吉川 英治
鳴門秘帖(三)
目 次
船路の巻(つづき)
蜘蛛《くも》かがり
呉越同舟《ごえつどうしゆう》
茨《いばら》の愛嬌《あいきよう》
つづらの闇《やみ》
ふたりの死
狂瀾《きようらん》
剣山《つるぎさん》の巻
吉兆吉運《きつちようきちうん》
遍路《へんろ》の歌
血筆隠密書《けつぴつおんみつしよ》
原士《はらし》の長《おさ》
鳴門《なると》の巻
お千絵様《ちえさま》
いきうつし
闇《やみ》の手招《てまね》き
踊《おど》らぬ人影《ひとかげ》
渦《うず》と渦《うず》と渦《うず》
成《な》れの果《は》て
飴売《あめう》り傀儡《くぐつ》師《し》
お綱の両難《りようなん》
頭巾《ずきん》と侏儒《こびと》
山千禽《やまちどり》
船路の巻(つづき)
蜘蛛《くも》かがり
重喜《しげよし》が居城へ帰ってから無人になっている安治川屋敷は、大寺のように寂《じやく》としていた。白髪《しらが》のお留守居とお長屋の小者が、蜘蛛《くも》の巣ばかり取って歩いている。
で、誰にも遠慮のいらないここの侍《さむらい》部屋は、目下、天堂《てんどう》やお十夜《じゆうや》や周馬《しゆうま》にとって、またなきねぐらとなっている。
三人よれば文殊《もんじゆ》の智慧というけれど、この三人、寄るとさわると酒なので、智慧の出るひまもなさそうだ。
ゆうべも酒。けさも酒。
その酒びたりに倦《う》み果てて、やがてけだるくなると、お十夜は手枕をかい、一角《いつかく》は飴《あめ》のように柱へもたれ、周馬は徳利を枕にして仰むけに寝ころぶ。
「鳴《な》りをひそめているということは、何となく面白いな」
と、周馬がいった。
近ごろ新しくできた一個のニキビを疣《いぼ》のように気にしながら。
すると。
何か目算が立って居中《きよちゆう》悠々《ゆうゆう》としているもののごとく、天堂一角が朗吟|口調《くちよう》で、
「――山雨将《さんうまさ》にいたらんとして、さ」
と、つぶやくと、お十夜が周馬の口を写して同じようなことをくり返した。
「そうよ、鳴りをしずめているッてやつあ面白れえ」
そこでまた、気《け》だるくみんな黙ってしまう。
あくび、眠気、いやな鳴りをしずめたものだ。
だが三人のうなずいたのは、まさかそんな陶酔《とうすい》気分をいったのではあるまい。すでに、高津《こうづ》の舞台から、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》の姿さえ見ているのだから、いかな耽溺家《たんできか》にしても、なにか成算がなければ、こう悠々と構えてはいられないはず。
そのうちに周馬、ニキビへ来る蠅《はえ》をやりきれないように追って、仰むけから腹ン這いになった。
「もう飲まないのか」
「ああ、目にもたくさんになった」
「飲みちらした残肴《ざんこう》というやつは、まったく嫌なものだ。見ていると浅ましくなる、早く片づけてしまおうじゃないか」
と周馬は起き上がったが、孫兵衛《まごべえ》は目をふさいで横になったまま、
「もてあそんだ後の女が、邪魔くさくなるのと同じだ」と、いった。
「お綱《つな》でもか? あの女を手に入れても」
「さあ、そいつあどうだか分らないが、今まで手にかけた女はみんなそうだった」
一角はまた猥談《わいだん》かというふうに少しさげすんで、
「片づけるなら、宅助《たくすけ》を呼んだがいい」
「あいつ、そこらにいるかしら」
「最前、お長屋で門番と将棋《しようぎ》をさしていたようだ。その窓から大きな声をして呼んだら聞こえるだろう」
と一角が顎《あご》でいった。
周馬はちょッと癪《しやく》にさわったように唇《くち》をゆがめた。こんな時、いつでも一角の倨傲《きよごう》とお十夜の図々しさから、自分が立ち用をさせられるのが不満なのだ。
(よし、おれも一角のように構えて、お十夜のように図太くなっていよう)
かれは常に心のうちで、そういう工合《ぐあい》に修養しようと要心《ようじん》しながら、ツイ自分から口をだしては、自分から用を求めてしまった。
(まあいいわ、今にだ、今におれの真価も分るこった。旅川《たびかわ》周馬様、それ程のご人物であったかと、あとでこいつら、眼の玉を白くする時節があるんだ)
こう思って、周馬はいつも不満をさすった。で、今もちょっとむッとしたが、
「お、呼んでやろう」
気軽にいって、切窓《きりまど》から邸内を見廻した。
通用門から御用口までの広い間に、きょうは蜘蛛《くも》の巣取りのお留守居役も宅助も見えなかった。で、かれは、そこからお長屋のほうへ向って、
「宅助ッ――、宅助はおらんか――」
大きな声をくり返していた。
すると、通用門の袖《そで》から、ふたりの立派な侍が、邸内へ入ってきた。
ふたりの侍、門番がいない門小屋をのぞいて、不審な様子をしている。
周馬はそれにかまわず、なお大きな声を送っていた。
やっと、それを聞き止めた宅助と門番は、さしかけていた賭将棋《かけしようぎ》の駒をつかんだまま、びっくりしてお長屋の端から飛びだしてきたが、
「あっ」
と、出会いがしらに、たたずんでいた侍にぶつかッて、握りこぶしの持駒、金、銀、桂馬、バラリとそこへ撒《ま》いてしまった。
「や……おや」
と、あきれた顔をして、侍のひとりのほう。
「貴様は宅助ではないか、どうしてこんな所にいるのだ」
と、ジロジロ将棋の駒と宅助の顔を見くらべた。
そこで宅助がしきりに恐縮している様子なので、侍部屋の窓に寄っていた周馬、一角をふりかえって、
「誰か知らぬが、見なれぬ侍がふたり、いやに横柄《おうへい》に邸内へ入ってきたぞ」
と教えた。
「ふウ……どんな奴?」
周馬と顔をならべた一角も、そこから向うを見てびっくりした。
「こりゃいかん。早くそこらの皿小鉢を片づけよう、おいお十夜、掃除だ、掃除だ、その酒の徳利を隠しておけ」
「なんだ、たいそうあわてるじゃねえか」
「殿様の見目嗅鼻《みるめかぐはな》がやってきた」
「お目付か」
「なに、居候だ」
「居候?」
「ウム、いつか話したことのある、阿波の国の居候、竹屋三位卿《たけやさんみきよう》だ」
「ほう……」と孫兵衛も立って、
「もうひとりのほうは?」
「あれが森啓之助《もりけいのすけ》、宅助の主人だ。きゃつめ、お米《よね》をうまくやっておきながら、いやにきまじめな顔をして宅助を痛めておるわい」
「門番も叱られているな」
「今に、ここへもやってくるかも知れない。居候だが名門なので、殿様へ向って何でもしゃべるから始末が悪いのだ」
「ふたりが揃ってやってきたのは、何か国元に急変でも起こったのじゃないか」
「なに、暇に任せて、ちょっと様子を見に来たのだろう。先日も竹屋卿からの手紙を何げなく見ると、封には天堂一角先生などと書いて、中には、まだ弦之丞が討てぬのかなどと、極端に拙者を辱《はずかし》めてあった」
「皮肉なやつだな。しかし、公卿《くげ》にしちゃあ話せるほうだ」
「話せないのは森啓之助だ。あいつ何しに来おったのだろう? ははあ、お米のことが気になって、うまく竹屋卿の腰に取っついてきたな、いずれ、何か吾々の仕事にかこつけてまいったのだろう」
ささやいているうちに、竹屋卿は啓之助をつれて、脇玄関のほうへスタスタと入ってしまった。
宅助は押《お》ッ放《ぱな》されたように、こっちへ飛んできて、
「天堂様、ひどい目にあっちまいました」
と、侍部屋へいざりこんだ。
「どうした」
「まさか、やってこようたア思わなかった」
「真ッ先に、お米のことを問い詰められたろう」
「いいえ、そいつア側に竹屋様がおいでになっていたので、口にゃ出しませんでしたが、イヤに言葉の端でこずりながら、グッと睨みつけられました。睨まれるのは怖くはねえが、ほれ、あとのご褒美《ほうび》てやつにかかわってきますからね」
「は、は、は。だがお米の居所も、およそ弦之丞の周囲と見当がついているのだから、もう心配はあるまい」
「けれど、その弦之丞を、早くあなたがたの手で、眠らしてしまって下さらねえうちは、どうにもはなはだ困るんで。エエ、いずれ今に、人のいない所へ呼ばれて、旦那からお米はどうした、お米お米と、お米の化け物みてえに責められるに違いねえ。ああ困ったな。どうしましょう、天堂様」
「啓之助の囲《かこ》い女《もの》などを、拙者たちが知ったことか」
「おっしゃるとおりでございます、他人《ひと》の楽しむお妾なんぞは、なるだけ逃げてしまったほうが気味がようございますからね。ですが、わっしは追目《おいめ》の賽《さい》で、この目がポンと出てくれないと、虻蜂《あぶはち》とらずの骨折り損、ない身代をつぶしますよ。ひとつ、宅助を哀れと思って、なんとか助けておくんなさいまし。その代りに働きますぜ、エエどうでも、皆さんの顎《あご》次第にクルクル飛んで歩きます。先《さき》一昨日《おととい》だってそうでしょう。高津《こうづ》の宮《みや》へかかった時、わっしがお米を見つけたからこそ、だんだん糸に糸を引いて、弦之丞の居所やお綱の様子も分ったというもんで……。いずれ皆さんが、それを知りつつ、手を下さずに、シインと鳴りをしずめているのは、さだめしもう彼奴《あいつ》を、殺《ばら》してしまう寸法がついたんでしょうが、そのきッかけを見つけた手柄者《てがらもの》の宅助は、まだいっこう目鼻がつきません。その手がかりをつけた功に愛《め》でて、ねエ天堂様、ついでにお米も」
「おい、虫のいいことをいうな」
と周馬がからかうように、
「その手柄者は貴様ではない、高津の宮の遠《とお》眼鏡《めがね》だ」
「あ、なるほどネ」
と、頭をかいたが、如才なく、
「お願いしますよ、この通り、旅川様、お十夜様」
「うるさい奴だ」
苦笑しながら、皆ぞろぞろ次の部屋へ立ちながら、
「刷毛《はけ》ついでがあったらなんとかしてやる。だから、そこをきれいに掃除しておけ」と襖《ふすま》をたてた。
「けっこうです」
と宅助、不精《ぶしよう》をいわずに働きだした。
「弦之丞とお綱を片づけるその刷毛ついででけっこうです。どうれ、おれも掃除の刷毛ついでに……」
と、二、三本徳利の目量《めかた》を計ってみて、残っている燗《かん》ざましを、鼻の先へ捧げてくる。
「あるな。もったいない」
ごくり、ごくり、と酒の入ってゆく宅助の喉《のど》が、百足虫《むかで》の腹のように太った。
「おい宅《たく》べエ、うまくやってるな」
後ろで声がしたので、酒の雫《しずく》を拭きながらふりかえってみると、さっき賭将棋《かけしようぎ》をやっていた相手の門番、伊平《いへい》という老爺《おやじ》である。
「どうだ、おめえも」
「燗《かん》ざましじゃ、承知ができない」
「冗談いうねい、あの将棋はこわしじゃねえか」
「それじゃないよ。オイ宅さん、お前もなかなか隅へおけないね」
「な、なぜよ」
「ちょっとおいで、いいものを握らせるから」
「いやだぜ、小気味が悪い」
「これでもかい」
と門番の伊平、今、使屋が届けてきた女文字の手紙を、宅助の鼻の先へ見せた。
「おや」
見ればお米の手筆《てひつ》である。
封へにじんだ口紅も憎らしいが、あの女が、宅助さまへ――とはどういう風の吹き廻しだろう。
お米から、あのお米から手紙とは、ちょっと思いがけなかった。
宅助はなんだか、寝返りを打った自分の情婦《いろ》から来た文でも見るような気がして、封を切った。
だが、読もうとする前に、眉に唾《つば》をつけるくらいな戒心《かいしん》で、
「こいつあ、あぶねえ」
と小首をかしげた。
「おれに毒をのませてまで、振りきって逃げた女が、宅助様へ――と猫撫《ねこな》で手紙をよこすというのは少し変だ。ははあ、この間から、弦之丞に会っていやがるんで、それでなんだな、何か計略をかけてきやがったな」
まず、気を締《し》めてから目を通した。
さらさらと文字は軽く書いてあるが、宅助は眉に皺《しわ》をよせて渋読《じゆうどく》する。
「ええと、なんだッて。――いまさらかような文を筆にするもまことにおはもじとは思いひるまれ候えども、逢うべき面《おもて》はなおさらなく。チェッ、何を寝言《ねごと》をいってやがるんで、おはもじ面《づら》が聞いてあきれら」
いい加減に間を飛ばして、ぱっぱとしまいのほうを読んで行った。
「――そのため初めて人の無情《つれな》さをしみじみ身に知り申し候、まったく一途《いちず》に思いつめて心の知れぬ人の許《もと》へ走り候ことはかえすがえすも私の過《あやま》り、薄情な男に会うて今さら旦那様のお情けやそなたの親切も、はっきり夢のさめたるように分りたる心地――だッて、ふふん、ざまを見やがれ」
と、ここで宅助、溜飲《りゆういん》をさげた。
「断られやがったな、弦之丞に、ポンと肘《ひじ》を食やがったんだ。そこでおはもじながらと来やがった。かえすがえすもとおいでなすった。逃げた女の出来合《できあい》文句よ、あっちへ行って肘をくったから、こっちへコロコロ戻りますなんて、そうは問屋でおろさねえ」
と宅助のひとりごと、いつか森啓之助にのり移って、自分が旦那の腹になっている。
「断られるにゃきまっていら。法月弦之丞は今そんなことをしていられる場合じゃねえ。いや、弦之丞も人間だから、そりゃ、大望の途中にだって、痴話や口説《くぜつ》もやるだろうが、お綱という女がついている。ははあ、それでお米も目がさめたんだな。そうだ、そうに違えねえ。うむ、まだ、何か泣き言が並べてあるな。なんだって、……死ぬ、おや、死……」
手紙にしがみついて、終りの二、三行を幾度もくり返した。
旦那様へのお詫びに死ぬ――と書いてあるように読める。墨がかすれていて読みにくい、おまけに最後の折目からサラサラと少しばかりの髪の毛が落ちてきた。
「おや、いけねえ」
宅助は少し寒くなった。
「遺物《かたみ》まで入っていやがる。死なれちゃ玉《たま》なしだ」
それをふところにねじこんで、門番の伊平の所へ駈けてきた。この手紙を持ってきた使屋は? と聞くと、返事はいらないといって、すぐに帰ってしまったという。
「どっちへ行ったろう?」
「そいつは気がつかなかったが、いずれ、この屋敷を出て行くからには、春日《かすが》道《みち》か新堀《しんぼり》の渡舟《わたし》へ出るにきまっている」
「なるほど、で、服装《なり》は? 年頃は」と仔細を聞いて、あたふたと通用門の潜《くぐ》りから飛びだした。
使屋の服装《なり》は目につくので、七、八丁行くと追いついた。その男に、この手紙はどこの家から頼まれたかと聞くと、松島の水茶屋に休んでいる年頃の女で、返事はいらないといったが、まだ駄賃《だちん》は貰ってないから、私の帰るまでは奥にいるでしょうということだった。
宅助は使屋と一緒に渡舟へ乗った。
渡舟の中でかれはまた、
「待てよ、こいつが何かの策《て》じゃねえかしら」
と、考えなおしてみた。
だがお米の平常《へいぜい》を思うと、血の病《みち》を起こして泣いたり、わがままをいって飛びだしたり、平気で帰ったりすることは、阿波にいた頃からありがちで、それに、こんな手紙をよこして、こっちを計る必要が考えられない。
「もう逃げているんだからなア――」
ゆるく体を動かされながら顎《あご》をおさえた。
自分は外に待っていて、その使いに、言《こと》づてをした。
水茶屋へ入って行った使屋の男は、しばらくして、宅助の所へ帰ってきたが、
「あの、お目にかかるのが嫌だって、どうしても出ておいでになりません」
「おれに会うのが嫌だって」
「あ、違いました。その、面目ないというふうにいいましたので」
「そうか。駄賃は貰ったかい」
「エエ、ちょうだいいたしました」
「じゃ、いいよ、ご苦労様」
と、使屋を帰しておいて、宅助は、水茶屋の青すだれから奥を覗《のぞ》いた。
尻無川《しりなしがわ》を裏にした小粋《こいき》な四畳半に、うしろ向きになっていたのがお米だった。
会わないというのを無理に、宅助はその水茶屋の奥へ通った。
「あら、わたし、どうしよう」
穴でもあったら入りたいような姿態《しな》をして、お米は、袂《たもと》と一緒にうっ伏した。そして、
「宅助や。わたしは、旦那様にもお前にも合せる顔がない。すまなかった……すまなかったよ」
すすり泣きに泣きじゃくる。
「お米さん。じゃお前《めえ》は、ほんとに眼がさめたというのけえ。まさか、いつもの手管《てくだ》じゃないでしょうね」
「もうそんな、痛い傷にふれておくれでない。わたしは、お前へやった手紙にも懺悔《ざんげ》したとおり、すっかり覚悟をしたのだから」
「ふウん……まったく、眼がさめた、悪かったとおっしゃるんで」
「つくづく自分の浅慮《あさはか》さが分ってきたよ、こうしてお前にみじめな泣き顔を見られるのさえ、わたしは死ぬよりなお辛い」
「死のうなんて、悪い覚悟でさ。わっしも一時は赫《かつ》として、見つけ次第にと恨んでいたが、そう優《やさ》しくいう者を、なぶり殺しにするようなことはしますめえ。自分が悪いと気がついたなら何よりの話、わっしの役目もすむわけですから、一緒に阿波へお帰んなさいな」
「いくら私があつかましくても、あんなわがままな真似《まね》をしておいて、今さらお前に……」
「なに、わっしはかまやしません。別だん、旦那の見ていたことじゃなし、どうにでも、この宅助が内密にしておきますから」
「ア、ありがとう……」と、身を起こしたが、袂《たもと》は顔へ当てたままで、
「……宅助、ありがとうよ。怒りもせずに、お前が優しくいってくれればくれる程、わたしゃ、あの時のことがキリキリと胸を刺して」
「もうお互いに、そんなことは言いッこなしさね。お米さん、仲なおりに一杯やって、ひとつさばさばしようじゃございませんか」
宅助はまず九分までお米の悔悟《かいご》を信じた。
手を鳴らして女に酒を頼んだ。心得ている出合茶屋なので、酒を運んでくると、川に向ったほうの簾《すだれ》をおろし、御用があったらお手を、といって仕切襖《しきりぶすま》を閉めきって行く。
廂《ひさし》に赤々とした夕陽が照っている反対に、部屋の中は薄暗く感じられた。
「――気晴らしの妙薬、さ、おひとつおやりなさい」
と、盃洗《はいせん》の水を切って、お米に向けた。
「お酒かい……」
気のすすまない顔をして、
「よそうよ」
「そんなことをおっしゃらずにさ。これにゃ、鼠薬は入っていやしませんぜ」
「お前は、まだそれを遺恨に思っているのだろう」
「こいつは、悪いことをいいました。自分から水に流そうと誓っておきながら……。もう決して申しませぬ、さあ酌《つ》ぎますぜ。くよくよは虫のお毒、すなおに阿波へさえ帰ってくれれば、もう何の文句もありません。さ、お持ちなさいよ、盃《さかずき》を」
「じゃ、ほんのポッチリ……」
銚子《ちようし》の口と、盃のへりがカチと触れた。
しばらくすると、宅助、少し居ざんまいを壊《くず》してきて、白眼を赤く濁している。
ちびりちびり飲みながら、初めのうちは、微細な注意を払って、お米の懺悔《ざんげ》の真偽を観《み》ぬこうとしていたが、そのうちにその眼が、かつて気がつかずにいたこの女の美を発見して、すっかり心をとろかせた。
顔にも襟にも、彫《ほ》りの深い感じがある。青味の白粉《おしろい》に、玉虫色の口紅、ひどく魅惑的で、そして弱々しい病的な美だ。それは、決して肉感的とはいえないものだが、なぜか、男にひどい力を思い起こさせる。
「――これだな」と、宅助に分った気がした。啓之助が、この女に引きずりひん廻される所以《ゆえん》のものは、旺盛な若さを病魔が彫《ほ》り削《けず》った美貌であった。さらにその病魔に手伝おうとする男の残忍性であった。
宅助は、今日まで戒《いまし》めていた心を自由にあおって、のびのびとお米を眺めた。
「あら……」
お米は部屋の隅へ、ズ、ズ……と押されていた。いきなりだったので、どうしようもなかったが、力の差では争えなかった。
「な、な。……旦那に内証《ないしよう》にしておいてやるからよ。俺にだって、いいじゃねえか」
抱きあまるほどな腕の中に締めつけられて、お米は顔を振り動かした。
少し醒《さ》めた顔をして、お米と宅助は水茶屋の軒を出てきた。
松島田んぼの宵闇《よいやみ》がひろびろと戦《そよ》いでいた。
まだ蛍《ほたる》は出ないナ、と思うぐらいな風の味が感じられる。ふたりは疲れた歩き方をしていた。
「お近いうちに」
送りだす声を後ろに聞いて、宅助はニヤリとお米の顔を見た。意味のこもった目なのである。だがお米は、たッた今のことを、忘れたように取り澄ましていた。
「ヘン、なにもしないような顔をして!」
肚《はら》の中で宅助はつぶやいた。おかしい、くすぐッたいような気もした。
そして、女というものの持つ両面をすっかり観破したように思う。どうして、今あんなことをしながら、もうこういうふうに澄ませるものか、と感心した。
だが、俺にゃもう駄目なんだ――その片面を見せちまったんだから――許してしまったのだから、ふふん。
「ああ、いいあんべいに酔いがさめてきた。じゃお米さん、俺は屋敷へ帰《けえ》るからね」
「じゃ、私はこれから四国屋へ行って」
「うむ、船のほうの一件を、よく頼んでおおきなせえ。そして、明日の晩こそ、時刻をたがえず、船の出る所へ来ていなくっちゃいけませんぜ。わっしもそこへきっと行くから」
「大丈夫だよ。けれどねえ、お前……」
ふわりとお米が側へ寄ってきた。覚えのある肌の匂いである。で宅助、
「う? ……」と返辞が甘くなった。
「啓之助様が来ているっていうことだけれど、話しちゃ嫌だよ」
「なにをです?」
「あそこでのことさ」
「とんでもねえ、誰がそんなことを、自分からしゃべるやつがあるものか。御主人様の思い女《もの》と、ちょッと、変になって、何したなンておくびにも口を辷《すべ》らせようものなら、それこそ笠の台が飛びまさあ」
「じゃ、阿波へ帰るまで、何にも知らない顔をしてネ」
「万事は、わっしが心得ています。だがねお米さん、向うへ帰ると、もう小ぎたねえ仲間《ちゆうげん》なんかは、ごめんだよッていう顔をするんでしょう」
「宅助、そりゃあ、お前のことじゃないか」
「おっ、いてえ」
「行き過ぎやしないかえ、渡舟《わたし》の前を」
「そうだ。じゃ明日の晩にまた――」
小戻りをして渡舟の中へ飛び込んだ。
そこで、宅助と別れたお米は、反対のほうへ足を向けて歩きだしたが、ふとふりかえって、
「ちイッ……気色が悪い」と舌打ちをしながら襟前をかき合せた。
「あいつときたら、転《ころ》んでもタダ起きないのだから嫌になってしまう。人が狂言に涙をこぼせば、その弱音にツケ上がり、いい気になって、とうとう私にあんな真似《まね》をしやがってさ……」
と、赤い唇《くち》を舐《な》め廻して唾《つば》をした。
木津の水を越えて、いつか堀江の町へ入っていた。
その姿が、人混《ひとご》みにまぎれ消えたかと思うと、やがて、急いでゆく町駕の垂《た》れから、お米の裾《すそ》がはみだして見える。
「……これから四国屋の店へ行って、明日の船へ便乗を頼んでおいてから、すぐに駕を急がせれば、今夜のうちに、弦之丞様に会う時刻があるだろう……。どうしても、阿波へ帰る前に、もういちどしみじみと会って、何かの話をしなければ……。嫌な奴に身をまかせたり、嫌な所へ帰るのも、みんな、あの人のためと思えばこそ」
駕は、こんな考えを乗せて、廻船問屋の多い河岸ぶちを駈けていた。
四国屋の前へ着くと、お米は、阿波での顔見知りである、ここのお久良《くら》を思いだして、店の者に取次いで貰った。
「御寮人様なら、寮のほうにおいででございますから、そちらへお廻り下さいまし」
店の前で、荷造りをしていた者が、金鎚《かなづち》を指して、土蔵ならびの向うに見える黒塀を教えた。
宅助は、ふらりと、安治川屋敷へ帰ってきた。
屋敷の奥を覗《のぞ》いて見ると、三位卿《さんみきよう》を中心に、森啓之助、天堂、お十夜、周馬の五人が、ひどく厳《いか》めしい容態で、なにやらひそひそと密議をしている。
「いいあんばいに、お人払いの最中らしい。どれ、この間に少しお疲れを休めなくッちゃ……」
仲間《ちゆうげん》部屋へもぐり込んで、牛のようにゴロリとなった宅助、天井の闇へ鼻の穴を向けながら、お米の頸《うなじ》の白さを描いた。
三位卿に呼びつけられて、その人を中心に、何やら額《ひたい》をあつめていた書院の席では、ようやく密議のけりがついたらしく、各《めいめい》して、足のしびれをさすりながら立ち上がった。
有村《ありむら》の若い声は、例の調子で、
「では、明夜《みようや》の手筈《てはず》、ぬかりなく心得たであろうな」
と、立った所で、四人の者を見廻した。
あだかも、自己の家来でも頤使《いし》するように、
「こんどこそ弦之丞めを刺止《しと》めてしまわねば、絶大な恥辱じゃ。近く同志の公卿《くげ》や、西国《さいこく》からも諸大名の密使が、ある打合せのために、徳島城へ集まろうとしている。この秋《とき》にこそは、いよいよ天下多端、風雲急ならんとしている時じゃ」
少し話がそれてきたが、有村の熱と気魄にひき緊められて、なんとなく森厳《しんげん》な気もちにさせられた。
「その大事を目睫《もくしよう》にひかえて、先にもいったとおり、殿には無稽《むけい》な伝説などに囚《とら》われて、心神衰耗《しんしんすいもう》の御容態、また折も折に、俵《たわら》一八郎の死と築城中の出丸櫓《やぐら》の崩壊とが暗合したので、いよいよ気を病んでいられる。そんなことから、もし倒幕の鋭気がくじけるようなことにでもなっては、一天のおんために、また悪政の釜中《ふちゆう》にあえいでいる下々のためにも、悲しむべきことといわねばならぬ」
こういう意味のことは、さっきから密議のうちにもたびたび聞いた。と四人は少しくたびれを感じたが、三位卿の話には、いちいちこの慷慨淋漓《こうがいりんり》が必要であった。
「せめて天堂一角。早く、弦之丞を討ったという快報でももたらしてくれれば、少しは、殿の気色《けしき》も引き立とうかと、心待ちにしていたが、いつまで何らの沙汰もないので、もしもまかりまちがって、この場合に法月弦之丞が、阿波へ潜入することでもあっては大変と、実は心配のあまり、殿にも無断で、啓之助をつれ、ここへ様子を見にまいった次第――」
と、恐縮している一角を見すえた。
「時刻もそろそろ遅くなりますから、なるべく、御簡単に、ここを切りあげて」
と啓之助が注意をした。
「うむ」と、三位卿はうなずいたが、
「とにかく、まことにいい潮時に出向いてきたというもの、明日の夜、四国屋の商船《あきないぶね》へその弦之丞めが何も知らずに乗りこむとあれば、魚みずから網へ入ってくるようなものじゃ」
「討つ機会はたびたびであったが、必殺のところを狙って、こんどこそは遁《のが》すまいと、わざと鳴りをしずめていた吾々の苦心は、それこそ、門外漢にはうかがい知れぬものでござった」
一角は、三位卿の加勢に対して不快はないが、決してきょうまで無為《むい》にいたわけではないという意味をチラと、ここで釈明しておいた。
「大きにその必要もある」と、有村はうけいれて、
「せっかく、魚みずから網に入ってくるものを、騒ぎ立っては沖へ逸《いつ》してしまうだろう。この上とも、せいぜい明日《あす》の船出までは、鳴りをひそめていることじゃ。ところで――手分けの部署は今いったとおり、一角は孫兵衛と周馬をつれて、お船蔵の川番所に、きょうから出てゆく船を油断なく見張っているように」
「承知しました。そのほうはお心おきなく」
「夜半《よなか》、明け方などは、ことに注意いたしていてくれ。もっとも、わしはこれから啓之助を連れて、一応、四国屋の奥に身をひそめている。都合によっては、そのまま向うに止まって、船の出る明夜まで屋敷のほうへは帰らぬかもしれぬ」
「で、万一お帰りのない時は?」
「わしと啓之助とは、向うから四国屋の船に乗りこんだものと思っておれば間違いない。そして、船が当家の川番所の前へかかった時に、そち達がいっせいに、船検《ふなあらた》めと称して、中に乗りこんでいる者をはじめ、積荷から船底までくまなくただすことになる。その前に、十分わしも怪しい奴を睨んでおくから、万が一にも取逃がすことはなかろう」
三位卿が兵書の中から理窟をひいて、これなら必ず弦之丞とお綱を刺殺することができるという蜘蛛《くも》かがりの妙策はそれであった。
なるほど、策はいい、天魔といえども、これなら断じてのがしッこない手配だ。
けれど天堂はもちろんのこと、周馬やお十夜にしてみれば、骨の折れたのは今日までのことで、何も今になって若いお公卿《くげ》様の指揮はいらざることと思った。せっかく春夏の耕《たがや》しに汗水しぼって、秋の収穫《とりいれ》を他人にされてしまうようなものだ。
そういう不平はあったが、はるばる徳島から来た助太刀を断ることもならない。また、三位卿の手出しがあったにせよ、いずれ弦之丞を刺殺すれば、その手柄は三人の上に認められるのだ。こう考えて、一角、周馬、孫兵衛の三人は、永らくとぐろを巻いていた侍部屋から、お船蔵の川番所のほうへ移ってゆく。
今夜から明日《あした》の晩までは、交代で寝ずの川見張。
「また、酒がいるな」
と、お十夜が言った。
呉越同舟《ごえつどうしゆう》
隙を見て森啓之助は、あたふたと仲間《ちゆうげん》部屋を覗《のぞ》きに来た。そして、真っ暗な中に正体もなく寝そべっている鼾《いびき》を聞きとめると、
「宅助、宅助」
手荒く揺《ゆ》すぶって、
「起きろ! これ、起きろと申すに」
と、耳たぶを引ッ張った。
「あ、あ、むむ……」と、伸びをしながら身を起こした宅助は、喉《のど》の渇《かわ》きと耳の痛さを一緒に知った。
「やっ、しまった、旦那様でしたか」
「拙者の目から放たれているのをよいことにして、また酒ばかり食らっているの」
「どう致しまして、なかなかそんなところじゃございません。あのお米に、いえお米様にゃ、どれほどてこずったか知れやしません」
「そのために付けてやったそちではないか。だのに、何でこんな所にウロついているのじゃ」
「高津の宮で、天堂様にお目にかかりましたところが、やあ宅助か、ぜひ一日、安治川のほうへも遊びにこいとおっしゃったもんですから」
「たわけめ、あの一角などがそちにろくな智慧をつけおりはしまい。それよりお米はいかがいたした? お米の身は」
――そウらおいでなすった、と宅助は肚《はら》の中でおかしく思いながら、お米は今夜大津の叔父の所へ暇乞《いとまご》いに行って、明日の晩は、自分と四国屋で落ちあう約束になっている――と出まかせにいいくるめて、
「へい、ご心配にゃ及びません。この宅助が、はばかりながら、抜け目なく睨んでおります」
と安心させた。
「そうか、それならよいが、しかし、ここにちょっと困ったことが持ち上がっているのじゃ。宅助、何かうまい才覚はないか」
「お話しなすッてみて下さい、啓之助様のふところ刀、智者の宅助が頭をしぼってみようじゃございませんか」
「ほかではないが明日《あす》の晩」
「へい、明日の晩?」
「十九日だな」
「今日は十八日ですから、多分あしたは十九日でござんしょう」
「四国屋の商船《あきないぶね》に法月弦之丞が乗りこむことを知っておるか。かれのほかにもう一人、お綱とやらいう女も一緒に、それへ便乗しようとしている彼らの企《たくら》みを、存じてはおるまい」
「冗談いっちゃいけませんや」と、宅助は少し反《そ》って、
「それを最初に嗅《か》ぎつけたのは、この宅助でございます。へい、わっしが探って天堂様へ教えてやったことなんで」
「そうか、きゃつめ、いかにも己れの手柄らしく話しておった。でそのことだが、明夜そちやお米もともにあの船へ乗るとなると、三位卿や拙者と同船いたすことになるのだ」
「へえ、それじゃ、旦那や有村様も、あしたの晩阿波へお帰りになりますので?」
「いや、帰るが目的ではないが、弦之丞を取押えるために、今夜から四国屋へ潜《ひそ》んでいて、そういう手段をとるかもしれぬという相談になっておる。で万が一にも、三位卿と一緒になった場合は、なんとかしてお米をそれと知られぬように工夫をつけておかねば困る」
「なるほど、お米様やわっしが、三位卿様に見つかっては、その場合よろしくないとおっしゃいますので、ごもっともです、あのお公卿《くげ》様からまた殿様へでもしゃべられた日には大事《おおごと》ですからね」
「そうじゃ、そこを抜け目なく心得ておいてくれい」
「そもそもお米様のことについちゃ、ずいぶん初まりから心得通しでございますぜ。お国元へ帰《けえ》ったら、たッぷり……レコは……旦那のほうでもお心得でございましょうね」
その時、通用門まで出てきた竹屋卿は、待たせておいた啓之助の姿が見当らないので、
「森! 森!」
としきりに向うで探している様子。
「はっ、只今、只今」と啓之助。
外の声に急《せ》かれながら、紙入れを取り出して、せかせかと二朱金の粒を撰《よ》り、
「それ、これは当座じゃ」
と宅助の手へ握らせたが、出し惜しみをした紙入れのほうから、チリンと、二、三枚小判が辷《すべ》った。
「ほい」と宅助は腰を浮かして、
「この通りのお気前だから――」
如才なく土間へ下りて、その小判を踏んづけながら、
「命を投げても、御奉公のためならという気になってしまいますよ。おッと旦那、襦袢《じゆばん》のお襟《えり》が折れております」
追い出すように、仲間《ちゆうげん》部屋の戸を開けてやった。
あなたの闇には、三位卿の影が動いて、
「おい、森ッ、森はどうした」
と、待ちじれた声をしている。
「はっ、只今、只今」
と、それに答えながら、駈けだして行ったかれの月代《さかやき》に髷《まげ》がおどって見えた。
四国屋のお久良《くら》は、手代の新吉が心からの諫言《いさめ》を決して上《うわ》の空に聞いてはいなかった。
新吉が心配しぬいている通り、こんどのことが悪く発覚すると、店の土台へ亀裂《ひび》の入るような破滅になるかもしれない。
それはお久良も承知していた。また法月弦之丞やお綱たちが、何のために阿波の関を越えようとするのか、それもうすうすは察していた。
「けれど、あの方たちには、木曾路でうけた御恩があるのだからね」
今も寮の奥で、お久良はその新吉を前にしながら、深い吐息《といき》をもらしている。
「そりゃ恩はありますが、お家様のように、そう義理固くお考えなさらずに、店の船へ抜け乗りをさせることだけは、態《てい》よくお断りなすってはどうかと存じますが」
「私の気性《きしよう》として、そんな恩知らずのまねはできませぬ」
「じゃ、どうしても、明日《あした》の船へ」
「ああ、何とかいい工夫をして、阿波まで乗せて行ってあげておくれ。それだけのことさえして上げれば、後はとにかく、私の心だけはすむのだから」
新吉は口をつぐんでしまった。そしてもう止《と》めるような諫《いさ》めはしまいと思った。お家様は恩を楯にとって動かないが、お久良が江戸の生れだということに気づいて、恩という以外に江戸|贔屓《びいき》な、一種の加担がその心にまじっているのを覚《さと》ったからである。
「よろしゅうございます。それ程までにおっしゃるなら、なんとか思案をいたしまする」
「どうか、いいように、計らっておくれ」
「その代りに、お家様、あなたは大阪に止《とど》まって、今度の船でお帰りになるのはお見あわせなすって下さい。さすれば、すべてこの新吉が一存でしたこととして、万一の時にも、お店にはかかわりないように言い抜けまする」
「万事お前に任せておきましょう」
「ありがとう存じます。そうお任せ下されば、私の方寸《ほうすん》次第ですから、よほど気軽にやり抜けられる気がいたします」
「ただ案じられるのは、安治川を出るまでの間。えびす島には御番所があるし、蜂須賀様のお船蔵の前でも、いずれ厳しいお検《あらた》めがあるに違いない」
「さ、私も、それを頭痛にやんでいるのですが……」と、新吉は腕をくんで、顔をふところへ突っ込むように考えこんだ。
「もしも大阪を離れないうちに、露顕《ろけん》するようなことにでもなると、わざわざ恩を仇で返したような形になりますからね」
「荷物と違って人間ですから、よほどうまくやりませんと」
「何か、いい思案がうかばないものかしら」
明日の積荷に目を廻している店の忙《せわ》しさをよそにして、お家様の部屋は、いつまでも静かに閉めきってあった。
ところへ、お米が寮の小門から、お久良に会いたいといってきた。
お久良は、別な者を会わせて用談をきかせた。なんとかいい思案のつかないうちは、そうしていられない気持であった。
お米の用向きは、自分と仲間《ちゆうげん》との便乗を頼みたいというだけで、阿波の家中《かちゆう》から貰ってきた船切手《ふなぎつて》も所持しているとの話に、それなら明日の時刻までに、大川岸の船待小屋まで来あわせて下されば、取計らっておきます、と答えさせた。
それからも、明日の船出について、絶えず細かい用事がお久良の耳へ届いた。まだ一日の間があるのに、もうすぐに迫っているような気忙《きぜわ》しなさが、つぎつぎにその部屋へ運ばれてくる。
「あ! お家様」
さっきから黙然《もくねん》と腕をくんでいた新吉は、やがて、不意に膝を打って、
「よい思いつきがございました」
と前へ乗りだしてきた。
「えっ、いい考えがうかんできたかえ」
「これよりほかに策はございませぬ。というのは、その……」とお久良のうしろを指さして、
「京都の梅渓右少将《うめたにうしようしよう》様からお頼まれしてある、その三ツの荷《に》葛籠《つづら》……」と言いかけて恐ろしさに唾《つば》をのんだ。
差された指につれて、お久良の眼もうしろへうごく。
そこには、雪のせ笹《ざさ》の金紋を印した三つの青漆《せいしつ》葛籠《つづら》が山形に積みかさねてある。このつづらは、すなわち京の堂上《どうじよう》梅渓家《うめたにけ》から、徳島城へ送るべく、四国屋に託されたものだった。
暗黙のうちに、ふたりの心がうなずきあった。
新吉は合鍵《あいかぎ》を探して、そのつづらの一個へ手をかけた。
「お家様! お家様」
その時、あわただしい足音をさせて、小間使が知らせてきた。
その小女は、阿波の家中が見えた時は早く奥へ知らせるように、と前からお久良に言いふくめられていたので、
「あの、今ここへ、竹屋三位卿というお方に、森様という御家中が通っておいでになります」
と、おどおどした声でいった。
「えっ、三位卿様が?」
ふたりは、自分が離した合鍵の音にギョッとした。
白い光の紋流《もんりゆう》は五《ぐ》の目《め》みだれに美しく沸《に》えあがって、深みのある鉄色《かねいろ》の烈しさと、無銘ではあるが刃際《はぎわ》の匂いが、幾多の血にも飽くまいかと眺められる。
はばきから鋩子《ぼうし》まで、目づもり三尺ばかりな関《せき》の業刀《わざもの》。
それが、灯明《あかり》の前に横たわっている。
藍《あい》のような刀身からチカッと一波《いつぱ》の光もよじれぬほど、静かに、それを持ちこたえているのは法月弦之丞であって、その切《き》ッ尖《さき》と行燈《あんどん》の向うに、息づまったように坐っているのは川長のお米であった。
ここは、京橋口の船宿、鯉屋《こいや》の二階。
少し風が強くなってきたのか、或いは、さしも夜更けてきたせいか、ドボリ、ドボリ、という川波の音が灯皿《ひざら》の細い焔《ほのお》を揺《ゆ》するかに聞えてくる。
お米は今この二階へ上がってきたばかりであった。四国屋へ行って明日《あした》のことを頼んでおいてから、すぐとその駕《かご》をここへ廻し、そして裏二階へ上がってみると、弦之丞がただひとりで燈下に刀の手入れをしている。
かれの眼が刀の肌に吸いつけられたまま、自分の姿が迎えられもしないので、お米はやや不平がましく、前に坐ったのであるが、氷のような光を見ると、駕のうちから考えてきた恋の言葉や媚《なま》めきも萎《な》えおののいて、ジッと息をのんでしまった。
早く鞘《さや》に入れればよいのに――
こう思いながら耐えていた。
けれど弦之丞はいつまでも、刃斑《はむら》にとどまる過去の血の夢に見入っている。もちの木坂で斬って斬って斬り飽いたあの夜の空模様は、なおまざまざとしてここに影を宿している。
これから先もこの無銘《むめい》の刀が、幾多の血を吸うべき運命をもつのであろう。法月弦之丞という持主の白骨となる日が来た後も、人手から人手へ転々として、愛慾の血にぬられて行くに違いない。
そんな想像をえがくらしく、かれの眸が、ふと、お米のほうへうごめいた。お米は、なんということもなく後へさがらずにいられなかった。
凄艶な癆咳《ろうがい》の女と刀の姿とが、その美を研《と》ぎ合って争うように見られたが、弦之丞は刀をやや手元へよせて、軽く打粉《うちこ》をたたいていた。
その手のひまをながめて、お米は少し気が休まったように話しかける。
「あなたのおいいつけを守って、私もいよいよ明日《あした》は阿波へ帰ります」
「…………」
弦之丞はうつむきながら、膝のわきを探っていた。ゆうべ一晩中水に浸《ひた》しておいて日蔭干しにした奉書紙が、綿のように揉《も》んである。
かれはそれを掌《て》にとって、軽く、刃《やいば》を噛ませた。
指を切りはしまいかと、お米は女らしく危ぶみながら、
「あなたは?」といった。
「拙者も」
右手の刀をしごき、あざやかに拭き抜いて、
「――明日《あす》は大阪を立つつもりじゃ」
「すると、やはり一緒の船でございますね」
それには答えず、鞘《さや》をよせて音もなく刃《やいば》を納《い》れると、階下《した》から梯子《はしご》のキシム音がして、
「お客様」
と、亭主の顔が暗い中に伸びて。
「この間も見えた四国屋のお使いが、ちょっとお顔を貸して貰いたいといって、裏に待っておりますが」と、いって降りた。
救われたように後《あと》について立とうとすると、お米は急いで、
「あの、弦之丞様」と側へすがった。
「船はご一緒でも、私には宅助といううるさい者が付いていますし、阿波《むこう》へ行っても、また落ちあえるまでは、しばらくお別れでございます」
「それは、ぜひもない辛抱ではないか」
「ですから……あの今夜だけ、ここへ泊めて下さいませ」
「明日の支度もあり、何かと忙しい場合、悠々《ゆうゆう》と話などしている間《ま》はない」
「でも、もう遅くなってしまったのですもの」
「いや、そちの乗って来た駕屋の声が、まだ表のほうでしている様子。早くそれで帰ったがよい」
素《す》げなく立ち上がったが、なお念を押して、
「ことにこの家のまわりにも、宵のうちから原士《はらし》らしい者がウロついている。万一そちの不覚から、これまでの手筈を破るような場合には、もうふたたびこうして会う折はないぞ」
と、少し語気を強く言った。
お米はしかたがなく、帰りそうにした。それを見て弦之丞はトントントンと梯子を降り、裏口から外の闇を覗いて見る。
水口から少し離れた所に、苔《こけ》のさびた石井戸があり、その向うに暗い笹藪《ささやぶ》がある。
縞《しま》の着物をきたひとりの男が、こっちへ手招きをしてみせた。
「新吉か」
と、弦之丞が闇を透かしてゆくと、
「へい」
両方から影が寄り合った。
「何か明夜《みようや》のことで? ……」
「さようでございます。いよいよ雲行きがあぶなくなりましたので、それでお家様《いえさま》のご注意から、ちょっとあなた様のお耳へ」
「ではまた何か、明日の都合でも変ったと申すか」
「いえ、そういうわけじゃございませんが」
弦之丞とともに、鯉屋の裏に立った四国屋の新吉は、さらに声を低くして、
「実は今夜突然、竹屋三位様が寮へお越しになりました。で明晩のことについて、お家様も蔭《かげ》ながらひどくご心配いたしております」
「や、あの若公卿《わかくげ》が見えたと?」
「だいぶお疑いをもってるらしいお口ぶりなので」
「さては早くも下検分《したけんぶん》にまいったの」
「そうとも明らかにおっしゃりませんが、困ったことには、その三位卿と森啓之助様が、やはり店の船へ便乗させて貰いたいとおっしゃるのでございます。これはどうも断《ことわ》るわけにはまいりませんので、胸ではギクリとしながらお引請けしてしまいました。そこで明晩の手筈ですが、なにしろそんな按配《あんばい》で、ただお身装《みなり》を変えたくらいでは、とても露顕《ろけん》せずにはおりませぬ」
「ううむ……いよいよ難儀が重なってきたな」
「そこで、少々お苦しいかもしれませんが、ふた夜ばかりの御辛抱、こうなすッたらいかがであろうかと思いついた一策を、御相談にまいりました」
「その策とは?」
「京の梅渓家《うめたにけ》から徳島へ依託されました三ツの葛籠《つづら》がございます。それも明日《あした》の便船へ積みこむことになっておりますので、ひとつ、そいつをからくりして」
「しッ……」
といわれたので新吉が声をのむと、そのとたんに、弦之丞の手裡《しゆり》を離れた小柄《こづか》が、キラッ――と斜めに闇を縫《ぬ》って行った。
ちょうど小柄が届いたころ、井戸側の蔭で、ウームという人の呻《うめ》き――忍び頭巾をまとった影がゴロゴロとのた打って転げだした。
それは、かれが宵から察していた、阿州屋敷の廻し者であった。
ザアッ……とそよぐ笹やぶを透《す》いて、その時、駕の提灯《ちようちん》が人魂《ひとだま》のように向うを過ぎてゆくのを見た。
新吉がうごめく侍に目を白くしている間に、弦之丞はお米があきらめて帰ったことを知った。
* * *
「お綱……」
そッと門《かど》から呼ぶ者があった。
いよいよ阿波へ立つというその日の黄昏《たそがれ》。
薄暮の色がうッすらと沈んでいる桃谷の町端《まちはず》れ、天満《てんま》の万吉《まんきち》の家の前にたたずむ侍が低く呼ぶ。
紫紺《しこん》色の宗十郎頭巾を、だらりと髷《まげ》の上からくるんでいる横顔が空明りのせいかくッきりと白い。
両刀は手《た》ばさんでいるが、どこか華奢《きやしや》な風俗、銀砂子《ぎんすなご》の扇子《せんす》を半開きにして口へ当て、
「お綱……」
と細目に格子を開けて覗《のぞ》く。
と、やがて内から障子が開《あ》かって、
「弦之丞様ですか」
とお綱の半身。
「時刻が迫っている、すぐに」と急《せ》いた。
「はい」
「支度は」
「すっかりしておきました」
「では……万吉には告げずに」
「お吉《きち》さんへ、ちょっと挨拶《あいさつ》をしてまいります」
「これを渡してやってくれ」
内ぶところから厚ぼったく封じた手紙を出して、
「拙者たちが立ったあとで、万吉がそれと知ったら、さだめし恨みに思うであろう。委細の事情、やむなく書き残して阿波へ立つわけ。昨夜こまごまと書いておいた。これをお吉に渡して、後で病人に読み聞かせてくれるように、よく頼んでおいたがよい」
あれからずっと、万吉の家にいて、お吉と一緒に病人の手当てをしていたお綱は、もう朝から弦之丞の来あわせるのを待ちぬいていたところ。
浅黄《あさぎ》の手甲脚絆《てつこうきやはん》をつけ、新しい銀杏《いちよう》形《なり》の藺笠《いがさ》と杖《つえ》まで、門口に出してある。
もし万が一にも露顕《ろけん》した時には、四国屋で世話をしたことのある旅の能役者、桜間金五郎《さくらまきんごろう》といつわるから、なるべく身装《みなり》もそれらしくしてくれという新吉の注意だったので、お綱もあらかじめそんな支度。
「もし……お吉さん」
中二階を仰むいて、お吉へ軽く合図をしたが、なかなかおりてきそうもない。
お吉は、今の良人《おつと》の容体ではとても起《た》たれないのを覚悟しているので、ふたりが立つのを、病人が気《け》どらないようにと祈っている。で、その合図も心得ている筈だった。
何か手離せないことがあるのだろうと、お綱はしばらく梯子《はしご》の下にたたずんでいたが、なかなかお吉は降りてきそうもなく、病人のじりじりした調子で、
「むむ、いまいましい……早くどうかしてくれ、おれの体を。おれはまだ剣山《つるぎさん》まで行かなくッちゃならねえ。……お吉ッ。医者を代えてくれ、医者をよ。こんな気の永《なげ》え療治《りようじ》なんかを待っていられるものか」
という声がひびいてくる。
中二階の悲痛な声を耳にすると、大事の前の小事と、心を鬼にしてきた弦之丞も、かれを残して去ることは情《じよう》においてしのびなくなった。
梯子の下にしゃがんだまま、お綱もさすがに後ろ髪をひかれている。
「ううむ……また痛みはじめてきた。お十夜のやつに斬《や》られた傷が……お吉、ほかの医者にみせてくれ、この傷が……この傷さえどうにかなれば、立てねえという筈はねえ。阿波へくらい、行けねえということはない」
「あ、お前さん、そんなに無理に動くと、よけいに後が悩むじゃありませんか」
「だって、じれッてえからな。あ……お吉」
「水ですか……水ですか」
「ううん、水じゃあねえ。……弦之丞様はどうしたろうな」
「ひとりでご苦心していらっしゃいますよ」
「四国屋のほうはダメになったのか」
「そんな話でございますけれど……」少し落ちついた模様を見て、お吉は梯子の上から顔を覗《のぞ》かせた。
そして、去りがてに、ためらっているお綱のほうへ、目まぜで早く立つようにいった。お綱も、目まぜで別れを告げる。
それをしおに、目に涙を溜めながら、編笠を抱えて格子の外へ走りだした。
後では、また万吉が何かわめいているらしかった。弦之丞は暗然として、外から、中二階の窓を仰いでいる。
その窓に、お吉のやつれた顔が見えた。
ご機嫌よう……と目にいわせて。
ふたりは夕明りの中に姿を揃えて、その目へ、その二階へ、心からの哀別を告げて早足に立ち去った。
東堀はドップリと暮れていた。
赤い灯影《ほかげ》が映《うつ》る隙間《すきま》もないほど、川には艀舟《はしけ》がこみ合っている。四国屋の五ツ戸前の蔵からは、まだドンドンと艀舟へ荷が吐かれている盛りだった。
水脚《みずあし》を入れた艀舟は、入れかわり立ちかわり、大川へ指し下り、天神の築地《つきじ》へ繋《かか》っている親船へ胴の間《ま》をよせてゆく。
紫紺地《しこんじ》の頭巾に面《おもて》をくるんだ弦之丞と、青い富士形の編笠に紅紐《べにひも》をつけて、眉深《まぶか》くかぶったお綱とは、せわしない往来をよけて、農人橋《のうにんばし》の手欄《てすり》から川の中を見下ろしていた。
そうした雑踏の中で見るだけ、よけいに二人の姿は、誰の目にもしがない旅芸人とよりしか見えない。よく世間にある侍くずれの能役者と、それしゃの果ての女とが、生活《たつき》の旅に疲れたという姿だ。お綱が帯に秘《かく》し差《ざし》にした柳しぼりの一腰さえ、尺八の袋か、笛や舞扇でも入れているかと、人目もひかぬほど調和していた。
「もし、桜間《さくらま》さん」
人混みの中をぬけてきて、なれなれしく呼びかけた者がある。
見れば、手代の新吉。
河岸どおりから姿を見かけて、約束どおり店からここへ駈けてきたのだ。
「お、新吉さんでございます」
言葉を合せると、往来の者へも聞こえよがしに。
「この間、旅先から手紙を寄越《よこ》しなすったそうだが、なぜもっと早く来ないのかって、お家様も噂《うわさ》をしていたのさ。船が出るのは五《い》ツ刻《つ》だから、まだちょっと間がある。とにかく、寮のほうへ廻ってお目にかかって行きなさい。なに、せわしい最中だが、私がちょっと案内をして上げましょう」
と無造作に、さッさと先へ立って、わざと店の前を通り抜けて行った。
その三人とすれ違った覆面《ふくめん》の侍があった。ふりかえったが、やり過ごして、また、
「はてな、今の奴? ……」というふうに、農人橋の上に立って、腕ぐみをしていた。
するとたちまち、その覆面の侍へ、同じような目ばかり光らした者がちらちらと四、五人ばかり寄ってきて、
「おい、何を考えている?」
と、肩を叩いた。
「見つけた!」
腕ぐみを解いた侍は、ほかの者を突きのけるように走りだして、一散に、問屋町《といやまち》の裏通りへ隠れて行った。
それが誰からともなく伝わると、そこらの路次の蔭、天水桶の蔭、土蔵の横などから、こうもりのような黒い姿がうごめきだして、しきりに四国屋の裏や寮の辺へかけて、ひそかな跳躍をしはじめた。
りりりん……と潜《くぐ》り門の鈴が揺すれる。
後をがらがらと閉《し》めて、
「さ、桜間《さくらま》さん、どうぞこちらへ」
と、新吉の声が招く。
船板塀の中はシットリと打ち水に濡れていた。
燈籠の灯が、暗きに過ぎず明るきに過ぎないほどに、植込みの色を浮かしている。
「変ったでございましょう」
そんなことを言いはじめた。ひとり呑《の》みこみに新吉が。
「この庭もね、すっかり手入れをいたしましたから。はい、近頃ではお家様も、阿波よりは大阪《こちら》のほうが住居みたいになってしまってな。さあ、ご遠慮なく、私について――」
ひとつ、ひとつ、前栽《せんざい》の飛び石をさぐりながら、弦之丞とお綱とは黙々としておぼろな影を新吉の後に添わせてゆく。
と。
拭《ふ》き艶《つや》の流れている檜縁《ひのきえん》に、
「新吉かい?」
とお久良《くら》の影。
案じていたらしく立っていた。
「はい、お連れ申してまいりました」
「来たのかえ? 金五郎さんが」
「あまりご無沙汰しすぎているので、どうもしきいが高いとおっしゃってばかりいるので」
「そんなことがあるもんじゃない……。あの……」何か言いよどんでいたが、
「まあ、とにかく、奥へね」
「そちらのお方も」
とお綱を見た。
さすがに少し動悸をうちながら、お綱は編笠の紐《ひも》を解く。
「では……」
と言葉すくなく、弦之丞は頭巾のまま、お久良について、中廊下から奥まった寮の一間《ひとま》へ。
裾《すそ》を下ろして、やや急《せ》かれ気味に、お綱の入ったのと一緒に、その編笠を持ってやりながら、手代の新吉も同じ奥へ姿をかき消す……。
――で、あとは人影もない。ただ前栽の木々に、蛍《ほたる》のひそむような静寂《しじま》が残っていた。
「眠いのか! 啓之助」
西側の数寄屋《すきや》である。
やはり同じ前栽の風致《ふうち》を前にした小座敷。
そこでこういう声がした。
竹屋有村が言ったのである。イヤ、叱ったのである、森啓之助を。
なぜ叱られたかといえば、啓之助、三位卿の前で、コクリとひとつ居眠りを見せた。
時刻の来るまで、ふたりはここで四国屋のもてなしにあずかっていた。それも昨夜《ゆうべ》からの話である。船待《ふなまち》にしては長過ぎるし、多少寝たには違いないが、絶えず気を張っているので、頭も鈍重《どんじゆう》になっているところへ、船出祝《ふなでいわ》いに出された酒も少しは飲んでいたので、思わず、居眠りも出たというわけ。
だが、三位卿はピンとしていた。さすがにお公卿様の育ちである、折目正しく神経を冴えさせていた。
で、仮借《かしやく》なく、
「眠いのか!」ときめつけた。
「いや、決して」
啓之助はあわてて顔を撫で廻したが、自分でも、赤かろうと分るほど目が渋かったので、てれ隠しに箸《はし》をとり、わさびを溶《と》いて魚の洗いをひと切れはさむ。
「決して、眠いなどと、そんな場合ではござりませぬ」
「お手前はちと物を食《あが》りすぎる、食べるから眠くもなる」
「はい、つい無聊《ぶりよう》のままに」
「無聊を感じられるほどお楽《らく》にいては困る。昨夜からとくと見るに、お久良の気ぶりにも多少|腑《ふ》に落ちぬ所もあり、かたがた油断はならない」
「拙者もそう感じましたが、証拠のないことにはと控えています」
「うむ」
「ことに、お久良のもてなしぶりが、あまりよすぎるのも疑わしゅうござる」
「なかなかご敏感じゃの」
「嫌な顔もみせず、この通りな善美な膳」
「それでツイ、箸がすぎ盃がすぎて、居眠りをし召されたか」
「そんなわけでもござりませぬが」と啓之助も少し眼がさめてきた。皮肉で居眠りをさまされた。
三位卿は膝もくずさず、時々、うしろの自鳴鐘《とけい》をふりかえっていた。眼のさえた啓之助の頭には、船出《ふなで》のことと一緒に、お米の姿が描かれてくる……。
どうしたろうか、彼女《あれ》の体の工合は?
大阪へ戻ってきては、また癆咳《ろうがい》のほうがよくないのではないかな?
最初にこういう考えが頭へのぼる。
捨鉢になって人をてこずらす時には、実に憎い始末の悪い女と思うが、しばらく離れてみると、やはり自分にはなくてならないお米だった。
ほんの十四、五日というつもりで暇をやったのに、もう大分になる。もっとも船の都合ものびたのだが。
今夜は宅助と一緒に、ここの持船で阿波へ帰るといったが、どこかで、久しぶりに、あいたいものだ。いずれ船が出る間際《まぎわ》には顔を見合す機会はあろうが、この竹屋卿という眼ざといのがいては、うっかり話も交《か》わされまい。
啓之助の想像は楽しかった。
その時であった。
植込みを隔《へだ》てた向うの潜《くぐ》り門に、空気のうごめきを感じて、有村が神経を研《と》がしたのは。
「今……」
三位卿の様子が剃刀《かみそり》のように澄んだので、啓之助、
「何でございますか」
描いていた空想を散らして、その人の眼を見た。
「……鈴《りん》が鳴ったようだが」
「庭の客門には銅鈴《どうれい》がついておりました」
「誰かそこから前栽《せんざい》の内へ入ってきたのではなかろうか」
「探《さぐ》ってみましょう」
「ウム」
啓之助はすぐに立った。
数寄屋の虫籠窓《むしかごまど》へ顔を寄せ、しばらく外を探っていたが、庭木に妨《さまた》げられるので、縁へ立って行くと、
「しずかに」
と有村が注意を送った。
「は」
白《しろ》足袋《たび》に辷《すべ》りそうな廊下、酔いでもさますふうを粧《よそお》いながら母屋《おもや》のほうをうかがってゆくと、その目の前へ、簾《すだれ》のような灯明《あか》りの縞《しま》がゆらゆらとうごいて。
「あ――もし」
と、簾戸《すど》を立てた部屋の内から、
「森様じゃございませんか」
とお久良の影が透《す》いて見える。
啓之助はちょっと戸まどいをして、
「お内儀か、船の時刻は、まだなのであろうか」
「刻限がまいりましたら、お座敷へお迎えにまいりますはずなので」
「さようであったな」
廊下をぶらぶらしてみたが、しかたがなく、
「では」
と戻ろうとすると、
「森様、森様……」と呼び止めて、お久良はその部屋へ行燈《あんどん》をすえて、
「お伺《うかが》いしたいことがございますが」
「拙者に」
「はい」
簾戸《すど》を開けて迎え入れると、お久良は啓之助を見ながら、意味ありげに笑《え》くぼを作って、
「今夜の船で、あなた様のご懇意《こんい》なお方も、阿波までお送りいたすことになっております」
「ああ、そうであったな」
お米のことであろうと、啓之助、少し間《ま》が悪そうに思い当たって、
「つい、礼を申すのも忘れていたが」
「いえ、滅相《めつそう》もござりませぬ」
「船に馴れぬ女のこと、何分、途中気をつけてやってくれい」
「たいそうお美しくっていらっしゃいます」
「いや、なに」
と顔を撫でるのを、お久良はニヤニヤ眺めていたが、
「なぜご一緒になって、途中見てあげないのでございますか。殿方の薄情を、さだめしお米様もお恨《うら》みでございましょうに」
「そう申されると困るが……」
「でも、せっかく、ひとつの船でお帰りなのではございませぬか」
「実はの」
と顎《あご》で数寄屋を指しながら、
「竹屋卿には話されぬ女なのだ」
「ホ、ホ、ホ。それは悪いご都合でございますこと」
「で何分、内密に計らっておいてくれるように」
「よろしゅうございます。そういう訳《わけ》とは存じませんので、只今、船のお席もご一緒にしたほうがよくはないかと、あちらへお伺いに出るところでございました」
「いや、とんでもないこと!」
何をしに廊下へ出たのか分らない結果になって、啓之助はぼんやり数寄屋へ帰ってきた。
有村は彼を見るなりすぐに、
「どうであった?」
と声を低めた。
「別に、仰せられたような模様も見えませぬが……」と啓之助はあいまいに席へついて、
「お耳のせいでございましょう」といった。
すると、その言葉も終らないうちに、ふたりの坐している床の下から、ことん、ことん、と二ツばかり突き上げるような音がした。
自分の坐っている床下から、トンと、妙な音が突きあげてきたので、森啓之助、思わず体を浮かしかけていると、
「お」
といって、三位卿も片膝を立てた。
そして、啓之助に向って、
「しばらくの間、庭先とその入口を、よく見張っていてくれぬか」という。
「は」
とは答えたが、啓之助には解《げ》せない。
何で? と訊《き》こうとすると、よけいなことは訊くなといわないばかりに、
「早く」とまた言葉を重ねる。
「承りました」
と啓之助、やっと縁口へ立った。
そして、ともかくも、油断のない目を配りながら、有村の挙動へも、時々注視を分けている。
三位卿は、静かに、あたりの器具を片寄せて四角に切ってある炉畳《ろだたみ》をブスッと持ちあげた。
「や? ――」と、啓之助が驚いて見ていると、有村は、半《なか》ばまで上げた畳のへりを片手でささえながら、暗い穴を覗《のぞ》きこんで、
「ふム、不審な姿をした者が……新吉とともにこの寮の潜り門へ、ほウ、桜間《さくらま》……桜間金五郎と申すと能役者らしい名前……なに、たッた今奥へ入ったというか、おお……そしてどこの部屋へ? ……」
などとしきりに床下と話しはじめた。
下には覆面をまとったひとりの原士《はらし》――さっき農人橋《のうにんばし》の上で腕をくんだあの侍が――蟇《がま》のように身を屈していた。そして今、この寮の裏で見届けた事実を告げている。
能役者――桜間金五郎――紫紺の頭巾に銀杏《いちよう》笠《がさ》の女? ――それらを端的に頭の中でつづり合せながら、三位卿、しばらく小首をかしげた後、
「これ」と、いっそうかがみこんで、
「ことによるとそやつこそ、弦之丞にお綱のふたりであろうもしれぬ。しかし、迂闊《うかつ》に先へ気《け》どられて、せっかくこれまでおびきよせた長蛇を逸してしまっては何もならぬ」
ギリギリギリ……と髪切虫《かみきりむし》の啼《な》くような自鳴鐘《とけい》の音が、その時、有村の後ろでした。
ちらとふりかえって、
「ウム、もう六刻《むつ》半《はん》」と心をせわしなくしつつ、
「船の出る潮時《しおどき》までは後一|刻《とき》(今の二時間)ほどしかない。その間にとくと見定めておきたいが、どこじゃ、その男女《ふたり》が隠れた部屋は?」
「それと見た時に母屋《おもや》の下も探りましたなれど、何せい、床下からはその見当がつきませぬ」
「念を入れて身を潜《ひそ》めば、気配ぐらいは分る筈、もう一度忍んでみい」
「はっ」
「その男女《ふたり》から寸間《すんかん》も目を離してはならぬ」
「心得ました、では」
と、床下の影がズリ退ろうとすると、
「待て待て」
と呼び止めた。
そしてちょっと思案をしなおすふうであったが、またすぐに、
「よし行け!」とキッパリいって――「この有村も屋敷裏へ廻って天井から母屋の様子を探ってみるであろう。万一、なんぞ非常な場合が生じた時には、呼子笛《よびこ》を吹いて合図をすること。よいか、くれぐれ先の者に気取られるなよ」
と、畳を伏せた。そして、
「これ、森――」と面《おもて》をふり向けた。
「はっ」
「しばらくそこを動いてはならぬ」
「あまり軽率《けいそつ》なことを召されては」
「いや、大事ない」
下緒《さげお》を解いて、片だすきに袖を結び、隅の釣戸棚《つりとだな》へ目をつけてスルリとその中へ身軽に跳《は》ね上がった。
「啓之助、啓之助」
はずされた天井板の隙間から顔だけが白く見える。
「何でございますか」
「後ろを閉めてくれい、その、釣戸棚の袋戸を」
「暗うなりますが」
「かまわぬ」
「は」
と、かれはそこを閉めた後の森《しん》とした天井裏を見あげていた。――ミリッと梁《はり》のキシむ音が静かに奥へ消えてゆく。
と。ひと足違いに――
「おや、三位卿様はどうなさいましたか」
湯上がりでもあるらしく、艶《えん》に、薄《うす》白粉《おしろい》を粧《よそお》ったお久良が、着物をかえて、部屋の前にたたずんだ。
ぎょっとしたが、啓之助、さあらぬ顔で、
「お、御退屈をまぎらわしに、今し方、庭下駄をはいて前栽《せんざい》のほうへ出られたが」
「そろそろお時刻が近づきました」
「ム、もう一|刻《とき》ばかりじゃの」
「あまり間際に迫りませぬうち、天神の船待場《ふなまちば》の方へ、私が御案内申しまする」
「そうか……それは大儀……ム、では三位卿が見えられたら、すぐに支度をするであろう」
と落ちつかぬ自分の所作《しよさ》に気がついて、またそこへ坐りなおした。
お久良の眼は、有村の空席に散らばっている、藁《わら》ゴミをじっと見ていた。
茨《いばら》の愛嬌《あいきよう》
母屋《おもや》の奥、寂《じやく》とした闇の中に、三つのつづらがすえてあった。
雪のせ笹《ざさ》の金紋が、薄暗いその部屋の隅に、妖魅《あやかし》めいた光を放って――。
召使でも置き忘れたものか、交《ちが》い棚《だな》の端に裸火の手燭《てしよく》が一つ、ゆら、ゆら、と明滅の息をついている。
家具や調度の物のあんばい、お家様の部屋らしいが、籠行燈《かごあんどん》は墨のような色をしてお久良《くら》も誰もいなかった。
すると、その向うの納屋《なや》の内《うち》で。
やはり灯明《あかり》のない暗い中で。
「船のほうでは、松兵衛《まつべえ》という水夫《かこ》が、お家様の旨《むね》を含んで、よいようにしてくれることになっております。はい、もちろん私も、それへ乗って何かとおかばい申しますから、ご心配はございませぬが、ただあぶないのは、安治川を出ますまでの間で……」
あたりをしのぶ新吉の声。
その合間に密《ひそ》やかなのはお綱と弦之丞の言葉らしい。
「じゃ、私に方寸《ほうすん》もございますから、お家様が数寄屋のほうを防いでおります間に――」
やがて仕切戸が開《あ》いたかと思うと、静かな人の気配が中廊下へ出てきた。
新吉は先に前の部屋へ入って、つづらの側へ手燭を持ってきた。ガチャリと、ふところから合鍵《あいかぎ》の音をさせる。
中の荷はいつかほかへ移してあると見えて、つづらの中の四角な闇が、人を吸うべく待っていた。
「…………」
黙って部屋の外へ目じらせすると、お綱は笠で髪をかばいながら、ツウと寄って素早くその中へ身を潜《ひそ》めた。色彩《いろどり》をまぜた反物《たんもの》がひと抱えに入ったように。
弦之丞もまた、新吉が次のつづらを手早く開けたのを見て、「さらば」と、刀を手に、それへ足を入れかけた。
そして中へ身をかがめようとしながら、ふと蝋燭《ろうそく》の焔《ほのお》を見て、ジイと心耳《しんじ》を澄ます様子であったが、何思ったか、不意に、一刀の鞘《さや》を払って畳の筋目《すじめ》へ逆持《さかも》ちに切《き》ッ尖《さき》を向け――ブスッと、鍔《つば》の際《きわ》まで突き通した。
と。目には見えぬ所で、
「ウウッ……」と陰惨な――深いうめき声。
新吉は踏んでいる床が左右に揺れたかと思って角柱《すみばしら》へ背なかを寄せたが、その入口に、いつの間にかお久良が来て立っていた。
「新吉や」
「ああ、お家様ですか」
「だいぶ探りが入っている様子、どうやら今夜の船は危ないようだよ」
「じゃあ所詮《しよせん》無事には出られますまいか」
「何しろ、奥に張り込んでいる竹屋卿という方がなかなか鋭いお人らしい」
「ああ」と新吉、思わず出足を鈍《にぶ》らして――
「そいつあどうも弱りましたな」
「私のほうはかまいませんけれど、弦之丞様、どうなさいますか」
「どうするかとは?」
おうむ返しにいって、畳へ立てた刀を上げ、脂《あぶら》をしごいて鞘《さや》に納める。
「その床下に忍んだような侍がまだ一人や二人ではございませぬ。それでも今夜の船へお乗りなさいますか」
「もとより危険は覚悟、ただ当家へ累《るい》を及ぼそうかと、それがいささかの心がかり」
「乗りかかった船、その御懸念《ごけねん》はいりませぬ」
「では、強《た》っても」
「そのお覚悟ならば」
「浮くか沈むか弦之丞が運の岐《わか》れ目」
「ほんとに、危なッかしいとは思いますけれど……」
「申さば鳴門の狂瀾《きようらん》へ吾から運命を投げこんで、大望なるかならざるか、いちかばちかの瀬戸ぎわへまいったのじゃ。すべては天意――このつづらに任せるのほかはない」
刀を抱いて沈みこんだ。
「じゃ新吉、お前もヌカリはあるまいけれど、早く天神の船待場《ふなまちば》へ」
「お家様は?」
と、ふたをしめたが、新吉、妙に胸が波立ってやまなかった。
「私は数寄屋の客を案内して、わざと道を違えて行くから」
「承知しました。では何かのことは向うでまた……」
「しッ! ……」
お久良はいきなり袂《たもと》で蝋燭《ろうそく》の灯を打《ぶ》った。
はッと――新吉はつづらに抱きついて、自分の動悸の音を聞いた。
そのとたんに。
天井板の隙間から真ッ暗になった畳の上へ、バラバラと落ちてきた塵《ちり》……針がこぼれる程の音をたてた。
肋骨《あばら》のような屋根裏の梁《はり》に手をかけていた三位卿。
「や、この下?」
と思ったので、天井板のつぎ目へ小柄《こづか》をさし込み、そッとねじりながら隙間へ顔をよせてゆくと、刹那に、
「シッ……」と、下の部屋の明りが消え、やり場を失った目の先へツウンと蝋燭のいぶりが沁《し》みてきた。
「怪しい……」
と、かれは直覚した。
しばらく息をためていると、やがて四国屋の若者らしいのがドロドロと暗闇になだれてきて、何かその部屋から運びだして行く様子――。
むせッたい煤《すす》の暗闇を這《は》って、有村は前の茶屋へ戻ってきた。
みると、いる筈の啓之助が、そこに姿を見せないので、
「きゃつめ!」と舌打ちして、
「どこへ行ったのだ。ここを見張っていろといっておいたに」
塵を払って前栽《せんざい》のほうを眺めていると、庭木の間を潜《くぐ》って近寄ってくる影がある。
「啓之助か――」
「有村様」
「何をうろたえておるのじゃ」
「ただいま原士の者が」
「原士がどうした?」
「一散にここを離れて、船待場のほうへ急ぎました」
「分った、今のつづらじゃ」
「え、つづら?」
「そちも支度をせい、すぐにまいろう」
「は……」と、啓之助が取り散らした懐紙や扇子《せんす》などをあわてて身につけている間に、三位卿は行燈《あんどん》を吹ッ消して、すたすたと廊下へ出た。
すると、さっきの簾戸《すど》の蔭で、
「もし、お待ちなさりませ」
という声がする。
「誰じゃ……」
急《せ》いているので語韻《ごいん》にも気が立っていた。
「お久良でございます」
「ウム、お久良か――」と有村はキッと唇を締めた。
「ただいま、船待場のほうへ御案内いたそうと存じて、支度をしているところでござります。天神の河岸のほうは、荷方の者や便乗のお人が混みあっておりますから、水夫《かこ》などがどんな御無礼をいたさないとも限りませぬ。それに、船のお席も私がまいらぬと分りませんから、ちょッとお待ち下さいませ……ただいま、提灯《あかり》を灯《とも》して、すぐにお供をいたしますから」
いっているうちに、お久良は店印《みせじるし》のついた提灯《ちようちん》を手に持って、有村の前へ姿を立たせた。
かれはかれ一流の読心的《どくしんてき》な態度で、眸《ひとみ》に威をこめてジッとお久良の顔を凝視《ぎようし》したが、その眼《まな》ざしを邪魔するように、下から射す円い明りの輪が、薄化粧の腮《あご》にふわふわとうごいて、才はじけた年増の笑くぼがなぶるように映って見える。
心は先を急《せ》いて猛っているが、こちらが表面の理由に偽ってきている以上、先の当然な言葉を退けるわけにはゆかない。ましてや、あくまでニコやかな心尽くしを。
有村はじりじりと思う。
先にお久良の部屋で見ておいた三個のつづら。あの雪のせ笹《ざさ》のつづらこそ怪しい。
寮の外へまきちらしておいた原士どもも、それが密かにこの家《や》を出たのを嗅《か》ぎ知ったからこそ、いっせいに船待場のほうへ追ったのであろう。
だが、どうにもならない気持で、かれは苦《にが》いうなずきを与え、大股に表のほうへ歩みかけた。
と――お久良はまた、和《やわ》らかに呼びとめて、
「三位様、お履物《はきもの》はわざと前栽《せんざい》のほうへお廻し申しておきました。何せいもう表のほうは、荷埃《にぼこり》や店の者で乱雑で、お足の踏みどころもございませぬ」
と声がらまで、愛嬌のよい物いいぶり。
庭木の暗がりを照らしながら、先に立って一歩一歩と導いて行くのにも、商家の内儀らしい細心さや年増の優しみが溶けていたが、今の場合! 寸刻もどうかと思うこの間際! 三位卿と啓之助の心になってみれば、婉曲《えんきよく》な女人《によにん》の案内は、むしろ始末にならぬ茨《いばら》の枝にまといつかれている如しだ。
つづらの闇《やみ》
「もう来そうなもンだが」
と、さっきから仲間《ちゆうげん》の宅助、天神河岸の築出《つきだし》にたたずんで、お米の姿を待ちあぐねていた。
広い闇を抱えた埋地《うめち》の船岸《ふなつき》には荷主や見送り人《て》の提灯がいッぱいだ。口々にいう話し声が、ひとつの騒音となってグワーと水にひびいている。
とんでもない大声《でかごえ》で船夫《ふなこ》の猛るのや、くるくるとうごいて廻る影が四国屋の帆印をたたんだ二百石船の胴《どう》の間《ま》に躍ってみえた。宅助は、そこの桟橋《さんばし》にも寄ってみたが、お米はまだ来《き》あわしていなかった。
「ちッ、何をまごまごしていやがるんだろう」
舌打ちをしながら、提灯の中をぬけて、またトップリと暗い埋地の草原をぶらぶら歩き廻っている。
「冗談《じようだん》じゃねえ、いい加減立ちしびれてしまった。どこかに、一服やる所はねえかしら」
そう思って見廻すと、向うの浜倉から少し離れた所に、屋台うどんの赤い行燈《あんどん》が見えて、その明りに、雑な小屋のあるのがすぐと目につく。
側へ行って覗《のぞ》いてみると、小屋の中には藁《わら》ござや床几《しようぎ》もあり、煙草の火縄なども吊るしてあるので、
「船待場だな」
と、うなずきながらござの上へドッカリと腰をおろし、首にかけていたまんじゅう笠をそれへはずした。
夜の潮風を察してひっかけてきた渋合羽《しぶがつぱ》の前をはだけ、二本の毛脛《けずね》を立てながら、そこで、スパリと一服吸っていると、向うの屋台うどんの床几に、編笠をかぶったひとりの浪士と、ふたりの子供の影が見える。
むッつりとしたその浪人者は、誰か人待ち顔に時折笠をあたりへめぐらし、広い闇を見廻しているふうだったが、子供のほうはうどんの器《うつわ》を吹いて、チューチューと音をさせながらすすっていた。それがいかにも美味《うま》そうなので、宅助も急に食慾をそそられ、船待の小屋から居《い》なりに声をかけて、
「おい、うどん屋、こっちへもひとつ頼みてえな」
と煙管《きせる》をハタいた。
「へい」
というと、間もなく、剥《は》げた盆の上にお誂《あつら》えが乗ってくる。莨入《たばこい》れの底をさぐって、
「いくらだい?」
「十二|文《もん》です」
ザラリと銭を盆へのせてうどんを取る。
「ありがとうぞんじます」
「父《とつ》さん、ちょっと聞きてえんだが」
「へい」
「お前《めえ》は、夕方からここにいたのかい」
「船が出るのを当てこみに、明るいうちから屋台を曳《ひ》いてまいりましたんで」
「売れたろうな、さだめし」
と、箸《はし》でうどんを上げながら――
「なかなか美味《うめ》えもの」
「はい、お蔭様で、八軒家やこの辺では、かなりよく売れますんで」
「そうだろう、もう一ツくんな」
「ありがとうございます」
代りを取って側へ置いた。
「ところで俺の来る前に、ここへ二十四、五になる女が見えなかったろうか」
「お女中様でございますか」
「そうだ、俺の風態《ふうてい》を見て、ザラにあるお女中と間違えちゃいけねえぜ、スラリとした柳腰よ、ふるえつくようないい女なんだ」
「さあ? ……商売に気をとられて、ツイどうもうッかりしておりましたが」
「見かけなかったかえ?」
「お見かけ申しませんでしたね」
「じゃ、やっぱり来ねえのかしら」
「この船へ乗って立つお方でも、見送りにおいでなさるんですか」
「そうじゃねえ、俺がお供をして阿波へ帰《けえ》ろうという人なんだ。やがて時刻も迫ってくるのに、だから、こっちも気が気じゃあねえところさ」
といっていると、向うに立った編笠の侍が、
「うどん屋、子供の食べた代を取ってくれい」
「二十四文でございます」
うどん屋が揉《も》み手をすると、浪人は紙入れの内から二|歩銀《ぶぎん》を一つつまんで、
「これへ置くぞ」
と屋台へ乗せた。
「あ、恐れ入りますが、細かいのを持ちあわせはござんすまいか」
「つりは要《い》らん……ところで……しばらくの間邪魔ではあろうが、この二人の子供をここに預かっておいてくれぬか、だいぶ疲《つか》れておるのでな」
「じきにお戻りなさいましょうか」
「うむ、船の出るまで!」
フイとどこかへ見えなくなった。
それを眺めて宅助も、
「あ! おれもこうしちゃあいられねえ」と塵《ちり》をはたいて跳《は》ね上がった。
「早く来てくれりゃいいが、何をしているんだろうな、お米のやつは?」
と独り言《ごと》にじれて、饅頭笠《まんじゆうがさ》を持ったまま広い空地へさまよいだした。
「おお、あぶないぜ」
後に残ったうどん屋は、丼《どんぶり》を洗いながら床几《しようぎ》に居眠っている子供を眺めて思わず笑った。
「可愛い子だな、疲れているといっていたが、どこから来たんだね」
空腹《すきばら》をみたされて急に眠気ざした子供は、それに返辞もしないで時々縁台から転げそうになっていた。
「は、は、は、罪はないな。だが、そこで居眠っていちゃ危ないから、今おじさんがいい按配《あんばい》にしてやろう、こっちへおいで、こっちへ――さあさあここならいくら寝ぼけたって腰掛から落ちる心配はない」
と小屋の中へ連れてきて、その子供の寝床を作ってやろうという考え――何気なく奥に見えた荷物のかぶせになっている蓆《むしろ》を五、六枚めくり取ると、その下から金紋のついた青漆《せいしつ》つづらが三つ見えた。
金紋に怖れをなして、うどん屋は抱えただけをソッと持ってきて、向う側の隅へそれを重ねてやる。子供は他愛なくもたれあって寝てしまう。
するとそこへ、ひとりの男が駈けてきた。四国屋の手代の新吉だった。少し気の立っている血相で、
「おい、うどん屋!」と外で呼ぶ。
「へい」と飛びだして「差上げますか」
「イヤうどんは要らない、今ここへ高貴なお方が見えるのだから、屋台をあっちへ引っ張って行っておくれ、目障《めざわ》りだ」
「へい」
「咎《とが》められないうちに、早くあっちへ行きなさい、あっちへ」
「へい」
「船が纜《ともづな》を解く間際には、よけいに混雑するから、屋台を引っくりかえされたって知らないよ」
「ヘエ、ですが……」と何かいおうとした時に、屋台をかすって、覆面をした侍が十四、五人、追い立てられた夜鴉《よがらす》のようにバラバラと疾走して行った。
「あっ……」と、うどん屋は肝《きも》をつぶして、あわてて商売道具を遠くへ運んで行った。
新吉はというと、原士《はらし》の一群が目の前を通り過ぎた途端に、小屋の蔭にかがみこんでいた。そして、その足音の消えるのを待ってソロソロと奥のほうへ這いこみ、静かにまたたいている金紋の光へ探り寄った。
「……御窮屈でございましょう……ですが……ヘエ、もう間もなく……船から松兵衛という船頭が、水夫《かこ》を連れてまいりますから……委細は松兵衛が……」と問わず語りにつづらの中と話している。
「……はい、だいぶ原士が立ち廻っております、なにしろ安治川を出るまでが御難儀で……いえ、三位卿はまだ見えません、来たらお家様と松兵衛が……ヘエ、どうかしばらく御辛抱を」
と言いかけていながら、新吉あわてて蓆《むしろ》をつづらへかぶせて首をすくめた。
ピカリッと手槍の紫電《しでん》、小屋の前をはすかいに流れたかと思うと――
「怪しい奴ッ!」
突ッかけてきた声だった。
新吉は自分の背すじからつづらの中へまで、その光り物が突きぬいて行ったかと生ける空《そら》もなかったが、
「わッ……」
と、別な苦鳴《くめい》を向うに聞いた。
ドタッ……と誰か倒れたらしい。
見ると槍をつかんだ覆面の死骸が、袈裟《けさ》がけに切られてピクついている。
その側から白刃をひいて、ツウと寄ってきたのは深編笠の浪人の影――、小屋のまわりをしきりに見廻しているのは、さっき、うどん屋へ預けて行った子供の姿が見当たらないので、
「はてな?」
と探し廻っている眼《まな》ざし。
「お、あんなほうへ」
やがて、深編笠の浪人、遠く離れてゆくうどん屋の灯を見出して埋地《うめち》の果てへ走りだした。
と――
ここに今しがた、血煙の立った様子を嗅《か》ぎ知って、わらわらと集まってきた覆面の原士は――手槍や抜刀《ぬきみ》の光を隠して、スススと風のごとく、先へ走った編笠の影をつけて廻る。
で、新吉は、ホッと顔を上げながら、
「何だろう、あの侍は?」
と見送った。
が、すぐにまた新吉もそこを出て、船のほうへ打合せに駈けだしていた。なにせよ、纜《ともづな》を解く混雑まぎわに、八方で光る眼をくらまし、首尾よく三ツのつづらを船底へ持ち込もうという危ないからくり、並大抵《なみたいてい》な気苦労ではない。
もうそろそろ時刻の五刻《いつつ》半に近づいてきた気配、ざわめいていた船のほうも割合にヒッソリしてきた。
ただ、提灯《ちようちん》の灯だけは船岸《ふなつき》の近くにうようよとうごいている。
爽《さわ》やかな風が空を吹き廻っている。星月夜だ。五月にしては珍らしい空。
このあんばいでは、海も順風、鳴門の浪《なみ》にも大してもまれることはなかろう、まず、船出の幸先《さいさき》は上々吉だ。
けれど、その海へ乗っ切るまでに、何ぞ、予想もつかぬような大《おお》暴雨《しけ》がやってこないとはいいきれない。今――その十万坪あまりの埋地《うめち》の闇はひとつの廻《まわ》り燈籠《どうろう》になった、三ツのつづらを心棒に、あまたの覆面や怪しげな編笠や、宅助や新吉や、そしてなお幾人もの影が、グルグル廻っているのだから……
これもその廻り燈籠の影絵の一ツ。
昔、楼《ろう》の岸にあった古柳《ふるやなぎ》の名残とかいう空井戸の側に、夜目にもしるきといいたい女が、褄《つま》を折って腰帯に結び、手拭の端をつまんで姉様冠《あねさんかぶ》りをしなおしている。
と――向うに立った男を見つけて、
「宅助じゃないのかえ?」
と呼ぶと、
「お米さんですか」
と腰をかがめてくる合羽《かつぱ》の影。
やッと巡り会ったという風に、喜悦《きえつ》を誇張して、
「冗談じゃありませんぜ。いくら探し廻っていたかしれやしねえ。エエ心配しちまった!」
「そうかい……ホ、ホ、ホ」
「そうかいもねえもンです、あれほど、船待の小屋と念を押したじゃありませんか。それをこんな所で、夜鷹《よたか》みてえにしゃがみこんでいるンだもの、分りッこありゃしねえ」
「まあそれでも落ちあえたからいいじゃないか」
「またうめえことをいッといて、一杯食わすんじゃないかと、少しお冠《かんむり》が曲りかけていたところなンで」
「そうしたらどうおしだえ?」
「こんどこそはただ置きゃアしませんさ――まああしたの読売にゃ、お米殺しと出るでしょうよ」
「おお怖い……」
と、わざとらしく男を見たが、ちっとも怖そうな表情でなかった。
「とにかく、も少しあっちへ行っていようじゃありませんか」
「あっちッていうと?」
「船待の小屋にいるのが一番です。あすこにいりゃ、出る間際にだって船頭が知らせてくれます」
「じゃ、そっちへ行ってみようかね」
「お米さん」
「エ……」
「誰か探しているンですか」
「なぜ」
「イヤに後先を見廻しているじゃありませんか」
「そうかい」
「そうかいッて、自分のしていることを」
「淋しいからだよ……妙に広くってさ、イヤなものだね、船旅に立つ夜というものは」
弦之丞様、弦之丞様。
どうしたろうか姿が見えない?
――そう思う闇はお米には淋しいはず。
争闘と愛慾。ひそむ者と追う者。
次々に奇《く》しき影絵は巡《めぐ》り廻《まわ》ってくる。
お米と宅助がそこを去ったかと思うと、空井戸の縁《ふち》に手をかけて、中からヒラリと躍りだした者があった。
たッた今、向うの小屋から、うどん屋の灯を目的《めあて》に走って、原士の群れにつけられたあの編笠の侍。
「違う! ……」と、ぽッつり一語《ひとこと》。
こうつぶやいて、お米の後ろ姿に小首をかしげた。
「年ごろもよく似ていたが……」
腕ぐみをして、二、三歩、前へ伸びようとすると、捨石の蔭から這《は》い寄って行ったひとつの影が、
「うぬッ!」
と組みついてたすきにしぼる。
ダダダッと四つの足が乱れつよれつ――草の根を踏みにじって、
「で、出合えッ。組ンだ!」
叫ぶと一緒に側面から、
「おっッ」
といってまたひとり、駆けよりざま太刀を突いてきた――無論、絞《しぼ》りつけた編笠の脇腹へ。
だが――颯光《さつこう》はそれた。引くも遅し! 横一文字に相手の剣! あッと思いつつ、のめり込んで、その刃《やいば》を抱《いだ》いてしまった。
「うう――ッ……」
と一方が横倒れになるとたんに、目を閉《つぶ》って、組みついていた腕だすきも、ハッとふりほどかれて、侍の肩を越した。
そしてその体が地につかぬうちに、腕の付根から肋骨《あばら》へかけて、ザッと、あまりにすごい二の太刀がかかる……。
目にもくれず編笠の影は、刃《やいば》の血をビューッと振って、
「ああ、子供たちの身も気がかりな……それに、阿波の手配《てくば》りも思いのほか厳しい様子、この分ではさすがの彼も」
と、面《おもて》を星にふりあげていると、足もとから不意に、断続した呼子笛《よびこ》の音《ね》が水のように鳴った。
斬り伏せられた傷負《ておい》のひとりが、断末苦の必死に、あえぎながらくわえた呼子笛……。
その絶えだえな音《ね》がかすれ消えると一緒に、八方から集まった原士の影は、仲間の死骸をとり巻いて、無念そうに、不思議な編笠の出没にじらされ、かつ錯覚《さつかく》を起こし、じだんだを踏んで口惜しがった。
「奇怪な編笠、何者だろうか」
「無論、幕府方の奴に違いない。今夜の騒ぎにまぎれて、やはり御本国へでも入り込もうとして来たのだろう」
「この斬り口を見ろ! すごいやつだ。とても唯の曲者《しれもの》ではない」
「ことによるとそいつの正体が、法月弦之丞なのではないか」
「う……うム? ……それも大きに」
と、やや背すじの寒さを感じてどよめいていると、
「何じゃ、何かあったか!」
と駆けてきた者がある。
「や、森啓之助殿――」と輪をくずして後ろを見ると、啓之助と一緒にきた竹屋三位卿、七、八間離れた所に、お久良の持ち添える提灯《あかり》をうけて立っている。
宵のうちから、この埋地《うめち》の闇に怪しい編笠の侍が出没して幾人かの原士が斬られたという話を聞いて、啓之助は小首をかしげながら、それを三位卿に囁《ささや》いた。
「ふウむ? ……」
と思い当たる様子もなく、
「何奴《なにやつ》だろう」
と彼のつぶやきも同じであった。
「有村様……」と啓之助、袖知《そでじ》らせをして、お久良の側を離れながら、
「――手口を見るとすばらしく腕の確かな奴なそうで、或いは、それが弦之丞ではないかと申しおりますが」
三位卿の思判《しはん》も少し錯覚にとらわれてきた。
お久良の部屋から密かに運び出されたつづらこそ怪しむべしと目星をつけてきたが、原士の言葉を綜合《そうごう》すると、またその深編笠の正体も怪しまざるを得なくなる。
「旅立ちは急《せ》くもんじゃねえ。まだ煙草ぐらい吸う間はゆっくりありますぜ」
と宅助は、ムリにお米を船待《ふなまち》小屋へ連れこんだ。
「お誂《あつら》えだ、ちゃンと蓆《むしろ》が敷いてある」
合羽の裾《すそ》をまくッて、
「どッこいしょ――」と腰をすえる。
お米もひとつ蓆《むしろ》に並んで、紅緒《べにお》のついた両足を前へ投げだした。
ちょうど、いい按配《あんばい》によりかかる物があった。
宅助もよりかかって、後ろの物を枕にしながら――
「お米……一昨日《おととい》の今ごろはよかったなあ」と、いやらしい思いだし笑いを浮かべる。「一昨日《おととい》って? ……」
「松島の水茶屋サ、あそこの奥の四畳半サ。忘れちまうなア薄情だな」
「忘れやしないけれど、まじめくさって不意にそんなことをいうからさ」
「だが約束を違《たが》えずに今夜ここへ来た心意気は買っとくぜ」
「私の気性は一本気なンだよ」
「どう一本気なのか、聞きてエものだが」
「こうと思う男にぶつかるとネ……その気性がよくないと知りながら」
「ヘ、ヘ、ヘ。ほンとけえ?」
「さあ、お前にはどうだか」
「あれ」
「憎いねエ、知りぬいているくせに」
「あ痛《いて》……」
「来たよ、お離し」
「え」
「人がさ……」と身をねじると、そこへ誰かの影が立って、小屋の内を覗《のぞ》きこみ、
「宅助ではないか」といった。
「ア! 旦那様で」
と、これには驚いて立ち上がった。
「そこにいるのはお米ではないか。久しぶりだな」
「ハイ、永らく気《き》ままに遊ばせていただきました」
「ウム、いよいよ帰るか」
「お蔭様で大阪にも、ゆっくり滞留《たいりゆう》いたしました」
「それですッかり気がすんだであろう」
と啓之助、ひどく機嫌がよい。
「いろいろと話もいたしたいが、なにしろ三位卿が御一緒でな」
「宅助から聞きましたが、そんな御都合だそうで……」
「いずれ帰国した上で、ゆるゆるいたすが、船の中では一切|素知《そし》らぬふうを粧《よそお》っているようにな。よいか」
「旦那。ご安心なせえまし、宅助が呑みこんでおります」
「ではあろうが、乗る間際にも、充分に気をつけてくれ、なにせい連れが、お公卿《くげ》にしては血の巡《めぐ》りのよすぎるお人だ」
「で、その三位卿様は?」
「いま彼方《あちら》で、原士の者に何かいい含めておいでになる。その隙をみて、大急ぎでここへ探しに来た訳だ。ウ、なに、弦之丞のことか? いずれこの船が安治川口を出るまでには、何とかして捕まるだろう。とにかく、船の上へ追い込んでからの方策だといっておられたから。お、船といえば、乗ってからも、決して言葉をかけてはならぬぞ。ではお米、くれぐれもそのつもりで、さびしかろうが徳島まで一日ひと晩の辛抱《しんぼう》じゃ……」
啓之助は落ちつきのない様子で、それだけいうと、スタスタと三位卿のいるほうへ大股に立ち去った。
その後ろ姿を見送って、
「うふッ……」と、宅助、口を押さえて吹きだしたものである。「もったいねえくれいお人好《ひとよ》しだなア」――と。
「お米」
と、そこでまた、色男へ立ち返った気で、以前の所へドッカリ腰をすえなおした。
「小屋の中が暗かったからいいようなものの、不意に、コレ宅助と来やがったんで、すっかり面食《めんく》らってしまった」
「でも気がつかなかったから倖《しあわ》せさ」
「付かれて堪《たま》ったもンじゃねえ」
「やっぱり悪いことはできないものかね」
「河豚《ふぐ》の味と間男《まおとこ》の味、その怖いのがよろしいので……」
と、いい気持で、後ろへ体をよっかけてゆくと、ズルズルと襟元へ蓆《むしろ》が辷《すべ》り落ちてくる。
「エエ、塵《ごみ》が入《へい》った……」と背中へ手を突っこみながらふりかえってみると、蓆《むしろ》をかぶせた四角い荷物。
「つづらだナ」
といったが、宅助、別に気にも止めなかった。
ちょうど、凭《もた》れぐあいがいいのに任せて、そのつづらによッかかりながら、
「ええ、お米さん」
と、神ならぬ凡夫《ぼんぷ》、
「こう寄んねエな……」と女の肩へ手を廻した。
お米は顔をそむけて、
「あ、およし」
と、宅助の青ひげを避けるようにした。
「なぜエ」
「まだ動悸が鳴っていて息苦しいンだから……後生……手を離しておくれ、この手を」
頼むようにいえばいうほど、宅助の腕は女を苦しめた。お米は腹が立った。人が方便《ほうべん》に白い歯を見せていれば――。
それに、嘘ではなく、仮借《かしやく》のない下司男《げすおとこ》の力に、心臓がしめられるようだった。
「およしといったら……もう船の時刻も来ているのじゃないか」
「まだ大丈夫だッていうことよ」
「ま、くどい!」
後ろの荷物へ押しつけられて、ズズと背中を辷《すべ》らせたかと思うと――
どうしたのか? 宅助。
「うッ! ……」
と突然、妙な呻《うめ》き声をふくみ、それと一緒に、激しい痙攣《けいれん》を起こして四肢を硬直させた。
「宅助ッ……宅助や……」
お米は、自分の首にからみついている彼の手が、肌へ爪を立つばかりに、ブルブルと慄《ふる》えてきたので、色を失った。
「ど、どうしたンだえ!? 宅助や……あれ……宅助ッてば!」
一本一本指をもいで、ソウと体を起こしてみた。
と――どうだろう! 眉をしかめた形相《ぎようそう》を青蝋《あおろう》のような色に変らせて、グタッと、お米の肩へもたれてくる。
「あっ……」
と支える手の先に、何か? 温《ぬる》い液体がタラタラと伝わってきたので、よくよく目をこらしてみると、宅助の胸の脇、ちょうど肋骨《あばら》の下の辺に、キラッと光る物が突き抜けている。
わずかに見えたのだが、まぎれもない、小柄《こづか》か短刀の切《き》っ尖《さき》。
「…………」
お米は、キャッという悲鳴も立て得なかった。
喪心《そうしん》したようになって、ふわりと、宅助の体を離した。
そして、歯の根のわななきをこらえながら、懸命に、腰を立てようとした。
すると……。
ギイと蝶番《ちようつが》いの鳴る音がして、後ろのつづらの蓋《ふた》がひとりでに口を開いたかと思うと、その中から肩を起こした紫紺《しこん》頭巾の人影。
「お米……」
「…………」
「お米」
しずかな声で呼びとめる。
お米は一念に歩こうとしていたが、どうしても前へ体が運べなかった。
足に釘でも打たれたように、ワナワナとすくみ立ちにふるえているばかりで――。
いつのまにか左の袂《たもと》が、もう一つのつづらの口に噛まれている。
と、うしろから伸びた腕が、
「待て」
と襟《えり》元へ触《さわ》ったので、かの女《じよ》は今が最期のように、思わず声をしぼって、
「ひイ――ッ」と地べたへうッ伏せになった。その途端。
もう一つのつづらがポンと開いて、咲きひらいた花のように、
「弦之丞様――」
と、お綱の顔がニッコリと笑う。
「しッ――」
と、手を振って耳をすます。
誰かの跫音《あしおと》でもして来たか、ふたりの影は、つづらの蓋と一緒に吸われたように消え込んだ……。
そこへ、風のようにはいってきたのは、あの編笠の侍だった。
うどん屋を捕まえて、ようよう子供の居所を聞いてきたと見え、一本槍に小屋の隅へ駈けこみ、藁《わら》にくるまって正体なく寝入っていた子供に何かささやくと、また、風のごとく出て行った。
その跫音に、
「ウウム……」と、宅助は動きだした。
そして、傷口をおさえながら、小屋の羽目板につかまって立ち上がると、その足にからんで、お米も必死な力で、よろよろと腰を切った……。
* * *
二百石船の舳《みよし》に立って、水夫《かこ》頭《がしら》が貝を吹いた。
五刻《いつつ》半だ。
にわかに、埋地《うめち》の闇や水明りの船岸《ふなつき》に、ワラワラと人影がうごき出す中を、一散に、船待《ふなまち》小屋へ目がけてきたのは、竹屋三位卿。
「つづらはここか」
ついてきた原士を顧《かえり》みていうと、
「は、四国屋の若者が、たしかに最前、ここへ運び入れましたはず」
「ウム」と重くうなずいた。
そして一歩、中へ足を踏み込もうとした時に、ゴソゴソと、すれちがいに、外へ出てきた者があった。
手拭《てぬぐい》に髪をくるんだ若い女と、渋合羽《しぶがつぱ》にまんじゅう笠をかざした仲間《ちゆうげん》。
出会いがしらの目を避《よ》けて、さりげなく行き過ぎようとした男女《ふたり》の足は、
「待てッ!」
という一喝《いつかつ》を浴びて、思わずすくみ止まってしまった。
「不審なやつ、ふたりともしばらく待て!」
こうしっかりと呼び止めておいて、三位卿、あの炯々《けいけい》と射るような眼をジッと注《そそ》いだ。
まんじゅう笠のツバをおさえて、小腰をかがめた仲間《ちゆうげん》と、手拭をかぶった艶《あで》やかな女の影が、暗がりの中に肝《きも》を縮めている。女の口にくわえている手拭の端がワナワナとふるえているように見えた。
だが、この男女があわてて小屋から出てきたとたんに、誰よりも狼狽《ろうばい》し、誰よりも穏やかでない色をなしたのは、三位卿の側についてきた啓之助で、向うにうずくまった影を見るや、
「ちッ、どじな奴め」と人知れず腹立たしい舌打ちをしたことである。
アレほど噛んで含めるようにいってあるのに、何をぐずついてこんな所に、有村の目に触れるのを待っていたのだ! 迂愚《うぐ》め! 鈍智《どんち》!
人前がなければ森啓之助、こういって、頭から男女《ふたり》をどなりつけたに違いない。
この上はうまく三位卿をゴマ化して、難なくこの場がすんでくれるようにありたいものだ、と心のうちでひたすら祈っていると、願いは覆《くつがえ》されて、有村はうしろへ顎《あご》をすくった。
「あの男女を捕えて糺《ただ》してみい。どうやらうさんくさい風態」
「あっ」と、原士の二、三名が、躍り立ちそうに見えたので啓之助はぎょッとして、開くべからざる口から、思わず、
「しばらく!」と叫んでしまった。
「なんで止めるか」
「は、実は」
「実は? ……」と眉をひそめて「実はなんじゃ」と三位卿、きびしくたたみかけて行った。
「手前が用事をいいつけて、先に大阪表へよこしておきました仲間《ちゆうげん》にござります」
「ふム、お手前の仲間《ちゆうげん》であるとか」
「宅助と申します者で……それに相違ござりませぬ」と、腋《わき》の下に冷汗をかいている。
「して、一方は」
「は……?」
「アノ女は。一方の艶《なま》めいた女は、アリャ何者か!」
啓之助はみじめなほど口吃《くちごも》って、
「あれは、その、私の身寄りのもので」と、手の甲で額《ひたい》を拭く。人の悪い三位卿、その様子で、ははあ、とうなずいているくせに、なお初めて聞いたように、
「あんな美しい身寄りが其許《そこもと》にあったとは初耳である」と苦笑をふくみ、皮肉な眼で啓之助の足もとから逆さに見上げた。
「どうも恐れ入りました」
「なにも恐れいることはない、身寄りとあらば格別の間がら。これから船へ乗るのであろう、親切に面倒をみておやンなさい」
「いや、仲間《ちゆうげん》がおりますから」
「遠慮するな!」
痛い言葉だ。
「宅助ッ」と啓之助はその腹立たしさを向うへ当って、
「たわけ者め、何をまごついているのだ。早く船のほうへ行かんか、船のほうへ。お目ざわりなッ」
と叱りとばした。――すると三位卿はもう小屋の中へ入って、あっちこっちを見廻していたが、
「ヤ、いつのまにか、つづらは船へ運ばれているぞ」と叫んだ。
ここに三個のつづらがあったことを、たしかに見届けていた原士たちは、驚いて有村と一緒に小屋の中をかき廻したけれど、荷縄の束や蓆《むしろ》が山に積んであるばかりで、つづらはいつのまにか運び出されてある。
と。ひとりの原士。
隅の方に抱きあって、怖ろしそうに眼をさましていた二人の子供を見つけだした。
「おい」と、その前に二、三人立って――「お前たちはこの小屋に寝ていたのか」
「ウン……」と、姉らしいほうの少女がわずかにうなずいた。
「じゃ知っているだろう! たしか向う側の隅に蓆《むしろ》をかぶせてあったと思う、三ツのつづらが置いてあった筈だが、それを誰がいつ運びだしたか、知っていたら教えてくれい」
弟であろう、十か九ツくらいな子、姉の胸に抱かさりながら、
「たッた今だよ」
と少しふるえながら答えた。
「今? ふム……」
「たッた今――小父さんたちがここへ来てから」
「そうではあるまい、見なかった」
「嘘《うそ》じゃアない、本当だよ。その後ろの戸を開けてそッと裏のほうへ持ちだして行ったンだ」
また先を越されたな! と有村は唇を噛んだ。
しかし、自分の計画は船の上にあるのだから、お久良とはらを合す者が、巧みにつづらを運び去ったとしても、それはむしろこっちの思う壺《つぼ》へ墜《お》ちて行くのだ! と笑止《しようし》にも考えられる。
やがてあの親船が、安治川屋敷の裏へかかれば、水見番《みずみばん》の詰所には天堂一角が見張っており、周馬や孫兵衛も手ぐすね引いて待ち構えている! もうどんなことがあろうと、ここまで追い込んできた網の目から、かれらは遁《のが》れることはできない。
こう信じて三位卿は、ゆうゆうとそこを引き揚げた。そして親船のほうへ足を向けてくると、お久良が提灯《ちようちん》をかざして呼んでいる。
ぼウ、ぼウ、ぼウ……と出船の貝がゆるやかに鳴りだした。折から潮も満々と岸をひたしてきて、夜はちょうど五刻《いつつ》半ごろ、大川の闇は櫓韻《ろいん》にうごいてくる……。
合図の貝ぶれと一緒に、二百石船の胴《どう》の間《ま》はいちどきに人をもって雑鬧《ざつとう》してきた。船頭|絞《しぼ》りの水襦袢《みずじゆばん》をつけて帆役や荷方、水夫《かこ》や楫主《かんどり》が、夜凪《よなぎ》をのぞんでめいめいの部署に小気味よくクルクルと活躍しだす一方には、手形を持って便乗する商人《あきゆうど》だの、寺証《てらしよう》をたよりに乗る四国|詣《まい》り、城下へ帰る武士、諸州巡拝の山伏、人形箱を首にかけた阿波祭文《あわさいもん》、そのまた雑多なものがドカドカと混み入って、潮除《しおよ》けの蔀《しとみ》をめぐらした胴の間へ埋《うず》まった。
阿波には他領者の入国禁制がかなりきびしく行われているが、やはりそこを郷土としている者、是非の用務がある者、信仰に国境なしと踏み歩く行者たちは、皆なんらかの縁故や手づるを求めて是非にもこうして渡るものとみえる。いや、平常《へいぜい》の便船がないだけに、こういう場合は、いっそう人が混むのかも知れない。何しろかなり多くの頭数であった。その中には、森啓之助が人しれず気に病んでいるところの艶《あだ》な女と合羽をかぶった仲間《ちゆうげん》も、混雑にまぎれて後ろ向きに座をしめていた。
で、雑人《ぞうにん》たちが落ちついた一番最後に、竹屋三位卿と啓之助とは、四国屋の提灯《ちようちん》に囲繞《いによう》されて、送りこまれてきた。それと見ると、松兵衛という老船頭、つづらについて阿波へ行く手代の新吉、ばらばらと駆けてきて、三位卿を艫寄《ともよ》りの屋形へ案内した。
「松兵衛や、心得てはいるだろうけれど、ずいぶん気を配って、途中御無礼のないように頼みますよ」
お久良はこういって竹屋卿の前へ進んできた。
「では三位卿様――」と腰をかがめて、「海上御無事にお渡りを祈っております」
「ウム、何かと世話をやかせたの」
「まことに行届かぬことばかりでした。それに御覧の通りな商船《あきないぶね》。お席もむさ苦しゅうございますが、どうぞお忍び下さいませ。また何かの御用は松兵衛に仰せつけ下さいますように。では森様もごきげんよう……新吉も頼みますよ」
お久良が陸《おか》へおりると同時に、船は天神岸を離れて粘墨《ねんぼく》のような黒い川波へゆるぎ出した。二百石船といえば十四|反帆《たんぽ》、苫数《とますう》八十四枚、水夫《かこ》十六人、飲み水十五石積だ。それにかなりの便乗者と雑貨雑穀がミッシリ入っているので、船脚もズンと深く沈んでいる。
船は流れに乗りだした。雑音のひびきも徐々に遠く、大川の中ほどをきわめてゆるく押しだされてゆく。太いともづながうねうねと波を切って艫《とも》へ手繰《たぐ》り上げられているのが大蛇《おろち》のように見えた。
「ああ……」
お久良が重荷を下ろしたように深い吐息《といき》をもらした。ともかくも、ここまで運んだというホッとした気持がいッぺんにこの間からの気疲れを覚えさせた。そして、心の中で合掌をくんだ。
「どうぞ無事に彼岸《ひがん》まで、あのつづらが……」
いつの間にか、送りの灯は思い思いに帰っていた。お久良は吾を忘れたように船の影について岸を歩いている自身に気がついた。
そしてその足もとへ、誰かぶつかった者があるので、初めてオヤと我に返って見ると、姉弟《ふたり》の稚《おさな》いものが手をつないでシクシクと泣いている……。
「誰か、船へ乗った人を、送りに来たのかえ?」
お久良がそう訊ねてみても姉弟《ふたり》はかぶりを振っているだけだった。
「どこから来たの、お前方は」
「江戸から……」
「えっ、江戸からだって、まあ。そして何でこんな所に泣いているのだえ? 連れの人にでもはぐれたのかえ? エ、そうなの」
姉弟《ふたり》は泣きながらうなずいた。
するとそこへ、闇を探しながら駆けてきた侍があった。あの編笠の浪人である。
「オオ、ここにいたか!」と子供たちの側へ来て両手に抱きこむと、姉弟《ふたり》も嬉しそうにすがりついた。と、侍はまた、編笠の目堰《めせき》から水明りにお久良の姿をすかして、
「や! もしやそちは」
ツカツカと歩み寄ってきて、不気味なほどジッと顔を見ていたが、
「もとわしの屋敷におった久良ではないか」といった。
「エッ、そうおっしゃいますと、あなた様は?」
「見忘れておるのももっとも、もう十年も以前に、そちや多くの召使に暇《いとま》をつかわした頃から浪人いたしておる元|天満与力《てんまよりき》の常木鴻山《つねきこうざん》じゃ」
「まア……」とお久良はよろめくばかりあきれた。
自分が恐ろしい危険を予覚しながら、弦之丞とお綱に尽《つ》くしたのも、その人が以前の恩主である常木鴻山と同じ目的をもっているのを知ったからである。ことにお久良は江戸に生《お》い立っていて、二十歳《はたち》ごろまで常木家に小間使となっていた。そして鴻山が浪人した後、縁があって阿波の四国屋へ嫁いでいたもので、そうした人の知らない好意が胸につつまれていたものだった。
だが、江戸に残っていた鴻山が、どうして不意にここへ来たのだろうか? それにもいろいろな事情があるが、要は道者船取止《どうじやぶねとりやめ》の沙汰をはるかにきいて、弦之丞の多難を知り、松平左京之介《まつだいらさきようのすけ》と計って、別な方策の打合せに急いで来たので、連れている姉弟《ふたり》の子供は、すなわちお三輪《みわ》と乙吉《おときち》であった。
弦之丞には、その後お千絵様《ちえさま》の病状がよくなったことをついでに話してやりたいし、また、姉のお綱を慕《した》ってやまぬお三輪と乙吉にも、もう一と目の名残を惜しませてやりたいと急いで来たが、ここへ来る前に、桃谷の万吉の家へ寄って聞けば、着いた日の今夜、ふたりは四国屋の船で阿波へ立つというあの弦之丞の置手紙。
で、疲れている姉弟を励まし、ただちにこの埋地《うめち》へ駆けつけて、宵の内からさまよっていたが、そのうちに張り込んでいる原士には怪しまれ、尋ねる二人がまさか荷つづらの底とは分らず空しく水と岸とに別れたのである。
油断のならない埋地、ここでは深い話もできぬからと、お久良は思いがけなく会った旧主の常木鴻山とお三輪と乙吉の姉弟とを連れて、農人橋際の自分の寮へ帰ったのである。
そこで夜もすがら尽きぬ話となったのはいうまでもなかろう。
万吉が不慮のことで落伍したのにガッカリして、さらに弦之丞とお綱の前途にまで、心もとない不安を持っていた鴻山も、お久良が臨機な計らいを聞いて、いささか胸を撫でた様子。
なおその前途に、安からぬ暗礁《あんしよう》を感じないではないが、既に、運を天意にまかせたつづらと船とは、還らぬともづなをきって天神岸から離れてしまった以上、今さらどう気をもんだところでおよばぬことであった。
「そちが十年前の縁を思って、こうまでしていてくれようとは、思いがけぬ神護であった。なおこの上は自分としても、ジッと弦之丞の安否を待っているのは心苦しい。で、迷惑の上の迷惑ではあろうが、この姉弟《ふたり》をしばらく寮に預かっておいてくれぬか。そして、桃谷の家に療治をしている万吉のことも、よそながら何分心づけてくれるように頼みたい」
こう言い残して、お久良の侠気を見込んだ鴻山が、ふたたび、藺編《いあみ》の笠の紐《ひも》を結んで、四国屋の寮からいずこともなく飄然《ひようぜん》と立ち去ったのは……後の話。
さて。
大事はまだ当夜の四刻《よつ》時《どき》ごろに残っている。
表面は夜凪《よなぎ》のとおり無事平穏に天神岸からともづなを解いた二百石船――淀の水勢に押されて川口までは櫓櫂《ろかい》なしだが、難波《なにわ》橋をくぐり堂島川《どうじまがわ》を下って、いよいよ阿州屋敷の女松男松《めまつおまつ》、水見|櫓《やぐら》の赤い灯、お船蔵の石垣などが右岸に見えだしてきたころも、果たして何の疾風《はやて》も船中に巻き起こらなかったであろうか? ……これはお久良も鴻山も知るよしがなかった。
* * *
船が天保山《てんぽうざん》の燈籠台《とうろうだい》を左に過ぎるまでは帆柱を立てないので、水夫《かこ》は帆車や帆綱を縦横にさばき、川口を出るとたんにキリキリと張り揚げるばかりに支度をしていた。
その間に船津橋をくぐってすぐに左の三角|洲《す》、えびす島の船番所で、川支配の役人から定例《じようれい》のとおりな船検《ふなあらた》めをされる。この間が約半刻《はんとき》。
この検分は御番城配下の手だから、新吉はまず安心していた。雪のせ笹《ざさ》の金紋は、梅渓《うめたに》家の貴重品が入っているつづらとして、別に何の面倒もなく役人を黙認させた。
実をいうと新吉は、この幕府方の川番所にもすくなからぬ心配をもったのであった。なぜかといえば、役人たちはもとよりこの中に、大公儀《おおこうぎ》の秘命を帯びた人物が隠れていようなどとは夢にも知らないから、もし蓋《ふた》へ手でも掛けられた日には、味方からボロをだして、同船の阿波方の者に思いがけない発見をさせるからである。
しかし、それは杞憂《きゆう》に過ぎなかった。
で新吉は、
「まずよかった」
と初めて満面にくる川風にホッとした気持を撫でられて、腰の煙草入れを抜いた。だが、まだまったく心が鎮《しず》みきっていないとみえて、火縄を借りる気力もなく、筒を抜いて煙管《きせる》を指に持っているだけであった。
川幅がひろくなって行くにつれて、星明りとも水明りともつかず、何となくあたりが明るくなってきたのが乗合の者の気持にまで影響して、そろそろ胴《どう》の間《ま》のほうでは大勢の話し声が賑わいだした。それも絶えずソヨソヨと吹く風が消してゆくので耳うるさい程ではない。
その乗合の混んでいる蔀《しとみ》の蔭にうしろ向きになっている仲間《ちゆうげん》づれの女が、この間寮《りよう》へ手形を貰いに来た森啓之助のかこい女《もの》だろうと、新吉は遠くから眺めていたが、自分の居場所は、ちょっとも離れられない気がして、別に話しかけにも行かなかった。
かれは、ちょうど胴の間と艫《とも》の間にある、松兵衛の部屋の戸口に、三つのつづらを大事そうにすえて、その前に二、三枚の苫《とま》を重ね、よしや船が沈もうともこの側は動くまい、というふうに腰を下ろしていた。
だが夜更けてくる頃には外海の飛沫《しぶき》もかかってくるから、乗合が木枕をつけて寝入った頃に、この場所も松兵衛がどこかへ移してくれる筈。そしたら、こっそり船底かどこかで、ふたの隙から、弦之丞とお綱に、阿波へ着いた時の手筈をささやいておこう……などと胸のうちで目算をたてている。
松兵衛は今、水夫《かこ》に櫓《ろ》の持場をいいつけたり、帆方《ほかた》の者を指図したりして、舳《みよし》と帆柱の間を駆け廻っていた。だがその忙《せわ》しい中にも、時々、新吉が背なかにかぶっているつづらのほうへ眼配《めくば》りを忘れていない。
「よい凪《なぎ》だの、風も頃合、海へ出たら定めし爽《さわ》やかであろう」
「さようでござります。この分では揺れることもござりますまい」
「昨年、殿と同船して帰国した時は、厳《いか》めしいお関船《せきぶね》で、船中も住居とかわらぬ綺羅《きら》づくしであったが、旅はむしろこうした商船《あきないぶね》で、穀俵《こくだわら》や雑人《ぞうにん》たちと乗合のほうが興味深いものだ」
「仰せのとおり、手前なども」
「啓之助!」
「は」
「見えてまいったな、安治川屋敷のかすかな灯が」
そういう話し声に、新吉がハッと背筋をすくめながら、よりかかっているつづら越しに覗《のぞ》いてみると、森啓之助と、三位卿のニヤリと見あわせた顔がすぐ後《うし》ろに――
ふたりの死
「おも舵《かじ》イッ」
白い波の条《すじ》が大きな曲線を描く。
どーンと一つ、今までと違った波濤《はとう》が胴の間にぶつかる。
海が近くなったのだ。
左の小高い丘に天保山《てんぽうざん》の燈籠台、右舷《うげん》のすぐ前に安治川屋敷の水見番所《みずみばんしよ》。
「おおウイーッ」
そこから漕ぎだす小舟があった。
「止まれーッ。その舟待てーッ」
小舟の上には三ツの人影。
止まれ止まれと声を嗄《か》らしているのは旅川周馬、指さして立っているのがお十夜孫兵衛、櫓《ろ》を撓《しな》わせて烏羽玉《うばたま》の闇を切っている者は天堂一角。時々サッとその影を白くかするのは波飛沫《しぶき》だ。親船のほうでは水夫《かこ》頭《がしら》の松兵衛、みよしに立って川口の水路《みずみち》を睨んでいたが、
「ちぇッ、来やがった。面倒くせい」と聞えぬ振りをして、
「おも舵《かじ》イッ」
左岸へ左岸へとかわしてゆく。
「親方ア!」
櫓方《ろかた》のひとりがふりかえった。
「追っかけて来ますぜ、阿州屋敷の役人が」
「かまわねエから撓《しな》わせろ!」
「合点!」
というと両舷六|挺《ちよう》ずつの十二船頭。
「エーイ、オーッ。エーイ、オーッ」
音頭《おんど》を合せて流れに乗せると、松兵衛、帆方アとどなって手を振った。キキキキキと帆車が鳴る、赤い魚油燈がぶらんとかかった。人魂《ひとだま》が綱を手繰《たぐ》って登ったように。
するとその時胴《どう》の間《ま》のほうで、にわかに大勢がガヤガヤ騒ぎだした。ドタドタドタと松兵衛のそばへ真《ま》ッ蒼《さお》になって飛んできたのは手代の新吉。
「松兵衛、大変だッ」
「ヤ、新吉さん、何だって、つづらの側を離れて来たンだ」
「三位卿がお前を連れてこいというんだ、何か御立腹で、タダごととは見えない」
「かまうものか、ほうッておけ」
「だって」
「船の上じゃ船頭が御城主だ。お前さんはあの側を離れちゃいけねエ、川口を出たら船底へ下ろすから」といったとたんに、松兵衛の襟《えり》がみをつかんで、
「おいッ、なぜ来ないかッ」と利腕《ききうで》をねじ上げた者がある。見ると、森啓之助だ。
「あっ、何をしやがるンだ」
「何をしようと三位卿の前へ出れば分る、じたばたするとそのほうたちの不為《ふため》だぞ」
松兵衛が突きのめされて行ったのを見て、新吉は慄《ふる》え上がった。
「連れてまいりました。水夫頭の松兵衛を!」
「ウム、そこへすえろ」
と三位卿大きくいって開きなおった。
ウウム、と胆《きも》をつぶされて松兵衛、ヘタヘタとそこへ腰をついてしまった。なぜかといえば、潮除《しおよ》けの苫《とま》を払って、三ツのつづらの真ン中へ、竹屋三位卿、どったり腰を乗せて磐石《ばんじやく》のごとく構えている。
「松兵衛ーッ」
お公卿《くげ》に似合わぬ大声だ。
「へい」
「なぜ船を止めないか、咎《とが》めがなければさしつかえないが、最前から安治川屋敷の水見張が、アアして呼び止めているのになぜ止めない」
「ヘエ、お呼び止めがございましたか」
「だまれーッ。この有村を盲目《めくら》と思うか」
「けれど番所のお検《あらた》めは、えびす島ですんでおりますので」
「ひかえろ。ありゃ御番城のきまったことだ。そのほう達には公儀だけあって、領主蜂須賀侯の御支配は無視いたしてもかまわぬという所存であるか」
三位卿の追詰《ついきつ》いよいよ凜烈《りんれつ》、新吉も松兵衛も、もう舌の根がうごかない。
「ともあれ有村が盲目でないことだけは心得ておけい! そこで一応問い糺《ただ》すが、この三個の荷つづらの送り状は、いずれ水夫《かこ》頭《がしら》のそのほうが預かっているであろう。中の品物は何か、読み聞かせろ」
「それはご免こうむりまする」
「なぜか」
「梅渓《うめたに》家からお預かりしました貴重なお品、それに、二十四組の廻船問屋には、送り状の内容《うちわけ》は決して人様に洩らさぬという組掟《くみおきて》がございますんで」
「いうなッ、あくまで吾らの眼をくらまそうとて、その言い訳にうなずく有村ではない。強《た》って組掟を楯《たて》にとるならこのほうは領主|重喜《しげよし》公の御名《おんな》をもってこの荷つづらの錠《じよう》をぶち破るがどうじゃ!」
ブーンとその時一本の鈎縄《かぎなわ》、右舷の下から高くおどった。と、その鈎《かぎ》の爪がガッキとどこかへ食いついた途端に、天神岸から軽舸《けいか》を飛ばしてついてきた原士《はらし》たち、縄を攀《よ》じてポンポンと蝗《いなご》のようにおどり込んできた。
そこへザザッともう一艘。安治川屋敷から大川を横に切ってきた三人の艀舟《はしけ》だ。
「オイ、槍を!」
と天堂一角が親船へどなると、
「ホイ!」といって上から槍――。
「お先へ」
と、お十夜孫兵衛、それにすがってはね上がると、次にそれへならって周馬も槍へつかまったが、呼吸が足らない、ドタンと艀舟《はしけ》へ辷《すべ》り落ちた。
「旅川、こうやるンだ」
と一角はあざやかに上がってしまう。周馬はいまいましそうに鈎縄《かぎなわ》のほうへ取ッついた。
船中は混乱した。
水夫《かこ》や乗合の者は理由《わけ》を知らぬだけに何事かと驚いて隅《すみ》へなだれた。
そのまにものものしくおどり込んできた原士と天堂ら三人組は竹屋卿の前後をグルリと取巻いて、目指すつづらとともに、松兵衛、新吉の二人をも剣槍《けんそう》の中にくるんでしまった。
舵取《かじとり》も舵に手がつかない、櫓方《ろかた》も胆《きも》をひしがれて姿をひそめ、方向の眼を失った船そのものは、流れに押されて天保山の丘へ着いている。
「松兵衛、白状してしまえッ」
森啓之助は中央に立って、かれの利腕《ききうで》をねじ上げた。新吉は原士に襟がみをつかまれてすくんでいる。
「お久良に何か言いふくめられて、この荷つづらの内へ抜乗《ぬけの》り者を隠したであろう。吐《ぬ》かせッ、さ、新吉もだ!」
と船板へ額《ひたい》をコヅいて責めた。
「知らねエ!」
松兵衛は頑《がん》として強くかぶりを振りながら、
「おいらは船頭だ、船頭は船をうごかすだけだ! 頼まれたものを積むだけだ! そんなこたア知るもンか」と捨鉢《すてばち》の語気になった。
「情《じよう》の強《こわ》いおやじめ!」
三位卿はそのつづらに腰を構えたままハッタと睨《ね》めて、
「そちたちはこのつづらの金紋を何よりの不可侵境《ふかしんきよう》と心得て、梅渓家《うめたにけ》の威光を借り、吾らに手出しがならぬと心得ているのであろうが、抜乗《ぬけの》りの者がひそんでいることは、四国屋を出る時から読めているのじゃ。強《た》って言い張るなら言い張ってみよ、今その実証を目に見せてやろうから」
と、言いながら、戛《かつ》! 叩くように柄《つか》を握ったかと思うと、有村の手に、晃《こう》とした剣が抜き払われた。と――。
有村が腰をのせているそれと、もう一個のつづらの中で、パリッと爪をかくような音がして、錠金具がかすかにカチカチとゆすぶれた。
新吉は生色を失って、中に足掻《あが》きもがいている者と同じな苦悶を感じていた。
「ムム……」と心地よげな笑《え》みを口辺にのぼせて、竹屋三位、抜き払った大刀の切ッ尖《さき》を真ッすぐに、つづらの蓋《ふた》へ向けながら、
「とやこうは事《こと》面倒。松兵衛も新吉も、これでもなお泥を吐かぬというか! 曇りのないこの刀で、中の品物を探ってみるがどうじゃ!」と叱咤《しつた》した。
「あッ……」
ふたりは、啓之助に襟がみをつかまれながら顛倒《てんとう》した。そして、何か口走ったが、それは意味をなさないくらい平心《へいしん》を欠いたものだった。
三位卿は、腰かけている物の中から必死に突き上げてくる力を身に感じて、思わずムラムラとする殺念が剣にこもるのを禁じ得ない――、
「いわぬな!」
「…………」
「どうしても実《じつ》を吐《は》かぬなッ」
「ムム」と松兵衛、船板へしがみついて、
「し、知らねエッ……」
「ちイッ、よウし!」
有村キッと唇を噛みしめた。
「天堂、天堂」
「はっ」
と、天堂一角、帆柱の裾《すそ》からおどり出した。
ふたつのつづらへ眼を落して、有村、
「その一方を槍で探ってみい! この中にたしかにいる! 阿波へ抜乗《ぬけの》りをせんとする生きものが」
「承りました」
というと天堂一角、かたわらにいる原士の手から槍を取って、黒樫《くろがし》の柄《え》を低目に持ち、ずっと斜身《しやしん》になったかと思うと、ピウッと素《す》ごきをくれてつづらの横へ穂先をつけた。
重い息づかいが流れるほか、船の中はヒッソリとしてしまった。誰の眼も空洞《うつろ》のようにそこへ気を奪われている。
遠い天星《てんせい》の青光りが、ギラッとつづらの側によれ合った。一方のつづらへは有村の剣! ひとつのほうへは天堂一角が、今にも突き出さんと撓《た》め澄ます光鋩《こうぼう》。
「松兵衛!」
「…………」
「新吉!」
「…………」
「面《おもて》を上げてこの切ッ先をよッくみはっておれ! これでもなお梅渓《うめたに》家から預かったお品と申し張るかッ――ウウム!」といった声もろとも。
三位卿の剣は力まかせにつづらの蓋《ふた》をブスッと貫《ぬ》いて切羽《せつぱ》の辺まで突き通って行った。
同時に。
一方の槍は天堂の気合とともに走って、つづらの横を突き破り、深さ蛭巻《ひるまき》の半《なか》ばまで入った。
と――見るまに、中の生命は断末のあえぎをあげて、なんと名状しようもない――耳を掩《おお》わずにはおられない、凄惨《せいさん》な震動を刻むようにさせて、船板とつづらの間を、噛むがごとく、ガタガタといわせた。
スッと、有村は刃《やいば》を引いた。
抜き取った白い鉄《かね》の肌には、まざまざと人間のギラが浮いている。
と同時に。
二つのつづらの下から、こんこんと噴き出した温《ぬる》い血汐!
船床《ふなどこ》のかしいでいるままに、数条の黒い血の条《すじ》が、生ける長虫かのごとく一散にほとばしってきた。
たしかに感じられた手応え、存分な抉《えぐ》りをよりながら、一角もまたおもむろに槍を戻した。そして、槍の尖端からポト――と糸を曳《ひ》いた一滴の粘液《ねんえき》に、年来の鬱念《うつねん》を一時に晴らした心地。
あははははははは! と。
かれは、声を揚げて、哄笑《こうしよう》したい気がした。
ついに刺止《しと》めた!
法月弦之丞をついに刺止めたぞ!
いくたびも心の底で叫んだ。
安治川屋敷から東海道に、或いは、江戸に木曾路に上方に、つけつ廻しつ、折あるごとに討たんと計っていつも失敗してきたことは、今となってみると、この最終の幕切れの歓喜を大きくさせるべく積んできた転変にほかならない。
と、チャリンという鍔鳴《つばな》りの音が、かれの瞬間な陶酔《とうすい》をさました。
後ろ向きになった有村は、血|糊《のり》をしごいて、刀を鞘《さや》に納めた。そして、紅をなすった懐紙を捨て、松兵衛や新吉へは、いずれ後日|沙汰《さた》あるべきことをいい渡し、固唾《かたず》をのんでいた原士たちへはつづらの始末をいいつけている。
「はっ」
と、黒い影が右往左往に動きはじめる。だが、前よりは妙に静かだ。どんな場合にでも、人の死の前に立って生ける者は、何か考えずにはいられない。精悍《せいかん》なかれらも、暗黙のうちにはそれぞれの感想を描いているのだろう、自然、憂鬱な運動となり、妙に静かに働いている。
そのうちに、かれらは細曳《ほそびき》を手繰《たぐ》り、二つのつづらをがんじがらめにくくりだした。なお、残る一つのつづらへも、念のために槍や刀を突っ込んでみたが、それは、何の手応えもなかった。
「この下へ寄せろ! その艀舟《はしけ》を」
つづらは、ズ、ズ、ズ、と左舷へ引きずられて行った。
あとの鮮血は目もあてられない。
太陽があったら燃えあがるだろうが、星明りでは黒い液体でしかない。だが、なんとなく、生きている、うごいている、うなずいているように感じられる。
つづらは、がんじがらめのまま、さっき、原士たちが乗ってきた小舟の一つへつり下ろされた。それに続いて三位卿が降りてゆく。原士もぞろぞろ跳び降りる。
森啓之助、天堂一角、各《めいめい》小舟へ移って行った。
親船には恐怖と大寂《だいじやく》が残った。松兵衛と新吉とは、最前から額《ひたい》をすりつけてしまったまま、雷《らい》にうたれたようにうッ伏した形《なり》となっていた。
その肘《ひじ》や膝の下へまで、温《ぬる》い液体がこんこんと浸《ひた》しているのも感じないくらい、喪心《そうしん》したかの態《てい》である。
三位卿の仮借《かしやく》ないあばき方には、もう絶対に抗弁する余地がなかった。なおさらのこと、みすみすつづらを運ばれて行っても、阻《はば》める気力などはない。被征服者の屈伏があるのみだ。
櫓《ろ》も帆も舵《かじ》も、茫然と、水夫《かこ》の手から忘れられているまに、船は、怖ろしい暗礁《あんしよう》からつき出されて、目印山《めじるしやま》の水尾木《みおつくし》を沖へ離れ、果てなき黒い海潮《かいちよう》に舷《ふなばた》を叩かれていた。
夜の海鳥が、ちぬの浦の闇に、気味の悪い、羽ばたきを搏《う》った。
さて。
四国屋の船から凱歌をあげた数艘《すうそう》の艀舟《はしけ》は、暗い大川を斜めにさかのぼって、安治川屋敷へと櫓韻《ろいん》をそろえた。
お船蔵の石垣へと、白い飛沫《しぶき》を寄せたかと思うと、そこから庭づたいに、屋敷のほうへ引き揚げて行った。
きのうからぶッ通しに緊張していたので、誰も相当に疲れていた。かたがた慰労という意味で、三位卿、酒樽《さかだる》の鏡を抜かして、一同の労を多とし、自身も敷物もせず縁先へ座をかまえた。
庭には、二ヵ所の篝火《かがりび》がドカドカ燃え、そこに真ッ赤なつづらが二ツ、暑い覆面を解いた原士、あぐらを組んでグルリと居流れ、杯《はい》を廻して、景気のいい歓声を湧《わ》かせた。
有村は愉快だった。
血の匂いを嗅《か》いだ後の酒は、一種の湿気《しつけ》ばらい、自分も冷酒《ひやざけ》の杯《さかずき》を取って、
「まだ多少は、息の音《ね》が通《かよ》っているかも知れぬ。それ、中のふたりを引きずりだせ」
と、命じた。
いい気持でもありいい機嫌だ。
大勢の中から、三、四人の原士が立った。
小柄《こづか》を抜いて麻縄をプツプツ断《き》り、錠前を抉《えぐ》ったが容易にはがれないので、石を持ってきて滅茶滅茶にぶちこわした。
たちまちそこに隙ができた。
気転をきかせた一人、弓の折れを噛ませて、ミリッ、ミリッと、生木を裂くようにコジ上げた。
「よし」
といって一方のつづらも、同じような手段でコジ開けると、縁の上から有村、
「これ、もう少し、その篝火《かがり》を」
と、伸びあがって手を振った。
「はっ」
と、啓之助が縁を下りたのを見て、原士の中にまぎれていた一角もそこへ出て、篝火の鉄脚《かなあし》を五、六尺ほどつづらの側へズリ寄せる。
焔《ほのお》をゆたぶられた松薪《たきぎ》の火、パチパチパチパチ火の粉《こ》を降らせた。
で、一角と森啓之助。
ふたつのつづらの側へわかれて立ち、検分《けんぶん》の格でその蓋《ふた》へ手をかけた。そして、
「有村様」
と名だけ呼んでかれを見上げた。
今こそこの赫々《かつかく》とした焔の下に、死に瀕《ひん》した法月弦之丞の姿を見るのだ――といううなずき合いの眼、拈華微笑《ねんげみしよう》だ。三位卿もただちょっと顎《あご》を下へ動かしたばかり、
「では」というと、蝶番《ちようつがい》の金具がキイと……悲しむように鳴った。この一瞬になると、並いるもの誰彼の境なく、痛快とか悲壮とかいうものを超えて、一種の凄気《せいき》に歯の根が咬《か》みしまる。
ぽんと、棺《かん》の蓋《ふた》が開かれたように、血腥《ちなまぐ》さいつづらの中が覗《のぞ》かれた。
一角が手にかけたほうには、血でこね廻したような男の体がかがまっていた。何のためらいなく、被《おお》われている物をズルズルと引っ張りだしてみると、その夕べ、弦之丞が面《おもて》をくるんでいた紫紺色の頭巾の布《きれ》……。
別なつづらには、蓋を払うと一緒に、青い富士形の藺笠《いがさ》が見えた。
覗きこんだ森啓之助は、
「ウム、見返りお綱だな」
と、少し、無残な念に衝《う》たれて、中からムーッとしてくる血と白粉《おしろい》のまじった匂いに、思わずちょッと顔をそむけた。そして、両手を深く差しこんで、お綱の腰帯らしい所をつかむ。
押し込められていたせいか、まだ温湯《ぬるまゆ》のような体温がある。
足を踏ん張って、ずるずると抱え出した途端に、つづらの口は横に仆れて、ダランとした青白い手――笠の首――着物の裾が――啓之助の小脇に、糸の切れた人形みたいに吊るされた。
「あ、三位卿!」
「なんじゃ」
「お綱の方は、もう息が絶えておりまする」
そういって啓之助は、片手を廻して死骸がかぶっている銀杏《いちよう》笠《がさ》の紐を解こうとしたが、持ちこらえているのが辛いので、縁《へり》をつかんでペリッと引っ剥《ぱ》いだ。と――啓之助、オ、啓之助、どうしたんだ、森啓之助、
「わーッ!」
と叫ぶと、いきなり女の死骸から手を離して、うしろのつづらへ、ドンと、弱腰をついてしまった。
「ヤ、ヤッ?」――と総立ちに、驚目《きようもく》をみはる。
見れば! 篝火《かがり》の下に投げだされた女の死顔、帯も着物も、見返りお綱のに違いないが、息は絶えながらドンヨリした死膜《しまく》の目で、森啓之助を見ているのは、
(旦那さま……)
と呼びかけてきそうな、川長のお米。
その顔の青白さ。その唇の無念そうなこと。
啓之助は、喪心《そうしん》したようになって、唇をワナワナふるわせていた。
「ウウム」
と拳《こぶし》をにぎり、板縁に棒立ちになったまま、三位卿、お綱と思いのほかな、お米の死顔を睨みつめた。これだ! 剣山の帰りに馬上から見かけた啓之助の匿《かく》し女《おんな》は!
そう思って、意外な蹉跌《さてつ》に、無念な唇をかみしめた。そして、そこの薄のろ武士を、足蹴《あしげ》にしても飽き足らなく思った。
「天堂ッ、天堂ッ」
かれの声は、にわかに癇癖《かんぺき》をフンざかせてきた。
足の拇指《おやゆび》をジリジリさせて、縁の板を踏み鳴らしながら、
「それはどうだ? そのつづらのほうは弦之丞に相違ないか」
と急《せ》きこんだ。
一角は、中の死骸が、金具の裏に噛みついていたため、容易に抱き出されないで弱っていたが、もしや? と彼の心もわくわくして、
「エエ、面倒」
とばかり、つづらを横に蹴倒した。
そして、ムリに引きずりだしてみると、これはただ、弦之丞とおぼしい衣類を、頭の上からかぶせられた倶利伽羅紋々《くりからもんもん》の死骸――すなわち仲間《ちゆうげん》の宅助だった。
狂瀾《きようらん》
つづら心中の形となったお米の死、宅助の死。
なんと無残な輪廻《りんね》だろう。不合理な心中だろう。運命の神の皮肉さよ。
だが、真《まこと》の弦之丞とお綱は、いつのまにこの二人と入れ代っていたのだろうか? なにせよ阿波方の面々、不覚のかぎりであった。
「ちぇッ、うまうまと騙《たばか》られた」
醜《みにく》しとは思いながら、三位卿、歯ぎしりを噛まずにはいられない。
「今にして思い当たるのは、船待小屋ですれちがった時の、怪しげな男女《ふたり》であった! それを啓之助めが、おのれの非に恟々《きようきよう》としておったがため、いらざる口出しをして、有村の明察《めいさつ》をあやまらせた」
じだんだ踏んで口惜しがった。
原士たちは唖然《あぜん》として、棒を飲んだようになっていた。一角も呆《あ》ッ気《け》にとられて、いうべき言葉を忘れている。
弦之丞の瞬速《しゆんそく》に、これだけの者が翻弄《ほんろう》されたのか! そう思う苦々しさが、みんなの醒《さ》めた顔にみなぎっていた。
「いたずらに茫《ぼう》としてはおられない!」
有村は形相《ぎようそう》をかえて庭へ下りた。
「一角ッ、大急ぎでお船蔵から船を出せ。まだ先の船も、さして沖を遠くへは離れていまい」
「あっ、追手を?」
「無論。早くだ!」
「あるか、脚の早い船《の》が?」
一角、原士の中へどなった。
「お手入れ中の納戸船《なんどぶね》、あれなら軽い、たいして人数は乗れませぬが」
「それでいい、それでいいッ」
叱りとばすように有村が急がせると、バラバラ向うへ駆けだした。櫓《ろ》だ、櫂《かい》だ、帆の支度だ! そんな声が八方の闇へ別れる。
三位卿もすぐに船蔵のほうへ急ぎかけた。すると、その前へ駆け廻って、啓之助が、
「有村様ッ……」と、足元へへばり伏《ふ》した。
「なんだッ蛆虫《うじむし》」
「め、めんぼく次第もございませぬ」
「それがどうしたというのかッ」
かれの額《ひたい》には青筋が太かった。
「不始末のほど、慚愧《ざんき》にたえませぬ。本来、御一同の前で、切腹すべきでございますが……」
「そうだ! 当り前だ!」
「殿の御意《ぎよい》もうけず、身勝手に死ぬこともなりませず」
「よかろう!」
「ではございますが」
「かまわん、わしが、殿のお耳へ入れておく。殿もよい家来を失ったとは惜しむまい」
「は……しかし、武士の意気地」
「人が笑うぞ! 貴様がそんな言葉をつかうと」
「はい」
とガッカリした啓之助、土下座の腰をのばして、いきなり三位卿へ両掌《りようて》を合せた。
「有村様ッ、こ、このとおりでございます」
「何をするんだ、ばかなッ、わしは笏《しやく》を持っている木像じゃない」
「終生のお願い――どうぞこの不始末を、殿様へおとりなしのほどを。啓之助、過去を悔悟して、御奉公をしなおしまする。そして、武士の意地にも、追手の船へのりまして、弦之丞めを」
「世迷言《よまいごと》を申すな」
「でなければ」
「うるさいッ、お前はお前のすることをしておれ。そのな、啓之助」
と、かたわらのものを指さした。
宅助の死骸とお米の亡骸《なきがら》が重なっている。
「――その醜いものを見ろ、それを。おのれのものがおのれに帰ってきたのではないか。所有主はお前だ、あれを抱いて、早くお屋敷を出て行け! けがらわしいやつッ」
と、肩を蹴った。
うしろへ引っくりかえった啓之助は、手にからみついた黒髪にゾッとした。
何を見ているのか、お米の眼は閉じないである。急にとがってみえる骨の間に、どんよりと、なんらかの執着《しゆうじやく》の相をたたえて。
これが、あれほど自分を燃え立たせた、情慾の対人《あいて》か。
かれは両手で顔をおおった。
逃げ場のない気持を、死者の冷たい手が追い廻してくるようで、啓之助は立ちもならず、いたたまれもしない。
「有村様ッ、有村様ッ」
と叫んだが、その三位卿は、もうお船蔵へ向って駆けていた。かれは、気狂いじみた迅《はや》さで、お米の死に顔を照らしている二ツの篝火をいきなり泉水の中へ打ちこんだ。
あたりを闇にしたら、深い土の底へ現実を埋めた気がして幾らか心が安らぐかと思ったが、無駄だった。
駆ければ駆けるほうへ、
(旦那様……)
と、お米の顔が。
* * *
沖の汐鳴《しおな》りが変ってきた。
風が出てきた。
暗い五|更《こう》を、黒い潮《うしお》の海を。
破れんばかりに帆を鳴らして、まっしぐらに走る追手の船! 指してゆく沖の一線に、これまた、満々と帆を張りきって南へ南へと急ぐ船影がかすかに黒く――。
雲! 雲! 形相《ぎようそう》の悪い雲のうごき。
まさに、狂瀾《きようらん》天をうとうとしている。
血は潮水で洗われたが、四国屋の船の上には、まだ宵《よい》の陰惨の空気が漂《ただよ》っていた。黙々とした水夫《かこ》、おびえた夢に苫《とま》をかぶっている旅客、人魂《ひとだま》のような魚油燈、それらを乗せて、船脚は怖ろしいほど迅《はや》くなっている。
ときたま、山のような波がかぶった。
その大波の度がふえるにつれて、潮鳴、潮風、帆のはためき、どうやら暴風《しけ》の兆《きざし》がみえる。と気がついた頃には、船の揺れ方も尋常ではない。
だが、島とは見えない、淡路の巨影にかばわれて、紀淡海峡を出るまでは、水夫《かこ》も多寡《たか》をくくっていたし、それに、宵のことで、スッカリ気がめいっていたので、騒がず、声を立てず、相変らず黙々と、船は帆まかせに走っている。駸々《しんしん》として白浪を蹴っている。
真夜半《まよなか》を過ぎた。
阿波へ阿波へ。
満をはらんだ十四|反《たん》帆は巨大な怪鳥のごとく唸《うな》りを搏《う》って進む――。
と。やがて大寂《だいじやく》の丑満《うしみつ》すぎ。
船の一隅、潮除《しおよ》けの蔀《しとみ》の蔭に、苫《とま》をかぶっていたふたりの客が、ムクムクと身を起こしてあたりの旅客の様子を眺めた。
うごいているのは船暈《ふなよい》に悩んでいる者だけであった。
「…………」
何か目と目でうなずきあうと、苫《とま》をはねたそのふたり、手と膝とで、松兵衛の部屋のほうへ這いだした。船は坂のように見える。
互に、左右へ気を配って――。
低い達磨《だるま》部屋の戸の隙から、煤《くす》んだ灯の色が洩れている所へ寄ると、
「松兵衛、松兵衛」
ひとりが軽く戸を打った。
「新吉さん」と、またひとりが低く呼ぶ。
見ると、その男女《ふたり》は、天神岸から乗ったあのまんじゅう笠の仲間《ちゆうげん》と手拭《てぬぐい》の女だ。
達磨《だるま》部屋の底には、水夫《かこ》頭《がしら》の松兵衛と新吉、魚油くさい灯壺《ひつぼ》を中に挟んで、互に、ものもいわず、ためいきばかりつきあって、暗鬱《あんうつ》な腕ぐみをしていたところ。
ゴト、ゴト、と戸が鳴ったので、ひょいと眼を上げたが、風だろう、そう思ってまた首を垂れてしまった。
上には訪れた男女《ふたり》、低い声は潮風に消されてしまうし、大きな声はあたりをはばかるし……としばらく迷っている様子。時々、虚空《こくう》へさらわれてゆく苫《とま》の影にもハッとする。
「一言《ひとこと》知らせておきたいが」
「そうですね……さだめし気を腐らしておりましょう」
「事情を知ったらびっくりするぞ」
「幽霊かと思うかもしれませんね」
「なにしろ、無駄な心配をさせておくのは気の毒、それに……」
「シッ」と手を振られて口をつぐむ。
「誰か起きている者があります。向うに人影が」
「では、後にしようか」
「…………」うなずいて、身を隠そうとした時、髪をくるんでいた手拭が、サッと風に飛んで、女の白い顔が凄艶《せいえん》にむきだされた。
「あら……」
と吹かるる髪をおさえたのは、まぎれもないお綱であった。
とすれば、仲間《ちゆうげん》にやつした一方の者は、無論法月弦之丞でなければならない。
ふたりは健在である。
天神の船待小屋までは、あのつづらに身をひそめていたが、じっと中から埋地《うめち》の空気を察していると、どうやらそこの安全でないのを感じた。すると、その荷つづらによりかかって、痴話狂《ちわぐる》っている男女があった。お米をもてあそぶ宅助であった。宅助を操《あやつ》っているお米であった。弦之丞は前からの約束もあるので、お米に、つづらの中へ入れ代って貰おうと思った。まさか、アア無残な結果になろうとは予測せずに――、そして都合の悪い宅助をまず、不意につづらの中から刺したのである。
そして、つづらを開けて呼び止めると、誰か人が入ってきたので、また、中へ潜《ひそ》んでしまった。それが常木|鴻山《こうざん》であると知ったら、その必要もなかったが、咄嗟《とつさ》に蓋《ふた》をかぶってしまったので、かれも先も気がつかずに、鴻山はまた走りだして行った。
その後で、弦之丞はお米を承知させて、お綱と姿をとり代えさせた。宅助は否応《いやおう》なく、合羽を剥《は》がれて押し込まれた。すべては、まったく一瞬の間に行なわれたのである。弦之丞が代玉《かえだま》を入れて錠《じよう》をかっている手も間に合わないくらいに、そこへ、竹屋三位が来たのだから――。
で当然に、松兵衛も新吉も、つづらの中がすり変ったとは知らないはず、達磨《だるま》部屋の底に嘆息《ためいき》をついて、お家様への言い訳や、後で領主からどんな厳罰をくわされるかと、頭をなやめているわけだった。
「おお、ひどい風」
お綱は白鳥のように飛んだ手拭の行方を見送って、帆柱の腰へ背なかを支えた。弦之丞もその白いものへ眸をあげた。なぜか、その一瞬に、かれは悲恋非業の終りを遂げたお米の魂のさまよいを見る心地がした。
すると。
今お綱が艫《とも》のほうにボンヤリと見た二ツの人影が、いつのまにか、足音をぬすませて、弦之丞のうしろに立っていた。
「おい、どうだ」
「ウウム……」
袖を引きあって、お綱の顔を睨んでいる。
「シッ……」と左右へ辷《すべ》ると二人とも、あり合う苫《とま》を頭からかぶって、船床の上へ寝てしまった。
かかるまにも、竹屋三位卿そのほかの乗っている追手の船は、滔天《とうてん》の飛沫《しぶき》をついてこの船を追っている。
不意にボウと月光がさした。
鯖《さば》の背みたいな青黒い海の色が、一瞬、ものすごく目に映ったかと思うと、バラバラッと、痛いような大粒の雨!
嵐の先駆――。
気味のわるい微風《そよかぜ》が撫でた。
ほんの一瞬《いつとき》、欺《だま》すようにさした月光は、空の怒ろうとする前に見せる微笑であった。
「あ……アア……」
と、お綱は帆ばしらの根を離れ得ずに、冷たくなった額《ひたい》をおさえた。
「どうした?」
と、抱きこむように支えて、
「暈《よ》ったのか」と弦之丞が優しく訊く。
「エ、すこウし……」
「しっかりいたせ、夜明けになれば凪《な》ぎるであろう」
「はい……お案じ下さいますな」
「よいか」
「大丈夫でございます」
「前の所へ戻って、少し落ちつくがよい」
「そういたします」
「わしの帯につかまって……よいか……足をすくわれるな、足を」
お綱は弦之丞に力とすがった。
弦之丞はお綱を抱いた。
そうして、片手に、笠のつばをおさえて、蔀《しとみ》の蔭へ走ろうとすると、その時だ!
一条《ひとすじ》の帆綱が、ピュッと――輪を解いて弦之丞の足もとへ飛んだ。
「あっ!」
船の動揺に気をとられていたので、かわすまもなく一方の足は、クルクルと巻きつかれて何者かに手繰《たぐ》られた。
お綱の体は、かれの手を離れてうしろへよろける。弦之丞は倒れながら、脇差を払って、足首にからんだ綱を抜き打ちに切ってはねた。
「ちぇッ」
と、向うの闇で声がする。
弦之丞とお綱は、船床へかがみついたまま、そこへ眼を向けたが、誰の影とも判らない。向うの者も、腹這いになっている様子だ。
「ううむ、まだ船の中に、阿波の武士が残っておった。お綱……わしの側を離れるな」
かれは白い光を背なかへ廻しながら、膝で歩くように、縄《なわ》の飛んできたほうへいざりだした。
と――先の影も這うように動きだした。そして、グルリと向う側の舷《ふなべり》へ廻ってゆく。
人数はいないな、ことによると船頭の中で、拾い首の功名をしようとする奴かもしれぬ。――弦之丞はそう思った。そして、機を計って跳《と》びかかってゆくと、案の定、抜きあわせてもこず、バタバタと艫《とも》のほうへ逃げだした。
「ひと浴びせッ」
と気をはやったが、ほかの者の目をさましてはと、静かに、気永に、船具や積荷の間を追い廻していると、先の影も、船蔵の鼠のように敏速だ。
すると、後ろの胴《どう》の間《ま》で、突然な叫び声がかすれた。弦之丞はあッといって、一足跳びに引ッ返した。
見ると、お綱が何者にか組み敷かれている。
「おのれッ」
というが早いか、弦之丞の太刀――その影を横に払った。
が――先も足首に気構えをとっていたとみえて、いきなり、お綱の胸に片膝をのせたまま、ぱちッと、太刀の切羽《せつぱ》。抜き合せに受けた。
燐《りん》のような火の匂いと光がシュウッと削り落された。
「ウウ、おのれは――ッ」
と弦之丞、からんだ鍔《つば》をそのまませめて、
「お十夜だなッ!」と、絶叫した。
「驚いたか、三位卿の目はかすめても、この孫兵衛があんな甘手《あまて》を食うものか」
――その時である、艫《とも》のほうを逃げ廻っていた旅川周馬、隙を狙って帆柱の半《なか》ばごろまで、スルスルと猿《ましら》のぼりに上って行った。
有村や一角が、つづらの内から血汐のあふれだしたのを、てっきりと信じて、引き揚げて行った際に、孫兵衛と周馬のふたりは、一同の移った小舟へ乗らなかった。というのが――あの騒動のうちに、艫《とも》へなだれて行った乗合客の中に、ハテナと、小首をかしげた女を見たので。
手拭に顔を隠していても、お十夜にとれば、お綱はあれまでにほれていた女、決して、あかの他人を見るごとくではない。
すべての者は、皆つづらの中に気を奪われて、他に何ものもないくらいだったが、孫兵衛は、周馬にも耳打ちして、絶えず、それへ眼をつけていた。で、ついに仲間の舟へは乗りおくれた訳であるが、やがて有村も一角も、あわてて追いをかけてくるに違いないと察していた。
案のごとく、洲本《すもと》の沖あたりから、それらしい船が後ろから白浪を蹴立ててくる。それらに来られてからでは気が利《き》かない、その前に料理しておこうではないか――と、周馬があぶながるものを、孫兵衛、いきなり弦之丞の足元へ綱を投げた。そして、かれは巧妙に帆柱の蔭へ立ったので、周馬は運悪く弦之丞の切ッ尖《さき》に追い廻されてしまった。
で――とうとう、帆柱の上までスルスルよじ登った旅川周馬。
「お、そこまで来たな」
と、近づく船影にホッとした。そしていきなり、脇差を抜き、片手にふるって、蜘蛛《くも》手《で》に張り廻した帆綱帆車《ほづなほぐるま》、風をはらみきった十四反帆! ばらばらズタズタ斬り払った。
周馬が、虚空から切って落した帆布《ほぬの》は、その下にいた弦之丞とお十夜の上へ、バラ――ッと、すごい唸りをあげて落ちてきた。
柱を離れた十四反帆、船をそっくり包んでしまうほど大きい、巨大な獣《けもの》の背なかのようにムクムク波を打っている。
ザアーッと、一散な雨が横に吹ッかけてきた。
雨の白さが、いっそう闇を濃くさせた。波は高くおどり、風は狂わしく吠《ほ》えたける。
船は、無論、暗澹《あんたん》たる中をグルグル廻っているのである。水夫《かこ》、楫主《かんどり》、船幽霊のような声をあげて、ワーッと八方の闇にうろたえている。
「あっ、ひどい音が?」
「暴雨《しけ》だッ」
と達磨《だるま》部屋の底で、はね起きたのは、松兵衛と新吉。
戸を引ッぱずして外へ首を出してみたが、そこは、いッぱいに、落ちた帆布《ほぬの》がかぶさっている。
で何も見えない。ただ、ザンザとうつ大雨の音と、風の咆哮《ほうこう》と、船夫《ふなこ》たちの気狂いのような声。
暴雨《しけ》ばかりではない! 何か、騒動が起こった様子と――松兵衛、わけは知らないのでそれへ潜《もぐ》り込んでゆくと、ギラリと、太刀魚のような光りもの!
「あッ」
と、突っ伏した途端に、うしろの新吉は、達磨部屋へころげ落ちていた。――と、帆布の一端を切り破って、おどりだしたのは弦之丞である。うごくところを狙って、突き刺そうとすると、松兵衛の悲鳴にハッとおどろいて手を引いた。
その隙に、お十夜も、大魚の腹を切り破って出るように、雨の中へころがりだす。
雨は帆布を叩《たた》いて、滝のように白くあふれていた。さらに、空《くう》へ、奈落《ならく》へ、ゆれかえる合《あい》の動揺!
目もあけられぬ雨! 疾風《はやて》!
「うぬッ」
「おのれッ」
と互に、剣をかまえて、斬ろうとし、刺そうとはするが、自然の力に妨《さまた》げられて、技《わざ》も気念もほどこすによしがない。
帆は切り裂かれても、船は運よく、由良《ゆら》の岬《みさき》にも乗りあげずに、鯉突《こいつき》の鼻をかわして、狂浪に翻弄《ほんろう》されながら外海へつきだされていた。
帆柱にしがみついて、しばらく様子を眺めていた周馬も、いよいよつのる疾風《はやて》に、ともすると体ぐるみ吹ッ飛ばされそうになるので、
「あっ、堪《たま》らねえ」
と、辷《すべ》り落ちてきた。
そこに、お綱が、船暈《ふなよ》いの顔を青ざめさせて、うッ伏していた。だが、ドンと降りてきたかれの足音に、ハッと顔をあげて、帯の小脇差に手をかけた。
世阿弥《よあみ》のかたみ――新藤五《しんとうご》国光《くにみつ》の刀へ。
と、周馬は、
「ウム!」と叫んで、足をあげた。
だが――お綱の肩を蹴とばしたとたんに、かれの体も、意気地なくもんどり打って、四、五|間《けん》向うへ突ンのめっている。
イヤ、周馬のみならず、その時二百石積みの船がもろに傾いて、海水をすくうかと思われたほど、激しい震動を食ったのであった。
突然。
船体の木組が、皆バラバラになったような音がした。
と思うと――舳《みよし》をつッかけてきた一|艘《そう》の納戸船《なんどぶね》、そこから、ワーッという喊声《かんせい》が揚がった。
手鈎《てかぎ》、投げ爪、バラバラこっちの船へ引っかけて、ずぶ濡《ぬ》れになった原士の輩《ともがら》、手槍を持った一角、竹屋三位卿など、面《おもて》もふらず混み入ってくる。
そして、荷蔵や苫《とま》のかげに、かがまッている客や船夫《ふなこ》を捕えて、いちいち改めているらしいので、旅川周馬、大手をひろげて、お綱の姿を見張りながら、
「ここだ――ッ、ここだッ」
と、大声で知らせた。
すると。
その声も終らぬところへ、法月弦之丞の姿が、目の前へ飛んできた。あっと、思わず逃げ腰になる隙に、弦之丞はいきなりお綱の体を横に引ッ抱えて、斬りつけてくるお十夜を、片手の太刀で防ぎながら舳《みよし》のほうへ走りだした。
「おッ、いたぞ」
「弦之丞だ!」
「それッ」
と、槍を取った原士の影が、先をふさいで叫んだが、なお、血とも雨ともわかたぬ飛沫《しぶき》をついて、夜叉《やしや》にも似た乱髪《らんぱつ》のかげが、舳《みよし》の鼻に突っ立った。
そこへ、なだれて来た三位卿と一角とが、
「あッ――」
と、声を筒抜《つつぬ》かせた途端。
うしろへ迫ったお十夜へ白刃の素振《すぶ》りをくれながら、法月弦之丞、お綱の体を抱えたまま、逆《さか》まく狂瀾をのぞんで身を躍らせた……。
剣山《つるぎさん》の巻
吉兆吉運《きつちようきちうん》
それから四、五十日の日が過ぎた。
暑い。
南国らしい暑さの夏!
雄大な雲の峰の下に、徳島の城下は、海の端《はし》に平たく見えて、瓦《かわら》も焼けるようなギラギラする陽《ひ》に照らされている。
カチ、カチ、カチ! たえまのない石工《いしく》の鑿《のみ》のひびきが、炎天にもめげず、お城のほうから聞えてくる。町人の怠惰《たいだ》を鞭《むち》うつようだ。
徳島城の出丸櫓《でまるやぐら》は、もうあらかた工事ができている。今は、いつか崩壊《ほうかい》した石垣の修築が少し残っているばかり、元気のいい鑿《のみ》の音は、そこで火を出しているひびきである。
阿波守重喜《あわのかみしげよし》も、その後、めっきり快方に向っていた。
ひと頃、家臣たちが眉をひそめた、病的な乱行《らんぎよう》も止《や》まって、今では、神経衰弱のかげもない程、まっ黒に日にやけている。
あまたの若侍と一緒に、徳島城の大手から津田の浜へ、悍馬《かんば》をとばしてゆく重喜の姿をよく見かける。
水馬、水泳、浜ではさかんな稽古である。ある時は、家中《かちゆう》をあげて、陣練《じんねり》、兵船の櫓稽古《やぐらげいこ》などが行われた。
今日も阿波守は、水襦袢《みずじゆばん》に馬乗袴《うまのりばかま》をつけたりりしい姿で、津田の浜のお茶屋に腰をすえ、生れ変ったような顔を潮風に磨かせていた。
そして、白浪をあげて乗り廻している水馬の群れを眺めて、時々、ニッコとさえしている。
健康とともに、強い希望の火が、かれの行く手によみがえってきていた。赫々《かつかく》としてきた。
潮音、海風、すべて討幕《とうばく》の声! そう胸を衝《う》つのである。
炎日、灼土《しやくど》、すべて回天《かいてん》の熱! そう感じられてくるのである。
健康な心には、迷信の棲《す》みうる闇はなかった。間者牢《かんじやろう》のことも俵一八郎の死も、阿波守の脳裏からいつか駆逐されて、その後には、ただ大きな望みだけが占《し》めていた。
ことに。
もう五十日ほど前に、沼島《ぬしま》の沖合で、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》とお綱とが、暴風雨《あらし》の狂瀾を目がけて身を躍らせたので、とうとう、それなり海のもくずになったであろうという三位卿の報告は、かれをして、ホッとした息をつかせたに違いない。
「幸先《さいさき》はよいぞ!」
阿波守の意気があがるとともに、出丸曲輪《でまるぐるわ》の工事は成り、石垣の普請《ふしん》は近く手を離れるばかり、火薬は硝薬庫《しようやくぐら》にみち、兵船はそろい、家中の士気は揃ってくる。すべてが、不思議なほどトントン拍子に吉事を重ねてくる。
近くは、前もって盟約のある京の代表者、徳大寺《とくだいじ》家の密使をはじめ、加担の西国大名、筑後《ちくご》の柳川《やながわ》、大洲《おおず》の加藤《かとう》、金森《かなもり》、鍋島《なべしま》、そのほかの藩から、それぞれの使者が徳島城に集まって、幕府討て! 大義にくみせよ! の最後にして最初の狼火《のろし》をあげる諜《しめ》しあわせをすることになっている。
で、阿波守の爽《さわ》やかな胸から、時々、明るい笑いが頬へのぼる。
波を見ては笑《え》み、人をみては笑み、馬をみては笑む。
「阿波殿!」
と、お茶屋の端にかけている三位卿が、それを見て声をかけた。
「ウム、何か?」
「愉快でござりますな」
「心地よいの」
「若侍たちの水馬も、日に日に上達してまいります」
「蜂須賀武士じゃ!」
「南蛮鉄《なんばんてつ》のような皮膚――」
「あれへ具足《ぐそく》を着込ませたら、よもや江戸の青ひょろけた侍どもにひけはとるまい」
といいながら阿波守、ふと、有村《ありむら》のうしろにかがんでいる二人の見なれぬ侍に目をつけた。
「あれにいるのは何者か?」
と、重喜が妙な顔をした。
ひとりは頭巾をつけ、ひとりは総髪《そうはつ》。どちらも大名の前に出られる風姿《なり》ではない。
「もと川島郷《かわしまごう》の原士《はらし》、関屋孫兵衛《せきやまごべえ》です」
と、待っていたように、有村がひきあわせた。
「ひとりは旅川周馬という浪人、一角にも劣らず、弦之丞を討つについて骨を折りました」
「ウム」
重喜は鷹揚《おうよう》にうなずいた。
さきに、天堂一角から推挙があったので、その名前だけは耳にしていた。
有村は、お言葉をたまわりたいと願った。そして、関屋孫兵衛は、某所で果し合いをした折の刀傷《かたなきず》を病んでおるので、頭巾のままおゆるしを願いたいとつけ足した。これは、三位卿も真偽を知らないことだが、孫兵衛のいうままを取次いだのである。
で、機嫌のよい阿波守は、謁《えつ》をゆるして、当座の手当を与えるように近侍《きんじ》へいいつけた。
納戸方の侍の手から、金一封ずつが渡された。
すくない金ではないらしい。
「なお、いずれ後日には、何かのお沙汰があるであろう」
ということに、周馬も孫兵衛も予期どおりなつぼへ来たわえと、内心ニタリとして、殊勝《しゆしよう》らしく引退った。
だが頭巾のことでは、さすがなお十夜も冷汗をかいたらしく、腋《わき》の下を拭きながら、周馬とくすぐったがりながら、空いている浜小屋のひとつへ入ってくる、とそこに天堂一角が、水襦袢《じゆばん》に馬乗|袴《ばかま》の姿で、腕をくんで鬱《ふさ》いでいた。
「お」と、顔を見あわせて、
「どうした」
と、肩を叩く。
「う……」と一角は元気がない。
「水馬で疲れたとみえる」
「そうでもない」
「今、阿波守に拝謁《はいえつ》してきた」
「ふーん……」
「貴公の推挙もあり、三位卿の口添えも利《き》いて、すっかり面目をほどこしたというわけさ」
「そうか」
「よろこんでくれ」
「うム」
「おれも川島へ帰って、元の原士千石の身分になれる。周馬だって、いずれ、近習とまではゆかなくっても、馬廻りやお納戸ぐらいには役づくことになるだろう」
「早いな、話は」
「とにかく、吉運到来だよ」
「そうかしら」
「オイ、一角」
「え」
「そうかしらって、お前《めえ》だって、噂にきけば、たいそういい運が向いてきたというじゃねエか」
「ウム、加増《かぞう》のお墨付《すみつき》をいただいた」
「不足なのか」
「過分さ」
「じゃあ」
少し話がこじれてきた。周馬が代って、
「おれたちが仕官したり帰参するのが気にいらないのか」
とひがんでいう。
「ばかをいえ!」
と一角は傲岸《ごうがん》になった。
「お互いに立身出世の緒口《いとぐち》がついたのを、誰が気にいらない奴がある」
「それならよろこんでしかるべきじゃないか」
「だからよろこんでおるではないか」
「ちッ、まずい面《つら》をしているくせに」
「ほかに屈託《くつたく》があるからだ」
「なんだ?」
「おれは少し気になってきた」
と一角はまた首をたれて考えこんでしまった。
「どうしたっていうんだ。天堂一角にも似合わん憂鬱じゃないか。今、蜂須賀家もおれたちも、吉兆と吉運にめぐまれているのに」
「だからよ、その夢が凶《わる》く、裏切られてきやしないかと心配しているのだ」
「妙なことをいう……」
解《げ》せない。
ふたりは眉をひそめて一角を見た。一角は何か真剣になって苦念していた。
剽悍《ひようかん》で一徹者、何ごとにも荒けずりな性格を見せる天堂が、妙に楽しまぬ色で、考えこんでいるので、周馬と孫兵衛がだんだんたずねると、やっと、口を開いた。
「どうも、吾々の吉運到来は夢らしいぞ。夢はいいが、さめた後の悪さが思いやられる」
と、何かに、おびえていうのである。
「なぜ?」
「どうも、弦之丞とお綱は、まだ死んではおるまいと思われる。もし、ふたたびかれが姿をあらわすことでもあった日には、殿を欺《だま》したことになる」
「ばかな!」と周馬は一蹴して、
「あの怒濤《どとう》の中へおどりこんで、助かるわけがあるものか」
お十夜も同意した。
「一角、そりゃ、余りお前《めえ》が考え過ぎるよ」と。
そして、もう一言《ひとこと》、冷笑をまぜてつけ加えた。
「運が向くと人間は臆病になる。金持になると病気ばかり怖くなる、この夢がさめるな、この夢がさめるなってやつよ。それと同じだ。ばかばかしい。夢といってしまえば、棺桶の底へあぐらを組むまでは、みんな夢じゃないか」
「くだらんことをしゃべってくれるな、拙者は心の底から心配しているのだ。恩賞の帰参のと、吉運に酔っている貴公たちを見るといっそう後が思いやられる。決して、根柢《こんてい》もなく取越し苦労をしているのではない」
「どうして急にそんなことを考えだしたのか。おれたちにはおかしくってしようがない」
「実をいうと、拙者も、今しがたまでは得意だった。で、今日この浜で出会った叔父貴にも自慢をしたくらいなのだが」
「ウム」
「叔父というのは水泳|指南番《しなんばん》で、赤組頭《あかぐみがしら》、生島流《いくしまりゆう》の達人で、平常《へいぜい》は船預かりという役名で四百石いただいている、海には苦労をしている人間だ」
「成瀬銀左衛門《なるせぎんざえもん》のことではないか」
「そうだ」
「その成瀬に自慢をしたというのは、法月弦之丞のことをだな」
「刃《やいば》で止《とど》めを刺したのではないが、とにかく、海の藻《も》くずになったことは分りきっておる。かたがたお墨付をいただいたから、それを話したのだ。さだめし、叔父にしても家中へ鼻が高かろうと思って」
「なるほど、そしたら?」
「おめでたい奴じゃ! 頭からそうどなられたものではないか」
「ふウむ、変り者だな」
「どうして、常識過ぎるくらいな常識家だ。その叔父が苦《にが》りきって、罵倒《ばとう》するのだから、拙者もちょッと面食らった。――で理由を糺《ただ》すと、法月弦之丞は決して死んではおるまい。必ずどこからか陸地へ上がっている! 祝杯に酔ッぱらうなよ、阿波守様はいい時にはいい殿だが、悪い時にはその逆がひどく出るお方だぞ! こう叱るのだ、拙者をな。で、だんだん叔父貴の説に耳をかしてみると、どうも彼はまだ生きているという結論になってくる」
周馬もお十夜も、なんだか嫌な気持になった。あまり正確な推理がそのあとから出るのが怖ろしく思えた。
「深いことはいわないが、叔父は水泳と船術の経験から、近海の潮流に詳しい。また、みずから海へ飛びこんだ程の弦之丞だから、必ず自信があったろう。相当にいける者なら、あの晩の波ぐらいは大したものではない。ことに隠密というものは、捕われるまでも決して自殺をしないものだ、拷問《ごうもん》にたえ、恥をしのび、首を斬られる最後の一瞬まで、生きて命《めい》をまっとうしようともがく粘《ねば》り気《け》のあるところに、隠密の本分と、かれらの誇りがある。その辺はなみの武士のいわゆる最期の美とはよほど違う。だから、弦之丞も、お綱を引っ抱えて海へ入ったのは、おそらく、逃げるだけの自信があってしたことに違いないし、船も阿波の沖へ近づいていたといえば、かたがた油断《ゆだん》はなるまいというのだ」
「けれど、もう五十日あまり過ぎた今日になっても、かれがどこに潜伏していたという知らせも、ないではないか」
「その代りに、かれの死骸がどこへ流れ着いたということも聞かない」
「そういえばそうだなア……」と周馬の声は溜息《ためいき》に似てきた。
吉運到来の歓喜は苦もなくぐらつきだした。
そう疑いをもってくると、弦之丞の変幻自在なことから推しても、ヒョッとすると、徳島の城下あたりを澄まして歩いているような気がする。
下手をすれば、浜で動いている足軽や人足、お城に取ッついている石工の仲間などに、かれが巧妙な変装をしていない限りもない。
「祝杯に酔っぱらうなよ!」
海で苦労をした人間がいったという言葉が、気味わるく耳にこびりついてきた。
阿波守が浜から帰城した後で、三人は思案にあまった顔を揃え、三位卿にどうしたものか相談してみた。
「ふウム……」と聞いていたが、かれも専門家の成瀬銀左衛門がいった説というのでは、頭から否定もしきれないで、
「そういわれてみると、ほうってもおけぬな」
と、同じ疑念にとらわれてしまった。
そして、またこういった。
「なにしろ万全を尽くしておくに限る。それには、第一案も第二案もあるから決して心配することはない」
翌日、かれは三名の者をつれて、助任町《すけとうまち》の代官所に桐井角兵衛《きりいかくべえ》をおとずれた。
「こういう者であるが」
と有村が、代官の角兵衛に示したのは、前夜、周馬が入念に描《か》いた弦之丞とお綱の人相書で、骨格、年配、特徴、背丈《せたけ》などが、微細にわたっている二枚の巻半紙。
それをひろげながら、
「今から五十三日前の暴風雨《あらし》の夜から後に、こういう男女の死骸が、御領内の沿岸へ上がったことはないか。あるいは、無智の漁師《りようし》などが、曲者《くせもの》に騙《かた》られて匿《かくま》っているような様子はないか、また、巧みに変装して御城下などにまぎれ込んでおるようなことはあるまいか、どうか、入念に至急、お調べを願いたい」
と、むずかしい注文を持ちこんだ。
桐井角兵衛は罪人の揚屋《あがりや》を預かり、手代手先の下役を使って、阿波全土の十手《じつて》を支配している役儀上、いやとはいえないで、すぐに人相書を十数枚複写させ、それを美馬《みま》、海部《かいふ》、板野《いたの》、三好《みよし》などの各地の配下へ持たせて、しらみ潰《つぶ》しに各村を調べさせた一方、代官所の手先に命じて、城下はいうに及ばず、阿波の沿海、残るくまなく捜索させた。
叩けばほこりの道理で、その結果いろいろな報告が集まった。だが、ひとつとして取るに足るような手がかりはなかった。
ただ、あの暴風雨《あらし》から数日の後、徳島より南の燧崎《ひうちざき》に、一枚の渋合羽が流れついたということと、まるで方角違いな、富岡郷《とみおかごう》の山林の中に、日数をへた男女の死骸が抱き合って朽ちていた、という二つの事実があったが、それも深く探ってみると、いずれも縁のない暗合に過ぎない。
ふたりの消息は、依然として謎《なぞ》であった。求め得たものは、そういう偶然が起こさせる錯覚《さつかく》と、吉運をおびやかす疑惑、それだけである。
で、有村は、前から阿波守には内密に考えていた、第二の案を実行しようとした。それを天堂や孫兵衛や周馬に打ち明けると、三人も異議なく雷同《らいどう》した。
重喜《しげよし》に話せば、無論許されないにきまっていることであった。許されないよりは或いは激怒を買うかもしれないと思ったので、秘密に出立しようとなった。
山支度! できうる限りの軽装で、竹屋三位卿以下、夜にまぎれて城下を抜けだし、剣山へ指して行った。
お十夜孫兵衛だけは、久しぶりで、途中郷土の川島|郷《ごう》へ立ち寄りたいというので、それより一日前に立っていた。そして、後の者を川島で待ちあわせ、そこで、何かの手筈を諜《しめ》しあわせる約束。
孫兵衛にしても木の股《また》から生れた男でない以上、川島へ帰ってみれば、老いさらぼうた祖父だとか、顔を知らない甥《おい》だとか、麦畑でねじ伏せた女だとか、古い記憶の中から彼を取りまくさまざまな人があった。
だが。
故郷《ふるさと》へまわる六部《ろくぶ》の気の弱り――で、お十夜がこの際|寸閑《すんかん》をぬすんで、郷里をのぞいたことは、ようやくかれの放縦《ほうじゆう》な世渡りと、そぼろ助広の切れ味に、さびしい薹《とう》が立ってきたのを語るものである。
「おれもこんどは落ちつくぜ。うム、御恩賞と扶持米《ふちまい》を大事に守って、昔のとおり川島の原士《はらし》となって、この屋敷を建てなおすつもりだ」
周囲の者にも、こんな放浪児らしくない気持をもらした。
焼きが廻ったというものであろうか、それとも、人間らしいところへ落ちついてきたのであろうか、とにかく、吉運到来がだいぶ獰猛《どうもう》性を和《やわら》げているのは事実だ。
「おれだって、後生は安穏《あんのん》に送りてえからな」
といったところが本音であろう。
そこへ有村が来てかれを誘い、一行四人、吉野川の上流へと急いだ。
灼《や》くような陽《ひ》が、かれらの笠の上から焦《い》りつけた。有村も一角も、袴《はかま》の上から小袖を脱いで、白い肌着になっていた。柄頭《つかがしら》の金具や刀の鍔《つば》も、手をふれると熱いほど焼けている。やがて仰ぐ行く手の雲と雲の間に剣山《つるぎさん》の姿がどっしりと沈んで見えた。
甲賀世阿弥《こうがよあみ》のいる山だ。
全身の血とぎらん草の汁をしぼって、かれが孜々《しし》と書き綴《つづ》っていたものは、もうどの辺まで進んでいるか?
三位卿たちは世阿弥が最後の仕事として、そういうことに魂を打ちこんでいるとは夢にも知らなかった。だが、ぜひとも、かれを殺してしまうことが、最善の手段だとは考えついていた。
いずれ、お綱は父に会うべく、また、弦之丞は世阿弥から阿波の内秘を聞きとるべく、剣山へ目指してくることは想像される。だから、その二人がかりに生きているものと仮定しても、先廻りして、世阿弥の命さえ奪《と》っておけば、さまで驚くことはないではないか――。
こう有村は考えたのであった。
そして、それを実行するために、四人は焼け土を踏んで剣山へ急ぐのだった。
遍路《へんろ》の歌
鼬《いたち》のような鋭さをして、今朝、塀裏町《へいうらまち》の横丁《よこちよう》を出てきた手先の眼《がん》八は、ツンのめるようなかっこうで、牢屋|塀《べい》の下草へ痰《たん》つばを吐きかけながら、そそくさと、代官屋敷のほうへ急いで行った。
それを見かけると、城下の者は、
「オヤ、何かまた朝ッぱらからお召捕《めしとり》があるぜ、眼八が大股で行った」
と、すぐに伝えあうほどな記録を持っているすごい眼八。
手拭でふくれている懐中《ふところ》も、人一倍長い捕縄《とりなわ》の束でアアなっているのだろうと恐《こわ》がられている手先である。
「お早う」
と、その眼八が門に立った。
黒い冠木門《かぶきもん》の外から中へ、玉砂利が奥ふかくしきつめてある。城下代官と町奉行を兼ねている桐井角兵衛《きりいかくべえ》の役宅だ。
箒《ほうき》と打水で、役宅の前を掃除していた菖蒲革《しようぶがわ》の袴《はかま》と、尻はしょりの折助《おりすけ》が、
「やあ、眼八」
と、朝機嫌のいい声を出して、
「ばかに早いな、何かあるのか」
と、竹箒を肩に立てかけた。
「ウム、ちょっと」
「相変らず隼《はやぶさ》だな、いずれ大物だろう」
「そうでもないが」
「町同心《まちどうしん》の田宮《たみや》様ならば、もうあちらに詰めておいでになる、取次いでやろうか」
「田宮さんじゃ、少し相談相手にならねエことなんだが、お奉行はまだ――」
「まだお住居《すまい》のほうだろうよ」
「折り入って眼八が申し上げたいことがあって起き抜けにまいりましたと、ひとつ、取次いでみてくれないか」
「いいとも」と、菖蒲革《しようぶがわ》のほうが、役宅の横を廻って、塀つづきの角兵衛の住居のほうへ様子を見に行った。
待っている間、眼八と折助は、何かの話の末に思いだして、
「そういやあ、森の屋敷の宅助はどうしたろう?」
と、眼八からいいだした。
「あいつにこまごまと積もって、十両ばかりの貸《か》しがあるンだが」
「借金で首が廻らないところから、出先で随徳寺《ずいとくじ》をきめてしまったンじゃあないか」
「だが、主人の啓之助も、まだ御城下には帰っていないらしい」
「噂によると、何かマズいことがあって、大阪表でお扶持《ふち》放れとなったそうだ」
「ヘエ、森啓之助が?」
「なんでも浪人したという話だ」
そこへさっきの菖蒲革が帰ってきて、
「眼八、やはりお役宅のほうで待っていろとおっしゃったよ、すぐにお越しになるだろう」
「ありがとうぞんじました」
と、およその時間を計りながら、そこで、二、三服煙草を吸ってから、役宅の奥へ入って行った。
案内を知っている代官部屋を覗《のぞ》いてみると、桐井角兵衛はもう机に積み重ねてあるいろいろな書類をめくっている。それがみんなこの間うちから八郡の地方代官所へ問いあわせをした、人相書の反響かと思うと、眼八は、なんとなくおかしくって、しばらく、苦笑を押えていた。
と、それに気がついて、
「眼八ではないか、早朝から折り入って話したいこととは何だな」
と声をかけた。
「ごめんこうむります」
と、眼八は板縁にかしこまって、
「先日、竹屋三位卿のおいいつけで、ふれを廻しました法月弦之丞とお綱という女のことでございますが」
「ウ、ウム」と膝をのりだして――「今朝《こんちよう》も諸方から来ている書類に目を通しているのだが、ひとつとして確《かく》たる手がかりはない。ところで、何かそちの手で、めぼしいことが挙《あが》ったか」
「ちょっとばかり心当たりがございますので、それで、お指図をうけに上がりました」
と眼八は、煙管《きせる》を抜いて、指に挟んだが、煙草盆が遠いので、その手を空しくさせたまま、しばらく言葉を切っていた。
「ふウム……そうか!」
と桐井角兵衛は、机に山積している各地の郡奉行《こおりぶぎよう》の報告よりは、眼八が、煙草入れの筒《つつ》と一緒に抜いた心当たりという一句に、すっかり引きずり込まれて、
「して、その二人の生死は?」
と、まず、訊《たず》ねた。
「奴らは、たしかに死んではおりません」
と眼八は、濁《にご》りのない声で、言いきった。
ゆうべ、手先の眼八は、免許町《めんきよまち》の刀研師《かたなとぎし》大黒宗理《おおぐろそうり》の店へ寄って、ある兇行に使われた小柄《こづか》の目利《めきき》をして貰っている間に、思いがけない拾いものにぶつかった。
髪切虫《かみきりむし》のヒゲみたいに鋭いかれの感覚は、そこへ来た男と宗理の対話を二言三言《ふたことみこと》聞いただけで、
「こいつあ!?」
と、思った。
職業的な興奮を超《こ》えて、一種の功名心に燃ゆる動悸《どうき》さえうった。
この間うちから、阿波全土の代官や手先や町同心が、蚤取眼《のみとりまなこ》でたずねていても、なお、その生死すら判定しない法月弦之丞という江戸方の隠密と、お綱という女を、ひとつ、この眼八の手で、アッサリ引っくくってみたら、節穴同様な目玉をもって納まっている町同心や郡奉行などが、どんな面《つら》をするだろうか?
思ってみるだけでも痛快だ。乗り気になる値《あたい》がある。
で、眼八。
その男が帰ったあとで、何食わぬ顔をして、宗理の口うらをひいて家へ戻ってきた。
寝床の中で、とっくりと前後のことを綜合してみると、やはり弦之丞もお綱も立派に阿波へ入って、どこかにほとぼりをさましているという結論が生れてくる。
眼八は寝られなかった。
当たった富札《とみふだ》をふり廻しているような興奮で一世一代の仕事だと考えた。初めは直接に三位卿のところへ持ち込んで、城内で羽振《はぶり》のきく若公卿に取り入ろうと胸算《むなざん》をとったが、それもあまり支配者を出しぬく形になるので、とにかく蒼惶《そうこう》として起き抜けに代官屋敷へやってきたわけ。
それは桐井角兵衛にも寝耳に水であった。
「で、お前がいた時に、大黒宗理の所へ来あわせた男というのは、いったい、何者なのだ? まさか弦之丞自身ではあるまい」
「そうです、無論弦之丞じゃありません、どこかこの辺の浜へ稼ぎに来ていた船大工の手間取《てまとり》。そいつが研師《とぎし》の宗理の手から、研《と》ぎ上がった二本の刀を受け取って帰って行きました」
「船大工が?」
「ヘエ、しかし、ひとつは、無銘の長い刀《やつ》、ひとつは新藤五という小脇差で、すばらしい名作、鑿《のみ》や手斧《ちような》なら知らないこと、船大工風情の手にある代物《しろもの》でないことは分っています。で、頼み主はと台帳を見て貰うと、海部《かいふ》の日和佐《ひわさ》の宿《しゆく》、大勘《だいかん》という棟梁《とうりよう》の名になっています」
「ふム、そして?」
「頼《たの》み人《て》の名に偽りのないことは、品物が大事な金目のものだけに、まあ、嘘はないと見ておきました。それに日和佐の宿あたりには、それ程の刀を研《と》ぐ腕の研師はありますまいから、わざわざ徳島の城下まで持ってきたに違いありません。ことに、その刀もただの研《とぎ》ではなく、潮水《しお》浸《びた》しになったのを、鞘《さや》、柄糸《つかいと》、拭上《ぬぐいあ》げまですっかり手入れをしなおしたもので、宗理の手もとでも五十日ほどかかったという話。――指を繰ってみると、ちょうど沼島《ぬしま》沖で四国屋の船が暴風《しけ》をくった日から四、五日後に持ちこんだ勘定になるンです」
「なるほど」
と、角兵衛もうなずいたが、
「だが、それだけの事実を押して、双腰《ふたこし》の刀を、弦之丞の持物であると断じるのは早計ではないか」
「そこにゃ、動かない証拠があるンです。というなあ、無銘の方の小柄《こづか》には、弦之丞の印《しるし》と聞いた三日月紋の切銘《きりめい》があり、もう一腰の新藤五の古い鞘《さや》には、甲賀|世阿弥《よあみ》という細字《さいじ》が沈金彫《ちんきんぼり》に埋めこんでありました。で、もうこれ以上の詮索《せんさく》は無用でしょう。すぐに使いの男をつけて、その場から日和佐《ひわさ》へ突ッ走ってもいいところですが、大事を取って一応ご相談に上がったわけです」
「ウーム、そうか」
桐井角兵衛にも、もう少しも疑う余地がなかった。
「日和佐の宿に潜伏《せんぷく》して、刀の手入れのできるのを待っているものとみえる」
「それと、これにゃ弦之丞をかくまっている奴が、ありそうですから、ただいきなり捕手をくりだしても、風を食らってしまうでしょう」
「とにかく、何より先に、このことを、有村|卿《きよう》のお耳に入れて、お指図をうけた後の手配とするが順序であろう」
「あれが仕上がって届いたとすると、弦之丞はすぐにも日和佐にいないかもしれません。どうか、ご相談に暇どって、大事な機《おり》をはずさないようにお願いいたします」
にわかに蒼惶《そうこう》とした気持で、桐井角兵衛は使いをもって、このことを城内の三位卿に知らせてやると、その有村は、きのう山支度をして、かねて望んでいた剣山の踏破に出かけてしまったという返辞。
「あれほど役人の手を騒がしておきながら」
と、かれの腹蔵《ふくぞう》を知らない桐井角兵衛は、三位卿の行動を不快に思ったが、みすみす眼八がつきとめてきたものを、悠々と、有村の帰りを待ってはいられないので、かれは彼の独断で、日和佐へ手配することにきめた。
手先の眼八はわらじをはいた。
足は自慢な男である。
城下から海ぞいに、土佐街道を南へ十四里ばかり、日和佐の宿へ急いだのだ。
磯の香の高い海辺町《うみべまち》にはいった晩、かれの姿は、すぐと、海部《かいふ》代官所の中へ消えていた。
で、何かの手筈はその晩にすんだとみえて、翌日になると眼八、旅職人の風《ふう》つきで、わざと間のぬけた顔をしながら、厄除橋《やくよけばし》の辺をウロついていた。
薄暮の海が眺められた。漁港らしい灯が日和佐川に映っている。宿《しゆく》の中を通っている街道には、ひとしきり荷駄《にだ》の鈴や、宿引きの女の声や、さまざまな旅人の影が織っていた。
四国二十三番の札所《ふだしよ》薬王寺《やくおうじ》にゆく足だまりにもなるので、遍路《へんろ》の人のほの白《じろ》い姿と、あわれにふる鈴の音《ね》もこのたそがれのわびしい点景。
「あ、こちら様だナ」
と、やっと見つかったというふうに、眼八、とある角構《かどがま》えの格子先に腰をのばした。
船玉祀《ふなだままつ》りの御幣柱《ごへいばしら》が、廂《ひさし》の裏に掛けわたしてあり、荒格子に三間土間《げんどま》、雑多な履物が上げ潮でよせられたほど脱いである。
欅《けやき》の板に「大勘《だいかん》」と書いて、表に打ってある標札《しるし》をたしかめながら――実は海部代官所で所も内状も調べてきてはいるのだが――どこまでも不案内の渡り者らしく装って、
「大勘……ウム、大勘、こちらの親方に違いない」
とつぶやきながら荒格子をあけ、畏《おそ》る畏る、
「ごめんなすッて」
と、上がり框《がまち》へ腰をかがめた。
部屋にいる手間取か内弟子か分らないが、いけぞンざいな若いのが出てきて、
「なんだい」と見下ろした。
「旅人《たびにん》でございます。親方のお名前を承知しまして、お頼り申してまいりました」
「同職か」
「ヘエ」
「上《あ》がンねエ」
「ありがとうぞんじます」
「裏へ廻ると井戸がある。その側に小屋があるから、そこでゆっくり泊ってゆくがいい。朝立つ時にゃちょっと俺たちの部屋へ声をかけて行きな、わらじ銭と午飯《ひるめし》だけは餞別《せんべつ》してやることになっているんだから」
「ご厄介になります」
格子を出て裏へ廻った。
路次の横に窓があった。すだれ越しにチラと見ると、羅漢《らかん》のような裸ぞろいが、よからぬ弄戯《あそび》に耽《ふけ》っている。
同職の渡り者といえば、宿なし犬に縁の下を貸すくらいな気安さで泊めてはくれるが、ちゃんとあしらいの寸法がきまっていて、何ひとつ道具のない部屋で、塗《ぬ》りの剥《は》げた箱膳《はこぜん》に、沢庵《たくあん》四きれ、汁一椀《わん》、野菜の煮しめが一皿ついて、あたりに人はなしといえども、それをあぐらで食うわけにはいかない。
禅僧のように、椀や皿の残り汁まで、きれいに湯で洗って飲んで、きちんと隅へ下げておく。一椀の恩に対する作法である。
そこへ中年の小僧が、
「客人、すんだかい」と膳をさげに来て、
「蒲団《ふとん》と行燈《あんどん》は、その板戸をあけると中にあるから勝手に出してくんな。油があったかしら、油壺を見てくンないか、客人」
「ございます、どうもご馳走様で」
「そうか、じゃお寝《やす》み」
「もし、もし。ちょっとお待ちなすって」
「何か用かね」
「親方にご挨拶をしたいと存じますから、ひとつお取次ぎを願います」
「親方はいないよ、この間うちから留守なんだ」
「じゃお内儀《かみ》さんか誰か、お身内の方に、ちょっと会わせて貰えませんでしょうか」
「お内儀さんは近所の衆と、遍路《へんろ》に出て今は留守だし、ほかにゃ弟子か部屋の者ばかりだが、何か用かい、客人」
「ナニ、別段なことじゃございませんけれど……じゃ、お前さんに伺ってみますが、誰か、ここの家に商売違いなお客が二人ほど、お世話になっちゃあいませんかね?」
「商売ちがいな?」
「若い男と女です」
「いねエなあ、そんな者は」
「いませんか……」と眼八が、ダメを押して額越《ひたいご》しに相手を見つめた。ひょいと、その眼光りが変ったのを自分でも気がついて、
「ヘ、ヘ、ヘ、ヘ。まことに、妙なことをきくようですが、私の身寄りの者で、今は、大勘さんの家にお世話になっているというような噂を、ちょっとよそで聞いたもんですからね……それで、何ですが……じゃ、そんな方はおりませんか?」
「いつ頃のことだい、それやあ」
「さようで……」
と、額に平掌《ひらて》をあてて、わざと考えるふうを装《よそお》いながら、にわかに、思いだしたように、鼻紙へ一分銀を一ツ包んだ。
「兄哥《あにき》、これやホンの少しだけれど」
「いらねエや、お前《めえ》は旅人《たびにん》じゃないか。旅人からそんな物を貰うと、部屋の者に叱られら」
「なアに、誰がそんなことをしゃべるもんですか、まア取っといておくんなさい、私だってこうしてお世話になれば、旅籠《はたご》賃《ちん》というものが助かっているんですから……。エーところで、その若い男と女の客が、多分、こちらへ来たろうと思うのが、そうですネ、今から五十日前の前後か、それから後のことなんですが、よく考えてみておくんなさい、きっと、お心当たりがあるでしょう」
「ああ、そうか……」
「知っているね!」
と眼八、一分銀を握らせたその腕くびをギュッとつかんで、
「それごらんなせえ、やっぱり、お前さんが忘れていたんだ」
眼八の誘いにツリこまれて、大勘の内弟子は、うっかり、
「ア、そういえばネ、客人」
と、しゃべりだした。
「似た話があるぜ」
「ある? ふム」
「もう一月あまりも前なんで、すっかり忘れていたけれど、ちょうど、客人のいった頃にあたるよ。小雨がソボソボ降っていた、暴風《しけ》あがりからズッと降り通しで、部屋の者も仕事がなしで、早く床についた晩なのさ」
へたな言葉をさし挟んで、相手のしゃべる図《ず》をはずすまいと、眼八、大事そうにソッとひとつうなずいた。
「……とネ、宵の五刻《いつつ》ごろ、トントンと表をたたく人があるんだ。おらあ親方の瘤《こぶ》みたいな肩を揉《も》ませられていたので、イイ機《しお》だと思ったから、親方、誰か表に客人でございますヨ、そういって顔を覗《のぞ》くと、ふム、分っているとうなずいて、部屋の奴アみんな寝たか、とこう聞くんでございます」
「なるほど」
「ヘエというと、親方は、いずれ今頃ウロついてくる客は、旅人だろうから、あっちの小屋へ行燈《あんどん》を入れておけ、そして、後はおれが見てやるから、てめえは床に着くがイイ。そんな優しい親方でもないのに、妙だナと思いながら、いわれた通り――今お前さんのいるこの部屋へ灯を入れていると、そこへ親方が、ふたりの客を外からここへ案内してきました」
「ふたり?」
「エエ、ふたりです。しかも、頭から酒菰《さかごも》をかぶって、まるで乞食《こじき》のような風態をしているのに、親方はばかに親切に世話をしていました。すると、てめえはあっちへ行って寝ろといわれたので、そのまま、母屋《おもや》のほうへ戻りながら、井戸端で足を洗っているお菰《こも》を見ると、とても、白い足をしているんで、オヤ、とその時気がつきました。ひとりのほうは、ゾッとするようないい女、ひとりは五分|月代《さかやき》の若い浪人者です」
しめた! と眼八は、腹の中で雀躍《こおど》りしていた。
なお、さあらぬふうで、言葉巧みに聞き出してみると、その晩、ここへ泊った素姓の知れない男女《ふたり》は、翌朝、部屋の者が眼をさました時分には、もうどこかへ立ち去っていて、誰も知らないくらいであったという話。
「そうでしたか、それでおよその事情が分りました。イヤ、大《おお》きにありがとう」
眼八はていねいにこういってから、自分の振分《ふりわけ》を解いて、
「うるさいことをきいてすみませんが、ついでに、もうひとつお伺いしたいと存じますが……」荷物の中から取り出した渋紙の端をほごすと、コロコロと一本の鑿《のみ》がころがりだした。
商売道具。
「平鑿《ひらのみ》だネ」
と、すぐに向うも目をつけた。
「エ、なかなかよく使いこんである鑿《のみ》です」
「売るつもりなら部屋の者に見せてあげるぜ」
「なに、これは、手放すわけにはゆかない品なんで」
と、眼八、のみの平首に拇指《おやゆび》を当てて、ピカリと、ひとつ引っくり返した。
「これや、私が徳島の城下はずれで、フイと拾った物なんです。落し主は、こちらの半纏《はんてん》をきている若い棟梁《とうりよう》、うしろから声をかけましたが、ツイ見失って、そのまま、いつかついでがあったらと、振分の中へまるめ込んでおきましたが、ここに……」と、鑿《のみ》を眼のそばへ寄せて――「源という字が片彫《かたぼり》してあるが、こちらのお職人で、そういう頭字《かしらじ》のつく人がおりましょうかね」
「源? ……じゃア源次のことかもしれない」
「じかにお渡しいたしたいと思いますが、ちょっと、耳へ入れて上げてくれませんか」
「いいとも、じゃア今ここへ連れてくるから」
と、大勘の中年者は、膳を掌《てのひら》へのせて母屋のほうへ戻った。
眼八は拇指の腹であご髯《ひげ》をコスリながら、畳へおいた平鑿《ひらのみ》を見つめておった。
何かのクサビになるだろうと、この間、研師《とぎし》大黒宗理の店さきで、そこにいた職人の道具箱からソッと一本かすめておいた品物だ。
「この鑿を持っている源次という職人を取ッちめてみれば、大黒宗理のところから受け取って行った刀を、どこへ届けたか分ってくる。そいつさえ当たりがつけば、もうしめたものだが……」と、息を殺していると、
「ここか」と、外で職人らしい声がした。
「客人」
と、前の中年者が顔を出して、
「聞いてみたら、やっぱり鑿を失《な》くしたのは部屋の源次という人だった」
「ア、それやどうも、お世話様で」
「先でも、使い馴れていた稼業《かぎよう》道具を失《な》くして、困っていたところなんで、話してやったら大よろこびさ。で、今ここへ連れてきたからね」
「そうですか」
と、片手をついて身をねじりながら、
「源次さんとおっしゃるのは? ……」
と、土間の外を見ると、まぎれもなく、この間、宗理の店から、弦之丞とお綱の刀をうけ取って帰った、あの若い男である。
失くしたとばかり思っていた道具が手に戻って、大工の源次は、わけは知らずに礼をいった。
「近づきの印《しるし》に、どこかで一杯《ひとくち》やろうじゃねエか」
どっちから誘うでもなく、涼み半分、ぶらりと、連れ立って飲みに出かける。
眼八には思う壺《つぼ》。
「不案内でございますから」
と、ついて行った。
源次は礼におごるつもりなので、町の西端れの馴染《なじ》みの家へ案内した。だが、そこの払いも眼八が先に越して、
「どうせ、今から部屋へ帰っても、この暑さじゃ寝つかれやしません。少し、どこかで涼んで行こうじゃありませんか」
と、厄除薬師《やくよけやくし》の石段を上りかける。
「上へあがってみなせエ、寒いようだから」
同職と思って、源次はすっかり気をゆるめているらしい。だが腹の底はしまった男とみえて、飲屋で話しあっている間に眼八がチョイチョイかまを試みたが、いっこう、口を辷《すべ》らせてこなかった。
で、かれは、少し業《ごう》が煮えていた。
どこかで睨みの利《き》くところを見せて泥を吐かせてしまおう胸算。足場ばかり見廻している。
山は医王山《いおうざん》の幽翠《ゆうすい》を背負って、閑古鳥《かんこどり》でも啼《な》きそうにさびていた。
厄年《やくどし》の男女がふめば厄難をはらうという、四十二段、三十三段の石段を上ると、日和佐川のはけ口から、弧《こ》をえがいている磯の白浪、ひと目のうちだ。
明鏡のような夏の月が、荒海から天へ洗い上げられている。
うろこ雲の徐々とした歩みに、月光が変るにつれ、海もたえず明暗の変化を見せていた。その、冴えきった一瞬には、水天髣髴《すいてんほうふつ》の境、紀《き》の路《じ》の山が、ありやなしやに見えている。
「エエ、気味のいい風だ」
と汗をひそめて、眼八は境内の捨石へ腰をすえ、
「なるほど、ここはいい所だ」といった。
眺めのいい所という意味と、源次をひっぱたくにはいいお白洲《しらす》だという二様の意味にとれる。
「夏知らずというところさ、あっしゃあ、昨日《きのう》もここでウットリとしてしまった」
「昨日?」
と、眼八は、すぐに揚足《あげあし》をとって、
「きのうは浜へ仕事に行ったと言いなすったが」
「なに、ちょっとこの辺へ使いがあってね」
「一昨日《おととい》はたしか徳島にいなすった」
「エエ、親方の代りに、新造《しんぞう》船の絵図をとりに行って、帰りに、御城下を少しブラついてきた」と、源次もそこで鑿《のみ》をなくしたという事実があるので、これだけは隠されなかった。
よウし! この辺からソロソロ締木《しめぎ》を責めてやろうか。
眼八はそう思いながら、
「源さん、まア掛けねえな」と、煙管《きせる》の先で、杉の木の根あがりを指した。
「御輿《みこし》をすえると、眠くなるからなあ」
「眠くならねエようにしてやるから、とにかく、そこへ落ちつきねえ」
「いやだぜ、悪い喉《のど》なんかを聞かせちゃ」
「いいやな、お前《めえ》、ここは四国二十三番の札所《ふだしよ》だ、御詠歌《ごえいか》ぐらいはおつとめしなくっちゃ、霊地へ対して申しわけがない。そこでぼつぼつ始めるが……オイ、源次ッ」
と、肩を突ッ張って、にわかに鋭くなった。
「なんだ、旅人」
と源次はあッ気にとられた顔をした。
「お前《めえ》は何か、先刻《さつき》おれが返してやった平鑿《ひらのみ》を、徳島のどこでなくしたか気がついているか?」
「冗談いうない、落した所を知っているくらいなら、何も、わざわざ他人《ひと》に拾われやしねえ」
「そうだろう。じゃ教えてやるが、実は、あれや御城下の刀|研《と》ぎ、大黒宗理《おおぐろそうり》の店先で、お前《めえ》が頼み刀《もの》をうけ取っている間に、道具箱からぬけだしていたんだ。なにも、平鑿に足が生えたわけじゃねえから、無論、おれの指先が、黙ってお預かりと出かけたんだが……」
源次は静かに顔色をかえていた。
その時、宗理の店で、背中合せに掛けていた男の姿を思い浮かべて、かれは、しまった! と臍《ほぞ》をかんでいるらしかった。
眼八は相手の眸《ひとみ》を読みながら、
「オイオイ、駄目だ駄目だ、逃げようたって逃がしゃあしねえ。徳島奉行の御配下で、釘抜《くぎぬ》きの眼八といわれている鬼手先《おにてさき》だ。その釘抜きが噛みついてしまった以上は、めったにここをズラからすものか」
「野郎!」
と、源次は片足ひいて、
「じゃてめえは、旅人といっていたが、徳島から潜《もぐ》りこんできやがった岡ッ引だな!」
「神妙にしろッ」
「やかましいやいッ」
手拭にくるんでいた平鑿が、風を切って眼八の脳天に跳びかかってきた。
「ふざけやがって!」と、眼八は身をねじって、鑿の腕くびを引っつかみ、デンと投げ業《わざ》をかけたが利かず、腰をくだいて、ふたつの体、よじれながら横ざまにぶっ倒れた。
「ちイッ……この野郎」
「御用だ……御ッ……御用」
と、組んず、ほぐれつ。
龍姿《りゆうし》の松をすく月の斑《ふ》に、ここを必死に、キラめき合う鑿と十手。
月光の下《もと》に、黒いふたつの体、ややしばらくというもの、転々と、上になり下になってよじれ合っている。
と。
下に組み伏せられたと見えた眼八、足業《あしわざ》にかけて、相手の胴を万力《まんりき》のように締めつけ、源次が、
「うッ」
と、気を遠くしたのを見すまして、
「骨を折らしゃアがった」
と、起きかえって、側を離れてくると、その手と源次の間に、いつのまにかタランと、捕縄《とりなわ》がつながれている。
源次はもう抵抗しなかった。肘《ひじ》で、やっと体を起こしながら、縛られている自分の手へ眼を落したままうつむいている。
「ばかな奴だ」
と、月に光っている足もとの鑿《のみ》を遠くの方へ蹴とばして、眼八、捕縄の端を三尺ばかり垂らして持った。
「名うてな釘抜きだといい聞かせているのに、ムダなあがきをしやがって、ふざけた野郎だ。さッ、お白洲《しらす》だぞ、世話をやかせずに、泥を吐かねえと、捕縄の端の鉛玉《なまりだま》が横ッ面へ飛んで行くからそう思えッ」
と、凄味を加えた言葉つきで、右腕の袖をつまみあげた。
「――一昨日《おととい》の晩、てめえが大黒宗理の所から持って帰った刀、一本は無銘の長い刀《やつ》、一本は新藤五《しんとうご》国光《くにみつ》だ。宗理の店の研物《とぎもの》台帳から、ちゃんと洗いあげてあるンだから、いい遁《のが》れはかなわねえ。あの双腰《ふたこし》を、てめえいったいどこへ届けてやったのか、まず、それからひとつ訊《き》こうじゃねえか」
「……おれに訊いたって無駄だからよしてくれ、源次は口が固いと見込まれて、親方から固く頼まれてしたこと、代官所へショッ曳かれたって、算盤《そろばん》ゴザへ坐らせられたって、決して口を開《あ》きゃしねエから」
「ふん……面白い」
と、あざ笑って、
「てめえがそういう男なら、眼八の釘抜き根性も、いっそう脂《あぶら》がのってくるというもンだ。腕によりをかけても、その口を開かしてやるから見ていろいッ。おうッ、吐《ぬ》かさねえか」
ブランと提《さ》げていた縄の端で、荷馬《にうま》の尻をなぐるように、いきなり二ツ三ツ源次の頬を見舞った。
「さッ、申し上げちまえッ。あの双腰を誰に届けてやった! いや、その届け主は読めている、場所をいえ、隠れ場所を!」
「そんなことまでおれは知らねえ」
「ナニ、知らねえ!」
「知らねえ! おらあ、そんな深いことまで知っちゃいねえ」
「甘く見るなッ」とまたひとつ、鉛玉をビュッとうならせて、源次の顔に血を吹かせた。
「ア痛《つ》ッ……」
「いてえか!」
「し、知らねえものを」
「野郎」
と、土足でその背中を踏みつけて、
「知らねえというなア申し上げますという枕言葉だ。そんな白《しら》をいくら切っても、手加減をするような眼八じゃあねえ! 吐《ぬ》かせ、いえ、ひとこというのが遅れるたびに、ひとつずつてめえの面《つら》にアザが殖《ふ》えるぞ」
ばらばらと冷たいものが降りかかった。
沖の辰巳島《たつみじま》から、まともに吹きあげてくる海風に、身ぶるいをした巨松の梢《こずえ》が、振るい落した白玉《はくぎよく》の雫《しずく》――。
眉に光るやつを、手の甲で拭きながら、
「――今から一月半ばかり前に、法月弦之丞とお綱という奴が、酒菰《さかごも》に身をつつんで、小雨のふる闇にまぎれて、大勘の家へ来たという図星まで、スッカリお調べが上がっているのだ。いくらてめえが親方に義理だてをしたところが、やがてすぐに判ることじゃあねえか、つまらぬ強情を突っ張っていねえで、潮《しお》びたしをなおしにやったあの刀を、どこへ届けた。その匿《かく》れ家《が》を白状してしまえ。すなおに泥を吐いてしまえば、眼八のとりなしで、お上《かみ》のお咎《とが》めはいいようにしてやるぜ。どうだ源次、オイ源次、よく胸に手をあてて考えなおせよ」
「徳島へ出かけたついでに、刀を受け取ってきたのはたしかだが、それを途中で棟梁《とうりよう》の手へ渡したきり、後のことは何にも知らねえ」
「しぶてえ奴だ、じゃ、どうあっても実《じつ》を吐かねえな、よし」
と、捕縄に輪を描かせて、グルグルと源次の喉《のど》へからませたやつを、グンと引っ張って、
「知りませんという音《ね》を止めねえうちは、しばらく、こうしてやるから、根《こん》くらべをするがいい」
「ウーム……」と、源次は縄の輪に喉笛《のどぶえ》をしめられて、苦しそうな眼を吊りあげた。
「どうだな、塩加減は?」
と、眼八、時々ジリジリと締めて、
「まだ甘《あめ》えか、これでもか!」
「くッ……く、くるしい」
「そりゃア苦しいにきまっていらあ、まだまだ釘抜きの眼八が本気になって責めにかかると、こんなどころじゃございませんよ」
と、憎々しい面《つら》がまえを寄せて、源次の苦しみを冷然と眺めていると、突然、かれの後ろのほう――。
そこから木立を隔てて見えるのは、月光の底に沈んでいる二十八柱の大伽藍《だいがらん》、僧行基《ぎようき》のひらくという医王山|薬師如来《やくしによらい》の広前《ひろまえ》あたり、嫋々《じようじよう》としてもの淋しい遍路《へんろ》の鈴《りん》が寂寞《せきばく》をゆすって鳴る……。
その鈴は、この境内では常に聞くところの、珍しくない音《ね》であったが、伽藍の森厳にひえびえとした夜気を流して、なんとなく、釘抜きの眼八の鬼の心をも寒くさせた。
で、場所が悪いと気がさしてきたものか、
「立て!」
といって、源次の首の輪縄《わなわ》をはずし、その縄尻をショッ曳《ぴ》いて、
「せっかくここで、おっ放してやろうと思っていたが、そう情を突っぱるならゼヒがねえ、代官所の砂利を咬《か》ませて、ゆっくり、荒療治で聞くとしよう。ばかな奴だ、ここで白状してしまえば、眼八の胸ひとつ、お咎《とが》めなしに見のがしてやるものを、向うへ行きゃあ公然《おおつぴら》になる、泣いてもわめいても間に合わねえぞ」
「…………」
「棟梁の大勘が、どれほど口止めしたかは知らねえが、こんなことで臭い飯をくうなんて、気の利《き》かねえ話があるものか。御牢舎ぐらいですみゃいいが、隠密を匿《かくま》いだてした連累《れんるい》となると、とても、そんなことじゃすむまいぜ……エエ源次」
「…………」
「船大工の部屋にゴロついているお前《めえ》にしろ、どこかの在所にゃ、肉親もいるだろうに、助任川《すけとうがわ》の曝《さら》し場へてめえの首が乗ってみろ、親兄弟にまで、泣きを見せなくちゃなるまい。アア、口が酸《す》ッぱくなった、俺にもこれ以上の親切気は持ちきれねえ、さ、立ちなよ、そろそろ行く所へ行くとしよう」
「……ま、待って下さい」
「腰が立たねえのか」
「いってしまいます、隠していたなあ、あっしが悪うございました」
「白状するっていうのか」
「ヘイ……」と源次はしおれ返って、唇の血を吸うように噛みしめた。
「じゃ、弦之丞とお綱の奴は、いったい、どこに匿《かくま》われているのだ」
「それだけは、まったく源次も知らないことなんです……ただ、あっしの知ってるだけを白状します」
「嘘はあるめえな」
「ヘエ、嘘と真《まこと》を七分三分にまぜたところで、なんの役にも立ちゃしません。ほかのことは、洗いざらい申し上げます」
「ウム」
「あっしは、あの侍と若い女が、法月というのかお綱という女か、国者かどこの者か、皆目《かいもく》、そんなことだって知りゃしません。ただ棟梁の大勘が、お家様の義理合いでやむなく一時の匿《かく》れ家《が》を、どこかへ探してやったことから、細かい用事をあっしにいいつけたんでございます」
「そのお家様というのは」
「徳島の御城下と大阪表に出店のある、四国屋のお久良《くら》様、たしか、そういったと思います」
「ふウム」
どうやら筋がほぐれてきた。
眼八は、釘抜きのように固く結んでいた口もとから、大きな前歯をニッとむいて、
「その四国屋のお久良に、大勘のやつは、どういう義理合いをうけているんだ」
「あすこの持船以外の仕事は、雑魚《ざこ》舟ひとつつくろわないというほどな大《おお》顧客《とくい》でございます」
「ウ、なるほど」
「ことに、お家様には可愛がられている大勘なので、こんどのことも、嫌とはいえずに頼まれたことだろうと思います」
「そういう仲じゃ無理はねえ、そして、お久良は今大阪にいるはずだが、どうしてそんな打合せができたのか」
「ちょうど、先々月の月半《つきなか》ばでした」
「ウム」
と、胸で日数を繰っている。
「お久良様からきた飛脚をうけて、棟梁が何か心配そうに考えていました。と、それから三、四日――そうだ十九日の晩」
「えっ、十九日の晩?」
と、思わず、おうむ返しに眼八の返辞が出たのは、胸で繰ッていた日数から推して、それが、ぴったりと四国屋の商船《あきないぶね》が、大阪表から阿波へさして出た日に符合《ふごう》していたので。
「ウーム……それから」と、笑壺《えつぼ》にいって一心に聞く。
「その十九日の朝、棟梁が突然、小松島《こまつじま》に長崎型の船が入っているから、仕事のために見ておこうといって出かけました。わっしも、自分から頼んでついてゆくと、向うへ着いたのはもう夕方で、浜へ行ったが、そんな船は見当たらねえんです。で――妙だなと思ったから、棟梁、どこなんで? と聞くと、沖だよ、だが源、てめえ今日のことは、親兄弟にも洩らしちゃいけねえぞ、そういって、固く口止めされたんで……」
と、その口止めを破っている自身に気がついて源次は、ちょっと、うなだれた。
「それから?」
と眼八は、相手に顧慮のいとまを与えないで、問いつめた。
「じゃあ船図面を取りに来たわけじゃないンですか、ときくと、棟梁は、ウム、と少し怖い顔をして、小松島の磯をブラブラあるいていましたが、そのうちに、どこからか、船頭三人、ギーと棟梁の前へ漕いできて、どっちも黙《だ》ンまりで乗りました」
「それが、十九日の夕方だな」
「そうです。宵はよかったが夜半《よなか》です、イヤな雲になってきました」
と源次は、その晩のことを思い浮かべるらしく、海の方へ眼をやった。
宵に飲んだ酒の気もどこへやら、更《ふ》けるほど冴えてきた月明りに病人のような顔色だ。
「――船が島の蔭へよったので、ここは? と訊《き》いてみると淡路のそばの沼島《ぬしま》だっていうンで、わっしもあっけにとられました。――とそのうちに風がだんだん強くなる、浪は荒れる、大雨はやってくる。で、みんなヘトヘトに疲れた頃、真っ黒な沖合に、ポチと、赤い灯が一ツ、浪にもまれて見えました」
「……オオ、……ウム……」
「あれだ! というと棟梁が、三人の船頭に、十両ずつの酒代《さかて》を投げだして、腕ッ限り漕《こ》がせました。何がなんだか分りゃあしません、途方もねえ大《おお》暴風雨《あらし》です。だが、ヒョイと目を開いた時には、向うの船の赤い灯が、前よりよッぽど大きく見えて、なんだか、わーッという声が聞こえやした。近寄ったナ、と思う途端に、その灯も消えれば向うの船も、グルグル廻っているようでした。なおワッワッという人間の声です。まもなく白々《しらじら》と夜が明けて、少し凪《な》いだ時には、こっちの船は、昨日《きのう》の小松島を素通りにして、日和佐《ひわさ》手前の由岐《ゆき》の浜《はま》へ、ギッギッと帰っていたんです。……ヘイ、これだけいえば、もうお分りでございましょう、その船の中へ、何をすくい込んで来たか、これ以上、棟梁のしたことをはッきりいうのは、なんぼなんでも、舌がしびれていえません。どうか、お察しなすって下さいまし」
いかにも眼八には、これ以上の贅言《ぜいげん》をきく必要がない。
あの理智の澄んだ四国屋のお久良が、大阪表からつづらを首尾よく乗せただけで、阿波に到達した時の、より以上きびしい岡崎の船関《ふなぜき》や、撫養《むや》の木戸の厳重を、案じていない筈はない。
で、沼島の沖あたりで、こう、かく、というような諜《しめ》しあわせは、とくから諜《しめ》しあわされてあったのだ。
してみると。
当夜――ふなべりを傾けて阿波方の納戸船《なんどぶね》がぶつかってきた刹那、四国屋の船のみよしから、お綱をひっかかえて激浪へ身を躍らせた弦之丞の行動は、あえて、殺到した追手におどろいて、進退きわまったのではなく、あのことはなくとも、当然、なすべきことを勇敢にやってのけたまでであった。
そして、あの晩の暴風《しけ》と、弦之丞の運命が窮極にまで行ったと見えたことが、それから後、二月《ふたつき》あまりの経過とともに、すっかり阿波の要心をゆるませ、かなり目ばしこい三位卿にしてからが、一度は、弦之丞の最期を漠然《ばくぜん》と信じたものだ。
眼八は、息を内へひいて源次の自白を聞いていた。
かれも、大阪以来の顛末《てんまつ》は承知していたが、こんな裏面があろうとは、想像もつかないこと、潮びたしの刀から足をつけてここに到ったのは、自分ながら、あやまちの功名という気持がする。
「そうか! ……」
と太い息と一緒に、聞き終って、
「その晩|傭《やと》われた船頭、誰と誰だか、覚えているだろうな」
「存じません。へい」
「徳島|訛《なま》りか、それとも日和佐の船頭か」
「この辺の者ではなく、おそらく、抜荷《ぬき》屋《や》渡世《とせい》の仲間だろうと思うんで」
「抜荷屋か? ……」と眼八も少しウンザリした顔だ。
弦之丞の召捕をすました後で、大勘をはじめそいつらも、芋《いも》づるにあげてしまおう下心で聞いたのが、海鳥のように、巣を定めない抜荷屋では、いくら釘抜きでも手がつけられない。
長崎沖渡しで、蛮船《ばんせん》から禁制の火薬や兵器を買いこむため、一時、蜂須賀家を利用した抜荷屋のともがらが、いまだに近海の野々島《ののしま》、出羽島、弁天島あたりに巣を食っていて、手のつけられない海辺漂泊者《かいへんひようはくしや》となっている。
山の山窩《さんか》、海の抜荷《ぬき》屋《や》、どっちもどっちのしろものだ。
「じゃ、まあ、それはいいとして……」と、匙《さじ》を投げて「由岐《ゆき》の浜《はま》へあがってからどうしていた?」
「あっしはすぐに、潮水《しお》浸《びた》しになったお両人《ふたり》の刀を、大黒宗理の所へ頼んでくれと渡されて、棟梁と別れました」
「そこは?」
「八幡様の森でした」
「弦之丞と口をきいたか」
「あっしがいる間《うち》は、棟梁もその人も、黙りあっておりました。もっとも、女のほうが、だいぶ水を呑んでいたので、その手当てにも追われていたんで」
で――眼八の腹の中の口書は、さっき、中年の小僧がしゃべった話とぴったり継目《つぎめ》が合ってきた。
「そうか、それですっかり事情が分った。まア、今のところじゃこの辺でよかろう、オイ源次、立ってくれ」
「ヘイ、ありがとうございます」
「なにがありがてえんだ」
「知ってる限りのことは白状しました。約束どおり、放しておくんなさるんでしょう」
「けッ、虫のいいことをいうなッ」
と、いきなり縄尻をしぼった眼八、
「さ、代官所へ歩け!」
と、源次の腰を蹴って、石段の方へ引きずってきた。
欺《だま》しに乗ったと知って、源次は、地だんだをふんだ。
いまさら、大勘の信を裏切ったことをすまなく思う。親方の秘密を売って助かろうと思った根性が、われながら情けない。
だが、もう追いつかない。ただ、歯ぎしりを噛むばかりであった。
釘抜きの眼八に、弱腰を蹴とばされて、勢いよく突ンのめりながら、何かわめいた。
眼八は、セセラ笑いをして、
「さ、出かけた、出かけた!」
と、もう一つ、足をあげて弾《はず》みをくれる。
よろけた途端に、捕縄が張って、また仰むけにひっくりかえった。
もう自棄《やけ》だという風に、
「畜生ッ」
と、かぶりついてくるのを、
「亡者《もうじや》めッ」
と、用捨《ようしや》のない捕縄の端で、牛を懲《こ》らすようにひッぱたく。
そして、半死半生にさせながら、女坂をゴロゴロと蹴転がして行った。
すると。
雪のような月影をふんでまだら石段の下から息をせいてくる三、四人――それと白い月明りと闇のまじった杉木立の間を、バラバラと駈け寄ってくる提灯《ちようちん》が見えた。
眼八は、
「あっ?」と、むねを衝《う》ったが、その明りの一つに、海部代官所《かいふだいかんしよ》という朱文字を認めてホッとした。
――というよりはこの場合、助かったという気持で、死物ぐるいの厄介者を、何よりはその手へと、
「おう、御支配所の衆!」
声をかけると、熱い息がハッハッと聞こえるほど、すぐ側まで駈けてきて、
「や、眼八か」
と、意外らしく、かれを囲んだ。
桐井角兵衛《きりいかくべえ》のさしずで、少し遅れて出張《でば》ってきた徳島の町同心《まちどうしん》、浅間丈太郎《あさまじようたろう》、田宮善助、助同心《すけどうしん》岡村|勘解由《かげゆ》。
提灯《しるし》を持っているほうは、海部同心の安井《やすい》民右衛門《たみえもん》と土岐鉄馬《ときてつま》のふたり。
「どうしてここにおったか」
と、一同、不審な顔つきである。
実をいうと眼八は、大勘の家へ旅人として静かに泊り込んだまま、夜半《よなか》に、外へ迫る捕手《とりて》へ案内をする約束であった。
それが、無益《むだ》だとみぬけたし、源次という者に執着をもったので、急に独断で方針をかえた。そして、これからその源次を代官所へ曳いて、断《ことわ》りに行こうと思っていた出鼻《でばな》だったので、向うも、合点がゆかない様子である。
手短かに、源次から調べ上げた事実を話すと、五人の同心、少し出しぬかれて鼻白《はなじろ》んだ様子に見えた。
眼八は傲慢《ごうまん》に胸を張って、
「じゃ、こいつを渡しておくから、弦之丞を召捕《あげ》るまで、海部の揚屋《あがりや》へ預かっておいて貰おうか」といった。
海部側の同心は、言下《げんか》に、
「それは困る」と拒《こば》んだ。
なぜ? と眼八がほじくると理由《わけ》は簡《かん》にして明、――今、町の辻々に伏せておいた密偵のひとりが、この間から行方の知れなかった大勘がこッそりと帰ってきて、何用か、この薬王寺の道へ廻ったという報《し》らせ。
すわとばかり、代官所の騒ぎである。
折から、助勢にきて打合せ中の徳島同心、浅間、岡村、田宮の三名も加わって、捕手はうしろ巻きとして山下に伏せ、五人は先廻りをしてここへ登ってきたところ。
「今、源次をここで預かるのは困る」と、にべなくいったのも、ムリではない。寸刻を争っているのだ。
だが、眼八は我《が》を曲げない。
ここは、海部代官の支配区域、本来、お手前たちの腕だけで、こんな者は、とうにパキパキと召|捕《あげ》てみせなければならないのではないか。それを、徳島から釘抜きの眼八様が助《すけ》に来てやっているんだ。おまけに、縄までかけて渡してやるんだ。もったいねえ御託《ごたく》をいうな――という鼻息。
慢心もあるし、郡奉行《こおりぶぎよう》の配下というと低く見る癖がついている。で自然と、手先のくせに同心を顎《あご》あつかいな物言いぷし、海部側も納まらない、ガヤガヤしばらくもめていた。
ところへ、捕手のひとりが飛んできた。
大勘の姿が、参詣《さんけい》道に見えたという。もうグズグズしてはいられなかった。
「おい、捕方」
と、仲を取って、助同心《すけどうしん》の岡村|勘解由《かげゆ》が、
「お前が暫時これを預かっておけ」
と、半死半生の縄つきを渡した。
渡された捕手は、源次を抱きこんで、女坂を駈け上がり、さっき、眼八が腰をすえたあたりの巨木へ、縄尻を巻いて、番に立った。
海部側も徳島側も、もうケチな仲間割れをいいあっているひまはない。
無言で、広い境内の物かげへ、思い思いに姿を散らかす……。
腕でこい! と眼八は、ふたたび前の木蔭へ返って、伽藍《がらん》の正面につづく白い敷石を睨みながら、腹巻を固く締めた。
――その口には十手。
もう、人気《ひとけ》は滅している。
時折、伽藍の近くから、夜籠《よごも》りの遍路《へんろ》の鈴《りん》が、ゆるく、眠たげに……。
シーンとしてしまった。
月の位置もだいぶ変って、細《こま》やかな針葉樹の影は、大地へ蚊帳《かや》の目のようにゆれている。
石段の口から、一ツの影が上ってきた。
月に白い菅笠《すげがさ》に、顔は暗く隠されているが、肩幅のひろい巨男《おおおとこ》、裾《すそ》をとって、脚絆《きやはん》わらじ、道中差を落している。
ジッと、境内を見廻していたが、やがて、大股に本堂へ向ってきた。と、思うと、またふと足を止めて、参差《しんし》とした杉木立の奥をすかすように見た。
鈴《りん》が鳴っている。
かすかだが、耳にふれた。夜籠りの詠歌《えいか》の鈴《りん》の音《ね》。
それを便りに、木立の蔭へまぎれ込もうとすると、いきなり、
「大勘ッ」
と、おどりかかって行った釘抜きの眼八が十手で、力まかせに肘《ひじ》を撲《なぐ》りつけてから、
「御用だッ」
と烈声《れつせい》をあげた。
「あッ」と、よろめきながら大勘。
「しまった!」
という様子で、脱兎《だつと》のように後へ駆け戻ったが、もう、むらがる人数が足もとを待ちかまえて、
「御用ッ」と、飛縄《ひじよう》の風!
「御用だ!」と十手の雨。
月光を衝《つ》いてわめきかかってきた。
わらわらと八方を塞《ふさ》いで、入れ代り立ち代り、からんでは離れ、組んでは解かれる。
「退《ど》いた」
と眼八、海部側の者に見よがしとばかり、群れをわけて正面から飛びかかる。
大勘は道中差を抜いて、かれの真《ま》っ向《こう》を待ちかまえた。だが、眼八の十手が、風を切って入るのと同時に、飛んできた捕縄《とりなわ》が、拝み打ちに下ろしたかれの手元をさらって、ガラリと刃物を巻き落してしまった。
黒い人間の声が、山になって、ひとりの上へ揉《も》みあった。
「ご苦労だった」
と、徳島の同心浅間丈太郎と田宮善助が、火事を消したように一同をねぎらった。
海部側の安井、土岐《とき》の二同心も、自分たちが、手を下すにいたらなかったことを同慶《どうけい》しあって、
「眼八、さすがに、鮮やかだな」
と、ほめた。
「オイ、そっちの奴も曳き出してこい」
助同心の岡村勘解由が、口へ手をかざして向うへどなると、
「おっ」と、さっきのひとりが預けられた縄付きの源次を曳いてくる。
「引きあげましょうか」
と同心連中、涼しい顔で、月明りの顔を見あった。そして、源次と大勘、ふたりの縄付きを引っ立てて、意気揚々と、前の裏道――女坂のほうへ向って行く。
わざと、正面の参詣道を避けたのは、医王山薬師如来の霊地を意識するおそれであった。かれらも、不浄役人《ふじようやくにん》ということを、気づかずに自認している。
「暗いな」
「こう廻るのが近道なのだ」
そういったほど、喬木《きようぼく》の厚ぼったい茂りが、一同の上をふさいできた。みんなわらじばきなので、シト、シト、シト……と揃う跫音《あしおと》が言葉のない間を静かにつなぐ。
ドウーッと、滝の落ちるような音の奥から、寒いような嵐気《らんき》が樹々の眠りをさましてくる。大勘は時折、ものいいたげに源次のほうを見た。源次もうなだれて棟梁の影を眺めた。だが、無論、一言《ひとこと》声をかけることもできない。
と――真っ暗な、女坂の降《くだ》り口にかかろうとした時、すぐそのあたりの物蔭から、鈴《りん》を振り鳴らして、一同の前へ歩みだしてきた者があった。
白衣《びやくえ》をまとった遍路《へんろ》である。
紺《こん》べりの道者笠《どうじやがさ》をかぶり、白木の杖と一個の鈴《りん》を手にしていた。そして、黙然《もくねん》と、そこに突っ立った白い姿に、絣《かすり》のような木の影が落ちている。
「退《ど》けっ」
と、ひとりの捕手がどなった。
うつむき加減に、杖をついた道者笠は、月に咲いた毒茸《どくだけ》のごとく、ジイと根を生《は》やしたまま、退《ど》こうともせず、驚いた様子も見せない。
道者笠の遍路、いやに、おっとりとした物構えで、意気揚々と引き揚げてきた捕手の前に、鷺《さぎ》とも見える白木綿《しろもめん》の姿を立たせ、肩杖をついて、黙然《もくねん》と、いつまでも狭い山笹の小道をふさいだまま、どなられても、動く様子がないので、先に立ってきた捕手の四、五人、少し、小気味がわるくなってきた顔色。
「オイ、同役」
と、後からボツボツ歩いてくる仲間を待ちあわして、
「変なやつがいる」
と、肩だけは突ッ張ったが、やや息を殺したかたちである。
「なんだ、遍路人《へんろにん》ではないか」
「そうらしい」
「さっきから間の抜けた鈴《りん》を振って、しきりと医王山の境内をウロついていた奴だろう。それがどうしたンだ?」
「あの通り、道を阻《はば》めて、テコでも動く気色がない」
「太《ふて》エ奴《やつ》だ」
と、帯の十手を抜いて、それを手にピカピカさせた一人、ずかと前へ踏み出して、
「やいッ、遍路!」
と、肩をもたせている白木の杖を、ゴツンと十手でぶちながら――
「なんだって、こんな狭い道に棒を呑んで突ッ立っているんだ。退《ど》け退《ど》けッ、海部代官所の者と徳島同心の方が、縄付をつれて通るところだ。動かねえと蹴飛ばすぞ!」
遍路の笠へ顔をよせて、威猛《いたけ》だかにどなりつけたが、かれは、依然として、ヌックと立ったまま、肩杖をついたまま、そして、紺べりの笠をうつ向けたまま、返辞もせねば、微動もせぬ。
ははア! とそこで顔を見あわせたことである。こいつア片輪だ。ツンボか唖《おし》か、気の変な脳病もちかに違いない。常人なみにあしらって、埒《らち》のあかないのはこっちの落ち度。
だが、不具者の遍路、お上《かみ》の者といって手荒くもなるまい、どこかそこらの横へソッと抱いて片づけてしまえ! と目くばせで五、六人ゾロゾロと前へ出ると、その手も触《ふ》れさせず、杖一歩、かえって向うから一跨《ひとまた》ぎして、
「あいや」
と、少し笠を揺るがせる。
「この野郎、唖ではない」
かッと、怒っていうのを冷《ひや》やかに、
「無論――」
と、声を含んで、
「唖ではござらん!」
さらに一歩、あきれ顔の捕手の前へ出て、それには目をくれず、紺べりをつかんで相手の肩越しに、後の人数の影を見る。
とは知らずに、得意な眼八と五人の同心組、なお十四、五人の捕手に縄付の前後をまもらせて、何かガヤガヤと話しあいながら、杉と杉との間をうねって押してきたが、道が狭いので三人と肩を並べては歩けず、そのまに先がつかえてしまった。
「オイ、どうしたんだ?」と、うしろのほうであせっているのは眼八の声。
その返辞もこずに前の者が、逆に、タジタジと後退《あとずさ》ってきたので、のび上がってみると、ひとりの遍路を相手に何か言い争っているふうなので、眼八は縄付のそばを離れて、すばやくそこへ潜《くぐ》って行った。
と見て、海部同心の安井、土岐、助同心の岡村|勘解由《かげゆ》、眼八について列の前へかき分けて出る。
遍路は、磐石《ばんじやく》のように佇立《ちよりつ》したまま、しきりと猛《たけ》る捕手などには、言葉もくれず、耳も藉《か》さない。そうして、同心組の者が来るのを待ち設けていたように思われる。
「てめえは夜籠りの遍路だろう、何をグズグズいっているんだ、ついでに海部の百姓牢へも参籠《さんろう》して行きたいというのか」
と、眼八は無造作に見て、その襟《えり》がみをつまみそうに、片腕の袖をまくりあげたが、キラッと笠の蔭から射向《いむ》けられた眼光りに、そう簡単に手がのびなかった。
「お前たちに用はない、上役がおるであろう、同心の者をこれへ出せ」
「な、なにッ?」
「話がある! 同心衆」
呼ぶように腰を伸ばした。
「何者だッ、貴様は」
海部の安井民右衛門、胸を張って威喝《いかつ》した。
浅間丈太郎、田宮善助、徳島側の者も何事かと騒いで、捕手を排《はい》して進んできた。そうして、口々にまた咎《とが》めた。
「何者だッ、汝《なんじ》はッ」
「何用あってそこに立つのか」
「名乗れ!」
「姓名を申せ」
各一句ずつわめいたところで、遍路は、さらに悪びれない語韻《ごいん》で――。
「拙者は」
と、もの静かに名のりかけ、
「おのおのの尋ねている、法月弦之丞でござるが……」
と、澄みきった態《さま》で、向うの動《どう》じ方を眺め廻した。
ぎょッとして足もとを浮かしかけたが、同心も捕手の者もひるがえって、自分たちの耳を疑っているように。
――拙者は法月弦之丞であるが。
こういったと思う相手の、こともなげな今の声を反復して、見つめあった。
そうして、彼とこれとの間に、氷のような無言が張りつまった。徳島の城下はいうまでもなく、八郡の代官手代が、血眼になって検索している人間が、捕手や同心の集まっている直面へきて、こう冷然と、みずから名乗って立つばかがあろうか。
と、一度は思ったが……。
彼の自若《じじやく》として不敵な態《さま》。わずかにうかがわれる面《おも》ざし、背恰好《かつこう》、まぎれもあらず、人相書のそれとピッタリ。
「ア――」
ややしばらくしてから度胆《どぎも》を抜かれた空声《からごえ》を筒抜《つつぬ》かせたが、助同心の岡村、突然、
「それッ、取り囲め!」
と、ののしって、身《み》みずから十手を揮《ふ》って当ろうとするのを、
「待てッ」と、弦之丞の一喝《いつかつ》が、その出足をくじいて、
「妄動《もうどう》するな、うかつに動くと危ないぞ、動かぬ切れ刀《もの》へさわってきて、われから命を落すまい。無益な殺傷沙汰はしたくないと思う、で、話がある! 静かにせい」
と、自分の配下でも鎮《しず》めるように威圧した。
十手を把《と》る者が、これだけのことを、対手《あいて》に悠々《ゆうゆう》といわせただけでも恥辱の限りだ。多少の犠牲者を出すまでも、一気に、召捕ってしまえ! そうはじりじり思ってみるが、どうにもならない対手《あいて》だった、どこから飛びつく隙もない、いや、既にそういう衝動を作る大きな意気というものを失っていた。
弦之丞は知っている。
すでに、捕手の頭《かしら》は冷智になって自分を見ている。何か一瞬の狂人にさせるきッかけがなければ、かれらは決して、朱《あけ》をあびる域へまで、捨身にかかってこられない。
「弦之丞!」
やむなく浅間丈太郎がいった。
「――遁《のが》れぬところと覚《さと》って自首して出たか」
「そうならば定めしご都合もよかろうが……」
口辺に冷蔑《れいべつ》を漂わせて、
「少しご無心を申すのじゃ」
「無心ッ?」
「今、この境内で召捕られた、ふたりの縄付を、拙者の手へ渡してもらいたい」
こんな言葉へ、もしまじめな応答をするならば上役人の資格はない。――弦之丞はそういった口ですぐにまた、
「お渡しはあるまいな、それが世上へ聞こえては貴公たちの扶持《ふち》ばなれじゃ。しかし、拙者一身のため、縛《ばく》をうけた大勘と源次を見捨ててもおかれぬ。どうでもこのほうへ申しうけるぞ」
「だ、だまれッ」
「アイや」
「文句をいわさずに、弦之丞を召捕ってしまえ」
「騒ぐなッ、ここは医王山の霊域、汝ら、不浄な血と死骸を積んで、寺社奉行への申しわけ何とするか。それはともあれ、仏地への畏《おそ》れ、また第一足場が悪い。まず騒がずにおいでなさい。山を下るまでご同道申しあげよう」
先に立って歩きだした。
まさか、逃げるとは考えられない。自分から捕手の前へ立った彼――。
五歩――六歩――誰も足を出す者がなかった。
「傍若無人《ぼうじやくぶじん》なやつだ、よしッ、俺が」
と、釘抜きの歯がみをさせた眼八。
目をつぶってゆく気もちで、一跳足《いつちようそく》に、かれの体へ貼りついた。と、弦之丞、身をひねって、
「これッ」
と、眼八の小肥りな体を、左の腕の中へ締め込んで、グッと抱きあげ、後《あと》の十手へ白木の杖を一揮《ひとふ》りするや、急に、眼八をかかえたまま、女坂を闇の底へ、ドドドドドッと駈けだして行った。
途端。
怯智《きようち》な居すくみをどやされた捕手や同心たち、あッと眼色をかえ、初めて、瞬間的な狂人になり得て一散に、麓《ふもと》へ小さくなる白いものを追いかけた。
やがて、薬王寺の山の裾《すそ》で、ワーッと、乱闘の叫びが起こる。
目前にいた対手《あいて》を逸して、今さら仰天した捕手のわめきであろう。逃がしては大事と、駆け廻っている同心たちの叱咤《しつた》であろう。
ところが、皆の疾走したあとに、三、四人ほど駆けおくれていた。
召捕った二人の縄尻をつかまえていた者で、これは空身《からみ》でないから、走るに走り得ないで、縄付を突きとばすように、後からあわてて気を急ぐ。
いちど走りだした同心の土岐鉄馬《ときてつま》は、ふと思いあたって、
「アッ、もしや?」
と、途中から踵《くびす》をめぐらし、大急ぎで後へ戻ってみた。かれの推測は誤っていなかった。
はたして、大勘は、この機会にすなおになってはいなかった。
自分の縄尻をつかんでいる捕手を蹴倒し、源次も、腕はきかないが、親方の大勘と一緒に、死にもの狂いで、あばれ廻っていた。
近づくに従ってその様子の見えた土岐鉄馬は、いい所へ戻ってきたと一足|跳《と》びにそこへ来るが早いか、
「おのれ、まだ無用な手抗《てむか》いをしているかッ」と、十手をもって、骨ぶしの砕けるほど、源次の肩を撲《なぐ》りつけた。――で、その途端。
「わッ……」
と、大地へ仆れたが、それは、打たれた源次ではなく、鉄馬であった。
後頭部から背すじへかけて、土岐鉄馬は斬られていた。傷が浅いので死にきれず、ウームとうめいたかと思うと、十手をつかんだなり自分の血の中をころげている。
「あッ」と、縄尻をほうりだして、逃げかけた捕手も、脛《すね》を払われて前へのめった。残るひとりは、源次が夢中で蹴とばした足の先に、脾腹《ひばら》をかかえて悶絶《もんぜつ》した。
途端に――源次も大勘も、今まで性《しよう》なくシビれていた両の腕が、ふッと自由になって、一時に早い血の脈をうってきたのに、われながら茫然《ぼうぜん》とした。
その、茫《ぼう》とみはった目の前には、ひとりの美女が立っていた。艶《えん》とはいえないがすきとおる水のような美しさ、白い行衣《ぎようえ》を着た肌の白い黒髪の美女である。
「オオ、お綱さん!」
大勘は源次へ目くばせした。源次は縛《いまし》めを切られた腕をさすりながら、あたりを見廻してかがまり込む。
「――弦之丞様と御一緒に、どこにおいででございました」
「ここで待ちあわすという約束なので、宵から上の森の中に、お前さんの跫音《あしおと》を待っていました」
「あ、そのうちにこんな手違い?」
「源次が捕まったのも知ってはいたが、お前さんが来てからの思案と、森の蔭で心配しながら、息を殺しておりましたのさ」
弦之丞と同行同衣《どうぎようどうえ》の遍路にやつした見返りお綱。今――土岐鉄馬のうしろへよって、浴びせつけた新藤五の小脇差をさげている。
それはまだ大黒宗理の手で研《と》がれてきたばかりの刀《もの》、斬ってもその切ッ尖《さき》に、口紅ほどの血も止《と》めていない。
「ここにいては海部の捕手が、また押し返してくるにきまっているから、お綱さんは、源次に道案内をさせて、ここの裏山を抜けて、赤《あか》河内《かわち》へお逃げなさい。あっしは、捕手に追われて行った弦之丞様の安否を見届けて行きます」
「ご親切だけれど、それに及ばない。弦之丞様は、わざと捕手を釣りこんで、麓のほうへ駆けだすから、後で三人はここから先に、土佐街道の寒葉《かんば》へ出て、そこで待ちあわしていてくれろとおっしゃったのだから」
「ですけれど、あの人数に囲まれちゃあ……」と、大勘が不安らしくいうのを、お綱は、微笑《ほほえ》んだきりで、自分から先に裏山の道を上りだした。
そして、予定どおりに寒葉《かんば》の近くで、後から来た弦之丞と落ちあった。かれの手甲と裾《すそ》の二所三所《ふたところみところ》に、黒い血痕《けつこん》がついていた。大勘は、怖ろしいような、不可解なような顔をして、歩をともにしてゆく、その人の横顔を眺めていた。
土佐街道が白々と明けてきた頃――四ツの影は、牟岐《むき》の上流から本道と岐《わか》れて、笹見《ささみ》、西又《にしまた》、入道丸《にゆうどうまる》、いよいよ深い奥海部《おくかいふ》の山地へ分け入っていた……。
翌日。
こんもりした槙《まき》の森蔭で、わずかな眠りをとった後。
大勘はふところから一枚の山絵図を出して弦之丞に見せた。お綱もそばへ寄って眼を落した。剣山《つるぎさん》の山絵図である。
源次は森を出て見張っていた。こうしている間も、日和佐《ひわさ》から殺到してくるであろう捕手の跫音が聞えるようでならない。
「まるで、道がないような所です」
大勘は、数日家を空にして、苦心して描いた山絵図を前に、あれこれと、細かい心おぼえを説明した。
かれが指さす図面に目を辿《たど》らすと、彼岸《ひがん》剣山の頂《いただき》へ行きつくには、まだ重畳《ちようじよう》たる山また山が阻《はば》めている。
杣《そま》か猟師《りようし》でもなければ、通わない所が多い。
大体、剣山へのぼるべく、ここを選ぶのは順路ではない。だが、順路をとって行かれぬ二人の目的、ぜひがなかった。
弦之丞とお綱よりは、二日半ほど早く徳島の城下を出ている竹屋三位卿とほか三人組が、急いで行ったあの道こそ、剣山へのぼるに都合のいい表道。途中、お十夜の用で、川島に一日あまり費やしたにしても、かれらの一行は、やがて貞光口《さだみつぐち》から塵表《じんぴよう》の巨山を仰いでいるに違いない。
かれは北、これは南、かれは表道から、ふたりは道なき裏にかかっている。
だが、その者たちが、自身より一足早く、甲賀|世阿弥《よあみ》を殺しに向っているとは、もとより知らないふたりであった。
「何よりの心づけかたじけない」
大勘の厚意を謝して、弦之丞はその山絵図をふところに納め、追手の姿を見ぬうちにと、また一心に道を急いだ。ある時は、口もきかず、ある時は、行願《ぎようがん》に向っているような汗をしぼっている自身に気づいた。
「剣山は……まだ?」
お綱はそういう言葉を、時折、大勘へくり返していた。
「まだ見えません」
…………。
「剣山は?」
「まだです」
清澄な空気、耳なれぬ禽《とり》の声、森々《しんしん》と深まさる山また山。行けども山である、行けども山である。
沢を下り、岨《そば》をめぐり、わずかな山村を眺め、また奥へ奥へと歩みつづける。たまたま逢う樵夫《きこり》や部落の人も、遍路姿のふたりに、何の怪しみも持たなかった。
「あれだ!」
力のこもった声で、大勘がこう指さした。
四人は、星越峠《ほしごえとうげ》を踏んでいた。
「えっ、剣山?」
「あれが剣山です。次郎笈《じろぎゆう》と矢神丸《やじんまる》の間から、肩を張りだしている山がそうです」
「アア、あの……」と、お綱も大勘が指さすところを指さした。
弦之丞も黙然《もくねん》と、ふたりの見まもる山を見つめている。お綱は何かの感慨に衝《う》たれて、白雲の流るる行く手に佇立《ちよりつ》した。
アア、あれが剣山か――。
そう思って見た山は、父の姿を仰ぐのと同じ感銘を与えた。まだ見ぬ父の姿は、剣山を見て逢ったと等しい心地がした。
動こうともせずじっと山と直面しているうちに、お綱の目がしらは、涙でいッぱいになってきた。涙で山が見えなくなった。
(お父さん! 生れてからまだ顔を知らないお父さん! お綱はここまで来ているんですよ! あなたに会いに、あなたが生涯をかけた仕事を活《い》かしに)
声いッぱい、あなたの雲表《うんぴよう》へ、お綱は呼びかけてみたかった。
だが、直前に見えるようでも、まだそこへは数里、それも、これからはいっそう嶮《けわ》しい峡谷《きようこく》や岩脈に阻《はば》まれている距離がある。――でもお綱には、ここから呼べば、剣山の山牢から、オオと、返辞が木魂《こだま》してくるような気がするのだった。
「では、大勘も源次も、どうか、ここまでとして、後へ帰ってくれるように」
弦之丞は、笠ぐるみ頭《ず》を下げて、二人へ礼をのべ、袖を別つことを宣した。
「気の毒な……」と、弦之丞はふと暗くなった。さだめしこの者たちは、後で代官所の追捕《ついぶ》に趁《お》い廻されなければなるまい――。
「じゃ……どうぞ御堅固に」
と大勘も別れをつげたが、弦之丞のすまぬ色を見て、言い足した。
「お案じ下さいますな。あっしと源次は、これから土佐|境《ざかい》の港へ出て、そこから抜荷《ぬき》屋《や》の仲間をたのみ、しばらくどこかの島でほとぼりをさましております。そのうちには、四国屋のお家様にお目にかかって、何とかいたすつもり、そこは手に職のあるありがたさで、尺金《さしがね》一|本《ぽん》さし込んでいれば、どこの国にも天道様《てんとうさま》は照っております」
なおいろいろと、山へかかった場合の注意を残して、大勘と源次は後へ取って返した。
その後――やや久しいこと、お綱は茜色《あかねいろ》に変ってくる雲と山に明日《あした》を思い、弦之丞は、山絵図を按《あん》じて、山へかかる二つの道について考えている。
そこは廃寺の方丈のあとであろう。荒れはてているが、古ぶすまの白蓮《びやくれん》には雲母《きらら》のおもかげが残っていた。古風な院作りの窓から青い月影がしのびやかに洩れている。
荒涼とした室内の、くもの巣だらけな欄間《らんま》や厨子《ずし》に、はげ落ちた螺鈿《らでん》の名残りが猫の目みたいに光っていて、湿《しめ》っぽい妖気《ようき》を漂わせ、かびと土の香をまぜたような、一種の臭《にお》いが面《おもて》を衝《う》つ。
「明日のために」
との心がまえで、あれから峠を下りた弦之丞とお綱は、充分な眠りをとるべく、この廃寺へ入った。
眠ろう。眠らなければいけない。
お綱は経筥《きようばこ》にもたれ、弦之丞は何かに腰をかけて、杖に肩を支《ささ》えていた。しかし、しきりと旋舞《せんぶ》する毒虫やバサと壁をうつ蛾《が》の音に、ふたりの神経は容易にしずまらなかった。
「明日は剣山にかかるのだ」
そう思う昂奮《こうふん》も、よけいに眠りを拒んでいる。ほとんど、死の世界のような寂寞《せきばく》さも、かえって心を冴えさせた。
うつうつとまどろんでいたかと思った弦之丞も、やはり眠りつかれずにいたとみえて、不意に立って、方丈を出て行った。
しばらくすると、枯れ杉と榧《かや》の枝をつかんで戻ってきた。そして、所を見計らって、その榧《かや》の木をプスプスと煤《いぶ》しはじめる。
お綱の眠りつけないでいる様子をみて、蚊や毒虫を追ってやろうとする、弦之丞の心づかいであった。うすくまつわう煙の情けが、お綱の身を和《やわ》らかに巻く。
ようやく、虫の責め苦からのがれた。
だが、お綱はまだ眠れなかった。
「弦之丞様、まだ夜明けには間がありましょうか」
「そちは少しも寝ないようだが」
「なんとなく気が冴えて」
「それはいけない」
「でも、ゆうべあの森で、だいぶよく眠りましたから」
いっそ夜の明けるまで語り明かしたいとお綱は思った。弦之丞も眠られぬまま、つい答え、つい話頭を向ける気持になる。
万吉はどうしているだろうか? 常木|鴻山《こうざん》もさだめし消息を案じているだろう? 松平左京之介様は、自分たちの吉左右《きつそう》を、首を長くして待っているに違いない。
そんな話。
そんな話からお綱は、お千絵様は――といって弦之丞の顔色を見た。
かれは、それなり黙然《もくねん》としてしまった。
お綱は自分のつつしみを破って、ふと弦之丞を憂暗《ゆうあん》にさせたことをすまなく思った。もとより、この人とお千絵様とは、切る、捨てる、ことのならない仲なのである。
生れた時から悲恋の宿命をもっている恋。咲かない土に芽生《めば》えた花、それが、自分の恋ではなかろうか。
普通の境遇《きようぐう》の人なら、なんでもない、実父の顔をひと目見るということが、生涯最大な希望になるほど不幸《ふしあわ》せな身には、恋にも、同じような恵まれない宿命をもっていた。
剣山へ行くまでの――この苦難の途中だけが、わずかに楽しい恋の時間だ。自分の恋のゆるされる道のりだ。そしてその恋も、あるものを超《こ》えてはならない恋。
はかない!
こんなはかない恋があろうか。
父の世阿弥に逢うという、希望の彼岸《ひがん》に立った時は、恋人を、義理のあるお千絵様に返さねばならない時だ。
剣山のいただきは、お綱に最大な希望と最大な失望の二ツをもって待っている。人生の悲喜明暗ふたいろの雲がそこにはたなびいている。
弦之丞は沈黙をまもり、お綱は眠りを装《よそお》って、思い悩む。
「ああ、もっとあの山が、遠ければいい……」剣山にいたることが遠ければ遠いほど、お綱の恋はこのままでいられる。よしやそこに、あるものを超《こ》えるまでの強い力が結ばれなくても、ふたりの世界、楽しい旅が、お綱にはある。道が嶮《けわ》しければ嶮《けわ》しいほど、夜が暗ければ暗いほど、お綱の旅は人知れず楽しい。
しかし、もう二人は、剣山の裾《すそ》まで来てしまった。苦難、迫害、ふりかえってみても、お綱には、なお短かった心地がする。
明日《あす》は明暗の雲をわけて、間者牢に初めての父の顔を見る! それも待たれてやまぬものだ、今でも、想像の父の顔が、眼の前にチラつくほどである。どういおう! なんと名乗ろう! 千々《ちぢ》に乱れて涙ばかりを見あわすであろう! そんな想像だけでも涙がわく。
と、かの女《じよ》の乱れた胸に、微笑をそそるような空想がかすめた。
「死ぬという方法があるじゃないか。剣山へ行きついた後に、弦之丞様とふたりで死ぬのが、すべての幸福をもちつづける一番いい道じゃないか。死出の旅は長い! 剣山へ来たよりは遠い! そして静かで果てというものがない」
父に会った歓《よろこ》びの絶頂に、弦之丞とともに手をとって死のう。
そう思うそばから、また、一方の心は、
(お千絵を不幸に墜《おと》してもよいのか!)
と責める声がする。
剣山に行きついて、剣山の土になるのは、いわゆる、木乃伊《みいら》とりの木乃伊《みいら》になるの類《たぐい》で、弦之丞がここまでの苦艱《くかん》も、結果は、無意味なものに帰してしまう。
ふたたび重囲の阿波を逃れ出なければならない。
その時になって、初めて、父の名も闇から光明へ、弦之丞も一箇の武士として、栄光の江戸に迎えられる。
すべての、いい結果を呪《のろ》って、わがままな死の世界へ、弦之丞を導こうとする心を、お綱は自身でおののいた。奔放になろうとする恋のわがまま――自我主義をおそろしく気づいた。
「そうはなれない、私の気性でもそうはなれない」
お綱は情熱と理智のたたかいにもまれて、固く睫毛《まつげ》をふさいでいた。弦之丞には、静かに眠っているふうを粧《よそお》っている心の奥で――。
「生きねばならない」
と、つよく思い返した。
「目ざして上る時よりも、いっそうなまっしぐらで、剣山をのがれ出なければならない。死んではならない! 弦之丞様を死なしてはならない! そして父の世阿弥とその人を、義理あるお千絵に渡してやることを自分の本望としなければならない、それを、無上として歓ぶのが人間だよ、愛だよ! ――じゃあ、お前はなんにもなくなるではないか? 愛って、人間の一生って、そんなつまらないものでいいものかね? そうさ、ほんとに空《くう》な話だ、だけれど、そうした自分を無にする気もちは、さびしいだろうが、まんざら悪いものじゃあるまい。私はそれを信じよう、考えてみればもともとから何もなかったお綱じゃあないか」
眠りを粧《よそお》っているまぶたから、いつか、涙……涙……涙……とめどなくながれている。
南無大師遍照金剛《なむだいしへんじようこんごう》――。
廃寺の内陣で唱える人声があった。お綱は、今宵この荒れ寺に、自分たちのほかにも行き暮れた遍路が雨露をしのいでいるのを知って、そっと、涙をふきながら弦之丞を見た。
杖により、壁にもたれて、寂《じやく》としているその人は、寝ているのか、起きているのか分らない。白い行衣《ぎようえ》の裾《すそ》を、榧《かや》の煙がうすく這《は》って――。
お綱は遠いところの、鉦《かね》と詠歌《えいか》の声に、思わず耳をすませられた。
ぎゃく縁も
もらさで救う
ねがいなれば
巡礼道《じゆんれいどう》は頼もしきかな
南無大師遍照金剛《なむだいしへんじようこんごう》――
その巡礼道の身ではないが、お綱もせめて、今の一時でも、その境地に安住して寝《やす》もうと念じた。しばし静かに口のうちで、あなたの詠歌の声について合せている――。
と、突然。
バリバリッと、院作りの窓を破り、おどり込んできた同心四、五名。
山支度をして十手をくわえ、まっ先に、豹《ひよう》のごとく飛びこんだのは海部同心《かいふどうしん》の安井《やすい》民右衛門《たみえもん》。
「弦之丞、お綱、御用であるぞ」
と、雷声をつんざかせた。
アッ――と不意をうたれて、お綱が方丈の外へ退《の》くとたんに、安井同心はピシリッと白木の杖で腹を打たれた。眠っているように見えた弦之丞が、咄嗟《とつさ》、そこを支えたのである。
「ウム!」と気丈な安井同心、杖をつかんで奪おうと試みた。
白刃を仕込んだ杖! 相手につかませておいて、弦之丞、合口《あいくち》に掛けていた指を弾《はじ》くように開いた。
と杖はそこから二ツに別れて、アッというと民右衛門、鞘《さや》だけ持ってよろよろと後ろへ。
そこを真《ま》っ向《こう》胸落《むなおと》し! 切ッ尖《さき》はなお余って、膝行袴《たつつけ》の前まで裂いた。たじろぐ隙に、弦之丞は、死骸のつかんでいる鞘をとり、それを下段に、白刃を片手上段に持って、四、五たび廃寺の廊下を駆け廻っていたが、やがて、お綱の姿をチラと見て、庫裏《くり》の裏手へ飛び下り、大竹藪の深い闇へ、ふと、影をくらましてしまった。
血筆隠密書《けつぴつおんみつしよ》
間者牢《かんじやろう》の柵外《さくがい》に、山番が焼飯の糧《かて》をおいてゆくのを取りに出る時と、渓流《けいりゆう》へ口をそそぎにゆく時のほかは、洞窟《どうくつ》の奥に陽《ひ》のめも見ず、精と根を秘帖《ひちよう》にそそいで、ここに百四十日あまり、血筆をとって岩磐の火皿にかがまったきりであった甲賀世阿弥《こうがよあみ》も、今はようやく疲れてきた。
疲れてふと洞窟の床《ゆか》へ身を投げて臥《ふ》すと、昏々《こんこん》として二日もさめないことがある。そんな時、頭心《とうしん》だけが錐《きり》のように研《と》げていた。書こうとする意気をもつ、これを書き遺《のこ》すことによって、自分は犬死をまぬがれる、隠密生涯《おんみつしようがい》の墓石が立つ、武士の本分をつくし得る。
で、書こうとして起つのである。けれどその意気はあるが、今は精根がつづかない。精根はしぼりだしても、筆を濡らす血がもう出ない。指、腕、股《もも》、かれの全身は油液を採《と》りつくされた漆《うるし》の木の皮みたいに傷だらけだった。
十幾年もの間この山牢に生きて、たださえ痩せ衰えていたかれは、血筆をもち初めてから一層|枯骨《ここつ》をむきだして、幽鬼のようになっていた。一|行《ぎよう》に精をきらし、半行に血が出なくなると、世阿弥は落ちくぼんだ眼を光らして洞窟の外へ出てくる。
そして、餓鬼のように、野葡萄《のぶどう》や山苺《いちご》を食べ草の茎《くき》を噛む。渓流にかがみこんで、小魚や水に棲《す》む虫まで口に入れた。血を摂《と》るべく食うのである。生きようとする本能よりも、筆にぬる血墨をつくるために食うのが、この場合の世阿弥であった。
ひと頃、山牢の近くに春を染めていた岐良牟草《ぎらんそう》のむらさき花も散りつくして、真ッ赤な山神の錫杖《しやくじよう》や白龍胆《しろりんどう》や桔梗《ききよう》の花がそれに代っていた。かれはまたぎらん草にかわる色素をたずねて、それには事を欠かさなかった。
ほんの常識的にわきまえていた本草学《ほんぞうがく》が、どれほど実際に役立ったかしれない。かれは自分の知識にある限りのことを今の上に応用した。そして、ともあれ、三位卿の落した小法帖形《こほうじようがた》の海図の余白から裏へかけていちめん、微細な文字をもって埋めた。
もうわずかだ、もう五、六行。
そこまで辿《たど》りついてきて、世阿弥はふと、
「おれは死ぬだろう」
と直覚して、筆の穂をふるわせた。
「あとの五、六行を書きおえたとたんに、おれはバッタリ眼をおとしてしまうに違いない! そんな気がする! アア、あと五、六行だ」
かれは高い山の頂《いただき》へついた時のような呼吸の逼塞《ひつそく》をおぼえだした。指をやらなくても感じられるくらい、乱れた脈を搏《う》っていた。
「アア、あと五、六行だ」
火皿の獣油がとぼりきれたのを機《しお》に、洞窟から這いだした。
ぐッたりと山牢の口によりかかって、かれはしばらく目を閉じた。そのわきに合歓《ねむ》の大木が立っていた。淡紅色の合歓の花と俊寛のようなかれの姿とは、あまりにふさわしくない対照であった。
尖《とが》った膝へ手を結んで、独り語につぶやいた。
「ここで、おれのなすべきことだけはした」
だが? ……と世阿弥はすぐに後の哀寂《あいじやく》にうたれた態《さま》で、おそろしく光る、そして空虚な目を、的《あて》なく空に向ける。
血をしぼってなしあげた隠密覚え書の一帖も、江戸の大府《だいふ》へ送り届ける頼りはなし、このまま木乃伊《みいら》となる肋骨《あばらぼね》に、抱いてゆくより道はないのである。
「それでいい」
かれは、諦《あきら》めるよりほかない所へさびしい肯定《こうてい》を落して、
「それでいいのだ……」と重ねて、独り語をいった。
「やがて、おれの死に骸《がら》からあの一帖を見出した時には、阿波の武士たちも、いかに大府|笹《ささ》の間《ま》の隠密というものが、使命を奉じるに根強いものか、侍根性にない執着をもつものかを知って慄然《りつぜん》とするだろう。そして、後には人の口からわしの最期も江戸表へ通じるであろう。しかし、それと共に、仲間で誇る隠密魂もおそらく、この世阿弥の終りと一緒に甲賀組にも亡ぶに違いない。世の中が変っている、わしが江戸を出た時からもう元和《げんな》寛永《かんえい》の世の中ではなかった。それから十幾年……」
ふと、膝に落ちている合歓《ねむ》の花に目が行った――うす紅い合歓の花。
その優しい膝の花を眺めていると、かれの想像は、ふッと翅《はね》が生えたように飛んで、ふたりの可愛らしい少女をとらえてくる。
江戸表に残してきたお千絵であり、腹ちがいのお綱である。
もう二人の娘は、その頃の少女ではないと思っても、かれの想像はやはりあの当時の稚《おさ》な顔を描いてみせる。
「ふびんな娘たちよ……」
合歓《ねむ》の花は世阿弥のくぼんだ眼からポロポロと涙を呼んだ。
その時、一本の羽白の矢が、ヒュッ――と鏃《やじり》に陽《ひ》の光を切って、うつつな、かれの姿を狙ってとんだ。
「しまった!」
と、三位卿、素早く二の矢をつがえて向うを見た。
山牢のある瘤山《こぶやま》の裾《すそ》は、覗《のぞ》き滝《だき》の深潭《しんたん》から穴吹《あなふき》の渓谷へ落ちてゆく流れと、十数丁にあまる柵《さく》が、そこの地域を囲っている。
柵外の俎板岩《まないたいわ》の上に立つと、あなたのほうに洞窟の暗い口と、合歓《ねむ》の巨木が見えた。有村は、弓を構えて磐石《ばんじやく》の上に立っていたが、
「ちイッ……」と舌打ちして、しぼりかけた二の矢、弓ぐるみ、ガラリと手から捨ててしまった。
「お手際《てぎわ》」
と、下から賞めた者がある。
「皮肉を申すな」
と三位卿は、岩から跳び下りて、天堂一角、お十夜孫兵衛、旅川周馬、その三人の前へ立った。
「むごい殺し方をするよりは、ただひと矢にと思ったのだが、一の矢、襟元《えりもと》をかすめて合歓の木の幹へ刺さってしまった」
「では、世阿弥のやつ、覚《さと》りましたな」
「ふいと姿を隠しおった。しかし、逃げられる場所ではないから安心じゃ」
「殺害《せつがい》しに来たのを知ったとなると、かなわぬまでも、さだめしジタバタするでしょう」
「なぶり殺しもぜひがない」
「衰えきった老いぼれ、大したことはあるまい。じゃ一刻も早く殺してやるほうが、せめて殺生《せつしよう》の罪も軽かろう。おい、天堂」
と、お十夜は先に立って、
「どこから柵を超えるんだ?」
「もっと上だ、この辺は一帯に柵と激流が一緒になっているから、とても乗り超えてはゆかれない。もう少し上へ登ると、山の腹へかけて流れに添っていない所がある」
「よし!」と、周馬も前へ出た。
周馬の気負《きお》ったうしろ姿を見ると、天堂はニッと笑った。決して、悪い意味ではなかった。――この男も可愛いやつだ、そう考えて、和田峠で癇癪《かんしやく》まぎれに、煙管《きせる》をぶつけた時のことを思いだしたのである。
「最初は、ひどく油断のならない男と考えていたが、決して、ムキになって憎むほどの人間じゃない。むしろ、愛すべき稚気《ちき》さえ持っているじゃアないか! こうして世阿弥を殺すにも先に立ってゆくんだからな」
と、かれの背なかを眺めながらゆく。
お十夜は幾度も剣山を踏んでいるが、周馬は初めてなので、嶮《けわ》しいのにあきれている、倶利伽羅坂《くりからざか》でもかなりヘトヘトになった。だが、ひと度|冷《ひや》やかな山気《さんき》に面《おもて》を吹かれると、その疲れも忘れてしまう。
次の山容をあおぎ、谷をのぞいて、森々たる喬木林《きようぼくりん》の間に、合歓《ねむ》の木の多いのにも驚いた。和州《わしゆう》多武《とう》の峰にのぼった折に、この花の多いと思った記憶はあるが、かくも幽邃《ゆうすい》な光線と深い冷気のうちに塵《ちり》もとめぬ神秘さをもった花とは違ったように思われた。
人を殺害《せつがい》しにゆく人間にも、山は冷寂《れいじやく》な反省と幽美な感激を与えている。けれど人間はなかなかそれに浸《ひた》りきらず、邪念なかなかそれには消えない。
すでに四人は、大刀に反《そ》りを打たせて踏み登ってくる。
世阿弥の生命《いのち》は風前のともし灯。
さっき、かれがふと意識した脈音のみだれは、この兇事《きようじ》の来たることを肉体の持主に予察させた霊感の微妙であったろうか。
「死ぬナ、おれは」
不思議にみずからこういった。
しかし、人間にさほど霊の感知がありうるならば、父子同じ血をもっているお綱の血のうちへ、世阿弥の今|搏《う》つ脈音がひびいてゆかないものだろうか。
深夜、廃寺の方丈から、ふたたび徳島|海部《かいふ》の同心に追われた弦之丞とお綱は、あれから、深林、峡谷《きようこく》をよじのぼって、剣山の裏伝いへかかったことは想像に難くない。
それは弦之丞が、医王山の境内でも廃寺の折でも隙を見るや一散に逃げ去ったことであきらかに知れている。かれには、捕手《とりて》も同心もない。ただあるのは、目指す剣山の山牢があるばかりだ。
けれど、貞光口《さだみつぐち》から難なくここへ来た三位卿の一行と、道なき裏山の、それも山番の目を忍び忍びくる彼とは、時間にして半日、嶮路《けんろ》の不利にしてだいぶな差がある。
ただ、僥倖《しあわせ》というべきことは、深更《しんこう》に十手の襲うところとなったため、勢い、あのまま暁へかけて、道を急ぎにかかったであろうと察しられる一点。
そうすると、麓《ふもと》の見付役所で、山嵐の寝心地よく、遅くまで、熟睡してここへ着いたお十夜などよりは、ゆうに半日以上の早駈《はやが》けとなり、時間の差だけは取り返して余りがある。
かれの消息については、漠然として疑惧《ぎぐ》をもっただけで、徳島の城下を離れてきた有村や三人組、もとより間髪《かんはつ》の差で、ここへ弦之丞とお綱がくるとは夢にも知らない。
急ぐうちにもどこか悠々として柵を越える場所を見廻してくると、やがて面前に見た急坂《きゆうはん》の上から、早足に駆け下りてきた人物があった。
四人が姿を隠したと知らずに、そこへ駆け下りてきた男、日除笠《ひよけがさ》をおさえて、大股にゆくところを、いきなり跳びついたお十夜が、どこをすくったか、気味よく投げた。
「あっ!」といったが、日除笠、すッくと向うに立ったので、怪しい! と天堂や周馬が、いちどに三方から姿を見せると、
「な、なンだ!」
声はでかいが、案外なあわてざま。
「貴様こそ何者だ、見れば、町人姿、山牢のあるこのあたりへ何の用があってウロついている」
「じゃあ、あなたがたは蜂須賀家の……」と言いかけたが、町人、小首をひねった。総髪、十夜頭巾、顔の見えない編笠、見くらべて妙な顔をした。
「アー」と、そのうちに、後ろにいる三位卿を見つけると、あわてて、笠の紐《ひも》を解いて、
「そちらにいるのは、御城内のお公卿様、わっしは、徳島御奉行の下廻り、釘抜きの眼八という者でございます」
「オ、手先の眼八か」
一角は顔を見知っていた。
「あ、天堂様でございましたか、ひどい目に会わせますな、あぶなく谷間へ玉転がし、命を棒にふるところでした。だが……ああ、いい所で会ったもンだ」
胸板へ汗ビッショリ、押し拭《ぬぐ》って、笠を団扇《うちわ》に、ほっと一息ついている。
「眼八」と、一角は素振りを見て、
「妙なほうからやってきたな、いったい何用があってこの剣山へ来ているのか」
「ご存じはありますまい」と、眼八は、これほどのことを苦もなく話してしまうには惜しい気がして、
「何しろ大事《おおごと》になったもんです」と、もったいをつけた。
そうした後で、眼八は、事実の細要より自分の功を誇り顔に、弦之丞とお綱の行動を手にとるように話した。
その生死すら疑惑にしていた四人は、聞くにつれて開いた口がふさがらない。のみならず眼八の言によると、お綱と弦之丞のふたりは、星越《ほしごえ》とこの山の中間にあたる廃寺からのがれだして、遂に剣山の樹海のような森林へ影を隠してしまったということである。
「で、なんでござんす」と、眼八は話の筋にひと区切つけて――「あっしは同心方と別れて、ひと足先に間道を登り、やつらの道に網を張っておりましたが、なにしろこの通りな深山|幽谷《ゆうこく》、町の捕物みたいなわけにゃ行きません。それにご承知のとおり土佐境から海部方面は、道が嶮《けわ》しい代りに、目付役所もなく、山番も手薄なので、案外楽に来られるということを実地に踏んできましたから、こりゃあいけねえと、急に泡をくッて考えなおし、これから、原士《はらし》衆の詰めている麓《ふもと》の木戸へ行って、この大変をお報《し》らせしようと存じ、急いで、平家《へいけ》の馬場から降りてきたところでございます」
ひと息にいって、汗光りの赭《あか》ら顔を手拭で拭き廻った。
「ではお綱と弦之丞めは、すでにこの山の深みへ入り込んでいると申すのじゃな」
「多分……」と少し曖昧《あいまい》になったが、眼八、自分の見込みに誤りはないと自信をもって、
「……そうだろうと思います、いや、こっちで下手《へた》を踏んでいると、いつ、この間者牢《かんじやろう》へあらわれて、世阿弥を助けだそうとするか分りません。なにしろ、ご要心なすって下さい」
三位卿は混惑してきた脳髄《のうずい》をいきなり村正《むらまさ》かなんぞの鋭利な閃刃《せんじん》で、スッカリと薙《な》ぎ抜けられたような心地がして、踏みしめている足の裏から、かすかな戦慄さえおぼえた。
「ここへやって来る以上は弦之丞も、死にもの狂いに違いありません。たださえ腕の冴えた奴、そいつが夜叉《やしや》になって暴れ廻った日には、とても、同心方やあっしの手では抑えがつきません。どうか、よろしく一つお手配を願いとうございます」
「そうか……」と、すべてを聞き終った有村は、下唇を締めて、こうしてはおられないという焦躁《しようそう》を、静かな動作のうちにゆるがせた。
「眼八、そちはこの足で麓へ急げ、そして山見付の溜《たま》りへ急を知らせ、十分に、手分けをしておくよう、この有村がいいつけじゃと伝えるがよい」
「合点です、じゃ……」と、笠をかつぐのと目礼を一緒に、釘抜きの眼八、汗の乾くまもなく、足を急がせて、倶利伽羅坂《くりからざか》を降りて行った。
後に残った四人、何かヒソヒソささやいていたが、やがて、目配せをしあって、柵《さく》の尽きる所から重畳《ちようじよう》した岩脈へ這い上がり、ヒラリ、ヒラリ、山牢の地域へおどり込む。
まだ七刻《ななつ》を過ぎたころ、黄昏《たそがれ》には間のある時刻だが、剣山の高所、陽は遠く山間《やまあい》に蔭って、逆《さか》しまに射《さ》す日光が頂《いただき》にのみカッと赫《あか》く、谷、峡《かい》、山のひだなどにはもう暗紫色な深い陰影がつくられている。
咲き乱れている山神の錫杖《しやくじよう》、身を隠すばかりな茅萱《ちがや》などの間をザクザクとかき分けて、やがて小高い瘤山《こぶやま》の洞窟へ這い寄った四人――。
お十夜と天堂一角は、抜刀《ぬきみ》を背後《うしろ》へ廻して膝歩きに、ソッと、穴の両脇から、息を殺して暗い奥を覗《のぞ》きこむ。
スウ――と下がっていた一本の銀糸に、びっくりしたらしい蜘蛛《くも》が一匹、岩天井へ手繰《たぐ》り上がった。
氷室《ひむろ》のような冷気を感じながら天堂とお十夜孫兵衛、洞窟の奥へスルスルと這い進んで行った。
「ヤ、いねえぞ」
先へ向った孫兵衛の声が、暗闇の突き当たりから、ガアーンと響いて返ってきた。
「ナニ、おらんと?」
「ウーム、見えない」
「さてはほかへ隠れおったな」
「隠れたって、間者牢の柵、あれより外へは出られねえものを」
「こんな中に生きていても、やはり生命《いのち》は惜しいものとみえる。出よう、外へ」
手探りで後戻りをしはじめたが天堂一角、またひょいと気がついたように、
「どこぞ横穴へでもへばりついているようなことはあるまいな」
「いや、そんな隠れ場所はねえようだが……」
と答えながら、お十夜は後ろを眺めなおした。
しかし、なくはなかった。
よくよく闇に眼を馴らしていると、妙な所が一ヵ所ある。
どんづまりの真ッ暗な岩壁が、右側へ少し窪《くぼ》みこんでいるらしい。その袋穴の漆壺《うるしつぼ》みたいな狭い所に、人の眼らしいものがギラリと光っている。動かずに光っている。そして、孫兵衛を睨みつけている。
けれど、にわかにそれが人の眼だとは断定されない。なにしろそれ以外には何も見えないのである。で――孫兵衛は抜刀《ぬきみ》を後ろ廻しにひそめたまま、屈身《くつしん》を伸ばして、ジッと自分の息を殺した。すると、向うの呼吸が感じられた。世阿弥はやはりそこにじっとしていたのだ。
一角は、孫兵衛の最初にいないといったのを信じて、気早に外へ這い出していた。
「ふーん、すくみこんでいるな」と感づいたけれど、お十夜は、あえて助勢を呼ぼうとは思わない。
十年以上、日蔭干しになっている死にぞこない、そぼろ助広で一突きに抉《えぐ》るくらいはなんの造作もないこと。そう思っている。
しかし暗い、どんな得物を持って、どう構えているか見当がつかない。窮鼠《きゆうそ》猫《ねこ》を噛むということも一応思ってみる必要がある。ちょっと暗闇に眸《ひとみ》が馴れてこないうちは迂闊《うかつ》に飛びかかれぬ気もした。
すると不意に、岩壁の窪《くぼ》みへじっとしたまま、目無魚《めなしうお》のごとく動かずにいた甲賀世阿弥が、
「おおう! ……」と、不意に、太い息をもらして、さらにまた低く、
「オウ……」と驚いたような声を繰り返した。
この暗所に棲《す》みなれている世阿弥の眸は、自然生理的に、闇の中でも見とおしが利《き》く筈だが、お十夜には、皆目、対手《あいて》の見当がつかない。ただ、爛《らん》と射る双《ふた》つの眼を感じるばかりだ。
「狂いだすな、こいつア。よし、そのほうが始末がいい」と、かれは世阿弥が呻《うめ》いたのを、恐怖のあまりだと思って、爪を立って来る猛獣を待つくらいな覚悟をもった。
だが、相手は身ゆるぎもしないで、
「そこへまいったのは、川島|郷《ごう》に棲《す》んでいた原士、関屋孫兵衛に相違ないと思うがどうだ」
といった。
「あっ……」孫兵衛は、ズバリと気構えを割られて、思わず、見えぬ闇にムダな目をみはった。
「世阿弥! てめえはどうしておれの氏素姓《うじすじよう》を知っているのか」
「知っておるとも、知っているわけがあるのだ! 孫兵衛、お前もよく思いだしてみるがいい」
「思いだせ……ウーム、不思議だなあ……何しろそちの面《つら》がまるで見えない」
「もう一昔も以前のことだから、こっちの顔が見えたにしろ、或いは思いだされまい。わしも、わしを殺しに来た人間の前で、そんなことを思い浮かぶ筈はなかったが、フトお前の頭巾を見て思いだされた、その、じゅうや頭巾を見て」
「な……なンだって……」
頭巾といわれて、孫兵衛の声は意気地なくみだれてきた。
外の光線で見たなら、面貌《めんぼう》まッ蒼《さお》に変っていたかもしれぬ。
世阿弥には、ありありとその態《さま》が見て取れた。
「因縁だな……」
かれはこう嘆じた。
「お前がおれを殺しに来る……まさか川島にいたあの孫兵衛が、わしを殺しに来ようとは……、ウウム面白い、冷《ひや》やかに生死を超えて人の世の流転を観じれば、おれがお前に殺されるのも面白い」
「とすると、てめえはこの山牢へ捕まってくる前に、川島の村にも忍んでいたことがあるんだな」
「川島の郷《さと》はおろか、阿波の要所、探り廻らぬところはない。まだ誰に話したこともないが、徳島城の殿中にまで、わしの足跡が印《しる》してある。そして、一番永く身を隠していた家が、孫兵衛、お前とお前の母親とがふたり暮《ぐ》らしで棲んでいた川島の丘のお前の屋敷だ」
「えっ! お、おれの元の屋敷にいたッて?」
「しかし、そうはいっても、隠密の甲賀世阿弥を、みつめていたでは、いつまで、考えだされる筈がない。十一年前、わしは阿波へ入り込むと同時に、すぐに畳屋《たたみや》に化けていたよ、紺の股引《ももひき》にお城半纏《しろばんてん》を着て、畳針のおかげで御普請《ごふしん》を幸いに、本丸にまで入り込んだものじゃ。そして、いたる所を畳屋の職人で歩いた末に、川島の郷《さと》で、元のお前の屋敷の畳代えにも雇われて行った」
「はて? ……」孫兵衛には、まだ何を話されているのか思い当らない。ただしきりと気になるのは、世阿弥が頭巾の秘密を知っているらしい口ぶりである。
世阿弥は覚悟をしていた。死に直面しつつ話すのである。その態度は、姿に見えなくても、語韻《ごいん》に感じるので、お十夜も、殺すべく握っていた大刀を忘れかけた。
「――原士の屋敷はすべてだが、お前の屋敷も旧家でかなり広かった。わしは畳代えの職人で、名前はかりに六蔵《ろくぞう》といっていた。あの奥の十八畳の部屋、十二畳の客間、六畳の茶の間、十畳の書院」
孫兵衛は自分の旧屋敷の畳数を心でかぞえた。世阿弥のいうところ一畳の間違いもない。
「そして、玄関、女中部屋、仏間だな。話はその仏間から起こってくる。そこの古いお厨子《ずし》は青漆塗《せいしつぬ》りで玉虫貝《たまむしがい》の研《と》ぎ出しであったかと思う、その厨子の前へ、朝に夕に眉目《みめ》のいやしくない老婆が、合掌する、不思議はない、御先祖を拝むのだ。ところがそこから不思議が生れた、わしが、畳代えの手をかけた日に、敷きつめの工合をなおす響きから、お厨子のそばの柱がポンと口を開いた。ちょうど、平掌《ひらて》が楽に入るくらい、切り嵌《は》めになっている埋木《うめき》がとれて落ちたのだ」
「ウーム、分った」
「分ったろう」
「じゃてめえは、それが縁になって、半年ほど下男になっていたあの六蔵か」
「そうだ、お前の母親は、それからぜひ屋敷にいてくれという、わしも都合のいいことだ、隠密甲賀世阿弥は当分下男ということに早変りした。するとまもなくお前の母者人《ははじやひと》が重病にかかった。うすうす事情を眺めていると、その当時、関屋孫兵衛というひとり息子、博奕《ばくち》は打つ、女色《によしよく》にはふける、手のつけられない放埒《ほうらつ》に、それが病のもとらしかった」
ガチャッと、何か金属性な音がしたので、世阿弥は突然言葉を切った。
すでに最前、合歓《ねむ》の木の下で、鋭い鏃《やじり》にかすめられた時から、自分へも、俵《たわら》一八郎と同じ運命が訪れてきたなと直覚して、覚悟はきめているかれだったが、話し半ばに、剣の音を聞くと、やはりぎょっとして舌が吊《つ》りあがった。
見ると――世阿弥の眼で見ると――お十夜は大刀をつかんでいる手をにわかに、バッタリと前へついたのであった。その鍔《つば》の音だった。
で、言葉を次ごうとすると、先に、岩穴を出た一角が、
「お十夜、何をいたしているのだ!」ととば口から奥へ言った。井戸へどなったように、その声が、おそろしく大きく響く。
孫兵衛はハッとして、大刀を持ちなおした。
しかし、声に応じて世阿弥をすぐに突き殺す気は出なかった。
今の話は、多分な好奇心もあり、後に、阿波守の耳へ伝えていい重要なこともあるが、何より、彼をたじろがせたのは、自分の母親のことを、世阿弥が話しかけているせいだ。
あらゆる放埒《ほうらつ》、物盗り、辻斬りまでやって、なお恬然《てんぜん》たる悪行の甘さを夢みるお十夜だが、母を思う時、かれはもろい人間だった。不思議なくらい、その常識の一ツだけは、誰にも負けない善人孫兵衛であった。
もっとも、悪党の常として、お十夜も、母親のことなどは、おくびにも口に出していったことはない。よその母親が手を曳《ひ》かれてゆくのを、後《うし》ろからバッサリ斬るくらいな無情さは平気で持ちあわす男であって、自分の女親《おんなおや》のこととなるとから意気地のない特殊な愛情の持主だ。
が、孫兵衛は、身辺の者や悪行仲間《あくぎようなかま》に、そんな微量《びりよう》な人情でもあることを気取られるのは、ひどく恥辱だと信じ、倶利伽羅紋々《くりからもんもん》の文身《いれずみ》に急所が一ヵ所彫り落ちているような考えで、努めてまる彫《ぼり》の悪人を気どっていた。
後《あと》にも前《さき》にも、たった一度、何に感じてか、その彫落《ほりおと》しの気持を口に洩らしたというのが、木曾路へかかる旅籠《はたご》で、飯盛の女を買った晩、周馬と一角に向って、
「おれもさまざまな女に逢ったが、いつまでも好きな女は、やはり、おふくろという女ひとりだ」
と、冗談まじりにいったくらいなもの。
今度七、八年ぶりで阿波へ帰り、剣山へ来る途中、郷里の川島へ立ち寄ったかれが、こッそりと、屋敷裏の丸い墓石と逢ってきたことも、誰も知らない事実である。
で、孫兵衛は、たじろいだ。
世阿弥がまだ母親のことを何かいいそうなので、すぐに殺すのは惜しかった。
「おウ! 孫兵衛!」
一角がまたどなっている。
「おらんと見たら早く出てこい、手分けをして探さねばならぬ」
「待て」と、孫兵衛も奥から胴間声で、「ちょっと横穴を見つけたから念のためにあらためている」
「そうか、さてはそこだな」
「オイ、待て、入ってくるな」
「なぜ」
「怖ろしく狭そうだ。それより、ここはおれ一人でいいから、ほかを探してくれ、いなかったらすぐに出てゆく」
「ウム、じゃ入念に頼むぞ」
「ぬかるものか! 周馬と三位卿は?」
「血眼でそこらをかき分けている」
一角の立ち去った足音を聞いて、孫兵衛はふたたび暗闇の眼へ問いかけた。
「だが世阿弥! 初めにてめえは、おれの頭巾を見て思い浮かんだといったが、こいつア腑《ふ》に落ちねえ。隠密から畳屋、畳屋から下男と、三段に化けてあの当時すましていた者にしろ、おれの頭巾の曰《いわ》くを知っているはずはねえんだが」
世阿弥の眼と孫兵衛の影が向い合って、洞窟の奥の不思議な暗闇問答は、それからであった。
「わしがお前の頭巾の秘密を知らないと思っているのか」
と世阿弥がいった。するとお十夜も、ふと、
「あの晩は、おれとおふくろ、あとは身寄りだけだった」と古い記憶をよび起こした。
「いかにも、わしは使いに出されていた、吉野川を越えて向う地へ」
「その間に……」とお十夜はゴックと唾《つば》を飲む音を重苦しくさせて、「おれのおふくろは息を引き取ったのだ」
「世間の者は、不審とも気づかなかったろうが、わしには読めた。なみの下男なら知らぬこと、かりにも大内府直遣《だいないふちよつけん》の隠密、しかも棲み込んでいる家の中の出来事だ。その夜以来、孫兵衛、いつのまにかお前のその十夜頭巾が脱《と》れないものになっていたな」
「おう、ではあの時、使いに出て行った後のことを?」
「いかにも、残らず見届けていた。お前の母が危篤というと、すぐに七人の肉親ばかりが集まった。そこは例の厨子《ずし》のある仏間、出入りに錠《じよう》をおろしあたりを見張り、そして、静かにお前の母の枕元をとり巻いた。……と、あの柱だな。切《き》り嵌《は》めにして妙なものを埋め込んであるあの柱だ。それより前に、わしが畳を敷き代えた日に、埋木《うめき》の口が落ちた途端には、何か、燦然《さんぜん》としたものを見たが、お前の母親が茶の間から飛んできて、妙にあわてて隠したものだ。その柱へ、臨終にのぞんでいるお前の病母は、枕へ頭《つむり》をのせたまま、弱い眸《ひとみ》を向けたようだ。そうして、あれを……という意味を見せると、寂《じやく》としていた七人の中から、ひとりが立ってうやうやしく埋木をはずし……」
「ウーム……」
と、孫兵衛、頭の鉢をしんしんと締めつけられるように呻《うめ》いて、
「もういい! 話は止めろ」
突然、対手《あいて》の声を打ち消した。
「世阿弥、おれはてめえを殺さなけれやならない。分っているだろうな」
「うむ」自若《じじやく》として、
「この春、俵一八郎が殺《や》られているから、わしにもやがてやってくるだろうと思っていたところ、観念はしている。だがの、孫兵衛、もう少し話してもいいじゃないか」
「つまらねえ」
「いや、愉悦《ゆえつ》だ、わしは話したい」
「おれはてめえを殺そうとしているのだ。殺されるこの孫兵衛と話をするのが、愉悦だというばかはあるめえ」
「この身を殺す敵でも悪人でも、こうして、世間の人間と口をきくのはわしにとると言いようのない珍しさだからな、まアゆるしてくれ、そこで今の話だが……」と、世阿弥は低い声音《こわね》で、平調な言葉を自然につづける。
「――臨終の間際に、あれをと、お前の母親が、柱の隠し穴から取りださせたものを、細い蝋細工《ろうざいく》みたいな手にふるえながら持った。白蛇《はくじや》の喉《のど》をおさえるようにつかんでいた。そうして、しばらく口のうちで、経文のようなことを唱《とな》えていた」
「で、世阿弥、それをてめえは、いったいどこで見ていたのだ」
「――使いに出ると見せかけて、わしは天井裏に潜《ひそ》んでいた、甲賀流の忍法、塵《ちり》も落しはしない筈だ。そこで息を殺していると、病人の指の間に小蛇の首みたいな形のものが、弱い灯明《あかり》にもさんらんとしている。と七人の肉親の者たち、みんなシーンと後ずさりをし、顔を上げる者はなかった。ああいう時には原士という者も、みな怖ろしく森厳だ、儀礼みだれず古武士のよう、ことにその晩の七人は、川島|郷《ごう》の原士の中でも、また特別な密盟組《みつめいぐみ》らしい、切ッても切れない因縁の仲間だ」
「やめろ、どこまで聞いてもくだらねえ、もうそんな思い出話なんざア聞きたくもない」
「わしにも、少し謎が残っている、まあ今しばらく聞くがいい」
「止めろというのに、くどい奴だ! サ、殺《ばら》しにかかるぞ」
「耳に飽《あ》きたらその時に、黙って、突くとも斬るともするがよい。世阿弥はここにかがまったきり、とても、逃げる体力はないのだから。――でお前の母親だ、その時、絶え絶えな息づかいで、お前に涙ぐましい意見をいったな、後生《ごしよう》だと、わが子に手を合せて、改心を迫ったな。だのに孫兵衛、そちは邪悪の権化《ごんげ》のように、一生悪事はやめられぬと答えた」
「当りめえだ、死んでゆくお袋に嘘がいえるか」
「それはいい、悪党の率直もいいが」
「チッ!」と、舌打ちして「おふくろの幽霊みたいに、おれにいったい何を説《と》こうっていうんだ」
「十夜頭巾――」
と、世阿弥は暗黒の中で笑った。
「頭巾の悩みとでも申そうか」
孫兵衛は口をつぐんだ。
暗闇の中の二ツの目はジイと白く真向きにすわったまま、
「――お前が改心はできぬといいきると、お前の母、死にきれぬ悶《もだ》えを見せ、サメザメと泣いて、孫兵衛よと呼んだ。孫兵衛よとまた呼んだ。お前は立たない、あの時の女親は怖かったのであろう、で、病人は三度目に、お祖父《じい》様《さま》、どうぞ、孫兵衛をこれへ、と側にいる老人へ眼で哀願した。名は知らぬが白髯《はくぜん》の老武士、あとで聞けば、川島郷の原士の長《おさ》で、ひとたび、その老人に、あいつと杖を向けられた者は、たとえ、どう他国へ逃げ隠れしても、必ず手を廻して殺されるという、怖ろしい支権者《しけんしや》であるそうな」
高木龍耳軒《たかぎりゆうじけん》のことをいうのだなと孫兵衛には分った。
それや龍耳《りゆうじ》老人は怖ろしいにきまっている。原士の長《おさ》はあの人だから治まっているといわれているくらいなものだ。仲間の脱走者で、長崎の果てまで逃げたやつがあるが、老人はいながらにして、その男の首を見た。
孫兵衛も故あって、他国へ出ていても、絶えず龍耳《りゆうじ》老人の監視をうけている身だから、すぐに頭脳《あたま》へピーンときた。
世阿弥はまた話しつづける。
「お祖父《じい》様と病人が頼むと、その老人が、黙ってお前の襟がみをつかみスルスルと母親の枕元へ引きずってきた。と――お前の母の細い腕は、お前の首を強く巻いて、夜具の下へ押しつけた。その片手には、柱の隠し穴から取り出したさんらんたるものをつかんでいる。アッ、お前は悲鳴をあげて四肢《しし》を突っ張る、同時に母は息をひきとりそうになった。ぎょッとしたが、周囲の者も、見ているよりほかなかったらしい、白い蒲団《ふとん》は血で染まった」
しばらく言葉を切っていたが、孫兵衛は、刻一刻と、世阿弥を突く機を逃がしていた。
「――まさに絶えなんとする息の下で、お前の母は、原士の長《おさ》の老武士へ頼んだ。――孫兵衛が改心するまで月代《さかやき》をのばすことはなりませぬ。孫兵衛めに私のお祈りが要らなくなるまで、遺物《かたみ》に与えた頭《つむり》のものをとることもなりませぬ。この遺言を破った時は、お祖父《じい》様、川島郷七族のため、どうか、お情けに孫兵衛を殺してやって下さいませ。でなければ一生このまま日蔭者にしてやっておいて下さいませ。子が可愛いからです。ほかの七人方も、お頼みいたします。こういって最期の眼を閉じた」
「…………」はッ、はッ、と、聞こえるような息をついて孫兵衛は無言。
「と――原士の長《おさ》、七人の肉親たちとともにしばらく黙祷《もくとう》をささげ、死者の前で厳然とお前にいい渡した。孫兵衛聞けよ、その与えられた恩愛の秘密をみずからやぶる時は、貴様、たとえどこに逃亡潜伏しても、必ず、五十日の間に命を奪《と》るぞよ! と……」
ふと、落涙していたらしかったが、お十夜孫兵衛、いきなり猛然と、大刀の鍔《つば》ぶるいをさせて世阿弥の胸もとへ跳びかかった。
「ええ、果てしがねえ! ぐずぐずしちゃいられねえんだ、片づけるから覚悟をしろ」
「待て、もう一言《ひとこと》」
「ちッ、未練を吐《ぬ》かすな」
「隠密根性といおうか、ここで、最期に一目見せて貰いたいものがる。わしも甲賀世阿弥だ、なんでこの期《ご》に見苦しい死にざまを望むものか。実をいうと、わしはその晩の有様を覗いた後から、お前のかぶり初《そ》めた十夜頭巾の下に、おそろしい興味と執着を持った、隠密の執着だ。得心のゆくまで見届けなければ気がすまぬ。しかも、頭巾にくるまれたお前の秘密は、やはり一つの阿波の秘密だ。江戸城へはいい土産《みやげ》、それをつかんだなら阿波から足を抜こうと、一念に、お前の頭巾の中を狙っていた。と、お前は放埒《ほうらつ》に荒《すさ》んだ揚句、阿波を出奔《しゆつぽん》して行方をくらまし、わしは、原士の長《おさ》に見破られて、とうとう、この剣山へ捕われの身となってしまった。よくよくの因縁だ。そのお前が今日はわしの痩せ首を斬りにきた。で、古いことを思い出したのじゃ……。しかし今、死の間際に、頼んであの時の秘密を見せて貰ったところで、何の役にも立ちはしないが、わしが捕われの原因となった物だけに、山牢へきた後も、自分の眼が誤っていたか正しかったか、始終気になっていたところ、人にはわからぬ隠密|煩悩《ぼんのう》、死際《しにぎわ》の欲望に、ありありと、手にのせて見て死にたい。孫兵衛、わしのいおうとする中心はここだ、ひと目でいい、見せてくれ」
「な、何をだ?」
「その頭巾の下に隠されているものを」
「ばかなことを吐《ぬ》かせッ」
「嫌か」
「当たりめえだ!」
「じゃあ、話はそれまでのこと。殺《や》るか、いよいよ」
「おウ、催促がなくっても殺してやる」
伸びた猿臂《えんぴ》――
ムズと、甲賀世阿弥の襟もとをつかみ、右手《めて》の大刀をギラリと後ろへひいた。
その刹那だった。
突然、洞窟の口元にあたって、天堂一角がただならぬ絶叫と共に、地ひびきをさせてぶっ仆れ、山つなみでも来たように――。
「お十夜ッ、早く手を貸せ、一大事だ! 三位卿があぶない、周馬もッ」
「やッ、ど、どうしたって!?」
「助剣《じよけん》しろ、早く! 法月弦之丞とお綱が来たッ――、法月ッ――うう……ム」
と、乱脈な声がすれ、すでに、そういう一角が、どこかへ一太刀浴びせつけられているらしかった。
ふた声ほど絶叫して、天堂一角は岩牢の外へ仆れてしまった。
孫兵衛は足もとの大地がめりこむような響きにうたれた。かれの眼は頭巾の蔭にあわてきった輝きをうごかせた。そうして、思わずつかんでいた者の襟もとを離して、
「くそうッ! 弦之丞などに」
と、洞窟の奥から走り出ようとしたが、また思いなおして、どうせのこと、世阿弥を殺してから行こうと、戻りかけると、世阿弥は発作的に、突然、居どころから飛びあがった。
とがった肩骨がかれの胸を打った。上へ刀を振りかぶれる空間があれば、据物斬《すえものぎ》り、ただ一揮《ひとふり》に割りつけること、孫兵衛の手になんの苦もないことだろうが、見当のつかない暗闇。
胸もとへぶつかったのを幸いに、孫兵衛は世阿弥の細いのど首を左の腕へすくい込んだ。締めつけて脾腹《ひばら》をひと突きに――と思ったが、そうたやすくもゆかなかった。
甘んじて死をうけるようであった甲賀世阿弥は、今の一瞬に、もの狂わしく変って、
「わしは死なぬ! わしはまだ死なぬ!」
とない力をふりしぼり、孫兵衛の腕から逃《のが》れようともがいた。
「じたばたするなッ」
「むむむッ、一刻《いつとき》ちがいッ……」
滅前《めつぜん》の一燦《いつさん》、おそろしい念力《ねんりき》で対手《あいて》の腕くびへ歯を立てる。
白い刃は、世阿弥のわき腹に当てがわれていた。
かれの前歯が孫兵衛の肉へ入ってゆく力は、同時に抱かされた刃を食い入れる力となった。孫兵衛は腕くびの痛みをこらえつつしばらくソッとしておいた。
サーッと早い血汐が裾へ行った。
「よかろう」
と、孫兵衛は思った。
強く刀をしごいて、平手で世阿弥の顔を押すと、闇の中へドシンと音をさせて、仰むけになった目と歯が白い。
グウッと、一度腹をつきあげた傷負《ておい》は、
「一刻《いつとき》ちがいッ……」
とまたいった。
そうして、ビク、ビク、と大動脈から息を吐き出すように痙攣《けいれん》する。
「とどめを」
と思って孫兵衛が探りかけると、ふたたび洞窟の外で、お十夜、お十夜ッ、と三位卿と周馬の声が響いて、あわただしい足音の重なってくるのを感じ、かれの手も心もますますうろたえたらしく、そのまま豹《ひよう》のごとく洞窟の外へ向って駈けだしてきた。
頭の上から、明るい光線を浴びた途端に、孫兵衛はやわらかいものを蹴って、もんどりを打ちそうによろけた。
蹴ころがされて、ウムと呻《うめ》きながら立ち上がったのは、口元に昏倒《こんとう》していた一角で、正気づいたが深傷《ふかで》を負っている、左の肩先から袖半身、染めわけたような紅《くれない》である。
それにもぎょッとしたが。
外の有様を眺めるとともに、孫兵衛には天堂などを顧《かえり》みている余裕もなかった。法月弦之丞がそこから見下ろされる傾斜に立って、周馬と三位卿を対手《あいて》に斬りむすんでいる!
月山流《がつさんりゆう》とやら薙刀《なぎなた》の型はやるが、初めて、白刃対白刃の境に立った三位卿はしどろもどろだ。周馬とて腕にかけてはまことに頼りがうすい。いわんや、法月弦之丞の前に立ってをや。
ふたりは、何か高声をあげあっているが、弦之丞の剣前に近づくことはなしえないで、走れば追い、追われれば逃げ、そして、息の間に、お十夜お十夜ッ、としきりに助けを呼びつづけている。
なおかなたの柵《さく》と山際《やまぎわ》との境を越えて、ここへあせってくる武士の姿が見えた。
弦之丞とお綱とを追跡して、からくも駈けつけてきた海部《かいふ》と徳島の役人、浅間、岡村、田宮の三同心。
その急なるを知り、またからまる二人をあしらいつつ、弦之丞は隙あるごとに、お綱へ向って叫びを投げた。しきりと手を振って急《せ》きたてた。
「お綱ッ」
「あい」
お綱もかれに添って働いていた。
「ここはかまわぬ、山牢の安否を!」
「あい」
「早くゆけ! 世阿弥殿と名乗りをしてこい」
お綱は夢中で側を離れた。
洞窟の黒い口がもう真上に!
三、四十間ぐらいの距離しかない!
新藤五の柄《つか》を固く右の手に、片手で草の根をつかみながら、上へ上へ、洞窟の口へと、かの女《じよ》は汗と涙の力をつづけた。
いちど立ち上がった天堂一角は、また合歓《ねむ》の木の下へ仆れてしまった。何か声をかけたが、お十夜は返辞も与えないで洞窟の前から駈け下りている。
ドドドッと傾斜な地面を下りかけると、互いちがいに、向うの灌木《かんぼく》の間をかき分けて、懸命に登ってゆく白い影がある。
「や?」
と、急にそっちへ駈けだしてみると、振り向きもせず洞窟へ向って行くのは、白い手甲脚絆《てつこうきやはん》をまとったお綱であった。
「おうッ、お綱」
お綱はその声をすら顧みていなかった。必死に上へあえいでいた。
孫兵衛は幾百里の山河を越え、今ここまで会いにきたかの女の父世阿弥の血を塗ったばかりの刃《やいば》を持って、お綱のうしろへ追いかかった。かれは阿波へ来る前まで、ふたりの仲がどれほど密《みつ》に深いものかを思ってみて、寝苦しい夜があった。その後、あの暴風雨《あらし》の夜の狂瀾《きようらん》に、死んだものとのみ信じた後はさすがに煩悩《ぼんのう》の霧が散ってせいせいとした気もちであったので、今、お綱の姿を見ても、得ようとする念はなかった、殺意のほうが強かった。遂げえぬ悪魔の恋は、必然な、破れかぶれに変ったのである。殺刀《さつとう》の下《もと》に魂切《たまぎ》らすことによって、永い間の鬱怨《うつえん》を思い知らせてやろうとする。
追いつくと一緒に、孫兵衛、
「そこへはやらねえ」
と、背すじへのぞんで、助広の白光《はつこう》を一揮《ひとふ》りなぎつけたが、崖に等しい傾斜であり、灌木の小枝に邪魔されて、行き方少し軽かったか、
「あッ」
と、横ざまに走った小脇差、女の力ではね返された。
「孫兵衛だね!」
「急いだところでムダだろう、甲賀世阿弥はたった今おれが殺《ばら》してきたばかりだ。サ、次にはてめえの番」
「えーッ……じゃあ……」
山の根も揺《ゆ》るいだかと思うほど、仰天《ぎようてん》してよろめいた身を、お綱はあやうく手で支《ささ》えた。
「てめえにはまたさんざッぱらな怨《うら》みもある、なぶり斬りにしてやらなけれや、このお十夜の虫が納まらねえ。お綱、覚えていたろうな」
かの女《じよ》が、何か叫んだ声を割って、サッと白い風がきた。上へと思ったが逃げきれず、後ろへかわした弾《はず》みにズズ――ッと七、八尺|辷《すべ》り落ちる。
孫兵衛の下りてくる足もとを、お綱は新藤五の切ッ尖《さき》で待った。上の顔は嘲笑《あざわら》って、構えをとりながら飛ぼうとする。
途端である。
「おのれッ!」と耳もとで。
はッと見ると、法月弦之丞、浅間、岡村の同心と、周馬、有村の四人を上へ上へとおびきよせて、それを捨てるが早いか、お十夜の方へ疾風《しつぷう》に来た。
迎えざるを得なかった。孫兵衛はすばしこく刀を持ちかえた。これは四人を束《たば》にしたよりもこたえがある。
すでに、ここまで一同が吊り上げられてくるうちに同心のひとり安井民右衛門が斬り伏せられていた。それと、最も頼むべき天堂一角が弦之丞の姿を見つけた真ッ先に、機先を制せられて一太刀浴びてしまったのは、なんといってもはなはだしい力を失していた。頼むは孫兵衛だけといってもよい。
弦之丞はたえずお綱を見ていた。四人を対手《あいて》にしつつ、かの女の身辺を開くように開くようにと防いでいた。
「あッ、間者牢へ」
お綱がそれに力を得て、洞窟の入口へ近づいたのを見た同心の浅間丈太郎は、こういって敵の剣前《けんぜん》を離れ、上へ這おうとすると、飛び寄った弦之丞の皎刀《こうとう》が、鋭く足をすくった。
丈太郎の体は雑木の茂っている所まで、一気に、俵のようにころげて行った。
「寄りつくものは一《ひと》太刀《たち》に薙《な》ぐぞ」
徐々と力の練りだされてきた弦之丞は、丈太郎を斬り落した弾力で、さらに上へ踏み登った。
お綱はその後ろを風のようにすりぬけて、洞窟の中へ夢中で走りこんだ。
孫兵衛がああは言ったが、なお半信半疑であった。殺《ばら》したぞといったことは、むしろ父がまだ生きている実証のようにさえ思えて、冥府《よみ》のような冷たい闇へ飛びこむと一緒に、
「お父様――ッ」
と、叫ばんとした。
けれど、なぜか、幾百里をあえぎあえぎきて、この山牢まで達してみると、父娘《おやこ》名乗りをしないうちに、父とは呼びかけ難い気がして、のどをつまらせながら、
「――江戸からお綱がまいりました。甲賀世阿弥様《こうがよあみさま》! 甲賀世阿弥様!」
と、固い言葉で、続けざまに呼び立てて入ったが、深い闇は冷々《れいれい》となんの答えも与えない。奥のほうからガアーンと返ってくるのは、おのれの口真似《まね》をする穴山彦《あなやまびこ》。
ふいに、お綱の足のくるぶしをつかんだ手がある。
洞窟の一番奥であった。
はッと、よろめいた弾《はず》みに、ヌラリとした岩苔《いわごけ》に手を辷《すべ》らせて、
「よ、世阿弥様!?」
何がなし、ぞっと毛穴をよだたせて、つかまれた足を抜こうとすると、だらりと重い感じがそのままついてもち上がる。
と。
「ううウ……」
人の呻《うめ》きだ、弱い、苦しそうな息……。
お綱は血を騒がせながら足元を探った――手ざわり? ――一個の人体? ――が、硬《こわ》く横になっている。
わなわなした指先が、その冷たい顔から胸を撫でて行った。
骨ばった老人の四肢《しし》、誰? と疑ってみるまでもなくお綱はつづけざまに名を呼んで、腕の中へ抱きあげた。
夢中で、よろばうように、洞窟を後へ戻りだした。だが、口元の明りを見ると同時に、ギクと足をすくませてしまった。
「敵《かたき》は?」
外へ気を研《と》ぎすまして、
「弦之丞様?」
と、そこの激しい乱刃《らんじん》を想像した。
ままよ!
必死な気もちでお綱は新藤五を構えながら、薄暮《はくぼ》の白い明り目がけて走りだした! と、その勢いの余りに鋭く、まッしぐらな姿は世阿弥の体と縒《よ》れて、合歓《ねむ》の木の根元まで泳いで仆れた。
あたりを見廻すと――いつのまにか、別の所のように変っている。
いちめんな霧だ。
漠《ばく》として山も樹木も見えない、ただ西の方に夕照《ゆうでり》の光だけがボッと虹色を立てている。
微小な水粒《みずつぶ》は、睫毛《まつげ》の先にギヤマンの玉のように光って、息づまるような乳色の気流がムクムクとゆるい運動を描いてゆく。
どうしたろうか? 弦之丞、そのほかの者の影も見当らない。耳をすましたが、霧の中にも、それらしい叫びを聞かない。
お綱は身を起こすと一緒に、世阿弥の顔をむさぼるように見つめた。
世阿弥は目を開いていた。
深傷《ふかで》だ、眸《ひとみ》は虚空《こくう》にすわってうごかない、だが、何か言いたそうに、唇がかすかに歪《ゆが》む……。
お綱は、お十夜の一言を思いだした。そして、さすがに取り乱した。
「お綱です! お綱でございますよ! 分って下さい、気を……気をたしかにして下さい」
アア、と心をくじきかけては、また、
「お父さん!」
と、耳へ口をふるわせて、
「お綱ですよ――ッ」
涙まじりの金切《かなき》り声になった。
「ウーッ……」と少し通じたらしい。世阿弥の手が、目の先の白い霧をつかむようにした。
「お……」
「分りますか! 分りますか」
「…………」
「お父さんッ」
「…………」
ゴクリと喉《のど》の骨がうごいた。と、少し楽な呼吸がふッと洩れて、ニイとお綱を見て笑った。
「あなたの子のお綱です、江戸表から……あ、逢いにきました」
「ウ……ム」
「お千絵さんも、私のように、無事に向うで成人しております。お分りになりますか、わ、わたしの顔が……わたしの……」
世阿弥はひとつうなずいた。
そして、ふところから例の血筆《けつぴつ》の一帖《いちじよう》をとりだして、お綱の手へ持たせて、
「こ、これを」
とかすかにいった。
「え」
「江戸へ」
「ア……御遺書《ごゆいしよ》?」
「弦之丞の手へな」
「わかりました」
「と……」
「ハイ」
ぼろぼろと湯玉《ゆだま》のような涙が走る。お綱は拭こうともしないで、
「ハ、ハイ……」と声を曇らせた。
「折があったら……関屋孫兵衛の」
「オ、下手人、きっと、仇を討たずにはおきません」
「いや……」
違っている!
と、いうように、世阿弥はかぶりを振ったが、その途端が――もう最期だった。
「ず……頭巾の……」
と舌を巻くように言ったきり。
「あっ、お父さん」
「…………」
水!
お綱は夢中で駈け下りた。
白い片袖に、流れの水を濡らして帰ってみると、もうまるで世阿弥の顔が変っていた。けれど、その死顔は満足していた。
だが、禍《わざわ》いはまだあった。
今、水をしめしに行った留守に、世阿弥のそばへおいた大事な秘帖《ひちよう》が、わずかな間に失《な》くなっていた。
原士《はらし》の長《おさ》
麓《ふもと》から仰げば、山の中腹を、一朶《いちだ》の白雲が通っているのであろう。
その霧が過ぎぬうちは山牢の前から遠くを見渡すことはできないが、ふと気づくと、さして隔《へだ》ててもいない岩の間を、ひとりの男が這ってゆく。
そこに見えなくなった秘帖《ひちよう》を、涙の目で探していたお綱は、霧をとおして怪しい男の影を認め、
「盗んで行ったな!」
と直覚した。
急いで、父の亡骸《なきがら》を洞窟の内へ隠し、向うへ這ってゆく男をつけた。
駆けるかと思いのほか、男は、振り向いても、なお、這っていた。奄々《えんえん》とした息で――。
近づいてみると、屈強《くつきよう》な武士、しかし、肩にどっぷり朱《あけ》をにじませている。
最前、お十夜が走りだした時、足にかけられて、草の根に呻《うめ》いていた天堂一角だった。かれには、深傷《ふかで》ながら、まだ這うだけの気力と意識があった。
一角は、今の隙に、世阿弥のそばから血筆の秘帖をつかみとり、はッ、はッ、と荒い息づかいで這いだした。
同じように這いかがみ、足音をぬすんで、お綱は後ろへ寄っていった。
おのれ、おのれ、おのれ。
心のうちで叫びながら、一太刀にと狙い廻した。
一角は熊のように、岩から岩の上へ攀《よ》じてゆく。三位卿はどうしたろう? 周馬はどうしたろう? 声をあげて呼ぶ力はなし、霧は深い。
颯《さ》ッ――と不意。
風をつらぬいた白い条《すじ》が、一角の後頭部へ消え込んだ。
お綱が斬っていった新藤五《しんとうご》!
はずれても肩――或いは背すじへ切《き》ッ尖下《さきさ》がり。
と思うと。
ズンと、刀だけ、岩へ深く、斜めに立ってしまった。
肩越しに腕をつかまれ、お綱は一角の前へ投げられている。どっちも死身《しにみ》、組むなり火のような息を争って、秘帖を奪《と》り返そうとする! 渡すまいとする! 組んではもつれ、伏せられては突っぱねる、一方は女、一方は傷負《ておい》、天堂|勇《ゆう》なりといえどもなにしろ前からの痛手がある。お綱は江戸女の勝気とはいえ、やはり女だけの力である、力量公平に減殺《げんさい》されているのでいずれともいえない、秘帖を中心に双鶏羽毛《そうけいうもう》を飛ばすありさまだ。
* * *
めったにないことだ。
原士《はらし》の長《おさ》龍耳《りゆうじ》老人が出かけるなんて稀有《けう》なことだ。
第一、吉野川の上流平和な地域にそんな事件がかつてないせいもあったろうが、なにしろ、龍耳《りゆうじ》老人が出張《でば》ってくるなんてまことに珍らしい。
ごう――ッと空が鳴っていた。
夕方、真っ白に隠された剣山は、夜になって、すッかり霽《は》れていた。
「秋が近いな」
空の銀河を仰いで、老人は白い髯《ひげ》の先をかじっている。
「山へ入ると秋の音が聞こえるよ」
誰も返辞のしてがない。
老人の前には松明《たいまつ》が二本、うしろには人影が四、五、黙々とついて歩いてくる。剣山の山路である。今日の夕方のすさまじい光景が目に残っている。そしてまだ、法月弦之丞が捕われていない。
あの死をきわめた颯爽《さつそう》たる白衣《びやくえ》の影が、いつ檜《ひのき》の蔭から、閃刃《せんじん》とともにおどり出さない限りもない。
老人のほかの者には、秋の音も銀河の壮麗もない様子、ザワというたびごとに、足の関節がはずれそうになる。
その中に伍《ご》してきた、お十夜と旅川周馬さえ、龍耳老人の案内としてついているのだが、眼底に異様な緊張をただよわせ、まるで、仮面《めん》のように顔の筋をこわばらせていた。
「やあ、これは」
と龍耳《りゆうじ》老人、杖を指してうしろの者へ、
「つまずくなよ、またここにも一人|斬《や》られている」
「は。明りを」
松明《たいまつ》を呼び返して、供の原士が、死体を抱いてズルズルと後戻りに、道のわきへ片寄せ、
「今の男は、木戸へ変事を報《し》らせに来た、目明しの眼《がん》八という者です」
と歩きながら告げた。
「目明しか」
杖をコツコツ運ばせながら、
「どうも十手を持った者で、終りのよかったのはすくないようだな」
「ああ、また斬《や》られています」
と、松明が止まる。
「これで四、五人目だな、もう片づけるのは明日《あした》にしよう」と死骸を廻って歩きかけたが、ちょっと小腰をかがめて、
「ウーム、なかなか立派に斬《や》られている」
首を振ってテクテク登りだした。
山は追々《おいおい》深くなる。しかし、龍耳《りゆうじ》老人、壮者《そうしや》にまけない足どりで、何かぶつぶつ言っていた。
「――法月弦之丞《のりづきげんのじよう》とやら、たとえ夕雲《せきうん》の使い手にしろまさか天魔神《てんまじん》でもあるまいに、遠巻きにするの山狩のと、いやはや仰山《ぎようさん》千万だ。その上、この老人をわずらわすなどとはお話にならない沙汰……まあまあこんな事件は、蜂須賀家の御記録にも態《てい》よく省《はぶ》いておくことだな」
耳が痛いのは孫兵衛だ。
周馬は黙ってついて歩いた。昼の元気もどこへか、少しも意気があがらない。
――洞窟の前で、弦之丞を取りかこんだ時、三位卿と周馬がもう少し腰を入れこめば、自分の力でも、きっとどうにかしたものを。と、お十夜は、今もそのいまいましさが胸に消えない。
眼八が、ワッと原士をすぐってきた時には、もうどうにも手がつけられなかった。
霧が来たのも悪かった。
弦之丞はそれに乗じて、存分に行動した。眼八も斬《や》られ、原士の中にも沢山な傷負《ておい》が出た。霧がはれた頃には、夜になって、姿を探すよすがもない。
こうなると、地理は彼に利で衆には不利。ひとまず山番小屋の評議となり、異論まちまちという所へ、ひょっこり来あわせた龍耳《りゆうじ》老人が、耳を掘りながら聞いていて、
「これよ、若いの、剣山は渭城《いじよう》のお庭より少し広いぜ」
と笑った。
山狩評議を諷《ふう》したのである。
「どれ、おっくうだが行ってみてやろうか」
深夜にかけて押し出した。
といったところで、人数は六人、それも途中で返す約束の案内に過ぎない。ただし、三位卿は賢《かしこ》く同行をはずした。おそらく老人の前ではわがままがふるまえぬからであろう。
「だいぶ来たな、ウム」
「倶利伽羅坂《くりからざか》でございます」
「ちょっとくたびれたよ。やはり、年は年だな」
「吾々でさえ、この通りな汗ですから」
「おいよ」
「はい」
「ご苦労だが後《うし》ろへ廻ってくれ」
「はっ」
「松明《たいまつ》はわしが持ってやる。腰を押せ、腰を」
供の原士がうしろへ廻って老人の腰へ手を当てがう。高野《こうや》の尻押しの故智《こち》に習って、老人は楽そうに押されてゆく。
そうして、山牢もだいぶ近づいてきた。ふと仰ぐと、削《けず》り立ったような絶壁が前にあった。
「おう、この上だな、間者牢は」
「さようで」
と、孫兵衛が応じて――
「ここはちょうど、あの山の背にあたっています」
「どこかで水音が高くするな」
「しばらくゆくと流れがあり、それに沿って十町あまり登りつめます。するとやがて間者牢の柵《さく》が見えるはずで」
「そうか」と、老人は杖を止めた。
「――ご苦労だった、これから先はひとりでよろしい、お前たちは帰ってくれ」
「しかし、もう少々先まで」
「懸念《けねん》には及ばんよ」
「危ぶむわけではございませんが、お差しつかえなければ、せめて、弦之丞の姿を見つけるまでも」
「いや、かえって邪魔だよ」
手を振って、独り先へ歩きだしたが、一、二丁足を進めるごとに、杖を立て、間者牢の山をふり仰いでいた。
老人のうしろ影を見送って、旅川周馬は、
「なるほど剛腹《ごうふく》なおじいさんだ」
と、舌をまいて、
「なあお十夜」
「ウム?」
「深夜しかもこの深岳《しんがく》だ、弦之丞のやつは山にこもって、血に狂したやぶれかぶれ、人と見たら盲目《もうもく》に斬りつけるだろう。とても、吾々にもあんな勇気はないよ」
「そうさ、困った老人だて……」
何が困るのか、孫兵衛の返辞はすこし意味をちがえて、
「あの分じゃ、どうも当分は死にそうもねえ」
と、頭巾の重さをふと気にしていた。
そんなことをいって、ただひとり間者牢へのぼって行った影が、うすい夜霧にボケるまで、一同見送ってはいたが、誰も、
「あの老人が、血刀《ちがたな》を下げた白衣《びやくえ》の影にパッタリ行き会ったらどうする気だろう?」
とは心配をしていない。
龍耳《りゆうじ》老人の胸には何か、しかとした方寸《ほうすん》がたたみこまれているものと信じて、少しも行く先に危惧《きぐ》を感じていないようであった。
「ここに待っていてもしかたがあるまい」
龍耳老人の目を放れて、お十夜はすこしのンびりしたようなふうで、
「オイ周馬、三の木戸の番小屋まで行って、明方まで藁《わら》ぶとんでもかぶろうじゃねえか。どうせ今夜でなくても、袋の鼠、片づくにゃ決まっている弦之丞だ、麓口《ふもとぐち》さえ縫いこんでおけば、何もあわてることはない」
松明《たいまつ》がとぼりきれたので、ふたりの原士は、スタスタ先へ下ってしまった。
孫兵衛も踵《くびす》をめぐらして戻りかけたが、周馬の相槌《あいづち》がきこえないので、ひょいとふりかえってみると姿が見えない。
「おい、どこへいったんだ!」
――奴、先へいってしまったのかしら?
気がついて、にわかに大股にあゆもうとすると突然、切ッ立てになった断崖の下で、
「孫兵衛! 孫兵衛!」
と急《せ》きこんで呼ぶ声がする。
「おう、周馬? ――」
――闇をすかして、
「なにをしているんだ、そんな所で、先のやつは下ってしまったぜ」
「また、ここにも一ツ、死骸を見つけたのだ」
「ほうッておきねえ、どうせあした、麓のやつが片づけるだろう」
「だが……待てよ、少し……」
半身埋まるような雑草の中に立って、重そうに死骸を抱きあげているらしい。
「……あっ、天堂だ、やっぱり天堂一角だぞ、この死骸は」
「そんな所で絶息していたか」
「オオ、来てみたまえ」
かれが、弦之丞の第一刃をあびたのは知っていたが、日没、木戸へも集まらなかったので、どうしたのかと思っていた際だ。
周馬とは江戸表以来、お十夜とは、ことに永い交際《つきあい》の仲。
かれはよく周馬やお十夜の安価な女色漁《によしよくあさ》りを軽蔑《けいべつ》して、討幕の挙《きよ》の成功を信じ、事なるにおよんでは、何万石を夢みていた小なる光秀《みつひで》みたいな男だった。
悪友か善友かしらぬが、道中などでも、ふたりが痴話《ちわ》に更《ふ》けているまン中の部屋で、ひとり猪八戒《ちよはつかい》みたいな寝相《ねぞう》をして、朝の鏡に目をこすり「わるい悪戯《いたずら》をしやあがる」と顔の墨汁《すみ》をあらい落して怒らぬところもあった男だ。
まさか、捨ててはおけない。
「残念なことをした」
と、孫兵衛も飛んでいった。
「もう氷のようだ……」
悲壮な姿をして、周馬は、やっとのように死骸を前抱きにして、深い草むらを、ひと足ずつ跨《また》いでくる。
「この断崖から落ちたのだな……」
「高いな」
と、周馬もふりあおいで、
「じゃ、合図があった時、傷手《いたで》ながら飛びおりて、麓《ふもと》へ下ろうと思ったのだろう」
「いや、自分で、こんな所から跳ぶはずはねえ。間者牢の山つづきだから、日が暮れて、うっかり辷《すべ》り落ちたにちがいない。……重いだろう、周馬」
「足がつかえて困る」
「よし、手を貸そう」と、孫兵衛は側へ寄って行ったが、あさましい姿をみると、衝《う》たれたように立ちすくんだ。
周馬の抱き方がまずいので、乱《らん》びん蒼白の死者が、グタッと襟骨《えりぼね》を尖《とが》らせて垂れている。
ひと言。
「オイ」と、声をかけてみたい気がした。
額《ひたい》へ手を入れて、孫兵衛、グーと無理にもちあげてみると、目をねむって、青蝋《あおろう》のような冷たい死顔、頬と耳のうらあたりに、爪でひッ掻いたような赤い筋……。と見ると――
口が裂けたように、白い前歯が何かくわえていた。
一帖《いちじよう》の血書!
いきなり、死首《しにくび》の歯から、孫兵衛がグッとそれを引ッたくったので、周馬は重さにのめりながら、すばやく、白眼《はくがん》にお十夜の手もとを見つけて、
「オイ! なんだ、今のはッ」
と死骸を下へ捨ててしまった。
一方。
龍耳《りゆうじ》老人は達者な足どりで、まないた岩の辺まで登ってきた。
なんたる寂寞《せきばく》さであろう、無辺な天地だろう。
足もとの闇から黄泉《よみ》の府にまで続いているのではないかと思われる。群山すべて低く白い曳迷《えいめい》は雲である。
仰ぐと。
けむりのような銀河をかすめて、星がひとつ流れた。老人は歩をとめて、しばらく、草のそよぎを聞きわけている。
じっと……
「? ……」
行きくれた盲目《めくら》のように。
ありとも思えぬくらいな微風が、老人の姿にあつまってヒラヒラする。白い髯《ひげ》――骨ぐみのすいてみえる麻の両袖。刀は、鎧《よろい》どおしのような短いのを一本、前ざしでなく、わざと横へ。
……てく、てくとまたいつか歩きだしていた。
「ここだな」
間者牢《かんじやろう》の柵《さく》わきへ来ると、例の奔流がドーッと耳をうった。山牢の穴も柵の中も見えない。見えないが老人は、そこで、夕陽時《ゆうひどき》の修羅のすごさを眼に描いた。
かれは、夜もすがらここを歩こうとするのか。歩いて夜の明けるのを待とうとするのだろうか。
かくて、一|刻半《ときはん》ばかりも、その辺にたたずんでいた。
何事もない。
強《し》いて天地の変移をさがせば、霞《かすみ》のような星雲が消えて、特に大きな星がひとつ、西に目立っていたことである。
「はてな……?」
ピタ、ピタ、と夜露をふむ自分の足音を聞きながら――
「ひょっとして、自刃したかな、所詮《しよせん》のがれぬことは分っておるからな……だが、いや、自害はしまい。よく侍というやつ、都合のいい潮時にいさぎよくという言葉で、結尾《けつび》の責任をのがれるものだが、自身で命を絶つような弱腰では、最初から、ここへ入ってくる資格がない」
と……つぶやいていると、かれの行くてに、いつか、薄いふたつの人影がうごいてくる。
はッ……と思うと、向うも足を止め、老人も歩みを止めた。ザザザザと茅《かや》をなでてくる風が、うしろから押すように吹いて通った。
しばらく、うかがいあっているうちに、ふたつの影のうち、ひとりは忽然《こつぜん》と、岩の蔭か草むらの中へでも隠れてしまったらしく、やがて、近づいて来た様子の者は、ひとりしか見えない。
龍耳《りゆうじ》老人も、のそ、のそ、と前へ足を運びだした。そして、双方の間、二、三|間《げん》まで寄りあった。
で、星明りでも、互いにその姿を明瞭に認めえた筈である。
ことに、先のものは白衣《びやくえ》なので、いっそう老人にははっきりと輪廓《りんかく》が見てとれた。その上、白い袖の端や裾《すそ》に、点々と、血汐らしいものが滲《にじ》んで見え、白木《しらき》の杖をつかんでいる。
法月弦之丞であろう!
いち早く、弦之丞が隠したのはお綱という女にちがいない。
こう胸のうちで、龍耳老人、うなずいていた。
おれを何者と思っているだろう? どういう態度でかかってくるだろう。抜き打ちにくるか、突いてくるか? 老人はちょッとそんな興味を感じていたが、すぐにまた一歩前へ出て、
「弦之丞、腰をおろせ」
と不意にいった。
錆《さび》のある老声だが、ヒッソリした大気にひびいて、いかにも雷喝《らいかつ》したようだった。
そしてすぐに、先で安心するように、自分から岩の上へ、ゆったりと腰をすえてみせた。
しかし、弦之丞は立っていた。
カチ、カチ、と燧鎌《ひがま》を磨《す》って、首をかがめこんでいた老人の耳の裏から、香りのある煙がゆるく這った。
「ちと、話がある」
吸いつけたその煙草を斜《なな》めに持って――
「若者、まずそれへ、腰をおろしてはどうか」
と木の根を指した。
弦之丞は不審にたえぬように、
「何者?」
と見つめている風であった。
しかし、血に狂《きよう》しているだろうなどといった周馬や孫兵衛の臆測《おくそく》はあたっていない。
老人の目にも案外なくらい、そこに立った弦之丞は冷静であった。むしろ、常のかれよりは沈鬱《ちんうつ》な影さえ持っていて、みじん、心のさし迫っている様子はなかった。
――あれから、日没頃のひどい霧がはれて夜に入った後。
かれとお綱とは、前の洞窟で落ちあっていた。
弦之丞はかの女の無事をまずよろこんだ。
けれど、お綱はあの際、とうとう傷負《ておい》の一角に死にもの狂いに振りほどかれて、絶壁の岩角《いわかど》から、大事な秘帖《ひちよう》とともに、かれの姿も見失ってしまったので、悲嘆と絶望にくれて、世阿弥の亡骸《なきがら》にすがっていた。
血筆《けつぴつ》の秘帖? 世阿弥の遺書?
「江戸へ」
といったという、最期のさまを思いあわせてみても、それは必然に、大府《だいふ》へ届けよという、かれが鏤骨《るこつ》の隠密報告だな、ということは弦之丞にすぐうなずけた。
「心配はない」
かれは、かれにすら自信のもてない言葉で、お綱を励まそうとした。
「一角が絶壁から転落したものとすれば、当然、骨をくだいて落命している。夜が明けたら、道を探って尋ねてみよう……」
そうはいったが、暁天《ぎようてん》の光を見たなら、麓《ふもと》から孫兵衛や有村が、原士の新手《あらて》をすぐって、ここへ襲《よ》せてくることは分っていた。
といって――
半生を無明《むみよう》の中に送って、不遇な生涯をとじた甲賀世阿弥の亡骸《なきがら》を、そのまま涙なく打ち捨てておく気にもなれない。暗澹《あんたん》たる洞窟、また悲惨ではあるが、隠密の霊壇《れいだん》としては、むしろ、香華《こうげ》の壇にまさるかもしれない。
ふたりは、半夜の黙侍《もくじ》をした。そして、世阿弥の死骸を剣山の深くへ隠した。
「秘帖をさがし当てたとしても、それを携《たずさ》えて、どうして、この重囲を脱出することができるか?」
次の問題はそれであった。
一難、また一難。
これには、さすがの弦之丞も惑悩《わくのう》している。
生きるはやすい。
この山に無為な生命をつづけようとするならば、屋島《やしま》の浦から祖谷《いや》へ落ちてきた平家の余族のように、それはいとやすいことに思える。しかし、麓の手配りを破る策は絶対にない。
それは、きょうまでの受難を、ひとまとめにしたよりはまだ難事だった。
山つづき、祖谷《いや》の桟橋《かけはし》をよじ越えて、土佐、讃岐《さぬき》の国境をうかがおうか。
それも至難。
第一お綱にたえられまい。
ふたたび海部路《かいふじ》へ戻るは下策《げさく》である。
ただわずかに弦之丞の誘惑を感じるのは、最難関と思われる貞光口《さだみつぐち》の木戸を斬り破って、徳島の城下へまぎれこむ。――だが、剣は守るべく、頼るに絶対のものではない。
要するに、絶体絶命! それが二人の足をのせている運命の石だ。
どう転落してゆくか?
天意だ、もういちど、明日《あす》の変化を待ってみよう。弦之丞はそこに意をすえて、星のうごきに夜明けの近いのを知った。
で――麓の木戸から新手《あらて》の声があがらぬうちにと、まだ真っ暗であるが、天堂一角の死骸を断崖の下に探そうとして、お綱と一緒に来たところであった。
そこで、龍耳《りゆうじ》老人と行き会った。
無論、油断もしないが、騒ぎもしない。弦之丞は、じっと、奇怪な老人を見つめていた。
「若者、腰をかけたらどうだ」
と、老人は煙草をくゆらしている。枯淡だが憎いくらい落ちつき払った態度だ。
「まず、お訊ね申そう」
弦之丞もピッタリ前の岩へ腰をのせた。今はもう双方の顔の筋《すじ》のうごきまで見て睨みあった。
「ウム、問わっしゃい」
さりげなくはいったが、老人の身ゆるぎに、キッと構えたところが見えた。
「そこもとはいずれの人《じん》か」
「川島村、ほか七郷の原士の長《おさ》、高木龍耳軒と申すものじゃ」
「原士の長? ……ウム、して、拙者に話があると申したが、何の用でここへまいった」
「問うまでもない!」
煙管《きせる》を斜めにかまえて、龍耳老人、古武士のように豪放な口調、膝びらきになって胸を張った。
「おぬしを討ちにまいったのじゃ」
かれの|※《けい》とした眼は、やがて、弦之丞の面《おもて》に、ゆるい微笑が彫られてくるのを見た。
――慮外である、と冷酬《れいしゆう》して答えざるように思われた。
老人は、そこで一だん声を張った。
「不敵な東方の間諜《かんちよう》! もはやもがいてものがれぬところだ、岩を噛んで飢うるよりは、いさぎよく死をうけろッ」
そういっていながら、かれは、足もとへ火縄を置き、スパリスパリと煙草をくゆらしている。
弦之丞にも、これは、ちょッと不解な対手《あいて》であった。本気か、威嚇《いかく》か、解《げ》しかねていた。
「老人、拙者に話といったのは、その儀か」
「いや、以上は要旨だ、今申したのは宣言だ。その前に、一言いって聞かすことがある」
「オオ、聞こう」
「ここまで登ってくる途中でも、犠牲《にえ》になった幾人もの斬口《てぐち》をみたが、汝、あたら天稟《てんぴん》の才腕をもって、時勢の反抗児となり、幕府の走狗《そうく》になって、無為に終るのはつまらんではないか」
「武士の心事《しんじ》、山家《やまが》のものにはわかるまい」
「ふウム……小賢《こざか》しい。――王道を暗うし、民人に苛政《かせい》をしき、徳川|門葉《もんよう》のおごりのほか何ものも知らぬ幕府の隠密となって、その小さなほこりをば、おぬし、俯仰天地《ふぎようてんち》にはじぬ心事とするか」
「だまれ」
かれの声も、勢い、やや激調をおびた。
「そちなどに、答える限りでない」
「逃げを張るな、弦之丞!」
「なにッ?」
「なんじ、燈火の恩を知って、太陽の恩を知らぬはずはあるまい」
「尊王の美しき仮面《めん》をかぶるな。禁門の御衰微《ごすいび》を売りものにして、身を肥やそうとする曲者《しれもの》の口癖」
「たとえ、仮面《めん》でもいい、偽善でもいい」
「恥じろ、その醜陋《しゆうろう》な自分の本心を」
「皮と肉とをはいでは生きられない人間だ。どこまでこね返しても、表裏のない人間と世の中はつくれない。要は、今の混沌《こんとん》たる暗闇《くらやみ》政道をただして、まことの天日《てんじつ》を仰ぎたい。それは、万人の要望で、正しい声だ」
「いや、乱《らん》をのぞむ、戦賊の鳴り物、山家《やまが》そだちが、都へのし出ようとする方便に過ぎない」
「あれは木曾義仲《きそよしなか》、時代がちがう。ばかげているぞ、よく胸に手を当てて考えてみろ、幕府が何ものだ! あれは王廷《おうてい》の番頭で、番頭でありながら、主家をないがしろにし、民税をくすね、巧妙な組織のもとに、十余代二百幾年、ていよく栄華をぬすんできた悪の府ではないか。――その妖雲にわずらわされて、月顔《げつがん》はれたまわぬは主上である」
「では訊《たず》ねるが、その徳川が仆れたなら何が代る?」
「王政がかわる」
「権《けん》をとって廟《びよう》に立つものが、第二の幕府をつくりはせぬか」
老人、グッとつまったが、強情に、
「いや、いったん王道の赫《かく》たる御政道がたてば、そういう虫ケラどもが業《わざ》をする日蔭はない」
「迂遠《うえん》でござる、お考えがちがう」
「ともあれ」
「イヤ!」と押しかぶせて、
「――法月弦之丞は学徒ではござらぬ。また憂国の士でもござらん。弱い人間の微情にひかされ、武士という形づけられた意気地に押されて、ここに立った一個の放浪者――、世潮《せちよう》を口にする資格はない」
「では、その情といい、意地というのは?」
「恋もある、泣かぬ涙もある。凡人弦之丞、愚痴はてんめんでござる。話すのも聞くのはわずらわしかろう。――意地といえば、二百年来、江戸の禄《ろく》を食《は》んだ家に生まれた江戸の武士、このきずなをどうしよう! いや、それはもう、清濁《せいだく》の時流を超え、世潮《せちよう》の向背《こうはい》をも超えてどうにもならない性格にまでなっている」
「ウーム……では、戦国に戻って天下は割れる、紛乱《ふんらん》する」
「割れるでしょう、禁門方《きんもんがた》、徳川方」
「いったん、泥と血とがこね返って、新しい世が立てなおる、王政は古《もと》にかえる」
「しかし、易々《いい》とは渡しもせず、うけ取れもせまい」
「なんの、大したことがあるものか」
「その偉業が成る前には、蜂須賀家ぐらいの大名、三家や四家は、狼火《のろし》がわりにケシ飛ぶであろう」
「ウム」うなずくと見せて――
突然。
「こうかッ!」
と叫んだとたん、ズドーン! と不意に切った火ぶた。
翼《つばさ》を搏《う》った鸞《らん》のように、飛びしさった龍耳《りゆうじ》老人の手には、黒檀柄《こくたんえ》に銀鋲《ぎんびよう》を打ったスペイン型の短銃《たんじゆう》! 真綿《まわた》のようなけむりを曳《ひ》いて持たれている……。
「あッ……」と弦之丞。
仕込《しこみ》の山杖、ヒュッと虚空へは抜けたが、白衣《びやくえ》は丹花《たんか》をちらしていた。
「……痛《つ》ウッ……つつつ……」と朱《あけ》を片手に抱きしめながら、硝煙《しようえん》を離れた姿は、ドンと、仰むけに地ひびきをうった。
「やッ?」
かなたに隠れていたお綱は、自分の心臓を射ぬかれたように身を弾《はじ》いた。
弾《たま》けむりのうちに、弦之丞が仆れたのを見て、龍耳老人はぽろりと手から短銃をとり落した。
いかにも疲れたらしい様子が、今になって、かれの呼吸にあらわれた。
「オ、夜が明けてきたな……」
空を仰いでいた老人は、すぐにうしろの崖縁《がけぶち》をのぞいて、
「次郎、まいっておるか」
と、誰かを呼んだ。
すると――思わぬ所から思わぬ人間の答えがあって、そこへザワザワとわけ登ってくる男がある。影のように離れたことなく、耳目《じもく》となり手足となって、老人の信頼あつい次郎とよぶ若者であった。
「まいっております」
と次郎、主人の前へ、蟇《がま》のようにうずくまった。
「……あれは?」
「これに持参いたしました」
肩からおろした具足櫃《ぐそくびつ》を眼で示すと、老人は篤《とく》と見て、きげんよくうなずいた。
「弦之丞の仆れているそばへおいてゆけ。……ウム、よかろう、その辺で」
かれは飄々《ひようひよう》と歩みかけた。弦之丞を射った得意や思うべしである。五、六歩、何か微吟《びぎん》に謡《うたい》のひとふしを口ずさんでいた。
――声もかけぬ狂刃が、いきなり暁闇《ぎようあん》からおどったのはその時である。颯然《さつぜん》たる技力《ぎりよく》はないが、必死! と感じられる小脇差の切ッ尖《さき》が、うしろから老人の鬢《びん》をかすった。
ピシ――ッ!
白髯《はくぜん》風になびいて、杖は横なぎにうなった。
「ちイッ……」と歯がみを洩れる口惜しまぎれ。
「エエ、お、おのれ……」と、打たれてもやまず、狂わしくも、一念必死な女の影!
無論、お綱である。
血相、なんといおう、夜叉《やしや》、鬼女、なお言いたりない勢いであった。およそある場合の覚悟はしていたものの、目《ま》のあたりに、弦之丞が短銃の一弾に仆れたのを見たお綱が、こうなるのは当然であった。
だが、対手《あいて》は龍耳老人、かなわぬまでもと、見返りお綱の捨て身に斬ってかかる刃《やいば》は、二度まで、三度までむなしく空《くう》を打たされて、なぶるがごとく後ろへよろけると、
「――汝もかッ」
と、仮借《かしやく》なき杖はふたたび持ちなおされて、お綱の新藤五を一撃に叩きおとした。そして、なお身を跳ばしてかかる脾腹《ひばら》をのぞんで、ウムと、左突きの拳《こぶし》がのびた。
とたんに、次郎はお綱のうしろから組みついていた。しかし、その必要はなかった。もうなんの反抗もなく、まなじりを吊りあげたまま、お綱は次郎の腕にグウと反《そ》って、だんだんにその力も四肢《しし》から抜けていった。
「……離せ」
老人が顎《あご》をすくうと、次郎は、手を放してうしろへ退《の》いた。
お綱の体は、かれの足のほうへ仆れて、霧の中へ繭糸《まゆいと》のように捻《よ》れて寝た。
桔梗《ききよう》の花の芯《しん》から夜が白む。あたりの暁闇はひと風ごとに淡《うす》くなった。無念をのんで目をふさいだお綱の顔へも、水のような微光が這っている。
見ると。
その顔に、むざんな涙の痕《あと》があった。
「……ぜひがなかった」
龍耳老人はこうつぶやいて、鼻息をみるように、ちょっとお綱の唇《くち》のあたりへ手をやっていた。
そして、そのまま、次郎をうながして立ち上がった。
「間道《かんどう》からお帰りになりますか」
「いや、いや、昨夜の道から」
「では、こちらのほうを下《くだ》ります」
「おい、次郎よ」
「はい」
「お前だけは、間道から帰らなければいかん」
「あ、そうでした、では……」
目礼して次郎はスルスルと谷間《たにあい》へ入ってしまった。まるで、葉裏へかくれてゆく蜘蛛《くも》のように。
見送って、老人はすがすがしい朝風を満腹に吸った。そして、一顧《いつこ》するとそのまま黙々と麓へ去った……あとは、有明けを啼《な》く虫の声がひとしきり。
……ふと。
お綱は舌に苦い味を知った。
冷やかな朝の冷気が、薄荷草《はつかそう》を噛むように口へ流れこんできた。
「お……」と意識づいて、身を起こした時に、一粒の気つけ薬が喉《のど》を通ったことを自身も知らない。
かの女《じよ》は、手にふれた新藤五を拾いとって、仆れている弦之丞のそばへ、いざり寄った。暁《あけ》の空の下に見た恋人の鮮麗な血は、お綱に美しい誘惑であった。
嘆きとか、悲しみとかいうような、ふだんの感傷は起こらなかった。むしろ微笑したいくらいな不思議な心の淵《ふち》に立っていた。
かの女は、今はじめて許されたように、男の顔へ頬ずりした。頬と頬を重ねたまま、流るる涙を拭かなかった。飽《あ》かずに恋人を抱きしめた。
そして、自分の乳房を男の胸で圧《お》されながら、袖にくるんだ新藤五の冷やかな切ッ尖《さき》に見とれた。
白い襟くびを仰向かせる……。
喉《のど》へ!
突こうとすると――手が利《き》かない。いつか弦之丞の手が下から自分の腕くびを握っている? ……。
お綱はそれを錯覚《さつかく》ではないかとあやしんだ。
けれど、弦之丞の手は、しかと自分の腕くびをつかんで離さない。待て――というらしく、喉《のど》へやろうとする刃《やいば》の手もとを握り止めている。
龍耳《りゆうじ》老人の短銃にうたれて、弦之丞が一弾に絶命したものと早合点したのは、旋風《せんぷう》のような危機に吹かれて、何より先にお綱の心そのものが、平調を欠いてしまった証拠だった。
さすがに、お綱ほどの女も顛倒《てんとう》していた、血が逆上《あが》っていた。
弦之丞の撃たれた箇所は、右胸部の上、腕のつけ根に寄った所で、一時、仆れたものの、急所ではなく、起《た》てない程の傷手《いたで》ではなかった。かれは、その瞬間かすかながら、対手《あいて》がすぐと次に、止刀《とどめ》を刺しに近づくであろうという意識をもって待っていた。
だが、老人は不解な行動に移っていた。弦之丞も傷口の出血を抑えきれず、霞《かすみ》にぼかされてゆくように気が遠くなった。
お綱に胸を押されて、気がついた。ほとんど無我に、刀の手をつかんだのである。
弦之丞が目をみひらくと、お綱は何か大声で叫んで、夢中な手で扱帯《しごき》を裂き、朱《あけ》になったかれの腕根をギリギリ巻きにする。
弦之丞はなすままになっていた。
しばらくして、やっと身を起こすと、まだらな血の痕《あと》に、草の実《み》がいッぱいついた。かれの面《おもて》は、まだ青白かったが、どこかに気力の熱が燃えかえってくるようであった。
と――そこに。
龍耳老人の残して行った謎のような具足櫃《ぐそくびつ》が、人の疑目《ぎもく》を待っていた。お綱もあやしさにうたれて見つめあった。
蓋《ふた》はすぐに開いた。
軽いものだった。
のぞいてみると、意外、中には二ツの天蓋と、二掛《ふたか》けの掛絡《けらく》と、鼠木綿《ねずみもめん》の小袖や手甲《てつこう》までがふたり分?
いうまでもなく虚無僧の宗装《しゆうそう》、なんの意味でか、尺八までが添えてあった。
いや、まだ解《げ》せないものが、それに添えてある三衣袋《さんえぶくろ》の中にあった。阿州《あしゆう》普化宗院派僧《ふけしゆういんはそう》の印可を焼印《やきいん》した往来手形である。それは、身をつつんで遁《のが》れろといわんばかりな品である。ふたりは唖然《あぜん》として、対手《あいて》の心を汲みかねた。
こうして、自分たちを徒労に空手で江戸へ帰そうという心か?
ならば、止刀《とどめ》を刺す機会があった。またことに右腕のつけ根をえらんだ狙撃も腑《ふ》に落ちない。
でなければ、わざと恩を売って、隠密方の執着《しゆうじやく》をにぶらそうとする策だろうか?
そう考えるのもあまりにうがち過ぎる。要するに老人の底意は不可解である。けれどまた弦之丞には、対手《あいて》の意志などはどうであろうとよかった。そんなことは眼前の道草だ。問題の末だ。
目的はまだ達しられていない。
世阿弥がお綱に託した隠密遺書はどうしたろう? 一念、奪《と》り返さずにはおけないのはあの血筆の一帖《いちじよう》だ。あれをつかんで遺志をとげないうちは、命のある限り、闘わなければならない。
「お綱」
やがて弦之丞は、しっかりした声音《こわね》で、かの女を見る目に愛熱の火をこめた。涙ぐましいくらいな情思をかくありありと彼が見せたことはなかった。
「お綱! お前はどんな危地に迫ろうと、決して、この弦之丞より先に死んではならぬ。拙者には、何かしら霊感《れいかん》というような自信がある。きっと、あの秘帖は奪《と》り返してみせる。サ、今日はどこかへ姿を隠そう、この傷の血さえ少し止まれば……」
と、立ちかけたが、お綱がその膝に顔をうツ伏せて、泣いているのか、離れる様子がないので、また言いつづけた。
「よいか、お綱、拙者が秘帖をそちの手に返してやったら、お前はあれを持って江戸へ帰れ! そこには、お千絵殿の幸福やら、甲賀家の栄《はえ》やら、お前の亡き母の霊もまた、みんな、微笑をもって待っていよう。必ず、短気を出して、世阿弥殿の託《たく》にそむいてはならぬぞ。わしとて、そちが阿波をのがれる姿を見届けるまで、必ずみずから死を招くことはいたさぬ」
この上にもお綱の意志を強めようとほとばしる言葉のうちに、死を覚悟している弦之丞の心がほのめいた。
お綱は咽《むせ》んで叫びたかった。
いいえ、弦之丞様! わたしはあなたとこの国に死んでこそ幸福です。本望です。なんであなたを残して帰る江戸表にうれしい微笑《ほほえみ》が待っていましょう。
鳴門《なると》の巻
お千絵様《ちえさま》
さて、その後またどうしたろうか、お千絵《ちえ》様は?
かの女の今の環境はしずかであった。爽《さわ》やかな京の秋がおとずれている。
部屋の前はひろい河原で、玉砂利と雑草とを縫《ぬ》う幾すじもの清冽《せいれつ》は、加茂《かも》の水と高野川《たかのがわ》の末がここで落ちあっているのだと、和《やわ》らかい京言葉をもつ小間使に教えられた。
そこは、京の下加茂《しもかも》にある、所司代の茶荘であった。柳の並木を境に、梶井伏見《かじいふしみ》家などの寮園があり、森の隣には日光別坊《につこうべつぼう》の屋根が緑青《ろくしよう》をのぞませている。
河原に向った数寄屋作りは、お千絵のために建てたように居心地《いごこち》のピッタリ合った部屋だった。
お千絵はそこの窓から、毎日、加茂の水を見ていた。今も、侍女とは口もきかずに、じっと、そうしているのである。
「弦之丞様……弦之丞様は?」
と、ひねもす河原に啼《な》いている虫とひとつに、思いつめて水を見ている。
しかし、その愛人の消息はおろか、まだ自分自身の境遇さえ、いったい、どう変って、どこへ向っているのか、夢のようで思い当たれないお千絵であった。
病気は、江戸にいた頃から、少しずつよくなっていたので、墨屋敷《すみやしき》以来のことは、かすかに想像がついた。けれど、周囲の者は、あの乱心が二度ぶり返ってきたら、こんどこそは癒《なお》るまいと医者の注意をうけているので、何をたずねても、肝腎《かんじん》なことは、少しも話してくれなかった。
「お千絵様、殿様はいつもこうおっしゃっておいででございます――」と、そばに侍《かしず》く小間使がいうのである。
「ある時節がまいりますまで、あなたは松平家の御息女のおつもりで、夏は夏を、秋は秋をたのしんで、気を賑やかに、わがままに、こうしておいでになればよろしいのじゃと……」
「だって私は……」とお千絵は、慰められる言葉にいつも気が沈んで……。
「そんな気もちになっていられませぬ」
「なぜでございますか。殿様の仰せつけ、お気がねはいりませぬのに」
「でも、誰ひとりとして、私のたずねることに、はっきり返辞《へんじ》をしてくれたことがない」
「それは、お千絵様、あなたのお体を思うからでございます」
「……じゃあ私は……といっても、また教えてくれないかも知れぬが、どうして、この京都へくるようになったのでしょう?」
「別に深い意味でございませぬ。あなた様のお体を預かっている松平左京之介《まつだいらさきようのすけ》様が、京都の所司代にお更役《かえやく》になったので、それにつれて私たちまで、江戸のお下邸《しも》からこちらへ移ってまいりました」
「そして、よく私を慰めて下さった、常木鴻山《つねきこうざん》様は?」
「御用があって、大阪表へお越しになったとやら? ……それもよくは存じませぬが」
「じゃ、そなた、万吉という人を知りませぬか」
「存じませぬ」
「お綱という人の噂は?」
「聞いたこともございませぬ」
「では……法月弦之丞という方の御様子を、どこかで耳にしたことはないかえ?」
侍女《こしもと》は困った顔をして部屋の外へ目をそらした。そして、いいものを見つけたように、
「あ、今日もまた、昨日のお客様が奥で殿様をお待ちになっておりまする」
と、お千絵の気をまぎらわそうとして、
「あのお武家様おふたりは、はるばる江戸から御密談で上《のぼ》ったお方でございます。江戸と聞けば、お千絵様もおなつかしゅうございましょう」
と、顔をさし覗《のぞ》いた。
なんの意味もなく、急に涙がさしかけてきたので、お千絵は窓へ顔を逃げた。
侍女《こしもと》が何かの用に立ってゆくのを知った後も、そこにもたれて、この頃の癖のように、加茂の水をみつめていた。ピチ、ピチ、と小魚のはねる流れの瀞《とろ》に、糺《ただす》の森をこしてくる初秋の風がさざ波を立てている……。
見る心は違うが、庭向うの別室に来ているふたりの侍も、しきりと、そこから見える四明《しめい》ケ岳《たけ》や、向うの河添いをゆく大原女《おはらめ》の群れなどを珍しそうに見廻していた。
ふたりは、昨日京へ着いたばかりの、江戸町奉行の使いであった。その用向きを伝えて二条|千本屋敷《せんぼんやしき》の所司代を訪れたところ、下加茂の茶荘で逢おうからといわれて、昨日も今日も、ここへ来て左京之介を待つ者であった。
にわかな役替えで、二条城へ移ってきたばかりの左京之介には、公務のうけつぎがつかえていて、体をぬく隙がなかった。ふたりは、今日もおよそ待ちくたびれを覚悟している。
と、その無聊《ぶりよう》な目が、ふと、お千絵の姿を見出して、
「や、似ている女もあるものではないか」
とささやきだした。
「あの横顔……な、どうだ」
「ウウム、なるほど」
「左京之介様には御息女がなかった。御寵愛《ごちようあい》の女なら、まさかここへはおくまい。誰だろう、あの女性《によしよう》は?」
「たいそう沈んでいる、憂《うれ》わしげな姿だ。しかし、いわれてみると、姿まであの書付と同じようではないか」
ふたりは、一種の好奇心をもってうしろに置いた振分《ふりわけ》をほどき、所司代へ公務をつたえたついでに、京町奉行所へ寄って打合せをするはずの一束《ひとたば》の書類を出した。
そして、一枚ひろげたのは、女の人相書である。それをお千絵と見くらべていた。
いきうつし
南町奉行所《みなみまちぶぎようしよ》の用命をおびて江戸から出張してきたふたりの上役人《かみやくにん》は、急に、振分からとり出した女の人相書と、庭向うの小窓によっているお千絵の横顔とを見くらべて、しばらく小首をかしげあっていたが、
「ウーム、似ている」
「生《いき》うつしだ!」
と、小声を重ねて、不審がっていた末、
「場所がここでなければ、どんな姿をしていようと、無論、有無《うむ》をいわすのではないが……」と、ひとりが呟《つぶや》いた。
「役儀がら糺《ただ》してみなければ気がすまぬが、まさか、松平家の茶荘に、女|掏摸《すり》がアアしている筈《はず》はないからの」
「しかし、念のため、人違いにしろ一応……」と一人が懐疑の誘惑にやまれぬように、とうとう、庭下駄をはいて、お千絵の姿を、もっと間近から見なおそうとした。
ところが、そこへ、左京之介が見えられたという知らせである。で、茶荘の用人が、すぐ別席へと案内に立った。
庭に出ていた者は、あわてて席へ戻り、ひとりのほうもちょっとうろたえて、ひろげていた人相書を振分の下へ挟《はさ》んでそこへ置いたまま、所司代と逢うべき密室へ通されて行った。
左京之介が待っていた。
智慧伊豆《ちえいず》信綱《のぶつな》の血をひいている人だけに、どこか才気|煥発《かんぱつ》の風がある。それに今度は、難治《なんち》の京都へ移って、所司代の要務をみることになったので、かれは寝るまもない忙《いそが》しさに追われながら、一面得意でもあった。
ふたりは、その前へ、窮屈《きゆうくつ》に手をつかえて、
「南町奉行|付《づき》の与力《よりき》、中西弥惣兵衛《なかにしやそべえ》でございます」
「私めは、評定所《ひようじようしよ》与力、熊谷《くまがい》六次郎と申すものにござります」
と、挨拶をした。
ウム、と左京之介はうなずいてみせるだけだった。評定所与力と町与力ふたり組で密使をよこしたのは何か、公然と大目付のくるよりは重要な使いだな、と察している。
案の定《じよう》、ひとりの与力は肌につけてきた密封の公書を左京之介の前へさしだして、
「評定所七の日の御決定書《ごけつていがき》でございます。御覧の上は、封皮《ふうひ》へ御入手のおしるしをいただきとう存じまする」といった。
「大儀だった」
左京之介はその場では読まないで、封皮の黒印《こくいん》だけを切り破り、証《しるし》を与えてふたりへ返した。
公《おおやけ》の密書には返辞がないのが普通である。返辞のいる場合には、改めて別な密使をこっちから立ててやる。或いは、空文《からぶみ》を持たせて、本ものはわざと通常の文書の定飛脚《じようびきやく》にまぎれこませてやったりする例がある。で、内容はとにかく、中西、熊谷、ふたりの役目はそれですんだことになった。
左京之介はその後で、まだ読まない評定所からの書状をもって居間へ入った。
ここは公務の疲れをいやす茶荘で、上《かみ》屋敷でも下《しも》屋敷でもないところから、十分、くつろげる家である。しかし、また二条の役所へ戻る用もあるとみえてかれは袴《はかま》を解かない。
人なき一室で、とっくりとそれを読んでゆくうちに、かれの眉宇《びう》に、ある決意がうごいた。それがもたらした評定所の議決に共鳴した様子であった。
問題は――かれが心ひそかに待っていた蜂須賀家の剔抉《てつけつ》であった。阿波へは、ひそかに弦之丞をやってある。将軍家の意思もほぼある程度までうごかしてある。しかし、要路の者たちの議がまとまらないので、かれは、所司代として京都へのぞみながら、まだ充分に、反幕府の癌《がん》と睨む公卿《くげ》たちへ手をのばしかねていた。
ところが、今かれの手へ届いた書状によってみると江戸表にも一つの事件が起こった。長沢町《ながさわちよう》の柳荘堂《りゆうそうどう》山県大弐《やまがただいに》、三千人の門下を擁《よう》して、ひそかに、京の堂上方、阿波の蜂須賀、宇治の竹内式部《たけのうちしきぶ》などと気脈を通じて、ある大事を着々とすすめているというのだ。
密訴の者があって、それを知った幕府の老中たちが、今さらのように狼狽している様が、左京之介に見えるようだった。
「迂遠《うえん》なものだ……」と彼は苦笑して、たびたび、それについて予言したことが、証拠だてられてくるのを愉快に思った。
「しかし、弦之丞はどうしたであろうか。彼さえ、首尾よく戻ってくれば、もう、反逆人どもの機先を制して、徳島城をはじめ天下の野心家どもを、一網に取りくじいでいい時分だが」
と、辛辣《しんらつ》な腕のうずきをおぼえた。
「誰じゃ?」
左京之介は不意に立って、廊下を二、三度行き戻りする小侍を呼び止めた。
「は、最前の方でござります」
「最前の?」と、解《げ》せぬように反問していると、そこへまた用人のひとりが奥から出てきて、
「どうも見当たりませぬ」
と、左京之介には覚えのないことを復命した。
「なにが、見当たらぬのじゃ」
「はい、只今お帰りになった、江戸表のお役人ふたりが、振分を持ってお帰りでございましたが、その下へ、取り急いで四ツに折った紙片を忘れて行ったと、また戻ってみえたのでござります」
「ふム? ……しかし紙片とは何なのか。あまり漠然《ばくぜん》ではないか」
「よくお話になりませぬが、なんでも、これから京都町奉行所の方とお打合せをするための人相書だそうでございます」
まがきの萩《はぎ》に、一枚の紙きれが吹きつけられていた。
ひと風さわさわとそよいだら、今にも、萩の枝を離れて加茂の河原へ逃げてゆきそうに、先刻からヒラヒラしている。
いくら座敷をたずねても見当たらない筈であった――風の悪戯《いたずら》? ――こんなところに運ばれていたのである。
青くなって、取りに戻った江戸の与力両名は、ぜひなく、後の発見を用人に頼んで帰ったが、用人は雑事にまぎれてふたりが帰るとともに忘れていた。
で、萩に吹きよせられている紙片は、誰にも探しだされずにあるが、ふと目にとめたのは窓によっていたお千絵様。しかしまた、お千絵は皆がそんなに騒いでいたものとは知らない。
ただ、さっきからの空虚な目のやりばとしていた。
すると。
白い紙きれはまた少しの風に萩の枝を離れて、お千絵の視線を慕ってきた。
「おや?」
かの女《じよ》は初めて好奇の眼を見ひらいて、竹縁から庭下駄をはいた。そして、元の窓へ返ってきてよく見ると、西判《にしばん》の生紙《きがみ》に美女の顔が描いてある。絵には違いないが、雅味も線の妙味もなくて、おそろしく無駄を省《はぶ》いた人相本にあるような描《か》き方《かた》であった。
だがお千絵は、それを見たとたんに不思議とひきつけられて、思いがけない人に逢ったような動悸《どうき》さえうった。
「どこかで見たようなお方? ……」
と、ジッと見つめていると、単調な線描きの女の顔が、自分に微笑を向けてくるように感じられだした。
魚眼《ぎよがん》という張《は》りのある眼、彫《ほ》りのふかい鼻すじ、眉《まゆ》の形、いい唇、個々に見れば見るほど、なおどこかで記憶のある女の顔であった。
その側《そば》にはまたこういうことが書いてあった。
――身長|並《なみ》、痩せ形、髪くろく色白、右の眉尻に黒子《ほくろ》、他に特徴なし、年二十四、当時無宿、江戸《えど》浅草孔雀長屋人別《あさくさくじやくながやにんべつ》、紋日《もんび》の虎《とら》五郎《ろう》娘、女賊見返りお綱。
――右《みぎ》兇状《きようじよう》の女スリ上方すじへ立廻りたる形跡これあり似より下手人《げしゆにん》召捕りのせつは人相書照合一応江戸南町奉行まで示達《じたつ》あるべきもの。
「あっ……」
お千絵は針で突かれたような記憶をさました。
駿河台の墨屋敷で、すでに焼け死ぬところを助けだしてくれた恩人! あの紅蓮《ぐれん》の火をくぐって、切り破った板壁の穴から、「お千絵様!」と呼びかけた顔を、かの女は今まざまざと眼に浮かべて、唇をふるわせた。
「女スリ? ……あのお綱様が、おそろしい女賊? ……」嘘のような気がする。いや、嘘にちがいないとお千絵は信じた。
現に、自分は、弦之丞の消息を忍ぶにつれて、たえず、この女《ひと》のことをも忘れたことがなかった。なぜかしらぬが、常にある思慕が燃えている。どうかしてもいちど会いたいと念じている。
その女《ひと》の人相書であろうとは?
「いまわしい……きっと誰かの悪戯《いたずら》であろう」
お千絵様は口惜しく思った。
「鴻山様のお口が洩れたこともあったが、お綱様とおっしゃるお方は、そんな、悪いお人ではないわけじゃ」
細かに破り裂いて、河原へ捨ててしまおうと思ったが、また、この不愉快な人相書も、あの女《ひと》の似顔と思えば、慕わしい気も起こって、しばらく膝にのせて眺めていた。
「お千絵様」
いつの間にか、後ろに立っていた小間使のお君《きみ》が、
「――何を見ていらっしゃいますの? ……」とそばへ坐った。
「こんなものが、あの萩垣根の下に落ちていたので」
「まア! ……」とお君は仰山《ぎようさん》に、「この女《ひと》の顔とあなた様と、生《いき》うつしでございますよ」
不用意に、突然そういってしまってから、小間使のお君はハッと思った。
お千絵の顔色もうすく変っていた。
「これはあの、さっき、江戸表からお越しになった与力方が、殿様とお話中に見えなくして、たいそうさがしておりました人相書、御用人様へ返してあげて下さいませ」
子供をすかすように取りあげて、せかせかと持って行った素振《そぶり》を、かの女は、いつになくひがんで見ていた。
その晩から、お千絵はまた寝苦しい様子……秋の長夜。
「生うつし!」と口走ったお君の言葉も、妙に心のこだわりとなって、無意味を有意味に考えられてならない。
それに。
周囲の者はみな左京之介に命じられて、かの女にかの女の境遇を知らせまいとしていたが、お千絵の心は、だんだんに、その秘密の霧をとおして、断片的ないろいろの不審を、想像の糸でかがっていた。
そして、おぼろに輪郭《りんかく》を察してきた。
禍《わざわ》いと悩みは知ることから起こりがちなものだ。かの女の心も外へうごきかけている。
――それから四、五日後であった。
「お千絵殿……お千絵殿……」
と、寝所の戸の外で呼ぶものがある。
加茂は暗い深夜であった。
闇《やみ》の手招《てまね》き
その晩も、寝つかれずに悩んでいたかの女は、また時たって、
「お千絵どの」
と、どこかで呼ぶ声に、つい雨戸を開けた。
見ると――
細い明りがさしたのを知って、すぐ垣の際《きわ》まで寄ってきた男が、
「こなたへ――」
と、萩の外から顔を伸ばして手招きをしている。
ゾッと身の毛を立てて、お千絵は戸を閉めてしまった。そして、巣にもぐった小鳥のように、おびえた目をして、夜具の中で動悸を抑えた。
真夜半《まよなか》である。河の水音が雨のようだ。
「小間使たちを起こそうかしら……」お千絵はふるえながら考えていた。そして、後悔していた。
「なぜ私はうかつに戸などを開けたのだろう?」と。
しかし、心の迷いがあるから、茫漠《ぼうばく》としたものへあせる気がうごいているから。という自省はその時お千絵にはなかった。
「今のお方……」
外の男は、そこを去らずに、根《こん》よく声をかけていた。
「もし、お千絵殿。弦之丞《げんのじよう》殿から、頼まれてまいったものだが……」
「えっ、弦之丞様に?」
お千絵はまた起き上がった。
内と外で、しばらく返辞を待つ心が探りあっていた。あたりの虫の音がまたしげく聞かれる程、外の影もジッとしている。
「お千絵どの」
「はい」
釣り込まれるように返辞をしてから、いよいよ身を硬《こわ》めている。
「わしは山科《やましな》の僧院にいる寄竹派《きちくは》の普化僧《ふけそう》です。同じ僧院に、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》というものが近頃まいっておる。彼に逢ってみれば分るが、わしとは別懇《べつこん》な間がら、その宗友《しゆうゆう》に頼まれてきたのですがな」と独語《ひとりごと》のように外でいう。
「オオ、では……」と皆まで聞かずに、お千絵の恐怖は別なものにおどって、乱れ筥《ばこ》の衣類をかけ、帯を結んで戸を開けなおした。そして、おずおずと竹縁に出ると、
「ぜひ、あなたに会いたいといって、弦之丞殿が待っておられる」
と、向うの影が、前のように手招きした。
お千絵はもう弦之丞自身が、そこへ来ているような気もちに誘われていた。ありあわす小間使の草履をはいたかの女の足は、一寸先の闇に向いて、なんの分別もなかった。
ふらふらと柴折《しおり》を押して、庭の外へ出てみると、深い天蓋をかぶった虚無僧の姿が、河原のヘリをスタスタと先へ歩いてゆく。
「用があるならば待っていそうなものを」と、お千絵はそこでまたちょっと不審を起こして足を止めた。すると、先の虚無僧の影、ヒラリとふりかえって、
「早く」
と、手を振ってまたさしまねいて行く――。
「もし……」
糸にひかれているように、お千絵は思慮もなく走った。ひとたび闇へ進んだかの女は、闇の怖ろしさを忘れていた。
そして、追いすがらずにはいられない場合のように、
「……弦之丞様は、弦之丞様は?」
と影について息をせいた。
「まだ。まだ。まだ!」
虚無僧は次第に大股になって行った。河原づたいから三本木の仮橋《かりばし》を東へ渡って、少し町屋を離れると、岡崎の畷《なわて》にかかるさびしい藪《やぶ》のあちらこちらにかまぼこ小屋の影が幾つか見えはじめた。お千絵はもう息がつづかなくなって、
「待って下さいまし! ……もし!」
と半ば、涙声になって虚無僧の袂《たもと》にすがりついた。
「なんだい?」
と、対手《あいて》の声は急に冷たく尖《と》がって、
「黙ってサッサと歩きねえよ。そしたら、やがてお前《めえ》の好きなお方と逢わせてやる」
「露にしめって、草履の緒が、少しほぐれかけてまいりましたので……」
「じゃ、裸足《はだし》になりねえな」
「山科《やましな》の僧院とやらまでは、これからまだ、たんと道のりがございましょうか」
「そうさな」
冷然と、高台寺《こうだいじ》の黒い峰の背を指さして、
「あの山の向う側だと思えばいい」
「そこの普化宗の僧院にまいれば、あの……弦之丞様が私を待っておいで遊ばすのでございますね?」
「弦之丞?」
突然、その虚無僧、クックッと妙な笑いをこみあげて、
「なるほど、あいつが深い執心《しゆうしん》だけあって、お千絵様はまるで初心《うぶ》だ。これじゃ、策《て》にのせても一向|騙《だま》し甲斐《がい》がねえな」
みはっている純な眼は、何を嘲《あざけ》られているのか、解《げ》せないふうだった。
怪しげな虚無僧姿の男、やがて、白ばッくれた調子で言い放した。
「ナニ、僧院へ行けば弦之丞がいるかって? 誰がそんなことをいったい? 弦之丞なんてやつが今頃そこらにいてたまるものか」
「ええッ」
お千絵は水をかけられたようにすくんだ。
騙《だま》された!
そう知って逃げ退《の》こうとした時は、もう自分の腕くびが、固く対手《あいて》につかまれていた。
「第一、山科に虚無僧寺なんてあったかい? おめえはほんとに、可愛らしいお人形様だ」
「じゃあ……そなたは……」必死に男の指を一本一本もごうとして悶《もだ》えながら、
「さっき、弦之丞様に頼まれて来たといやったのは、この身を、誘いだす虚言《いつわり》であったのか」
「知れている!」
「ア、あれッ――」
「おッと、お姫様、手を折りますぜ、今になって逃げようたッて、遅蒔《おそまき》だ」
「おのれ、無体なことをしやると……ちッ……離して! 離してッ」
「何も無体はしやしねえ。弦之丞には逢わせかねるが、江戸表以来|何人《なんぴと》よりは一番そなたに執心だった、人情深い男に逢わせてやろうと思って、この間から、しきりに心を砕いていたんだ」
「……シ、知らぬッ、離せ」
お千絵が帯をさぐるのを、男は冷笑して見ていた。唯一の守り刀は、腕をつかみ取られた途端に、道のむこうへ捨てられていた。
鷲《わし》の爪にかかった小鳥の弱さを知ると、お千絵は、今さら屋敷の者に無断で、この真夜中に見知らぬ人間についてきた自分のあさはかが悔いられて、泣くにも泣けぬ心地がした。
「この先はもう岡崎の田圃《たんぼ》だ。人通りといえば南禅寺の坊さんか、家といえばかまぼこ小屋があるばかり。救いを呼んだところでムダだからよしたがいい。それよりは、何のために、俺がお前を手招きしたか、そのほうがもっと知りたくはないか。エ、お千絵殿」
「……頼みじゃ、後生《ごしよう》じゃ、どうぞ、私をここで帰して下さいませ」
「勝手なことをいうもんじゃない。自分からついてきたんじゃねえか。まあ俺の話を聞け、その上、逃げようとも人を呼ぶとも勝手の思案にしろ」
と、天蓋のかげには怖ろしい眼が光った。
「――江戸|墨屋敷《すみやしき》にいた当時から、そなたに生涯の恋を賭《か》けている男というのは、近い日のうちに、すばらしい出世の鍵《かぎ》を握って上府《じようふ》することになっている。また、栄達《えいたつ》のついでに、宿望の恋人のほうも、ぜひこの際探しだして携《たずさ》えて帰りたいから、支度をして待っていてくれと、実は、こう俺が頼まれているのだ」
男は、そこで言葉の息をついた。
墨屋敷――あの焼けた自分の邸《やしき》を、どうしてこの人間が知っているのであろうか? お千絵はいよいよ身が縮《ちぢ》むようになって、
「どうぞ、情けと思うて、私をここから帰して下さい。加茂のお屋敷を無断で出ては、左京之介様や鴻山《こうざん》様に、申しわけがありませぬ」
と、ありのままの心に叫んだ。
一方は、そんな哀訴に耳もかさないで、
「いいさ、いいさ。末の心配などは、男にすべて任せるこッた」と別な意味にすげ違えて、
「――今もいった通り、そなたを連れて帰ろうという男は、今度徳川家にとってある重大な殊勲《しゆくん》をかがやかせて立ち帰るそうだ。そこで安く積っても四千石や五千石の捨扶持《すてぶち》と、笹《ささ》の間詰番頭《まづめばんがしら》のお役付が、帰る先にはブラ下がっている。同時にお千絵様と婚礼の式をあげ、昔にまさる駿河台の墨屋敷に納まろうという寸法、それが、彼の宿望なンだ」
と、ニヤリとした。
「――しかし、以上の話だけでは、まだ胸に落ちまいから、彼という人間の姓名だけを洩らしておこう。いいかい、お千絵殿、つまり未来の良人《おつと》と侍《かしず》く人の名だぜ――それは、あの旅川周馬さ! おれかい! おれはやはり駿河台にいた組仲間の一人で、彼とは竹馬の悪友だ。けれど、腕こそ立たないが、悪智悪謀、すべてにかけて、周馬はおれの先輩と敬《うやま》っている男なので、実は前から」
不意に、ぷツリと、言葉を切ったかと思うと、いきなりお千絵の口へ手拭《てぬぐい》を押しこんだ。
そして、ザワザワと一方の藪《やぶ》へ隠れるとともに、ひとつの四ツ手籠《でかご》の灯が、白川橋の方角から飛んでくる。
垂れをあげて刀にもたれ、うつらうつらと駕の中の武士、編笠をうつむけて居眠っていたらしいが、そこまで来ると、駕屋の爪先に何かカラリと蹴られた音があったので眼をさまして、
「これ、駕屋」
「へい」
「ちょッと待て、駕をおろせ」
と、不意に足を止めさせた。
「――何か今、息杖の先で、刀の鞘《さや》のようなものを蹴りはせぬか」
「さあ? ……」
「でなければ、短刀、そんな物を」
「何しろ、千本屋敷まで急げとおっしゃったんで、夢中で駆けておりましたので」
「ウム、気がつかなかったか。では、その提灯《ちようちん》を揚《あ》げてみろ。イヤ、この辺へ……」
「へい」
と、棒鼻からはずした提灯を取って、駕屋がそのあたりをかざして見せると、侍は、駕から半身をのり出して、黄色く浮きあがった夜露をジッと眺め廻していた。
笠の紐《ひも》に、二重に結ばれた頤《おとがい》をさし覗《のぞ》くと、がっしりした中年以上の武家、それは、大阪表から久しく姿を見せずにいた常木|鴻山《こうざん》であった。
踊《おど》らぬ人影《ひとかげ》
剣山は常時の態《てい》にかえった。
麓《ふもと》のかためも形ばかりに解かれた。
あれから、夜明けに、山を下って龍耳《りゆうじ》老人が、
「ふたりは、わしが討ってとった」
と、力強くいったことばを、誰とて信じて疑わない。
当然、そうあるべき帰結のように、耳から耳へ瞬伝《しゆんでん》した。
「隠密を殺せば不吉がおこる、殺してはならぬという蜂須賀家の掟《おきて》じゃ。それを破って殺してきた。ことのついでと、死骸も谷間へ蹴こんできたが、ほっておいて、後日の咎《とが》めを待つよりは、このこと、わしから太守《たいしゆ》へ御報告に出かけよう」
いったん川島へ帰った老人は、原士《はらし》仲間へこういって旅装をしなおし、従僕次郎ひとりを連れて、徳島の城下へ出かけて行った。
その途中で、次郎がきいた。
「龍耳軒《りゆうじけん》様」
「ウム」
「どうも私には分りませぬ」
「なにが?」
「剣山のことでございます」
「あの時のわしの処置を知っているのはお前だけだ。面白かろう、徳島の城下へ行って評判するか」
「ど、どういたしまして、決して、おくびにも洩らしは致しません」
「そう秘密にせんでもよろしい。いずれ、今にばれてくる。殺さぬものを殺したといったところで、その人間がいつまで世間を歩かずにはいないからな」
「で、なおのこと、次郎めには、あなた様の心のうちが解せませんので」
「よいではないか、分らなければ分らぬなりで」
「ところが、分らぬこと程、よけいに聞いてみたいので困ります」
「貴様、やはり秘密をしゃべる性《たち》だな」
「しゃべらぬつもりでございますが、やはりそんな性《たち》に見えましょうか」
「冗談じゃ。お前は口が固い」
「では、お話し下さいませ」
「またか」
「うるさい奴でございます」
「考えてみろよ。分るじゃないか」
「ずいぶん考えておりますが」
「法月弦之丞という男、どうも、わしの気に入ったのさ。好きな人間は殺せまいが、おぬしにしたところでな」
「ははあ、それだけでございますか」
「理由をつければ幾らもある。第一、弦之丞やお綱を殺さぬことは、蜂須賀家のおんため、後にいたっていいことなのだ」
「なぜでございましょう」
「幕府の怒りを少なくする」
「でも公然と、討幕の兵をさえ挙げますのに」
「ところが、それはものにならない。いざとなる間際《まぎわ》の日に、必ず、堂上二十七家のうちから、グラつきだす者が出て、禁門お味方と称する西国大名も、素早く旗色を引っこめる。まずそこいらがオチで、後はまた、幾十年かの歳月を待たなければ、ほんとの尊王攘幕《そんのうじようばく》の声はあがるまい」
「とすると、お家はどうなりましょう」
「一番損な立場になる。阿波守様のあの御気質がそれを招いた。上手にという技巧をなさらないお方だからな」
「ではなおさら、弦之丞を無事に江戸へ帰すのは、お家の不利でございませぬか」
「あれは江戸の武士であっても徳川家の味方ではない。大義の正しいことを心得ておる人物だ。むずかしくいえば、思想的には尊王家で、身は江戸方に籍を置く人間なのだ。したがって、かれの肉親や周囲のきずなは、みな幕府の人につながっている。かれの沈鬱《ちんうつ》はそこにある。また、わしの見解があやまったにしろ、ひとりや二人の人物を助けたとて、大勢《たいせい》の上にどれほどな違いを来たすものじゃない。ことに、弦之丞が詳密《しようみつ》な報告を江戸にせぬまでも、もう御当家や堂上のもくろみは、うすうす徳川家の気《け》どるところとなっておる。その証拠には京都の所司代が役替えになった。辣腕《らつわん》のきこえある松平左京之介が、二条城へ入れ代ったのは、ひッ腰の弱い公卿《くげ》たちにとって、おそろしい脅威《きようい》であろう。まだいけない、機はほんとうに熟してはこない。所詮《しよせん》、阿波守様のお考えはものにはなるまい。そうしてみれば、弦之丞を助けてやったことは、個人として武士道的、また蜂須賀家のおためとしても、決して悪い結果にはならん」
次郎にはわからぬ点もあったが、常に天下の機微をみている老人のことば、ひとつの信仰をもって聞いた。
「悪いというのは、何よりも、この際、無謀な兵をあげてしまうことだ。やってしまってはおしまいだ。幕府に気味悪がられる程度はいいが、弦《げん》を放っては万事休す。――で、わしは徳島城へやってきた、何でもかでも、阿波守様に、その無謀を思い止まらせんためじゃ。命がけで諫言《かんげん》する! な、次郎、わかったであろう」
徳島へついてみると、城下はすばらしく景気だっていた、出丸廓《でまるぐるわ》の竣工《しゆんこう》と、おびただしい買上げもので黄金《こがね》が町へ降っている。
そして、城普請《しろぶしん》のできた祝いに、城下は五日の踊りがある騒ぎだった。
鳴門音頭、そこぬけ囃子《ばやし》。
一昨日《おととい》、昨日、今日とつづいている城下の踊りは、夜半《よなか》にかけても倦《う》むいろなく、絃歌《げんか》と仮装の踊りの陣が、幾組もいく組も、灯《ひ》に彩《いろど》られた徳島の町々を渦にまいて流れていた。
踊りの陣にまじる人は、武士と町人の階級なく、若い娘と後家の恥らいなく、老人も青年も、百姓も船夫《ふなこ》も、流行《はやり》病《やまい》にかかったように、疲れるまで踊りぬく。
蜂須賀家の名祖《めいそ》蓬庵公《ほうあんこう》以後、二、三代の頃から、国によろこびある時に、こういう習慣《ならわし》ができたという。
「これや、見ておく値打がある」
と、旅川周馬はお十夜をムリに誘って見物に出た。
ふたりは剣山から一緒に帰った竹屋三位卿の屋敷にいる。三位卿の屋敷といっても、めったにかれはそこに落ちついていないが、元槍組|頭《がしら》の住んだ別宅を阿波守から貰っていた。
その日も有村はいない。
城中に祝宴があるので出かけた。出丸廓《でまるぐるわ》落成の賜酒《ししゆ》である。有村はまた、いい気持で鼓《つづみ》でも鳴らしているのであろう。夜になっても下城しなかった。
で――周馬とお十夜は町へ出かけた。
「踊らないか、周馬」
踊りの輪を眺めながらお十夜が冗談にいうと、周馬は羨《うらや》ましそうに。
「踊りたいな。踊りたいよ、拙者も」
「踊ったらいいじゃねえか、遠慮はいらない」
「だが、踊れない……」
「でたらめでいいのさ、あの中へ飛びこめば、ひとりでに踊れてくる」
「手振のことじゃない。あの気持になりきれないというのだ。お十夜、お前、踊ってみる気になれるか」
「そうだな……」と考える。
「踊れまい」
「ばかばかしいのが先に立って」
「実はそこに、自分を裸体《はだか》にさせない気持が潜《ひそ》んでいるからさ。見たまえ、夢中になって踊っている人間は皆ムキ出しの人間だ――」
と、周馬はニキビを押しながら、踊りの流れを軒下へよけて、
「遠い昔は、踊りたいと思えば、いつでも踊るのが人間の当り前な動作で、それを、賢そうな顔をして、冷視《れいし》している人間なぞはいなかったろうと思うよ」
「そうかな?」
「そうとも、本能だもの」
「くだらねえ講釈、よそうぜ。――踊る阿呆《あほう》に踊らぬ阿呆、どうせ阿呆なら踊らにゃ損じゃ――って歌っていやがる。なんだか、あてこすられているようだ」
「真理だ、皮肉だ」
「そんなに感服するなら踊れよ、周馬」
「貴公もおれも踊れない人間だ。ああして、何もかも忘れ果てて踊るべく、あまりに屈託《くつたく》があり過ぎる」
「おれや今のところ、屈託も何もねえつもりだが」
「嘘をつけ、お十夜。周馬をそんなに甘くみるな」
「いやにからんだ言い方をする!」
「そうさ、そっちで水臭い真似《まね》をするから、拙者にしたって面白くない」
「何をひがんでいるんだ。踊りを見に来て、そんなまずい面《つら》をして歩く奴があるもんか。オイ周馬、今夜はおれが奢《おご》ろうぜ。松源《まつげん》か、万辰《まんたつ》か、淀屋《よどや》か」
「どこへでも案内してくれ、少し、飲みながら談判がある」
「おそろしい権柄《けんぺい》だな、怒るなよ、周馬。死んだ天堂が、草葉の蔭で笑っているぜ――。またあいつが持前を出してジブクッているって――、だが、おれは気の練れた悪玉《あくだま》だ、いくらお前が、駄々をこねたって、天堂みたいに煙管《きせる》のガン首をほうりもしねえし、その代りにまた、お前《めえ》のいうことをすなおにきく人間でもねえんだ。まア、つまらねえ不平を持たずに、おれの奢《おご》る酒でも飲んで、気のくさくさを取って話すなら話してやろう」
新町川《しんまちがわ》のそばにある浜茶屋へ、孫兵衛は黙って先に入ってしまった。
「ついてくるならついてこい、いやなら帰れ!」そういわないばかりの態度。
周馬の眉間《みけん》にムッとした色が燃える。が、孫兵衛が強く変ったのを見ると、にわかに、腰の弱い妥協性を出して、
「おい、お十夜お十夜」と、茶屋の門口へまですがってゆき、そこで、
「貴公、何か少し勘ちがいをしている。そう悪くとらんでもいいじゃないか」
また、何かくどくどと言いわけをしているうちに、赤前だれの茶屋の女が、秋草を植えこんだ奥の浜座敷へふたりを案内した。
気まずくなった気持はなかなか溶《と》けないで、孫兵衛も旅川周馬も、黙って、手酌《てじやく》の苦《にが》い杯《さかずき》をかさねている。
「なんだか酒がうまくねえ」
こじれたお十夜は、酔うほど青くなり、周馬は胸にいちもつ、かれの狂酔を恐れるように、
「おれが悪かったよ……」
とうつむいていた。
「なにもお前《めえ》のせいじゃない。おれの気分で、今夜は酒がうまくねえんだ」
周馬が折れて出たので、お十夜の機嫌も少し和《やわ》らいだ。
「イヤ、拙者があまり愚痴ッぽかった」と、その上にも相手のこじれたふうをなだめて――「重々拙者の狐疑心《こぎしん》が悪い。まあ不快を溶《と》いてくれたまえ。酌《つ》ごうか、一ツ」
「ウム」
お十夜は不承不承に杯を出したが、幇間《ほうかん》のように屈してくる周馬を見ると、それ以上怒れもせず、
「おれや、奥歯に物の挟まったような話は、大嫌いだからな」と、熱いのをグッと乾《ほ》して、周馬へ渡した。周馬もすぐ応じて酌《つ》ぎ返しながら、
「どうも拙者には一ツよくない性格がある。物を明らさまにいえないことだ」
「いったいお前《めえ》は陰険だ。同じ悪党なら悪党らしく、おれのように図太くなれ」
「まったく拙者は陰険だ。計画的な悪事はやりとげてみせるが、貴公のように、線の太い押しのある真似《まね》はできない」
「ばかに今夜は下手《したて》に出るぜ」
「いや、これからは、永く貴公の下風《かふう》に立つよ。どうか弟だと思って、足らないところは遠慮なく叱ってくれ。けれど、お十夜……」
「ウム?」孫兵衛はだいぶ気分をなおして、しきりと、手酌をかさねていた。
「――貴公を兄と慕っているだけに、あれを秘密にしているのは、どう考えても水臭くっていけない。ふたりの友情にヒビの入る原因《もと》というものだ」
「何を?」
「剣山でよ」
「剣山で……?」と、孫兵衛はそらうそぶく。
「天堂一角の亡骸《なきがら》を見つけた時、かれの死首がくわえていた一ツの秘冊《ひさつ》を、貴公、すばやく懐中《ふところ》へ隠したじゃあないか。その後、どうして拙者に実《じつ》を明さない」
「何も、秘《ひ》し隠しにしやしねえ」
「じゃ、見せてくれてもいいではないか」
「それ程、大したものじゃねえというのに、お前《めえ》もばかにアレを気にしているな」
「それや、拙者にしたって気になるよ。あの洞窟《どうくつ》から天堂がつかみだした物は、当然、甲賀|世阿弥《よあみ》が何か書き止めておいた重要な遺書に違いないからの……」と、周馬の眼《まな》ざしが額《ひたい》ごしに、杯を含んでいる対手《あいて》へ光った。
「ふン……」と、孫兵衛は薄笑いを含んでいたが、
「じゃ話すが、実は、あれや何の値打もねえものだぜ」
「なぜ?」と、周馬は、思わず鋭くなった自身に気がついて、食慾のない箸《はし》の先にわざと小皿の料理を突ッついていた。
「――見たところ、血で書いたような文字が、小法帖《こほうじよう》の鳴門水図《なるとすいず》のあきへべた一面に書いてあったが、てんで、読みようのない文言《もんごん》、何が何の意味やら分らねえんだ」
「なるほど、それはそうあるはず。隠密組には、甲賀派、伊賀派、おのおの別な暗語、隠語ができている。世阿弥のものも、おそらくその隠文で綴《つづ》ってあるに違いない」
「そうか、そりゃ俺も初めて知った」
「だから物は何事も打明けてみるものだよ。して、その一帖は、今も貴公がそこに持っているのか」
「なアに。三位卿をへて太守のお手元へ差し出してしまった」
「また見えすいた嘘をいうぜ」と、周馬は冗談のようにいって、
「そんなにじらさずに、拙者に見せてくれてもいいじゃあないか」
「いや、めったにお前《めえ》には見せられない。なぜといえば、周馬! おめえはまだ江戸と気脈を通じている! ……」
青白く酔った唇から、匕首《あいくち》のような語句が吹かれて出る。
周馬は黙然《もくねん》と、鯛《たい》の眼肉をセセっていた。
孫兵衛は酔ってきた。
「……てめえは口先じゃ、御当家へ推挙してくれの、俺を兄と思っているのと、うめえことをいっているが、ど、どうして! まだなかなか毛色の分らねえ獣《けだもの》だ」
「……それで?」
「と――おれは睨んでいるのさ!」
「ふウン……」
「この間から、俺が黙って様子を見ていれば、京都の山科在《やましなざい》へ、二、三度、妙な手紙を出したらしい」
「出している」
「内通していやがるんだろう! 所司代へ出した密書だろうッ」
周馬は対手《あいて》の酒癖を知っているように、好きに猛《たけ》らしておいて、冷然と――
「そんなものか、あれあ、色女の用向きだ」
と澄ましていた。
「し、白をきるなッ……周馬」
「酌《つ》ごうか、もうひとつ」
「くッ、く……」
「どうしたえ? おい、お十夜孫兵衛殿」
「ううウ……」
「しっかりしたまえ」
「……よ、酔った! あーッ苦しい!」と、孫兵衛、いきなり、膳の上へ、妙な形にかがみこんでしまった。
不意に、部屋の中の灯を周馬が吹ッ消すと、それとともに、水明りの映る浜座敷の丸窓へ、ボウと、ふたりの虚無僧の影法師がさした。
それから一|刻《とき》もたったろうか。
孫兵衛は胃の腑《ふ》からこみ上げる苦い唾液《だえき》をふくんで、ムックリと首をもたげた。
浜座敷のひと間はまッ暗だった。新町川に燃える祭りの灯に、そこの天井板へかすかな波紋がゆれている。
橋を練りわたる踊り手の列や、また、ほかの座敷はみな宵のような賑わいだが、自分のまわりだけが、明りをさらわれて墓場のようだった。
周馬の姿が見えない!
何よりも先に、こう気がついたことで、孫兵衛ははじかれたように突ッ立った。
「あの野郎、悪く下手《したで》になっていたが? ……」
かれはあわてて手を鳴らして、仲居を呼ぼうとするらしかった。が、ふと、頭巾の結び目が解けているのに気がついて、
「あっ! ち、畜生」
思わず胴ぶるいをさせて、ドッタリと坐ってしまった。
「うぬ、おれの袖やふところの中まで、すっかり探って行きやがったな……」
と、ハミ出している胴巻や、めくり返されている襟元などを掻きあわせている間に、かれの両眼、焼酎火《しようちゆうび》のような憤怒《ふんぬ》がトロトロと燃えあがった。
「だ、だれかいねえか! 仲居! やい! 仲居はいねえのか」
――その仲居たちはさっきから、庭先へなだれてきた花笠、手拭《てぬぐい》、道化面《どうけめん》などの人々と一緒に、乱舞の渦にまきこまれ踊り狂っているたけなわなので、孫兵衛のそれほどな呶鳴り方も通らなかった。
「ちぇッ、こうしちゃアいられねえ、悪くすると周馬の野郎め、後へ戻っておれの留守を……」と、わななく怒りの手に、そぼろ助広をつかんだ孫兵衛、いざるようにして縁側へ出たが、そこの沓石《くつぬぎ》へ片足をおろした途端に、ガッと、苦い水が口から走った。
「いけねえ! ……どうもただな痛みじゃねえ。うーム……」と、強気だが、よほど胸苦しいとみえて、縁側に仰むけに寝てしまった。そして、腰の印籠《いんろう》を引ッちぎり、二ツに割って中の薬を頬ばるように口へ入れた。
手を伸ばして、盃洗《はいせん》の水を……。
ゴク、ゴク……と飲み干《ほ》すと一緒に、指を口にさし入れて、のめるように庭へ下りる。
しばらくかがみ込んでいるうちに、毒気のさめた孫兵衛の顔――白く青味の蔭をもって、常の悪相に加えて、ひときわ鋭い険《けん》が立った。
「青二才奴!」
助広をひっさげて走りだした。
茶屋の裏であったか表だったか、出た所すら彼自身知っていない。疾風《しつぷう》という勢いであった。
なにせよ、三味、笛、太鼓の囃子《はやし》、鹿《か》の子や赤い布《きれ》や笠や手拭が渦巻く町を走っていた。
悪魔そのままな形相《ぎようそう》をして!
そして、仮の住居、住吉島の屋敷へ飛んで帰った。
門が開かない。
されば周馬と一緒にここを出た時は、召使のない屋敷なので、表門は閂《かんぬき》をおろし、裏門から出たのである。当然、開かない筈。
だが、この際、裏門へ廻ってゆくのも面倒と、見越しへ手をのばしてヒラリと跳《は》ね越え、いきなり案じられる一間の外へ駈けて行った。
と――雨戸が一枚はずれている。
三位卿帰ったらしい様子もなし、下男も門番もいないこの家に、先に入ったものがあるとすれば、それは、周馬以外に思いあたる人間はない。
だのに? ――かれが塀を越えると一緒に、その、はずれている雨戸の内から、風のように出ていったのは、ふたりの虚無僧。
たしかに、天蓋《てんがい》、わらじ、鼠木綿《ねずみもめん》の対《つい》の姿――。
「やッ? ……」
それは孫兵衛の危惧《きぐ》を五里霧中にさせた。かれはそこに周馬が家探ししている影を、何より心配にして駆け戻ってきた。――だのに、そこから風のごとく消え去ったのは虚無僧のふたり連れ。
「はてな? ……」と、いぶかしさにうたれているまに、虚無僧は開け放しになっている裏門から闇へ走りだしてしまった様子。
あとには、行燈《あんどん》が灯《とも》っていた。
とにかく、かれは一応、その部屋の安否をたしかめなければ胸さわぎがしずまらない。そこには、彼が剣山で手に入れた秘帖《ひちよう》、世阿弥《よあみ》の血書が隠蔽《いんぺい》してある。
周馬にちょっと口を辷《すべ》らしたとおり、孫兵衛にはあの秘冊《ひさつ》に血汐《ちしお》の細字で綴《つづ》られている隠密組の隠語が読めないのであった。けれど、世阿弥が精血をそそいだ遺書というだけでも、それが、いかに蜂須賀家にとっても幕府にとっても、重大な渦乱《からん》をまき起こすひとつの鍵《かぎ》であるかは想像に難くない。
乃至《ないし》、それをつかむ者には、出世の鍵《かぎ》だ!
どう転んでも、あの鍵をさえ握っていれば、生涯安楽な大禄にありつけることはあきらかだ。
「周馬の奴がジロジロするのもムリはない」
と常に、油断はせずに、肌身を離さずにいると見せて、実は、その部屋の床脇《とこわき》にある、色鍋島《いろなべしま》の壺の底へ隠しておいたのだ。
「あッ! 盗《や》られたッ――」
部屋へ入るやいなや、何より先に、その壺の中へ手をつっこんだ孫兵衛は、みるまに顔色をかえて叫んだ。
けれど――壺はまったくの空《から》ではなかった。秘帖にかわる別な物が、かれの指先にゴソとさわった。
壺の底には巻紙がまるめ込んであった。
何か? と孫兵衛、ズルズルと畳へ長くひき伸ばしてみると、どうだろう! まるで悪戯《いたずら》書《が》きをしたような大きな文字で、墨黒々、こんな文句がなすってある。
あわれむべき小悪《しようあく》よ!
汝はきょうまで余の手先に踊らされていた悪魔の子分だ!
ういやつ!
秘帖は貰ってゆく!
おれは元来阿波を見物にきた閑人《ひまじん》ではない!
一角はこの嘲笑と徒労を知らずに死んだ幸福者!
さらば、余は急がねばならぬ、帰府のゆくてには出世の栄座と恋人と新しき屋敷とが待っているので!
去るにのぞんで名乗っておこうか! おぼえておけ! 大府駿河台墨屋敷の隠密組旅川周馬。
庭前の大石にあたって色鍋島《いろなべしま》の大花瓶《おおかびん》、ガラガラッと粉になって砕けた。真ッ青になったお十夜が、無念のあまり投げつけた力に――。
「岡崎の港だ!」
痛烈な響きを弾《はず》みにして、かれは吠《ほ》えて立った。
だがまた、ふと不審を起こして、巻紙の一端をつかんでみる。
見ると、巻紙には筋目の痕《あと》がついてある。だのに、鳥の巣のように丸めこんであったのはなぜだろう?
と怪しむとひとしく、またかれの錯覚を起こしてくるのは、帰った途端に、この部屋から消え去った謎《なぞ》めいた虚無僧の幻影。
周馬が秘帖を盗み去った後へ、あの虚無僧がここへ入り、同じ花瓶《かびん》に目をつけて、手紙を読みかけているところへ、自分が帰ってきたものと判断すれば、一応前後のつじつまが合うように考えられるが、その虚無僧ふたりが、そも何者で? なんの目途《もくと》? すべて孫兵衛には見当がつかない。
しかし、今はそれを考えて、前後の処置をとっている落ちつきも時間もなかった。
何はともかく、本土に近い海路の咽喉《いんこう》岡崎の港――撫養《むや》街道を駆けぬけて周馬を追い越し、そこできゃつを引っ捕えなければならぬ。
うまうまと永い間、こっちのふところへ飛び込んでいて、あくまで一角や自分へ加担をするとみせかけ、最後のどたん場へ来て、仮面をぬぐやいな、秘帖をさらって逃げたニキビ侍! きゃつを捕えて思いしるほど懲《こ》らしめてくれねば、お十夜の腹の虫がおさまらない。
きゃつを油断のならない人物とは、疾《と》くから思わぬのでなかったが、永い道中をともにし、苦艱《くかん》にも本心をみせず、常に冗談や軽口を言いあうにつれて、
「あいつも、うわべは悪人であるが、真に愛すべきところがあるよ!」
などと、一角がいうので自分までが、いつか周馬を皮相に見、かれの道化《どうけ》の所作を信じたことが不覚だった。
もともと、かれは江戸で、お千絵様という女性を墨屋敷《すみやしき》の穴蔵部屋へ押し込めていた当時からして、金箔付《きんぱくつき》の隠密組のひとりという身柄《みがら》は、こっちも知っていたのに!
返す返すも不覚だった。
といって、もう追いつく沙汰じゃあない。そんな愚痴や繰言《くりごと》は、逃げてゆくきゃつの嘲笑を値打づけるばかりだ。
「くそウ! そう鮮やかな芸当を、まんまとやり遂げさせてたまるものか」
お十夜は、ふたたび、裏門を蹴って町へ走りだした。
城下の辻は夜もすがらの笛だ、太鼓だ! 踊ってる! 踊ってる! 踊ってる! かれが韋駄天《いだてん》と飛んでゆく先、走ってゆく先の町には、必ず幾組もの男女が仮装して、囃子《はやし》とともに踊りの渦を巻いている。
「ちイッ!」と、かれは歯ぎしりを噛んだ。
まるでこの人間どもは、おれの今を囃《はや》していやがる。おれのこの形相を嘲笑《わら》っていやがる。
なにが面白い!?
何がなんで踊りを踊る晩なんだ。
全身はあぶら、額《ひたい》にも汗をしぼって、お十夜の息はあらく苦しげだった。
いきなり、景気のいいひと群《む》れの踊りの輪を駆けぬけた時、かれは、そぼろ助広を抜いていた。
――どッと、孫兵衛の狂気じみた影が、十数|間《けん》も先へ駆けぬけてから、うしろにあたって、今さらのように、ヒイーッとたまげる声がして、歓楽の人渦はぶっ掛けられたような血を見てさわぎあっていた。
渦《うず》と渦《うず》と渦《うず》
網《あみ》雪洞《ぼんぼり》にほの暗く照らされた本丸から二の丸への廻廊を、何か、あわただしい声と跫音《あしおと》とがなだれてくる。
「お退《さが》りなさい」
「お退りなさい!」
徳島城の奥用人たちは、手をひろげて、ひとりの興奮した老人を、廊下へ押し出してくるのであった。
「殿様は、ただならぬお怒りですぞ」
「お目どおりはならんという御諚《ごじよう》!」
「お沙汰をお待ちなさい!」
最前までこの城中も、奥は夜宴に、お表は賜酒《ししゆ》の無礼講で、たいそう平和であったのが、この老人ひとりの言葉から、たちまち、凄愴《せいそう》な気が城内にみなぎってしまった。
「邪魔をするなッ」
龍耳《りゆうじ》老人は額《ひたい》に太い筋を立てていた。
「わしは原士の長《おさ》、郷高取謁見格《ごうたかとりえつけんかく》、お前たちが退れの、下におれのというのは僭越《せんえつ》じゃ。殿様にもう一言《ひとこと》いわねばならぬことがある、離せ」
「いや、上意です」
「かまわん! 御立腹をおそれて諫言《かんげん》はできぬ、御当家のために、わしはあえて非礼をするのだ、殿様がまた、病床に臥《ふ》すまでやッつけてやる」
「なんとおっしゃろうが、お目通りはかないませぬ。老人! あなたも少々気がたかぶっておいでられる」
「ばかな」
「とにかく、お表の間《ま》へ退って、ご休息をなさるがよろしい」
家臣たちは頑《がん》として老人の意思を拒んだ。そして無理にひと間へつれ込んで錠口《じようぐち》を隔ててしまうと、そこへ竹屋三位卿が、おそろしく青ざめた顔色をして通った。
「――殿のおことばを伝えます」
こう言い放して厳格にかまえた。
「…………」
老人は不平にみなぎっていたが、とにかく上意を聞くべく、態度を改めて坐りなおる。
「高木龍耳軒!」
三位卿は読みあげるようにひと息で言った。
「――其方儀《そのほうぎ》、藩の御法を無視し、おのれ一個の我意をもって、弦之丞を逃がしたとは不都合|至極《しごく》、その上御前をおそれぬ暴言、死を与《あと》うべきやつなれど、乱心であろうとありがたい御斟酌《ごしんしやく》、即刻、川島へひきとって、後のお沙汰を待っておれ」
それに対して、老人が何か叫ぼうとするまに、有村は身をかわすように、フイと部屋の外へ出てしまった。
大手の玄関へ出てみると、そこにも若侍の多くが右往左往して騒いでいた。
すでに盟約のある公卿《くげ》大名の密使たちと、手筈をすませて、この秋、将軍家が日光|参廟《さんびよう》の機会に、大事をあげようと阿波守の目算がすっかりついていたところ――。
そこへ突然、龍耳老人が登城したのであった。目通りに出ると面《おもて》をおかして、大事の不成功を予言した。そしてその無謀と時機でないことを痛烈に直諫《ちよつかん》し、あえて、阿波守の意にさからったので、興たけなわであった鳴門舞《なるとまい》の夜宴は、殿の激怒と、老人の抗争の声とでめちゃめちゃになってしまったのである。
――で、それからのこの騒動。
何よりも、阿波守や三位卿が驚いたのは、法月弦之丞を逃がしていると老人のいった一言である。
「わたくし一存の信念をもって、御当家後事のおんためと、かれの一命助けました」と、老人は平然と御前で言ってのけた。
乱心者ッ!
阿波守が気色《けしき》をかえて奥へ立つと、三位卿も鼓《つづみ》をほうりだして、太守の後を追った。
狼狽と困惑は、徳島城を暗澹《あんたん》にした。
奉行所へ、船手組へ、各郡代官所へ、急に手配《てくば》りを命ずべく、若侍の早馬が次々に大手の橋から城下へわかれる。
その中にまじって、ひとり、有村も阿波守の旨《むね》をうけて、別な方角へムチを打った。
撫養《むや》街道を真一文字に岡崎の船関へ。
淡路街道と丁字《ていじ》形になる追分から北へ走って、林崎《はやしざき》のひろい塩田の闇に、潮焼《しおやき》小屋の竈《かまど》のけむりが並木越しに白く眺められた頃である。
「あ、あぶないッ」
と有村、突然に手綱をしぼったので、馬は棒立ちになって横へ狂った。
すると、馬蹄《ばてい》をかわしてふりかえったひとりの影、そのまま、ムチを持ちなおして急ごうとする有村の鞍《くら》つぼへ飛びかかってきた。
「孫兵衛ではないか」
と、馬上からだしぬけにいわれて、
「お? ……」
と、一方は、暗闇を探るような眼。
あぶなく、悍馬《かんば》に蹴られるところであった人影は、城下から一散に旅川周馬を追ッかけてきた、お十夜であった。
「どこへゆく? 孫兵衛」
「あ、三位卿。あなたはどこへ?」
「孫兵衛! 実にしまったことが起こった」
有村は気が急《せ》いているので、口輪に泡をかませながら馬をグルグル廻していた。
「えっ、何か?」
「されば! 味方の内に思わぬ異端者があって、大事はついにくつがえされたぞ」
「周馬でござろう! 裏切者は」
「イや、原士の長《おさ》だ」
「えッ、龍耳老人?」
「法月弦之丞を討ったといつわり実は剣山から逃がしおった! あの、お綱という女までも」
と、手綱に口惜しさをふるわせる。
「じゃアあの時……ウーム……」
と呻《うめ》いたまま、孫兵衛も茫然。
落寞《らくばく》たる夜風がふたりを払ってゆく。
「ちぇッ、いまいましいおやじ」と、孫兵衛は歯ぎしりをかみ鳴らした。
「そして、どういうことになったんで」
「なんといっても、きゃつは原士を自由に動かす権力家、殿のお怒りもなみではないが、目下の場合に内部から騒乱が起こってはならぬと、ひとまず川島へ蟄居《ちつきよ》を命じ、それより先に、弦之丞めをという手配になった。そこで、わしはこれから岡崎の船関へいそごうと思う」
「ウウム、なんてえ凶《わる》い晩だろう。おまけに、まだこっちにも大変なことが起こっていますぜ」
「なに、この上にも、一大事があるッ?」
「周馬のやつが寝返りをうって、この孫兵衛の手もとから、世阿弥が、書き残した秘帖《ひちよう》をさらって逃げたんで」
「秘帖? ……」
「法帖形《ほうじようがた》の半面に、鳴門水陣《なるとすいじん》の図がひいてあって、そこへ」
「あ! それは剣山で、わしがいつか落したものだ」
「その余白へいちめんの細字、血汐で書いた隠密の暗号文字。そいつをさらって周馬のやつ、たッた今、風を食らって逃げだしやがった」
「オオ、それも江戸へやっては大変だ」
有村は落馬しそうな目まいを感じながら、拳《こぶし》でこめかみを打っていた。
「察するに、世阿弥の血書は、かれが半生に知り得た阿波の秘密全部であろう。それが幕府の手へ入っては、もう万事休すとせねばならぬ。壮図《そうと》の覆滅《ふくめつ》はもちろん、一味堂上の人々、盟約のある諸侯、みな断絶か自滅か、アア、それ以外にえらぶ道はない」
あぶみを踏ン張って悲痛な吐息《といき》をもらした。
孫兵衛はその時、住吉島の家で自分と入れちがいに影を消した、ふたりの虚無僧を思いうかべていた。
「もしや、あれが、弦之丞とお綱ではなかったろうか」
いまさら、しきりと、そう考えだせてならない。
「そうだ!」
慄然《りつぜん》として毛穴がよだつ。
「――弦之丞とお綱にとっても、なくてはならないあの秘帖だ。ふたりがまだ生命のあるものとすれば、当然、つけ狙っていたろう。ことによると周馬とおれとの話も、どこかで聞かれていたかもしれねえ。そして周馬が家探しをして出た後へふたり忍んでゆき、そこへおれが帰ったんじゃねえかしら? ……」
その想像を足《た》して有村に逐一《ちくいち》のことを話していると、さらにまた五、六騎、大地をうってくる蹄《ひづめ》の音が、闇の街道を乱れあってきた。
そこに、有村の姿を見ると、
「オオ!」バラバラと馬首をあつめてきて、口々に、各方面の模様を告げる。
城下、諸街道の口、海の要所、すでに十分な手が廻ったが、まだ弦之丞に似よりの者も見当らない。残るは、岡崎口、鳴門の方面。
で、万一の場合を案じて、阿波守から命じられた人々、ここへ三位卿の助勢に追いついてきた。それは、藩のうちでも屈指な剣道家ばかりで、中にただひとり、筑後柳川《ちくごやながわ》の藩士がいた。
柳剛流《りゆうごうりゆう》をよく使うことで、斯道《しどう》のものに相当な敬意を払われている湧井道太郎《わくいどうたろう》――四、五日まえに、柳川の使者についてきて徳島城にいあわせた。
周馬のことを城内へ報じるため、中のひとりを徳島へ帰して、三位卿まッ先に急ぎだした。
お十夜はその者の馬を借り、道太郎や他の人々とあとに続く――だが、騎馬にかけては三位卿、めったに余人の追従《ついじゆう》をゆるさない。
またたくまに岡崎の船関。
「すわ!」
乗りつけてみると案の定、水はここの堤をきったか、関の警鼓《けいこ》が陰々と鳴っていた。
「さては!」
と、馬をすてるが早いか、ばらばらと一同、番所の黒門へかかる。
柵門に常備の六尺がいないので、駆けこんで、波うち際の桟橋《さんばし》に立ってみると、湖水のような土佐泊《とさどまり》の内海《うちうみ》、どッぷりと暗い水上いったいに、御用提灯《ぢようちん》をふる無数のかんこ船とかんどり船。
半刻《はんとき》ほど前。
見張のきびしい岡崎の船関をやぶって、対岸|水浦《みずうら》へ、矢のように逃げた小舟がある。
関所やぶり!
番所の警板《けいばん》が急をつげると、たちまち無数のかんこ船、捕手のかざす御用提灯の火を盛《も》って、蛍《ほたる》をブチまけたように海上へ散らかった。
浦から浦へそれを伝える太鼓、いんいんと水にひびいてものすごい。
が――その前後に明らさまに手形を示し、鳴門村へ越えたふたりの虚無僧を何人《なんぴと》も疑わなかった。かれは明け方に鳴門の渦潮《うずしお》を見物する者と称して、土佐泊へ上陸《あが》ったが、そこから忽然《こつぜん》と影をかくしていた。
やがて……。
疲れたように警鼓の音もやみ、捕手の灯の数も減るともなく気抜けして、別な方角へ散ってしまった頃。
紀貫之《きのつらゆき》の歌碑《うたぶみ》がある潮明寺《ちようめいじ》の床下からソロリ……と這いだして、目を光らせ、かがみ腰に、あたりをうかがっている人間がある。
旅川周馬だった。
周馬は、大丈夫――と見る、ソッと立って、貫之堂《つらゆきどう》の端に腰をおろして、足拵《あしごしら》えをなおしにかかった。
ポト! と冷やッこい雫《しずく》が襟《えり》もとへ落ちてくる。
びっくりしたように首すじを撫でて上を仰ぐと、松の枝が堂の屋根にかぶさっている。しかし、それを揺するものは静かな潮風。
「ある……ふン……」
周馬はニンマリと笑って、内ぶところへ両手を突っこみ、品物を確かめながらその触覚を楽しんでいるふうだ。
お綱から一角が奪い、一角の死骸からお十夜がかすめ取った世阿弥の秘帖《ひちよう》は、とうとう思うつぼに、自分のふところへ転げこんで納まっている。
ふところの体熱は、今、しっかりと幸福の卵をだいて孵《かえ》している! かれはそう思って、また微笑を禁じ得なかった。
「天堂一角もお十夜も、おれから見れば善人だよ」
周馬はひとりで空うそぶいた。
「いや、世の中自体が甘えもンだ。これでおれが帰府すれば、幕府のやつらは驚嘆して、旅川周馬様の隠密術に礼拝するぜ。お上は御加増、御賞辞《しようじ》とくる。駿河台の世阿弥のあとに宅地をたまわり、栄光一身にあつまってくるンだからありがたい、滑稽《こつけい》だな、皮肉なもんだな、運というサイコロは」
――なんだか彼はおかしさがこみ上げてきた。
「ちょっとした頭の働き――下手《へた》か上手かの違いで、骨を折ってヘタばる奴と、楽をしてうまい汁を吸う者とができる。まあよかったよ! これでお千絵様の方さえ首尾《しゆび》よく運んでくれれば、万事上々吉。申し分のないところだが……」
つぶやきながら、そこを立った。
捕手の網も、もうだいぶゆるんでいるとは思ったが、大事をとって忍び忍び潮明寺の門を出ようとすると、
「あっ? ……」
出会いがしら?
ひとりの虚無僧が、ちょうど今、門を入ってこようとした。そして、周馬の姿を見つけたとたんに、飛鳥のごとく後へ戻って、闇へ低く――
「弦之丞様ッ……弦之丞様ッ……」
と、呼びたてている様子。
「やッ? ……」――周馬は度を失った。おぼえのある女の声、そしてたしかに、弦之丞と呼んだ。ふたりはとッくに、龍耳老人の手にかかって、世に亡《な》いものと信じていた旅川周馬。
水をかけられたように、ぎょッとして、元の貫之堂まで、夢中で駆け戻ってきた。
「はてな? ……」とそこで、
「お綱……どうもお綱のようだった。しかし、あいつや弦之丞が生きている理由《わけ》はないのだが」
と、ジッと生唾《なまつば》をのんですくまっていると、境内を斜めに切って、疾風《しつぷう》のように自分の方へ駈けてくるふたつの天蓋が闇をかすッて見える。
周馬はあわててまた逃げ出した。
庫裏《くり》の横から裏へ廻ると、そこには永い土塀があった。うしろを見ると、虚無僧ふたり、のがさじという勢いで追いかけてくる。
土塀のそばに一本の椋《むく》の木があった。
それへ跳びついて手をかけると、
「周馬ッ、周馬――ッ」
と後ろの者は、もうすぐそこまで飛びこんできた。
「あっ、法月《のりづき》!」
かれの体は栗鼠《りす》のように木の枝を回転して、その勢いで、土塀のミネへ片足を伸ばす。
パラパラッと青い椋《むく》の実と、そして、椋の葉の露がこぼれた。
途端に。
下へ駈けよった虚無僧の手が、
「待てッ、旅川!」
と、次の片足をつかんだのと、かれが夢中で、椋の枝から手を放したのと一緒だった。
足をつかまれて、土塀の上にしがみついた周馬。
「うぬッ」
抜き落しに、一刀、下の影をサッと薙《な》ぐと、その勢いと、放された不意とで、ドンと土塀の向うがわへ、もんどりうって転げ落ちた。
「お綱ッ――」
という声を頭上で聞いた。
腰をなでている間もない周馬、夢中で走ったかと思うと、また突然、雑木の窪地《くぼち》へドドドドッとすべりこむ。
椋《むく》の木の上には、天蓋の虚無僧、すぐその後に、手をのばして叫んでいる。
「お綱ッ、拙者につかまれ!」
「はい」
「手を、手を」
上から引きあげて、枝づたい、土塀へ移るやいな、ふたつの影、ヒラリと外側の闇へとび降りた。
「あ痛《つ》ッ……」
塀を越えたはずみに弦之丞、右の肩を椋《むく》の枝にはねられて、まだ癒《い》えきらぬ鉄砲傷、抱きしめてキッと唇を噛んだ。
「あ……またそこのお痛みが」
ふと、お綱の声であった。吾にもあらず寄りつくのを、振りもぐようにして眸は先に、
「いや、気づかうなッ」と鋭く――「それよりはあの秘帖《ひちよう》を! 秘帖を! ウヌ、旅川周馬づれに」
と、まッしぐら。
窪地の茂みへ一散に駈け下りて、逃げゆく影をのがさじと追いまくる。
周馬は時々、狐のような目をしてふりかえりながら、
「弦之丞? 弦之丞? 弦之丞?」
と、口の裡《うち》で叫びつづけた。どうして彼が生きているのだろう!?
逃げても逃げても天蓋の影、屈せずに後を慕ってくるので、周馬の元結《もとゆい》なしの総髪はベットリと汗にぬれ、頬、耳、手の甲、茨《いばら》に掻かれた血のすじで赤くなった。
雑木帯の丘の窪《くぼ》を出ると、裸石の層が崖をなしてつづいている。周馬は必死でその石山の背を這って行った。
時々ふところへ手をやった。そして、あることを確かめた。秘帖はいつかしら生命以上の値うちになって、かれに抱きしめられている。
ドドドドブン……ザアーッ……と珠を洗うような波の音。
闇に白くうねうねと鳴門へつづく千鳥ケ浜。
――二丈あまりの石山の上から、旅川周馬、目をねむって飛びおりた。ザクッと、足が埋まりこんだが、案の定そこは砂地――しめたッ――と躍る姿は海風にばたばた鳴って、つづく限りの波明りに添い、時々、どぶりッと飛沫《しぶき》に足をすくわれながら、無二無三、逃げていった。
「おッ、足痕《あしあと》」
一瞬のまをおいて、同じ波うち際を二ツの影が疾駆《しつく》する! 潮風が傷に沁《し》みるのか、弦之丞は右腕のつけ根をつかむようにおさえて駈けた。途中で、サッと空へ舞ったのは、風にさらわれたお綱の天蓋――そして夜目にも白いあの素顔は、ふさふさとした黒髪を散らして。
千鳥ケ浜、二十余町、またたくまに駈けちぢめた。そして、やがてジッと立つならば、鳴門の渦潮百千の鼓《つづみ》の遠音《とおね》とも聞えるであろう頃。
「あ、あっ!」
と、先の周馬が狼狽した。
行く手をさえぎっている砂山の松木立から、ボカリと浮きだした朱文字の提灯《ちようちん》。
問わでわかる船関の役所じるしだ。
「ちぇッ」と周馬、舌うちを鳴らして――「まずい所へ来やがった」
あわてて横へ飛んでそれたが、向うもいちはやく怪しいと知って、かれの先へ廻るようにバラバラと迫ってきた。
振り向けた黄色い明りに、ひと目、対手《あいて》の影を見ると先は愕然《がくぜん》と、
「オオ、関所やぶりの旅川周馬だッ」とうしろへどなった。
そして提灯を振りあげたが、その時、周馬の抜いた大刀は、かがみ腰に横へ流れて、男の胴を通っていた。
「なにッ、周馬だ?」
と三、四人、血煙の立った所へ、砂を蹴ってとんでくると、すばやく、周馬は位置をかわして、かえって、それを追ってきた男女《ふたり》の虚無僧に、
「や、や、やッ!」
偶然! そこで稲妻と稲妻とがぶつかったように、会うやいな、こっちも向うも、パッと後へ飛びひらいて、
「オオ、てめえは弦之丞とお綱だなッ」
と叩きつけるようなお十夜孫兵衛の声であった。
「ウーム」と弦之丞、天蓋をむしり取って、
「――三位卿と孫兵衛であるか!」
「いい所であった」
と、そぼろ助広、抜いて躍らんとする先に、対手《あいて》は疾風《しつぷう》――
「お綱ッ」
と叫んで、それにかまわず、先の周馬を追おうとした。
秘帖をもって逃げる周馬と、剣山を脱してきた弦之丞にお綱。
そのいずれへ向おうか? 瞬間、三位卿は迷ってしまった。
明瞭な分別もなく、大きな声で何か叫んだ。そして自分も疾走しながら、皎刀《こうとう》を手に振っていた。
二、三度、お十夜が斬りつけた時、弦之丞の手からひらめいた刀は左剣《さけん》であった。
「きゃつ、右の腕が利かないぞ!」
孫兵衛も、三位卿も、柳剛流《りゆうごうりゆう》の使い手、道太郎も、それを知って、ひとしく心強く感じた。
意外な敵が横からひとつ殖《ふ》えたため、周馬はかえって、そのまに小半町ほど逃げ越していた。しきりと道は登りになる。と思うと――轟《ごう》ッ――とすさまじい潮《うしお》の渦鳴《うずな》り!
崖松《がけまつ》をすかして下をのぞくと真っ白だ。乱岩《らんがん》に散る波の銀屑《ぎんせつ》である。そして白い無数の渦潮、或いは青黒い渦である。
そこの岬《みさき》からひと跨《また》ぎに見える淡路の鳴門崎までの間十五|間《けん》、飛島《とびしま》、裸島《はだかじま》の岩から岩を拾ってゆけば、歩いても渡れそうだが、そうはゆかない。
しかし、関を破って一散に、ここへ逃げてきた周馬である。本土へのがれる確信と相応な用意はしてある筈だ。
ヒュッと何か投げたかと思うと、松にひとすじの縄を廻して、その結び目を送るが早いか、スルスルと断崖を辷《すべ》って行く――。
そこを降りれば岬《みさき》の根に、手ごろな舟が幾つもあった。鳴門|若布《わかめ》を採る舟である。周馬はヒラリとそれに乗って、大胆にも渦巻く狂浪の中へ突いて出た。有名な大鳴門! おそろしい渦の海峡! そこへなんたる無謀だろうと思われたが、実は彼、この渦潮の海峡を難なくわたる秘密の瀬を知っていた。
どうして? といえば。
最初にそれへ気がついたのが三位卿で、ここの天険に軍船の配置をする場合のため、克明《こくめい》に鳴門一帯を測量した時、水陣図のおぼえ書に、その渦路《うずみち》の秘密も書き加えておいた。
まだ書きかけであった鳴門水陣の一帖は、その後、かれが剣山で落し、甲賀世阿弥の血汐とぎらん草の汁に染まって、転々、今では周馬のふところの裡《うち》にある。
で――周馬は怖れ気もなく、木の葉みたいな若布舟《わかめぶね》を、渦まく海潮へ漕ぎ入れた。
「ざまア見ろ!」
かれは絶壁を仰いで渦の中から嘲笑した。
「あははははッ……もう追ッつくめえ。斬りあえ! 斬り合え! そこで弦之丞とお十夜と、お綱と三位卿とで、双方傷だらけになるまで斬りあっていろ。ばかめッ。そのまにおれは本土へ帰るよ。じゃア阿波の国! おさらばだぜ!」
浪にゆられながら、快《かい》を叫んでいたが、旅川周馬、まだよろこぶのは少し早かった。
海蛇《かいだ》のごとき一本の捕縄《とりなわ》が、突《とつ》! あるまじき渦潮の中からおどりだして、櫓《ろ》をつかんでいる周馬の首へピューッ、水を切って巻きついた。
「あっッ――」
縄をつかむとその力で、舟はグルグル潮《しお》に巻かれた。そして飛島の岩の蔭からも、それに曳かれてまた一|艘《そう》渦に誘われて廻ってくる。
舟と舟をつなぐ不思議な捕縄!
それは渦に巻かれ込みながら、両方の危険を助けあっていた。――しかし、周馬にとってはまったく不意な敵である。致命な縄だ。
「えいッ、畜生」
片手に巻き込んだ捕縄を、いきなり前差《まえざし》で切って払った。
ぶつッと縄が切れてはねる! とたんに周馬その者は、剣光を空にひらめかし、ドンと舟底へもんどりを打つ。
一抹《いちまつ》の浪しぶきが、横に砕けて舟影をくるんだかと思うと、どうなったか、その最後は分らずに、周馬の舟は征矢《そや》のように流されていった。
「いけねえッ」
と、後の一艘は絶叫している。
「巻かれこんだぞ! 悪い渦に!」
「鈎《かぎ》をッ」
「アっ、岩だ、底を噛まれた」
「なに、大丈夫だ、鈎を早くッ」
「おっと!」
舟の中に、クルクル舞いしていた男ふたり、ひとりがつかんだ鈎綱《かぎつな》を、ヤッと一ツの岩へ投げかけた。
幾たびかはずし、幾たびか死神の棲《す》む渦の中心へ誘われようとして、ようようゆるい瀬へのがれ出し、岬《みさき》の岸へガリガリッと手繰《たぐ》り着けると、
「ウム、しめた!」
と、ひとりはすばやく磯へ飛びあがって、
「今の野郎といい、さっきの、浦一帯の提灯《ちようちん》といい、どうもこの辺がちょっと臭い。とにかくおれは様子を見てくるから、後の舟をしっかり頼むぜ」
と、登るたよりもなさそうな絶壁の岩脈をズウと見上げた。
そこを見上げると、周馬が断崖へ垂らしておいた一本の綱が目にとまる。
「おお、今の奴の置き捨てだな」
男はグンと引っぱって試した上に、それへつかまったが、また舟の者を顧みて、
「大勘《だいかん》――」と呼んだ。
「おう」
「この上へあがると、たしか、阿波守の潮観《しおみ》のお茶屋があるはずだ」
「ウム」
「事件は今夜だという気がするが、もし夜が明けたら、おれはそこへ潜《もぐ》っているから、帰らなくっても、心配してくれるな」
「承知した、安心して探ってきねえ」
そう返辞をする声は、弦之丞とお綱を剣山の手まえまで見送って星越《ほしごえ》から土佐境へ逃げた、日和佐《ひわさ》の棟梁《とうりよう》大勘《だいかん》であった。
「おれも若布採《わかめと》りに化けすまして、幾日でも鳴門の辺をウロついている」
「ウム、若布採りは思いつきだ」
「変ったことがあったら合図だぜ」
「合点だ、忘れやしねえ」
男は綱にすがって絶壁に足をかけ、ひと握りずつ手繰《たぐ》ってゆく。
ふりあおいでいる大勘は、腋《わき》の下に冷たいものを感じた。
飛沫《しぶき》の霧と、強い海風は、綱にすがってのぼる男の裾《すそ》を吹き払って、かれの努力をさえぎっている。
その男?
かれは天満の目明し万吉《まんきち》だ。
弦之丞とお綱とが、阿波へわたる船出の間際に、猫間川に兇刃をあびて、桃谷《ももだに》の家にむなしく怨みをのんでいた万吉。
その後――。
腰、肩、二ヵ所の深い太刀傷も、平賀源内《ひらがげんない》の外科《げか》の治療をうけて、思いのほか早く癒《い》えた。
かれは弦之丞がお吉に残していった手紙から、体が本復するとすぐに四国屋のお久良《くら》をたずねた。
そこには、お三輪《みわ》と乙吉《おときち》が、預けられていた。そして常木鴻山《つねきこうざん》は、居所もさだめず、何かの画策《かくさく》のため、奔走《ほんそう》しているという。
万吉は自分の落伍に落胆していた。ところが、ある夜、抜荷《ぬき》屋《や》の船から上陸《あが》って、四国屋の寮へしのんできた男がある。
それが、大勘だった。
こうして、ふたりは淡路から鳴門附近に幾日か小舟をただよわせて、弦之丞がその後の消息を探っていた。
常に気をつけている岡崎の船関で、今夜、時ならぬ警鼓《けいこ》がひびき、浦曲《うらわ》や鳴門の山にかけて、しきりと、提灯の点滅するのを海から眺めたふたりは、
「今夜だ!」
そう叫びあって飛島の蔭へ舟をつけた。
関所破り!
その声は、弦之丞とお綱が、剣山から斬りぬけてきた騒ぎに違いない。と――思っていると、旅川周馬、秘密の渦路《うずみち》へ若布舟《わかめぶね》をのりだして逃げてきた。
――飛んだのは万吉が、絶えて久しぶりに腕っかぎり試みた、方円流《ほうえんりゆう》二丈の捕縄《とりなわ》。
しかし、距離、闇、渦、飛沫《ひまつ》――それを周馬と知らず、周馬のふところにこそ、大事な秘帖が奪いとられているとも知らず――渦と渦と渦の間に、別れ去ったのはぜひもなかった。
……一方。
周馬が断崖へ辷《すべ》り降りてから間もなく、千鳥ケ浜の方からその影をつけてきたのは、弦之丞とお綱。――さらにそれを追っかけてくる者は、お十夜であり、三位卿であり、柳川藩の湧井道太郎《わくいどうたろう》であった。
この場合、弦之丞は、後からくるお十夜を先に討つべきか、それとも、旅川周馬を先に追おうか? 前後の敵、腹背《ふくはい》の難――さすがに迷いみだれていた。
が、疾駆《しつく》する間に、かれは、私意や憎悪にとらわれて、人を目標とする剣争のムダなことを悟った。
鍵《かぎ》! 阿波の秘密を語る鍵! 幸福の扉《とびら》をひらく大事な鍵!
世阿弥が精血をそそいだ隠密遺書《おんみついしよ》。
それが眼目《がんもく》だ。
今は――それが最後の努力をかける焦点だ。あれを周馬の手で江戸へ持たれて、かれの野望に功名をとげさせては、自分の周囲にある者の不幸さ加減はどうだろう。
いや、生ける者の不幸とともに、あの秘帖《ひちよう》にそそぎこまれてある、甲賀世阿弥の尊い血汐に対して会わせる顔があろうか。
「わしの精血を恥かしめるな、わしの苦心を悪人に利用せしめるな、わしは浮かばれぬぞ! 秘帖を趁《お》え! 秘帖を趁え」
暗い天に、そういう、しわがれた世阿弥の声がきこえるようだ。
周馬の影が、渦潮のしぶきに見失われた頃、ふたりは、かれが残した梢《こずえ》の綱を見つけて、手をかけた。
ばらばらとこぼれゆく岩のかけらに、磯の下からよじ登ってきた万吉。
「あっ……」
土に目をふさいで、途中の岩角へ足を休ませた。――と知らずにお綱と弦之丞の体は、ズズズズ――と急激にかれの頭の上へ辷《すべ》ってきた。
刹那。
断崖の上へ来た一閃刃《いつせんじん》、梢をしなわせている綱を切った。
成《な》れの果《は》て
同じ綱を頭の上から辷《すべ》り降りてきた者があるので、万吉は、驚きとともに小松の枝をつかみ、綱を離して崖の途中に身をかわした。
とたんに。
目の前をふたりの虚無僧が、落ちるような勢いで辷って行った。
「あっ!」と、のぞき込んだ時に、綱は切れて空から磯へ落ちた。
「戻って来いよーッ」
しばらくすると、下で、大勘の呼ぶ声があわただしく聞こえる。その前に万吉は、足がかりを探していたが、いくら急《せ》いて呼ばれても、にわかに、おいそれとは降りられぬ。
「早く来い」
「おウ、今ゆく」
大勘はまだ何か狂ったように叫んでいる。そして万吉を早く早くと呼ぶのを止めない。
綱の切られたせつな、弦之丞もお綱ももう磯の砂辺に近かったので、さしたる怪我《けが》もうけなかった。
大勘のおどろき、奇遇のよろこび。
それを早く万吉に知らせてやりたいと呼び立てるのだった。
万吉はすッ飛んできた。
「おお……」
「そちか! ……」
「や? ……お綱さんッ……」
海潮の激音と風の間に、きれぎれな声がかすれて飛んだ。白い激浪の泡立つ瀬戸に、四人の影はひとつ舟の中にかたまった。
――みるまに渦潮のかなたへ。
夜が明けた。
竹屋三位と、お十夜と湧井《わくい》道太郎は、淡路の蔭をゆるく縫う番船の胴の間《ま》に仆れていた。
夜来の疲れで、刀を抱いて、寝ていた。
柔和な海面《うみづら》。
ソヨソヨと撫でる微風。
秋の陽だけがカッと強く帆や船板や、三人の肩に照りついている。
* * *
「おい、お千絵様。おめえがそうメソメソ泣いてばかりいると、飯も酒もまずくってしようがねえ」
旅川周馬と同腹になって、お千絵を山科《やましな》の自分の家へかどわかしてきた偽虚無僧――今はそれを脱いで垢《あか》じみた博多の帯に黒紬《くろつむぎ》を着流している堀田伊太夫《ほつたいだゆう》。
煤《すす》だらけな浪宅に竹脚の膳をすえ、裂いた松茸《まつたけ》に鮒《ふな》の串焼《くしやき》、貧乏徳利をそばにおいて、チビリ、チビリ、昼の酒。
あぐらをくんだ毛脛《けずね》まで真っ赤にして、伊太夫、濁った眼をドンヨリとお千絵様にすえて、
「いい加減にしやアがれ」
と、口をゆがめた。
大津絵が貼《は》りまぜしてある押入れ戸棚のすみに、お千絵は、小さくうずくまっていた。
「ばかな女だ!」
グイと、横にくわえた鮒焼の串《くし》で、ムシャムシャ食《や》ったあとの歯をせせりながら、毒々しいことばづかい。
「――考えてみるがいい、お前《めえ》は親も屋敷も身寄りもねえひとりぼっち、孤児《みなしご》だろう、宿なしだろう。――それを旅川が不憫《ふびん》がって、自分の妻に立て、駿河台の元の屋敷に住むように――いや、それよりもっと栄耀《えいよう》をさせてやろうというんじゃねえか。何をメソメソ泣くことがあるんだ」
「嫌です……」
お千絵は泣きふしながら頭《かぶり》をふった。
「嫌だ?」
「…………」
「罰があたるぞ、冥利《みようり》を知らねえと」
「いやです……」
「生意気な」
くわえていた鮒の串を弾《はじ》いて、堀田伊太夫、膝を立てかけてきたので、お千絵は思わず身をちぢめた。
と、かれは、縁がわの方へ足を運んだ。
飛脚屋が何か渡して、破れ垣根の外へ出てゆくのを見送ってから、
「……噂をすれば……」
うなずいて封を切る。
そして切った封を裏返してみて、
「――おう、旅川はもう大阪表へ来ていたのか」
とつぶやきながら読みだした。
伊太夫の顔の筋が異様にひきしまってきた。読むと、周馬は今大阪の某所に潜伏しているとのこと、しかし秘帖《ひちよう》をとり返そうとする阿波の追手や、弦之丞が血眼なので、容易に姿を出すことができない。
で、そのために、万一を思って、この手紙にも居所を書かないが、自分は今、今の潜伏している場所を出るために、鳴門の渦潮をのがれ出た時以上の苦しみをしているという消息。
「ウム、なるほど」
伊太夫はうなずいて次へ移った。
――しかし、ここまで来て、いつまで躊躇《ちゆうちよ》してはいられない。隙をうかがって勇敢に江戸へ向って立とう。
日は、およそ××日。
落ちあう場所は――大阪から河内《かわち》裏街道をとって大津へ迂回《うかい》するつもり――その方が人目に立つまいと思う。で、途中の禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》を待ちあわす場所と定めておく。
どっちが早くとも、必ず、一方の来《きた》るを待つこと。
早駕《はやかご》三挺ご用意。十分に酒代《さかて》をくれ、道中肩つぎなし、なるべくは通し約束、賃銀にかけかまいなく、足ぶし腕ぶしの達者をえらんでおくこと。
等、等、等、なおさまざまにわたるしめしあわせであった。
日の来るのを待つらしく、酒のみの堀田伊太夫、ロクにない浪宅の道具を片っぱしから屑屋《くずや》に売っては、気前よく酒をのんでいる。
その朝は、いきなりお千絵に猿ぐつわをかけて、押入れに押しこみ、板戸の外から錠《じよう》をおろして戸外《おもて》へ出かけた。
黄八丈に襟かけの丹前、茶いろになった白博多《しろはかた》へ、ボロ鞘《ざや》の大小を落してはいるが、江戸へ帰りゃあという意気がある。
朝酒に赤い額《ひたい》をして、
「駕屋で達者なやつを、六人もというと……この村にはあるめえな」
と山科《やましな》を出て行った。
肩つぎなしに江戸まで通しの利《き》きそうな、雲助の達者を探し集めに。
――道具もなければ人もいない留守の浪宅はがらんとしている。たまたま赤とんぼがぶつかってくる。
すると、窓の外で、
「ははあ、駕をあつらえに行きやあがったな」
と、伊太夫を見送って、竹格子《たけごうし》の外へ、のっそり顔を出した乞食《こじき》があった。
月代《さかやき》もひげも伸びきって、頬は青くこけているが、よく見ると、まだ真の乞食道に徹しきって安心して生きているほど余裕のある乞食ではなかった。どこかにまだ落ちぶれきれぬ所と、自分の姿を知っているふうがある。そわそわしている。
のそり、のそり、きたない足で畳の上へあがってきた。そして、家のまん中に立って、
「ふうん……?」
うなりながら、見廻していた。
「……なんにもねえや、徳利と茶碗、火鉢が一ツ、あとは、戸棚に女? ……」と感心して、それから悠々と壁に懸けてあった振分《ふりわけ》の真田紐《さなだひも》を解いた。
周馬から伊太夫へ来た手紙だけをひき抜き、あとは元の通り壁へかけた。
むさぼるように、その手紙を読みはじめて、
「オオ……ウウム……じゃ、最後に周馬のやつが? ……こりゃ大事、江戸へ……蜂須賀家の致命傷だ……ウム、なるほど、それで……そうか」
乞食の顔に紅味《あかみ》がさしてきた。
驚いたりうなずいたりして、しきりと、手紙の文面をくり返していたその乞食は、森啓之助の成れ果てた姿であった。
――三位卿に面罵《めんば》されて足蹴《あしげ》にまであった上、女の死体を抱えて、安治川屋敷を放逐《ほうちく》された侍らしくない侍。
お米の死骸はその晩のうちに、大川へ捨てたが、その時の女の死顔と血のにおいは、いつまでもかれについて廻った。
木賃宿でひどい永病《ながわずら》いをやった揚句《あげく》、大阪から影を隠したかれは、やがて、岡崎|田圃《たんぼ》のかまぼこ小屋に死霊《しりよう》と世間におびえた目をして、ものうげに倒れていた。
ある晩のこと。
そのかまぼこ小屋の近くで、怪しげな偽虚無僧が、品のよい娘を威嚇《いかく》しているのを見て後をつけた。
毎日、浪宅のまわりをウロウロしている間に、その堀田伊太夫と旅川と微妙な関係があるのを知って、いっそう気をつけていると、その旅川周馬からの飛脚。
あの日も、菰《こも》をかぶって、かれは、窓の外にかがみこんでいたのだ。
「ウム……」周馬の手紙をふところにねじ込んで――「そうだ!」と啓之助、今、いつになく生々と顔色をかがやかせた。
「――帰参のかなう日が来たぞ。この、重大なことを安治川屋敷へ知らせてやれば、その功は、おれの前の不始末の罪を償《つぐな》って余りがある。三位卿も孫兵衛も、嫌だって、おれの帰国をとりなさないわけにはゆくまい」
泥の足痕《あしあと》を畳に残して、盗《ぬす》ッ人《と》猫のように台所から出てゆこうとすると、
「アア! もしッ……」と不意に、うしろの押入れで苦しそうな女の声。
「おや」
ふりかえってみると、中から揺すぶる板戸の錠前《じようまえ》がガタガタとおどっていた。
「どなた様か存じませぬが、こ、ここを、どうぞ出して……。でなければ、二条《にじよう》千本屋敷《せんぼんやしき》の松平様へ、わたくしがここにいることを急いでお知らせ下さいまし」
「あ、いつかの晩、かどわかされてきた娘だな……」とはすぐに分ったが、啓之助の心はもう別なほうへ逸《はや》っていた。――と知らずに、戸棚の中の悲しい声が、なおも何事か訴えているまに、かれの姿は、裏の竹藪を駆けぬけていた。
あられのぶッ裂《さ》き羽織に、艶の光る菅笠、十手袋をさして、布《ぬの》わらじを穿《は》いている。誰の目にも、一目|瞭然《りようぜん》たる、その筋の上役人。
勧修寺《かんじゆじ》の池だった。
その役人と配下の者数名が、わらじがけの足をそろえて、池のふちを歩いてくると、こっちへ向って駆けてきた乞食が、ふいと、反対のほうへ戻りだした。
「? ……」
眉をよせて立ち止まった菅笠。
かれは、所司代への密使をかねて、江戸南町奉行所の命をうけ、お綱の人相書を携えてその逮捕《たいほ》に上方へ来た、敏腕の与力、中西弥惣兵衛《なかにしやそべえ》である。
京奉行所の諒解をえて、弥惣兵衛は、人相書の女スリを召捕るため、先頃から京大阪の間にその手がかりを嗅《か》ぎ廻っていた。
今、挙動の妙な非人を見ていた弥惣兵衛は、
「あいつ、ふところに何か持っているな」
と、顎《あご》をすくっていった。
飴売《あめう》り傀儡《くぐつ》師《し》
さきごろ、下加茂《しもかも》の茶荘へふたりの密使が訪れてきて以来、次いで、二条城、或いは所司代の千本屋敷へ、江戸からの密書密使のたえまがない。
何か起こるぞ。
そういう空気が京都に濃くなった。
重なる役人は帰宅をとめられ、目を赤くして、固く口を結んでいた。
「中西弥惣兵衛と申す方から御急報でござります」
連日の多忙に疲れている下役の者が、こういって、所司代左京之介の役室の次の間へ、一封の書状を置いた。
祐筆《ゆうひつ》がうけとって近侍《きんじ》にわたす。近侍から左京之介の手へ。
かれは衝立《ついたて》を隔てて、常木|鴻山《こうざん》と何か低声で密談していた。
「――中西?」
いつぞや茶荘へ人相書を取りに戻った、与力のひとりを思い浮かべながら封を切った。
中に巻きこんである別な手紙があった。それは、中西弥惣兵衛が勧修寺《かんじゆじ》の池のほとりで、挙動のあやしい非人をとらえて糺《ただ》してみた結果、思いがけなく手に入った、旅川周馬の筆跡である。
「さては」
左京之介は二つの文面を読みくらべて、
「お千絵をかどわかしたのも旅川の指《さ》し金《がね》であったと見える。おお、しかも明日は、禅定寺《ぜんじようじ》で待ちあわせて」
「な、なんでござりますと? ――」鴻山は待ちきれずに膝を進めて、同じ所に目を辿《たど》らせた。
「やっ、周馬め、秘帖《ひちよう》をつかんで江戸へ」
「ウム、そうなっては、弦之丞の立場があるまい」
「ござりませぬとも!」
鴻山は暗然と――強く、
「すぐに、早飛脚を立てて、この手紙のままを、万吉の家へ廻して急を知らせてやりとう存じます」
「よかろう、さっそく、取り計らっておくように」
「承知いたしました。では、一刻も早く」
「待とう」と、ひき止めた。
「は」
「お千絵のほうは?」
「――なんとも心がかり、拙者自身で、山科《やましな》の伊太夫とかいう浪人の家へ出向いて見ることにいたします。いずれ、安否はまた途中から使いを立てまする」
周馬の筆跡を状筥《じようばこ》に厳封して、早飛脚を大阪の桃谷に立たせ、かれ自身はひとりで、いつもの深編笠、山科の村へ入って、堀田伊太夫というものの住居を探り歩いた。
しかし。
かれがそこを尋ねあてた時にはもう家主の男が、中の塵《ちり》を掃きだして、戸を締めにかかっていた。
訊《き》くと。
堀田伊太夫は、午《ひる》ごろ、にわかに三|挺《ちよう》の駕を雇ってきて、家を明け渡し、江戸へ帰ったという話。
禅定寺までは半日の道のり、周馬の手紙に明日とあるので、さまでに急がなかった不覚を悔いて、鴻山は、大津へ出る本街道を逆に醍醐《だいご》から、西笠取《にしかさとり》のほうへ、それらしい影を血眼でさがして行った。
…………
構えにふさわしくない所司代公用の赤状筥《あかじようばこ》が、桃谷の目明し万吉の門口へ届いた。
「なんであろう?」
と、お吉《きち》は不安に思いながら、それを持って中二階へ上がってゆく。
ふりかえってみれば、剣山の険《けん》、岡崎の船関、鳴門の渦潮《うずしお》――、よくも、ここまで戻ってこられたものと、いまさら、自身さえ不思議な心地がして、お綱はそこの中二階にいるのであった。
周馬の身辺をつけ廻しつ、めったに、家にいることのない万吉と弦之丞、ふたりもちょうどいあわせて、
「おお、どこから?」
あわただしく状筥《じようばこ》をひらきあった。
吉報!
その刹那のお綱の笑顔。弦之丞の鬱雲《うつうん》のはれてみえる眉。万吉のよろこびよう。それは何にたとえようもない。
時機は来た――悪魔め!
万吉は雀踊《こおど》りしたい気もちを抑えて、幾たびも、鴻山の手紙についてきた、周馬の筆跡をみつめた。
大阪へ上陸《あが》った旅川周馬は、身辺の危険をさとって、わずかな縁故をたよりに、酒井讃岐守《さかいさぬきのかみ》の蔵役人、本田某《なにがし》の屋敷の奥に身を匿《かくま》ってもらっている。
ほとぼりのさめたところと隙《すき》を狙って、江戸へ走ろうという魂胆。――なぜかまた、本田某は周馬の口に乗せられて、あくまで彼を匿《かくま》いだてした。
奸智《かんち》な狐の隠れこんだ穴が悪い。
大阪城代の蔵屋敷、ことに、本田某は酒井家の権臣で、指もささせぬぞというふうがあった。どうしても周馬がその門を出ないうちは、秘帖を奪《と》り返すこともできない。
阿波のほうでも、うすうす周馬の潜伏をつきとめてはいた。
しかし、これも手が出ない。
初めは万吉も阿波のほうでも、根くらべに、昼も夜中も蔵屋敷を見張っていたが、これでは、周馬がそこを出るはずがないと察して、わざと近頃は、双方で少し見張りをゆるめていた折。
吉報は思わぬ方角から来たものである。
それからしばらく、中二階ではひそかな話し声がつづく。
お吉は、静かに箪笥《たんす》をあけて、調《ととの》えておいた肌着や用意の品をもって、静かに、二階の梯子《はしご》を通った。
やがて、家の中から天蓋をつけた男女《ふたり》の影が、姿をそろえて、土間にわらじをはきかけた。お吉は先に外へ出て、空の模様を気づかったり家のまわりを見張っている。
「じゃ、おふたり様」
と、後について、草履を突っかけて外へ出た万吉。
「明日《あした》」
とだけいって、意味は言外に、小腰をかがめると、
「ウム」
弦之丞もうなずいただけで、そこから左右に袂《たもと》を分ちかけたが、女は女同士のお綱とお吉、両方からすり寄って何かしきりと、別離を惜しんでいる様子。
ふっ……と涙ぐましいものがこみあげてくるのをまぎらすべく、万吉は、ひと足先に駆けだした。
まもなく、かれが行きついた家は、四国屋の寮であった。
そこでも、お久良《くら》とは裏縁の立ち話で用向きだけを告げるとまたすぐに、忙しそうに出て行った。
* * *
「御門番。おい、御門番」
同じ夜の宵の口。
安治川屋敷の袖門《そでもん》のかげに立って、あたりをはばかるような声が呼んでいる。
「御門番」
それも、よくよく思いきって呼ぶのらしく、一声かけては、またあとへ戻ったり、うろうろと帰ってきたりして、その揚句《あげく》にやはり、
「ちょッと顔を貸してくれんか、オイ、御門の衆」
と、こわごわ首をさし伸ばしている。
「誰じゃい」
と、不承不承な喜平《きへい》の返辞がやっと聞えた。
コトンと、六尺棒を突く音がして、てらりとした薬鑵頭《やかんあたま》が出てくると、
「おう、喜平だな」
と、妙に人なつこく、外の影が寄ってきた。
「なんだ、てめえは……」
門番の喜平おやじ、六尺棒を中に隔てて、わざと、近寄りがたい構えをする。
そういわれると、対手《あいて》は急に、穴へでも入りたそうにうつむいた。酒菰《さかごも》をかぶっているので人相はわからないが、とにかく、乞食であることは、一目で分る。
「――物乞《ものご》いじゃないか、てめえは、ふざけた奴だ、顔を貸せの、喜平だのと」
「すまなかった、実は……」
「なにが実はだ、この野郎、少し抜作《ぬけさく》とみえるわえ、さあさあ向う河岸へ渡んな、向う河岸へ」
きたない物でも退《の》けるように、六尺棒の先で小突くと、そいつをつかんで、唐突に、
「おいッ、お、おれは、森啓之助だよ……」
と顔を寄せた。
あッけにとられて、
「ヘエ……?」と、いったまま喜平おやじ、しばらく対手《あいて》を見つめていたが、なるほど、森啓之助にちがいはない。
「どうなさいましたえ? ……森様」
「面目ない。実に、きまりが悪い」
「お屋敷を出た後に、たいそうひどいご病気で難渋《なんじゆう》していらっしゃるというお噂は聞きましたが」
「しかし、今夜は、きまりが悪いも面目ないもいっていられない急用で、山科《やましな》から急いできたのだ。三位卿はいるか?」
「先頃からお越しでございます」
「……どう考えても、あの人には会えない」
「なんぞ火急な御用でも?」
「お家の興亡にかかわるほどの大事をお告げしに来たのだ、あの、天堂《てんどう》は」
「剣山で御最期です」
「えっ、一角が死んだ? フーム、そうか。孫兵衛はどうしているな?」
「いらっしゃいまする」
「じゃ、気の毒だが、ちょッとここまで顔を貸すように伝えてくれないか」
そう頼んで、塀の蔭にうずくまっていた。
啓之助が何か火急なことを告げにきたと聞いて、孫兵衛は、何かというふうに、奥から出てきた。
ふたりは、ちょろちょろと水のせせらぐ小溝《こみぞ》の縁《へり》にしゃがみあって、足のしびれるほど長い時間を費《つい》やしている。
「もういちど、お船手へ帰参のなるように運動をしてくれぬか」というのが、啓之助の要求するところで、その代りに、旅川周馬の行動について、かれが山科で、ふと知り得たところは、残らずその媚《こび》に話してしまった。
物蔭には、三位卿、そっとたちぎきして、苦笑していた。
そして、孫兵衛と啓之助が話しているまに、屋敷の中へ隠れて、湧井《わくい》道太郎にそのことを伝え、一方、原士へ何かの支度を命じだした。
外ではお十夜。
「よいことを報《し》らせてくれた。とにかく、三位卿の耳へ入れてくる」
と、啓之助を残して、屋敷の中へ隠れた。
内部ではもうなんとなく物々しい空気だった。
有村と密談しばらく、やがてふたたび、門の外へ姿をあらわして、
「おい……」と、塀に貼りついている影を手招きする。
耳打ち……。
「ウム、ウム、じゃ、おれはそのほうへ」
啓之助はうなずいて、酒菰《さかごも》に肩をつつみ、周馬の潜伏している土佐堀の蔵屋敷へ向って飛んで行った。
かれはそこで旅川周馬の出立を見届け、安治川屋敷の者たちは、未明、淀川を小舟でさかのぼって大阪の外に出、枚方《ひらかた》の茶店で支度、津田の並木で周馬の来るのを待ち伏せようという約束。
で、啓之助は、
「このひと役さえ首尾《しゆび》よくやってのければ、元の船手組へ帰参ができるだろう」と懸命《けんめい》なところだ。
酒菰《さかごも》をかぶって蔵屋敷の用水桶のかげに、犬のように寝ている中に、土佐堀の櫓韻《ろいん》、川面《かわも》からのぼる白い霧、まだ人通りはないが、うッすらと夜が明けかけてくる。
と。かなたの浜蔵の廂《ひさし》の蔭にも、前の晩から寝ている男があった。
宿をとりそこねた旅人のように、頬冠《ほおかぶ》りをして、その上へ菅笠、あたりの藁《わら》を集めて腰に敷き、浜蔵の壁に腕ぐみでぐんにゃりとよりかかっている。
だが、眼だけは、たえず真向《まむこ》うの酒井家|蔵用人《くらようにん》本田頼母《ほんだたのも》の屋敷に注意していた。啓之助はそれを天満の万吉だとは夢にも知らなかったが、万吉の方では疾《と》くから気がついていた。
間もなく――もう雀の声が聞かれる頃、ガタン、蔵屋敷の閂《かんぬき》が鳴る、寝不足そうな仲間《ちゆうげん》が箒《ほうき》を持って掃《は》く、用人らしい男が出てゆく。
だが、周馬らしい者は出てこない。
「おや?」
万吉がちょっと目を放している間に、啓之助は、すっぽり、菰《こも》をかぶって用水桶の蔭から這いだしていた。
で、万吉も、あわててそこを立ち上がる。
ちょうどその時、細目に開《あ》かった裏門の隙から、スッと外へ出てきた男があった。
柿色の投頭巾《なげずきん》に、横筋の袖無《そでなし》、丸ぐけの太い紐《ひも》で、胸に人形箱をかけた、この頃町でよく見る飴売《あめう》りの傀儡《くぐつ》師《し》という姿の者。
中から四、五人の声が、門の内でその傀儡師を見送った。男も挨拶をつげ、礼をのべているふうだったが、すぐと、要心深い挙動をして、霧の深い町の辻へスタスタと大股《おおまた》に歩きだした。
「……オオ周馬!」
菰《こも》をかぶった啓之助は町側の向うを、そして、万吉はこっち側を、中に挟《はさ》んでつけて行った。
「傀儡師――なるほど、考えやがったな。今日ということを知らなけりゃ、うまうまと、あいつに出し抜かれていたかもしれねえ」
万吉は笠に隠した横目で、巧妙なそして周馬らしい機智の変装ぶりを眺めながらついてゆく。
玉造口《たまつくりぐち》から河内《かわち》路《じ》へふみ出して、鴫野《しぎの》へくると周馬は茶店で一服した。万吉も物腰を変えて同じ軒下の床几《しようぎ》へ腰をおろし、朝飯をとりながら、いよいよ飴売《あめう》り傀儡師、周馬に相違ないことをたしかめてよろこんだ。
茶店を出ると、またどこからか、酒菰をかぶった啓之助が、後先について歩いてくる。で万吉は、いちはやく、阿波方のものも今日のことを知って、周馬の行く先を要《よう》すべく待ちかまえているのを察した。
「はて、邪魔な野郎だ、どうしてやろうか? ……」と万吉、私部《きさべ》の並木あたりから、何かしきりと考えていたが、その頃から、わざと少し周馬におくれて、前へゆく酒菰《さかごも》へ、
「おい、お菰《こも》さん」
と、手をあげた。
啓之助、ちょっとふりかえったが、聞こえぬ振りをして急ごうとすると、万吉はまた、
「待たねえか、そこへゆく物乞《ものご》い」
「ヘエ、私のことですか」
先を気にしながら立ち止まった。
「そうよ、合力《ごうりき》してやろうと思って、せっかく人が呼んでいるのに、なんですぐに待たねえんだ」
「ありがとうぞんじます……ですが」
「ですが、なんだ」
「少し、先を急いでいますので」
「ふふん……」お菰《こも》の肩を叩いて冷やかすように、
「よしねえ、今日は、急いだところでムダだろう」
「? ……」
「それよりは、怪我《けが》のねえところで、成行《なりゆ》きを見ていねえ、悪いことはいわねえから」
「やッ」啓之助は初めて気がついて、
「てめえは万吉だなッ」
と、胸板を突いてくるのを、
「何をしやがる」
と、十手でその手を叩きつけた。
啓之助は驚いて前へ駆けた。しかし、二、三間ゆくといつのまにか体についていた捕縄《ほじよう》に引かれて反動的にぶっ仆れる。
グルグル巻きに縛りあげて、万吉は啓之助を藪《やぶ》の中へ抱え込んだ。首のない石地蔵が仆れてあった。そいつを抱かせてもうひと巻き縄をかけ、ヒラリと、藪から並木へ戻った。
「オオ」
あなたを見ると、周馬の姿はもう遠い……。
江戸に限りのない栄達を夢み、お千絵に思いの遂げられるのを夢みして、旅川周馬の足は軽い!
――急ぐほどに津田の追分《おいわけ》。
そこで、弾《はず》んできた周馬の足はハッとすくんだ。
けれど、考えてみると、自分の姿は、人形箱と柿色の頭巾|袖無《そでなし》にくるまれていた。かれは、図太く多寡《たか》をくくって、折から混んできた、野菜車や旅人や小荷駄《こにだ》の群れの往来にまじって、ゆっくりと通りぬけた。
「ああ、びっくりした」
次の立場《たてば》を眺めてから考えた。
「どうして嗅《か》ぎつけやがったのだろう?」
津田の辻の葭簀《よしず》を張った一軒の家に、たしかに、阿波の侍と、三位卿らしい者と、おぼえのあるお十夜の頭巾が見えた。皆、物々しい装《よそお》いでかたまっていた。
「あぶねえ、あぶねえ」
薄氷《はくひよう》をふんできたような心境が、後になってゾッと背すじを這いあがった。
おびえがさめて安心がつくと、周馬、こんどは先頃手紙をやっておいた堀田伊太夫の方の首尾を案じだした。
お千絵を山科《やましな》まで連れだしたということは、その前にかれから知らせをうけていたが、うまく今日、時刻を計って、禅定寺峠の麓《ふもと》へ来あわせてくれればいいが? ……
とかく、それも悪くない心配だ。空想は道のりを忘れさせて、いつか郷《ごう》の口《くち》、程なく静かな村をぬける。禅定寺の山門と真ッ黄色な銀杏《いちよう》の梢《こずえ》があなたに見えた。
鵯《ひよ》の声がする、百舌鳥《もず》が高く啼いている。ハラハラハラハラ扇形《おうぎなり》の葉が降りしきっている。
寺は峠路の口にあった。
先に来ていれば、たいがいこの辺にいるはずと思ったが、見当らないので、周馬は山門の石段の下に腰を下ろし、しばらく、秋の陽《ひ》ざしに温まっている。
柿色の投頭巾に、銀杏《いちよう》の葉が三ツ四ツ溜《たま》った。
「おや、飴《あめ》売り」
「人形使いの飴屋さん」
そこいらへ栗拾いに来た子供たちが、知己《ちき》を見つけたように周馬のまわりへ寄ってきた。
じろじろとかれの姿を見て、何か物いいたそうであったが、首をあげた周馬の目のおそろしさに驚いて、無邪気な少童少女は、散るともなく、顔を見あって、こそこそ村のほうへ帰ってしまう。
その後は、絵のような秋の木洩《こも》れ陽《び》の中を、ひとりの尼《あま》が通ってゆく。
一刻《いつとき》ばかりの間の変化はこれだけであった。
だが、周馬は退屈しなかった。
待つという空《くう》な時間を、こんな愉悦にみちて、恍惚《こうこつ》と過ごすなんていうことは、一生のうちにそうめったにはない。どっち道、楽園の扉は開いて、おれはそこへ、迎え入れられるばかりになっているのだ。少しは、待つのもよかろうではないか。
そう考えて落ちついていると――。
やがてであった。
しっかりした道中|駕《かご》三|挺《ちよう》に背丈《せい》のそろった駕かき、別に、肩代りが二人ついて、こなたへさしてくるのが見えた。
禅定寺の門前にかかると、ぴたりと足が止まる。一挺のタレをはねて堀田伊太夫、
「ご苦労」
と、草履をとらせて外へ出た。
「オオ伊太夫、ここだ、ここだ」
と、周馬は手をあげて、その姿を呼んだ。
「やあ、旅川。ばかにちょうどよく出会ったな」
「少しもちょうどいいことはない。最前から生《なま》あくびをかんで待ちくたびれているんだ」
「実は、山科のほうは、昨日のうちに引き払って出たんだが、途中からつけてくる、うさんくせえ奴をまくために、思いのほか暇どってしまった」
「そうか……がまず、何より心配なのはお千絵だが?」
「お察し申すよ」
「笑ってくれるな、真剣だ」
「あの駕の中にいるから、ひと目|覗《のぞ》いてきたらどうだ」
「そういわれると、少しテレるな。しかし、あらかた得心《とくしん》している様子かな?」
「どうして、これからウンといわせるには、まだなかなか骨が折れるふうだぜ」
「江戸へ着くまでの間には、なんとか始末がつくだろう。オ……駕が来れば、もうこんな物をつけている必要はなかった」
胸にかけていた人形箱、頭巾、袖無、脱いでひとつにクルクルとまとい、自分の乗るべき空駕《からかご》の中へ突っ込んだ。
下には周馬、いつもの黒紬《くろつむぎ》の袷《あわせ》を着ていた。膝行袴《たつつけ》はそのままで見苦しくない。道中差は野刀一本、身軽のせいか、なんだかサバサバとした気持になった。
ついでに、もうひとつの駕をのぞいて、
「お千絵殿、少し駕の外でも眺めてはどうだな」と、垂《た》れを解いた。
霜除《しもよ》けをかぶった牡丹花《ぼたん》のように、お千絵様は中にかがまっていた。
手には縄、ほつれ髪、青い顔には猿ぐつわ。
「お千絵殿、江戸にいたころから見ると、だいぶ頬がやつれましたなあ」
周馬は、駕の棒にもたれて、白い襟《えり》もとへ賤《いや》しげな目を落した。
「……だが、美女のやつれというやつは、美しさに研《とぎ》がかかって、いっそう凄艶《せいえん》という趣《おもむき》が深い。おう、泣いていらっしゃるか、あまり久しぶりでうれし涙が出るのでしょうな……周馬もお懐《なつ》かしく思いますよ、いろいろあれ以来のお話もあるがまあ、それは宿へでも着いて」
覗《のぞ》きおろしていた体をだんだん駕の前へかがみこませた。そして、わざとらしく、
「可哀そうに」
と、お千絵の猿ぐつわだけはずしてやる。
「――むごいようだが、手のほうは道中だけ辛抱して貰おうか。その代り江戸表へ入りさえすれば、どんな気まま、どんな華奢《かしや》も自由としよう、旅川周馬様の奥方、まんざら悪い身分ではないでしょう」
と、からかい半分、頬へ指をついてゆくと、冷やかに、覚悟を決めてきたお千絵の耳元が、怒りに血の色をさしてきた。
きりっと吊りあがった蘭瞼《らんけん》が、周馬の軽薄な唇をひるまずに睨まえて、
「気の狂った男! お前はなにをいっているんです」
「狂ってはいない、真剣だ」
「千絵には、何の意味やらいうことが分りませぬ」
「おぬしは拙者の妻だぞということをいい聞かせているのじゃないか。もしお千絵殿、そなたがよく性分《しようぶん》をご存じの旅川ですぞ、ムダな足掻《あが》きや愚痴はおよしなさい」
「おだまり、千絵はまだ、そなたのような人非人《ひとでなし》を、良人《おつと》とゆるした覚えはない」
「ちッ、また優しさに狎《な》れやがると、駿河台の穴蔵部屋で、ヒイヒイ叫んだような痛い目に会わしてくれるぞ。こういうふうにッ」
と、襟がみをつかんで引きずり出した周馬、無情な平手でお千絵の頬をピシリと打った。そしてまた打ち、また打ちした。それが一種の快感であるように、周馬は打つ手を止められなかった。
自分の腕が疲れた時に、蹴こむようにお千絵を駕にぶちこんで、
「おい堀田、出かけようぜ」
と、見ぬふりをして休んでいる駕屋へも声をかける。伊太夫は冷《ひや》かすように、
「旅川、お前《めえ》は案外、女には手荒だな」
「そうでもないが、つけあがるからよ。それにお千絵の姿を見ると、なんだかおれは昔から撲《なぐ》りたくなる癖がある」と、駕のタレに隠れた。
「旦那!」
駕屋はそろって肩を入れた。
「やりますぜ――峠の上りへ」
「オオ、やってくれ」
ギシッ。三つの駕尻《かごじり》が上がる。
「陽のあるうちに越えきれるかな」
「まだまだ」と、駕かきはいさぎよく杖《つえ》をふり初めて、
「こんなくらいじゃゆっくりでさ」
タッタッタッと加速度に足がそろってくる――禅定寺の大屋根から吹きおろす秋らしい力のある風に、満地の銀杏《いちよう》落葉が旋風《つむじ》を描いて舞いめぐったかと思うと――その黄風《こうふう》の渦《うず》を衝いて突然!
「待て待てッ、その駕に用がある」
否やをいわせず、棒鼻《ぼうばな》を突き返して大手をひろげた虚無僧と虚無僧。
ひょいと、まン中の駕の内から、顔を出した周馬が、あっ弦之丞! とおどろいて向うへ抜けだそうとすると、お綱がすばやく駈け寄って、
「おのれ」
と、駕の簀《す》とともに、周馬の横鬢《よこびん》を切ってかすめる。
「わっ……」と、満顔に染まる血を吹いて、周馬、やぶれかぶれの声で、
「伊太夫、手を貸せッ」
お綱へ盲目《めくら》刀《がたな》を振るって、バッと中から飛びだしたが、とたんに、伊太夫を居合討ちに仆した弦之丞が――飛鳥《ひちよう》――左手使いの冷刃《れいじん》を逆薙《ぎやくな》ぎに流して、
「卑怯者――ッ」
と肋骨《ろつこつ》をはねつける。
「うーむッ……」とおめいたが、旅川周馬、血達磨《ちだるま》のように染まってまだ走った。しかし、それも六、七間、りゅうッと風を泳いできた捕縄に足を巻かれて地ひびきを打つ。
万吉であった。お綱も駆けよった。
弦之丞はすぐに止刀《とどめ》を刺《さ》してふたりへいった。
「お綱、秘帖《ひちよう》を奪《と》りかえせ」
万吉やかの女《じよ》の手がよろこびにふるえながら周馬の死骸を探った。まだ体温のある胸、胴巻、背中、袴腰《はかまごし》……はては脚絆《きやはん》の紐《ひも》までといて検《あらた》めたが、どうしたのだろう? 目的の秘帖はどこからも出てこない。
呆然《ぼうぜん》と心にみる黒い霧が、三人の歓喜を、一瞬に、吹き荒した。と、その時、あなたの疎林《そりん》を一群の人が疾走してくる。
お綱の両難《りようなん》
疎林の影をよぎってまっしぐらにこなたへ向ってくる一群の武士、まごうべくもあらず、安治川屋敷の原士たちと、三位卿、孫兵衛、助太刀の湧井《わくい》道太郎がその先頭。
朝まだきに淀川を上《あ》がって、津田の辻の茶店に、啓之助の知らせを待っていた人々は、その肝腎《かんじん》な伝令が、途中の藪《やぶ》だたみに石地蔵を抱いて沈んでしまったため、思わぬ手違いをふんで、それと、気がついた時には、すでに先の周馬よりは、二里もおくれていたのであった。
「来やがった!」
周馬の体に秘帖《ひちよう》が隠されていないので、もしやと、伊太夫の死骸をみていた万吉は、それにも絶望しながら、近づいてくる殺気を眺めた。
一難、また一難。
周馬は斬り仆したが大事な秘帖は見当たらない。弦之丞はまだ右腕の銃痕《じゆうこん》がまったく癒《い》えていないし、駕のうちには、かよわいお千絵様がいる。
どうしよう? この場合を。
万吉の足どりにも狼狽《ろうばい》がからみついた。
ともあれ、かれは急いでお千絵の縄目を切ることを先にした。――と、もう安治川屋敷の者はすぐそこまで近づいて、鮮血を踏んで立ったお綱と弦之丞の姿を指さしながらひしめいて迫る。
「ウム、まいったな、またここへも」
弦之丞は動じない唇元《くちもと》でつぶやいたが、さすがに、事ここまで運んできながら、ついに、秘帖を手に見ない落胆のかげはどこかにさびしい。
と。早口でふりかえった。
「お綱ッ。そちはお千絵どのを助けて、禅定寺《ぜんじようじ》の峠へしばらく姿を隠しておれ。早く行け、お千絵どのをつれてこの場を退《ど》け!」
「お、それがいい」
と万吉はお綱の帯をもって引きずるように後《うし》ろへ連れた。驚きと疲れとに、夢心地でいるお千絵の手をつかませて、
「ここにいてはかえって弦之丞様の足手まとい、早く早く」と手を振って峠路へ追い立てる。
この際、何をいい返す間があろう! お千絵の嫋々《なよなよ》した体を抱くようにして走りだしたお綱がふりかえって見た時には、もう、弦之丞万吉ふたりの姿が、陣をなす白刃の光と、さんさんと降りかがやく銀杏《いちよう》の葉にくるまれていた。
左手《さしゆ》といえど弦之丞の夕雲流《せきうんりゆう》には少しの不自由さも見えなかった。またたくまに数人の手負《てお》いが、大地に仆れ、禅定寺の石垣の根へ這った。
この日のかれの働きに、やや左刃《さじん》の弱さかと思われた点は、ひと太刀で絶命するような斬れぶりのないことだった。瞬一瞬、手負いは増して行ったが、まだ一名の死者も出ない。そしてやがてまた、弦之丞自身も数ヵ所のかすり傷をうけた。
万吉も道中差をふりかぶって、命をまともに斬り廻った。腕というよりはその暴れかたに、阿波方の者は衆《しゆう》の力を雄敵ひとりへ集めきることができない。それに、かなり修養のあるものでも、こう乱闘になると血があがってくる、ところへ散りしきる落葉の旋舞《せんぶ》が視覚を眩惑《げんわく》させて、ともすると弦之丞の左刃ひとつに駈け廻される。
その間に。
たえずかれの背後《うしろ》をつけて、ひるむのを罵《ののし》っていた三位卿は、ぶっ仆れている駕の一つの内から、傀儡《くぐつ》師《し》のもち歩く一個の人形箱が蹴とばされているのを見た。
その箱のそばにまた、気息奄々《きそくえんえん》たる原士と堀田伊太夫の死骸が仆れている。そして、その人形箱は砕けていた。
首の細いお染《そめ》人形や久松人形も血泥《ちどろ》によごれて、箱と一緒に踏みつぶされていたが、ふと、有村が隙を狙って拾い取ったのは、その人形とともに箱の中から飛びだしていた桐油紙《とうゆ》で包んだ一帖《いちじよう》の秘冊《ひさつ》。
「おッ!」
つかんだ触覚で秘帖と分った。
「しめたッ――」と三位卿、翡翠《かわせみ》が魚《うお》をさらったように、それをつかんで飛び立ったが、とたんに、目をつけた万吉が、横合から引っ奪《た》くって、
「秘帖あった!」
道中差を振るってヒラリと飛び退《の》き、
「弦之丞様、秘帖は万吉が手に入れましたぞ!」
と、かれに力をつけさせるべく叫んだ。
今や、道太郎とお十夜を対手《あいて》に斬ッつ斬られつ――
「オオ、お綱の手へ――お千絵をたのむ」
剣戟《けんげき》のあいだに弦之丞のかすれ声。
「合点です!」と、高く返辞を投げたものの、万吉はたじろがざるを得なかった。
柳剛流《りゆうごうりゆう》の猛者《もさ》湧井《わくい》道太郎と、悪鬼のように斬ってかかる孫兵衛の死にもの狂いに、さしもの弦之丞、刻一刻と苦闘に迫っている。
右の股《もも》、左の小手《こて》に一ヵ所、浅からぬ傷さえうけた様子である。
「死ぬ気だな――弦之丞様は?」と万吉、どうしてもそこを去りかねて、道太郎の横を衝《つ》こうとすると、
「何をぐずぐずしているのじゃ。万吉、早く行かぬかッ」と弦之丞がまた叱りつけた。
ぜひなく万吉。
「おのれその秘帖を」
と追いすがる有村へ、脇差を投げつけて、両手でおさえたふところの秘冊! 幾多の犠牲《にえ》をかけられて奪《と》り奪られした阿波の大秘! 宝石のように抱きしめながら、お綱のあとを追って禅定寺の峠路を熱い息で駆けのぼる。
――危機は刻々とせまる、かくて、弦之丞の青白い眉間《みけん》は、死相をあらわしてきたのではないかと思われた……。
そこを避けて、一方、禅定寺の寂《さび》しい峠路。
お綱は、心をあとに残して、半《なか》ば、喪心《そうしん》しているお千絵を助けながら登ってゆく。
あの人のことである、今に血路をひらいて、きっと追いついてくるに違いない。と、道々もふりかえっては、お千絵のために安全な地を探した。
ひとつの山蔭を廻った時である。
仰むいてみた崖の上を、幾人もの足が土をくずして駆けたかと思うと山蔭にすがって、ばらばらと目の前へ辷《すべ》り降りてきた役人らしい者があった。
寝耳に水といおうか。
菅笠、割羽織《わりばおり》を着けたひとり、岩のごとく道を塞《ふさ》いで立つかと思うと、威圧のこもった音声《おんじよう》で、
「見返りお綱、御用だッ――」
と、なんたる不意! 眼に痛いような磨きすました十手を向けた。
「あっ……」と、お綱は真っ青になった。
「浅草孔雀長屋《あさくさくじやくながや》の女スリ見返りお綱、旧悪の兇状《きようじよう》はのこらずお上のお調べずみとなって、人相書は上方へも廻ったぞ。わしは、召捕りのために向った江戸与力中西|弥惣兵衛《やそべえ》じゃ。いずれにしてものがれぬ場合、お手数をわずらわさずに、江戸奉行の手当をちょうだいして神妙に縛《ばく》につけッ!」
この時ほど、お綱の気の弱々しく、そして総身《そうみ》のすくんだことはなかった。
旧悪! まったくお綱の記憶は自分の過去のそれを忘れていた。ことに今この場合、突然、女スリと呼びかけられた刹那の驚きは、胸のわるいめまいと、浅ましい嘆きだった。
よろめきそうな足を、一心にふみしめていたかの女は、やがて、喉《のど》に乾《から》びつくような声を捕手《とりて》へ投げた。
「後生《ごしよう》です、ま、待って下さい! ……」
「なに?」
弥惣兵衛は意外なというふうに、
「支度をする間か」
「いえ……ここしばらくの間……幾日かたてば、きっと、奉行所へ私から名乗って出ます」
「だまれ、法は峻厳《しゆんげん》、枉《ま》ぐべからざるもの、さような自由は相成らん。縛《ばく》につかぬとあらば、押しくるんで召し捕る分じゃ」
「ああ! わたしは、もう心から生れ代ったお綱だと思っていたが……」
「御法のさばきをうけぬうちは、汝《なんじ》の罪は滅《めつ》していない、どこまでも兇状が追って廻るのじゃ」
「でも今は、たとえ何とおっしゃっても、また、この上罪が重なろうとも、お縄をうける訳にはゆきません」
「ぜひがない!」
弥惣兵衛は身を退《しりぞ》いて、
「それ、召し捕ってしまえ」
「お願いです! ……」新藤五の刀を構えながら、お綱は、神に祈るように、
「お見のがし下さいまし、お慈悲! お願いでございます」
「手抗《てむか》いするかッ」
「どうしても、あることの終りを見届けないうちには――」
叫ぶのも終らぬまに、捕手は前後から打ってかかった。絶体絶命、縄をうけるか切りぬけるか、このふたつよりない切迫《せつぱ》。
お綱は突然ひとりを切った。わッと捕手の退《ひ》くところを、お千絵の手をつかんで必死に駆けだした。
わっと乱れたが、すぐにまた捕手は彼女へ追いかかった、「御用」「御用」「御用」それは仮借《かしやく》のないごずめずが針の山へ罪のものを追いあげてゆく責め声のように。
中西弥惣兵衛は割羽織をぬぎすてて、
「うぬ、捕《と》った!」
のめるようにかけだして、きゅっと捕縄《とりなわ》の一端をしごいたが――その時、一人の男、宙を飛んでくるなり弥惣兵衛の腕にしがみついて、
「待ってくれ」と絶叫した。
「何?」
手もとを狂わせて、弥惣兵衛は、腹立たし気な目をその男にくれた。
「私は天満《てんま》の目明し万吉と申すものでござります――。しばらく、御猶予《ごゆうよ》を願いとう存じます」
「だまれ、そちは天満組の名をかざしてこの捕り物に故障をいおうとするか」
「いえ、決してそういうわけではございませぬが、今ここでお綱がお手あてになりましては、ある一つの事件と、さる方々の上に、実に当惑する難儀がひそんでおるのでございます。で、どうか、今この場だけを御寛大に」
「いや、うすうすそんな様子も察しているが、わしの役儀は町方与力だ。たとえ、事情や場合はどうあろうと、あくまで、法縄《ほうじよう》は公明に十手は正大にうごかなければならん」
と中西弥惣兵衛、頑として肯《き》く気色《けしき》はない。
「ごもっともでございます、けれど、わっしも天満組の目明し、必ずそちらのお役目に泥をぬるようなことは致しませぬ。どうか枉《ま》げてもお綱のお手当は、暫時《ざんじ》、万吉にお任せおき願いとう存じます」
中西与力も強硬だが、万吉もまた、熱誠を面《おもて》にあらわして頼むのだった。
それにうたれたか弥惣兵衛は、
「では、天満組の目明し」
「へい」
「誓って、そちの手でお綱に縄をかけて、このほうへ渡すというか!」
と、開きなおった。
「…………」万吉はグッと返辞につまってしまった。けれど、顔色を悟られないうちに、キッパリと断言しなければ、弥惣兵衛の叱咤《しつた》がふたたびお綱を追うであろう。
鉛の熱湯をのむよりは苦しい、あとはどうこの気持がもてるか、自分にさえ分らぬ万吉、目をねむって一時のがれに、
「え……へい、きっと、承知いたしました」
「間違いあるまいな!」と強く念を押して、
「では、そちが召捕ってくる猶予として一刻《いつとき》ほど待ってつかわそう。ウム、あの七刻《ななつ》下りの陽が、あなたの奥甲賀の山間《やまあい》に落ちるまでだぞ」
そう言いわたして中西弥惣兵衛は、少し横道に隠れ、附近の山神《やまがみ》の祠《ほこら》に捕手の者をまとめて、江州甲賀《ごうしゆうこうが》あたりの連峰の上にうすれかけている秋の陽の釣瓶《つるべ》落しを待つのであった。
「アア……」
ひとつの難を切り抜けてホッと息をつくと、万吉は瞬間、頭の髄《ずい》がぼうとしてしまった。いつか阿波をのがれてきた夜、あの黒い渦潮《うずしお》に舟をグルグルグルグル廻されたまま、何としても出られなかった時と同じような気持である。
が、こんなことで、と万吉は自分にむちを打って心をしめなおした。そして、白い尾花が斑《まだら》になびいている向うの平地に、お綱とお千絵の姿を見つけて足を早めた。
すると、思わぬ所の崖道から、低い木をゆすぶって、誰か、
「万吉か?」と呼びとめた。
「オオ」ふりかえってみると、弦之丞であった、血ぬられた太刀を左にさげて上がってきた。
「そちが秘帖を持って駆けだした後を、湧井道太郎が追いかけて行ったが、別条はなかったか」
「へい、道太郎にも逢いませぬし、秘帖もここに持っております」
「それが案じられて拙者も近道を廻ってきたのじゃ。しかし、まだ油断はならぬぞ。わしの後からは原士をつれた孫兵衛と有村、また道太郎めもやがて追いついてくるに相違ない」
と話しながら、布《ぬの》を裂いて万吉に左の小手傷をしばらせていると、突然、すぐ向うの草原にあたって、お綱の絶叫と、けたたましいお千絵の悲鳴が流れた。
「やっ?」
「――道太郎じゃ! いつの間に」
「卑怯《ひきよう》なやつ」
ふたりは足を飛ばして駆けた。いつのまに抜け道をしたか、ひとりの巨漢が白刃をかざして、小鳥のようなお千絵を追っかけ廻している。そして自分の身に代えて防いでいるのはお綱であった。
それさえハラハラさせられているところへ、また忽然《こつぜん》と一方からおどり立って女ふたりを取り囲んだ者がある。お十夜孫兵衛と三位卿だ。――万吉は宙をとんでゆく間にそれを見て、アア駄目だ! もう危ない! と思わず腰をついてしまいそうになった。
ところが――意外の上にまた一ツの意外が重なった。
逃げ場を失ったお千絵様、芒《すすき》の根につまずいて、あわや、道太郎の烈しい大刀《だいとう》の下になった時、意外ではあるまいか、かえってその道太郎が、もののみごと、袈裟《けさ》がけにされてぶッ仆れたのである。
驚きひるむ原士の前に、降って湧いたように立っていた編笠は、前の日、山科《やましな》から三挺の駕の行方を追跡していた常木|鴻山《こうざん》。
「やあ、阿波の人々、そこにいる三位卿もよく聞かれい!」と、かれは道太郎を斬った勢いで大音をあげた。
「――今日を期して幕府の大命雷発《たいめいらいはつ》、京都では公卿《くげ》の間に、いっせい所司代の陰謀しらべが開始され、上下騒動をきわめておるぞ。同時に、町々は浪人の狩立《かりた》て、江戸表では長沢町の山県大弐《やまがただいに》、一昨夜南町奉行所の捕手にからめられて、一味のこらず、揚屋入《あがりやい》りとあいなった。また、宇治の竹内式部へも召捕りの人数が向い、公儀より正式に徳島城へ向って、大目付副使《おおめつけふくし》、ふたりの上使が立てられ、すでに今朝《こんちよう》は大阪を出発した筈――もう多くの弁にも及ぶまい、すなわち、陰謀露顕《いんぼうろけん》、惜しむべし、蓬庵公《ほうあんこう》以来の阿波二十五万六千石、近くお取潰《とりつぶ》しのお沙汰《さた》であろうぞ!」
頭巾《ずきん》と侏儒《こびと》
機智は功を奏して、鴻山の高くいった声は、青天のへきれきほど阿波方《あわがた》の者を驚かせた。
むらがってきた原士は、足もとの大地を揺《ゆ》すられたように、剣をつかんでいる手すらも茫然と、
「ウーム、では、幕府に先手を打たれたのか」
と、悲痛なつぶやきに、暗澹《あんたん》な面持を見あってしまった。
突如――それは三位卿の、口から血を吐いたような叫びであった。
「大事は破れたッ……ああ京都……王室の御迷惑、諸卿《しよきよう》の難儀……罪は有村にある」
とたんに、かれは頸動脈《けいどうみやく》に刃《やいば》をあてて、おのれの身を芒《すすき》むらへ、どうと、横ざまに仆したのであった。
「やっ?」
「あ、有村様ッ」
「おおっ、三位卿が自刃された」
八、九人の原士は、かれのまわりへ黒くなって集まった。だが、抱き起こされた三位卿はもう悲壮な死顔をしていた。
慷慨《こうがい》の気にとむ白皙《はくせき》の青年|公卿《くげ》がいさぎよい自害は、さすがに、そこへ駆け寄ってきた弦之丞の心をもうった。
鴻山も万吉も、口もとを固くして、それを見つめる。
「かれも一個の志士であった。世に遇《あ》わない不幸児であった。もし、尊王討幕の実があがる暁はあっても、ついにかれは無名の一公卿に終るだろう」
人は知らず、弦之丞だけは、ひそかに一掬《いつきく》の涙をもって、かれの死を見まもった。
すると、その様子などには目もくれないで、ひとり無念そうにたたずんでいた孫兵衛は、衆皆《みな》、有村の自殺に気をとられている隙をみて、
「ええ、気が弱《よえ》えッ」
と自他を罵《ののし》るごとくいって、またも、不意に大刀を揮《ふる》った。
かれの眼に映じたものは第一にお綱であった。狙われたお綱は、サッと見た流刃《りゆうじん》に肩をちぢめたが、吹かれた髪の毛を助広の尖《さき》にかすられた。
「うぬ、てめえと弦之丞だけは」
悪鬼は破れかぶれとなって、
「――冥途《めいど》の道づれだッ」
と盲目的に斬ってかかるやつを「野郎!」と万吉、飛びついて孫兵衛の腕くびをねじおさえ、
「もうこの辺が運のつきだろう、往生ぎわをよく観念してしまえ」
捕縄《とりなわ》の輪をこかそうとすると、
「ちッ、くそでもくらえ!」柄《つか》がしらに小手を叩かれて、万吉はかれの足もとへもんどり打つ。孫兵衛は狂った夜叉《やしや》のように、こんどは常木鴻山へ跳びかかった。鴻山は身をかまえてとび開く。万吉ははね起きて捕縄を走らせた。――が捕縄はかれの刃《は》に当たって用をなさなかった。
荒れ狂う助広の光に、草の葉が塵《ちり》になって飛んだ。ともう、孫兵衛は次の行動に移っていた――お綱の避けた姿を見て、それをふりかぶって行ったのである。
だが、途端に孫兵衛、わッと獣《けもの》じみた呻《うめ》きをあげ、爪先立ちに身をもがいた。最前から見すましていた弦之丞が、左剣、わき腹をえぐったのだ。
お綱お綱と、鴻山に声をかけられて、かの女はハッと吾に返った。新藤五の刀で夢中で孫兵衛の右手《めて》を斬って落した時、弦之丞もえぐった刃《やいば》をスッと放して対手《あいて》の体を反対に突いた。
「ううっ……」と、仰むけにぶっ仆れたお十夜は、ひとつ、大きな波を肋骨《あばら》に打って、こんこんと噴《ふ》きでる黒血の中に断末をとげた。
「…………」
瞬間は無言。
皆、ほっと、息を吐《つ》いているばかりだった。
原士の残る者たちは、阿波本国の取潰《とりつぶ》しと聞いて、闘う気もくじけ、いつのまにか三位卿の死骸を抱えて、麓のほうへ逃げ散っていた。
「……頭巾を? ……」
兇悪な孫兵衛を討ち止めるとともに、ふと、剣山での父の死を目にうかべて、熱い涙がにじみだしてくるのを感じていたお綱は、どこかで、こういう声にささやかれた。
「孫兵衛の頭巾を? ……」
それは、世阿弥《よあみ》が、死のまぎわに、口に洩らしかけてこと切《ぎ》れた謎のことばであった。
このことは、桃谷の家で、弦之丞にも万吉にも話してあった。で今、弦之丞は止刀《とどめ》を刺した後に、孫兵衛のその頭巾をさし伸べた。
鴻山も一種の猟奇心に駆られてジッと立っている。今は、解かれることを拒み得ないお十夜頭巾。
めくりだされるものはなんであろうか? 一同、思わず固唾《かたず》をのんで、弦之丞の手に解かれてゆく黒布に眸《ひとみ》を吸われていると、
「しばらく」
と、一同の後《うし》ろから、ゴソゴソと草むらをかき分けて、そこへ、這いかがんだ者がある。
「? ……」
甲虫《かぶとむし》のように、手をついた男を見ると、かつて見かけたことのない、町人とも武士ともつかぬひとりの侏儒《こびと》だ。
だしぬけに風態《ふうてい》見当のつかぬ侏儒が、「しばらく!」といってそこへかがまったので、この場合ではあったが皆、思わずいぶかしげにふりかえると、
「私の役目は、今日《こんにち》をもって終りました。それについてお願いの儀、お聞き届け願いとうございます」
と、ばかにていねいな切口上で、その侏儒がまたいった。
「そちはいったい何者であるか?」
こう訊ねたのは鴻山である。
侏儒はやや怖《おそ》るるような目色をしたが、
「はい、私は阿波の者でござります」と悪びれずに――「ご承知でもございましょうが、原士の長《おさ》、龍耳《りゆうじ》老人とおっしゃる方の飛耳張目《ひじちようもく》に使われまする者で、永年の間、私のいいつけられていた役目は、関屋孫兵衛の頭巾を監視することでございました。――関屋孫兵衛をご承知のお人でも、私の影を、きょうまで見たお方はございますまい、けれど手前はここ数年来、かれが江戸へまいれば江戸へ、上方へくれば上方に、寸刻も離れることなく、影と形のように、つきまとうていたのでございます」
侏儒は、その隠身《おんしん》の働きぶりを、やや自慢らしい顔で話しつづける。
「――で手前は役目としまして、月に一度は某所某時刻で、きっと孫兵衛の頭巾のうちをあらためることになっておりました。そして、龍耳老人に別状のない儀を知らせてまいりました。けれど、その関屋孫兵衛も、ここに最期を遂げましたからには、自然、手前の役目も終ったわけで、もう用のない体、阿波へ立ち帰ろうと存じまする」
万吉もお綱も、奇異な侏儒の話は、幻奇な物語を聞くような心地がしていたが、弦之丞には、かれの頭巾と侏儒の関係が、今は明らかにうなずけて、鴻山に代って一歩前へ出た。
「龍耳老人、あの方なら拙者も存じておる。してそちが今、吾々に願いがあるといったのは、どういうことであるな?」
「ほかでもございませんが」
「うむ、申してみい」
「関屋孫兵衛の首をお貰い申したいのでございます。かれの首を持って、阿波へ立ち帰りたいと存じますので」
「孫兵衛の首をくれろというのか」
「役目を終りました証《あかし》として、頭巾ぐるみ、川島|郷《ごう》へ持って帰りたいのでございます」
「しかし、待て、一応は、かれの頭巾を検《あらた》めてみねば」
というと、侏儒《こびと》は心得たさまで、
「もう徳島城の御陰謀も、幕府のほうへ知られました今日、ほかの、小さな秘密を固持する必要はございますまい。――といったところで、それはこのたびの事件とは、まったく縁のない、別のものでございますが」
「おお、ではそちの手であれを解くか」
「明らさまに申し上げましょう、しばらく、そこにお待ちを願います」
こういうと侏儒は、矮短《わいたん》な身を起こして、孫兵衛の死骸のそばへ歩いていった。
その酸鼻《さんび》に、面《おもて》をそむける様子もなく、孫兵衛の頭巾の上からもとどりをつかみ、胸をもって押しつけるような形をしていたかと思うと、ぶっすり、首を切り離して草の上へ置き、短い刃物《はもの》の血糊《のり》を拭いて、ニヤリと意味のない、不気味な笑みをこちらへ向けた。
「……?」
斬りさいなんでも飽きたらない仇《あだ》とはいえ、侏儒の刃物で無造作に切りはなされた孫兵衛の生首《なまくび》には、お綱も思わず面《おもて》をそむけたくなった。
いつか、お千絵は、まだやまないふるえを歯の根にかんで、お綱の裾《すそ》にすがっていた。
弦之丞、鴻山、万吉。
いよいよ不思議な侏儒の所作《しよさ》を見まもって、そこに立ち並んでいる。
侏儒は、首となった孫兵衛の頭巾を、その人々の凝視《ぎようし》の前にとって見せた。
「関屋孫兵衛の悩みはこれでございました」
黒布を剥《は》いでみればお十夜孫兵衛、死首ながら立派な男前である。
兇悪遂に身をほろぼした、かれの凄味《すごみ》と、断末の無念そうな眉間《みけん》の影は消えていないが、頭巾をとれば年頃まだ三十に足らず、白蝋青隈《はくろうあおくま》の死相、ほつれ毛たれて耳朶《みみたぶ》に一点の血、生ける時の兇相よりは、むしろ美男に見えたくらいである。
髪は浪人たぶさに結っている。
「月代《さかやき》を剃《そ》ること、また、これを自由に抜くことなりませぬ」と、かれの母が遺言で、龍耳老人に誓わせられたその頭《つむり》には、何が与えられてあったろうか!
侏儒が黒布を解いたせつなに、生首の髷《まげ》に、さんらんと、見る者の眼を射るものが挿《さ》してあった。そして月代《さかやき》の青額《あおびたい》には、当時、きびしい禁教の象徴として忌《い》みおそれられている十字架《じゆうじか》の傷が痕《あと》になって残っていた。
髷《まげ》にさしてあったさんらんたる美光の品も、それにゆかりのある、泰西《たいせい》名工の彫琢《ちようたく》、白金彫《はつきんぼり》聖母《せいぼ》マリヤの笄《こうがい》なのであった。生首の髷《まげ》に挿されてある白金のマリヤの笄――それをみると、話の先に、侏儒はなぜか、ぼろりと涙をこぼしたのである。
弦之丞をはじめ五人の人々が、固唾《かたず》をのむ疑惑の目の前に、それから、涙をこぼしながら、侏儒《こびと》の話すことであった。
泰西彫工《たいせいちようこう》の鏤刻《るこく》、かがやかしい白金のマリヤ像《ぞう》肉彫《にくぼり》の笄。
――ごらん下さいまし、これがどうして、孫兵衛の髷《まげ》に縫われ、また、抜けない約束のものとなったでしょう?
ご存じはございますまい。
これも阿波では他国へ秘密としていた一ツでございますから。
関屋孫兵衛の母。
あのお方は、イサベラ様とおっしゃいます。元和《げんな》以前、海をこえて、日本へ宣教に来られた、スペインの女《おんな》修士《いるまん》、ご承知でもございましょう。五十五聖徒の殉教者のひとり、老女ルシヤ様のつれていた娘が、後に、天草《あまくさ》の原《はら》ノ城《しろ》へ入りました。
孫兵衛の母者人《ははじやびと》イサベラ様はマリヤの笄とともに、その異国の人の血をひいてきたお方でございます。ほんとに円満な、聖母そのままな、慈愛の深いお方でした。
あのお方のことを思うので、私はつい涙ぐまれるのでございます……。
そんないいお人のイサベラ様の子に、悪魔《サタン》孫兵衛が生れました。なんという皮肉、イサベラ様は生涯孫兵衛のことでご苦労なさいました。死ぬまぎわまで……。
ですが。
どうしてそういう人が、阿波にいるかというご不審をおもちでしょう。川島郷の七人衆の原士、あの方々も寛永《かんえい》の昔、島原《しまばら》の一揆戦《いつきせん》がみじめな敗れとなった時、天草灘《あまくさなだ》から海づたいに、阿波へ漂泊《ひようはく》してきた落武者の子孫なのでございました。
孫兵衛の母イサベラ様の幾代目かの御先祖――黄金《こがね》色の髪の毛に愛くるしい琥珀《こはく》の眼をもった異国娘も、その時、武装した切支丹《きりしたん》武士に手をひかれて、阿波の海辺へ上がりました。
そのような話、冬ごもりの炉《ろ》べりでは、私の子供の時など、よく年寄から聞かされたものでございます。
当時、阿波の御領主は、有名な義伝公《ぎでんこう》で、あのとおり豪邁《ごうまい》で、徳川家に楯をついたお方――天草の余党はあの君のお情けで、阿波の奥地へ棲むようになりました。原士の中に七家の切支丹族が今日まで連綿《れんめん》としてきて、しかも、秘密に信仰を保ってこられたのは、ひとつの奇蹟と申されます。
マリヤの笄は代々孫兵衛の家につたえられ、仏間と見せかけて実は祈祷《きとう》の部屋である柱の切嵌《きりは》めに埋めて、七家のものの信仰の像《かたち》とあがめておりました。その笄が、今孫兵衛の髷《まげ》に刺さっておるこの品なのでございます。
慈恩の笄でございます、母性愛の光でございます、子を憂《うりよ》うる孫兵衛の母が、いまわの際《きわ》の意見を縫いつけた呪縛《じゆばく》の針でございます。
申すまでもなく、切支丹は禁教。
天主《デウス》を口にとなえることはおろか、刀の鍔《つば》の裏に、十字に似た模様が彫ってあっただけでさえ、逆磔《さかはりつけ》になった侍がありまする。
月代《さかやき》に十字の傷痕《きずあと》、髷《まげ》にマリヤの笄を刺された孫兵衛は、まったくひとつの呪縛にかかりました。
頭巾をとけば禁教者とみなされ、月代《さかやき》をのばし笄を抜きすてれば、イサベラ様の臨終の枕元で、七家の衆《しゆう》立会《たちあ》いで誓わせられたとおり、龍耳《りゆうじ》老人の暗殺の手が下ります。そして私という者が、たえず影にいて、それを監視してまいったのですから、さすがの悪魔《サタン》孫兵衛も、あれで、自分の思う悪事を百にひとつもやれなかったのでございます。
孫兵衛の悩み。
十夜頭巾の呪縛。
もう、これで、皆様にも、すべてお分りでございましょう。
けれど私は、孫兵衛の永い間の苦痛よりも、その悩みを子に与えて、かれを改悟《かいご》させようとした、イサベラ様の臨終のお心持を、お察し申さずにおられませぬ。
信仰の力もございましょう。しかし、女親の愛、ことに悪人の子をもったイサベラ様、深い慈愛をお見せ下さいました。弦之丞殿の手にかかって、孫兵衛はついに無残な死を遂げましたようなものの、もし、愛の呪縛がなかったら、もっと世の中に悪名を売り、一族を亡《な》くして、その身も、刑吏の錆槍《さびやり》でえぐられたに違いありますまい。
慾でかかった仕事とはいい条、恩義のある阿波方に組して、これ以上の悪名をのがれただけでも、母親のお心に届いております。
で……手前、孫兵衛の首を郷里に持ち帰り、龍耳老人や七家の衆に、この次第をつぶさに話し、白金の笄は、イサベラ様の墓石の下へお返しいたしたいと存じますので。
どうか、孫兵衛の首は笄をさしたまま、私におつかわし願いとうございます。はい、最前お頼みと申しましたのは右様《みぎよう》な次第、皆様、このとおり、両手をついてお願い申しまする。
と、侏儒《こびと》は話し終って頭《かしら》を下げた。それと一緒に、ほっと、誰ともなく息をついた。
黙然《もくねん》と、うす目を閉じて、侏儒の語るのを聞いていた弦之丞は、その時、何思ったか、万吉の手からお綱へ渡されていた秘帖《ひちよう》をとって、ピリッと、二ツに引き裂いた。
「あっ?」
色をかえた人々の目は、とびつくように、弦之丞の手もとを見あった。
山千禽《やまちどり》
「よし、孫兵衛のことは、そちの自由にするがよい」
キッパリといった上に弦之丞は、二つに破った秘帖《ひちよう》の一半を、侏儒《こびと》の手へさずけた。
「これは?」
「これは龍耳老人へおくる弦之丞の寸志じゃ。帰国の上は、何もいわずに、孫兵衛の首級《しるし》にそえて、お渡しいたしてくれい」
ああ、さてはと、いちどは驚目《きようもく》をみはった万吉も鴻山《こうざん》も、弦之丞の言外にある心を汲んで、ひそかに思った。
お綱と弦之丞とは、さきに、剣山でとうていのがれ得ぬはずの危地を、龍耳老人のために救われている。それは、老人の思想と主家の将来を思うところによるとはいえ、救われた者には、大なる恩義であらねばならぬ。
理由もいわずに弦之丞が、せっかく手に入れた秘帖の一端を裂いて老人へ贈ったのは、それに酬《むく》う武道の情義であった。いいかえれば、恩讐《おんしゆう》を超えた心と心の答礼だった。
「ありがとうぞんじます」
侏儒はそれをふところに納め、孫兵衛の首級《しるし》を袖にくるんで、
「では、皆様」と、もう一度辞儀をして、阿波川島の郷里へ帰るべく、急ぎ足に麓《ふもと》の近道を拾っていった。
後に思いあわせれば――。
徳島城の城地没収《じようちぼつしゆう》、二十五万石|取潰《とりつぶ》しの審議が老中議判《ろうじゆうぎはん》となった時、唯一の証拠である、世阿弥《よあみ》血筆の秘帖の一部が裂きとられてあったため、そこの数ヵ条の肝腎《かんじん》な個所が不明となり、蜂須賀家の申しひらきが幾分か立って、あやうく断絶の憂《う》き目《め》をまぬがれ、重喜《しげよし》の永蟄居《えいちつきよ》だけで、一大名の瓦解《がかい》を見ずに落着したのは、まったくその時、侏儒のふところに持ち帰された一紙片の力といえるもので、思えば弦之丞が龍耳老人へ酬《むく》いたものは、大きな贈り物であった。
しかし、それは後日になって、当面の人たちだけが思い当たって感謝したことだ。……今、侏儒の姿が麓へ小さく隠れてゆくのを見送っている弦之丞には、頬の微笑と、快い感情の波が人知れず胸にうった。
かれは手に残った秘帖の一部を鴻山に渡して、これは自分の使命のしるし、所司代松平左京之介殿の手をへて、幕府へ委細の復命をたのみたいといった。
「いや」
と鴻山は固く辞退した。
「この事件になんの功もない拙者が、それを携《たずさ》えて幕府の歓待にのぞむのは僭越《せんえつ》でもあり、第一資格のない自身として恥入りまする。京都の左京之介様、また江戸表でも将軍家をはじめ、貴殿の肉親の人々も、どれほどか、噂をきいてそこもとの偉功をたたえて待っているか知れますまい。いわば栄《はえ》ある凱陣《がいじん》の将、拙者も万吉もほかの者も皆、御同道申しあげよう。ぜひとも、それは御自身で江戸表へ」
と、すすめるのを、弦之丞は手を振って、
「御厚意のほどはありがたく思いまするが、実は、自分の一個の存念で、このまま、江戸へは帰らぬ覚悟でござります」
「えっ」
と鴻山は、その心を計りかねるように、
「そりゃ、なぜでござるか?」と弾《はず》みこんでまたすぐに、
「何か、徳川家に対して、ご不平でも? ……」と探るように顔色を見た。
なぜ?
それはお綱にも万吉にも、同時に怪しまれたことだった。ことに、お千絵はなつかしい人の姿を目の前にしながら、まだあたりの人の手前、ひとことも口をかわされないでいたが、にわかに悲しげな色が眉を曇らしている。
「決して」
弦之丞は鴻山の言葉を否定して、
「不平などはみじんござりませぬ。そう誤解して下されては困る。そのことは、とうから心にもっていた拙者の宿望です。――幸いにして、なかるべき筈の一命をたもち、父祖食禄《ふそしよくろく》をうけてきた幕府へも、いささか報恩の労をつくし得たことは、法月家の不肖児《ふしようじ》弦之丞としてできすぎた僥倖《ぎようこう》。なんで、それが誇り、なんで、望外な出世をのぞみましょうや。ただ、慾には、この微功をもって、お千絵殿の家名が立ち、また、ほかの方々にも何らかのお沙汰がありとすれば、拙者の本分、これ以上はないのでござる」
「いや、それでは、お千絵殿をはじめ、他の者も、第一この鴻山にしても、自身の本望はとげたにしても寝ざめのよくない心地がする。ぜひ、貴殿もいちどは江戸へ御帰府あるようにおすすめいたす。いや、お願いする!」
と、鴻山は熱をこめて言った。
その言葉は、お千絵の秘している心を代弁してくれるようであった。同時に、万吉もいわんとする気持を鴻山がつくしてくれたような気がした。
しかし、お綱の考えはどうであったろうか? すくなくも今のお綱の胸のうちは千々《ちぢ》にみだれているに違いない。ひとり、襟《えり》に深く手をさし入れてうつむいている姿を見ても、その悩ましさが思いやられる。
いつか陽脚《ひあし》が傾いてきた。紫のひだを濃くしてゆく山の姿は夕暮の近さを示してきた。
と――あなたの小高い林をぬけてくる人数が見えた。奥甲賀の山間《やまあい》に陽がおちるまでと約束した、与力中西|弥惣兵衛《やそべえ》と、その手の捕方《とりかた》の影であった。
弦之丞はまたこういった。
「自分は純然たる幕府方の人間のようであって、まことは幕府に忠実な者ではござらぬ。それは今、秘帖の一半を裂いて阿波へ返してやった不審な行為でもお分りになろう」
と、あくまで、鴻山の切なすすめを拒んで、
「――底意《そこい》を申せば、弦之丞めも、当今、皇学尊重のふうを非義とは存じられませぬ、むしろ、ひそかに王室の御衰微《ごすいび》をなげいている一人なのでござります」
と、矛盾《むじゆん》な気持を初めて明かした。
江戸に籍をおく身であって、一面、反幕府派と称せらるる皇学中心の運動をも、どうしても否定しきれないところに、かれの憂鬱が常にあった。
その矛盾《むじゆん》を乗りこえて、かれをここまで勇躍させてきた力は、幕府のためというよりも、剣山で龍耳《りゆうじ》老人に告白したとおり、恋、義理、涙、そういうきずなにはきわめて弱いかれの個性――凡人凡智《ぼんじんぼんち》の情熱である。
今またその告白をくり返して――
「なんでこのふた心と矛盾を抱いて、これ以上、幕府の栄禄《えいろく》を食《は》み得ましょうか!」
というのだった。
「多少、江戸表にも、心のひかれることがない身ではござらぬが、果てしのない凡情の延長へ辿《たど》ってゆくより、むしろこのまま帰府を断念して、元の虚無僧、一管の竹笛《ちくてき》に余生を任して旅に終るほうが、自由で本望に思われます。拙者のためにと仰せ下さるならば、もうこの上のおすすめ、ひらに御無用に願いたい」
もう鴻山にも万吉にも、出世の無理強《じ》いをすすめるようなありあわせな厚意は、かれの真実と潔癖の前にいいだされなくなった。
で――黙然とうなだれてしまったが、その沈黙がくるとすぐに、わっと、こらえを破って泣く声をきいた。
はっと、皆の目は、泣き伏したお千絵の姿に吸いつけられる。
お千絵は最前から弦之丞の心もちをきいているうちに、あたりが真っ暗におぼえる程な失望に血を激《げき》しながら、今ここで、自分の心をいいだす勇気もなく、目の前を通りすぎて行こうとする運命に対しても、悲しむよりほかの力をもたないかの女であった。
「ああ……」
しかし、その痛々しい姿は、弦之丞の心をみだし、また責める。
ひとつの矛盾をしりぞければ、また新しくひとつの矛盾がなだれてくる。
神のごとき純なお千絵に、生涯の傷手《いたで》を与えて去ることは、かの女を幸福にすべく起った初志をみずから裏切っていないだろうか。
また、ちょうど同じこの禅定寺《ぜんじようじ》峠で、去年の夏――お千絵様を! と合掌して落命した唐草銀五郎《からくさぎんごろう》に対しても、破誓《はせい》の罪がないだろうか。
理性はそれを問う、良心は弦之丞にそれを責める。
といって?
ここまで永い苦難をともにしてきたお綱を。ああ、お綱をどうしよう?
弦之丞も今はそのお綱を、分りきっている嘆きの底に突き落して顧みぬほど、冷《ひや》やかにはなりきれない。
ましてや、ふたりは義理のある仲である。かれも、それを思いこれを思う時は、凡智の男になって断腸の思いがするのだ。いや、弦之丞でなくとも、誰かよくこの数奇《さつき》に結ばれた運命を公平に裁き得るだろうか。
「ゆるしてくれ」
苦しい、心の遠くで、
「旅だ、果てのない旅だ。わしは未来の靄《もや》に姿をぼかして行こう。忘れてくれ、お綱も、お千絵も……」
と思いきる。
ふと、かれは唇のふるえを噛んで、あらぬ方《かた》へ面《おもて》をそむけた。
さっきから、お綱は何ごともいわず、化石したように、じっとうつむいたきりであったが、苦悶の横顔に、ありありと弦之丞の胸を察して、今は、いたたまれないような気持に迫られていた。
と――不意に、お綱は自身から、悲嘆や愛執《あいしゆう》や、すべての情感を切り破って出るように、
「もし! ……」
と叫んで、その人の足もとへ、ふっさりした黒髪を体ぐるみ投げ伏せた。
「弦之丞様!」
両手をついて、紙のような顔色をあげたが、目や鼻へ熱いものが胸もとからこみあげて、激情の剃刀《かみそり》でズタズタに切り裂かれてゆくような神経は、まとまりもなく乱れた脈を全身にうって、
「弦之丞様! もし弦之丞様! 今のおことば、ご無理ではございませぬが、お可哀そうなお人のために、どうか、江戸表へ帰って上げて下さいまし、わ、わたしも、一緒になってこの通りお願いします……、お、お千絵様をつれて、どうぞ江戸へ……」
と一念になって言ったが、自分でも何を叫んでいるのか分らない悩乱《のうらん》にくるまれていた。
榛《はん》の木の上に、夕月が浮いて出た。
その時。
ガサ、ガサとこっちへ寄ってきた中西与力と捕手の者は、もう約束をすぎて、夕月さえ見る刻限となったので、少し、じれだしながら、咳払《せきばら》いをした。
無情を公明という法縄十手《ほうじようじつて》は、ともすると、折や場合に仮借なく、暗い榛《はん》の木の蔭からここへ飛ぼうとする気色《けしき》!
ギクッと胸に釘を打たれながら天満の万吉、前には、お綱の今の言葉に泣くまいとする程男泣きの涙がもろくこぼれるし、うしろのほうへは、人知れずハラハラと気がねをして、
「頼む、頼む、もう少しの間」
と、それも口には出せず、目まぜで哀願しているのであった。
中西弥惣兵衛の考えでは、万一そこにいる者たちが違約をして、お綱を逃がすことがないとも限らぬ――という懸念《けねん》があるので、そっと、麓から捕手の加勢を呼びあげて、十分に手を固め、目も放たずに見張っていた。
万吉は板ばさみの苦境に立った。
固い言質《げんち》をとられている!
自身十手もちの目明しでありながら、十手にびくびくおびやかされなければならない万吉も、弦之丞がもつ苦しみとともに、これまた、人情が生んだ不思議な矛盾だ。
「どうぞ思いなおして、お千絵様のために、江戸へ帰って上げて下さいまし」
と、重ねて手をついて頼むお綱の手を、吾知らず、弦之丞はすくい取っていた。
「お前の心はよく分る!」
というように。
指へ痛くしびれてくるふるえが、お綱の涙をいっぺんに誘いかけた。だが、お綱は、ここでは決して泣き顔を見せまいとして、暴風のような激情と闘っていた。
「わしは幕府へ仕える気がすすまぬのだ。ゆるしてくれ、このわがままを。何と思いなおしても、江戸へ帰る気にはなれない拙者だ。で……それよりは、お前たち姉妹《きようだい》こそ」
と弦之丞は、お千絵の顔をジッと見て、
「ゆく末、むつまじく暮らしてくれ」
と力をこめて、ふたりにいった。
「えっ……?」
お千絵は耳を疑った。
姉妹? 誰と?
今、弦之丞はそういったのではないか。と泣きはれた目をみはったが、思い当たったものか、サッと顔の色をさめさせて、その眸を、お綱のほうへ向けかえたのであった。常木鴻山も、今はつつんでいた仔細を話して、お千絵に義理の姉をひきあわせる時機であろうと考えて、唇をうごかしかけたが、
「いいえ! いいえ!」
と、その間もないような早口で、お綱はすべてをさえぎって、名乗ることも避けて言った。
「弦之丞様、もうなんにも申しますまい。江戸へ帰ってくれともお頼みいたしません。ですけれど、たとえ旅から旅でお暮らしなさるにしても、お千絵様の身だけは永く見てあげて下さいね……ご、後生でございます。お綱があなたに最後のお願いは、たった、それひとつでございます。それさえかなえて下されば、わ、わたしは、自分があなたと暮らす身になったのと同じように、うれしいと思います! ……本望です! ……江戸の女の負け惜しみではございませぬ、心の底から、蔭にいても、おふたりのお幸せを祈っています」
「…………」
「返辞はどうなさいました。おっしゃって下さい、弦之丞様、承知したというひと言《こと》! それを聞いて、わたしはもう……行かなければならない所があるのです。そこへ、迎えが来ている体でございますから」
「や! ……」とふりかえる弦之丞。
鴻山もお千絵も、いつぞやの人相書を思いあわせて、初めて、救いがたいお綱の危機が、支度をしてのぞんでいる態《てい》に気がついた。
弦之丞は何ともいえぬすくみを、自身におぼえた。そして、棒立ちになっている万吉とともに、暗然とした顔を見あわせてしまったが、やがて、衝《つ》きあげる感情にたまらなくなって、ふたりとも声を洩らさず、背中合せに腕を曲げて、熱涙のたばしる瞼《まぶた》をおさえていた。
――待ちくたびれた様子の捕手は、果てしがないと見てか、急にいらいらとした空気をゆるがせて、
「まだか!」
と、むこうで呶鳴りだした。
エヘン! と職分、ただそれにだけ忠実な中西|弥惣兵衛《やそべえ》は、再三|咳《せき》ばらいをして、かれの耳へ冬の風より辛く、刻限《こくげん》の約束をうながした。
「おお……」と万吉。
あれ程な男も、今は、目睫《もくしよう》にせまった当惑と、足もとの情涙《じようるい》に、意気地もなくうろたえて、手を合して、拝まないばかりに。
「もうしばらく……もうしばらく」
と、一時《いつとき》きざみに、弥惣兵衛や捕手の影へ向って、はかない猶予を頼むのであった。
その、切なげな万吉の立場は、お綱の心に映っている。
で――覚悟をきめたらしく、ほつれ髪を指で梳《す》いて、
「それでは、皆さま」
と、声を澄ませた。
一涙《いちるい》の痕《あと》もみせず、泣いていない顔は、ただ白かった。仮面《めん》のように、うごかない表情の白さだった。
「とうとう時節がまいりました、おそろしい程間違いなく、旧悪の埋合せを取りに来ました。けれど、見返りお綱の兇状を、いっそ、牢舎《ろうや》で洗われてくることは、先が楽しみのような気がいたします。で……皆さま、そういうわけで、私だけは、ここからひと足お先にお別れ申さなければなりませぬ。……永い間、ずいぶんお世話になりました。さようならば、ご機嫌に……法月弦之丞様、お千絵様、常木様、万吉様」
ひとりひとりへ会釈《えしやく》をして、梳《な》であげる鬢《びん》の毛に肱《ひじ》を白く、ツイと立ったかと思うと、その痛ましい足どりの影へ――
「ア……お綱さま」と、お千絵が悲しげな声を風にかすらせる。
「おお、お綱、待て」
と、弦之丞も、剣をとる時の彼とは別人のように、みだれた音を重ね呼びに、
「――お綱、お綱」
と無意識に止めたが、それにさえ、耳をおさえて逃げるように、かの女は、疲れきった姿の細い影法師を、ふらふらと、青い月の色へよろめかせて行った。
大地いッぱいに光る草露は、みんな、泣かぬ自分の涙かとも思えて、
「ああ、ぜひがねえ」
今は! ……と天満の万吉。
惑《まど》いがちな私情に鞭打《むちう》って、そのうしろから走りだした。ガッキと口にくわえた銀みがきの十手は、心を鬼にもつうわべの牙《きば》。
飛び寄ったが万吉、うしろから廻した手はいたわるようにそっと抱き止めて、
「お綱、御用……」
と、力のない涙の捕縄《とりなわ》。
やわらかに掛けて廻した。
かの女の指は帯のうしろで、自分から捕縄をつかんでいた。そして、かれと自分との奇《く》しき因縁を回顧するように、
「……万吉さん」
と、感慨を目にこめてふりかえった。
すぐに、中西弥惣兵衛は組子《くみこ》をつれてバラバラと駆けてくる。
捕渡《とりわた》しの法則どおり一札《いつさつ》を渡されたが、万吉には見る気力もなく、縄尻が先方の手に移るとともに、お綱はもうなんら同情もない人相書一枚の女スリとして扱われた。
「歩けッ!」
と、月にひとすじのむごたらしい縄が、黒い影と影とをつないで、万吉も鴻山もお千絵も思わず面《おもて》をそむけさせられた。
ひとり、弦之丞だけは、黙然とそこを去って、あなたの榛《はん》の木のかげへ歩んでいた。
すると、ちょうどその夕暮に、麓《ふもと》の禅定寺の寺男に様子を聞きただしていた女が、ふたりの幼い者の手をひいて、月明りをたよりに、この峠へ息をせいて登ってきた。
「さぞ疲れたろう、くたびれたろうね。お前たちの足では無理な道だったもの。けれど、寺の人の話から推して考えてみても、きっと、この上にいるに違いない。もう少しの道だろうから、辛抱おしよ、ね、我慢をして歩いておくれ」
こういっているのは四国屋のお久良《くら》。
「おばさん、おいらはちっとも足が痛くないよ、こんな道ぐらい何でもないや」
と、それに答えて元気なのは、手をひかれている乙吉だった。
「あたいだって……」
と姉のお三輪も負けない気でいう。
「暗くっても怖くはない。お綱姉さんに会えるんだもの。ねエ、おばさん」
「ほんとに、お綱姉さんはこの上にいるの?」
と、乙吉はその尾について、足を弾《はず》ませながら、連れられてゆくお久良の手をグングンと引っ張って行く。
「昨夜《ゆうべ》わざわざ万吉さんが、禅定寺で落ちあうからと、寮へ知らせてきたことだから、決して、嘘《うそ》じゃないだろう、お綱さんは、きっとお前たちを待っていますよ」
「うれしい!」
「あたいの姉ちゃん! お綱姉ちゃん!」
ふたりは童心を躍らせた。
月光はむごく冴えつける。
お綱は、あさましい自分の影を大地に見た。
「お前は、なんていう数奇《さつき》な因果を、ひとりであつめた人間だえ? ……」と他人になって、その影を、しみじみといたわり慰めてやりたかった。
そして――
「歩けッ」「いそぐんだ!」
と、口癖にどなる捕手に縄尻《なわじり》を突かれて、峠の坂路を、暗い沼へ辷《すべ》ってゆくような気持で、ひと足ずつ、名残おしい人々からも遠ざかってゆくのであった。
が――より以上、切ない、胸苦しいかたまりは、むしろ、無情な成行きを、傍観的に見送っていなければならない、後の人々に残された。
お千絵は泣きはれた目を――鴻山は憮然《ぶぜん》とした腕ぐみを――また万吉は魂を抜かれたような哀別を――みな茫然と下りてゆく影へ送っていた。
それが、見えなくなった後も、喪心《そうしん》した人間のごとく、じっと立ちつくしている。夜虹《よにじ》のような天《あま》の川と秋風のささやきがその上にあった。
突然! 谷底へでも突き落とされたような悲鳴が、ヒイーッと山の静寂《せいじやく》を破った。それは、ただの恐怖や単純な驚きとは思えぬ、強く胸を衝ってくる稚《おさな》い者の絶叫だった。
「姉ちゃアン! 姉ちゃんを助けてッ……」
と、たった一声。
「あっ……そうだ!」
と万吉は、初めて、どやされたように思いだしたことがあって、
「悪かった! 途中で出《で》っ会《くわ》したか。ウウム、こういうことになるなら、知らせておくんじゃなかったのに」
と、足もとも見ずに、駈け下りて行った。
と、やがて万吉は、お久良と一緒に汗をかいて、泣きわめくお三輪と乙吉を、ひきずるように抱えてきた。
けれど聞き分けのない童心は、どんなになだめすかす言葉もうけ入れないで、あらん限りの声を木魂《こだま》につンざかせて、
「いやだ、おさえちゃいやだッ」
「助けてよう! 姉ちゃんがつれられてゆく」
「お綱姉ちゃアん! ……」
「離してッ、おさえちゃいやだ。おじさん、ばか! ばか! ばか!」
と、抱き止めるものの手を夢中で引ッ掻いた。
だがそれも、どこからか、思いがけない一節切《ひとよぎり》の音が流れてくるとともに、たかぶっていた幼い神経をなだめられて、シーンと深い静寂《しじま》に返ってバッタリと泣きやんだ。
葛《くず》、山萩、女郎花《おみなえし》、雑草にまじる青白い蕎麦《そば》の花、盛りあがった土のまわりに、離々《りり》と露をたたえている。その土《ど》まんじゅうの上にのせてある一ツの石こそ、前の年、この禅定寺峠で、犠牲的な死をとげた唐草銀五郎の空骸《むくろ》を埋《い》けた跡の目じるし。
弦之丞はそこへ来ていた。
瞑目《めいもく》していた。
心の平調をとり戻すことにかれは苦しんだ。そして、ふと珍しく一節切《ひとよぎり》の竹を手にとって、歌口をしめした。嫋々《じようじよう》とすさびだされる音は、かれの乱れた心腸《しんちよう》をだんだんにととのえてきた。無我、無想、月の秋。
大津|時雨《しぐれ》堂《どう》の夜が思いだされる。銀五郎は自分の望みが達しられた今日、うれしい手向《たむけ》と聞くであろう。かなたの木の蔭でも、万吉やお千絵やお久良や、ほかの者も、みな影を一ツに寄せて聞きとれていた。――そして、なおまだ遠くへは行くまい縄付のお綱も、せめて、淡い満足を感じて月にニッコとしたであろう。よしや、月夜の風邪《かぜ》、また新しい寒さを骨身に沁《し》みてよび起こされても、かの女の好きな山千禽《やまちどり》の曲。
* * *
却説《さて》。江州甲賀《ごうしゆうこうが》の山奥|木賊《とくさ》村庄屋|家記《かき》によると、弦之丞は両刀をすて、農となってその地で終っている。子孫があった点や隠栖《いんせい》した土地の縁故を考えても、明るい山村の耕地に、麦を踏み、鍬《くわ》をもって、良人《おつと》とともに働いた女性《によしよう》は、お千絵であったと思われる。
かれが裂いて返した秘帖の一片で、阿波は一城とりつぶしの厄《やく》をまぬがれ、禁門堂上の騒擾《そうじよう》もきわめて軽微にすんだ。が、阿波守重喜《あわのかみしげよし》だけは、当面の人物だけに、すぐ家督を子の千松丸《せんまつまる》にゆずり、親族|秋元摂津守《あきもとせつつのかみ》へ預けの身となった。
後に、秋元家から徳島へ帰ったが、幽閉は解かれず、籠居《ろうきよ》およそ四十二年、三十五歳から七十余歳まで例のない終身蟄居《しゆうしんちつきよ》のまま、文化十四年三月、謫所《たくしよ》で生涯をおえている。
一国の大名として稀有《けう》なかれの不幸が、なんとなく、剣山の終身牢を思わせるような生涯だったのは奇であるが、死後二十年の後には、かれの理想どおり、尊王の声が国内にみちていた。
江戸へ差立てになるかと思ったお綱は、京都町奉行所の仮牢《かりろう》を、たった一晩の牢舎でゆるされて出た。
無論、背後に、松平左京之介の庇護《ひご》があった。
鴻山はすぐにお綱の身がらを引取りに出た。けれど、かの女はその夜、両手にお三輪と乙吉を連れて出たまま、どこともなく姿を隠した。お綱のあの性格が、どこまでもそういう運命を作るようにできているのか、ついに、その行方さえ知らずとなん。
鳴門秘帖 第三巻 〔完〕
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫4『鳴門秘帖』(一九八九年十月刊)を底本としました。
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作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、作品の時代背景および著者(故人)が差別助長の意図で使用していないこと等を勘み、そのままとしました。読者のご理解を賜わりますよう、お願い申し上げます。