TITLE : 源頼朝(一)
講談社電子文庫
源頼朝(一)
吉川英治 著
目次
雪千丈
馬ねむり
世 間
やぶ椿
紲《きずな》 車《ぐるま》
清 盛
梅月夜
仏子と凡夫
春《しゆん》 暁《ぎよう》
砂 金
天狗風
山の子
谷と空
山まつり
神隠し
初《うい》 冠《こうぶり》
りんどう
配所の君
異 僧
政 子
若《わか》い群《むれ》
しぐれ輿《こし》
恋の旗
白衣の使者
源頼朝(一)
雪千丈
一
「佐《すけ》どの」
「佐どのうっ」
「おおういっ」
すさぶ吹雪《ふぶき》の白い闇にかたまり合って、にわかに立ち止まった主従七騎の影は、口々でこう呼ばわりながら、佐殿のすがたを血眼《ちまなこ》でさがし始めた。
「見えぬ」
「お見えなさらぬ」
「つい黄昏《たそがれ》時《どき》、篠原堤《しのはらづつみ》へかかる頃まではたしかに、われらの中にお在《わ》したものを」
暗然と、求める術《すべ》を失った眼は、ただむなしく、十方を掃いてゆく白魔の暴威にばかり奪われてしまう。
「……もしや敵の手に」
誰も皆、ひとつ憂いに囚《とら》われて、一瞬《いつとき》ほどは、眉にも睫毛《まつげ》にも、兜《かぶと》の緒にも鞍《くら》つぼにも、雪の降り積るにまかせたまま、駒首寄せて声もなかった。
平治元年の十二月だった。
きのう二十七日の朝から、京都に大乱の起ったらしい事は、この近江《おうみ》の国にもはや知れ渡っていた。四明ケ岳や逢坂《おうさか》の山の彼方に、終日《ひねもす》、黒煙が立ちのぼって見えたので、四年前の保元の乱の時よりも、こんどの合戦は大きかったにちがいないと、湖畔の駅路や宿々では伝え合っていたところへ、
(――六波羅《ろくはら》殿のお布令《ふれ》ぞ。源氏の与党と見たら、捕えて突き出せ。義朝《よしとも》の一族と見かけたら道を通すな)
と、平家の武士や、宿場の沙汰人たちが布令て来たので、戦争の結果も、さてはと知れ、落人《おちゆうど》や追討ちに係り合うて憂《う》き目《め》を見るなと云い合わせたように、二十八日の夕ともなれば、どこの宿場でも野辺の部落でも、かたく戸閉《とざ》して、榾火《ほたび》の明りすらも洩《も》らしている家はなかった。
「……ぜひもない」
やがて。
左馬頭義朝《さまのかみよしとも》は、憮然と、諦《あきら》めの声をもらした。佐殿の父である。
年ごろ三十七、八。この中でも、眉目のすぐれていることや、黒桃花毛《くろつきげ》と名のある名馬に跨《またが》って鞍負けせぬ骨づくりなど、一目にもそれと知れよう。諸国の源氏の長者であり、六条河原の合戦にやぶれる最後までは、まだ千余の兵や、旗本の一族に守られて、
(この君なくば)
と、頼みに仰がれていた人だった。
都を落ちる時は、それでも同勢三、四十人は連れていたが、人目立つため、暇《いとま》をやって別れたり、討たれたり……、深傷《ふかで》のため落伍する者もあったりして――勢多《せた》を越え渡った頃には、父子と主従、わずか八騎となっていた。
顧《かえり》みて今、義朝のまわりを見まわせば、十九歳という長男の悪源太義平《あくげんたよしひら》、まだ十六の次男朝長《ともなが》の骨肉たち。
郎党では金王丸《こんのうまる》、鎌田兵衛正清《かまたのひようえまさきよ》、平賀義信《ひらがよしのぶ》などであったが、このうちにいたはずの義朝の三男で、ことし十三歳になる右兵衛佐《うひようえのすけ》頼朝のすがたが、いつのまにか見失われてしまったのであった。
生捕られでもしたか。
雪にでも埋《うず》もれ去ったか。
気丈な公達《きんだち》とは郎党たちも信じているが、何といってもまだ十三といっては身なりも小さい。それにまた、義朝にとっては、嫡男義平よりも次男の朝長よりも、最愛な御子であったものを――と人々はこのまま千丈の雪に埋もれようとも、探し出さないうちは前にも進めぬ心地で果てなく立ち迷うていた。
すると義朝は、
「もうよい。先へ急ごう。わしが子だ、生きるものなら独りでも生きて行こう。死ぬものなら死ね、ぜひもない」
云いすてて、心づよくも、黒桃花《くろつきげ》の手綱《たづな》を持ち直し、伊吹の麓を見て歩みだした。
二
――捨てて行け。
義朝の一語には、誰も彼も、意外な気もちに打たれた。
常日頃は、子に甘すぎる頭殿《こうのとの》よと云われる父親であったのに。
わけて佐殿《すけどの》は、目の中へ入れても痛くないほどな可愛がりようで、こんどの合戦に際しても源家重代の「源太ケ産衣《うぶぎ》」という鎧《よろい》と、「髯切《ひげきり》」の太刀《た ち》の二品をば、嫡男の義平にも次男の朝長にも与えずに、
(初陣《ういじん》なれば――)
と、わずか十三にしかならぬ三男の佐殿に譲られたほどな愛し方であったのである。
その御曹子《おんぞうし》のことゆえ、さだめし義朝が先になって、
(後へもどろう)
とか、
(手分けして尋ねよ)
とか、狂おしいばかりな下知をなさるかと思いのほか、吹きすさぶ雪より冷たく、
――捨てて行け!
と、自身もう先へ駒を急がせているのである。郎党たちは、その姿に、なおさら眼を熱くしてしまったのであった。
頭殿――義朝の心は推しはかるに難《かた》くない。
六条河原にはたくさんな一族や味方の兵を死なして落ちて来た敗軍の将である。わが子の生命《いのち》だからとて、それと変る立騒ぎを見せる理由はすこしもない。
なおまた、今、頭殿の胸をいっぱいに占《し》めているのは、ひとり右兵衛佐頼朝やそのほかにもある子等の事などではなく、源氏全体のこの頽勢《たいせい》を、
(どう盛り返すか)
の画策であった。大きな責任感と、やわかこのままには、と思い募《つの》る無念さであった。
ひとまず西美濃《にしみの》の海道筋にあたる青墓《あおはか》の宿《しゆく》まで辿《たど》り着こう。宿場の長者で大炊《おおい》という者の娘は、延寿《えんじゆ》といって、さる年頃目をかけた女性で、自分とのあいだには、夜叉《やしや》という女の子まで生《な》した仲である。尋ねて行けば親どもも、すげなくは扱うまい。
そして、それからだ。
長男の義平は、東山道の源氏を催して攻めのぼれ。次男朝長は、信州路へ下って、甲斐源氏をよび集めるがよい。自分は坂東一帯の同族を召集して、東海道からふたたび西する。三道から一挙都《みやこ》を衝《つ》こう。
あの清盛、重盛《しげもり》の父子《おやこ》などにも、きょう自分たちの歩んだ千丈の雪と敗軍のみじめな道とを、踏ませてやらねば心の済むものではない。武門の長者として生ける面目があるものではない。鬼神ともなれ。
頭殿《こうのとの》の胸は、それらの事で、燃えきっておらるるのだ。だから形相《ぎようそう》もまったく日頃のものではない。心のうちを推し計るも、余りに傷《いた》ましく涙ぐましい。
「…………」
郎党たちは、そう分っているだけに、何と慰めることばも知らず、黙々と、黒桃花《くろつきげ》の尾や馬蹄に煙《けぶ》る粉雪《こなゆき》の旋風《つむじかぜ》に、兜《かぶと》の前立《まえだて》をうつ向けがちに従って行ったが、そのうちに一ノ郎党、鎌田兵衛正清が、
「殿っ。――殿っ」
と、前なる無言の人を呼びかけて、そして云うには、あなた様のお胸は知らず、正清としてはどうにも諦めきれぬ、一足お先へ行って下さい、自分ひとり駈け戻って、佐殿《すけどの》のご生死を見届けて追いつきまする。
聞くと、義朝は、
「そうか。ムム、そうか」
吹雪の中に、駒首を向け返して、満足そうに、しかも大きく頷《うなず》いた。
鉄甲に鎧《よろ》われた氷の皮膚の下にも、やはり親の血は熱く沸《たぎ》っているのだ。そう覚《さと》ると、郎党の金王丸もまた、鎌田正清につづいて、
「殿っ。てまえにも、ここでお暇を下さい」
と、何思ってか、突然さけんだ。
三
義朝は、しばし考えているふうであったが、金王丸がかさねて、
「おねがいです。もいちど京へ立ち戻り、かの御方《おんかた》達の安否をたしかめました上で、再びお後を慕い東国へ馳《は》せ下りますれば――」
何か、眸も燃ゆるばかり、切な情をこめて訴える声に、義朝も、
「よしっ、行け」
と、遂にゆるして、わずか四、五騎の残る面々と共に、雪けむりのうちへ遠く駈け去ってしまった。
見送ってから。
鎌田兵衛正清と金王丸のふたりは、すぐ道を西へ取って返し、途々《みちみち》も、
「佐殿《すけどの》ようっ」
「佐殿はおわさずや」
と、人影は見なくても、もしや、雪の下に埋もれておりはせぬか、田にでも転《まろ》び落ちておいでではないかと、雪へ呼び、風へ呼び、野面《のづら》へ呼び、やや二、三里も探して来た。
「兵衛どの」
「おうっ。何か」
「残念ながら佐殿のほうは、あなたへお探しを任《まか》せますぞ。ここは森山宿の追分、てまえは京へさして急ぎますれば」
別れて行きかける姿へ、
「金王。金王」
「はい」
「しばし待て。あの山陰に、小屋らしき物がある。猟師どもの獣小屋《ししごや》かも知れぬ。あれまで――」
兵衛正清はそう云って先に駆けた。獣小屋を窺《うかが》ってみると人気《ひとけ》はなく、土間には土を掘った炉穴《ろあな》に榾《ほた》の燃え残りがいぶっている。辺りの薪《まき》をくべ足し、腰をおろして、
「金王。おぬしは、京へ戻るというが、都の内には、平家に降《こう》を乞うて、生き長らえておるような腰ぬけはいざ知らず、源氏と名のつく者は、一人だに、陽《ひ》の映《さ》す下は歩けぬ世となり終ったが……そうした危うさを合点で行くのか」
「元よりです。乱後まだ一日か二日、洛内の余燼《よじん》もいぶっておりましょう。勝ち誇った平家の武者ばらの気も立っておりましょう。けれど十分、心して、敵の目をぬけて紛《まぎ》れ入るつもりであります」
「そして?」
「その先の事ですか」
「されば……おぬしの仰せつかった使命の的《あて》は、およそ察しはついておるが」
「いや、そのお使いは頭殿《こうのとの》から仰せ出した儀ではありません。お口にだに洩らさぬだけに、お胸のうちを察して、この金王から途々《みちみち》何度も申しあげ、ようやく、ではとお許しが出たので参るのです」
「よくぞ気づかれた。われら源氏という者の一門は今日亡び去っても、明日《あした》へながれる血は亡びぬ。その一脈のお血につながる可憐《いじら》しきお人や幼い方々が、まだ都には残されておざったな」
土間炉の榾が燃えてきた。
燦《さん》として、二人の具足や太刀金具が光を放つ。それにつけて満身の雪も滴々《てきてき》としずくして落ちた。いや二人の涙はそれにまさるものがあった。
「…………」
頭殿にはこんどの合戦に伴った若武者の、男々しい子たちのほかに、まだ母の膝も離れぬ幼いのが、よその館《やかた》に三人もいた。
その母なる人はもと九条院の雑仕女《ぞうしめ》であった常磐《ときわ》御前で、深窓の女性ではないから、平常でも世間にはつつましく、一族の晴れ事などにも余り姿を見せず、葉がくれの寒椿の花の覗《のぞ》けば紅きがように陰住居《かげずまい》していたが、すでに左馬頭義朝とのあいだには、ことし七ツになる今若、五歳の乙若《おとわか》、そしてまだ乳恋うさかりの牛若と、男の子ばかり三人の和子《わこ》を生《な》していたのであった。
馬ねむり
一
長居は心がゆるさない。焚《た》く榾《ほた》の火もあまり過ぎては、暖に馴れて、かえって後が辛いし、人目を招く惧《おそ》れもある。
ふたりはやがてまた、獣小屋《ししごや》を捨てて騎を急がせていた。そして以前の岐《わか》れ路まで来ると、
「では、金王《こんのう》」
「兵衛どの」
改めて、無量の思いを、呼び交わしつつ、
「行く先のご無事を祈り申しておるぞ。常磐《ときわ》さま始め、おちいさい公達《きんだち》たちのご先途《せんど》、くれぐれも頼み参らすぞ」
「心得て候」
金王は、頼もしげに、そう答えてからまた、
「この辺りとて、油断はなりません。お身様にも、心なさりませ。――少しも早く、佐殿《すけどの》とお出会いなされて、先なる頭殿《こうのとの》を追い、つつがなく美濃路へお遁《のが》れあるように」
「おお。ではまた、いつの日か、東国で会おうぞ」
「はっ。おさらば」
「さらば」
ひとりは西へ。
また、辻を東へと折れた兵衛正清は、琵琶《びわ》の湖を左に見ながら、ふたたび佐殿の影を彼方《あ ち》此方《こ ち》さがし求めた。
けれど、右兵衛佐《うひようえのすけ》頼朝のすがたは、ついに、朝までも見出すことができなかった。
* * *
何処で父や兄や郎党たちの群《むれ》からひとり下がったのか、頼朝は気がつかなかった。
雪にふさがれたまま凍りついたような瞼《まぶた》を、はっと開いて見ると、いつの間にやら父も見えない。兄や郎党たちもいなかったのであった。
「さては遅れたか」
頼朝は、にわかに駒を鞭打った。
彼の驚きと共に、駒も驚いて、突然、まっ白な旋風《つむじかぜ》を起して狂奔《きようほん》した。
しかしわずか急ぐとすぐ駒は疲れた。彼も疲れた。心細さもない、愛慾もない、怖ろしさもない。
ただ睡《ねむ》たかった。
彼はまだ十三の童子武者であった。源氏重代の紺《こん》おどし「源太ケ産衣《うぶぎ》」の具足をよろい、髯切《ひげきり》の太刀を横たえ、逞《たくま》しい鹿毛《かげ》の鞍にあるために、一かどらしくは見られるが、何といっても、まだ十三歳であった。
「……睡たい」
慾も得もなく思う。
鞍腰《くらごし》と手綱の手は、自然、凍りついたように無意識な調子をとっているが、頭脳《あたま》はまったく行く道になかった。白い天地と同じように、頼朝の頭脳のなかも、ただ白かった。――白い、白い、果てなく白いものを夢みつつ揺られていた。
思うに。
彼はこんな状態を、きょうは何度も繰返していたにちがいない。その間に、父義朝や家人《けにん》の群《むれ》から迷《はぐ》れてしまったものであろう。わずか十間か二十間も隔《へだ》てると、もうお互いの姿も見えない白毫《はくごう》の霏々紛々《ひひふんぷん》なのだ。それに道とても、一足おくれれば、西したか、東したか、馬蹄《ひづめ》の痕形《あとかた》もないのである。
――佐《すけ》どのうっ。
――佐殿うっ。
しきりと自分を呼ぶ気がする。頼朝ははっと眼をひらく。きれいだ! 実にきれいなと思う雪ばかりである。
駈けても、人影一つない。止《とど》まっても、人間のにおいもせぬ。白一色だ。人の気《け》もない世間とは、こんなにも美しいかと思うばかりである。
頼朝はまたいつか、馬の上で、うとうと居睡ってしまうのであった。
二
元、いずれの家人《けにん》の成れの果てやら、森山の宿に、源内兵衛直弘《げんないひようえなおひろ》とよぶ怖《こわ》らしい牢人者が住んでいた。
昼のうちこの辺りまで、六波羅《ろくはら》の武士が来て、宿場の長《おさ》や、沙汰人どもをあつめ、訓示して去ったことばには、
「左馬頭《さまのかみ》の一族、そのほか源氏の家人どもが、飢《う》えに糧《かて》を求め、矢傷に薬を乞いなどして見えたる折は、親切顔して、小屋へ入れよ、入れ置いてすぐ、地頭《じとう》へ訴え出るなり、沙汰人や地侍たちで力を協《あわ》せ、縛《から》め捕《と》ってつき出すもよろしい。――いずれにせよ、用捨すな。匿《かくも》うたら断罪に処するぞ。またよい落武者討ち取って、首を証《しる》しに持参なせば、それも由々《ゆゆ》しい汝らの出世となろう。一代富貴の基《もと》ともなるほどなご感賞にあずかるあずからぬも、この折だぞ」
と、あった。
人は待春《まつはる》とか年暮《く れ》とかいえ、源内兵衛《げんないひようえ》は秋からの布子《ぬのこ》一袖。洟《はな》たれの子、しらくも頭の子、ひかん病《や》みの子、乳の出ぬ乳に泣く子と吠える女房などの住む茅《あば》ら屋《や》から、この布令《ふれ》を知ると飛び出して、
「春の跫音《あしおと》が聞えるぞ」
と、裏藪《うらやぶ》の竹を伐《き》った。
削《そ》いだ切っ先へ油を塗り、猪追《ししお》い眼を光らして、昼間から諸処をうろついていたが、春の跫音は眼には見えない。
夜になった。
吹雪の小やみに、時々、青い月かと思うような空明りが映《さ》す。犬のように、宿場端れをのそのそと雪沓《ゆきぐつ》で踏んで来ると、
――がさっ。
と、町屋の厩《うまや》で物音が聞え、馬のうしろで二本の長柄刀《ながまき》の刃が光った。
「……だ、誰だっ?」
すくみ腰は双方でしていた。
やがて、見さだめてから、
「源内じゃあないか」
馬糧《まぐさ》の中から出て来たのは、これも宿場の牢人どもで、きょうの布令に、ふだんの懶惰《らんだ》を一蹴《いつしゆう》して、寒さも睡さも忘れている仲間だった。
「どうだ」
「なにが」
「いい首でも拾わなかったか」
「まだ、まだ」
「はて。……雁《がん》ばかり飛んでいやがる」
喞《かこ》ち合っていた時だった。
その雁の群《むれ》が、湖畔のほうへ斜めに落ちて行くのをぼんやり眺めていると、三名のすぐうしろを、一騎の武者が、極めて静かに通って行った。
駅路は雪が掻いてある。両側とも廂《ひさし》へまで届きそうな雪の山だった。その雪越しに、馬上の半身だけがちらと見えたのである。
「……やっ?」
「叱《しつ》」
長柄刀《ながまき》と竹槍は、雪の山へへばりつきながら、後を尾《つ》けた。――だが騎馬の武者は余りにも平然としていた。落武者らしい恟々《きようきよう》した気くばりも見えないのだ。
「何だろう、あいつ?」
「おや。居眠っていやがる」
かえって三人は躊躇《ためら》った。
しかし、姿がゆるさない。忽然《こつねん》と下界へ墜《お》ちて来た一つの星みたいに見えた。それが、「源太ケ産衣《うぶぎ》」や「髯切《ひげきり》」の燦爛《さんらん》とは知るよしもなかったが、何しろどこか粧装《よそおい》が違う。
これだ。由々しい出世のつると云われたのは。春の跫音《あしおと》もこれに出会う虫の知らせだ。――のがすな、ぬかるな。――眼くばせし合って、まず源内から雪の山を躍りこえて往来へ飛び出た。
「待てっ、公達《きんだち》」
「…………」
右兵衛佐頼朝は、がくと、愕《おどろ》いたように振向いた。
三
見つけない男が、竹槍を向けて何か云った。他《ほか》にも、長柄刀《ながまき》を持ったのが二人ほど、自分のほうを睨《にら》んでいる。
さすがに、遠くからである。うかと、近づいては来ないのだ。頼朝は、
「なにか」
とも云わなかった。
怖いという気もそうしない。槍や長柄刀は血ぬられたのを飽きるほど戦場で見たばかりだからである。それを下人《げにん》ずれが持って踏ン張ってなどいても、蟷螂《かまきり》のようにしか見えなかった。
「御曹子《おんぞうし》、耳はないのか」
「…………」
「いずれから来て、いずれへ渡らせられる。無用な事。この先とも、遁《のが》れる道などはない。――粥《かゆ》なと食わそう、馬を降り召され」
「…………」
頼朝は、依然、押し黙ったまま馬をやりかけた。
「やいっ、待たぬかっ」
源内兵衛は、もうこの獲物を取った気がした。飛びかかって突っかけた。頼朝は駒の平頸《ひらくび》へ抱きついた。駒は高く脚をあげたまま狂いながら後へ退《さ》がった。
竹の柄は雪にすべる。どこか突いた気はしたが相手には応《こた》えがない。源内兵衛は焦《いら》って、竹槍を投げすて、腰の野太刀をひき抜いた。そして狂い旋《めぐ》る駒の鞍わきを追い廻して、
「うぬっ」
振りかぶると、馬上、
「痴《し》れ者《もの》かな」
と、頼朝は初めて口を開き、髯切の太刀の抜きざまに、無我無心、源内兵衛の素頭《すこうべ》を払った。
眼の前に起った獣《けもの》のような絶叫と、どす黒い血の噴騰《ふんとう》に、頼朝自身すらびっくりした。はっきり眼が醒《さ》めた心地だった。
「降りろっ」
まだ云っている。それは、長柄刀片手に、馬の口をつかんで離さない男である。
鞍腰上げて、
「下司《げす》っ」
と、馬額《うまびたい》をのぞき越しに斬り下げると、男は跳びのいたが、肘《ひじ》から先を失って、わっと転げた。
雪に拡がった血の傘は怖ろしく大きく見えた。残る一人の長柄刀はもう近寄りもし得なかった。その怯《ひる》み面《づら》へ、
「寄るか!」
と、頼朝は叱って、太刀の平《ひら》は馬の尻を打ちたたいていた。
血を見たせいか、馬もにわかに悍気《かんき》を震《ふる》い立って、まるで雪神でも翔《か》けるように、雪風を裂いて走った。
急に頼朝は怖くなった。
父はどうしたろう。兄は、一族たちは。
頼みの乗馬とも、翌る日は別れなければならなかった。雪に脚を折ったのだ。徒歩となれば、具足は重い。それに人目にもつくので、重代の太刀も鎧《よろい》も、馬と共に捨てて、身軽になって歩いた。
二十八日の夜の頃は、もう自分でも何処を彷徨《さまよ》っているのか覚えなかった。頭も寝不足でしんしんと痛い。耳も頬《ほお》も触ってみても自分のものの気がしない。父や兄達の事すら、考えられない程だった。ただふしぎに戦場の有様だけは頭脳《あたま》から消えなかった。眼をふさぐと、六条河原あたりから御所の間近まで焼けたその日の炎や黒煙が見えてくる。じんじんと、太刀ひびきや矢唸りも耳の底から甦《よみがえ》って来る。何度も足に躓《つまず》いた首のない胴だの、足のない屍《かばね》などもありありと思い出される。
怖くない。怖いなどというそんな浅いものではない。
(戦争って、こんなものか)
と、頼朝は思うだけだった。そしてそんな幻想と思い出に取憑《とりつ》かれながら、彼の夢は、その晩江州浅井の山里の、誰が家の小屋とも知れぬ戸もない廂《ひさし》の下に、柴薪《しばまき》や漬物桶などの間に挟まって、深々と睡り落ちていた。
世 間
一
夜が明けると、その家《や》の主《あるじ》らしいのが、炉にくべる薪を薪納屋《まきなや》へ取りに来て、非常な愕《おどろ》きに打たれた顔した。
「嬶《かか》。ちょっと来てみい。……いそいで。いそいで」
彼の妻も、厨《くりや》から出て来て、主《あるじ》と共に首をならべて、そこをさし覗《のぞ》くと、息も止ったように眼をみはった。
薪の間に臥《ふ》していた頼朝は、夜明けも知らず睡っていた。破《やぶ》れ廂《びさし》の氷柱《つらら》越しに、朝の光がその寝顔にさしていた。
白〓《はくぎよく》に彫った仏像みたいにその寝顔は気品にかがやいていた。やや面長で下膨《しもぶく》れの豊かな相形《そうぎよう》である。何の屈託《くつたく》もないような鼾《いびき》すら聞かれた。
「どこの童《わらべ》であろ? ……。何処から来て、こんな所へ」
ため息つくように、やがて主《あるじ》がつぶやくと、妻は、彼の耳へ口をよせて、猫や鳥にも憚《はばか》るようにそっと云った。
「落人《おちゆうど》の子じゃろうが」
主《あるじ》は恟《ぎよ》っと思い当った顔をした。黙ってうなずくと、足のつま先で歩むように、そこを離れて、妻に計った。
「どうしよう」
「訴えて出なされ」
「かあいそうじゃ」
「そんな事を云うたとて、きのうも何度、平家のお侍衆が、触れて来たことか。匿《かくも》うたなどと疑われてみさっしゃれ、それこそ……」
「いや、不愍《ふびん》じゃ。わし達の仲にもあの年頃の子があるに」
この家は、膏薬練《こうやくね》りを業としているので、母屋のほうでは、伜たちや男どもが、薬研《やげん》の音や薬練《くすりね》りをしていた。
「飯《いい》を握って、味噌など添え、あの童《わらべ》に与えて追ん出してやれ。山路の方角を教えてな」
仏心《ほとけごころ》のある男とみえて、かたく妻にいいつけた。
ゆり起されると共に、頼朝はそこを出なければならなかった。
生れて初めて、人に食物を恵まれた時は、さすがに涙がこぼれた。それも山へ去ってから喰べた。
浅井の北郡《きたのごおり》は山深い。彼は日が出る方へ出る方へと自然に歩いた。小平《こだいら》という辺で一人の尼に会った。
「どこへ行きなさる」
「青墓へ」
「山越えで」
尼は顔を振った。
不破《ふわ》の関《せき》を通るならとにかく、この雪では美濃へ山越えなど思いもよらぬ事だという。
「まあ、庵《いお》へ来なされ」
尼は、凡人《ただびと》の子でないものと見て、頼朝を誘《いざな》った。けれど、何も問わなかった。およそ一月余りも、頼朝は尼寺の天井裏に寝起きしていた。
暗くて、窮屈で、寒かった。
藁《わら》や莚《むしろ》を持ちこんで、頼朝は尼がいいという日まで、じっと待っていた。その間、毎日毎日、そらんじる程よく聞いたのは、尼が朝暮に誦《よ》む法華経《ほけきよう》の声であった。
経文の意味は元より酌《く》めないが、天井裏で聞いていると、頼朝は何だか楽しくなった。
経のことばのうちには、世尊とか釈迦牟尼仏《しやかむにぶつ》とかいう語が無数に唱えられるので、この世には平家一門ばかりでなく世尊という人もいるような気がした。その人は、公明正大、大愛無辺の心の持主で、善心さえ持てば、自分にも味方してくれる人と信じた。
「もう山も越えられよう」
尼に云われて、頼朝は天井裏を出た。
雪の下から樹々の芽は萌《も》えだしていた。眼が眩《くら》むほど春先の天地は頼朝の心に美しく映じた。十三歳、初めて母の胎内から出たように、彼は鳥の声も行く雲も、珍しそうな眼で見ながらまた、東へ東へと山路を歩いた。
二
細谷川の道を、里へ出て行く鵜匠《うしよう》があった。
鵜匠の男は、さっきから頼朝の後を怪しみながら尾《つ》けていたが、とうとう言葉をかけた。
「和子《わこ》。どこへ行くのか」
「青墓へ」
頼朝は、そう答えるしか、知らなかった。
「青墓に知辺《しるべ》でもあるのかね」
「うむ」
「何というお方か」
「行けば分るけど」
「そうか」
鵜匠は口をつぐんだ。それきり何も問わなかった。しかし、絶えず頼朝の容子《ようす》に眼をそそいでいるふうだった。
人に油断しない事。人の表よりも肚を観ること。そして身を警戒することを、頼朝は、何里か黙って歩いている間に、自然習《まな》んだ。
「公達《きんだち》。わしが送ってあげましょう。あなたは誰か、源氏のお子だろう」
鵜匠は、突然云い出して、頼朝の帯びている刀を、自分の携えている山芋《やまいも》の苞《つと》へ入れ代えてくれた。
「こうして、わしが持っていて上げる。あなたは女のようじゃ。人が問うたら、女じゃと答えなされ。女のように姿態《し な》なされ。よいかの」
悪人か善人か、頼朝には判断もつかなかった。彼はただ漠《ばく》として、身の運命を、鵜匠の男に託していた。
けれど、そう恐れはしなかった。尼寺に落ちついて、我に回《かえ》った頃から、戦争の記憶は彼方になった。大きな浪をのりこえて、浪の底からぽかりと顔を出した世界に、彼のたましいは面白さをすら感じていた。
(青墓へ行けば、父義朝がいる。兄たちがいる。郎党どももいる)
道が北側から山を越えて南面へ下がると、少年の心も南向きの明るさになった。時々思い出されるきのうまでの都での公達《きんだち》生活も、父の豪壮な館《やかた》も、何の未練にも考えられない。こうなるのが自然で、当り前で、飢えも苦しさも、彼の心を感傷へ引きこむには足りなかった。
幾日か経て、青墓へ着いた。宿の長者大炊《おおい》の家へ行くのだと初めて明かすと、鵜匠は非常に驚いて、
「さてこそ、あなた様は」
と頼朝の面《おもて》をしげしげ見直し、苞入《つとい》りの刀を彼の手へもどすと、名も告げずに立去ってしまった。
それまで、鵜匠の肚を、疑いぶかく警戒していた頼朝は、非常にすまない顔して、
「……あ。世尊がいた」
と、つぶやいた。
やがて、大炊の門を訪れてみると、門は閉じてあって、喪中《もちゆう》の忌札《いみふだ》らしいものが貼《は》ってある。裏の土塀口を押入って、召使の者に、
「義朝の子、右兵衛佐《うひようえのすけ》ですが、父君は在《おわ》すでしょうか」
と、たずねると、やがて奥まった屋の内から、
「あな」
とばかり転《まろ》び出て来て、彼の手を取り、足を洗《そそ》ぎ、抱えるばかりにして家の内へ入れてくれた女性がある。
大炊の娘、延寿《えんじゆ》であった。
「おいたわしい」
と、彼女は涙にくれていたが、頼朝はこの女性が父の何であるかもよく弁《わきま》えていないし、事実、そんなに悲しくなかったので、彼は涙もこぼさなかった。
けれど、その後で、
「お父君には、ここを去って、尾張《おわり》の方へ落ちのび給い、正月三日というに、長田忠致《おさだただむね》に計られて、敢《あえ》なくお討たれ遊ばしたのみか、その御首《みしるし》は、都へ送られ、平家の者の手にかかって、都の東獄の門前にある樗《おうち》の木に梟《か》けられました」
と、聞かされた時は、それまでの無表情を破って、声をあげて慟哭《どうこく》した。誰がなだめても泣きやまなかった。
三
頼朝が泣きやまないので、延寿の父親の大炊《おおい》は、わざと声を励まして、
「そればかしの事で悲嘆にくれるようでは、この先、どう生きてゆき召さるか。左馬頭《さまのかみ》義朝様のお子ともあろうものが」
と、叱った。
そして、
「まだまだ怨《うら》めしい事がある」
と、語った。
悲命の最期をとげたのは、頭殿《こうのとの》ばかりではない。嫡男の悪源太義平《よしひら》どのも、次男の朝長どのも、もはや此世《このよ》のお人ではない――と云い聞かせた。
頭殿は、ここへ着いて、すぐ再び尾張へ向けて立つ真際《まぎわ》に、予《かね》ての打合せどおり、義平を木曾路へ、次男朝長を信州方面へ打立たせたが、朝長は前から悩んでいた手創《てきず》に耐えかねて、途中から父の許へ引っ返して来て、涙ながら云うには、
(もうだめです。名もない平氏の地侍などに、恥ずかしい死目に会わされるより、父上の手にかけて殺して下さい。それを楽しみに苦痛をこらえて戻って来ました)
頭殿には、それを聞くと、
(おまえも義朝の子である)
と云って、手ずからわが子の首を斬り落したのであった。
また、長男の義平のほうは、飛騨《ひだ》まで入って、彼方《あ ち》此方《こ ち》の郷族へ呼びかけ、一時は少数ながら軍隊の編制とまで進みかけたが、折も折、左馬頭義朝が名古屋の辺りで討たれて首を京へ上《のぼ》されたと聞えたので、集まった兵もたちまち四散し、身さえ危うくなったので、
(かかる上は、ただ一人でも、敵の清盛か重盛か、何《いず》れかに近づいて、父や一族の恨みをはらし、義朝の子らしい死に方をしよう)
と思い定め、密《ひそ》かに京都へ引っ返して、六波羅の近傍を彷徨《さまよ》っていたところ、たちまち平家の捕吏に発見されて、六条河原に曳き出され、可惜《あたら》、二十歳《は た ち》の春を、無慚《むざん》にも首斬られてしまった――と語るのであった。
泣き腫《は》らした瞼を上げて、頼朝は夢かと疑うような面《おも》もちで聞いていた。
もう泣いていなかった。
泣け、といっても泣きそうもない顔していた。かえって、
「おわかりかの」
と、大炊は泣き洟《はな》をかむし、延寿もすすり泣いてしまう。
「源家の正しいお血すじと云っては、もはや和子《わこ》お一方とはなったのじゃ。都のあたりに、常磐《ときわ》どのの公達とか、和子とは腹ちがいのご兄弟があるそうなが、まだお乳も離れぬ幼な児ばかりと聞いておる」
ついつい洟をかんだり眼を拭いたり、しどけなく独り語っていたが、大炊がふと、寂《じやく》として答えもせぬ頼朝の姿を改めて見直すと、何かしら今度は自分がたしなめられているように、恥ずかしい心地がした。
頼朝は、唇《くち》をむすび、眼を一方にすえて、血の気も失せたような顔して始終聞いていたが、
「もう泣きたくありません。皆様も泣かないで下さい」
と、云った。
そして、少し頭《つむり》が痛むと云い、その夜は早く臥床《ふしど》へ籠ったが、翌る日になると、どうしてもこれから東国へ行くのだと云い出し、延寿や大炊がどのように引留めても、かぶりを振って、ただ一人、そこを出て行ってしまった。
「父よ! ……。兄者人《あにじやひと》っ」
春もまだ浅い関ケ原あたりの道をぽつねんと歩きながら、頼朝はうつつに時々さけんでいた。雲を仰げば雲の彼方に父やあると思われ、山を見れば山の彼方に兄やあると思われた。
「ない。誰もいない」
そして自分は十四になった。天下の孤《みなしご》である。そう意識し直すのだった。
四
尾張守《おわりのかみ》平頼盛《たいらのよりもり》の家人《けにん》弥兵衛宗清《やひようえむねきよ》は、小侍十数名をつれて、京都へ上る途中であった。
頼朝は、道で行き会った。
しかし、うつつな彼は、近づくまで何の危惧《きぐ》も覚えなかった。平然と真っ直ぐに歩いて来た。それだけに宗清等の一行も彼を怪しみもしなかったが、他の旅人や百姓などが、道を避けて、わらわらと路傍に頭を伏せるのに、頼朝は、土下座する術《すべ》を知らなかった。
少し端へ寄って、街道の樹の根方《ねかた》に立ってながめていた。
「はて?」
宗清は小首を傾《かし》げた。
頼朝も、彼の方を見ていた。
「藤三《とうざ》。藤三」
宗清が馬上から呼ぶと、供の中から丹波《たんばの》藤三国弘という小侍が、
「はっ。ご用ですか」
と、側へ駈け寄った。
宗清は、鞭を指して、
「あれに佇《たたず》んでおる少年は、どこかで見たような気がする。引っ捕えてみい。異相の童形《どうぎよう》、不審である」
と、云った。
「はっ」
と、藤三は、隼《はやぶさ》の蒐《かか》るような眼をして見廻したが、宗清が指した場所には、もう何も見えなかった。
宗清は、鞍の上なので、すぐ行方を見つけ、
「あっ、並木の堤を跳びこえて、彼方へ逃げおる! 追えッ」
にわかに、烈しく命じた。
藤三を初め、侍たちがわっと並木堤《なみきどて》を越えて行った。菜畑やら麦の耕地やら土民の小屋を繞《めぐ》った藪《やぶ》などがその向うにあった。しばらくすると、物々しい声に曳《ひ》かれて、頼朝は引っ縛《くく》られて来た。溝へ落ちたり畑土へ転んだりしたとみえて、酷《むご》い姿に変り果てていた。
宗清は、手荒にすな、と制しながら、大地へ抛《ほう》り出された頼朝の上へ馬首を臨ませて、
「小冠者《こかんじや》。そちはわしを見て逃げたな。わしを知っているか」
と、訊ねた。
頼朝は、後ろ手に縛《くく》られた手をしきりにもがいていた。解こうとするのではなく、手がきかないので、起ち上がれないためであった。
「わしを起たせてくれ」
頼朝の乞いに、丹波藤三が、
「起たんでもよい。そのままにてお答え申せ」
と、云うと、
「いや、望みのようにしてやれ」
と宗清の言葉だった。
藤三が頼朝の襟がみをつかんで、起たせてやると、頼朝は、地に摺《す》り剥《む》いて、少し血のにじんでいる半面を、屹《きつ》と、宗清の面《おもて》に上げて正視しながら、
「馬を降りよ」
と、責めるように云った。
「――わしは、平家の地侍などに、馬上から物を云わるるような者の子ではない。問う事があるなら、馬を降りて云えっ」
虐《ひし》ぎつけられた少年の、半《なか》ば、物狂わしくなった叫びとも聞かれたが、宗清は何か凡事《ただごと》でない感動に打たれたらしく、はっと答えぬばかり正直な態度で、すぐ鞍から跳び降りた。そしてつかつかと頼朝の側へすすみ、叮嚀《ていねい》に頭《かしら》を下げて、
「お名まえを仰っしゃい」
と、優しく云った。
彼の郎党たちは、たちまちの間にそこらに立った町人や旅の者や女子供などの人だかりを追い払っていた。
宗清の意外に優しい訊ね方に、頼朝はちょっと差し俯向《うつむ》いていたが、やがて素直に回《かえ》った面を上げて、
「わしは、左馬頭《さまのかみ》が三男、右兵衛佐《うひようえのすけ》頼朝という者です」
と、尋常な声で答えた。
やぶ椿
一
学僧には若い人が多かった。
わけて、この京都八坂郷《やさかごう》の清水寺《きよみずでら》は、東大寺系なので、南都の学生寮《がくしようりよう》もあり、夜になって一所に集まると、論議や談笑で、正月の夜も変らなかった。
「樗《おうち》の木を見に行ったか」
「樗の木とは」
「五条の獄舎の門前にある巨きな木だ。義朝の首がさらしてある。後からまた、子の義平の首も並んで梟《か》けられた」
訊かれた者は、
「いや、見ぬ」
と、眉をひそめた。
すると一人が、
「いや、おとといからもうないぞ。いつのまにか、葬《ほうむ》ったものとみえる」
「盗んだのじゃろ」
「誰が?」
皆、眼をみはる。
「云うまでもない。源氏の残党がじゃ。朝夕、六条の館に伺候し、頭殿と仰いでいた一族だったら、見ていらるる事か」
「そうよな」
あわただしい時勢の変相が、一瞬《いつとき》、若い学生たちの心を通りすぎた。
「罰じゃよ。天の刑罰だ」
抛って投げるように、誰かが呟《つぶや》く。――と、その者を睨め返して、
「何でそう云うか」
と、詰問する者がある。
「――何でと問うも愚《おろ》かだ。三年前の保元《ほうげん》の乱の折に、義朝は自分の父為義を見殺しにしたじゃないか」
「あれは義朝が殺したというよりも、清盛その他の平家が殺させたのだ。朝議ですでに斬罪《ざんざい》と決められた人だから、たとえ義朝が庇《かば》っても助かりはせぬ。強《し》いて弓矢にかけてもとなれば、朝議へ弓引く事になる。涙をのんでむしろ子の手で処置するしかなかったのだ」
「いや、何といおうが、最初に上皇へ献策し奉って、合戦の口火を切ったのは、義朝ではないか。敗れて、上皇には讃岐《さぬき》へ流され、父為義も、朝議で死罪を宣告されるような失敗をしながら、何で今日まで――」
「待ち給え」
論議の相手は手をあげて、
「君の云うのは、人道論だ。もっと大処《たいしよ》から視てやらねば」
「何をいう、人倫《じんりん》の道を外《はず》して、人間のどこに誇るものがある」
「そういえば、義朝は非人道の人間に聞えるが、生涯に瑕瑾《かきん》もないという事は、今みたいな治乱興亡の劇《はげ》しい中にある武将には、求めても求められない無理なはなしだ。然《しか》らば……大きな声では云えないが、六波羅殿はどうだ」
「君はまた、平家方を誹《くさ》すのか」
「感情でいうわけではない」
「そう聞える」
周囲は、そこへ笑いを交ぜて、
「もう止せ」
と云ったが、一方の雄弁家はなかなか口を噤《つぐ》まないで、
「いったい義朝という人は一箇の武弁に過ぎないのさ。それが政治的な葛藤《かつとう》を持ったりして、平家と戦うから、前の保元の時でも、ことしの平治の乱でも、手もなく敗れてしまったのだ。信西《しんぜい》入道などから見たら義朝などはお人のよい乗《の》せ易《やす》い人物だろうし、いわんや六波羅殿と比較したら、武力では知らぬ事、政治的な頭のほうでは、較《くら》べ者《もの》になりはしない」
平家源氏を問わず、ゆめ、うわさ話をしてはならぬ。また、大臣や長者を呼ぶに、たとえ誰が聞いていなくても、よび捨てにする法はない。謹むべき生意気沙汰であると、常々かたく学頭から訓戒されているが、若い同士が集まると、いつかそんな事は忘れていた。
「……おや?」
そのうちに一名がふと、聞き耳を欹《た》てて、遠心的な眼をうつつにした。誰も彼も急に口をつぐんで夜寒《よさむ》の壁を見まわした。どこかで嬰児《あかご》の泣き声が遠くしていた。
二
嬰児の声は、黎明《れいめい》の声である。きょうは闇世でも、明日《あした》のある永遠の人の中へ告げている声である。
だが。
深夜ではあるし、女人《によにん》はいない筈の寺院だけに、その泣き声は、妙に若い学僧たちを懐疑させた。
嬰児を怪しむのではなく、当然それに附随《ふずい》している筈の者を、すぐ臆測にのぼせて、種々《さまざま》な疑いを描き、
「誰か、この浄地《じようち》に女を隠している者があるのではないか」
などと、他人《ひ と》の秘密でも嗅《か》ぎ知ったように、急に声をひそめ合うのだった。
「――見て来ましょう」
すると。隅の方からやがて立って行く一人があった。痩《や》せた影法師が壁にうごいて、廻廊へ出て行きかけた。
「光厳《こうごん》。おい光厳」
室内から呼び返されて、
「はい」
光厳は、顔と半身を見せた。
いつも病身らしく黙りこくって、灰のように無口でいる若い堂衆である。年もまだ十七、八歳でしかないので、古顔の学生《がくしよう》たちはすぐからかった。
「おまえ、見届けに行くのか」
「はい」
「何だって、急にそわそわして、見に行くのだ」
「でも、気になりますから」
「さては、子連れの女を、寺内に匿《かくま》っているのは、お前だな」
「…………」
光厳の顔いろが青くなったように思われた。
けれど、とたんに大勢の学生たちが、声をそろえて笑ったので、
「いいえ、滅相《めつそう》もない事を」
と、真面目に云い訳する光厳の初心《う ぶ》らしさを、よけいおかしがるのみで、その顔いろを怪しむ者もなかった。
嬰児《あかご》の声は、間もなく聞えなくなってしまった。そして見届けに行った光厳も、やがてすぐ帰って来て、
「何でもありません」
と、一同へ報告した。
「何でもないとは?」
意地悪く一人が問うと、
「はい、産寧坂《さんねんざか》の下の陶器《すえもの》作りの家の老婆《としより》が、夜泣き癖のある孫を負うて、子安《こやす》観音へ夜詣りに来ていたのでございました」
と、生《き》真面目《ま じ め》に答えた。
「わははは」
「あははは」
多分そんな事かも知れないという考えもあったので、よけいな心配や臆測を描いていた各《めいめい》が、自分を嗤《わら》い合って、手をたたいた。
それを機《しお》に、
「眠ろう」
「どれ、寝るか」
ぞろぞろ立って大きな伽藍《がらん》の睡窟《すいくつ》へ思い思いに掻消《かきき》えると、後は三、四人の堂衆だけが残って、喰い散らした麦煎餅《むぎせんべい》の欠けらを掃いたり、短檠《たんけい》を片づけたりしていた。
終りに、蔀《しとみ》を下ろして、この清水寺の一つの灯も消え果てると、もう花頂山から東山一帯には、風の音を聞くだけだった。
遥かな夜霞の底に、加茂川の水だけが、薄氷でも張っているように白かった。戦《いくさ》は熄《や》んだとはいえ、まだ洛内は物騒なのであろう。六条のあたりには大きな焼け野原が出来、六波羅の辺にも、いつも見える常明燈の光も見えなかった。
「常磐《ときわ》さま。お開け下さい、……お案じなされますな。最前来た光厳でございます。……常磐さま」
音羽の滝も氷柱《つらら》になっていた。木の葉かと思えば、そこらの御堂の蔀《しとみ》や縁にこぼれて来るのは白い霰《あられ》であった。
「お寝みですか。常磐さま。……ぜひ、まいちど起きて下さいまし。光厳《こうごん》です」
産寧坂の上である。音羽の山を背に負っている。光厳はあたりを怖れながら、子安観世音の御堂の扉《と》をしきりに押していた。
三
「はい。……ただ今」
御堂の中で答えがした。
低い声であった。けれども麗《うるわ》しい女人《によにん》の年ばえが、それだけでも分った。
静かな気《け》はいが中でうごく。やがて御堂の扉《と》の隙間に明りがさした。絶えて人など住んでいた例《ためし》のない堂宇《どうう》なので、蔀《しとみ》は破れ、煤《すす》や雨漏りの荒れもひどいのに、誰が寝泊りなどしているのだろうか。
それからして、そもそも、怪しまれてよい事であった。だから、光厳は、外に佇《たたず》んで、そこの開くのを待つ間も、気が気ではない様子であった。
「御前《おんまえ》様。……ぶしつけではございますが、凡《ただ》の場合ではございませぬ。どうぞ、お身装《みなり》など気づかいなく、早くここを開けて、お顔をかして下さいまし」
光厳に急《せ》かれて、
「はい、はい。今ほど」
次の返辞は哀れなばかりうろたえて聞えたので、光厳は気の毒やら済まない思いやらに堪えかねて、
「おそれ入ります」
と、つけ加えた。
それと共に、御堂の扉が、そろりと開いた。洞窟《ほらあな》のような寒さと薄暗い灯揺《ほゆら》ぎの中に、一体の観世音が天井へつかえるばかり高々と端坐していた。
けれど、一足ここに入ると、誰もすぐ遠い昔の自身を思わずにいられない甘い匂いにくるまれた。それは人肌の温かさすら感じられる母乳《ち ち》のにおいであった。
「やっとお寝《よ》りになりましたね」
ちょうど観世音の裳《もすそ》のあたりに、台座を屏風《びようぶ》のようにして、二枚のむしろが板床に展《の》べてある。その一枚へ坐り直した女性と対《むか》いあって、光厳は、その人の懐《ふところ》をのぞくようにして云った。
「ええ。よいあんばいに」
常磐《ときわ》も、わが手に抱いている寝顔を見て、嘆息《ためいき》のように呟いた。
明けて二歳になったばかりの牛若《うしわか》である。たださえ癇《かん》のつよい子なのに、年暮《としくれ》の戦から夜も易々《やすやす》寝たことはなく、食物《たべもの》も喰べたり喰べなかったりなので、母乳《ち ち》はすっかり出なくなっていた。それに衾《ふすま》もない夜ごとの寒さである。泣く子が無理ではないと思う。
「ああ、和子《わこ》たちはまた、他愛ものう、よくお寝みでございますなあ」
光厳は、云い出す急な用向きも忘れて、もう一枚の莚《むしろ》をながめ、心の底から嘆くようにいった。
ことし六歳《むつつ》の乙若《おとわか》と、八歳になった今若《いまわか》のふたりが、寒さに、ひしと抱き合って、無心な寝息をもらしていた。それに掛けてあるのは一枚の母の上着だけであった。
変れば変る境遇と、光厳は胸が迫ってくる。無常ということばは自分等が説法や雑談にも、余りに云い馴れて平凡な感じしか湧かない語であるが、眼《ま》のあたりその無常な変相に世をさまよう人を見ては、胸が傷《いた》まずにいられない。
この三人の和子は、人も知らぬはない、きのうまでも、源氏の人々から弓矢の棟梁、一族の長者と仰がれて、六波羅《ろくはら》の清盛や小松殿の一門とも、肩をならべていた左馬頭義朝の紛《まぎ》れない遺児《わすれがたみ》なのである。
それにまた、母なる人も――
幼い時から九条の女院《によいん》に仕えて来て、身分は低い雑仕女《ぞうしめ》ではあったが、義朝が彼女を見出すまでには、その権勢を以て、千人の美女のうちから百人を選び、百人のうちから十人を選び、十人のうちから唯ひとりの常磐を選んだと――都の辻あたりでも噂されたほど眉目《み め》すぐれた女性である。
十四初めて黛《まゆ》を描き、十五すでに簾裡《れんり》に裳《もすそ》を曳く――と、玉の輿《こし》を羨まれた彼女も、ことし二十三、はやくも両の乳に三児を抱いて、住むに家もなく、大悲の御廂《みひさし》にこの寒空の夜を凌《しの》ごうとは、誰かその頃、想像でもしてみた者があろう。
光厳は、それやこれ思うと、何も云い出せなくなって、泣きもせで自分の前に坐っている常磐の瞼が、むしろ不思議にすら思えた。
四
かくては――
と、光厳は心を鬼にとり直して急に云い出した。
「常磐さま、追い立てるようですが、もはやこの御堂も安全ではなくなりました。和子様の泣き声が、夜更《よふ》けると、遠く本堂のほうまで聞えるのです」
「無理はありません。あのように泣き出すと、火のつくような声ですから」
「学寮の若い人達が、今夜も怪しみ合って、危うく詮議《せんぎ》されるところでした。――半月ほどは裏山の花頂堂にお匿《かくま》い申しあげ、そこには食物のお運びも出来ないため、おとといの夜からは、ここへお移し申しあげましたが、人目や耳が近いだけ、裏山よりもなおここは物騒でした」
「ご心配をかけました。ぜひもない事です。ほかへ立ち去ることにいたします」
「寔《まこと》に……申《もう》し難《にく》いのでございますが」
「いえいえ、大《おお》晦日《つごもり》の夜からきょうまでも、母子《おやこ》四人、六波羅の眼をのがれ、生きながらえて来られたのは、あなた様のお慈悲でござりました」
「なんの」
光厳は、かえって辛そうに顔を振って、
「法衣《ころも》は着ていますが、亡き父も叔父も、源氏の端《はし》くれでした。わけて、従兄弟にあたる金王丸《こんのうまる》は、童《わらべ》の頃から六条のお館《やかた》に仕え、義朝様が御前《おんまえ》様の許へお通いなさる折は、いつもお供について行きなどいたしたものです」
「…………」
常磐のふところに抱かれている嬰児《あかご》が、ふとまた、むずかり気味に乳をさぐりかけたので、光厳は、自分の声に恟《ぎよ》っとしたように、口をつぐんでしまった。
念じるように見まもっていると、よいあんばいに、牛若はすやすや睡《ねむ》った。光厳は、自分の声に気をつけながら、
「――ですから、年暮《く れ》の二十六日の朝から、ご合戦となって、洛内の町内に、あの凄まじい焔と黒煙が立ち昇り出してからは、お館の安否と共に、御前様はどう遊ばしたか、幼い和子様たちはどう召されたやらと、夜も睡らず、昼は間《ま》がな隙《すき》がな、ここから一目に見える町の煙ばかり眺めやっておりました。……するとです、ちょうど大《おお》晦日《つごもり》の真夜中、従兄弟の金王丸が、和子たちを背負い、あなた様を励まして、これへ上って見えました。……そして、父祖以来の恩返しは今する時だ。光厳頼んだぞ。自分はなお、近江路から美濃へ落ち行かれたお館やご一門の先途《せんど》を見届けねばならぬ身ゆえ――と、いわれた時は、人に信じられたという欣《うれ》しさと同時に、途方にも暮れましたが、僧門にいる身の悲しさ、やはり私にはこれだけの力しかございません。これ以上、自分にない義心を持って見ても、それは遂に、御前様の身や和子様たちを、六波羅の捕吏の手柄に供えてしまうだけのものです。明日《あした》を待つのも危ないのが眼に見えておりまする」
「わかりました。夜の明けぬうちに、そっとここを立退きまする」
「……ざ、ざん念です」
遂に、光厳は、それまで怺《こら》えていた涙をはふりこぼして、法衣の袖で、わが顔を蔽《おお》ってしまった。
「わたくしが、病弱な弱法師《よろぼし》でなければ、もいちど武士の子に返って、お供をしたいとも思いますが」
病骨の体ほど、かえって、若い血が烈しく咽《むせ》び上げるらしく、光厳は、法衣《ころも》の中で嗚咽《おえつ》していたが、また、
「みすみす、行くあて途《ど》もないあなた様やその和子たちへ、出て行けと、追わぬばかりに云わねばならない私の辛さ。……御前様、おゆるし下さい、おゆるし下されませ」
光厳はそう訴えると、男泣きに床へ泣伏したが、常磐の眸《ひとみ》はじいっと一方の壁を見つめているだけで涙も見せていなかった。氷の張りつめた池のように、その眼は泣く事すら忘れていた。
紲《きずな》 車《ぐるま》
一
二月も近い空の寒々と夕冴えした黄昏《たそがれ》であった。
吹き寄せられた水鳥のように、伏見の船戸の津には、小さい苫船《とまぶね》が橋の蔭やら岸辺にかたまっていた。
旅人をのせて浪華《なにわ》へ通う舟もある。この里の雑穀や炭薪《すみまき》を京の市《いち》へ運輸する荷舟もある。鵜匠《うしよう》の鵜舟は繋《つな》ぎ捨てられたまま今は顧《かえり》みられもせぬ。白拍子《しらびようし》の住まっている艶《なまめ》いた舟は、昼は留守のようであったが夜となれば苫《とま》の外へ紅い灯を垂れて、星のように出て来る気まぐれ男を招いていた。
こうして見ると、河の上にも春秋の運命があり、その日その日の生業《なりわい》も慌《あわ》ただしい。
「お世話になりました。お情けで子たちもこのように、元気づいて参りました。墨染《すみぞめ》と尋ねて行けば、これから訪う家も、何とか知れましょう。……お暇を」
常磐《ときわ》は、礼をのべて、身支度をしかけた。
ここも水の上。
狭い苫舟《とまぶね》の内であった。
うら若い姉妹《きようだい》の白拍子が、ひとりの病母を養うため、この舟を世帯としていた。今朝、妹のほうが、まだ霜の白い朝まだきに、市へ買物に上がった帰り途、町屋の廂《ひさし》の蔭に凍えている親子四人を見かけて、
――まあ、お可哀そうに。
と、飢《う》えにふるえている二児の手を曳き、乳呑みを抱いて路頭の霜にうずくまったまま、起つ力もなげな上臈《じようろう》を励まして、ここへ連れて来たものだった。
清水寺の観音堂を出てから幾日幾夜、常磐は、われながら、
――よくぞ生きて。
と思われる日を送って来た。そして、こういう境遇になってみると、自分が生れながら深窓《しんそう》の姫そだちや宮仕えの女でなく、幼い頃は深草の田舎で麦を踏み籾《もみ》を搗《つ》き、十か十一の頃には、頭《かしら》に籠を乗せて、野菜や果物を売りに、京の町々を歩いたような生活の味をも過去には知っていた事が――今はかえって倖せに思われるのであった。
そうした賤《しず》の女《め》が。
常磐は、日頃も思う事には。
雪の日は和歌に暮れ、月の夜は香を聴き、花の昼も恋の何のと、優雅《みやび》やかな事ばかりを、この世の常と考えている人たちの中へ、ふと、九条の女院へ雑仕女《ぞうしめ》として拾われてから立ち交じって、その上にも、思いも望みもしていなかった源義朝などという武運の長者に愛されて、
(あれ見よ、やぶ椿が、瑠璃《るり》の花瓶《かびん》に挿《い》けられて、長者の几帳《きちよう》の側に置かれた事よ)
などと、以前の友やら身寄りやらに、嫉妬《しつと》まじりの陰口を云われている間に、いつか頭殿《こうのとの》とは、三人の子を生《な》す身となっていたのである。
まったく、娘ごころも知らぬ間に――であった。
だから元より、和歌の道とか、香を聴き分ける事とか、そういう上臈《じようろう》たちの風雅《みやび》も知らねば、難しい書読《ふみよ》む知識も持たなかった。今の社会《よのなか》とはどんなふうに渦《うず》まき動いているのか、自分を又《また》なく愛してくれる六条の頭殿の一族と、六波羅の清盛の一門とが、どう対立し、どう葛藤《かつとう》し、どういう危険な状態にあったのかすら、戦の日が来るまでよく分らなかった程である。
女の二十三。
早くも七ツを頭に三人の子を持って、彼女は、育児の事と、頭殿の愛から見離されないように――念じるの余りに勤める朝夕の化粧としか、常日頃から思いもなく暮して来た。それが精いっぱいの毎日であった。
今日となって、今のわが身を顧みると、悲命な姿にはちがいないが、でも、もし自分が、幼時の貧しい辛い生活も知らない深窓の生れであったら、疾《と》うにゆうべも、おとといの夜も、路頭に凍え死んでいるか、身を投げてでもいるであろうと思われるのだった。
いやその前に、この三児を、六波羅の手へ渡して助かる気になろうも知れぬ――と、常磐は顧みて思うごとに、貧賤であった女童《めわらべ》の時代にむしろ今では大きな有難さを知るのであった。
二
常磐が、暇を告げると、白拍子の姉妹《きようだい》は、傷《いた》ましそうに、
「では、お気をつけて」
と、止めなかった。
昼の人目を怖れている容子で、およその身の上は察しられていたからである。
抱かれたり、手をひかれたり、怖々《こわごわ》と橋板を踏んで、宵闇の岸へ上がってゆく母子《おやこ》の影を、姉妹の白い顔と並び合って、苫《とま》の陰から見ていた病人らしい姉妹の老母が、
「お坊ッちゃま。また来なされよ。尋ねる先のお家が知れなんだら――」
眼を拭《ぬぐ》い拭いいった。
「……おさらば」
常磐は、岸から舟へ、ていねいに頭を下げた。
人はみな泣いてくれる。
そのために、一椀の粥《かゆ》やら菓子など恵まれて来たが、なぜか常磐自身は、涙が出ない。
ただ、舟を去る時には、ふと瞼《まぶた》が熱くなりかけた。白拍子の姉妹の母親を見て、六条の家から逃げて来る途中、逸《はぐ》れてしまった自分の母の安否が、
(何処に……)
とにわかに胸へせぐり上げて来たからであった。
それも案外、墨染《すみぞめ》の身寄りの家へ行ってみたら、便りの知れることかもしれぬ。彼女は、孤《ひと》りでそう思い励ますのだった。先に手をつないで歩いてゆく今若と乙若のふたりを後から見守りながら――
これから尋ねてゆく的《あて》の身寄りというのは、伯父伯母の家である。伯父の鳥羽蔵《とばぞう》という者は、前は貧しい百姓であったが、縁にすがって、頭殿に願い、六条の館に召使われる身となって、合戦の日までは、中門の牛馬舎《うしぐるま》をあずかり、牛飼頭《うしかいがしら》として、太刀をも佩《は》く身となった人である。
今では、墨染《すみぞめ》の里に、かなりな家構えして、何不自由なく伯母も暮していると聞いていたので、頭殿からうけたご恩に対しても――と、ただ一つの身の寄る辺と頼って来たのであった。
「いけないっ」
「いやあん」
「母さま! 乙若が」
「うそだあい」
「お出し」
「うそ。うそっ」
ふいに走り出した幼い兄弟が、何を争い始めたのか、彼方の道ばたで、取っ組まぬばかりに、大声をあげていた。
うつつな――ともすれば、うつつとなって考えるともなく考え事に囚《とら》われがちな彼女は、びっくりして、
「これ」
と、小走りに近づいたが、今若も乙若も、喧嘩を止めないばかりか、懐《ふところ》の乳のみは、すぐ虫気を起しかけて、泣き出すのだった。
「おお、よしよし……よし」
こんな所へ、もし平家の侍や宿場の沙汰人《さたびと》でも通りかけたらと、彼女は気もそぞろに縮まる思いで、
「今若さま、これ今若さま。お兄様のくせにして、何を遊ばしますぞ。幼い弟御様をば、そのように打ったりして」
懐には、乳をふくませ、声のない歌拍子に、足をうごかしながら、窘《たしな》めると、
「だって。――だってね、お母あ様」
兄の今若は、一本の串柿《くしがき》を、弟の手から奪い取って、母の前につきつけながら、口を尖《とが》らして告げた。
「乙若がね、お母あ様、あそこの百姓の家に干してあったこれを……」
「どうしやったのかや」
「黙って、取って来たんですもの。人の家の物、黙って取って来れば、盗人でしょ。――お母あ様」
三
見れば乙若は、兄の今若が母へそんな告げ口をしようが、耳になどかけず、小さな口を大きく開け、串柿を横ざまに持ちこんで、他念なくむしゃむしゃ咬みついているのだった。
「まあ、和子さまの浅ましい……」
とは嘆いたものの、常磐は、叱る気にもなれないのみか、
――無理もなや。
とさえ可憐《いとし》まれて、自分という者がついていながら、この幾十日のあいだ、子達に、甘い物を胃に摂《と》らせてやれなかった責めを、母の罪とさえ感じるのであった。
事実、彼女自身さえ、「甘味」を思うと、鳩尾《みぞおち》のあたりが痛むほど、それが口に欲しくなる。糖分に飢えている事がわかる。弟の行為を罵《ののし》りながらも、兄の今若も、乙若が心のままにそれを貪《むさぼ》っている容子を、羨《うらや》ましげに見恍《みと》れていた。
「乙若さま。お独りで喰べていないで、お兄様にも、その干柿を分けてお上げなさいませ」
常磐が云うと、
「喰べる?」
乙若はもう自分の欲望は足りた顔つきで、串を二つに折り、その半分を兄へ出した。
「いらない……」
「わしは源義朝の公達《きんだち》じゃ、盗んだ柿など誰が喰《く》らおう。……ねえ、お母あ様」
八歳の今若には、もう自分という者の自覚があった。日頃の庭訓も弁《わきま》えていた。
常磐は、兄弟《ふたり》を側へ寄せて、
「そう仰っしゃらずに、今若さまも貰うてお上げなさい。――弟御様が、黙って持って来たのは良くない事ですけれど、和子達はまだ、物を買うという事はご存知ないのですから無理はありません。串柿を持って来た農家へ戻って、その価《あたい》を払うておいでなされませ」
常磐は、髪にさしていた一本の金釵《きんさい》を抜いて、兄弟の手へわたした。
兄弟は、黄金《こがね》の釵《かんざし》を持って、母に教えられたとおり、そっと戻って、農家の軒下へ行った。そして、まだ他《ほか》にも吊るしてある干菜《かんさい》や柿の縄へ、その釵を挿《さ》して帰って来た。
「さあ和子さまたち。柿を喰べたらその代りに、こんどは仲よう歩いて賜《た》もよ。もう一、二里じゃ。墨染の伯母さまの家まで行けば、お美味《い し》い物もたんと下さろ。夜の具《もの》も暖かにして下さろ。もうすこしのご辛抱ぞや」
励ましながら、駅路《うまやじ》の端れからは燈火《ともしび》一つ見えない田舎道を、母子《おやこ》はまたたどたど歩いた。
すこし大人しくなったかと思うと、六歳《むつつ》の乙若は歩きながら居眠っていた。それを醒《さ》まして促すと、もう歩くのは嫌だと云う。何と諭《さと》しても、
「嫌だ。嫌だ」
と、地べたへ坐って、泣きじゃくッてしまうのである。
やや聞分けもあると、力にしている今若も、まだ八歳《やつつ》だし、生なか物心のあるだけに、乙若よりは恐怖を知っていた。
――明日《あした》は、明日は。
と母に賺《すか》されて、飢え、寒さ、心細さを怺《こら》えて来たのも、ようやく果てしない事と、幼な心にも覚って来たか、両の腕《かいな》を曲げて顔を埋めこみ、今宵はしゅくしゅく啜《すす》り泣いていた。
「もう、どうしょうぞ……?」
子達のそうした姿を眺めると、常磐も坐ってしまいたくなった。ひと思いに、和子たちの喉笛を突き刺し、自分もここに死なんかと思った。
死。
それは絶え間なく襲って来る甘い誘惑であった。今の彼女に、死ほど安らかですぐにも行けそうに思われる所はなかった。そこには、恋しい頭殿《こうのとの》もいられるし――
けれど彼女は、
「否《いや》!」
と、何の苦もなくそんな迷いを否定し去った。強く生きる気もちをすぐ持ち直した。乏しい母乳《ち ち》を無理に吸われるので、乳くびが疼《うず》き痛むたびに、牛若の顔をのぞいても、わが生命《いのち》を、わが生命とのみは、考えられなかった。
四
ここらはもう深草村《ふかくさむら》に近い。
宵を過ぎると、野良犬の声ばかりだった。一月《ひとつき》ほど前の戦争の脅《おび》えは、まだ部落の者から醒《さ》めきれていない。
ついそこらの藪《やぶ》や山畑の窪《くぼ》には、斬り捨てられた落武者の屍《かばね》がそのままになっていて、雪解《ゆきど》けの昼となれば屍臭を放っている。名もない雑兵とあっては、六波羅でも片づけもしないし、首の拾い手もなかった。
「誰じゃ。門《かど》を叩くのは」
この部落では、今、物持といわれている牛飼頭《うしかいがしら》の鳥羽蔵《とばぞう》の家で、ふと、そんな声がした。
声と共に、横窓の小蔀《こじとみ》が、すこし上がって、燈《あか》りが外へ流れたが、
「要《い》らざる事を。――開けるでない、外など、見るでない」
と、召使を叱りつけた――それは老女の声音《こわね》らしく慥《たし》かに、外へも聞えたのであった。
「おお」
燈りを見たので、門の辺りにさっきから佇《たたず》んでいた常磐は、柴垣の外を転ばんばかり駈け巡って、
「伯母さま! ……。もしっ、もしっ……伯母御さまえ……今のお声は伯母御さまではございませぬか。京の常磐でござりまする。子たちをつれて、ようやくここまで、辿《たど》りついて参りました」
さけぶ間にも、乳のみの牛若までが、泣くのであった。
事々しく訪れては、近所の家の耳へも悪かろう。此家《このや》の召使たちへも憚《はばか》りがあろう。常磐はあわてて乳をふくませ、柴垣の根に身をかがませて待っていたが、そこの窓も他の戸も、盲のように開かなかった。
「今若様よ、今若様よ」
「あい」
「そんな所へ寝てしまうでないと、弟御様を起してよ。――そしての、お許《もと》もお睡かろうが、怺《こら》えてたも。――今に伯母御さまが家へ上げて下さろうに」
「睡かない。お母あ様、ここは誰のお家」
「母がお親しい身寄りのお方じゃ。よも、素気《すげ》のうは遊ばすまい。まいちど、門の戸をたたいて訪れて見やい」
今若は、小さい手で、門の戸を手の痛くなるほど打った。
果ては、押したり、垣を揺すって、
「開けてたも。此家《このや》のお人。――開けて。開けていのう!」
と、絶叫した。
牛若が、泣きやんだので、常磐も共に、
「もしっ……伯母御さまえ。ご迷惑でも、ここばかりをお力と、辿《たど》り着いて参りました。六条の常磐でござりまする。もし、もし……はやお寝みでござりますか」
もう声も涸《か》れかけた。
すると、垣の横側のほうから、のっそりと近づいて来た人影がある。恟《ぎよ》ッと、口をつぐんでいると――
「お前どもは、どこの衆か知らんが、むだな事よ。此家の旦那さまは、京都におざるし、お内儀には、遠国へお旅立ちで、わしら、召使の者のほかは、誰もおりはせんがな」
そう云って、じろじろ眺め、
「こんな所で、吠えたり泣かれたりしておられては迷惑じゃ。さあ、とっとと立ちなされ。――去《い》んで下され。去《い》なねば、沙汰人へ告げて、引っ立ててもらうぞ」
「…………」
生涯忘れようとて忘れられまい――そういったような眼で――常磐はその男の顔を見、此家の戸を見つめていた。
「去りまする」
召使の男の足もとへ、彼女はしかしそう詫びて叮嚀《ていねい》であった。ことばも静かに取乱しはしなかった。
「さ、和子さまよ。起って賜《た》も、お眼を醒まして賜も」
ここへ来るなり睡たさに、小犬のように垣の根に眠ってしまった乙若を揺り起して、三人の母はまた、まだ遠方《お ち》、此方《こ ち》に残る雪明りを頼りに、何処ともなく立去った。
五
その翌朝である。
「今、戻ったぞ」
牛飼頭の鳥羽蔵は、久しぶりに家に帰って来た。
帰って来るなり、
「温かい物を腹いっぱい喰いたい。湯なども沸かせ、戦《いくさ》の垢《あか》を落して、酒をのむのだ。――やれやれ命拾いした事だぞ」
と、足腰を伸ばした。
彼の妻や家族たちも、主人《あるじ》の無事な顔を見て、
「よう、まあ達者で」
と、過ぎた正月をし直したいばかり目出度《めでた》がった。
「ええ美味《う め》えぞ。四十日ぶりの酒だわい」
喉を鳴らして、鳥羽蔵は、杯を手から措《お》かずに、
「何せい、おらの仕えているご主君がよ、目先の見えぬ馬鹿な戦をおっぱじめ、たんだ一日の間に、六条のお館は灰だし、一門は散々《ちりぢり》だし、義朝様始め、その後、縁につながる奴等は、毎日のように河原で首斬られるし――いやもう生きた空はなかった。なぜ初めから平家の縁故へ、奉公しなかったかと思ったが今さら及ぶ事ではなかったし」
日頃、牛いじりしているせいでもあるまいが、牛の如く横着面《おうちやくづら》の男である。姪《めい》の常磐の縁故から、こんな邸を持ったり、太刀の一つも帯びる身になった事などは、前世のように忘れ果てていた。
「そう云えばの」
似た者夫婦の牛の妻が、思い出したように告げた。
「六条の姪《めい》が訪ねて見えたぞよ」
「えっ、常磐が」
遽《にわか》に、眼をすえて、
「いつ? ……。いつだ」
「ゆうべ晩《おそ》くであったがの」
「で。そ、そして――何処にいるのか」
「家の内へ入れなどしてなろうか。固く戸を閉《た》てて追い払うた」
「追い払ったと」
「縁のつながりだけに、なおさら怖ろしい。留守というて、召使に追わせたのじゃ」
「ばかっ」
「……?」
「たわけ」
「何でいのう」
「ええい、智慧のねえ奴だ。せっかく黄金《こがね》の蔓《つる》をひいて来た福運を、初春《は る》早々、追い払う阿呆があるか。飛んでもねえ馬鹿者ぞろいだ」
罵りながら、もう起って、たちまち脱ぎすてた衣裳や太刀を纏《まと》い直し、
「ここを追われて行ったからには、大和《やまと》の龍門にいる身寄りしか、他《ほか》に頼ってゆく家はない筈だ。……乳呑みを抱いていたか、幼子《おさなご》を手に曳いていたか。よしっ、まだ遠くへは落ちまい」
ひどい意気込みなのだ。彼の妻でさえ、その肚は覚《さと》れても、呆っ気にとられた程である。
深草村から大和路の方へ、彼は急ぎに急いでいた。追いつけずに見失う事よりも、無力な常磐母子《おやこ》が、苦もなく人手に落ちることを惧《おそ》れてである。
鳥羽蔵の懸命が、ついに、常磐の姿を見出したのは、その夜も過ぎて翌日の午《ひる》近くであった。
路傍から少し横に這入った杉林の中の氏神の縁に、彼女は、疲れ果てた二児をなだめ、牛若に母乳《ち ち》を与えていたところだった。
「おう、いたか。……姪よ、無事でいてくれたか」
鳥羽蔵は、そこへ駈け寄るなり、さもさも胸いっぱいの情愛を洩らすように呼びかけ、そして、無心に母の側で遊んでいた乙若を、
「和子様も、ござったの」
と、いきなり抱き上げた。
きゃっ――と乙若は叫ぶし、常磐もその不意にびッくりして、身でも斬られたような声を出した。
六
驚いたのは、悲鳴をあげた母子《おやこ》よりも、かえって鳥羽蔵のほうだった。
「黙りなされ、黙りなされ。なんでそんなにお泣きやるか。この小父さんは、和子さまたちのお味方じゃ。和子さまたちの父君、義朝様のご家来じゃがな」
と、乙若を手から放し、母の膝へ返して、
「其女《そなた》もまた、俺のすがたを見て、なぜそのように顫《おのの》くのだ」
と、宥《なだ》めた。
常磐は、ようやく胸の動悸《どうき》がおさまったように、
「墨染《すみぞめ》の伯父さまでございましたか。わたくしはまた、六波羅の手先か、この辺の野武士でも来て、やにわに和子さまを奪《と》り上げたかと、気も萎《な》えてしもうたのでございました」
「そうか。――いや無理もない、その子連れで、これまで落ちて来るには、さだめし容易な事ではなかったろう。何とまあ、傷《いた》ましい……」
鳥羽蔵は、そら涙を拭くまねをして、洟《はな》をすすりながら、
「さてさて、嘆かわしいとも無念とも云いようはない。世も末とはこの事か。ご一門の後を追って、俺も追腹を切ろうかと一度は思ったが、何としても、何としても其女《そなた》や幼い和子さま方のお身が気がかりでな……」
「では、伯父様には、わたくし達を、探し歩いて――」
「探したの何のと云って、洛内洛外はおろかな事、いやもうひどい憂《う》き苦労をしたぞ。そのうちにも、お館の義朝様には、お首となって、東獄の門前へ曝《さら》し物にはなるし」
「…………」
「知っているか、常磐」
「はい。伝え聞いております」
「義平様、朝長様、その他のご一門も、毎日のように、六条河原で首斬られた」
「…………」
「聞いているか」
「おりまする」
「……常磐」
「はい」
「汝《わ》れは、泣いてもおらぬが――悲しゅうないのか」
「悲しいなどという事は、もっと世にありふれた場合の事でございましょう。涙も忘れました。ただ今の私には、この三人の和子さま方の母だという事しか考えられませぬ」
「さ。そこでだ」
鳥羽蔵は、息を撓《た》めて、
「それなら、おまえの母親は、どうしているか、知っているか」
「存じませぬ」
「六波羅に捕まっているぞ」
「……?」
「夜ごと日ごと、問罪所の白洲《しらす》で、拷問《ごうもん》にかけられておるそうな。――常磐を匿《かく》したに違いあるまい。義朝と生《な》した子供等の行方を云えと」
「……ほ、ほんとですか」
「嘘な筈があるか。都では隠れもない取沙汰だ。かあいそうに、あの年よりが、一枚一枚、手足の生爪を剥《は》がされて、常磐の行方を云え、行方を吐《ほ》ざけと――」
「…………」
「不愍《ふびん》や、あわれや、他人でも人事《ひとごと》とは思えぬに、常磐の前は一体どこにいるのか、生きてはおらぬのか、生きているなら母御を見殺しにもすまいに――などと、都の噂は寄れば触《さわ》ればじゃ」
「…………」
「え。どうする考えだな」
「…………」
「常磐」
「…………」
「常《とき》。……あっ、常磐っ。おいっ、おいっ、どうした」
鳥羽蔵は、うろたえ出した。
聞くうちに顔の血の気も失せて、紙より白く見えたと思うと、常磐は、眼をふさぎ唇をかんで社《やしろ》の縁へ横に仆れてしまったのであった。
その胸の下になって、牛若は泣き脅えるし、今若、乙若のふたりも、母よ母よと、抱きすがって声も涸《か》るるばかりだった。
七
九条の女院《によいん》は、以前、常磐が雑仕女《ぞうしめ》をしていた頃、仕えていた御所である。
そこへ、彼女と幼い子たちは、大和路から連れ戻されて来た。
伯父の鳥羽蔵の言によれば、自分が自首して出ないかぎり、六波羅に捕まっている老母は、日ごと夜ごと、地獄の責苦にひとしい拷問にかけられていようとある。――そう聞くだに、今は身も世もなく、最後の覚悟をきめたのであった。
「所詮《しよせん》は、のがれぬところと、悟《さと》ったとみえ、常磐の前が、伯父とかいう者に伴《ともな》われて、御所の内へ、お縋《すが》りに来たそうな」
女院の召使たちは、時の大問題が、眼《ま》のあたりに移って来たので、物々しげに囁き合ったり、彼女の当てがわれている監禁の一棟を覗《のぞ》き見に来たり、
「おお、嬰児《や や》の泣き声がする」
「あれが、義朝殿とのあいだに生《な》した子か」
などと聞き耳を欹《そばだ》てた。
それよりも。
女院をはじめ、侍《かしず》く女官たちは、べつな意味で、ほっと心を安めた。というのは、陰に陽に、六波羅の詮議《せんぎ》や威嚇《いかく》がここにも及んでいたからである。常磐さえ自首すれば、それで疑いの目も解かれるからであった。
「ようぞ、しやった」
と鳥羽蔵は、その働きを女官から賞めそやされた。この事件に就《つい》ての、彼の懸命さはたいへんなものであった。人知れず大和路から、常磐母子《おやこ》を京都へ連れ帰ってくるだけでも、並たいていな気苦労ではなかったろうに、ここへ着いてからでも、
「見張りを厳しゅう頼むぞ。刃物など持っていたら、騙《だま》して取上げておいてくれ」
などと寝食も忘れた眼いろして、やがて常磐を一室に監禁して、これでよしと見定めると、
「六波羅へ行ってくる」
と、御所の者に云い残し、気負い込んで出て行った。
それは二月十四日の黄昏《たそがれ》で、その夜は六波羅問罪所で、ひと晩、彼自身が源氏の端《はし》くれでもあるので、取調べをうけたり口書《くちがき》を取られていたものとみえ、九条へは帰って来なかった。
九条の女院へ、彼がふたたび姿を見せたのは、その翌日の午頃《ひるごろ》であった。
壺の梅が、咲き匂っていた。呼び立てられて、常磐が何気なくその庭ごしに窺《うかが》うと、中門の外あたりに、六波羅の武士どもが十人以上も、何やら喚《わめ》き立てていた。荒々しい声も交《ま》じって、
「早くいたせ」
とか、
「中門まで駒を入れよ」
とか、また――縄をかけるには及ぶまいの、いや縄目にかけろのと、問罪所の武士同士で、云い争っている声もする。覚悟はしていたものの、さては迎えかと、常磐は、乳のあたりを刃もので突き抜かれる思いがした。
すると、後ろで、
「姪よ。さあ行こう」
部屋の口へ立った伯父の鳥羽蔵が、もう急《せ》き立てているのだった。まるで常日頃の遊山《ゆさん》にでも誘うようにである。
「……はい」
答えたが、意志を打っても、常磐は身がふるえてしばしは起てなかった。しかし、瞬間が過ぎると落着いて、
「しばらくお待ちくださいませ」
と、几帳《きちよう》を立てて、そこにある櫛匣《くしげ》を寄せ、牛若を抱いたまま、化粧をしていた。
「お母あ様。どこへ行くの」
「六条のお家?」
今若も乙若も、そこへ来て、鏡の中の母をのぞいた。母が化粧する姿を見るのは、子達も、幾十日ぶりか知れないので、急にはしゃぎ出したのである。
八
その間に。
院のお側近う仕える女房たちから、この日の騒ぎ事が、お耳へつぶさに聞え上げられたものであろう、九条院のお慈悲なり――とあって、
「不愍《ふびん》な者よ。六波羅まで、真昼の途々を、人目に曝《さら》され指さされて送らるるとは、余りにも傷《いた》ましい。破《や》れ輦《ぐるま》なと与えて牛に引かせてよ」
と、女官を通じて、特べつなお扱いが下ったので、迎えに来た問罪所の捕吏や武士どもも否み難く、
「然らば輦《くるま》だけはさし免《ゆる》すが、構えて美々しゅうは相ならん。はやはや牛を引き候え」
と呶鳴っていた。
常磐は、鏡をたたみ、櫛匣《くしげ》を仕舞って、乳呑みと、ふたりの児を、両側にひき寄せ、
「何時《い つ》なと……」
静かに、支度のすんだ旨を外へ告げた。
女は女同士。さすがに、彼女がここの雑仕女から玉の枢《とぼそ》へ入って、六条の義朝に愛されていた盛りには、嫉《ねた》みそねみの陰口に暮していた院の朋輩《ほうばい》たちも、
「まあ、あの和子さまたちの、可憐《いじら》しい」
「何も知らず、母御前《ごぜ》と同じように化粧して」
「欣《うれ》しそうにしているだけ、母御前の胸のうちは、どんなであろ」
「かあいそうに」
「見るだに胸が傷《いた》む……」
などと、局々《つぼねつぼね》を出て佇《たたず》み合い、柩《ひつぎ》でも送り出すように涙を溜め、中にはすすり泣きする者すらあった。
そうした中に、ただひとり泣かない者は常磐のみであった。
中門の外まで立ち出ると、待ちかまえていた武士どもが、荒々しく急きたてたが、
「それへお坐り遊ばせ」
と、子達にも教え、自分が大地へ坐って見せて、
「――では、お慈悲のお輦《くるま》をいただいて参りまする。女童《めわらべ》の頃から雑仕のご奉公を申しあげ、今日という終りの日まで、お廂《ひさし》のご庇護《ひご》にあずかりました。何とも有難うぞんじまする」
母が両手をつかえたので、今若も乙若も、ふかい意味はわからないが、手をついて、
「さようなら」
と、御所へおわかれを告げた。
「おお、ようなされた」
起つと共に、裏門へ通じる道の岐《わか》れに、ぐわらぐわらと牛舎《うしや》の方から一輛の牛輦《うしぐるま》が引出されて来た。
それは半蔀《はじとみ》の女房輦《にようぼぐるま》であったが、余りに用い古されたので、久しく車小舎《くるまごや》の一隅へ煤《すす》にまみれていたものらしく、前御簾《まえみす》は裂け、轅《ながえ》の塗りは剥《は》げ落ち、ただそれを引くべく付けられた牛ばかりが、逞《たくま》しい飴色《あめいろ》の若牛であった。
常磐は、子を抱いて、破れ輦の内へ潜《ひそ》んだ。それとばかり、武士たちは前後を護る。そして、
「急げよ」
と、牛追を、追い立てた。
鳥羽蔵は、つい先頃まで、六条殿の牛飼宿の頭《かしら》をしていた者だけに、まどろいと見たか、牛追の男の鞭を奪って、
「おれに貸せ」
と、自身、轅《ながえ》のわきに付いて、びしびしと飴牛のしりを叩いた。
牛輦《うしぐるま》の轍《わだち》は、御所の裏門を軋《きし》み出るなり、石を噛み、泥濘《ぬかるみ》を傾《かし》いで、ぐわらぐわらと揺れ進んで行くのだった。
揺るるたびに、前御簾の裂け目から、常磐の白い顔や、その膝にとり縋《すが》っている子達の姿がちらと見えた。
いつ聞き伝えたか、
「あれよ、常磐御前が六波羅へひかれて行く」
「六条殿のお子もか」
と、往来に群れて指さすもあり、輦についてぞろぞろ指さしながら来る雑人《ぞうにん》たちの跫音も聞える。
「…………」
常磐は眼をふさいでいた。
その間とても、乳を吸い止まぬつよい紲《きずな》、膝にしがみついている小さい手の紲。この輦を六波羅へ引いてゆくのも老母の紲であった。
紲の中に、彼女は、まだ生きている身心地を持っていた。
清 盛
一
非常なご機嫌である。
かなり悪い事つづきで、一族が眉を曇らしている時でも、およその事は、
「ばかな。何を鬱々《くよくよ》」
と、陽気にしてしまう清盛が、わけてもこの頃はご機嫌なのであるから、六波羅一廓《いつかく》のことしの正月こそは、寔《まこと》に、初春《は る》らしい陽気に充《み》ちあふれていた。
それと。
清盛を始めとして、ここに住む平氏の一族たちは、その郎党の端に至るまでが、
「われわれの力でなければ、時勢はうごかないのだ」
という自信を新たにした。武家自体の力というものを知って来たのである。
こんどの平治の乱を境としてである。あの戦火の中、主上《しゆじよう》、上皇《じようこう》の車駕が共にこの六波羅へご避難あった事なども、いやが上に、
「前例もない誉《ほま》れだ」
と、六波羅武士の誇りを昂《たか》めたものであった。
源氏といい、平氏といい、今日までは、公卿《くげ》の下風について、公卿の爪牙《そうが》につかわれていたに過ぎないが、時代はだんだん変ってきたぞ。――眼に見えずいつとはなく、そうでなくなった武家同士を、お互いの身振りや眼いろにも、自負に満ちて、見合うようになって来たこの平治二年であった。――いや改元して、この正月からは、永暦《えいりやく》元年ということに、年号まで革《あらた》まった。
その上、同じ弓取の源氏という一派の勢力までが、去年の年暮《く れ》を限りに一掃されてしまったのである。
だから武門といえば、地方の辺鄙《へんぴ》は知らぬこと、都に於いては、平氏のことだ。
平家の初春《は る》!
そう云ってもいいこの正月だったのである。
その隆運の気は、この六波羅の地相にも、まるで、絵屏風《えびようぶ》を展《ひろ》げたように漲《みなぎ》っていた。わずか、十年も前までは、清盛の父の刑部卿忠盛《ぎようぶきようただもり》が住んでいた土塀まわり小一町しかの古邸《ふるやしき》が、六条の河原へ向って、寒々とあったに過ぎなかったのが――今はどうして平氏の眷族《けんぞく》たちも皆、近くに土木建築を興したので、ひと口に六波羅とはいえ、その地域の広大さは、一指をさして云える事ではない。
北は、六条松原から。
南は、七条のあたりまで。
そして、東と西は、加茂の河辺から山の尾根までを抱き、小松谷の山ふところには、嫡男《ちやくなん》の重盛が邸宅を新築し、小松殿とよばれてもいる。
一族の館のほか、時の勢いで、ここはそのまま政治を評議したり、庶民の訴訟を裁いたり、租税を督促《とくそく》したり、市中の警備から、諸国諸道の法令を発するところにまで成ろうとしている。
いや、一応は、そうしなければ統治がつくまいと、清盛は、もう、肚《はら》を決めているかも知れないのである。
なぜならば。
久しい間、藤原氏が政《まつり》の権を執っていたが、文化的には功績を残しても、その文化はやがて頽廃的《たいはいてき》な懶惰《らんだ》と爛熟《らんじゆく》の末期《まつご》を生んできたばかりか、藤原一門自体が、ただ自己を栄華し、私腹をこやし、この世は、わが為にあるものみたいな、思い上がりから、諸国の辺土に、大乱続出といったような、収拾できない世相をこしらえてしまった。
天慶《てんぎよう》年間の将門《まさかど》の乱。
藤原純友《すみとも》の乱。
それ以後の、またその他《ほか》の、無数の私闘や戦乱は、地方自体の原野から生れたのではなく、腐った物から生じたのである。それは、中央に栄華して、歌をよみ、恋に暮し、政《まつり》の大計は何もなく、ただ地方の百姓や家族へ、米や絹の租税の催促ばかり知っていた藤原氏自身が、ついに醸《かも》したものだった。
清盛は、今年、
「たとえ、自分が権を握っても、藤原氏のような馬鹿なまねは、おれの子孫にはさせんぞ」
と、独り年頭に自粛自戒して、ふかく省《かえり》みた事であった。
彼は、明けて四十三歳の、男ざかりであった。
二
その清盛はきょうも、朝廷の出仕からたった今、退《さ》がって来た。
しきつめた小《さざ》れ石《いし》のうえを、牛車の厚い轍《わだち》が、邸内の奥ふかくまで、重々《おもおも》と軋《きし》み巡って来るまに、
「おさがりです」
「ご帰館」
と、館の侍部屋といわず、奥まった女たちのいる局《つぼね》といわず、色めき立って、泉殿にせせらぐ水音までが、改まって来るかのようであった。
「やあ」
大きな声をして、窮屈さを放つように、清盛は、出迎えの一統にそういうのが癖なのである。
車の簾《れん》を上げると共に、
「大儀」
ひょッこり降りる。
小柄な体なのである。そのくせ武張《ぶば》ってみせるのだ。朝《ちよう》に上っても、柔軟な公卿を、その小柄で下に見る風があるので、見られる者は何となく、
(威張りおる)
と、反感を挑《いど》まれる。
けれど決してわざとでない証拠には、館《やかた》の家人や身近な者は、反対に、
(もちっと鷹揚《おうよう》に、重々しゅうお構え遊ばさねば困る)
と、むしろ彼が余り容態に無関心で、威張らないことを時々、喞《かこ》っているのを見ても分ることである。
時には、君子風の嫡子重盛などからも、
(お父上は、どうしてそう軽忽《けいこつ》でいらっしゃるか)
と、たしなめられたりするくらいなのである。
しかし、持ったが病というか、清盛は自分で意識しても、むかしの貧乏育ちのくせと、書生気のような無造作が直らなかった。
それも、安芸《あきの》守《かみ》や播磨守《はりまのかみ》だった時代の一朝臣《あそん》の頃には、物に関《かま》わぬおもしろい殿よ――と似合いもしたがである。
正三位参議という位階は、武人として決して低いものでない。しかも、その勢威の衆望は、実際において、源氏全滅の今日では、彼と対立する何者もいないのである。雲上には数多《あまた》の大臣《おとど》や高官がいるに違いないが、清盛自身でも眼中に入れていない事は、一門も郎党たちも知っている。――故に、
(もそっと、鷹揚《おうよう》に、重々しゅう、お構えなさればよいに)
と、望むのであった。
がらは小さいが、声は大きい。彼は大股に館の奥へ、歩を運ばせながらも、何かしゃべってゆく。
「後にせい」
とか、
「待たせておけ」
とか、
「追い払え」
とかいう吩咐《いいつ》けである。
公卿の訪問客が多いのであった。ふしぎな現象である。朝廷へは常に出仕しているので、そこで会えばいいに、私邸を訪ねて来るのが多いのだ。
殊に、先頃の乱に、源氏が一敗地に塗《まみ》れてから、清盛の鼻息に媚《こ》びてくるのがうるさい程だった。
「やれやれ」
清盛は、平服に更《か》えると、そう云って居室に寛《くつろ》いだ。彼の日課も多忙だった。倦《う》まない質《たち》だが、朝廷から退がって来た時には、時折、疲れた顔いろを見せる。人にいえない、複雑なものを、いつも朝《ちよう》に上ると抱いて帰るらしかった。
上皇の院政を支持する公卿と、天皇を擁《よう》し奉る公卿との対立が、その煩《わずら》いの禍根《かこん》だった。清盛は、その一掃にかかっているが、根を抜こうとすれば、花を散らす。花を散らすまいとすれば、根は抜けない。
「久しいこと、お帰りをお待ち遊ばしていらっしゃいます。これへご案内申しあげましょうか」
近侍は、頃を見て、清盛へそう訊ねた。彼の義母にあたる池《いけ》の禅尼《ぜんに》が、何か折入って会いたいとかで、別室に待っているというのであった。
三
「なに。尼公が」
清盛は、小首をかしげた。
何の用か、思いよりがないらしい。同じ六波羅の池殿に、余生安らかに住んではいるが、めったに忙《せわ》しない清盛の住居へなどは渡られない禅尼であるのに。
「ま、会おう。これへご案内には及ばぬ。わしの方から出向くのが礼儀だ。……母御前《ははごぜ》だからの」
終りは独り言のように、ちょっと億劫《おつくう》らしく顔いろを革《あらた》めて出て行った。
彼は自我のつよい、吾儘ものと他人《ひ と》には云われているが、骨肉には甘いし、わけて親には、孝心が深かった。
貧乏の味を、骨《ほね》の髄《ずい》まで、知っていたからである。
よれよれな布直垂《ぬのひたたれ》一枚来て、冬のからッ風にふかれながら、父の忠盛の無心手紙を持っては、
(嫌だな嫌だな)
と思いながら中御門《なかみかど》殿だの正親《おおぎ》町《まち》殿だのという公卿へ、わずかな金を借りに行って、
(またか)
と、顔をしかめられ、
(もう来るな)
と、厄病神のように、粟《あわ》一袋に塩一升ぐらい恵まれて、おまえの親は能がないとか、貧乏平家のすが目《め》のと、口汚く云われて帰って来ても、その粟その塩すら見れば、
(おお、これで今日明日の生命《いのち》はつなげる――)
と、父も母も、無念とは思わず、かえって随喜したりした頃の――みじめ極まる家庭に育《はぐく》まれて、自然、右を見ても不愍《ふびん》、左を見ても不愍という愛情が、天性というよりも、境遇と共に濃くされたせいであろう。
で、父忠盛の死後も、自分には継母にあたる池の禅尼であったが、仕える事は、真《まこと》の母と変りもなかった。――ああいう所は感心なお人であると、館の召使にいたるまで、その点は敬服していた。
「清盛です。今帰りました。……どうも近頃は忙しくて」
彼は、禅尼の待っている室《へや》へはいると、非常にていねいな辞儀をした。威容《いよう》などはちっとも振らない、昔ながらの息子であった。
「お、ほ」
禅尼は、恐縮する。
あまりに手軽いので。
けれど悪い気もちでなかった。義理の子ながら良い子をもった倖せを思うのである。
老いても、なお美しい眼元を細めながら、
「おつかれであろ」
と、慰めた。
「いや、体の忙しさは、病身な父などとちがい、清盛は頑健ですから、何ともいたしませんが、どうも分らずやの公卿を相手に、半日、朝《ちよう》に上っておりますと、頭が悪くなりそうで」
「癇《かん》のお強い参議殿ではあると、いつぞやも誰かいうておりました」
「宮中で呶鳴りましたからね」
「せぬがよい事でしょう」
「自分でも戒《いまし》めていますが、時々は」
と、笑って、
「時に、何かご用ですか」
「折入っての」
「……はて。母御前から折入ってと申しますと」
「義朝の子のことじゃが」
「義朝の」
「先《さい》つ頃、尾張の頼盛が家人《けにん》の弥兵衛宗清という侍が、美濃路で捕えてきた可憐《いじら》しい和子がありましたの」
「ムム。義朝の三男、右兵衛佐《うひようえのすけ》頼朝のことですか」
「そうじゃ」
「それを……?」
「斬れとの仰せなそうじゃが、慈悲じゃ、助けてあげて下さるまいか」
清盛は、すぐかぶりを振った。親に遠慮はないという膠《にべ》のなさである。
「嫌です。いけません!」
四
「いけませんか」
「成りません」
「どうしても」
「母御前などが、お口をさし出す事ではありませぬ」
「…………」
「…………」
禅尼と清盛とは、それなり口をつぐんでしまう。気まずげな沈黙がいつまでもつづく。
中壺《なかつぼ》の紅梅が、一、二輪ほころびかけている。眼を反《そ》らしていた禅尼は、ふと、涙ぐんで、
「ぜひもない事よ。……故殿《ことの》が世においで遊ばさぬ今ではのう」
ため息と共に呟《つぶや》いた。
清盛は、むっと色をなして、
「また、おひがみですか。父の忠盛が生きていたとて同じです。いや清盛としては、父君がすでにご他界だけに、なおさら、あなたのお頼みとあれば、たとえ逆《さか》さま事《ごと》でも、肯《き》いて上げたいつもりでいますが、義朝の子の処分などは、由々《ゆゆ》しい問題です。伏見中納言とか越後中将とか、あんな連中なら何十人助けてくれたからとて大事はありません。――が、総じて、弓取《ゆみとり》の子というものは、性根《しようね》の恐《こわ》いものです」
「和殿も、弓取の子ではなかったか。きょうの人の身、あすのわが身」
「だからです。豹《ひよう》の子には、日が来れば、きっと牙《きば》が生えるんです。元来、われわれ武門の血は、ついきのうまで、野放しに育って来た人間ですからな。こうして繧繝縁《うんげんべり》のうえに坐っていても、野に帰れば、たちまち牙を研《と》ぎ爪をみがく性質の甦《よみが》えってくる者なのです。――その点、平安朝や天平《てんぴよう》の文化に育てられて来た公卿たちとは、同じ国土の人間でも、血の鍛錬がちがいます」
「そのような事を、尼は嘆くのではありません」
「では、なんですか」
「後世《ごせ》の怖ろしさが思われるのじゃ」
「また。仏法の因果ばなしですか」
「和殿にもはや、沢山なお子があろうに」
「武門の子等ですから、武門のならわしに育てます」
「とはいえ、もし和殿のお子が、今の義朝の子のように成り召されたら、親として、どのように思わるるか」
「あはははは」
「笑い事ではおざるまいが。昨日《きのう》ともいえぬ、世の移りを眺めたら」
「母御前よ」
「なんじゃ」
「あちらの女どもの屋《おく》へ渡らせて、双六《すごろく》か扇投《おうぎな》げでもなされては如何。盛姫《もりひめ》に催馬楽《さいばら》を見しょうとて、町より白拍子《しらびようし》を呼び集め、賑《にぎ》やかに遊んでおるらしいが」
「お暇《いとま》しましょう」
「そうですか」
先に立って、
「では、南廊《なんろう》の口まで、お送りしましょう」
遠くの屋に、笙《しよう》や金鈴や鼓《つづみ》や笛の音が聞える。禅尼は、悄《しよ》んぼりと泉殿の住居へ帰って行った。
禅尼を見送ってから、清盛はひとり橋廊下の角に佇んでいた。東山いったいの眺めは、ここの館の為にあるようだった。北苑を見やれば、加茂の川岸まで、薔薇園《しようびえん》の広芝に明るい陽がほかほかしていた。
ぽーん
ぽーん
うららかな音がする。公達たちがまた、鞠《まり》を蹴っているのであろう。小松のあいだから時々高く鞠が揚がる。
三男の宗盛やら、従兄弟の経正《つねまさ》やら、彼の蔓《つる》に生えているたくさんな一族の子等が、鞠を追って、夢中に転げているのが見えた。
「――馬鹿あっ!」
正月このかたのご機嫌は、とたんに一変していた。侍側の家臣も、胆をつぶした。恐らく清盛の頭には、池の禅尼のことばでも、思い出されていたのではなかろうか。
「弓でも射よッ。馬にでも乗り馴れろっ。わいら、公卿の子か!」
梅月夜
一
宗清《むねきよ》は、何処からか今、帰って来た。
乗馬が汗をかいている。
五条松原の末を出端れると、馬場があるから、そこで一鞭当ててきたのであろう。人間ばかりではない、馬もすこし厩《うまや》に怠けさせておくと、どんな名馬でも、いざ合戦となっては、物の役に立たないものである。だから調馬は侍の日課であった。
「やあ」
「おう……」
行き交《か》う者はみな六波羅武士である。馬上会釈のままで過ぎるもあるが宗清は、陪臣《ばいしん》なので、清盛一門の人とか、直臣の名だたる衆に出会えば、いちいち下馬の礼を執《と》らなければならない。
「藤三《とうざ》」
と、口取の小侍へいう。
「はい」
「きょうはまた、わけても多く、ご一門や公卿方が通るの」
「きょうには限りませぬ。いやもう世の中は、正直すぎるものです。源氏滅亡と見えたとたんから、六波羅御門は、牛車、お馬、輿《こし》など、千客万来を呈しております。――この大和《やまと》大路の往来が、そのため以前とはがらりとちがって来たほどで」
「横へ曲がれ」
「裏通を参りますか」
「閑寂でよい」
「遠方《お ち》此方《こ ち》、だいぶ梅も咲き出しました」
徒然草に見える那蘭陀寺《ならんだじ》あたりの址《あと》である。梅ばやしを透《す》いて、六波羅地蔵の蒼古《そうこ》とした堂が見える。
やや行くと、池があった。
「脚を冷やしてやれ」
宗清は、池の畔《ほとり》まで来ると、鞍から降りた。心得顔に、
「はっ」
と、藤三はすぐ空馬《からうま》の口を曳いて、池の汀《みぎわ》へ馬の脚を沈めた。
つよく乗った後では、こうして馬の脛《すね》を冷やしてやるのがよいのだった。馬場から帰る人々が、そのためよくここへ廻るので、この辺の土民は、「馬冷し池」などと称《よ》んでいる。
一頃は、この池も、源氏の武士と馬で賑《にぎ》わっていた頃もある。宗清は、ふと手をさし伸べ、池に臨んで咲いている梅の一枝を、花を落さぬように、そっと手折《たお》った。
「藤三、後から曳いて、厩へ入れておけよ。――先へ参るほどに」
宗清は、徒歩《か ち》であるき出した。彼の主人、尾張守《おわりのかみ》頼盛《よりもり》のやしきは、遠からぬ所にあった。頼盛は地方官として、常に尾張に在国している。――でほとんどそこは、空屋敷のていであった。
――にも拘《かかわ》らず、先頃からそこの門は、表にも裏にも、物の具着けた兵が十人くらいずつ立っている。あたりの閑寂に似もやらぬ厳《いかめ》しさである。素槍のどぎどぎした光が、時をおいては、土塀の外を三、四人して巡《めぐ》っているのに、屋敷の中は寺のように森閑として、鶯が啼きぬいている。
「何も、変りはないか」
宗清は、門衛の兵に訊く。
「ありません」
兵の答えにうなずいて、宗清はずっと通って行った。中門にも、兵が屯《たむろ》していた。
「お帰りなされませ」
「むむ」
提《さ》げている梅の一枝に、兵たちも眼をとめる。心ない者も、よい枝ぶりと見るのであろう。
奥ふかい一室まで、彼はそれを提げて通った。香《こう》の薫りが常時にしていた。
「佐殿《すけどの》。よろしゅうござるか」
云うと、室の内から、
「弥兵衛《やひようえ》か」
と、まだ年少な声がした。
関ケ原で捕えられて先頃からここに幽閉《ゆうへい》されている囚人《めしゆうど》頼朝であった。
二
頼朝は円座を敷《し》いて、木彫のように行儀よく坐っていた。
ふっくら豊頬《ほうきよう》な面だちであるが、やはり父義朝に似て、長面《ながおもて》のほうであった。一体に源家の人々は、四肢《しし》逞《たくま》しく、尖《とが》り骨で顔が長い。ちょうど南部駒のような血すじだと、よく平家方で悪口いうが、そんな傾きがないでもなかった。
山繭《やままゆ》の白小袖に、藤むらさきの公達袴《きんだちばかま》は、ここへ来てから与えられた物であるが、それも朝夕、自分で畳みつけているとみえ、まだ折目もくずれていない。
「ご退屈でしょう」
弥兵衛宗清は、対《むか》い合《あ》って、軽くなぐさめた。
頼朝は唇元に、笑靨《えくぼ》をつくって、
「いいえ」
静かに、かぶりを振る。
そのふさふさした黒髪が、何とはなく、宗清の眼に沁《し》みた。
髪ばかりではない。
きょうの如月《きさらぎ》の碧空《あおぞら》を見るような眸《ひとみ》も、朱《あか》い唇《くち》も、白珠の歯も、可惜《あたら》、近日のうちには、土中になる運命のものかと思うと、見るに耐えないのであった。
「なにをしていらっしゃいましたか。今日は――」
「お借りした唐の白居易《はつきよい》の詩書だの、司馬遷《しばせん》の史記だのを読んでいました」
「史記と、詩書と、どちらが面白うございますか、どちらがお好きですか」
「詩文はつまりません」
「では、李白や白居易の詩を読むよりも、支那の治乱興亡の書いてある史記などのほうがお心にかないますか」
「え……」
うなずきかけたが、宗清の眸を見て、急に頼朝は口をにごした。
「好きといっても、そんなにも好きではありませんが」
「じゃあ、何がいちばん、読んでお心をうごかされますか」
「…………」
しばらくは答えない。
聡明そうな眼を、つぶらに見はったまま、考えているふうである。室内は香のにおいに湿っていて仄暗《ほのぐら》いが、頼朝のその眸には、戸外《おもて》の春の天地が、湖のようにいっぱいに映《うつ》っていた。
「――お経文《きようもん》です」
やがて、宗清の問いに、あどけない顔して、答えるのであった。
「仮名がきのお経文がありましたら、こんどお貸しくださいまし」
「はて、稚《おさな》いのに、どうしてお経文などをお好み遊ばすか」
「亡き母者人《ははじやひと》に連れられて、嵯峨《さが》の清涼寺へよう詣りました。中河の上人《しようにん》とも、お心やすうござります。先頃、黒谷へ行って、法然房源空《ほうねんぼうげんくう》という若い坊さまのはなしも聴いたりしました」
「それで……」
「え、それで、いつのまにか、お経文を解いたおはなしを聴くのが、いちばん好きになりました」
と、うつ向きながら――
「わたくし……。もしかして、首斬られずに、生きていられたら、叡山《えいざん》か、清涼寺か、あんなお寺へはいって、仏さまに仕えていたいと思います。住むところなら、お寺がいちばん好きです」
と、云った。
宗清は、室の一隅にある小机に目をとめた。位牌《いはい》とてはないが、一碗の水を供えてある。可憐《いじら》しくも、囚《とら》われの身にありながら、父や兄たちの霊に、朝暮の回向《えこう》をしているものとみえる――
まだ十四歳の童子の言を、いちいち奥底ありげに疑って聞くのは、大人のわるい癖であり人間の邪智《じやち》というものであるまいか。宗清は反省してみるのだった。――いや、頼朝のすがたに対していると、いつのまにか、そう考え直させられてしまうのだった。
三
「佐殿。お目なぐさみにと、馬洗い池のそばに咲いていたのを、一枝、携《たずさ》えて帰りました。どこぞへ挿《さ》して置かれませ」
宗清は、縁の端から、それを持ち直して来て、枝ぶりを示しながら、頼朝の手へわたした。
「アア」
頼朝は、口を開いて欣《よろこ》んだ。
いかにも、少年らしく、
「もう、咲いているんですね。外には」
「あれに、銅器の瓶《へい》があります。水を汲み入れてさしあげましょう」
「自分でやります」
よほど欣《うれ》しかったと見える。自分の手で、古銅の瓶《へい》にそれを挿《い》けると、回向《えこう》の水の供えてある小机の傍らに置き、
「いい匂い――」
と、花の香を嗅《か》いだりして、歓喜していた。
「弥兵衛」
「はい」
「もひとつ、お願い事があるのじゃが」
「何ですか」
「きき入れてくれるか」
「仰っしゃってご覧《ろう》じませ」
「小刀と木切れを賜わるまいか」
「小刀を」
「さればよ、明日《あ す》は、父義朝の五七日の忌《き》にあたる。小さい卒塔婆《そとうば》なと削《けず》ってご供養のしるしとしたいが」
「……ああ。はや左様な日数になりますかな」
宗清は、あわれに思い、
「囚人《めしゆうど》のおん身なれば、刃ものは参らせるわけにゆきませぬが、お心の届くように計らいましょう」
と約束した。
そして自分の部屋へ退がってから、郎党の丹波藤三に、小さな卒塔婆百本を調えさせて、頼朝の牢屋へ持たせてやると、頼朝は非常に満足のていで、
「忘れおかぬぞ」
と、恩に思う由を、藤三の口からまた、伝えてよこした。
「何せい、ご不愍《ふびん》なことだ。何とかお命を助けておあげ申したいが」
密かに宗清は苦慮《くりよ》していた。いや、思案ばかりでなく、そのよい相談相手として、自分の主人尾張守頼盛の母公《ははぎみ》にもあたれば、また清盛の義母にもあたるちょうどいい手づるの御方《おんかた》として――池《いけ》の禅尼《ぜんに》へも内密に縋《すが》っている。
禅尼は大の仏教信者だし、それに慈悲ぶかいお人とはかねがね聞き及んでいるので、数日前に主人の消息を携《たずさ》えがてら伺って、あれこれと、頼朝のうわさを持ち出すと、禅尼には、
(あわれな者よの)
と、涙さえうかべ、
(起臥《おきふし》の様はどうじゃ。気だてはどうか)
と、それからそれへと聞きたがるので、宗清は自分の思いのまま話すと、
(そうか)
と、深く息しておられた。
するとその翌日、日ごとに詣る寺院の帰り途とかで、ふいに子の頼盛が留守屋敷に立ち寄った。
元より公《おおやけ》ではないが、そっと頼朝をご覧になった。そして頼朝へ菓子など与えて帰られた。
(この尼が、十七年前に亡《うしの》うた子の右馬助家盛《うまのすけいえもり》に、頼朝は瓜二つともいいたいほどよう似ておる。右馬助がもし生きてありなばと、そぞろ思い出されて、涙がこぼれてならなんだ)
とはその後、宗清が泉殿へ伺った時の禅尼の述懐であったが、さらに、
(かなわぬまでも、頼朝の命、何とかお救い賜わるよう、清盛どのへ尼よりおすがりしてみましょう)
とまで云われた。
それを頼みに、宗清は、きのうも待ち、きょうも待ち、すでに死罪打首の日どりは、この月の十三日と、日まで内定しているのも――まだ頼朝へは申し渡さず、ひたすら禅尼からの吉報を心待ちにしているのだった。
四
待ちきれずに、宗清は、そのあくる日、泉殿へ伺って、禅尼へお目通りをねがった。
禅尼は、宗清が切り出すまでもなく、用向きを察して、
「どうしたものぞ、尼の力ではもはやお縋《すが》りの言葉もないが」
と、打ち悄《しお》れていう。
そして、頼朝の首斬られる十三日にも、はや間もないが――と、落涙さえして、清盛の無情を喞《かこ》たれた。
「いやいや」
宗清は、頭《こうべ》を振って、禅尼を励まし、
「清盛様が、無情なお人だなどとは、世評のことで、実は、涙もろくて情には極くお弱い方にちがいございませぬ。――が、それではご一門をひいて、なお、大きくは天下の政治《まつりごと》をなされては行けませんから、ご自身で、ご自身の弱いところを知って、強《し》いて無情に構えていらっしゃるのだと、私などは存じあげておりまする」
「……じゃが、今度ばかりは、尼がどう掻《か》き口説《くど》いても、うんとは仰せられぬ」
「ひと筆、御書《ごしよ》をおしるし賜わりますまいか」
「文か」
「はい。小松殿へ」
禅尼は、眉をひらいて、
「そなたも、そう思うか。尼もこの上は、小松殿のお力をかりるしかないと考えていたが」
「宗清が、ひと走り、お使いに立ちまする」
禅尼はすぐ手紙をかいた。
それを携えて宗清は、程近い小松殿――清盛の長子重盛《しげもり》の館を訪れた。そして禅尼の大慈悲心のあるところを重盛に会ってよく伝えた。いや、宗清自身が胸いッぱい持っている頼朝への同情もみな禅尼のことばとして、重盛には伝えられた。
文を見て、重盛は、
「承知した」
と、云った。
そう難しくない顔に見えた。
「何とぞ、お力をもちまして」
と宗清はつい、わが子の生命《いのち》の瀬戸際のように、懸命に額《ひたい》をすりつけて縋《すが》った。――が、自分は末輩の端でも、平家の武士であることに気づくと、余り熱意を表にあらわしては、かえって頼朝の不為《ふため》だし、この身も妙に疑われてはと、
「もし助命の儀、六波羅様にお聞き入れない時は、この十三日の打首の太刀取は、てまえが望んで、勤める所存でござります」
などと云い紛《まぎ》らわして、門を辞したが、さてまた、小松殿の門を出てからは、
「あんなよけいな事は、云わずもがなであった。頼朝を助けて欲しいと思っているのは、禅尼おひとりで、世間の侍どもや一般は、冷淡らしいとお取りになられたら小松殿のお考えも、自然、冷たくお傾きになろうもしれぬ……」
と悔いたりした。
従者もつれず、駒も持たず、宗清は小松谷《こまつだに》から歩いて来た。夕月が白かった。薫々《くんくん》と袖や面に匂う風がある。月明りより白い道ばたの梅の花だった。
「弥兵衛。――まだ歩いておるか」
ふいに、後《うし》ろから声をかけられて驚き仰ぐと、重盛であった。
重盛は、馬上から云う。
「駒の口を取れ。ちょうどよい折。これから父上へ会いに参るが、途中、そちの案内で、幽所におる義朝の子、一目見て参ろう」
宗清は、欣《うれ》しさに、あっと答えながら駒の口輪へ走り寄った。日頃は内気のように籠ってばかりいる重盛が急も急、自分がお暇《いとま》するとすぐ出て来たらしい早さに驚きもし、有難くも思って眼がしらが熱くなった。
五
主《あるじ》はいない邸である。夜はなおさら寂《じやく》として、燈火《ともしび》の影は遠侍《とおざむらい》のいる部屋にしか映《さ》していない。
長縁を先に立って歩みながら、宗清は、
「おことばをかけてお遣《つか》わしになりますか」
と、後から来る重盛へそっとたずねた。
重盛は、ことば静かに、
「その折の様子で」
と、云う。
頼朝のいる幽室へ案内して来たのである。
元より燈火《ともしび》は置かれていない。
春とはいえまだ夜は寒いのに、蔀障子《しとみしようじ》も開け放されていた。大廂《おおびさし》からまだ低い宵月が映しこんでいるのに、そこを閉め惜しんでいるかとも思われる。
「ここがお室《へや》でござる」
宗清にささやかれても、重盛はそこの広縁に佇《たたず》んで、ひと目、室内の人を見やると、凝然《ぎようぜん》、身を凍らせたまま頷《うなず》きもしなかった。
頼朝は坐っていた。
円座に乗せている膝の辺《あた》りまで月明りが真っ白にさしている。
きのう宗清に乞うと、宗清に布施《ふせ》してもろうた百枚の小卒塔婆《こそとうば》を、傍らにおいて、それを左の手に、右に筆を把って、こよい父義朝の五七忌に、一枚一枚供養《くよう》の名号をしるし、指の冷たさも知らぬげな容子であった。
「……?」
ふと。
人の佇んだ気はいに、彼は筆をとめて、つぶらな眼を上げた。
月光へ向けた眸が、らんと光って見えた。けれど広縁に佇んで自分を見ている人は、月を背にしているので、黒い影法師にしか見えなかった。
「…………」
今に何か、一言《ひとこと》でも、ことばをかけて遣《や》るか遣るかと、宗清は、重盛の足もとに蹲《うずくま》ったまま、じっと、唾《つば》をのんで控えていたが、重盛は化石したように、いつまでも物云わなかった。
「…………」
頼朝もまた、無言だった。
無理はない。宗清以外の者の跫音が来れば、自分を殺しに来た人ではないかと思うに違いないのである。
ややあって。
自分に害を加えに来た者でない事が分ったらしく、頼朝はだまって、重盛のすがたへ、頭《こうべ》を下げた。
それに対《むか》って、重盛も慇懃《いんぎん》にかしらを下げ、そして初めて、宗清の方へ云った。
「夜《よる》の具《もの》は、お寒うないようにしてあるか」
「はい。寒からぬ程に」
「食膳は」
「魚類は、あがりませぬゆえ、その他《ほか》は、世の常並《つねなみ》に」
「あの瓶《へい》の挿梅《さしうめ》は、そちが致したか。ゆかしい心入《こころい》れに思う」
「恐れ入りまする」
「義朝どのの御曹子《おんぞうし》」
と、こんどは、頼朝へ向ってやさしく、
「おん身、幼いに似ず、よく供養なさるのう。亡き父殿が恋しいか」
「恋しゅうござります」
「死んだら会える。そう思うておられるか。死んで父殿に会いたいと念じられるか」
「そう思いませぬ」
「どう思う?」
「死ぬのは怖《こお》うござります。死ぬほど、恐ろしい事はありませぬ」
「でも、おん身は合戦に出たであろが」
「戦の時は、ただ夢中でしたから……」
「生きたら、どうありたいと思うか」
「清涼寺へお弟子入りしたいとぞんじます。お坊さまになれば……」
筆を持ったまま、その肱《ひじ》を曲げて、両眼に当て、しゅくしゅくと泣き出してしまった。
「ゆるせ。心ない事を訊ねた。……ゆるせ」
重盛は、顔をそむけた。その頬に一すじ、白いものが流れるのを月に見て、宗清はひそかに心を強くした。この和子《わこ》は助かるという気がした。
仏子と凡夫
一
主《あるじ》の帳内《ちようだい》に間ぢかく詰めている宿直《とのい》たちはもちろん始終を聞いていたし、対屋《たいのや》や遠侍の控えにまで、清盛の声はきこえて来た。
「ばかなっ。ばかな」
これは時々聞くことで珍しからぬことばだったが、
「――親に対《むか》ってッ」
という一喝《いつかつ》は、かりそめにも正三位参議の六波羅殿の館から洩れてよいものではない。下司雑人《げすぞうにん》なら知らぬことだ。
寝殿を中央に、左右の対屋から北の母屋《もや》、奥の局《つぼね》までも、為に、夜空の雲に鵺《ぬえ》でも現われたように――鳴りしずまって、しんとしてしまった。
夜もふけてゆくし、それがために一層、清盛の声は、耳だつばかりだった。
「重盛。おまえは子だぞ。わしの子だぞ。いくら賢ぶっても」
「はい。弁《わきま》えています」
「今のことばは何だ。親を無慈悲無情の羅刹《らせつ》とはなんだ。慈悲がなくて、子が育つか」
「羅刹などと父君を誹《そし》った覚えはございません」
「耳ががんとしておった。言葉じりなどとるな。わしはかっとする性《たち》だから。――がしかし、云わんばかりに罵《ののし》った」
「罵りません」
「面倒だ。枝葉はよせ。口では、そちに敵《かな》わん。――だが重ねて申すぞ。たとえ母御前《ははごぜ》の尼が、どう仰せあろうと、ならぬ事はならぬ。もってのほかだ。――頼朝の生命《いのち》を助けてとらすなどという事は」
「…………」
「和郎《わろ》にわからんか。つもっても見い。――あれは義朝の三男じゃぞ。上には次男に朝長《ともなが》あり、長男義平《よしひら》があるに、その兄弟頭《がしら》をさしおいて、父の義朝がわざと三男へ伝家の『髯切《ひげきり》』の一刀に、源太ケ産衣《うぶぎ》をくれておるところを見ても、頼朝という童《わつぱ》の非凡は知れておるではないか。――子を観ること父にしかずだ」
「が……父君」
「だまれ。待て」
押えてまた、朗吟《ろうぎん》でもするような嘆をこめて、
「子を観ること父《おや》にしかずだっ――。重盛、そちもすぐわかってくる」
「さればこそ、そこを憐《あわ》れと、禅尼様にも」
「何もかも、尼御前のせいにして云うが、由来、若いくせに仏いじりのみして、仏家の真似の好きなのは、そう云う和郎自身だ。――輪廻《りんね》とやら因果とやら、やれ菩提《ぼだい》の仏心のと、生《なま》かじりの智慧と小慈悲を、生きた世間へ、そのまま用いてみたいのが、和郎の本心とわしは観る。――過《あやま》るなよ。世の中はうごいているぞ、人間は生き物だぞ。戦や政治《まつりごと》のあいまには、せいぜい仏者遊びもよい。だが伽藍《がらん》の中か小松谷の館の中でやれ。――清盛のまえへなど持ち出して参るな」
清盛は赤くなって云う。云って云って云い捲《まく》ったつもりでいる。
けれど、熱に渇いた唇《くち》をなめて重盛を見直すと、初めから刻経《ときた》った今まで、ささ濁りもせぬ水のように澄みきっているのだった。
「そうです。父君のお察しのとおり、禅尼様ばかりでなく、それは私も望んでいる事にちがいありません。一門の将来と、父君の人望を考えるからです。前に保元《ほうげん》の乱の後、敗れた敵方の者を、日頃の悩みにまかせ、老《おい》も若きも、敵に有縁《うえん》の者とみれば、仮借《かしやく》もあわれもなく斬殺した信西どのの終りはどうでしたか。武門に生れ武門に死ぬるさだめの私たちには、きょうの敵の身の上も、他人《ひ と》の運命ではありませぬ」
「何をいう。和郎《わろ》等を、そうさせたくないばかりに、この父は」
「子への慈悲なら鳥獣にもある天性でしょう。何もお父君のみが」
「談義! やかましい」
清盛は、最後の一喝を放つと、両手で耳を掩《おお》ってしまった。
「わしはその慈悲人情が、あまりありすぎて当惑しておるくらいなのだ。申すなっ。もう申すなっ」
二
他人同士の好き嫌いとは元よりちがうが、わが子にだって嫌いはある。清盛は長男の重盛はどうも嫌いだった。
真っ直《す》ぐなことばかり云うからである。世の中の事々は――わけて政治《まつりごと》などに携《たずさ》われば、重盛がいうようなわけにはゆかない。
また、何かにつけ、仏法や儒学《じゆがく》など持ち出すのも、清盛は気にくわない。仏様は崇《あが》めてもよいし、学問も尊重してよいが、生々しい政争と合戦の巷《ちまた》にいては、そんなものは心の邪《さまた》げにこそなれ、多足《た し》にはならないと決めているのである。政治のために、仏法や儒学を利用するならわかるが、身に奉じて、自分を他人の考えた哲理に嵌《は》めてしまうなんて、とんでもない事だというのだ。
清盛は清盛の生命《いのち》と性格を生みづけられて、今の時代に此土《このど》へ生れて来たのだから、このままに生き通し死に果たす事こそ天の使命を完《まつと》うするというものである。孔子が不届きだというなら云え。釈迦《しやか》が外道《げどう》と嘆くなら嘆け。
おれも天津日子《あまつひこ》の遠い御末《みすえ》のひとりなのだ。たれが此土《このど》の地獄を祷《いの》るか。同じ御民《みたみ》の苦しみを計るか。
どうか百姓万民のためにもよかれとやっているのだ。天津日子の弥栄《いやさか》を祈り奉《まつ》る心にふたつはない。その為には、邪げとなる物は刈り尽す。外道ともなる、天魔ともなる。――また、それくらいな形相《ぎようそう》を持たなくては今の政争や戦に押しきって勝てるものではない。隠者《いんじや》になって暮したがましというものだが、清盛には、隠者になって月花をながめてだけでは生きてゆくかいもない。隠者にはなれない俺であるからと、彼は正直に、自分の性質を認めていう。
けれど、彼のそういったふうな我説も、それを一族群臣に云う時には、諸人皆、おそれ入って聴くばかりであるが、一箇の重盛に向っては、聡明なひとみから冷蔑《れいべつ》の光と微苦笑とを、無言に酬《むく》いられるだけだった。
もしその口を開けば。
重盛の叡智《えいち》、学識は、赤子の手でもひねるように、諄々《じゆんじゆん》と熱せず迫らず、父の大ざっぱで浅い我説を反駁《はんばく》して、完膚《かんぷ》なきまで覆《くつがえ》してしまうであろう。――あくまで孝行を奉じ、かりそめにも冒すことはしない重盛であるが――親の清盛からみると、そうされそうに感じるのである。自分より優《すぐ》れている点を、親でも認めずにはいられなかったからである。――が、親より偉い子というものは、得て、親を楽しませない。
まして、清盛はまだ若い、――自分では若いつもりである。
ようやく、貧乏を脱し、人々を見かえし、他人が若い頃に通った青春を、彼は四十過ぎての今、迎え始めた気もちなのである。燃ゆるばかりの元気だった。途方もない大きな設計図を日本中に画いてみたり、そうかと思うと、小さい衣食住などに恋々として、何かにつけ慾というものが旺《さか》んである。
物を喰うにもがつがつと飽食はするし、一族や子等の前でも、平気で女のはなしなどをやったりする。――ふと、その中に重盛が、浅ましげに眉を顰《ひそ》めてでもいると、急に気づいて話をそらしてしまったりはするが。
――とにかく。そういう父と子であったから、頼朝助命の嘆願は、誰が考えても、重盛をおいて他《ほか》に人はないほど適任らしく思われたが、事実に当ると、かえって清盛の不機嫌と強情《ごうじよう》を募《つの》らせてしまった。
重盛もまた、禅尼と同じように、梅寒き夜更《よふ》けを、空しく小松谷の館へ、黙々と帰って行った。
その翌々日頃であった。
九条院のうちへ、三児を抱いて常磐《ときわ》がかくされて、やがて自首の旨を、六波羅へ訴えて出て来たのは。
三
常磐が捕えられて来たと聞いた日から、清盛はしきりと、
「今まで、どこにいたか。どうして遁《のが》れていたのか」
とか、
「子は連れておるか」
とか、また、
「窶《やつ》れておるか」
などと侍側の家臣や、折々見える問罪所の奉行《ぶぎよう》へ、諄《くど》いほど訊ねた。
問罪所からは、やがて彼女を取調べたつぶさな口書《こうしよ》に、その処分を仰ぐの旨を添えて、一般の罪囚と同じ形式で、清盛の所へまわしてよこした。
すると、清盛は、奉行の仕方をひどく不機嫌に、
「かりそめにも、義朝の想《おも》い女《もの》。乳のみ児すらあるものを、問罪所の牢などにおかず、なぜ侍どもの一部屋なり空けてやらぬか」
と、その無情を詰《なじ》って、
「わしが調べる。西の屋《おく》で見よう。すぐ曳《ひ》いて来い」
と、意外なことばだった。
奉行は、その前に、頼朝に対する清盛の仮借《かしやく》ない気もちをそれとなく聞いていたので、常磐に対しては、なおさら主人の旨《むね》にかなうように苛烈《かれつ》に扱ったのであったが、案に相違したので非常に狼狽し、やがて彼女を館の下屋《しもや》まで召つれて来た折には、客を伴うように、宥《いた》わり慰めた。
「席を与えい」
清盛のことばに、侍が、階下の庭さきへ藺筵《いむしろ》を展《の》べかけると、
「上へ。上でよい」
と、早口に云った。
――上とは? と疑うように清盛の顔を仰ぐと、階《きざはし》の上の広縁を顎《あご》でさしているので、奉行は、
「はっ」
と、恐縮しながら、
「お上がりなさい」
と、常磐を促《うなが》した。
常磐は、顔を上げ得ない。
乳のみは無心だが、今若と乙若の二児は、二夜の牢舎《ろうや》暮らしに怯《おび》えきっていた。母の膝から寸分も離れないのである。
「仰せじゃ。上がられて、床の座をいただきなさい」
起たないので、奉行がまた促すと、常磐は二児をあやしすかして、ようやく、俯向きがちに広縁の端まで上がって坐った。
母子《おやこ》三人が、巣の中の小鳥のように、小さく縮まり合った。
見も知らない怖い小父さんたちが、厳然と、清盛の左右に見えるので、今若も乙若も、母の膝へ爪を立てないばかりにしがみついていた。
「…………」
清盛は、その幼い者と、常磐の窶《やつ》れ果てた顔とを、見くらべていた。
初めて見る常磐ではない。九条院に仕えていて麗名の高かった頃から始終、垣間見《かいまみ》ていたものである。
死んだ義朝といい清盛といい、お互いが女には眼の早かったものである。どこの局《つぼね》にはどんな女性がいるとか、なにがしの中納言の娘はどうとか、武将たちの話題がそれになると、源氏も平氏もなく喧《やかま》しく賑《にぎ》わった。
そして人の恋している花を、横から手折《たお》って興がったり、戦の先陣に次ぐ誉《ほま》れみたいに、見よがしにした。常磐の場合でもそうだったのである。その頃、清盛はまだ見る影もない布衣《ほい》だったし、義朝は得意のさかりであった。
が――今は。
余りな変りようである。清盛も感慨なしにはいられない面持《おももち》であった。ややしばらくたってから彼は初めて常磐に云った。
「乳は出るか。……乳はたくさん出るのか」
四
恐い人と噂にも高い六波羅殿である。その清盛の事だから、どんな激越な吟味《ぎんみ》ぶりかと思いのほか、
――乳は出るか。
という質問が、最初に出たので、常磐も意外であったろうし、侍側や問罪所の諸人も、あっけにとられた顔して、黙り返っていた。
「…………」
片手に牛若を抱いているので、片手のみを床につかえたまま、常磐がかすかに顔を横に振ると、清盛はうなずいて、
「出ないか。さもあろう」
と、独り喞《かこ》つようにまた、
「わしの母親も、貧乏の頃は、乳が出ぬので、悩んでおった。女親とは、愚かなもので、ない食べ物も、あるように見せて、良人《おつと》へ喰わせ、這う子に与え、自分は喰べぬうえに、乳呑児に乳をせびられる。堪《たま》ったものではない」
「…………」
「さすがに義朝を、うつつにさせた其女《そなた》の容色も、あわれや、見るかげもなく窶《やつ》れたなあ」
彼の歎声は真実だった。可惜《あたら》――と心の底から出たのである。
「常磐」
「……はい」
「顫《おのの》いておるらしいが、何も恐がるに及ばぬ。そなたに罪はない。合戦は、清盛と義朝のいたした事だ」
「…………」
「女どもが知った事ではないが、そもそもは、義朝の愚が清盛を幸いさせてくれたようなものだった。彼は、一個の武弁に過ぎない男で、清盛ほどの政略もないのに、公卿の政争に組したのが禍《わざわ》いの因《もと》といおうか。――何にしても、武門のならいとはいえ、気の毒なのは、一族門葉、それに何も知らないお前どもだ。――がしかし、清盛は、そなたのような者まで斬る気はない。安心するがいい」
「……も。……もしっ」
常磐は、必死にさけんだ。
「わたくしの生命《いのち》は、ゆめ、惜しいとはぞんじませぬ。……お慈悲を。どうぞ和子さまたちの一命を」
ことばの終るも待たなかった。まるで別人がどなったかと思われるような、大喝《だいかつ》で、
「図にのるなッっ。女《め》ろう!」
「…………」
「あわれをかければ、すぐつけ上がる。女どもの憎い癖だ。そちは元より氏素姓《うじすじよう》もない九条院の雑仕女《ぞうしめ》、義朝の寵をうけたといっても門外の花だ。しかし抱えておる子たちは正《まさ》しく源氏の血流、ましてみな男《お》の子。助けておくことは罷《まか》りならん」
その形相《ぎようそう》と峻烈《しゆんれつ》な声に、今若がベソをかきはじめた。乙若も泣き出した。
常磐は、ひれ伏したきりとなっている。その黒髪を清盛は睨《ね》めすえていたが、
「ちイっ、よしない事」
と、何か悔いたように、ぬっくと不意に起ち上がって、
「下屋《しもや》へ退げろ」
役人たちへ命じると、耳でもふさぎたいように、首を振って、正殿の帳台へかくれてしまった。
下屋は長い廊を隔てて、裏園のはるか彼方にあったが、深夜に入るとそこからでも、乳呑みの泣くのが聞えてくる気がした。もっともそれは清盛の耳のせいかも知れなかった。
なぜならば、彼は夜もすがら眠りつけない容子だったからである。いっそ世間の底も貧苦も知らない家に生れていたら、こんな悩みもすまいと、清盛は思った。
いつになく、翌る朝、早く起き出でたと思うと清盛は、
「小松殿を呼んでこい」
と、侍者を走らせて、重盛を迎えにやった。
五
朝の光の充《み》ちている室で、重盛は、父の顔を見た。
「どうかなされましたか」
「むむ……すこし頭が重い」
「おつかれが溜《たま》ったのでしょう。朝《ちよう》へ上ると、いろいろ煩《わずら》わしい事が多いらしいと、禅尼にも、お案じなされておりました」
「尼どのに、会ったのか」
「はい。いつぞやの儀で――」
「尼どのには、まだあの儀を、歎いておられるか」
「お諦めになりません。亡くなられたご実子の思い出やら、頼朝の事やら、話されたり訊かれたり、よくよくとみえて掻《か》き口説《くど》いておられました」
「清盛を、無情者よと、恨んでおいでられたろうな」
「お口には出されませぬが」
「――重盛」
「は」
「前の合戦――保元《ほうげん》の乱の後では、信西入道には、ずいぶん思いきって、日頃の政敵や残党どもを狩って、斬り尽したな。……だが、ゆうべも寝ずに考えた事だが――結果はかえって悪かったようだな」
「無用にまで人を斬って、人望のよいはずはありません。信西入道からいつとなく人心が離れたのは余りに果断剛毅にすぎて、そこに涙というものが少しもなかったからでしょう」
「うむむ」
「今度の合戦では、信西入道こそと、憎しみの的《まと》にされ、西洞院《にしのとういん》のやしきも真っ先に火を放《つ》けられて、逃ぐるを追われ、源光泰《みなもとのみつやす》のために、田原の野辺で非業《ひごう》な最期をとげてしまいました。苛烈《かれつ》な人斬りをした酬《むく》いよと、弔《とむら》う人もありません。輪廻《りんね》とや申しましょうか。業《ごう》の廻《めぐ》りといいましょうか」
「いや、仏者ばなしは止せ。そんな茶のみばなしではない。深く、ゆうべわしは考えてみたのだ。その信西入道の仕方と、世上の反響やその結果をな。……と、良くないわい。下策だ。人心をつかむ所以《ゆえん》でない。これを義朝一族の後始末に照らしてみるとだ」
「ホ……」
重盛は微笑をたたえ、ついうかと――お気づきになりましたか――と云いかけたが、父の性格は、他の忠言でするのを好まない。たとえ他の忠言で行うにも、一応、自分の考慮と意思から出たものとしなければ実行しない――その性癖《く せ》を知っているので、
「御意《ぎよい》のとおりです。まったく、お考えは図に中《あた》っておりまする」
と、相槌《あいづち》を打った。
すると、清盛は、
「そうか。和郎《わろ》にもそう考えるか。大を為《な》さんとすれば、よろしく仁を施さねばならぬ。――幼い頼朝ごとき者、打首にしても、世上に眉をひそめさせるだけだ。一命は助けてとらそう。流罪《るざい》申しつけろ」
「……えっ。では」
むしろその恬淡《てんたん》さに、重盛のほうが抜駈《ぬけが》けされたような心地だった。父の顔はそれを云ってしまうと、さばさばと朝らしい照《て》りを顔脂《かおあぶら》に見せているのだった。
「大慈悲心を起されました。禅尼にもそれを聞かれたら、どんなにお欣《よろこ》び遊ばすかしれません。……ではさっそくにも、泉殿へ」
「ひとつ孝行したの」
「ああ、寔《まこと》によい朝でございました」
重盛も清々《すがすが》しかった。父に対してこんな崇高《すうこう》なものを肉親の情以外に、胸に抱いたことはなかった。
さっそくにと、欣んで起ちかける重盛へ、
「あ。それから」
と、清盛はこれも至って簡単に云ってのけた。
「ついでの事に問罪所のほうへ自首して出た常磐御前《ごぜ》も放してやれ。ただ子たちはみな男だからな、寺入り申しつけるがいい。――乳のみ児は、すぐもぎ離したら泣き死のう。百日ほども母の手に猶予《ゆうよ》を与え、鞍馬の山へでも上げてしまえ」
春《しゆん》 暁《ぎよう》
一
ゆうべ頼朝は、宗清からそれとなく、最期の覚悟を諭《さと》されていた。
「さあという時、恥のないように、いつでも死ねる心を、お胸にすえておくのが肝腎《かんじん》です。あなたが世の笑いものとなる事は、源氏の恥のみではありません。侍というもの全体の笑いぐさですからね」
「たいがい、大丈夫に、死ねると思っております。――こうして掌《て》さえ合せれば」
常のような素直さで頼朝は云う。思いのほか動揺も見えないので、宗清は、いくらか安んじた。
頼朝は、今朝も起きると、幽室にぽつねんと坐って、何やら考えている顔していた。十三日は、その日であった。
「――今日は首斬られる日」
と、知っていた。
怖いようなまた、何でもないような――であった。
鶯の声が、今朝も耳につく。
と――
庭さきの陽の光の中を、その鶯の影が征矢《そや》みたいに翔《か》けた。あわただしい跫音が長縁を走って来たので、驚いたものとみえる。
「……来たか?」
頼朝の顔が、蝋《ろう》みたいに白くなった。さすがに眸も恟々《おどおど》しはじめていた。
「佐殿《すけどの》」
宗清であった。それへ見えるなり声を弾《はず》ませて云うのだった。
「お欣びなさい。今はまだ申されませんが、きょうは、やがて吉《よ》い事《こと》がございますぞ。――吉い事が」
それでもまだ遽《にわか》には顫《ふる》えも止まらず、何の意味か解《げ》せなかったが、やがて今に、これへ小松殿がお見えになられますぞ――と、宗清が、云い残して去ってから、やっと、
「ア。……ことによると?」
頼朝は覚って、急に、体をそこに置いていられないような気持になりだした。
恐《こわ》くて恐くて、一刻もはやく、この檻《おり》を破ってでも逃げたくなったのは、それからの半日ほどの間だった。
午《ひる》の刻《こく》の頃おい。
小松重盛が見えて、池《いけ》の禅尼《ぜんに》のおすがりと、清盛の慈悲とに依って、一命を救ってとらせるとの旨を、頼朝につたえると、頼朝は、嗚咽《おえつ》の声をあげて、幾たびも、
「あ、有難うございます」
と、心から礼をのべた。
心からであったが、自分でも余りはしたなく泣いた事を、すぐ後では恥ずかしく思い出したとみえ、威儀《いぎ》改めて、両手をつかえた。
「どこへ、身は流される事か、分りませぬが、禅尼さまへ、何とぞよろしく、おつたえ置き下さいまし」
「いや、その前に、一度お目もじ申しあげて、お礼をのべられるよう、重盛が計ろうてとらせよう」
重盛が帰ると、その夕、正式の沙汰を携えて、六波羅の役人が見え、
伊豆の国へ配流《はいる》の事。
三月二十日、京師を立って、配所 の地へ、下され申すべき事。
の二つを申し渡した。
その日の来るのを、頼朝はどんなに待ったかしれない。幽室から空ばかり見ていた。
日が近づくと、宗清は、
「伊豆へ下られる道中、六波羅からは、追立役の検使、警固の青侍などがついて行きますが、不親切はいうまでもありません。誰か、せめて途中までも、お付添いしてくれそうな、ご縁故の者はありませんか」
と、訊ねた。
頼朝は小首をかしげて、父の知る辺や、家来の名などを、しきりと思い出しているようだったが、やがて首を振って、
「ありません。――あっても、六波羅どのを憚《はばか》って、誰も従《つ》いて来てくれる者はないでしょう」
二
高札が立った。
すわ、何か。
という眼いろが、それへ寄り集まった。市の中にも、橋のたもとにも、東獄の門前にも、そういう人だかりが随所に見られた。
「配流《はいる》とある」
「流罪か」
「伊豆の国へ」
「伊豆へ? ……。ほう」
伊豆とは、どんな遠国やら、京の人々には想像もつかないのである。
「――でも、よかった。また加茂川に、稚《おさな》い和子《わこ》たちの首斬られるのを見るよりは」
誰もみな、そこでは、ほっとしたような息をついた。六波羅の処断を、
「情けのある仕方」
と、言外に賞めたたえた。
折ふし、民衆の中には、合戦以後、これから自分たちの司権者として臨みかけている清盛という人が、大きく――忽然《こつねん》と大きく意識にのぼっていたところなので、
「こういう情けのある仁者ならばこれからのご政道もいちだんとよくなろう」
という安心も交じっていた。
けれど、一面のほうで。
清盛の評ばんは、かえって平家の一族のなかでよくなかった。頼朝の処置などは、もっとも悪評で、
「義朝、義平、そのほかを皆斬っていながら、なぜあの童《わらわ》一人を助けたか」
「平常、何事にも、徹《てつ》しておやりなさるご気性にも似あわぬことだ」
「池の禅尼や小松殿のお口添えによるというが、他からの進言などに、御意《ぎよい》をうごかすような殿でもないのに」
などと少壮な武者輩《むしやばら》の間には、不平の声が紛々《ふんぷん》とあった。
武力をかけて、自分等のなした大業に、そういう私情だの、裏面の処置があっては、画龍点睛を欠くものだ。平家のため、将来を思うならば、頼朝は助けおくべきものではない――という強硬な論議がかなり聞えるのだった。
「そればかりではない」
と、一部強硬な仲間ではまた、寄々《よりより》に云う。
「常磐の罪はどう決まったのか。彼女の抱えている男の子三名のご処分も、高札の面《おもて》には見えていない。問罪所の沙汰もあれきり聞かぬ。いぶかしい事ではある。闇から闇へのご処置ぶりというべきだ。何かあれにも、裏面があるのではないか」
うわさは、うわさを生む。
その常磐は近頃、獄から下げられて、七条《しちじよう》朱雀《すざく》あたりの小館に、母や子どもらと共に無事にいる。
そして折々、そこの門には、主《ぬし》の知れぬ輦《くるま》の着く夜などあって、口さがない町の凡下《ぼんげ》たちは、
(六波羅様が忍ばるる)
などと専《もつぱ》ら取沙汰しておるぞ――と、それをまた、事々しく、いかにもほんとらしく、取沙汰して伝えて来たりする者がある。
常磐の美しいことは有名であるし、清盛が女性《によしよう》に脆《もろ》い人であることも、若い時分の行状からでも、隠れない事実である。
従って、このばかな噂も、案外ばかにはされず、
「ふム。そんな事も、あり得ない事とは云えぬな」
一族の中にすら、半ば、信じる者があったりした。
そうした世間の沙汰や、ようやく、合戦の悪夢を忘れかけて来た巷《ちまた》のうごきの中に、早くも三月の二十日は来た。
頼朝は、前日の十九日から、池の禅尼の泉殿のほうへ身を移されて、遠い配所へ旅立つ支度に、夜もすがら眠る間もなく、暁《あかつき》を待っていた。
三
表のほうに馬の嘶《いなな》きが聞えだした。次第にそれは、人声や馬蹄《ひづめ》の音も加えてくる。泉殿の門前から広前へかけて、人の寄って来る気はいであった。
「夜が明けたな」
頼朝は臥床《ふしど》から立った。
彼の起き出た様子に、泉殿の使《つか》い女《め》たちは、妻戸をあけ、蔀《しとみ》を上げた。
――が、夜はまだ明けきれてはいないのであった。星さえ見える暁闇《ぎようあん》である。
「あ。もし」
雑仕女《ぞうしめ》のひとりは、頼朝が、自身で臥床《ふしど》を片づけているのを見て、あわてて寄って来ながら云った。
「ここのお掃除などは、私たちがいたしまする。それより身支度を遊ばして、禅尼様のお部屋へおいでなされませ」
「禅尼様には、もうお目ざめですか」
「ええ、ゆうべは遅くまで、あなた様とお物語りでしたが、あれからも、ほんの一刻《とき》ほど、お眠り遊ばしたきりでございまする」
頼朝は、云わるるままに、身のまわりを整えて、縁つづきの一室を窺《うかが》い、
「弥兵衛、起きてか」
と、訪れた。
すぐ、宗清が顔を出して、
「おう、佐殿《すけどの》か」
と、縁に立ち並び、
「お早いお目ざめでしたな。ゆうべは、更《ふ》けるまで、禅尼様とおはなしで、眠る間はなかったでしょう」
「いや、たくさん寝たよ」
「そうですか。きょうから長いお旅路です。――また、馬の上で居睡りなど遊ばして、連れにお逸《はぐ》れ遊ばさないように」
「はははは。だいじょうぶだよ、今日は」
頼朝は笑った。
宗清も笑い合った。
馬の上で居ねむりしたため、雪の近江路で、父や一族に逸《はぐ》れた時のはなしを――ゆうべ禅尼や重盛や宗清などに囲まれて無邪気に物語ったのを、思い出したからである。
無邪気といえば。
死罪一等を減じられて、伊豆へ流罪ときまってから、頼朝は、口のききようまで、子どもらしくなっていた。きょうまでの毎日毎日を他愛なく暮して、
(待ち遠しい。待ち遠しい。はやく伊豆の国というところを見たい)
と、云っていた。
ゆうべも、禅尼から、
(なんぞ尼からもお餞別《せんべつ》をあげましょう。何が欲しいとお思いか)
と、訊かれたのに対して、頼朝が、
(双六《すごろく》が欲しい。伊豆へゆくと淋しいから)
と、答えたので、禅尼はその答えにも、
(あどけないものよ)
と、涙ぐんだりした。
春秋無事に、仏供養のほか、する事もない禅尼には、この善根を施して、きょう頼朝を、東国へ立たせてやることは、人知れぬ大きな楽しみでもあり、生きがいを覚えた事でもあった。
「さ……。お待ちかねでしょう。お部屋へ伺《うかが》ってみましょう」
宗清は、そう促《うなが》して、頼朝を連れ、さながら華麗な寺院のような泉殿の廊を渡り、ひろい平庭に向っている禅尼の一室へ、別れのあいさつを告げに行った。
まだ仄暗いので、次の間にも禅尼のそばにも、結び燈台が灯《とも》っていた。けれど朝の冷やかな大気は室に満ちていて、灯の色は白々していた。
「おう、佐殿には、もうお立ちか。……お名残り惜しいことよの」
禅尼は、頼朝のほうを向いて、しばしは、その姿を見入っていた。頼朝も、さすがにこの朝は、胸がつまって、何といっていいのかわからないのであろう、いつまでも両手をつかえているだけだった。
四
やがて、頼朝は、
「ご恩によって、ふしぎな一命を長らえました。生々世々、忘れはしません。伊豆へ下っても禅尼様のお幸《さち》を、朝夕祈っておりまする」
さすがに今朝は、大人びて、涙に眼を曇らせながら云った。
他人《ひ と》の子とは思われぬと、常々云っている禅尼なので、頼朝にそう歓ばれると、酬《むく》われたここちで、彼女は無性《むしよう》に涙に溺《おぼ》れながら、
「よう仰っしゃった。寔《まこと》に、そもじのお命は、御仏《みほとけ》のお護り、人業《ひとわざ》ではない。――それにつけ、尼がゆうべも申したよう、仏果をおそれ、菩提《ぼだい》に心を染め、行末とも、亡き母者や父御《ててご》の回向《えこう》に一生をささげなされよ」
「……はい」
「ゆめ、弓箭《ゆみや》の太刀のと、血臭い業《わざ》は思い絶ち、たとえすすめる者があろうと、耳には入れ給うなよ」
「はい」
「人の口はうるさいもの。二度と憂《う》き縄目などにかかるまいぞ。――伊豆へ下られたら、すぐにもよき導師をたずね、お髪《ぐし》を剃《おろ》して、この尼が志を無になさらぬようにの……」
「はい」
禅尼は、満足そうに、微笑《ほほえ》んで、宗清を顧みた。
「まだ少しは、時刻の猶予《ゆうよ》があろうか」
「されば、長くは如何かと存じますが、荷駄へ旅行李《たびごり》など積むほどの間は――」
宗清は答えると、気をきかして、その準備にと、先へ出て行った。禅尼は、その後で、頼朝へそっと促した。
「そもじに一目会いたいという者が、あれなる下屋に待っておる。名残りを告げて行くがよい」
誰か? ――と頼朝は、下屋へ行ってみた。するとそこには三名の顔を知った者がひかえていた。
一人は叔父の祐範《すけのり》。
もう一名は纐纈源吾盛安《こうけつげんごもりやす》と名乗る源家の牢人。
それと、比企《ひき》の局《つぼね》。
――そう三人がいた。
局は、頼朝の乳母《う ば》で二条院にいた頃は丹後の内侍《ないし》といわれていた女性《によしよう》である。去年三月、母とも死に別れてからは、いっそう頼朝には恋しい乳母だった。
「…………」
頼朝は、つき上げる感情を抑えるように、棒立ちに突っ立っていた。比企の局は、その姿もよく仰ぎ得ないで、泣いてばかりいたが、
「和子様。お髪《ぐし》を上げに参りました。どうか、お名残りに、お髪を上げさせて下さいませ……」
と、云った。
頼朝が、だまって後《うし》ろを向いて坐ると、局は涙ながら彼の髪を梳《す》いて結い直した。そして耳へ、
「きょうが最後のお別れではございませぬぞ。東国へお下り遊ばした後も、また、何かと乳母がお側へまいりますれば……」
と、ささやいた。
纐纈《こうけつ》源吾盛安もすり寄って、早口に、
「和子さま。和子様。――八幡大菩薩のお計らいで、ふしぎに助からせ給うたお生命《いのち》ですぞ。いかなる者に強いられようと、そのお髪を剃《おろ》してはなりませぬ。一心、お髪をお惜しみなされませよ」
「……うん」
頼朝は頷《うなず》いた。
禅尼から、出家せよといわれればそれにもはいと答え、源吾盛安から髪を惜しみ給えといわれれば、それにも彼はうんと頷いた。
諺《ことわざ》にも、
人を捕る淵《ふち》音《おと》もせぬ
という。
彼は素直な子には違いなかった。
五
その時、中門のほとりで、大声でどなる者があった。
「佐殿には、何を猶予《ゆうよ》しておられるぞ。はやお出ましなされ。時刻でござる。――急ぎ候え」
護送の検視役、平季通《たいらのすえみち》の組下であろう。仮借《かしやく》をしない声である。
下屋の裡で、髪を上げていた頼朝は、
「乳母、もうよい」
と、比企の局《つぼね》が、名残り惜しげに、いつまでも梳《な》でつけている櫛《くし》の手の下から、やにわに、癇《かん》を起したように立った。
そして、局や叔父の祐範などが、自分のために泣いている体《てい》を見やって、
「なぜ泣く」
と咎《とが》めるように云った。
「――常人《つねびと》の配所へ流されるのは、悲しみかも知れぬが、頼朝のきょうの門立ちは、稀代《きたい》な吉日と、欣《よろこ》んでよいはずではないか」
三名の者は、そう云われて、心に持たない所をふいに打たれでもしたように、ハッと涙の顔を醒《さ》ましたが、その時もう頼朝のうしろ姿は、下屋を出て、大股に、彼方の人群れのうちへ入って行った。
泉殿の殿口、廊門、表門にかけて、一しきり混雑の人渦《ひとうず》が巻いた。ちょうど花頂山や如意《によい》ケ岳《たけ》などの東山一帯の線が、暁空《あけぞら》にくっきり浮き出して、紅《くれない》の旗みたいな雲の裂け目から、旭光《きよつこう》が縦横に走って見えたが、往来へ出て、北山西山のほうをみると、京の町や加茂の水は、まだ仄《ほの》ぐらい残月の下に眠っていた。
「――叱《し》いッ」
「前の者、進め」
「しィッ、叱っ……」
列は動きかけて動かない。
頼朝を乗せた駒を取囲んで――護送人の青侍たちの駒と駒はさかんに狂い合う。
馬上から――
「では」
と頼朝はもう一度、泉殿から見送る人々のほうへ、頭《かしら》を下げた。
とたんに馬蹄《ひづめ》の音は、戞々《かつかつ》とそろい出した。自分の駒も出ているのである。彼は、幾度も振向いた。黒々と、一群の人影は、いつまでも泉殿の前に見えた。
追立の役人十数騎の中に、特に免《ゆる》しをうけたものとみえ、叔父の祐範と纐纈《こうけつ》源吾のふたりの顔も交《ま》じって後から従《つ》いて来る。
――吉《よ》い日《ひ》だ。歓びの朝だ。こんなめでたい門出はない。
頼朝は、さっき身寄りの三名に云った自分のことばを、鞍の上で、ふたたび思い出していた。紅色に染めわけられた暁空《あけぞら》を仰ぐと、何か、からからと笑いたいような――また、大声で歌でもうたいたいような気もちに駆られてならなかった。
――戞《かつ》、戞、戞、戞
馬蹄《ひづめ》はそろう。
十四の少年の心はおどる。あしたの事など考えていなかった。きのうの事も忘れていた。いや、たった今、禅尼から懇々《こんこん》と、出家召されよと諭《さと》されて「はい」と答えて来たことも忘れていた。
鞍つぼには、その禅尼から餞別《せんべつ》にもらった、美しい双六《すごろく》の筥《はこ》を、大事そうに抱えていた。そして警固の侍をつかまえて、双六のはなしなどしかけたので、検視役人季通《すえみち》は、
(すこし莫迦《ばか》かな?)
と疑った。
粟田口《あわたぐち》へさしかかった。
並木の所々に、路傍の人がたくさん見に出かけていた。白い朝靄《あさもや》にまぎれて、地上に手をつかえて見送っている僧や牢人や市人たちもあった。
その中には、世をひそむ源氏の輩《ともがら》もあったにちがいない。人知れず、涙をながしていた者も尠《すく》なくはなかろう。――けれどもその朝、ことしの春の歓びを一つに持ったように輝いていたものは、多くの人々から、あどけない子よ、素直《すなお》な和子よ、と泣かれて行った頼朝の顔だった。
砂 金
一
年々、雪が解けると、彼は遠い奥州から上って来た。
大勢の仲間の商人と、それに附随するたくさんな下僕や男どもを連れ、何十騎という馬の背には、厳しい荷梱《にごり》や岩乗《がんじよう》な箱を結いつけて――駅路の鈴も物々しく、蜿蜒《えんえん》たる人馬の列を作《な》して、この大商隊は、都入りするのだった。
彼は、その商隊の宰領格《さいりようかく》で、奥州栗原郷の吉次という者だった。四十を越えたぐらいな年配で、逞しい商人《あきんど》魂《だましい》の持主であった。
「吉次が通る――」
「金売吉次が都へ上る」
と、街道すじで聞えれば、東海道はもう四月頃だし、都は桜若葉だった。
ことしも――
仁安《にんあん》の三年。それは、平治の大乱があってから十年目、頼朝が伊豆へ流されてから九年目である。
彼の商隊は、都へ着いた。
都へはいると、長の旅垢《たびあか》や埃《ほこり》にまみれた人馬は、三条河原の空地にひと先ず屯《たむろ》をして、ここで一行《いつこう》何十人の商人《あきんど》が、各の荷物を分け合い、道中の費用の頭割り勘定やら、つつがなく都まで来着いた無事を祝し合ったりした上、
「ではまた、六月に落ち会おうぜ」
と、隊を解いて、思い思いに、市中の旅舎へ、別れるのが例となっている。
道中は一つに来ても、商品と販路の目的はまちまちであった。
奥州産の細布《ほそぬの》や伊達《だ て》絹《ぎぬ》。
矢に需用《じゆよう》される鷲《わし》の羽。
水豹《すいひよう》の皮、その他の獣皮類。
漆《うるし》。金箔《は く》。
木地類。
南部駒と都で歓ばれる駿馬。
などが商品の重なる物で、吉次は、多く砂金を扱っていた。奥州の産金は、無限に都で需用された。
もちろんその代価は物品で、中央の物資が、帰りにはまた、馬の背に積まれるのである。
奥州の文化は今、夥《おびただ》しく都の物を求めていた。名匠の仏像とか絵画などの作品から、生きている美女までを、いくら送っても足りないほど輸入していた。
そこの地には、
「平相国《へいしようこく》、何者ぞ」
と、遥かに京都の勢力を睥睨《へいげい》している藤原秀衡《ふじわらひでひら》がいた。
藤原氏三代に亙《わた》って、都から吸引した文化と物資は、京都にも劣らない大都府を、平泉とよぶ地方に築き上げているとは――この商隊の商人《あきんど》などから都の人はよく聞かされる事だったが、
「まさか」
と笑って、信じようとはしなかった。
東国の武蔵ノ原とか、伊豆の蛭《ひる》ケ小島《こじま》と聞くだけでも、夢のように、遠い未開地としか想像できない都の者には、
「――そこからまだ、何百里」
などと聞く陸奥《みちのく》に、そんな所があろうわけはないと、頭から嘘にしてしまうのであった。
「――いや、嘘ではございませんよ。まったくです。嘘と思しめすならば、こんど手前が帰国する折、ひとつお供いたしましょうか。いかがですな」
一条大蔵卿朝成《いちじようおおくらきようともなり》のやしきで、吉次は初夏のある日、商用をよそに、むきになって話しこんでいた。
「は、は、は。ははは」
話し相手は、主《あるじ》の大蔵卿であった。笑いが止まらないといったように笑う。
吉次は、口をつぐんだ。――もう話してもばからしいという顔つきで。
葛布《く ず》の小袴《こばかま》に、縹色《はなだいろ》の小直垂《こひたたれ》、道中用の野太刀一腰《ひとこし》、次の間においているだけだった。いくら黄金の力を内心誇ってみていても、都の貴人の前へ出ては、みちのくの一商人《あきんど》としか見られないのが、業腹《ごうはら》でならなかった。
二
怒れない。怒ったら商人《あきんど》は損と極まったものだ。――が、そう自分にいい聞かせなくても、吉次はその道の老巧だった。公卿や武将を相手に、その玩具《おもちや》になり、馬鹿になることの名人だった。
「――馬が仔を産みましてな、いやこんどの道中で」
いきなり途方もない事を云い出して、ひとりで、へらへら笑いだした。
「馬の仔を、ご覧になったことがございますか。産れるとすぐ、歩き出しますんで。――どうして、可愛い奴ですよ」
「何をいうかと思えば、馬の仔のはなしか。やくたいもない」
一条朝成《ともなり》は欠伸《あくび》をして、
「長談義、ちと飽いた。――用がなくば、また来い。まだ当分は、都に逗留《とうりゆう》であろう」
「はい、こんども、夏ぐち頃までは……」
「商《あきな》いか」
「左様で。……時に、過日おねがいのご用命は、いかがでございましょう」
「ああ、六波羅殿のご普請《ふしん》のことか」
「それもございますし、小松殿におかれましても、伽藍《がらん》のご建立《こんりゆう》があるそうで。――何かと、金沙、金泥《きんでい》、金箔《きんぱく》など、たくさんにお要用《いりよう》でございましょうが」
「あるにはあろう」
「お口添えで、この吉次に、ご用命がねがえれば、こちらのお館へも莫大なお礼物をお頒《わ》けすることができますがな」
ここで吉次は幾ぶん胸の鬱《うつ》をはらした。見まわせば、いかにも貧しそうだ。豊かな公卿というものは尠《すく》ないが、わけてここの邸には、坐っていても貧乏のにおいがする。
見《みえ》を飾る出仕の牛車にしてからが、さっき上がりがけに見たところでは、五年も塗更《ぬりか》えてない貧乏車で、牛部屋の牛は痩せている。主《あるじ》の粗服は、廂《ひさし》のやぶれと同じ程度の古さである。
「さ。……御所のご用品なれば儂《み》たちの係りだから、どうなとなるが、六波羅殿には、何のご縁もなし、わけて黄金《か ね》商人《あきんど》の執りもちなどしたら、他《ほか》の商人から怨まれもするし、世間の口もうるさかろう」
「いやいや。――他様《ほかさま》なら知らぬことですが、こちらのお館と、六波羅様との間がらなら」
「なんでそのように親密じゃというのか」
「へへへへ。……存じ上げておりますよ。吉次は、以前からずっと、九条院にも伺って、何かとお出入りを仰せつかっとりましたからね」
「九条の女院《によいん》」
「へい」
「なんの謎じゃろ?」
「おとぼけ遊ばす事がお上手でいらっしゃいますな。……こちらの奥方様のはなしですよ。世間はもうけろりと忘れておりますが、吉次はお目にかかるたび思い出すんでございます。――九条院にお仕えになっていた頃のお姿を」
「奥のゆかりのことか」
「ゆかり様。――それはご当家に再縁あそばしてからの更名《かえな》でございましょう。以前はたしか常磐《ときわ》様」
「…………」
「――で、ございましたろ」
吉次が、頭をつき出していうと、朝成《ともなり》は眼を反《そ》らして、
「そんな事、だれが世間へ密かにしていた。隠し事でも何でもない。六波羅殿のおことばで、儂《み》に再嫁したことは、隠れもない公《おおやけ》の沙汰じゃ。――何を今さら」
朝成は、急に、不機嫌になりきった。話が妻の前身に触れればいつもこうなるのである。世間ずれない公卿の感情を左右することは、吉次のような男には嬰児《あかご》をあやすより易《やさ》しかった。
三
しまった。――ちと薬がきき過ぎたあんばいである。
吉次は、そう思うとすぐ、
「ご免を」
と、部屋を退がって、朝成の前から一時、姿を消してしまった。
「…………」
朝成は、まだ不きげんが去らない。苦虫をかみつぶしたように、眩《まばゆ》い初夏の庭面《にわも》へ、虚《うつろ》に眼を向けていた。
もう九年も前だが――
清盛の口から、不愍《ふびん》な女があるが、後添《のちぞ》えに娶《めと》ってやらぬかといわれ、六波羅殿の声がかりではあるし、自分が迎えてやれば、その不遇な女性も救われる事情にあるとの事に、
(娶《めと》りましょう)
と、三人の子連れのまま、後妻として迎え容れたのだった。それが、常磐であった。
正室としてからは、彼女の名も更《か》え、子供らもそれぞれ、清盛の内意によって、他へ処分をつけたが、世間は、
(もの好きな……)
とか、
(何か深い事情《わ け》があってに違いない)
とか、
(何もああまで六波羅どのに媚《こ》びて、出世を計らないでもよかろうに)
などと、何か私慾のためにでもしたように、ひどく陰口を云われたものであった。
もっとも、世間の通念からすれば、源氏に由縁《ゆかり》のある者でも、極力、平家方へ迎合《げいごう》するが時勢に沿うというもので、何も特に、複雑な事情にある子連れの女を、いくら後添えにせよ、持つ要はない。持つからには、何か、それに代る利得があるからに違いない――と、痛くもない腹をさぐるのは、むしろ当り前とも云えるのだった。
一条朝成は、そのために、以前よりも六波羅から足を遠くしてしまった。
たびたび、清盛に近づいて、清盛に好感を得ておくことは、勿論、出世の道であることぐらい、十分に知りぬいていたが、世間が妙な眼で見るような気がして、自分の方からここ何年間も疎遠にして来たのである。――現状のひどい貧乏も、官位が進まないのも、友達が寄りつかないのも――原因はそれだけのものだった。
(まあよいわ。貧しくても、妻には慰められている――)
その値《あたい》として、彼は、御所の一財務官に過ぎない勤めと、十年一日のような平々凡々を、ひとり愛していた。――六波羅殿の息のかかった者は、みな赫々《かつかく》と、栄進したりすばらしい変化を見せている時流の中で、ぽつねんと、妻と貧乏とを正直に持っていた。
その貧乏をつけ目で、金《かね》商人《あきんど》の吉次などは、私邸へ近づいて来たものだった。おととし頃から出入りしているのだ。来るたびに、
(奥方へ)
などと云っては、奥州の土産《みやげ》物《もの》など持って来た。つい取っておくと翌年も来た。また、今年もやって来た。そして三年目に、本音をはいた。
(あなた様のお口添えで、六波羅様のご普請のご用をひとつ)
と、虫のよい頼み事だ。それはよいが、常磐の前身など口に出して、暗に、九年前の世間の陰口と同じような口吻《くちぶり》をもらしている。いくら人のよい一条朝成にしても、不愉快になったのは、当然であった。
「……どうも、失礼を」
吉次はまた、ひょっこりと、彼のいる室へ、戻って来た。そして、朝成の眼のまえに、例年のとおり十匹の伊達《だ て》絹《ぎぬ》と、一提《さ》げの漆桶《うるしおけ》などの土産物をならべた。
四
「どうか、お気にかけないで下さいまし。つまらぬ事ばかりしゃべりまして。――これは毎年の物で珍しくもございませんが、ほんのごあいさつまでに」
土産物を置くと、吉次は、ふたつ三つ軽口を云って帰ってしまった。
帰った後で、一条朝成が、何げなくその伊達絹や漆桶の土産物を一見すると、意外な物が見出された。
一嚢《いちのう》の砂金である。片手ではちょっと膝に持上がらない程の額だった。
「太々《ふてぶて》しい男……」
その時は怒ったが、日のたつほど、怒る愚を考えて来た。
しかも吉次は、とうとうその年はそれきり顔を見せなかった。
年暮《く れ》から初春《は る》を越すと、砂金のかねは半分以上も手をつけてしまっていた。――また、雪が解ける。四、五月が近い。黄金《か ね》売《うり》吉次が京へ出て来る頃となろう。
正直者の朝成は、気懸《きがか》りになり出した。ままよ、彼の頼みを取次いでやればすむわけである。六波羅殿へも、なんぼなんでも余り、足を絶ち過ぎていた。こんな折こそ、口実にもなる。出向いて、吉次の依頼を、ひとつ懇願してみよう。
年暮《く れ》に塗更《ぬりか》えた牛車《くるま》を、彼は久しぶりで六波羅へ向けた。
「六波羅へでござりますか」
付いている雑色《ぞうしき》は、いぶかしげに主人に念を押した。
「うん……六波羅へじゃよ」
だが、西八条の華麗な門をくぐると、彼はいやな気持になった。つい保元平治の合戦の前までは、眇目《すがめ》の子の安芸《あ き》どのか――ぐらいに下に見ていられた清盛が、内大臣からまたたくまに、太政大臣――嘘のような事実である。あたりの豪壮《ごうそう》に圧されて、彼は急に、貧相なわが身が顧みられるのだった。
「ホ。おめずらしい」
牛車《くるま》を降りたところで、入道殿の三男宗盛に会った。宗盛が覚えていてくれるくらいなら――と何かほっとして、
「相国《しようこく》はおいで遊ばされるか」
「おります」
「あまりごぶさたしたので」
「いや、折角ですが、お訪ね下すってもむだでしょう。何せい父は忙しくて、きょうも御所のお使いを迎え、一族も大勢集まって、何やら評議のようですから」
「……ははあ」
自分の至って閑《ひま》そうな顔が、朝成は手持ちぶさたになった。
「……では。よんどころありませんが、貴方にまで、そっとお願いいたしますが」
「この宗盛でよければ、折を見て父に取次いでおきましょう」
宗盛は、一室へ迎えて、彼のはなしを聞いてみた。
政治上の問題でもあるかと興を持っていたところが、つまらない奥州の一商人の紹介なので、宗盛は見下げたように、途中からそら耳で扱《あしら》っていたが、
「いや、それどころでない。貴方の顔を見て、思い出した事がある」
と急に、朝成の思いもかけない事を云い出した。
「ほかでもないが、それは貴方の奥方の以前の子――つまり義朝の遺子《わすれがたみ》のひとりで、鞍馬へ上《のぼ》せてある末子があったでござろう。そうそう山では遮那王《しやなおう》とか名づけられているそうだが……あの牛若《うしわか》という童《わつぱ》じゃ」
「それが、どうかいたしたか」
「鞍馬寺の僧からも、山役人の方からも、たびたび、よからぬ状書《じようがき》が届いている」
「……どんな?」
「僧をきらって、武道にばかり熱中し、ややともすれば、師僧にまで逆《さか》らうという」
「その儀は、かねがね妻も案じておる事で、たびたび意見の手紙をつかわしておりますが」
「意見ならよいが、よも煽動《せんどう》などではあるまいの。何か、源家の系図書のような物を、お内方《うちかた》から山へひそかに送ったお覚えはないか。……何せい父の相国にも激怒しておらるる折だ。そこへ貴所《あなた》の顔など見たら、油へ火がつくに極っておる。――まあ当分は、不沙汰にかくれ、それよりも鞍馬の童《わつぱ》を一日もはやく剃髪《ていはつ》させておしまいなさい。髪を下ろしてしまうにかぎる」
天狗風
一
六条坊門の白拍子《しらびようし》翠蛾《すいが》の家は、吉次の定宿《じようやど》も同じようになっていた。翠蛾の妹は潮音《しおね》という。彼は潮音の檀那《だんな》であった。
七日ほど前、都へ着いて、彼は今年も、そこへ落着いていた。――が、まだ潮音と一年《ひととせ》ぶりの想いを果しただけで、世間へはどこへも顔出ししていない。
それをいつ知ったか、
「お文使いが見えまして」
と、一条朝成からの手紙が彼の手に届けられた。
「ははあ、おれに出向かれるのを惧《おそ》れて、先手と来たな」
披《ひら》いてみると、吉次の想像にはたがわず、まず先年の金の云い訳である。それから依頼の件は、六波羅殿へも運動しかけたが、ちと相国よりご不興を蒙《こうむ》るかどがあって、当分自分の扱いでは見込みもない。いずれ面晤《めんご》の折にはつぶさに――とある。
吉次は、意地のわるい返辞を書いて、その文使いに持たせてやった。
相国からご不興をうけたかどとは鞍馬の稚子《ちご》を繞《めぐ》って、近ごろ諸天狗が出没するという怪聞でしょう。うわさはなかなかあるようですな。てまえも仲間の者から疾《と》く聞き及んでいます。
従って、あなたの方も、もうあてにはしておりません。策を凝《こ》らして方向を計っているところです。ひとつてまえも諸天狗の仲間入りをして、人界《うわさ》をあっと云わせてみようかなどと商人《あきゆうど》にあるまじき空想などに耽《ふけ》っておりますよ。
砂金の嚢《ふくろ》など、そんな物に入りきれる夢ではありません。
ご放念、ご放念。
それから彼はひどくさばさばした顔つきで、実は、皮肉や興を交ぜて、認《したた》めた返辞の文句を、もう一ぺん胸に繰返して、
「ほんとにそうだ。……奥州から何百里、年々の往還《ゆきかえ》りも生命がけだ。同じ生命がけなら、でッかい事を目企《もくろ》め」
と、空想から自信へ移しかえて、うむと、大きく腕拱《うでぐ》みをしはじめた。
いくらでも空想の中に遊んでいられる男とみえる、陽が暮れたのも知らないで瞑目《めいもく》していた。奥州から都まで、年に二度はきっと脛《すね》で通っている男なので、自然学識のない禅坊主みたいな、太っ腹だけは出来ているものとみえる。
「おや、何を鬱《ふさ》ぎこんでいらっしゃるんですの」
潮音はそれへ結び燈台を運んで来て、彼の横顔から程よい距離へすえながら、おかしそうに微笑んだ。
「……もう燈《あか》りが来たか」
「暗いではございません」
「あ、あアっ」
と、伸びをして、両の拳《こぶし》を天井へ突き上げながら、
「燈りとなったら、また飲んで遊ぼう。翠蛾《すいが》にも来いといえ。ほかにいる妓《おんな》たちもみんな呼び集めろ」
「お姉さまは、今夜から明日《あした》もあさっても、六波羅様へ召され切りです」
「三日も」
「ええ」
「ばかだなあ。何でそんなに身を縛られに。――生きているかいがあるのか、それで」
「でも、他《ほか》ならぬお館ですもの。行かなければ、生きてゆかれません」
「じゃあ、おまえと、いるだけの妓《おんな》たちだけでいい。酒や楽器を取りそろえろ」
「わたしもこれからやがて、化粧を急いで、小松谷の重盛様のお客招きへ伺わなければ……」
「なに。おまえも出かけるって。よせっ、止めちまえ」
「そんな事したら……」
「病気といえ。いくら都の白拍子《しらびようし》は、みんな平家の息子や、一族たちの為にあるようなものだとはいえ、まさか招きを断ったからといって、白拍子を死罪にはすまい」
「されるかも知れません」
「ばかを云え。なんだ平家が。なんだ侍が。世の中は弓矢ばかりで廻っちゃいないぞ。黄金《か ね》の力はだれが廻しているんだと思う。――行くなっ、ここの一軒ぐらい。――いや京都中の妓《おんな》ぐらい、おれが子指の端でもみんな養ってみせてやる」
二
潮音は泣いてしまった。
「……無理ばかり云って」
と、わが部屋にかくれると、吉次の部屋へ洩れてくるほど、いつまでも啜《すす》り泣いていた。
「おもしろくない」
吉次は、手枕かって、寝そべっていたが、耳についてならないとみえ、むくとまた、起き上がって、
「行って来いっ。そんなに、泣きたいほど行きたいなら」
と、どなった。
彼方《かなた》の部屋の帳の陰で、
「行きません」
と、泣きじゃくりながら強く逆《さか》らって、潮音が云うと、
「行って来いっ」
と、またどなる。
「行きません」
「行けと云うに」
「知らない……」
「そんなら俺から先に出かけてやるっ」
吉次は、癇癪《かんしやく》まぎれに、翠蛾《すいが》の家を出て、どこという的《あて》もなく、大路をぶらぶら歩いた。
瑤々《ようよう》と簾《れん》をゆるがしてゆく貴人の輦《くるま》がある。夕風のなかを美しい魚のように歩く美女の群がある。小《こ》薙刀《なぎなた》を小脇に左の手に数珠《じゆず》を持って織屋《はたや》の門に立ちのぞいている尼さんがある。
都の繁昌は、洛内九万余戸とひと口にいわれている。保元、平治の乱も十年のむかしとなって、近頃は宵でもなかなか賑《にぎ》わしい。しかし吉次は、奥州平泉の藤原氏の都市とくらべて、
「なにが」
と、すべての物へ、負けない気を呼び起しながら見歩いた。
ただ悲しいかな、平泉は都市であっても、皇都でない。また、いかんせん美人となっては、京都の血を輸入してゆくしかない。潮音のような美しいのはいない。
その他は、どんな貴顕《きけん》の門であろうと官庁の厳《おごそ》かを見ようと、驚きはしない。彼の叛骨は、かえってせせら笑いを催してくる。
「ふん……いつまで続くか」
今宵はわけてもそういう天邪鬼《あまのじやく》がこみあげている彼だった。元々彼の郷土の国は、八幡太郎義家このかた密接な関係を血にもひいている藤原秀衡《ふじわらひでひら》一族によって固められているものだ。いくら平相国《へいしようこく》が中央に覇《は》を唱えようと、奥州の天地では何ともしていない。強《し》いてその血を源氏か平氏かといえば、源氏の血が濃い。――吉次もその氏子《うじこ》の一人だった。
いつか河原へ出てしまった。加茂の水明りに吹かれると、すこし業腹《ごうはら》が宥《なだ》められたここちである。吉次は堤《どて》の若草に坐りこんだ。膝を抱えて、三十六峰と睨《にら》めッこをするように黙然としていた。小松谷の灯、六波羅の灯、泉殿の灯、武者屋敷や役所の灯、平家の一門眷族《けんぞく》の館々《やかたやかた》の灯、神社仏閣の灯々々々、宝石でも撒《ま》いたようである。――ああ盛んなものだなあと彼の叛骨も、腹の底ではうめくばかりだった。
すると、そのうちに。
「……おや?」
と、彼は眼を近く移した。
誰もいないと思っていたすぐ下の河原に、人影が立ったからである。細っこい法師のように思われるのは誰か、人待ち顔に見まわしたが、誰も河原へ降りて行く者もなかったのでまた、元のように石ころの間へ、河鹿《かじか》のように、腰を下ろしてしまった。
「誰を待っているのだろ?」
若い法師だけに、吉次は、好奇心を起して、美しい京女でも、相手に現れれば、これは見ものになるが――などと想像を逞《たくま》しゅうしていた。
三
彼の期待には反して、河原に待つその法師へ、やがて同じ河原づたいに歩いて来て、小声をひそめ、
「……光厳か」
と、呼びかけた者は、夜目で知る人影だけでもすぐわかる大木刀を横たえた野武士であった。
「ア。――兄さん」
痩せた若僧は、恋人ででもあるように、野武士の胸へ抱きついた。荒くれた野武士の手も、やさしく抱いて、何やら云っているところを見ると、これは真の骨肉らしかった。
やがて野武士のほうが云う。
「……何か、きょうも常磐様からお託しがあったか」
「はい、お手紙を、いつものように、お預かりして参りました」
僧は、辺りを見まわして、兄の手へそっと渡す。――野武士は、その手紙を、額に押しいただいてから懐《ふところ》へ納めた。
「これだけか」
「ええ、きょうはこれだけでした。――が、お言葉の上で、こう仰っしゃってでございました」
「牛若様へ、お言伝《ことづ》てか」
「いや、牛若様には聞かして賜もるな。ただ貴方や他の方々の心得までに――とのお断りで、鞍馬へ折々にする便りも、これが終りと思うてくれ――との仰せでした」
「……ウム。近頃の風説で、一条殿の身辺へも、六波羅の眼が注意を向けだしたようだとは、わしも聞いている」
「そうです。良人のため、良人の一族のためじゃ。悪《あ》しゅう思うてくれるな。牛若様をはじめ亡き義朝様の遺子《わすれがたみ》三人の者には、再生のご恩のある今の良人に、禍いをかけては済まぬ。また再嫁する折に交《か》わした、良人との約束もやぶる事になる。そう私の前もなく掻口説《かきくど》いてのお嘆きでした。ほんとに前に坐しているに耐えないようなご苦悶《くもん》に見えました。よくよくなお覚悟と思われまする」
「ご無理もない……」
ふたり共、黯然《あんぜん》と、眼をあげて、星にしばだたいていた。
「光厳、よく分った。もうわしも鞍馬からお便りをいただきには降りて来ぬ。――が、牛若様のお身については、われわれ旧臣もおる事、必ずともお案じ遊ばさぬようにと――今度お目にかかった折、そっと申し上げておいてくれ」
「はい。……けれど、私にも、余り館へ足ぶみしてくれぬようと、きょうはご念を押されましたから、やがて秋にでもなって、知恩院の説教の莚《むしろ》へでもお見え遊ばした折にそっとお耳打をいたしておきまする」
「いつでもよい。……が光厳、おまえも気をつけろよ」
「え、注意しています。……でもよく常磐様には、十年前、六波羅へお引かれ遊ばしたあの時、わたくしに匿《かくま》われた事などを、役人に責められても、お口に出されなかったものと、今でも時々、あのお方の意志のきつい事には驚かれまする」
「あ。……長話しをしていて人目につくといけない。では光厳」
「山へお戻りになりますか」
「ムム夜のうちに」
「では、いずれまた」
ふたつの影は別れた。
光厳は、堤《どて》へ上《のぼ》ってからも、ややしばし遠ざかる兄の影を見送っていた。
「……ああ、よく一条朝成のやしきへ、法話に来る若僧だ。道理で、どこか見かけた覚えがあると思ったら……?」
吉次は、老柳の木陰に潜《ひそ》みながら、すぐ側を通ってゆく光厳のすがたを、それが彼の持っているほんとの物らしい鋭い眼で、じっと、横顔から足のつま先まで見ていた。
光厳は、何も気づかず、やや下流の仮橋を東へ渡っていた。――その影が渡りきる頃、何思ったか、突《つ》と、吉次も足を早めて、仮橋の躍る板のうえを大股に踏み出していた。
四
産寧坂《さんねんざか》を上りきった頃を見すまして、吉次がうしろから声をかけた。
「――光厳さん」
「え。……どなたです」
「名を云っても、あなたはご存知ないでしょう。奥州上りの金売商人《あきんど》ですが」
「何ぞ用ですか」
「そこの観音堂の濡れ縁にでも腰かけましょう。……先程はついどうも、失礼をいたしまして」
「先程とは」
「つい今し方。加茂河原で」
「えッ、河原で」
「みんな伺ってしまいましたのさ。悪い気じゃありませんが、風下にいたせいか、あなたと鞍馬の使者が、小声で云っているのも、聞くまいとしても聞えて来て――」
「ああ兄上との話を?」
「へい、残らずみんな」
「聞いたと」
「聞きました」
堂の濡れ縁に腰かけこんで、嘯《うそぶ》くように顔を見せつけている吉次を、光厳は、怪しみと、恐怖と、殺意と、いろいろな感情に絡《から》まれながら蒼白になって睨《ね》めつけた。
密偵か?
強請《ゆすり》か?
――天城《あまぎ》の悪四郎とかいって、近ごろ寺院ばかり襲い廻る強盗の群《むれ》があると聞くが、そんな者の手下でもあるか?
光厳には、いろいろに取られたが、そんなふうでもないらしいのは、相手の次のことばだった。
「まあ、おかけなさい。奥州かよいの生命知らずが、がらにもないとお笑いでしょうが、てまえにも人間なみの悩みはあるんで。――ひとつ善智識のお悟《さと》しをうけたら胸のもやもやが、いっぺんに解決してしまいはせぬかと、実あ、河原から後を慕って来たわけです。われわれ凡夫の煩悩《ぼんのう》を救ってくれるのは、あなた方のお勤めと思いますが」
「……?」
「聞いてくれますか」
「云ってごらんなさい」
――しかし光厳の返辞は、沙門らしくもなく、声に針をふいていた。その眉間《みけん》はすこしも開かず、その体は硬直したままだった。
「――辺りに人もいないお山ですから、開けッ放しに申します。実は、てまえの迷っている悩みというのは、どうしたら今よりもっと大きく儲《もう》かるかっていう事なんで。――お蔑《さげす》みなすっちゃ困りますよ。断っておきますが、てまえは武士じゃございません。根こそぎからの商人《あきんど》です」
「…………」
「坊さんが法《のり》の道に。武士が弓矢に。それぞれ徹《てつ》してゆくように、てまえも徹してみたいと考えると、そこに苦しみが起りました。――今のままじゃあ大した儲けにはならない。世の中を自分の富で動かすっていうようなわけには参りませんからなあ」
「…………」
「じゃあ、どうしたら、てまえなどのような商人が羽ぶりがよくなれるかといえば、こう世間がおッとり静かでは困るんで。もっと騒いで物がどしどし動いてくれなくちゃいけませんや。……戦争ですな。それも保元、平治のような都の内の乱ではおもしろくない。天下が二つにも三つにも分れて戦ってくれると、この吉次には、やりたい大仕事が山ほども出て来るんでさ。武門同士が、血と血を賭《か》けて戦い尽した頃、土は百姓侍で持つがよい。てまえは天下の財宝を持ちますから」
「……何をいうかと思えば、おまえは気でも狂っているのじゃないか」
「なぜですか」
「わしは僧侶です。かねの事とか、財物の儲け事とか、戦があるのないの――そんな俗事は聞いてもわからぬ」
「わからないって? ……。ヘエー。……知らないと仰っしゃるのかな……。ふウむ……。ふふふふ」
吉次は笑いだした。
五
「光厳さん。――何も、そう恐い顔したり、秘し隠しにゃ及びませんぜ。この吉次だって、商法の上では平家様々だが、血を洗えば、源氏の氏子の端《はし》くれですよ。今夜あ一つ、ほんとの事を相談しようじゃありませんか」
「何をいう!」
と、かえって鋭く、
「さっきから黙って聞いておれば、悩みを解く説法を乞いたいの、金儲けの相談をしようのと……。僧のわしへ向って、おまえは揶揄《からか》うのか、肚でもさぐる気か」
「いいじゃありませんか、金儲けは商人《あきんど》の吉次がするんです。あなたは貴方の望みを遂げればよろしいでしょう」
「わしの望みは、仏弟子になりきる事だ。おまえなどとは、行く道があべこべだ」
「いいや、同じでしょ。……あなたも、平家の世を覆《くつがえ》したいんでございましょ」
「な、なんだと」
「それでなくて、何でお前さん、常磐御前から頼まれたり、鞍馬の天狗と密会したり、知れたらすぐ首の飛ぶような危ない事を、僧侶の身でなさるんですかねえ。……いけませんよ、吉次だったからよかったが、あんな謀叛《むほん》を、河原で話し込んでいちゃあ」
「…………」
「それに、近頃のうわさがまた、どうも変だと思いましたよ。奥州だって見た事もねえ天狗様が都のほとりの鞍馬にはたびたび出るっていう評判だ。奥州者といえば、熊襲《くまそ》だのえびすだのと、仰っしゃる都会《みやこ》人《びと》が、天狗を真《ま》にうけているんだから恐れ入っちまう」
「…………」
「奥州の土産ばなしに、天狗にお目にかかりてえもんだ――と、こないだうちから念願にかけていたら、ほんとに巡《めぐ》り会っちまった。しかも天狗が二人して密々《ひそひそ》ばなしだ。やがて、ひとりの天狗が鞍馬へ帰り、ひとりの天狗は今、吉次の眼の前で、しまッたと云わんばかりな顔をしていらっしゃる。……ね、光厳さん、お前さんも、天狗の仲間の一人でしょ」
指さされた光厳の顔は、青い憤怒《ふんぬ》の仮面《め ん》みたいにさっと変った。――おのれッと、その口が焔を吐いたように叫ぶと、法衣《ころも》の下から抜いた短い刃が、濡れ縁に腰かけている吉次の胸もとへ、いきなり突いて行った。
吉次は、地を蹴って観音堂の縁へとび上がったが、すぐ飛び下りて、光厳のうしろから羽交《はが》い締めに抱きすくめ、なお、死力を尽くしてもがき抜く光厳の耳元へ、蚊が啼くような小さい声で云った。
「同士討は止そうじゃありませんか。お味方になりましょう。……てまえも、天狗の仲間へ入れておくんなさい」
六
こうなっては力ずくで吉次に敵《かな》うはずはない。光厳は病身である。吉次は逞《たくま》しい。
「刃ものいじりなんざ、およしなさい。それこそ、僧門の人のがらにもない事だ」
光厳の手から刃を〓《も》ぎ取って、吉次はまた云いかぶせた。
「お心はよく分る。あなたの身一つだけではないからな。ばれたらこいつは一大事だ。六条河原にまたも首塚が出来上がろう。――だから貴方としたら死んでもここは口を開けないところに違いない。ましてや何処の馬の骨か知れない奥州者の吉次に、おいそれと打明けられないのはごもっともだが――なぜその前に、常磐様から鞍馬へ文の通う事だの、一条朝成なんてお人好しな者までが謀叛の火だねみたいに物騒がられて、いちいち六波羅へ聞えるのか、それを疑ってみないんですか」
「…………」
「光厳さん。注意ぶかいようだが、お前さんもまだ若いな。法衣《ころも》にかくれ、法話に行くと称えて、一条朝成の奥向に出入りしたところは上出来だが、その常磐様には、切っても切れない伏見の鳥羽蔵という伯父がいることをご存じあるまい。自分も一、二度見かけた事があるが、見るからに眼つきのするどい卑しげな男さ。以前、常磐の前を詮議中、伯父のくせに、しかも源家の恩顧を蒙《こうむ》っているくせに、六波羅へ密訴したかどで、その後は取立てられて、四、五十名の侍を飼い、肩で風を切って歩き、いよいよ平家の問罪所へ、忠義立てているという風上にも置けない代物《しろもの》だ。――こいつが肉親の伯父面《づら》して、今も、一条朝成の館へ、時折、酒くさい息をして出入りしているだろうが」
「……あ。……ではあれが、常磐様を以前密訴した伯父でしょうか。よく遊びに見えていられる――金田鳥羽蔵正武という五十がらみの武者がありますが」
「元は、姓も名乗りもない牛飼《うしかい》だったが、主君の子と、肉親の姪とを束にして敵へ売りこみ、その功で厳めしげに、そんな名乗りを取っつけている奴なのさ。こいつが臭い。――前からわしはそう見ていたが、ひとつ、天狗の仲間入りする引出物に――また、てまえが二心ない源氏の氏子だという証拠をお見せする為に――その鳥羽蔵をかたづけてお見せしましょう」
「かたづけてとは?」
「ま。見ていて下さい。光厳さん、その後でまた、会いましょう。――と云っても、商用の都合でことしはもう来ないかも知れませんがね。……そしたら、来年また」
云うともう吉次の姿は闇の底へ――産寧坂から五条の窪《くぼ》のほうへ風のように立ち去っていた。
それは梅雨《つ ゆ》をすぎて、急に青葉の濃くなりだした六月初めの蒸暑い晩の出来事だった。
佐女牛小路《さめうしこうじ》から火事が出た。
その辺《あた》りは、七条坊門やら、塩小路、楊柳《やなぎ》小路などの細かい人家が櫛比《しつぴ》している所だったが、焼けたのは、六波羅勤《ろくはらづと》めの侍屋敷一軒だった。金田鳥羽蔵正武の屋敷だった。
それも不思議だし。
もっと奇怪な事には、鳥羽蔵の一家眷族《けんぞく》、みな殺しとなって、すべて灰になっていた事である。――いや、そう思っていたら、六条河原の柳の枝に、焼けていない鳥羽蔵の首だけが、ぶらんと、薬玉《くすだま》みたいに、葉柳の中から枝垂《しだ》れていた。
久しぶりの血腥《ちなまぐさ》い騒ぎに、閑《ひま》な公卿の牛車までが見物に来た。そしてその柳のすぐ下に、もう十年の昔となって、河原《かわら》蓬《よもぎ》につつまれている平治の乱の首塚にも目をとめた。
夜になると、蛍が、塚にも、柳にも、水にも飛んでいた。
奥州商人《あきんど》の大商隊が、例年のように、三条の空地に集合して、蹴上《けあげ》から大津へかかり、遠い故郷へ帰って行ったのも、その騒ぎのあった頃だった。
山の子
一
木の芽が紅《あか》らみ出した。春は来たのだ。鞍馬をめぐる山々の霞《かすみ》は仄紅《ほのあか》い。
ことし承安の二年。
牛若は十四になった。
七ツから山で育った山の子である。血は義朝にうけ、気は山巒《さんらん》にうけた。
しかも。
鞍馬法師も、叡山《えいざん》、南都の荒法師にも劣らない聞えがあった。山には武器庫《ぶきぐら》さえある。一山はみな僧兵といってよい。平常でも薙刀《なぎなた》をひっさげて歩いた。その中で、山の子牛若は、七年間、庇《かば》われる者なく存分に虐《いじ》めつけられて来た。
降り積っても積っても、雪の下から芽を出さずにいない雪割草のように、彼は十四にまでなった。
体は小粒だった。しかしいじけた小粒ではない。飽くまでかちっとして肉緊《にくしま》りのいい顔をしている。葡萄《ぶどう》みたいな丸こい眼《まなこ》をして、髪の毛など、いくら叱られても叱られても鳥の巣みたいにしている。足は常に裸足《はだし》だ。袴《はかま》や小袖はのべつ綻《ほころ》びを切る。まるでむささびだと、堂衆たちも持てあましている。
――が、こうなるのは、彼として自然だった。山では誰ひとり、彼の系図に特別な尊敬を払う者もない。生涯、山の飼いごろしとなる宿命の子としか見ていない。ほかにも同じ年頃の稚子《ちご》はたくさんいるので、その中に交《ま》じっている牛若が、ややほかの童子とくらべてどこか異色が見えたりなどする折に、法師仲間で、
「あれは、義朝の子だそうだ」
などと稀《まれ》に指さす者があっても、
「ふーむ。義朝の胤《たね》か」
と、頷《うなず》くだけのものである。
今の平家に対してすら、山の衆徒は、決して腹まで服従はしていないのである。まして亡んだ源氏のごときは、散った桜ほども眺めていない。
また、牛若も、人々から憐れがられるような子でなかった。小つぶのくせに、面魂《つらだましい》を備えているからである。
「あいつ、一度こッぴどく、泣かしてくれねば」
と、憎む法師はあっても、
「あわれなる稚子《ちご》」
などと可憐《いとし》がる者はない。
平気なのだ。山には住んでも、僧侶の中には住んでいないと、行動で云っているような牛若の日常であった。
今日もである。
朝から遮那王《しやなおう》のすがたが見えない。遮那王とは、近年、師の東光坊蓮忍が与えた名である。
「よし。こんな時だ」
三、四名の法師が、探しに出て行った。つかまえて懲《こ》らしてやる気であろう。十王堂の山門で、待っていた。
麓へ下りたものと見てそこにいたが、牛若は、裏山の谷から上って来た。逸《いち》はやく一人が見つけて、
「遮那ッ――」
と、呼びとめた。
かぞえ年十四だが、十一、二歳にしかみえない。相変らず裸足《はだし》で泥まみれだ。鼻を垂《た》らさなくなったのもつい近年である。
「なに……?」
戻って来る何気ない顔へ、
「何っていう言葉があるかっ。稚子もたくさんいるが、貴さまほど長上に対して、小生意気なやつはないぞ」
ひとりが呶鳴りつけた。
「…………」
牛若は、爪を噛んだ。
鼻の穴まで黒くしているが、その鼻すじは、ちんまりと小隆《こだか》く、どこか母の常磐を思わせるところもあった。
二
その牛若を睨みすえて、
「どこへ行っていたか」
法師のひとりが詰問《な じ》ると、他《ほか》の者も寄って、その小さい体を、頭から覗き下ろして脅《おど》した。
「こらっ遮那。なぜ黙っておるか。なぜ返事せぬか」
すると牛若は、叱られるかどもないのにと云わぬばかりの不平を、その口に尖らして答えた。
「何処へも行きはしませんよ。ここにいるじゃありませんか」
「嘘をいえ。いなかった」
「いました」
「こいつ」
右手《めて》の薙刀《なぎなた》を左に持ち代えて、その手を牛若の襟がみへ伸ばそうとすると、牛若は、退がって、
「ちゃんと、山にいたのに、いないなんて、僧侶が嘘をついてもいいのかい」
あべこべに、喰ってかかった。
法師たちは憤《いきどお》って、
「げんに今、貴さまは裏山の谷から上って来たじゃないか。朝から中堂にも姿を見せず、それでもいたと云うか」
「云う……」
「なに」
「山にはいたんだもの」
牛若は肩を昂《あ》げている。
「…………」
唖然たる法師たちの顔だった。二の句がつげないといったふうな呆《あき》れ顔だ。
「――この山にさえいればいいんでしょ。麓から先へ行く事ならんと、常々、お師匠様からも六波羅衆からも固く云われているから出た事はない。こんなにおいいつけを守っているのに、どこがいけないんですか」
鷹の子は生まれながら鷹の子の叛骨をそなえている。この叛骨は、母胎を出た年に、平治の乱の兵火を見、あらゆる憂《う》き目《め》と闘った母の強い意志を乳ぶさから吸い、やがて鞍馬の山巒《さんらん》と山法師に揉《も》みに揉まれて、いよいよ烈しいものになりかけていた。――そしてまだそれを優雅に被《おお》いかくす社交性もなければ、怖れも知らない年齢《と し》なのである。
知らないといえば、彼はこの山以外の世の中さえよく知らない。世間の人中というものは七歳《ななつ》前の淡い記憶しかなかった。だんだんに知って来たのは、
(どうして、わが身は、この山の他《ほか》へは一足《ひとあし》も出て行けないのか)
と、いう疑問だった。
その理由が、うすうす彼自身に解けて来たことは、実は彼自身で自分の生命《いのち》を、危険な方向へ曝《さら》してゆく事だった。きびしい監視はよけい厳しくなって来た。そして生れながらの不敵なたましいも、その環境に育てられるばかりだった。
「ゆるさんぞッ。今日は」
薙刀《なぎなた》の柄をふるって、法師はいきなり牛若を撲《なぐ》りつけた。
牛若は逃げ損じて、腰のあたりを強《したた》かに打たれ、
「痛いっ」
と、さけびながら転んだ。
「ちと、懲《こ》りろ」
法師たちの高歯の下駄や木履《ぼくり》が彼の背をふんづけた。牛若はくやしがって、その毛脛《けずね》へしがみついたが、荒縄で縛《くく》りあげられてしまった。
「引っぱッて来い」
一人が一人へ命じて、先へ歩いた。毘沙門堂《びしやもんどう》の下まで彼は曳きずられて行った。泣きもしないので法師たちの気はよけい折檻《せつかん》に駆られた。
「ここがいい」
鐘楼《しようろう》を見上げて一人がいう。担ぎあげて四方柱の一つへ縛りつけた。そして柱の上に板を打って立ち去った。
彼等が去ると、牛若は、身をねじって、その板の文字を見上げていた。――いつもの不敵な眼も、すこし悲しげであった。
許シ無ク縄解クベカラズ。山則ニ依ッテ罰スモノ也
東光坊役僧了範《リヨウハン》
と読まれた。
三
了範たちの法師は、中院へもどると、牛若の師、東光坊へすぐ届け出た。
「六波羅からお預かりの者ですが、遮那王《しやなおう》の行跡、目にあまるものがあります。懲《こ》らしめのため鐘楼へ縛《くく》りつけましたゆえ、おふくみ下さい」
阿闍梨《あじやり》は聞いて、
「……ふん。そうか」
笑ったきりだった。
この老僧だけは、まだかつて牛若へ叱言《こごと》を云ったことがない。
――師の坊が甘やかしておる。
と云う者すらある。
日が暮れてきた。
遮那王が縛られたと聞くと、中院にいるほかの稚子たちは、
「行ってみようか」
と、他人《ひ と》事《ごと》でないように、連れ立って、鐘楼の上を覗きに来た。
牛若は、柱に倚《よ》りかかって赤い夕雲をぼんやり見ていた。
「遮那。縛られたの」
「どうしたの」
「今夜もここにいるの」
「なぜ謝らないの」
だんだんに側へ寄って、彼の友達は、慰め顔に云ったが、牛若は、
「あっちへ行きなよ。――あっちへ行けよ」
自分のすがたを見られるのが嫌らしく、頭を振って、にわかに、強《きつ》い顔をして見せた。
何処か、遠くで、
「そこへ寄るなッ。遮那へ近寄る者は、共に縛るぞっ。まだ柱が三本空いておるぞ」
法師の呶鳴る声がした。稚子たちは、わらわら逃げ散った。
彼のまわりに人気《ひとけ》もなくなると共に陽は落ちて、とっぷり暗くなりだした。
この鞍馬からおよそ三里という京都《みやこ》の灯が、ポチと三つ四つ見えた。
遠く、かすかに、瞬《またた》いて。
「ああ……。あの灯のついてる所に」
牛若は、ため息をついた。
「会いたい」
と、思い出した。矢も楯《たて》もたまらなくなってくる。
母の常磐に――である。
釣鐘《つりがね》も釣鐘堂も引きずッて、そこへと歩いて行きたいように気が逸《はや》る、体じゅうの血が暴れまわる。
が――会えない宿命にあることを彼はよく知っていた。
七歳《ななつ》の時。
それまでも、彼はすでに、鞍馬寺の預け人という表面になっていたが、いよいよ身を鞍馬へ持って行かれたのは、明けて七歳《ななつ》の春だった。
その時、母から云われた別離のことばは、何分、幼心《おさなごころ》で、よくも覚えていないが、悲しさだけは、何となく忘れ得ない。
前の夜から泣きつづけていた母のすがたも、おぼろに記憶している。
迎えに来た鞍馬の役僧と、六波羅の役人の前で、母から、
(これからは、子でないぞ。母でもないぞ)
と云われた言葉一つは、これは生涯たっても忘れ得ないであろう程、深刻に小さい頭脳《あたま》へ打ちこまれている。――だから母を思うとすぐ、その言葉が、錐《きり》のように心の下から出て来るのだった。
(だけど、母上がお悪いのではない。平家が、わしと母上を裂いたのだ)
こう理解されて来た頃から、彼は凡《ただ》の子でなくなったのだ。同時に、父なる人の死に方をも痛切に知りたがった。そして遂に知り得た時、彼は、眦《まなじり》を昂《あ》げて、
「天め!」
と雲に向かって叫んだ。
その時、彼の幼い胸へ、何かどかんと据《すわ》ったものがあった。唇《くち》をかんでぼろぼろ涙をこぼしながら、反対に肚には天をも怖れない心がわいていた。
谷と空
一
枕草子に「近くて遠きもの鞍馬のつづら折――」などと見える。
陽が暮れたら通う者はない。あれば大《おお》薙刀《なぎなた》を抱えた山法師か猿ぐらいなもの。
それにまた、麓の市原野《いちはらの》には、兇猛な野盗が今も出ると信じられている。むかし源頼光が鬼童丸《きどうまる》を斬ったとか、著聞集《ちよもんじゆう》に見える追剥《おいはぎ》のはなしなどが、みなこの辺りの事となって、里の者や旅人の頭に沁みこんでいるからであろう。
表の麓口さえそうである。道とてない裏山裏谷は、ほとんど想像の世界となっている。わけて鞍馬寺から西北へ十町という僧正《そうじよう》ケ谷《たに》には、古くから太郎坊とよぶ天狗が住んでいて、そこから雲間へ光のさしている時は、国々の大天狗小天狗が会合している夜だと、里人は固く怖れ信じている。
近づくな。谷を覗くな。
祟《たた》りをうけるぞ。
そうした里の合言葉さえあるのに、これはまた、どうしたうかつ者だろうか、ただ一人、道もない峰を、闇の奈落《ならく》へ下りてゆく男がいる。
「叱《し》っ……。畜生っ」
男は時々、足もとを探って、梢へ石を投げた。
猿の群れであろう。梢から梢へ、ざわざわと駈け廻る音がひどい。男が、逃げるように崖を辷《すべ》り降りると、また追って来るのである。
「――ちぇっ、限《き》りがねえ」
舌打ちして、男は崖の途中で坐ってしまった。被《かぶ》っている黒布を解いて汗をふき、それでまた、面《おもて》をつつみ直した。
奥州の吉次だった。
草鞋《わらじ》ばきに脛当《すねあて》をしめ、袂《たもと》もむすび上げている。革柄《かわづか》の野太刀を腰にくくって、敏活にうごく眼といい四肢といい、まるで夜盗か何ぞのように向う見ずであった。
猿のさけびが掻消《かきき》えると、ぐわっ――と谷底の鳴るのが逆しまに、顔をふきあげてくる。そそり立っている岩峭《がんしよう》に打《ぶ》つかってくる冷たい風と、渓川《たにがわ》のうなりである。
「はてな。宵からお目にかかったのは、まだ猿ばかりだ。やはり光厳が打消したとおり、噂は噂だけのものか」
吉次はつぶやいて星を仰いだ。方角を按《あん》じて自分の来た所を確かめているらしい。まちがいなく、この下は僧正ケ谷だと考える。
僧正ケ谷ならもう会いそうなものにまだ会わないのだ。――と云っても、彼の期待して来たのは、天狗ではない。人間である。
もっぱら高い世間の噂と、自分の睨んでいる観察と、どっちが正しいか、それを突きとめる為に、彼はこの春、例年の一行よりも先へ都へ来て、去年もおととしも、
(今年こそは。今年こそは)
と念願しながらつい果さずに過ぎて来た宿題を、解決しようと、勇を鼓《こ》して、ここへやって来たわけだった。
もう三年も前になるが。
知恩院の光厳をつかまえて、すでにある秘密の端緒《たんちよ》をつかみかけた事もあったが、その折、光厳が次の夜ここでもう一度落会った上、一切を打明けるとの事に、うっかり信じて翌晩を待っていると、光厳は次の日、知恩院の裏山で、見事に自害していた。
死人に口なしだった。それなり終るしかなかったが、一度抱いた野望と、鞍馬への疑惑とを、光厳の死ぐらいで、思い止まる吉次では元よりなかった。
二
渋谷金王丸《しぶやこんのうまる》は、鎌田三郎正近とふたりで、巨きな岩に腰をかけていた。
この僧正ケ谷で、仲間が落会う時は、いつもここと場所は極まっているようだった。四方の峰は太古のままな松杉だった。天狗の祠《ほこら》という魔王堂はその一峰《いつぽう》にある。二人の足もとを行く渓流は、奇岩乱石を噛んで、その吠える声でこの谷間は蔽《おお》われていた。
「…………」
ふたり共、黙然としていた。金王丸は星を見つめ、三郎は水を見ていた。どっちも多感な境遇にあった。平治の乱以来、明るい陽の下を大手を振っては歩けない源氏の残党と呼ばるる者だった。
しかし、日陰の蔓《つる》は、陽なたへ伸びようとする夢に燃えている。悲嘆や慷慨《こうがい》は、もう遠い過去のことだ。闇の生活も十年の余となれば、自《おのずか》らそこに生きてゆく道もつき、同じ境遇の人々と連絡もとれ、さらに逆境なればこそ抱き得る、逞《たくま》しい闘志とそして希望があった。
「……来たらしい」
三郎が囁く。
金王丸も眼を向ける。
向う側の沢の闇から、渓流の星の下へ、猿の群れみたいに連れ立った人影が、岩づたいに、水を跳んで渡ってくる。
三人――四人――七人と。
多くは土民の姿で、武士も交《ま》じっているが、樵夫《きこり》か猟師《りようし》かと見えるのが多い。山法師ていの男もいる。
「遅うなりました」
「根井、荻野など両三名、後より参る由でござります」
先に来ている二人を繞《めぐ》って、大磐石《だいばんじやく》のうえに車座となり、なおそこらの岩へ思い思いに腰をかけた。
「こよいのお迎えには、誰が参っておりますか」
一人が問うと、三郎正近が、
「自分の参る番であったが、渋谷殿を誘うて来た道の都合で、箱田の冠者《かんじや》に行ってもろうた。もうやがてお連れして見えるだろう」
と云う。
その人を待つもののように、人々は雑談に耽《ふけ》っていた。何を云おうとここの天地では憚《はばか》る事はなかったが、肩をいからして大言壮語する者はない。徒《いたずら》に平家の全盛を誹《そし》りちらして身をひがむ者もない。至って気楽な世間ばなしなどである。友だち同士の諧謔《かいぎやく》を云ったり笑い交《か》わしたりしていた。
ここの谷間の会は、月に何度かこうして集まった。その度《たび》ごとに耳新しい事件だの平家方の情報などがそう頻々《ひんぴん》とあるわけもない。お互いの無事を見合えばまずよいのだった。それと、鞍馬寺にある亡主義朝の遺子《わすれがたみ》牛若を、よそながら護り、よそながら教育し、やがての事は、その牛若の成人の日として待っているのである。
(――この和子様をこそ傅《も》り育てて)
と、牛若という一粒の胚子《た ね》を培《つちか》い合って、その伸びるのを見ているのが、一同のたのしみでもあり、盟約の中心にもなっていた。
月に幾度か、ここに幼い君を迎えて、義朝の旧臣たちは、各、その長ずる所をもって牛若へ教導の任にあたった。
古来からの史を講じて、牛若に、武将としての英邁《えいまい》を養おうとするもあり、軍学を講義したりまた、源家の起りから義朝の代に至るまでを語って、牛若に、早くから「自分というものは何か」を教え込もうともした。時にはまた、面々木太刀をおっ取って、わざと幼い君一人をつつみ、それに負けじ魂と肉体的鍛錬《たんれん》をも、無理なほど打込んだ。
一同の期待は裏切られなかった。牛若は、厳格な鞍馬の僧院から、人々の寝しずまるのを窺《うかが》ってここへ来る夜を、楽しみにしているふうであった。
三
「遅いのう」
「何日《い つ》になく」
ようやく、人々がつぶやき出す程、この渓谷に話も尽きて、時経《た》つのを覚えた頃、
「見えた、おいで遊ばした」
と巌《いわ》に立って見張っていた一人が云った。
牛若を迎えに行ったという箱田の冠者は、やがて此処へ駈けて来た。しかし、人々の待ちぬいていた牛若は伴《つ》れていなかった。
怪訝《いぶか》って三郎正近や金王丸をはじめ、人々が声をそろえて、
「や。若君は」
と、訊くと、箱田の冠者は、
「さればじゃ。若君には、日頃から憎まれている法師等のため折檻《せつかん》をうけられて、今日は懲《こ》らしめの為とか申し、鐘楼の柱に縛《くく》りつけられておいでになった。――それ故に、遅くなりました」
「なに、鐘楼に縛《くく》られて」
人々は、色を作《な》して、掌中《しようちゆう》の珠でも傷つけられたかのような不安を漲《みなぎ》らした。
「もっと、詳しく話せ。それだけではよく分らぬ。落着いて語れ」
金王丸はたしなめた。一同のうけた衝撃が大きいので、徒《いたずら》に騒ぎ立ちそうな空気が見えたからである。
「はい、仔細はこうです」
箱田の冠者は、その鐘楼で牛若自身から聞いて来たという、ありのままなはなしを伝えて、
「それがしがお縄を解いて、ともかくこれへお供いたそうとすると、若君の仰せには、こよいは谷へ行かぬがよい。なぜならば、夜半《よなか》にも刻《とき》を計って、自らを縛《いまし》めた法師どもが、鐘楼を見まわりに来るにちがいない。その時、自分の姿が見えねば、六波羅の預かり人が、山落ちして行方を晦《くら》ましたるぞとばかり、一山の騒ぎとなり、ひいては谷間に集まる日頃の味方にまで、詮議が及ぼうも計りしれぬ。……わが身だに、一夜の辛抱をしていれば、明日《あ す》は縄目も解かれよう、生命《いのち》にかかわるほどの事はない。案じぬように、一同へそう申し伝えてよ。……とのお言葉なのでございます」
「おお、ではご一身の苦痛よりも、一党の発覚こそ、大事なるぞと、仰っしゃってか」
三郎正近も、金王も、感銘に打たれて、一瞬、眸をそこから鞍馬の峰の黒い影へ向けたまま凝然《ぎようぜん》としていた。
大勢の中で、すすり泣く声がした。天与の試煉に会った牛若の偶然に発した言葉が、欣しくもあり、傷ましくもあった。同時に自分等の丹精にも、ようやく苗から一本立ちにまで育てて来た効《かい》を見て、急に、胸迫って来たのだった。
「ぜひもない儀。では、またの機《き》を待つとして、若君のお身に、万一のないように、誰ぞ二、三」
「お気づかいに及びませぬ。われわれが、夜もすがらでも、陰身に添うて、お守りしておりますれば」
声を揃《そろ》えて四、五名がいう。
渋谷、長田《おさだ》などを先に各《めいめい》は会を解いて別れかけた。すると、唐突に、一人が呶鳴った。
「やっ。誰だッ。――誰かいたっ」
「何っ」
声の起った所へ、戻りかけた面々も足を回《かえ》して、真っ黒に寄りたかった。そこの岩陰へ、見つけた者が先へ躍って、猪《しし》でも手捕りにするように、一人の男を捉《つか》まえて組伏せていた。
「引出せ、引出せ」
辺りが狭いので、近寄れない者たちが云う。心得たと、襟がみを掴んだり、手頸《てくび》を取って、ずるずると渓流の水明りに近い辺まで、引き摺《ず》って出た。
「六波羅の諜者《ちようじや》だな」
一同は取り囲んで、そこにへた這ッている一個の男を、天狗のような眼を揃えて睨めつけた。
四
不覚。逃げ損じた。
吉次は心の奥で、しまったと思いながら、大地へ顔をすりつけ、出来るだけ身を縮めて、小身を装っていた。
そして飽くまで、
(自分の周りにいる者は、人間でなく、真実の天狗である)
と思おうと努めていた。
人間と思うと、持前の恐いもの知らずな性分が出ないとも限らないからである。奥州から京都《みやこ》を股にかけてみて、吉次は世の中で怖いという人間に出会ったことがないと人にも常に語っている。――けれど今、その面魂を見せたら即座に殺されることは分っていたから、
「わ、わたくしは……た、旅の者で……旅、旅馴れない山を過ぎ……道に、道に……ま、まよいましてございます。……はい、平常は正直にやっている人間でございまする」
掌《て》を合せて、拝むまねをした。天狗さま天狗さまを、呪文《じゆもん》のように繰返して唱えながら、一人一人の影を拝んで、恐れ顫《わなな》く振りをした。
金王丸や三郎正近の仲間はクスクス笑った。里のうわさが拡まって、旅人までが、自分たちを天狗と信じている容子が可笑《お か》しくもありまた、自分等の思うつぼでもあったからである。
「しっ……」
と、笑う者の袖をそっと引いて、人々はすぐ天狗になった。
「六波羅者ではないとな。然らば汝《きさま》は、どこより来た」
「奥州の……奥州の商人衆に抱えられて来た、荷駄の男でございます」
「それが何としてかかる御山《みやま》へは」
「貴船神社へ、ご寄進の事がござりまして、主人の供をして参りましたが、その主人に逸《はぐ》れまして」
「主人をさがし求めるとて、方角ちがいへ迷うたのか」
「はい……。へい」
吉次の誇張《こちよう》がいかにも滑稽に見えたので、もう怺《こら》えきれない天狗が吹き出してしまった。それをまた、繕《つくろ》う為に、ほかの天狗は、
「何と、虫のような、心細げな声を出す人間ではある」
と云って、いちどに声をそろえ、谺《こだま》するばかりどっと笑った。
「太郎坊、太郎坊。この人間、どうしてくれましょう」
ひとりの天狗が、体の巨きな天狗にいう。
大天狗は厳かに、
「取るに足らぬ男とは見えたり。この谷間を犯した罪はゆるし難いが、生命《いのち》だけは助けて、世間へ抛り返してやれ」
「どう抛り返しますか」
「よいように」
「心得申した」
「いや待った。その前に、裸にして、持物などもよう検《あらた》めた上で」
「そうだ!」
吉次はたちまち裸にされた。
運よく、怪しまれるような物は、何も持合せていなかった。しかし、誰の携《たずさ》えていた物か、真っ赤な古《ふる》法衣《ごろも》を頭から被《かぶ》せられて、その上からぐるぐる荒縄で縛られたのには、さすがの吉次もどうなる事かと胆を冷やした。
いよいよ生命《いのち》に関《かか》わりそうになった時は、素姓《すじよう》を打明け、知恩院の光厳とは知っていた間であることを訴えてみる気でいた。けれどその光厳は、世間に原因の知れない自殺をしているので、下手に云い出せば、云わないより悪い結果になるかも知れない。
――世間へ抛り返してやれ。
と、ご託宣《たくせん》の出たからには、痛い思いぐらいはあっても、生命《いのち》にはかかわるまい。――そう考えて吉次は眼を閉じていた。やがて自分の身は誰かに担がれ、疾風のごとく、谷川をとび沢を駈け、断崖をのぼり、雲間に漂わされているような心地だった。
翌る朝。――貴船神社の宮守《みやもり》や里の者は驚いた。鳥居《とりい》わきの喬木の梢に、緋《ひ》の古法衣につつまれた人間が荒縄で吊り下げられていたのを仰いだのだ。勿論、天狗の怒りにふれた人間として、禰宜《ねぎ》は神殿に駈けこんで御灯《みあか》しを捧げ、半刻のまつりをしてから大勢して樹からそれを下ろした。
山まつり
一
その年の秋。――奥州の吉次はもう国元へ帰っていた頃である。
鞍馬谷に異変が起った。近郷《きんごう》の者すら何もしらないまに、六波羅の兵が三、四百人も桟敷《さじき》ケ岳《たけ》や雲ケ畑から入りこんで、僧正ケ谷をつつんだのである。
天狗の鬨《とき》の声《こえ》と、人間の鬨の声とが、谺《こだま》して戦い合った。
その後、里の人々は、
(天狗の首がたくさん曝《さら》された――)
と、わざわざ遠い加茂の上流まで見に行った。そして帰って来ての話には、
(人間と似ている)
と、いうことだった。
この起因《おこり》は何者かが六波羅へ投文《なげぶみ》で密告したに依るとかで、鞍馬の僧院では、一時いろいろ物議ともなり、別当蓮忍《べつとうれんにん》の引責《いんせき》まで口にのぼったが、要は、
(牛若を早く出家させないからいけないのだ)
という所に帰着した。将来、彼の行状を一層きびしく監視して、外部との連絡を絶対に遮断するかたわら、折を見て、一日も早く牛若を剃髪《ていはつ》させてしまうに如《し》くはない。――そういうことに落着いて、深く六波羅へ謝意と謹慎の意を示し、どうやらそれは不問にすんだのであった。
すまないのは、牛若の得度剃髪《とくどていはつ》の挙式である。本人が熱望してさえ、得度授戒《じゆかい》には、年齢や修行の資格や、法門の厳則がある。時の政令よりも法門の規律のほうがむしろ重視されがちに自負をもっている僧徒たちの頭では、
(一日でも早いがいい)
とは思っても、実行にはいろいろな困難が伴った。
そこへもって来て、当の牛若に出家の心はなく、不勉強極まる行状だし、師の蓮忍は、
(まあええ。まあええわ)
という風に相かわらず寛大であるし、外部との交渉こそ、まったく断《た》って、別当の中院から一歩もひとりでは出さない事に以来やかましくはなっていたが、髪を剃《お》ろす問題は、延々《のびのび》になっていた。
が――それも長い事ではない。二年目の春であった。別当蓮忍は、彼をよんで告げた。
「遮那《しやな》よ、お許《こと》も、はや十六とはなったぞよ。ことしは髪を剃《おろ》さねばなるまい。出家は嫌いと云いおるそうじゃが、生れてより持って出た宿命、生い立ち、今の時勢など、もう弁《わきま》えがついたであろう。観念して仏門に入《い》り、弥陀《みだ》のお弟子となって、荒《すさ》びた心を捨てい。よいか」
「はい……」
「何を泣くか。十六ともなりながら」
「お……お師匠さま」
「どうした」
「わかりました。けれど、悲しゅうございます」
牛若は左の肱《ひじ》を曲げて、顔へ当てがいながら、泣きじゃくった。
「――出家すると、この黒髪にも、こんな美しい袂《たもと》の着物とも、別れなければなりませんか」
「分りきったことを。いつまでお許《こと》は稚子《ちご》でいる気か」
「おねがいです。鞍馬の山祭りまで待ってください。五月が過ぎたら出家いたします」
「なぜ、その前は、嫌というか」
「祭りの日には、たくさんな参詣人《さんけいにん》が、お山へ登って参ります。その時、人に見られるのが辛くてなりません。毎年のように、稚子輪髷《ちごわまげ》に結《ゆ》うて、もう一度、綺麗な着物を着て見とうございます。……今年っ限《き》りでかまいません。お名残りにです……お師匠さま。その日の過ぎるまでお待ちくださいまし」
果ては、よよと嗚咽《おえつ》していた。蓮忍はその体《てい》をふしぎそうに見ていたが――自分にもあった少年の日の感傷を顧《かえり》みて、
「では、屹度《きつと》だぞよ。五月を過ぎたら、否やは云わせぬぞよ」
と、念を押した。
二
梅雨《つ ゆ》があがって、山には病葉《わくらば》がしとどに落ちていた。
初蝉《はつぜみ》の声が静かだった。ふだんは詣《もうで》る人も極めて稀な貴船山《きぶねやま》の奥之社《おくのやしろ》に、今し方、誰か柏手《かしわで》を打って拝殿のあたりから去って行く気配と思うと、
「神主《かんぬし》さん」
ひとりの旅人が、社家の入口を覗いて、訪れていた。
「……お留守ですか。誰もいないんですか」
しばらくして、
「どなたかの」
昼寝でもしていたらしい老禰宜《ろうねぎ》が、ゆったりと出て来て、
「おう、奥州のお商人《あきゆうど》か」
「ごぶさたいたしました。今年もまた、上洛《の ぼ》って参りましたので」
「ようお越《こ》された。さあ、おあがり」
「ごめんなさいまし」
足を洗って、吉次は、一間《ひとま》に通されてくつろぐと、
「早速でございますが、荷になる手土産は、お山の事とて、持っても伺えませんので、ぶしつけながら、社殿のご修繕の費《つい》えの端にでも」
と、一封の金を、寄進にとさし出した。
禰宜は眼を細めて、
「これはどうも。昨年もおととしも、莫大なご寄進をいただいておるに」
「どういたしまして、自分に取って、このお社《やしろ》は、生命《いのち》の守りの神。――思い出してもぞっとしますが、おととし天狗に会いました時は、すんでに一命もなかったところを、お助けにあずかりましたので、こんな寄進ぐらいは、ご恩の万分の一にも足りはいたしません」
「まったく、あの時は、えらい目にお遭《あ》いじゃったな」
「半夜ぢかくも、二丈もある樹の空《くう》に吊《つ》るされていたなんて、まったく生れて初めてでございましたよ」
「誰だって、あのような覚えはあるものじゃない。……だがの、あの後ですぐ、六波羅衆が天狗狩をやって、麓《ふもと》の河原に、たくさんな打首を梟《か》けて、幾日も曝《さら》してあったが、その中には相貌《そうぼう》も変って、慥《しか》とも知れぬほどにはなっていたが、この辺の山に住む炭焼の男や、猟師などの、見たような顔もあった。誰ともなく、あれは天狗ではない、源家の義朝様の旧臣どもじゃなどと沙汰する者もあったがの……。某許《そこもと》が僧正ケ谷で出会ったというのは、いったい天狗か、残党か、何であったのじゃろな」
「どうしてどうして、人間ではございませんよ」
吉次は、大げさに打消して、
「第一、思うてもご覧《ろう》じませ、源家の残党なら、何でてまえ如き取るにも足らぬ人間をつかまえて、こちらの鳥居わきの大木へなど引っ吊るしましょう。……ああいう魔性《ましよう》な事をして欣《よろこ》ぶのは、天狗たちのよくやる事でございますよ」
「わしも、里の人々も、天狗の業《わざ》と、信じてはいるが」
「六波羅衆としますれば、真《まこと》の天狗は打ち取れなかったとありましては、時めく太政《だじよう》入道殿のご威勢にかかわりますから、山樵《やまがつ》や猟師などの、山男にひとしい土民の首を梟《か》けて天狗じゃと触れたものでございましょう」
「なるほどな。お許《もと》は、奥州《みちのく》人《びと》というが、案外な智者ではある。そのとおりにちがいあるまいて」
「時に……神主さま」
「なんじゃな」
「このたびは少々、お願いの儀がござりますが、おきき下さいましょうか」
「ほ。……わしへ頼みとは」
「京へ参る道中で大勢の仲間の者が、ちと面倒な争《いさか》い事を起しましてな、うるさくてかないません。半月ほど、ここに避けて、旁《かたがた》、ちと養生《ようじよう》していたいと存じますが、どこか空いている一間をお貸しくださいますか」
三
三年ごしの計画だった。いつも難しい大きな商法に運を賭けて、それに打克《うちか》って来た自分の商才を以てすれば、こんどの計画も、気は長いようだが、そう困難ではないと、彼は信じていた。
それも、念には念を入れてと、十分、後々の問題まで考慮して、おととし奥州平泉へ帰国して後、何かと商法上の用命をうけて、扶持人《ふちにん》同様に出入りしている藤原秀衡《ひでひら》の側臣を通じ、ひそかに、自分の計画をはなしてみたところ、
(至極、おもしろかろうとの御意じゃ。しかし、ご当家のさしがねと世上へ聞えてはよくない。――飽くまでそち一名の思い寄りとか、牛若自身が平家の手より遁《のが》れて、寄るべもなきまま、ご当家を力に頼って来たという体《てい》なれば――お館《やかた》におかれても、ずいぶん庇《かぼ》うて遣《つか》わそうとのお言葉である)
そういう藤原家としての意向であった。そこまでを、慥《たし》かめた上の仕事なのだ。
また、そこまで突っこんだ言質《げんち》を取るには、彼には彼の観《み》とおしがあったからでもある。
(――奥州藤原は、表面、自己の勢力範囲のうちで、平静を装っているが、決して、平氏一門の隆昌や、太政入道の独裁ぶりを、欣んではいない。むしろその拡大を惧《おそ》れている。と云って正面衝突も極力避けたい。ひそかに希《ねが》うところは、源家と平家の勢力が平衡《へいこう》してくれる事にある。中央で両者が相争っていてくれれば、奥州は内容を蓄《たくわ》え、平和を保ち、なお現状より西へのびてゆくことができる)
これは、藤原一門のみでなく、奥州の天地では、すこし物を考える階級ならば、常識にあることだった。で、吉次の計画は、極めて簡単な一投石で、その目的の波瀾《はらん》を、中央に捲起《まきおこ》すことができるものとして――平泉の館《やかた》から黙約を得ていたのだった。
「吉次どの。毎日、よう退屈なさらぬのう」
彼に、社家の一間を貸し与えてから、もう半月の余は経っていた。
蝉《せみ》の声を手枕に、吉次は一人ぼッち、横になっていたが、
「ああ、うたた寝をした」
と、伸びをして起き上がり、
「お察しの通り、そろそろ退屈いたしました。けれど、人間稀《たま》には、退屈という事をしてみるのも、悪くありませんな。お山へ泊っていて、考えてみますと、常日頃、てまえどものような商人《あきんど》は、余りに退屈を忘れすぎておりましたよ。寝ても醒めても、賭け事ばかり考えましてな」
「はははは。ここへ来ては、金があっても仕方がありませんからな」
「怖くなりました。ぼつぼつ山からお暇を申さなければ」
「怖いとは、何を思い出されたか」
「今仰っしゃったように、余りに金の事や、俗気《ぞくけ》から離れますと、菩提心《ぼだいしん》とやらに襲われまして、せっかく持前のあく気が、なくなり過ぎますんで。――それがなくなると、商人《あきんど》魂《だましい》が弱まりますよ」
「まあ、ごゆるりなさい。そのうちに、鞍馬の祭りもありますから」
「そうそう、あれは幾日でしたっけな」
「この月の二十日ですが」
「ではもう明後日《あさつて》で」
「一年に一度の人出で、近郷の衆はおろか、都からも、参詣人が夥《おびただ》しゅう見える」
「では、それを見物して、お暇するといたしましょう」
その前にも、彼は時折、ひとり出かけてはいた。先頃も龍王《りようおう》の滝を見て来ましたとか、蛍石まで行って参りましたとか、話していたが、禰宜《ねぎ》は、彼の言葉どおりに信じて、その行先を疑《うたが》ってみた事もなかった。
二十日となった。――その日は終日《ひねもす》、一間にいたが、祭の中日《なかび》という朝のこと、
「ことに依ると、鞍馬のまつりを見て、そのままお暇申すかも知れませんが」
と、挨拶して出て行った。
四
山の祭りで、無性《むしよう》にはしゃいでいるのは、鞍馬の稚子《ちご》たちであった。
天上の山が、下界同様、人出に埋まって、ここの深山も、世間と変わりない色に塗《ぬ》られたからである。牛若も、その中の一人だった。
「遮那《しやな》あっ、遮那っ」
大廊下を駈けるひどい足音に、法師のひとりが役僧の部屋から出て来て呶鳴りつけた。
「はいっ。何ですか」
暴れ廻っていた稚子は七、八人も一つ所にかたまって振向いた。稚子輪《ちごわ》に結った髪も、曙染《あけぼのぞめ》の袂《たもと》も、金糸《きんし》の繍《ぬい》も、紫濃《むらご》の袴《はかま》も、みんなお揃《そろ》いであったが、元より山家の生ればかりなので、その袂で汗は拭く鼻くそはこする、せっかく化粧して貰った白粉も、黛《まゆずみ》も、かえってお道化《どけ》たものになっていた。
「何ですかじゃあないっ。おまえ達は、阿闍梨《あじやり》さまのお次に大人しく控えていて、ご用を承らなければいけないじゃないか」
「阿闍梨さまのお部屋へ今、都のお客さまがお見えになって、わたし達がお次にいたら、うるさいからしばらく遠くへ行っておれと仰っしゃいました。それで、みんなして遊んでたんです」
「遮那。貴さまはもう十六ではないか、稚子の中の年がしらなのに、何だそのだらしのない恰好は。襟元を直さんか」
「はい」
「阿闍梨さまに、ご内談があって退っておれと云われたら、お次から遠く隔てた廊へでも出て、控えておればよいのだ。遮那など年上のくせに、心得ぬはずはない。――お山の祭りはおまえ達のためにあるのではないぞ」
「わかりました」
叱言《こごと》は、云う方も、云われるほうも、馴れ過ぎている。牛若は、稚子の仲間をふり向いて、
「あっちへ行こう」
指さして、どかどかと駈け去ろうとするとまた法師が後《うし》ろで、
「駈けたらいかんと云うのに分らんかっ。静かに歩け」
と怒った。
首をちぢめて、稚子達は、そろそろと廻廊を曲がって行った。
そこを曲がると、観音院と僧正坊の伽藍《がらん》が広庭を抱いていた。
観音院の縁さきには、太い青竹が幾束も積んである。やがてここで、一山の僧衆が法莚《ほうえん》を催《もよお》し、その後で、竹伐《たけきり》という行事をするその備えであった。
また、夕方からは、僧正坊の本堂に、里の俗をただ一人坐らせておいて、その人間を呪《いの》り殺し、また、呪《いの》り生かすという法力を公開して見せる。――それやこれやの時刻を待つ群衆と、後から後から登って来る参詣人とで、山はめずらしく人間のにおいに蒸《む》れ返っていた。
すると。
その人渦の中で、鳥の啼き真似をしたひょうきんな男があった。牛若はふと、廻廊の角に立ちどまって、その声をさがすような眼をしていた。
「……?」
鳥の啼き真似をした男は、いちど首をすくめたが、牛若の姿を遠く見ながら、こんどは人浪の上に片手を出した。
吉次の顔がそこに見えた。
牛若は、彼の顔を見つけると、
「――うん。後で」
と、いうふうに一つ頷いて見せた後、他の稚子たちを追って、さっと、おそろしい素迅《すばや》さで、駈け去ってしまった。
やがて、竹伐《たけきり》の行事も終り、白い夕星《ゆうずつ》に、昼間の熱鬧《ねつとう》もやや冷えてくると、山は無遍の闇の中に、真っ赤な大篝《おおかがり》の焔をたくさんに揚げはじめた。
五
毘沙門堂《びしやもんどう》の本堂に、俗の男がぽつねんと坐らせられていた。その男を、法力で生殺自在にしてみせるという荒法師が、念珠《ねんず》を揉んで、一心不乱に何やら呪《じゆ》を唱えているほか、その広い床はがらんとして、微《かす》かに燈明のまたたきが、朧《おぼろ》に二つの影にゆらいでいるだけだった。
けれど。
一歩外の廻廊から広庭にかけては、夜も蒸《む》れるばかり無数の人影が真っ黒につめ合っていた。しかも、ひっそりと、堂内の法力の試しを見物していた。一山の僧も稚子までも、固唾《かたず》をのんで、この宵は、すべてそこに集まりきっていた。
呪《いの》り殺し、呪り生かし――のこの行事、毎年やる事ではあったが、それでも毎年、法力の摩訶《まか》不思議に、群集は酔ったように眼をすえていた。
呪りにかかっている荒法師は、法衣《ころも》のたもとを背に結びあげ、念珠《ねんず》を押しもんで、今や天狗がのりうつッたように、読経《どきよう》の喉《のど》を嗄《か》らし、印を切って、何やら声荒《あら》らかに、呪り殺しをうける俗の男を叱咤していた。
すると。
――ぎゃッっ
生きた鷲《わし》の股でも裂いたような叫びがした。
その男ではない。
印を切った法師でもない。
異様な声のした方角は、正《まさ》にこの毘沙門堂の屋根か――いや、もっと離れた裏山の峰道かと思われる遠くであった。
「ア……?」
「……おや?」
せっかく、天狗がのりうつって来かけた法師も、法力に酔わされていた男も、眼が醒めたように、きょとんと、眸《ひとみ》をうごかした。
――と思うと、
だだだだッと、堂のすぐうしろ辺りで、峰道から人の足音が雪崩《な だ》れて来た。
何とは知らず、ただ、
「やっ?」
「なんだっ」
廻廊の僧衆が、総立ちとなると同時に、広庭いっぱいの群衆が、わっと揺れ返って躁《さわ》ぎ出した。
人間が最も敏に知る血臭《ちくさ》いものが、墨のように、何処とはなくサッと流れた。毘沙門堂《びしやもんどう》からすぐ上の峰道には、一つの柵がある。麓の沙汰人が、交代で山番に来ていた。祭中はわけても厳しくというので、六波羅の侍が幾十人か山へ来て、各所の柵で目を光らせていたはずだった。
その番人たちが、血まみれになって、逃げて来たのである。
そして、大声でこう喚《わめ》いた。
「稚子がひとり逃げたぞっ。――水干《すいかん》を被《かぶ》った稚子がっ」
稚子と聞くと、
「遮那《しやな》だ!」
一山の法師は、口をそろえて云った。常々考えていたところは誰も同じだったのである。けれど、十六にもなって、まだ駄々っ子そのままな、何の大人げもついて来ない牛若を眼に見ているので、
(いつかはこんな事が)
と予感しながらも、つい彼の腕白ぶりに、余り子供に見過ぎていた。
「それっ、捕まえろ」
騒ぎ立つと傷負《ておい》の番人たちはまた、
「ひとりではないぞ。腕ぶしの強い男がついている。油断召さるな」
と、駈けゆく法師たちの後ろから注意を送った。
もう、法力試しどころではなかった。
山は吠え、谷は呼ぶ。
松明《たいまつ》の火が、ここかしこの闇を走った。
「……とうとう去ったか」
ひとり。
牛若の師、阿闍梨蓮忍《あじやりれんにん》だけは、もう誰もいない堂の中に坐って、そう呟いていた。
去った者の未来を幸《さち》あれと祈っているのか、また、捕まって帰って来ることを祷《いの》っているのか、白い眉は、ただ重げに垂れているだけだった。
神隠し
一
歩くという常識では、歩かれた所ではない。ただ遮二無二《しやにむに》であった。
断崖、渓流、闇黒と叢林《そうりん》の天地を峰づたいに、生命《いのち》がけで逃げて来た。
「牛若さま。ここで一息つきましょう。貴船山《きぶねやま》です。あれに見えるのが貴船の奥之院《おくのやしろ》。……ははあ、奴らは麓を走ってゆく」
吉次は、うす笑いをもらした。
松明《たいまつ》の焔が幾つも尾を曳いて、そこから見える闇の底を馳《は》せて行った。
「…………」
牛若は、われに返ると、その辺りを見廻してばかりいた。恐怖している眼ではない。檻《おり》を出た歓びのうろたえであった。
「小父さん」
「おうい。――こっちへおいでなさい。この拝殿の階《きざはし》で、一休みしましょう」
「吉次……。はやくお目にかかりたい。ほんとに、お母様に会わせてくれるだろうね」
「きっと、吉次が、お会わせいたします」
「それから奥州へ行こう。――おまえのいう通り、藤原秀衡《ひでひら》とやらを頼って」
「都を脱《ぬ》けて、武蔵国あたりまで行けば、もう安心ですが、そこまでがひと骨です。慌《あわ》てちゃいけません。吉次は大人ですからね、任してお置きなさい」
「……うん」
「あ。素足でしたっけね。血が……。牛若さま、お痛くはありませんか」
「痛くなどない。はやく行こう都まで」
「お待ちなさいよ」
吉次は、そこらに落ちている竹竿を取って、堂の床下から何か掻き出した。
苞《つと》にくるんだ土民の衣裳やら草鞋《わらじ》などであった。牛若の衣裳はすべて脱がせ、代りにそれを着せて、汚《むさ》いぼろ布《きれ》で顔をつつんだ。背には背荷《せお》い梯子《ばしご》とよぶ物を負《しよ》わせて、短い山刀を腰にさして与えた。
「これでいい」
彼は堂の棟木《むなぎ》に掲《あ》げてある古弓を外《はず》して、小脇に持った。すべてが前から手順がついているように運ばれてゆく。
もっとも彼とすれば、ここまで来るには二年越しの仕事だというだろう。牛若へ近づくにも、去年今年と何度、鞍馬詣《くらままい》りを繰返したかわからない。
また、その牛若を、得心させるまでにも、何度、説いた事かも知れないのだ。
いくら牛若が、人を疑わない性質でも、見ず知らずの吉次のいう事を、そう易々《やすやす》と信じるわけもないが、おととし鞍馬谷へ六波羅の兵が入って、附近に住む怪しげな者を一掃し尽してから、牛若はまったく孤独になっていた。
誰に語るよしもない――その孤独感と絶望の底に沈んでいたところへ、吉次が人目を忍んでは、囁《ささや》きに来たのである。――少年の気もちは当然、夢に富む方向へうごかされた。
それに、「東国」ということばは、幼少から心に刻みこまれている。そこにはまだ源氏の輩《ともがら》が多くいるという。また、富士山があって、駿馬《しゆんめ》が多く産まれて、野は際涯《さいがい》もなく広いという。
(――今に東国へお迎え申しあげますぞ)
とは、鞍馬谷の人々からも、明け暮れ聞いていた声である。
日出《ひいず》る東国!
牛若は日の出るたびに、あこがれていた。――月の落ちる頃には都の母のことを、きっと思い出すように。
わざと遠くを廻って、西加茂の大悲山《だいひざん》、満樹峠《まんじゆとうげ》をこえ、応ケ峰へ出て、やがて夜も白みかける頃、吉次と牛若は、京都の北から町へまぎれ入った。
「おい、起きろ、起きないか」
まだ朝霧も暗い六条坊門の白拍子《しらびようし》の翠蛾《すいが》の家の前に立って、吉次は、門をたたいていた。
二
この家には、吉次の部屋といってもよい程、彼が見える時だけ使われる一棟があった。
中庭の渡り縁から通うのである。母屋に面したほうは壁囲いになっているので、寝ころんでいようと、飲んでいようと、誰にも顔を見られる惧《おそ》れもない。
「ここは、てまえの親類の家ですから、安心なもんです」
と、吉次は云った。
牛若を連れて、きのうの朝、そこへ隠れ込んだきり、吉次は母屋《おもや》へも行かなかった。
牛若は、ぽつねんと、坐ったきりであった。
山は涼しかった。京の町中の暑さはひどい。しかし彼は膝もくずさなかった。
「お暑いでしょう。楽にしておいでなさいまし。寝ころんだり、脚を投げ出したり、ご自由に遊ばして――」
そう傍らからすすめても、
「うん。……うん」
頷《うなず》くだけで、牛若は口数さえ余りきかないのである。
大人しい。行儀がよい。山にいた牛若とは人間が変ったようにさえ思われた。
けれど、牛若の身になって考えてみると、また無理もない。――こういう世間の音の中に身を置くのは、生れて初めてであろうし、吉次という人間にもまだまだ多分に警戒を抱いているであろう。それに、母屋のほうではのべつ華《はな》やかな女たちの笑い声や返辞が聞えたりする。
今いる場所も、これからの行末も、不安と考えたら堪《たま》らない不安に襲われるに違いなかった。
「吉次」
「はい」
「いつ母上と会うのだい」
「お待ちください。今その工夫をしているところですから」
「はやくお目にかかりたい」
「お察ししております」
「それから、一日も早く、奥州へ下って行こう。こんな所にいても、むだな日を過すようなものだろ」
「いえ」
吉次は強く否定した。
「決してむだな日は費《つい》やしておりません。まだまだ数日は、六波羅の詮索《せんさく》が厳しいことでしょう。躍起となって、あなた様を探している最中と思われます」
「そうかい」
「そうかいって――他人《ひ と》事《ごと》みたいに仰っしゃって、吉次の耳や眼は、この壁の中にいても、ちゃんと、それが聞えます。眼に見える程、分っています。……ですから、もう少しご辛抱なすって下さい。ご窮屈でしょうが」
「うん」
聞き分けはいい。
そう吉次は感心したが、十日も経つと、山の子はまた、山の子に返って、そろそろ爪を生《は》やして来た。
ふと、昼寝から醒めて、
「牛若さま。何をしておいでになりますか」
隣の間をのぞくと、姿が見えないので、驚いて、翠蛾《すいが》と潮音の姉妹《きようだい》をよんで訊くと、
「いませんか?」
と、これも知らない顔つきである。
「さア事だ」
物に動じない吉次も胆《きも》を冷やしたらしい。血眼《ちまなこ》で探しに出て行った。――すると灯ともし頃、牛若は、何処からか一人帰って来て、
「小父さんは?」
と、吉次がいないのを、かえって不審顔して、翠蛾と潮音に訊ねた。
姉妹《きようだい》はあきれて、
「まあ、何ていう子だろう。――吉次さんも物好きな子を買ってゆく」
と、呟いた。
姉妹《ふたり》はまだ吉次からほんとの話しは打明けられていなかった。その頃は盛んに都の女や童《わらべ》が、奥州へ買われていったので、吉次がどこからか買って来た奴僕《ぬぼく》と思っているふうだった。
三
吉次も程なく帰って来たが、先に戻ってけろりとしている牛若のすがたを見て、
「なんの事だ」
と、探し疲れた呻《うめ》きの中から、ほっとした顔色やら腹立たしさを一緒に洩らした。
「あれほど、固くお断りしておいたのに、黙って何処へ一体おいでになったんですか」
なかば、咎《とが》めるように訊くと、
「だって吉次、そんなにいつまで坐っていたら、脚も心も腐ってしまう。町を見物に行って来ただけだよ」
と、平気で云う。
「いや、それだけじゃないでしょう、何か、お望みがあって出かけたのでしょう」
吉次が、かまをかけると、そこはまだ少年らしかった。
「ほんとはね吉次、母上のおいでになるお館は、堀川のあたりと聞いていたから、そっと行ってみた」
「えっ……一条様のお館をさがして」
「人に訊いたらすぐ知れた。――けれど訪ねて行きはしない。遠くから……堀川の柳の木越しに、築土《ついじ》だの、屋根だのを見て帰っただけだよ」
「……ふうむ」
「この牛若が、お訪ねして行ったら、母上のお身がお困りになることは、わしだってよく知っているから」
「……そうですか。……いや、それならまアよかったけれど」
それさえいけないとは、吉次にも云いきれなかった。しかし、話を聞いているだけでも、吉次は胆が縮まった。
「牛若さま。ではもうそれで、母御様とお会いなされたような気がしたでしょう。もうお気持はすんだでしょ」
「なぜ」
「でもお住居《すまい》を見れば」
「すむものか!」
唇《くち》をかんで、きっと、吉次を睨んだのである。――吉次はびくとした。
少年の眼とも思われない。燃える火の如きものがあった。しかも、そのひとみの炎は、いっぱいな涙にうるんでいたのだった。
「……だがね、吉次」
牛若は、ほろほろと、次には俯向《うつむ》いて、膝へ涙をこぼしていた。
「わしはあきらめて来たよ。おまえを苦しませても悪い。おまえはわしを山から誘い出すために、つい嘘を云ってしまったのだろう――どう考えても、今の場合では、わしと母上とはお目にかかれるわけもない。……また、それが母上のご不幸になることは知れきっている」
「そ、それまで、牛若さまには、お考えになっておられましたか」
「あたりまえだ」
涙を拭いて、
「自分の事より、この先の事より、いちばん考えるのは母上が、どうしたらお倖せになって行かれるかという事じゃないか。子として当りまえな考えじゃないか。……お会いしたい事も無性《むしよう》にお会いしたいけれど」
「恐れ入りました」
吉次は、思わず両手をついて、額を莚《むしろ》へすりつけた。心からこんな頭《ず》のひくい辞儀をしたのは、今が初めてだった。
彼は何か自分の荷物が、急に重たくなり出した心地だった。――折もわるくその時、部屋の戸口へ、妹の潮音が来ていた。佇《たたず》んでその態《てい》を見ていたらしいので、彼女へも事情を告げなければ、怪訝《いぶかし》がられる惧《おそ》れがあった。
「潮音、ちょっと坐ってくれ」
吉次はそこで、あらましの事情を彼女へ打明けた。
四
潮音はそう驚いたふうもなかった。打明けられない前に、牛若とは察していたというのでもない。要するに、男の考えているほど、問題を重大とは思わないのであるらしい。世情に至って無関心なのだ。彼女も、上流人の宴楽に侍《はべ》る白拍子という妓《おんな》のひとりでしかなかったのである。
「分ったか、潮音」
「ええ」
「他言するなよ」
「はい」
「もし牛若さまを此家《こ こ》へお匿《かくま》いしたと知れたら、おまえたち姉妹《きようだい》も同罪だからな」
「誰にも、告げはしません」
「姉にもよう云うておけ」
「すぐ話して来ましょうか」
「待て」
吉次は、声を抑えて、
「おれは今夜立つとする」
「え。今夜のうちに」
「町の気はいも観てきたが、だいぶ余燼《ほとぼり》は冷《さ》めたらしい。六波羅の侍自身が、牛若の失踪は、神隠しだと云っているそうだ。どこまでも天狗が、頭から脱けないらしい」
「わたし達もよく耳にしました」
「どこで」
「諸処のお館で」
「牛若さまのうわさをか」
「ええ。あれが世にいう神隠しというものじゃろうと、平家の大将方も、お公卿方も」
「わずか十六歳の牛若さま一人を、六波羅の威勢をもっても捕まらないとなると、これは估券《こけん》にかかわるからな。――それに鞍馬の僧院でも、当面の役人たちでも、神隠しという事にしてしまえば、誰にも責任は来ないわけだし、すべてに、その方が無難でもあるからな」
「あなたは、とんだ悪戯《いたずら》な神さまですね」
「おれかい。――いやおれはお使い役の木っ葉天狗さ。ご本尊は奥州の平泉《ひらいずみ》にいらっしゃる」
女に心をゆるし過ぎてよかった例《ためし》はない。吉次は、自分の口軽い調子を自分で戒《いまし》めながら急に改まって、
「さっそくだが、おまえの衣裳を一揃《ひとそろ》え貸してくれ」
「何になさるんですか」
「牛若さまにお着せするのだ。――誰が見ても、女にしか見えないように、翠蛾《すいが》とふたりして、牛若さまを化粧してうまく装ってくれないか。そのまえにおれはおれの身支度に取りかかるから」
「今、姉さんを呼んで来ます」
やがて、翠蛾も来る。
翠蛾は、妹の檀那《だんな》が、金にはきれいだが、何となく危険な人物ということは、年上だけに日頃から感じている。その吉次が立ってくれることは、来年の初夏まで、ほっと出来る事だった。
「まあ、今夜お立ちですって。――お名残り惜しい」
それから翠蛾は、自分たちの衣裳を寄せて、あれこれと牛若に装ってみた。また、牛若の髪を解いて女結びに直したり、白粉《おしろい》をつけたりした。
「お綺麗な……」
姉妹《きようだい》は、自分で作った人形に見恍《みと》れる人形師のように、牛若をながめた。
牛若は、黙って、身をまかせたきりだった。若い殊に艶《あで》やかな白拍子の姉妹《きようだい》に、自由に弄《もてあそ》ばれている間、彼の血は、生れて初めて知る大きな動悸《どうき》に音を立てていた。女のにおいというものが、余りに強すぎて、横を向きたいほど、顔も火照《ほて》り、胸ぐるしくもなった。
「もういいよ、いいよ」
しまいには堪《た》えかねて、姉妹《きようだい》の手をふり払い、後はひとりで支度した。
吉次の仲間がいつも泊る家へ、馬を一頭取りにやったり、腹ごしらえや弁当など作らせている間に、夜立ちのつもりが、いつか夜明けの早立ちぐらいな時刻になっていた。
五
まだ町は暗く、霧が深かった。
吉次は、馬の口輪を取り、女装した牛若は、笠や荷物を鞍につけて、馬の背につかまっていた。
振り仰いで、吉次は、
「女らしく、怖々《こわごわ》と、そう、そういう風に、乗っておいでなさい」
と、注意した。
「だいじょうぶだよ、わしは、馬に乗るのは初めてだから、怖そうにしないでも怖いよ」
牛若は云う。
だが吉次は、ゆうべからもうこの少年の少年らしい言葉には、めったに油断をしないことに肚を決めている。――怖いというのはこっちのことと云いたかった。
辻を曲がりしなに、出て来た家の方を振向くと、翠蛾と潮音の姉妹《きようだい》が門に立って見送っていた。まだ夜も明けず、人目もないからいいようなものの、どこで見ている者がないとも限らない――吉次はあわてて、手を振った。
――引っ込め。引っ込め。
というふうに。
あわてて、姉妹《きようだい》の影は、家の中へかくれた。それを牛若は、名残り惜しそうに見ていた。自分の顔についている白粉やら衣裳にしみている止木《とめぎ》の香りが、何だか、いつまでも姉妹《きようだい》の白い手に触れているような心地を揺らがせてならなかった。
「女ですよ、あなたは。――道中は牛若さまとは呼びませんよ」
吉次は何度も注意した。
「うん、うん」
三条へ出る。蹴上《けあげ》へかかる。
陽が出た。
京の町から朝霧が白々と離れてゆく。
「吉次、待ってくれ」
牛若は、坂の上で、馬を止めた。そして、いつまでもいつまでも、都の町屋根を、じいっと見つめているのだった。
「…………」
吉次も黙って、その顔を下から仰いでいた。べつだん泣いていない。また、去りがてに恋々としている眼でもない。
むしろ、それは、何ものかを睨みつけているようだった。――吉次は、牛若の意中をいろいろに酌《く》んでみたが、十六の子どもだという観念がどうしても先になる。なあに、大人の考えるほど複雑でもあるまい。ついそう片づけてしまうのだった。
宿場帳場も幸いに難なく旅は捗《はかど》った。美濃路をこえ、尾張の野へかかる頃から、女装の君は、駄々をこね始めた。
「吉次吉次」
「なんですか」
吉次は、道を見まわした。優しげに女を装っているかと思うと、出しぬけに、大人も及ばぬ叱咤《しつた》を発しるので、そのたびに恟《ぎよ》っとさせられた。
「暑いっ。――こんな着物はもう嫌だ。塗笠《ぬりがさ》もうるさい。……ねえ吉次、脱いでもいいだろう」
「脱いで何をお召になりますか」
「そこらの宿場で、何なと、裾の短いすずしげな肌着一重《ひとえ》調《ととの》えてたも。それでいい。百姓の子の着るのでもいい」
「そいつあいけません」
「なぜさ!」
「女が……」
「わしは男だ」
「あっ、彼方《あつち》から旅人が来ましたぞ。変に思われると、すぐ密告されまする」
「かまわない」
「かまわない事はありません」
「関《かま》わないッたら! そちはわしの云う事をきかないのかっ」
自分の頭から塗笠を〓《むし》り取ると、牛若は、吉次の顔へたたきつけた。
「あっ!」
彼の呆《あき》れ顔を捨てて、牛若はふいに馬の首をぐっと延ばした。馬は疾風を衝《つ》いて駈け出した。――驚きあわてて、後ろから追いかける吉次を嗤《わら》いながら、牛若の姿はたちまち遠く距ててしまった。
初《うい》 冠《こうぶり》
一
先は、馬の迅さだ。
吉次は息が切れてしまった。へとへとになったがなお駈けた。果ては、肺も心臓も口から吐き出しそうな息をした。
「うっ……もうだめだ」
苦しい。眼に汗が沁《し》みる。
愚を悟《さと》ったか、胸をたたいて、道ばたへ坐ってしまった。
後ろに森の宮がある。青葉の日蔭に、蝉《せみ》しぐれの声が涼しげであった。するとそこの小さい御堂《みどう》の縁から、
「吉次。どうした」
と、牛若が呼びかけた。
駒を繋《つな》いで、彼はそこに腰かけていた。見れば、女装の袂や紐は解きすてて、馬の背から荷物を下ろし、自分ひとりで身軽に扮装《いでたち》を着更《きか》えてしまった。そしてにこにこ笑っているのである。
吉次は、この時ほど、腹の立ったことはない。小面《こづら》の憎い童《わつぱ》めと、何か仕返しでもしてやりたいくらいに思ったが、そう苦り切っている間にすぐ、
「吉次。わしの脱いだ女の着ものは、持ってゆくのか。捨ててゆくのか」
「そんな物は……」
忌々《いまいま》しさを、唇《くち》に噛んで、吉次がつぶやくと、
「だって、これは潮音の着物だろ。潮音はそちの……」
と揶揄《やゆ》するような笑靨《えくぼ》をつくる。
吉次はまた、肚のうちで呟いた。――あんな事を云やがる。何も知らない蜂の子と思っていたら大間違い、どうして、飛んでもなく、早熟《ま せ》ている!
「吉次、吉次」
「なんですか」
「不用ならば、その衣服は、この御堂の床下の奥へ、まろめて突っこんでおくがよい」
「へい」
つい返辞はしてしまうが、吉次は業腹《ごうはら》でならなかった。いつの間にやら奉公人のようにこの餓鬼《がき》は人を顎《あご》で使う。
餌をやったり乳を与えたりしているうちに、豹《ひよう》の子にだんだん爪が生えて来たような形である。鞍馬という檻《おり》の中や都という柵の内とちがって、ここはもう野放しの天地だから始末が悪い――と彼は飼《か》い難《にく》く思うのだった。
「ああ、やっと少し汗がおさまった。牛若さま、ひどい目に会わせましたな」
「はははは」
「笑い事じゃありませんぜ。恩人の吉次をそんなに困らせると、行末のご武運にも障《さわ》りますよ」
「怒ったのかい、吉次」
「誰だって怒りますとも」
「わしはね、そんな悪い気持でしたのじゃない。ちょっと、神隠しの真似してみたんだよ」
「…………」
吉次は呆れて、そう云う彼の顔を見ていた。京を立つ朝、馬には乗った事もないから恐いなどと云っていた事を考え合せると、愈《いよいよ》もって、この豹の子は油断がならない。下手をしたら手を噛まれるぞと、警戒を抱きはじめた。
「この宮の裏に、井戸がある。何か、器《うつわ》をさがして、水を一杯汲んで来て飲ませてくれい」
渋々、吉次が、竹筒に水を汲んで来ると、牛若はそれを飲み乾してから、
「吉次、そちは、わしへ水を持って来る前に、自分が先に、飲んで来たな。卑《いや》しいやつだ」
と、叱った。
そしてまた、吉次に二の句を云わせず、次の用をいいつけた。
「馬にも水を飼ってやれよ。暑いのは人間ばかりではない」
もういちいち腹立てている遑《いとま》もない。吉次が黙々と、馬を井戸へ引いてゆくと、後から牛若がついて来て、
「どこかこの地方に、源氏に縁故のある御社《みやしろ》はあるまいか。――そちは毎年通っている道中だから知っているだろう」
と、訊ねた。
二
だしぬけな質問なので、吉次はまたまごついた。
だが、大人の不用意へ、唐突に質問を出すのは子どもの持前というもので、何もふかい根拠があるのではない。吉次は、そう多寡《たか》をくくった顔で、
「さあ? 存じませんね。源氏に由縁《ゆかり》のあるお社《やしろ》も、何処かしらに、尋ねればあるにはあるでしょうが」
と、空うそぶいた。
すると牛若は、
「そちは知らぬのか」
と、かえって今度は、教えるような口吻《くちぶり》で云い出した。
「異母兄《あ に》頼朝の母君は、名古屋のほとりとかいう、熱田の宮の大宮司《だいぐうじ》、藤原季範《すえのり》が女《むすめ》にお在《わ》したとか聞いておる。――さすれば亡父《ち ち》義朝とも、源家の一族とも、ご縁は浅からぬお宮ではないか」
「誰に聞きましたか。そんな事まで」
「僧正ケ谷の天狗どもに習うた」
「ヘエ。天狗は何でも教えたんですなあ」
むしろ呆《あき》れて投げやりに云うのを、牛若は、真面目にうなずいて、
「まだ見ぬ異母兄《あ に》じゃが、そこの旗屋町とかには、異母兄頼朝が産湯《うぶゆ》の井《いど》もあるとのこと。異母兄は熱田で生れたとみゆる。――わしも由縁《ゆかり》の深いそこへ行って、男になろうと思うのじゃ。吉次、これより熱田路へ参ろうよ」
「え。男になろうとは」
「元服するのじゃ。――十六、あやうく髪を剃《お》ろされるところであったが、その髪を男立ちに揚げ、初冠《ういこうぶり》ないただこうと思う」
「いや。それは」
と、吉次はあわてて、
「もすこし、時を待って遊ばしませ。これよりあなた様が頼って行く先のお方は、富強ご威勢、平相国《へいしようこく》にも劣らぬといってもよい奥州平泉の藤原秀衡《ひでひら》様です。――その秀衡様を、烏帽子《えぼし》親と頼み参らせて、元服なされたがようござりましょう」
「…………」
「お嫌ですか」
「…………」
「元服の事ばかりでなく、何もかも、秀衡様へ縋《すが》るのが一番です。秀衡様のご庇護《ひご》に依らねば、生きても行かれません。杖とも柱ともお縋りいたしまする。――という風に、あわれを見せかけると、人間というものは、ついほだされるものですからね」
「いやだ」
少し気色も直して調子づいて来た吉次のことばを、牛若はまた、膠《にべ》もなくヘシ折って、
「秀衡を、烏帽子親にして、人となったら、後にわしが源家の一族の上に立っても、秀衡には頭が上がらないだろ。わしにつれて異母兄《あ に》頼朝も迷惑なさろうし、源氏の侍たちの弱みにもなる。――だから嫌だ」
「そんな事はありません」
「あるよ」
と、肯《き》かないのである。そして牛若は、なおも云った。
「それとまた、秀衡だって、どんな人物か、善悪も知れない人じゃないか。身は寄せても、烏帽子親など、頼まいでもいい。――わしの元服奉行《ぶぎよう》は、熱田の宮の神主さんと決めた。そちが来ないならわし一人で行く」
牛若は、馬の背へ移ると、またも彼にかまわず、道を急ぎ出すのだった。
吉次はもう、謝った――と呶鳴りたくなった。後を追い追い、彼の機嫌をとるほかなかった。
宿場で、吉次も馬を雇い、日を重ねて熱田へ入った。――そこへ着くと、すぐ牛若は宮の森へ駒をつないで、真っ直ぐに、夏木立の神さびた奥へ進んで行った。
三
牛若は拝殿の下に立って、掌《て》を打鳴らした。いつまでも、合せた掌《て》を胸にあてて祈念していた。
吉次もうしろで、ぽんぽんと柏手《かしわで》を打った。音はいいが拝む真似事に過ぎない。胸に風を入れて、
「こいつは涼しい」
と、つぶやいた。
「吉次」
「はい」
「社家はどこであろ?」
「さあ、どこでしょう」
「元服いたすには、禰宜《ねぎ》どのに頼まねばならぬが、社家へ申し入れて来い」
「へ。――何とですか」
「名もなき東国の地侍が小せがれでございますが、神前において、加冠お式をしてたもれと」
「変に思いましょうが」
「なぜ」
「旅の者が、親どもも付き添わず、元服してくれなどと申し入れたら」
「かまわぬ。孤児《みなしご》といえばよい。――それはまた、ほんとの事だから」
「では、てまえが叔父という事にして、頼んでみましょう」
「そのような云い構えは要らぬことだ。家来といえばよい」
吉次はまた、憤《む》かッ腹《ぱら》らしい。社家はどこやらと、知らぬような事を云ったくせに、すたすた大股に彼方へ歩いてゆく。
それきり返辞もしに来ない。しかし牛若は平気である。いてもいないでもいい人間のように、むしろ拝殿の廻廊に、神主のすがたが見えるのを待ち仰いでいた。
やがて、若い神主が、廊の上にひざまずいて、
「神前で元服して欲しいといわれたのは、お前様か」
と訊ねた。
牛若が、そうですと答えると、生国《しようごく》はどこ、父の名は何、また何のために、この社で加冠したいかなどといろいろ訊く。
「父は東国の武士、わけがあって、名は申せません。孤児《みなしご》にひとしい者ゆえ、神垣《かみがき》にて元服する分には、仔細あるまじと思い寄って参りました。――なおこの熱田の宮の神さまは、日本《やまと》武尊《たけるのみこと》をお祀りしたものとも聞いていますので、日頃より崇《うやま》い尊ぶ御神の御前にて、初冠《ういこうぶり》ないたすこと、男冥加《おとこみようが》ぞとも思ったりして参りました」
「では、しばらく」
若い神主は、自分の一存ではゆかないらしく、そう云いおいて、奥へかくれた。
ややあってまた、そこに現れ、
「お上がりあれ」
と、拝殿の床に、青い藺筵《いむしろ》を敷きのべ、牛若を坐らせた。
御神灯《みあかし》をともし、神酒《み き》を奉りもう一人の神官と二人して、のりとをあげた。そして牛若の頭上に烏帽子《えぼし》を与えた。その紐も、神官がむすんでくれた。
榊枝《さかきえ》で、牛若の体をはらった。颯々《さつさつ》と、白い注連《し め》と緑の風にはらわれて、牛若は何かしら体がぞくとした。
奥ふかい御鏡の影を、きっと見つめて、
「われを男となし給ううえは、われに御神のこころと力の影なりともうつし給え」
と心に祷《いの》った。
「ありがとう存じました」
土器《かわらけ》の神酒《み き》をいただいて三方へ返し、いんぎんに礼を云って立ちかけようとした折、ここの大宮司らしい老人は、ひとりに衣服をのせた三方を持たせ、自身は太刀を載《の》せた三方をささげて、静かに、彼方の渡り廊からこれへ向って歩いて来た。
四
階《きざはし》を降りかけた牛若を呼びとめて、老宮司《ろうぐうじ》は、太刀と一かさねの衣服とを、
「冠者となられたお祝に参らせる」
と、彼の前へ置いた。
牛若は、両手をつかえて、
「あなたは?」
と、その人の面《おもて》を、穴のあくほど、じっと見た。
老宮司も、牛若の姿を、飽かずながめていた。
何時《い つ》いいつけたものか、他の若い神官たちは皆去っていた。ふたりの前には、榊葉と神灯《みあかし》と神殿の奥の御鏡しかなかった。
「わしは大宮司藤原季範《すえのり》。……おん身には何のお覚えもあるまい」
やがて、声をひくめて、季範が云うと、牛若は、わずかに顔を横に振って、
「い、いいえ」
「……あるか。何ぞわしについて聞き覚えでも」
「よそながら存じあげております。あなたと私とは、あかの他人ではございません」
「む、む……」
季範は、ほろりとしかけた。
「弁《わきま》えておいでたか」
「知らないでどうしましょう。あなた様は、わたくしの亡父《ち ち》にはお舅御《しゆうとご》に当られるお方でしょう。異母兄《あ に》頼朝の母御には、父にあたるお人でしょう」
「おお――遮那《しやな》どの。おん身が鞍馬から姿を晦《くら》ましたと聞いて以来、よそながら案じておったぞ」
「どうしてお分りになりました」
「社家へ見えた供の男の口うらが不審《いぶか》しいので、そっと物陰からお汝《こと》の容子を見たところ、似ておいでるのに驚かされた」
「似ているとは、誰にですか」
「頭殿《こうのとの》に――お身の父義朝どのにな」
「あっ……。そ、そうですか」
牛若は、拳《こぶし》で眼をこすった。藺筵《いむしろ》にぽろぽろ涙が落ちた。
「無念か」
「いいえ。もう、もうこの頃では……それよりか、父に似た子と云われたのが、何だか、欣《うれ》しくて」
「これより何処《いずこ》へ身を寄せられるお考えじゃな」
「奥州の藤原秀衡どのを頼って下る途中でござります」
「そこまで行き着けば、後日の策も立とう。しかし途中は心に心をつけて」
「はい。……ではこの賜物《たまもの》、戴いて参ります」
「召してゆくがよい。そう人目立つほどの衣裳ではない」
旅の小冠者にはふさわしい派手派手しくない狩衣《かりぎぬ》だった。牛若は押しいただいて着更《きか》え、太刀をも腰につけた。
「む。よい若者振り。亡き頭殿にも見せたいのう。――が、加冠はしたが、名は何と称《よ》ばるるか」
「そう。元服すれば、名も改めるのが慣《なら》いでした。――源氏の遠い先祖は、六孫王経基《つねもと》と聞いております。――それから義家、為義、義朝と、いう風に、よく源氏の代々のお方には、義の字が用いられていますから、わたくしは、義――経。――義経《よしつね》と名乗ろうと思います」
「して呼び名は」
「義朝の八男ですから、八郎と称ぶところですが、叔父に鎮西八郎為朝があります。その武名を紛《まぎ》らわしては済まない気がしますから――九郎、義経と」
「九郎義経か」
「はい」
「よいお名じゃ。吉《よ》い日でもおざった。では、この辺りは平家の衆も多い事、東国までは、すこしも早く急がるるがよい」
「ありがとうございました。――では」
拝殿を降りると、義経は、吉次吉次と、呼びたててその姿をさがした。
「これにいますよ」
吉次は、拝殿のすぐ下に、膝をかかえて、土台柱の根に倚《よ》りかかっていた。抜け目はない。上の話は、もうその耳に残らず入れている顔つきだった。
五
旅は日をかさねて。
真夏の大空に、しかも眉に迫るほど近く、富士の嶺が、頂きからその裾野の線を、大地へ消えこむまで、くっきりと見せていた。
ここは足柄越《あしがらご》えの山道だった。
「吉次。休もう」
九郎冠者は、道のべの岩に腰をおろした。頂きに近いので、歩みを止めさえすれば、風は冷たく、全身の汗も、すぐ乾いた。
「九郎様。あなたは存外、何でもお心得ですから、おおかたご存知の事でしょうが、北は碓氷《うすい》を境に、南は足柄山を境として、これから東が、坂東《ばんどう》と申します。いわゆる、東八箇国《とうはつかこく》に入ります」
「ウム。ウム」
九郎は、何度も頷《うなず》いて、
「とうとう来たな。――吉次、そちにも骨折りであった。忘れはおかぬ」
と、いつになく頭《かしら》を下げて礼を云った。
今日までの間にない事だった。吉次は、かえってあわて気味に、
「ど、どう致しまして。そう仰っしゃられては、こっちの不行届きは、どうお詫びしていいか分りません」
「いや、礼は礼としていう、恩は恩として長く忘れまい。――けれど吉次」
「はい」
「そちは二度ばかり、人手をかりて、この源九郎を懲《こ》らそうとしたな。わしが余りそちの自由にならないし、そちも腹が立ってならないが、自分の手でするわけにゆかないので、宿場の賊の熊坂とかいう男をたのみ、わしの寝ごみを襲わせたり、また、山賊などを唆《そそのか》せて、わしを脅してみたりした」
「あっ、もし……九郎様。もう仰っしゃって下さいますな。吉次は、慚愧《ざんき》いたしております。……熊坂長範《くまさかちようはん》などをけしかけたのはまったくてまえの悪戯《いたずら》でございますが、もう、あなた様には、どう頤《あご》で使われても、吉次は腹も立たなくなりました」
「立てたら骨折り損《ぞん》になるからなあ」
「お言葉どおりです」
「が、吉次。平泉へ行き着いても、秀衡《ひでひら》には、何もいわないでくれ。わしは早く、もう五、六年ほど一ぺんに大人になりたい。その間、ぽかんとしているつもりだから」
「心得ました。秀衡様へも、館のご一族へも、吉次がよいように申し告げまする」
「そのかわり、わしが大きくなったらば、わしの名を用いて、そちも大きな利得をするがいい。小慾はかかぬがよい」
「吉次はずいぶん大慾のつもりでおりましたし、肯《き》かない男を以て自分でも任じておりましたが、あなた様には、どうやら骨抜きにされたようです」
「あ。相模の海が見える。……伊豆の島々も」
九郎はもう吉次の繰言《くりごと》には答えもせず、虹いろに霞《かす》んでいる伊豆半島の山を空を、じいっと、飽かぬ眸でながめていた。
異母兄《あ に》頼朝の配所。
伊豆の蛭《ひる》ケ小島《こじま》とは仄《ほの》かに聞いているが、その蛭ケ小島とはどのあたりか。
母のちがう異母兄《あ に》。まだ見ぬ異母兄。
九郎義経なる異母弟《おとうと》があるかないかも、ご存知か、どうか。
「……でも血はひとつだ。わしも亡父《ち ち》義朝の子だ。またおそらく、志もこの九郎とちがうことはあるまい。おなつかしや、兄者人。――きょうここの足柄道《あしがらみち》を、あなたの異母弟《おとうと》九郎は東へ越えてゆきます。いつかきっとお目にかかりましょう。その機縁は、亡き父や源家の先祖たちが、きっと導いてくれるに違いありません」
彼は、胸の底で、そう呼んでいた。その思いは宇宙を翔《か》けて、配所の異母兄《あ に》へ通じるであろうと信じていた。
りんどう
一
この国の地殻《ちかく》には、火の脈が燃えている。温泉《いでゆ》のわく所が多い。
山もまた、いつ火を噴くか知れない性質をもっている。富士、愛鷹《あしたか》、箱根連山など。――総じて、この半島伊豆の地上では、そうした風土や自然が、人間の容姿や気風にまでよく映《うつ》っていた。
いったいに、男でも女でも、早熟であった。情熱に富んでもいた。しかし、山地が多く物産が乏《とぼ》しいので、一面には質素で、豪古の風を尊んだ。――また、海に接しているせいか、進取的だった。遠い僻地《へきち》でありながら、常に都の風聞とか中央の政情などにも、関心を持っている者が多かった。
ことしはもう安元二年。
安元二年というと、元服した九郎義経が、ここから近い足柄山を越えて、奥州へ下って行ったその年から二年後である。
時に、右兵衛佐《うひようえのすけ》頼朝は。
指を繰ってかぞえてみると、ここの配所へ送られて来てから、ちょうど今年で十七年目になる。
年は二十九歳。
「三十にして立つ」
という古語を、彼もことしは、人知れず心に呟《つぶや》いていたのであろう。
けれど、彼の十七年の配所生活は、至って穏やかなもので、むしろ平和に倦《う》むくらいなものだった。
その無事と無為の日々は、きょうこの頃も変らない。
ただ、山河には、花の開落があり、鳥魚の去来がある。流人《るにん》屋敷の畠には、今年もまた、茄子《な す》の花が咲いていた。
「オオ、怖《こわ》!」
瓜畑で瓜をもいでいた女《め》の童《わらべ》が二人して、云い合せたように、耳をふさいだ。
「雷鳴《かみなり》さま」
と、山を仰ぐ。
箱根連峰は、見ているまに、疾風《はやて》雲《ぐも》につつまれて、すぐ近い函南《かんなみ》の中腹には、かっと真っ蒼に陽が映《は》えていた。
ここは、箱根の南裾野といってよい。小高い畑地で、まわりは崖だった。そして崖の根土は、どっちを見ても、狩野川《かのがわ》の流れに洗われている。――川のなかの藪島《やぶしま》。それで蛭《ひる》ケ小島《こじま》と土着の人は云って来たのかもしれない。
藪をきり拓《ひら》いて、宅地と畑地にした所に、配所は建っていた。土塀をまわした総坪はずいぶん広いが、建物は元より粗雑で、空地は畑となっていた。
それでも。
流人の住居としては、ずいぶん整っているといってよい。母屋の中心に、持仏堂《じぶつどう》もあれば、侍部屋もある。寝所、釜殿《かまどの》、女童部屋《めわらべべや》、奴僕《ぬぼく》の小屋、殊に目立つのは、厩《うまや》のあることである。頼朝の外出も、ある区域に限っては、狩猟《しゆりよう》に出るも、走り湯へ参詣《さんけい》にゆくも、かなり自由にされているらしい。
――ポツ……ポツリ
雨が斜めに落ちて来た。
ここから一里ほどもない駿河湾の静浦、江の浦のあたりまでも、もう一面な低い雲に蔽《おお》われて、たった今まで、陽のあたっていた海面《うなも》が、一尺の水面も見えなくなっていた。
「あっ、夕立」
と、籠をかかえて女童は近くの厩《うまや》の廂《ひさし》へ逃げこんだ。白い雨が、一瞬翔《か》けて行った。どこかに雷鳴《かみなり》の落ちたような大きな音が近くでした。
「おお、ひどかった」
すぐ霽《は》れた青い雲間を見て、女童たちはほっとした眼をし合っていた。すると一人が、厩の内を覗《のぞ》いて、頓狂な声を出した。
「おや。お馬がいない。殿さまはいらっしゃるのに、龍胆《りんどう》だけが。龍胆はどこへ行ったんでしょう?」
二
馬を大切にすることは、貨幣以上であった。良い馬は、黄金を以ても、容易に得難いものとして、財宝の一に数えられるほどだった。
殊に、武人は、弓矢太刀などもさる事ながら、名馬を厩に持つことは、心がけの一つだった。けれど、諸国の牧から市へ出る逸駿《いつしゆん》も、そう数はないので、すこし名の聞えた馬といえば、みな財力のある都へ買われて行った。
だから平家一門の公達輩《きんだちばら》は、見《みえ》にして、各《めいめい》、名馬を争い持った。名馬を手に入れる事では、屡《しばしば》悶着《もんちやく》や喧嘩さえ起った。そういう平家人のあいだでは、こんな事すら云われていた。
(人は都。馬も、田舎に名馬なし)
いかにも、思い上がった言葉である。果たして、田舎に人はないだろうか。田舎に名馬はないだろうか。
頼朝が、自ら、龍胆黒《りんどうぐろ》と名づけて、ここの厩《うまや》に飼い、厩《うまや》舎人《とねり》の鬼藤次《きとうじ》という小者を付けて、鍾愛《しようあい》措《お》かない黒鹿毛は、都にも稀《まれ》な逸物だといわれているものであった。
しかもその黒は、この西伊豆の豪族でありまた、配所の経済や頼朝の身に就いてなど、六波羅からその世話や監視の役をも命じられている北条時政が、ある折、特に自分の一頭のうちから選んで送ってくれた駒である。
この配所から程近い北条家の館《やかた》へ招かれた一日、
(馬がないので何かにつけ不自由いたしている)
と、頼朝がもらしたのを、その折、初めて会った時政のむすめの政子が、
(この頃、お手に入れた黒鹿毛は、悍気《かんき》がつよいと仰っしゃって、お乗りにもならずに厩に繋《つな》いであるようですから、あれを差上げてはどうでしょう)
と、暗に父の時政へせがんで、その帰りに、鞍《くら》まで添えてくれたものであった。
政子の印象もよかったし、駒を馴らしてみると、案外な逸足《いつそく》なので、頼朝は厩の物音を聞くと夜半《よなか》でも、紙燭《ししよく》をかかげて、
(蚊に喰わすな。――どこか悪いのではないか)
と、いつもそこに、馬と共に暮している鬼藤次へ、注意しに来るほどだった。
それほど、主人が愛している龍胆黒であることは、召使たちも知りぬいている事なので、今忽然《こつねん》と厩の中にそれが見えないのは、大きな驚きと不審であった。
「鬼藤次さん。鬼藤次さんっ――」
女童《めわらべ》のふたりは、厩番《うまやばん》の小屋へ教えに行ったが、そこにいつもいる鬼藤次までがいなかった。
草を喰わせに行くのも、配所の外まで曳《ひ》いて出る例はなかった。朝夕の調馬は、主人の頼朝自身がすることである。
その頼朝は、持仏堂の窓で、きょうも写経にくらしている。その姿は、たった今、瓜畑から見ているので、どうしても不審が去らなかった。
「盛綱《もりつな》様へ、お告げしておこう。盛綱様はどこにおいでかしら」
「また、河原へ降りて、鮠《はや》を釣っていらっしゃるかもしれない」
「あ。そうだ。きっと」
駈け出してゆくと、雑木《ぞうき》の崖際に行きあたる。下を見下ろすと、夕立にぬれた樹々の間に、狩野川の渓流が白く透いて見える。
「盛綱様――。盛綱様アっ」
女童は、口のそばに、手をかこんで呼びたてた。
今の一夕立で、渓流は、すさまじく水音を高めていた。さっきから釣糸をそこの瀬へ垂れていた百姓の若人《わこうど》みたいな男は陽に焦《や》けた顔を、くるりと向けて、崖の上を振仰ぎながら、
「なんだーっ。用があるなら降りて来うっ」
と、粗野な声で答えた。
三
夕立が霽《あ》がったばかりである。崖土《がけつち》はすべる。女童《めわらべ》の二人は、ようやく河原へ降りて行った。
「盛綱さま。厩《うまや》にお馬が見えなくなっていますよ。鬼藤次も、何処へ行っちまったか、呼んでも、いませんよ」
口を揃《そろ》えて告げた。
「何。龍胆《りんどう》がいないって?」
鮠《はや》がかかった。
盛綱は、釣竿《つりざお》を上げながら振向いた。ピラッと、鮠は彼の手の中へ躍ってきた。鉤《はり》から魚をはずしながら、
「ほんとか」
「ほんとですとも」
女童《めわらべ》は眼をみはって云う。
「鬼藤次のやつ。先頃から不審なところが見えた。あっ……それに今日は四の日」
彼はやがて、崖を攀《よ》じて、厩《うまや》舎人《とねり》の寝小屋を調べていたが、突然、
「市《いち》まで行って来る。兄者人が訊ねたら、晩までには戻ろうと云うてくれ」
と、釜殿の下僕《しもべ》に云い置いて、飛ぶが如く何処かへ駈けて行った。
南条、中之条、北条などと庄田の名は称《よ》び分れているが、この辺の町は、北条の端《はず》れになる四日市を中心にたて混んでいた。
月の四の日ごとに、市が立つので、そう称《よ》ばれていた。三郎盛綱は、今日がその日にあたるのを思い出したのである。
穀物、獣皮《じゆうひ》、漆《うるし》、織物などあらゆる物と物が交易されていた。馬市も立っている。鹿毛《かげ》、栗、月毛、黒などが何十頭も馬繋《うまつな》ぎに首をならべていた。
その中に、一頭、鼻すじの白い黒鹿毛がいた。鞍もあぶみも外してあるので、ちょっと見違えるが、盛綱の眼が見あやまるわけはなかった。
「あっ、龍胆《りんどう》だっ」
手をかけると、ひとりの伯楽《ばくろう》が飛んで来て、いきなり咎《とが》めた。
「何をなさる」
「何をって。おまえのか」
「きょうの市で、大金を出して求めた馬じゃ」
「それは気の毒なことをした。これはわしのご主人の持馬だ」
「何だと」
「そちは誰から買った」
「誰やら知らぬが、売りに来た若者が、市へ出したので買うたまでじゃ」
「その若者は鬼藤次といいはせぬか」
「名など知らぬが、あれ、あの彼方《むこう》に見える筵掛《むしろがけ》の小屋の中で、市の商人《あきんど》や馬買いたちの仲間に交じって、博奕《ばくち》しておるわ」
「さては」
と、うなずいて、
「では、この駒は、しばらくそちに預けておこう。だが、ここから動かしたら承知せぬぞ」
盛綱は、そう固く云いおいて、筵小屋《むしろごや》の方へ歩いて行き、そっと中を覗いてみた。
四
「はて、いないが?」
盛綱は呟いた。
そこの仲間のうちには、鬼藤次の顔は見えない。彼はまた、他《ほか》を探した。
そういう悪戯《わるさ》に耽《ふけ》っている囲いは、一ヵ所や二ヵ所ではなかった。博奕《ばくち》の流行は、保元、平治の乱以後、平家の繁栄と伴って、上下共に、ひどい風潮となった。日々の業務も抛《なげう》ってそれに耽る者は、庶民ばかりではなかった。
わが子は二十《はたち》になりぬらん
博奕《ばくち》してこそありくなれ
国々の博徒に
さすがに子なれば憎からじ
怪我《けが》負わせ給ふな
王子の住吉西の宮
孫を負った媼《おうな》が、そんなうたを謡《うた》っているのも、よく聞くことだった。
世の風紀が悪くなったといえば、富士の宿から足柄越えにかかる旅行者のよく云う事にも、あの嶮《けわ》しい山中にさえ、近頃は、茅《かや》の屋根に篠《しの》すだれを垂れ、夜《よる》見たらむしろ怖《おそ》ろしげな遊女の宿が何軒もできているそうである。元より怪鳥走獣《けちようそうじゆう》の声ばかりな深山なので、そこに住む遊女といってはみな年老いたのが多く、旅人たちはそれを「山姥《やまうば》」などと称《よ》んでいた。
足柄山の関にさえ、あやしげな女の袖を引く世であるから街道の風儀や国々の府の猥雑放縦《わいざつほうじゆう》な有様も思いやるに余りがある。
まして、市《いち》の日、諸郷の小《こ》商人《あきんど》やら伯楽《ばくろう》やら雑多な人々の集まる市で、悪戯《わるさ》の行われるぐらいは、まだまだ近頃の世相のうちでは、それが白昼、人目を恐れるでもなくやっているだけに罪の軽いほうかも知れなかった。
「おっ。いた」
一つの囲いの中に、盛綱はとうとう彼を見つけ出した。
あそびに夢中になっていた鬼藤次は、盛綱の腕が、自分の襟くびへ来て、襟がみを掴まれるまで気づかなかった。
「不埒者《ふらちもの》っ」
耳元の声に、あっと、びっくりして後ろへ手をやった時は、鬼藤次の背中は、もう地を摺《す》って、何十尺もズルズル地上を引っ張られていた。
「おゆるし下さいっ。――もしっ。謝ります。盛綱様っ」
「やかましい」
「面目もございません。……つい、つい、出来心から」
「やかましい」
足を上げて、盛綱は、その顔へ一つ喰らわせながら、
「お馬と代えたかねをこれへ残らず出せ」
「かねはございません」
「どうした」
「みな、博奕《ばくち》して、負けてしまいました」
「おのれっ」
盛綱は、赫怒《かくど》して、
「よくも、洒《しや》あ洒あと。あるだけでも出せ」
「もう、まったく、僅かもございません。何とか、取返しますから、どうかしばらくのご猶予《ゆうよ》を」
彼は懸命に、哀訴したつもりだったが、盛綱の怒りはかえって煽《あお》られたとみえる。怖ろしい声で、不届き者っと、叱るや否や腰の太刀をひき抜いて、逃げかける鬼藤次の肩へ、うしろから一太刀あびせた。
鬼藤次は、悲鳴をあげて、転んだが、運よく、周りをかこんでいた人垣の中へ仆《たお》れた。
輪を作《な》して見ていた人々は、驚いて逃げくずれた。鬼藤次もその間を、血まみれのまま走って行った。
「これなる黒鹿毛は、わがご主人の乗馬。盗んだ物を求めたのは、求めた者の買損というもの。ともかく申しうけて参るぞ」
以前の馬つなぎから龍胆を解くと、盛綱はとび乗って、あれよと人々の騒ぐ間に、蛭《ひる》ケ小島《こじま》の配所へ矢のように駈け去ってしまった。
配所の君
一
まだ山々も霧、野も霧、狩野川《かのがわ》も霧の朝まだきからである。
配所の持仏堂では、朗々と、読経《どきよう》の声がする。
十年一日の如く、毎暁《まいぎよう》、怠《おこた》ったことのない頼朝の勤行《ごんぎよう》だった。
少年の日、死刑にされるところだったのを、池《いけ》の禅尼《ぜんに》に助けられて、その禅尼から都を立つ日、
(たとえ唆《そそのか》す者があっても、ゆめ、太刀習いなどなさるまいぞ。親兄弟の後生《ごしよう》を念じ、髪を下ろして、再び縄目《なわめ》の憂《う》き目《め》など尼に見せてくださるなよ)
と、懇《ねんご》ろに意見されたその折の訓誡を、ふかく心にとめて、今も忘れずに奉じているものの如くであった。
しかしその禅尼も既にみまかって、もうこの世の人ではない。――彼のりんりんたる読経の声のうちには、明らかに、今はその人の後生を念じているのが聞き取れる。
とは云え、尼が生前、くれぐれも彼に云った、髪を下ろす一ヵ条は、決して守っていなかった。二十九歳の黒髪は、ふっさりと束《つか》ねて、むしろその艶《つや》やかさを誇っている。
また、読経の日課にしても、果たしてそれが、菩提《ぼだい》を慕うやみ難い心のあらわれか、単に、非業《ひごう》な最期をとげた父義朝や兄や一族たちへの一片の供養《くよう》か、それとも、世を欺《あざむ》く音吐《おんと》か、依然としてこの人の肚というものは、その端麗なすがたを見ただけでは分らない。
彼を観《み》る人、それを聴く人、配所を繞《めぐ》る人々の思うところも、自《おのずか》らまたまちまちであろう。
が、事実は動かし難い。頼朝の肚はともあれ、こういう配所の生活は、至極神妙なものとして、京都へは報告されていた。
従って、年々、彼への監視や拘束《こうそく》は、弛《ゆる》やかになってもいた。給仕の女人《によにん》として、女性をおくことも黙認されている。――近頃、ひそやかに奥に侍《かしず》いている亀《かめ》の前《まえ》は、彼の二度目の愛人だった。
二度目というのは、今より二年ほど前に、伊東祐親《いとうすけちか》の息女と恋におちて子までもうけた事があり、祐親に知られて、その子は、淵へ捨てられたりなどした事件が、この伊豆では一時、かなり噂に聞え渡っていたからである。
祐親は、伊東の豪族で、北条家とならぶ権門であったから、その事件では親の祐親に睨《にら》まれ、流人《るにん》ずれがと、ふた口めには云われる頼朝は、ずいぶん辛き目にあって、懲々《こりごり》しているはずであるのに、いつか彼の側には、変った女性が侍《かしず》いて、時には、傍目《はため》もない恋を語らい合っている様もまま見かけられた。
亀の前は、伊豆の女に似げなくうち気なほうであった。その頃、下司《げす》の戯《ざ》れ謡《うた》に、
男怖じせぬもの
加茂女《かもびと》、伊よ女、上総《かずさ》女《め》
などという詞《ことば》もあったが、伊豆の女はなぜその中でないだろうか。――頼朝も時には、そんな煩悩《ぼんのう》に、頭脳《あたま》を憑《つま》まれている日もあった。若い肉体に、無聊《ぶりよう》といったら実に耐えきれない無聊であったせいもあろう。
そういう煩悩や頭のにごりを清掃するためにも、朝ごとの勤行《ごんぎよう》は、彼自身に必要であった。その声は大きく、彼の声から蛭《ひる》ケ小島《こじま》は暁《あ》けるといってよかった。
「亀。――水をくれい」
持仏堂を出てくると、彼は汗ばんだ顔をしていた。亀の前の手から一杯の冷水を取って飲みほすとすぐ股立取って、まだ露の冷たい夏草をふんで厩《うまや》へ行く。――それも毎朝の事だった。
二
馬は厩《うまや》に無事でいるし、きのうの出来事は、誰も告げていないので、頼朝は、そこへ立つと、
「鬼藤次《きとうじ》、鬼藤次」
と、彼の寝小屋へ呼んだ。
すると、はいっと答えて、厩の陰から立出でたのは、三郎冠者盛綱《さぶろうかじやもりつな》で、
「ただ今、曳きまする」
と心得顔に、りんどう黒を厩から解いて、前へ曳いて来た。
頼朝は、不審顔に、
「鬼藤次はいかがなせしか。今朝はそちが厩の世話をいたしたのか」
と、訊ねた。
盛綱は、何気ない顔して、
「昨夜おそく、急病を発したとやらいうて、南条の里へ帰りました。夜中なれば、お暇も告げずに行ったのでございましょう」
と、答えた。
小者《こもの》の事なので、頼朝は、そうかと、気にもかけない容子で、いつもの朝の如く、りんどうの鞍へ跨《また》がって、野へ駒を調《な》らしに出た。
人も駒も、一汗かいて、野から帰って来る頃に、陽は朝霧を破って山のうえに昇っていた。
「なるほど」
盛綱は、何を感心したか、その帰るさ、駒の口輪をつかみながら、頼朝のすがたを振仰いで、
「兄者人の定綱が、いつも云わるるには、殿のご大食には驚く、あの華奢《きやしや》なおからだで、朝などお汁を何杯もあがるなど、いつも驚嘆していますが、なるほど、これではご空腹もごむりではない……。盛綱めも今朝は、眩《めくらめ》くほど、すき腹になり申した」
と、云った。
頼朝は、笑って、
「調馬は未《ま》だしもよ、朝夙《と》く法華経二部を、腹のそこから声を出して誦《よ》んでみい。五臓六腑、一物もなくなってしまう」
「いや、配所へご給仕に参りましてから、私ども兄弟も、はや十年の余、よい修行に相成りました」
「十年の余にもなるかのう」
「なります。父のいいつけで、初めて上がった頃は、私はまだ洟《はな》たれの童《わつぱ》、兄の定綱さえ、まだ小冠者でござりました」
露を踏みながら、盛綱は、自分の素《す》裸足《はだし》な足を見た。百姓と変りはない。
盛綱は兄弟四人のうちの三男だった。父の佐々木源三秀義《ひでよし》は、近江の住であったが、平家に屈しなかったので、近江を追われ、武蔵の渋谷庄司重国へ身を寄せた。――そして程近い伊豆にある頼朝へ、音信や贈物を怠らなかったが、遂には、自分の子の長男定綱と三男盛綱のふたりを、配所の家僕として召使ってくれるようにと、ここへ奉仕によこしたものだった。
流人《るにん》とはいえ、まだまだ多分に貴族的な起居をゆるされている頼朝は、配所の家人《けにん》に対しても、ずいぶん吾儘《わがまま》なふうがあった。盛綱などは、腹を立てて、何度も渋谷へ逃げ帰った。その度に、父に諭《さと》されてはまた帰って来たりした。――文字どおり艱苦《かんく》を共にして来た主従である。それだけに、今となっては、切っても切れない君と家人《けにん》のあいだがらにもなっていた。
――思い出すと、長い間には、こんな事もあったりした。
兄の定綱は、父秀義にも劣らない、矢を矧《は》ぐ事の上手であったが、ある夜兄弟して、夜業《よなべ》に矢をはいでいるのを、頼朝が見て、
(おまえ達の作る矢を、一体いつになったら、この手でいっぱいに引く日が来るだろうな)
と、呟いたので、兄弟は急に胸がせまって、何も答え得ずに泣いてしまった。主従、燈火《ともしび》の消え入るばかり、手を取りあって泣いてしまった。
「……何度、この足の指の生爪《なまづめ》が剥《は》げたら、その日が来るか」
盛綱は今朝も――そんな事を考えながら、主人の駒を曳いて帰って来た。
すると、配所の門前に、何事が起ったのか、大勢の雑人《ぞうにん》たちが群れて、わいわい騒いでいた。
三
「や。流人の主従が」
「あれへ来た」
「戻って来おった」
雑人たちは、露骨な敵意を示しながら、指さしたり、喚《わめ》いたりした。そして頼朝のまわりへ、わっと寄って来そうな勢いを示した。
「何事ぞ」
頼朝は、盛綱を顧みた。盛綱は、馬前に諸手《もろで》をひろげながら、
「何事やら分りません。――ただ今、問《と》い糺《ただ》してみましょう」
と、答えた。
その間にも、雑人たちは、口汚い悪罵《あくば》をまわりから放っていた。
「馬盗人よ」
「主従、肚を合せて、馬の代《しろ》を騙《かた》り取ったぞよ」
「流人根性!」
「配所の穀《ごく》つぶし」
「馬を返《か》やせ」
「その馬を渡せ」
何かそんな意味らしい。市の無頼漢《ならずもの》や伯楽《ばくろう》どもであった。訛《なま》りのひどい方言で罵《ののし》ることなので、初めは何を云われているのか分らずにいた頼朝も、やや面色を改めた。
「盛綱、どうしたものだ」
「はっ」
「何か、間違い事ではないか」
「はい」
「なぜ、黙っておるか、そちは」
「彼等の勘ちがいもありますなれど、すべてが間違いでもございませんので」
「覚えがあるのか」
「少々あります。実は、市の伯楽に払う馬代を、忘れ果てておりましたため、ああ申すのでござりましょう」
「馬の代と?」
「はい」
「どの馬の代?」
「面目もございません。恐れ入りまする」
盛綱は、さし俯向《うつむ》いて、ただ謝るばかりだった。
きのう市で、りんどう黒を求めた男は、仲間の者にケシかけられて、怖々《こわごわ》前へ進みながら、
「それだ。その馬だ」
と、頼朝の乗っているのを指さした。
「何、この馬の代じゃと」
頼朝は、鞍を下りた。そして、伯楽たちの云いならべる文句を、黙って聞き取った。――聞いてみれば、敢えて、盛綱の罪というのでもないので、何で彼が面目なげに打悄《うちしお》れているのか、その愚直さがおかしくなった。
「騒ぐな、馬の代を払うてつかわせばよかろう」
「払うてさえくれれば文句はない」
「それに待っておれ」
「おお、待っていよう」
大勢も、配所の鹿垣《ししがき》の根や、そこらの草むらに腰を下ろして、まだ疑わしげに、がやがや云っていた。
彼等が疑うのもあながち無理ではなかった。頼朝の貧しい生活《くらし》ぶりは、平常《ふだん》ここの柵から覗《のぞ》いて見ただけでも知れていた。流人の給与はおよそ穀物何十石、油何斗、布《ぬの》何反《たん》と決った額が渡される他《ほか》、何の収納もあるわけはないからだった。
「はて。困った事が」
盛綱を外に残して、頼朝は内へ入ったが、馬の代《しろ》に相当するような財物は何もなかった。
池《いけ》の禅尼《ぜんに》が在世中、年に一度ずつ都から送ってくれた衣裳やら経巻やら高価な数珠《じゆず》などはある。折々に、乳母の比企《ひき》の局《つぼね》から心づけては届けてくれた身まわりの調度や雑器などはある。――が、それらは皆、人手に渡すに忍びない恩人たちの真心の物でもあるし、また、そのすべてを渡しても、馬の価《あたい》には足りそうもなかった。
「亀どの、そこの料紙と硯《すずり》とをこれへ」
縁に腰かけたまま、頼朝は一筆書いて、封の上に、北条どの御内《おんうち》とし、政子の君へと宛名《あてな》した。
亀の前は、ちらと、その名宛を見たような顔いろであったが、頼朝から、
「定綱を呼べ」
と云われて、素直に、侍部屋のほうへ立って行った。
四
兄の定綱が、主人のりんどう黒に乗って、あわただしく、配所から出て行く様子に、外にいた三郎盛綱は、
「兄者人どこへ?」
と、声をかけた。
「北条どのまで」
定綱は鞭打って、急いで行った。
政子に宛てた文を携《たずさ》えて、彼はまもなく北条家の館を訪れていた。元より先は深窓《しんそう》の息女である。直《じ》かに会えるわけもない。家臣の手を通じて返辞を待っていた。
「これをとのお伝えです」
家臣は政子の返し文と共に、唐綾の小袖一かさねと、唐鏡一面を定綱に渡した。
定綱は、それを持って、また急いで配所へ帰って来た。
頼朝は、政子の文を読むと、すぐ細かに裂いてしまった。そして外にいる盛綱を呼びよせ、
「この二品を、馬の代に、市の雑人どもへ渡してやれ」
と、云った。
「いや、その伯楽どもは、もう外におりません。兄者人が、北条殿へと、馬を打って駈けたのを見て、さては役人でも連れて来る事かと思い、ちりぢりに逃げ去りました」
盛綱は、おかしがって語ったが、頼朝は、それは不愍《ふびん》なことだ、下賤《げせん》の者を虐《しいた》げたと聞えては、頼朝が生涯の汚名《おめい》というものである。すぐ市へ行って、この品を、彼等に与えるなり、金に代えて、彼等に託して来いといいつけた。
盛綱が出て行くと、定綱も、
「ご用はすみましたか」
と侍部屋へ退がって行った。
思わぬ事件に半日は空《むな》しく過ぎた。外の炎天は、草いきれと、蝉の声ばかりに焦《や》けていた。
「今から行っては、話す間もなし……帰りも暮れよう。明日《あ す》にでも行ってみるか」
頼朝は、廂《ひさし》ごしに、夏の雲を見つめながら、胸のうちで呟《つぶや》いた。――この頃、箱根の別当の弟、永実から聞いたはなしに依ると、ここから二里ほど山へ這入《はい》った奈古谷《なごや》という小部落の寺に、高尾の文覚上人《もんがくしようにん》という者が、罪を得て都から流されて来ている。
――先も流人、こちらも流人、一度会ってみたら都の消息などもいろいろ知れましょう。そう云った事が、頼朝の胸に、きょうは訪ねようか、明日《あ す》は行ってみようかと、かなり前から宿題になっていた。
「が。――それも、考えものかな?」
彼の緻密《ちみつ》な性分は、考えすぎて迷いに落ちる傾きもあった。一個の文覚を訪ねる事が将来にも今にもいいか悪いかとなると、深窓の息女へ文を通わすより、彼は、細心になるのだった。
「……?」
頼朝はふと、その眸を、廂ごしの空から自分の傍らへ振向けた。よよと、孤《ひとり》で泣いている者があったからである。
亀の前であった。
何で、彼女が泣くか、頼朝にはわかりきっていた。政子へ使いをやった事からに違いない。もっと彼女の胸に入って云えば、なぜ、馬の代《しろ》の調達を、自分へ相談してくれるなり、自分の父良橋《りようはし》太郎入道へなり申し遣《や》ってくれなかったか。
それを恨みともしているであろう。また、いくら素直な性格でも、女である以上、嫉妬《しつと》もあろう。それを動作やことばに出せない質《たち》だけに、泣くだけしか、表現を知らないのである。頼朝の眼は、そう知りぬいておりながら、やや険《けん》をふくんで、邪慳《じやけん》に云った。
「何を泣いておるか。……男の胸、女子には汲《く》めまい。泣きたくば、あちらへ行って泣け。……暑いっ。うるさいっ」
五
泣くな、と叱られれば叱られるほど、亀の前は、泣きぬれていた。
頼朝は、舌打ちして、
「この暑さに、蝉が啼くだけでもたくさんだ。……聞きわけのない」
と、起ち上がった。
亀の前は、その袂《たもと》の下へ、初めて小さい声で、咽《むせ》びながら訴えた。
「しばらくの間、里方へ帰らせていただきまする」
「……帰る?」
頼朝は、問い返した。わざと冷たい眼《まなこ》を注ぐのであった。
「よいとも、しばらくと云わず、いつまででも、いたい所にいるがよい」
わっと、泣き伏す声がうしろでした。彼は、振向きもせず、長い簀子縁《すのこえん》を、ずしずし踏み渡っていた。
屋《おく》の西に、木につつまれた一棟《ひとむね》がある。昼寝でもするつもりか、大股に、つとそこへ這入ると、
「……おっ」
誰か、小机の前から、びっくりしたように振向いた。
都から流浪して来た藤原邦通《くにみち》という旅絵師だった。酒など飲むと、舞をよくするし、剽気《ひようげ》たところがあって、おもしろい男だというので、頼朝にひき留められ、この配所に、もう半年の余も懸人《かかりゆうど》になっている暢気《のんき》な男だった。
「――誰方《どなた》かと思いましたら、殿でございましたか。びっくり致しました」
「書いておるね」
頼朝は、亀の前に示した顔いろを、すぐ微笑に消して、邦通のうしろに立ち、彼の筆や絵具のちらかっている机の上を覗《のぞ》きこんだ。
「こんな風に、時々、諸方を歩いて、写しを取って来ては、書いておりますので、なかなか果《はか》がゆきません」
邦通は、云い訳した。
そこに書きかけてあるのは、ただの画ではなく、伊豆半国の絵図であった。山河から道路や宿駅や社寺の所在など、ずいぶん克明に、一部は出来かけている。
「暑いからなあ。歩くにはたいへんだろう。年内にできればよい」
「年内にはできます。雪が降ると、箱根その他《ほか》の山々は、道も探《さぐ》れませんから、山のほうを今、先に書いております」
「うむ……」
縁の隅へ、昼顔の蔓《つる》が這い上がっていた。白い花が一つ、風にふるえている。頼朝は思い出したように、
「邦通。使いしてくれまいか」
「何処へ参りますか」
「亀の前が、里親の許へ帰りたいという。彼女《あ れ》を連れて、良橋太郎入道のやしきまで」
「え。お帰りになりますと?」
「ひとり帰すも酷《むご》い。送り届けてやってくれぬか」
「それはようござりますが、何かと、お身まわりにも、ご不自由ではございませんか」
「大した事はない」
「なんぞ、争《いさか》いでも遊ばしましたか。――所詮《しよせん》、女子《おなご》は女子です。ご気色を直して、晩にまた、一酌《しやく》なされませ。邦通がまた、猿楽《さるがく》でもお目にかけましょう」
「猿楽は、今いたして来た。われながら愚かしき猿楽を」
云い捨てて持仏堂へ籠《こも》ってしまった。何かにつけ彼はここへ這入り込んだ。そこにいる間は、写経と読経のほか他念もない彼と成る。鬱勃《うつぼつ》たる二十九の胆と血しおとは、時折、そうして抹香《まつこう》の氷室《ひむろ》へ入れて冷却する必要もあった。
やがて。また日課の読経がそこから洩れた。亀の前は、暇を告げるべく、室の外に手をつかえたが、ただすすり泣きのみして、悄々《しおしお》と去った。
草の穂に、夕風が立ち初《そ》めた。
蜩《ひぐらし》が啼きぬいている――
異 僧
一
山の秋は早い。もう霜を見たような蔦《つた》や漆《うるし》の紅さだった。
「兄者人。帰ろう」
「まだ陽が高いのに」
「でも、飽《あ》いた」
狩支度で、韮山《にらやま》の奥へはいった定綱、盛綱の兄弟だった。
負って来た矢も残り少ないのに、四、五羽の鳥を腰に獲ただけだった。
「何という日だ。せめて猪《しし》の子でも出て来ねば」
「まだ季節が早い」
ふたりは、疲れた脚を、草に投げた。――谷は暮れかけたが、箱根の頂には、まだ赤い陽が見える。
「弟」
「ウム?」
「きのうもそちは、殿のお文を持って、北条殿の奥向へ、お使いに行ったの」
「行った」
「よく参るのう、しげしげと」
「おいいつけだ」
盛綱は、ぶあいそな顔して云う。俺が行きたくて行くのではないと云いたそうである。
すぐ下の山寺で、読経の声が聞える。その経文で思い出したように、
「……困ったものだ」
定綱は、ひとり呟いた。
「何が」
と盛綱は、兄の憂鬱《ゆううつ》に眼を尖《とが》らす。その眼を、定綱はじっと見返して、
「そちは、そのように、暢気者《のんきもの》だから、文使いなどには、ちょうどよいのだ。この定綱へ、行けと仰っしゃった事はない」
「兄者人。ひがんでいるのか」
「ばかを申せ」
「わしは暢気者かなあ」
「憂《うれ》いがないゆえ」
「憂いたって仕方がない。――あれでいいのかしら? とはわしも時々考えるが」
「そちでさえ、そう思うのか」
「思わぬ事はない」
「父上は、わしら兄弟を、とんだお方へご奉公につけてくれたものだ。畏《おそ》れ多いが、時々、嘆息が出る」
「源家に運がなく、平家の運がいいのだ。ぜひもない」
「盛綱、わしらふたりの配所奉公も、はや十年の余だぞ。諦めきれるか。わしは諦めきれない。……一度、兄弟《ふたり》して、ご意見してみようではないか。あのお方の、本心をたたいてみようではないか」
「意見って。何を」
「前《さき》には、伊東祐親《いとうすけちか》入道のむすめとあのような事件を起し、それには、さしもお懲《こ》り遊ばしたろうと思っていると、亀の前をいつか配所へお入れあった。――それもいい。ところがまたもやだ。何の科《とが》もない亀の前を、ちょっとのお怒りで、里方へ帰しておしまいになった上、この夏頃から、しばらく絶えていた北条殿の息女へ、しきりと文使いの取り遣り。……いったい何たるお行状だ」
「それを申し上げるのか」
「云うのが臣の道だろう」
「わしはいやだ」
「なぜ」
「女のことなど、云えぬ。……誰しものことだもの」
「愚かなやつ。本末《ほんまつ》を聞き誤るな。何もそうしたお行蹟の端のみお責めするのではない。たとえ、いかに女人には甘かろうと、ご腹中の大事さえお忘れなければよいが、それが、わしの観るところでは」
「覚束《おぼつか》ないというのか」
「案じられるのじゃ」
「そうでもあるまい」
盛綱は、物事をすべて、兄よりも、大づかみに観る方らしく、
「難しいものだとよく人のいう、女に対して才がおありなくらいだから、他《ほか》の事にも、十分、お考えがあるにちがいない。兄者人のように、そう自分で事を挙げるようなわけに行くものでない」
と、かえって、兄の焦躁《しようそう》を笑った。
二
夕雲へ眸がゆく、兄弟《ふたり》とも黙りこくったままである。ひとつ主に仕えても、ふたりの観方は同じではない。
「……分らぬ」
定綱はまだ云い足らぬように、やがて独り呟いた。
「怠惰《たいだ》なご性質かと思えば、朝夕のご規律、武道文学などには、人いちばいご精進《しようじん》もなさる。涙もない冷《ひや》やかなお生れ性《さが》かと見れば、時には優しい、むしろ情痴なほど、溺《おぼ》れ遊ばす質《たち》かとも疑われる。――伊東入道の女《じよ》八重姫に恋なされたかと思えば、亀の前に移り、北条殿の深窓へも文を通わされる。……何たる痴者《ちしや》。……傍目《はため》にすら、舌打ちが出る。……けれどまた、そうした毎日にも、普門品《ふもんぼん》の読誦《どくじゆ》は欠かし給わず、日に百遍の念仏は怠らず、月々三島明神の参拝もお忘れなどあられた例《ためし》はない」
「兄者人、行こうか」
つまらなそうに、盛綱は塵《ちり》を払いながら、草から起ちかけた。――とたんに、彼は、何を見たか、携《たずさ》えている弓を立てて、がっきと、矢をつがえた。
定綱は、矢先を眺めながら、
「弟、何を射る?」
「…………」
盛綱は答えもしない。ひき絞《しぼ》った絃《つる》をぷつんと切って放った。――矢は、崖下の山寺を蔽《おお》っている木立の梢《こずえ》を通って、後に四、五葉ひらひら舞わせていた。
「――落ちた」
矢を負った鳥影が、山寺の裏あたりへ垂直に降《さ》がって行った。盛綱が駈け降りたので、どうせ帰り道ではあるし、定綱もやや遅れて、追って行った。
下の山寺は観音大悲を本尊とするので観音院とも、奈古谷寺《なごやじ》とも称《よ》ばれている古刹《こさつ》だった。庫裡《くり》のわきに近頃建てたらしい一棟の僧舎がある。夕闇の底に、その新木《あらき》の羽目板や屋根の白さが目に立っていた。
獲物の鳥と矢を拾って、盛綱が去ろうとした時である。――読経の声がやんだ。――そしてぬッとそこの新木の縁ばたへ出て来た大男が、一喝《いつかつ》した。
「誰だっ。待て」
盛綱は、振向いた。――坊主だな、と思っただけである。
「なんだ」
すると、大法師は、
「墻《かき》の内へ無断で這入りこんでおきながら、何だという挨拶があるかっ」
「此屋《このや》には、墻があったのか。裏山から降りて来たので知らなんだ」
「なお、許せぬ。小冠者、ひとの庭へ矢を射込んで、詫びもせいで、立去る気か」
「悪かった」
「――では済まん」
「然らば、どうせいと云うのか」
「両手をついて謝れ」
傲然《ごうぜん》と、縁の上からいう。
隆々たる筋肉をもち、下腹も肥えているので、わざと反《そ》っているくらいに見える。硬《こわ》そうな無性髯《ぶしようひげ》と、僧にしては闘争的な眼光を備えている。――そういう眼に出合っては、元来が、謝りたくても謝れない性分をもつ坂東骨《ばんどうぼね》の盛綱は、
「これ以上は謝らぬ。手をついて謝らなかったら如何する」
と、冷笑した。
法師は、毛の生えた鉄拳を、ぬっと突出して、
「小冠者、これが喰《く》らいたいのか」
と、云った。
三
「何っ」
盛綱が、太刀へ手をかけて寄ると、大法師は、
「田舎漢《いなかもの》っ。斬れるのか」
と、大口あいて笑った。
田舎漢っと、彼が弟を罵《ののし》った言葉に、彼方で見ていた定綱は、思い当ったものがあるらしく、駈け寄って、
「ひかえろ」
弟を叱った。そして法師に向って訊ねた。
「もしやご僧は、文覚《もんがく》殿ではありませんか」
「文覚はわしだが」
「おお、ではやはり」
「お汝等《ことら》はどこの者か」
「失礼しました。――盛綱、お詫びせい。高尾の上人《しようにん》でいらせられる」
弟へ、そう責めたが、盛綱は下げる頭は持たないといった顔だ。ただ文覚の面《おもて》を、見まもっていた。
「わかった」
文覚は急に白い歯を出した。盛綱と聞いたのですぐ察したのであろう。げらげら笑いながら云った。
「さては、お汝等は、蛭《ひる》ケ小島《こじま》にいるとかいう、頼朝の召使だの」
「お察しの通りの者です。佐々木源三《げんぞう》が子、太郎定綱、こちらは三郎盛綱というがさつ者でござる」
「端近《はしぢか》だ、お上がりあれ」
文覚は、炉へ導いて、自分は先に、その前に坐っている。
「弟、どうする?」
小声で計ると盛綱は、上がれと云うのだから上がろうと云う。
「要《い》らざる強がりをするのではないぞ」
定綱は弟を、小声でたしなめながら、室へ入った。
文覚は、炉へ柴《しば》を折りくべていた。赤い焔が下からその顔へ映《さ》す。この上人の素性《すじよう》に就いてはかねて種々《いろいろ》聞き及んでいる事が多い。都でもよく話題の人となり、伊豆へ流されて来てからも、里の人々が何かにつけて噂するからである。
すでにこの人の発心《ほつしん》からして世の常の出家とはちがっている。俗姓を遠藤、名を盛遠《もりとお》といい、北面の士から、院の武者所となったが、十八の年、袈裟《けさ》という人妻を斬って、慚愧《ざんき》の果て、髪を削《けず》って僧門に入ったのがその動機だったという。
その後の修行ぶりもまた、人なみ超えていて、那智山の荒行の如きも、諸国の名山大川《たいせん》に亙《わた》って、幾度となく体験して来たらしい。人は呼んで、高尾の荒法師といっているが、当人はこの伊豆へ来てから、自分で自分を、
「善相人」
と称している。
善相だろうか。――自分でそういうところなど、人の好《よ》さはわかる。けれど、炉の中から映《さ》す赤い火影《ほかげ》に見える顔は、むしろ怖ろしい。
ここへ流罪となって来た原因なども、凄《すさ》まじい事である。神護寺《じんごじ》の廃毀《はいき》を修復して、仏法の興隆を喚起し、あわせて父母の冥福《めいふく》をも祈る、という勧進《かんじん》をして、都の市民へ呼びかけていたが、一日《あるひ》、法住寺の法殿に貴紳が多く集まると聞いて、そこへ行って勧進の喜捨を求めたが、誰も相手にしてくれる者がない。
そこで文覚は、無断に庭へはいって、大声で、勧進の文を読みだした。その折から、笙歌《しようか》に耳を傾けていた殿上殿下の人々は、驚いて彼を、殿庭の外へ、引ずり出そうとしたために、文覚は数名の者を殺傷したというのである。――頭は剃りこぼちても、まだ遠藤盛遠の血は、こんなふうに深淵《しんえん》の龍《りゆう》のごとき本性を喪失《そうしつ》していないのである。だから彼の自称する「善相人」というのも、そのつもりで観ていないと、いつ牙《きば》を生じ、焔の舌を吐くやも知れない。
四
やがて、文覚は、
「伊豆にもはや長い月日となるが、佐殿《すけどの》には、つつがなくご成人かな」
と、炉《ろ》の前の佐々木兄弟を見くらべながら訊く。
盛綱は、いと無愛相に、坐っているだけのものなので、定綱はよけいに主《あるじ》へ気を遣《つか》って、いちいち慇懃《いんぎん》に、
「されば、配所のお住居も、いつか十七年とおなり遊ばし、至ってお健《すこ》やかに、為人《ひととなり》もまた尋常でいらっしゃいます」
「お幾歳《いくつ》になったか」
「二十九歳におなりです」
「もう、三十か」
文覚は、何やら唸《うめ》いて、
「早いものだのう。然《さ》るにても、平家の衆は、その間の順調と、繁栄に狎《な》れて、義朝の子の年を、数えてもおるまい。一人として、伊豆に佐殿のあることすら、今は杞憂《きゆう》に抱く者がなかろう。源家の輩《ともがら》にとっては、寔《まこと》に、勿怪《もつけ》の幸《さいわ》いともいうべきだ」
「…………」
「そうではないか」
「はい」
「お汝《こと》等、よい若人どもも、まさか草深い配所に、芋粟《いもあわ》を喰ろうて、生涯流人の給仕をするために、佐殿に付いておるわけでもあるまいが」
「…………」
どう答えたらよいか。この僧のいうように、そう六波羅《ろくはら》とて無関心でない。田舎の世間とて油断はできない。それにこの奇狂な僧には、専《もつぱ》ら「ことばあれども徳行の添わざる僧」という定評がある。信じていい者か、信じられぬ者か、定綱には見きわめがつかないのであった。
文覚は、世評を裏切らない――言葉多き僧であった。――相手の顔いろなどは問うところではなく、云いたい事を云っていた。
「佐殿にも、言伝《ことづ》てて給え。聞けば朝夕、読誦《どくじゆ》のおつとめ正しく、法華経何巻とか、手写の立願《りつがん》あるとか、噂にも承るが、つまらぬ仏道あそびは、京都への策か知らぬが、程々になすったらどうかと。――年も二十九と聞えてはもうそうしている場合でもあるまい」
独り説法のかたちである。そしていつか自身が頼朝であるかのような口吻《くちぶり》や熱をその中に交ぜこんでしまう。非常な熱力と頑固な信念は感じられるが、よく聞いていると、自他の立場や、自他の感情を全く混同して、何でも、我観我説を唯一のものとし、人にも説き、世にも強《し》い、それが意のごとくにならないところからまた、よけい常軌を逸《いつ》した言動になったりするふうの見える文覚であった。
「――いや、日常の行いなどは、いずれでもいいが、佐殿も、この片田舎に、十七年となっては、眼界までが、伊豆半国にとどまり世を大処から広く見る眼を、お忘れありはしまいかな。憂えられる。嘆かれる。――まずよくよく通じておかねばならぬのは都の事情、ひいて諸国の人心だが、それらの事は誰より聞き、いかなる心懸けで備えておらるるか」
「種々《いろいろ》と、有難うございます。立帰りましたれば、よく申し伝えまする。……日も暮れましたゆえ、ではこれにてお暇を」
定綱は、程よく、そう云って立ちかけたが、盛綱は兄に促されても、すぐ起とうとはしなかった。
初めからの眼をそのまま、文覚の顔ばかり不遠慮にながめていた。そして彼の多弁にあらわれる皮膚の上の熱情を、むしろ冷やかに見て幾分かの苦笑を唇《くち》の端に持っていた。
五
何か議論でも仕かけたそうな弟の眼《まな》ざしである。定綱はなおさらに長座を惧《おそ》れたらしく、文覚へはまたの日の訪問を約して、無理に盛綱を促してそこを出た。
「そこの柴折《しおり》を押すと、庫裡《くり》の横へ出る。山門を通って降《くだ》られよ」
文覚が後ろから教えていた。
奈古谷寺の境内をぬけて、兄弟は帰りを急いだ。宵空は、星雲にけむっている。野路まで出ると、闇のかぎり、虫の音だった。
「お案じなされて在《あ》ろう。思わず晩《おそ》うなってしまった」
定綱は、用事の多い夕方の怠りを、気にかけている風だったが、盛綱は、
「兄者人、兄者人」
と、呼びかけて、
「どうせもう宵のご用はすんだ頃。夜道に日は暮れぬ。ゆっくり参りましょう」
と、落着きこんで云う。
云われてみればそうでもある。配所まで道はまだ一里の余もあった。定綱もあきらめて、
「――しかし、殿へのおみやげばなしはあるな。殿にも、一度、文覚を訪ねてみようかなどと仰っしゃっておられたから」
「兄者人は、また参るというような事を、帰りがけに云われて来たが、殿をご案内するつもりか」
「お会わせしてもよい上人《しようにん》とわしは思う。近頃での傑僧ではあるまいか」
「盛綱は、感服せぬ」
「そちは初めから感情であの上人を視ておるからだ」
「それもある」
盛綱は、率直に肯定して、
「けれど、その嫌いを除いても、やはり嫌いだ。あれがわれわれ同様に、太刀を佩《は》いて、武人なら武人と、身を明らかにしているならよいが、僧侶のくせに、僧らしくもない」
「そこがいいのだ。僧らしくしている今の僧に、よい上人があるかしら」
「ある」
盛綱は、ことばを切って、
「都の黒谷《くろだに》には、法然《ほうねん》上人などがいます。近頃、法然房の念仏の声は、しんしんと田舎にまで聞えてきた」
「念仏、易行道《いぎようどう》、他力本願、そんな説法にそちは感心しておるのか。そちらしくもない」
「いや、わし達の行く道とは、まるで西と東ほどちがうが、広い衆生《しゆじよう》にとって、世の一方に、ああいう人が出てくれるのは、何か、他人《ひ と》事《ごと》ながら有難い。――文覚のごときは、なくもがなだ。われわれ武士でさえ、好んで修羅《しゆら》を求めているのじゃない。血なまぐさい世は、避けられるだけ避けたい。そこを超《こ》えなければ、次の世に出られない時だけ乗り超えるのが武士の修羅道だ。それを、あの僧の如きは、持って生れた痼疾《こしつ》のように、時を選ばず、所をきらわず、猛々《たけだけ》しいことのみ吠えておる。――覇気《はき》がありすぎて好きになれぬ」
「――が、きょうの言葉は、源氏びいきの余りに、ああ気を吐かれたものだろう」
「わし達、武人にとっては、あんな贔屓《ひいき》は、かえって有難迷惑、また、足手纏《あしでまと》いというものだ。殿をお会わせするなどという事は、盛綱は、止めたがよいと存ずる。――口に出して、平家を罵《ののし》るような狂僧の所へ、佐殿がひそかに行ったなどと聞えては、殿のお為にもよろしくない」
虫の音の闇に灯が見えた。いつか蛭ケ小島へ帰り着いていた。――と、配所の門に佇《たたず》んでいる被衣《かつぎ》の人影が二つ見えた。兄弟が足を竦《すく》めて見まもっていると、やがて、佐殿の室《へや》のあたりから、塗りの大笠に面《おもて》をかくした姫が忍びやかに出て来て、外に待っている二人の侍女らしい影に守られて草ぶかい夜露の道へ消えて行った。
「……あ。今のお方は?」
定綱は、弟の顔を見て、息をのんだ。
北条殿の女《むすめ》とは、いつも文使《ふづか》いにゆく盛綱にはすぐ分っていたが、何事でもないように、
「誰だっていいじゃありませんか――」
笑いながら彼は、兄の先に立って、配所の門へ入るなり、留守居の家人たちと、もう何か大声で、きょうの狩の獲物のない事を話していた。
政 子
一
初冬である。
田の刈入れも終っている。きょうのように、鮮《あざ》やかに富士の見える日ほど、風ももう冴々《さえざえ》と肌ざむい。
「ことしの田の刈入れは、どんなだったな。例年よりは、よい方か」
北条時政は、馬上から振向いて、嫡男の宗時《むねとき》、義時のふたりを顧みた。
「いや、今年も狩野川の出水があったり、ひどい暴風雨《あ れ》もありましたので、上作とはゆきませんが、まあ、百姓の困窮するほどでもありません」
宗時の答えだった。
父の時政はうなずいて視野へ面《おもて》を向けている。その間にも、父子三名に従う人馬の列から、乾いた道の埃《ほこり》が、うすく空へ舞っていた。
時政は五十ぢかい男ざかりで、骨ぐみの頑健なことは、息子たちより勝《まさ》っていた。眉毛が濃すぎて、下賤《げせん》にさえ見えるが、眼のくぼの眸は、一くせあるものを持っている。――それと何といっても屡《しばしば》、京都へ出て、中央の事情や知識と接しているので、この田舎にその風貌を見れば、どこか垢抜《あかぬ》けもしているし、武骨な顔にも知性の働きがある。
「もう間近です。お館の森、狩野川の水、宿場の屋根。はやあれに見えて来ました」
宗時は、指さした。
さぞ、父の眼も、それが懐かしかろうと思われたからである。
「むむ。ウむ」
時政は、うなずく。
見えるかぎりの山河は自分の領地だった。遠く、平貞盛からの末裔《まつえい》として、伊東の伊東祐親と、北条の北条家とで、その勢力は二分していると云ってよい。子はあり、郎党は強し、一族の不和もまずないし、田の刈入れも年々無事だし、今のところ、京都の清盛入道と、六波羅への覚えさえよければ、家門の安泰は保証されている。――自分からより以上を望んで、他の豪族との境をさえ侵《おか》さない限りは、彼の不惑《ふわく》をこえた将来は悠々と、彼の思うとおりに送れよう。
彼にも、老後の計はある。そろそろそれに就いても、考えていた。その一端が、長女の政子の縁談となって、思いがけなく、こんどの旅の途中で、下話《したばな》しも纏まっていた。
彼は、先頃まで京都に在って、大番《おおばん》を勤めていた。その任期も終ったので、今は久しぶりに国許《くにもと》へ帰って来たところだった。息子たちは、その父を出迎えるために、早朝から三島まで赴《おもむ》き、健やかに帰って来た父の姿を囲んで、家人や荷駄の行列に交じって、いそいそ引っ返して来たのである。
「政子は、変りないか」
他のむすめ達もいるのに、時政の口から、特にその名だけが出たのは、旅先で纏まった縁組のはなしが、案じるともなく、それ以来、常に胸にあるからだった。
「はい、元気です」
宗時がいうと、そのうしろの黒駒の上から次男の義時が、
「元気すぎますよ。父上がいないので、毎日、奥の局《つぼね》の賑《にぎ》やかな事といったらありません。それでなくても、陽気なほうですからね」
と、つけ加えた。
――そうか、そうか。時政はそれで安心なのである。頷きながら笑っている。幾歳《いくつ》になっても、子どもは皆、子どもに見えるのだった。
けれど、政子にだけは、その観方が少しこんどの下向の途中から変っていた。旅行中に一緒になった山木判官兼隆《やまきはんがんかねたか》の妻に、彼女をやろうと約束しているからである。
父親がむすめに対して、それを一個の女として見直すのは、誰しも、嫁入りばなしの時からであった。
二
旅装を解いたその日は、わけもなく暮れてしまい、それからの数日も、一族の来訪やら、留守居の用務を訊ねたりなどして、時政はまだ家庭の父らしく寛《くつろ》ぐ暇《いとま》もなかった。
――が、ようやく、その小閑《しようかん》を得た日であった。彼は、息女《むすめ》たちの局《つぼね》へ来て、京都の土産物の数々を披《ひら》き、息女たちの喜びをながめて、彼も他愛ない半日をすごしていた。
(北条殿はよいお子持で――)
とよく人にも云わるるとおり、時政はまだ五十もこえないのに、妙齢《としごろ》のむすめ達が三人もあった。
十六、十八の姉妹《きようだい》と、それに先妻の子でちょうど二十歳になる長女とがある。そのいちばん姉が政子だった。
容貌《きりよう》は、親の慾目で見ても三人とも、そう人並み優《すぐ》れたほどでもない。ただ政子だけは、幾ぶん亡き先妻の容色を偲《しの》ばせるものがあった。
貌《かお》の異なるように、政子は、二人の妹とは、気性も甚だちがっていた。自分だけ母のちがうという事を常に心においているせいもあろうが、よく身近の侍女《こしもと》たちを操縦《そうじゆう》し、今の母の機げんを損なわず、妹たちからも、姉君として尊敬をうけている。
しかし、父の時政は、賢《さか》しくて美しいこの政子を、最も重荷に感じていた。政子の気もちを汲《く》めば、嫁ぐなら都の男へと念じているにちがいないと、その知性や日常の好みに照らしても、親の眼から察しるに難くないからであった。
恥ずかしくない家がらで都会の子弟とあっては、伊豆の片田舎からわざわざ妻を娶《めと》ろうなどという聟君《むこぎみ》は、まずないと云ってもよい。豆相《ずそう》の近国でこそ、北条殿の息女といえば、どんな深窓の名花かと、見ぬすがたを、垣間見《かいまみ》にでもと、あこがれる若殿輩《わかとのばら》もあるが、佳麗な容色は、巷《ちまた》にもこぼれているような京都の公達《きんだち》などからいわせれば、
(瓜《うり》の花や、豆の花では、どんなに綺麗といっても、土臭かろう)
と、目にもくれる気風ではないのである。殊に、近頃のように爛熟《らんじゆく》した中央の文化と小役人までが皆、平家の係累をひく者に満たされて、華美に過ぎてむしろ繊細《せんさい》なもののみを病的に愛する官能には、北条家のむすめ達など、一人としてそれらの都人《みやこびと》の好みに適《かな》うものはいない。
――と云うて、政子の性情や好みは、伊豆、相模《さがみ》、武蔵あたりの近国の土豪の息子では、嫁ぐ心もないらしいのであった。彼女は、自分の聡明と美貌とを、誰よりも大事に持っていた。また、北条家のむすめであるという名門の誇りも、父の時政以上、ひそかに高く持っているふうもある。
ふた口めには、
「坂東武士ぞ」
と、それのみを剛毅《ごうき》に持って、知性に乏《とぼ》しく、武骨と精悍《せいかん》ばかりで、まるで土から生え出たようなのが多い土豪の間には、彼女の心をひくような殿輩は、そういう点でも、見あたらなかった。
二十歳《は た ち》といっては、もう女の春は過ぎかけるように、今の世間では怪しみさえするものを、なお、彼女が嫁《とつ》がずにいるのは、そんな理由からであった。
父の時政が、もっと負担にしているのは、余り容貌《きりよう》のよくない下の妹たちだったが、それらを他家へ嫁入らせるにも、まず一番上の政子を嫁がせるのが、もう急を要するほどな先決問題であった。
「目代《もくだい》の山木判官様から、ご書面のお使いでございまするが」
折ふし小侍が、時政の手許へ、書面を齎《もたら》して来たが、時政は、それを機《しお》に、
「何。山木殿から。――彼方《あちら》へ持ってゆけ。いずれご返辞が要ることじゃろう」
あわてて息女《むすめ》たちの局《つぼね》を去って、自分の居室へ移った。
三
時政から返書をうけた山木判官の使いが、俗にこの辺の土民が「御所堀内《ごしよほりうち》」と称している館《やかた》を出て、そこの堀橋を越えて帰って行った頃である。――時政は妻の牧《まき》の方《かた》へ、
「先からこのように挙式を急いできたが、山木兼隆なら政子の聟《むこ》としても恥かしくはあるまい。もう年明ければ、彼女《あ れ》も二十一。自分でもそろそろ焦心《あ せ》ってもおろうから、こんどの縁談《はなし》には、否やはあるまいと思う。……ただ、婚儀の準備だが」
と今、山木兼隆から来た手紙を示し、にわかに、その日取やらまた、妻の意見など、同時に求めていた。
後添《のちぞ》いの牧の方は、当然、義理の仲の政子へ、わが子以上の親心をもって臨《のぞ》もうと努めていた。
「目代の山木様なら、よろしいご縁組とぞんじますが、もうそんなにまで、お進みになっているお縁談《はなし》なのでございますか」
「京都から帰る途中、山木殿と一夜、旅舎で落合った折、何かのはなしから、政子のうわさが出て、山木判官には、前々から密《ひそ》かに政子を妻にと望んでいたという述懐だ。――然らば、妻につかわしてもよいと、即座に、取極めたはなしなのだ」
「……まあ。でははっきりと、お約束なされましたので」
「なにをいう。帰るとすぐ、そちの耳へも入れてある筈」
「けれどもそんな急のおはなしとは、思いも寄りませんでしたから」
「では、どんな事と、思うていたのか」
「折を見て、そっと、政子の胸を聞いておけというような……仰せつけかと存じておりました」
「好きか、嫌いかなどと、彼女《あ れ》の胸を、いちいち訊いていたひには、そのまに、妙齢《としごろ》も過ぎてしまおう。そちは義理の仲とて無理もないが、わしが少し甘えさせ過ぎた嫌いがある。こんどは訊くにも及ばん。父の眼で取極めた聟だと、云い渡せ」
「でも、女子《おなご》の一生は」
「だから急ぐのだ」
「でも……。人なみ優れて、先の先まで、考えている娘でございますから、無下《むげ》に好まぬ先へ嫁《とつ》がせても」
「嫁《ゆ》けば、後から好きになるものだ。――どこへ輿入《こしい》れしようと、親の許にいるようなわけにはゆかぬ」
「あなた様から、仰っしゃっていただきとうぞんじます。わたくしから申し告げても、もしこんどの縁談も気がすすまず、種々《いろいろ》と、泣いてなど、処女《おとめ》心《ごころ》を申されると、女は女の気もちに組《くみ》して強《し》いて嫁《ゆ》けとも云われなくなります」
「なんだ……?」
時政は、すこし怪訝《いぶか》って、
「そういうお前からして、この縁組には気のすすまぬ容子ではないか」
「そんな事はございません」
「はての? ……。何か、わしの留守中に、政子の行状に、変ったふしでもあるのではないか」
「いいえ」
「では、なぜ不服か」
「決して、不服などと」
「真っ先に、そちなどが、歓んでよいはずなのに……その当惑そうな顔いろは何事だ。……いや、何か、わしに秘《かく》している事があるな」
「滅相《めつそう》もない」
「いいや、そう見える。義理の子ゆえと庇《かば》いだてなどする事は、かえって彼女《あ れ》の為にもよくないぞ。良人のわしへも、それが貞節などと考えたら大間違いだ。……よしよし、お前にはもう訊ねん。政子の兄を呼べ。宗時をこれへ呼べ」
時政の声は、勢い大きくなって来た。やがて、総領の宗時は、呼ばれて、父の前に坐った。――そして父の難しい顔いろと、義母《は は》の容子を見くらべながら、
「何か、ご用ですか」
と、軽く訊ねた。
四
「そちに訊くが――」
「はい」
「わしの留守中に、政子に何ぞ変ったことはなかったか」
「変った事と云いますと……?」
「たとえばだな」
時政は、父として、言い難そうに、ちょっと口を歪《ゆが》めた。
「――妙齢《としごろ》だからな、もはや彼女《あ れ》も」
「あ。妹の行状などで」
「そうだ」
「――義母《は は》上《うえ》、その事に就いて、何かあなた様からも、おはなし申し上げたのですか」
宗時は、あっさり云った。
「……い、いいえ」
牧の方は、困った容子で、微《かす》かに顔を振った。時政は、妻の立場に、同情もしていたし、彼女がいるのは、うるさく感じたので、
「お前はいないがよい。しばらくあちらへ退がっておれ」
と、退けた。
総領と二人きりになった。時政はよけい厳格な顔を示して宗時に問《と》い糺《ただ》した。
「実はな……」
「は」
「今も牧と相談していたところだが、山木判官兼隆から、このたびの下向中、政子を妻にと望まれてな――約束を交わしたわけだが」
「そんなおはなしですな」
「聞いたか」
「義母《は は》上《うえ》からちょっと」
「それ、その通り、十分に弁《わきま》えおりながら、よくも聞かぬなどと、曖昧《あいまい》な答えのみしておる」
「ご無理はありません。義母上にも、政子へは、人知れぬお気遣《きづか》いがございますから」
「そちなら、何なりと、答えられよう。――どうだな、わしの取極めた縁組は」
「ちと、早まりましたな」
「早まったとは」
「妹は、嫌だと申すにちがいありません。――父上のお眼には、どう見えるか知れませんが、そういう点は、政子はふつうの女子《おなご》と変っているほうです。はっきり云います。私達へは」
「ふウむ」
「山木の目代兼隆などは、妹の気に添わぬ男と極まっておりましょう。酒くせの悪いのは通り者です。中央へは受けがよいそうですが、目代を鼻にかけて、偉《えら》ぶる構え方は、われわれでも、鼻もちがなりません。郷民の評判とても、勿論よくないし」
「そう人間の瑕《きず》ばかり数え立てたら、誰にせよ、限《き》りがない」
「父上とは、ご気性が合いましょう。才人には才人ですから」
「では、そちもこの縁組には、同意でないのか」
「私より父上よりも、肝腎《かんじん》な当人が、嫁《とつ》ぐ心になりますまい」
「どうして政子の胸を、そちはそのように云い断《き》れるのか」
「では――義母上からも云い難いでしょうし、政子に云わせるのも酷《むご》い気がしますから、私から、何もかも申し上げて、同時に、私の意見も聞いていただきましょう。――実はその」
と、宗時が、改まると、時政の顔いろは、蔽《おお》いようもない困惑にもう曇っていた。――山木判官に与えた約束を、今さら反故《ほご》にしようもないからである。
「待て待て、宗時」
あわてて彼は顔をふった。われながら頑迷《がんめい》には思われたが、時政は、厳父の威《い》を、振りかざさずにいられなかった。
「断っておくが、このたびの縁組は、いつものはなしとは違う。時政が眼鏡をもって、山木判官兼隆ならば、多少、瑕《きず》があろうが、家門の為にも、また、政子の行末にもよかろうと、婚儀の日まで年内にと、すでに内々の支度も運んでいる事なのだ。――今さら、破談とはわしとして云えぬ。――それらの事も弁えて物を申せよ。政子の吾ままや、お前たちの若い考えを、余り云い張られては困るのだ。よいか、わかったか」
五
語ろうとする前に、父にそう釘を打たれてしまうと、宗時は、何も云えなくなってしまった。
若い情熱と純潔をもって、ひそかに誇っている彼は、父の時政が、何をするにも――わが娘《こ》の結婚を考えるにさえ――すぐ閥族《ばつぞく》の勢力扶植《ふしよく》へ持って行ったり、政策の具にしたがるのが、不快でならなかった。そしてその反動は、いつも妹への同情となった。
さっき、山木判官の人物を、俗才《ぞくさい》に長《た》けた官僚臭の男――といったのは、多少、父へもあてつけて云ったのであるが、時政は、策の多い自己の性格が、自己の人格を少しでも下劣にしているなどとは、毛頭思ってもいないふうであった。
むしろ、そういう風に、心をくだいていることが、親の愛であるとしているかの如くに見えた。
「宗時。……口を噤《つぐ》んだまま、何を、気に入らぬ顔しておるか」
「でも、今のおことばは、もはや私が、何を申す余地もありませんから」
「然らば、わしが取結んだ縁談を、そちまでも、不承知というか」
「私が嫁ぐわけではありませんから、私に異存はあろう筈もございません。けれど、政子は、おうけ致しますまい」
「どうして?」
「政子には、政子が秘《ひそ》かに想うている人がありますゆえ――」
宗時は、自分の一言に、父の顔いろがさっと変ったのを見たが、妹の身になって遣《や》るつもりで、云って退けた。
「――それは、今でこそ、佗《わび》しく暮しておられますが、さすがに私たちが見ても、どこか違っている源家の嫡流《ちやくりゆう》の佐殿《すけどの》です。――あの頼朝殿へ、妹は、嫁ぎたがっております」
「…………」
ややあってから、呻《うめ》くように、時政は息子の宗時へ、
「……ほんとか?」
と、乾《ひ》からびた声を密《ひそ》めた。
宗時が、臆面なく、近ごろ頼朝と妹のあいだに、眼につくほど恋文のやり取りや、忍んで会う夜もあるらしいなどと語ると、時政の面色は、何とも名状しようのない昏惑《こんわく》と憤りに、つつまれた。
宗時は、父の怒りが、そのまま政子や義母《は は》にかかるのを惧《おそ》れて、後から機嫌をとった。
「――山木殿のほうは、何とか、この宗時から、体《てい》よく断りましょう。そのほうはご安心下さい。そして、どうか政子の望みをいれて、佐殿へ彼女《あ れ》をお遣《つか》わしくださるように兄の私からも、この通りおねがいいたしまする」
両手をつかえて、宗時が、妹に代って云うと、とたんに、時政は、ぬっくと立って、
「な、なにを、そちまでが、痴《たわ》けたことを云うかっ。――佐殿とは、そも何者か、弁えてものを申せ。六波羅の罪人、配所の流人、そんなものに、この時政のむすめが嫁《や》れるか。――しかも時政は、太政入道殿より、それが監視をさえ仰せつかっているものを……わが息女《むすめ》を、その流人の妻などに……ば、ばかなっ、どう頭が狂おうが、そんなばかな事ができるものか、できぬものか、そちにも知れておろうが」
唾《つば》をとばしながら、彼は宗時の頭を睨《ね》めつけて云った。しかし怒号《どごう》しただけでは、なお、当惑は除《と》りのけられなかった。時政は、庭へ出て行った。そして黙々と山林を逍遥《しようよう》していたが、やがて、むすめ達の局《つぼね》へ、小《こ》舎人《とねり》を走らせて、
「大殿がお召しです。政子様お一方で、あちらまで、お運び下さいますように」
と、迎えによこした。
六
政子は、鏡に向って、髪を梳《くしけず》っているところだった。
呼びに来た父の使いへ、
「はい」
と、頷《うなず》いてからも、なお、落着きこんで、鏡に向っていた。
ふたりの妹は、帳《とばり》を隔《へだ》てて、ひそやかに寄り合っていた。ひとりは文机に向い、またひとりは、先頃父が都から土産《みやげ》にと齎《もたら》して来た絵巻物の絵詞《えことば》を、頬づえついて読み耽《ふけ》っているのだった。
――が、今、小舎人が来て、政子へ告げて行った声を聞くと、
「……お姉君だけ?」
「そう。……そう聞えたが」
「お叱りではないかしら」
「どうであろう」
急に、不安に襲われて、末の妹は、そっと、帳のすきまから、政子の容子を、のぞき見した。
「お姉君は、どんな顔していらっしゃるの……。恐ろしそう?」
黙って、末の妹は、首を振った。そして、姉の耳へ、小さな声で云った。
「平気。――ちっとも」
そのまに、政子は庭へ降りた様子だった。侍女を退けてただひとりで、庭園の奥へ笑ってゆく姿が見えた。
母違いの妹たちも、政子とは決して不和ではなかった。
さっき、父の部屋で、総領の宗時から、留守中の政子の行いを聞いて、父が激怒していたことは、もうここへも分っていた。政子も知っていたし、ふたりの妹も知っていた。
「私たちには、お優しい父君が、あのようにお怒りなされたことはない。――それに、わざわざお山《やま》の方から姉君だけを呼びにおよこしなされた。何か、きついご折檻《せつかん》でもなさるおつもりではないかしら?」
妹たちは、廊を走って、母のすがたをさがし歩いた。
牧《まき》の方《かた》は、総領の宗時と、一室の内に、対《むか》い合って何か憂いに沈んでいた。もちろん政子の問題に就いてである事はすぐ分った。
「姉君が、お山のほうへ、おひとりで召されて行きましたが、誰も行ってあげないでいいでしょうか」
妹たちが、そこへ告げると、宗時は起って、
「父上も、お山か」
「ええ、長いこと、庭の彼方《あ ち》、此方《こ ち》を、おひとりで歩いていらっしゃいましたが、そのうちに、お山の大日堂の縁に、お休みになっているふうでした」
「そうか。わしが行ってみる。義母《は は》上《うえ》も、其女《そなた》たちも案じないがよい」
すぐ宗時も庭へ出たが、牧の方はそのうしろへ、くれぐれも、短気な言を吐かないように、また、父の時政を、あれ以上、怒らせないようにと、頼むばかりな口吻《くちぶり》で云った。
「お案じなさいますな。――けれどどうしても、一度は知れずにいない事です。父上のお辛い立場も分りますが、所詮《しよせん》、こうなった上は、何もかもお耳へ知れたほうが後の為にもよいでしょう。――すべては、この宗時の科《とが》ですから、宗時が責任を負うつもりです」
彼もやや昂《たか》ぶっている。そう云うと大股に庭を歩いて行った。後ろから見てもその耳は紅かった。
彼にすれば、これは妹の恋愛だけの問題でもないし、家庭の一争議でもなかったのである。宗時の胸には、もっと大きな時代の波が打っていた。それへ乗り出そうとする壮図の纜《ともづな》が、まだ岸から解かれずに、ただ張りつめていたのであった。
七
大日堂は、御所之内の丘にあった。時政の父時家の代に、守山の願成就院《がんじようじゆいん》から、ここの園内へ移したものである。
何か、重大な考え事でもあると時政はよくここへ黙想に来る。ここに立てば、父祖の遺業の地は一望に見られる。また、大日の像を拝すれば、物事に当って、すぐ赫怒《かくど》し易い自分の短所が、
――そうではないぞ。
と、宥《なだ》められる心地がする。
「お父様。お召でございましたか」
そこへ登って来た政子が、自分の前にあるのも知らずに、彼は、御堂のぬれ縁に腰かけたまま、拱《こまぬ》いて俯向いていた。
「……オオ」
と、時政は、充血した顔をあげた。素直なむすめのやや恟々《おどおど》している眸を見ると、彼は可憐《いじら》しくもなって、
「政子か。ここへかけるがよい。……何、べつにこれまで呼ぶ程の用でもないが、誰もおらぬ所のほうが、其女《そなた》もよかろうと思うてな」
「何か、わたくしへ、お訊《たず》ね事でも……?」
「嫁入りのことだが」
「……はい」
政子は父の下《もと》へ、そっと腰かけて、足もとの散《ち》り紅葉《もみじ》を見ていた。
「山木兼隆を知っておろうが。目代《もくだい》の山木判官を」
「ぞんじ上げておりまする」
「ひとかどの男だ。六波羅のお覚えも至極よい。従って将来にも富む人物と見こんで、其女をつかわす事にした。異存はなかろうな」
「…………」
「なかろうな」
時政の眼には、親の威《い》と、愛情とが、矛盾したまま、ぎらぎらしていた。むりやりにでも、自分の意志に靡《なび》かせてしまおうとする男親の姿が、時経つほど、逞《たくま》しく見えて来た。
「返辞は……どうじゃな……。父の眼をもって選ぶむすめの良人、末悪しかれと祈るわけはない。……嫌ではあるまいな」
「…………」
「異存があるか」
「……ありません」
吐息と共に、政子は云った。声は微《かす》かであった。蒼白に近い面《おもて》をあげて見せた。時政は反対に、その瞬間、慈父の顔を他愛なくくずして、
「お。嫁《ゆ》くか」
と、声を弾《はず》ませ、
「それで、わしも、ほっといたした。嫁《とつ》いでくれるか」
「仰せつけならば」
「よう、得心してくれた。そなたも妙齢《としごろ》。いや後の二妹《ふたり》を嫁入らせるにも、先ず、そなたから先に定《き》まらねばなるまいし」
「その事も、悩んでおりました。……ついては、おねがいがございます」
「むむ。何か」
時政は、膝をすすめた。
案ずるより生むが易いといった体《てい》で、先刻《さつき》からの憂いが深刻だっただけに、彼は相形《そうぎよう》をくずして、子に甘い半面をむき出しに見せていた。
「嫁ぐと、心をきめましたからには、少しも早く嫁ぎとうございます。……それと、わたくしは、きょうまでも、なおお父上様にご苦労ばかりかけて来たように、生れつきの吾儘者ですから、嫁いでも、この吾儘だけは、おゆるし下さいますかどうかを、もう一度、山木判官様へ、念を押して、お訊ねおき下さいますように」
すると、時政は、自分が先の聟でもあるように、手を振って云い断《き》った。
「いや、その事は、親として、わしからも幾度も云った。――事実そなたは、吾儘でない方ではないからな。――が山木判官が云うには、そこがむしろ、ご息女のよい所、大まかな明るいご性質と、わし以上、そなたの短所も承知の上のはなしだ。なお、念はおしておくが、気に懸くるには及ばぬ。……ははははは、嫁君とても、生ける観世音ではないからな」
八
時政は、腰を上げた。
さがしても苦労らしいものはない幸福な父親という顔になって、
「政子。もどろう」
と、歩み出した。
政子は、まだ御堂の縁にあった。俯向いていたが、
「お後から参りまする」
「風邪ひくな。陽が陰ると、寒うなるぞ」
「はい」
「来ぬか」
「お詣りしてもどります」
時政は、にこと頷き、館の屋根と広い庭を下に見ながら小道を降りて行った。
父のすがたが、樹々の陰へ沈んでゆくと、待ちもうけていたかの如く、御堂の横から総領の宗時が、
「妹っ」
と、駈け寄るなり、政子の手くびを、痛むばかりつかんで云った。
「お許《もと》は、お許は一体どうするつもりだ。山木判官へ嫁ぐ気か。ええ、政子っ、おいっ……」
「お静かになさいませ」
政子は、昂《たか》ぶる兄をたしなめて、
「お父上の立場もあります。親のいいつけでもあります。義母《は は》や異母妹《いもうと》たちの気持もあります。……こんどは嫁《ゆ》くときめました」
と、涙も見せずに云う。
宗時は、この妹が、こんな問題にぶつかりながら、自分に計りもせず、父へあんな承諾を与えたのが、憤懣《ふんまん》に堪えなかった。案外なほど、政子が冷静なのを見、なおさら、その澄んだ顔いろが、妹ながら、憎かった。
「ふうム、ではお許は、佐殿《すけどの》を欺《あざむ》いたのだな。遊女のように恋を弄《もてあそ》んで来たのか。それで心が傷《いた》まぬのか」
「ちと、お口が過ぎましょう。いかにお兄上なればとて」
「なにっ」
「政子をそんな女子《おなご》と思し召してか。……口惜しゅうございます」
「口惜しいのは、この兄だ。お許は、父の立場と云ったが、宗時の立場は何となるか。――いや、自分の妹だ、わしなど愚痴《ぐち》すら云えまい。だが、そなたと佐殿との仲を庇《かば》って、行末の大事まで、秘かに語らい合うて来た仲間の殿輩《とのばら》はどうなるか」
「政子も考えておりまする」
「どう? ……どう考えてか」
「落着いてください」
「ばか、落着いている」
「そんな癇《かん》ばしったお声に、わたくしの考えている事は申されません」
「当りまえ。これが癇ばしらずにいられるか。自分の妹とはいえ、次第に依っては、お許を首にしても、誓いを交《か》わした殿輩に対して、詫びをする覚悟でおるのだ。すこしは、声も尖ろう、眼いろも猛々《たけだけ》しゅうなるは、むしろ兄の愛情というものだ」
「……ホ、ホ、ホ」
政子は、笑って、正直な兄を愍《あわ》れむように見た。
「お兄様。あなた方の遊ばしているお企《くわだ》てを見ていると、お心だけは雄々しくても、為《な》さる事は、稚《おさな》い者の火《ひ》悪戯《いたずら》のようです。すぐにそう事を壊《こわ》すことばかり勇ましがっていらっしゃる」
「賢《かしこ》げなこと申すな」
「いいえ、貴方ばかりではありません。ご一味の殿輩《とのばら》は、みな若人なので、若気は常といいながら、それにしても余りに」
「おのれ、ではこの兄や、友達の殿輩は、みな乳くさいと云うのか」
「そう思います」
「云ったな!」
「その通り、ご短気ではありませんか。それでは、政子がおはなししても、むだ事でしょう。――もう一夜、わたくしを、佐殿《すけどの》に会わせて下さい。あのお方に、何もかも、お告げしておきます。お兄上様始め、他のご一味は、佐殿のお口からお聞き下さいませ。それまでは、たとえ兄妹《きようだい》でも、私の心の底は、誰にも云いません。誰にも明かされません」
若《わか》い群《むれ》
一
いちめん芒《すすき》の穂《ほ》であった。函南《かんなみ》の裾野《すその》は弛《ゆる》い傾斜を曳《ひ》いて、その果ての遠い町の屋根に、冬日は舂《うすず》きかけていた。
「誰か通るが……?」
ひとりが、芒の中から首をのばして見まわした。
「樵夫《きこり》だ」
首が沈む。
銀いろの戦《そよ》ぎが渡ってゆく。――風の後を、老鶉《おいうずら》が啼《な》いていた。
「――で。佐殿《すけどの》には、何とお云いなされたか」
仁田《につた》の住人四郎忠常、南条の小次郎、天野遠景《とおかげ》、佐奈田《さなだ》の余一といったような近郷の若人《わこうど》輩《ばら》であった。およそ十四、五名もいるだろうか、芒よりも低く、車座になって、声を密《ひそ》め合っているのだった。
「盛長、おぬしから話してくれい。――宗時からは、妹の事、云い難いところもあろうで」
土肥《どひ》次郎実平《さねひら》が云う。
その側には、北条の総領宗時。そして、配所の家人で、夫婦して常に頼朝の世話をみている安達藤九郎盛長とが並んでいた。
他の若人輩とは、やや離れて、対《むか》い合《あい》の形になってである。
形の上では、そう三名が、この青年達の会合では、首謀者といった格に見えた。
――北条殿のむすめと、山木判官とが、近いうちに結婚するという噂も、隠れないものとなって、冬も十一月の半ばという頃だった。
かねて、政子の希望としてもう一度、嫁ぐ前に頼朝に会いたい。そして自分の本心も併せて佐殿まで告げておく。――という事が、ゆうべ実行されたので、今日は、その佐殿が、
(彼女と会って、彼女から何を打明けられたか)
を聞こうとて、こうして集まった腹心の友だちどもであった。
友だちといっても、豆相《ずそう》の郷土を共にするこの若い友の群《むれ》は、平家の公達《きんだち》などのやっている恋の戯《たわむ》れだの歌舞宴遊《かぶえんゆう》だのという生温《なまぬる》い青春を倣《なら》おうとはしなかった。もっと逞《たくま》しい慾望を、その強健な体に持って、半島以外の天地へ伸び上がろうとしているのだった。
いや、もっと率直に云えば、平家を追って、自身、平家に代ろうとしているのである。しかし、それに代って、それ以上な時代を創り上げてみるだけの抱負や理想は皆持っていた。徒《いたずら》に乱を起こして天下の簒奪《さんだつ》を目企《もくろ》んでいるとは決して思っていない。自分たちの出る事が、百姓万民の幸福となり、朝廷のご宸襟《しんきん》をも泰《やす》んじ奉る唯一の道であると固く正義づけての上の信念であった。
土着の地侍というに過ぎない者もいるが、このうちの北条宗時はいうまでもなく、土肥次郎実平《さねひら》といい、天野遠景といい、仁田四郎忠常といい、みなこの地方では家系の旧い家がらの子弟だった。
いつとはなく、この若い群は、若い頼朝を中心に結びついて、
(時しあらば――)
と、世のうごきを、見まもっていたものだった。
で、佐殿の事とあれば、彼の浮気な恋の後始末まで、この若い群が陰になってした。とりわけ、北条殿のむすめとの関係には、自分たちの目的をも結びつけて、その恋を繞《めぐ》っていた。――なぜなら、ここで旗を挙げる場合、どうしても北条家の勢力は無視できない。時政を抱き込まなければ、手も足も出すことはできない。
その時政をうごかすには、総領の叡智《えいち》と情熱を以てしてもだめである。郷土の若人輩が束になって説いたところで、若い、と一笑されるに過ぎないであろう。
が、子には甘い時政、わけて政子には目のない親だった。政子と佐殿《すけどの》との間に、二世の契《ちぎ》りが生じれば、嫌応《いやおう》なく、平家へ反《そむ》いて起ち上がりもしようかと、彼の総領宗時を始め若い群は考えて、配所と北条との通い路を、密《ひそ》かに守って来たものだった。
二
二世までとも見えた政子と頼朝との誓紙《せいし》が破られた。政子は、近いうちに、山木判官に嫁ぐという。
――捨てて置くのか。
当然、騒ぎ出したのは、この若い群だった。問題は、佐殿の恋愛沙汰ではない。佐殿は元より浮気者だ。そんな事を歯牙《しが》にかけているのではない。
――大事の破綻《はたん》だ。
――政子どのは、われわれの企《くわだ》てを知ってもいるし。
――目代の妻となれば。
と、当然な杞憂《きゆう》と憤《いきどお》りから発した狼狽であった。
宗時は、個々に訪ねて、今一度、妹と佐殿と会わせた上で、真実を闡明《せんめい》する。もし飽くまで妹の変心であったなら、必ず妹の首級《しるし》を以て各へ非を詫びよう。
そう宥《なだ》め廻って、辛《から》くも、この数日を事なく過して来た今日の会合であるが――宗時は今、政子の首を持って来てはいなかった。
「では、わしから話すとするか」
藤九郎盛長は、少し遠慮がちに、こう断ってから、一同へ告げた。
「ゆうべさる場所で、政子どのの望みにまかせ、佐殿と密かにお会わせ申した。――その後で、佐殿から承った姫の考えとは、次のような仔細でござった。……お聞きください」
以下は――
藤九郎盛長が、政子と頼朝に代って、腹心の人々へ向って打明けた「嫁ぐ本心」なるものである。
* * *
自分が、あの縁談に、いやとかぶりを振ったら、父の時政は、嘘をいった事になる。向後、山木判官から、どう誹《そし》られても、武士らしい言を吐けない者になる。お苦しいに違いない。
それと、義母《は は》や義妹《いもうと》たちに対する父の苦衷《くちゆう》もある。もっと、大きな理由には、目代の山木判官とは、当然、不和になり、ひいては何かと、うるさい風聞《うわさ》が京都へ伝わるであろう。
彼女はそういうが、より以上な理由としては、政子自身が一刻もはやく、頼朝のそばへ行きたい事だった。
彼女を知る人たちは、誰もみな彼女の聡明を挙げるが、彼女も恋をすれば闇夜《あんや》をも忍んで配所の人へ通うだけの盲目にもなり情熱にも燃やされる女性ではあった。
いや、境遇や年齢からも、政子の生きがいは、今となっては、唯一人の男性へひた向きにかかっていた。しかもその男性は、彼女の理想に最もかなった高い家門の嫡流《ちやくりゆう》である。風采も土くさくなくて、貴公子の香りがある。武事ばかりでなくよく風月を解しもするし、志もまた大きい。
政子の心が囚われたのは、それだけを男が具《そな》えているばかりでなく、そうした貴人の胤《たね》が、薄命な境遇にいる――という事だった。彼女は、頼朝の薄命にも恋したのである。そして兄の宗時から、
(あのお方を護り立てて)
と囁《ささや》かれた大事に対して、事実は、兄以上の情熱を彼女は抱いた。恋のみか、その大きな成功をも、政子は、深窓で考えていたのだった。
――だのに。
何で、山木判官へ嫁ごう。
嫁いで、その夜逃げる。
身を潜める。
父のせいにはならない。
父は、不埒《ふらち》な娘と、怒っていれば済む。そのうちに、余燼《ほとぼり》も冷めよう。
その頃、頼朝のそばへ行って、共に暮す。――当然山木方から挑戦の火の手があがろう。こちらも戦う。
絶好な口火だ。
世上へは、恋の紛争と聞えよう。京都も油断があろう。そのまに、大事の第一歩を踏み出して、同時に旗挙げを宣言する。
* * *
「叱っ……。人が来る」
盛長の話がちょうど終りかけた時である。見張の一名が、彼方の芒《すすき》の中から手を振った。
三
「目代の家人だ。山木の郎党が付いてくる」
見張の者から、二度目の声が伝わると、
「なに、山木判官の家人《けにん》が見えると?」
若人輩は、すぐ険しい目になって、太刀へ手を触れながら起ちかけた。
「起つな。――起っては先へ覚《さと》られる」
盛長も制し、宗時もあわてて共に制した。
「…………」
黙り合って、一同はまた、芒の中に蹲《うずくま》り合った。
夕風の渡る穂すすきの間から、彼方へ眼を送ると、なるほど、山のほうから降りて来る馬と人がある。
馬の上に揺られて来る顔は、夕雲に赤く映えて、その白い歯や無精髯《ぶしようひげ》まで明らかに見えた。
奈古谷寺《なごやじ》の配所にいた僧の文覚《もんがく》である。その前後について来る武士は、目代の役人らしく、何か、馬上へ話しかけたりしている。
「はてな、何処へ?」
「旅へ立つらしい扮装《よそおい》だが」
宗時や盛長たちは、怪しみながら見まもっていた。その間に、彼方の野路を斜めに、馬と人は過ぎかけた。
――と思うと、馬上の文覚が、ふと此方《こつち》を見た。馬の背からなので、屈んでいても、若人たちの首や背が眺められたものと見える。
「ちょっと待ってくれ」
文覚は、馬を降りて、馬と役人を置き残して、独りざわざわと歩いて来た。
「やあ」
恟《ぎよ》っとするような大声だった。ぜひなく、宗時も盛長も実平《さねひら》も立った。
「何してござった。北条どのの息子を初め、だいぶ元気な面々のお揃いだが、よもや女盗みの相談などではなかろう。……これだけの猛者《も さ》があれば、一郡は斬《き》り奪《と》りできる。一郡を得れば、一国の兵は手に唾《つば》して呼び起せよう。一国を占めれば、もはや八州を望むも難くない。……はははは、物騒だな」
何を笑うか。おかしくもない――と云わぬばかりな顔をわざと揃えて、若人輩は、文覚を黙殺していた。
日頃から、この若い仲間では、一人も文覚に心服していなかった。会った者から聞き伝えただけでも好きになれなかった。人を見れば豪語を吐く癖がある。地方の武人はみな無能のように誹《そし》り、都会人は蛆《うじ》のように云うのだ。そして青年を鼓舞《こぶ》する事が急で、余りに煽動に走り、青年に諂《おもね》るかの口吻《こうふん》が強すぎるために、かえって青年は、みな彼の配所の垣へ寄るのを嫌った。
けれど文覚は、それを淋しいとはしない。人を訪《と》わず、独りならば独りで暮しているだけだった。そしてたまたま路傍でも――今のように――人に会えばたちまち寄って来て、相手の気もちなどにこだわらず、云いたい事を云うのだった。
「起つさ、起たないでどうするか。自然の循環は廻《めぐ》って来ておる。自分等の細腕をながめたらやれまいが、天の運行を熟視《じゆくし》すれば、時は近いということがわかる筈だ。天文を説く予言者の言と同一に思ってはいけない。わしは地上の事を指しているのだ。都の有様を見ておるか。地方の豪族、庶民の声なき声を、よく耳をすまして聞いておるか。やるがいい、各は若い」
「…………」
文覚は振向いた。目代の役人が伸び上がって此方を見ている。彼はにわかに、自分の行先を思い出したように、
「では。……おさらば」
いつになく叮嚀《ていねい》に頭《かしら》を下げてから、
「実は、この文覚に対して、どう風のふき廻してか、都より赦免《しやめん》のお沙汰が届いたので、長らくお世話になったこの里を離れ、ただ今、都へ帰る途中でおざる。……遂に、お目にはかからなんだが、佐殿にも、よろしくお伝えありたい。やがて佐殿とも、広い天《あま》が下《した》にて、お目にかかる機《おり》が必ずあろう。そう文覚が信じておると、お伝えあれよ」
云い終ると、文覚はすたすた去って、待たせてある馬の側へ戻り、やがて芒野《すすきの》の果てに、その姿は、没してしまった。
四
落日の赤い靄《もや》のなかへ、黒い点のように遠く消え去った文覚の影を見送っているまに、若人輩の胸には、彼という人間に対する好悪《こうお》も感情も掻《か》き消えて、彼の残したことばだけが、妙に耳の底に残っていた。
去ってみれば何か淋しく、
「あの僧も一風骨《いつぷうこつ》ではあった」
と皆、惜しむもののように、野の果てを見まもっていた。
それから数日の後である。
この日の一群《ひとむれ》に、またべつな顔をも加えた若人の一団が守山の西麓《せいろく》、願成就院《がんじようじゆいん》の境内に寄りあっていた。
北条家の御所之内の地域とは、狩野川の引き水の濠《ほり》一重しか隔《へだ》てていなかった。
宗時も、その弟の義時も、その晩は来ていた。
この間の会合に見えなかった者では、三浦一族の和田小太郎義盛が、先頃、京都へ使いに上って帰って来たという三浦大介《おおすけ》義明の末子、義連《よしつら》をつれて見えていた。
「どんな状況ですか、近頃の京都《みやこ》の有様は?」
人々は、その義連を中心に、こよいの座を囲んでいた。
誰にもあれ、京都の消息を齎《もたら》す者があれば、若い群は耳をすました。蜂が蜜へ寄るように、新しい情勢の聞える周りへ集まった。
義連は、大勢の問《とい》に答えたり、近年の平家一門の横暴ぶりなどを、何かと例を挙げてはなした後で、こういう注意を一同に与えた。
「こんど父の義明に従《つ》いて上洛した折、ちょうど大庭景親《おおばかげちか》も、上洛中で、あちらで幾度か会い申した――その景親が、そっと父へ告げた事であるが、ある折、景親が東国の侍奉行《さむらいぶぎよう》上総《かずさの》介《すけ》忠清のところへ参ると、忠清の手許へ、駿河《するが》の長田《おさだ》入道から書状が上っていた由です。その書面には、近年、北条時政や、比企《ひき》掃部《かもんの》介《すけ》などの党が、ようやく成人した頼朝を立てて、謀叛の気運を醸成《じようせい》しているやに見うけられる、六波羅におかれても、ご油断はあるべからず――といったような長文の進言であったそうな」
「ほ。……長田が」
駿河にまで、そんな事がもう洩れかけていたかと、若人輩は、胆《きも》を寒くしたり、同時に、自分等の存在が、六波羅の神経へ触れ出したと知る事に、大きな血ぶるいと、団結の意を遽《にわか》に強めた。
「その手紙を、忠清から見せられて来た。こう大庭景親は、父へ云ったそうでござる。――恐らく東国の侍奉行たる忠清は馬鹿者に組したりして身を過《あやま》るなよと、暗に誡《いまし》めて見せたものと思わるる。三浦殿もお子持、一族に若気の殿輩《とのばら》もたくさんにおらるるから、ご帰国の上は、努々《ゆめゆめ》、そのような者へ加担せぬよう、お子達へも孫殿へも、篤《とく》と訓戒しておかれたがよろしかろう――と、景親は重ねて、父へ忠言いたした由でござる。それやこれ思い合せると、われわれの会合も、あまりしばしばは宜《よろ》しくないと考えられる。ここは一層自重せずばなるまいと思われる」
義連の意見に、誰もうなずいた。事実、最初のうちは四、五人に過ぎなかった若い群の会が、いつか三十人となり五十人となり、寄合には顔を見せなくても、
(お前方がやるならば――)
と、黙約の裡《うち》に、重きをなしていてくれる中年から老人格の土豪もすでに二、三はある。
この若い群が、大《おお》祖父《お じ》大祖父とよんでいる三浦大介義明など、その一人で、老齢すでに八十をこえていたが、孫たちに負けない元気で、こんどの上洛から帰って来ては、よけい反平氏の意を固めて、孫どもの行動を誡《いまし》めるどころか、
(春は、爛漫《らんまん》たるもよい。けれど春は春の一瞬で去れ。花園の塵《ちり》を一掃したら、夏の天下は、青々《せいせい》と若い者の腕にひきうけて、土も肥やし、樹々も刈り、天地の気を新たにしなければいけない)
などと激励していた。
しぐれ輿《こし》
一
昼間、時々、時雨《しぐれ》ていた。
――と思うと、雨の霽《は》れ間、かあっと、花嫁の部屋まで、明るい冬陽がさしこんだ。
十二月だった。
吉日と云おう。きょうは政子の嫁《とつ》ぐ日であった。凶《わる》い日を選ぶわけはない。
御所之内の館《たち》は、祝いに馳《は》せ参じた人馬で埋《うず》まっていた。
曇《くも》ると、それへまた、ざあっと白い時雨がそそぎかかる。
「よい雨、おめでたい」
「輿入《こしい》れの雨は吉と申す」
時政夫婦の前に出て、礼をのべて退《さが》る客はみな云った。
夫婦は、さすがに落着かない歓びにつつまれていた。客を客にまかせて、屡《しばしば》、花嫁の間《ま》を窺《うかが》いに行った。広やかな三間《ま》四間、ほとんど、絢爛《けんらん》な花嫁のしたく物で埋まっていた。柳、桜、山吹、紅梅、萌黄《もえぎ》などの袿《うちぎ》、唐衣《からぎぬ》などから、鏡台のあたりには、釵子《さし》、紅、白粉など、撩乱《りようらん》の様であった。
政子は、その中に立っていた。
侍女、乳母などに囲まれて、白い絹につつまれかけていた。
ちらと、振向いて、室《へや》の入口から見ている父の顔を見た。
「…………」
時政の顔は、いつか大日の御堂で見た折のように、歓びにばかり溢れていない。さびしい影が見える。
「……二十年」
政子は、自分の年だけの恩を思った。眼がうるんでくる。
さし俯向《うつむ》いてしまう。
時政も、茫《ぼう》と佇《たたず》んでいた。
すると、何かと手伝っていた下の妹たちが、
「父君は、きょうはここにいらっしゃってはいけません。あちらへ行っていてください」
二人して、廊の端まで、背なかを押して行った。
「ははは。いいじゃないか。はははは、よいではないか」
子どもに甘える気もちで、押されて行った時政は、独りぽっち、そこへ置かれると、気の弱いものが、ぽろりと、瞼からこぼれかけた。
――がすぐ、その眼は、御所之内に満ちている一族、近郷の諸侍などの、馬いきれ人いきれの上へ移った。何とたくさんな若い者がいることだろう。自分の持つ手兵、親類の子等、知己の子弟、伊豆には若者がわけて多い気がする。いや世の一般もその通りだろうが、その若い力の全体を何となく握っている老人というものも不思議に感じられる。――時政はまだ自身老人とは思っていないが、さりとてこの若い者の仲間ではない。いつか彼もそこを出て次の人生の事をしきりと考えるふうにはなっている。
「宗時、宗時」
突然、大声で呼んだ。総領のすがたを彼方の廊に見かけたからである。
細い雨の中を駈けて、宗時は、父のいる棟《むね》の階下まで来た。
「お召ですか」
「むむ」
と、時政はなぜか口を緘《つぐ》んでしまう。あたりを見ているのである。それから云った。
「韮山《にらやま》の西之窪《にしのくぼ》へ百、山之木郷《ごう》の南の丘の林へ八十、北の木無山《きなしやま》の裏あたりへも五十ほど、日が暮れたら、早速に兵をかくして置け。――それも、ぽつぽつと、人目立たぬように」
「……?」
「分らぬのか」
「……分りましたが」
「武器は、一纏《ひとまと》めに、荷駄として、蔽《おい》を着せ、要所へ先へ送っておく。そして人間のみを後から配置すればよかろう」
「では、伏勢として」
「武門の嫁入りだ。どんな変がないとも限らぬ。あっては聟殿に申しわけあるまいが。……父親の心添えだ。総領のそちは、婚儀の席に連なるより、陰にあって、不慮《ふりよ》の出来事に備えておれ」
宗時が、頭《かしら》を上げると、父はもうそこにいなかった。
二
誰も彼も、華やかな忙しさに追われている中に、時政の顔のみは、不機嫌とも見えるほど硬《こわ》ばっていた。
政子の輿入《こしい》れに前立《さきだ》って、父親は父親としての、心遣《こころづか》いに趁《お》われてもいよう。今、惣領の宗時に、その一つを託《たく》し、召使たちの右往左往している廊を真っ直ぐに通って、わが室の辺《ほと》りまで来て佇《た》つと、
「牧っ……。牧っ」
と、妻を呼びたてた。
そして、牧の方の姿を見ると、
「後でよいが、政子の支度が終ったなら、広間へ入る前に、これへと申せ」
と、いいつけた。
そのまま、時政は、座に着いて、黙然と、守山の雲の去来を、廂《ひさし》ごしに見ていた。
庭面《にわも》は暮れかけてくる。広縁や欄《らん》に、木の葉まじりの時雨《しぐれ》が時々ふきかける。
燭を運んでゆく侍女たちは、袖で灯りをかざしていた。
「もし……。先程から政子がおん前に参っておりまするが」
牧の方にそう云われて、時政は初めて眼をひらき、そして自分の前に、両手をつかえたままでいるわが娘《こ》の嫁入りすがたに、じっと、目をとめた。
「…………」
沁々《しみじみ》と、見入っていたが、やがて吐息のように、
「もう行くか」
と云った。
政子は、それに、何か答えたようであったが、父の耳へは聞きとれなかった。泣いているのである。
「この折に、改めて父からいう何事もない。ただ嫁ぐからには、女子は、良人のほか、何ものも頼るものはない筈である。父は、平貞盛が裔《えい》。いうまでもなく、都の太政入道殿とは、その流れを一つに汲む平氏の一族には違いない。……だがの」
と、声を含んで、
「女子は、嫁《か》してゆく良人に拠《よ》って、初めて氏《うじ》も族もさだまるものぞ。良人が、藤原氏なれば、そちは藤原家の夫人たれよ。良人が菅家《かんけ》なれば、そなたは菅家の内室であるぞ」
「……はい」
政子は、濡《ぬ》れた眸をあげた。
父のことばは、ことば通りのものか、それとも、何か謎をこめての仰せなのか? ――と。
「はははは」
時政は笑い消した。
「泣いているのか。はてさて、まだ子どもよのう」
と、牧の方を顧みて、
「例《たとえ》を申したのじゃ。何も難しい意味ではない。そなたが嫁ぐ山木判官兼隆は、幸いにも、平氏の同族。――末長う、貞節に侍《かしず》けよ」
「…………」
政子が、頭《かしら》を下げるのを見ながら、時政は起ち上がって、
「いそいで、顔の粧《よそお》いを直せ、広間の方に、立ち祝とて、一族大勢の輩《やから》がもう待ちうけておる」
牧の方は、彼女を伴って、帳《とばり》の陰で、何かささやいていた。
一《ひと》しきり広間はしんとしていた。花嫁の立つ式事が厳《おごそ》かに執り行われた。それがすむと、にわかに大勢の笑い声や、手拍子や、祝歌《ほぎうた》などが聞え、花嫁は、一門の縁者達に取りかこまれて輿《こし》へ移った。
花嫁が輿へかくれてからも、夕篝《ゆうかが》りの明りの中に、夥《おびただ》しい花嫁の荷と、人馬との混雑は、容易に列がそろわなかった。そして時折、夜に入って一しお肌寒い時雨《しぐれ》が、松明《たいまつ》や燎火《にわび》の焔をうごかした。
三
さすがに彼女も胸がいっぱいで前後もよく分らない程だった。やがてわが輿がかき上げられると、器《うつわ》の水の溢《あふ》るるように、胸は揺れ、涙はとめどなく流れた。
――不孝の子の吾儘をゆるして下さい。
政子は、何度も胸のうちで繰返していた。父の時政へ、というよりも一族全体へ、祖先からの旧い館《やかた》の門へ。
嫁ぐ花嫁の心には、奇怪な決心が秘められていたのであった。輿をになう者も、列に従う人々も、見送る一族も、当然、彼女は山木判官が邸へ嫁《か》すものと信じて、疑う者もなかったが、政子の心は、そこへ行くとは思いもしていないのである。
花嫁の列は、生家の門を出る時から、すでに破鏡《はきよう》を孕《はら》んでいた。従って政子のなみだは、世の常の花嫁が生家を離れる時のそれとは、まったくちがっていた。
またそれまでの覚悟をするには、女という一身の方向だけではなく、この結果が、どんな重大事をたちどころに招来するかをも、当然、聡明な彼女の考えていないはずはない――北条家も一族を率いる武門、山木判官も武門。すべてのものを弓矢剣《つるぎ》の修羅場《しゆらば》へ抛《なげう》つような事にもなろう。吾儘といえば吾儘にすぎない恋一つのために、九族に戟《ほこ》を把《と》らせ、百姓を戦禍へ追いやるなど、何という怖ろしい罪ではあろうと――それらの弁《わきま》えもないほど無智盲目な彼女でもなかった。
(不孝。ひいては不忠の子)
花嫁は恐ろしい自分の大罪をそう知って戦《おのの》くのだった。身も世もなく、悲しみもするのだった。――けれどその悲涙のうちには、誰も窺《うかが》い知れないほど、冷やかな智慧もひそかに働いていた。
(どう逃げようか? ……。逃げた後は、どこへ身を隠そうか)
何も知らない輿入れの列につづく人々は、また一しきり祝歌《ほぎうた》を謡《うた》いはやしながら、やがて御所之内の唐橋《からはし》から花嫁の輿は揺りすすめられた。濠の水もまっ赤なほど、夥《おびただ》しい松明《たいまつ》はそこを渡った。満山の木々も染まるほど、館《やかた》の燎火《にわび》は燃えていた。――祝歌はながれて行く――町の民家も軒端軒端に、篝《かがり》をたいていた。祝歌につづく人馬や揺れ燦《かがや》く輿の蓋《おおい》は、その美しい焔の中を流れて行った。
が、宿場を出端《ではず》れると、道はまっ暗だった。ただ護りの侍どもが振りかざす松明《たいまつ》のみがいぶって行く。
さあっと、野を横ざまに、一時雨《しぐれ》掃《は》いて行った。
道はひどく泥濘《ぬ か》っていた。
晴着を雨にぬらした人々は、寒さにふるえあがった。
けれど、山之木郷の婚家までは、わずか二里ほどしかなかった。行く手の夜空に黒々と望まれる韮山《にらやま》のすそである。
程なく。
その韮山のすそにも、ちらちらと、たくさんな灯が見え初《そ》めた。山木判官の邸の森であろう。――そこよりもっと間近に一かたまりの焔が、坩堝《るつぼ》の如く、うごいて見えるのは、出迎えの者が、村の口まで出ているものと思われる。
輿は間もなくそこへ着く。迎えの灯と、列の灯とが合流して、目代《もくだい》邸のほうへ押流れた。寺でも神社でも、篝《かがり》を焚《た》いていた。どこかで、鈴や笛や鉦鼓《しようこ》などの楽《がく》が遠く聞えていた。わいわいという人声、人影に、輿の中の花嫁は、眩暈《めまい》を覚えそうなここちであった。
後から急いだ父の時政や一族たちの騎馬も、同時に、山木家の門前に着いたのであった。
四
岩石の露出した木の少ない山である。石山の多いのは伊豆の特徴でもある。そうした低い山が、幾つも田野から突兀《とつこつ》と聳《そび》えている。
「――通る、通る」
「あの松明《たいまつ》の列」
「ご息女の御輿《みこし》だ……」
岩山の岩かどに這いつくばっていた物見の兵が云い合った。二、三人がからからと後ろの谷間へ降りてゆく。
七、八十の兵が、夕方から小雨《こさめ》にぬれたまま、岩の陰や木の下に、じっと、屯《たむろ》していた。
「宗時様っ。宗時様」
物見の者の声に、
「おう」
と、どこかで答えがする。
篝もないし、星もない雨夜なので、ほとんど、声をたよりに、
「どちらにおいでなされますか」
「ここだ、ここだ。杉の木の下におる」
「オ……。ただ今、政子様のお輿と、供の列が、山之木郷へ着きました」
「着いたか」
「すぐ目代邸へお入り遊ばしたように見られます」
「よし。――おまえ達は、以前の所へ戻って、なおもじっと、物見をしておれ。そして山木の邸のほうに、何か変った様子が見えたら知らせて来い」
「はっ」
兵はすぐ、岩を攀《よ》じて元の峰へ登って行った。
父の時政のいいつけで、惣領の宗時は、山之木郷の附近の山々に、七十、五十と兵を分けて宵からじっと武器を伏せて万一の変に備えていたが――いったい婚礼の席をも外させて、何の為に、父がこういう備えに自分をさし向けたか――宗時には、父の肚《はら》が解《わか》らなかった。
父の平常の主張からすれば、今夜の婚礼に、万一の変事などを、予測するわけもないのに、何で、家の子郎党に武装させて、伏兵の手配りなど命じたか、考えても考えてもその矛盾が宗時には解けなかった。
ポタ、ポタと、杉の梢《こずえ》から落ちる時雨のしずくが、宗時の鎧《よろい》の背から肌着にまでしみてきた。
「……妹は、どんな心地で」
と、宗時は、それをも思い遣《や》りながら、咳声《しわぶき》もせぬ兵と共に、雨の小やみになった黒い雲を見つめていた。
「待てっ」
「だっ、だれだッ」
下の狭い渓川《たにがわ》のあたりである。突然歩哨《ほしよう》していた兵の大きな声がしたと思うと、間もなく、そこから駈け上がって来る足音がする。
「来たな」
宗時は、先に起っていた。そしてそれへ来た歩哨の兵の言葉も聞かないうちに、
「土肥《どひ》殿や仁田《につた》殿が見えたのではないか」
と、云った。
「そうです」
「これへご案内しろ」
待ちかねていたものとみえる。すぐ下からその人々の影が登って来た。土肥次郎実平である。
また、仁田四郎忠常である。藤九郎盛長も、天野遠景も一緒に来た。――が、皆、それとも分らないほど具足には蓑《みの》を着たり顔には黒い布《ぬの》を巻きつけていた。
「宗時殿か」
「おう、揃《そろ》われたな」
「こちらはかねての手筈どおり、かく打揃《うちそろ》うたが、宗時殿には、婚儀の席を外して、物々しい人数まで率《ひ》き連れ、何でかような所へ伏せておらるるのか。……先刻、使いをうけて驚いたが、訊き合せている遑《いとま》もないし、やむなく道を迂回《ま わ》って会いに来た」
この面々は、時政のさしずに依って動いてもいないし、時政が宗時にいいつけた事も知らないので、まったく不審にたえないもののようであった。
五
今夜の出兵は、自分の意思ではなく、父時政のさしずに依るものであると、宗時から事情を聞くと、一同はなおさら、
「何、北条殿の御意《ぎよい》で、これに勢《せい》を伏せておらるるとか。――さては、われわれの謀《たくら》みが、疾《と》く先方に洩れているのではあるまいか」
と、土肥実平《さねひら》以下、眼を見あわせて、しばしは、疑いに囚《とら》われていた。
自分たち若人輩《ばら》の秘かな企《くわだ》ては、父もうすうすは感づいている筈と、宗時も警戒はしていた。しかし、それは日頃の事である。今夜の事に限っては、いくら炯眼《けいがん》な父でも、知るわけはない。絶対にないとしか、宗時には思われなかった。
で、しきりと不安がる友へ、
「いや、偶然だ。父はただ近郷の土豪とか、万一とかいう、漠然たる要心のために、兵の配備を命じたにちがいない。さもなくば、誰よりも先に、密謀の張本人たるこの宗時を、監禁なさらなければならない筈だから」
信じるまま云った。
宗時はまた、ことばを重ね、
「たとえ山木判官や父が多少感づいておろうとも、この期《ご》になって、策を変えるわけにはゆかん。飽くまで、所信を押し通すまでのことだ。間違うたにもせよ、そこ此処に、二百余りの兵はある。遮二無二《しやにむに》、かねての手筈をたがえず事を運んでくれい」
と、激励した。
一同の惧《おそ》るるところは、自分等の危険よりも、宗時と父時政とが、正面を切って衝突《しようとつ》となった場合にあったが、宗時の口からそう聞くと、
「よし。宗時殿さえ、そのお覚悟ならば、われわれの躊躇《ためろ》うている理由はない。――では、やがて山木の目代邸に、火の手を見られたら、それと思し召されよ」
土肥実平のことばを機《しお》に、藤九郎盛長、仁田、天野など、刎頸《ふんけい》の友の一群は、蓑《みの》や覆面《ふくめん》のしずくに、武者ぶるいを見せながら、また降り出した暗い小雨の中を、どこともなく駈け去った。
「…………」
宗時は、その人々が、彼方にかくれるまで、黙然と見送っていたが、やがて、われに返ったように、岩山のみねへ攀《よ》じ上《のぼ》って行った。
そこから山之木郷の目代邸は明々と見えた。燎火《にわび》や篝《かがり》の光が低い雨雲に映《うつ》って、真っ黒な天地の中に、そこばかりがぼうと美しい。
もう妹は輿《こし》を降りたろう。どんな心地で山木家の奥へ通ったろう。彼女は、兄や兄の友達を信じてはいるだろうが、それにしても妹の心には、あの華やかな燎火や部屋部屋の灯が、いかに辛く映っていることか。
「……今に。今に」
宗時は、じっと、歯の根をかみながら、政子を思い遣《や》っていた。雨は小やみになった。雁が啼いてゆく。
刻、一刻と、宗時の胸には、婚礼の席にいる妹と同じような動悸《どうき》を加えてきた。短い時間が半夜も過ぎるように思われた。
すると、突然、
「あっ、火っ、火が!」
と、そばにいた物見の兵がどなった。宗時は、
「叱《しつ》、静かにっ」
と制しながら、眸をこらしていた。そしてわずかに炎の舌が閃《ひらめ》き出した目代邸の火の手を見つめていた。
火は、そこの釜殿か、納屋あたりから燃え出したらしく思われる。立騒いで、右往左往する人影が、火光の中に蚊みたいに見えた。
六
北条家の両親《ふたおや》をはじめ、一門の縁者と、山木家の一族とが、ふた側に分れて、広い華燭《かしよく》の間《ま》にひそと居ながれていた。
花聟はまだ着坐しない。
花嫁もなお輿を降りたまま、どこぞの一室に、ひかえている頃だった。
嫁親の北条時政は、聟の父にあたる老翁《ろうおう》と、至極、親しげに何かはなしていた。
時政は、社交に長《た》けた口ぶりでその余の一族へも、
「このような欣《うれ》しい夜はござらぬ。ただ彼女《あ れ》も思いのほか子どもで、家を立つ折、婦道を守れと、訓《おし》えを一言《ひとこと》申したところ、嬰児《あかご》のように泣かれたには弱りました。……はははは、てまえも、この後は、がっかりするだろうと存じておる。むすめ一人、二十歳まで生《お》い育てて来たかと、何やら自分の齢《よわい》が急に数えられましてな」
そんな雑談をしているうちに、広い邸なので、よほど遠くではあったが、火事、火事っ――と駈けまわる召使たちの足音や大声が突然立ちはじめたのであった。
「なにッ」
「失火だと」
すべての人が騒然と立った。わけて山木家の人々は狼狽を極めてみな出て行った。ここかしこの短檠《たんけい》や燈台の灯は煤《すみ》をふいて暗く揺れ、火元の方の烈しい物音と共に、たちまち物凄い家鳴《やな》りがすべてをつつんでしまった。
――花嫁はしずかに四辺《あたり》を見まわしていた。
そこの室《へや》に侍《かしず》いていた女たちも皆、側を離れてどこかへ走って行った。
「…………」
彼女は、にこと笑《え》んだ。
そして燭台の灯をふき消し、水のごとく人のいない部屋を歩いて行った。
山木家の侍がふとそれを見つけ、怪しみながら花嫁の後をつけて行った。政子は広間の次へ出たが、そこに明りが見えたので、廊を引っ返して、白い衣裳のまま、庭面《にわも》へ走り出した。
「あっ。どこへっ」
組みついた者がある。政子は声もたてなかった。振向いて、その顔を見ると、山木家の家来なので、
「火を避けに行きます」
と、静かに云った。
「火は、大勢して、消しとめています。大事には立至りません。不審なご様子、邸外にお出し申すわけには参りませぬ」
「慮外《りよがい》であろう」
「何であろうと」
「お離し……」
「いや。お戻りください」
云い終ると共に、その侍は、いきなり政子の肩を荒々しく押し返した。
痛さに、われを忘れて、政子は悲鳴をあげたが、同時に、その侍の口からも異様な呻《うめ》きが流れた。その侍は、何者かに、刃で脾腹《ひばら》を刺し貫《ぬ》かれていたのである。
「政子さま。私の背に」
片手に、短刀をひっさげた覆面の男が、彼女に背を向けた。土肥次郎実平であった。
釜殿の出火は、元より実平の仲間が放《つ》けた火であろう。政子を負って、彼が土塀のほうへ駈けてゆくと、そこの木陰から、他の人影が幾つもつづいて行った。
ほとんどが、火に気をとられて、何を顧みる余裕《ゆとり》も持たなかったので、若人輩は、難なく花嫁を奪って、土塀の外の濠をも渉《わた》ってしまった。
「厩《うまや》から馬を奪《と》って来た。実平《さねひら》実平、そして姫をこれへお乗せしろ」
仁田四郎の声である。手柄手柄と、藤九郎盛長が賞める、実平は、姫をかかえて跳び乗った。
駒につづいて、面々も駈け出した。そして、山へかかるとまた、実平は政子を負い直して、半島の背ぼねをなしている伊豆山の裏道の嶮《けん》を辷《すべ》りながら攀《よ》じて行った。
恋の旗
一
治承《じしよう》二年になった。
年は変っても、やがて、伊豆の春とはなっても、花嫁の失踪に端を発した去年からの紛争は、この国の空に、険悪な雲ゆきを持越したままであった。
「北条家で隠したに違いない」
「時政の奸計だ」
「いや、父子《おやこ》狎《な》れ合いの仕事と見ゆる」
山木方が、赫怒《かくど》したのは当然である。また、当夜の事件をもって、政子の父たる時政へ、責任を問い、
「仕儀によっては」
と、弓矢に賭《か》けても、聟の判官兼隆の面目を立ててみせると、一族どもが息まいたのも当然であった。
「必ずお顔を立てる」
時政は誓った。
そして娘の親として、
「何と、仰せられようとも、お詫びの仕方はない。面目次第もござらぬ。切腹いたしてもと思うが、死は易し、今この時政が相果《あいは》てなば、いよいよ一家の者の当惑を加うるばかりで、意味はおざらぬ。――むしろ恥をしのんでも、必ず、憎ッくき吾儘《わがまま》娘を成敗して、聟殿のご面目を立てるに如《し》くはない。……唯、しばらくのご堪忍を」
詫びる一手で押通していた。
その間、双方の親類が寄って、幾たびか、善後の処置とか、懸合い事とかの席でも、
「済まぬ。唯々申しわけない」
の一点張りで、時政は、平謝りに謝り通して来たものだった。
そうこうする間に、月日は過ぎて行くが、時政のいう謝罪の立証は、すこしも事実となって来ないので、山木家側の業《ごう》を煮やすことは甚だしく、
「政子どのの首は、いつご持参あるのか」
「親として知らぬはずはあるまいが」
「それで、北条家の御館《おやかた》といわれるのか、武門の親としてすむのか」
「大たわけ殿。まだ、老いぼれる年でもあるまいが」
あらゆる辱《はずかし》めと、猛烈な催促《さいそく》が、彼を責め立てたが、
「この方においても、極力、探し索《もと》めておりますゆえ」
とか、
「もうしばしのご猶予《ゆうよ》を」
とか。――そして相かわらず、山木家の親類の前に坐れば、身分も恥もすてて、低頭するばかりだし、懸合いの使者を迎えれば、いんぎん辞《ことば》を尽して、謝るばかりだった。
時には、
「生きるも辛し、死にもならず、かくまでの苦患《くげん》に虐《さいな》まるるとは、いかなる悪業《あくごう》のむくいでおざろうか」
と、落涙を見せた事もあった。
――めっきりと窶《やつ》れた。
――白髪《しらが》がふえた。
躍起となって、北条家の無能無責任を憤《いきどお》っている山木家の人々すら、近頃は彼を見れば、ふと、そんな同情もわくほどだった。
事実、北条家では、以来、箱根伊豆の山々は元より、近国までも、手分けして、政子の行方をさがしてはいた。
十人二十人と、一組ずつにして、のべつ山狩のように、郎党たちを、歩かせてはいた。
が、何の手懸りも齎《もたら》しては来ないのであった。
「何たる手ぬるさ」
と、山木方でも、勿論、諸所へ手勢を放って、血眼になっている。わけて、臭いとにらんでいる蛭《ひる》ケ小島《こじま》附近には、道々へ昼夜、見張をしのばせて、そこの人出入りを窺《うかが》っていた。
すると、三月になって。
伊東入道祐親《すけちか》から、山木兼隆へ一書をよこした。それには、政子のかくれた先が、明らかに書いてあった。
二
伊東入道からそっと報《し》らせてよこした書面によると、
(政子は、伊豆山権現の一院に匿《かくま》われている。元より北条一家も承知のうえと思う。婚礼の当夜働いた狼藉者は、ふだん頼朝の配所にあつまる近郷の不良の徒と考えられる)
と、あり、なおまた、
(頼朝という流人は、困った男である。前《さき》には、わが家《や》のむすめも彼にたばかられ、今また、貴家の花嫁を奪う。言語道断である。彼のごときを生かしておいては、伊豆の平和は保たれない。よろしく六波羅へ罪状を訴え、一方、伊豆山権現へ兵を上《のぼ》されよ。日頃の誼《よし》みなれば、熱海口は、自分の手でうけ持って、ふたりを遁《のが》さぬように備えておこう)
とも誌《しる》してあった。
文面によると、伊豆山には、逃亡した政子ばかりでなく、頼朝もそこへ移って、同棲《どうせい》しているらしく思われたので、
「おのれ」
と、山木兼隆は、前後の弁えもなく、怒りに燃えた。
「すぐ行け」
とばかり、何百という家の子郎党は、彼の命をうけるや、先を争って十国峠へよじ登った。
一方、早打ちをうけて、伊東入道祐親も、手勢をくり出して、網代《あじろ》をこえ、熱海口をふさいだ。
――が、山木勢は、峠づたい、伊豆山へかかろうとすると、途中一隊の軍勢にさえぎられて、そこから先へ進む事ができなかった。
「通るなら弓矢にかけて通って見よ。ひとりも生かしては帰さんぞ」
と、生命知らずな面がまえが、高原に列を布《し》いて喚《わめ》くのだった。
旗じるしもない、大将らしい者とて見えない。まったくの烏合《うごう》の勢にひとしく、得物や物具《もののぐ》も雑多だったが、ただ若い肉体は見事に揃っていた。そして凄《すさ》まじい争闘心がどの眼にもぎらついているのには、山木勢も胆を冷やした。
「各はどこの何者の郎党なのか」
そう訊ねても、
「何者の家人《けにん》でもない」
と云い、
「何故《なにゆえ》、道を阻《はば》むか」
と、糺《ただ》しても、
「通すわけにゆかぬから通さぬまでの事。通りたければ弓矢で来い」
と、いう暴言ぶりである。
山木方でも、血気なのは、
「押通れっ」
などと人数の中から喚いたが、所詮、敵《かな》いそうもなく見えたので、何とか言いくるめて通ろうと、執《しつ》こく懸合っていた。
そのうちに、山木方の兵が、
「あの中に、北条家の郎党も交じっておるぞ。日ごと、山を捜《さが》すと称して歩いている北条の郎党が、暴軍の中に交じって、われらを阻むとは、怪しからぬ沙汰だ」
と、騒ぎだした。
よくよく目を注ぐと、北条家の者ばかりでなく、土肥実平の家来、仁田の縁類、宇佐美、加藤、天野なんどの家僕や、伊豆の土豪の次男三男などの顔が幾つもその中に見出された。
「よし。かく企《たく》んでの事ならば、こちらも考えがある。退《ひ》いては、山木一族の名折れ、目代の威厳にもさわる、斬り死にするまでも懸れ。ふみ潰《つぶ》して押通れ」
遂に、交渉を見限って、味方を抑えていた山木勢の年老《と》った侍どもも、こう叫ぶしかなくなった時、高原の彼方から一群れの僧兵が、何か、手を打振って大声あげながら駈けて来た。
箱根権現《ごんげん》の別当行実《ぎようじつ》と、それに続いてくる十名ほどの法師武者だった。
三
別当行実は、僧兵に囲まれて、両軍の間に立つと、こういった。
「何故の争いかしらぬが、箱根、伊豆の両権現の地域の近くで、みだりに兵をうごかすにおいては、われらとても、黙視しているわけに参らぬ。――まず、山木殿の云い分から伺おう」
すると山木方の人数から、年長《とした》けた侍が前へ進んで、
「主人兼隆の命により、伊豆山権現に匿《かくま》われおると聞く、政子どのを受け取りに参ったのでござる。――然るに、それなる雑人輩《ぞうにんばら》の勢が、弓矢をならべて阻《はば》むので、やむなく一戦に及ばんとしたまでの事」
と、云い立てると、
「それは近ごろ奇怪な沙汰を聞くものだ。伊豆山権現に、政子どのが潜みおるとは、誰が云った。眼に見た事か、証拠でもあることか」
と、事の理非は措《お》いて、全然一方的に加担した口吻《こうふん》で反問した。
そこへまた、誰が告げたか、伊豆山走り湯の僧兵が一群れ、また一群れと何十人も馳《は》せつけて来て、
「われわれが北条殿のむすめを匿《かくも》うているなどとは、聞き捨てにならぬ沙汰だ。あらぬ云い懸りをして、山領を踏み荒さんとなれば、われらにも覚悟がある」
と、息まいた。
時経つほど、山木勢は、不利にもなるし、最初の意気ごみも殺《そ》がれて来た。下手をすれば、退路を断《た》たれる惧《おそ》れもある。それにまた、中央でも地方でも、僧兵を相手に喧嘩して、利のあった例《ためし》はない。
「もういちどよく山木判官の肚を慥《たし》かめてこい。弓矢にかけてもというならば、いつでも立会うてくれる」
僧兵たちの罵《ののし》りを浴びて、山木勢はぜひなく引っ返した。――肝腎な山木勢が退《ひ》いたと聞いては、熱海口まで出張った伊東入道の兵も、いつまでそこに陣している理由もなくなってしまった。
「――どうしてやろう?」
山木判官は憤怒のやり場がなかった。彼の面目はまったく踏みにじられた形だ。あがけば足掻《あが》くほど、恥のうわ塗りを招くに過ぎなかった。
「平家の政道が悪い」
遂には、その恨みを、中央の無能に向けて、独り悶《もだ》えたりした。
目代という職務からも、彼は何度も中央に訴えを出していた。また、伊豆地方の人心が、何とはなく反平家に傾いて、わけて少壮な土豪の子弟などの思想は極めてよろしくないとも報じてある。
今のうちに、この危険な萌芽《ほうが》を摘《つ》んでしまわないと、どんな事態を将来醸《かも》すかもしれない。しかし、目代の法令ばかりでは、圧《おさ》えはきかないし、武力で圧するには兵員が不足である。――何とか火急おさしずを下してもらいたい。
そう矢の如く催促の使者も立ててはある。
にもかかわらず、六波羅からは何も沙汰がないのだった。かえって、近国の武将などへ調査を命じたりしていた。殊に、山木判官が不快としたのは、北条家へ向って、六波羅から事情の上申書を求めたりしている事だった。
北条家に、事情を書かせれば、当然、いいように歪曲《わいきよく》して書き出すにちがいない、もうそれは六波羅に提出されているかもしれないのだ。
地方事情にうとい中央の役人は、公平を期するつもりか何かで、山木方の訴えと、北条家の申し分とを、書類のうえで見較べながら、日を過しているらしく察しられるのだった。
「何たることか」
と、山木兼隆は、歯がみをして毎日を送っていた。それが募《つの》ると、怏々《おうおう》として楽しまない人間になった。復讐の意志さえなくなって、人に面《おもて》を見られるのも厭《いと》うようなふうに変って来た。
「今までは、庶民の訴訟や争いも、他人《ひ と》事《ごと》として、よい加減に扱って来たが、わが身の上に降りかかって、初めて吏道の悪弊《あくへい》を知った。これも天罰だろう」
そう反省したりして来ると、彼はもう目代として、権力ばかりで地方民へ臨む六波羅の一吏員という仕事さえも、熱心には勤められなくなってしまった。
四
世間に何が起ろうと、配所はいつも幽寂《ゆうじやく》な配所であった。知らぬ顔にしんとしていた。
その配所に、変った事が一つ起った。
雲雀《ひばり》が卵を孵《かえ》した。
可愛らしい雛鳥《ひなどり》が育ちはじめていた。
頼朝は、小禽《ことり》など愛さない。配所は閑日《かんじつ》の中にあっても、彼の胸に閑日はなかった。
その閑日も楽しみ、またよく、天下の事を談じたりもする男は、ここへ食客となって長逗留《ながとうりゆう》したまま、いつかずるずるべったり頼朝の右筆《ゆうひつ》となってしまい、また、近郷の絵図など根気よく描いている画工藤原邦通《くにみち》であった。
雲雀も、彼が孵したのである。
「邦通、絵図はまだ出来上がらないのか。――雲雀にばかりかまっておるな」
「そんな事はありませんが」
縁に雲雀の籠をおいて、見惚《みと》れていた邦通は、頼朝がはいって来たので、あわてて坐り直した。
「あの通り、やってはおりまする」
「すこし急げ」
「はい。……急にご入用で」
「急ではないが」
「まだ一、両年はよいでしょう」
「いつ要《い》るとも限らぬ」
「去年《こ ぞ》の暮――例の政子様の事件から、山木家のまわりには、常に神経の尖《とが》った眼が見張り歩いているので、肝腎なあの附近が、今なお手がついておりません」
「もうよかろう……。だいぶ、余燼《ほとぼり》も冷《さ》めたらしい」
「――とは思いますが」
「いちど探って来い」
「いや、止しましょう。この際、山木家の附近の絵図など写し取りに行って捕まったら、せっかく下火になったものを、再燃させるようなものです」
「それもそうだな」
「ご退屈でしょう」
邦通は、頼朝の顔を見上げた。廂《ひさし》ごしに、夏近い雲が見える。が、頼朝の眼は、雲にはなく、山一重の伊豆山権現の空にあった。
「……いかがです。こよいあたりまた、お忍びあっては」
頼朝の気もちを察して、邦通はそっとすすめた。配所に家人《けにん》もあり、出入りに人も数あるが、こういう事を平気で頼朝に云えるのは、彼ひとりしかなかった。
だから、頼朝を盟主とし、頼朝を名君としたがる謹厳な一部では、
(邦通をお側におくのはよくない。彼は、遊芸が巧者ばかりでなく口も巧い幇間的《ほうかんてき》な人物だ)
と、蔑《いやし》む者もあった。
けれど頼朝は、彼が好きであった。尠《すく》なくも雲雀《ひばり》よりは彼のほうを愛した。
「……参りたいが」
頼朝は、彼の誘いに、正直につぶやいた。
自分を繞《めぐ》る一味の若人輩《ばら》が、政子を奪って伊豆山権現の一院へかくした後も、周囲の者の計らいで幾たびか会いに通ってはいたが、極めて監視のきびしい中で、恋というには余りに形だけの面談を遂げただけでしかなかった。
「お供しましょう」
気軽な邦通は、すぐにもと支度にかかり始めたが、頼朝はまだ決しきらず、
「盛長や定綱や、家人どもへ、無断で出ることもなるまい。と云うて告げれば、彼等がまた面倒に申すであろうし……」
「お召使の家人たちへ、何のご遠慮がいりましょう。方々《かたがた》の難しゅう申すのは、途中の変を案じるからの事で、その儀なれば、心配はありません」
と、彼は独りのみこんで、
「山絵図を写しに歩いたおかげで、山には明るいつもりですから、誰の目にもふれずに通える道を、ご案内いたしまする。――家人衆へは、私からお出ましの由、ちょっと申して来ましょう」
彼は飽くまで物事を手軽に考える楽天家であった。
五
走り湯の法音比丘尼《ほうおんびくに》は不犯《ふぼん》の聖尼《せいに》であるといわれていた。男禁制の森に住んで、そこには近くの伊豆山権現の法師等さえ立ち入れなかった。
尼院の庭は平《たい》らかであったが、東は伊豆山の絶壁であり、南は熱海《あたみ》の漁村まで、山なりに海へ傾斜している半島の突角《とつかく》だった。
風の日は、風がつよい。――が、よく晴れた日は、見はらしが佳《よ》い。
政子は、飽かなかった。
毎日ぼんやり――一見そう見える姿で――尼院の縁にかけて海を見ていた。
夜も昼も、ここでは海鳴りがやまずに聞える。海鳴りの中に、彼女の心はようやくこの頃、落着きを得たようであった。
「政姫さま。おさびしゅうあろうな」
法音比丘尼は、彼女のぽつねんとしている姿を見ると、慰める気か、側へ来ては話しかけた。
この尼は、北条家へも前から出入りしていたし、わけて政子には、幼い時から和歌を教えたり、法華経の読解を授《さず》けたりしていた縁故もあって、親しい師弟といったような情愛もあった。
「いいえ」
政子は、顔を振った。
寂しかろと問われた時、政子は「ええ」と答えたことはなかった。気丈《きじよう》なので人に涙を見せないのであろうと、尼はなおさら可憐《い と》しがったが、政子は自分を偽《いつわ》ってはいないのである。
正直、彼女は、婚礼の夜、山木家を逃げて来てから、一度でもさびしいなどと無聊《ぶりよう》な心に囚《とら》われたことはない。夜半《よわ》の海鳴りと共に血の燥《さわ》ぎの熄《や》まない折はあっても、悲しいとか淋しいとか、今の身を観じたことは一度もなかった。
処女《おとめ》らしい感傷などは、彼女に取って愚かに思われた。彼女の青春は、もっと実際なものに燃えていた。等しく若い夢はあっても、単なる夢に過ぎないことに彼女の血は波も打たないのである。
夢といえば。
いつか妹が、吉《よ》い夢を見たというので、政子が戯《たわむ》れに、その夢を買ったことがある。けれど、それは行末の運命を、儚《はかな》い夢占《ゆめうら》などに恃《たの》んで買ったわけでなく、どこまでも、妹達を遊ばす戯れにした事だった。
今。――こうなっている姉の身を、家にある妹たちは、どう考えているだろう。
(吉《よ》いと思った夢占が、ほんとは凶夢だったのかしれない。それで災難を負うておしまいなされた――)と、そんなふうに、あどけない解釈をして、思い侘《わ》びているかもしれない。
幾つも年はちがわない妹たちであったが、政子から見ると、まったく他愛ないお人形に見えた。――家を出て、今ここから、思うと、その感じはなおさらであった。世の中を知らない深窓の処女《おとめ》たちが、憐れに思われた。
肉親の妹ばかりではない。世の多くの良家の女《むすめ》はみなそうである。政略に嫁《とつ》がせられ、武力に奪われ去って行く者であった。それを時風と見慣れて人も怪しまないのだ。少なくとも、政子は早くから、そういう風習に、反感をもっていた。
(自分だけは)
という理想があった。嫁すべきものへ嫁す運命をさがしていた。
頼朝の恋文を初めてうけた時、彼女の気もちは、うろたえなかった。むしろその前から彼女からも頼朝へ志を贈っていたほどだからである。
彼女は、頼朝の貴公子的な人品にも心を寄せていたがまた、頼朝の不遇な――配所の流人《るにん》という境遇にも恋していた。
――どうしていらっしゃるか?
今も、それを独り思い耽《ふけ》っていたところへ、法音比丘尼が話しかけて来たのである。おさびしかろと問われて「否」と答えたのは、正直な返辞なのであった。
六
「姫《ひい》さま」
「はい」
「余り先の先までは、考え詰《つ》めぬがおよろしゅうござりますぞ」
「何も考えておりません」
「おつつみなされても、この頃のお窶《やつ》れよう、尼も胸が傷《いと》うなりまする」
法音比丘尼は、眼をうるませて云う。――幼少から手塩にかけた政子なので、いつまでも子どもと思うているらしい。
政子は、何かというと、尼が自分をいたわる為に、涙をこぼすので、いつもかえって当惑した。
尼は、彼女のした事を、まったく処女《おとめ》心《ごころ》の盲目にした事とでも思っているらしい。取返しのつかない過失と、自分が大罪でも犯したように、恐怖しているらしいのである。
政子の心とは遠かった。尼が涙して自分をなぐさめるのを、政子はむしろおかしく眺めて、
(お師さまもお齢《とし》を老《と》られた)
と、思うだけだった。
「――お師さま。わたくしの身の事は、どうか、ご心配しないで下さいまし。自分にも、固く思うところがあってした事ですから」
「きついご気性のう」
尼は、見上げて、
「お小さい頃から、お気性は勝っておいでなされたが、何というても、女子《おなご》の身は」
と、昔からの口ぐせで自然、誡《おし》える口調になるのだった。
「女子《おなご》ほど、弱いものはありませぬ。弓矢を取る男子《おのこ》ですら、今の世に生きて、敵の中に立ってゆくのは、生やさしいものではないに、女子の身に、怖ろしい敵を作られ、身を隠さねば、お生命《いのち》も危ぶまれるような事になって――どうして、案じもせず貴女を見ておられましょうぞ」
「だいじょうぶです」
「どうして大丈夫ですか」
「兄の宗時が、よそながら護っていてくれます。兄の友達どもも、今ですから申しますが、私を庇《かぼ》うてくれて、この後とも、兄と力を協《あわ》せてくれる約束ですから」
「相手は誰と思いますか」
悲しみをこえて、尼は、叱るような声になった。
「六波羅の目代でござりますぞ。それに弓をひいたら、天下を敵としなければなりません」
「そうです」
「……そうですとな?」
尼は、疑うように、姫の顔を見すえていた。その眼へかすかな顫《おのの》きが上ってくる。
政子は、もうこの世捨人《よすてびと》の尼とはなしているのは退屈であった。山は青葉時、海も飽くまで青い、肺のなかまで青嵐に染まりそうな心地を、独りぽつねんと楽しんでいたかった。――やがて、事実となって来るものへ、静かに前後の考えを纏《まと》めておきたかった。
「老尼さま。日金《ひがね》の牧のお萱《かや》さんが見えましたが」
そこへ一人の尼弟子が告げに来た。法音は、きょうは何か、これ以上、政子へ誡《おし》える気も挫《くじ》けたように、それを機《しお》に力なく起って、
「姫《ひい》さまへ、お目にかかりに来たのであろ。庭口からこれへ」
そう云い残して、自分は冷たい尼院の奥へかくれた。
萱《かや》は、日金の牧場の主《ぬし》の妻であるが、以前は北条家に仕えていた女だった。三島や五日市などへ出るたびには、その後もよく館へ立寄って、前の朋輩たちとも親しくしていた。
「萱でござります。おかわりもございませぬか」
やがて畏《おそ》る畏る庭へ来て屈《かが》まった女を見ると、政子は、今までの顔いろとは違って、待ちかねていたかのように、
「おう萱か。十日余りも見えないので、案じていました。遠慮はない。そこへおかけ」
と、縁の端をすすめた。
七
萱は、地に蹲《うずくま》ったまま、
「ここには、姫様のほか、誰もおりませぬか」
と、見まわした。
政子も、あたりを見て、
「なんじゃ?」
声をひそめた。
萱は、すばやく近づいて、政子の手へ、何か渡した。そして、
「お館さまからのお文です」
と囁《ささや》いて、またすぐ、以前のように地へもどって、手をつかえていた。
政子は、父の文を披《ひら》いた。
牧場の妻の萱を使いにして、父の時政は、たびたび、ここへ便りをよこした。
表向きは、当然、義絶も同様――あれ以来、父と呼ばせないと、憤《いきどお》っている体《てい》にしてあるむすめではあるが――時政の愛には、変りなかった。
いや、むしろよけいに、親としての憐れみで、愛《いと》しさは強く深く、明け暮れに政子の身を気づかっているらしいのである。
で、便りのたびに、きっと書いてある事は、
――変りはないか。
そしてまた、
――短慮をすな。じっと、時の到るを待て。
といったような事だった。
もし政子が、絶望を抱いて、自害でもしはせぬか――それをのみを彼女の父は、いつの手紙にでも、ひたすら惧《おそ》れて、時節という事を、書き忘れていなかった。
ところが、きょうの便りには、それがやや具体的に書いてあった。世間のうわさも、だいぶ薄らいできたという事。また、相手方(山木家)の感情も、ひと頃ほどではなく、従って、自分の考えているように、徐々と、事件の解決も見込みがついて来た――というような事などが、いつもながら、
(短慮すな。短慮すな)
と、言外に諭《さと》しながら細々《こまごま》認《したた》めてあった。
政子は読み終るとすぐ、細かに裂いて、掌《て》のなかで小さい鞠《まり》としてしまった。そして、萱《かや》のまえへそれをぽんと抛《なげ》ると、萱はすぐそれを拾ってどこかへ隠してしまった。
「姫さま……」
彼女は起って、何か抱えて来た土産《みやげ》らしい物を、政子の側に置きながら、
「あまり屋の内にばかり籠っていては、お体にようございませぬ。裏山からわしの牧場の近くまで、お徒歩《ひ ろ》いなさいませ。お気がはれまする。萱がご案内いたしますで」
とすすめた。
言葉は唯、形式に云っているだけで、彼女の眼は、政子の眼へ、べつな意味を何やら知らせていた。
「…………」
政子は黙ってうなずいた。
その頬に、紅がさしたのを見ると、それだけで、意味を受け取ったものとみえる。
奥の法音比丘尼にも、他《ほか》の者にも、眼にふれないように、政子はそっと尼院の裏垣から抜け出して行った。
萱《かや》は先に立って、
「――こちらへ」
と手招きしては、かなり急な石の多い山の小道を、登って行った。
尼院の屋根はすぐ眼の下になった。走り湯権現の堂閣も下に見えた。岬《みさき》の断崖の下に搏《う》つ荒磯の白い浪も下に見えた。
「登れますか、姫さま」
「ええ。これくらいな道」
牧場の妻は当然山馴れてもいる。しかし山馴れない政子はと、時折、気遣《きづか》って振向いたが、政子は、懸命に山椿《やまつばき》の枝や笹の根にすがって、後から攀《よ》じて来るのだった。
山は深くなった。
一叢《ひとむら》の木立の静寂《しじま》は、そうして来る政子の息の弾みを、先刻《さつき》からひそと待っていた。
云うまでもなく、蛭《ひる》ケ小島《こじま》の頼朝だった。
八
彼は政子の姿を見た。政子も頼朝のすがたを見出した。無表情とさえ見えるほど、二人は声も放たず近づき合った。
黙って、そこの木の根の草むらに腰をおろす。寄り添って、そうしてからも、しばらくは言葉もない……。
どういう言葉を以てしても、政子は今の自分の胸を伝えるには足らない気がするからである。
――我とてもそうである。
彼女の沈黙を酌《く》んで、頼朝も同じ心もちで黙っていた。
が、ここはもう、日金の牧のすぐ下である。誰もいない。世間の眼もない。頼朝の供をして来た藤原邦通も、牧の妻の萱も側にいなかった。
何でも云える。そして、滅多《めつた》に恵まれない機会でもある。
政子は、唇《くち》をひらいた。
「お支度はできましたか。毎日そればかりを待ち暮しておりまする。いつ二人の婚儀を挙げて下さいますのか」
「……もう少し先に」
「いつのお言葉も」
と、政子は、彼のにえきらない口吻《くちぶり》をやや蔑《さげす》むように、
「もうあれ以来、半年もこえているのに、まだいろいろなご準備ができないのですか」
「婚儀には何の支度もいらぬが、それを挙げるには、同時に、大きな覚悟が要《い》る」
「分りきっている事です。それはこれから先に持つ覚悟ではなく、始めからの事ではありませんでしたか。……わたくしと、貴方とが、結ばれる始めからの」
「元よりわしとても、その肚はすえている」
「それを、今となってまで、これ以上、何を惧《おそ》れ憚《はばか》っていらっしゃいますか。あれもこれもと、気ばかり遣《つこ》うていたら、起つ日は参りますまい。――一念はきっと通るという事を、わたくしは去年《こ ぞ》の暮、山之木郷から逃げのびた時、身をもって悟りました。そしてここまで事は進んで来ました。後は、貴方のご決心ひとつです。――それとも、何かまだお迷いになっていらっしゃるのでございますか」
「迷いはないが、機を計らねばならぬ。生涯のわかれ目――二人の恋とだけは考えおらぬ。――それは天下の大事、男の胸にあることだ」
「でも……機はもう熟しているではございませぬか。父の時政も、初めは、わたくし達の大望には、所詮、与《くみ》してくれない人と諦めて父へも叛《そむ》く気でおりましたが、今日となってみれば、その父こそ、誰よりも二人を理解してくれた大きな力でありました。――父は世間へ怒って見せながら、裏では、わたくしの身を、庇《かば》ってくれておりまする。山木家へ輿入《こしい》れの夜から今日まで、こういうふうに、事の運んで来たのも、よく考えると、わたくしの勇気というより、何だか、父の目企《もくろ》んでいた通りの道を、父に庇《かば》われながら歩いて来たような心地のするくらいです。……ですから、貴方のお心さえ定まれば、父もお味方として、いつでも起つにちがいありませぬ」
「それは、宗時からも聞いた。……しかし、わしは伊豆一国だけを見ておるのではない」
「…………」
「女子《おなご》には見えない。時政にも見え限《き》れまい。この広い天下のうごきを見極めずして頼朝は起てぬ。……お汝《こと》たちは、何というても伊豆そだちよ、まだ眼が狭いというものじゃ」
ふたりはそれからもかなり長い間そこに語らい合っていた。けれど、その話には、恋の蜜もなかった。――頼朝にとっても、時政にとっても、恋は第二義であった。ただ政子は女性であるがゆえ、父よりも、頼朝よりも、純粋であった。初めから生命がけであった。
白衣の使者
一
配所の柿は、あらかた配所の者がたたき落しては喰べてしまった。
手も竿《さお》も届かない梢《こずえ》の先に、真っ赤に熟《う》れたのが二つ三つ、鴉《からす》の為にでもあるように残されていた。――その梢に、今日も伊豆の夕日が、はや寒々と訪れていた。
「お。……ここか」
ひとりの山伏は、杖を止めた。配所の外に立って、しばし奥の屋根作りの様《さま》など窺《うかが》っていたが、
「ああ、長い年月を、ここに暮しておられたのか」
と、その面《おもて》は、無量な追憶《ついおく》につつまれていた。
やがて、山伏は、ずかずか通って行った。
柵の内には、畑がある、厩《うまや》が見える、釜殿《かまどの》がある。
釜殿からは、夕餉《ゆうげ》のけむりが流れていたが、人影は見えなかった。
「はて?」
玄関をさがして横へ曲がる。
厩の内から、白い人影を見ていた三郎盛綱が、怪しんで駈けて来たのを山伏は知らなかった。
「たのもうっ」
杖を立てて、玄関から訪れているところへ、
「どなた」
と、盛綱が後ろから声をかけた。
「や」
と、振向いて、
「こちらの家人《けにん》でおわすか」
「そうです。――合力《ごうりき》なれば厨《くりや》のほうへおまわりなさい」
「いや、合力ではない」
「然らば、何者か」
と、咎《とが》める。
山伏は容易にゆるさない眼《まな》ざしを以て、そういう盛綱を見やりながら、
「佐殿《すけどの》に会えばわかる。お汝《こと》、ここの家人なれば取次いでくれい」
と、云う。
「用向きも知れぬ者を、お取次するわけにはゆかぬ。ご姓名を承ろう」
「怪しい者ではない。ともあれ佐殿にお目にかかった上で」
「馴々《なれなれ》しげに云わるるが、近国の衆とも見えず、まして山伏すがたなどして、これへ来らるる以上、われら家人として、一応疑いを抱くのは当り前でござる。何とお強《し》いあろうとも、生国姓名を明かさねば、お取次は相成らん」
「お汝《こと》は誰か」
「佐々木源三が子、三郎盛綱でござる」
「そうか。源三秀義が子か。かねて聞き及んではいたが、佐殿の身内には、なかなかよい若者がおるとは嘘ではなかった。――然らば、申してもさしつかえはない。儂《み》は、新宮十郎行家《ゆきいえ》といい、佐殿には、叔父にあたる者だ。都から訪ねて来たと通じてくれい」
盛綱は驚いた。
率爾《そつじ》を謝して、あわてて奥へはいって行った。
間もなく、黒光りのしている廊の板敷や柱に、灯の影がゆらいだ。そして端麗なる貴公子といった風采の頼朝が、自身でずかずかと出て来た。
そこに立って、しばらくは、夕闇の中の人影をすかしていたが、
「陸奥《む つ》の十郎殿か」
と、訊ねた。
山伏は、寄って来て、これもじいっと、頼朝を見上げていたが、
「……佐殿か」
と、云って、
「そうだ。新宮十郎行家とは、近ごろ改めた名、以前の陸奥十郎義盛でなくてはわからぬ筈だった。その叔父の十郎じゃよ」
「おお、あなたが」
「火急、お目にかかりたい儀があって、遥々《はるばる》、かような姿で下って参った。上がってもよいか」
頼朝は、振向いて、
「盛綱、盛綱。叔父上に水を汲んでさしあげい。……さあ、お足を洗《そそ》がれて、お通りください」
と、頼朝は先に立って、行家を奥へ伴った。
二
「お疲れでしょう」
頼朝は云った。
それは凡《ただ》の客に対するような挨拶でしかなかった。行家はちと物足らない顔をした。
なぜならば、彼には、余りに多くの感慨《かんがい》があったからである。
行家は、頼朝がまだ十二、三歳の頃を知っていた。兄弟の義朝が六条に栄えていた時代の家庭に、幼い頼朝をよく見ていたものである。
それから十七、八年。
ひと昔――
実にひと昔である。茫々と年月は過ぎてきた。そして、ここは伊豆の山中、当年の頼朝は、はや三十歳の男ざかりである。父義朝にどこか似て、より以上、気品がある。智的な、温容なふうがある。
「…………」
行家は、感慨なくしてはいられないのである。けれど頼朝は、さほどでもない。朝暮の訪客に接するのと、大して変りもない程度に、
(――ご用談は)
と、促《うなが》したげな顔である。
しかしよく考えてみると、それは頼朝が情熱に乏《とぼ》しいわけではなく、頼朝には、行家という叔父があったくらいな事しか少年の記憶にはないからであった。行家の追憶と、頼朝の回顧とには、その年齢のちがいと共に、当然、大きな差があった。
「この頃は、都においでですか。それとも、お国元ですか」
余り行家が黙っているので、頼朝は、そんな話題を出したりまた、
「ここにいては、まったく、世上の事は何も分りません。こよいは悠々《ゆるゆる》、都の近状など、伺わせてください。……ま、湯浴《ゆあ》みなどなされて、何の馳走もありませんが、お寛《くつろ》ぎの上で」
と、云った。
それも至ってお座なりの歓待にしか聞えなかった。行家は初めのうちは少し不足であったが、十四歳から伊豆にいる頼朝に、いきなり十七、八年ぶりに訪ねて来て、血縁の情を望んだ自分のほうが無理と覚《さと》って、
「いや。その前に」
と、彼も他人行儀に、改まって、用向きの口を切って、
「極《ご》く内密におはなししたいが、お召使の出入りなきよう、しばらく人を遠ざけていただけまいか」
「お易いことです」
頼朝は、起って、
「こちらならば、誰も入って参りません」
と、持仏堂へ案内した。
今し方、彼は、そこで日課の読経《どきよう》をすましたばかりだったので、壇には、まだ燈明がともっていた。
行家は、そこに入って、義朝や一族の位牌を見ると、すぐ涙を催《もよお》して、壇に向って礼拝していたが、ふと、べつな小さい位牌厨子《いはいずし》の前に、紅と白の打物《うちもの》の干菓子が供えてあるのを仰いで、
「これは、誰方《どなた》の?」
と、頼朝を顧みて訊いた。
頼朝も、仰ぎながら、
「私にとっては忘れられない池《いけ》の禅尼《ぜんに》のお位牌です」
と、答えた。
頼朝が十四の時の恩人を忘れずに、今もなお、その人の霊に、燈火《ともしび》をあげているのを知ると、行家は、
(やはりこの甥は、義も情も解さない冷薄な人間ではないのだ)
と思って、急に、自分の情熱まで甦《よみがえ》って来た心地になった。
それかあらぬか、彼は遽《にわか》に、炯々《けいけい》たる眼ざしをして、
「――実は、このたび自分が東国へ下って来たのは、わたくし事ではなく、宮方《みやかた》の令旨《りようじ》をおびて、諸州の武人がどんな考えでおるか、密《ひそ》かに東国の動向を糺《ただ》しに来たわけでおざる」
と、厳かに云い出した。
三
宮のお使いと聞いて、頼朝も驚いたらしかった。
「お待ちください」
叔父の行家へこう云うと、彼は持仏堂からどこかへ出て行った。
手を浄め、口を漱《そそ》ぎ烏帽子《えぼし》や衣服も新しく更《か》えて来てから、やがて戻ってそこに坐り直した。
座も遠く退がって、
「この配所へ、そも、何事のご令旨にござりましょうか、仰せ聞けくださいまし」
と、両手をついた。
行家は、肌身に奉じて来た宮の御文《おんふみ》を錦襴《きんらん》の嚢《ふくろ》ぐるみ、額に拝んで持ち出し、
「お近う」
と、さしまねいた。
頼朝は、にじり寄って、両の手に捧げて受けた。
――が、それを開かぬうちに、行家が注意した。
「一通は、其許《そこもと》へ賜わる勅勘のご赦免状《しやめんじよう》であるが、もう一通は、其許と北条殿の両所へ降したもう令旨でござる。――故に、その方は北条殿とご同席にて拝されたがよいと考えるが」
頼朝は、はっとした。
ご赦免――という一語にも。
それとまた、北条殿と同席でという行家の注意にも。――大きな歓びと、大きな当惑とが、刹那《せつな》、その面《おもて》を交叉《こうさ》した。
流人という幽暗な壁は十幾年ぶりで除かれた。けれどその歓びにもまさる当惑は、政子の事件以来、時政とは、未《いま》だに会っていない事であった。政子のこの頃のことばに依れば、時政は決して、政子をも頼朝をも憎んでいないのみか、むしろ陰にいて、二人の恋が、完《まつと》うするように計っている――とは聞かされてもいるが、頼朝としては何となく今以て、甚だその人に会い辛い心地にあるのだった。
で、翌朝。
頼朝は、ゆうべの客が、まだ眼ざめぬうちに、使いを走らせて、時政の総領の宗時をよび、
「どうしたものだろう」
と、何事でも打明けられる彼に計ってみた。
宗時は、若い眼をかがやかし、
「宮のお使いとは、何事かわかりませんが、ご赦免と共にあれば、凡事《ただごと》ではありますまい。時節到来と覚えます。何で小さな感情などに囚《とら》われている事があるものですか」
「では頼朝が、突然、北条どのを館に訪ねて行っても、不快はあるまいか」
「何の」
と、自信ありげに、
「私が先に戻って、父時政へ、この由《よし》をはなしておきます。宮のご密使を阻《はば》む理由は父にもありますまい」
「しかし、もしご令旨を拝しても、時政の考えに、異存ある時は、六波羅に通じられる惧《おそ》れはないかな。叔父の行家が、山伏に身を変じて、密かというて下って来たことから考えても、ご令旨の洩《も》れてならぬものである事は、ほぼ察しられるが」
「…………」
宗時は、さし俯向いていたが、やがて頼朝を正視して、沈痛な小声で云った。
「大義親を滅すです。わたくし達の為《な》そうとする挙は、上は皇室の御《おん》ために、下は万民のためにと――誓って大義を的《まと》にしておることではありませんか」
「元よりだ」
「……ならば、ご安心ください。宗時には決する覚悟が持てます。私におまかせおき下さい」
そう云って、彼は帰った。悲壮な顔いろはして戻ったが取乱れた容子もない後ろ姿だった。頼朝は、縁ごしに見送っていたが、彼ひとりあればと思うほど、意を強くした。
四
その晩、行家は頼朝と共に、密かに北条家を訪れた。
館は清掃されていた。主客は奥ふかい室へかくれたまま、侍たちも遠く退けて、室外には、総領の宗時が見張っていた。
その後で、行家を主賓とした小宴がひらかれた。極めて内輪の者だけで。
夜も更《ふ》け、話もくだけてから、
「どうですか。この際、いっその事、政子どのを佐殿《すけどの》に下されて、正式に結婚させては」
と、行家が叔父として、時政へ云い出した。
「異存はない。もはや時節もよかろうで」
と、時政は云った。
宗時は頼朝の面を見た。頼朝はふと眼を熱くして俯向いた。自分から申し出たい程の事だったし、恋人の父に、自分たちの恋が正式に認められたのも欣《うれ》しかった。
行家が齎《もたら》した以仁王《もちひとおう》の令旨《りようじ》の内容については、小宴の席では、頼朝も時政も、一言《ひとこと》もふれなかった。
畏《おそ》れ多いことでもあるし、またゆるがせに口にすべき性質のものではないからだった。
けれど、ここで察するに難《かた》くない事は、まだ何事か知れないが、密使の齎《もたら》した重大な問題に対して、時政も同意を示したということである。
その重大な計画に対しては、頼朝の志と、時政の考えとが、少しも喰い違わないで、合致していたということは、杯のあいだに語らっている相互の容子でも見て取れる。
頼朝には、時政がそんな考えでいたのも意外であったが、もっと案外だったのは、政子と自分との関係も、山木家へ婚約した初めの頃から、時政の胸には、
(断《き》っても断れない二人)
なる事を、認めていたらしい事であった。
それを承知しながら、なぜ山木判官へむすめをやる約束をしたかは――時政自身は何をも云わないが――
(彼から求められた以上、彼を拒《こば》んで頼朝に嫁がせては、六波羅からも近国からも、北条家の意志として怪しまれよう。恋ならばどんな盲目なことも敢えてやって退《の》けるものと、人もゆるし、世も疑うまい。飽くまで、盲目な恋がなせる業としてでなければ、二人を結ばせる方法はない)
と、考えを極めていたらしいのである。つまり最初から結果を見越して、ただその「方法」として、政子を山木家へ輿入れさせたと思われる口吻《くちぶり》があった。
「油断のならない舅《しゆうと》だ」
と、頼朝は、彼の遠謀に心では将来を惧《おそ》れたが、この舅を帷幕《いばく》に持って、大事へ臨むとすれば、甚だ心強くもあった。
「北条どのがそうご承諾なれば、幸い、自分が参っているうちに、二人の目出度い姿を見て都へもどりたいが」
と、行家が重ねていうと、
「それはよい。ぜひ近日にも」
と、宗時も同意した。
にわかに話は纏《まと》まった。いずれ山木家へ知れるにしても、大びらでない方がよい。彼の意気地をこっちから煽動してはまずい。――それに表向きまだ勘当の息女《むすめ》、配所の流人、どこまでも質素がよい。こっそりと挙げるがよい。
時政の忠告どおりな挙式が、それから十日ほど後に、配所の一室で、華燭というよりは、しめやかに挙げられた。
伊豆山の尼院から密かに移って来た政子も至って粗服であった。花聟の頼朝も何の色彩もない姿である。――が、むしろ精彩のないところに清麗があった。配所の寒燈がかえって神々《こうごう》しかった。
時政も密かに列していた。政子の兄妹《きようだい》たちも見えていた。粒々辛苦、長らく仕えて来た配所の家人たちは、ふたりの姿を見て欣し涙を抑えきれなかった。その夜はまた廂《ひさし》に霧の降る音が忍びやかに洩れ、なおさら、去年《こ ぞ》の時雨《しぐれ》の夜が思い出された。
源頼朝 第一巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫41『源頼朝(一)』(一九九〇年二月刊)を底本としました。
*
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、作品の時代背景および著者(故人)が差別助長の意図で使用していないこと等をかんがみ、そのままとしました。読者のご理解を賜わりますよう、お願い申し上げます。
*
吉川英治記念館ホームページのアドレスは、http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/です。 源頼朝《みなもとのよりとも》(一)
講談社電子文庫版PC
吉川英治《よしかわえいじ》 著
Fumiko Yoshikawa 1940
二〇〇三年三月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロードが許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
KD000312-0