしれなかった。かれらが無意識の基礎とした〈社会〉を除外すれば。だがこういう作品はとうぜん創造行為のうえで「短命」であるほかはない。そして延命をいさぎよしとしないものは、創造上の自殺に追い込まれる。これは青年期の夢に叶っているが、やがてすぐに終る。あとは自分と他者を赦さなければならぬ。どう赦すかから文学がはじまるといってもよさそうだ。
ヴァレリイの「テスト氏との一夜」のなかに自意識の極限からみえる「人並み」がどういうものか「テスト氏」によって述べられている。
[#ここから2字下げ]
人並みの決心さへあつたら、僕も人々より優れた人物だと思ひもし、又傍人にもさう映りもしただらう。僕には、何を置いても自分が大切なのだ。世の所謂優れた人とは自ら誤つた人である。彼に驚く為には、彼を見ねばならぬ、――見られる為には、姿を現さねばならぬ。で、名声偏執に憑かれた姿を拝見するといふ事になる。つまり、偉人なるものは誰も彼らの|汚《し》|点《み》をつけてゐる。所謂強大な精神といふものは、皆欠点から出発するから、人目につくのである。公衆から酒手をもらつた以上、彼は世に認められる為に、必要な時間を割き、処どころ方々をうろつき廻つたり、奇態な満足感を調整したりすることに憂身を窶す。果ては光栄といふ穢らはしい遊戯を、自分を独自な者であると感ずる歓び、これは一種特別の大きな逸楽であるが、さういふ歓びになぞらへるに至るのだ。
[#地付き](ヴァレリイ「テスト氏との一夜」小林秀雄訳)
そこで僕は、最も強い脳髄の持主とか、最も鋭敏な発明家とか、思想を最も正確に認識する者は、無名の人々であり、もの惜しみをする人々であり、自己を主張せず死んだ人々でなければならぬと想像した。これらの人達が居るといふその事が、僕に、所謂偉人なるものが、やゝ脆弱な出来であるといふ事を明かしてくれたのであつた。
[#地付き](ヴァレリイ「テスト氏との一夜」小林秀雄訳)
[#ここで字下げ終わり]
自意識の深みに価値をおいたところから、世界を逆さに振ってみせる。かつてわたしは青年のころ、この個処を世俗的な偉人や世俗的な利害を拒絶した純粋さや修道性を語る言葉として読んだ。これはヴァレリイが十数年も沈黙して数学に凝っていたという伝説とひとつになって響いた。誑らかされていたのだ。やがてその意味はヴァレリイがアカデミイ・フランセーズの会員に推挙されたときにやった講演を読んでよくわかるようにおもえた。ここで「テスト氏」という自意識の権化は、自意識の劇の深浅を基準にすれば自意識の化け物のような存在がもっとも偉人であり、自意識のせんさくなどに無縁なため思考や行動のなかに内省の孔が方々あいているような存在は偉人ではないといっているだけだ。つまり「最も強い脳髄の持主とか、最も鋭敏な発明家とか、思想を最も正確に認識する者」が偉人であるといっているだけだ。これらが「無名の人々であり、もの惜しみをする人々であり、自己を主張せず死んだ人々」であるかどうかは付けたしだということになる。「テスト氏」は自意識の劇に耐えたものが強靭であり、そうでないものは「やゝ脆弱な出来」であるというひとつの価値判断の基準を提出しているので、かくべつ世俗的な価値判断を拒否しているのでもなければ、世俗そのものを拒否しているのでもない。どんな人間も肉体的にみれば骸骨のように痩せているとか太っているとか、美貌だとか醜貌だとかいうのとさしてかわりがない。自意識という基準が人間の全体を覆えないのは、肉体という基準が人間の全体を覆えないのとおなじである。「テスト氏」はある種の人々が社会的地位を基準にし、べつの人々が肉体を基準にするのとおなじように、自意識を基準にして人間的な序列をつくってみせたにすぎない。それ以外の意味をもたない。ただそういう基準を強いられた文学の時代も個性の必然もその必然を極限までひっぱってみせた批評家や詩人もあったというだけである。
わたしには断言するだけの知識がないから、認識力だけでいうほかないが、青年期の小林秀雄はフランス象徴派の圏内にある詩人や批評家たちの演じた自意識の劇の狭さと底深い迷路と言語表出との分裂と錯乱をじぶんも演じてみせることで、いくらかじぶんの資質を演じ間違えたかもしれなかった。〈純粋〉という概念と〈潔ぺき〉という概念を、倫理的にしかうけとれない風土で、かれ自身もまたいくらか倫理的に自意識の劇を演じてみせた。自意識の解体もまた倫理的におとずれたのはその反動であったかもしれなかった。
わが国の文芸批評はどうして、同時代のおなじ言語でかかれている作品に嫌気がさして、古典を論じたり、思い込みでしか判るはずがない西欧の作品を論じたりするようになるのか。古典として撰別された作品や西欧の一級の作品に比べると、同時代の作品は読むに耐えないほどつまらない水準にしかないからか。批評家はもちろん内証では、馬鹿らしくてつまらぬ作品につきあっていられるか、と私語している。つまらぬ作品を論ずると批評自体も、つまらぬものとなる部分があるからだ。けれどこれは作品のばあいもおなじことだ。内心では馬鹿にしあった批評と作品とが、気脈を通じて文学をいっそうつまらぬみじめなものにしている。自己満足した批評と作品を除いては相互に苛立たしい思いを噛みしめている。この根源を探るのは批評の避けられない運命である。
西欧の同時代の文学に自意識の思い入れを托しうる弱年の時期が過ぎた。ある空しさと、充たされない批評の動機が小林秀雄をとらえた。それが「私小説論」や前後して書きはじめられたドストエフスキイについての論策であった。自意識は抽象的で一般性をもつかぎりでは西欧の同時代の作品に優れた仮托の根拠を求めることができる。だがそこに夢を托したものの生涯の感覚までは背負ってはくれない。どこかでじぶんの言葉と風土と生活の線にもどらなければならない。この味気ない覚醒を避けるにはただひとつの方法しかない。文学を言葉の遊び以上のもの、それ以外のものと思い込まないことだ。けれども既に思い込みを托したものにとっては、味気ない覚醒の過程を覚醒しつつ記述するほかに道がない。そうでなければどこかで実生活が大切だという別の思い込みにとびうつることになる。自意識に閉じられた壁の内にはもともとそれほど長く魂は住みつけない。それを最初に破ったのは女性体験かも知れなかった。自意識に滲みこんでくる実生活の影がおおきな意味を帯びるようになったときかれは個人的にもわが国の近代の独特な性格につきあたったといってよい。フランス象徴派周辺の詩人や批評家たちは、自意識の普遍性ともいうべきものが個性の内部で演じた劇のすさまじさと必然をおしえた。だが生活に滲みこんでくる習俗の強さはいったん是認されればこの普遍性に肉感を要求せずにはおかない。もう無邪気に自意識の壁と穴ぐらの深さの表現が人生にたいする深刻さだと錯覚するわけにはいかなかった。かれはボードレールやランボオやマラルメには必然であったロマン主義と自然主義に対する反動としての自意識の言語的な確執が、それほど必然性をもたないことを、実生活から骨身にしみて悟らされた。こういう転機の在り方は明晰な論理で自意識に解剖を加えていたらなかったかもしれぬ。あっても筋道をたててやってきたにちがいない。小林秀雄の内部劇は情念の動きを自意識の壁に閉じこめて演じられる態のものだったため、ある晨ふと眼覚めたらそうなっていたという形で転機は訪れた。思想の転機は誰にとってもある晨ふと眼覚めたら別の場所にいたという心理的動機の部分を必ず含んでいようが、小林秀雄のばあい劇の性質上そうならざるを得なかった。この転機はうまく動機をみつけないと話にならないのだが、それがみつけられなかったとしてもあながちわたしのせいではない。すべての転機は心理的なものだといいたげなのは、小林秀雄自身だといってよかった。
私小説は明治三十年代の自然主義の客観描写を心境描写にまで煮つめることから生まれた。その自然主義はフランス自然主義文学の直輸入概念からはじまった。この事情はわが国の近代文学が曲り目ごとに西洋文学の直輸入からはじまったという事情一般とかわりなかった。にもかかわらず私小説が「西洋一流小説が通俗読み物に見え」(「私小説論」)るまでに緻密な隘路を鍛えることになったのはなぜかというところに小林秀雄ははじめて目をむけた。だがこの裏にはフランス自然主義が象徴主義へと移行したところで自意識上の袋小路に踏み込んで、バルザック以後の近代小説概念を通俗読み物とおなじように否定していったフランス象徴派の詩人たちの言語上の確執のあとが勘定に入れられていた。象徴派周辺の少数の天才的な詩人や批評家たちに乗り移るかぎり、鴎外は退屈な事実小説であり、漱石は通俗的な不完全な高等講談であり、芥川龍之介はたんなる神経症の作り物だということになる。だがわが国の近代文学は早急で根源的な詩人たちや、論理と倫理とを明晰に分離できる批評概念を生みだす基盤をもたなかった。そういう反省は普遍的でありうる。ランボオの早熟な詩的達成と放棄に文学意識上の純潔などを読んでいることがどんなに感傷的な倫理的な阿呆にすぎないか。自意識上の深刻さはべつに人間存在の深淵をも文学作品の深淵をも覆うにたりない。「わが国の私小説が遭遇した特殊な運命」(「私小説論」)というとき、小林秀雄はじぶんの青年期を彩った自意識上の格闘の「特殊な運命」にも反省的に遭遇したのである。わが国の私小説が「西洋一流小説が通俗読み物」にしかみえないところに突込んでしまったとすれば、近代以前からの木彫りの職人が微細な細工に熟達したあまり、西洋一流の近代彫刻をみて細工が粗いから駄目だと批判するのとおなじであった。構成自体が思想の凹凸なのに思想などこれっぽっちもない細工人が彫り込みの緻密さだけでとやかやいってもはじまらない。立体的な動勢と立体的につくっても平板にしかみえない形骸の相違はどこまでも付いてまわる。ジイドやプルーストに触れながら小林秀雄はいう。
[#ここから2字下げ]
十九世紀自然主義思想の重圧の為に形式化した人間性を再建しようとする焦燥があつた。〔ジイドやプルーストに――引用者〕彼等がこの仕事の為に、「私」を研究して誤らなかつたのは、彼等の「私」がその時既に充分に社会化した「私」であつたからである。
[#地付き](「私小説論」)
[#ここで字下げ終わり]
わが国の「私小説」は自然主義の客観描写が特殊な運命をたどった結果であった。だが目指した「私」はギルド内にかこわれた「私」にしかならなかった。ジイドやプルーストの自意識の追求のさまざまな仕方が「社会化された自我」の所産だというのは、自意識が単独で世界を見渡せるような成熟した市民社会を背景にしていたことを意味している。おなじ背景でわが国の近代社会を覆いつくすのは無理な話であった。西欧近代を借景にすればわが国の近代は歪みやはみ出しの部分をもつことになる。こういうことに気づくには格別の困難がいるとはおもえない。たれでもがおなじ結論にしか到達しない。だから〈気づくこと〉に気づくことの方にはるかに個性的な重要さがあった。かれは文学の土壌(風土)ともいうべきものにはじめてこの時期にぶつかった。これは「作家の個人的技法のうちに解消し難い絶対的な普遍的な姿で、思想といふものが文壇に輸入」されたというプロレタリア文学にたいする評価と裏あわせになっていた。「作家の個人的技法のうちに解消し難い絶対的な普遍的な姿」で輸入された「思想」というのは、作家の個人的な実生活のうちに解消し難い普遍的な姿で輸入された「自意識」とまったく等価であり、それ自体に格別の意味があるはずがない。残るのはただ神学に近い「思想」と宗教に近い「自意識」の姿だけだからだ。その刻印と現実との乖離にどう処するかでわがプロレタリア文学と自意識の文学のさまざまなタイプの転換が起っただけだ。小林秀雄が「私小説論」を書きながら暗々のうちに描いていた理想的な小説の原型は、思想としての普遍性と自意識の追尋の深さとを併せもった作品を指していたことになるのか。どうもそうだったらしい。そこで具体的にはドストエフスキイの諸作品が小林秀雄の脳裏に理想の小説の原型として去来していたかもしれなかった。だが狙いはあくまでも「私」生活と作品の相関に定められたのである。ドストエフスキイの諸作品のなかで「私」(実生活)と「思想」との関係はいったいどういうことになっているのか。まずなによりも『ドストエフスキイの|生活《ヽヽ》』でなければならなかった。
[#ここから2字下げ]
僕は今ドストエフスキイの全作を読みかへさうと思つてゐる。広大な深刻な実生活を活き、実生活に就いて、一言も語らなかつた作家、実生活の豊富が終つた処から文学の豊富が生れた作家、而も実生活の秘密が全作にみなぎつてゐる作家、而も又娘の手になつた、妻の手になつた、彼の実生活の記録さへ、嘘だ、嘘だと思はなければ読めぬ様な作家、かういふ作家にこそ私小説問題の一番豊富な場所があると僕は思つてゐる。出来る事ならその秘密にぶつかりたいと思つてゐる。
[#地付き](「文学界の混乱」)
[#ここで字下げ終わり]
自意識の文学もプロレタリア文学も理念的に色あせてきている。いずれも根の重さが足りないようにみえた。これは外からの時勢のせいにしたりまたじぶんの成熟に帰したりせずに自問に価するものであった。小林秀雄はドストエフスキイについての諸論策によってこれに答えようとしたかにみえる。だが事実はこの問いは回避された。ドストエフスキイ論によって解かれたものは「思想」と「実生活」のかかわり、もっとはっきりいえば近代意識と私生活のわが国における歪みの問題であった。ドストエフスキイというどんな実験にもたえる大舞台に乗り換えたうえで実験は遂行された。かれが「思想」というとき文学をどう位置づけるかの「思想」であってどうして生きるか、何を生きるかという「実生活」を規定する「思想」ではなかった。「実生活」はどんな影を文学の表現に落とすかについての「思想」であった。かれの自意識は霧散する過程で社会意識に出あったかもしれないが、社会思想にまで結晶する原動力をもっていなかった。実生活のまったくの無のうえに、化け物のように拡大されてうごめく自意識の始末に悩んだかもしれないが、いかに時代と社会を生きるかについて思いめぐらしたことは一度もなかったからだ。
記憶をたどると小林秀雄の『ドストエフスキイの生活』を手に入れたのは昭和十七年ごろである。おなじ寮にいた湯玉輝という台湾の留学生の書棚にあるのをみつけて、湯さんいい本をもっているじゃないかというと、かれはキミニアゲヨウといって進呈してくれた。ようするにかれはキミモ魂ガ飢エテイルノカといって恵んでくれたのにちがいない。『ドストエフスキイの生活』やときどき雑誌でみかけた古典についての断片にあらわれた小林秀雄は、がさつな戦争政策追従の思潮を尻目に、見事な文学的な彫琢で孤独な内部の声を錬りあげていた。なにが書かれているかよりも、書かれたということが重要だというように存在した。なにが書かれているかを重視してこれらの作品が読まれるようになったのはむしろ戦後である。だがもう一方でなにが書かれているかが重要であるといった作品が、実生活に処する倫理として書かれていた。そしてわたしは明らかに読みちがえていた。この方の作品は平凡な生活人の声として読むべきなのに非凡な批評家の肉声が、平凡な青年に語りかけるものとして受けとっていた。魂が沈むときは思想も実生活も沈むのに、かれのとった方法は両者を戦術的に分離することだったようにみえる。生活者小林秀雄の声は、覚悟して戦争に応じる庶民というところで実感のこもった戦争に処する態度を披瀝していた。このふたつのあいだに連結し架橋するものは小林秀雄のどこにもなかった。そして作品はますます孤独な営為になってゆき、時勢論は歯切れのよい|タンカ《ヽヽヽ》を吐いて戦争に処する決意をのべることになり、このふた色の距離は拡がるばかりだった。
[#ここから2字下げ]
日本に生れたといふ事は、僕等の運命だ。誰だつて運命に関する智慧は持つてゐる。大事なのはこの智慧を着々と育てる事であつて、運命をこの智慧の犠牲にする為にあはせる事ではない。自分一身上の問題では無力な様な社会道徳が意味がない様に、自国民の団結を顧みない様な国際正義は無意味である。僕は、国家や民族を盲信するのではないが、歴史的必然病患者には間違つてもなりたくはないのだ。日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいふ議論は、暇人が永遠に繰返してゐればいゝだらう。いろんな主義を食ひ過ぎて腹を壊し、すつかり無気力になつて了つたのでは未だ足らず、戦争が始つても歴史の合理的解釈論で揚足の取りつこをする楽しみが捨てられず、時来れば喜んで銃をとるといふ言葉さへ、反動家と見られやしないかと恐れて、はつきり発音出来ない様なインテリゲンチャから、僕はもう何物も期待する事が出来ないのである。
[#地付き](「戦争について」)
[#ここで字下げ終わり]
こういう文章をまえにわたしたちに気づくが、いまの読者に気づかないことがあるとすれば(まったくあるとすればのことだが)、ただひとつだ。文章は個性的な必然で書かれることもあるが、時代の雰囲気の必然に促されることもあるということだ。雰囲気の必然が解除されてしまうと、よくもこう馬鹿気たことがいえたものだということになる。けれど現在だってたくさんの文章が雰囲気的な必然だけで書かれている。むしろその方がおおいのだが、同時代には見わけにくいだけだ。戦争が始まろうが終ろうが、平和な文化の解体期だろうが、歴史的必然とは何でありうるのかありえないのか、歴史の合理的解釈は可能か、マス文化は多数を獲得しているにもかかわらず、なぜ受動的な意味しかもちえないか、徹底的に論じた方がいいにきまっている。
小林秀雄の自意識の劇は幕切れになり、演ずる俳優も行方を絶ち、舞台は取り払われた。舞台を根こそぎ取り払ったのが戦争という非常の時刻だったとしても、役柄を廃業した俳優は、生身のからだをくらますわけにはいかない。だが生身の自意識もまた杳としてかれから跡を絶ってしまっている。ジイドは『ソヴィエト紀行』を書き『修正』を書き、自意識の劇から出発した文学者が社会意識をどのように社会思想にまで結晶させようとし、ロシアに実現された近代ヨーロッパの思想的な達成が幻滅すべき漫画にすぎなかったのを知ってどう躓いたか、はっきり書き記した。その見聞はかくべつ自意識の場所を遠くまで離れたともおもわれないが、見聞したソ連の官僚主義と画一主義にたいする批判には文学の不朽の眼があったというべきである。ジイドが戦争を視た眼がどうであったか詳にしないが、人間のために戦争があると考えたとしても、戦争のために人間があると考えなかったことは確かである。〈祖国〉を守ることをいったかもしれないが〈祖国〉のために人間があるとみなされなかったことも確かだ。人間の歴史が国家や民族をつくりだしてきたので、国家や民族が人間をつくったのではないという概念もジイドには自明のことであった。これはジイドの「私」が「社会化された私」であり、小林秀雄の「私」が滅しやすく、公に奉じやすい「私」だったからだろうか。自然主義から象徴主義へ、そして自意識の不安の文学へと移ってゆく文学史の根底には、ラジカルな人間概念が横たわっていた。小林秀雄の自意識の劇にはその概念はなかった。実生活は中間色の曇りに緩和され、また中間色の強圧力に放射されて冷たくなるが、かつてこの風土は、人間の存在自体を裸にするほどの制度の過酷さも、人間関係のよそよそしさも稀にしか生みださなかった。自然が制度を緩和する代用品として、優に文学の一つの領域を拓いていた。そこに入りこめば自他ともに緩衝的な安堵がえられる。権力や制度が誅求するのではなく、自然が人間を誅求するのだといいくるめることもできた。小林秀雄における実生活と文学概念との乖離は「社会化され」ない「私」の悲劇だというような解釈の次元ではとてもみたされない。プロレタリア文学者の戦時下の〈転向〉が「普遍思想」の絶対尺度にたいして、組しやすい素質をもった文学者たちだったからという解釈の次元では、何か空虚がのこされるのとおなじである。
〈成熟〉とか〈達意〉とかいうものが、年齢につれて経験といっしょにやってくるものか、研鑽の果てにぽとりと落ちてくるものか、それとも或る日突然持続の崩壊といっしょにやってくるものかよくわからない。しかしどうすることもできない形でやってくることはたしからしい。ただこのばあい何にたいして〈成熟〉や〈達意〉に到達するにしても、わたしたちの観念の風土では、ひと度その〈何〉かというものを〈自然〉と見做して腰を落ちつけたり、和解したり、味わったりするものであるらしいのである。かれは〈人間〉にたいして〈成熟〉し〈達意〉に達した。あるいは〈理念〉にたいして〈成熟〉し〈達意〉に達した。かれは〈政治〉や〈思想〉や〈制度〉にたいして、あるいは〈学問〉にたいして〈達意〉に達した。ようするに〈何〉であってもよいが、その〈何〉かを〈自然〉と見做すという屈折を(あるいは中間領域を)媒介にするらしいということである。ここのところでアジア的な(もちろん日本的な)思考は停滞と屈折と根源的な和解と、あるばあいには緩和とを体験する。この名づけようもない媒介的な経路で、小林秀雄もまた腰を折りまげたとかんがえることができる。
文学者の思想と実生活との関係について、正宗白鳥と論争したとき、小林秀雄は正解を与えたようにみえた。かれは思想は実生活から生み出されるが、ついに実生活と訣別しないような思想は何の意味があるかと主張した。しかしこの主張が正統的でありながら躓きの契機を伴っていたのは、人間の存在の仕方についてというよりも、いわば文学意識内の主張であり、すでにこのときにはかれの実生活はそれだけで閉じられた〈成熟〉と〈達意〉に達していたからである。歯切れのよい実生活の達人と、自意識上の深淵にひき寄せられる実生活の影に思いめぐらす文学者としてのかれとは、まったく分離していた。正宗白鳥は小林秀雄の主張の正統性を曲解した(ふりをした)かもしれなかったし、理解しなかった(ふりをした)かもしれなかった。自意識内の葛藤劇が優に新しい文学のひとつの領野を形成するということは、白鳥の視野にはまったくなかったし、思いも及ばないことだったかもしれない。白鳥は、すべて観念の劇が実際の生活の影を払ったところで、架空の強固な骨組みをもった一つの世界を構築するという〈夢〉に、生涯を賭けるなど有りうべからざることとみなしていた。文学的観念は実生活から抽象された世界として〈実在〉しうるとかんがえることと、文学的観念はたえず実生活からの牽引力によってひきもどされるために実生活の混合物としてしか成り立たないとかんがえることとは、まったくちがっていた。白鳥をはじめわが自然主義の影響下に巣立った作家たちは、実生活の混合物である作品を追求し、追求のあまりくすんだ色で沈潜したわが国独特の一文学領域を開拓した。いかにも鈍い冴えない世界だといえばそれまでだが、実生活と自然の景観とにおしつぶされたようなその世界が強固な質量感を手離さなかったのもたしかであった。白鳥や秋声や荷風の晩年のすすけた文学が、小林秀雄よりも脆弱だったとはいえないことは、戦争を潜ったときにはじめて知られたといってよい。
「私」の実生活を描くことが文学であると同時に文学者でもあるためには、言語に汲み上げうる生活の限度に実生活の方を無限に近づけねばならない。こういう倒錯した衝動にかられた自然主義的な私小説の作家たちは、ついに文学の作品のなかの「私」と実生活のなかの「私」とを区別できないところまで、作品と「私」の実生活とを双方から追いこんでいった。そこに〈文壇〉という倒錯的な生活者たちの圏をつくりあげた。それと同時に実生活を文学的に生活することと区別できないような、文学の実生活化ともいうべき作品の世界をつくりあげた。この作品世界は西欧の近代文学をしらずしらず基準にしている眼には実生活から〈離陸〉しきれない半端で冴えない世界にみえた。逆にその世界に熟達したものは文学作品即実生活あるいは実生活即文学作品の領域から「西欧の一流小説」を眺めることになる。かれらの文学化された実生活の眼は「西欧の一流小説」の世界を〈作りもの〉の隙だらけの作品と断定し、かれらの実生活化された文学の限からは「西欧の一流小説」の世界は、虚飾にみちた粗悪なものとみえてくる。これが熟達した職人芸で独特の世界をつくったことは疑いなかった。この世界は灰色の鈍い色彩しか放たないが、この世界から眺めれば、どんな「西欧の一流小説」も作家も、凡俗で隙だらけの生活者と表現者に還元されることになる。正宗白鳥がトルストイの家出と野垂れ死に近い死に方のなかにこの凡俗で隙だらけの生活者と表現者をみたとき小林秀雄は苛立った。だが白鳥の一種の偏見が並なみならぬ文学の実生活化(あるいはその逆)の果てに形成された強固なものであることは判っていたはずだ。ただ判っていたほどに身につまされていたとはいい難かった。
自然主義的な「私」小説の世界はくすんでいる代りに容易には変り身もきかないし、時勢に調子をあわせることもできなかった。これにくらべれば一見正統的にみえた自意識の劇の方は「短命」で脆弱であった。「実生活」という言葉が示すものの実体は生活関係の拡がりを象徴する意味にうけとれる。この拡がりは自己と他者との区別をおのずから強要することによって拡がる場所ではなく、自己と他者との区別をますます曖昧にぼかすことによって拡がる場所を意味した。そこでは自意識は単独劇を演ずるまえに「実生活」の拡がりから同化を強いられることになった。小林秀雄を襲った悲劇も自然主義的な「私」小説を培養した風土とまったくおなじものである。そこに手ぶらで同化されるという形で小林秀雄の解体ははじまったのである。ただかれの解体はいわば巨木だったから、その木片からさまざまな音色の楽器が作られたのである。
[#ここから2字下げ]
疑はしいものは一切疑つてみよ。人間の精神を小馬鹿にした様な赤裸の物の動きが見えるだらう。そして性慾の様に疑へない君のエゴティスム即ち愛国心といふものが見えるだらう。その二つだけが残るであらう。そこから立直らねばならぬ様な時、これを非常時といふ。
[#地付き](「神風といふ言葉について」)
自我とか自意識とかいふものが、どう仕様もなく気にかゝつた。自己描写用に拙劣な小説家を一人傭ひ込んでゐた様なものだ。青春は空費されたのか。恐らくさうだらう。誰でも自己を語る事から文学を始める。だが、さういふ仕事を教へてくれたルッソオは、自己告白を一番後廻しにした。
[#地付き](「自己について」)
自意識の過剰といふ事を言ふが、自意識といふものが、そもそも余計な勿体ぶつた一種の気分なのである。他の色々な気分と同様、可愛がればつけ上るし、ほつとけば勝手にのさばるのだ。自意識の過剰に苦しむといふ事は、憂鬱な気分に悩むといふ事と全く同じ様子をしてゐる。何かが頭のなかでのさばるのを、その儘放つて置く苦痛なのだ。太陽や水や友人や、要するに手ごたへのある抵抗に出会へない苦痛なのである。たゞ苦痛のさういふ明らかな原因には、気が付くか付かないか二つに一つだ。だんだん気が付くといふ様な事は決してない。夢がだんだん覚めるといふ事はない。
[#地付き](「自己について」)
[#ここで字下げ終わり]
笑うことのできぬ喜劇、泣くことのできぬ悲劇があるとすれば、これらの言葉に象徴される。
余計な観念をとり払ってゆくと、性欲が疑えないように疑えない「愛国心」がのこるとすれば「愛国心」は本能的な欲望とおなじに誰も剥ぎとれない気分で定義されることになる。ただすべての観念の建物がこわれたあとにのこる情緒というほかに無意味な概念である。だが「愛国心」という言葉は無意味だとはおもわれていない。観念の建物は無意味だと申し立てられている。逆に「自意識」の方ははじめに「過剰」が無化される。つぎに「自意識」自体がとりはらわれる。これは徐々にやってくるなどということはありえず、一切か無かというようにやってくる。それは確かだろう。わたしが作意的にならべたものでないとすれば、これらの断片はじぶんの青春は無意味だったという自己拒絶のほかにどんな意味もない。もともと「愛国心」などは登場しなくて済むはずのものである。かれは自意識の劇の普遍性を信じていたように、その解体の普遍性も信じたにちがいない。だがその根拠はすくなくともかれの内部にはなかった。戦争と生理的な成熟と健康という、すくなくともかれの自意識にとって外部にあるものがかれを解体させた。ある晨眼覚めたらいっさいの自意識の劇は、劇場もろともふっとんでいた。〈健康さ〉〈肉体の動き〉〈心身の一致〉といったものへの讃歌があとにやってくる。
[#ここから2字下げ]
ルッソオはあの「懺悔録」で、懺悔など何一つしたわけではなかつた。あの本にばら撒かれてゐた当人も読者も気が付かなかつた女々しい毒念が、次第に方図もなく拡つたのではあるまいか。
[#地付き](「当麻」)
肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼はさう言つてゐるのだ。
[#地付き](「当麻」)
終りの方も実にいゝ。勇気と意志、健康と無邪気とが光り輝く。
[#地付き](「平家物語」)
[#ここで字下げ終わり]
自意識の迷路などはやくざなもので、肉体の動き、物の形のほうがたしかだという考えが、もはや揺ぎない判断になっている。かれが自意識の内部劇を唯一の基準に作品を裁断し、ほんものとにせものを区分けしてみせたのはそう遠い日ではなかった。いつのまにこういうことになってしまったのか。かれにしてみれば勝手にはびこる無駄な観念の動きをつぎつぎに削りおとした挙句、ついに疑えないところがこれであった。かれの自意識は「僕は、ただある充ち足りた時間があつた事を思ひ出してゐるだけだ。自分が生きてゐる証拠だけが充満し、その一つ一つがはつきりとわかつてゐる様な時間が。」(「無常といふ事」)というかもしれぬ。比叡山の山王権現のあたりで青葉や石垣を眺めながら歩いているとき、突然『一言芳談抄』のなかの短い文章が鮮やかに浮びあがってきたとかれは書いている。この充実感は忘我の充実感であり、いわば時間が停滞している状態をさしている。けっして時間が明晰に流れて充ち足りた状態をさしていない。どうしてそれが生きている証拠なのか。それにかれは『一言芳談抄』をまともに読解していない。この浄土思想のラジカルな語録、異様な鋭い思想書から忘我の持続の例証を引きだしている。かれの引いた断片は『芳談』には一つしかない無意味にちかいものだ。いま読みかえしてみると『無常といふ事』に収められた古典論に思想らしいものがあるとすれば、肉体の動きにしたがって動く観念だけが確かだ、対象の動きに融け込んでしまう瞬間の体験が、充足した生の体験だということにつきる。
「過去から未来に向つて飴の様に延びた時間といふ蒼ざめた思想(僕にはそれは現代に於ける最大の妄想と思はれるが)」(「無常といふ事」)ということで、かれがこき下ろしたかったのは歴史的必然論だったろう。だが忘我の時間体験によっても、それぞれの時代にいまの瞬間しかない時間を数珠玉のようにつないでみても必然論が超えられるはずはない。また愛惜に裏づけられた「思ひ出」によって歴史が再現されるものでもない。歴史という概念が難かしいのは当時もいまもかわりがない。かれのいう「死人だけしか現れて来ない」のは「歴史」ではなく過去史にしかすぎない。歴史は未来を現在の方にひき寄せる〈いま〉の意識なしには成りたたない。そうすることによって「死人」しかあらわれない過去ははじめて、あたかも下意識のように蘇るのだ。それは「上手に思ひ出す事」とは関係のないことだ。もちろん小林秀雄のいうように教科書などに、経済社会の構成を解析すればその土台の上で動く人間の諸活動がわかるような記述に出あうことがある。「思ひ出」のなかで踊る人物も土台の〈反映〉のなかで踊る人物も人形か役者かということでは変りない。人間はたえず〈いま〉だとおもうことで過去を経験としてとり集め、そこに未来をひき寄せている。それなのに未来は歴史的な〈いま〉によっては完璧にはひき寄せられない。ひき寄せられない度合だけ未来は〈わからない〉ことになる。わたしたちがいま不可避に生きているときだけ歴史は必然として体験される。それ以外に歴史が必然でありうるとすれば、人間もまた〈自然〉の一部だというように〈自然〉を理解するかぎりにおいてである。すべての外部の時間を経験直観のルツボに融かし込んでしまう膂力がかれの文学であった。おなじように経験直観の外に決して出ようとしないのがかれの思想であった。
時間を〈いま〉のところで堰とめている歴史的現存性の柵があり、柵の内側はなにかで充たされねばならなかった。いっさいの歴史的な意味は柵の外側を流れてゆくからだ。かれには「思ひ出」も「愛惜」も「夢」も、柵の内側を充たすために必要であった。なぜならば柵に堰とめられた時間は湛えられてひとつの場所をつくる。この時間の淵は充たされなければ干上ってしまう。これを充たすものはじぶんで「美」とか「思想」とか呼んだものであった。かれが思い描いた「美」とか「思想」とかは自意識の探偵術とは正反対のところに位置している。というよりも自意識の劇をつきくずしたところにかんがえられている。かれは自意識の建物から壊れおちてきた破片を「たゞ見えるものを見る」(「年齢」)とか、感じるものだけをうけとるとかいう水準で集めたのである。小林秀雄は、これを古美術や古典文学にたいする当惑のようなものから絵解きしている。ひとびとは古美術や古典文学に接してはじめに既成の価値感から〈これはすばらしいものだ〉という評価を押しつけられる。その源になっているのが専門家の見識や鑑賞眼であっても、たんに風評として伝えられた評価であってもおなじだ。疑わしい評価にかわりないからだ。押しつけられた方ではじぶんの〈眼〉をその評価に馴致させるか、じぶんの〈眼〉にしたがって既成の評価を疑うよりほかない。疑うばあいにはその根拠がいるのだが確かな根拠が手易くみつかるはずがない。そこで疑いながら既成の評価にしたがおうとする。すくなくともじぶんよりも優れた見識と鑑賞力の累積が既成の評価を決定しているにちがいないとしらずしらずのうちにかんがえるからだ。こういう誰もがつきあたる事態をどう切り抜ければよいのか。
鑑賞者に自意識の迷いがあれば古美術や古典文学に「美」や「思想」を認めようとするじぶんを否定することになる。感覚のきらめきはうしろに退き、判断力のようなものが前面におしだされて作品の周辺をめぐる。もともと古典的な対象は「美」や「思想」が豊饒なばあいも複雑であるはずがない。かれは岐路に立たされる。この対象は「美」や「思想」であるかもしれないが単純で幼稚すぎ、現在のじぶんの複雑な思いに耐えないとかんがえてひき返すか、じぶんの複雑な思いを削りとって〈眼〉の方に自意識をしたがわせるかである。
小林秀雄が択んだのは後の方だったとおもえる。その撰択にはすでに「複雑な空想を充した頭」(「年齢」)にたいする不信が充分に熟していた。「美しいものには、何かしら分り切つた大変当り前なものがある様で、それを知覚し自覚するには、どうも年齢の作用に俟つ他はないのではあるまいか。」(「年齢」)といういい方をしてもよかった。〈老い〉にたいする諦念と来世への信仰はあっても、〈老い〉についての洞察はどこにもなかった。〈死〉についてもおなじであった。服従することと抗うこととがまったくおなじ意味しかないのは〈老い〉と〈死〉だけである。そこにこの問題の難しい場所がある。求めてその場所に入るものが稀なのも、求めて免れるものが稀なのもそのためである。古典や古美術には〈老い〉や〈死〉に直面することとおなじ点がある。小林秀雄にはもちろんこのことはわかっていた。ただどう対処したらいいのかが、いつも難しいだけだ。わが国の古典をたどってゆくと近代西欧思想に骨の髄まで震憾されたものには、まるで立体の世界から平面の世界へ圧しつぶされてゆくようななさけない思いがともなってくる。そしてこの思いは馬鹿にし切れば何でもないのだが、じぶんたちが現在も基層の方に残しているなさけない部分と気脈を通じていることがわかるので、自己侮蔑を伴わずには馬鹿にできない。これは青春から〈老い〉や〈死〉を眺めるのとたいへんよく似ている。やがておまえも〈老い〉や〈死〉に当面するぞという無意識がかれの軽蔑をおびやかすのだ。そうだとすれば平面の世界にとっぷり想像上の身を浸したうえで、またひき返してくる根気と方法とをみつけなければならない。ふつう古典や古美術の専門家と称する人たちは平面の世界に圧しつぶされたまま戻ってこないものをさしている。すると知らず知らずに現代が獲得している諸概念は、いわば古典や古美術の身丈に見合うように削り落されて切捨てられてゆく。これができないならば現代的な諸概念にひきよせて古典を深読みしたり拡張解釈したりするほかはないが、そうすれば古典は実像からまったく遠ざかってゆく。そういうやりきれない体験は、古代から外来の高度な移植文化に噴射されて多段的に推進されて現代まできた辺境の文化に固有の体験である。蔑んでも回避しても仕方がない。小林秀雄はここでも「言はば古典を読んで知るといふより寧ろ古典を眺めて感ずる術」(「年齢」)についた。これによって古美術と古典文学とを、ある共通の感覚体験によって現前させる方法を獲得した。感覚的な体験では高度な文化を移植している苦痛は、言語の世界ほどきわどい形ではやってこない。感覚体験には歴史性の問題はほとんどおこらないし、おこっても鋭敏かどうかに未開と文明の時間的な序列はないからだ。
小林秀雄は言葉の表現が背負いこむ概念性の地平に伴う抽象性が煩わしくなって、文芸批評から美術批評や音楽批評に転じた。それを促したのは生理的な年齢だとみなせばよかった。文学は言葉で書かれ、文芸批評は言葉で書かれた作品を言葉で追うことだ。この作業は対象になる作品が、どんな概念をどういう仕方で表現していても、いつもある抽象的な観念の迷路をじぶんで作りだし、じぶんでたどる狂気じみた危険性をはらんでいる。これは言葉が書かれることに内在する不安定な(現在までのところ)抽象性によるもので、致し方がないことである。安全によけて通りたければ、通俗作品をつくるほかにない。通俗作品は人間のしたことやこれからすることはすでに判りきっているという安堵感のうえにしらずしらず立っている。人間はいつもパターンにしたがって考え、パターンにしたがって行動する動物だという観点はすべての通俗作品に共通なものだ。人間はなにをいいだすか、なにをしだすかやってみなければわからない。また作品の人物はなにをいいだすかなにをしだすか書いてみなければわからない。そういう危なさを避けたところでは言葉は持続性と出あえない。文学の作品はかならず人間の言動のうちにある危なさと不安に耐えねばならない。文芸批評もまたそういう危ない世界につきあいきらなければならない。それは禁欲的なそれでいて無意味な体位を強いることをやめない。小林秀雄は、ある時期からこの色彩のない無味の世界を捨てたくなったのではないか。不健康な徒労は言葉が書かれることにつきまとう宿運ににている。
文学的な個性にとって、はじめ言葉を書くという体験は話すよりもはるかにおおきな奥深い世界を開示するようにおもわれた。たぶんこれが出発にあたって書くことに魅せられた理由である。だが書かれた言葉の世界は言葉によってしかあらわせない理念と、言葉が志向する肉体性をわかつことができないところまで、つきすすんでゆく。この狂気じみた言葉の特性に気づくのは、たぶん〈老い〉が近づいてからである。小林秀雄はほとんど本能的にこの狂気じみた言葉の世界を廻避しようとした。そしてこの廻避を手易くしたのは、かれが弱年のころから、言葉と理念(言葉によってつくられた理念)との必然的な関係を洞察しないできたことであった。
いわゆる昭和十年代前後の転向期にかかれた「中野重治君へ」や「戸坂潤氏へ」や「窪川鶴次郎氏へ」や「酒井逸雄君へ」のような旧左翼派の文学者や思想家たちの苛立たしい批判に応えた文章をよむと、薪ざっぽうでなぐりかかる相手に、すこし身を外らしてきわめて穏当なことをいいかえしていることになっている。相手がなぜ苛立っているかもよく承知のうえで痛ましさの感じをおしかくしているようにもみえる。はじめっから勝負はついていた。無理につくられた土俵のうえでフィルムの逆まわしをしてみたってはじまらない。ただ小林秀雄にも気づかない盲点があるとすればひとつであった。それは転向期の中野や戸坂などが非難したような文壇の大勢派のうえにあぐらをかいていることでも「日本型ファシズム」の文学的土壌を拓いていることでもなかった。
この現実の世界にはどんな誤謬の理念であれ、当の理念を論理的にたどったり疑ったりするよりも、それを振りまわす宿命を背負わされた人間がありうるという認識が、小林秀雄にはなかった。そういう世界を想像もできないし、しなくても済むことは、小林秀雄の先験的な安堵感を作っていた。論理や理念を振りまわす者にとって、唯一の可能な行き方は果てまで振りまわして卒倒してみせることだけである。誤謬の理念も、けっして自体でみずからの誤謬を解き明すことはありえない。誤謬ははじめにあり、軌道にいったん上るかぎり崩壊まで上りつづけるほかない。これは「批評が即ち自己証明になる、その逆もまた真」(「中野重治君へ」)という場所からはどうしても理解しがたいところである。理念の誤謬を判るためには、じぶんも論理的・理念的な次元へ移ってゆかなければならない。だがそんなものは相手もそれほど持ち合わせていなかったし、小林秀雄の方もそんなものはとうに諦めたところで、じぶんの批評を出発させたのだ。つまりほんとうは論理や理念が人間を動かす怖ろしさをわかってはいなかった。狂気は意識上の錯乱や幻覚をもたらすが、逆に自意識上の錯乱をどこまで追いつめても狂気にはいたらない。むしろ追いつめるほど狂気から遠ざかるだけである。そもそも追いつめるという能力は正気に属するからである。一方、正気の人間は論理や理念を生みだすかもしれないが、論理や理念を追いつめるとついには狂気にいたることができる。論理や理念にはなにかしら人間を肉感にとどまらず肉体そのものまで抽象化してしまう要素があるからだ。意識は個体を離れては存在しえないが、論理や理念は個体を離れてどこまでもゆけるように人間を錯覚させる。それが普遍性の魔ともいうべきものである。そうして人間は観念が肉体になり肉体が観念になるような倒錯のうちに普遍性に参加する。言葉には本来そういう魔性がひそんでいる。そしてこの魔性は言葉が感覚とその影像をめぐっているかぎり、さして気づかれないのに、いったん理念にまで凝固した言葉はこの問題を露出する。たぶん中野重治の「閏二月廿九日」の苛立ちは、個体をはなれてどこまでも行ってしまった論理や理念を肉体が呼び戻そうとするときの苛立ちであった。小林秀雄はこれをきわめて倫理的にうけとり、あるいは同情さえした。誤謬と悔恨と背信と孤立と、おおよそ中野重治が当面していただろう状態を心情の劇としてみすぎた。しかし中野重治の方は、個体をはなれてひとり歩きをしてしまう論理と理念に苛立たされていたというべきである。これは小林秀雄の場所からはよく視えなかった。論理と理念とが演ずる劇は狂おしいものだ。これは論理を〈物指し〉とかんがえ、理念を〈普遍的な思想〉とかんがえる程度の理解からはとうてい視えない狂気である。小林秀雄の眼には歴史的必然というような、ほんとうは論理とも理念とも関係のない駑馬にまたがって、さっそうと騎馬戦を演じていたものたちが、駑馬を喪って徒歩立ちしている哀れな姿が思い描かれていた。けれど論理とか理念とかいうものはもともと徒歩立ちでしか手に把ることはできないし、行使することができない。ガリレイのように〈それでも地球は動く〉というためには、中野重治は苛立ちすぎていたし、戸坂潤は楽天的にすぎたのである。それでは相手にわかるように同情してみせるほかなにもできるはずがなかった。〈それでも地球は動く〉というためには狂気を超えて論理をたどってゆかなくてはならないが、それが歩むものにもたらす名づけようのない体得のありうることを、たぶん小林秀雄はよく知っていなかったのである。
正しいことをいうためには、うずくまってじっとしていなければならない。誤謬の道を超えたいならば騎馬に上らずに徒歩立ちで歩まなければならない。この二つの静止と運動とは絶えず人間の認識に往還を強いるはずである。うずくまって正しいことをいうのにさほどの難しさがあるわけではなく、また駑馬にまたがってさっそうとうそぶくこともたいしたことでない。困難はこのふたつのあいだに歩行の橋を架けることだけだ。
〈見る〉と〈聴く〉という知覚の作用がある意味的な系をつくり、この系が言語の系に反訳できるはずだという小林秀雄の信念のようなものは、古美術や古典文学への打込みから体得されて戦後にかれの美術論と音楽論とを析出した。近代文学は〈見る〉と〈聴く〉を拒絶して沈黙の言語をたどることを自らにも読者にも強いるような長い歴史を歩いてきた。これはいつも黙狂(破瓜症)の独言ににた危うい世界をたどることになるのは必至である。この危うさに気付いたとき小林秀雄は文学の世界を離れたのだともいえる。あるいは〈見る〉と〈聴く〉にかかわりのある世界だけがかれの文学の世界になったといってもよい。もっといいかえて〈見る〉と〈聴く〉にひっかかってくる世界だけを文学の世界とおもいさだめることに決断したとでもいうべきか。言葉の作品では、絵画や音楽が照射する感覚的要素は、無意識のなかに沈積してしまう。作品としてわたしたちが指しているものは、おおく作品とわたしたちの内面との不協和な溷濁や、苛立たしい矛盾の音色だけを意味することになる。絵画や音楽では照射する感覚そのものが作品なのだ。
内省することが苦であるような自意識の世界に色も形も音もないことは、弱年の小林秀雄が充分すぎるほど体験したはずであった。この劇の世界に色や形や音をひき入れるには病者や異常者の外観を必要とすることもよく知っていた。こういう体験の世界に観念の不具と不健康さをみるようになったのは、生理的な年齢のせいかもしれなかった。「頭脳的には知る事の出来ない年齢と頭脳の掴む事の出来ぬ形との間には深い関係がある」(「年齢」)というのが小林秀雄の内省であった。むしろ無意識の貯水池にあって不安をかきたてている〈死〉の貌を認識したいという欲求と、歴史という概念がはらむ不安を打破したいという欲求とは、たいへん似ているというべきかもしれない。人間の観念のつくりあげる世界は肉体の〈老い〉や〈成熟〉や〈死〉とはかかわりないのだが、生理的年齢にどうしても従属して変化する部分は確かに存在する。そしてそれが切実にみえてくるのは〈老い〉がみえがくれするようになってからである。狂気に耐える理路だけは年齢を超えた彼方へゆこうとする。この角逐は小林秀雄を美術論や音楽論や古典論とドストエフスキイ論に引き裂いていった。もちろん生理的な年齢が加担した方へ傾いていった。
[#ここから2字下げ]
この誠実な思想家〔宣長のこと――引用者〕は、言はば、自分の身丈に、しつくり合つた思想しか決して語らなかつた。その思想は、知的に構成されてはゐるが、又、生活感情に浸り染められた文体でしか実現出来ぬものでもあつた。この困難は、彼によく意識され、彼を苦しめてゐただらうと私は思つてゐる。
[#地付き](「本居宣長」)
やつて来る現実の事態は、決してこれを拒まないといふのが、私の心掛けだ、彼はさう言つてゐるだけなのである。さういふ心掛けで暮してゐるうちに、だんだんに、極めて自然に、学問をする事を、男子の本懐に育て上げて来た、宣長は、さういふ人だつた。
[#地付き](「本居宣長」)
私には、宣長から或る思想の型を受取るより、むしろ、彼の仕事をそのまま彼の告白、言はば「さかしら事」は云ふまいと自分に誓つた人の告白と受取る方が面白い。
[#地付き](「本居宣長」)
歴史の資料は、宣長の思想が立つてゐた教養の複雑な地盤について、はつきり語るし、これに準じて、宣長の思想を分析する事は、宣長の思想の様々な特色を説明するが、彼のやうな創造的な思想家には、このやり方は、あまり効果はあるまい。私が、彼の日記を読んで、深く隠れてゐる或るものを想像するのも、又、これを、かりに、よく信じられた彼の自己と呼べるやうに考へるのも、この彼の自己が、彼の全著述の意味や価値と一体をなして在ることを、私があらかじめ直知してゐると信じてゐるからであらう。すると、信じてゐるところを、何とか解きほぐしてみたいといふ私の希ひは、宣長に与へられた環境といふ原因から、宣長の思想といふ結果を明らめようとする歴史家に用ひられる有力な方法とは、全く逆な向きに動く。これは致し方のない事だ。何故かといふと、思想的作品も、文学的作品と同じく、その独自性の魅力に、私達が抗し得ないといふ事が、私の心が、逆の運動をするといふその事だからだ。もし、作品の魅力といふものが、そこから出発するより他ない原因として、私達に現前してゐなければ、一般に、歴史的個性といふ言葉も、その意味を失ふであらう。
[#地付き](「本居宣長」)
書簡のうちに、彼の将来の思想の萌芽があるといふやうな先廻りした物の云ひ方は別として、彼が、自分自身の事にしか、本当には関心を持つてゐない、極めて自然に、自分自身を尺度としなければ、何事も計らうとはしてゐない。この宣長の見解といふよりむしろ生活態度とも呼ぶべきものは、書簡に、歴然として一貫してゐるのである。
[#地付き](「本居宣長」)
歴史の上に起る作品といふ諸事件は、こちら側から、解釈の原理や規範を持ち込むのを拒絶してゐる、その在るがまゝの姿を、彼は率直に端的に見た。それを言つてゐるだけだ。
[#地付き](「本居宣長」)
歴史は自分達の生活を守り導くものとして、生活の唯中に姿を現してゐた。過ぎ去つて今はない事は、唱へ方によつて捕へられなければ、その意味を湛へた姿を現しはしない。誰もが呼べば答へる歴史を、過ちなく生きようと努めてゐたのであり、上代に始まつた|事《コト》は、その|意《ココロ》を明かす|事《コト》と一体をなしてゐた。
[#地付き](「本居宣長」)
科学者の問ひかける相手は、確かに眼前に現存するが、歴史家は歴史といふ相手に問ひかけようにも、相手は既に過ぎ去り、もはや無い。観察も実験もしやうがない。過去は、私の思ひ出のなかにしかありはしない。私が思ひ出して、心のうちに描かうと努める、その私の想像の努力がなければ、歴史事実と呼んでゐるものは何処にも姿を現しはしない。歴史上の事実が外部から、私達に与へられてゐるわけがないのである。私達は、自分の心のうちに、史料といふものを手がかりとし、その指示するところに従ひ、いろいろと工夫を凝した歴史的事実を創り上げて行かなければならない。
[#地付き](「本居宣長」)
[#ここで字下げ終わり]
引用が長すぎるが、べつに水増ししたかったわけではない。すでに千枚を超えながら終らない「本居宣長」論で小林秀雄が繰返し主張している骨子は、すべてこれらの引用で尽されているとおもわれるから、断片を切りとってつなげてみた。本居宣長は契沖とは逆な意味で、偏見と誤謬のおおい国学者である。古典読解の領域での鋭さと適確さでは、師であった賀茂真淵にとうてい及ばない。真淵の古典理解は現在でも滅びない卓見にみちているが、宣長の古典理解は、現在では荒唐なものが多い。このことは宣長が優れた批評家ではあったが(じじつ同時代の国学者にたいする批判的な見解になると生彩がある)、古典の本質を適確につかみだすことが不得手であったことを意味していよう。真淵には〈時代〉とか〈発展〉についての鋭い想像的な洞察があった。ひとつの古語、ひとつの歌謡をみたとき真淵は言葉に潜在する時代の変遷をはかることができる時間感覚があった。だから『古事記』や『日本書紀』から、それらが書かれた時代よりも以前の時代へ|歴史感覚《ヽヽヽヽ》として遡行することができて誤らなかったのは近世では真淵だけだといってよい。宣長は情況に足をさらわれて歴史を蘇生させることができなかった。宣長は古典にたいしていつも現在的な態度しかもっていない。現在的な態度に固執するために、かえって古典を〈おのずからのもの〉としてまず受け入れるという見地があらわれたのである。現在的な立脚点を捨てて古典の時間に入っていったから神話は神話として、歴史は歴史としてありのままのようにうけ入れるという思想があらわれたのではない。むしろ儒学にたいして情勢的に反立する立場を強調するあまり、ありのままという観点があらわれたのである。だから宣長の思想には現存性しかない。宣長はじぶんの才智と学殖に頼むところがあったろう。頼むところが大きくなればなるほどかれは苛立った。わが国の文化や政治や学問といえるものはすべて外来の移植物(かれのいう漢意)から成り立っていることに、ある時期に目覚めたとき愕然としたのである。宣長ほどの大才がなければそのまま済ましていられたであろう。かれの大才と自尊心は、政治制度からイデオロギーや文化にいたるまで、すべて外来の借りものを無意識に着用して疑わない同時代に耐えられないほど苛立ったのである。かれの苛立ちはかれの史眼を歪めてしまった。それは上田秋成程度の小才子に見事に足をすくわれるほどであった。これがわが国において大才だけが演じる悲惨な喜劇の先駆的意味をなしていた。小林秀雄は宣長の現存性の思想が「自分の身丈にしつくり合つた思想」であることを繰返しつきつめてゆく。けれどそれが歴史的な時間に途方もない盲目な見当外れをもたらしてしまうのはどうしようもなかった。
小林秀雄が晩年到達したところによれば、思想は実生活を離れて独り歩きをすることはできるが、肉体を離れて独り歩きをすることはできないということであった。べつのいいかたをすれば、人間には身体があるように意識の働きにも身体がある。そして意識の身体は肉体を模倣するところでだけ真であり、それを外れれば装飾のようなものだということであった。わかりやすい表現を借りれば、
[#ここから2字下げ]
意識的なものの考へ方が変つても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変らない。
[#地付き](「お月見」)
私たちに、自分たちの感受性の質を変へる自由のないのは、皮膚の色を変へる自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、随分手間がかゝつた事になる。妙な事だ。
[#地付き](「お月見」)
[#ここで字下げ終わり]
意識の働きはさまざまな観念の軌跡をつけ、架空の構築物をつくりあげるが、意識の身体ともいうべきものはあまり変らない。これは皮膚の色が変えられないとおなじようなものだ、といっていることになる。かれの〈伝統〉という概念はここから生れている。また、かれが弱年のころ〈宿命〉とよんだものも個人的にはここに帰着するといってよい。
ところでこれは、柳田国男の考え方とたいへん近いものである。もっと小林秀雄の資質に則していえばグスタフ・ユングの共同的無意識の考え方に近いといってもよい。問題はこんなことを「合点するのに、随分手間がかゝつた事」にあった。わたしはわたしの意識の身体に形どられた思想だけを信ずる。それは疑う余地のない真だから。なぜ疑う余地がないのか。人間に肉体があるのが疑えないかぎり、意識の肉体ともいうべきものだけは疑いようがなく強固な基盤をもっているからだ。小林秀雄のこういう考え方は虚偽だとはいわれない。けれどこの真は〈始まり〉にある真であって「手間」をかけて到達すべき真ではないようにおもえる。観念の身体ともいうべき健康な調和的な確かな手触りを、これだけが強固だ、変えようもないからだ、と自覚したとてどうということもない。思想の論理は情熱を伴って自前の道を走って止まらないが、思想の身体はたしかなじぶんの輪廓を固執してやまないというような分裂は、ほとんど小林秀雄には無縁になったといいうる。肉体のように眼に視え、肉声のように耳に聴くことができる思想と論理だけに席があたえられ、それ以外なものは削りとられる。この観念の肉体は生々しいかもしれないが、蝸牛のように殻の内だけを磨くことになる。だいたい思想や論理が、肉体や肉声のように生々しいだけで済むようなあらゆる抽象と論理と感覚の行手はたかが知れている。小林秀雄が到着した場所はそこであった。
[#改ページ]
[#小見出し]  付 『本居宣長』を読む
『本居宣長』を読んだ。すぐに感じたことはこの本が宣長を種にした近世思想の一応の総ざらいになっていることだ。通り路に集まる思想の風物を、落ちこぼれなく丁寧に、ときに背後を振返ってみたり、来たばかりの路を少しひき返して脇道に踏み込んだりして、確めながら歩いている。歩いてどこへ行こうとしているのか。宣長の思想へだ。宣長の思想とはなにか。ここで小林秀雄の独特な、そしていつも変らない思想理解の仕方が表われる。方法がそのまま生活態度であり、個性の経験がそのまま思想であり、学問的な仕事がそのまま自己表現であるというところだけで〈思想〉の概念がうけとめられる。いいかえれば宣長であっても小林秀雄であっても一向に変らぬところで。
はじめに折口信夫とはじめて会ったときの挿話がかかれている。別れぎわに折口信夫は「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ。では、さよなら」といった。これは重要なことをいわれたとうけとれるが、小林秀雄はそれ以上何を感じたのか語っていない。
この本のなかで宣長の『源氏』論にあらわれた「物のあはれ」の説と「大和魂(こころ)」の説には丁寧に言及されているから、折口の言葉は長い年月のあいだ小林のなかで生きつづけ、いまやっと響きに応えたのかもしれない。けれどこの折口信夫の言葉は小林秀雄が受けとめたのと少しちがうようにおもえる。そういうよりもわたしなら別様なうけとめ方をしたい気がする。折口はたぶん宣長の『古事記』理解は駄目で『源氏』理解の方に本領があるといいたかった。もっと別のいい方をすれば、宣長の『古事記』理解とそこからみちびいた「漢意」を排する論や怪し気な「まことの道」論の方は駄目だが『源氏』の核心に物語「物のあはれ」説を抽き出した文芸批評家宣長の方はほとんど無条件に素晴しいのだ、といいたかったのではないのか。
そしてこれはそのまま小林の宣長論にもあてはまる。中江藤樹にはじまり、仁斎、徂徠とつながる近世の儒教思想家たちが、戦国の余燼まだきえぬおりに武力によってではなく精神によって強者であろうとして、独学体認のあげく不覊の学芸の徒として諸大名に伍して屈しなかった所縁を説く小林秀雄の筆は生き生きとしている。また宣長が「源氏物語玉の小櫛」で、『源氏』の登場人物たちが、古物語を読みあわせて感想をもらす個所をひろいあつめたあげく、物語の本質が、昔の事をいまのわが身になぞらえて読み、昔の人の「物のあはれ」をじぶんの身に思いやって人の心の働きの深さをしり、憂さをなぐさめるところにあるという考えを追認する稠密な論議には、円熟した文芸批評家小林秀雄が息づいている。「蛍」の巻の玉鬘は物語を読んでそのなかのどんな登場人物よりも、じぶんの体験したことのほうが物語めいていると感じる。そしてそう感ずる玉鬘自身が物語の登場人物として、作者紫式部に統御されてそんな感想をもらしているのだ。玉鬘の相手をしている光源氏は、なんで婦女子はこうじぶんを物語の主人公に手易く同化させて、猫も杓子も夢中で草子類を書き写したりするのだろう。もともと女子はそんなミーハーなのだとおもっている。そして玉鬘をからかって、物語の作者は嘘をつくのが上手で、つい知らずのうちに惹き込まれてしまうのではないかといってみる。
だがもっと真面目に、物語というのは正史などにはとても盛りきれない美しいことや、じぶんだけで納めておけない怨念などを語りたい欲求から作られるのかも知れないとも語る。光源氏の語る物語観には、儒教公威の宮廷文化のなかで、婦女子の慰み物として書かれて、宮廷の女官たちに引っぱりだこで引き写されたり読まれたりしている物語類が、たんなる慰み物や勧善物ではなく、深く人間の心の動きを捉えるところに届こうとしているのを、あながち無視できないぞという当時の貴族たちの内心の驚きと微妙な評価の仕方が象徴されている。そしてこの光源氏の物語観を背後で統御しているのも作者紫式部である。こういう二重三重の含みをとらえて「物のあはれ」説を展開する宣長を、小林もまた見事に追認してゆく。このあたりの小林秀雄は名篇「罪と罰」論を再現しているかのようだ。
では物語の本質が「物のあはれ」にあるとして、この「物のあはれ」と儒教や仏説の善悪とはどう関わるのか。もちろん「物のあはれ」をしらずに心ばえのないのが|悪《あし》でありそれをわきまえる心ばえが|善《よし》なのだ。これは儒仏の善悪とはすこし位相がちがうのだし、かりに善悪をいうばあいでも「なだらかにやはらびて」(「玉の小櫛」)結びつくだけである。この宣長の考えは物語を自堕落な婦女子の慰みもので、愚かな流行だとする平安期からあった根づよい儒仏の教養主義から解放するものであった。はじめて物語創作の芸術性をそれとしてとりだした画期的なもので、いくらか説きかたの因果を転倒すれば、現在の文学論として充分に耐えるものであった。小林秀雄の追認もまた一個の本格的な物語論を形成している。
けれど小林秀雄の宣長論の優れた部分はここまでである。宣長が師真淵に出あい、「物のあはれ」からすすんで「まことの道」を『古事記』に探ろうとして思想として振舞うのを叙するあたりから、小林秀雄は宿痾を再発させているともいえる。じぶんの経験に還元できる思想だけが思想だ、伝統生活の是認、体認に回帰する思想だけが不易な実理だという主張が繰り返しあらわれる。そして読者はいいようのない停滞感におかれる。
「漢意(からごころ)」というのは、たんに「漢国」の文物を好み、「漢国」を盲目的にあがめてしまうことを指すだけではない。何かというと善悪是非をあげつらい、「物の理」(「宇比山踏」)をいいたてるのもやはり「漢意」で、排せねばならない。だから書物など読んだこともなく、眼に一丁字がない人間にも「漢意」はある。またじぶんは「漢意」などもっていない、ただ当然の理をいっているだけだと主張するのも「漢意」である。そもそも人の心には「皇国」も「外つ国」もない、善悪是非はどこでも別ものではないというのも「漢意」だ。それほどさように「漢意」を脱するのは難かしいのだ。
こういう無限否定の偏執と苛立ちに宣長の思想的な悲劇があった。また観念の全ドラマがあった。知識とは儒教的な知識のことだ、思想とは儒教思想のことだ、文学とは漢詩文のことだという同時代の鉄壁のような「当然之理」のなかで、鋭敏な宣長が演じた文化的な自意識過剰のドラマが、宣長の「漢意」を排する説と「大和魂(こころ)」の強調を裏づける悲哀であった。そこから宣長のあらゆる思想的な偏見と古典理念の錯誤が発祥したのである。ただ古典味読の長い経験の累積と鋭利な実証的な直観だけがこの錯誤を学問的に救った。また「物のあはれ」説に象徴されるように近世商家風の明るい遊興性が、宣長の思想的偏執の匂いに安息感と解放感を与えたといっていい。だから宣長が「|才《さえ》」というときは漢学儒学的な異国文化の教養を、そして「大和魂」というときは、わが国の天地草木ことごとく神という未開の自然宗教的な感性と思惟を指していることは、はっきりしている。これは宣長のいうようにわが国だけにある「万邦無比」なものでも何でもなく、ゲルマンの森林にもラテンの海にも、ポリネシアの島にも、おおよそ未開の自然宗教の遺制のあるところに、いつも人類が体験した感性と思惟にほかならない。だが小林秀雄は、こういうところにきて執拗に宣長の説の「訓詁」を強調し実行する。
宣長が戦後の現在もなお生きているところがあるとすれば、実証的な古典学者としてだけだといってよい。古典語の語義を盲目的な手さぐりと味読・体読・翫読のたゆみないつみかさねの経験と勘とで切開いていった驚くべき努力のあとだけが、誤解と正解とおりまぜて、近世から戦前までの古典研究の方法におおきな先蹤となった。この意味では現在でもまだ古典学者たちは宣長を嗤うことはできない。けれど小林秀雄は、なぜか宣長の経験実証の方法と成果のどこが駄目でどこがいまもなお成果であるか、という現在的な問題にひとつも触れようとしない。そして「漢意」を排し「皇御国」に至上性をみとめ、「大和魂」を強調する偏執的な思想が、いかに通念とちがって自然の本意を尊重した個性的な学問研究の経験に根ざした「実理」であったかを啓蒙しようと試みている。
小林秀雄は宣長の『古事記』理解に触れてこういう。
[#ここから2字下げ]
宣長が、「古事記」の研究を、「これぞ大御国の|学問《モノマナビ》の本なりける」と書いてゐるのを読んで、彼の激しい喜びが感じられないやうでは、仕方がないであらう。彼にとつて、「古事記」とは、吟味すべき単なる史料でもなかつたし、何かに導き、何かを証する文献でもなかつた。そつくりそのまゝが、古人の語りかけてくるのが直かに感じられる、その古人の「|言語《モノイヒ》のさま」であつた。耳を澄まし、しつかりと聞かうとする宣長の張りつめた期待に、「古事記序」の文が応じたのであつた。
[#ここで字下げ終わり]
いったい何が「仕方がない」かいっこうに判らぬ。『古事記』を神典とあがめようが最古の史料文献として眺めようが、その言葉をたどるものはあたかも現実を体験するとおなじように言葉の世界を体験する姿勢をもたなければならぬ。宣長は『古事記』にこれぞ「万邦無比」の「皇御国」の成り立ちをあらわした神典だという激しい喜びを感じた。そういう宣長の個性的な『古事記』体験を認めることと、宣長の『古事記』の神代紀の読み方の出鱈目さを批判し、これを正すという営為が時代を超えて続けられなければならないということとは別系列の問題である。だが、小林秀雄には頑固な固定観念があって、繰返しこの二つを混淆してみせる。そこに小林秀雄の強固な姿勢があるといえばいえるのだが、いつもここで読者に判断中止を迫っては、感覚的な体験(あるいは体認)を伴わぬ思考は空理だという俗な倫理にひき返してしまう。
漢字を音訓両方に使いわけて文を表記する方法をあみだした古代日本人の文化の異様な体験を精稠に語る小林が、どうして「天皇の意は『古語』の問題にあつた。『古語』が失はれゝば、それと一緒に『古の|実《まこと》のありさま』も失はれるといふ問題にあつた。宣長は、さう直ちに見て取つた。彼の見解は正しいのである。」とあっさりいってしまうのか合点がゆかぬ。
申すまでもなく宣長の『古事記』理解の最大の弱点は、宣長が『古事記』に旧い和語と旧い伝承が再現されているとかんがえた、その言語感覚にあった。つまりあの新しい作為にみちた古典を、自然な質朴な口承の表記であるかのようによんだ言語感覚そのものにあった。宣長の『古事記』解釈の個々の狂いも、その途方もない思想的な意味づけもそこからやってくる。わたしたちの言語感覚は『古事記』が何の疑いもなく、きわめて新しい時代に作られた、作為的なものという考えにみちびかれる。これはべつにわたしたちの個々の言語感覚が宣長より鋭敏だからではない。『古事記伝』の神代紀の注解が明和一年に成ったとして、現在までの二世紀の言語体験の歴史的な累積が、そうさせているというに過ぎない。宣長が『古事記』の研究を「これぞ大御国の学問の本なりける」と書いているのを読んで、はたして「彼の激しい喜びが感じられないやうでは、仕方がないであらう。」か。宣長の激しい喜びの切実さは、かれが神話と歴史の曲解に導かれることを喰いとめはしない。個性的な体験の深さと激しさは、その体験のうちにどんな個性的な偏執と偏見が育つかという問題に何も関わらないからだ。わたしたちが永久に「現在」だけに視線を限るのでないかぎり、宣長の個性的な思想の個性的な悲劇を尊重することと、その悲劇を打砕く方途を開明するために、時代を超えて方法的理性を手渡さざるを得ないこととは矛盾しはしない。
宣長の言語感覚が、夫子自身の自負にもかかわらずいかに出鱈目であったかは、たとえば『記』『紀』の最初に出てくる歌謡「八雲立つ」を歌のはじめとして疑わない語感と〈歌〉にたいする理解の倒錯からもわかる。わたしは後世の常識にたって偉そうなことをいっているわけではない。真淵は、おなじ時代に明白に「八雲立つ」の歌が旧くも何ともない所縁と、神武、大久米、伊須気余理比売のあいだの問答歌の形式が歌の古い形であることを見抜いている。真淵の見解は、わたしたちの現在の語感に背反しない。しかし宣長の偏見から導かれた歌と古語の感覚はほとんど現在では意味をなさない。残念なことに小林秀雄が力こぶを入れて「訓詁」する宣長の言説は、宣長のもっとも迷蒙に患わされた個所であるといって過言でない。
さらに小林秀雄は壬申の乱を収束した天武天皇が修史の必要を感じたことにふれながらこういう。勢いの赴くところというべきか。
[#ここから2字下げ]
天武朝の新政策にしても、基本的には、動乱によつて動揺した氏姓の権威の始末といふ実際問題の上に、立つものだつたであらう。天皇は、この機会に、国家の統治者として、又これと離せなかつた氏族宗教の司祭として、皇室の神聖な系譜とこれを廻る諸家の、その氏神にまで遡る出自の物語を、改めて制定し、その権威の確認を求めた。国民の側に、これを疑はしく思ふ理由が存しなかつたのは、物語の経緯をなすものが、先づ大体、自分等に親しい古伝承の上に立つものだつたからであらう。
[#ここで字下げ終わり]
「国民の側」とはどういうことか。わたしは、こういう言説にぶつかるたびに、天武朝期の「国民」は、縄文時代の竪穴住居からそれほどちがわない床なしの掘立小屋に住んでいた、というちょっとした手間を惜まなければ誰にでも手に入る知識を強調したくなってくる。また歴史学も考古学も人類学も、アジア的な国家が、少数の富有な文化的な支配層と大多数の貧困な「国民」とから成り立っていることを明瞭に教えている。歴史的でなくこれを現在に知りたければ、第二次大戦後に群立したアジアの新興国にそのモデルが求められる。そういう廻り道をしないで純粋の認識の問題あるいは感性の問題としてみてもよい。
個人の「人間」としての社会生活というものは、いつどんなときでも(国家のどんな初原のところでもという意味だ)いつも、「国民」としての個人生活よりも広く大きいものである。これは国家支配者であろうと被支配者であろうと、その個人生活を仔細に省みてみればすぐにわかることだ。小林が「国民の側」というとき、いわば無意識にすりかえがおこなわれる。このすりかえから免れるには、歴史をくりかえしじぶんの疑念に近づけ、身体にちかづけ、社会にちかづけ、理念に近づけしては、また離すという意識的な所作を必要としている。感受性や直観だけでは手に負えない。そうでなくてどうして歴史を蘇えらせることができよう。天武朝の「国民」が、『古事記』に召上げられた形での古伝承などにほとんど無関係で無関心であったことなど、ごく普通の常識的な直観さえあれば、すぐに判るはずである。そんなものは現在の新年歌会始めほどにも「国民」の関心を惹いたはずがないのは自明ではないか。「国民」に関係ある古伝承を掘り出すには『古事記』をくり返し宣長とはちがった形で読み破るほかない。
わたしも小林のいう「凡庸」な歴史家たちや文学史家たちの文学研究上の証拠主義をせせら嗤いたい点では、小林秀雄におとらぬつもりだ。また、ひたすら観察し、批判しようとする働きで心が充たされていることをも願うものだ。けれど宣長の方法と思想は、小林秀雄が繰返し熱心に説くほど上等なものではない。せいぜい博学、読み込みを積み重ねたあげくの正確で鋭敏な経験主義のうち、近世で抜群に行き届いた成果というくらいにしか評価できない。その『古事記』研究は、原理的にも実証的にも、だれがどうかんがえても虚妄だとおもえるところと、わたしが独断で虚妄だと断じ得るところに充ち充ちている。わたしは宣長にも、それに追従し「訓詁」する小林にも哀しい盲点をみつけだす。日本の学問、芸術がついにすわりよく落着いた果てにいつも陥いるあの普遍的な迷蒙の場所を感じる。そこは抽象・論理・原理を確立することのおそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。「凡庸」な歴史家たちや文学史家たちや文芸批評家たちが、ほんとうの意味で論理を軽蔑したあげく、原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路に小林も陥ち込んでいるとしかおもえない。宣長のように「空理」を否定するものは、ほんとうは創造を否定することにほかならない。手触り、舌触り、眼触りによって経験される触知の世界はやがて、老いて肉体の自然が衰えたときはっきりと衰弱してゆく。このときに第二の肉体ともいうべき論理の骨格をもたないからすべて展開してゆくものが煩わしくなってゆく。そのあげくたどりつくのは境地の味わいという奴だ。それが幸福な老いであるか?
誰でもが知っているし、ロマン主義者たちが宣長の口ぶりをまねてさんざんにいい古してくれた『古事記』の倭建伝説について、小林もまた懸命に触れている。伝承の倭建命が西征をおえて帰ってくると、息もつかせずに父の天皇が東征に駆りたてる。倭建はじぶんが父からうとまれていて、はやく死ねばいいと思われているのだと嘆いて叔母倭比売に訴える個所である。いわゆる英雄説話の典型といえる。小林秀雄は、まったく戦時の日本ロマン派の陥ち込んだとそっくりおなじところに身をおいて、そっくりおなじ口ぶりでこう書いている。
[#ここから2字下げ]
倭建命の「言問ひ」は、宣長の|意《ココロ》に迎へられて、「|如《カ》|此《ク》申し給へる御心のほどを思ヒ|度《ハカ》り奉るに、いといと|悲《カ》|哀《ナ》しとも|悲哀《カナシ》き御語にざりける」といふ。しつかりした応答を得るまでは、息を吹き返したことなど、一ぺんもなかつたのである。
[#ここで字下げ終わり]
遠い以前に保田與重郎が『戴冠詩人の御一人者』で、すでに立派に、そして迷蒙に宣長の口ぶりを模倣してくれている。わたしたちは青年期のはじめに、その迷蒙に生命をかけさせられた記憶を生々しくもっている。
宣長の迷蒙はどんなに長い射程をもっていることか。どこにでもいる何でもない「国民」でさえも、青年期に父にうとまれながら父の命ずる仕事においやられた体験をもっている。またその「|悲《カ》|哀《ナ》」しみを叔母に訴えるという体験も、誰でももちうるものだ。だからこそ倭建命の架空の説話は永続するのだし、また英雄説話の一類型として普遍的な人間の、あるいは人類の識知のなかで蘇る根拠があるのだ。小林は入口で軽蔑し回避したもののために、ついに知的な累積のすべてへの回避にまで行きつこうとする。わたしだって小林とおなじく文献実証だけで歴史や文学がわかったような顔をする連中への憤りはもっている。けれどそれは、〈ほんとう〉の実証と再現へ近づきたいためだ。まかりまちがえば行けるかもしれない〈ほんとう〉の古典の姿や現在の文化の姿にゆきつきたいがためだ。どうして判断中止の、味覚や触覚や視覚的な識知のなかに自足しえようか。
たぶんこうやってゆくと、小林秀雄の宣長論の文章から無数に引用してことごとく〈ノン〉だ〈それはちがう〉をいわなければならないだろう。小林自身が潜在的に〈戦後〉の史学や思想や文学の成果を、そしてもしかすると〈戦後〉の全歳月を〈無化〉したいというモチーフをもっているからであるとおもえる。
もちろん小林自身は、おれはそんなモチーフなどもっておらぬ、ただ宣長の思想を、宣長の言説に則して忠実に再現したかっただけだ、というだろう。そうかも知れぬが、いわば小林の無意識の織りなす綾のうちに、営々たる、戦後の解放と営みを全否定しようとするモチーフが、あやしい光を曳いてゆくのをどうすることもできない。そしてある意味ではそれがこの本の強い魅力だといえるかもしれない。けれど踏みつけられた土のなかから自力で這いあがった古典識知を〈無化〉するわけにはまいるまい。
[#改ページ]
[#見出し] 横光利一
ひとりの作家が避けたくても避けられなかった切実な主題を描くのに、新流行の技法を駆使してみせた。かれにそんな余裕があるのは不思儀なことだ。もっとも切実な心の状態は、もっとも無作為な言葉で描かれるほかないのではないか。こういう疑問をいだかせるのは、その作家の文学上の野心の熾烈さだろうか。それとも読者がだまされやすい存在だということなのか。読者には作品の切実さを、作者の切実さと、読者の切実さに還元しようとする抜き難い習性がある。この習性はしばしばあざむかれるが、あざむかれてもよいからそれを固執するという態度もまた、手易く変えられない根拠をもっている。つまり読者のほうは言葉がまだ現実と未分化であった初源の時代の痕跡を内にあたためている。これは真っ向から作品という概念と衝突せずにはおかない。
作品が体験する切実さは絵空ごとの切実さであり、こしらえられた人物たちの緊迫感であり、背景や事物の描かれた姿の危険さであり、もとより作者が実生活にまた心的に遭遇したであろう狂わんばかり切実な緊急事とは異なるものだ。おなじような衝突は作品の内部にも波及する。ある描き方の文体はかならず緊密に切実に描かれたものの内容を措定するはずだ。批評はいつもそうみなしたい衝動をかくしている。けれど作品が作者である作品の概念は、それとちがっている。ある描き方の文体と描かれた内容とは、いずれにせよ作家が構成を意識する度合に応じて緊密な抜きさしならぬ関係から、殆んど無関係だがいくらかの写映しあう関係にいたるまでの、さまざまな度合がありうる。
ひとりの作家の存在でこういう問題が気になるほどだとすれば、かれの文体の試みは作品を覆いかくしている隠れ蓑ではないか。あるいは逆に作品はただ文体的な試みを顕示するための手段にすぎないのではないか。そうかんがえるのが当然のような気がしてくる。ここには批評がおちこむ陥穽があるようにみえる。批評はまず何よりもさきに作品の全体的な形像に触れてみせなくてはならない。それからあとで判断と裁断とのあいだに成立する批評の自己解放を遂げたいのだ。だが批評はいつも作品の強調点だけで、作品と出遇うことになってしまう。この不満を批評はどう処理するのか。
初期横光の作品には言葉の新しい試みと作品の意味とのあいだに和解できない分裂がみえている。意味をとおして伝わってくるのは病的なまでに異様で古風な、あるひとつの性格悲劇である。そして演じたものは私小説的な関心もふくめてほとんど作者自身のものとみなされてよい。そのひとつの主調音は奔放な(と思い込まれた)妻をもった夫の病的な嫉妬から起こされた妄想と、その妄想の苦しさに耐えられずに、親友と妻とのあいだをのっぴきならない関係に陥し込んでゆく夫の倒錯した心理の劇といったものになっている。もうひとつは神経を病んだあげくに幼時から姉に異常な親和感をいだいている弟が、姉の生んだ幼女に愛着し、いわばその幼女を成熟した異性のようにみなして葛藤を演じてゆく心の偏執が描かれる。さらにつけ加えるとすれば、結核の死病にかかって寝たきりの奔放だった妻とのあいだの、死の間際に持ち越された愛執と異和、あるいは不可避的に妻との関係をそう追いこんでいったじぶんの性格的な悲劇をみつめることになっている。
作品の意味だけをたどってえられるこの強い偏執的な印象は、じつは作品の実像とくいちがっている。もっと軽いもっと水をうめられた、そしてすこし誇張していえば遊戯的なといってよい調子がいつも作品の意味を緩和し、何かひき戻している。そしてこの主題の意味の強烈さをひき戻す波紋、それによってはぐらかされる感じと困惑、それが初期横光そのものだといって過言ではない。わたしの言葉はたぶんこれをあまねく汲みあげるには繊細さを欠いている。また軽さがなさすぎるだろう。わたしの側の問題だけでなくそれは横光の問題でもあるにちがいない。
宿命のように粘りついてくる性格の悲劇を緩和するために、きらびやかな軽薄にみえる装飾的な文体が必要であった。そこから初期横光ははじまっていった。
「彼」には事物がみんな物の手ごたえよりも眼にみえない糸にからめとられた関係でぬきさしならない状態に感じられた。それはかれの不安の水位をたかめていった。ひとつひとつならばそれほどに感じられない事物が、不安のまわりに結びつけられてあつまってくる。きっかけがどこからきたのかじぶんではわからないが突然やってきて、またいつの間にか通過していく心の塊りがあって、その塊りが体内にとまっているあいだは、それはそうとしか考えようがないという魔法にかけられた思いに陥ちこんでいった。「彼」は帰郷のたびに幼時から愛着した姉の嫁ぎ先に立寄り、姉と一緒にすごすことにしていた。ある帰郷のおり姉が妊娠していることを聞いた。すると妊娠ということが「彼」をとらえて離さない。そのうちに関係の濃度が妊娠のまわりにあつまってくる。それからは姉の腹はすこし押されただけで、胎児が潰れてしまうという不安からぬけられなくなっていった。
裏山に散歩にでてツツジを引抜くために下腹に肱をあてて引っぱる姉をみて腹の子供は押し潰されたと思い込んだ。そしてこの不安は姉が女の児を産んだという知らせをうけとるまで決して解けなかった。
この種の敏感性はエロスの擡頭期と衰退期にたれをもおとずれるに相違ない。そしてある限度を超えてしまうと妄想知覚の領域にひきこまれてゆく。これは関係識知の空間が近親と血縁のつくりだす領域から、すべての環界が魔とみえる空間へと退行してゆくことに対応している。なぜそうなるのかは問題ではない。その意味では精神の可能性の領域の内部にあるといっていい。なぜある種の精神の志向性は、退行の極限まで陥ちこんでゆくのに、べつの精神の志向性は、敏感という限度でふみとどまるかが問題なのだ。いやほんとうはそれも問題ではない。批評は作品の背後に病者を措定することではない。ただわが国の優れた文学的な資質のうちにある、おなじような精神の志向性に問題をみたいだけだ。
「彼」はなぜじぶんが姉の生んだ嬰児に執着するのかわからなかった。ただ盲愛のあまり帰郷のおりには姉の赤ん坊をお守りすることに情熱を傾けた。傍に昼寝している赤ん坊が泣きだすのをきいて、たれかが書いていた死ぬ前の赤ん坊の泣き声とおなじではないかと思いはじめると、もうとめどなく不安にさいなまれていく。「彼」は泣いている赤ん坊は頭を枕から浮きあがらせてやると泣きやむことを或る時みつけだした。今度はそれを繰り返しているうちにこれは赤ん坊をだまして、抱き起こしたように見せかけることだと思いはじめた。すると叔父であるじぶんが赤ん坊の「最初の瞞し手」になることだと考えて、自罰の意識に陥ち込んでいった。赤ん坊は泣きだすと臍の緒がとび出した。「彼」はそれをみると死にはせぬかという不安から逃れることはできなかった。ある年帰京した下宿に赤ん坊が種痘のあと丹毒にかかったという姉からの手紙がきた。「片腕一本で生命が助かりました。」と書かれているのをみて片腕にはれが廻っただけで済んだとはとらずに、片腕を切断したと思いちがえた。そして姉のようなうつけ者に赤ん坊をまかせてはおけないという想念に陥ち込んでその果てに「彼」はかんがえた。
[#ここから2字下げ]
「たうとうやつて来た。」
彼は自分を始終脅かしてゐた物の正体を明瞭に見たやうな気持がした。その形が彼の前に現れたなら必死になってとり組んでやると思つた。不思議な暴力が湧いて来たがしかしどうとも仕様がなかつた。その中に幸子〔姉の子――引用者〕の大きくなつてから一生彼女の心を苦しめる不幸を思ふと、もう彼は暗い小路の中に立ち停つて了つた。
「俺の妻にしてやらう。」
ふと彼はそんなことを考へると、自分と姪の年の差を計つてみた。それから、自分の顔と能力とを他人に比べた。
[#地付き](「御身」)
[#ここで字下げ終わり]
「彼」を「始終脅かしてゐた物の正体」はほんとうなら関係妄想とよばれるものだ。事物のあいだに関係がつけられるときに〈意味〉が生れるのだが、その関係づけの意識に過不足があると、その分だけは他者から押しつけられた想念をともなう。それが「彼」の赤ん坊にたいする関係に投射される。「彼」が幼い姪を「俺の妻にしてやらう。」とかんがえることと「俺の妻にして」もらいたいと姉に強迫されたと感じることはおなじことであった。ただ執着を燃やすのが姉の女児だというのが性格悲劇の質をきめるにちがいない。
「彼」が片腕になった悲惨な姪を妄想して「俺の妻にしてやらう。」とかんがえたとき、姉への近親相姦の願望の自然な延長にこの姪をおこうとしている。同時に性愛への不安と不信を排除したい願望を語っているようにみえる。「彼」を「始終脅かしてゐた物の正体」はほんとうは「俺の妻にしてやらう。」という願望にまで退行してゆく近親的エロスへの執着にあった。事物の形をみることが禁忌のエロスの形をみることと一致してしまう資質であった。作品「悲しめる顔」の主人公金六もまた姉の女児三重子が映画館でガラスで眼を傷つけたとき、盲目になった三重子の将来を想像して唐突に「妻にしよう」と思い込んでゆく。
初期横光は近親の幼児への婚姻妄想を作品に描いたとき意識せずに自己暴露的であった。青年の一時期の心的な動きが生涯の運命を垣間見せることがある。姉の女児に愛執し病的にまで心をからませてゆく「彼」の姿を描いたとき、初期横光はじぶんの運命をまだたどたどしい作品のうちに記した。「彼」のエロスへの不安と不信を解除してくれる異性があるとすれば、姉を嬰児化した存在であった。無垢な嬰児ならば「彼」の嫉妬妄想をかきたてるこれ見よがしの振舞いはないはずだ。「彼」の異様なこだわりを嘲弄するように故意にべつの男に媚態を呈してみせる心理の離反も知らないだろう。「彼」が可愛がれば幼い純真さで応えてくれることも間違いないはずだ。
だが「彼」はここでも齟齬に出会う。休暇で帰ると姉の家を訪れ幼い姪の見張りに専念した。けれど幼女は「彼」にけっして懐こうとしない。顔を歪めて道化てみせたり、菓子をやって機嫌をとりむすんで手を握ろうとするが、その手を引っこめてそっぽを向いてしまう。「彼」はその理由がうまく理解できないで、無邪気な嬰児に接するには、あまりに暗く濁った悪夢を匿していて、それを嬰児に見抜かれていると思い込んでゆく。
幼児にはひと見知りする時期があるという理解は「彼」になかった。「彼」は幼児を幼児として扱わずにひとりの異性としてまともにぶつかっている。そして彼女がじぶんに馴染まないのは運命のように嫌われているからだと思い込んでゆく。じぶんの汚濁や人間不信や冷たいニヒリズムは幼児の無意識の鏡に映っているにちがいない。これが「彼」の解釈であった。幼児がかれにおびえるのは「彼」が「彼」の意識におびえ、被害感を抱いているからだ。「彼」は自身の意識に不安と強迫感を覚えている。「彼」がじぶんの意識の動きを言葉に出そうとすると、言葉はいつもおくれてやってくるため、そのあいだのずれが「彼」を悲しい唖にしてしまう。「彼」が姉の幼児に愛着をつかいこみ、そこを離れることができないのは別の理由からだが「彼」が幼児のひと見知りに対応できず、ますます狼狽と惑乱に陥ち込んでゆき、そのこと自体を愛するのに愛せられないと錯覚するのは「彼」が関係の偏執を病んでいるからである。
[#ここから2字下げ]
(俺のどこがそんなに嫌ひなのだらう。それに何ぜ此奴がこんなに可愛いのだらう。)
彼は直ぐ友達へ出す葉書にかう書いた。
「愛と云ふ曲者にとりつかれたが最後、実にみじめだ。何ぜかと云ふと、吾々はその報酬を常に計算してゐる。併しそれを計算しなくてはゐられないのだ。そして、何故計算しなくてはならないかと云ふ理由も解らずに、然も計算せずにはゐられない人間の不必要な奇妙な性質の中に、愛はがつしりと坐つてゐる。帳場の番頭だ。さうではないか?」
とにかく彼は幸子に触れずに終日見張りをしてゐなければならなかつた。
[#地付き](「御身」)
彼は自分の幸子に対する愛情の種類を時々考へて、「俺は恋をしてるんだ。」とまじめに思ふことがあつた。
彼のせめてもの望みは、幸子を一度、ただの一度でいいしつかりと抱いてやる、そして、彼女がぴつたりと彼に抱かれることだつた。更にそれ以上の慾を云へば、いつでも彼の欲する時に彼女が彼に抱かれることだつた。実際彼は此のことに苦しめられた。しかし、彼の受けた愛の報酬も矢張り前の夏の休暇と同じやうに冷いものであつた。
[#地付き](「御身」)
とにかく幸子の一番嫌ひな者は此の叔父であるらしかつた。そして、叔父の一番好きな者は幸子であつた。
[#地付き](「御身」)
[#ここで字下げ終わり]
じぶんの資質を無意識に感知して内面につく決定的な一時期に、なにも顧慮せずにそのことを描ききる機会はだれにでも与えられるわけではない。一瞬ためらったり眼をつむってそしらぬ貌をすれば、その機会はすみやかに過ぎ去ってしまう。そのあとは仮面を言葉によって綴りつづけるほかない。資質は後景にしりぞき、文学の言葉が前におしだされてくる。つまり仮面をつけた作家が作品になるのだ。ある一瞬をとらえてじぶんの運命を感知したものだけが、作品の差額のあとに苦い素顔の運命をのこす。この運命の貌は文明を刻印するといっていい。
「彼」はまだ幼ない姪に成然した異性のように接している。しかも恋愛する異性に対するように。そのあげくまったく成然した異性から受けるように齟齬を受けとってしまう。「彼」は姪はじぶんが一番嫌いなのにじぶんは姪を一番好きだから齟齬が生れたと思っている。けれどそれはまったくちがう。「彼」が嬰児である姪を成熟したおとなの異性にたいする感情で接するのは、姪を尊重しているからでもないし、異性として愛しているからでもない。「彼」がそれ以外に他者に接する方法を知らないからである。いいかえれば「彼」はほんとうは姪に姪のように接しているのではなく、ただじぶん自身のエロスで色彩を塗った姪に接しているだけだ。「彼」はじぶんの好ましいと信ずる願望にかなうような異性の衣を着せて姪を粉飾しているのに、姪のほうはただの嬰児として振舞うという構造が「とにかく幸子の一番嫌ひな者は此の叔父であるらしかつた。そして、叔父の一番好きな者は幸子であつた。」ということの意味であろう。この理解が「彼」にたいして酷に過ぎるとすれば「彼」はただじぶんの願望が好ましいように姪を好ましいと感じ「彼」がじぶんを嫌悪するとおなじように姪から嫌悪されているといってもよい。「彼」は関係の意識を病んで距離という概念を失っている。じつにおおくの資質がこの病いを背負って文学作品を通過した。そして亡んだ。なぜそれらは退行し荒廃しそして言葉の場面から縮退したり、生活の場面にでて無意識の苦を背負うことになるのだろう。その疑問が初期横光の意義であった。「彼」の病んだ心の風景は、自己暴露的にみれば初期横光そのものであったから。
初期横光にとってもっとも決定的な作品は「悲しみの代価」であろう。風景をみるのに眼がいるように、心の風景には関係という網の目が必要とされる。関係の歪みを語る作品「悲しみの代価」の主題はわが国の近代文学の作品にいくたびも取扱われている。しかもなぜかいつも決定的な作家をとらえた決定的な主題であった。
「彼」は強すぎる嫉妬のために、妻の挙動がすべて妄執のようにみえる心の井戸に閉じ込められている。奔放に振舞う「彼」の妻は「彼」には親しい友人たちのすべてに媚態をふりまいているように感じられる。「彼」はつぎつぎに妻の媚態の対象になった友人たちに冷たい感情をいだき、しだいに疎遠になってゆく。「彼」は妻の心がいつもじぶんだけに向っていると思えないかぎり、安堵感をもつことができない。妻が無意識にしめす友人たちへの好意や媚態はひとつひとつ重たい石のように心意の井の底に陥ちてゆく。
「彼」は成熟した妻に、こんどは「彼」の一憫一笑に応えてくれる異性の嬰児を求めている。だが妻のほうは自体で成熟した女性なだけだ。妻が「彼」を魅惑したものは、妻が他の男性を魅惑するものとおなじなはずだ。そうならじぶんが特定の女性を択び、性愛を一緒にする生活をやることに、便宜以上の根拠はなかったのではないか? そうでないなら妻の心はいつもじぶんに向いていなければならないはずだ。それなのに妻はじぶんの友人たちのすべてに、いまもじぶんを際立たせ魅力を誇示しようとしてみせる。どうしてそうなのか? また「彼」の性愛が近親姦、同性愛、自己愛が連鎖する領域のところで強い被害妄想にかられるのはなぜだろうか?
ある心はいざとなると心以前のところにたち、ある心は心以後のところにたつ。それぞれのいちばんポテンシャルの低いエロス的安堵の状態を求めて。そのことにはどこにも異常はない。ただ心以前の心性は心以後の心性に触発されたときに被害妄想に近づいてゆく。心以前の心性にとって心以後は不可解な壁あるいは壁の彼方におもえるからだ。
[#ここから2字下げ]
それに妻は? 嘘だ! と又彼は思つた。幾度考へても彼女と結婚したと云ふことが間違つてゐたやうに思はれる。自分は妻の華やかな挙動に魅せられて彼女を愛し始めた。さうして彼女も自分の愛を感じて自分を愛したとは云ふものの、しかし彼女が自分に示した愛は、彼女が自分の失つた友人達に与へた媚弄な挙動と何処も変つたものではない。ただ自分は彼らより二年早く彼女から媚弄な微笑を送られたと云ふことそのことだけで結婚が成り立つたのだ。
[#地付き](「悲しみの代価」)
前に自分の処へ遊びに来た多くの友達の中で、実は今自分のしてゐるやうに自分の妻に放蕩する目的で出掛けて来たもののあつたのを感じたとき、自分は苦しまなかつたか。さう思ひ始めると、彼は自分の反省心が又五月蠅くなつて来た。図太く本能のままに放蕩出来る者達の性格が溌剌として強く綺麗なものに見えて来た。しかし、もし妻や友達らの或る者から苦しめられた自分の経験が、何かのために役立つとしたならば、それは自分だけは少くともさう云ふことにかけては他人を苦しめないと云ふことそれだけにあるのではないか、と彼は思つた。
[#地付き](「悲しみの代価」)
「本当に貞節な女はゐないのか。本当に貞節な女がゐたなら、俺は何時でも生命を投げ出してやるだらう。いや、本当に貞節な男もゐないぢやないか。不貞な男と女の集団から子供が産れ続けてゐる間、何が一体進歩なのだ!」
ふと彼は辰子を妻に持つた当時のことを思ひ出した。その頃精神的の苦悶は勿論肉体の苦痛も、夫妻は同様に共感しなくてはならないと云ふ思想から、よく辰子を膝の上へ乗せ乍ら、自分と自分の顎を抓つてみて、「お前の顎が痛かないか」と妻に訊ねた。「痛かない。」と妻が答へると「まだ駄目だ」と云つて彼は妻を膝から下ろした。今彼はそれを思ひ出すと、あの辰子にそんなことを真面目にやつてゐた自分がをかしくなつた。
[#地付き](「悲しみの代価」)
[#ここで字下げ終わり]
「彼」のエロスの偏執の匂いはじぶん自身の近親姦や自己愛への退行からくる不安の投射である。「彼」はじぶんが妻を愛しきれていないし、妻がじぶんを愛しきれていないという空隙に嫉妬の井戸を掘っている。すべての男女はただ相互感応的に愛しうるだけではないか。男と女は愛において充たされることはありえないのではないか。「彼」が諦めの地平にでられたら少くとも妄想と不幸からは自由な時間をもつことができた。けれど「彼」はそう思うことができない。「彼」は妻とじぶんとのあいだの底をついた冷たい異和よりも、無意識の好意をもちあえる「彼」の友人たちと妻とのあいだの軽いエロスの交換の方がほんとうにみえる。そしてもはやこの状態に耐えられなくなってゆく。
「彼」は郷里から出てきて中途になっていた学校へもどるため、下宿を探すあいだ同居している親友三島と妻のあいだの無意識の軽い好意と媚態とにやりきれない嫉妬を感じだす。そして妻と三島に快活を装った冷たさを故意に仕向けると、それを察知した妻は三島に媚態を誇示してみせるようになる。その挙句嫉妬の井戸は深くなってゆく。「彼」が郷里へもどった留守に「彼」から愛されていないのだと思っている妻と、それに同情と好意を寄せた三島のあいだに仕向けた通りのことが起る。
[#ここから2字下げ]
彼はもう早く三島と妻とがなるやうになつて欲しいと願ふ気持ちが起つて来た。とにかく、三島に対する自分の態度は嘘ばかりになつてゐると思ふと、もうこれ以上、親友を瞞し自分を欺いてゐることが出来なくなつた。いや、それよりも、彼は自分の小心さ、臆病さ、彼自身つねに思つてゐるそれらの自分の病のために、自分自身を滅ぼしたくなつて来た。自分の最も恐れてゐること妻の貞操の破れること、ただそれを防がうとするためにのみ、全心の思想を傾けて警戒して来た賤しい自分の胸へ、その最も恐る可き運命を自分と自分の手で塗りつけてやりたくなつたのだ。
[#地付き](「悲しみの代価」)
[#ここで字下げ終わり]
これは作品の意味であるが文学になっているかどうかわからない。井戸に閉じこめられた心には地獄の責め苦にひとしくても、井戸の外にでればまったく馬鹿気た無意味な世界である。けれどこれが許容されねばならないのは、人間はたれもがその種の井戸のなかの体験の感覚をもっているからである。おまえは何と馬鹿らしい存在なのだという憐憫とも侮蔑とも無関心ともとれる眼ざしに囲まれながら、じぶんだけが地獄のように|も《ヽ》掻いているという心の体験を。
こういう世界をわたしたちは作品としてどこかに記憶している。しかもかなり重大な作品として。
漱石の「行人」で、兄の一郎は妻のお直と弟二郎とのあいだにある無意識の親密さに疑念をいだき二郎に、一緒に和歌山で一夜の宿を共にしてみてくれとたのむ。一郎の心の動かし方はじぶんが妻のお直を愛しきれない不信と不安とに根ざしている。むしろじぶんが他者をエロスとして愛しえない不安のところで、すべて女性は本来的に他者を撰択しえないのではないかという疑念にかられている。この疑念の窓を閉じることができないかぎり、妻のお直の二郎にたいする自然な無意識な親密感と好意の振舞いの方が、じぶんと妻との底をついた冷たい異和を夫婦の枠に入れこんだ関係よりもまさったものにみえてくる。一郎は妻のお直の容貌や肉体のむこうに〈こころ〉をみたいと願っている。お直は一郎から〈女〉として愛され充たされたいとおもっている。一郎は胸のうちのどこかで、もし文明開化がもっと進んで人間の心を歪ませたり悩ませたりしなくなれば、容貌や肉体のむこうに〈こころ〉が相互に慰藉しあう関係が成り立つはずだとおもっている。じぶんが妻のお直の心を把みえないのはお直が容貌や肉体を超えたむこう側に〈こころ〉をもっていない、すくなくとも意識してはもっていないか、あるいは〈こころ〉が煙っているためだとどこかでかんがえている。もっと自身にひきよせた不安のなかでは、じぶんは文明開化をわが身ひとりに背負うような焦躁感で追いつづけているうちに、ひとに温かい満足をあたえる人間らしい心を凍らせてしまったとおもっている。その意味では一郎はじぶんの妻お直にたいする病的な嫉妬妄想の患部を、自身で知っているものといってよい。医者ならば性愛の不安と不充足からやってくるパラノイアだというかも知れない。けれど一郎はじぶんの妄想を文明開化がじぶんの心につもらせた重荷からくる存在的な不安だと解釈している。
作品「悲しみの代価」の「彼」にたいしても医師はまったくおなじように診断するにちがいない。けれども「彼」は「行人」の一郎にくらべて弱年で未熟なもののように設定されている。「彼」には文明の重荷を背負う膂力もなければ、自分の病巣を文明のせいにするだけの嶮しさももちえない。「彼」はただ心理だけの存在になっているようにみえる。「彼」が郷里にかえった留守のあいだに「彼」が怖れまた願望したとおりに、妻は「彼」の性愛への不信から友人の三島と接近し、不安になって急に戻ってきた「彼」は二人が寝ているところを目撃してしまう。「彼」の動きと妄想には心理的な必然はあるが「行人」の一郎のような倫理的必然はない。「彼」には妻にたいする病的な心理の悲劇はあるが、孤独な倫理的悲劇はない。気の持ちようでは親友三島と妻のあいだの〈過ち〉も、その〈過ち〉をつくりあげるのに心理的な手を貸した「彼」自身の背反意識も「悲しみの代価」として乗り超えられるものとみなされる。妻と三島の関係を目撃して「彼」が感ずる「病的な快活」は、心理的な必然ではあっても倫理的には解体の表現でしかない。心理的存在にしかすぎない「彼」にとって「悲しみ」の体験から導きうる倫理があるとすれば倒錯してみせることだけだ。
[#ここから2字下げ]
すると、不意に彼は星を見てゐることが実に馬鹿らしいことに思へて来た。もつともつと、総ての人間から馬鹿にされ、自分の自尊心を尽く踏みにじられ、さうして、自分を最も侮辱した妻になほこれ以上侮辱されるために、彼女を心から愛してみたくなつて来た。自分の一生、さう云ふことは何ぜそんなに大切なことであるのか、もしも自分にとつて自分の一生がそれほど大切で貴いものなら、自分は自分の一生を人のために糞のやうに汚してやらう。さう思ふと彼には空の星が何の魅力にもならなくなり、新らしい力が初めて全心に漲つて来た。
[#地付き](「悲しみの代価」)
[#ここで字下げ終わり]
心理の揺れであるあいだは倒錯はまたすぐ元にもどってしまう。「彼」は心理の揺れにじぶんで理路を与えて固定してしまわなければならぬ。じぶんは妻を愛している。じぶんの妻にたいする愛は強いのだから妻の心は全部じぶんに向けられてしかるべきだ。それほどでなくてもすべてじぶんに向けてくれる願望をもってよいはずだ。だが妻の心は半分しかじぶんに向わず、あとの半分はじぶんの友人たちにたいする媚態と心の放蕩に費されている。じぶんの友人たちも妻のこの媚態になんとなく慕い寄ってきて心的に放蕩したいと感じている。じぶんはそのたびに嫉妬感情に苦しめられ、友人たちと疎遠になっていった。じぶんの小心で臆病な警戒心と嫉妬が不快で汚なくおもえてくるとじぶんを憎悪せずにいられなくなる。そうならじぶんが択ぶべき道は心理的にじぶんを低くみじめにして妻を愛することであり、また倫理的にはじぶんを他者に軽蔑させることで他者に寛容になることではないのか。
「彼」のこういう理路はどこに狂いがあるのか。もしかするとほかの男たちに向けた妻の媚態と心の放蕩はただの無意識の性愛かもしれなかった。またじぶんを愛するがゆえにじぶんの友人たちにむけられた自然な善意かもしれなかった。それを媚態や心の放蕩とうけとる想念と、そこから意識的に構成される嫉妬の強いひろがりは「彼」の方に病的な性愛の偏執があるからではないか。すべての心的な受動態、被害態、弱小態は閉じられたエロス的な世界をつくりあげてそのなかにまゆのようにこもってしまう。するとないはずの関係すら濃い密度になってあるようにおもわれてくる。だが「彼」は納得することができない。妻はあきらかにじぶんの心の動きを察知して、それに逆らうように故意にじぶんの媚態と心の放蕩をきめているとしかおもえない。じぶんが故意に友人たちを妻の方へ押しやるようにすると、それを察知して故意に媚態をみせびらかすようにするではないか。けれどそれすらも敏感に過ぎた妄念がこしらえたものかも知れない。「彼」の行使する理路が誤認している個所と「彼」の嫉妬がつくりあげる像とはおなじ心の働きの裏と表だ。
こんなエロス的な錯誤の無間地獄のなかで「彼」が境界をこえて病的だという線をどこにひけるのか。またその線をひくためにどんな場所を択べばよいのか。ほんとうに確定するのは難かしい。エロスとしての人間自体が根源的な不安をたえず噴きあげているのだから。そこでは人間はたれも大なり小なり病的であり大なり小なり正常なのだ。「彼」を動かしている原理は病的でも正常でもなく、無限の調和の願望なのだが、それは現実に可能かどうかわからない。
「悲しめる顔」の金六は姉の子が活動小屋でガラスで眼を傷つけたとき盲目になった姪を想像して唐突に「妻にしよう」と思い込み、姪とじぶんが二十歳ちがえば「二十年待たう」とかんがえる。
「御身」の末雄は姉の子の幸子が丹毒のため片腕を切断されたと誤解したあげく、姪の不幸な苦しい生涯を想像して「俺の妻にしてやらう」とかんがえる。
「無礼な街」の妻に逃げられた「私」は血球をしらべると幾人の男と関係したか判ると訊き込んできて、以前に妻の血球を験べてみようとしたことがあるのをおもいだし「疑ふと云ふことは、疑ふ可き価値があつても罪悪である」という倫理のようなものに思いいたる。「私」の唐突で病的な心の動きはすべて調和を求める倫理につながるともいえよう。
「悲しみの代価」の「彼」はもっとも相愛する男女が一緒になり、どちらも外の男女を意識に入れたりせずに二人のあいだから子供を産んで育てあうのが、もっとも人間にとって幸福な尊敬に価する羨望すべきことだとかんがえる。そのような幸福から人間は離れて作られているかもしれないが、人間は他人の不幸を嘆くよりもじぶんの不幸を嘆き「人間の所有してゐる総ての心理の中で最も謙譲になつたときに起る反省心のみが自分の醜さを嫌ひ、相手の醜さを赦すことが出来る。優れた愛の対象からも自分からも呼び起すところから推してみて、ただ、絶えず自分を反省し続け、絶えず忍耐し続けて全部の心を絶えず自分の愛する対象にのみ集中し続けることによつて自分を磨き続けてゆく。それ以外のいかなる心理作用を発達せしめても、その先には決して人間の人間たるべき幸福はあり得ない」という寛容の倫理に傾いてゆく。そしてこれは病的な嫉妬妄想や被害妄想の治癒からくる心的な寛解と区別し難い姿になってみえる。「悲しみの代価」の改稿(それは改悪だが)とみられる作品「負けた良人」の「彼」はかんがえる。
[#ここから2字下げ]
「いや、もう断じて行かぬ。彼女が自分を愛してゐるからと云つて、自分が彼女を愛してゐるからと云つて、ただそれだけの理由で、彼女を奪ふ理由や口実になつてはならぬ。」
それなら一体何が理由となるのか。これは彼にも分らなかつた。たださう云ふ理由のもとに行動された場合の他の多くの者の苦痛、それの計算を忘れてはならない、と彼は思つた。彼は自分を謹厳な位置に再び置き戻したかつたのだ。人間とは計算する動物である。計算とは整頓を意味し、発展を意味するものだ。計算のない熱情は賭博である。賭博は不安定な運命であるが故に、罪悪であると彼は結論した。
[#地付き](「負けた良人」)
[#ここで字下げ終わり]
これが作品といえるかどうかわからない。告解のような口調でただ自他がともに地獄から免れる納得点をさがす行程がただ叙述されているだけだともいえる。あまり上等でない倫理書を読まされている感じだが、この感じはそれほど不快ではない。告解の口調として真摯だからだ。また文学である要素はきわめて少いかもしれないが、格別に名づけられるものでなくてもよい。
姉への近親相姦願望が幼ない姪への童姦症的な愛に転移され、その感情は姪が傷つけられたときに〈結婚しよう〉という自体愛に転化される。そこではじめて傷口が癒えたイメージが完成される。禁忌や障害の強い性愛の領域にこだわってゆく敏感性の関係意識に呪縛された世界がある。「彼」の妻にたいする嫉妬の妄執は障害の強い性愛がつくりあげた被害感のようにみえる。けれどその妄想の裏面には寛解された無垢な善意の姿をとった「彼」の調和の倫理のようなものがやっとあらわれてくる。妄想の果てにあらわれる無垢の受身の善意、偏執の極まったところにあらわれる嬰児のような寛容な善への意志のようなもの、これは「彼」が獲得した最初の倫理、あるいは理念といってよかった。痛ぶられれば痛ぶられるほど耐えつづけ、受け容れ、ますます自己を低くしてゆく卑小さへの意志といったものが、かろうじて「彼」が妄想から脱出するために見つけだした血路であった。申すまでもなく「彼」がやっと獲得したこの倫理、あるいは理念は自己暴露的にいえば初期横光が資質的な苦痛の果てにつかんだ唯一の思想であった。
わたしはときどき「彼」や「私」という人物の心の動き方に病的という言葉を貼りつけてきた。またひとりでにそういう概念にあたるもののように扱ってきた。けれど作品を捜索するかぎり、そういうところは「彼」や「私」自身には病気とはおもわれていない。強すぎる嫉妬感情が作品の「彼」や「私」を苦しめ、そんなことに苦しむじぶんを小心で臆病な嫌な性格だと嫌悪しながらも、一方では感情が奔放で媚弄な妻にたまたまめぐりあって愛したために、こんなに苦しめられるのだという弁明が用意されている。じぶんのエロス的対象が無意識のうちに近親や身体の障害や親友のような禁忌と罪障の周囲をめぐってしまう病いには気付かれていない。「彼」がはっきりと作品のなかで病気とかんがえた症候はべつにあった。新聞をみても眼がくらんできて活字が紙の上から浮き出してきて衝突した。何かをかんがえると頭痛がして耐えられなくなった。色彩をみても、音を聞いても頭が痛んだ。医者は「彼」に「譬へば君は街を歩くだらう。その場合どちらへ行かうかと考へても、君の頭はもういけない。とにかく、一切合切思考することだけがいけないのだから、その覚悟で一年を暮すよう。」(「馬車」)と忠告した。すこしかんがえごとをしても頭が痛み、すこし色彩や音を感覚しても耐え難くなるという心的な症候はありうるに相違ない。けれどこの状態から恢復するために「一切合切思考すること」をやめるべきかどうかはまったくわからない。ただ「彼」はそれを病いがあるところとみなしただけだ。
「彼」のやったことは何だったのか? それは何を意味したのか?
[#ここから2字下げ]
間もなく私は行きすがりの青物屋の店頭や花屋の戸口に立ち迷うて新鮮な匂ひを嗅ぎ廻つてゐる動物となり出した。かうして私のさ迷ひ歩く街街の休息所はただ静な花屋や果物の積み重なつた市場の店頭や、または空の晴やかな街々の健康な姿を見ることの出来る高台に過ぎなくなつた。時としては私は広やかな庭園の外を通ると恍惚として木犀の匂ひに追はれることがあつた。さう云ふとき私の心は何となく転々と浮き上り、希望が芽を噴き出して来て却つてまた私は一層に沈み込んだ。
[#地付き](「青い石を拾つてから」)
動けば彼の腹は空き始めた。腹が空けば一日十銭では不足である。そこで、彼は蒼ざめた顔をして保護色を求める虫のやうに、一日丘の青草の中へ坐つてゐた。
[#地付き](「街の底」)
彼はただ無為の貴さを日毎の此の丘の上で習はねばならなかつた。ここでは街々の客観物は彼の二つの視野の中で競争した。
[#地付き](「街の底」)
彼は何事を考へても頭が痛むのだ。彼は晴れた通りへ立つた。街は彼を中心に展開した。街の角には靴屋があつた。靴屋の娘は靴の中で黙つてゐた。その横は幾何学的な時計屋だ。無数の稜の時計の中で、動いてゐる時計は三時であつた。彼は女学校の前で立ち停つた。華かな処女の波が校門から彼を眼がけて溢れ出した。彼は急流に洗はれた杭のやうに突き立つて眺めてゐた。処女の波は彼の胸の前で二つに割れると、揺らめく花園のやうに駘蕩として流れていつた。
[#地付き](「街の底」)
[#ここで字下げ終わり]
病んだ「彼」の思考を禁じられた頭に登場してくるものは風景の節片であった。それが向うからとび込んでくるかぎりで受け入れられた。街の商店の並んだ通りだったり、下校してくる女生徒の流れだったり、丘の青草のなかに草そのもののようにじっと坐ってじぶんを景物のひとつに化してしまうことだった。「彼」は景物を眼の底に黙って入れてみたり、じぶんを景物のひとつに仕立ててじっとしていたが少しも情緒的になっていない。また景物から慰藉を感じたり抒情的になったりするのではない。渇いた眼の底にただ風景をそのまま羅列し、焼き付けているだけだ。「彼」にとって風景はいわば思考の停止の果てに墓場のようにあらわれる終末論的なものなのだ。一切の思考が死に情緒が枯れはてたあとで、ばらばらになった事物が向うからとび込んでくる。「彼」にとってそれが風景の意味だといってよかった。
風景の描き手が人間だとすれば「彼」は写真の乾板のようなものであった。風景の描き手が感情だとすれば「彼」は渇れた固形の涙のようなものだ。風景の描き手が痛む頭のはてに自然(や街の)景物に慰藉を感じ融けこむ者だったら「彼」はただ景物を眼に写して佇んでいるだけなのだ。「彼」は人工的に計量されたレンズに画き割りを映している無機物に似ていた。ここに初期横光の新感覚の文体が登場する意味はあった。文体の装飾に凝ることは初期の横光にとって救済であり同時に必然なのはそのためであった。
なにをかんがえても頭が痛んできて思考を休止させねばなおらない状態は「彼」には神経的な症候であっても永続的な資質の悲劇でなかった。だからじしんを事物を受容する〈眼〉にしてしまえばよかった。かれがこの症候を人間関係への不信と不安の代償とみなしていたら街の景物は和解する意志のように慰藉を与えたかもしれない。じじつ後期になって「彼」が作品の書き手横光利一と合致したとき風景に慰藉と融和の世界を見つけだす自然詩人に転化した。「彼」は頭痛による思考停止を、生粋に神経生理的な病いとみなした。そのため自然も街の景物もただ風景の断片として受容する器と化した。いっさいの思考の病的苦痛はそうやって癒すほかにすべがなかった。「彼」は神経生理的な痛み自体に意味を与えようとする。振りかかってくることは何であってもあくまでも受け入れ、神経が撓むまでに容認すること。じぶんをどこまでも低くして得られる寛容さと無限の受け入れは、はじめに病的な心が自然にたどった治癒の過程だったであろう。「彼」はただそれに意志を与えようとしただけだ。その宣言のひとつは「春は馬車に乗つて」にみられる。
[#ここから2字下げ]
彼は自分に向つて次ぎ次ぎに来る苦痛の波を避けようと思つたことはまだなかつた。此の夫々に質を違へて襲つて来る苦痛の波の原因は、自分の肉体の存在の最初に於て働いてゐたやうに思はれたからである。彼は苦痛を、譬へば砂糖を甜める舌のやうに、あらゆる感覚の眼を光らせて吟味しながら甜め尽してやらうと決心した。さうして最後に、どの味が美味かつたか。――俺の身体は一本のフラスコだ。何ものよりも、先づ透明でなければならぬ。と彼は考へた。
[#地付き](「春は馬車に乗つて」)
[#ここで字下げ終わり]
じぶんはただ風景の節片を受け入れるだけのガラス製の容器に化そう。そうすればどんな神経の苦痛も受け入れることができるから。ここには「彼」の倫理的な意志が語られるだけではない。文体の宣言もまた語られている。いいかえればこれが表現の倫理の宣言でもあったところに、初期の横光の孤独と独創はあった。
「彼」は事物を、それが自然や街々の景物であれ、また海や風や季節や動物や植物であれ、また〈悲しみ〉や〈苦しみ〉のような観念の苦痛であれすべて受容する。それらの事物が自己主張し、語りはじめるならば、それをおろおろとへり下って容認する。文体の主語の座もまったくおなじようにいつでもどんな事物にでも明け渡して忍耐する用意がある。またもし必要ならばどんな事物でも主語の座にやってくるかぎり人間なみに扱って尊重することもできよう。これが初期横光の文体、いわゆる新感覚の文体が根源的にはらんでいる倫理であった。同時代のひとびとは横光の新感覚の文体に西欧の前衛的な意匠を借りこんでいるモダンな装飾をみた。けれどそのうしろに倫理的な必然のようなものをみなかった。装飾はたしかに装飾にちがいなかった。ただ着こんだものにどこまで身にそうものかはもともと着こむだけの理由があるのと偶然そこにいあわせたからだというのとはちがっている。
初期横光が北欧の繊細な自然詩人キイランドの文体から模倣したものはふたつあった。ひとつはキイランドが繊細に大事に自然を模写したいためにやった点景の擬人化であった。ひとつは風景を夢幻化するために、あるいは童話化するためにやる点景の羅列であった。たとえばつぎのような。
[#ここから2字下げ]
忽ち二羽の雀が双方から烈しく衝突した。と、その余の者も急に飛び立つて、すべての小さな鞠は一つづつ次第に大きな鞠に固まつた。それが藪の下から転がり出して、非常な騒ぎで少し空中へのぼつた。と見るうちに一と固まりになつて地上に落ちて、忽ちばらばらに砕けてしまつた。すると何の音をも立てずに、小さな鞠は急に銘々勝手に飛び出して、間もなく牧師館の附近には一羽の雀も見られなかつた。
[#地付き](キイランド「牧師館」前田晁訳)
そこで無限の活動が始まつた。あらゆるものが後れてゐたので、一時に失はれた時間を取り返さねばならなかつた。花弁は膨らみ切つた莟を破つて小さな音を立てて飛び出すし、大きな芽生えや小さな芽生えは不意に一斉に突進した。彼等が今は右、今は左と、迅速に茎を押し出すさまは、さながら緑色の足で蹴りつつあつたかのやうであつた。秣場は花と雑草とで燦爛と飾られて、海の方へだらだらおりになつてゐるヒイスの生えた荒地は明るくなりはじめた。
[#地付き](キイランド「牧師館」前田晁訳)
[#ここで字下げ終わり]
この自然詩人はあまりの繊細さを文体にもてあましているとはいえようが、格別文体に救済をもとめようとするどんな倫理的な動機もなかった。生命がたまたま日蔭のところにじっと佇ちどまっている瞬間の劇をとらえるのにこういう文体が必要だったし、またきわめて自然であったにちがいない。初期横光がキイランドの文体から深刻な影響をうけたとしても、文体の動機は似ても似つかぬものであった。自然や街々の点景はたださまざまな形の色ガラスの破片のように眼にとび込んできただけであった。そしてすべての事物は許容する意志(無意志)によって文体のなかで人間のように扱われただけだといってよい。
[#ここから2字下げ]
とある朝早く、一羽の雛雀は、本堂の裏にかかつた樋の縁にとまつてゐた。彼女は下の水溜りの上に枝を拡げてゐる栗の老木を睥まへて、時々尾を高く反らせては身体を前にのめらせた。が、その度毎に翼を擦り合せて立ち直ると、樋の露はいたづらに小雀の足を濡らして砕けていつた。
[#地付き](「村の活動」)
「ぢや、入れてよ。」と暫くしてから妻は云つた。
愛はもう彼に蹴飛ばされてゐた。しかし、彼はまた黙つてマントを拡げてやつた。不意に自転車が無燈のまま棒のやうに飛んで来た。
二人は曲つた坂を下つていつた。人は通らなかつた。どこかで呼び子の笛が高くなつた。不吉だツと彼は思つた。妻は少し身慄ひをした。坂路は新しい枯葉と藁屑の舞踏の他、塵埃は風に吹き払はれて何もなかつな。
「早く帰るか。」
「ええ。」
樹の梢は塀の上へ突つ伏さうとしてゐた。パッと街の火が明るく見えた。坂路を降り切ると嵐の底で歪んだ街が騒いでゐた。桁の脱れかかつた木橋があつた。橋の下では石垣の下でいつもの濁つた水が暴れてゐた。
[#地付き](「負けた良人」)
私は高い石垣の上から妻と捨児を飲み込んでゐる街を見降ろした。街は壮大な花のやうであつた。
街は大きく起伏しながら朝日の光の中で洋々として咲き誇つてゐた。
「ぢや、私帰るわ。すまなかつたわね。」と女は云つた。
私は女の方を振り向いて頷いた。
「さやうなら。」
「さやうなら。」
暫くして、女は朗かな朝の空気の中を身軽に街のどこかへ消えて了つた。
「俺は何物をも肯定する。」と、街は後に残つてひとり傲然として云つてゐた。
私はその無礼な街に対抗しようとして息を大きく吸ひ込んだ。
「お前は錯誤の連続した結晶だ。」
私は反り返つて威張り出した。街が私の脚下に横はつてゐると云ふことが、私には晴れ晴れとして爽快であつた。私は樹の下から一歩出た。と、朝日は私の胸を眼がけて殺到した。
[#地付き](「無礼な街」)
[#ここで字下げ終わり]
これらの文体にはふたつのもつれた糸がある。悲哀や不安をそのまま受け入れたくないのでことさら、主語を倒置したり物を主語にしてみたりしているようにみえる。それなりに事物はただレンズのように無感動な「私」の感覚に無差別にやってきている。作品「負けた良人」は「悲しみの代価」の改稿であるが「悲しみの代価」がはらんでいる悲哀や不安や不信や嫉妬妄想の地獄は「負けた良人」では文体的な装飾によって緩和され人工的な構図になっている。「悲しみの代価」や「負けた良人」の古典的主題にとって「愛はもう彼に蹴飛ばされてゐた。」とか「不意に自転車が無燈のまま棒のやうに飛んで来た。」といった文体はまったくそぐわない異和感をもたらすだけであった。またそういう文体的な試みはまったくこの作品には無用のものといっていい。「樹の梢は塀の上へ突つ伏さうとしてゐた。」というような描写は、夫の嫉妬妄想の地獄と何のかかわりもないところで点景自体に自己主張させている。それは意味のないことだ。
またこの文体は遠近法を失っているので芝居の画き割りや泥絵具の背景のようにみえる。一羽の雀が樋の縁にとまって体を前に振っている光景と、樋の露が雀の足を濡らして砕けている有様とはおなじ遠近の位置で視ることはできない。描き手の〈眼〉だけが勝手にいつも対象とおなじ距離に移動していると解するほかないものだ。この移動する〈眼〉は統一ある描き手にはついている必要はない。勝手にとびまわって無感動無表情にすべての事物をおなじ平面に写していればすむはずのものだ。
「雛雀」も「愛」も「樹の梢」も「無礼な街」も人称とおなじように主語になっている。けれども世界が自在になったというよりも、雑多な人間|もどき《ヽヽヽ》がおなじスクリーンのなかに一枚の布切れのように平たくなって押し込められている。
試みはかならずしも作品の自在さにも言葉の自在さにもつながらなかった。主語の自在化は本来あるべき世界をむしろ構図化して模様にすることになった。作品の内容にそって意味を読みとり、確かな世界を受像したいものに、図案化された絵模様の世界を強いることになった。初期横光が決定的な意味をもつ力作「悲しみの代価」をまったく未発表のまま秘めて、その改悪である「負けた良人」を発表した理由はそこしか考えられない。作品の内容がもつ性格悲劇の解剖があたえる衝撃の深さは、文体の図案化によって緩和されねばならなかったのである。そしてこの平板な絵模様の方がよいとする価値観への傾斜も横光にはあったにちがいない。これは「行人」の漱石ならば思いもしなかったことであった。「愛はもう彼に蹴飛ばされてゐた。」という転倒された主語の表現のうしろ側に、すでに妻に心を冷たくして修理がきかなくなった「彼」の心の位置のようなものを想定することはできる。けれど主語の倒置が持続を分断してしまうために、それにつづくどんな微細な内面の波紋の描写も文体的に不可能にしてしまっている。詩の一行にはなるし、そのためには別の一行が続かねばならないが、ここには棒のように直立しておかれた散文の一行があるだけだ。しかもこの一行は文体的にそれだけでおわってしまうほかない。「樹の梢は塀の上へ突つ伏さうとしてゐた。」という擬人の表現もおなじだ。どう見込んでも、樹の枝が塀におおいかぶさっている有様を描写するのに、樹を擬人化して唐突な印象を押しつける必然はない。もうそれにつづく描写が不可能なために、まったく別の印象を点綴する文章「パッと街の火が明るく見えた。」をはじめからやり直すよりほかない。作品「負けた良人」では印象の一行ずつを点綴しながらとび移る文体のうちに「彼」をとりまく男女の特異な性格悲劇は顔かたちもわからぬまでこま切れにされて霧散してしまった。「負けた良人」のオリジナルである「悲しみの代価」を下に敷いてみれば、この文体的な構成の試みと苦心によっていわばひとこまごとに自己の性格悲劇の痕跡を打ち消した中断だらけのフィルムをつなぎあわせたように主題がぼかされていく過程をみることができる。
図案が語りうる最大のことはたかだか風俗画の世界である。けれどなぜ新しい文体の模様によって、風俗にならぬ世界を風俗に似せようとせねばならなかったのか。初期横光はじぶんの悲劇を回避しようとしたとしかおもえない。性格悲劇の世界には水を薄め、不安の井戸の底には土砂を入れて底を浅くしなければ、じぶんの精神は病理的に壊れてしまうと考えた。「行人」の漱石ならば精神の病理を構成的に配分し、じぶんの不安と女性への不信には日常性の深層にまで行きつくような根拠を与えただろう。つまり「道草」や「明暗」の世界をだ。初期横光はこの決定的な性格劇の課題をまったく新しい文体に溶解させることで、作品を書くことが作者にもたらす悲劇を回避しようとした。これがうまくいったことになるのかどうか判らない。作品の文体は作者の悲劇を吸収しうるものだという概念がはじめて初期横光によって獲得された。「彼」がなめてきた嫉妬感情の地獄も、じぶんを被害妄想に追い込むためにだけあったような妻との悪い運命のような出会いも、いっさい合財眼にきれいな模様にすぎない。この模様の拡がりを読んでもらいたいので、感傷や悲哀に陥ちこむのを拒否したいという願望を文体によって実現したかった。棺の中の屍体の悲しみを花束で埋めつくすように「彼」にやってきた一切の悲劇的なものを、新しい文体の装飾で埋め尽そうと試みた。わたしたちは初期横光の意図どおりに作品の表層を覆った色ガラスのような感覚の変幻を感じとればいいのか、文体の試みによって埋めつくそうとした感覚の隙間から「彼」の意図に反して、その性格悲劇と関係意識の病いを掘りおこせばいいのか。どちらがかれの文学の宿運を尊重することになるのかわからない。初期横光が自殺と狂気の危険からじぶんを延命させるために、文体の装飾や風俗との妥協を択んだことにどんな異論があっても、かれの資質が演じた悲劇はかれが文学の本質的存在であることを物語っている。
初期横光にはあの何でもない通常の振舞いが、手の届かない遠くにあるという性格の悲劇があった。人並みに日常の生活関係を結べないことが負荷であるような精神の輪廓が保存されていた。つまり精神がそれ自体として展開する過程は現実の生活過程と背理する本質をもつという古典的な命題をうかがうことができる存在であった。これは稀少なという意味をこえて精神が精神であること自体の本質を保持する存在ということを意味する。魂の色をみるためにそのひとをみればよいという存在であった。
初期横光はどこでどうじぶんをこわしたかと問うことは、性格の悲劇を吸収するために編みだした装飾的な文体をどこで投げ捨てたかと問うのと同義である。
ここで一種の抽象化が起ったのだとみてよいだろう。事物も風景も観念でさえも感覚的な受け入れの図案だったとすればこの図案は内在化された。事物や風景でさえも外界という意味を奪われて超感覚的な意識の動きのなかでだけ存在するものとなっていった。この転換の微妙な手触りはたしかなものだが、うまく言葉にのせるのは難しい。すべてが意識の内部で演じられる心理の動きになった世界を、作者の実人生だと誤解されても甘受すると思い決めたときの忍耐した姿勢、それが転換したあとの横光であった。
これを語る最良の位置に「鳥」「機械」「悪魔」「時間」などの作品がおかれている。わたしたちには図表的な関係を示されるともっとも感じ易い種類の抽象があるものだ。作品「鳥」の図表的な感じは〈逆転〉の関係であった。作品「鳥」はたぶん、無意識のうちに漱石の「こころ」に狙いを定められていた。「私」と「Q」とは学生時代に「リカ子」の家に食客として寄宿して一緒に岩石学を学んでいる。「私」はすべての能力で「Q」に及ばないという劣勢感をいつも持たされつづけている。「私」が勉強を一歩すすめるうちに「Q」はいつも二歩も三歩も先を歩んでいる。二人の知識を比べたがる年齢の「リカ子」のこころに何ごとにつけて優れている「Q」の位置が焼きつけられてゆく。そのうち「私」はもう「Q」に負けることに快感をおぼえ「Q」をこのうえなく尊敬するようになった。漱石の「こころ」では「先生」は友人の裏をかいて寄宿していた家の娘を奪ってしまったために罪の意識を背負いつづけるのだが、作品「鳥」では事態はまったく逆に展開する。「私」は「Q」に劣ることを身につまされればされるほど「Q」を敬い「Q」のために寛容になり、じぶんを低くして「Q」のために尽そうと思うようになってゆく。ところが「私」はつまらない雑事となると気易く頼みにくる「リカ子」と仲好くなり結婚するようになる。けれど日を経るにつれて「リカ子」は「Q」の幻想のために「私」をないがしろにしはじめ、少しの争いでも「Q」の名を口走り、独りのときはたえず「Q」の名を紙の上に書き、眠っているあいだは「Q」の名をうわ言にするようになる。そしてついに「リカ子」は「Q」は「私」が「リカ子」を愛するより以前に「リカ子」を愛していたのだと口走るようになる。けれど「私」は「嫉妬を感じないばかりか良人の友人を愛することは最も良人を愛する証拠であり最も気品のある礼譲だ」とおもいつづける。
この「私」のいだく寛容さ、負けた夫、軽んぜられれば軽んぜられるほど相手にたいしてへり下ってゆく心意は、「悲しみの代価」の「彼」が嫉妬妄想の地獄から這い出したときに把んだものとおなじであった。べつの図表でいいかえれば「彼」がすこしでも何かを考えれば頭が痛み出すという症状から抜け出すために「フラスコ」のように透明にすべての事物を無表情で受け入れる器に化してしまった体験から手にいれた心理をくぐった倫理でもあった。この「私」のいだく倫理は妄想の地獄を潜った果てにあらわれたパラノイアの寛解に似ていた。けれどこの倫理を直かに倫理そのものとして受けとれば、わたしたちは作品に戯れ書きをみていることになってしまう。この倫理は心理的な倫理ともいうべきもので、いつも「私」をとりまく人間たちのあいだの粘りつくような関係をくぐり技けることではじめてあらわれる倫理である。
この倫理はたぶんそのまま初期横光が自己解体によって、あるいは青年期に特有の病理的な心理から寛解された果てに、つかみとったただひとつの思想であった。キイランドの文体の影響や、もっと通俗的にはポール・モーランの名代の翻訳小説『夜ひらく』の映写機的な文体とメタフォアが織りあげる色ガラス製の世界の背後に、初期横光の背負いきった思想が匿されていたとすれば、そこにしかなかった。「彼」のこの〈眼〉の感覚の解体を文体的に救助したのは、当時移植がはじめられたプルーストの『失われた時を求めて』の文体であった。それは内的な持続を瞬間ごとに空中に強固に構成しうる方法を啓示した。横光にはプルーストのような強固な反省的論理も系統的な学殖もなかった。けれど性愛の磁場にあつまってくる人間のあいだに繰りひろげられる、嫉妬妄想と被害妄想の地獄からつかんできた心理的倫理を持ちあわせていた。それを粘りつくように継続する文体によって記述したのである。「私」のいだくものは心理的な倫理であるために、長い筒のような心理の井戸を通ってしか倫理として表現されない。そのために決して生活の倫理とはならない。「私」も「Q」も「リカ子」も実在感のうえに動くのではなく、ただありうべき強い心理の関係の磁場のなかで実在性を獲得している。
この「私」の心理的な倫理がもたらす世界はなんなのか?
[#ここから2字下げ]
或る日私は思ひきつてリカ子にQの所へ行くようにとすすめてみた。一度人の妻になつた身だとは云へ、人の妻などにさせたのはQではないか、然もおのれの負ふべき石を私に負はしたのだ。私がその石を再びQに返したとて彼が私に怒ることは出来ないであらうと私が云ふと、リカ子は顔を赫らめながら「行く」と云つた。そこで私はリカ子をQの家の門まで送つてゆき乍ら、帰途、また私はQとの「忍耐」の競争に於ても彼から敗かされたことに気がついた。しかし、それからの私ひとりの生活の寂しさは彼女を負つてゐた日の「忍耐」とは比べものにならなかつた。殊にときどきリカ子はひとり私の所へ遊びに来るのだ。私はリカ子に来るなと云つても是非Qが私の所へゆけと云つてきかないと云ふ。それならなほ来てはいけないではないかと云ふと、でも私も来てみたいのだと彼女は云ふ。私が来るなと云ひQが行けと云ふ此の虔ましやかな美徳の点に於てさへも、猶且つ行けとすすめるQの方が私よりも優れてゐるのだ。美徳の悪徳、私はリカ子の顔を見せられる度毎に、私とQとの美徳を押し合ふ悪徳について考へずにはゐられなかつた。
[#地付き](「鳥」)
[#ここで字下げ終わり]
嫉妬妄想の世界を、自己合体したい性愛の無限衝動とみなせば、「Q」の下風に立ちつづけ「Q」にかたむく妻「リカ子」の心やそれを受け入れそうな「Q」の心を赦してのみ込んでしまい、むしろそのために心をくだく被虐的な性格破産ににた歯がゆい「私」の善は、じぶんを世界に融和させて解体してしまいたいエロス的願望を語っている。
「私」がこういう心理的な倫理を生の原理とするかぎり、妻の「リカ子」はじぶんで決定しえないで「私」と「Q」との間を毬のように投げやられ、また投げ返されて往復する〈性〉であるほかにない。「Q」もまた「私」の寛容に引き込まれて寛容を強いられ「私」とおなじように輪廓をあいまいにされた〈性〉としてあらわれる。これが作品「鳥」を支配している基本的な図表である。「私」を支配する哲学も倫理も、あくまでも自分を低くすることである。しかもこの自己卑下を挨拶や儀礼や社会的な慣習によってではなく心理によって実行することである。「私」は「おのれの痛さを感じて喜ぶ人間」のひとりであり「私の豪さ、もしそれがあるなら、私は私の弱さを強さと感じないことだけだ。」とかんがえる。つまり「弱さ」を逆手にとらずに無限に弱くなってゆくことができることだとかんがえる。新感覚的な初期横光の作品から視覚が織りあげる文体を透過させずに、じかに倫理の言葉をとりあげるのが無意味なように、心理主義的な横光の作品から心理を潜らない倫理の言葉をうけとるのは無意味である。「私は私の弱さを強さと感じないこと」が「私の豪さ」だという言葉は心理的な倫理であって、なまのままの生活倫理の言葉ではない。〈じぶんを低く卑屈にしてゆくような心理の働きによって利得をうるようなことを喜びとおもわない〉決意をもっているという意味である。この「私」の心理の井戸をくぐって表明される倫理は、初期横光の解体と転回の軸となった思想であった。
一般的には横光利一は「鳥」「機械」「悪魔」「時間」のような心理主義の要諦に入った作品をもって独創的な頂点に達したとされている。たしかにそうであるにはちがいない。ただ不幸なことにこのとき「彼」が心理的な虚飾も剥ぎとったところで握りしめていた倫理、つまり文学の思想は、解体した倫理、無限にじぶんを卑小にできる倫理であった。もちろん横光はもっとも〈知〉と自意識の構えで身を鎧った作家と自他ともに許していた。そこで人々がジョイスやプルーストの影響をもっとも深刻にうけとったと解釈した構えの奥に「彼」の解体の倫理は秘められたのである。
人と人とのあいだの粘りつくような心理的な磁場で、その磁場を支配する倫理がどこまでもじぶんを低くする寛容さだとしたら、引き裂かれた孤絶の悲劇は起らない代りに、無限にもつれ込んでゆく場所が形成される。いわば心理だけが個々の人間の輪廓をとびだして粘液のように流れあう世界が想定される。これは一般的には存在の悲劇ではなく悲劇の回避なのだが心理的意識にとってはやりばのない無限のぬかるみだといえよう。この心理のぬかるみでは人間は存在をあやうくされる悲劇にあうことはない。心理のために生身の体が生き死にすることはないからだ。けれど心理のもつれあう糸に足をとられて判断的な表象と行為を失って、うろうろするだけの存在になってしまうことはありうる。これを心理的な死とかんがえれば、この心理的な死はただ「私」の倫理であり同時に心理である寛容さが棄てられたときにやってくるはずである。
「機械」ではお人好しでまったく使い道がない無能さのために、普通の人間ならば避けてやらないような危険なネームプレートの化学処理の仕事に従っている工場の主人の、根から警戒心のない薄のろさと人の好い寛容さに触発されて、雇人たちのもつれあう意識の場がつくりだされる。この病的な寛大さのため、喜劇を演じても悲劇を演じても破滅することにならない四十がらみの町工場の主人の、無意識の倫理のために雇人たちは意識のもつれあいのなかにつぎつぎに陥没してゆく。工場の主人に与えられた病的に薄のろな寛容さと善意に作者の思想がおかれている。そしてこの思想は登場する雇人たちのすべてに感染することになる。この感染はかれらのあいだの心理のもつれになってあらわれる。お人好し、疑うことを知らない無意識の寛容、この現実にたいして構えをつくれないために細君をはじめ他人に軽んぜられ、そのことによって警戒心を解除させてしまうようなネームプレート工場の主人の、無意識の倫理に到達するために、雇人の「私」も「軽部」も「屋敷」も自己意識の無限のもつれあいに陥ちこんでゆく。
もちろんひとつの図表だけで作品「鳥」の世界のヴァリエーションとして作品「機械」の世界を理解することができる。「軽部」に痛めつけられ、ことごとに意地悪い危険なワナを仕掛けられても黙って忍耐して、どこまでも自分を貶しめてゆく「私」の心理の動かし方も、主人の考案したネームプレート処理の秘技を盗むために働いているのではないかと「私」に疑いをはさんだあげく、主人のためにと一途に思い込んでことごとに「私」を痛ぶり妨害せずにはおられない「軽部」の心理も、「私」が「軽部」の振舞いにどこまでも負けつづけようと意識すればするほど、じぶんが馬鹿にされていると思い込んで荒れてゆく「軽部」の心理の力学に、まともに立ち塞がるような「屋敷」の無意識の挙動も、ただひとつじぶんをどこまでも低くする寛容さだけが救済なのだという作者の倫理に支配されている。作品のこの磁場はすでに初期横光が性格悲劇から脱出する過程でつかんだ倫理であった。わたしたちは無限にもつれ込んでゆくような「私」と「軽部」と「屋敷」の心理の綾が、いつおわるともわからない強靭な持続力で発展されるダイナモのような記述の力学に感嘆している。それと同時に、心理のもつれを描写するために書かれた作品から、おもいがけなく古風な寛容さと病的な自己卑下の倫理を発見し、そこに現代の自己救済をみつけている作者の思想の揺らぎに感銘しているのだ。
「悪魔」ではこの心理の井戸をのぞき込むような受身の倫理がエロスの領域に触手をひろげている。だが人間の関係は心理の関係だという図表をはずれることは決してない。ここに横光利一の作品の困難な場所があった。困惑させる場所といってもよかった。この作品では〈神〉への信仰が信仰の思想としてではなく、入信の心理的な動機におきかえられる。教会は信者たちの心理がもつれ合って相互に監視しあう場所になり、こういう磁場のなかでいかにして自意識を失うかがいわば信仰の問題になっている。信仰の場を模様化して心理の磁場にしてみせたといった方が、はるかに作品のモチーフとしては当を得ている。入信がつまりはポーラという牧師の美しく悪魔的な娘にたいするエロスのかけひきであるような場所で「私」の自意識が最後まで揺れうごいてゆく波紋を描いている。作者は何をしたかったのかは明晰でないのに作品の形成はたくましく行われている。作者はただ自己を紛失したいという無意識のモチーフにかられているとしかおもえない。じぶんを見失うことが善なのだというのが隠された作品の動機とも受けとれる。
強いていえば「女を愛するといふことはいろいろな考へ方があらうとも、とにかく自分を失ふといふことなのだ」というところにエロス的諦念を固定したかった。そうすれば自己愛に似た底ぬけの寛容さの倫理はエロスの領域まで拡張できるはずだ。だが作者はこのモチーフにちかづくのに心理のもつれを図案化して処理する技巧を心得すぎていた。この作家の作品には定義し難い盲点がいつもつきまとっている。その盲点のところで自身でさえ意識していないとおもえる偏奇をみせている。それは無意識のうちに精神の病理に踏込んでいるようなもの、また病理の治癒のあとに恢復する神経の余裕としてのこる質朴さの倫理と名づけてもよいものだ。
横光的作品の精髄といえるものはこの無意識の、じぶんでもどう処理し、どう解釈して自己解剖してよいか判断がつかないもつれあった心理と論理と倫理とにかくされている。ここにぶつかったところで作品の読解は佇ち尽すべきかもしれないのだ。これに意味を与えようとしたり、理念を与えようとするときいつも少しだけ逸脱した輪廓を与えてしまうようにみえる。たしかに当時の世評のとおり「鳥」や「機械」や「悪魔」や「時間」のところで描写の成熟と、なお秘かに初期の性格悲劇を介してつかまえられた倫理とが稀にみる出会いをしめした。そして瞬時に擦れちがったともいえる。
〈愛〉でも〈信仰〉でもこの世で望み得ないものが実現されるとしたら、それは自己意識を喪った状態の別名なのだというモチーフはしだいに普遍化されていった。それにともなって意識のからみあった磁場のなかで存在感を喪失できる状態が得られたらそれは善とよんでよいのだという第二の倫理があらわれた。この倫理が発見できそうな心理の場所を作者はつぎつぎにもとめて作品化していった。〈眠り〉や〈死〉もまた意識の張りつめた場から離脱することだという観点をとれば幸運なおおらかなことなのだ。そういうところで「時間」という作品が掘りおこされた。磁場のつくり方はもう手慣れていた。
旅廻りの芝居の役者たちが、興行に失敗して客入りの無くなったことから、旅籠賃もはらえずにひそかに夜陰に、雨風のなかを逃亡しようと思いきめるところから作品が開始される。けれどもここでも逃亡の途中で餓えと寒さに凍えて〈眠り〉と〈死〉に瀕してゆくみじめな旅役者たちの姿が描かれたのではない。その際演じられた旅役者たち相互の葛藤は描かれなかった。この作品では飢えた役者たちは病気で足腰の立たなくなった女をいたわりながらどんな葛藤も演じない。むしろ善意といたわりがあるだけなのだ。作品はまったくちがっている。作品はただ〈眠り〉や〈死〉の誘惑と旅役者たちの意識が葛藤する姿を描いているだけだ。
[#ここから2字下げ]
私もあんまり皆の他愛のないのにをかしくなつたが餓ゑと寒さと身体の痛みにはもう実際このままでは死ぬ以外にないのではないかとさへ思はれて、私だけは臼の傍だつたので木の上へ腰かけながらさて此のつぎに来るものはいつたい何なのかと思つてゐると、よくしたもので間もなく意識を奪つてくれる眠けがしきりにやつて来た。それと等しく一団の上からもいつの間にか今までの慄へがなくなつてゐるのに気がつくと、これはこのまま眠らせてしまへば死んでしまふに決つてゐるのだから、私は声を大きくして皆の頭を揺すぶつて叩き起し、今眠れば死ぬにちがひないことを説明し眠る者があつたら直ぐ、その場で殴るようと云ひ渡した。ところが意識を奪ふ不思議なものとの闘ひには武器としてもやがて奪はれるその意識をもつて闘ふより方法がないのだから、これほど|難事《むづか》しいことはない、と云つてるうちにもう私さへ眠くなつてうつらうつらとしながらいつたい眠りといふ奴は何物であらうと考へたり、これはもう間もなく俺も眠りさうだと思つたり、さうかと思ふとはツと何ものとも知れず私の意識を奪はうとするそ奴の胸もとを突きのけて起き上らせてくれたりするところの、もう一層不可思議なものと対面したり、そんなにも頻繁な生と死との間の往復の中で私は曾て感じたこともない物柔かな時間を感じながら、なほひとしきりそのもう一つ先きまで進んでいつて意識の消える瞬間の時間をこつそり見たいものだと思つたりしてゐると、また思はずはツと眼を醒して自分の周囲を見廻した。すると、私の前では誰も頭を垂らして眠りかけてゐるのである。
[#地付き](「時間」)
快楽――まことに死の前の快楽ほど奥床しくも華かで玲瓏としてゐるものはないであらう。まるで心は水水しい果汁を舐めるがやうに感極まつてむせび出すのだから、われを忘れるなどといふ物優しいものではない。天空のやうに快活な気体の中で油然と入れ変り立ち変り現れる色彩の波はあれはいつたい生と死の間の何物なのであらう。あれこそはまだ人人の誰もが見たこともない時間といふ恐るべき怪物の面貌ではないであらうか。――しかし、私は私が死んでしまつてなくなれば、同時に誰も彼もの全世界の人間が私と一緒に消えてなくなつてしまふのだと思ふと愉快であつた。ひとつみんなの人間を殺してやらうか、とふと思ふ此の死との戯れがときどき私を誘惑してひと思ひに眠つてしまはうと思ふに拘はらず、またいつの間にか私の前で皆が眠り出すと私は両手で所かまはず殴りつけてゐるのである。
[#地付き](「時間」)
[#ここで字下げ終わり]
この面倒な作品について何かいうとしたら、まず面倒だということからいうほかはあるまい。第一にこういう細密画のような心理の動きを組立てられる旅役者の一座の「私」などが実在しうるはずがない。それではこの「私」は作者の影武者のような存在であろうか。いやそうではない。作者つまり横光利一には眠り込みそうになったら殴りとばして叩きおこせというようなことを指示するような〈行為〉は所有されたことはない。その意味で「私」はたしかに旅役者の一座にいる存在にふさわしいのだ。この途惑いはプルーストの『失われた時を求めて』のなかの「私」には決して起らないものである。「私」はたしかに夜逃げしてゆく途中で飢えて凍えかかった旅役者たちのあいだにいるにふさわしい存在なのに、心理の動かし方だけは高度な知的な構成力をもっていなければならぬ。しかもこの矛盾はいわば作品的には見事に統一されている。ではなぜなにが「私」の〈眠り〉と〈死〉への心理の動かし方の実在性を保証しているのだろうか。設定された身分でもなく、披瀝された知識でもない何かが「私」の存在のリアリティを保証していなければならない。ある甘美な誘惑、それは自意識の喪失感が同時に幸福感につながっているような甘美な誘惑にたいする「私」の志向性が「私」の実在惑の根拠になっているようにみえる。そこでだけ「私」は作者の倫理、つまり自己意識を消去できた状態は善であるという倫理と合致できているからである。
飢えと寒さで死にかかった旅役者の一座の意識の〈眠り〉と〈死〉にたいする意識の劇という設定は作者の計量された実験場であろうか? こういう問いは作品にたいしていつまでも揺動して定まらない問いとして作られる。なぜならその設定から怪しいまでに受動的な倫理、ネガティヴな不幸感覚のようなものが、作者の意図を超えてあらわれているからだ。
人間の存在とはつまり心理がそこにあるという存在だ、人間の形成する社会とは心理の関係が織りあげる磁場のようなものだという作品の人間観は「鳥」や「機械」や「悪魔」や「時間」などによって定着されることになった。人間という概念がひどいところに追いつめられたものだという酸鼻な感じを、本格的にねじ込むように人々の心に与える力をもっていたのは、心理主義文学の新しい移植者のうちこの時期の横光利一だけであった。作品の実験的な意図を超えていやおうなくかれの宿命的な不幸な倫理が波のようにうねっていたからである。もう横光的作品は二度とここで定着された人間観を訂正することはなかった。登りつめられた頂きであった。
この人間観はすべての関係を心理的な牽引力の多寡、強弱に帰してしまう。横光的作品ではある瞬間にある場面で心理的な惹かれあいが生じたとすれば、ふたりの男女は相互に結婚したがっていることになるし、ある設定のなかで社会的に対立し利害の矛盾をもっている人間のあいだは、ある瞬間ある場面におけるその人間のあいだの心理的な葛藤によって図表されることになる。この作品原則は作者の生活倫理的な思想をほとんど極限まで痛めつけることになった。たとえば「私」が「私はもう私が分らなくなつて来た。私はただ近づいて来る機械の鋭い先尖がじりじり私を狙つてゐるのを感じるだけだ。誰かもう私に代つて私を審いてくれ。私が何をして来たかそんなことを私に聞いたつて私の知つてゐよう筈がないのだから。」(「機械」)と悲鳴を挙げたとしても、人々は悲鳴と感じないで心理の井戸のなかに反響する不協和音として聴き流してしまうだろう。それが横光利一の心理的倫理の仕方のない宿命であった。
横光利一は芥川龍之介のあとに屹立する現代文学の巨峰であった。かれの作品を指定できれば同時代文学の頂きを指定することができた。作品が新しく展開するのは頂きからである。作品が新しく解体するのは裾野からだ。横光的作品はこの展開と解体との矛盾を自己矛盾としてもっていた。かれの作品に声をひそめたいような屈曲した感情がつきまとうとすればこの自己矛盾からであった。「彼」はじぶんでは意図しないで通俗化の裾野を分けていった。なぜかここには初期横光から引きずられてきた本質的な不幸があるようにおもわれる。金銭の必要、名声への欲望、世間的成功への傾斜が「彼」を通俗化へ導いたのではなかった。本格小説のつもりで通俗姓を呼び込んでしまった。「彼」はしだいにじぶんの性格悲劇の染みついた寛容の倫理が外気に肌を晒すのを嫌悪するようになったのか? 芥川龍之介のように文学として自殺するよりも菊池寛のように文学として便々と生きる方法の方に無意識の迂回路をもとめたのであったか? その内奥のモチーフはわからない。ただどこにも時代を嚮導するような思想はありえないという風潮への無意識の反応は同時期のどの作品にも用意されていたとみてよい。横光もまたこの風潮に解答しようとしたことはたしかであった。だが横光が試みた一種の綜合は自身の気づかぬところで通俗化を呼び込んだ。現在でも菊池寛の「真珠夫人」は初期の「忠直卿行状記」よりも本格的な優れた作品だという見解はありうるだろう。おなじように「鳥」や「機械」や「時間」よりも「花花」や「盛装」や「家族会議」や「紋章」の方が優れた作品だという見解はありうるはずだ。また一方おびただしい横光のいわゆる「純粋小説」の試みを始末におえない通俗作品とみなす見解もありうる。小林秀雄が「私小説論」のなかで「横光氏の『花花』を一体どれほどの人間が読んだであらう。高級だから売れないのか。だがジイドの『狭き門』も亦高級な現代恋愛小説である。山内氏の訳本が幾度か版を代へて今日まで売れた数は恐らく最もよく売れた通俗小説もこれに及ばぬのである。」と書いたときに同時代的な決着はつけられたようにみえる。しかし横光作品の決着はそのくらいのことで内在化されるはずがなかった。かつてわたしは長篇作品の決着をつけられない層面をたどって横光利一にわけて入り、それを巨峰とみとめたのを覚えている。その部分だけがいまも評価の決定を拒んでいる。
わたしたちはなによりも「彼」の通俗的な長篇作品に、審美的な俗化や文体の喪失をこえて、微かに残っている倫理の骨格を感じとったのではないのか。作者も効果を計量していまいと思わせるところで、この作者が握りしめている性癖に似たものに誘われるのではないか。
「寝園」の奈々江や「紋章」の敦子は作者のひそかな図表のなかでもっとも突出した女性たちである。かならず寛容で善意にあふれた正体がわからないほどに自分を低くできるような男を夫にもっている。そして夫たちにどことない軽侮の心をいだきながら、別に好意を寄せた男たちをもっている。この夫たちは「悲しみの代価」や「負けた良人」の「彼」とちがって、妻がほかの男に好意を寄せているのを知りながら、嫉妬妄想にさいなまれたり妻の傾いている男性にはげしい振舞いをみせたりしない。むしろ妻が親密な男に心を尽すのをじっと許容する人物として描かれている。そしてこの妻の相手の男たちは作品にとってもっとも中心に近い重さをもっている。この通俗性の構図が作者の無意識を巻き込んでいたとしたら、わたしたちは延命してゆく作者の性格悲劇の行方を作品にみているのだ。
この夫たちはなぜ他の男性に心を寄せる妻にこれほど寛大で、優柔不断なのかとどこかで首をかしげながら、その寛大を手がかりに妻たち(つまり女主人公たち)の奔放さ妖艶さの匂いが堅い純粋な形に設定された男たち(つまり主人公たち)の上にちぐはぐに揺れ動く心理の織り物の世界にひき入れられるようになっている。「悲しみの代価」や「負けた良人」の世界で初期横光の宿命的な性格悲劇の世界を読むものは、通俗的な長篇作品にむかっては当惑と途惑いを覚えるだろう。そしてほとんど別の世界のように投げ出すかもしれない。おなじように通俗的な長篇作品の世界に惹き入れられたものは「悲しみの代価」や「負けた良人」の世界がこの作者にあることを振り返ろうとすることはないだろう。これらの長篇はその場でその通りに読まれたときに充たされるもので、決して作者の内的な閲歴をたどろうという意欲を起させないからである。
けれどもこれらの通俗化の図表の裏には、寛容でじぶんを低くして妻を許容する夫と、その寛容さによりかかりながら奔放に振舞う妻と、妻に好意を寄せられる男とが書き留められている。むしろ負けた夫の側からではなく奔放な妻と愛せられた男の側に重心をおいた構図が埋められている。この通俗化の構図は何を意味するのか? 奪うものと奪われるものとのあいだに揺れ動く女性的なものへの諦念と肯定、それが作者の倫理的な思想と背反するものだとすれば、強引にその背反を押しきったところに通俗性は生まれている。それだけうわの空になったじぶんを作者は肯定していったのだ。
いわゆる「純文学にして通俗小説」の作品は、おぼろ気なままでわたしたちをひとつの先入見に引きずり込んでしまう。男たちと女たちは性愛と信じながら、じつはたんに心理の動きが織りなす濃淡の綾を投射しあっている。また心理が傾斜することは肉体が傾斜することだという強力な前提に操られてゆく。これは原型的にいえばけっして不都合ではなかったのである。
中期にはすでに粘りつくような意識の関係のつくりだす磁場の描出に作品そのものがあった。「鳥」や「機械」や「悪魔」や「時間」のような作品でこれが成立しえたのは、粘りつく意識の関係が必然的に相互にからみあえるような局限された場面と時間が択ばれていたからである。外界と環境の描写は、心理のからみあいに必要な最小限度にとどめられた。その場面も時間も、閉じこめられれば人間は心理だけになってしまうことがいやおうなく納得される仕掛になっていた。かれの通俗化に誤算が伴ったとすれば、登場人物にそれぞれの固有環境を与え、その関係を社会的な生活関係に拡張してゆく際にどんな仕掛けもせずに粘りつく心理の磁場にただ水を薄めてすましたところにあった。そこでは〈男女の関係とは心理のことである〉また〈人間関係はすべて心理の関係である〉という「鳥」や「機械」に実現された基本的な姿勢を押し通すことは無理であった。そういう無理を押しきって英雄譚が血湧き肉踊らせるのとちょうどおなじ意味で、いったんその場にひき入れられたものに、血湧き肉踊らせる心理的な絵模様の世界を与えることになった。通俗化の最初の徴候をみせた作品「母」の文体にすでに暗示を読むことができる。
[#ここから2字下げ]
そのときから露江はもう外山を圧迫するにはただ一つ、何より自分の実印を身体から離さぬことだと思ふにいたつたのだ。さうすれば、間もなく外山は自分の月給だけでは困つていくにちがひない。さうすれば、一度良人を持つた里枝なら、外山から他の男に心を移していくにちがひない。さうすれば、外山もやがて自分のすすめる嫁に新しく心を向け変へていかぬともかぎらない。
[#地付き](「母」)
[#ここで字下げ終わり]
「そのときから」と「さうすれば」とかいう言葉は心理の必然のないところで必然の感じを与えようとするための便宜的な接続法を象徴している。作品「機械」で「それもさうだらうと思つても」とか「さうかと云つて」「いまにもしかすると」「そこがつまりは」という接続法が心理の不確定さと必然らしさとを象徴したように、ここでは利害の感情を心理的必然に結びつけようとして、かえって心理の動きを虚偽にしてしまっている。
事態はこんな筈ではなかった。「機械」や「鳥」や「時間」などの作者なら、気耻しくてこんな心の動きを人間のあいだに生ずる心理的必然と認めなかったはずだ。ドストエフスキイの『罪と罰』は通俗小説の二大要素である「偶然性」と「感傷性」をふんだんにもっているのに純文学以上の純文学になっている。そうならば本格的な小説というのは「偶然性」と「感傷性」が生みだす感動を拒否して虚無と疲労と怠惰ばかりをつきつめるものではないはずだ。これが「純粋小説論」の横光利一の主張であった。作品のなかの人物や場面が「偶然性」や「感傷性」に身をゆだねて動くことと、それを描く作者が不可避と必然の中心に存在しつづけることとはまったく別のことだ。横光の主張をそう混ぜかえしても致し方がない。「偶然性」をドストエフスキイの作品ほどに駆使できるためには実生活にしばしばおこる「偶然性」がむしろ確実な必然性の積み重ねから成っているという人間関係の洞察がいる。また「感傷性」に動かされる人物を登場させるには、冷厳な生活上のリアリズムやエゴイズムが「感傷性」のむしろ積み重ねなのだとする認識が必要である。これは通俗小説などとなんの関係もないことだ。横光はドストエフスキイの通俗性や野卑性がむしろ人間にたいする巨大な懐疑と不信から成ることを見あやまった。そしてただ作品の外的な規定に安堵したといってよい。
芥川龍之介は自殺した。谷崎潤一郎は倫理的な意味をつけようがない循環するエロスの飽きない語り手になった。ちょうどおなじところを横光利一は「純文学にして通俗小説」の理念をかかげて、通俗化によって迂回しようとしたのである。なぜ作品の自殺と性格悲劇と狂気をのぞきつづける危険をそれほど恐怖したのだろう。そしてどこに危険は消息を断ったのだろう。これが長篇作品がはらむ通俗化の謎である。
作品「寝園」の主人公である梶は「まだ三十を三つ四つより越さない年配」で作者の思い入れがもっとも深い人物のひとりである。その衣裳にたいする執着の描写をみてみる。
[#ここから2字下げ]
全く奈々江から考へても、あれは傍の者が困るより自分自身が困るであらうと思へるほどで、例へば|晒布《さらし》の襟無し襦袢を一日に三四度著換へることはまア普通のこととして、足袋はわざわざ結城の手縫ひで然も|共《とも》|切《ぎれ》の色紙をあてたものでなくては気に向かず、手巾の洗濯でも女中のやることでは、「眼を噛む」と云つて自分自ら麻の少し大判なのをガラスへ貼つてやらねばをさまらないほどなのだ。著物ときてはこれまた一通りのことではなく、一度呉服屋から断つて来た物を早速女中にざくざくと単衣に縫はしてから、その夜直ぐに寝巻きにしてしまひ、十日か二十日の後に脂肪がじんわりと滲みかかつたのを女中にくたくたに洗はして、初めてそこで京都へ水張りにやつてから仕立屋に出すのである。すると、彼には程良い中古になつて気に合ふのだが、長襦袢となるとそれがもう一層激しい凝り方だつた。羽二重も絶対に無地でなければ用ひないのは、尋常の通人とは違はぬが、それが袖と|裾《すそ》|廻《まはし》とだけは黒つぽく、胴は浅黄でしかもそれが勘平浅黄でなければ用ひないといふのだから、並たいていの凝り方ではない。
[#地付き](「寝園」)
[#ここで字下げ終わり]
この人物は作品のなかでもっとも知的な純粋な質をもった人物として設定されている。この服装の凝り方をみると極度の強迫神経症だと断定して差支えない。それは性愛の不充足からも自己愛からもやってくるだろう。何れにせよ正当な眼でみれば性格悲劇なのだ。けれども作品はこの凝り方を病的なものとして描いているのではない。〈高雅〉で〈粋〉なものとみなされている。
この認知の誤差は作品の通俗化の核心にある誤差である。作者はたぶん和装の趣味に没入して無為になっている主人公に、知的な風俗の必然的な移り行きをおし着せたかった。作者自身がこういうものを〈高雅〉で〈粋〉なものと思い込むことによって、どこに向ってかわからぬままに恐怖からの逃亡をつづけたとみることができよう。作者がいつの間にかひとりでに受け入れているこの識知の誤差は、誰がいつどこでどうすれば免かれることができるのかわからない。ただ通俗化の誤差もあれば良心的な誤差もあることだけが恐怖なのだ。この鋭敏な作家はすくなくとも情況にたいして恐怖する自意識を失わなかった。それが時代を先駆しまたさきがけて失速した所以でもあった。「寝園」のこの人物をひとつの系列とすれば、この系列には「紋章」の久内も「盛装」の道長も「家族会議」の高之もまったくおなじように入ってくる。心理がもつれあう磁場の効力が薄められたところで、なお自意識の倒錯に悩まされた余韻をひきずりながら、いわば受け身になった寛容という作者の倫理を担っている。この系列は図表的にいえば時代の知的風俗を背負っていなければならなかった。
わたしたちは現在、作者が知的風俗としてこの系列に背負わせたものに冷淡に対処している。けれども何が時代の知的な風俗かを洞察することはおもったほど手易いものではない。その洞察において横光の作品ほど必死でまた標的を射ぬいたものはなかったのである。この作者が時代の知的な風俗とみなしたものはふた色あった。ひとつはこういう自意識をもてあましたような高等遊民の系列に凝った和装を着せ、世俗が〈高雅〉なものとみなしている趣味をもたせ、伝統的な芸能などに身を入れさせて無為の装いをしつらえることである。もうひとつは元左翼らしい虚無の陰影を匂わせることである。
「盛装」の道長と久平は作中の会話でいう。
[#ここから2字下げ]
「君はスマトラで、いつたい何をして来たんだい?」
「やつたね、いろいろ。面白かつた。」
「台湾にゐたと聞いたが、ほんたうか?」
「あそこにもゐたが、すぐ福建へ渡つたよ。」
久平はかういふと質問を避けようとするらしく、急に、不明瞭な表情に変つた道長を見て云つた。
「俺は一度君と逢つて、ゆつくり話したいと思つてゐたんだが、なかなかこれで、用事が多くつてね。君、何かい、もうすつかり、君は例の運動から手引いたのか。」
「うむ。」と道長は不愉快さうに低く云つた。
「君はどう思ふ。われわれは全く、歌の文句もなくなつたが、僕は他人からいくらやつつけられようと、何んとも感じないんだ。」
「このごろ酒は飲むのか。」
「飲むさ。ところで、君のこのごろの望みは、いつたい何んだ。」
「君と同じやうなもんだろ。」
[#地付き](「盛装」)
[#ここで字下げ終わり]
これだけで時代の知的風俗の描写としては的確で過不足なかったということを、現在納得させるのは難かしい。けれど当時の知識的な多数派の意想の暗がりには、これだけの会話に喚起されて揺れ動きまた何気なく収まってしまう波紋があり、それは横光によってだけ射あてられたものである。たしかに「眼に見えた世間の人物も、それぞれ自分同様に、勝手気儘に思ふだけは思つて生活してゐる」ことに気付いて、その夫々の人物に「顔を合はせ」てその思うところを引き出しながら「作者の思想に均衡させ」るという「純粋小説論」の宣言は主観的には実現されたかにみえた。
だが肝腎の「作者の思想」はそれほど明瞭ではなかった。ただ自意識の途惑いのようなものがひき起こす現実の動きにたいする〈遅れ〉のようなものをどう処理するか、という課題が漠然と横光の心を占めていたようにみえる。これは逆にいってもよかった。現実の動きはひたひたと速度を増しながら知識の習性にむかって寄せようとしていた。
自意識に途惑った混迷は自然の根に触れたときひとりでに流露して、ある宥和に到達できるものだという理念は、すでに「悪魔」や「時間」のような心理主義のつよい作品のなかで次第に萌していた。ただこの自己救済の理念が時代の知的な風俗に出遇うことはとても想像できなかったにちがいない。強いてこの理念に風俗の衣裳を着せれば、どこかで組し易い感じを与えながら押しのつよい実行力をもった人物を造型するよりほかにない。「紋章」の雁金や「家族会議」の練太郎や「実いまだ熟せず」の中森がこれにあたっていた。この系列が強力な意味を帯びて現実上の主役にのしあがる戦乱の時代がくることまでは、はじめに横光自身が予想していなかったようにおもえる。ただひとから軽んぜられることによって自他を救済する性格を造型したかった。すでにどんな意味でもこれらの人物像に性格悲劇を与えることは横光には不可能であった。
昭和十一年(一九三六)一月、横光利一は欧州に旅立った。「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」社友として、パリに根拠地をおいて、ヨーロッパ各地の見聞記を書くというのが仕事であった。この外遊ほど決定的な悲劇は明治以後の文学史のうえで想定することができないほどであった。もちろん喜劇であったといういい方をしてもおなじである。半年ほどの外遊から帰ったあと横光利一は、知的な作家の鎧をきたまま、わが国のアジア的な村落の奥深くまで一挙に駆け抜けてしまったのである。
横光がパリで見聞した光景は何だったのだろう。そして何が横光を根底からつき崩したのだろう。横光がパリで判断し感受したものは正確であったのか、独断的であったのか。これらのことをいいつのるに必要なヨーロッパの文化にたいする輪廓ある識知をわたしはまったくもっていない。またその見聞もない。わたしが知っているのは約半年余のパリ滞在を経たのちに、おおよそヨーロッパに滞在するということが、一人の文学者にこれほどの深刻な影響を与えるものかという驚きである。だがこの驚きにはある普遍性があるような気がしている。鴎外や漱石にはじまり、荷風や光太郎につがれる優れた文学者たちの外遊は、ほとんどすべて生涯の生き方を変更させるほどの決定的な影響を与えた。無傷で帰ってきた文学者は優れているほど皆無に近かったといってよかった。この受けとり方に普遍性があるのかどうか、これらの文学者たちの感受性はすべて否定されるべきかどうかもわたしにはわからない。ただ悲劇に対していくらかの好みと理解があるだけなのだ。
横光の外遊は「欧州紀行」と帰国直後の「厨房日記」にすぐ記録されている。そのあとに未完の長篇「旅愁」のもっとも重要な主題として展開された。そのなかにはヨーロッパの文明を知らず、ヨーロッパの土地を見聞しなくても見当がつけられるような認識も語られている。また、まさにそうであろうと相槌をうつことができる易しい記述もふくまれている。けれどもそのなかには、パリを知らずヨーロッパを見聞しないかぎり(あるいは見聞しても)、まったく理解できない認識が記述されている。説明不足や直観的ないい廻しのために何をいおうとしているのか見当さえつきかねる記述も含まれている。たぶんその部分に口ごもる苦渋があったのだろう。ひとりの優れた文学者が外遊した。そしてまったく何のことをいっているのかわけのわからぬ感想をしたためた。そういうことがありうるだろうか? けれどたしかに近代文学史上、横光利一だけが文意もわからぬ感想を走り書きした。鴎外・漱石いらいのすべての文学者は反感にしても讃美にしてもわけのわかる感想と作品をとどめた。ただひとりわけのわかる感想を記したが、何をしてきたのかわけのわからぬ生活をしてあまり語りたがらない文学者はいた。高村光太郎であった。
なぜ横光利一はわけのわからぬ感想を記したのか? それはどのようにしてわけのわかるものになるか?
[#ここから2字下げ]
巴里の憂鬱といふ言葉がある。私もこの年まで、度度憂鬱は経験したが、こんな憂鬱な思ひに迫られたことは、まだなかつた。身が粉な粉なに砕けたやうに思はれ、ふと取りすがつたものを見ると、いづれも壊れた砕片だ。殊に雨にでも降り籠められれば、建物の黒さが身の除けようもなく心に滲み渡つて来る。立ち騒ぐ人もなく雨の中で悠悠と傘もささずに立話をしてゐる人人の風景は、のどかどころではない。
いら立たしい感情はどこへかかき消え、うんとも声の出ない憂鬱さが腰かけてゐる椅子の下から這ひ上つて来る。何ともかとも身の持ち扱ひに困るのだ。
巴里にはリリシズムといふものが、どこにもない。何とかかとか、旅人を喜ばす工夫に熱中して、うつとりする物ばかりふん段に並べ立ててはくれるのだが、そんな物にはびつくりも出来ず、向うの下心ばかりがいやに眼につく。雲形定木の面白さも何となく物足りぬ。私は巴里へ来てから一層上海の面白さが分つて来たやうな気がする。上海には定木がない。リリシズムは上海だけに残つてゐるのだ。フランス庭園の樹木の植込みを見れば分る。規矩整然としてゐて首を動かすにも角度が要るのだ。自然を変形することこの町人ほど巧みなものはあるまい。カソリックの精神といふのも恐らくこのやうな第二の自然を云ふのであらう。
[#地付き](「欧州紀行」)
[#ここで字下げ終わり]
「身が粉な粉なに砕けたやうに思はれ、ふと取りすがつたものを見ると、いづれも壊れた砕片だ。」という「憂鬱」は何を指しているのか。「うんとも声の出ない憂鬱さが腰かけてゐる椅子の下から這ひ上つて来る。」とはどういう「憂鬱」なのか。その時の心身の状態の外にこの感受性に根拠があるとすれば、まったく理解できないものだといってよい。この「憂鬱」については、意味を正解できる文学者とかんがえてよい吉田健一の「先駆者横光利一」に言及されている。吉田健一はこの横光の「憂鬱」が「外国の文学作品や思潮に接することで精神の世界で作り出した外国の現実によつて知る憂鬱ではなくて、直接にその外国の現実の中で思索し、意識することから生じたものだといふこと」を見逃してはならないと指摘した。横光の感じた「憂鬱」は生活の感覚としてヨーロッパの全体に繋っている「憂鬱」である。横光が体験したことが重要なのは、ヨーロッパの思想がヨーロッパの現実から生れそこで育ち、働く有様を自分で見聞もし、直かに体験したことだ。活字になれば幾つかの命題に集約されて扱うことができる思想といえども、「それぞれの経歴をもち、多くの人間のあひだに揉まれ続けてひどく人間臭くなつてゐるものであり、又さうでなければ役に立たない」。そこまで潜ってヨーロッパの思想を理解しようとし、そのことを計量に入れた言葉で表現したのは横光一人だったと吉田健一は評価した。このことは言葉が風土や気候や伝習の層まで沈降したところでその概念を受けとりうるものだということに覚醒したことになる。これは覚醒しなくても充分に通用するものだが、いったん覚醒したうえは文化上の自意識をよびおこすことになる。横光の覚醒は当然返す刀で「日本の現実から生れてその日本の現実を作つてゐる日本人の精神の活動も、思想も、その現実との間に感覚的にも掴めるまでに明確な聯関がある筈だと考へて、その意味で日本の現実が持つてゐる独自の構造を探らう」とするところに行きつくはずである。この吉田の解釈が思想の扱い方として正確かどうかはさし当ってどうでもよい。解釈の仕方ならばわたしにもあるし、それを述べるだろう。吉田健一がここでとっている横光の「憂鬱」への理解は明晰であった。わたしたちが日本の都市の街角で、コーヒー店の椅子にかけて「憂鬱」を感じているとき、その「憂鬱」は意識しなくても、この空気、この風、この温度、この街と周囲の人の雰囲気と伝習に支えられているものだということに横光は気付いた。逆に横光がパリのカフェの椅子で感じた「憂鬱」が、かつて感じたこともない根柢的な「憂鬱」であったのは、その「憂鬱」がまったく未知のじぶんの生活感覚とつながらない雰囲気、空気、周囲の建物や人々という環境に無意識のうちに支えられているものだったからだ。吉田健一はそういう洞察が、横光の感想を難解にしていると理解した。「憂鬱」を感ずるということには「憂鬱」という普遍的な情緒があるだけだ、というのは間違っている。気分や情緒のある状態でさえ現実、環境、気候、風土などに知らず知らず支えられているという認識の問題は、そこにありうると指摘された。
この種の認識は認識の陰影を増すものだが有効性を増すものかどうかわからない。言葉は色価をもつようになってかえって孤絶を深めることにならぬともかぎらない。また巧妙な処方箋はどこからも出ようがないことかも知れなかった。
「巴里にはリリシズムといふものが、どこにもない。」という感想の判らなさについても、望みうる最上の人物といえる岡本太郎が「旅愁の人」で言及した。「日本で成熟し一つの完成を見た独特な繊細さ、人情的なきめのこまかい織物のような気分」はヨーロッパ中どこにも呼応するものはない。だがパリには「豪壮な典雅を誇るラテン文化の都の肌理」は存在する。この二つが横光において「絶望的に喰い違いを見せたのは当然である。ここでは青春の情熱か、莫大な金銭の消費のみがこの雰囲気に喰い込む力を持っているので、日本的な肌理は一度位破産の憂き目を見る。」と。この理解の仕方でもまだ判らなさは残される。なぜたった半年くらい文字通り外遊したにすぎない人間に、それほどの絶望を強いうるのか。それが何に由来するのかはこれだけでは理解できない。感受性の質が文化の伝統とぶつかっているだけでは、どんなに異質でも絶望が起るはずがないからだ。けれどこれだけいってもらえばたぶん最上の解釈に遭遇しているのだ。それ以上のことはかれらの個性の深部でうずいている傷であり、そういう傷なら、べつにわざわざパリで探さなくてもいい。怨念のすべての領域に消去と出現が繰返されている。
[#ここから2字下げ]
日本製の物尺は、パリーへ来れば二倍にしなければ底へは届かぬ。私はパリーに来て、底を見たものはそんなに沢山あるとは思へない。長くこの地にゐなければ、フランスは分り難いといふものは、フランスの伝統と競争しようと思ふものだ。この者は死ぬ以外に方法はあるまい。
[#地付き](「欧州紀行」)
パリーではアメリカ人であらうと、黒人であらうと、イギリス人であらうと同じことだ。ここでは人間など通用しない。通用するのは金だけだ。
[#地付き](「欧州紀行」)
心理が金銭とともに常に平衡を失はず、上下し左右する人間の行為――これを極度に発達した人間の美しさと感じることの出来るまでは、パリーの美しさは分り難い。金銭と人情は全く同様のものだといふ心念を得ることの難しさが、パリーの難解な第一歩だ。
[#地付き](「欧州紀行」)
[#ここで字下げ終わり]
これも何をいっているのかさっぱりわからぬ。ことに「日本製の物尺は、パリーへ来れば二倍にしなければ底へは届かぬ。」というのは、判ったような顔をするわけにはいかない。岡本太郎は明快に「実は二倍にしても三倍にしても致し方がないのである。それは容量ではなく、質の相違、次元の相違だからである。」と解釈した。そんな明快なことをいっているとは思えないのだが、横光がここからひき返して、ああじぶんたちもじぶんたちの伝統によるより外ない、それがどんなにみじめであってもという絶望感を腹の底から衝き上げられて帰国したことは確かであった。「心理が金銭とともに常に平衡を失はず、上下し左右する人間の行為」という意味もほんとうはよく理解することはできない。未知の土地に喰い込むには金銭以外に頼るものはない、とか合理的な生活感覚の果ては情緒と金銭とは等価となるほかないといった通りいっぺんの解釈以外に、この感想を実感することはできそうもない。横光が実感していいたかったことは、たぶんそんなことではなかった。何か影のように通りすぎて把握し難いひとつの洞察であった。ただこれが難解な言葉におもえるのはパリで生活したことがないからで、経験者ならばいっぺんで誰にでもわかることかも知れなかった。むしろ問題はこんなことがなぜことさら意識させられるほどの重さとしてあるかというところにあったかもしれない。かけはなれているのは言葉なのか皮膚の色なのか文化なのか。そうだとしてそして何がどうかけはなれているのか。そんなにかけはなれているとしたらそれをかけはなれていると感受させるものは何かという問題であったともいえる。フランスの伝統と競争しようとおもう日本人は底無しの沼に入るようなものだというのなら、日本の伝統と競争しようとおもう異邦人もまた底無しの沼に踏みこむようなものだ。そういうことに変りがあるはずもないし、限度があるはずもない。ただ競争しようという意欲を強いるものが何かが問題なだけだ。その魅力と魔力を測る尺度は普遍的な叡智の度合のようなものにちがいない。
吉田健一によれば「横光利一はヨオロッパに現れた日本の最初の近代人」であった。荷風や藤村の書いたものでもセエヌ河やマロニエの木やリラの花が出てくるが、セエヌ河を眺めているときと隅田川を眺めているときと、眺めているものの心の現実にどんな変化が起るかが書いてないから、ただ風景のちがいをみているだけだ。パリの娼婦は荷風にとって玉ノ井の女に大きな麦藁帽子を被せたものにすぎない。「卓子の上に紅茶のセットが置いてある光景が東京とパリではどう違ふかは、といふよりも、実際に違ふのだといふことさへも見逃されるか、或は省略されてゐる。」このことに横光は気がついて、気がついたことの現実を実感に繰込んだ風景を見聞した最初の日本人だった。吉田健一の評価はそこに帰する。ここまで丁寧に解説されるとわかったということになるだろう。けれども洞察力は一般に誇らしいということになるだけなのに、どうして横光には悲劇としてあらわれたのか。禁忌と障害の匂いの強い性愛に惹かれそして反撥する横光の性格悲劇のようなものは、ここでもおなじ構造を蘇らせた。一挙に横光のパリにたいする不安を慰藉し安堵させるものは何であったのか。というところに転回の秘密のかかとがあった。
外国語にどれだけ通じていても、その最も高度な限界は、たかだかその国の住民と同じ程度になることではないか、そんなことが知識の理想であってたまるものかという馬鹿にした顔が一方にあるかとおもうと、他力では世界文化の現在に参加することが知識にとって最大の課題であるかぎり、最高の文化を理解する言葉に習熟することは必須の前提である。その前提を経ないで可能などんな近道も、たんなる独断的な短絡か二番せんじにしかならないという顔がある。横光もパリですぐにその二つのどちらかの顔をしてみせねばならない破目に陥った。これは文化的な後進性の知識がかもしだす普遍的な風俗だから、いずれにせよ無意味なものにちがいない。観点はまったく変えられるほかない。何が世界の現在にとって統一的なヴィジョンなのかというように。この問いが形成する世界像のなかで高度な文化も後進的な文化もじぶんを問われねばならないだけだ。そして問い方自体がまた世界像の形成そのものにあたっている。
高度な文明のもつ無意識の優越性も後進的な文化の劣等意識もそれ自体では何も意味しない。富のもつ無意識のごうまんさと貧困のもつ自然な怨恨が何も意味しないのとおなじことだ。わたしたちは統一的な世界像に向っての抑制や謙きょさや真摯さをのぞいてはどんなごうまんも劣等感も同情心も認める必要はない。もちろん能力や才能などは犬にでも喰われた方がいいのだ。
横光利一が欧州旅行を契機にパリの地でとらえられ顕在化させられた感受性のうち確かにありうるようにみえる問題があった。「彼」はあいまいな難解ないいまわしや、直観的な印象の言葉でさまざまにいいつのった。それは可能なかぎり解きほぐすに価するようにみえる。
欧州旅行の反芻は、帰国の翌年に発表された「厨房日記」のなかにあらわれている。
六月十二日、岡本太郎に連れられてモンマルトルのトリスタン・ツァラを訪れた。あたかもレオン・ブルムの人民戦線内閣の下で左右の衝突が繰返されていた時期で、ツァラの客間の雰囲気は「良識は左翼以外にはない」という色合に充ちていた。だが横光の認識している日本は二・二六事件が二月に勃発したばかりで、右傾し中国大陸では戦争に突入しそうになっている。日本の「左翼」はすでに転向を終了しつつあった。この位相のずれが実感として重くのしかかっていたのは横光だけであった。ツァラの客間の人々はただの好奇心のほか日本について知識も必要もない状態で、日本の「左翼」の現状は? 日本とはどんな国か? と質問した。質問する方の日本についての無知をかいくぐって横光は精いっぱい答えてみせる。
[#ここから2字下げ]
「左翼はなかなか繁栄したときもあります。しかし、日本は昔からそのときの思想状態を是非必要と感覚しないかぎり、どのやうな思想も行為も無駄となりますから、そのために秩序の乱れる恐れが生じると、これを枯らしてしまふ自然といふ恐ろしい力があるのです。この自然力は物理的なもので、ヨーロッパの知性も日本へ侵入して来る度に、この自然力と争はねばならぬのです。つまり、日本はいかなる思想も物もそれを選択する場合に個人の意志では出来ません。自然力に任せてこれの命ずるままに従はねばならぬのです。個人の役に立たぬそのやうな日本では、従つて第一番の芸術家や思想家は自然といふ秩序です。日本の左翼も自然発生から自然消滅の形をとつて進行してゐますが、それは思想の無力といふよりも思想と同程度に整へられた秩序の強力なためなのです。」
[#地付き](「厨房日記」)
「日本といふ国について外国の人人に知つていただきたい第一のことは、日本には地震が何より国家の外敵だといふことです。その外敵の侵入は歴史上に現れてゐる限りでは二百七八十回ほどあります。一回の大地震でそれまで営営と築いて来た文化は一朝にして潰れてしまふのです。すると、直ちに国民は次ぎの文化の建設を行はねばならぬのですが、その度に日本は他の文化国の最も良い所を取り入れます。一世代の民衆の一度は誰でもこの自然の暴力に打ち負かされ他国の文化を継ぎたす訓練から生ずる国民の重層性は、他のどこの国にもない自然を何より重要視する秩序を心理の間に成長させて来たのです。そのため全国民の知力の全体は、外国のやうに自然を変形することに使用されずに、自然を利用することのみに向けられる習慣を養つて来たのは当然です。このやうな習慣の中に今ヨーロッパの左翼の知性が侵入しつつあるのですが、しかし、これらの知性は日本とヨーロッパの左翼の闘争対象の相違について考へません。従つて同一の思想の活動は、ヨーロッパの左翼の闘争が生活機構の変形方法であるときに、日本の左翼は日本独特であるところの秩序といふ自然に対する闘争の形となつて現れてしまつたのです。これはどうしたつて絶対に負けるのは左翼です。つまり、それは自然に反するからなんです。ヨーロッパのはすでに自然に反したものを自然に返さうとする左翼であるのに対して、日本の左翼は自然に反さうとする運動です。日本に近ごろ二・二六事件といふ騒動の勃発したのはよく御存じのことと思ひますが、あれは左翼の撲滅運動でもなければ、資本主義の覆滅運動でもありません。ヨーロッパ植民地の圧迫が、日本の秩序にいま一重の複雑な秩序の要求を加へただけです。」
[#地付き](「厨房日記」)
[#ここで字下げ終わり]
この答えに一種の滑稽感がつきまとっているのは、質問の方が馬鹿らしくて答えようがなく、本質的な関心もない相手に答えているからである。横光の答え方はいい線まで行っていた。そう読まれるのが妥当のようにおもえる。かれは廻らぬ舌、蒙昧な概念を使って何か本質的なことをいおうとしていた。横光はまず第一に、自然の威力以外は頭上を遣り過ごしてしまうものとしか政治権力の消長と交代と内乱を感じないできたアジア的な村落の平穏な眠り、そのあいだに形成された情緒、温和な安息であるとともに歯がみをしたいような蒙昧さで、支配者たちの横暴を許容してきた村落の感性的な原理に触れようとした。このアジア的な村落の親和的な感情が、たんに命題として知識に宿った「左翼」思想を、頑迷に、だが寛容に遣り過ごさせてしまう状態を、横光は指そうとしていた。
「日本人は社会の秩序を何よりも重んじるから、自然に個人を無にしなければならぬ。」というのはでたらめないい草だが、指しているものは肝要に当っていた。アジア的な制度では〈自由〉に振舞うことを知っているのは少数の専制共同体のメンバーだけであり、その余はすべて〈自由〉とはなにか〈個人〉とはなにか〈人間〉とはなにかを西欧的な意味では知らないという原理を指していた。けれども横光はこの専制的な政治形態と、それを頭上はるかに奉ったアジア的な村落の平穏とひどい蒙昧の同居に逆説的な理想をみつけていったのである。
わたしが横光利一の蒙昧の言葉を一笑に付さないのは、十代半ばを過ぎた頃おなじ蒙昧によって横光利一をもっとも鋭敏な、もっとも共感しうる文学者のひとりとかんがえていたからばかりではない。そのとき横光利一を嗤った知識人もやがてどこかでおなじ軌跡をたどった。横光利一は言葉も概念も知らなかった。そのいうところはたどたどしい。けれど指すべきところは直観的に指しているとみたほうがいいのである。「秩序の乱れる恐れが生じると、これを枯らしてしまふ自然といふ恐ろしい力」は、横光のいうような「物理的なもの」ではけっしてない。アジア的専制の理念が、いつも政治権力に「天」とか「道」とか「命」とかいう自然原理をも占有させているため、これに抗争する者はつねに「天」や「道」や「命」に背くという情念に晒されざるを得ないような天皇制原理を意味している。この認識を徹底するようなどんな思想をもつくりえなかった日本の「左翼」がこれに抗いとおすことができないのは当然であった。
わが国の文化思想が「他のどこの国にもない自然を何より重要視する秩序を心理の間に成長させて来た」のは、べつに横光が独断したように地震の暴力が頻発されたからではない。アジア的な専制の原理を、小規模に島嶼的な閉鎖性のうちに生成させてきたからであった。そこで自然が尊重されたのは他のアジア的な社会で自然が原理であったのとまったくおなじ理由によっている。ただ温暖で小規模で多種族的な要素が、比較的平穏な島嶼性のうちに助長されたところが他のアジア地域と異っていただけであった。横光は本質に近い線まで直感的な洞察をしめしながら否定の原理をあちら側に跳びこしていったのである。
欧州旅行を経てのち、堰を切ったように一路アジア的な農耕村落の原理へひたすら回帰していった。
[#ここから2字下げ]
今まで度度東北地方へ来たにも拘らず、梶はこの度ほどこの地方の美しさを感じたことはなかつた。親子兄妹が同じ町内に住んでゐながら、顔を合せば畳の上へ額を擦りつけて礼をするのも、奇怪以上に美しく梶は見惚れるのであつた。稲穂の実り豊かに垂れてゐる田の彼方に濃藍色に聳える山山の線も、異国の風景を眼にして来た梶には殊の|他《ほか》奥ゆかしく、遠いむかしに聞いた南無阿弥陀仏の声さへどこからか流れて来るやうに思はれた。
梶はこの風景に包まれて生れ、この稲穂に養はれて死ぬものなら、せめてそれを幸福と思ひたかつたのが、今にしてやうやくそれと悟つた楽しさを得られたのも、遅まきながら異国の賜物だと喜んだ。全くこの独特な小さい稲穂の中で、押し合ひへし合ひ捻ぢ合ひつつ、無我夢中に成長して来たわれらの祖先の演劇は、何ものの中にも血となり肉となりしてこり|塊《かたま》つてゐることこそ争ひ難い事実であつた。
笑はば笑へ。真正真銘の悲劇喜劇もこれに増した痛烈な事件はあるまい。――かう梶の思ふ心の中で、ヨーロッパの知性に飛びついてゐる顔が、足をぶらぶらさせていつたい何を笑つてゐるのか判然としなかつた。
[#地付き](「厨房日記」)
[#ここで字下げ終わり]
日本のアジア的な村落の風物のなかで長い時間を溜めて形成された質朴で礼節に厚い、濃やかな情緒と、相互扶助の感情が抗し難い魅力をもつのは、人間社会と歴史の理想像のおもかげを幾分かの度合で内蔵しているからである。またこのようなアジア的な村落の原理が根柢から覆滅されなければならないのは、権力と支配とが頭上を暴威を振って通過するのを、われ関せずという距離から看過するものだからである。いいかえれば自己権力としては蒙昧で安逸で惰眠をむさぼっている〈無〉にすぎないため、いっさいの専制と官僚制とを放置するか、自己犠牲に堕するか、あるいは自らを専制と官僚制そのものと化してしまうからである。横光はこの原理を魅力だけで視た。日本の「左翼」もまた理念だけをとりかえてみたがおなじ原理に身をゆだねた。
横光利一がたんにアジア的な村落の胎内に回帰する願望をいだいたというだけならば、天皇制下の農耕共同体にユートピアを描いたウルトラナショナリストもいっこうに変りはなかった。ただ幾許かのニュアンスのちがいを描けばその差異をたどることはできる。
横光の回帰に思想悲劇の先駆性があるとしたら、西欧近代的な知識の有りうべき遭遇の形をできるかぎり省略せずに立ちまどいながら、アジア的な村落原理の安らかなふところに退転しようとする過程、その軌跡を明晰に描いてみせた点にあった。これはそのほかの文学者ではどうしても本格的にならなかった。わたしたちは、自らの脆弱な〈知〉がどのように処理されながらアジア的な専制の原理に収束してゆくかを、息をつめる思いで横光利一の軌跡に凝視しつづけたのである。
作品「由良之助」で以前に左翼でいまは会社の宣伝部長になっている三尾が重役の宇津木と酒場でひとりの男に出会う。男はじぶんの昔の兵隊仲間がみんな上海で戦争をやっていて、じぶんだけがとりのこされていると語る。「何ぜ私一人を残してとつてくれんのかと思ふと、残念で仕様がない。私なんかこれから生きてたつて、何の役にも立たんのですから、早く弾にあたつて、死んじまひたいのですよ。もし戦死すれや、どんなに気持ちがいいかと思ふんです。私はかうして飲んでゐても、気がをさまらんのですよ。もう早く行きたくつて行きたくつて仕様がない。」この言葉に三尾は突然心情の揺れるように共鳴する。「僕は近ごろ初めて感心した。僕もあなたの話を聞いてから、戦死したくて仕様がなくなつて来た。」といって涙を流す。情緒をつつけばどこからでも崩れてしまう。日中戦争発生前後の時期の切羽つまったような知識人の風俗がつかまえられた。いままで三尾の転向に疑いをもっていた重役宇津木は「たうとうあの二人は自分の知らぬものを掴んだ。こつちの負けだ」と考える。そのとき国策会社のある新しい情念のようなものの雰囲気をとらえるものであった。
心情の層面を揺れうごくものの存在は、いわば同時代的な感受性に属していて、それを歴史として再現するのはほとんど不可能にちかい。だがこれを抜きにしては横光がおおきく傾斜していったアジア的な村落の情緒を、その吸引力をつかまえるのは難かしい。なぜこれほど蒙昧な命題に知識は誘導されるのかという反省的な記述しか成立たないからだ。誰もがまるで何ものかに誘われるように情緒を刺戟されてたどりついてしまった暗い通路をほんとうに再現するのは難かしい。ほとんど直観的に横光はこの吸引する力の通路を識知していた。切羽つまった抑圧感を突然とり払われるような場面を再現することを作品のうちに見事にやってみせた。横光が知識人の一般にあたえた影響などは全体からみればたかが知れていた。ただ作品にのめり込んでいったものには、もっとも時代の知的な心情の奥に手が届いている感触を与えた。
作品「旅愁」の主人公矢代にいたってほとんど極限まで西欧近代的な素養をもった知識人がアジア的な村落原理にまで収斂してゆくときの課題を背負わされた。むしろ西欧近代的な素養が一挙にアジア的な村落原理と短絡させられたといってよい。
長篇作品「旅愁」がクライマックスを超えたところから千鶴子がカトリックであり西欧の象徴のように図式化され、矢代は日本古神道の象徴のように図式化されてくる。そして両者の理念的な和解の方法をみつけることが二人が結ばれることと同義だというように作品自体が収斂されていった。この和解の方法がみつけられないかぎり、作品もまた終らないというように構成されたのである。敗戦はこの作品の解決を現実の側から強引につけてしまったことを意味した。横光が「旅愁」に賭けたモチーフ自体がけしとばされてしまったといってもよいし、あるいは作者の企図とは正反対な方向に解決されてしまったといってもよい。いずれにせよ作品は、行くことも帰ることもならず中絶されたのは当然であった。思想としての横光利一は存在自体が強引に中絶させられたからである。
「旅愁」の主人公矢代はもっともおおく作者自身の理念を背負わされた存在である。この存在が背負っている一種の滑稽感はどこからやってくるのだろうか。矢代が生まじめにその理念を披瀝すればするほど滑稽感はおおきくなってゆく。吉田健一がいうようにヨーロッパの現実からヨーロッパ人の精神活動が生れ、それがヨーロッパの思想になり、その思想も精神活動もまたヨーロッパの現実にかえされて、いわば現実と精神と思想とが感覚的に統一されたものが原理として世界で尊重されるものならば、日本の現実から生れた精神活動から思想が生れ、それが現実にかえされて感覚的にも統一された像がえられるという原理が尊重され探究されるということがどうして不都合なのか。「旅愁」の主人公矢代はこういう横光のヨーロッパ外遊の決定的な帰結を背負わされている。これが登場人物の披瀝する理念として滑稽感を与えるとしたら? しかも滑稽感を与えながら、心情的な揺動の層面ではほとんどすべての日本の知識人たちを襲ったとしたら? 何が一体問題なのだろうか。
最後の長篇「旅愁」の矢代はこれらの課題のすべてとその周辺に生れる情緒的な課題のすべてを背負わされた。現在矢代が滑稽だから当時も滑稽であったとはいえなかったし、当時も理路として滑稽であっても心情的に滑稽であったともいえなかった。まったく逆ないい方をしてもよい。「旅愁」の主人公とそれに理念を与えた作者を否定するどんな見地よりもさらに深刻に、この主人公と作者とは痛烈に滑稽で否定されねばならないものであったというように。矢代は恋人の千鶴子とその兄の槇三に古神道の祈りと論理というものを説明する。
[#ここから2字下げ]
「言霊ではイは過去の大神で、ウは現神でエは未来の神のことです。ですからこの三つも早く縮めて一口に、エッと声に出してお祈りするのですが、さうすると、日本人なら誰だつて元気が満ちて来るでせう。このイといふ字とウといふ字とを大昔は石にして、勿論古代文字ですが、どこの国へも一つづつ神社の御本体として祭らせたのですね。ところが、淫らな形をしてゐるといふ理由で、淫祠だなどと云つて、引つこ技いてしまつたのです。『イウ』といふ、この二つの言霊の根本を引つこ抜いたものだから、さあそれからは日本が大変だ。しかし、日本人は困りますと、何んのことだか分らずとも、エッといつて、元気になつて何んだつてやつちまふ。これが生といふ愛情ですよ。僕のお祈りも、まア簡単に云へばそんなものですが、今度は一つあなたのお祈りを聞かして下さい。」
[#地付き](「旅愁」)
「ギリシャの幾何学だつて、イウエ、みたいな三つの辺からなる三角形が根本でせう。言葉だつて同じで、五十音のどんな音にしても、イウエの三つの母音にすべてが還つて来るといふことを、日本の古代人は知つてゐたのですよ。それから数といふものが考へられたこともですね。ですから僕は、ギリシャの文明は三角形から発展したに反して、日本の文明は三音からだと思ふやうにも単純になつてるんです。あなたも一つ、新しい物理学の仮説を創らうと苦心されるなら、この音と形との原理を一つにして、時間といふものの素質をもう一度、エッと云つてみて、考へ直されることですね。さうすると近代人の満足といふものが得られるかもしれませんよ。」
[#地付き](「旅愁」)
[#ここで字下げ終わり]
この矢代の説明する理念は涙が出るほど悲惨で滑稽である。けれどそれは民間神道家のいかがわしい信仰書に書かれたようなことが大学教師の矢代の口から大真面目に語られるからではない。情緒のたゆたう層面のなかでそんなことはたくさんあったのである。ほんとうに滑稽さと悲哀感がわたしたちの心を打つ所以はもっと異ったところに根ざしているように思える。当時はわけもわからぬような昂揚した心情の横行する雰囲気のなかでこういう言説が知識人を総なめにしてゆき、現在は白けはてた滑稽感で一笑に付されてしまうもののなかには、横光利一のほんとうの悲劇はなかった。当時も出鱈目な〈マルクス〉主義と出鱈目なリベラリズムによって冷笑され、現在も出鱈目な〈マルクス〉主義と出鱈目なリベラリズムによって冷笑されるといったもののなかにも、横光利一のほんとうの悲劇はなかった。かれの悲劇はむしろ漱石にもっともよく似ていたというべきである。
横光利一はヨーロッパとかギリシャという原理に対比されるべき原理としては〈日本〉という概念が存在しえないことを識らなかった。ヨーロッパとかギリシャとかに対比しうる概念は、日本を包括したいならば、ただアジアという概念だけである。なぜなら〈日本〉という概念は地理的アジアでありえても世界史的な時間を独自には構成しえないからである。その上横光が体験した現代ヨーロッパの中心は漱石の遭遇した近代ヨーロッパの先進地域に比べれば混乱と衰運にあったとはいえ、近代以後における世界の普遍的な原理を意味していた。そこでは〈日本〉という概念はひたすらその原理を模倣するアジア的な俊敏さの一例以上の意味はない。ギリシャはここではヨーロッパの原理の名であるが、〈日本〉という原理の名は歴史のうえに存在していない。少くとも歴史の現在までは。横光利一の悲劇も「旅愁」の主人公の表白する滑稽感も存在しえない〈日本〉という原理をヨーロッパとその原型としてのギリシャに対置させようとしたところに発祥した。原理的な無のうえで現代ヨーロッパの全重量を個人の肩に背負いこもうとしたのである。そして手当り次第に対比しうる伝統的な素材をかきあつめて俄づくりの原理をつくりあげようとした。それは悲劇であり滑稽であったが、横光の演じた悲喜劇が、抜群の膂力なしには不可能であり、また発想の契機すらないものであることは、漱石の場合と同じであった。
[#改ページ]
[#見出し] 芥川龍之介
[#ここから2字下げ]
「もつと己れの生活を書け、もつと大胆に告白しろ」とは屡諸君の勧める言葉である。僕も告白をせぬ訣ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである。
[#地付き](「澄江堂雑記」十六 告白)
ストリンドベルクも金さへあれば、「痴人の告白」は出さなかつたのである。又出さなければならなかつた時にも、自国語の本にする気はなかつたのである。僕も愈食はれぬとなれば、どう云ふ活計を始めるかも知れぬ。その時はおのづからその時である。しかし今は貧乏なりに兎に角露命を繋いでゐる。且又体は多病にもせよ、精神状態はまづノルマアルである。マゾヒスムスなどの徴候は見えない。誰が御苦労にも恥ぢ入りたいことを告白小説などに作るものか。
[#地付き](「澄江堂雑記」十六 告白)
[#ここで字下げ終わり]
「『私』小説論小見」ですこしまともに「私」小説に言及したより早い時期に書かれたに相違ない。この文章は二つのことを暗示している。ひとつは「僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。」ことを認めていることだ。このいい方をどんな文学的表現も自己表現だという意味には受けとるまい。古典や歴史物語や説話を素材にした作品でも現代風の心理解剖を試みた作品でも、じぶんの体験は部分的にか全体的構成にか投入してあるという意味に受けとることにする。
もうひとつは暗示といわず予言といってもよいものだ。実生活的にかあるいは精神的にか、または「多病」な「体」のうえでか逼迫し、追いつめられてきたら「恥ぢ入りたいことを告白小説」に創ることがあるかもしれぬ、その時はその時だと受けとっていいことがいわれている。そして芥川は予言通りに、心身の逼迫につれてじぶんを材料に告白小説を書いて死の前後の時期を彩った。
芥川の文学的な本領は古典説話や歴史物語に仮托し充分な構成的な配慮と理智とを加えた作品にあるという見解と、最晩期に近く構成的な配慮のゆとりもなく、心的な体験の早急な異常な急迫した表白を、わが国の「私」小説がやったよりももっと苛酷にやってのけた作品にあるという説とは、芥川の自殺の直後からすでに行われていた。またその自殺をプチィ・インテリゲンチャの社会的苦悶の重さとして衝撃を受けとった者も、病弱の果ての人為的な衰弱と神経的な憔悴にあったという考えもはやくからあった。
もう十数年まえに「芥川龍之介の死」という小論を書いたとき、わたしがいちばん反撥したのは芥川の自殺への道程を社会思想的な行きづまりだという考えと、芥川の文学的本領は芸術のための芸術にあるという通説とであった。芥川の全生涯の作品をひと通りたどれば誰も、芥川自身がじぶんを〈芸術的人間〉〜〈生活的人間〉のあいだに位置づけ、あるばあいにはこの二つの矛盾に引裂かれ、あるばあいにはその一方に吸引されては、他の一方からひき戻されるといった繰返しの生涯として、じぶんで位置づけているのをはっきり理解できるはずだ。「大導寺信輔の半生」や「或阿呆の一生」は、いわば目録索引つきでじぶんの理解を手引きした作品である。作家が自身でやった手引きに眼をそむけるのも、その手引きどおりに芥川の文学的生涯をたどるのも、ひとしく芸のないことにちがいない。あまりに眼から鼻に抜ける聡明さを身につけた芥川は、意図の表現と無償の表現とが分けられない境位に、じぶんの文学的な性格を追い込んでいった。無意識的な偽善と無意識的な偽悪とは芥川の肉つきの仮面で、ついに最後の遺書までひき剥がせなかったといってよい。わたしたちが芥川の文学に途惑うのはそういうところではない。こういう偽善と偽悪に彩られた仮面を、かれの文学的生涯に喰い込んだ性格とすれば、実生活を律する倫理を〈生活的人間〉つまり生活者という以上につきつめることをしなかった芥川は、誠実な、けっしてデカダンスの破れをみせない小心な格調ある知識人という体裁を崩さなかった。恋愛関係にあった、そして遺書の一つに生涯の大事件で、断ち切れないまま後悔と悩みにつきまとわれたと書いている「□夫人」との関係にしても、無頼派の文士ならば鼻であしらう程度のものだったろう。たぶんチョッキを一つだけ脱げばどうということもなかったに相違ない。この〈生活的人間〉としての芥川は、しばしば無意識の偽善と偽悪をまじえた文学的な営為のなかに侵入してかれの作品を複雑に彩っている。こういった〈芸術的人間〉〜〈生活的人間〉の混融と矛盾と反撥しあいのなかに、芥川的問題の核心はあった。
批評はかならずしも対象の核心を核心のようにとりあげるのを本領としない。切口のパターンを観覧に供するのも、じぶんの好悪で対象の作品を排択するのも、対象をだしにして自己を語るのも、批評の形而上学を展開するのもひとしく批評にかわりない。そういう次元の批評的課題についてわたしには、いうべきことはなにもない。ただ巧くやってくれいとでもいいたいだけだ。だが対象自身が明晰にじぶんの核心を自己限定してみせているかぎり、それに触れないでは済まされない。現在触れないときは過去に触れたのだし、過去に触れないときは未来に触れることになるにちがいない。この問題は個々の批評だけに帰せられず、批評史の渦中に批評家を組みいれることになる。批評にとって批評史は無しで済むならば済ませたい何かである。にもかかわらず批評の桎梏となって覆いかぶさる受身の必然でもある。ここでは批評家は作家のように無邪気には振舞うことができない。何となれば批評はすくなくとも作品の意識的部分であり、作品を意識化してゆく行為を欠くことはできそうもないからだ。芥川自身は有能な批評家でもあり「文芸一般論」と題する文学概論を書くことができた理論家でもあった。かれがじぶんの文学的な営為による生涯を〈芸術的人間〉〜〈生活的人間〉のあいだに軌道を敷いて要約しているかぎり、芥川的作品への批評はいつかそれに触れずには成立しないはずである。その程度には批評にも歴史は避けられない桎梏としてやってくる。
芥川自身はその上、じぶんの文学的な営為と生涯を〈社会思想的人間〉のほうへ延長させた幻想の軌道を敷いてみせた。アナトール・フランスが『エピキュールの園』で「工房の聖者」を書き「思想ゆたかで、病身で、本能的な欲望は持たない男、プロレタリアの苦行者、キリスト教初期の時代の『教会』の聖人たちのように貞潔で狂信的な工房の聖者」をもって「社会主義的労働者」を画定したように。そして青野季吉や赤羽寿(赤木健介)への書簡に周到な自己解説と親和感とを披瀝した。だがこの軌道が、芥川の意図的な幻想なのか事実に忠実なのかは、芥川における無意識の作為と無償の問題に、いいかえれば虚と実の問題に落着してゆくはずである。もしわたしに何かいうべきことがあれば、そこを核心とするほかにない。
周知のように芥川は「大導寺信輔の半生」という虚構が半ば壊れかかった自伝風の作品を書いた。「大導寺信輔の半生」といわずに「私の半生」と題し「彼」と書かずに「私」と書いたとしても作品構成上はすこしも不都合を生じない。また、すべての自伝が、その折の扮飾と誇張と主観によって方向づけられるのが当然だとすれば、この作品にみとめられる程度の扮飾と誇張と主観的な色づけは自伝につきものとみなしてすこしも逸脱しない。こうしてみると「大導寺信輔の半生」と「歯車」や「或阿呆の一生」との差異は何もないようにみえる。ただひとつ相違があるとすれば「大導寺信輔の半生」が主観の方向づけを最大限やりたいためやむを得ない程度の虚構を混えているのに「歯車」や「或阿呆の一生」が底をついた逼迫した主観の状態を告白するために、一定の創作的な体裁を必要とした点だけだといえる。
「大導寺信輔の半生」のなかで、最後まで関心を強いるのはつぎのような個所である。
[#ここから2字下げ]
信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の秘密だつた。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だつた。この秘密は又当時の彼には或迷信をも伴つてゐた。彼は只頭ばかり大きい、無気味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の庖丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その点は――殊にその点は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。彼は一体何歳からか、又どう云ふ論理からか、この父に似つかぬことを牛乳の為と確信してゐた。いや、体の弱いことをも牛乳の為と確信してゐた。若し牛乳の為とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友だちは彼の秘密を看破してしまふのに違ひなかつた。彼はその為にどう言ふ時でも彼の友だちの挑戦に応じた。
[#地付き](「大導寺信輔の半生」二 牛乳)
信輔の家庭は貧しかつた。尤も彼等の貧困は棟割長屋に雑居する下流階級の貧困ではなかつた。が、体裁を繕ふ為により苦痛を受けなければならぬ中流下層階級の貧困だつた。退職官吏だつた彼の父は多少の貯金の利子を除けば、一年に五百円の恩給に女中とも家族五人の口を餬して行かなければならなかつた。その為には勿論節倹の上にも節倹を加へなければならなかつた。彼等は玄関とも五間の家に――しかも小さい庭のある門構への家に住んでゐた。けれども新らしい着物などは誰一人滅多に造らなかつた。父は常に客にも出されぬ悪酒の晩酌に甘んじてゐた。母もやはり羽織の下にはぎだらけの帯を隠してゐた。
[#地付き](「大導寺信輔の半生」三 貧困)
彼は只見すぼらしさの為に彼を生んだ両親を憎んだ。殊に彼よりも背の低い、頭の禿げた父を憎んだ。父は度たび学校の保証人会議に出席した。信輔は彼の友だちの前にかう言ふ父を見ることを恥ぢた。同時にまた肉身の父を恥ぢる彼自身の心の卑しさを恥ぢた。国木田独歩を模倣した彼の「自ら欺かざるの記」はその黄ばんだ罫紙の一枚にかう言ふ一節を残してゐる。――「予は父母を愛する能はず。否、愛する能はざるに非ず。父母その人は愛すれども、父母の外見を愛する能はず。貌を以て人を取るは君子の恥づる所也。況や父母の貌を云々するをや。然れども予は如何にするも父母の外見を愛する能はず。……」
けれどもかう言ふ見すぼらしさよりも更に彼の憎んだのは貧困に発した偽りだつた。母は「風月」の菓子折につめたカステラを親戚に進物にした。が、その中味は「風月」所か、近所の菓子屋のカステラだつた。父も、――如何に父は真事しやかに「勤倹尚武」を教へたであらう。父の教へた所によれば、古い一冊の玉篇の外に漢和辞典を買ふことさへ、やはり「奢侈文弱」だつた! のみならず信輔自身も亦嘘に嘘を重ねることは必しも父母に劣らなかつた。それは一月五十銭の小遣ひを一銭でも余計に貰つた上、何よりも彼の餓ゑてゐた本や雑誌を買ふ為だつた。彼はつり銭を落したことにしたり、ノオト・ブツクを買ふことにしたり、学友会の会費を出すことにしたり、――あらゆる都合の好い口実のもとに父母の金銭を盗まうとした。それでもまだ金の足りない時には巧みに両親の歓心を買ひ、翌月の小遣ひを捲き上げようとした。就中彼に甘かつた老年の母に媚びようとした。
[#地付き](「大導寺信輔の半生」三 貧困)
[#ここで字下げ終わり]
母乳で育てられず牛乳で育てられたことや、実父母の手をはなれて伯父母である義父母のもとで成人したことや、独身の伯母に愛撫されて成人し、結婚してからも生涯同居するほどだったことが、一人の人間の生涯にどれだけの精神的な影響をもたらすかは、誰にもうまく判らない。すべて心理の薄暗がりや奥の方で、かれが現在と過去とをどう結びつけているか、どれだけ強く関係づけているかに関わることで、過去の事実の強弱にも特異さにも依らないからだ。こういうことに普遍性があるとすれば、その部分だけは心理学が地ならしをしてしまっている。それ以上のことは個性に帰せられる。
ただ「信輔」が牛乳のほかに母の乳をしらぬことを耻じて友人たちにかくし、すこしでも弱味をみせればこれがばれてしまうと思い込んで、頭でっかちでひ弱な腕力と体力しかないのに友人たちの挑戦に応じ、また反訳や古典の薄っぺらな知識しかないのに博識らしい見せかけを、博識らしさを示すだけのために捨てきれなかったのは確かであった。牛乳で育ったか母乳で育ったかというようなことには、栄養や免疫上の得失をのぞけばかくべつの意味があろうはずがない。ただ「信輔」はたっぷりした母親との接触がなかった無念を、じぶんの欠陥とみなすところに結びつけたかった。欠陥こそが真実であるということは、晩年の芥川が信じてやまなかったところである。そこでもうひとつの欠陥がたぐりよせられる。それはひと口に「体裁」という言葉で要約されている。「信輔」の父は「中流下層階級」の「退職官吏」だった。これを〈芥川〉の〈養父〉というように読み代えてみると、養父は東京府役所に勤めあげた万年課長であり、そのまま退職して、恩給によって老後の生活を営んでいた。東京下町では当然町内の有力者なみに扱われることになる。内実はどんなに切りつめても町内の有力者の〈構え〉を崩すことは|できない《ヽヽヽヽ》。この|できない《ヽヽヽヽ》という意味は、たんに近所や町内の人々が許さないで何かと引っぱりだしたり風評のたねにするというだけではなく、心性上から〈構え〉を崩すことが|できなく《ヽヽヽヽ》なってしまうことだ。「信輔」の憎悪はこの心性上の〈構え〉につき刺った。「母」は自家が裕福な所以を誇示するために「風月」の菓子折を親戚に進物にし、だが購う金がないから中味だけ近所の菓子屋のカステラに詰め代えたのではない。もしそうなら「母」の心性はユーモアを含んでいるといってもよい。「信輔」の「母」はたとえ三食を切詰めても、着物を質に入れても、もっと極端にいえば健康を台無しにしても、人格的に崩壊に瀕しても「風月」の菓子折の進物に固執するにちがいないのだ。これはたんに「貧困」や「偽り」がもたらしたものではない。また過剰な虚栄心とか自尊心とかいう概念をもってきただけで解けるものでもない。貧困がつのればつのるほど強固になってゆく〈構え〉という意味の世界の属性といってよい。この属性は心身症の世界にまで骨身を蝕んでゆく。〈構え〉のために痩せほそることも死ぬこともできる。そこでは「けれどもかう言ふ見すぼらしさよりも更に彼の憎んだのは貧困に発した偽りだつた」というのはまだ、たんに心的な投射をのべたにすぎない。「信輔」が本来的に憎悪したのは気づいたときにはすでに骨がらみに父母の家庭的な〈構え〉が身に滲みこんだ「信輔」自身の〈構え〉であった。これが引用の最後の節につながる「信輔」の憎悪の実相である。
「信輔」が虚構した「自ら欺かざるの記」は、これだけで底をえぐり尽しているはずはない。これは「大導寺信輔の半生」が構成上かなり投げやりで書きなぐられていることと関わりがある。「信輔」が抱いた悲しみはとても理解されそうにないのを「信輔」はよく知っていたはずだ。それなのに「信輔」はこの悲しみをとり出せなかった。貧困に育った聡明な頭脳の出来のいい子が、じぶんを生み育てたみすぼらしく無能な両親を憎悪するということはよくありうることだ。またその意味ではいつも恰好な通俗小説の主題になっている。こういう近親憎悪は、いわゆる立身出世譚の裏返しにほかならないからだ。こういう子供が「背の低い、頭の禿げた」父親の容貌や、何かというと無神経に出しゃばって周囲に軽んぜられる父親の振舞いを耻じ、そして憎むということもありうることである。この子供の心情は複雑な自己憎悪と自己嫌悪の複合からできあがっている。「信輔」の独白のまことらしさはここまでで「同時にまた肉身の父を恥ぢる彼自身の心の卑しさを恥ぢた。」と記されている。だがすでに固定された〈構え〉はそこにとどまるのを「信輔」にゆるさなかったとおもえる。
「信輔」はほんとうは温かい眼ざしでこういう〈両親〉を包みこむところに知識の行方と、聡明な心臓の鼓動をあずけられたはずだ。また逆にこういう〈両親〉をまったく置き去りにして〈知識という富〉の分限者への道も歩みえたはずだ。知識という得体の知れぬものをひさいでいる誰でもが、このいずれかに属しているといえなくもないからである。だが「信輔」の身についた〈構え〉がそうさせなかった。ここで小穴隆一へ宛てた遺書の個所を動員してもいい。
[#ここから2字下げ]
僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも言ひ得なかつたのである)僕はこの養父母に対する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。
[#地付き](遺書「小穴隆一氏へ」)
[#ここで字下げ終わり]
この記述は生活感情として事実にちかかった。「信輔」とこの「僕」とをあえて同一視すれば芥川はたぶん一度も、よく稼ぐ温厚な思い遣りのある息子(養子)という肉つきの仮面を生涯、母方の伯母夫婦である養父母に取りはずしてみせたことはなかった。芥川の晩年の口ぐせを借りれば「のみならず」妻子や友人たちにもまた、この仮面は着けおおせたにちがいない。その意味では仮面と呼ぶよりも素面になりきった〈構え〉とみてよかった。そしてこの〈構え〉をしつらえるほどその裏側で、陰惨な近親嫌悪を育てあげていった。この近親嫌悪はまた自己憎悪の変形にほかならないために出口がなく、ますます熾烈に心性の底のほうでくすぶりつづけた。「貌を以て人を取るは君子の恥づる所也。況や父母の貌を云々するをや。然れども予は如何にするも父母の外見を愛する能はず。」というとき「信輔」は「貌」と「外見」を微妙に混同してみせている。「信輔」のいう「貌」は容貌のことではなく挙措や態度や身なりをふくめた「外見」のことであり、また神経的な好悪をふくめていえば〈構え〉の裏と表との剥がせないものをさしている。
これはすべて「信輔」をつかまえるのにひっくり返しにしてもおなじだった。かれは父母を愛しその「外見」を愛しみ、濃密で偏頗な情愛を肯定し、温厚な「孝行」息子として終始した。だが日常の裏言葉ではしばしば父母の愚鈍さに苛立ち、見栄っぱりや感情の虚飾に冷笑を浴びせたというように。いずれにせよかれが父母に抱いた〈悲しみ〉のようなものと、それをまぎらわすためにこしらえた〈構え〉の質は「父母」の雰囲気から骨がらみに手に入れたもので、どう視点を変えてもかわりようがなかった。この〈悲しみ〉のようなものを「信輔」はついに半生のあいだに、解放へもってゆけなかったのである。
公的な意味の処女作である「鼻」とおなじ年に掌篇「父」はかかれた。この作品には芥川の心臓の所在がしめされていた。この十枚ばかりの文字通りの掌篇はあるいは文学的出発にあたって書かれた感性の自伝といってよかった。
「自分」の中学の同級生に能勢五十雄というひょうきんな身振りや顔つきでひとを笑わせるのが得意な男がいた。ある年の秋の修学旅行の折「上野停車場」の集合場所でのこと、集まってきた級友たちが待合室のベンチに腰かけながら、駅の構内へやってくる乗客たちの品定めをやりはじめた。なかでも能勢の品評が一番辛辣で一番ユーモラスであった。そのうち妙な男が汽車の時間表の前に佇って時刻をみているのが、一同の眼についた。「その男は羊羹色の背広を着て、体操に使ふ球竿のやうな細い脚を、鼠の粗い縞のズボンに通してゐる。縁の広い昔風の黒い中折れの下から、半白の毛がはみ出して」いて、かなりな年配なのに「頸のまはりには、白と黒と格子縞の派手なハンケチをまきつけて、鞭かと思ふやうな、寒竹の長い杖をちよいと脇の下へはさんで」いるので、どこからみてもポンチ絵中の人物にみえた。中学生たちの一人が、絶好の品評のたねができたので能勢をけしかけた。だれも知らないが「自分」だけはその妙な男が能勢の父親であることがすぐに判っていた。「自分」は能勢の心を推測し能勢が何かいいだすことが恐ろしくてはっとするが、そのとき能勢はなぜか「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。」とさり気なく道化た適確な品評をやってみせた。中学生たちはどっとふき出し、なかにはわざわざ反身になって能勢の父親のスタイルを真似てみせるものもいた。「自分」は能勢の顔をみるだけの勇気がなく下を向いてしまった。
能勢が他人にみせない日記や「信輔」とおなじような「自ら欺かざるの記」をノートに残していたら外見を得意そうに装って、わざわざ息子の級友たちの前にあらわれるこんな父親の無神経を憎悪すると記したかもしれぬ。また家庭の内輪だったら意味もなく父親につっかかることで父親にたいする近親憎悪を解消しようとしたかもしれぬ。そしてもっと無意識の下の方で、自己愛とおなじように無能で無神経で世間智では敗者である父親にたいする親愛を暖めることができていたかもしれぬ。けれどすこしでも耻ずかしさがあれば死にたいような級友たちのまえで、能勢ができることは父親を道化に仕立てることだけであった。
この能勢の演じた道化の〈悲しみ〉を、父親の姿を茶化して何も知らぬ級友たちに「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。」といってみせた能勢のみじめさとみすぼらしさの本質を、骨身に沁みて知っていたのは芥川その人だったとおもえる。能勢五十雄は研究者たちの発掘によれば、モデルとしては実在の人物がいたとされている。この一篇の場面はじっさいにあったエピソードだったとみて間違いはない。細部にフィクションを忍び込ませはするが、実在のモデルをあつかうのにおおむね事実の場面を描くのは芥川の常道だからである。
けれどもこの一場のエピソードに重い視線を落としているのは、まだ自己破綻をあらわす以前の「大導寺信輔」の姿とすこしもちがっていない。能勢は悲劇を演じても悲劇を感受する術をもっていない。けれど能勢を描き出した芥川にはそれを感受する力があったはずだ。ただその力が無意識であったか意識されていたかは、芥川の資質と思想に属していよう。それが作品「父」がのこす最後の謎である。
[#ここから2字下げ]
あとで、それとなく聞くと、その頃大学の薬局に通つてゐた能勢の父親は、能勢が自分たちと一しよに修学旅行に行く所を、出勤の途すがら見ようと思つて、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ来たのださうである。
能勢五十雄は、中学を卒業すると間もなく肺結核に罹つて、物故した。その追悼式を、中学の図書室で挙げた時、制帽をかぶつた能勢の写真の前で悼辞を読んだのは、自分である。「君、父母に孝に、」――自分はその悼辞の中に、かう云ふ句を入れた。
[#地付き](「父」)
[#ここで字下げ終わり]
この作品については、芥川は少なくとも二度言及している。ひとつは発表と同時期に親友恒藤恭宛の手紙で、もうひとつは六年ほどあとに弟子筋の文学青年を、父親にもっと優しくしろと戒めた書簡のなかで。
[#ここから2字下げ]
「父」は最初ある事実があつた時、僕も君が云つたやうに感銘をうけた。それを moralisch にこじつけたのは、かいた時の心もちと関係者がゐるのとに左右された結果である。僕も今ではあの不自然に誇張された道徳的感銘に対していやな気がしてゐる。さうして二度とあんな事をするもんではないと思つてゐる。
[#地付き](大正五年六月七日 恒藤恭宛)
滞在中小生の感じたる事は君の才なり兼ね々々申候通りおのれを大事にすること忘るべからずこれは好き方なれど好からざる方を云へば御尊父なぞにもつと優しくして上げられたし小生の短篇に「父」と云ふものあり年少の作と云ひ拙なきものなれどあれは実際の経験なり君の御尊父などに対する態度を見る時あの短篇を思ふ事なきにあらず苦言不悪御聞きわけ下され度候
[#地付き](大正十一年五月三十日 渡辺庫輔宛)
[#ここで字下げ終わり]
「morarisch にこじつけた」とか「不自然に誇張された道徳的感銘」とかいうのがよくわからない。強いて推量すれば、能勢五十雄の父親にたいする道化の〈悲しみ〉や「ロンドン乞食さ。」と茶化した哀しさだけでよいのに、モデル能勢五十雄の関係者が現存しているのを配慮して、「君、父母に孝に、」という悼辞をよんだことにして打ち消したといっていることになるのか。またあとの書簡では、きみの父親への態度は作品「父」のなかの能勢に似ているぞと戒めていることになるのか。芥川のいっているのがそこにとどまるのなら作品「父」で実現したところは、意図したよりももっと深かったのである。
「君、父母に孝に、」という作品の言葉は、作者が事実そのままを記したのであれ、フィクションとして挿入したものであれ、一瞬のうちに作品を一点に凝固させるほどの触媒の効果を放っている。それは「morarisch」である領域を超えて、作品の主人公と作者とを作品と現実のあいだの領域で融着させるほどの強力を発揮している。それによってはじめて作品「父」は無限に流露する奥行きのなかに、わたしたちを誘い入れる。
「その頃大学の薬局に通つてゐた能勢の父親」というのは「退職官吏だつた彼の父」という「大導寺信輔の半生」にまで血管をたどって「中流下層階級」の象徴にまで至りつく。また「能勢が自分たちと一しよに修学旅行に行く所を、出勤の途すがら見ようと思つて、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ来た」父親は「父は度たび学校の保証人会議に出席した。信輔は彼の友だちの前にかう言ふ父を見ることを恥ぢた。同時にまた肉身の父を恥ぢる彼自身の心の卑しさを恥ぢた。」という「信輔」の父親にまで血脈をひいている。そうみることが誇張でないことは作品「父」の過敏な倫理、むしろ神経的な倫理があまりに「或阿呆の一生」や「大導寺信輔の半生」における独白と相似していることからもいいえてよい。
はじめにすでに幼年のときに形成された心性の倫理的な原型が芥川に潜在していて、かれを作品「父」から破局にいたる「或阿呆」や「大導寺信輔」の線にまでひっぱっていったといえるかどうかわからない。ただ作品「父」の能勢や父親と「大導寺信輔の半生」や「或阿呆の一生」の「かれ」とその両親との位置の相似性はけっして偶然とはおもわれない。
作品推移のうえでは「父」で morarisch なパターンを付け足したために失敗したとみなした自戒が、おなじ時期の「手巾」にあらわれたかもしれなかった。作品の西山夫人の真情と演技との相似性についてのシニカルな種明しにまで進展したとき、morarisch とみなした作品と作者の融着の場所から作者を意識して強力にひき離す方法を択んだ。それがシニカルということの意味であった。息子の死を悲しむあまりテーブルのしたで手巾を裂けんばかりにもてあつかっている西山夫人の挙措と、ストリンドベルクの作劇法のなかにある「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂く」ハイベルク夫人の作為的な演技の記述との相似性が作品の落ちになっている。これは「Mensura Zoili」の冷眼と諷刺にまで展開されてたぶん、保吉物が書かれる時期まで作品の基調として続くのである。
しかしここでなお問題にしてみたいのは芥川の近親にたいする愛憎、不可思儀にも出生や出身や生活の体裁と結びついて離れなかったその愛憎の実体と行方とである。こればかりは冷笑も皮肉もたんに、作品形成上の問題にとどまらず芥川の心臓をつき刺し、あるばあいは破らずにおかない問題であった。
芥川がこの問題にまったくメタフィジカルな意味を与えようとしたところに「西方の人」や「続西方の人」が位置していた。このエッセイは神聖感情から新約書の記述を無矛盾なイエスの伝記のように仮構しているため聖書理解としてそれほどの意味はない。だが、芥川のメタフィジカルな関心を仮托したものとみなせば、同時代のだれもこれだけ真摯に大胆に聖書への自己仮托をやってのけたものはなかった。おまけにこの自己仮托は作品形成のモチーフの仮托をも露出させたのである。あえていえば新約書の主人公をとりまいて登場する女性は、かれをとりまく近親の女性たちになぞらえられた。このモチーフが芥川の新約書の理解を貧しく小ぢんまりとさせた理由であった。だがかれの近親の女性たちは典型化されて、かれの眼ざしに招きよせられたのである。「西方の人」や「続西方の人」で芥川がもっとも語りたいとおもいまた自己を仮托したのは「クリスト」にみつけた衝動のように本能的な「永遠に超えようとするもの」、いいかえれば自己自身を超えてゆきたい不可避の欲求であった。そして「永遠に超えようとする」意欲が現世で当面する難しさ、ことに近親的なものからの受難ともいうべきものの質であった。これは冷眼と嫌味と皮肉と乾いた心情と軽薄な衒学趣味のブレーキにもかかわらず、芥川の心臓に付着して生涯離れなかったモチーフといってよい。この課題を手放そうにも手放しえなかった宿命の重さこそすべての欠落を超えてかれの文学を本流にさせたものであった。これは「聖霊」という呼び方で作品にあらわれたが、芥川はこの言葉で〈父〉を象徴させている。この「永遠に超えようとする」ものに現世的な受難と愛着をあたえるものが「マリア」であり、芥川によって〈母〉の象徴とみなされている。
[#ここから2字下げ]
マリアは「永遠に女性なるもの」ではない。唯「永遠に守らんとするもの」である。
[#地付き](「西方の人」2 マリア)
我々は我々自身の中にマリアの苦しみを感じてゐる。たとひ我々自身の中にクリストの情熱を感じてゐるとしても、――しかしクリスト自身も亦時々はマリアを憐んだであらう。かがやかしい天国の門を見ずにありのままのイエルサレムを眺めた時には。……
[#地付き](「西方の人」17 背徳者)
母のマリアを顧なかつた彼はなぜラザロの姉妹たち、――マルタやマリアの前に涙を流したのであらう? この矛盾を理解するものはクリストの、――或はあらゆるクリストの天才的利己主義を理解するものである。
[#地付き](「西方の人」23 ラザロ)
我々は唯茫々とした人生の中に佇んでゐる。我々に平和を与へるものは眠りの外にある訣はない。あらゆる自然主義者は外科医のやうに残酷にこの事実を解剖してゐる。しかし聖霊の子供たちはいつもかう云ふ人生の上に何か美しいものを残して行つた。何か「永遠に超えようとするもの」を。
[#地付き](「西方の人」35 復活)
平和に至る道は何ひともクリストよりもマリアに学ばなければならぬ。マリアは唯この現世を忍耐して歩いて行つた女人である。
[#地付き](「続西方の人」11 或時のクリスト)
或はクリストの母だつたと云ふ以外に所謂ニウス・ヴアリユウのない女人である。
[#地付き](「続西方の人」11 或時のクリスト)
クリストは名高いジヤアナリストになつた。しかし時々大工の子だつた昔を懐がつてゐたかも知れない。
[#地付き](「続西方の人」14 孤身)
[#ここで字下げ終わり]
これらは芥川がむきで、素直で、しかも天才的な片鱗を隠さなかったときの文脈である。つまり本気でじぶんのうちに「永遠に超えようとするもの」を凝視しているときの。皮肉も冷眼も自嘲も入りこませず、しかも他者にたいする面映ゆさをも押し切ったところで書かれている。その意味で芥川が養父母や近親にどんな〈聖性〉を与えようとしたかが痛いほどつたわってくる。東京府退職官吏の、つましい体裁ばかり飾った(養)父にたいする苦い愛憎は、そのまま自己愛憎の投射にすぎないが「クリスト」の「永遠に超えようとする」意志に父性をみた芥川は、そこまで父を聖化してみせずにはいられなかった。それはまた聖化されたじぶんをみたいという願望であった。おなじように「マリア」を芥川は聖母という表象、つまり神性を生みだす「永遠に女性なるもの」から、ただ「永遠に守らんとするもの」つまり愚かな慈母の表象にかえた。彼女は新約書のなかで芥川のいう「クリスト」から〈わが母とは誰ぞ〉とよそよそしく否まれる近親の象徴であった。「超えようとするもの」をいつも「守らんとするもの」のほうへひき戻そうとする存在であった。だが平和に至るにはそれ以外にない存在でもある。また同時に「クリスト」のまえにラザロの姉妹たちが現われれば息子に捨てられて顧みられない存在でもある。芥川はここでは「大導寺信輔の半生」や「或阿呆の一生」で描いたみすぼらしい父母を、「マリア」的なものとして昇華し同時に、じぶんにある「クリスト」的なものに与える影響をも聖化してみせた。実際に「西方の人」や「続西方の人」に解釈された「クリスト」像は新約書の主人公とは関わりないといってよい。また芥川自身のイエス像にすらなっていない。ただ芥川のうちにある父性「永遠に超えようとするもの」、つまりじぶんの現状を超えようとする渇望の象徴にほかならない。また「マリア」は母性的なもの、近親的なもの、また「永遠に守らんとするもの」、あるいは現状の平安にいつまでも居住したい盲目的な温和の象徴として使われている。わたしたちが芥川にいだくすべての欠陥、つまり嫌味、軽薄、衒学趣味、俗物性、小賢しい計算、心ない小利口さといった卑小さにもかかわらず、かれに真の文学者がもつ天才性、人格的な卑小さも押しとどめたりねじ曲げたりできない生真面目な驀進性を、ここにみることができる。だが「西方の人」や「続西方の人」に仮托された文学と理想との一致した調和を生きることは、芥川にはできなかった。げに心は熱しても肉体は弱かったとでもいおうか。あるいは肉体は熱しても心は弱かったといおうか。じぶんの歪みと不協和音のすべてを、出生や境涯に帰したとき「マリア」的にかれをひき戻そうとする絆に、弱々しい微笑とその裏にある憎悪をまじえて、冷やかな心臓と理智の「人工の翼」を用意しなければならなかった。「人工の翼」がどう作用したかはやや抒情的に語られた芥川の言葉にある。
[#ここから2字下げ]
人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴオルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。
彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれた為にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人も忘れたやうに。……
[#地付き](「或阿呆の一生」十九 人工の翼)
[#ここで字下げ終わり]
「人工の翼」をヴォルテールから得たと「彼」はいう。そもそも芥川の口からヴォルテールの名がとびだしてくるのは、ラクダの口から馬の嘶きをきくように不協和ではないか。ましてわたしがそれを挙げつらうのはお門違いというべきかもしれぬ。だが芥川はヴォルテールの思想が問題ではなかったのだ。人間の生涯に出あうことはどれも相対的なもので、のめり込むよりも冷静に眺めて揺れないのがいいと囁やくものならば誰でもよかったのだ。この現実の社会は「現にあるより以外ではあり得ない」のだから「すべからく一切万事最善である」というパングロスの哲学を教えこまれ、それを信じ切ったカンディイドが、つぎつぎにその哲学を打ち砕かれながらなおも、万事よしと解釈してあるくその皮肉さで現実を視る眼を教えてくれるなら、それを芥川のヴォルテール体験といってよかった。ヴォルテールの思想はべつに「易やすと空へ舞ひ上」ったり、どこまでも現実から飛翔して「人工の翼を太陽の光りに焼かれ」ることを教唆していない。ただ芥川は、出生や境涯の問題をそのままにおいて知的に無限上昇してゆくじぶんを倫理的に冷たくつきはなす眼を、ヴォルテールから受けとったといっているだけだ。さらにうがっていけばヴォルテールから現実社会が絶対視すべきものではないという批判精神の由緒を学んだとかれはいいたかった。「ヴオルテエルの家の窓」から高い山を見上げた、氷河のかかった山の上には人影もみえなかったが、背の低い露西亜人(レーニン)がひとり執拗に山道をのぼっていたという「英雄」の項は、修辞的感情以上には信じられないが「カンデイイド」の哲学者から受けた「人工の翼」というところまでは信じてよいような気がする。
芥川は理智と冷眼によって「人生の歓びや悲しみ」をそれほど笑殺し去ったわけではない。この意味では「彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。」という記述は、修辞的願望を誇張してみせただけだったろう。むしろみすぼらしい町々の奥に、申し分のない近親者に囲まれてまことに近親愛憎的な稠密な世界を巣造りして住いながら、そういう温和な仮面の上に理智や反語をうわ乗せしたとでもいえば、やや芥川の実像に近いかもしれなかった。
[#ここから2字下げ]
彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。
彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。
[#地付き](「或阿呆の一生」三 家)
彼は結婚した翌日に「来※[#「勹<夕」]々無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま……
[#地付き](「或阿呆の一生」十四 結婚)
信輔はもの心を覚えてから、絶えず本所の町々を愛した。並み木もない本所の町々はいつも砂埃りにまみれてゐた。が、幼い信輔に自然の美しさを教へたのはやはり本所の町々だつた。彼はごみごみした往来に駄菓子を食つて育つた少年だつた。田舎は――殊に水田の多い、本所の東に開いた田舎はかう言ふ育ちかたをした彼には少しも興味を与へなかつた。それは自然の美しさよりも寧ろ自然の醜さを目のあたりに見せるばかりだつた。けれども本所の町々はたとひ自然には乏しかつたにもせよ、花をつけた屋根の草や水たまりに映つた春の雲に何かいぢらしい美しさを示した。彼はそれ等の美しさの為にいつか自然を愛し出した。尤も自然の美しさに次第に彼の目を開かせたものは本所の町々には限らなかつた。本も、――彼の小学時代に何度も熱心に読み返した蘆花の「自然と人生」やラボツクの翻訳「自然美論」も勿論彼を啓発した。しかし彼の自然を見る目に最も影響を与へたのは確かに本所の町々だつた。家々も樹木も往来も妙に見すぼらしい町々だつた。
[#地付き](「大導寺信輔の半生」一 本所)
[#ここで字下げ終わり]
芥川における近親的なものの卑小な、濃密な拘束力と、貧弱な出生の地の街並のみすぼらしい景観にたいする愛着は、生涯かれの飛翔が「太陽へ登つて行」くことをひきとどめたものであった。ひと思いに妨げたものだったといい切れたなら、芥川のあらゆる問題は生じなかったかもしれぬ。どんな「人工の翼」も身につけようとすればできる都会で、濃密な心情の拘束力と貧弱な景観や生活とが結びついて芥川を苦しめた。芥川が「ごみごみした往来に駄菓子を食つて育つた」ことに野太い素っ直な愛着を表白できる心性だったらというのは、あまりに佗しい無いものねだりである。小心で体面や世間態のために憤死にも狂気にも至りかねない養家の虚飾の性格がそうさせなかった。人生は芥川がかんがえたよりももっと、野太く深い世界に触れることができる場所だといっても、どうすることもできなかった。かれの過敏な神経と鋭敏な頭脳は、少年期をすぎるとすぐに知識がひとつの〈富〉であり、しかも「ごみごみした往来に駄菓子を食つて育つた」ものには、いったん背負い込むとまことに厄介な〈富〉であることに気づいたにちがいない。たとえば文学上の同僚だった久米正雄や菊池寛にとっては出生を忘れることは故郷を忘れることと同義であり、出生を思い立つことは故郷を思い立つことと同義でありえた。またやや文学上の先達であった志賀直哉や谷崎潤一郎にとって出生はかれらの文学の自然な感性的な基礎でありえた。しかし芥川龍之介にとってもともと故郷とは出生そのもののほかどこにもなかった。自己の感性的な基礎を忘れて「人工の翼」につく以外に出生を忘れる時間はなかった。また逆に出生や近親に深く惹かれるとき知識は、捨てることもそのまま増殖させることもできない厄介な〈富〉にほかならなかった。財貨は施すことも蕩尽することもできる。だが知識は施すことも費して蕩尽することもできない。芥川がどこからみても及び難い師とかんがえた漱石には〈知識的人間〉〜〈倫理的人間〉というものの根柢に、微かに〈存在的人間〉という生活的抽象の影を認めることができる。けれど芥川には〈知識的人間〉〜〈生活的人間〉の向う側へ〈知識的人間〉を絶えず超えていこうとする観念は漂っているが〈生活的人間〉を救抜すべき概念、いわば漱石にあった生活的存在感のようなものはどこにもなかった。
芥川はきわめて初期に、すでにこの問題に気付いていたとおもえる。結婚直前の許婚者恂{文子あての書簡をみると「えらい女―――小説をかく女や画をかく女や芝居をかく女や婦人会の幹部になつてゐる女や――は大抵にせものですえらがつてゐる馬鹿ですあんなものにかぶれてはいけませんつくろはずかざらず天然自然のままで正直に生きてゆく人間が人間としては一番上等な人間ですどんな時でもつけやきばはいけません」(大正五年)、「文ちやんは何にも出来なくていいのですよ 今のまんまでいいのですよ そんなに何でも出来るえらいお嬢さんになつてしまつてはいけません そんな人は世間に多すぎる位ゐます 赤ん坊のやうでお出でなさいそれが何よりいいのです」(大正六年九月十九日)、「大抵の事は文ちやんのすなほさと正直さで立派に治ります それは僕が保証します 世の中の事が万事利巧だけでうまく行くと思ふと大まちがひですよ、それより人間です ほんとうに人間らしい正直な人間です それが一番強いのです」(大正六年九月二十八日)、こういう種類の脱知識の言葉を婚約者にむかってしきりに繰返している。また、こういう文面もある。「ボクはすべて幸福な時に、一番不幸な事を考へます さうして万一不幸になつた時の心の訓練をやつて見ます その一つは文ちやんがボクの所へ来なくなる事ですよ。(そんな事があつたらと思ふだけです。理由も何もなく。)それから 伯母が死ぬ事です。この二つに出会つても ボクは取乱したくないと思ふのですね。が、これが一番むづかしさうです。もし両方一しよに来たら、やり切れさうもありません。」(大正六年十月九日)これをみれば、結婚した翌日に無駄費いしては困ると新婦に小言をいい、その小言は伯母の指し金だったという「或阿呆の一生」の記述は芥川自身が塗っている色彩とはちがって、濃密な近親的な親和のエピソードとうけとることもできる。独身に終始した伯母とのエロスの領域まで侵入してくるような愛憎の塊りは、妻との関係をも幾分か兄妹的なものに変質させたにちがいない。それとともに芥川の性格に男女の問題について抜き難い甘えの領域をつくりだした。だが芥川が近親的な異性の領域に求めたものは、おおよそ人工的なもの、作為に類するもの、知識に上昇するもの、虚飾と知的な虚栄などとまったく反対なものだったことが判る。才学もなく特性もなく冴えたものもないただのとり柄のない女だという許婚者の尻ごみにたいして、しきりにそれでいいのだしそう思えるということが素晴しいことなのだと説いている芥川は、申し分のない謙虚な美しい人柄をみせている。たぶんこれは独身の伯母にたいしてもそうだったし、養父母にもそういう貌をみせつづけたとおもえる。あるいはすこしの誇張もなく〈近親的なもの〉のすべてにたいし、かれは謙虚で優しく行儀のよい男子だったかもしれなかった。
[#ここから2字下げ]
僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と言ふよりも言ひ得なかつたのである)僕はこの養父母に対する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。今、僕が自殺するのも一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろ夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟気違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。
[#地付き](遺書「小穴隆一氏へ」)
[#ここで字下げ終わり]
いかにも幼なく可愛らしく素直な告白である。まるで無謀な説教を喰わせる父親のまえで、かしこまって傾聴している息子のように。父親が貧しいので進学をあきらめて、丁稚奉公にでかける息子のように。ここでは芥川はそう作られるまえに自ら作ってしまった人間のようにみえる。
芥川が我儘らしい我儘とやらをいったことはなく〈近親的なもの〉に大人しい逸脱のない行儀よい男に終始したのは、たぶん養子の身を遠慮したからではない。はじめから母の狂気のために肉親から見離されたという負い目を感じたため孤独だったからである。そのために〈肉親的なもの〉を理解できず、いちばん親しく自然なものでも〈近親的なもの〉の距離にしか知らなかった。ここではせめて最後の我儘くらい叶えてやりたいと、誰でも思うほどである。この思いもかけぬ芥川の貌はかれの童話作品にだけ秘されたものかもしれなかった。
処女作「鼻」が漱石にほめられたことは芥川の文学的な方向を決定するのに力があった。漱石にほめられるということが、小説を書きはじめた青年にどれだけおおきな意味をもったか量り知れないものがあった。花袋をセンチメンタルな風景画家というほか取柄がないと馬鹿にし、武者小路実篤にわずかに理想主義の炎を感ずるほかに、同時代の日本文学にさほどの関心をしめさなかった生意気盛りの芥川にとって、その文学はともかくも、才学ともに自身の持物を包摂しうるとおもったのは鴎外と漱石とであった。また特異な衣装師という意味で谷崎潤一郎があったかもしれない。またゆるぎない感性的自然の体現者ということで志賀直哉がいたかもしれない。けれどある距離に近づいたときすべてに及びがたいとおもえたのは鴎外と漱石しかいなかったろう。芥川の花袋にたいする冷笑のようなものは、このある距離に近づいたところからは正鵠を射ている。しかし芥川が退屈だと一蹴している花袋の「妻」や「田舎教師」に及ぶだけの作品を、かれがどれだけもっているか心もとないことになる。ある作品のインテグレーションを知り尽くすには時間と場所の距離を巧みに量ることが必要になる。ただこの距離を主観的に無限に詰めていったとき芥川を畏怖させたものは、ただ、漱石だけがもっていたかもしれない。
[#ここから2字下げ]
「この頃久米と僕とが、夏目さんの所へ行くのは、久米から聞いてゐるだらう。始めて行つた時は、僕はすつかり固くなつてしまつた。今でもまだ全くその精神硬化症から自由になつちやゐない。それも唯の気づまりとは違ふんだ。さつき着物の例を出したから、その例をもう一度使ふと、つまり向うの肉体があんまりよすぎるので、丁度体格検査の時に僕の如く痩せた人間が、始終感ず可く余儀なくされるやうな圧迫を受けるんだね。現に僕は二三度行つて、何だか夏目さんにヒプノタイズされさうな、――たとへばだ、僕が小説を発表した場合に、もし夏目さんが悪いと云つたら、それがどんな傑作でも悪いと自分でも信じさうな、物騒な気がし出したから、この二三週間は行くのを見合せてゐる。人格的なマグネテイズムとでも云ふかな、兎に角さう云ふ危険性のあるものが、あの人の体からは何時でも放射してゐるんだ。だから夏目さんなんぞに接近するのは、一概に好いとばかりは云へないと思ふ。我々は大人と行かなくつても、まあいろんな点で全然小供ぢやなくなつてゐるから好いが、さもなかつたら、のつけにもうあの影響の捕虜になつて、自分自身の仕事にとりかかるだけの精神的自由を失つてしまふだらう。兎に角東京へ来たら、君も一度は会つて見給へ。あの人に会ふ為なら、実際それだけにわざわざ京都から出て来ても好い位だ。――」
自分は当時菊池へ宛てて、こんな手紙を書いた事があつた。
[#地付き](別稿「あの頃の自分の事」)
[#ここで字下げ終わり]
芥川は漱石に具わったカリスマ的な吸引力を直ぐに洞察している。だが漱石のほうは芥川の「鼻」をどう読んだのか。若いほとんど出来立ての青年の作品としては文章と構成とがしっかりと老成していた。どこにも危ないところはなかった。また古典をアレンジする才能も出来上っていた。この種の作品を以前にもとめるとしたら鴎外の史伝物しかない。鴎外のようなゆるぎない史眼はないにしても、解釈の新しいきらめきがあった。或ル事ニツイテノ願望ヲ自尊心ノ仮面ニ患ワサレテイイ得ナイトキニ他人ガソノ願望ニ触レルコトニヨッテ、人間ハハジメテイイ出スコトガデキル。ダガ自尊心ハジブンノ処理法ヲ解決デキナイ。ナオ他人ガ自尊心ニ抵触シナイ回路ヲツケテ願望ヲ解キ放ッテ呉レルコトヲ求メル。これが「鼻」の第一のテーマだとしよう。第二のテーマは、人間ハ他人ノ不幸ニタイシテ同情ヲ寄セテ、ソコカラ脱出スルコトヲ援助スル気持ニナル。ケレド他人ノ不幸ハナゼカ快感ニ似タ感情ヲ伴ウ。更ニイエバ他人ガ不幸ニアルトハシャギタイ心ガワクガ、ソレヲ脱出スルト物足リナク感ズルコトガアル。マタ人ハジブンノ不幸ヨリモ他人ノ同情ガ欲シイトイウ倒錯ニ陥ルコトガアル。こういうことになるかもしれない。この第一主題も第二主題も芥川の創見にかかわらない。様式は鴎外やアナトオル・フランスの歴史小説から学び、認識はラ・ロシュフコオの『箴言』から借りたものであったといってよい。ようするに「この書斎の中が、混沌たる和漢洋の寄せ物であるが如く、その頃の(或は今でも)自分の頭の中には、やはり和漢洋の思想や感情が、出たらめに一ぱいつまつてゐた。」その頭の中からの組合せであった。
「鼻」の手法はすでに、「羅生門」で手に入れていた。「羅生門」が「六号批評にさへ上らなかつた」ことは芥川には不満であった。というよりも友人間での不評とともにむしろ不安で、もともと創造に不得手な知的趣味人ではないかと思ったくらいであった。芥川はたぶん「羅生門」で得た手法と古典説話の処理法の新しさを信じていたにちがいない。まったく現代的な主題を描くために古典の語りのパターンを使う。いきおい昔の衣裳を着た昔の風物や習慣や風俗のなかの登場人物が、内面の動きだけはまったく近代的にあらわれ、近代的な心理解剖さえやってのけていることになる。このちぐはぐな矛盾を救抜しているのは、古典物語(このばあい『今昔物語』)のうちから、現代にも共通に通用するパターンを発見するという作業に芥川の独自性があるからである。鴎外の歴史小説が、史実にあたうかぎり忠実に、を心掛けたとすれば、古典の語りのパターンのうちから近代性に耐える骨格を発見して組み替えるというところに「羅生門」や「鼻」の本領があった。もちろんこれだけのことなら「青年と死」や「仙人」のような作品でもやっていたし、新人らしからぬ古典の知識や勉強のほどは充分に示されていたのである。「羅生門」で小説開眼をやってのけたとすれば「作者」という第一人称概念を作り物の世界に割り込ませることで、登場人物の心理の精密描写を可能にしたことであった。
[#ここから2字下げ]
作者はさつき、「下人が雨やみを待つてゐた」と書いた。しかし、下人は雨がやんでも、格別どうしようと云ふ当てはない。ふだんなら、勿論、主人の家へ帰る可き筈である。所がその主人からは、四五日前暇を出された。
[#地付き](「羅生門」)
これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふ事を意識した。さうしてこの意識は、今までけはしく燃えてゐた憎悪の心を、何時の間にか冷ましてしまつた。後に残つたのは、唯、或仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。
[#地付き](「羅生門」)
しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或勇気が生まれて来た。それは、さつき門の下で、この男には欠けてゐた勇気である。さうして、又さつきこの門の上へ上つて、この老婆を捕へた時の勇気とは、全然、反対な方向に動かうとする勇気である。下人は、饑死をするか盗人になるかに、迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死などと云ふ事は、殆、考へる事さへ出来ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
[#地付き](「羅生門」)
[#ここで字下げ終わり]
鴎外の史伝物ならば「下人が雨やみを待つてゐた」と書くだけでよい。しかしそれで済ますために、鴎外ならば同時代の日録の類を漁って当日が雨であったかどうかを確認する手つづきを踏んだにちがいない。また史眼に忠実に史実を取捨するために、任意とおもわれるような描写を極力排除したにちがいない。そこで「下人が雨やみを待つてゐた」という任意性のおおい描写ははじめからしないということが起こりうる。この意味では芥川の歴史物はいやおうなく歴史概念の解体を暗示するものであった。「作者」が割り込んでくるのはそのひとつの象徴であるともいえた。しかしこれによって視てきたような細密描写がはじめて可能となった。「作者」が貌を出すにしろ出さないにしろ、芥川の歴史物の文体は、表現に登場した〈第一人称〉の眼からの描写という位相をもっている。この位相のために下人や平安貴族や武士が現代知識人ふうの口を利いても心理的臆測を働かせても読むに耐えたのである。
なぜ古典に取材したかについて「羅生門」と「鼻」にひっかけて「自分は半年ばかり前から悪くこだはつた恋愛問題の影響で、独りになると気が沈んだから、その反対になる可く現状と懸け離れた、なる可く愉快な小説が書きたかつた。そこでとりあへず先、今昔物語から材料を取つて、この二つの短篇を書いた。」(「あの頃の自分の事」)と、後に述べている。この主旨はべつの所でも繰返している。
[#ここから2字下げ]
歴史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠実でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道徳上の特色のみを主題としたものもあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女関係の考へ方でも、現代のそれとは大分違ふ。其処を宛然作者自身も、和泉式部の友だちだつたやうに、虚心平気に書き上げるのである。この種の歴史小説は、その現代との対照の間に、自然或暗示を与へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラドもこれである。
しかし日本の歴史小説には未だこの種の作品を見ない。日本のは大抵古人の心に、今人の心と共通する、云はばヒユマンな閃きを捉へた手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?
[#地付き](「澄江堂雑記」九 歴史小説)
「昔々」と云へば既に太古緬※[#「しんにゅう+貌」、unicode9088]の世だから、小指ほどの一寸法師が住んでゐても、竹の中からお姫様が生れて来ても、格別矛盾の感じが起らない。そこで予め前へ「昔々」と食付けたのである。
所でもしこれが「昔々」の由来だとすれば、僕が昔から材料を採るのは大半この「昔々」と同じ必要から起つてゐる。と云ふ意味は、今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現する為には、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日この日本に起つた事としては書きこなし悪い、もし強て書けば、多くの場合不自然の感を読者に起させて、その結果折角のテエマまでも犬死をさせる事になつてしまふ。
[#地付き](「澄江堂雑記」三十一 「昔」)
しかしお伽噺と違つて小説は小説と云ふものの要約上、どうも「昔々」だけ書いてすましてゐると云ふ訳には行かない。そこで略時代の制限が出来て来る。従つてその時代の社会状態と云ふやうなものも、自然の感じを満足させる程度に於て幾分とり入れられる事になつて来る。だから所謂歴史小説とはどんな意味に於ても「昔」の再現を|目的《エンド》にしてゐないと云ふ点で区別を立てる事が出来るかも知れない。――まあざつとこんなものである。
[#地付き](「澄江堂雑記」三十一 「昔」)
[#ここで字下げ終わり]
この主張は芥川の歴史物の性格をじぶんでいいあてている。ある意味では「昔々」から出発して歴史小説の理念へ近づこうとしていったともいえよう。けれど一方で「時代と場所の制限をうけない美がある」(『エピキュールの園』)と信じたがっているが、そういうものがありうるかという疑念をもっているかぎり、歴史物はいずれ捨てられねばならない。あるいはただ「時代と場所の制限をうけない美」を目指すためにのみ、意識的に「時代と場所」を制約するという以外に歴史物を書くいわれはなくなるはずである。そして事実の示すところによれば「孤独地獄」から「芋粥」へと作品のなかに割り込んだ〈第一人称〉はますます自在に跳梁し、自在な意見をふりまくようになっていった。またそれとともに「僕も告白をせぬ訳ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の体験の告白である。」といっている内容上の自己投入の度合と、その質の問題も起こった。
この歴史物語のなかでの〈第一人称〉の跳梁と内容的な自己投入の度合とは、もともと表裏一体をなすものである。
[#ここから2字下げ]
一日の大部分を書斎で暮してゐる自分は、生活の上から云つて、自分の大叔父やこの禅僧とは、全然没交渉な世界に住んでゐる人間である。又興味の上から云つても、自分は徳川時代の戯作や浮世絵に、特殊な興味を持つてゐる者ではない。しかも自分の中にある或心もちは、動もすれば孤独地獄と云ふ語を介して、自分の同情を彼等に注がうとする。が、自分はそれを否まうとは思はない。何故と云へば、或意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである。
[#地付き](「孤独地獄」)
[#ここで字下げ終わり]
こんな一節が作品のなかに割り込めることと、作品のなかで禅僧禅超が「一切の事が少しも永続した興味を与へない。」メランコリーの地獄に堕ち込む描写の近代性や自己告白性は無関係でありえない。そしてこの歴史物の形式と内容とが相乗的に解体してゆく表裏一体の緊密さは、あたかも芥川における物識り的な虚構と心情的内実との矛盾した関係に、あるいは生活的な〈構え〉と倫理的な誠実さとの矛盾した関係に相似しているといえなくはなかった。
たとえば「さまよへる猶太人」には書物から得た知識によって慥えあげた虚構性と、そういう衒学的な虚構に仮托する限界がありありとうかがえる。偽文書をフィクションでつくりあげ、実在しない文書と知りつつ(知らないばあいも)惹き込まれてゆく虚構の面白さに、作品の狙いがつけられているのに、読者が感ずるのは作者の衒学趣味と韜晦の行き詰りのようなものである。そしてこの行き詰りはあたかも作者の人性的な行き詰りの感さえ与える。これは作者が偽文書を実在のようにみせる手腕が読者にはすぐに見破れる程度のものだという感じとはちがう。偽文書まで動員して作者が語りにのめり込んでゆけばゆくほど、読者のほうは白けてしまうという矛盾を意味している。そして読者の方が白けてしまうことは作者の計量に入っていないという感じである。
たとえば「忠義」のなかで板倉修理は尖端恐怖症にとりつかれ、蒔絵の蔓や葉の浮彫りや、象牙の箸や青銅の火箸の尖のとがったのや、畳の縁の角や天井の四隅が、刃物をみつめるときのように不安と緊張を強いるようになる。
[#ここから2字下げ]
発狂――かう云ふ怖れは、修理自身にもあつた。周囲が、それを感じてゐたのは云ふまでもない。修理は勿論、この周囲の持つてゐる怖れには反感を抱いてゐる。しかし彼自身の感ずる怖れには、始めから反抗のしやうがない。彼は、発作が止んで、前よりも一層幽鬱な心が重く頭を圧して来ると、時としてこの怖れが、稲妻のやうに、己を脅かすのを意識した。さうして、同時に又、さう云ふ怖れを抱くことが、既に発狂の予告のやうな、不吉な不安にさへ、襲はれた。「発狂したらどうする。」
――さう思ふと、彼は、俄に眼の前が、暗くなるやうな心もちがした。
[#地付き](「忠義」)
[#ここで字下げ終わり]
わたしには芥川が題材の心理的な処理領域を拡大したもののように受けとれる。この作品は板倉修理の異常な心理の動きを描いてみせるという以外に意味があろうとはおもわれない。そこで芥川の歴史物における関心領域が異常心理の描写にまで拡大した徴候として解するほかないのである。おなじように「世之助の話」は西鶴の世之助物に素材をかりて、エロスと幼児の嗅覚体験のかかわりの世界へ関心が投入されたものと読みとれる。「偸盗」は沙金というコケティッシュな性悪女にあやつられる仲のいい盗賊兄弟の心理と愛憎の葛藤の世界を「或日の大石内蔵助」は世俗が勝手に仇討に托してゆく飢渇感や願望が、歪められた形で次第に膨脹し、実像から遠ざかってゆくときのわりない孤独さを、自身の作家的な評価のされ方を原型として類推させることで成立っている。キリシタン物の背教と殉教の心理描写の世界をもってきてもよい。芥川の歴史物が次第に、異常心理、エロティシズム、思想的な背教、道徳悪への関心と追及というように領域を拡げていったことは、かれの心理的な追及と関心の世界が歴史物語の虚構にかくれて大胆になっていったことを示している。しかしそれ以外のものとは読めないマンネリズムに陥ち込んでいる。よかれあしかれ芥川の歴史物の到達点は「或日の大石内蔵助」と「素戔嗚尊」に象徴させることができよう。ひとつの問題は「或日の大石内蔵助」にいちじるしいように芥川の心理解剖の通俗性が芥川的な歴史小説理念の限界と一緒に露出してきたことであった。
もはや「或日の大石内蔵助」(「将軍」については小林秀雄が、かつて決定的な批判を下したことがある)になってくれば、読者は古典人形に近代的な科白と精密心理を与えていることに感心ばかりしていられなくなる。じぶんは大石内蔵助の心境をこうは解釈しないという異議をあげたくなってくる。また、これでは史実とまったくちがうではないか、ただ講釈師の語る大石内蔵助や赤穂四十七士の義挙の一席に、近代的解釈の衣を着せただけではないかという異議が、歴史小説概念の側からも起こりうるものであった。なぜそういうことになるか。
[#ここから2字下げ]
人情の向背も、世故の転変も、つぶさに味つて来た彼の眼から見れば、彼等〔仇討から脱落したもの――引用者〕の変心の多くは、自然すぎる程自然であつた。もし真率と云ふ語が許されるとすれば、気の毒な位真率であつた。従つて、彼は彼等に対しても、終始寛容の態度を改めなかつた。まして、復讐の事の成つた今になつて見れば、彼等に与ふ可きものは、唯だ憫笑が残つてゐるだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないやうに、思つてゐるらしい。何故我々を忠義の士とする為には、彼等を人畜生としなければならないのであらう。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。
[#地付き](「或日の大石内蔵助」)
内蔵助は、かう云ふ十内の話を殆侮蔑されたやうな心もちで、苦々しく聞いてゐた。と同時に又、昔の放埒の記憶を、思ひ出すともなく思ひ出した。それは、彼にとつては、不思議な程色彩の鮮な記憶である。彼はその思ひ出の中に、長蝋燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。いや、今十内が云つた里げしきの「さすが涙のばらばら袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云ふ文句さへ、春宮の中からぬけ出したやうな、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歴々と心中に浮んで来た。如何に彼は、この記憶の中に出没するあらゆる放埒の生活を、思ひ切つて受用した事であらう。さうして又、如何に彼は、その放埒の生活の中に、復讐の挙を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味つた事であらう。彼は己を欺いて、この事実を否定するには、余りに正直な人間であつた。勿論この事実が不道徳なものだなどゝ云ふ事も、人間性に明な彼にとつて、夢想さへ出来ない所である。従つて、彼の放埒のすべてを、彼の忠義を尽す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。
[#地付き](「或日の大石内蔵助」)
[#ここで字下げ終わり]
芥川は、あるいは意識してはおらず逆に、描写が巧みになり楽になったとかんがえたかもしれないが、この文体は通俗的な作品にいつもやってくる症例をなしている。〈第一人称〉が作品に割り込んで自在さを発揮していたときの作品の時間は変質している。無意識のうちに作者である〈我〉や〈我々〉が、作品という表現の世界にいきなりやってきて支配するようになっている。この区別がわからぬ批評家に芥川の虚構の質を擁護する資格はまずあるまい。芥川はこの作品で主人公を「内蔵助」という呼び方と「彼」という呼び方で登場させている。しかしこの「内蔵助」も「彼」もまったく作者の〈我〉や〈我々〉のあやつり人形であることは「内蔵助」や「彼」の代りに「わたし」や「我々」を置き代えても、文体は殆ど(あるいは事務上の手続以外はまったく)変更する必要がないことからも明瞭である。これは試みてみれば即座に納得できるはずである。またそうするまでもなく、引用のはじめの個所で「彼」がいつの間にか「我々」に擦り代えられながら文体の転調はすこしも起こらないで済まされている。いいかえれば作者が、生まのままでいきなり作品のなかに割り込んで済ましているのだ。あらゆる通俗的な作品には生まのままの作者がいきなり物語に割り込んできたり、人称が擦り代えられても表現の位相は変らずに平気で済まされているといったことが必ず起こってくる。ここに到って芥川の歴史物は風化を遂げたといってよかった。この風化は仇討成遂後の大石内蔵助の内面の動きをとらえるのに、世評にたいする通俗的な反撥と、山科時代の遊蕩の真実さといった通俗的な解釈にしか関心をもたないところにもあらわれた。また常にはさほどの反撥を感じさせないのに、講談と寸分ちがわない大石内蔵助をじぶんで設定し、その設定にじぶんで反撥してみせるといった倫理と歴史解釈の通俗性にもあらわれたといってよい。
こういう問題は芥川の歴史物の代表作とみなしうる「素戔嗚尊」にもあらわれた。強いて尊大に課題を提起してみれば〈若い男であること〉〈醜貌であること〉〈強い膂力の持ち主であること〉という類型的な設定のもとに古代的世界の場に投げ出された主人公素戔嗚尊の描写は、わたしたちに問いかける。いったいこの主人公は、作者の思考移入や感情移入を遂げるための手段であればよいと見做されているのか? それは作者の歴史小説概念の当然の帰結であるのか? いやそうではなく神話時代の古代的世界の古代的人物を描こうとしているのか? こういう問いを改めて呼びおこさせるのはこの作品が「或日の大石内蔵助」とは別な意味で芥川の歴史物の一達成をしめす力作だからである。だがそれだけではなく主人公素戔嗚尊が、類型的な性格設定だけで内的に描写されていながら、やはり神話的古代でなければならない場所的な必然のようなものがあらわれているからである。
[#ここから2字下げ]
「何時ぞや力競べがあつた時、あなたと岩を|擡《もた》げ合つて、死んだ男がゐたぢやありませんか。」
「気の毒な事をしたものです。」
素戔嗚は何となく、非難でもされたやうな心もちになつて、思はず眼を薄日がさした古沼の上へ漂はせた。古沼の水は底深さうに、まはりに芽ぐんだ春の木々をひつそりと仄明るく映してゐた。しかし思兼尊は無頓着に、時々蕗の薹へ鼻をやつて、
「気の毒ですが、莫迦げてゐますよ。第一私に云はせると、競争する事が既によろしくない。第二に到底勝てさうもない競争をするのが論外です。第三に命まで捨てるに至つては、それこそ愚の骨頂ぢやありませんか。」
「しかし私は何となく気が咎めてならないのですが。」
「何、あれはあなたが殺したのぢやありません。力競べを面白がつてゐた、外の若者たちが殺したのです。」
「けれども私はあの連中に、反つて憎まれてゐるやうです。」
「それは勿論憎まれますよ。その代りもしあなたが死んで、あなたの相手が勝負に勝つたら、あの連中はきつとあなたの相手を憎んだのに違ひないでせう。」
「世の中はさう云ふものでせうか。」
その時尊は、返事をする代りに、「引いてゐますよ」と注意した。
素戔嗚はすぐに糸を上げた。糸の先には山目が一尾、溌溂と銀のやうに躍つてゐた。
「魚は人間より幸福ですね。」
尊は彼が竹の枝を山目の顎へ通すのを見ると、又にやにや笑ひながら、彼には殆ど通じない一種の理窟を並べ出した。
「人間が鉤を恐れてゐる内に、魚は遠慮なく鉤を呑んで、楽々と一思ひに死んでしまふ。私は魚が羨しいやうな気がしますよ。」
[#地付き](「素戔嗚尊」)
[#ここで字下げ終わり]
これは素戔嗚尊と部族の長老で学者詩人で呪術師を兼ねた思兼尊とが釣をしながら交している会話である。たれもこれが神話時代の人物どうしの会話が忠実に再現されているとはかんがえない。それならば素戔嗚尊も思兼尊も作者の思考や感情が入魂された人形で、ほんとうはAとBであれば差支えないものなのか。そうかんがえると「或日の大石内蔵助」の内蔵助とちがって、近代的な心理解剖の点でとうてい素戔嗚尊も思兼尊も心理的な細密さに耐えない。もちろん芥川はそんなことは充分承知のうえで人物造型をやっている。また神話的古代の部落がかくあっただろうという芥川なりの想像力を発揮して背景を点綴することも忘れてはいない。けれど神話的古代の背景や人物の想像的再現が作品の主たるモチーフではない。またその意味では考古学者も近代心理主義文学者も、共に失笑するほかないだろう。けれどこの作品に魅力があるとすれば、型(パターン)としての人物性格が強力に造型され、そこに作者の思考や感情の移入さえ感じさせるからである。また型(パターン)としての古代村落世界とその群像の点綴があたうかぎり強力に押し出されているからである。〈若く〉〈醜貌〉で〈膂力ある〉〈優しい〉男が、現代的な社会の制約がない神話的古代の場所と時間におかれたら、かく思いかく振舞っただろう典型のように素戔嗚尊が造型されているからである。しかし同時に「或日の大石内蔵助」などとは別な意味で、もはやこれまでという限界を感じさせるものとなっている。作者や読者に現代的な心臓が鼓動しているかぎり、この種の型(パターン)としてどれだけ性格や心理の造型が巧みになされたとしても、逆に歴史的背景と時代との大きな限定が、必然的に空虚さをあたえるだろうからである。じじつ「素戔嗚尊」の与えるものは巧い細工物が与える感銘とおなじで、人間は古代にはどうであったか、現在どうであるかまったく予測もなにもつかないところで人間であるという認識に耐えるような人間は、もはや芥川の歴史物の世界に登場できないものとなっている。人間認識が型(パターン)としてしか生かされないか、あるいは近代心理を入魂した人形としてしか生きられない世界として完成に近くなった。ちょうどそのところで歴史物が芥川には桎梏になったにちがいなかった。
芥川の作品には精巧に作られているのに砂漠のような無感情に乾いた心性といった要素がいつもつきまとっている。それとともに度外れた生真面目な誠実さ、人間の教師でなければいられない不可避な衝迫力のようなものがあった。芥川に掛値のない自己資本があるとすればこれくらいしかなかった。あとは歴史的に仮托しながら次第に拡大していった型(パターン)としての人間心理への洞察であった。
芥川的な作品ということでいつもわたしたちが当面するのは資質や才能や作品造型力の貧富の問題ではない。その意味ではかれの作品は概して骨ばって貧弱であり、才能は豊饒に開花しているよりも、理張って筋ばかり目立っている。つまりもってうまれた作品の質はそれほど満ちあふれた余香をもっていない。ただその作品の質を常人の限度を超えてつきつめようとする衝迫力と、自身にも不可抗力のようなものだったろうその力が与える悲劇的な匂いのようなものに芥川的作品は本質をおいている。
「忠義」     「二つの手紙」
「世之助の話」  「開化の殺人」
「偸盗」     「開化の良人」
「袈裟と盛遠」  「蜜柑」
「地獄変」    「疑惑」
「藪の中」    「妙な話」
大正六年から十年ころまでに書かれた印象の強い同時期の作品を歴史小説と現代小説とに振り分けてみると、歴史物から現代物への一種の〈乗り継ぎ〉が想定される。〈乗り継ぎ〉という比喩をもっと説明してみる。ひとつの機関車に牽引された列車がどういうメカニズムでそうなるのか、切り替えによって接続駅の引込み線路に誘いこまれる。しばらく操作が噛み合っているうち、列車の中味はそのままなのに、まったく別の機関車が牽引してもとの軌道に入り発車してゆく。こういう〈乗り継ぎ〉が成立するためには、同じ線路に滞留するだけの〈接続駅〉が存在しなければならない。またもうひとつ列車の中味が共通でなければならない。このばあい滞留する〈接続駅〉ともいうべきものは、芥川にとって語り的な虚構の意識の崩壊であった。たしかに芥川は初期から歴史物と現代物とを、ちょうど近松の時代物と世話物のように同時に書き分けてきている。けれどいずれにせよ虚構の意識の崩壊に直面したのは、この〈乗り継ぎ〉の時期であった。何がこの虚構性を崩壊に導いたか。わたしたちは実生活にその要因をつきとめることはできない。強いて関連づければ小穴隆一宛の遺書のなかで「その中でも大事件だつたのは僕が二九歳の時に□夫人と罪を犯したことである」といういい方で象徴されている恋愛関係であったかもしれぬ。だが直接には〈乗り継ぎ〉の折の列車の中味とは意味がちがう。〈乗り継ぎ〉時期の歴史物と現代物とに共通する内容を、ひと口にいってみれば異常心理や男女間の不信や疑惑や不安についての強烈な関心であった。極端なばあいには妄想や幻覚への執着であり、また男女の三角関係についての文明史的なこだわりであった。これを〈乗り継ぎ〉への必然的な経路とみれば、歴史的な物語の虚構に仮托すべき心的な領域としては拡大できるだけは拡大しきって、もはや飽和点に達したことかもしれなかった。別のいい方をすれば虚構に托すべき心的な世界としてはデカダンスの極に達したといえる。もちろんべつな見方もできる。「忠義」のような異常心理や「偸盗」や「袈裟と盛遠」のような男女のあいだの心的なデカダンスや疑惑や背信の心理に強い関心をよせたとき、もはや関心の所在そのものが現代的な課題にほかならず、歴史物語に仮托すべき必然がなくなったのだというように。さらにうがった見方をすれば、恋愛のデカダンスに体験的に近づいた芥川には、異常な心的世界と男女のあいだの疑惑や不信の心理が、裏と表から如実な実惑になってやってきた。そのために、歴史物語に仮托する余裕も必然もなくなった。
歴史物から現代物への〈乗り継ぎ〉の引込線路の場所をいま「二つの手紙」あたりに求めるとしよう。この作品は佐々木信一郎という私立大学の教師が、ドッペルゲンゲルの現象に悩まされた挙句、被害妄想に陥って妻を失踪させるにいたる過程を、手紙のかたちで警察署長に訴える体裁をとっている。内容の特異さにくらべれば作品の出来ばえは取るにたりない。だが考えようによっては「忠義」の板倉修理の心理も「偸盗」のひとりの女を挿んだ太郎二郎の心理も「袈裟と盛遠」の夫渡左衛門尉が袈裟にたいして抱く疑惑と不信の心理も、その原型をこの作品に投射し、念写しているともいうことができよう。もっとうがってゆけば、自殺の直前に芥川自身が陥ち込んだ疑惑や不安の強迫神経の症状は、この作品に予言されているといってもよい。あるいはすでに体験的な徴候をもとにして書かれたといいたい気がしてくる。芥川にこの主題を強いたものは、かれに歴史物の世界からの離脱を強いたものとおなじであった。その世界はまた「僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの気違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。」(「闇中問答」というときの師漱石の強い気狂いじみた関心につながる世界を暗示していた。同時に晩期の「歯車」や「夢」の世界にまっしぐらに繋るものでもあった。ただ「二つの手紙」は歴史物の終末の課題をそっくり受けとめて、現代物に〈乗り継ぎ〉を果たす衒学的な余裕があるにはちがいなかったのである。
「私」は妻を心底から愛し、妻も「私」を愛しているのに、世間は妻が「私」を愛していることを認めてくれず、そればかりか妻が不貞をはたらいていると風評している。「私」はそう思い込んでいるために狂っている人物である。「私」がじぶんのドッペルゲンゲルをみるのは妻に対する疑惑と不安と妄想からなのだが「私」にはそれがわからない。わからないことが「私」の病気の徴候である。はじめは有楽座の慈善演芸会へ行って、仲入りに向う廊下の壁によりかかるように立っている妻とその傍にこちらに背を向けて立っている第二の「私」を認める。「私」がこの体験を忘れ去ろうとしたころもう一度つぎの第二の「私」があらわれる。訪ねてきた旧友と一緒に駿河台下へ食事に出て、妻と一緒にいる第二の「私」を視とどける。
[#ここから2字下げ]
その時の私には、大時計の白い盤が、雪をもつた、鉛のやうな空を後にして、ぢつと動かずにゐるのが、何となく恐しいやうな気がしたのでございます。或は事によるとこれも、|あの前兆《ヽヽヽヽ》だつたかも知れません。私は突然この恐しさに襲はれたので、大時計を見た眼を何気なく、電車の線路一つへだてた中西屋の前の停車場へ落しました。すると、その赤い柱の前には、私と私の妻とが肩を並べながら、睦じさうに立つてゐたではございませんか。
[#地付き](「二つの手紙」)
その日は私も、この第一の私も、鼠色のオオヴア・コオトに、黒のソフトをかぶつてゐたのでございます。私はこの二つの幻影を、如何に恐怖に充ちた眼で眺めましたらう。如何に憎悪に燃えた心で、眺めましたらう。殊に、妻の眼が第二の私の顔を、甘えるやうに見てゐるのを知つた時には――ああ、一切が恐しい夢でございます。私には到底当時の私の位置を、再現するだけの勇気がございません。
[#地付き](「二つの手紙」)
[#ここで字下げ終わり]
この場合「私」の視た第二の「私」は錯覚のことも幻覚のこともありうる。それを動かしている背後の力動性は「私」の近親憎悪と嫉妬妄想と妻にたいする不安である。このドッペルゲンゲルの描写に迫真性をあたえているのは「私」が視ているドッペルゲンゲルの実在を「私」が信じて疑わず、読者の方が妄想や錯覚かもしれないと感じさせる描写力にある。また「私」は妻がじぶんを愛して呉れていると確信しているのに、読者の方は「私」の妻にたいする潜在的な愛の不信と疑惑とが「私」にドッペルゲンゲルを視させているのだと感じさせる作者の手腕にあるといっていい。この手腕には作者の表現力や異常病理にたいする知識の外に、直接体験が存在するのではないかと思わせる節がある。いいかえれば作者のうちにある不安と疑惑感とがこの作品のモチーフを根源で動かしているのではないか。芥川には漱石の「それから」以後「こころ」までの作品がかならずや念頭に浮んでいたはずである。「私」のドッペルゲンゲルはもちろんじぶんの病識をもたないこと、妻の不貞という事実を否定して認めようとしないことのうえにあらわれるが、この自己否定は同時に妻の不貞にたいする「私」の潜在した疑惑と不安の肯定のうえにたっている。「私」の異常が進行すればするほど潜在してゆく妻への疑惑と不安は深くなってゆく。「私」はとうとう「私」の書斎で机の側に立っている妻と机の前の廻転椅子に腰かけている第二の「私」を視るようになる。しかも妻と第二の「私」は、「私」がドッペルゲンゲルの現象を記録しておいた日記をのぞき込んで読んでいる。「私」はそれを視て失神してしまう。芥川がポオやホフマンの小説からどんなに影響を蒙っているにしてもこのあたりの迫真性は体験の拡大と投射なしにはかんがえられない必然力をもっている。「私」のドッペルゲンゲルが極まったところで「私」の関係妄想が顕在化してくる推移にも非凡な識知と描写力がある。
「私」の関係妄想は、当然「妻の不品行を諷した俚謡をうたつて私の宅の前を通るもの」がいるとか「私」の同僚の一人が「新聞に出てゐる姦通事件を、私の前で喋々して聞かせ」るとか、「私」の教えている学生が教室で講義を真面目に聴かなくなり黒板に「私」と妻を戯画化する絵を描くとか、まったく未知の人たちが「私」の家の黒塀にいかがわしい落書きをしたり「私」の庭内に忍びこんで「私」と妻の様子を覗うようになったとかいうところにまで陥ち込んでゆく。そして事実は妻が「私」の異常に耐えかねて家を出たかもしれないのに「世間の圧迫に耐へ兼ねて自殺したのではないか」と妄想する「私」のちぐはぐさを描いて終っている。
「二つの手紙」のドッペルゲンゲルと関係妄想の描写がどこまで芥川の知的な追及と関心の結果であるか、どこまでが体験的なリアリティのあるところと解すべきかは、容易にきめられない。しかしここで芥川が歴史物の虚構に盛りきれない直接の不安と疑惑にさらされていたとみなすことはできそうな気がする。何となればつづく「開化の殺人」や「開化の良人」におなじモチーフは色濃く持続しているし、晩年の芥川を生理的にも人格的にも崩壊にみちびいた妄想の世界を予兆するものとなっているからである。また強いてこの二作だけを挙げる必要はない。「蜜柑」や「疑惑」や「路上」や「妖婆」のような、それにつづく時期の作品を支配しているものも、芥川の人間不信と疑惑と病的な妄想とのあいだを揺れ動く内面なしには考えられない。
「開化の殺人」や「開化の良人」のような作品をみると芥川は「二つの手紙」に象徴される男女のあいだにつきまとう疑惑や不信に内在する不安感に、倫理的な文明論的な根拠を与えようとしていることがわかる。人間の心性的な危機がはらむ道義的存立の問題は、もとより漱石を襲いつづけた最大の文学的シェーマであり、芥川はもちろん漱石とおなじところにこの課題をひき寄せようと試みてはみたのである。「開化の殺人」はドクトル北畠義一郎の遺書という形をもつ。宛名の人は、じぶんの片恋に終始した従妹の夫、本多子爵である。北畠は幼少時から恋情をいだいていた従妹明子に心のうちを打ち明けられないままに留学してしまい、帰ってみると明子は妾をもち女道楽をすることを何とも思わない成金の満村恭平の妻になっている。北畠は、女が本来的に在るよりも、遥かに昇華したところで尊重したがために一言も恋情を打ち明けることができなかった相手の従妹明子が、女が本来的に在ると北畠が考えているよりも獣的なところで明子を扱っている満村の妻になり、しかも人格を無視された扱いをされているのをみて、「単なる嫉妬の情にあらずして、寧ろ不義を懲し不正を除かんとする道徳的憤激」と信ずる動機から、満村をひそかに他殺とわからぬように謀殺してしまう。明子はそのあと相愛の本多子爵と結婚するが、北畠はじぶんの恋情を明子に打ち明けることをしないまま、本多と明子との結婚を肯定する。けれどなぜ誰のために満村をじぶんは殺したのかを自問するとき「本多子爵の為か、明子の為か、抑も亦予自身の為か。」判然としないばかりではなく、結局はじぶんが明子と結ばれたかったためだという結論に到達する。「嗚呼予は今にして始めて知る、予が子爵を殺害せざらんが為には、予自身を殺害せざる可らざるを。されど明子は如何。」という疑惑を投げて、本多子爵宛の遺書を残して自殺する。
「開化の良人」の三浦直樹は「開化の殺人」のドクトル北畠の心的な近親として設定されている。ただドクトル北畠が生涯従妹明子を美化して恋情を打ち明けることなく自殺してしまうのにたいし、三浦直樹は「僕は|愛《アムウル》のない結婚はしたくない。」とかんがえ「しかもその又彼の|愛《アムウル》なるものが、一通りの恋愛とは事変つて、随分彼の気に入つてゐるやうな令嬢が現れても、『どうもまだ僕の心もちには、不純な所があるやうだから。』」というほど結婚や女性にたいして昇華した態度を持している。やがて相愛の娘をみつけて一年ほど幸せそうに暮していたが、一年ほどたってみると三浦の様子は幽鬱そうな沈んだ影がさしている。夫人はいつの間にか女権論者の女や従弟と称する男を愛するようになって出歩くようになっている。三浦は妻を離婚する。三浦は従弟と妻との関係を結婚して間もなく知っていた。けれどじぶんが妻を愛しているように妻がじぶんを愛していないのを知って、従弟との愛情を黙認した。しかしその従弟なるものは女権論者の女とも関係があることがわかった。そこで妻を従弟から引き離そうとすると妻はたんにじぶんの好意を、嫉妬にかられた結果のようにおもうようになる。妻にもまた別の男から「艶書」が来るようになっているのを知って「|愛《アムウル》のある結婚」を至上のものとしてきた三浦は、男女の愛に絶望して離婚に踏みきってしまう。この作品は本多子爵が友人の三浦について「私」に語るという体裁がとられている。
これらの作品は芥川の女性不信と疑惑のモチーフを潜在させている。それを「開化」の問題に引き込もうとした。「開化の殺人」ではドクトル北畠の片恋いの近代性が、女性を過剰に美化したために、満村の獣的な妻妾同居的な愛と本多子爵の相愛の|程よさ《ヽヽヽ》に破れて破綻するさまを、いわば「開化」の理想化の早急さが破綻してゆく過程として象徴させているといえる。「開化の良人」では「神風連が命を賭して争つた」子供のような夢をも包摂しうるような「開化」の理想化をじぶんの結婚に夢みて女性を理想化してきた三浦が、女性の女権拡張的な相対的な近代に敗れて破鏡する過程が象徴的に描かれているとみてよい。この関心は師漱石が骨がらみになって追尋してやまないものであった。芥川もまた、じぶんに潜在する男女の三角関係に象徴される人間不信と疑惑にいわば心性の根拠を得たかったのだといえよう。けれど芥川には生活的な倫理はあったが漱石のような存在論的な倫理があったとはいいえなかった。そのために「開化の殺人」や「開化の良人」は、どう逆さに振っても漱石の「こころ」に及ばないものとなってあらわれたのである。これは「疑惑」のような「こころ」をひき写したような作品をもってきてもおなじことであった。
芥川の行き詰りの感じはこの辺りから開始されているようにみえる。そしてこの行き詰りはかれが生理的にと生活倫理的にと身にまとった人間不信や疑惑に、あるばあい不安のあまりおとずれる関係妄想の世界にどんな造型をあたえうるか、どこに向かって抜けざるかにかかっていたにちがいなかった。疑いもなく芥川の虚構と、虚構によってしか表現できなくしてしまった真実とは、このあたりから最後の課題にのめり込んでいったのである。
[#ここから2字下げ]
彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず体力も衰へはじめた。何人かの医者は彼の病にそれぞれ二三の診断を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神経衰弱、蔓性結膜炎、脳疲労……
しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!
[#地付き](「或阿呆の一生」四十一 病)
[#ここで字下げ終わり]
「胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神経衰弱、蔓性結膜炎、脳疲労……」こういう病名のいずれかにではなく、ただ心身の症状にだけ着目すれば、ドッペルゲンゲルと妄想知覚がかれにのこされた受苦に似ていた。これは耐えられるかぎりは「妖婆」のような作品に、昇華して結晶させることができた。この作品で妄想と幻覚の病的な知覚の世界は「ポオやホフマンの小説にでもありさうな」怪奇仕立に作りかえられる。それとともにやがて「玄鶴山房」へと結晶されるような下町に舞台をとった芥川の〈小説らしい小説〉のはしりともいうべき性格があらわれた。芥川はまず、幻覚と妄想によって起こりうる可能性のある識知の限界内で外界の動きをとらえることで、異常あるいは病気という概念を〈怪奇〉という概念に組み替えてみせた。これはまだ芥川が病的な崩壊を耐えているとともに、作品の構成的努力に耐えている証左と受けとることができる。また「二つの手紙」などからの展開途上の問題としていえば、ドッペルゲンゲルや関係妄想の病的な世界をそのまま投げだして物語の構成に同化させる試みにすすんだ。
[#ここから2字下げ]
すると一時恢復したやうに見えた疲労が、意地悪くまだ残つてゐたのか、新蔵は今更のやうに気が沈んで、まるで堅い麦藁帽子が追々頭をしめつけるのかと思ふ程、烈しい頭痛までして来ました。そこで気を紛せたい一心から、今まで下駄の爪先ばかりへやつてゐた眼を、隣近所へ挙げて見ると、この電車にも亦不思議があつた。――と云ふのは、天井の両側に行儀よく並んでゐる吊皮が、電車の動揺するのにつれて、皆振子のやうに揺れてゐますが、新蔵の前の吊皮だけは、終始ぢつと一つ所に、動かないでゐるのです。それも始は可笑しいな位な心もちで、深くは気にも止めませんでしたが、その内に又誰かに見つめられてゐるやうな、気味の悪い心もちが自然に強くなり出したので、こんな吊皮の下に坐つてゐるのが、いけないのだらうと思ひましたから、向う側の隅にある空席へわざわざ移りました。移つて、ふと上を見ると、今まで揺られてゐた吊皮が突然造りつけたやうに動かなくなつて、その代りさつきの吊皮が、さも自由になつたのを喜ぶらしく、勢よくぶらつき始めたぢやありませんか。
[#地付き](「妖婆」)
[#ここで字下げ終わり]
主人公の「出版書肆の若主人」である新蔵が、いいかわしたお敏を神おろしの老婆の妙な支配力からとり戻そうとして焦慮するくだりの描写である。新蔵の気分的な焦燥感と本来的には妄想か錯覚でそうみえる電車の吊皮の異変とがしっくりと結びついている。病的な現象であるべきものが、焦燥と衰弱のあまり起こりうる心の状態の暗喩になっている。
新蔵は女中に使っていたお敏とよい仲になるが、お敏はあるときから新蔵の家を出てしまう。理由がわからずに友達の泰さんから、本所辺の神おろしのお婆さんに行方を占ってもらえとすすめられて出かけると、お敏が神おろしの老婆の娘としてそこにいる。神おろしの老婆は、客の相場師がお敏を見初めて貰いたいというのに欲得ずくで納得させるためにお敏を折檻したり監視したりしているのがわかる。新蔵は泰さんとはかってお敏を誘いだそうと試みるのだが、神おろしの老婆の妙な察知力の呪縛にかかってなかなかお敏を逃げ出させることができない。最後に新蔵はじぶんが死ぬか神おろしの老婆を殺すほかないとわめいて飛び出そうとして近くの落雷で失神してしまう。おなじ雷で神おろしの老婆が死んでいたので、新蔵はお敏と一緒になることができる。下町の家並と街路を背景に、薄暗い神おろしの老婆の住家の雰囲気を湛えながら、異常心理の世界を〈怪奇〉の概念に変えることに成功している。これは芥川の体験的な病理の世界にとっては鎮魂になっているし、素材の世界としてみれば「玄鶴山房」へと結晶してゆく最初の里程標とみなすことができる。この作品に芥川の私小説としての性格をみたいならば、この濃密な下町の貧しい風物のなかに神おろしの老婆とその娘(ほんとうは姪)と本屋の若旦那とのいきさつを〈怪奇〉仕立に組みあげてみせた点にあった。
芥川自身が多少の本心と多少の嘘と生真面目さを混えて「或阿呆の一生」のなかで「病源」と称している「彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の軽蔑してゐた社会を!」という社会思想的な衣裳は「蜜柑」や「沼地」のような作品におのずから吹き寄せられた。疲労や倦怠やじぶんの出生嫌悪に由来する田舎娘や下層のものにたいする神経的な嫌悪感の正直なすさまじい表白と、自己救済を願望する切実な表白とは、「杜子春」や「蜘蛛の糸」などの童話作品と一緒に、芥川の天才的な資質の内実かもしれなかった。それも巧い言葉でいうことはできないが、芥川の天才はじぶんの人格を超えようとする願望に憑かれた心といいうるかもしれぬ。
「私」は横須賀発上り二等客車に座っていると前の席に三等の切符を大事そうに握った「田舎者らしい娘」が座る。
[#ここから2字下げ]
私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁へない愚鈍な心が腹立しかつた。
しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂鬱を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つていた。講和問題、新婦新郎、涜職事件、死亡広告――私は隧道へはいつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠とした記事から記事へ殆機械的に眼を通した。が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現実を人間にしたやうな面持ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車とこの田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、――これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛り出すと、又窓枠に頭を|靠《もた》せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
[#地付き](「蜜柑」)
[#ここで字下げ終わり]
これは常人にはないはげしく幼稚な苛立ちである。そのうえにこの作者に人格的な嫌悪をもよおさせずにはおかない小癪さがある。ここには、すこしも非凡ではなく凡人以下の病的な出来ばえを心のどこかに遺伝して生まれ育ってしまった男の宿業のようなものの正直な表白がある。芥川の病的に異常な世界を心性的にでもなく、精神病理や社会観としてでもなく、生活倫理としてぶちまけたところに、こういう「私」の神経的な苛立ちは成り立っている。
やがて小娘は「私」の迷惑におかまいなく窓をあけると外へ首をのばして踏切りの柵の向こうに三人の男の子が並んで何か喊声をあげているのに向かって、蜜柑を五つ六つばらばらと投げだした。
[#ここから2字下げ]
私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐に蔵してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報いたのである。
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落する鮮な蜜柑の色と――すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体の知れない朗な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、相不変皸だらけの頬を萌黄色の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。……
私はこの時始めて云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
[#地付き](「蜜柑」)
[#ここで字下げ終わり]
この結末の純正さ(この少年少女風の純正さのせいで、わたしが「蜜柑」や「沼地」をはじめて読んだのは国語の教科書においてであった)にも「私」の偽感情を読むことができるような気がする。偽感情という意味はフィクションの感情ということではなく、ありうる可能性のない感情という意味である。芥川には何をやってもどういう心の動きをしても、すべて作りごとや見かけをつくろう体裁ではないかとおもわせる乾いた冷眼がつきまとっている。そしてそこにこそ芥川の悲劇があったといえばいえる。だがこの結末の純正さ、生真面目さ、誠実さは、かならずしも田舎娘にたいするいわれのない神経的な侮蔑や、感覚的な嫌悪の卑しさ、現実の社会にたいする傲慢さ小癪さと矛盾するとはかぎらない。こうかんがえたとき並はずれた生真面目さのなかに芥川の天才があったというべきかもしれぬ。芥川の晩年の「病源」が下層階級にたいする特権を耻じる心と、かれらを恐れる心と侮蔑する心との葛藤にあるという芥川自身の自己診断は、わたしたちを納得させるに足りない。けれども芥川自身がいう「中産下層階級」の濃密な偽善と親和感と、下町に特有な環境感性の組織とが、宿命のようにかれを苦しめ矛盾を強いただろうことは信じられる。
晩期のもっとも優れた作品「玄鶴山房」は、心的な異常や錯乱の世界を投射することを、できるだけ排除しながら、かれのいう「中産下層階級」の家族の蒙っている濃密で陰微で佗しい、それとわからないほど寂かに世代の死とともに崩壊する姿を描いた作品であった。遠くをみているような眼ざしで、養父の病臥と死の前後にかけて芥川が養家の家族に感じたであろう微かな変化と、家族のあいだの陰微な葛藤の力学とは、玄鶴の家族の構図に寄托されているにちがいないとおもえる。
「玄鶴山房」の主、堀越玄鶴は「多少は知られた」画家であるが資産をつくったのはゴム印の特許を受けてからだというふうに設定されている。かれは「離れ」に老人性の肺結核の床についている。姑のお鳥は玄鶴よりも早くから腰抜けになり茶の間の隣りにやはり床に就いている。玄鶴の養子重吉はこの作品の〈眼〉だが、銀行に勤めている温和な秀才である。銀行から帰ると「離れ」の玄鶴と茶の間の隣りの姑のお鳥に挨拶してから、茶の間で妻のお鈴や子供の武夫と食事をし団欒をするのが日課である。
[#ここから2字下げ]
「玄鶴山房――玄鶴と云ふのは何だらう?」
たまたまこの家の前を通りかかつた、髪の毛の長い画学生は細長い絵の具箱を小脇にしたまま、同じ金釦の制服を着たもう一人の画学生にかう言つたりした。
「何だかな、まさか厳格と云ふ洒落でもあるまい。」
彼等は二人とも笑ひながら、気軽にこの家の前を通つて行つた。そのあとには唯凍て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バット」の吸ひ殻が一本、かすかに青い一すぢの煙を細ぼそと立ててゐるばかりだつた。
[#地付き](「玄鶴山房」)
「玄鶴山房」の夜は静かだつた。朝早く家を出る武夫は勿論、重吉夫婦も大抵は十時には床に就くことにしてゐた。その後でもまだ起きてゐるのは九時前後から夜伽をする看護婦の甲野ばかりだつた。甲野は玄鶴の枕もとに赤あかと火の起つた火鉢を抱へ、居睡りもせずに坐つてゐた。玄鶴は、――玄鶴も時々は目を醒ましてゐた。が、湯たんぽが冷えたとか、湿布が乾いたとか云ふ以外に殆ど口を利いたことはなかつた。かう云ふ「離れ」に聞えて来るものは植ゑ込みの竹の戦ぎだけだつた。甲野は薄ら寒い静かさの中にぢつと玄鶴を見守つたまま、いろいろのことを考へてゐた。この一家の人々の心もちや彼女自身の行く末などを。……
[#地付き](「玄鶴山房」)
[#ここで字下げ終わり]
わずかな描写のうちに、玄鶴山房のたたずまいと、玄鶴の世間的には引込みながら余産で暮し病み就いている位相を浮びあがらせる手腕と、さり気ない緊迫性は見事というほかない。これらは芥川の文体的な解体を表象する「保吉」物や「僕」物の説明的な表現を経なければとうてい実現できなかったことはすぐに了解されよう。さらに物語構成上に伏在するものをたどれば「お律と子等と」や「奇怪な再会」や「百合」のような作品が「玄鶴山房」へのそれぞれの階梯をなしていることもたしかである。
それとともに「僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。」という遺書に書かれた芥川自身の体験も、作中の重吉として必須のものであった。
玄鶴山房にもと女中で玄鶴が妾にしていたお芳が、玄鶴の生ませた子芳太郎をつれて「御看病に上」ったあとは家族の空気は変ってしまう。武夫がお芳の子の芳太郎をいじめることからそれははじまった。武夫が芳太郎ととっ組み合いをして打ったり蹴ったりし、お芳が芳太郎をかばうとお鈴がでてきて結局はお芳親子がお鈴にあやまるという構図を描写するとき、芥川はかならずや「彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の為に圧迫を受け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の為に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。」と、わざわざ「喧嘩」の項をもうけて記した「或阿呆の一生」の体験を反芻していただろう。こういう家族のなかのいざこざを冷やかに眺め、あるばあいには意識的にあるいは無意識的にけしかける不幸な育ちの看護婦甲野の性格設定には、もちろん人間は他人の不幸を喜ぶという芥川がフランス理知主義者から得た人性の逆説的断言が与っている。また「母」のような作品で芥川には親しい理念である。看護婦の甲野は重吉にも思わせぶりな媚態をふりまき、お芳にたいする潜在的な嫉妬感情に苛立っている腰のたたないお鳥を、ますます苛立たせる。表面は少なくとも平穏な玄鶴山房の家族たちのあいだの錯綜した、だがもし何でもないとおもえばそうおもわれても仕方がない人性上の葛藤を稠密にそして象徴的に描きだすとき、芥川はじぶんを寵愛する独身の伯母と妻との葛藤をも封じ込めていただろう。
こういう社会の動きからは隔離されたような、だが惨苦(芥川のいう娑婆苦)だけはもち込んで静かに門構えの奥で進行する黙劇を背景に、玄鶴がしだいに衰弱してゆくのを描くとき、芥川はその如実な手触りをもったリアリティをどこから手に入れたのか。
[#ここから2字下げ]
玄鶴はだんだん衰弱して行つた。彼の永年の病苦は勿論、彼の背中から腰へかけた床ずれの痛みも烈しかつた。彼は時々唸り声を挙げ、僅かに苦しみを紛らせてゐた。しかし彼を悩ませたものは必しも肉体的苦痛ばかりではなかつた。彼はお芳の泊つてゐる間は多少の慰めを受けた代りにお鳥の嫉妬や子供たちの喧嘩に|し《 (ママ) 》つきりない苦しみを感じてゐた。けれどもそれはまだ善かつた。玄鶴はお芳の去つた後は恐しい孤独を感じた上、長い彼の一生と向ひ合はない訣には行かなかつた。
玄鶴の一生はかう云ふ彼には如何にも浅ましい一生だつた。成程ゴム印の特許を受けた当座は――花札や酒に日を暮らした当座は比較的彼の一生でも明るい時代には違ひなかつた。しかしそこにも儕輩の嫉妬や彼の利益を失ふまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめてゐた。ましてお芳を囲ひ出した後は、―――彼は家庭の|いざこざ《ヽヽヽヽ》の外にも彼等の知らない金の工面にいつも重荷を背負ひつづけだつた。しかも更に浅ましいことには年の若いお芳に惹かれてゐたものの、少くともこの一二年は何度内心にお芳親子を死んでしまへと思つたか知れなかつた。
[#地付き](「玄鶴山房」)
[#ここで字下げ終わり]
色濃い「娑婆苦」の刻印を玄鶴の額に打ちつけながら描くとき、芥川はじぶんの生涯の色をおなじ色に塗ろうとしている。また玄鶴を死の真際に描こうとするとき、自身の生涯を落日の真際にみなしているようにおもえる。玄鶴は看護婦の甲野に「催眠薬」のほかにヘロインの注射をさせて束の間の心身の痛苦を忘れようとする。また甲野に「褌」の生地にするのだといって六尺の晒木綿を買ってもらい縊れ死のうとすることもあるが、床の上に起きあがることのできない玄鶴にはその機会もなかなか得られない。「離れ」に誰もいないときに褌の生地をひき寄せて頸にまきつけて両手でぐっと引っぱるようにしたところも、孫の武夫にみつけられて囃し立てられてしまう。この老年をおとずれる病苦の心理と、身体がままならないところで自縊をかんがえる無惨さの恐ろしいほど適確な描写をみるとき、若い、だが干からびたような生を保ちながら「唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刃のこぼれてしまつた、細い剣を杖にしながら。」(「或阿呆の一生」)という最後のじぶんの姿を投射せずにはおられなかったはずだ。玄鶴が縊死を試みる描写さえもまた、ときにかれが試みて仕損じたことのある体験からでたものだといってよかった。
「娑婆苦」という言葉を芥川がはじめて使ったのは、いわゆる保吉物のなかの「少年」という追憶記の導入部においてであるかもしれない。「世界苦」という言葉をはじめて使ったのが「西方の人」であるかもしれないように。新橋行の「乗合自動車」のなかで、保吉の隣に腰かけたフランス人の宣教師が、大伝馬町で乗った小生意気そうな少女に席を譲った挙句、問答を仕掛ける。「けふは何日だか御存知ですか?」「十二月二十五日でせう」「ええ、十二月二十五日です。十二月二十五日は何の日ですか? お嬢さん、あなたは御存知ですか?」少女は無邪気に「けふはあたしのお誕生日。」と正直に答える。宣教師は愉しそうに笑い出し、少女に、あなたはきっと賢い奥さんに、優しいお母さんになるでしょうといって、車中の皆に愛嬌をふりまいて尾張町で降りてゆく。保吉は数時間後おなじ尾張町のカフェの隅で、二十年前にはじぶんも「娑婆苦」を知らない「乗合自動車」のなかの少女のように、また罪のない少女との問答に「娑婆苦」を一瞬忘れた宣教師のように、「小さな幸福を所有してゐた」とかんがえ、そこから少年期の追憶に入ってゆく。「娑婆苦」という言葉はたぶん、芥川の創出したものではない。ひとつの仏教的な俗語として流布されていたにちがいない。けれどもこの言葉は、生きること、生活すること、人間の生涯というべきものは、もともと苦に充ちているという体験的な認識があって使われるときに、一種の俗語離れがしてくる。人間を個人ずつの生涯としてみるならば、生きて、生活していること自体が苦痛や苦悩の領域に入らないのは少年のときまでである。そういう実感が芥川の「娑婆苦」という語感の根柢に横たわっている。こういう実感はすでにかなり早くから芥川に兆していた。「或阿呆の一生」にあるように、二十歳の学生のとき本屋の棚梯子にのって上段の本を探しつつふと下にいる店員や客を見下して、かれらが小さくみすぼらしく見えたときから、芥川にあったといってもよかった。「のみならず」この個人の生涯につきまとう苦痛や苦悩はじぶんだけにあるのではなく他の人々もまたそのなかにあるという認識をも含んでいた。この「娑婆苦」なるものが他の人々にもあるという認識が「玄鶴山房」の根本を支配する芥川のモチーフであるにほかならない。そうでなければ、玄鶴はそれ相応の功を成し、ほどよい生活の安定にもめぐまれ、遊蕩や三角関係の世界も体験し、波瀾のない老境をむかえて衰弱してゆく、まずこれ以上かんがえられない平穏な生涯を終えようとしていることになる。けれども玄鶴の波立たない生涯も、妻のお鳥や娘のお鈴や、養子の重吉や子の武夫や、妾お芳と子の芳太郎も、いわば一見すると些細な、だがそれこそが「娑婆苦」だといえる苦のなかに葛藤している。そういう世界の住人であることがいやおうなく迫ってくるように描き出されている。
芥川は山房内に陰微に進行し葛藤する「娑婆苦」の悲劇を、最後の玄鶴の葬式のところでリイプクネヒトの「追憶録」を読む、重吉の従弟の大学生を登場させることで「世界苦」の悲劇に接触させたかった。好意的に批評した青野季吉宛の書簡でそう述べている。「わたしはチェホフほど新時代にあきらめ切つた笑顔を与へることは出来ません。しかし新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。」とも記している。青野季吉はたぶん当時気鋭のマルクス主義批評家として知られていた。芥川は衆目のあつまるところ、いまだ頂きを走りつづける大家と目されていた。どうして青野季吉宛に「右突然手紙をさし上げ」る必要があったのか。そして書簡の終りに「ソオシアリスト・フランスさへ彼をソオシアリズムに駆りやつたものは『軽侮に近い憐憫』だと言つてゐます。」と書き、また「なほ又わたしはブルジヨオワたると否とを問はず、人生は多少の歓喜を除けば、多大の苦痛を与へるものと思つてゐます。」と、いわば「娑婆苦」の認知の普遍性を告げなければならなかったのか。ここには芥川の無意識の偽善と周到な死への配慮があったに相違ないとおもえる。ただ偽善が無意識であるかぎり幾許かの誠実と本音もまた包括されていたといってよいのだろう。しかし芥川にはじぶんの〈社会思想的人間〉への軌道でさえ、アナトオル・フランスの影響下にしつらえた虚構であり、手に触れたわが国の現実でもわが国の文学でもなかったという思いは消えなかったはずだ。この感性の偽意識を断ち切れなかったのはドッペルゲンゲルが断ち切れなかったのとおなじであった。
芥川は「神経衰弱」や神経性の胃腸障害や神経性の狭心症にかかり、鬱々として日を送り、アダリンを常用しつつあった。またときどきは幻聴症候に悩まされたり「黄色き光の断片目の前に現れ」たりして後に「歯車」で記したような徴候を強いられたのは大正十年ごろであった。(「病中雑記」)彼自身の記すところではこの年がもっとも症状が甚しかったので、すでにそれ以前からおなじ症状はあったとかんがえることができる。なぜ大正十年に症状が甚しくなったのかつまびらかではない。特異なことをあげれば、この年は毎日新聞社海外視察員として中国旅行に出かけた年であった。上海に着いたときに乾性肋膜炎にかかった。また後に記すところではこの旅行を契機にして芥川が「狂人の娘」という暗号で記している嫌悪していた□夫人ともかかわりを断つことができた。だが何故かこの旅行を経たあとで晩期を覆う病気は顕在化しはじめたといってよい。この外に数えあげられるとすれば「親戚のごたごた燃ひろごり」(十二月二日 小穴隆一宛書簡)ということがかんがえられるくらいであったろう。けれどこれはこの頃に常習化した症候の状態から過去を振り返った述懐で、じぶんの胃腸障害や不眠症や関係妄想や幻覚に類する訴えがあらわれたのはこの頃からであった。これは友人や知人に宛てた書簡や「夢」「鬼ごつこ」「僕は」などの小品によって知ることができる。大正十二年の芥川の異常な妄想性の言動については、夏、鎌倉の旅館平野屋で隣室に逗留していた岡本かの子の「鶴は病みき」によって稠密に捉えられることになった。
すこしよく確かめてみると、芥川が神経性の胃腸障害や睡眠障害に悩まされ、時として妄想性の幻覚や錯視にさいなまれるようになったことは限られた友人たちへの書簡や、「凶」とか「鵠沼雑記」とか「歯車」のような遺稿、または遺稿にひとしい作品のなかでしか洩らされていない。ことに関係妄想との不可避的な孤独なたたかいについては「或阿呆の一生」の目録にさえ上せようとしていない。けれど他人に気配を感じさせないように精いっぱい気を張りつめながら、不可避的に関係づけの偏執のなかに陥ち込んでゆく妄想と錯覚の連鎖とたたかうことが、晩期の芥川にもっとも辛かったことは容易に推察できる。もちろん芥川が陥ち込んだ程度の関係妄想の世界は、症状としてだけいえば、ほんの軽度なパラノイアや鬱病や分裂病者の世界にもおとずれるものであったろう。ただ病者はたたかわないで否認するだけだが、芥川はあたうかぎり否認せずにたたかおうと試みている。そこに無類の痛ましさと孤独さが出現する。
[#ここから2字下げ]
僕は全然人かげのない松の中の路を散歩してゐた。僕の前には、白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸を見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路の曲り角へ来ると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。
[#地付き](「鵠沼雑記」)
僕は風向きに従つて一様に曲つた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。これは無気味でならなかつた。
[#地付き](「鵠沼雑記」)
すると僕の部屋の中に腹巻が一つぬいであつた。僕は驚いて帯をといて見たら、やはり僕の腹巻だつた。
僕はふと「そのおむつには毛虫がたかつてゐるぞ」と言つた。どうしてそんなことを言つたかは僕自身にもわからなかつた。すると女中は頓狂な調子で「あら、ほんたうにたかつてゐる」と言つた。
[#地付き](「鵠沼雑記」)
僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意で持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。
[#地付き](「鵠沼雑記」)
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三日たつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。
[#地付き](「鵠沼雑記」)
近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きく体は豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より両眼の間へ駈け来るに少々悸え居り候。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 六月十一日 鵠沼から斎藤茂吉宛)
僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない気がする。ちよつと上京した次手に精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 十月二十九日 鵠沼から佐佐木茂索宛)
この頃の寒気に痔が再発。催眠薬の量は増すばかり。ちと東家へでもやつて来ないか? 僕の家でもお宿位はする。兎に角君の顔が見たい。この頃君のことを考へてゐると、必ず君から手紙が来る。この前の手紙などは行き違ひだつた。それも少からず気味が悪い。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 十一月十日 鵠沼から佐佐木茂索宛)
唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にて弱り居り候間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 十一月二十一日 鵠沼から斎藤茂吉宛)
羊羹をありがたう(羊羹と書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ)お手紙もありがたう。
君が余り気を使つてくれると、それが反射して苦しくなる事もある。(手紙ばかりならば助かるだけだが)何しろふと出合つた婆さんの顔が死んだお袋の顔に見えたりするので困る。今はどんな苦痛でも神経的苦痛ほど苦しいものは一つもあるまいと云ふ気もちだ。数日前に伯母が来てヒステリイを起した時に君に教へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位では参るものではない。しかし過去無数の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神経衰弱だと云へばそれまでだが)実にやり切れない気のするものだよ。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 十一月二十八日 鵠沼から佐佐木茂索宛)
御手紙ならびにオピアムありがたく頂戴仕り侯。胃腸は略※[#二の字点、unicode303b]旧に復し候へども神経は中々さうは参らず先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見ると未だに行手を塞がれしやうな気のすること少からず、世にかかる苦しみ有之べきやなど思ひをり候。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 十一月二十八日 鵠沼から斎藤茂吉宛)
又々手紙が入れちがひになつた。これはテレパシイだよ。僕は暗タンたる小説を書いてゐる。
[#地付き](大正十五年〔昭和元年〕 十二月三日 鵠沼から佐佐木茂索宛)
僕はこのホテルの部屋に午前八時頃に目を醒ました。が、ベツドをおりようとすると、スリツパアは不思議にも片つぽしかなかつた。それはこの一二年の間、いつも僕に恐怖だの不安だのを与へる現象だつた。のみならずサンダアルを片つぽだけはいた希臘神話の中の王子を思ひ出させる現象だつた。僕はベルを押して給仕を呼び、スリツパアの片つぽを探して貰ふことにした。給仕は、|けげん《ヽヽヽ》な顔をしながら、狭い部屋の中を探しまはつた。
「ここにありました。このバスの部屋の中に。」
「どうして又そんな所に行つてゐたのだらう?」
「さあ、鼠かも知れません。」
[#地付き](「歯車」二 復讐)
僕は一時間とたたないうちにベツドの上から飛び起きるが早いか、窓かけの垂れた部屋の隅へ力一ぱい本を抛りつけた。
「くたばつてしまへ!」
すると大きい鼠が一匹窓かけの下からバスの部屋へ斜めに床の上を走つて行つた。僕は一足飛びにバスの部屋へ行き、戸をあけて中を探しまはつた。が、白いタツブのかげにも鼠らしいものは見えなかつた。僕は急に無気味になり、慌ててスリツパアを靴に換へると、人気のない廊下を歩いて行つた。
[#地付き](「歯車」二 復讐)
第二の僕、――独逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亜米利加の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、当惑したことを覚えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚の翻訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかつた。若し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。
[#地付き](「歯車」四 まだ?)
僕は丁度戸の前に佇み、誰もゐない部屋の中を眺めまはした。すると向うの窓硝子は斑らに外気に曇つた上に小さい風景を現してゐた。それは黄ばんだ松林の向うに海のある風景に違ひなかつた。僕は怯づ怯づ窓の前へ近づき、この風景を造つてゐるものは実は庭の枯芝や池だつたことを発見した。
[#地付き](「歯車」五 赤光)
この往来は僅かに二三町だつた。が、その二三町を通るうちに丁度半面だけ黒い犬は四度も僕の側を通つて行つた。僕は横町を曲りながら、ブラック・アンド・ホワイトのウイスキイを思ひ出した。のみならず今のストリントベルグのタイも黒と白だつたのを思ひ出した。それは僕にはどうしても偶然であるとは考へられなかつた。若し偶然でないとすれば、――僕は頭だけ歩いてゐるやうに感じ、ちよつと往来に立ち止まつた。
[#地付き](「歯車」六 飛行機)
[#ここで字下げ終わり]
ことに「歯車」では症状がありふれた関係妄想や幻覚と錯視なのに不安と恐怖との切迫性がはげしすぎている。人は誰でも精神がこの程度に病みつくことができる。そしてある識閾を超えたとき関係妄想の世界に入りこむことは有りがちである。けれどそのことは厳密にいえば不安や恐怖とは無関係な世界だといっていい。遭遇するあらゆる事象が偶然とはおもわれないように羅列されているとしたら、信じられる自己の存在が限りなく環をせばめようとしている証左である。そのために事象が欠けているときは存在しないのに創り出す(幻覚)ことをしなければならない。また代同物で置き代え(錯視)たりして補わなければならない。強い関係を渇望する心性が病んでいるからである。これだけのことを病者はすこぶる朗らかに、あるばあいには攻撃的にやってのけることができる。けれど芥川にはこんな有りふれた精神の病いが死に至る恐怖や不安でありえた。もちろん心の奥底の方で芥川が欲していたのは、だれかがこの精神の体験の痛烈さに触れて救抜してくれることであった。にもかかわらずこれだけの病識をもっている異常さを、気易く狂気あつかいにすることは誰にもできないものだった。それをよく知っていたのは、二十四時間そばにあった芥川夫人だったろう。またかれの少数の友人たちは知っていながらもどうすることもできなかった。欠如感をもたない病識には、だれもつけ込むことができないからである。芥川の陥ち込んでいた心身の状態で、芥川が識知をもちえなかったのは、じぶんの時間体験の途絶え、空白がありうることであった。かれが行ったはずのない帝劇の廊下や銀座の煙草屋で他人が芥川を見かけることができた理由は、ただ芥川がじぶんの入眠状態の白日夢のような行動の時間を、識閾の内側に数えることができなかったからであった。「スリツパア」の片っぽがバスの部屋にあったのもおなじだった。了解の環をつくりあげるために「鼠」を幻視でつくり出したのだがそんなものが引いていかなくても「スリツパア」の片っぽは芥川の識知のないままに、いつの間にかバスルームにありえるものであった。ほんとうは芥川のような天才的な知識人ですらも「スリツパア」の片っぽがいつの間にかバスルームにあったことにたいして、また知人が「第二の僕」を行きもしない帝劇の廊下や銀座の煙草屋で見かけたことにたいして〈何故〉という問いを発し、困惑と不安と恐怖とをじぶんの存在にたいして抱いたメカニズムは完全に解明されてはいない。いまでも人間存在のみじめさと一緒に、それこそ何故? という問いのなかにあるといっていい。こういう精神の状態は慰めることも救抜することもできない。たぶんその理由はこれらの精神の陥ち込みが生理的な異変に由来し(由来するかもしれないとしても)且つその異変がつきとめにくい現状にあるからではない。精神が生理的な異変を感受する能力をもつという単純で強力な一点に基いている。芥川はもっとも切実なもっとも孤独なたたかいを、誰にも告げられずにたたかいながら、消耗の果ての死におもむいた。
[#改ページ]
[#見出し] 宮沢賢治
宮沢賢治の作品が誇らしげにふり撒いている魅惑のもっともおおきなものは、並外れて自在な眼のおき方にあるといえる。かれの作品の眼は遥か高層にとどくほど巨きな身体についた眼のように、近似的には無限の遠くからわたしたちをとらえてくる。かとおもうと瞬間に這う虫の微小な頭についた眼のように極微化される。わたしたちが本能的に慣れていない視角をよく知っていてそこを衝かれるような気さえしてくる。
またじぶんの身体がもぞもぞと這う虫に変容したり、局部的に膨脹したりする身体の幻覚を記述したような作品にも何べんもつきあたる。たぶん、このいちばん魅惑的な部分でかれの表出はかえって正常な無意識であった。たくさんの自然観察の修練と素養が、かれの視線の特異さを助けたであろうが、もとは自身でも統御できずに筆記された、かれ自身の好きな言葉では〈正しい〉無意識であった。
作品「やまなし」からみてみる。
[#ここから2字下げ]
その時です。俄に天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾のやうなものが、いきなり飛込んで来ました。
兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのやうに黒く尖ってゐるのも見ました。と思ふうちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ペんひるがへり、上の方へのぼったやうでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず、光の|黄金《きん》の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
二疋はまるで声も出ず居すくまってしまひました。
お父さんの蟹が出て来ました。
「どうしたい。ぶるぶるふるへてゐるぢゃないか。」
「お父さん、いまをかしなものが来たよ。」
「どんなもんだ。」
「青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。」
「そいつの眼が赤かったかい。」
「わからない。」
「ふうん。しかし、そいつは鳥だよ、かはせみと云ふんだ。大丈夫だ、安心しろ。おれたちはかまはないんだから。」
「お父さん、お魚はどこへ行ったの。」
「魚かい。魚はこはいところへ行った。」
「こはいよ、お父さん。」
「いい、いい、大丈夫だ。心配するな、そら、樺の花が流れて来た。ごらん、きれいだらう。」
泡と一緒に、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
「こはいよ、お父さん。」弟の蟹も云ひました。
光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしづかに砂をすべりました。
[#地付き](「やまなし」)
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ、折り返して4字下げ]
注@ bird's eye から普通の視角(風景の内部に在るものの視角)へ。というより、眼の高さで風景全体をみている眼。水槽の風景。横からみている描写、魚からみている風景描写。
A 恐怖と残酷の立体化(二重化・累層化)。
B 風景が勝つのか、語りの筋・意味がかつのか。
[#ここで字下げ終わり]
これは「小さな谷川の底を写した二枚の青い幻燈」と銘うたれた作品の一部分である。水底にいる「蟹」の視線ですべてが視られている。水のなかの魚をとろうと突然頭から躯を突込んでくる|かわせみ《ヽヽヽヽ》が、いわば水底から水面を仰向する視角でとらえられる。また水の表面をながれる樺の花が水底の眼から視られている。けれどマジックにかからないでよく読むとこの「やまなし」の描写は、同時に川の流れをあたかも水槽を外から視ているような位置で観察しているもうひとつの眼の存在なしには不可能である。そしてこの眼は無意識のように作品の言表に|びまん《ヽヽヽ》している。水底の「蟹」の眼になった視線と、川の流れを横断面から視察しているもうひとつの架空の眼の二重視がわたしたちを惹きこんでいる。
二匹の「蟹」の子たちとその父親が水底で会話している、そこへくちばしから水へ突込んできて魚をさらってゆく|かわせみ《ヽヽヽヽ》の一瞬の動きが挿入されるといった、擬人化された生きものたちの稚拙な構図から作品を超出させているのは、全体に|びまん《ヽヽヽ》したもうひとつの無意識の眼のはたらきである。これが水底の景観の総体を遠くへ押しやる構図を提供している。そのため読者は個々の描写を追いながら全景を遠くに時間化している体験をおぼえる。
もうひとつ視線の縮小を語る個処をひろってみる。
[#ここから2字下げ]
「よし、通れ。」
伝令はいそがしく羊歯の森のなかへ入って行きました。
霧の粒はだんだん小さく小さくなって、いまはもう、うすい乳いろのけむりに変り、草や木の水を吸ひあげる音は、あっちにもこっちにも忙しく聞え出しました。
[#地付き](「ありときのこ」)
歩哨は剣をかまへて、じっとそのまっしろな太い柱の、大きな屋根のある工事をにらみつけてゐます。
それはだんだん大きくなるやうです。だいいち輪廓のぼんやり白く光ってぶるぶるぶるぶる顫へてゐることでもわかります。
俄かにぱっと暗くなり、そこらの苔はぐらぐらゆれ、蟻の歩哨は夢中で頭をかかへました。眼をひらいてまた見ますと、あのまっ白な建物は、柱が折れてすっかり引っくり返ってゐます。
[#地付き](「ありときのこ」)
[#ここで字下げ終わり]
蟻の身体についた眼の位置まで縮小した感覚がこの描写に如実感をあたえている。たしかに「草や木の水を吸ひあげる音」を聴いているのは蟻だと信じながら読者は同時にその音を聴くような気がしてくる。作者や読者の聴覚がその音を聴くはずがなく蟻に聞えてくるのだ。また蟻にしかその音は聞えないともいえる。それなのに蟻は語れないから作者や読者が、語り語られる体験においてその音を聴くようにおぼえる。また蟻の歩哨が視る「大きな屋根のある」「まっしろな太い柱」は茸の茎部なのだが、たしかに蟻の眼のまえでだんだん大きくなって、やがて折れてしまうと感ぜられる。この蟻の視線の如実感は巧まれたものではなく作品に無意識のうちに実現されたものであるとおもえる。
かれの作品に登場する生きものたちはしばしば山や丘の高みにたって村や街や野原の景観を眺めやっている。かとおもうと銀河の底に佇んでいるといった案配で天空を見あげている。
[#ここから2字下げ]
「ありがたう。」
雪童子はそれをひろひながら、白と藍いろの野はらにたってゐる、美しい町をはるかにながめました。川がきらきら光って、停車場からは白い煙もあがってゐました。雪童子は眼を丘のふもとに落しました。その山裾の細い雪みちを、さっきの赤毛布を着た子供が、一しんに山のうちの方へ急いでゐるのでした。
「あいつは昨日、木炭のそりを押して行った。砂糖を買って、じぶんだけ帰ってきたな。」
雪童子はわらひながら、手にもってゐたやどりぎの枝を、ぷいっとこどもになげつけました。枝はまるで弾丸のやうにまっすぐに飛んで行って、たしかに子供の目の前に落ちました。
[#地付き](「水仙月の四日」)
河原の礫は、みんなすきとほって、たしかに水晶や黄玉や、またくしゃくしゃの皺曲をあらはしたのや、また稜から霧のやうな青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとほってゐたのです。それでもたしかに流れてゐたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたやうに見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるやうに見えたのでもわかりました。
[#地付き](「銀河鉄道の夜」)
[#ここで字下げ終わり]
まえの方では「雪童子」の眼はどこか天空の斜め上方にあって〈|鳥の眼《バーズ・アイ》〉で赤毛布を着て山の方へ急いでいる子供や、光る川や白い煙をあげている街の停車場を視ている。読むものは「雪童子」の眼とひとつであるといっていい。そして終わりの三行ほどのところで「雪童子」が投げるやどりぎの枝といっしょに「雪童子」に合致していた視線はきえて、雪の道を歩いている子供とそのまえに落ちた枝の情景だけになる。
あとの方では如実に宮沢賢治の視線の特異さがあらわれる。読むものは少し遠方から空想の銀河の河原や河床の方をみている眼になる。この眼は作品中のジョバンニの眼と同一であるようにみえるがそうでないことがわかる。ジョバンニが走って銀河の渚にしゃがんで水素のような「水」に手をひたしても、読むものの眼は手をひたしているジョバンニも燐光をあげてさざなみたつ水をも同時に視ている。この読むものの遥かな遠方からの眼は、いわば作者の二重視の立体的な装置に依存している。この眼が景観を時間化している秘密である。
こういうときに宮沢賢治の作品の景観は、いわば〈記憶〉や〈追憶〉や〈夢〉のように隔離された全体、しかも掌のひらに載せられて眺める光景のように小さく静態化される。しんと寂かな青色のイメージがやってくるとき、たいていはこういうメカニスムになっている。これが宮沢賢治の作品を水びたしにしている特徴であるために、その弛緩したばあいの構造のひとつが、地形図を案じている地理学者の眼から模型のトンネルや線路やシグナルの明滅に魅せられている子供の眼にいたる多様な観察の視線にあることをも知ることができる。
このような視線の存在を、宮沢賢治の体験や科学的な修練の次元を超えてメタフィジカルな意味にまでひき伸すことができるかどうか?
[#ここから2字下げ]
俄かにサンムトリの左の裾がぐらぐらっとゆれ、まっ黒なけむりがぱっと立ったと思ふとまっすぐに天にのぼって行って、をかしなきのこの形になり、その足もとから黄金色の鎔岩がきらきら流れ出して、見るまにずうっと扇形にひろがりながら海へ入りました。と思ふと地面は烈しくぐらぐらゆれ、百合の花もいちめんゆれ、それからごうっといふやうな大きな音が、みんなを倒すくらゐ強くやってきました。それから風がどうっと吹いて行きました。
[#地付き](「グスコーブドリの伝記」)
その年の六月、ブドリはイーハトーブのまん中にあたるイーハトーブ火山の頂上の小屋に居りました。下はいちめん灰いろをした雲の海でした。そのあちこちからイーハトーブ中の火山のいただきが、ちゃうど島のやうに黒く出て居りました。その雲のすぐ上を一隻の飛行船が、船尾からまっ白な煙を噴いて一つの峯から一つの峯へちゃうど橋をかけるやうに飛びまはってゐました。そのけむりは、時間がたつほどだんだん太くはっきりなってしづかに下の雲の海に落ちかぶさり、まもなく、いちめんの雲の海にはうす白く光る大きな網が山から山へ張り亙されました。いつか飛行船はけむりを納めて、しばらく挨拶するやうに輪を描いてゐましたが、やがて船首を垂れてしづかに雲の中へ沈んで行ってしまひました。
[#地付き](「グスコーブドリの伝記」)
[#ここで字下げ終わり]
あの遊園地や遊戯場で張りぼてに粉をかけた模型の山並や河やトンネルや線路や停車場や雲の彩色の前で、手元のボタンを圧すとぱっと山の中腹やトンネルのなかに灯りがつく体験。あの遊びの熱中を言語体験のうちに繰返しえないならば「グスコーブドリの伝記」の半分をわたしたちは捨てることになってしまうだろう。
ここでも模型の地形図をみていると山裾の左側がゆれて灯りがつき煙を吐きだし、そのあとから黄いろな灯りがこぼれて熔岩の流れをあらわすといった体験を喚起される。そのあとはメタフィジカルな遠近法で、百合の花が模型の山や海とおなじくらいの大きさで迫ってくるし、風も吹いてくる。もうひとつはじっさいに街なみを見おろせる丘陵の起伏の上にあって、大きな鳥の空中回遊をみているように飛行船をみている視線のうちにある。作品のなかのこの視線の体験は、ブドリたちがやがて空から窒素肥料を降らして耕作をうるおす準備工作のひとこまなのだという作品の本来の意味とは独立であることを主張しているようにさえみえる。
宮沢賢治の作品は特異な視線に切りとられた景観の、言葉によるモザイクという領域を出ようとはしなかった。ことに一系列の童話と「春と修羅」第二集にあつめられた詩でそうであった。この人工的な景観の構築の面白さにもっとも酔いしれたのも宮沢賢治自身であった。そうでなければ詩と童話のほとんどすべてが、ある意味では|燃えあがる空虚《ヽヽヽヽヽヽヽ》といってもよい自然現象の記述に満足されたはずがなかった。同時代の文学の前衛は自意識の微細な動きと陰りあいの上に、内的な人間関係の世界を築こうとしていた。宮沢賢治はほとんどそれと対称的なところへ出発した。独特の眼、その視線が切りとった自然断片の再構成の面白さと特異さ、その手つきを言葉のうちにみせることが、作品の出発でありまた変らない根源であった。
地形図を案ずる眼のあいだをエーテルのように瀰漫するもうひとつの視線にはメタフィジカルな根拠がなければならぬ。かりに視覚のマジックがあるだけで意味をつけようにもつけられない空虚だとしよう。それでもこの視角の変幻と対立するかのように作品のなかで登場者たちがやってのけるメタフィジカルな説教とどう関係するのか、無関係な分裂なのかははっきりさせなければならないとおもえる。
かれが自作の理念をではなく手法の意味を語った唯一とおもえる書簡がある。
[#ここから2字下げ]
詩の雑誌御発刊に就て、私などまで問題にして下すったのは、寔に辱けなく存じますが、前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。あの篇々がいいも悪いもあったものでないのです。
[#地付き](大正十四年二月九日 森佐一宛)
[#ここで字下げ終わり]
これは正直でまっとうな思い入れの告白であり、詩や童話の作品への自註になっている。この三十歳教職をえていちばん安定した時期の書簡で、さしあたって「私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事」が何をさしているかわからない。かれの生涯を終りから逆にたどって、この仕事の企ては放棄されなかったとみなせば、最小限の条件に叶っているのは作品「銀河鉄道の夜」だということになる。わたしたちが詩とか童話とかいう意味での区別は、かれにとってはそれほど重要ではなかった。とにかくある未知の構想の言語へいつも貌をむけていることが大切であった。
心象のスケッチであるか風景のスケッチであるかは、かれの作品では素材の上で区別できない。「蟹」たちの会話を描いても樹木や鳥や電柱を擬人化しても、子供たちの恐怖感がつくりだす幻想世界を描いても、それらすべてを自然の景観の動きのように視ている眼が、あたかも宇宙の彼方から撒布されてくる宇宙線のように恒常的に存在することが「心象のスケッチ」の本質的な意味であった。かれの構想の予定地にとって下図作りにすぎないと自分でいいながら、じっさいにはかれの資質の宿命的なかたちのすべてがこの、装飾された心象スケッチ(mental sketch modified)にあったといってよかった。
わたしたちはとうぜん、心象的スケッチがもつ自然の景観への白熱した過剰なのめり込み方と、それに逆比例するような人間関係の不在と空白とに、メタフィジカルな意味をあたえなければならないところである。という意味はたんに宮沢賢治の資質がそうだったからすべては心象スケッチだったというのでなくて、かれ自身のいう「或る心理学的な仕事の仕度」という未知の構想に照らして、この心象スケッチのもつ「心理学的な」空白と饒多な自然景観への交歓の意味が問われてしかるべきである。
過剰な景観の装飾されたスケッチがもっている空白さ、白熱した燃えあがる空白さはかれ自身によって気づかれていた。けれどどうすることもできなかった部分で、それは資質であった。この資質に反立させるような意味でもって、かれの先験的な自己統制機能ともいうべき大乗仏教の信仰の言葉と理念の諸断片が、かなり生のままで作品に導入された。あるいは反立ではなく資質にちょうど照応するものであったかもしれぬ。これはつきつめられてよいことである。
先験的な自己統制機能だというのは、資質のようにへばりついて宮沢賢治の思春期以後の不安や、環境への不調和な適応の仕方を、特異なものにしているからである。これは無意識とはいいえないかもしれない。思春期以後のかれの行為を決定する統制意志となってあらわれたものであった。世間で親孝行だといわれるようによく働き立派な家を営み、よい結婚をして子孫をもうけ、なに不自由ない生活をつくってもそれで生きてゆく満足が得られるものだろうか(大正七年二月二日 宮沢政次郎宛書簡)というのは普通の思春期の懐疑と不調和であった。
けれどこれがそのまま父親への法論となってあらわれているのはすでに特異なラジカリズムであった。このころは盛岡高等農林学校の卒業をひかえて、卒業後にどうすべきか思い惑っていたときだった。報恩のためにはすぐにでも「出家」してじぶんの「出離の道」をも追求し、恩をうけた人々をも導くようにすることは、どの宗派とて変らない教えだ。じぶんの恩をうけた人はさいわい念仏の行者ばかりだからあえて「出家」の必要もないわけだが、さりとて日本じゅうの人がみな極楽往生すればいいというものだろうか。外国の人でどこかの世で、人間だれもがこれ一度は父、一度は母といったことが決定なひとたちは極楽へいけないとしたらどこへいったらよいのだろう。ましてじぶんの信ずるのが正しいとすれば、今の時念仏して生死を離れられるものはひとりだにいないはずだ、そうだとすればじぶんは身のおきどころがない次第だ。できるならばじぶんの信ずるところが正しいかどうか判断してもらえるようにしたいから、まず自分で勉励して法華経の心を体悟できるようにし、働いてじぶんの衣食をじぶんで得られるようにし、そのうえで人々にも教え、財を得たら「支那印度」にも逆にこの法華経を弘布して「父上母上を初め天子様、皆々様」の恩にむくいたい所存だ。これが二十三歳の宮沢の存念であった。
この二十三歳の不吉で不健康な信条の表白には、もちろん並の温和な親おもいの品行方正な優等生のもつ不健康さ、いわば精神の自由度がちょうど制度が作りだしている自由度の範囲を精いっぱいやっても出られない不健康さを包括している。けれどそこにとどまることのできない突出したリビドーの不健康さといったものが感得される。すべての〈信〉がもつどうすることもできないような嫌らしさ、不潔さ、妄想性が表白されている。そこに踏み込んだひとびとには手を着けることはできない。かれ自身がかれを誘導するのだし、かれ自身がかれの方向舵なのだ。反省的意識よりもさきに限度を超えたわき目もふらぬ直進性がこの不健康さの要諦であった。他者を察知する能力がかれにやってくるまでは不健康であるほか術がなかった。
すでにこのとき宮沢賢治はじぶんで「法華経」の護持者であると自認し、家宗である浄土真宗に疑義を感じ、父親に改宗を迫る勢にあった。この勢は昂じて二年後には田中智学らの国柱会に入り、花巻の町なかを題目をとなえて歩くという挙にでた。翌年には父親を改宗させようとする葛藤が限界に達して家出する。かれは親類の同信者である関徳哉宛に書いている。
[#ここから2字下げ]
何としても最早出るより仕方ない。あしたにしようか明後日にしようかと二十三日の暮方店の火鉢で一人考へて居りました。その時頭の上の棚から御書が二冊共ばったり背中に落ちました。さあもう今だ。今夜だ。時計を見たら四時半です。汽車は五時十二分です。すぐに台所へ行って手を洗ひ御本尊を箱に納め奉り御書と一所に包み洋傘を一本持って急いで店から出ました。
[#地付き](大正十年一月廿九日・三十日 関徳哉宛)
[#ここで字下げ終わり]
青年はだれでも「さあもう今だ。今夜だ。」とおもったことを経験している。だからそれだけでは特別なことではない。また家宗旨を舞台に「御本尊を箱に納め奉り御書と一所に包」むかわりに、思想を舞台に『ドイツ・イデオロギー』をふところに入れて家出してもおなじことだ。そういう観点にたてばこれも特異なこととおもわれない。ではその後はどうか。
[#ここから2字下げ]
途中の事は書きません。上野に着いてすぐに国柱会へ行きました。「私は昨年御入会を許されました岩手県の宮沢と申すものでございますが今度家の帰正を願ふ為に俄かにこちらに参りました。どうか下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さいますまいか。」やがて私の知らない先生が出ておいでになりましたからその通り申しました。
「さうですか。こちらの御親類でもたどっておいでになったのですか。一先づそちらに落ち着いて下さい。会員なことはわかりましたが何分突然の事ですしこちらでも今は別段人を募集も致しません。よくある事です。全体父母といふものは仲々改宗出来ないものです。遂には感情の衝突で家を出るといふ事も多いのです。まづどこかへ落ちついてからあなたの信仰や事情やよく承った上で御相談いたしませう。」
色々玄関で立った儘申し上げたり承ったりして遂に斯う申しました。
「いかにも御諭し一々ご尤です。私の参ったのは決して感情の衝突でもなく会に入って偉くならうといふ馬鹿げた空想でもございません。しかし別段ご用が無いならば仕事なんどは私で探します。その上で度々上って御指導を戴きたいと存じます。お忙しい処を本当にお申し訳けございません。ありがたうございました。又お目にかかります。失礼ですがあなたはどなたでいらっしゃいますか。」
「高知尾智耀です。」「度々お目にかかって居ります。それでは失礼いたします。ご免下さい。」礼拝して国柱会を出ました。さうです。こんな事が何万遍あったって私の国柱会への感情は微塵もゆるぎはいたしません。
[#地付き](大正十年一月廿九日・三十日 関徳哉宛)
[#ここで字下げ終わり]
ここでも飛び込んだ先が国柱会であるか、代々木の日共本部の建物であるかはくだらない場所だということでは同型だという観点に立つとしよう。どこにも特異なところはないといってよい。青年が荒野をめざすというのは通俗作家の書く嘘っぱちの心情だが、青年は〈無償〉をめざす、そのために世界が逆さまに視えても知ったことではないというのは本当だ。デカダンスの〈無償〉と理念的な〈無償〉とがあるとすれば宮沢賢治はあとの方であった。みたところこのあたりで宮沢賢治に何も特異さはなかった。「法華経」護持の信仰者であったところの宮沢賢治のアドレッセンスというのは、世界が逆倒してみえたところの宮沢賢治というのとおなじで、アドレッセンスは大なり小なり世界を逆さまに倒錯しているということの過剰なあらわれとしかいいようがない。
宮沢賢治にとって重大なのはここにすでにあらわれた〈無償〉の構造であった。ただその質であったといってもよい。またこの現実の世界、その人間諸関係を成立たせているものにとっては、荷厄介でひそかに障害とみなされてしまうような〈無償〉、その感性と論理の行方といってもよい。じつは宮沢賢治の作品のなかで、その自然への感性的な浸透力の特異さ、景物にたいする特別な視線、無限の遠方にある眼の登場に対立し、それに優に拮抗しているのはこの〈無償〉ということの質とその構造、あるばあいにその展開の仕方や停頓と、宗教への変成の仕方であるといってよい。
「雨ニモマケズ」という晩年の病床で手帳に書きつけられた詩語は、現在では通俗的な反撥と帰順の言語として人々の手垢にまみれてしまった。わけても近代主義者の反撥と、言葉の〈無償〉なら大事にするが、行為の〈無償〉には関心を払わない超近代主義者の反撥によって眠らされてしまった。けれどもこの詩語には、宮沢賢治の過剰な思い込みや、願望の歪んだ構造の悲劇を排除したあとに、一種の難解さがのこされることは確かである。この難解さはかれの作品に自然感性と拮抗して繰返しあらわれる〈無償〉の構造の難解さと気脈を通じている。
はじめに「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という個処がすこし難解である。言葉そのものが難解だというのではなく、聡明な判断力、理解力、記憶力といったものをたくさんのなかから撰択していることが難解なのだ。この難解さをすりぬけるひとつの方法は、これを現代詩の詩的な修辞法とみなすことである。いいかえればことさらささいな事柄を撰んで記述することによってある拒否や無化や皮肉の意識を空白によって表出したいための詩的な修辞の一種とみなすことである。そしてこうみなしてよい部分がかなりあるのではないかという気がする。けれど判断力、理解力、記憶力にたいする特別な趣向は、景観をみる視線にたいする執着とおなじに特異な印象をあたえる。するとかれが好んだ〈察知〉の能力(あるいは超能力)の強調に結びつけたいようにかんがえられてくる。するとかなり正解に近いところにゆきつけるような気がする。
たぶんこれは「法華経」のなかに描かれた如来の属性から着想された。じぶんは無であり遍在しながらすべての事象と人間の心の動きを識りつくし理解することができるもの、その原理ということを、資質や性格や個性という次元から架橋する願望をかれは詩語にしてみたかった。そして資質や性格や個性から究極の原理へ架橋することの矛盾というところに作品はかかわっていたのである。
かれは「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」ということに異常な言語的な執着をしめしている。宮沢賢治じしんは聡く道義的に敏感だったから「デクノボートヨバレ」ということはありえなかった。またかれ自身書簡で述懐しているように一族が在地の有力者であるため、何かというと「社会的被告」の場にひきだされる環境で、とても「ホメラレモセズ クニモサレズ」を体現できるような条件をもたなかった。だから反対給付への願望のようにうけとることもできようが、かれのこの言葉への執着の仕方ではとうていその程度にとどまるとはおもわれない。
作品「よだかの星」の「よだか」がこう述懐するところがある。
[#ここから2字下げ]
(一たい僕は、なぜかうみんなにいやがられるのだらう。僕の顔は、味噌をつけたやうで、口は裂けてるからなあ。それだって、僕は今まで、なんにも悪いことをしたことがない。赤ん坊のめじろが巣から落ちてゐたときは、助けて巣へ連れて行ってやった。そしたらめじろは、赤ん坊をまるでぬす人からでもとりかへすやうに僕からひきはなしたんだなあ。それからひどく僕を笑ったっけ。それにああ、今度は市蔵だなんて、首へふだをかけるなんて、つらいはなしだなあ。)
[#地付き](「よだかの星」)
[#ここで字下げ終わり]
よだかは鷹からおれの名をかえせ、これからは市蔵という名をつけろ、首へ市蔵と書いたふだをぶらさげてみんなのところへ改名のあいさつをしてこいといわれた。
作品の芸術性は外観や挙措の醜さや恐さのようなもののためにふとひととひとの関係がゆきちがったり、そういう自身に責任のとりようのないことがおおきな錯誤の要因になったりすることがあるという瞬間的にしかみえない心の状態にたいする鋭敏な反応、それを言葉にとどめていることのなかにある。助けた赤ん坊を巣へつれていってやったら、盗人から子をとりかえすような態度をめじろからとられたことを言葉に留めたというところからやってくる。
作品を統御している作者という位置に眼をおくと、これはよだかがいじけて打ちしおれた述懐をやっているという位相にはない。じぶんの醜い貌と、うとんじられてあしらわれている状態を嘆いていると描かれているのはよだかだが、作者のほうはイジメラレテイルモノ、ナイガシロニサレテイルモノガ示ス歯牙ニモカケラレヌヨウナ善意デナケレバ善意トシテノ意味ガナイという暗喩で作品を充たしたいのだといってよい。〈無償〉や〈善意〉がむくいられるかむくいられないかはどうでもよいという考えはありうる。また弱小なものから施された〈善意〉や〈無償〉の行方はどうなるかというモチーフもありうる。弱小なものが施す〈善意〉や〈無償〉は、いつもむくいられずに無視されるというよだかの述懐は真実だというモチーフもある。だが作者が偏執しているのはそのいずれでもない。あくまでも弱小なものさげすまれているものの〈善意〉や〈無償〉でなければ意味がないということなのだ。あるいは〈善意〉や〈無償〉の行為は、行為するものが弱小でありないがしろにされているときにだけ均整がとれるものだという思想だといいかえてもよい。
もともと暗喩としてしか存在できない作品の思想を直接とりだすのは危惧がつきまとうが、この偏執の照り返しや反響は宮沢賢治のすべての作品にわたっている。
「祭の晩」の山男は街で無性に腹が空いてつい団子屋にはいって銭もなしに二串団子を喰べてしまい街のひとにわざとやった無銭飲食だといじめられる。亮二がとおりかかって山男の通じない善意の悲しさを察知して、白銅一枚を代りにおいてやると山男はすっとんで消えてしまう。薪と栗をもってくるからただ喰いを赦してくれと街の人たちに弁解していた言葉どおりに、いつのまにか亮二とお爺さんの住居に薪と栗が山ほど届けられている。
[#ここから2字下げ]
「はっはっは、山男が薪をお前に持って来て呉れたのだ。俺はまたさっきの団子屋にやるといふ事だらうと思ってゐた。山男もずゐぶん賢いもんだな。」
亮二は薪をよく見ようとして、一足そっちへ進みましたが、忽ち何かに滑ってころびました。見るとそこらいちめん、きらきらきらきらする栗の実でした。亮二は起きあがって叫びました。
「おぢいさん、山男は栗も持って来たよ。」
お爺さんもびっくりして云ひました。
「栗まで持って来たのか。こんなに貰ふわけには行かない。今度何か山へ持って行って置いて来よう。一番着物がよからうな。」
亮二はなんだか、山男がかあいさうで泣きたいやうなへんな気もちになりました。
「おぢいさん、山男はあんまり正直でかあいさうだ。僕何かいいものをやりたいな。」
「うん、今度夜具を一枚持って行ってやらう。山男は夜具を綿入の代りに着るかも知れない。それから団子も持って行かう。」
亮二は叫びました。
「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それからからだが天に飛んでしまふ位いいものをやりたいなあ。」
おぢいさんは消えたラムプを取りあげて、
「うん、さういふいいものがあればなあ。さあ、うちへ入って豆をたべろ。そのうちに、おとうさんも隣りから帰るから。」と云ひながら、家の中にはいりました。
[#地付き](「祭の晩」)
[#ここで字下げ終わり]
銭をもちあわせないのも忘れてつい団子屋にとびこんで団子を二串ばかり喰べてしまった「山男」の行為が、故意にやった醜行為だとかんがえる街の人には「山男」はさげすまれる存在でしかない。薪を山ほど運んでくるし栗ももってくるから堪忍しろと弁解しても街の人にはもう信じられない。またとうてい通じないそら言として無視されてしまう。この「山男」の構造にあるものは「よだかの星」の「よだか」や「虔十公園林」の「虔十」などとおなじものである。この「オロオロアルキ ミンナニデクノボートヨバレ」る構造における〈善意〉や〈無償〉に最上の意味がおかれる。この最上の意味にたまたま遭遇したときは、それに酬いるに〈天上〉をもってしてもまだ足りないという想念は、また作者の固執してやまないところであった。
たまたま「祭の晩」では亮二の言葉尻にわずかにそれが反映している。「着物と団子だけぢゃつまらない。もっともっといいものをやりたいな。山男が嬉しがって泣いてぐるぐるはねまはって、それから|からだが天に飛んでしまふ位《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いいものをやりたいなあ。」(傍点引用者)という亮二の言葉がそれにあたっている。どう処理していいかわからないような「オロオロ」した善意の照り返しの表情が表出されている。
かれの作品に固執された有意味性を強いて取り出すことからくる一種の批評的な|どぎつさ《ヽヽヽヽ》をさり気なく修正したいのだがなかなか巧くいかない。|どぎつさ《ヽヽヽヽ》は修正したいが取り出した「オロオロ」したものの〈善意〉あるいは〈無償〉と、それへの無限に拡大された感受性の尊重、そしてそういう場に形成される磁力といったものは宮沢作品を貫く本質的な特異さだとは主張したいからだ。かれの作品の芸術性はさり気ない行為を敏感きわまる秤りにのせたときのふるえのようなものを感受することで取出されるのに、かれの作品の思想を解明するには武骨きわまる手が必要なのだ。ここに批評が当惑する問題がある。
「銀河鉄道の夜」で、ジョバンニは銀河の鷺をつかまえては剥製に平べったくたたんで食料にして販るのを商売にしている「鳥捕り」にたいして、突然ひとつの思いに誘われる。
[#ここから2字下げ]
ジョバンニはなんだかわけもわからずに、にはかにとなりの鳥捕りが気の毒でたまらなくなりました。鷺をつかまへてせいせいしたとよろこんだり、白いきれでそれをくるくる包んだり、ひとの切符をびっくりしたやうに横目で見てあわててほめだしたり、そんなことを一々考へてゐると、もうその見ず知らずの鳥捕りのために、ジョバンニの持ってゐるものでも食べるものでもなんでもやってしまひたい、もうこの人のほんたうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいいといふやうな気がして、どうしてももう黙ってゐられなくなりました。ほんたうにあなたのほしいものは一体何ですか、と訊かうとして、それではあんまり出し抜けだから、どうせうかと考へて振り返って見ましたら、そこにはもうあの鳥捕りが居ませんでした。
[#地付き](「銀河鉄道の夜」)
「あの人どこへ行ったらう。」カムパネルラもぼんやりさう云ってゐました。
「どこへ行ったらう。一体どこでまたあふのだらう。僕はどうしても少しあの人に物を言はなかったらう。」
「ああ、僕もさう思ってゐるよ。」
「僕はあの人が邪魔なやうな気がしたんだ。だから僕は大へんつらい。」ジョバンニはこんな変てこな気もちは、ほんたうにはじめてだし、こんなこと今まで云ったこともないと思ひました。
[#地付き](「銀河鉄道の夜」)
[#ここで字下げ終わり]
ジョバンニが突然「鳥捕り」の男に感じた「変てこな気もち」は、亮二が「山男」に感じたものと同型であるといってよい。この敏感な極微の心の揺れを言葉のピンにとめているということが宮沢作品の芸術的な本質である。この〈突然〉はどうしてやってきたのか。ジョバンニがじぶんが「鳥捕り」にたいして邪慳な男の役割を知らずに演じていたことに気づいたからである。ほんとうは知らずにではなく、こだわりとしては知っていていじめるもの、さげすむものの構造に入りこんでいた。けれど、それだけではジョバンニは「もうこの人のほんたうの幸になるなら、自分があの光る天の川の河原に立って百年つづけて立って鳥をとってやってもいい」とまでは感じなかったはずであった。じつにジョバンニが無意識のこだわりから演じた邪慳な男の役割を「鳥捕り」の方はまったく気づいていないということがジョバンニを動かした。「鳥捕り」は殺生を販る小狡い商売人でありながらジョバンニの感性にたいしては知らずに「デクノボー」とよばれる〈善意〉の役割としてあらわれている。この構図は宮沢賢治の本質に叶うもの、思想のかかとに接触するものであった。
宮沢賢治自身の思い込みではむしろ本質の本質つまり作品の理念は、ここで片鱗をあらわしている「この人のほんたうの幸になるなら、」というばあいの「ほんたう」の構造にあった。「ほんたうの幸」、「ほんたうのひかり」、「ほんたうの力」というような言語で繰返し作品にあらわれる作者じしんの情熱、熱弁、懐疑と追及とに自身の生涯をつぶした思想があると、かれはみなしていた。それに触れるとき宮沢賢治は言語の美的な構成を、いつもぶち壊してしまった。暗喩はたちまちのうちに破れ、裂け目からは無類の信じ込みの白熱と稚拙さと、わたしたちの自意識をたじろがせたり、苦笑させたり、白けさせたりする生真面目があらわれる。むしろかれの最大の弱点であった思想の節約、経済学、能率主義さえあらわれるといってもよかったのである。
もちろんこういうばあいでも、かれの作品をありふれた説教童話にしなかったものはかれのあの視線である。どこかに作品を統御しながら、登場者のすべて登場する風や雲や樹木や鳥や景観のすべてを、あたかも水槽のなかに見透しているような装置の眼であったといってよい。
わたしたちはかれのこの視線の特異なメタフィジイクが、かれの思い込んでやまなかった冷たい白熱である「ほんたう」や「まこと」の構造とかかわるところに触れたいのだが、思惑どおりに手易くはいかない。
作品「猫の事務所」の「|竈《かま》猫」は夜かまどの中にはいって眠るくせがあるため、いつも身体が汚なく煤けていて、ことに鼻と耳にはまっ黒なすみをつけている。そのためいつもほかの猫から嫌われている。事務所は猫の歴史と地理を調べているところで、所長の黒猫のしたで四人の書記がいる。「竈猫」は四番書記だがみんなにひどく憎まれ、うとんじられている。「|かま《ヽヽ》猫」はみんなによく思われようとするが、外の猫からいやがらせや意地悪をされるばかりだ。「|かま《ヽヽ》猫」はじぶんが事務所にいるのは「|かま《ヽヽ》猫」仲間のみんなから名誉だとおもわれているからなのを知っている。だからいじめられてつらくても、みんなのためやめずにがまんしようとおもっている。ある時、風邪をひいて一日やすんで事務所に出てゆくと自分の持前の原簿がほかの三人の猫の机にふりわけられ、仕事を奪われていた。外の猫は忙しそうに気づかぬふりをして立働いていて、暗黙の仲間外れの雰囲気になっている。
[#ここから2字下げ]
事務所の中は、だんだん忙がしく湯の様になって、仕事はずんずん進みました。みんな、ほんの時々、ちらっとこっちを見るだけで、ただ一ことも云ひません。
そしておひるになりました。|かま《ヽヽ》猫は、持って来た弁当も喰べず、じっと膝に手を置いてうつむいて居りました。
たうとうひるすぎの一時から、|かま《ヽヽ》猫はしくしく泣きはじめました。そして晩方まで三時間ほど泣いたりやめたり、また泣きだしたりしたのです。
それでもみんなはそんなこと、一向知らないといふやうに面白さうに仕事をしてゐました。
その時です。猫どもは気が付きませんでしたが、事務長のうしろの窓の向ふに、いかめしい獅子の金いろの頭が見えました。
獅子は不審さうに、しばらく中を見てゐましたが、いきなり戸口を叩いてはいって来ました。猫どもの愕ろきやうといったらありません。うろうろうろうろ、そこらをあるきまはるだけです。|かま《ヽヽ》猫だけが泣くのをやめて、まっすぐに立ちました。
獅子が大きなしっかりした声で云ひました。
「お前たちは何をしてゐるか。そんなことで地理も歴史も要ったはなしでない。やめてしまへ。えい。解散を命ずる。」
かうして事務所は廃止になりました。
ぼくは半分獅子に同感です。
[#地付き](「猫の事務所」)
[#ここで字下げ終わり]
なぜ突然「獅子」が窓の外からのぞいたのか。そういわずになぜ突然「獅子」は作品をのぞいたのかといってもよい。そして一瞬のうちに「|かま《ヽヽ》猫」がいままでみなから意地悪されいじめられてきたという〈猫〉の事務所の〈歴史〉と〈地理〉を、その場の様子ですぐに〈察知〉したのか。この場面が意味するものは宮沢作品の肝要をなすことは明白である。みんなの猫はうろうろし「|かま《ヽヽ》猫」だけが泣くのをやめて「まっすぐに立ち」あがる。なぜなのか。意地悪をされてしくしく泣くばかりに歯がゆいような「|かま《ヽヽ》猫」の存在の仕方だけが菩薩に叶っているといってしまわずに、だがそういいたいという矛盾を作品に形成したかった。この宮沢のモチーフは難解といえばその通りである。ただこの難解さは宮沢作品に普遍的であるとともに、宮沢の資質の難解さにかかわっている。そしてこの資質はどこかに帰還したいのだが、その場所は生存のなかにはなかったというべきである。「獅子」がお前たち猫どもはそんないじけた、陰徴でけちな意地悪や、仲間外れや足のすくいっこで弱いものをいたぶったりしながら「地理」も「歴史」もへちまもないというとき、もう「半分」を超え全体作品を超えて、宮沢賢治は「獅子」に同感している。
わたしの臆測をいえば、突然猫の事務所をのぞきに登場して、いじいじと弱い仲間をいたぶりながら「歴史」だの「地理」だのもっともらしいことを調査、研究することなどやめてしまえと叱咤する「獅子」は、「法華経」のなかの獅子の座について究極の一切種智を説く〈如来〉から着想された。それをさり気ないユーモラスなタッチでひと刷毛したところに宮沢の独自な冴えがあった。けれど〈ほんたう〉とか〈まこと〉とかの構造に触れたことに変りない。
〈弱〉〈小〉〈醜〉〈卑〉といったものがもつ「オロオロ」した〈善意〉や〈無償〉が登場した途端に、いつも作品のなかに巻きおこされる対処のしようもないほどおたおたした羞耻や狼狽や途惑いの鋭敏な感受性を、宮沢賢治はそのまま〈天上〉へもっていきたかった。けれどいつもそうとばかりはいかなかった。かれが現実の構造に眼を閉じて、捷径をとりたがったりして衝突する|もの《ヽヽ》は、けっして高級なものではない。
「ポラーノの広場」のキューストは大団円のところで思わず立ちあがって演説する。
[#ここから2字下げ]
諸君、酒を呑まないことで酒を呑むものより一割余計の力を得る。たばこをのまないことから二割余計の力を得る。まっすぐに進む方向をきめて、頭のなかのあらゆる力を整理することから、乱雑なものにくらべて二割以上の力を得る。さうだあの人たちが女のことを考へたり、お互の間の喧嘩のことでつかふ力をみんなぼくらのほんたうの幸をもってくることにつかふ。見たまへ、諸君はまもなくあれらの人たちへくらべて倍の力を得るだらう。けれどもかういふやりかたをいままでのほかの人たちに強ひることはいけない。あの人たちは、ああいふ風に酒を呑まなければ、淋しくて寒くて生きてゐられないやうなときに生れたのだ。
ぼくらはだまってやって行かう。風からも光る雲からも諸君にはあたらしい力が来る。そして諸君はまもなくここへ、ここのこの野原へむかしのお伽噺よりもっと立派なポラーノの広場をつくるだらう。
[#地付き](「ポラーノの広場」)
[#ここで字下げ終わり]
これは「作品第一〇五六番」の「酒を呑みたいために尤もらしい波瀾を起すやつ」や「じぶんだけで面白いことをしつくして 人生が砂っ原だなんていふにせ教師」をびしゃびしゃに叩きつけてしまえという立言につながる。また「稲作挿話」の「これからの本統の勉強はねえテニスをしながら商売の先生から 義理で教はることでないんだ きみのやうにさ 吹雪やわづかの仕事のひまで 泣きながら からだに刻んで行く勉強が まもなくぐんぐん強い芽を噴いて どこまでのびるかわからない それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ」という表現にも通底している。たぶん宮沢賢治はこういう個処で真剣で、むきになってかれのいう〈まことの力〉とか〈ほんとうの幸〉とかいうものへ肉迫しようとしている。こういうときのキューストや作品にのりだした宮沢自身は「オロオロ」とした〈善意〉や〈無償〉に、身も世もないほど感受性を過敏に過剰にさせて〈天上〉へゆきたいという構造を喪失する。
むしろもっと生々しく積極的な苛立ちで〈善意〉や〈無償〉をいつも収奪される側の〈弱〉〈小〉〈醜〉〈卑〉という視方に変貌している。その結果あらわれているのは、弱小なもの、いじめられたものにも、いたぶっているものにも通底した篤農意識、勤勉主義、能率主義のようなものである。宮沢自身のいう東洋風の静観とあきらめの本来的な貌が、かえって露出してきている。こういうときの宮沢は弱小なもの、いじめられてうとまれているものに、恰好のいい嘘をつくことになっている。支配者や農本的な篤農家や労働者の味方づらをした道徳主義者が、貧民や労働者の弱点につけこむためにつねに吐き出す嘘とおなじことになっている。能率、有効性、必要に強いられて生存しているものに、べつの有効性と能率主義を与えて解放できるとする思想はサギ以外のものではない。総じて抽象的な〈論理〉と〈無効〉性を身につけるながい道程のなかにしか弱小なものが解放される方向はない。
ウイリアム・モリス風のユートピアでは、十九世紀の末には「工業地区への単なる附属物」になってしまった農村は、農民の手で送りだされる産物が農民の口にははいらないという構造のままに窮乏してゆく。田舎の人たちのささやかな愉しみであった田園の風俗も景観もみんなひとたび亡んでしまう。だがどうしてか(このどうしてかをモリスは説明しない)突然に急激な変化がおきて人々は逆に農村に流れこんでいって「野の獣がその餌にとびかかるように」土地にとびついてゆく。モリスによればこのときに政治的な革命が成っていなければ事態は田園の荒廃にまかせなければならないだろうが、それが成就していたので田園に侵入してきた都会人たちは、昔の武力侵入者たちが土着の風土に影響されたように、じぶんたちの方がかえって、しだいに田園人になってゆく。そしてこの田園人の人口の増加とともに都市に逆に影響が流入しはじめ、都市と田園との差異はだんだん消滅してゆく。そういうユートピアになっている。話がうますぎるのに、それを補うべき要所の釘が抜けているのは、ともあれモリスには未知の政治的な革命があいだに介在していて、しかもこの実態が未知だからである。
もう少しモリス風の世界をたどれば、人々がけっしてわがものとならない過労に駆りたてられて、どうすることもできないといった状態がなくなったとき、人々のなかからいまやっている仕事をより優れたふうにやってのけようという意欲が本能的におこってくる。それは美にたいする渇望にまでひとりでに昇華され、じぶんたちの製産品を不器用に装飾するようになり、やがて実用的な芸術品にまで作りかえてゆく。
宮沢賢治はモリスのように社会組織の革命の全体的構造のうえに、ユートピアが成立つという着想をまったくとらなかった。だから人類が「一方には盲目的な圧制者たち、他方には無関心な堕落した奴隷たち」(ウイリアム・モリス『ユートピアだより』松村達雄訳)の二種類にわけられる状態がなくなってしまえば、実用的な製品それ自体が芸術的な加工品にまで昇華されるという芸術経済論はなかった。宮沢自身のいうある「心理学」上の転換のうえに「灰色の労働」が芸術にまで昇華され、身体の動作それ自体が芸術にまで節奏化されるという着想をはなれなかった。いいかえればかれの農民芸術は貧弱な風土と生活それ自体の幻想的美化、重ねあわせの形像と、貧弱な土壌からの幻想による離脱をよりおおく意味したといってよい。
もちろん宮沢もまた修辞的には、みんながぜんぶ労農党になってからおれのほんとの仕事がはじまると書いてみたり、諸君はその時代にひきずられて奴隷のように忍従したいのかと書いたりしている。けれどそこには宮沢本来はいない。かれには社会的な構想も政治的な構想も具象的になったことはなかった。ことはすべていってみれば「心理学」上の構想に属したというところにこそ、宮沢賢治のユートピアの重大さがあったのである。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が、モリスの『ユートピアだより』の結構に倣ったのは明瞭だが『ユートピアだより』の「わたし」がテムズ川の流れに沿ってユートピア社会の現実を視察するのにたいして「銀河鉄道の夜」のジョバンニは岩手軽便鉄道の「心理学」的な幻想化である「銀河鉄道」によって、幻想のユートピアを旅する。この質の相違がきわめてよく宮沢賢治のユートピアと芸術とを象徴している。
作品「マリヴロンと少女」で歌い手マリヴロンは崇拝者の少女にいうところがある。
[#ここから2字下げ]
マリヴロンは思はず微笑った。
「ええ、それをわたくしはのぞみます。けれどもそれはあなたはいよいよさうでせう。正しく清くはたらくひとは、ひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。ごらんなさい。向ふの青いそらのなかを一羽の鵠がとんで行きます。鳥はうしろにみなそのあとをもつのです。みんなはそれを見ないでせうが、わたくしはそれを見るのです。おんなじやうにわたくしどもは、みなそのあとにひとつの世界をつくって来ます。それがあらゆる人々のいちばん高い芸術です。」
「けれども、すべての草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌ひます。わたくしはたれにも知られず巨きな森のなかで朽ちてしまふのです。」
「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与へられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈られます。」
「私を教へて下さい。私を連れて行ってつかって下さい。私はどんなことでもいたします。」
「いいえ、私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすんで、いっしょにすすむ人々は、いつでもいっしょにゐるのです。けれども、わたくしは、もう帰らなければなりません。お日様があまり遠くなりました。もずが飛び立ちます。では。ごきげんよう。」
[#地付き](「マリヴロンと少女」)
[#ここで字下げ終わり]
ただこの個処をいうためにつくられたような作品だから、マリヴロンのいう「正しく清くはたらくひとは、ひとつの大きな芸術を時間のうしろにつくるのです。」というのは宮沢賢治の主張とみなして大過ない。労働がつくる製品が芸術だというよりも、労働するというそのことが不可視の芸術だとみなされる。またそうでなければ芸術家だけが芸術作品をのこすのに生活者は芸術作品をのこさないということになる。すべての芸術はたれでもが生活そのものにおいて眼に視えない形でのこしている。「みんなはそれを見ない」かもしれないが「わたくしはそれを見る」というのが宮沢賢治のモチーフであった。
もうひとつの特徴は「すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。」とか、「私はどこへも行きません。いつでもあなたが考へるそこに居ります。」というマリヴロンの言葉に象徴されている。この考えを宮沢賢治は「法華経」に描かれた究極のニルヴァーナ像からうけとって独特につくりかえた。これは〈如来〉の仏性はたれにたいしても平等に、時間と空間を超えて瞬時に与えられるものだという理念を借りたものとみなされる。
だがすこしつっこんでゆくとかならずしもそうといえないところがでてくる。ここが宮沢賢治の独自な難解さに通ずるのだが、かれはこれを「心理学」上の〈察知〉の能力(あるいは超能力)とみなしたふしがある。この〈察知〉の能力を究極まで身につけることができれば、自在に瞬時に、すべての善性は何人のところへも行けるものだし、もし如来性というものがあるとすればそのような能力として普遍的に、この時空世界を充たしているものだというように。そのように〈察知〉ができる能力を身につけることによって「灰色の労働」だけではなく、日常の生活の諸作のすべてもまた芸術として感覚することができるようになる。これがかれのユートピア構想の要めであった。また、雲や風のような自然も、宇宙のような天体のすべても、そのように感じられることを待ちのぞんでいるものなのだという「中学生の考えるような点」(「断片書簡」)も、かれのユートピアの支柱のひとつであり同時に、かれのユートピアへの入口でもあった。
この理念を『注文の多い料理店』の「序」にもみることができる。
[#ここから2字下げ]
わたくしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、きれいにすきとほった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしたちは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびらうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かはってゐるのをたびたび見ました。
わたくしは、さういふきれいなたべものやきものをすきです。
これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。
ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるへながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです。
ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれっきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
けれども、わたくしは、これらのちひさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほったほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。
[#地付き](『注文の多い料理店』の「序」)
[#ここで字下げ終わり]
誰もが生活のあとにのこしてきた世界が芸術であり、生活の諸作そのものが芸術でありうるとすれば、逆に自然の「風」や「朝の日光」もたべものであっていいはずだ。これは「心理学」上の想像力の問題だからだ。おなじように「ぼろぼろのきもの」が「すばらしいびらうどや羅紗」に変るために、自然の光線と想像力とがあればよい。〈ぼろはきてても心は錦〉という通俗的な道義と諦念が必要なのでもなければ、ぼろをきているものを政治的にと社会経済的にと解放すればよいといったものでもなかった。
ここのところへくると宮沢賢治の独特の〈結合〉のメタフィジイクともいうべきものがあらわれる。この〈結合〉のメタフィジイクの内部では、如何にしてこういうタイプの想像力を身につけるかが、そのままかれのユートピアであり同時に、ユートピアへの狭き門だという至上の命題があらわれる。この考えはかなり難解でまた曖昧でもあったというべきである。「なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。」というのはその通りであった。また重要なかれのトートロジーの思想で「わけのわからないところ」にはひっきょう、「わけのわからないところ」そのものが存在するという理念を抜きにしては、宮沢の思想は成り立っていない。「中学生」がよくかんがえる程度の空想が、あまりに真剣に卓越した詩人によって考えられているので、読むものもまた真剣な中学生とならざるをえない。
このとき感ずる途惑い、驚きや耻かしさ、たじろぎなどに宮沢賢治の言語が強いる本質的な問題がある。わたしたちは辟易しつつも共感し、かれがわたしたちを小僧あつかいにして説いているところを、ガードを固めて超真剣にきくほかなくなる。本音をいえば宮沢自身はそれさえいえれば、作品の出来ばえなどどうでもいいのだとおもい込んでいたにちがいないことがあった。作品のなかでは〈ほんとうの幸(ひかり・ちから)〉とか〈まことの願(ちから・ひかり・幸)〉とかいう言語であらわれる不可知論の語彙に象徴される。かれがこの言語でいいたかったこと、その実体はなにかというように問いはじめたら最後、じつに何を意味しているのかわからなくなる。けれど言葉通りに受け入れると一種の言語の聖領域のようなものとして了解できるようにおもわれてくる。
これは宮沢賢治の思想のひとつの感性的な種子である「わけのわからないところ」は「わけのわからないととろ」自体として存在するという概念にあたっていた。そこを目指すと言葉はいつも近傍で外れていってしまう。禁忌ではなく逆に目指す本体なのに、そばまで接近するとひとりでに軌道がかすれてしまう。わたしたちは宮沢賢治の作品からなんべんも〈まこと〉あるいは〈ほんとう〉という言葉が、狙われてはまた外れてゆくのを受け取ることができよう。
ただそこへ接近するための入口は、すくなくとも宮沢賢治にははっきりしていたにちがいなかった。弱小なもの、うとまれるもの、いじめられてしまうものの〈無償〉や〈善意〉だけをとくべつに感受するアンテナがあるとすれば、かれの作品がいつも出現させたような磁場があらわれる。そこでは「オロオロ」した〈無償〉や〈善意〉と、それに感応したもののかもしだす身も世もないような敏感な〈察知〉の場がつくりだされる。その「デクノボー」の善意の磁場が宮沢の〈まことのひかり〉とか〈ほんとうの幸〉とかへつづく通路の入口になっている。すくなくともわたしにはそうおもえる。たぶんこの〈察知〉の場を宮沢賢治はよりおおく「心理学」上の問題のようにかんがえた形跡がある。そこからかれの難解さがたち騰ってくるのである。ほんらいならばここのところは、宮沢の構成した独特の〈善意〉や〈無償〉の磁場を通って、宗教的な至上世界(無上菩提)にいたるといえばすむはずのところであった。
だが宮沢賢治には、宗教的なユートピアにたいしてそれほど直線的でないところがあった。詩語「雨ニモマケズ」のなかの難解な「ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」の「ワカリ」という言葉はたぶんここに関連していた。それは〈察知〉そのままの場が〈天上〉のユートピアへゆくのだというかれのかんがえをあらわしていたと受け取れる。もちろんここは宮沢賢治自身にとっても危ない通路であった。かれの作品の言葉がしばしば安易な形で宗教的な教説に堕ちてゆくところに通路の危うさがあらわれている。またかれが「断ジテ教化ノ考タルベカラズ! タダ純真ニ法案スベシ」と自戒をのべながら、その〈無償〉や〈善意〉を宗教的な屈折に短絡させようとしたところにもあらわれた。
「烏の北斗七星」で烏の大尉がそういう危うさの淵にたっている。
[#ここから2字下げ]
烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そらのマヂエルを祈る声まですっかり聴いて居りました。
じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマヂエルの星を仰ぎながら、ああ、あしたの戦でわたくしが勝つことがいいのか、山烏がかつのがいいのか、それはわたくしにわかりません、ただあなたのお考へのとほりです、わたくしはわたくしにきまったやうに力いっぱいたたかひます、みんなみんなあなたのお考へのとほりですとしづかに祈って居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧いたのです。
[#地付き](「烏の北斗七星」)
[#ここで字下げ終わり]
すこしあとのところに少佐に昇格した隊長が「(ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいやうに早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。)」と祈るところがでてくる。〈善意〉や〈無償〉から宗教的な倫理や自己犠牲にと流れてゆく通路は、かれが心弱かったときに早急にいつも駆け抜けてゆく通路であった。そしてこれが感性の自然融着と拮抗して、宗教的な教訓家の共感と超近代主義者の黙殺をかってきた。宮沢賢治のもっとも通俗に流れたところだからである。
かれの主観がどうであったとしても、こういう宗教的な屈折は、たとえば作品「カイロ団長」のなかで「ドッと一緒に人をあざけり笑ってそれから俄かにしいんとなった時のこのさびしいこと」にふれている個処に、はるかに劣っている。また「あるすきとほるやうに黄金いろの秋の日」に夏いらいの嫉妬のつらい思いが「何だかぼうっとみんな立派なもやのやうなものに変って頭の上に環になってかかったやうに思」った土神が、瞬時に樺の木と狐の仲のよろしさを赦すこころになり、いまなら誰のためにでも命をやってもいいというほどの気持になるのだが、またすぐに樺の木と狐の睦じそうな語らいにどす黒くなって狐をぐちゃぐちゃに踏みつけて殺してしまう「土神と狐」の描写にくらべて本筋ではなかったといっていい。
「銀河鉄道の夜」でジョバンニが、じぶんは「どこまでもどこまでも」行ける切符を手にもっていながら、カムパネルラが気軽に女の子ととりとめのない話をできるのが哀しくなって「(あゝほんたうにどこまでもどこまでも僕といっしょに行くひとはないだらうか。カムパネルラだってあんな女の子とおもしろさうに談してゐるし僕はほんたうにつらいなあ。)」とかんがえるそのジェラシイへの触れ方の質に、宮沢賢治の悲劇の本格さが横たわっている。男女のジェラシイのうえにゆれる〈善意〉と〈悪意〉に人間の相対性と絶対性をのぞき込もうとするとき、かれは本格的にかれ自身のものであった。
かれがなまのまま救済概念として他者に提供したところは、かれ自身にとっては少しも救済にならなかったのは明瞭であった。そのために河谷や丘や風や木立ちとして景観に化してしまう視線とともに、銀河系のどこかから差し込んできてすべての景観の要素をじぶんも含めて、あたかも水槽のなかにおさめてしまりような遠くからの視線もかれには必要であった。この視線の複合性と自在さに、メタフィジカルな性格があたえられるとすれば、世界のすべての事物の状態と意志とを瞬時にわかってしまう唯一の至上の存在としての〈如来〉という大乗教の概念であった。もちろんすでに生得の資質のうえに仏教の素養が視線の理念をあたえたといってもよい。
「法華経」が説いている思想のうち宮沢賢治を魅了したのは宇宙には唯一の如来性があって、あらゆる存在がそれぞれの時間と空間のある状態で何をかんがえ、どういう意志をもっていてなにをしようとしているか、ことごとく〈察知〉しているという考えであった。この〈察知〉はそれぞれの事物のおかれた状態をじぶんではわからない個々の存在を貫徹して見透している。そしてこの如来性はけっきょくは実体もなく、生成も死滅もなく、障礙もない虚空のようなものなのだが、ある因果的な関係性の凝縮する場所として仮りに現象的な形態をとることができる。そして大乗という概念はこの如来性にむかって、人々をあわれみ包みこみ安楽にさせ済度しながら解脱させることを意味している。そのためにじぶんの身体を粉末にして使駆するものがあれば菩薩とよばるべきである。「法華経」が菩薩にむかって説かれた経文だという経文自体の言説を、宮沢賢治は文字通り、信じてやまなかった。信じてやまなかったものはたくさんいるのかもしれない。かれは信じたものになろうとするじぶんの行為の全体性を文字通り信じた。
ここにかれの作品と生涯の悲劇があった。喜劇がというにはあまりにその信じ込みの行為は無垢であった。宗教的な〈信〉の宮沢的な在り方は、現在では宗教自体がまったく信じてはいまい。そして信じきれない自意識の度合に応じて〈信〉の相対性を許容しているといってもよい。宮沢は「法華経」のいうそのままの意味で菩薩にじぶんを擬した。現実の生身の生活をむしろ菩薩という架空の鋳型のなかにはめ込もうとした。これはすべての理想主義の悲劇とまったくおなじにちがいない。けれどすべての理想主義の悲劇は自己回帰的だが、宮沢賢治の悲劇は他者回帰的であった。その悲劇はどこにももってゆきようがなかったから、自然の景観に流入する感性によって|白熱した空虚《ヽヽヽヽヽヽ》を紡ぎ出したともいえる。
ひとたちは難所にかかって、疲れおののいてもうすすむことができない。まだ道のりは遠く、とても到達できそうにないからひき返そうといった。このとき導師は神通力で幻想の城を出現させて、あそこで安堵して休息しようとすすめた。人々は安堵して休息を愉しんだ。そして人々が疲れを医したあとで、導師は幻の城を消して、もうすぐ宝のある処へたどりつく、城はわたしが憩わせようと出現させた幻影であったと告げた。
〈まこと〉のニルヴァーナの構造を志向する如来性は、こういった方便をつかって出現する。具象的なあらわれ方をする個々の現象はけっして究極的なものではない。そういう「法華経」の化城喩品は、言語としては稚拙な寓喩でしかない。しかし宮沢賢治はあらゆる存在の現に意志していること、おかれている状態、そうする行為をことごとく〈察知〉している宇宙意志のような如来というかんがえ方を「化城喩品」にある手段としての〈超能力〉というかんがえで独特に組み替えた。かれはむしろ「心理学」上の〈超能力〉の喚起によって、個々の存在がどんな段階でなにをどのように願望しつつあるか、その願望のうちでそれぞれの存在の仕方に無矛盾な、もっとも望ましい状態はどういうものか。これを幻燈のように念写することができるのではないか。それはたぶん「法華経」の説く如来の〈察知〉性と解脱の本質的な〈空〉と相似たものとなるのではないかというかんがえ方に傾いたといえる。
この意味では「銀河鉄道の夜」はかれの方法で試みたかれの「化城喩品」にほかならなかった。かれはここで「ブルカニロ博士」の超心理学的な実験でジョバンニの幻覚に出現した光景という形で、幻想の銀河鉄道に乗った人々の究極の願望のようなものを照らしだしてみせた。カムパネルラが窓の遠くにきれいな野原がみえるところで幻想の列車から消えてしまうとジョバンニははげしく泣き出す。
そのとき、
[#ここから2字下げ]
「おまへはいったい何を泣いてゐるの。ちょっとこっちをごらん。」いままでたびたび聞えた、あのやさしいセロのやうな声が、ジョバンニのうしろから聞えました。
ジョバンニは、はっと思って涙をはらってそっちをふり向きました。さっきまでカムパネルラの座ってゐた席に黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人が、やさしくわらって大きな一冊の本をもってゐました。
「おまへのともだちがどこかへ行ったのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行ったのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行かうと云ったんです。」
「ああ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまへはさっき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しょに早くそこに行くがいい、そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
「ああぼくはきっとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでせう。」
「ああわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう、水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはたれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれども、もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考と、うその考とを分けてしまへば、その実験の方法さへきまれば、もう信仰も化学と同じやうになる。」
[#地付き](「銀河鉄道の夜」)
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものが、じぶんの考といふものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなはり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとほりになりました。
「さあいいか。だからおまへの実験は、このきれぎれの考のはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまへはあのプレシオスの鎖を解かなければならない。」
[#地付き](「銀河鉄道の夜」)
[#ここで字下げ終わり]
ここで「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」はジョバンニの幻想のなかの「ブルカニロ博士」の出現の仕方を指している。そして「ブルカニロ博士」の出現の仕方と、銀河鉄道の客たちのそれぞれの段階における願望と明滅の仕方の光景は、宮沢賢治がかんがえた如来性を象徴している。「ブルカニロ博士」は宮沢賢治自身であるとともに、宮沢的にかんがえられた〈如来〉にほかならなかったといえる。そして「銀河鉄道の夜」という作品で実現される光景は、すくなくとも「ブルカニロ博士」だけには自在に統御され見透されているという構想がひとたびはとられた。
この構想が「法華経」の理念をあまりに「心理学」上の催眠幻覚や超能力の問題に引寄せていることを宮沢賢治自身はたぶん危惧したにちがいない。大乗教のいう如来性や菩薩性も、描き出される死後願望のユートピア世界もまた「心理学」上の一問題にすぎないのではないか。そういうじぶんの疑念がこの構想をとらせたことを、宮沢自身が知らなかったはずがない。かれはそこでこの個処に抹消の線をひいたりしたのである。けれどもある意味では、かれの科学的な懐疑がどうしてもこの個処を必要とさせたともいいえよう。「ほんたうの考とうその考とを分け」るために、科学的な実験のようにたしかな実験の方法がわからなければならぬ。そうでなければ〈ほんとうの幸〉をもとめるといっても、ただの不可知論的なユートピアを導くだけだ。
その実験の方法はどこにもとめればいいのか。存在するものすべて(自分や自分の考えや汽車やその学者や天の川や、それから歴史や)の状態と、意志や願望や行為のすべてがわかり、そして見透すことができるもの(如来性)がはっきりと手につかめなければならないことは確実である。そしてさしあたりそれを「心理学」に類した内的構成にもとめるより仕方がないというのが、宮沢賢治がおそるおそる提示したユートピア思想であった。そしてそっと抹消の線をひいてみせた仮説でもあった。
ここのところで沸きあがる懐疑を捨てて、宇宙意志のようなものと一体になろうとし〈なれる〉〈そうなれる〉と呪文のように自己にいいきかせながら、そのようにじぶんの短い生涯を追いこもうとした。そこに宮沢賢治のもっとも巨きな動揺があったのである。かれは大乗教のいう如来性の規模が「心理学」上の催眠幻覚や考想移譲の問題に矮小化されてしまうのを嫌って、動揺の痕跡をすべて作品から洗い流したかったかもしれない。だが「ほんたうの考とうその考」とを分けることができれば、その実験の方法さえきまればというかれの根源的な動揺は、ながいながいあいだわたしの脳裏を去来してやまない。
[#改ページ]
[#小見出し]  付 童話的世界
〈子供〉(児童)という概念は、厳密にいうと不可能にちかいものであろう。わたしたちは誰でも〈子供〉を体験してきたにはちがいないが、再現不可能なものとして体験してきた。あるひとつの概念が直接体験のほかに再現不可能だとすれば、概念として成り立たないものだとみてよい。〈じぶんの子供の頃は〉という語り方をするとき、わたしたちはいつも現在によって撰択された〈子供の頃〉をいうことで、じつは現在的な撰択そのものを指している。わたしたちがいつも眼の前にしているのは他者としての〈子供〉でしかない。観察をどれだけ密にしても他者としての〈子供〉から〈子供〉そのものを再現することは不可能である。ここからは〈子供〉という概念はとても成立しそうもない。もうひとつ〈子供〉を知る手段があるとすれば、いまも地上のどこかに存在しているかもしれないし、かつて記録や調査によって存在したことがわかる〈未開人〉の心性と行動から類推することである。そしてもうひとつは〈夢〉の結合の仕方と意味の流れに〈子供〉の心的な世界や、行動への衝動をみつけだすことである。〈未開人〉や〈夢〉のことが〈子供〉の世界に類比されるのは、その両方が幼稚な未発達の世界だからではない。言葉や行為の結びつきを支配する価値感の流れが独特なために、奇妙な膨らみ方をした独特な世界だからである。全体の均整がとれているかどうか、あまり問題にならないから執着する部分が不当に拡大されたかとおもうと、全体からみて重要なことが小さな手足のように、縮小されてしまうといったことが絶えず起こる。〈子供〉には当然な世界なのに、それ以外のものからは奇妙に変形した全体像にみえる。こういういい方は眼も鼻すじも整った理想の人間を架空に基準においたいい方で〈子供〉や〈夢〉や〈未開人〉の世界とおなじように〈子供〉以外のものの世界も、別な具合に奇妙な歪み方をしている。ふつうわたしたちが狂気と呼んでいるものの言葉と行動の世界が、いわば〈子供〉以外のものの世界を極度に拡大したときの原型であるといってよい。〈子供〉にも狂気と呼ばれている世界はないことはない。その面からは〈子供〉以外のものとおなじだといえるかもしれない。ただ〈子供〉の狂気は内閉的で静かであるか、行動的にゆるやかであるかの何れかで、その外に〈子供〉の言葉や行動に狂気があるとすれば、〈子供〉以外のものの狂気の模倣だといえる。
結局わたしがいいたいのは〈子供〉という概念は厳密には成り立たないから、〈子供〉|の《ヽ》文学という概念も〈子供〉の|ための《ヽヽヽ》文学という概念も厳密には成り立たないはずだということらしい。そうだとすれば〈童話〉とか〈児童〉文学とかよばれている世界は、〈未開人〉や〈夢〉の言葉や行動のように、独特の膨みや変形の仕方をもった文学のすべてを指すか、あるいは〈子供〉以外のものの狂気や狂暴さや憧憬の世界を模倣したものとなるか、その何れかに帰着しそうな気がする。
宮沢賢治の童話をかんがえると、あきらかにこういう区分けの前者に属するように類型づけられる。ただきわめて早い時期(大正八年、二十四歳ころ)に日蓮宗の熱烈な信者になっており、当時隆盛であった田中智学の国柱会に入って故里で布教につとめるほどだったことが知られる。たぶんこのことと資質的にかかわることだが、すでにこの時期にじぶんを律する規範を獲得していた。かれは青年期に特有なデカダンスの底をなめつくそうというような願望をもつことはなかった。またそういう願望にまで徹底することはできなくても、急に殺到してくる〈社会〉にたいして馴致しようとして|も《ヽ》掻き、やがて世俗的な常識に馴染んでゆくという態度も示さなかった。おなじころ(大正八年)妹とし子の病気看護のため上京した折の両親宛の書簡をみると「常に身体を最第一と考ふること。失敗に失敗を重ぬるも決して自暴自棄せざること。道徳上の堕落に決して入らざること。」を両親に「誓」っている。そして「誓」うまでもなくじぶんに課した宗教的な規範からデカダンスは不可能であった。たぶん宮沢賢治は青年としては〈未開〉のまま、デカダンスも俗も知らず、まっしぐらに宗教の目指す世界観の構成までつっ走ったので、これがかれの文学の〈未開人〉や〈夢〉に類似の世界を独特なものにしているとともに、ある系列の作品ではとくに童話の世界を目的意識的に固苦しくしていることも否めない。
いったい宮沢賢治の童話の世界はどう構成されているのだろうか。構成の要めはどういう継ぎ目になっているのだろうか。そしてこの構成の仕方に人格形成のそれぞれの過程は、どう対応しているのだろうか。
宮沢賢治は熱烈な宗教的な信を固める以前に、すでにその童話作品を支配している独特な語彙とその使い方を獲得していることがわかる。
[#ここから2字下げ]
厚朴の芽は封蝋をもて堅められ氷のかけら青ぞらを馳す
[#地付き](明治四十五年)
対岸に人石をつむ人石を積めどさびしき水銀の川
[#地付き](大正三年)
よるべなき酸素の波の岸に居て機械のごとく麻をうつひと
[#地付き](大正三年)
コバルトのなやみよどめるその底に加里の火ひとつ白み燃えたる
[#地付き](大正五年)
あまぐもは氷河のごとく地を掻けば森は無念の群青を呑み
[#地付き](大正六年)
[#ここで字下げ終わり]
「水銀の川」、「酸素の波」、「コバルトのなやみ」は化学用語をつかった暗喩になっている。これらは水銀や酸素やブルーのコバルト化合物を実際に扱ったことのないものからは、不完全な安直な暗喩ととられても仕方がないものである。けれど如実な物質感覚をもっているものには、すぐに具象的なイメージを喚起するような的確な暗喩とうけとることができる。「水銀の川」という言葉で、白昼の日光をこまかく反射したまま、白色の曲りくねっている川の流れを水銀の質量感としてすぐに感覚される。「酸素の波」という暗喩もおなじように、物質感がなければ安直に化学用語をつかった比喩としてうけとれるかもしれない。けれどひとつの濃溶液に、相互に可溶なべつの化合物の溶液を注加したときに生ずる透明な波紋や流紋を、思いうかべることができるものには、この「酸素の波」という暗喩は、的確で特徴ある暗喩であることがすぐに了解される。宮沢賢治の童話作品にでてくる言葉には、この種の具象的な物質感を読むものに|強いる《ヽヽヽ》ところがある。|強いる《ヽヽヽ》という意味は、手易く反撥して引きかえすことができず、惹き込んで具象的なイメージを想起するようにさせる力をもつということである。なぜかというと、かれのこの種の暗喩は術語の巧みな用法というだけではなく、それが自然の独特な把握感や切り取りとわかちがたく結びついているからである。厚朴の芽は封蝋でかためられ、氷のかけら〔雲のことか――註〕が空を馳けてゆくという景観の感じかたの固体的な物質感や、雨雲が地面に垂れこめているところを、氷河のように地を引掻いているといった固体を把むときの固い物質感で景観をかすめとる仕方の特徴は、この種の暗喩の特徴ときりはなすことができない。そのために化学的な知識からその語彙をつかったというだけの理解で、通り過ぎることができないで、自然観の独特さにまでつながっている。気体状のもの、液体状のものとして常識が把握している状態が、固体上のものとして把み直されるという特徴は、宮沢賢治の童話の幻想性にあまねく撒布されていることが知られよう。
ごく初期にあらわれて生涯の作品に絶えることがなかったもうひとつの特徴は、自然を人間のように|生きさせて《ヽヽヽヽヽ》みせるという点であった。これは、たぶん宮沢賢治の童話を〈未開人〉の世界や〈夢〉の世界に酷似させるのに寄与している。
[#ここから2字下げ]
アルゴンのかがやくそらに悪ひのきみだれみだれていとど恐ろし
[#地付き](大正六年)
巨なる秋のあぎとに繞られし薄明をわがひとりたどれる
[#地付き](大正八年「北上川第四夜」)
けさもまた泪にうるむ木の間より東のそらの黄ばら嗤へり
[#地付き](大正六年)
[#ここで字下げ終わり]
たとえば「泪にうるむ木の間」というとき、その理解は作者がこちら側で「泪にうるむ」眼でみている樹木ということになるか、樹木を幼児をあやすような擬感情から擬人化して、そういう樹木のあいだの湿った雫や靄の間合から、しののめの黄色い光が射していることになる。けれど宮沢賢治が「泪にうるむ木の間」というとき擬感情で樹木のある景観を眺めているのではなくて、湿気や靄を分泌している樹木の群れを内在化し、いわば|生きさせて《ヽヽヽヽヽ》いる。あるいは樹木をじぶんが|生きている《ヽヽヽヽヽ》といってよい。「東のそらの黄ばら嗤へり」でもおなじことである。この「黄ばら」が、ばらの花弁のような形の朝焼け雲をさしているのか、樹木のあいだの空間の形が、ばらの花弁のような形で黄色の光をそそいでいるのかはわからないが、景観そのものが生きさせられて「嗤」っていると感覚されている。「悪ひのき」とか「秋のあぎと」というのもおなじで、「ひのき」がざわめいて佇っている有様が、ざんばら髪の悪党が佇っている姿に直覚的にすぐにおき代えられる。秋の天球はすぐに巨きな獣のあごのように直感される。
こういう独特な感覚による自然の把握は、きわめて早い時期にすでに身についたものであった。これらもまた、たぶん化学的な素養と体験からきている。化学的な素養と体験があれば、誰でもこういう自然の景観の生きさせ方ができるというのではない。またこういう自然の把握の仕方をするというのでもない。ただ化学的な素養と体験があれば、誰にでも理解し納得のゆく方法だというだけだ。ここでやはり宮沢賢治の独自さをいわなければならないだろう。たぶん宮沢賢治には、言葉の概念のさす一般性とか普遍性とかにたいする極端な嫌悪があった。これは文学にのめり込んだ青年が、たれも多少にかかわらずもつものにちがいない。このばあいおおく自意識の内紛に惹かれ、そこから身近かな近親や知友や異性との人間関係の内紛と葛藤にのめり込んでゆくのが普通の在り方である。宮沢賢治のばあいこれに代ったのは〈自然〉(の景観)であった。〈自然〉(の景観)にたいして通常の、自然が好きだつよく自然に惹きつけられるといった程度を遥かに超えてのめり込んだとおもえる。宮沢賢治の最初の詩集『春と修羅』(第一集)をよむと、ふつう人間関係の迷路に迷いこむのとおなじ意味で〈自然〉(の景観)に手を変え品を変えてのめり込んでゆく無限情熱が感じられる。人間関係の迷路の世界にむせ返るのとおなじ意味で、〈自然〉との関係の迷路にむせ返るのを感ずることができる。わが国の近代文学や近代詩の概念が、宮沢賢治の童話や詩の世界に反撥を感ずるとすれば、あまりに〈自然〉にむせ返ることに耐えられないからだとおもえる。昭和の文学が詩でも散文でも自意識と社会意識の追尋を志向したときに、宮沢賢治の文学は詩も散文も、自然意識の追尋から宗教的幻想への過程を、まず独自に志向したものであった。
すでにゆるぎない宗教信仰者にじぶんを仕上げるまえに獲得していたこれらの、修辞と自然把握の特質は生涯の詩と童話の作品を貫いている。これをもとにしてかれの作品をつくっている方法の要めをかんがえてみると、ひとつの結節点を成しているのは〈現場描写〉から〈幻想描写〉へ移行する仕方の独自さである。この独自さはふたつの方向でかんがえられる。
ひとつは〈現実描写〉から〈幻想描写〉へと移行するばあいの〈接合〉の仕方である。もうひとつは〈現実描写〉に対応する〈幻想描写〉を〈重ね合わせる〉仕方である。
[#ここから2字下げ]
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた|亜《あ》|鉛《えん》の雲へ
陰気な郵便|脚夫《きやくふ》のやうに
(またアラッディン |洋燈《ランプ》とり)
急がなければならないのか
[#地付き](「屈折率」)
[#ここで字下げ終わり]
ここで「わたくし」が凍った雪の路を歩きながらスムーズに薄墨色に重なった雪雲の方へ、ひとりでに郵便配達のひとのように歩んでいってしまうという幻想への移り方は、幼少時の誰もが現実の事柄から空想へ移ってゆく仕方とおなじものであるといえよう。宮沢賢治は詩のなかだけではなく童話のなかでも、この方法を適切につかっている。童話「よだかの星」のなかで、太陽に向ってとんでゆく夜だかが、途中でぐらぐらと眼まいがして野原の草の上に落ちてしまう。そこからスムーズに幻想へ移ってゆく。草の上に落ちた夜だかが「そしてまるで夢を見てゐるやうでした。からだがずうっと赤や黄の星のあひだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、又鷹が来てからだをつかんだりしたやうでした。」(「夜だかの星」)というように、夢のなかに入ってゆく描写がすぐあとに続く。現実から眠りに入ってゆく自然さで、夢のなかの幻想の描写に入ってゆく。凍った雪の路を歩んでゆく「わたくし」が、陰気な薄墨色のだんだらの雪雲の方へ、急いで歩んでゆくという現実から幻想への描写とおなじである。幼少児が、現実の景観をぼんやり眺めていながら、空想の世界に入ってゆく仕方は、こういうばあいがもっとも多いということができよう。その意味からは宮沢賢治の作品に独自なものではなく、超現実主義の影響下におかれた現代文学のひとつの傾向に包括されるといってよい。かれらもまた〈夢〉や〈未開人〉の心性や、幼少児の空想の世界に、たくさんの関心を払ってきたのである。
現実から幻想へと移行する仕方で、宮沢賢治に独特なものと見做されるのは、つぎのようなばあいである。
[#ここから2字下げ]
草地の黄金をすぎてくるもの
ことなくひとのかたちのもの
けらをまとひおれを見るその農夫
ほんたうにおれが見えるのか
まばゆい気圏の海のそこに
(かなしみは青々ふかく)
Zypressen しづかにゆすれ
鳥はまた青ぞらを截る
[#地付き](「春と修羅」)
ひかりの澱
三角ばたけのうしろ
かれ草層の上で
わたくしの見ましたのは
顔いっぱいに赤い点うち
硝子様鋼青のことばをつかって
しきりに歪み合ひながら
何か相談をやってゐた
三人の妖女たちです
[#地付き](「谷」)
[#ここで字下げ終わり]
まえのばあい草地をあるいてじぶんの方へやってくる農夫が、遠く霞んだような、無言の姿でじぶんの方に顔をむけているという現実の景観を描き、その景観の全体を、どこか鳥瞰図のように視わたせる架空の視点が、幻想の特徴になっている。はじめにじぶんを視ているようにおもえる農夫の遠景にすでに、じぶんから離人したじぶんの姿という空想が潜在している。つぎにそれらの全体を大気のまばゆい層のしたに、幾重にもへだてられ底に沈んだ景観とみなす上方からの視点そのものが、幻想への移り方をしめしている。これは宮沢賢治に独自なもので、強いていえば自覚的な修練なしには可能でない幻想の仕方とみることができる。いいかえれば、現実の景観や現にそのなかに存在しているじぶんを、そのまま別の眼で高所から客観視できるというのは、現実から幻想へ移ってゆく仕方のうちで、宮沢賢治の童話の世界でもしばしばあらわれてくる。自然の立体視あるいは離人症的な視点として特徴づけられる。これには資質も混っているかも知れない。かれは地を這うような現実の地面に佇っていながら、同時にいまじぶんの佇っているところが、レンズ状の銀河系宇宙の中心から少し左のところにあるということを如実に想像できるし、眼の前に露出している地層をみながら、同時にその地層の地質学的な年代に生棲していた生物のありさまをすぐに架空視できるという修練を積んでいた。あるいは生来のそういう資質をもっていたといってもよかった。
引用した詩「谷」のほうで「わたくし」がみた顔いっぱい赤い点をうってなにか相談をしている「三人の妖女たち」というのが、高所から鳥瞰的に見下ろされる谷あいの三角畑の枯れ草の積み重ねられた層のうえに、三人の農婦たちが喋言りあっているところの直喩か、あるいは枯れ草の束のいくつかを擬人化した暗喩か、何か気配のようなものの幻視かは、それぞれの解釈ができよう。だが宮沢賢治の童話の人物たちが醗酵してくるときの原型のひとつはここにあった。宮沢賢治にとって、自然は岩や石や土のままで|生かされる《ヽヽヽヽヽ》段階があり、植物や動物の段階で|生かされる《ヽヽヽヽヽ》段階もあり、人間を超えて|生かされる《ヽヽヽヽヽ》段階もあった。いずれも現実から幻想へと継続してゆく過程のどこかにあるために、きわめてスムーズに生かされてしまう。「三人の妖女たち」はこの幻想のはじめの段階から最後の段階への移行としてみれば、どういう解釈をとっても適切にあてはまる。この「妖女」たちは異教徒の化身ではなく、たとえ景観のなかの農婦たちの直喩だとしても、宮沢賢治にとって〈自然〉の化身であった。たぶんわたしたちは、これらの例で、現実から幻想へと接続してゆく宮沢賢治の方法の一般性と独自性の性格を経めぐっている。
もうひとつ宮沢賢治が身につけている方法は、現実の景観のうえに幻想の景観を〈重ね合わせる〉ことができ、貧弱な事物のうえにそのまま幻想の構造をおろして、さまざまな色彩や光輝の塗料の膜を張ることができるということであった。童話「ポラーノの広場」を例にとるなら、キューストが次のようにいうところは、現実から幻想へと移ってゆく仕方ではなく、現実の景観のうえに幻想の景観を〈重ね合わせる〉ことができる宮沢賢治の方法を語っている。
[#ここから2字下げ]
野原ぜんたいに誰か魔術でもかけてゐるか、さうでなければ昔からの云ひ伝へ通り、ひるには何もない野原のまんなかに不思議に楽しいポラーノの広場ができるのか、わたくしは却ってひるの間役所で標本に札をつけたり書類を所長のところへ持って行ったりしてゐたことが、別の世界のことのやうに思はれてきました。
[#地付き](「ポラーノの広場」)
[#ここで字下げ終わり]
このばあいには「ポラーノの広場」は、垂直に上昇してゆく幻想によって構想されていくのではなくて、現実の「野原ぜんたいに誰か魔術でもかけてゐる」か、「ひるには何もない野原のまんなかに」出現するのである。この方法は宮沢賢治のばあいそのユートピア思想の在り方とわかち難く結びついている。かれの社会思想の師はラスキンやウイリアム・モリスなのだが、かれは冷害や旱魃があればすぐに飢えてしまう陸中岩手県の上に、ユートピア郷であるイーハトーブを重ね合わせる。節くれだった農業労働の手足のうえに、そのまま舞踊を重ね合わせる。寒冷な高原に囲繞された貧弱な岩手の農村集落の景観のうえに、すぐに「かがやく風景画」を重ね合わせる。つめ草の粗末な花は、宝石の光を放つ小さなランプに変る、といった具合であるし、農民はそのまま「風とゆききし 雲からエネルギー」をとることができる「地人」という概念に重ね合わされる。かれの「農民芸術概論綱要」は貧弱なノートにすぎないが、ただひとつ現実の景観に幻想のユートピアを〈重ね合わせる〉という方法で貫かれていてこれが思想として生きているといってよい。
宮沢賢治がこの方法と思想をふたつながらつきつめていったものは、童話「グスコーブドリの伝記」を頂点とする一系列の作品であるとみることができる。
イーハトーブの森の木樵りの子ブドリは、二年ごしの饑饉で木材と代える穀物が手にはいらず父親と母親が失踪してしまったあと、「てぐす」飼いの男たちにこき使われ、男たちが火山の噴火のために「てぐす」が採れず立去ってしまうと、つぎに山師張った赤髭の篤農家の沼ばたけの手伝いに拾われる。けれど赤髭の試みはうまくゆかず、ブドリは死んだ息子が勉強した本を読んで立派なオリザ〔米穀のこと――註〕を作る工夫をして、じぶんを山師だと嗤った奴らをあっといわせてくれと頼まれる。そういう本のなかでクーポー博士の書いたものが面白かったので、寒さと旱魃で赤髭から立去るようにいわれたあと、イーハトーブの市で講習会をやっているクーポー博士をたずねる。クーポー博士は、ブドリにイーハトーブ火山局に面白い仕事があるからと、火山局の技師ペンネンナームあての紹介状を書いてくれる。ブドリはそこで働いているうちイーハトーブの三百幾つの火山とその働き具合が掌にとるようにわかってくる。そして火山の噴火の方向を人工的に変えることができるようになる。火山局は、旱魃のときは雨を降らせ、肥料が必要なときは肥料を噴火によって空からまき散らすことができるようになり、赤髭の山師にいわれたことが実現されたとかんがえ「うれしくてはね上りたい」気持になる。
ブドリが二十七になった年、イーハトーブの地方は寒冷の気候に見舞われ、兇作の徴候はしだいにはっきりとしてくる。クーポー博士に相談すると、カルボナード火山島を噴火させて空気中の炭酸ガスの量をふやせば、地球上の気温を平均五度くらい温かくすることができるといわれる。
[#ここから2字下げ]
「先生、あれを今すぐ噴かせられないでせうか。」
「それはできるだらう。けれども、その仕事に行ったもののうち、最後の一人はどうしても遁げられないのでね。」
「先生、私にそれをやらしてください。どうか先生からペンネン先生へお許しの出るやうお|詞《ことば》を下さい。」
「それはいけない。きみはまだ若いし、いまのきみの仕事に代れるものはさうはない。」
「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもっともっと何でもできる人が、私よりもっと立派にもっと美しく、仕事をしたり笑ったりして行くのですから。」
[#地付き](「グスコーブドリの伝記」)
[#ここで字下げ終わり]
ブドリはペンネン技師をも説得しカルボナード島へ急いで最後の一人になる。イーハトーブの気候はぐんぐん暖かくなってその秋の作柄は平年並にまで回復する。
童話「グスコーブドリの伝記」の舞台として絶えず宮沢賢治の脳裏にあった現実の景観と登場人物は、岩手花巻近郷の寒冷や旱魃にあえばすぐに不作や兇作に見舞われる高地や峡間の農村の実景であったし、ほとんどおなじように繰返される季節ごとの天候の変化であった。この村落周辺地帯は童話のなかではイーハトーブ地帯として重ね合わされる。この重ね合わされた幻想の空間では、眼にみえない「てぐす」飼いの網を、森の樹のあいだに掛けることができるし、なによりも季節ごとの天候の変化や、突然やってくる気温異変は、周囲をめぐる山を人工的に噴火させ、噴火の方向を人工的に統御することで、自在に変えることができるものに変っている。かれのユートピアの構想は、現実を離れたところに描かれる幻想ではなくて、現実に重ね合わされる構想であった。羅須地人協会に拠った現実の宮沢賢治の農民啓蒙の講習会や肥料設計はあまり効果のないものだったが、童話のなかのクーパー博士の講習会は天候を人工的に変化させるという構想と結びついて発揮されることになる。現実の宮沢賢治は、じぶんの設計した肥料を施した田んぼが、天候のせいで発育の不順に見舞われたりすると、いちいち詫びたり励ましたりしてあるき、農民からよそ者のように冷たくあしらわれると、反省して打ちのめされたりするのが常態であった。
[#ここから2字下げ]
さびしい不漁と旱害のあとを
海に沿ふ
いくつもの峠を越えたり
萱の野原を通ったりして
ひとりここまで来たのだけれども
いまこの荒れた河原の砂の
うす陽のなかにまどろめば
肩またせなのうら寒く
[#地付き](「旅程幻想」)
[#ここで字下げ終わり]
これが現実の宮沢賢治の姿であった。また「何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいってゐるので、目立ったことがあるといつでも反感の方が強く、じつにいやなのです。」(昭和七年六月十九日 母木光宛書簡)というのが実状であった。「グスコーブドリの伝記」の主人公ブドリは木樵りの息子に変身されまた、ブドリはカルボナード島の人工噴火によって気温を温めることに成功し、イーハトーブの冷害に悩む稲作の収穫をたすけて、じぶんは死んでしまう。ブドリは宮沢賢治のあるべき幻想の自画像であって、これが現実の宮沢賢治に重ね合わされている。現実の宮沢賢治はまだやるべきたくさんの構想をもったまま病身のためままならず、気ばかり焦慮しただけで殆ど何も実現できずに、親がかりのまま早く死んでしまった。かれの東北の農村地帯に重ね合わせていたユートピア構想の空想性を嗤うことは手易いが、戦前マルクス主義の農業理論もまた、べつな意味で空想的なものにすぎなかったから、そこからは嗤えないものであった。現実の宮沢賢治が挫折したのはその構想の空想性によるのではなく、病身と早逝のために不発に終ったのだとみなした方がよかった。かれがグスコーブドリのような境涯に生れ、ブドリのような生活の彷徨の体験をもち、ついに気候や土質の人工的な制御の方法を獲得し、ペンネン技師のような長命にめぐまれていたら、こう在っただろう姿がブドリによって再現されているとかんがえてよかったのである。
もう一系列の宮沢賢治の方法と思想は、現実から幻想へとスムーズに移行する仕方を、さらに垂直に上方へ極限化していくことで現われた。この方向と思想は幻想の彼方に死後の世界をおくというようにあらわれた。この方法と思想が上昇してゆくところでは死後の世界が、かれのユートピアとして想定されていたとみられる。童話「銀河鉄道の夜」を頂点とする一系列の作品が、このいわば時間のなかのユートピアの世界を象徴するものだった。そしてこのユートピアの構造は、大乗仏教における浄土の構造であったとみられる。つまり宮沢賢治における死後のユートピア世界は、現実から幻想へと接合され、幻想の彼方にある幻想へ接合される果てに描かれるもので、〈幻想の幻想〉として〈子供〉や〈未開人〉や〈夢〉に現実から死を踏んだあとで接合される死後の世界として位置づけられていたものとおなじであった。いまかりに詩「青森挽歌」(大正十二年)から断片をあげてみる。
[#ここから2字下げ]
死[#「死」はゴシック体]
にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり
それからわたくしがはしって行ったとき
あのきれいな眼が
なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた
それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかった
それからあとであいつはなにを感じたらう
それはまだおれたちの世界の幻視をみ
おれたちのせかいの幻聴をきいたらう
[#地付き](「青森挽歌」)
死後のI[#「死後のI」はゴシック体]
わたくしたちが死んだといって泣いたあと
とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ
ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで
ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない
[#地付き](「青森挽歌」)
[#ここで字下げ終わり]
妹とし子が死亡したのは大正十一年で、当時妹は花巻高女の英語教師をしており、宮沢賢治は稗貫農学校の教師をしていた。とし子は家族内で打てば響くようにかれのいうことを理解し、かれの日蓮宗信仰を肯定し、かれの歌稿や童話を整理したりする文学的な理解者でもあって、かれにとって適切な距離を保てる唯一の異性でもあった。そのため妹とし子の死は衝撃であった。宮沢賢治は妹とし子の死を契機に、それまで獲得していた日蓮宗の信仰と大乗経典(たぶん大正国訳大蔵経によった)にたいする知識の総てをあげて、かれなりの死後の世界の在り方を構成しようと試みた。妹とし子の臨終の行状とそのときのじぶんの想念を手がかりに、精いっぱい死後の世界を構成し、そこへ移行してゆく妹とし子の姿を描いてみせた。それが詩「青森挽歌」であり、そのあとこれ以上の死後の世界の探求はほとんどなされなかった。童話「銀河鉄道の夜」の底を流れているのは「青森挽歌」で追尋した死後の世界である。
たぶん「死後のI」の段階までは〈眠り〉や〈夢〉や〈未開人〉の信仰などから、体験に接続して想像することができるものだったが、それ以後の段階は大乗仏教における観想浄土のイメージの影響下に構想されたのである。
[#ここから2字下げ]
死後のU[#「死後のU」はゴシック体]
それらひとのせかいのゆめはうすれ
あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
あたらしくさはやかな感官をかんじ
日光のなかのけむりのやうな|羅《うすもの》をかんじ
かがやいてほのかにわらひながら
はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを
交錯するひかりの棒を過ぎり
われらが上方とよぶその不可思議な方角へ
それがそのやうであることにおどろきながら
大循環の風よりもさはやかにのぼって行った
わたくしはその跡をさへたづねることができる
そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ
あまりにもそのたひらかさとかがやきと
未知な全反射の方法と
さめざめとひかりゆすれる樹の列を
ただしくうつすことをあやしみ
やがてはそれがおのづから研かれた
天の瑠璃と地面と知ってこころわななき
紐になってながれるそらの楽音
また瓔珞やあやしいうすものをつけ
移らずしかもしづかにゆききする
巨きなすあしの生物たち
遠いほのかな記憶のなかの花のかをり
それらのなかにしづかに立ったらうか
それともおれたちの声を聴かないのち
暗紅色の深くもわるいがらん洞と
意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声
亜硫酸や|笑《せう》|気《き》のにほひ
これらをそこに見るならば
あいつはその中にまっ青になって立ち
立ってゐるともよろめいてゐるともわからず
頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
(わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
いったいほんたうのことだらうか
わたくしといふものがこんなものをみることが
いったいありうることだらうか
そしてほんたうにみてゐるのだ)と
斯ういってひとりなげくかもしれない……
[#地付き](「青森挽歌」)
[#ここで字下げ終わり]
これが宮沢賢治の構想した死後の世界(浄土)と、そのなかを死んだ妹とし子がたどってゆく姿の全貌であるといってよい。この死後の世界の構想は、倶舎論の著者として知られる天親(世親)の「浄土論」の決定的な影響下に創られたとみてよい。宮沢賢治に独自なところがあるとすれば「移らずしかもしづかにゆききする 巨きなすあしの生物たち」というような地質学的なイメージをもってきたところや「意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声 亜硫酸や笑気のにほひ」というような人間の肉体が分解してゆく生物学的なイメージを加えたところにあった。もっとつっ込んでゆけば、現実の妹とし子の死の瞬間から、天空の方向へのぼってゆく幻想の死後の世界へ移ってゆくイメージの継続の仕方が、きわめてスムーズに描かれている点にかれの独自性が発揮されている。ここでは宮沢賢治のユートピアは死後の世界にもとめられていることがわかる。
童話「銀河鉄道の夜」では、銀河鉄道の客車にのって死後の世界を旅するのはジョバンニである。ジョバンニはグスコーブドリの変身した主人公であり、いわば宮沢賢治のかくありたいという願望の象徴であるように設定されている。母親が病気で、父は遠洋漁業に出かけているといいながら、じつは監獄に入っている漁師である。ジョバンニは病気の母親を養うために、朝は新聞配達をし、学校の授業がおわった後は活版所で活字拾いをして働いている。そのために疲れて学校でも皆と遊ばず、親友のカンパネルラともあまり物をいわないようになっている。ジョバンニは宮沢賢治のこうありたい願望をこめた境涯であり、この境涯のために死後の世界の銀河鉄道をどこまでも行ける「切符」を手にもっている。親友のカンパネルラも、おなじ銀河鉄道の客車に乗り合わせる。それはカンパネルラが級友のザネリが河に落ちたのを、とび込んでたすけたすえにじぶんは水死したからである。客車に乗り合わせるのは、すくなくとももう二組設定されている。ひとりは「鳥を捕る人」で、かれは雁や鷺や白鳥をつかまえてそれを押し葉にし、食料にして販るのを商売にしている者である。「鳥を捕る人」は鷺の停車場のところで先ずいつの間にか客車から消えてしまう。もう一組は姉弟の子供をつれた黒服の青年である。かれらは氷山にぶつかって難破した船に乗り合わせてボートに他の人たちを乗せて、じぶん達は溺死したために銀河鉄道の客車に乗っている。この三人はサウザンクロスのところで降りてしまう。三人の信じている神(キリスト教)の概念によればここが「天上」だからである。ジョバンニが一緒に乗ってゆこう、じぶんたちはどこまでもゆける「切符」をもっているからと誘っても三人は降りてゆく。
そのあとでカンパネルラは天の川の暗い孔のあたりで、きれいな野原をさして「あすこがほんたうの天上なんだ。あっ、あすこにゐるのはぼくのお母さんだよ。」と叫んで、ジョバンニにはただ白くけむっているだけにしか視えない野原をさして銀河鉄道の客車から消えてしまう。
孤独に耐えかねて泣きわめくジョバンニにたいして、いつの間にかカンパネルラの座っていた席に「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」がいてジョバンニにいう。
[#ここから2字下げ]
ああわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけぁいけない。おまへは化学をならったらう、水は酸素と水素からできてゐるといふことを知ってゐる。いまはたれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんたうにさうなんだから。けれども昔はそれを水銀と塩でできてゐると云ったり、水銀と硫黄でできてゐると云ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれども、もしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考と、うその考とを分けてしまへば、その実験の方法さへきまれば、もう信仰も化学と同じやうになる。
[#地付き](「銀河鉄道の夜」)
[#ここで字下げ終わり]
これらで宮沢賢治が提示しているのは死後の世界における等級観である。ジョバンニはなぜか「どこまでだって行ける切符」をもっている。かんがえられる根拠としては、病気の母親を養うために朝は新聞配達を、学校の授業をおえたあとでは活版所で活字拾いをしながら日々の生活を繰返していることである。これにくらべるとカンパネルラや黒服の青年につれられた姉弟は、たまたま難事にあってじぶんを殺して、他人を生きさせた行為をやっただけである。この行為は一回性のものであり、その一回性が死を招いたということである。宮沢賢治の観想的な浄土観ではこれは日々善行を積んでいるジョバンニよりも下位におかれる。「どこまでだって行ける切符」をもつことができず、それぞれの「天上」で銀河鉄道の客車から降りなければならない。鳥を捕ってそれを押し葉にして食料として販っている「鳥を捕る人」はカンパネルラや黒い服の青年に連れられた姉弟たちよりもはやく、銀河の客車を降りなければならない。殺生戒を犯しているからであると、作者はいっているようにみえる。ジョバンニは「どこまでだって行ける切符」をもっているが、なぜ皆はじぶんをおいて銀河の客車を降りてしまうのか、どうしてじぶんは孤独なのか、また「どこまでだって行ける切符」をもっているそのことが、なぜこんなに寂しいことなのか「ほんたうの幸福」とか「ほんたうの神」とか「ほんたうの勉強」とかいうばあいの「ほんたう」が何であるか判らない。もちろん宮沢賢治はじぶんもそれが判らないといっているのだ。どうすればそのことがわかるのか。これに応えたのが「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔の痩せた大人」の言葉である。「ほんたう」の考と「うそ」の考とを分離する実験の方法さえきまれば「信仰も化学と同じやうになる。」ということだけは判っている。
童話「銀河鉄道の夜」における死後の世界の等級づけという理念は宮沢賢治の日蓮宗信仰に固有なものとはいえないが、日蓮宗を含めた大乗的な観想仏教に共通のものであるとはいえる。このかんがえは〈子供〉に属していない。歴然とした前期大乗仏教の理念にかかわっている。けれど死後の世界の幻想を銀河鉄道によって象徴させ、さまざまな夜光性の景観を車窓の内と外とでくりひろげているところでは〈子供〉や〈未開人〉や〈夢〉に類似した世界だということができる。〈子供〉はけっして死後の世界を構想したり、想起したりはしないが〈橋〉のむこう側にある美麗なきらびやかな世界の〈夢〉をみることはたれでも体験している。フロイトの指摘をまつまでもなく〈橋〉のむこう側の〈夢〉は、地球上どこでも共通したもので、死後の世界を象徴している。もちろん宮沢賢治は遠野の村落の説話もよく知っていたはずである。〈子供〉たちがスムーズに銀河鉄道の客車に乗ることができるとすれば、この童話の世界を〈橋〉のむこう側の世界として無意識のうちに体験しているからである。
たぶん、宮沢賢治の作品の世界は〈現実〉から〈幻想〉へスムーズに〈接合〉されてゆく方法と〈現実〉に〈幻想〉を〈重ね合わせる〉方法とを二つの軸にして、立体的な世界を構成している。そしてこのそれぞれの軸に思想内容が与えられている。〈子供〉たちはそこにあるユートピア思想や宗教的な説教に惹きつけられる以前に、かれの世界に惹き入れられるとみなすのが実体に叶っているのではないか。
[#改ページ]
[#小見出し]  あとがき
批評のうちいちばん愉楽を感じながらできるのは作家論だ。なぜならわたしにとって作家論は、どうやってもよいとかんがえている唯一の開かれた領域だからだ。作品論と作家論を混同するのは不当だといった類いのたわ言は、文学と文学批評を稠密な知的な探求の道具的な存在にしてしまった者たちのいい草なのだ。その元凶はヨーロッパの現在そのものにあることは申すまでもない。部厚い秩序の、もはや動きそうもない社会のなかで、文学と批評の悲劇のひとつの態様として、現在の思想と哲学が必然的にそこに突入している悲惨さを、すぐ感得できる。そこでは巨大な頭脳が、とるに足りないトリヴィアルな主題に力を注ぎこんでいる姿をすぐに視ることができよう。だがわが国で批評的な厳密さなどが口にされているのは、ただ知的な優越の誇示としてだけだ。ようするに文学作品は、まず生きた事実世界のなかで生み出され、そのなかで人々の呼吸する息の隣りで存在しつづける。これは作者がそうだというだけではなく、作品自体が人間以上に純化された人間としてそうなのだ。だからもし作品論を言葉の次元の世界からはじめたいのなら、それこそ厳密な手続き、いいかえれば〈字を書くこと〉の現象学が必要だ。そうすることで、はじめて作品論を言葉からいきなり入ってゆけるようになる。
わたしは現在まで作家論を、事実世界のなかのあらゆる生の体験を(言葉の体験を含めて)投入できる唯一の場所とかんがえてきた。それは思想、理念、感性を解放できるという意味で、快楽原則に叶うものだと思った。〈学習すること〉のなかに生の体験を封じ込める〈括弧入れ〉の手続きをした者たちでないかぎり、生の体験のさまざまな次元の重さが、作品をたどる言語体験を凌駕する契機に出遇うのはあたり前であり、普遍的なのだ。そういう契機に出遇った後は、作品の批評を言葉からはじめるという戒律は、自分自身から破られるにきまっている。わたしは作家論を、はじめから未生成の開領域とみなすことで、この問題を処理してきた。それと一緒に愉楽をともなうような開領域である作家論を、じぶんに長いあいだできるだけ禁じてもきたのだ。
ここに収録された文学者の像は数少い例外である。依頼されて書くという契機をつかんだことはたしかだが、かつてわたしが青年期に心から没入した(いわば生もろとも没入した)体験をした文学者について依頼されたときに限って、その都度わたしは依頼を引受け、その依頼の範囲でできるかぎり委曲を尽そうと試みた。その出来高がどれくらいであれ、わたしには忘れがたい文学者たちを読み込んだ記述が、ここにすべて提出されている。
この本をまとめるに際しては間宮幹彦氏をはじめお名前を挙げないが、筑摩書房の方々の並々ならぬ労力と企画力が背後にかけられている。このことも言及しないで済ますことができない。
[#地付き]吉本隆明
昭和五十四年十一月九日
[#改ページ]
[#小見出し]  文庫版のためのあとがき
ここにとりあげている作家、批評家、詩人は、わたしの内的な形成の途次に、どこかで共鳴や共振の影をおとしていて、これらの文学者を論ずることも、また論じられた結果も、とても愛着の深いものだ。そのうえにわたしの批評の方法にとって、ひとつの時期を画したものだった。ここに収録された批評文で、わたしははじめて、文学作品のうち無意識に抵抗なく読み手のなかに入り込んでしまう作品の要素が重要なことに気づき、このことを批評上にどう繰り込むかに腐心した。うまく成功したかどうかは別として、その試みのあとがここには刻まれているはずである。
ところで批評文の出来栄えについて、全体的に不本意だとおもえることが、もうひとつあって、気にかかっていた。それはこれらの作家、批評家、詩人についての論考が、いかにもやせて骨ばった印象を与えることだ。これは批評の方法上の欠点と、作品の読みの未醗酵なところからきている。時間をかけながらとき折り、これらの批評文を眺めては、すこしずつ手を加えたり、文章を刈り込んだり、補修したりしてきた。すこしでも肉つきや筋力が改善されればとかんがえたからだ。こんど文庫本に収録するに際して、いく分かでもはじめの刊行本よりもよくなっているとしたら、その結果だとおもっている。
[#改ページ]
初出一覧
太宰治
(原題 太宰治試論)
「國文學 解釈と教材の研究」
一九七六年五月
小林秀雄
(原題〈解説〉)
近代日本思想大系29『小林秀雄集』
一九七七年一月三十日
『本居宣長』を読む
(原題 文化的な自意識のドラマ)
「週刊読書人」
一九七八年一月二・九日
横光利一
(原題 横光利一論)
「海」
一九七九年四月
芥川龍之介
(原題 芥川龍之介における虚と実)
「國文學 解釈と教材の研究」
一九七七年五月
宮沢賢治
(原題 賢治文学におけるユートピア)
「國文學 解釈と教材の研究」
一九七八年二月
童話的世界
(原題 宮沢賢治論)
「文学」
一九七六年十二月
[#ここから1字下げ、折り返して4字下げ]
註I 単行本収録にあたって著者の手が入りましたが、とくに太宰治、小林秀雄、横光利一は大幅に加筆・改稿されました。
註U 各作家の引用出典は左のとおりです。
「太宰治全集」全十二巻
(昭和五十三年、筑摩書房)
「小林秀雄全集」全十二巻
(昭和四十二年、新潮社)
「横光利一全集」全二十六巻〈中絶〉
(昭和二十三年、改造社)
「芥川龍之介全集」全九巻
(昭和四十六年、筑摩書房)
「宮沢賢治全集」全十三巻
(昭和四十二年、筑摩書房)
註V 文庫化にあたって序、芥川龍之介を中心に、さらに著者の手が入りました。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
著者略年譜
*〈 〉内は著者の文章からの引用
1924年(大正13)
[#2字下げ]11月25日東京市京橋区月島東仲通に吉本順太郎・エミの三男として生れる。〈生れてから間もなく重い肺炎にかかって死にそこなった〉二、三歳の頃から同区新佃島西町に住む。「キンちゃん」と呼ばれる。〈私が未だ六歳位の頃、父さんは造船所を経営していた〉
1931年(昭和6)  7歳
[#2字下げ]佃島尋常小学校入学。〈これからは、こんな緊迫した空気のなかで、毎日授業をうけ勉強するのかとおもうと、空恐ろしい気がした〉この頃はほとんど〈本を読まなかった〉五年の頃から深川門前仲町の今氏乙治私塾に通う。〈わたしの≪個≫の黄金時代を象徴するのはひとりの私塾の教師、無名の教師である〉
1937年(昭和12)  13歳
[#2字下げ]府立化学工業学校入学。私塾の文学、哲学書を雑読し≪書く≫ことを覚える。ファーブル『昆虫記』を読む。39年京橋区佃島に住む。「哲ちゃん」と呼ばれる。
1941年(昭和16)  17歳
[#2字下げ]同期生と雑誌を発行。随想や詩を発表。私塾をやめる。
1942年(昭和17)  18歳
[#2字下げ]米沢高等工業学校入学。同期生と回覧誌を発行。東北の自然と〈動員生活の労働や、寮生活の葛藤や、戦争の運命に追いつめられて刻まれてゆく生存感〉に囲まれて過す。宮沢賢治、高村光太郎、横光利一、太宰治、小林秀雄、保田與重郎に影響を受ける。
1944年(昭和19)  20歳
[#2字下げ]詩集『草莽』刊。10月東京工業大学電気化学科入学。葛飾区上千葉町に住む。
1945年(昭和20)  21歳
[#2字下げ]空襲で今氏乙治死亡。富山県魚津市日本カーバイド魚津工場に徴用動員。魚津中学の生徒達に「べんけい」と綽名される。敗戦。〈天皇の放送を工場の広場で聞いて、すぐに茫然として寮へかえった〉数カ月、母親の疎開先の福島県須賀川で畠を耕やす。帰京後、蔵書を売り払い仏典や日本の古典を読んで暮す。この頃、戦争期から継続していた宮沢賢治論を執筆。復学して遠山啓教授の特別講義に鮮明な印象を受ける。心情のニヒリズムと混迷から『新約聖書』に遭遇。46年詩誌を発行。この頃「エリアンの手記と詩」を書く。
1947年(昭和22)  23歳
[#2字下げ]同期生と雑誌を発行。古典論や詩を発表。「春の枯葉」上演のため太宰治を訪問。9月東工大卒業。絶縁スリーブ工場につとめるが身体をこわしやめる。
1948年(昭和23)  24歳
[#2字下げ]姉を失う。化粧品工場に就職。「詩文化」に詩、評論を発表し始める。49年「聖家族」創刊同人。組合結成を理由に化粧品工場を失職。
1950年(昭和25)  26歳
[#2字下げ]特別研究生として復学。マルクス『資本論』を読む。後に『初期ノート』に収められる覚書、箴言を執筆。〈現在のわたしの思想的原型は、すべて凝縮された形でこの中に籠められている〉8月から翌51年切月までの間に『日時計篇』の数百の詩篇を集中的に書く。
1952年(昭和27)  28歳
[#2字下げ]東洋インキ製造株式会社青砥工場入社。詩集『固有時との対話』刊。
1953年(昭和28)  29歳
[#2字下げ]〈ここでも労働組合の仕事を負い徹底闘争を企てたが敗北〉詩集『転位のための十篇』刊。
1954年(昭和29)  30歳
[#2字下げ]「現代評論」創刊同人。「マチウ書試論」発表。
1955年(昭和30)  31歳
[#2字下げ]「高村光太郎ノート」、「前世代の詩人たち」発表。文学者の戦争責任論の口火を切る。
1956年(昭和31)  32歳
[#2字下げ]組合運動で東洋インキを退職。〈わたしは、どのような小さな闘争であれ、敗北後の孤立裏における後処理にいたる全過程を、体験したものを信じている〉文京区駒込坂下町に住む。『文学者の戦争責任』(共著)刊。黒沢和子と結婚。〈戦後、最も強く衝撃を受けた事件は? じぶんの結婚の経緯〉
1957年(昭和32)  33歳
[#2字下げ]長井・江崎特許事務所に隔日勤務。『高村光太郎』刊。長女誕生。北区田端町に住む。
1958年(昭和33)  34歳
[#2字下げ]『吉本隆明詩集』、『高村光太郎』(全面改稿)刊。「現代批評」創刊同人。「転向論」発表。文京区駒込林町に住む。
1959年(昭和34)  35歳
[#2字下げ]花田清輝との論争が始まる。『芸術的抵抗と挫折』、『抒情の論理』刊。12月安保改定について学生集会で講演。台東区仲御徒町に住む。
1960年(昭和35)  36歳
[#2字下げ]1月全学連集会で挨拶。「戦後世代の政治思想」発表。安保闘争に際し六月行動委員会に加わり行動。『異端と正系』刊。6月4日品川駅構内のスト支援すわり込みに参加。15日国会構内抗議集会で演説。16日未明警官隊に追われ敗走し「建造物侵入現行犯」で逮捕。7月以降も総括討論集会等に参加。「擬制の終焉」発表。
[#2字下げ]〈自称前衛たちはいまや離合集散たけなわらしいが、わたしにとっては訣別こそが自明であった〉
1961年(昭和36)  37歳
[#2字下げ]谷川雁、村上一郎と「試行」創刊。「言語にとって美とはなにか」連載開始。〈一九六〇年以後において、わたしの≪書く≫という世界は変容し、≪時間≫との格闘に類するものとなった〉62年『擬制の終焉』刊。
1963年(昭和38)  39歳
[#2字下げ]『吉本隆明詩集』(復元)、『丸山真男論』刊。台東区谷中初音町に住む。
1964年(昭和39)  40歳
[#2字下げ]「試行」11号から単独編集。『初期ノート』刊。「日本のナショナリズム」発表。二女誕生。『模写と鏡』刊。
1965年(昭和40)  41歳
[#2字下げ]「自立の思想的拠点」発表。〈なおしばらくの期間、思想の基本的な言葉について、その概念、それに近づく方法、世界にたいする態度にわたって古典的党派と異同を争わなければならないだろう〉『言語にとって美とはなにか』刊。北区田端町に住む。「心的現象論」連載開始。長兄を失う。
1966年(昭和41)  42歳
[#2字下げ]『決定版高村光太郎』刊。知友岩淵五郎事故死。『自立の思想的拠点』刊。「共同幻想論」連載開始。『カール・マルクス』刊。67年文京区千駄木に住む。
1968年(昭和43)  44歳
[#2字下げ]父を失う。『情況への発言』刊。『吉本隆明全著作集』全15巻刊行開始。『共同幻想論』刊。
1970年(昭和45)  46歳
[#2字下げ]『初期ノート増補版』、『増補決定版高村光太郎』刊。特許事務所を退社。『情況』刊。
1971年(昭和46)  47歳
[#2字下げ]母を失う。〈母親の死が間近にちかづいたのを知り、心の奥の奥のほうで涙が流れ、じぶんがそこに溺れるのを感じました〉『源実朝』刊。連載14回までをまとめて『心的現象論序説』刊。「聞書・親鸞」連載開始。
1972年(昭和47)  48歳
[#2字下げ]「書物の解体学」連載開始。対談集『どこに思想の根拠をおくか』、『敗北の構造』刊。
1974年(昭和49)  50歳
[#2字下げ]『詩的乾坤』刊。「初期歌謡論」連載開始。
1975年(昭和50)  51歳
[#2字下げ]『書物の解体学』、対談集『思想の根源から』、対談『意識革命宇宙』(埴谷雄高)、『吉本隆明新詩集』刊。
1976年(昭和51)  52歳
[#2字下げ]対談集『思想の流儀と原則』、『知の岸辺へ』、『最後の親鸞』刊。〈親鸞の思想は、≪知≫の放棄の仕方においてはるかに徹底的であったから、浄土宗の本義を越境せざるをえなかった〉77年『初期歌謡論』刊。
1978年(昭和53)  54歳
[#2字下げ]『論註と諭』、『戦後詩史論』刊。〈なぜ詩の言葉はこれほど現実から疎隔され実感から遠いところに浮んでいるのか。しかもこうなることに切実な不可抗の感じがつきまとっている〉『吉本隆明歳時記』、対談『ダーウィンを超えて』(今西錦司)刊。
1979年(昭和54)  55歳
[#2字下げ]『対談 文学の戦後』(鮎川信夫)、『悲劇の解読』刊。〈批評の言葉はいま停滞する時代の厚い層のなかを通過している。この厚い層はとりとめもないかわりに、離脱するのに無限の潜行時間がいるようにおもわれてくる〉『初源への言葉』刊。
1980年(昭和55)  56歳
[#2字下げ]文京区本駒込に住む。〈おもえばよくもひとつの地域に執着してきたものだ〉『世界認識の方法』刊。
1981年(昭和56)  57歳
[#2字下げ]『言葉という思想』、対談『詩の読解』『思想と幻想』(鮎川信夫)、『増補最後の親鸞』刊。
1982年(昭和57)  58歳
[#2字下げ]『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』『心的現象論序説』を文庫本化。「マス・イメージ論」連載開始。『空虚としての主題』刊。〈現在の特徴はすでにあらかじめ、大規模でぶ厚いイメージの社会的様式を既得の層として存在させていることだ〉『源氏物語論』、『「反核」異論』刊。「反核」運動の理念を批判。
1983年(昭和58)  59歳
[#2字下げ]対談集『素人の時代』、対談『教育 学校 思想』(山本哲士)、『増補戦後詩史論』、対談『相対幻論』(栗本慎一郎)、『〈信〉の構造』刊。
1984年(昭和59)  60歳
[#2字下げ]「柳田国男論」の断続的な連載開始。『マス・イメージ論』、インタヴュー『大衆としての現在』刊。〈カルチャーとサブカルチャーの領域のさまざまな制作品を、≪現在≫という巨大な作者のマス・イメージが産みだしたものとみたら、その作者ははたして何者なのか〉
1985年(昭和60)  61歳
[#2字下げ]『隠遁の構造』、インタヴュー『対幻想』刊。埴谷雄高と論争。対談集『現在における差異』、インタヴュー『死の位相学』刊。「ハイ・イメージ論」連載開始。『重層的な非決定へ』刊。〈≪重層的な非決定≫とはどういうことを意味するのでしょう? 平たくいえば≪現在≫の多層的に重なった文化と観念の様態にたいして、どこかに重心を置くことを否定して、層ごとにおなじ重量で、非決定的に対応するということです〉
吉本隆明(よしもと・たかあき)
一九二四年東京生まれ。一九四七年東京工業大学理学系化学科卒業。詩人、評論家。主な著書に、『共同幻想論』(河出書房新社)、『最後の親鸞』(春秋社)、『ハイ・イメージ論』T、U、V(福武書店)、『超資本主義』(徳間書店)、『母型論』(学習研究社)などがある。
この作品は一九七九年一二月、筑摩書房より単行本として刊行され、一九八五年一二月、ちくま文庫に収録され、一九九七年七月、ちくま学芸文庫に収録された。