吉川 英治
鳴門秘帖(二)
目 次
江戸の巻(つづき)
見返《みかえ》り柳《やなぎ》
変化小路《へんげこうじ》
投げ十手《じつて》
かなしき友禅《ゆうぜん》
夕雲流真髄《せきうんりゆうしんずい》
目安箱《めやすばこ》
悪行善心《あくぎようぜんしん》
大慈大悲閣《だいじだいひかく》
木曾の巻
送り狼
山《やま》の俊寛《しゆんかん》
くいつめ者《もの》
白粉《おしろい》くずれ
疑心暗鬼《ぎしんあんき》
もちの木坂《きざか》
船路《ふなじ》の巻
心の地震
紐《ひも》
中二階《ちゆうにかい》
流々転住《るるてんじゆう》
疾《しつ》 風《ぷう》
芍薬《しやくやく》の駕《かご》
遠《とお》眼鏡《めがね》
女《おんな》 男《おとこ》 女《おんな》
江戸の巻(つづき)
見返《みかえ》り柳《やなぎ》
目明しの万吉《まんきち》は、その後もたえず駿河台《するがだい》の焼け跡に立ち廻っていた。
暮から正月の二日をおいて、明けて――明和三年となった四日目のこと。
鉄砲笊《てつぽうざる》をかつがずに、素《す》のままの姿で、今日も万吉が例の焼け跡へ来てみると、そこに果たして、彼がこの間うちから心待ちにしていた消息があった。
人目につかぬ石塀《いしべい》の隅へ、消し炭で書いてあった文字である。それは、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》が、自分へ意思を伝えようとしたものであるのはあきらかであった。
予《よ》は江戸に着いて、お千絵《ちえ》どのの居所《いどころ》を求めつつあり。また予をたずねんとする者は、下谷《したや》一月寺《いちげつじ》、普化宗《ふけしゆう》関東支配所にて問われなば知れん。としてある。
「うむ。弦之丞様も、やっぱりこっちで察していた通り、江戸へ着いて迷っているのだ」
万吉は、それを読むとすぐに引っ返してきた。
かれの心は、一刻も早く、一月寺の支配所へ急いでいたが、大火の晩以来、万吉も妻恋《つまごい》の家へ身を寄せていたので、とにかく、お綱《つな》にもこのよろこびを早く知らしてやる義務があると思った。
「いるかい?」
と、少しはずんだ足どりで、お綱の家の門口《かどぐち》を開けて入ると、
「おや、万吉さん――」
奥の長火鉢で、何か考えこんでいたらしいお綱が、猫板から肘《ひじ》を離して、いきいきとした万吉の顔色を見つめた。
「お綱、よろこんでくれ、やっと一方の目星がついた」
「そうですか、じゃああの晩、お千絵様を連れて行った者が誰だか、その見当がついたのですね?」
「なにさ、そのほうは残念ながら、まだ手懸りはねえんだが、いい按配《あんばい》に、弦之丞様の居所がやっと分った」
「あら法月さんの? ……」
お綱の顔に美しい赤味がさした。
年の暮の火難から、怖ろしいあの夜の出来ごと――倖《さいわ》いに、万吉に助けられて、この妻恋の家へ帰って正気づいたものの、お綱は今年ばかりは暮も元日も夢のように何も手がつかないのであった。
だが――今万吉の口からよろこばしい便りを聞いて、初めて、お綱の心と顔が、福寿草《ふくじゆそう》のように明るく笑った。
「まあ、それが本当なら、これで一つの苦労はとけたというもの……、早く弦之丞様にお目にかかって、何かの相談をしようじゃありませんか」
「――で、すぐにこれから、一月寺《いちげつじ》の支配所へ、訪ねて行こうと思うんだが……」
「じゃあ、私も一緒に行きましょうよ」お綱は手早く支度をした。そして、羽織は着ずに、葡萄染《ぶどうぞめ》の縮緬《ちりめん》頭巾をかぶり、火鉢の側の煙草《たばこ》入れを帯に挟《はさ》んだ。
万吉は、にわかにはずんで、いそいそとするお綱の気持がよく分った。そして、それを拒《こば》むことはできないのである。
「お前《めえ》がお千絵様を救いだしてくれれば、おれも、どんなことでも力を貸してやろうじゃねえか」と、墨屋敷の窓の所で、固く約束したことがある。そのために、お綱は命がけで、あの屋敷の穴蔵部屋へまで身を墜《おと》したのだ。よしや今ここに、お千絵が完全に助けきれていないにしても、その約束を破ることはできなかった。
「困ったなあ……」
口には出さないが、万吉は心の底で呻《うめ》いていた。――とんだ約束をしてしまったものだ――と今さら後悔するのでもあった。
やがて、弦之丞に会った時、お綱から、約束を迫られて、恋の橋渡しをせがまれた時には、さて、どうして諦《あきら》めさしたものだろう?
実をいうと万吉は、今度のいきさつがあってから、お綱の気性を見込んで、すべての真相を残らず打ち明けていたのである。
だが――たった一つ、弦之丞とお千絵との仲だけは話さなかった。それは、それを話す前に、お綱の方から先に、切ない胸を打ち明けられてしまったから――。
お綱はまた、自分の胸だけで、どこまでも、弦之丞や万吉たちの、阿波の密事をさぐるという目的のために、力を貸そうと誓っていた。
万吉から、いろいろな話を聞いた時に、かれはどんなに、自分の罪を怖ろしく思ったろう。天王寺で掏《す》り取った紙入れ一つが、やがて多市《たいち》の死となり、銀五郎《ぎんごろう》の最期となり、ひいてはこの江戸の空へまで、幾多の怖ろしい禍《わざわ》いを波及してきた。
それは皆、自分のこの指がしたいたずらから起った罪だ。お綱は初めてスリという商売の何と怖ろしい悪業かということを知った。そして、唐草《からくさ》銀五郎にも弦之丞にも、それを何よりすまなく考えてきた。
これから後は、見返りお綱の命にかけても、その罪を償《つぐな》わなければならないという、けなげな意気を持たずにはおられなかった。
それはまた、弦之丞へひそかに寄せる恋の力もあるので、鉄石《てつせき》のように強かった。
妻恋からお成道《なりみち》へ出て、二人は無口に歩きつづけた。お綱のいそいそと燃えてゆく気持は、自然と足を早くさせ、万吉が密かに持つ苦労は、ともすると遅れがちの足どりになった。そしてやがて、
普化宗《ふけしゆう》江戸番所、一月寺|末頭《まつとう》――
山門の札を読んで立った二人は静かな寺内へ入って、松の多い境内を見廻した。ここは、勤詮派《きんせんは》の虚無僧が足だよりとする宿寺《しゆくじ》であるので、境内へ入ると、稽古の尺八《たけ》や一節切《ひとよぎり》の音がゆかしくもれて聞こえた。
万吉が訪れて、ここに、法月弦之丞という者が、宿泊しているかどうかという由をただすと、院代の者が寄宿帳を繰《く》ってみて、
「うむ……法月弦之丞……寄竹派《きちくは》の者でござるが、都合によってお泊め申してある。どういう御用向きでござりますな」
「じゃあ、たしかにおいででございますか――」
万吉は初めてホッと安心した。
お綱はそのうしろに待ちながら、もう、奥から洩れる一節切《ひとよぎり》の音に、吾を覚えず胸騒ぎをさせていた。
「――では、まことに恐れいりますが、万吉という者がお目にかかりにまいったとお取次ぎ願います。へい、万吉とさえおっしゃって下さりゃ、ご存じの筈でございますから」
「ああさようでござるか。では、六刻《むつ》過ぎに出なおしてお訪ね下さい。その御人《ごじん》は、今朝から市中へ合力《ごうりき》に出ておられます」
「へえ、では今はお留守でございますか」
「夕景《ゆうけい》には戻られるであろう。戻った節にはお言伝《ことづけ》いたしておく」
「じゃあ、またその頃に伺いますから……」二人は是非なくそこを出てきた。けれど、それは軽い失望にもあたらぬものであった。むしろ、久しぶりで、さまざまな話したいことを持って会うには、会うという楽しみと心のゆとりをつけておくに好ましい時間であった。
「これから妻恋の家へ帰って、また出なおすほどの間もねえから、そこらで飯でも食べて待ちあわせようじゃありませんか」
「そうだね……」とお綱もちょっと首をひねって、
「じゃあ、私の行きつけた家《うち》があるから、池《いけ》の端《はた》まであるいてくれないか」
「江戸のことは他人《ひと》任せがいい、どこへでもお供をしますよ」
「お供なんていわれちゃ気恥かしいけれど、やはり食べ物はあの辺がいいから……。それに、弦之丞様に会う前に、改めて私から、お前さんに頼んでおきたいこともあるし」
万吉の胸底へ、その言葉が強くひびいた。
あの時の約束をふんでくれ、そして弦之丞との恋をとりもってくれ――こう迫られるに違いない。
二人の姿は、まもなく、不忍《しのばず》の池《いけ》を見晴らした蓮見《はすみ》茶屋に上がっていた。
日が暮れたら、もう一度弦之丞をたずねる筈なので、酔うまいと気を締めていながら、蓮見茶屋で二、三本の銚子《ちようし》をかえている間に、お綱もホンノリと耳を染め、万吉もポッと赤い顔色をしてきた。
「勘定を払って、そろそろ出ようじゃないか」
「だって、今から行ったところで」
お綱は座敷の障子を細目にあけて、
「ごらんな、陽《ひ》があたっているじゃないか」
「待つという時刻は永えものだ」
「それよりは万吉さん、これから、私が一つたずねたいことがあるんだから、まあ、もう少し腰を落ちつけておくれなね」
「うむ、そりゃ何でも聞くけれど……」と万吉、飲めない口のくせにまたうっかり一盃《ひとつ》ほして、
「おれにゃあおよそ分っている」と独りでうなずいたものである。
「分っている? まあ、八卦屋《はつけや》さんみたいだこと」
「そりゃあ、ヘボにしろ目明しの万吉だ。お前《めえ》がおれにはッきりと話しておきてえことというのは、いつか墨屋敷の窓の下で、お千絵様さえ見つけてくれたら俺《おれ》も何なりと相談相手になるといった、あの約束をふんで、弦之丞様へ、お前の恋を取次いでくれというのだろう。どうだお綱……」
「万吉さん……」お綱は酒の上の頬に紅《べに》を増して、「……察しておくんなさいよ」
繻子《しゆす》の襟《えり》へあごを埋めて、聞こえぬほどな声でいった。
「だが……そのことは、もう少し時機を待っていねえ。な、いつかもお前に話したように、弦之丞様は本来なら法月|一学《いちがく》という大番組頭《おおばんぐみがしら》の御子息だ。恋に身分の分けへだてはねえにせよ、一方には、おめえも知っている通り、これから俺たちと手筈《てはず》をあわして、阿波の本国へ忍び込んで、蜂須賀家の内部をすっかり探りきわめてしまおうという大望のある人だ」
「ええ、そりゃあもう、深い事情を伺《うかが》っておりますから、今が今とはいいませんけれど……。どうか、その末になった後にでようござんすから、私という気のねじけた女、日蔭の女を救うと思って……」
「そりゃ、いつか一度は話してみるがね……」
「浮いた話じゃございません、真《しん》から思っているのでござんす。心の底から、今の私を打ちなおしたい、見返りお綱の根性を、真人間に近づけたいと――がらにもなく苦しんでいるのでございますから」
帯の間へ手を入れて、石のようにこわばったお綱の物言いぶりが、あまりにも真味《しんみ》に迫っているので、よいほどにあしらっていられない責任感が、万吉の心をまで、締木《しめぎ》にかけてきたのである。
「ふうむ……、するとなにか、お前《めえ》は今の自分というものを、本当に、ねじけた女だ、浅ましい境界《きようがい》だ――イヤ、もっとはッきりいえば、外道《げどう》の渡世をしている女スリだということを、自分で恥じる気になってきているのか」
「天王寺で掏《す》った紙入れ一つが、あんなにまで、多くの人へ迷惑をかけた因果《いんが》を聞かないうちは、まだそんなにまでは思いませんでしたが、江戸へ帰った後にお前さんから、いろいろな話を打ち明けられてみて、初めてスリという渡世が、自分ながら怖ろしくなったんです。万吉さん、私ゃあ、今度かぎり、きッと悪事の足は洗うつもり――そしてその罪滅《つみほろ》ぼしに、及ばずながら弦之丞様が望みを遂げなさるまで、この身を粉《こ》にしてもいいとまで、ひとりで覚悟をしております」
「うむ、なるほどなア! そうなくっちゃならねえ筈だ」と万吉も、お綱が悔悟《かいご》した真情に衝《う》たれて、思わずこう共鳴してしまったが、そうなるといよいよかれは、お綱がスリの足を洗うためにも、あの約束を固く守ってやらなければならない負担を強く感じる。事実、こうした性悪《しようわる》の女を、その本然《ほんねん》な純情へ立ちかえらせてやるには、神の力よりも、仏の功力《くりき》よりも、はたまた、幾度とない獄吏《ごくり》の責《せ》めよりも、ただ一人のよき恋人が手を取って明るい道へいざなってやるにかぎる。
お綱はそうして、怖ろしい魔道から救われたいと思った。自分だけの悔悟や意志ではなおりきれない悪心の習性も、弦之丞のそばにいたら、きッと、子供の昔に返って、まじめな女に帰れるに違いないと信じられた。
自分だとて――女スリのお綱だとても――まだ若い女だもの。
奥座敷の客が呼びこんだのであろう、初春《はつはる》らしい太《だい》神楽《かぐら》のお囃子《はやし》が鳴りだした。
外には羽子《はね》の音、万歳《まんざい》の鼓《つづみ》――。そして、ふと万吉の耳に、角兵衛獅子の寒げな太鼓が耳についた。
楊子《ようじ》をくわえて、二人が茶屋の軒を出たのは、それから間もないことであった。ちょうど、陽もころあいに暮れてきた時分――。
すると、その出合いがしらに忍川《しのぶがわ》の方から、いっさんに、バラバラッと駈けてきた二人の角兵衛獅子があった。
オヤ? と目をみはっていると、すぐ駈けつづいてきた三人の浪人に追い詰められて、向うの空地でヒーッという悲鳴を揚げた。
いきなり、殴《なぐ》りつけられたものらしい。
「ごめんなさい! ご免なさい! ……」という泣き声まじりに、おさないお獅子が二人、地べたへ蹴仆《けたお》されていた。
「なんだなんだ、喧嘩か」
「喧嘩じゃねえ、いつも来る角兵衛獅子だ」
「可哀そうに、無礼打《ぶれいうち》だ、浪人に何かして斬られるところだ」などと、もう口々にいって、それを見かけたあたりの弥次馬《やじうま》が、ワラワラと寄って人垣を作る。
万吉は足をすくませて、
「お! ありゃいつぞや、外神田の飯屋で見かけた、お三輪《みわ》と乙吉《おときち》――」
思いあたって、お綱の顔色をソッと覗《のぞ》くと、お綱も酒の気をさまして、まっ青になっていた。
「万吉さん、ちょッと待っていておくれな」眼色を変えて駈けだしたので、かれもただちに、
「おれも行く!」
こういって後から続いた。
が、すでにそこには、寄っても付けない人だかりとなっていた。角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、蹴仆されたまま土まみれとなって、オイオイ泣き声をあげている様子。
「この餓鬼《がき》め!」と、その上にも土足をあげて、この抵抗力のない姉弟《きようだい》をさいなんでいる三人組の浪人は、よりによってたくましい者ばかりだ。ふと見ると、それは自来也鞘《じらいやざや》をおびた天堂一角《てんどういつかく》と、総髪の旅川周馬《たびかわしゆうま》とお十夜孫兵衛《じゆうやまごべえ》なのである。
「まあ、いい加減にゆるしてやれ」
あまり人だかりがしてきたので、周馬がこういうと、孫兵衛は頑《がん》として、
「いいや、いけねえ」と、姉弟《ふたり》の襟《えり》がみを両の手に吊るして、
「今日だけのことならとにかく、いつぞやも山《やま》の宿《しゆく》の河岸ッぷちで、おれと天堂一角との話を立ち聞きして、なにやら悪たいをついて逃げやがったのだ。これッ、あの時の角兵衛獅子も、たしかにてめえたちに違いなかろう」
「あッ――小父さん! かんにんして」
「ごめんなさい! ……あれーッ」
乙吉とお三輪が、金切り声をしぼって謝《あや》まるのを、お十夜は耳にも貸さないで、
「こいつめ、ヒイヒイいうとぶった斬るぞ。ではなぜ、今も今とて、向うの田楽屋《でんがくや》で飲んでいたおれたちの後ろへ廻って、葭簀《よしず》のかげから人の話をぬすみ聞きしていたのだ。このすれっからしめ、餓鬼だといって油断のならねえ奴だ」
そういえば三人とも、三橋《みはし》の田楽屋で飲んでいたものか、少し酒気をおびているふうだ。泣き叫ぶお獅子の姉弟《きようだい》を軽々と引っさげて、なおも何か問いつめるつもりなのであろう。
「どけどけ」
と弥次馬を追いちらして、向うの森へ連れ込んで行こうとする。それを見ると無心な群集も、これを単なる路傍《ろぼう》のものとばかり、興味に眺めてもおられないとみえて、
「あっ、誰か口をきいてやれよ」
「どうするんだ、お獅子が可哀そうじゃねえか。誰か助けてやらねえか、あれッ、連れて行かれてしまうぞ」
「試《ため》し斬《ぎ》りにされるんだ、試し斬りに――」口々に騒ぎたててはいるものの、相手が生《なま》やさしい御家人《ごけにん》やなんぞと違って、いかにも一癖ありそうなのが、三人までも揃っているので、ただいたずらにわめいてみるにすぎないのである。
と――その混雑の中をくぐって、走り寄ってきた見返りお綱は、今しも孫兵衛や、一角の手に引きずられてゆくお獅子の姿を見ると、吾を忘れて、
「あッ――お三輪ちゃん」
肉親の愛情、その対手《あいて》が何者であるかも目には止めないで、帯のあい首《くち》に手をやるが早いか、キラリと抜いたのを袖裏へ逆手《さかて》に隠して、
「おい、お待ちッ!」と、癇走《かんばし》った声を投げた。
可憐な姉弟《きようだい》を取り返そうとする一心である。お綱がその時の血相の前には、お十夜の怖るべきことも、周馬や一角の太刀《たち》の凄みもなかった。
お綱が向う見ずに駈けだしたので、万吉は、あッと胆《きも》をつぶして、その後ろから力の限り抱き止めた。
「ど、どこへ行くんだ!」
「知れているじゃないか――。あれ、可哀そうに」
「まあ、待ちねえ。待ちねえッてことよ!」
「ええ畜生。ま、万吉さん――そんな悠長《ゆうちよう》なことをしちゃいられない――今向うへ引きずられて行く姉弟《ふたり》は、ありゃ実の私の小さい妹弟《きようだい》なんだよ……」
「うむ、お三輪と乙吉――それがお前《めえ》の親身《しんみ》だというこたあ、おれもうすうす知っているが、なにしろ対手がお十夜にまだ二人の連れがある。でなくてせえあいつらは、お前《めえ》の姿を探し廻っているところだ」
「かまわない! かまわないから離しておくれ」
「ばかをいっちゃいけねえ、飢《う》えた狼のような者の前へ、自分で餌《えさ》になってゆく奴があるものか。イザといやあ俺だって、黙って眺めていやしねえから、まアも少し様子を見ていねえ」と、今の騒ぎに崩れだした人混みにまぎれて、万吉は、力の限りお綱の体を抱き止めていた。
すると、そのちりぢりになった人群《ひとむれ》の中から、ただ一人、足早に駈けぬけて、向うへゆくお十夜の三人組へ、「しばらく!」と声を打って響《ひび》かせた者がある。と、すぐにバラバラッと追いついて行った。
鼠木綿《ねずみもめん》の手甲脚絆《てつこうきやはん》に掛絡《けらく》、天蓋《てんがい》。いうまでもなく虚無僧である。
「待て待て、浪人ども待て!」
こう浴びせかけたが、周馬も一角も、場所がらではあり白昼なので、知りつつ知らぬふりを装《よそお》いながら、お三輪乙吉の背なかを突いて急ぎだすと、虚無僧はムッとした様子で、大股に寄るが早いか、今度は無言で、
「待てと申すにッ」
強く、孫兵衛の利腕《ききうで》をとって、いたいけな角兵衛獅子の姉弟《ふたり》を、かばうように左の手で後ろに寄せた。
「なにをするッ?」
周馬と一角が肘《ひじ》を並べて柄手《つかで》をかける。虚無僧は冷然とそれを見すえて、
「あまりといえば不愍《ふびん》でござる。このいじらしい角兵衛獅子の姉弟《きようだい》――なんと、放しておやりなすッてはどうじゃ」
「やっ、てめえは」
そういう横合いから、こうおめいたのはお十夜である。左右の手を綾《あや》にして不意に虚無僧の胸倉を引っとらえた。
「――おのれは法月弦之丞《のりづきげんのじよう》だな」
「なにッ、弦之丞だ?」
周馬と一角とは、その途端に、足元から白刃《しらは》をずり上げられたように、パッと踏みのいて物々しい構えをとった。
こうなると、事はにわかで、お獅子の姉弟《きようだい》などは問題のほかである。お十夜たるものは、一たんねじ取った弦之丞の襟もとを、締めて攻めるか、投げて倒すか、あるいは腰の助広にものをいわすか、どッちみち、ただでは別れ難きいきさつとなってしまった。
だが、弦之丞はそうでない。あたりまえの態度である。
ニヤリとして天蓋《てんがい》を払った。
普化《ふけ》の作法として、とるべからざる天蓋をとったのは、間髪《かんはつ》を思う心支度である筈だが、それが、白刃《しらは》を渡す宣言とは思えぬほど、あくまで神妙に見せて脱いだのだった。
脱げば――フッサリと切り下げた根元《ねもと》、色糸で巻き締めたのが凜《りん》としている。かれが天性の色の白さも際《きわ》だつのであるが、こう見くらべたところ、お十夜の色悪《いろあく》な、一角の魁偉《かいい》な、周馬のにきびだらけの面相などとは、やや性格なり修養なりの奥行の差を現わしているように見える。
で、やんわりと棘《とげ》をたてずに、お十夜の諸手《もろで》を抜けて、法月弦之丞。
「おお、旅川周馬――天堂一角――お十夜孫兵衛殿――いずれも珍しいお揃いで」
と、いとニコやかに会釈《えしやく》をした。
すると、そこを離れた三橋《みはし》の角《かど》では、やっと、お綱のはやり立つのを抱きとめていた万吉が、
「おや、ありゃあ弦之丞様じゃねえか」
地獄で仏のよろこばしさをそのままに、ここで幾月かの間、張りつめていた神経がいっぺんにゆるんで、膝《ひざ》ッ骨《ぽね》の蝶番《ちようつが》いがクタクタになるかと思われると、お綱も遠見《とおみ》に気がついて、
「ああ、法月さんが――」と、思わず背を伸ばして、もう懐かしさをからませる。
だがしかし、それが弦之丞であると知ると、江戸の大道で、かくも明白に出会《しゆつかい》した仇《あだ》と仇が、どうなりゆくのか、それも心配。
面と面とを向いあわせた途端に、ハッと思ったが、弦之丞の挨拶《あいさつ》、意外にいんぎんであったので、かえって薄気味悪く思ったお十夜と一角とは、ひそかに鯉口《こいぐち》を整えて、顔の筋を怖ろしげにこわばらせてしまった。
そこへゆくと、旅川周馬、腕に器量はないが人を食ってもいるし、鼻ッ先の機智もあるので、ギョッとした気振《けぶり》も見せずに、
「よう、法月氏《のりづきうじ》か! 意外な所でお目にかかった。いつもご壮健か、イヤ、それは何より重畳《ちようじよう》、して、いつ江戸表へお帰りでござった」
久闊《きゆうかつ》の情を誇張して、いかにも親しげな表情である。もう少し弦之丞が白い歯をみせれば、その図に乗って肩を叩き、あわよくば襟首にでもからみついてきそうな按配《あんばい》。
だが、もとより弦之丞は、このにきび侍の軽佻《けいちよう》浮薄と邪心《じやしん》とを以前から見抜いている。ましてや、ここには蜂須賀家の天堂一角や、大阪表でチラチラ噂に聞いたお十夜という悪浪人まで道づれだ。
油断のならぬ三人連れである――。ははあ、さてはこの三人、一味同腹となって、自分をつけ狙っているのではあるまいか。
彼の炯眼《けいがん》は、疾《と》く、こう見破っていた。
だが、この人通りの多い盛り場で、それを表に現わして立ち争っては面白くない。第一、自分は本来まだ公然と白昼笠をはらって江戸の巷《ちまた》を歩くことのできぬ身――という立場からも、弦之丞はあくまでここを無事に別れようとする。
で、周馬の空表情《そらひようじよう》を、他意《たい》なくうけいれるさまに、
「そこもともいつに変らぬご様子で」
微笑をもってむくいると、周馬。
「イヤ、ところが大変りなのでござる――」浅黒い唇を上へ舐《な》めた。
「まだご承知ないか、墨屋敷を初め、甲賀組一帯が焼けたことを」
「おお、その話は聞いているが、いずれお上《かみ》から相応《そうおう》なお代屋敷《かえやしき》を賜わるであろう」
「さあ、それは平常、まじめにお役目を勤めている連中のこと。拙者はもう隠密組などという、泰平の世に無用なお役儀には飽き果てましたよ。で、こん度をいい機《しお》に浪人いたして、これからはちと自由なほうへ生き道を伸ばす考え」
「結構でござります」
「無論、そう行かねば生き甲斐がござらん。ところで、弦之丞殿、お身も大番頭《おおばんがしら》の子息の身で、自由な恋をし、拘束のない境地へ去られたのは賢明でござるよ。その段、周馬も敬服いたしている。イヤ実際、五百や六百石のこぼれ米《まい》を貰って朝夕|糊付《のりづ》けの裃《かみしも》で、寒中に足袋《たび》一つはくのにも、奉書のお届を出さなければ足袋がはけないなんていうような幕府勤めはまッぴらでござるよ。アハハハハハ。おう、それはさておき、法月氏《のりづきうじ》、江戸へお帰りになったからには、さだめし、お千絵殿とお逢いであろう。ただ今あの方は、どこにおられますな?」
と、余談にまぎらして、巧妙な探りを入れる。この貉《むじな》め! と弦之丞は心で冷蔑《れいべつ》して、
「その消息は、トンと承《うけたまわ》りませぬ。お千絵殿の行くえはこのほうより、むしろそこもとのほうが百も二百もご承知あっていい筈だが……」
逆に言葉の鉾先《ほこさき》をねじ向けると、
「と、とんでもない!」と周馬はあわてて、「知っているくらいならおたずねは致さん。――いずれそのうちには分りましょうよ、分った節には、誰より先に貴公の所へご通知いたす。で法月氏《のりづきうじ》、ただ今のご宿所は?」
「一月寺《いちげつじ》関東の支配所」
「アア下谷の虚無僧寺でござるか。そのうちに、是非とも一度おたずねいたす」
「その節には――」と弦之丞、右と左へギラリと眼光をやって、「――そこにおいでの、一角殿や孫兵衛殿をも、ぜひお誘い合せてお越しありたい」
「ウム……」と一角は、その言葉の裏を胸にこたえて、咄嗟《とつさ》にばつのいい返辞に窮した。
お十夜は目知らせで、しきりに、抜こう! 斬ってしまおう! という殺気を誘ったが、一角の常識でも、今は地の利と時とを得ていないと思った。ことに、中に挟まった旅川周馬が、優柔不断で髪の毛ばかりを撫であげて大事な機を逸してしまったので、一角は、まずい、抜くな、と目と目でお十夜をおさえている。
こなたの人群《ひとむれ》の中に隠れて、ハラハラしていたお綱と万吉も、どうやら、この分ならばとホッとしていた。
「ではまた、時を改めて会うとしよう。ただし――その節には、このほうから、ちと所望するものがあるかもしれぬが」と天堂一角が、少し凄味《すごみ》をみせた気で、弦之丞へ捨てぜりふを投げたのをきッかけに、お十夜、周馬の三人組、互に目くばせをし合って、スタスタと辻から横丁へ立ち去ってしまった。
かかるいきさつの間に、角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、賢い気転をきかして、人立ちのした間かどこかへ素早く姿をひそめている。
「なんだ、ばかばかしい……」
群集は失望した。
「あの按配《あんばい》では、さだめし斬合いになるだろうと思っていたら、イヤに馴れ合ってしまやがった」弥次馬声をヒソヒソ交わして、皆ちりぢりに歩きだした。――弦之丞は禁じ得ぬ微苦笑を笠のうちに隠して、誰よりも大股に上野の山の裾《すそ》にそって急ぎ足になる――。
それを見つけるとお綱も急に、「万吉さん、早く行かないと、法月さんの姿を見失ってしまう……」人を縫《ぬ》って小走りに追い慕った。そのあわてようを見ると万吉は、あれほど、気の勝っている見返りお綱も、恋という魅力のためには、こうももろくなるものかと、心でおかしく思いながら、
「なアに、もう急ぐことはねえ。弦之丞様の帰る先は、いずれ一月寺ときまっている。それに、向うもこっちもなるたけ世間から忍んでいたい体だ。もう少し、人通りのねえ所へ行って声をかけよう」と、場所を計ってついて行く。
四、五町来ると、屏風坂《びようぶざか》から鶯谷《うぐいすだに》のさびしい山蔭、もう、ここらでよかろうと万吉、
「もし、弦之丞様、弦之丞様」
と、呼びかけた。向うでハッとふりかえると、お綱は胸を躍らせて、思わず足を止めてしまった。――弦之丞は天蓋《てんがい》をこなたに透《す》かして、
「おお、万吉ではないか」ピタピタと戻ってきて、お綱には目もくれずに、
「どうしたのじゃ? 江戸表へまいって以来、どれほどそちの姿を探していたかしれぬぞ」
「イヤどうも、お話にならねえ手違いだらけで、私もあなたの居所を知るまでどんなに、気をもんだかしれません」
「ではこのほうが、先日焼け跡へ印してきた文字を読んだか」
「あれを見なかった日にゃ、それこそ、まだお目にかかることはできなかったでしょう。で、実は早速、一月寺《いちげつじ》の方へ伺いましたところ、今日は合力《ごうりき》に出ていてお留守だという話。もう夕方までは間もねえからと、今しがたまで池の端の茶屋に休んでおりますと、あなたをつけ狙っている三人組の奴らが、角兵衛獅子の子をいじめているので、思わずあの弥次馬の中にまじっていたのでございます」
「おお、そうか」
「ところが、あの二人の角兵衛獅子というのが……まことに妙な因縁でして……」と万吉は、不得要領《ふとくようりよう》に、ちょッと髷《まげ》を掻きながら、うしろに隠れているお綱を指した。
「――そこにいる見返りお綱の、実の妹弟《きようだい》なんでございます。で、本人に聞いてみると、弦之丞様とは、大津の打出《うちで》ケ浜《はま》とやらで、一度シンミリとお話をしたこともあるそうで……かたがた只今のお礼も言いたいそうですから」
と、うまくひきあわせをしてしまった。で、初めて弦之丞は、そこにあだめいた女がはにかましげに立っているのを見出したように、
「大津の打出ケ浜と申すと? ……ウム、あの嵐のあとの月夜に、瓦小屋《かわらごや》で会うた女子《おなご》か」
「はい……お久しゅうござりました」
お綱は精いッぱいに、これだけいった。そして、後はなんにもいい得ないで、ポッと耳の根を紅《あか》くしたまま、万吉へ、救いを求めるような眼を向けた。
「で、弦之丞様、このお綱でございますが」と、なんのことはない、とりなし役になってしまった万吉。ここで手っ取り早く、お綱の過去と今の気持や、また墨屋敷の変事をも、話してしまおうと語をつぎかけると、
「まあ待て」と、弦之丞が軽くおさえて、
「この路傍では、何かの話もなりかねる。一月寺の宿院はすぐこの先じゃ、そこへ落ちついてきこうから、私の後についてまいるがいい」
「へい、それじゃそこへまいりましてから」
「万吉さん、私は? ……」お綱は少し甘えるように、万吉の袂《たもと》を取ってはにかんだ。
「二人ともに来るがよい」
笠でさしまねいて弦之丞が、先に立って歩きだしたので、お綱の心は甘い喜びにとけそうだった。宿院へ来いとゆるされただけを、もうすべてのことのように思って――。
そして、前へゆく弦之丞の後ろ姿に、磁力のような愛執《あいしゆう》を感じながら、足も心もその人へ引きずられて行く見返りお綱。
「私は……私は……」お綱はついて歩く足もともうつろに、めくるめくばかりな熱情でこう思った。
「死んでもこの人を忘れまい! 命がけでこの人の胸にすがろう……、そしたら、怖ろしい掏摸《すり》の足もきッと洗える」
するとその時、屏風坂《びようぶざか》の辺から近道をして追いついてきたのであろう。こけつ転《まろ》びつ――声を揚げて追いついてきた角兵衛獅子のお三輪と乙吉。
「姉《ねえ》ちゃん! ……姉ちゃん!」
「姉ちゃん、待ッて――」
なかば、必死の泣き声で呼び止めた。
「姉ちゃアん! ――」
と、お獅子の声のありッたけが、弦之丞の後ろについてゆくお綱の吾《われ》をハッとさました。
常々も、忘れてはいない可憐《いと》しい妹! 可愛い弟! それを、今は、なんという魔がさしたのか、弦之丞の姿を見た刹那《せつな》にフイと忘れて、あそこへ置き去りにしてきてしまった。
耳をつんざかれて、甘い幻想は霧のように散った。そして、なぜか、お綱はうろたえた。
「あっ……」
こう洩らして、ふりかえるまもあらばこそ、息せき切って飛んできた乙吉とお三輪は、永い間、氷のようにカジカんでいたおさな心に、会いたい会いたいと念じていた姉を見つけて、それこそ本当の児《こ》獅子が牝《め》獅子の乳へでも狂い寄るように、お綱の袂《たもと》がほころびるほど、両方から、むしゃぶりついてきたのである。
「おお! 三輪ちゃんだったかい」
と、両の袂へ、鉛のような情《じよう》の重目《おもめ》をかけられて、お綱は、飲ンだくれな父はとにかく、自分という大きな姉がありながら、こんな無邪気な者へ、こんなしがない稼業《かぎよう》をさせておいた、自責の念にせめられて、思わずよろよろと足を乱した。
「姉ちゃんだ! 姉ちゃんだ! あたいの姉ちゃんだ!」
「まア、乙吉も――」と、本能的に、ひしと二人を抱きしめて、見返りお綱、血の気もなく横にそむけた顔をおののかせて、
「もう久しい間、家《うち》へもよりつかないこの姉を、よく覚えていておくれだッたね。おお、ほんとにお前たちも、すッかり大きくおなりだこと……」弦之丞や万吉の前も忘れて、止めあえぬ熱い涙を、さすがに女らしく注《そそ》ぎかけた。
お三輪もシャクリあげていた。
乙吉も大粒の涙をこぼして、筒袖《つつそで》の腕をあてていた。
「三輪ちゃんご免よ――、乙吉もかんにんしておくれよね。今に私が家へ帰ったら、角兵衛獅子なンかさせておきゃあしないから。――いい着物も買ってあげる……おいしい物も食べさせてあげる……そして寺小屋へも勉強に通わせてあげるから……ねえ」
「うん、姉ちゃん、ほんとにネ」
「ああ、嘘なんかいうものじゃない。――だから……いい子だから、暫く我慢して働いていておくれ、私が家へ帰るまで……」
「…………」
「分ったかい! 姉さんはこれから、ほれ、向うにいるお二人の方と一緒に、大事な用があって行く途中なのだから、日が暮れないうちに、早く家へお帰りなさい」
「いや!」
ハッキリとかぶりを振った。
そして、どこまでも離れまいとするように、袂《たもと》の端を握りしめる。無邪気なだけに、純情であるがゆえに、こうなるといくらいいすかしたり、わけをいってきかせても、ウンと承知して帰る気ぶりはないのであった。
お綱は、当惑してしまった。
無理はない、無理はない! この子たちには、酒飲みで無理解で乱暴な男親はあるが、貧しい中にも、稚《おさな》い心を温めてくれる女親の肌がない。――吉原裏のおはぐろ溝《どぶ》、黒い泡がブツブツと立つ、あの濁り水のような裏店《うらだな》で、情けも仮借《かしやく》もなく育てられては、こんな姉でも、こうまで強く慕う気になるのであろう。
そうも思うし――お綱はまた一方には、ここで、弦之丞にすげなく別れてしまうのが、一時にせよ、何としても辛かった。それは、幼い二人がたまたま巡り会った姉に別れるより、お綱にとっては、なおさらせつなく感じられる。
法月弦之丞は、わざと少し道ばたへ身を避けて、何かしきりと、万吉がささやくのを聞いていたが、
「お綱とやら――不愍《ふびん》ではないか」
「は、はい……」
「およその事情は万吉から聞いたが、そちを慕うて離れぬのは無理ではない。拙者も万吉も、どの道しばらくは一月寺の宿院に滞在することになろうから、とにかく妹弟《きようだい》どもを送り届けて、明日なり、また四、五日おいてなり後に、改めて一月寺へ尋ねてまいるがよい」
「そうだ!」万吉も口を合せて、
「そうしねえそうしねえ。なんぼなんでもお前《めえ》、あれほどまでにすがる者を、蛇《じや》か鬼じゃあるめえし、振りもぎッて行かれるものか。弦之丞様がおっしゃる通り、その子たちを送り届けて、家の様子も見てきた上に、後から訪ねておいでなさい。――え、大丈夫だよお綱さん、その間に、弦之丞様が消えてなくなる気づかいはねえから――」
お綱はそこで、弦之丞と万吉に別れた。がんぜない妹弟《きようだい》たちを得心させた上、後からきっと一月寺へお訪ねします――と固く誓って。
お獅子のお三輪と乙吉は、すッかり元気がよくなった。嬉々《きき》として、お綱の後になり先になりして目まぐるしくじゃれ歩く。
「姉ちゃん」
「あいよ」
「姉ちゃん」
「なんだい」
「なんでもないの」
無上《むじよう》に嬉しくってたまらない。
用もないのに呼んでばかりいた。そして、あたいの姉ちゃんなる人の顔を見ては、ニッコリ笑って寄り添った。お綱もニッコリ笑ってやる。求め難い男に執着《しゆうじやく》し、求めがたい恋に苦しみあえぐより、無邪気な目下に喜ばれるって、なんていいものだろう。けれど人は、淡いものには飽きたらないで血みどろな恋の修羅場を選んでゆく。なぜだかお綱にも分らない。お綱もやっぱりそうだから。
「姉ちゃん」
「ええ」
「なぜ姉ちゃんは家にいないの」
お三輪にきかれて、お綱はギクリと言いつまった。江戸はおろか東海道から上方へかけて、掏摸《すり》を働いているなんていうことを、どうして、この純な神様たちへ話されよう。
「あの、私はね、よそのお屋敷へご奉公に出ているからさ……。それで、お前たちのことを思い出しても、めったに家へ帰れないのだよ」
「そう? ……じゃ姉ちゃんは、立派なお屋敷に出ているんだね。それを、角《かど》の荒物屋の小母さんてば、お前たちの姉さんは、見返りお綱っていう金箔付《きんぱくつ》きだッていったよ。姉ちゃん――金箔付きって何のこと?」
「そら、立派な、お屋敷のことさ」
「それで姉ちゃんは、家みたいな、きたない所へ寝るのがいやなの?」
「そんなことがあるものかね。たとえ、お施米《せまい》小屋のような中へ、藁《わら》をかぶって寝ればとて、みんなで一緒に暮らしているほど、倖《しあわ》せなことはないんだよ」
解《げ》せないような顔つきで、お三輪は姉を見上げていた。それならば、なぜ家にいないのだろう、という疑問がおさな心にもあるとみえる。
町通りにポチポチ灯の色が見え初めた。松の内の夕暮は、道行く人も店飾りもことのほか美しい。サヤサヤと竹に吹く風が耳に痛くなってきたので、お綱は、折り畳んでいた頭巾を出して、形よくかぶった。
黙っているが、ひもじそうに見えたので、観音堂の境内で、串《くし》にさした芋田楽《いもでんがく》を買ってやると、お三輪も乙吉も、歩きながらムシャムシャ食べる。あんな物が、どんなに味覚をよろこばせるのかと思うと、熱い涙がにじみ出て、お綱は、放縦《ほうじゆう》にぜいたくのし放題をやってきたことが、この二人だけにすまない気がする。
観音堂から田町の裏田圃《うらたんぼ》――向うを見ると吉原の一廓が宵の空に薄黒く浮いていた。赤い灯の数の一ツ一ツは花魁《おいらん》たちの部屋なのであろう、田圃をこえて、大尽舞《だいじんまい》の笛や、すががきの三味線や太鼓が、賑やかに流れてくる。
その廓《くるわ》を取りまいているおはぐろ溝《どぶ》のふちに添って、頭巾のお綱はうつむき加減に、お獅子の二人は後先《あとさき》に、トボトボ歩いてゆくのである。
文字どおりな鉄漿《おはぐろ》の使い水や、風呂の垢《あか》や、台の物の洗い流しや、あらゆる廓の醜悪がこの下水へ流れこんで、どす黒い泡を立てていた。そこへは、籠の鳥の女がしぼる涙もしたたり落ちてくるであろうし、あたりの空気もその下水のように濁っている気がして、なんとなく、息づまるものが澱《よど》んでいた。そしてこの溝《どぶ》どろの空気の漂う町が、お綱の育った故郷《ふるさと》である。
「じゃあ……」かれは思いきって足を止めた。
「もう家の側まで来たから、姉ちゃんはここでお別れするよ。ね、またそのうちに、お屋敷のご奉公がすんだら、お前たちの側へ帰ってたくさん可愛がって上げるからね……」
こういって、帯の間からつまみ出した小判を四、五枚、お三輪の手へ握らせてやったが、小判はチラチラと足元へこぼれ、お三輪も乙吉も、目に涙をいっぱいためて、急に悲しい顔をした。
「さっきも話した通り、お屋敷奉公をしている身だから、この姉ちゃんは、家へ泊ってゆかれない体なんだよ。ネ、いい子だから聞きわけて、今日はここで別れておくれ」
「え……」
「分ったかい。そのうちに、きっとお前たちを幸福《しあわせ》にして上げるからね。廓《なか》へ売られた姉ちゃんも、今に私が身うけをして、家へ戻れるようにする。だから、そんなに泣かないで……」
お綱にだましすかされて、やっとうなずいたお三輪と乙吉は、ぜひなくトボトボと歩きだした――別れともない泣き顔で。
その影が、おはぐろ溝《どぶ》のドンドン橋を左に越えて、九尺二間の軒と軒とが挟《はさ》み合っている孔雀長屋《くじやくながや》の路次《ろじ》へションボリ消える。
細い月が空にあった。
廓《くるわ》は人出の潮時である。
大きな雪洞《ぼんぼり》を向けたように、不夜城《ふやじよう》の空は赤く映《は》えていた。
おはぐろ溝《どぶ》のへりにしゃがんで、お綱は肩をすぼめたまま、子供のようにしばらくすすり泣きに泣いていた。
ここは自分の育った土地で、この溝もこの廓もこの辺の家も、皆昔ながらであるだけに、なんとなく小娘頃の気もちがヒタヒタとよみがえってくる。それがいっそう悲しかった。
「お母さんさえ生きていたら、私はこんな女にもならず、ほかの妹弟《きようだい》たちも、あんな不幸《ふしあわ》せにはならなかったろうに……」しみじみ思いだされるのである。
親父は廓の遊び人で、紋日《もんび》の虎《とら》という手のつけられないあぶれ者だが、死んだ母だけは、今も温かく甘く涙ぐましく、お綱の胸に残っている。
その母は、お才《さい》といって、やはり根は廓者《さともの》であったけれど、いわゆる仲之町《なかのちよう》の江戸前芸者で、名妓《めいぎ》といわれた女《ひと》であったそうな。だのに、どうして紋日の虎なんて、箸《はし》にも棒にもおえない地廻りと夫婦になったのか――お綱は子供心の頃から、それが不思議に目に映った。
で、ある時、まだ母のお才が生きていた頃、聞いてみたことがある。
「お前、そんなことに気がついているのかい。油断のならない子だね」
睨むようにいったけれど、また、抱き込んで、頬へ頬をつけながら、たッた一語《ひとこと》、こういった。
「お前だけはネ、今のお父さんの子じゃないんだよ」
この謎は、解いて聞かせてくれなかった。
女親のお才が死ぬと、怠け者で飲んだくれな紋日の虎は、家財をあらかた博奕《ばくち》でハタいて、お綱を廓《なか》へ売ろうとした。
「イヤなこッた」という調子で、お綱は家を飛びだしたのである。こうした家庭と罪悪の町中で育ったかれには、いつか立派に、一本立ちのできる技術がついていた。それは虎のところへ遊びにくる商売人が、おもしろ半分に教えたスリだ。
養父の非人道な行いに反抗して、家をとびだしたお綱も、いつか、人の道からそれてしまった。おもしろ半分に覚えた指わざで、思う存分な日を暮らした。でも、たとえ捨てるほどな金があった日も、養父へ貢《みつ》ごうと思ったことは一度もなかった。ただ、不愍《ふびん》なのは、お三輪と乙吉と――廓《なか》へ売られたもう一人の義理の妹。
「どう考えても、ほかの子たちは可哀そうだねえ」そこを立って、沈みきった足どりを運ばせたが、お綱はふと廓《くるわ》の灯を仰いで、この中にも、むごい男親に売られた妹が一人いるのかと思って、ほッと太い息がもれた。
ああ、救ってやりたい。
養父の行いは憎いが、罪のない妹たちを。
一つ――久しぶりに、たんまりとありそうなふところを狙って、妹の身請《みうけ》の金と、あとの二人が幸福《しあわせ》になれるだけの金を稼いでやろうか。――なんの造作《ぞうさ》もない朝飯前のひと仕事に。
ふッと、そんな気がさした。
おはぐろ溝《どぶ》の暗いかげから、お綱は明るい方へあるきだした。しだれ柳、辻行燈《つじあんどん》、編笠《あみがさ》茶屋の灯などが雨のように光る中を、土手から大門へと、四ツ手が駈ける、うかれ客が流れこむ、投げ節《ぶし》がよろけて行く。
お綱の名と姿に似る、衣紋坂《えもんざか》の見返り柳――その小暗いかげにたたずんで、かれは、密《ひそ》かにあてを狙っていた。
金のありそうな人間のふところ。
変化小路《へんげこうじ》
二百両もあったらいい。
廓《くるわ》にいる妹をひかして、余った金は意見に添えて、養父にくれてやるとしよう。そしたら、少しは心を入れ代えて、お三輪や乙吉にも、あんなむごい稼ぎはさせまい。
二百両――大したことでもありやしない。
だが、その金は、お綱が自分のふところの物を勘定するのではなく、これから、行きずりの人様から、拝借しようというのである。
かれは、頭巾姿の身をすぼめて、見返り柳から土手のあたりを、小刻みに歩きだした。
田中田ン圃《ぼ》の寒風もいとわず、土手はチラチラと廓通《さとがよ》いの人影がたえない。と――向うから、俳諧師《はいかいし》か何かを取巻きにつれて、おさまった若旦那がほろ酔いでくる。
お綱の目が輝いた。
あいつ! と目星をつけたら、決して遁《のが》したことがないお綱だったが、妙に指先がこわばって、その人間をやりすごしてしまった。
「ちッ……」と舌うちをして、残り惜しそうに振り向いたが、やがてまたもう一人、たのもしい金持ちがお綱の前を歩いて行った。
それは紺股引《こんももひき》にわらじをはいた爺さんである。わらじがけであってみれば吉原帰りでないことは知れている。お綱の目をそそったのは、蛇が蛙を呑んだように胴ぶくれのしている内ぶところ。たしかに、まとまった金がある。
今戸《いまど》、馬道の四ツ角《かど》へきた。
人通りが乱れている。今だ! と思いながら、お綱は、フッ――と前へ駈けぬけようとしたが――。
なんだか、妙に、気が重くなっていた。
「魔がさしたね! 見返りお綱! お前のもち前の魔がさしたね!」
それは自分で自分にいう、心の底の声であった。
そう思った刹那に、お綱はなぜか、ブルブルと身がふるえてきた。かくも、自分をはッきりと意識するようでは、とても、隼《はやぶさ》に人の物を掏《す》るなどという神技《かみわざ》に近い芸ができるものではない。
「お綱の腕のヤキが戻ってしまったのかしら? ……」こう思う間に、いつか自分は自分ひとりで、涙橋の上に立っていた。
「ああ、よそう、よそう……とんでもないことをするところだった。スリはやめると万吉さんにざんげをした私じゃないか。自分でも、二度とこの悪い指は使うまいと、心に誓っていたんじゃないか……。上方《かみがた》の四天王寺で掏《す》った紙入れ一つから、どんな因果がむくわれて、幾多の人を不幸な目に会わしたか、その怖ろしい輪廻《りんね》をまざまざ見ている今じゃないか……」
今夜のお綱の心というものは、まったく冷静であり純であった。お三輪や乙吉の感化かも知れない。けれど、そのために、不幸な妹弟《きようだい》が救えなくなった。
「すみません……」
誰にいうのでもなく、お綱はこういって、涙橋の欄干へうッ伏した。過去の罪を思うて、唐草銀五郎にわびるのか、不憫《ふびん》な妹弟《きようだい》たちへ詫びるのか、或いは、神のような形なきものへひれ伏したのか。
橋の夜霜が袖に着く。
下には堀の水がゆるやかに流れていた。隅田川から入ってくる猪牙舟《ちよき》や屋形船《やかた》が夜寒の灯を伏せて漕ぎぬけてゆく。
頭のしんが痛んできたのか、お綱は顔を上げなかった。――早く弦之丞様の所へ帰って、一切をざんげしてゆるして貰いたい気もち。また、あの浮世のおはぐろ溝《どぶ》に埋められている妹弟《きようだい》を見捨ててもいられぬ悩み――。
声もなく、川千鳥が白く渡った、待乳《まつち》の山から水神《すいじん》の森あたりへ。
と。
お綱がうっ伏しているまに、かれの足元へ、黒々と、蟇《がま》のような人かげが這いつながった。
橋の右と左から、その影は、欄干の根を這って、ジリ、ジリ……と寄りつめてきつつある。
捕手《とりて》だ! 足がついた。密かに伏せた、十四、五本の十手《じつて》。霜より真っ白に光ってみえる。
もう手が廻った! およそ悪事に名を染めた者が、その故郷《ふるさと》や肉親のいる家の近くに立ち廻れば、必ず、足がつくにきまっている。
ああ、それを知らない、お綱でもなかったが……。
元は知らず、未来は知らず、今、涙橋の上に、うっ伏している間のお綱は、まことに浄心《じようしん》純情な女であった。
だが、なんで捕手に、仮借《かしやく》があろう。
五十|間《けん》の番屋にいあわせた町役人が、いち早く、お綱の姿を見かけて、ここに手を廻してきた以上、もう袋の鼠とみられている。
先に這い寄った一人の捕手が、いきなりお綱の足を狙って、
「御用ッ!」
すくい飛ばしたのが合図となる。
「あっ! ――」不意をくッて、お綱は霜の欄干をツウ――と五尺ばかり辷《すべ》った。きっとみると、もう八方は、黒々とかがんだ捕方の影。
「御用だッ!」
「御用ッ、御用ッ!」
続けざまに二、三人、銀磨きの光を射《い》さして躍ってきた。飛びかかるが早いか、お綱の驚きのまも与えず、
「神妙にしろッ」
欄干の楯《たて》をもぎ離して、タタタタタと橋のまん中までひっ立ててくる。
「な、なにをするんだい!」
と癇走《かんばし》ったお綱の声に耳も貸さないで、いきなり頭巾に手をかけた一人が、
「しらを切ってもムダだ! てめえは女スリの見返りお綱、とうから立ち廻ってくるのを待っていたのだ」
力まかせに頭巾を引いた。
「あっ――」というと、夜目にもきわだつ凄艶《せいえん》な顔がむきだされて、頭巾に飛ばされた珊瑚《さんご》の釵《かんざし》、お綱に、もうこれまでと思わせた。
「笑わせちゃいけないよ。番屋廻りの下ッ端に、見返りお綱が自由になって堪るものか」
肘《ひじ》をはずして、一人の捕手を勢いよく投げつけた。途端に、サッと持った匕首《あいくち》が、青い光流《こうりゆう》を描いて横に走った。
「うーむッ……」
血が飛んだ! お綱の白い手へもサッと返り血が散ってくる。
「うむ、上《かみ》役人に手向いするか」
同心とみえる。十手よりやや長めなハチワリを持って、真《ま》っ向《こう》から、かれの小手を叩き伏せようとした。――が、お綱はヒラリと横に避けて、近づくものを斬りとばしながら、まッしぐらに駈けだした――今戸《いまど》河岸《がし》から聖天町《しようでんちよう》のほうへ。
続いて十四、五人の捕手、バタバタとあとを慕う。霜の夜の御用の声は、ひときわすごくひびいて戸を開《あ》ける窓もない。
「どこへ曲った」
「たしかにこの路次」
「抜けられるな――しまッた――早く先へ廻れ、番屋の前をみたらお手を拝借とどなれ、おお、みんなそっちへ行っちゃいけねえ、半分はここから後を追いつめろ」
長蛇は二つに別れて横丁へ入る。
路次から路次をかけ廻りながら捕手は、ゴミための蓋《ふた》から空家の床下まで覗《のぞ》いていったが、とうとう姿が見あたらなかった。
だがどうしても、この一劃《いつかく》から出たとは思われないので、番屋の者の手を借りあつめて、なおもくまなく尋ねたが、それに似よった女にも出あわない。
では、お綱は一体どこへどう消えてしまったのだろう? というに、あえて女だてらに屋根や高塀《たかべい》伝いの離れ業《わざ》をしたのでもなく、また変幻自在《へんげんじざい》な忍《しの》びの技《わざ》を弄《ろう》したのでもない、明々白々と、裸体《はだか》になっているのである。
どこにというと、それが少しおかしい。
鵜《う》の目鷹《たか》の目の捕手や、六尺棒をもってつきあいに出た番太郎《ばんたろう》が、みすみす二度も三度も前を通っている、横丁の銭湯へ七文の湯銭《ゆせん》を払って、そこの女湯に、のびのびとして温まっている。
もうもうと白い湯気が立ちこめて、数多《あまた》の女の肌が人魚のように混んでいるので、誰が誰とも分らないが、風呂へつかって、
「ああ、いいお湯加減……」
こういったのがお綱らしい。
「ええ、人参湯《にんじんゆ》でございますからね」と、乳呑《ちの》み児《ご》を抱えた、近所の若いお内儀《かみ》さんらしいのが話しかける。
「お子さんがあると、お風呂もたいていじゃありませんね」
「まったくですよ。それに冬は、風邪《かぜ》をひかしてはと思うもんですから、自分の体も洗えやしません」
「少し、抱《だ》っこしていてあげましょうか」
「いいえ、いいんですよ」
その時、番台の側《そば》の戸が開《あ》いた。
向うからもこっちからも、湯気でよく見えないからいいようなものの、いきなり女湯の戸を開けたのは、一人の男だ。
「あ、お間違いでしょう」
と番台がいうと、かぶりを振って、下から、何かささやいた。と、みるまに番台のおやじ、青くなってざくろ口の湯気を見つめた。
安永頃にはもう江戸は混浴禁止になっている。男のくせに大手を振って、女湯へ入ってくるのは、お上《かみ》の御威光《ごいこう》でもなければできないこと。
無論、それは捕手の一人。
ことによったらという疑念をもって、銭湯をねらってみたが、まさか、自分も裸になって、湯気の中の女《もの》を一人一人あらためてみることもできないので、何か、番台のおやじに吹っかけている。
「入ったろう、そんなふうな女が……」
「さア、なにしろこの通り混んでおりますから」
「不注意な奴だ」
「申し訳がございません……ですが、どうぞ流し場でおあらためだけは一つご勘弁を。へい、男湯の方なら、ちッともかまやしませんが、その……ほかのお客様がお気の毒でございます。なんなら、その脱いである着物をごらんくださいまして」
「夜分なので、衣服にはよく覚えがないのだ。では、必ず裏口などから突っ走らぬように気をつけてくれ」
「へい、その辺はよろしゅうございます」
「きッとだぞ」
ツウと外へ出て行った。
湯屋の暖簾《のれん》を出た男は、左右の路次を向いて、手をさし招いた。ゾロゾロとすぐに十八、九人の人数が集まる。ヒソヒソと耳うちをして、やがてあたりの物蔭へシンと鳴《な》りをひそめてしまう。
驚いたのは番台のおやじ。
えらいお客がまぎれこんでしまった。いったいその女|掏摸《すり》というのは、どの客であろうかと、銭筥《ぜにばこ》の抽出《ひきだし》から眼鏡《めがね》をだして、上がってくるのを一人一人見張っている。
たいがいなお客は入れ代ってしまったほど、かなり時間がたったが、どうもそれらしい女は上がってこない。みんな、近所の顔見知りな人ばかりだ。ばかにしてやがる、不浄役人《ふじようやくにん》め、女湯|覗《のぞ》きをして行きやがった。
おやじは眼鏡をはずして手に持った。すると、その時、近所の若いお内儀《かみ》さん――馴染《なじみ》なので顔を知っているが、その内儀さんと親しい口をききながら、一緒に出て行った小粋《こいき》なのがチラと目についた。
オヤ! といいたかったが、そうもいえないので、番台から、
「ありがとう、おしずかに――」
ひょいと振りかえるまに戸を閉めて下駄を取っている様子。何かいいながら、馴染の方の内儀《かみ》さんは、湯道具やらおむつやらをいっぱい抱えて、ねんねこにくるんだ乳呑み児の方は、も一人の女の手へ預けていた。
「すみませんです、ほんとにご親切様な」
「どういたしまして、お互い様ですもの」
「おかげ様で今夜ばかりは」
「おう、外へ出るといい気もち――赤児《やや》もスヤスヤ寝ていますよ」
「まア、のんきなものでございます。どうもありがとうぞんじました」
「せっかく、いい気持そうにしているのに、目をさますといけませんから……」
カラカラと夜寒に下駄をひびかせて、濡れ手拭を下げながら湯上がり姿を風に吹かせて出ていった。
捕手は足をしびらせていた。今か今かと息をひそめて待ち切ったが、まさか、今乳呑み児を抱いて出てきたものが、見返りお綱であろうとは、誰も見破る者がなかった。
そのうちに、アラ、私の下駄がない、と湯屋の門《かど》で騒ぎだしたものがある。
さてはと、初めて思いあたったが、もう長蛇はとッくに逸していた。お綱は、風呂の中で、女同士のありがちな親しみを向けて、その人をおとりに、まんまと重囲を脱してしまった。
しかし、今夜|虎口《ここう》はひとまず遁《のが》れ得たにしろ、お綱がお三輪と乙吉に会ってから、一そう切実になった悪と善心の闘い、恋と環境の添わぬなやみは、かれの行くところまた走るところへ、影身にからんでつきまとって行くであろう。
そのせいか。
一月寺では万吉が、弦之丞とともに、お綱の訪れを待っているのに、二、三日たっても、その姿が見えなかった。
投げ十手《じつて》
お江戸日本橋。いつも織るような人どおりだ。
ついそこの魚《うお》河岸《がし》から、威勢のいいのが鮪《まぐろ》や桜鯛《さくらだい》をかついで、向う見ずに駈けだしてくるかと思うと、お練《ね》りの槍が行く、お駕《かご》が従《つ》く――武士や町人、雑多な中に鳥追《とりおい》の女太夫が、編笠越しに富士をあおいでゆくのも目につく。
「あら……」
と驚いて、太鼓反《たいこぞ》りの橋の上で、塗歯《ぬりば》の下駄の踵《かかと》を上げた女があった。
蔵前《くらまえ》ふうの丸曲髷《まるわまげ》に、曙染《あけぼのぞめ》の被布《ひふ》をきて、手に小風呂敷をかかえている――、で、二、三日前とは、すっかり服装《したく》が違っているので、ヒョイと見違えてしまうけれど、それはまぎれもないお綱の変身。
「ちイ……」と、舌打ちをして踵《かかと》を上げたのは、向うへ駈けだしていった子供の奴凧《やつこだこ》が、お綱の白い脛《はぎ》へからんだのである。
「辻占《つじうら》が悪い」
面倒くさそうに糸を取りのけて、そのまま四、五間歩きだしたが、橋の袂《たもと》で、ちょっと足を止めていた。
そこには今日も相変らず、珍しからぬ人立ちがしていた。何かというと、心中のしぞこないだ。御法《ごほう》によって男女《ふたり》とも、生きながらの曝《さら》し者となり、鰒食《ふぐく》ったむくいとはいえ、浮名《うきな》というには、あまりにもひどい人の目や指にとり巻かれている。
「あれッ?」
馬鹿な顔をして、それを見ていた一人の男が、不意に、すっ頓狂《とんきよう》な声をだして、ふところや袂《たもと》をハタき始めた。
「す、す、掏摸《すり》にやられたッ」
「えっ、掏摸?」
「今、瀬戸物町《せとものちよう》で、四十両の勘定をとってきたばかりなンだ。それがねえ! 財布ぐるみだ! 財布ぐるみ掏《す》られてしまった」
血眼になって騒ぎだした。
誰だ、誰だ、というふうに、群衆の目が、お互いにウサン臭い目つきをし合う。掏《す》られた男は、狂気のようになって番屋へ訴えに駈けだすと、おせッかいな人間が、それ、向うへ大股で行った法被《はつぴ》が怪しいの、今おれの後ろに立っていた男の人相が悪かったのと、その間にもワイワイと騒ぎ立っていた。
お綱は、いつのまにか、河岸通りを右へそれて、金座後藤の淋しい裏を歩いていた。ずいぶん澄ましたものである。
ちょっとあたりを見廻して、袂《たもと》の八ツ口から出したのは、商人持《あきんども》ちの革《かわ》財布、中身《なかみ》を抜いて、
「しようがありやしない――、こんな端《はし》た――」
財布の殻《から》を、ぽんと、河の中へ投げ捨てた。そして、少しじれ気味に、
「ああ、もう少し、まとまった金が手に入らないかしら? そしたら、これを最後に、スリの足をきれいに洗って」
いつもならば、同じ場所で一日に、二度と仕事はしないものを、しきりにあせっているお綱は、また金座屋敷の長い塀に添って、本町の問屋町を、軒づたいに歩きだした。
すると、山善《やまぜん》という薬問屋の店に、一人の侍が、編笠をかぶったまま、買物をしていた。侍は、真鍮《しんちゆう》の獅噛《しが》み火鉢に片手をかざして、
「ウム、では、薬種《やくしゆ》はこれで残らず揃うたの」
と、書きとめてきた処方《しよほう》と薬の数とを読み合している。
「はい」
手代《てだい》は、五、六種の小袋をまとめてあらためながら、
「揃いましてござります。この中の、南蛮薬草などは、手前どもの店以外にはございません物で、はい、ありがとうぞんじました」
「今日はこの処方を揃えるために、かなり尋ね歩いたわい。して、代は何程になるの」
といいながら、紙入れを出しかけると、手代は侍の風采を見て、
「いえ、そのうちに、お屋敷の方へ、ちょうだいに伺わせますから、どうぞお持ち帰りを」
「いやいや、わしは浪人者じゃ。取りに来るというても、定まる屋敷などはない」
「ご冗談《じようだん》を……。ではかえってお手数でございましょうから」と、算盤《そろばん》をパチと弾《はじ》いて、
「どれもお値の高い物ばかりなので……、ちょうど、三両二分に相成りますが」
「さようか。ではこれで取ってくれい」と、払っている紙入れを、通りすがりに、お綱がチラと見てしまった。
何の薬を求めたのか、本町通りの薬種問屋をでた編笠の侍は、そのままスタスタと大通りへ向ったが、フイと道をかえて、横丁の刀研屋《かたなとぎや》へ入り、そこの店さきで、また小半刻《こはんとき》ほど話していた。
やがて出てきた。
前ともつかず、後ろともつかずに、お綱の姿がからんでゆく。
刀屋の店にいた間も、眉深《まぶか》にかぶっている編笠をとらないので、その面《おも》ざしはうかがえぬが、一見、丈《たけ》高く肩幅広く、草履をすって外輪《そとわ》に歩いてゆく足どりなど、どうも、心得のある武士らしく思われる。年はザット四十前後か、衣服大小も立派、ただちょっと異《い》なことには、御府内だというのに、緞子《どんす》の野袴《のばかま》をはいている。
野袴は、野がけ支度、または旅中の物である。主持《しゆも》ちの侍が市内で裾《すそ》べりの旅袴をはいている筈がない。では、浪人かというに浪人ふうでもなし、また旅の途中という様子もない。
しかも、人品|賤《いや》しからず、という風格《ふうかく》。
なんだろう。この侍は?
密《ひそ》かに、こんな細かい観察をしながら、お綱は、間髪の隙を心に計っていた。
しかし、容易にその機会がなかった。編笠の姿は、どこ吹く風かという態度で、石町《こくちよう》から裏道へそれ、やがて、呉服橋をこえて、丸の内へ入ってゆく。
はてな?
この橋から向うは、江戸城の外濠《そとぼり》、大手門、桔梗門《ききようもん》、日暮門《ひぐらしもん》、それを取り巻く家屋敷というものも、およそは皆大名の邸宅で、普通の住居はない筈だが、あの侍、一体どこへ帰るのだろう。
「ええ、そんなことに、気をとられている場合じゃない」
お綱は度胸をきめて、その侍へ近づいて行った。
と――都合よく、とある屋敷の角から、絢爛《けんらん》な乗物と供人《ともびと》が列をなして流れてきた。それがちょうど、出あいがしらであったので、前へゆく編笠の侍が、トンと足を踏み戻した。
「あっ――」
その瞬間に、お綱の体は、小石にでもつまずいたように、侍の横へ、フワリとよろけていったのである。
「おお」
「あぶない」
からんですり抜けた緋縮緬《ひぢりめん》の蹴出しは、その時、もう二、三間行き交《か》わしていて、
「ごめん遊ばせ……」
艶《えん》に笑って、チラとこっちへ振りかえった。
そしてそのまま、見返りお綱、燕《つばくろ》の飛ぶかとばかり逸早《いちはや》く走って、あッと思うまに、宏壮な屋敷|塀《べい》の角《かど》を曲って、ヒラリと姿を隠しかけた。
途端に!
ブーンと閃《ひら》めいてゆく一本の短剣。
キラキラと風を縫って、飛魚《ひぎよ》のごとく飛んだかと見るまに、今しも、角をそれようとした、お綱の真白い踵《かかと》のあたりへ――。
なんでたまろう。
「あッ!」といってよろめいた。
足をすくって、カラリと地に落ちた銀の光――短剣かと見えたのは、房《ふさ》のつかない尺四、五寸の十手であった。
「ア痛《つ》ッ……」と足を押さえながら、お綱が身を泳がせるやいな、一足跳《いつそくと》びに寄ってきた編笠の侍は、
「これッ」
と一喝《いつかつ》して、お綱の利腕《ききうで》をねじ上げてしまった。
「掏摸《すり》だな汝《なんじ》は? 虫も殺さぬような顔をして、武士の懐中物をかすめるとは大胆な女《やつ》じゃ」
「ア痛《つ》ッ、ア痛《つ》……旦那、今わたしの掏《す》った紙入れは返しますから、どうか、このところは、見遁《みのが》してやっておくンなさいまし……、どうしても、せっぱに詰まることがあって、魔がさしたのでございます」
「イヤ、ならぬ! たとえ一流の武芸者でも、めったに斬りかけられまいこの身の隙《すき》を計って、見事に、ふところの物を抜きおった汝の手際《てぎわ》、出来心とは思われない……ウム」とうなずくと侍は、お綱の利腕を取ったまま、有無をいわせず、グングンと歩き出した。
そして、宏壮な一構えの大屋敷、漆喰塗《しつくいぬり》の塀際に沿ってしばらく歩いたかと思うと、その屋敷の裏門へ、ポンと、お綱をほうりこんだ。
自分に屋敷は持たぬ――といったこの侍、お綱を引《ひ》っ立てて、その裏門から、さッさと奥庭へ進んで行った。
しかもそこは、善美をつくした庭作り、丘《おか》あり池泉《ちせん》あり馥郁《ふくいく》と咲く花あり、書院茶室の結構はいうまでもなく、夜を待つ春日《かすが》燈籠《どうろう》の灯が、早くもここかしこにまたたいている。
かなしき友禅《ゆうぜん》
捕《つか》まえられた恐怖よりも、引っ立てられてきた屋敷のすばらしさに、お綱は気を奪われてしまった。
なんという豪華な庭、数寄《すき》な建築。
いずれ何十万石という、大名の屋敷には相違なかろうが、女《おんな》掏摸《すり》を成敗《せいばい》するため、わざわざ引き出した白洲《しらす》にしては、あまり舞台が勝ちすぎる。
「これ」
編笠の侍は、お綱の肩を軽く押して、
「しばらくそこに控えておれ」と初めて笠の紐《ひも》を解きにかかった。
ひょいと見ると、色浅黒く、眉毛の濃い顔だち。――オヤ、どこかで一度見たような……とお綱はフイとびっくりしたが、どこで見たというほどな、はっきりとした記憶はない。
「御前様《ごぜんさま》、御前様――、只今帰りました」
廊下へ身を寄せてこういうと、すぐ前の一室、書院か主人の居間であろう、スーと一方の障子が開いた。
銀泥《ぎんでい》の利休屏風《りきゆうびようぶ》に、切燈台《きりとうだい》の灯《ひ》がチカチカと照り返していた。青螺《せいら》つぶしの砂床《すなどこ》には、雨華上人《うげしようにん》の白椿の軸、部屋の中ほどに厚い褥《しとね》を重ね、脇息《きようそく》を前において、頬杖をついている人物があった。
いうまでもなく、当屋敷の殿。金目貫《きんめぬき》、白鮫巻《しらさめまき》の短い刀《の》を差し、黒染《くろぞめ》の絹の袖には、白く、三ツ扇《おうぎ》の紋所が抜いてあった。――三ツ扇は誰も知る松平左京之介輝高《まつだいらさきようのすけてるたか》の紋だ。
輝高は、かの寛永年間に腕の冴えをみせた智慧伊豆《ちえいず》、松平信綱《まつだいらのぶつな》の孫にあたる人物である。智慧伊豆の名声に圧せられて、その孫の左京之介輝高には、さしたる聞えもなかったが、今から十一年前、かれが所司代《しよしだい》として京都に在職していた当時――宝暦の事変が起った時には、自身、竹内式部《たけのうちしきぶ》をしらべ公卿《くげ》十七家の処分をして、相当にその手腕をみせたものである。
「おお、今帰ったか」
と、左京之介は、茶をすすりながら、
「当分の間は、なるべく、外出無用であるぞ」
「心得ております。しかし、今日はちと是非ないことで、自身買物に出かけました」
「買物にじゃ? はて、なぜ家来どもにいいつけぬか」
「それが、ちとむずかしい蘭薬《らんやく》の調《ちよう》じ合せをいたしますため、薬名や何かも、自分でなければなりませぬので」
「ほほう、さては、あの病人にのます薬かの」
「御意にございます。所詮《しよせん》、ああまでの状態になりましては、漢薬の利き目おぼつかなく存じますので、実は、今日ふと思いつきました蘭薬の処方を持ち、本町薬種屋町《ほんちようやくしゆやまち》の問屋を一軒ごとに歩きまして、ようよう望みどおりの薬種を揃えてまいりました」
「ふーむ、そちも、かなり博識と聞いたが、医学にまで精通しているとは、今日初めて知った。近頃はだいぶ蘭薬《らんやく》流行《ばやり》であるようじゃな」
「いえ、なかなかもって、この処方は、手前の究学《きゆうがく》ではござりませぬ。大阪表におりました頃、しばらく一緒におりました、鳩渓平賀源内《きゆうけいひらがげんない》と申す男の秘とする処方で」
「ああ、源内であるか。なるほど、あれなら蘭学の方も詳しい筈じゃ。して、その源内は、ただ今どこにおろうな」
「いつか、殿にもお話しいたした通り、住吉村で別れまして以来、トンと音沙汰《おとさた》もござりませぬ」
住吉村と聞いた刹那に、お綱は初めて、アッと思い当った。今、左京之介輝高となれなれしく話している深編笠の侍――それは、自分がお十夜と一緒に、住吉村のぬきや屋敷にいた時、目明し万吉を救うべく、俵一八郎や源内と一緒に、不意に、そこを襲ってきた、もと天満与力《てんまよりき》の常木鴻山《つねきこうざん》! おお、その鴻山に違いない。
どうしてあの常木鴻山が、この松平家にいるのであろう? イヤイヤ、そんなことよりは、知らぬこととはいえ、とんだ人のふところを狙ったものだ。天満の鴻山といえば、常木流の十手術にかけて天下に比のない人だとはお綱も噂を聞いている。
その人の懐《ふところ》へ手をかけたのだもの、捕まるのが当然であった。知って見れば、今さら身の毛がよだつ心地がする。
「誰じゃ、そこにいるのは?」
気がついたか、松平輝高、脇息《きようそく》から頬杖を外して、不思議そうに庭先を見透かした。
「御前、これにおります者は、見返りお綱と申す、名うてな、女|掏摸《すり》でござります」
「なに、掏摸じゃと申すか。女だてらに――」
「これでどうやら、尋ねる者の手がかりがあろうかと存じます。で、おそれ多うござりますが、じきじきに一つお調べを願いとう存じます」
「では、この女《もの》が、たしかに弦之丞の居所を存じていると申すのじゃな」
左京之介が、褥《しとね》をずらせて前へ進むや、お綱も弦之丞という一言をきいて、思わずハッと正面へ顔をあげた。
「手がかりになる者とあらば、貴賤《きせん》を問う場合ではない、鴻山、まずそちが口を開《あ》かせてみい」
左京之介は、上からジッと、お綱の姿を見つめていた。
「はっ」と、一礼をして、常木鴻山。
「お綱――」と、おごそかに向きなおった。
「そちは拙者を知っているであろうな」
「ハイ、存じております」
「ウム、たしか二度ほど見かけている。一度は大阪表にいた当時、住吉村でそちを見た。また、一度はツイ先日じゃ――おお、駿河台《するがだい》大火の節、太田媛《おおたひめ》神社の境内で……」
「えっ……」お綱はあきれたような顔をして、
「あの墨屋敷《すみやしき》が焼けた晩に?」
「そうじゃ、しかし、そちは知るまい。気を失っていた筈だからの。ちょうどあの夜、この鴻山は所用あって、飯田町から戻る途中であった。火に行く先をふさがれて、ぜひなく駕《かご》を休めていると、そこへそちと、もう一人、由《よし》ありげな女子《おなご》とが、気を失って引きずられてきた」
「あ! その、もう一人の女子こそ、お千絵様でありました!」と、お綱は心で叫んだが、口には出ずに、ただ鴻山の言葉に気をとられていた。
「しかし、その晩には、そちを助ける気はないので、もう一人の女子だけを駕に乗せて、はるか、四谷の台を迂回《うかい》して、焔の中から逃れてきたのじゃ。ところが、後になって後悔いたした。なぜ、その時、そちをも一緒に連れてこなかったかと……」
アア、さてはお千絵様の身は、あの時、無事に鴻山の手に救われて、この屋敷の内に守られているのかと、お綱は初めてうなずいた。
が、どうして、常木鴻山がこの屋敷にいて、そして、かくも詳《くわ》しく、何かを知っているのであろうか。
それにも、径路《けいろ》がなければならぬ。
去年の夏――、蜂須賀家の原士《はらし》に斬りこまれて、住吉村を去ったかれは、あれから幾月かを、紀伊の山奥に暮らしていた。
その後、かれは、阿波守が安治川屋敷を引きあげたと聞いて、ソッと平賀源内の住居《すまい》を訪れ、そこで、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》の話をきいた。
かけ違って、弦之丞と会わなかったため、鴻山もすぐに、江戸へ立った。
そして彼は、松平|輝高《てるたか》の門を訪れた。
左京之介とは古くから面識がある。
十一年前、鴻山が宝暦の事変で血眼になって活躍していたころ、左京之介も京都にあって、事件の要路にあたる所司代であった。
で、かれは、今日までの苦心を、つぶさに打ち明けた。
与力や目明しの中には、一つの事件に、四年五年の根気をつづける者もあるが、十一年――しかも、職をはがれて今なお意志をかえない鴻山の話には、左京之介も、心を動かされずにはいられない。
折も折とて、輝高《てるたか》は、ちょうどこの頃、江戸長沢町《ながさわちよう》に兵法講堂を開いている、山県大弐《やまがただいに》という者に目をつけていた。
この大弐も、十一年前に事変を起こした、竹内式部と何らかの連脈がありそうで、京の堂上たちと事を結んで、幕府の虚をうかがっているらしい疑いがある。
けれど、確たる証拠はない。
ところへ、鴻山《こうざん》の話があった。
宝暦変――反幕府思想――不平な公卿《くげ》――竹内式部――その一味――山県大弐――。こう考えあわせてみると、その黒幕に、阿波という謎の強国が、ありありと浮かんでくる。
禍根は阿波だ。
公卿を踊らす者は阿波だ。無禄の兵学者を踊らすものは公卿だ。不平な浪人を踊らすものは兵学者だ。まず、この禍《わざわ》いの根を刈るには鴻山のいうがごとく、阿波の密謀をさぐり、その確証をつかんで、取りひしいでしまわなければならぬ。
こう気づいたので、左京之介は、鴻山を自邸にとめて、密《ひそ》かに、いろいろな便宜を与えることを約した。
で、鴻山は、まず、弦之丞と万吉を見出して、力を協《あわ》せたいと願った。また一方には、世阿弥《よあみ》の残した、甲賀家のあとの様子、お千絵の身などについても、ぽつぽつと調べていた。
だから、お綱のあきれるほど、すべてを知っていたわけである。
けれど、一つ困っていることがある。
そのために鴻山は、今日も自身で、源内秘伝の蘭薬を買いに出かけたのだが、はたして、それが利くかどうか、すくなからぬ心配である。
というのは。
大火の晩に、この屋敷へ運んできたお千絵が、あのまま、意識を狂わして、気はついても、あらぬことのみ口走っている。
医薬の利《き》かぬ、もの狂いの兆《きざし》がみえる。お千絵は、狂気してしまった。
「お綱、こういう訳じゃ――」と、一通り話してから、常木鴻山、こん度はほんとの調べ口調になった。
「そちは、弦之丞と万吉のいる所を存じておろう。前夜の様子から推《お》しても、知っておらねばならぬ筈じゃ。そこへ拙者を案内してくれぬか。――さすれば、そちの罪はゆるしてやる。そして、何か事情は分らぬが、せっぱにつまる金とあらば、要用《いりよう》だけはそちにくれる」
刀試しか、きびしい糺問《きゆうもん》をうけるかと思いのほか、弦之丞と万吉の居所へ案内してくれれば、いるだけ金はやろうという、鴻山の言葉に、お綱は思わず手をついて、
「悪うござりました……悪うございました」ただ、嬉しさに、泣き伏してしまった。
「いや、罪科《ざいか》を糺《ただ》すのではない。もとより初めに、このほうをつけてきた時から、そちが掏摸《すり》だということは見抜いていた。しかし、前にも話したとおり、こちらにも聞きたいことがあったゆえ、わざとここまで釣り込んでまいった次第――、罪の半分はこの鴻山にもある訳じゃ」
「恐れ入りました。そうおっしゃられると見返りお綱も、穴があったら入りたいほどでございます」
「ウム、それほどまでに、しかとした性根《しようね》をもちながら、なんで、あのようなあぶない芸をいたすのじゃ」
「一時のがれの、嘘いつわりは申しませぬ。実は自分の心でも、真《しん》から悪いと悟って、もう金輪際《こんりんざい》掏摸《すり》は働かぬと誓っていたのでございますが、どうしても、救ってやりたい不愍《ふびん》な目下がございますため、この一仕事で、足を洗おうと思ったのが、私の誤りでございました……。どうぞこの上は、お腹のいえるように、御成敗なすって下さいまし」
「その言葉に偽りはなさそうじゃ。最前、そちの手にかかったこの紙入れ、過分にはないが納めておくがよい、そして、これを最後に、きッと邪心を起こさぬことだぞ」
「あ、ありがとう存じます……、これさえあれば、心がかりな妹弟《きようだい》たちを救ってやれます上に、お綱も生れ代りまする」
「わずかのことで、そちまで生れ代った女になれるとは何よりうれしい。してお綱、弦之丞殿と万吉は、ただ今どこにいるであろうか、一日も早く逢いたいのだが……」
「御恩返しという程でもございませんが、いつでも、すぐに御案内申しましょう、下谷根岸の一月寺《いちげつじ》においでなさいます」
「おお、では虚無僧の宿院にいるのか」
と、鴻山は、廊下の端から、左京之介の居間の方へ向って、
「お聞きの通りでござりますが、こちらから出向いたものでございましょうか、それとも、書面でもつかわして、密かにここへ招《しよう》じ寄せましょうか」
「そうじゃの? ……」
輝高は少し考えてから、
「当家へ、あまり出入りの多いは人目につくかも知れぬ。その女を案内に、ともかく、そちが訪ねてまいったらどうじゃ」
「手前も、それがよいように考えておりまする。ではお綱、これからすぐに案内を頼むぞ」
「乗物は?」
左京之介がいうと、鴻山は支度をなおして、いつもの眉深《まぶか》い編笠をいただきながら、
「町へ出てから求めます」
「ウム、それもよかろう。いずれ今宵のうちに、吉左右《きつそう》が知れるであろうから、心待ちに帰邸を待っておるぞ」
「はっ、では……」
と、庭先に立って一礼すると、常木鴻山は、お綱を目で促《うなが》して、ピタピタとそこから歩きかけた。所詮、生きては、この屋敷を出られまいと諦《あきら》めていた結果が、思いがけなく、妹や弟を救うだけの金を恵まれた上に、これからすぐに、弦之丞のいる所へ訪ねて行かれようとは、何から何まで、夢のようなトントン拍子。お綱は、嬉しいといってよいか、悲しいといっていいか、また、恥かしいといってよいか、自分で自分が分らぬような感激につつまれていた。
そして、四、五間歩きかけた。
すると不意に、長廊下の向うから、晴々とした女の高笑いが聞こえた。と思うとまた、
「弦之丞様! アレ、アレ、弦之丞様ッ――」
絹を裂くように叫びながら、バタバタと走りだしてきた美しい女がある。
続いて後から、付き添いの女や家来たちが、ワラワラと手を振って、
「アアお千絵様――、お千絵様がまたお狂い遊ばして――」と、あっちこっちへ追い廻してくる。
背すじへ水を浴びたように、お綱はそこに立ちすくんでしまった。そして、麗《うるわ》しい友禅に身をつつみ、蝋《ろう》より青白い顔をカラカラと笑みくずしながら、大勢の者に抱き戻されてゆく、お千絵の姿をありありと見た。
「おお大事な薬を忘れていた」
鴻山は別な用口《ようぐち》へ廻って、奥坊主の者に、源内秘方の蘭薬を、お千絵にのますことを言いのこして、急ぎ足に裏門の潜戸《くぐり》をぬけ出した。
夕雲流真髄《せきうんりゆうしんずい》
春の夜の寒さは、襟《えり》と爪の先からしみてくる。
炉《ろ》にはトロトロと紫色の火が崩れていた。
「どうしたのだろう? ……今日でもう七日目だが」
また同じことをいって、万吉は指を繰っていた。炉に対して弦之丞《げんのじよう》は、ピシリと二、三本の枯れ枝を折り、衰えかけた榾《ほた》の火へつぎ足している。
「――あんなに熱く言っていたんだから、もう訪ねてこなけりゃならねえ筈だが。はてな、悪くすると、またお十夜《じゆうや》にでもふん捕まってしまったのじゃねえかしら? ……」
独《ひと》りごとを洩らすまでに、案じぬいているふうである。無論、それはお綱の身《み》の上《うえ》。
ここは根岸の奥の一月寺《いちげつじ》、普化僧《ふけそう》仲間で、俗に風呂入《ふろいり》とよぶ宿院である。一|枝《し》の竹管《ちくかん》をもって托鉢《たくはつ》する者は、誰でも宿泊できるが、弦之丞は京都|寄竹派《きちくは》の本則をうけているので、この寺とはまったくの派違いだ。で、本院へは寄宿をゆるされず、境内にある別棟の客房を借りうけていた。
それがかえって、気ままでもあり、都合もいい。
折から目明しの万吉も、あれ以来、起居を共にして、昼は外にお千絵様の行方を探し、夜は炉の火をかこんでヒソヒソと、やがて阿波へ入り込む日の密議やうち合せに余念がない。
しかしここ数日、かなりの努力をつくしたが、お千絵の所在について皆目手がかりがなく、お綱もあのまま、此寺《ここ》へ訪ねてこず、二人のかこむ炉には焦躁《しようそう》と沈鬱《ちんうつ》の夜がつづいた。
と。――敷石をふむ木履《ぼくり》の音がしてきて、客房の濡《ぬ》れ縁《えん》に、誰か人の気配がする……。
「客僧どの」
「はい」
「まだお寝《やす》みではございませんでしたか」
聞き馴れた番僧の言葉づかいである。
「起きておいでのご様子、ちと急用でございます。この障子を開けますが……」
「おお、差支《さしつか》えはござらぬ、どうぞ」
内から弦之丞が手を伸ばすと、番僧も外から障子へ手をかけた。部屋にこもっている煤煙《すすけむり》が、ムーッと軒へ吸いだされて、入れ代りに、寒梅の香をふくむ冷《ひや》やかな夜気がそこへ浸《ひた》ってくる。
「ただ今、御院代《ごいんだい》のお手元へ、こういう手紙を届けてまいった男がございます」
縁に膝をついて一月寺の番僧、敷居ぎわへ一通の手紙をさしおく。
「なに、このほうへの書状?」
「はい、すぐご返事がほしいそうで、使いの者が待っております。どうぞ、ご一見下さいまし」
「はて、誰からであろう? ……」と弦之丞、封を切って読み下したが、巻き返しながらジイッと天井を見上げて、何か思案をしているらしかった。
「弦之丞様、この夜中《やちゆう》に、一体どこからのお手紙なので?」
と万吉が、不審そうにきいたのには答えないで、弦之丞、番僧のほうへ向って、
「委細《いさい》承知いたしたと、使いの者へお伝え願いたい」という。
「はい、それだけでよろしゅうございますか」
「後よりすぐにまいりますゆえ」
「では、そう申して、使いを帰せばよろしいので」
「ご苦労ながら」
「いえ、どう致しまして……」と番僧は木履《ぼくり》を鳴らして本院の方へ戻って行く。――その後で、弦之丞二、三服の煙草をくゆらしてから、ゆったりと立ち上がった。
「万吉、拙者はちょっと行ってみるから、先に寝《やす》んでいてくれい」
「えっ、これからお出かけなさいますッて?」
「ウム、その手紙を見るがいい……。少し腑《ふ》に落ちぬことではあるが、何ぞの手がかりがあるかもしれぬ」
「へえ……」と万吉、あわてて炉べりにおいてある今の手紙を開いてみると何ぞ計らん、差出人は旅川周馬――、お千絵殿の所在が知れたから、至急、鶯谷《うぐいすだに》の古梅庵という料亭までご足労を願いたい――という文意。
先日、路傍でお目にかかった節は、連れがいたし雑沓《ざつとう》の中で失礼いたしたが、今夜はゆるりと旧交《きゆうこう》を温めたく思う、そして、自分がつきとめたお千絵殿の所在をお告げする。それを以て、自分の誠意を認めてほしい。などという美言《びげん》が巧妙につらねてある。
「貉《むじな》め!」
万吉は、おッぽりだすように読み捨てて、
「こいつアいけねえや! もし弦之丞様、こんな物騒なものに誘われて、うっかりお出かけなさいますと、どこにどんな死神が待ち伏せしているかも知れませんぜ。およしなせえ、およしなせえ! 万吉は大不承知でございます」
と、真剣になって止めはじめた。
「なんの……」と弦之丞は、万吉の危惧《きぐ》を笑い、その不服を軽く聞き流して、「必ずともに、深く案ずることはない。夕餉《ゆうげ》の後の腹ごなしじゃ、無駄足をすると思うて行ってくるから、きっと留守をしていてくれよ」
「じゃ、どうしても、お出かけなさるおつもりなので?」
と、なおも心配そうにいう、万吉の言葉には答えないで、身軽に帯をしめなおして、外出の支度をすました弦之丞。
「だいぶ風が吹いてきそうな……周馬や一角や孫兵衛などよりは、火の用心がおそろしい。宿院を拝借して、炉《ろ》に火を残したまま無人《ぶにん》に致しては、寺則を破ることになる。万吉、必ずわしが留守の間に、ここをあけては相ならぬぞ」
「へえ……」といったが万吉は、一緒について行こうと考えていた矢先なので、こう釘を打たれてしまうと、いよいよ面白くない。口が尖《とが》ってくる。
「わっしもお供いたしましょう。なアに、炉の火はスッカリ埋《い》けてまいりますよ」
「これこれ万吉、つまらぬ情《じよう》を張って、拙者の足手まといになってくれるな。いよいよ阿波へ入り込む時やまた、向うへ着いて働く場合には、随分そちの腕も借ろうが、今はまだ目的の本道に入っていない」
「へい……」阿波と聞くと、万吉も、すなおに首を垂れてしまった。
「前途の多難は今宵ばかりでない。どこまでも大事を取って進まねばならぬ。騎虎《きこ》の勇にはやって、二つとない身を傷つけたら何といたす」
「さ、それだから俺《わつし》もまた、いっそうあなたのお体を、お案じ申すのでございます」
「ウム、その心は過分である。いずれ周馬の手紙には、深い魂胆があり、企らみがあるものとは拙者も察しているが、この弦之丞の眼からみれば、およそは多寡《たか》の知れたあの三人……あはははは、久しく試みぬ夕雲流《せきうんりゆう》、場合によっては――」
と、無銘の一腰、笛袋に入れて腰に落した。
「そりゃ、弦之丞様には、腕に覚えもございましょうが、足場の悪い根岸の闇、欺《だま》し討《う》ちや、飛び道具という策《て》もございますから、必ず、ご油断をなさいますな」
「そこまで物を案じては、いわゆる取越し苦労というもの。大望をもつ身でなくとも、こんな例は、道場通いの修業中にもママあることじゃ。申せば武士の日常茶飯事……」
スタスタと板縁から土間へ出て、塗下駄《ぬりげた》を突っかけ、行乞《ぎようこつ》の深笠をとって頭《かしら》につけた。そして、みずから戸を開け、みずから後を閉めて、万吉が何と口をさし挟むいとまもなく、
「では頼むぞ――」といい残して、境内を斜《はす》かいに抜けて寺門へ出て行った――。万吉は、最初の不安がまだ拭《ぬぐ》われないらしく、その足音の消えてゆく闇を、戸の隙間から見送っていた。
「暗い晩だな……。ああ、行ってしまった」祈るようにつぶやいた。
如月《きさらぎ》近くを思わせる、冷《ひや》やかな東風《こち》が吹きだして、小さい風の渦《うず》が、一月寺の闇に幾つもさまよっているようだ。桜《さくら》吹雪《ふぶき》のような濃艶《のうえん》さはないが、もみ散らされる梅の点々が、白く、チラチラと、人の姿を追っている。
弦之丞の細い影が、梅の香に吹かれて寺門を出た。二、三十歩の石畳の上を、カタ、カタと塗下駄の音が静かに運んでゆく――、そしてやがて、正面の石段を降りかけたが、フイと、足もとからさす明りに足をとめてみると、草履を持ってしゃがみこんだ一人の男、そばに、仮名《かな》書きで「こばいあん」とした朱文字《しゆもじ》の提灯《ちようちん》をおいて、ゆるんだ鼻緒をすげなおしている。
ポッ、ポッと、提灯の明りが、男の周りに、大きく明滅の輪を描いていた。
弦之丞がその前をスッと通りぬけると、
「まず、これでよし」
と、緒を直した草履をはき、小提灯《こぢようちん》を手に持って、その男も、ピタピタと弦之丞について歩きだした。
「こばいあん」としるしてある小提灯が、弦之丞の影に添って、ゆらゆらとついてきたかと思うと、
「もし……」と、その男が声をかけた。
「一月寺においでの方は、みんな同じようなお姿なので、間違ったらご免下さいまし」と、念入りに断わっておいて――「あなた様は、もしや私が今手紙を持って、お迎えに参りました法月《のりづき》様ではいらっしゃいませんか」
「いかにも、わしはその弦之丞だが……」
「ああ、それはよい所でご一緒になりました。私はごらんのとおり……」と、提灯の朱文字を少し前へかざして、
「古梅庵の若い者で、旅川様からお手紙をいいつかってきた男でございます」
「そうか。では何分とも案内を頼む」
「エエよろしゅうございますとも、なにしろ、御行《おぎよう》の松から御隠殿《ごいんでん》――あの水鶏橋《くいなばし》の辺は、昼でも薄気味のわるい所でございますからな……。夜のお使いは、あんまりゾッとしませんや。それに来る時は一人ぽッちなんで、びくびくものでございましたが、おかげ様で、まず帰りは気強いというものでございます」
「所々《ところどころ》に見える灯は、どこかの寮《りよう》か隠居所《いんきよじよ》だの」
「へえ、お旗本の別荘とか、上野の宮様の別院とか、吉原に大店《おおだな》を持っている人の寮だとか……そんなものばかりでございますから、淋しいわけでございまさ。……ア、旦那、そこに小さな流れがございますぜ」
闇から闇をフワフワと来る小提灯。いつか御行の松の前を右にそれて、一面の藪《やぶ》だたみ、ザザザザッという笹鳴きの声を聞きながら、男は縞《しま》の着物の袂《たもと》で提灯の灯をかばってゆく。弦之丞は、しきりとしゃべっている男の話には、よい程な生返辞《なまへんじ》をしていながら、ひそかに笛嚢《ふえぶくろ》の紐を解き、秘差《かくしざ》しの一刀へ左の手をかけて、プツンと拇指《おやゆび》で鍔裏《つばうら》を押しきっていた。
どうせこの男も、古梅庵の若いものではあるまい。旅川周馬の手先になって、自分を誘い出しにきた囮《おとり》に違いない――と見抜いたので。
そのせいか、男はわざとらしからぬように、いつも、弦之丞の左へ左へと寄って、小提灯の明りを、たえず、自分よりは対手《あいて》の前へ寄せて歩いている。この分でみると、或いは、万吉がいったように、飛び道具の惧《おそ》れがあるかもしれない。
提灯の明りは、暗夜の狙い撃ちに、何よりな的《まと》であるから、心得のある武士は、くわえ煙管《ぎせる》と提灯は決して持たない。
藪だたみがつきて、道が二|股《また》にわかれる所へ来ると、男はツウと、また右寄りへ進もうとした。
「待て、道が違うようではないか」
弦之丞が立ち止まると、男はギョロリとすごい眼をくれたが、それは対手《あいて》に感づかせない程な瞬間に笑い消して、
「へへへへへ。旦那、ご心配なさいますな、私はこれでも根岸にゃ四年も住んでおりますから、決して道に迷うなんていうことはございませんよ」
「しかし、鶯谷《うぐいすだに》へ出るには、ちと、方角違いな気がするが」
「ところが、ズッと近道なんで……」グングン先に立って進んだが、やがて赤土の辷《すべ》りそうな崖を上がると、闇ながら四方がひらけて、どこかを行く水の音がザアーッと低く響いている。
「ええ、寒いッ……」と男は一つ身ぶるいして、「旦那、ここはどこだか知っていましょう」
「ウム、御隠殿下《ごいんでんした》であろう」
「あすこに見えるのが水鶏橋《くいなばし》で……、あれを渡って向う岸を入りますと、古梅庵はもうじきでございます。さだめし、旅川様もお待ちかねでございましょう」
「だいぶ遅いが、周馬は宵のうちからまいっているのか」
「へえ、私がお使いに出る二刻《ふたとき》ほど前から、奥の座敷でチビチビ飲んでおいででした」
「その周馬だけではなかろうが」
ジッと眸《ひとみ》に力をこめて、眉間《みけん》を睨みながらこうきくと、男は少しドギマギして、
「へい」と、うろたえ気味の提灯《ちようちん》を、フイとこっちへさし出して、二ツ三ツお辞儀をした。
「旦那、まことに申しかねますが、提灯《これ》をちょッと持っていて下さいませんか……どうも尾籠《びろう》なお話ですが、すこし小用がつかえまして……」
うさん臭い古梅庵の男が、先に立って、御隠殿の下まで道案内をしてきたかと思うと、そこで、
「旦那、すみませんが……」
と、弦之丞の手へ提灯を預け、小用をたすふりをして、スッ――と横ッ飛びに身を交わした。
「おう」と、なんの気もなく、明りを手に持った途端に、かれは異様な臭気を知った。
プーンと、闇に漂《ただよ》ってくる臭気! 火縄だ、火縄のいぶるあの臭《にお》い!
「あッ――」
と弦之丞が、その提灯を空《くう》へ捨てたのが早かったか、轟然《ごうぜん》とゆすッた鉄砲の音が早かったか? ――ほとんど、けじめのない一瞬。
上野の森の裏山へ、一発の銃声が、ドーンと木魂《こだま》返しにひびいてきた刹那、はッと眼をこすって見直すと、空に躍った提灯の行方は知れず、それを持っていた弦之丞の影もあらず、ただ、強い火薬の匂いと、白い硝煙《しようえん》とが、玉になってモクリッと闇をかすっていた。
「うまくあたった!」
水鶏橋の袂へ、横ッ飛びに逃げだした男は、こうつぶやいて、枯草の中から、そろそろと亀首《かめくび》をもたげだす。
こいつ、古梅庵の提灯を、どう工面してきたものか、まことは使屋の半次《はんじ》といって、周馬や孫兵衛が、京橋の喜撰《きせん》風呂にごろついている間に、手馴《てな》ずけられたあぶれ者。
かまきりのように、橋袂《はしだもと》からゴソゴソと四つン這いに寄ってきて、半次、しばらく息を殺しながら、ジイと地面をすかしてみると、そこに顎《あご》をはずした提灯の落ちているのは見えたが、弦之丞の姿は見当らない。
「おや……」と、いったが、またすぐに、
「野郎。とうとうまいってしまやがった」
すッかり安心した様子で、のッそり腰を伸ばしかけた。
と、水鶏橋《くいなばし》のほうから一人。向うのかげから一人、そして御隠殿のほうからまた一人……。
いかにも厳しい身構えで、一歩、一歩と、闇を探りながら、寄り集まってくる者があった。かかる夜、魔手をふるって、跳躍するには屈強な、黒いでたちという拵《こしら》え。かすかに、その者の帯《おび》ぎわにキラキラ光るのは、金か銀か四分一《しぶいち》か、柄《つか》がしらの金具であろう。
「半次か」
「周馬様で?」
「ウム」
「手ごたえは? ……」
と、また一方の黒装束《くろしようぞく》。
「関金《せきがね》にこたえがあった。あたった弾《たま》は分る」
こう応じたのは、木立の中から短銃を引っさげてきた者の声だ。半次をのぞいて、同じ黒いでたちの頭数三人――、たしかに、旅川周馬、お十夜孫兵衛、天堂一角、この以外の者でないにはきまっているが、闇ではあり、覆面同装《ふくめんどうそう》、誰がそれとも見分けがつかない。
「どこだ、彼奴《きやつ》の仆れた所は? ……」
「あ、その辺……。いえ、もう少し向うへ寄った笹《ささ》の中で」
「はてな」
「そ、そこに、白いものがぶっ仆れているじゃありませんか」と、半次、及び腰で指をさした。
「違う……」
「道しるべの石だ」
「と、すると、もう少し向うだったかしら」
「油断を致されるな!」
それは、明らかに、天堂一角の声らしかった。
「仆れたに致せ、弾《たま》が急所をはずれていることもある」
「おう!」と思わず三方に開き分れて、ふたたび、念入りな構えを取りながら、いざといわば三本の白刃を、一度に抜き浴びせる気で、ジリジリと寄りつめて行った。
「や? ……」
「なんといたした」
「妙だ、いない。イヤ、何者も仆れておらんぞ」
「ばかな、そんな筈が……」
と、誰か、三人のうちの一人がいいかけて、グルリと、後ろを睨み廻した刹那だった。
すぐ、傍《かたわ》らの木の幹に、ベタリと身を貼《は》りつけていた影が、
「弦之丞はここだッ!」
と、大声でいった。
剣の行く前に、まず対手《あいて》の心胆を、真ッ二つにする気殺《きさつ》!
それと一緒に、声と五体と剣の光流! 一ツになって飛び斬りの真《ま》ッ向落《こうおと》し、あッというまに、一人の影を前伏せに斬ッて仆した。
測《はか》らぬ虚をつかれて、まっ先に、斬られた者は誰だったか?
「あッ」
と、いったのは使屋の半次。
斬られたような声をあげて、木立のほうへすッ飛んでしまったが、その逃げようでは怪我《けが》をしたふうもないから、さしずめそこで、
「ウウーム!」と、陰惨な呻《うめ》きを血煙につつまれたのは、お十夜か、周馬か、でなければ天堂一角――、その中の運の悪い一人であるには違いない。
「ちぇッ! やられた!」
危なく、後の二人は跳び開いて、パッと居合抜《いあいぬ》きに大刀を払ったが、その瞬間、一方でパチン! と火花を降らしたかと思うと、すぐ焼刃《やいば》のすり合う音がして、鍔《つば》と鍔とが競《せ》りあうまもあらず、デン! と一方が蹴仆された。
仆されたまま、エエッ! と、持ったる刀で地を払ったのは黒装束のほうの男。
「うぬッ――」と叫んで起き上がり、弦之丞の姿を八、九間ほど追いかけたが、その時うしろで、
「お十夜! おい、おいッ」
と、しきりに呼びとめる声がする。それは旅川周馬らしい。
怖るべき早技《はやわざ》で、一人を斬り、一人を蹴仆し、疾風|迅雷《じんらい》に駈け去った弦之丞の姿は、時既に、遠い闇に消えていた。
「ええ、しまった。意気地《いくじ》のねえ奴が揃っている」孫兵衛は舌うちをして振りかえったが、その途端にハッとして、鋭い眼《まな》ざしで闇を探った。
「誰だ……誰だ、今斬《や》られたのは?」
「一角だ、一角が深傷《ふかで》を負ってしまった」
周馬は色を失ったような声で、怪我人《けがにん》を抱き起こしながらお十夜の応援を求めた。
すると、その時になって、木立の裾《すそ》をつつんだ藪《やぶ》だたみが、嵐のように、ザワザワと揺れだした。そして、その中から、四人、五人、三人と、得物を持ったあぶれ者が、張合いぬけのした顔で、怪我人のまわりへ寄り集まる。
「間抜けめ!」と、お十夜は、時機をはずしてノコノコと出てきた大勢の面《つら》へ、唾《つば》を吐きつけるように腹を立てた。
「なんで、俺が抜いた時に、すぐに対手《あいて》を押ッ包んでしまわなかったのだ。見ろッ、弦之丞の奴はとうの昔に逃げ出してしまった。やい、半次はどうした、半次は?」
「へえ、ここにおりますが」
「なぜ、てめえは、みんなに合図をしなかったのだ。ざまを見やがれ! 対手《あいて》は夕雲流《せきうんりゆう》の使い手だ、てめえがまごまごしている間に、この辺にはまだミッシリと人数が伏せてあると気取ったから、素早く影を隠してしまった」
「おい、孫兵衛、孫兵衛」
と、深傷《ふかで》を負った一角を抱えて、旅川周馬がよろよろと立ち上がった。
「今さらそんなことをいって、ぷんぷん当り散らしていたところで始まるまい。早くこの怪我人を、どこかへ落ちつかせて手当てをしなけりゃあ……」
「深傷《ふかで》か?」
「深傷だ。――だが、急所じゃない」
「助かるものなら背負って帰ろう。何をするにも、この暗闇じゃ、しようがねえ」
「ウム、さし当って、血止めはギリギリと巻いておいた。だが、おれの手は血糊《のり》でヌラヌラしてきたから、貴公、少しの間代ってくれ」
「いや、そう皆で血みどろになっては、町へ出てから人目につく。おい半次、半次、てめえ、どこか町医者の所まで、天堂一角を肩にかけて行け。そしてな、役にも立たねえ、あとの有象無象《うぞうむぞう》は、もう用はねえからと追い返してしまうがいい」
「ええ、返します。ですが、旦那」
「なんだ」
「あいつらが、酒代《さかて》を貰ってくれというんですが……」
「ふざけたことを申すなッ」
「それや、きッかけが悪くって、お役には立ちませんでしたが、賭場《どば》のゴロや駕かきなんぞを、呼び集めてきたんですから、手ぶらじゃ帰りません」
「太い奴だ。手ぶらで帰るのが嫌ならのべ金《がね》をやろう! どいつだ、酒代《さかて》がほしいのは」と、さなきだに、弦之丞を討ち損じた腹立ちまぎれ、そぼろ助広を抜いて脅《おど》しにふりこむと、頼まれて来たあぶれ者は、胆《きも》をつぶして逃げだしてゆく。
「ああ、とても大変な血だ……」
やがて、一角を肩にかけて歩きだした半次は、顔をしかめて襟首を撫でた。周馬とお十夜は苦りきッてその後につき、手負いの一角は、時折、ウーム、ウーム、と虫の息をもらしていた。
目安箱《めやすばこ》
その夜、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》が外へでるとまもなく、一月寺《いちげつじ》の宿院へ、二人の客があった。
どう考えても、今夜のことは不安で、今も炉《ろ》にいらいらとした万吉が、軽く叩く戸の音に立ち上がってみると、忍びやかに入ってきた深編笠《ふかあみがさ》の侍とのしお頭巾の若い女。
女は、心待ちにしていたお綱、ということが、万吉にも一目で分ったが、はてな? 連れの侍は何者だろう――と膝をついて下から仰ぐと、訪れた常木|鴻山《こうざん》。
「突然まいって、さだめしびっくりしたであろう」と笠をぬいでお綱に渡す。
「やッ、あなたは!」といったきり万吉はただあきれ顔だ。そうだろう、天満組《てんまぐみ》三人のうち、俵《たわら》一八郎は阿波屋敷に捕えられ、鴻山はぬきや屋敷を去って以来、紀州の奥にでも隠れているのだろうという噂をきいたままで、今は、実際のもくろみにかかって働いているのは、自分一人と思っていたところだ。
それさえあるに、その鴻山が、見返りお綱と一緒に、突然、この宿房へ訪ねてきたのだから、かれの驚愕《きようがく》はもっともだ。しかし、この訪れは、同じ意外でも、一|刻《とき》前に来た周馬の訪れと違って、まことにうれしい邂逅《かいこう》である。
「まず、ともあれこちらへ」
と、炉《ろ》べりにいざなってきたが、さて、渋茶をくんで出すいとまも惜しい。大阪以来のつもる話、江戸表へ来てからのこと……何から何を話していいやら。
一通りの話をきき、万吉の苦衷《くちゆう》のある所に、鴻山もとくとうなずいて、次には、自分がここへ来るまでの径路を、飾《かざ》り気なく物語った。
「この女に、ふところの金を掏《す》られて、投げ十手を打ったのが、そちの居所を知る機縁となった。そこで一刻も早く、弦之丞殿へも会いたく存じたので、夜中《やちゆう》を押してまいったのじゃ」
と、笑いながらでも、あの時のことを、あけすけにいわれた時には、見返りお綱、顔をまッ赤に染めて恥じ入った。
「いったん心を入れ代えるといっておきながら、面目《めんぼく》のない訳ですけれど、それにも、こうした切ない事情があったんです」
偽らぬお綱のざんげ話にも、二人は強く心をうたれた。そこへ、足音しずかに、法月弦之丞が帰ってきた。
常にかわらぬ落ちつきようだ。
万吉もその様子を見てホッとしたが、ヒョイと見ると鼠甲斐絹《ねずみかいき》の袖に、点々たる返り血の痕《あと》――。ああ、斬ったな、何かあったな、とは思ったが、折からの来客、それを問うまもなく、また弦之丞も話をそれに触れず、常木鴻山と初対面の挨拶をかわした。
その部屋には、夜の明けがたにいたるまで、焚《た》き足す榾《ほた》の火がつきなかった。しっかりと手を握り合って、互に、奥底までの胸襟《きようきん》をひらいたので、常木鴻山は、年来の目的を達することに、はッきりとした曙光《しよこう》を感得し、翌朝、眠らずとも晴々しい顔で、一月寺を辞し、左京之介《さきようのすけ》の屋敷へ帰って行った。
そしてまた、四、五日おきに、幾度となく、ここと大手町との間を往復した。
かくて、左京之介と、鴻山と、弦之丞との間に、なんらかの密約が成り立ったらしい。
ある日である。
月はじめの如月《きさらぎ》日和《びより》。
ひそかに、大手町の松平家をでた女乗物は、左京之介が茶席や閑居にのみ建ててある、江戸郊外の代々木荘《よよぎそう》へ急いでいった。その駕には、狂ったお千絵がのせられている。
鴻山が心をこめてのませた南蛮薬草《なんばんやくそう》のききめもなく、お千絵の心はとりとめもなく乱れていた。
代々木荘には、前の日から左京之介が滞在し、その朝は、弦之丞と鴻山がきて、奥の一室を密閉し、家臣を遠ざけ、何かヒソヒソ半日余り密議をこらしていたのである。
代々木荘の密議の半日。午後になって、ようやく何かの諜《しめ》しあわせが一決したとみえ、
「では、早速がよいぞ」
と、窓の内で左京之介の声がした。その時、紅白の山茶花《さざんか》がポトリと黒土の上へこぼれて、上の障子が細目に開《あ》く。
脇息《きようそく》を離れて、窓ぎわへもたれた左京之介の半身と三ツ扇《おうぎ》の紋がみえた。
「只今、予《よ》が申したような順序をふめば、いずれお上《かみ》より、何らかのお沙汰があるに違いない。天下の大事、よも、お捨ておきになる筈はない」
「はっ」
密話がすんだので、弦之丞と常木鴻山、二、三尺ほど後へ辷《すべ》って、きちんと両手を膝に正していた。
「さすれば、その儀について、この輝高《てるたか》がお召をうけるは必定《ひつじよう》である。その時、お上のお訊《たず》ねに対して、そちたちの願望、足かけ十年の苦衷《くちゆう》、つぶさに申し上げる所存。また、この輝高の意見としても、阿波探索の必要をおすすめ申し上ぐるであろう」
「ひとえに、御助力のほど願わしゅう存じます」
「いや、そち達に頼まれいでも、大公儀にとって由々《ゆゆ》しい問題じゃ。必ずこの上ともに、輝高をうしろ楯《だて》と思うがよい。しかし、京の公卿《くげ》たちと気脈を結んで、幕府を倒そうとする阿波そのものの陰謀、たとえ歴然たるにいたせ、確たる証拠をつかまぬうちは、どこまでも、この儀世間に洩らしてはならぬぞ」
「は、それは法月殿も、とくと心得ておりますし、拙者も、大事に大事をとって秘密を守っておりまする」
「そういう点からも、これを、密々お上《かみ》のお耳にだけいれて、弦之丞が大公儀の隠密役となり、阿波へ探索に入りこむということは、何より、よい策のように考える。ただ弦之丞は大番頭《おおばんがしら》法月一学の伜《せがれ》、公儀の隠密役としての御印可《ごいんか》あるや否や、その点だけがちと心配であるが……」
「段々とありがたいお取り計らい、お礼の申しようもござりませぬ」と弦之丞は、この日、左京之介から何か重大な策を授けられたもののごとく、いんぎんに礼をのべて、
「この上は、少しも早く一月寺へ立ち帰り、委細《いさい》の下書を作りました上、仰せのように致して、またのお沙汰を待ちまする。では、これにてお暇《いとま》を……」と、立ちかけると、
「あいや」と左京之介が止めて、
「その話はすんだが、今日をよい機《しお》と存じて、鴻山がそちに一人の婦人と引き合わせると申している」
「弦之丞殿。それは先日お話しいたしたお千絵殿でござりますが……」と、常木鴻山は気の毒そうに語韻《ごいん》を沈めた。
「蘭薬《らんやく》を試み、いろいろ手当てを尽くしてみましたが、まだ幾分か乱心のところがあって、時折狂いだしまする。で、騒がしいお上屋敷《かみやしき》よりは、この代々木荘なれば養生にもよし、人目にもつかぬであろうという、御当家のお取り計らいで、ちょうど、今日駕にのせて、ひそかにここへ移してまいる筈……。どうでござりますな、よそながら、お会いになっておいでになっては」
「は……なんと、お礼の言葉もござりませぬ……」弦之丞は冷静になるべく悶《もだ》えていた。乱れだした情熱をおさえきるまで、ジッとうつむいていたが、やがて、思慮をきめて、
「勝手のようではござりますが、只今会いましたところで、拙者を拙者とも分りませず、積もる話をすることもなりますまい。御当家のお情けに甘えて、何とぞ、このまましばらくの間お預りを……」
「なるほど」と、鴻山は、弦之丞の気持が分るようにうなずいた。
「よろしゅうござる。医養の及ばぬ病とはきくが、この鴻山が手をつくしても、御養生の方はおひきうけ致す」
「それにて安堵《あんど》いたしました。何分ともここしばらくの間を」と、弦之丞はそこを辞して、茶荘の門を淋しく出てきた。
すると、入れ違いにスウと門へ入って行った一|挺《ちよう》の蒔絵駕《まきえかご》。
「あ、今のが――」
と、思わず天蓋を振りかえらせた時、玄関の方で、何か、とりとめなく口走るお千絵の声が、かれの胸へ針のような辛さをうった。
「おお……」
門柱の蔭にすがって、弦之丞は、駕から奥へ連れられてゆく、痛ましい人の姿を見送っていたが、やがて、両眼へ掌《て》を当てたまま、鼠甲斐絹《ねずみかいき》のかげ寒く、代々木の原を走っていた。
弦之丞は、今朝、起きるとすぐに机に向っていた。
何であろうか、わき目もふらず、奉書七、八枚に達筆を走らせ、草《そう》し終ると、二重に厳封して、封の表に太く強く、「上《じよう》」と書いて机にのせ、しばらく腕をくんでいた。
これでよかろう――というふうに、やがて次の部屋に向いて、
「万吉。用事がなかったら、ちょッとここへまいってくれぬか」
「へい」というと襖《ふすま》が開《あ》いた。炉べりに砥《と》の粉《こ》と紅殻《べにがら》と十手《じつて》が置き放してある。暇にあかして磨きをかけていたのだろう、十手が燦然《さんぜん》と光ってみえる。
「何か御用でございますか」
「ウム」といって、机の上の奉書封じを取りあげたが、ふと次の部屋を覗《のぞ》いて、
「お綱は?」と、万吉の顔を見た。
「何を思いだしたか、今朝は朝飯も食べずに、妻恋の家を畳んでくるのだといって出て行きましたが」
「どうも解《げ》せぬ女ではある」
「わっしには、少しばかり、お綱の心が分っております。だが、それをこうとは、あなたへいえない話なんで……。まあ当分のうち、あの女のすることを、見ていてやって下さいまし」
「それは困る。今の場合、お綱がこの宿院におることすら、密かに迷惑と存じている」
「けれど、あの女のことですから、一念思いこんでいることは、きっとやり通すだろうと思うんで」
「不審《ふしん》なことを申す。なぜじゃ」
「ゆうべ、弦之丞様が代々木からお帰りなすって、いよいよ阿波へ立つ日も近づいたぞ――と俺《わつし》へおっしゃった一言《ひとこと》を聞いてすら、今日はもう、早速、妻恋坂の家を片づけ、いつでも一緒に旅立つ覚悟をしているくらいですから」
「すると、拙者について、あれも阿波までまいるつもりでいるのか」
「それをお綱は、四天王寺で犯した、自分の罪の償《つぐな》いだと信じているのですから、止《と》めるわけにも行きません」
「何とあろうが、さようなことはまかりならぬ。拙者が阿波へ渡るのは、大きくは公儀のお為、小さくは甲賀世阿弥《こうがよあみ》の消息をつきとめ、お千絵殿の……」といいかけて、弦之丞は、ふと暗い顔になった。駕から出て、代々木荘の奥へ入ったあの姿が――あの狂わしい声が、まざまざと思い浮かぶ。
と、またきッとなって、万吉を責めるように、
「そちもまたそちではないか。お綱がさような心得違いをしておるなら、なぜとくと意見をしてやらぬ。ただの旅やいたずらごとではないぞ、他領者禁制《たりようものきんせい》の関をくぐって忍びこむ命がけの探索。女づれの同行がなるか成らぬか、つもってみても知れたことじゃ」
「…………」万吉は、一言《いちごん》もなかった。俺はまったく、お綱の心を買いすぎている、と自分でもはっきり気づいている彼であった。
そのくせ、お綱の今の真向《まむ》きな気持――それはやっぱり事情のゆるすかぎり、容《い》れてやりたい気がするのだ。けれど、弦之丞へ恋していることだけは、万吉には、どうも話しにくくって、ついそのまま、おくびにも出さずにいる……。
だから弦之丞には、お綱が、天王寺で紙入れを掏《す》った罪を深く悔悟している心もわかり、また、その悪い渡世の境界《きようがい》から、生れ代ろうとしている悩みも分っているが、より以上、どこまでも、自分について――しかも阿波へ渡る秘密の旅先まで、つきまとおうとする心のほどが解《げ》せないのである。
恋の力! ときけば、彼にも一語でうなずけよう。その代り、今の如き真剣味でいる弦之丞は、キッと、お綱を悲嘆の底に落すだろう。
あの、不愍《ふびん》なお千絵を忘れて、お綱の恋をうけいれるような弦之丞でないことは、万吉にも、あまりに分りすぎている。
「おっしゃられてみれば、まことに、ごもっともでございます」と、引き退《さが》るよりほかにない。
「折があったら、よく言い悟《さと》して、得心《とくしん》させておくがよい」
「なんとか、諦《あきら》めさせましょう」と、ぜひなく答えたものの、いつか板挟みになっている万吉、肚《はら》の底では、密かに弱りぬいている。
「オオ、話がそれた――」と、弦之丞は改まって、「ご苦労だが、今日は一つ頼みがある。この密封の書付を持って、大急ぎにまいってくれい」
「承知しました。して行く先は?」
「辰《たつ》の口《くち》の評定所《ひようじようしよ》――あの右側の御門にある目安箱へ、この上書をソッと投げ込んで来てくれまいか――つまりこの一書は、弦之丞がいよいよ阿波へ発足する口火となるもの。早速、行ってきて貰いたい」
「エ?」と万吉。それへ出された密封の書付へ目をみはって、
「では、これを評定所の目安箱へ、ほうりこんでこいとおっしゃいますか」
「そうじゃ。ちょうどきょうは七の日にあたる。月に三度の御開錠日《かいじようび》。目安箱が柳営《りゆうえい》へあがる日である、午《うま》の刻《こく》を過ぎぬうちに、急いでそれを入れてきてくれい」
「かしこまりました」
帯をしめなおして、三尺と臍《へそ》の間へ、シッカリとそれをしまいこんだ。ついでに、磨きかけていた十手を内ぶところへ逆に差して、
「じゃあ行ってまいります――」
「頼んだぞよ」弦之丞も立って、書き損じの反古《ほご》をまるめ、炉《ろ》の中へくべて、ボッと焔《ほのお》にしてしまった。
「一走りでございます」
煙といっしょに、威勢よく、宿院の軒を出た目明しの万吉。大股に急ぎながら、しきりと首をかしげている。
「目安箱へこれを入れる? ……目安箱へ? ……ははア、さてはいよいよ昨日《きのう》の相談で、常木様と弦之丞様と、そして松平《まつだいら》の殿様と、何かの話がまとまったな。それだ! そこでこの御上書《ごじようしよ》だ、ウム違えねえ! とすると、阿波の怪しい様子を将軍様のお耳に入れて、表向きのお沙汰となるか、それともまた、弦之丞様と俺とが、こッそり阿波へ探索に入る段取りとなるか、なんとか目鼻がつくんだろう」
ひとり問いひとり答えて、一月寺の横門から、根岸|田圃《たんぼ》を斜《はす》かいに切ッてゆく万吉。笹《ささ》の雪《ゆき》から車坂の途中、幾つも駕屋を抜いて、タッタと元気な足を飛ばしていた。
「時節到来。時節到来」
こんなことをつぶやきながら、ニヤニヤ笑って駈けて行った。ドンと誰かに突き当たったが、
「おッと、ごめんよ!」振りかえりもせずにまた駈ける。足はドンドン加速度になって、またたくうちに外神田から鎌倉河岸――評定所《ひようじようしよ》のある辰《たつ》の口《くち》和田倉門《わだくらもん》はもうすぐそこだ。
「春が来たぜ、春が来たぜ! お濠《ほり》の柳が芽を吹いてら! 丸の内へも渡り鳥がやってきたぜ! 三本鳥毛の槍先にチラチラ蝶々が舞っている。――こういう春は毎年だが、この万吉には十一年目で、やッと巡《めぐ》りめぐってきた春なんだ! なんだか今年はすてきもねえいいことがありそうだ。時節到来、時節到来」
かれの心が、こう叫んだ。
実際今の万吉は、春の鳥のように軽快だ、前途に耀々《ようよう》たる曙光《しよこう》がある。まだ深い話を弦之丞から打ち明けられていないが、この御上書を辰の口の目安箱へ投げ入れてこいというからには、ほぼ想像のつく内容――すなわち、急転直下に、いや急転直上に、阿波の内密、公卿《くげ》浪人の策動、甲賀|世阿弥《よあみ》のことなど、すべてを箇条書《かじようが》きにして、将軍家の御覧に達し、そして? そして? さアその先は万吉には分らないが、なにか、いい吉兆《きつちよう》のある気がする。
まもなく外濠《そとぼり》、和田倉御門。
評定所はその筋向いにみえる。
「おお、あれだな」
と万吉、スタスタと門前へ寄って行った。
厳《いか》めしい冠木門《かぶきもん》から奥まった式台まで、ズーと細かい玉川砂利が敷きつめてある。
その袖門《そでもん》、門柱から二、三尺離れた所に、いわゆる目安箱というものがかかっていた。
これは、八代将軍|吉宗《よしむね》の時代から設けられた一つの制度で、百姓、町人、僧侶、神官、誰でもかまわぬ、何か治政上についての得失利害、役人の奸曲《かんきよく》、奉行の圧政など、上申《じようしん》したいことがあったら、書面にしたためて箱の中へ投げ入れておくことをゆるされたもの。
開錠日《かいじようび》は、月三回、七の日と決まっている。お錠番は評定所付きの御小人目付《おこびとめつけ》、その日の正午に箱ごとピンとはずして、柳営《りゆうえい》の奥坊主へ届ける、奥坊主はすぐこれを本丸の小姓|頭《がしら》の部屋にもちこみ、そこで御用取次の役人がついて、将軍家休息の間《ま》の中央にすえておく。この間は何人《なんぴと》でも、その箱の中の書類に指をふれることは無論、覗《のぞ》くこともゆるされない。
その目安箱の側へよって、万吉は、ふところから弦之丞のしたためた密封をさぐり出し、生唾《なまつば》をのみながら、箱の口へ、ポンと入れた。
「さて、このあとの御沙汰が、吉とくるか、凶とくるか。……この書付一本が、天満組《てんまぐみ》の俺たちや、甲賀家のお千絵様、また弦之丞様たちが、一生涯|浮沈《ふちん》の分れ目……」
自分の手で入れた書類が、箱の底へゴソリと落ちこんだ音に、かれは一種の昂奮と動悸《どうき》をおぼえて、そこに茫《ぼう》となっていた。
「町人! 早く歩けッ」
門番にどなられて、万吉は初めてハッと吾にかえり、からくり人形のように、春風の中へ、ふわりと足を運びだした。
一方、その日の目安箱は、常例のとおり、評定所づきの役人の手から、御小人目付《おこびとめつけ》、奥坊主《おくぼうず》、御用番《ごようばん》の順をへて、江戸城本丸の将軍家休息の次の間にすえられていた。
やがて、将軍自身の出御《しゆつぎよ》がある。
月番御用取次《つきばんごようとりつぎ》は、立花出雲守《たちばないずものかみ》。
ズーと、お座所の前へそれをすすめて、
「ただ今、評定所の目安箱、お表《おもて》より上がりました」といった。
「ウム」
当時の将軍家は、十代|家治《いえはる》であった。軽くうなずいて紅錦《こうきん》の嚢《ふくろ》をとりだす。いわゆる肌着《はだつき》のお巾着《きんちやく》、守り鍵《かぎ》とともに添えてあるのを、
「開錠《かいじよう》せい」と、小姓|頭《がしら》高木万次郎の手に渡した。
ピンと、箱の錠をあけて、中の投書を揃え、将軍家の前へさし出して、空箱《からばこ》は元どおりの順に下げ渡される。
家治はそれを持って、楓《かえで》の間《ま》へ入った。
四、五通の書類であった。楓の間は密室なので、小姓頭以外のものは近侍《きんじ》しない。上から順にくり拡げて目を通してゆくと、やがて、将軍家の眼に、異様なかがやきが流れた。
それは、弦之丞が書いて、万吉が投げこんだあの奉書七、八枚の長文である。
「ウーム……これは容易ならぬことじゃ」
息を殺して黙読して行くうちに、家治は強い衝動をうけた。今、柳営の春は和光《わこう》にみち、天下は凪《なぎ》のごとく治まっていると思いのほか、いつか西都《せいと》に皇学の義が盛んに唱えられ、公卿《くげ》と西国大名の間に、恐るべき叛逆《はんぎやく》の密謀が着々として進んでいるというのは、なんとしても彼だけには、不審であった。
しかも、弦之丞の上書には、歴然と、それが箇条書きに並べられてある。そして、蜂須賀阿波守がその反幕府派の盟主《めいしゆ》であることが、指摘されてあった。
阿波第一の不審は、十年前から、領土に他国人を入れぬ制度をとったこと。
第二は、安治川の船屋敷《ふなやしき》で、堂上公卿たちとしばしば密《ひそ》かな会合を催すこと。
第三は、宝暦変の時に、倒幕の先鋒であった竹屋|三位卿《さんみきよう》が、幕府の目をくらまして失踪の後、いつか同家の食客となっていること。
等、等、等、いろいろ家治の心胆を驚かさぬものはない。さらに、別札《べつさつ》には、それについて、弦之丞の目的である、一通の嘆願書がそえてあった。
願書は、甲賀家の私事に筆をおこしている。
今から十一年前に、その内秘をさぐるため阿波へ入国した世阿弥《よあみ》の顛末《てんまつ》。また、その一子が女であるため、昨年|改易《かいえき》されて甲賀家のたえたことを誌《しる》し、最後に、自分は仔細あって、阿波守の身辺に接しもし、また世阿弥の所在を知りたいこともあるので、烏滸《おこ》ながら、公儀の隠密として、阿波探索の密命を仰せつけられたい――という熱願の文面であった。そしてなお委細のことは伝手《つて》を求めて、元の京都所司代、松平左京之介の手もとまで、言訴《げんそ》してある由をつけ加えてある。
弦之丞が、目安箱を利用して、わざとこうした手段をとったのは、代々木荘で鴻山と左京之介との相談でやったことだが、一つには、お千絵の幸福のため、甲賀家の再興のためでもあった。いかに自分が苦心しても、公《おおやけ》ならぬ、一個の法月弦之丞としてやった仕事では、無意味である。
目安箱のききめはあった。
それから十数日の後、松平左京之介、突然お召状《めしじよう》をうけて本丸へ伺候《しこう》した。果たして、将軍家は、楓《かえで》の間《ま》の御用|箪笥《だんす》から、弦之丞の嘆願書をとりださせ、阿波の嫌疑や、甲賀家のことや、弦之丞の身がらについて、さまざまな下問《かもん》があった。
この日、将軍家は左京之介に、何か、大事な密命をさずけたらしい。それかあらぬか、左京之介は、屋敷へ帰るとすぐに、常木鴻山を別室に招いて、密談数刻の後、使いを飛ばして、一月寺にいる弦之丞を呼びにやった。
吉報を待ちわびていた弦之丞、この日だけは歩くのももどかしく思ったか、駕を急がせて、駈けつけてきた。
そして、松平家の奥へ入った――。
たしかに、この夜、かれは松平家の脇門《わきもん》から、奥座敷へ入ったに相違なかった。だが――どうしたのだろう? 幾日たっても、法月弦之丞、あれッきり屋敷から出た様子もなし、また、一月寺へも帰ってこない。
悪行善心《あくぎようぜんしん》
「喧嘩だッ」
「喧嘩だ、喧嘩だ」
朝ッぱらからの騒ぎである。
五十|間《けん》の両側に、暖簾《のれん》をならべている飲食店の内から、客や女が、いっせいに外へ飛びだしてみると、廓《くるわ》の大門口《おおもんぐち》から衣紋坂《えもんざか》の方へ、一人の侍が、血刀を持ったまま、盗《ぬす》ッ人《と》のように逃げて行った。
「斬《や》られた!」
「誰だ誰だ、斬《や》られたのは」
「対手《あいて》は逃げてしまった――早く、早くしろいッ」
「オオ、こいつア助からねえ、肋《あばら》にかけて斬《や》られている」
「助からねえッて、見ている奴があるものか」
「オイ弥次馬、ばかな面《つら》をして見物していねえで、手を貸せよ、手を!」
ちょうど、大門《おおもん》の高札場前《こうさつばまえ》。
喧嘩や斬合いは、この廓《さと》の年中行事。別に珍らしいほどでもないが、夜と違って朝ッぱらの血まみれ騒ぎ、真っ黒になってワラワラと駈け集まった。
肩から背すじにかけて、むごい太刀傷を浴びせられ、そこにうっ伏していた男は、この辺の者とみえて吉原つなぎの袷袢纏《あわせばんてん》に、算盤玉《そろばんだま》の三尺をしめ、ウーム、ウームと、土を吹いて苦しげに呻《うめ》いている。
「や、こりゃ孔雀長屋《くじやくながや》の者じゃねえか」
「紋日《もんび》の虎《とら》だ。紋日の虎五郎だ」
虎といえば、知らぬ者はない程なあぶれ者、驚きながら抱き起こすと、朝酒でもあおっていたところを斬られたとみえて、おびただしい血がこんこんと吹き流れている。
「この野郎め、また酒を食らやがって、人の見境《みさかい》なく喧嘩でも吹ッかけやがったに違いねえ。ざまア見やがれ、といってやるところだが、悪い奴でも、こんな深傷《ふかで》を負っちゃ可哀そうだ。オオ、番屋の戸板を外してきねえ」
気転のいいのが三尺を解いて、傷口を押さえているまに、持ってきた戸板へ怪我人《けがにん》をのせ、祭りのように、ヤッサヤッサと五十間を急ぎだした。
ゾロゾロとついてくる弥次馬を追ッ払って、四、五人の顔役だけが戸板と一緒におはぐろ溝《どぶ》の小橋を渡り、路次の狭い長屋の奥へ入って行った。
「オオここだぜ、虎の家《うち》は」
「誰かいるのか」
「ガラ空《あ》きだ――誰もいやしねえ」
「隣で聞いてみねえ、隣でよ」
戸まどいをしている間にも、虎五郎の顔は土色に変ってきて、戸板の隙からポタポタと垂れる血汐も力なく細ってくる。
「オイ、隣の衆――」と、一人が台所から首を突っこんで、
「この虎五郎の家はガラ空きだが、誰か家の者はいねえんですか、大変が起きたんだ、大変が」
「アア、お隣の人ですか」と羅宇屋《らうや》煙管《きせる》の親爺《おやじ》が、なんの気もなく破れ障子を開《あ》けて言った。
「稼ぎに出る子供がいますよ、三輪ちゃんに乙坊《おとぼう》というのがネ――。それが今朝、ひもじそうにふるえているので、よけいなおせッかいだが、お隣の飯櫃《めしびつ》をのぞいてみると、御飯なんざ一粒だってありゃアしねえ。空ッぽだア。で――今私のところで、お茶漬を食べさせてやっているところなンだが、何か御用ですかい」
「子供じゃ、しようがねえなア」
「じゃ、親父さんを探したらいいでしょう。またお決《き》まりの茶飯《ちやめし》屋へでも行って、勝手な大たくらを吹いているに違いない」
「ところがよ、その紋日の虎が、どこかの侍に斬られたンだ」
「えッ、き、きられたンですか、虎さんが」
「戸板にのせて持ってきてやったのだが、それじゃ、手当てをする者もねえだろう。もっとも、どうせお陀仏《だぶつ》になることは、相場がきまっている怪我人《けがにん》だがネ」
「そ、そいつア大事《おおごと》だ!」
と、色を失った羅宇屋《らうや》の親爺が裸足《はだし》で外へ飛びだした途端《とたん》に、そこの家で、朝飯を貰っていたお三輪と乙吉が、手に持っていた飯茶碗をとり落して、ワーッと一緒に泣いてしまった。
その騒ぎに、長屋中が総出になって、とにかく、怪我《けが》人を戸板から移したが、近所|合壁《がつぺき》の同情は、瀕死の紋日の虎よりは、むしろ、そばにメソメソと泣いている、お三輪と乙吉の方に集まって、
「泣くンじゃない、泣くンじゃない」
と、菓子や食べ物を持ってくる者があるし、
「心配おしでない、今夜は、わたしが側《そば》にいて、面倒をみてあげるから」と、吾家《うち》をほうって、泊りにきてくれるお婆さんもある。
苦悶のあとは昏睡に落ちて、この界隈で鼻つまみなあぶれ者も、息の細りとともに断末《だんまつ》へ近づいてゆく。
「もう、駄目でしょうよ」
と、怪我人のほうへは見きりをつけて、あしたは早速、虎五郎の枕元で、長屋の誰彼三、四人がヒソヒソと善後策《ぜんごさく》の相談。まず何よりの問題は、お葬式の費用であった。
「しかたがありませんから、町年寄《まちどしより》へ泣きついて、いくらかお慈悲を仰ごうじゃありませんか」
「駄目駄目。およしなさいよ」
「虎さんじゃネ――なにしろ、可哀そうだと、いってくれる者はありますまい」
「ひどい悪者《わるもの》で通っているから――こんな時には」
「じゃ、長屋の衆に、もう少しずつ泣いて貰って、棺桶《かんおけ》と線香代……」
「お寺は?」
「箕輪《みのわ》の浄閑寺《じようかんじ》、あすこの、投込みへ、無料《ただ》で頼むよりしようがないでしょう」
「浄閑寺の投込みは、廓《くるわ》の女郎衆で、引取《ひきと》り人《にん》のない者だけを埋葬する所。地廻《じまわ》りの無縁仏《むえんぼとけ》まで、ひきうけてくれるでしょうか」
「困ったなア。といって、ほかに方法はないから、そこを一ツ、泣きついてみましょうよ」
虎五郎は、ドンヨリした眸《ひとみ》を天井へ向けて、仮面《めん》のような、怖《こわ》い皺《しわ》をよせていた。と、その蒲団《ふとん》の足の方へ、うっ伏していたお三輪がヒョイと、
「お隣の小父さん。困るッて、お金のことなの?」
泣き腫《は》れている顔をあげた。
「ウム、お金だ。だがネ、お三輪坊。おめえなんか子供だから、なにも、そんなことを心配するにゃ当らないよ」
「でも小父さん、お金なら、まだちゃんのふところに、小判がたくさん残っている」
「えッ、小判が?」
半信半疑で相談の上、虎五郎の胴巻をほどいてみると、お三輪のいったとおり、垢《あか》もつかない鋳《ふ》き立ての小判が、古畳の上にザラザラと二百両余り。
「あ! 小判だ」
「ほんものだ!」と、一同は、ぎょッとして手を引ッこめたまま、ただ茫然《ぼうぜん》としてしまう。
さて、難儀な中にまた厄介な代物《しろもの》が出てきた。無職で性質《たち》の悪い紋日の虎が、金座の坩堝《るつぼ》から出たばかりの、うぶな小判をこう持っているのは怪しいよりは怖ろしい。この金の素姓《すじよう》も問わずに、手でもつけたら、それこそどんな災難が降ってくるかも知れない……と、まず筋向うの糊屋《のりや》の婆さん、妙に、シンミリと声を落して、
「お三輪坊……」と、側へよった。
「いッたい、どうして、こんな大金を虎さんが持っているのか、お前、なんだか知っていそうだね……」
「ええ。知っている」
お三輪は、率直に答えていう。
「こないだの晩、お綱姉ちゃんが、窓の下へきて、ソッと、あたいにくれて行ったの……」
「えっ、お綱さんがかい?」と、みんな顔を見あわせて――「なんだッて、お前にそれを渡して行ったの」
「このお金で、廓《なか》にいる、小ちゃい姉ちゃんを落籍《うけだ》して、あとのお金で店でも出して、みんなで仲よく働いてお暮らしよ――、そうして、細かいことは、この手紙に書いてあるから、お父さんが帰ったら、よく、読ンでくれるように、頼むンだよ……って、そういったまま――」
話しているうちに、お三輪はシクシクしゃくりあげて、後のことは言いにくそうに、蒲団の中へ顔を埋めた。
「ふウーム……」と、等しく、長屋の者が、目と目を見あわせていると、今まで、昏々《こんこん》としていた紋日の虎。
「ア痛《いて》……、ア痛ててて……」と、苦悶の皺《しわ》を深くよせて、火のような喘《あえ》ぎと一緒に、なんとしてか、ポロポロと涙を流した。
「す、すまねえ。……お綱にすまねえ、お長屋の衆、後生《ごしよう》ですから、わっしが目をつぶる前に、あいつに一目会わして下せえ。……お、お綱は、ここにおりますから」
おののく手で、つかみ出した手紙の端――、それもベットリと黒い血にひからびて、一月寺――という字が淡《うす》く書いてある。
死期を悟ったものであろう、紋日の虎五郎、苦しい息で、しきりに悪行《あくぎよう》をざんげする。
「悪かった、すまなかったよ……」
唇をワナワナさせて、繰り返した。
「お三輪や、乙吉や、廓《なか》へ売り飛ばした娘は、みんな、おれと、お才との間にできた子だ。すまねえが、おれのような悪い親父《おやじ》を持った因果。……だが、お綱は、わっしの子じゃアありません。そのお綱から、意見手紙をつけてくれた、三百両の金まで、いい気になって、飲んだり打ったりしておりやした。罰《ばち》があたったンです、罰だ。こうなったのも……」
つかんでいた手紙を、力なく離して、
「下谷の一月寺におるッて書いてあります。お長屋の衆、後生《ごしよう》ですから、お、お綱にちょッと知らせておくんなさい。あ……あいつに一言《ひとこと》、い、いい残すことがあります。わっしがこのまま死《い》ってしまうと、お綱は、とうとう一生知らずにいるでしょう……」
何か深い仔細があるらしい。
それをお綱にいわないうちは、さすがな虎も、両掌《りようて》を合すことができないふうだ。一月寺といえば、根岸の奥、誰か一走り行ってこい――イヤ、あぶないぞという者がある。アレは名うてな女スリ、この辺へ立ち廻ったら届けろという五人組のお沙汰だ。
といって、死なんとする善《よ》き声を、無情にほうッてもおけまい、長屋一同が口どめの誓約をして、今夜こッそり呼んできて、すぐ帰したら、まさか、番屋へも知れやしまい。
よかろう、ではこのことを、他言《たごん》するような不人情者は、この孔雀長屋《くじやくながや》からお構いだぞ。――というので、
「オイ、虎さん。今お綱さんを呼んできてやるから、それまで、気をしっかりしていなよ。いいかい!」
と、中で、年の若い男が、尻切《しりき》れ草履《ぞうり》を突ッかけて、あたふたと、長屋の路次を飛びだして行った。
*     *     *
目安箱の上書が効《こう》を奏《そう》して、楓《かえで》の間《ま》の密議となり、元京都所司代であった松平|輝高《てるたか》は、召されて将軍家から内々に秘命をうけた。
その結果。
法月弦之丞《のりづきげんのじよう》は、松平家から火急な使者をうけて、いよいよ吉報と、よろこんで駈けつけたが、不思議や、そのまま行方不明となってしまった。
よもやに引かれて、今日は帰るか、明日は松平家から、なんとか沙汰があるかと、一月寺の宿院には、万吉とお綱とが、痩せる思いで待っている。不安な、さびしい日が二人に続いた。
けれど、遂に、弦之丞は、帰らなかった。
お綱は憂鬱《ゆううつ》になった。
「やッぱり私は、あの人に嫌われている……」
万吉は万吉でまた、
「こいつは、目安箱が、悪い方へたたったかな? ……」と考えて、とかく凶事《きようじ》にばかり想像される。
で、焦躁《しようそう》のあまり、かれは今朝早く飛びだして行った。
松平家へ出向いて様子をきき、もし、そこで要領を得ないようなら、代々木荘まで行って、常木|鴻山《こうざん》に会い、その後の成行きや、また弦之丞の帰らぬわけを糺《ただ》してくる、とお綱にいい残した。
すると、午後になって、目明しの万吉。どこで支度をととのえたか、旅合羽《たびがつぱ》に道中差《どうちゆうざし》、一文字笠《いちもんじがさ》を首にかけて、
「お綱、とうとうお別れだ」
不意に、妙なことをいって、帰ってきた。
しかし、出て行った時の不安な顔とは、ガラリと変って、ばかに元気づいている。そして、遠旅《とおたび》にでも出るように、振分けや畳《たた》み桐油紙《とうゆ》まで肩に掛け、上がりもしないで、
「常木様に会った話の都合で、急に、おれはこれから、西へ素ッ飛ぶことになった。――だが、お前に断わりなしで出先から立ってしまうのも、あんまり寝覚《ねざめ》がよくねえから、ちょッと、お別れをいいに戻ったが……、お綱、ここはなんにもいわないで、お前は一ツ、別に考えなおしてくれ」
お綱はあッ気にとられてしまった。
万吉の口裏では、恋はともあれ、真心だけは、弦之丞も不愍《ふびん》なやつと、認めてくれているらしいので、妻恋の家も畳み、妹弟《きようだい》たちの始末もみて、いつでも、江戸に未練のないように、心支度をしているものを――。
その弦之丞は、出先から姿を隠し、万吉はまた万吉で、突然、帰ってきたかと思うと、上がりもせずに腰掛け話で、
「おれは急に西へ立つから、お前はお前で、別に身の落ちつきを考えなおすがいい」と、いわんばかりな、突《と》ッ拍子《ぴようし》もない言葉。
サッと、お綱の顔色が変った。
自分はまだ、弦之丞様にも、誰にも信じられていない! だから振り捨てられるのだ――。厄介な女と、二人が腹を合せて態《てい》よく私を振りきッてゆく――。西へ? それは無論、阿波への旅であろう。
こう思うと、お綱は、ワナワナと唇をふるわせた。勝気なだけに、ジッとこらえてはいるが、こみあげてくる悲しさの後から熱い涙が、とめどもなく睫毛《まつげ》に溜《たま》った。
「万吉さん――」
いきなりすりよると、万吉の手を痛いほど握り取って、
「な、なぜ、こうならこうと、明らさまにいっておくれでない。私も江戸の女、事情を明しておくれなら、どうでも自分の情《じよう》を張ろうとは言いはしない……」
「だから、その訳《わけ》を話して、得心して貰いてえと思って、急ぐところを引ッ返してきたのじゃねえか。まア、落ちついて、おれの話を聞いてくれ」
「いいえ、聞かないでも、およそのことは分っています。だけれど、それじゃお前……」
「おッと、その後をいってくれるな。墨屋敷の窓の下で、約束したことは、必ず忘れていやしねえ。またお前が命がけで、お千絵様を探《さぐ》りだしてくれたことも、弦之丞様としてみれば、心じゃ礼をいっているくらいだ。だが、ままにならねえのは今度の旅立ち……、弦之丞様は、この万吉にさえ一言《ひとこと》も洩らさずに、もう半月も前に、中仙道から上方《かみがた》へ、お立ちになってしまったのだ」
「えッ……。では法月さんは、もうこの江戸にいないのだね……」
「そうよ。俺もずいぶん半間《はんま》だったが、弦之丞様も弦之丞様だ。松平様のお屋敷に呼ばれて、常木様と三人で、コッソリ相談をきめるとすぐに、代々木荘から夜にまぎれて、甲州街道をお急ぎなすってしまったという話――」
「じゃ、万吉さんまでを置き残して? ……」
「だから俺も、そう聞いた時にゃ、常木様へさんざん不服を並べてしまった。けれど、深い仔細を聞くと……」と、にわかに声を低めて、ソッとあたりを見廻しながら、上がり框《がまち》から身を延ばした。
「目安箱の御上書《ごじようしよ》やら、左京之介《さきようのすけ》様のお計らいで、弦之丞様へ、ごく密々なお墨付が下ったのだ、早くいえば将軍家のお声《こえ》がかり――、阿波の間者牢《かんじやろう》にいる世阿弥《よあみ》に会い、蜂須賀家の陰謀をあばく一ツの証拠を聞き取ってまいれ――という御内命であったそうな」
「では、とうとうそのことが、将軍様のお指図とまでなって?」
「公儀で表沙汰となさるには、まだ拠《よ》り所《どころ》が充分でない。といって、これから大がかりに、所司代やお目付が手を廻せば、向うで気取《けど》ってしまうから、この探索は弦之丞様一人がいいという御方針になったらしい。そこで弦之丞様が、首尾よく甲賀世阿弥に会って、何ぞ、蜂須賀家の急所を押すような証拠をつかんでおいでになれば、即座に、阿波二十五万石はお取潰《とりつぶ》しとくる段取になっている。無論そうなれば、あのお方一代の誉《ほま》れ、甲賀の家にもふたたび花が咲こうし、十年以上も暗闇の手探りをしていた天満組《てんまぐみ》の俺たちも、さすがに目が利《き》いていたといわれるだろう――。けれど俺は不服だった」
包みきれぬ昂奮に、いつか調子を張っている自分の声に気がついて、万吉は、ここでちょっと言葉をきった。
「阿波の海陸二十七|関《せき》、そこを潜《くぐ》って剣山《つるぎさん》の間者牢までまぎれこむのは、なるほど、できるだけ密《ひそ》かがいいし、弦之丞様の身になっても、足手《あしで》まといがねえほうがいい。けれど俺は大不足さ、ここまできて、大事な、本舞台へのり出さなくっちゃ、目明し万吉の一分が立たねえ。イヤ、そういうと、たいそう見得《みえ》をきるようだが、大した出世にも金にもならず、ただこういう山を当てることだけを楽しみに、家や女房まで捨てて歩いている、目明し根性にしてみりゃア、ちっとばかり、役不足にも思うだろうじゃねえか」
「おれも天満《てんま》の万吉だ。ポカンとした面《つら》をして、江戸に待っていられるものか。弦之丞様に追いついて、どうでも一緒に阿波へ渡る――と、じつあ、常木様のお諭《さと》しもきかねえで、ぷいと、代々木を飛びだした帰り途――、これ見てくンな、柳原の吊《つる》しん棒で、合羽《かつぱ》や脚絆《きやはん》の急仕立て、すぐに旅へ立とうとしたが、ハッと気がついたなアお前のことだ……」
しんみりと声を落すと、今まで、怨《うら》みがましく、邪推した心も解けてお綱は、ほつれ毛の濡れついた顔をジッとうつむかせた。
「その気持だけを買ってくれ。くどいようだがあかの他人で、俺ほどお前《めえ》の今の気持を、よッく呑み込んでいる者はあるめえと思う。その万吉がこうして頼む。どうか、お前《めえ》は得心して、今の望みを諦《あきら》めてくれないか」
万吉の言外にも、まだいろいろな事情があろう。まして、将軍家の内密なお墨付までうけたといえば、弦之丞が、万難を排して、阿波へ急いだのも無理ではない。
なおかつ、万吉の衷情《ちゆうじよう》も、いっそう同情にたえないことだ。
ただ切ないのはお綱の胸――。
事情《こと》をわけて頼まれてみれば、なおさら辛い立場であった。恋の幻滅、甦生《こうせい》の失望。お綱の胸を割ってみれば、今は悪行の享楽もなく、帰る望みを持つ家庭もない。ただかすかに、心淋しくも、はかない思慕と、生れ代ろうとする本善《ほんぜん》の性《さが》だけがある。
「分りました……」お綱はやっとこう洩らして、
「けれど、ねえ、万吉さん、今の私の心にもなってみておくれ。どうしても、私は、あの弦之丞様にすがっていなくっては、生きておられない身なんだよ……」
「そりゃ俺も充分に承知している。承知しながら何もかも、諦めてくれと頼むのは、ちょうど、お前に尼《あま》になれという難題を吹ッかけるようなものだが」
「いいえ、尼になれる私なら、いッそ、そうなったほうがましだけれど、とても私の性質では、尼寺へなぞは住めないし、といって、弦之丞様やお前さんの側を離れて、このまま江戸に揉《も》まれていれば、いつかまたよりが戻って、癖《くせ》の悪い指技《ゆびわざ》の出来心が起こらないとも限らない……。私はね、万吉さん、それが一番怖ろしいと思っている」
「じゃ、お綱、これほど俺が頼んでも、得心してくれねえのか」
「決して、分らない我《が》を張るのではないけれど、万吉さん、私のほうからもこの通り、一生涯のお願いだから……」
「ええ、お前《めえ》にそう手をつかれちゃ、いよいよ俺の立つ瀬がねえ」
「私という女一人を、助けると思って、もし――お願いだから、お願いだから」
「幾ら何といわれても、俺をさえ、置き残して行った弦之丞様のお覚悟を思うと、ウンと承知ができねえじゃねえか」
「ああ……それじゃどうしても――」
「オ、オ、オ、おい! お綱ッ」
「見遁《みのが》しておくれ」
「な、なにをするんだッ」
「私はもう、死ぬよりほかに……」お綱の手に、いつか匕首《あいくち》が光っていた。袖に巻いて、あわや、自分の喉笛《のどぶえ》――グサッと突き立てそうにしたので、万吉があわてて袖を引っ張ると、お綱はそれを振りもぎって、パタパタと奥の部屋へ。
「とッ、とんでもねえ真似《まね》をッ」
草鞋《わらじ》ばきのまま飛び上がって後から追いかぶさった。あやうく外《そ》れた切《き》ッ尖《さき》が、キラリと見えたのに冷やりとしながら、無理にそれをもぎ取って、
「ばッ、ばかな! そんな、つまらぬ短気を起こす奴があるものか、てめえも、見返りお綱といわれた女じゃねえか! ……」
と、肩に大きな波を打たせて、真《ま》ッ青《さお》になった目明しの万吉、罵《ののし》るごとく、叱るごとく、こう呶鳴りつつ涙は頬をボロボロと流れてくる。
乱れ髪に顔を埋めて、お綱もそこへ泣き伏してしまった。――ややしばらくのすすり泣き、万吉も棒立ちになったまま。
すると、そこへ、戸まどいをしたような一人の男、バタバタと裏口へ入ってきて、座敷の中を覗《のぞ》きながら、
「御本院で伺《うかが》いましたが、こちらに、お綱さんがおいでになるそうですが」
「あ、誰だい、お前は?」
畳の上に、脚絆《きやはん》わらじで突《つ》ッ立っている万吉、あわてて匕首《あいくち》を後ろへ隠して、土足のまま坐ってしまった。
「へい。私は、吉原の孔雀長屋《くじやくながや》にいる者ですが、お綱さんの親父さんが大門口《おおもんぐち》で喧嘩をして対手《あいて》の侍に斬られました。え、昨日の朝の出来事なんで……。昨夜《ゆうべ》はどうにか持ち越しましたが、今夜あたりは、とても難《むず》かしそうだから、すぐに、私と一緒に来て貰いたいと――へい、長屋中の相談で、お知らせに飛んできたような訳で……」
「ああ、間に合ってくれればいいが」
枕元にいる長屋の者は、時々、深い溜息《ためいき》でこう祈った。そして、お互いに、痛い心をジッと抑えて、虎五郎の容体を見まもっていた。
灯のつく頃に、だいぶ苦痛に疲れた怪我《けが》人は、もう呻《うめ》く力も失せたらしい。汐の落刻《おちどき》に向うのではないか。皮膚の色、吸う息のもよう、刻々と悪いほうへ変ってくる。
「どうしたのでしょう?」
「もう来そうなものだが……」
「会わせてやりたいものだ、間に合ってくれればいい。私たちはちっとも知らなかったが、お綱さんは虎さんの血を分けた娘じゃないのだそうだ……それだけにねえ」
低い声でささやいていると、また痛みが来たのか、怪我《けが》人は眉をしかめて、蝦《えび》のようにそりだした。と、その門口《かどぐち》へ、一月寺へ使いに走った男が帰りついて、
「来ましたよ、一緒に……」と汗を拭いた。
「エ、来たかい?」と、みんな自分のことのようにホッとすると、静かな下駄の音がして、土間の中に、お綱と見馴れぬ男が立った。
「じゃ、そこで」
「エエ、私は、待っておりますから」と土間の隅ッこに腰かけたのは万吉で、不意な知らせと行きがかり上、ここへ一緒に来たのであった。
頭巾をぬいで上がると一緒に、
「あ、姉ちゃん……」
と、乙吉《おときち》とお三輪が、蒲団の裾《すそ》から飛びつくのを、側の者があわてて、
「しッ……いい子だからね」
と両の手へ抱き抑える。
その声に、意識を茫《ぼう》とさせていた怪我人は、かすかな気を呼び起こしたとみえ、あらぬ方へ力のない目をみはった。
枕元の者は、その耳へ口をよせて、
「お綱さんが見えましたよ。お前さんの、待ちぬいていたお綱さんが――」
顔の近くへ、指をさして示してやると、虎五郎の鈍い目は、それにしたがって、その姿を見ようとするらしく必死にみはった。
そして、しばらくするうちに、薄暗い行燈《あんどん》の灯《ほ》かげへ、ソウ……と寄ってくるお綱の姿が、やっと、彼の眸に入ったのであろう、下瞼《したまぶた》の肉をビクとさせて、ボロボロと涙を流したかと思うと、
「オオ……」
異様な感情の昂《たか》ぶりに唇をふるわせた。
「お父《と》っさん――」
その刹那に、お綱は何も忘れて、虎五郎の側へ飛びついていった。そして、養父の出した手の上へ、自分の両手と顔をうつ伏せた。
「ア――」不意に、まわりの者が中腰になって、怪我《けが》人の顔を見なおした。瞬間であったけれど、見違えるほど皮膚の色が変って、動かぬ眸が吊り上がっている。
「お父っさん!」
「おやじさん!」
「もし、もし……」
「気をしっかりしておくれよ。せっかく、お綱さんが来て間に合ったものを」
「アア、もう難かしそうだ。お綱さん、せめて、お前、抱いてあげなさいよ」
「私も一言《ひとこと》お詫《わび》をします――お父っさん! お綱はほんとに親不孝でございました」
泣きすがると、虎五郎はホッと太い息を吐《つ》いた。そして、ゴクリと水が咽喉《のど》へ落ちると、
「お、お綱ッ」
こう一言《ひとこと》、洩らした。
「すまなかった……。もう、く、口ではいえない、後で、あ、あの押入れの奥を見てくれ、刀と……」
それだけであった。
それが、紋日の虎の死であった。
墓場のような無言のうちに、みんなのすすり泣きが起こった。万吉も土間の隅で、ジッと首をうなだれている。
ところへ、勝手口から、あわただしく入ってきた男が、お綱に大変を告げてきた。その者が、口忙《くちぜわ》しくいうことには、何だか今、手先臭い男が、此家《ここ》を覗《のぞ》いているなと思うと、一散に、番屋の方へ駈けだして行きました。
目前には、今息をひきとったばかりの養父の空骸《なきがら》があり、側には、泣きじゃくるお三輪と乙吉のいじらしい姿がある。
そして、お綱の身辺には、もうひそかにその筋の目が光っている。という知らせだ。
さすがのお綱も、当惑して、この成行きがどう神の手に裁かれるのか。これも、自分のなせる罪業《ざいごう》のむくいかとしみじみと思う。
「逃げて下さい、逃げて下さい」
長屋の者は、お綱を、そこから引き離すようにして、「後の始末は、みんながどうにでも致します。なアに、お三輪ちゃんや乙坊だって、決して、心配することはないから」
上がり框《がまち》に腰かけていた万吉も、
「そうしたほうがいいだろう。ここへ捕手《とりて》が踏《ふ》ン込んで、枕元から縄付きになった日には、養父《おやじ》さんも安々と行く所へも行かれまい」
それでも、お綱は動かなかった。けれど、そのお綱自身よりも長屋の者が度を失って心配した。そして、追い立てるように支度をさせる。
「おお、あれを調べてみなくっちゃいけない。虎さんの遺言した物を……何やら押入れの奥に、お綱さんへ渡したい物があるといった……」
「刀――と一語《ひとこと》いったようだが」
「それだけが気がかりで、ああして一目会いたいといっていたのだろうから、忘れては大変だ」
狼狽している騒ぎの中にも、こう気づく者があって、押入れの中へ首を突ッこみ、ガタガタと何かかき廻していたが、やがて、二尺四、五寸程な細長い紙包みを探しだして、
「此品《これ》じゃあないか?」
と行燈《あんどん》を引き寄せた。
そして、埃《ほこり》だらけな渋紙をはいでみると、その下にもまた二重に桐油紙《とうゆがみ》が掛かっていて、丹念に麻糸を巻いてあるが、もうその中はあらためるまでもなく、脇差――ということが手ざわりでも知れる。
「失礼だが、こんな物のある家ではないのに、大事に納《しま》ってあったところをみても、刀――といったのはこれでしょう。ではお綱さん、養父《おやじ》さんの遺言どおり、これはお前さんに渡すから、とにかく、一時どこかへ落ちのびて、番屋のほとぼりをさますがいい。――そしてな、まじめになって、世間の噂を消しなさいよ。この養父《おやじ》さんがいいお手本だ」
口をそろえて、長屋の者、遠い旅立ちの門《かど》でも見送るように、涙にくれるお綱を促《うなが》して、手を取らんばかり、否応《いやおう》なく外へ出る……。
と、遅かったか!
見馴れぬ提灯《ちようちん》と侍の影が、あたりを見廻しながらこの路次へ入ってきた。
一同が、ハッと胸を躍らして、そこにいすくんでしまっていると、上役人らしくない若党を連れた年配の武士。
「紋日の虎と申す者の家はどこであろうか」
「は、その家なら……」となお、何事かと怪しみながら、「ここでございますが」というと、
「わしは龍泉寺に住む、小池喜平《こいけきへい》という御徒士《おかち》の者じゃが」侍から先に身分を明《あか》して、立話のまま来意を話しだした。
その言葉を一同が聞いていると、こうである。
自分の甥《おい》が、昨日《きのう》吉原へきてフトした間違いから人を斬ったというので、密かに調べてみると、それは、いつも附近で見かける角兵衛獅子の姉弟《きようだい》の、たった一人の男親だということ。実は、その獅子舞の姉弟のことは、常に家内が不愍《ふびん》がって、詳しいことを知っているので尋ねてきた。まことに気の毒ではあり甥《おい》の罪も償《つぐな》わねばならぬ、なんと、孤児《みなしご》となったお三輪と乙吉を、自分の家にくれたと思って、養育させてくれまいか。
思いがけない相談であった。
長屋の者は、聞くと共に、嬉し涙にくれてしまう。
お綱にも、この場合、二人のために、もとより異議のない話である。なおもう一人、廓《くるわ》にいる妹の身は、この間の金の余りで、充分始末がつくだろうと、それも心安かった。
「では、皆さん」
お綱は一同へ声低く腰をかがめて、
「お言葉に甘えて、後々のことは……」
ソッと、別れを告げたが、その侍には、わざと姉と名乗らなかった。そして、ただ心のうちで、浮世のドン底に棲《す》む人々の美しい心を伏し拝みながら、桐油紙《とうゆ》ぐるみの脇差を袖にかかえ、万吉と一緒にその路次から忍《しの》び忍びに歩きだした。
大慈大悲閣《だいじだいひかく》
ひとりになった。
もう親のない一人ぽッち。
女|掏摸《すり》という兇状をもった姉は、あの妹弟《きようだい》たちにもない方がいい。ただ、どうぞ、倖《しあわ》せであっておくれ、いい芽《め》をまッすぐに育っておくれ……。
お綱は祈りながら、そッと頭巾の端で目を抑えた――。だが、無意識の間にも、足は自然に、暗い道を暗い道をと選《よ》っている。
いつになったら明るい道を、明るい気もちが選ぶのだろうか。
悪い渡世《とせい》の足は洗いました!
そう叫んでいるのに、誓っているのに、世間はそうと信じてくれない。養父が息をひきとる晩も、十手は影身につきまとう。
アア、歩けど歩けど道は暗い。今の足元も遠い先も――。
彼岸《ひがん》のない暗夜行路、それが、終生|辿《たど》らねばならない自分の生涯だろうか――と、お綱がホッと息をした時、睫毛《まつげ》の涙の光ではなく、ボウとあたりが明るくみえた。
いつか、お綱のいる所は、冷寂《れいじやく》とした仏地《ぶつち》である。吉原|尻《じり》から千束《せんぞく》をぬけてきたとすれば、そこは多分、浅草の観音堂。
ふり仰ぐと、堂閣の千本廂《せんぼんびさし》に、錆《さ》びた金色の仏龕《ぶつがん》が、ほの明るく廻廊を照らしている。
「待って……」
お綱がそこでそういうと、同じように、黙々として、先へ歩いていた万吉は、下駄の緒でも切らしたかと、
「…………」
黙って、向うに立ち止まった。
「万吉さん」
「ウム?」
「ちょっと、待ってくれないか」
「いいとも、ゆっくり休むがいい。俺も旅支度までしているくらいだから、実をいうと、肚《はら》の中じゃ先をあせっているんだが、こう夜が更《ふ》けちゃしようがねえ。明日《あした》の朝の早立ちとしよう」
「私も、別に休みたい訳じゃないけれど、お父っさんが臨終《いまわ》にまで、アア言い遺《のこ》して行ったこの紙包みに、何か、深い仔細があるような気がするので、早く開けてみたいと思ってね……」
「ウム。詳しいことは知らないが、俺もそう考えていた。じゃお綱、向うの廻廊がいいだろう。御灯《みあかし》が下がっている」
更けているので参詣の人影もない。
たまたま、人影らしいものがあるかと見れば、宿のない病人や順礼が、大慈《だいじ》の御廂《みひさし》を借りて、菰《こも》にくるまッている冷たい寝息……。
淡島堂《あわしまどう》の池で、キキ……と亀の啼《な》くのも聞えるほど、伽藍《がらん》の空気は森《しん》としていた。
「俺もさっきは、土間の隅で待ちながら、思わず、貰い泣きをしていたが、なんだか、其品《それ》は刀だという話じゃないか」
「それが、どうも私にゃ腑《ふ》に落ちない一ツなのさ……。私の家は小さい時から、今も同じな長屋暮らし、こんな刀がある筈はないのだもの」
「フーム、するとそりゃなんだろう、お前《めえ》が小さい時に死んだという、お袋さんに由緒のある刀《もの》じゃねえかな」
「私も……もしや、そうじゃアないかと思っているんだがね……何か、私とお母《つか》さんの……」
二人は、廻廊の隅へしゃがみこんだ。
ちょうど、内陣の薄い明りが、横の扉から流れているので、ほどこうとする、麻糸の結び目もどうやら分る。
その糸を解き終えると、お綱はフイと、
「万吉さん」
考えるような眸をあげて、
「なんだか私は、これを開いてみるのが、少し怖いような気がしてきたよ」
「何か思い当ったかい?」
「こんなシーンとした晩に、この観音様のお堂に立ったせいか、初めてフイと思いうかんだことがある……。それはもう、十何年か前のことだけれど」
「と、すると、お前《めえ》が八ツか九ツごろ?」
「なんでも、うすら覚えに考えると、あの弁天山や仁王門の桜が、チラチラと、散りぬいている晩でしたっけ。――その小さな時分の私が、お母《つか》さんの手に引かれて、この観音堂へ来たのですよ、それもたしかに夜半《よなか》のよう……」
刀の包みを解きかけて、お綱はこう語りだした。なつかしい、その頃の夢をおうように。
「万吉さんにも、一度話したことがあるけれど、お母《つか》さんはお才といって、仲之町《なかのちよう》では売れた芸妓《げいしや》、たいそうきれいな女《ひと》でした――。そのお母《つか》さんに手を引かれて、なんの気もなくこのお堂へ連れられてきてみると、そこに、ジッと待っていたお武家様がありました。オオ恐《こわ》い、というような気がして、私はお母《つか》さんにすがりつくと、そのお侍は、いきなり私の手を取って、見飽《みあ》かぬように、涙ぐむじゃアありませんか」
磬《けい》の音《ね》ひとつ洩れないで更《ふ》けてゆく伽藍《がらん》の下には、ただ、水底のような夜気があった。
万吉には、今夜のお綱が、十か九ツぐらいな小娘にみえた。おばこか、お煙草盆《たばこぼん》みたいな髪に結《ゆ》って、母の手にひかれているお綱がそのまま目にうかぶ。
かの女《じよ》が、幼かりし頃の思い出ばなしに。
「どんなにびっくりしたことか――今でも分るくらいでしたよ」と、お綱は、うッとりとなって、話の息をつぎたした。
「――そして、この観音堂に、お母《つか》さんと私を待っていた妙な侍は、ややしばらく、怖がる私の手をとって、ジッと涙ぐんでいましたが、そのうちに、今度は、お母《つか》さんに、シンミリと別れの言葉をいいのこして――そうでした――旅へでも立つように、名残を惜しんで、幾度《いくたび》も幾度も振り返りながら、花《はな》吹雪《ふぶき》の闇の中へ、姿が消えてしまったのです……影絵みたいなそのお侍の姿が行ってしまったのでした」
「ふウむ、そして?」
「それから先は、小さい私は無我夢中、おはぐろ溝《どぶ》の裏店《うらだな》で、お転婆娘《てんばむすめ》に育ってきましたが、お母《つか》さんと死に別れた頃から、時々、その影絵のお侍が、妙に思いだされてくるんですよ――、そしてね万吉さん、どうして私のお母《つか》さんが、そのお侍と別れる時に、あんなに泣いていたのだろうか? ……とそれが解けない謎《なぞ》でした」
「ウム、そう話されて、俺にはうッすら分ってきた」
「私も年頃になってから、それを覚《さと》ってきたのです」
「花の散る晩に、ここへ別れにきた侍は、お前《めえ》の――」
「私の、ほんとの、父親《てておや》でしょう? ……」
「そうよ、それに違《ちげ》えねえ」
「養い親の人情で、虎五郎は私にそれを秘《ひ》し隠《かく》しにしていましたが、息をひきとる時になって、初めて、それを明かそうとしたのじゃないかと思うのです」
「なるほど……、そうすると、お前《めえ》に渡した刀と一緒に、何か由緒《ゆいしよ》が書いてあるかもしれねえ」
「このお堂の御廂《みひさし》を仰いで、ふいと思い浮かんだのも、何か深い因縁ずく……と、急に開けてみたくなったもんだから……」
「まア、とにかくそれじゃ、早く中をあらためてみるがいい」
「ええ……」と、いって、お綱はまた現実のときめきにうたれながら、膝にのせていた刀の包み紙を、クルクルと、静かにはいでゆくのであった。
と――その下には、卯黄《うこん》の布《きれ》。
固くこま結びにしてあるのを、糸切歯で解こうとして、口の辺りへ持ってゆくと、その布《ぬの》の隙間からバラバラと散りこぼれたのは七、八通の書付《かきつけ》と――手紙と――そして守り袋。
怖ろしい運命の神籤《みくじ》でもひくように、お綱が、こわごわと、その一通を手に拾ってみると、なつかしや、死んだ母の名。
お才どのへ。
また、一ツの手紙を取ってみると、それにも同じ手蹟《しゆせき》で同じように。
お才どのへ。
としてあった。
そして、順々に、見ては膝へのせながら、何気なく、最後に拾った一本の手紙の裏――。
「万吉さん、――ちょ、ちょッと体を少し避《よ》けて」
御堂《みどう》の内陣から洩れる灯《あか》りの方へ、その手紙をさし向けて、お綱がおののく手に持ったのを見ると、ああ、それはなんという不思議な人の名――不思議な輪廻《りんね》のあらわれであろう。
甲賀世阿弥《こうがよあみ》。
――と書いてある。
甲賀世阿弥?
甲賀世阿弥?
なん度ジイと読み返してみても、それはやはり甲賀世阿弥としか読めない。
だが、しかし! これはまたどうしたということだろう。
甲賀世阿弥といえば、今さら、こと新しく考えだすまでもなく、幕府|笹《ささ》の間《ま》づめ甲賀組|宗家《そうけ》の人。お千絵様の父なる人。そして、阿波の間者牢《かんじやろう》に囚《とら》われたまま、十年あまりも生死の消息をすら絶たれていた人。
また近くは法月弦之丞が、大府《たいふ》の秘命をふくんで、深秘《しんぴ》の間者牢を訪れるべく、単身江戸を立って行った目標の人ではないか。
その甲賀世阿弥の名が、お綱の母へ――お才どのへ――と宛てた手紙の封の裏に、ありありと読まれた不思議さにうたれて、お綱は、渺茫《びようぼう》とした迷宮に疑心をさまよい、万吉も、それへ驚目《きようもく》をみはったまま、ゴクリと、生唾《なまつば》をのんでいるばかり……まったく、いうべき言葉を忘れているとは瞬間、二人の姿であった。
「ウーム……?」と、やがて万吉が思惑《おもわく》に疲れてうなっていた。お綱もそれにつりこまれて、深い息をホッと洩らして、
「……ああ、わからない……」と、指から封を取り落すと、万吉がすぐに拾い取って、中の巻紙をサラサラと夜風に流して読み始めた。
多度津《タドツ》ユキ渡船《トセン》ヲ待ツ間、コレヲ最後ニ一札《イツサツ》便別《ビンベツ》申シオキ候。在府中、ソモジトノ永キ縁モ、マタ江戸出立ノミギリ、観音堂ニテ綱女《ツナジヨ》ノ顔ヲ見オサメ申シ候|夜《ヨ》ノコトモ、今ナオマザマザシク覚エ候《ソウラ》エド、コノタビコソハ、阿波ニテステベキ一命、ソモジニハ、スベテヲ忘レクルルコソ、何ヨリモヨキ餞別《センベツ》ニコソ……。
こう読みかけて万吉は、あッ! とお綱の顔をみつめてしまった。
「お、おい! 今読んだのを聞いていたか」
「聞いていました……そ、それから」
「だんだんに読んでいったら、すッかり仔細も分るだろうが、お綱さん! お前《めえ》はまさしくこの人の娘だ! ア――甲賀世阿弥の血をうけているお嬢様だ」
「でも……」お綱はまだ信じきれないで――
「世阿弥様のお嬢様には、あの、墨屋敷においでになった、美しいお千絵という方が? ……」
「さ、だからなおのこと、お前《めえ》が世阿弥様の娘だということが分る。というなア、最前きいた話にも、また、この手紙の様子をみても、お前の死んだお母《つか》さんは、仲之町《なかのちよう》の江戸|芸妓《げいしや》だろう……。いいかい、そこで何かの機縁から、甲賀様と馴染《なじ》みになって、いつか、日蔭の腹違いに、生れたものがお前《めえ》なのだ……イヤ、お綱さんだったのに違いない。まア待ちねえ。もッと先を読んでみるから……」
紙背《しはい》を透《とお》すような眼《まな》ざしで、万吉が、その手紙、またほかの四、五通、残らず読んでみた時に、すべての疑雲は晴れていた。かれの想像は当っていた。
吉原の仲之町、そこの夜桜よりは桐佐《きりさ》のお才といわれたお綱の母と、まだ三十二、三であった世阿弥とは、かなり永い馴染《なじ》みだった。
そして、二人の仲にお綱が生れた。
芸と意気張りで売る仲之町|芸妓《げいしや》だ。年増となっても、よしや引手茶屋の店先に自分の子供をあそばせておいても、人気に廃《すた》りはなかったが、やがて、宝暦の何年かに、世阿弥は阿波へ去ってしまった。
お才の名は、それからまもなく、桐佐《きりさ》のたそや行燈《あんどん》から隠れて、廓《なか》の馴染みな人を相手に、薗八節《そのはちぶし》の女師匠と変った。そして、淋しいしもたやにお綱の育つのを楽しみにしていたが、紋日《もんび》の虎《とら》につきまとわれて、何かやむない事情にしばられ、なさぬ仲のお三輪を生み、乙吉を生み、そして、さすがな色香も年ごとに褪《あ》せて、おはぐろ溝《どぶ》の長屋に散った――。
「名妓の末路はなぜああでしょう?」
仲之町では、そう噂した。
そうした古い記録のほかにも、まだ確かな証拠があった。
一緒に出てきた紅錦《こうきん》の守《まも》り札袋《ぶくろ》――それには、紺紙金泥《こんしきんでい》の観音の像《すがた》に添えて、世阿弥とお才とが仲の一女、お綱の干支《えと》生れ月までが、明らかに誌《しる》してあった。
もう、疑う余地もないが、残る脇差の方をしらべてみると、これは世阿弥がかたみとして、阿波入国の前にお才へ渡したものであろう、六角の象嵌鍔《ぞうがんつば》に藍《あい》よりの柄糸《つかいと》、めぬきは四代|光乗《こうじよう》が作らしく、観世水《かんぜみず》に若鮎《わかあゆ》が埋《う》めこまれ、柳しぼりの鞘《さや》ごしらえ、なんともいえない品格がある。
「すばらしい。大名物《だいみようもの》といってもいいくらいな刀だ。お綱さん、ひとつ中身をあらためさしておくんなさい」
こういって万吉はなおも深く、装剣《そうけん》の美術に見とれた後、しずかに鞘《さや》を払ってみた。
抜いてみると、目づもりは二尺二、三寸、片手|斬《なぐ》りに頃あいな肉づきである。刃紋《はもん》は朧夜《ろうや》の雲に似る五《ぐ》の目乱《めみだ》れ、星《ほし》の青さを吸って散らすかとばかりかがやかしい、鵜首作《うくびづく》りの鋩子《きつさき》に特徴のある太刀の相《すがた》は――まず相州系《そうしゆうけい》、新藤五《しんとうご》国光《くにみつ》とみてまちがいはない。
「ウーム、こう見ていると、背骨の髄《ずい》まで凍《こご》えてきそうだ。こんな名刀をさしていた人の、若い姿が偲《おも》われるなあ」
抜いてあるまま、その鞘と柄《つか》とを、お綱の手へ返すと、お綱もそれをうけてややしばらく、深味のある錵《にえ》の色に、ジッと心を吸いこませたが、やがてわれを忘れかけたように、
「阿波へ行けば――」
突然に、こう独りで強く叫んだ。
「お目にかかることができる! 血を分けた父親《てておや》に会われる! オオ私はどうしても、剣山《つるぎさん》の間者牢へ行かなければならない」
「よし!」
と、その独《ひと》りごとへうなずいて、万吉も、ここに固く意を決したらしく、
「一緒に行こう! 阿波へ」とキッパリ言いきった。
「えッ、じゃあ、承知してくれますかえ?」
「こう分ってみる上は、俺が止《と》めだてをするいわれがねえ。夜明けを待ってすぐに立とう! 弦之丞様のあとを慕って、木曾街道から上方路《かみがたじ》へ――」
「なんだか、私の目の前が、急にほんのりと明るくなったような気がする……。そうなれば、弦之丞様へお尽しもできるし、真《まこと》の父親《てておや》にも会われるというもの。これも、死んだお母《つか》さんのおひきあわせであるかも知れない……」
無明《むみよう》の底から、一道の光をみたように、お綱は手に持ちささえていた新藤五の刀の肌を見まもっていた。そこに、亡き母親の面影がういて、自分に、ものをいいかけるかと――。
すると……。あやしむべし、ジッと眸《ひとみ》をこらしている刀の刃紋《はもん》へ、ありありと、人間の顔らしいものが映った。
が――しかし、それは美しい仲之町の名妓お才の面影ではなかった。鋭い双眸《そうぼう》をもった男の悪相! ギラリと、お綱を睨むようにかすって消えた。
「あッ」
と、肩のうしろを振り仰ぐと、いつのまにか、内陣の御灯《みあかし》を横にうけて、一人の男が立っている。長やかな大小と、眉深《まぶか》に結んだ十夜頭巾、それは、まぎれもない孫兵衛の姿だ。
油がきれたか、格子天井《こうしてんじよう》の仏龕《ぶつがん》が、パッ、パッ……と大きな明滅の息をついて、そこへヌッと反身《そりみ》に立っているお十夜の影を、魔魅《まみ》のようにゆらゆらさせた。
「おお、てめえはッ」
見るがいなや、万吉は床《ゆか》を鳴らして躍り立った。と一緒に、お綱もサッと飛びのいたので、膝にのせていた手紙の反古《ほご》が、あたりへ白く散らばッたが、もう拾っている間はなかった。
「邪魔だッ、おのれは!」
こう呶鳴ったのは孫兵衛の錆《さ》び声。足をあげて、躍り込んできた万吉を蹴返した。弾《はず》みをくって目明しの万吉、ドーンと廻廊へ腰をついたが、その強敵を向うへ避《よ》けて、
「早く!」と、お綱へ目くばせをした。
そうだ! こんな者にかまっていられる場合ではない、とお綱も覚《さと》って、本堂の正面へ、バラバラと走りだしてゆくと、ちょうど廻廊の曲り角、太い丸柱の蔭から、
「待てッ――」と一本の白刃が出た。
それは旅川周馬である。
同じようにその廻廊を、裏手へ向って駈けだした万吉の前にも、いきなり、平青眼《ひらせいがん》の大刀が、ヌーと光をよじってきて、かれの行く手をふさいでしまった。アッ――と欄干を楯《たて》にして見透《みす》かすと、左の片腕を繃帯《ほうたい》して、白布で首に吊り下げている。これ、天堂一角であった。
「ビクとでもすると命がないぞ! 動くな、そこをッ」
一角が片手に持った大刀は、ヌーと寄って、相手の精気をすくませ、みるまに、その剣尖《けんさき》に立った者を、死相に変らせてしまうかと思われる。
「エエ、しまった! さてはさっきからの様子を、残らず聞いていやがッたな」
と、おのれの油断に臍《ほぞ》を噛みつつ、十手に必死をこめた万吉。――かれの切ッ尖《さき》が一寸寄れば一寸、二寸よれば二寸ずつ、ジリジリと、欄干に添って後《あと》ずさりした。
と――お綱もまた、廻廊の角《かど》で、旅川周馬の白刃に支《ささ》えられたが、ハッと驚いたのは一時で、手に提げていた新藤五《しんとうご》国光《くにみつ》の鵜首作《うくびづく》りを、無意識に、サッと構えるなり、周馬の小手へ一閃《いつせん》くれた。
シュッと、青い火花が双方の目を射る。
その、無法な胆気《たんき》と、国光の五《ぐ》の目乱《めみだ》れにおびやかされて、周馬は少し気を乱しながら、真《ま》ッ向《こう》兵字構《ひようじがま》えに直って、寄らば――と眼《まなこ》をいからせた。
お綱もふだんのお綱ではなかった。
甲賀世阿弥という武士の血をうけている――と明らかに自覚したお綱。意気地を肌と一緒に研《みが》く江戸の女の気質をも、多分にうけている見返りお綱だ。
永い間、甲賀家に仇なし、お千絵様に仇なしたニキビ侍の旅川周馬には、お綱の方から怨《うら》むべき理由がある。
だが――今はこんな者に、カケかまっている場合ではない。一刻も早く、阿波へ! 阿波へ! 遥かな空へ、お綱の心は急いでいる。
「お退《ど》きッ――」
と横に薙《な》いで、小太刀の光と共に飛び抜けようとすると、その時まで、廻廊の真ン中に立って、双方を眺めていたお十夜は、「これッ」と、お綱のうしろから抱きすくめた。
そして、無碍《むげ》に利腕《ききうで》をねじあげようとするのを、お綱は振り払って、お十夜の影へサッと小太刀の光を投げた。――そして、素早く廻廊の欄干《らんかん》を躍ったかとみれば、翼をひろげた鳳凰《ほうおう》のように、一丈ほどな御堂の下へ飛び下りた。
「うぬ!」
「逃《のが》すな。お綱を!」
と、孫兵衛に周馬は、すぐ欄干へ足をかけて、お綱のあとから跳ぼうとすると、どこからか、轟然《ごうぜん》と夜気を揺《ゆ》すって、一発の銃声、ズドーンと鼓膜《こまく》をつんざいた。
「や? ……」
ぎょッとして、向うを見ると、その時、天堂一角が飛龍《ひりゆう》とみせて斬りつけた剣光の先から、万吉も、十手をくわえて観音堂から跳びおりた様子――と同時に、
「オオ、向うへ!」
と叫んだのは万吉の声。お綱の影と一ツになって、バラバラと、淡島堂《あわしまどう》の石橋を越え、お火除地《ひよけち》の桐畑へと走って行った。
「それッ、見失うな」
と、お十夜は真ッ先に、周馬と一角もその後から追いつづいたが、ふとみると、いつのまに横道から出てきたのか、二つの駕《かご》に、四ツ五ツの提灯《ちようちん》を振って、先の者と後の間を、邪魔するように散らばってゆく人数がある。
そして、その駕と提灯に添ってゆく中の一人が、足をとめて、こッちをふりかえったかと思うと、チリチリと火縄《ひなわ》の粉を赤く散らして、ドーン! と短銃の関金《せきがね》を引き放した。
「あッ!」
後の者は三方に飛び別れて、思わず大地へ身をうッ伏せる。
そしてまた身を起こそうとすると、しばらくの間隔をおいて、さらに凄じい三ツ目の弾《たま》がうなってくる。
そのまに、先の駕と人数と提灯とは、前へゆくお綱や万吉の姿をも引っくるんで、無二無三に、桐畑の坊主林《ぼうずばやし》を走りぬけ、どこへともなく急ぎに急いだ。
虎口をのがれたお綱と万吉も、それが、誰の人数か、提灯の印《しるし》が何かも気がつかずに、一本道のつづく限り、その人々の中にまぎれて走ったが、やがて、下谷の四《よ》ツ目《め》の辻《つじ》新堀端《しんぼりばた》まできた時に、ヒョイと道を交わそうとすると、
「万吉、もう少し先まで」
と、短銃を持った侍が言った。
何を問うまもなく、ふたたび駈けだした駕と人数は、堀端の施行《せぎよう》小屋の前から横道へそれて、佐竹ッ原の野中へグングンと入って行った。
朧夜《おぼろよ》ほどの空明りもないが、若草の匂いがどことなく漂《ただよ》って、わらじにふむ露湿りの感じも、夜ながら春らしい。
「もうこの辺でよかろうから、駕を下ろしてお待ち申そう」
待つとは誰のことか分らないが、火薬袋の紐《ひも》をクルクルと短銃の筒《つつ》に巻いて、打《ぶ》ッ裂羽織《さきばおり》の後ろへ差した最前の武士が、こういって止め合図をかけると、その露をふくんだ春草の上へ駕尻軽く下ろされて、若党らしい者三、四名、小侍が二人ほど、小膝を折って駕のまわりへズラリと休んだ。
ところで、お綱と万吉も、そこで初めてホッと息をつきながら、短銃を携《たずさ》えていた侍の顔をみると、なんと意外なことだろう?
それは、虎五郎が息をひきとった際に、御徒士《おかち》の小池喜平と名乗って長屋をおとずれ、その場でお三輪と乙吉の養育をひきうけて行った、あの若党連れの侍であった。
「おや、あなた様は?」
思わず目をみはると、その武士はニヤリと笑って、
「先程は失礼いたした。手前は松平左京之介《さきようのすけ》の家臣で、さだめし御不審に思われようが、只今、あのお方が後よりまいって、いずれ詳しいお話をいたすことであろう」と、控え目にいってそれ以上のことは口をつぐんでいる。
と、まもなく、佐竹ッ原の野道を、人影でも探すように歩いてくる武士があった。
「おお、常木様、こちらにお待ちうけ申しております」と、声をかけると、深編笠のその影がツカツカと近づいてきたが、その時、驚いたのは万吉で、常木|鴻山《こうざん》がどうしてここへ来たのか? とただ不審に思っていた。
「大儀でござった」
鴻山は駕側《かごわき》の者をねぎらって、少し離れた所に、茫然と立っている、お綱と万吉のそばへ寄ってきた。そして不意に、
「お綱殿――」と呼びかけた。
いつぞやこの人の紙入れを掏《す》ろうとしたことから、身の素姓を話して、何百両の金まで恵まれている鴻山に改まって、お綱殿と、丁重に呼ばれたから、ひそかに卑下《ひげ》を持つかの女《じよ》の心はハッとしたらしかった。
「万吉と一緒に、阿波へお渡りあろうという御決心、けなげに存ずる。で――鴻山が心ばかりの餞別《はなむけ》、おうけとり願いたい」
と、唐突にいって、懐中《ふところ》から取り出したものをお綱の手へ渡した。それは美濃の垂井《たるい》の宿《しゆく》、国分寺《こくぶんじ》の割印《わりいん》を捺《お》した遍路切手《へんろきつて》で、それを持って国分寺にゆけば、この三月の中旬に、阿波八十八ヵ所の遍路にのぼる道者船《どうじやぶね》の便乗をゆるされるということだ。
今、阿波二十七関は、一切、他領の者を入れぬが、宗法《しゆうほう》の者ばかりは、それを拒むことができないので、春と秋二度の道者船に限ってそれをゆるす掟《おきて》である――と、常木鴻山は、さらに詳しく説明した。
先に江戸を立って行った法月弦之丞も、垂井の国分寺に行って、ひそかに、それへ便乗する用意をしている筈、今から、道を急いで行ったら、或いはそこで落ちあうことができるであろう。――とも言い足した。
なお――今夜、自分がここへ来たことについては、こういって、二人の不審を解いた。
注意深い鴻山は、いつとなく、町年寄に頼んで、お綱の身の上を調べさせていた。そこへ、虎五郎の不慮の死を知ったので、代々木荘から松平家の者をやって、龍泉寺町にすむ御徒士《おかち》といわせて、その身がらを引き取ってくると、ちょうど、浅草寺《せんそうじ》の闇の中に、お十夜や周馬や一角などが、何か待ち伏せでもしているようなので、あの観音堂の内陣の扉に隠れて、一伍《いちぶ》一什《しじゆう》の様子を、のこらず聞いていたのだった。
前に、五十|間《けん》の町年寄から、お綱は甲賀という由緒ある侍の娘だということを、鴻山にいってきてはあったが、現在、阿波の間者牢《かんじやろう》にいる世阿弥の血をうけたものとは、自分も、その時に初めて知って、実に意外な心地がした――。とかれは感慨の深い面持ちで、お綱の顔をしげしげと見なおした。
いくら早立《はやだち》といっても、まだ人影もない真夜半《まよなか》。
江戸から中仙道へ踏みだす第一関門、本郷森川宿《もりかわじゆく》のとある茶店をたたき起こして、そこに、一|刻《とき》ばかり前に佐竹の原にいたままの駕《かご》や人数が休んでいた。
「では万吉、道中必ず気を配って、不慮のことがないように致せよ――、また弦之丞殿は何も知るまいから、落ちあった節は、よく、その後の事情を話すがよい」
この、街道口まで、わざわざ見送ってきた常木鴻山は、いよいよ夜にまぎれて江戸を立つ二人の者へ、何くれとない注意を与える。
お綱は、姿《なり》も形もそのままな上に、寝ているところを起こした立場《たてば》茶屋から、笠とわらじと杖《つえ》だけを求め、床几《しようぎ》を借りて、はきなれぬわらじの紐《ひも》を結んでいた。
支度がすむと、やがて二人は笠を揃えて、常木|鴻山《こうざん》の前に立ち、情け深い今日の取りなしに真心からの礼をのべる。
「おお、お綱殿にも堅固《けんご》にして、どうぞ、無事に、お父上に会われてまいるよう、鴻山も、蔭ながら祈りますぞ」
「何から何までのお心尽し、たとえ、途中で阿波の土となりましょうとも、決して忘れは致しません」
「なアに鴻山様、たとえ体が舎利《しやり》になっても、きっと、剣山まで行きついて、望みを達してまいりますから、どうか、御安心なすって下さいまし」
「遍路《へんろ》切手がある以上は、関所や便船になやむことはあるまいが、飽くまでもと、そちや弦之丞殿をつけ狙っている者もあることゆえ、ひとたび江戸を踏みだした後は、いっそう油断をしてはならぬぞ」
「よく承知いたしております。では鴻山様、めでたく大事を成し遂げて立ち帰りました後に、また改めてお目にかかります」
「おお」と鴻山も、門出《かどで》へ気味よくうなずいたが、
「お綱どの、一目別れを告げて行ったらどうじゃ」と、向うに据《す》えてある駕の垂《た》れをソッとめくった。と見ると中には、お三輪と乙吉がグッタリと無心な顔をして眠り落ちている。
「何も知らずにおりますから、このまま言葉をかけないでまいります」
「ウム。せっかく罪もなく、寝入っているものを起こして、また辛い涙をしぼらせるのも、心ない業《わざ》かもしれぬ。では、後々のことは案ぜられるな。殿も御承知の上、代々木荘で養育して取らせい、とおっしゃられたことでもあるから」
「ハイ、もうこれで、塵《ちり》ほども心残りはございません。ただ慾には、お千絵様に一目会ってまいりたいとは思いましたが……」
「そのお千絵殿も、今の容体では、まだ何を話してもお分りあるまい、いずれ病気が癒《い》えた後に、晴れて名乗りあう時節もござろう」
「じゃアお綱さん――」と促《うなが》しながら、万吉は笠の紐《ひも》を結んだついでに、今宵かぎりの江戸の空をふり仰いだ。
つるべ撃《う》ちに鳴った短銃が、観音堂の境内をゆすッてから、一刻ほどたった後だ。
しきりに、あっちこっちを見廻しながら、町人|態《てい》の男が、バタバタとそのあたりを駈け廻っていたが、お堂の西側にしゃがみ込んで、蝋《ろう》の裸火《はだかび》に顔を集めている三人の人影を見つけると、
「孫兵衛様で……」と身をかがめた。
「半次か」
三人の目が、一様にギラリとこっちへ向いた。最前、お綱が廻廊へ落していった反古《ほご》を見つけて、ヒソヒソと読みあっていたところらしい。
「どうした、先の様子は?」
「佐竹ッ原までつけて行って、すッかり様子を見届けて来ました。案の定《じよう》、邪魔をして行った奴らは、常木鴻山の廻し者でさ。まアそれはいいが、愚図愚図していられなくなったのは、お綱と万吉の方で、あの二人はとうとう今夜かぎりで江戸表にはいないことになりましたぜ」
「えッ、江戸におらぬと」
「鴻山の手から、阿波へ渡る遍路《へんろ》切手をうけとって、中仙道から、木曾路の垂井《たるい》へ急いで行きました。そこにゃ、先に姿を消してしまった法月弦之丞もいて、この春の道者船にのる支度をしているとかということです」
「あっ!」と三人は、あっ気にもとられたが、また躁狂《そうきよう》として、一刻も早く、万吉とお綱の道をくい止め、弦之丞と合《がつ》しぬうちに、非常手段を講じなければ――と騒ぎ立った。
しかし、それは、あくまで弦之丞を討たんとする天堂一角と、あくまでお綱に執着をもつお十夜のことで、ひとり旅川周馬だけは、割合に冷淡であった。
かれが一頃野望の爪を研《と》ぎぬいていた甲賀家の財宝は焼け尽し、お千絵様そのものは、恋すべきようもない乱心の人となっている。
木曾の巻
送り狼
未明のうちに、本郷森川|宿《じゆく》を出たお綱と万吉とが、中仙道をはかどって、もうそろそろ碓氷峠《うすいとうげ》の姿や、浅間の噴煙《けむり》を仰いでいようと思われる頃、――三日おくれて、同じ中仙道の宿駅に、三人づれの浪人を見ることができる。
それが、例の、お十夜と、一角と周馬であった。
こん度の旅は、無論、お綱と万吉のあとを追って、そのうえに、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》を刺止《しと》めるまでの目的だろうに、わらじ、野袴《のばかま》、編笠《あみがさ》という、本格の支度をしているのは天堂一角だけで、周馬は笠なし、お十夜は、笠もわらじも嫌いだといって、素《す》のまま着流しに草履ばきという風態《ふうてい》。
まだ軽井沢ぐらいはいいが、それから先の和田峠、猪《い》の字《じ》ケ原の高原、木曾の折所《せつしよ》などへかかったら、どうする気だろうと思われるが、小手調べの碓氷峠でも、さして難儀な顔もみせないところは、お十夜も周馬も、旅にはひとかどの見識をもつものとみえる。
「はてな? ……まさか、おれたちの行く道が見当違いをしているのじゃあるまいな」
上田の城下へ入る前に、追分《おいわけ》の辻から佐久《さく》街道へ折れて、青々とした麦畑や、菜《な》の花《はな》に染め分けられた耕地や森や、千曲《ちくま》の清冽《せいれつ》などを見渡しながら、フイに、お十夜がこう言いだした。
「なぜ?」
と、ふりかえったのは天堂一角。
根岸の闇で、法月弦之丞にやられた太刀傷《たちきず》が致命にいたらなかったまでも、かなり深傷《ふかで》であったとみえて、いまだに左手を首に吊っているのが、いかにも暴勇な剣客らしく目立って、往来の者が必ず、ふりかえってゆく。
「冗談じゃアねえ」
と、お十夜はふところ手で、
「もう江戸から四十里余り、三晩も泊りを重ねているのに、行っても行っても、万吉とお綱の姿が先に見当らねえじゃアねえか」
「そのことなら心配は無用だ。まさかに使屋の半次が、口から出放題なことを言いはしまい」
「それなら、もうたいがいに追いついている筈だが」
「イヤ大丈夫。実は小諸《こもろ》の立場《たてば》で念入りに聞いておいたことがある。ちょうど、きのうの朝立ちで、それらしい二人づれが、間違いなくこの街道へ折れたという問屋場《といやば》の話であった」
「ふウむ……そうか。すると今のところで、日数にしてたッた一日、道のりにして小十里しか離れていない勘定になる。それじゃ、もう一息で追いつけるだろう」
と、お十夜の語気は、景趣の変化につれて旅らしい軽快をもってきたが、周馬は、いっこう面白くない顔で、どこかで折った桑の枝を、杖とも鞭《むち》ともつかずに持って、一番あとからおくれがちに歩いてくる。で、一角が、
「一服やろうではないか」
千曲《ちくま》の板橋を渡るとすぐに、日当りのいい河原蓬《かわらよもぎ》へ腰をおろすと、
「よかろう――少し時間は惜しいが」
とお十夜も煙草入れを出して、きれいな玉石を床几《しようぎ》にとった。
「まだまだ先は永いから、そうあせるには及ぶまい。おい、旅川氏《たびかわうじ》」
「なんだ」
「少し休息してまいろう」
「さようか」
「貴公、あまり旅を好まぬとみえる」
「旅は好きだが、どうも、こんどの旅ははなはだ面白くない。人間の感情は正直だ、アテのない道かと思うと一日に十里の旅は楽でない」
「これは頼もしくない言葉。なぜ、今度の旅にアテがないと申されるか」
「孫兵衛や貴殿はいい。しかし、この周馬にとってみれば、こうまでしても、万吉や弦之丞を殺さねばならぬという必要がない」
「ばかなことを。墨屋敷《すみやしき》を焼いたのはお綱の為業《しわざ》でござるぞ。また、お千絵をああして奪ったのは万吉でござるぞ、よいか! そしてそれを傀儡《かいらい》したやつは法月弦之丞ではないか。それでも貴公は、きゃつらに何の怨みもないか! いやさ、吾々と力を協《あわ》せて、その怨《うら》みを思い知らせてやるという気が起こらぬのか」
「どうも大して起こらぬなあ」
「ちイッ。ぶ、武士らしくもないッ」
「お千絵といい、墨屋敷の財宝も、今ではみんな幻滅となってしまった。その揚句《あげく》に命がけで、万吉や弦之丞を狙ったところで、何の埋合《うめあわ》せにもなりはしない。拙者はもうここでお別れいたすよ。江戸へ帰って寝ていた方がはるかましだ」
「その無念を晴らすがいいではないか。その怨みを!」
「でも――親の仇《かたき》ではないからなあ」
周馬が歪《ゆが》んだもの言いぶりに、一角はムッとなって、
「だれが親の仇だといった?」
煙管《きせる》を片手にもって立ち上がった。
相手が、胸板へ迫ってきた血相に、周馬は少し言いすぎたことを後悔したが、行きがかりとなった唇は心と反対に動いて、
「うわッ面《つら》なあげ足をとるな! それまで深い遺恨《いこん》はもてぬといったまでの分《ぶん》ではないか」
「ばかなッ」と、一角はそれを睨み返した。
「では、なぜ、江戸を立つ前にそういわぬか。ここまで来た旅先で、面白くもないケチをつける奴だ」
「ケチはつけんよ、ただ旅川周馬一個人の立場について言明しているのだ」
「臆病風《おくびようかぜ》にさそわれてきたのだろう。江戸表にいるうちは、貴様も吾々と合体《がつたい》して、どこまでも、法月弦之丞を討《う》つと誓い、また、万吉も生かしてはおけぬと罵《ののし》っていたではないか」
「それは、そう思ったこともある。しかし、遺恨の怨みのというやつは、カッとなったときこそ真剣にもなれるが、明けても暮れても、いつまで火の玉みたいになってはおられない。ことにサ、旅になんぞ出てみると、よけいに冷静になるからなア」
「じゃアどうでも、吾々と目的を一ツにして行く気はないというのだな」
「オイ天堂|氏《うじ》。よく貴公は目的目的というけれど、これからお綱や万吉に追いついて、なお、弦之丞を討ったにしても、いったいその暁に、この周馬は何をつかむ勘定になるんだな? それが拙者には茫漠《ぼうばく》なのだ」
「勘定? ……フーム、すると貴様はなんだな、すべて最初から、打算《ださん》一方でかかっているのか。武士の意気地もなく、また、復讐の念慮もなく」
「だれが意気地ばかりで命がけになれるものか。早い話がお手前にしろ、お十夜にしろ、みな胸に一物《いちもつ》ある仕事ではないか。――周馬にはその報酬がない」
「呆《あき》れてものがいえぬわい。まるで腐った町人根性、もうそんな似而非侍《えせざむらい》とつきあう要はない、いやならここから帰れ帰れ!」
「なんだ、帰れとは!」
周馬も少し目柱《めばしら》を立てた。
いくら武士の意地立てを軽蔑《けいべつ》している周馬でも、ここまで罵倒《ばとう》されれば存分だ。そして思わず左の手が鯉口へ行ってしまったので、いやでも右の肩が挑戦的に一角の胸に寄りつく。
カチカチと、河原の石で煙管《きせる》の首をはたきながら、お十夜孫兵衛、こいつアおもしろい、周馬と一角でぶつかり合って、どんな仲間割れを演じるか、やるまでやらしておいてみよう――という態度で、止《と》めもせずに、また葉煙草を悠々とつめている。
「なんだ、帰れとは!」旅川周馬、重ねて癇《かん》にふるえながら、
「万吉やお綱はとにかく、弦之丞を討つには、お十夜の腕でもまだ心細いから、ぜひ助太刀を頼むと、いんぎんに、汝《なんじ》が両手をついて頼んだからこそ同道してやったのだ。それを、帰れとはなんだ! 帰れとはッ」
「やかましいわッ。貴様も多少は頼み甲斐になる奴かと見そこなって、蜂須賀家の御事情まで洩らしたが、その性根《しようね》を聞いていやになった。もう頼まん! 身どもと孫兵衛とできっと弦之丞を討ってみせる」
「オオ、そんなことは勝手にせい」
「いらざることを! トットと江戸表へ引っ返せ」
「誰が!」と周馬は、パッと袴《はかま》をはたいて、
「ウム、ここで別れてくれる」と、青筋を立てて歩きかけると、天堂一角、業腹《ごうはら》でたまらないように、つかんでいた銀延《ぎんのべ》の煙管を、周馬の横顔に叩きつけて、
「ふた股《また》武士めッ」とののしった。
その煙管が運わるく、小柄《こづか》のように、コツンと周馬のこめかみを打ったので、さすがのかれも、そのまま後ろをみせて立ち去ることもならず、
「ウヌ!」
と腰の一刀を抜き払って、天堂一角の真眉間《まみけん》へ跳びかかった。
抜くまでの意気地はあるまいと、周馬の足元を、あまり見くびりすぎていたのと、左手の利《き》かないために、一角は不意をくらって、あッ――とうしろへ飛びかわしたが、大きな玉石につまずいて、よろりと腰を砕いたので、仆れながら片手払いにパチンと抜きあわせた。
お十夜はニヤニヤ笑って眺めていた、吸いつけた煙管を口にくわえたままで。
この勝負をほうっておいたらどうなるだろう?
天堂一角にして左手の自由がきけば、もちろん、勝目は問うところではないが、まだ繃帯《ほうたい》のとれぬ片腕が、よほど体のかけ引きを妨《さまた》げるから、そこに、かなりな力量を減退されるものとみなければならぬ。
一方の周馬はといえば、これは、太刀筋において、グッと劣るが、最初から、あらん限りな罵詈《ばり》を浴びせられた揚句《あげく》で、無茶にムラッとした途端の切《き》ッ尖《さき》であるから、ふだんの周馬の実質よりも、相当な強みを加えている筈だ。
とすると、この仲間われの斬合いは、まず一角六分、周馬四分の力とみて、いずれは双方斬ッつ斬られつ、相討《あいうち》に近いケリをつけるのがおちであろう。
闘鶏《とうけい》のカケ合せでも見るようにお十夜はこう考えて、冷淡に落ちついていたが、まさか、血をみるまでほうってもおけず、やッと二人をかき分けて、
「どうしたッていうんだ。周馬も一角も」
と、仔細《しさい》らしく仲裁に入った。
「イヤ、どいてくれ! お十夜」
こうなると周馬は一そう息巻いて、
「あまりといえば口の過ぎた天堂の言い分、叩ッ斬ってくれねば虫が納まらん」
「片腹痛いことを、なんで貴様のようなヘロヘロ武士に」
満顔を朱にして、一角も片手にかぶった大刀を下ろそうとはしない。その太い腕節《うでつぷし》にはみみずのような血管がふくれている。
「旅先で兄弟喧嘩はよそうじゃねえか。え、一角。オイ周馬」
「ム、しかし、周馬を無事に江戸へ帰すと、阿波の内密を吹聴《ふいちよう》いたさぬ限りもない。拙者は主君のお家のためにも、この二股《ふたまた》武士を生かしてはおけぬ」
「まさか、いくら周馬でも、そこまで悪気がある訳ではあるまい。まア、このお十夜に任しておいてくれ、周馬の気持はよく分っている」
考えてみれば一角も、法月弦之丞という強敵をひかえている前に、一人の味方を失うのは得策でない。周馬も、一時、カッとした疳筋《かんすじ》の血が下がってみれば、もとより、好むところの斬合いではないので、不承不承《ふしようぶしよう》に、イヤ、むしろホッとした気持で、お十夜の扱いに任せることになった。
で、その晩は、小県《ちいさがた》の下和田宿《しもわだじゆく》に着いて、いかがわしい旅籠《はたご》でいかがわしい女どもを揚げ、いかがわしい酒と肴《さかな》で、昼の仲直りということになり、酔《えい》がたけなわとなるに及んでは、周馬がいかがわしい三味線に合せて、怪しげな江戸唄の声自慢までやりだした。
これで、酔中《すいちゆう》の妥協もついた。だいぶ酔ったらしい天堂一角、振分けを解いて、今まで二人に示したことのない、蜂須賀阿波守のお墨付《すみつき》を出してみせたりした。
そして、天堂一角は、どういう胸算をもっているのか、大望《たいもう》を遂げて帰国すれば、蜂須賀家では屈指《くつし》な格式にとりあげられるのは無論のこと、やがてまた、幕府が仆れ蜂須賀家が将軍の職をつぐ日には、自分も、十万石や二十万石の大名に成り上がることになる。つまり、今はその階梯《かいてい》だと、すばらしい気焔をあげて、周馬やお十夜の欲望のあまりに小さいことを冷笑した。
その揚句《あげく》に、いよいよろれつの廻らぬ舌で、
「だ、だから、貴公たちもすこし大きな慾を、か、か、かいたらどんなものでござる。……女! あはははは……女なんテ、ウーイ、女なんテ、ありゃ、男が畢生《ひつせい》の力をぶち込むものにはなりませんぞ。うふふふふ……ウソとお考えなさるなら、お十夜殿、アイヤ周馬先生、ど、ど、堂島へ出て、万金を賭して相場をやってごらんなさい。お、お綱だッて、お千絵様のことだッて頭から消えてしまう。イヤ、当然に消えてしまう!」
と、天堂一角、怖ろしく自信をもって、また珍らしくグデングデンに酔って、八戒《はつかい》のように寝てしまった。
だが、そんな酔いどれの哲学に頓着なく、お十夜は、座の目ぼしい女をさらっていつのまにか別間へかくれ、周馬もそれに習って、お千絵様を夢みながら、お千絵様とは似もつかぬ飯盛《めしもり》と旅のふすまをひッかついだ。
翌朝は、三人とも元気に肩を並べて、霞《かすみ》の晴れるまに大門《だいもん》峠を越え、和田村をすぎて、やがて午《ひる》少し過ぎには、和田の大峠《おおとうげ》をのぼりつめた。
佐平治《さへいじ》茶屋で支度をすまして、やおら、立ち上がって日ざしをみた。まだ七刻《ななつ》にはかなり間がある。諏訪《すわ》泊りには楽な時間。
九輪草《くりんそう》の多い下り道を、少し大股になりかけると、削《けず》り落したような絶壁の下から、うねうねと渓谷《けいこく》に曲っていく道を、先に、話しながらいく男と女がチラと目に止まった。
山《やま》の俊寛《しゆんかん》
花が散る花が散る。
天女にも五衰《ごすい》の相《そう》の悲しみはあるというが、花の梢《こずえ》は、いくら散っても散っても衰えないで、大地に空に、クルクルクルクル白光《びやつこう》の渦を描いてめぐる。
これがほんとの朧夜《おぼろよ》というのだろう。
微風《そよかぜ》はぬるく耳をなでるが、耳を驚かす音とてはない。空も森も伽藍《がらん》も池も山門も、ありとあらゆる象《かたち》のものが、シットリとした水気《みずけ》をふくんで、錫《すず》の細粉《さいふん》でも舞っているように光る、ほのかな春月がどこかしらにある。
その明りもきわめて鈍く、目をみはればみはるほど、白毫《びやくごう》の光が睫毛《まつげ》をさえぎるので、ここはどこかしら? と思い惑っているとかすかに一点の御灯《みあかし》がみえる。
アア、江戸で有名な、浅草の観音堂だな。
道理で、五重の塔がある、淡島《あわしま》堂がある。弁天《べんてん》山の鐘楼《しようろう》がある。
オヤ、誰かきたらしい。
小さい娘の跫音《あしおと》だ。
なんという可愛らしい小娘だろう。一人かと思ったら、また同い年ぐらいな少女が後からくる。何しに今ごろ通るのだろう?
道づれなのか? 別々なのか? だが、どっちにしても、なんと似ている少女だろう。オヤ、いけない、二人ともに目がつぶれている、手探りで歩いている――アアあぶない、あんな方へ。
おいおい、そんな方へ向いてゆくとあぶないよ。
池があるよ。橋は向うだよ。
おーい。聞こえないとみえる。おーい。
空の模様が変ってきた。
花《はな》旋風《つむじ》にさらわれるなよ、通り魔に肌を切られるなよ。あれッ、盲の小娘はどうした? 盲の小娘は? どこかでヒーッと泣いているようだが……。
しまった。
とうとう池に落ちてしまった。ああ、溺れてゆく、もがいている。
誰か助けてやらないか、観世音《かんぜおん》はアレを救おうとしないのか、あの盲目《めしい》の小娘を見殺しにするのか。
いけないいけない、見るまに深いほうへ入ってゆく、アア悲しそうな顔を向けて――。や! しかも、しかも! あれは他人ではないぞ、わしの娘ではないか、オオわしの娘だ、どっちもわしの娘なのだ。
早く助けてやってくれい。
誰か――誰か。
わしはあすこへ行くことができない。
誰かいないか、人はいないか。
アア観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》。
あれは私の娘です。
お千絵です――お綱です。
*     *     *
四国|阿波《あわ》の国第一の峻峰《しゆんぽう》、つるぎ山《さん》の頂《いただき》から一羽の角鷹《くまたか》が、バタバタバタと翼を鳴らして斜めに飛び、やがて、模糊《もこ》とした霞《かすみ》の底へ沈んで行った。
何かの音におどろかされて、甲賀世阿弥《こうがよあみ》は、ふッと、深い夢からさめた。
さめて、あたりの現実を見廻してみると、ここは江戸の観音堂でもなく、また花の散る朧夜《おぼろよ》でもなかった。
江戸の地から何百里を隔て、本土の国とは鳴門の海を隔てた阿波の国――。それも、海を抜くこと六千尺にあまるつるぎ山の洞窟《どうくつ》である。
チチ、チチ、と山千禽《やまちどり》のさえずりが聞こえるから、もう夜は明けているのだろうが、世阿弥の側には、魚油を点《とも》した火皿《ひざら》の燈心が、今のかれの命のように、心細く燃え残っている。
「ああ……」
と世阿弥は、夢の疲れを太く呻《うめ》いた。
この洞窟の中こそ、つるぎ山の間者牢《かんじやろう》である。かれが十一年の春秋をくり返した阿波の山牢《やまろう》。
また今年も、雪が解けて、春がきて、木の芽が吹いた。そして、きょうという日の夜が明けたが、それは、世阿弥にとって何の希望を意味するものでもなかった。
深い洞窟の中は、三間|幅《げんはば》ぐらいな板敷となっていて、そこに、藺《い》ござや獣皮が敷いてあった。
ぬらぬらと光って、生きもののような岩の肌からしたたる雫《しずく》が、冬は氷柱《つらら》となって剣《つるぎ》の天井となり、夏はポタポタと乳のごとく清水《しみず》を降らすので、いつか世阿弥が黒木柱を組んで、その上へ、柏葉樹《はくようじゆ》の葉をたくさんに葺《ふ》いておいたが、それも今では、真ッ黒に朽ちて、時折、氷より冷《ひや》やかな白玉《はくぎよく》を襟《えり》すじに落してくる。
「ああ、夢だった……」
やがて世阿弥はこういって、残り惜しそうな眼をあげた。
夢ほど楽しいものはない。夢はこの山牢を解放して、剣山から江戸までもさまよわせてくれる。今の世阿弥と現実の世の中との交渉は、ただ時折にみる夢だけに繋《つな》がれている。
やがて、かれは薄暗い岩窟《がんくつ》から外へ這《は》いだした。
そこには、何ものも萌《も》え立たせずにはおかない春の太陽が、らんらんと群峰の肩からのぼりかけていた。鵯《ひよ》、橿鳥《かしどり》、駒鳥、岩《いわ》乙鳥《つばめ》、さまざまな鳥がその恵みを礼讃し、あたりの山草や植物も、かがやかしい芽《め》や花に力をみせて、世阿弥の瞳はクラクラとしてしまった。
「あ……」と、かれは、痛いように、両手を顔に当てながら、洞窟の前からトボトボと低地の水際《みずぎわ》へ下りて行った。十一年もの間、岩窟に起き伏ししていたせいもあろうが、その姿は、この世の人とは思われない。陽の前に立っても、かれには影がないようだ。
岩から岩へチロチロ流れてくる雪解《ゆきげ》の水に、世阿弥は、ガクリと膝をついた。藁《わら》でつかねた麻のような髪を濡らして撫《な》であげた。
そして、その清冽《せいれつ》に口をそそぎかけた時、かれは、意外な物を見つけだした。あわててうがいの水を吐いて、向うの草むらへ飛びついた。
そこに四、五本の花梨《かりん》の木が生《は》えていた。秋から冬にかけて黄色い果実がつく頃には、この樹の実《み》がもつ特色のある芳香が、世阿弥をひどく慰めてくれるので、友達のような気がする樹である。今みると、その木の根にからむ雑草の中に、一本の、真新しい狩矢《かりや》が突っ立っている。
抜いてみると、矢羽はぜいたくな鷹《たか》の石打《いしうち》、やじりは槇《まき》の葉形のドキドキするものであった。それに錆《さび》がみえないところから察するに、つい、昨日かきょうの流れ矢であろうと思われる。
「ほ、また誰か、徳島城の者が、山へムダ矢を放ちにきているな……」
こんなことをつぶやきながら、世阿弥はそれをつかんで、洞窟の前へ戻ってきた。そして、日光に目を慣らしてから、改めて、その矢骨をズーと眺め廻していると、やじり二寸ほど上がったところに、沈金彫《ちんきんぼり》で蚤《のみ》のような細字。
竹屋《たけや》三位《さんみ》有村《ありむら》。
という切銘《きりめい》が読まれた。
「ああ竹屋……竹屋三位? ……」
かれにも記憶のある名とみえてややしばらく、それをみつめていると、どこかで明らかな人声がきこえだした。
「啓之助《けいのすけ》、啓之助」
「はッ」
「どうした? 意気地のない奴じゃ」
「イヤ、意気地のないわけではございませんが、さすがに、倶利伽羅坂《くりからざか》十八町を、ひと息に上ってまいったので、やや疲労をおぼえました」
「まだ、この上には一ノ森、二ノ森の嶮路《けんろ》がある。そんなことでは心細いぞ」
「いや、とんでもないことを」
「なにがとんでもないことじゃ」
「春とは申せ、まだ渓谷《けいこく》には雪があり、藤の森あたりはすこぶる危険でございます」
「ばかを申せ。きょうは是が非でも二ノ森を踏破して、お花畑の天《て》ッ辺《ぺん》から三十五社、蟻《あり》の細道、または人跡未踏という、剣《つるぎ》の刃渡り、百足虫《むかで》腹《ばら》までも、越えてみなければ気がすまぬ」
「なんと仰せあろうとも、まだ五月にならぬうちは、これより上のお供はできませぬ」
「ではこのほう一人で登りつめる」
「また有村様の横紙《よこがみ》破りな。万一お怪我《けが》のある時には、この啓之助の落度《おちど》として、殿より御|叱責《しつせき》をうけねばなりませぬ。どうぞ、今日はこの辺で、ひとつ日置流《へきりゆう》のお手際《てぎわ》を拝見いたしたいもので」
朽葉《くちば》一枚こぼれても、カラカラとひびく山中の静寂《しじま》――、それはだいぶ遠いらしいが、世阿弥の耳へは怖ろしく近く聞こえてくる。
空谷《くうこく》の跫音《きようおん》である。
世阿弥は耳をたてて、その人声のする方へ伸びあがった。
たいそう近くに聞こえると思ったが、その実在は遠くであった。かれのおる山牢は、一面の矮生植物《わいせいしよくぶつ》につつまれた、瘤《こぶ》のような地点だが、そこから見下ろすとズッと麓《ふもと》にあたる所に、ポチと、二個の寸影《すんえい》が立っている。
「お、あの人物だな……。だが、山目付《やまめつけ》でもないらしい? ……」とつぶやくうちに、世阿弥の姿が、ガサガサと樹木をわけて、その人影の方へ下って行った。
しかし、ある程度まで下りてゆくと、もうその先へは一歩も出られぬことになっている。
なぜかといえば、つるぎ山覗《のぞ》き滝の深潭《しんたん》から穴吹川《あなふきがわ》へ落ちてゆく激流が、とうとうと飛沫《ひまつ》を散らしている上に、その岩壁に添って、瘤山《こぶやま》の瀬をグルリと柵《さく》でめぐらしてあるからである。
つまりこの瘤山は、ひとつの山の離れ島をなしているわけだ。かれの終身間者牢は、この自然の地形と、人為の柵内とに局限されている上に、また、ここと麓《ふもと》の間には、三ヵ所の山関があって、たえず詰役《つめやく》の山番がいるから、どうしたって遁《のが》れだすことはできない。そしてその山見廻りは、麻植《おえ》、板野《いたの》の里あたりの原士《はらし》が交代で詰めることになっている。
甲賀世阿弥。
今――このつるぎ山の奥に、めッたにない人語を聞いたので、吾を忘れて、瘤山の柵ぎわまで駈け下りたが、別に、なんぞこれという目的があったのではない。ただ、その人影へ本能的に引きよせられたまでのこと。
ちょうど身の丈《たけ》ぐらいな這松《はいまつ》やつつじが、うまく体を蔽《おお》い隠したので、そのままジッと、柵の外を眺めていると、さっき倶利伽羅坂《くりからざか》の上にみえた二人が、依然と、はばかりない高声で話しながら、すぐ流れの向うへまできて、俎板岩《まないたいわ》の端へ腰を下ろした。
「啓之助、啓之助」
まるで、家来でも呼びつけるように、またそこでこういったのは、蜂須賀家の永居候《ながいそうろう》、竹屋三位卿であった。
「諦《あきら》めてやろう。それほどまでに頼むなら――」
「お、では、つるぎ山踏破のこと、お見合せ下さいますか」
と初めて、ホッとしたらしく答えたのは、阿波守、三位卿などとともに、昨年大阪表の安治川から、卍丸《まんじまる》でこの阿波の国元へ帰っている森啓之助なのである。
あの時、森啓之助は、脇船《わきぶね》の底に一個の長持を積んで阿波へ帰った筈だ。その長持の中には、たしかに、川長《かわちよう》のお米《よね》が隠してあった筈――。
さすれば、あの多病薄命なお米も、今はこの阿波の国の人となっている筈だが、啓之助は、そのお米の身をどう始末してしまったのか、人には、おくびにもそれを洩らしたことがない。
と――一緒に、あの時、かれは太守《たいしゆ》阿波守からいいつけられて、このつるぎ山の間者牢へ、俵一八郎と妹のお鈴を護送してきている。一八郎は、今なお、世阿弥のいる瘤《こぶ》山よりまだ奥深い、一ノ森の山牢へ封じこめてあるが、妹のお鈴は、この冬の寒気に凍《こご》え死んでいた。
で、啓之助は、以来、お船手方《ふなてがた》の役目をかねつつ、時々、このつるぎ山の目付役を仰せつかって、月に一度ずつは、必ず山牢の様子を巡察《じゆんさつ》することになっていた。
きょうも、実は、かれは山目付《やまめつけ》巡察の役目できていたのだが、そろそろ春めいてきたところから、食客の若公卿《わかくげ》、家中のもてあまし者、竹屋三位卿が、なんでも同行するというので、はるばる、徳島の城下から、山支度と狩装束《かりしようぞく》できたのはいいが、日置流《へきりゆう》自慢《じまん》の竹屋卿の弓も、二、三日の小鳥追いに、あまり大した獲物《えもの》がなかったので、すぐに飽きてしまった。
飽きたら先に徳島城へ帰るかと、啓之助が放《ほう》っておくと、こんどは、まだ絶巓《ぜつてん》には氷原《ひようげん》もあろうというのに、蟻《あり》の小道まで踏破《とうは》しゆかねば、阿波守への土産《みやげ》話《ばなし》にならぬといいだして、駄々《だだ》な若公卿の本領を発揮し、さんざんに、啓之助をてこずらせてきたところであった。
だが、この山牢のある近い所までくると、さすがに、森厳な冷気と山気《さんき》があって、きょうは諦《あきら》めようと我《が》を折ったので、啓之助は、はじめてホッと安心した。
で、ご機嫌の変らぬうちに、よろしく下山をすすめようと思っていると、不意に、森々《しんしん》とした空気を破って、
「山番ッ、山番ッ、山番はいねえか――」
とはるかな上で、絶叫するものがあった。
「ヤ……?」
啓之助はハッとして、三位卿の顔をみた。三位卿も、木魂《こだま》につんざいた今の声に驚いて、俎板岩《まないたいわ》の上へ突っ立った。
と――また一声。
「山番ッ――」という叫びが、高い木立の奥でしたかと思うと、時鳥《ほととぎす》のように、それなり後はシーンとしてしまった。
「何かあったな? ……」
竹屋三位は、星でも占《うらな》うようにつぶやいた。
「この山に、異変のある筈がございませぬ」
啓之助が否定した。
「イヤ、今の最後の声に鬼気《きき》があった。誰か人が斬り殺されたぞ」
「それは気のせいでござりましょう」
「啓之助、お前は兵学に通じておらぬから、話せない。人が殺される間際《まぎわ》の五音《ごいん》ほど明らかなものはないのじゃ。たしかに誰か殺されている。イヤ、誰かではない。今叫んだ声の主《ぬし》が斬られた……」
いいも終らぬ時だった。
真上の細道から、血まみれになった山番の下士が二人、バラバラと転《まろ》び落ちに下りてきた。三位卿の音声学もばかにはできない。啓之助は横顔を打たれたように、
「何事だッ」と、怒鳴った。
「おッ、お目付」
「ウム、いかが致した?」
「い、一大事です……」と息をかすらせたが、すぐ要領をいった。
「また、あの乱暴者が狂乱して、牢番の佐平の脇差を奪って斬り殺しました」
「えっ、斬った?」
と、おうむ返しにせきこむ啓之助の言葉|尻《じり》を取って、三位卿は得意らしく、
「ム、斬ったろう!」と大きくうなずいた。
「で、どうした、彼奴《きやつ》は?」
「佐平の声に驚いて、吾々が駈けつけてみた時は、もう柵《さく》を破っている切迫《せつぱ》で」
「ヤ、脱牢したか!」
「すわとばかり、組みつきましたなれど、なにせい、血刀《ちがたな》を持っている上に、いつものような死物狂い、とても、二人の敵ではなく、みるまにあの柵際《さくぎわ》から西谷《にしだに》へ向って、身を躍らせてしまいました」
「ば、ばか!」と森啓之助、口ぎたなく呶喝《どかつ》して、
「破牢して西谷へ飛び下りたのを見届けながら、空しく逃げ降りてくる奴があるか。合図|鳴子《なるこ》は何のために備えてあると思うのじゃ。うろたえ者め! 早く鳴子を引いて麓《ふもと》へ合図をしろ! 早く引けッ、鳴子をッ」
「おッ」
と、蹴飛ばされたようにはね上がって、
「そうだった!」と山番の一人、バラバラと彼方《あなた》の黄櫨《はじ》の木の下へ駈けだした。
ヒラリと、その喬木《きようぼく》の下枝へ飛びついたかと思うと、猿《ましら》のようにバサバサと木の葉を散らして攀《よ》じ登った。
登りつめた八分目の梢《こずえ》に、タラリと、一本の藤蔓《ふじづる》がかかっている――、片手で幹に抱きついて、片手をそれへ伸ばした山番の下士が、力いッぱいグンと引くと、電波のような力のうねりが、喬木の梢から梢をへて、谷のあなたの山関へ届いた様子……。
かすかだが、物々しく、グワラグワラッと鳴った合図の音響が返ってくる。
下に立って、仰むいていた啓之助は、それを聞きたしかめて下りようとする上の者を、
「待てッ」と手をあげて制止した。
「待て! そして、しばらくそこで様子を観望しておれ」
「は!」と、虚空《こくう》で返辞をする。
「見えるだろう、鞘橋《さやばし》の木戸が」
「うかがえます――、只今の鳴子合図に、手配の人数が動きだしました」
「ム、鬼淵《おにぶち》の間道《かんどう》のほうは?」
「よく見えませぬが……」と樹上の居場所をかえて手をかざしながら――「オオ、駈け向ってゆきました、原士《はらし》の方が十四、五名」
「鷭《ばん》の平《たいら》には?」
「見張が立った様子です」
「よし!」と森啓之助、うなずきを与えた。そして三位卿をかえりみながら、
「もう大丈夫――天魔鬼神でもこの山から踏みだすことはなりませぬ」と笑《え》みをみせた。
「脱走を企てたのは何者か」
「御存じの、俵一八郎でござります」
「ウム、あれか」
三位卿は、安治川屋敷の雪洞《ぼんぼり》と、阿波守が手に持った、ほたる斬《ぎ》り信国《のぶくに》の光を想い起こした。
「森様――」とまた、樹上から樹下へ、物見の山番が呼びかけた。
「おウ、なんじゃ」と、声に応じて振りあおぐ。
「見つけたらしゅうございます。俵一八郎を、八方から一ヵ所へ、ワラワラと人数が集まって行きました」
「そうか。手もなく捕えてしまったのであろう。では降りてもよろしい」と命令した。
で、啓之助は、すっかり不安を一掃したらしく、岩の上へ腰を下ろして、三位卿へ話を向けなおした。
「あなた様もご承知でございましょう。鳩使いの天満浪人《てんまろうにん》、俵同心と申した奴で」
「知っている。安治川のお屋敷へ妹を棲《す》みこませていた者じゃ」
「その妹の鈴も、この剣山に同獄しておりましたが、極寒《ごつかん》のうちに、凍死してしまいました。それ以来、一八郎め、ほとんど、野獣のように荒れ狂って無謀な脱走をくわだてますので、特に、山番二人と牢番一名をつけておきましたが、またもやこんな騒ぎをしでかしました」
「自暴自棄《じぼうじき》になっているのだ」
「この分では、ただの山牢では不安心ゆえ、改めて、前神《まえがみ》の森の石子牢《いしころう》へぶちこんでくれましょう」
「それほど手数のかかる奴なら、なぜひと思いに、首を打ってしまわぬじゃろう」
「隠密は斬るな、終身山牢へ入れて鳴門の向うへは返すな、間者を斬ると徳島城へ祟《たた》りをする――というのは、義伝《ぎでん》様以来、破れぬお家の掟《おきて》でござります」
「そうそう、大阪表におった頃、そういう話を阿波殿の口からも聞いたことがある。そのために、十一年余りも、この上の洞窟に封じ込まれている甲賀世阿弥、あれはまだ存生《ぞんしよう》でいるのか」
「生きているというのも名ばかり、まるで、うつせみかまゆを脱《ぬ》けた蛾《が》のように老いさらぼうておりまする」
「道理で、この柵の中から上は陰森《いんしん》としているな」と、その世阿弥が、流れをへだてた向うの柵ぎわに、ジッと身をかがめているとは知らずに、三位卿、なに気なくふりかえった。
その眼を避けようとして、世阿弥はあわてて身を引っ込めたが、おおいかぶさっていた山笹《やまざさ》やつつじの葉がガサガサと動いたので、
「や、何者か?」
と三位卿、身を屈して流れのうちから向うを睨んだ。
啓之助もズーと柵ぎわを見渡したが、格別、異状がないので、気にかけずに、
「山鳥か何ぞでござりましょう」と打ち消すと、
「おお、あんな所に」
「何をお見つけなさりました」
「わしが昨日《きのう》射《い》た流れ矢の先がチラと見える」
という声を聞いて、隠れていた世阿弥はハッと思ったが、もうなおのこと身を動かすことはできない。
「あれは秘蔵の鷹の石打《いしうち》じゃ。あとで誰かに流れを越させて、拾っておいてくれるように」
「承知いたしました」と、啓之助が答えるのと一緒に、竹屋三位、不意に、ヤッと叫んで小手をひるがえした。矢羽の先が浮いている木の葉の中へ、小柄《こづか》を投げて試したのだ。
それでも、何のそよぎもしないので、かれは初めて心をゆるしたが、小柄を打ったはずみに、己《おの》れのふところから金襴皮《きんらんがわ》の料紙入れが落ちて、ズズズと岩の間へ辷《すべ》りこんだのを知らずにいた。
倶利伽羅坂《くりからざか》の方から、にわかに、殺気だった人声がしてくる――。
精悍《せいかん》な装いをした阿波の原士《はらし》の十数人、一人の武士の両腕をねじとって、無二無三に引きずり上げてきた。それは脱走をもくろんで捕われてきた俵一八郎。見違えるほど痩せ細って、頬骨《ほおぼね》は尖《とが》り、目は青隈《あおぐま》をとったよう、眉間《みけん》にも血、腕にも血、足にも血……。ふた目とみられぬ姿である。
「お、来たか」と森啓之助、バラバラとそれを迎えながら、
「いく度となく山を騒がす憎ッくい奴、こんどは前神の石子牢《いしころう》へぶちこんで、身動きのならぬように致しておけ」
「石子牢? 合点です!」と、あけび蔓《づる》を輪にして提《さ》げていた一人の原士、流れへ寄ってザブザブとそれを濡らし、ピューッと手でしごいて紐《ひも》のように柔らかくしたのを、「それッ」と向うへ投げてやった。
歯がみをしながら俵一八郎、見るまに、あけび巻きにされてしまった。その水気が乾くに従い、蔓《つる》は針金より固くなって、一分《いちぶ》一分肉へ食いこんでいく一種の呪縛《じゆばく》だ。
柵の向うでは、甲賀世阿弥が、息を殺してこの無残さを眺めていた。かれの太股にも鋭い小柄が立っていた。――だが、今はそれを抜くだけの微動もゆるされない。世阿弥は、流れる血さえない傷口をおさえて、ジッとこらえつめていた。
阿波の国だけにあった特殊な武家階級、原士《はらし》という一族の中には、その頃までも、殺伐な野武士の血が多分に遺伝されていた。
蜂須賀家の家来であって、家来の束縛《そくばく》はうけていないし、無禄《むろく》の浪士に似て浪士でもない。いわば、山野へ放ち飼いにされていた客分である。
領主の田数帳《たかずちよう》にある以外の山地は、どこでも、かれらの自由所領とされていた。だから、かれらは決して城下に屋敷をもっていない。みな、阿讃山脈《あさんさんみやく》の根から、四国三郎の流れに沿った奥深くに、土俗風な門戸を構えている。
その中には戦国以来の旧家もあり、天草の残党だという家もある。山を伐《き》り拓《ひら》いて吉野川へ流す材木や、南国的な花の咲く長順《ちようじゆん》煙草《たばこ》などは、かれらの所領を富ますものであった。それでいて、皆ひとかどの武術に長《た》け、スワ城下に喧嘩でもあるとかいって、猛然と、かれらの群が、吉野川の流域を下る時は、ほうふつとして古《いにしえ》の野武士だ。
その、気の荒い原士たちは、なんらの仮借《かしやく》なく俵一八郎を引ッ立てて、前神の石子牢へぶちこんでしまった。石子牢というのは、一種の風穴《かざあな》で、穴の奥から冷たい風が吹いてくる上に、あたりの断崖からは、夜も昼も、たえずザラザラと小石の降る音がしている。
一八郎をその中へほうり入れると穴の口へは、大石や小石をかこってほんの食物を投げ込まれるだけの余地を残した。これでよし、と森啓之助は、竹屋三位卿を促《うなが》して、その日は麓《ふもと》へ下りてしまう。
翌日から、山はまた終日シンと静まり返っていた。石子牢に狂う一八郎の叫びも聞えなくなった。
一日ごとに、太陽の熱度が昂《たか》くなって、木や草ばかりがズンズンと伸びていった。静中の動、なんらかの力がそこに鬱《うつ》している。
だが――山は静かだ。
鬼気をひそめて静かである。
ところが、ここに不思議な現象が起こりだした。といっても、世間の巷《ちまた》とは違うから、そう大した異変ではないが、この山としては少なくもひとつの変った現象には相違ない。
それは何かというと、あれ以来、世阿弥の様子がにわかに生々《いきいき》としてきたことだ。かれは、竹屋三位の小柄《こづか》が自分の太股に深く突き刺さったにもかかわらず、山牢の前へ這い戻って、ニヤリと、十一年目といってもいい独《ひと》り笑《え》みを洩らしたのである。
「初めて知った……。ウーム、この山には、自分の他《ほか》に、まだ一人の同志がいる……。何といったっけ、オオ俵一八郎、俵一八郎、かれはたしかに大阪表の天満組《てんまぐみ》同心だ。あの様子では、ごく近ごろに、この山牢へ送りこまれてきたらしいから、さだめし、その後の消息に通じているだろう。なんとかして、あの一八郎と一度話をしてみたいものだ」
こういう希望が燃えだしたのである。希望は生命《いのち》の火のようなものだ。希望のうすれる時には人は老い、希望の赫々《かつかく》とする時には人は若やいでくる。
世阿弥は小柄《こづか》の傷を癒《いや》すために毎日、薬草の葉をムシっては、青い草汁を傷口へなすりこんだ、そして柵《さく》から脱けうる方法と場所に苦しんでいた。
ひどく山の荒れた晩があった。翌朝みると、一本の山栗の大木が、柵をくずして仆れていた。山番の者がそれを繕《つくろ》いにこないうちに、かれはその朽木《くちき》を引き入れて、草むらの中に隠しておいた。
春の夜も、山荒れのあと二、三日は、冬のような月の冴《さ》え方をしていた。世阿弥は真夜中ごろになって、獣《けもの》のように、間者牢から這いだした。
かれは、青白い月魄《つきしろ》をあびて、鬼のように働いた。やがて柵に攀《よ》じて外へ辷《すべ》り出したかと思うと、世阿弥は、隠しておいた朽木を激流の岩に架《か》けて、飛沫《しぶき》のかかる丸木の上を這って渡った。
「俵殿、俵殿……」
やっと尋ねあてた石子牢を覗《のぞ》いて、こう呼んだのは世阿弥である。パラパラパラパラ崖《がけ》から小石が降っている。その断壁面《だんぺきめん》の荒い岩肌に、藤の森から青い月がさしていた。
「一八郎殿……」と、もう一度、石と石との間をかき分けて、世阿弥が声をかけるとややあって、
「うウ……、た、たれだ!」
と風穴の中で物音がした。――物音はしたが、一八郎もこの深夜に訪れたものを深く怪しんだとみえて、めったに穴口へ顔を寄せてこない。
「俵一八郎殿……。わしは甲賀世阿弥と申すものでござる。阿波の者ではござらぬ。十一年以前からこの山牢に封じこまれている世阿弥と申す幕府の隠密でござる」
「やッ、世阿弥殿?」
「ご承知か」
「知っている!」と、一八郎、青白い顔を石の間からさし出した。世阿弥は、妖鬼に睨まれるような凄さをおぼえた。
「ウーム、なるほど。いかにも世阿弥殿であった。たしかにそこもとがこのつるぎ山にいるとは存じていたが、どうしても会うことができない。それゆえ、わざと、柵を破って山を騒がせ、そこもとの気がつくように致していたが……ああ、とうとうお気づき召されたか」
「や、では脱走する目的ではなくて?」
「なんで。――この山峡《さんきよう》を脱走したとて、四面は山と海との二十七関、とても逃げおおせぬことは某《それがし》も心得ている」
「うむ、仰せの通りじゃ。土佐境《とさざかい》も讃岐《さぬき》越《ごえ》も逃げ道はない」
「しかし、お目にかかればもう本望でござる。世阿弥殿、一言《ひとこと》お告げいたしたいことがある」
「オオ!」と顔を寄せあうと、二人の間へ、ザア――と箕《み》を開《あ》けたような砂礫《されき》が落ちてきた。それをかき落して、また穴口を作りながら、甲賀世阿弥。
「わしも、お身に会ったなら、何ぞ消息《しようそく》が聞かれようかと、それ一念で、山牢の柵を破ってまいったのじゃ。して、わしに告げたいこととは」
「江戸表におらるるそこもとの御息女お千絵殿という方から便りをもって、唐草銀五郎《からくさぎんごろう》というものが、阿波へ入りこむべく大阪表までまいりました」
「オオ、さては、唐草が娘の消息をもって阿波へまいりますとな?」
「さ、ところがその銀五郎は、目的の途中で、あえない最期をとげたのでござる。場所は、大津の禅定寺《ぜんじようじ》峠。――某《それがし》もまたその時に、阿波の侍のために捕われて、とうとうここへ送られてまいった。しかし、御落胆なさるな、まだ安治川屋敷に押しこまれている当時、手前の妹の鈴が探ったところによると、われらと同腹の者で天満組の目明しをしている万吉と申す者が、法月弦之丞という人《じん》の力を借りて、再度、阿波へまいる支度のために、お千絵殿を尋ねて行ったということでござります……」
「はて? ……法月弦之丞と申せば、わしが江戸表にいた当時は、まだ十四、五の美少年で、夕雲流《せきうんりゆう》の塾へ通っていた大番組《おおばんぐみ》の子息――。どうしてそれが、娘の千絵を存じているのであろう」
「二人は恋の仲だそうでござる」
世阿弥は不思議な気がした。かれが、夢にみるお千絵は、いつも彼が江戸を去った時のおさないお千絵であったから……。
「なるほど、もうそんなこともありそうな年頃。では、ついでをもって伺うが、その千絵女のほかに、お綱と申すものの消息をお知りなさるまいか」
「お綱? ……それはまた何者でござりますな」
「実を申すと、母違いの娘でござるが」
「ひと頃、大阪表を立ち廻っていた、女スリの見返りお綱という者はござったが? ……」
「いや、それは全く別人じゃ」
「無論、そのお綱ではござりますまい。だが、ほかにはお綱というような名は、誰の口からも聞いたことがなかった……」
「ないのが当然でござろう、親子《しんし》の情《じよう》、お笑い下さい」
「しかし世阿弥殿。ただ今お告げした通り、弦之丞殿が江戸へついた暁《あかつき》には、さだめし、それらの消息や、また公儀の旨をふくんで、いつかは一度、この山牢へも訪れるものと察しられる。必ずともそれを信じて、気を落さぬように」
「十一年ぶりで、初めてその吉報を聞きますわい。そうあればお手前もなおのこと、御短気をなされずに、阿波の密謀が公《おおやけ》となって、幕府よりお救いのある日をお待ちなさるがよい」
「ところが……」と、一八郎は暗然として、
「某《それがし》の命は旦夕《たんせき》に迫っています。それで……」
といいかけるうちに、もう彼の面《おもて》には、ありありとした死相がうかんでいた。
そこへ山番のしわぶきがきこえてきたので、世阿弥は、一八郎のいった意味を「なぜか?」と問い返してみる隙もなく、石子牢の前を離れて駈けだした。
森をぬけて断崖に出で、藤蔓《ふじづる》にすがりながら瘤山《こぶやま》の裾《すそ》へ戻ってきた。そして、朽木丸太を架《か》けておいた所へ出るまで、流れぎわの岩石と水草の間を這ってくると、何やら、妙なものがフト指先にふれた。
さわったと思うと、それが岩の間へ、スルリと辷《すべ》って行ったので、あわてて拾い取ってみると、月明りでしかとは分らないが、どうやら古風な懐紙挟《かいしばさ》みで、金襴革《きんらんがわ》の二つ折り、旅用とみえて懐紙以外なものが厚ぼったく挟んである。
「分った、これはあの竹屋三位が持ちものであろう」
世阿弥は、格別役にたつものとは思わなかったが、そのまま、ふところへ入れて、以前の所から激流を渡った。
そして、後に疑いを残さぬように、朽木を流れの中へ突き落すと、パッと白い水煙をあげて、その丸木が大蛇《おろち》のように浮かんでゆく。
で、無論、世阿弥が柵《さく》を出て、石子牢にいる一八郎と話をまじえたなどということは、山詰《づめ》の役人、誰一人として気がつかなかったが、永らく蟄伏《ちつぷく》していた世阿弥の心は、その日から、俄然と眼をさまして一縷《いちる》の望みを江戸の空へつないだ。
「わしがここにいるということは、まだ世の中から忘れられていなかった。今に! 今に! 誰かくるに違いない」
こういう信念をもったのである。
「しかし? ……」と冷静になってみる時に、世阿弥は、それもまた、あまりにはかない凡情《ぼんじよう》にすぎないのではないかと疑った。
単なる人恋しさから燃える希望ではないかと反省した。
幾多の危険を冒《おか》して、ここへ訪ねてきた者に、この姿を彼に見せ、彼の姿を自分が見たところで、果たして何の意義があろう。やはり、それも一つの夢想に過ぎない。一時の煩悩《ぼんのう》を、よろこばせ、涙ぐませるだけのことではないか。
――とも思うし、いやいや、そうではないとも思いなおした。
この厳しい密領へ、命がけで忍んでくる者があれば、それは、必ずや大きな意義をもたらすものか、求めに来る者でなければならない。
宝暦変以来、密雲につつまれているこの国の内秘。その謎をとき、その秘密の鍵《かぎ》を握っているのは自分だ。
法月弦之丞とやらいう者、また、天満組の万吉とやらいう者が、ここへ来る日があると、俵一八郎がいったのは、そうだ! その鍵を自分へ求めに来るのに相違ない。
永い山牢生活に、自分はあまり愚に返っていた。ただいたずらに、江戸へ残してきた二人の娘の愛情にばかり囚《とら》われていた。
本来、自分がこの阿波へ入り、こうした運命を招いた時の使命はなんだったか! 鳴門の渦《うず》と剣山の雲に蔽《おお》われていた徳島城の大秘密をあばいて、天下をアッといわせようという壮図《そうと》に燃えていたのではないか。
老いたものだ。甲賀世阿弥も、いつのまにか焼《や》きが廻った。その頃の元気を思うと恥かしい。
そうだ。支度をしておこう!
いつ何人《なんぴと》がこの山を訪れても、すぐに、自分の探っておいた限りの言葉を、その者へ、手渡すことができるように。――よしや、それが無駄になるまでも。
かれの思慮は、ここへ、ピッタリと落ちついた。
死花《しにばな》だ! 死花だ! と彼の心は躍ってくる。徳島城内のかずかずの密謀や、歴々と、阿波一国にみなぎっている反徳川の風潮を、十分に探っていながら、この終身牢に枯死《こし》してしまう運命であったものが、誰かの手で、江戸城へ届けられるとすれば、その甲賀世阿弥に死花が咲くわけである。
虫のごとき死をまぬがれて、人間らしい死を遂げることができる。
で、世阿弥はその支度をしようとした。
しかし、ひるがえってみると、この山牢の中に、悠々と、そういう記録などを書き残しておく、筆墨《ひつぼく》などはない筈である。
「はて? ……」と、その方策に腕をこまぬいた時、かれは、岩の間から拾ってきた、竹屋|三位《さんみ》の懐紙入れを思いうかべて、中を開いてみる気になった。
別にこれぞという物もなかったが、その懐紙挟《かいしばさ》みの中に、一帖《じよう》の絵図がしのばせてあった。
小形《こがた》な法帖《ほうじよう》みたいに折り畳んであるので、サラリと押し開いてみると、竹屋卿がわらじがけで実地を写したものらしく、徳島城の要害から、撫養《むや》、土佐泊《どまり》、鳴門のあたりを雑に書きかけてある海図だった。
だが、世阿弥の目には、それが書き半端《はんぱ》な海図とのみ単純には看過されなかったとみえて、
「お、これは、軍船の配りや布陣の線を引いたものじゃ。や、鏡島《かがみじま》の袋潟《ふくろがた》――鳴門の裏海には、いつのまにか、こんなにも多数の軍船がひそめてあったか」
と、図面の角点を数えて目をみはった。
「よいものが手に入った。これも、一つの証拠にはなる。しかも、公卿《くげ》方の者が自写したのは、何より有力な証拠品である。ウム、そうだ、これへ自分が隠密して探り得た箇条を書き加えて……」
ひとりうなずいた甲賀世阿弥は、ふすまに使っている鹿の毛皮をとりだし、また、瘤山《こぶやま》の窪《くぼ》みへ下りて、手ごろな篠《しの》を切ってきた。で、何をするのかと思うと、この間、太股へうけた一本の小柄《こづか》を細工刀《さいくがたな》として、斑竹《ふちく》の細い尖《さき》を切り落し、鹿皮《しかがわ》のワキ毛をむしって、一本の細筆《ほそふで》を作ったのである。
さて、筆はできたが、墨汁を何から得よう。
かれはまた、草木の中を歩いて、紫、藍《あい》、紅《べに》、さまざまな花をもんで試みたが、どれも日光にあえば色を失うのみか、筆にかかる粘力《ねんりよく》がない。
その中でも、割合に色素のありそうな、ぎらん草の花を選んで洞《ほら》へ帰った。そして紫色の汁を絞り、指を噛んで、自分の血汐をタラタラとそれへ注《そそ》ぎまぜた。
岩を机とし、獣油を灯《とも》し、かれは、さながら大蔵経《だいぞうきよう》を写しにかかる行者のごとく、端然と洞穴《ほらあな》にこもって、自分の血とぎらん草の汁へ筆をぬらしはじめた。
そして、竹屋三位が鳴門水陣の線を引きかけてある、あの折帖《おりちよう》の余白へ、きわめて細い字で、ポトリと五、六字書いた。
書けた文字をジッとみつめていると、血と紫花《むらさきばな》の汁がうまく混和して、墨よりも強い、玉虫色の光沢をおびてくる。
「これでいい」
と、世阿弥は額《ひたい》を抑えた。
遅々とした筆が運ばれだす。
灯《ともし》がつきれば獣油を足し、筆が渇《かわ》けば指の血を絞《しぼ》って……。
だが、筆にふくませる血液も、やがて、指からはしたたらなくなって、かれは、五体のいたる所を小柄で破った。
*     *     *
煙草《たばこ》船《ぶね》や藍玉船《あいだまぶね》が、白い帆を張って、ゆるゆると吉野川を辷《すべ》ってゆく。
その底には、もう若鮎《わかあゆ》がチラチラ光っているだろう。南国らしい黄花《こうか》の畑、変化に富んだ両岸の風景もかくべつだが、何よりはその大河の、砂と水のきれいなことといったらない。
きれいなといえば、水も水だが、アレをごらん、あのかんこ船に乗って、こッちへ上ってくる御新造様《ごしんぞさま》は、いずれ御城下のお方だろうが、なんというお美しいことだろう――と、藍取歌《あいとりうた》を唄っていた陸《おか》の娘が見とれていた。なるほど、この山水の紅一点《こういつてん》。今――西麻植《にしおえ》の岸へ船をつけて、スラリと、そこへ下りた美人がある。
阿波にはたくさんに美人がいるが、あの豊麗な、肉感的な、南国色《なんごくしよく》の娘たちとは、これはまた、クッキリと趣《おもむき》をかえた美人。
太夫《たゆう》鹿《か》の子《こ》の腰帯に、裾《すそ》を上げて花結びにタラリと垂れ、柳に衣裳をかけたようななよやかさは、東風《こち》にもたえまいと思われるほど、細ッそりとした形である。
「宅助《たくすけ》や……」と、うしろを向いて、
「うっとうしいから、お前、これを持っていておくれでないか」
紅緒《べにお》の菅笠《すげがさ》を下郎《げろう》に渡すと、うけたお供の仲間《ちゆうげん》は、それを自分の笠に重ねて、
「へい。もうお近うございますよ」
と、南の空をふり仰いだ。
剣山がそびえている。
「ここから、もう何里ぐらい歩いたらいいの」
「さア、私もこんな奥へ来たのは初めてで、よく見当はつきませんが、川島郷《かわしまごう》から湯立船戸《ゆだちふなど》、ザッと四、五里も歩いたら、穴吹口《あなふきぐち》へ着きましょうか」
「そこが、あの山の麓《ふもと》かね? ……。まだずいぶんあるらしいが、どこかに駕屋《かごや》でもないかしら」
「へへへへ、お米《よね》様。いつまで大阪表にいる気じゃ困りますぜ。ここは阿波の国も吉野川のグンと奥、そんな物があって堪るものじゃございません」
くいつめ者《もの》
仲間《ちゆうげん》づれの旅の女は、静かな大河に沿った道を、上《かみ》へとって歩きだした。
豆の花が飛ぶかとばかりに、たくさんな蝶が舞っている。群蝶にくるまれて行くうしろ姿が、目を吸われるほど美しい。
「そんなことをいうけれど、お前……」
仲間|風情《ふぜい》へ話しかけるには、もったいない笑《え》くぼをみせて、
「立派な乗物はないだろうが、山駕《やまかご》とかいうものぐらいはあるだろうに」
「そりゃ、ない訳《わけ》はございますまい。第一、馬ならたしかにお間に合せ致します」
「人をばかにおしでない」
ちょっと睨むまねをして、
「在所のお嫁さんじゃあるまいし、誰が、馬へのるなんていったえ」
「お怒りなすっちゃいけません。だから、乗物はないと、まっすぐに申しあげているんで」
「お前は私をなぶるから嫌いさ」
「エエ、どうせ嫌いは分っております。なにしろ大阪表にいた頃から、この宅助《たくすけ》は、仇役《かたきやく》にばかり廻っておりましたからね」
「ずいぶん私をひどい目に会わせました」
「またお怨《うら》みでござンすかい」
「一生忘れやしませんとも」
「じょ、じょウだんじゃねえ!」
と仲間の宅助、下司《げす》らしく頭を掻いて、
「そのお怨みはお門違《かどちが》いでござンしょう。ねえ、主人持ちのかなしさに、わっしはただ、いいつけられたことを真ッ正直に承るだけのこッてすぜ。命がけで安治川の渡船場から、お前様を引ッさらってきたり、長持の底へ入れて綱倉《つなぐら》の番人をしたり、ずいぶんロクでもねえことはやりましたが、その揚句に、思いを遂げて、うまい花の汁を吸ったのは、すなわち、手前のご主人様――怨むなら、その森啓之助様をお怨みなさいまし」
「知らないよ……」
「そう、早くお歩きなさいますと、またすぐに息が喘《き》れますぜ」
「――お前も怨むし、啓之助様も私は怨む……。ああ、こんな国のこんな山郷《やまざと》を歩こうとは思わなかった」
「いけねえいけねえ。そういう溜息《ためいき》がでた後は、いつでもきまってお体が悪くなる。気をかえて、雲雀《ひばり》の声でもお聞きなせえ」
「思い出すと腹が立つもの……」
「まアよろしいじゃござンせんか。これが、大江山へでもさらわれて、酒顛童子《しゆてんどうじ》のようなやつを亭主にしたというのなら、そりゃ諦《あきら》めもつきますまいが、城下|端《はず》れの小粋な寮へ納まって、お化粧料《けしようりよう》もタップリなら、遊山《ゆさん》やぜいたくもしたい三昧《ざんまい》、森啓之助様の思われもので、お米の方様というお身分は、決して悪い仕合せじゃございませんぜ」
この仲間《ちゆうげん》の粘《ねば》り舌が、少ししつこくなってきたので、傷つきやすい旅の心は、急に女を憂鬱にさせた。
もう、いわずもがなのことだが、この痩形《やせがた》の美人こそ、去年の秋まで、大阪の立慶《りつけい》河岸《がし》にいた川長《かわちよう》の娘お米《よね》であった。
連れているのは啓之助の仲間、お米を阿波へ運ぶ時に、骨を折った宅助である。二人の口ぶりから察するに、お米はその後、心ならずも、啓之助の意に従わねばならぬ、余儀ない境遇に落ちているらしい。
だが、その心の奥底には、当然、まだ啓之助の腕では、ねじ伏せきれないものがあるだろう。
それが二人の会話にチラチラ出る。弱い女の不平と反抗だ。けれど形の上では、もう誰が目にも、お米は啓之助の囲《かこ》い女《もの》、宅助はその番人という態《てい》になっているのを否めない。
ただ、幾分か、お米にとってよろこぶべきことは、あの癆咳《ろうがい》の病のかげが、大阪にいた頃より大層よくなっていることだった。瞼《まぶた》のあたりの青いかげや、病的であった頬の肉艶《にくつや》、それがズッと健康らしく見えてきた。
環境が変ったからであろう。
お米の囲われている寮のあり所が、海気《かいき》と松風に恵まれている地に相違ない。
黙って歩くと道が遠い。
何の用向きをもってきたのか、指して行く剣山の麓《ふもと》までは、まだなかなか道のりがありそうだ。
「こいつはいけねえ、とうとうこじれやすいお米をこじらしてしまった」と、仲間の宅助が後からテクテク供をしながら、少ししゃべりすぎたかなと後悔した。そして、何とかひとつご機嫌をとり結ばなくっちゃ……と思っていると、
「おウい――」と、突然。
うしろのほうから遠呼びに手を振ってくる男がある。
「おーい」とまた一度呼びとめて、こっちへ急いでくる者をふりかえると、顔は見えない、一文字の笠、ヒラヒラするのは縞合羽《しまがつぱ》だ。
「誰だろう。こんな所で呼ばれる者はない筈だが……」お米が少し気味悪げに道をよけていると、程もあらず、そこへ追いついてきた一文字笠の男は、
「もし、川長のお米さん」
と、いきなり、図星《ずぼし》をさして、合羽《かつぱ》の片袖をうしろへはねた。
帯の間の手拭をぬき取り、口を歪《ゆが》めながら、生《は》え際《ぎわ》の汗を拭いている顔を覗《のぞ》いたが、お米にも宅助にも、どうも覚えのない男だ。
「私をご存じのようだけれど……お前さんは?」
「お忘れでございますか」
「さア……どうも」
「去年の夏の初め頃は、立慶河岸へ屋根舟をつけて、よくお前さんの家の、川魚料理を食べに行ったものですぜ」
「ああ、それじゃ店のお馴染《なじ》みでございましたか」
「なアに、馴染みというほどでもねえが、お十夜孫兵衛という男と、飲み仲間でよく一座したことがある」
「それを聞いて思い出しました。ではあなたは住吉村にいた……」
「そうよ、あの頃ぬきや屋敷に住んでいた甲比丹《かぴたん》の三次《さんじ》という者だ」
「まア、人というものは思いがけない所で逢うものでございますね」
「冗談をいいなさんな、読本《よみほん》の筋じゃあるめえし、こんな四国の山奥で、バッタリ行き逢ったり何かして堪るものか。実はお前《めえ》の尋ねてゆく人に俺も少し用があって、この通りの汗だくで追いついてきたのよ」
「私の尋ねてゆく人って? ……」
「トボけちゃいけませんや、お前《めえ》さんの旦那様だ」
お米はほろ苦い顔をした。
仔細をきくと、甲比丹の三次は、去年以来、禁制の密貿易をやるぬきやの仲間とちりぢりばらばらになって、諸方の港場を流れていたが、うまい仕事も見つからないので、これから尋ねてゆく森啓之助に、身の振り方をつけて貰うのだといった。
「なんだい、この虫ケラは?」
と側《そば》にきいていた宅助は、その虫のいい言い草と、三次の図太い面構えにあきれている。
お米とすれば、もと大阪の店へ来つけた客ではあり、啓之助とこの男と、どんな関係があるかないかも知らないので、話に釣られながら、肩を並べて歩きだすよりほかなかった。
「ふざけた野郎だ」
虫の納まらない仲間の宅助、後から来て先へ立った甲比丹の三次へ、突ッかけるように、
「おい!」と声をかけた。
「なんでえ!」語気が同じに弾《はず》んでくる。
「どこへ行くんだ、てめえは一体」
「今もいったとおり、森様へ用向きがあるんだ。城下のお屋敷をたずねたところが留守、じゃテッキリと思って、お米さんの妾宅へ行ったところが、そこも留守だ。で、だんだん探ったところが、吉野川を舟でお前《めえ》たちが上ったということが知れたから、やッとこうして道づれになれたてえものよ」
「だが、ちょッと待ちねえ。うちの旦那は、お前《めえ》のような者たあ知合いがねえ筈だぜ」
「向うで知らなくっても、こちらさまはよくご存じの者だからしかたがねえ」
「しかたがねえという法があるものか。どこの馬の骨だか牛の骨だか分らぬ者に、なんで旦那が逢うものか、はるばる行ってみるだけ無駄骨だ」
「ご親切はありがてえが、よけいなことはいって貰《もら》うめえ」
「なにを」
「およしッ――宅助」お米はあわてて目で止めた。この人気《ひとけ》のない山郷《やまざと》で、間違いでもあられた日には、女はどうする術《すべ》もない。殊に、隼《はやぶさ》のような三次のまなざしを見ただけでも、そんな手軽いコケ脅《おど》しに怖《お》じて、後へ引っ返すような生《なま》やさしい食いつめ者でないことは分り過ぎている。
それよりは、一刻も早く、啓之助や原士《はらし》たちのいる剣山の麓《ふもと》へ辿《たど》りつくことを急いだ方がよいと、お米は息ぎれをこらえつづけた。
つるぎ山の麓口に、原始的な一部落がある。巨大な石材や自然木《じねんぼく》の柵《さく》に囲まれている建物は、原士の詰めている山番所、その向うに目付屋敷が見えた。その附近に散在しているのは、つるぎ山を見廻る小者《こもの》小屋や、土佐境《とさざかい》の関所へ交代してゆく山役人の溜《たま》りなどである。
陣屋門みたいなそこの出入り口へ、今、足を引きずって来たのはお米と仲間《ちゆうげん》の宅助で、もうこの辺へ来て四方を仰ぐと、綱付山《つなつきざん》、赤帽子岳《あかぼうしだけ》、丸笹《まるざさ》の峰などが、白雲の上に巨影をみせているので、まったく、山奥へ来たという感じが深い。
「もうここまで来れば、日が暮れようと、雨が降ろうと、安心なものでございます。どれ、とにかく、取次を頼んでみましょう」
と、宅助がつかつか門際《もんぎわ》へ寄ってゆくと、前後してきた甲比丹《かぴたん》の三次が、もうそこにいた組子《くみこ》の者に、腰をかがめて何かしゃべっている。すると、
「さようか、では、しばらくそこに待っておれ」
と一人の小者が奥の目付屋敷へ入って行った様子。三次は、なれなれしく門小屋の土間炉《どまろ》へしゃがみこんで、煙草《たばこ》入れをとりだしていた。
「恐れ入りますが、ちょっと、お願い申します」
こんどは宅助が揉《も》み手をして行って、
「御城下からお出張《でばり》になっている、森啓之助様へお目にかかりたい者でござります。どうぞお取次を願います」
「その森啓之助様なら、只今、同役が知らせに行ったよ。しばらく待っておいでなさい」
「いえ」宅助は、わざと三次へ目もくれないで、
「そこにいる者とは違います。手前は、啓之助様の召使なので、へい」
「ああ、同行してきた者ではないのか」といっているうちに、奥の目付屋敷の方から、森啓之助の姿がこっちへ向いて歩いてきた。
「誰じゃ、この方《ほう》に密用《みつよう》があると申してまいった者は?」と啓之助、そこへ来て見廻すと一緒に、すぐと、門のかげにチラと見えたお米の姿に気づいたが、わざとそれを後廻しにして、組子にたずねた。
「ええ、啓之助様、その甲比丹《かぴたん》の三次はここにおります。どうもまことにお久しぶりで」
「はて、そちは? ……いっこう覚えがないように思うが」
「こんな山の中だから、思いだせないのでございましょう。あなたもお船手組《ふなてぐみ》の森様、わっしも密貿易《ぬきや》船《ぶね》の三次です。お互に水の上で顔を合せりゃ、ああ、あの時のあの野郎かと……」
「うむ、わかった、あの三次か」
「折り入って、お願いがあってまいりやした。誰か、お美しいお客様もあるところ、長いお邪魔はいたしませんが、ちょっと、しばらくお顔を貸していただきてえと存じますが」
啓之助は、下らぬ者を取り次いだ、組子《くみこ》の愚鈍を腹立たしく思ったが、何となく、脇の下へもたれこんでくるような三次の口ぶりを、強くはね返してもまずいかと考えたらしく、
「そうか、では目付屋敷の、執務所《しつむじよ》の縁がわへ行って控えているがいい。何の用事かしらぬが、後からまいってきいてやる」
「ありがとう存じます。やれやれ、これでわっしもホッと致しやした。何だッて、この山奥まで尋ねてきて、面会は相ならんなどと、木戸を突かれた日にゃ御難ですからネ」
脱いだ合羽を片腕に垂らして、お米のほうへ目をくれながら、自然石《じねんせき》の石段を上《のぼ》って、向うの役宅の庭へ廻って行った。
と、啓之助は、それを待ちかねて、すぐに門の外へ出た。そして、サッサと向うの樹蔭《こかげ》へ行ってから、お米を目でさし招いた。
「どうしたというのだ、お前は? 勝手に出歩いてはならぬというのに、このような役向きの所へ何しにきた。また、連れてくる宅助も宅助じゃ」
こう咎《とが》めたが、啓之助の挙動《きよどう》は、むしろ、お米が不意に来たよろこびに、落ちつかないほどなのである。
誰にも内緒にしている匿《かく》し女が、役向きの出先へ不意にやって来たので、啓之助は、こそぐッたいよろこびと舌打ちしたいような困惑を感じた。
目付屋敷には、まだ竹屋三位がいるので、そこへ曰《いわ》くのあるお米を連れこむことはできないし、逢曳《あいびき》のように外でひそひそと話しているのは、なおさら外聞《がいぶん》にかかわる。
で、自分が案内して、附近の家へお米を待たせておき、口を拭いて、目付の執務所へ帰ってきた。
啓之助が使用している机の側から、煙草《たばこ》盆《ぼん》を煙管《きせる》の首で引ッかけて、その縁側に腰をすえこんでいた甲比丹《かぴたん》の三次。顔をみると狎《な》れッこい態度で、
「ああいう美女《たぼ》をこの山奥まで逢いに来させるなんて、旦那も、なかなか罪つくりでございますね」と、啓之助にとっては、すこぶる不愉快なお追従《ついしよう》笑いをした。
「そんなことはどうでもいいが、三次とやら」
「やらはござんすまい……ご存じの仲で」
「揚げ足をとるな。多用な役宅のことじゃによって、用向きの次第、簡単に承ろう」
「簡単にね、結構でございます。じゃ手ッ取り早く申しますが、森様、まことにご迷惑じゃございましょうが、ひとつ、わっしをお船手《ふなて》か何かでお使いなすって下さいませんか」
「では、何か、貴様は雇《やと》われ口を求めにまいったのか」
「至る所を食い詰めましてね、もうこの阿波よりほかにゃ、のんきに暮らせそうな所はねえんで」
「それは断《ことわ》る。殊に、お船手の水夫《かこ》も、今では他国者《たこくもの》をお召抱えにはなるまい」
「じゃ、それはよろしゅうございます。断られて引っ込むことに致しやす――。その代りにですね、森様、たんとじゃございません、千両といいてえが、その半分ほど、ご拝借願いたいと思いますが、どんなものでございましょう」
「な、なにをいうのだ」
「お金を貸してくれという話なので」
「そちは正気でないと見えるな。暴言を吐くにも程があるぞ」
「程があると思うから、千両欲しいところを、こっちから五百両と負けて出ているんじゃございませんか。安いもんでございます、何とか算段をしておくんなさい。それもサ、何もお前さんの自腹《じばら》を切って出せという話じゃねえ、蜂須賀家のお金蔵《かねぐら》から、威張って引きだせる筋のものです」
「だまれ! 蜂須賀家の公金を、たとえ一文でも、貴様のような奴に下さる筋があろうか」
「出ねえものを取ろうとして、無駄骨を折るような三次じゃございません。じゃ、そのところを、チョッピリ耳こすり致しますが、蜂須賀様じゃ、また近頃、だいぶ精を出して、火薬を買い込むって話じゃございませんか――あの天下|御法度《ごはつと》の戦薬《いくさぐすり》をね。そりゃ、何かに要《い》るからでござンしょうが、廈門《アモイ》船や西班牙《スペイン》船から長崎沖で密買した火薬を、この阿波の由岐《ゆき》港に荷揚げをしてコッソリと、渭《い》の津《つ》の山へ運びこむってえ噂が、もっぱら評判でございますよ、といっても、色をかえて、びっくりすることはございません。その評判は海の上のことで、まだ怖《こわ》い江戸城の親玉へまでは知れていねえ話ですから」
「…………」無言でいるうちに、啓之助の色が青くなってきた。この獰猛《どうもう》な男の毒《ど》ッ気《け》にあてられたのだ。そして彼は四、五年前にも、新鋭の銃器何千|挺《ちよう》を、外船から密輸入した時、その折海の上で働いていた密輸入《ぬきや》仲間《なかま》に甲比丹《かぴたん》の三次という名が重きをなしていたことを思いだした。
「もうよけいなおしゃべりは止めましょう。わっしも、楽に食えている身分なら、御無心なぞにゃまいりませんが、去年、住吉村の巣を荒されちまった後、どうも運の悪いことばかりで、食うや食わずの手下が五、六人も、口を開《あ》いて待っているんです。どうぞ何とかお助けの方法を講じてやっておくんなさい、でないと、わっしは我慢いたしますが、空《すき》ッ腹《ぱら》まぎれに乾分《こぶん》の奴が、御当家のことを、どんなふうに世間へ吹聴《ふいちよう》するかもしれませんので」
「これこれ三次、貴様は何か思い違いをしているらしい、そりゃ何かの誤聞《ごぶん》であろう」
「冗談いっちゃいけません、永年潮風に吹かれている密輸入《ぬきや》の三次、海の上のことなら迅風耳《じんぷうじ》だ! じゃ、こんどはお前《めえ》さんの手相を一つ見てやろう」と、片あぐらを抱《かか》えこんだ三次は、テコでも動かぬ面構《つらがま》えをして、啓之助の顔をジッと見ながら、
「あー、お前《めえ》も少し密輸入《ぬきや》をやったことがあるな。しかも、そいつア美しい生物で、イヤだと泣くのを手込《てごめ》にして、お関船《せきぶね》の底へ隠し、他領者を入れちゃならぬ御城下へくわえこみながら、殿様の目をかすめているという人相だ……」
と、啓之助をゆすっていると、どこからか、ヒュッ――と風を切ってきた矢が、三次の喉笛《のどぶえ》を貫いて、白い矢羽《やばね》を真ッ赤に染めた。
白粉《おしろい》くずれ
ひどく酒の醗酵《はつこう》する香《におい》がすると思うと、そこは山役人の食料や調度の物を入れておく納屋らしく、裏の土間に、咽《む》せるばかりな酒樽《さかだる》が積んである。
お米《よね》は、そこの薄暗い一間《ま》に、いつまでも待たされていた。もとより装飾も何もない部屋なので、夜になることを思うと、急に心細くなった。それに、家の中に蒸《む》れている酒の気がたまらなく鼻をついて、香《におい》だけでも酔いそうになった。
それとは反対に、宅助は、冷酒《ひや》を酌《く》んで、五、六杯も盗み飲みをした揚句、いつか、裏土間の藁《わら》の上へ、高鼾《たかいびき》をかいて居眠ってしまった様子。
重い戸の開《あ》く音がした。啓之助が入ってきたのである。真っ青な顔をして――。
「お米……」
「旦那様ですか」
「ウム、どこにいるのじゃ」
「こちらの部屋でございます」
「あ、そこは、納屋番が夜寝る所じゃ、その廊下の奥がよい」
「どこも同じじゃございませんか。ほんとにひどい旅籠《はたご》だこと……。ああ、この天井板のない屋根裏を見ていると、大阪表から来た時の、怖《こわ》かッた船底が思いだされます」
「ばかな」
かれも、それをいわれることは、古傷《ふるきず》にさわられるような気持がすると見えて、舌打ちをしながら、お米の側へ来て坐った。するとお米は、「あら……」と、後ろへ手をついて、
「血が……あなたの袖に、ま、耳のところへも、なまなましい血が……」と目をみはった。
いわれた所を撫《な》で廻《まわ》して、掌《てのひら》についた色を眺めながら、
「なんでもない」
「どうなすったのでございます」
「甲比丹の三次の血だよ、わしの身から流れた血ではない」
「え? ……あの三次を、殺したのでございますか」
「竹屋三位が矢をもって射殺したのだ。あの居候殿は、人を殺すのが好きで困る」と、かれは血におびえた心のうちで、三次の手下どもが、火薬一件や自分とお米のいきさつなどを、世間に流布《るふ》せねばよいがと案じていた。
お米もまた、啓之助の頬へ、ベトリとつぶれた血糊《ちのり》のかたまりを見て、にわかに、胸がムカムカとしてきた。この国へきてから、しばらく忘れていた血痰《けつたん》が、胸のどこかに、時機を待って鬱滞《うつたい》しているのではないかというような神経を起こしたりした。
「陰気だな、この中は」
「早くお話をして、私は、今日のうちに御城下へ帰ります。こんな所に、一晩夜を明かしてはいられません」
「ばかを申せ、今頃から帰れるものか」
「でも、いたたまれやしませんもの」
「一体、何用《なによう》があってまいったのだ。こういう山家《やまが》ということを存じながら、来たほうが悪いではないか」
「実は、急に、お願いがありまして……」
「また、大阪へやってくれということか」と苦《にが》ッぽい声の下から、針のような筋が啓之助の眉に立った。
「エエ……」
先にいわれてしまったので、お米はうつむきながら、かすかに、哀れッぽい声をかすらせた。そして、来る途中で巧《たく》みに織《お》ってきた作りごとが、グッと喉《のど》につかえてしまった。
「何度いおうと、いけないといった以上、ゆるすことはできないのじゃ。もう四、五年もたったらやってくれる、それまでは大阪へ帰ることはならぬ」
「帰るとおっしゃいますけれど、決して、もう、大阪へ行って、戻らないというのではございません、すぐにまた阿波へ」
「いけないといったら!」
「だって、そ、そんな……」
「くどいッ」
「そんなこと、む、無理でございます」
「ちイッ、くどいというに!」
いきなり啓之助が、お米の頬を打った時、お米は、ワッと泣いて、
「口惜《くや》しい、わ、わたしは、こんな所へ手込《てごめ》に連れてこられた上に、お母《つか》さんが死んでも家へ帰られない」
涙がこぼれてくると、胸につかえていた空言《そらごと》までが、苦もなく、真実そうにスラスラ口へ出てきた。
お米の怨《うら》みがましい泣き声をきくと、啓之助はまたかというような舌打ちをして、じゃけんに唇を噛みしめた。
「何をメソメソ泣くのだ! ものの分らぬにも程がある」
「わ、わからないのは、あなたのほうじゃございませんか」
「やかましい、ここをどこだと思うのだ、男の役目先へまで来て吠《ほ》え面《づら》をかく奴があるか」
「どこであろうと、私は言いたいことを申します。エエ、弱くしていれば、私なんか、今にあなたのために殺されてしまうかもしれない」
「ウム! どうしようと、この啓之助の一存だ」
「私だって、なにもこの国へ、島流しにされた科人《とがにん》ではなし、身を売ってきた女でもございませんからね」
お米も負けずに言い返した。
そして、止めどもなく、流れる涙を流れるままに任して、いかにも憎そうに、啓之助を睨みつけている。
その眼が、以前から怨みつらみの数をならべて、男にものをいうような時、啓之助の気持も妙に荒《すさ》んできて、食いちがっている二人の心と心とが、行く所まで、いがみあわなければ止《や》まないのが常であった。
今も、かれはお米の眼色から、深い反抗が自分に燃えてくるのを感じて、
「身を売ってきた女ではない? フーン、だから、どうしろというのだ」と青ざめて、殊さらに冷たくいった。いう下からお米もまた、
「帰して下さいというんです!」と肩に波を打った。
「どこへ?」
「大阪の家へ」
「虫のいいことを――だれが!」
「か、かえして、くれないとおっしゃるんですか」
「知れたこッた」
「よ、ようございます――、あなたがお暇《ひま》をくれないなら、私は私の勝手に大阪へ行きますから。立慶河岸のお母《つか》さんが、危篤だという早打《はやうち》がきているのに、帰らずにはおられませんからね……」
「嘘をいえ、そんな、見え透《す》いた偽りをいっても、この啓之助が手放すものか」
「嘘ではございません、宅助に聞いてごらんなさいまし、たしかに、家から手紙が来ているのですから」
「くどい! 何といおうが、わしが大阪へ行くときには連れても行くが、そち一人でまいることはならぬ」
「そ、そんなことをいわないで……」お米は我《が》を折って、啓之助の膝へ泣きくずれながら、「――すぐに帰ってきますから、どうぞ、二十日《はつか》ほどお暇《ひま》を下さいまし、ほんとに、今いったような、知らせが来ているのですから」
「いけないッ」と、それでも啓之助が意地強く突ッ放すと、お米はもう嘘や頼みではきき入れられない口惜しさと捨鉢とで、
「あなたは鬼だ! 悪魔のようなお人です!」
「オオ、おれは鬼だ。お前がわしをそうさせたのじゃ」
「みんなに聞いて貰います、世間の人に何もかも話してやります。お関船の底へ無体に私をほうりこんで、その上にまだ……」
「大きな声をするなッ」
「しますッ。どっちが無理か世間にきいて貰います」
「ばか、ここは剣山の麓だぞ」
「向うの目付屋敷には、竹屋三位様がいらっしゃいます。三位様のお耳へ届くように、私はわざと大きな声でいってやるのです」いきなり立って、窓の障子へ手をかけた女は、もうヒステリックにうわずっていて、放っておいたら、威嚇ばかりでなく、ほんとに、何をしゃべりだすかしれないような血相だったので、啓之助もうろたえ気味に、
「ばか! つまらぬことを口走るな」
と、お米の口を手でふさいで、
「そんなことが御家中へ洩れたら、わしばかりではない、二人の身の破滅ではないか」
「い、いいえ、いいえ!」
啓之助の手へ爪を立てながら、お米は、髪のこわれるのも忘れて、首を振った。
「いってやります――御家中方の耳へ」
「お米! あまり男を見くびるなよ。そちは命が惜しくないのかッ」
「殺すのですか、殺すというのですか」
「ウーム、どこまで口の減らぬ女め、啓之助にも、いよいよとなれば、それ相応な覚悟がある」
「殺してください、死んでも私は」
「ええ、どうして貴様は、そうわしを……」
ねじ仆《たお》して重なりあった体が、人目もなく挑《いど》みあった。肺臓《はいぞう》の弱いお米は、啓之助に胸を押されて、苦しげに目をふさいだが、啓之助は盲になったように、その細い喉首《のどくび》を抱きしめた。お米は、さからいきれない力をふるわせて、ヨヨ……とすすり泣きを洩らすばかりだった。そして、殺すといい、殺してくれと叫んでいた男と女が、気だるい春昼《しゆんちゆう》の納屋倉《なやぐら》に、蒸れ合うばかりな情炎の餓鬼となって苦悶した。
しばらくしてから……
「ね、今のこと」
お米は、たぼのくずれを、きゃしゃな指で梳《す》きあげながら、男に、うしろを向けていた。
「いいでしょう、ほんとに」
その姿を見るともなしに見やりながら、啓之助は腕枕をかって、グッタリと横に寝ている、酒がさめたような血色をして、
「そんなにも大阪が恋しいか」
「そりゃあ……」
髪へ手を当てたまま、そこらに落ちた鬢止《びんど》めを目で探して――
「生れた土地ですもの。それに、アアして、不意に来てしまったのですもの」
啓之助も、少し哀れげを催《もよお》して、「じゃ、きっと半月ぐらいで帰ってこいよ」
「行ってもよろしゅうございますか」
「うむ」
「では、これから帰って、すぐに支度や何かをして」
女が、苦もなく急《せ》きだすのを見ると、かれの心はまた、たやすく手離したくないように動きだして、
「だが? ……まあ待て」と重苦しい口を濁して、そして、何かいおうとしたことまで黙ってしまった。お米は、かれの遅疑をみると、「いいとおっしゃったのでしょう、ね、あなた」
あわてて、一生懸命に、啓之助のそばへすりよって、男の体を抱くように、
「じらさないで、後生《ごしよう》ですから」
と、機嫌をとると、
「エイ、娼婦《しようふ》みたいな真似《まね》をするな」
啓之助は、かえって癇《かん》にふれた声をして、お米を突き放して起き上がりざま、ふところからつかみだした船切手《ふなぎつて》の木札を、女の膝へ叩きつけた。
「行ってこい! だが、なんだぞ、もし大阪へ行ったきり戻らぬ時には、きッと命を貰いにまいるぞ、いいか、それだけを忘れるなよ」
「まあ、邪推ぶかい」
「それでなくとも、貴様は剣山の隠密みたいに、隙さえあれば逃げたがっているんだ」
「そんなことがあるもんですか、きっと、一日でも早く、阿波へ帰ってまいります」
「宅助を付けてやる、あれを連れてゆけ」
「エエ、その方が、私も気強うございます」
「で、近いうちには、お関船《せきぶね》の便がないから、上方へ荷をだす四国屋のあきない船へのせて貰うがいい。そして、帰りには、月の下旬に阿波へ戻る同じ船で、きっと帰ってこないと承知せぬぞ」
ともすると、啓之助が気を試そうとするふうなので、お米はうれしそうな顔色を隠すことに注意していた。
と。二人のいるこの納屋蔵《なやぐら》のまわりへ、急ぎ足にきた人足が止まって、
「森様――。森様はここにおいでではございませんか」戸をこじあけて入ってくる様子だ。
「あ、誰かきました」
「お米」
啓之助はあわててあたりを見廻して、納屋番の藁《わら》ぶとんが積んであるうしろへ、女を隠した。そして自分から入口の土間へ姿をみせ、
「啓之助はここにいるが、なんじゃ」
「あ、おいでなさいましたか」
入ってきたのは、剣山の山番たち、ゾロゾロと七、八人、一人が手に一本の矢を持って、漆《うるし》が干《ひ》からびたような鏃《やじり》の血汐を啓之助に見せていった。
「石牢にいる俵一八郎が死んでおります」
「えっ、一八郎が絶命した?」
「はい、何者かに、射殺されたので」
「それを見せい」
引ったくるように取ってみると、まさしく竹屋三位《たけやさんみ》の矢である。この間三位卿は、間者牢のいわれを聞いてその迷信を嘲笑していた。
そして、冗談のように、今でも隠密を殺せば徳島城にたたりがあるかないか、試しに、世阿弥か一八郎かどちらかのひとりを殺してみたら面白いがといっていた。
また責任のない居候どのが、口に年貢《ねんぐ》のいらぬ戯《ざ》れ言《ごと》をいうな、とその時は、啓之助も笑っていたが、これをみると、竹屋三位卿、ほんとに、剣山の迷信へ、槇葉《まきば》の鏃《やじり》をうちこんでしまった。
「とにかく一八郎の死骸を片づけ、仔細を徳島城へ申しおくることにいたそう。いつもながら放恣《ほうし》な三位卿、困ったことをしでかしたものだ」
と眉をひそめながら、啓之助は、また鏃《やじり》の血の痕をみるにつけて、思わず肌を寒くした。
かれの脳裡にも、自分では意識しない迷信のおびえがあった。
「――折も折、渭《い》の津《つ》のお城に、何ぞ不吉なことがなければいいが……」こう思う不快さに目をつぶった。啓之助ばかりでなく、変を知らせてきた山番たちも、伝説の禁断を破ったことが、何となくそらおそろしい様子で、必然、この結果がなくてはならぬように信じている。
強請《ゆすり》にきた甲比丹の三次を、物蔭から一矢《いつし》に射た時には、三位卿の殺人好みも悪くは思えなかったが、その放恣な矢を石牢の中へまで放ったのは、いくら大事な食客殿としても、少し殿の優遇に狎《な》れすぎるきらいがある、と啓之助は、目付役という自分の職責の上から腹を立てた。
それを報告したら、さだめし太守も神経を突ッつかれるに相違ない。けれど下手《へた》に隠蔽《いんぺい》しておいて後日に分るような場合には、自分の落度とならざるを得ないから、一刻も早く徳島城へ帰って、ありのままに上申し、向後《こうご》あの居候殿の放縦《ほうじゆう》も少し慎しむような方針をとるべく、上《かみ》にも御意見しなければならぬ――と啓之助は、山番たちの前に息まいて、それぞれの指図を与え、納屋蔵の外へ追いやった。
そして自分は、前の陰湿な部屋へ戻っていった。そこには今し方、お米がとりみだしたすすり泣きや髪の匂いが、愛慾の感情にからみやすく漂《ただよ》っていたが、かれの頭脳《あたま》は不意の事件で忘れたようになっていた。
「お米、わしもにわかに、御城下へ帰る都合になったから、すぐに支度をせい」
「え、これからすぐに」
「ウム、空も少し曇り模様、明日《あす》とのばして雨にでもなると困る。疲れたであろうがすぐに立とう」
「いいえ、まだ歩けないほどではございません」
隠れていた藁《わら》ぶとんの蔭から、そういいながら、襟《えり》をかきあわせて立ったお米は、徳島へではなく、大阪表へ早く帰れる都合になったうれしさを、思わず顔に出している。
酔いと疲れで、だらしなく寝込んでいた仲間《ちゆうげん》の宅助、にわかに起こされてうろたえながら、またわらじの緒《お》を結びなおして、裏道から四、五丁出てゆくと、啓之助は菅笠に霰《あられ》の打《ぶ》ッさき羽織で、先に廻って待ちあわせていた。
「もし家中の者に出会ったら、わしの側を離れて、素知らぬ振りをしてゆくがよい。吉野川へ出れば下りの舟、乗ってしまえば別に人目の心配はないわけだが」
匿《かく》し女を持っているのも、なかなか細心でなければならぬ。啓之助は歩きながら、たまたまくる里の百姓にも気を配って、お米と道をひとつにして行く。
「徳島へつくと、わしは屋敷へも寮へも寄っている暇がない。さッきお前が聞いていた通りの事情で、すぐに登城して殿へ委細の報告をせねばならぬから――。で、お前は、いずれ寮へ帰った上に、何かの支度もあろうから、その間に、宅助をやって、四国屋の荷船の都合を問い合わせてみい。それから、最前渡した船切手、あれを落さぬようにな、よいか、また大阪へまいっても、御当家のことや要《い》らざることを他言《たごん》してはならぬぞ。宅助、そちにも何かの注意を頼んでおくぞ」
もう二里ほどは歩いたろうと思われる頃である――三人のゆく後ろから、大地に馬蹄をひびかせて、まっしぐらに駒を飛ばしてきた若者がある。
驚いて、両方へ道を開いたとたんに、土を飛ばして、鞭《むち》をくれ、疾風一陣に駈けぬけた馬上の人――パパパパッ――と十数|間《けん》走り越したところで、急に手綱をしぼり止めたかと思うと、
「オオ、啓之助、啓之助!」
ふりかえって、家来のように呼んだものだ。
「――早くまいれよ、徳島城へ! 女の足をいたわっていると間にあわんぞ! 江戸へ上った天堂一角より、何やら大事な知らせがまいって、また一会議あろうと申すぞ。身にも急いで帰城せよと、阿波殿からのお招きじゃ。早くこい! 早くこい! 天下の風雲急ならんとする秋《とき》、女のひとりぐらいは捨てて行ってもよいではないか」
そこで、ピシリッとまた一鞭《むち》、悍馬《かんば》をあおッた竹屋三位は、菜種《なたね》の花を蹴ちらして、もうもうと皮肉な砂煙を啓之助に残して行った。
気がついてみると、午後も早遅いのではあろうが、にわかに空も地もドンヨリと薄ぐらく、剣山の肩の一部が、まッ黒に見える以外は、いちめんなる雲であった。その雲の裡《うち》には、甲賀世阿弥が、今も血汐の筆をとって、秘帖《ひちよう》に精をしぼっているだろう。
雲の奥か、地の果てからか、おそろしい響きが人身《じんしん》に感じてきた。
煙草《たばこ》畑の娘たちは、雑草抜きをやめて姿をかくした。やがて、土佐境《とさざかい》の空には春雷が鳴っていた。
疑心暗鬼《ぎしんあんき》
諏訪《すわ》の温泉《ゆ》町《まち》は、ちょうど井桁《いげた》に家がならんでいる。どこの宿屋にも公平に内風呂というものはないので、その井《い》の字なりの町のまんなかにある三棟《むね》の大湯へ、四方の旅籠《はたご》のお客様がみな手拭《てぬぐい》をブラ下げて蝟集《いしゆう》していた。
ここは木曾路をへてくる上方《かみがた》の客、信濃路《しなのじ》からくる善光寺帰りの旅人、和田峠をこえて江戸の方角から辿《たど》りつく旅人などが、一夕《いつせき》の垢《あか》を洗うべく温泉《ゆ》をたのしみに必ずわらじを脱ぐので、中仙道の宿駅のうちでも指折りな繁華をみせていた。
夕方の六刻《むつ》というと、もう三道の客が織るように入ってくる。温泉《ゆ》町《まち》の入口は馬や駕《かご》や運送の人足で埋まっていた。昼間はさしては白くもみえない湯けむりが、宿屋の軒にまでモクモクと這いだして、硫黄《いおう》の匂いまでがなんとなく生新《なまあたら》しく鼻をうってくる。
赤い前垂をかけた宿引の女が、ぶかっこうな杉下駄をはいて猫じゃらしの帯をふりながら、向う側とこっち側で、互いに腕にヨリをかけるのはその時分で、
「かしわ屋でございます、かしわ屋はこちらでございます」
「桔梗《ききよう》屋は手前どもで、昨年もごひいきになりました」
「ハイ、越後屋でございます」
「お馴染《なじみ》の鍵《かぎ》屋はこちらでございます」
喋々《ちようちよう》とさえずるばかりでなく、信濃そだちの強力で、笹をひッたくる、振分《ふりわけ》を預かってしまう、合羽の袖《そで》にほころびをこしらえる。文句をいえば、晩にわたしが縫ってあげます――と上手に見る。またそういうのに宿引女の極伝《ごくでん》があるそうで、わざとほころびをきらす女ばかり抱えておく別宿《べつやど》もあったりする。
なにしろ、大湯《おおゆ》の横にひッついている湯番小屋で、五刻《いつつ》の拍子木を打ち、導引《どういん》の笛がヒューと澄む頃までは、このかしましさがやまないのである。
「ホイ」
「ここだな」
「会田屋《あいだや》さん、お客様だぜ」
下《しも》ノ湯《ゆ》の角《かど》にある大きな宿の店先へ、二|挺《ちよう》の駕がおろされた。
「ご苦労様」
「駕屋さん、こちらへ掛けて一服お吸い」
「ようお着きなさいました」
「お洗足水《すすぎ》を」
「いえ、お荷物はこちらへ」
女中や番頭に取り巻かれて、すすぎ盥《だらい》の前へ腰かけたのは、商家の内儀《ないぎ》らしい年増の女と、地味な縞《しま》ものを着た手代《てだい》風の男であった。
足を拭いていると、帳場|格子《ごうし》にいた会田屋の老主人が、ちらと見て、初めて気がついたように筆を耳に挟《はさ》んで出てきた。
「これはお珍らしいことで、四国屋のお内儀《ないぎ》様ではございませんか」
「おや」と、つつましい笑い方に黒豆をならべたようなおはぐろの歯を見せて、
「善七さんでしたか、いつもお達者らしくて、ほんに、けっこうでございます」
「はい、おかげさまで、ありがたいことでござります。したがお内儀様、こんどもやはり善光寺へお詣《まい》りのお帰りでいらっしゃいますか」
「ええ、それが実は、小諸《こもろ》のほうの取引先に、ちと藍草《あいぐさ》の掛《か》けがたまりましたので、信心やら商用やら」
「おお、それじゃたいそうな廻り道で……きょうはあの和田峠をお越えなさりましたな。さぞお疲れなことでございましょう」
「疲れもどこかへ消えてしまいました。その和田峠から、とんだ目にあいましてね」
「ま、そこではなんでございますから、さ、どうぞこっちへ」
「新吉《しんきち》や」と、手代の方へ目交《めま》ぜをして――「お前も早くこッちへ体を隠したがよい。そんな所に坐っていると、また外から見えるじゃないか」
「四国屋様」
「はい」
「なにか外で、怖ろしいことにでもお逢いなされましたか」
「エエ、和田峠から、私たちを、つけ廻してくる侍がありましてね」
「へえ、あなた方を? ……」
「お宅へ着いて、ホッとひと安心いたしましたが、まだこのように胸が波を打っておりまする。誰か、お冷水《ひや》を一杯下さいませんか」
「怖ろしい侍たちでございました。しかもそれが三人づれで、和田峠の下りから、オーイと、私たちを呼びはじめたではございませんか」
四国屋とよばれた商家の内儀は、宿屋の老主人にこう話して、青い眉毛の痕《あと》をひそめた。
「ほ、三人づれの侍が?」
「ふりかえってみますと、上から早足に追ってまいります。それは、かなり間がありましたゆえ、わたしどもは怖い一心で、麓《ふもと》へつくとすぐに駕《かご》へ乗ってまいりましたが、気味の悪い侍たちは、それから先まで執念ぶかく駈けてきたそうでございます」
「ま、なんという図々しい奴」
「藍草《あいぐさ》の掛《か》けを取ってまいりましたので、その金に目をつけられたかと存じます」
「そうかも知れませぬ。ですが、もうご安心なさいまし、ここへ来たとて、決して泊めは致しませぬ」
「もしまた、姿でも見つけると、これから先、上方までの道中が、ほんとに思いやられます」
「そういう訳なら、早く、奥の部屋へ隠れておしまいなさいませ。おいよ、四国屋のお内儀様を……そうだな、どこがよかろうか」
主《あるじ》の善七が考えていると、そのまに、四国屋のお久良《くら》と手代の新吉は、案内もなしに奥の廊下へバタバタと走りこんでしまった。
妙に思って、なんの気なしに善七が店先を見ると、今、お久良から話をきいていたばかりの三人組の侍。
「ここだろう」
「ここらしい……」と、あたりをジロジロねめ廻しながら、遠慮なく店へ寄ってきた。
ひとりは熊谷笠《くまがいがさ》をかぶり、ひとりは総髪《そうはつ》、そのうしろには、底光りのする眼をもった黒頭巾|黒着《くろぎ》の武士。
これはいうまでもなく、お十夜とほかふたりの者である。和田峠の中腹を下ってきた時、周馬と一角が、先へ遠く急いでゆく男女のうしろ姿をみとめて、あれこそ、お綱と万吉に相違ないとばかり、にわかに意気ごんで、足を早めて追いかけたのだ。
すると、追えば追うほど、いよいよ先の男女《ふたり》が、後もみずに逃げだす様子なので、初めの怪しみは、的確に、それと思いこむようになってしまった。
「駕のついたのはたしかにここだ」と周馬が会田屋《あいだや》の前で明言すると、お十夜と一角がズッと中をさし覗《のぞ》きながら、ゆるせよ、と声をかけて、すぐに埃《ほこり》をハタき笠と振分を投げだしそうにした。
外にいた客引の女が、それと知って、あわてて洗足水《すすぎ》だらいをそこへすえると、帳場のわきに立って眼を丸くしていた主《あるじ》の善七、びっくりして店先へ飛んでくるなり、
「ばか!」と、女をどなりつけた。
「もうどの部屋もいッぱいで、御案内する座敷もないのに、なんでお断りしないのだ。気のきかないやつめ、ましてやお武家様方へ、しッ、失礼千万な」
叱られた女は、いったい、何がどうした叱言《こごと》なのかわからないが、客商売の断るかけひきはままあるので、そのまま、口をつぐんでいる。
「どうも申し訳がございません」
善七は如才なく両手をついて、
「せっかくでございますが、上も下も、折悪《おりあ》しくふさがりまして、御用に足りますような座敷は一つもござりませぬ。まことに申しかねますが、どうぞほか様へひとつお越しのほどを」
三人は黙って顔を見合せたが、こう不自然な断り方をされてみると、一層、ここへ逃げこんだ男女《ふたり》がてッきりそれと思われるし、善七の方にしてみれば、そう疑ってくる三人組の侍が、ますます道中稼ぎの浪人者とみてとれる。
「そうか、座敷がないとあらば、無理に泊ろうとはいわぬが……」
と天堂一角、傷の片腕を胸に曲げ、熊谷笠のうちから亭主の面《おもて》を睨みつけた。
「今し方のこと、当家へわらじをぬいだ男女がある筈、それをここへ呼びだして貰いたい」
「おまちがいではございませんか……私どもには、いっこうそんなお客様は」
「隠すな! たしかに見届けてまいったのだ」
「いえ、決して、隠しなどを」
「では出せ、その者をこれへ出せ!」
「でも、そういうお客様は、ハイ、今し方ならなおのこと、男女《ふたり》づれのお泊りはございませぬ」と、一角の威嚇《いかく》を巧《たく》みにうけて、どこまでも善七が言いぬけていると、側にみていたお十夜が、ちぇッと、歯がゆそうに癇《かん》を起こして、
「やい、亭主、甘くみてたかをくくっていると、気の毒だが、土足で家探しという荒療治になるぞ、いくら茶代をハズまれたかしらねえが、それとこれと、どっちが算盤玉《そろばんだま》に合うか、よく考えて返辞をしろ」
これはまるでムキ出しな浪人伝法《ろうにんでんぽう》。一角ほど肩肱《かたひじ》は張らないが、その代りに、黙って刀が先にものをいいそうだ。
大湯の八間燈《はちけん》や宿屋の軒行燈《のきあんどん》にちょうど灯の入る刻限なので、退屈な温泉《ゆ》の客と入りこんでくる旅人が、たちまち輪になって、会田屋の前をふさいでしまった。
「見世物ではないぞ、なんでそこらに立つか! あっちへ行け、あっちへ行け」
旅川周馬は、お十夜と背なかあわせに向いて、むらがる弥次馬を追っぱらいながら、顎《あご》のにきびをつぶしている。
そのうちに、湯番がきて、会田屋の肩をもったり、喧嘩と思いちがいして、仲裁に入る侍が出たりして、お十夜のかけあいも、ついに、一場の喜劇となってしまった。
土地には土地の約束もあるし、ことに、温泉《ゆ》町《まち》のような場所には、犯すべからざる旅客の掟《おきて》がある。いくら一角の自来也鞘《じらいやざや》や、周馬の風采にひと癖ありとみえても、めッたにそれを破らすものではない。
なおこれ以上の騒動を起こすと松本の代官所からやっかいな者が出張《でば》ってくる懸念もあり、かたがた衆人環視の中なので、ぜひなく三人は、会田屋の前を離れた。
しかし、そこを去ったとはいうものの、もとより素直《すなお》にこの諏訪《すわ》の温泉《ゆ》の町を出てしまったわけでは無論ない。七、八歩あるいて、すぐ前の十三屋という家へ入った。そして、会田屋の二階と向い合っている表二階を明けさせて、ここから前の出口を見届けていようということになった。
さらに、それでも不安な点があるので、宿の者に過分な心づけを与えて、あの時刻に、会田屋へ入った男女《ふたり》の客が、裏口からでも立った時には早速知らせてくれと、念入りに手を廻して、さて、やっと、旅装を解いたのである。
周馬もどてらになり、一角もどてらに着かえたが、お十夜は着流しなので、あえてその必要もなく、茶をすすっていると、それを残して、二人はいつのまにか外の温泉《ゆ》につかってきた。
「なかなかいい温泉《ゆ》だ、お十夜も一風呂ザッと浴びてこないか」
「おれは後で行くよ、寝しなに」
膳がくる。蜆汁《しじみじる》の椀《わん》、鯉のあらい、木《き》の芽《め》田楽《でんがく》、それに酒。
信州路へ入って、鯉の料理にお目にかからない日はないぞ――といいながら、周馬が椀《わん》をチュッとすすって、うむ、こいつはいい、諏訪湖《すわこ》の味がするぞという。
このあたりで古い歴史のある俚謡《りよう》、木曾ぶしの絃歌が、赤く曇った湯気の町にサンザめきだす頃になると、
「どうだ、ひとつよぼうか」
と周馬がぬけめのない提案をもちだすと、「なにを?」と一角が通じない反問をする。
「なにをって、すなわち、唄《うた》い女《め》をさ」
返辞をしないで一角は、またのび上がって会田屋の門口を見おろしていた。お十夜は何をおかしく感じたか、周馬の顔をみて苦笑をもらし、それを隠すべく杯《さかずき》をさした。
平凡なる一夜をすごして、翌朝、起きるやいな、見張りを頼んでおいた宿の者をよんで、会田屋の男女《ふたり》が立ったかどうかを問いただすと、まだたしかに落ちついているという返辞。
その宿の男は、きのう、三人が会田屋の店に立った少し前に、駕を出て前の家に入った男女を見届けているということをいっているので、お十夜も一角も、すっかりこの男の見張りを信頼していた。
けれど、この男の見届けた事実に相違はなく、和田峠から追ってきた自分たちの眼が錯覚《さつかく》をおこしているのだとは、今にいたっても気がつかない。
遂にまたそれに惹《ひ》かれて、一日を暮らしてしまった。そして、一角も周馬も寝しずまった真夜中である。お十夜はただひとり、緒《お》のゆるい宿屋の下駄を突っかけて、屋根へ大きな石が幾つものせてある大湯《おおゆ》の浴槽へつかりに出かけた。
どこもかしこも、昼のように明るく燈《ともし》がつき放しになっているが、疲れたような空気がシーンと沈んでいる。孫兵衛は空を仰いで青い星を見た、どこの二階の障子にも影法師がない。
いつもかれのみは、こういう時刻を好んで湯にひたる習慣である。習慣というよりは努めているのだろう、とかく人に疑惑されている十夜頭巾を解くのに、ひとりの者が側にあってもならない。だが、今頃になれば大湯《おおゆ》の中にも誰もおりはしまい。
もうもうと白い湯けむりをあげている板囲いの浴槽は、上《かみ》ノ湯、中《なか》ノ湯と二棟に別れて長屋《ながや》なりにつづいている。孫兵衛は歩みよった順からまず中ノ湯の戸をぐわらッとあけて、ふと、脱衣場《ぬぎば》の棚をみると、女の帯と寝衣《ねまき》がおいてあった。
で孫兵衛。それを避けて上ノ湯の方へ歩みだした。板囲いの戸が細目に開いているので、覗いてみると、いッぱいな湯けむりで中はもうとしているが、チョロチョロと温泉《ゆ》が湧きこぼれる音のほか別に人気《ひとけ》もないらしいので、スッと土間口へ足を入れ、腰の助広を取って棚へおこうとすると、からりと、鞘《さや》にふれて鳴ったものがある。
見ると、尺八、いや、それと同じような一節切《ひとよぎり》の竹と天蓋《てんがい》。――これはまずい、あいにくとここにも誰か湯浴《ゆあ》みをしているやつがある――と舌打ちをしてフト向うへ眸をこらすと、湯気にまぎらわしい鼠色の衣を着た一人の虚無僧、掛絡《けらく》を外し、丸ぐけの帯を解き、これから湯壺へ入ろうとしている。
何思ったか、かれは、いきなりそこを飛び出し、宿の二階へ戻ってくるやいな、寝酒に酔って正体もなく眠っている周馬と一角とを揺《ゆ》すぶり起こして、
「おい、起きろ、すぐに支度をしろ、支度を」
不意に夢を破られて、赤い眼を渋そうにあいた二人は、時ならぬ頃に、お十夜があわただしい態《さま》をキョトンとして眺めながら、
「なにを騒いでいるのだ」
と枕に顎《あご》を乗せたけれど、容易に立ち上がりそうもない。
「意外なやつに出会ったぞ。まアいいから、とにかく起き上がってくれ」
「起きろというのか」
「ぐずぐずしているまには、またとない機会をのがしてしまうことになる」と孫兵衛は、用捨《ようしや》なく二人の夜具をはねのけた。かくてはいかに横着な周馬でも一角でも、安閑と寝てはいられないので、それと一緒に飛び上がって、
「では、会田屋に泊っているやつが、宿をぬけだして行ったのだろう」と、当然そうあるべきことと、思い当るところをいったが、孫兵衛はそれでもないとかぶりを振って、枕元の水挿《みずさし》を取り、
「とにかく、こいつをグーと飲んで、よく眼をさまして貰いたい。その上で話すとしよう」
「ふム? ……」と一角は、やや怪訝《けげん》な顔をしたが、すすめられるまでもなく、酔《よい》ざめのほしかったところなので、それを取って水挿の口から喉《のど》を鳴らして飲み干し、周馬にもすすめると、周馬は事態の容易ならぬさまにやや寒さをもよおしたらしく、いらない、とばかり身を硬くしてお十夜の面をジッと見つめている。
「ところで、何だ、お十夜」
「周馬」
「ウム」
「一角」
「オオ」
「法月弦之丞《のりづきげんのじよう》がツイ鼻の先に来ているぞ」
「えっ……弦之丞が」
この一句は一|斗《と》の酔《よい》ざめの水をのむより二人の目を冴えさせてしまった。
「――今おれが何の気もなく上ノ湯へ行ったところが、そこに一人の虚無僧がいる。湯気にさえぎられて先ではこっちの姿を見なかったらしいが、おれの眼にはしかと分った、まちがいなく法月弦之丞、ちょうど温泉《ゆ》につかっている頃だから、そこを襲ってやろうと思うがどうだ」
「よしッ。いい所を見つけてきた」
一角が鐺《こじり》を突いて立つと、旅川周馬、
「だが、待ちたまえ」と、沈着を装って、
「江戸表で探った所から推すと、その弦之丞は、もうとくに、垂井《たるい》の国分寺に着いて、道者船の出る日を待ちあわせている筈だ。それが、いまだにこの辺にいるというのは腑《ふ》に落ちないように思うが……」
「腑に落ちても落ちないでも、この孫兵衛が見届けてきた事実をどうする」
「しかし、疑心暗鬼ということもあるから」
「疑心暗鬼?」
「常に弦之丞のことを念頭にえがいているため、その錯覚《さつかく》で、縁なき虚無僧までが、それらしく見える場合もない限りではない」
「ちぇッ、また周馬が小理窟《こりくつ》をならべだした。時刻を移して、かれに先手を打たれては大変だ。お十夜! こんにゃく問答をしている場合ではあるまい、すぐに行こう!」
自来也鞘《じらいやざや》の下緒《さげお》をしごいて、一角が性急にそこを出たので、孫兵衛もまた、周馬をすてて梯子《はしご》を下り、周馬もまた、いやおうなくついて、宿の外へ飛び出した。
深夜、人なき浴槽に身をひたして、こんこんと噴《ふ》きだす温泉《いでゆ》のせせらぎに耳心《じしん》を洗いながら、快い疲れをおぼえていた法月弦之丞は、やがて湯から上がって衣類をつけなおした。
常木鴻山《つねきこうざん》と松平左京之介《まつだいらさきようのすけ》のほかは、誰も知らぬまに、代々木荘を出立したかれである。日程《ひどり》にすれば、もうとくに美濃路《みのじ》に入っている筈だが、道者船にのりあわせるには、向うでだいぶ待つことになるので、わざと道を迂回《うかい》して、屋代上田《やしろうえだ》などに旧知の剣友をたずね、さながら的《あて》なき旅をするもののように、今日も夜にかけて峠を越え、この温泉《ゆ》町《まち》に辿《たど》りついたのを幸いに、自然の報謝をうけて、旅の垢《あか》を洗っていたのだ。
さて、久しぶりに爽快《そうかい》な気を味わったが、時刻はいたって都合が悪い、もう夜半《よわ》もすぎてやがて五|更《こう》になる頃おい、宿をとる間はなし、といってこれから塩尻の高原へかかるのも早過ぎる気がするし? ……。
ままよ、かりそめにせよ、普化僧《ふけそう》の法衣《ほうえ》を借りてある以上は、樹下石上も否むべきではない。道に任せて歩き、疲れた所を宿として草にも伏そう。と笛袋をさし、天蓋をかぶりかけていると、湯小屋の戸がガタンと動いた。
が、風でも吹き去ったのか、そのまま誰も入ってくる様子はないので、かれは片足立ちになって、わらじの緒を結んでいた。と、またかすかな音が外でする、人の跫音《あしおと》低いささやき……、それは耳に触れる程なものでないにしても、かれの心耳には明らかな空気の動揺を感じられた。
試みに戸へ手をかけて、一、二寸、ズズ……と引いてみると、外からひっそりした夜気がスーと流れこんでくるだけで、格別なこともないが、なにか、一脈の殺気が弦之丞の面を打ってくるように思われる。もっとも、かれには、最前ここをあけた男が、妙にそそくさと戻って行った不審もあったところだが……。
「はてな、これはおかしい」と気づいたので、かれは湯小屋の羽目へ背中を貼りつけたまま、サッと不意に引き開くと、それを待ちかまえていたらしい者が、ふいに躍りこんでくるなり、白刃をふって湯けむりの空《くう》を斬った。
さてはと、足をあげて弦之丞、その男の腰とおぼしい所を蹴って放す。
ドボーンと湯槽《ゆぶね》の中に湯の飛沫《しぶき》が立った。さだめし首から先に突ッ込んだのであろう。ぷッ……と濡れ鼠になって喚《わめ》いたのは旅川周馬。
「一角ッ、早く助剣《じよけん》を!」
いうまに弦之丞は、戸口から外へ足を踏みだした。とたんである。右に添って隠れていた一角の大刀、左に息をのんでいたお十夜の助広《すけひろ》が、かれの姿を待ちかまえていた。
足をすくった孫兵衛の刀は、風を流して湯小屋の柱へズンと食いこみ、一角の烈刀は一節切《ひとよぎり》の竹にはね返されて、柄手《つかで》にきびしいしびれを感じたばかり。
人を斬らんとする程の力で、柱へ斬りこんだそぼろ助広は、とっさ、たやすくは抜きとれないので、気をいらった孫兵衛は刀をそこに残したまま、ダッ――と追って弦之丞の後ろに組みつき、ここぞという一念を拇指《おやゆび》にこめて、相手の喉《のど》にくいこませたまま、
「一角、わき腹を突け!」と呶鳴った。けれど、寄り進んできた天堂の前には、そう呶鳴った孫兵衛そのものの体が、もんどり打って躍ってきたので、ふりかぶった大刀を無碍《むげ》にふって落せば、弦之丞を打つ前に、お十夜を両断にしてしまったかもしれない。
この一瞬に三人は、前後も場所がらも時刻も忘れて、すさまじい声と気合を発したのであろう。たちまち、四方に密集している温泉宿の二階や店先には、何ごとかと驚いたふうな人影が立って、またぞろ静かな温泉《ゆ》の町の平和はおびやかされてしまった。
もちの木坂《きざか》
木曾福島の関所の高地から目の下の宿《しゆく》を見おろすと、屋根へ石をのせた家ばかりが櫛比《しつぴ》していて、ちょうど豆板という菓子でも干《ほ》してあるような奇観。
その関所の西口から急落している石段を、今、ひとりの儒者《じゆしや》ふうの男、肩から紐《ひも》で合財袋《がつさいぶくろ》と小瓢《こふくべ》をさげ、その小瓢のごとく飄々乎《ひようひようこ》として降りてくる。
宿《しゆく》へ入ると、瓢《ふくべ》先生、左右に軒をつらねている名物屋を、しきりに右顧《うこ》し左眄《さべん》して、干《ほ》し岩魚《いわな》の味をたずね、骨接薬《ほねつぎぐすり》の匂いをかぎ、檜細工《ひのきざいく》や干瓢屋《かんぴようや》の軒さきにまで立ったが、ベツになんにも買いはしない。
あまつさえお六櫛《ろくぐし》を造る店の前では、がらにもなく挿櫛《さしぐし》や鬢櫛《びんぐし》を手にとって、仔細にその細工のあとを眺め、ふところから日誌をだして二、三種の形を写した上、値だんも聞かずに、またその先へぶらぶら歩いて行ってしまう。
すこし変っている男だ。
いたって悠長な旅には違いない。後からくる旅人がいくら先へ追い越して行こうと、駕屋《かごや》が声をかけようと、一向気にとめる風もないが、何かに見とれている場合、不意に馬の長い顔が肩へ食いつきそうにでもなる時は、さすがに少し驚いて蛙のように横へ飛ぶ。
すると、この宿《しゆく》の出はずれには、あだかも、この変り者を待ち設けていたように風変りな店が控えていた。
木曾街道で有名な、ももんじ店《だな》である。隣から隣へつづいて半丁ばかりの両側は、みな、大熊、熊の胆《い》、貂《てん》の皮、などという看板をかけた店ばかり。狐、猪《しし》、小熊《こぐま》の生けるを檻《おり》に飼って往来の目をひく店もあり、美々《びび》しい奇鳥の啼《な》き声に人足《ひとあし》を呼ぼうとする家もある。そして、獣皮《じゆうひ》、獣蝋《じゆうろう》、膏薬《こうやく》、角細工《つのざいく》、馬具革《ばぐがわ》、袋ものなど、あらゆる獣産物《じゆうさんぶつ》を売っている。
瓢《ふくべ》先生は、果たしてこの奇なる景観にうたれたとみえて、やがて百獣《ももんじ》店《だな》の一軒へ、ずッと寄って行ったかと思うと、その店先へ腰をおろした。
「いらっしゃいまし、熊の胆《い》をさしあげますか」
亭主が早くも貝殻の詰まった箱を持ちかけると、かれは侮辱されたように、その熊の胆《い》を舐《な》めたと同じ顔をして、
「そんな物はいらん。わしは医者だからな」
と、店の中を見廻した。
「ああ、なるほど」
亭主は自分の魯鈍《ろどん》に感心した。
細くつめて結んだ髷《まげ》なり風采なりが、医者といわれればどう眺めても医者である。
「黒貂《くろてん》の|※《ばん》があるかい」
「|※《ばん》? ……|※《ばん》て何でございましょうか」
「てのひらだよ、黒い貂《てん》の」
「ああ、なるほど」とまたうなずいたが、
「どうもおあいにく様で。それにいくら木曾の山中でも黒毛の貂《てん》などはめったに捕れません」
「じゃ、こんど出た時に送って貰おう」
「おうけあいはできませんが、お所だけ伺っておいてみましょう」
「ム、わしは、大阪の九条村、平賀源内というものだよ」
「あ、平賀先生で、お名まえは伺っておりました。どちらへお越しでございますか」
「御岳《おんたけ》へ薬草採りにまいったが、どうも、ほしいものがあまりなくてな……。だがまた、意外な儲《もう》け物もいたしたよ。これ」と合財袋の口をのぞかせて、採集してきた草根木皮《そうこんもくひ》を一|掴《つか》みつかんで見せていたが、その時、ふと店先を過ぎてゆく旅人の姿に目を追って、
「ではまた、なんぞ要《い》る品があった時には、手紙を出して注文するから、よろしく頼むよ」
あわてて百獣《ももんじ》店《だな》を出た源内は、七、八間ほど走りだすと、先へゆく二人づれの後ろへ、
「おい、万吉。そこへゆくのは、天満の万吉ではないか」と呼んで煽《あお》ぐように手をふった。
声に気がついて、足を止めた先の者は、中仙道の順路を辿《たど》ってこの木曾街道のなかばにある目明しの万吉とお綱であった。
通りすがった姿を見かけて、百獣《ももんじ》店《だな》から追ってきた源内は、とんだよい道《みち》づれを見つけた気で、緩々《かんかん》たる歩調とのどかなあるきばなしに、木曾風俗の漫評《まんぴよう》や、御岳山《おんたけさん》の裏谷で採った薬草の効能や、そうかと思うと、近頃、大阪に見えない鴻山《こうざん》はどうしたろうとか、俵一八郎の伝書鳩はどうだとか、木曾のお六櫛《ろくぐし》に朱漆《しゆうるし》をかけてミネに銀の金具をかぶせ、こいつをひとつ源内櫛と銘《めい》をうって花柳界に流行《はや》らせてみたら面白かろうとか、それからそれへ、とめどもなくしゃべりつづける。
おかげでお綱と万吉は、数里の道のりをいつのまにか歩いたが、御岳の薬草やお六櫛のことなどは、二人の旅に他山《たざん》の石ほどの値打もない。だが、どうせ歩く道はひとつなので、その晩は須原の駅に泊《とま》りをとって、同じ部屋にくつろぐと、晩酌《ばんしやく》の話にまた源内流の旅行要心談がでる。
まず駅舎へついたら、土地の東西南北、宿《やど》の雪隠《せつちん》や裏表を第一に睨んでおくこと。刀脇差《かたなわきざし》はこじりを背中で挟《はさ》むくらいに床の下へさしこんで寝ること。隣座敷でする碁《ご》将棋の音や浄瑠璃《じようるり》などには決して口をつりこまれぬこと。またこういう物を持って歩くと便利だよと、智慧の環《わ》のような金具を出して五ツの鈎《かぎ》に解き放し、それを長押《なげし》へ一つずつ懸けて、笠、衣類、合財袋、煙草入れ、旅の身上《しんしよう》をのこらずこれに吊ってみせる。
駕《かご》に酔ったのは船暈《ふなよい》より気もちが悪い。酔い癖のある者は駕の戸をあけて乗るがいい。ムカムカ頭痛がしてきた時には、熱湯に生姜《しようが》の絞《しぼ》り汁を入れて呑む。ことに女は鳩尾《みぞおち》をシッカリと締めて乗ることだ、とこれはお綱のほうへ向いていった。
船もなかなか難儀なものだ。ひどく酔う者は血まで吐く。硫黄《いおう》か懐中付木《つけぎ》をふところにして乗ると船に酔わないというが、ひどく船酔いした時には、半夏《はんげ》陳皮《ちんぴ》茯苓《ふくりよう》の三味を合せて呑ませるさ、だが、そんな物のない場合が多いから、しかる時には、童子の便をのますとたちまち効果がある。きたないというなかれ、血を吐くよりはましではないか、もし童子便なき時は、大人の尿《によう》を呑ますべし――と鹿つめらしく講義をしたが、これは、阿波へ行こうという考えの万吉とお綱に、参考とまではならなくとも、ちょっと耳をひかれた話。
なお、田螺《たにし》を炒《い》りつけて旅先で用うれば水あたりのうれいがない。笠の下へ桃の葉をしいてかぶれば日射病にかからない。足の土踏まずが熱して腫《は》れ痛《いた》む時にはみみずを泥のまま摺《す》りつぶして塗ること秘方の一つ。苦参《くじん》という草を床の下へ敷いて寝るか、枳《からたち》の葉を抱いて寝ると蚤《のみ》よけになるということにまで源内談義が及びかけた時――不意に、今までヒッソリしていた隣り座敷で、
「だ、だッてお前、どの顔さげて、阿波へ帰れるものじゃない……」
声をたかぶらせていう者がある。
シク、シクと嗚咽《おえつ》する様子が女であった、連れとみえて慰めている。若い男で、その婦人の召使であるらしい。
「ま、お内儀《かみ》様《さま》、そう取りつめて、お考えなさるからいけません。阿波へお帰りなさらぬの、死んでしまうなどと、そんなにまで……」
「お前は奉公人だから、そうまでは思うまいが、私にしてみれば、面目なくて、このまま旦那様へは顔が合されません」
「いえ、私もお内儀《かみ》様《さま》についてきながら、こういう大事をひき起こしたのですから、その罪は同じでござります。けれど、お金のことですから、死んでお詫びをしたところで、それが戻るという訳じゃなし」
「でもお前、こんどの掛《か》けは少ないけれど、藍年貢《あいねんぐ》の足しにするお金で、私の戻りを待っている場合じゃないか、それをお前……それをあんな者にゆすり盗《と》られて」
阿波――という言葉がでたのでお綱はそのほうへ耳を澄ました。万吉もどうやら事情があるらしいことと、思わず膝を起こしかける。
けれど源内は、さっきも説いた旅行要心の心得通りに、それを抑え自分の声をひそめてしまった。
あらかた察しがついたので、源内と万吉は相談の上、境の襖《ふすま》をあけて隣り座敷へ入って行った。
途方にくれた様子で、そこにいた内儀と手代風の男は、先頃、和田峠でも人違いをされて、諏訪《すわ》の会田屋《あいだや》へ逃げこんだ四国屋のお久良《くら》と手代の新吉であった。
事情をきいてみるとこの二人は、あの時の難儀をどうにか遁《のが》れたと思うと、こんどは正真正銘のゴマの蠅《はえ》に目ぼしをつけられて、四日四晩もつきまとわれたあげく、とうとうこの宿《しゆく》の一ツ手前にある人なき峠で、腰帯にくるんだままの掛けの大金をゴマの蠅に強奪されてしまった。それもただの金ならいいが、藍《あい》と煙草の年貢《ねんぐ》金として、蜂須賀様へ納めなければならない急場に持って帰る途中なので、国元で、首を長くして待っている主人へ、どうにも顔向けがならないので……と、思わず取り乱した理由《わけ》を話したり、合宿《あいやど》の方の旅情まで不愉快にしてすまぬという詫びをのべる。
これが癪《しやく》の病とか霍乱《かくらん》とかいう話なら、源内にも応急策はいろいろあるが、少なからぬ大金ではあるし、相手がよほど腕のすごいゴマの蠅ときいては、どうも匙《さじ》加減の及ぶ所ではない。これはよろしく職掌がらの目明しの万吉がいい相談相手であろうと、自分は精神的に慰めだけをいうに止めて、先へ臥床《ふしど》へ入ってしまった。
翌朝は源内、かねて名古屋へ廻る予定なので、一同に別れをつげ、先へ宿を立って行ったが、四国屋の者と万吉とお綱とは、午《ひる》近くまで宿に残ってそこの二階から前の街道を見張っていた。
するとやがて、皿のような眼をして、通る旅人を見ていた手代の新吉が、
「あいつだ、もし、あいつです、あいつです」と、障子の蔭から指さして万吉とお綱に教えた。
「あ、じゃ向う側に添ってゆく、あの青髯《あおひげ》のこい大男ですね」
「そうです、赤銅作《しやくどうづく》りの脇差をさしている。あ、こっちを睨みやがった、気がついているのかしら?」
「じゃ、万吉さん、すぐ戻ってくるから、支度をして、宿屋の門まで出ていておくれ」と、どういう相談ができているのか、お綱はひとりで梯子《はしご》を下りて行ったかと思うと、もう門を出て、ゴマの蠅の後になり先になりして、五、六町ほど歩いて行った。
残ったほうの万吉は、宿の勘定や旅支度など、すっかりすまして駕を頼んだ。けれど自分は乗らずにお久良と新吉だけをその中へ隠して、しばらく帳場で四方山《よもやま》の話をしている。
と――そこで煙草を五、六服吸ったかと思うと、お綱が、すこし微笑しながら帰ってきた。そして、結び丸めた腰帯を、
「この品でしょう?」
お久良の駕の中へ落してやった。ザクリという金の音がした。あっ――とびっくりして、うれしまぎれに駕から飛びだそうとするのを、万吉が抑えるようにして、
「さ、急いで、今のうちに道をはかどっておしまいなせえ。なに、礼なんかにゃ及ばねえ、御縁があったらまた会いましょう」
無理に別れて二人の駕を先に立たせ、お綱と自分とは後からブラブラ歩きだした。
そして中川原の立場《たてば》までくると、さっきのゴマの蠅が、道しるべの石へ自分の笠をかぶせ、あたりの草の上へ荷物や帯を解きちらして、何か紛失物でもしたように、蚤取《のみと》り眼《まなこ》でバタバタと着物をはたいては考えている姿が見かけられた。
万吉は思わずプッと吹き出して、口を抑えて横向きに通りすぎた。お綱も横目で見たことは見て行ったが、なんの表情も現わさなかった。人を助けるためにしても、よしまたそれがどういう理由でも、掏《す》られた者のうろたえざまをみるのは、かれの懺悔心《ざんげしん》が人知れぬ痛みを感じる。
美濃へ入って垂井《たるい》の国分寺へもやがて近くなった。日いち日とはかどる旅の春も深くなってゆく。
国分寺につけば、そこで法月弦之丞に会えようと思うことを張合いにして、お綱と万吉は、その日、夕照《ゆうでり》をみながら少し無理な道《みち》のりをかけ、もちの木坂の登りにかかった。
「男でさえも足の筋が針金のように突っ張ってきたくらいだから、お綱さん、お前《めえ》はさぞくたびれたことだろう」
坂の中途に立ち止まって、汗ばむ胸へ手拭を入れた。そこからはるかに見渡すと、漠《ばく》とした雲の海に加賀の白山《はくさん》が群巒《ぐんらん》をぬいて望まれる。
「いいえ、阿波へ越えて剣山《つるぎさん》まで行き着こうというのですもの、これくらいな所でくたびれてしまってどうなるものじゃありませんよ」
「そうよな、まだほんとうの難所はこれから先だ、血の池があるか針の山が待っているか、どっちにしても命がけの……」そういいながら、まだどれほどの登りだろうかと、もちの木坂の勾配《こうばい》を見上げると、その中途に、名古屋へ出る裏街道の辻があって、目印の七本松がそびえている。
深山笹《みやまざさ》に夕風がそよいで、ひと足ごとに落日の紅耀《こうよう》がうすれてゆく。ぶらぶら上《のぼ》ってその辻まできてみると、椿と藪《やぶ》に埋まって西行《さいぎよう》法師の歌碑《うたぶみ》があり、それと並んで低い竹垣根を結《ゆ》い廻した高札場《こうさつば》がある。みると、宿役《しゆくやく》の布告《ふこく》や、何者かの人相書や、雑多なものがベタベタと貼《は》りつけてあるが、目につくのはその側《わき》に、別に立っている生新しい一本の立札。
なにげなく立ち寄った万吉、読み下してみてサッと色を変えた。それは二人がこれから指して行こうとする垂井《たるい》の国分寺から出た寺触《てらぶれ》で、春の道者船停止《どうじやぶねていし》の沙汰が公示してある。
例年当寺ニテ執行《シユギヨウ》ノ阿波《アワ》丈六寺代印可ノ儀|併《ナラ》ビニ遍路人《ヘンロニン》便乗ノ扱イ等|俄《ニワカ》ニ阿州家《アシユウケ》ヨリ御差止《オサシト》メ有之《コレアリ》候《ソウロウ》ヲ以《モツ》テ中止イタシ候《ソウロウ》尚《ナオ》秋船《アキブネ》ノ遍路ハ其折《ソノオリ》再告申《サイコクモウ》スベキ事《コト》。
「あ! ……こ、こりゃいけねえ」
高札の真偽を疑い、おのれの眼を疑うように、万吉はくり返しくり返しそれを読みつづけたが、
「ウーム、こういう沙汰が阿波から出たとすると、いつのまにか蜂須賀家では、もう用意を固めているものとみえる」
「じゃ、この春は、遍路の者の船まで止めてしまったのかしら」
「そういうふうに書いてあるが」
「とすると……弦之丞様は?」
「さあ、どうしたか、この模様変りとすれば、国分寺に足をとめている筈はありますまい」
嘆息《ためいき》といっしょに腕を組んで触札《ふれふだ》を睨みつけていたが、もう意地もなく気をくじいてしまったように、
「まずかった!」と臍《ほぞ》をかんで悔むのだった。
「俺としたことが、思えばとんだ手ぬかりをやっていた。阿波へ入る目標《めあて》にばかり気をとられていて、こっちの内幕を探られていることを、少しも頭においていなかったのが大失策――、こりゃあ天堂一角が、江戸から本国へいちいち早打をうって知らしていたので、こっちの先手を越して道者船を取止めたのに違えねえ。ウウム。これじゃまた阿波へ足ぶみをする道順が、百倍も千倍も大困難になってきたわえ」
腸《はらわた》をしぼるような万吉の呻《うめ》きをきいて、お綱も落胆のあまりそこへ坐ってしまいたくなった。進んでいいか退いていいか、その利害を思慮してみる勇気さえない。
垂井《たるい》まで行けば、弦之丞にも会えるだろうし、国分寺の印可《いんか》をうけて、目的地への渡海もたやすくできるものと、互に励ましあってきただけに、二人は希望の目前を絶壁に塞《ふさ》がれて、茫《ぼう》とした当惑に立ちつくしてしまった。
すると、坂の中腹、少し平地《ひらち》になった草原と空茶店《あきぢやみせ》から、ひとりの武士、いたちのように顔を出した。
こなたの高札場に立っている、お綱と万吉のうしろ姿を眺めて、首を引っこめたかと思うと、こんどはその中から四、五人の侍が飛びだして、青い夕闇をすかしているような眼《まな》ざし。
指さしながら、何かひそひそとささやきあっていたかと思うと、やがて中のひとりが、二本の指を唇へ当てた。
と――不意に静かに、夕風をうごかして、笹鳴《ささな》りの音か、水の響きかとばかり、あたりへ鳴ってひろがったのは呼子《よびこ》の笛――。
赤い芽《め》をもった樫《かし》の林に、ありやなしやの宵月がほのかだ。
あやしげな呼子の音《ね》に、万吉はぎょッとしてお綱に目くばせした。そして高札の前を離れるやいな、のめるようにもちの木坂を駈け上がった。
とたんに崖《がけ》の両側からバラバラと飛び下りて来た野袴《のばかま》の武士、前をふさいで十人あまり、いずれも厳重な草鞋《わらじ》がけ、柄頭《つかがしら》をそろえて、
「待てッ」
坂の上から押しかかって、二人を前の場所まで突き戻してきた。
とみれば、中腹の平地にも、三々伍々の人影が草や石に腰を下ろして、その光景を眺めている。都会の武士らしからぬ言語風俗、まぎれもなくこの者たちは、阿波の国から急行してきたか、あるいは命をうけて安治川の阿州屋敷から出張《でば》ったものか、いずれにせよ蜂須賀の原士《はらし》なるには相違ない。
「おい! こっちへ――」
ヌッと立ってさしまねいたのは、最前呼子を吹いた原士、坂の上から押し戻してきた者たちへこういって、一同草原のまん中に待ちかまえていると、お綱は利腕《ききうで》を取られ、万吉は万吉でその襟《えり》がみをつかまれたまま、否応《いやおう》なくそこへ取り囲まれてきた。
「貴様だろう! 江戸表から阿波へまぎれ込もうとしてきた目明しの万吉はッ。ウヌ、そこにいるのこそ見返りお綱という女に違いない。望みにまかせて剣山へ連れて行ってやる、わざわざ迎えにきてやったのだ、神妙にしろよ」
こういい渡すと左右にいた原士が、バラリッと二人の前へ縄を解いた。万吉は飛びすさってお綱の身をかばったが、わざとおののく様子をみせて、
「な、何をなさいますんで――ちっともわけが分りません、私どもは商用がてら御岳詣《みたけまい》りをしてきた帰りの者で、お言葉のような者ではございません。お人違いじゃございませぬか」
「その白《しら》をきる面《つら》が、なんで今向うの高札の前にあんな様子をして立ちすくんでいたか。貴様たちをはじめ法月《のりづき》弦之丞が、この木曾街道へかかることを承知して、罠《わな》を掛けて待っていたのだ。その逃げ口上は通用せぬ」
「どうおっしゃいましても、そんな者でないことにはしかたがございません、へい、私は今も申し上げた通りの旅《たび》商人《あきんど》、これは妹の……」あくまでも言いのがれてみようと必死の弁をふるっていると、向うの空茶店の蔭から、頭から褄先《つまさき》まで真っ黒に着流したひとりの浪人者、ふところ手をしてそれへ出てきながら、
「よせよ、万吉」
と、せせら笑いをうかべて側に立った。
ひょいと見ると、青白い夕月をうけて頭巾の顔――意外やお十夜孫兵衛だ。
「あっ」
と万吉、もう言いのがれの及ばぬはめ、手を振りきって立とうとすると、原士の者と一緒にうしろに立っていた旅川周馬が、
「どこへ行く」
たぶさをつかんで後ろへ仆した。
それを眺めながら、孫兵衛、手も出さずに苦笑《にがわら》いをかすめさせて、
「よせよ、万吉、そのジタバタが野暮というものだ。てめえも天満《てんま》の万吉とかいって、二十五万石の大国へ十手を振りあげた男じゃねえか。その上望みどおりに剣山で、生涯終らしてやるという迎えの御人数へ、手対《てむか》いをしては罰があたるぞ」――孫兵衛の言葉が続いているうちであった。もちの木坂の裏道から、樹葉《じゆよう》を分けて駈け登ってきた編笠《あみがさ》の男。
息がきれたか、途中の岩石に立ち、ホッと麓《ふもと》のほうへ眼をつけていたが、やがてまた、栗鼠《りす》のごとき素早さで、岩や根笹をつかみながら、一同のいる平地の一端へその姿を躍り立たせた。
何か? ――という気色《けしき》で、皆の眼がハッとそれへ惹《ひ》きよせられていると、編笠の男はさらにそこでも下のほうへ向って、耳へ手を当てていたが、
「方々《かたがた》、静かにしろ!」と手を振った。
そして一足跳《いつそくと》びに疾走してきながら、編笠をそこへ叩きつけ、意気|軒昂《けんこう》な眉をあげて、
「来たぞ! いよいよここへ」
と、語尾を強めて言ったのは、すなわち天堂一角だ。
来たとは何者?
かねて期《ご》していることではあるらしいが、黒々とむらがり寄っていた人数が、思わず息を内へひそめた瞬間に、ちょうどもちの木坂の下あたりから喨々《りようりよう》と夜を澄ましてくる一節切《ひとよぎり》の音《ね》のあることが分った。
「ム! とうとうきたな」
麓のほうをのぞみながら、お十夜と一角が、口のうちで強くうなずくと、気早に、下緒《さげお》を解いて、袖を引っからげた原士の面々も、
「オオ、あの一節切《ひとよぎり》か」
と、険《けわ》しい目合図を投げ交《か》わしながら、あたりの空気に氷を張らすばかり、シーンとした緊張味をみなぎらせた。
その間にも、次第に近づいてくる竹の音《ね》は、一味冷徹な鬼気を流してきて、そこに、鍔《つば》ぶるいをひそめる者、柄糸《つかいと》へ唇をつける者などの血汐をいよいよ惣毛立《そうけだ》たせ、いよいよ猛《たけ》くジリジリと沸《わ》き騒がせる。
周馬に襟がみをつかまれた上に、二人の原士に両腕をねじ上げられていた万吉は、もう今がすべての最期かと思った。天堂一角と本国との間に、かくも巧妙な連絡がついていては所詮《しよせん》、剣山はおろか、徳島の城下はおろか、鳴門潟《なるとがた》の磯を見ることさえ不可能なわけ。
もとより、こうと知っていたなら、やすやすと原士どもの囲みに陥《お》ちるのではなかった――とこみあげる無念に体をふるわせたものの、それもいわゆる噬臍《ぜいせい》の悔《く》いなるもので、かれはたちまち、お綱も自分と同じような縄目にかかるのを見ながら、数人の原士に蹴仆され、周馬だかお十夜だかに後《うし》ろ手《で》に締めあげられたまま、向うの松の大木へ引きずり寄せられ胴縛《どうしば》りにくくり付けられてしまった。
「それ、ぐずぐずしている間には!」と一方が急《せ》き立つと、
「向う側へも七、八人廻れ」
「よしッ!」といって珍らしく旅川周馬が疾駆するのを、天堂一角が、それへ続く原士たちへ、
「静かに――」と注意して、さらにお十夜の姿をふりかえった。
「孫兵衛、ぜひとも今夜はぬかってくれるな」
「ウム、大丈夫だろう?」と気をもたせて――
「これだけの助太刀に、俺たち三人が足場を撰《よ》って待ちかまえているんだ。諏訪《すわ》じゃあこっちで斬りかけるとたんに、宿屋の奴や湯番の者が拍子木《ひようしぎ》なんぞ叩き廻って、弥次馬を呼んでしまったから取り逃がしてしまったが、人の絶えたもちの木坂、新手《あらて》をかえてこれだけの者が一|太刀《たち》ずつかすッても、たいがい息のねは止まってしまうだろうと思う」
「ただ髀肉《ひにく》の嘆《たん》にたえないのは、この場合にきて拙者の左|腕《うで》だ」
「まだ思うように伸びないかな?」
「繃帯《ほうたい》は取ったが、柄《つか》を自由に扱うことはむずかしい。戸田流の一本使いというような型はとるが、いざとなるとどこか気力の入らぬものでな」
「ま、おれが先手《せんて》に斬って仆すから、しばらく形勢を眺めていてくれ」
と、孫兵衛にも、今夜は十二分な確信があるもののごとく、他の者とはやや離れて、七本松のうしろへジッと体をかがませていた。
一瞬のまに、そこは墓場ともない寂寞《せきばく》の地域に帰っていた。三々伍々に躍っていたあれだけの人数も、ひとり残らず姿を消してしまい、ガサと隠れ場所をそよがす者もない。そして、薄曇りした宵月の明りで、向うの草原にもがいているお綱と万吉だけが、視界の中に動いているものの影である。
その時、気がついてみると、いつのまにか、麓《ふもと》のほうからくる一節切《ひとよぎり》の音が途切れていた。と思うと――こんどは不意に、前よりは数倍近い所に、呂々《りよりよ》とした音が起こって、もうその人はやがて坂の中段を横に切って行く渓流《けいりゆう》の丸木橋までかかってきたかと思われる。
「あ! ……あれは山千禽《やまちどり》! 山千禽……の曲」
松の根方《ねかた》にもがいていたお綱は、転々としながらこう叫んだ。叫んだけれど声は出ない。さいぜんお十夜のために、扱帯《しごき》を解かれて猿ぐつわをかけられていた。
「ちイッ……」無駄と知りながら、お綱はもがかずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。
「弦之丞様ア!」
必死に喉《のど》をからしているつもりでも、天地は森《しん》として笛の音以外の何ものも伝えない。ただ、お綱の体が根笹の中にひとりでのた打つばかりである。
冷々《ひえびえ》と樹海の空をめぐっている山嵐《さんらん》の声と一節切《ひとよぎり》の諧音《かいおん》は、はからずも神往《しんおう》な調和を作って、ほとんど、自然心と人霊とを、ピッタリ結びつけてしまったかのごとく澄みきっていた。
木々に精《せい》があるなら、花に化身《けしん》があるなら、あなおもしろの交響よ! とこの宵月に舞踊するであろう。
※[#「王へん」+「倉」]々《そうそう》としてやまず、呂々《りよりよ》として尽きるところを知らぬ一節切《ひとよぎり》の吹き人《て》も、今は現《うつつ》であるだろうか。吹いては一歩、流しては一歩、夜旅の興趣と、おのれの芸味に酔いつつ来るのだろうか。
いや、一片の風流子の心事と、法月弦之丞の心に波うつものとは、大《だい》なる隔《へだ》てがある筈だ。したがって、同じ竹枝《ちくし》の奏《すさ》びにしても、その訴えるところは、巷《ちまた》や僧院の普化《ふけ》たちとは必然なちがいをもつ。
かれはおそらく、この木曾の夜の道を踏んで、あの禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》の頂《いただき》に、骨を埋めている唐草銀五郎のおもかげを、目にうかべずにはいられまい。
血みどろな合掌と、銀五郎が最期の声を新たに思いうかべる時――またかかる夜かれの菩提心《ぼだいしん》は、知らず知らずにも一節切《ひとよぎり》の一曲をその霊に手《た》むけさせる。
なおその呂韻《りよいん》に異常な熱を加えてくると、かれの胸底にひそんでいる剣侠的な情感は、笛の孔《あな》を破るばかりな覇気をおびてほとばしる。それは悲壮な行進の譜《ふ》であり、かれの余裕と鬱勃《うつぼつ》の勇を示すものだ、易水《えきすい》をわたる侠士《きようし》の歌だ。
そうした山千禽《やまちどり》の曲の叫びは、かれの目指す鳴門の海にもひびき剣山の世阿弥が夢にも通うであろう。
その、法月弦之丞の姿は、今、もちの木坂三ツ目の曲り勾配《こうばい》、空谷《からだに》の桟橋《かけはし》を渡っていた。
竹の歌口へ唇をあてながら、うつむきかげんに歩んでくる、その肩のあたり、裾《すそ》のあたり、チラチラ影絵の雪のようにかすめて消えるものは、上の梢《こずえ》をこして映る、淡い月影の斑《ふ》であった。
山をめぐると坂の中腹。
月かげもない両側の崖に、道はやや急な爪先《つまさき》のぼりとなる。
バサリと、時々ころげてくるものは、落椿《おちつばき》の音だった。――弦之丞はこの辺から、一節切《ひとよぎり》を笛袋におさめて、ややしばらくの闇を辿《たど》る。
と、山犬のように、四、五人――七、八人ずつ――這《は》いつくばった黒い影が……。
西行《さいぎよう》塚の平地へきて、ホッと一息入れながら、弦之丞の天蓋がクルリと後ろへ振り向いた途端に、その影は両端の草むらや岩の根に、サッと野分《のわき》に吹かれた草のようになびいてしまう。
一|刻《とき》ばかり前に、お綱と万吉とが立った国分寺の触札《ふれふだ》は、悪魔の囮《おとり》のように弦之丞の目を招いていた。そして彼もなにげなくその柵《さく》の側へ足を吸いよせられて行った。
「…………」
笠の裡《うち》から黙読している弦之丞には、さしたる驚動《きようどう》も見えなかった。むしろ、当然こうあるべきこととうなずいてもいる風。
路傍の一草のごとく、それを見て去らんとすると、その刹那だ! 七本松の黒々とわだかまった闇の蔭にシーッと息をこらしているかのような氷刃《ひようじん》の鋭気。
踵《きびす》をかえして七、八歩、うしろを見るといつのまにか、そこにも狼群《ろうぐん》のような原士《はらし》が、兇刃を植えならべて、じわじわと、静から動へ移らんとする空気をみなぎらしている。
左右の草むらにも閃々《せんせん》たる伏刃《ふくじん》。
坂の上、坂の下、四方は全き剣《つるぎ》の垣だ。法月弦之丞は、もう一歩でもゆるがせにそこを動くことはできない。
すると。
どう考えたか弦之丞、足もとの岩の上へ、ゆたりと腰を下ろしてしまった。
同時に、天蓋をぬぎ掛絡《けらく》をはずし、そして、一本一本の指を握って折り曲げた。
あたかも盲が勘をめぐらすように――。
こういう危地に陥《お》ちた場合、かれは必ず数度の息を静かに吸ってかかる。
いかなる兇暴な殺刃でも、冷々《れいれい》として騒がずに、その呼吸の支度をしている間には、容易に、斬ってかかり得ないものだ。
かれに、狐疑《こぎ》と逡巡《しゆんじゆん》をいだかせ、その間に、われは心耳心眼を研《と》いで、悔《く》いなき剣の行きどころを決する。
いわゆる、胆《たん》まず敵をのむのである。
見えざる敵を見、聞こえざる音を聞き、光なき闇をも瞬間に察しなければならぬ。その思慮なく、おのれの勇を過信して、一人の剣を交《か》わし左右の敵を電瞬《でんしゆん》に切って捨てたくらいでは、その寸隙《すんげき》に八面の殺刀が、たちどころに一人の相手を蜂の巣と刺激するに足るであろう。
弦之丞が師事し、味得しているところの、戸《と》ケ崎《さき》夕雲《せきうん》の夕雲流《せきうんりゆう》なる剣法が、神陰《しんかげ》とひとしく、そもそも白虎《びやつこ》和尚の禅機から発足していて、剣気と禅妙の味通、生死同風の悟徹の底から生まれているだけに、あざやかなる剣を舞わす派手技《はでわざ》よりは、まずもって剣前に、半眼《はんがん》の心をいたすこと夕雲工夫の奥伝《おくでん》とする。
で――今。
もちの木坂に足場をかためて、待ちもうけていた敵の重囲の中核に陥《お》ちつつ、法月弦之丞がことさらに悠々と腰をかけたのもその心。笠《かさ》掛絡《けらく》を地に捨てて、指の節を一本ずつ、ポキリ、ポキリと、もむようにして、四方を睥睨《へいげい》しているのも、まさに、その気構えをととのえているものと思われる。
しかし。
それもほんの一瞬である。
そよそよと吹く風が、およそ、二、三度|鬢《びん》づらを撫でたほどな秒間――。
もの蔭や草むらに、また地に匍匐《ほふく》している敵の数も残らず読めた――かるが故に、その陣外にあって、飛び道具を離す二の手はあるまい。四方に散立《さんりつ》する大樹の梢にも、それらしい奴のよじ登っている様子もないことが分った。
うむ! ではまず敵は周囲にある二十四、五人だな。――阿波の原士《はらし》――それに入りまじってあるものは天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬。
こう、弦之丞は、心のうちでうなずいた。
諏訪《すわ》の大湯で、かれらが自分を擁撃《ようげき》した後から、弦之丞はすでに前後の経過を察していた。今、道者船とり止《や》めの高札を見ても、それが故に、さまで驚きもせず落胆もしなかった。また、信濃境から、後なる三人が先へ駈けぬけて行ったことにも気がついていたので、今宵の伏刃も、あらかた、かくあるべく予期していたところ。
さらば来い!
修法のものに不退転という言葉がある。
つるぎ山へ行き着こうとする目的は、ちょうど彼岸《ひがん》へ達そうとするその信仰と一つだ。ここまで足を踏みだして来ながら、わずか一|基《き》の高札文や、三、四十本の錆刀《さびがたな》に行き当ったからとて、やわか、一歩でも足を後へ戻してよいものか。
山も阻《はば》めてみよ、海も防いでみよ、阿波の関も固めてみよ。
必ず、法月弦之丞は、つるぎ山の間者牢へまで、この足を踏みかけずにはおかぬ。
おお、それを堰《せ》かんとすればするほど、不退転の信を強め、自己の一念の度を加えていってみせる!
と――青年弦之丞が全身の熱血は、ここに、火ともならんほど燃えあがって、手はおのずから腰刀《こしがたな》の柄《つか》へかかり、胆《たん》、気、力の充《み》ちみなぎった五体は、徐々に岩を離れてヌーと伸びあがった。
さながら、岩角に雄躯《ゆうく》をのばした牡獅子《おじし》の姿――壮であり美であった。
そして不意に大声の一喝《いつかつ》。
「どうしたのだッ! 卑怯な奴めら」
打って響かせた気魄《きはく》の鋭さ。
これが、白皙痩身《はくせきそうしん》の美丈夫、あの弦之丞の声音《こわね》かと疑われる。
シーッと静まり返っている八方の閃刃《せんじん》。機を逸したか、胆をのまれてしまったか、それに応じる気合いもないうちに、またかれは凜々《りんりん》たる語気を張って、
「――阿波の原士《はらし》とは問わでも読めた。汝らの待ち伏せていた法月弦之丞はここにおるぞ。何をしびれをきらしているのか! さッ、かかって来いッ! 斬りつけて来い! さまたげのないもちの木坂はのぞむ所の足場であった。どれほど腕の精魂がつづくものか、夕雲流の八|天斬《てんぎ》り、九地《きゆうち》に死骸の山を積ンでくれる!」
爛《らん》とした眼の向くところ、タジタジと退身《ひけみ》に動く相手の気配が、敵ながらもどかしそうであった。――と弦之丞は一方の物かげへ向かって、
「――旅川周馬はいないか! お十夜孫兵衛はその中におらぬのか! 天堂一角はいかが致した。いつもこそこそと拙者をつけ狙《ねろ》うておるくせに、なぜ今ここへ真《ま》っ向《こう》に躍り立って、いさぎよく弦之丞へ名乗りかけぬか。――ウウム! 返辞がないな! では逆礼《ぎやくれい》ながら待ち伏せられたこのほうから初《しよ》太刀《だち》がまいるぞッ――」
「生意気なッ」
と、初めて、怒声を叩き返したのは、剽悍《ひようかん》なる原士のひとり、無謀! 血気な太刀に風をくらわせて、閃光《せんこう》とともに弦之丞の身辺へ躍りかかって行った。
待つや久し――
柄《つか》に満《まん》を持していた弦之丞の片肘《かたひじ》、ピクリッと脈を打ったかのごとく動いて、真《ま》っ向《こう》に躍ってきた影をすくうかとみれば、バッ――と鞘《さや》を脱した離弦《りげん》の太刀《たち》!
それはひそやかに、後ろに廻っていたものの腰車を払って、遺憾《いかん》なきまでに斬って抜け、左へ返すやいな、八相《はつそう》の落し。
剣風一陣、もう三名が血まつりの犠牲《にえ》となった。
「わアーっ」
という鬨《とき》の声、期せずして、山をゆるがし、皓々《こうこう》たる刀林《とうりん》をどよませてきたのは、その途端だ。
血をみて発作的にふるいあがった声――獣性も人もけじめなきかを思わする兇暴なる挑戦の猛吼《もうく》。
「それッ」
「相手はひとりだ!」
「鬼神ではあるまい! ひるむなッ」
二十余名の原士の姿、ここに黒々と明らさまなる影を描き、かつ躍り、坂の下段、坂の上方から、弦之丞ひとりを挟んでミリミリと鋭刃《えいじん》を詰めあった。
すでに、返り血の斑点《はんてん》を身に浴び、剣それ以外に何ものもない、無想境の神《しん》に入った弦之丞は、仆れ重なった三個の死体に片足を踏まえて、
「オッ。いざ来い!」
と無銘《むめい》の皓刀《こうとう》、ふたたび、八相の天に振りかぶって、双眸《そうぼう》らんらん、四面に構えた。
「むむッ」
「おおッ」
と取りかこむ数多《あまた》の人数――ズ、ズ、ズ、ズ――と弦之丞の周りを巡《めぐ》って動いていたかと思うと、坂の上手《かみて》の者六、七人、足場のいい地勢から、かこみをくずして乱剣の太刀風荒く、いちどにドッと斬りつける!
「押しきれ!」
「退《ひ》くなッ」
と坂の下手《しもて》へ廻った者も、機を狙って切《き》ッ尖《さき》をそろえ、颯《さつ》、颯、颯然! 真っ黒になってなだれかかる――
剣の光は閃々《せんせん》と乱れて見えたが、その時、ここ、もちの木坂の一地点――ほとんど、人と人と人と人とのかたまりが、一個の野晒《のざらし》をあばき合う狼群《ろうぐん》のごとく眺められて、さしも、法月弦之丞、どうなってしまったか、その群影に揉《も》みこまれて、しばらくの間というもの、かれの姿を識別しようもない。
が、それも一刻。
ワッとどよみ立ったかと思うと、すべての影がボヤッと隠れた――四、五人|斃《たお》れた血煙の霧だろう――と見れば刹那に弦之丞の姿、逆風剣《ぎやくふうけん》の切《き》ッ尖《さき》を、上手《かみて》の者の足もとに薙《な》ぎつけて、まっしぐらに坂の上手へ踊り進んでいる。
逃げるかと見て、追いかけると、不意に、一転して立ちなおった。こんどは地勢を改めて、すべての人数を下へ見おろし、吾から寄って左風剣、右風の剣、無二無三に斬ってまくる。
その鋭刃《えいじん》になぎ立てられ、半数あまりの原士たちが、算をみだし、傷《て》を負って、ドドドッ――と下り勾配《こうばい》へ押し崩れてゆくのを、夜叉《やしや》のごとく追いかけて、ひとりあまさず斬《き》り伏《ふ》させずにはやまないかにみえた。
思うに、今こそ、弦之丞が剣をとっての本相は、かれが平常の、白皙柳眉《はくせきりゆうび》の柔和《にゆうわ》仮面《めん》をかなぐりすて、獅身夜叉面《ししんやしやめん》のおそろしき本体を見するのであろう。
逃げおくれるのを跳び斬りに切ッて放し、なおも疾風! 引ッさげ刀! ピューッと血|糊《のり》をすごきながら追って走ると、そのうしろへ、
「待てッ、弦之丞――」
とからみついた閃光《せんこう》がある。そぼろ助広の閃光であった。
「なにッ」
と坂の勾配《こうばい》に、惰勢《だせい》のついた行き足を止めて、ふりかえるや、その真眉間《まみけん》へ、
「かッ!」とばかり、目のくらむような気当《きあて》と一緒に、猿臂《えんぴ》のばしにふりつけてきた岩砕《がんさい》の太刀《たち》。
丹石《たんせき》流の呼吸である。
業刀《わざもの》はそぼろ助広、持ち人《て》はいうまでもないお十夜孫兵衛。
チャリン! という音の冴え。双方の鍔《つば》へ――鏘然《しようぜん》として、まッ青な火が降った。
斬《き》るか、斬られるか。
やるか、とるか。
剣と剣の間には、毛髪をいれる妥協もない。
触れたがさいご、焼金《やきがね》からシューッと青い火花が飛ぶ――火花は生命《いのち》の目《ま》ばたきだ。
豹《ひよう》の四肢《しし》のごとく、伸縮の自由な孫兵衛の腕ぶしには、一種の粘力《ねんりよく》があってなかなかあなどり難い。ことには弦之丞がすでに散々な疲労をおぼえているに反して、その気息には新しい力がある。
すさまじい一合二合! そこでガッキと鍔《つば》が食いあったが弦之丞、坂の下寄りへ廻っていたので、柄手《つかで》をねじって、ひッぱずした。
「あっ!」と、その時、孫兵衛のほうに、不意に息が抜けたのは、ヒタ押しに上方から鍔競《つばぜり》を押す気ごみであったらしい。かれの上体は弾《はず》みをくって、坂を斜めに泳いでしまった。すると、
「おのれッ」と、また一人。
小高い所から飛び下りて、片手かぶりの大刀を、そのまま梨割《なしわ》りにふるって落してきたのは、殿《しんがり》をしろと孫兵衛にいわれていた、天堂一角。
いつまで周馬の現われぬのに業をにやして、もう我慢ができないというふうに、片手上段で飛び下りたが、早くも弦之丞、剣下《けんか》を交わしてしまったのみか、裾《すそ》を払って、その隙に、一方の低地へ駈け下りた。
そこは最前、弦之丞がここへ来る前に、三人を初め原士のすべてが、たむろをしていた草原で、わざとそこへ走ったのは、なお闘うべく地相を選みなおしたものか。
かれが平地へ立ちなおったのをみると、草原の隅に身を屈していた旅川周馬、ムクムクと身を起こして、しずかに近くへ近くへと這いまわって行った。――そのまに一角とお十夜は、さらに猛然と、切《き》ッ尖《さき》をならべ、たとえどんなことがあるとも、今夜こそは弦之丞を刺《さ》しとめずにはおかぬという気勢を示した。そして、先に乱離《らんり》となった原士の方も駈けあわせてきて、捲土重来《けんどちようらい》の手ぐすねをひき、ふたたび疲れた弦之丞を危地へ誘い込もうとする。
もう最前の場所からこの平地までの間には、弦之丞の烈刀《れつとう》にあたって血みどろになったものが、少なくも八、九名はのた打っている筈だが、残余の氷刃が一ヵ所に晃々《こうこう》と集立《しゆうりつ》すると、いっこう人数が減ったとはみえない。
そのおびただしい光ものが、チカチカきらめくたびごとに、弦之丞の命が、一|分《ぶ》二分ずつ、磨《す》り減らされてゆくのではあるまいか――どう倫《りん》を絶した使い手にしろ、疲れぬ肉体というものを持っている筈がない。
だが、静かにそこを冷観すると、なんという壮美な活景だろう。空には妖麗な金剛雲《こんごうぐも》――地にはほのかな宵月《よいづき》の明り。
花には露の玉があり、草は柔らかい呼吸をしていた。そこへ、人間の生血が惜しげもなくフリまかれる。
かくて麗《うるわ》しい夜は夜だが、お綱は苦しい、修羅《しゆら》の刻々だ! 万吉も深い血の池へ溺れこんでいるようにもがいた。二人は縛《いまし》められている松の根元を転々としながら、どうかして、縄《なわ》を噛み切ろうと、さまざまに悶《もだ》えて体を蝦《えび》のごとく折り曲げた。
すると、万吉の縛り付けられている松の木から、二、三間ばかり離れた所に、旅川周馬が身を折り敷いて、玉薬《たまぐすり》をこめ火縄を吹き、あなたにある弦之丞の姿を狙《ねら》って、あわや短銃の引金を引こうとしている。
「畜生! ……」と思ったが、縄目に自由を奪われている万吉には、どうする術《すべ》もない。
しかし、最前から、ジッと身を隠し通していた旅川周馬、引金をひいたらただ一発で、必ず弦之丞の急所を撃ってみせようとする意図なのに相違ない。
危機は間髪《かんはつ》!
弦之丞の致命をつかみかけている危機は、かれの身辺よりむしろここにあった。
「エエいまいましい! みすみすそこにいる奴を眺めながら――」と万吉の歯が下唇をかみしめた。と、かれは足を踏ン張って、松の根元から芋《いも》虫のように転がった。そして、五体の肉をもがかせて、縄の伸びるかぎり周馬の方へズリ出してゆく――。
周馬はといえば、今や、構えを取った銃先《つつさき》の焦点へ全念をこらしかけていたので、それとは気づかずに指へ力をこめかけると、いきなり、伸びて廻った万吉の足が、ウム! とその片肘《かたひじ》を蹴払った。
とたんに、ズドーンという硝薬《しようやく》のひびき。的《まと》を狂わせて天空へ音波をゆすッた。
徒労になった轟音《ごうおん》に、耳をガンとさせた旅川周馬。
はからぬ邪魔をした万吉の足へ、カッと眼をいからせて、
「ちぇッ、なにをしやがる!」
と、まだ余煙のからんでいる短銃をイヤというほど叩きつけた。
と――今の爆音に気がついて、旋風のごとく、そこへ猪突《ちよとつ》してきた者がある。
眉《まゆ》はあがり、髪はみだれ、気息はあらく炎のよう――手には幾多の生胴《いきどう》をかけた血あぶらのうく直刃《すぐは》の一刀。
それを引っさげて疾駆してきた。
弦之丞である、天魔神を思わする姿である。
さながら潮《うしお》をさしまねくように、わッと刃囲《じんい》をくずして追いかかる後ろの声に振り向きもせず、来るや、そこなる周馬を目がけて、
「えーいッ」
とばかり一跳足《いつちようそく》。
逆風を切ッて横薙《よこな》ぎに一揮《ひとふ》り、相手の胴へビューッと走ったは、またもやあの手――弦之丞が今宵同じ手ぐちで四人までも斬っている夕雲流の逆風剣――すなわち八|天斬《てんぎ》りと誇称されるあぶない切《き》ッ尖《さき》。
周馬。
いきなりその剣風をくらッて、吹ッ飛ばされたかのごとく、あッ――と後ろへ片足立ち、気当《きあて》を返して腰の太刀を、
「おうッ」とすぐに抜きあわしたが、無論、自分の体《たい》を退《ひ》いているので、その払いは虚にして空、キリキリ舞いをやったにすぎない。
もう一歩――その刹那に、弦之丞の返し太刀が、足とともにふって落されたら、旅川周馬、その時、梨か竹かのように二ツに割られている筈である。
だが、すぐ後へ――お十夜と一角が電馳《でんち》して来た。原士の乱刃が迫っていた。
で――弦之丞はその寸隙《すんげき》を惜しんだのであろう。周馬へまいる余地のある太刀を、ヒラリと返して横へ駈けるや、そこに仆れていた万吉の縄目を、プツリと斬って孫兵衛と一角のほうを防いだ。
何か、異様な叫びをあげて――まったく何を叫んだか分らない――はね上がった目明しの万吉は、お綱のそばへ転げて行って、次にかれの縄を切った。
猿ぐつわを振りほどくと、お綱は、吾を忘れて、弦之丞の名を呼んだ。
弦之丞も、無論、それをお綱の声と聞いたであろう。だが、周馬、一角、お十夜――こう三人の鋭刃《えいじん》を前にして、かれは死力に汗をしぼっていた場合であるから、或いは、聞こえなかったかも知れない。
万吉は新手《あらて》の意気ごみで、道中差の鞘《さや》を払った。お綱もまた、母のかたみであり、剣山に辿《たど》りついた時、父の世阿弥に名のるべき唯一の証《しるし》として、愛護してきたあの銘刀へ手をかけた。
かくて――
春月を隠した美しい金剛雲の下で、その夜、惜し気もなく犠牲《にえ》に散らされた鮮血が、どこまで、もちの木坂|満地《まんち》の若草を紅《くれない》にしたことか? ……。
やがて、刃影の跳躍も、一場の夢幻となってかき消えた。そして、木曾の往還は何ごともなかったように夜が明ける。
小荷駄《こにだ》の鈴が街道の朝を知らせ、小禽《ことり》が愉快にさえずりだした。真昼の太陽に草の露が乾くころには、墨汁《ぼくじゆう》をこぼしたかと思われる道ばたの血痕も、馬蹄《ばてい》やわらじの土埃《つちぼこり》に蔽《おお》われて、誰の目にも、ゆうべの修羅が気づかれない。
幾つもの死骸や負傷《ておい》はどこへ運び去られて行ったか、夜明けの前に手ぎわよく片づけられていたのである。で、すべての旅人はみな常と変りはなく、もちの木坂を通りすぎたが、敏覚な虫類――虻《あぶ》や蝶や太陽《てんと》虫《むし》などはいたる所の草の根から、面《おもて》をそむけて飛んでいた。
船路《ふなじ》の巻
心の地震
鬱然《うつぜん》とした大樹はあるが、渭山《いやま》はあまり高くない。山というよりは丘である。
西の丸、本丸、楼台《ろうだい》、多門など――徳島城の白い外壁は、その鬱蒼《うつそう》によって、工芸的な荘重と歴史的な錆《さび》をのぞませ、東南ひろく紀淡《きたん》の海をへいげいしていた。
城下をめぐる幾筋もの川は、自然の外濠《そとぼり》や内濠のかたちをなし、まず平城《ひらじろ》としては申し分のない地相、阿波二十五万石の中府としても、決して、他国に遜色《そんしよく》のない城廓。
その三層楼のやぐら柱にもたれて、さっきから、四方を俯瞰《ふかん》している人がある。
太守である。阿波守重喜《あわのかみしげよし》だ。
かれは、そこからかすかにみえる、出来島《できしま》の一端を見つめた。河にのぞんだ造船場《ぞうせんば》がある。多くの工人、船大工が、しきりに巨船を作っていた。
すぐ、その眼を、徳島城の脚下にうつした。
そこにも、多くの石工《いしく》が、外廓《そとぐるわ》の石垣を築いていた。搦手《からめて》の橋梁《きようりよう》や、濠を浚《さら》う工事にもかかっている。
石垣の修築は、幕府の干渉がやかましいものだが、阿波守は、わずかな河川の修復を口実にして大胆にこの工《こう》を起こした。しかもそれは大がかりな城廓の手入れらしい。
のみや槌《つち》の響きは、何か新興の力を思わせる。阿波守の胸には、その音が古き幕府に代るものの足音として衝《う》ってくるのだ。――四顧すれば海や空や本土のあなたにも、皇学新興の力、反徳川思想がみちみちて、ひとたび、この渭之津《いのつ》の城からのろしをあげれば、声に応じて西国の諸大名、京の堂上、それに加担するものなどが、ときの声をあげるだろう。
重喜の眸《ひとみ》は、そんなことを想像しながら、時の移るのを忘れていた。
「だが? ……」
ふと、自分で自分に反問する。
「大事――未然に洩れては、すべての崩壊《ほうかい》だ。この城、この国、一朝にして、資本《もと》も子も失《な》くすことになる」
望楼を歩きながら阿波守、しきりに苦念の様子である。ゆるく、的《あて》なく、一歩一歩と踏む足には力をこめたが、胸底の憂暗、かれの横顔をおそろしく青くみせた。
「堂上方を中心として、竹内式部《たけのうちしきぶ》、山県大弐《やまがただいに》、そのほか西国の諸侯数家、連判をなし血誓の秘密をむすび、自分はすでにその盟主となっている。今に及んで、卑怯《ひきよう》がましい、なんの、これほどの大事をあぐるに!」こう、動じやすい意志を叱って、唇をかんだ。
「よしや、江戸表で、うすうすぐらいな疑いを持つとも、城壁の改築や、造船の沙汰ほどなら、いくらでも言い解く口実の用意はある」
さらに、強くなれ、強くなれ! とそこで、徳島城を踏みしめた。
で――、やや明快な面《おもて》をあげ、サッと海風のくるほうを眺めると、今、淡路の潮崎《しおざき》と岡崎の間を出てゆく十五|反帆《たんぼ》の船が目につく。
帆じるしをみて、重喜《しげよし》にも、それが商船《あきないぶね》であることが分った。
月に一度ずつ、大阪表へさして、藍《あい》、煙草、製紙などを積んでゆく、四国屋の船である。
と思うと、脚を深く入れた、塩積船が出てゆくし、あなたからも岡崎の港へ、飛脚船《ひきやくぶね》や納戸方《なんどがた》の用船などかなり激しく入ってくる。
その海上往来のさまをみているうちに、阿波守は、またかすかな不安をおぼえだした。
「ム。何ごとも、惧《おそ》れるものはない。しかし、あぶないのは、領内へまぎれこむ他領者だ――ことに江戸から目的を持って入りこむ奴じゃ。天堂一角の通知があったので、取りあえず、この春の道者船《どうじやぶね》はさし止《と》めたが、あのように、頻繁《ひんぱん》な船入《ふない》りのあるうちには、どんな者が、どう巧みに入りこまぬ限りもない……」
今まで懸命に、意志を支えていたものが、グラグラと揺れだして、極度に、重喜の壮図《そうと》をおびやかしてきた。
でなくとも、かれは、ここ数年の間、内面的に、すくなからぬ細心と辛労を抱いてきたので、近頃は、かなり強い神経衰弱にかかっていた。
渭之津《いのつ》城を脚下にふみ、広大なる大海の襟度《きんど》に直面しながら、思いのほか、重喜の心が舞躍《ぶやく》してこないのも、かれの眉が、ともすると、針で突かれたようになるのも、そのすり減《へ》らされてきた神経のせいだろう。
神経衰弱――源内流《げんないりゆう》でいえば、心病《しんびよう》、あるいは心労症というに違いない。常に不安を感じ、焦躁《しようそう》にかられ疑心にくらまされ、幻覚をえがく。
あくなき色慾にただれ、美食管絃の遊楽に疲れての大名病《だいみようびよう》にもこの症《たち》があるが、重喜のはその類《たぐい》とはなはだ異なる心病だ。イヤ、神経衰弱といおう、そのほうが、かれの今の心持にピッタリと合う。
「殿! 何をしておいでなさいます」
ところへ、竹屋|三位卿《さんみきよう》が上がってきた。
これはまた、いたって、苦労も憂惧《ゆうぐ》もないふうだ。
三層楼のやぐらの上に、重喜とならんで、かれも姿をたたせると、その憂《うれ》いなき栄養に肥えた紅顔は魚のごとく溌剌《はつらつ》とし、海を見れば、おのずから禁じ得ぬもののごとく、自作討幕の詩を、いい気もちで微吟《びぎん》しだした。
「殿もお謡《うた》いなさらぬか」
海に向って、討幕の詩を微吟していた有村《ありむら》は、黙然《もくねん》としている重喜へ義務のようにいった。
阿波守は、それを、微笑で聞き流した。しかし、複雑な神経が、さびしい笑みに隠されていることは、もとより三位卿の感じるところでない。
「鳴門舞《なるとまい》――しばらく殿の朗々たる謡声《うたいごえ》も聞きませぬ。詩吟、舞踊なども、たまには浩闊《こうかつ》な気を養ってよろしいものと存じます」
「さよう」
「願わくば、わが盟主、もっと元気にみちていて下さい。大事をあぐる秋《とき》は、刻々と迫ってきております」
「うム……」
「御当家の城普請《しろぶしん》や造船や、また火薬兵器の御用意などが、着々とすすむにつれて、筑後柳川《ちくごやながわ》の諸藩をはじめ、京都の中心はもとよりのこと、江戸表の大弐《だいに》などもしきりに、ひそかな兵備をいたしておるとか」
「うむ」
「――無論、そうなる場合、御当家の一陣は、この有村が承るものと心得ておりますが……」と三位卿は躬《み》みずから、二十五万石の城地を賭けて、乾坤《けんこん》一擲《いつてき》天下をとるか否かのやまを張っているような気概でいる。
「何より、士気に関するのは、阿波殿のお体で――よかれ悪しかれ味方の旗色《はたいろ》にすぐ響いてまいりますからな」
「う……む」
「海のごとく寛《ひろ》く、空のごとく明るく」
「心を持てとか?」
「その通りです」
「分っている。しかし有村殿、家中《かちゆう》の者一統の生殺をあずかる阿波守じゃ。要意に要意をいたさねばならぬ。で、自然に、そこもとなどにはお分りのない心遣《こころづか》いがある」
「そう申せばお顔の色がひどく青い――、海の反映か、樹木のせいかと思っておりましたが」
「あなたはまことに羨《うらや》ましい」
「皮肉な仰せ――居候《いそうろう》はひがみます」
「いや、それではない。すべて公卿殿の立場は気が軽いと申すのじゃ。事《こと》未然《みぜん》に発覚しても、およそ堂上の方々は、謹慎ぐらいなところですむ。で、おのずから討幕などということも、蹴鞠《けまり》を試みる程度の気もちでやれますが、さて、大名の立場となると、そうはまいらぬ」
「いや、有村じゃとて、敗《やぶ》れた後は、決して生きてはおらぬ覚悟」
「そこがまことに羨《うらや》ましいと思う――この阿波守などは、そうできぬ。なぜかといえば」
「しばらくお待ち下さい」
やや色をなして、三位卿、重喜の前へ健康そうな胸を張った。
「では、阿波殿には、討幕の壮図《そうと》、やぶれるものとみておられますか」
「勝ちを信じる前に、そこに思いをいたすことは、もとより武門の慣《なら》いである」
「なんの! 今の幕府が――指で突いても仆れるほど、腐敗しきっておりますのに」
「いや、それよりは、こっちの足もとを気をつけておらぬと、事を挙げぬうちに逆捻《さかねじ》を食うであろう。有村殿にも、その辺のお心配りを第一に願いたい」
「それは、ご安堵《あんど》下さいまし、先頃から、天堂一角の知らせに応じて、それぞれ船関《ふなぜき》、山関《やまぜき》の手配りなども一段ときびしく固めさせてあります」
「しかし、昨年大阪|表《おもて》で取り逃がした、法月弦之丞という江戸方の者、容易ならぬ決心をもって、この阿波へ入り込もうとしているというが」
「何をしているのか天堂一角、刺客《しかく》となってかれをつけて行きながら、いまだに刺止《しと》めることができぬらしい。――それをみても、弦之丞と申すやつは、一癖あると見えまする」
かつて、安治川の下屋敷《しもやしき》で、月山流《がつさんりゆう》の薙刀《なぎなた》をつけ、したたかに弦之丞のために投げつけられたことは、今も三位卿の記憶に残っている筈だが、それはいわない。
そこへ、侍臣のものが、重喜の意向を伺いにきた。
「森啓之助《もりけいのすけ》様が、つるぎ山から帰られて、何か、御拝顔を得たいと申されておりますが」――と。
「う、今頃うせたか」
すぐに、こう応じたのは、重喜でなく、有村の苦笑だった。
「まいろう」
と阿波守はやぐらを降りて、徳島城の西曲輪《にしぐるわ》へ向った。
ひとりで、そこの風に吹かれていてもしかたがないので、三位卿も重喜の腰について行った。
小姓にしてはわがまますぎるし、飯粒《めしつぶ》にしては大きすぎるこのつきものを、別に気にかけない重喜も大名だが、それの邪魔にならない徳島城もさすがに広い。
「どうであった? 剣山の方は」
「は、昨夜御城下へ戻りましたが、夜中《やちゆう》のことゆえ、御復命さしひかえておりました」
「月々《つきづき》の目付役、大儀である」
一室の席についた阿波守は、そこへ森啓之助を引いて、山牢の様子を訊《き》いていた。
そばには竹屋三位卿、恬然《てんぜん》として控えている。啓之助の目と有村の目が、重喜をはずして時々妙にからみあった。
「そちも聞き及んでいる通り、江戸方の者がしきりに当国をうかがっている場合じゃ、剣山の麓《ふもと》や山関の役人どもにも一倍用意させておかねばならぬぞ」
「山番の末にいたるまで、近頃はみな緊張しきっておりまする」
「ム。では、別に異常もなく警固しておるな」
「ところが、天満同心の俵一八郎が、とつぜん、死亡いたしました」
「や、遂に、病死いたしたか」
「ならば別段でもござりませぬが、何者かの悪戯《あくぎ》――おそらく悪戯と察せられます――で、殺害《さつがい》されたものでござる」
「間者牢《かんじやろう》の者を殺害した? 誰が? 誰がそんな意志をもって悪戯をいたしたか」
「剣山の御制度をわらい、間者を殺せば祟《たた》りがあるという御当家のきびしい掟《おきて》を、迷信なりといって故意に矢を射て殺したものでござる。しかもその下手人は――」
「あいや!」
と、いきなり声を出して、三位有村、啓之助の言葉を抑え、重喜の方へ向きなおった。
「いさぎよくその下手人の名は下手人の口から自白いたしまする。すなわち、俵一八郎を一矢《いつし》にて射殺しました者は、かく申す竹屋有村、御当家のおため! こう信じてやりました」
見るまに、重喜の顔色が変った。そして神経質に青ざめたまま、いつまでも平静にかえらず、ジッと病的に光る眸《ひとみ》をすえた。
「なんでさようなことをなさる! 当家中興の祖|義伝《ぎでん》公以来、たとえいかなることがあっても、領土へ入りこんだ隠密は殺さぬ掟《おきて》――間者を殺せば怪異を生むという徳島城の凶事を、そこもとは好んで招き召されたな」
「イヤ凶事を招く意志ではありませぬ。むしろこれを吉兆の血祭りとして、御当家の古き迷信をやぶり新時代の風雪に陣をくりだすの意気を示しましたつもり。また、そのような旧《ふる》き思想にとらわれている家中の者の蒙《もう》をさますためにもと、あえて、かれを殺しました」
「おだまりなさい!」
こらえていたものが吹ッ切れたように、阿波守の声、やや冷静をかいて癇走《かんばし》った。
「阿波には阿波の歴史があり、この城にはこの城の柱石《ちゆうせき》をなす掟と人心というものがある。間者を殺せば凶妖《きようよう》ありと申すことは、家中一統の胸に深く烙《や》きついて、誰も信じて疑わぬまでになっている。お身の乱暴な矢はその人心におびえを射こみ、動揺を起こし、大事の曙光《しよこう》に一抹《いちまつ》の黒き不安を捺《な》すってしまった! もし向後《こうご》渭山《いやま》の城に妖異のある場合はいよいよ家中の者に不吉を予感さするであろう。ああ、まったく要《い》らざることを! 烏滸《おこ》な気働きをさせたものじゃ」
こう、叱っている阿波守が、すでに迷信から生じる一種の不安と疑惧《ぎぐ》におそわれつつあるような心理が、三位卿には不解であった。
「それみたことか」
といわんばかりに啓之助は、小人《しようじん》らしい溜飲《りゆういん》を下げていた。剣山の帰途、お米と自分の姿へ、馬上から諷罵《ふうば》をあびせかけて行った有村の態度には、彼とても、こころよくはなかったから。
しかし、有村は、あの時、啓之助へ投げた言葉も、偽らぬ感情を、疾風の間にいいすてたことだし、また阿波守に咎《とが》められたことも、自身では、正しい啓蒙と信じているので、なんらの痛痒《つうよう》もおぼえていない。
で、かれはなおも毅然として、剣山の制度は、家中に無用な迷信心理をつくる禍因《かいん》だと論じた。
また、蜂須賀家の癌《がん》になるだろうともいった。
その上に、ツイ口を辷《すべ》らして、
「いッそのこと、後《あと》に生き残っている甲賀世阿弥《こうがよあみ》も、この際、殺してしまったほうがよかろうと存じます!」
と痛言《つうげん》して、これはちと口が過ぎたと、自分もハッとして絶句し、阿波守や啓之助は、なおさらにびっくりして、その暴言にあきれたような眼をみはった。
――その時だった、折もあろうに。
突然!
ドドドド――ッと、すさまじい地唸《じうな》りがして、栗尺角《くりしやつかく》の殿中柱が、ミリッといったかと思うと、三人の坐っている畳までが、下からムクムクと震動してきて、座にたえぬような恐怖を感ぜしめた。
「あ! ……」
といって、啓之助は度を失い、三位卿は、
「地震《ない》だ!」
と叫んだ。
阿波守は席を立たなかった。脇息《きようそく》とともに仰むけに身をそらし、もの凄い家鳴《やな》りにゆれる天井を、白眼《はくがん》で見つめていた。
地震!
かなり大きな地震――と直覚したことは、三人ともに一致していた。
震動は徐々とやんだが、啓之助は、地震ぎらいとみえて、次にくる揺れ返しを案じながら、喉《のど》ぼとけを渇《かわ》かせて、生ける色もなく棒立ちになっている。
家鳴《やな》りのあとは一そう陰森《いんしん》として、宏大な殿中は、それっきりミシリともしなかったが――やがて何事だろう?
西曲輪《にしぐるわ》の廊下から武者走《むしやばし》りの方へ、家中のもの誰彼となく、一散になだれだした。その物々しさが、天変のあった直後だけにことさらただごとでなく思われる。
「にわかに物騒がしいが?」
と三位卿も襖《ふすま》をあけ、次の間を出て内廊下の一端へ飛びだした。
続いて、阿波守も席を立ったので、啓之助はそれを幸《さいわ》いに、誰よりも早く、庭手へ下りかけようとすると、そこへ作事奉行《さくじぶぎよう》の中村|兵庫《ひようご》、城普請《しろぶしん》の棟梁《とうりよう》益田藤兵衛《ますだとうべえ》、そのほか石垣築《いしがきづき》の役人などが、落ちつきのない顔色でバラバラと、重喜の面前へきて平伏した。
常なら、近習《きんじゆう》、または表役人を通じて謁《えつ》すべきなのに、いきなり、各|作事《さくじ》支度のわらじばきで、庭先へ平伏したのは、よほど何か狼狽《ろうばい》しているとみえる。
「なんじゃ兵庫! おお、益田藤兵衛! そちの面色《めんしよく》もただではないぞ」
廊下に立って、重喜が声を励ますと、中村兵庫、おののきながら、急変を知らせた。
というのは、この二人が責任をもつ作事のことで、こんど新たに築きかけている城南の捨曲輪《すてぐるわ》、その水堀から積み上げた大石の堆層《たいそう》が、どうしたのか、今|俄然《がぜん》としてくずれたため、上の桝形《ますがた》へ建築しかけている出丸櫓《でまるやぐら》の一端まで、山崩れのごとく濠《ほり》へのぞんで落ちこんだ――という大失態。築城上例のない変事だ。
「申しわけござりませぬ!」
その後で、一句、こういったまま、作事監督の両役人、大地へ額《ひたい》をすりつけて慴伏《しようふく》する。
阿波守は、その者たちへ何ごともいわずに、ツウと足を早めたかと思うと、以前の三|重櫓《じゆうやぐら》の上へ駈けのぼった。
竹屋卿と啓之助も、息をきらしてそこへ上がってきた。
でも阿波守は、それへも一言すら、口をきかずに、櫓柱《やぐらばしら》に手をかけて、城南出丸の工事場をジッと見おろしている……。見ると、なんという惨状だ、まったく目もあてられない状態。
さっき、有村がここに立って、討幕の詩を微吟《びぎん》していた時は、屹然《きつぜん》としていた捨曲輪の石型や櫓が、みじめに歪《ゆが》みくずれている。そして、助任川《すけとうがわ》からくる水を堰《せ》き止《と》めてある空濠《からぼり》の底へ、何千貫の大石がるいるいとして無数に転落しているのであった。
城内から溢《あふ》れ出た若侍たちは、うろたえている人足どもを叱《しつた》して、その空濠の底から、石に押しつぶされた工人《こうじん》の死骸を引きあげさせている。
わめく者、うめく者が、戦場のごとく入り乱れていて、重喜の驚きを、呆然《ぼうぜん》のままにさせてしまった。
「ああ、これは容易ならぬことだ……」と啓之助は当然なことをつぶやいて――「川底の地固めが足らなかったに違いない、そのために、大石をすえた沼がすべったのだ……作事方の手落ち、申し開きはあるまい」
「最前の地ひびきは、さては、このすさまじい音であった。地震《ない》ではなかったのじゃ」
竹屋卿がいうと、啓之助は、天変以上のこの禍《わざわ》いを見ながら、なんとなくホッとした気持で、
「さよう、地震ではなかったとみえます」
と、相槌《あいづち》を打って、殿《との》の顔色をみた。
重喜はなお黙然としていた。
かれの心は、今もまだ、大きな地震の力をもって、渭山《いやま》の城とともに揺さぶられている。
阿波守に、事多き日であった。
そこへ、船手組取次《ふなてぐみとりつぎ》の早状《はやじよう》が一通、近習《きんじゆう》の手をへてかれの前へ届けられた。
密封した書状の上紙《うわがみ》には、木曾街道|垂井《たるい》の宿《しゆく》、御用飛脚屋《ごようひきやくや》むかでやの扱い印《いん》がベットリとおしてある。
「気分が悪い」
といって、重喜は、今手にとった早状《はやじよう》を一読すると、それを三位卿に渡し、自身は近習《きんじゆう》の者と一緒に、望楼を下りていった。
「ム、一角の早打《はやうち》か。近頃は頻繁《ひんぱん》に様子を知らせてまいるな」
と、有村がそれへ目を落すと、啓之助もそばから顔をさしだした。
書信の文言《もんごん》は簡単である。しかし、少しも吉報ではなかった。
すなわち天堂一角が、阿州屋敷から助太刀に派遣された、原士《はらし》の組と協力して、もちの木坂に法月弦之丞を待ちぶせした、その翌々日、垂井《たるい》の宿《しゆく》で発したもの。
遺憾《いかん》ながらこのたびも、遂に、弦之丞を討ち洩らしたが、次の機会には、必ずこの遺漏《いろう》の不名誉をすすぎまする、という申しわけだ。
そして、自身|刺客《しかく》として弦之丞をつけ廻るうちに、関屋孫兵衛《せきやまごべえ》、旅川周馬《たびかわしゆうま》という、ふたりの剣士にもすくなからぬ助力を得ている旨が追記してあり、関屋孫兵衛は、もと、御当家の原士の者ゆえ、弦之丞刺殺の目的が果たされたのちは、何分、原士の旧籍に復格のことを許していただきたい――などという私事のほうは多分にしたためてある。
「駄目だ! これは」
有村は見切りをつけたように、文殻《ふみがら》を啓之助へつきやって、
「所詮《しよせん》、天堂などの敵でないとみえる。頼み甲斐のない一角の報《し》らせがまいるたびに、阿波殿の御気分がいらいらとしよう。よし、ひとつこの有村から、わざと罵詈《ばり》を加えた返書をやって、かれを鞭撻《べんたつ》してくれねばならぬ」
「や、三位卿」
「なんじゃ」
「およしなされ、また要《い》らざる僭上《せんじよう》沙汰と、後《あと》になって殿のお叱りをうけまするぞ」
「よいわ、よいわ。どうせ天下に、主人《あるじ》の気にいる居候はない。叱られついでに、一角が腹を立てて、弦之丞を討つか、舌を噛んで自殺いたすかという気になる程な、手紙を叩きつけてやる」
何かにつけて暇のある竹屋三位、思いつくと童心のようにこらえているということがない。ばらばらとそこを降りて、己れの部屋へ向いかけたが、その途中、先刻立った廻廊のところまでくると、そこに老臣や多くの者が寄り集まって、愁然《しゆうぜん》たるうちに、どこやら物騒がしく駈け廻っていた。
みると、作事方《さくじかた》の責任者である、益田藤兵衛と中村兵庫のふたりが、最前、阿波守へ平伏した庭先の場所から、一寸もいどころをかえずに、そのまま、腹を切っていたのである。
ふたりの死骸は、すでに運び去られてあったが、血汐を吸った庭土《にわつち》には、まざまざと濡れている痕《あと》があった。
「兵庫は偉い! 藤兵衛もさすがだ」
こう言いながら、竹屋三位、その騒ぎの中をぬけて居間へ入った。実際、かれはそう思った。清涼剤のような心地がした。
「それにつけても、歯がゆいやつは天堂一角、たかのしれた弦之丞ひとりを大勢して、いつまで持ち扱っているのだ」
憤然といったものである。
宿直《とのい》のものが襖《ふすま》越しに聞いていたら、阿波守がつぶやいているのではないかと間違えるくらいに。
やがて硯《すずり》をよせて、墨をすりだした。
土佐ずきの巻紙をのべて、活溌な文字を書きだした。世尊寺流《せそんじりゆう》とか醍醐風《だいごふう》とかいうような、色紙うつりのする水茎《みずくき》の文字ではない。文字もかれの気質どおり、わがままに刎《は》ね、気ままに躍っている。さらにだんだん見ていると、一角に宛てたその文言《もんごん》も激しいが、文字そのものもまた、一字一字|怒《いか》っている形。
しばらく夢中で書いている。
かかる間に、地震《ない》ならぬ地震《ない》のあった徳島城の殿中は暮れた。
「これでよし!」
巻折《まきおり》にして、封じ目に糊《のり》をしめし、上へ、大阪安治川御屋敷留守居役|便託《びんたく》としるし、そのわきへ、天堂一角――とまで太く書いたが、すぐ下へ、殿という字を書きつづけないで、ちょッと小首をかしげていたと思うと、取ってつけたように、先生と書いた。
天堂一角先生――
この書いた宛名《あてな》を眺めて、みずから悦に入りながら、
「先生は皮肉でいい。ム……だが、皮肉や諷語《ふうご》は、正直にうけとられると、時に大変なまちがいになるものじゃ。しかしよかろう、由来、先生という名称は、その表より裏で通用するものだ」
それに決めて、机から目を離した。
気がついてみると、いつか手元がほの暗《ぐら》い夕ぐれ。
「お……もう六刻《むつ》過ぎであろうに、きょうの騒動で燭台の支度までおくれたか」
と、書面を託送すべくそこを立って、間数《まかず》を越えてゆくと、ふいに、陰気な夕明りのただよう奥殿にあたって異様なうめき声が洩れる……。
妙な呻《うめ》きを聞いたのは、有村ばかりでなかったとみえて、小姓部屋からひとりの近習《きんじゆう》が走りだし、やはり錠口《じようぐち》に立って、耳を澄ましているふうだったが、うす暗い所から、
「安田伊織《やすだいおり》ではないか」
と、突然、三位卿に声をかけられて、びっくりしたようにふりかえった。
「あ、有村様でございましたか」
「向うでする呻《うめ》き声、どうやら殿の寝室らしいが、阿波殿にはどうしておられるな!」
「先ほど、お櫓《やぐら》からお下り遊ばすと、すぐに気分がお悪いと仰せられて、典医のさしあげた薬湯《やくとう》も召しあがらずに、お臥《ふせ》りになった筈でござりますが」
「それでは今のは囈言《うわごと》か……一八郎の死をひどく気にされていたところへ、妙にきょうは悪い偶然が重なったので、まだ昼の地震にゆられておいでになるとみえる」
「あ、何やらまた、激しいお声を出されておられます。オ……いつにない鋭いお声で」
「だいぶ神経を起こしておられる。伊織《いおり》、ちょっと御寝所へ行って揺り起こしてあげい」
「はい」
「お燭台《しよくだい》がまだまいっておらぬようじゃ」
「ただ今、手燭をもちましてお移し申してまいります」
手《て》雪洞《ぼんぼり》をかざした近習の安田伊織という若者、なんの気もなくお次部屋へ入って、しきりにうなされている寝所の襖《ふすま》をことさら忍びやかにあけてにじり進むと、
「誰じゃッ」
と、いきなり白絹《しろぎぬ》の蒲団がパッとはねあがった。
その権幕のおそろしさと、まっ白な練絹《ねりぎぬ》の寝衣《ねまき》をきた重喜の相貌が、手《て》雪洞《ぼんぼり》のかげに別人のようにすごくみえたので、伊織がヒヤリとして腰をうかしかけると、重喜の目がジイとすわって、彼をそこへ居すくませた。
「と、殿様……」
とおののくのを、なお睨《ね》めつけていたと思うと、
「…………」
無言のまま、阿波守の白い手の先が枕元の蛍斬《ほたるぎ》り信国《のぶくに》の太刀へスーとのびて行ったので、もう、伊織はジッとしているにたえない。思わず、後退《うしろさが》りに立ち上がろうとする。
とたんに、かれの白|足袋《たび》が、そばに置いた手《て》雪洞《ぼんぼり》を踏みつけ、一道の灯《ほ》かげが天井へ揺《ゆ》れたかと思うと、
「おのれ! 隠密ッ――」
抜き打ちに斬って、阿波守の手に、信国の太刀が呆然と持たれてあった。
「有村様ッ。あ、有村様――」
伊織は絶叫しながら錠口《じようぐち》まで転げてきたが、すぐにバッタリと仆れてしまった。何かと驚いて、来あわせた者二、三人、森啓之助も飛んできて、太守《たいしゆ》の寝室へかけこんでみた時には、誰よりも早かった竹屋三位が、重喜を抱きとめながら、声に力をこめて何か叫んでいたが、重喜はまだ落ちつかない眸《ひとみ》を光らして、
「江戸の奴が……江戸の隠密が……」
「な、なにを仰せ遊ばす!」と三位卿は、夜具の上へ諸仆《もろだお》れになりながら、
「渭山《いやま》の城中に、なんで、江戸の隠密などがおりましょうぞ。夢をみておいでられたのであろう、おお、方々《かたがた》、早く燭《ひ》を――いつもより燭台を多く!」
右往左往して騒ぐうちに、間もなくそこは、晃々《こうこう》とした灯の明りに、物の蔭もなくなって、仰むけに寝かされた重喜の顔だけが青白かった。
典医がきて診《み》なおすと、夕刻前よりはいちじるしく熱があがっていた。だが、それっきり悪夢を口走る様子はなかった。むしろ、平常《へいぜい》のかれよりいっそう冷徹にその神経が冴えてきたようであった。無論、それも病的にではあるが――。
啓之助は、遂にその夜、城をさがることができないで、公私二つに気が散っていた。
私事のほうの気がかりは、お米《よね》のことであった。きょう岡崎の港を出て大阪へ向った四国屋の舟には、お米と仲間《ちゆうげん》の宅助《たくすけ》がのって行った。――それはかれが、止むなく許してやったことだが、どうも、あのままこの阿波へお米は帰ってこないような気がする。
しまった。幾ら泣こうが吠《ほ》えようが、大阪へやることを許すのではなかった。女の涙ほど嘘のあるものはない。ほんとに泣いた涙でも、女は、あとでそれを嘘にして平気なものだ。ましてや、あの女は、無理無態に、海を越させてきた女ではないか。
失策だ、失策だ。とり返しのつかない失策をやってしまったのではないか? ――と、彼は人知れぬ焦躁《しようそう》をもって、殿の枕元に坐っていた。
かれ以外に、夜詰《よづめ》の間《ま》にも、常より多くの侍がつめたが、妙に、その晩は徳島城に鬼気があった。陰《いん》にみちた人の心が鬼気をよぶのだ。そして、誰も口には出さないで、誰の胸にも俵一八郎の死がこびりついている。
だが、三位卿だけは、おのれの部屋へひきあげた途端に、いとすこやかないびきをかいて寝てしまった。春は蛙の目借時《めかりどき》、かかる日も、食客殿は幸福であった。
紐《ひも》
いまわしい運命の呪縛《じゆばく》からのがれたい一心に、さまざまと手をくだいた甲斐があって、川長《かわちよう》のお米は、やっと、なつかしい大阪の町を、再び目の前に見ることができた。
土佐堀口の御番所《ばんしよ》で四国屋の藍船《あいぶね》が、積荷しらべをうけている間に、許されて、その親船を離れた一|艘《そう》の艀《はしけ》は、幾つもの橋の下をくぐって、阿波座堀《あわざぼり》の町を両岸に仰いでいる。
お米は日傘をさしてそれへ乗っていた。啓之助の手を遁《のが》れるとともに、心のうちで、
「もう、どんなことをしたって、阿波へなんぞ戻りはしない」
と、永別《えいべつ》を告げてきたお米は、そこに、少しも変りなく賑わっている大阪の町を眺めて、なんとなく後ろめたい気持であった。
怖ろしい体験と、執念ぶかい男のなぐさみに耐えてきた女は当然、心も容《かたち》も変っている筈。それは、境遇の導くままに任せている間は、気がつかない姿だけれど、久しく接しない故郷の町へ入ってみると情けないように変っていることが、その人自身にもありありとみつめられる。
両|河岸《がし》をゆく人――橋の上を通る人――、すべての視目《しもく》も、自分ひとりに注《そそ》がれているように感じた。そして、その肩身のせまい気おくれが、お米に日傘をかざさせた。
もっとも、親船を下りる前から、お米にはあらかじめ強い世間意識があったとみえて、土地の者に、こんな姿を見られるのはイヤだといって、囲《かこ》い女《もの》好《ごの》みに、阿波で啓之助がこしらえてくれた衣類をスッカリ派手なものに着かえ、髪も娘らしい形に、自分で結びなおしてしまった。
それでも、まだ緻密《ちみつ》な女の心は、気がすまないとみえ、幾夜幾たび、浅ましい男の快楽に濡れた唇へは、濃すぎるほどな口紅をつけて、いまわしい思い出のかげを玉虫色に塗り隠した。
「やっぱり大阪は大阪だな、俺でさえ久しぶりに来てみれば、悪くないんだから無理はない……。ねえ、お米の方《かた》」
と、舟の進むのとは逆に向いて、艀《はしけ》の舳《みよし》に腰かけながら、くわえ煙管《ぎせる》で納まっているのは、啓之助の内意をふくんで、お米の監視についてきた仲間《ちゆうげん》の宅助。
「さだめしあなたはお懐かしゅうござんしょう。旦那様からお許しが出たんだから、まあこれから日限《にちげん》までは、ゆっくりと、好きな所をお歩きなせえ。だが、ひとり歩きはいけませんぜ。そいつアくれぐれも、啓之助様から、念を押されてきた宅助。あなたの紐《ひも》になって、どこまでも一緒にクッついてまいります。ハイ、立慶《りつけい》河岸《がし》のお宅へも道頓堀の芝居へも、大津の叔父さん――なんていったっけ、そうそう、大津絵師《おおつえし》の半斎《はんさい》か、あそこへ行くとおっしゃっても、宅助やっぱりお供しなけりゃなりませんぜ」
うるさいやつ、毛虫みたいな男――と眉をひそめながら、お米は返辞もしないで、わざと、日傘を横にした。
ふふん……ソロソロご機嫌がお悪いネ。
大阪へ着いた以上は、もうどうにでもなれというような不貞《ふて》くされをやったって、そうは問屋《とんや》で卸《おろ》さねえぞ――というようなのは宅助の面《つら》がまえ。
「それじゃせっかくお暇が出ても、のびのびすることができないから、さだめし、この宅助を、ダニのようにうるさく思っていましょうね。だが、こいつも主人持ちの悲しさというやつなんで……、へへへへ、役目の手前と思っておくんなさい。お米の方の目付役も、どうしてなかなか楽じゃねえ」
「分っているよ、おしゃべりだね」
櫓《ろ》を持っている船頭の手前もあるので、お米がキツイ目をすると、女あしらいに馴れきっている宅助、わざと、恐れ入ったように頭をかいて、
「ホイ、またお叱りでござんすか」
「考えておくれよ、大阪へ来たんだからネ」
「そりゃ分っておりますとも」
「分っているなら、なぜ、ツベコベとよけいな、おしゃべりをするのさ。人中《ひとなか》で、お米の方《かた》なんてふざけるともう阿波へ帰ってやらないからいい」
「帰ってやらないは手きびしい。思えば、あなたも変りましたネ、そんな啖呵《たんか》をきる度胸になったんだから……」
「そうさ、お前みたいな狼《おおかみ》や貉《むじな》と、さんざん闘《たたか》ってきたんだもの」
「こいつアいけねえ、どうも大阪へ入ってから、次第次第に気が強くなってきやがる……イヤ、なっておいでなさいますね」
「今までの仇討《かたきう》ちに、たくさん威張ってあげるのだよ」
「謝《あやま》った! 宅助お役目が大事でござんす、あなたに大阪でジブクラれると、まことに手数がかかっていけねえ。どうかすなおに陸《おか》へ上がって、すなおに遊んで、すなおに阿波へお帰り下さいまし。おっと、冗談はともかくとして、この舟を、いったいどこへ着けさせますか?」
「そうだねエ」
「そうだねエじゃ船頭が可哀そうだ。なんならすぐに川つづきを、このまま立慶河岸へやって、川長のお店の前へつけさせましょうか」
「やめておくれ、ばかなことを」
お米は、腹が立つように、
「家を出たまま、半年以上も姿を隠していながら、不意にボンヤリと帰れるものかどうか、お前だって考えてごらん。神隠しに会った与太郎じゃあるまいし……」
と、口でぞんざいに言い放しながら、胸では、何か密《みつ》な考えをめぐらしているふう。
もとよりお米の真意は、二度とふたたび、啓之助の所へなど帰るまいとしているので、それにはなんとかして、この宅助という監視の紐《ひも》を、大阪の町で、迷子にしてしまわなければならないと苦思《くし》している。
ところが、紐もまた一癖も二癖もある紐で、目から鼻へ抜けている上に、女あしらいに馴れていて、お米の心の動き方まで、いちいち浄玻璃《じようはり》の鏡にかけて睨んでいるような男――なんとも始末の悪い紐だ。
しかし、森啓之助とすれば、実に、上乗《じようじよう》なる紐を付けておいたものといわなければなるまい。
およそ、世に生きとし生ける雑多な人間――迂《う》、愚《ぐ》、鈍《どん》、痴《ち》、お天気、軽薄、付焼刃《つけやきば》、いかなる凡才にせよ、何かの役に立たないという者はなく、何か一面の特性をもたないという者はないけれど、かかる役目の適材というものは、そうめったにあるものではない。
事簡単に申せば、一匹の男が、ひとりの女を束縛する、一本の紐と化《な》り代るわけで、その屈辱的な努力を軽蔑《けいべつ》してやる以外に、買ってやる所はみじんもないが、紐自身にいわせると――紐の宅助の述懐にきけば、どうして、お米の方《かた》の目付役も、これでなかなかむずかしいそうだ。
第一、紐の資格たるや、どこまでも自分に好色根性があってはやれない。ありはあってもねじ抑《おさ》えきる辛抱がいる。第二、ホロリとする同情の廻し者にかからぬ冷酷に強く、俗にいう玉なしという失敗を招かぬこと。第三、どこまでも図々しく、かつしつッこく。第四、嫌わるることにひるまず、しかも先を嫌ってはいけない。そしてあくまで綻《ほころ》びずに、二子《ふたこ》の糸で縫《ぬ》いつけたように、終始、完全に女の腰に取ッ付いていることを旨《むね》とし、紐の使命とする。
こう観じてくると、紐たるや、紐の役目も、仇やおろかな苦労ではなかろう。忍苦忍従《にんくにんじゆう》の大事業にも等しい。されば、常に蚤糞《のみくそ》を肌着につけて、寝酒一升の恩賞にあずかるため、時には命も軽しとする仲間《ちゆうげん》部屋の中からでもなければ、よくこの任にたえる異才は現われまい。
なにしろ、お米にとっては、苦手であり、手強《てごわ》い懸引《かけひき》相手である。
しかしこの場合、非常手段を用いても、宅助をまいてしまわないうちは、決して、自由は解かれていない。藪《やぶ》で捕われた鶯《うぐいす》が、籠のまま藪へ帰されても、それが放たれた意味にはならないのと同じに。
「――だからね、宅助や、私はこう思案しているのだけれど、どうだろう?」
下手《したで》に出ると、宅助は、その泣き落しに誘われないで、
「たいそう尋常なお話で。嫌いぬいたわっしに、今度はご相談といらっしゃいましたか」
「茶化《ちやか》さないで聞いておくれよ」
乗人《のりて》が迷っている様子なので、櫓《ろ》を取っている船頭は、ゆるゆると阿波座堀《あわざぼり》を漕《こ》いで、今、太郎助橋《たろすけばし》の橋杭《はしぐい》を交《か》わしかけていた。
「決して、茶化《ちやか》してなんぞいるものですか。これが宅助の大まじめなところで」
「なにしろ、いくらあつかましくっても、このまま、ハイ只今と、家へいきなり帰るわけには行かないから、当座の間、どこかへ二、三日落ちついて、大津の叔父さんに来て貰おうと思うのさ」
「あの絵師の半斎さんにね。そりゃけっこうでござンしょう」
「そして、叔父さんに、啓之助様のお世話になっていることを話して、家へも程よく話して貰った上、こんどは晴れて阿波へ行くということにしたら……」
「だが、ちょっとお待ちなさい。なんだか、旦那に暇を貰ってくる時には、あなたのお袋様が、危篤とか大病とかで、急に来てくれという訳じゃありませんでしたか」
「そんなことは、元から嘘の作りごとだということを、お前だって、うすうす知っていたじゃないか。私は、ただ、この大阪が見たくって」
「驚き入った腕前です。それで、あんな涙がよく出ましたね」
「おや、いつ私が、泣きなんぞしたえ?」
「したじゃございませんか――ほれ、剣山の麓《ふもと》口の――あのむし暑い納屋倉《なやぐら》の中で、納豆《なつとう》みたいになりながら、いつまで、シクシクシクシクと」
「いやな、宅助!」
日傘をすぼめて、その先で、はしたなく向うの膝を突きながら、
「いい加減なことをおいいでない! 船頭さんが笑うじゃないか」
「もっともわっしは、程よく酩酊《めいてい》した時だったんで、残念ながら、それ以上知らないことにしておきましょう。ところでそういうお話なら、とにかく、この辺で艀《はしけ》を上がるとしましょうか。どうせこちとらはあなた任《まか》せ――」
「そうだねえ?」
と、お米が陸《おか》を見上げた時に、船の先が、ちょうど橋の下をこぎ抜けていた。
すると、その時、太郎助橋の欄干を、向う側からこっちへ移って出てくる艀《はしけ》を見なおそうとしている年増の女があった。
「おやッ。川長のお嬢さん? ――」
こうびっくりした顔をして、女はのめり込むように川を覗《のぞ》いた――ぞんざい結びの止めに挿《さ》してある、珊瑚《さんご》の脚がヒョイと抜けそうになるのを抑えて、
「もし! お米さん――お米さんじゃございませんか」
不意に名を呼ばれたので、オヤ? と思ったらしく、お米も橋の上を見上げたが、にわかに、すぼめていた日傘をパチッと開いて、
「あ――船頭さん、もう少し先までやって下さいな。少し、急いでね」
と、日傘のかげに身を隠したまま、人違いと思わすように、そしらぬ顔で艀《はしけ》を進ませた。
「あれ? ……」
橋の上へ取り残された年増の女は、不思議そうな目を、その日傘の色へ追っていた。それは、目明し万吉の女房――お吉《きち》であった。
「人違いだったかしら? ……だが、どうしても、今のは、お米さんのようだったけれど」
こうつぶやいて、気をとられている眸の先を、ツウと、燕《つばめ》が白い腹を見せてかすった。
お吉とお米とは、かつて久しぶりに、九条の渡舟《わたし》で会ったことがある。その時のお吉は、消息の絶えた万吉の身を案じて、四貫島《しかんじま》の妙見《みようけん》へ、無難を祈りに行った帰るさであった。
お互いに、女同士の愚痴《ぐち》をいったり慰めあったりして別れたお米が、フッと大阪から姿を消したのは、それ以来のことである。
万吉と夫婦《いつしよ》になる前は、川長の座敷で仲居をしていた縁もあって、お吉はその騒ぎの折も、店の者とひとつになってお米の行方を探したが、どうしても知れなかった。
そのお米が――今何げなく眺めた阿波座堀《あわざぼり》の艀《はしけ》の中に、その頃より肉づきさえよくなって、仲間態《ちゆうげんてい》の男と話を交わしていたので、お吉は、驚きのあまり、ジッと、見定めるという余裕もなく、いきなり声をかけたのである。
けれど、先の女は、日傘の下に姿をすぼめて、いかにも素気《すげ》なく聞き流して行ってしまった。お米様ならあんなことをするいわれがない。やはり、自分の錯覚《さつかく》であったかしらと、お吉は茫然と思いなおした。
「そういえば、仲間《ちゆうげん》らしい男もいたが、川長のお嬢さんが、そんな者を供につれて歩いているのも妙な話……。とすると、何かにつけて、同じ年頃の女をみると、もしや、もしや? と思う私の気のせいだったんだね。アア、気のせいといえば、うちの良人《ひと》もどうしたのだろう? ……」
そのまま、しばらく欄干《らんかん》に、片肘《かたひじ》をもたせて休んでいたお吉は、お米のことを思い消すと一緒に、より強く、良人《おつと》の万吉の安否がひしと胸にわいてくる。
江戸へ行ったということだけは、たしかに聞いているけれど、以来、手紙一本よこすではなし、一言半句の人伝《ひとづて》をしてくることもなく、去年の秋から冬を越して、もうやがて、この春も、また沙汰なしに暮れようとしている。
「薄情というのか、男気《おとこぎ》というものか。いくら目明しの居所知らずといっても、家や女房まで忘れてしまわなくってもよさそうなものだけれど……。ああ、考えまい、思いつめると今のように、他人の後ろ姿までにハッと動悸《どうき》を打ってしょうがありゃしない」
気を取りなおして橋を渡った。
そしてまた、今日も、その信心にゆくのらしい。木綿縞《もめんじま》にジミな帯もいつに変らず、装《よそお》いもなく巻いた髪には、一粒の珊瑚珠《さんごじゆ》だけが紅《あか》かったけれど、わずかなうちに、削《けず》ったような痩《やせ》がみえる。
お吉の影がそこを去ったと思うと、まもなく、一方の艀《はしけ》が空《から》になって、川筋を戻ってきた。
もうその頃、陸《おか》へ上がったお米と宅助とは、長浜《ながはま》の河岸から本願寺の長土塀《ながどべい》に添って、ぶらりぶらり肩をならべてゆく。お米は今、太郎助《たろすけ》橋で、ワザと顔をそむけたお吉のことを考えて、なんとなくすまない気にふさいでいた。
で――うつむきがちに先へ行くと紐《ひも》の宅助もしばらくは無言のまま犬のようについて歩く。
午後の陽ざしが足もとへ、細長い二つの影を引いていた。お米は、自分の影のうごくほとりに、ゆらゆらとこびりついてくる影を見て、踏んづけてやりたい気がした。
「アア嫌だいやだ。どうしたらこのうるさい鎖《くさり》を切り離すことができるだろう? 何かいい智慧はないかしら? この男をまいてしまわないうちは、いらいらして、気が立って……」
お米はジリジリする力を糸切歯にこめて、必死に、急な策をしぼっていた。それにひきかえて紐の方は、自力を労さず他力主義に、お米の足の向くほうへ、ズルズルついて行くだけである。
「さっき、橋の上から声をかけた女――ありゃ一体だれですか」と、宅助、少し退屈をしてきたとみえて、追いつきながら話しかけた。
「あ、太郎助橋でかい?」と、お米は肩を並べさせないで、宅助よりは、またふた足三足先に歩いた。
「あの女は、ずっと前に、家で仲居をしていたことがあるので、私のおさな顔を知っていたのだろうよ。だけれど、今の身の上を聞かれたり聞いたりするのもうるさいから……」
「川長のお宅へはすぐに帰らないというし、知り人に会えば姿を隠す――そんな窮屈《きゆうくつ》な大阪へ、一体なんのためにはるばると帰ってきたんだか、ばかばかしくって、この宅助にゃ、あなたの気心が知れませんぜ」
「ご苦労様でもばかばかしくても、私にとれば、この大阪が、無性《むしよう》に恋しくって恋しくって、夢にみる程なんだから、しかたがないじゃないか」
「へえ、生れた土地というものは、そんなにいいもんでございますかね。わっしは能登の小出《こいで》ケ崎で生れて十の時に、越後の三条にある包丁鍛冶《ほうちようかじ》へ、ふいご吹きの小僧にやられ、十四でそこを飛びだしてから、碓氷峠《うすいとうげ》の荷物かつぎやら、宿屋の風呂|焚《た》き、いかさま博奕《ばくち》の立番《たちばん》までやって、トドのつまりが阿波くんだりまで食いつめて、真鍮鐺《しんちゆうこじり》に梵天帯《ぼんてんおび》が、性《しよう》に合っているとみえて、今じゃすっかりおとなしくなっているつもりですが、それでもまだ生れた土地へ帰ってみてえなんてことは、夢にも思ったこたあありませんがね」
「そりゃ、お前が情《じよう》なしか、それとも、お前をつなぐ人情というものが、その土地にないからさ」
「おや、その論法でゆきますと、それほどこの大阪にゃ、あなたを迷わす人情があるという理窟になりますぜ」
「あるだろうじゃないか、お母《つか》さんやら、叔父さんやら」
「冗談は置いておくんなさい。皺《しわ》のよったお袋や叔父さんに、そこまでの情愛があるもんですか。血の気の多い年頃にゃ、それを捨てても男のほうへ突ッ走るじゃござんせんか。ははあ……読めましたぜ、お米の御方《おんかた》」
「勝手に邪推をお廻しよ」
「エエ、すっかり神易《しんえき》を占《た》てました。筮竹《ぜいちく》はないが宅助の眼易《がんえき》というやつで。――この眼易の眼力で、グイと卦面《けめん》をにらんでみると、あなたが大阪へ来たがった原因は、死ぬほど会いたいと思っている人間がどこかにいるに違えねえ。え、どうでしょう、この判断は?」
「そりゃ、いないとも限るまいさ」
「ふふん。しゃあしゃあと仰せられましたね。いよいよ不貞くされの捨て鉢の、さらにヤケのやん八というやつで、この宅助を怒らせようとなさいますか。そして、阿波へ帰るのはイヤじゃイヤじゃと駄々をこねようとなさいますか。――どッこい宅助は怒りませんテ。はい、頭を打《ぶ》ちたければ頭、足をなめろとおっしゃれば足もなめます。なあに、わずか少しの辛抱で、無事に、もう一度連れ戻りさえすれば、旦那様から存分な褒美《ほうび》をねだる権利があるんで――一生|扶持《ふち》ばなれをしねえ仕事、それくらいな我慢がなくっちゃ、猫と女の番人はできねえ」
図に乗って、また舌の動き放題《ほうだい》に、怖がらせをしゃべっていたが、お米に返辞がないので、こんどは少し音《ね》を柔《やわ》らげて、
「だが旅先だ――」と手をかえた。
「口でいうお惚気《のろけ》ぐらいは、わっしも寛大に扱いましょうよ。が――だ、ただしだ、そんな方へ体ぐるみ、籠抜《かごぬ》けにすっぽ抜けようなんてもくろみは、ムダですからおよしなせえ、エエ、悪いこたあ言いません。世の中に骨折損というくれえ、呆痴《こけ》な苦労はないからなあ」
「野暮に目柱《めばしら》をお立てでない」
心の底を見すかされて、釘を打たれたかと思う口惜しさに、お米は少しふるえて言った。
「口でそうはいうものの、私の恋しい思い人は……」
「ほーれ、やっぱり眼易《がんえき》があたっていやがる」
「真顔《まがお》になって、何も心配することはないよ。この大阪にはもとよりいず……ああ今頃は、どこを流して流れているかも分らない……」
と、ツイ口の辷《すべ》ったついでに、お米は、さげすみぬいているこの男へ、胸に秘めている本当の声を、叩きつけてやりたいような気がして、
「――一節切《ひとよぎり》の」
と、喉《のど》までその人の名を洩らしかけたが、邪推ぶかい紐《ひも》の宅助に、これ以上な気を廻させては、いよいよ自縄自縛《じじようじばく》の因《もと》を招くばかりと思いなおして、ホ、ホ、ホ、ホ、と取ってつけたさびしい笑いにまぎらわせた。
とにかく当座の宿をとってからの思案と、お米はその晩、中橋《なかばし》すじの茗荷屋《みようがや》という家を選んだ。
どこということもないが、なんとなく、旅籠《はたご》にしては目立たぬ家で、裏には当り障《さわ》りのない座敷もありそうなので。
無論、紐の宅助もついて入った。
けれど、宿がきまると今までのように、お米の腰に寄り付いているわけにはゆかない。仲間《ちゆうげん》は仲間として待遇され、若奥様は若奥様と向うで見なして、丁重に差別をつけ、部屋も別々、お膳も別。女中たちの物言いまでが違ってくる。
お米が何ともいわないから、宿でよけいな気転を利《き》かして、お供の膳に酒をつけるということもない。酒がないのは宅助にとって、はなはだ哀れを感ぜしめる。ひとつの刑罰をうけてるのと同じだ。
「宅助や、お前は疲れたろうから、早く寝《やす》むがよい」
改まったお米の言葉も、急に素気《すげ》なく取り澄ましてきた。
宿の手前はてまえとして、何もそうにわかに閾《しきい》をおかなくたっていいだろう。下郎《げろう》を召し連れた若奥様かお嬢様か――というふうな権式だけを取って、こっちへ酒もあてがわないのはひどすぎる。と、宅助の虫は穏《おだ》やかでなく、
「ばかにしてやがる!」と面《つら》をふくらせた。
「お付人《つけびと》のおれに、寝酒ぐらいは飲ませておかねえと何かにつけてためにならねえぞ。囲《かこ》い者のくせにしやがって、気の利《き》かねえ女もあるものだ。よし、ひとつまたチクリチクリ嫌がらせをいってやらなくっちゃならねえ」
と、隣の部屋からニジリ出して、境の襖《ふすま》を少し開けた。
「お米さんエ」
目玉だけでも脅迫のきくような凄い顔を突き出して、わざとこう伝法口調《でんぽうくちよう》に、
「今、そこで、何とおっしゃいましたエ」
お米は鏡をよせて、寝《ね》白粉《おしろい》をつけていたが、ふりかえりもしないで、
「ゆるすから、お前は先にお寝《やす》みというのさ」
ふざけるな! と宅助はムカついて、何か痛い言葉をぶッつけてやろうと、浅黒いうわ唇を舐《な》めあげていると、折悪《おりあ》しく、宿の女中が廻ってきて、夜具の支度をしはじめた。
女中たちの手前、宅助は、喉《のど》まで衝《つ》きあげた啖呵《たんか》を飲み殺して、ツイしかたがなく、
「ありがとうございます」
と、お辞儀をしてしまった。そして寝床へ潜《もぐ》りこんでから、
「ちぇッ、いまいましい女《あま》だ。ここを出たら、ひとつギュッと手綱《たづな》を締めなおさなくっちゃいけねえ」と、業《ごう》を煮やして、寝返りを打つ。
お米の部屋にも、程なく、ふッと行燈《あんどん》を消す息がきこえて、真っ暗になった。一刻《いつとき》ばかりたつと、どこの部屋もあらかた寝静まったらしく、風呂の湯を落す音と、不寝《ねず》の番のあくびよりほかは聞こえなくなる。
鼻が悪いとみえて、仲間《ちゆうげん》の宅助、おそろしいいびきをかいてきた。それが耳ざわりで寝られないのか、暗い中で、二、三度枕をキシませていたお米が、やがて、床の中から辷《すべ》りだしたかと思うと、スウと、廊下へ出て行った。
カタンと、さるをはずす音がしたから、厠《かわや》へ立ったのかと思うと、廊下へ風が流れてくる。
裏庭へ出る雨戸が四、五寸ばかり音なく開《あ》いた。
たらりと下がった緋縮緬《ひぢりめん》にからんで白い脛《はぎ》がそこから庭土《にわつち》を踏もうとすると、
「オイ、オイ、オイ。お米さん」
いつのまにか眼をさまして、
「どこへ行くんだ! 少し方角が違うだろう」
と宅助の両手が、お米を元の座敷へ抱《だ》き戻してきたらしい。
並《なみ》の者なら、あわてて明りをつけたり、女の逃げ支度を調べたりするところだが、そこは老巧な紐《ひも》である。――気がついても、わざと、それまでの事件にはしないで、
「女のくせに、夜半《よなか》に塀越しの曲芸なんぞをやると、猫の恋と間違えられて、誰かにドヤしつけられますぜ。うふッ……」
といやな笑い方をしながら、自分の寝床へ長々ともぐりこむ。
それなり宅助も黙りこくッてしまうし、お米も寝床にジッと固くなっているらしい。もう両方で、寝息を探りあうことは止めた。そしてただお米の心臓だけが暗い中でドットと鳴ってじれていた。
翌日は、どんな顔を見あわすかと思われたが、宅助もお米も、気まずい話にはふれなかった。
昼を過ぎてから、お米は、叔父の半斎の所へ手紙を書いた。それを飛脚屋へ頼みながら、気晴しに歩いてこようか――と、今日はお米のほうから宅助をうながして外へ出た。
「ソロソロ機嫌を取ってきやがったな」
と肚《はら》の中で宅助は、こうあるのが本当だとうなずいた。宿屋を出るとその調子で、じきに言葉もぞんざいに、
「お米さん、大津絵師の半斎へ、なんていう手紙を書いたんで?」と、糺《ただ》してきた。
「きのう私がいっていた通りさ」
「はてね。忘れてしまったが」
「とにかく、叔父さんに相談があるから、茗荷屋《みようがや》まで、来て貰いたいという意味をね」
「なるほど、そこで叔父《おじ》貴《き》に事情を話して、川長の店へとりなして貰おうというんですか。だが、その相談の時にゃ、宅助も立会いますぜ」
「いいどころじゃない。どうせ、家《うち》の方へ得心《とくしん》して貰ったら、私の手道具や着物まで、スッカリ荷物にして阿波へ送ろうという話なのだから」
「ぜひとも、そうありてえもンです。昨夜《ゆうべ》みたいなことが、この先チョイチョイとないように」
やんわりと、棘《とげ》を含んでくる言葉を、聞きそらしたように装《よそお》って、いつか天満《てんま》の河岸へ出てきた。お米は、河筋にある舟料理の小ぎれいなのを探しているふうだった。――もう蠣《かき》の季節でもないが、奈良茶《ならちや》の舟があったので、宅助を誘うと、だいぶ昨日《きのう》と先の態度が違うので、かれはその風向きを疑ったが、ゆうべの一事で、お米も諦《あきら》めをつけてきたのだろうと、考えた。
酒に渇《かわ》きぬいていた折なので、気を緊《し》めながら、宅助、存外《ぞんがい》に飲んだ様子である。お米も、昨夜以来、何か思案をかえたとみえて、珍しいほど神妙に、時々、酌《しやく》までしてやった。
「そら。河のほうへ寄ると、あぶないじゃないか」
ふたりがそこを帰る頃、もう天満河岸はトップリと暮れていた。
宅助は陶然《とうぜん》として、おぼつかない足どりを踏みしめていた。しかしあくまで油断はしていないので、酔わぬ時より、しつこくお米に注意を配った。
「あぶねえって、だ、誰が? ……」
「そう、川べりを歩いちゃ、足もとが危ないというのさ。落ちたら私が困るじゃないか」
「ご親切様で……へ、へ、へ。だがネ、お米の御方《おんかた》、き、気の毒だが、宅助、ちッとも酔っちゃいねえ。だ、だめだよ! ……ず、ずらかろうなんて気で、どう神妙な様子をしたって、微塵《みじん》も油断はありゃあしねえ!」
と、先に立った宅助、どうやら、常には腰について廻る紐《ひも》が、今夜、お米を引きずってゆく形だ。
「そうかい……」と、お米はまた、それを気任《きまか》せに歩かせながら、「じゃお前は、どこまでも私を疑っているね」
「この間も、キッパリ止《とど》めを刺しておいたじゃねえか。ウ、ウーイ……おれの目玉は浄玻璃《じようはり》の鏡だと」
「まったくお前の眼力《がんりき》は鋭いね」
「所詮《しよせん》だめだよ、諦《あきら》めがつきやしたかい!」
「ところがなかなかつかないのさ。そういうお前に、もう野暮《やぼ》な隠し立てはしますまい。私はね、もう二度と阿波へは帰らないつもりだよ」
「つもりか――は、は、は、は」と嘲笑《あざわら》っていたかと思うと、急に、胸の気もちでも悪くなったか、宅助は、脇腹を押さえたまま、路面へグウッとかがみこんでしまった。そして、ペッと生唾《なまつば》を吐く音をさせて、そこを立とうともしない様子。
「どうしたの?」
お米は、やや離れた所に足を止め、片手を柳の木にかけて、冷《ひや》やかに闇をすかしながら、
「――たいそう威張っていたようだけれど、脆《もろ》いねエ……もう薬が廻ったのかい」
「な……なんだと」
無理に、起き上がろうとした宅助は、かえって、ウームと呻《うめ》いたまま、苦しそうにのた打った。
「付人《つけびと》のお前が、そんな意気地なしじゃお困りだね。ずいぶんお前も執念強く、私を逃がすまいとしていたようだけれど、今日のお酒はちっとばかり、悪い薬がまじったとは、さすがにその浄玻璃《じようはり》の目玉でも見えなかったとみえる」
「うッ……うぬ、ど、毒を?」
「なあに、そう心配おしでない、持ちあわせの鼠薬《ねずみぐすり》、それもホンの小指の先で、お銚子《ちようし》の口へつけたくらいだから、まさか、そのずう体の命を奪《と》るほど廻りはしまい。……だが、思えば私という女も、すごい腕になりました。これもみんな、お前や、啓之助が私に度胸《どきよう》をつけてくれたお仕込《しこ》みだよ。阿波へ帰ったら、あの男に、くれぐれよろしくいっておくれネ」
「ウーム……ちッ畜生」
「口惜しそうだね、ホ、ホ、ホ。苦しいかエ。私が長持へ押しこめられて、阿波へやられた時も、ちょうどそんな苦しみさ。毒でも飲んで、いっそ死のうとしたことが、幾度だったかしれやあしない。――だけれど、死んで花が咲かないよりは、恋しい、恋しい、あるお方に、会われないのが心残りで、ツイのまずにいた毒薬を、フイと昨夜《ゆうべ》思いだして、少しばかりお前に試してみたわけさ。――どうだエ、宅助、それでもこのお米様を、阿波まで連れて帰れるかい」
「…………」蝦《えび》のようにかがまった宅助の影は、ただ激しい痙攣《けいれん》を起こしていた。
「おや、返辞もできなくなってしまったね。もう少し、話し残りがあったものを。じゃ、いろいろお世話をかけたけれど、宅助や、あばよ――」
中二階《ちゆうにかい》
牡丹《ぼたん》刷毛《ばけ》をもって、しきりと顔をはいていたいろは茶屋のお品《しな》は、塗りあげた肌を入れて鏡台を片よせると、そこの出窓をあけて表も見ずに、手斧削《ちようなけず》りの細格子《ほそごうし》の間から鬢盥《びんだらい》の水をサッと撒《ま》いた。
と一緒に、窓の外にたたずんで、立ち話をしていた二人の侍が、
「あ、ひどい!」
両方に飛び別れて、後ろの櫺子《れんじ》をふりかえった。
「かかりましたか、水が」
「見ろ、これを」
「すみませんでした……」と真っ白に塗った襟《えり》をのばして、油よごれの水がちっとばかりはねた侍の藁草履《わらぞうり》を眼にした。
「……どうも、つい」
「たわけめ、気をつけい!」
と、総髪《そうはつ》の若いほうが睨みつけたが、ここは野暮を嫌う色町でもあり、かたがた軒を並べているいろは茶屋の暖簾口《のれんぐち》には、脂粉の女の目がちらほら見えるので、
「天堂」
と、一方へ顎《あご》をしゃくるなり、連れの編笠《あみがさ》をうながして、浜納屋《はまなや》囲いの軒並を離れてしまった。
そして、後ろ姿を並べ、向う側へ斜めに歩いて行ったかと思うと、また足を止めて、立慶《りつけい》河岸《がし》の埋立辺《うめたてへん》にたたずみ、まだほかの連れでも待っているようなふうであった。
「いけすかない、ニキビ侍だよ」
首を引っこめるとすぐに、お品は吹きだして、側に寝転んでいる朋輩《ほうばい》の女へ、
「なんて怖い眼をするんだろう、水ぐらいかかっても、ハラハラする程なお召物じゃあるまいし」
「だって、お前さんが悪いんじゃないか」
「色町の軒下に立って、不景気な顔をしているほうがよッぽど間抜けさ」
「おや、相手が行ってしまってから、とんでもない鼻ッ張《ぱり》だ」
「なに、まだ向うの川縁《かわぷち》に立っているんだよ、土左衛門《どざえもん》でも待っているように」
「どれ」
寝転んでいたほうもムクムク起きて、腹匍《はらば》いのまま櫺子《れんじ》へ顔を乗せたものだ。これだから女の巣を食う町に無用な顔はして立ち止まれない。
「ね、どっちもギスギスした侍だろう」
とお品が今の鬱憤《うつぷん》に、朋輩の共鳴を求めると、獄門首《ごくもんくび》のように櫺子へ顎《あご》を乗ッけた顔は、見当違いなほうへ眼をすえて、
「あら。品ちゃん」と、袂《たもと》を引ッ張った。
「ごらんよ、向うから来るのは、お十夜さんじゃない」
昼中《ひるなか》にお月様でも見つけたような声を出したので、ひょいとそのほうを見ると、なるほど、去年の春から夏の初め頃は、甲比丹《かぴたん》の三次とともに、この界隈《かいわい》によく姿を見せた孫兵衛が、きまじめな顔をして、前を大股に通って行く。
「あら、素通りはないでしょう」
素頓狂《すつとんきよう》な声で、馴染《なじ》みの男の足をとめておいて、お品は帯を猫じゃらしに振りながら、孫兵衛の側へかけていった。
「や、お品か」
「ずいぶん永いこと姿を見せないで、その上に、涼しい顔で素通りをするつもり?」
「連れが待っているのだ。また会おう」
「いいじゃありませんか、連れがいたって」
「そうは行かねえ。ことに近頃は遊びどころの沙汰じゃなくて、ある人物を探すために、毎日|血眼《ちまなこ》で歩き廻っているのだ。ウム、お前もうすうすは知っている筈だが」
「誰? 探しているのは」
「法月弦之丞《のりづきげんのじよう》という者だが、その名前では覚えがなかろう。そうだ、ちょうど去年の夏ごろ、この立慶河岸をよく流していた、一節切《ひとよぎり》の巧みな虚無僧といえば思いだす筈……」
「あ、川長のお米さんが、たいそう血道をあげたッてね。その虚無僧が、いったいどうしたというんだえ」
「まだほかに二人の奴を、木曾街道で取り逃がしたため、ずいぶん行方をたずねたが、どうしても見つからねえのだ。しかしいろいろな事情から推して、この大阪にまぎれこんだには違いないのだから、ひょっとしてこの辺へでも姿を見せた時には、すぐにこの孫兵衛の所へ知らしてきてくれ。いいか、もし突き止めたら、礼は幾らでもするからな」
「だって私は、お前さんの宿というものを、聞かして貰ったことがないのに」
「俺か。おれは二、三日前から、安治川岸の阿州屋敷に住んでいる」
「阿州屋敷というと?」
「勘の鈍《にぶ》い女だな、阿州屋敷というのは蜂須賀家の下屋敷《しもやしき》、そこのお長屋にいるというのよ」
すると、その時、ふたりの側をすりぬけていった往来の女が、蜂須賀と強くひびいた今の言葉に、ハッとしたかのようにふりむいた。
女は、いぼじり巻に、珊瑚《さんご》の粒をとめている年増だった。しかし足を止めるとすぐに、孫兵衛の鋭い注視がすわったので、そのうろたえた目をお品にそらし、愛嬌《あいきよう》よく笑《え》みあって、何気ないさまに行き過ぎる。
お品へ目で挨拶《あいさつ》して行った珊瑚《さんご》の女を、孫兵衛はジッと見送っていたが、やがてその年増の姿は、同じ河岸《かし》筋《すじ》の川長の店へ入っていった。
「誰だ! 今の女は」
こうお品に訊《き》いているところへ、さっきからあなたにいて、待ちくたびれていた旅川周馬と天堂一角が、苦々《にがにが》しげに近づいてきた。そして、
「お十夜、まだ話がすまんのか」
と皮肉れば、一角も尾について、
「売女《ばいた》じゃないか。そんな者と、往来中で、何をしているのだ」と、唾《つば》を吐く。
「はい、大きにお世話さま」
孫兵衛を楯《たて》にしているので、お品はツンと強くなる。それに、さっきのこともあるので、こういってやった。
「売女だろうと、あなた方に、買って下さいとは申しませんよ。お十夜さんは私の情人《いいひと》、地べたで話をしていようと、屋根へ上がって相談をしようとも、お他人様のご心配はいらないでしょう」
こういうのが、いわゆる悪女の深情《ふかなさ》けと称するのであろうと、かなり面皮《めんぴ》の厚い孫兵衛も、ふたりの手前、処女みたいに赤くなったが、「う……なに、今少々、解《げ》せぬ女について、問い糺《ただ》しているところなんだ」と、テレた顔をまぎらわせる。それを周馬は意地悪く、
「ほ、解《げ》せぬ女が、どこへ」
と追求して行った。
「誰といったっけなあ、今、川長へ入って行ったやつは?」
「あれは、元あそこの店に、仲居をしていたお吉《きち》さんという女」
「仲居がどうしたと?」
なにを、ばかばかしいというふうに、一角が嘲笑するので、孫兵衛はいよいよ何かあの女を意味づけなければならなくなった。で、今の挙動を箇条《かじよう》にして、なおお品を問いつめてゆくと、偶然、かれの口から、そのお吉が、目明し万吉の女房であるということが洩れた。
と――なると、周馬も一角も、にわかに顔の筋を突ッ張らせて、無智な女と何気なくしゃべることが、今|彷徨《ほうこう》しつつある、大事を占うものと聞かれずにはおられない。
「間違いじゃあるめえな」
と、孫兵衛は女の肩へ手をかけた。
「あの人とは、もう古い顔馴染み、誰が見そこないなんぞするものかね」
「そうか、じゃ、あれが目明し万吉の女房だったか――」
「おい、お十夜」
と、周馬はソッと袖を引いて、お品の側から、二、三歩離れながら、一角と共に何かヒソヒソ相談を交わした。
「う、なるほど……」と、うなずいて立ち戻ると、こんどは孫兵衛の口から、何か別な言葉が女のほうへささやかれた。そして、三人はすぐに、お品の入ったいろは茶屋の暖簾《のれん》口から、家の中へ姿を隠してしまった。
奥では酒となっているらしいが、お品は時々|門《かど》へ出てきて、川長のほうを眺めたり、また、そこらにいる朋輩《ほうばい》へ、お吉《きち》が戻って行ったかどうかを聞いたりしている。
二刻《ふたとき》程もたったろう、花は散っても、まだ春の気分は去らないこのあたりに、宵めく絃歌と共に、ぼつぼつ人が雑鬧《ざつとう》して来た。
門《かど》から門《かど》へ浅黄暖簾《あさぎのれん》の裾《すそ》を覗《のぞ》いて歩く木刀や、船から上がる客や、流しや、辻占《つじうら》売りや、そして艶《なまめ》かしい灯の数々と、春の星とが、どっぷりと黒く澱《よど》んだ堀の水によれあって美しい。
やがて、その夜景の人をかき分けてゆく、孫兵衛たち三人の影がたしかに見えた。
しきりと気を配っていたお品が、ただちにそれと、三人へ告げたのだろう、何かの用をすまして、今、川長から出て行ったお吉の後ろ姿が、かれらの十数間前にある。
お吉が、久しぶりに川長を訪ねたのは、何かお米の身についてのことらしかった。そして、今日もお米の母の涙まじりなくり言を、身につまされるほど聞いてきたので、人浪の中を歩きながら、今もお吉は、そればかりを考えてゆくふうだ。
まもなくお吉は桃谷《ももだに》の自分の家へ帰り着いていた。
誰もいない家なのに、行燈《あんどん》だけはついていた。お吉はそれを不思議にも思わないで、帰るとすぐに、女らしく、襷《たすき》をかけ、途中からさげてきた買物の風呂敷づつみを解いて、勝手へ運んだ。
薄暗い流し元で、瀬戸物を洗う音や、米をとぐ音がしばらく聞こえている。裏の小溝《こみぞ》へ白いとぎ水がひろがった。溝の向うに菜《な》の花がみえ、その先は桃畑だった。
そして、なおその向うには、藪《やぶ》や、同心屋敷の灯や、城ともみえぬ御番城の巨大な影が、山のように空の半《なか》ばをふさいでいる。
垣隣りは、城勤めの黒鍬《くろくわ》の者か、足軽のような軽輩な者の住居《すまい》らしい。その境の掘井戸へお吉がなにげなく水桶《みずおけ》をさげてゆくと、家の横に三人の侍が、黒い影をたたずませていたので、思わず、胸を騒がせた。
「誰だろう?」
気味の悪さに、手桶をそこへ置いたまま、お吉は流し元へ戻ってきてしまった。男のない家――主人《あるじ》のいない留守の家は、ともすると、こんなおびえに襲われる。
まして、万吉がああいう身の上でいる場合。
「妙な素ぶりの侍が三人まで? ……今、私の帰るのをつけてきたのかしら」こう思い惑って、身を縮ませたが、気をとりなおしてカタカタと香《こう》の物を刻み始めた。だが、妙に、動悸《どうき》がしずまらずにいたので、庖丁《ほうちよう》の端で小指を切った。
血の出た小指を吸いながら、あわてて座敷へ駈けこんだお吉は、針箱の抽斗《ひきだし》をかき廻して、小布《こぎれ》を探しているふうだったが、その物音を聞きとめたものらしく、誰か、中二階の腰窓をあけたかと思うと、梯子《はしご》の上から、
「おばさん」
と呼ぶ声がした。
若々しい女のあたりをはばかる声だった。
指を小布《こぎれ》で巻きながら、お吉はそれへ上眼《うわめ》を送ったが、黙って、顔を振ってみせた。
すると、中二階の女は、ソッと腰窓の小さな障子を閉めかけたが、また思い出したように、前よりは低い声をして、
「今帰ってきたのかえ。そして、家《うち》の方は? ……」と訊《き》いた。
「しっ……」
と、こんどは手を振って、お吉の眼がきつくそれを抑えた。ピタリ、ピタリという無気味な足音が、さっきから家のまわりを廻っていたが、お吉が針箱を置きに立つと一緒に、
「ご免――」
といいながら、上がり口に、ぞろりと三つの影が立ちふさいだ。
「はい」
おそるおそる手をつくと、
「ここは目明し万吉の家だな」
端にいる編笠《あみがさ》の男がいった。
「はい……」
「お前はその万吉の女房だな」
「さようでございます」
「万吉は帰ってきたか、江戸表から」
「いいえ、まだ戻っておりません。けれどあなたがたは?」とお吉が、三人三様の風態《ふうてい》をながめて、何者かしらと疑っていると、それには答えないで、
「何か便りがあったろう」
「少しも沙汰なしで、只今どこにいることやら、それすら存じておりませぬ」
「嘘をつけ! 女房であって、亭主の居所を知らぬという筈はなし、また主《あるじ》であって、家へ居所を知らせてこないという筈はない。たしかにその万吉は、四、五日前に、いちど此家《ここ》へ姿を見せたろう、イヤ、たしかにこの大阪へ帰っている訳だ。有態《ありてい》にいえッ」
「でも、只今申し上げたことには、少しも偽りがございませぬもの。それにもう家《うち》の良人《ひと》は、出たが最後、居所などを知らせてきた試しのない人でございますから」
「こいつめ、あくまで吾々を愚にしているな」
というと畳の上へ、笠をぬいでほうりだして天堂一角、土足のまま跳び上がって、
「泥を吐かねば、こうしてやる。さ、万吉は只今どこに隠れているか、また、法月という虚無僧に旅の女も、一度はここを訪ねたであろう。その居所をいえ、さ、ぬかさぬか」
と、お吉の腕をとって、いきなり後《うし》ろへねじ上げたかと思うと、続けざまに、二ツ三ツ撲《なぐ》りつけた。
女ひとりと見くびっているので、一角がお吉をぞんぶんにいじめつけている間に、才気走った周馬の眼が、ジロジロと家の中を睨《ね》め廻して、これも屋内へ上がりこんでくる。
そして、それが当然に、自分のする役割でもあるかの如く、方々の戸棚をガラガラと開けたかと思うと、行李《こうり》のふたをあけ、文庫をぶちまけ、果ては、長火鉢から針箱の抽斗《ひきだし》まで引っかき廻して反古《ほご》らしいものを片っ端からあらためはじめた。
たちまちにして、つつましやかな世帯の中を屑《くず》問屋へ大風が見舞ったようにしてしまったが、さて、万吉から来たらしい手紙もなし、またその後の消息をうかがうような反古《ほご》は何ひとつとして見つからないので、周馬が小才《こさい》も骨折り損となり終ると同時に、一角も、やや張合いを失って、吾ながら少し大人《おとな》気《げ》ないとも思いなおしたらしい。
お十夜はというと、立慶《りつけい》河岸《がし》からお吉をつけてみようと言いだしたのは彼自身なのに、ここへ来ると、横着に腕ぐみをしたまま、二人の狼藉《ろうぜき》へ、むしろ冷蔑《れいべつ》な目をくれている。
なにも、もちの木坂じゃあるまいし、女ひとりを取巻いて、そう大見得を切ることはあるまい。いつも一角ときたひには、田舎《いなか》剣豪の強がりばかり振り廻すし、周馬はイヤに才智を見せようとする。どっちもきざで鼻持ちがならないのみか、凄味《すごみ》というものが不足だから、これっぱかしのことを糺《ただ》すにもこの騒ぎだ――と見ている態度だ。
「おい、周馬も、一角も、いい加減にしようじゃねえか。万吉も戻っていず、手がかりもねえとしてみれば、いつまでもここに邪々張《じやじやば》っているのも無駄骨だろう。それよりゃ、またちょいちょいとこの辺を見廻ることにするさ」
「ウム、引き揚げよう」
「お吉」
と、一角は、孫兵衛の尾について門を出ながら、捨《すて》科白《ぜりふ》を投げた。
「そちの亭主の万吉なり、また、法月弦之丞なりお綱という女なりが、やがてここへ姿を見せたら、よく申し伝えておけ。たとえどこへ姿をくらましていようとも、きっと、この三人が、命を貰いに出なおして行くぞ――と。いいか!」
荒っぽく格子《こうし》を閉めて外へ出ると、三人の中でお十夜らしい声が、
「――年増だが、万吉の女房にしちゃ、もったいないような女じゃねえか。一角に撲られて、キッと、溜《た》め涙《なみだ》でこらえていた姿が、なんとも俺にゃ色っぽく目に映《うつ》った」
「いやな奴だ!」
と、天堂一角の笑い声がする。
「じゃ、お十夜、吾々はひと足先へ安治川屋敷へ帰ってやるから、貴公、これから一人で、お吉を慰めに戻ってやったらいいではないか」
周馬の猥《みだ》らな声など――ふざけあいながら、だんだん遠くなって行った。
嵐の去った跡のように、シーンとなった万吉の留守宅には、狼藉《ろうぜき》に取り散らかされたものの中に、お吉が箪笥の鐶《かん》によりかかって、ほつれ毛もかき上げずに、いつまでも今の口惜しさにおののいていた――が、気丈な女、泣いてはいない。
「み、みておいで! 今に……」
真ッ青になった頬に、一角の打った手形だけが桃色になっていた。その口惜しさと痛みにおののきながら、こうつぶやいて、お吉が、脚の折れた珊瑚《さんご》の珠を目の前に見つめていると、
「おばさん……」
静かに呼ぶ者があって、中二階の梯子段《はしごだん》に、緋縮緬《ひぢりめん》の燃える裾《すそ》と、白い女の足もとだけが見えた。
家探しをして行った周馬や一角が、遠く立ち去った気配をみすまして、中二階から、ソッと下へ降りてきたのは、川長のお米《よね》であった。
天満《てんま》の河岸で、やっと、うるさい紐《ひも》をきって逃げたお米は、あれからすぐに、お吉の所へ頼ってきていた。
太郎助橋で声をかけられた時に素知らぬ顔をして行き過ぎたのも、宅助をまいた後では、お吉の家よりほかに、身を匿《かく》まって貰うところはないと思っていたので、わざと、ああした狂言をしたことで、いわば、今日あるための下心《したごころ》であった。
「――じゃお嬢さん、私が口添えいたしますから、とにかくお吉と一緒に、川長の実家《うち》へお戻りなさいましな」
その時、事情を聞いたお吉が、当然に、そういって勧《すす》めたけれど、お米は、どうしても首を振って、家へ帰ることを肯《がえん》じない。
阿波へ帰るのはもとより死んでも嫌《いや》――川長へ戻るのも嫌――大津の叔父の家へ行くのも嫌――というお米の意志は、いったいどこに本心をすえているのか分らないが、お吉も捨ておく訳にはゆかない。
「ではまあ、物置みたいな所ですけれど、しばらくの間、狭いのはご辛抱して、家の中二階に遊んでいらっしゃいませ。ですけれど、その宅助とかいう仲間《ちゆうげん》がそのまま毒が廻って死んででもいればよいが、息を吹っかえしていたら、また血眼になって、お嬢さんを探しだそうとしているでしょうから、当分は、決して家の外へ出ないほうがようございます」
何かへ、一途《いちず》になっている若い心に、無理な、逆らい立てをしてもよくあるまいと、世馴《よな》れたお吉は程よく足止めをしておいて、今日はそれとなく川長へ行った。そして、かの女《じよ》の母にその始末を相談してみたのだけれど、お米の母は、大阪へ来ていながら、家へ帰らぬ娘の放埒《ほうらつ》に腹を立って、とりなしようもない怒りだった。そのくせ、ともすると、涙まじりになりながら――。
そんな者は子とは思わぬ、もう亡《な》いものと諦《あきら》める。という母親と、家へ帰るのは嫌だ、と駄々をこねている娘との間に立つ、お吉の心遣《こころづか》いは無意義に帰した。で、しかたがないから、当分は空《あ》いている中二階へ世話をしておいて、お米の駄々とわがままとに飽きる日を待つよりほかはないと、道々考えながら戻ってきた――今夜。
計《はか》らぬ悪侍が三人までも押しかけてきて、存分に家の中を荒して行った。しかもそれらの者は、阿波の浪人か家中らしく、良人《おつと》の万吉の命や、法月弦之丞という者や、お綱とかいう女をつけ狙っている口ぶり。
「また出なおすぞ」
「きっと命をとりに来るぞ」
こんな、凄文句《すごもんく》も、言い捨てて行った。
お吉も、女でこそあれ、目明しの女房、よっぽど、かれらのするままに任せまいとは思ったが、中二階には、やはり阿波の家中に事情をもつお米を匿《かく》まっているし、留守を預かる大事な女の本分をも顧みて、ジッとその狼藉《ろうぜき》にこらえていた。
「おばさん――」
と今の乱暴を見て中二階から降りてきたお米は、お吉を慰めてやろうとする前に、足の踏み場もなく散らかっている小抽斗《こひきだし》や反古《ほご》などを片づけ始めた。
「お嬢さん、ほうっておいて下さいまし。後で私が始末いたしますから」
「いいよ。私も手伝ってあげるから、お前もその釵《かんざし》なんか拾って――気を持ちなおしたがいい。こんな物が散らばっていると、いつまでも腹が立っていてしようがありやしない」
「ああ、男がいないというものは」
「ほんとに、さびしい、辛いものだね。さだめし口惜しかったろうと思って、私も二階で、しみじみと察していたよ。だけど、ひょいと覗《のぞ》いてみると、あの三人の中には、私の知っている天堂一角という者や、お十夜孫兵衛という浪人がいたので、出るには出られず、どうなることかと、息を殺しているばかりだった」
「じゃ、あの侍たちを、お嬢様も知っておいでなさいましたか」
「森啓之助などと一緒に、よく川長へ来たことがあるのでね」
「見つからないで倖《しあわ》せでした」
「けれどお前……いったい万吉さんはどうしているの?」
「ああして阿波の侍が、居所を探し廻っている様子をみれば、どこかに、命だけは無事でいるのでござんしょう」
「けれど、一人じゃないのだろう?」
「え……何が」
「法月弦之丞様と一緒に歩いているような口ぶりだったじゃないか。――おばさん、私も今では弦之丞様の素姓や、お前のご亭主の万吉さんが、何をもくろんでいるのかぐらいは、うすうす知っているのだから、その法月さんの居所を、私だけに、そっと教えておくれでないか――ね、後生《ごしよう》だから」
弦之丞の居所を教えてくれという、そのお米の様子が、いつになく真剣なのに、お吉はひそかに妙に思って、
「さあ、それは私にも……」
と、口を濁すと、たたみかけて、
「知っているのだろう、え、お吉」
お米の眼が粘《ねば》りこく追求してくる。
「存じませぬ。――なんでお嬢さんにまで、そんなことを隠しだてするものですか」
「だって、さっき、家探《やさが》しをして行った侍たちが、万吉も弦之丞も、たしかに、この大阪へ来ているはずだといったじゃないか」
「それはそう申しましたが、自分の亭主の居所さえ知らない私が」
「いいえ、そんなことはあるものじゃない。この大阪へ帰ったなら、たとえ人目を忍んでも一度はこの家へ来たに違いがない……。いいよ、お前は私までを、阿波の廻し者だと、疑っているのだから」
「そんな訳ではございませぬ。まったく、お吉の知らないことでございますから」
「いいよ、いいよ……」
また、理由のない駄々をこねて、人困らせをするのかと、お吉がよい程に扱《あしら》っていると、すねて後ろ向きになったお米の目に、涙がいっぱいに溜っている。
「お嬢さん」
肩へ手をかけると振り落して、
「いいよ、もうお前に、私の身のことは、相談もしなければ、頼みもしないから……」
「まあ、何をおっしゃるやら、お吉には、よくわけが分りませぬ」
「分っていても、教えてはくれないじゃないか」
「じゃ、その弦之丞様とやらに、いったいお嬢さんは、どういう用があるんですえ」
「用ということもないけれど、私はどうしても、あのお方に、もう一度お目にかからなければならないんだよ。――それで、その一心で阿波から逃げてきたのじゃあないか」
「じゃ、お嬢さんは、その人に? ……」
今はお吉にも、お米の本心のあるところが、よく分った。
それにつけても、癆咳《ろうがい》という病気があるため、わがまま気随《きずい》にしておいたのが悪かった、と涙まじりに悔《く》いていた、お米の母の言葉が思い起こされて、お吉は、溜息《ためいき》をついて、その人の姿を眺めた。
「――そうですか、そういうお心持であってみれば、なんとかして、お引きあわせして上げたいのは山々でございますが」
というと、お米は腹を立てたように、プイと立って、
「もう、お前に心配をかけないから」
中二階へ上がってしまった。
お吉は、ほうっておくつもりで、また、勝手へ来て、膳《ぜん》ごしらえにかかった。それも、自分は川長で馳走になってきているので、お米ひとりのための支度であった。
「お嬢さん――」
梯子《はしご》の下から呼んだけれど、答えがない。
「――遅くなってすみませんでした。御飯をお上がりなさいましな。お好きな物がございますよ」
「…………」
「機嫌をなおして、降りていらっしゃい。え、お米さん」
「…………」
「お嫌《いや》?」
「ア、私かい、私なら今夜は食べたくないから」
それっきり、何をいっても返辞がなかった。
たださえさびしい女|住居《ずまい》な上に、宵には、あんないまわしい乱暴をされ、その後で、慰めてくれる立場のお米がこんどは地位をかえて、妙にすねてしまったので、お吉は立つ瀬のないような寂寥《せきりよう》に衝《う》たれた。
気をまぎらわすため、縫物《ぬいもの》を出して、行燈《あんどん》の下《もと》に針を運びはじめたけれど、夜が更けても、上と下との気まずい沈黙がよけいに家の中を陰気にするばかり。そして、滅入《めい》りがちな心の奥で、
「先《せん》からわがままなお米さんではあったけれど、元は癆咳《ろうがい》を苦にしていて、沈みがちな気性だったのが、わずかの間に、どうしてアア捨鉢に変ってしまったのだろう。家へ帰りたくないというのも、自分に、目的があるからには違いないが、あのまま自堕落《じだらく》になって行ったら、女の一生を末はどうするつもりなのだろう」と、考えたりして、他人《ひと》事《ごと》ながら胸を痛めていると、また不意に、トントントンとさっきよりは荒い足どりで、お米がそこへ降りてきた。
黙って、勝手へよろけてゆくふうなので、
「そら、やっぱりお腹がすいてきたんでしょう」
とお吉が、つとめて、冗談に話しかけると、お米は手桶の中から水《みず》柄杓《びしやく》を取って、
「おばさん、私、気ばらしに、お酒を飲んだの」
ポッと目元を妖艶に赤くして、あられもなく柄杓《ひしやく》へ唇《くち》を寄せていった。
「えっ、お酒を」
あっけにとられて、お吉は座敷のほうから目をみはっていた。
しどけない姿で、流し元に立って行ったお米は、上気して、襟元まで桜色になっていた。そして手桶から取った柄杓《ひしやく》の水を飲んで、
「……ア、おいしい」
水をはねかして柄杓《ひしやく》を投げこむと、ひょろひょろと戻ってきて、梯子段へよりかかった。
「おばさん――」
ただ気を呑まれて自分をみつめているお吉を、そこから冷やかに見て、
「どう? 私の顔……」
と笑った。
だが、お吉には、笑えなかった。
「私の顔――ずいぶん赤いだろう……、昼間、そッと買っておいたのさ、自分でね。――だって、お前、お酒でも飲まなければ、私、生きていられやしないものねエ」
梯子段へ肱《ひじ》をのせて、こういう調子なり姿態《しな》なりが、毒婦のように妖美であった。
お吉は、それが川長のお米ではないように見えた。
あの、気の弱い、すんなり痩《や》せ細《ほそ》った容《かたち》で、咳《せき》にまじって出る血を、人目に隠しながら、いつも鬱気《うつき》でいたお米――それと目の前の人とがどう考えても、同じだと思われなかった。
「どうしたの、お吉」
「お嬢さん……」
「よしておくれよ、お嬢さんなんて、私はもう、生娘《きむすめ》じゃない、男のために、さんざんになった女だよ。おまけに、癆咳《ろうがい》もちで、長生きのできない、女なんだよ。――だから、いっそもう、したいことを、どんどんして行かなけりゃ損だと、考えなおしたのさ。いいやね、お前、毒婦になったって。――薊《あざみ》の花だって、捨てたもんじゃないからね、黙って、泣いて、踏みにじられたまま、終ってしまう野菊より、棘《とげ》をもっても、口紅をつけてパッと強く生きている薊《あざみ》のほうが」
「まあ、お米さんとしたことが」
お吉が、あきれて、何かいおうとするその口を抑えて、
「いいよ、ほうっといておくれ。私は私で、弦之丞様をたずね当てるんだから」
「そのことじゃありませんが、あなたはまあ、体のお弱いくせに、なんだって、飲めもしないお酒をそんなに上がったのですえ?」
「いいじゃないか、私の体だもの」
「せっかく、ご丈夫になりかけているのに」
「よけいなことをいっておくれでない。私が、頼むことも教えてくれないくせにして」
「だって、知らないことを」
「知っていたら、後《あと》で怨《うら》むよ。いいかえ、わたしは明日《あした》から、きっと、その人を探しにかかるつもりなのだから、ね」
酒のせいではあろうが、お吉を睨むように見流して、スルスルと、二階へ裾《すそ》を匍《は》わせて行った。
そぼそぼとすすり泣くような小雨の音が、晩春の夜をひとしお心細く降ってきた。翌朝も、細かい雨が煙っていて、竹の樋《とい》の裂け目から落ちる雫《しずく》に、勝手の板の間がびしょ濡れになっていた。
ゆうべ、寝しなに、ここを固く閉めて床についた筈なのが、開け放しになっているので、お吉は、起きるとすぐに、あたりのさまを疑った。みると、この間、歯を洗って隅においてあった、高足駄が見えないし、壁に吊るしてある雨傘のうちで、一番新しい渋蛇《しぶじや》の目《め》がそこに見えない。
「おや? ……」
中二階へ上がって、もしやと、そこの襖《ふすま》をあけてみると、牡丹《ぼたん》唐草の赤い蒲団《ふとん》は敷きぱなしになってあったが、どこへいったか、お米の姿は見えなかった。
自棄《やけ》酒《ざけ》をのんで、血の逆《あが》ったようなことを口走ってはいたが、まさかと、たかをくくっていたお吉は、びっくりして、夜具のまわりや押入れの中を見たが、お米は、もう帰らぬつもりで、すっかり支度をして出て行ったらしく、帯揚《おびあげ》ひとすじ残っていない。
「いくら若いにしろ、捨鉢になっているにしろ、この雨が降っているのに、どこへ……」
お吉は、二階の小窓を開けて外を眺めた。そぼ降る雨の中に、渋蛇《しぶじや》の目《め》をさして的《あて》もなく出て行ったお米の姿が目の前にちらついた。
そして、何の気もなく窓の根元になった屋根の上をみると、小さな鬢盥《びんだらい》が出してあって、その中に、唇を拭いた紙と、緋撫子《ひなでしこ》をしぼったような、鮮麗な色の血が、あふれるほど吐いてあった。
「あ……」
お吉は、袖口を鼻に当て、怖ろしい、そして悲しむべき、お米の遺物《かたみ》に、寝起きの肌を寒くさせた。
けれど、みつめているうちに、その鮮麗な紅《くれない》は、病をうつすという恐怖も、穢《きた》ないという感じをも、お吉の脳裡からとり去って、ただ、ひとりの美女が、血みどろに、目ざす所へ、脱《ぬ》けて行った殻《から》のように見えてきた。
「――今のような場合でなければ、弦之丞様の居所を、ほんとに教えてあげたいのだけれど」
こうつぶやいて、ほろりとした。
流々転住《るるてんじゆう》
ここに哀れをとどめたのは、紐《ひも》の男――仲間《ちゆうげん》の宅助《たくすけ》だった。
おのれの使命に、あまり自信をもち過ぎた結果、鼠薬《ねずみぐすり》を舐《な》めさせられて、もろくも、お米にまかれてしまったが、どうにか、命だけを取り止めて、ひょろひょろと、場末の木賃宿からよろけだしたのが、お米に離れてちょうど七日目。
持ちあわせの小遣《こづか》いも尽きて、もう一晩の旅籠《はたご》銭《せん》さえなくなったため、まだヨロつく足をこらえ、時々、渋るように痛む腹をおさえて、青い顔をしながら宿を出た姿は、笑止でもあるが、気の毒でもあった。
「見ていやがれ、阿女《あま》め」
腹の渋りだすたびに、口惜しさが新たになってくる。そして、まだ腹の中に残っている鼠薬の余薬《よやく》に、火でもついてくるように、かれのまずい面《つら》が歪《ゆが》んでくる。
「覚えていやがれ、タダおくものか」
こうつぶやいては、宅助、ペッ、ペッ、と生唾《なまつば》を吐き、目ばかり鋭く動かして、よろよろと道を泳いだ。
無論お米を見つけだす気で――。
どこをどう歩いたか、何を的《あて》に探したか、自分でも夢中らしい。なにしろそれから二日の間に、かれの姿はいっそうみじめなものとなって、生霊《いきりよう》のように、ふらりと現れたのが二軒茶屋――玉造《たまつくり》の東口なのである。
大阪から南都《なんと》へ出る街道口、そこには、伊勢や鳥羽へ立つ旅人の見送りや、生駒《いこま》の浴湯詣《よくゆもう》で、奈良の晒布《さらし》売り、河内の木綿《もめん》屋、深江の菅笠《すげがさ》売りの女などが、茶屋に休んで、猫間《ねこま》川の眺めに渋茶をすすっている。
そこへ来ると、宅助は、空いている床几《しようぎ》を目がけて、ドーンと腰をおろしてしまった。
ふウ……と吐息《といき》をつくと、何か、訳の分らぬことをつぶやいて、こんにゃくのように体ぐるみ、フラフラと首を振っていた。
晒布《さらし》売りの女がクスクスと笑った途端に、あたりに腰を掛けている旅の者が、声をこらえて吹きだした。で――宅助は、初めて自分が、衆目《しゆうもく》の中にいることを知って、思いだしたように、とつぜん、一同へお辞儀をした。
「へい、皆さん、わっしゃ女に逃げられてしまったんです、女にね。おまけに、毒を呑まされたので、少しこのウ……頭の芯《しん》がフラフラとしていて、向うの山も、この家も、人様の顔も、動いて見えるくらいですから、少し様子がおかしいでしょう……。ですが、狂人《きちがい》じゃございませんから、笑わないでおくんなさい。可哀そうです、わっしの身になってごらんなせえ、笑いごッちゃありませんぜ」
まじめに釈明したのである。
宅助がきまじめで何かいうほど、初めのうちは、みんないっそうおかしがったが、その眼色、顔色がよく分ってくると、誰も笑わなくなってしまった。
「女といっても、わっしの情婦《いろ》じゃございません、主人から預かってまいったお部屋様なんで――。どなたか、ご存じでしたら教えておくんなせえ、どうしても、そいつを取っ捕まえなくちゃ、国へも帰れませんし、第一わっしの無念がおさまりません」
と、宅助、茶店の中の者をいちいち白い眼で見廻した。
誰も返辞《へんじ》をする者がない……。
いったいこれは気狂《きちが》いかしら、それとも本当に、ああまで一念になって、女を尋《たず》ねているのかしら? と誰もが心のうちで判断を下しかねている態《さま》だ。
「そう、そう。女といったって、ただ女だけじゃ人様にゃ分りますまい。その女というのは、この大阪にれっきとした店を張っている、ある料理屋の娘でして――へい、ですが、そこには帰りません、とにかくこの三郷《さんごう》の土地をうろうろしているに違えねえので、年は二十四、五だろうが、それよりはグッと若く見えて、癆咳病《ろうがいや》みですから、色はすきとおるほど白く、姿は柳腰《やなぎごし》というやつ。へエ、服装《なり》ですか、服装《なり》はもちろん襟掛けの袷《あわせ》で、梅に小紋の大柄《おおがら》を着、小柳繻子《こやなぎじゆす》を千鳥に結んでおりました。そいつを尋ねておりますんで――そいつをネ、どうでしょう、誰かこの中で、そんな女を見かけた方はいますめえか、名前はお米という奴で、お米、お米、知っていたら、どうか教えておくんなさい」
と、言い終ると、こんどは誰ともなく、ワハハハと笑い出して、それをしおに、茶店中の者が、宅助を余興に見て、腹を抱えてしまった。
あまり真剣にすぎる身振《みぶり》は、他人《ひと》の目に滑稽《こつけい》となって映るのに、まして、宅助の尋ねものが美人というので、誰もが笑わずにいられない。宅助もそれまでは、見得《みえ》も何も忘れていたが、こう笑われた上に、誰も相手にしてくれない様子を見ると、いささか間《ま》が悪くなって、またこそこそと茶店を歩きだした。
すると、その中にも、たった一組、思いがけない知己《ちき》があって、かれが茶店を離れると一緒についてきた者がある。
「宅助さん。もし、宅助さんたら」
二軒茶屋の床几《しようぎ》へ茶代を置いて、こういいながら、あわてて、後を追ってきた手代《てだい》ふうの男と、そして、三十がらみの商家の御寮人《ごりようにん》。
それは、四国屋のお久良《くら》と、手代の新吉《しんきち》だった。
「おーい、お待ちってば、宅助さん。おーい、森家のお仲間《ちゆうげん》――」
妙に眼ばかりを光らせて、前かがみにあるいていた宅助は、やっとその声に気がついて、
「え? ……ああ」
気のない顔で立ち止まった。
「これは、四国屋のお内儀《ないぎ》さまに新吉さんで」
「どうしたんだい、宅助さん」と、新吉が肩を叩くと、宅助はふらりとよろけて、
「どうにもこうにも、まったく弱ったことができましてね」
「その話は、今向うの茶店で聞きましたが、森啓之助様の匿《かく》し女《おんな》、お米という人がいなくなったとか」
「この大阪で、姿を消してしまやがったんで、それを見つけださねえうちは、国元へも帰《けえ》れません。あ、そして、お店の船は、もう近いうちに阿波へ出ることになりやしょうか」
「荷の都合で少し遅れたから、多分、この月の内には出ないだろうよ」
「とすると――五月の中旬《なかごろ》になりますな。じゃ、まだだいぶ間があるから、それまでに、お米の奴を捕まえて、一緒に乗せていただきます。四国屋の船に便乗して帰れというなあ、初めから、旦那様のおいいつけだったので」
「ほかならぬ御家中のお方、船はどうにもご都合をつけますが、そのお米様とやらが、見つからぬうちはお困りですなあ」
「いまいましい畜生でさ。だが、宅助の一念でも、きっとそれまでには、お米の奴を取っ捕まえます。ああ、それと新吉さん……まことに面目ねえ頼みだが、少しばかり、当座の小遣銭を合力《ごうりき》しておくんなさいな……、恥を話すようだけれど、路銀《ろぎん》はみんなお米のやつが持っていたので、今朝からまだ一粒の御飯も腹に入っていねえありさまなんだ」
「ええ、ようござんすとも」
お久良が気の毒がって、五、六枚の南鐐《なんりよう》を、手の上へ乗せてやると、宅助の飢《う》えた心は、銀の色にわくわくとおののいた。
「あ、ありがとうござんす」
幾度となく辞儀をした。
そして、思いがけなくありついた南鐐を懐中《ふところ》にして、お久良と新吉に別れて行こうとすると、猫間川《ねこまがわ》の堤《どて》に添って、柔《やわ》い草を踏んで、何か語らいながらこっちへ来る男女がある。
男は――若い浪人である。
形のよい編笠に、黒奉書《くろほうしよ》の袷《あわせ》を着ている。スラリとした中肉に、袷《あわせ》の肌着《はだつ》きがよく、腰には落し目に差した蝋消《ろうけし》の大小、素足《すあし》に草履、編笠をうつ向き加減に、女の言葉を聞いていた。
その人に寄り添ってくる道づれは、小股《こまた》の切れ上がった江戸前の女で、赤縞《あかじま》の入った唐桟《とうざん》の襟付きに、チラリと赤い帯揚を覗《のぞ》かせ、やはりはにかましげな目を、草の花にそらしながら歩いていた。
手代の新吉は、それを見ると、あわててお久良の袖《そで》を引きながら、
「もし、お内儀《かみ》さん」
とあごを指した。
「あのお侍の側にいるお女中は、少し風《ふう》が変っているが、いつぞや、木曾路で私たちを助けてくれた、あの若い旅のお方じゃありませんかね」
「ほんに……」と、お久良も目をみはった。
向うでは何気なく、新吉の側をすれちがって行きそうになるのを、お久良がしかとその人を見届けて、前へ廻って行くなり、ていねいに小腰をかがめた。
「もしや、あの……失礼でございますが」
「はい、私?」
「さようでございます、お見忘れかも存じませぬが」
「ああ、あなたはいつか木曾街道で」
「よい所でお目にかかりました。その節は、私たちが途方に暮れていたところを、ご親切に救っていただきまして、ろくにお礼も申さずお別れ致しましたが、いつもこの新吉と、よそながらお噂ばかりしておりまする」
「なんの、親切だのお礼だのと、そうおっしゃられては困ります。ただほんの旅先での面白半分……」
「いいえ、ぜひ一度はお目にかかって、しみじみと、お礼を申し上げたいと思っておりましたところ――少し船が遅れましたので、今日は、高津《こうづ》のお詣《まい》りから黒門《くろもん》の牡丹園《ぼたんえん》へ廻ってまいりました。これも高津のお宮のおひきあわせでございましょう」
「では、まだ、阿波へは?」
「はい、船の都合で、少し帰りが遅れておりまする」
「とおっしゃると、なんぞ次によい便船でもお待ちなさるのでございますか」
「いいえ、手前どもの持ち船で、御城下へゆく積み荷の整《ととの》い次第に、港を立つ都合になりますので」
「そうですか――」と深くうなずいて、
「では、四国屋という、お店の持ち船でござんすね」
と、それに気を惹《ひ》かれて、連れの浪人と目を見あわせたまま、ジッと考えている間に、その浪人の編笠のうちを覗いた宅助が、あっ、とびっくりして走りかけた。
――と思うと、浪人の、黒奉書の片袖が、乙鳥《つばめ》の羽のようにひるがえって、真っ白い腕《かいな》に電撃の速度がついた。
脾腹《ひばら》へ当身《あてみ》! たった一突き。
「ウウム――」というと、不運な宅助、またここでも、駈けだすはずみを横につけて、向うの草むらへ、逆《さか》とんぼを打って気絶した。
宅助が気を失ったのを見すましてから、侍は、おもむろに、突きだしていた拳《こぶし》を納め、その指先を笠べりにかけて、
「――不作法《ぶさほう》。平《ひら》に」
と、軽く、またにこやかに、お久良と新吉へ、初めての会釈をする。そして、静かに、笠を払った。
今の、早技《はやわざ》にも似ず、鬘《かつら》をつけたような五分|月代《さかやき》に、秀麗な眉目の持ち主。
あっけにとられてする二人の目礼をうけて、どこかに微笑を含んでいる。
「お綱」
と、側にいる唐桟縞《とうざんじま》の女をみて、
「あれは森啓之助の仲間《ちゆうげん》、拙者の顔を見知っているゆえ、当身《あてみ》をくれておいたのだが、しかし、四国屋のお内儀、さだめし驚いたことであろう。そなたからわけを話して、その後に、例の……船の便乗《びんじよう》、頼んでみられてはどうか」
「私も、そう思っておりました」
「是非に、承諾して貰うように」
「はい、ひとつ、話してみることに致しましょう」
「うむ」
と、目くばせ。
法月弦之丞《のりづきげんのじよう》は、猫間川の堤《つつみ》に上って、往来の人影を見廻した。
木曾の刃囲《じんい》を切り破って、お綱と万吉を助けながら、あの夜、からくも裏街道の嶮路《けんろ》へ脱した弦之丞は、それから数日の間に、夜旅を通して大阪表へまぎれて来ていた。
かれが着馴れた普化宗《ふけしゆう》の三衣《さんえ》を脱いで、ちょうど、花から青葉へ移る衣《ころも》がえの機《しお》に、黒奉書の軽い着流しとなったのも、ひとつは、阿波の詮索《せんさく》をのがれる当座の変装である。
しかし、その仮の着流しが、ひどく弦之丞を色めかして、猫間堤に腰をおろし、四方へ目をやっている様子なども、決して大事を胸に抱いている鋭い武士とは思われない。
「四国屋様――」
お綱は、改まって、小腰をかがめた。
「はい……」
とは答えたが、その時、お久良も新吉も、少し気味の悪そうなたじろぎをみせて、
「なんぞ、改めて御用でも」
「折入ってあなた様に、お願いをしてみたいと向うにいる連れの者が申しまする。なんと、お聞きなされて下さいましょうか」
「それはもう……」と、お久良は愛嬌のある口元から、鉄漿《おはぐろ》の艶《つや》を見せて、
「御恩のあるあなた様のこと――自分たちに出来ますことなら、何なりと……」
「わずかな御縁につけ入って、あつかましいお願いをするやつと、こうお思いなさるかもしれませんが」
「どう致しまして、それどころか、私どもこそ、お住居を尋ねても、いちどはお礼に出たいと存じておりましたくらい。そして、お頼みということは?」
「お宅様の持ち船が、阿波の国へ帰る時に、乗せていただきたいのでございます」
「えっ、阿波へ?」
「連れは三人、ぜひともあちらへ渡りたい用が」
「ま、お待ちなさいまし」
お久良はこうさえぎりながら、少し道傍《みちばた》へ――堤《どて》の裾《すそ》へ寄って行った。
鴫野《しぎの》の花圃《はなばたけ》か、牡丹《ぼたん》園へ行った戻りでもあろうかと見える、派手な町|駕《かご》が五、六挺、駕の屋根へ、芍薬《しやくやく》の花をみやげに乗せて通り過ぎる。
その白い埃《ほこり》が沈むのを待って、
「阿波へお渡りなさろうとは、何ぞよほどな御事情でござりますか。ご存じの通り、御領地|堺《ざかい》は、関のお検《あらた》めがきびしい国で、めったな者は、みんな船から突っ返されます」
「さ、その禁制を知っておりますゆえ、四国屋様のお情けで、積荷の中へでも、隠していただきたい、と思いまして」
「では、お役人の目をぬすんで」
「ごく内密に、渡りたいのでございます」
「さあ? ……」
にわかに暗い顔をして、お久良は、当惑そうに、胸へ手を差し入れたまま、しばらく、立ち思案に暮れてしまう。
後ろにいた手代の新吉は、心配そうに、主人の袖へ合図を与えた。秘密に渡海する者を商船《あきないぶね》に乗せて、それが発覚したとなれば、いうまでもなく、四国屋の身代は、根《ね》こそぎから闕所《けつしよ》になる。木曾街道での恩はあるが、そんなあぶない頼みは引きうけないほうがようございます――というふうにかれの手が知らせていた。
「どうでございましょう。四国屋様」
「…………」
お久良は、まだ黙然《もくねん》と、迷っていた。
和《やわ》らかな微風が、堤《どて》の緑を撫でてゆく。
「嫌といわば? ――」
すでに、秘密の一端をもらした以上、不愍《ふびん》ではあるが、お久良と新吉とを、このまま放してやることはなるまい――と、法月弦之丞の眸は、いつのまにか、炯《けい》として、一脈の凄味《すごみ》を帯び、お久良の返辞を、待たぬふうに待ちすましている。
「もとより、こういう無理なお願いをする上は、私たちが、秘密な大望をもつ者ということは、もうお察しでございましょう」
お綱は、相手の遅疑《ちぎ》する色を見ながら、迫るように、お久良の決意をうながしていった。
「けれど、四国屋様」
つとめて、自分の言葉を、平静に装《よそお》いながら――
「決して、後に、そちら様のご迷惑になるようなことは致しませぬ。よしや、禁制破りが露《あら》われて、領主の蜂須賀家から、お店《みせ》へ科《とが》がかかりましょうとも、その時こそは、幕府の御威光をかざしても、きっとお救いする道が……」
パチンという鍔《つば》の音に、お綱は、口を辷《すべ》りかけた言葉を切って、堤《つつみ》の上の弦之丞と眼の光をからませた。
「あの……お綱さん」
お久良は、何か思い切った様子で、やっと顔を上げながら、
「なにしろ、ここでは、深いお話も伺《うかが》えませぬ。それに、船の荷都合ものびておりますから、それまでの間に、いちど、私どもの寮へおいで下さいませ。その時には、何かとゆるゆる御相談もいたしましょうから」
巧《たく》みに、逃げ口上をいって、はずすのではないかと、弦之丞の懸念《けねん》も、お綱の眼も、そういう相手の顔色を、天眼鏡《てんがんきよう》の向うに置くように見つめたが、お久良の素振《そぶり》には、少しもやましいものがなかった。
「弦之丞さま――」と、お綱は上をふりかえって、「どうしたものでございましょう」
「四国屋のお内儀《ないぎ》」
お綱に代って、こんどは、弦之丞が居場所から声をかけた。
「そちらの寮へ来てくれとの言葉、大きにもっともには思われるが、何せい、人目を忍ばねばならぬ吾らの身の上じゃ。ことに、蜂須賀家には仇も多い……」
こういって、ジイと、堤《どて》の上から見おろした。新吉は、何となく身がすくんで、これは、いよいよ容易なことではないと、生唾《なまつば》をのむ。
「よろしいか」
念を押すと、お久良はさすがに、大家の御寮人らしく、うなずいて、
「お身の上も、およそ」
と、片《かた》笑くぼでいった。
「それ故、いらざる邪推も廻るというもの」
「ご無理のないお話でござります。けれども、町人ではござりますが、私とて、四国屋のお久良、御恩人の、あなた方をおびき寄せて、蜂須賀様へ密告しようなどと、そんな、卑怯な、恩知らずではござりませぬ」
「うう、きっとな」
「固く、お誓い致します」
「その一言を信じるぞ」
「はい」
と、明晰《めいせき》に答えた。
弦之丞は、お久良の性根を見こんで、
「では、四国屋の寮とやら、どちらでござるか、お所を伺っておこう――」と堤《どて》を下りた。
「どうぞ、お出まし下さいませ。場所は、農人橋《のうにんばし》の東詰《ひがしづめ》、そこは四国屋の出店でござりますが、東堀の浄国寺《じようこくじ》に添った所が、大阪へ来た時の住居になっておりまする」
「そして、また会う日と時刻は」
「そちら様のご都合のよい時……、したが、昼は人目もありますから、なるべくは夜分のほうが」
「いかにも、では、明後日」
「きっと、お待ち申し上げます」
「ことによると拙者はまいらずに、このお綱と、万吉と申す者が、お邪魔に伺うかもしれぬ」
「あの万吉様なら、木曾路でいろいろな親切にあずかりましたお方、ぜひ、お目にかかりとう存じます。それでは、今日はこれで……」と、新吉をうながして、お久良は、玉造《たまつくり》の並木のほうへ帰って行った。
弦之丞とお綱は、ふたりの姿がはるかになるまで、そこを動かなかった。
「法月様――ここでしたか」
と、その時、川の底で呼ぶ声がする。
ふりかえると、猫間川の水が、大きな波紋を描《か》いて、苫《とま》をかぶせた小舟が一|艘《そう》、斜《なな》めに辷《すべ》って、水禽《みずとり》のように寄ってきた。
乗ってきたのは、万吉である。
棹《さお》をしごいて、水玉を降らし、舳《へさき》をザッと芦《あし》へ突っ込むと、無言のまま弦之丞が飛び乗った――そしてお綱も。
「あぶない……」
と、手をのばした弦之丞の胸へ、お綱はよろけ込むように抱かさった。
苫《とま》をかぶった過書舟《かしよぶね》は、気永に、猫間川の淵《ふち》を上《のぼ》って行った。
秋ならば、さだめし、虫聴《むしき》きの風流子《ふうりゆうし》が、訪れそうな所である。上《かみ》へすすむほど、川幅も狭くなって、岸の両側から青芒《あおすすき》や千種《ちぐさ》の穂が垂れ、万吉の棹《さお》にあやつられる舟の影が、薄暮の空を映した滑《なめ》らかな川面を、水馬《みずすまし》のように辷《すべ》ってゆく。
苫《とま》の隙間から、白い煙が、静かに揚がっていた。
小さなこんろや土鍋《どなべ》が見える。
お綱の白い手が、舟べりから水へ伸びて、二つ三つの瀬戸物を洗っていた。
ささやかな舟世帯《ふなじよたい》で、夕餉《ゆうげ》の支度ができるらしい。
かかる間に、舟は玉造村《たまつくりむら》からズッと奥へ入って、とある土橋の橋杭《はしぐい》へ結びつく。
その頃、もうトップリと日が暮れて、猫の眸《ひとみ》に似た二日月《ふつかづき》が、水の深所《しんじよ》に澄んでいた。
「じゃ、弦之丞様、今夜はちょっとお暇をいただいて、家《うち》の様子を見たり、また、当座《とうざ》の食《く》い物《もの》を少し仕入れてまいりますから――」
舟をもやうと万吉は、こういいながら、陸《おか》へ上がる支度をしていた。
「お、行くのか――」と苫《とま》の中から弦之丞。
「わっしが帰るまで、どうぞ、ここを動かないように」
「今夜はここで舟泊《ふなどま》りじゃ。ゆるゆる用をすましてくるがよい」
「へえ。なにしろ大阪へ来てからも、まだろくろく顔を見せていねえ女房、ことによると今夜あたりは、向うへ、泊りたくなるかもしれません」
「うむ、そうしてまいるがよいではないか」
「ありがとうぞんじます」
と万吉、弦之丞のまじめさと、お綱のはにかましげな様子を見くらべて、
「いっそ、今夜ひと晩は、この万吉の帰らねえほうが、そちら様にもご都合がいいかもしれませんね。え、どうですな、お綱さん――」
と、冗談のようにいう。お綱は、顔を赤くして、
「なるべく、早く……、ね」
と、いったが、万吉は、その顔を指さして、
「嘘ばッかり……」
と、笑いながら、ひらりと陸《おか》へ上がってしまった。
そしてまた急に、思い出したようにふりかえって、お綱のほうをジッと見ながら、
「ほんとに、今夜は、帰るまでも、少し遅くなりますから……、どうか、そのつもりで、後をよろしく……へへへへへ。よウがすかい、お綱さん、あの約束をネ」
と、目に物をいわせるそぶり。
あの約束? ――と意味ありげに。
それは、駿河台《するがだい》の墨屋敷《すみやしき》で、固く、お綱と万吉の間に交わされた、あのことを指したのに違いない。あのこととは、無論お綱の心の奥に、言いだせずに秘められている、恋である。
だが、弦之丞には、すでに、愛人として、お千絵《ちえ》様という者がある。それを知っている万吉の立場では、いかにお綱の心を汲《く》んでも、弦之丞へ向って、今日まで、どうもその二重の恋を取次ぎにくかった。
だから。
今夜は狭い小舟の苫《とま》、わたしもいないし、人目もなし、ちょうどいい水明りに、ちょうどいいこの折に。
「あの約束をネ」
と、万吉が、いったのである。
打ち明けてごらんなさい、と粋《すい》をきかして、目知らせしたのだ。
そこで万吉は、堤《どて》を上がると土橋を渡って、スタスタと、宰相山《さいしようやま》の木立を目あてに、そこから遠からぬ桃谷《ももだに》の自分の家へ急いで行った。
この大阪表へ来て以来、阿波の原士《はらし》や例の三人組が、手分けをして自分たちの居所を探しているという風聞なので、その詮索《せんさく》の目をのがれるため、弦之丞、お綱、万吉の三人は、ひそかにこの過書舟の苫《とま》をかぶって、浮草のような幾日を過ごしていた。
そして、一方には、阿州屋敷の動静をさぐり、かねては、阿波へ渡るべき、好機会を狙っている。
ある日は、終日舟から上がらぬこともあるので、それに要《い》る手廻りの品は、いつか、万吉が真夜中に自分の家を叩《たた》いて、お吉に、そッと運ばせたものである。
で、ささやかな舟世帯は、三郷《さんごう》の川や掘割を縫って出没し、夜は、人目の立たぬ芦の中に、浮寝《うきね》の鳥と同じ夢を結んでいた。
そうして幾夜を送るうちに、弦之丞も、お綱の生い立ちや、またその性質を、充分に理解してきた。ことに、お綱と世阿弥とが、不可思議な血縁につながれていることを知ってから、彼は、もう阿波へ共に行くことを拒《こば》まなかった。
そして、わずかな間に、深い親しみをもつようになった。
けれど、それが、恋の進展とはならない。なぜならば、お綱はまだ、胸に秘めているそれをきょうまでの間に、弦之丞へ対して、言葉の端にも、ふれてみたことがないから――。
といって、お綱の思慕は、人知れずに、募《つの》りこそしてきたが、さめてはいない。
こうして、狭い小舟の中に、ひとつに暮らしていればいるほど、悩ましい恋情を理性で伏せることができない。それは、誰としても当然に起こる苦悩であろう。
恋人と共に、苫《とま》の中に隠れて、胸の奥に燃えさかっている恋を語りださずにいることは、その人の側にいるという甘いよろこびを越えて、むしろ、切ない忍苦だった。
ある夜は、木枕をならべ、薄い褥《しとね》を臥《ふ》しかつぐ五|更《こう》に、思わず、指と指のふれあって、胸をわかすこともあろう。
やすらかに眠るその人の寝顔が怨めしげにみつめられて、明日《あした》の朝、瞼《まぶた》の腫《は》れの恥かしいこともあろう。
その心持を、万吉はよく知っていた。
だが、万吉にも、弦之丞へそれと口を切ることができないので、ただ、お綱の心根《こころね》を、蔭で、不愍《ふびん》と思いやっているばかり……。
「そりゃ、お千絵様と、誓ったこともあるだろうが、あのお方は、癒《なお》るかどうか分らない程な、気狂《きぐる》いという病気になっているのだから……」と、こう、自分で理由をつけて、どうかして、お綱にこの恋を遂《と》げさせてやりたい――とそのたびごとに考えている。
「――決して、それが不倫な恋とはなりゃしまい。お千絵様とお綱さんとは、義理の姉妹《きようだい》には違いないが、妹のほうが乱心になって、弦之丞様との恋が失せてゆくものとすれば、お綱さんがそれに代ったって、ちっとも、悪い話じゃねえ。むしろ、まことにけっこうなことだろうと思うんだが、なにしろ、法月様ときた日にゃ、そこになると、まったく融通《ゆうずう》が利《き》かねえからなあ」
いつも、この二の足で、弦之丞の顔をみると、彼もお綱も、そんなことは、おくびにも出せないのである。
そこで、万吉。
今夜は、お綱に粋《すい》を利《き》かせた意味と、実は、自分も、久しく会わない女房のお吉に、ちょっと優しい言葉でもかけてやろうか、という気持から、舟を上がって行ったものだ。
お綱にとっては、粋《すい》な万吉の姿へ、両手を合せて拝みたいほどな機会である。
こんなよい晩なんて、決して、今まで、ありはしない。
けれど、万吉が、そこから抜けてみると、なんとなく取りつく島がなく、せっかくのいい晩が、息ぐるしく、口もきけずに、過ぎてしまいそうだ。
思えば、もう一年前の夏になる。
大津の打出《うちで》ケ浜《はま》で、あの雷の落ちた晩に、雨宿りをしていた瓦《かわら》小屋で、ゆくりなくこの人を見て、お綱は初恋を知った。
片恋のまる一年――、今もまだその恋は片思いかもしれないけれど――。
顧《かえり》みると、涙のにじむ一年であった。
身をもやつし、心も痩せぬいた、月夜の風邪《かぜ》。
その一念が届いて、やっと今夜のような、たった二人でいる機会に恵まれてきたのだ――と思い躍りながら、かれの心は、まだ昔のはにかみを、どうしても脱けないらしい。
小舟の隅に寄って、もじもじと苫《とま》の藁《わら》を抜き、抜いてはそれを輪に結んで、水の中に流している。
お綱がそうしていれば、弦之丞もいつまでも黙然として、舟べりへ片肘《かたひじ》を乗せ、ジイと、水に映《うつ》る二日の月を見つめている。
「少し、寒くなりはしませんか……」
やがて、お綱がいった。
「だが、もう晩春、苫《とま》を垂れこめては、むし暑かろう」
「そうですねえ」
後を次ぐ言葉を考えながら、いつか、つぎ穂を失いかけて、また胸苦しい沈黙がつづきそうになる。
「あ、今のは」
「何かの?」
「時鳥《ほととぎす》ではありませんでしたか」
「あれは五位鷺《ごいさぎ》」
「まあ」
「えらい違いじゃ。は、は、は、は」
また話の緒口《いとぐち》を失って、お綱は顔へ血を上《のぼ》せた。
またしばらく、手持ちぶさたに、もじもじしていると、
「お綱、今のうちに、髪をなおしてくれぬか」
と、弦之丞のほうから渡りに舟の頼みが出る。
普化《ふけ》の宗衣《しゆうえ》を着ていれば、髪も切下《きりさ》げでなければならぬが、黒紬《くろつむぎ》の素袷《すあわせ》を着流して、髪だけがそのままでは、なんとなく気がさすし、そこらをウロついている原士《はらし》の眼を避ける上にも、容《かたち》を変えたほうがよかろうと、昨日も話していたことである。
「つい忘れておりました。では、ちょっと梳《す》きなおして差上げましょう」
「どうか、願いたい」
「おやすいことでございます」
と、自分の黄楊《つげ》の櫛《くし》を抜いて、弦之丞の側へ寄ったが、高鳴る血のひびきが、その人の肌へ感じられはしまいかと、左の手で、右の袂《たもと》と乳の辺を軽く抑えた。
「あいにくと、鬢盥《びんだらい》がございませんが」
「なに、これでよかろう」
と、かれは背中を向けたまま、無造作に、舟のアカ汲《くみ》を取って、手を伸ばし、川の水を掬《すく》って、お綱の側へ置いた。
「それに鏡も」
「いや、鏡は要《い》るまい」
「何もかも、ないものだらけでござります。ちょうど、あの……新世帯みたいに」
「流々転住《るるてんじゆう》の舟《ふな》住居《ずまい》。ここしばらくは、思いがけない、気楽な境界《きようがい》になったもの……」と弦之丞も、ほほ笑《え》まれる。
四、五枚の苫《とま》をはねてあるので、細い眉形の月と星明りが、お綱の手元をほのかに見せた。
弦之丞が汲んだアカ柄杓《びしやく》の水に黄楊《つげ》の鬢櫛《びんぐし》を濡らして、
「あの……」
まぶしそうに、横顔を覗《のぞ》きこんで、
「月代《さかやき》は、このままにしておきますか」
「浪々して以来の置物《かたみ》、同じ剃《そ》るなら、大望を遂げての後、サッパリと落したい」
「では、たぶさだけを」
「何かに結びなおしてくれ」
「はい」
女房のような返辞《へんじ》の為方《しかた》。
お綱は、自分の声に動悸《どうき》を打ったが、弦之丞は無関心に、五分|月代《さかやき》をかろく梳《す》く櫛の歯ざわりに、こころよげな目をふさぐ。
「元結《もとゆい》を切りますから、笄《こうがい》でもお貸し下さいまし」
弦之丞は、無言で、刀の小柄《こづか》を抜いて渡す。根を切って、それを返し、ふさふさとした黒髪を幾たびも梳《す》いて、女用の松金油《まつかねあぶら》は、やや香りが高すぎるが、それを塗って、形よく銀杏《いちよう》に折り曲げ、キリキリッと元結を巻いて、根締めの唾《つば》を舐《な》めてつける。そして、
「どうでございますか」と、甘えるように、櫛を拭く。
「よかろう。いや、ご苦労であった」
「お気に召さないかもしれませんが」
櫛にからんでいた男の毛を、指の先に巻きながら――
「けれど、たぶさに結んだ髪も、ほんに、よくお似合いなさいますこと」
流し眼に、ジイと、燃ゆる思慕を。
離れがたなく、居なりのまま、精いッぱい、心の一端でも、洩らしてみようとするのだが、眼元ばかり熱くなって、咽喉《のど》はいたずらに渇《かわ》いてくる。
「ああ……」と、思わず、火のような吐息。
そして、がっくりと片手を落した途端に、お綱のフッサリした黒髪が、投げるように、男の膝へかぶさった。
弦之丞は、はっと驚いた面持をして、その背中へ、手を迷わせた。
と急に、嵐のように。
「法月さん! ……」
こらえぬいていた涙の堰《せき》を切ってお綱は、強く身をふるわせた。
「か、かんにんして下さい……、私は、泣きたくなりました。泣かして……泣かして」
きょうまで、無理にいましめていた理性と羞恥《しゆうち》を破って、片恋の涙は、いちどに、男の膝を熱く濡らして、今はもう止め途《ど》もない。
雨に叩かれた花かとばかり泣きくずれた女の体が、弦之丞には、どうにもならぬような重さだった。お綱は、泣けるだけ泣いた。心ゆくばかり、泣くよりほかにない恋である。
船はゆるい川波に揺《ゆ》れ振られている……。
男の胸に食い入って、しゃくりあげている姿は、やがて、寒気にでも襲われたように、ワナワナとふるえだした。乱れた着物の裾《すそ》から、お綱の足の拇指《おやゆび》がはみだして見える。――弦之丞は、ギュッとこわばってゆくその白い足の指を見つめたまま、黙思していた。
「どうしたのだ……お綱」
と、弦之丞は、衝《う》たれた驚きから、やがてさめて、お綱の体を、起こしかけた。
涙に濡れた女の顔は、重たく粘《ねば》く、やさしい力では、容易にひしとすがった男の膝を離るべくもない。
「泣いていたのでは、理由がわからぬ。わけを申せ、これ」
と、なだめるように訊《き》かれる言葉が、何とはなしに、またかの女《じよ》の新しい涙を誘った。
ひとつは、かかる夜舟の泊りに、ひしひしとさびしみの迫る、旅愁というような気持も、この夜、お綱のわれとわが恋を、極度に、いとしませたものかもしれない。
人一倍、苦労もし、世間の浪にももまれているお綱、男を男とも思わぬ筈であるお綱が、不思議と、弦之丞の前にある時は、いつも柔順で無垢《むく》な一処女であった。恋というものの力が、こうも、女性の性格まで左右するものかと、万吉は、よくひそかにそれを眺めていた。
けれど、お綱は、自分で自分という女が、あぶない女だということを知っている。ひとつ、駒の手綱が狂ったら、どう走ってゆくか分らない。打出ケ浜で、この人に恋することがなかったら、今の苦悩がない代りに、もう抜くことのできない悪事の沼に辷《すべ》りこんで、女|掏摸《すり》の兇状持《きようじようもち》を、一生、肩に背負って、十手の先を逃げ歩いていたかもしれない、と思うことはいくたびであった。
しかし、お綱のこうなってきたすべての動機が、恋の力であったから、その炎は、消ゆべくもない力で、燃えている。弦之丞の側にいればいる程、それが熾烈《しれつ》となるのは、当然だった。
もう、お綱は、たえられなくなった。
片恋の炎を、思慕の人へも、燃え移さずには、たえられない。
今、弦之丞が、優しい言葉で聞いてくれたのを幸いに、鬱結《うつけつ》していた血の塊りを吐くように、この一年、思いつめていた心のたけを、とぎれとぎれに、打ち明けた。
「さだめし、はしたない女、身の程を知らぬ女と、おさげすみなさいましょう。……ですけれど、あの法月さん、わたしは、どうしてもあなたを思いきることができませぬ。かなわぬ恋と知っていながら――なんという因果な女でござんしょう……」
やっと、膝を離れたが、またガックリとうつむいた襟脚《えりあし》が、夕顔のように、ほの白《じろ》い。
二日月に隈《くま》どられた弦之丞の横顔は、鑿《のみ》で彫ったように動かなかった。眉の毛も動かさないという態《さま》だった。なんという冷たい、無表情な顔だろう。
夕雲流《せきうんりゆう》の剣のごとく、また、今見る顔のごとく、この人の心もこんなに冷たいのかしら? ……と思ってみると、その動かない顔の鼻柱のわきを、ポロポロと流れてきた涙の条《すじ》が、月明りに光ってみえた。
「もし、法月さん……」
自分に、与えられた涙を見ると、かの女《じよ》は、もうそれだけで、限りないよろこびにふるえた。
「私が、女だてらに怖ろしい渡世《とせい》をしていたことは、いつか、万吉さんからも話しました。また、私の口からも、幾度となく懺悔話《ざんげばなし》をしてあります。けれど、もうお綱は、きれいに足を洗いました。そして、人並な女になりたいともがいているのでございます。……助けるとおもって、弦之丞様、どうか、お綱を、お綱を……」あとはいえずに、すがりついた。女が、男にすがる力は、ある場合に、命がけ以上である。
「――恥かしいのを抑えて、こうお願いするのでござんす。あなたはお武家、大番組の御子息様、私の前身は、あられもない女|掏摸《すり》。それだけでも、きっと、お嫌《いや》なのは分っております。けれど、お綱は、あなたがなくては、生きておられぬ女なのでございます」
「――その心もちは――」
と、かすかにいって、弦之丞は、眼がしらの露を払った。
「お分りなされて下さいましたか」
「――分ってはいるが……ああ」
いかにも苦痛な一句。無表情にみえる姿、冷徹にみえる眸、その奥には、麻のごとく、かき乱れているものがある。でなければ、なんで弦之丞の睫毛《まつげ》にあの涙がういてこよう。
かれも、お綱の心情を、よく知っていたのではあるまいか。しかし、江戸表には、いちど誓った愛人のお千絵が残っている。弦之丞としては、そのお千絵をまだまったくの廃人とは思っていない。いや、狂気して、ふたたび癒《い》えぬ人であればある程、それを昨日《きのう》の人にして、お綱の恋を、今すぐにうけいれる気にはなれないであろう。
「では……」と、息の弾《はず》むのを隠して、お綱は弦之丞の側へヒタと寄りついた。もう、羞恥《しゆうち》というようなものを超《こ》えた懸命である。
「――あなたを思い詰めている私の心、それは、わかっていると、おっしゃるのでございますか」
男の手を握りしめて、お綱の美《うる》わしい眸が燃え迫っていった。なんという純情な眼だろう、強い魅惑だろう、若い、ことに多感な、弦之丞の血をおののかさずにはいない力だ。
かれの手は、あやうく、何ものも忘れて、お綱のしなやかな体を抱こうとした。一瞬の煩悩《ぼんのう》が、くらくらとするばかり、黒い炎をあげてかれの情血をかき乱した。
「わかってはいます。――だが」
「だが? ……なんでござんす」お綱の手は汗に粘《ねば》って、もがれても、離そうとはしなかった。弦之丞は悩ましい肉感に怖れた。彼の武士的な理性も、強い髪の香りと、弱い女の哀訴に、息づまりそうだった。
「――わかってはいるが、私はお嫌いなのでございましょう……弦之丞様、ほんとのことをいって下さい、どうか、ほんとのことを」
女は真剣である。必死である。男は恋を生活の一部とするが、女はそれが全生命であるという――恋を観《み》る人の言葉のとおりに。
だが? ……といい濁した弦之丞の理性も、こう必死に迫ってきたお綱の前には、しどろになって、懊悩《おうのう》の息をついた。
「ほんとのことを! 弦之丞様」
「…………」
「ほんとのことを、聞かせて下さい。お嫌ならば、お嫌と」
もうお綱の目に涙はない。生死の境に立つような、森厳《しんげん》な覚悟をもって、こう問いつめる。五体には、ただ恋の血が高い脈を打っているばかりだ。
弦之丞は答えに窮した。こうまでの真心をささげてくる女性に、一時のがれの嘘をいうことは、気がすまない。いや、かれの心の奥を割ってみれば、かれの心も、決してお綱を忌《いと》ってはいないのだ。むしろ、弦之丞もいつかお綱を好もしくさえ思っている。
まして、いじらしい、熱感《ねつかん》な涙を流されれば、かれの若い心も知らず知らずに、恋のるつぼに溶かされてくるのが当然だ。けれど、お綱に恋をし、お綱の恋をうけいれていいかどうか、その思判力《しはんりよく》を失わないだけが、弦之丞の無表情に見える内悶《ないもん》の苦しさであり、お綱には、歯《は》がゆい悶《もだ》えであった。
「思い違いをしてはならぬ。この弦之丞は、決してそちを忌《いと》うてはいない」
かれは、遂に、こういってしまった。
「おお!」ふるえついて――「それは、真実《しんじつ》でございますか」
「真実、わしはそなたを、憎めない」
「う、うれしゅうございます……」
ザブリと、船と苫《とま》とが揺すぶれた。
真っ青な川面《かわづら》を、まぐれ波が一条《ひとすじ》白くよれてゆく。そして、後に風の音があった。
「しかし、お綱、わたしの言葉もきいてくれ」
「はい……」
お綱は、やさしく男の手にもたれた。
いつか弦之丞は、そのふところへ恋すまじき女を抱えていることには気づかず、つとめて、たぎる血をしずめようとした。
「――そなたの心を話されてから打け明けるは、つらい事情であるが、わしには遠い以前から、誓いをした仲の女性《によしよう》がある」
「あ……」お綱は不意に、胸へ氷をあてられたように、
「それをおっしゃって下さいますな……そ、その人の名を聞かされれば、私はすぐにも、あなたの側を去らなければなりませぬ」
「では、そなたそれを、知っているか」
お綱は返辞をせずに、激しい痙攣《けいれん》を起こして、またすすり泣きに泣いていた。
弦之丞とお千絵様との仲は、きょうまで、万吉もかれも、決してお綱に話してなかったことだが、怜悧《れいり》なお綱は、墨屋敷《すみやしき》以来の事情を綜合して、明らかに、心のうちで、それと察していたのである。
「弦之丞様、なんで、お綱がそれを知らないでおりましょう。思うお人に向っては、女は、怖ろしいほど細《こまか》い心を配っております。けれど、義理の妹の恋を奪って、それで、私ひとりが倖《しあわ》せになろうなどとは夢にも思やしませんの。ただ、私の恋はある時期まで……。ある時期までの、その、間だけなんでございます……」
嗚咽《おえつ》しながら、常々心にわだかまっていた悩みを、いっぺんにぶちまけた。
「――時節というのも、ほんのわずか。あなたと一緒に阿波へまいって、首尾よく、目的を遂げるまで――。その道づれの間だけ、どうか、お綱のはかない恋を、あなたも妹もゆるして下さい……。そして、その日が来ましたら、私はすべてを忘れましょう。義理の妹に倖せをゆずって、自分ひとりの身をどうなとします……。仲にはさまった身にとれば、ずいぶん無理なと思うでしょうが、あなたが妹と約束のあるお方とは、夢にも、知、知らなかったお綱ですもの……」
思わずむせばす声が、愁々《しゆうしゆう》として腸《はらわた》を掻きむしるように、小舟の内からあたりの闇へ洩れて行った。
するとその時、声を探りながら雑草を払って、ばらばらと水ぎわへ降りてきた六、七人の黒い影。
「それッ、苫《とま》をはねろ!」というと、一人の侍、繋綱《もやい》を取って舟を引寄せ、あとは各《めいめい》、嵐のように、狭い舳《みよし》へ躍り込んだ。
さては、阿波の原士《はらし》!
天堂一角か、お十夜か。
もちの木坂の手なみにもこりず、またもここへ来てうせたな――と、刹那に弦之丞は直覚して、胴の間《ま》の隅に身をかがめ、お綱の体をうしろへかばった。
理不尽《りふじん》にも、土足のまま、小舟の中へおどり込んできた者たちは、たちまち、苫《とま》をはねて、川の中へ蹴散《けち》らかし、
「お改めだ」
「神妙にしろ!」
飛び寄った一人、弦之丞の片手を取り、ズルズルと前へ引きずりだそうとすると、足をすくわれたか、その影が、猫回《ねこがえ》りに、舟縁《ふなべり》を越えて、時ならぬ水音、ザアーッと、一面の飛沫《しぶき》に、川面《かわも》を夕立のようにさせた。
「やっ!」
ひるみ立つ影がいっせいに端へよると、船は中心を失って、覆《くつがえ》りそうに水を噛んだ。
「手ッ、手むかいいたすか!」
鋭い声を放った者の拳《こぶし》に、キラリと光ったのは、銀みがきの十手――「東奉行所」と印《しる》した提灯《ちようちん》の明りと共に、ズイと迫って、弦之丞の眼を射た。
「オオ? ……」
唐突の驚きと、常に、それと心を措《お》く思い違いで、ひとりふたりの者を投げたが、さては、阿波の侍ではなかったかと、弦之丞、少し居ずまいをなおしながら、
「これは、東奉行所の御人数でござったか」
というと、先はいっそう力味《りきみ》を入れて、
「きくまでもないこと。これが見えぬか!」
「しかし、それにしては腑《ふ》に落ちぬ御作法、上役人《かみやくにん》ともある方々が、なんで、吾らの繋《くく》り舟へ、会釈もなく踏みこみ召された」
得て、お上の者という面《つら》へ、よい程な扱《あしら》いをして見せると、ツケ上がりたがるものなので、ひとまずさかねじをくれてゆくと、
「こいつ、ひと筋縄ではゆかない奴だ」
と、舌打ちを鳴らした奉行同心、
「面倒くさい、現場は見届けたのだから、構わずにショッぴいてゆけ」
目配《めくば》せをして、自分は先に、ヒラリと陸《おか》へ身を交わすと、残された配下の者が、いちどにかぶって、弦之丞とお綱の手をねじあげ――、
「とにかく立てッ!」と、ののしった。
「どこへ?」
腹立たしげに反問すると、
「知れたこッた、東奉行所までまいれというのだ」
「不思議なことを申される。なんで拙者が、東奉行所へ行かねばならぬか」
「四の五の申すな、立て立て」
「イヤ、立たぬ」
「なにッ」
険《けわ》しい目が、いちどに爛《らん》として弦之丞の身に集まる。
「すなおにせぬと、貴様の不為になるばかりだぞ。現場を見られた以上は、言いのがれはなるまい。また、いうことがあるなら、奉行所へ来てほざけ」
「いよいよ心得ぬことを。現場とは何を指していうのか、とんとこのほうには思い寄りがない」
「エエ、太々《ふてぶて》しく白《しら》を切る浪人だ。女はあのように怖れ入っているのに、思い寄りがないとは、人をばかにした奴」
何をいっても耳をかさずに、両手を取って手先の者は、お綱と弦之丞をムリ無態《むたい》に舟から揚げて、東奉行所へ引っ立てて行こうとする。
たかが七人や八人の手先、斬って払うになんの手間暇は欠かぬであろうが、阿波以外の奉行所から、つけ狙《ねら》われる覚えのない彼であれば、こんないささかの間違いごとに、夕雲流をふりかざすのも無用な殺生であるし、また、はなはだおとなげない。ならばできうる限り、尋常に話しあって、どういう誤解か溶《と》けあってみたい。
こうした場合に、非礼を咎《とが》めあったり、いたずらに反抗するのは、愚であると悟ったので、弦之丞は、かれらのなすがままに、土橋の袂《たもと》まで曳かれてきたが、そこで、
「もう一応お伺いいたすが」
と、手先の中でも、物の分りそうな、同心を顧みて、静かにいった。
「なんじゃ」
「奉行所へまいれとあらば、決して拒みはいたさぬが、われら、夜盗にもあらず、また兇状持《きようじようも》ちでもござらぬ。どういう理由でお引き立てなさるか、その儀だけを承知いたしたい」
「売女《ばいた》の狩立てじゃ」
「えっ、売女の?」
「みれば、貴公も武家ではないか。それくらいなことは、自分でも分っているであろう。身分を隠してくれとか、見遁《みのが》してくれとか、神妙に詫びるならとにかく、手先の者を投げこんだり、吾々の改めに楯《たて》つく口ぶり」
「しばらく」あわててそれをさえぎりながら、
「これはいよいよ解《げ》せぬお言葉。売女とは、何の意味――イヤ誰をさして仰せられるか」
「いわずと知れている、その女じゃ」
と、したり顔の同心が、お綱の姿を指さしたので、弦之丞はあまり笑止な上役人《かみやくにん》の勘違いに、笑うまいとしても笑わずにはいられなかった。
「何がおかしい」
とまた、一同が尖《とが》り立つのを制して、じっとふたりの姿を見くらべていた同心が、ははア、これは間違いかな? とやや気がついたらしく、
「近頃、岡場所のお取締りがきびしいため、大阪の川筋に苫舟《とまぶね》をうかべ、江戸の船饅頭《ふなまんじゆう》やお千代舟などにならった密《かくし》売女《ばいた》が、おびただしい殖《ふ》え方《かた》をいたしおる。それゆえに手を分けて、毎夜、川すじの怪しい舟をあらためているのじゃが、只今、この土橋《どばし》のほとりへまいったところ、下の小舟の苫《とま》のうちで、甘やかな、女の密《さざ》め語《ごと》が洩れる……」
「あ、なるほど」
苦笑しながらも、うなずかざるを得なかった。
「それで、一途《いちず》に、舟《ふな》売女《ばいた》と思われましたか」
「場所がらといい、舟のうち。そう思うのが当然でござる」
「いかにも、当然なお話である。しかし、それはまたお間違いでもあった。素姓は申しかねるが、吾々は江戸表の者、仔細あって大府《たいふ》の御秘命をうけ、某地へ志す途中、さる藩邸の目を避けるために、わざと苫舟に身を潜《ひそ》めております。決して、浮かれ遊びに夜を更《ふ》かす者でないこと、また、この女が、さような闇の花でないことは、化粧のさま、髪の容《かたち》、なお、つつまれぬものは人の品位《ひんい》というもの、それをよくよくごらんあれば、くどく申すまでもなく、おのずからお疑いはとけるでござろう」と、明白にいって聞かせると、さすがウトい役人の頭にも、大いにうなずけるところがあったらしいが、こういう時に、分りきっていながらも、すぐにウンということはすこぶる彼らの尊厳《そんげん》が忌《い》み嫌うことであって、
「では、何ぞ、証拠をお持ちか」と、ケチな面目を頑執《がんしゆう》してくる。
「明らさまにこう申す態度こそ、何よりの証拠でござる」
「それだけでは困る……ウム、して、あの過書舟《かしよぶね》は、どこで手に入れてまいったな」
「連れの万吉という者が、京橋南|詰《づめ》の鯉屋《こいや》と申す船宿から借りうけましたもの」
「では、そこへ一緒に行って貰いたい」
「拙者ひとりでよろしかろうな」
「いや、そのお女中も」
お女中といいなおすほどに、誤解であったことが分っているのに、事面倒な言い草と思ったが、奉行所へゆくよりは幾分かましである、と思いなおして、ふたりは、そこから京橋口まで、思いがけないムダな道を歩くことになった。
それも、計らぬ災難であったが、ここに、なお重大な異変に遭遇したのは、ふたりの舟をはずして、久しぶりに、自分の家を覗《のぞ》きに帰った天満《てんま》の万吉。
待ちわびているであろうお吉《きち》の笑くぼが、かれの目先にもうれしくチラついて、墓谷《はかだに》から寺町横の道の暗さも苦にならなかったが、とうとう万吉、その夜、おのれに伏せられてあったわなの壺《つぼ》に、まんまと足をかけてしまった。
禍《わざわ》いはいつも幸福の仮面《めん》をかぶって待っている。
疾風《しつぷう》
その後、安治川《あじがわ》屋敷にとぐろを巻いていた天堂、お十夜、旅川の三名は、何らの急報を得てか、十数名の原士をひきつれ、押《お》ッとり刀で桃谷《ももだに》へ駈け向った。
かねて、弦之丞の居所を知る唯一の手がかりとして、人をもって万吉の留守宅を見張らせておいたところ、その万吉が今宵こッそりと帰ってきて、中二階のかぼそき灯《ともし》にお吉と声をひそませているという――早耳。
急げばとて安治川|尻《じり》から、三郷《さんごう》東端《はず》れの桃谷村、やや一|刻《とき》はかかったろう。横堀を越えて寺町の区域をぬけると、もう大阪らしい町家の賑わいは影を滅して、幾万坪ともない闇に、数えるほどな遠い灯《あか》り。
細い二日の月は足元の頼りともならず、所々の古沼や水溜《たま》りが、ただそれと知られるくらい。このあたりに多い瓦焼きの土採《つちと》り場や植木屋の花畑など、どこという嫌《きら》いなく突っ切って、やがて、目ざす家の裏手から、灯かげの洩れる中二階の気配をうかがいすます。
裏の水口も表の戸も、固くとざしてあって、節穴から覗《のぞ》いてみても、万吉の穿物《はきもの》まで用意ぶかく隠してあった。けれど、耳を澄ませば、きわめてかすかな話し声が中二階でしていることはたしかである。
「いるな」
「いる」
「では……」
目と目が険《けわ》しくうなずきあう。
シトシトとその人数、遠く離れてしまったきり、あとはあたりにその影を見せない。
ややしばらくたつと、中二階から行燈《あんどん》をさげて、お吉が階下《した》へ降りてきた。
土間へ降りて、細目に戸を開けた。
そッと顔だけ出して、かれがあたりを見廻した時も、どこにも怪しい人影も気配もない。
「――じゃお前さん、またこれぎりで、当分は別れ別れでございますね」
土間へ穿物《はきもの》をそろえる時、お吉の胸に、ひしと、淋しさが迫った。
「ああよ」
万吉は、わざと、銭湯へでも行くように口軽く、
「しばらくは帰らねえ」
「ずいぶん、体だけは、達者にして下さいね」
「心配《しんぺえ》するなってことよ。それよりゃ、てめえの頭痛もちでも癒《なお》すがいい、灸《きゆう》でもすえてな」
「はい」
「じゃ、頼むぜ、留守を」
「あ……あなた」
「忘れ物か」
「…………」
「ばかッ」
「…………」
「泣くねい! 縁起でもねえ」
「わ、悪うございました。ツイ」
「笑ってくれ、頼むからよ。笑っておれを出してくんな。お――、弦之丞様が待っておいでなさるだろう」
戸を開けて出ると、ふりかえりもせずに、万吉は、また猫間川《ねこまがわ》の岸へ急いで行った。
そして、ふたりが待っている筈の所へ来てみると、そこには、船も繋綱《もや》ってなければ、お綱と弦之丞の姿も一向見あたらない。
「どこへ行ってしまったんだろう。あれ程、ここを動かずに、待っていてくれといったのに」
土橋の上に立って、腕《うで》ぐみをした。
ふと、妙だな? と思って見たのは、葭《よし》の間に投げ散らされてある苫《とま》の莚《むしろ》――そして、その時初めて気がつくと、綱を解かれた捨小舟《すておぶね》が、ゆるい猫間川の水に押されて、はるかの下《しも》へ流されてゆく。
だが万吉は、それが主《ぬし》なく漂《ただよ》って行くものとは思えないので、見つけるとすぐに口へ手を当てて、
「弦之丞様ア」
と呼んでみた。
「おうッ」
と、うしろで、返辞があった。あッと驚いてふりかえると、抜刀《ぬきみ》を持った天堂と旅川が、いきなり目前へ跳《と》びかかってきた。
「野郎ッ」
と叫んで、天満《てんま》の万吉、土橋の欄干を飛び離れたが、その一方には、眼《まなこ》を爛《らん》とかがやかして身を屈している者がある。
かれの姿が躍るやいな、待ちかまえていた柄《つか》の手は鞘《さや》を離れて、横に走ったそぼろ助広、ザッと、万吉の腰車《こしぐるま》を斬った。
「ううッ……」と一声。
人間断末の呻《うめ》きをすごくあげて、爪先立った万吉の体は、キリキリと弦《つる》に締められてゆく弓のように空《くう》をつかんで後《うし》ろへそる――。
そして、したたかに腰へ食い入った助広の手元へ引かれて、ドーンと、土橋の上へ仰向けにぶッ仆れた。
「斬《や》ッたな!」
と、面《おもて》を衝《つ》いてくる血の香に身をかがめながら、こう賞《ほ》めたのは周馬である。黒々とあなたに潜《ひそ》んでいた原士と一緒に、命脈の名残をピクリ、ピクリ、とふるわせている万吉の影をジッとみつめた。
「……ひと太刀だ……」とお十夜は、胸がすいたように、また、その快味の消逸《しよういつ》を惜しむように、斬った刹那の構えをくずさず、白い刃の肌にギラつく脂《あぶら》と、のた打つ影とを等分に眺めながら、ニイ……と唇《くち》をゆがめて笑う。
と――もう天堂一角の方は、それには一顧のいとまも与えず、抜刀《ぬきみ》をあげて川下《かわしも》を指し、
「あれだ!」と叫んで走りだした。
「あの小舟を追え、あの小舟を! あれにはたしかに弦之丞が隠れている」
「ウウ、なるほど」
周馬もつりこまれて、橋上にあたふたした。
そこから見ると、今|仆《たお》れる刹那の前に万吉が、弦之丞様ア――と呼んだ小舟の影、見るまに遠くうねうねと、流れに乗って下ってゆく。
「おお、弦之丞だ、弦之丞だ。お十夜、早くせい」
「あれが? よしッ」
とどめのかわりに周馬とお十夜がまたひと太刀ずつ万吉へ滅茶《めちや》うちを浴びせた。どこをかすったか、周馬の刀はピクリとしたかれの満顔を紅《くれない》にしてすてて行った。
「ばかッ。舟の者を追うのに、みんな片岸へばかり駈け出していってどうするんだ」
とお十夜は、一角の尻尾《しつぽ》について、同じ川岸へ向った周馬をののしりながら、自分は、原士の四、五人を拉《らつ》して反対の向う岸へ廻った。
で――一陣の黒風《こくふう》は、橋上からふたつに別れ、広からぬ猫間川を中にはさんで水の行方に添って疾走する。
「あれだ、あれへゆく船だぞ」
「逃がすなよ」
「見のがすな! 今夜こそは」
向う河岸《がし》とこっち河岸《がし》。
声をかけあわせながら韋駄天《いだてん》と宙《ちゆう》を飛ぶ。
駈けるほどに、行くほどに、たちまち小舟に近づいた。けれど――見れば小舟に棹《さお》を取る者はなく、たたみあわせた胴の間《ま》の苫《とま》も、半ばむしり取られている狼藉《ろうぜき》さ。
だが最前、万吉が声をあげて呼んだのに早合点して、てっきりこの舟にいるものと思い込んできた面々は、それでもそれが、主《ぬし》なき空船《からぶね》とは受け取れなかった。近づけば近づく程、敵が舟底に身を伏せているものと、疑心はさらに暗鬼を生んで、汀《なぎさ》へ寄るとも躍りこむ者はなく、出ろ、自滅しろ、姿を出せ、と両岸から、空声《からごえ》ばかりで影を追う。
血眼な数多《あまた》の人間どもと、振りかざす白刃を揶揄《やゆ》して、すこぶる皮肉きわまるものは、人なく水に流れてゆくその空舟――。
「ええ、意気地なしめッ」
先に首尾よく万吉を斃《たお》したお十夜は、その気勢に乗って、舟が岸近く流れよった所を狙って、向う見ずに単身《たんしん》ポンと身を躍らした。
そして、茫然としたことは、いうまでもない。
心なきものに、からかわれたと知って、腹立ちまぎれに、そこらの物を、手当り次第に河底へほうりこみ、揚句《あげく》にそれを渡し舟に利用して、両岸の人数が一ツ所へ集まったのは、この夜、なぶり斬りに逢った万吉の悲劇と対比して、お話にならない、一場の笑劇。
自然の冷蔑《れいべつ》にどやされて、眼がさめてみると、今さらのように、ものものしい引ッさげ刀も、急に気恥かしくなったか、銘々《めいめい》、ひとまず光り物を鞘《さや》におさめて、猫間堤のかげへ寄った。
で――がっかりした拍子抜けが一致して、誰からともなく、夜露をおぼえる土手草の上へ、ごろごろと転がりだし、ムダに疲れた足を東西南北に向けあっていると――、
「もし……助けてやっておくんなさい」
あわれな声をだして、露ッぽい雑草の中からかまきりみたいに、ゴソゴソと匐《は》いだしてくる男がある。
「なんだ、こいつは?」
と思う好奇心が、むくむくと一同の膝を起こして、草むらの間から匐《は》ってくる男を見ていた。
すると、天堂一角が、いきなり、前に足を投げだしているひとりの原士《はらし》をまたいで、その男の側へすすみ、穢《むさ》いものでもつまむように、グイと襟《えり》がみを引き起こした。
「こりゃ」
「へい」
「貴様は、お国元にいる、森啓之助の仲間《ちゆうげん》ではないか」
「あ。よくご存じで……」
「宅助《たくすけ》だな」
「左様でございます、じゃ、あなた様も阿波の……」と、怖る怖る見あげたが、びっくりしたように手をふるわせて、
「やあ、天堂様でございましたか」
「どうした態《ざま》だ。また悪いことでもしおって、啓之助の屋敷から追ン出されでもしたのか」
「情けないことをおっしゃいます。世の中に宅助ほど、御主人へ忠義な者はないつもりで……。ハイ、まったく私は御奉公のためにこうなりました。忠義というのもやり過ぎるのは善《よ》し悪《あ》しで――どうか、助けてやっておくんなさい」
いかにも、物乞いじみている調子に、向うで眺めている者も一角も、思わず苦笑いを洩らしたが、宅助は必死だった。
「嘘ではございません、天堂様」
「嘘とは思わんが、どういう事情《わけ》じゃ」
「ひと口に申しますと、実はその、ただし、これは内緒でございますが」
「かまわん、啓之助のことなら、秘密を守ってやるから、話してみろ」
「昨年、殿様がお帰りの時に、啓之助様がソッと、ある女を、脇船の底へ隠して、お国表へ、持って帰りました。イエ、連れて帰りましたんで」
「ふん……そして?」
「ところが、そのお妾《めかけ》が、旦那の甘いのにツケ上がって、すッかりやんちゃになりやした。今考えると、半分はふてくされていやがったんで、なんでも、一度は大阪へ帰してくれ、とこういってききません」
「ははあ。すると、その女と申すのは、川長の娘ではないか」
「旦那も、ご承知でいらっしゃいますか」
「大阪|詰《づめ》でいた頃には、足繁く、啓之助が通ったものだ」
「それじゃスッカリ申し上げます。お察しの通り、女はそのお米《よね》なんで」
「で、大阪へやってきたのか」
「わっしはお妾の鬼目付《おにめつけ》で、一緒についてまいりました。ところが旦那、太《ふて》え女もあるもんで、この人のいい宅助に鼠薬《ねずみぐすり》を舐《な》めさせやがって、プイと、途中で姿を隠してしまいました」
「それは、無理もない話だ」
「ですが、それじゃ宅助が、旦那へ顔向けがなりません。それに、毒を呑ませやがったのも業腹《ごうはら》なんで、実は、お恥かしい話ですが、小遣銭《こづかいせん》も空ッぽのため、この二日ほどは食わず飲まずで、お米のやつを、探し歩いておりました。――すると、悪い時にゃ悪いことが重なるもんで、今日はやっとこの近くで、四国屋の御寮人様に逢い、いくらか、当座のお小遣いにありついたと思うと、そこへ、ぶらりと来た奴が、……エエト……そうだ、法月弦之丞という、いつか大津の時雨《しぐれ》堂《どう》に潜《もぐ》っていた虚無僧なんで」
「なに、弦之丞に逢った?」
おうむ返しにいって、向うの土手にゴロついていた者が、いっせいに起き上がって来たから、宅助は尻込《しりご》みして、あとの言葉を忘れ、ただ目ばかりをしばたたいている。
「どこで逢った?」
「連れはいたか」
「どんな姿で――どう向ってまいった?」
八方から矢のような質問が降るので、これでは当人も答えられまいと、一同の言葉をとめて、お十夜と周馬だけが側へしゃがみながら、
「嘘や人違いではあるまいな」と駄目を押した。
「たしかに、弦之丞でございました」
「して、それから、いかがいたした」
「さあ、その後に、また大変なことがあるんでございますが……アアいけねえ、なにしろ旦那、腹が空《す》きぬいているもんですから、胃袋がクウクウ泣いて、もう、これ以上は、お話ができません」
「意気地のないことをいうな……どうした、それから」
「駄目です、ああ、もう一口ものをいっても目が廻りそうだ」
「しようのない奴じゃ」と、一角も、ぜひなく引っつかんでいた襟《えり》がみを離して、周囲の者を見廻しながら、
「誰か、何ぞ、こいつにくれる、食い物をお持ちあわせはないか」
と訊《たず》ねると、原士の中のひとりが、
「短銃の火薬は用意してまいったが、あいにくと、食い物の用意はござらん」
と答えた。
みんなは笑ったが、宅助の胃袋は涙をながした。
芍薬《しやくやく》の駕《かご》
源内の誰に縫《ぬ》わせし袷《あわせ》かな
その晩、真言坂《しんごんざか》の上の、俳諧師《はいかいし》荷亭《かてい》の宅では運座《うんざ》があった。
高津《こうづ》の宮の森が見える閑素な八畳間に、四、五人の客が、ささやかな集まりをして、めいめいが筆墨を前にし、しずかに句を作っていた。
みんな、口もきかずに、苦吟《くぎん》している。
障子紙を細く裁《た》って、短冊《たんざく》に代えた紙きれへ、誰かが、こんな句を、いたずらに書く。いたずらにふと書いた句だが、ひとりで黙笑しているのも惜しく、黙って隣の者へ示すと、その人も、黙笑して、興がった。
見ると向うに、平賀源内がいる。細い顎《あご》へ片手をかって、自分が句に作られているのは知らずに、しきりに短冊を睨んでいた。
まだ独身で、九条村の百姓家に間借りをしている医書生で、夏は唐人扇子《とうじんせんす》をパチつかせ、冬はぼろ隠しの十徳を着て、飄々乎《ひようひようこ》としている源内が、仕立ておろしの初袷《はつあわせ》をつけて、いつになくこざっぱりしていたのは、季題はずれのように衆目をひいた。けれど、のちには、この一介の医生が、世間の好奇心をしきりにあおって、鴻《こう》の池《いけ》や大名屋敷へ取り入って、花柳界へ源内櫛《げんないぐし》を流行《はや》らせてみせたり、物産会をやり舶載物《はくさいもの》の売りひろめを試みたりなどして、おそろしい金持になった。
そこで、「源内は俳句よりも金儲けのほうがうまい」と、のちには人がいったものだが、まだ、そうならない時代のかれは、運座へ来ても器用な句を作って、俳諧なんて、造作《ぞうさ》もないもんだ……というような顔をしていた。
で……さっきのいたずら詠《よみ》の句屑《くくず》が、どうかした拍子に、自分のほうへ飛んできたのに気がついて、ふと、その句を読むと、
「やあ、これはひどい」
と、磊落《らいらく》に笑った。
そして、上《かみ》五だけを書きかけていた短冊を下へ置いて、
「この源内にだって、親切を運ぶ女が、ひとりや半分ぐらい、ないことはありません。今の句は、ちとひど過ぎる」
と、味噌せんべいを一枚とって番茶を注《つ》ぎながら食べはじめた。
「そうですとも」
柳絮《りゆうじよ》という新地の芸妓屋《げいこや》の主《あるじ》が、相槌《あいづち》を打った。
「お医者さんですからな、役得《やくとく》というものがありましょうさ。若い美人が診《み》て貰いに来たら、そこで、ほら、あとは源内流に、いわずもがなのことになるんで……」
「は、は、は。なおいけない」
と源内は、みんなと一緒に、しばらく諧謔《かいぎやく》を交《か》わしていたが、今の言葉の端から、かれはフイとお米の姿を思い浮かべていた。
実は今夜――かれがこの運座へ誘われて、九条村を出てこようとすると、その途中で、久しく姿を見なかった、川長のお米に出逢った。
女中も連れずに、九条の渡船《わたし》のほとりを、しょんぼりと歩いてきた。
――先生、血を吐きました。
とお米は細い声でいった。そして、
――わたし、どうしても、まだ死にたくはありません。それで、またお薬をいただきたいと思って訪ねてきたんですけれど……。
源内は、そこから戻っては、句会へ遅くなるし、急病ではないことと思って、明日《あした》なら宅におります、といって別れてしまった。
そのお米の姿を目に描《えが》いた。
非常に好い句想をとらえたように、かれは、にわかにまた筆と短冊を取りあげて、それへ、
癆咳《ろうがい》の――
と五文字だけを書いてみたが、こう冠《かぶ》せてしまうと、どうも、陰惨な連想ばかりが湧いて、自分でも、俳味に遠い不快をおぼえたらしく、ベタベタと塗り消して、短冊を丸めてしまった。
そして、ただちに次の紙へ、
やがて死ぬ――
と書きなおして、下の句を考えていると、そこへ、筍飯《たけのこめし》にすまし汁をそえた、遅い夜食が運ばれてくる。癆咳の女の姿と、食慾をそそる筍飯の香りを、頭の中に錯綜《さくそう》させながら、源内はサラサラと後をつけた。
やがて死ぬ病美《やまいうつく》し衣《ころも》がえ
これでいいと、ひとりで読みなおして、ひとりで悦《えつ》に入《い》っていた。
運座の帰りは遅いものときまっているが、その晩も例に洩れないで、源内や四、五人の俳友たちが、真言坂《しんごんざか》をだらだらと降りてきたのは、かなり夜更《よふ》けであった。
源内と柳絮《りゆうじよ》とは、荷亭《かてい》の宅できって貰った芍薬《しやくやく》の花をブラさげていた。
その中で、狂風《きようふう》という男は、蔵屋敷へ勤める遊蕩家《ゆうとうか》で、これからまだ明るい街へ行って、たっぷりと夜を更《ふ》かすつもりでいる。まじめなのは黙蛙堂《もくあどう》、猫間川の近くに住んでいる彫刻師だが、遊蕩家の狂風が、今頃からあんなほうへ帰ると辻斬りに逢うぞ、おれと一緒に来たまえ――と誘惑するのをていねいに断って、家内がやかましゅうございますから、とお先にスタスタと失礼して行った。
「あんなのはないね」
と狂風は面白がった。
高津の宮の鳥居を出ると、坂下に、駕鉄《かごてつ》という油障子が灯《とも》っている。もう自分だけ浮かれ機嫌になっている狂風が、
「三|挺《ちよう》! 三挺!」
と叩《たた》き起こした。
「駕ですか。駕ですか」
と、わらじばきのまま、うたた寝をしていた駕かきが、土間の葭簀《よしず》をめくって飛びだしてくると、
「舟はあるまい」
と、またからかった。
「どちらへ」
「三人別々だよ」
源内は貰ってきた芍薬《しやくやく》のきり花を駕の屋根へ乗せて、
「わしは、九条村へやって貰う」
糸しんの蝋燭《ろうそく》が、駕の棒鼻へブラさがると、三ツの提灯《ちようちん》が黄色い明りを浮かして、一、二町ほどひとつ道を流れだしたが、そのうちに、四ツ辻から、三方へ別れ別れになって行く。
夜更《よふ》けの駕ほど快いものはない。
雑音もなく埃《ほこり》も立たない大通りを、揺られながらウットリともたれて、ズンズン流れてゆく地の上を細目に見ていると、駕屋の足音も一種の諧調《かいちよう》をもって気持よく聞こえる。
四ツ手駕《でかご》月の都をさして駈け
柳樽《やなぎだる》にこんな句があったことを源内は思い出していた。
「旦那」
走りながら後棒《あとぼう》がいった。
「なんだ?」
「時鳥《ほととぎす》が啼《な》きやしたぜ」
「うむ……」
時鳥は九条村でも珍らしくないから、ツイそっけない返辞をしたが、武骨な駕屋が、せっかく教えてくれた風流心に対して、悪かったような気がする。
それから、ほととぎす、ほととぎす、と考えるともなく句を練っていると――やがてのこと。
後ろのほうから、何者かが声を張りあげて、
「おおーい、おウい、その駕――」
呼んでは駈け、呼んでは駈けてくる者がある。
「なんだい、後棒」
「いけねえ、変なやつが飛んできやがる」
どうせ、時鳥を教えたくらいな駕屋だから、善良で弱いのにはきまっている。少し、足なみが揃わなくなった。
「旦那、どうしましょう」
「ちょっと、駕を降ろしてごらん」
「だって」
「なに、聞き覚えのある声なのだから」
まごまごしている間《ま》に、後《うし》ろの者は、宙を飛ぶように駈けてきて、源内の姿を見るより、息をぜいぜいいわせながら、言葉は半分、手ばかり振って、こういった。
「先生……先生。は、早く、その駕のまんま、後《あと》へ帰って下さい、後――へ。急がないと、とてもだめです。なにしろ、めちゃめちゃにやられているんで、血が、血が……」
誰かと思うと、先に別れていった黙蛙堂《もくあどう》。
どんな大変に遭遇したのか、わけも呑みこめないうちに、独り合点をして、またもと来たほうへ駈け戻った。
わけを糺《ただ》している暇もない急《せ》き方なので、源内は、とにかく駕を回《かえ》して、先へ急いでゆく黙蛙堂《もくあどう》について行った。
高津の前を越えても、まだ走り続けるので、いったいどこまで行くのかと思っていると、龍珠院《りゆうじゆいん》の外をすぎてやがて一面の草原。
野中の観音と、産湯清水《うぶゆしみず》の別れ道を東へとって来た様子だが、なおも止まろうとはしない。
この平地へ出てから、低く傾いた二日の月が、ほのかに照らしていることに気がついた。そして、駕の中から野末《のずえ》をすかしてみると、すぐそこに、一条の流れが、銀流のように見える。
源内は驚いたさまで、
「猫間川じゃないか、ここは?」
と訊ねたが、黙蛙堂は耳に入らないで、駕屋が、
「小橋《おばせ》と玉造村《たまつくりむら》の間です」と答えた。
「おい、おい、黙蛙堂さん、いったいどこまで行くのだい?」と、源内が、たまらなくなってこう叫ぶと、黙蛙堂は、やっとその川べりの、土橋の袂《たもと》に立ち止まって、
「こ、ここでいいんです」
と息をはずませた。
駕を降りてみると、源内すぐにその傍《かたわ》らに仆れている男の影が目についた。
「や、斬られている」
駕屋は、草鞋《わらじ》の底へ粘《ねば》った血を、気味悪そうにすかしている。
「わしを呼び回《かえ》しに来る前に、お前さんが血止めをしておいたかね」
「なんしろ、ここまで来ると、この人が仆れていたんで、どうしていいか分りませんでしたが、袖や帯を引っ裂《さ》いて、血の出る所だけはギリギリ縛《しば》っておきましたので」
「そうか。どれ」
と、源内は、もうよけいな事情などを聞いていなかった。両肌《りようはだ》を脱いで帯のうしろへたくし上げ、抱きつくように寄って、血まみれな怪我《けが》人の傷を診《み》にかかった。
「あ……オオ」
そのとたんに、胆《きも》を潰《つぶ》したような声を出したので、黙蛙堂もハッとしてどもりながら小腰をかがめ、
「ど、どうしました?」
と、覗《のぞ》きこむ。
「これは、わしの知っている者で、天満の万吉という男」
「えッ、ご存じの方ですって」
「先頃、木曾の旅先で、会ったばかりだが……どうしたということだ。ア……やっぱり阿波の」
思わず、ぶるッと、胴ぶるいが出そうになったが、口をつぐんで、懸命に手当てをはじめた。
「まだ、息が、ございますか」
「ない!」
「じゃあ、もう駄目なんで?」
「そうともいえない」
「水を掬《すく》ってきて、呑ませましょうか」
「とんでもないこッた」
「腰ですか、斬られているのは」
「一番の深傷《ふかで》はここだ。けれど、この深傷は大したことにはなるまい」
袂落《たもとおと》しという懐中袋から、針を出して、返辞をしながらグングンと傷口を縫って行った。
長崎じこみの技《わざ》だけあって、そのテキパキとした始末と早さには見ている者が感嘆させられる。源内はわき目もふらずに、次に、万吉の顔の血を押し拭《ぬぐ》った。
満顔朱に見えたところから推《お》して、顔面のどこかを斬られているなと思えたが、そこには太刀傷がなくて肩先の返り血だった。
そこを縫いにかかると、源内が自信のある声で、
「こりゃ、助かる!」
といいきった。
黙蛙堂はホッとして、自分が宙を飛んで源内を呼び戻してきたことが、徒労でなかったのをよろこんだ。
黙蛙堂の家は、川向うの近くなので、すぐに、万吉はそこへ運ばれた。そして、源内の懸命な手当ても、夜ッぴて、離れることがなかった。
明方に近づいた頃、かれは、かすかに意識づいた万吉の容態を見ると、もう大丈夫と見きわめをつけて、夜来の疲れもいとわずに、ゆうべの駕で、九条村へ、薬を取りに帰って行った。
萎《しぼ》んだ芍薬《しやくやく》を駕の屋根へのせて、こくり、こくり、と居眠りをしながら、朝の町を担《にな》われてきた源内は、野中の観音で、狐にでも化かされてきたかと、往来の者にふりかえられた。
起こされて、びっくりしてみると、いつか、九条村の家へ着いている。
「ホイ、ご苦労だった」
と、渋《しぶ》い目をこすりながら、柴折《しおり》を開けて中へはいると、そこには、きのう途中で帰した川長のお米が、ひとりで、ぽつねんと待っていた。
待ちくたびれていたらしいが、源内の姿を見ると、お米は、愛嬌《あいきよう》のいい顔をして、
「先生、お留守でしたが、どうせ朝のことですから、じきにお帰りであろうと思って」
「はあ」
と、源内は、だるそうに、座敷へ上がって、
「――待っておいでたのか」
「ええ、きのうもムダ足をいたしましたから」
「そうそう、昨日はとんだ失礼を」
「こんな早くから、どちらへおいででございました。先生も、なかなか隅《すみ》へおけませんのね」
「朝帰りではございません、妙に気を廻されては困る」
「でも、ずいぶん眠そうな顔じゃございませんか。ホ、ホ、ホ、ホ」
おや、この娘は、いつのまにかたいそう男に馴れてきている。すっかり、羞恥《しゆうち》というものが取れてしまって、あべこべに男のはにかみを眺めようとしている――と源内はちょっと驚いた。
すると、お米は笑ったあとで、
「まあ……」
と、大袈裟《おおげさ》に目をみはりながら後ずさって、
「血がついておりますよ、先生」
「どこに?」
と手をあげると一緒に、かれも、
「やあ、これは」と、にわかに狼狽しながら、自分の袖や裾《すそ》を撫で廻した。
「どうなすったのでございます」
「なアに。実はゆうべ、運座の帰りに手当てをしてやった男の血だよ、どうして斬られたのか、下手人も分らないが、万吉といって、少し知った男だから、捨ててもおけず、とうとう徹夜でさ、朝帰りという次第。もっとも、血は赤いから、色っぽくないことはないが、どうも、今朝ははなはだ眠い」
と、衣服を着かえて、手洗《ちようず》を使い始めた。
お米はその間に、ひとりで何か考えていたが、
「先生、その万吉というのは、もしやあの天満《てんま》にいた、目明しじゃありませんか」
「よくご存じだね」
「あ、じゃ、やっぱりその人なんですか――その万吉さんが斬り殺されたんですか」
「なに、命はわしがうけあってきたよ。しかし、かすり傷じゃないから、ちょっとやそっとでは癒《なお》らない」
聞いているうちに、お米はソワソワとして、容態を話すことや、薬のことも忘れたように、せかせかして、
「そして、その弦之丞様は、今、どこにいるのでございましょう」
「エ? 弦之丞様って、そりゃ何だい」
「ア、イイエ……あの、万吉さんのことなので」と、ひとりで言い間違えて、ボッと顔を赧《あか》める態《さま》を見つめながら、源内は、
「いる所を?」
「はい。教えて下さいませ」
「知らない」
ばかにそッけなく首を振ってしまった。
そして、さらに怪訝《けげん》そうに、なんだってこの娘が、こうソワソワとするのか、急に居所を知りたがるのか、と不思議にたえない気がした。
腑《ふ》に落ちないうちは、話さぬほうが無事だと思ったので、後はよい程に話をボカしてしまったので、お米も取りつきようがない。
薬ができると、源内は木枕を取って横になり、お米は礼をいって外へ出た。
だが、かの女《じよ》は萎《な》えかけた自分の体を、その薬で癒《い》やそうとする希望より強く、今の話が胸の底にいろいろな想像の渦《うず》を起こしていた。
万吉と弦之丞とが、一緒になって、この大阪へ来ているということは、お吉の口裏や、いつか、天堂一角が万吉の留守宅を探りに来た時の言葉でも分っている。だから、その万吉に逢いさえすれば、もう、弦之丞の居所を知ったも同じわけである。
こう考えながら、いつか、本田|堤《づつみ》の辺までくると、とある居酒屋の軒下に、一挺の駕《かご》が置いてあった。
駕の屋根に、源内も忘れ、駕屋も忘れてしまった芍薬《しやくやく》の花が、露もひからびて乗せてある。それを見るとお米は、さっきの見覚えを思いだして、
「あ、あの駕屋さんに聞けば、分るに違いない」
と、居酒屋の中を覗《のぞ》いてみた。
遠《とお》眼鏡《めがね》
表鳥居の参詣道《さんけいみち》をまッすぐに上《のぼ》って、岩船《いわふね》山の丘、高津の宮の社頭に立ってみると、浪華《なにわ》の町の甍《いらか》の上に朝の空気が澄みきって、島の内から安治川辺の帆柱の林の向うに、武庫《むこ》の山影も、行くところまで見晴らされる。
石段へかかると、女は日傘を畳《たた》み、男は菅笠《すげがさ》の紐《ひも》を解いて、清々《すがすが》しい新緑を仰いだ。参詣をすまして戻ってゆく御寮人《ごりようにん》の手には、名産の花塩《はなじお》がたいがい提《さ》げられている。
そのゆるい足音が流れてゆく石畳の道を、目に立つ自来也鞘《じらいやざや》と、十夜頭巾と、異風な総髪《そうはつ》が、大股に、肩で風を切って行った。
お供はひとり、仲間《ちゆうげん》の宅助《たくすけ》。
三人の後について、これもせかせかと石段を踏み上った。
なんのことはない、この四人だけは、真っ向《こう》に、神殿へ向って楯《たて》を突きに来たような歩き方だ。だが、上までのぼりきると、拝殿のほうには一瞥《いちべつ》も与えないで、額《ひたい》の汗を押し拭《ぬぐ》っている。神の存在を認めないのではなく、この人々には、落ちついて、神《かん》さびた気韻《きいん》に浴する余裕がないのだ――とすれ違った老人が、あきれたようにつぶやいた。
「今歩いて来た猫間川の方は、あれに見える流れだろうか」
「いや、もっと東のほうになるだろう」
「ずいぶん、歩いたな。御両所、腹は減らないか」
「うむ。だがこの辺には、何もあるまい」
「あります――」と宅助が口を入れた。
「田楽《でんがく》か」
「いいえ、湯どうふ屋というんで、高津の名物。たいがいなものはそこで休みます」
「葉桜頃になって、湯豆腐は少し感服しないな、何かほかに茶屋はないか」
「看板は湯どうふでも、木《き》の芽《め》料理、焼蛤《やきはまぐり》、ちょっと飲めるようになっております」
「まあよいわ、朝からぜいたく好みでもあるまい。どこだそこは?」
「舞台のそばでございます」
宅助のあとについて、三人は境内の湯どうふ屋へ入って行った。まだ午前《ひるまえ》だが、掛座敷にも床几《しようぎ》にも客がいっぱいだ。そこを縫って、奥の張出し、見晴らしの小座敷に席をとった。
「腸《はらわた》に沁《し》みるようだ」
天堂一角は、朝酒の一杯に舌鼓《したつづみ》をうって、飲みほしながら、
「しかし、ゆうべは、痛快であった」
と、それを、お十夜へさした。
「まだまだ、あんなことじゃ気がすまねえ」
孫兵衛はホロ苦《にが》く杯《さかずき》を舐《な》めて、
「万吉をぶっ倒したぐらいで、いい気持になっちゃいられない。肝腎《かんじん》なやつは弦之丞とお綱だ。仕事はこれから骨が折れるよ」
「さあ、その弦之丞とお綱を見つけるのが、これからの問題だが……今思うと、昨夜、万吉の死骸を捨て帰ったのは、かえすがえすも吾々のぬかりだった」
と、周馬は、枝豆を口へ弾《はじ》きこむ。
「なぜ?」
「あの死骸を囮《おとり》にして、弦之丞を待ち伏せしていれば、必ず引ッかかってきたに違いない。その証拠には、今朝あの土橋へ行ってみれば、もう彼の死骸が片づけられていたではないか」
「下司《げす》の智慧は後からで、それならなぜ、人も乗っていない空舟《からぶね》をお手前、あわてて、追い駈けて行ったんだ」
「あれは一角が真っ先に調子づけたのだ。一角が悪いよ」
「あげ足をとるな。たまには犀眼《さいがん》にも見間違えがある」
「まあいい、またこんな所で、泥のなすりあいから仲間割れをしてくれるな。宅助の話によれば、なんでも、猫間堤で四国屋の内儀と弦之丞とお綱とが行き逢った時、非常に親しい様子だったというから、こんどは手をかえて、その四国屋のお久良《くら》とかいう者を詮議《せんぎ》してみりゃ分るだろう」
「ウム、拙者もそう考えているが……その時に弦之丞が、宅助へ当身《あてみ》をくれたということが、どうもよく呑みこめない」
「それは、お久良と密談をする必要があったからであろう」
「しかし、お久良は阿波の者だし、四国屋もまた蜂須賀家の御用商人《あきんど》――どうして彼らと懇意《こんい》なのか、それが不審だ」
そこでは三人が、弦之丞の所在をさぐる凝議《ぎようぎ》がてら、しきりと銚子の数を殖《ふ》やしているが、誰も、宅助の存在を認めて、一杯つかわそうとはいってくれない。
ゆうべ安治川屋敷へ連れてゆかれて、飢《う》えは充分に救われたけれど、仲間《ちゆうげん》の宅助にだって多少の人間味はある、飯に飽満してみれば、自然、その次には酒が呑みたい。
「一杯《ひとつ》ぐれいは、おれにだって、廻してよこしたって、冥利《みようり》は悪くねえだろう。四国屋のお内儀と弦之丞が話をしていたという種を、いったい、誰がおろしてやったと心得ているんだ。恩を知らねえ奴らじゃねえか」
と宅助は、あじけない顔をして座敷の隅に腰かけながら、心の底で不平を鳴らした。
宅助の仲間《ちゆうげん》根性が、喉《のど》をグビグビさせて怨んでいるのに、三人は朝酒の酔いを顔に発して、さいつおさえつ話の興に入っている。
「じゃ、四国屋の店は、この大阪にもあるんだな」
「農人橋《のうにんばし》の東|詰《づめ》じゃ。そこにはたしか、住居《すまい》もあったように思う」
「すると、お久良という内儀を訪ねようとするには、そこへまいれば会われるな」
「店の船が出るまでは、多分住居に泊っているだろう」
「ふ、そうか。じゃひとつ三人連れで、その四国屋へ出かけてみようじゃねえか。この雁首《がんくび》をそろえて行けば、たいがい泥を吐いてしまうだろう。それに向うは御用|商人《あきんど》、こっちは蜂須賀家のお名前をかざして、あくまで脅《おど》しの詮議《せんぎ》と出る。証人には宅助という者があるから、弦之丞とお綱の居所《いどころ》を、知らないとはいわせない」
そんな話を小耳にはさむにつけて、宅助は癪《しやく》にさわった。酒一杯飲ませないで、人をダシに使うことばかり考えていやがる。そこへゆくと、俺の旦那の森啓之助様は、侍としちゃろくでもないほうだが、話は分る。こんな奴らのお先に使われているより、早く、お米を捕まえて、国元へ帰った方が、どんなにましだかしれやしねえ――と腹の中で啖呵《たんか》をきった。
とうとう我慢ができなくなった。
賤《いや》しい手つきで、ふところから、かますの莨《たばこ》入れを出して、わざと煙管《きせる》で粉をハタきながら、
「旦那、すみませんが」
と頭をかいた。
「なんだ、宅助」
「申しかねますが、こいつが空《から》になっちまったんで……、汲《く》んでのむほどの粉煙草もございません」
「煙草銭がほしいのか」
「へ、へい」
「しばらく我慢していろ」
と天堂一角はまた飲みはじめている。
「ちッ……」と、宅助は舌打ちをして、いよいよ心が楽しまない。そして、わざと突っかけている草履の緒《お》を切って手にブラ下げた。
「旦那、旦那」
「うるさい奴じゃな」
「あいにくと、草履も切れてしまっていますから、それも一つ買っていただきませんと、もうお供ができません」
「いろいろなことを申しおる奴、休んでいる間に、緒をすげておいたらよいではないか」
「一角」と横から、さすがに少し聞きかねて、お十夜が、
「まあ幾らか遣《や》るがいいじゃねえか」
「仲間《ちゆうげん》という奴は使い方があるのじゃ、金をやりつけると癖《くせ》になっていかん」
「人の仲間をこき使っておいて、そんな一酷《いつこく》をいったってしようがねえ。オイ宅助」
「ヘイ、ありがとう存じます」
銭《ぜに》の飛んでこないうちに、先に如才《じよさい》なく礼をいった。そして、お十夜が、投げてくれた南鐐《なんりよう》を手に握ると蛙のようにピョコピョコして、草履を買うといって湯どうふ屋の外へ出た。
その剰銭《つりせん》で、どこかで冷酒《ひやざけ》の盗み飲みをした宅助は、やっと虫が納まって、ふらつくのを、無理に口を結んで帰ってきたが、周馬や一角や孫兵衛は、まだ湯どうふ屋の見晴らしに、悠々《ゆうゆう》と落ちつきこんでいる様子なので、そのまま、境内の近くをぶらぶら歩いていた。
「おれなんざ、あそこにとぐろを巻いている三人侍にくらべりゃ、まったく、可愛らしい人間だぜ……」
ぽっと、どす赤くなってくる顔を撫でながら、宅助、自分で自分をいたわった。そして、
「いい日和《ひより》だなア……」
とにわかに、あたりの参詣人の空気につつまれて、鳥居のわきの舞台にもたれかかると、すぐその側で、若い娘だの老人だの子供だのが、しきりに、顔を集めて興がっている。
「あら、道頓堀の伯母さんの家が見える」
「どれ、こっちへ、貸してごらんよ」
「もう少し……」
「そんなにいつまで、独りで見ているって法はないよ。さ、お貸し、お貸し」
「いやだ、この人は。今、野中の観音様を探していたのに」
「ほんとだ……まあずいぶん遠くまでよく見えること。梅ケ辻のほうだの……それから桃谷の大師|巡《めぐ》りの人が、ぞろぞろと歩いてゆく」
「どれ、母ちゃん」
「どれ、どれ。わたしによ」
子供につれて大人までが、大変な騒ぎ。何かしらと思って、宅助がトロリと眼をすえて見ると、舞台の手欄《てすり》にすえつけてある、遠《とお》眼鏡《めがね》という機械。
その遠眼鏡を中心に、参詣の男女が、一家族のように楽しんでいるのを見ると、宅助は、平和な家庭の垣を隙見《すきみ》した継子《ままこ》と同じさみしみを感じて、自分も、仲間入りをしたくなった。
口|癖《ぐせ》のように――大阪が恋しい、大阪が恋しい、と嘆《なげ》いていたお米を嘲笑《わら》って、
「おれなんざ、故郷も生れた家も、思いだしたことさえねえがなア」
といったことのある宅助だが、こののどかな社頭《しやとう》で、娘を連れた母、孫を伴《ともな》う老人、幼い者をよろこばしている年上の者などを見ると、やはり、家をもつ人、愛の持ちあえる人たちは、いいなあ、倖《しあわ》せだなあ、と涎《よだれ》が出るほど羨《うらや》ましくなる。
「みなさん、お揃いでご参詣ですかい。へ、へ、へ、へ、……。いいお天気だ、こんな日は遊べるね」
吾を忘れて、その側へ、いつか宅助はヒョロリと寄って行って――
「なにしろ、べらぼうにお日和《ひより》がようがす。浪華《なにわ》の町の繁昌や千船百船《ちふねももふね》の港口も、ここからはまるみえだ。ネ、そちらのお嬢《じよ》ッちゃん」
と、蟇蛙《ひきがえる》が立ったような中腰でフーッと酒臭い息を吹っかけたもので、遠眼鏡に興じていた人たちの眼が、ちょっとそのほうへひかれたが、誰も相手にはしなかった。
でも宅助は、すっかり仲間《なかま》になった気で、
「――アア、無理だ無理だ、そのお嬢ッちゃん、遠眼鏡のほうが背丈《せい》が高いや。オイ、そこにいるお若いの、お前《めえ》、抱ッこして見せてやんねえ、な、なによけいなお世話だって? その後におれが見る番だからよ――。ほーれ、嬢ッちゃん、見えただろう。一里が一丁に見えるおらんだ渡りの遠眼鏡というのは、これだ。何が見えた? ……千日前《せんにちまえ》の原ッぱで、比丘尼《びくに》が踊りを踊ってるだろう? 嘘だ。じゃ、道頓堀の川ッぷちで、蔭間《かげま》が犬に食いつかれてるだろう。そんなものは見えねえッて。じゃおじさんが見てやろう、貸してごらんよ。ちょッとだ、ちょッと貸しねえ、オヤ、強情《ごうじよう》な子だなあ……貸せったら貸さねえか」
あたりの者は眼をしばたたいて、変な酔ッぱらいが舞い込んできたわいと眺めている。
で、だんだんと、眼鏡のそばを、人が離れてしまったのをよいことにして、宅助は及び腰で、
「さてな、どこを最初に、見物しようか」
と、小手《こて》をかざして、肉眼で見当をつける。
その形がふるッているので、女たちの笑い声がすると、ほろ酔い機嫌の宅助は、おのれのお茶羅化《ちやらけ》が喝采《かつさい》を得たものと合点《がてん》して、もっといい気になりながら、
「ウーム、見えるぞ」
と大げさに遠眼鏡へ目を当てた。
「こいつアすてきだ、淡路島が足もとへ来ていやがる、孫悟空《そんごくう》様がきんと雲《うん》に乗って行っても、こう早くは淡路へ着くめえ。どれ、だんだん東へ歩こうか……見える見える天王寺が。五重の塔のすてッぺんに、鴉《からす》があくびをしていやがる、その手前はどこだろう、なんにもねえや、真っ青だ、田圃《たんぼ》と桃の木と原ッぱだ。田圃はいっこうおもしろくねえな、何かねえか、見るものは……オヤ駕が通ったよ、麦畑を。いやに近《ちけ》えと思ったら、すぐこの下の梅ケ辻か、道理で道理で、よく見える筈だ」
と、自分の道化《どうけ》に浮かれて、いよいよ調子づいてきた宅助、ひとりでしゃべりまくしながら、あなたこなた、見ているうちに、どうしたのか、
「あれ!」と、急に眼鏡から顔を離した。
そして、トロンとたるんでいた酔顔の筋までが、にわかに引きしまってきたかと思うと貪《むさぼ》るように覗《のぞ》きなおして、こんどは独り言もいわず、笑わせもしない。怖ろしい真剣味が、片目の皺《しわ》にまで現れてきた。
と――うなるようなつぶやきが洩れて、
「ちッ、畜生……」
と、地だんだを踏んだものである。
「たしかにあいつだ! 違《ちげ》えねい! 阿女《あま》め、あんな所を、いけしゃアしゃアと通っていやがる。見ていろよ。今、この宅助が、首ッ根っこを捕まえてくれるから」
裾《すそ》をはしょって、真鍮《しんちゆう》こじりの木刀《ぼくとう》をうしろへ廻した。見ている者には何がなにやらいっこうに分らない。ただ赤かった宅助の顔が青くなって、道化役者が撲《なぐ》られたようにしか見えなかった。
「たわけめ! 何をしているのじゃ」
そこへ、くわえ楊枝《ようじ》の周馬とお十夜について、天堂一角が、姿を探し当ててくるなり、はなはだまずい面構えを見せた。
そこに、相手もいないのに、宅助の血相が妙なので、三人も腑《ふ》に落ちないながら、
「なんだ、そのざまは。喧嘩《けんか》でもしようというのか」
宅助は、それどころか、という息まきようで、
「思いがけねえ獲物です。ぐずぐずしちゃおられませんから、わっしゃ、ここでお暇《いとま》をちょうだいいたします」
「これ、待て待て」
一角は怖い眉をよせて、
「そちにはまだ用事がある。勝手に吾々の側を離れては相ならん」
「相ならんとおっしゃったって、宅助の目の前には、今、一大事が降って湧いているんで――ヘイ、今を遁《のが》しちゃ大変です」
「でも、このほうに用事がある。四国屋へそちを証人として連れてゆくまで、けっして暇《いとま》はつかわさんぞ」
「困りますね、天堂様、宅助には森啓之助様が御主人なんで、あなた様にゃ御奉公いたしておりませんから」
「だまれ。何でもよい」
「やりきれねえなあ。どうか、わっしの立場も、少し察してやっておくんなさい。今、この遠《とお》眼鏡《めがね》からえらい手がかりを得たばかりなんで……まごついていると、取返しがつきあしません」
「遠眼鏡から、何を見たと?」
「わっしに毒をくらわせて、天満河岸からドロンをきめたお米《よね》のやつが、日傘をさして、すぐ向うの梅ケ辻を」
「そんな女《もの》はどうでもいい。捨てておけ、捨てておけ。貴様もまたばか正直に、啓之助を嫌って逃げた囲《かこ》い女《もの》を、なんでそう一心に捕まえたがっているのじゃ。吾々が眼色を変えているのとは違って、蜂須賀家になんらのかかわりもない雌鳥《めんどり》などを、血眼で、追い廻しているたわけ者があるものか、行ってはならん!」
こうどなられると宅助もムッとした。お米には毒を呑まされた意趣もあるし、阿波へ連れて帰れば、たんまり啓之助から報酬をねじ取る寸法もあってすることだ、野暮で分らずやのてめえたちが、何を知ったことか、と業腹《ごうはら》を立てて、面《つら》をふくらませた。
「おい、天堂、そいつは少し因業《いんごう》すぎるだろう。宅助の事情も聞いてみればもっともなところがある」とお十夜が仲《なか》をとって、
「おれが引きうけてやるから、行ってこい。その代りに、お米を捕まえたら、安治川屋敷へ帰ってこなくちゃいけねえぞ」
「ありがとうございます。――じゃ」
「おっと、待ちねえ」
「早くしませんと、また姿を見失います」
「どこにいるんだ、そのお米ってえ女は」
「ちょっと、眼鏡《これ》へ目を当ててごらんなさい。梅ケ辻から野中の観音のほうへうねっている一筋道を、桃色の日傘でゆく痩《や》せ形《がた》の女がありまさ。娘のような派手な衣裳《いしよう》で、鹿《か》の子《こ》の帯揚、帯の色、たしかに、そいつがお米なんで」
宅助の説明を聞きながらお十夜がそれを覗《のぞ》きこんでうなずくと、一角もつり込まれて後から入れ代りに顔をよせた。すると、すえつけの角度を動かしたとみえて、お米の姿は映らずに、坂下の鳥居筋を、ドンドン駈けてゆく男が見える。
おや……と思って見ていると、それが、今そこでしゃべっていた宅助なので、
「きゃつめ……もう行ってしまいおった」
と、いまいましそうに、顔を離した。
「おそらく、宅助はもうあのまま帰るまい――」
そういったのは、旅川周馬。
「なぜ?」と一角が突ッかかるのを冷笑して、
「あまり貴公の人使いが荒すぎるもの」
「帰らなくては、四国屋をただす時に都合が悪い。ええ、押ッ放してやるのではなかったのに」
「では、追いかけて、貴公も一緒に、お米とやらいう女を、捕まえてやるがよかろう。さすれば義理にも宅助が帰って来る」
「ばかなことを言いたまえッ、女情《によじよう》におぼれている啓之助の妾《めかけ》などを、誰が仲間《ちゆうげん》と一緒になって、この昼日中《ひるひなか》、両刀を差すものが追い廻していられるものか」
「あははははは。面白い、また一角が怒った」
とお十夜は哄笑《こうしよう》して、なお気にして遠眼鏡を覗《のぞ》いていたが、
「ふーむ、なかなかいい女だ。一角がそういうなら、おれが様子を見に行ってやるから、しばらく、向うの絵馬堂《えまどう》で待っていねえ」
と、雪踏《せつた》をすって、石段を下りはじめた。
辻堂があった。
白藤の花がこぼれている。
野中の観音へゆく道のほとり。このあたりに多いのは、池と藪《やぶ》と桃畑、でなければ墓場である。
だが、夏もやがて近い真昼中《まひるなか》、朗明《ろうめい》であって陰湿がない。どこかで石屋の鑿《のみ》の音がする、かッたるそうに刻《きざ》んでいた。
お米はそこで日傘をつぼめた。ちょっと、辻堂を拝借する。辻堂というものは、いかめしい宮の拝殿などより、何かしら親しみ深いものがある。ことに、そのいぶせき縁の端は、疲れた足にすがられ、家なき子に夜をしのがせ、行旅《こうりよ》病者の寝床とまでなる。
悪いやつは悪用して、神まします眼の前で、盆莚《ぼんござ》をしいたり、女をかどわかしてきたり、果ては、絵馬《えま》や、御神体まで担《かつ》ぎだしてしまうけれど、辻堂は依然として存立し、草ぶき屋根の朽《く》ちるまで、道の辺《べ》の神としての功力《くりき》を少しも失わない。
そこで、
「ああ、くたびれた」
と、お米は、軽く膝《ひざ》を叩いた。
もう猫間川はすぐそこだ。その川向うの小橋在《おばせざい》に、万吉がいるということを、かの女《じよ》は、とうとうつきとめてきたらしい。万吉は深く自分の境遇や心もちを知らないから、お吉のように、弦之丞の居所を知っていて隠すようなことはしまいと考えている。
「わたしも、こんどはずいぶん苦労をした……。それで、あの方に会えないくらいなら、死ぬのは嫌だ、自暴《やけ》になって――アアきっと自暴《やけ》になって、どんな妖婦にでもなるだろうよ。酒、男、したいほうだいな世を送って、血を吐いて、死ぬだろうよ」
白い花がハラハラと落ちてくる。桜のように、こびりつかない藤の花。
「嘘ばかりついている――まだしおらしい娘か、善人ぶっているからおかしい」とお米は、自分で自分を嘲《わら》ってみた。
「もう、わたしという女は、りっぱな妖婦になっているのじゃないか。啓之助をアアして、お吉さんをアアして、宅助をアアして、家へも帰らずに、男を探し廻っている女だもの」
小菊紙《こぎく》を出して、口をふいた。
軽い咳《せき》といっしょに、紅梅みたいなものがついた。見たくないものを、見るのが癖になっている。
「もう……どうなとおなり」
昼の月へ向いて、笑った顔が、自分ながらあさましかった。
そうして、うしろへ手をついていると、辻堂の横に、野鼠でもいるような音がするので、ヒョイと、居形《いなり》のまま顔を向けてみると、そこに、紐《ひも》の宅助が、皮肉な面がまえをして、お米の気がつくまで睨んでいた。
「あらッ――」
と、さすがにぎょッとしたけれど、もう逃げだしても間に合う筈はない。
度胸をきめて、お米はジッと黙っていた。
ふところに、拳《こぶし》をこしらえながら、宅助も睨んだ眼を向けたまま、黙って、女の姿態《しな》を見つめていた。
しかし、言葉は借りなくとも、その間《かん》のふたりの心は、剃刀《かみそり》のように研《と》げて争っている。宅助の眉間《みけん》には、殺してもあきたらないほどな遺恨が燃えているし、お米のくちびるには、殺されるだろう、と胸にこたえているおののきがある。
「おい……」
と、だんだん寄ってきた。
「…………」
殺してみやがれ! わたしだって。
お米はこう覚悟をして、その瞳をそらさなかった。
弥蔵《やぞう》をこしらえていた手をつン出して、紐の宅助は、ニヤリと面相を変えながら、
「エ。お米の御方《おんかた》――」
と、ポンと背中をひとつ叩いた。
「なぜ逃げねえのよ、逃げたらいいじゃあねえか!」
食い物と侍にかかると、カラ意気地のない宅助だが、お米の前に立つとズッと冴えてくるのは奇妙だ。相手の上手《うわて》にのしかかってゆく図太さや、悪党らしい余裕さえついてくる。
女と思って、先に呑んでかかるせいもあろうが、ひとつはこの宅助、啓之助がお米を知ると一緒に手がけているので、充分、コツというものを心得ている。
「エ、おい」
と、背中を叩いたのが、そのコツらしい。遺恨は遺恨だが、殺してしまえば玉なしだ。女に逃げられた女衒《ぜげん》が、たえず女を殺していた日には商売にならない、という道理から宅助らしい我慢なのだ。
「どうしましたえ、お米さん。たいそうすましているじゃねえか。ちょっと、久しぶりだから、きまりが悪くなったとおっしゃいますか。そうよ、天満の河岸《かし》きりでお別れでござんしたね。ハイ、そのせつは、どうもいろいろお世話様で……」
言葉の刃《やいば》は、相手を片輪にさせないから、ここで存分にえぐるつもり。
たたんだ日傘を膝へのせて、お米は辻堂に腰かけたまま、いうことならいわしてやろうという顔つき。明るい昼を乙鳥《つばくら》が横ぎっても、睫毛《まつげ》一本動かさなかった。
「ふーん……さすが口のうめえお米さんも、今日ばかりはグウの音《ね》も出ないとみえる。そうだろうよ、森啓之助様をだまくらかして、お付人《つけびと》を迷子《まいご》にさせて、影のような男の後を探し廻っているんだからな」
「…………」
「あ、もひとつ、お礼を忘れていた。よくもこの宅助に、鼠薬を食らわせたな! なアに、ああいう酒の味も、めッたにご馳走になれねえものだから、あだやおろそかにゃ思いませんよ。だから、このご恩は一生の間に、チビリ、チビリと、阿波へ帰った上でするぜ」
「知らないよ」
ツイと立とうとすると、
「おっと」
肩をつかんで、
「どこへ行こうッてんだ!」
「わたしの勝手だよッ」
さっきから、ひそかに固く握りしめていた日傘で、宅助の横顔を激しく打った。
「エエ、この女《あま》め! よい程に、あしらっておけばつけ上がって、ふざけた真似《まね》をしやがると、俵括《たわらぐく》りにして船底へほうりこんでも、阿波へ突ッ返《けえ》すからそう思え」
ムズと髪の根をつかみにかかるのを、日傘で払うと、その日傘を引ったくられて、力まかせに打ちのめされた。
牡丹《ぼたん》崩れにうッ伏したお米の手には、いつか匕首《あいくち》らしい光りもの。
「よくも――、ちイッ……」と死にものぐるい、迂闊《うかつ》にのしかかった宅助の毛脛《けずね》へ、芒《すすき》の葉で切ったほどな痕《あと》をつけた。
一方。
高津の上の舞台では、
「や……やや……」と旅川周馬が、しきりに遠眼鏡から宅助の居所をのぞいて、
「ウーム、これは面白い。宅助のやつ、あはははは、なんだあのざまは、女ひとりを持てあまして」
ひとりで興に入っている。
「お十夜はどうした?」
つまらぬ暇つぶしにしびれをきらして、天堂一角は苦虫《にがむし》を噛んでいたが、つい周馬の独り言に誘われて、側からこうたずねだした。
「お十夜? ……どうしたのか、かれの姿は見当らない。どうせ、例の癖で、ふところ手のぶらぶら歩きで行ったのだろう。ア、ア、ア……そのうちには、どっちかかたがついてしまいそうだ。女も死にものぐるいになると、あなどれぬ力がある。お千絵様でもそうだった。ましてや宅助、ヘタをやると始末に困るぞ」
「どれ、貸したまえ」
「見たまえ、あれだ」
「ウ、なるほど、お米に違いない、しかし、川長にいた頃は、あんなすごい女ではなかったが」
と覗《のぞ》けば一角もつい気を奪《と》られて、なかなか周馬にゆずる気色《けしき》もなかったが、そのうちに、
「やッ、彼奴《きやつ》だ!」
と、ただならぬ声をあげ、眼鏡を離れて舞台から伸びあがった。
だが、遠眼鏡で見たものが、肉眼でたしかめられるはずはなく、ふたたび覗《のぞ》いてみると、今、体で位置を狂わしたので、腹立たしいほど、見当ちがいな遠景が映った。
「ああ、いけない、どっちであったかの」
「なんだ、なにを見たんだ」
「イヤ、まだしかと分らなかったのだ。それで覗いてみると、もう以前の所が見えない」
「見えないはずだ、貴公、そんなほうへ向けておるのだもの。貸したまえ、こっちへ」
「早くせぬと、あるいは一大事になるかもしれぬ」
「なんだ、宅助か」
「いや」
「お米か」
「いや。まあ、そっちを早くなおしてくれ」
「そう、側《そば》で急《せ》いては困るな」
周馬が代って、覗き覗き、前の所へ向け戻そうとしたが、今の一大事といったのが胸を騒がせて、容易に角度が定まらない。
女《おんな》 男《おとこ》 女《おんな》
法月弦之丞《のりづきげんのじよう》の胸もとへ、誰か、いきなりぶつかってくるなり、うしろへ身をちぢこめて、
「――お侍さまッ」
と、かれの体を楯《たて》にしながら、すがりついた者がある。
ふいに、帯へ重みをかけられたので、
「あ」
思わず、足をとめて、うしろの者の手くびを握った。
やわらかい、きゃしゃな女の手であった。そして、絹か髪の毛か、ひんやりとしたおののきが腕に触《さわ》る……。
かれはつばの広い編笠をかぶっていた。一方の手をそれへかけて、自分の背なかへ隠れた女の姿を見ようとしたが、同時に、
「この武士《さんぴん》め」
と、何者かの骨ばった拳《こぶし》が、襟をつかんでねじあげてくるなり、
「野郎ッ、な、なんで、その女をかばいだてしやがる」
と、目をいからせている。
弦之丞は呆然《ぼうぜん》とした。
何がなんなのか、わけがわからぬ。
ことにかれは、きょう船宿の鯉屋《こいや》の二階へ、お綱をのこしておいて、ただ一人、猫間川の岸からこのあたりへ、ゆうべの船と、あのまま帰らなかった万吉の姿をたずねてきたところなので、歩みつつもおのずから、心のうつつなところがあった。
今、なんの気もなく、向うの百姓家で道をきき、森に添ってこの辻堂のわきに出てくると、その途端に、これなのである。
まったく、思いがけない言いがかりだ。
「こやつ、少し血迷っているな」
と思いながら、グイと、対手《あいて》の押してくるのをこらえきると、男は、馬のような前歯をかみしめて、
「ウ、邪魔をしやがると、承知しねえぞ。さ、女を前へ出せ、女を!」
力《りき》み立って、ねじこんでくる。
弦之丞は、迷惑きわまる様子をして、勝手に、襟元をつかませていたが、笠の目堰《めせき》から、つらつらその男の顔を見ると、これはまたまんざら縁のない者でもない。
いつぞや、猫間堤で、その時の都合から、当て身をくれて捨てて行った、森啓之助の仲間《ちゆうげん》だ。
「ウーム、そちは宅助」
こういわれると、ぎょっとして、
「な、なんだと」と、ふりあおいで――
「あっ、てめえはッ?」
と、泳ぎだしたが、すかさず伸びた弦之丞の右手が、ムズと襟がみをつかんで、
「待て」
ズルズルと引き戻した。
そのもがいてよろめく足もとから白い土埃《つちぼこり》が舞うのを浴びて、宅助はうなるように、
「ちぇッ、しまった」
と、舌打ちをしながら、すばやく、三尺帯を引っぱずして、対手《あいて》に着物をつかませたまま、スルリと脱ぎ抜けて、
「うぬ、見ていやがれ!」
グイと睨んで、捨て科白《ぜりふ》をいったまま、後も見ずに一目散。
倶利迦羅紋々《くりからもんもん》の素ッぱだかが、真昼の太陽に、蛇の皮のように光って、小気味よくも、タッタと向うへ逃げだしてゆく。
すると。
高津筋の辻から、お十夜孫兵衛、チラリ、チラリと雪踏《せつた》を鳴らして曲ってきた。
周馬と一角をのこして、宅助の様子を見届けに来たのだが、まさか、入墨のすっぱだかで飛んでくる男が、今、眼鏡《めがね》の中に見えた宅助だとは思わない。
倶利迦羅紋々《くりからもんもん》のいさぎよい逃げぶりを見送って、弦之丞は苦笑いしていた。
その編笠を、しずかにふりかえらせて、
「お女中、どこも、怪我《けが》はなかったかの?」
と、後ろを見ると、四、五人の蚊帳《かや》売りが荷を担《にな》って、目の前をさえぎったので、少し離れて、その通りぬけるのを待っている。
お米は少し後ろへ戻って、その行商人たちの足にふまれて行った、自分のはきものや日傘をさがして、前の辻堂の縁のそばへ、後ろ向きにしゃがんでいた。そして、髪や襟元をつくろいなおしている様子なので、弦之丞は、あえて意にとめるところなく、そのまま森の片日蔭《かたひかげ》を辿《たど》って、ピタピタと先へ歩みはじめた。
かれはもう今のことなどは忘れて、
「万吉はどうしたのか? どうして姿が見えなくなったか?」
と、ただ、そればかりを思っている。
まさか、かれにかぎって、大志を曲げて変心するようなことはあるまい。
人は労苦をともにして、はじめて本心のよく分るもの、まだ彼と知ることの日は浅いが、義にも情《じよう》にも、そんな軽浮《けいふ》でないことはよく分っている。
ゆうべ、猫間川の土橋から、舟を出てゆく時にも、帰るまで、ここを動かないでいてくれ、とさえ念を押して行ったのに――。
と思うと、なんとなく胸さわがしい。
ふとして、そこらに、生々しい流血の痕《あと》はないか。なんぞ、万吉の持ち物でも落ちておりはしまいか。
森の日蔭のとぎれた所から、清冽《せいれつ》な流れと小松の土手が、猫間川のほうへうねっている。この小松原は、さっき一度通ったような気もするが、念のために、かれはなお水辺の草むらを覗《のぞ》きながら、水の行くままにあるいてみた。
「もし」
お米は、そこで初めて、呼びかけた。かの女《じよ》は、辻堂の前からここまでの間、黙って、後についてきた。宅助と争った息の疲れが、容易にしずまらないのと、また、一念に居所をさがしていた人の現れが、あまりに唐突で、あまりに路傍の人のごとくであったのと。
そして、その人に、今の取乱した姿のまま会うことが、やはり女らしく迷われたのであった。
けれど、この折を逃がしてはならない、と思う心のほうが、より強かったのはいうまでもない。
「もし」
少し、小刻《こきざ》みに追いついた。
「おお、今のお女中か……」
「ありがとうぞんじました。もう少しで私は、どんな目に遭《あ》わされるか分らないところでござりました」
「まいりあわせてよかったの」
「はい、なんとお礼を申しあげてよいか、もう、こんなうれしいことは」
「無用じゃ。礼などと改まるには及ばぬこと、それよりはまた、やがて黄昏《たそがれ》にならぬうちに、早く家へ帰られい」
「法月さま」
「や?」
「お見忘れでございますか」
「どうして、そなた、拙者の名を知っておるか」
「弦之丞様、わたしの名を、思いだして下さいませ」
「ウーム……」と、その時、はじめて彼はしげしげとおもはゆそうに、うつむけている女の顔の線を見入ったが、ハタと膝を打って、
「お、川長のお米であったな。久しく見ぬせいか、見違えるほどな変りよう、うかと、思わぬ失礼をいたした」
「あなた様も、その頃の、宗長流《そうちようりゆう》の一節切《ひとよぎり》を吹く虚無僧とは、すっかりお姿がお違い遊ばして……」
「ウム。ちと仔細がありましての――がしかし、そなたの家や叔父の半斎《はんさい》殿には、あの節、唐草銀五郎や多市などが、ひとかたならぬ世話になった。その無沙汰も心苦しく思うておるが、時雨《しぐれ》堂《どう》の騒ぎの後、半斎殿にもさだめし迷惑がかかったことであろう。あの人《じん》は、その後もつつがなくお暮らしであるか。また立慶《りつけい》河岸《がし》のお家もご無事でいられるか?」
「はい、おかげ様で、大津の叔父も、大阪の家も、みんな変りなくやっておりますが、ただ、変り果てておりますのは、この私だけでござります」
と、お米は、袖についている草《くさ》の実《み》を、指の先につまんで捨てた。
変りました――とみずからさびしくいう女の前で、かれは、いつか自分が安治川屋敷へ忍びこんだ際に、お船蔵の闇で救いを叫んだひと声の悲鳴を、今ふと、耳の底に呼び起こしていた。
「その後そなたは、阿波へまいっていたそうだが、して、いつこの大阪へ戻ってこられたか」
「森啓之助という蜂須賀家の御家中に、無理に、かどわかされて行ったのでございますから、戻ってきたというよりは、逃げてきたも同様なのでございます」
「ほう、それであの仲間《ちゆうげん》が、無態《むたい》にそちを捕えようと致していたのか」
「私はもう阿波へ帰るのは嫌なのでございますけれど、執念《しゆうねん》ぶかい宅助が、あの通りつけ廻しているので、川長の家へもウッカリ帰れませぬし、もうどうしていいか、路頭に迷っているところなのでございます」
と、顔に血をのぼせながら、そむいたまま、ソッと側へ寄りついて、
「で私は、ほんとに只今困っております。弦之丞様、どこかへ当分の間、私の身を匿《かくま》っておいては下さいませぬか」
「というても……」と、かれはいたく迷惑そうに、「この弦之丞自身すらが、流々《るる》に任す無住の浪人、定まる家もない境遇であれば、そなたをどこへ匿《かくも》うてあげる術《すべ》もない」
「家がなければ、あなたの袖の蔭へでも、また定まらぬ旅とおっしゃるなら、浮草のように、その旅先へでもよろしゅうございますから」
ふと、歩むともなく歩みだす人を追って、お米は懸命にいいすがった。
「どうか、連れて行って下さいませ。まだ阿波へ行かぬ頃から、私がどんなにあなたをお探し申していたかは、それはいつか九条村で、あの医者の源内様の帰り途に、使いに持たせてやった手紙の中へも書いた通りでございます」
と、あの時、弦之丞を待ちぼうけていた九条の渡舟《わたし》場《ば》から、啓之助と宅助に捕まって、脇船の底になげこまれた時のこと。また徳島の町端れに暮らしていた月日の間にも、たえず忘れ得ぬ悩みをもっていたことや、剣山《つるぎさん》の麓《ふもと》まで行って、啓之助をたぶらかして、とうとうこの大阪へ逃げ戻ってきたことなどを、それとなく話しながら、燃ゆるような恋をほのめかした。
そして弦之丞の気色《けしき》を見たが、かれはその強い恋の言葉よりは、阿波、剣山、などという言葉の端々に、より以上な衝動をうけているらしく、何か黙思しながら、素《す》げないうなずきを与えながら遅歩《ちほ》をすすませている。
きょう偶然に会ったことはうれしかったが、それは、悲恋の幻滅を知る日であったか、とお米は相手の冷やかさに血を熱くして、
「弦之丞様、今申した私の願いは、おききなさって下さるのですか、それともお嫌とおっしゃるのでございますか。これ程までせつない苦労をしても、それがあなたのお心に通じないものなら、いッそもう私は……」
「何をなさる」
ふりかえるとともに、弦之丞はお米の手くびを握って、固く脇の下へ抱えてしまった。
その指からポロリと匕首《あいくち》が落されて、松落葉《まつおちば》の土へ刺さったのを、お米はまた拾い取ろうとしてもだえながら、
「死んだがましでございます、私は死ぬよりほかにない女です」
弦之丞は女の激しいふるえを感じながら、黙ってお米の手を抱えていた。その肉感的な痙攣《けいれん》を感じた当惑のきわみに、かれはまだお千絵にもお綱にも持ったことのない悪魔的な考えにフト頭を濁していた。
この女の猥《みだ》らな恋を利用してやろうか。
かれの切れ長な目が、そう思いながらジッと見ると、お米は温かい男の腕の下に自分の手を預けたまま、なんの反抗力も失ってしまった。気味の悪いほど白く透《す》く肌の下には、きわどい瞬間を楽しもうとする血がよろこび躍っている。
弦之丞は思った。
この女が自分に求めてやまぬものは、ただ強い抱擁ではないか。熱病のような本能の情炎が、またそれをあおる癆咳《ろうがい》という美しき病の鬱血《うつけつ》が、たまたま自分という対象に燃えているだけなのではないか。
剣山へ行きつくまでの難関を、お米に手びきさせることは、いい策には違いないと思ったが、目的のためとはいえ、果たして、そこまで悪魔的な気持がもち続けられるか、またこの放縦《ほうじゆう》な恋の病人を、それまであやつって行ききれるかどうかという点は、弦之丞の性格にはなはだ自信が乏《とぼ》しかった。
ジーと目をつぶって考えた。
お米の手を抱えたまま――。そして、お米は、その手くびのしびれを忘れて、うっとりと、弦之丞の顔を見まもっていた。
すると。
向うの小松林の間を、明るい帯の色がチラと通りぬけてくる。誰かと思うと、それは見返りお綱であった。
何かにわかな用でも起こったらしく、船宿から弦之丞をさがしに来たお綱は、思いがけない男と女のたたずみを見て、はッとしたように、松の木のかげへ足をすくめた。
うつつなお米の腕を脇の下へ抑えたまま、弦之丞は横あゆみに数歩、人目のうれいなき木蔭まで連れてきた。
女は、体じゅうを心臓にして動悸《どうき》をうった。
そこのさびしい木蔭が、恐ろしいようなまたうれしいような。
「お米」
と怖いように射《い》る眼《まな》ざし、
「いまの言葉に、よも偽《いつわ》りはあるまいな」
と、念を押して締《し》めつける言葉が、かの女《じよ》をいっそう熱ッぽく必死にさせて、
「何で嘘や偽りにこんなことがいえましょう。まだそれ程にお疑いなら、見ている前で、私は死んで見せます、ええ、今すぐにでも」
「では、真実、それほどまでにこの弦之丞を」
「思いつめておりました!」と、お米の姿態《しな》が白肌の蛇のように男の胸へからみついて、
「ですけれど、その懸命は私ばかり、あなたのほうでは、なんとも思ってはいらっしゃらない」
怨《うら》みがましく向ける目の針を避けて、
「いや」
面《おもて》をそむけた。
偽りは自分にある。かれは、お米をあざむき、己れの心をいつわる舌に重い苦渋をおぼえながら、
「何を隠そう、そうした心は拙者とても同じであった。川長の離れ座敷で、銀五郎や多市などとともに、そちに匿《かくま》われていた頃から」
「ええっ、もし、それはほんとでございますか」
「きょうまで忘れたことがない」
と、強く細い手くびをつかんだが、体はお米の粘《ねば》りを解いて、抜けるように胸を離れた。
「では、私の恋を、あのお願いを」
「おお、かなえてはやろうが、しかし、そちの本心」
「ええ」じれったそうに身を振って――「まだ疑っているのですか」
「いいや違う。その本心が分ったので、ひとつの大事をそちに打ち明けたいと思う」
澄みきった双眸《そうぼう》があたりへ動いた。
「でその上に、是非ともきいて貰わねばならぬ頼みがある」
「頼まれるのはうれしいことです。弦之丞様、水臭いご心配はなく、何でも打ち明けてみて下さいまし」
「ウム、では、必ず承知してくれるか」
「はい」お米はゴクリと唾《つば》を呑んだ。
「何でございますか? そのお頼みとは」
「ほかではないが、もいちど阿波に帰ってほしい」
「えっ、私に?」
「嫌ではあろうが、森啓之助の所へ帰って、しばらくすなおを装《よそお》っていて貰いたい。いずれ近々《ちかぢか》には、拙者も阿波へ渡るつもりだが」
「それではいよいよ徳島城や剣山の奥へ、隠密にいらっしゃるお覚悟ですか」
「これッ」
思わずけわしい目になって、弦之丞はお米の顔色をジッと読んだ。そして、この女はいつのまにか自分の素姓や目的までも感づいているなと思った。
きょうまでのいきさつを綜合し、また永らく森啓之助の側にもいたものであるから、自然それを知ったことは当然だが、思えばその大事を気《け》どっている女の恋慕こそ怖るべきもので、ひとつ狂ってきたら自暴の火は手のつけられない狂炎となるだろう。
「静かに――」と声をおさえた。お米も木立の奥や小川の汀《みぎわ》を見廻した。
昼を啼《な》く小禽《とり》――木の葉のささやき――そんなものしかなかった。弦之丞は静かに言葉をつづけた。危険性の多いお米の恋をなだめておいて、大望の手びきにあやつろうとする悪魔的な考えは、いつのまにか彼の心に自然な働き方をしていた。
「いかにもその目的のために、真っ先に、剣山の間者牢《かんじやろう》を訪れようと計っているが、さて阿波へ入り込んだ上には、さまざまな詮議《せんぎ》迫害がそれを拒むに違いない。ところでそちが啓之助に囲われておれば、身を隠すには上乗の便宜、また何かのことにも都合がよい。どうじゃお米、いずれその目的を遂げさえすれば自由になれる弦之丞だが、それまで時節を待つと思うて、もいちど啓之助の所へ帰ってくれぬか」
お米もさすがに少し考えていたが、
「ええ……」と、やっとうなずいた。そして、「それがあなたにご都合がよいならば、私は、目をつぶって帰ります。ですけれどその代りに、きっと、あの……」と甘えるように男を見あげる――。
その間に、お綱は、わざと静かに、木立の細道を歩いていた。
もう少し、様子を眺めていようかとためらうふうであったが、お米の白い手が、人目もなく男の肩へ伸びたのを見せつけられると、かーっと熱い血がのぼって、吾にもなく、
「弦之丞様! ……」
と呼んでしまった。
そして、飛び離れて白《しら》ける男女《ふたり》を冷やかに見捨てながら、苦しそうに微笑《ほほえみ》をした。
あれ。そこへ来た女は?
どこかで見たような、とお米はすぐに考えついたが、妙なはめに立たされたまま、気まずい口をつぐんでいると、お綱は、わざとお米の方を見ないようにして、
「あの、弦之丞様」
と、涼しい目に、用事のある意味をふくませて、
「よろしかったら、ちょっと、お顔を貸して下さいな」
そのなれなれしさが、いかにも深い仲のあるように、一方の心へ映るのは是非がない。
弦之丞は未練なく、そのお米を後ろにして、
「お綱ではないか、何ぞにわかなことでも?」
と訊《たず》ねながら寄って行った。
「さっきお出かけになるとその後へ、新吉という人が見えました。あの、船宿の鯉屋に、私たちがいるのを知って」
「新吉と申すと? オ、四国屋の手代じゃな」
「急に積荷がまとまって、船の出る日取りがきまったからと、わざわざしらせに来てくれました」
「使いがなくとも明日《あす》の夜は、こちらから四国屋の寮へ行く約束になっているのに」
「どういう早耳か、阿州屋敷の者がうすうす感づいているらしいから、その前に来るのは見あわせてくれという話」
「して、船の出る日は?」
「十九日の晩の五ツ刻《どき》に、木津《きづ》の河岸から安治川へ。その夕方に、四国屋の裏まで、身装《みなり》を変えて来てくれたら、あとはお久良様がよいように手筈をしようとおっしゃいます」
「ウム、そうすると……」と指を繰《く》ってみながら、「あと残る日もわずか四、五日」
「万吉さんはどうしたのでしょう」
「さ、その消息だが……」と声を低めて、話し話し歩いている間に、いつか弦之丞はお綱の歩みに連れていた。
お米はぽつねんと取り残された形。
どんな甘いささやきを交わしてゆくのかと、邪推されて胸は穏やかでない。
ちょうど、夢みている楽しい枕を不意にはずされてしまったような、腹立たしさ、さびしさ、空虚さ。
「ひと、ばかにしている」
睨むように、お綱のうしろ姿を見ていたが、やがて自分もあゆみだして、
「弦之丞様、弦之丞様」
と呼びとめた。
そして、ふたりがふりかえると、呼んだ者は埒外《らちがい》において、お綱の目とお米の目とが剃刀《かみそり》のように澄み合った。
「なにか御用?」
とお綱の声が冷たくいう。
「いいえ、お前さんじゃないんですの」
「おや、たいそうなご挨拶だよ。弦之丞様、いったいこの女《ひと》はどこのお方?」
「ハイ、私でござんすか」
一方の引き合わせも待たず、お米はむしゃくしゃまぎれに突っかけて、
「川長のお米というあばずれ女《もの》、エエ、法月さんとは、ずっと前からのお知り合いでネ」
「あら、お米さんといえば?」
「そのお米がどうかしましたかえ」
と、ツンとした。
「もうずいぶん前のことだが、関《せき》の明神《みようじん》の森で、首を縊《くく》ろうとしているところを、私が救ってあげたことがある。だけれど、そのお米とかいう娘は、まだ初心《うぶ》らしい優しさがあったから、お前さんたあ人違いかも知れないねエ」
「あ……それじゃ」と、お米も初めて、自分のうろおぼえをはっきりさせた。
「私が叔父の家をぬけだして、関の森で死のうとしていたところを、抱きとめてくれたあの時の人は?」
「たしか、見返りお綱とかいう、おせっかいな江戸の女だったと思いますがね」
「まあ」
といったが、お米の気持がすなおでなかった。
「お蔭様で、生きのびましたと、お礼をいいたいところですけれど」
「どういたしまして。恩着せがましくいったなどと、悪く気を廻されちゃ困っちまう」
「助けられて不足をいうんじゃあないけれど、あの時死んでしまわなかったお蔭に、まだ罪業《ざいごう》がつきないで、こんな姿をうろつかせておりますよ」
「といったところで、私のせいじゃないからね」
「誰がお前さんのせいだと言いましたえ。私はただ、自分の輪廻《りんね》を怨むんですよ」
「それ程この世がお嫌なら、どこかそこらでご思案なさいな、こんどは私が手伝ってあげるから」
「おそろしいご親切、ありがたすぎて身ぶるいが出る。けれど私にも今日からは、弦之丞様というお方があるんですから、そんなお心遣《こころづか》いはご無用に願いましょう」
と、お米も負けずにそういい返すと、弦之丞の右側へ廻って、見えないように、袂《たもと》の下で手を握った。
おのれの科《とが》は覿面《てきめん》にすぐおのれへ帰ってくる。
弦之丞は後悔した。
触れるやいな、火花を散らす女の妬心《としん》を眼《ま》のあたりに見て、かれの臆病な悪魔的な考えは萎《な》え惧《おそ》れた。
けれど、秘密を知る狂恋の女。あざむかねば殺すのほかはなく、殺さねば、あざむくのほかはない。大事の万全を期する上に。
しかし、やがてお綱の怜悧《れいり》が誤解をとくであろうことは信じられるので、とにかく、弦之丞はお米の棘《とげ》立つのをなだめ、こんがらかった二人の気持をほぐすことに努めながら、京橋口の船宿へ帰ってくる。
大阪表に潜伏している間、そこの鯉屋には何かの世話になっていたが、今も門《かど》まで戻ってくると、誰かひとりの客が、留守のうちに弦之丞を訪ねてきて、さっきから二階に待っておりますという亭主の告げであった。
「客が?」
といぶかしみながら、弦之丞、腑《ふ》に落ちない様子で、
「はて、誰であろうか」
梯子《はしご》口から見あげていると、その間《ま》に、お米は上がり框《がまち》の日和《ひより》下駄を見て、少し顔色を変えたが、
「私は、そのうちにまた、あの、船が出るまでの間に出なおしてくることにしますから……」
と、意地でも側を離れそうもなく、ここまでついてきたお米が、ふいと、どこへか帰ってしまったので、弦之丞もお綱も少し案外だったが、そのまま小急ぎに梯子段を上がってみると、櫛巻《くしまき》に結《ゆ》って年増の女が、何か、物思わしげに、しょんぼりとうつむいている。
万吉の女房であった。
お吉《きち》は今朝、平賀源内の使いにおどろかされて、初めて、良人《おつと》の凶変《きようへん》を知った。
で、取るものも取りあえず、小橋《おばせ》村の彫刻師の家に寝かされている万吉の容体を見に行ったのであるが、かすかに意識づいてきた万吉が、しきりと気にかけてやまないので、かれの口から船宿の所をきき、ようよう尋ね当ててきたわけであるという。
「さては」
聞きつつも、弦之丞、無念そうに唇を噛みしめた。
「やはり、案じていたに違《たが》わず、お十夜や天堂の詭策《きさく》に陥《お》ちたのであるか。ウウム……」と、暗涙をのんで愁然《しゆうぜん》とした独りごと――「傷はとにかく、あの男の気性として、ここまで来ながら落伍《らくご》しては、さだめし、それが無念にたえまい。ああ遺憾至極《いかんしごく》」
思わず拳《こぶし》が膝にふるえる。
おのれ、今に見よと、あらぬ方に燿《かがや》くかれの眼《まなこ》に情恨《じようこん》ふたいろの血の筋が走る。
ともあれ一刻も早く慰めてやりたいと、あわただしく湯漬《ゆづけ》を一|椀《わん》かっこんで、宿の亭主に小舟を頼み、京橋口から猫間《ねこま》川をのぼって、小橋《おばせ》村黙蛙堂《もくあどう》の家《うち》へ馳《は》せつけた。
静かな茅葺《かやぶき》屋根の家《うち》に、万吉は仰むけに寝かされていた。
裏に梨の花が咲いている反映のせいか、かれの皮膚もそれのように蒼白《あおじろ》い。
「あまり本人の気を立ててはいけないと、源内様がいっておりました」と黙蛙堂が心配していう。
「…………」
皆、目でうなずくばかりだった。
お綱は涙をうるませていた。一月寺《いちげつじ》にいた時のことや、旅途中のことなどが、そんな中で、思い出される。
相談の上で、万吉の体は、やがて蒲団《ふとん》ぐるみ、そッと戸板へのせられた。そして、哀寂《あいじやく》とした夕暮、その戸板を黙々として守る人々が桃谷《ももだに》のかれの家へ移って行った。
その晩、早速源内も来てくれた。
傷を洗い金創《きんそう》を巻きかえなどされて、幾分気がハッキリしてきたが、万吉は夜になってしきりに昂奮しだした。
だが、深い話はできないらしい。弦之丞もなるべくそれを避けていた。無論、十九日の晩に、いよいよ四国屋の船に乗って、阿波へ立つということなどはおくびにも出さない。
まだ未来にどれ程な艱苦迫害《かんくはくがい》が待ちもうけているかは逆睹《ぎやくと》しがたいが、その決定だけでも話してやったら、さだめし万吉喜ぶだろう、耳に入れてやりたいのは山々で、聞かせてやれないのは辛《つら》いことだ。
それを知ったら、おそらく万吉の気性として、ジッと傷の癒《い》えるのを待ってはいまい。利《き》かない体を無理にでも寝床から這《は》いだすだろう。そして、憤死《ふんし》するかもしれない。
お綱は寝ずに看護をしていた。
弦之丞もその枕元を離れ得なかった。けれど、船出の十九日は、もう明日《あす》の夜とまで迫ってきた。
所詮《しよせん》、万吉は残して行かねばなるまい。罪のようだが、ある時期まで、それをいわずに、黙って立つよりほかに道はない。
何かの支度もあるし、留守の間に、また四国屋のほうから手筈の都合を知らせてきてあるかもしれないので、そのほうも気が気ではなく、弦之丞はお綱とお吉にソッと言いふくめて、先にひとり桃谷から帰ってきた。
十八日の晩である。
明日の夜の今頃は、もうこの大阪を離れている。
阿波へ指して行く船のうちに暗い海風を聞いているのだ。
と思うと、かれの胸は躍ってくる。耳には紀淡《きたん》の潮音《ちようおん》がきこえてくるような心地もして。
「だが……」
とまた口惜《くや》しまれるのは万吉の落伍《らくご》。
ふり仰ぐと空いちめんに星がある。
六根清浄《ろつこんしようじよう》、六根清浄、そうして、人生の嶮路《けんろ》を互に手をとり合ってきた道づれが、途中で凍《こご》えてしまったようなさびしさを感じた。
鳴門秘帖 第二巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫3『鳴門秘帖』(一九八九年九月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。