吉川 英治(一)
鳴門秘帖
目 次
上方《かみがた》の巻
夜魔《よま》昼魔《ひるま》
和蘭陀《おらんだ》カルタ
天満浪人《てんまろうにん》
一節切《ひとよぎり》
恋の追分《おいわけ》
阿波侍
そら寝の駈引《かけひき》
月夜《つきよ》の風邪《かぜ》
魔舌紅舌《まぜつくぜつ》
だまり合い
隠《かく》れ家《が》
乱《らん》 刃《じん》
一番船
岐路《きろ》の峠《とうげ》
逢《あい》 引《びき》
生人形《いきにんぎよう》
裸《はだか》 火《び》
血祭り
お船歌《ふなうた》
江戸《えど》の巻
お千絵様
旅川周馬
鏡の裏
悪玉と悪玉
日蔭《ひかげ》の花
江戸大火《えどたいか》
自来也鞘《じらいやざや》
上方《かみがた》の巻
夜魔昼魔《よまひるま》
安治川尻《あじがわじり》に浪が立つのか、寝しずまった町の上を、しきりに夜鳥《よどり》が越えて行く。
びッくりさせる、不粋《ぶすい》なやつ、ギャーッという五位鷺《ごいさぎ》の声も時々、――妙に陰気《いんき》で、うすら寒い空《から》梅雨《つゆ》の晩なのである。
起きているのはここ一軒。青いものがこんもりした町角《まちかど》で、横一窓の油障子《あぶらしようじ》に、ボウと黄色い明りが洩《も》れていて、サヤサヤと縞目《しまめ》を描《か》いている柳の糸。軒には、「堀川会所《ほりかわかいしよ》」とした三尺札が下がっていた。
と、中から、その戸を開けて踏み出しながら――
「辻《つじ》斬りが多い、気をつけろよ」
見廻り四、五人と町役人、西奉行所《にしぶぎようしよ》の提灯《ちようちん》を先にして、ヒタヒタと向うの辻へ消えてしまった。
あとは時折、切れの悪い咳払《せきばら》いが中からするほか、いよいよ世間|森《しん》としきった時分。
「今晩は」
会所の前に佇《たたず》んだ二人の影がある。どっちも、露除《つゆよ》けの笠に素《す》草鞋《わらじ》、合羽《かつぱ》の裾《すそ》から一本落しの鐺《こじり》をのぞかせ、及び腰で戸をコツコツとやりながら、
「ええ、ちょっとものを伺いますが……」
「誰だい」と、すぐ内から返辞があった。
「ありがてえ、起きていますぜ」
後ろの連れへささやいて、ガラリと仕切りを開ける。中は、土間二|坪《つぼ》に床が三畳、町印の提灯箱やら、六尺棒、帳簿、世帯道具の類まであって、一人のおやじが寂然《じやくねん》と構えている。
「何だえ、今ごろに」
錫《すず》の酒瓶《ちろり》を机にのせて、寝酒を舐《な》めていた会所守《かいしよもり》の久六《きゆうろく》は、入ってきたのをジロリと眺めて、
「旅の人だね」
「へい、実は淀《よど》の仕舞船《しまいぶね》で、木村|堤《づつみ》へ着いたは四刻《よつ》頃でしたが、忘れ物をしたために、問屋で思わぬ暇を潰《つぶ》しましたんで」
「ははあ、そこで何かい、どこの旅籠《はたご》でも泊めてくれないという苦情だろう」
「自身番《じしんばん》の証札《あかしふだ》を見せろとか、四刻客《よつきやく》はお断りですとか、今日、大阪入りの初《しよ》ッぱなから、木戸を突かれ通しじゃございませんか」
「当り前だ、町掟《まちおきて》も心得なしに」
「叱言《こごと》を伺いに来た訳じゃござんせん。恐れいりますが、その宿札《やどふだ》と、事のついでに、お心当りの旅籠を一つ……」
「いいとも、宿をさしても上げるが……」と久六、少し役目の形になって、二人の風態《ふうてい》を見直した。
「一応聞きますが、お住居は?」
「江戸浅草の今戸《いまど》で、こちらは親分の唐草銀五郎《からくさぎんごろう》、わっしは待乳《まつち》の多市《たいち》という乾分《こぶん》で」
「ああ、博奕《ばくち》打ちだな」
「どう致しまして、立派な渡世看板《とせいかんばん》があります。大名屋敷で使う唐草瓦《からくさがわら》の窯元《かまもと》で、自然、部屋の者も多いところから、半分はまアそのほうにゃ違いありませんが」
「何をいってるんだ」側《わき》から、銀五郎が押し退《の》けて、多市に代った。
「しゃべらせておくと、きりのねえ奴で恐れ入ります。殊には夜中《やちゆう》、とんだお手数《てかず》を」
「イヤ、どう致して」見ると、若いが地味づくりの男、落ちつきもあるし人品《じんぴん》も立派だ。
「そこで、も一ツ、行く先だけを伺いましょう」
久六も、グッと丁寧に改まる。
「的《あて》は四国、阿波《あわ》の御領《ごりよう》へ渡ります」
「阿波へ? フーン」少しむずかしい顔をして、
「蜂須賀家《はちすかけ》では、十年程前から、ばかに他領者《たりようもの》の入国を嫌って、よほどの御用筋《ごようすじ》か、御家中《ごかちゆう》の手引でもなけりゃ、滅多《めつた》に城下へ入れないという話だが」
「でも、是非の用向きでござりますから」
「そうですか。イヤ、わしがそれまで糺《ただ》すのは筋目違い。いますぐ宿証《やどしよう》を上げますから、それを持って大川南の渡辺すじ、土筆屋《つくしや》和平《わへい》へお泊りなさい」と、こより紙を一枚|剥《は》いで、スラスラと筆をつけだす。
その時その間、何とも怪しい女の影。会所の横の井戸|側《がわ》にしゃがみ込んで、ジッと聞き耳をたてていた。
白い横顔、闇にツイと立ったかと思うと、
「どうも、ありがとう存じました」
中の声と一緒に戸が開《あ》いて、さッと明りが流れて来た。途端に、のしお頭巾の女の魔魅《あやかし》、すばやく姿を消している。
「あ、お待ちなさい――」会所守の久六は何思ったか、あわてて、出かける二人を呼び止めた。
「え、何ですッて?」
唐草銀五郎に乾分《こぶん》の多市、出足を呼び返されて何気なくふりかえると、
「気をつけて行くことだぜ、物騒な刻限《こくげん》だ」
会所の久六が、手真似《てまね》でバッサリ、いやに小声で注意をする。
「フン、辻斬りかあ」多市が鼻ッ先で受けると、
「これ、冗談《じようだん》に聞きなさんな」と、久六は叱るように、「今し方もここへ見えた、見廻り役人の話では、刀試しじゃない物盗《ものと》りの侍《さむらい》で、しかも、毎晩|殺《や》られる手口を見ると、据物斬《すえものぎ》りの達者らしいというこった」
「ご親切様……」銀五郎は丁寧に会釈《えしやく》をして、スタスタと先へ歩きだした。
教えられた道すじどおり、堀川から大川河岸を西へ曲がる。所々に出水《でみず》の土手|壊《くず》れや化けそうな柳の木、その闇の空に燈明《とうみよう》一点、堂島開地《どうじまかいち》の火《ひ》の見櫓《みやぐら》が、せめてこの世らしい一ツの瞬《またた》きであった。
「親分」多市は、追いつくように側へ寄って、
「自身番のおやじ奴《め》よけいなことを言やがったんで、何だかコウ背筋が少し寒くなった」
「おや、てめえはさっき、フン辻斬りかアと涼しい顔をしていたじゃねえか」
「そりゃ、関東者の病《やまい》でしてね」
「出るなと思う奴《やつ》はとかく出たがる。多市、今からてめえの腕前を頼んでおくぜ」
「鶴亀《つるかめ》、いい当てるということがあら。第一、うちの親分は至ってたのもしくねえ」
「なぜ」
「こんな時の要害に、永《なが》の道中、大枚の金をわっしに持たせておくんだからな」
「ばかをいえ、それほどてめえの正直を買っているんだ」
「エエ詰らねえ、明日《あした》からは、少し小出しに費《つか》いこむこッた」無駄口を叩きながら、淀屋橋《よどやばし》の上にかかると、土佐堀《とさぼり》一帯、お蔵《くら》屋敷の白壁も見えだして、少しは気強い思いがある。
その二人は知らなかったが、堀川会所の蔭に潜《ひそ》んでいた、のしお頭巾の女の影はまたいつの間にか後ろをつけて、怪しい糸を手繰《たぐ》ってくるのだった。
「おや? ……」と、渡り越えた橋の袂《たもと》で、待乳《まつち》の多市、不意にギクリと足をすくめてしまった。
「親分、誰か来ますぜ、向うから」
「人の来るのに不思議はない。いい加減にしろよ、臆病者」
「だが、しっかり、目釘《めくぎ》を湿《しめ》していておくんなさいね」
「心配《しんぺい》するな」笑いながら、さっさと足を進めると、なるほど河岸《かし》ッぷちの闇から、チャラリ、チャラリ……と雪踏《せつた》を摺《す》る音。
近づいた時、眸《ひとみ》を大きくして見ると、侍だ。はっきり姿の見えない筈、上下《うえした》黒ぞっきの着流しに、顔まで眉深《まぶか》なお十夜頭巾《じゆうやずきん》。
当時、宝暦《ほうれき》頃から明和《めいわ》にかけて三都、頭巾の大《おお》流行《ばや》り、男がた女形《おんながた》、岡崎《おかざき》頭巾、露《つゆ》頭巾、がんどう頭巾、秀鶴《しゆうかく》頭巾、お小姓《こしよう》頭巾、なげ頭巾、猫も杓子《しやくし》もこの風《ふう》に粋《すい》をこらして、寒いばかりにする物でなくなった。
チャラリ、チャラリと雪踏を鳴らして、今、銀五郎の左を横目づかいにすれ違った黒縮緬《くろちりめん》の十夜頭巾は、五、六|間《けん》行き過ぎてから、そっと足の穿《は》き物をぬぎ、樹の根方へ押しやッた。
かなぐり捨てた羽織もフワリとその上へ――。
と思うと身を屈《かが》めて、双《そう》の眼《まなこ》をやり過ごした闇へ――蝋色《ろいろ》の鞘《さや》は肩より高く後ろへ反《そ》らしてススススと追い縋《すが》ったが音もさせない。
「ウム!」と据物斬《すえものぎ》りの腰、息を含んで、右手は固く、刀の柄糸《つかいと》へ食い込んだ。
グイと前へ身をうねらせる。
斬《や》るな――と思えたが、銀五郎の後ろ構えを、多少手|強《てごわ》く思ったのか、そこでは抜かずにもう一、二間。
すると、場合もあろうに、すぐ足もとの土佐堀《とさぼり》で、ドボーン! と真ッ白な水けむり、不意を食わせて凄じい水玉がかぶった。
「あッ――」と音を揚げたのは待乳の多市。そのほうよりは、後ろの死神に気がついて、
「親分ッ」と、銀五郎を突き飛ばしておいて、自分も宙を飛んでしまった。
「ちぇっ……」舌打ちして戻りかけた侍、ひょいと淀屋橋の上を仰ぐと、のしお形《がた》に顔を包んだ美《い》い女が、橋の手欄《てすり》に頬杖ついて、こっちへニッコリ笑ったものだ。
取って返しの勢いで、十夜頭巾の侍が、ぴたぴたと自分の影へ寄ってくるのに、橋の女は、その欄干に片肱《かたひじ》もたせて澄ましたもの。
馴れない頭巾《もの》と見えて、うるさそうに、解《と》いて丸めて川の中へフワリと捨てた。――ついでに、下からさッとくる風と、頭巾くずれの鬢《びん》の毛を、黄楊《つげ》の荒歯《あらは》でざっと梳《と》いて、そのまま横へ差しておく。
「女!」ズンと凄味《すごみ》のある声だ。
いうまでもなく今の侍、逃がしたほうの身代りに、斬らねば虫が納まるまい。
「あい、わたしのことですか?」
小褄《こづま》を下ろした襟掛《えりかけ》の婀娜女《あだもの》はどこまでも少し笑いを含んで、夏なら涼んでいるという形だ。
「知れたこと、なんで邪魔いたした」
「邪魔をしたって? アアそうか、今わたしが石をほうり込んだので、斬り損なった飛ばッちりを持ってきたんですね」
「ウム、どこまでも承知でしたことだな」
「百もご承知、お前さんは、縮緬《ちりめん》ぞッきじゃいるけれど、辻斬り稼《かせ》ぎの荒事師《あらごとし》――、そう知ったからこそ横槍《よこやり》を入れたのさ。悪かったかい」
「なんだと」
「お前みたいな素人《しろうと》仕事に、あの二人はもったいない。どこか、河岸《かし》を代えたらいいでしょう」
「ウーム……、じゃてめえもあれをつけてきたのか」
「それもおまけに江戸からだよ。双六《すごろく》にしたって五十三|次《つぎ》、根《こん》よくここまでつけてきたところを、横からさらわれて埋《う》まるかどうか、胸に手を当てて考えてごらん」
「読めた、さては道中|騙《かた》りか美人局《つつもたせ》の」
「いいえ、これでも一本立ち、お前さんも稼業人《かぎようにん》になるなら覚えておおき、女|掏摸《すり》の見返《みかえ》りお綱《つな》というものさ」
「あっ、お綱か」
「おや、わたしを知ってるの」
「一昨年《おととし》江戸へ行った時、二、三度落ち合ったことのあるお十夜孫兵衛《じゆうやまごべえ》だ」
「まあ……」笑いまじりに寄ってきて、「それじゃ少し啖呵《たんか》が過ぎたね、早くいってくれりゃあいいのに」
「なアに、こっちがドジを踏み過ぎている。それにしても、たいそう遠出をしてきたものだな」
「ちっと仕事が大きいのでネ」
「たしかに見込みはついているのか」
「お蔑《さげす》みだよ、お綱さんを」
話してみると、ぞんざい口も、罪がなくって艶《なまめ》かしくって、どこやら、国貞《くにさだ》うつしという肌合《はだあい》。この美しさが、剃刀《かみそり》の折れを指に挟《はさ》んで働くとは、目の前にいるお十夜にも、思えば不思議な気にされる。
「いけねえ、うっかりすると魅入《みい》られそうだ」冗談《じようだん》に目をそらしたが、同時にはッとした色で、
「あ、向うから、また見廻り役人の提灯《ちようちん》が来るようだ。ええ、うるせえな」と舌打ちした。
「逃げるなら、私にかまわず行っておくれ」
「なに、慌《あわ》てることはねえ、支度はあるんだから」と、お綱を手招きして、橋の下を覗《のぞ》いたかと思うと、低い声で、
「三次《さんじ》――」と呼んだ。
返辞はなかったがその代りに、ギーと出てきた剣尖船《けんさきぶね》、頬冠《ほおかむ》りの男が黙々と動いた。
役方《やくかた》の提灯《ちようちん》が来た頃には、お綱と孫兵衛をのせた剣尖船、堀尻《ほりじり》を南にそれて、櫓力《ろぢから》いッぱい木津川《きづがわ》をサッサと下っている。
あがった所は住吉《すみよし》村、森囲いで紅《べん》がら塗《ぬり》の豪家、三次すなわち主《あるじ》らしいが、何の稼業か分らない。湯殿から出て、空腹《すきばら》を満たして、話していると夜が明けた。
「――お先に、今夜のお礼をいっておきますよ。わたしたち仲間の紋切形《もんきりがた》で、仕事をするとその場から、プイと百里や二百里は飛びますからね――お前さんも、たまには江戸へ息抜きにおいでなさいな。本郷妻恋《ほんごうつまごい》一丁目、門垣根《もんがきね》に百日紅《さるすべり》があって、挿花《はな》の師匠の若後家と聞けばすぐ知れますよ。エエ、それがわたしの化身《けしん》なの」
お十夜にこういって、お綱はその日昼いッぱい寝る。翌晩も、夜はブラリと出だして、昼寝する。なるほど、これではお嫁になれない性《たち》。
と思うと、四日目か、五日目。
朝風呂につかって、厚化粧して、臙脂《べに》を点じて、髪も衣裳もそッくり直した見返りお綱。パチンと紺土佐《こんどさ》の日傘を開いて、住吉村から出て行った。
どこへ行くのか、何を目星か、縦《たて》から見ても横から見ても、掏摸《すり》とは思えぬ品のよい御寮人様《ごりようにんさま》。
四天王寺の火除地《ひよけち》、この間までの桃畑が、掛け小屋御免《ごやごめん》で、道頓堀《どうとんぼり》を掬《すく》ってきたような雑閙《ざつとう》だ。
日和《ひより》はいいし、梅若葉に幟《のぼり》の風、木戸番は足の呼び合いに声をからしている。
名古《なこ》蝶八の物真似《ものまね》一座を筆頭に辻能《つじのう》、豊後節《ぶんごぶし》の立て看板。野天《のでん》をみると、江戸|上《のぼ》りの曲《きよく》独楽《ごま》に志道軒《しどうけん》の出店。そうかと思うと、呑み棒、飴吹《あめふ》き、ビイドロ細工、女力士と熊の角力《すもう》の見世物などもある。
「さあ、いらはいいらはい。ナガサキ南京《なんきん》手品ある。太夫さん、椿嬢《ちんじよう》、蓮紅嬢《れんこうじよう》かけ合いの槍投《やりな》げ、火を放《つ》けて籠抜《かごぬ》けやる。看板に嘘ない」
唐人ぶりが珍らしいので、この前がまた大変な人だかりだった。
「変ってやがる、べらぼうな入りだな、ちょッとのぞいて見ようかしら? だが、待てよ……」
押し揉《も》まれながら迷っていたのは、笠を首にかけた待乳《まつち》の多市、片手で人を防いでいるが、片手は懐中《ふところ》の前を離さない。
親分の銀五郎は、今日も蜂須賀の蔵屋敷《くらやしき》と下屋敷《しもやしき》の方へお百度詣《ひやくどまい》りだ。例の、阿波入りのため、便乗する関船手形《せきぶねてがた》、入国御免切手《にゆうごくごめんきつて》、二つを手に入れなければならないので。
願書を出す、身元がいる、五人組証明をとられる、白洲《しらす》で調べをくう、大変な手数《てかず》。元は関船手形だけですんだ。こう厳密ではなかった。それにはわけがある。阿波の鎖国《さこく》、徳川幕府の凝視《ぎようし》――。だから銀五郎の用があった、押しても渡りたい密境だった。
埒《らち》があくまで、多市は用なし、「たまにゃブラついて来い」とおっ放されたが、懐中《ふところ》にはちょッと重目《おもめ》な預り物、後生大事《ごしようだいじ》にかかえているので、肚《はら》から楽しむ気になれない。
「おっと、それどころじゃねえ」すぐ性根《しようね》になった。「この大金、もしものことがあった日にゃ、お眼がねで供をしてきた正直|多市《たいち》がどうなるんだ」とうとう南京《なんきん》手品を諦《あきら》めて歩きだした。
そして、西重門《にしじゆうもん》の側《かわ》へ寄ろうとすると、楼門《ろうもん》の内から、ゾロゾロ吐き出されてくる参詣人の中で、
「アー」と軽い叫びがする。
ひょいと見ると、上品づくりのお嬢様。揉《も》みにじられた上、よろよろと、のめってきた。
「あぶねえ!」
思わず支《ささ》えて、多市が手を出すと、ポンと日傘が来た。女の体は風鳥《ふうちよう》のように、胸を掠《かす》ッて後ろへ抜ける。
「ア、もし」
手に残された日傘をつかんで、多市が呼んだ。
女はもう五、六間。小走りに過ぎていたが、ふりかえって、ニッコリ笑った。――そのニッコリがまたばかに絢爛《けんらん》、菊之丞《きくのじよう》の舞台顔を明りで見たよう。
「もし、これを、傘を――」
「ア」女は遠くでうなずいた。
「いいんですよ」
「あれ……」
味な気もしたがまだ解《げ》せない。
「よかアねえ、女持ちだ、貰ったところで始末に困ら」と、身を動かした時初めて気がついた。
自分のふところから、晒木綿《さらしもめん》がダラリと二本はみだしている。
二重《ふたえ》に巻いた腹巻を、刃味《はあじ》も凄《すご》くタテに裂いた剃刀《かみそり》の切れ口。
「あ! 畜生ッ」
逆《さか》づかみにした日傘をふって、眼色をかえた待乳の多市は、まっしぐらに駈けだした。
「スリだ、スリだスリだ!」
「ちぼ! ちぼッ!」
人の声だか自分の声だか分らない。西門《にしもん》唐門《からもん》のまわり、七堂|伽藍《がらん》を狂気のように走り巡った。と、出会い頭《がしら》に、猫門の前で、バッタリぶつかった男が、
「おい、待ちな」と、軽く腰帯を取った。
「それどころじゃねえッ」
「まあ落ちつけよ、手配が肝腎《かんじん》だ、そうあがって騒いだところで、めッたに捕まるものじゃねえ」
「何だい、てめえは」
「これだ」ふところを覗《のぞ》かせた。紺房《こんぶさ》の十手《じつて》がある。「目明《めあか》し」と聞くと、多市は何思ったか、振りきって、また一散にそれてしまった。
「妙な奴だ、手配をしてやるというのにズレちまった。はてな? ……」目明しの万吉《まんきち》、また何か幻想を描いて、根よくそこらを歩きだした。
堂塔《どうとう》は淡《あわ》くぼかされて、人気《ひとけ》もない天王寺の夕闇を、白い紙屑《かみくず》が舞っている。
日傘が一本落ちていた、――破れた女持ちの傘。
それを拾って、西門に立ったのが目明しの万吉で、
「ここだナ、ここで女がこう行って、弾《はず》みに、ポンと男へ傘をつかませたんだな。だが、何のためにだろう。アア手を空《あ》かせて体と心の両隙《りようすき》を狙ったのか」仕方身《しかたみ》ぶりで、人の話と現場をしきりに考え合せている。
「とすると、こいつア上方のちぼ流でねえ、江戸の掏摸《すり》だ。定めし小粒でもないだろうに、盗《や》られた奴も変っている、何だって俺をふりきって逃げたのか……ウーム、こいつあどうもそのほうがよっぽどネタになるかもしれねえ」
傘をほうって抜け道へ出る。堺《さかい》戻りの町駕《まちかご》、島の内まで約束したが、気が変って五|櫓《やぐら》の富十郎を一幕のぞき、ブラブラ歩いて帰ってきた。
「おや、あの男は?」と、その途中で、万吉の顔の筋がピンとした。待乳《まつち》の多市にまぎれなしだ、疲れてしょんぼりした影が、渡辺町の旅籠《はたご》土筆屋《つくしや》へスウと入った。
一息抜いたところで万吉は後ろからこっそり、
「ご免よ」と主《あるじ》の和平に目じらせして、梯子《はしご》下の道具部屋にしゃがみこむ。
「ふム、六日も前から泊っているのか、宿帳はこれだな、どれ……」ペラペラとめくって、自分の耳朶《みみたぶ》をギュッとつねった。何か苦しい考え事をする時に万吉がよくやる癖だった。
「連れの、銀五郎というのは?」
「阿波へ入る用向きがあるとかで手形をとるため、毎日蜂須賀様のお役目筋へ手を廻していましたが、どうも御免切手が下りない様子で、今日は早くからお戻りでございました」
「そうか、ちょっと二階を借りてえな」
「ええ、よろしゅうございますとも」
「二番の部屋といったっけな」裏梯子《うらばしご》を上がって隣り座敷へ、そっと細目の隙見《すきみ》、鰻《うなぎ》なりに寝そべっている。
「多市、そう案じることはねえ」という声は唐草銀五郎のほう。
「一晩派手にやったと思やあ三百両は安いもの、路銀は早打《はや》で取り寄せる。……だが、お千絵様《ちえさま》から頼まれた大事な手紙、ありゃ、てめえが別に袷《あわせ》の襟《えり》へ縫い込んでいた筈だっけな」
「さ、親分には、そういいつけられていたんですが、つい、紙入れと一緒にしておきましたので……」
「なに」初めて少し色をなして、
「じゃ、お千絵様の手紙も一緒に掏《す》られたのか。ウーム、こいつア大弱りだ」とガックリする。
「もし、親分……」多市はおろおろ、「今度の四国渡りに、あれをなくしちゃ、お千絵様のご実父が生きていたにしろはるばる来た甲斐のねえことは、ぼんくらな多市にも分っております、ドジを踏んだお詫《わ》びに、わっしはこれから夜昼なしに江戸へ戻って、もう一度お千絵様から手紙をちょうだいしてきますから、どうか、それで虫をこらえておくんなさいまし」
「オオ、その元気がありゃ何よりのこと。じゃこうしよう、実は関船《せきぶね》の便乗もとうとう今日で駄目になっている」
「えっ、阿波入りの御免切手は下りませんか」
「何しろ厳しい馬鹿|詮議《せんぎ》で、下手《へた》をするとこっちの秘密を気取《けど》られそうなんだ。そこで俺は、道を代えて讃岐境《さぬきざかい》から、山越えで阿波へ入りこむつもり、一足先に多度津《たどつ》まで延《の》しているから、てめえは早速、お千絵様からもう一通貰ってきてくれ、それが今度の眼目だからな」
「そうきまったら、わっしはすぐに飛び出すと致します」
「ま、暁《あけ》の早立ちとしたらよかろう」
「一時は、死んでお詫びとまで思ったところ、体を粉《こ》にするぐらいは、何の糸瓜《へちま》でもありあしません」気を持ち直すと江戸者はお先|一途《いちず》。にわかに元気づいた多市、ポンポンと手を叩いて「オイ、姐《ねえ》さん姐さん、誰でもいいや、お急ぎの夜立ちだ、草鞋《わらじ》に握り飯を揃えてくんねえ」
その間に目明しの万吉、トントンと降りてきた。
「ア、お帰りで」折よく、帳場格子《ちようばごうし》へ投げこまれた飛脚包《ひきやくづつ》みを持ちながら、和平がそこへ送りに出ると、目早く万吉が眸《ひとみ》を光らせて、
「何だい、今の三度屋《さんどや》は?」
「ヘエ、例のお客様へ届いた飛脚で」
「どれ」いや応なく取って見ると、桐油紙《とうゆ》ぐるみ、上に唐草銀五郎様、出《だ》し人《て》の名は裏に小さく「行き交《か》いの女より」としてあった。
「お役で封を切る!」と、ぷッつり――切った麻糸からすべり落ちたのは、印伝革《いんでんがわ》の大型紙入れ、まさしく多市の掏《す》られた品物だ。
「悪い洒落《しやれ》をする女だ……」と苦笑《にがわら》いした目明し万吉。江戸のスリ気質《かたぎ》には、ほかの盗児にない一種の洒落気《しやれけ》や小義理の固いところがあると聞いていたのを思い合せて、
「ははあ、その筆法かな」とうなずいた。で大急ぎに、飛脚包みから出た紙入れをあらためてみると、案のごとく、金はなかったが、一通の手紙が中に潜《ひそ》んでいた。
丈夫な生紙《きがみ》の二重封じ、しかし、その封じ目は破れていた。お綱が読んだものらしい。
――お父上様が阿波へお入《い》り遊ばしてから蔭膳《かげぜん》の日も早や十年でござります。柳営《りゆうえい》では隠密役《おんみつやく》御法則をふんで、十年|御帰府《ごきふ》なき父上を死亡と見なし、権現様以来の甲賀家《こうがけ》も遂に断絶の日が近づきました――
という意味がこの手紙の書きだしで、流麗《りゆうれい》な女の手跡《しゆせき》が、順に解《ほぐ》れゆくに従って、万吉の眼底異様な光を帯びてきた。
――千絵も十九となりました、男でない私は絶家《ぜつけ》の御下命をどうすることもできません。けれど私は、九ツの時お別れした父上様が、まだ御存命と信じられてなりません。夢にも世をお去り遊ばしたとは思えません。そこで乳母《うば》の兄唐草銀五郎が、この手紙を持って、命がけの阿波入りをしてくれます。もし幸いに御無事な上これがお手に入りましたら、甲賀家の断絶も僅かにその命脈《めいみやく》を延ばすことができます――
ここまで読みかけると、万吉の胸が処女のように躍《おど》った。彼にも足かけ十年|臥薪嘗胆《がしんしようたん》の事件がある。それへ一縷《いちる》の曙光《しよこう》を見出したのだ。
「江戸で甲賀を名乗る家といえば駿河台《するがだい》の墨屋敷《すみやしき》、隠密組《おんみつぐみ》の宗家《そうけ》といわれる甲賀世阿弥《こうがよあみ》だ……ウウム、その世阿弥が十年前に阿波へ入ったきり行方不明? こいつアいよいよ他人事《ひとごと》じゃあない」と、眼を光らして次の文字を辿《たど》りかけると、トントントンと梯子《はしご》段の音。二階から、唐草銀五郎が多市を送って降りてきた。
「おや、もうお支度がおすみで……」帳場格子の前へ、主《あるじ》の和平や番頭も頭を並べて送りだす。万吉はいちはやく、手紙を抱えて梯子裏へ身を隠した。
「じゃ、気をつけて行けよ」と銀五郎の声。多市は元気よく、道中差《どうちゆうざし》をおとし菅笠《すげがさ》を持って、
「では親分、行ってまいります。道中はお気遣《きづか》いなく、やがて多度津《たどつ》の港で落ち合います」
土筆屋《つくしや》の明りを後に旅立ってしまった。と一緒に万吉も、裏から草履《ぞうり》を突ッかけて、溝板《どぶいた》の多い横丁を鼠走《ねずみばし》りに駈け抜けている。
「この手紙一本のために、あの男を、江戸まで引っ返させるのは、いくら冷《つめ》てえ目明しでも少し気の毒だ。事情を話して返してやろう、だが、こっちの知りたい所も充分に聞かなくちゃ埋《う》まらねえ。常木《つねき》先生を初め俵《たわら》様、ご恩を蒙《こうむ》る俺までが一生仕事の阿波の秘密! オ、やつ、大股になって急ぎだしたな」
町通りを行き過ぎた多市を見かけて、万吉もヒラリと土蔵の蔭《かげ》を離れた。手紙と交換に阿波入りの事情や甲賀|世阿弥《よあみ》の身の上などを探り取ろうという了簡《りようけん》。
「まだこの辺では人目に立つ、も少し淋しい所まで歩かせて、今夜こそ、天王寺で逃げだされたような下手《へま》をやらずに……」などと加減をしてゆくうちに、天満岸《てんまぎし》を真っすぐに、東奉行所の前を抜けて、京橋口のてまえ、八丁余りの松並木――お誂《あつら》えの淋しさである。
「オーイ、江戸の人」と呼びかけようとしたが、まだ逃げられる惧《おそ》れがあるので、少しずつ万吉が追い着きだして行くと、しまった! 一足違いに前へ行く多市の影へ、何か、不意にキラリッと青光りの一閃《いつせん》! 横から飛びかかって低く流れた。
「わっッ」と突然、多市の声だ。斬《や》られたと見えて苦しそう、京橋|堤《づつみ》をタタタタと逃げ転《まろ》んできた。と、その影を追い慕って、波を泳いでくるような銀蛇《ぎんだ》が見えた。無論|業刀《わざもの》の切《き》ッ尖《さき》である、はッと思うと二の太刀が動いたらしく、途端に、多市は夢中になって天満の川波めがけてザブンと躍り込んでしまった。
「ちぇッ……」という舌打ちが聞こえた。闇を漂《ただ》よってくる血の香がプーンと面《おもて》を衝《う》つ。
「畜生!」万吉の眼は炯々《けいけい》となり、五体はブルブルッとふるえてきた。右手《めて》に何かを固くつかんで身を屈《かが》ませて行くが早いか、
「御用ッ!」とばかり一足跳び。
腕の限りヒュッと投げた方円流《ほうえんりゆう》二丈の捕縄《とりなわ》は、闇をあやまたず十夜頭巾の人影へクルクルと巻きついた。――しかし対手《あいて》は驚かない、絡《から》んだ縄を左に巻きつけ、静かに、
「生意気な手先め、サ、構ってやるから寄ってこい」右手《めて》の大刀《だいとう》を片手にふりかぶった。
「ムッ!」と万吉、毛穴の膏《あぶら》を絞《しぼ》ったが、まるで腕が違っている、こっちで投げた捕縄《とりなわ》は向うの武器、見る間にズルズルと魔刀《まとう》の下へ引き寄せられる。
和蘭陀《おらんだ》カルタ
辻斬り商売のお十夜《じゆうや》孫兵衛《まごべえ》、本名は関屋《せきや》孫兵衛である。もと阿波の国川島の原士《はらし》、丹石流《たんせきりゆう》の据物斬《すえものぎ》りに非凡な技《わざ》をもち、風采もなかなか立派だが惜しむらく、女慾《によよく》にかけても異常という性質がある。
阿波の原士《はらし》というのは、他領の郷士《ごうし》とも違い、蜂須賀家《はちすかけ》の祖、小六家政《ころくいえまさ》が入国の当時、諸方から、昔なじみの浪人が仕官を求めてウヨウヨと集まり、その際限なき浪人の処置に窮して、未開の山地を割りあてた。これが半農半武士に住みついて、蜂須賀名物の原士となり、軍陣の時は鉄砲二次の槍備えにあてられ、平時の格式は郷高取《ごうたかとり》、無論、謁見《えつけん》をも宥《ゆる》されて、慓悍《ひようかん》なこと、武芸者の多く出ることはその特色。なかには、原士千石といわれるほどな豪族もある。
その千石ほどな家柄を潰《つぶ》して、三都諸国を流浪のあげく、この春頃から御番城《ごばんじよう》のある大阪の河岸《かし》すじを夜な夜な脅《おびや》かしているお十夜孫兵衛。
京橋口の松並木で、目明し万吉を子供あつかいになぶった上、「さ、召捕《めしと》らねえのか」と嘲《あざけ》りながら、斬ると見せた太刀を鞘《さや》に納め、針金のように、ピンと張った捕縄の端を一|尋《ひろ》手繰《たぐ》ってグンと引いた。
「くそウ!」と万吉は死力でこらえる。
目明し仲間でも、少しは顔を売ったかれが、捕縄を捨てて逃げたといわれては男のすたりだ。――そこを狙って孫兵衛がポンと放したから他愛《たわい》もなく、
「あッ」と万吉がよろけ足《あし》をふんだ、と同時に、生き物のようにはね返ってきた縄尻が、どうする間もなくグルグルと巻きついた。
そして、縛《しば》るのが商売の目明し万吉、あべこべに孫兵衛のために捻《ね》じつけられ、両手両足、ギリギリ巻きにくくられてしまった。
「殺せ、殺してくれ」とかれが歯噛《はが》みをするのを聞き流して、暗い川面《かわも》をのぞいていた孫兵衛、一つ二つ軽く手を鳴らすと、いつかの晩のような約束で、三次の船がギイと寄ってきた。
「兄貴、何をバタクサしていたのよ!」と川の中から三次がいう。
「目明しを一匹召捕ったのだ。住吉村へつれていって、四、五日飼ってみようと思ってな」
「何だ、つまらねえ真似《まね》を……、鈴虫なら啼《な》きもするが、目明しなんざあ可愛らしくもねえ。いッそ川の中へ蹴転がしてしまいなせえ」
「まアいいわ、手先や同心の内幕を聞くのも慰みだし、第一お前《めえ》の渡世《とせい》のためだ。ところで三次、今夜おれはいろは茶屋で泊まるから、こいつを乗せて先に帰ってくれないか」
「いい心掛けにはなりてえものだ。お人よしの三次を放《ほう》って、いろは茶屋のお品《しな》とたくさんふざけておいでなさい」
「妬《や》くなよ、明日は早く帰るから」
「まア体だけをお大事に」
「ばかにするな、はははは」と、孫兵衛、くすぐったい笑いを残して、雪踏《せつた》の音、チャラリ、チャラリ……と闇に消える。
その晩から、万吉は、森囲いの怪しい家、住吉村の三次の住家《すみか》へ監禁された。縄目を解かれてほうり上げられた所は、屋根裏を仕切ったような空部屋《あきべや》である。夜が明けて、鉄格子から流れこむ光に見廻すと、太い綱《ロツプ》、帆車《ほぐるま》、海図などの船具《ふなぐ》や鉄砲などが天井裏につまってある。
「あ! ここは荷抜屋《ぬきや》の巣だな」と万吉は眼をみはった。荷抜屋というのは、御禁制の密貿易をやる輩《やから》のことで、年に一度か二年目ごとに、仲間で集めた御法度《ごはつと》の品を異国船《いこくせん》に売り込むのが商売。この家にいる甲比丹《かぴたん》の三次は、すなわちその荷抜屋の才取《さいとり》なのだ。
お十夜の孫兵衛に、辻斬りをすすめたのもこの三次。懐《ふところ》の金よりはその腰の刀《もの》を奪うのが目的である。当時、日本刀は荷抜屋の一番|儲《もう》かる品で、また一番買い占めにくい品でもあった。
そこで辻斬りは役人を五里霧中に迷わせ、女色の深い孫兵衛をしていろは茶屋に堪能《たんのう》させる方法となった。
だが万吉には、こんな者を縛ってみる気は起こらない。彼の目の前には、もッともッと大きなやまがブラ下がっている。あの手紙から暗示を得た、十年苦節の大疑獄《だいぎごく》、十手の先ッぽで天下を沸《わ》かせるような功名心に燃えている。
「ええ忌々《いまいま》しい、何とかしてここを抜け出す工夫はねえかしら……」
その悶《もだ》えもいたずらに、三日とたち四日もすでに真夜中《まよなか》に近い頃――。
「おや? ……」思わず耳を澄ましていると、下の部屋からガヤガヤと大勢な人声。そして時々、ピタピタ、と何か畳を打つような不思議な音がするのだった。
妙な物音? 階下《した》で何が始まったのかしらと、万吉は、無駄とは知りながら、また昨日《きのう》も一昨日《おととい》も試みた努力を、真っ暗な部屋でくり返した。
出口は錠前《じようまえ》、窓は鉄格子、半刻《はんとき》あまりも押したり探ったりしているうち、隅の床板に、指が一本入るくらいな穴を見つけた。
「しめた」とも思わず、何気なく引っ掛けて持ち上げると、偶然、四角な板がポンと開いた。階下《した》を隔てている天井裏、そっと降りて見ると、荷抜屋《ぬきや》の贓品《ぞうひん》がだいぶ隠匿《いんとく》してあった。
そんな物には目もくれない。明りのさしている方へ、猫のように匍《は》い出した。と、一段低い所に、金網張りの欄間《らんま》があって、ひょいと覗《のぞ》くと下の部屋も人間もすッかり見える。
何をしているのかと思うと、三次を初め仲間の輩《やから》が、きれいな札を撒《ま》き散らし、小判小粒の金銀を積んで、和蘭陀加留多《おらんだカルタ》の手なぐさみをしている。
「何だ、この音か……」と馬鹿げてしまったが、下で夢中なところを幸いに、万吉そのまま寝そべって、一応彼らの人相をよく見覚えておくのも無駄ではなかろうと考えた。
頭数は五人である。店者風《たなものふう》の由造《よしぞう》、東条隼人《とうじようはやと》と呼ばれる侍、十徳《じつとく》の老人、為《ため》という若者、それに甲比丹《かぴたん》の三次、中でも三次は、潮焦《しおや》けのした皮膚に眼の鋭いところ隼《はやぶさ》という感じがする。
「どいつもまるで血眼《ちまなこ》だ。ウム、この分では明日《あした》は疲れる、その隙に天井裏を引ッ剥《ぱ》いで逃げ出すには究竟《くつきよう》だ」とは万吉がうなずいた腹の底。
案《あん》の定《じよう》、慾心の修羅場《しゆらば》はなかなかやまなかった。鶏鳴《けいめい》を知らず、陽《ひ》が照りだしたのを知らず、とうとう明日《あした》になっても、蝋燭《ろうそく》を継いでそこだけの夜を守り、いよいよ悪戯《わるさ》がたけなわになる。
そのうち誰からか、きまりものの苦情が出て、何かガヤガヤもめだしたが、不意に向う側の板戸が外からガラリと開いて、度胆《どぎも》を抜くような太陽の光がそこから流れこむ。
「誰だ!」ぎょッとした五人の眼が、期せずして振りかえると、
「驚くなよ、お十夜だ」提《さ》げ刀《がたな》になって、孫兵衛がのっそり五日目に帰ってきた。と、その後ろからまた一人、まばゆいばかりな厚帯《あつおび》に振袖姿のお嬢様、玉虫色の口紅をしていう言葉はあられもなく、
「おや、とんだところをびっくりさせて悪かったね」とそこへ来て、大の男たちにひるみもなく、小判や小粒の燦《きら》めく中へフワリと風を薫《かお》らせて坐った。
「誰かと思ったら、お綱《つな》さんじゃねえか」
三次が眼をみはると後の四人も、加留多《カルタ》の紛紜《ふんぬん》を忘れて、しばらくはこの一|輪《りん》の馥郁《ふくいく》さに疲れた瞳を吸われている。
「この間の口ぶりでは、巧《うま》く行ったら、すぐ江戸へ舞い戻るような話だったが、すると、あの仕事はとうとう失策物《しくじりもの》になったのか」
「どう致しまして、そんなわたしじゃありません」とお綱は笑って――。「思う通りに行ったから、ついでに上方見物としゃれのめし、道頓堀の五|櫓《やぐら》も門並《のきなみ》のぞいて、大家《たいけ》のお嬢様に納まりながら、昨日は富十郎芝居の役者や男衆が七、八人も取巻《とりま》きで、島の内の菖蒲《あやめ》茶屋《ぢやや》、あそこで存分に遊び飽きておりましたのさ」
「そこでバッタリおれが出会ったわけ――」とすぐ孫兵衛が話を足すと、一座の中から半畳《はんじよう》が出て、
「じゃ、兄貴も一人の筈はない、いろは茶屋のお品か誰かを連れこみで行ったのだろうが」
「お手の筋だ。しかし、売女《ばいた》のお品と江戸前のお綱とは芥子《けし》に牡丹《ぼたん》ほどの違いがある。すぐ片ッ方は追い返してしまった」
「おやおや、怖れ入った浮気振り、じゃ昨夜《ゆうべ》はお綱さんとよろしくあって、見せびらかしにここへ来たという寸法か。何だかこっちは面白くもねえ」
「ところがこのお嬢様、見かけに寄らない心締《しんじま》りで、実はおれも、見事に肱《ひじ》を食っているのだ」
「やれ、それでこっちも、安心した」と笑いくずれている間に、お綱は細い指尖《ゆびさき》へ、加留多《カルタ》の札を四、五枚取ってながめていた。
「三次さん、これはやっぱり花加留多《はなガルタ》?」
「長崎から流行《はや》って来たやつさ、異国《あつち》のものでね」
「面白そうだこと、やって見ようか」
「どうしてどうして、男同士の勝負ごと、はした金ではすまないぜ」
「こればかしじゃ足らないかしら?」帯の間から、手の切れそうな百両の封金をコロリと三つ。五人は思わず膝を退《しさ》らせ、狡猾《こうかつ》な眼色を慾に燃え立たせる。
天井裏では、欄間《らんま》の金網から猫目を光らしている万吉。「いけねえいけねえ、この様子じゃ、いつになったら奴らが疲れて寝るのだか分らねえ……」と密《ひそ》かに舌打ちをならしていた。
ろくに知りもしない和蘭陀加留多《おらんだカルタ》、三次たちのいかさまに手もなく乗って、お綱は他愛なく二百両ほど負けてしまった。
「だいぶ考え込みますね、そっちの番だぜ」
「あいよ」お綱は札を指で弾《はじ》いて「よくもこう縹緻《きりよう》の悪い手ばかり付く……」と、一枚手から抜きかけたが、ちょっと考える様子をして、何の気もなく上眼《うわめ》づかいに天井を見た。と、バッタリ、欄間の隙《すき》から下を見ていた万吉の眼とぶつかった。
「おや?」と動じた顔色を見たので、万吉は慌《あわ》てて首をすくませた。しかし今さら騒ぎだしては、かえってまずいと思ったので苦しい機智、上から皆の手が見えるのを幸いに、お綱の抜きかけている札を打つなと目顔で教えてやった。
「どうしたのよ、じれってえな」
「まア待って……」も一度万吉のほうをチラと見ると、右のを打てという合図、とにかく、その通りにして見ると、思い通りな札が取れた。さあ、それからはトントン拍子、何しろ向うに、敵の手裏《てうら》を映す鏡があるのだから、思惑《おもわく》当らざるなしである。たちまち勝ち抜いて場中《ばじゆう》の金を集めてしまった。
「ああ面白かった。じゃ、これでおしまい……」お綱は涼しい顔で帯揚げを引き抜き、桝《ます》で量《はか》る程な金銀をザラザラと詰め込み、さッさと体に着けてしまう。
「待て、これでしまいにして堪《たま》るもんか」と浪人者の東条隼人《とうじようはやと》がケチをつけにかかるのを、三次がなだめて、
「まあいいさ……」とめくばせした。
「お綱さんだって、どうせ三日や四日はご逗留《とうりゆう》だ。な、その間にゃ、また幾らでも手合せができるだろうじゃねえか、初心《うぶ》な者にはとかくばかあたりという奴があるものさ……ああ眠い、何しろ今日は寝なくっちゃあ……」
ヘトヘトになって五人がそこへ手枕で転がると、不意に立ち上がったお十夜孫兵衛、いきなり踏込みの押入を開けて、その段から天井裏へ跳び上がり、目明し万吉の襟《えり》がみをつかんで下へ引き摺《ず》り降ろした。
「や、この岡《おか》っ引《ぴき》め、どうしてあんな所へ出てきやがったんだ!」
総立ちになって騒ぎだしたが、まさか、この男がお綱に勝たせたこととは夢にも思いつかない。ただ岡っ引を憎む凶暴性が勃然《ぼつぜん》と彼を取りまいたのだ。
「兄貴――」と三次はお十夜の顔を見て「つまらねえ者を引っ張り込んだので、世話がやけてしようがねえ、一体こいつをどうする気だ」
「おれもすッかり忘れていた。ところが、今ひょいと欄間《らんま》を見たら、金網の蔭に動いていやがったので引き摺り降ろしたのだが……野郎、逃げだす隙《すき》を狙っていたに違いない」
「面倒くせえし、逃げられでもした日には藪蛇《やぶへび》だから、早く片を付けちまっちゃどうだ」
「うん、それじゃ一つ庭先で、丹石流《たんせきりゆう》の据物斬《すえものぎ》りを見せてやろうか。おい、手を貸せ!」
寄ってたかって、腕や襟《えり》がみを引っつかみ、ズルズルと万吉を庭へ曳出《ひきだ》した。椎《しい》の大木、その根へ荒縄で縛りつけ、三次が棒切れでピシピシと撲《なぐ》りつける。
「さ、ぬかせ、てめえはお十夜の兄貴へむかって、只一人で御用呼ばわりしたくらいだから、この荷抜屋《ぬきや》仲間を嗅《か》ぎつけていたに違いねえ。奉行所でも知ってるのだろう、なに、知らねえことがあるものか。さッ、てめえの相棒は誰と誰か、手入れをする諜《しめ》し合せもあったろう! 野郎! いわねえとこうだぞ!」ピシリッ、ピシリッと皮肉《ひにく》を破る鞭《むち》の苦痛を万吉じっとこらえている。しかしその苦痛よりは、最後の一秒間まで、何とか助かる工夫はないかと悶《もだ》えた。ここで自分が助からねば、せっかく握った大事件の曙光《しよこう》、再び無明《むみよう》に帰して、常木先生も俵《たわら》様も終生社会の侮蔑《ぶべつ》に包まれて、不遇の闇に生涯を送らなければなるまい。――と思えばいよいよ命が惜しい。
「駄目だ、こいつア!」三次は棒切れを投げて、「骨を折って口を開《あ》かせたところで、大したこともなさそうだ」と孫兵衛の断刀《だんとう》を催促する。お綱だけは、何だか可哀そうに思えた。
「助けておあげな……」おとなしく口を入れた。
「一人や半分の目明しを殺したところで、大びらに悪事ができるわけじゃなし……ね、皆さん、後生だから助けておやりよ」
「とんでもねえこった!」三次が首を振った。
「こいつを返しゃ、俺たちの根城《ねじろ》が分る、すぐ御用提灯《ぢようちん》の鈴なりで、逆襲《さかよ》せのくるのは知れている。兄貴、早く殺《や》ってしまわねえととんだことになるぜ」
「うん!」とその注意にうなずいた孫兵衛は、血脂《ちあぶら》は古く錵《にえ》の色は生《なま》新しい、そぼろ助広《すけひろ》の一刀をギラリと抜いて鞘《さや》を縁側へ残し、右手《めて》の雫《しずく》の垂れそうなのを引っさげて、しずしずと椎《しい》の下へ歩みだした。
天満浪人《てんまろうにん》
役目不心得につきお咎《とがめ》――という不名誉な譴責《けんせき》のもとに、退役《たいやく》同様な身の七年間、鳩《はと》を飼って、鳩を相手に暮らしてきた同心である。
姓は俵《たわら》、名は一八郎、三十四、五の男|盛《ざか》り、九条村の閑宅《かんたく》にこもって以来、鳩使いとなりすまし、京の比叡《ひえい》、飾磨《しかま》の浜、遠くは丹波あたりまで出かけて、手飼《てが》いの鳩を放して自在に馴らしている。
のみならず俵同心、近頃ではこの鳩を、わが分身のごとく操《あやつ》り、腹心の人、常木鴻山《つねきこうざん》の所へ文使《ふみづか》いさせたり、万吉を呼びにやったり、妹の所へ飛ばせたりする。
妹はお鈴という美人、身元を隠して、かなり前から、安治川岸の蜂須賀阿波守《はちすかあわのかみ》、その下屋敷へ住み込んでいる。何の手段か、何の便りを頻々《ひんぴん》と交《か》わしているのか、いつも密書の使者が鳩だけに、誰あって気がつく者はないのである。
「旦那様、お鈴様から御返事が……」と今も召使の東助爺《とうすけじい》が、柄の小さな家鳩《いえばと》を拳《こぶし》にのせて、縁の端から一八郎の書屋《しよおく》を覗《のぞ》いた。
「うむ、来たか……」待ちわびていたらしい一八郎はすぐ小鳩の足の蝶結びを解いて、庭の巣箱へパッと放し、机の前に戻って、その雁皮紙《がんぴし》の皺《しわ》をのばした。
「東助《とうすけ》……」読み終って嬉しそうに、
「いよいよ、阿波守が帰国の時、お鈴も供に加えられて、徳島城の奥勤めに移りそうじゃ」
「おお、それはよいご都合でござります。したが、そうなりますと使いの鳩も、あの鳴門《なると》の海を越えて行き来せねばなりませぬな」
「自信がある。あれくらいな距離は何でもない。どうじゃ爺《じい》、これほど自在に鳩を使う者も、またここに着眼した者も、一八郎をおいて余人にはあるまいが」例によって、そろそろ鳩談義の味噌が出そうな口ぶり。
「へへへへ」毎度のことなので、東助もツイ笑ってしまった。
「折角のご自慢でいらっしゃいますが、この老爺《おやじ》は、種を存じておりますので、実は余り感服いたしませぬ」
「ばかなことを、種なんぞと、誰に聞いた」
「天満《てんま》のお屋敷で伺いましたので。はい、常木様がおっしゃいました。伝書鳩を古く使ったのはたしか唐《から》の張九齢《ちようきゆうれい》が元祖じゃ、一八郎が初めではないと」
「これはいかん、さようなことをおっしゃったか」
「はい、虫蝕本《むしくいぼん》の『八通志《はちびんつうし》』、『還家抄《かんけしよう》』などと申す書にもいろいろ載《の》っているそうでござります」
「あははははは、もうよい、いうないうな」
「いつも旦那様の天狗講釈《てんぐこうしやく》にあてられておりますので、その鬱憤《うつぷん》によく伺っておきましたので……」主従、笑いに紛《まぎ》れている門《かど》へ、女客の訪《おと》ないがする。東助が出てみると、目明し万吉の女房のお吉《きち》であった。何か心配事がありそうに、悄々《しおしお》と通されて一八郎の前へ坐った。
「いかがいたした、たいそう沈んでいるではないか」
「はい」お吉は、ふだん世話になりがちな礼を述べて、「実は旦那様、万吉が、今日で五日も宅へ帰りませぬ。このところ、御用なしだといっていたのに、一体どうしたものでございましょう」
「ふウム……」と聞いていたが機嫌が悪い。
「よろしくない心配だな。目明しの居所知らず、または岡ッ引の起き抜け千里などと申して、職業がら是非ないことだ。それを四日や五日帰らぬとて、すぐ女房が妬《や》くようでは、万吉の十手が錆《さび》るというものだ」
一八郎は叱ったが、だんだんに、お吉が話すところを聞くと、どうも叱ったほうが少し無理らしい。
京橋口《きようばしぐち》で、万吉の名が彫《ほ》ってある十手を拾って、届けてくれた者がある。その前夜、土筆屋《つくしや》で見かけたという者もあるので訊《き》き糺《ただ》すと、江戸の客をつけて行ったという話。また、その客の連れ唐草銀五郎という者も、多度津へ立った後なので、何の事件か皆目知れず、前後の事情、どうも万吉の凶事ではないかという――お吉の心配なのであった。
「なるほど――」一八郎の顔色も少し怪しくなった。
「ふウ……そうか、いやよろしい、心配せずと家へ帰って吉報を待つがよい」
お吉を帰すと、彼はやがて、選《よ》りすぐった小鳩を一羽ふところに入れ、初夏《はつなつ》の陽がかがやかしい青田や梨の木畑の道を急いで、異人墓《いじんばか》の丘へ登って行った。
異人墓の丘に立って、汗を拭《ふ》いた一八郎。
「うむ、いいな……」思わず眸《ひとみ》を四方《よも》へ馳《は》せた。紺青《こんじよう》の海遠く、淡路の島影は夢のよう。すぐ近くには川口の澪標《みおつくし》、青嵐《あおあらし》の吹く住吉道《すみよしみち》を日傘の色も動いて行く。
そこで、パッと鳩を放した――。
鳩は一八郎の意志をうけたように舞い揚《あ》がった。手を翳《かざ》して見ていると、初めは御城番《ごじようばん》の方へ直線にツーと行ったが弧《こ》を描いて南へ返り、ハタハタと住吉村の方角へ飛び去った。
すると、異人墓の蔭で不意に声があった。
「あっ、伝書鳩――」
「俵殿ではないか」ひょいと見ると、荒目の編笠に薄羽織、風采のよい四十前後の武士。
「おお、これは常木先生」
「相変らず御熱心だの」と笠《かさ》の裡《うち》で微笑した。
「いや、何……」と一八郎は鳩の行方《ゆくえ》を気にしながら「実は先生、万吉の身に凶変《きようへん》が起りましてな」
「ほう、それは心許《こころもと》ない……」
腰を下ろした侍は、元|天満与力《てんまよりき》の常木|鴻山《こうざん》、在役当時の上役で、同じ時に、同じ譴責《けんせき》をうけた人。以来不遇の隠士《いんし》同士、互に心をあわせて、密かにある大事をのぞんでいる仲であった。
二人の失脚は、宝暦変《ほうれきへん》の折だった。――明和二年の今から数えて八年前、京都で起こったあの騒動――竹内式部《たけのうちしきぶ》の密謀が破れ、公卿《くげ》十七家の閉門を見、式部は遠流《おんる》、門人ことごとく罪科《ざいか》になって解決した――あの事件の時、天満組《てんまぐみ》の常木鴻山も俵《たわら》同心もすばらしい活躍をした。
が、その後が悪かった。余り二人の手腕が切れ過ぎて禍《わざわ》いとなった。
「これは根が深いぞ――」と初め鴻山は考えたのである。
「倒幕の大事などが、長袖《ちようしゆう》の神学者や、公卿《くげ》ばかりで謀《はか》れるものではない。黒幕がある! 傀儡師《かいらいし》がある! たしかにある!」と固く信じた。
「あるとすれば――どこの大名であろう? 無論|西国《さいこく》、一体西国大名は、機《おり》さえあれば風雲に動きやすい。島津か、毛利か。いやことによるともっと意外な……」鴻山の苦心へ、俵同心や万吉も、骨身を惜しまずいろいろな機密を探って耳に入れた。
阿波二十五万石の蜂須賀|重喜《しげよし》、まだ若くはあるが英邁《えいまい》な気質、うちに勤王の思想を包み、家士《かし》の研学隆武《けんがくりゆうぶ》にも怠《おこた》りがない、――前《さき》には式部を密かに招いて説を聞き、領土の浜では軍船を仕立てて陣練《じんねり》の稽古《けいこ》をしたともいう噂である。
「ウーム、黒幕は海の向うだ」鴻山は意を得たりとした。「阿波は由来|謎《なぞ》の国だ。金があって武力が精鋭、そして、秘密を包むに都合のいい国、一朝|淡路《あわじ》を足がかりとして大阪を図《はか》り、京へ根を張る時は、西国大名と呼応して屈強な立場――捨ておいては一大事である」
すぐ意見を書いて城代|酒井侯《さかいこう》へ差しだした。
ところが、御城番、町奉行、所司代《しよしだい》誰あって耳を藉《か》す者なく、彼の上書《じようしよ》は嘲笑の種となって突ッ返された。つまり、どれもこれも事勿《ことなか》れ主義。
「そんな馬鹿げた後《うし》ろ楯《だて》にはなりますまい。阿波は松平の御姓《おんせい》を賜わり、代々《よよ》、将軍のお名の一字をいただくほどな家筋じゃ」
「だからいけない!」鴻山はいよいよ説を持《じ》した。「それほど、阿波の力が大きいのだ、将軍家でも怖《おそ》れているのだ」と、周囲に構わず、俵同心に探りの手を入れさせた。が、その活動に移らぬうちに、二人は譴責《けんせき》! 出仕に及ばず――という形式をとられた。
「二人とも天狗《てんぐ》が過ぎた」「名声に酔って、いわゆる妄想狂《もうそうきよう》になったのだろう」などと喧《やかま》しい周囲の侮声《ぶせい》に耳を掩《おお》って、鴻山と一八郎はなおその信念はまげず、それから七年、ただ阿波の内情を探ることにのみ腐心《ふしん》してきた。
重宝《ちようほう》なのは目明し万吉。
彼は身分が軽いので、咎《とが》めもなく、今でも東奉行付きで、十手をとっているところから、何か阿波のことを聞きこむとすぐ知らせてくる。今では二人にとってまたなき忠実|者《もの》だ。
その万吉が行方知れず――常木鴻山も驚いた。一八郎は、今放した鳩を手づるに、彼の居所を突きとめて見せるといった。
「では、及ばずながらこのほうも手を貸そう」と鴻山は立ち上がったが、何か思いだしてスタスタと異人墓の蔭へ戻って行った。
そこに一人の連れがいた。武士ともつかず医者ともつかぬ風采の男。墓の蘭字《らんじ》や形を写していたが、鴻山から事情を話され、後について一八郎の側へやって来た。
「わしは江戸の平賀源内《ひらがげんない》、伝書鳩は面白うござるな、ご迷惑でも一つご同伴願いたい」
また一人の加勢が殖《ふ》えて三人連れ、異人墓の丘を下りて、鳩の飛んだ方角へ急ぎだした。
一方、住吉村の木立の中、荷抜屋《ぬきや》仲間の隠れ屋敷。
そぼろ助広の大刀が、椎《しい》の樹の下――万吉の頭の上に――きらりと三尺の虹を描《か》いた。
真ッ二つ! 孫兵衛の息と手が、さっと放たれようとした刹那《せつな》、甲比丹《かぴたん》の三次やほかの者たちと、こっちの縁側にいた見返りお綱《つな》が、
「そんな据物斬《すえものぎ》りがあるものか!」
駈《か》けだして行って、お十夜の手を遮《さえぎ》ってしまった。
「危ねえッ、何を邪魔するんだ」
「だって、罪じゃあないか」咎《とが》めるような美しい眼、「据物斬りを見せるといったくせに、自由の利《き》かない人間をバッサリなんぞは曲《きよく》がない」
「いやにお前は庇《かば》い立てするな」
「それや悪党にだって、少しぐらいの慈悲心はあろうじゃないか。ね、縄を解いて、暴れさせて、対《むか》ってくるところを斬ったらどう?」
「どっちにしたって同じことだ」
「いいえ、ただね、私の気がすむんだよ。見ても見いいし、罪でないような気がするだけさ」
いっているうちに帯から抜いた懐剣《かいけん》! 万吉の縄目をぷっつり切って、
「さ、これを貸してあげるから、お前さんも男らしく……」と懐剣の柄《つか》を握らせてやった。
和蘭陀加留多《おらんだカルタ》の返礼だよ――という眼でじっと渡してやる。
「ありがとう!」
逆手《さかて》にとって万吉がパッと立った。お綱が蝶のように飛び離れると一緒に、三次、隼人《はやと》、為《ため》なども、腰を立てて凶猛な気配りになる。
「なるほど、このほうが気合いがのるわえ!」
お十夜の声! 椎の下からスルスルと延びてくる助広の無気味さ。刀の柄糸《つかいと》を捻《よじ》りぎみに、右手《めて》は深く左手《ゆんで》は浅く、刀背《みね》に蛇眼《だがん》をすえて寄る平入身《ひらいりみ》――。
万吉は膏《あぶら》の汗。ジリ、ジリ……と一寸づまりに後退《あとずさ》った。
「どうせ命はねえ!」
覚悟はしている。だが、あの妙な心意気の女に、懐《ふところ》の紙入れ――大事な手紙の入っている――あれだけを頼んで俵様に届けたいが、と思って気を配ったが、素早いお綱はその時はもうこの庭に見えなかった。
「ええ、やぶれかぶれだッ」と、万吉が踏み止まって、怖ろしい眼を対手《あいて》に射つけた。ピタと孫兵衛の切《き》ッ尖《さき》も止まる……。
その時、風ではない――椎《しい》の若葉にバタバタという大きな羽ばたき。一羽の鳩だ。
「あっ、俺を探しにきた!」
と万吉の眼が上へそれるや否、孫兵衛の刃《やいば》がさっと斜めに走った。切《き》ッ尖《さき》に胸を掠《かす》られて、万吉はどンと仰向けになったが、はね返って栗鼠《りす》のように木の幹を楯《たて》にとった。
「野郎!」お十夜の跳びかかったのも真《しん》に迅《はや》い。白刃と人、渦《うず》になってグルグル木の幹を巡《めぐ》り廻った。と、屋根から斜めに落ちてきた今の小鳩、何かに狂いだしたように、そぼろ助広の切《き》っ尖《さき》に飛びまとって離れない――。
「万吉、しっかりいたせ!」
塀の上に、突然な声があった。
「あっ、旦那」
「一八郎が参ったぞッ、もう大丈夫」
ポンと飛び降りてきた俵《たわら》同心、力をあわせてお十夜の側面へかかる。わっと、総立ちになったのは甲比丹《かぴたん》の三次をはじめ荷抜屋《ぬきや》の誰彼《たれかれ》、脇差《わきざし》を閃《ひらめ》かす者、戸惑う者、かけこんで錆鎗《さびやり》を押《お》っ取る者。据物斬りの見物が、意外な血をみずから見ることになりだした。
するとまた、木戸を蹴破ってきた一人の助太刀《すけだち》、常木|鴻山《こうざん》である。常木流の捕縄術《ほじようじゆつ》は自他共にゆるす名人。しかし今は捕《と》るより斬れの場合として、抜くやまたたく由造を薙《な》ぎ、浪人者の隼人《はやと》の腕を斬り落した。
そればかりか、塀の外では、
「御用ッ、御用ッ」とさかんなかけ声。いよいよ輩《やから》は度を失い、孫兵衛一人の悪戦加わるばかりである。
だが、役付《やくづき》でない鴻山や一八郎が、かく早速な捕手《とりて》を連れてきたのも不審――と外を見ると、捕手はいない、すぐ前の木立の蔭に、たッた一人の男が腰をかけている。
細い丁髷《ちよんまげ》、細い顎《あご》。異人墓から同行してきた平賀源内である。医者で作者で侍《さむらい》で商法家だが、一つ武芸者ではなかりし源内、快刀乱麻《かいとうらんま》の手伝いはできないので、時々そこから、
「御用ッ、御用ッ」
といっては、支那|扇子《せんす》で顎を煽《あお》いでいる。
荷抜屋《ぬきや》屋敷へ真昼の不意を襲った剣戟《けんげき》の旋風《つむじ》は、一瞬の間に去ってしまった。囲いの中に、喚《おめ》きや雑音の騒動がハタとやむと、後はまたもとに返ってソヨともしない森の静けさ――住吉村の奥らしく、ジーッと気懶《けだる》い蝉《せみ》時雨《しぐれ》。
「源内どの! 源内殿!」
彼方《あなた》で呼ぶ声に腰を上げて、平賀源内、唐人|扇子《せんす》をパチリとつぼめて帯へ差し、
「ははあ、片づいたとみえるな」
踏《ふ》み壊《こわ》された木戸口から、大急ぎに飛び込んだ。
見ると、庭には点々と血汐の痕《あと》、戸障子は八方へ無残に倒れ、甲比丹《かぴたん》の三次と荷抜屋の手下二人は、常木鴻山が後《うし》ろ手《で》に縛《くく》し上げてしまった様子。
「やられましたな、常木先生、いやどうも大変な血汐で……」と源内は酸鼻《さんび》に顔をしかめながら、気味悪そうに、拾い歩きをして入ってきた。
「そして、俵殿はどうなさいましたか」
「お十夜と申す奴だけが、素早く逃げ失せたので、後を追って駈けだしました。ところで、源内殿にはお気の毒ながら、そこに倒れている目明し万吉、ちょっと手当をしてやって下さるまいか」
「承知しました。薬餌《やくじ》のほうなら源内のお手の物……オ、これや気絶している、数日の疲労があるところへ、ドッと助勢が見えたので、一時に心が弛《ゆる》んだのであろう」
井水《いみず》を汲んで口へふくませ、自家の薬丹《やくたん》を印籠《いんろう》から取り出しなどしている間に、鴻山は、縛《くく》し上げた三次や二人の手下《てか》を引っ立て、一室にほうりこんで厳重にとざしてしまった。
そこへ、俵一八郎が、息を弾《はず》ませて帰ってきた。「残念!」と流るる汗を拭《ふ》きもあえず、常木鴻山の前へ片膝をついて、「森端《もりはず》れまで追ッかけましたが、孫兵衛めは、腕の鋭いばかりでなく、怖ろしい敏捷《びんしよう》なやつ、たちまち姿を見失って、何とも無念に存じます」
「いやいや、万吉さえ救えてみれば、逃げた奴は取るに足らん」と、鴻山は一方を振りかえって「源内殿、容子《ようす》はどうでござるな?」
「気がつきましたわい、もうご心配は要《い》らぬ。これ万吉、万吉!」
「ああ……」呻《うめ》きだした万吉、ムックリ起きて、きょとんとあたりを見廻していたが、鴻山と一八郎の姿を眸《ひとみ》に映すと、飛びつくように摺《す》り寄った。
「あ、ありがとうございました……ありがとう存じます。旦那方がこなけりゃこの万吉は、もう疾《と》っくに椎《しい》の木の肥《こや》しになっているところでした」
ペタリと両手をついたさま、心《しん》から嬉しそうである。
「気分はどうじゃ、大儀ではないか」
「なアに大丈夫です、これしきのことにヘコたれちゃ、目明しという肩書に面目がありゃしません。そうだ! 何より先にお両方《ふたかた》へお目にかけたい品があります」胴巻の奥から、おののく手につかみ出したのは、土筆屋《つくしや》の店でふと手に入れた例の手紙である。
「万吉の命は奪《と》られても、こいつばかりはお渡し申したいと、この四、五日どんなにもがいたことか知れません。江戸表のお千絵という娘から、阿波へ入り込んだ甲賀世阿弥《こうがよあみ》へ宛てた手紙、まあとにかく、中をごらんなすッて下さいまし」
「なに、甲賀世阿弥?」
名を聞いただけで、鴻山の面《おもて》がサッと変る。一八郎もきっとなって繰りひろげられた手紙の側《そば》から、じっと息をひそめて黙読した。
宝暦変《ほうれきへん》の前後、鴻山と一八郎が、公卿《くげ》の背後に阿波あり、式部や山県大弐《やまがただいに》などの陰謀の黒幕に蜂須賀あり、と叫んでも、当時誰あって耳を藉《か》す者もなかったが、ひとり、大府《だいふ》甲賀組の隠密に、同じ炯眼《けいがん》の士があって、単身阿波へ入り込んだという噂――またそれが、甲賀世阿弥ということも、ほのかに聞いていたので、二人は今なおその名が深く脳裏《のうり》にあった。
「ウーム、不思議なものが手に入った!」読み行くうちに二人の表情、驚異となり、歓喜となり、怪訝《けげん》となり、また感激に潤《うる》む眼となった。
「こりゃ、お千絵という婦人に会えば、なおも詳しいことがあろう。世阿弥その後の消息、彼の目的、また幕府の御意向もほぼ知れよう」
「鴻山《こうざん》様、拙者万吉を召《め》し連《つ》れまして、すぐ江戸表へ下向《げこう》いたしましょう」
「おお、其許《そこもと》と万吉が、甲賀家を訪れ、何かの実相を見てきてくれれば何よりじゃ。さすれば鴻山も、その間に甲比丹《かぴたん》の三次や荷抜屋《ぬきや》の手下どもをさとして、阿波へ渡る秘密船を仕立てさせ、万事の手筈を調《ととの》えておくであろう」
策謀によき荷抜屋の巣は、天満《てんま》浪人が入れ代って、常木鴻山を中心に、その日は密《ひそ》かな諜《しめ》し合せに暮れて行った。
一節切《ひとよぎり》
近江訛《おうみなま》りの蚊帳《かや》売りや、懶《ものう》い稽古《けいこ》三味の音《ね》が絶えて、ここやかしこ、玉の諸肌《もろはだ》を押し脱ぐ女が、牡丹刷毛《ぼたんばけ》から涼風《すずかぜ》を薫《かお》らせると、柳隠れにいろは茶屋四十八軒、立慶《りつけい》河岸《がし》の水に影を映《うつ》していっせいに臙脂色《えんじいろ》の灯が入る。
舟では音締《ねじめ》の撥《ばち》の冴え、どこかを流す虚無僧《ぼろんじ》の尺八《たけ》の呂律《りよりつ》も野暮ではない。
「どうしたのだろう由造《よしぞう》は? 今日で四日目、まだ帰ってきやしない……」
お米《よね》はひとりでじれッたそう。
浜納屋《はまなや》づくりのいろは茶屋が、軒並《のきなみ》の水引|暖簾《のれん》に、白粉《おしろい》の香を競わせている中に、ここの川長《かわちよう》だけは、奥行のある川魚料理の門構え。
櫺子《れんじ》の下へ涼み台を持ち出して川長の一人娘、お米の待つのは誰であろうか。恋とすれば、よすぎる縹緻《きりよう》が心にくくもある。
「もう便りがありそうなものだけれど……」
軽く舌打ちしていると、通りすがりの者が振りかえった。
「おや、お米さん、宵の内から待《ま》ち人《びと》ですかえ?」
「ええ、待って待って待ち抜いているのですよ」
「オオ辛気《しんき》、お暑いのにご馳走様」
鬢盥《びんだらい》に、濡れ手拭を持ち添えたいろは茶屋のお品は、思いきりの抜《ぬ》き衣紋《えもん》にも、まだ触《さわ》りそうな髱《たぼ》を気にして、お米の側へ腰をかける。
「お風呂の帰り? ずいぶん研《みが》きたてたこと」
「そりゃ私にだって、見せたい人が半分ぐらいはありますからね」
「おやご免なさい。お染《そめ》久松《ひさまつ》、お品お十夜って、この河岸では評判でしたっけね。そういえばあのお十夜さん、さッぱり影が見えないようだけれど……」
「いつぞや、菖蒲《あやめ》見物に遠出した時、出先で妙な女に会ってから、急に素振りが変ってしまったの。ほんとに、男ほどアテにならない者はありゃしない。お米さんもせいぜい人には気をつけてお惚れなさいませよ」
「大丈夫、私には、一生涯そんな人なんかできッこないのだから……」冗談にしていた話が、妙に淋しい調子に落ちて、お米は顔を横にそむけた、――どこかを彷徨《さまよ》う虚無僧《ぼろんじ》の尺八《たけ》、聞くともなしに聞くふうで――。
その透《す》きとおるほど白い顔、その細《ほつ》そりした襟脚《えりあし》に気がついて、お品は、あ、うっかり悪いことをいったと心の奥で後悔する。
川長の愛娘《まなむすめ》で、縹緻《きりよう》のよさも優《すぐ》れながら、お米に一ツの不幸がある。癆咳《ろうがい》という病《やまい》の呪《のろ》い――いわゆる肺が悪かった。
躑躅《つつじ》の間詰《まづめ》の御子息へ、縹緻《きりよう》のぞみで貰われて、半年たたぬ間に里へ帰され、出戻りの身をぶらぶらしているお米であった。隠してはいるが、年はもう二十四、五。女盛りの、燃える炎を包まれて、美が冴《さ》えるほど肺が痩《や》せ、気の尖《とが》るほど凄艶《せいえん》さが目立ってきた。
「お米さんの病気には、男が一番毒ですぜ」
誰かが冗談にいった言葉も、お米の悶《もだ》えにこびりついて離れぬものの一つである。
お品もうすうす知っていた。浮いた話は、この女《ひと》に罪だった。けれど話の途中に幕も引けずに、
「じゃ、誰をそんなにお待ちなの?」と、テレ隠しに訊いてみた。
「うちの由造《よしぞう》。四日前に、大事な使いに走らしたのに、まだ帰らないので腹が立ってね……」
「アア、あのぐず由《よし》さん?」あれじゃあ、色にも恋にもならない対手《あいて》だ。
「その由さんがどこまで行ったのですかえ?」
「実はね、この間出入りの鰻《うなぎ》かきが大川筋で旅の者を助けてきて、離れのほうへ寝かせてあるの」
「板前さんからも聞いていた、何でも、太刀傷のある上に水浸《みずづか》りになって、随分|容体《ようだい》も重いということじゃないか」
「ええ。だけれど、江戸の伝法《でんぼう》肌だけに気が強くて、大事な用を帯びているのだから、是非、親分を呼び返してくれ、後生だ、頼みだ、と夢中《むちゆう》にまでいっているのだよ」
「まあ、何だか可哀そうだね。そして、その人の親分という人は」
「唐草銀五郎という方で、多度津《たどつ》へ立った街道へ、すぐ由造を追いかけさせたのだから、もう今日あたりは連れて帰ってくる時分だけれど……」
話しながら、何気なしに日本橋の方へ待ち佗《わ》びた眼をやると、今度こそたしかにそれ! 早《はや》を打たせて四手駕《よつで》、三|挺《ちよう》、エイ、ホイとこっちへ棒を指してくる。
「あ、やッと帰ってきた!」思わず涼み台を離れると、トンと店《みせ》さきへ駕尻《かごじり》が下り、垂《た》れを揃えた三挺の四《よ》ツ手《で》の裡《うち》から、
「大儀であった」という武家言葉。
どうやら、それとは人が違っている。
駕屋《かごや》に簾《すだれ》をはねさせて、川長《かわちよう》の明りへ姿を立たせたのは、身装《みなり》差刀《さしもの》、いずれもりゅうとした三人の武家揃い。
蜂須賀家《はちすかけ》のお船手《ふなて》、九鬼弥助《くきやすけ》、森啓之助《もりけいのすけ》。ともう一人は、やや風采が異なって、紺上布《こんじようふ》に野袴《のばかま》をつけ、自来也鞘《じらいやざや》の大小を落した剣客肌の男――阿波本国の原士《はらし》天堂一角《てんどういつかく》であった。
どれも馴染《なじみ》の顔ではあるが、お米は少し当てが外《はず》れた淋しさで、
「いらッしゃいませ」とだけですぐに案内に立つ。風通しのいい表二階、好《この》ましい酒器や料理が調《ととの》えられたところで、お米もつい二ツ三ツ酌《しやく》の愛想《あいそ》をして席にいた。
「いや、いつ見ても艶《あでや》かだの。一つまいろうか」
「まアご冗談を……」美しいといわれることは、お米にとって、病《やまい》に錐《きり》を向けられるような苦痛であった。
「しばらくの間、またそちの姿も見られなくなる。つまり今宵《こよい》は別盃《べつぱい》じゃ、まあ一盃《ひとつ》受けてくれい」
「オヤ、ではお近いうちにお国元へでも?」
「ウム、殿のご帰国に従《つ》いて渡海する筈じゃ。ままになるならお米《よね》も一緒に連れたいが……」
「嬉しゅうございますわ、森様、ほんとにお連れ下さいましよ」
「はははは、真《ま》に受けられては大変じゃ。知っての通り、他領の者は一歩も入れぬ阿波の御領地。ましてや厳しいお関船《せきぶね》へは、どんな恋女房でも乗せては行かれぬ」
「昔は阿波のお国へも、商人衆《あきんどしゆう》や遍路《へんろ》の者が、自由に往来《ゆきき》したそうでございますが、いつからそんな不便なことになったのでしょう」
「さよう、もう御封地になってから七、八年。阿波の水陸二十七関、いよいよ厳しいお固めである」
「それはまた何のためでございますか」
「何のためか、殿様のお胸、吾々の知るところでない。しかし西国のうちには、阿波以外にも他領者の入国できぬ所がある」
「すると、真《しん》から、そこに恋しいお方があるとすれば、清姫《きよひめ》のように蛇《じや》になって、あの鳴門《なると》を越えなければなりませんね」
「はははは、当世女に、そんな心中立《しんじゆうだて》は聞かぬところ、まず心配のないことじゃ」
「いいえ!」お米は熱を打ち込んで、赤い吉田|団扇《うちわ》をクルリと廻しながら「――私が恋をするとすれば、鳴門はおろか、どんな関でも、きっと渡って見せますわ。ええ! 蛇《じや》にでも夜叉《やしや》にでもなりますとも」
「こりゃ怖ろしい。してその相手は森氏《うじ》か、天堂氏か、それともかくいう九鬼|弥助《やすけ》か」
「ホホホ、どちら様でもございません。もし仮にあったらという話――」
「何のことじゃ」笑い崩れてしまったが、お米は自分の空想を真実にして考えこみ、天堂一角は、床柱に凭《もた》れて、じっと、何かに耳を澄ましていたので、二人の声はまじらなかった。
で、はしゃいだほうの者も、笑った後をやや白けて、冷えた盃の縁《ふち》を舐《な》めていると、すぐ近くから、喨々《りようりよう》、水のせせらぎに似た尺八の音階が、一座の耳へ流れてくる――。
「む、いつ聞いても悪くないのう……」さっきから耳心《じしん》を澄ましていた一角はひとりで呟《つぶや》く。
「あの歌口は宗長流《そうちようりゆう》、京都|寄竹派《きちくは》の一節切《ひとよぎり》じゃ、吹き手はさだめし虚無僧《こむそう》であろう」
「まあ。本当に虚無僧《ぼろんじ》さん――」と、お米は体を手欄《てすり》に凭《もた》せて、二階から下を覗《のぞ》きながら、
「まだお若い普化宗《ふけしゆう》のお方。あれ、あのように一心に吹いているのに、誰か、お鳥目《ちようもく》に気がつく店の者はいないのかしら……」
「どれ、拙者が喜捨《きしや》してつかわそう」森啓之助が、なにがしかの小粒銀を紙入れからつかみだして、手欄《てすり》の方へ立ち上がった。
「森様、お包み致しましょう」お米が小菊紙《こぎく》を出していうと、もう幾分か酒に酔わされている啓之助、
「何の、物乞いにする投げ銭に、ご丁寧なことが要《い》るものか」と、下を目がけて、
「虚無僧! 銭《ぜに》をくれるぞ」
パラッと小粒を投げつけた。
と虚無僧は、尺八の手をやめ、肩や天蓋《てんがい》へ落ちてきた金には目もくれず、スッとそこを去りかけた。
ところへ、ドンと川長の前へ投げ出されたのは、道中|早次《はやつぎ》の駕《かご》二つ、着くが早いか、その一|挺《ちよう》の中から、半病人で飛び出した由造が、
「お嬢さん! 由造です! ただ今帰りました」
「オオ由かい?」お米は二階から身を伸ばした。
「唐草の親分、やっとお連れ申して参りました」
「まア、早かったねえ! 今行くから待っておいで」今の尺八も客も忘れて、お米はトントントンと袂《たもと》を舞わして店さきへおりてくる。
「ア痛《いた》、ア痛たたた……」
ほとんど半身、外科《げか》の手当に繃帯《ほうたい》されている病人は、夏の夜の寝苦しさと、傷の激痛に呻《うめ》きを太く、時折《ときおり》白い床の上に現《うつつ》の身をもがいていた。
と――樅《もみ》や楓《かえで》の植込《うえこ》みを縫って飛び石伝いにカラカラと、庭下駄の音がそこへ急いで行く。すぐ後から二人の影、一人は由造、一人は今早駕を下りたばかりの唐草銀五郎である。
「多市さん、多市さん」
先に立ったお米、濡れ縁から呼びかけて中へ上がった。二間造りの別棟《べつむね》で、魚をかこっておく生洲《いけす》の水がめぐっており、板場の雑音は近いが、屋根から庭木へ掛けてある川狩《かわがり》使いの網の目に、色町の中とは見えぬ静かな宵の月が一輪。
「さ、親分様、どうぞこちらへ」
「ご免なすッて下さい」
脇差を取り、裾《すそ》を払って、銀五郎もズッと入った。油薬の香が蒸《む》れてプーンと鼻を衝《う》つ。
ここまで来る間に、使いの由造から、すッかり事情は聞いていたが、見れば、余りに変り果てた乾分《こぶん》多市の姿――銀五郎そこへ足を入れた途端に、指の尖《さき》で目がしらの露をおさえた。
幸か不幸か、待乳《まつち》の多市は、お十夜の妖刀に二ヵ所の傷を負わされながら、川長の者に救われてここに療治をうけ、今なお気息|喘々《ぜんぜん》と苦患《くげん》の枕に昏睡《こんすい》している。
「多市さん!」お米は軽く揺《ゆ》すぶッて、
「寝ているの、苦しいの? ――お前さんがうわごとにまでいっていた唐草親分が、枕元へ来ていますよ、え、お分りかえ」
「えっ、親分? ……」多市はポッカリ眼を開いた。起き上がろうとするのを、銀五郎がそっとおさえて、その顔を覗《のぞ》きこんだ。
「多市、気がついたか。俺だ、銀五郎だ……」
「おッ。親分」と、細い手を絡《から》ませて、上眼《うわめ》にじっと見ていたかと思うと、その瞼《まぶた》からポロポロと男泣きの熱い泪《なみだ》……。
「無理に体を動かしちゃいけねえ、じっとしていろ、もう俺が戻ってきたからには心配はない」
「親分、わっしの傷は助かりません。助かろうとも思いません……ただ心がかりだったのは、親分が先へ多度津へ渡ってしまい、わっしがこうなったことも知らずにいると、飛んだ手違いになると思いまして、そいつが気になって気になって……」
「うむ、お千絵様の手紙のことか」
「そうです。すみませんが親分、多市はもう駄目ですから、わっしに構わず、もう一度江戸表へ帰って、お千絵様に事情を話し、誰かほかの乾分《こぶん》を連れて阿波へお立ちなすッて下さい」
「馬鹿をいっちゃいけねえ」
励ますつもりで銀五郎は、わざと語気を強くする。
「そんな弱気でどうするものか。てめえの気性を見込んだからこそ、今度の旅にも連れてきたのじゃねえか。それも只とは違って、甲賀家の浮沈とお千絵様の一身にかかわる大事なお使いだ」
「そういわれると、諦《あきら》めている命も急に惜しくなります。だが親分……所詮《しよせん》この容体じゃ助かりッこはありません」
「養生は気の持ちよう、しっかりしてくれ。二人の旅は他国と違って、船路も陸《おか》も関のきびしい蜂須賀《はちすか》領、しかも、生死の知れぬ世阿弥《よあみ》様へ秘密な手紙を持って入《い》り込もうというずいぶん危ねえ勝負ごとだ。なんでてめえのほかにめったな者を連れて行かれるものか」
「アア助かりてえ……親分、多市はきっとこの傷を癒《なお》して、同じ死ぬなら、阿波の土を踏んでからくたばります……」眼《まなこ》を閉じ、唇を噛んで、負けぬ気の性根でそうはいったものの、呪《のろ》われた二ヵ所の太刀傷ズキズキと痛《や》みだすもののごとく、青白い皮膚にはこらえる汗が膏《あぶら》となって滲《にじ》みでる。お米も、何とはなしに貰い泣きして、側から額《ひたい》の汗を拭いてやり、その手拭を由造へ渡した。
「冷たい水で、も一度しぼり直してきておくれ」
「へい」と、由造が立って濡れ縁へ出た時である。バサッ――と窓際《まどぎわ》の青桐《あおぎり》が揺すれ、人の駈け出すような寒竹《かんちく》のそよぎがした。
「あっ、どこの客だろう」
「何だえ、今の音は?」お米がそこに出て見ると、表二階の客、蜂須賀家の森啓之助が、妙な気振《けぶり》でスタスタと植込みの中へ隠れて行った。
「御両所、この家に油断のならぬ奴が潜《ひそ》んでおりますぞ!」こう息まいたのは森啓之助。
表二階へ戻ってくるなりに、偸《ぬす》み聞きした銀五郎の言葉、また怪しむべき様子を指摘して、偵吏《ていり》のごとく同僚の二人へ奥庭の仔細《しさい》を告げた。
最前から、そこに浅酌《せんしやく》していた天堂一角と九鬼|弥助《やすけ》は、お米の後に尾《つ》いて姿を消した啓之助を、実はおかしい方へ推量しているところだったが、彼の語調や、聞き流しのならぬ事実に驚いて、思わず盃を下へおく。
「ふウん、そんな奴が隠れているのか」弥助と一角は顔見合せて、「甲賀世阿弥の名を口にし、阿波の境《さかい》へ入りこもうとする奴なら、紛《まぎ》れもなく江戸からの廻し者じゃ」
「引《ひ》っ縛《くく》ってお屋敷へ送り込み、とくと吟味をしてみる値打ちがござりましょう」
「あるとも。すぐ踏み込んで取り押えてくれよう」
「相手は町人、大事はあるまいが念のために、天堂氏も一方を見張って下さるまいか」
「承った――」と、やおら自来也鞘《じらいやざや》を左にひっさげて、巨躯《きよく》を起こした天堂一角。九鬼弥助、森啓之助を先に立たせて、酔いざましの好場所もあらばと腕を扼《やく》して立ち上がった。
涼風《すずかぜ》ならぬ一陣の凄風《せいふう》、三人のひっさげ刀《がたな》にメラメラと赤暗い灯影《ほかげ》を揺《ゆる》がした出会《であ》い頭《がしら》――とんとんとんと柔《やわら》かい女の足音、部屋の前にとまって両手をついた。
「あの、お武家様……」見れば川長の女中である。みんな立ち上がっている血相に、ややおどおどとして遠くから、
「先ほど、お鳥目を投げておやり遊ばしたあの虚無僧《ぼろんじ》が、ご挨拶《あいさつ》を申したいから、是非二階のお武家衆の席へ通してくれと申しますが……」
「何じゃ、さっきの虚無僧《ぼろんじ》があいたいと?」
「ハイ、物乞いのように銭を投げつけられては普化宗《ふけしゆう》の一分《いちぶん》が立たぬと、少し怒っているような口ぶりでございます」
「生意気な!」弥助は叩きつけるような語気で、
「そやつの挨拶とは、何かいいがかりをつけて酒代《さかて》をねだるつもりであろう。押しの太い尺八乞食め、見せしめに素《そ》ッ首《くび》をぶち落してくれるから召し連れて来い」ひどく癇《かん》にさわったらしく、ぐわんとどなりつけるのを森啓之助がなだめて、
「まあ九鬼|氏《うじ》、多寡《たか》の知れた虚無僧|風情《ふぜい》じゃ……」一方へ大事な出先と目顔に知らせて、女中の方へもこういった。
「これ、さような者の言い草をいちいち受けついでまいるから悪い。早く塩でも撒《ま》いて追っ払ってしまえ」
すると、一間を越した隣り部屋、今までシンとしていた所から、ポンポンと軽く手を打つ客があった。
「はアい」いい機《しお》にしてそこへ立つと、中には女の一人客、五種六種《いついろむいろ》の料理を取ってキチンと静かに寛《くつろ》いでいる。
打ち見たところその女客、文金の高髷《たかまげ》に銀釵筥迫《ぎんさんはこせこ》、どこの姫様《ひいさま》かお嬢様かというふうだが、けしからぬのはこのお方、膳の上に代りつきのお銚子《ちようし》を据《す》え、粋《いき》な莨入《たばこい》れに細打《ほそうち》の金《きん》煙管《ぎせる》、ポンとはたいて笹《ささ》色の口紅から煙をスパッとくゆらした。
「すみませんね、忙《せわ》しいところを」
「どう致しまして、何ぞ御用でございますか」
「いいえ、何も別段なことじゃないんですけれど、ちょうど、お隣で断わられた虚無僧《ぼろんじ》さんに一|曲《きよく》吹いて貰いたいと思いますの。ご苦労だけどここへ呼び入れて下さいませんか」
「あの、ただいまの虚無僧《ぼろんじ》を?」と、女中は一方へ気兼ねをして、すぐには応じかねていると、案《あん》の定《じよう》、向うでは聞き咎《とが》めた九鬼弥助が、
「皮肉な真似《まね》をいたす奴じゃ!」憤声《ふんせい》を洩らして、食ってかかりに来そうであったが、
「止《よ》せ止せ、ばかばかしい」啓之助と一角が、しきりにそれを制している。
「大事の前の小事、そんな者に当り散らしているひまに、離れの奴が蜂須賀家の侍《さむらい》と知ったら、風を食らって逃げ失《う》せぬとも限らぬ」
「そうじゃ、九鬼|氏《うじ》一刻も早く!」バラバラと裏|梯子《ばしご》を降りて川長の庭――夜露をしのいで忍びこむと、人の気配にさとい生洲《いけす》の魚がパチャッと月の輪を水にくずした。
「しッ……」と後ろを制しながら、先に立った森啓之助、生洲の小橋を匍《は》い渡って、以前の屋《や》の内をそッと覗《のぞ》くと、お米も由造も早やそこには居合せないで、ただ洩《も》れるかすかな声。
「う、うウむ……」というのは多市の呻《うめ》きであろう。枕元には銀五郎が、その寝顔を見まもりながら、三味《さみ》の遠音《とおね》や色町の夜を外にして深い思案に落ちている。
「あれだな?」
と、無言に目指しあって、パッと家の内へ躍りこんだ九鬼弥助。枕元から立ちかける銀五郎の利腕《ききうで》をムズと捻《ね》じ上げて、
「阿波へ入りこもうとする江戸の間諜《かんちよう》! すなおに吾々と同行しろッ!」
図星をさして真《ま》っ向《こう》から対手《あいて》の胆《きも》を挫《くじ》きにかかった。
ぎょッとしたが銀五郎、さすがに練れている所がある。色を隠してさあらぬ様子、取られた利腕《ききうで》を預けたままで、
「お人違いでございましょう、高野詣《こうやまい》りの帰りの者、阿波へ入りこもうの間諜のと申すような身柄ではございませぬ」穏やかにいい澄ました。
「いうな、最前の密談を聞く者あって、汝が甲賀|世阿弥《よあみ》の縁故の者ということは明白なのだ。言い訳があるならお下屋敷《しもやしき》へ参った上に、何なりと申し述べろ!」
「や、ではあなたは蜂須賀家の」
「知れたこと、お船手組《ふなてぐみ》の九鬼弥助だ。天下|何人《なんぴと》たるを問わず、御禁制の境を破って阿波への入国を企《くわだ》つる者は、引っからめて断罪たること知らぬうつけはない筈じゃ」
「しかし私にとりましては、まったく以て迷惑なお疑いでございます」
「えい、この期《ご》にもまだ白《しら》を切るかッ」いわせも果てず捻《ね》じ敷いて、素早く刀の下緒《さげお》を口にくわえ、両の手頸《てくび》をギリギリ巻き――それでも銀五郎は眼《まなこ》を閉じてこらえていたが、不意にムックリと身を動かした乾分《こぶん》の多市が、親分の危急! と一心に掴《つか》み寄せた道中差《どうちゆうざし》、床《とこ》の上から弥助を目がけてさっと突き出す。
行燈《あんどん》の光を流した刃《やいば》の錵《にえ》、切《き》ッ尖《さき》の来るより早く弥助の眼を射て、「おのれ!」パッと片足に蹴返した。
さなきだに重体の多市は脾腹《ひばら》を衝《う》たれてひとたまりもなく、ウームと弓形《ゆみなり》にのけぞる弾《はず》み――行燈の腰へ縋《すが》った共仆《ともだお》れに、一面の闇、吹ッ消された燈火《ともしび》は窓越しに青白い月光と代った。
大事は破綻《はたん》した、大事は破れた! もうこれまでと臍《ほぞ》を決めた銀五郎、いきなり利腕を振りほどき、力任せに弥助の足をトンとすくった。
「あっ――」と不意を食ったうわずり声。畳四、五枚向うへよろけて行く隙に、つかむが早いか、スウッと抜いた脇差の鞘《さや》から走る風もろとも、唐草銀五郎真一文字にぬれ縁の外へ飛びだした。
飛び下りた影を狙《ねら》って、颯然《さつぜん》たる一刀が月光に鳴り、斜めに腰を払ったが、ヒラッとかわして銀五郎が、無二無三の刃交《はまぜ》を挑《いど》むと、対手《あいて》はたちまち掠《かす》りをうけて後退《あとずさ》り、耳から顎《あご》へかけて赤い一筋――森啓之助は危なくなった。
と――銀五郎の前へ、また一本の剣《つるぎ》がふえた。九鬼弥助の助太刀である。いや、さらにまた後ろから、彼をうかがう者がある。天堂一角の見張りであった、まさに三方の敵に囲繞《いによう》された銀五郎、髪はしどろとなり汗は粘《ねば》く、だんだんと剣気《けんき》に命を磨《す》り減らされてゆくものか、月をうけた顔そのものも見る見る死相に変ってくる。
無残、ここに惜しい男一匹が、使命を半《なか》ばにしてズタ斬りとなるか、無念の鬼となろうとしているのを、世間は宵《よい》の絃歌《げんか》さわぎで、河岸を流す声色屋《こわいろや》の木のかしら、いろは茶屋の客でもあろうか、小憎いほどいい喉《のど》な豊後節《ぶんごぶし》――。
鍔《つば》から外《はず》れた切《き》ッ尖傷《さききず》、柄手《つかで》を朱《あけ》に染めつつ銀五郎、もう受身に受身を重ねてジリジリと生洲《いけす》の縁《ふち》へ追いつめられる。
機を計っていた一角は、その時|自来也鞘《じらいやざや》の大刀をヒラリと放ち、殺気にからむ二ツの眼《まなこ》にトロトロと燐《りん》の炎を立てたかと思うと、ピュッと振りかぶってただ一気、銀五郎の後ろからズバッ――とやりかけた。
すると、カラッと妙な音がして、その大刀は途中から意外のほうへ狂ってしまった。やッ? と愕《おどろ》いて見れば、風のごとく寄ってきた白い人影、森啓之助の脾腹《ひばら》を当て、九鬼弥助の腰をすくってザアーッと生洲の水へ投げつけた。
「ウウム……何奴《なにやつ》ッ」
怒気を漲《みなぎ》らして構え直った天堂一角、きっと月光の注《そそ》ぐところを見れば、青き天蓋《てんがい》、銀鼠色《ぎんねずいろ》の虚無僧衣、漆《うるし》の下駄を踏み開いて、右手《めて》に取ったるは尺八に一節《ひとふし》短い一節切《ひとよぎり》の竹……。
これはただの虚無僧ではない。
一見不用意に似た尺八の構えは、いわゆる八面鉄壁な斜《なな》め青眼《せいがん》、たしかに一流をこなしている。ましてや天蓋の裡《うち》の息しずかに、竹とはいえその尺八から、剣にも等しい一脈の殺気が迫ってくるところ――どうして冴えている! 奥行の知れない深味がある。棒振《ぼうふり》剣術や雑剣客の類《たぐい》ではない。
と――一角はすぐに見てとった。
彼とても技《わざ》には一かどの見識を持つ男。この虚無僧の只者でないことを知るとともに、ピタッと剣勢を改めて、ウカとは上段を振り下ろさずに、一方の銀五郎へ気をくばって見ると、生洲から這い上がった弥助と啓之助、二|刀《とう》に一人の銀五郎を挟《はさ》んで、四、五間先へ斬りまくしている。
「よウし!」一角の肚《はら》がきまッた。「多少の心得はあろうとも、およそは知れた虚無僧づれ、その構えを割りつけて、天蓋から肋《あばら》の下までただ一刀!」
漲《みなぎ》りだした殺念は眼《がん》にあらわれてものすごい。月光を吸いきった三尺たらず無銘のわざ刀《もの》、かつ然と鍔鳴《つばな》りさせて天蓋の影へ斬りかかった。
「ム!」と相手も気を含んだ。尺八の穴みなビューッと鳴って、一角の大刀を大輪《おおわ》に払うと、払われたほうは気を焦《いら》って、さっとその切《き》ッ尖《さき》を足下《あしもと》からずり上げる。
途端に、どこから飛んできたか一枚の小皿、闇の空から斜めに風を切ってきた。
「あっ!」とかわすと、またすぐに一枚の小さな皿、独楽《こま》のように吹ッ飛んできて、柄手《つかで》を翳《かざ》した一角の刀の鍔《つば》にあたってパッと砕ける。
「うッ……」粉《こ》になった瀬戸のかけらに、目をつぶされたのか一角は、片手で顔を抑えたままバラバラとそこを離れて大声に、
「御両所ッ、今宵《こよい》のところは引きあげろ!」と、叫んだ後も目に手を当てて、虚無僧の入ってきた裏門から一散に外へ走りだした。
阿波の原士《はらし》の中でも、剛《ごう》の者といわれている一角が、なぜか真っ先に走ったので、九鬼も森も対手《あいて》を捨てて、空しく川長を飛び出してしまった。
引っさげ刀で銀五郎が、その後ろを浴びせに追いかけると、こなたに残っていた前の虚無僧は、静かに天蓋のふちを上げて、
「銀五郎、銀五郎」と呼びとめた。
「えっ?」不意に名を指されたいぶかしさに、思わずそこから振りかえると、
「そちに歯の立つ対手《あいて》ではない。必ずとも追ってはならぬ」
「や? ……もし」と銀五郎、戻ってくるなり虚無僧の足もとへ片膝片手をつきながら、
「まず何よりは、今のお礼から申し上げなくっちゃなりません。したがこの私を、どうして銀五郎とご承知なのでございますか」
「知らいで何とするものか、こりゃ唐草……」軽く肩を叩いて、傍《かたえ》の庭石へ腰をおろし、久闊《きゆうかつ》の声なつかしげに、
「そちにも、いろいろと世話をやかせたまま、一昨年《おととし》江戸表より姿を消した法月弦之丞《のりづきげんのじよう》じゃ」
「ええっ!」弾《はじ》かれたように寄りついて「法月様でございますッて? オオ、弦之丞様だ、弦之丞様だ!」飽《あ》かず面《おもて》をジッとみつめ、嬉しいのか悲しいのか、しばらく言葉もないのである。
天蓋を払ったその人物、漆黒《しつこく》の髪を紫の紐《ひも》でくくった切下《きりさ》げ、月のせいもあろうか色の白さは玲瓏《れいろう》といいたいくらい、それでいて眉から鼻すじは凜《りん》とした気性の象徴《しようちよう》。
年は若い、恋にも功名にも燃え立ちやすい青年である。何流をやったか、今見せた腕の冴《さ》えといい、宵を流す一節切《ひとよぎり》の風流といい、ゆかしくもあるがあまりに美男な色虚無僧。その珠玉をつつむ天蓋はおそらく仇《かたき》を避けるためでもなく、また宗門の掟《おきて》にでもなく、旅から旅の一節切《ひとよぎり》、浮気につきまとう仇情《あだなさけ》の女難除《よ》けであろうかもしれぬ。
その時、二階|欄干《らんかん》に寄って、
「まあ、いい月だこと……」
呟《つぶや》いている女があった。
宵から、天堂一角の隣り座敷にいて、向うで断わった虚無僧を呼べといい、おまけに手酌《てじやく》をきこし召《め》していたお嬢様――それは見返りお綱《つな》――小皿を投げたのもお綱であった。
いい月とは何の月? 欄《らん》に凭《もた》れたお綱の眸《ひとみ》は、現《うつつ》のような色気に濡れて、弦之丞の腕の冴えならぬあの姿に、吸いつけられているではないか。
恋の追分《おいわけ》
川長のお米《よね》はすこしどうかしている。
あの騒動のあった翌朝、ここの裏門から、こっそりと三ツの駕が出て行って、病人の多市も銀五郎も、またその夜泊まった法月弦之丞《のりづきげんのじよう》の姿が見えなくなってから早や四、五日。
きのうも今日も、お米は陰気な一間《ひとま》の塗箪笥《ぬりだんす》に凭《よ》りかかって、ものに憑《つ》かれたような、祈るような、泣きたいような眸《ひとみ》をジイと吊《つ》っていた。
「弦之丞様、弦之丞様、……アア、どうしたんだろう、私の心は? どうしてこの名がこんなにも、私の心へ焼きついてしまったのかしら。たッた一夜同じ家に夜を明かしただけの人が、こうも忘れられなくなるものかしら? ……」
出戻りの女にあり勝ちな強烈な恋。分別もあり男の苦労も一通りは舐《な》めながら、押し伏せている情血の沸《たぎ》りに駆られて、吾から囚《とら》われてゆくあぶない恋。
「つまらない! アア淋しい。弦之丞様というものを見たばかりに、あの人が去った後の私の家は、まるで伽藍《がらん》か墓場のよう……」
軽い咳《せき》がこみ上げてきた。細ッそりとした肩のあたりで箪笥《たんす》の鐶《かん》が揺さぶれる。と、二ツ三ツ咽《むせ》びながら、お米は小菊紙《こぎく》を出して口を押さえた。
離してみると、紙に滲《にじ》んだ桃色の唾《つば》――人にきらわれる癆咳病《ろうがいや》みの血――。だが、彼女の目には若い血の疼《うず》きがそこへ出たかと見える。
「恋をするのも今のうち。どうせ私は、永いことのない命だもの! そうだ、これから大津へ行ってみよう」
ふらふらと立ち上がった。
「だけれど? ……」パラリと落ちた足もとの櫛《くし》をみつめて、お米はまたふいと迷いもした。
「せっかく、家中《うちじゆう》の者が心配して、人目につかないように、江戸のお方や弦之丞様を、大阪から離れた隠《かく》れ家《が》へやってあるものを、私が出入りなどすれば、また蜂須賀家の侍が嗅《か》ぎつけようも知れないし……。といってこのまま弦之丞様に、逢わずにはなおいられない」
と悶《もだ》えているかと思うと、見えぬ糸で魂を操《あやつ》られている人形のように、
「ええ、もうじれッたい、どうなとおなり……」ペタリと鏡台の前へ坐った。そして、繻子鬢《しゆすびん》のくずれを手早く梳《す》き返し、美艶香《びえんこう》や松金油《まつかねあぶら》を溶《と》きはじめたのは、もう恋のほかなにものもなく、一途《いちず》に大津とやらへ行って、法月弦之丞に会うつもりであろう。
それにしても、美男の魅力は美女の蠱惑《こわく》にも優《まさ》るものか、あの夜川長の裏庭で、月下に渦まいた一つの争波《そうは》から、虚無僧姿の若人《わこうど》へ、剣《つるぎ》以外に、お綱お米という二つの女の魂まで絡《から》みついてこようとは、弦之丞その人すらも知らないこと――。
「お米や……」そこへ温か味のある声がした。お米の母で、店から何まで切り廻している老母《としより》である。小さな器《うつわ》へ、何か赤い液をたたえた物を持ってそろそろと入ってきた。
「お前、また今日も服《の》むのをお忘れだね」
「…………」答えもしないで臙脂《べに》をさしている、鏡の中のお米の目、やや狂恋《きようれん》の相《かたち》がある。
「服《の》まなくってはいけませんよ。え、お米や」
「今日は服みたくないんだもの」
化粧のできた鏡の吾をみつめたまま、お米は見向きもしなかった。
「そんなわがままをいって――、自分の体を自分で大事にしない者があるものか。さ、お服《の》み、せっかく今、竹やがしぼってくれたのだから……」と、口へ持って行くばかりに、母の出した器の中の赤いもの。それは癆咳《ろうがい》に利《き》くというので、お米が人目に隠れて服《の》むすっぽんの生血《いきち》だ。
「いや、いや、今日は何だか見るのもいや……」
「何だえ、この娘《こ》は。まるで駄々ッ子のように」
「だって今日は嫌なんですよ」
「お前はまア、自分の命を惜しいとは思わないのかえ?」
「ええ、なんだか惜しくなくなりましたわ」
「ばか! 人の気も知らないで」
と睨んだ眼には女親の泪《なみだ》がいっぱい……。
「お米さん、逢いたいという人が来ましたぜ」
何も知らないで下働きの由造、ひょいとそこへ顔を出した。
「え、誰が?」
「この間きた蜂須賀家の森啓之助様。今日は一人で、二階へ上がって待っています」
美艶香《びえんこう》の薫《かお》りが、そこへ忍びやかに流れてきて、
「森様、ようおいでなされました」と、お米の姿が、小座敷の萩戸《はぎど》へ透《す》いて中へ入った。
とにかく、蜂須賀の船手《ふなて》の衆は、店にも大事な顧客《とくい》であるので、いやいやながらも顔をだした。
待ちわびていたらしい森啓之助、
「お米か、ずっとこっちへ寄ってくれい」
「はい、いつぞやはまた、とんだお粗相《そそう》をいたしまして」
「何の……」といったが啓之助、素姓《すじよう》のしれない虚無僧づれに、生洲《いけす》の水へ投げこまれた醜態を、お米にも見られていたかと腋《わき》の下から冷汗をおぼえている。で、テレ隠しに、
「いつにも増して、まばゆいばかりな化粧あがり、どこぞへ出かけるところであったか」
訊《き》かれたのをいい機《しお》にして、
「ええ、はずせない急用がございますので……そして森様、私に御用とおっしゃるのは?」
「ウム、ほかではないが」と啓之助、声と片肘《かたひじ》を前へ落して、お米の顔を覗《のぞ》きこむ。
「当家の離れにおった江戸の男とあの夜の虚無僧、もはやここにはおらぬそうだが、まさか、他へ匿《かくま》っておくのではなかろうな」
「いいえ、決してそんな……」すぐ打ち消したが、これからそこへ行こうと思い燃えているお米の胸。ギクリと一本釘を刺されて、動悸《どうき》に顔色をさわがした。
「覚えがなければそれまでのこと、深く追及するのではない。わしはただ同僚の手前、役目として一応|糺《ただ》しにまいっただけじゃ……」優しく砕《くだ》けた啓之助は、すくんでいるお米の手を握ってグイと側へ引きよせた。
「まだほかに一つの相談。それを諜《しめ》しあわせたいのが今日の大事な用向きじゃ。これお米……何とそちは近いうちに、この啓之助と共に、阿波へ渡るつもりはないか」
「えっ、阿波へ? ……」
「ウム、阿波はよいぞ阿波の国は――八重の潮《うしお》に繞《めぐ》らされて渭之津《いのつ》の城の白壁がある。峰や山には常春《とこはる》の鳥も歌おうし、そちの好きな藍《あい》の香《か》が霞《かすみ》のようにけむっている……」
ささやきながら啓之助は、お米の肩から胸へ手を廻して、心臓の音をさぐるように、じっと心を現《うつつ》にする。ひと頃は、お米のあこがれでもあった国、これが弦之丞というものを、知らない前のお米であったら、そのささやきに一も二もなく魅惑《みわく》されているであろう。
「どうじゃ、お米、わしと一緒に阿波へこぬか。この川長へ来はじめてから、それをどれほど思っているか、それは今さらいうまでもない。松のよい所《ところ》、水のよい所、そちの好きな所へ寮を建ててやろう、どんな栄華《えいが》もさせてやろう」
「ですけれど森様、阿波のお国は、他領の者を入れぬという、きびしい掟《おきて》ではございませんか」
「もとよりそれに相違ないが、そちさえウンといえば、どんな手段《てだて》でもしてみせる」
「手段といって、あの海や関のお固めを、どうして潜《くぐ》って行かれましょう」
「お船手組《ふなてぐみ》のこのわしが、内から手引きすることじゃ、決してそこに抜かりはない。いよいよ殿のお渡りもあと二月《ふたつき》、九月の初めと決まっている」
「でも、何だか私は怖ろしゅうござります」
「なに怖ろしいことがあるものか、それにはこうして渡るのじゃ……」お米がもがく力をおさえて、耳へ顔をピッタリ寄せた啓之助、何か一言二言《ひとことふたこと》小声に口を動かしたが、それは今のお米の心を惹《ひ》く何ものの力もない。
「あ、誰かきます、森様、その手を離して下さいませ」
「よいか、承知であろうな」
「エエあとでよく考えておきますから……」
「何の思案がいるものか、お米、そちは心の奥で、このような男の力がほしゅうはないか」
「あ……あ……森様、息がつまります。離して、離して!」落ちた笄《こうがい》も拾わずに、男の手をふりもぎッたお米は、ふらふらと外へ出て、辻に見えた馴染《なじみ》の駕屋《かごや》を呼んで、
「あの駕屋さん、急いで大津の追分《おいわけ》まで行って下さいな、だちんは幾らでもあげますから」
両《りよう》の簾《すだれ》を下ろしてスッと身を隠してしまった。そして駕がゆれだすとともにフラフラと軽い目まいをおぼえ、まだ残る男の匂いが気持わるくこびりついた。
「じれッたい駕屋だこと、どうしてこんなに遅いのだろう――ああ弦之丞様、弦之丞様」上《うわ》の空なお米の心は、森啓之助の仲間《ちゆうげん》が、目早くそれを見つけ、この駕の後からつけてくることを夢にも知らない。
京大阪へ別れの辻、東海道へはふりだしの大津追分、宿《しゆく》の家《や》なみはうす黒く暮れて、馬や駕や旅人のかげも絶え、夕顔の花と打水に濡れた道と軒の明りがところどころ。
針屋、そろばん屋、陶器《すえもの》屋、その隣には鬼の念仏の絵看板、鉦《かね》と撞木《しゆもく》をもって町の守り神のように立っている門《かど》は、大津絵《おおつえ》をひさぐ室井半斎《むろいはんさい》の店である。
「おじさん、今晩は」
藤を持たない藤娘のようなのが不意にこういって入ってきたので、行燈《あんどん》と蚊やりを寄せ、夜業《よなべ》に絵の具をなすッていた半斎、びッくりして鼈甲《べつこう》ぶちの眼鏡《めがね》を上げた。
「おや、お前はお米じゃないか」
「ええ……」といったきりで川長のお米は、上がり框《かまち》へ駕づかれの身を寄せて、明りをうしろにうつむいている。
お米には叔父《おじ》にあたる大津絵師の半斎、
「一人で来たのかい」ジロジロと姪《めい》の様子を見まわしていた。
「ええ、急にあの……心配になったものですから」
「何が心配に? ……」
「この間、おじさんのほうへお願いした三人の方が、もしやまた、蜂須賀家のほうへでも知れていやしないかと思いまして」
「なアんだ、くだらないことを」
「だって、怪我《けが》をしている多市さんの容体も、いいのか悪いのか気にかかるんですもの」
「お前は、それでわざわざやって来たのかい」姪の甘えるような言葉を、そのままの意味で聞いた半斎は、クックッ笑いながら線描《せんが》きの大津絵に、紅《べに》や黄土《おうど》を塗りはじめる。
「ね、おじさん、あの方たちは奥にいるの?」
「それがさ、奥へおけるようなら心配はないが、病人の傷が癒《なお》るまで、匿《かくま》ってくれというお前の方からの注文だろう、ところがここは街道筋で、わけても人目に立ちやすいから、実は関明神《せきみようじん》の下で、時雨堂《しぐれどう》という一軒家が、庵主様《あんしゆさま》がおるすなのを幸いに、そこを借り住まわせてあるんだよ」
「ほんとに、いろいろご苦労をかけてすみませんでした。そしてあの多市さんの傷は」
「大津から外科《げか》をよんだり、薬風呂をたてたりして、あの銀五郎という親分が、親身になって世話をするので、だいぶよいという話だ」
「それはよいあんばいでございました」お米は店の壁にかけてある金泥《きんでい》の仏画《ぶつが》に眸《ひとみ》をうつしたり、袂《たもと》の端をいじったり、何かもじもじしていた後に、やッと心の奥のものを持ちだした。
「そしておじさん、あの若い虚無僧の方も、まだご一緒にいるでしょうね」
「ウウム、いるらしいよ」と半斎《はんさい》、無心の筆で、鬼の頭をバサリと描《か》いた。
「じゃ私、これからそこへ行ってみようかしら……」
「あしたにおし、明神様のあたりは真っ暗だからの」
「時雨堂なら、よく知っているから大丈夫でございますよ」とすぐにお米が門《かど》を出だしたので、半斎は慌《あわ》ててうしろへ声を送った。
「おいおい、お米や」
「あい」
「お前はこッちへ来て寝なくっちゃいけないぜ」
「分ってますよ」ちょッと邪慳《じやけん》に眉をひそめて、もうあらかたとざした宿《しゆく》を急ぎ足に、関明神の石段の下まで来た。逢坂山《おうさかやま》の杉木立が魔のように見えて、ごうッと遠い風音も常なら気味の悪い筈だが、お米の今は体の疲れも何の怖さも知らないのだった。
夜気冷やかに瞬《またた》いている二|基《き》の常夜燈。ささ流れを跨《また》いで竹林《ちくりん》の小道へ入ると、水の声でもない笹《ささ》の葉のそよぎでもない、耳覚えのある尺八の音……時雨堂から洩《も》れてくる。
その一節切《ひとよぎり》の竹の音は、吹く人のすさびでも聞く者の興でもなく、病人の苦痛を忘れさせて眠りに導くためであったとみえて、やがて一つの曲が終ると、
「銀五郎、どうやら多市は寝たようじゃの」
と、お米の胸を沸《わ》き返す、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》その人の声がする。
「いかさま、あなたの尺八を聞きながら、よく寝込んだようでございます」答えたほうは銀五郎であった。
細かい竹の葉がくれに、時雨堂の中がすッかり覗《のぞ》けた。奥には蚊帳《かや》が釣ってある。白衣《びやくえ》の法月弦之丞は唐草と向かいあって、縁《えん》の端居《はしい》に蚊やりの榧《かや》をいぶしていた。
「もう何刻《なんどき》であろうかの」と弦之丞。
「そろそろ四刻《よつ》すぎでもございましょうか」と、軒廂《のきびさし》から明星を仰ぎながら銀五郎。「あの山の上の一ツ灯《び》は、関明神のお明りでございましょうな。ああどこを見てもただまっ暗、何だかわしのようながさつ者も、しみじみと旅の淋しさがこたえてきます」
「して、そちが江戸を出たのはいつごろであった?」
「梅雨《つゆ》へ入るとすぐでしたから、もうかれこれ一月《ひとつき》前。それがてんから食い違って、阿波の関を越えるどころか、多市は倒れるし路銀は掏《す》られるような始末。どうやら悪日《あくび》に立ってきたかもしれませぬ」
「そして、この後《ご》の策はどうするつもりじゃ」
「さ、弦之丞様、実はそのことでございますがね……」真剣になって銀五郎、そこでしんみり声を沈めた。
外ではお米、その人恋しさに、矢も楯《たて》もなく大阪から飛んできながら、弦之丞の影をちらと覗《のぞ》くと共に、迷いと羞恥《しゆうち》につつまれて、はしたなく声もかけられずにいるうちに、二人が密話《みつわ》になりだしたので、なおさらそこを驚かす勇気がくじけ、ドット鳴る血の音を感じながら、胸を抱いて籬《まがき》の裾《すそ》へしゃがんでしまった。
ひそかではあるが力をこめて、銀五郎の声がすぐつづく――。
「どじをふんだ旅の空で、あなた様にお目にかかったのは、まったく甲賀|世阿弥《よあみ》様のおひき合せ――こう銀五郎は信じております。自体こんどの阿波入りも、わっし風情《ふぜい》には荷の過ぎた大役です。どうぞあなたのお力をお貸しなすッて下さいまし」
「わしに力を貸せいというか」
「へい、倒れかかっている駿河台の喬木《きようぼく》、甲賀のお家を支《ささ》える力は、あなたのほかにはございません。とりわけお気の毒なのは、この世に頼る人というものをお持ちなさらぬお千絵様……。もし弦之丞様、あのお方を、あなたは不愍《ふびん》とは思いませぬか」
「…………」白衣《びやくえ》の人《ひと》は無言である。
見るとその眼は閉じられてあった。何か心に痛みをおぼえるのか、かすかに唇がふるえている。
「もし弦之丞様、あのお方をよもお忘れではございますまい。わ……わっしですら、お千絵様のお身の上を考えると、野郎のくせに、つい、なみだが出てしようがねえんです……」太い腕ぶしをグイと折って、泪《なみだ》の両眼を隠したまま唐草銀五郎、しばらく顔をそむけていた。
「――だが、御不運なお千絵様にも、たッた一人あなた様という強い力がありました。ところが、その一人さえ一昨年《おととし》から、プイと虚無僧寺へ隠れてしまい、心強くもお千絵様をすてておしまいなされました……。正直、わっしはその時|怨《うら》んだ、ばかにしてやがる、前髪立ちの頃から、恋の何のと誓っておきながら、それが世間へ知れたからッて、虚無僧寺へ隠れたあげく、江戸を去ってしまうなんていう法はねえ、第一、大番頭《おおばんがしら》の若様ともある弦之丞様に似合わねえ、男らしくもねえ! と、こう独りでどなりましたぜ」
「では何か、わしがお千絵殿をすてて、江戸から姿を隠したのを、そんなに怨《うら》んでおったのか」
「お怨み申しておりましたとも! 乳母に上がっているわっしの妹も、そういう薄情な若様と知らずに、お千絵様との仲をおとりもちしたのが申し訳ないと、どんなに悔《くや》んだか知れません。いやいや、わっしや妹の歯軋《はぎし》りはまだのこと、あなたに捨て残されたお千絵様の嘆きよう……アア思いだしてもお気の毒、まったく罪でございますぜ」
「…………」愴然《そうぜん》たる白衣《びやくえ》の人《ひと》、口はかたく結ばれたまま、その姿は氷のよう、その横顔は死せるようだ。
お千絵様? お千絵様? その名はいちいち匕首《あいくち》のように、籬《まがき》のかげに潜《ひそ》んでいたお米の胸を抉《えぐ》ってきた。そして、ここまで描いてきた彼女の恋のまぼろしへ、見る間に悪魔のかげが踊る。
弦之丞《げんのじよう》の態度が、いよいよすげなく、いよいよ冷静になりゆくほど、銀五郎の語調はまごころをまし、熱そのものとなってくる。
「そればかりではございません。今お千絵様のまわりには、あのお美しさと、甲賀家の財宝を狙う魔ものが、つきまとっているのです。――それを誰かといえば、あなた様にもお心当りがございましょう、粘《ねば》り強い悪智をもった旅川周馬《たびかわしゆうま》という男を……」
「ウウム、旅川周馬?」
こう口のうちで呟《つぶや》きながら、初めて瞑目《めいもく》をみひらいた法月弦之丞、その涼《すず》やかな眸《ひとみ》には、何か強い記憶のものがよみがえっていた。
「はい、その周馬めでござります。恋敵《こいがたき》のあなた様が、江戸を去ったのを幸いにして、陰《いん》に陽《よう》に、お千絵様を責め悩ますじゃございませんか」
「さては、いまだ諦《あきら》めておらぬとみえるな」
「手をひくどころか、いよいよ意地を曲《ま》げての横恋慕《よこれんぼ》です。おまけに手をかえ、品をかえて、甲賀家の財宝まで、おのれの物にしようという腹……太い野郎でございます」
「オオ、あの周馬なら、そのくらいなことは企《たくら》むであろう」
「わっしは元より今戸《いまど》の瓦師《かわらし》、とてもあいつに歯は立ちませんが、またお千絵様の境遇をよそに見てもいられねえ。そこでにわかに阿波入りを思いたち、あのお方の手紙をもって、世阿弥様の御安否をさぐり、もし生きていたらばしめたもんだ! 甲賀のお家に春が来る! というので実あ飛びだしてきた訳です」
「なるほど、いつもながらの侠気《おとこぎ》じゃ。恋はすれど意気地もなく、天蓋《てんがい》の下に身をかくしている、この弦之丞などは面目ない」
「ど、どういたしまして。ところが、こいつア一世の大難事。細工はりゅうりゅうという訳にはゆきそうもねえ、まずわっしの命は鳴門の関をこえねえうちに、たいがい無いものだろうと覚悟をしました。しかし、あとあと思いやられるのはお千絵様、春にも逢わずお家の御運と共枯れに散るよりほかはねえのです……。もし弦之丞様、それやこれも察してあげて、どうぞわっしが立った後は、江戸表へお帰りなすッて、不幸なお千絵様の力となってあげて下さいまし……、このとおり、銀五郎が両手をついてお願い申します」
「……さて何としたものやら?」
「なに迷うことがございましょう。嘘《うそ》もけれんもないところ、お千絵様はあなたにしんから惚《ほ》れています。顔だけ見せてあげただけでも、どんなにお欣《よろこ》びかもしれませんぜ。弦之丞様、銀五郎が一生の頼みでございます、どうぞ一度あのお方へ帰ってあげて下さいまし」
これほど真摯《しんし》な声も、まだ相手の心を衝《う》つにはたらないのか、依然としてその人の横顔は冷たく、諾《だく》の一語を洩らさない。
が――あまりに強く衝たれたのは、その人にあらずして、さっきから籬《まがき》の裾《すそ》にしゃがんでいたお米の胸。
「弦之丞様には女がある! お千絵様という深い深い恋仲の女子《おなご》があった! ……」
こう知った心は、火へ水をぶッかけられたよう。くらくらとめまいがして、深い闇へつきのめされた心地に、側の竹へすがってしまった。
支《ささ》えになった竹の幹は横に撓《しな》って、むら笹《ざさ》の葉からバラバラと瑠璃《るり》の雨……お米へ無残な露しぐれ。
と、その時一人の男。
そこを離れてひた走りに、闇から闇へかけ去った。根《こん》よくお米をつけてきて、この時雨堂《しぐれどう》を見とどけた森啓之助の仲間《ちゆうげん》であったらしい。
しばらくして……。半刻《はんとき》ほど後お米はふいと気がついた。
見ると目の前に提灯《ちようちん》がある、大勢の人がとりまいている。その中には、叔父の半斎もいるし、店の者もきているし、銀五郎と法月弦之丞もまじっていて、何かしきりに低い声でささやきあっていた。
やがてお米は、ソロリと戸板へ寝かされた。
提灯が先に立つ、そして、時雨堂の明り――悲恋の灯《ともし》はだんだんと遠くなり、暗い追分の宿《しゆく》を通ってゆく。
「あ……私はあすこで、仆れた時に血を吐いたのだ……着ものに血が……血が」
指に冷たくぬれるものを感じながら、お米は戸板の上でポッカリ星を見つめている。
「私の恋はかなわぬ恋――弦之丞様には女子《おなご》がある、それでなくとも、こんな病を知られてしまった……」頭だけは澄みきっていた。
阿波侍
ほこりッぽい街道すじに、これはまたきれいとも華やかともいいようのない行列が、今――三条口から大津の方へ、おねりで練《ね》ってくるのである。
桃色の日傘、あやめの絵傘、とりどりに陽へかざす麗人二十二、三人、派手《はで》模様の袂《たもと》や藤いろの褄《つま》、緋《ひ》のけだしやら花色の股引《ぱつち》やら、塗《ぬ》りの下駄だの紅緒《べにお》の草履《ぞうり》だのが風にそそられて日傘の下にヒラヒラと交錯《こうさく》し、列に挟《はさ》まれた駕《かご》一|挺《ちよう》、一人の美女がのっている。
どこの陽気なみだい様かとまちがえそうな人数だが、歩きながら、たえずペチャクチャとさえずるお供の方の風俗や、また、口三味線だの小唄だのを、はばかりもなくさんざめかして行く態《てい》からみても、この人々は、決してさような、やんごとないご連中ではない。
だが、往来《ゆきき》の旅人や馬子や荷もちの人足などは、その華奢《きやしや》にして洒然《しやぜん》たる道中ぶりに眼をうばわれ、
「なんだろう? ……」と、あッけにとられて見送りながら、そこでさまざまな風評が立つ。
どこかしらのお大尽《だいじん》が、京の芸妓《げいこ》や色子《いろこ》をこぞッて、琵琶湖《びわこ》へ涼みに出かけるのだろう。いやいや、お大尽様というものは昔から男のものに限っている、あの駕の中に納まっているのは女じゃないか。なアるほど女ですね。女も女、すてきな別嬪《べつぴん》さ。してみると金持の御寮人《ごりようにん》様かな。もしもしばかをいってはいけませんよ、良家の箱入娘があんなまねをして、臆面《おくめん》もなくこの真っ昼間あるくもんですか。イヤごもっともごもっとも、それもそうだ。それじゃア何だ? 何だかさッぱり分りませんな。
こんな噂やけげんがる目が、その行列をいっそうはしゃぎ立たせて、程もなく逢坂《おうさか》の麓《ふもと》、走井《はしりい》の茶屋の店さきへかかると、一同はまン中の駕を下ろし、群蝶のくずれるように茶店の内や外に散らばった。
「さあ、お嬢様、お嬢様」
祇園《ぎおん》あたりの仲居《なかい》であろうか、装《なり》をすかさぬ年増たちが、駕を覗《のぞ》いてこういった。
「――いよいよここが追分手前で、あのとおり井水《いみず》が吹きこぼれている走井《はしりい》の名物茶屋。お名残り惜しゅうございますが、お見送りもここまでといたしましょう」
「まあ、もうお別れの場所へきたの。何だかあっけない気がするね」
「なろうことなら、お江戸まで従《つ》いてまいりとうございますが、それではお嬢様がお困りでしょうし……」
「ほんとにね、みんな京人形ならいいけれど、お米を食べる虫だから……」
「あら、あんなお憎い口を」
「じゃ、とにかくそこで休みましょうか」
「さアさア、ごゆるりとお支度をなさいませ」
頭の青い男芸者や仲居たちがすぐ駕の屋根からはきものを取ってそろえると、また一方から、ソレお扇子《せんす》が落ちました、ヤレお裾《すそ》が砂へつきました、と下へもおかずに藤棚の前の座敷へお迎え申し上げる。
そこではまた、きれいな舞妓《まいこ》や色子《いろこ》たちが、団扇《うちわ》の風を送るやら、吹井《ふきい》の水で手拭《てぬぐい》を冷やしてくるやら、女が女をとり巻いて、何しろ大したもて方である。
「もうたくさんたくさん――そんなに風を貰っても、江戸のお土産《みやげ》に持ってゆかれるわけでもなし、さアみんなも少し涼んでおくれ」
「はいはい、そんなら私たちも、しばらくここで休ましていただきましょう」
「アアそれがいい。そら、ここまで送ってきてくれたご苦労賃ですよ、仲よく拾って遊んでおいで――」
帯の間からつかみだした金銀を舞妓《まいこ》たちへバラバラと撒《ま》いてやる。たいこや仲居|大供《おおども》までキャッキャッとなってあばきあった――。なるほど、これなら女のお客にしても、たしかにもてるに違いない。
さはあれ、このお嬢様、べつに女|紀文《きぶん》を気どる次第でもなく、厭味《いやみ》な所もさらさらない。ただこうした色彩の雰囲気《ふんいき》につつまれているのがわけもなく面白いのであるらしい。
と、何思ったか「姐《ねえ》さん――」と茶店の女を手招きして、お嬢様はこうおっしゃる。
「あの、あすこに灘《なだ》の樽《たる》がみえるようだが、ちょっと一本つけてちょうだいな……いいえ、肴《さかな》はべつにいらないよ、あるなら枝豆か新生姜《しんしようが》でも……」
一方では舞妓たちが藤棚の下へ床几《しようぎ》をもちこみ、銀のかんざし花櫛《はなぐし》のきれい首《くび》をあつめて、和蘭陀《おらんだ》カルタをやりはじめていた。
お嬢様なるあやしい女、それは見返りお綱であった。――お綱が江戸への帰り途である。
天王寺で掏《す》りとった三百両や、和蘭陀《おらんだ》カルタで思いがけなく勝ちぬいた金、合せて七百両あまりを、伏見や京都で男のような遊びぶりにつかいちらし、まず上方を見物したし、重たい金の荷もとれたし、これでサッパリ帰ろうというのである。
そこで、京の芸子や仲居たちは、江戸|蔵前《くらまえ》の大通《だいつう》のお嬢様が、いよいよお立ちというので、走井《はしりい》の茶屋まで見送ってきたものである。そのためにお綱はまた、つかい残りの小粒まで、洗いざらいフリ撒《ま》いてしまった。
だが――お綱の目でみると、人通りの多い東海道、路銀はどこにでも転がっている。
で、どこまでも触れこみ通り、金に大様《おおよう》で通《つう》でお侠《きやん》な札差《ふださし》の娘――という容子《ようす》になりすまし、仲居を相手に、美食のあとの茶漬好み、枝豆かなにかでお別れの一合をチビチビと飲んでいる。
と、茶店の外で一服すっていた駕かきが、
「あっ、いけねえ――」と、藤棚のほうをのぞいて声をかけた。
「舞妓《まいこ》さん、舞妓さん。早くカルタを片づけてしまいなせえ。あいにくと向うから、お役人らしい侍が大勢こッちへ来るようですから」
「大丈夫よ……」
和蘭陀カルタに気をとられている舞妓の組は、それに耳もかさないで、床几《しようぎ》の周《まわ》りにたかっていた。
「大丈夫じゃねえ、往来からみえる所で、そんな物をいじッていると、きっとガリを食うにきまっていら」
「だって、お菓子をかけているのだもの、お役人様が見たって叱りはしないわ」
「おや、またはじまっているのかえ」
お綱もこっちで苦笑したが、何か思いだしたように、
「あのカルタは、私が長崎からもってきて、舞妓さんたちに教えたのだけれど、もし後でお咎《とが》めでもあるといけないから、こっちへ返して貰いたいね」
「はい」仲居が立って、すぐ札《ふだ》を集めてお綱の前へさしだした。お綱はそれを重ねたまま、ピリッと裂いて煙草盆の火にくべてしまう。
「アラ、つまらない……」
舞妓たちの眼は、和蘭陀カルタの煙を見あげて、うらめしそうにつぶやいている。
「では、私は勝手に支度をしなおして、日蔭ができたらここを立ちますから、みんなも構わずに戻って下さい」
「さようなればお嬢様、ぜひ来年の祇園《ぎおん》祭りには、またおいでなされて下さいませ」
「ええ、またきっと上《のぼ》ってまいりましょう。アア、それから私の頼んでおいた道中着物は? ……」
「こちらへ包んでおきました。ではお嬢様、どうぞご機嫌よろしゅう」「道中お気をつけなさいませ」「水《みず》あたりやゴマの蠅《はえ》にも……」などと入れ代り立ちかわり、送り言葉のあいさつを述べて、この一行はまた、三条口へつづく並木をゾロゾロと引っ返してゆく。
ぽんぽんと手を叩いて、お綱はそのあとで女中を呼んだ。
「永く店を塞《ふさ》いでいてすみませんでしたね」
「いいえ……あの、御用は何でございますか」
「こんな姿をして歩くと、道中|駕《かご》かきや人足にばかにされて困りますから、ちょっと支度をなおしたいと思うんですが……」
「それなら、あちらの部屋に鏡台もございますから、ごゆるりお使いなさいまし」
「じゃ、ちょっとそこを借りますよ」
立って奥へ入ろうとすると、ちょうど茶店の前をおびただしい数の侍《さむらい》が、いずれも野袴《のばかま》わらじがけで、シトシトとわき目もふらずに通り過ぎてゆくのを見た。
「おや?」
お綱は、ペタと壁のかげに身を隠して、
「あの先達《せんだつ》になってゆく男は、たしかこの間|川長《かわちよう》の座敷で隣合った阿波侍……たいそうぎょうさんな身支度で、一体どこへゆくのかしら?」
と横目づかいにジイと見送っていると、あの、天堂一角とおぼしき眼が、鋭くこっちへふり向いたので、お綱はスッと奥の部屋へ隠れてしまった。
そして、立て膝の鏡立てに、両手を髪へ廻したかと思うと、見るまに笄《こうがい》をぬき簪《かんざし》をとり、鹿《か》の子《こ》結びのお七|髷《まげ》を惜しげもなくこわしてしまう。
そら寝の駈引《かけひき》
あれから一刻《いつとき》ばかりたって、お綱は、すきや縮《ちぢみ》に小柳《こやなぎ》の引っかけ帯、髪もぞんざい結びに巻きなおし、まるで別人のようになって、
「アア、せいせいした……」
と「走《はし》り井《い》」と書いた団扇《うちわ》を片手に、ぶらぶら大津の方へあるいていた。
ちょうど、どこかの粋《いき》なお内儀《かみ》さん――というかっこう、誰の目にも旅をしている者とはうけ取れまいと思えるが、さすが、街道かせぎの駕《かご》かきは目が高かった。
「こウ、姐《ねえ》さん」
すぐ蠅《はえ》のようなやつが二匹、一匹は空棒《からぼう》を通して駕をひッかつぎ、一匹は手ぶらで後からくッついてくる。
「どうだい、ええ、姐さんてば」
お綱はふり向きもしないで、団扇を使いながら歩いていたが、
「うるさい人だね!」チェッと舌うちをして睨《にら》みつけた。
「うるさかったら乗ってくンねえ。陽のあるうちに矢走《やばせ》の渡船《わたし》を越えて、草津泊りは楽なもんでさ。下駄ばきでカラコンカラコンやっていた日には、これから大津までもむずかしゅうがすぜ」
「大きなお世話だよ」
「こいつアごあいさつ。親切に教えてやっているんじゃねえか」
「雲助とゴマの蠅の親切なんかは、まッぴらご免ですとさ。それとも、まったく親切気があるなら、これから江戸の日本橋まで、押ッとおしでやってくれるかい」
「ええ、ようがすとも、泊りさえ取ってくれれば、江戸だろうが、奥州だろうが、決して嫌たアいいません」
「そうかい、だがね」
「まアとにかく、先へ乗っておくンなさい」
「無代《ただ》でだよ」
「えっ?」
「こう見えても私は一文なし、タダでいいなら乗ってあげる」
澄まして行き過ぎるうしろ姿に、いっそうムッとした二人の雲助、いきなり空駕《からかご》をほうりだして、バラバラッと腕《うで》まくりのただ一打ち!
「けッ、ふざけやがるな」
鷲《わし》のごとく飛びついたが、お綱の体に触れない前に、あっ! と雲助が音《ね》を揚げた。と思うと、何者にか、二人とも襟《えり》がみを引っつかまれてブーンと一ふりふりまわされる。
「街道のウジ虫め、悪くあがくと命がねえぞ」
「アッ、ごめんなすって――」
下からその太腕を見あげると、服《なり》は黒麻に茶柄《ちやづか》の大小をさし、夏ではあるが、黒紗《くろしや》の頭巾に半顔をつつんで、苦み走った浪人の伝法|肌《はだ》。
お綱は、ひょいと振りかえって、
「おや、お前は、お十夜《じゆうや》じゃないか」と、二足三足戻ってくる。と孫兵衛は、両手にしめつけていた雲助を、ドンと向うへ突っ放した。
「あ、お待ちよ、駕屋《かごや》さん――」
ほうほうの態《てい》で逃げかける雲助を、駕屋さんと優しく皮肉に呼びとめたお綱。
「街道すじは生馬《いきうま》の目を抜く人通り、他人様のふところを狙う前に、よく自分たちの胴巻でも用心していたほうがいいよ」
ニッコリ笑うと、いつの間に掏《す》っていたのか汗じみた雲助の財布をポーンと足もとへほうってやった。
「こんなビタ銭《せん》は、痛々しいから返してあげる。だがネ、これから正直に働かないときかないよ」
「あっ、こいつア俺のだ」あっ気にとられた雲助は、それを拾うとお十夜の眼も怖く、一散に空駕《からかご》をさらって逃げてしまう。
「ホホホホ、雲助なんて、何という他愛《たあい》がないんだろう……」お綱は見送って明るく笑った。
「おい――」その肩へ、ソッと手をのせて、お十夜孫兵衛。
「相かわらずすばしッこいなあ」
「あんまり憎いから、ちょッとからかってやったのさ。だがお十夜さん、妙な所で落ち合ったねえ」
「そッちは不意に思うだろうが、この孫兵衛は、ぬきや屋敷のあの騒ぎから後、どんなに跡を探していたか知れやしねえ」
何か一物《いちもつ》ありそうなお十夜――あのそぼろ助広の鉄色《かねいろ》のようにトロリとした眼でお綱を視《み》る……。
曇るかと思うとカーッと照る、松並木の葉洩《はも》れ陽《び》が、肩をならべて行くお綱とお十夜のうしろ姿へまばゆい明暗を綾《あや》どってゆく。
「じゃ、あの騒ぎから後に、それほど私の跡を尋ねていたのかい」
「こんどのことをきッかけに、一つ江戸へ出てみたいと思うのだが」
「アアそれもいいかもしれないね」
「女のところへ男が転がり込むなあ、少し逆縁かもしれねえが、当座の間、お前《めえ》の家へやっかいになるつもりだ」
「おやすいこと、江戸へ帰ればお綱だって、少しは顔がきくから、安心しておいでなさいよ」
「ありがてえ、これでおれも気が落ちついた」
「気が落ちついたのは私のほう……」白い歯なみを笑《え》みこぼして、ニッと流しめに媚《こび》を向けたので、あまり近く寄り添っていた孫兵衛、息づまるような眼づかいを迷わせた。
「はてな……」と好色な孫兵衛は、もう情心《じようしん》の闇に好きな痴蝶《ちちよう》を舞わせて、勝手な想像を心の奥でたくましゅうする。
「お綱のやつめ、ばかに今度は当りがいい……ジロとおれをみる眼元、何ともいえない色気の露がたれている。やッぱり女は女ざかり、男がほしいに違いない。とするとこの金的《きんてき》、案外もろくポロリとおれに落ちてくるかもしれないわえ……」ひそかに伽羅《きやら》の薫《かお》りを偸《ぬす》み、その肉を想いなどして、今宵の泊りの夢までを描くのである。そういえばお綱の手が、歩きながら、ときどき味を持たせるように孫兵衛の指へ触《さわ》ってくる。ここで、ギュッとその手を、握り返してやりさえすれば、侠《きやん》なようでも女のことだ。そうなってはもう啖呵《たんか》の音《ね》も出まい。きっと、俺のこの強い力にほだされて、いつの間にか俺のこの胸へ抱きこまれてくるんだろう。甘《あめ》えものだ。何といってもそのほうにはお綱も初心《うぶ》なところがある。世間にすれていて男に初心――男にすれていて恋には初心――、という女がこのお綱だ。深窓《しんそう》にたれこめている御守殿女《ごしゆでんおんな》の初心よりは、お綱のような女の初心が、時には、ばかばかしいほど男に血道をあげるものだ。
……孫兵衛の情心妄想、あるきながら果てしもない。
お綱の、あの鈴形《すずなり》に澄んだ目も、きりッと蕾《つぼ》んだ口元も、板木師《はんぎし》が一本一本|毛彫《けぼり》にかけたような髪の生《は》えぎわも、ふるいつきたい襟《えり》あしの魅力も、小股《こまた》のきれ上がった肉づきも、おれの手にかかれば翌朝は、そのおもかげも残しはしない。お綱がうわべにまとっている、張《はり》だの侠《きやん》だの意気地だの、そんな虚勢《きよせい》はみんな脱がして裸のお綱にしてみせる。そして五十三|次《つぎ》の泊りの間に、この女を生れ変ったようにしてやったら……こりゃ、そぼろ助広の刃《やいば》に、辻斬りの血をぬるような快《こころよ》さの比ではない……と、孫兵衛の魔情はニッタリとするのであった。
と、いつか並木がザワめきだしてザーッと砂をまぜた風が、お綱の裾《すそ》を煽《あお》り、孫兵衛の幻想をうしろから吹き払ってしまった。
「おや、ポツリと降ってきやしない?」
お綱の眸《ひとみ》が、雲足の迅《はや》い空をみていた。
「オオ、夕立雲!」
「困ったねえ、まだ大津へも着かないうちに」
「しかたがないから早泊りとするさ」
「向うに見えるのが追分だね」
「ウム、どうせ二人とも急ぐ旅じゃねえ。オ! こいつアいけねえ、本降りだ!」いううちに大粒の雨、サーッと斜めに吹っかけてきたので、二人はにわかに走りだした。と、その後ろから一ツの笠が風に舞わされてクルクルッとお綱の足へ吹きよせてきた。
「アアア――」と追いかけてくる旅人があった。べんけい縞《じま》の単衣《ひとえ》に紺脚絆《こんきやはん》、笠を抑えたらしい時、お綱はちょッと振り返って、何だか見たような男と思ったが、雨と風に吹き別れて、街道筋の旅人もみな散り散りに影を潜《ひそ》めてしまった。
お綱とお十夜は、追分|端《はず》れの静かな旅籠《はたご》へおちついた。雨|樋《とい》を溢《あふ》れるドシャ降りと、青光りの稲妻に障子をしめて、お綱はグッスリ枕についた……、閾一重《しきいひとえ》の隣には、宵に、お綱の媚《なま》めいた酌《しやく》に酔った孫兵衛が、これもグーッと寝ついている。
だが、心から寝ついているかどうか? ……。
お綱も真から帯紐《おびひも》をといて、寝こんでいるかどうか? ……。とにかく、目にみえないあるものが、仄暗《ほのぐら》い灯にまたたかれている二ツの枕を通っている。
そら寝のかけひき、どうなるか?
月夜《つきよ》の風邪《かぜ》
そのあした。
雨はやんだが曇りもよう。湖水の色や、比叡《ひえい》の雲の行きかいを見るに、もう一降りドッとこなければ、この天候は霽《は》れあがるまい、というので、旅籠《はたご》の門《かど》には、だいぶ逗留《とうりゆう》延ばしのはきものが見える。
「おい、誰かいねえのか、ごめんよ――」
そこへ一人の男が立った。
「あい、お泊り様で……」宿の女中が出てみると、土間に突っ立った男は、べんけい縞《じま》の尻はしょり、笠の前つばを抑えているので人相は分らない。
「うんにゃ、泊るわけじゃねえ。――ちょっとここの客に言伝《ことづて》て貰いたいのだが、昨日《きのう》なんだろう、……あのドシャ降りがやってきた時、頭巾をかぶった浪人と小粋《こいき》な女が、ここの家へ、駈けこんできたろう」
「はい、お泊りでございますが」
「その女の人に、これを渡してくンな。昨日、走井《はしりい》の茶屋の前で拾いました、おおかたあなたが落したものと思って、ついでに持って上がりました……とな。いいか、忘れちゃいけねえよ」
懐《ふところ》から、妙な模様のついている一枚の札を出し、それを女中の手に渡して、
「だが、そいつはついでで、肝腎《かんじん》なのはこの次だぜ。ところで、この札を届けました男が、いつぞやは飛んだご恩をこうむりました。おかげ様で命拾いをいたしたようなもの、くれぐれもありがとうぞんじました……と、こうお礼をいって貰うんだ」
「それでは、ちょっとお呼び致しましょうか」
「おッと。逢うわけにはゆかねえんだ、外には連《つ》れも待っているから、今いったことだけを頼んだぜ」ヒラリと戸外《おもて》へさして帰ってしまった。
「お客様、ごめんなさいませ……」女中はすぐに、その札を持って奥の客間をさし覗《のぞ》く。
二|間《ま》のうち一間のほうには、お十夜孫兵衛、宿酔《ふつかよい》でもしたのか、蒼味《あおみ》のある顔を枕につけ、もう午頃《ひるごろ》だというに昏々《こんこん》と熟睡《じゆくすい》している。
「おや、まだおやすみでございますか」
「いいえ……」中仕切《なかじきり》の向うからお綱の声がした。お綱はすッかり朝化粧まですまして、服《なり》もきちんとできていた。
「お連れ様は、たいそうよくお寝《よ》りでございますね、おや、朝飯《あさはん》もあがっていらッしゃいませんようで」
「そッとしておいて下さいな。昨夜《ゆうべ》少し持病が起きて苦しんだところですから……、なアにこの分で、夕方までグッスリ寝ていれば、気分がよくなりますから心配しないで」
「はい。それからお客様……ただいま下へ、旅のお方が見えまして、これを渡してくれとおっしゃいましたが……」女中は、べんけい縞《じま》の男からいわれた通りの言伝《ことづて》を添えて、きれいな模様のある札をお綱の前へさし置いた。
「えっ、これを誰かが届けてきたって? ……」
お綱は畳の上へ眼をみはった。その一枚は、まぎれもない和蘭陀《おらんだ》カルタの一枚である。
走井《はしりい》の近くで拾ったといえば、送ってきた舞妓《まいこ》たちが、あの茶店先でもてあそんでいたから、その一枚が往来へ散ったのであろう――それに不思議はない、しかし、この一枚のカルタをたぐって、自分へ届けてきた男の眼力《がんりき》がなんとなくもの凄い。
だがまた、女中の言伝《ことづて》によると、その男は、別に悪意を持っている様子もない――いや、悪意どころか、陰《いん》に何かを感謝している口ぶりであったという。
「じゃ、べつに、もう御用はございませんか」女中が立ちかけると、今度はお綱が問いかけた。
「あの……妙なことを聞くようだけれど、この辺に、虚無僧|寺《でら》がありますか」
「虚無僧寺? ……さアよく存じませんが」
「では昨夜、雨の小やみな時に、時々|一節切《ひとよぎり》の音《ね》がしていたようだけれど、あれはどこで吹いていたのだろうね」
「一節切と申しますと、あの尺八でございますか」
「まア同じようなもの、何か心当りがありませんか」
「そういえばこの間うちから、関のお山の麓《ふもと》にある時雨堂《しぐれどう》で、誰か時折吹いているようでございます」
「関の麓の時雨堂? ……ああ、そうですか、ありがとう……」と、女中が立った後でお綱は黙って眼を閉じた。――ゆうべの雨の絶えだえに聞いた、あの一節切《ひとよぎり》の遠音《とおね》を、ふたたび耳の底に聞くように。
「ウウム、ウウッ……」不意に寝床の上の孫兵衛が身を動かした。とたんに、お綱はスッと立って、背なかを壁に貼《は》りつけたまま、その蒼白い寝顔と寝息をうかがっている……。
時雨堂。なんとなく心を惹《ひ》かれる名だ、恋しい情けが運ばれる名である。
でなくともお綱の心は、一途《いちず》にそこへ向いていた。とにかく、垣間見《かいまみ》にでも覗《のぞ》いてみたい、声だけでも横顔だけでも――という恋慕が矢のようにはやる。
で、宿からそッと抜け出した。
その時、お十夜は、まだ昏々《こんこん》と眠り落ちていた。
関《せき》の明神《みようじん》へフラフラと歩きだしながら、お綱は、ふと、自分の気もちを不思議に思う。
「おや、どうかしているよ、私は? ……」
だが、引っ返す気にはなれない。
「どうかしている、そろそろ、お綱のやきがまわったのかしら。今まで、男の中にまじりあって、その男が何とも思えず、女だてらに大尽遊びをして、色子や男芸者に水を向けられても、どんな気もしなかった私だけれど……妙だねえ、今度だけは、あの一節切《ひとよぎり》だけが忘れられない。魔がさしたというものかしら?」
はっきりと、自分でその気心の怪しさを意識しながら、足と心だけは、グングンと惹《ひ》かれる方へ惹かれてゆく。あの時雨堂へ。
とはいえ、世間に一節切の上手は多い。宗長流《そうちようりゆう》もたくさんある。ゆうべ夜半《よなか》に、宿の枕へほそぼそと通《かよ》ってきた音《ね》が、必ずしも、あの虚無僧とはかぎるまい、世間に虚無僧も大勢ある。
だが――あまりよく似た音色《ねいろ》でもあった。立慶《りつけい》河岸《がし》を流していたのを、川長の二階で聞いたあの音色。ほんとにソックリな節廻《ふしまわ》し、曲もたしかに宗長流の山千禽《やまちどり》。
「ああ、どうしたんだえ、この、お綱さんは!」自分の胸を叱ってみても、やッぱりいつかお綱の心は、その人らしく考える。
あの晩、川長の隣り座敷にいた阿波侍が、何かコソコソ諜《しめ》しあわせて庭手《にわて》へ出たので、お綱は、見るとしもなく二階から見下ろしていると、たちまち月下に剣《つるぎ》の声がおめきだした。そして一人が危うくなる……あっと思っていると、裏木戸から、あの虚無僧が白鷺《しらさぎ》のように立って、ピタリと対手《あいて》の阿波侍へ尺八を向けた――その阿波侍の刀の鋭さを見ていたお綱は、やにわに膳の小皿をとって、パッ――と二つ三つ投げつけたのだ。
しかし、お綱はあとで後悔した。
あれは余計なことだった。あの時虚無僧の構えた尺八には、充分な自信と研《みが》きぬいた腕の冴《さ》えが、素人目《しろうとめ》にも分るほど光っていた。なんだかはしたないことをしたように気が咎《とが》めて、お綱は、侠《きやん》にも似ず、その時、恥かしい気に責められもした。
そしてしばらく、月を浴びて、ひそひそと話しているその人を、上の手欄《てすり》から見つめているうちに、お綱は夢ともうつつとも知らない境に、骨の髄《ずい》まで沁みわたるほどなゾッとする恋慕の寒気《さむけ》にとりつかれた。
お綱は、恋だなんて嫌味なことを、いいもしなければ思いもしない。
自分で自分の心にいった。
「わたしは、月夜の晩に風邪《かぜ》をひいたよ!」
世間にすれていて男にすれず――男にすれていて恋にはすれていない、これがお綱の実感だった。
月夜の風邪は重くなった。
あれからも二度三度、立慶《りつけい》河岸《がし》のお茶屋に上がって、一節切《ひとよぎり》の主《ぬし》を待つ夜もあったが、とうとうそれきりその尺八《たけ》もその影すらも見かけない……。京や伏見で七百両のやけ費《づか》いも、華やかだったには違いないが、月夜の晩にひいた風邪は、お綱の髄《ずい》からぬけないのである。
「あ……うッかりして、妙なほうへ来てしまった……」お綱は目先を拭《ぬぐ》われたように、ふいと気がついて立ちどまった。
関《せき》の明神《みようじん》の高い石段は、さっき右手にみて左へ折れた薄おぼえがある。道はいつかダラダラ上りにかかっていて、緑の濃い竹林の中に、淙々《そうそう》としてゆく水の声がある。
「この辺じゃないかしら? ……こんな時に昨夜《ゆうべ》の一節切《ひとよぎり》が聞こえてくればいいけれど」
と、二筋《ふたすじ》の道を見廻していると、やや上りになった檜林《ひのきばやし》の暗い蔭に、一人の女が泣いている。檜にもたれて泣いている。
木《こ》の間《ま》を透《す》く空も、どんよりと銀燻《ぎんいぶ》しのように鈍《にぶ》く、樅《もみ》や松や雑草の、しめッぽい暗緑色につつまれた山蔭――。そこにサメザメと泣いている女は、井の字絣《がすり》の着物をきていた。
泣いている顔の袖を離して、林の細道を、一、二間ウロウロしていたかと思うと、女は、ものの怪《け》に憑《つ》かれたように、フワ――と赤いしごきを木の枝へ投げかけた。
「あっ!」
お綱は夢中になって駆けた。
蔓草《つるくさ》に足をとられて、一、二度倒れかかったが、あぶないところで間に合った。
今にも、梢《こずえ》にしごきを投げかけて、幽寂《ゆうじやく》な林の中に首を縊《くく》ろうとする女。その後ろから、しッかりと抱きとめたのである。
「めったなことをするもんじゃない! めったなことをおしでない!」
お綱は声を絞《しぼ》って、井の字絣《がすり》の娘を抱き戻したまま、よろよろと熊笹《くまざさ》の中へ坐ってしまった。
途端に、抱き倒された娘は、声をあげて泣き伏した。泣いても泣いても、涙の尽きぬように慟哭《どうこく》した。それもやがて声がかれると、背なかに波を打って苦しげな嗚咽《おえつ》となる。
「まア、あぶないところだった」お綱はほッとしたように、しげしげと娘の容姿《すがた》を見なおして、
「アアびっくりした。みれば、お年もまだ若いらしいのに、一体、どうしたのですえお前さんは。え、え? 話せることなら話してごらん」
「いいえ、いいえ、別にわけも何にもないのでございます……どうぞ、私はこのままに泣かしておいて下さいまし」娘はかすれがすれにいう。
「そう、じゃあ、人には話せない訳なんだね」
「すみません、ご親切を無《む》にしまして……」
「それでは、あまり深く訊《き》かないことにしましょうね。誰にしたところで人にいえない胸の裡《うち》はあるものだし、ましてやこんな場合に、根掘り葉掘りされることは辛いでしょう。けれどもねえ、お前さん、私だって若い身だけれど、お互に咲くや咲かずの花のうちに、森の死神なんかに取ッつかれちゃつまりませんよ。え、お分りかえ」
「あ、ありがとうございます」
「分ったら、無理な注文だろうけれど、カラリッと気を晴れさせて、早くお家へお帰りなさいね……え、よござんすか」
優しい手を、ソロリと肩へ廻し、髪を根くずれさせてうっ伏している娘の顔をさし覗《のぞ》いた。と、お綱はその時はじめてびっくりした。
川長で見たことのあるお米《よね》なのだ。
ハッと思って、妙な疑惑につつまれていると、その矢先に、陰森《いんしん》とした空気を破って、後ろで不意な人声がする。
「旦那! お米さんはここにいましたぜ。ここにいますよ、ここに!」
「えッ、いたか!」バラバラと木の間から、四、五人の者が集まってきた。追分の宿の大津絵師、室井半斎《むろいはんさい》とその召使たち。
「オオ、縊《くく》ろうとしていたのじゃな。ばかな奴じゃ! ばかな奴じゃ」と半斎は、木の枝から下がっていたしごきを、腹立たしそうにスルッとはずして、二人が坐っている熊笹の前へきた。
「お助け下さったのでござりましょう。どうもありがとう存じました。やれやれとんだ世話をやかす奴、実はちょっと前から、大阪の親戚《みより》の者で遊びにまいっていたのでございますが、そのうちに、ちと持病がありましてな、カーッと血を吐きましたもんで、それ以来、鬱々《うつうつ》と焦《じ》れきって、まあ半《はん》狂人《きちがい》というありさま。今日もソロリといつの間にか抜けだしまして、あまり姿が見えませんので騒ぎだしたわけでございます。何ともはや、お礼の言葉もございません」
言い訳やら礼やらいって、半斎は召使たちと一緒に、泣きじゃくるお米を騙《だま》しすかしして連れて行った。
その人たちが林の細道からダラダラと竹林の中へ下がってゆくのを見送って、お綱は、ひょっと、こう口の裡《うち》で呟《つぶや》いた。
「あんな縹緻《きりよう》で可哀そうに……病《やまい》を苦にするばかりでなく、あの女《ひと》もどこかで、月夜の風邪をひいたのじゃないかしら?」
その時――それは、鵯《ひよ》の啼《な》く音に似たような、哀れに淋しい尺八《たけ》の調べが、林の静寂《しじま》に低くふるえて、どこからともなく聞こえてきた。
耳心《じしん》をすまして聞き惚れると、音色はまぎれもあらぬ宗長流、しらべはゆうべの山千禽《やまちどり》である。お綱の恋慕、お米の吐く血、二ツの女のたましいが、おののくごとく咽《むせ》ぶごとく、尺八《たけ》の細音にからんでいるよう……。
魔舌紅舌《まぜつくぜつ》
お綱が、宿をぬけだしてから、やや二刻《ふたとき》もたッた時分……。
ズキンと、頭へ錐《きり》をもみこまれるような痛みをおぼえて、お十夜孫兵衛、ふいと眼をさまし、枕の上からあおむけに、ジイと、天井板に眸《ひとみ》をすえた。
どこともなく、漂《ただよ》いだした黄昏《たそがれ》の色あい――煤《すす》けた狩野《かのう》ふうな絵襖《えぶすま》のすみに、うす赤い西陽《にしび》のかげが、三角形に射している。
「オウ!」
フイに、憑《つ》き物《もの》でもおちたように、ムクムクと蒲団《ふとん》の上に身を起こした孫兵衛は、両手をうしろへついたまま、ややしばし、濁《にご》った頭を澄ましながら、不思議にたえぬという面《おも》もちだ。
ゆうべ……あの吹き降りに宿へついて……湯上がりにお綱の色ッぽい酌《しやく》で二、三合……たしかにほんの二、三合だった……飲んでそれから……閾《しきい》をへだててほろ酔いで床につく……お綱が鬢《びん》を枕へつけながらニッとこっちへ媚《こび》をむける……意味ありそうな、水向《みずむ》け微笑《わらい》……初心《うぶ》だなあ、口にだしてはいえないとみえる……だが、少しじらしてやろう……と蒲団《ふとん》をかぶるとその煽《あお》りで、行燈《あんどん》の灯がメラメラとした――までは孫兵衛おぼえている。
しかし、その先が渾沌《こんとん》だ。
自分は、そら寝入りでいるつもりだったが、それから後は、底なしの沼へ落ちこんだよう――まったく仮死《かし》の眠りであった。
「ウーム……」と、腕をくんで、部屋のあたりを見廻すと、ハッとした、お綱がいない!
衣桁《いこう》をみると、ゆうべ、かれによく似合っていた宿の貸《かし》浴衣《ゆかた》が、皺《しわ》になって脱いである。
鏡台が散らかっている。だが、お綱のものは、櫛《くし》一枚も残っていなかった。ただ抜け毛を丸めた紙屑《かみくず》が、お十夜の眼に、さびしく映《うつ》ったばかりである。
「やッ? ……」
何をみたのか、孫兵衛。
「はてな?」といいながら、蒲団を立って、向うの畳へ手をのばした。そこに落ちていた、和蘭陀《おらんだ》カルタの札一枚――それをつかんで、不審そうな眉をひそめたのである。が、すぐに両手をこめかみに当てて、クラクラとした唇のふるえ、
「ウウ……」と、畳へうっ伏《ぷ》してしまった。
胃の腑《ふ》からこみ上げてくる吐き気と一緒に、口へ湧《わ》いてたまる不快な唾《つば》、そして、歯ぐきの根から、浸《し》みだして、孫兵衛の神経を、ムウと衝《つ》いたのは――眠り薬のにおいであった。
魔薬をのんだ! いや、のませられた! ゆうベの酒! お綱のやつが、あれへ仕込んでのませやがったに違いない。と、思い当った孫兵衛、ふたたび上げた顔の筋には、面《おもて》も向けられない佞相《ねいそう》の怒りが、蒼白《あおじろ》く漲《みなぎ》っている。
「うぬ、このお十夜を甘くみて、まんまと一杯くわせやがッたな。ウーム、どうするか見ていやがれ」
思わず、和蘭陀《おらんだ》カルタをつかみつぶして、その方の疑念は忘れ、ただ一途《いちず》に、この復讐をどうしてやろうかと思いつめる。
こういう場合に、肚《はら》の底では、焼酎火《しようちゆうび》のような怒気をムラムラ燃やしながら、あくまで、ジイと眉間《みけん》に針をよせて、かッとならないのが孫兵衛の性格である。――たとえば、京橋口で、斬るべき万吉を斬らずにフン縛《じば》ったり、ぬきや屋敷の椎《しい》の下で、そぼろ助広の切《き》ッ尖《さき》でなぶってみたり、それはみな孫兵衛の粘《ねば》りッこい悪の悦楽で、助広の刀をかまえる時も、女の肉をむさぼるにも、人に恨みを酬《むく》いるにも、かれのやり方はどこまでも暗く陰険である。
気分が癒《なお》った様子――。
孫兵衛は、黙然《もくねん》と立って、廊下|仕切《じきり》の障子をみなスーと閉めてしまう。
しばらく、なんにも音がない。とやがて、帯をしめる絹すべり、鏡台を摺《す》る気配……容子《ようす》はみえないが、頭巾をかぶりなおしているらしい。そういえば、お十夜孫兵衛、まだ今日まで、他人《ひと》に頭巾をぬいだ顔を見せたことがない。
それには、よほど、細かい気配りをしているとみえ、風呂へ入るにも、人なき時をえらび、酒に熟睡している時でも、頭巾へ他人《ひと》の指がふれると、かッと眼を開く――というかげ口を、ぬきやの三次もいっていたことがある。
「では何か、二刻《ふたとき》ほどまえに、時雨堂《しぐれどう》への道をきいて、関の山へ参ったのだな。よし。それでは、このまま帰るまい、払いは女中へ渡しておいたぞ」
宿の男へ、こういって、お十夜孫兵衛はそとへ出た。
空を見あげると、一面に、まッ黒なちぎれ雲――逢坂山《おうさかやま》の肩だけに、パッと明るい陽がみえるが、四明《しめい》の峰も、志賀粟津《しがあわづ》の里も、雨を待つような、灰色の黄昏《たそがれ》ぐもり。
孫兵衛の姿は、明神《みようじん》の麓《ふもと》から、竹林の中へ消えた。とまた、だらだら上りの中腹に影がみえ、やがて、左へうねった檜《ひのき》林の細道へ入る……。
誰か、人でも踏んで行ったらしく、草の寝ている跡がある。と――お十夜の足もとへ、ふわりと、何か柔らかに絡《から》みついた物がある。赤い絹のしごきである。もしや、と思ったが、お綱のものとは柄《がら》がちがっていた。
何だ――という顔つきで、孫兵衛はそれを捨てて、またピタピタと林をぬけて行くと、目の前、パッと夕陽が明るく展《ひら》けて、かなり高い崖際《がけぎわ》の上へ出た。
「あ、行き止まりか……」と孫兵衛。雑草の中から、覗《のぞ》いてみると、下は、関の古跡《こせき》の裏街道、峨々《がが》たる岩の根に添って、海のような竹林がつづいている。そして、その一帯な竹林の中から、古い塔の水煙《すいえん》や、阿弥陀堂《あみだどう》の屋根や、鳥居のあたまが浮いている。
「畜生! あんな所にいやがった」不意に、草むらへ、身を屈《かが》めた孫兵衛は、かまきりのように、ソロリと根を分けて、その崖ぎわを進みだした。
お綱がいる! すぐ十間ばかりの向うの所に。
そこには、いッぱいな、蛍草《ほたるぐさ》が咲いていた。お綱は、後ろから、お十夜が近づいてくるとは知らずに、藍《あい》をこぼしたような花に埋《うず》まって寝ころがり、鬢《びん》を、夕風になぶらせて、吾をも忘れている眼《まな》ざし……誰に女の掏摸《すり》と見えよう。
ここから見下ろせる竹むらの辺り、どことも知れず尺八の音が響いてくる――月夜の晩にひいた風邪、お綱は、それに聞きとれているらしい。
しかし、孫兵衛の瞋恚《しんい》の耳には、そんな、かすかな旋律《せんりつ》がふれても、心にはとまらなかった。息をこらして草むらを匍《は》いだし、お綱のうしろにヌッと立った。
それでも、お綱は気がつかない……。
お十夜の口が、夜叉《やしや》のように噛《か》み締まった。右手がソロソロと助広の柄《つか》にかかり、両眼は、おそろしい殺気をふくんで、お綱の白い襟《えり》あしをハッタと睨《ね》める。
そぼろ助広へ気合がかかれば、お綱の胴か細首かは、ただ一閃《いつせん》に両断される。
あやういかな、いつものお綱であれば、草一本のそよぎにでも、敏《さと》くなければならない筈だが、今はまったく、一節切《ひとよぎり》の音色にしんから聞き惚《と》れていて、心は時雨《しぐれ》堂の、あの虚無僧のまぼろしへ凭《もた》れている。
現《うつつ》なだけに、無心なだけに――お綱の姿態《しな》も、常より増して媚《なま》めかしい。鬢《びん》の垂るるままに、うつむいている、頸《くび》すじの匂わしさ、肩から足へと、流れている柔らかい線の情味、蛍草に押されて、むッちりとした乳のあたり……。その妖冶《ようや》な漂《ただよ》いが、いっそうお十夜の鬱憤《うつぷん》をムカつかせて、所詮《しよせん》、ただ魔刀の酬《むく》いだけではあきたらない気もちと変った。そして、そのためらいの間に、孫兵衛の殺念は、さかんな獣心と代り、眸《ひとみ》はトロトロとお綱の姿態《しな》に焦《や》きついていった。
うぬ。おぼえていろよ。
男のおそろしいことをしらしてやる。
その色香《いろか》をかきむしッてやる。
そして因果な身にしてやるのだ。終生つきまとい、呪《のろ》いまわして、泣きの涙で送るようにしてくれる。それが、ゆうべの仕返しだ。
「お綱ッ」
呼びかけるが早いか、孫兵衛の体は、蛇のごとく、女の姿へ跳びかかっていた。
「うッ……」とお綱の声がかすれる。
口は大きな掌《て》にふさがれ、咽《のど》は、太い腕に絡《から》まれている……それを、はね返そうとする白い足の力に、草の葉が散り、土くれが飛び、蛍草が揉《も》みにじられた。
ちッ……とお綱は歯をくいしばって、唇へ触《さわ》った孫兵衛の小指を、力まかせに咬《か》みついた。
その痛さに、孫兵衛は、女の口から手をふり離した。
はね起きると、またすぐに、胸の辺りをドンと突かれたが、お綱は、うしろへよろけながら、きッと、柳眉《りゆうび》を逆《さか》だてて、
「お十夜ッ、何をするんだえ!」
ひッ裂くような声で叫ぶ。
もみ散らされた黒髪の根くずれ、裾《すそ》を踏まれた緋《ひ》のはだかり、それは、いっそうお綱の凄艶《せいえん》をきわ立たせて、孫兵衛の盲目な獣心《けものごころ》は、いやが上にも煽《あお》られる。
「お綱!」
二足……三足……。
孫兵衛が寄ってゆくと、お綱も、ジリ、ジリと、うしろへ身構えを退《ひ》いてゆく。
「オイ、逃げる気か。ふウン……逃げられるものなら逃げてみろ」
「どうするッてんだい。私をッ」
「眠り薬の返礼をしてやるのよ」
「…………」
「てめえのような小娘に、あんな甘手《あまて》をくったままで、眼をつぶっているお十夜じゃねえんだ。おい!」
「…………」
「御城番《ごじようばん》の膝下《ひざもと》でさえ、夜ごとに、五人や七人の生血を塗った助広はここにある。ぶッた斬ろうと思う分には、女の一人や半分は、なんの雑作《ぞうさ》もねえところだ。それをやらねえお十夜の肚《はら》の底を知っているか?」
「…………」
「なんとかいえ。そうか、さすがにお侠《きやん》なてめえも、すこウし凄くなってきたのだろう。素直に折れるなら今のうちだ。歯ぎしりしてもおれの女、溶《と》けて添ってもおれの女。どっちにしても、この孫兵衛が、これと睨んだものを逃がしッこはねえ。いいかげんに、諦《あきら》めをつけてしまえ」
一足……また、ズッと迫ってきたが、こんどはお綱、うしろへ退《ひ》かずに、きりりと蘭瞼《らんけん》の紅《べに》を裂いた。が――声はかえって落ちついて、
「お十夜さん」と皮肉にでる。
「――ずいぶんお前も鈍《どん》ですね。エエ、なんてえ血の巡《めぐ》りが悪いんだろう。あれほど、私が嫌だという気ぶりをみせていたものを、自分一人でオツにとって、その腹いせだの仕返しだのッて、とんだこッちが迷惑ですよ」
「やかましいわえ、もう嫌《いや》も応も、この土壇場《どたんば》でいわすものか」
「おだまンなさいよ、痩浪人《やせろうにん》! 第一さ、見返りお綱に惚れるなんて、身のほど知らずというものだ。このお綱さんに好かれたければ、もっと立派な腕前か、もっと立派な悪人になっておいで、辻斬《つじぎ》りかせぎで色侍《いろざむらい》、オオ嫌だ、そんな男は!」
「ウウム。毒《どく》づいたな」
「いくらでも毒づきましょうか、まだもう一つ、虫の好かないものがある。お前さんのその頭巾、よっぽど、ゆうベ眠り薬のきいてる間に、引っぱいで見てやろうと思ったけれど、どうせ自分の亭主でもない男と、おやめにしといてやったのだよ」
「エエ、うるせえ!」
と、その隙《すき》に、孫兵衛は猛然と、豹《ひよう》のように、女の手もとへ躍っていった。
キラリ! と輪を描いたのは、お綱の帯から走った匕首《あいくち》。
もとより、お十夜を抉《えぐ》るには技《わざ》が足らず、風を孕《はら》んだ袖うらが、空しく、ヒラ――と流れたのみ。途端にかいくぐった孫兵衛、その利腕《ききうで》をねじとッて、左手で女の喉《のど》をせめつける。
二つの体が、よじれ合って、ヨロヨロと仆《たお》れかかった時である。
――ピュッと唸《うな》って飛んできた捕縄《とりなわ》! 縄の先には鉛《なまり》がある。小具足術《こぐそくじゆつ》の息一つ、クルクルッと、お十夜の首にからみついた。
「しめた!」という声。
「あッ――」と、一方が引かれた間に、お綱は、素早く逃げ退《の》いた。
檜《ひのき》林から笹《ささ》むらへ、お綱の迅《はや》さは飛鳥のよう。
「ツ、ツ、ツッ……」と、喉《のど》の捕縄《とりなわ》をつかみながら、孫兵衛だけは、弦《つる》を張られた弓の形《なり》に、そこへ、食いとめられてしまった。
だまり合い
お綱にばかり気をとられていたところへ、不意に、投げての知れない捕縄《とりなわ》が飛んできて、自分の頸《くび》すじへ引っ絡《から》んだので、さすがの孫兵衛も、罠《わな》へかかッた獣のようにうろたえた。
すばやく、お綱が逃げた、とは知ったが、それを追うどころでなく、左の拇指《おやゆび》で、肉へ食いこむ縄の力を撓《た》めながら、あおむけざまに踏みこたえる。
喉《のど》の筋は蚯蚓《みみず》のように太り、面《おもて》は充血して、みるみるうちに朱を注《そそ》いだ。そして、
「うッ! ……」と、息を絞《しぼ》り、必死に縄を抜けようとあせっていると、ふたたび。
「や、畜生ッ」という物蔭の声があった。
捕縄の一端から、電流のような力がピンと張ってくると、孫兵衛は、踵《かかと》を土にめりこましたまま、ズルズルと二、三尺うしろへ引かれた。
「ウーム」と、最後の一息を呻《うめ》いた時、反《そ》れるだけ反《そ》り返った孫兵衛は、片手を助広の差添《さしぞえ》へかけるや否や、渾身《こんしん》から気合いをしぼって、ぱッと一つ身を捻《ねじ》った。
ヒラリッ――と虚空へ抜けた助広の刀光に、縄の断《き》れ目がクルクルッと躍った。
同時に、あっと思う間もなく、孫兵衛そのものも、縄の残りを体に絡《から》んだまま、崖から雑木の谷間へ跳びおりてしまった。
「ちぇッ」と叫びながら、すぐに、草むらから駈けだしてきた男がある。
断《き》られた捕縄《とりなわ》を、舌うちしながら、キリキリ手元へ巻き込んで、崖ぎわから、削り立った急勾配《きゆうこうばい》を、残念そうに覗《のぞ》いていた。
草ほこりのたかった髷先《まげさき》を散らして、べんけい縞《じま》の単衣《ひとえ》、きりッと裾をはしょって脚絆《きやはん》がけ。それは目明しの万吉であった。
「ええ、惜しいことをした。投げた呼吸は確かだったんだが、たぐり寄せたのが一息遅かった……こんなことじゃ、おれの方円流《ほうえんりゆう》もまだ上手とはいえねえなあ」
すると、そこから少し離れたところの一本松、その松の根元の青芒《あおすすき》から、ムックリ身を起こした侍が、こっちへ足を運んできながら、
「万吉、鳩が見えたのか」
こう声をかけた。
みると、常木鴻山《つねきこうざん》の腹心、俵《たわら》一八郎で、万吉と同じように、旅ごしらえの軽装である。
「なあに、鳩を見張っているところへ、思いがけねえ奴が来たので、出来心の方円流、ブーンと投げてくれたはよかったが、とうとうお十夜孫兵衛という、大物を逃がしてしまったところです」
「はははは」一八郎は磊落《らいらく》に笑って、「うつうつと居眠っているうちに、そんな様子だとは思ったが、お前のヤッと投げた縄の息を聞いて、ははア、こいつは逃がすわいと見切りをつけていたんだ」
「え、じゃ、旦那はうすうす知っていたんですね」
「女の声もしていたようだな」
「それが見返りお綱だったんです。あの女には、ぬきや屋敷で、あぶねえところを助けられていますから、その恩にも、縄をかける気はありません。実あ、走井《はしりい》の茶屋の先で、チラと姿を見かけたので、和蘭陀《おらんだ》カルタにことよせて、それとなく礼をいいにいったくらいですからね……。だが、あのお十夜の奴だけは、ここで逢ったのを幸いに、引《ひ》っ縛《から》めて代官所へでも預けてやろうと思ったのに、旦那も人が悪いや、あの時、ちょッと手を貸してくれれば、きっとうまくいったんですぜ」
調子にのって目明し万吉が、逃がした魚の大きいことを嘆じてやまずにいると、一八郎は、それをなだめようとはせずに、かえって、
「これ、万吉」と、岩角へ腰をすえて、まじめに開きなおり、さて、その上で叱言《こごと》がでた。
「出立のみぎり、常木《つねき》先生が、くれぐれもそちにおっしゃった言葉を、もう忘れているとみえる……」
「へい」と、万吉は少ししおれる。
「その、目明し根性を、なぜ捨てぬ。こんど江戸表へまいるのは、さような用向きでは決してない筈。常木先生と平賀《ひらが》殿は、ぬきや屋敷へ残って、阿波へ渡る何かの御用を急ぎながら、われわれの吉報を一日千秋の思いでお待ちなされている」
「分りました、ツイ目の前に、捕物がブラ下がったので、うっかり手が出てしまいましたんで……」万吉は一も二もなく謝《あやま》って、
「おっしゃる通り、天下の大事へのり出そうとする門出《かどで》、もう、人殺しと道連れになろうが、泥棒と合宿《あいやど》になろうが、決して、小さなことに、目明し根性は出さねえことにいたします」
「ウム、忘れッぽいのもお前の特色だが、早分りがするのもそちの取得《とりえ》というもの。一つの大事にかかる以上は、それくらいな気組でいてくれなければ困る。……おお、それはそうと、鳩の密使はどうしたろう?」
住吉村へ万吉を救いに行って、ぬきやの手下どもを取り押さえ、そのままそこを、密議の場所と定めた常木|鴻山《こうざん》は、あれから後、源内や一八郎を相手にいろいろな相談を試みた末、とにかく俵同心と万吉とを、江戸表へ、出立させることになった。
いずれにしても、阿波へ潜入する前に、一応は、甲賀家《こうがけ》の一人娘――お千絵様というものに逢っておく方が便宜でもあり、また、蜂須賀家の内情についても、意外な材料を得られぬかぎりもない――というがためである。
そこで、大阪|表《おもて》から、東海道へかかってきた二人は、今日の途中、何か知りたいことがあって、携《たずさ》えてきた伝書鳩を、この関の山から人知れず放したのである。そして、その返事を待ちわびていたのだ。
飛ばした先は、安治《あじ》川の近所、鳩の翼では一はたきである。もう帰らねばならない時刻の筈。
その頃から、チカッ、チカッと、白い電光が雲間から目を射てくる。夜のとばりの迫るとともに、嵐の先駆《せんく》らしい風が、そよそよと草を撫《な》でてきた模様に、一八郎は、わが子を待つような、心配と焦躁《しようそう》にかられつつ、空ばかり気にして眺めた。
「まだ見えぬのう」幾度、こうつぶやいたかしれない。
「どッぷり暗くなったので、方向が、分らなくなったのじゃありますまいか」
万吉も小手《こて》をかざしていた。その間にも、二人の影を隈《くま》どって、稲光りの閃光《せんこう》がしきりに明滅した。
「いや、まだこれくらいな薄明りがあれば……」
「それとも、雷気《らいき》にすくんでしまったかな?」
「そんな筈はない。こんど携えてきた鳩は、数ある中でも、ことに遠放《とおはな》しもきくし馴れぬいている一羽。どこにおろうと、この方のいるところへ必ず戻ってくる質《たち》だが」
「あ――」万吉が、話の中途で、躍《おど》り上がるばかりに指さした。
「旦那、来た来た、たしかにあれですぜ。ほら、ほら、白い矢でも飛んでくるように、一気にこちらへ向いてくるじゃありませんか」
「おお」その指さきの空に、一点の影、舞い下りてくる小鳩を見出したとみえ、一八郎も、眉から憂いのかげを払いつつ、
「戻ってくれた、戻ってくれた、手飼《てがい》の密使――」ハタハタという音さえ嬉しく聞いて、拳《こぶし》を出していると、馴れきっている銀色の家鳩《いえばと》、スーと下がってきて、その手へ止まった。
「大儀《たいぎ》、大儀」
足に結んである雁皮紙《がんぴし》を解いてパッと離すと、鳩は今宵の塒《ねぐら》をさがすのか、ふたたび、木立の中へ隠れてしまう。それを見届けてから、一八郎は、細く折りこんである薄紙をていねいに開いて、
「ちと暗いのう……」と、読みなやんだ。
「お待ちなさいまし、手軽い篝《かがり》をこしらえますから」万吉は、少しばかりの枯杉《かれすぎ》をあつめ、燧《ひうち》ぶくろの道具をだして、カチ! カチ! と火花を磨《す》りつけた。
ポウと、燃えついた明りへ寄って、俵一八郎は雁皮紙の密書へ目をたどらせる。それは、かねてから蜂須賀家に住みこませてある一八郎の妹、お鈴からのものであった。
(お問合せの、阿波守様お国帰りは、九月上旬という噂、お下屋敷《しもやしき》もお引上げの御用に取り混んでおります。御渡海のお座船《ざぶね》、卍丸《まんじまる》も、きょう安治川へ入って、艤装《ふなよそお》いやら何かの手入れにかかりはじめました。とり急ぎお答えまで。お江戸の吉報、待ち上げまする)
読み終ると、も一度、初めの方へ目を返して、
「九月の上旬……、すると、今からまだ二|月《つき》の間《ま》がある」
「それまでには、常木先生のお支度も十分にできるし、こっちの方も楽に江戸から帰れますぜ」
「なるべく、阿波守が入国の混雑に乗じて、その隙に、関を破って密境へ入りこむが上策であるという諜《しめ》し合せ。あしたはこのことを、常木先生のほうへも知らせておこう」
「しッ……」
何思ったか、その時、万吉が突然声を制して、燃え残りの火をめちゃめちゃに踏み消してしまった。
それを、なぜと怪しむまでもなく一八郎もぎょッとした。いつの間にか、後ろへ近よっていた七、八人の侍が、じッとこちらを見ていたのである。
気転《きてん》よく、万吉の蹴ちらした枯杉の火の粉が、草から草へ吹かれてしまうと、星明りもなき真の宵闇……。わずか四、五尺の隔てながら双方の姿は、その輪郭《りんかく》すらもよく分らない。
ましてや、その何者であるをや。
こっちで口をとじていると、一方も果てしなく黙りぬいていた。ただその間、鋭い神経だけが、眸《ひとみ》とともに互に相手を探りあっている。
何者だろう? 単なる通りかかりの者とも思えず、物盗《ものと》りの浪人らしい挙動もない。といって、立ち去る様子もなし、あくまで黙りこくッて、威圧《いあつ》するように、こッちを凝視《ぎようし》している七、八人の侍。害意はないまでも、なんらかの敵意は持っているらしく考えられる。
勘のいい万吉も、炯眼《けいがん》なる一八郎も、さらに見当がつかなかった。せめて、対手《あいて》の風貌でも見ればだが、まったく漆壺《うるしつぼ》のような天地――時折の稲妻は、ただ、そこに立った侍のどれもが、一様に覆面しているらしいのを、チラと見せたにすぎないのである。
「妙な奴らだ、大刀《だんびら》でも抜いてみやがれ、こっちから先にグワンと一つ食らわしてやるから」
万吉は、手の裏に十手を隠して、しばらく息を殺していたが、かくべつ、抜いてくる気色《けしき》はなく、依然として、すくみあいだ。そのうちに万吉は、ばからしくもなるし、神経も疲れぎみになって、フイと気をそらしてみた。
「旦那……」
小声にささやいて、一八郎の袖へ合図をしながら、
「雨にでもなると困りまさあ、腹へ底が入ったところで、ぼつぼつ麓《ふもと》へ下りましょうぜ」
火を焚《た》いていた言い訳にこういって、万吉は、スタスタ先へ歩きだした。と、一八郎も、いい機《しお》にしてついてくる――が、まだ。
「後から、追いかけてくるかな? ……」と、予想していたが、七人の侍、追ってくる様子もなく、また、待て! と浴びせてくる声もない。
「なんでえ! つまらねえ気を揉《も》んでしまった」
下り坂へ来てから、急に足を軽くして、万吉の声がふだんの通りになってきた。
「わっしはまた、旦那が密書《あれ》を読んでるのや、阿波の噂をしていたのを、あいつらが聞き咎《とが》めたのかと思って、すッかり胆《きも》を冷やしてしまいましたよ」
「拙者も一時はぎょッといたした。しかし、考えてみれば、こんな所へ、蜂須賀家の侍が立ち廻っている筈はないからのう」
一八郎も今になって苦笑を禁じられなかった。
「ですが、一体あいつらは何でしょう」
「どうやら覆面していたらしい」
「それが合点《がてん》がいかねえんです。言葉を交わせば、侍ってやつあ、きっとお国|訛《なま》りがありますから、どこの家来か、浪人かぐらいは、すぐに察しがつくんだが、ああ黙っていちゃ判断がつかねえ……おや、道が二筋に別れていますね」
「右へまいろう。どうやら先に明りが見える」
「今夜は大津泊りでしょうな」
「ウム、空模様さえよければ、夜旅をかけて矢走《やばせ》の渡船《わたし》に夜を更《ふ》かすのもいいが、この按配《あんばい》では危なッかしい……」一八郎が、闇と知りつつ、険悪な空をまた見上げていると、万吉は敏感に、誰かここへ急ぎ足に来る跫音《あしおと》を聞きつけたらしく、ふいと、わきの杉の木へ身を隠した。
油断のない、気配りをしながら、一人の仲間態《ちゆうげんてい》の男が、麓《ふもと》から小走《こばし》ッこく駈《か》け上がってきた。その跫音《あしおと》の行方を聞き澄ましていると、今、二人が来た方角とは反対に、関明神《せきみようじん》の社殿のほうへ、猿上《ましらのぼ》りに急いだらしい。
「おかしいなあ、どうも妙だぜ」と万吉。杉の後ろから出てきて、ギュッと自分の耳朶《みみたぶ》をつねっていた。例の探索癖《たんさくぐせ》で、それからそれへの幻想が暗示を描いてやまないのである。
「どう考えても、ただごとじゃねえ。何かおかしなものが、この山に包まれているぜ。気というやつだ、魔気か悪気か妖気か殺気か。旦那は、そんなふうに思いませんか」
「ははは、すっかりさっきの侍に脅《おび》やかされたな」
「笑いごとじゃありません。これだけは、万吉が、持って生れた訳じゃねえが、十何年間、十手で飯を食ってきたお蔭に、自然と備わってきた勘なんで。何かこう、ひとりでに、頭へピーンと来ることに、今まであんまり間違ったことはねえんです……。おッと、いけねえ。また目明し根性が出やがった。旦那、今のは冗談ですぜ」
いつか、二人の降りてきた道は、風の騒がしい竹林をうねっていて、草鞋《わらじ》の裏から、やわらかな朽葉《くちば》の湿ッぽさがジメジメと感じてくる。
そして、あたりの夜露に、どこからともなく淡い明りがさしていた。見ると、竹むらのすぐ向うに一|宇《う》の堂。そこから洩れる燈火である。
「万吉、ちょッと道を訊《たず》ねてみろ」
「あ、誰かいるようだな」と、青苔《あおごけ》のついた敷石を五、六歩入って、目明し万吉、何の気なしに時雨堂を覗《のぞ》きこんだ。
隠《かく》れ家《が》
道をたずねるつもりで、木槿《もくげ》の垣越しに、ふと時雨堂《しぐれどう》の庭先を覗《のぞ》いた万吉は、そこに何を見たものか、オヤと眼色を動かせて、口まで出そうになった声をのみ殺したが、とうとうそのまま、何も問わずに忍び足で戻ってきてしまった。
「どうしたのじゃ?」
咎《とが》めるように進んできたのは、暗闇に待っていた俵《たわら》一八郎である。万吉は、しッという眼くばせをして、ふたたび、時雨堂の奥をうかがいながら、人さし指を向けて一八郎の耳へささやいた。
「旦那……あすこに誰かいるでしょう。もう少し、こっちへ寄ってごらんなせえ。ほれ、縁側へ行燈《あんどん》を出して二人の男が何かしているじゃありませんか」
「いかにも、庭先へ盥《たらい》を出して、湯浴《ゆあ》みを終えたところらしいが、それが何と致したのじゃ」
「一人はたしかに怪我《けが》人です。ごらんなせえ、側《そば》の男が、腫《は》れものにさわるように、体を拭《ふ》いてやっています。ここからでは顔までしかと見えませんが、今向うの垣根越しにヒョイと見ると、どうでしょう! ありゃ待乳《まつち》の多市ですぜ」
「えっ、あれがか」
「天王寺や土筆屋《つくしや》などで、再三見覚えている顔ですから、決して間違いはありません」
「さすれば、側にいて世話をやいているほうの者は、彼の親分銀五郎とやら申す男ではないか」一八郎は、万吉から、疾《と》く今度のいきさつを聞いてもいたし、また唐草と待乳の二人が自分たちと同じ目的か否かは知らぬが、阿波の密境へ入りこもうとする者であることも知っていたので、偶然、これはよい者の居所を尋ね当てたと心|密《ひそ》かに欣《よろこ》ぶのだった。
「なるほどそういえば、一方は唐草銀五郎かも知れません。いつかの晩、京橋口で孫兵衛に斬り捨てられたとばかりに思っていた多市が、こんな所を隠《かく》れ家《が》にして、療治をしていようとは夢にも気がつかなかった……」と万吉は、意外な現実にぼんやりとあたりを眺め廻している。
それに反して一八郎の頭脳《あたま》は、怖ろしい緻密《ちみつ》さと速度でこの奇遇《きぐう》の利害を考え始めた。あの二人も阿波の密境へ入り込もうとする者、また自分たちも久しく阿波の内情を探ろうとして腐心《ふしん》するものだ。偶然、その目的が同じ蜂須賀家にあるのであるから、打《う》ち溶《と》けて話しあってみれば、必ず何か、双方の利となることがあるに違いない。
一歩|退《しりぞ》いて、仮に、互の目的が違っていたとしても、これからはるばる尋《たず》ねて行こうとするお千絵様のことは、銀五郎や多市が充分詳しい筈である。とにかく一つ訪れて見よう――こう心に決めたので、万吉に相談すると、もとより万吉にも異存はない。
静かに出なおして、庭口らしい柴折戸《しおりど》を押し、向うでびっくりしないように、
「少々ものを伺いますが……」とていねいに声をかけてみた。
時雨堂の縁先では、銀五郎が、多市に薬風呂をつかわせて、傷の塗薬《ぬりぐすり》や浴衣の世話をみてやっているところだった。
「どなた様?」聞きなれない訪れに、銀五郎の眼が闇へ光ると、もう木戸を押して一八郎と万吉が、つかつかとそこへ入ってきて、
「不意に失礼なお訊ねではあるが、もしや御身《おんみ》は、唐草銀五郎という者ではござらぬか」
銀五郎はぎょッとした。蜂須賀家の廻し者ではないかという疑念が、彼に油断のない身構えをさせた。その様子を見ると万吉も前へ出て、
「お隠しなさることはございません、そこにいる多市さんという者とは、確か天王寺の境内で、お目にかかったことのある筈です」
「あア」銀五郎のうしろで、多市が思いだしたようにいった。
「じゃ、あの時、俺の腰帯を取った目明しの? ……」
「そうだ、万吉という手先の者です。また、ここにいるのは、元天満同心《もとてんまどうしん》の俵一八郎というお方。いきなりこういう物騒な奴が、お前さんたちの隠れ家へ飛びこんで来ちゃ、さだめし、妙に疑うかも知れねえが、決して、蜂須賀家の諜者《いぬ》じゃありません。安心のゆくように、まずこれをそっちへ預けておきやしょう」と万吉は、紺房《こんぶさ》の十手を引きぬいて、縁側へポンとほうりだした。銀五郎は、それと唐突な客の顔とを見くらべていたが、度胸をすえたものであろう。心の落ちつきをとり戻して、
「どういう御用か存じませんが、とにかく、こちらへお上がりなすって下さいまし」
蚊帳《かや》の吊手《つりて》を二所《ふたとこ》ばかりはずして、脇差の側へピッタリ坐った。
「これは巧く話し合えそうだ」
と、心の底で欣《よろこ》びながら、一八郎と万吉がわらじを解いている間に、時雨堂の別な戸口から、白い人影が静かに外へ出て行った。
雨気《あまけ》をふくむ冷やかな風は、秋のような肌ざわりである。白衣《びやくえ》の人影は、五、六歩ふみだしてから、乱雲の空を、少し気遣《きづか》わしげに仰いで立つ。
背丈《せい》のスラリとした輪郭《りんかく》と、手に尺八を携《たずさ》えているところから察しても、それは同宿の虚無僧、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》と分る姿。
弦之丞は、やがて大津の裏の近道を抜けて湖水のほとりまで歩いていた。琵琶《びわ》にも、今宵は底浪が立ち騒いでいて、松から松の間には茶屋の灯もなく、また涼《りよう》をいれる人影もない。弦之丞は、かえってそれを心安そうに、携えてきた尺八を吹くでもなく、独《ひと》り行きつ戻りつ瞑想《めいそう》の闇をさまよっている。
「お千絵どのも今頃は、さだめしこの身を、どこにいるかと思うていよう……」吾とわが懊悩《おうのう》の無明《むみよう》に独りつぶやくのである。
この間も銀五郎が、涙を流して、両手をついていったではないか。
「倒れかかっている甲賀家の喬木《きようぼく》、この世に頼《たよ》り人《て》のないお千絵様――、それを支《ささ》える力、救うお方は、あなたのほかにはございません」と。
その時の、自分の態度は、なんという冷血に見えたろう。おお自分は冷血だ、銀五郎のあの熱血のほとばしる頼みも、恋人の不幸な境遇をも捨てて顧みないこの法月弦之丞は、冷血と罵《ののし》られても、それを言い解《と》くことのできない男だ。
そのくせ、お千絵様という名を、自分は片時も忘れてはいない。昔にかわらぬ――いや、あの頃よりは、なおさら強い恋は不断に燃えているのだ。
「ああ……」松の根方へ腰を落して、じっと額《ひたい》を膝がしらに伏せた弦之丞には、いつか、抱きしめている尺八が、お千絵様そのもののように思いなされて、恋人の棲《す》む駿河台の墨屋敷《すみやしき》や、なつかしい江戸の風物までが瞑想《めいそう》の霧に描きだされてくる。
しかし、法月弦之丞の胸には、どうしても、その愛着のある江戸の土を踏むことのできない事情が潜《ひそ》んでいた。
そうしたわけがあればこそ、彼は、家を捨て、恋人を捨て、江戸から外の世間を、旅から旅へと漂泊《ひようはく》しているのである。
帰るに帰られぬ江戸の空。折にふれ時にふれ、思慕の悩みを送る尺八の音は、お千絵様の夢に通うこともあろうけれど、銀五郎はそれを知らなかった。いや、銀五郎のみでなく、多情多感な青年剣客法月弦之丞の心に秘めている人間苦のせつなさを知る人はないのである。
……………………
弦之丞が出て行ったあと。
時雨堂《しぐれどう》では、俵一八郎と万吉が、だんだんと話をすすめて、宝暦《ほうれき》の変以来、阿波の秘密を見破ろうとしてつぶさに苦心を舐《な》めてきた実情を明かしたので、銀五郎も、さてはそうであったかと、初めて疑いを晴らして次には、自分の素姓《すじよう》や、お千絵様と世阿弥《よあみ》との境遇も、つつまず二人の前へ語ることになった。
こう打ち明け合ってみれば、十年前に甲賀世阿弥が阿波へ入った目的も、宝暦以来、一八郎や常木鴻山《つねきこうざん》が心を砕いていた目的も、偶然、ピッタリと一致していることが明瞭になった。
初めからすべてが分り合っていれば、万吉も、無論二人を助けたろうし、銀五郎や多市も、こんなにまで苦労をせずに、今頃は、首尾よく阿波へ入り込めていたのかもしれないのだが、見返りお綱に、あの紙入れを掏《す》られた一事が、糸のもつれとなりはじめて、何もかも蹉跌《さてつ》してしまったのは、よくありがちな運命のいたずらともいうべきもので、是非のないことである。だがしかし、これから先は、阿波という大きな謎の鍵《かぎ》を握るために、どこまで、お互に力を協《あわ》せてやろうではないか。と俵一八郎は、余《よ》の者《もの》をはげまして、意気|軒昂《けんこう》たるものがある。
病人の多市も、それを聞いて、寝床の中からニッコリ笑った。銀五郎としても、思わぬ同志に巡《めぐ》り会って心強さを覚えたが、また心の一部では、
「こうした人さえ世間にはあるのに、あの弦之丞様は、お千絵様の生涯を、何とも思っていねえのかしら……」と、その冷酷な仕打を怨《うら》まずにはおられなかった。
今夜の宿は時雨堂ときめて、一八郎と万吉が、別な一間の床につくと、パラパラッと横なぐりに大粒の雨が吹ッこんできた。
それも時折にやんで、夜はだいぶ更《ふ》けたらしいが、弦之丞はまだ帰らず、逢坂山《おうさかやま》の上あたりに、不気味な怪鳥《けちよう》の羽ばたきがする。
関《せき》の明神《みようじん》の頂《いただき》は、無明《むみよう》の琵琶《びわ》を抱いて、ここに世を避けていたという、蝉丸道士《せみまるどうし》の秘曲を山風にしのばせて、老杉《ろうさん》空をかくし、苔《こけ》の花を踏む人もない幽寂《ゆうじやく》につつまれている。
ちょうど、北関《きたせき》の裏崖《うらがけ》へ、誰も知らぬ銀の小鳩が下りた頃。その、蝉丸のように痩《や》せた老|禰宜《ねぎ》が、社家《しやけ》の一隅に、わびしい晩飯の膳《ぜん》をすえて、箸《はし》をとっていると、
「こりゃ、誰かおらぬか。ここの神主《かんぬし》はおらぬか」
表口に、ぬッと立った自来也鞘《じらいやざや》の武家があった。
あわててそこへ出た神主が、蚊ばしらの立ち迷う中に立った侍をみると、面《おもて》は眉深《まぶか》く熊谷笠《くまがいがさ》につつみ、野袴《のばかま》に朱色を刻んだ自来也鞘、いっこう見かけた覚えもない者であった。
「どなた様でござりましょうか。まず、こちらへお掛け遊ばして」
「いやいや、ここでゆるさッしゃい。実は少々頼みたいことがあるのだが……」と、武士は、笠の顎《あご》を上の山へ向けて、「あの頂に見える、蝉丸神社の額堂《がくどう》を、今夜だけ、借りうけたいと思うが、別に差しつかえはあるまいな」
「ほう額堂を? ……」と、神主は少し変な顔をして、「いつもあの通り空《あ》いておりますものゆえ、別にさしつかえはございませんが、一体何にお用いでござりますな」
「不審に思うであろうが、実はこうじゃ。身どもは大阪表のさる蔵屋敷|詰《づめ》の者であるが、同僚たちと語らって、何ぞ趣向《しゆこう》の変った連歌《れんが》の催しをやりたいというところから、この山の額堂ならば、雅味《がみ》もあり、静かなことはこの上もないので、是非、今夜だけ借りうけたいと申し合せてまいったのだが」
「ああ、なるほど、連歌の運座《うんざ》でござりますか。それはご風流なことで……さようなお催しならば、どうぞご遠慮なくお使いなされて下さいませ」
「早速の承知でかたじけない」
「また、御用とあれば、渋茶ぐらいは、ここよりお運び申してさし上げます」
「勝手のようだが、それは固く断りたい。静かに連歌の三昧《さんまい》を楽しみたいため、わざわざ不便な所へきたのじゃ。今夜だけは、誰か他の者が山へまいっても、これから先へは上って来ぬようにして貰いたいの」
「ごもっともでござります。では、お邪魔をせぬことにいたしますゆえ、どうぞごゆるりお催しなさいまし」と、神主は立ち去る武士を見送って、何の疑心もなく、また膳へ戻って茶漬の箸《はし》をとりはじめた。
社家の門《かど》を離れた自来也鞘の侍は、神主へ一応の念を押してから、安心したように、そこからなお、右折左折、苔清水《こけしみず》に濡れた石段を上って、やがて、神さびた額堂の方へスタスタと歩いて行く。半《なか》ば朽《く》ちかけた額堂の欄間《らんま》には、琵琶《びわ》を抱いた蝉丸の像や、関寺小町《せきでらこまち》の彩画や、八景鳥瞰《はつけいちようかん》の大額《おおがく》などが、胡粉《ごふん》に雨露《うろ》の気をただよわせ、埃《ほこり》と蜘蛛《くも》の巣の裡《うち》にかけられてあった。
しかし、それは、昼ここを訪れた人の見られるもので、今は額堂全体も四囲《しい》の山もトップリ暮れて、社家の方から、大股《おおまた》にここへきた武士の影は、すぐ額堂の濃い闇の中にかき消えてしまった。
と思うと、低い幾人ものささやきが、自然に声を高めて、そこからガヤガヤと洩れだした。よく見ると、額堂の中には、少なくとも二十人以上と思われる人数が、あぐらをくみ、柱にもたれ、欄《らん》に倚《よ》り、思い思いなかっこうをして怪異《かいい》な集合をしているのだった。
神主へ断ってきた言葉のように、妨《さまた》げのない額堂の席を、夜涼《やりよう》の山嵐《さんらん》をほしいままにして、連歌の競詠《きようえい》を試みているのかと思うと、闇の中に、眼ばかり光らしている武士たちの顔には、みじんもそんな風流気は見えず、一人として筆をかみ句を案じているような者はない。
片隅でムクムク動いている者があれば、それは用意の黒布《こくふ》を出して、顔の覆面や足拵《あしごし》らえにかかっている者で、中には腰の皎刀《こうとう》を抜き払って、刃こぼれをあらためている者がある。
すると、北関《きたせき》の崖の方から、またここへ攀《よ》じ登ってきた七、八人の覆面がある。中に先立った一人の武士、額堂《がくどう》の下から、
「天堂氏《てんどううじ》、天堂氏」と呼びたてた。
「おう……」と、すぐ欄干《らんかん》から身をのばしたのは、自来也鞘の武士……すなわち蜂須賀の原士《はらし》天堂一角であった。
「や、森氏《うじ》か――」とうなずいて、一角は、額堂の上からそこへ降りてきた。
裏崖から、ここへ登ってきた中には、お船手《ふなて》の森啓之助と九鬼弥助がまじっていた。いずれも、同じように覆面しているので、夜目には互いの間にも、それが誰かさえ分らない程である。
「時雨《しぐれ》堂のほうは? ……」
「別に変ったこともないようです」
「銀五郎やその他の奴、よもや、こっちの手廻しを、気づいてはおりますまいな」
「そんな憂《うれ》いは万々ござりませぬ。ちょうど、夕刻から今し方《がた》まで、北関の裏から見張っておりましたが、向うは何も気がつかずに静まり返っておりまする」
「では、完全に袋の鼠だ……。まず、もうしばらくの間、あの額堂で、夜の更けるのを待つと致そう」
「しかし、天堂氏……」その時、横から話頭をかえてでたのは弥助である。「ただ一つ、これへ帰ってくる途中で妙な奴に出会いましてな」
「妙な者に?」
「されば、どこから飛んできたものか知らぬが、鳩に結ばれてきた薄紙を解き、しきりにそれを読んでいる奴がござりました」
「何かの書物で見たことのある、伝書鳩を使う者ではあるまいか」
「あるいは、そうであったかもしれませぬ。とにかく、怪しい奴と睨みましたので、ツカツカと側へ寄って、じッと挙動《きよどう》をみつめておりますと、格別、あわてて逃げる素《そ》ぶりもなく、そのまま山を下りて行く様子。引《ひ》っ捕えてみるまでもないと、その場はやり過ごしてしまいましたが、どうも、今になって考えると、少し不審がないでもないように思われます」
「そして、風態《ふうてい》や年頃は」
「一人は旅装《たびよそお》いの三十二、三、これは武家|態《てい》でござって、一人は弁慶格子《べんけいごうし》の着ものを着た町人でござりました」
「拙者にも思い当りはないが……なんでも、御本国の様子を探ろうとして、密かに苦心している天満《てんま》浪人の何某《なにがし》とやらいう者もあるという噂、そいつを逃がしたのは残念だったな」
「その代りに、彼奴《きやつ》がこっちの姿を見かけた時、あわてて草むらへちぎって捨てた薄紙を、後で拾ってまいりました。しかし、あいにくと星かげもなく、それを読む明りに窮《きゆう》しますので、啓之助殿が大切に持っておられます」
こう話しあっているところへ、息を喘《あえ》ぎながら、森啓之助の仲間《ちゆうげん》が飛んできた。目明しの万吉と一八郎が、麓《ふもと》へ下る山の道で姿を見た男というのは、ちょうど、時刻から考えあわせて、この仲間であったことに間違いはない。
森啓之助が、川長へ行った日。お米《よね》の駕《かご》をつけて、時雨堂の隠れ家をつきとめたのも、啓之助の働きではなく、この仲間の気転だった。そこで、天堂、九鬼、森の三人は、各《めいめい》八、九人ずつの侍を連れて、この関の山に集まり、今度こそは、水も洩《も》らさぬような手配りの下《もと》に、怪しい虚無僧、阿波の国内をうかがおうとする銀五郎、多市などを、余さず引っ捕えようとするのである。
七、八年前から、阿波の領境《りようざかい》を封じて、かりそめにも、領土の内状をうかがおうとする者には、恐ろしく神経を尖《とが》らせている蜂須賀家では、今日までの間、銀五郎以外の者でも、ずいぶん仮借《かしやく》なく縛《ばく》し上げて、その目的を糺《ただ》さねばやまなかった。しかし、それを遂行《すいこう》するにも、白昼公然ではなく、いつも、夜陰、あるいは人目のない所で行われるので、世間は知らないが、家中では、そういう嫌疑者の多くを上げてくることが、すこぶる誉《ほま》れであり、殿《との》の首尾もめでたかった。
なぜか? ということは、この物語の進むにつれ、また、阿波の本体があばかれると同時に、おのずから明瞭になるであろう。
それはとにかく、啓之助の仲間《ちゆうげん》が、今も、細かに時雨堂の様子を探ってきたところから、時分はよしと三十人近い黒|装束《しようぞく》、一度にムクムクと立ち上がった。
裏道を下りて、女坂《おんなざか》の中途から右へ入ると、もう五尺と隔《へだ》てては人影の見えない山神《やまがみ》の森。そこを、ちりぢりに降りて、例の竹林へ入ると、やがて、この辺りにただ一軒の時雨堂の灯が見える。
「しッ……近いから静かにしろ」
「誰か、向うの空地へも忍んでおれ」
「心得た……。合図は? 手筈は?」
「天堂|氏《うじ》が、声をかけたら一度に斬りこむんだ」
こんな声が、笹《ささ》の葉の音よりかすかに、ささやきあって、黒い影が、ヒラ、ヒラと地を掠《かす》り、いつか一人も見えなくなる……。
夜は深沈《しんちん》と更《ふ》けた。
嵐の前のおそろしい静寂《しじま》。
空には、団々《だんだん》たる雲のたたずまいがあり、ここには、時雨堂の四方に、姿も息もひそめきって、時刻を待ちかまえる覆面の群れ。
と――その中からただ一人、ソロリと庭へ這《は》いこんで行ったのは、真ッ黒ないでたちをした弥助《やすけ》だ。
背よりも高い南天の株から、ポロポロと夜光《やこう》の露がこぼれたかと思うと、弥助の体は蟇《がま》のように、戸袋の裾《すそ》から床下へ這った。
上から洩れる話し声……
銀五郎に多市、それと折悪しく宵にここへ来あわせた俵一八郎と万吉の話し声。それはきわめて低い密話だったが、弥助の耳には、手にとるように聞こえてくる。
九鬼弥助は、自分たちの手廻しがいたずらでなかったことを得意に思った。さらに、それからそれへと洩れてくるささやきは、想像以上な驚きを彼に与えた。
「オー、これは大変な相談をしているわえ。もし吾々が、気づかずにいようものなら、お家の破滅を招く由々《ゆゆ》しい大事となったかもしれない……」顔の蜘蛛《くも》の巣を除《の》けながら、なおも根《こん》よく息を殺している。
そこで、俵同心と銀五郎の打ち明け話は、残らず弥助が聞いてしまった。
「ちょうどいい! お家の秘密をうかがう奴めら、今夜を期して一網打尽《いちもうだじん》だ」
心のうちで叫ぶのである。
さらに、何より好都合だと弥助が喜んだのは、今夜に限って、あの虚無僧が居あわせないことだった。
「あいつばかりはなんとなく怖ろしい――」と、腕利《うでき》きの天堂一角すらも、二の足を踏んだので、ぎょうさんと思われるほどな、若侍の人数をすぐってきたのであるが、誰より怖れていた雄敵が欠けているとすれば、これに越したことはない。
刻《こく》、刻、刻。
一瞬の空気は、いやが上にも静かだった。
時雨堂の者は、ちょうど、台風の中心にあるようなもの、見えない魔のかげ、感じがたい運命の気流が、尺前《しやくぜん》へ迫り、寸前に囲繞《いによう》しつつあるのだ。
けれど、勘の鋭い万吉も一八郎も、話に実《み》が入って、それとは夢にも知らなかった。あまり夜更《よふ》けては病人に悪かろうと、また明日《あした》の打合せを約して、二人は別間の寝床へ入った。
銀五郎は一人でそこらを片づけたり、多市に蒲団《ふとん》を掛けてやりなどして、何気なく縁側から空を仰いでいると、パラパラと大粒な雨! 黙《もだ》しぬいていた闇の一角から、にわかに、気味の悪い冷風がサーッと一陣に揺すり立ててきた。
「あ! とうとう降り出してきやがッた」
多市の枕元まで吹ッかけてきそうな雨に、銀五郎は、あわてて、一、二枚雨戸を繰りだしたが、まだ何か不安そうに眉をひそめて、戸の間から外の様子を眺めまわした。
「困ったなア、ひどい雨だ……」
青白い稲光りが庭を照らした。
「弦之丞《げんのじよう》様は、どこへ行っておしまいなされたのだろう。ちょっと声をかけて行けば、一走り傘を持って行ってあげるのに、町ならいいが山へでも行ったとすると、この雨にズブ濡れだろう。どうかしているぜ、弦之丞様は……妙にこの頃めいっているし、俺《おれ》にもロクに話しかけたことがねえ……」
吹ッかける雨に向ってつぶやいていると、縁の下の九鬼弥助は、その戸がピッタリ閉まらないうちにと、ジリジリと、銀五郎の足もとへにじりだしてきた。
そっと体を横に捻《ねじ》って、床下《ゆかした》から上を覗《のぞ》くと、銀五郎の半身は、濡るるを忘れて、弦之丞の帰りを気づかいながら、また独りごとを洩らしている。
「ひょっとしたら、この間、俺があまりくどく頼んだので、それを気にしているのかしら? それともお千絵様がさすがに恋しくなったのかな。いやいや、お千絵様の身を、それほどに思うお人なら、あれまでの俺の頼みをウンといわねえ筈がない。ああ、もう頼むめえ。頼むめえ。いくら腕のできる弦之丞様でも、薄情ときちゃアしかたがねえ。俺はどこまで一本立ち……。いや、捨てる神があれば助ける神だ、思いがけねえ人たちと力を協《あわ》すことになったから、弦之丞様はあてにしねえで、この銀五郎の一心で、きッと阿波の内幕を探ってみせる! お千絵様の身もお幸《しあわ》せにしてみせる……」
思わず、吾とわがつぶやきに泪《なみだ》ぐまれて、男らしい唇《くち》をきっと結んだ。――と九鬼弥助は、その時、油断のない眼くばりで、すぐ銀五郎の足元から、口に手を当てた作り声で、
「唐草の親分……」
と、名を呼んだ。
乱《らん》 刃《じん》
「唐草の親分」
不意に、床下から呼ぶ者があるので、銀五郎はぎょッとしたが、すぐに、自分にも似気《にげ》ないおびえざまを恥じて、「誰だ」と、少し、身を屈《かが》めた。
怪しい者なら、向うから声をかける筈がない。この附近の竹林に住んでいる物乞《ものご》いに、二、三度食べものを恵んでやったことがあるから、そのお菰《こも》であろうと気をゆるした。
「唐草の親分」
九鬼弥助は、また作り声で呼んでから、反対に、ジイと床下に身を退《ひ》いていた。そして、肱《ひじ》と右足だけを、のめるように前へ出していた。
「誰だっていうのに、変な野郎じゃねえか。そんな所へ潜《もぐ》り込まれちゃ迷惑だぜ、ええオイ、おおかたいつものお菰さんだろう」
「へ……」
「へえじゃねえぜ、今頃来たって何もありゃしねえ」と、銀五郎は覗《のぞ》きもせずにいったが、ふと思いついたかの様子で、
「あ、そういやあお前は、あの虚無僧の姿を宵に見なかったかい。この雨に、どこかで降りこめられていると思うんだが、知っているなら、傘を持って行って上げてくれないか」
「…………」
「知らねえのか」
「知っています」
「知っているなら頼まれてくんねえ。よ、後生だから」
何の気なしに、釣り込まれて、銀五郎の片足が、庭下駄へ下りていった途端である。
柄《つか》を握りしめて、根よく、力を撓《た》めぬいていた九鬼弥助。
「ええいッ!」
横薙《よこなぎ》に一刀を払った。
床下からではあるが、十分、居合《いあい》の肱《ひじ》が延びて行ったので、鞘《さや》を脱した皎刀《こうとう》は、刃を横にして銀五郎の片足――浴衣《ゆかた》の上から返り血の飛ぶほどな傷手《いたで》を与えた。
不意を打たれた銀五郎は、
「あッ――」といって、片足を引く気が、傷手に堪《たま》らず、体ぐるみ、どうッと、雨の降りそそいでいる庭先の闇へ転げ落ちる。
が、弥助の太刀《たち》が、肉へ斬り込まれてくる前に触れた浴衣の裾《すそ》は、時にとって、大きな障害物となっていた。傷は骨まで届いていない。
「ちッ……畜生ッ」
よろよろと立ち上がった。
「ちッ……ちッ……」と深股《ふかもも》の傷を押さえながら一心に、脇差をとりに行こうとするらしいが、何せよ深傷《ふかで》だ。一、二歩よろめいたかと思うと、ふたたび、どうと仆れ、浴衣の影は、雨と血と泥にまみれて、雨に白く、無残なもがきが見えるばかり……。
「む……」
九鬼弥助は、したり顔をして、要心《ようじん》深く床下の土にヘバリつきながら、片手に抜刀《ぬきみ》をつかんだまま、もういっそう、奥の方へ、ジリジリと身を退《ひ》いて、その様子を見届けていた。
サーッと、地を払ってゆく雨の飛沫《しぶき》が、濛々《もうもう》と、霧のように白くたちこめた。時雨堂《しぐれどう》の破《や》れ庇《びさし》からは、滝となって水玉が溢《あふ》れ、半《なか》ば開け放されてある中の灯《ひ》は、消えんばかりに揺らめいている。
「どいつだッ……卑怯《ひきよう》なやつ……、多市、多市」
降りしきる雨の中に、銀五郎の叫びが切れぎれにするのだったが、叫ぼうとする息も、起きようとする懸命も、沛然《はいぜん》たる雨の力に圧倒されて紫陽花《あじさい》のように気崩《きくず》れてしまう。
出来ごとが、あまり瞬間だったので、奥の居間に入った俵一八郎も万吉も、少しもそれを知らず、ただ、屋根を走る疾風《しつぷう》の雨の声に、顔を見合せていたのである。
だが、たッた今、銀五郎の手で寝せつけられた多市は、何かを感じて、
「おや?」と、胸を騒がした。そして、不自由そうな身を蚊帳《かや》の中からいざり出しながら、
「親分、親分! ……」
呼んでみたが、返辞はない。
閉《し》めかけていた戸もそのまま開いている。
戸の間から、外の暗澹《あんたん》たる凄色《せいしよく》が、悪魔の口のように見えた。吠《ほ》えたける風の中に、まっ青な稲光りが明滅していた。
「どうしたのだろう? そういえば今、妙な音が……」多市の顔色に、泣きだしそうな不安が掠《かす》った。もしや? と思わず縁側までペタペタと這ってきて、
「親分ッ……親分ッ……」
肉親のものを案じるような、悲痛な声で呼びたてていた。
「万吉」
「なんですか」
「誰かしきりに、大きな声をだしているようではないか」
「へ、どこでです?」
「向うの部屋らしい。この大雨の響きにまぎれているが、今、少し落ちついていると、さような気がしてならぬのだが」
「そうかしら? ……おや、なるほど、親分親分と呼ぶ声がしますね、何だろう」
「最前の席にいた、病人の多市と申す者ではあるまいか」
「そうかもしれません。だが、おかしいな、なんだッて大きな声で喚《わめ》いているのだろう」
奥の部屋へ入って、帯を解《と》きかけていた一八郎と万吉は、棒立ちになって、じっと聞き耳たてている。
憂いをおびた多市の声が、今度は、廊下の近くで、二、三度つづけざまに聞こえた。
「旦那」万吉は、眉に深い皺《しわ》をよせて、声をのむように相手の顔をみつめる。
「また妙なことをいいだすようですが、どうもわっしは、宵から胸騒ぎがしてならねえんです。あの関の山を下ってきた時からそうなんで……、なにしろ気をつけるこッてすぜ」
「銀五郎が怪しいと申すのか」
「いや、あの人たちに毛頭疑うところはねえが、明神の裏崖で逢った侍が腑《ふ》に落ちねえ。ことによると、銀五郎へ目星をつけて、早くも蜂須賀家の奴らが立ち廻っているかも知れませんぜ」
その言葉も終らぬうちに、いよいよはっきりした多市の声が、物狂わしくまた聞こえた。
「親分がいねえ。親分ッ……」
「どうした!」
帯を締めなおして、二人がバラバラと元の部屋へ駈けだしてみると、縁先から畳まで、吹ッこむ雨にビッショリ濡《ぬ》れ、今にも消えなんとする灯影《ほかげ》に照らされた多市の姿が、障子に縋《すが》っておろおろしていた。
「親分が……親分が見えません」
「銀五郎が見えぬと?」一八郎は声を弾《はず》ませた。
「たッた今、ここで」
「おう、戸を閉める音がしておったが」
「と思うといつの間にか、姿が見えなくなったんです」
「やっ」外を覗《のぞ》いていた万吉が、仰天《ぎようてん》して、飛沫《しぶき》の庭へ、行燈《あんどん》の光を向けた。
見ると、雨の中に、何やら白いものが倒れていた。銀五郎の浴衣《ゆかた》である、傷口から血の流るるに任せたため、あたりを血の池のように染めて悶絶《もんぜつ》してしまったらしい。
「あっ……」というと、多市の顔はまるで死人だ。万吉と一八郎とは、意外な変を見ると同時に、なんのためらいもなく、ザッとかかる雨をうけて、庭先へとび降りた。
降りた途端に、万吉の肩が、腐れた雨戸を衝《つ》いたので、一枚の戸が、屏風《びようぶ》仆しにころげ落ちた。
「お! 斬《や》られている」
「銀五郎ッ、気をたしかにもて」
一八郎が抱き起こし、万吉が耳に口をつけて呼ぶ間も、雨は仮借なく横なぐりに降った。
「これッ、銀五郎、銀五郎」
「ううむ……」
「気がついたか、急所の傷ではない、心を緩《ゆる》めてはならん」
「俵様……」銀五郎は、その手を借りて懸命に立ち上がりながら、かっと四方を睨《ね》め廻した。
「わっしのことに気をとられて、ご油断なすっちゃいけません、蜂須賀家の手が廻っています」
「やっ、蜂須賀の?」
その時であった。
床下に潜《ひそ》んで、頃合《ころあい》を計っていた九鬼弥助は、ふところから用意の呼笛《よびこ》を出して口にくわえた。
緩《ゆる》い――しかし物々しい呼笛の音《ね》が、床下から、四方へピリピリと鳴り響くと、たちまち、庭手の三人を取り囲んで、真っ黒な影が乱れ立った。
細く白い刃《やいば》のかげも、人に添って、あっちこっちに閃々《せんせん》と動き、早くも切《き》ッ尖《さき》を低く泳がせて、狙い寄ってくる覆面もある。
「ちぇッ、足がきかねえ」と、面前の敵に歯がみをする銀五郎をかばって、俵一八郎は、さすがに落ちついていた。
「万吉! 油断いたすなよ」
「おお、こいつだ。宵から虫が知らせたなあ!」と、万吉も、内懐《うちぶところ》の十手をつかんだ。
輪をなしてきた人影が、等しくジリジリと輪をちぢめて、魔刃《まじん》のそよぎを詰めよせてきた時、どこからか、
「待て」
と、鈍重《どんじゆう》な声が走った。
立ちすくみに、身を構えていた三人が、ふと眼をつけると、庭の一方大樹のかげに、雨を避けつつ見張っている自来也鞘《じらいやざや》。
いうまでもなく、天堂一角である。
一角だけは、覆面をせずに、野ばかまの高股《たかもも》だち。その側《そば》にいて、鯉口《こいぐち》をつかんでいるのは森啓之助であろう。
「おう、それなる三名の者……」
傲岸《ごうがん》な調子で吠えかけた。もう縄にかけた囚人《めしゆうど》扱いである。一角の言葉は、ピューッという風雨が横から声をさらって、ちぎれちぎれに掠《かす》れて聞こえる。
「もう駄目だ! 諦《あきら》めて後ろへ手を廻してしまえ。いわずとものことだが、吾々は、蜂須賀阿波守にさし向けられてまいった者、生殺与奪《せいさつよだつ》の権があるぞ、ジタバタすれば弄《なぶ》り殺し――」
「だまれッ」
だしぬけに、俵一八郎、それを遮《さえぎ》って、きびしく言い返した。
「阿波守が何者である、蜂須賀家じゃとて、かような狼藉《ろうぜき》を、無辜《むこ》のものに加えてよいか」
「ふん……」というように、一角の白い歯が闇の中に剥《む》いてみえる。
「白々しいことを申すな! 阿波の侍従重喜公《じじゆうしげよしこう》、おそれ多いが名君でおわすぞ。いわれもなく、何でかようなことをするものか。その科《とが》は汝らの胸に覚えがあろう。申し開く筋があるなら、とにかく安治川のお下屋敷へきた上にいたせ」
「いや、なんと申そうが、この方どもは、さような所へ引かれてゆく覚えがない」
「阿波の御禁制を犯し、お家の内秘《ないひ》をのぞこうとする不敵な大罪、言いのがれはかなわぬ」
「禁制とは阿波領だけの禁制で、よも天下の大法ではござるまい。ここは天領、すなわち将軍家の御支配地、一国の太守にすぎぬ阿波守が、掟呼《おきてよ》ばわりを召《め》さるいわれがない」
一八郎の弁舌は、さすが同心役を勤めていただけに練れていて、理の明晰《めいせき》と語気の鋭さが一語一句にひらめいている。
「ましてや吾々とて、また阿波の禁界をふみ越えた覚えもなし、内秘を探ったこともござらぬ。それをしも疑心暗鬼に見らるるにおいては、なんぞ御当家には、それまでも世の耳目《じもく》をおそれる秘密がおありとみえる」
痛いところを罵《ののし》った。
いかにも、阿波以外の領土で、阿波の国禁を無碍《むげ》にふりかざすのは暴《ぼう》の限りである。
けれど、もとより、その暴と権力が、横行し闊歩《かつぽ》した時代。天堂一角のごとき、暴をもって禄《ろく》を食《は》み、暴をもって誇りとする原士《はらし》気質《かたぎ》が、そんな条理に耳をかすべくもない。
「よし! 問答無用」
こういうと、彼は、もの蔭から手を振って、
「それッ、江戸の廻しもの唐草銀五郎、またしきりにそこらを嗅《か》ぎまわる天満《てんま》浪人や、手先の犬どもを、一網打尽《いちもうだじん》にしてしまえ」
「あっ」というと、ムラムラと動いた覆面の影が、一度に八方から喚《わめ》いてかかる。
「何をッ」といったのは、万吉であろう、寄ってきたのを、真ッ先に、イヤというほど十手で撲《なぐ》りつけた。
おお! ええ! ともつれあう声の乱打《らんう》ち。人と人、剣と剣が、ただ真ッ黒に渦巻いた。
雨は少し小やみになって、チラとほころびた乱雲の隙間から、カーッと空の明るみが射《さ》し、一瞬、目ざましい剣《つるぎ》の舞を描いてみせた。
だが、雲の閉《と》じるとともに、それもまたたく元の闇――、修羅《しゆら》の叫喚《きようかん》、吹きすさぶ嵐。
しばらくすると、その渦の中から、
「ううむ、残念!」一八郎の絶叫《ぜつきよう》が聞こえた。
「あっ、だ、旦那」
「万吉、拙者にかまわずここを落ちろ」
「逃がすな、あいつを!」
群《むら》がっていた人数が二ツに割れた。
一方は、長蛇となって万吉を追いかけ、残った人数は一八郎へ折り重なって縄をかけた。
銀五郎はどうしたろう?
時雨堂の灯が消えたため、多市の様子も分らない。
万吉は、垣を破って逃げだした。と――その時だ、すさまじい大音響が時雨堂の庭先にあたってしたのは。
鼓膜《こまく》をつきぬかれて、あッ、と思った一同の眼先へ、一条の朱電《しゆでん》! ピカッと見えた火の柱。
落雷だ。今しがた、一角が立っていたあたりの大欅《おおけやき》が異臭を放った。刹那《せつな》、すべての姿が一度に大地へうッ伏してしまった。人の暴を超えた自然の暴力。
虚空《こくう》には、幹を白くみせて大欅がダラリと裂け、寂寞《せきばく》としてしまった大地を嘲《あざけ》るように、遠《とお》雷鳴《かみなり》はゴロゴロとうすれゆく。
一番船
今しがた二、三ヵ所へ落雷があってから、嵐の空はけろりと霽《は》れて、研《と》ぎ出された半月のかげが、蒼黒い湖水の狂浪をすごいばかりに照らしていた。
打出《うちで》ケ浜《はま》の松原にも、あなたこなたに、根こそぎにされた痛ましい松の木が見える。
幾軒かの掘立小屋《ほつたてごや》が、その辺に散在していた。打出瓦《うちでがわら》を焼く瓦師《かわらし》の小屋である。
人は住んでいないとみえて、松と松との間に、その小屋は見えても灯影《ほかげ》はなかったが、やがてどこかで、
「オオひどかった……」と、つぶやく者がある。
見ると、瓦小屋《かわらごや》の軒下《のきした》に立って、ビッショリ濡れた着ものの裾《すそ》をしぼりながら、久しぶりの月に思わず眼を吸われている風情《ふぜい》。
見返りお綱であった。
月の光をうけた鼻すじが、なんといいかたちだろう。
髪も少し濡れたとみえて、ほつれ毛の渦《うず》が、象牙《ぞうげ》の白さへペッタリとついているのを、指で梳《か》いて櫛巻《くしまき》の根へなでつけながら、
「困ったねえ……とうとう今夜は宿をとりそこなってしまった。こんな御難に会うというのも、みんなお十夜のため、あんな奴こそ、さッきの雷《かみなり》にうたれて死んでしまえばいいのに」
腹立たしそうに独り言《ごと》を洩らしている。
すると、そこから六、七間離れた向うの小屋にも、誰か人影が立っていたので、お綱は、なんともつかずにぎょッとした。
執念深いお十夜かと思ったのである。だが、まさか……と思いなおして見ると、先でも気がついたとみえて、チラとこっちへ顔を向けたが、別に気にとめる様子もない。
お綱は、今の動悸《どうき》の消えないうちに、またあわただしい胸騒《むなさわ》ぎを重ねた。けれど、それは前の不愉快な驚きではなく、あまり不意に与えられた喜びの狼狽《ろうばい》であった。
人違いではないかと、いく度《たび》も心を落ちつけて見直したが、やはり自分の錯覚《さつかく》ではない。時雨堂《しぐれどう》の虚無僧である。一節切《ひとよぎり》の主《ぬし》である。今も手にはその尺八を持っているのが紛《まぎ》れのない印《しるし》だ。
「どうしてあの人が、今頃こんな所にいるのかしら……」お綱は不思議に感じたが、尺八を携《たずさ》えているのから見るに、この打出ケ浜へそぞろ歩きに出て、自分と同じように、雨宿りをしているのだろうと推量した。
しかし、それにしてはあまり夜が更けすぎている。自分はお十夜の眼から遁《のが》れるため、わざとこの松原に姿を隠し、もし矢走《やばせ》へ出る渡船《わたし》があったら、草津あたりで宿をとろうと考えている間に、今夜の大嵐《おおあらし》に逢って退《の》ッ引《ぴ》きならなくなったのだけれど、あのお方はなんだって、今頃こんな淋しい所にぽつねんとしているのかしら? と、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》の悩みを知らぬお綱には妙に思えた。だが何よりも、こうして意外な人に逢えた機縁の欣《うれ》しさに、胸の裡《うち》はいッぱいだった。
何とかして、声をかけてみたい、かけられてみたい、と心はわくわく燥《さわ》ぎ立つが、どういってよいものやら、いって悪いものやら、黙然《もくねん》としている人は、いつまでもつれなく機会をつかませてくれない。
じっと月を眺めているが、お綱はしどろになって思い乱れた。乳のあたりで痛いほどの血の響きがする。ええ、どうしたんだろう私は! と口惜しさ悩ましさにじれてみても、喉《のど》まで出そうになる言葉が歯がゆくも心の奥へ掠《かす》れてしまう。
「こんないい折はありゃしない」と知りながら、みすみす恋に意気地のない自分を、お綱はどうにもしようがなかった。
男を男とも思わず、他人《ひと》のふところの物さえ神技《かみわざ》のように掏《す》りとるお綱に、こんな女らしい悶《もだ》えがある。
その女らしい苦しみを、お綱もこの頃初めて知った。よほど変則な生《お》い立ちに今日《こんにち》まで紛《まぎ》れていたものが、悪土《あくど》の中から芽《め》を吹いたのだ。性格、本能、すべてがグングンと伸びきって悪の花を咲かせてしまった年頃まで、たッた一つ、純な芽生えを忘れ残されていたのは、まことの恋――それであった。
世間にすれていて男にすれず、男にすれていて恋にはすれていない――見返りお綱も、今度こそは、その恋の試練にかけられねばならぬ。
「いい按配《あんばい》だこと、明日《あした》もこの分で晴れてくれると嬉しいけれど……」
やっとの思いでお綱がいった。
いったけれど、それは弦之丞へ話しかけた訳ではない。こう呟《つぶや》いたら、向うでそれを緒口《いとぐち》にして、なんとか声をかけて下さりはしまいか――というはかない頼みの溜息《ためいき》なのである。
瓦小屋《かわらごや》の柱に凍《こお》りついてしまったように、お綱はジッとして動かなかった。
「ひどい雷鳴《かみなり》でした……」とか、「お一人でございますか」とか、今に向うの瓦小屋から、弦之丞が話しかけてくれはしまいかと、きまり悪さの物騒ぎを押さえている。
「小娘でもない年のくせに、私はなんていう初心《うぶ》なんだろう」
お綱は、急に自分がいとしくなった。
こんないとしい吾身《わがみ》を、初めて見出したように、自分と弦之丞の姿とを、偸《ぬす》みめにそッと見くらべたお綱の素ぶりには、あばずれた所などは塵《ちり》ほども見えず、まったく、純なはにかましさだけがこぼれていた。
義仲寺《ぎちゆうじ》の鐘であろう、大きく八刻《やつ》を打った。
打出ケ浜の波音にまじって、鐘の余韻《よいん》が遠くうすれて行くと、弦之丞はフイと立って、向うの瓦小屋から歩みだした。
その人にはまたその人の懊悩《おうのう》がある。行くに行かれぬ江戸を偲《しの》び、逢うに逢われぬお千絵の境遇を偲《しの》びやって、帰ることも夜更けたことも忘れていたが、四更《しこう》の鐘を聞くとにわかに気がついたものであろう。弦之丞の白い姿が、松の間を縫《ぬ》ってピタピタと帰りかける  。
はかない頼みがぷッつり切れて、お綱はハッと悲しくなりながら、
「あっ、もし……」
われを忘れて呼んでしまった。そこにたたずむ女のあることを、あらかじめ知っていたので、弦之丞は別に意外なさまもなく、松を隔てたすぐ前に足をとめて、
「なんでございますか」
静かに、にべもない返辞でふりかえった。
「あの……」お綱の唇は、いつにも似ずワナワナふるえて、われからいうべくあまりに舌がもつれがちである。
「あの、もしやあなたは……」といいかけてから、しどろになって後の言葉を探したように、
「もしや今日の日暮方《ひぐれがた》、あの時雨堂で、一節切《ひとよぎり》を吹いておいでになったお方ではありませんか」
いぶかしげに、女を見つめていた弦之丞は、月に隈《くま》どられた顔をニッコとさせて、
「ようご存じ……。気まぐれな手すさびゆえ、人に聞かすべきものではござりませぬ」
「いえいえ、ほんによい音色、関の山で聞いておりますと、骨身に沁《し》みるようでございました」
「お身も尺八がお好きとみえるの」
「深く聞くことは存じませぬが、ただわけもなく好きなのでございます」お綱は自分でも気がつかない間に少し流暢《りゆうちよう》になりながら、「殊にあなたの宗長流を立慶《りつけい》河岸《がし》で初めて聞いた晩から、もう妙に心をひきずられて……あれから後も、どんなに音色をお慕《した》い申していたかしれませぬ」
「お……」弦之丞は五、六歩寄って、「ではあの時、酒に酔った阿波侍が、無礼にも二階から拙者へ金を浴びせ投げた後で、お呼びなされた女客というのは? ……」
「はい、私でござりました」
眼のやり場にうろたえながら顔を赧《あから》めている女の様子に、弦之丞は初めて注意するのであった。しかしその身装《みなり》や肌合《はだあい》は、どうみても、この辺の者らしくなく、江戸の下町に見馴れたつくりである。
櫛巻《くしまき》や小柳《こやなぎ》帯の引っかけで、いけぞんざいな身仕舞《みじまい》なのが、お綱は、その人だけに気がひけた。ともすると、自分が女|掏摸《すり》だという奥底まで、弦之丞の涼しい眼に見透《みとお》されはしないかと怖ろしい気にも襲われる。
お綱が話を途切《とぎ》らすと、弦之丞もまたいつまでも、取りつきにくく無口でいた。
ザブン、ザブン……と、打出ケ浜に寄せ返す波も、冴《さ》え過ぎて冬に似る月の寒さも、恋に意気地のないお綱の心を縮ませるばかりである。
虫の知らせか、弦之丞は、その時なんとなく、早く時雨堂《しぐれどう》へ帰らなければ、銀五郎や多市が、さだめし案じているだろうと思いだされてきた。
いつまでたっても、二人の仲に、何も結びつけられてこないので、ともすると相手がそこを立ち去りげに見える。それをやるまいとしてお綱はまたあわてて話しかけた。
「お言葉の様子では、あなたも江戸のようでおいでなさいますが」
江戸と聞くと、弦之丞もつい心を惹《ひ》かれて、
「お察しの通りであるが、すると、お身も江戸であるとみえるな」
「はい、本郷|妻恋《つまごい》でござります。一人旅にひけをみせまいと、わざとこんな風姿《なり》をしておりますが、挿花《はな》の師匠をしておりますもの、どうぞおついでがありましたら、お訪ねなされて下さいませ」
「同じ江戸の者であってみれば、いつかまたお目にかかる折もあろうが、少し仔細があって、しばらく江戸へは帰らぬつもり……」
「おや、なぜでございますか」
「なぜということもないが、旅が気ままでござるからのう……」
「いえいえ、旅もようございましょうが、江戸の住心地《すみごこち》も捨てたものではございません。山の手のお屋敷町は知らぬこと、下町の小ぢんまりした格子《こうし》作りで、朝の膳《ぜん》には鎌倉の鰹《かつお》、夕方には隅田川の白魚、夜には虫売《むしう》りや鮨売《すしう》りもきて、縁日のある町へも近く、月の晩には、二階で寝ながら将軍様のお城を眺めて、太平楽《たいへいらく》をいっておられるような、そんな暮しはお嫌いでございますか」
懐かしいものとは聞くのであったが、弦之丞には、それとお綱とを結びつけてみても、なんの魅惑も感じなかった。けれど、この女のなだらかな江戸言葉で、江戸の風物を語られることは、決して悪い思い出ではない。
「お武家様にしてみれば、江戸はなおさら羽振《はぶり》のいい土地。同じ編笠をかぶるにしても、刀の差しよう、髷《まげ》の結《ゆ》い方まで、どこか違っておりますので、見る目もなんとなく頼もしゅうございます。私は気まぐれに、上方《かみがた》見物にきた帰りでございますが、もしなんなら、その江戸までご一緒にお帰りなさってはどうでござります」思いきって、こういってのけてみたものの、もし弦之丞が承知したら、なんと間が悪いことだろう、道中も洒々《しやしや》として歩けはしない、などとお綱は他愛《たあい》もない取り越し苦労までする。
弦之丞はただ笑っていた……そして不意にきっとなった。
誰か二、三人で駈けてくる者がある。
見ると、松林を縫《ぬ》って、肩に月影の斑《ふ》をチラチラ浴びて急いできた者が、弦之丞の姿を見つけると、そこへ飛んできて、
「おっ、ここにおいでなさいましたか」と息を弾《はず》ませた。と、また一人があわただしく、
「弦之丞様、た、大変でございます」と、少し声をわななかせてつけ加えた。その者たちは、弦之丞も見知っている、大津絵師|半斎《はんさい》の店の若い男どもであった。
「大変ですと? ……」彼にも、さすがにギクとした色がある。
「な、なんといってよいやら分りませぬ。とにかく、すぐ時雨堂へお戻りなすって下さいまし」
「して、何ぞ異変でも起こりましたか。帰ることはすぐにも帰りますゆえ、まず落ちついて、その仔細《しさい》をお聞かせ下さい」
こういったのは、使いの者よりは、自分自身を落ちつかせるためだった。
「弦之丞様、驚いちゃいけません。実はこうなんでございます……。もう少し前に、凄《すご》い雷が鳴りましたろう。あの時師匠の半斎が、ちょうど厠《かわや》に入っておりましたが、出てくると私たちへ、今の雷はたしかに時雨堂の近くへ落ちたらしい、もし誰か怪我《けが》でもありゃしないか、すぐに見舞に行ってみろといわれましたんで、まだ少し降っている中を、まっしぐらに駈けだしました。行ってみると、さア一大事です。どこの奴だか知りませんが、真っ黒に覆面した侍が大勢で、二|挺《ちよう》の駕を引っ舁《かつ》ぎ、時雨堂から一散に関の裏道へ登ってゆくじゃアありませんか」
「や、大勢の侍が? ……」
「二十人余りの人数でしたよ、何しろこいつア大変だと、あわてて中へ飛びこんでみると、雷が落ちたどころじゃありません……、銀五郎さんをよんでも返辞《へんじ》はなし、多市さんをよんでもウンもスウもありません。時雨堂の中はガランとしていて、そのうちに月が出たので、こわごわあたりを見廻すと、どこからどこまで血の池のようなんです」
「おまけにあすこの大欅《おおけやき》へ、さッきの雷が落ちたものとみえまして、黒装束の者が二、三人、その木の下に斃《たお》れていますし、時雨堂の中はといえば、そこも、切ッつ切られつした返り血と、土足の痕《あと》がいっぱいで、目も当てられない狼藉《ろうぜき》でございます」
「おウ……」と呻《うめ》くがように弦之丞、次の語をやや急《せ》き気味に、
「して、銀五郎と多市はいかが致しました」
「その多市さんは……」
半斎の弟子二人は、そこで、見てきたばかりの酸鼻《さんび》のさまを、まざまざと思い浮かべたらしく、気の毒そうに顔を見あわせた。
「手足が利《き》かなかったから、真っ先に斬られたのでしょう。多市さんのほうは、縁先と部屋の間で、ズタズタに斬られておりました。ところが銀五郎親分のほうは、どうなったものでしょうか、いっこう行方が知れませんです」
「姿が見えない?」
「はい」
「そして、関の裏道へ向ったという駕《かご》は、たしかに二|挺《ちよう》でござったか」
「群《む》れ鴉《がらす》のような大勢に、取り巻かれて行ったのを見ただけで、しかとは申されませんが、その駕はどうも二つのように思いました」
嵐の間におこり、嵐とともに去った変事《へんじ》を聞き終って、弦之丞は驚きのあまり、しばらく愕然《がくぜん》としていたが、やがて口の裡《うち》からただ一語。
「……しまった! ……」
日頃から、多市や銀五郎の身辺には、蜂須賀家の者がつけ澄ましているところを知りぬいていたので、それとなく護《まも》っていてやったものを、今日に限って家を出たのが第一の失策――と及ばぬ臍《ほぞ》をかまれもする。
いや、及ばぬといって、空しく手を束《つか》ねてはいられない。襲《おそ》うたものは、川長でも見かけたことのある天堂一角、その他の阿波侍《あわざむらい》であろう。そして、彼らが拉《らつ》し去ったという駕の一方には、必ずや銀五郎が押し込まれているに相違ない。
こう、直覚したので、弦之丞はにわかに眼《まな》ざしをかえて、
「関の裏道はどこへつづいているな?」
声まで凜《りん》と張って訊ねた。
「京へは近うございますが、大阪へは廻り道で、山から山を音羽《おとわ》や笠取《かさとり》の里へとって、宇治の富乃荘《とみのしよう》へも出られると申します」
「うむ、まさしゅうそれへさしてまいったに違いあるまい。これ二人の者たち、まことに勝手ではあるが、今の場合は、一刻《いつこく》も早く、その駕や侍の群れに追ッ着いて行かねば相ならぬ」
「おお、あれを追っておいでなさいますか」
「時雨堂のあと始末や、半斎殿へご迷惑を及ぼしたお詫《わ》びなどは、いずれ立ち帰った上で御意《ぎよい》をえるほどに、よしなにお伝え申しておいてくれ」
「ええ、ようございますとも」
「では、お頼み申すぞ」
この間うちから、常に寡黙《かもく》で沈鬱《ちんうつ》にみえていた法月弦之丞は、その時、まるで人が違ったように、そういうや否や、血相すごく身仕度して、阿波侍の一行を追うべく宙を飛んで走りだした。
変事を知らせにきた半斎の家の者も、それと一緒に、これまた時雨堂の方へ、落ちつかぬ足どりを急がせて戻って行く。
こうして夜は一段と更《ふ》け沈み、打出ケ浜にはうねうねと白い波ばかりが、あとの寂寞《せきばく》とした大気の中にほしいままな舞躍《ぶやく》の声をあげている。
お綱だけは、まだそこに立っていた。
しょんぼりと、瓦小屋の柱にもたれて――。
「……やっぱり縁がないのかねえ……」と、思わずもれる溜息《ためいき》がやるせない。
月影の中へ月より白く消えてゆく弦之丞の姿を、いつまでもいつまでもジイとそこからみつめているうちに、辺りの月光は茫《ぼう》と霞《かす》んで、松葉の露のような泪《なみだ》が、お綱の両の睫毛《まつげ》にいッぱいな玉を泛《う》かべていた。
弦之丞には、行路《こうろ》の一顧《いつこ》にもすぎぬ女であったろうが、お綱の身にとってみれば、手のうちの珠を奪われたよりは、もっと絶望的な空虚が胸をひたすのであった。
明けやすい短夜《みじかよ》である。五更《ごこう》といえばもう有明《ありあ》けの色がどこにもほのかである。
誰もいない打出ケ浜……。
見る人もなく聞く人もない瓦小屋。
瓦へかむせてある濡《ぬ》れ莚《むしろ》へ、居崩《いくず》れたままにうっ伏したお綱は、生まれて初めて真《しん》から悲しいということを知って、誰に気づかいもなく、シク、シク……とすすり泣きを洩らしていた。
やがて、ボウーという法螺《ほら》の音が聞こえる。
矢走《やばせ》へ通う松本の船渡しから、一番船のでる知らせである。
(江戸へお帰り、江戸へお帰り、お綱さん、諦《あきら》めて江戸へお帰りよ。月夜の風邪をこじらすと、命取りになりますよ)
一番船の貝の音はこういってお綱をなだめ促《うなが》すように鳴っていた。
岐路《きろ》の峠《とうげ》
らんらんとした太陽が照りつけていた。小鳥の声が晴々《はればれ》とひびく、山や峰は孔雀色《くじやくいろ》の光に濡れ、傾斜の樹々《きぎ》は強烈な陽をうけて、白い水蒸気をあげている。
「急げ、急げ」
今しも、笠取《かさとり》の盆地から、禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》の七曲《ななまが》りを、ヒタヒタと登ってゆく武士の一群れがあった。
昨日の嵐にふるい落とされた病葉《わくらば》が、道一面に散りしいていて、そこを踏みしめてゆく大勢の足音の前に、山小禽《やまことり》が腹毛を見せてツイツイとおどろき飛ぶ――。
「急げ、急げ」
「峠を越えると郷《ごう》の口《くち》」
「郷の口には休み場もある」
「何しろ支度をかえなければやりきれない」
「明け方から急に疲れを覚えてきた」
「兵糧《ひようろう》がほしい」
「もう一息、もう一息!」
「道も河内《かわち》へ入れば平坦《へいたん》になる。大阪表まで六、七里とはないぞ」
一行はヘトヘトに疲れていた。
先に立って励ますのは天堂一角、九鬼弥助、森啓之助。
二|挺《ちよう》の駕《かご》を列に挟《はさ》んで、以下二十人ほどの侍《さむらい》がつづいてゆく。難路へかかるたびに出る愚痴《ぐち》は、夜を徹《てつ》してこの悪路を、関の裏街道から休みもなしに押してきた汗と喘《あえ》ぎの悲鳴である。
縄括《なわぐく》りにした二|挺《ちよう》の山駕、それをかついでいるのも侍だ。時折、肩を代え、肩を代えして、螺旋状《らせんじよう》にうねッた道を峠の頂《いただき》まで登ってきたが、
「あっ、また血がこぼれる……」
ドカンと、一挺の駕尻《かごじり》を下ろしてしまった。
その駕の裾《すそ》から、おびただしい血汐が滴《したた》りだしている。みる間に、それは幾すじもの赤い線となって、生ける蚯蚓《みみず》のように、土の上を横縦《よこたて》に流れだした。
「こう血をだしては死ぬであろう」
「だめだ。死ぬぞ、こいつは」
下ろした駕を取りまいてガヤガヤしだした。
「この分では、所詮《しよせん》、大阪までは保《も》っていまい」
「お下屋敷《しもやしき》へつく前に、死骸になってしまっては、骨折り損というものだ」
様子をふりかえった天堂一角は、森や九鬼とともに、つかつかとそこへ戻ってきたが、半《なか》ば疲労に挫《くじ》けている一同を見て、
「死なしてはならん!」
一喝《いつかつ》をくれて、みずから駕の縄を切りほどき、垂《た》れを上げて中を覗《のぞ》くと、自分もいっそう狼狽《ろうばい》した気色《けしき》である。
「すぐに手当てを加えろ。これから大事なお調べにかける奴、死なしては、ここまで骨を折ってきた甲斐《かい》がないぞ」
大勢の手で、駕の中から引きずりだされたのは、唐草銀五郎であった。
深股《ふかもも》の傷は、柘榴《ざくろ》のように弾《はじ》けている。ほかにも一、二ヵ所の掠《かす》り傷があって、五体はむごたらしい紅《べに》に塗られていた。
「用意の金創《きんそう》は誰が持っている」
「はっ、これに」
「指先へ付けて塗《ぬ》りつけろ。そして血止めをギリギリと巻きしめておけ」
「はっ」
「誰か、水を探してこい、水を」
「はっ」すぐ二、三人が渓流《けいりゆう》へ駈け下りた。
銀五郎は、おびただしい出血に、グッタリと気を失っている。情けにあらずしてそれを手当てする侍たちには、無論荒々しく扱われた。
「一方は大丈夫だろうな」
水を待つ間に、九鬼|弥助《やすけ》がいった。一方とはつまりもう一つの駕を指すので、その中には、俵一八郎が無念の縛《いまし》めをうけて、押し込まれているのは明白である。
中の一人が、こう答えた。
「あの者のほうは、捕える時に深傷《ふかで》を負わせてございませんから、まず御懸念《ごけねん》には及びませぬ」
「そうか……」
九鬼はうなずいて、一角と啓之助が立っている岩の側《そば》へ歩みだした。
その時、天堂一角は、腕《うで》ぐみをしたまま、峠の七曲りを見下ろしていたが、何を見出したものか、眉に険《けん》を立てて、にわかにただならぬ色を現《あらわ》した。
「悪い所へ……」一角は舌うちを鳴らして、
「誰かここへ登ってくる」と、ひそめた眉《まゆ》のあたりへ手をかざした。
「高野詣りか三塔《さんとう》の行者《ぎようじや》か……それともただの通行人か、なにしろ四、五人でございますな」
それをうけて、森啓之助がつぶやくと、九鬼弥助も側に立って伸び上がりながら、
「なるほど!」と同じほうへ眼を据《す》えた。そして三人とも、しばらくの間、峠の上り道からここへ指してくる人影を眺めていたが、そのうちに九鬼弥助が一笑に附して、
「まさか追手ではありますまい」
「無論、そんな者でないことは分っているが……」と一角は注意ぶかい容子《ようす》で、あたりにいる侍《さむらい》たちへも聞かすように、
「ただの旅人にいたせ、かような態《なり》を見れば、何かと眼をそばだてて行くに相違ない。万一、蜂須賀家の者と知られて、世間へ噂いたされては後日の不為《ふため》であろう。とにかく、銀五郎の体を、どこかへ隠したがようござる」
「いかにも!」啓之助も同意して、にわかにあわてた眼づかいをしながら、
「こりゃ、手当ては後にして、先に銀五郎の体を見えぬ所へ運んでおけ。そして、各《おのおの》もしばらくの間、姿の見えぬようにしているがよい」
「はっ、承知しました」答えると、侍たちは、ただちに銀五郎の手足を取りあって、灌木《かんぼく》の夏草の茂みにつつまれた細道へ隠れてしまった。
そして、二挺の山駕も、邪魔にならない所へ片づけさせた後に、天堂一角は陽よけの笠を傾《かた》げ、弥助と啓之助は、道ばたの岩に腰を下ろして、何気ない風にたばこをくゆらしている……。
しばらく森《しん》としているうちに、さっき、ここから姿の眺められた旅人たちであろう、何か声高に話してくる声が足音とともに近づいてきた。
「よく晴れましたなあ、谷の霧が」
「まったくいい気持で。何しろ、山を歩きつけると、あの埃《ほこり》ッぽくって物騒な本街道は歩けません」
「街道すじも、喧嘩がなくって大名の往来さえなければ、決して悪かあありませんが」
「おお、ここに立つと、ちょうど、宇治川の流れが、水でくの字を描いたように見えます」
「山もよいじゃありませんか。東のほうをごらんなさい。昔、徳川様に見出されて、お抱《かか》えになった忍者の出生地――有名な甲賀の山国があの辺です」
「なるほど、つまり幕府の甲賀者が出た郷《さと》で……」
「さよう、あの尖《とが》った山が矢筈《やはず》ケ岳《たけ》、その右手のが猪《い》の背山《せやま》とかいいましたよ。まア名なんぞはどうでも、あの襞《ひだ》になっている山の皺《しわ》が、なんともいえない深味のある色じゃございませんか」
すぐそこまで来たのをみると、六部、高野詣り、道者などの五人連れで、いずれも白い甲《こう》がけ脚絆《きやはん》に杖をもっているが、中に一人、それをもたない虚無僧の天蓋《てんがい》が一つまじっていた。
「どうです?」
高野詣りが腰をのばしていった。
「この辺で、一服やるとしましょうか」
すると、六部がソッと袖をひいて、道ばたにいる侍を目で知らせながら、さりげない調子で、
「いや、もう一息まいりましょう」
「そうですか、じゃあ……」
「下りへかかる岐《わか》れ路に、たしか、眺めのいい場所があった筈で……」スタスタと通り過ぎてしまった。多少何か無気味にも思ったようなふうである。
一人の虚無僧も、他の行者たちについて足を早めたが、行き過ぎてから、二、三度うしろをふりかえった。わざと、やりすごす気で、たばこをくゆらしていた一角や弥助は、その五人を一様一色な遍路《へんろ》とばかり思っていたので、虚無僧のまじっていたことも、またその天蓋《てんがい》のかげに明敏なまなざしが働いていたことにも気がつかなかった。
気味の悪い侍を見かけたのがきッかけで、無口になった五人の道者|連《れん》は、それから二十丁ほどタッタと下ってきたが、やがて、甲賀路と宇治の岐《わか》れ道へきた時、
「では、皆様……」
と、虚無僧だけが、ふいに立ちどまって、
「私だけは、ここでお別れ申します」
「おや」と、四人は変な顔をして、
「虚無僧《ぼろんじ》さん、あなたは甲賀へおいでになるので……?」
「はい」虚無僧は慇懃《いんぎん》に、
「もとよりあてのある旅ではございませんが、最前、峠の上から甲賀の山を見ましてから、急にまいりたくなりましたので」
「そうですか――ですが、ここからまいりますと、木元《きもと》、裏白《うらじろ》なんていう、嶮《けわ》しい山や峠ばかりで、いくら山好きでもあきあきしますぜ」
「ほかにちと思いだした用事もございますゆえ」
「そうですか、じゃせっかくお大事においでなさい」
「ありがとうぞんじます。今朝《けさ》からご一緒になりまして、いろいろお世話になりました」
「なんの、遍路の者はお互いでございます。草鞋《わらじ》の代《か》えや旅籠銭《はたごせん》は大丈夫ですか」
「はい、用意しておりまする」
「お一人になったら、必ず、暮れないうちに宿をとることですよ。じゃ、お気をつけなすッて……」
半日の道づれを捨てるのも、何か名残惜しそうに、一人を減《へ》らして四人になった道者たちは、コトン、コトン、と杖の音を淋しくさせて、禅定寺《ぜんじようじ》の峠を下りにかかって行く。
虚無僧は、寂然《じやくねん》と立って見送っていた。
旅の人の情けはうれしい! しみじみ思うのである。ことに、ああした遍路同士が、貧しい情けをおくりあうことは、泪《なみだ》ぐましいほどで、闘争の巷《ちまた》や富家《ふか》の門では見られない美しさだと思うのであった。
そして、静かに、道端へ寄って行った。
朽木《くちき》の根から、滴々《てきてき》と落ちている清水に喉《のど》をうるおそうとして、ふと、苔《こけ》や木の葉に埋もれている道しるべの石をみると、
南――郷《ごう》の口《くち》をへて奈良街道。
北――裏白越《うらじろご》え甲賀路。
としてある。
「甲賀……」じっと見つめている虚無僧の胸に、懐古《かいこ》の念が清水のように湧《わ》いてきた。「甲賀といえば、甲賀組の発祥地《はつしようち》、いうまでもなくお千絵殿の祖先の郷《さと》じゃ……」
不思議な心地がするのである。
ゆくりなく、恋人の祖先に巡《めぐ》り会ったような心地がする。そしてそこに、なお道しるべの文字を見入っていた虚無僧は、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》なのであった。
弦之丞は、ゆうべ、打出ケ浜からまっしぐらに立ってきた。無論、蜂須賀家の者を追いかけて、銀五郎を取り返すためにである。
一八郎のことは、彼の念頭に薄かった。およそのことは察していたが、まだ深くその人を知らないために。
しかし、銀五郎の一身だけは、命を賭《と》しても取り返さずにはおかない決心であった。自分というものが、江戸の地をふむことのできない境遇である間は、銀五郎こそ、お千絵様の身を守り、甲賀家を支《ささ》えてくれる唯一の力だ。
蜂須賀の侍たちは、世間の目を避けるためにも、必ず裏街道《うらかいどう》をとって大阪へ戻るであろうと察したので、彼は、迷うことなく道をとって、夜の暁方《あけがた》に、醍醐《だいご》の山寺で一刻《いつとき》ばかり休んでいた。
そこで落ちあったのが、今、別れた遍路《へんろ》の人々である。天蓋《てんがい》や、わらじなども、その人たちが、寺で工面《くめん》してくれた物だった。弦之丞は、先の目をくらますために、その人たちとここまで同行してきたのである。
そして、計らずも、峠の頂《いただき》で、天堂一角や九鬼弥助の姿を見かけた。
先では気がつかなかったが、弦之丞は、あの瞬間にそれを見遁《のが》していない。駕《かご》も二つあった、その他の侍たちはどこかに休んででもいるのだろう――そううなずいて通り過ぎた。
ここは岐路《きろ》になっているが、ここまではどうしても一本道。いやでも応でも、天堂一角やあの駕が、目の前を通りかかる筈である。
弦之丞は、一口の清水に、湧き沸《たぎ》る血を抑《おさ》えながら、ゆたりと、道しるべの側へ腰を下ろした。
「……もう急ぐことはあるまい」
彼は、ことさらに心を落ちつけるため、尺八を取って、眼を半眼に閉じ、ゆるやかに唇《くち》を湿《しめ》していた。
禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》――、あの頂から少し下《くだ》って、森々《しんしん》たる日蔭へ入ると、右は沢へなだれて、密生した楢《なら》の傾斜で、上にも、栃《とち》や松が生《お》い茂っており、旅馴れた者にも気味悪い暗緑な木下闇《このしたやみ》――。時たまつんざく鳥のけたたましさは、斬られた女の声のようだ。
程もなく、シタシタと、地をうつ大勢の足音が、その勾配《こうばい》を湿《しめ》っぽく流れてくる。
さきに峠の上の平地《ひらち》で、二挺の山駕を下ろしていた阿波侍の一群れである。
森啓之助と九鬼弥助は、俵一八郎を入れた山駕の側《わき》につき、その後からは、天堂一角が銀五郎の駕を守って、なんの予感もなさそうに、例の岐《わか》れ路まで進んできた。
と――不意に、どこかで、
「待てッ」
ピンと、耳をつんざいた声がした。
すぐ続けざまに同じ音声《おんじよう》が、
「しばらく待て!」
こう、叫んだかと思うと、道しるべの石から、躍然《やくぜん》と立ってきた法月弦之丞が、あわてる列をかきわけて、すばやく、一八郎の駕の棒鼻《ぼうばな》をドンと抑えてしまった。
「や、や……」とうろたえる者を睥睨《へいげい》して、
「蜂須賀の方々へ、ちと申し入れたい儀があって、ここにてお待ちうけ致していた。とにかく、この二挺の駕をお止《とど》めなさい!」
と、身をかためて、目に余る一行《いつこう》の道を阻《はば》めた。
「なにッ」
聞くより九鬼弥助は、刀のこじりをはね上げて、弦之丞の姿へ目をいからしつつ、
「知らぬことならとにかく、吾々を蜂須賀家の者と知って足を止めよとは言語道断《ごんごどうだん》だ。一体|汝《なんじ》はどこのうろたえ者だッ」
「もう、見忘れ召されたか――」と、弦之丞は片手で天蓋《てんがい》の紐《ひも》を解いた。それは、早くも八方の敵をうける用意である。
「――いつぞや川長の門口《かどぐち》で、お志の鳥目を浴びたあげく、その夜裏庭では各のお手の内まで拝見いたした虚無僧でござる」
「えっ……」弥助は胆《きも》をヒヤリとさせたが、怯《ひる》みをみせまいとするのであろう、なおも、額《ひたい》に青筋をうねらせて、
「おお、その虚無僧がどうしたというのだ。何のゆえにこの駕を止めるのだ」
「されば、もとよりその夜の意趣遺恨《いしゆいこん》ではなく、拙者の知人《しりびと》である銀五郎と、ほか一名の者が、故なくして、方々《かたがた》に捕われたと聞き、お下げ渡しを願いに出たのでござる」
「ならぬッ」
弥助は一喝《いつかつ》をくれて、かたわらの森啓之助を顧《かえり》みながら、
「こんな奴にかまっていては暇《ひま》つぶし。それッ、お先へおやンなさい」
「心得た」というと、森啓之助、ほか八、九人の侍とともに、一団になって駕尻をあげた。
「ええ、待たぬか」と、弦之丞が、それを支えんとする隙を狙って、
「邪魔するなッ」
粗暴な九鬼弥助が、抜き打ちに斬りつける。
はっ――と思うと、弦之丞は、身を沈めて、手元へのめッてきた弥助の大刀を、目もとまらぬ隙にもぎ取った。しまッた! ――弥助は、色を失って飛び退《の》いたが、時遅し、法月弦之丞に持たれた一刀は、あだかも名刀に変ったかと思われるばかりな冴えを増して、片手打ちに、ズウンと弥助の肋《あばら》まで斬りこんでしまった。
「わッ……」細《こま》かい血が濛《もう》とあがる……。九鬼弥助は空《くう》をつかんで、楢《なら》の傾斜へ落ちこんで行った。
銀五郎の駕を止めて、こなたに立っていた天堂一角は、その態《てい》を見るなり、
「おのれッ」といいざま、ジリジリと詰め寄ってきた。
一角は、啓之助のような、白面|柔弱《にゆうじやく》でなく、また、弥助よりも兇暴であるかもしれないが粗暴ではない。その剣を放つにしても、彼らの腕とは格段な差があり、弦之丞にとっても、侮《あなど》るべからざる剛敵である。
この隙に、柔弱者の啓之助は、人数の半分以上を引きつれて、一八郎の駕一つを固めながら、ダッ――と麓《ふもと》へさして急いでしまった。
その後の怖るべきものは、天堂一角だけである。あとの葉武者《はむしや》は何ほどのことがあろう――と、弦之丞は、それに三分の気を構え、七分の心力《しんりよく》を一角に向けて、血ぬられた大刀を青眼《せいがん》にとりなおした。
ギラギラした大刀の数が、車の歯のように、弦之丞のまわりを取り巻いている。天堂一角は、たえず彼の前へ前へと、切《き》ッ尖《さき》を向けていた。
しかし、いつまでたっても、弦之丞に微傷《びしよう》を負わせることもできない。
無碍《むげ》に、一歩でも、手元へ近づいて行った者は、たちまち、相手の一閃《いつせん》を浴びて、あえなき血けむりを揚げてしまう。
すでに四人は斬られていた……。
また斃《たお》れた! パサッ――と、濡《ぬれ》手拭をはたくような血の音。
だんだん頭数が減ってゆくばかりだ。一角を除く以外の者は、もう怯気《おじけ》に襲われてか、ともすると逃げ足にみえる。
斬っても斬っても、弦之丞の構えは、すぐ鉄壁に戻っていた。そのために、一角はどうしてもつけ入ることができない。何という流名だろう? 何という構えであろう? そして何と倫《りん》を絶した技《わざ》だろうか。
一角にとって、頼み甲斐のない助太刀は、また一人が朱《あけ》になったのをきッかけに、わッとひるみ立って、麓《ふもと》の方へ逃げだした。
うまくはずして行った森啓之助でも呼んでくる気か? おそらく、あの啓之助に、ふたたびここへ戻ってくるほどな勇気はあるまい。
だが、さすがに天堂一角は、あくまでそこを退《ひ》かなかった。人《ひと》まぜをせぬ一人と一人、ややしばらく息をひそめて睨み合った。原士《はらし》の中で、有名な使い手だけあって、難波一方流《なんばいつぽうりゆう》と覚しき太刀筋はたしかなもの。弦之丞とて、迂闊《うかつ》にはあしらえない。
こういう筋のいい太刀は、ほとんど、その斬る手も引く手も見せない迅《はや》さを持っている。戛《か》っ! とばかり、たった一度、双方の白刃が摺《す》り合ったかと思うと、天堂一角の姿は、忽然《こつぜん》としてそこらにあらず、弦之丞のすぐ側の樹《き》に、どこから飛んできたのか、一条《ひとすじ》の捕縄《とりなわ》が、蛇のように絡《から》みついて、ピンと向うへ張っていた。
弦之丞と一角の技《わざ》は、とうとう優劣がつかなかった。この時の場合は、まず互角といっていい。なぜならば計らざる者が、その刹那《せつな》を引き分けてしまったのだ。
と、いうのは。
時雨堂《しぐれどう》から、危うく逃れた目明し万吉。この変事を、住吉村にいる常木鴻山《つねきこうざん》へ知らせようとして、ヘトヘトになりながら、折も折、この山越えにかかってきた。
そして二人が切り結んでいる態《てい》を見るや、彼はなんの猶予《ゆうよ》もなく、得意の捕縄《とりなわ》をスルスルと解いて、天堂一角へ狙いをつけた。
そこで、捕縄の先が、宙《ちゆう》をうねって行った途端に、一角は早くも感づいて、楢《なら》の茂った谷間《たにあい》の崖へ身を躍らしてしまったのだ。
「もしやあなた様は、時雨堂においでになった、法月様ではございませんか」
的《まと》をはずした捕縄《とりなわ》を輪にしながら万吉は、弦之丞の前へ姿を見せた。
「おう、してお身《み》は何者でござる」
「あの晩、泊り合せた万吉という者ですが、深いお話は後にして、どうか、あすこにある駕から先にみて上げて下さいまし……、何だか、苦しそうな呻《うめ》き声が洩れております」
駈け寄って、山駕を括《くく》した縄を切りほどくと、銀五郎の体が力なく外へ横仆れになった。さっき、多少の手当てを加えられたので、気はついていたが、奄々《えんえん》として苦しそうな息づかい。
「おッ、銀五郎ではないか」
弦之丞は、白い膝の上へ、その体を抱え込んで、二度ほど、耳元へ口をつけて名をよんだ。
「あ……弦之丞様……」
「分ったか。気をたしかにもて」
「分りました……」ガックリとうなずいて、「お助けなすって下さいましたか」
「おお、蜂須賀家の者の手より取り戻したのじゃ。もう決して案じることはないぞ」
「せっかくですが……弦之丞様、そのお骨折りは無駄でした」
「な、なんと申す。この弦之丞がそちを取り返したのが無駄じゃというか」
「無駄です! わ、わっしゃ、ちっともうれしかあありません……」
「うれしくない?」
弦之丞はせきこんだ。彼としてこれまでの力を尽《つく》して助けた者から、こんな情けない言葉を聞こうとは、あまりに心外《しんがい》であるに違いない。
静かに鵯《ひよ》が啼《な》いている。
万吉は、あたりの死骸を谷間に蹴こんで、あっちこっちを見張っていた。
「弦之丞様……」銀五郎は、傷手《いたで》を忘れて改まった。
「さだめしお腹が立ちましょう。命がけで助けた者が、うれしくないの無駄だのといえば、誰だって、むっとするのが当り前です。……ですが、嘘の嫌いな唐草銀五郎、まったくうれしくございません」
「心得ぬことを申すではないか。腹蔵《ふくぞう》なく、そのわけを承ろう」
「申しましょう……これをいわないでどうするものか」
ほッと熱い息をついた。
こらえてはいるが、あれほど出血した銀五郎は、深傷《ふかで》でよほど体も疲れているとみえ、眼の縁《ふち》には青い蔭が隈《くま》どっており、きれぎれにいう声にも、どこかしら精がない。
「わけというのは、この銀五郎が、失礼ながらあなた様にあいそをつかしているからです。早くいやあ見きりをつけてしまったんだ……法月弦之丞という方は、腕は優《すぐ》れているけれど、泪《なみだ》もなければ血もない武士だと……」
「待て。ではそちは、あくまでお千絵様のことをいうて、この身を責めるのじゃな」
「責めます! 弦之丞様。わっしをこうして助けてくれる程なお心で、なぜ、お千絵様を救って上げては下さいませぬか」
「ウーム、いうな銀五郎! そのことだけはいうてくれるな」
「いえ、い、いわなくちゃなりません……」銀五郎は彼の手頸《てくび》を固く握りしめた。怖ろしい力のふるえが感じられる。その眼は衰えた中にもあらん限りの訴えを燃焼《ねんしよう》している。唇が渇《かわ》く、舌がもつれる……しかもまだ烈々の侠血《きようけつ》は唐草の五体に溢《あふ》れ返って見える。
「先の晩にも、あの通り、諄《くど》いお願いを致しました。もうこれが最後のお言葉をきく時です。さ、おっしゃって下さいまし。江戸へ帰ってお千絵様を救ってあげて下さるか。それとも厭《いや》か……それを」
「無理じゃ……」弦之丞は良心の苛責《かしやく》と、銀五郎の言葉の鞭《むち》に、顔まで蒼白になりながら身を悶《もだ》える。
「江戸へは帰られぬ仔細《しさい》がある。それはたびたびいうてあるではないか。おう! この弦之丞の心も察してくれい」
「では、どうありましても?」
「……身に骨肉がないならば――父や母や兄弟や、そして家門や徳川家の直参《じきさん》などという家統《いえすじ》がないならば……」
「わ、わかりました」いうかと思うと銀五郎、ガバと前へうっ伏した。いつの間にか、弦之丞が側においた刀を忍ばせていたらしい。びっくりして抱《いだ》き起こしてみると、切《き》ッ尖《さき》深く自分の手で脇腹《わきばら》を抉《えぐ》っていた。
こんこんと流れでる鮮血が、自分の膝へも温《ぬる》く浸《し》み徹《とお》ってくるのを感じながら、弦之丞はなにもいわずに、ただひしと銀五郎を抱きしめた。
唐草は断末の朱《あけ》に悶え苦しんだ。が、彼には、ふたたび起《た》てない自覚があった。多市が最期《さいご》をとげたこと、一八郎が捕えられたこと、すべての破綻《はたん》とともに、自分の終るのも当然だとは知っている。
恨《うら》むらくは、ついに、阿波の土を一足もふまないこと――そして法月弦之丞をついに動かすことができなかったこの二つ。
この二つの恨事《こんじ》は、彼が白骨となるまでも、永劫《えいごう》に抱く心残りであらねばならぬ。
急に、抱《かか》えている腕へ重みがかかった。ガクリとこときれた様子。
石のようになって、睫毛《まつげ》に泪《なみだ》をさえ溜《た》めていた弦之丞。はッと吾に返って、眼がしらの露を払い、銀五郎の頬へ自分の頬をピタとつけて耳に口。
「これ、銀五郎! 銀五郎!」
声のかぎり呼びかえすと、さっきから始終を見ていた万吉が咄嗟《とつさ》の気転、手拭に清水を湿《しめ》して飛んできて、銀五郎の口へタラタラと注《つ》ぎこんだ。
ぽかと、眸《ひとみ》を開いたのを見て、弦之丞はきっとなった。そして、彼の薄らぐ魂へも、はっきりとうなずけるような音声《おんじよう》でこういった。
「こりゃ唐草! そちの最期《さいご》に一言の手向《たむ》けがある。今日までは、大府《だいふ》大番頭《おおばんがしら》の家名をけがすまいとおもい、また私の両親や兄弟《はらから》たちに憂《う》き目を見せたくないばかりに、恋を捨て武士を捨て、血も泪《なみだ》もない懦夫《だふ》となり終っていたが、今こそ、岐路《きろ》に立った弦之丞は、自分の指して行く道を瞭《あきら》かに思い決したぞ! 臨終《いまわ》のきわによう聞いてゆけ! そちの頼みはたしかにこのほうがひき受けた! 必ずお千絵どのの今の境界《きようがい》、骨身にかけて救ってとらす。また甲賀の家も支《ささ》えてみせる。なおそのためには、この身の武運が尽きぬ以上、阿波の本土に入り込んで、世阿弥《よあみ》殿の末路を見届け、蜂須賀家の内秘を必ず突き止めてみせるであろう。よいか! 聞こえたか、銀五郎! 法月弦之丞の今日の誓い、これを黄泉《よみじ》の餞別《はなむけ》として受けてくれい……」
銀五郎のなきがらを埋めた土の上に、淋しい山の花が手向《たむ》けられたのは、それから一刻《いつとき》ほど後のこと。
弦之丞は合掌して、しばらくの間|瞑目《めいもく》した。万吉ですら、しきりに涙がさしてきてたまらない様子。
そこは峠の道を横に入った崖の中腹で、甲賀の山、河内平《かわちだいら》、晴れた日には紀淡《きたん》の海も望まれよう、風に鳴る静かな古松《こしよう》と榛《はん》の木にかこまれている。
「じゃ弦之丞様、いよいよあなた様も御決心の通り、これからただちに江戸表へお立ちでございましょうか」
万吉はこう改まって、先ず一通り自分たちのいきさつから今日に至るまでの事情を話した後に、もし弦之丞がここから江戸へ向うならば、自分はお千絵様に会うことを一時思い止まって住吉村にある常木鴻山《つねきこうざん》へ、事態の急変を知らせたいという気持を述べた。
すべてを聞きながら、思案をしていたが弦之丞。
「いや……」と向きなおって、
「その住吉村へは拙者がまいって、一度常木|氏《うじ》にもお目にかかっておこう。ところで、江戸のお千絵殿や銀五郎の身寄りのほうへも、早くこのことを知らせねばならぬが……」と、また、小首を傾《かし》げて考え沈む。
「む! 万吉」ハタと膝を打って、「江戸表へは、そちが一足先へまいってくれぬか」
「えっ、お千絵様のお屋敷へ?」
「そうじゃ。銀五郎のかたみとなったこの髪の毛を持って、お千絵殿に会った上、仔細《しさい》残りなく話してくれい。そして、いずれこの弦之丞も追っつけ江戸へまいるであろうとな」
「蔭ながらわっしもいろいろ伺っております。そう申し上げたなら、さぞお喜びでございましょう」
「しかし、それもごく密々《みつみつ》に――本来江戸へは帰れぬ事情のあるこのほう、必ずとも他人《ひと》の耳には触れないようにな……」
「そこに抜かりはございません。じゃ、わっしは行きがけに大津絵師の半斎《はんさい》老人の所へ寄って、何かの詫《わ》びや礼をすました後に、その足で江戸表へ急ぎます。ところで、あなた様と江戸で落ち合える段どりは、およそ何日ごろになりましょうな」
「まず二月《ふたつき》か三月《みつき》ほど後であろう」
「たいそうお手間がとれるんですね」
「聞けば、近いうちに蜂須賀阿波守は、卍《まんじ》丸をしたてて徳島城へ帰国いたすとある。安治川尻《あじがわじり》の下屋敷の様子、その取りこみに紛《まぎ》れてザッとうかがってくるつもりじゃ。さもなくては、お千絵殿に会ったところで、充分この後の諜《しめ》し合せがつかぬからのう」
「へえ……」といったが、万吉は相手の顔をけろりと見ていた。十手を箸《はし》のように持って、この年まで目明しの飯を食ってきた自分でさえ、あの下屋敷の塀の節穴《ふしあな》さえ覗《のぞ》けずにいたものをと、少し片腹痛い気がしないでもない。
「ですが、ずいぶん危のうございますぜ」
「なんの、危なかったら引き退《さが》るまで、あわよくば、俵《たわら》一八郎を救い出せるかも知れぬ」
「ああ、俵の旦那も、とうとう阿波の犠牲《ぎせい》になってしまった……」ふと暗然とつぶやいたが、気を取り直すように立ち上がった。
「そう事が決まりましたら、一刻も早くお別れと致します。今度こそは、かけがえのねえあなたのお力、どうぞめったな足を踏みださねえように。また、常木様にお会いになりました節は、万吉はこうこうと、俵様のことのついでに、お伝えなすって下さいまし」
「心得ている。それではもう出立するか」
「へえ、にわかに気が急《せ》いておりますので」
「銀五郎が、この土の下に眠っておるかと思うと、拙者は、何やらここが立ち去りにくい」
「ごもっともでございます。江戸であなたとお千絵様が、恋とやらに燃えていた頃は、ずいぶん世話をやかせたという話だそうで」
「その昔、お千絵殿の父|世阿弥《よあみ》殿から、少しの恩義をうけたのに感じて、こうまで義理を尽くしたのは見上げた男。弦之丞が岐路《きろ》の迷いを離れたのも、銀五郎の血と熱に染め揚げられたようなものじゃ」
「わっしも江戸へまいりましたら、偽紫《にせむらさき》に染まないで、その真っ赤な男気《おとこぎ》ッてところにあやかりたいものでございます」
「おお……」と弦之丞は尺八を取り上げて、
「銀五郎の手向《たむ》けに一曲吹こう、そちも別れに聞いてまいるがいい」
「あ、そいつはご勘弁願います。でなくてさえ先程から、俵様のご無念がおもわれたり、唐草親分の非業《ひごう》な姿が目について堪《たま》らねえところ――。この上哀れッぽい一節切《ひとよぎり》を聞いた日には、嬶《かかあ》のことまで思いだしやす。泪《なみだ》のなの字も目明しにゃ禁物《きんもつ》、一足お先へ押ッ放してお貰い申します」
怖い物から逃げるように、万吉は、道中笠を西日へ傾《かた》げて、禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》から江戸へ心を急がせて行った――。
逢《あい》 引《びき》
机が一脚、寂然《じやくねん》としてある。
柿の木から洩れる秋の陽が、古畳の目に明るく射《さ》していた。
あたりは草深い百姓家らしいが、その部屋の中は百姓家らしくなく、和漢の書籍だの、舶載《はくさい》のエレキテルだの、そうかと思うと、薬を刻《きざ》む薬研《やげん》が見えるし、机の上には下手《へた》な蘭字《らんじ》が書きかけてあり、異人墓の石のかけらがその文鎮《ぶんちん》になっている。
そして誰も人はいない。
ガランとして、明けッ放しになったまま、しばらくは日向溜《ひなただま》りの秋の蠅《はえ》が、黒豆のようにジッとしていた。
「おほん……」
ややあって、どこかで一ツ咳払《せきばら》いがしたかと思うと、厠《はばかり》の戸のさるがカタンといった。
厠の戸をギーと開けて、悠々《ゆうゆう》と出てきたのが、すなわち机と薬研《やげん》の主《あるじ》であろう。
誰かと思うと、久しぶりにその細い丁髷《ちよんまげ》と細い顎《あご》を見せた、平賀源内なのである。
手洗鉢《ちようずばち》の水を、南天の葉へチョッチョッとかけて、手拭《てぬぐい》掛けに手を伸ばしながら、さて、おもむろに庭の秋色を眺め廻した後、机の抽斗《ひきだし》から薬草の胚子《たね》らしいものを取り出して庭へ下りた。
長崎で手に入れてきた蛮種《ばんしゆ》の薬草の胚子《たね》を蒔《ま》いて、一つまた暢気《のんき》な漢方医者どもを、あっといわせよう下心《したごころ》とみえる。
縁の下から鍬《くわ》を取りだして、それを杖のように突きながら、離々《りり》とした秋草の中を歩きだした。
そして、ここら辺《あた》りでと思う所で、サクリと鍬を入れたが、その鍬を土にさしたまま、源内はヒョッと妙な顔をしてしまった。――というのは垣の外に、胡散《うさん》くさい人影が、しきりに辺りをうかがっていたからであろう。
「また嫌な奴が立ち廻っているな……」
こう思ったので、平賀源内、障《さわ》らぬ神に祟《たた》りなしというふうに、胚子《たね》の袋をそこにおいて、こっそり部屋へ戻ってきた。
「おれは医者だよ。天下が誰のものになろうとおかまいはない。そう執念深くつけ廻さなくってもよさそうなものじゃないか……。常木|鴻山《こうざん》と一緒にいたので睨まれたのだろうが、もうよい加減にして貰いたいな。心煩《しんぼん》という病気になる、蘭方《らんぽう》でいえば神経衰弱……」
煙管《きせる》へ一服つめてみたが、うまくないのでほうりだした。今度は薬研《やげん》を引きよせて、桂皮《けいひ》か何かをザクザクと刻みはじめる。
「おれは医者だから漢薬蘭薬なんでも売るが、病気は薬で癒《なお》らない。まして心煩――神経衰弱なぞはてこずりものだ。罹《かか》りたくないな、あんな病《やまい》には。他人《ひと》はかかってくれなければ困るが、おれは罹るのはご免だよ」
手さえ動かしていればザクザク薬が切れて行く。空想をするにはいい仕事だ。
「――驚いたなあ、あの時は。あの時から心煩だ。常木鴻山がぬきや仲間の者を使って、阿波へ渡ろうと準備をしているのを、いつの間にか蜂須賀に嗅《か》ぎつけられた――今考えてみると、あれは三次の密告だな。住吉村のぬきや屋敷へ、不意に覆面のやつが斬り込んできた。二、三十人はいただろう。堪《たま》ったものじゃない。鴻山は浜から小舟で逃げだしたが、おれは異人墓へもぐりこんで、やっと命だけは無事にすんだ……。だが、どうもそれ以来、人を見るとびっくりしていけない」
小鳥の声が朗らかだ。
薬研の音が面白い、医者はのんきな商売だとは、平賀源内、思っていない。
「一体おれが物好き過ぎる……」反省心が出てきたらしい。
「何も好んで、常木鴻山などと一緒に、ぬきや屋敷に潜《もぐ》っていることはなかったのさ。ここにこうして、百姓家の一間を借りて、小遣《こづか》い取りの病人も来るのだから、おとなしく、異人墓の文字でも写して勉強しておりゃいいことさ。だがどうしたろう鴻山は? 舟で逃げたから捕《つかま》りはしまい、紀州の奥でも隠れたかな、何しろおれは迷惑した。もう、天満浪人だの隠密《おんみつ》だの、蜂須賀家だのッて、そんな物騒な渦の中へは飛び込むまいぞ。そうともそうとも、早く一つエレキテルや火浣布《かかんぷ》でも仕上げて、大金|儲《もう》けをしなくっちゃ……」
動悸《どうき》がやむと、大分考え方が明るくなる。
その時、門垣根の外から、妙《たえ》な尺八の音が静かに訪れてきた。
尺八の呂々《りよりよ》はいつまでも門《かど》を立ち去らない。
源内は、耳うるさくなったように、薬研の手も止めずに、
「お通《とお》ンなさい」と断った。
在方《ざいかた》を徘徊《はいかい》する悪い虚無僧の中には、断れば断るほど下手《へた》な尺八を吹き立てて、揚句《あげく》の果てには強請《ゆす》りだすような者もあるが、今のは源内の一言《ひとこと》でピッタリ止んだ。
いい按配《あんばい》、蜂須賀家の探りでもないらしい、行ってしまったな――と思っていると、また同じ所から、
「少しものを訊ねたいが」という声がする。
源内は、うんざりした顔で、
「なんですか」
「こちらに住まわれているのは、もしや平賀殿と申されはすまいか。間違ったらご容赦《ようしや》にあずかりたい」
「いかにも、源内ともうす医家でござるが……?」
「おう、やっと尋《たず》ね当てましたな」と虚無僧の者、木戸がある訳でもないので、垣の門から、ズッとそこへ入ってきた。
「どなた? ……」医家の尊厳を保つために、机の前へ帰って、片肘《かたひじ》を乗せ、「ご病気でござるか、診《み》て進ぜよう、さあお上がりなされ」ととぼけている。
「いや、薬餌《やくじ》を求めに伺った者ではございませぬ。拙者は法月弦之丞《のりづきげんのじよう》と申す者――」
「待たっしゃい。言葉も江戸のようであるし……法月とは聞いたような」
「麹町《こうじまち》に住居《すまい》いたす法月一学の悴《せがれ》。江戸ではかねて御高名を承っておりましたが、お目にかかるのは初めてにござります」
「ほほう……麹町の法月一学殿といえば、大番頭《おおばんがしら》をお勤めになる七千石の旗本、その御子息であらっしゃるか。ふウむ……」と少し意外な顔をしたが、「そして私に何の御用がありますかな。だいぶ尋ね廻ったようなお言葉であったが」
「実は」
いいかけると、源内、
「まず……」と蒲団を縁先へ出して、「お掛け下さい」
「いただきます。宗法《しゆうほう》でござれば……」
天蓋の会釈《えしやく》をして、ゆったりと腰を下ろし、根瘤《ねこぶ》の煙草盆に一服つけて、のどかに紫煙をくゆらしながら、徐々《じよじよ》と訊《たず》ねだした話はこうである。
禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》から、万吉を江戸に立たせ、自分だけ大阪へ戻ってきた弦之丞。訊ねれば、すぐにも会えると思っていた住吉村へ行ってみて、思わぬ失望をした。
ぬきや屋敷は、住む人もなく荒廃《こうはい》して、そこには、以前のようなやからも住んでいなければ、常木|鴻山《こうざん》も源内もすでにいなかった。
浜の者に聞きあわせると、なんでも四、五日ほど前の夜に、手が入って上げられたという話。これは理に合わないので、なおも詮索《せんさく》してみた揚句、どうも蜂須賀家の者に意図を知られて、姿をくらましたらしく思われた。
つい、一月《ひとつき》余りの日が空しく過ぎて、いつか秋風が立ちそめた。
そういつまでも、鴻山《こうざん》の所在を探しているゆとりもない身――弦之丞は阿州屋敷《あしゆうやしき》へそれとなく目をつけ初めた。ところで、今日も安治川尻から何気なく波除山《なみよけやま》の裾《すそ》へ来たところで、偶然、源内の住居《すまい》を覗《のぞ》いた訳であった。
かいつまんだ話を聞いて、
「そうですか、それはもう住吉村には誰もおりますまいよ」といってから、「では、いまだに鴻山殿の居所は分りませんかな」
それを訊ねに来た弦之丞へ向って、源内の方から訊ねている。
「皆目《かいもく》聞き及ぶところがございませぬ。拙者は、源内殿こそご承知ではないかと存じて、お見かけ申したのを倖《さいわ》いに、こうお邪魔申した訳でござるが」
「いかさま、一緒にいた私がそれを知らねばならぬ筈だ。ですがな弦之丞様、何しろワッと来られたのが真夜中で、鴻山殿が浜から小舟に飛び乗ったのは見ましたが、それから先はお互いにちりぢりばらばら……もっとも、この源内はあなた方のもくろみに、何の関《かかわ》りもないのでして……」
変なところで断りを付け加えた。するとその時、
「ご免下さいまし……」
優しい声の訪れがする。見ると、萩《はぎ》の乱るる垣根越しに白い横顔――下婢《かひ》を連れてたたずんだのが、細かい葉の間から艶《なま》めかしい姿をチラつかせている。
「お入り」
源内が机の側から細い顎《あご》を見せると、下婢《かひ》を外へ残して、つつましやかに入ってきた若い女は、病家《びようか》の者であろう、
「あの、先生、おさしつかえはございませんの? ……」と、弦之丞の後ろでちょっと立ち淀《よど》む。
「なアに、かまいませんよ。別に気のおけるお客人ではない。先にちょっと診《み》て上げよう……どうだな、寝汗の工合は? 相変らず寝られない? それやいかん、グウグウ寝て、おいしいものをウンと食べて、心を明るく持つのが一番。お化粧《つくり》もせいぜいきれいになさるがいい、遊山《ゆさん》もいい、芝居も結構。こんな割のいい病気はない……だが一ついけない、男はな。いくら暇があっても、色恋だけは禁制でござるよ」
「あれ、あんな……」
「ははは、それは冗談、まずこちらへお寄んなさい」
ここで病家をとっているのは、長崎帰りのホンの旅中《りよちゆう》の内職だが、源内、医業にかけてもなかなかちょくで、殊に女には当りがよい。
まるで子供をあやすほどに優しい。人形のように前へ坐らせた。
弦之丞は少し退《さが》って、その診察の手際《てぎわ》を眺めていたが、女の後ろ形が、極めて痩せていることから眼をみはって、帯つきや肩の線や、瑁《たいまい》の笄《こうがい》の滑《なめら》かさや、桔梗《ききよう》の花の裂目《さけめ》のようにくっきりした襟《えり》の生《は》え際に、おや? ……という面持《おももち》。
「ありがとう存じました」と、源内の前を離れた時に、女もチラと弦之丞の天蓋《てんがい》を正面から覗《のぞ》いて、
「まア、あなたは!」
びっくりしたような声である。
「や、お米《よね》殿であったか。最前から、どうも見たようなと思いだされておりました」
「私はまたちっとも存じませんで――」お米の頬には白粉《おしろい》の下から桃色の血がボッとしてきた。蝋人形《ろうにんぎよう》の冷たい顔に灯《あかり》が映《は》えたようである。
「こんな所でお目にかかろうとは不思議なご縁でございます……私はまさかあなた様とは思いませんでしたの」言葉の辻褄《つじつま》を失っているのは、お米の胸に、川長で初めて会った時のことや、関の山で死のうとまでした思い出が、いっぺんにこぐらかッているのであろう。
川長のお米にそれほど思われているとは、夢にも知らなければ、また素《そ》ぶりにも気づかない弦之丞は、心もち天蓋の頭《ず》を下げて慇懃《いんぎん》に、
「ここでお目にかかったのを倖《さいわ》いに、何よりはこの夏の頃お世話になったお礼を申し上げねばならぬ。殊に大津の半斎殿には、きついご迷惑をかけまして、蔭ながらお気の毒に存じている」
「いいえ、そのご挨拶は、万吉というお人が、あれから後江戸へ行く途中に寄って下さいまして、いろいろお話も伺いました。その時の様子では、弦之丞様がまた大阪へお戻りになったとやら……実は心の中だけで、もう一度ぐらいは、キットどこかで会いはしまいかと思っておりましたら。まアほんとにこうして……」
細々《ほそぼそ》とした指と指を綾に組んで、前髪の蔭からじっと熱ッぽい流し眄《め》を向けた。もっと人目のない所で、しみじみと話したいようなふうも溢れている。
「ではお米殿にも、あれから後に、間もなく大津より戻られたと見えますの」
「はい、叔父に厳しく叱られまして。気が進みませんけれど、こちらの先生へも通い始めました。私、ほんとにわがままなのでございますよ」
「ご病気であれば是非がない、近頃はどうでござります、少しはおよろしいか?」
「ええ……」と眸《ひとみ》を納めて、お米の顔は急に暗くなった。心に悲哀やひるみが湧きでる時には、争われぬ病のかげが目くぼに漂《ただよ》いだしてくる。
「病さえなければ――」とお米は血に渦を巻かせて考える。
「私は必ずこの人を自分のものにしてみせるのだけれど!」
ほんとにそれだけの熱がある。男というものの体験がある。病さえなければ、お米の性格はもッと強く恋にぶつかって行くだろう。それを、己《おのれ》も知る癆咳《ろうがい》といういまわしい病が邪魔をする時、お米は、その悪魔を飼っている自分の血と呪《のろ》われた身を亡ぼしてやりたくなる。
床の間の薬筥《くすりばこ》に向って、真鍮《しんちゆう》の匙《さじ》をにゅう鉢に鳴らしていた源内は、様子を振りかえって、
「ははあ……」と、お米の容体を診《み》てしまった。
源内の手前、永居もできず、お米は調薬《ちようやく》を渡されると、是非なく帰り支度をして、弦之丞に心を残しながらそこを出ていった。
「若い身なのに、癆咳《ろうがい》であるそうな。不憫《ふびん》な者でございますのう」
その後で、弦之丞と源内の話。
「あまりきれい過ぎますよ、あの縹緻《きりよう》がな」
「ご丹精《たんせい》で、癒《なお》るお見込がござろうか」
「イヤ、癒《なお》りませんな。叔父御《おじご》にせがまれて薬は上げているものの、不治の病、ことにあの年頃――男恋しい盛りですからの。蛇精亀血《じやせいきけつ》を啜《すす》りましても、それ、一方の煩悩《ぼんのう》を煽《あお》るにすぎません。まことに可哀そうなもので」
とまた、門口で弦之丞の名を呼ぶ者がある。
出てみると、お米の召し連れていた女中のお藤、弦之丞の手へ蝶結びにした裸文《はだかぶみ》を渡すと、返辞《へんじ》も待たずに小走りに戻ってしまう。
何気なく解《と》いてみると、そこらの茶店で、筆や紙を借りての走り書であろう。文辞《ぶんじ》もそそくさと、是非お話ししたいことがある、待っています、九条村の渡舟《わたし》の前まで来て下さい。とある。
弦之丞はいささか当惑《とうわく》の面《おも》もち。
お米の方では、思いがけないよい機《おり》を、どうかして遁《のが》すまいと、九条安治川の渡舟小屋の側《わき》に立って、秋陽に縒《よ》れる川波をまぶしそうにしてたたずんでいた。
「そして弦之丞様は、キット来るとおっしゃったかい?」
裸文を手渡して、そこへ帰ってきた女中のお藤に、こう念をおすと、お藤は自分の恋のように顔を赧《あか》らめる。
「いいえ、そこまでは伺ってまいりません。だって、奥で源内様が、聞いておいでになるのですもの」
「気がきかないねえ、お医者様にはかかわりのないことじゃないか」
「けれど、やきもきなさいますな、きっとおいでになりますよ。お嬢様のようなご縹緻《きりよう》よしに思われて、心を動かさないお人なら、よッぽどどうかしております」
「あら、よいほどにお世辞をお言い……」
袂《たもと》でフワリと打《ぶ》った時、楊柳《かわやなぎ》の黄色い枯葉がピラピラと舞って光る。
川口へ下ってゆく、高瀬舟や番所船、十|反帆《たんぼ》の影などが、ゆるゆると流れてゆく合間に、向う岸の四貫島《しかんじま》の森から白い鳥群が粉のように飛び立つのが見えた。
「もしやあなたは、川長の御寮人《ごりようにん》様ではございませんか」
渡舟《わたし》待ちの前から、こう話しかけてきた中年増《ちゆうどしま》がある。身装《みなり》は地味、世帯やつれの影もあるが、腰をかがめた時下げた髪に、珊瑚《さんご》の五分|珠《だま》が目につくほどないい土佐《とさ》だった。
「おや、お前は元、私の家の仲居をしていた、お吉《きち》じゃなかったかえ?」
「さようでございます、ずいぶん久しくお米様のお顔も見ませんでしたが、大そうご成人なさいましたこと」
「お前も、家にいた頃と違って、すッかり堅気《かたぎ》のお内儀《ないぎ》らしくなりましたね」
「いいえ、気苦労ばかりしているので、装《なり》にも振《ふり》にも構えなくなりました」
「そして今でも、家を出た時の人と、一緒に暮らしておいでなの?」
「はい、添い遂げているという名ばかりで……」
「それが一番倖せじゃないか。私なんか、他人《ひと》には羨《うらや》まれるような身の上でも……」とツイ自身へ反《そ》れるのを口《くち》ごもって「結構だよ、そういう苦労はね。で、ご亭主さんは、何を稼業にしているのかい?」
お吉は、言いにくそうにうつむいて、
「いやな渡世《とせい》で、十手持ちなのでございますが、かんじんな東のお奉行所の御用はおッぽり放しで、この二月《ふたつき》程前に、プイと家を出ましたっきり、生きたものやら死んだものやら、何の便りもございません。それでこうして、四貫島の観音様へ、毎日お詣《まい》りしているのですが、お米様、ほんとに、人の女房となってみると、いうにいえない苦労があるものでございますよ」
「二月《ふたつき》も戻らないでは、さぞ心配なことだろうね」
「もうもう、どんなに思うた男でも、目明しの女房になど、決してなるものではございませぬ」
「いつも命がけの渡世だからね。そして、お前のご亭主は、何という人だったかしら?」
「万吉と申しまして、仲間《なかま》受けだけはよい人なのでございますが」
「あ、万吉? その人ならツイこのあいだ、私が大津で逢ったばかり」
「えっ、お米様、じゃ万吉は、あの、無事でおりましたか……」お吉は、観世音《かんぜおん》の霊験《れいげん》にでも会ったように胸をおどらせて問いつめた。
ピタ――と草履の音が止った。四、五間先の砂利置場の蔭、そこから、じっとこっちをみつめたのは、この辺りに下屋敷のある蜂須賀家の森|啓之助《けいのすけ》――例の素迅《すばや》い仲間《ちゆうげん》の宅助《たくすけ》を後ろにつれて。
生人形《いきにんぎよう》
「出るよウ」
船頭の声に急《せ》かれて、渡舟《わたし》の桟橋《かけはし》へドタドタと人の跫音《あしおと》がなだれていった。
お米との立ち話で、良人《おつと》の万吉が大津の半斎《はんさい》の所へ立ち寄り、その足で江戸へ向ったと聞いたお吉は、わずかの消息にでも、ほっとした嬉しさを感じたが、渡舟の出るのに気忙《きぜわ》しく、
「じゃお米様、いずれまたゆるりとお目にかかります」
いそいそと駈けだして、船の上からもう一度頭を下げた。
「お嬢様、こッちへ隠れておいでなさいませ」
「あれ、なぜだい、お藤」
「でも、これで渡舟をやり過ごすのが、幾度目だか分りませんもの。船頭や待ち合せていた者も、変に思って、私たちを見ているじゃありませんか」
「そういえば弦之丞《げんのじよう》様、どうしたのだろうね」
「そろそろ日が暮れてまいりますのに、男という者は、水を向けるとこの通り、わざとじらすんでございますよ」
「じらされるのならいいけれど、もしかして、私を嫌っているのではないかしら、病気のこともご存じだからね」
「いやですよ、またカーッとして、短気なことをなすっては」
「ああ、日が暮れる。お藤や……どうかしておくれなねえ……」
「だって、困ってしまうじゃありませんか。こうなると弦之丞様も憎らしい。では、私がもう一度、源内様の所へ戻って、いるか、いないか見てまいりましょう」
「じゃ、早くにね……」と、お米が振りかえると、女中のお藤は、もう小刻《こきざ》みの足になって、砂利場の側を駈けだしていた。
と一緒に、石置場の蔭から、急に仲間態《ちゆうげんてい》の男が立って、ドーンとお藤にぶつかって行った。
「あぶない……」
こっちでお米が声を筒抜《つつぬ》かせた。――ハッと思って眼をみはるとお藤の体はグッタリして、仲間《ちゆうげん》の脇の下に掻《か》い込まれ、声も得立《えた》てずズルズルと川縁《かわべり》へ。
「あれッ! お藤や、お藤や!」
夢中で走りだしたお米の眼の前にザブーンとすごい波音がして、雨のような水玉が、陸《おか》の上まで飛び散ってきた。
「助けて下さい――召使が突き落された! あれ! 流れて行きます。誰か来て――ッ」必死に人を呼ぶその口へ、何者か、大きな掌《て》を蓋《ふた》してしまった。そして羽交締《はがいじ》めに強く抱きすくめた。お米の指が離そうともがく、抱えた両手の力は強い。折も悪く、早や逢魔《おうま》ガ刻《どき》に近い九条|堤《づつみ》、人通りも絶えている。
「騒いではならぬ。こりゃお米殿、案じた者ではないによって、少しの間静かにしているがよい」
「オ! その声は、ケ、啓之助《けいのすけ》様……」
「手を離して進ぜるが、逃げてはならぬぞ。逃げる影へは思わず刀が追いかけたがる」
「く、苦しい……」
「宅助、すまぬが、しばらくの間、向うの堤《どて》に立って、人通りを見張っていてくれ」
「切《せつ》のうござんす……も、森様、逃げは致しませぬから、この、この乳の上の手を早く離して下さいませ」
「そうだ、そなたの病気はここにあったの。うッかり肺臓へ力を入れて、さだめし胸が苦しかったであろう。ゆるしてくれ。これというのも一念にそちを想う煩悩盲目《ぼんのうもうもく》、悪い心でしたのではない」
「エエ、何ぼ何でも、罪もない女中を河へ突き落して、その上こんなご無態《むたい》は、あんまりでございます」
「そう怨《うら》むのはもっともだが、いよいよ阿波への帰国も近く、待てど暮らせどそなたからの返事はなし。ここで見かけたを倖《さいわ》いに、是が非でもあの話を取り決めたいと思うたからじゃ」
「……とおっしゃるのは?」
「もうそなたの胸には考えがついている筈!」
「阿波へ連れて行こうと、いつぞやおっしゃったあのことでございますか」
「折もよし、四、五日のうちに太守の御帰国|卍《まんじ》丸の船出! どうにでも隠す工夫をしてそなたを連れてゆく所存。もう否応《いやおう》はあるまいのう……」
森啓之助が手離すとともに、お米の体は朽木倒《くちきだお》れに、砂利場の山へうっ伏《ぷ》してしまった。
「どうした?」
寄ってみると、ひどく息が切ないらしい。肺臓の喘《あえ》ぎに背中は大きく波打っている。しかし一度は真《ま》ッ蒼《さお》になった顔色が、その時急に、反動的な紅潮《こうちよう》をさし、針で突けば血の吹きそうな耳朶《みみたぶ》をしている。
「拙者が、阿波へ連れて行こうというのは、恋ばかりではない。そなたの苦しむ癆咳《ろうがい》にも、あの潮《しお》の香や山の気が、どんな薬よりも利《き》くであろう――、そう思うて勧《すす》めるのじゃ」
「…………」
「な、お米、今が心の決め所じゃ、よもやいやではあるまいの」
「……森様……」
「うむ、得心《とくしん》がまいったか」
「どうしても私には、阿波へ渡る気になれませぬ」
「あの鳴門の渦《うず》の海、越えぬ者は怖ろしがる。だが、恋もそれに同じこと、渡ってみれば苦もないのじゃ。ましてや千石積《せんごくづみ》のお関船《せきぶね》、渦に巻かるるおそれもなし、楽しい彼岸《ひがん》は一夜のうちに迎えてくれる」
「そんな訳ではなく、どうしても」
「な、何ッ」ふるえを帯びた啓之助の声。
「いやだというのか!」お米の耳をつんざいた。
「…………」
「うーむ、ではとくからの量見《りようけん》であろう。なぜ、いやとあらば早くから、きッぱりといいきらぬッ!」
「お察しなされて下さいませ……素気《すげ》ないことをいいきれぬ、弱い客商売の娘でございます」
「だまれッ。客商売じゃと申すいいわけは、つまり、いろは茶屋の売女《ばいた》同様に、この啓之助を手玉に取ったという意味かッ! よしッ、拙者もお船手の森啓之助、腕にかけてもつれてゆく。オオ、きッと阿波へつれてまいるぞ」
「あ、ご無態《むたい》な……」
「逃してなろうか。宅助、宅助ッ、手を貸せい!」
帛《きぬ》を裂くような悲鳴が流れた。
風が出た――いつかドップリと深い宵闇。
大川の三角洲《さんかくす》、四貫島、うす寒い川風が、蕭々《しようしよう》と芦《あし》を鳴らしてやまぬ。
鬢《びん》を吹かせて走りだしたのは森啓之助。その小脇に引っ抱えられたお米は、あわれ悶絶《もんぜつ》、猿轡《さるぐつわ》の無残な姿が、もがく力をさえ失って、ダラリと白い手を垂らしたまま……。
堤《どて》を下りて市岡新田《いちおかしんでん》、耕地の闇を四、五町走ると、道はふたたび大川の洲《す》へ出て、そこに一|艘《そう》の高瀬舟《たかせぶね》。
「旦那、わしの肩へお貸しなさい」
「ウム、さすがに疲れた……よいか、水へ落すなよ」
「生人形のようなもの、軽いもんでさ」
「よし、船は拙者が抑えている」
「おッと!」
お米を肩に引っ担《かつ》いで、仲間《ちゆうげん》の宅助、ぽんと舟へ飛び移った。
続いて啓之助。
グンと棹《さお》を押すと、舟底をザラザラと折れ芦《あし》が撫でて、二つばかり舳《みよし》が廻った。
藁箒《わらぼうき》を取って、櫓臍《ろべそ》へ湿《しめ》りをくれた宅助、ツーウと半町ほど流れにまかした所から、向う河岸《がし》春日出《かすがで》の、宏大な館《やかた》の甍《いらか》をグッと睨んで、
「旦那、お長屋《ながや》の方じゃありますまいね」
「違う!」
「じゃお船蔵《ふなぐら》?」
「水門へ着けろ」
「目付が控《ひか》えておりますぜ」
「まずいな」
「生きものですから、バレた日には困りまさ」
「うむ……お下屋敷へはなお持ち込めぬし……」
「女一人のために、家断絶《いえだんぜつ》なんざ、ましゃくに合いません」
「意地だ、どこかへ着けろ」
「と、しますと、六軒家《ろつけんや》の森ですね」
「お船蔵《ふなぐら》の外にあたるではないか」
「白状しますが、実は、仲間《ちゆうげん》部屋や船番《ふなばん》の下《した》ッ端《ぱ》が、こッそり夜遊びに出る抜け道が一つあるんで」
「よしッ、そこへやれ」
「合点《がつてん》です!」意気込んだ宅助、三角|洲《す》を右に見て、腕ッ限りグングンと櫓《ろ》を撓《たわ》める。
この一伍一什《いちぶしじゆう》を、源内の所から帰りがけに、ふと見かけてつけて来たのは、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》であった。やや暫し、芦《あし》の洲に半身《はんしん》を没して、じっと行手を見定めていたが、何思ったか、俄かに芦を掻《か》き分けて走りだした。
裸《はだか》 火《び》
芦《あし》の深みに隠されて、苫《とま》をかぶった一|艘《そう》の軽舸《はしけ》がある。ザワザワと掻き分けてきた弦之丞、苫をはねのけてそれへ跳《と》び移り、早くも砂を崩して川底から離れだした。
退《ひ》き汐時《しおどき》か水脚《みずあし》の迅《はや》いこと、満々たる大河へのぞんで、舟は見る間に木《こ》の葉《は》流し――。
彼方《あなた》の川面《かわづら》を水明りに透《す》かしてみると、さきに陸《おか》を離れた啓之助の舟、櫓韻《ろいん》かすかに、今しも三角洲の先から舳《へさき》を曲げて、春日出《かすがで》の岸へと真一文字に漕《こ》ぎ急いで行く。
「おお、案に違《たが》わず……だが女をかどわかして、どこから屋敷内へ運びこむつもり? ……どうして阿波へつれ行くつもり? うむ、ことによると阿州屋敷にも隠し道が」
流れに任せた軽舸の中では、法月弦之丞の目と手足《しゆそく》、その時怖ろしく迅速に働いていた。
まず先に、顎《あご》の紐《ひも》を解いて、かなぐり捨てた天蓋《てんがい》、ヒラ――と河へほうり投げた。
鼠《ねずみ》木綿の手甲脚絆《てつこうきやはん》も、一瞬の間《ま》に解《と》きほぐし、斜めにかけた袈裟掛絡《けさけらく》、胸に下げた三衣袋《さんいぶくろ》、すべて手早くはずしてしまうと、次には平絎《ひらぐけ》の帯、白の宗服《しゆうふく》、そッくりそこへ脱ぎ捨てる。
と、思うと。
かねてから三衣袋に潜《ひそ》ませておいた黒奉書《くろぼうしよ》の袷《あわせ》一枚、風をはらませてフワリと身にまとい、目立たぬ色の膝行袴《たつつけ》をりりしくうがち、船底の板子を二、三枚はねのけた。
取りだしたのは藁苞《わらづと》である、グイとしごいて、苞からむきだされたのは、蝋色鞘《ろいろざや》の滑《なめ》らかな大小。
蜂須賀家の下屋敷を探る上に、これらのことは、疾《と》くから用意のあったこと。かくて、軽快な武士姿と変った弦之丞は、櫓仕立《ろじたて》をしてグングンと先の船を慕い始めた。
一方は、森啓之助《もりけいのすけ》。そんな者がつけてくるとは夢にも知らない。
舟は矢の如く安治川を横切って春日出岸、蜂須賀家のお船蔵《ふなぐら》や下屋敷の下をさかのぼり、六軒家の真《ま》っ暗《くら》な藪岸《やぶぎし》へ着いた。
「さ、旦那、女を下から抱き上げて下さい」
仲間《ちゆうげん》の宅助は、先へ這い上がって両手を伸ばした。闇にも艶《えん》な姿がズルズルと引きずり上げられる。
川長のお米《よね》は、猿轡《さるぐつわ》をかけられて藪《やぶ》の中に横伏せとなったまま、もがき疲れたか、脛《はぎ》も露《あらわ》にグッタリとしていた。
もしかして、こときれては玉《たま》なしだぞ、と啓之助、そっと猿轡へ手をやってみたが、大丈夫、温《ぬる》い涙が指先へ触れた。
「宅助、そちのいった抜け道とはどこか」
「向うに見える森を抜けると、お屋敷|堺《ざかい》の高塀《たかべい》があります。そのどん詰《づま》りの藪畳《やぶだたみ》で」
「家中の者の眼に触《ふ》れるようなことはあるまいな」
「さっきも申し上げた通り、仲間《ちゆうげん》部屋の者が夜遊びに出るだけで、めったにお見廻りが来る所じゃありません」
「そうか」
「ところで女は、どこへ押し込んでおくおつもりですかい」
「お船蔵の綱部屋はどうじゃ。あの部屋の鍵《かぎ》は拙者が預り役だによって、余人に開けられるおそれもない」
「なるほど、そいつあいい所へお気がつきました。綱部屋へほうり込んでおけば、いざお関船が出るっていう場合にも、ほかの荷物に紛《まぎ》らわして、卍《まんじ》丸の船底へ積んでしまうのは、何の造作《ぞうさ》もございません」
「なにしろ、ここ三、四日がかんじんだ。無事に阿波へ着いた上は、幾らでも褒美《ほうび》をつかわすから、ずいぶん骨を折ってくれ」
「ようがすとも!」宅助は再びお米を肩にかけてドンドン走り出した。如法闇夜《によほうあんや》の梟《ふくろ》の森は、たちまち、その跫音《あしおと》と三人の影を吸ってしまった。
と――安治川の中ほどには、弦之丞の軽舸《はしけ》が、ギッギッとこっちへ向っている。
さかのぼるので舟脚《ふなあし》が遅い、面《おもて》を掠《かす》める飛沫《しぶき》の霧! 息づまりそうな川風に鬢髪《びんぱつ》が立つ。
「おお、六軒家の藪岸へつけたな!」弦之丞は、さらに必死と漕ぎだしたが、岸が近づくに従って、思わず櫓音《ろおと》を偸《ぬす》ませた。
蜂須賀家の船蔵《ふなぐら》が、すぐ目の前に横たわっているからだ。百本|杭《ぐい》の柵《さく》が見え、掘割が見え水門が見える。乱松《らんしよう》の間から高く聳《そび》えているのは汐見櫓《しおみやぐら》、番所の灯《ひ》がチラチラと水に赤い影を縒《よ》らせ、不寝《ねず》の番が見張っている。
そこから続いて川下へ数丁、塀囲《へいがこ》いの別廓《べつかく》をなして、宏壮な棟を望ませている所は、阿波守|重喜《しげよし》が大阪表の別荘――いわゆる安治川のお下屋敷。ここ須臾《しゆゆ》の間に、法月弦之丞が、探りの眼《まなこ》をつけ初めた目標の建物である。
六軒家の梟林《ふくろばやし》に、荒れはてた誓文神《せいもんじん》の祠《ほこら》がある。この辺一帯、梟や渡り鳥の巣をかけるのが多く、冬になると綿屑《わたくず》のようなものがどの梢《こずえ》にも絡《から》まって見えるそうな。
今は秋。林の中は芒明《すすきあか》りといいたいくらい、ボウと白光《はつこう》の花叢《はなむら》がほのかである。
川から上がった弦之丞、草を分けて奥へ奥へと入ってゆく。そこで、誓文神《せいもんじん》の狐格子《きつねごうし》をふり仰いで、はてな! と少し立ち迷った。
「たしかにこの辺へ来た筈だが?」
森啓之助らの姿を、ここまでつけてきたところで、皆目見当がつかなくなってしまった。と――狐格子の前に、何やら光る物が落ちているのに眼を止めた。
拾ってみると、滑《なめら》かな瑁《たいまい》の笄《こうがい》。お米のものと判定するよりほかはない。
「あ! ことによると」と誓文神《せいもんじん》の狐格子をポンと押して覗《のぞ》きこんだ。
はたして、その中は抜け道の口であった。
祠《ほこら》の内は床板《ゆかいた》もなく洞然《とうぜん》として、六尺ばかり掘り下げてある。そこを下りて、しばらく横へ歩いて行くと、案のごとく、仲間部屋《ちゆうげんべや》の者が博奕《ばくち》や夜遊びに出入りする隠し道、弦之丞は、まんまと蜂須賀家の囲い内へ出た。
「しめた!」と胸がおどる。
物かげに潜《ひそ》んで、一応辺りを眺め廻すと、船手組《ふなてぐみ》のお長屋や役宅の棟が鉤《かぎ》の手なりに建てならび、阿波守の住む下屋敷の方へも、ここからは何の障壁《しようへき》もなく、庭つづきで行かれそうだ。
「いよいよ重喜《しげよし》の身辺に近づいて見ることができた。これも銀五郎の導きであろう」
弦之丞は、四囲鉄壁のこの屋敷内へ、あまりやすやすと入れたことを奇蹟に思った。
この隠し道を知ったとたんに、かれの心は、片恋のお米を不憫《ふびん》と思うことすら忘れていた。燃えているのは功名心、探秘心《たんぴしん》、それはお千絵《ちえ》様のためにである。
広い屋敷の中はシンと寝静まっていた。弦之丞は、物の影から影へ移って、下屋敷へ近づこうとしたが、道に迷ったものか、思わぬ所へ出て、思わぬ物の影を見上げた。
それは、安治川から水を引いて水門のうちへ諸船を繋《つな》いでおくお船蔵《ふなぐら》――。荷船、脇船《わきぶね》、色塗《いろぬり》の伊達《だて》小早《こはや》などが七、八|艘《そう》みえる中に、群をぬいて大きな一艘のお関船《せきぶね》は阿波の用船千石|積《づみ》の卍《まんじ》丸。
寛永このかた、五百石以上の船は、幕府の禁令なので、表積《おもてづ》みは半分に称しているが、長さ十八|間《けん》、幅七間、二十四|反帆《たんぼ》、二十四|挺櫓《ちようろ》、朱の欄干を立てめぐらし、金ちりばめの金具《かなぐ》や屋形《やかた》の結構《けつこう》さ、二十五万石の太守のお座船だけあって、壮麗目を奪うばかりである。
「さすがに裕福な阿波の楼船《ろうせん》だけあって、将軍家の安宅丸《あたけまる》にも劣らぬものだ」と、弦之丞も思わず物蔭からしばらく見とれていたものだった。
そして、何かの物音に、ひょいと後ろをふりかえると一軒の綱倉《つなぐら》がある様子。
金網を張った白壁の切窓《きりまど》に、かすかな灯影《ほかげ》がゆらめいていたので、何心なく覗《のぞ》いてみると、さっきの二人が、ここへ入り込んでいた。
「やいッ」という声は仲間の宅助《たくすけ》。
蝋燭《ろうそく》の裸火《はだかび》を前に置いて、
「これほど俺や啓之助様が、ことを分けての親切なのに、いい加減駄々をこねやがれ。旦那はとにかく、この宅助が承知しねえぞ」
優しい言葉に乗らないので、今度は脅《おど》しにかかっているらしい。
すすり泣きの声がする……。お米の姿が裸火にてらされていた。蛇のようにとぐろをまいている船綱《ふなづな》のなかに身を埋めて、
「嫌です、嫌です! 阿波へなんか……」
「ちぇッ」と、宅助は舌を鳴らして、「旦那、とてもこいつア諦《あきら》めものだ。卍《まんじ》丸が出るまでに、お目付へ知られては一大事、いっそのこと今のうちにバッサリ斬《や》って、煩悩《ぼんのう》の根を断《た》っておしまいなすったほうがようがすぜ」
ただし、脅かしに――と目まぜに知らせていうと、森啓之助も心得ている。大刀の鞘《さや》を払って、お米の頬へ切《き》ッ尖《さき》を突きつけた。
「あ、不愍《ふびん》な……」と外にいた弦之丞、助けてやる工夫《くふう》はないかと、綱倉の戸へ抜足《ぬきあし》さしてゆくとまた、それに添ってよれてゆく一つの影。
不寝《ねず》の番の武士であろう。ジ――と隙をうかがって、
「うぬ! 曲者《くせもの》ッ」
気殺《きさつ》の声と早技《はやわざ》。
弦之丞の脾腹《ひばら》を狙って、りゅうッと突きだした手槍のケラ首! 対手《あいて》をはずしたか、ぶすッと白壁へ刺し込んだなと思うと、法月弦之丞の姿は、時すでにそこにあらず、どう切られたものか藩士の侍《さむらい》、槍をつかんだまま肩口《かたぐち》柘榴《ざくろ》なりに割れている……。
血祭り
パチッ……と一|石《せき》。いい音だ。
榧《かや》の碁盤へ那智黒《なちぐろ》の石。
ここでしばらく間《ま》があろう、というふうに、竹屋三位卿有村《たけやさんみきようありむら》、扇子《せんす》をとって肘《ひじ》をのせ、
「まず、ごゆるり……」と、余裕の綽々《しやくしやく》さをみせたものである。
局《きよく》に対している人は阿波守|重喜《しげよし》。
「なんの」
といったが、指に挟んでいる朝鮮貝の白《しろ》一石、盤面の宙をさまようことやや久しく……。
パチリ! やがての音である。
「いよいよ本丸火の手と見えました」
「猪口才《ちよこざい》」
白、電瞬《でんしゆん》に打ってゆく。
「こうまいる」
「はて、きたなき敵でありつるわよ」
「孫子《そんし》九変の伏手《ふせて》と申し、すなわち兵法の一手でござる」
「あな笑止《しようし》、苦しい言い訳」
パチリ、パチリ、たちまち戦雲|漠々《ばくばく》としてきた。
碁盤碁石は立派だが、阿波守も有村卿も、やはり衆にもれぬザル組でおわすらしい。
しかし、負けぬ気の殿と、慷慨家《こうがいか》で壮年の公卿《くげ》様との対局は、技《わざ》を別にして興のある碁敵《ごがたき》だ。
ここは下屋敷の一部、名づけて隣帆亭《りんぱんてい》という茶席。
初更《しよこう》ながら深沈とした奥庭、秋草や叢竹《むらたけ》が、程よく配られた数寄屋《すきや》の一亭に、古風な短檠《たんけい》に灯をともしてパチリ、パチリ、と闘石《とうせき》の音……そして、あたりは雨かとばかり啼《な》きすだく虫。
その虫の音がフトやむと、
「殿……」
庭先の踏石へ、一人の家臣がうずくまった。
「何じゃ?」
阿波守は盤面から目も放たない。
「明日《あす》お出船に相成ります、卍《まんじ》丸のことについて、ちと御意《ぎよい》を得たいと存じまして」
「何じゃと申すに」
「船中お屋形の御調度の物」
「ウム」パチリ! と打って、「ウム……」後の手を考えている。
「例年の通りにてよろしゅうござりましょうか」
「啓之助《けいのすけ》に任せておけ、森に」
「は、京都よりのお荷物は、あれだけで余《よ》の物はござりませぬか」
「ない」
「それから、汐の都合で、卍《まんじ》丸は明日の暁《あかつき》に纜綱《ともづな》を解きまする。これは森様よりのお言葉、殿にも何かのお支度、今宵のうちに願わしゅう存じます」
「ウム……。分っている」
家来の者が、礼をして立ち去りかけると、
「あ、待て!」と呼んで、阿波守初めて短檠《たんけい》の光を顔にうけてこちらを向いた。
「京都よりおしのびの方達はまだ見えぬか」
「は、まだ御着邸なさりませぬ」
「申しつけてはあるが、見えられたらすぐここへ」
「心得ております」
しばらくするとまた虫の音と碁石《ごいし》の音。
竹屋三位卿《さんみきよう》は、年まだ十八の頃、かの宝暦変《ほうれきへん》の陰謀にくみして、徳川討つべしを熱叫《ねつきよう》したため、真ッ先に幕府から睨まれた公卿《くげ》である。けれど時の桃園帝《ももぞのてい》からは、いたく頼《たの》もしく思《おぼ》されていた一人である。
他の十七卿の堂上《どうじよう》が、問罪謹慎《もんざいきんしん》をうけるはめとなるや、有村《ありむら》は忽然《こつぜん》と姿を隠した。
自殺したという説――その頃、もっぱらであった。
「幕府などの手に、自由を縛られて堪るものか」
という気概の有村、自殺などをする筈がない。コッソリ蜂須賀家の奥に隠れ、長々と寝たり起きたりして垂加流《すいかりゆう》の神学書、孫子《そんし》呉起《ごき》の兵書などを耽読《たんどく》していた。
重喜《しげよし》とよく議論もやる。
兵学、弓術、馬術、邸内でできることなら何にでも対手《あいて》になる。居候のくせにして三位卿《さんみきよう》有村、妥協が嫌いだから時々|口舌《こうぜつ》火を発し、ひいては、ただちに、幕府討つべし! ということになる。これには阿波守もてこずるらしい。
一兵|一矢《いつし》の蓄えもなく、居候をしている素寒貧《すかんぴん》の若公卿《わかくげ》には、どんな過激な議論も吐けようけれど、重喜には、譜代《ふだい》の臣、阿波二十五万石の足枷《あしかせ》がある。そう、滅多に動けたものではない。
たとえ、尊王の赤心、反徳川の意気、胸に炎々たるものがあっても、下手なことをしたひには、藩祖《はんそ》正勝《まさかつ》以来の渭之津《いのつ》の城の白壁に、矢玉煙硝玉《やだまえんしようだま》の穴があくはめとなる。
「殿! おしのびのご来客、ただ今お着きになりました」
さっきの家臣が報《し》らせてきた。
庭伝いに、数寄屋へ通った客なる人、京浪人と称しているが、まことは七条左馬頭《しちじようさまのかみ》、梅渓右少将《うめたにうしようしよう》、交野左京太夫《かたのさきようだゆう》の三卿で、歴々たる公卿たちである。
一様にしのびの目立たぬ身装《みなり》、茶室であるから仰山《ぎようさん》な会釈はなく、短檠《たんけい》の灯もほの揺らがぬ程、もの静かに席へつく。
「お待ちうけ申しておッた」
盤面の石をサラサラと掃《は》いて阿波守が座に直ると尾《お》について、
「ずいぶん遅いお見えでありました」と、居候《いそうろう》の竹屋|三位卿《さんみきよう》主人顔して不平をいう。
「例の京町奉行の目が、うるさく見張っておりますために……」右少将がおとなしく言い訳する。
七条左馬頭、改まって、
「阿波《あわ》侯におかれては、いよいよ明日、卍《まんじ》丸でお国表へお引揚げなさる由、何やら盟主《めいしゆ》を失うような寂寥《せきりよう》を覚えまする」
「されば、そのほうが、策を得たものではないかと存じまして」
「無論、異議なくよろしゅうござりましょう」と、賛同したのは交野卿《かたのきよう》。語を次いで「宝暦の大変より、早八年の星霜を経ておりますゆえ、幕府そのものには、近頃油断のふうも見えてまいりましたが、かえって、天満組《てんまぐみ》の一部の者や、また江戸方の隠密《おんみつ》中に、執念《しゆうね》く目をつけている輩《やから》がありますとやら」
「あるどころか、彼らの暗中飛躍こそ怖るべきで――」と竹屋三位が、這個《しやこ》の消息通をもって任じながら、
「第一に、吾々たちに御当家という後《うし》ろ楯《だて》のあることを観破した者は、江戸方の隠密甲賀|世阿弥《よあみ》。これは、御本国|剣山《つるぎさん》の山牢《やまろう》に、終身押しこめてありますゆえまず安心。ところがここにまた、天満《てんま》浪人の常木|鴻山《こうざん》、俵《たわら》一八郎などと申す者あって、江戸の隠密どもと結託《けつたく》なし、御当家の内秘を探りにかかっております」
「すりゃ大事《おおごと》、また宝暦の轍《てつ》をふむことになろうも知れぬ……」右少将は色をかえた。
「しかし、御安心なさるがよろしい」
竹屋三位卿、わが手功《てがら》のように、
「鴻山は住吉村から追っ払い、また一八郎はすみやかに召し捕りました。やがてこれも剣山へ送って、世阿弥同様、終身|間者牢《かんじやろう》の住人となりますわけで……」
「やれ、それは何よりな」
「水も洩らしは致しませぬ。御明敏な重喜公、それに、不肖《ふしよう》三位有村が帷幕《いばく》にあっていたしますこと」
「ははははは……」と、それまで黙っていた阿波守は、いじけずにして闊達《かつたつ》で、若々しい居候の言葉が気に入ったらしく哄笑《こうしよう》した。そしてすぐに真顔になり、
「余事《よじ》はおいて三卿の方々、かねて、諸方へつかわしました密使の模様は?」
「即答、または評議中、御返事まちまちではありますが、今日まで内諾《ないだく》あった諸国諸侯の御連名……」と年長の交野《かたの》左京太夫、ふところを探って細長い包みを解き、帛紗《ふくさ》を敷いてその上へ、スラリと一巻の連名状を繰り展《ひろ》げた。
「三位殿、御苦労ながら」
阿波守が目くばせすると、
「は」立ってあたりに人なきやをたしかめ、縁の端に坐りなおして見張役となる。
世が世なら竹屋|三位卿《さんみきよう》も、九重《ここのえ》の歌会《うたげ》、王廟《おうびよう》の政治《まつり》に参じる身分、まさか、見張番まで勤めるのでもあるまいが、朝廷の御衰微《ごすいび》今より甚しきはなく、公卿《くげ》の無視さるること幕府の小役人にも劣ってきた今の世が世である。是非がない時勢なのである。
「食客《しよつかく》だからと思えば癪《しやく》にさわるが、これも一天の君の御為《おんため》と思えば……」
三位卿は、かこち顔な見張の端居《はしい》。
「おお……」と乗りだして扇子《せんす》をつき、連名状へ眼を落した阿波守、三卿とともに息をのんで、ズーと血判をたどりながら、
「盟主、徳大寺公城《とくだいじきんたか》公!」固唾《かたず》をのんで呟《つぶや》いた。
「堂上お味方二十七|家《け》、事いよいよに迫りますれば、京方すべてを含みます」と左馬頭がそれに応じる。
「宇治に在《おわ》す竹内式部《たけのうちしきぶ》先生!」
「軍師《ぐんし》と仰ぎますつもり」
「江戸表は山県大弐《やまがただいに》、まッ先に火を放って、箱根の嶮《けん》に王軍を待つの計か」
「しかと諜《ちよう》じあわせてあります」
「して、大義に呼応の諸大名は?」
「筆頭!」交野《かたの》卿、扇子の要《かなめ》を文字について、
「蜂須賀阿波守重喜《はちすかあわのかみしげよし》公。すなわち御当家」
「ウム!」
「肥前、久留米の有馬忠可《ありまただよし》公」
「オオ」
「大洲《おおず》の加藤家、柳川《やながわ》の立花家」
「ウム」
「佐賀の鍋島《なべしま》、熊本の細川、濃州八幡《のうしゆうやわた》の金森家……」と言いかけた時、
「やッ、怪しい気配!」見張の三位卿が手を振った。
怪しい者! と聞いて、三卿の面々、あわただしく連名状を巻き納めた。
阿波守もきっとなる。
短檠《たんけい》の灯がボッと燻《いぶ》って、一抹《いちまつ》の不安が燭《しよく》をかすめ、なんとなくいやな空気がみちた。
「誰だッ――、何者じゃ!」
若気《わかぎ》な三位卿は、もう庭手へ降りて木立の闇へどなっていた。
ザワッと奥の方で樹木が揺れた、つづいて人の足音がする――と思うと、不意に姿を見せた一人の武士、六尺棒を掻《か》い込んで、血眼になりながらバラバラと飛んできた。
「あッ、止まれ」
「はっ」
「控えろ! 阿波守殿がおいでの場所じゃ」
屋敷の者らしいので、三位卿がズカズカ寄ってみると、六尺棒を持った男は、数寄屋のうちにいる歴々の姿をみて、びっくりしたように両手をついた。
「無礼なやつめ!」有村《ありむら》は叱りとばして、
「今宵は、この亭《ちん》の近くへ、何人《なんぴと》たりとも近よるなと申しつけてあるのに」
「はっ、私は、その庭番の者にござります」
「いよいよ不埒《ふらち》ではないか、警固すべき者自身が、お席を騒がしては何もならぬ」
「重々恐れ入りました」
「退《さが》れ退れ。御前へは身《み》が取りなしてくれる」
「しかし、なおもう一応、お庭|内《うち》をあらためませねば、そのお役目が立ちませぬので」
「何故!?」
「先頃から、奥牢へ入れてあります俵《たわら》一八郎という天満《てんま》浪人」
「ウム、大津より差し立てきた一八郎。それがどうした」
「いや、その浪人は牢舎中も、きわめて神妙《しんみよう》に致しておりますが、外よりして、しきりに牢へ近づこうとする者がござります」
「奇怪なことを申す、すりゃまったくか」
「今も今とて、何気なく見廻りましたところ、吾々の眼を偸《ぬす》んで、怪しい影が奥牢の戸に近づき、何やら声をかけようとしておりますゆえ、思わず、待てッ! と厳《きび》しく追いかけましたが、たちまち影を見失い、ツイ御座所近くになるのも忘れて、この不始末をつかまつりました」
「役目の忠実、こりゃ咎《とが》める筋はなかろう」と、三位卿は数寄屋の縁から阿波守のほうへ向いて、
「お聞き及びの通り。どうやら、この邸内にも、一八郎へ気脈を通じる者がある様子でござりますぞ」
「心得ぬことじゃ。番士《ばんし》!」
「はッ」
「すすめ、もっと近く」
「は」六尺棒を置いて夜番の侍、おそるおそる沓《くつ》ぬぎの前へきて、蟇《がま》のようにつくばった。
「只今の申し条、偽《いつわ》りはあるまいの」
「なんで! 畏《おそ》れ多うござります」
「では訊くが、しきりに俵一八郎の身に近づこうとする者は、一体、どのような風采、また面貌《おもざし》など、しかと見届けておいたかどうじゃ」
「手抜かりのお咎《とが》めある節は、申し開きもござりませぬが、前《さき》の夜も今夜も、チラと見た影を追い失いましたばかりで、その辺、残念ながら突き止めておりませぬ」
「そうか……」と阿波守の顔は暗い。三卿の人々も首をひねって聞いていた。
「しかし、ただ一つ瞭《あきら》かなことがござります」
「フム、それは?」
「曲者《くせもの》はたしかに女であるということ――。これは夜目ながら見受けました」
「なにッ?」
阿波守は眸をキラリとさせて、
「その怪しい奴が女じゃとは、ますます不思議な沙汰《さた》、さては、女中どもの中に、一八郎と同腹《どうふく》のやつが住み込んでいるのではないか」
「にわかに申しきれませぬが、前後の様子から推しましても、やはり御邸内にいる者の所為《しよい》らしく考えまする」
「不覚な訳じゃ!」重喜は、それを自分に向っていった。緻密《ちみつ》にかがっておいた秘密の目を、何者かに乱されている不快がこみあげていた。
「では……」と、しばらく重苦しい考えに落ちていたが、何か一策を案じたらしく、気をかえて、
「番士!」
「はッ」
「森啓之助《もりけいのすけ》を呼べ! すぐに。そして別の広間へは、明々《あかあか》と燭の数をつらねて、この下屋敷の女中どもを一人残らず居並べておけ! 酒肴《しゆこう》の用意手早くいたせよ! よいか! 明日《あす》は卍《まんじ》丸の船出ゆえに、別れの宴を酌《く》むのである」
晴々としていいつけた。
白々とした粉黛《ふんたい》の顔に、パッと桃色の灯をうけながら、十四、五人の侍女《こしもと》たち、皆一つずつの燭台をささげ、闇を払って長廊下から百|畳敷《じようじき》の菊の間へ流れこんだ。
まもなく阿波守|重喜《しげよし》、茶亭《さてい》からここへ席を移し、京浪人と称する三卿を初め、食客の竹屋|三位卿《さんみきよう》もついてくる。
明日は船出の別れの宴、ここに大名らしい大まかな歓楽の夜となって――。
「方々《かたがた》、心ゆくまで酔《え》いましょうぞ」
まず、阿波守から盃を上げてこういう。
「長夜の宴!」右少将が即興に答えた。
「されば、名残の宴でもある。藩祖《はんそ》が阿波の国を賜うて以来、上府《じようふ》帰国の船中では、太守を初め水夫《かこ》楫主《かんどり》、一滴の酒をねぶることもゆるさぬ家憲《かけん》でござりますゆえ」
「得たり賢《かしこ》し、飲みましょう!」常に無聊《ぶりよう》な食客の三位卿、こういう晩は大好きである。
阿波守もそろそろ微醺《びくん》をおびてきた。
「おお酔《え》おうぞ、謡《うた》おうぞ」
「舞いましょう! 何なりと」
「よかろう。鼓《つづみ》を――」と、すぐに侍女《こしもと》の手から受けて、阿波守が緒《お》を締めるのを、
「いけません」
と、三位卿が横から奪った。
「小鼓はかくなん申す有村《ありむら》、大倉流《おおくらりゆう》の鍛《きた》えを以て打ちまする。舞人《まいて》は殿、いざ――」
「では舞おうか! 鳴門舞《なるとまい》!」
「一だんと見ものでござろう、阿波守殿の鳴門舞――」と、七条卿、梅渓卿《うめたにきよう》、交野卿《かたのきよう》、みないい色になってやんやと興がる。
「侍女《こしもと》どもも見ておけや」
襖際《ふすまぎわ》に居並んでいる奥仕《おくづか》えの女たち、ホホと笑《え》んで珍しい殿の舞振りに眼をあつめた。
「打てや三位卿、秘蔵の小鼓|撫子《なでしこ》を――」
「あっ」と有村は容《かたち》を正してポーン! 打ったり、撫子!
津の名人|大倉六蔵《おおくらろくぞう》、それには及びもないけれど、どうやら居候の芸達者。
ポン、ポン! ……音冴《ねさ》えをみすまして阿波守、白|足袋《たび》の爪さき静かに辷《すべ》り出る……。
「おおウ鳴門、大鳴門!」
舞えば三卿も声について、それに合せて謡《うた》いだした。
「大――鳴門! 大鳴門!」
「濁世《じよくせ》無限の底に鳴るウ――大鳴門! 大鳴門!」
「流せや濁世、侵《おか》せよ鳴門!」
「濁《にご》り世の底に、鳴るわ鳴るわ」
「怒《いか》るわ怒るわ――鳴門の渦!」
「洗えや鳴門――」
「澆季《ぎようき》の濁り世」
ポーン! と三位卿、吾を忘れて、
「討てや徳川ッ」
はッと驚いて三卿が、謡うを止めた時である。長廊下をツツツと小走りに来た近侍《きんじ》の者。
「殿様――」と、両手をつく。
「なんじゃ!」
「お召《め》しになりました森啓之助殿」
「ウム、最前から待ちかねているのじゃ、なぜ早く姿を見せぬ?」
「卍《まんじ》丸御用意のため、川口の脇船へ何かの諜《しめ》しあわせにおいでになり、只今、お船蔵《ふなぐら》にはおいでがないそうでござります」
「なんじゃ今頃――、きゃつ、近頃どうか致している」と、舌打ちして呟《つぶや》いたが、
「是非がない。では天堂一角を呼べッ」
「はっ」
退《ひ》こうとすると、阿波守、またあわただしく呼び止めて、
「待て待て、ここへ参るついでに、奥牢へ入れおいた俵《たわら》一八郎、庭先へ曳いてこいと申せ」
近侍が立ち去るとともに阿波守、また朗々たる音声《おんじよう》で鳴門舞を舞いだした。だが、舞いながらその眼《まな》ざし、襖《ふすま》ぎわに居流れている女中たちの数をスッカリ読んでいた。
と、庭先へ動いてくる人影がみえた。
「一角、まいったか!」
舞い納めて、阿波守がこういうと、
「はっ」天堂一角の答えがして、
「俵一八郎をここに召し連れました」
「ウム、早かった」
強くうなずいて、さて、大きく、
「あらぬ疑惑《ぎわく》をもって当家の内秘を覗《のぞ》かんとする天満の痩《やせ》浪人、船出の別宴によい肴《さかな》じゃ、重喜がみずから血祭りにしてくりょう! 女中《おんな》ども、誰かある! 佩刀《はかせ》を取れ」
と、居流れた侍女《こしもと》たちを、鋭い眼で見廻した。
「お佩刀《はかせ》」
すぐに小姓が差し出すのを、
「ウム」と左手へ引っ提げた重喜《しげよし》。「その燭台《しよくだい》を廊下へ出して、女どもも余《よ》が血祭りを見物せい!」
自慢の銘刀、ほたる斬《ぎ》り信国《のぶくに》の柄《つか》に手をかけてギラリと抜く。
「阿波殿、少し酔ってまいられたかな?」と三位有村は、腑《ふ》に落ちない顔をして小鼓《こつづみ》を片寄せたが、ほかの三卿は、血を見ることを珍しげに端近《はしちか》く褥《しとね》を進めた。
女中たちは命じられたまま、燭台の幾つかを廊下へ出して花のごとく居流れたものの、一脈の殺気、殿の眉宇《びう》から流れて、なんとなく恐ろしい。
「こやつか、血祭りの生贄《いけにえ》は!」
鳴門舞の謡声《うたごえ》より、なお太やかな音声《おんじよう》をして、阿波守重喜ハッタと庭面《にわも》を睨《にら》みすえた。
そこには憔悴《しようすい》した俵同心、一角に縄尻をとられて控えている。
関の時雨堂《しぐれどう》から、ここへ囚《とら》われて来てより早百日、肩骨張って色青白く、めっきり痩せ衰えてみえるが、意気は軒昂《けんこう》。
晃々《こうこう》たる菊の間《ま》の燭へ正面を切ッて、臆《おく》する色もなく重喜の面《おもて》を見上げた。
見下ろす眸と一八郎の眸、カチッと絡《から》み合ったまま、互いに睨《にら》みすえながら無言の争闘ややしばらく……。やがてのこと阿波守、
「その面構《つらがま》えでは、問うても容易に口を開くまいが」と、前置きしてほたる斬《ぎ》りの切《き》ッ尖《さき》を、廊下の上から突き向けた。
「余が下屋敷へ、汝の手から住み込ませた同腹の女があろう。ここに居並んだ奥仕えの女の内にその廻し者が潜《ひそ》んでいる筈。有態《ありてい》に名を明かさば、命だけは助けてつかわそう」
耳うるさし、というふうに、一八郎は眼を閉じたが、その時、廊下に並んだ侍女《こしもと》の三人目に、十六、七かと見える丸顔の少女、首を垂れてブルブルと肩骨をふるわせた。
「面倒《めんどう》じゃ! 痩《やせ》浪人を荒蓙《あらむしろ》へのせて水の用意ッ」阿波守が呼ばわると、「はっ」と庭先にいた天堂一角や番士たち、あわただしく働いて、瞬間に成敗《せいばい》すべき死の座を作る。
「御用意、整《ととの》いました」
一角が庭下駄を揃えると共に、ほたる斬《ぎ》り信国を引っ提げた阿波守、ズカリとそれへ足を進ませるかと思うと――。
ふいと側《そば》の女中へ眼をつけた。
十六、七の愛くるしい小間使、ハッとして手を袖の裏へ隠したが、帯の前から懐剣の袋の紐《ひも》! タラリと解けて下がっている。
「天満浪人の廻し者ッ!」
咄嗟《とつさ》にうしろへ寄るや否、阿波守重喜の片足が、ポンと女の帯を蹴った。
「あッ! ……」と優しく魂切《たまぎ》った声――と一緒に、蹴落された少女の姿は落花|微塵《みじん》、隠し持っていた懐剣をほうり投げて、一八郎の側へ仆れるとともにワッと泣き崩れた。
声を揃えて朋輩《ほうばい》の女たち、
「オッ、お鈴殿!」と意外に衝《う》たれて眼をみはる。
鳩の密使を飛ばして、常に俵同心の手へ、屋敷の内事を洩らしていたのはこのお鈴。
「泣くな! うろたえ者めがッ」
一八郎は激越《げきえつ》な声で叱りつけた。そして思わず側へ仆れた妹を、抱き寄せようとしたけれど、両手の自由はきかないのである。
「ああ、すべてこうなる世であるのだ、泣くな、妹よ! よいか、兄の側で死ねるを嬉しいと思うがよいぞ」苦しい声を唇で噛《か》みしめた。
ところへ、一人の近侍が、森啓之助の来たことを告げた。阿波守は、一八郎を血祭りにすると称して、思う壺に女中の中から諜者《ちようじや》を見出した満足ににっことして、
「啓之助、啓之助」
呼び立てながら信国の太刀を鞘《さや》に納める。
「はっ」と一角の側へ、頭《ず》を下げたのは森啓之助。「明日の御用意のため駈け廻っておりましたゆえ、ツイお召しも知らず遅うなりまして」
こう言い訳したが、実は、密かに公務の暇を偸《ぬす》み、お米《よね》を隠してある綱倉に潜《もぐ》り込んで、何をしていたか分らない。
「明日《あす》、卍《まんじ》丸の脇船へは誰が乗るの?」
「石田十太郎殿の組手《くみて》が乗ります」
「そちが代れ、都合がある」
「はッ」
「そして脇船の荷底へ、この一八郎とお鈴の二人、積み込んでまいるのじゃ」
「心得てござります」
「撫養《むや》の浦へ着船の節は、渭之津城《いのつじよう》へ寄るには及ばず、すぐ吉野川をさかのぼって、剣山《つるぎさん》の間者|牢《ろう》へ二人の奴を送りこむよう。この大役、しかと申しつけたぞ」
欣《よろこ》んだのは啓之助、お米を阿波へ連れこむには、本船卍丸より脇備《わきぞな》えで行く番船の方が何かにつけて好都合。得《え》たりや応《おう》、という色は隠して、俵一八郎とお鈴を番士に引っ立てさせお船蔵へ急いで行った。
お船歌《ふなうた》
お鈴と一八郎の兄妹《きようだい》を、啓之助の手へ渡して、阿波守が席へ戻ると、三位卿は物足らぬ顔だった。
「常にご自慢のほたる斬《ぎ》り信国、とうとう血祭りの御用に成りませんでしたな」
「もとよりあれは重喜の手策《てだて》……」
ほほ笑《え》んで盃を取り上げたが、ふと苦い味を覚えて下へおく。
「御|炯眼《けいがん》のほど恐れいった。しかし、あれまでにしてなぜ御成敗なさらぬのか、この左馬頭には少し腑《ふ》に落ちかねまするが」
こんどは、七条卿の疑問が出た。
左京太夫や梅渓卿《うめたにきよう》も同感らしく、
「密事を嗅《か》ぎつけている輩《やから》、剣山に封じおくのも無事であろうが、いッそ、断刀《だんとう》の錆《さび》と致したほうが、安心でもあり、お手数もないことと考えまするが……」
「その儀、重喜も承知しておりますが、当蜂須賀家の掟《おきて》として、捕えた隠密は、昔から必ず剣山へ差し立てることになっている」
「ほう、それはまたいつ頃から?」
「今より百二十余年前、蜂須賀三代の国主は義伝公《ぎでんこう》、当時南には天草《あまくさ》の乱《らん》が起っておりました」
「フム、義伝公。蜂須賀|至鎮《よししげ》とおおせられて、非常に英俊豪邁《えいしゆんごうまい》なお方、巷間《こうかん》の伝えによれば、眼点《がんてん》の瞳《ひとみ》が二ツあったとか承る」
「さよう、とにかく、群臣《ぐんしん》も慴伏《しようふく》する威風がござった。その頃江戸に将軍たる者は三代家光、この義伝公を怖るること一方《ひとかた》ではありませんでした」
「なるほど、大いに頷《うなず》けます」
「折も折とて天草の乱には、戦に破れた落人《おちゆうど》どもが、阿波こそ頼るべしとあって、海伝いにおびただしく紛《まぎ》れこみ、また義伝公は、左右《そう》なくそれを剣山に匿《かくま》われた」
「では当時にも、天草乱後の虚《きよ》をうかがって、徳川討伐の壮図《そうと》があったのでござろう」
「いや、その辺は分りかねる。しかし、今日なお渭山《いざん》の城に蓄《たくわ》えある、武器、船具、楯《たて》、強薬《ごうやく》、鏃《やじり》、金銀の軍用は、みな当時、天草より持ち込んだ物や、義伝公の御用意であったことはたしかでござる」
「ウーム……それが百二十年後の今日になって、皇室の御為《おんため》に、役立ってまいるとは不思議な訳」
「少し話がそれましたが、さてその義伝公、泰平の豪傑はとかく不遇で、遂に毒殺されました」
「ア、誰に?」
「家光の廻し者」
「隠密でござるか」
「イヤ、義伝公の奥方であった。それは家光の姪《めい》で、幕府より義伝を毒殺せいという旨《むね》をうけて、阿波へ嫁《とつ》いできた美女でござる」
「己《おのれ》が殺そうとする者へ嫁いでくる花嫁の心。それは思いやらるるが、徳川の陰険政治、よく現れておりますのう」
「記録によれば正月の末、城下千光寺の徳命観梅《とくめいかんばい》の日でござった。義伝公の梅見の酒へ毒を盛りました。それは世にも恐ろしい鴆毒《ちんどく》、さすがの豪傑も濠《ほり》の石橋まで馬を返して斃《たお》れました。徳川家より嫁いできたその奥方、また毒を仰いで助任川《すけとうがわ》に身を投じた。すわ、城内城下は申すに及ばず、阿波一国の騒動、鼎《かなえ》のわくがごとしでござる」
「徳川討てと叫びましたろう」
「無論、浦々軍船の仕立てをなし、城下は甲冑《かつちゆう》の騎馬武者で埋めたと、今も古老の話でござる。しかし、当時四囲の情勢では、まだ若い幕府の力、所詮《しよせん》、仆すことはできませぬ。恨みをのんだ家中ども、ここにすさまじく結束して,江戸より奥方に従《つ》いてきた腰元用人《こしもとようにん》は申すに及ばず、至る所の徳川に縁ある者を隠密と見なし、日ごと夜ごと、これを助任川《すけとうがわ》の河原にだして斬りました。ために、富田《とんだ》の浦は血に赤く、河原は鬼哭啾々《きこくしゆうしゆう》として、無残というも愚《おろ》かなこと、長く、渭之津《いのつ》の城に怪異妖聞《かいいようぶん》やむことを知らず、という結果になりました」
「オオ殺戮《さつりく》の祟《たた》り! それで」
「一種の迷信を生じたものか、四、五代目の太守の世より剣山の山牢《さんろう》制度ができたのでござる」
女中や小姓は遠ざけられて、その時、菊《きく》の間《ま》には阿波守そのほか四人の影だけ……。
白い襖《ふすま》という襖一面、伊藤若冲《いとうじやくちゆう》の描いた乱菊の墨色あざやかに、秋の夜は冷々と冴《さ》え更《ふ》けている。
と……、床わきの書院窓の外へ、スルスルと蜘蛛這《くもば》いに寄ってきて、ジッと、中の話を聞いていた者があった。
頭《かしら》は切下《きりさ》げ、無紋の黒着《くろぎ》、腰から二本の蝋色鞘《ろいろざや》がヌッとうしろへ立っている。
それは法月弦之丞《のりづきげんのじよう》であった。
書院窓に耳をつけて、なおも、菊の間の話をジッと聞いている……。
お米《よね》が、綱倉へかどわかされてきた晩――。彼は、番士の手槍を引っぱずして一太刀に斬ッて捨てて、もとの誓文神《せいもんじん》の抜け穴から姿を隠した。
そして四日目。
いよいよ明日《あす》は卍《まんじ》丸が出るという今宵。お船蔵の混雑にまぎれて、大胆にも、この下屋敷の域《いき》まで足を踏み入れてきた。
宵のうちに、隣帆亭《りんぱんてい》の方で、阿波守初め四人の公卿《くげ》が、密議をこらしていた様子も樹立《こだち》の中からうかがっていた。
しかし、そこでは、容易に近づけなかったが、やがて、広間の方へ席を移して、別宴になった隙を計り、彼は用部屋の床下から奥へ匍《は》い進んで、ムックリ、ここへ姿を現したのである。
足拵《あしごしら》えはわらじ膝行袴《たつつけ》、身軽にしたのはイザという場合の用意だ。
剣山の間者牢《かんじやろう》の由来――天草《あまくさ》当時のいきさつ、また義伝公毒害のことから徳川家へ根強い怨恨をふくんでいる訳――。それらの話をきくにつけて、弦之丞は心の裡《うち》で、
「ウーム、いよいよ阿波の密謀はたしかだ」と信じた。
さらにまた、それが一朝|一夕《いつせき》の陰謀でなく、義伝公以来歴代の太守が、幕府に隙さえあらばと、常に鏃《やじり》を研《と》いでいたことに違いない、とも思った。
およそ、一国の民心に彫《ほ》りつけられた程の怨みは、必ずその子に伝え、その孫に語られ、報復の遂《と》げられるまで、世々、代々忘れぬものだ。ましてや、一代の英君と仰いでいた義伝公を、徳川家の詭策《きさく》に害せられた阿波の怨《うら》みというものは、弓取の子孫は無論、半農半武家の原士《はらし》の胆《きも》にも銘じ、野に働く藍取《あいと》り唄《うた》にも現れたろう。
してみると、阿波の反徳川思想は、今日や昨日《きのう》のことでなく、永い歴史と根深い宿怨のある所。
それかあらぬか、蜂須賀の子女は、当時すこぶる貧乏で幕府からは好まれぬ公卿《くげ》堂上へ多く嫁いでいる。重喜のすぐ先代をみても、一女は花山院|大納言《だいなごん》の正室に、また鷹司家《たかつかさけ》、醍醐大納言《だいごだいなごん》、中院中将《ちゆういんちゆうじよう》などとも浅からぬ姻戚《いんせき》の仲であった。
そこへ宝暦の気運が芽ざし、尊王皇学の風が起り、倒幕の風雲がわずかながら動いてきた。
公卿《くげ》縉紳《しんしん》と密接な結びがあり、しかも如上《じよじよう》の歴史をもつ蜂須賀家が、その裏面に策動するのは、あまり、当然すぎるほど当然なこと。
今――菊の間の話をきき、それやこれを思い合せて、法月弦之丞、思わず、慄然《りつぜん》とせざるを得なかった。
「ああ、幕府は遂に仆《たお》されるのかもしれない」
フイと、そんな気持がした。
これほどあきらかな、危ない気運が芽ざしつつあるのに、何という江戸城ののんきさだ。前将軍|家重《いえしげ》の遊惰《ゆうだ》なこと。今の十代|家治《いえはる》の悠々|逸楽《いつらく》。
義伝毒害の宿怨を忘れぬ阿波や、塩を舐《な》めて皇学を起さんとしつつある公卿とは、その意気なり境遇なりが、あまりに雲泥《うんでい》な相違である。
しかし、弦之丞一箇の立場はまた別だ。
幕府が危ないと感じたら、未然に救うのが彼の立場だった。
あぶないのは江戸城のみか、恋人お千絵様の前途はなお暗い――。その禍《わざわ》いは、彼女の父|世阿弥《よあみ》が、阿波に入って帰らぬことが第一の原因だ。
おお! 甲賀世阿弥といえば。
ことによると彼はまだ生きている。いや! きっと生きているに違いない。
どこに? それは剣山の間者牢《かんじやろう》だ。彼は囚《とら》われて十年の月日を、おそらく間者牢の中に送っているだろう。
もはや、疑うべきもないことだ。今も、阿波守自身が、菊の間で話していたではないか。
「――で、囚えた隠密は必ず、剣山の山牢へ送って、終身封じこめるのが掟《おきて》でござる」と。
彼は、心の奥で叫んだ。
「今夜の忍びはムダでなかった!」
そこで、書院窓の明りを避けて、ソロ……と四、五尺身を退《ひ》いた。――と思うと長廊下、忍者《しのび》ふせぎの仕掛張《しかけばり》が、キキキキ……と鳴くかのように軋《きし》みだす。
はッとしたが弦之丞、甲賀組の者ではないから、浮体《ふたい》とか音伏《ねぶせ》とかいう忍法《にんぽう》を知らない。思わず片膝を立て、一足跳びに廊下から庭先へ飛ぼうとした。
途端に、杉戸《すぎと》を蹴って駈け寄った天堂一角。
「おのれッ!」とばかり、うしろから組むが早いか、腕を輪締《わじ》めに喉首《のどくび》を引っ掛けて、タタタタタと大廊下を五、六間引き戻した。
うしろから咽《のど》を巻き込んだ一角の腕、荒木流のやわらで首閂《くびかんぬき》という必殺の手である。
この際、声をだすのは自殺するのと同じわけになる。自力をしぼってもがくのはなおあぶない。といって、連《つ》れ拍子《びようし》に五、六間も後《あと》へ持ってゆかれれば、グッタリとして顎《あご》の下が紫色になりおわるのは必然なこと。
不意であるから、弦之丞もハッとしたには相違ない。
まず呼吸に気力をあつめたろう。
無論、心得のある彼、声もださず力もこめず、一角の引き戻すまま大廊下を逆に歩いた――いや、よろけた。
そのまに、左の肩を探って、対手《あいて》の拇指《おやゆび》をギュッと握る。いわゆる技《わざ》の手懸り、一瞬の妙機である。
気当《きあて》の一喝《いつかつ》! 対手《あいて》の耳をつんざいたかと思うと、エエイッ、襷《たすき》を切って払ったよう。
身を沈めた弦之丞の肩越しに、天堂一角の体は斜めに飛んで、大廊下から庭先へと、見事もんどり打っていた。
――と思うと一閃《いつせん》の剣光、シュッと走って弦之丞の毛を斬ったかと思われる。
一角とてさすがである。櫓落《やぐらおと》しに投げ飛ばされた咄嗟《とつさ》には、空間に腰の大刀を払ったのみか、トーンと猫がえりをして庭先へ立っていた。
「くせ者!」
と、この時初めて呼ばわった。
同時に右手《めて》の大刀を、颯然《さつぜん》と横に払ってきたので、彼はすばやく後ろへ身を開いた。その弾《はず》みに塗枠《ぬりわく》の襖《ふすま》障子一、二枚を煽《あお》って菊の間の中へドッと仆れる。
と見れば、広間は暗澹《あんたん》たる暗闇。
いつのまにやら一点の燈灯《ともしび》もなく、阿波守を初め三卿の人々は、物音と同時にすばやく奥へ退座《たいざ》してしまったらしい。
倒れた襖を踏みつけたので、弦之丞は菊の間の闇へよろけこんだ。その影こそ、不敵な曲者《くせもの》にまぎれもあらずと、胸を躍らしたのは衝立《ついたて》のかげに身を潜《ひそ》めていた竹屋三位。いつのまにか切目《きりめ》長押《なげし》に掛けられてあった小《こ》薙刀《なぎなた》を引き抱えている。
壮気はさかんだが、世間見ずの有村は、この屋敷の懸人《かかりゆうど》になってから、いっぱしの武芸者となった気でいる。だが轗軻《かんか》不遇とやらで、まだいっぺんも真剣の場合にのぞんだことがないのを常から嘆じていたところだ。
折から今の曲者という声! よき獲物《えもの》、ござンなれと息まいたものであろう。日頃の鍛錬《たんれん》を薙刀《なぎなた》の柄《え》にこめて、そこへよろけてきた弦之丞の影を見るや否や、月山流《がつさんりゆう》の型どおりにその腰車《こしぐるま》を手強く払った。
だが人一人、そうたやすく斬れないこと無論である。
弦之丞の身は飛燕《ひえん》のごとくかわっていた。そして三位有村は薙刀《なぎなた》の坂刃《さかば》に風を切らせてのめりこんだが、ウム! と踏み止まって左手の一本延ばしに切り返すと、一緒に薙刀《なぎなた》は、空を躍って天井からはね落され、三位卿その人はと見れば、はるかなる床の間の花瓶《かびん》と共に仆れて、花と水を狼藉《ろうぜき》に浴びていた。
「ちッ! ……残念」
起き上がって薙刀《なぎなた》を拾った時、次の間の襖《ふすま》がサッと開いた。甲斐甲斐しく装立《いでた》った近侍の者、三人、五人、七人、十人ずつ――得物を取って続々と八方へ駈け散ってゆく。
「初《しよ》太刀《だち》をつけたのはこの有村、余人《よじん》に功を奪われてなるものか」
腰の痛みを忘れて自分も一緒に走りだすと、
「三位殿、三位殿」
後ろで呼び止める声がする。
ふりかえってみると阿波守、微笑を含んで立っていた。
「どこへまいらるる?」
「どこへといって、今の騒ぎ、殿にもご存じでおわそうが」
「知っております。それゆえ、すばやく次の間へ逃げ退《の》いたのじゃ」
「日頃の口ほどにもない殿じゃ!」三位卿は歯がゆそうに、
「この奥深い所まで、入り込んでまいった不敵なやつ、逃がしては一大事でござる。この有村が引っ縛《から》めてまいる所存」
「はははは」重喜は愉快そうに笑った。
「さようなことは家臣どもに任せてお置きなさるがよろしい。あなたの月山流《がつさんりゆう》ではちとむずかしい曲者《くせもの》、手配は天堂一角が常から残りなく固めているゆえ、おおかた、今にどこからかここへ捕えてまいるであろう」
築山《つきやま》の辺からお船蔵境《ふなぐらざかい》の木立――または大殿の屋根から床下に至るまで、弦之丞を尋《たず》ねる武士が、今や、右往左往に入り乱れて見える。
下屋敷の騒音を後にして、弦之丞は今、脱兎《だつと》のごとく船蔵の方へ走ってきた。
ほッと、息をついて、あたりの闇を透《す》かしてみると、ここはいつかの晩、綱倉の窓からお米《よね》の啜《すす》り泣く声をきいた記憶のある掘割岸。
翌日《あした》は、安治川を出る筈の卍《まんじ》丸も、岸をかえたとみえてそこには影なく、ドボリ、ドボリ……と掘割へ揺れこむ波の音があるばかり、無月の秋はことさらに暗い。
「オオウーイ」
不意にすぐ近くの闇の中で、こう呼ぶ者の声が水へ響いて行ったので、弦之丞は陸《おか》へ引き揚げられてあった過書舟《かしよぶね》の底へ身を退《ひ》いて、その陰から様子をうかがっていた。
「オオウーイ」
続いて別な声がまた呼ぶと、木魂返《こだまがえ》しに向うからも、応ーッと答える声がする。
と、掘割の水門から、ギイッ、ギイッ、と櫓《ろ》を押してきた一|艘《そう》の見張舟がある。黒い波紋を大きく描いて人影の立っている桟橋《さんばし》へ漕ぎ寄せてきた。
「ご苦労だった」
という声は森啓之助。
続いて繋綱《もやい》を取る者、舟へ飛びのる者、しばらくドカドカ騒いでいる様子は、下屋敷から引っ立ててきた俵《たわら》一八郎とお鈴を、脇船《わきぶね》へ移すためにこの見張舟を呼んだものらしかった。
「縄目は大丈夫か」
啓之助がしきりに聞いている。
「脇船へ積みこむまでに、川の中へでも飛びこまれては身の失策になることじゃ」
「横杭《よこぐい》へ縛りつけておきました」
「ウム、それならまず間違いはあるまい。念のため、その帆布《ほぬの》を二人の上からかぶせておけ」
「はっ、こう致しますか」
「よかろう! ところで方々にはもう御用がないゆえ、ここをお引き揚げなさるがよい」
「でも、森様お一人では」
「いや、ご配慮には及ばぬ。卍《まんじ》丸の方も手不足であろうし、やがて殿のお座《ざ》がえも仰せだされるであろう。これまでお手を貸していただけば、あとは拙者が仲間《ちゆうげん》相手に送りこみます」
「では」と、番士|船手《ふなて》の人々は、そこを去って各の持場へ分れて行った。
その人々のいなくなるのを見澄ますと、啓之助はヒラリと陸《おか》へ上がってきた。なお念入りに前後を見廻し、足早に飛んできたのはすぐ前の綱倉。
「宅助、宅助」
戸を叩くと、用心深く四、五寸|開《あ》いて、
「おお、旦那でしたか」
「どうしたお米は?」忙しく中へ入って見廻したが、少し色をなして、
「見えないではないか」
「あわてちゃいけませんぜ、夜半《よなか》になったら卍《まんじ》丸へ運びこむから、支度をしておけと旦那がおっしゃったんで、たッた今女をこの長櫃《ながびつ》へ押し込んでいたところでさ」と、仲間の宅助、意味あり気に側の長櫃を指さした。
「ア、それがにわかの模様変えでな」
「えッ、手違いに?」
「なにさ、こっちにとればなおさら都合のいい話。剣山《つるぎさん》へ送る者があるので、急に脇船の方を承って行くことになった」
「おお、そいつア旦那、お誂《あつら》えじゃありませんか」
「されば、今すぐに俵一八郎と一緒に積み込むつもり、その長櫃《ながびつ》をあれまで持ちだしてくれと申すのじゃ」
「オット合点、と言いてえが、旦那、こいつア一人じゃ持ち切れませんや」
「よし、身どもも手を貸そう」
「そうまでお惚れなさいましたか」
「ばかを申せ。ウーム、これや重い!」
「恋の貫目《めかた》でございますもの。わっしのほうがなお重い!」
「つまずくなよ」
「まッ暗だア、色情《いろ》の闇路《やみじ》」
「ソレ、そこに繋《つな》いである見張舟へ……」
「旦那、わっしが先へ下りますから、手をはずさないでいておくんなさい……はずしてドボンと沈めたところで、この宅助は元々だが、旦那が浮かばれねえでしょう」
小舟の中へ、ドンと長櫃を下ろした時だ。
物蔭から走りだした法月弦之丞《のりづきげんのじよう》。
「待てッ」
繋綱《もやい》を解きかけている宅助をほうり投げ、驚く啓之助を突きのけて、舟の中へ躍りこもうとした。
かねて、目明し万吉から仔細《しさい》を聞いていた俵同心とその妹、また片恋の不愍《ふびん》な女も、事のついでに救って行こうとしたのだが、人の運命はともあれ、彼自身の危機が、すでにそこへ迫っていたのは是非もない……。
闇を、低く流れてくるのは槍である。閃々《せんせん》と横に光を刻んでくるのは白刃である。
蜂須賀《はちすか》名物の猛者《もさ》、原士《はらし》の者や若侍の面々。曲者《くせもの》がお船蔵の方へ駈け抜けたときいて、天堂一角をまッ先に、今、ここへ殺到した。
先の一角がピタと足をとめて、
「おおあれだッ――法月弦之丞!」
指を指し示すとともに、
「それッ」
浪がしらがかぶったような勢いで、槍や刀、入りまじった二、三十名の武士が、ドッとその人影の後ろへ衝《つ》いて行った。
あやういかな、法月弦之丞。
前は満々とみなぎる水。
うしろは刀を植えならべた殺陣《さつじん》。
唐草銀五郎の遺志をついで、今宵《こよい》初めて望む所の秘密境へ、一歩の足跡《そくせき》をつけた彼も、それをわずかの思い出として、ここに進退きわまるであろうか?
と思われたが……。
ハッと振りかえった途端に、弦之丞、案外落ちつきすまして、刀の柄《つか》をソロリと握った。
果たして凄い意気ごみで来た若侍たちも、六尺以上は近寄ってこず、自然と、そこへ半円の陣を作って、
「神妙にしろッ」
「のがれる道はないぞ」
口々に、空気合《からきあ》いの声ばかりが激しい。
彼がここでユッタリと構えたのは、充分な理由があることで、弦之丞には尊い一つの体験がある。
その話は――。
江戸|雁木坂《がんぎざか》にいる戸《と》ケ崎夕雲《さきせきうん》。当代の名人であり、弦之丞の師であった。上泉流《かみいずみりゆう》の剣法に白虎《びゃつこ》和尚の禅機を取り入れ、称して無住心剣|夕雲《せきうん》流といっている。彼はその夕雲門で、まず第一の使い手だった。
ある年の春である。朧夜《おぼろよ》だった。
何かのことに夜を更《ふ》かして、護持院《ごじいん》ケ原《はら》を帰るさ、怨《うら》みを含む他流の者が、三十人余り党を組んで待ち伏せ、いわゆる闇討《やみうち》を食った。
追い散らして血路をひらき、無事に屋敷へ帰ったものの、五、六ヵ所の薄傷《うすで》を負ったので、数日床についていると、やがて様子を見にきた夕雲先生、それを見て、
(大たわけ者!)
見舞いでなく、叱りつけた。
(夕雲流の名を汚し召された。一体その夜の敵は何人か?)ときかるるまま弦之丞は、むしろ得意に、
(三十人)と答えると、夕雲、
(三人か? ……)
(イヤ三十人程で)
(違うであろう、三人であろう)
(イイヤ、たしかに三十人で)
(はアて! 会得《えとく》の悪い!)不機嫌にいったがまた面《おもて》を和《やわ》らげて、(およそ一人が数人に取り囲まれる場合、敵は三人よりないものじゃ。どんな場所にも必ず背を守る楯《たて》はある。右敵《うてき》、左敵、前敵、これ以上に敵はない。対手《あいて》の数はあってもただ一人へこれ以上の剣が一度にかかれる理由がない。さすれば三十人も三人の敵と同じ、四十人も同じこと。要は身《しん》と心《しん》の据《す》え方《かた》一つ。どうだ、分ったか)
この時、口伝《くでん》をうけたのが獅子刀《ししとう》、虎乱《こらん》の剣《けん》。二つながら衆を対手《あいて》とする時の刀法である。弦之丞はそれを味得《みとく》していた。
今――。
彼は、無銘《むめい》二尺七、八寸の大刀を静かに抜かんとしている。一人と一人との立ち合いなら別だが、衆に囲まれてしまった時は、この抜く時があぶない! いかなる居合《いあい》の達人にしても、ここは毛ほどの隙――隙といい得なければ手塞《てふさ》ぎが生じる。
両面の剣が、その虚につけ入ってくるのは必然だ。こう張りつめた殺気というものは、瞬間、そこに剣もなく人もなく音もなく、ただ悽愴《せいそう》な鬼気だけがシーッと凍りつめてくる。
ブルッと動く太刀|尖《さき》は見えても、容易に手元へ斬りこんで行かず、キラリと光流を閃《ひら》めかす槍の穂も、無碍《むげ》にはさっと突いてこない。
一つは弦之丞が、炯々《けいけい》たる眼くばりのみで、柄《つか》に手をかけたまま抜かずにいるのが、かえって無気味であったかもしれない。
こうして、五ツ息六ツ息する間がたつ……。
と、後ろの船で、長櫃《ながびつ》の蓋《ふた》を四、五寸持ち上げ、
「げ、弦之丞様――ッ」
と、お米が死身《しにみ》で声を揚げた。
弦之丞様――ッ、とお米が助けを呼んだのと、天堂一角の構えていた槍が、ダッ――と彼の右へ向って突き出されたのと、ほとんど同時。
だが、その槍の穂がくるより早く、弦之丞は刀の柄《つか》をつかんだまま、踵《かかと》を蹴って左へ跳び、同時に鍔鳴《つばな》りさせて一刀を抜き払った。
と思うと姿が見えない!
対手《あいて》の姿は見えないで、そこには濛《もう》とした血煙だけが残っていた。衆は渦《うず》を巻いて混乱し、一人は真一文字に走っているのだ。
「のがすなッ」
タタタタッと、八、九人は駈けつづけたが、それも、追いつくたびにただ一刀で薙《な》ぎ伏せられた。虎乱《こらん》の太刀風、獅子刀の切《き》ッ尖《さき》、寄るべくもない鋭さで、彼の行くあと行く跡へ、幾人かの若侍が苦鳴と血煙をあげてぶっ仆れた。
「ええ、これほどの手配りを破られたか」と、歯軋《はぎし》りをした天堂一角、樫柄《かしえ》の槍を抱えなおして、疾風のごとく追いかけたが、その寸隙《すんげき》に十|間《けん》ほどの隔りができていた。
弦之丞は、一八郎を救うこと、またお米のことも諦《あきら》めてしまった。今はこの屋敷から身を脱するだけが容易でない。しかし、綱倉から例の誓文神《せいもんじん》の祠《ほこら》へ出る抜け道までは、さほど遠くなく、充分地の理も見究《みきわ》めてあるので、やや窪地《くぼち》になった藪《やぶ》の中へザッ――と姿を隠してしまった。
途端に、彼の隠れた所から、ものの四、五尺と離れていない銀杏《いちよう》の幹へ、プーン! と凄い音がして一本の飛槍《ひそう》が突き立った。
刺さった樫柄《かしえ》の震動が止まらぬうちに、駈けてきたのは、それを投げた天堂一角。
「しまッた!」といって、すぐ藪の窪《くぼ》へ走りこんだが、そこに意外な抜け道の口を見出して、
「オーッ」呆然《ぼうぜん》として立ちすくんだ。
「天堂一角!」するとまた彼の姿を追ってきた者が、藪の外から呼びだした。
「誰だ」
「竹屋|三位《さんみ》じゃ」
「オオ三位卿様で?」
「阿波守殿がすぐに来いとの御意《ぎよい》であるぞ」
「ただいまの曲者《くせもの》が、この抜け道より屋敷の外へ逃げ出しました。せっかくながら一角、それを追ってまいりますゆえ戻られませぬ」
「いや、曲者の逃げたこと、殿も御承知。何せい卍《まんじ》丸へお座がえの時期が迫った。早く早く!」
オオ、そういえば、夜は疾《と》くに子《ね》の刻を過ぎ、やがて八刻半《やつはん》(午前三時)にも近かろう。
暁《あけ》の七ツから六ツ半|刻《どき》の間がその日の満潮。浅瀬や洲《す》を交《か》わす都合の上に、ぜひ卍丸はその時刻に纜《ともづな》を解かねばならぬ。
とすると――一角もあわてざるを得なかった。
彼はぜひなく三位卿について足を早めた。
卍丸は下屋敷の裏庭――安治川《あじがわ》の横について、阿波守はすでに楼船《ろうせん》の屋形へ褥《しとね》を移していた。
支度は一月も前から手廻しされているが、重喜《しげよし》の身の廻りの物を運ぶ侍女《こしもと》たちや、潮除《しおよ》けの幔幕《まんまく》を張りめぐらす者や、櫂《かい》をしらべる水夫《かこ》楫主《かんどり》、または朱塗《しゆぬり》の欄《らん》の所々に、槍お船印《ふなじるし》の差物を立てならべる侍《さむらい》などが、事俄《ことにわ》かのように目を廻している。
その混雑の中を通って、天堂一角、おそるおそる船屋形《ふなやかた》の座所へ伺候《しこう》した。そして弦之丞をとり逃がしたことを首尾《しゆび》悪そうに言い訳するのだった。
阿波守は、別に不機嫌な様子もなかった。その代りに、一角の足がしびれのきれる程|黙然《もくねん》として考えこむ。
やがて、明快な言葉が出た。
「ぜひがない! 昨夜の混雑をつけこまれたのじゃ」
そういったのはよかったが、次に突然、
「一角、そちは帰国を見あわせい、しばらく暇《いとま》をとらすであろう」
「あっ、お暇を?」一角は冷やりとした。しばらくを、永《なが》のと、聞き間違えたのである。
「ウム! まず一両年|遊歴《ゆうれき》する気で、思う所を歩いてこい。ただし、その間にも役目があるぞ。ほかでもない、法月弦之丞、きゃつをつけ廻して必ず討って取ることじゃ! 彼こそ昨夜の密話を残らず聞きおったに相違ない、生かしておいては後図《こうと》の妨《さまた》げ、大事の破綻《はたん》を醸《かも》そうも知れぬ。よいか!」
「はっ」
「充分、そちに討てる自信があろうの」
「身に代えて刺止《しと》めまする」
「それで、余の船出も心安い。何かのことども、江戸表へ立ち廻った節|上屋敷《かみやしき》の重役どもに、計ろうて貰うがよい」と座を立って、三位卿と共に船楼《ふなろう》の欄《おばしま》に立つ阿波守。
「オオ、ちぬの浦が明るくなった」と呟《つぶや》いた。
霧の底から海があらわれ、霧の上から朝の陽《ひ》がさんさんと射る。一の洲《す》二の洲の水尾木《みおつくし》も、順に点々と明け放れて、潮の満ち満ちてきた安治川一帯、紺の大水《たいすい》に金泥《こんでい》を吐き流したよう。
高いところで法螺《ほら》の音《ね》が鳴った。
蜂須賀家の水見櫓《みずみやぐら》――。
阿波へ出るべき卍《まんじ》丸は、今、ともづなを解いている。
上《かみ》の過書船《かしよぶね》支配所でも、それに答える川合図をする。と、半刻《はんとき》ほどは舟止めとなり、ウロ舟、物売り、石垣舟、すべてが影をひそめてしまうところは、ちょうど陸における大名行列が下座先触《げざさきぶ》れの法式と変りがない。
森啓之助《もりけいのすけ》の乗りこんだ脇船は、一あし先に川口へ漕ぎ出していた。
ところで、お米はどうしたろう。
今朝は彼女の船出ともいえる。だが、ああ、それはなんと暗い運命の船出だろう。
脇船の底――長櫃《ながびつ》の中――そこにあるのは永遠の悲恋と恐怖の闇ではないか。このかがやかしい光明《ひかり》の微塵《みじん》もないのである。
やがて着く彼岸《ひがん》で、その泪《なみだ》と闇の長櫃の中から、どんなお米の運命が生まれることやら……?
それは知るよしもなく、知る者は、今船やぐらに立っている啓之助のみだった。
「オオ……よく凪《な》ぎた、よく凪ぎた。潮の色あい風都合も上々吉だ」
自己の幸運を祝福する言葉とも聞こえる。
彼には溢《あふ》れる光明があった。
ニヤリと、いやな思い出し笑いを洩らして……また役目の水見八方へ小手をかざした。
ボウ――と川上から二番貝。
卍《まんじ》丸は徐々《じよじよ》と川口へ向って辷《すべ》りだしてくる。そして、やや取舵《とりかじ》に一の洲《す》の杭《くい》とすれすれに鏡の海へ泛《う》かみかけた。啓之助の船は、脇備えの形をとって、その後から漕ぎ従う用意をする。これも渡海の際の常例である。
阿波守の乗っている卍《まんじ》丸――その舷《ふなべり》に立てつらねた船印の差物《さしもの》には、桐のかげ紋と卍の紋、朝の潮風をうけてへんぽんとひるがえった。
槍の緋羅紗《ひらしや》は太陽より赤く、燦《さん》として波に映《は》ゆる黄金の金具は魚群も遠ざける威風がある。艫幕《ともまく》いッぱいに風をはらむかと思うと、やがて、颯《さつ》! 颯! 颯! 二十四|挺《ちよう》の櫓拍子《ろびようし》が、音頭《おんど》と共に快《こころよ》く波を切った――。
「有村殿! 有村殿!」
こう呼んだのは船上の阿波守である。
「はっ、御用で!?」と、胴《どう》の間梯子《まばしご》を駈け上がってきたのは元気な三位卿。海をのぞむと誰しもが自然と大きな声になる。
「お召しでございましたか」
「されば、あまりに好い眺め、一人でほしいままにするのは惜しいと存じてな」
「一天|晴朗《せいろう》、今日のお船出祝着《しゆうちやく》に存じます」
「不吉な昨夜の騒動も、これで清々《すがすが》しく拭《ぬぐ》われた」
「ちょうどこの船が、沖から浦曲《うらわ》を見るころには、お別れにみえた、三卿のかたがたも、京都へお帰りある時刻」
「あっ……」阿波守は不意に、屋形の鯨幕《くじらまく》をパラリと下ろして、三位卿の眺めを塞《ふさ》いでしまった。
その時船はちょうど、川口の左岸にある目印山《めじるしやま》(後の天保山)の裾《すそ》から遠からぬ辺にあった。丘には、松の間から黒い燈明台《とうみようだい》がそびえている。諸国廻船の目印となる丘だ。
臥龍《がりよう》に這った松の木に足をふみかけ、その丘の上から卍丸の船影を見下ろしていた武士がある。それは法月弦之丞であった。
「やがて見よ、阿波守」
彼は梢《こずえ》に手をかけながら、心のうちで声をあげた。
「いかに関を封じておくとも、弦之丞が、きっと一度は汝の領土を踏みにまいるぞ! うごかぬ証拠をつかみに行くのじゃ。――オオ、一度江戸表へ立ち帰った上に、改めて、阿波二十五万石の喉笛《のどぶえ》へ、とどめを刺しに出なおそう!」
見送っていると、その一刹那。
どこからか、風を切ってきた妻白《つまじろ》の矢が一本! 危なくも弦之丞の耳を掠《かす》って、ぷつん! と後ろの幹へ刺さった。
「さすがは重喜《しげよし》、油断なく自分の姿をもう見つけたか? ……」と、弦之丞も先の用意の周密なのに驚いて、矢柄《やがら》を見ると切銘《きりめい》にいわく、
――竹屋|三位《さんみ》藤原之有村《ふじわらのありむら》。
のどかな音頭に櫓拍子《ろびようし》の声――そして朗らかにあわせるお国口調《くにくちよう》のお船歌《ふなうた》が、霧の秘密につつまれている秋の鳴門の海へ指してうすれて行った。
江戸《えど》の巻
お千絵様
みぞれ模様の冬空になった。明和《めいわ》二年のその年も十一月の中旬《なかば》を過ぎて。
ここは江戸表――お茶の水の南添いに起伏している駿河台《するがだい》の丘。日ごとに葉をもがれてゆく裸木《はだかぎ》は、女が抜毛《ぬけげ》を傷《いた》むように、寒々と風に泣いている。
虱《しらみ》しぼりの半手拭《はんてぬぐい》を月代《さかやき》に掛けて、継《つぎ》の当った千種《ちぐさ》の股引《ももひき》を穿《は》き、背中へ鉄砲|笊《ざる》をかついだ男が、
「屑《くず》ウーイ。屑ウーイ」
馴《な》れない声で、鈴木町の裏を流していた。
「エエ寒い。こいつが関東の空《から》ッ風か……」
と、胴ぶるいをした屑屋の肩へ、パラパラと落葉の雨が舞いかかった。
「寒いのはとにかくだが、さっぱり呼んでくれねえのは心細い。せめてこの近所に馴染《なじみ》ができれば、ちッたあ様子も聞かれるだろうと思うが……なにしろすること、なすことはずれてきやがる。考えてみると俺は三十六、今年は大厄《たいやく》だったんだなア」
愚痴をこぼしてフラフラと一、二町、うつむいたまま歩いて来ると、頭の上の窓口から、
「屑屋さん」
と、女の声で呼び込まれた。
呼ばれたので急に思い出したように、
「屑ウーイ」と、商売声を出したから、呼んだ女もおかしくなれば、屑屋も自分ながらてれ臭そうにあおむいた。
「屑屋でございますが……」と、もう一度、窓に見える女の顔へ頭を下げると、
「あッちへ廻って下さいな」
「へ、お勝手口へ?」
「そこに潜《くぐ》り戸があるだろう」
「ございます、ございます」ガラリと開けた水口《みずぐち》の戸も開けっ放しに、鉄砲|笊《ざる》と一緒に入り込んだ。
「たいそうお寒うございますな」
「縁側のほうへお廻りよ、少しばかり古反古《ふるほご》を払いますから」
打ち見たところ、五人|扶持《ぶち》ぐらいな御小人《おこびと》の住居でもあろうか。勝手つづきの庭も手狭《てぜま》で、気のよさそうな木綿着の御新造《ごしんぞ》が払《はら》い物《もの》を出してきた。
煙草の火を借りて話し込んだ屑屋、さっきからこの界隈《かいわい》の噂《うわさ》ばなしをしきりに聞きたがって、
「時に御新造様……、この駿河台にある甲賀組というのは、たしか、この前の囲いの中にある、真っ黒なお屋敷のことじゃございませんでしたか」
「そうだよ、墨屋敷《すみやしき》といってね、二十七家の隠密役《おんみつやく》の方《かた》ばかりが、この一《ひと》つ所《ところ》にお住まいになっている」
「二十七軒もありますか。フーム、ずいぶん広いものでございますなア」とわざとらしく感心して、ちょっと相手の容子《ようす》をみたが、その眸《ひとみ》の底に鋭い光が潜《ひそ》んでいた。
「申しちゃ失礼でございますが、隠密役なんていう方は、平常《ふだん》は何の御用もねえでしょうに、これだけの家筋《いえすじ》をそれぞれ立てておく将軍様の世帯も、大きなもんじゃありませんか」
「だからだんだんとその家筋を、お上《かみ》でも減《へ》らすようにしているという話だね」
「そうでしょう。権現様の時代には、戦《いくさ》もあれば敵も多い、そこで自然と甲賀組だの伊賀者だのも、大勢お召し抱えになる必要がありましたろうが、今じゃ天下泰平だ。なんとか口実をつけて減らす算段もするでしょうさ」
「現にツイ先頃も、また一軒のお古い屋敷が絶家《ぜつけ》になって潰《つぶ》れたという話だよ」
「そうそう、それは甲賀世阿弥《こうがよあみ》様という、二十七軒の中でも、宗家《そうけ》といわれた家筋でございましょう」
「オヤ、お前よく知っておいでじゃないか」
「実は、御新造様……」と屑屋はあたりへ気配りして、にわかに声を低くした。
「わっしの不馴れな様子でもお分りでしょうが、まったくは、これは本業じゃございませんので」
「えっ……」と内儀《ないぎ》は少し後《あと》ずさって、「まあ、気味の悪い屑屋さんだ。毎日この辺ばかり歩いているし、それに稼業《かぎよう》馴れないふうだから、可哀そうに思って呼んでやったのに……、じゃ、屑屋は世間態《せけんてい》だけなのね」
「もし、御新造様。そうお驚きなすッちゃ困ります」
「困るのは私のほう、そんな仮面《めん》をかぶって世渡りするような者なら、迷惑ですから、サッサと帰って下さいまし」
「決して、盗《ぬす》ッ人《と》や騙《かた》りじゃございませぬ。どうかご安心なすって、その甲賀家のことについてご存じだけ、お聞かせなすって下さいませんか」
「いいえ、素姓《すじよう》の知れない者などと、めったな話はできません」
「じゃ、その身柄を正直に明かします。もし……御新造様、わっしはこれが本業なのでございます」と、内懐《うちぶところ》から抜いた紺房の十手を、そッと内儀の前に出して、虱《しらみ》しぼりの手拭をとった。
「まあ」と、内儀は十手を見て、いっそう気味悪そうな面持《おももち》をした。とんだ屑屋を呼び入れてしまったと、今になって後悔する色がありありとみえる。
「ですが、決してこちらさまへ、ご迷惑をおかけ申しは致しません」と、髷《まげ》からはずした手拭を折り畳んで、縁先へ腰を入れた男は、目明し万吉《まんきち》、彼であった。
「深い事情は申されませんが、わっしは大阪東奉行所の手先です。といっても内々《ないない》は、少し道楽半分な目的《めあて》に憂《う》き身《み》をやつしておるので……」出された茶を啜《すす》って、素姓を明かした目明し万吉。後は程のいいこしらえごとを口実に、近頃、絶家になってしまったという甲賀家の消息を根掘り葉掘り訊《き》きはじめた。
禅定寺《ぜんじようじ》峠の上から、弦之丞《げんのじよう》と西東に立ち別れ、一足先に江戸へ入った万吉は、まだ何かの都合で、お千絵《ちえ》様にも会ってはいないらしかった。
という次第は。
彼が江戸へ入ると真っ先に、この駿河台《するがだい》の墨《すみ》屋敷、甲賀家の門を訪れたのは無論だったが、ひょいと見ると門札の名が変っている。その門札には、甲賀|世阿弥《よあみ》の代りに「旅川周馬《たびかわしゆうま》」という文字が書かれてあった。
しまッた! 遂に間に合わなかったのである。つまり第一に阿波へ立った銀五郎がああいうはめとなり、何の便りもなく半年以上の日が過ぎたため、隠密組の法規通り、満十年帰らぬ甲賀世阿弥は、客死《きやくし》したものとお上《かみ》に見なされ、そのお家は断絶の命が下されてしまったのだ。
ああ、何もかも※[#「易」+「鳥」]《いすか》の喙《はし》――と落胆《がつかり》したが、とにかく、その代《だい》がわりになっている旅川周馬という者に会い、絶家したお千絵様が、どこに身を落ちつけたか、それを尋ねてみるにしかずと門をくぐった。
ところが、玄関はピッタリ釘付け、庭口も錠《じよう》を下ろしてある様子。呼べど出てくる人はなく、昼だというのにすべての雨戸も閉じきってある。
黒い板塀《いたべい》の周《まわ》りを巡ってみると、十年も主《あるじ》がいなかった甲賀|宗家《そうけ》。この附近の墨屋敷の中では、最も宏壮な構えだが、広いだけに荒れ方も甚だしく、雑草|離々《りり》として古社《ふるやしろ》ででもあるような相《すがた》だ。
と――瓦腰《かわらごし》の隅《すみ》座敷、そこの窓だけが細目に一ヵ所|開《あ》いていた。万吉がふと目をつけて、塀の穴から差《さ》し覗いてみると、やッぱり人の気配はない。シーンとして狐狸《こり》の棲家《すみか》かと思われるくらい。
だが――ここに必ず誰か棲《す》んでいることを、その時、万吉に教えてくれたものがあった。何かといえば、その部屋の腰壁《こしかべ》と垣の間に落ちていた丸い紙屑《かみくず》だ――雨に打たれた様子もなく、フワリと草の上に浮いているのは、捨てたばかりの手拭紙《てふきがみ》に相違ない。
いつか俵《たわら》一八郎に、今度のことは目的が大きい、必ずケチな目明し根性を出すなよ、といわれてもいたが、こんな物が目に触れると検索心《けんさくしん》がムラムラする。万吉はそこらの棒切れを拾って、塀の穴から腕を伸ばし、その紙屑の玉をかきよせて手に取った。
嗅《か》いでみると、プーンと伽羅油《きやらゆ》のにおいがする。そして皺《しわ》をのばした紙の中からもつれた髪の毛が四、五本出た。その一本を指に伸ばして見て、彼は女の毛だということを知った。
「してみるとこの屋敷は、お千絵様が立ち退《の》いた後へ、旅川周馬とかいう奴や、女も住んでいるらしい。とすると、おかしいなあ……なんだって、こう草茫々《ぼうぼう》としたまま方々釘付けにしてあるんだろう?」
耳をつねって考えても、どうもはっきりした見当がつかないふう。
で、今度はこの一廓《いつかく》の、ほかの墨屋敷を訪れて尋ね廻った。ところが、誰の答えも一致して、
「アア、お千絵様でございますか。お気の毒でございますねえ。ですけれど、手前方では、あのお方のことについて、何の存じ寄りもございません」と、ことに話を避けるのみか、姿を見たこともないという家ばかりだ。
毎日、同じ姿で聞き歩くのも変なので、俄屑屋《にわかくずや》を思いついた。これならどこの横丁へでも自由に入れる。日に一度ずつ墨屋敷の近所を歩き廻ったところで怪しまれる気づかいはない。
そうしてようよう今日呼びこまれた家の内儀が、どうやら甲賀家や墨屋敷の事情に詳しい口ぶりなので、万吉は、わざと生地《きじ》をはいでみせて、この手がかりを遁《のが》すまいとしたのである。
万吉が上手に口裏《くちうら》を探ってみると、そこの主《あるじ》は元甲賀組とも多少|由縁《ゆかり》のあった者らしく、初めは気をすくませていた内儀も、だんだん隙《すき》を緩《ゆる》めてしゃべりだした。
「では何でございますか、そのお千絵様の居所《いどころ》さえ、お分りになればよろしいので」
「ええ、それさえ知れれば、こんな寒空に鉄砲|笊《てつぽうざる》を担《かつ》いで、毎日歩き廻ることもねえんです。で御新造様、一体お千絵様は、どこへ立ち退いてしまったものでしょうね?」
「さあ、そこには深い事情があるようでして……」
「な、なるほど。わっしもちっとばかり小耳に挟んでおりましたが、同じ甲賀組の中の者で、あのお方の縹緻《きりよう》と、世阿弥《よあみ》の残した財宝に目をつけて、つきまとっている奴もあるそうですな」
「それなんですよ。あのお千絵様のお苦しみはね」
「して、そいつの名は?」
「旅川周馬というお人……。ア、うっかりよそで、私がしゃべったなどというて下さいますなえ」
「ええ、おっしゃるまでもございません」
「その周馬が、あの滅亡したお屋敷を、お代地《かえち》としてお上《かみ》からいただいたのをよいことにして、世間へはお千絵様が他へ立ち退いたように言いふらし、その実、門も戸も釘付けにしたまま、あの屋敷の奥に押しこめてあるのでございます。ええ、それは組仲間の者でもうすうす知っている人もあるでしょうが、なにしろ悪智にたけた周馬に仇《あだ》をされるのが恐ろしさに、誰も、知らぬ顔をよそおっているのでございます」
「へえ? じゃお千絵様は、やっぱりあの屋敷にいるんですか。ナーンだ、それじゃいくら屑籠《くずかご》を背負《しよ》って、世間を嗅《か》ぎ歩いても知れねえ訳だ。……イヤ、大きにどうもありがとう存じました、それだけ教えていただけば、後は商売商売というやつで、どんなことをしてもきっとお目にかかります」
と万吉は礼をいって、また虱《しらみ》しぼりの手拭を頭にのせ、鉄砲|笊《ざる》を背中へ廻して往来へ出た。
やがてその姿は、出た所から遠くない墨屋敷の堤囲《どてがこ》いへ入り、甲賀家の古い黒塀に沿って、ピタ、ピタと藁草履《わらぞうり》の音をすりながら、
「屑ウーイ。屑ウーイ」
張りしまっている心とは反対に、わざと間の抜けた濁《だ》み声を流していった。
と――万吉は立ち止まって、ズウと後ろを見廻した。あっちこっちに黒い屋敷の塀や樹木が見えるのみで、この囲い内は人通りのない所だ。
万吉が立ち止まった所は、いつか初めてここを訪れた時、細目にあいている小窓を見たあの辺である。そこへ立つと目明し万吉、耳朶《みみたぶ》をつねってちょっと何か考えこむ。
そして塀の節穴へ目を当てた。覗《のぞ》いてみると屋敷の中、相変らず森閑《しんかん》とはしているが、今日もあの窓の戸が四、五寸ほど開《あ》いている。
「ははあ、やッぱりここだな。ここより外に人臭い様子がねえ。いつか草の中に、髪の毛のついた手拭紙《てふきがみ》が捨ててあったのもこの辺だ。ほかに女気もないという話、きっと座敷牢とでもいう按配になっているのかも知れねえ、一つ当ってみようか……」
何の造作《ぞうさ》もなく、万吉は塀《へい》の朽ちた穴を探して犬のように這い込んだ。どうせ犬の真似《まね》をしたついでだ、と思ったのでもなかろうが、そのまま膝で歩き寄って、隅《すみ》座敷の窓の下へ屈《かが》み込む。
そして、ややしばらく、じっと耳を澄ましていたが、時折黄色い銀杏《いちよう》の葉が、廂《ひさし》を打ってハラハラと落ちてくるほか、物音らしい音はない。
はてな、やっぱり誰もいないのかしら? ……と思っていると、家の中でごく密《ひそ》やかに袋戸棚でも開《あ》けたような辷《すべ》り音《ね》がした。そして柔らかい絹《きぬ》ずれが窓の近くへ寄ってきた。
窓を開けて、お千絵様が顔でも出してくれるような都合になれば、まことにありがたい偶然だが、なかなかそう願って叶《かな》う訳には行かない。
で、万吉。遂に痺《しび》れがきれてしまったので、試みに羽目板をコツンコツンと指の尖《さき》で叩いてみた。だがやはり、いつまでたっても、中からあけて覗く気配がなかった。
しかしそれにあせって、もし人違いな旅川|周馬《しゆうま》とでも、面と向ってしまった際には、それこそだいぶこと面倒になるだろう。としばらく我慢してみたが、どうもこっちから当りをつけるより仕方がなくなって、万吉は、いざといえば、半分逃げ支度の気構えを取って、
「お千絵様……」と、聞き取れぬほど低い声をかけてみた。窓は屋敷作りなので背が届かぬほど高目にあった。
「お千絵さま」
二度目に呼ぶと、
「誰……?」
すぐ低い答《いら》えが洩れてきた。しかもきわめて優しい女の返辞《へんじ》! 万吉はドキンと胸を躍らすと一緒に思わず「ありがてえ」と心の奥で呟《つぶや》いたことである。
「そうおっしゃるのは、お千絵様でございましょうか」
姿は隠して、眼だけを白く上《うわ》ずらせながら、も一度こう呼んでみると、今度はしばらく何の答《いら》えもなかったが、やがてよほど間《ま》をおいてから、
「誰……?」
かすかな女の声が前と同じに繰り返された。
「その私は、お目にかかった上でなければ申されませぬが」
万吉はソロソロ身を伸ばして、
「あなたは、甲賀|世阿弥《よあみ》様の御息女、あの、お千絵様でございましょうな」
くどいようだが、なお念を押すと、
「エエ」
とはばかるようなうなずきが、万吉の耳へやっと届いてきた。その声を聞くと、一遍《いつぺん》に重荷が下りた心地がして、彼は、初めてのびのびと腰を立てて、雨戸の隙《すき》が四、五寸ほど障子になっている高窓の口を見上げたが、背が足らないので隙見をすることができない。
だが、まアこれで安心というもの。やはりここがお千絵様の部屋だったものと見える。
とかく、目明しなどという者は、八ツ当りに当った時と慢心の味に狎《な》れて、いつでも物の裏を観よう、裏を行こうとする癖《くせ》があるから、正直に、表《おもて》が表で来たり、白が白で目の前に存在していたりすると、かえって己れの小智慧《こぢえ》にからかわれて、神楽《かぐら》堂の外で神楽舞をやっているような、お話にならない骨折損をやるものだ――ということを、この時万吉、悟《さと》ったかどうだか。
「では、お千絵様でいらっしゃいますな。さようなら申しあげますが……」と閉《し》まっている窓の下から頭を下げて、
「実はわっしは、大阪表からまいりましたもので、はい、是非折り入って内密にお目にかかりたいと存じますが」こういって、彼はまた向うの声を待っていた。しかし、こっちでさんざん疑心を抱いたように、先でも多少の警戒をもつとみえて、待てど容易に返辞がない。
で万吉は、その疑惑を先に解いて貰うために、
「決して、お案じなさる者じゃございません。あなた様のよくご承知な、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》様からの使いで、大事な用をおびてまいった者でございますから」
「えっ……」と驚く声。
「はい」
応《こた》えがあったと万吉は固唾《かたず》をのむ。
「法月さんから?」
「ご存じでございましょうが」と、その図に乗って、何の気もなく爪先立《つまさきだ》ちになり、上の窓框《まどわく》へ手をかけると、不意に! 窓の隙からその手をグイとつかみ取りに引き込まれて、格子《こうし》へ絡《から》みつけるように、強く捻《ね》じつけられてしまった。
「あッ」
と彼は羽目板へ足を踏んがけたが、もがけばもがくほど窓の角に手が縊《くび》れてしまうばかりだ。
ちぇッ、不覚! 優しい女の声であったばかりに、油断しぬいていたのは俺にも似げなかったと、万吉は歯を食いしばって振りほどこうと試みたが、窓縁《まどぶち》を力に両手で抑《おさ》えつけている家の中の者と、爪尖《つまさき》立ちをして締木《しめぎ》にかけられている下の者とは、地の利において大変な相違がある。
こういう結果になってみると、やはり世の中には二一天作《にいちてんさく》の五ばかりには行かず、二四《にし》が九であったり、三五十九《さんごじゆうく》である場合も常に心得ておかなければならないかも知れぬ。
そんなことは釈迦《しやか》が経文《きようもん》をそらんじているより、百も千も合点《がてん》している万吉にしてこの失策は遺憾至極《いかんしごく》といわねばならぬ。彼は、懸命に力をしぼってもがき遁《のが》れようとじれながらも、対手《あいて》はそも何者であろうかと、必死に考えずにおられなかった。
噂に聞いていた旅川周馬か? イヤそれにしてはたしかにさっきの答《いら》えが女の音声《おんじよう》であった。声ばかりでなく、ひしとつかまれている手の触感でも、それはあきらかに柔らかく温《ぬく》い女の手だと知れる、だが女にしてはなんと粘《ねば》り強い指の力だ。
「ちッ、畜生ッ……」と目明し万吉、腕が抜けるか離すかとばかり、再度の強引《ごういん》を試みると、家の中の女は憎いほど落ちつきすまして、
「あぶないよ」
と静かにいったものである。
「――騒ぐのはおよしなさい。わたしの側には手頃な小刀《こづか》がありますからね、じたばたすると掌《てのひら》を窓板へ、鰻《うなぎ》の首を刺《と》めるように、プツンと縫ってしまいますよ……」
小刀で掌を刺し止められては堪らない。万吉はひやりとして、その女の手を羅生門《らしようもん》の鬼かとも強く感じた。
だが、それが旅川周馬でなく、お千絵様でもないとすれば、一体誰と判じていいか。この甲賀|世阿弥《よあみ》の廃家になった跡には、周馬が入れ代り、周馬はお千絵様をとりこにして、密《ひそ》かに監禁しているのだと、あの内儀がまことしやかに話したではないか。
するとあの女の話はうそだったかしら。いやいや、万吉の眼では、そんな虚言《きよげん》を吐く人間とは思われなかった。
彼は頭の昏迷《こんめい》と無駄力に疲れてしまった。
「静かにおしよ、騒ぐとかえってお前のほうの不為《ふため》だからね」
家の中でそういう声の裡《うち》に笑いが含んでいた。万吉はいまいましさに唇を噛みしめたが、所詮ムダだと知ったので、もういたずらに逆らわなかった。
「なにも、こんなにいじめることはないのだけど、逃げようとするからこっちも捕まえる気になるというもの……。実は少しお前さんに、訊きたいことがあるのだけれど、この屋敷では都合が悪いから、改めて私の宅《うち》まで来てくれないかえ」
万吉はオヤッと思った。
こう落ちついて聞くと、女の語調にどこか聞き覚えがあるばかりでなく、いう注文がいよいよ出《いで》ていよいよ不思議に聞かれたのである。
「じゃ、お前《めえ》は、この屋敷の者じゃねえんだね」
「誰がこんな、草茫々《くさぼうぼう》とした化《ば》け物屋敷に住んでいるものかね。万吉さん」
「えっ……?」
「ぜひ、頼みますから私の宅へ来て下さいな。そっちは捕縄《とりなわ》を持つ渡世《とせい》、私は裏の闇に棲む人間だけれど、思案に余っていることがあるんだから、渡世を捨てて会ってくれる訳には行きませんか。そういうこの私の家は本郷|妻恋《つまごい》一丁目――」
「あっ、お綱!?」
「――分ったでしょう」
不意に手を離されたのと、意外なおどろきにうたれたのとで、万吉はヨロリと後ろへ足を踏み乱しながら、窓の細目へ瞠目《どうもく》した。と、白い手が嫋《なよ》やかに動いて、雨戸の障子を二尺ばかり押し開《あ》けた。
急に流れこむ外の光線をうけてまぶしげな微笑を含んでいる女の半身――見ると蔵前風《くらまえふう》な丸髷《まるまげ》くずしに被布《ひふ》を着て、琴か茶か挿花《はな》の師匠でもありそうな身装《みなり》、姿はまるで変っているが、それは見返りお綱に違いなかった。
万吉はただ呆《あき》れ顔である。
家違いでもしたのではないかと見廻したが、やはりここは元の甲賀家、今では旅川周馬の門標が打ってあるその屋敷には相違ないのである。そこに見返りお綱がいる! あの妖艶《ようえん》なお嬢様姿や、粋《いき》な引っかけ帯とは、また打って変った被布姿でいるのが、いよいよ不思議にたえぬのであった。
お綱は片えくぼに万吉の気振《けぶ》りを見ながら、
「とんだ人の声色《こわいろ》を使って、定めし胆《きも》を潰《つぶ》したでしょうね」
「さすがの俺もびっくりしたよ。おまけに人の腕首をねじつけて、ひでえ真似《まね》をするじゃねえか」
「堪忍しておくんなさい。半分は私のいたずら、半分はお前さんを逃がすまいと思ってね……」
「だが、どうしてこんな所にいたのだ」
「貸したお金の催促《さいそく》に来ておりますのさ。ところがこの通りな荒屋敷《あれやしき》、いつ来てみても釘付けなので、業腹《ごうはら》だから今日は向うをコジ開けて、この部屋へ上がり込んで周馬の戻りを待っていたところが、たいそう草双紙《くさぞうし》が積んであるから、肘枕《ひじまくら》をして読んでいると、窓の外からお前さんの見当違い……まったく妙な所で会いましたねえ」
「じゃ、ここの旅川周馬という者とお前とは、ずっと以前から懇意《こんい》なのか」
「いいえ、時々|賭場《どば》で落ちあうので、懇意というのでもないけれど、二、三百両ほどの立て替えがあるんですよ……あ、こんな話は目明しさんには禁句だっけ、ご免なさいよ、ホ、ホ、ホ、ホ」
「なに、目明しは目明しでも、この万吉はほかに大きな望みを賭《か》けている体だ。ケチな十手をピカつかせることはしねえつもりだから、お上《かみ》の者とひがまねえで、何なりと明けすけに話してくれ」
「じゃ、女|掏摸《すり》でも捕《つか》まえませんか」
「さア、そいつは、どうともいえねえが、見返りお綱という人には、住吉村で助けられた恩義がある。そいつを忘れちゃすまねえからな……」
「恩も糸瓜《へちま》もありませんが、どうか、さっきもいった通り、一度妻恋の私の家へ来て下さいな」
「そして何だか相談があるといったが」
「エエ、法月さんのその後の様子を、よくご存じのようですから、それやこれやも聞きたいし……また私の思い余っていることも……」
口《くち》ごもって、お綱は、フイと心に何ものかをえがく様子である――打出《うちで》ケ浜の夜寒《よさむ》から、月夜の風邪《かぜ》はいっそう根深いものとなったらしい。
旅川周馬
「ではお千絵様、エエ違った! お綱さん。どういう話か知らないが、お前のほうの相談はいずれ場所を改めて、ゆっくり聞くとしようじゃないか」
「そう、では妻恋の私の家へ」
「日を改めて訪ねましょう」
「必ずね。固く約束しましたよ」
「万吉、義理は固いつもりです」
「ああ、それは私も見込んでいる……掏摸《すり》と目明し、オランダ骨牌《カルタ》で結べましたね」
「一つ仲好くやりましょうぜ」
「え、待っていますよ」と、お綱は蠱惑《こわく》にニッコリ笑って、すうと障子を閉《し》めかけた。
驚いたのは目明し万吉。尋ねてきた者は尋ね当てないで、尋ねもしないお綱から口約束を取られた上に、窓を閉められてしまっては、虻蜂《あぶはち》とらずな訳である。
「オット!」と、あわてて背伸びをした。
「こう、お綱さん、自分の用だけはすんだからといって、俺の頼みをきいてくれねえのは酷過《ひどす》ぎるだろう」
「オヤ、何か私にも頼みがあるの?」
「あるからこそ、かりそめにも、目明したる者の万吉が、チボのお前《めえ》と手を握ろうというんじゃねえか」
「ほんに、これはわたしが現金過ぎたね。なるほど誰かがいったっけ……。恋飛脚《こいびきやく》の梅川《うめがわ》にしろ、河庄《かわしよう》の小春《こはる》にしろ、月夜の風邪をひいた女は、他人《ひと》の都合はお構いなしで、みんな自分だけの世間のように、勝手な気持ちになるものだって」
「冗談じゃねえ、そんな手前勝手な奴らには、この万吉はつきあえねえ」
「私だって、今にどうなるか知れないよ。自分で自分の心が少し変に思えてきたからね」
「そこで、チボの足でも洗いなせえ」
「とんだ所でご意見でした。そのうち、ゆっくり考えましょう」
「エエ、また話がそれちまった。お綱さん――」と万吉、今度はいよいよ真剣に、窓の格子へつかまった。
「この屋敷の奥かどこかに、まだ誰か人がいやしねえか」
「イイエ誰もいないようだね……どこの部屋も真っ暗だし、第一|鼠《ねずみ》がいないのは、食い物なしの証拠だから、時々、旅川周馬《たびかわしゆうま》が帰ってくるくらいなものに違いない」
「おかしいなア……? たしかに、お千絵様という、前の世阿弥《よあみ》様の御息女が、ここに押し込められているという話なんだが」
「アアその御息女と私を間違えて呼んだのだね。お綱もはすっぱな姿を見せないと、これでも武家のお娘様に買いかぶられるのかしら」
「どうだろう、お綱さん」
「なに?」
「お前の相談はまだ聞いていねえが、この万吉が、命にかけてもきっとひきうけるから、現在俺の弱っている一つの大事へ、ウンと片肌《かたはだ》をぬいでくれないか」
「ほんとにかい」
気味の悪いほど真味《しんみ》な顔色で、お綱がトンと肘掛《ひじかけ》へ身を凭《もた》せてきたので、万吉は目の前へタラリと下がった被布《ひふ》の色地をみつめながら、ちょっと後の言葉を絶句した。
彼の推量では、お綱の頼みごとを、奉行所筋のことか、手先仲間の扱い事か、くらいに考えていたのである。
まさか、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》に絡《から》まる、伊達《だて》の女の初心《うぶ》な恋とは――露ほども気がつかなかった。
彼が、お綱をここで利用しようとしたのは賢明だが、この時、フイと頼みごとの交換をした一事のため、後々、万吉がどれほどの艱難《かんなん》苦労をし、どれほど骨を削《けず》り髄《ずい》を抉《えぐ》られる原因となったか知れない。
これが近世人|気質《かたぎ》なら、頼んだことはやらしておいて、頼まれたことはケロリと忘れてしまうだろうが、そうでない時代、また、そうでない気性の万吉。
「誰が嘘をいうものですか」
キッパリと言ってしまった。
お綱は、ほッと嬉しそうな顔をする。
江戸へ帰って以来、いよいよはかなきものと悩んでいた、弦之丞への接近へ、一縷《いちる》の望みが繋《つな》がれて――。
「話してごらん、万吉さん」と、吾から頼まれたがる。
「ほかじゃねえが、お前が懇意《こんい》なのは何より倖《しあわ》せ。旅川周馬のやつを欺《だま》して、お千絵様をこの屋敷から誘い出してくれねえか」
「いいとも」
一も二もなくのみ込んだ。と――お綱がフイと眼をそらし、ジッと神経を耳に澄ます様子。
悪い所へ、旅川周馬が戻ってきたのではないか、その時、塀《へい》の向うに忍びやかに、チャラリ、チャラリ……と雪踏《せつた》の音。
「周馬だろう!」
万吉は、ペタリと羽目板へ背中をつけてしまった。
そして、逃げ口を探すような眼配《めくば》りして、
「ちぇッ、悪い所へ帰《けえ》ってきやがった」
「そうじゃないよ……」お綱は少し身を退《ひ》いて、半分窓障子の蔭に隠れながら、
「あの足音は別な者らしい……」
「そうですか」と、ホッとしたらしい首をもたげて、「まだ一言《ひとこと》話し残りがあるんです。それは、幾ら周馬に押し込められているお千絵様でも、ただ、屋敷から逃げだせといったところで、お綱さんを疑って、出る気《き》づかいはございません」
「それは大きにもっともだね」
「ですから、こういっておくんなさい。――近いうちに法月様が江戸へきて、ぜひいろいろなご相談がある、それには旅川周馬なンて、亀の子だか泥亀《すつぽん》だか分らねえ奴の屋敷では工合が悪い――と、ようがすか」
「オオ、それじゃ何かい、弦之丞様もお近いうちに」
「へえ、わっしの後から来る筈なんで」
「まア……」
牡丹《ぼたん》が花を開き切ったように、お綱の顔が明るく笑った。
「いいよ、いいよ。お千絵様とかいうお女《ひと》、きっと、私が周馬をうまく欺《だま》して、誘いだして上げるから」
「じゃ、吉報は妻恋へ」
「アア、四、五日うちに聞きにおいで」
「ありがとう!」
と万吉は、八ツ手の葉蔭から、もう一度お綱へ頭を下げて、前の穴からズルズルと塀の外へ這いだした。ヒューッと寒い空風《からかぜ》が目に砂を入れて行った。
塀の穴から出てみると、もう夕暮に近そうだ。
渡世道具のてっぽう笊《ざる》。チャンとそこに待っていた。
笊もし人間なれば、怒っている。
「エエ寒い」
すぐ水ッ洟《ぱな》を啜《すす》ったのは、目明し万吉、屑屋に早変りの心支度が、自然にそうさせたものなのだ。膝や袂《たもと》の土を払って、鉄砲笊を斜めにかつぎ、
「屑ウーイ」
濁《だ》み声を淋しくひいて、二足三足あるきだしたのである。すると――すぐ。
万吉は水でも足へ掛けられたように、ハッと驚いて道を避けた。
墨渋《すみしぶ》を塗った黒塀へ、一人の男、守宮《やもり》のように貼りついて、じっと、横目でこっちを睨んでいる。
向う側を廻りながら、万吉もグイと横目で睨んだ……。
黒縮緬《くろちりめん》の頭巾、鉄漿染《おはぐろぞめ》の羽織。
黒い塀の所へ黒い人間が、ジッと立っていたのだから、ウッカリ気がつかなかったのも当然で、茶柄《ちやづか》の大小、銀鐺《ぎんこじり》、骨太だがスラリとして、鮫緒《さめお》の雪踏《せつた》をはいている背恰好《せかつこう》。
お十夜孫兵衛《じゆうやまごべえ》!
きゃつだ! まぎれもなき十夜頭巾。
――野郎、どうしてこの江戸表へ来たのかしら? と万吉、鋭い眼をくれながら、ソロリ、ソロリ、と草履を摺《す》って廻ると、お十夜もまた同じ気構え、同じ敵意。
岡ッ引きめ。
来おったナ、命を捨てに。
どうしても、おれの差している助広《すけひろ》の錆《さび》になれと、三世相《さんぜそう》に書いてあるような奴だ。
大阪以来ここしばらく、そぼろ助広にもうまい生血《いきち》を舐《な》めさせない。
斬ッてやろうか! バッサリと。
「だが待てよ……ここは俺にゃ大事な瀬戸際《せとぎわ》だ。せっかく今日、お綱を見かけてこれまで突きとめてきたものを、また関の山の時のように、とち狂われちゃ堪らねえ。まア、向うでそしらぬ顔をするなら、こっちも横を向いていよう」
こういう腹で見ているのだ。
万吉は腕がムズムズしてきた。
彼の心もまた叫ぶ。
獣《けだもの》め!
見ていろよ。見ていろよ。
方円流《ほうえんりゆう》二丈の捕縄《とりなわ》が、今に、てめえの喉首《のどくび》をお見舞い申して、その五体を俵ぐくりに締めあげるぞ。
ああ、腕が唸《うな》って堪らねえ。
だが、当分は見遁《みのが》してやら。おれにゃ別の大望があるからよ。けッ! それさえなけりゃ、汝《うぬ》なんぞ、半日だッてこの人間界へおくもんけえッ!
とは思いながら――思わず十手の柄《つか》を握ってブルブルッとふるえた。
殺気を感じて、お十夜の手も、雷光《いなずま》のように刀の柄《つか》へ飛ぶ。
あわや! とみえた。
と。塀の中から、お綱であろう、周馬を待つ間の退屈しのぎに、探し出した三味線の糸をなおして、薗八節《そのはちぶし》か隆達《りゆうたつ》か、こッそりと爪で気まぐれな水調子《みずちようし》を洩《も》らしている。
水調子の三味の音が、フッと万吉と孫兵衛の殺気を消して、二人を理性に返らせた。
殊に万吉は、
「大事な体だ、おれの体は」
一八郎の訓戒《くんかい》を思いだし、目をつぶるように気を持って、バラバラッと、早足に駈けだしてしまった。
駈ける背中を凩《こがらし》が吹き拯《すく》って、てっぽう笊《ざる》の紙屑を、蝶か千鳥かと、黄昏《たそがれ》の空へ吹き散らした。やがて高く舞ったのが、どこかの屋敷の屋根瓦《やねがわら》へ、気永にヒラ――と白く落ちてくる。
一方は、お十夜孫兵衛。
相変らずりゅうとして、縮緬《ちりめん》ぞッきの懐手《ふところで》だ。それは万吉とあべこべのほうへ、黒塀に添って歩きだした。歩きださぬときゃつの眼が、またうるさくつけてくるだろうと、それをまぎらす足どりである。だから、いたって悠々としたもの、雪踏《せつた》の裏金《うらがね》も鳴らぬ程に。
ここに、お十夜の姿をみるのは、大津以来のことであるが、困れば、相変らず持病の辻斬りを稼《かせ》ぐとみえて、身装《みなり》持物、穿物《はきもの》に至るまで、どうしてなかなかこっている。
帯も流行《はやり》の伝九郎好み、羽織の紐《ひも》とておろそかではない。だいぶ江戸ふうにかぶれたところがある。お綱好みの迎合《げいごう》をやらかし、これでお綱が参らなければ、また一工夫という腹だろうが、さりとはお十夜、どこまで根《こん》のいい男だろう。
しかしながら孫兵衛自身は、決してさまで精根を費《つい》やしている様子もなく、むしろ、精根のやり場に困っている姿だ。
そうだろう、あの好色なお十夜が、お綱を見てから禁慾同然、ボロ買いをせず辻斬りも無駄にはせず、かつ、職業というものがない。すべての精と力と時間とを、お綱を手に入れることだけに懸《かか》っている。無論、妻恋にあるお綱の家も、執念《しゆうね》くうかがっていたのであるが、遂に今日までいい折がなかった。
そのうちに、お綱が時々、挿花《はな》の外稽古《そとげいこ》に出るような姿をして、紀州屋敷の仲間《ちゆうげん》部屋に、賭博《なぐさみ》ごとをしに行くという話。今日も、紫|被布《ひふ》を着たその女が来ていると聞いて、お十夜はただちに出向いて行った。
ところが、その日お綱に酷《ひど》い落ち目が続いたため、金の工面をしに行くといって帰ってしまった、という後であった。その金の工面の行き先を糺《ただ》すと、同じく、ここへしばしば来たことのある甲賀組の旅川周馬。お綱が前に貸しがあるので、今日はどうでも取ってくるといって出たから、あの女のことだ、多分、居催促《いざいそく》をしているだろう。――こういう道筋を辿《たど》って、お十夜孫兵衛、ここへゆらりと現れたものである。
そこで様子をうかがえば、お綱はたしかにこの荒屋敷《あれやしき》の中にいる。さっき、チラと洩れてきた爪弾《つまびき》の音《ね》でも知れる。だが、旅川周馬とかいう奴、一体留守なのか、いるのだろうか。留守とすればいい都合だがな……と孫兵衛は、獰猛《どうもう》な猫が鶏の籠《かご》を巡るように、心の爪を研《と》ぎ澄ました。
そして、いつか懐手《ふところで》のまま、広い屋敷の外廓を、ブラブラ一周《ひとまわ》り廻ってしまう。
さて、やッぱり妙策《みようさく》もない。
自体、はっきりと、女のほうからご免をこうむられているお十夜だ。どう懐手をしてみたところで、妙案のある筈もなし、にわかに、お綱の心を惹《ひ》く手段のあろう理由《わけ》もない。
だがお十夜は、ないとは決して考えていない。あると固く信じている。まだまだお綱をなびかせる方法は山ほどある! 金ずく。腕ずく。根気ずく。あるいは脅《おど》し。あるいはホロリとさせる泣き落し。でなければ迫害だ、呪《のろ》い廻す助広だ。
「ふウン……いくらでもあるじゃねえか」
独《ひと》り語《ごと》を洩らした孫兵衛、ひょいと気がついてみると、いつかグルリと廻って表門の前に来ていた。
「旅川周馬」という門札は掛かっていたが、草茫々《ぼうぼう》として無住寺のような寂寞《せきばく》さ。
ドンと一つ押してみたが、門も潜戸《くぐり》も開く様子がない。お綱はどこから入ったか知らぬが、孫兵衛、縮緬《ちりめん》ぞッきの風采で、塀の中からは潜《くぐ》りかねた。
折からあたりもたそがれてきたし、人の見る眼もない様子なので、彼は門前の捨て石を足がかりとし、塀の見越《みこし》へ片手をかけて、ヒラリと上へ攀《よ》じ登った。
そして。
ポンと囲いの中へ、身軽に跳び下りようとすると、疾走してきた人影が、
「待てッ」
と、お十夜の片足を捕《と》って、ズルッ――と外へ引きずり下ろしてしまった。
驚くまに、お十夜の体、何者かに足を取られて、ズルーッと、塀の上から辷《すべ》り落ちてしまった。
「こやつッ」
と、跳びかかってきた男は、小泥棒でもあしらうように、ムズと孫兵衛の襟《えり》がみを引っつかむ。
好きにつかませておいて、お十夜は、ゆるりと右の足を前へ出し、暗い地面を爪先《つまさき》で探っていたかと思うと、脱げていた雪踏に足を突ッこんで、固くはきなおした。
いかにも図々しい落ちつきよう。そして、ギラリと凄い上目《うわめ》を射《い》た。
己《おのれ》の襟《えり》がみをつかんでいるのは、二十七、八の小男であった。若い侍のくせに、髪を総髪《そうはつ》にして後ろへ垂れ、イヤにもったいぶった風采《ふうさい》。ハハア、こいつだな、旅川周馬という男は――と孫兵衛、わざと力も出さずにいる。
丹石流《たんせきりゆう》の、据物《すえもの》斬りの達人、お十夜孫兵衛の襟《えり》がみをとって、どう料理する気か。
こいつは面白い、一つ、彼の好きに任せておいて、周馬の腕をみてやろうと、お十夜は、おとなしく身を屈《かが》ませて様子をみた。
さて、あぶない話になった。
周馬は孫兵衛の襟がみをつかんでいるが、右手《めて》が使えず。孫兵衛は、相手に襟を取られているが、右手《めて》は早くも助広の柄《つか》を握って、胴払い! 横一文字の抜打ちを気構えている。
この竦《すく》みあいはあきらかにお十夜の利だ。
旅川周馬なるものが、かりにも剣道に眼があるなら、今は危険な瀬戸際と知るところである。襟がみを離して悪し、引いて悪し、押して悪し、どう行っても変る途端に抜けてくる。胴払いの殺剣をのがれて抜きあわせる工夫はない。
「はッはッはははは」
不意に笑いだしたのは周馬である。
何の気だか分らないが、また、
「はははは……」と笑いつづけ、かつ、笑いながら手を離して、いかにも軽快な言葉づかい、
「いや、これはこれは」といったものである。
「お見うけ申すところ、どなたかは知らぬが、ご風采も賤《いや》しからぬ様子。まさか、空巣狙《あきすねら》いではござるまい。何で拙者の屋敷へ、無断でお踏みこみなさるか、仔細《しさい》がござろう、それをお聞かせ願いたい」
こう真面目になられると孫兵衛も弱った。
「いや……」と襟を掻き合せながら、「武士にあるまじき無作法をして、慇懃《いんぎん》な武士扱いをなされては、なんと面目もない次第で」
「いやいや、拙者は常に外出勝《そとでが》ち、事情によってはお咎《とが》めも致すまい。何かこのほうの屋敷内に、急な御用事でもありますかな」
若いけれど旅川周馬、総髪で納まっているだけに、なかなか能弁で如才がない。お十夜の腕と殺念の燃えた気ぶりを、巧みにかわした上、こういいながら、おもむろに相手の真意を読もうとする眼《まな》ざし。ここに猫をかぶった悪玉と悪玉とが、双方、微妙な腹探りをやりだした。
「されば」
と孫兵衛、まことに神妙な様子でいう。
「実は手前の女房が、お屋敷のうちにおりますので、それを訪ねてまいりました」
「ほほう……これは異《い》なことを」
旅川周馬、いかにも恍呆《とぼ》けた返辞をして、
「そこもとの女房といわっしゃるのは?」
「貴殿は前からご承知のある筈。見返りお綱と申す女で……。いや、まことにお恥かしいわがまま者。無断で国表を出奔《しゆつぽん》して、この江戸表に遊び暮らしているというのを聞き、はるばる尋ねてまいりましたような訳……。ところが、今日、何かそこもとに用事があって、昼からお屋敷内で待っているとか承ります。はなはだ恐れ入りますが、ここへ呼び出していただきたいものでござるが」
「やあ、ではお綱が来ておりますか」
「たしかに、中にいる様子」
「これは困った」
と周馬は頭をかいて、
「あのお綱には、少し借財がござってな。それを取りに来ているのでござろう」
「いや、借貸《かりかし》などのことはどうでも。とにかくちょっと、お綱を呼んで下さらぬか」
「承知いたした。して貴公のお名前は?」
「拙者は」グッと詰まったが孫兵衛、「藤田三四郎と申す者……」口から出まかせにいってみた。
「アア藤田殿で? 心得ました、しばらくそこでお待ち願いたい」
いたって気軽に頷《うなず》いた旅川周馬、腰から鍵《かぎ》をだして潜《くぐ》り門を開け、中へ入ってお十夜にちょっと笑ってみせたが、門を閉めてスウとどこかへ消えてしまうと、半|刻《とき》、一刻、二刻あまり、待てど暮らせどそれッきり出てこない。
鏡の裏
いくら待っても出てこない筈。旅川周馬は荒屋敷の庭を素通りに裏門の戸をコッソリ開けて、どこともなく立ち去ってしまった。
家の中に待ちうけているお綱と、門の外に待ちぼけているお十夜とを捨てて、彼は、その夜も翌日も、とうとう、この荒屋敷へ帰ってこなかった。
お十夜が、それと知った時には、既に喧嘩相手の周馬がそこにいない時で、さすがの孫兵衛も、もう一度|塀《へい》を躍り越えてみる勇気も失《う》せ、また後日の策を描いて、その夜はむなしく引き揚げて行った。
がしかし、お綱はすッかり腰をすえて、その屋敷を当分の住居のように心得ている。
女だけに居催促《いざいそく》も要領がよい。一|間《ま》どころをこぎれいに掃除して、納戸《なんど》の隅から見つけてきた置炬燵《おきごたつ》、赤い友禅の蒲団《ふとん》をかけてその中にうずくまり、側には持ち出した草双紙を、より取り勝手に見散らかしていた。
なるほど、居催促もこういう按配《あんばい》に行けば、三日はおろか一月が百日でも続くわけ。ただ不便なのは食事だが、これもいつか当座だけの用意を求めてきたらしく、呉須《ごす》の急須《きゆうす》に茶を入れて、栗饅頭《くりまんじゆう》まで添えたのが、読み本の側においてある。
緋友禅《ひゆうぜん》の炬燵蒲団に、草双紙と三味線に、玉露《ぎよくろ》と栗饅頭。そこに蔵前風《くらまえふう》な丸髷《まるまげ》の美女が、冬の陽ざしを戸閉《とざ》していたら、誰が目にも、この屋敷の若奥様か或いはお妾《めかけ》様、――まさかに掏摸《すり》の見返りが居催促とは見えなかろう。
だが、華やかなお側女《そばめ》様の生活にも、人知れない苦労があるごとく、今のお綱の腹の中も、なかなかのんきな置炬燵ではない。
旅川周馬が帰ってきたら、どういう手段《てだて》で、お千絵様の居所を聞き出そうか、ということも一つの心配なら、また、今日あたりは万吉が、妻恋の方へ吉報を聞きに来ていやしまいか、というのも気が気ではない苦労である。
そうかと思うと、お綱はまた、お伽草子《とぎぞうし》の拾い読みに、はかない女の恋物語などを見出して、弦之丞《げんのじよう》のことに思いくらべ、思わず知らず一日を暮らしてしまうこともある。――こうしてここの空屋敷《あきやしき》に、七日ばかり落ちついてしまった。
八日とたっても、まだ旅川周馬は帰ってこない。
「どうしたのだろう?」
お綱も少しあきあきしてきた。
「こんなにいつまで戻らないところをみると、この屋敷に門標は打ってあるが、ここには、住んでいないのかしら?」とも考えられてくるのである。
「第一に、お千絵様――」お綱はそれをしきりに思索した、「万吉はああいうけれど、この屋敷のどこにもいる気配はない。七日の間に奥の座敷から女中部屋まで、くまなく探していないのだもの、きっと、周馬のやつがどこかほかへお千絵様の身を隠し、そこへ行っているに違いない……。とすると、根よくここにいるのも、何だかばかばかしい話だが」
あしたは一度妻恋の家へ帰ろうと思った。
そして、万吉にこの事を話そう。
この先とも、お千絵様の居所を尋ねるについて、自分も、どこまで骨身を砕くかわりに、弦之丞様のこともあの人に頼んでおこう。
そう思いながら、お綱はいつか、炬燵《こたつ》の上に横顔をのせて、トロトロとうたた寝していた。
お綱は何を夢みるのであろうか、寝顔に笑くぼがういている。その耳には、川長《かわちよう》の座敷で聞いた一節切《ひとよぎり》、その眼には打出ケ浜の月の色がみえるのであろう。
このあたりは、みな軒《のき》のかけ離れた隠密屋敷。ましてや広い家の中には、お綱のほかに人気《ひとけ》とてなく、まだ宵らしいが、うたた寝をさますカタンという物音もしない。
と――氷へ物の辷《すべ》ったように、部屋の襖《ふすま》が音なく開いた。
ヌッと立った男がある。
行燈《あんどん》の明りを、顎《あご》から逆にうけたのが怖ろしい容貌《ようぼう》にみえた。しばらく、黙然として、うたた寝の美しい寝顔を見下ろしている……。
それはお十夜孫兵衛だった。
この間は、周馬のためにさえぎられたが、今夜は、念入りに忍びこんで来たものとみえる。
「お綱!」
と呼ぼうとしたが、孫兵衛は、この美しい寝顔をさましてしまうのは惜しいと思った。
関の山の月見草の崖に、うっとりと寝転んでいた時のお綱も凄艶《せいえん》にみえたが、緋の友禅に寝顔をつけて、埋火《うずみび》のほてりに上気している今のお綱は、お十夜の眼を眩惑《げんわく》するにありあまる濃艶《のうえん》さである。
孫兵衛は、静かに坐って、蒲団《ふとん》の中へ手を入れる。
そして、お綱の髪の香をかぐように、炬燵《こたつ》の縁《へり》へ顎《あご》をのせた。
炬燵に蒸《む》れる伽羅油《きやらゆ》の匂いに、孫兵衛、もう恍惚《こうこつ》となって、
「どんなことがあろうとも、おそらく、俺には、この女だけは殺し得まい……」
十夜頭巾にくるんだ顔を、炬燵にのせ、こんなことを思うらしい。
そして、頬へ冷たく触ってきたお綱の髷《まげ》のほつれ毛を、一筋、自分の唇にくわえながら、目は、ほれぼれと、寝伸びた女の襟《えり》あしに燃えついていた。
と、お綱は。
うたた寝の耳へ、人の呼吸《いき》が冷たくふれてきたのに、
「おや」
パチリと、棗形《なつめがた》に眼を見ひらいた。
それのみか、炬燵の中の自分の手に、誰かの大きな掌《て》が重なっていたのに驚いて、思わず蒲団から飛び離れた。
「驚くことはなかろう、お十夜だ」
「アア……」とお綱は後ろへ手を支《ささ》えて、黒猫に似た孫兵衛の姿をみつめながら、
「……とうとうここまでやってきたね」
さすがに、胸は少し動悸を打ったが、語気にひるみは見せなかった。
「なんで来ずにいるものか」と孫兵衛は、凄《すご》くニヤリとしてみせながら、
「てめえが江戸へ来れば江戸表へ、北へ逃げれば北の果てまで、我《が》を折って俺の心に従うまで、付きまとってやるということは、オオ、いつか関《せき》の明神《みようじん》でも、たしかに言い渡してある筈だ」
「ご苦労さまだねエ」
お綱はツンと横を向いて、
「道理でこの間うちから、妻恋坂の私の家やこの辺を、きざな雪踏がチャラついていると思ったら……」
「じゃうすうすは、おれの真意を感づいていたろうに、ずいぶんてめえも薄情《うすなさ》けな、血の冷《つめ》てえ女だの」
「ホ、ホ、ホ……」お綱は鼻であしらうように、
「うす情けだなんていう言葉は、お十夜さん、お前の柄《がら》にはまらない文句だよ。私の血の冷たいのは生れつき――そう育ってきたのだからしかたがないやね。嫌いな者には氷のよう、その代りにまた、好きな人へは火よりも熱い心になるのさ」
「そんな熱に浮かされている年頃には、どこの女も、みんなてめえと似たようなたわごとをいってるものなのさ。それがだんだん、世の中を知り、苦労の味を噛《か》みしめてくると、実意のある男を嫌ったことが後じゃもったいなくなるものだ」
「ご親切さま。はるばる上方《かみがた》くんだりから、そんな月並をいいに来るのは、まったく、お前さんでもなければできない芸だよ」
「おれもいつまで血なまぐさい、辻斬り稼《かせ》ぎをしているのは嫌だし、お前《めえ》も、いつまで指先の危ねえ世渡りでもなかろうが。のうお綱、ここらで一つ気を締めて、二人で大きな仕事を最後に、堅気な世帯でも持とうじゃねえか」
「ほんとに、私もいつもそう思いますよ……。だがね、お十夜さん、お前とだけは嫌ですとさ」
「なぜ!?」
「だって、それは気持だもの」
「じゃ、誰かほかに思う男が」
「お綱にもあるんですよ」
「ウム、誰だ、そいつは」
「聞きたいの……」
「オオ、聞いておこう!」と孫兵衛。
助広の鯉口をつかんで、凄い血相《けつそう》、一膝前へすりだしてきた。
お綱は、冷えた茶をグッとすすって、苦《にが》っぽい笑《え》みでお十夜の剣幕を斜めに冷視した。
こうした脅迫をうければうけるほど、お綱の意地は捻《ねじ》けるばかりで、むしろ、紅舌《こうぜつ》に男をのた打たせ、思うさま冷然と揶揄《やゆ》してやりたいような度胸まですわってくる。
「それは……いっておいたほうがいいかも知れない。そうすれば、お前さんも、自分のしていることが、どんな無駄だか、はっきり分ってくるだろうから」
「そんなことはどうでもいい! その男の名を聞こう。それをいえ」
「私の胸に誓っている人は、天涯無住の御浪人でね……」
「ウム、してそいつは」と、お綱の揶揄《やゆ》がやや深刻にすぎたので、孫兵衛、左につかむ助広の鍔《つば》をブルルとふるわせ、瞋恚《しんい》の炎を燃えたたせる。
「……法月弦之丞《のりづきげんのじよう》というお方。お十夜さん、私に指でもさす気なら、すみませんが、その人に断《ことわ》ってきて下さいよ」
「よし! おれもお十夜孫兵衛だ」
「どうするの」
「よくも恥をかかせたな!」ジリジリと寄ってきたので、さては抜き浴《あ》びせるのかと思うと、孫兵衛は、ふッ……と行燈《あんどん》を吹き消してしまった。
部屋の中は真ッ暗となった……。
すばやく、行燈を吹き消したお十夜の意《こころ》は、問わでものこと。
お綱はトンと身を退《ひ》いた。
が――咄嗟《とつさ》に立とうとした体は裾《すそ》の重みと、瀬戸物へつまずいて、よろりと、元の所へ仆れてしまった。
「おい、どこへ行く気だ」
憎々しいお十夜の嘲《あざけ》り顔が、闇にも目に見えるような気がして、お綱はまたカッとなった声走《こわばし》りで、
「お離しよ、わたしの裾を!」
どんと、対手《あいて》の胸を突いたのが悪く、かえって、孫兵衛のために、そのきき腕をつかまれた上、触《ふ》るるも忌《いま》わしい膝の上へ捻じつけられて、あたら丸髷《まるまげ》の根を揉《も》み壊《こわ》されてしまった。
「お綱ッ、情《じよう》の強《こわ》いのも程にしろよ」
「わたしには、弦之丞様という、心に誓った人があるというのに、まだそんなくどいことを」
「おう、恋仇があるときけば、なおさら俺の根性として、てめえを弦之丞のものにさせねえのだ」
「ええ、誰が、お前なんぞに! ……」腕に腕を絡《から》んでもぎ離そうとしたけれど、孫兵衛の膝はビクともせずに折り敷いて、なおかつ、女の足掻《あが》き悶《もだ》える態《さま》を心の奥で陶酔《とうすい》している。
「喚《わめ》け喚け、いくらでもジタバタいたせ。ここは関の明神と違って、何とてめえが騒いだところが、無住な伽藍《がらん》も同じ空屋敷《あきやしき》……、旅川周馬のいねえうちは、この孫兵衛と二人よりほかに、誰も出てくる者はいない場所だ。は、は、は、はは……お綱! もういい加減に我《が》を折れよ」
ひしと抱きすくめた孫兵衛、歯を食いしばるお綱の顔を覗《のぞ》いて、その頬へ自分の頬をすりつけて行こうとする。
お綱は、苦しまぎれに顔をそむけて、すり寄せてきた十夜頭巾の端に、ムズと爪を立てたのである。
ズル――とそれが脱げそうになる。
と、孫兵衛は、あたかも、忘れていた神経を、針の先で、突かれたように、ハッと、両手で頭巾を抑えた。
その間髪《かんはつ》に、お綱はさっ――と立ち上がった。
「うぬ!」
と追いかかる孫兵衛、浅ましい獣心の沸《たぎ》り狂うままに、真っ暗な空屋敷の間ごと間ごとを追い廻して、今は、眼にお綱よりほかの何ものもない。
お綱はまた必死に逃げ廻った。
けれど、運の悪いことには、このダダッ広い屋敷は、昼でもすべての戸が閉めきッてあったため、外へは一歩も逃げだせないのだ。ただ、お綱のかすかな強味は、万吉に頼まれて、お千絵様の居所を探した時、念のため、一|間《ま》のこらず歩いてあったし、押入れ納戸《なんど》の勝手まで覗いているので、茶の間《ま》から客間、中廊下から奥の間と、ほどけた帯を巻くひまもなく、尾長鳥が尾を曳くように駈け廻った。
だが、かかる場合、逃げれば逃げるほど、お十夜の執念は増すばかり、お綱を傷ついた色鳥《いろどり》と見れば、彼は情炎の猟犬に等しい。
今しも、だんだんに追いつめてきた奥廊下。
鉤《かぎ》の手に曲るところを、そのままそれればまたもとの茶の間《ま》あたりへ入るのだが、そこへ行っては、いよいよ袋詰めにされてしまう。
で、一方をまっすぐ走ったのである。
そこは九|間《けん》の橋廊下。渡るとすぐに部屋がある。右は書院、左は居間、昔、この屋敷の主人《あるじ》、甲賀|世阿弥《よあみ》のいた頃は、ここを居所《きよしよ》と定めていたものらしく、すべて木口もしっかりとした別棟である。
お綱はそこへ逃げてきた。
すぐに書院を開けようとした。ところが――開かない!
はッと思って、居間の杉戸へ手をかけた。もう、お十夜の影、バタバタッと橋廊下まで追いついてきた。
「ああ! どうしよう」
お綱は絶望の声を洩らした。
そこもやっぱり開かないのであった。
不思議な! と、思う余裕はなかったろうが、いつか、ここをあらためた時には、たしかに、どッちの部屋も開いて、内から錠《じよう》を下ろせるようになっていた筈――?
「待てッ、お綱!」
悪魔の爪が襟《えり》もとへさわった。お綱はそれを潜《くぐ》り抜けた。だが、もう廊下はドン詰り!
是非がない。お綱はそこで振りかえった。猫を噛むの窮鼠《きゆうそ》となって、帯の間から引き抜いた匕首《あいくち》を逆手《さかて》にもち、寄らば、お十夜にズタズタに斬られるまでも、こっちも、相手のどこかしらへ、一突き刺し貫《ぬ》いてやろうという女の一念。
紅をさいて吊りあがった眦《まなじり》、髷《まげ》も笄《こうがい》もどこかへ落ちて、ありあまるお綱の黒髪、妖艶といおうか凄美《せいび》といおうか、バラリと肩へ流れている。
お十夜の血は狂いに狂った。意馬心猿《いばしんえん》――という相《すがた》である。
浅ましや孫兵衛。その廊下のつきあたりまで、お綱を追いつめてきたかと思うと、いきなり、跳びついてゆこうとした。
飢えた狼《おおかみ》が、鶏へかかったように。
と――かれの血眼を、キラリとさえぎったものがある。お綱が、死をきわめて、待ちかまえていた匕首《あいくち》の色! 寄らば、という気ぐみが、その切《き》ッ尖《さき》に張りつめていた。
はっと、お十夜は気をすくめた。
つり上がったお綱の眼と、月形の刃《やいば》が、こんどはあべこべに、お十夜のほうへ、一、二寸ずつ迫ってくる。
前にもいったように、お綱のうしろは廊下の行き詰りで、左右は、居間と書院の檜戸《ひのきど》だ。逃げようとて逃げられる場所ではない。お綱の身は、今こそ、お十夜の爪にかきむしられるか、その匕首《あいくち》をもぎとられて、かれに心臓を刺されるか、途《みち》は二つを出ないのである。
死ぬのがましか。どうあろうと、助かるのがまだしもか。誰が! こんな男にゆるすものか。お綱はそう思うほど強くなった。
けれど孫兵衛は、ひとかどの男さえ、歯の立たない丹石流《たんせきりゆう》の達者だ。なんで、女の匕首《あいくち》に、身を掠《かす》らせるような隙があろう。獣情《じゆうじよう》と殺気に、らんらんと燃える眼《まな》ざしをして、ジリジリ……となおも彼女の手元へよってきた。
ええ、口惜《くちお》しい!
お綱は、唇をかみしめ、匕首の切《き》ッ尖《さき》をブルブルさせた。けれど、ともすると、孫兵衛の体が、それを潜《くぐ》ってきそうになるので、一足|退《の》き、二足さがり、いよいよ袋廊下の壁ぎわまで攻めつけられてしまった。
「もうだめだ!」
心の奥で叫びをあげた。と一緒に、彼女の心は意気地なく萎《な》えかけたが、ふとみると、お十夜は、何か物《もの》の怪《け》にでも逢ったように、一、二間ほど前で、急にじっとなったまま、寄りついてこなくなった。
なぜ! というに。
お綱のうしろから、もの凄い顔をした、黒頭巾の男が、ぬッと、彼に見えたから――
「あっ……」
お十夜の情血《じようけつ》がいっぺんに冷たくなった。残ったのは兇暴な殺気だけだ。彼は、女のうしろから、ヌッと覗《のぞ》いた男を、そも、誰かと、五体を硬《こわ》ばらしている……。
お綱には、うしろをかえりみる余裕がなかった。
よもや、自分のうしろから、そんな男が見えたために、対手《あいて》が二の足をふんだとは知らない。ただ一念に、匕首《あいくち》を逆手《さかて》にかまえ、最後の心支度をして待った。
刻……一刻、穴のような闇に、二人の、息づかいだけが数えられる。
そのうちに、お十夜が、
「おウ……」とかすかな唸《うめ》きをもらした。
かれが、脅《おびや》かされた向うの男は、どこからか、きわめてほのかにさす光線で、自分のかげを自分の目に映した一面の姿見なのであった。舶載物《はくさいもの》であろう、幅二尺七、八寸、長さ五尺ほどな玻璃《ギヤマン》の鏡――、それが、行きづまりの壁に、戸のようにはめこんであったのだ。
闇に馴れた目で、それを知ると孫兵衛は、なんのこったといわんばかりの様子、前にもまして、猛然と、ふたたび、お綱へ迫ってきた。
途端に、お綱。
「ちくしょうッ!」
命がけの匕首をふるッて、かれの脾腹《ひばら》を狙ってきた。
「ええ、往生際《おうじようぎわ》の悪い女だッ」
孫兵衛は苦もなく身を避けた。そして、お綱の手くびをつかみ止め、手強《てづよ》く捻《ねじ》り曲《ま》げようとする。
「ちイッ」と、歯を食いしばるお綱の息! 振り動かす匕首と、お十夜の手が、同じ角度を幾たびも閃《ひら》めいた。
「あっ痛《つ》!」
不意に小指を咬《か》まれたので、孫兵衛は女の胸をドンと突き放した。
ヨロヨロとあおむけになったお綱は、思わず、うしろの鏡へ手をついた。――とたんに、壁はクルリと一転して、あっというまにお綱の体は、車返りにはねこまれて姿を消し、孫兵衛の前には、ただ冷たい鏡だけが立っていた。
掌《て》のうちの玉を見失って、あッ気にとられた孫兵衛は、
「や? 龕燈返《がんどうがえ》し――」
泳ぐように壁ぎわへきて、その大鏡面《だいきようめん》をグンと押してみた。
すると、鏡は自然に壁を離れて、くるりと廻る仕掛になっている。
孫兵衛も、うッかりすると、その中へはねこまれそうになったが、はっと驚いて身を退《ひ》いた。
がんどう返しと呼ぶ非常口は、武家屋敷の主人の居間近くには、必ずどこかに伏せられてあると聞いたが、当時、珍しい南蛮渡《なんばんわた》りの大鏡を壁にはめこんで、そこから一体どこへつづいているのだろう。
「うぬ、ここまで追いつめて、逃がして堪るものか」
彼は、も一度それへ手をかけた。すると、
「あぶのうござるぞ」
不意に後ろで声がした。
同時に、なれなれしく肩に手をかけて、
「はははは。うッかりその鏡の裏を覗《のぞ》き召さるな。鏡の裏は奈落《ならく》の闇、ドーンとはねこまれたが最後でござるぞ」
嘲笑をふくんでいう者がある。あっ、誰かと驚いて、孫兵衛、ヒョイとふりかえってみると、例の総髪の若侍、旅川周馬という男だ。
周馬は、とにかく屋敷の主《あるじ》である。どこから出てこようと不審ではないが、お十夜はさすがにちょっと戸まどいをして、咄嗟《とつさ》の言葉が見つからない。
「孫兵衛殿」
かれはすでにお十夜の名まで知っていた。ニヤリと皮肉な笑い方をして、
「とうとう塀《へい》をのり越えてまいられたな。なかなかお忍びがお上手なもので、周馬感服しましたわい。それはいいが、鏡の裏へ呑まれたお綱、ありゃそこもとの妻だと仰せられたが、嘘でござろう、分っている。はははは、お互いにな、強情な女には手を焼くものでござるて」
何もかも呑みこんでいるような口ぶり、若いくせに、年よりじみた言葉づかいで、さっさと、書院の戸を開けて、スッと中へ入りながら、
「お綱は質《しち》にとりましたぞ、この周馬がな。ところで、あとのご相談、どういうご希望があらっしゃるか、ここで聞こうじゃござらぬか」
カチッ、カチッ……と燧石《ひうちいし》をすりながら、書院の中でいっている。やがて、ぼうと灯がついて、あたりへ燻《くす》んだ灯影が流れてきた。
「お入りなされ、お十夜殿」
いよいよいけない。足許《あしもと》を見透《みすか》している。
孫兵衛も、こいつは少し苦手《にがて》なやつだと思った。咎《とが》め立てをするとか、いきり立って斬りかかるとかいう奴は、かれにとって、まだ扱《あしら》いいいが、いやにねッとりした旅川周馬、白いのか黒いのか、腹の底が知れないので、しばらく閾《しきい》をふみかねていた。
「ご遠慮はない、ここは周馬の居間でござる。拙者はどうでもよろしいが、お綱を質に取られたままでは、そこもとの立場として、まさか、このままお帰りになれますまい。受け出すか、お流し召さるか、ご相談があろうというもの。さ、さ、ずっとこちらへ――」
「ウム!」と孫兵衛、余儀なく大きく頷《うなず》いて、ズッとそこへ引っ提《さ》げ刀で入りこんだ。
「いかにも、お綱を申しうけて帰りたいが、まさか、鏡の裏から屋敷の外へなど、抜け道があるのではあるまいな」
「お案じなさるまい。只今も申したような奈落の闇、逃げてくれればまだよいが、悪くすると、あのまま、息が絶えたかもしれぬ」
「えっ!」
死なしてしまっては玉なしである。お十夜はやや狼狽《ろうばい》して、また鏡のところへ立とうとすると、周馬は、人の悪い薄《うす》ら笑《え》みを浮かめて、
「したが、まアお待ちなされ、生死のところは、いずれこの周馬が後に見届けてまいるであろう。その前に、そこもとのご希望を一つ……いやなに、それは伺うまでもなかった。つまり、お綱を手に入れたいご一念、問うだけ野暮でござりますな。いや万々《ばんばん》承知いたしてござる。じゃあ、こんどは一つ、拙者側の注文を申し出よう、それをきいて貰わにゃならぬ」
「うむ、お綱を身どもに渡すかわりに……?」
「さよう、貴殿にお頼みがござるので」
「話によっては引きうけよう」
「お嫌《いや》ならば、なアに別に、無理とは申さぬ。ただ、お綱があのまま、ふたたび息を吹っかえさぬだけのことに終るので」
「ま、とにかく、そちらの希望を、承ろう」
孫兵衛をじらしておいて、
「では言いましょう」と、旅川周馬、悪賢い目で、額《ひたい》ごしにお十夜の顔を見つめた。
悪玉と悪玉
「それは、つまり……」
と、旅川周馬、
「ほかでもないが、そこもとの得意なものを、お借り申せばよろしいので」
「身どもの得意なものを?」
お十夜は解《げ》しかねた面《おも》もちである。
がんどう返しの穽《おと》し穴《あな》に墜《お》ちた、お綱の身を質《しち》にとって、その交換条件に、得意なものをかせとは、一体なんのことかしら? ……と旅川の顔をみつめ返した。
「さよう」
周馬は悪く落ちついて、
「そこもとのお得意といえば、裏書《うらがき》していうまでもなく、そこにお持ちの助広で」
「うむ?」
「人を殺していただきたいのじゃ」
「なるほど」と、思わずうなずいてしまったが、孫兵衛はおどろいた。この周馬のやつ、いつのまに、おれの辻斬り稼《かせ》ぎをしていることや、刀の銘《めい》までみていたのだろう?
「どうでござる。ウンと一つ呑みこんでは」
「まず、ゆるりと、考えてみた上にいたそう」
「いかにも、安受け合いは頼もしくない、どうぞごゆるりと、算盤《そろばん》をとってごらんなさるがよい」
「なかなか念入りなお頼みだ」
「どうして、こちらでは、これでも至って、手軽な注文をつけたつもりなので……」と銀延《ぎんのべ》の煙管《きせる》をだし、行燈《あんどん》の灯口《ほぐち》から、周馬は、すぱりと一服吸いつけながら、
「それをご承知下さるなら、鏡の裏へ落ちこんだお綱の体は、このほうが必ずお渡しいたすであろう。嫌と仰せあらば、それまでのこと、まず物別れとなるよりしかたがありますまい。したがって、お綱の生死、この周馬には責任もなし、或いは、妙な依怙地《えこじ》になって、かえって、女の味方になり、よそへ逃がしてしまうかも知れませんて……とかく人間というやつ、その依怙地のほうへ曲りたがるものでしてな」
独《ひと》り言《ごと》のように、そそのかしたり、おびやかしたりするのである。
お十夜のような曲者《しれもの》を、こう呑んでかかる旅川周馬には、邪智に富んだ一面があって、たえず、悪心が陰謀的に、また打算的に働く性格をもっている。
それに反して、孫兵衛の質《たち》は、慓悍《ひようかん》なる一本気で、計画もなく衒《てら》いもなく、本能にまかせて、悪を悪とも思わずに、なんでもやってのけようとする先天的なほうであった。
どっちも物騒きわまる人物だが、周馬を、江戸という都会型の悪党とみるならば、孫兵衛は、元|阿波《あわ》の原士《はらし》であるところの、野性的な悪党だということができる。
この悪玉と悪玉。
妙なはずみで、お綱の体を渡すか渡さぬかの、懸引《かけひき》くらべになってしまった。
けれど、三寸の舌先では、とても孫兵衛は周馬の敵ではない。まるで、さっきから、いやこの間、この屋敷の門前で逢った時から、翻弄《ほんろう》されぬいているようなものだ。
「こましゃくれた青二才め」
お十夜はむっと癪《しやく》にさわっていた。
お綱を渡すも渡さぬもあるものか、面倒くさい、こいつから先に片《かた》づけて、あの鏡の裏の穴蔵をあらためてみよう。
と――密かに殺気をふくんでいると、周馬はまた、薄《うす》ッぺらな笑い方をして、
「だいぶご熟考でござりますな。ご決断はまだでござるか。はははは……造作《ぞうさ》もないではござらぬか、辻斬り屋の孫兵衛殿が、一晩暇をつぶせば、それですむので」
「まあ、もう少々考えさせて貰いたい」
じらしてやろうという気と、隙を計る心支度《こころじたく》とで、孫兵衛は、上眼《うわめ》づかいに腕ぐみをしていた。
「さようか、夜が長うござるから、お考えもゆるゆるでよろしかろう。しかし、煎《せん》じつめた話が、そこもとの運命は、つまりお綱と似たり寄ったりなもので、この周馬の手に握られてしまったのだ。イヤまったく、偽《いつわ》りのないところじゃ。命と惚れた女がほしいなら、孫兵衛先生、ウンとご承知あるよりほかに行き道はありませんぜ」
いい終るのを待たず、お十夜が、
「えい、生意気なッ!」
とつかみとった助広の一刀。
脇の下に鍔《つば》を抱き、サッと抜き打ちに、相手の眉間《みけん》へ斬りつけると、
「おッと、あぶない!」
と、旅川周馬、手をつかえて身をかわし、煙管《きせる》の雁首《がんくび》を青眼《せいがん》の構えにとって、
「――なるほど、そいつが丹石流か、これじゃお綱も嫌うだろう、よし給えよ、そんな野暮《やぼ》は……」
腰も浮かさずにひやかした。
冷やかされたので、お十夜の怒気《どき》は、ムラムラと燃えた。
「周馬!」
と睨《ね》めて、片膝をたて、
「ふざけやがッて! この孫兵衛を甘くみたな。お綱はもとよりおれの女だ。渡してやるもやらねえもあるものか」
助広の鎬《しのぎ》に、行燈《あんどん》の灯をギラギラとよじらせながら、その切《き》ッ尖《さき》を、周馬の鼻ッ先へ寄せて行った。
「――さ、お綱をつれて帰《けえ》るんだから、鏡の裏の穴蔵へ案内しろ! イヤの応のといやあ真ッ二つだからそう思え」
「冗談いっちゃいけない」
煙管を構えて、旅川周馬、五、六寸ほど後《あと》ずさりして、
「そんな刀を引ッこぬいて、こけ脅《おど》しをする貴様の方が、よッぽど甘くみている。そりゃ、腕にかけたら、貴様の方が強いだろう。しかし、ここは甲賀組の墨屋敷《すみやしき》、おまけに悪智にたけた周馬様がお住みの家だ、どんなカラクリがしてあるか、よく四辺《あたり》や足もとを見廻してから、手出しをするならするがいいぞ」
と、いわれたので、お十夜もぎょッとした。
みると周馬の左の手が、いつのまにか、部屋の角柱《すみばしら》に伸びていて、そこにある鈎《かぎ》のようなものへ指をかけている。
「引くぞ、こいつを」
周馬は相手の眼色に、そのうろたえを察しながら、
「床板《ゆかいた》ぐるみ奈落へ行くか、上の天井がズンと落ちてくるか、一つ仕掛けの種明しをやって見せてもいい。だが、そんなことで命を無駄にするのももったいないじゃないか。ええ、お十夜。まだお互に、これから花も実《み》も結ぼうという悪党同士だ、そう怖《こわ》い面《つら》をしておらずに、周馬の相談に乗るほうが得策《とくさく》だろう」
「ウーム……」と、さすがな孫兵衛も、やや薄気味わるくなって、抜いた助広のヤリ場がなくなってしまった形。
いうまでもなく、この部屋には、なにか危険なカラクリ普請《ぶしん》がしてあるのだ。さもなくて、自分の口から、腕ではかなわぬと告白している周馬が、アア落ちつきはらっていられるものではない。
と、周馬は、相手のひるんだ色を、すぐ心に読んできて、その足もとへまた懸合《かけあ》いをもちだした。
「まず、その刀を退《ひ》いてはどうだ、分《ぶ》の悪い相談ならともかく、この周馬が、貴様に殺してくれと頼むのは、そッちに取っても、遅かれ早かれ、生かしておけぬ奴なのだ……。してみれば、まんざら他人のためばかりじゃない、その上に、ウンといって手を貸してくれれば、お綱を渡そうという条件ではないか。こんな割のいい仕事を振られて、野暮《やぼ》な刀をふり廻すなどとは、さてさて頭の悪い悪党だ」
「ふウム、じゃ何か……そっちで殺してくれという奴は、俺にとっても仇《あだ》のある人間なのか」
「さよう。二人にとって、生かしておけぬ男なのだ」
「というのは……どうも俺には見当がつかねえ。一体誰だ?」
「実を申すと、この周馬の恋仇《こいがたき》でな」
「けッ、ばかにするなッ」
「怒るまい――。拙者にとっても恋仇だが、そっちの身にも恋仇にあたるやつ。それは法月弦之丞《のりづきげんのじよう》! いくら頭のわるいそこもとでも、この名を忘れてはおるまいが」
「ヤ、弦之丞を?」
「どうかして殺したい! 手を砕いても、きゃつを亡《な》きものにせねばならぬ」
「ウーム、そうか! 相手が法月弦之丞なら、この孫兵衛も手を貸してやろう」
「そうだろう、イヤ、そう来なければならぬ筈だ。あいつに息がある間は、一生涯、脅《おびや》かされていなければならぬ、この周馬と同様に、貴様にとってもお綱の恋仇、頼まれないでも、急に殺したくなってきたに違いない」
「そうならそうと、最初から相手の名をいえば、おれだって、こんな刀《もの》は抜きゃあしねえ」
と、孫兵衛は助広を鞘《さや》に戻して、
「だが、お前《めえ》の恋仇とは初耳だ。一体、そっちの恨みという事情は……?」
「それは一朝一夕《いつちよういつせき》に話せぬが、つまるところ、お千絵という世阿弥《よあみ》の娘も、弦之丞に思いをよせて、あいつに逢うのを一念で待っているのだ」
「そのお千絵に、お前《めえ》が嫌われているという筋か」
「ちょうど、お身がお綱に嫌われているごとく」
「エエ、口が減《へ》らねえ。だが、弦之丞という奴は、どこまで女に果報《かほう》のある奴だろう」
「だから殺してしまうがいい」
「して、今の居所は?」
「あしたは江戸へ着くという所を、たしかに、拙者がつきとめている」
法月弦之丞が江戸へ帰る!
これは、旅川周馬にとって、まことに、由々《ゆゆ》しい脅威《きようい》である。
かれは今、世阿弥の残した秘財と、美しいその息女とに、色慾《しきよく》の二道《ふたみち》かけて、さまざまな画策《かくさく》をやりぬいている最中だ。
そのお千絵様はどこにいるか?
その財宝とは何をさすのか?
これはひとり周馬の黒い腹の中にあることで、もとより、お十夜などには、おくびにも洩らす筈がない。
かれはただ、この凄腕《すごうで》のある孫兵衛――丹石流の据物斬《すえものぎ》りに、妖妙《ようみよう》な技《わざ》をもつお十夜を、うまく利用しようというつもりなのである。
で、この間うちから、ここへ来ているお綱を、孫兵衛がつけ廻しているのも知っていながら、わざとそしらぬ顔をして、すべての様子を察知《さつち》した上、予定どおり、巧みに孫兵衛を抱きこんでしまった。
しかし。
お十夜とて、一筋縄《ひとすじなわ》でいくしれ者ではない。かれがお綱の口から法月弦之丞という名を洩らされていなかったら、おそらく、周馬の舌も操《あやつ》ることがむずかしかった。
ところが、相手という者が、お綱の恋する弦之丞――ときいて、彼の心がにわかに変ったのである、すぐに加担《かたん》する気になった。
「よし! おれが殺《ばら》してやろう」
その言葉に、多寡《たか》をくくった調子が十分にあった。で、今度は、周馬が大事をとって、
「待ちたまえ」
と、かれの暴虎《ぼうこ》の勇を押さえた。
「なんで!?」
「下手《へた》をやると失敗する。なにせよ法月弦之丞は、夕雲《せきうん》流の使い手で、江戸の剣客のうちでも鳴らした腕前、さよう……貴公と拙者と二人がかりで、やッとどうかと思われるくらいだ」
「ほほう、夕雲流をやるやつか……」これは孫兵衛の初めてしるところだった。イヤ、その人となりのみならず、お十夜は、まだ今日までの間に、弦之丞という者に、面接したことがないのである。
もとより、その腕前が、どれほどなものか、尺度は周馬の話でも分らない。
とにかく、撰《よ》りに撰《よ》った悪玉と悪玉とが、この夜、手を結んだのは、弦之丞の身にとって、怖るべき不幸の兆《ちよう》だ。
「では仲なおりに――」
と、話|半《なか》ばに、周馬はその部屋から立ち上がって、
「どこかへまいって一杯|酌《や》ろう。細かい話や、あしたの手筈《てはず》は、そこで飲みながらのことと致して」
「だが、待ってくれ」
お十夜は出渋った。
「お綱は一体どうなったんだ?」
「死にはしまい……、ただし、気絶ぐらいはしているかもしれないが」
「じゃ、なんとか手当をしておかなくっちゃ……」
「ご無用ご無用、今にひとりでに気がつくであろう。また気がついたところで、逃げられる気づかいのない穴蔵だ」
スタスタと廊下を先に歩きだした。
お十夜の方は、まだ幾らか、お綱に気がかりを残すらしかったが、ぜひなく、周馬についてそこを出る。
玄関へ出るのかと思っていると、そうではなかった。
真っ暗な、奥の一間へ入って、床脇《とこわき》の壁をギーと押した。壁に蝶番《ちようつが》いがついていて開《あ》くのである。と、床下へ向って深く、石の段がおちこんでいる。
二人の影がそこへ消えた。
表構えを釘づけにしてあるとみせて、周馬は、たえずここから出入りしているものらしく、馴れた足で、まっ暗な道を、サッサと先に歩いてゆく。
と。――星がみえ、木の葉が見えて、やがて数十歩で出た所を見廻すと、お茶の水の崖である。
日蔭《ひかげ》の花
「あ……っ……」
と、かすかに動いた影がある。
お綱は、やっと意識づいた。――気がついて、ジッとあたりを見廻したが、そこは、音もなく、光もない、まったくの暗黒。
どこへ――という気もなく、お綱は、よろりと立ち上がった。
「オオ、どうしたのだろう……私は? 私は? ――ああ、墜《お》ちたのだっけ! 妙な所へ」
何物へか触れようとして、泳ぐように歩きだしたお綱は、墜ちた時の体の痛みに、思わずそこへ仆れてしまった。
だが、痛くなかった。
そこには畳が敷いてある。プーンと、湿《しめ》っぽい煤《すす》の匂いが鼻をうった。そして、どうやら伽藍《がらん》のように広い部屋だという気がした。
深々《しんしん》と、毛の根のしまる寒さと、所々、骨ぶしの痛むのをこらえながら、かれはまた、暗黒の部屋を探りだした。
けれど、そこは、手探《てさぐ》りで測《はか》りきれないほどな広さであった。畳《たたみ》数にしたら、およそ七、八十畳も敷けているかと思われる。
太い角柱《かくばしら》にさわった――八寸角ぐらいの堅い柱である。
また、氷のように冷たい羽目板も撫で廻した。二|間《けん》おきに柱があり、また羽目板がつづいていた。
こうして、グルリと一巡探ってみると、この部屋は、目鼻のない顔のごとく、障子もなければ出口もなく、無論、床の間とか書院窓のような造作もない。
「アア、やっぱりここは、屋敷の地底《ちぞこ》へ建てた隠し部屋に違いない……」
冷静にかえると同時に、ふだんのお綱に戻ったかれは、その時、初めてハッキリと、自分の居場所が分ってきた。
そして何やら、カラリと、足にふれて鳴った物がある。手を伸ばしてみると匕首《あいくち》だ! 自分が鏡の裏からここへ墜《お》ちた時まで、握りしめていたあの匕首だ。
こんな場合、刃物《はもの》というものは、不思議な強味を与えるのである。お綱は、それを拾って、暗闇の畳の上へ、くの字形に体を投げた。
「――喚《わめ》いたところで、しようがありゃしない」
自分で自分の心にいいきかせるように。
「ジッと落ちついていれば、そのうちになんとかいい智慧もあろうというものさ……。眼が馴れてくれば暗闇でも見えるというし、夜が明ければどこからか、少しぐらいな明りが射してくるかも知れない」
こう思い決めるとともに、努めて、無駄に疲れまいと心がけた。いたずらに心身を疲らしてしまうことが、何より恐ろしいことだ、という点に気がつくほど、お綱は、取り乱していなかった。
と……。お綱の澄みきった神経が、やがて、不思議なものを感じてきた。
目に感じたものでもなく、耳から感じたものでもない。どこからともなく、忍びやかに、きわめてほのかに、プーンと薫《かお》ってきた得《え》ならぬ香気なのである。
「おや? ……」
かれは、ハッとしてあたりの闇を見廻した。
身動きをしてすら、その妙《たえ》な薫《かお》りは、掻き消えてしまいそうにかすかであった。
しかし、お綱は、その一脈の芳香に、全身の神経をあつめて不思議に思った。こんな地底の穴蔵に、あり得べからざるいい匂《にお》いが、一体、どこから流れこんでくるのだろう? ……と。
惑うているまにも、お綱は、あまりに好ましい香気に、酔わされるような、溶《と》けゆくような気持になった。その香気は、日向《ひなた》に蒸《む》れる薫梅《くんばい》のような陽香ではない。ちょうど、日かげにつつましく匂《にお》っている丁子《ちようじ》の花を思わせる陰香である。
いつのことであったか。
お綱は、挿花《はな》の師匠になりすまして、さるお屋敷の聞香《ぶんこう》の席にまじっていたことがある。
その時、雁金香《かりがねこう》であるとか、菊水であるとか、新月、麝香木《じやこうぼく》などと、おのおのが自慢に焚《た》くのを眺めて、まア、この人たちは、なんというばかばかしい悠長《ゆうちよう》な遊びをしているのだろう、小判を欠いて焚《た》くような、たかい名香を煙にするくらいなら、骨牌《カルタ》でもしたらよかろうに、と隅であくびを噛んでいたことであった。
で――この匂いを、何香《なにこう》とさぐり当てる力はないまでも、それに近い物の薫りだ、というだけは確かめられた。
それはそれと分ったが、さて、誰が? どこで? このいい匂いをたてているのか――となると、皆目《かいもく》判断がつかなくなる。
お綱は、も一度、眸《ひとみ》をこらして見廻した。
しかし何べん見ても、そこ一面は、やはり厚ぼったい闇が陰湿《いんしつ》にこめてあるのみだ。
と。お綱の目が、向うの隅へ、はッと、吸いつけられたのである。
暗《あん》たんたる中に、ツウ――と赤い、一筋の光がみえた。まさに無明《むみよう》の底から碧落《へきらく》を仰いだような狂喜である。お綱は、われを忘れて闇を泳いだ。
そこへ駈け寄ってみると、いよいよ香《か》ぐわしい匂いが強く感じられた。細い明りは、隅の太柱と羽目板との境の、わずかな隙間から洩れている。
丁子《ちようじ》の薫《かお》るに似た香煙も、その隙から、忍びやかに流れてくるのだ。お綱は、この板壁の向うにいるのが、何者であろうと考えてみる余裕もなく、
「おっ、誰かいる!」
匕首《あいくち》の柄《え》をみずおちに当てて、力いっぱい、板壁を突《つ》いてみた。だが、欅《けやき》かなんぞの厚板とみえて、刃物の尖《さき》がツウ! と辷《すべ》った。
「あ、これを折っては……」と、匕首の尖《さき》を透《す》かしてみたが、折れていなかったのでホッとした。
偶然、この短い刃金《はがね》を握って離さなかったのが、奈落をのがれるただ一つの活路である。お綱は、そう思って、鉄のような欅の羽目板に向い、こんどは、きわめて大事をとりながら、サクリ、サクリ……と仮面《めん》でも彫るようにえぐり始めた。
白い短刀の切ッ尖《さき》から、削らるる木屑《きくず》が、シュッシュッと顔や胸へ散ってくる。かれは知らず知らず一心になれた。そして、一寸一寸と、彫りこまれてゆくのが、自分の最善な活《い》き路《みち》であるように信じられてきた。
と。さすがに鉄壁のような欅張りも、ようやく、眸《ひとみ》の覗《のぞ》かれるぐらいな穴が彫れた。サクリッ……とえぐりこんだ短刀の肌に、淡明《うすあか》りがだんだんと濃くなった。
そこで、お綱は、初めて、しぼるような汗の冷々《ひやひや》と肌をぬらしているのに、ホッと息をついて、乱れ毛を耳の根へなでつけたのである。
「誰だろう? こんな所に住んでいるのは」
初めて、疑惑《ぎわく》をもつだけの余裕がでた。匕首《あいくち》の刃を手裏《てうら》にして、ジッとえぐりこんだ穴へ眼をあてて覗いてみると、――おお、まさしく、そこには、お綱の想像もしなかった景色が深沈《しんちん》と、不可思議なる夜の底に沈まれてあったのだ。
どうだろう!
そこにはありありとして二人の婦人がいたのである。
部屋は、お綱のいる所の、暗たんたる板と柱の穴蔵と違い、普通と変らぬ部屋づくり、むしろ、美々《びび》しい結構である。
金砂子《きんすなご》の袋戸棚、花梨《かりん》の長押《なげし》、うんげんべりの畳――そして、淡《あわ》き絹行燈《きぬあんどん》の光が、すべてを、春雨のように濡らしている……。
その床《とこ》の間《ま》に向って、臈《ろう》たけた一人の女性《によしよう》が黒々とした髪をうしろにすべらかし、ジッと合掌したまま、作りつけた人形のごとく、或いはこの部屋のまま、この灯《ほ》かげのともったまま、ミイラになっているのではないか? ……と思われるほど、動かずにいるのである。
その側《わき》には、また、もう一人の女がいた。
両手をついて、合掌している女性のごとく、これも果てしなくうつむいている。縷々《るる》としてのぼるのは香の煙である。
糸より細い煙のすじが、床の香炉《こうろ》から夢のように立っている。そして、日蔭の丁子《ちようじ》に似るゆかしい香りが板一重を隔てたお綱をも酔《え》わせて、恍惚と、身のある所を忘れさせる。
「ああ、誰だろう……? ここは一体どこなのであろう?」と、お綱の頭脳がその時、一心に考え迷った。
と一緒に、かれの記憶を、ピーンとよみがえらせたのは。
お千絵《ちえ》様?
その人の名であった。
「たみや……」
ひッそりとした静寂《しじま》のなかに、鈴をふるような声がした。床《とこ》に向って、名香を焚《た》き、石のごとく目を閉じていた臈《ろう》やかな女性《によしよう》――その人の口から、やがて、低く洩れた言葉なのである。
「はい」
侍《かしず》いて、手をつかえていた中年の女。心もち顔をあげて、ジッと、仕《つか》えるお方の姿を見上げているうちに、何の意味か……ポロポロと畳《たたみ》に落つる涙の音……。
女は、泣いているのである。
と。床に向っている女性《によしよう》の、うしろ姿も、ソッと涙を拭くらしい。
絹に漉《こ》されるほのかな灯が、あたりを柔らかに照らしてはいるが、さすがに夜、ましてや地の底――、部屋の調度の美《うる》わしさも、若い女性の住む所にある明るさも、すべてが、深沈とした鬼気にかき消されて、一味の凄《すご》さ、というようなものさえ流れているかにみえる。
おっ。たしかに、お千絵様。
お綱は、胸をドキッとさせた。
そことは、板一重の穴蔵部屋で、やっと小指の入るくらいな隙まを作った所から、お綱は、息を殺して覗《のぞ》いている。
そして、その人こそ、お千絵様にまぎれのない方――と思いながら、お綱は、何とは知らずゾーッとして、髪の毛から足の先まで、全身の血が、凍ってくるかのような心地をおぼえた。
凄《すご》いといって、生れてから、こんな凄い気がしたことはない――と、お綱は後で、万吉にもしみじみ話したことである。
でも、じっと、息をひそめて覗いていると。
「たみや……」
夜の淋しさに堪えぬかのようにまたこう呼んで、若い女性《によしよう》は、はふり落つる涙をふく。
凄いとみれば、円山応挙《まるやまおうきよ》の美女の幽精《ゆうせい》。チリにもふれぬ深窓の処女とみれば、花水仙《はなすいせん》の気高さを思わせる姿である。その女性こそ、甲賀家の家付きの娘、お千絵様なのであった。
かかる冬の冷々《ひえびえ》とするのに、下には色地の襟《えり》をみせているが、上には、白絖《しろぬめ》の雪かとばかり白いかいどりを着て、うるしの艶《つや》をふくむ黒髪は、根を紐結《ひもむす》びにフッサリと、曲下《わさ》げにうしろへ垂れている。
「お嬢様……」
同じように、涙の目をふいて、側の女が静かに手を伸べると、お千絵はその掌《て》へ、ま白な珠をサラサラと鳴らしてのせた。水晶の玉をつらねた数珠《じゆず》である。
今日は、まる十年と二月前に、世阿弥《よあみ》が江戸を出た日であった。
床《とこ》に、一幅の軸《じく》がかけられてある。端厳《たんげん》な肖像が描かれてあった。それがお千絵の父である、阿波へ入ったまま消息をたって、今に知れぬ甲賀世阿弥の像である。
幕府は死んだものとみなして、絶家《ぜつけ》の命を下してしまった。お千絵とても、今では、すでに世に亡《な》い父と諦《あきら》めている。
「たみや」
今、お千絵は永い回向《えこう》をすました。
「はい」
「しんしんと寒くなりましたことねえ……」
「師走といえば、夜霜の立つ頃でございますから」
「さだめし外の世間には、寒風《さむかぜ》が吹いておりましょうね」
「ここへは、凩《こがらし》の声もきこえてまいりませぬ」
「ああ凩は嫌《いや》……浮世の寒風は嫌……。千絵はこのまま、この地底《ちぞこ》の部屋に埋もれてしまいたい」
「たみもご一緒に埋もれまする。……けれどお嬢様。朽ちた落葉の下からも、いつか春が芽ぐむではございませぬか。ヒョッとして、たみの兄が帰ってくるか、また、弦之丞様でも江戸へおいでになれば」
「阿波へ様子を見に行ってくれたお前の兄の銀五郎が、帰ることはあろうけれど……」
「いいえ、弦之丞様にしましても、いつか一度は」
「アア、たみや……もうそれをいうておくれでない」白いかいどり姿が、雪くずれをしたように、ガバと、袂《たもと》を顔にして泣き伏した。
「お嬢様、お嬢様。あなたに泣かれてこの乳母《うば》がどうしましょう。もっと……お強くなって下さいませ。いいえ、今が、アア今が、大事な時でござります。あなたはもっとお強くならなければなりませぬ」
「お前までが、そんな無理を」
「もうわずかな御辛抱……ジッとこらえて下さいませ。お嬢様のお手紙を持って、阿波へ行った兄の銀五郎が、今に、きっといい報《し》らせを持って戻りましょう程に……」
お千絵は、どうしてこんな地底の部屋にいるのだろうか!
いうまでもなく、恋と慾の二道《ふたみち》をかけている、旅川周馬《たびかわしゆうま》の奸策《かんさく》である。
鏡の裏から、お綱の墜《お》ちこんだ所は、昔、事あるごとに、甲賀組の者が、ここへ集合して隠密の諜《しめ》しあわせをした評定《ひようじよう》場所。かれらの手にかかることは、みな、秘密であり他聞《たぶん》をはばかるので、相談や打ち合せには、必ず、宗家の穴蔵《あなぐら》部屋に寄るものにきまっていた。
で、組仲間の者は、そこを符牒《ふちよう》に呼んで、「お鏡下《かがみした》」ともまた「おしゃべりの間《ま》」ともいっていた。しかし、世間が泰平になるにつれて、ものものしい集合もなく、世阿弥《よあみ》の代になっては、一度も使ったことがない。
その隣はというと。そこは「密見《みつけん》の間《ま》」といった跡で、深い企らみをしている旅川周馬は、自分が、この屋敷へ移ると同時に、お千絵と乳母とを、ここへ押しこめて、世間には行方しれずになったと、言いふらしていたのだ。三日に一度、周馬は、鏡下へ縄梯子《なわばしご》を下ろして、密見の間をおとずれる。
その日が、お千絵の地獄であった。針の山、血の池へ趁《お》わるるより、なおまだ辛い苛責《かしやく》をうける日なのである。
周馬が責める。
おれの意に従え! 旅川周馬の妻になれ!
ここに伝わる、甲賀流の秘書私財の隠してある所を教えろ!
こういって羅刹《らせつ》のごとく責めさいなむのだ。
「そちが指でも触れれば、千絵はすぐ死にまするぞ――」
お千絵の防ぎは、この一語《ひとこと》であった。
周馬はあの通りな横着者である、またお千絵が必ず死のうことも知っている。死なしては玉なしだ。彼はどこまでもジリジリづめに弱らせる策をとった。三日目にきて一責め責めると、あと三日の食べ物をおいて、鏡の裏から抜けだしてゆく。
お千絵は幾度か死のうとした。周馬づれの恥かしめに、こうまでたえては行かれない。けれど、乳母のおたみは、兄の唐草銀五郎が吉報をもたらしてくれるまで――と、それこそ、一日のばしに、お千絵の死を思い止まらしてきたのである。
ああ。その待ちに待っている唐草銀五郎が、すでに、禅定寺《ぜんじようじ》峠の土になっているとは、夢寐《むび》にも知らぬのであった。
その、間違いをひき起した、そもそもの禍因《かいん》を、今深くかえりみてみると、まったく、お綱の指である。
見返りお綱の指わざが、天王寺で、あの紙入れを掏《す》ったばかりに、渦《うず》が渦を呼ぶ鳴門の海のように、それからそれへ波瀾の絶えぬことになった。
だが、その下手人であるお綱自身は、自分の指一本から、そんな大きな悪闘の渦が、この人々の運命を覆《くつがえ》していようとは夢にも知らない。事実、みじんも知らずにいるのだ。
かれはただ、弦之丞《げんのじよう》という初恋の対象だけに吸いよせられて、この渦紋を離れずにいるが、さもなければ、毒を散らして飛び去った、いたずらな蝶に過ぎなかったであろう。
さらに、そのお綱の磁力に、お十夜がひきずられている。
この二人だけは、阿波にも江戸にも、何ら中心の事件にかかわりなく、今日まできたが、いつかは必ず、その渦紋の真ッただ中に巻かれ込むに違いない。
すでに、お千絵とお綱の恋人である法月《のりづき》弦之丞は、東海道八ツ山口から、あすは、江戸に入るという周馬の話。
その弦之丞を狙い打つため、あとを追ってきた蜂須賀家の刺客《しかく》天堂一角も、同時に江戸入りをするであろう。
一歩、かれが江戸へ入れば、そこには、周馬、お十夜などの毒刃が伏せてあり、うしろには、天堂一角の虚《きよ》をつけ狙う殺刀がある。
物慾の争奪、血刀の乱舞、恋と恋の生々《なまなま》しい争い――それらの悪気をふくんだ険《けわ》しい嵐の前兆が、今や、どこからとなくソヨソヨと、江戸の近くへ見舞ってきた。目明し万吉、かれの神経が、この模様を、敏《さと》くも感じているかどうか?
女スリの指一本。
かくも、怖ろしい葛藤《かつとう》と、果て知れぬ修羅《しゆら》を現じてきてしまった。この禍いの元が、おのれの罪と知った日に、見返りお綱は、どう変るだろう?
あえていう。鳴門秘帖の眼目とする狂瀾は、これから本題に入るのである。
さて、お綱は、匕首《あいくち》に懸命をこめた。
「おしゃべりの間」の暗闇に立って、かれは一心不乱に、欅《けやき》の厚みをえぐッて行く。
ザクリ、ザクリッと木屑が散る! 一分二分ずつ、隣とそことの境が削りとられてゆき、近づいてゆくのだ。一人の弦之丞を恋う、お綱とお千絵との境目が――。
メリッ――と、お綱の匕首《あいくち》が、一念に欅の板をえぐり抜いて、柄元《つかもと》まで向うへ通った。
密見《みつけん》の間《ま》にいる、お千絵とおたみとは、その音にハッと驚かされて、等しい目色を、思わず後ろの方へ射向けた。
「おッ!」
おたみは、のけぞるばかりに気を消した。無論、お千絵の眉のあたりにも、不安と、怪訝《けげん》におびやかされた表情が漲《みなぎ》った。
そこから見ると、ちょうど、部屋の一面から、謎のごとき刃ものの切《き》ッ尖《さき》が、不意に突きぬけて見えたのである。
刃がかりを得た切れ刀《もの》はみているまにも、必死に躍って、たちまち切れ目をひろげてきた。
「た、たれじゃッ」
おたみの声が鋭く咎《とが》めた。
お綱のほうには、それが耳に入らなかった。半刻《はんとき》あまりの死力が、そこに酬《むく》いられてきたうれしさにみちていた。
躍る匕首は、木屑を雪のごとくちらして、たちまち、一尺ばかりもうがってきた。
「誰じゃッ、たれじゃ!」
「オオ……」お綱は初めて手を休めた。そして、こっちから中の様子を明らかに見なおすことができたように、お千絵のほうからも、凄艶《せいえん》なお綱の顔を見たであろう。
「もし」
「たれじゃ、そなたは」
「あ――、私は、お綱と申すものでございますが、あなた様は、甲賀家の御息女、お千絵様ではありませぬか」
「や? ……どうしてそれを知っていやる」
「お千絵様! ああ、やっぱりそうでございましたか。では、お言伝《ことづて》申します、目明し万吉という者が、はるばる遠い上方《かみがた》から、あなた様に会いたいために、この江戸表へまいっております。ところが、このお屋敷ときた日には、いつも釘付けになっていて、おまけに、旅川周馬の眼があるので、その万吉が、大事なお話をすることができません」
「待って下さい」
おたみは少し安心して、側から、お綱の早口な言葉を聞きなおした。
「上方から来た目明しの万吉とやら、いっこうおぼえのない人ですけれど、それは一体、お嬢様に何の用があって来た者でござりますか」
「さあ……実は私も、そこのところは、深く聞いていないんですけれど、仔細《しさい》があって、あなた方を、この屋敷から救いだしてくれ――、こう頼まれているうちに、嫌な奴に見つけられ、思わぬ所へ落ち込んだのが、かえってお目にかかる倖《しあわ》せとなったんでございます。詳しい話は、その万吉からお聞きなすッて下さいまし」
「お嬢様……」と、おたみはそれをうけついで、「あのように申しますが、どうしたものでございましょう」
と、いうのを待たず、お綱はまた、万吉から頼まれた通りの言葉をつけ足した。
「それで、何でございます……万吉という者を、さだめし御不審にお思いなさりましょうが、決して悪い者ではなく、法月《のりづき》様から、大事な御用をいいつかって、一足先に、ここへまいったのだということでございます」
「えっ。あの法月様から?」
「はい、弦之丞様も近々《きんきん》のうちに、この江戸表へお越しなさいますそうな」
「まあ! ……」といって乳母のおたみ、お千絵の顔を振りかえると、かの女《じよ》は、あまり意外なお綱の言葉を、よろこんでいいか、疑っていいか、茫然《ぼうぜん》として聞いている。
「お綱さんとやら、それは真実でございますか」
「なんで、こんな憂《う》き目にあってまで、お二人様へわざわざ嘘を言いにきましょう。さ、周馬の眼にかからぬうちに、ここから逃げるご思案をして下さいまし。本郷妻恋の、私の家までご案内して、どうなと後はおかくまい申します」
「お嬢様。いよいよ時節がまいりました」
「だけれど、たみや……」とお千絵は、躍りたつよろこびを、冷たい理性で打ちけしながら、
「どう考えてみても、弦之丞様が、江戸へお戻りなされる筈がない。これは何かの間違いでありましょうが」
「たとえ、間違いであったにしろ、せっかく、お綱とやらがああ申します程に、ここを遁《のが》れ出ようではございませぬか。どうなろうと、この上運の悪いほうへ、転ぶ気づかいはありませぬ」
「といって、たみや、お前にこの厳重な所から、逃げ出られる工夫がありますか」
「さあ?」
おたみは、初めて悲しい当惑を知った。周馬が、抜け目なく出口を断《た》ってある、八方封じの地底の部屋――。お綱の帰り途《みち》もない筈である。
「お嬢様」
おたみは励ますように語を強めて、
「――逃げられます! そこの境さえ切り破れれば、あの鏡の裏の出口から」
「お千絵様」
またこちらから、お綱がいった。
「ここの境は、この匕首《あいくち》で、わたしが必死に破ります。さ、早くお支度をなさいまし。もし周馬のやつが帰ってきた日には、それこそもう百年目――」
と。お綱はまた匕首をとりなおして、人の体が抜け出られるまで、無二無三に切り開け始めた。
そのまに、おたみは甲斐甲斐《かいがい》しく身支度をした。けれど、お千絵にはまだ幾分かためらう様子がある。それを見ると、おたみは乳母らしい言葉で、
「お嬢様!」と強く叱った。
「こんな穴蔵《あなぐら》の地獄に、なんの御未練でございます。御先祖様からの財宝を、残してゆくのが惜しいとでも……」
「いいえ、たみや、そんなものに未練はない……私はただ」
と、乳母の胸へ抱きついて、
「家に伝わる甲賀流のあまたの秘書を、そッくり、あの人非人《ひとでなし》の旅川周馬へ、残してゆくのが、お父上様にすまぬと思うて……」
「いえ。今の場合は、お嬢様という大事なお体にはかえられませぬ。家名は潰《つぶ》れても、あなた様さえお恙《つつが》なければ、甲賀家のお血筋《ちすじ》だけは残ります。あ! よいことがございます」
おたみはきっと心をきめて、
「あの悪人の手へ、すべての物を残してゆくよりは、お嬢様、いッそのこと、ここへ火を放《か》けてまいりましょう」
「火を!?」
「エエ、惜しいようではござりますが、このお屋敷に隠されてある財宝や秘書を、周馬づれの悪党にふみにじられてしまうよりは……」ホロリとたまる目がしらの露を押さえて――「すべてを灰になさいませ……そして、お嬢様という甲賀家の血だけをお残し遊ばしませ」
「たみや」
「お分りなさいましたかえ」
「わかりました、だけれど……」
と、お千絵は、怖ろしい紅蓮《ぐれん》の炎を思いうかべて、うつろな眼で、古い歴史のある地底《ちぞこ》の部屋を眺めた。
「出られますよ!」
その時、お綱が弾《はず》んだ声で呼んだ。
みると、もう出入りができるほど、そこが切り破られてあった。
「さ、お千絵様――」手をのばして救い出した。たみは、火を放《か》けるために後へ残って、反古《ほご》や木屑や乱れ箱などを、手当り次第に、部屋の中ほどへ積み上げる。
だだッ広い闇の間《ま》を、お綱の持つ蝋《ろう》の灯《ひ》がユラユラと走りぬけた。
さっき、自分が墜《お》ちこんだ所を、鏡の裏の下から仰ぐと、一丈あまりの高さであって、梯子《はしご》のない二階同様、上がる術《すべ》がないのである。
と、向うでは、残っているおたみが、
「お綱さんとやら、逃げる出口が見つかったら、いいと、声をかけて下さいましね、すぐに火を放《か》けて、私もそこへ行きますから」
こう声をかけておいて、行燈《あんどん》の油壺《あぶらつぼ》をとりあげ、反古《ほご》の上へタラタラと撒《ま》いていた。
「ま、待っていて下さいよ」
気ばかりは急《せ》いているが、お綱も少しうろたえた。
一丈余りの高さでは、飛びつかれる筈はなし、足をかける所もないので、さすがに思案がつきてしまった。
「分りましたかえ?」おたみも向うで急《せ》いていた。
「そこにたしか、数珠梯子《じゆずばしご》が垂れている筈です。――数珠梯子が」――と、そういわれて、お綱の目にフイと止まったのは、柱のかげに隠れて、上から垂れていた一本の縄《なわ》。
向うから、教えたのはこれであろう。所々に、結びコブシが作られていて、攀《よ》じるに都合よくできている。
「あったでしょう。そこに」
「ええ!」こんどは、お綱もいきいきと返辞をして、
「ありましたよ! 縄梯子が」
「では、ようござんすね――」
と、念をおして、おたみはすぐに反古の山へ行燈の火をくつがえした。
ボッ――と、まっ黒に匍《は》い揚がった煙をくぐって、乳母《うば》のおたみが、お綱がえぐり抜いた穴から、バタバタと逃げだしてきた。
途端に、お綱が、
「あッ、いけない!」絶望的な声をあげた。
お千絵様を先に――と思って引いた数珠縄《じゆずなわ》の梯子が、どうしたのか、ぷッつり、断《き》れてしまったのである。
奥の炎は、遠慮なく燃えだして、そこを、カーッと赤く照らしてきた。
江戸大火《えどたいか》
縄《なわ》の朽ちていた数珠梯子は、三人の望みを絶って、途中からプツリと切れ、お綱の手もとへ躍ってきた。
「あっ――」
「しまった!」
等しく悲痛そのものの声だ。お綱は、お千絵の手をとって、第二の逃げ口を探し廻った。だが――もとより、そこ以外に、別な出口のある筈はない。
と。奥のほうから、ムーッと温《ぬる》い火《か》ッ気《き》が流れてきて、うろたえ廻る裾《すそ》や袂《たもと》に、渦になった黒煙が真綿《まわた》のようにまつわりだす。
「アア、大変なことになった――」おたみは狂わしく駈け戻って、はやまって放《か》けた奥の火を消そうとした。けれど、密見《みつけん》の間《ま》の反古《ほご》と油は、もう消し伏せもならぬ焔《ほのお》となっている。
まっ黒な煙の中に、ピラピラ、ピラピラ……と、青い火、赤い火の舌尖《したさき》が、うす気味悪く舐《な》めずりだした。
「お嬢様! お綱さん! 早くどこからか逃げて下さい。火が! 火が! 火が……」
必死の力で、おたみは、二、三枚の畳《たたみ》をはねあげ、前の板境へ立てかけて、お綱の切り破った穴を密閉した。そしてそれを、自分の背中で支えながら、
「お綱さん! 早くしごきを繋《つな》ぎ合せて、今の数珠梯子へ、結び足して……早く、早く、お嬢様を助けてあげて下さいよウ!」
後の声は煙に咽《むせ》んでしまった。こうして、おたみが自分の背なかの焦げるまで、畳で穴を塞《ふさ》いでいるうちは、しばらく、流れでる煙も防げ、また火の廻りも幾分かは遅くなろう……。
だが。
奥の焔が燃えぬけてこないまに、どうして上へ遁《のが》れだすことができよう。
さはあれ、ここは、死ぬか生きるかの境。
お綱は、手早く二本のしごきを繋《つな》ぎあわせた。
そして、お千絵の体を、高く抱きあげて、断《き》れた数珠|縄《なわ》の端へ、そのしごきを結び足そうとした。
お千絵の白い手が伸びた。生きんとする力かぎり伸びた……。だが、もう二尺――ある、せめて、もう八、九寸、そこへ触れようとして、指が届かぬ。
「お嬢様ッ……」
主思《しゆおも》いな乳母のおたみは、ジリジリと背中の熱くなるのをこらえて、狂わしく、声をふりしぼった。
「ま、まだですか! ……早く、ああ、あ熱《つ》……早く逃げて下さいまし」
「アア、たみや、駄目ですよ――」
お千絵は、遂に疲れはてて、ガックリとしごきの手を落した。と一緒に、さすがに勝気なお綱も、ムラムラと巻く煙に咽《む》せ、お千絵の体を抱いたまま、
「ちィッ……」
と、糸切歯を咬《か》んで、横に坐りくずれてしまった。
*     *     *
さて。
やはりその夜のことなのである。
外神田の河岸《かし》ッぷちを、風に吹かれてすッ飛んできた、角兵衛獅子《かくべえじし》の二人の子。
軍鶏《しやも》の赤毛をお頭《つむ》にのせて、萌黄《もえぎ》木綿のお衣《べべ》をきせたお獅子《しし》の面を、パックリと背中へ引っくり返して、ほお歯の日和《ひより》下駄をカラカラ鳴らし、
「オオ寒、オオ寒……」
駈けて、ころんで、また駈けて、一膳《いちぜん》めし屋へ飛びこんだ。
縄すだれでもその中は。
お芋の匂いや、酒の湯気や、汁に煮える葱《ねぎ》のかおりで、別世界ほど暖かい。
「小父《おじ》さん――」
こういったのはお獅子の子である。
姉と弟であるらしい、十四ぐらいな女の子と、十一ぐらいな男の子だ。
かじかんだ手を口に当てて、ハアハア息をかけながら、
「小父さん――御飯をちょうだい」
「あいよ」
と奥のほうでめし屋のおやじ。
「たいそう今日は遅かったな。今すぐに、暖《あつた》かいのを拵《こし》らえてやるから、そのお客さんの火鉢へ、少しあたらして貰っていねえ。オイオイ三輪《みわ》ちゃん、紙をやるから、乙坊《おとぼう》の洟《はな》をカンでやんな。水ッ洟《ぱな》をチュチュさせて、お客様のそばへ寄るとな、それ……お客様の鮟鱇鍋《あんこうなべ》がまずくならあ」
「なに、かまやしねえ」
と隅にいた客。
「こっちへ来てあたるがいい」と、火鉢を向けて、お獅子の姉弟《きようだい》を手招きした。
それは目明しの万吉であった。
お獅子の子は、人なつこく、
「おじさん、あたらしておくれ」
と、万吉の側の火鉢へ、しがみつくように寄ってきた。
姉と弟の手が二本、凍《こご》えきッていたとみえて、炭火の上に、がツがツとふるえている。
「偉《えれ》えなあ、おめえたちは」
「おじさん」
「なんだい」
「どうして偉いの? あたいたちが」
「それを知らないところがなお偉い。よく働くなあ、小さいのに。人間、なんでも、働かなくちゃいけねえや。それを偉いといったのさ」
と万吉、鮟鱇鍋《あんこうなべ》から、葱《ねぎ》を挟んでフウと吹いて口へ入れた。
いつぞや、墨屋敷の窓の下で、お綱と約束したことがあるので、彼は、例の鉄砲笊《てつぽうざる》を肩にかけて、その日妻恋坂のお綱の家を、ソッと覗《のぞ》いてきたのである。
まだ帰っていない様子なので、そのままブラブラ戻りながら、駿河台へ行ってみようか、明日《あした》を待って、もいちど妻恋へ出なおすとしようか、と迷った末に、この縄暖簾《なわのれん》へとびこんで、とにかく、寒さしのぎに一合取った。
飲めそうでいて、あまり飲めない目明しの万吉。
徳利一本で、たくさんになったので、飯を貰おうと思っていると、可愛いお獅子の姉弟《きようだい》が、人なつこく寄ってきたので、思わず、もう一本取ってしまった。
「いい子だなあ」
万吉は、冷《ひや》ッこい手を、暖《あたた》めてやる気で、二人の手を一ツずつ握ってやりながら、
「なんていう名だい」と訊くと、
「あたい?」と弟のほう。
「乙吉《おときち》っていうの。姉ちゃんは、お三輪《みわ》ちゃん」
「フム。お三輪に乙吉か。いい名だ……そして、どこだい、お前たちの家は?」
「吉原だよ」
「へえ、豪気《ごうぎ》に粋《いき》な所へ住んでいるじゃねえか」
「おじさんも行くかい」
「どこへ」
「吉原さ」
万吉、思わず吹きだしそうになって、
「おじさんは野暮天《やぼてん》だから、まだ吉原を見たこともねえのさ。だが、まさかお前たちだって、あの廓《くるわ》の中じゃないだろう」
「ああ、五十|間《けん》の裏だよ。孔雀長屋《くじやくながや》という所にいるの」
「そんな所があるのかい」
「見返り柳のすぐ下でね、オハグロ溝《どぶ》が側にあるよ、いつ帰っても、賑やかだから怖《こわ》かない」
「おっ母《か》さんはいるのかい」
「おっ母《か》アは、死んじゃった」
「おやじさんは」
「生きてるよ」
「じゃアまあ結構だ。なあ、片親だけでもいりゃ、これに越したことはねえ。で、姉弟は二人ッきりかい」
「ううん……大きな姉ちゃんが二人いる」
「それでいて、お前《めえ》たちまで、角兵衛獅子をして稼《かせ》ぐのは、ああ、親父《おやじ》さんでも体が悪くって、永患《ながわずら》いをしているとみえるな」
「違うの……」姉のほうが、悲しい顔をした。
「じゃ、どうなんだい、一体?」
「父《と》ッちゃんは、ピンピンしているけれど、お酒呑みなんだもの」
「フーム、で姉《あね》さんは何しているな?」
「小ッちゃいほうの姉ちゃんはね、吉原の花魁《おいらん》に売られてしまったの」
「だ、誰によ?」
「ちゃんに――」と弟のほうがいって、ポロポロと涙をこぼした。
こぼれた涙が火鉢に落ちて、ジューッと、炭火の中で泣き消える。
「可哀そうに……」と万吉、思いだしたように皿に残っていた里芋《さといも》を箸《はし》に刺して、
「サ、食べな」
と、一本ずつ持たせてやる。お獅子の子は、それを貰って、すぐムシャムシャと食べ始めた。
この優しい小父さんが、ふところに十手を呑んでいる怖い目明しだとは、その子も思わなければ、万吉もまた、おのれが、悪党にも恐れられる目明しだということを忘れている。
そこへ、亭主が、お焦《こ》げの御飯を塩にぎりにして、一杯ずつの味噌汁をつけ、奥から持ってきて飯台《はんだい》にのせると、角兵衛獅子のお三輪乙吉、いつもだけの小銭を出して、すぐ、ムシャとふるいつく。
何もかも忘れて、真から、おいしそうに食べていた。
「おやじさん、俺《おれ》にも、飯をくれないか」
万吉も茶漬を貰って、熱い飯に番茶をぶッかけ、新菜《しんな》の漬けもので、ザブザブとかッこみ始めた。
そこでまた、箸休めに、
「――で、何かい?」
と、今の話しかけを、こっちから訊きほじる。
「もう一人の姉っていうのは、家にいるのか」
「大きいほうの姉《ねえ》ちゃんはネ……」
指の飯粒をシャブりながら、女の子のお獅子がいう。
「あたいたちが、小ッちゃい時――、おっ母《か》アが死んじまってから後に、どっかへ、行ってしまったの」
「オヤオヤ……親父さんが呑んだくれで、一人の姉は吉原へ売りとばされ、その上、一番年上の姉までが家出をしてしまったのか」
万吉は、これだけの話で、ホボその家のありさまが想像された。そして、なんだか、他人事《ひとごと》ではないように腹が立ってきた。
「フーム、そうか。それで小せえお前《めえ》たちが、毎日、外へ角兵衛獅子に出ているのか……。気の毒だなあ。この空ッ風の吹く町へ出て、テンツクテンツク、氷のような地べたへ逆さにオッ立って、お前たちが稼いだ銭も、おおかた、おやじの寝酒になってしまうんだろう。よく世間にあるやつだ。殊に色街の掃溜《はきだめ》には、怠け者の地廻《じまわ》りとかなんとかいって、そういう野郎がいかねない。……だがまア、よくお前たちは辛抱してるなあ、今におやじも眼をさますだろう。また、大きい姉ちゃんが帰《けえ》ってきたら、きッと、両手をついてあやまるだろうぜ」
「あたいたち、その姉ちゃんに逢いたくてしようがない。おじさん、いたら、教えておくんなね」
「ウン、そうだろう、そうだろう」
「毎日、お獅子に出ていても、そればっかり見てるんだけれど」
「じゃ、うすうすおぼえているとみえる。そしてその姉《あね》さんは、幾つぐらいでどんな女よ」
「ちゃんがいったよ。まだ若いし、いい女だから、あいつがおれば、千両に売れるッて」
「いい女で、若くって、ふーん……そして名前は?」
「お綱《つな》ッていうの」
「え、お綱ッ?」
「おじさん! 知ってるね」
「ま、まってくんねえ」
「おじさん――」
飯《めし》つぶだらけな手のままで、両方から、万吉の袖へたかって来る。
「知ってるなら、教えてくんな、よウ小父さん」
「ま、まちねえッてことよ。今おじさんが考えている所だわなあ。……フーム、すると何だね、お前たちの姉というのは、見返り柳の下にいた、お綱ッていういい女かい?」
「アア」
ジィと、二人の顔を見つめていた万吉が、思わず、手の箸《はし》をポロリと落して、
「ム……似てらあ!」
お獅子の姉と弟の手を、強く握った時である。
ジャーン!
すぐ、程近いすじかい見附の夜を見守るお火の見の上から、不意に、耳おどろかす半鐘の音。
時刻は、まさに、宵の五刻《いつつ》(午後八時)。
それは、ちょうど。
かの、駿河台《するがだい》の墨屋敷――鏡の裏の穴蔵部屋で、お綱や、お千絵や、その乳母《うば》たちが、密見《みつけん》の間《ま》に火をかけて、唯一つの力と思ってすがった数珠梯子《じゆずばしご》が、プツンと切れた――その時刻である。
どたどたと、飯屋の二階から、三、四人の若い者が、ころげるように降りてきた。
「火事だ!」
「火事、火事、火事」
ちんばの下駄を突ッかけて、ワラワラと外へ飛びだして行ったので、皿を洗っていた亭主も、万吉も、お獅子の子も、それに巻かれて、縄《なわ》のれんの外へ駈けだしてみた。
師走初めの冷たい風が、向う柳原《やなぎわら》から神田川の水をかすって、ヒュッ――と町の横丁へまで入ってくる。
「どこだ、火事は?」
「今、二階の物干《ものほ》しから、たしかに見えていたんだ」
「だってちッとも赤くねえじゃねえか」
「火の手は上がっていなかったが、お茶の水の森あたりで、ボウ――と、白い煙がのぼった」
「よせやい。夜靄《よもや》か、湯屋の煙を見まちがいしやがッて」
闇を仰いでいた首が、いっせいに、なアンだ――という顔をして、少し拍子《ひようし》抜けしていると、紛《まぎ》れもない二度目の半鐘。
ジャーン! ジャーン! ジャーン。
つづけざまに、乱打のすり鐘《ばん》。
「おおッ、近《ちけ》え!」というと、あたりの者たちは、いなごのようにワラワラワラッと駈けて散る。
「どこだ、おい!」
飯屋の亭主が、軒さきの大樹をふり仰いでどなった。もう、はしッこいのが、いつのまにか、高い枯木の突《と》ッ尖《さき》に攀《よ》じのぼっていて、物見の役を承っている。
「近《ちけ》えッ。そぐそこだ!」
と、上から、素頓狂《すつとんきよう》な声がしてきた。
「すぐそこだって!?」
「お茶の水、お茶の水――」
「おお、じゃ風上《かざかみ》だ」
「おまけにかなり風が強い――」
と、その北風の吹き揺《ゆ》する梢《こずえ》に、寒鴉《かんがらす》のようにとまった男、なおもジッと見ていたが、
「――やッ。火事は駿河台の甲賀組らしいぞ。あの墨屋敷《すみやしき》の下の森から、真っ黒な煙が吹き出しているンだ!」
火の手をたしかめたものであろう、それを最後に樹の上の男は、スルスルスルと下へ辷《すべ》って来る。
「えっ、駿河台の墨屋敷だと!?」
こう仰天して叫んだのは、今が今まで、よそごとに聞いていた万吉だった。
いまだに帰らぬお綱の消息や、あの屋敷にいる筈で、そして姿の見えないお千絵様――。この二人の運命が刹那《せつな》に、火! という不安な旋風《せんぷう》に結びついて万吉の敏《びん》な神経へ、不吉な予覚《よかく》を与えた。
「おお! 駿河台と聞いちゃア……」内ぶところへ手を入れて、ギュッと晒《さらし》の腹巻をしめ、帯もしっかりと後ろへ廻す。
火事が近いと聞いて、泣きだしそうになった角兵衛獅子のお三輪と乙吉は、やさしい言葉をかけてくれた、万吉の側を離れたくないように、
「おじさん――」
と、寄りついて、頭の鶏毛《とりげ》を寒そうにそよがせ、歯をガタガタと鳴らしている。
一番|鐘《がね》をついた見附のすり鐘《ばん》に合せて、やがて遠く、両国のやぐらや鳥越あたりのお火の見でも、コーン、コーンと、冴えた二ツ鐘をひびかせてきた。
自身番から板木《ばんぎ》が廻る。ドーン、ドーンと、裏通りを打ってくる番太郎の太鼓|報《じ》らせ。
万吉の胸も、早鐘を打ってきた。
「ええ、こうしちゃアおられねえ!」
吾を忘れて走りだすと、腰につかまっていたお獅子の乙吉が、日和《ひより》下駄を引ッくり返して、そこへ転び、ワーッと、大声で泣きだした。
「あッ、堪忍しなよ!」
ふりかえったが、万吉は、戻ろうとはしなかった。と、
「だ、だんなッ――」と呼び返したのは飯屋の亭主。
「おお、違《ちげ》えねえ、勘定か」
屑屋の資本《もと》の縞《しま》の財布を、首からはずして、紐《ひも》ぐるみ、クルクルと巻いたかと思うと、万吉は、それをポーンとほうってやって、
「おやじさん、おつりはお獅子にやってくンな」
というや否や。
後も見ずに、目明しの万吉、もう、バラバラと提灯《ちようちん》の駈けみだれている、紅梅《こうばい》河岸《がし》を一散にぬけて、息もつかずに、駿河台まで韋駄天《いだてん》と飛んできた――。
針を吹ッかけられるような寒風なのに、万吉は、あぶら汗をタラタラ流して、紅梅河岸から上《のぼ》り道《みち》、突きあたる奴を突きとばして、まっしぐらに、駿河台へ駈け上がった。
お千絵様の墨屋敷――
燃えあがっていやしまいか、と思ったが、そこまで来てみると、あなたこなたの組屋敷も、また、案じていたそのお屋敷も異常はなかったので、ホッとしたり、急に、拍子抜けがしたりした。
だが、ホッとするのは、まだ早かった。
あたり一面、夜靄《よもや》のような薄けむりが、どこからともなくもうもうと立ち迷っている。
「出火ですぞ、出火でござるぞ」
わめいて廻る組屋敷の者。
「どこだ、どこだ」
「火元はどこだ、火元は!?」
後から後からと、ここへ、駈け上がってきた人々も、やや戸まどいの態《てい》だったが、やがて、その煙が、人家のないお茶の水の崖ぷちからだと知れて、それッ、怪《あや》し火《び》だとばかり、皆そのほうへなだれていった。
その崖には、旅川周馬《たびかわしゆうま》が上なる墨屋敷の中へ、常に出入りをしている隠し道があった。今夜も周馬は、お十夜孫兵衛と出会って、一刻《いつとき》ばかり前に、その穴口から出ていったばかりである。
とは、誰あって、知ろう筈はない。不思議な所から、不思議な煙――と、怪し火の騒ぎはいよいよ大きくなる。
万吉は、方角違いな、怪し火騒ぎには目もくれなかった。なにせよ、墨屋敷にはまだお綱がいる筈、もし大火にでもなった日には、お千絵様の身も心もとない――と思ったので、例の、覚えのある塀の下から、つッと中へ潜《もぐ》りこんだ。
そして。
ズウと、家のまわりを見渡すと同時に、かれは、
「あっ!」
といって、顛倒《てんとう》した。
何ぞ計らん、怪し火の火元はここだ!
かれが、ふと見渡した家まわり――、相変らず、数ある雨戸も窓の戸も、箱のように、ピッタリと閉《た》てきってあったが、その、戸と戸との細い隙間や、廂《ひさし》の蔭などからは、まるで、蒸《む》されたせいろうのごとく、家の中から白い煙が、ソヨソヨと洩れだしているではないか。
「オオ! こいつア大変だ」
はね返されたように目明しの万吉、いつか、お綱に手をつかまれた、あの、窓へと飛びついて行ったが、今夜に限って閉めきってある。ええ、じれッてえ! と足もとの、石を拾って叩き破り、さらに窓格子《まどごうし》を五、六本、バラバラッと打《ぶ》ちこわす。
指をかけると、万吉の体は、ヒラリと家の中へ、躍り込んでいった。
と――どうしたか、
「あア――!」
と、口を抑えて、畳へ顔をうッ伏《ぷ》せた。
煙――煙――煙――目もあけない黒煙だ。
思わず、太い息を吸ったので、涙をこぼしてむせかえッた。
いよいよ、火はこの屋敷の、どこかしらに籠《こも》ってるときまった。風を入れては、一煽《ひとあお》りに燃えぬける惧《おそ》れがある、と感づいたので、万吉はあとの戸をピンと閉めてしまった。
こうなるとかれの身は、煙蒸《けむりむ》しのせいろうの中へ、みずから封じてしまったようなもの。
危険は危険だが、お綱の安否が気づかわれる。それに、お千絵様の消息も知れない今! 火の中へも飛びこむ意気とは、この場合の万吉の覚悟であったろう。
上を向いて息を吸わぬように心がけて、まず、あたりを撫で廻してみると、やわらかい友禅の炬燵《こたつ》ぶとん――温《ぬく》みがある――四、五冊の草双紙――コロコロと湯呑《ゆのみ》茶碗が手にふれて転がった。
そいつをつかんで、盲滅法《めくらめつぽう》、闇の中へ投げつけて、
「お綱ア! ――」
力いッぱい呼んでみた。
答えやあると待っている……。
だが、なんらの反応もない。
口を抑え、耳をすまし、目にしむ涙をこらえながら、しばらくジッとしていたが、かれの耳に聞こえるものは、ただムクムクと漂ってくる煙の音――、イヤ、煙に音はなかろうが、この時、万吉の神経には、たしかにそれがありありと聞こえた。
煙の底を這《は》ってゆく――低い所ほど煙がうすい。次の間から次の間へと、目明しの万吉は、だんだん深入りをしていった。
「お千絵様ア!」
呼べど、答える声はない。
「お綱ア! お綱アーッ」
と二声三声。
もう、一番奥と思うところに、長廊下から杉戸があって、ピンと固く閉まっている。
何か、ぶちこわす物はないかと、あたりを撫で廻してみると、あった! あったが一枚の櫛《くし》である。これじゃあ戸をコジ開ける物にもならない。
しかし、ここに一枚の櫛が落ちていたのは、たしかに、女のさまよっていた証拠!
万吉は、いよいよあせった。と――廊下の一隅《いちぐう》で、唐金《からかね》の水盤らしいものにさわった。
それを持って、力まかせに、ドーンと突いて行くと、仕切戸がさっと開いた。
空洞《うつろ》のような橋廊下――、口を開くと一緒にその奥から、ムーッとするばかりな熱風が面《おもて》を衝《う》ってきた。
「ここだ! 火はッ」
猛然と身を起こした万吉。
左の肱《ひじ》をまげて口をふせぎ、何のためらいもなくダッ――と奥まで駈けこんで行った。
すると!
その突き当りとおぼしき闇に、いきなり、何者だろう? かれの目をさえぎって、ギラリと躍った人影がある。
血相をかえた男の相貌《そうぼう》。
「あっ畜生!」
不意だったので万吉も夢中である。
右手《めて》につかんでいた唐金《からかね》の水盤、その男の影を狙って、力の限り投げつけた。
うまく当った! ――と思うと、こはそも何?
グワラグワラッ! と、ものすさまじい響きがして、燦然《さんぜん》と八方へ飛んだのは、まっ白なギヤマンの破片《かけら》! あの大鏡がみじんになって砕け、その口からは、赤い火の粉がチラチラと噴き出した。
モクッ――と一つ、違った煙の渦《うず》が、鏡の裏の地底から、かれの顔へ吹きつけてきた。
「ア! アッ!」
と万吉。
思わず後ろへ飛びのくと――、煙に声がまじってきた、かすかに叫ぶ地底の声! オオ、女の悲鳴――まぎれもなく耳に入った。
「やっ、お綱じゃねえか! あの声は」
ザクザクとギヤマンの破片《かけら》を踏んで、框《わく》だけになった鏡の口へ寄ってゆくと、いよいよ濃い煙が巻き揚ってくる。
呼ぼうとしては咽《むせ》び、咽んでは叫んだのである。
「だッ、だッ、だれがいるンだッ――誰がいるんだッ」
と、中を覗《のぞ》いてみる――
漠々《ばくばく》たる密雲に、夕陽が射《さ》しているような有様。深い穴蔵《あなぐら》の底へ万吉の声がひびいた。
よみがえったような叫びがしてきた。
「お綱……お綱……お綱だよう!」
「おお、やっぱりそうだッたか、おれは万吉だ、万吉だぞッ」
「あッ……」というと声が消えた。
「お綱ッ、しっかりしろよ! 今すぐに助けてやるから、眠ってしまっちゃいけねえぞ。地面へ口をつけて辛抱していろ」
「ま、万吉ッつぁん――、縄を!」
「待て待て、待ってくれよ! 今すぐだ」
もう、たえられぬかのような苦しい声で、またお綱が下から叫ぶ……。
「早くしてーッ。万吉ッつぁん――わ、わたしよりもお千絵様が!」
「げッ、お千絵様が? や、やや! お千絵様もそこにいたのか。チェーッ、一大事!」
と万吉は、その時こそ、まったく、煙を吸う苦しさも火《か》ッ気《き》も、身に感じなくなっていた。
「縄だ、縄だ、縄だ、縄だ!」
心の底でガリガリどなる。
眼は吊《つ》り上がってしまっている。足もつかずに廊下の彼方《あなた》此方《こなた》を、無我夢中で探し廻った。
「縄はないか、縄は――、縄だ、縄だ、縄だ!」
グズグズしている間には穴蔵のものが、紅蓮《ぐれん》の舌さきに焼き殺されてしまう。鏡の口が開いたので、火の早さは一散《いつさん》になるであろう。
その身自身が、焦熱地獄《しようねつじごく》に焼かるるよりは、むしろ万吉の苦しさのほうが百倍。
かれは極度にうろたえた、悩乱《のうらん》した、半狂乱の態《てい》になった。
縄! 縄! 縄! 救いの縄。
こんな所に、あろう筈のないものを、かれは咄嗟《とつさ》に求めなければならない。
紅蓮《ぐれん》の地獄――焦熱の地獄。
それは今、三人の女性《によしよう》が、喘《あえ》ぎ呻《うめ》いている穴蔵部屋のけしきである。
こもりきッた黒煙が、お茶の水の抜け道へまで噴《ふ》きだした程であるから、お千絵様のいた密見《みつけん》の間《ま》は、あらかた、火になったものと思われる。
それを、命がけで、外から防いでいるのは、おたみであった。
今日まで、檻《おり》となっていた厳重な厚板が、今は、わずかに身を焼かぬ防火壁となっている。ただ、お綱が匕首《あいくち》で切り破った口があるので、おたみは、そこから焔《ほのお》をふき出させまいとして、幾枚もの畳《たたみ》を立て重ね、身をもっておさえながら、最後の努力をつくしていた。
けれど、悲しや、密見の間の焔《ほのお》は、口をふさがれた怒りをこめて、ジリジリと襖《ふすま》を焦《こ》がし天井を焼き、さしも厚い欅《けやき》の板を焼きぬいて、ペロリ……と、真《ま》っ赤《か》な火の色を吹いてきた。
怒れる紅蓮《ぐれん》は、あなやと見るまに、隣りの穴蔵部屋の方へ、ゴウッと――火唸《ひうな》りをして這いだした。
「――お嬢様ッ……」
おたみは、声を限りに叫んだ。
百千の火龍《かりゆう》は、かの女の肩の上から、メラメラッと音を立てて、近づいてくる。
お千絵は、お綱にかばわれて、地底の土に顔をうっ伏せ、わずかに煙を防いでいたが、乳母《うば》の声が聞こえるたびに、声をしぼって呼び返した。けれど、おたみは、背中からジリジリと身が焦がされてくるのに、そこを離れようとしなかった。
「た、たみやア……」
「――お嬢様ア! ――」
もう両方で、呼びあう力もなくなってしまった。たみの黒髪にチリチリッと火が燃えついた。
兄の唐草銀五郎に似て、気丈な乳母のたみも、さすがに、
「あッ……熱《つ》ッつつ……お嬢様ッ」
火の黒髪を振って、悶絶《もんぜつ》した。
と同時に、半《なか》ばまで火となっていた畳の蓋《ふた》が、ドッと、かの女の体へ倒れかかった。一瞬……ボウ……といったきり、あとは、なんの声もしない……。
ただ、真ッ黒な渦と、火の粉の微塵《みじん》がもうもうとそこを立てこめてしまった。
そこへ、目明し万吉が、こうとは知らずに、鏡を叩き砕いたのである。
「万吉ッつぁん――縄を!」
と、紅蓮《ぐれん》の底から叫ばれて、かれは面食らった、歯ぎしりを咬《か》んだ、地団駄をふんだ。
「ええッ、情けねえッ、縄がねえ、縄が、縄が、縄が! ……」
ヒ――ッという、悲鳴が一声揚ったようだ。いよいよお綱も断末魔《だんまつま》か?
お千絵様の黒髪にも、無残な火が燃えついてしまったのであろうか?
万吉はもう堪《たま》らなくなった。
知らぬことならぜひもないが、みすみすここに自分がいて、お綱を見殺しにするのみか、お千絵様を焼き殺してしまっては、法月弦之丞《のりづきげんのじよう》に対して、なんと、男の面《つら》が立とう。
いや、男一匹の面が立つの立たぬのという、そんなケチな問題ではない。
ここで、お千絵様の身に、万一があったひには、銀五郎の死も犬死となり、弦之丞が初志をひるがえして起《た》った意味も、まったく空《むな》しいものとなる。
ひいては、世阿弥《よあみ》の消息をつきとめ、阿波の密境を探ろうとする中心力を失ってしまい、すべてはもとの晦冥《かいめい》に帰って、遂に、俵一八郎や常木|鴻山《こうざん》なども、あのまま、永世《えいせい》に浮かばぬ人となって亡《ほろ》びるであろう。
無論、目明し万吉としても、そうなっては、今日まで可愛い女房にさえ居所を知らせずに、江戸くんだりまでやッてきて、屑屋をしたり、犬の真似《まね》をしたりして、悲雨惨風《ひうさんぷう》をなめている苦労がみんな水の泡だ。
と。その時、万吉、
「エエッ、この間抜け野郎め!」
自分で自分をドヤシつけるように、ハッと思いついたのである。
縄はある! 縄があった! 縄は目明しの商売道具。肌身離さぬ二丈の捕縄《とりなわ》が、チャンと自分のふところにある。
悪党と見れば目明しの縄は、放たずとてひとりでにスルスルと飛びだすものを、人を助けんとする咄嗟《とつさ》には、こうまで血眼《ちまなこ》に探し廻った最後まで、頭に浮かんでこなかったのである。
ほとばしる火の粉を浴び、紅蓮の大波をくぐり抜けくぐり抜けて――目明しの万吉。
グワラッ! と、大廊下の戸を二、三枚蹴破った。ふウ――ッと巻きだす煙と共に、庭先へ跳び下りたかと思うと、
「お綱あアッ――」
よろめきながら、喘《あえ》ぐ声! ……。
「しッ、しッかりしろッ。しッかりしてくれ!」
辛くも投げた人助けの捕縄《とりなわ》で、焔《ほのお》の底から救い上げたお千絵様であろう――右手には、浄瑠璃《じようるり》人形のように、ダラリとなった女の体を抱き、左に、お綱の帯をつかんだ――。
手をとってやる余裕がない。
だが、お綱はさすがに、気が張っていた。
「――だッ、大丈夫だよッ……」
こう叫んだようである。とたちまち、炎々《えんえん》たる狂い火が、蹴破られた雨戸から大廂《おおびさし》の梁《はり》を流れて、いっせいに燃えあがり、凍りきっている冬の夜の空へ、カアーッと火柱が立ったのは、それから、ほんの一瞬の後――。
こけつ、転《まろ》びつ、お千絵を抱えた万吉と、お綱の姿だけは、渦まく火塵《かじん》を泳ぎぬけて、裏門の外へ出たらしいが、ああ、遂に、乳母のおたみだけは、すでに穴蔵部屋の火の畳に押し伏せられてしまったとみえて、声もなければ姿も見せぬ……。
折もあれ。
吹き催《もよお》していた北風《ならい》の一煽《ひとあお》りに、火の魔の跳躍はほしいままとなり得た。さしも、由緒のある墨屋敷――甲賀流の宗家|世阿弥《よあみ》のあとは、幾多《いくた》の秘書財宝をかくしたまま、ここにバリバリと惜しげもなく燃えに燃えて、ドーッとものすさまじい地響きをして焼けくずれる……。
風はいよいよ吹き荒《すさ》んで、見る見るうちに、辺り二十七家の組屋敷から、町つづきの鈴木町、紅梅坂の武家屋敷の、ここかしこに飛び火した。
場所は高台、火は強し、空いちめんを真ッ赤にして、江戸から見えぬ所はない。
ピューッ……ピューッと、いよいよ募《つの》る魔風《まかぜ》の絶え間に、近くのすり鐘《ばん》、遠くの鐘、陰々と和して町々の人を呼びさます。
その頃はもう、お綱の姿も万吉の姿も、どこに見ることもならず、神田一帯、駿河台の上り口、すべて、人と提灯《ちようちん》と火事|頭巾《ずきん》と、ばれんと鳶口《とびぐち》の光ばかりに埋《うず》まっている。
……………………
所は京橋、桜新道《さくらしんみち》――長沢町の裏あたりである。
「オヤ?」
と、飲みかけていた盃を下に置いて、
「火事ではないか」
今頃になって、迂闊《うかつ》至極なことをいいながら、ガラリと、裏二階の障子《しようじ》を開けて首を出した者がある。
お十夜孫兵衛と、旅川周馬であった。
もっともそこは、喜撰《きせん》という額風呂《がくぶろ》の奥で、湯女《ゆな》を相手に、世間かまわず騒げるような作りなので、さっきからの半鐘も、聞こえぬくらいに静かなのである。
「オオ、大変な火の粉――」
空を仰いで、お十夜がこういうと、旅川周馬、バラバラッと、表二階へ駈けだして行った。と――すぐにまた、そこへ取って返してきて、
「お十夜、大火だ! 大火だ! しかも火元は神田だそうだ」
少し酒の気《け》は醒《さ》ましている。
「大丈夫だろう……」孫兵衛は席へ戻って、手酌《てじやく》の一盞《いつさん》を、チビリと唇《くち》に鳴らしながら、
「いくら風が強勢《ごうせい》でも、まさか、あの高台までは燃えてゆくまい」
「イヤ、そう安心はしていられない。とにかく、ここを引き揚げて、屋敷の安否を見届けねばならぬ」あわてて刀を差しかけるのを見ると、
「おい周馬、ちょっと待ちねえ」
お十夜は、何か不服があるらしい。
「イヤに落ちつき払ったな。ま、とにかく、外へ出て様子を聞いた上にいたそう」
「じゃ、あのほうは止めにする気か?」
「止めるものか! ばかなことを」
「そうだろう、初めからその手筈を相談するために、わざわざここへ落ち着いたのだ。まア火事なんざあどうでもいい、いよいよあすは江戸へ入るという、法月弦之丞から先に片づけてしまうことのほうが、今夜の火事より急だろうぜ」
「それも一理あるな? ……」
と、旅川周馬は、耳につくすり鐘《ばん》の音と、弦之丞のことを、半々《はんはん》に思い迷って棒立ちとなっている。
お十夜がいうとおり、今夜、わざわざこの喜撰風呂へまできて、女気なしにくつろいでいる目的は、翌日《あした》の相談や、手筈を諜《しめ》しあわすのが眼目であった。
翌日というのは、法月弦之丞が、江戸へ着くのをさすのである。かれが江戸の地をふまないうちに、かれの命を絶ってしまうことは、周馬にとりまた孫兵衛にとっても、最上なる手段に相違なかった。
東海道から江戸へ入るには、是非ともさしかかる八《や》ツ山口《やまぐち》か高輪《たかなわ》の浦あたり――、その辺に、必殺の策を伏せておいて、殺《ばら》してしまおうという二人が大体の目算《もくさん》。
で、そのために。
使屋《つかいや》に手紙を持たせて、二、三ヵ所の賭場《どば》へ、ならず者の狩り集めにやってあるところだ。しかるに、返事もこないうちに、周馬が中座《ちゆうざ》しかけたから、お十夜が少しムッとした。
「まア落ちつけよ」
と、孫兵衛は、周馬の浮き腰を顎《あご》で抑えて、
「大事をもくろむ矢先に立って、気を散らすのは禁物《きんもつ》だ。そんな量見方《りようけんかた》なら、この俺は俺で、勝手な道をとるとして、お前《めえ》と組むのはお断りだから、そう思って貰いたい」
「お十夜、そう腹を立てては困る」
「だが、考えてみるがいい。なるほど、弦之丞はおれの恋仇《こいがたき》、生かしておいては都合の悪いやつだ。しかし、お前《めえ》のほうは、女のほかにあの屋敷の、すばらしい財宝まで、鷲《わし》づかみにしようとする、分《ぶ》の勝っている所がある。いわば、この仕事はそっちが七分で、おれが三分、その三分がとこで、丹石流《たんせきりゆう》の腕前を貸してやるようなものだ。少しは恩に思って貰いてえな」
「分っている、分っている……」周馬も、ここでお十夜に、グズられては困るので、またほどよく扱《あしら》いながら、腰をすえて飲み始めた。
と。まっ白に塗った湯女《ゆな》が、銚子の代《か》えを持ってきながら、
「旦那様」
「なんだ」
「使屋の半次《はんじ》が戻ってまいりました」
「たいそう早いな、連れてきてくれ」
湯女《ゆな》が出てゆくとすれ違いに、一人の男が入ってきた。
「ご苦労だった」と、周馬が言葉をかけて、
「頼んでやった者は、みんな来るといったろうな」
「ところが旦那――」と、使屋は、この寒いのに汗をふいて、
「お手紙を持って行った賭場先には、どこにも、誰もおりませんです」
「フーム……どうして?」
「なにしろ、旦那、とても、神田一帯は火の海になりそうな騒ぎです。大概のお屋敷は、見舞を出すやら、火事頭巾でくりだすやらで、いくらのんきな部屋でも、今夜ばかりは、人の影もございませんよ」
「なるほど――」いわれてみれば道理であった。
「火事はそんなにひどくなってきたか」
「ひどいのなんのって、高台から焼け拡がったので、八方移りに燃えそうです。こっち側は昌平橋御門《しようへいばしごもん》から佐柄木町《さえぎちよう》すじ、連雀町《れんじやくちよう》から風呂屋町《ふろやまち》の辺りまで、すっかり火の粉をかぶっています」
「と、すると……」周馬は急に色を変えて、
「火元はどこじゃ、火元は?」
「なんでも、怪《あや》し火《び》だという噂ですがね」
「怪し火? フーム……して駿河台の、甲賀組の墨屋敷《すみやしき》などは、かけ離れてもいるから、さしたることはあるまいな」
「どう致しまして、旦那、その怪し火てえのが、そもそも墨屋敷の、何とかいう古い家から出たんです」
「げッ!」と、仰天《ぎようてん》したのは、周馬ばかりか、お十夜も同様、カラリと手の盃を取り落して、言いあわしたようにヌッと立った。
「使屋、今の話に間違いはあるまいな」
「ええ、嘘なんざア申しませんが、このお手紙はどうしましょう」
「ウーム、弱った……」と、明日《あした》の手筈も急なら、今夜も急! 周馬も孫兵衛も当惑したが、それは、使屋に頼んでおいて出なおすことにきめ、二人はバラバラと喜撰《きせん》風呂の二階から駈け下りてきた。
怪し火とは気がかり、周馬の胸は、穴蔵部屋の財宝と、そこに押しこめてあるお千絵の安否に騒ぎ立ち、お十夜はまた、とり残してきたお綱の身が、もしやと心配になってきた。
空を仰ぐと一面の火の粉!
二人は、肩をならべて駈けだした。
「ちぇッ。しまった!」
護持院《ごじいん》ケ原まで飛んでくると、周馬はそこで、茫然《ぼうぜん》と足を止めてしまった。
「ウーム、だめだ! やっぱり火元は墨屋敷だった。今さら駈けつけてみたところで、間に合わねえ」
それを聞くと、お十夜も、ガッカリとして太い息を吐《つ》きながら、
「駄目だろうか」
「あれだもの! ……」
周馬はいまいましそうに、そこからあきらかに仰がれる高台の焔《ほのお》を指さして、
「無論、屋敷は焼け落ちてしまったさ」と、捨鉢《すてばち》のように言い放った。
「――残念だな。すると……お綱はどうなってしまったろう。オイ」と急に思いついたように孫兵衛。
「あの、鏡の裏から、どこかへ逃げ道があったのか」とききはじめた。
「逃げ道なぞがあるものか。ないからこそ安心して、お綱を置いてきたのではないか」
「えッ、じゃ今頃は」
「灰になってしまったろう。あアあ……そっちは女だけのことだが、この周馬の身になってみろ、多年心を砕いて、手に入れようと計っていた財宝と恋人、二ツとも一緒に失《な》くしてしまった……」
泣かんばかりの落胆《らくたん》である。
と、お十夜が、不意にまた、
「オイ、周馬――」と呼びかけてきた。
「なんだ。おれはもう、返辞をするのもいやになった」
「そうしょげるのはまだ早い。さッきの使屋の話では、火元は、墨屋敷から出た怪し火だといった」
「ウム、怪し火だといった」
「その怪し火に、何か曰《いわ》くがありそうじゃねえか。とにかく、ここでベソを掻いていたところで始まらねえわけだ、もう一息駈けだして、現場の様子を見た上の思案としよう」
「なるほど、それももっともだ」
くじけた元気をとりなおして、お十夜孫兵衛と旅川周馬、ふたたび、韋駄天《いだてん》の足を飛ばした。
鳶《とび》の光、火事頭巾、火消目付《ひけしめつけ》の緋《ひ》らしゃなどが、煙にまじって渦《うず》まく中を抜けて、勧学坂《かんがくざか》から袋町《ふくろまち》を突ッきり、やがて己《おの》れの棲家《すみか》まで来てみると、すでにそこは一面の火の海。
世阿弥《よあみ》の家のあとを初め、二十七家の隠密組の屋敷は、あとかたもなく焼け落ちて、坩堝《るつぼ》を砕いたような余燼《よじん》の焔は、二人を嘲《あざけ》るごとくメラメラと紫色に這っていた。
「ウーム……」と唸《うめ》いてしまったきり、二人は口もきかずにいた。
その紫の火の色は。
お十夜の眼には、お綱の焼け溶《と》ろける火かとも見え、また、周馬の眼には、お千絵様の焼ける焔、惜しい財宝が、燃えきれずにいる火かと恨《うら》めしく映る。
「オオ、大変だ!」
いつか風が変っている。ヒョイと気がついた孫兵衛が、ふりかえってみると、袋町を縫った火は、下町へまで移りだして、まごまごしていると逃げ道を塞《ふさ》がれそうな形勢だ。
「それ、あぶねえぞ」
幻滅《げんめつ》の悲哀を抱いて、火に追われた二人の悪玉は、足に力もなく走りだした。大樹があるので焼け止まった堤《どて》がある。そこをヒラリと躍り越えると、落莫《らくばく》とした冬木立の下に、サーッと響いてゆく水音が聞こえた。
柳原へ落ちてゆく、神田川の流れらしい。
バラバラ、バラバラと、揺《ゆ》するたびに落ちてくる枯葉を浴びて、崖伝《がけづた》いに下りてゆくと、そこは、太田媛《おおたひめ》神社の境内であった。枯柳や梅にとり囲まれ、神田川の水にのぞんで、火事をよそに森深《しんしん》と更けている。
「おや!?」
崖から境内へ、ポンと飛び下りた孫兵衛は、何か、柔らかなものが足へ絡《から》んだので、それを手に拾って、常夜燈のそばへ寄って行ったが、一目見るとともに、
「やッ、こいつア? ……」
よみがえったような、また意外に衝《う》たれたような唸《うめ》き――。
「なんだ?」
周馬が横から顔を出すと、お十夜は、手にしていたのをクルクルと丸めて、
「畜生ッ。――やっぱり逃げたに違いねえ!」
腹立たしげに投げ捨てた。
見るとそれは、ところどころ火に焦がされた女の被布《ひふ》、浮織《うきおり》唐草の江戸紫は、まぎれもなく、お綱の着ていたものである。
火焔の中から、無我夢中で躍りだした万吉は、喪心《そうしん》しているお千絵様を肩にかけ、またお綱を励ましながら、やッとのことで、太田媛《おおたひめ》神社の境内へ逃げ下りてきた。
ここは、お茶の水の崖を屏風《びようぶ》にしているので、火が森を焼き抜いてこぬ限りは、まず安全な場所であった。
ホッ……と一息。
万吉は、拝殿の前へ、お千絵の体を辷《すべ》り下ろした。紅蓮《ぐれん》に巻かれた苦しさと愕《おどろ》きの果てに、かの女《じよ》は意識を失っている。
白絖《しろぬめ》のかいどりにくるまれたまま、グッタリそこへ仆れる……。お綱は驚いて肌をさわってみた。
肌は温かであった。美しい曲下《わさげ》の黒髪も、幸いにして焼かれなかった。
「おう、お綱――」と万吉は、すぐに気転を働かせて、
「すまねえが、御手洗《みたらし》の水を掬《すく》ってきて、お千絵様を介抱して上げてくれ。おれはその間に渡し船を探してくる。とても、この火事騒ぎじゃ、橋を越しちゃ行かれねえから」
「あい、よござんす――」
気を失っているものの、ここに凍《こご》えさせておいてはと――お綱は、お千絵の体へ、自分の被布《ひふ》を脱《ぬ》いで着せかけようとした。
で――初めて、気がついたのである。
「おや、どこで脱げてしまったのだろう? ……」と。
何を思い出すゆとりもなかった。お綱の頭は今のところ、何もかもが昏迷《こんめい》している。万吉とても同じであろう、川縁《かわべり》へ駈けだして行くと、無論、誰か持主のある物だろうが、委細《いさい》かまわずもやいを解いて、手頃な小舟を社《やしろ》の裏へ曳《ひ》いて来る。
その間《ま》に。
白い素足を闇に見せて、お綱は向うへ走って行った。御手洗《みたらし》に張った薄氷《うすごおり》を割って、小《こ》柄杓《びしやく》に水を掬《すく》ったのである。
気はいらいらと急《せ》きながら、掬って来た柄杓《ひしやく》の水をこぼさぬように、お綱は小刻みに戻ってきた。
赤い空から地の闇へ、火の粉がバラバラと降ってくる――。火事はまだまださかんらしい。神田川は夕焼のようだ。
「あっ……」
柄杓の水がこぼれてしまった。
お綱の足もとへ、何かフワリとした物が、絡《から》みついてよろけたので――。
常夜燈の前だった。淡い明りが流れているので、ヒョイと見ると、それは、自分の着ていた江戸紫の被布《ひふ》であった。
「こんな所へ落したのか……」と、お綱は一目に思ったが、もとよりそれを拾う気はなく、小《こ》柄杓《びしやく》を持ってもう一度、水を掬いに戻りかけた。
すると、その時だ。
ここに落ちていた被布を見て、先ほどから、しきりに人の気配を探っていたお十夜孫兵衛が、常夜燈のうしろからヌッとうねりだして、
「むッ! ……」
物もいわずに、お綱の襟《えり》をつかんでしまった。
「あっッ」と、お綱。
右手《めて》に持っていた小柄杓で、驚きの力任せに、かれの真眉間《まみけん》を狙ってヒュッと打った。
さッと、身をかわされて柄杓の首は、お十夜の柄《つか》に当ってパキンと割れる!
さらに、首の抜けた柄杓の柄《え》で、お綱はお十夜へ突いてかかった。が、身は綿のように疲れているので、苦もなくそれをもぎ取られた上に、ドンと一と突き飛ばされた。
乳のあたり!
お綱は、ふたたび起《た》つ力がなかった。精がきれて、罵《ののし》る声も出なかった。
「…………」
ただ、口惜し涙と怨《うら》みをこめて、カッと孫兵衛を睨みつけた。と、相手のほうも、女に反抗力がないことを知ると、ぬッと片手を懐《ふところ》へ入れて、物もいわずにその姿を見すえていた、いわなくッても分っているだろう、フフン、ざまを見やがれ――というふうに。
何の悲鳴も立てないので、万吉は、こうとは知らずに小舟を曳《ひ》いて、近くの岸へその縄を絡《から》げていた。
と、誰かの跫音《あしおと》が、後ろを抜けた様子なので、ヒョイと振りかえってみると、総髪《そうはつ》にした若い侍が、いきなり拝殿の前へ寄って、気絶しているお千絵の体へ手をかけた。
その人影は旅川周馬であった。
万吉が、アッ――とおどろくまに、周馬は、何の拒《こば》みもない白いかいどり姿を横に抱いて、
「おい、お十夜! そんな女一匹を持て余して、いつまでグズグズしているのだ」
とばかり、一方へ声を投げながら、自分は自分の恋人を取り戻して、一足先にスタスタと急ぎだした。
周馬だ! 万吉はなんとなくこう思った。
「畜生ッ」
ブルブルッと身をふるわせて、
「焔《ほのお》の中から、命がけで救ってきたお千絵様を、うぬに、取り返されて堪るものか!」
何の猶予《ゆうよ》があるものではない。
彼は、周馬の影が、ものの二十歩と拝殿の前を去らぬまに、一気に、うしろへ追いついた。
「待てッ」
ムズと、その腰帯をひッつかむ。
一振りふってねじ倒すつもりだったが、周馬もさる者、どッこい、そうはさせねえと万吉の手を払って、横へ七尺ばかり、つッ――と体を避けたかと思うと、
「なんだ、てめえは?」
怖ろしい目で、万吉を睨《ね》めた。
あの総髪を風にそよがせ、美女の姿を引っ抱えた旅川周馬の影、その時、昔物語にでもありそうな悪鬼かなんぞのように見える。
万吉は、こいつの度胆《どぎも》を抜いてやろうという気で、
「おお、おれは法月弦之丞様に頼まれて、お千絵様の蔭身《かげみ》に添う万吉という者だ」
ふところの十手をつかんで、明らさまに名乗ってしまった。それで、ぎょッとするかと思うと、周馬は、鼻の先で、
「ふム……弦之丞の差金《さしがね》か」
「その弦之丞様が江戸へ帰ると、うぬの首も危なくなるぞ。悪いことはいわねえから、お千絵様を俺に渡して、今のうちに、どこかへ姿を隠す算段でもしやがれ」
「よけいなことを申すな」
片腹痛《かたはらいた》い――というふうに、旅川周馬、ゲタゲタ笑っているのである。
万吉はかッとなって、
「野郎ッ、どうでも渡さねえといや、十手にかけても受けとるからそう思え!」
「だまれッ、察するところ、墨屋敷へ火を放ったのも汝《なんじ》であろう」
「悪因悪果、天罰の火よ! 呪《のろ》いの火よ! こうなるなア当り前だッ」
「よし! そう聞く上はなおのこと、お千絵を渡すことはならねえ。弦之丞に逢ったら、いってくれよ、世阿弥の娘のお千絵様は、旅川周馬が可愛がってやりますとな」
「エエ、しぶといことを吐《ぬ》かすな!」
「待てッ、万吉」
「くそッ――」とばかり、十手を真《ま》っ向《こう》に飛びかかッてゆくと、周馬はまたも五、六歩逃げて、キラリと前差《まえざし》の小《こ》太刀《だち》を抜いた。
片手に引っ抱えているお千絵の咽《のど》へ、その切《き》ッ尖《さき》をピタリと向けて、
「おい」と周馬、万吉と切《き》ッ尖《さき》とを、七分三分の眼くばりで、
「下手《へた》にあがくと玉なしになるぞ。どうせ墨屋敷の財宝を灰にして、破れかぶれになっている旅川周馬だ。さ、おれに指でもさすなら、差してみろ、その代りにゃ、貴様が一足ふみ出す前に、お千絵の咽笛《のどぶえ》を突きぬいてくれる」
ハッと思ったが、万吉は、ただちにそれが、周馬の狡《ずる》い脅《おど》しにすぎないことをみやぶった。
「ふざけた真似《まね》をするなッ」
鋭い気構えを見せて、彼の小太刀を、十手で叩き落そうとしながら、ジリジリと近寄って行ったが、今度は旅川周馬、あとへも退《ひ》かずにニヤリと白い歯を見せた。
と――思うといつの間にか、万吉の後ろへ、ぬウと立ったお十夜が、そぼろ助広に手をかけて、据物斬《すえものぎ》り! 息を計っていたのである。
あッ!
声と、剣《つるぎ》と、孫兵衛の気合い。
三ツの力が瞬間にそこを割って、ほとばしった孫兵衛の切《き》ッ尖《さき》から、あやうくも、髪の毛一すじの命拾いをした目明し万吉、
「ちイッ……畜生!」
歯軋《はぎし》りをかんだが、力の相違はぜひもなく、りゅうと、しごきなおしてくる孫兵衛の銀蛇《ぎんだ》に追われて、タタタタタ……と十歩、二十歩。
追い詰められた土壇場《どたんば》である。
「かッ! ……」と、孫兵衛が口を曲げた。
含み気合いに斬りつけた、片手伸ばしの助広の切ッ先へ、ザ――ッと揚がったのは血けむりではなかった、神田川の水しぶき――。
足をすべらして、目明し万吉、真《ま》ッ逆《さか》さまに落ち込んだのである。大きな波紋が蛇《じや》の目《め》を描く……。
それを見捨てて、お十夜と旅川周馬は、思いがけなく取り戻したお綱とお千絵とを、これからどこへ運んで行こうか――と、暗闇に立ってコソコソ相談しはじめた。
「お綱は?」
と、周馬は義理でたずねると、孫兵衛は刀を鞘《さや》に納めながら、
「ちょっと当身《あてみ》をくれておいた」
悦《えつ》に入った顔である。もう、あの女はどこへ持って行こうが、どうしようが、完全におれのものだと安んじているものらしい。
「それはよかった。だが、万吉とかいう奴は? ……大丈夫だろうな」
「なアに、この寒さだ。川の水を食らって、たいがい凍《こご》え死んでしまうにきまっている。――ところで周馬、お前はその女を引っ抱えて、これからどこへ落ちつく気だ」
「なにしろ、かんじんな巣から焼け出されてしまったので、それにはこのほうも当惑いたした」
「まさか、お千絵様とかいう別嬪《べつぴん》を抱いて、そこらへ野宿もできねえしなあ」
「しかたがないから、一時、喜撰風呂《きせんぶろ》の奥でも借りて、そこへ隠しておくとしようか」
「永えことはおられねえが、それも一時の妙案だろう。女をきれいに洗い上げて、ゆっくり楽しむには誂《あつら》え向きだ……。ウム。おれもお綱を連れて、一緒にそこへ落ちつくとしよう」
「だが、どうする、途中を?」
なるほど、いくら惚れた女にしても、あの通りな火事騒ぎの中を、背中に掛けて京橋まで歩いちゃ行かれなかった。
「どこかで駕屋《かごや》を呼んでまいろう」
「待ちねえ。駕といやあ、さっきそこの鳥居側《とりいわき》に、提灯《かんばん》が二つ見えていた筈だが……」
「えっ、駕が置いてあるッて」
「悪運の強い時には、何もかもトントン拍子というやつよ。ここは太田媛《おおたひめ》神社の境内だ、神様は粋《すい》をきかして、呼んでおいてくれたのだろう」
「なにしろ、時にとってありがたい。どこだ、その駕は?」
二人はノソノソと歩き出した。
周馬はお千絵を引っ抱え、お十夜は当身をくれたお綱の体を抱いている。
鳥居につづく玉垣の蔭、そこに、なるほど最前から、二|挺《ちよう》の駕がすえてあった。
提灯は灯《とも》っているが、駕屋もいず、垂《た》れもシンと下ろしてあるところをみると、そこらへ来かかった者が、火事に道をさえぎられて、ここに避難《ひなん》したものか、或いは、不用意にここへ来た矢先、周馬とお十夜の暴行をみて、ビックリして駕屋が逃げてしまったものであろうか。
なにしろ、二人にとっては、渡りに舟。
周馬は先に、その一挺の駕へ寄り、お千絵の体を垂《た》れの中へはねこんだ。そして、手早く細曳《ほそびき》を引ッぱずして、駕のまわりを蜘蛛手《くもで》にかがりだす。
と――後からお十夜も、その側にある駕へ寄って、片手にお綱の体を支え、片手で何の気もなく駕の垂れをはね上げたのである。
するとその途端に。
駕の中からヌッと出た手が、不意に、お十夜の足をさっとすくった。
一挺が空駕《からかご》だったので、全く油断しきっていた孫兵衛、もろくも仰むけざまにひっくり返されたが、
「おのれ!」というと、助広を鞘走《さやばし》らせて、地へ腰をつくと同時に、手ははね上がった駕のすだれを、パラリと虚空《こくう》へ向けて斬っていた。
「な、なに奴だッ」
さすがなお十夜孫兵衛も、立って身構えを取りなおしたものの、語勢《ごせい》ははなはだしく乱れている。
「周馬、手を貸せ、手を!」
こうあわてて息まくと、旅川周馬も驚いた。いくら悪党づきあいで狡《ずる》く立ち廻っているとはいえ、まさかにここでこの場をはずしもならず、また得意な詭弁《きべん》でゴマ化しているいとまもない。
ぜひなく周馬、ギラリと一刀を抜きつれた。
「おお、心得た」
剣の光をジリジリとよじらせて、お十夜と共に、怪しげな駕《かご》を挟み打ちに、左右から肉迫して行った。
で――二人は、中の奴が駕からヒョイと出たが最後と、充分大事な気構えを取っておいて、さて何者だろうか? と密《ひそ》かに相手をうかがってみると、向うの者は、一向静かなものごしである。
吾から、お十夜の足をすくい飛ばしたからには、それ相当な用意もあるべきに、ガタとも騒ぐ気色《けしき》がない……。
見ると、駕の中にいることはたしかにいる――一人の侍。
ゆったりと駕蒲団《かごぶとん》に身を埋めて、怒りに燃えた二本の白刃が、身に迫りつつあることも、どこ吹く風かという様子でだ。かれは、深編笠《ふかあみがさ》の紐《ひも》を結んでいるのである。
相手の者が、あまり落ちつきはらっているので、業《ごう》を煮やしたお十夜が、
「ヤイ出ろ!」というと、
「お、ただ今――」
皮肉な答えと一緒に、駕の中から一本の鉄扇《てつせん》が、ヌーと二人の間へ伸びてきた。
それにしたがって、侍の体が、周馬と孫兵衛の斬りこみに充分な要意を備えながら、徐々と辷《すべ》りだして駕の外へ立ち上がった。
孫兵衛の注文は見事にはずれてしまった。鉄扇の隙なき構え、立ち上がる間《ま》の気配《きくば》り――どこにも斬りつける破綻《はたん》がない。
ちイッ……この野郎! と孫兵衛は刀の背《みね》から鋭い目を通して相手を睨んだ。
「意趣《いしゆ》か遺恨《いこん》か、何でおれの足をすくった!」
「だまれ」
「何をッ」
「なんで足をすくったと問われる前に、なんでこのほうの駕へ無断で手をかけたか、それをこのほうから訊ねたい」
「ええ、小癪《こしやく》なッ――」と、応答の隙を狙って、周馬がいきなり切《き》ッ尖《さき》を飛ばしてしまった。
空《くう》を斬ると編笠の侍は、右手《めて》の鉄扇に力をくれて、旅川周馬の顔をハタキつけた。こうなっては孫兵衛も、大事をとっていられない。
「おのれッ」と叫んでそぼろ助広を振りかぶった。――途端に、周馬を打った鉄扇が、ポンと返って、孫兵衛の目つぶしに飛んで来る。
顔をかわしたので、鉄扇は肩越しに通り抜けたが、刹那に、手元へ躍ってきた深編笠《ふかあみがさ》が、孫兵衛の肱《ひじ》を平手で打った。
「くそうッ」
勢いよくふり下ろしたが、切《き》ッ尖《さき》の行き所は見事に狂っていた。あっ――と二の太刀、飛び退《の》いて持ちなおそうとしたが、その腕首《うでくび》はもう相手にねばり強くつかまれていた。えい! えい! えい! 二、三度もぎ離そうとしたが、離れればこそ、足を割り込まれて将棋倒《しようぎだお》れに、デンとそこへ組み敷かれる。
「周馬! 周馬!」
苦しまぎれに助太刀を求めたが、相手が手強《てごわ》いと見たので、旅川周馬は、いつのまにか姿を隠してしまっている。
「周馬ッ……後ろを、後ろを」
もがく孫兵衛を押し伏せて、深編笠の侍、ウム、と何かうなずいた。
「最前から、どうも覚えのある奴と思ったが……果たしてそうじゃ。汝はこの夏頃まで、住吉村のぬきや屋敷にいたお十夜孫兵衛という浪人者だな」
胆《きも》をつぶして、下から笠の裡《うち》を覗《のぞ》いた途端に、孫兵衛、思わずブルブルッと身をふるわせた。しまった! そう感じたものらしい。右手《めて》に持っている助広の柄頭《つかがしら》で、イヤという程、喉《のど》を締めている相手の腕を撲《なぐ》った。
襟《えり》の力が緩《ゆる》んだので孫兵衛は死に身になってはね返った。と一緒に、突き飛ばした深編笠の影へサッと斬りつけたが、かれも咄嗟《とつさ》に尺ばかりな物を懐《ふところ》から抜いて受けとめた。
小太刀かと見えたが、それは銀磨《ぎんみが》きの十手である。もぎりへ辷《すべ》りこんだ孫兵衛の刃《やいば》が、鏘然《しようぜん》として火を降らした。
と、孫兵衛は、腕の筋へ稲妻が来たように、ブルブルとしびれを感じた。十手のもぎりに刀を絡《から》み込まれたのである。あっ! と引っぱずしたがその刹那に、駄目だ! 歯が立つ相手ではない! こういう見きりをつけてしまった。
で、お十夜孫兵衛は、心に周馬の卑劣を憤《いきどお》りながら、やむなく、自分もそこを逃げだした。
編笠《あみがさ》の侍は、野袴《のばかま》の土をはらって後ろに立っていた。そして周馬が念入りにからげておいた駕の方を差し覗《のぞ》いて、
「オオ……やはりお千絵殿に相違ない」とうなずいた。
やがて駕屋を呼び立てると、その侍は、にわかにどこかへ向って息杖《いきづえ》を急がせた――一挺の駕にはお千絵様の体をそのまま乗せ、後の駕には自身が乗って――
焔《ほのお》の空はまだ真《ま》ッ赤《か》だ。
駿河台《するがだい》から蜿蜒《えんえん》と下町へのびた火は、その夜、川を越えて外神田の一角を焼き、東は勧学坂《かんがくざか》から小川町の火消屋敷を舐《な》めつくし、丹後殿前《たんごどのまえ》の風呂屋町《ふろやまち》、雉子町《きじちよう》あたりの脂粉《しふん》の町も、春を控えてみじめに焼けた。
その火の海を遥かにみて、お千絵様をのせた二挺の駕、牛込見附から番町の台へ上ったが、さて、それから先はどこへ行ったか、皆目行方が知れなくなった。
倖《さいわ》いにして目明しの万吉は、墜《お》ちた所が浅瀬であったので、やッと河から這い上がってきた。――けれどそこには、気を失っているお綱の姿を見出しただけで、お千絵様の姿は遂に見えなかったのである。
自来也鞘《じらいやざや》
こんな日に、気まぐれな返り花が咲くのであろう。めったにない、暖かな冬|日和《びより》である。
神奈川宿《かながわじゆく》の立場《たてば》を出て、少しあるくと、左は鵙《もず》の啼《な》く並木のままつづいて、右は松の途切れた所から、きれいな砂浜の眺めがひらけ、のたりのたりと波うつ浦が江戸まで六里。
風が東南風《いなさ》とみえて、寒色《かんしよく》の海の青さもさまでには覚えない。ざこ場の小屋にも人影がなく、海草や貝がらや、蟹《かに》の甲羅などが陽《ひ》に乾いていた。
と、どこかで、一節切《ひとよぎり》の音が流れた……。
尺八は近くがよく、一節切は遠音《とおね》がいい。さて、どこの風流子であろうかと思うまに、その音はふッと絶えてしまった。
やがてであった。
ふと見ると浦づたいに、江戸のほうへ向って、サク、サク、ときれいな砂へ草鞋《わらじ》のあとをつけて行く、一人の虚無僧《こむそう》の姿がみえる。
一節切の吹《ふ》き人《て》であろう。
それらしい竹を、紫金襴《しきんらん》の笛袋へおさめて、平《ひら》ぐけの帯の横へ刀のように差しこんで、そして、とある所へ立ち止まったかと思うと、かれの天蓋は、強い感慨に衝《う》たれでもしたように、沖を眺めて動かなくなった。
「おお、江戸が見える! ……」
こうつぶやいたようである。
波に縒《よ》れ、波に散りひろがる陽のかげが、笠の下から虚無僧の顔へ映っている。白い腮《あぎと》、丹《たん》の如き唇――もっと深くさし覗くと凜《りん》とした明眸《めいぼう》が、海をへだてた江戸の空を、じっとみつめているのであった。
何を思い耽《ふけ》っているのか、美男の虚無僧、そこにややしばらく忘我の態《てい》で立っていたが、やがてまた少し足を早めて、スタスタと立ち去って行く――。子安《こやす》、生麦《なまむぎ》、鶴見《つるみ》、川崎――、浦づたいの道はそこで切れて、六郷川《ろくごうがわ》の渡舟《わたし》――、乗合いの客はこんでいた。
「まったく、この年の暮へきて、えらいこッてございましたなあ」
「えらいにもなにも、お話にゃなりませんて」
「いッたい、どこが火元だったのでしょう?」
「さア、そいつはよく分りませんがね、なんでも怪し火だということで」
「怪し火……ふウン、まア魔火《まび》でございますな」
「そうでもなければ、あんな宵に、駿河台《するがだい》から外神田まで焼けッちまうなんて、ばかなことはありますまい。おまけに、小川町にはお火消屋敷があるんですからな」
合羽《かつぱ》をきた旅の者と、風呂敷づつみを持った手代ふうの男。どうやら話は火事のことらしい。
「ちょッと伺いますが」
舷《ふなべり》へあわただしく煙管《きせる》をハタいて、横から口をだしたのは、とちめんや北八といったような、剽軽《ひようきん》な顔をした男である。
「なんですか、どこかに火事でもあったんで?」
「知らないのかい、お前さんは」
「ちッとも。――いったい全体、その火事ってえのは、どこでいつの話なんです」
「ゆうべさ」
「へえ、ゆうべ?」
「しかも大火だ、おまけに目ぬきな神田から駿河台、あの辺のお屋敷町まで、この暮へきて焼け野が原だ」
「とすると――佐久間町あたりは、どんなものでござンしょう」
「まず、たいがい焼けたでしょうよ」
「ば、ばかにしてやがら」
「怒ったってしようがねえやな。お前さん、やっぱり神田かい?」
「その佐久間町の四ツ角《かど》でさ。願掛《がんか》けがあって、大山の石尊様《せきそんさま》へお詣りに行ってきたんですからね、冗談じゃありませんや、神詣りに行った留守にまる焼けになっちまうなんて、そんな箆棒《べらぼう》なチョボイチがあるもんじゃねえ。もし帰ってみてまる焼けになっていたら、この正月を控えてどうするンだと、女房子をつれて石尊様へ掛合いに行かなくッちゃならねえ。ねえ虚無僧《ぼろんじ》さん――そんなものじゃありませんか」
と、側に腰をかけている虚無僧の方へ向って、その笠のうちを覗《のぞ》きこむようにいった。
渡しが六郷へつくと、舟の客はわれがちに陸《おか》へ上がった。神田大火の噂――駿河台も焼けたという話――などを小耳にはさんで、不安らしい色を浮かべていた虚無僧も一番あとから渡舟場《わたしば》を上がってきた。
そして、蒲田《かまた》、鈴ケ森、浜川と足を早めて、一歩一歩と江戸の府内へ急いでゆく。
心なしか浜川の海岸へ立って、ふたたび、江戸の方角をみると、大火の余燼《よじん》がまだ残っているのであろうか、どんよりした黒いものがはるかな空をおおっている。
なんとも案じられて堪らなくなったかのごとく、品川へかかるやただちに宿役人《しゆくやくにん》らしい者の溜《たま》りの前に立って、
「ちと、ものを伺いまするが……」
と天蓋《てんがい》の縁《へり》へ指をかけた。
「はい、なんでございますな」
「昨夜御府内に、大火がありましたとやらでござるが……」
「さよう。ございました」
「駿河台の辺はどうでございましょう」
「焼けました」
「お茶の水の上にある組屋敷は?」
「組屋敷……というと?」
「大府《だいふ》の隠密方、甲賀組の家ばかりがあります所で」
「おお、あれも皆焼けたそうです」
「えっ、焼けましたか」
「そんなふうで」
「ウーム……」と思わず太い嘆息《ためいき》をもらして、茫然《ぼうぜん》としてしまった。
この虚無僧こそは、いうまでもなく法月弦之丞《のりづきげんのじよう》、かれであった。
大阪表から東海道へ下ってきた――。かなり急いできたのである。
禅定寺《ぜんじようじ》峠の上で、あえない死を遂げた唐草銀五郎《からくさぎんごろう》の真心にうごかされて、初志をひるがえした弦之丞は、まず、安治川の蜂須賀家の様子をほぼ見届け、阿波守が帰国する船出までを確かめて大急ぎに、江戸へ引っ返してきたのである。
江戸には、先に万吉をよこしてある。いずれ万吉はもうお千絵《ちえ》様と会って、銀五郎がああなったことや、また自分が来るべきことを、とうの昔に話して手筈をしているだろう――とばかり思ってここまで来た。
意外や、その墨屋敷は、前の夜の怪し火とやらで焼失したという。
もしお千絵殿の身に異変《いへん》があったら、すべては水泡《すいほう》に帰してしまうがと、彼の心は気が気ではなくなった。何のために、二度と足をふむまいと誓った江戸へ、急いで帰る必要があるか、弦之丞の奮起はまったく徒労にならねばならぬ。
そうだ、かれは江戸へ帰るべき筈の人でなかった。終生、旅で暮らそうと誓っていた弦之丞である。銀五郎が死の刹那《せつな》に、ああまでの熱と侠気《おとこぎ》とを見せてすがったればこそ、では――と、お千絵様のために、かれの意思をついで起《た》ったのだ。でなければ、まだ五年も十年も、いや、あるいは死ぬまでも、一管《いつかん》の竹にわびしい心を託して普化《ふけ》の旅をつづけて終るつもりであった。
がしかし、神奈川の浦に立ち、品川の海辺に立って、江戸の姿を眺め、だんだんと御府内へ近づいてゆくにつれて、かれはなんともいえぬ愛着をよびさましていた。やはり郷土というものには、母性のような魅力がある。そこには仇《あだ》があり、迫害があり、うるさい情実や陥穽《かんせい》があるにしても、土地そのものだけには懐かしまずにはいられない力がある。
ではなぜ、そんな親しみのある江戸を捨てたのであろう?
二度と、帰るまいとまでして、かれは求めて漂泊していたのか、深い理由《わけ》がなければならない。
それは、なすべからざる恋をしたためにである。お千絵と恋をしたことが、かれを余儀なくそうさせた。
お千絵と恋をしたことが、なぜいけないかといえば、かの女《じよ》は甲賀組の娘である。幕府の政策として、隠密方の者は、必ず、同役以外の者とは縁を結べぬ掟《おきて》であった。
笹《ささ》の間詰《まづめ》、お庭の者、などと称される隠密の役は、駿河台の甲賀組、四谷の伊賀組、牛込の根来《ねごろ》組、こう三ヵ所に組屋敷があった。
いずれも柳営《りゆうえい》の出入り自由で、将軍家と会う時も、笹の間かお駕台《かごだい》とよぶ所で、直問直答《じきもんじきとう》のならわしである。いわば当時の御用|探偵《たんてい》で将軍自身のささやきをうけて、疑わしき諸国の大名を探りに出るのであるから、一倍その機密のもれるのをおそれたのだ。で、この三組の者にかぎって、同役以外の家すじとの養子縁組が固く禁じられて、みな神文血判《しんもんけつぱん》の御誓書《せいしよ》を上げてある。
だのに――お千絵は恋をした。
弦之丞にとっても、それは、なすべからざる恋であった。
その恋は、旅川周馬に呪《のろ》われて幕府の耳に入ることになり、かれが江戸に止まる以上は、かれの父法月|一学《いちがく》の家も、またかれ自身も、恋人の身も亡びることになるのであった。
弦之丞が虚無僧寺にかくれ、そのまま旅へ去ったのは、こうした切《せつ》ない理由からであった。
「とにかく急いでみるに如《し》くはない。御府内へ入れば、なお詳しい様子も分り、いずれお千絵どのの安否もおよそ知れるであろう」
弦之丞は、茫然《ぼうぜん》と気ぬけのしてゆく、吾とわが心に鞭《むち》を打った。
江戸|朱引内《しゆびきうち》の境、八ツ山下の木戸を通りこえたのは、やがてその日の七刻《ななつ》過ぎ――。
こうして、法月弦之丞は、いよいよ江戸へ着いたのである。
旅川周馬の脅威。
お十夜が恋の仇と寝刃《ねたば》をとぐ彼、そして、お綱の思いあくがれている彼の姿が、江戸の地へ立ったのである。
すると。
「おお、弦之丞だ」
と一歩、かれが江戸へ入るとすぐに、こういって、その姿を凝視《ぎようし》した者がある。
その男は、高輪岸《たかなわぎし》の支度《したく》茶屋に腰かけて、午《ひる》ごろから、しきりに往来を見張っていたのであるが、弦之丞の過ぐるを見ると同時に、
「これ、茶代は置いたぞ」
あわててそこを飛びだした。
とも知るや知らずや、弦之丞は大木戸から裏通りへ入って、三田から芝のほうへ急いだ。
後からそれをつけて行った者は軽捷《けいしよう》な旅いでたちで、まず服装《なり》のいい武芸者という風采、野袴《のばかま》を短くはき、熊谷笠《くまがいがさ》をかぶり、腰には長めな大小をさし、それは朱色の自来也鞘《じらいやざや》であるように見られる。
弦之丞が右すれば右へ――辻で立ちどまれば止まり、歩めばそれに従《つ》いて歩みだすのである。いわゆる影の形に添うごとく、どこまでも後をつけまわして行った。
その者こそ、蜂須賀阿波守から、弦之丞を刺殺《しさつ》せよと命ぜられて、大阪表から後になり先になって、ここまで尾行してきた原士《はらし》の天堂一角《てんどういつかく》だ。
五十三|次《つぎ》の宿駅をこえてくる間に、かれは幾度か、弦之丞の身に接近したが、遂にここまで斬りつける隙《すき》がなかった。
一角の目算ははずれていた。
相手の姿が江戸の雑沓《ざつとう》へまぎれこむと、容易に討ち難くもあり、影もくらまされる怖れもあるので、ぜひとも、東海道を旅する間に、討ってしまうつもりでいたのが――とうとうそれを果たされなかった。
「今日こそ、どこかで――」
一角の殺意はしきりと動いていた。折から相手の弦之丞は、都合よく人通りのある道を避けて、芝の山内《さんない》へ歩いてゆく様子――、増上寺の山内は、もうドップリと暮れていた。
と――先にゆく弦之丞は、
「また一角がつけて来るな……うるさい奴」
と、舌うちをした。
かれは後から身を狙っている刺客《しかく》のあることを、とうに覚《さと》っていたのである。
「――はて、どうしてくりょう」
撒《ま》いて影をくらます思案をしているらしかった。ヒョイと立ち止まって後ろを見る――、と、後ろの一角も、素速く足を止めて物かげへ身を潜《ひそ》めた。
途端に、弦之丞は、何思ったか、増上寺の門内へ、ツイと身をひるがえして駈けこんだ。
以心伝心《いしんでんしん》。
その挙動が飛鳥のようだったので、天堂一角はハッとした。
「あっ、これは油断がならぬ。弦之丞めは感づいているのだ。うぬ、見のがしてなるものか――」
早足に駈けだしてきて、石段の下へ身を潜め、そッと、中へ入った影を見送ってみると、そこは通りぬけのならぬ道だと知ったか、弦之丞らしい白衣天蓋《びやくえてんがい》の人影が、ふたたびこっちへ戻ってくる……。
「おお、今だ!」
と考えた一角は、ヒラリと山門の外に身を寄せて、刀の柄糸《つかいと》へしめりをくれた。
ピタリ、ピタリ……とこっちへ戻ってくる人の跫音《あしおと》。……と何気なく山門の外へ、ひょいと白い人影が出てきたので、天堂一角が、躍りかかッて、一刀の下《もと》に斬って伏せた。
「うッ――む……」
といって白衣の影は、肩の傷手《いたで》をおさえたまま、天蓋をあおむけにして、よろよろと石畳の上へぶっ仆れた。
夜気にただよう血腥《ちなまぐ》さい闇の中に、斬ッて曳いた一角の白刃《しらは》と、しめた! という笑《え》みに歪《ゆが》んだ顔とが、物凄く泛《う》いて見えた。
不意を狙って、見事に相手を斬って仆したことは仆したが、いかにも、無造作だったことと、弦之丞にしては、余りにもろかったと気がついて、天堂一角、
「や、これは、いぶかしい」
と、すぐに自身の得意をあやしみだした。そして、虚空《こくう》をつかんで仆れた者の側へ、血刀をさげてソッと寄って行った。
違っている。
虚無僧には違いないが、それは似ても似つかぬ別人であった。
とすると――弦之丞は、折よく山門の中から出て来る虚無僧があったので、尾行の眼をくらますために、わざと姿をそらしたに違いない。
「ええ、騙《たば》かられた」と一角は、われとわが不覚を罵《ののし》りながら、地団駄をふんで、ふたたび相手のかげを血眼で探しはじめた。
そのころ。
一方の法月弦之丞は、御霊廟《みたまや》のわきの築土《ついじ》をヒラリと越えて、もうとっくに、芝の山内を駈け抜けていたのである。
「まず、これで一角の目も、当分の間は、自分を見つけだせぬであろう」と、かれの心は爽《さわ》やかに晴れていた。
そして、疲れと寒さをこらえながら、その夜のうちに、駿河台まで辿《たど》ってきた。
見るにたえない焼け跡のさまが、荒涼《こうりよう》として彼を迎えたのみである。
墨屋敷のあともなければ、お千絵様の姿もない……。
ここまで来たら、その人の安否や、難を避けている所も聞かれようかと、かすかな望みをつないできたのも空《むな》しかった。
余燼《よじん》は消されつくしても、まだ人の不安と怖ろしい昨夜《ゆうべ》の騒ぎは消えていない。火消改めの提灯《ちようちん》だの町与力《まちよりき》の列だの、お布施米《ふせまい》の小屋だのが、大変な混雑である。
その血眼の人たちに、お千絵の消息をたずねたところで、もとより分かる筈がないのは知れていた。で弦之丞は、「ぜひがない……」と、空しい諦《あきら》めの心をいだいて、何物もない闇を茫然《ぼうぜん》と見つめていた。
すると、自分の立っている所から、四、五間ほど離れた所にも、同じように、茫然たるかたちで、立ちすくんでいる者があった。
二人の侍である。
二人は腕ぐみをして突っ立ったまま、石のように肩を並べて、いつまでも、黙然《もくねん》として焼跡を眺めていた。
そのうちに、チラ、チラと白いものが空から落ちてきた。
雪である――牡丹雪《ぼたんゆき》が降ってきた。
でもまだ、向うの二人は立っていた。弦之丞も立っていた。
「ウム。そこにいるのは、やはり家を失ったこの辺の組屋敷の者であろう……。同じ甲賀組の者とすれば、多少のことは分るかも知れない」こう思って、弦之丞は、しずかに側へ歩み寄った。
「少々、おたずね致しますが……」
二人の侍は虚無僧づれの会釈をうるさく思うのか、または、焼け出された憂《うれ》いに暗然としていて耳に入らぬのか、それにも答えず、チラチラと、顔や袖にかかる雪も払わずに立っていた。
「おたずね致しますが……」
もう一度こういうと、
「なんだ」
と、にべもなく、端の一人がふり向いた。
「まことに失礼なことを伺いまするが、やはり貴公方は、甲賀組のお武家でござりますか」
「なに?」
「焼けた組屋敷のお人でござるか」
「そうだ」
「おお、それならば、或いはご承知ではござりますまいか? ……」
「何をじゃ」
「組屋敷のうちでは第一の旧家――世阿弥《よあみ》殿の娘お千絵と申す者の行方を?」
「や、お千絵を!」
「はい」
「貴様、たずねているのか」
「いかにも」
と弦之丞が、ふと天蓋《てんがい》の小縁《こべり》をあげて、その侍の顔を覗《のぞ》いた刹那である。
ほとんど、双方が一緒に、
「おお!」
「あっ!」
とおどろいて、火と水とが触れ合ったように弾《はじ》き返った。
と――弦之丞が、次の言葉をかける間もあらばこそ、怪しげな二人の侍――霏々《ひひ》とふる雪のあなたへ、脱兎《だつと》のごとく逃げだしてゆく――。
家のうつばりがミシリミシリと軋《きし》むほかは、音もなく降り通していたゆうべの大雪。今朝は厚ぼったく積っていた。
カラン、カタンと、小桶の音。
喜撰《きせん》風呂のざくろ口には、もう湯気の中に洒落本《しやれぼん》のだじゃれをまる呑みにしているような、きざで通《つう》がりで、ケチで、色男ぶった糸びん頭の怠け者が、ふさ楊子《ようじ》をくわえて真っ赤にゆだりながら、
「アアいい気持だ、どうも、こたえられねえ」
「朝風呂はオツでげす」
「この雪を見ちゃ、また今日も帰られませんて」
「おぬしの買った女はなんという湯女《やつ》だっけ」
「エヘヘヘヘヘ」
「いやに納まってるじゃねえか。浅黄《あさぎ》はおよしよ」
「どうも、すみません。なんしろここに来ると、めっきり痩《や》せてしまうんで、やりきれませんて」
などと、神田|界隈《かいわい》では、この大雪に焼け出された人々が路頭に凍《こご》えているのも思わずに、いけしゃアしゃアと、気のいいことを吐《ぬ》かしている。
客を相手に夜をふかして、まだねむたげな湯女《ゆな》たちは、しどけない寝乱れ姿で板の間の雑巾《ぞうきん》がけ、暖簾口《のれんぐち》の水そうじ、雪をかいたあとへ盛塩《もりじお》を積んで、
「オオ寒い、まだ降ってるよ」
とあわてて重い戸を閉める。
朱塗《しゆぬり》の広蓋《ひろぶた》へ、ゆうべの皿小鉢や徳利をガチャガチャさせて、またそこへ、だらしのない女が二階から持って降りてくる。
「どうしたの、奥は?」
「まだ寝ているんだよ」
「今日もいるつもりかしら?」
「なんだか知らないけれど、二人とも、神田で焼け出されて宿なしになったんだから、ここで正月をするっていっていたよ」
「ああ、そういえば旅川さん、あの人は駿河台とかいっていたから、ほんとに焼けだされてしまったのかもしれない」
「だけれど、もう一人のお十夜さんとかっていうお浪人、何だろうあの人は、気味の悪いお侍だね」
「額風呂《がくぶろ》へきて泊りながら、ちっとも風呂へ入らないじゃないか」
「なに、入ることは入るんだよ。だがね……それもいつでも仕舞風呂《しまいぶろ》さ、そして流しの戸口を閉めきって、誰もいない時にだけ入るんだから、まったく妙ちくりんじゃあないの」
「だれ? あの人へ出ているのは」
「いやだね、まア」
「あら、お前さん」
「ああ」
「よかったね」
「おからかいでないよ、ひとを!」
「だって、まんざらな男振りじゃないじゃあないか」
「だれかに代って貰いたいよ」
「どうしてさ」
「怖《こわ》くって……なんとなく怖くって」
「人みしりをする柄《がら》でもない癖に」
「だけれど、恐ろしい声をだして寝言をいうんだよ。女の名を呼んでね、そうかと思うと、人でも斬りそうな呻《うめ》き声を出すし……。まだそればかりじゃない、あのお十夜頭巾を、寝てまでとったためしがないんだもの……」
梯子段《はしごだん》をふむ音がしたので、二人の湯女《ゆな》はびっくりして奥のほうへ隠れてしまった。だが、そこへ来たのは噂をしていた者ではなく、丹前を着た別なお客、太《ふと》り肉《じし》でいい年をして、トロンとした目で手拭《てぬぐい》を探している。よくもよくもこの家の軒下《のきした》には、やくたいもない人間ばかりがたむろをしているとみえて、ひょこひょこと出てくる者が、一人としてロクな人物ではない。
ひとつ二階を覗《のぞ》いてみようか。
梯子を上がると鐚文《びたもん》部屋、ビタモン部屋というのは小銭百文か二百文で湯札《ゆふだ》を買って、半日ここで湯気をさまして遊んでいる、金にならないお客をさす湯女《ゆな》の悪口。碁《ご》、将棋、貸本、細見《さいけん》などが散らかっているが、ここは七刻限《ななつぎ》りといって夕方は追い出しとなり、夜は屏風《びようぶ》を立て廻して、ボロ三味線に下手な甚句《じんく》や弄斎節《ろうさいぶし》がはじまるのである。
あとは小部屋がいくつもある。
その一番奥のかけ離れた二間つづき、裏梯子があるので人と顔を合せずに出入りができるので、喜撰《きせん》では特別いい部屋としてある。
そこには、お十夜と、そして周馬。
いろんなことのあてが外れて、少しばかり、やけのやん八気味――けさもまだ起きないで、
「雪の一丈もふればいい」
と、フテ寝をしている恰好である。
「おい、周馬」
夜具の中から首をだして、こういったのはお十夜である。体を腹ンばいにして枕の上に顎《あご》をのせ、朱羅宇《しゆらう》のきせるで、
「まだ寝ているのか」
と側《そば》にいる周馬のふとんをソッと突いた。
湯女《ゆな》の開けて行った小窓の障子は、こんにゃく色に明るくなっているが、世間の音もしない雪の日は、朝とも昼ともケジメがつかない。
「もう眼をさましたらどうだ」
というと、不承不承《ふしようぶしよう》に、
「うむ? ……」
と周馬は、ふとんを猫の背のようにして、ムクムクとこっちを向いた。
総髪《そうはつ》の毛が寝くたれて、にきびだらけの顔の脂肪《あぶら》にこびりつき、二日酔いの赤い目を、渋そうにしばたたいたかれの顔は、けだし女性に好意をもたれる顔でなく、いかにも手のつけられない都会の青年武士が、恋と慾の幻滅で、やけのやん八、どうでもなれという顔だ。
まだその時代には、耽溺《たんでき》という字がなかった。だが、そんな按配《あんばい》が二人の今の気持だろう。
「どうだい、お十夜」
「なにが」
「考えついたかってことよ」
「ウム、あいつか」と、煙管《きせる》の口を前歯に鳴らして、
「やっと思いついた、分ったよ」
こういって後は眉をしわめたまま黙ってしまった。
あいつという符牒《ふちよう》は、無論、大火の夜に、駕《かご》のなかからヌッと鉄扇を出した侍を指すので、それを考えあぐねていたのである。
「分ったと?」と周馬がやっと眼をさました声を出す。
「ウン」
「誰だ。なにせよ、よほどな腕達者だ」
「ありゃ、常木|鴻山《こうざん》という、元|天満与力《てんまよりき》をしていた奴にちげえねえ」
「ふウん。そいつが、何で江戸表へ来ているのだ」
「おれにも合点がゆかねえが、たったいっぺん……そうだ、住吉村のぬきやの巣にいた時、あいつに踏み込まれたことがある」
「とすると、何かを探しに来ているのかな」
「まさか、俺をつけているのでもあるめえ」
「しかし、お千絵とお綱の二人は、いったいどうしてしまったろうな。そのほうが眼目だ」
「あの後で、太田媛《おおたひめ》神社の境内へ行ってみたが、駕もなければ二人の姿もみえず、まったく、何が何やら判断がつかなくなった」
「その鴻山とかいうやつが、どこかへ連れて行ったのではないか」
「まずそう考えるより思案がない」
「弱ったなあ」
「当分はお綱の行方を探し廻らなけりゃならねえ」
「身どもはお千絵をつきとめる」
「わかるかい」
「広いようでも江戸の中なら、きっと知れるにきまっている」
「じゃあ、余りあせらぬことにしよう」と、孫兵衛、腹ばいがくたびれたので、ゴロと仰むけに寝ざまを変えたが、まだ起き出そうという気は出ずに、じっと天井へ眼を向けている。
周馬も、それを真似《まね》して仰むけになる。
しばらくは、どっちからも口を開かずに、沈思黙考、天井板と相談をしているというふうである。
雪の日だ。悪智をめぐらす頭も、自然にシンと落ちついてくるらしい。
「ウーム……」やがて周馬がこう唸《うな》った。
「どうした?」
「凶兆歴々《きようちようれきれき》。どうも吾々の前途は暗いな」
「ばかいやがれ」
お十夜が、肯《がえ》んぜない。
「イヤしかし、ゆうべも焼け跡で、現に、法月弦之丞の姿を見かけたではないか」
「あんなに肝《きも》を消して、逃げる奴があるものか。そっちが泡を食って駈けだしたので、おれまで釣り込まれてしまったが、今度いい折があった時は、叩ッ斬ってしまうことだぜ。いいか周馬、また逃げ腰にならねえようにな」
「ムウ……」といって目を閉じたが、旅川周馬、悪党のくせに大火以来、また、弦之丞の姿を見たりしてから、少し神経衰弱のきみで、スッカリ気をめいらせてしまった。
空しい日が幾日か過ぎて、いよいよ年の瀬も押しつまってきた。喜撰《きせん》風呂の奥にいるお十夜と周馬は、弦之丞を討つ機会をつかめずお綱やお千絵の消息も知れずに、ただ、いらいらと暮らしている。今日も二人は酔っていた。そのご機嫌を見計らって、取りまきの湯女《ゆな》のお勘《かん》とお千代が、しきりに浅草の景気をそそったので、つい、駕《かご》を四つあつらえてしまった。
茶屋町で駕を降りる――そして二人は二人の湯女を連れて、いい身分でもありそうに、仲店《なかみせ》から観音堂の界隈《かいわい》へわたる、羽子板市《はごいたいち》のすばらしい景気の雰囲気《ふんいき》につつまれて行った。
「あら、いいこと」
「もう、ふるいつきたいねエ」
「成田屋の暫《しばらく》――」
「あたい、浜村屋が好きさ、菊之丞《きくのじよう》の女鳴神《おんななるかみ》――当たったねえ、あの狂言は」
「佐野川万菊《さのがわまんぎく》、悪くないね」
「あれは?」
「宗十郎じゃないか、梅の由兵衛《よしべえ》だよ。あの由兵衛のかぶっている頭巾《ずきん》から、宗十郎頭巾というのが、今年の冬たいへんな流行《はやり》になったンだとさ」
「オヤ、お十夜さんみたいだね」
湯女のお勘とお千代が、こくめいに、端から一軒ごとに見て歩くので、周馬と孫兵衛は、つまらない所へ来たものだと、今さら人に揉《も》まれて後悔している。こういう所へ来ると、女を連れてきた男は、いつも女の随属《ずいぞく》になって、吾ながらテレた顔を撫でているよりほかはない。
「あれは誰だろう。見かけない役者だねえ」
お勘がまた立ち止まって指さしたのを、不思議に、お十夜だけが知っていた。
で、少し得意に、
「あれか、ありゃ大阪の姉川新四郎《あねがわしんしろう》よ」
「自来也《じらいや》ですね」
「新四郎の自来也ときては、もう古いものだ。今頃江戸の市へ出るなんて……」
「へえ、そんなに当たり役?」
「あの押絵《おしえ》の自来也がさしている朱塗の荒きざみの鞘《さや》は、新四郎の自来也が舞台でさして流行《はや》らせたものだ。で、阿波の侍でもさしている者がある」
「おや、じゃあお十夜さんの故郷《くに》は、阿波なんですね」
「はははは……つまらねえところで、お里を出してしまったものだ」笑ってそこを立ち去った。
奈良|茶飯《ちやめし》か何かへ寄って、まだ少し早い支度をすましてから、観音堂を一周りして、さて、帰ろうかと、雷門から並木の方へブラブラと出てくると、湯女のお勘が、
「あら、さっきの人――」とつぶやいた。
わき見をしていた周馬が、それを聞きとがめて、
「だれだ、さっきの人というのは」
「いいえ、羽子板の自来也が歩いて行くから――」と、他愛のないことをいっている。
「なんだ、くだらない」
「だって、そっくりじゃありませんか、あの前へスタスタ行くお侍の姿が。笠といい、袴《はかま》といい、そして何より差している刀が、押絵にあった自来也|鞘《ざや》と同じ物ですよ」
「そういわれてみると、江戸には見かけぬ珍しい朱鞘《しゆざや》を差している」
「押絵が、抜けだして、市《いち》の景気に浮かれているんじゃないかしら……」
「まさか」と、お千代も周馬も笑ってしまった。
だが、孫兵衛は笑っていない。
お勘の見つけた自来也|鞘《ざや》の侍を、じっと見つめていたかと思うと、にわかに、
「周馬、おれはここで別れるから――一足先へ帰ってくれねえか」
プイとそれて、人と人との間を縫いながら、暮れかける町を足早に行く、自来也鞘のあとをつけて行った。
「オイ、天堂一角」
ふいに、肩を叩かれたので、
「おう」と、少しびっくりして振りかえった自来也鞘の侍。
熊谷笠《くまがいがさ》を横に向けて――、この江戸表にこう親しく呼びかけられる者はない筈だが、と怪訝《けげん》そうにしていたが、
「ウム。関屋孫兵衛《せきやまごべえ》か」
と膝を打って、踵《きびす》をめぐらした。
関屋とはお十夜の本名である。かれも元は阿波の原士《はらし》であるから、天堂一角とは、その当時の剣友か飲み友達であるらしい。
「奇遇《きぐう》だなあ」
「変ったなあ」
同じ言葉を投げあった。
「珍しい……何年ぶりになるであろう」
「もう、ざっと一昔だろう。なにしろ、おれが阿波を飛びだしてから、ぶらついているのも七、八年だ」
「では、いまだに御浪人か」
「不思議に食えてゆけるものだから、ツイ、この着流しがやめられねえのよ」
「縮緬《ちりめん》ぞっきに雪駄《せつた》ばきかなんぞで、たいそうりゅうとしているではないか」
「どうして、ふところ手をしている代りにゃ、暮がきても米一粒の的《あて》はねえ身だ。なかなか苦労があるンだよ。は、は、は、は……。そりゃそうと、九鬼弥助、森啓之助、あの連中はどうしているな?」
「弥助はこの秋、禅定寺峠《ぜんじようじとうげ》という所で、間違いがあって落命いたした。だが、森啓之助の方は、只今お国詰《くにづ》めで相かわらずにやっている」
「そうか――そして貴公は」
「どうして分った?」
「あまり江戸で見かけない、自来也鞘をさしているので、ちょっと、ハテなと目をつけたのよ」
「ウム、なるほど、これは自分でも気がつかずにいたが、そういわれてみれば悪く目立つの」
「目立ったほうがいいじゃねえか。この江戸表という所は、剣術使いは使い手らしく、いい女はいいらしく、何でも人に目立たせなけりゃ損な所だ」
「それでは少し都合が悪い。実は、少しつけ狙っている者があるのだから」
「ふウむ……だいぶ話が面白そうだ。じゃあ一角、貴公は仇討《かたきうち》にでも出ているのか?」
「なにさ、そんな読本物《よみほんもの》の筋ではない」
「じゃあ、どうなんだ」
「ちと、手軽には、話しかねる」
「水くせえことはよそうじゃねえか。おれも昔の関屋じゃねえ、お十夜孫兵衛とかっていう、妙な通り名をつけられて、少し垢抜《あかぬ》けをしかけている人間だ。やくざ者はやくざなりに、打ち明けてくれりゃ、力にもなろうし、儲かることなら乗ってもいいし、また縁のない話なら、口外ご無用、それでアバヨとしようじゃねえか」
「それは、話さぬと申す訳ではないが、殿様より直命《じきめい》をうけてまいった大事……路傍《ろぼう》ではちと畏《おそ》れ多い気も致してな」
「と、いわれると、なお聞きたい」
「実は、お家にとって、生かしておけぬ一人の男をつけてきたのじゃ」
「男だけでは分らねえが……それは?」
「――法月弦之丞というやつ」
「おい!」
いきなり腕くびをつかんできたので、一角はぎょッとした。
「なんだ」
「法月弦之丞?」
「いかにも」
「ちょッとこっちへ寄ろうじゃねえか。ここは土手へ出る馬道《うまみち》の本通りだ、吉原《なか》へゆく四ツ手や人通りが多くって、おちおち話もしていられない」
と、手を引っ張って、人気《ひとけ》のない所へしゃがみこんだ。隅田川の西《にし》河岸《がし》である。
猪牙舟《ちよき》がのぼる――猪牙舟がくだる――。
吉原がよいの舟である。
川向うは三囲《みめぐり》の土手、枕橋《まくらばし》から向島はちょうど墨絵の夕べである。宵闇を縫《ぬ》って、チラチラ飛んでゆく駕の灯《ひ》も見えだしたが、まだ空も明るく川も明るかった。
陸《おか》へ上がった水鳥のように、そこへしゃがみこんだ十夜頭巾と自来也|鞘《ざや》。
だいぶ話に実《み》が入ったとみえて、陽の落ちたのを忘れていたが、やがて孫兵衛が、
「いや、そういうわけか……」
と、聞き終って、腕組みをした両の袖に、三ツ鱗《うろこ》の紋が白く浮く。
「今話したこと――なにせよ、阿波の大秘事でござる。必ずとも、他言《たごん》してくれては困る」
「浪人はしても、おれも元は阿波の原士だ。なんで国元の秘密をペラペラしゃべるものか」
と、お十夜も、一角の口から大阪表のことを、聞けば聞くほど不思議な思いに、たえなかった。
旧主の阿波守をめぐって、影絵のごとく動いている、法月弦之丞をはじめ常木|鴻山《こうざん》や目明しの万吉や、それはみな、自分と妙な因縁をもっている者ばかりで、一角の話がいちいち自分の過去であるのが妙である。
それのみか。
聞けば天堂一角も、阿波守の内命を受けて、どこまでも弦之丞の命を絶たんために、この江戸表までつけてきたのだというから、かれはいよいよ驚きもし、また乗気にもなった。
これはまったく、何かの巡《めぐ》りあわせみたいなものである。――旅川周馬、天堂一角、そして、おれ自身――期せずして弦之丞を殺害せんとする者が、ここで三人数えられる。いよいよ事成就《ことじようじゆ》の前兆だ。
これは一つ、天堂一角に出世の蔓《つる》をつかませる態《てい》にケシかけて、喜撰《きせん》風呂へ連れこんでやろう――こうお十夜は考えた。
そこで周馬にひきあわせる。
ざッくばらんに話しあう。
話は早いだろう――目的は一つだ。
弦之丞を、暗殺か、惨殺か、どっちみち片づけてしまうことが、三人ともに一致しているから、すこぶる都合がいい。
ばらした上の報酬《ほうしゆう》は。
おれはお綱を自由にする。周馬はお千絵を探して勝手にするだろう。そして一角は、国元へ帰ってこの由を阿波守へ報告する。莫大《ばくだい》な恩賞と加増《かぞう》と面目をほどこすのは分りきったこと、これもずいぶん悪くない。
「うむ、一角」
「なんだ」
「その話なら安心しろ」
天堂一角は、まだ自分の目的を洩らしただけで、孫兵衛のほうの話はきいていないので、何を安心していいのか分らなかった。
「三人組だ。おめえと俺と旅川周馬と」
「周馬? それは一体何者なのだ」
「まあいいから、俺と一緒に桜新道《さくらしんみち》の喜撰風呂まで来るさ。そこでその男にもひきあわせるし、うまい相談もしようじゃねえか」
「いや、拙者は一刻も早く、見失った弦之丞の宿だけでも突きとめねばならぬせわしい体、これでご免をこうむるといたそう」
「野暮をいうなよ、湯女《ゆな》遊びをすすめるのじゃねえ、底を割って話すと、この孫兵衛も、そこにいる周馬という男も、少し仔細《しさい》があって、弦之丞めをつけ狙っていたところなのだ」
「えっ、きゃつを?」
「だから、ひとつ三人組で、それを相談しようというのだ」と、熱を上げて説きつけていると、ちょうどそこの河岸ッぷちへ、バラバラと駈け寄ってきた二人の子供。
見ると、お獅子の姉弟《きようだい》である。
きょうも角兵衛を稼いで、家へ帰る途中だろうに、そこらの小石を拾い取ったかと思うと、
「――二アつ切った――」
「三ツ切った!」
「――こんどは四ツ」
掬《すく》い投げに小石を打って、その小石が川の面《おもて》を、つッ――つッ――と千鳥に水をかすって飛ぶ数をかぞえて興がりだした。
「えい、びっくりした」と、お十夜が睨みつけると、その血相に縮《ちぢ》みあがって、逃げだしながら、お三輪《みわ》と乙吉《おときち》。
「こわいおじさん」
「泥棒ずきん」
「ずきん流行《ばやり》はロクでもない」
「ないしょ話はみな聞いた」
「いいこと聞いた、二度聞いた」
「三度目にゃア忘《わ》アすれた」
「四たび目にゃ言いつけた――」
かわりばんこに歌いつづけて、ドンドン向うへ行ってしまった。
鳴門秘帖 第一巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫2『鳴門秘帖』(一九八九年九月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。