吉川英治
新書太閤記(四)
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目 次
露のひぬ間
琴《きん》 線《せん》
姉《あね》 川《がわ》
両面将軍《りようめんしようぐん》
叡《えい》 山《ざん》
東風吹《こちふ》く一隊《いつたい》
獅子《しし》の乳児《あかご》
卑屈茶《ひくつぢや》わん
四面楚歌《しめんそか》
伏龍悶動《ふくりゆうもんどう》
毘沙門堂主《びしやもんどうしゆ》
雁《かり》と燕《つばめ》
権《ごん》 化《げ》
時々刻々《じじこつこく》
三方《みかた》ケ原《はら》
卍《まんじ》
天放無門《てんぽうむもん》
田園《でんえん》の一悲母《いちひぼ》
君臣春風《くんしんしゆんぷう》
旧閣瓦解《きゆうかくがかい》
去《さ》りゆく人々《ひとびと》
お市《いち》の方《かた》
母《はは》の戦《たたか》い
説《せつ》 客《きやく》
珠《たま》
さむらい集《つど》い
未来《みらい》の女性《によしよう》
母と妻
楽《たの》しみここにあり
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新書太閤記(四)
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露のひぬ間
九死に一生を得、殿軍《しんがり》の任を果して帰った将士が、京都に帰りついた第一夜の望みは、
「とにかく寝たい!」
それだけだった。
君前に報告を終って、退《さが》って来る途中からもう藤吉郎は、
「寝るのだ寝るのだ」
と、居眠りながら歩いていた。
それが、四月三十日の宵であった。翌る朝、ちょっと眼がさめたが、また寝てしまった。午《ひる》ごろ揺り起されて、粥《かゆ》を喰べたが、その味もまだ美味《うま》いと感じるだけで夢うつつだった。
「また、お寝《やす》みですか」
側の者も、呆《あき》れ顔した。しかし、さすがに二晩目は、宵のうちに眼がさめて、大《おお》欠伸《あくび》を一つすると、それから体をもて余してしまった。
「おい、幾日か、きょうは?」
そんなことを訊いたりした。
次の間の詰侍《つめざむらい》が、
「二日でございます」
と、答えると、
「えッ、では明日は三日か」
と、驚いた顔した。
「二日か。ではもう御主君にも、お疲れは癒《い》えたろう。……いや、心の疲れはどうかな?」
独り言をもらしながら起ち上がって、持て余した体を室外へ運んで行った。
皇居を造営し、将軍の新館も信長が建築したものであるが、まだ信長自身は、洛中に館《やかた》を持っていない。上洛のたびに寺院住居である。そして幕下の諸将は、境内の末院を宿舎としていた。
藤吉郎は、その一院を出て、久しぶりこの世の美しい星を仰いだ。もう五月になるかと思う。
「生きているな。この体」
と、ぴちぴち意識する。何だか非常にうれしいのである。
夜中だが、信長に眼通りを願った。待っていたようである。すぐ会った。
「藤吉郎、何がうれしいのだ。非常にそちは爽《さわ》やかそうに、にこにこしておるではないか」
「これが欣《うれ》しくなくて何といたしましょう」――と、彼は答えた。
「日頃は、この生命など、有るとも持っているとも、ありがたくは覚えませんが、死中から拾ってみると、なんとも、愛《いと》しくて、歓《よろこ》ばしくて、生命《いのち》のほか、何物も要《い》らない気がいたします。――こうして、燭《しよく》の明りを見られるのも、殿のお顔を仰がれるのも、生きていればこそと、勿体なく、ただありがたく思われまして」
「ううム……そうよのう」
「殿の御心懐は」
「残念でならぬ……」
「まだ、遠征の惨敗を、苦にしておられますか」
「信長、初めて、敗戦の辱《はじ》と苦い味を知った」
「道理で、すこし茫然とお見うけ申されます。それがしのように、お考えなされませ。どこに、敗北の苦味《くみ》を嘗《な》めないで、大事をなした者がありましょうや。一町人の経営といえども、そんな甘やかされた生涯があるものではありません」
「そうか。そちの眼にも、信長の面《おもて》がそう見えたか。馬腹、一|鞭《むち》当てねばならんな。――藤吉郎、身仕度せい」
「えッ、身仕度して?」
「岐阜《ぎふ》へ帰るのだ」
自分の考えは、信長を超えていると、密《ひそ》かに誇っていると、信長の思慮はまた、自分の思慮の先へ出てくる。
急遽、岐阜の本城へ帰る必要はある。いろいろな意味で、それは急を要する。
(――が、どう帰るか?)
その方法を疑っていたが、信長は、空想家であるかと思うと、強力な意志の実行家でもある。
その晩のうちに、藤吉郎その他、わずか三百にも足らぬ小勢をひきつれ、夜どおしかけて京都から脱出してしまった。
疾風の迅《はや》さだ。そんな迅速な行動すら、もう誰からともなく洩れていた。
一行が、大津越えにかかる頃である。まだ短夜《みじかよ》も明けない逢坂山《おうさかやま》の木立の上に、鉄砲を構えて、信長のすがたを待っている怪僧があった。
不意に、駒が狂い出した。
暁闇《ぎようあん》をつんざいて、鉄砲の音がどこかで響いたのである。
「――あッ?」
駈けつづく家臣達は、すぐ信長の身を気遣《きづか》った。同時に、眼を四方に馳せて、
「曲者《くせもの》を探《さが》し出せ」
と、騒ぎ立てた。
信長は、鉄砲の音にも気づかなかったのだろうか、もう半町も先へ駈け越している。
彼方《かなた》から大声で、家臣たちを振り向きながら呼んでいた。
「捨ておけ、捨ておけ」
主君の一騎のみ遥かに先へ立ってしまったので、ぜひなく下手人を打捨てて、人々の馬群れはまた急ぎだした。
池田勝三郎、蜂屋兵庫《はちやひようご》、木下藤吉郎などが追いついて、
「殿、殿、どこもお怪我《けが》は?」
訊《たず》ね合うと、信長はやや駒を緩《ゆる》めながら、片手の袖を高く翳《かざ》して示しながら、
「命《めい》は天にある――」
と、いった。
小さい弾痕の穴がその袖を貫いていた。
後に判明したことであるが、その折、大樹の梢《こずえ》から信長を狙撃《そげき》した下手人は、伊勢|朝熊山《あさまやま》の円通寺の法師で、百発百中といわれる鉄砲の名手だったという。
――命は天にある!
しかし信長は、その言葉を消極的には持たない。命を天に待って安閑としてはいない。
信長は知っている。――いかに今、自分の身が、天下の群雄から、嫉視《しつし》され羨望《せんぼう》されているかをである。
尾張二郡の小城から、尾濃《びのう》二州へ羽翼《うよく》をのばしたくらいでは、まだ世間は、多分に多寡《たか》をくくっていたであろう。
だが、中原《ちゆうげん》に出て、令を京都から発したとなると、俄然、天下の諸豪は、心穏やかでないにきまっている。
なんら彼とは、宿怨も関《かか》わりもない九州の大友、島津、中国の毛利、四国の長曾我部《ちようそかべ》。――遠くは北辺の上杉、伊達《だて》などに至るまでが、挙《こぞ》って、反感か、邪視《じやし》か、冷嘲《れいちよう》か、いずれにしても、好意は示していない。
いや、そこらの動揺は、まだ当然といえよう。危ないのはむしろ近くの親戚などだ。甲斐《かい》の武田信玄など、もう姻戚《いんせき》の誼《よし》みなどは顧みていられないように、頻りと策動の気はいが見える。北条家も油断ならない存在である。
平時の姻戚外交などが、いかに弱い絆《きずな》であるかは、江州小谷《ごうしゆうおだに》の浅井長政がもう立証している。――先ごろ北征の日、ふいに旗を立てて、朝倉義景《あさくらよしかげ》とむすび、信長の退路を脅《おびや》かした最大な敵は、北江州の浅井だった。その浅井長政には、信長の妹が嫁《とつ》いでいるのである。――が、女の髪の毛で、男児の雄図《ゆうと》は左右できない。
三好、松永の残党は依然として、うるさい暗闇の伏敵だし、本願寺門徒は、その宗教上の組織と宣伝力を用いて、各地に、反信長の烽火《のろし》を準備している。
敵。敵。敵。
天下は挙げて信長の敵と化したかの観がある。信長が、突然、岐阜をさして帰ったのは、賢明だった。
――命は天にある。
この言葉を穿《は》きちがえて、もし彼がもう半月も、京都に安閑としていたら、すでに帰る郷土も家もなかったかも知れない。
が、彼は無事に、岐阜城へ帰った。それから約一月余りを経た六月の半ばだった。
「宿直《とのい》ッ。宿直の者ッ」
まだ、短夜も明けていないのに、彼の寝所から、呼び立てる声がした。稲葉山から長良川《ながらがわ》の空をかけて、頻りと、時鳥《ほととぎす》の啼く四更《しこう》の頃であった。
夜半《よなか》でも、不意に、むっくと寝床のうえに起き直って、思いもよらぬ命令を下すことがままある。
信長の宿直衆《とのいしゆう》たる者は、それに馴れていたが、時には油断へ水をかけられて、うろたえた態《てい》を殿に見られる場合がないでもない。
「はッ、――何ぞお召し?」
と、今は早かった。
「軍議をひらく。今からだ。即刻集まるように、信盛《のぶもり》に計らえと申せ」
信長は、もう寝所を出てゆく。あわただしく、小姓や近習《きんじゆ》の足音が追う。
夜半か、明け方か、眠たげな近習の頭にはよく分らない。まだ暗いことは確かで、外には星が鮮《あき》らかだ。
「ただ今、燭《あかり》を灯《とも》します。お待ちください」
近習は、狼狽していう。が信長はもう裸体になって、湯殿にはいっていた。そして旺《さか》んに水を浴び、体を拭きこすっている。
ここよりは、表方の狼狽はもっとひどい。城内には、佐久間信盛、坂井右近、木下藤吉郎などいたが、その他の諸将は多く城下を固めていた。それへ、召しの使いを飛ばす。一方、広間を浄《きよ》め、燭を配らせる。――いや、そう指図する自身がまだ顔も洗わずにいたのに気づいたりする。
諸将は、出揃った。
信長の爽やかな面《おもて》に、白い燭が映《は》えて見える。彼は、一同を見わたしながら唇《くち》を開いた。黎明《れいめい》と共に、自分は出馬する決心である。目標は、小谷の浅井長政を討つにある。――この席は軍議の席であるが、その根本の目的に、異論や諫止《かんし》はゆるさぬ。ただ、その作戦上の範囲内で、何か、献策があらば聞こう。
こう信長が決心のほどを闡明《せんめい》すると、諸将はみな、何か心を強く搏《う》たれたようにしん[#「しん」に傍点]としてしまった。
小谷の浅井長政には、信長の妹のお市《いち》の方《かた》が嫁《とつ》いでいる。そればかりでなく、信長は、妹|聟《むこ》の長政を、隣邦の抑えとする政策以上に、心から眼をかけていた。日頃、長政をよく愛している信長の真情を、諸将はみな知っていた。
京都へも、よく長政を招いて、見物させ、また、
(これは、小谷の妹|聟《むこ》でござる)
と、将軍家の周囲を始め、会う人ごとに紹介《ひきあわ》せたりして、長政も、自分と共に引き上げていた。
信長の近習が、信長の世話ばかりやいていると、
(妹聟も、見てやってくれよ)
と、いう程であった。
朝倉攻めの遠征の際、信長が、その妹聟の小谷城へは、何の沙汰もせずに立ったのは、由来、浅井と朝倉の両家は、織田家と結ぶ以前から、不侵略国として親密な関係にあるので、妹聟の立場を思い、むしろ好意的に、中立国としてその位置を保たせてやるためであった。
ところが。
敵国深くへはいった信長の、征旅《せいりよ》の苦境を知ると、果然その妹聟は、鉾《ほこ》を逆《さか》しまにして、信長の背後を脅《おびや》かし、織田軍をして、あの退敗を余儀なくさせたのである。
先頃、京都から帰った信長の胸には、その妹聟の処置が考えられていたに違いない。
折も折、ゆうべ深更に、信長の手へ密報がはいった。鯰江《なまずえ》の六角|承禎《じようてい》が、観音寺城の残党や門徒僧を用いて、土民|一揆《いつき》の火の手を諸所に挙げ、その混乱に乗じて、小谷の浅井勢と呼応して一挙に信長を屈伏させてみせると、露骨に活動しだしているという知らせなのであった。
そこの軍議が終ると、信長は、諸将をつれて本丸の庭へ出た。そして実証を指さして見せた。
遠い闇に、一揆の火は、旺《さか》んに空を赤くしていた。それは、単なる土民の一揆でないことを、信長は、諸将に説き明かして、
「いざ、立とう!」
と、促《うなが》した。
空はようやく明けかけていた。
それが、十九日のことだった。
次の日には。
信長以下、岐阜を発した兵馬は、近江《おうみ》に侵入していた。
いたる所の門徒一揆を破りながら、佐々木六角と浅井長政との連環《れんかん》を、次々に、踏みつぶしていた。そして、二十一日にはもう、浅井の本城小谷へ迫っていた。小谷の出城、横山城を囲んでいたのである。
疾風電撃《しつぷうでんげき》。
――信長勢が。
と、敵が耳に眼に知る時は、もう潰乱《かいらん》されていた。備える間などないし、崩れて、次陣を布《し》く遑《いとま》もなかった。
大雨の雨脚《あまあし》が、雲と共に、野を掃いてゆくようだった。
けれど、その席巻《せつけん》ぶりにも、限りがあった。横山城に当ると、ここは越前と江北の要路で、敵には、重要な地点だった。さすがに、頑として、手ごたえがある。
大野木土佐守《おおのぎとさのかみ》は、朝倉家のうちでも名だたる驍将《ぎようしよう》だ。その大野木勢に、野村肥後の精鋭が扶《たす》けて、
「陥《おと》せるものなら陥してみよ」
と、その堅塁《けんるい》を誇っていた。
時は、六月の大暑。
転戦また転戦をかさねて来た寄手の勢は、眼鼻もわからぬほど黒くなっていた。すると、二十二日の頃、
「大挙、越前の朝倉勢が、山越えして、小谷の救援にやってくる!」
との報がはいった。
次の、詳報に依ると、
――越前の援軍は、総勢一万余騎、朝倉孫三郎|景健《かげたけ》を主将として、魚住《うおずみ》左衛門、小林|端周軒《はしゆうけん》、黒坂備中守などの錚々《そうそう》たる将僚をそろえ、その兵卒らは声を合わせて、
こんど大寄《おおよせ》越ゆるなら
故郷《くに》のみやげになに持とか
近江《おうみ》ざらしよ
あの君に。
否とよ
われの持つものは
鑓《やり》の穂先に織田が首
織田信長が茶筌首《ちやせんくび》。
と、誰が陣中で作ったか、俗歌の節をつけて謡《うた》いながら、旗鼓堂々《きこどうどう》、大寄山《おおよせやま》をこえ、野村、三田村方面をさして来るとのことだった。
横山城は、所詮《しよせん》、急激に陥ちそうもない。――退路を遮断されたら、ふたたび越前の木目峠《きのめとうげ》の死地に立つ。
「龍ケ鼻まで退《しりぞ》け」
信長は、急に退いて、ここで対策を練り直した。
ちょうどその日だった。
信長が、心のうちに、待ちかねた徳川家康が、五千の兵を率いて来援に着いたのは。
よほど欣《うれ》しかったとみえ、信長はその時陣頭で、黒の薄い陣羽織に、塗りの大笠《おおがさ》をいただき、左に扇を持ち、右手に杖を持って、何か指揮していたが、
「おおッ」
と、家康のすがたへ、遠くからその扇を振って迎えた。
この気強い味方を迎えると、信長は自身、案内に立って、眼前の戦場の地形、敵の布陣、越前の援軍の情勢などを説明して、
「これに処す御意見は」
と、たずねた。
家康は、言下に、
「姉川を挟んで、野戦に勝敗を決するしかありますまい」
と、答えた。
信長の思うところもそれだった。家康は、自身、先陣を承ろうと進んで希望した。信長は謝して、
「それにしては、お手勢だけでは少ない。わが直属の兵を割《さ》いて、参加させよう」
と、いった。
「いや、大兵は要りません。……左様、然らば御意にあまえて、稲葉一鉄《いなばいつてつ》の一隊を拝借しましょうか」
家康は、そう答えた。
家康の眼に選ばれた稲葉一鉄は、武門の誉れと、手兵一千をさげて、三河勢に合体した。
信長はまた、家康に、
「これは、源氏にゆかりのある一槍です。源家の末裔《まつえい》たるあなたに贈ろう」
と、「為朝《ためとも》」という銘のある鑓《やり》を彼に与えた。
織田軍には、徳川家の援軍が来て加わった。
浅井方にもまた、朝倉勢の加勢がそこまで来ていた。
藤吉郎は、横山攻めには遅れて、後から参陣した。
彼は、浅井方の苅安城《かりやすじよう》、長比《たけくらべ》(長競)城《じよう》、不破郡《ふわごおり》松尾山《まつおやま》の長亭軒《ちようていけん》の城など、味方にとって、最も怖るべき後方の諸城を陥し、前線と岐阜との通路と、その安全を確保するために、遅れたのであった。
それらの厄介な敵は、多くが江州《ごうしゆう》と美濃の境に蟠踞《ばんきよ》していた。
苅安城は、坂田郡上平寺、長比《たけくらべ》の城も同郡の長久寺《ちようきゆうじ》村、長亭軒《ちようていけん》の城は、不破郡松尾山にあった。
信長の目的地とは、かけ離れた後方だし、山岳|重畳《ちようじよう》な横道である。
そんなものを、一城一城、気にかけて相手にしていたら、目的の小谷城へ懸《かか》るには、半年の余も費やしてしまうであろう。
で、大野木山の関門や、そこらの城砦《じようさい》には、藤吉郎の手勢を残して、信長の本軍は、遮二無二《しやにむに》、敵方の本城地へ肉薄して来たものだった。
だから信長は、
「本軍が、小谷《おだに》を陥《おと》すまでは、小勢なりとも、あの男のこと、後方《うしろ》は固く抑えているだろう」
と、安心していた。
ところが、その藤吉郎の木下勢は、信長が龍ケ鼻へ退陣してから程なく、長浜を立って、これへ参加し、すぐ信長を営中に訪ねて、
「願わくば、次の決戦には、木下勢に先鋒の第一陣を仰せつけられますように」
と、願い出たので、信長は驚くよりも、後方の敵を、どう処置して来たか、疑った。
藤吉郎は、それについては、
「苅安《かりやす》、長比《たけくらべ》、長亭軒の城など――一括《ひとから》げに、はや落去いたし、敵将|樋口三郎兵衛《ひぐちさぶろべえ》以下、一名も余さず、お味方に降《くだ》し、それがしが手勢のうちに従えて参りましたれば、はや後には御懸念なく」
と、答え、
「つぶさなことは、御陣のお暇をみて、徒然《つれづれ》のおなぐさみにでも、いずれお話し申し上げましょう」
と、のみで、その折には、語らなかった。
徳川家康をはじめ、諸将老臣が居合わせていたし、それを語れば、自然、自分の手功《てがら》ばなしとなるので、わざと、避けたものと見て、信長も深くは訊かなかった。
ただ彼の、これから先の大決戦に第一陣をという願いに対しては、
「すでに、その第一陣は、徳川殿に嘱《しよく》してある。そちは、第四番につけ」
と、信長はいった。
藤吉郎は、家康の倖《しあわ》せを羨望《せんぼう》したが、素直に退《さが》って、自分の人数を、総軍第四番手に備え立てた。
陣営の前を、きれいな河が流れていた。姉川の支流である。一夜、営内で快眠した藤吉郎は、まだ兵も眠っているうちに、一人そこの河べりへ来て、顔を洗っていた。
「殿。お早いことですな」
後ろで、誰かいう。
「お……。竹中半兵衛か。そちも早いなあ。寝たか、ゆうべは」
「よく寝ました」
「体は快《よ》いかな」
「ありがとうぞんじます。さてさて、戦《いくさ》は病人によく効《き》く名薬と思いました」
「はて。異なことを」
「されば、平常は病を宥《いた》わられて、季節変り、朝夕の寒暑にも、立ちどころに咳声《せき》を増し、よく熱など出す弱体が、この炎暑に、粗食をつづけ、兵や軍馬と共に歩み、夜は露草の上に臥しながら……どうでしょう、かえって、この通りな健康でござる。半兵衛を病人あつかいになさるるは、戦場では、この後御無用にねがいまする」
「なるほど。ムム、なるほど」
藤吉郎は、一|茎《けい》の蛍草《ほたるぐさ》を摘《つ》んで、指先に弄《もてあそ》んでいた。花に寄せて、誰を偲《しの》んでいるのだろうか。母か、寧子《ねね》か。――彼の多感多情は、彼の軍師竹中半兵衛が、誰よりもよく知っていた。
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琴《きん》 線《せん》
半兵衛の眼に気づかれては、見ッともない気でもしたのだろうか、藤吉郎は、弄んでいた蛍草を、指頭からぽんと捨てて、
「大戦が迫ったな」
「迫りました」
しばらく、視野を敵地へ向けたまま佇《たたず》んでいたが、また何を思い出したか、
「於《お》ゆうは、もう岐阜《ぎふ》へ着いたろうか」
と、呟《つぶや》いた。
「長浜からでは、まだまだ岐阜へは帰り着きません」
「途中、無事であればよい。――女子《おなご》の旅、わけて戦乱の中だ、気にかかるの」
半兵衛は、答えなかった。
於《お》ゆうは、自分の妹であるばかりでなく、大戦を前にして、殿の煩悩《ぼんのう》にも困ったものだと、苦々《にがにが》しく思えたからであろう。
その於ゆうは、長浜から帰したとある。知らぬ者が聞けば、陣中へ女子を伴《ともな》ったと誹《そし》られるにちがいない。
――が、そんな事情ではなかったのである。さもなければ半兵衛が許すはずはない。
許していながらも、半兵衛の苦々しく思うのは、主君が、彼女の帰り途まで、気にかけているからだった。
まだ、その報告は、藤吉郎から信長の耳にも入れてないが、陣中へ愛人を呼んだ理由を釈明するためにも――追っつけ審《つぶ》さに語らなければならないであろう。
で、話は少し後にもどるが、彼が佳麗《かれい》な愛人のゆう女を、陣中へ召し寄せた――彼らしくもない、また、彼らしくもある事情をここで明らさまにしておこう。
不破《ふわ》の関《せき》は、関所がなくても、地形そのものが、すでに天然の関門をなしている。
従って、ここを占《し》めれば、湖南一帯から美濃の平野を扼《やく》し、京都や北国路や東海道への交通を抑《おさ》えることになるので、討っても掃《はら》っても、敵たる者は、当然、すぐこの地方に充血してくる。
苅安城《かりやすじよう》。
長比城《たけくらべじよう》。
鎌刃城《かまはじよう》。
松尾山の城。
みな敵の牙《きば》だ。ひとつひとつ孤立したものでない。歯のごとく連環《れんかん》している。
伊吹《いぶき》の麓《ふもと》に、藤吉郎の手勢は陣取っていた。まだ一将校にすぎない彼に、大兵を預けられるわけもない。微々たる兵数だ。
それをもって、この地方一円の敵を抑え、小谷《おだに》へ進撃している味方の本軍に、後ろの憂いのないようにしていなければならない。
それだけでも重任であるのに、藤吉郎は、それだけで甘んじていられなかった。
「半兵衛、もう一度、行ってみてくれい」
「だめです。彼も侍です。たとえそれがしが、百夜《ももよ》通っても、節義を変える武士ではありません」
「そちは、敵に惚れ過ぎている」
「いや、長年の友ですから、彼の心を知っています」
「心の友なら、心をもって、説き伏せられぬこともあるまい」
「が、城門を固く閉じ、何度訪れても、会わないからだめです」
「では、絶望か」
「まず、あの男ばかりは」
「待て待て。およそ絶望ということは、きょうまでおれの生きて来た道にはなかった」
藤吉郎と、その軍師竹中半兵衛とが、帷幕《いばく》の裡《うち》で、こんな密談を交わしていたことがあってから、数日の後であった。
半兵衛の弟竹中久作が、ひとりの旅姿の美人を、馬の背から抱き降ろして、陣中へ導いて来た。
折からその日、垂井《たるい》の附近で、敵の一小隊と衝突して帰って来た兵たちが、黒い汗を拭《ぬぐ》いながら、兵糧を頬ばったり、手傷を縛ったりしている中を、時ならぬ花の香りをこぼして、美しい女性が通って行ったので、彼らは大きな眼をして見送った。――もしそれが、半兵衛の妹であり、主君の想い人でなければ、わあアッと、囃《はや》し立てて、せめてその袂《たもと》にでも触れて騒いだかも知れなかった。
竹中久作は、兄の半兵衛|重治《しげはる》が木下家に随身後、召し出されて、共に藤吉郎に仕えていた者である。
半兵衛より四つ年下の好青年で、兄は病弱だが、彼は健康そのものだった。
こんどの合戦にも、
(残念だなあ。なぜ木下軍は、お味方の後詰《うしろまき》などに廻されたのか。信長様に従《つ》いて先鋒を承《うけたまわ》っているならば、浅井家第一の豪傑といわれている敵の遠藤喜左衛門の首は、必ず俺の物なのに)
と、髀肉《ひにく》を嘆《たん》じて、兄にも人にも洩らしているほど、武勇にかけても、人に負《おく》れぬ自信はあった。
その久作が、数日前に、
(その方が参って、火急、岐阜表から於《お》ゆうを召し連れて来い)
と、主君に命じられたので、主君の命とはいいながら、
(何だって、女などを、陣中まで!)
と、憤懣《ふんまん》にたえない顔して、渋々使いに赴《おもむ》いたものである。――於ゆうは自分の妹であるが、いつのまにか主君の寵《ちよう》をうけていることを知っているだけに、なおさら、腹立たしかったし、戦友に間《ま》が悪かった。
――今。
その於ゆうをつれて、ようやく、炎天の旅から帰って来た久作は、営中へかかると、兄上は? と、居所を兵にたずねて、兄半兵衛の休息している幕《とばり》の外から、
「兄上、兄上ッ。ゆう殿を召し連れ、ただ今久作、岐阜《ぎふ》表より立ち帰りました。君前へは、兄上よりよしなに!」
と、呶鳴り捨てたまま、妹の於ゆうを置き放して、立ち去ってしまった。
半兵衛は、幕の内から立ち出でて、さすがに、オオと、懐かしげな眼をした。於ゆうも、病弱な兄のつつがない姿を見て、
「……お兄さま」
と、寄り添った。
「何のお召しでございましょうか、久作兄様にお訊ねしても、おら知らんと、顔を振るばかり……なにも分らずに参りましたが」
「驚いたも無理はない。ちと其女《そなた》に重い役目がいいつけられる御様子だ。――と、申しても、この兄も共に致すこと、そう案じるに及ばん」
と、慰《なぐさ》めてから、
「何はともあれ、御挨拶に出たがよかろう。――殿のお座所は、すぐ後ろの幕《とばり》――」
と、振り向いた。
藤吉郎のことを云い出されると、彼女は、にわかに顔を紅《あか》らめた。――半兵衛は、主君としていっているのに――妹のそうした羞恥《はじら》いを見ると、場所がら[#「がら」に傍点]のせいか、何か淫《みだ》りがましい気がして、もう優しいことばをかける気もしなくなった。
「ゆう殿、唯今、申し上げて参る程に、これにてお待ちなされ」
わざと、他人行儀にいって、藤吉郎のいる巨《おお》きな松と松とに張り繞《めぐ》らした陣幕のうちへはいって行ったが、間もなく、戻って来て、
「お待ちなされておらるる。――あれへお通りあるがよい」
と、指さした。
兄も一緒に来てくれるのかと思っていると、雑兵を呼んで何かいいつけたりなどしてかまってくれない。
彼女は、一人、怖々《おずおず》と陣幕の路地を通って行った。
すると、於ゆうが来たために、退けられた人々であろう。蜂須賀彦《はちすかひこ》右衛門《えもん》や堀尾茂助《ほりおもすけ》や、福島市松、加藤虎之助などの小姓たちまでが、相次いで、そこから四方へ出て行った。
何かその人々へ、すまないような気もして、彼女はなお、幕の蔭に佇《たたず》んでいた。――と、藤吉郎は幕を払って、
「オオ。於ゆうか。なぜ黙って、そんな所に立っておる。さあ、はいれ、はいれ」
と、手を把《と》って中へ抱え入れた。
何の憚《はばか》りも屈託《くつたく》も彼にはない。藤吉郎は、彼女のやや小麦色に陽焦《ひや》けした顔をのぞきこんで、
「よう来たな。……道中、敵におそわれなかったか。留守中は、淋しいことであろう。体も、別条ないか」
と、まったく甘い。
用ありげな小姓の一人が、何気なく、ひょいと幕を上げてはいりかけたが、小姓でさえ、顔を赤くして、あわてて引退《ひきさが》ってしまった。
「於ゆう。それへ休め」
「はい」
「半兵衛より仔細は聞いたであろうな」
「まだ何も聞いてはおりませぬ。すぐこれへ伺いましたので」
「久作からは」
「なおさら一言も……」
「では、わしから告げよう。この戦場へ、はるばる、そなたを呼び迎えたは、そなたに、敵方へ使いに立ってもらいたいためじゃ。今――、不破郡《ふわごおり》松尾山の長亭軒の城に立て籠っておる浅井の臣、樋口三郎兵衛《ひぐちさぶろうべえ》と、お許《もと》ら兄妹《きようだい》とは、幼少から親しい間がらと聞いたゆえに」
と、藤吉郎は、於ゆうが戦争の駈引などにはうとい女性であるだけに、分りよく噛みくだいて話した。
この地方に、敵方の城は、要所要所に幾つもあるが、要するに、牙城《がじよう》は長亭軒の一城と見てよい。
その親歯さえ抜けば、後の歯はひとりでにぐら[#「ぐら」に傍点]ついて来る。
ところが、あれは陥《お》ちない。この兵力の五倍をもって、二十日以上、多大な犠牲を払っても、陥ちるかどうか。
なぜならば、その干城《かんじよう》の大事を知って、浅井長政も、逸《いち》はやく、鎌刃城《かまはじよう》にいた樋口三郎兵衛を、長亭軒の城のほうへ移して守らせているからである。
三郎兵衛は、稀に見る智謀の将だ。武勇にかけても鳴っている。その人物は、以前から誼《よし》みの深い半兵衛|重治《しげはる》が珍重している通りである。
だから、ここにあるただ一つの策は、友の半兵衛からよく利害を説いて、衂《ちぬ》らずして彼を降伏させるしかない。しかし、彼もさる者、寄手の弱点は、充分見ぬいている。
先頃から、半兵衛を説客として、何度も使いに立ててみたが、それゆえに、樋口三郎兵衛は、頑《がん》として会わない。
――たとえ日頃は親友であろうと、敵味方と戦場にわかれた以上、会う必要は毫《ごう》もない!
そう城門の塀ごしにいわれるのみで、もう五、六遍も追い返された。
さて、そこでである。
女には除外例がある。いかなる猛者《もさ》も優しく扱う気になる。わけて殺伐な戦場ほどなお、効果は大きい。
「――ひとつ、某女《そなた》が兄半兵衛と共に参って、そこの頑《かたくな》な敵の城門を叩いてみるのだ。よいかの。真心をこめて訪れるのだ。……そして、樋口三郎兵衛が、あわれと心をうごかして、城門をひらき、半兵衛を迎え入れてくれたら、もう事は半ば成就したようなもの。――後は半兵衛の胸三寸にまかせておけば足る」
こう話し終って、藤吉郎は、
「どうじゃ、やさしい役目であろうが」
と、微笑んだ。
於ゆうは、謹んで、
「よく分りました。一心になって致して参りまする」
と、命をうけた。
「戦場の兵糧というものは、まだ喰べたことがあるまいが、馳走して遣《つか》わそう。――これ、これ、時刻はちと早いが、ゆうに夜食をつかわせ」
と、幕《とばり》の外へ呶鳴った。
わずか一刻ほどしか、彼女は藤吉郎の側に休んでいなかった。
兄のいる床几場《しようぎば》へ戻って、身躾《みだしな》みをつくろい、兄の半兵衛も、具足を脱《と》って、涼やかな平服に着かえるのを待ち――それから間もなく、ふたたび陣所を出て行った。
半兵衛と、ただ二人きりであった。
半兵衛も駒に跨《また》がり、彼女も駒に乗って、水色の被衣《かずき》をかぶっていた。戦場を行く旅人にしては、優雅な姿であり過ぎた。
垂井《たるい》の宿場あたりで陽《ひ》が暮れた。――それから伊吹山の裾野《すその》を、悠々と、駒を打たせて行った。――ちょうど大きな夏の月が、関ケ原の彼方《かなた》からさし昇って、道は昼より明るく、伊吹颪《いぶきおろし》は、秋のように爽やかだった。
伊吹は東。松尾山は西。
不破の街道を挟んで、関ケ村から山ふところへはいってゆく。
ズドン!
と、鉄砲の音が谺《こだま》した。
半兵衛は、駒をとめて、
「於ゆう。驚いたであろ」
と、わざと、微笑した。
「いいえ」
於ゆうは、強がりでなく、そう愕《おどろ》いた様子もない。――間もなく、人の跫音が駈けてくる。
「止れッ」
二人の駒の前後に、四、五本の槍がキラキラ月影に並んだ。
半兵衛は、馬上のまま、
「それがし達|兄妹《きようだい》は、御城代樋口三郎兵衛どのへお会いしに参る者でござる。御苦労ながら御案内ねがいたい」
「御姓名は」
「木下藤吉郎の家中、竹中半兵衛重治、妹のゆう」
と、明晰《めいせき》にいった。
ここらを見張っていた一小隊の兵たちは、そう聞くと、顔を見合わせた。また、於ゆうの清麗な姿を見まもった。
若い女性を連れているし、平服である。仔細はあるまいと、一部の兵が先に立った。――もう長亭軒の城はすぐ近いのである。
祖父谷《おじや》、平井山、松尾の三山のふところになっている。城砦《じようさい》の規模は小さいが天嶮《てんけん》である。
城門をそこに見ると、
「御大儀」
と、送ってくれた兵たちに礼をいって、半兵衛は、まず先に城門をたたいた。
「――城内の方へ物申す。それがしどもは、御城代樋口殿と、年来親しい間がらの者でござる。幾度となく、訪れ申せど、遂に、一度のお会いも得ず、諦《あきら》めかねて、こよいまた、余りの月のよさに、ついつい思わずまたこれまで、訪れてござる。――恐れ入るが、お取次ぎねがいたい」
大声でなければ届かない。頑丈な鉄扉《てつぴ》は、いくら呶鳴っていても答えがないので、半兵衛は、長々とそういった。
それでも――
ややしばらくは、何の返辞もなかった。半兵衛はまた、同じような意味のことばを繰り返した。すると、城門越しに、矢倉の上から、敵の顔が見えて、覗《のぞ》き下《お》ろしながら云った。
「御無用ッ。御無用。――何度参られても、御城代のお答えは、同じものでござる。お帰んなさい」
「あいや」
半兵衛は振り仰いで、
「いつもは、木下家の家臣としてでござったが、こよいは、一半兵衛重治として、妹のゆうと共に、月を賞《め》でつつ、浮々と、お立ち寄り申したのでござる。――それがしの知る樋口三郎兵衛どのは、武勇の質であるばかりでなく、風雅も解し、あわれも知る優しい武士と承知しているが、さては早、木下勢に取り詰められ、月を見る心のゆとりも、友と語らう心情も、失われてしまわれたか。……さるにては是非もないが」
独り嘆くようにいっていると、
「だまれッ」
と、狭間《はざま》でべつな声がした。
「おお、三郎兵衛殿」
仰ぐと、上の顔は、
「やよ、半兵衛殿。いくら訪ねて来ても、むだ[#「むだ」に傍点]であるぞ。会う要はない。帰れッ……」
「――おじ様ッ、おじ様。ゆうでございまする」
「ヤ、ゆう殿。女の身で、何しにこの戦場へ」
「余りに、兄の心の可憐《いじら》しさに……。そして、おじ様も、いつお討死か知れぬと聞き、お別れに参りました」
ここは、半兵衛|兄妹《きようだい》の生地、菩提山《ぼだいさん》の城からも程近い。――同じ不破郡の内である。
樋口三郎兵衛は、半兵衛兄妹を、幼い頃から知っていた。今、於ゆうから、小父さま――と、呼びかけられると、その幼い頃の彼女や半兵衛を思い出した。
「城門を開けて、二人を、本丸の書院に通せ」
遂に、彼も我《が》を折った。
三郎兵衛は、具足を解いて、平服となってから書院へ出、兄妹《ふたり》を迎えた。
会うとすぐ、於ゆうに、
「大きゅうなられたな。木下家の奥に仕えていると聞いたが、早いものよ。わしが手に抱いて頬ずりすると、この髯面《ひげづら》を痛がって、顔を掻いたりしたものじゃが……」
と、沁々《しみじみ》いった。そして、
「半兵衛どのにも、度々のお訪ねに、無情《つれな》く門を閉じたまま、無礼を重ねたが、戦国のならい、お互い武門に生きる者の辛《つら》いところじゃ。……察しられよ」
と、やがて、小《ささ》やかな膳を調《ととの》えて、これが一生の別れとなるかも知れぬ。月を肴《さかな》に、一献酌《いつこんく》もうと、打《う》ち寛《くつろ》いだ。
明らかに、三郎兵衛は、討死を覚悟しているものと見られた。彼には、主君の浅井が、到底、信長に抗しきれるものとは考えていなかった。ここ半月や一月は支えても、やがて最期の日は近いと、観念しているふうであった。
「いや、お互い武士ほど儚《はかな》いものはありません。――が、その儚い中に、確《かく》と、生きて来ただけの足跡を残さねば、武士としても真《まこと》の武士ならず、人間としてはなおさら口惜しい限りです。名はお互いに、汚《けが》したくないものですな」
半兵衛は、杯をふくみながら云った。――それはまことに、三郎兵衛の現在の心境に打ッてつけた言葉であったから、
「そうだ。……そうだとも」
三郎兵衛も、今は、以前の友と変らず、すっかり胸襟《きようきん》をひらいて、杯をかさねた。
「於ゆう。琴《こと》なと弾《ひ》いて、興を添えぬか」
兄のすすめに、
「はい」
ゆうは、小侍を顧みて、一面の筑紫琴《つくしごと》をかりうけ、月明りの映《さ》す月の間から、琴を弾《だん》じた。
「…………」
敵と味方。――二人の友は、耳をすまして聞いていた。
短檠《たんけい》の灯は、いつか風に消えていたが、三郎兵衛のさし俯向《うつむ》いたままの面《おもて》に、白い月影が、よけい白く映《さ》していた。
嫋々《じようじよう》と、絃《げん》は鳴る。哀々と、彼女は歌う。
その八絃の音は、ここにある者の心ばかりでなく、城内七百の強者《つわもの》ばらの耳へも腸《はらわた》へも鳴って行ったとみえて、長亭軒の城、松尾山の松籟《しようらい》は、一瞬、しいんと静寂《しじま》に冴えて、ただ琴の音と、琴の歌があるばかりだった。
「…………」
三郎兵衛の痩せた頬に、数行の涙が、月に光って見えた。
琴の音が休《や》むと、
「時に、三郎兵衛どの、あなたがお護りしておられる御城主の二郎丸様は、当年、お幾歳になられますか」
と、半兵衛が訊ねた。
「お十二になられた。おいたわしや、父の殿、堀《ほり》遠江守《とおとうみのかみ》様には、先年亡くなられ、今はまた、十二の御幼少で、この城に立籠《たてこも》られ、御運のほども……」
と、三郎兵衛は、遂に、懐紙を取り出して、落涙をつつんだ。
半兵衛は、屹《きつ》と、坐り直して、
「あなたは不忠者だ!」
と、にわかに声を励ました。
「なに、拙者を、不忠者と」
「――そうです。いかに武将のお子でも、まだお十二の幼君では、世の中のどういうものか、戦《いくさ》は何のためにしているものか、義も節も、お胸には分っておられまい。――それを、飽くまで、この一城に拠《よ》って、籠城討死を遂げようとなさるのは、臣下たるあなた方だけの意志で、自分の名のため、節義のために、何も知らぬ幼君をも、犠牲にしてしまおうという酷《むご》い我意だ。――半兵衛には、そういう自我のお心を、武士道とは、お見上げ申されぬ。むしろ穿《は》きちがえたる武士道と嘆かれる。……三郎兵衛どの、それでも御身は、忠義のつもりでおられるのか」
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姉《あね》 川《がわ》
理には負けないと思う。
理論に対する理論ならいくらでもいい立てられる。
けれど、理と共に、心情を打って来る言葉には、樋口三郎兵衛も抗し得ない気がした。――半兵衛|重治《しげはる》の友情から溢れ出る理に対して、彼は小賢《こざか》しく云い返す言葉を知らなかった。
「弱年のそれがしが、貴殿にこう申すなど、釈迦《しやか》へ説法にも等《ひと》しゅうござるが……」
半兵衛は、三郎兵衛が、首うな垂れたまま聞いているので、むしろこう一歩、謙遜《けんそん》しないではすまない気がした。
「――義もあまり過ぎたるは邪義とか、誰かの書に見えました。昔から主君のためわが子を殺した例《ため》しは幾多ありますが、わが義を固執するために、主君を亡《うしな》い主家を滅亡させた例《ため》しは聞きません。――貴殿の忠義は、いわば過ぎたるものといえましょう。また、あなたの炯眼《けいがん》をもって、この小城に、わずか七百の兵を擁し、織田家の二万五千の大軍に対し、最後まで守りきれるなどともお考えにはならないでしょう。なおまた、今の混沌《こんとん》たる時代の帰趨《きすう》が、何人《なんぴと》によって、処理され、統一され、やがて泰平が建て直されるか――そうした時の潮《うしお》の行く先も、お見えになっていない理《わけ》はあるまいとも存ぜられます。――そうしてみれば、この際、主家を保《たも》ち、幼君の一生を託し、七百の生命を救うには、いかにいたしたらよいか、あなたのお胸一つで、きッぱりと、御方針はすぐつくことかと思いますが」
「いや、忝《かたじけな》い。……仰せはお道理、この三郎兵衛とても、幾夜、考えぬことではござらぬ。――しかし、巷間《こうかん》の伝えるところでは、信長殿というお方は、御気質|峻烈《しゆんれつ》、敵といえば、捕虜降参人と対しても、仮借《かしやく》はあらで、打首、本領追い払いなど、随分おきびしいとのことである。――万一、城を開いてから、主家も立たず、幼君の御先途も覚束《おぼつか》ないとあっては、三郎兵衛の名や一身などさておいて、武門の嗤《わら》われ草、悔いても嘆いても、及ぶことではありますまい」
「その儀なれば、お心やすく思し召されい。重治が一命にかけ、主人藤吉郎秀吉様から、きっと、堀家の安泰と、二郎丸君の御助命は、誓紙《せいし》をいただいて進ぜまする」
「…………」
半兵衛の眉宇《びう》を見つめたまま、樋口三郎兵衛はややしばし黙然としていたが、静かに、その眼を閉じると、はふり落つる涙と共に手をつかえて、
「おねがい申す。……卑怯とお蔑《さげす》みもあれ。ただ、御友情に」
と、いった。
その翌々日。
樋口三郎兵衛は、長亭軒の城を開き、幼主二郎丸の手をひいて、藤吉郎の軍門へ、降人として訪れた。
藤吉郎はまた、その孤君、その義臣を、篤《あつ》く迎えて、
「安んぜられよ」
と、将来までを保証した。
三郎兵衛の降伏を知ると、苅安《かりやす》の城も、長比城《たけくらべじよう》も、みな血を見ずに落城した。――藤吉郎はそこで長浜まで軍をすすめ、於ゆうはそこから岐阜へ帰して、兵馬の装備を革《あらた》めると、主君の信長のいる前線の地、姉川へ、
「この大戦に洩れては」
と、急ぎに急いで、昨日、ここに着陣、望みどおり信長の本軍と合したわけだった。
姉川の水は三尺、その広い河幅も、脛《すね》をもって渉《わた》ることができるが、その清冽《せいれつ》は、夏なお身を切るように冷たくて、水源の東浅井の谿谷《けいこく》を思わせる。
元亀《げんき》元年、六月二十八日、まだ夜の明けないうちであった。
信長の総軍二万三千。
それに徳川勢の約六千。
龍ケ鼻から進んで、姉川の岸に備え立てた。
前夜。――夜半《よなか》頃から。
敵の浅井、朝倉の連合軍一万八千の兵も、徐々と、大寄山《おおよせやま》から行動を起して、姉川の左岸に当る野村、三田村あたりの民家を楯《たて》に、戦機を窺《うかが》っていた。
瀬の水音ばかり、夜はまだ明けない。
「康政《やすまさ》」
榊原《さかきばら》康政は、暗い水際から、
「はッ」
と、主君家康のすがたを暁闇《ぎようあん》の岸にふりかえった。
「ひしひしと、敵は、対岸のすぐ水際まで襲《よ》せているな」
「霧で――よう分りませぬが、馬のいななきが、微《かす》かに」
「下流《しも》は」
「とんと気配がわかりませぬ」
「天運、いずれに幸いするか。きょう半日がわかれ目だな」
「半日。そうかかりましょうか」
「侮《あなど》れぬぞ」
家康の影は、河原の畔《ほとり》の林へかくれた。そこが織田軍の先鋒一番隊の――彼の手勢がヒソと鳴りをしずめていた陣だった。
そこへ入ると、もう蕭殺《しようさつ》の気が肌に沁む。草むらに、灌木《かんぼく》の中に、兵は銃列を布《し》いて、身を屈している。槍隊は槍をにぎって、まだ何も見えない姉川の一水《いつすい》をにらんでいる。
――今日が生死の?
兵の眼は、ぎらぎらしていた。死も生も意識のない裡《うち》に、きょうの血戦がどう終るか、無言の中にみな描いている。――この空を、今夜もきっと見られると信じている顔はひとつもない。
康政をつれて、家康は、その中をガサ、ガサ、と静かに通った。鉄砲の火縄のほかに、火の気も見ない。
誰か、大きな嚔《くさめ》をした者がある。風邪《かぜ》をひいた兵が、火縄の臭気に鼻をつかれて思わず放ったのであろうが、そんな味方の中の声一つでも、
――はッ?
と、したように光る眼が辺りへうごく。
睨みつめていても何時《いつ》の間にというけじめ[#「けじめ」に傍点]も分らぬまに、ほのかに姉川の水面が白みかけたと思うと、林の梢《こずえ》を透《す》いて、一条《ひとすじ》の紅い雲が、伊吹山の肩のあたりに見出された。
「――あッ、敵がッ」
誰か、兵の中で、どなりかけると直ぐ、林と河原の境に出て佇《たたず》んでいた家康を中心とする幕僚たちが、
「撃つな!」
と、銃隊へ手を振った。
「撃ってはならんぞ」
他の将が、つづいていう。
対岸の正面よりやや下流手《しもて》の岸から、一隊の敵が、騎馬|徒歩《かち》をまぜておよそ千二、三百、一陣になって、河を斜めに、駈け渉《わた》りだした。
足もとから立つしぶきに、真白な疾風《はやて》が渉ってゆくようだった。――恐るべきその浅井方の先鋒は、織田方の先鋒も、第二陣も三陣も無視して、一挙に、信長の中軍を衝《つ》こうとする意思らしく思われた。
「あッ、磯野丹波《いそのたんば》」
「丹波守が手勢」
家康のまわりで、家康の旗下《はたもと》たちは、唾《つば》をのみながら云い合った。浅井長政の下に、浅井家が誇りとする磯野丹波守という好敵手のあることは、夙《つと》に武将の間に聞えていた。――その旗じるしを今、颯々《さつさつ》と、水けむりの中に見たからである。
ダ、ダ、ダ、ダッ
敵の掩護《えんご》か、味方の銃隊か。いや両岸から同時に撃ち出したといっていい。水に谺《こだま》して、耳も聾《ろう》するばかりだった。
雲は裂け、六月の青空は、肌をあらわした。――と、見るうちに、織田軍の二番、坂井右近の人数、三番備えの池田勝三郎信輝の手勢が、
「その敵、一歩も味方の岸を踏ますなッ。一人も、敵の岸へ返すなッ」
と、どっと、流れの中へ突撃して来た。
坂井隊は、敵の横へ。
池田の将士は、敵の突角《とつかく》へ向って、ぶつかって行ったのである。
接戦は、一瞬に起った。
槍と槍、太刀と太刀。――また、組む者、馬上から落ちる者、姉川の水は、血か、映じる朝陽か、鮮紅燦々《せんこうさんさん》と揺《ゆ》れに揺れた。
磯野丹波守を先頭に、率先して突きこんで来た浅井勢は、浅井方のうちでも選《よ》り抜きの精兵だったにちがいない。
織田方の二番備え、坂井右近の隊は、完膚《かんぷ》なきまで、叩きつけられた。
隊長右近の子、坂井久蔵は、
「むッ、無念だッ」
と、その戦《いくさ》の中で、敵味方中へ聞え渡るほどな絶叫をあげて討死を遂げた。
精兵、百余人が、つづいて河中に戦死した。
当るべからざる勢いで磯野丹波の兵は、三番備えの池田勝三郎の隊を突破して行った。
勝三郎の麾下《きか》が、
「くッ、くそ」
「やるなッ」
と、槍をそろえて、その突角《とつかく》へ遮《さえぎ》りに向ったが、まるで寄せつけなかった。
四番備え。
木下藤吉郎の陣だった。
藤吉郎も、
「こんな凄まじい敵を見たことがあるか」
と、半兵衛を顧みてつぶやいたほどだった。
さしもの半兵衛にも、施す策がなかった。なぜならば、木下隊には、先頃、長亭軒の城や苅安城――その他、諸所で収容した降参人がたくさん混《ま》じっているからである。
それらの降人も、今は皆、麾下《きか》の一兵として、藤吉郎の手に加わってはいるが、いずれもつい先頃までは、浅井家や朝倉家の禄を喰《は》んでいた者であるから、当然、敵へ駈け向わせても、その鉾先《ほこさき》は弱いにきまっている。むしろ味方の足手|纏《まと》いとなろう。
木下隊には、そんな弱点があったし、五番、六番の備えも、瞬《またた》くまに蹴ちらされて、織田陣十三段の備え立てが、遂に、十一段まで潰乱《かいらん》されてしまった。
その頃。
上流の徳川勢は、一気に、姉川を渡って、対岸の敵を席巻しながら、徐々に、下流へ移っていたが、顧みてみると、すでに信長の本陣近くまで、磯野丹波の死に物狂いな兵が迫っているので、
「あの側面を突け」
と、河中へ躍り返した。
磯野丹波の兵は、自分たちの味方がいる西岸から河へはいって来た人数なので、近づくまで、
「味方の加勢――」
と、思っていたものらしい。
榊原康政を初めとして、三河武士の名だたる武者が、
「くわッ!」
と、息弾《いきはず》ませて、いきなり磯野丹波の隊伍へ、斬りこんで来た。
「しまった」
磯野丹波が、徳川勢と気づいて、しゃ[#「しゃ」に傍点]嗄《が》れ声《ごえ》をふりしぼりながら、返せッ――と叫びかけた時、何者か、彼の横あいから、びゅッと水に濡れた一槍を繰り出した者がある。
――ぱしゃッ
水けむりの中に丹波は坐った。脾腹《ひばら》へはいった槍のケラ首をつかんで起とうとする――起たせまいとする――瞬間、また、頭上にチカッと燦《きら》めいた、何人かの太刀が、がつんと、丹波の鉄兜《てつかぶと》へ打ちおろした。
刀は、幾つかに折れて飛んだ。丹波は起った。血しおに等しい川波が真っ赤に立つ。
「くそッ」
「ちいッ」
三、四人、いちどに丹波の前後から組みついて、脾腹《ひばら》、首すじ、籠手《こて》、深股《ふかもも》、滅茶滅茶に突いたり、斬ったりしてしまった。
すわ! 敵が。
と、見たので、信長の旗下は、信長の幕営《ばくえい》を出て、みな川岸へ、槍を揃えていた。
竹中久作は、木下隊だが、乱軍となっては、もう所属などにこだわ[#「こだわ」に傍点]ってはいられない。猛敵浅井隊を追いかけて、信長の本陣の近くへ駈け上がっていた。
「……や。ここはもう?」
ふと見ると、何者か。
その信長の幕営の裏から――幔幕《まんまく》をかなぐり上げて、今し、そっと這いこんで行こうとする男がある。
具足、太刀の鐺《こじり》など、雑兵とは見えなかった。また、味方にしては、幕の裾をあげて、窺《うかが》っている容子《ようす》がおかしい。
「待てッ」
久作は、飛びかかって、敵の鎖《くさり》と筋金で固めてある片足をつかんで引ッ張った。――もし、味方だったら、同士討ちになると、大事を取ったからである。
竹中久作に、足を引ッ張られた男は、驚きもせず、振り向いた。
それは浅井方の一将とみたので久作が、
「敵だな!」
と、確かめると、
「当然ッ」
と、喚《わめ》きながら、相手は、やにわに槍をしごいて、突いて来た。
「何者ッ。名乗る程の名は持たぬ奴か」
「浅井の臣、前波新八郎《まえなみしんぱちろう》ッ。織田殿にこそ、この槍を見参にと参ったるに、邪魔だてする小面憎《こづらにく》い童《わつぱ》め。何奴《なにやつ》だ」
「木下藤吉郎の家来、竹中久作とはわがことよ。――信長様に近づかんなど、身の程知らず。いで、久作が」
「さては、半兵衛が弟よな」
「そうだッ」
いうや否、掴んでいた敵の槍を手繰《たぐ》って、敵のふところへ跳びこんだ。
槍の穂が虚空へ刎《は》ねる。
久作が太刀のつかへ手をかける寸前に、新八郎は、組みついて来た。――だんと、仰向けざまに、同体に倒れる。久作、下になる。蹴離す。――また下にねじ伏せられる。敵の指に噛みつく。新八郎やや弛《ゆる》む。――間《かん》! ――揉《も》む。解《ほぐ》れる。久作、起きかえる。咄嗟《とつさ》。久作の手、鎧貫《よろいどお》しを引き抜いて、新八郎の喉《のど》へ目がけて突く。鎧貫しの切っ先、外《そ》れる! そして、新八郎がうわ唇から鼻を削《そ》いで、眼孔へ突っこんだ。
「戦友の敵ッ」
後ろで、声がした。
首を掻く間もない。
刎《は》ね跳んで、久作は直ちに、その敵と渡りあった。――この附近、すでに浅井方の決死隊が、何十人となく入りこんでいるらしく思えたが、敵は背後《うしろ》を見せて駈け出した。追いかけざま、刀で、膝を撲《なぐ》った。――倒れた上へ乗《の》しかかって、久作が、
「名ある者か。何ぞ一言、ないか、あるか」
炎のような呼吸でいう。
「小林|端周軒《はしゆうけん》なり。ほかに、何らいうことはない。ただ、信長に近づかぬ間に、汝ごとき小侍の手にかかったが残念だ」
「浅井の家中なら知っていよう。浅井随一の豪の者、遠藤喜左衛門はどこにおる」
「知らぬ」
「いえ、吐《ぬ》かせ」
「知らぬ」
「ええ、面倒」
久作は、端周軒の首を挙げて、また血眼《ちまなこ》に駈け出した。
――今度の合戦には、浅井の遠藤喜左衛門の首は、他人の手には渡さぬ。
久作は、戦の前から、こう広言していたのである。是が非でも、喜左衛門の首を、討ってみせなければならなかった。
河原のほうへ駈け降りる。――と、そこの雑草や石ころの辺りに、賽《さい》の河原を見るように、無数の死体が横たわっていた。
――と、その中に。
乱髪を顔にかぶせて、血どろのまま仰向いていた一個の死骸があった。駈け下りて来た久作の足もとから、わッと、銀蠅《ぎんばえ》の群れが唸《うな》って舞った。
「――やッ?」
何気なく、久作が振り向いた。髪の毛で、顔を隠していた死骸の足を踏んだ気がしたのである。それはいいが、変な触感がしたので怪しみながら振り向くと、とたんに、その死骸は、脱兎の如く、信長の陣所の前へ向って駈け出して行った。
「御要意あれッ。――それへ敵がッ」
久作は、後ろから呶鳴った。
信長の姿を見かけて、低い堤を、駈け上がろうとした敵は、草鞋《わらじ》の緒を踏み切って、堤の途中で辷《すべ》った。
「うぬッ」
圧《お》しかぶさって、久作が手捕りにした。そして、信長の前へ曳いてゆくと、
「はや、首を打てッ。すぐ打てッ。武士に恥を与えるな」
と、その者は怒号しつづけた。
信長の陣中へ、捕虜となって縛《くく》られて来た浅井方の一人安養寺三郎右衛門は、怒号しているその味方を一眼見ると、突然声をあげて泣き出した。
「オッ、喜左衛門どのか。おぬしまで生擒《いけど》られて来たか」
それで判明した。久作が縛《から》めた偽《にせ》死人の豪傑こそ、彼が求めていた浅井の猛将遠藤喜左衛門だったのである。
大勢は初め織田軍の総崩れに見えたが、敵の猛烈な先鋒隊の側面を突いた家康の三河勢によって、辛くも信長の陣前に、その鋭角を喰いとめた形であった。
しかし、敵にも二陣あり三陣ありである。押しつ返しつ、姉川の水を揉んで、敵味方、鍔《つば》を割り、槍を砕き、その勝敗は混沌とわからなかった。
「わき見すな。ただ信長の本陣を突け!」
と、初めからの目標としていた浅井の二陣高宮三河守、三陣赤田信濃守、四陣大野木|大和守《やまとのかみ》などの兵は、余り突き出し過ぎて、かえって織田軍の後ろへ出てしまった。
家康の三河勢も、榊原《さかきばら》康政、大久保|忠世《ただよ》、本多平八郎、石川|数正《かずまさ》など、
「織田衆におくるるな」
と、忽ち対岸を突破して、越前勢の朝倉|景健《かげたけ》の幕営へ突き進んで行ったが、ようやく味方と遠ざかって、後ろも敵、前も敵、甚だしい苦戦に陥《おちい》った。
まったくの乱軍だ。魚に河が見えないように、こうなっては誰一人、全体の大勢というものは分っていない。
身辺の必死のみである。ひとりの敵を突き伏せるとすぐまた一つの敵の顔を見るだけだった。
――が、これを高い所から俯瞰《ふかん》すれば、姉川の一水を挟《はさ》んで、両軍はちょうど卍形《まんじけい》に入りみだれていた。信長はさすがに冷静な眼でそう見ていた。藤吉郎もまた、そう大観していた。そして、
「この一瞬だな」
と、直感した。
勝ち。――負け。
そのわかれ目は微妙な一瞬だ。信長は、携《たずさ》えていた杖で大地を叩きながら叱咤した。
「三河殿の人数が遠く突き入った。あの一点を、孤立さすなッ。――誰ぞ、三河殿の苦戦を救いに向えッ」
だが、左右の備えに、もうその余力は残していない。信長の声も、いたずらに嗄《か》れるばかりだった。
すると、北岸の一叢《ひとむら》の林から、真っ白な水煙を蹴立って、乱軍の中をわき目もふらず直線に対岸へ上がって行った一隊がある。――信長の号令が届いたのではなく、信長と同じ大所へ眼をつけた藤吉郎の木下隊であった。その旗じるしと金瓢《きんぴよう》の行くのを見て、
「あッ。よしッ! ……。藤吉郎が駈けおった」
信長は、眼に流れ入る汗を、籠手《こて》で横にこすりながら、傍らの小姓たちへ、
「かかる折は、またとない。そちたちも、河中へ行って思いのまま働いてみい」
と、許した。
森蘭丸《もりらんまる》その他、まだ年少な者たちまで、皆、われおくれじと敵を目がけて駈け出した。
深入りした徳川勢は、たしかに、危険は危険な行き方であったが、炯眼《けいがん》な家康が、みずから全局の急所に打った一石だった。
「この一石を見ごろしにするような織田殿ではあるまい」
と、家康も信じていたろうし、信長もたしかにそれは認めていた。
木下隊と前後して、稲葉一鉄の隊も後続した。池田勝三郎の隊も殺到した。
俄然《がぜん》。
戦局はそこから一転して織田軍の優勢となった。朝倉|景健《かげたけ》の本陣は、五十余町も後退し、浅井長政も退《ひ》いて、小谷城へ総くずれに駈け出した。
それからは、追撃戦であった。
浅井、朝倉勢の討たれるもの数知れぬ程だった。名ある将校だけでも、細江左馬介、浅井斎《あさいいつき》、狩野《かの》次郎左衛門兄弟、弓削《ゆげ》六郎左衛門、浅井|雅楽助《うたのすけ》、今村《いまむら》掃部《かもん》、黒崎備中、等々々、戦後の織田方の首帳に、豪華な亡命者の名をならべた。
追撃は急だったが、朝倉勢を大寄山《おおよせやま》に追い上げ、浅井長政を小谷へ封じこめると、信長は、戦後の処理を二日間にすべて終って、三日目にはもう岐阜へさして帰陣していた。――その迅《はや》さは、まだ死屍累々《ししるいるい》と渚《なぎさ》に洗われている姉川を、夜々|翔《か》けわたる時鳥《ほととぎす》にも似ていた。
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両面将軍《りようめんしようぐん》
英雄も英雄の質それだけでは、英雄となり得ない。
環境が彼を英雄にしてゆく。
その環境とは、間断なく彼の素質を責め苦しめるようにばかり動いてくる、四囲の悪い条件である。眼に見える敵、見えない敵、あらゆる存在が、挙《こぞ》って、彼ひとりを苦しめ抜くために、この世に在るかのような形を取った時、彼は初めて、
――英雄たるか否か。
の試煉《しれん》に出遭《であ》っているのであった。
姉川の合戦の直後、余りな信長の帰還の速さに、各隊の部将たちは、
「なにか、岐阜表に、事変でも起ったのではないか」
と、怪しんだほどだった。
帷幕《いばく》の高等軍略は、もとより下には分らないが、洩れ聞えたうわさによれば、
「――あの折、一挙に浅井の本城小谷を奪取《だつしゆ》してしまうべきだと、木下殿が切に献言《けんげん》なされたそうだが、お用いもなく、その翌日、敵の出城《でじろ》、横山城だけを落して、木下殿をそこへ詰め置かれたまま、早速にも、お引揚げになってしまったのだとある……。いかなる御意図か、どうも、われわれ末輩には、分らんなあ」
分らないのは、兵ばかりではない。丹羽《にわ》、柴田、前田、佐久間などの側臣さえ、信長の真意は分っていなかったであろう。――薄々|覚《さと》っていたかと思われるのは、家康だけであった。
家康の眼はいつも公平に信長を観ている。近すぎず、遠すぎず、熱しすぎず、冷淡過ぎず、信長を客観し得られる立場にある。
信長が引揚げると、即日、家康も浜松へ向って帰った。
その途中、家康は、
「見よ、織田殿には、血具足《ちぐそく》を解かれると、すぐまた、都《みやこ》扮装《いでたち》に粧《よそお》いかえて、あの鞭《むち》を、京都へさして急がるるにちがいない。……さても、心の駒の忙しさよ」
と、譜代《ふだい》の石川、本多、榊原《さかきばら》などを顧みていったが、果たして、その通りだった。
家康が、浜松に着いた頃、信長はもう、岐阜を去って、京都に出ていた。
といったところで、都には今、形に現われた事件も起ってはいないのである。けれど信長が恐れているのは、形に現われたものよりは、形を見せない「まぼろしの敵」であった。
いつだったか。
信長はその悩みを、藤吉郎に、こう洩らしたことがある。
(余が最も恐れているものは何か。そちなら分るであろう。……分らぬか)
藤吉郎は、首を傾《かし》げて、
(左様ですな。……常に背後を窺《うかが》っている甲斐《かい》の武田。足もとの浅井、朝倉。こんなものではありません。浜松の徳川殿は、恐るべきではありますが、叡智《えいち》の人ですから、馬鹿ほど恐れるにも当らないでしょう。松永、三好、これは蠅《はえ》です。蠅のたかりやすい腐れ物はいくらも存在していますが、所詮《しよせん》、亡んでゆく性質のもの。ただ始末の悪いのは、本願寺門徒の諸山の僧侶ですが、これとてもまだわが君を恐れさせるほどのものではございますまい。……と、すればただ一つ、恐いものが残っておりますな)
(何だ。いうてみい)
(敵でもなし、味方でもなし、尊敬はしなければならないし、尊敬してのみいれば立ち所に陥し入れられる――両面の化け物殿――いや失言いたしました。将軍家ではございませぬか)
(ウむ。いうなよ、誰にも)
信長の悩みは、実にその敵でもない味方でもない人であった。彼が上洛した日にも、辻には、その幻の敵の為《な》す業《わざ》らしいものを見た。それは暗に彼の悪政を歌った落首《らくしゆ》の立て札であった。
蠅《はえ》のように三好の残党がする悪戯《いたずら》の一つにちがいない。
落首の立て札にはこんなことが書いてあった。
ながらへば
また信長や偲《しの》ばれん
憂《う》しと三好《みよし》ぞ
今は恋しき
卑屈な落首の作者は、暗に信長の革新政治を弥次《やじ》っているが、それは彼らの不平だけで、民衆の心を代表してはいなかった。
その証拠には、立て札に足を止める往来の人々も、一応は面白半分に見ているが、笛吹けど踊らずで、苦笑しながら通ってしまう。――何か力んで、落首に同感をあらわしながら、庶民を焚《た》きつけている者があれば、それはきまって、三好党臭い牢人者《ろうにんもの》か、さもなければ、一向宗《いつこうしゆう》の法師だった。
それとて、大した者ではなく、彼らの卑屈を知っている町人たちが、揶揄《からか》い半分に、
「来た来た」
と、嘘にでも、信長系の武将か見廻りの兵でも来たように呶鳴ると、蠅牢人も蠅法師も、
「そらッ」
と、ばかり泡を喰って、どこかへ隠れこんでしまうのだった。
勿論、京都在住の信長の部将は、見あたり次第に、落首の札などは取り捨てているが、彼らの粘《ねば》りづよい攪乱《こうらん》戦術には、相当、手をやいているのである。
流言蜚語《りゆうげんひご》の出所も、皆そこからだし、放《つ》け火《び》、強盗、橋杭《はしぐい》の伐《き》り倒しなど、眼に余るものがある。すべて信長の政治方針が招いた世相の悪化の如く見せかけるのが、彼らの狙いどころだった。
そうした反信長同盟の張本と巣窟《そうくつ》は、いったい何処にあるかといえば、叡山《えいざん》、本願寺などの僧団と三好の残党の内にあるとは、誰もすぐ考えつくところだが、事実は、もっと奥深い深殿の裡にその本尊はかくれていた。
将軍|義昭《よしあき》であった。
義昭は、かつて、信長の恩に感涙をながして、
(おん身を、父とも思うぞ)
とまで、いった人である。
その義昭が、なぜ? どうして? ――人の想像もつかない所に、いつも人の表裏は潜《ひそ》んでいる。
性格的にも、義昭と信長とは合わなかった。育ちも違う。信念も違う。
救われた当座こそ、義昭は恩人として、信長に接していたが、将軍家という席に温まると、何かにつけて、
「野人は困る」
と、信長を忌《い》むようになった。うるさくなった。なければと厭《いと》う存在になった。――自分の勢威を凌駕《りようが》する邪魔物と敵視するようになった。
けれど、それを表面化して、信長と争うほどの勇気もない。彼の智謀は、極めて陰性であった。――信長の陽性に対して、義昭の陰性は、飽くまで執拗《しつよう》に、飽くまで秘密に策されていた。
「……そうか。顕如上人《けんによしようにん》にも、お憤《いきどお》りとあるか。さもあろうさもあろう。信長の人もなげな専横跋扈《せんおうばつこ》、いかに御門跡《ごもんぜき》とて、お怒りは当然じゃ。――この義昭とても」
今日も。
彼のいる二条殿の帳台《ちようだい》奥深い辺りには、石山本願寺の使僧がさっきから密《ひそ》かに目通りを乞うて、何やら小声ではなしこんでいた。
「以上。……お耳へまで達したことは、極々《ごくごく》、内密の儀にござりますれば、そのおつもりで。――同時に、甲州へのお使い、また、浅井家や朝倉家などへも、機を逸《いつ》さぬように、御密書を送られますように」
「よし。わかった」
「おぬかりもございますまいが」
密使の僧は、こっそり退《さが》って行った。――その日、べつの殿中には、信長が、着京の挨拶のため伺候して、義昭の出座を待っていた。
義昭は、何喰わぬ体《てい》をつくろって、信長の待っている公式の間へ現われた。
「姉川の一戦は、大そうな勝軍《かちいくさ》でお引揚げとやら、いつもながら御武勇なこと。いや、めでたい。祝着にぞんずる」
信長は、彼の世辞に、苦笑を禁じ得なかったが、皮肉にも、
「いや、御威徳によって、後事に憂いもなく、一途《いちず》に戦えましたために」
と、いった。
義昭は、女のように、すこし顔赤らめながら、
「安心するがよい。洛中は見らるる通り至極平穏。――が、戦後、怖ろしく迅《はや》い上洛、なんぞまた、異変でも聞かれたかの」
「いえいえ。禁裡御普請《きんりごふしん》の落成を拝し、その後、怠りがちの政務を視《み》、かたがた御機嫌をお伺いに」
「いや、そうか」
義昭は、すこし安心して、
「このとおり身も健固、また、政務も滞《とどこお》りなく運んでおれば、そう心に懸けて、度々の上洛には及ばぬ。――いや、それよりは、姉川より凱旋のこと、きょうは曠《は》れの祝い、奥で盛宴を張ろう。休息の上、後刻、うち寛《くつろ》いでお互いに」
「なかなか」
信長は、手を振って、
「まだ戦いの後、将士に犒《ねぎら》いのことばもかけて遣《や》っておりませぬ。信長ひとり、大宴の贅《ぜい》に飽いては、何やら心がすまぬ心地――おあずけしておきましょう。再度、出仕の折に」
と、辞して退った。
宿所に帰ると、明智光秀《あけちみつひで》が、
「大坂本願寺の門跡《もんぜき》、顕如上人《けんによしようにん》の使いらしき僧が、二条のお館《やかた》を去って、何やらあわただしゅう立ち帰って行きました。――先頃から、僧徒と将軍家との往来に、怪訝《いぶか》しいものを感じまするが」
と、警備日誌をさし出した。
光秀は、藤吉郎の木下隊と交代して、その後、洛中守備軍として、京都に止まっていたので、室町《むろまち》将軍の目付役《めつけやく》ともなって、そこの人出入りや市中の出来事など、つぶさに書きとめておいたのであった。
信長は、一覧して、
「大儀」
と、だけいった。
救い難い公方《くぼう》――と、思ってか苦々しげであったが、むしろ、その義昭が、従順であるよりは、幸いのようにも思った。
夜は、朝山日乗《あさやまにちじよう》、島田弥右衛門など、禁裡《きんり》の造営に当っている奉行たちを呼びよせ、その竣工《しゆんこう》の模様を聞きとって、
「大儀、大儀」
と、機嫌が直っていた。
翌朝。
暁起《ぎようき》に嗽水《うがい》して、彼は、ほぼ落成した御所の外廻りをここかしこ見て歩いていた。そして、皇居を拝し、陽の出る頃は、もう宿所の寺院に帰って、朝飯を喰っていた。
「戻るぞ」
上洛の折は、平服だったが、帰りは武装していた。――岐阜へ帰るのではなかったのである。
ふたたび姉川の戦場を一巡し、横山城に詰めている木下藤吉郎に会い、各所の押えとして残っている味方の部隊に令を飛ばし、佐和山《さわやま》の城を攻囲した。
佐和山には、浅井の家中|磯野丹波守《いそのたんばのかみ》の手勢がなお立籠《たてこも》っていたからである。
「これで一掃除すんだ」
岐阜城へさして信長が帰ったのはそれからであったが、残暑の疲れを、彼も兵馬も、伸々《のびのび》、ひと月と休んでいる遑《いとま》もなかった。
摂津《せつつ》の中之島の城にいる細川|藤孝《ふじたか》から「火急」として飛状が来た。――同時に、京都にある明智光秀からも、
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摂津《せつつ》野田、福島、中之島一円に亘《わた》り、阿波三好党一万余、塁を築き、浮浪の徒を糾合《きゆうごう》候て、一揆《いつき》に及び、門徒僧数千も加わり、本願寺門跡、これが背後の謀主たる由にて、勢い猖獗《しようけつ》、寸刻の猶予《ゆうよ》もなりがたく覚えられ候に依而《よつて》、早々、おさしず下し賜わるよう……
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との急状が届いた。
摂津の石山本願寺の地は、後に、大坂城の本丸となった難波《なにわ》の杜《もり》の岡にある。
大坂御坊《おおさかごぼう》とも、石山|御堂《みどう》ともよばれていた。
蓮如《れんによ》の法孫《ほうそん》、証如《しようによ》からの道場で、室町幕府の無統治、無秩序のなかに建立されただけに、社会の動乱にいつでも対抗できるだけの構造と武備を持っていた。濠《ほり》を深くし、城橋を渡し、石垣を築き、輪奐《りんかん》は寺院であるが、全体は堂々たる城廓をなしていた。
もちろん、僧|即《そく》兵。――ここにも南都、叡山《えいざん》に劣らない法師武者が充満しているのである。
――信長、何者ぞ。
旧《ふる》い法城に住む僧として今、信長に反意をもたない僧は、ひとりもなかったであろう。――豎子《じゆし》何者ぞ! の語気のうちにすべての感情がこもっているといっていい。気に喰わない理由の一つを挙げれば、
(――伝統を無視する仏敵だ)
と、いうにあろう。
なお、いわせれば、
(――文化の破壊者だ。野放図《のほうず》もない魔王が、獣群を使嗾《しそう》して、社会を野原とまちがえて出て来たものだ)
と、口を極めて罵《ののし》るだろう。
もっとも石山の法城の大衆が、そう怒っているにも理《わけ》はあることだった。――むしろ信長のほうが余りに意慾を急にしたため、よけいな大敵を――それでなくても多事多端なところ――みずから求めてしまった失策の一つといっていいかもしれないのである。
それは。
石山本願寺に向って、その前に信長から、
(立ち退《の》いて、その地を明け渡せ)
と、交渉というよりは高圧的に移転を命じたことから端を発したものだった。
法城の誇りはたかい。彼らの擁している特権は古い。当然、
「何を、ばかなッ」
と、信長の命を一蹴した。
そして、西国方面や堺《さかい》などから、鉄砲二千挺を購入したとか、一山の僧兵が、にわかに何倍にも殖《ふ》えたとか、塹壕《ざんごう》を坑《ほ》りぬいているとか、法城の武装化は、ちらちら聞えていたことでもあった。
これが――海を隔てた阿波《あわ》、四国の三好党と結びついたり、将軍|義昭《よしあき》の弱点をうまく唆《そそのか》したり、近畿《きんき》や堺の町人に悪宣伝をまいたり、一揆《いつき》を焚《た》きつけたり、いろいろやるな――ということは信長も予想していた。
で。京都や難波《なにわ》の味方から急報をうけ取っても、さして、意外とはしなかった。むしろ、
「この機に」
と、新しい決意さえ持って、すぐ自身、摂津へ出陣した。
途中、彼は、京都に寄って、
「願わくば、あなたの御出陣をも仰ぎたい。将軍家が陣頭に立たれたと聞えるだけでも、士気は奮い立ち、一揆も忽ち平定しましょう」
と、義昭に告げて、無理に陣中へ伴《つ》れて行った。
義昭は、嫌々だったが、嫌といえなかった。――役にも立たない厄介者を伴《つ》れたようであるが、信長に取っては、名分の楯《たて》になる。また反間《はんかん》の計にもなった。
難波の神崎川、中津川のあたりは、まだ葭《よし》や葦《あし》や所々の耕地や、塩気のある水がじめじめしている池などの多い――渺茫《びようぼう》たる平野だった。
中島には、南中島と北中島とがある。――北の砦《とりで》には、三好党が拠《よ》り、南の小城には、細川|藤孝《ふじたか》が拠っていた。
戦いは、この辺を中心として、九月の上旬から中旬まで猛烈に一勝一敗をくり返していた。――野戦であり、盛んに新式の小銃や大鉄砲が用いられた。
「――今だ!」
九月十四、五日から十六日にわたる頃である。
それまで、山深くに、また城を閉じて、敗戦の惨味《さんみ》をかみしめていた浅井、朝倉の軍勢は、信長の虚を窺《うかが》うや、装備を革《あらた》めて、琵琶湖を漕ぎわたり、大津、唐崎の浜に、陣を布《し》き、一部は、叡山《えいざん》へさして続々と登って行った。
宗門の上では、派別を称《とな》えている僧団も、「反信長」の行動では、完全に、
――打倒仏敵《だとうぶつてき》。
へ一致していた。
「彼は、叡山の山領を、恣《ほしいまま》に削《けず》った。――伝教大師《でんぎようだいし》このかた、不可侵境《ふかしんきよう》の山則を、またわれわれの体面を、辱《はずかし》め踏みにじった!」
叡山と浅井、朝倉の関係は、親密だった。この盟約も、当然、ものをいっている。
――信長の退路を断て!
三者の意見は、一致して、行動に移った。朝倉軍が、湖北の山からうごき出す。浅井軍が、大湖を渡って上陸する。形勢はまさに大津の咽喉《いんこう》を扼《やく》し、京都に入り、淀川に待って、大坂石山の本願寺、その他と呼応して、信長を一挙に、その間で屠《ほふ》り去ってしまおうとする作戦かに見られる――
一方。
難波《なにわ》の神崎川、中津川辺の湿地帯で、石山御坊の僧軍や、中島|砦《とりで》の三好党の大兵などと対峙《たいじ》して、連日、苦戦をつづけていた信長の耳に、
「後方に一大厄《いちだいやく》が出来《しゆつたい》」
と、その警報が聞えたのは、同月二十二日だった。
詳報はまだ分らない。
しかし――
信長の直感は、
「ちいッ」
何ものかを奥歯にかんだ。
「勝家ッ、勝家」
と、柴田勝家を呼びたて、和田|惟政《これまさ》と共に、ここに殿軍《しんがり》せよと命じ、自身は、
「すぐさま、引っ返して、浅井、朝倉を初め、叡山をも、粉砕してくれん」
と、はや用意に取りかかる。
陣中の動揺は争えなかった。柴田勝家は、
「次の詳報が参るまで、もう一夜お待ちあっては」
と、止めたが、
「一瞬に、世の相貌《そうぼう》も変ろうとする今、何で!」
と、ばかり肯《き》く色《いろ》もない。
和田惟政は、また、
「われわれども、死を賭《と》して、殿軍《しんがり》は仕りますが、いかんせん、渡船、荷舟、田舟にいたるまで、船は戦いの前に、敵に攫《さら》われ、また焼き捨てられて、この南中島から対《むこ》う岸へお越え遊ばすには、筏《いかだ》を組まねば相成りません。――せめて、夜半頃までお延ばしあって」
それをも、信長は退《しりぞ》けて、
「徒歩《かち》の兵は、筏で渡れ。馬を持つ者はわれにすぐ続け。――オオ、幼年の頃、清洲の庄内川に出て、水馬に遊び暮したことが、今ぞ、思いがけなく役に立った」
信長はやがて、馬上となると、中津川の流れへ、駒を乗り入れた。
が――彼一人ではなかった。
彼は、もう一名の大将の駒の鞍つぼ[#「つぼ」に傍点]へ手をかけて、引き寄せ引き寄せ、水路を導いていた。
将軍家|義昭《よしあき》である。
「あなたも」
と、信長は、共に彼を伴《つ》れて引き上げの途についたのだった。義昭は、水馬の心得がないので、満々たる大河へ駒が泳ぎ出ると、
「あぶないッ」
思わず叫んだ。
そして、駒のたてがみに、しがみつこうとするので、
「馬の平首に縋《すが》りたもうな。鞍の上であがき[#「あがき」に傍点]給うな。馬を疲れさせぬよう、お楽にあれ。――信長がついておれば、大船に乗られた気で」
と、教えたり、励ましたり、慰めたりしながら進んだ。
敵の塹壕《ざんごう》や、砦《とりで》の櫓《やぐら》に、
「信長だッ」
声が揚る。――忽ち撃つ。
ド、ド、ド、ドッ
と、小銃、大鉄砲、つるべ撃ちに、浴びせかけた。
水面は、雨のような、飛沫《ひまつ》に白くなった。義昭は気も萎《な》えてしまった。――しかし、その狙撃《そげき》はすぐ熄《や》んだ。信長を撃つために、義昭を撃ってしまう危険を敵方も恐れたからであった。
信長は、義昭を楯《たて》として、北岸の洲《す》へ、難なく躍りあがっていた。
信長、義昭につづいて。
夕陽の赤い中津川の流れを、十騎、二十騎――何十騎となく、泳ぎ渡った。
日が暮れると、兵をのせた筏《いかだ》も、続々と越えて行った。
「敵は、退《ひ》く。――総引揚げとみえた」
三好党の塹壕《ざんごう》からも、本願寺僧の戦線も、一斉に攻勢を展開し、ひろい闇の中には、ひッきりなし小銃の音がパチパチと鳴りひびいた。
こんど此処の合戦では、十四日の天満《てんま》ノ森《もり》の衝突を除くほかは、ほとんど、鉄砲と鉄砲との撃ち合いが多かった。
従って、塹壕戦術が、用兵の上に新しい進歩を示した。
足場|櫓《やぐら》から撃ちこむ大鉄砲のうなりも、違った音響をもって、相互の陣地をゆすぶった。
石山御坊には、信徒の献金による浄財が豊富である。それがみな弾丸《たま》となり銃器となって、三好党を援《たす》けた。
ここ数年のうちに、鉄砲の発達とその普及力には、驚かれるものがある。織田方の銃器は、光秀の献策で、極く最近、新しい様式のものをだいぶ入れたが、僧兵の銃隊は、すべての手に、新式のものが揃っていた。
射撃の技倆も、ふしぎに僧兵は巧《うま》かった。平常の修行が役に立って、すぐ精神を標的に集注できるせいだろうという者もある。――また、彼らには、
仏敵。
と、狙う敵に一倍の憎しみと、信仰の護符《ごふ》が頭上にあるので、その弾丸《たま》も、よくあたるのではないかと――織田方の雑兵などはすこし気味わるがった程であった。
白兵戦でも、ひどく強い。
天満《てんま》ノ森の合戦などでも、織田方の前線は、七花八裂《しちかはちれつ》の粉砕をうけた。その日、佐々成政《さつさなりまさ》は、重傷を負い、野村|越中守《えつちゆうのかみ》は戦死し――辛くも前田犬千代が力戦して、わずかに味方の退口《のきぐち》を取ったので、全滅をまぬかれたくらいだった。
「坊主の強さよ!」
負けぎらいな信長も、この戦いでは、時には悲痛な苦笑いを、しばしば、噛みしめたものである。
その石山との戦いを捨てて――一転、彼が馬を向け直した行く先も、また――叡山《えいざん》という昔から荒法師をもって鳴る僧団を中心とする戦場だった。
幾たびか、鞭《むち》を折り、馬を代えて、彼が京都に着くと、
「おうッ、殿ッ」
「残念ですッ」
悲涙をたたえた幾つもの血相が、彼の馬前へむらがって、こもごもに、事態の急を訴えた。
「何より先に、申しあげねばならぬ儀は、御舎弟の信治《のぶはる》様(織田九郎)――また、お附添の森三左衛門|可成《よしなり》どの、共々に、宇佐山の城を枕に――まる二昼夜の御苦戦もむなしく――討死あそばされたことにござりまする」
惨として、ひとりがそのまま、声を嚥《の》むと、べつの者が、また、声をふるわせて告げた。
「浅井、朝倉に山門の衆徒《しゆうと》も加わり、敵は何せい、二万をこえる大軍にござりますれば――無念、力も及びませぬ。信治様、森三左衛門どのの御最期につづいて、青池駿河《あおちするが》どの、道家《どうけ》清十郎どの、尾藤《びとう》源内どの、その他まだ……」
と、主なる味方の戦死者を思い出すだけでも、無念がこみあげ、涙が声をかすめて、将士はみな籠手《こて》の肱《ひじ》を曲げて、顔をおおってしまった。
――と、信長は、
「この期《ご》に臨んで、くどくどと、返らぬ者どもの戒名《かいみよう》を読み立てるな! 聞きたいのは、今の戦況だッ。敵は、どこまで来ておるか。どこが、血戦の中心か。……ええ、その方どもでは大勢もわかるまい。光秀《みつひで》はおらぬかッ。光秀、戦場なれば、急いで、これへ呼びもどせ。――光秀を呼べッ」
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叡《えい》 山《ざん》
三井寺《みいでら》は、その山門も坊舎も、連合軍の旌旗《せいき》につつまれていた。
ここを本陣として。
浅井、朝倉の主将たちは、きのうは信長の弟九郎|信治《のぶはる》の首を、大勢の眼で、実検《じつけん》した。
また、次々と。
青池駿河守、道家清十郎、森三左衛門|可成《よしなり》、そのほか織田家の名ある士たちの首級《しるし》を、飽き飽きするほど、検分した。
「姉川の敗北も、これで雪辱《せつじよく》したというもの。幾らか、胸がはれた」
一名が、つぶやくと、
「いやまだ、信長の首を見ぬうちは!」
誰かが強く叫んだ。
すると、北国|訛《なまり》の濁《だ》み声で、
「あははは。見たも同じよ。その信長も、前には難波《なにわ》の石山、三好勢。うしろには、この大軍。どこへ逃げ得よう。――網の魚だわ」
半日も、無数の首級《しるし》を検分して、誰もが血臭いにおいに附きまとわれてならなかったとみえる。夜に入ると陣の幕舎には酒瓶《さけがめ》が持ちこまれ、勝軍《かちいくさ》の気を昂《あ》げる心も手伝って、兵に、酒を汲ませながら、
「京にはいるか。止まって、大津の咽喉《いんこう》を抑え、徐々、包囲をちぢめて網の大魚を完全に捕るか」
と、飲みながら軍議に移っていた。
「もちろん、京師に兵を進め、淀川、河内《かわち》の野に、信長を殲滅《せんめつ》すべきである」
と、いう者と、
「不利だ」
と、反対する者とがあった。
浅井、朝倉の両家は、目的のため一体になっても、内輪の議論などになると、各※[#二の字点、unicode303b]が、体面を固執《こしつ》したり、無用な小智慧を述べたてるのに、時を費やしたり、夜半を過ぎてもまとまらなかった。
「怖ろしく空が赤いなあ?」
評議に倦《う》んで、外へ出て来た浅井方の将が、空へ手をかざしていると、
「山科《やましな》から醍醐《だいご》方面の民家へ、お味方が火を放《つ》けたのでございます」
と、歩哨《ほしよう》の兵が答えた。
「なんだって、あんな方まで、焼き立てるのか。無益ではないか」
呟《つぶや》いていると、
「無益ではない。敵を牽制《けんせい》する必要がある。京都守備の明智光秀の隊が、死にもの狂いで暴れまわっておる。また、味方の猛威を示すためにも――」
と、それを指図した朝倉家の将たちが口を揃えて反駁《はんばく》した。
とこうする間に、夜が明けて来た。大津は街道の要衝《ようしよう》であるが、ひとりの旅人も荷駄《にだ》もない。
そこを一騎。――後からまた二、三騎。
伝令の兵である。ぱッと飛び下りて、駒もそのまま、のめるように山門へ駈けこむ。
「すぐ、蹴上《けあげ》の辺りまで、信長が襲《よ》せて来ましたッ。明智、朝山、島田、中川などの諸隊を先鋒《せんぽう》とし、死にもの狂いの勢いで」
伝令のことばに、諸将は、耳を疑って、
「信長自身ではあるまい。信長がそう簡単に、難波の戦場から引っ返せるわけはない」
口々にいっていたが、
「山科《やましな》の辺りで、味方の勢は、はや二、三百名も討死をとげました。なにしても、敵は勢いが烈しくて、例の如く、信長が、死ねや死ねやと、声をからして指揮にあたり、信長自身も、まるで夜叉《やしや》か鬼神のように馬を駆って、これへ来る様子です」
浅井長政も、朝倉|景健《かげたけ》も、そう聞くと、顔いろを変えた。
わけて長政にとっては、妻の於市《おいち》の兄にあたる信長である。かつては、義弟《おとうと》の自分にも優しい人であっただけに、信長の真に怒った形相《ぎようそう》が、ふと、正直な本心を慄然《りつぜん》とさせた。
「退《ひ》こうッ。叡山《えいざん》へ」
長政が、口走るような、急な語気でさけぶと、朝倉景健も、
「そうだッ、叡山へ寄《よ》れ」
と、どなって、同時に、騒ぎたつ本陣の将士へ、
「街道の民家へ、火をかけろ。――いや、先鋒の味方を、急いで、退《ひ》かしてからだッ。――火を放て、火を放て」
と、号令した。
熱風は、信長の眉を焦《こ》がした。駒のたてがみや、鞍総《くらぶさ》にも火がついた。
「――死のうは一定《いちじよう》」
この一語は、彼の心の護符《ごふ》だった。生死の境に立つと、われ知らず、念仏《ねんぶつ》のように、また、謡《うたい》の文句のように、唇《くち》から衝《つ》いて出た。
屍《かばね》、屍、屍。
敵味方の無数の死骸も、踏みこえ、躍りこえ、突撃してゆく彼の眼には、一掬《いつきく》の涙もなかった。
死のうは一定――生身《いきみ》の我も、路傍の死者も、彼は差別を思わないのである。
山科《やましな》から大津へ。
途々《みちみち》、乱離《らんり》として、往来に焼け倒れている民家の火の梁《はり》も、焔のうずも、彼の行くを妨《さまた》げることはできなかった。
彼の身そのものが、すでに一炬《いつきよ》の炎であった。
駈けつづく彼の幕下も一団の火となって、
「信治様の弔《とむら》い合戦」
「森、青池、道家殿などの怨みを雪《そそ》がずに措《お》こうか」
と、猛進してきた。
が、三井寺にも唐崎《からさき》にも――来てみればもう敵は一兵も見えなかった。すべて叡山へ逃げ上ってしまったのである。
「おお。逃げ足の迅《はや》さよ」
――仰ぐと。
鈴ケ峰、青山岳、坪笠谷《つぼがさだに》のあたりまで、敵の二万余に、一山の僧兵を加えた大軍が、
(逃げたのではない。この陣容がものをいうのはこれからだ)
と、誇示《こじ》するかのように、旗差物をひるがえしていた。
信長は、屹《きつ》と見て、
「ここだ。この山の天嶮《てんけん》に非ず、この山の特権こそ、信長の敵である」
と、心に宣言した。
彼は、革《あらた》めて思った。――源平のむかしから今にいたるまで、歴代の朝廷におかれても、心ある為政者も、革新を図《はか》る英雄も、無数の民も、どれほどこの山の伝統と特権に苦しめられ煩《わずら》わされて来たことか――と。
「この山のどこに、真の御仏《みほとけ》の微光でもあるか。国家の鎮護《ちんご》たる大本があるか!」
信長は、満腔《まんこう》の怒りを、心に抑えつけながら心で叫んだ。
唐の天台山をここに移して、開山伝教大師が、
阿耨多羅三藐三菩提《あのくたらさんみやくさんぼだい》の仏たち
わが立つ杣《そま》に冥加《みようが》あらせ給え
と、五台四|明《めい》の峰に法《のり》の灯《ひ》をともしたのは、神輿《みこし》をかついで朝廷へ嗷訴《ごうそ》するためだったか。政治に容喙《ようかい》して特権を逞《たくま》しゅうするためだったか。武力とむすび権門を使嗾《しそう》し、世を紊《みだ》すためだったか。――峰谷々に、法体《ほつたい》へ甲冑《かつちゆう》をつけた化け物を蓄《たくわ》えて、槍、鉄砲、旗さし物を、全山に並べるためだったか。
「…………」
信長の眼には、憤りから滲《にじ》みわく涙が沸《たぎ》った。
思え。外道《げどう》。
叡山は、国家鎮護の霊場として、初めて、その特権も伝統もあるのである。
その本来のものは今、叡山のどこにあるか。
根本中堂《こんぽんちゆうどう》をはじめ山王七社も東塔《とうとう》西塔の伽藍《がらん》も三千の坊舎《ぼうしや》も、法衣に武装した化《ば》け物《もの》どものすみか以外の何ものでもない。陰謀、策動の巣以外に、現在の世のなかへの何の役割をしているか。国家の鎮護となっているか。民衆の心の光となっているか。
「よしッ!」
唇に喰い入ったまま彼の歯は赤いものに染まっていた。
「――この信長を、仏法破壊の魔王と称《よ》ばばよべ、妖婦の虚飾にひとしい一山の輪奐《りんかん》の美も、お道化者《どけもの》にひとしい甲冑の坊主どもも、一戦の火に葬り去って、その焼け址《あと》に、真《まこと》の青人草《あおひとぐさ》を生ぜしめ、真の弥陀《みだ》を招来して見せてくりょう!」
即日。
彼は、全山の包囲を命じた。
もちろん彼の立つ所に、彼の擁《よう》する全勢力の兵馬は、湖を渡り山をこえ野路をいそぎ、続々として数日のうちに集まった。
一度攻め取りながら、また敵が捨て去った宇佐山の焼《や》け址《あと》を、信長は、本陣とした。
「まだそこらには、討死した信治《のぶはる》や森|可成《よしなり》や道家《どうけ》清十郎などの血も乾いておるまい。――瞑《めい》せよ、忠烈なる亡魂ども、そちたちの鮮血を、あだ[#「あだ」に傍点]にはせぬぞ。末法魔界の仏灯に代って、昭々と、世を照らす燈明に、そち達の血は甦《よみが》えって燃ゆるであろう」
宇佐山の土を踏んだ時、信長は土に向って合掌した。
瑜伽三密《ゆがさんみつ》の霊場叡山を敵として、今、自己の全武力をあげて包囲にかかりながら、一塊《いつかい》の土には、掌《て》を合わせて哭《な》く信長であった。
「…………」
ふと、側を見ると、自分と同じように合掌して泣いている小姓がある。――父、森三左衛門|可成《よしなり》をここに亡《うしな》った蘭丸《らんまる》であった。
「蘭丸」
「はい」
「泣いておるのか」
「ごめんくだされまし」
「今だけはゆるす。もう泣くなよ。そちの亡父《ちち》が笑うぞ」
――が、信長の眼こそ熱くなりかけていた。彼は、床几《しようぎ》を移させて、包囲陣の配置を、高い所から一望した。
叡山《えいざん》の麓《ふもと》は、見わたす限り、味方の兵馬と旗だった。
叡山の峰々は、雲のかからぬ所、雲のかかっている所、すべて敵軍だった。
まず、麓の布陣を見ると。
穴田村方面には、佐々《さつさ》、進藤、村井、明智、佐久間の諸隊。
田中の塁には、柴田隊が拠《よ》って、氏家《うじいえ》、稲葉、安藤の諸隊が凸字《とつじ》形に、日吉《ひえ》神社の参道まで突出している。
香取屋敷の方面は、丹羽《にわ》、丸毛、不破《ふわ》などの兵で埋まり、唐崎の附城《つけじろ》には、織田大隅守《おだおおすみのかみ》――そして叡山の裏――京都に向っている方の麓口には、足利|義昭《よしあき》、その他、在京の兵が八瀬《やせ》、小原をめぐって、ずっと取り巻いている形にあった。
「義昭将軍こそ、痛し痒《かゆ》し、さだめし物憂い顔しておろう」
信長は、その顔つきを想像して、何か、おかしくなった。
「や。あれへ来る兵船は、何者か」
湖水をふり向いて信長が訊ねていると、やがて、
「木下藤吉郎殿、横山城の御人数のうち、七百を割いて、湖を押し渡って、御加勢に馳せつけられました」
と、注進があった。
間もなく、藤吉郎は、船から上がるとすぐ、陣地へ登って来た。留守は、竹中重治一人あれば足るという。信長は、よく来たともいわなかったが、不機嫌ではなかった。
十月にはいった。
十月の半ばもすぎた。
いつもの信長の戦法とちがって包囲陣は、動かなかった。――山上に籠《こも》った浅井、朝倉、僧兵の連合勢は、やっと気がついた。
「しまった! 敵は根気よく糧道を断って、われわれを乾干《ひぼ》しにする作戦だ」
もう間に合わなかった。山上の穀倉は二万余の大兵で食うのでまたたく間に空《から》になった。木の皮まで喰いはじめた。
十一月となる――
山上の寒気に、またべつな苦痛が襲って来た。藤吉郎は、かねての献策を、信長へ促《うなが》して、
「もうよい頃でしょう」
と、囁《ささや》いた。
稲葉一鉄が呼ばれて来た。信長の旨をうけて、彼は従卒四、五人を連れただけで叡山へ、そして、僧兵の本陣である根本中堂で、西塔《さいとう》の尊林坊《そんりんぼう》と会見した。
尊林坊と一鉄とは、旧交のある仲だった。その誼《よし》みとして、降伏をすすめに来たのである。
「何かと存ずれば、友人として冗戯《じようだん》も程になされい。――降伏を乞いに来たのかと思うたゆえ、会見をゆるしたのじゃ。われわれに降伏して出ろとは、なにをばかな! かくの如く気の立っておる中でござるぞ。たわ言も、首と相談で申されたがいい。あはははは」
尊林坊が、肩をゆすぶって、哄笑すると、他の法師武者たちは、殺気を眼に燃やして、一鉄の唇《くち》もとをねめつけていた。
先方に、いわせるだけをいわせておいてから、一鉄は、徐《おもむ》ろに口を開いた。
「大師|伝教《でんぎよう》が当山をひらかれたのは、王城の鎮護、国土安泰のためと承知いたすが、甲冑《かつちゆう》をまとい、剣槍を羅列《られつ》し、政争に関《かか》わり、武略を弄《もてあそ》び、朝命に反《そむ》く兇兵に与《くみ》して、王土の民を苦しめよとは、よも天台の立願《りゆうがん》ではあるまい。とはいえ、一山の大衆もまた、われわれ武臣も、いずれか皇土の臣でないものはない。かくの如き争乱は、みな宸襟《しんきん》を悩まし奉るものである。――大悟せられよ、僧は僧に帰命《きみよう》せられよ。速やかに、浅井、朝倉などの徒を、山より追い下し、各※[#二の字点、unicode303b]には武器をすてて本来の仏弟子に返られい」
腹からの声である。
この間、山法師たちには、一語をさし挿《はさ》む隙も与えなかった。
「――もしまた、命に従わねば、信長様にも、これまでとあって、根本中堂、山王七社、三千の坊舎、峰谷々をも焼きつくし、一山の輩《ともがら》、鏖殺《みなごろ》しになさるべしとの御決意である。――我意なく、冷静に、お考えありたい。――当山をして、地獄と化すか、旧態の悪風を一掃して、霊地の一燈を保たるるか」
突然、法師側の間から、
「無用、無用ッ」
「詭弁《きべん》だッ」
と、どなる者があった。
「しずまれ」
尊林坊は、それを制しながら、苦笑をふくんで、
「非常に陳腐《ちんぷ》で退屈な御説教であった。そこで、謹んでお答え申そう。叡山には叡山の権威があり、信条もある。要《い》らざるおせッかいというほかない。一鉄どの、日が暮れる、はやはや下山されよ」
「尊林坊、おぬし一存でよろしいか。一山の碩学《せきがく》、長老をも会し、慎重に御僉議《ごせんぎ》あっては如何だな」
「一山一心一体。尊林坊がことばは即ち全山の声でござる。さもなくて、何でこの山の嶮《けん》に信長調伏の旗を立てようや」
「では、どうあっても」
「愚《ぐ》や。愚や。われわれは飽くまで、武力の侵略者と抗争する。血をもって、伝統の自由を守る。帰れッ」
「左様か」
一鉄は、起ちもせず、
「……浅ましや、なぜ、その血をもって仏光の無限大なるものを護らんか。――おぬしらの護らんという自由とは何? 伝統とは何? それは皆、自己の栄華にだけ都合のよい偽瞞《ぎまん》の護符《ごふ》ではないか。もはやそんな護符が通用する世ではないぞ。時勢を直視なさい。眼をふさいで時の潮《うしお》を邪《さまた》げる利己心の亡者どもは、春秋の落葉と共に焚殺《ふんさつ》さるるもぜひあるまい。――尊林坊、その他の法師衆、悔ゆるなよ。ではおさらば」
稲葉一鉄は、下山した。
冬は十二月となった。凩《こがらし》は、枯葉を吹いて、嶺《みね》の空を翔《か》けまわる。
朝夕は霜。――折々には、雪まじりの寒風が吹いて来た。
すると、この頃になって、毎夜のように、山には出火が頻々《ひんぴん》と起った。ゆうべは、横川《よかわ》の大乗院の薪倉《まきぐら》から、おとといの夜は、飯室谷《いいむろだに》の滝見堂から、小火《ぼや》があった。
こよいもまた、まだ宵なのに、中堂の坊舎から、火災が起り、さかんに鐘を鳴らしていた。附近には、大きな堂閣《どうかく》が多いので、法師武者は、消火に必死だった。
真っ赤な空の下に、闇の谷。――叡山《えいざん》の谷々は深い。闇は濃い。
「アハハハ、あの慌《あわ》てざまは」
「毎夜のことで、寝るまもあるまいて」
「笑止笑止」
猿の群れではない。異装な黒い人影である。凩の梢《こずえ》にのぼって手を叩いていた。彼らは、木の実《み》にあらぬ干飯《ほしいい》の弁当を喰いながら、毎夜の火事を見物していた。
夜ごとの出火は、藤吉郎の献策で、その家中である蜂須賀党が得意の仕業《しわざ》であるなどとも――近ごろようやく噂されて来た。
夜は怪し火の頻発《ひんぱつ》に悩まされ、昼は防備につかれ、そして、喰う物は尽きるし、防寒の用意もない。
山は、霏々《ひひ》と、雪の吠える冬になった。――二万の兵と、数千の山法師も、今は、霜げた菜のように意気も失《う》せてしまった。
十二月の中旬だった。
武装を解いて、ただの僧衣となった代表者一名が、法師武者四、五名連れて、
「織田殿に会い申したい」
と、陣門へ来た。
信長が会ってみると、それは先に稲葉一鉄と会見した尊林坊であった。――一山の意見が変って来たので、和議を進めたいという口上であった。
「ならぬ」
信長は、一言に退け、
「先にわれより遣わした使者に何と申したか。恥をこそ知れ」
と、陣刀を抜いた。
尊林坊は、愕《おどろ》いて、
「あッ、御無法なッ」
蹌《よろ》めき立つところを、一閃《いつせん》、戛《か》ッと横に払って、
「法師ども、その首を拾うて帰れッ。信長の返事はそれだ!」
随員の法師たちは青くなって、山へ逃げ帰った。――その日、大湖を渡ってくる雪みぞれは、信長の陣へも強く吹いていた。
信長は、鉄の意志を、叡山の使いへ示した。しかしその時、彼の胸にはまた、べつな大難に対する処理が考えられていたのであった。
前に見える敵は、多くの場合、壁に映っている火事の影にすぎない。
壁に水をかけていても火は消えない。そのまに、ほんとの焔は背へ燃えついてくる。
兵法に誡《いまし》めてある常識だ。しかも信長の場合は、知りながら、その火元とは戦えなかった。
――つい昨日。
岐阜表から急報がはいった。
甲斐《かい》の武田信玄が、兵を催して、留守を襲わんとしているというのである。
また。
本国尾張の長嶋《ながしま》に、数万の本願寺門徒が蜂起《ほうき》して信長の一族彦七郎|信興《のぶおき》は殺され、その居城は占領された。そして良民のあいだに、あらゆる反信長の悪声を放ち、甲斐の武田勢を誘導する工作にかかっている――ともあった。
信玄がそう出て来たのは、頷《うなず》かれた。
「織田家とは姻戚《いんせき》の縁を断《た》った」
と、いうことを、彼は近頃、公然と声明していた。
一面、年来の呉越《ごえつ》の敵、越後の上杉家とは休戦を調《ととの》えて、専ら、志向を南方から西進へ転じて来ているのである。この傾向は、信長にとって、実に、何ものよりも警戒を要するところだった。
また、そういう悪い条件は、いつでも、退《の》っ引《ぴ》きならない場合を計って、突然、鉾《ほこ》をあらわすものでもあった。
「藤吉郎。藤吉郎ッ」
「はッ。――御前《おんまえ》に」
「光秀の陣地を訪れ、光秀と同道して、すぐ、この書面を携《たずさ》えて京都へ使いせい」
「これは、義昭将軍への」
「そうだ。将軍家に、和議の仲裁《なかだち》をいたすように、それとなく、書中|認《したた》めてはあるが、そちの口からも……。よいか」
「心得ました。……しかし、つい今し方、叡山からの和睦《わぼく》の使者を、首にして、追い返されましたが?」
「わからぬか! ああせねば和議は纏《まと》まらん。たとえ成立しても、わが足下《あしもと》を見て、和議などはすぐ反古《ほご》とし、追い撃ちして来るは明らかである」
「御意。わかりました」
「いずれにせよ、どこの炎も、火元はひとつ、火《ひ》悪戯《いたずら》のお好きな、あの両面の公方殿の仕業に相違ない。――その公方殿に、わざと和睦の仲裁をさせて、急に軍を退《ひ》くのだ。秘かにだぞ。急いで行け」
和議は、成立した。
公方の義昭は、三井寺まで来て、信長を宥《なだ》め、和睦のとりなしに努めた。――が、それは表面のことで、そうさせたのは信長であるこというまでもない。「よい機《しお》」とばかり、浅井、朝倉の両軍は、即日、本領へ帰ってしまった。
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ああ拙《せつ》なる哉、浅井朝倉の徒《と》。この折、四国|摂州《せつしう》などの同心へ申し合せ、山上に越年の覚悟もて、信長を引寄せおかんには、さしもの織田勢も、後方の憂ひはあり、四囲の情況すべて利非ず、遂には、大将まで危ふからんものを、和睦にたばかられ、早々陣をひき払ひ、嬉々《きき》として故郷《ふるさと》へいそぎ帰る。今にみよ、ふたたびその故郷をも信長に討ち取られんにと――その頃の人々、みな笑ひ合うてぞゐたりける。
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当時の世評は、その始末を、物の本にも誌《しる》していた。
十二月十六日。信長の全軍も、陸路、勢多《せた》の舟橋を渡って、岐阜《ぎふ》へひきあげた。
翌日。――藤吉郎の木下隊七百人も、唐崎の浜から兵船で、対岸横山城へさして帰還した。
「ああ、久しく便りも怠っていた。……母上へも。寧子《ねね》へも」
その船中。藤吉郎は、囲いの内で、筆をとりながら、洲股《すのまた》の領地へ想いを馳せていた。――何とや書かん? 母へも妻へも書きたいことが多すぎる。筆を持つと、ただ想いのみ乱れてくる。
――と。すぐ近くで、部下の将が、何か兵をどなりつけたような大声がした。それと共に、ざぶん――と烈しい水音が聞え、彼の膝や、懐紙にまで、飛沫《しぶき》がかかったので、何事かと、胴《どう》の間《ま》へ出てみた。見れば、この極寒、ひとりの若い士卒が、湖へ蹴落されていた。今にも凍え死なんばかり、顔も紫いろになって、アプアプ波間にもがいていた。蹴落した水夫頭《かこがしら》は、
「泳げ、泳げッ。船と一緒に横山城まで泳いで来いッ。死《し》に損《そこ》なうのも一生の薬だ」
と、酷《むご》いことばを水面へ投げて、また大声で叱ッていた。
「どうしたのだ?」
藤吉郎が訊ねると、水夫頭《かこがしら》は、あわててひざまずいて、
「申しわけがございませぬ。大切な御士卒を、酷《むご》い目《め》にあわせましたが、私事の怒りで仕置《しおき》はいたしませぬ」
「いや、咎《とが》めるのではない。あの兵が、どう軍紀をみだしたか訊くのだ」
「あの者は、帆綱番《ほづなばん》にございます。正しい進路をとるため、舵把《かじと》りへも、帆綱番へも、何番綱張れいとか、弛《ゆる》めろッとか――絶えず絶えず手前から号令をかけまする。ところがあの兵は、何かぼんやりして、とかく、帆がたるみ[#「たるみ」に傍点]ますゆえ、駈け寄って、一つ横顔を撲りつけ、なぜかと質《ただ》したところ、ちょうど今、自分の生れた田舎の安土《あづち》村がついそこの岸に見えたので、母親のことを思い出していたと答えますゆえ、ばか者ッ、お引揚げでも、まだ陣中であるぞ、もう戦《いくさ》がすんだ気になっておるのかッ――と、全軍の士気のため、またこの船の進路のため、心を鬼に持って、湖へ蹴落したわけでございまする」
水夫頭《かこがしら》の眼には涙が見えた。この水夫頭も、もう人の子の親らしい年だった。
「よく、いたした。――が、もうよかろう、綱を投げてやれ。許してやれ」
藤吉郎は、囲いへ戻ると、懐紙も筆も投げすてた。そして寒風のふく舳《みよし》へ出て、屹《きつ》と鉄の如く、立っていた。船は白波を噛んで進む! 正確に進んでいる! 帆綱はみな張りつめていた。
「部下に恥かしい! ……」
藤吉郎は、痛切に思った。一個の信長は、今や天下に無数の信長を作っていた。そう知る自分もまた、いつのまにか、信長の分身の一つとなっていることに気がついた。
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東風吹《こちふ》く一隊《いつたい》
一月の半ばであったが、江南の春はもう梅も綻《ほころ》ぶほどあたたかい。
道々、伊吹《いぶき》のすそや不破《ふわ》の山かげには、まだ雪も深かったが、滋賀《しが》のさざなみに照《て》り映《は》える陽を横顔にうけて、湖畔をのたりのたり練《ね》ってくると、よいほどに汗ばんで、行列の兵卒たちも、歩きながら眠たげであった。
「重治《しげはる》。お許《もと》も睡《ねむ》たかろ」
馬上、藤吉郎はふりむいて、左右に従う五、六騎のうちの一人へはなしかけた。
半兵衛重治は、うつむいたまま、駒にまかせて、主人のあとに従っていたが、面《おもて》をあげるとニコとして答えた。
「湖南の東風《こち》、鞍上の揺られごこち、何とも堪《たま》りません。――思わずうとうといたしました」
「やはり居眠っていたのか、さてさて、そちらしくもない」
「面目ない態《てい》をお眼にかけました」
「いや、それをいうのではないよ。御身は、われらのような武骨一片とちがい、わが麾下《きか》ではただ一人の風流子ではないか。風流を解すその方が、このたまたまな好日を、詩もなく歌もなく、黙々、俯向《うつむ》いてばかり行くのはどういうものか。――ひとつ吟懐《ぎんかい》でも聞かせんか」
「おそれ入りました。なおさらもって、面目ない次第ですが、歌もありません」
「ないか。……ハハハハ」
「ただ睡とうございます。おゆるしください」
「居ねむりを許せとか。むりもなかろう。昨夜も旅舎で深更まで皆と話しこんでしもうたからな。実をいえば、この方も睡たいのだ。久々で洲股《すのまた》に立ち帰り、母上やら寧子《ねね》やら弟どもにかこまれて、滞留二日のあいだ、ひと夜は語らい明かし、ひと夜は双六《すごろく》のお相手でまたねむれず――すっかり寝不足がたまってしもうた」
と、他の家臣たちをも見まわしながら、からからと笑い出して、
「いや、よい正月、よい正月。……どの顔もみな睡《ねむ》そうな」
と、大声でいった。
騎馬のあとには二百人ほどな歩卒がつづいて来る。彼の大声にみな眼を揃えて前のほうを見た。
(――実に陽気な御主人だ。天下の春は御主人の顔から立ち昇っているようだ。戦場にあっても、こういう旅のあいだも、屈託《くつたく》らしいお顔はみたことがない)
一将の顔は万卒の顔である。藤吉郎が笑ったので、みな笑《え》みをおびる。彼の明るい放声にすべて眼がさめたように歩調もあらたまる。
ことしの正月は元亀《げんき》二年であった。
永禄十三年とかぞえられるところ、去年四月、改元になったので、何か一年とびこえたような気がすると誰もいう。
つい年暮《くれ》の十二月、叡山《えいざん》の和議を容《い》れて総引上げとなるとすぐ正月であった。藤吉郎は、姉川の合戦このかた、浅井、朝倉の抑えとして、もと浅井の驍将《ぎようしよう》大野木土佐守がこもっていた横山城にはいっていたので、当然、正月はそこに帰っていた。
だが明ける早々、年頭の賀をのべるため、彼は岐阜城におもむいて、信長に謁《えつ》し、さらに数日のいとまを賜ったので、その足で洲股《すのまた》へと廻ったのである。そして久しぶり、妻の寧子《ねね》や母や兄弟たちの許でふた夜をたのしく泊って来た帰り途であった。
「重治《しげはる》。重治」
藤吉郎は、また何か、話しかけようとするらしく彼に向けたひとみであったが、その眸《ひとみ》を大きくみはって、
「どうした? 重治ッ。……これはいかん、重治を抱きおろせ」
と、あたりの者に命じながら、自分も鞍をとび下りてしまった。
――実は。
彼と駒をならべて来た人々はみな気がつかずにいたわけのことでもない。
半兵衛は、鞍の前輪にかがみこんだまま、手綱《たづな》を腹で抑えているように、駒のたてがみへうつ伏していた。
――が、今し方まで、主人の藤吉郎と、睡《ねむ》とうてならないなどと、元気に話を交わしていたので、ほんとうに居眠ってしまったものと、怪しみもしなかったのである。
「や。やッ?」
「どうなされた」
藤吉郎にいわれて初めて、同僚の人々も愕《おどろ》いたのであった。――抱き下ろそうとして寄って見た時は、呼吸《いき》もしていないかと思われるほど、竹中半兵衛重治の顔は、蒼白となっていて、眉はくるしげに二すじの針をよせていた。
「御発病だ」
「これは重い。火のようにお熱がある」
抱えおろす家臣たちの手へ、藤吉郎はそばから、
「そっとせい。……そっと、そっと」
自身の武者羽織を脱いで、草のうえに展《ひろ》げ、その上へ共に手を添えて、静かに寝かした。
半兵衛の病弱は、誰よりも藤吉郎自身がよく知っている。――思えば無理をさせた、と、今さら悔まれもする。
極寒十二月、坂本の陣から帰ってくると、すぐ正月、また旅路と、持病のある彼のからだには、こたえていたにちがいない。ゆうべも深更まで側において、興のつきないまま夜更《よふか》しをさせた。悪寒《さむけ》がすると呟《つぶや》いていたが、丈夫な自分にはつい思いやりが足らなかった。
「あいにくだ。供のうちに医者はおらんな」
「おりませぬ。薬は持参しておりますが、それも半兵衛どのの御持症に、合薬とは参りますまいし」
「飲ませぬよりはまし[#「まし」に傍点]ではないかな。半兵衛の持病は、いつもこう熱が出る、咳《せき》こむ、その後、食物が細る……といったようなふうだが」
「さあ、それよりも、附近の農家へでも一時あずけて、静かにお寝かし申したほうが」
「むむ、至極道理だ。……わしは少しあわてたとみえる。ここは今浜《いまはま》だな」
「左様にござります」
「今浜ならば、丹羽《にわ》殿の陣所があるわけ。まだそこへは遠いか」
「遠ござるが、そっと、負うて参るぶんには」
「胸を圧《お》しては病《やまい》に悪かろう。……はてな」
こんなにも当惑そうに案じる、主人の顔というものを家臣たちも見たことがない。しかし藤吉郎が、その竹中半兵衛重治ひとりを麾下《きか》に迎えるため、かつては栗原山の山中に七日も通って行き、慇懃《いんぎん》三顧《さんこ》の礼をとって、ようやく彼に出廬《しゆつろ》の決心をさせた、あの熱意を思い合わせれば――さもあろうかと、家臣たちは、むしろ彼があわてる様をたのもしくさえ見るのであった。
「殿さま。殿さまッ」
――時に、思いがけなく。
彼方《かなた》の湖の岸のほうから、そうさけびながら二人の童子が駈けて来た。
ふたりとも小姓姿である。そしてこの行列の中にいた者であったが、素迅《すばし》こく、いつのまにか湖岸へ駈けて、すぐ戻って来たものとみえる。
「おお於市《おいち》に、於虎《おとら》か」
虎之助は十一歳。市松はそれより五つか六つ年上だった。共に、洲股《すのまた》の城に養われていたが、こんど藤吉郎が立ち寄ったしおに、はや年齢《とし》も年齢、ぜひ前線の横山城に伴《ともな》ってくれと、当人も縁者どももせがむので、乞いにまかせて供のうちに加えて来たものだった。
「なんじゃ両名」
「はい」
虎之助は眼ばかりうごかしてみせる。まだ十一歳だし、主君の前では、ものがいえないふうなのである。それから較べると、市松のほうはもうずっと大人《おとな》びている。
「すぐ、あそこの浜に、小屋もあります、医者もいるって云いました。近いから、そこへ御病人を持ってゆくのが一番でしょ」
と、湖岸を指さした。
そこからも見える――
彼方《かなた》の湖岸には、仮小屋らしい長い棟が幾つも並んでいた。
それは藤吉郎も家臣の人々も知らないではなかったが、遠く、鑿《のみ》や手斧《ちような》の音がきこえてくるので、急病人をつれて行ったところで、手段はあるまいと考えていたのである。
大人は、智に訴えて智に惑《まど》い、少年は、機転をすぐ実行にうつす。
いつのまにか、そことの間を、一走りに往復して、あれまで行けば、立派に手段のあることを、二人の小姓は慥《たし》かめて来たものだった。
「でかした」
藤吉郎はまず褒めてやった。虎之助と市松は、満足して、顔の汗をこすりながら退《ひ》きさがった。
「ともあれ、あれへ」
と、藤吉郎は自身、先に馬をすすめて、道を曲った。
病人を護って、従者や卒の列もつづいてゆく。
畑道をうねる。低い並木堤《なみきづつみ》をこえる。
すぐに湖畔である。見ると、土手の陰に沿って、街道からながめたよりは遥かに多くの建物が建ちならんでいた。
「ほ? いつのまに」
藤吉郎は眼をみはった。
丹羽《にわ》五郎左衛門長秀|持場《もちば》。
と、書いた杭《くい》が打ってある。ここでは今、十数|艘《そう》の兵船が造られていた。新しい船底や肋骨《ろつこつ》を組みかけた巨船《おおぶね》が渚《なぎさ》に沿って並列している。耳もふさぐばかりな鑿《のみ》、手斧《ちような》のひびきは、それにたかって蟻《あり》のごとく働いているたくさんな船大工の手から発しるものだった。
ふと。
一艘の舳《みよし》のへりに立って大工や人夫を督励《とくれい》していた奉行らしい男は、それへ来た藤吉郎の列に気づくと、
「何者だッ」
と、舳からとび降り、けん[#「けん」に傍点]もほろろに、駈け寄って咎《とが》めた。
「横山城の木下藤吉郎」
彼は、馬を下ってまた、ていねいに訊《たず》ねた。
「丹羽殿はおいでか」
「おお木下様でしたか。主人長秀は、今し方まで、検分《けんぶん》に見えておいででしたが、はや今浜の御陣所へ帰られました」
まぎれもないその人と分ったので、奉行はにわかに態度をかえて、
「――何か御急用なれば、今浜の方へ、使いを走らせますが」
「いや、それには及ばぬ。実は供の中に、急病人が生じたので、一棟の小屋と医者を拝借したいと思うて参ったが、医者はおろうか」
「おやすいこと。てまえの仮屋《かりや》までお越しくだされば、如何ようにも」
「其許《そこもと》は」
「丹羽家の臣、島木筑後《しまきちくご》です。先頃よりは、ここの船造《ふなづくり》奉行を仰せつかっておりまする」
「島木殿か。ともあれ、早速にたのむ」
「御病人は」
「あれにおる者だが」
ひとりの背に負われ、幾人かの同僚に労《いたわ》られながら、病人の半兵衛重治は、島木筑後の仮屋に導かれて行った。
彼方の柵《さく》のうちに、船普請《ふなぶしん》役所が見え、それに附属した役宅が幾棟かある。藤吉郎は後に佇《たたず》んだまま、
――これでまず安心。
と、いったような顔して見送っていた。
「お床几《しようぎ》を」
小姓の市松と虎之助が、うしろに控えてそれをすすめる。彼は黙念と腰をおろしたまま、またたきもせず、ここの造船作業を見ていた。
もちろんこれは信長の企画《きかく》である。叡山《えいざん》や京都や難波《なにわ》の変に駈けつける日の備えであることもいうまでもない。
岐阜《ぎふ》から陸路をいそぐ場合、いつも途中一向宗の僧徒や、各地の残敵にさまたげられて、意のごとく捗《はかど》れない恨みがある。
――で、邪《さまた》げのない湖上を押しわたって、ふたたび叡山以西に出軍する日の遠からぬことを、藤吉郎も今思いあわせた。そしていつもながら信長の先見と、その予見を確実に実行してゆく敏速に、敬服せずにいられなかった。
やがて、そこへ。
先に病人につき添って行った家臣たちはもどって来た。案じ顔して、床几《しようぎ》に待っていた主君のまえに、堀尾茂助はひざまずいて、半兵衛重治の容態をこう復命した。
「もはや、ご心配はないかと思われます。島木殿の仮宅に落着かれ、さっそくお医者の手で薬をさしあげました。しかし少々お口より血を吐かれましたから、なお十数日は、絶対にうごいてはならぬとお医師のご注意でございました」
「なに、血を吐いたと」
藤吉郎は、眉をくもらせて、
「……では、重態だな」
「いえいえ、落着いて、薬を召しあがられると、竹中殿には、いつものように、すずやかなお気色で、血を吐くことは今日のみではないと……微笑しながらお医師に答えておいででした」
「その我慢がむりになるのだ。……そうか、血を吐くのは毎度といったか。平常、わしにはかくしていたとみえる」
「わたくしどもへ向って、幾度となく、御主君は、御主君は……と、頻りに気をつかっておられる様子なので、はや先へお立ちと申して、むりに押しなだめて戻りましたが」
「誰か、看護《みとり》にのこしおかねば、あの気性、じっと、寝てはおるまい。――又十郎」
と、彦右衛門の甥《おい》、蜂須賀又十郎をふりむいて、
「おぬし、茂助と共に、あとに残って、半兵衛の枕元に附添っておれ。――帰《かえ》り途《みち》、丹羽《にわ》殿にも会うて、よく頼んでおこう程に、充分、身を養って、恢復いたすまでは、横山城へ帰っては相成らんと、藤吉郎がかたくいうたと半兵衛に申しつたえよ。よいか」
「かしこまりました」
「立とう」
彼の前に、馬が曳かれ、床几が畳まれた時である。
材木をかついだ人夫の群れが、そこから少し彼方《かなた》を通っていた。みな造船の用材らしく、巨材の後先に縄をかけて、肩もめいりこむばかり四天《よてん》に吊って行くのだった。
――と、その中に、色の小白い人夫がいた。こういう荒仕事にはまだ馴れないらしく、足もとも危うげに、顔をしかめながら、材木のはな[#「はな」に傍点]を担《かつ》いでよたよた[#「よたよた」に傍点]歩いていたが、ふと、藤吉郎のほうを見ると、
「――あッ?」
驚いたはずみに、四天《よてん》の棒を、肩から外《はず》してしまった。
ふいに、一方の者に肩を外されたので、相棒の人夫もよろめいた。のみならず材木のはな[#「はな」に傍点]が、その人夫の足の甲にどん[#「どん」に傍点]と落ちたので、
「あ痛ッ」
悲鳴をあげて、仰山《ぎようさん》に、ぶっ倒れた。
すぐほかの人夫が寄って来て、材木の下から足を抜いてやった。人夫らしくない痩せがたの男は、自分の過失におののいて、
「ごめんなさい。どうかご勘弁をねがいます」
と、もう当然な折檻《せつかん》が降りかかるのを恐れてか、頭をかかえて、地に額《ひたい》をすりつけた。
「まっ、まぬけめッ」
ちんばを引きながら起ちあがった被害者は、まっ蒼《さお》な顔いろして、いきなり相手を撲《なぐ》りつけた。それでも、腹が癒《い》えないとみえ、耳を引っぱりながらさけんだ。
「おいッ、みんな、手をかしてくれ。この野郎のどじ[#「どじ」に傍点]ときたら、一度や二度のことじゃあねえ。力仕事に馴れねえなら、日傭《ひやとい》などに来なけれやいいんだ。賃銀泥棒だ、こいつあ。――おいッ、くせになるから、ふくろ叩きにして、湖水へたたッこんでくれ」
「ア。ごめんなさいッ」
男は逃げまわった。
逃げたが却《かえ》って悪い。彼らの野性をよけいに駆りたてた。多勢の荒くれどもは、その襟《えり》がみをつかみ、蹴る、撲《なぐ》る――の存分を振舞いながら、渚《なぎさ》のほうへ引きずって行った。
「茂助、茂助ッ」
藤吉郎は、あわただしく、指を彼方にさして命じた。
「助けてやれ。そして、打擲《ちようちやく》されているあの男、試みに、これへ連れて来い」
堀尾茂助は駈けて行った。
――此方《こつち》で見ていると。
茂助は、大喝して、人夫たちを叱りとばしている。そして今にも湖水へ投げこまれるところだった男を、いきなり自分の肩へ奪ってひっ担《かつ》ぐと、無造作に駈けもどって来た。
「連れて参りました」
肩から投げ出すように、その弱々しい人夫を、藤吉郎のまえにひきすえると、男は、
「おゆるし下さいまし。どうかおゆるしを」
と、まだ悲鳴に似た声ばかりつづけて、顔を地から離さなかった。
藤吉郎は、そのすがたを、いつまでも凝視していたが、やがて、
「面《おもて》をあげい」
と、穏やかにいった。
癲動《てんどう》していた男も、ようやく落着いてきたらしいが、どうしても顔をあげようとはしなかった。
「これッ、面を上げんか!」
堀尾茂助も云い、家臣たちが、側から叱咤《しつた》したが、それでもなお、彼は雑巾《ぞうきん》のように、べた[#「べた」に傍点]と、顔を伏せているきりだった。
「つんぼか! 汝《きさま》は」
蜂須賀又十郎が、遂に癇癪《かんしやく》をおこして、襟がみへ手をのばしかけると、藤吉郎は、
「待て。つんぼではない。すこし仔細がある者だ。――手荒にするな」
と、制した。
そして、じっとそそいでいた眼を離すと、歩み寄って、土まみれな男のそばへ片膝を折った。
「於福《おふく》。……なぜ顔を上げないか。そちは尾張新川の茶わん屋捨次郎の息子、福太郎に相違あるまい」
「……いえ。いえ違います」
男は、胸に顔をうずめたまま、身をそむけて、全身でわなないていた。
「はははは」
藤吉郎は、わざ[#「わざ」に傍点]とのように笑って、しかも親しげに、その肩を軽くたたいてやった。
「なぜそのように恐れるのだ。尾張新川は、わしの故郷《ふるさと》中村の隣村。それだに懐かしいものを、わけてわしと其方《そち》とは、七つ八つの腕白時代からよく遊んだ幼友達ではないか。……こら! おたんこ[#「おたんこ」に傍点]茄子《なす》の於福《おふく》! あはははは、何を泣くか。その年になっても、未だにそちは泣虫とみえる」
「……め、め、面目次第もございません」
「何、面目ないと。……ああそうか。そちの父、茶わん屋捨次郎は、あの近郷では手びろく商いしていた大家、その若主人が落ちぶれ果てたすがたで、面目ないと申すのか。――それともまた、その茶わん屋にわしが丁稚奉公《でつちぼうこう》していたあいだ、主人の息子であったその方が、事ごとに、幼いわしを虐《いじ》めたから、その仕返しを受けはせぬかと、それを恐れて顫《わなな》いておるのか。……案じぬがよい、中村の日吉は、そんな小僧ではなかったはず、そちも覚えているだろうが」
「……はい、はい」
福太郎は、鼻をつまらせて、嗚咽《おえつ》しだした。
藤吉郎がまだ日吉とよばれていた頃、たしか彼のほうが二ツか三ツ年上であったから、ことし三十五歳の藤吉郎に対して、彼もすでに三十七、八になっているはずである。
「供の中について来るがよい。帰城の後、身の上も聞いてやろう。――来いよ、悪いようにはせぬ」
そういって藤吉郎は、鞍の上に身をうつした。家臣は、彼の命のまま福太郎を促《うなが》して供のなかに歩ませた。
堀尾、蜂須賀のふたりは、後に残って、
「では、わたくしどもは、竹中殿の御全快まで、これにおりまして」
「むむ、半兵衛の看護《みとり》を頼んだぞ。くれぐれ軽はずみをさすな、気を労《つこ》うて帰城をいそぐなと、半兵衛にも伝えおけよ」
卒は槍を立て、騎馬の人々は、彼の前後に立って縦隊を作った。於市と於虎も、その中に歩き出していた。
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獅子《しし》の乳児《あかご》
ここの北国街道は、近江《おうみ》から越前への唯一の通路だった。
鳥越山《とりこえやま》、高時山、横山岳などのふもとを縫って、道もようやく嶮《けわ》しくなる頃、日は没して、湖北の水は遠く左手のほうに暮れている。
浅井長政の小谷《おだに》の城も、その途中にあった。
「オ。灯がともった」
なんの故か、藤吉郎は、小谷の城の燈火《ともしび》に、そうつぶやいて、殊さらに駒をとめた。
江北六郡に三十九万石を領有する浅井家の居城は、さすが難攻不落の地形にある。
(これを墜《おと》すは容易でない)
そう嘆じている彼であろうか。
非ず。
彼の眼には、その要害のなかに安《やす》んじている曲輪《くるわ》曲輪の燭《しよく》や狭間《はざま》の灯が、儚《はかな》いものとすら見えたのである。
――いつまでのまたたきか。
と、浅井一族の上にやがて来る日を、あわれむが如く、笑うごとく、見ないでいられなかった。
それと。
彼が心ひそかに傷《いた》んで熄《や》まないものは、その城中に嫁《か》している主人信長の妹君にあたる人の境遇であった。
お市の方。
こんど年賀の拝をなしに岐阜城へのぼった折も、信長はいくたびとなく口に出して案じていた。
それはまた天麗《てんれい》の美質といってよいほど美しいお方である。佳人薄命ということばは、そのまま今のお市の方の身の上にあてはまる。
兄信長の政略のために、その天麗をもって浅井家に嫁《とつ》がせられ、良人の長政と信長とのあいだが不和となって、互いに敵国として呼びあう羽目になった時には、もう三人の子をなして、まだ二十歳《はたち》を幾つもこえない若さで母とよばれる身になっていた。
去年の暮。
将軍|義昭《よしあき》のとりなしで、叡山《えいざん》とも、浅井朝倉の両家とも、織田家としては、和解したことになっているものの、決して永久なものでないことは、その後の諸国のうごきや、僧団の依然たる攪乱策《こうらんさく》が証明している。
浅井長政にしたところで、もちろんその底意に変りはあるまい。彼は信長の妹|聟《むこ》として、信長には誰よりも愛されていたことを知っている。――しかも信長とはどうしても心から提携《ていけい》できない性格だった。
若人《わこうど》ならばすべてが新時代を理解する若人であろうとはいえない。若い生命をもちながら、時の真髄《しんずい》をつかめない若者もある。長政などは、それだった。
信長の行動は、彼にはただ危険にしか見えなかった。あの行きかたで、時代をつらぬいて行けようとは信じられないのである。――ために、理性に富む彼は、越前の朝倉とむすび、叡山その他の僧団と款《かん》を通《つう》じ、旧態の将軍家をなお恋々と奉じている。
(――所詮《しよせん》は、ふたたび)
信長の思うところは、長政もふくむところに違いなかった。――そして藤吉郎の今の位置は、この小谷の城から越前へ通ずる北国街道の途中にあった。両家をつなぐ動脈の一道を、横山のふもと横山城に遮断《しやだん》して、越前の朝倉と、江北の浅井家とを、両手に抑《おさ》えているかたちだった。
「急ごう。星が出た」
横山城まではもう一里余しかない。藤吉郎以下、行旅の列は黒々あるき出した。そしてはや、各※[#二の字点、unicode303b]が各※[#二の字点、unicode303b]の塒《ねぐら》を眼にも思いうかべていた頃、
「やッ、火の手ではないか」
「おッ、御城門だ」
山陰《やまかげ》の道を出たとたんである。人々は愕然《がくぜん》とさけんで騒ぎ立った。これから帰ろうとする砦《とりで》のあたり、夕星《ゆうずつ》の空をそめて、赤い火気がたちのぼっているではないか。
何の号令も聞かないうちに、二百の将士は、戦《いくさ》支度を一瞬にして、
「さては、敵が」
と、各※[#二の字点、unicode303b]、総毛だッた顔してさけんだ。
「浅井か、朝倉か」
「御不在をうかがい知って、留守へ襲いかけるとは、小癪《こしやく》な敵兵」
「御和睦《ごわぼく》の直後というのに、卑怯な策謀、蹴ちらして、眼にもの見せねば」
眼に彼方《かなた》の炎をにらみ、歯に唇をかんで、藤吉郎の命令一下をまちかまえた。
「……なるほど」
駒の背から藤吉郎も火の手を見ていたが、やがて洩らした声は、至極悠長な――なるほど――であった。
「躁《さわ》ぐな」
まず、うしろへ向っていった。
「わが横山には、小城なりとはいえ、留守として、蜂須賀彦右衛門がおる。半兵衛の弟竹中久作もおる。多士済々《たしせいせい》だ。やわか、あれしきの火の手に陥《お》ちよう」
暗い山風のなかで、からからと笑い声が聞えた。
つづいて、天蔵天蔵と呼ぶ声がする。はッと、渡辺天蔵が列からぬけて、彼の馬前にひざまずく。
「物見して来い」
「はッ」
一個の影が飛んでゆくと、藤吉郎はまた、
「新七はおるか」
と、騎馬の中を見まわした。
「これに!」
青山新七が高く答える。
「そちも行け。そちは馬のままがいい」
「心得ました」
青山新七は、馬のしりに一鞭あてて駈けて行った。
次々に六、七名を放った。
それらの面々が、やがてすぐ物見から帰って来ての報告を綜合すると、ほぼ敵方の実体と、火の手の程度がわかった。
人々の想像はちがわない。敵はやはり浅井家の一族だとある。
浅井七郎右衛門、同|玄蕃《げんば》という者に、三田村右衛門大夫の兵が合体して、およそ八百人ばかりが、横山城の城戸《きど》へ枯柴《かれしば》の山をつんで、焼き立てているところという。
「攻口を取っている敵はそこだけか」
「搦手《からめて》は山、水の手も無事です。ただ西の城戸《きど》に、鬨《とき》の声《こえ》はしましたが、御城内の守りがかたいとみえ、頑として、ただ谺《こだま》がするだけのようでした」
「よしッ、このまま、清水沢の鼻まで進め。忍びやかに!」
はじめて方向が示される。馬も兵もこれまで来た歩速と変りなくうごいて行く。そして清水沢の丘をうしろにひそ[#「ひそ」に傍点]と陣容を取った。炎を浴びている城門は近い。そこへ迫っている敵の影も蟻《あり》のように見える。時折、喊声《かんせい》をあげ、鉄砲をうちこみ、炎へ柴を投げこんで、火勢と共に、突き破ろうとしているのである。
藤吉郎は、鞭《むち》をあげて、
「行けッ。討て!」
ありったけな声量で号令した。馬と兵は、黒い横波となって駈けだした。そして敵のすぐ背面に迫ると、その一人一人が、からだ中からふるい出して、うわーッと一度に武者声をあげた。
藤吉郎は前進しない。彼はわずか数名の者と共にあとに残っていた。寥々《りようりよう》たる人数にすぎないが、彼のいる所、すでにそのまま総司令部である。
「於市《おいち》、於虎《おとら》」
「はいッ」
「床几《しようぎ》を持って来い。そして二人ともこれへ上がって来い」
駒をすてた彼は、小高い丘へのぼっていた。そして床几に腰をすえると、前方の火の手に面《おもて》を赤々と焦《こ》がしながら、しばし唇《くち》をへ[#「へ」に傍点]の字にむすんでいた。
微塵《みじん》に似た火の粉の柱が、新しい黒煙と共に高く噴いた。
城門の一角が燃え落ちたらしい。
寄手は、それッとばかり、一団になって、遮二無二、火と煙をくぐって、中へなだれ入ろうとしていた。
突然、うしろから思わぬ猛兵が突撃したのは、その時だった。
「裏切りかッ?」
寄手の将はうろたえて、そう呶鳴ったほどである。
何ぞ知らん、藤吉郎直属の城兵であろうとは。
血戦は、火雨《ひさめ》を浴びながら展開された。
にわかに、後を向いて、ふいの敵を迎えた浅井軍が、戦闘の当初からすでに乱れ立っていたことは当然だった。
城中の兵は、
「味方だッ」
と、告げ渡って、
「殿がお帰りになったらしいぞ。助けによってこの城が保《たも》ったなどと、城外の味方に笑われるな」
どよめき立って、西の城戸《きど》をひらき、また、火焔をついて躍り出る者もあったりなどして、完全に、寄手の兵をふくろ包みにしてしまった。
見るまに、無数の死体が、火焔の下に捨て去られた。敵は一たまりもなく潰走《かいそう》したのである。逃ぐるを追って、首をあげた者が、彼方此方の野や河原で、声いッぱい、名乗りをさけんでいる。
「追うな、長追いするな」
城中でしきりに呼ばわっているのは留守居の蜂須賀彦右衛門であろう。しかし勢いはとまらなかった。逃げる敵の悲鳴か、追いまくる味方の声か、ごうごうと曠野《こうや》の闇をふく風のような震撼《しんかん》が、しばし何処ともなく揺るがしていた。
――床几《しようぎ》をすえて。
さっきから、ここ清水沢の丘で、戦《いくさ》のもようを眺めていた藤吉郎は、
「よし、片づいたな」
焚火《たきび》の火でも踏み消させたぐらいな気やすさで、独りうなずいていた。
「於虎《おとら》。――於市《おいち》」
「…………」
ふたりの小姓をかえりみて呼んだ。ふたりはすぐ近くに立っていた。けれど、どっちも棒を呑んだように、彼に呼ばれても気づかないふうだった。
「そうもあろう」
藤吉郎は咎《とが》めなかった。むしろ微笑をもってその二人をながめた。
ふたりとも、戦《いくさ》というものを、初めて見たにちがいない。眼をまろくして、魂も彼方へとばしている容子《ようす》に見える。わけて十一歳の虎之助のほうなどは、眉をたて歯をかみあわせ、自分が血のなかで闘っているような顔をして見入っている。
「どうだった?」
床几を立って、藤吉郎は、両方の手でふたりの肩を抱きよせた。
「――戦は恐《こわ》いか」
「う、う、ん」
虎之助は、首を振った。
市松は、あわてて下にひざまずいて、
「すこしも恐ろしいことなどございません。どうか私にも、あれへ行って、戦うことをおゆるし下さいまし」
と、願った。
「はははは。何をいうか。もう戦は終っている。わからぬか、敵はくずれて八方へ逃げ出している」
すぐ丘の下あたりだった。
ざ、ざ、ざッと枯草を鳴らして、二、三名の敵が逃げて来た。そして藤吉郎がいるのも知らず、この丘へ上って来ようとすると、きゃッ――と、悲鳴をあげた者があった。
敗走兵はおどろいて、横ッとびに道を変えて逃げ去った。藤吉郎は、その悲鳴に思い出して、
「茶わん屋の於福《おふく》はいかがいたしたろう。途中から連れて来たあの意気地ない人夫だ。ふたりで探して来い」
と、市松と虎之助にいいつけた。
「はいッ」
ふたりとも、勇躍して、丘を駈け下りて行った。
この戦《いくさ》なかに、戦の外にいて、ただ傍観していたのは、実はつまらなかったし、子ども心にも、すまない気がしていたのであろう。
こんな際には、用の端でも、何かしたい。人間はそういう善性を生れつき持っている。まして主君からそれを命じられたのである。役不足など考えているいとまはない。
「おういッ、於福《おふく》うッ」
「おーい。おたんこ茄子《なす》」
市松と虎之助は、かわるがわるに呼んでみた。そして真ッ暗な丘のすそを歩きまわった。
「……いないや」
「どこへ行っちまったんだろ」
「変なやつ」
「何だって、御主君は、あんな男を、大事にお連れになって来たのかしら?」
どん[#「どん」に傍点]栗林《ぐりばやし》の小道にはいった。右を見、左を見、呼んでみたり、藪《やぶ》を叩いてゆく。
すると、星明りを、ガサガサと戦《そよ》がせて、うごき出したものがある。虎之助が見つけて、
「いたよ、いたよ、ここに」
と、うしろの友へ告げた。
とたんにそこから跳び出した影は、豹《ひよう》の如く、虎之助をつきとばした。そして不用意に駈けて来る市松へ向って、出あいがしらに、わッと、大きく口を開いた。
隠れていた敵兵のひとりだったのである。もとより雑兵《ぞうひよう》にはちがいない。市松も虎之助も、びっくりしたが、それ以上、敵兵のほうが逆上《あが》っていた。
「こん畜生」
いちど転んだ虎之助は、雑兵の足に抱きついて、芋《いも》の蔓《つる》みたいに離れなかった。
「於市どの、つかまえているから、斬れッ、斬れッ」
頻りとさけびぬいている。
だが、雑兵は、長い槍を持っているので、市松には近づけない。その恐い顔といったら、市松も虎之助も、この世の人間の顔の中で初めて見たほどのものだった。
「木下家の小姓どもだな。邪魔すると、ぶち殺すぞ」
吠えるように雑兵は罵《ののし》る。それはただ逃げたがっている焦躁《しようそう》にすぎないが、獅子《しし》の乳児《あかご》には敵の心を量《はか》ることなどできなかった。市松が石ころや土を投げつける一方、虎之助も雑兵の脛《すね》へ必死に咬《か》みついているくらいが精いッぱいであった。
声を聞きつけて、数人の味方が駈けて来た。そして物もいわず、雑兵の背を槍でつき刺してしまった。虎之助は頭から血をあびたまま、雑兵が仆《たお》れてもまだその脚に抱きついていた。苦悶してあばれるので、離したら生き回《かえ》るような気がするのだった。
「もういい。こらッ、いつまで死骸と取っ組んでいるのだ」
襟《えり》がみを抓《つま》まれて、虎之助は道の端へ簡単に片づけられた。市松と並んで、夢中から醒《さ》めたように、茫然と立っていた。
――ところへ、また多勢の味方がひきあげて来た。ひとりの法師武者を捕虜とし、その縄じりを取って引ったてて来たのである。
捕虜とは見えないほど、法師武者は尊大に反《そ》りかえって、怖ろしく威張っていた。そして自分を取りかこむ人々を睥睨《へいげい》して、
「躁《さわ》ぐな。持て余すほどな荷物なら、いつでも、この首、この胴を、べつべつにして持って歩け。この期《ご》になって、逃げかくれするような宮部善性坊《みやべぜんしようぼう》ではない」
と、大言しながら、藤吉郎のいる丘の上へ追いあげられて行った。
「於虎。……行こう」
「もう捜さないのかい。おいいつけの人を」
「於福なら、そこらにいたよ。みんなに尾《つ》いて、一緒に丘へのぼって行った」
市松と虎之助も、後から味方を追いかけた。丘では、追々とひきあげて来る人々が、各※[#二の字点、unicode303b]獲《え》て来た敵の首級《しるし》を、藤吉郎の床几《しようぎ》の前にならべ合って、血のさかもりにどよめいていた。
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卑屈茶《ひくつぢや》わん
その夜、討ち取った敵の首級《しるし》は、八十幾つと数えられた。
横山の城内からは、
「お迎えに参じました」
と、蜂須賀《はちすか》彦右衛門、竹中久作、松原|内匠《たくみ》、そのほか留守居の人々が、主人の帰城を迎えに出た。そして、
「お留守中、ふがいもなく、御城門の一部をば、敵に焼かれ、また、大切な御士卒をも、幾十人か討死させました。申しわけもございませぬ」
と、重《おも》なる者、打ちそろって、罪をわびた。
藤吉郎、言下に、
「なんの、なんの」
家臣らの自責をなぐさめ、
「そんなこと、たれが罪として咎《とが》めよう。四方、味方との連絡もないこの孤城を、そち達、寡兵《かへい》の手にあずけて、悠々、半月あまりも、留守にしておいた藤吉郎こそ咎めらるべきだ。ようその間、持《も》ち支《ささ》えていてくれた。留守中の勤め、大儀大儀」
彼はすぐ、ほかの群れへ眼をやって、
「生捕《いけど》った敵の一将、宮部善性坊《みやべぜんしようぼう》とやらを、これへ曳け」
と、命じた。
法師武者の善性坊がそれへ直ると、藤吉郎は、黙って人態《にんてい》をながめていた。
「…………」
善性坊も顔をあげたまま、藤吉郎をにらまえていた。
そのうちに、力負けしたように、ふと、善性坊がひとみを俯《ふ》せると、とたんに、
「不届き者ッ」
と、藤吉郎は満身から声を出して呶鳴りつけた。
むくッと、善性坊が面《おもて》をあげて、何か、口を開こうとするとまた、
「不忠者めが!」
と、二の句をいわせなかった。
善性坊は、面に朱《しゆ》をそそいで、
「なんで、それがしが不忠者か、不とどき者か。よし捕われの身であろうと、いわれなき辱《はずかし》めをうけてはこのまま死ねぬ。理《ことわり》を明らかにせい。せねばただは措《お》かんぞ」
躍りかかって、咬《か》みつきそうな顔していった。
「あわれむべき男かな。――浅井長政の臣、宮部善性坊といえば、かねてうわさにも聞いていた英傑だが、聞くと見るとは大ちがいだった。こういう人間が、得て、主家を亡ぼす害賊となるのだろう」
面と対《むか》っている者を相手にもとらないで、あたりの人々へはなしかけるように藤吉郎はつぶやいた。
善性坊は、いよいよ躍起となって、
「わけを申せ。やいッ、そこな猿面郎《えんめんろう》、理もなく、武士を誹《そし》る法やある。百姓そだちの成上がり者、武士を遇する道を知らんかッ」
と、罵《ののし》った。
軽く笑いかえして、
「武士として遇せられたくば、なぜ武士らしい道をふまぬか。武将らしい戦《いくさ》をせぬか。――聞け、善性坊、汝をはじめ、同腹の浅井七郎右衛門、同じく玄蕃《げんば》、三田村右衛門大夫などの徒は、決して、主君浅井長政の命によって、わしの留守城を襲撃したわけではあるまいが」
「ばッ、ばかなッ」
善性坊も、一笑を返して、
「主君の命なくして戦うものがあろうか、主人長政のおさしずによって戦ったのだ」
「いや、そうでない。――憚《はばか》りもなく、左様な放言して怯《ひる》まぬ馬鹿者だから、わしは汝を、不届き者、不忠者ともうしたのだ」
「な! なぜだ?」
「浅井、朝倉の両家は、叡山《えいざん》において、かたく、信長様へ対して、和議を申し入れたばかりでないか。和を乞うて、すぐ誓紙を裏切るなど、武門の不信、これ以上な沙汰はない。汝らは汝らの主君に、不信の汚名《おめい》をきせて、恥を天下につたえたいのか」
「…………」
「しかもふたたび、織田浅井の御両家が、矛《ほこ》を交えるとなれば、小谷《おだに》の城は、三日と持たぬぞ。越前の援けは遠し、叡山とは湖の隔てがあり、そして今浜にはわが織田家の丹羽《にわ》五郎左衛門あり、ここには木下藤吉郎がいるものを。……はははは、浅慮《あさはか》な人々ではある」
彼の説く理に抗しきれず、善性坊は、黙念とうなだれてしまった。
藤吉郎はさらに諭《さと》した。
「親の心子知らずというたとえがあるが、信長様と浅井家のあいだも、それに近い。信長様には、浅井家に嫁《かた》づいているお妹君を庇《かば》うお心があるのみでなく、真実、妹|聟《むこ》の長政殿をも、愛しておられる。惜しんでおられるのだ。――然るにその二つが結ばれては、必然、大きな脅威《きようい》をうける朝倉や叡山などが、たえず両家の不和を謀《はか》っている。汝ら家臣の輩《はい》も、それに躍って、主家を滅亡へ導こうとするか」
「…………」
「横山城の留守を襲うたこよいのことなども、汝ら一部の浅井家家臣が、主人長政殿のさしずによらず、自分らの私謀でしたこととしておきたいのは――この藤吉郎とても御両家の和睦《わぼく》をふたたび破りたくないからだ。主君信長様のおこころを傷《いた》ませたくないからである」
「……わかった」
善性坊は、縄目のまま、がく[#「がく」に傍点]と前へ体を曲げて、神妙にいった。
「いかにも、こよいの横山攻めは、われわれの私謀に相違なく、主君はあずかり知らぬことだった。この上は、善性坊の首を刎《は》ねて、主人長政が和議の誓文をやぶったわけでない旨を、織田家へも明らかにお告げねがいたい」
「さすがは、よくお弁《わきま》え下すった。其許《そこもと》の首は其許へ、しばらくおあずけしておこう。――彦右衛門、彦右衛門」
「はッ」
「宮部善性坊が身は、おぬしに渡しておく。捕虜《とりこ》だからといって、粗略にするな」
「承知いたしました」
蜂須賀彦右衛門が、縄じりを取って立ちかけると、藤吉郎は、至極簡単に、
「解いてやれ」
と、いった。
縄を解かれた捕虜の影は、すぐ多勢の影の中に没して行った。
床几《しようぎ》を払って、藤吉郎も丘を降りた。そこから近い横山城の城門へ、やがて主従一兵ものこらずかくれた。
焼き払われた城門は、あくる日、もう新たに普請《ふしん》していた。防禦は一日も怠れない現状にある。北境の雪でも解けはじめれば、重畳《ちようじよう》たる山岳をこえて、何が越えてくるか。
鉄砲をみがき、槍を拭《ぬぐ》い、戦《いくさ》のない時の戦の備えこそ、武士が同時に心をも養っている時だった。
養い方もいろいろある。兵馬の訓練は将士一体のことだが、個々の小閑には、書を読むもあり、酒をたのしむもあり、禅をやるのもあろう。藤吉郎の場合は、たいがい砦《とりで》の奥のいちばん広い座敷を――がらん[#「がらん」に傍点]と空間《あきま》にさせておいて、広縁のはしへ褥《しとね》を運ばせ、それへあぐらをくんで、ぽつねんと陽なた[#「なた」に傍点]ぼっこをしているような折が多い。
或る時、家臣のひとりが、
「殿には、なぜお座敷におられませぬか。よほどお縁側がお好きでございますな」
戯れに問うと、藤吉郎もおかしそうに、
「何も、板縁に坐るのが好きなわけではないが、春の草々が芽ぐみ出すと、無性《むしよう》に土がこいしゅうなる。座敷よりは縁のほうが土に近いだろ。それだからこれにおるのだ」
と、いった。
その答えは、家臣の者には、何だか半解のようだったが、彼のうしろに、彼の刀をささげて居眠っている二人の童子には、かえって分ったようだった。
市松も虎之助も、春めくとよけいに畳の上よりは土が恋しくなった。藤吉郎は、洲股《すのまた》にある母が、今頃はまた菜園に出て、菜《な》を作ったり豆を植えているであろうなどと、子の自分が多少立身しても、なお鍬《くわ》を離さない母のすがたをぼんやり想像していた。
「きょうも、お座所《ざしよ》は、そちらでございましたか」
そこへ蜂須賀彦右衛門が来て、笑顔をもちながら手をつかえた。
「オ。彦右衛門か」
「だいぶ、山々の木の芽も、色づきましたな」
「人間も同じだと思わないか」
「ははは。お戯《たわむ》れを」
「戯れではない」
藤吉郎はまじめくさって、
「遠くにいる妻が恋しゅうなる」
あまり真顔なので、
「ここへお呼びなされてもよいでしょう。ならば洲股へ、お迎えをやりましょうか」
と、いった。
すると案に相違して、
「ばかを申せ」
と、頭から叱った。
「ことしは大乱だ。合戦また合戦とならざるを得まい。さてさて、眼先の見えぬ……」
「殿も、おひとが悪い。彦右衛門にそういわせるように、お誘いをかけながら」
「せめて、口にでも、恋しいというて、我慢の鬱《うさ》をはらしたまでよ。――時に、捕虜《とりこ》の善性坊はどうしておるな」
「なすこともなく、日々、経《きよう》など誦《よ》んでおります」
「本心ではあるまい」
「わかりかねます」
「まあいずれでもよい。将棋でいえば持駒というようなものだ。大事に養っておけ」
「余事ばかり申しあげて、お取次を忘れました」
彦右衛門は、手にしていた一通をそこへさし出した。今浜で静養中の竹中半兵衛からの便りであった。
藤吉郎は、黙読していたが、読み終ると当惑顔して、
「これは物騒《ぶつそう》だ」
と、つぶやいた。
「殿。何事か、半兵衛殿の身に起りましたか」
「いや。……この手紙によると、半兵衛の病《やまい》は日増しに快方にむかっておるらしいが、その後、今浜の丹羽《にわ》五郎左衛門が、半兵衛を迎えとって、医師薬餌《いしやくじ》の手当など、至れり尽《つく》せりの親切をしてくれているという」
「それが何で物騒なのでございますか」
「半兵衛には、はや帰りたい心もあるらしいが、丹羽殿にひきとめられて困っているとある。元来、半兵衛|重治《しげはる》は、理には屈しぬが情には脆《もろ》い。彼の博識と智勇はかねて丹羽殿もよく知って、わしの顔をみるたびに、よい者を家中に持ったと日頃から羨望《せんぼう》しぬいておる。あまり恩をかけられると、半兵衛を、丹羽殿に取られてしまうおそれがある」
「ははは」
彦右衛門は思わず笑いだして、
「お見かけによらぬもの。殿にもそんな嫉妬《しつと》がおありでございましたか」
「あるとも。わしは、女人の愛には、そう嫉《や》かないつもりだが、良い家臣を他家へ取られたら、非常に嫉妬するだろう」
「丹羽殿がさようなことをなさるはずはありません」
「はず[#「はず」に傍点]もないものを案じるがゆえに嫉妬ではないか」
「相違ございませんな」
彦右衛門は、こころの裡《うち》で、ふと気づいた。――主君のことばは、そのままではない。半兵衛の変心を案じていっているのではなく、この彦右衛門に対してそれとなく誓わせているのである。
主従とはなったものの、まだ年も浅く、それに、信長の命によって、藤吉郎の手に附けられた彼でもある。
城中の士《さむらい》も大半は、以前、蜂須賀村から連れて来た彦右衛門の手下であったし、藤吉郎もまた、そのむかし少年の頃には、彼のやしきに飼われていた一雇人《いちやといにん》だった。猿々とのみよばれて、日吉《ひよし》という名すら、誰も呼ばなかった寒々《さむざむ》しい鼻たれ小僧だった。
それが、今では。
――と、考えてくると、彦右衛門は自分を家臣として使おうとする人の難しさがよく察しられた。そして、そう心を労《つか》わせてはすまないと思うのであった。
陽なた[#「なた」に傍点]の沈黙がつづく。
小姓の於市《おいち》と於虎は、主君のうしろで居眠っている。
山鳩が啼《な》く。気《け》だるい。べつにほかに用もないらしい主君の顔つきなので、彦右衛門は退《さが》ろうとしかけたが、ふと庭面《にわも》を見ると樹陰から濃い煙が這っては薄れてゆく。
庭番の者が、朽葉《くちば》でも焚《た》いているのかと思っていたが、よくよく見ると、炭焼窯《すみやきがま》を小さくしたような土窯《どがま》がそこに築かれてある。そして火口のまえに、ひとりの男が火をのぞきながら屈《かが》みこんでいた。
彼の怪訝《いぶか》る容子《ようす》を見て、藤吉郎はわらいながら云った。
「彦右衛門、あの者を、知っているか」
「見かけない御小人《おこびと》。いつお抱えになられましたか」
「先ごろ帰城の途中、今浜のあたりで拾ってきた者だ。――多分、そちも知っているはずだが」
「はて。面《おもて》を見たらどうかぞんじませぬが、ここからでは」
「思い出せぬか。わしの尾張中村にも、そちの郷土蜂須賀村にもちかい新川村の者、茶わん屋捨次郎の息子福太郎というのを」
「あれが、茶わん屋のせがれですか。新川の茶わん屋といえば、かなりな豪家でございましたが」
「主《あるじ》の歿後、家屋も廃《すた》れ、畑やしきも、みな失《な》くしてしもうたとかいいおる」
「では、落魄《おちぶ》れ果てて、今浜のあたりで、何か貧しい生業《なりわい》でもしておりましたか」
「人夫の群れにまじって、馴れぬ業《わざ》をしておったをふと見かけて、旧縁を思い、供に加えて連れもどったが、もともと虚弱《きよじやく》な商家の息子、この城内においてみても、さて何をやらせたらよいか、思案もないでな」
「なるほど」
「当人に、何がそちの能かと、才能をきけば、茶わんを焼くことなら好きだという。それなら茶わんでも焼いておれと、望みにまかせて、やらせておるが」
「ははあ、ではあれは、それを焼く窯《かま》でございましたか。しかし茶わんなど作って、どうなさいますか」
「飯でも喰おう」
「ははは」
彦右衛門の高笑いに、彼方《かなた》に屈《かが》んでいた福太郎は、びっくりしたように窯《かま》の前から伸びあがって振り向いた。
が、いつも物に脅《おび》えているようなその眼は、遠く、藤吉郎のすがたを見ても、あわててまた窯の前に、卑屈《ひくつ》な犬のように背を屈《かが》めてしまう。
「あの卑屈を、どうしたら除いてやれようか」
藤吉郎は、彼のひとみを見るたび、不憫《ふびん》をおぼえた。
何か、常に恐怖していた。優しく仕向ければ猶《なお》おどおど尻ごみするといった風である。なぜかと、福太郎の心を察してみると、自分がまだ茶わん屋の若主人と立てられていた時代、家にいた日吉という小ましゃくれた丁稚《でつち》を憎んで、朝夕にいじめつけたことがある。それを今となって、急につよく憶い出し、自責のあまり、人知れず恐怖したり苦悶したりしているらしいのであった。
日が経つと、彼の作った茶わんが焼けた。
焼き上がるたび、福太郎は、幾つかの品を、黙って、藤吉郎の書院の縁先へならべておいた。
窯《かま》は小さいので、一窯に二個か三個ぐらいしかはいらない。その中には割れもできる。だから、日は経っても、そこに並ぶ茶碗が、目立って増えることもなかった。
また、誰が持って行くとなく、その中の幾つかが、いつのまにか減《へ》ってもいた。それを発見すると、福太郎は、
「お気に入ったのかな。あれで茶を召し上がって下さるだろうか」
生きがいと仕事の張りあいを感じるらしく、ひとみにも安心と落着きが少しずつ見えて来たし、彼の手で焼く茶碗の形まで、卑屈なゆがみやいじけ[#「いじけ」に傍点]た線が見えなくなって、だんだん暢気者《のんきもの》らしい恰好に変って来た。
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四面楚歌《しめんそか》
月の八日ごとに、市《いち》がたつ。そのため岐阜《ぎふ》の城下は、馬や人や物資で溢《あふ》れかえる。
まだ信長が城主とならない以前の、斎藤氏時代からの慣わしであった。
紙、漆《うるし》、皮革《ひかく》、地がね、織もの、そのほか古着、食料など一切の物がかなり大規模に交易される。国々から雑多な人間がはいりこむので、治安や国防上には弊害も眼にあまるほどあるが、織田家にとっても経済上この循環《じゆんかん》を禁絶するわけにもゆかなかった。
「阿呆《あほう》ッ。どこ見てあるく。前を見てあるけッ」
夕方にせまった市の雑沓《ざつとう》のなかで、博労《ばくろう》の気のあらい声がした。
仔馬《こうま》と牝馬《めうま》を曳いて人ごみの真ん中を通って来たので、往来の人たちは市の両側へ避けたが、頭巾《ずきん》のうえに塗笠《ぬりがさ》をかぶって、眼もとばかり出して歩いて来た武家は、避《よ》けることを知らなかった。
「あッ」
よろめいた時、博労の手綱は、その武家の肩を打ったようであった。
だが、あッといったのは、よろめいた武家の声ではなく、もっと離れた所から、べつな人間の口をついて出たものである。
連れの者とみえ、すぐ、
「お怪我《けが》はありませぬか」
駈け寄って来て、脱ぎ捨てられた片方の草履をさがして、その人の足もとへおいた。
従者らしいが、ほとんど同じような身ごしらえをしている。笠、面隠《おもてがく》しまでが同じだった。
「乱暴なやつ、ひッ捕えて、奉行へわたしてくれましょうか。武家にさえあの態《てい》、一般の者には、どんなか、思いやられる」
もう人ごみの遠くに馬の背しか見えないのを振り向いて、連れの武家が怒りをもらすと、
「止めよ。止めよ」
小声にいって、ひとりはもう先へ行く。従者は、ふたたびまた、何かあってはと、案じるように、こんどはすぐその人の背について、眼をくばってゆく。
市を出端《ではず》れると、人もまばらに、空地があって、その先は寺院らしい。醤油くさい煮売りや濁酒《だみざけ》のにおいのうえに、夕月が仰がれた。
「おくたびれでございましょう」
「いや、おもしろかった」
「黄昏《たそが》れました。はやお帰りあそばしては」
「む、む」
見まわしていたが、
「あれは、何か」
と、急にまた足を向け出した。そして空地の一隅に黒々かたまっている多勢のうしろに佇《たたず》んだ。
見ると、ひとりの法師が、石のうえに立って、何か群集に演舌している。
ほかに三人の旅僧がいて、これは三方に分れ立ち、睨むように、まわりの人がきを見張っていた。
演者の法師は、熱弁をふるって群集にいう。
「物が高値《たか》くなるばかり、法令はひどくやかましい。働き手は、戦いのたびに、軍夫にかり出される。喰えない。やりきれない。これがおまえ方のほんとうな相《すがた》だろう。もっともだ。この市《いち》にしたところで、斎藤道三様や龍興様の時代には、こんなものではなかった。もっと繁昌だった。白粉《おしろい》の女も出るし、唄い女《め》もあるくし、夜明けまで酔っぱらいの声がした。それが今では、みんな御法度《ごはつと》、商《あきな》いまで宵かぎりでぴたりと木戸を閉めてしまう」
法師は唇を舐《な》めあげて、聴衆の上をねめまわしている。巧みに領民の弱点をついて、織田家の施政を暗に誹《そし》ろうとする口うらが窺《うかが》える。
過去の、何もかも放漫にまかせていた斎藤家時代の爛熟《らんじゆく》だけを称《たた》えて――それがゆえに、その斎藤家は三族までも滅び、城下の民も共に、外敵の侵攻と兵火のくるしみをあの如くうけて、今もなお、その創痍《そうい》が癒《い》えきれないであるのだ――とは強いて歪曲《わいきよく》していわないのであった。
「殿。……殿」
勝家はそっと、信長のたもとを引いた。
耳へ口をよせて、
「一向僧《いつこうそう》ですぞ、敵のまわし者にちがいありません」
あたりの群集にさとられぬよう眼をくばりながら囁《ささや》いた。
「うム。むむ」
信長はうなずく。そのあいだも人輪《ひとわ》の肩ごしに、眸は、演舌している法師のすがたへ射向けていた。
さっき市の雑沓のなかで、博労《ばくろう》にどなられたのは、信長だった。従者は柴田勝家《しばたかついえ》である。もちろん微行《びこう》で、その偽装《ぎそう》にも細心な気をくばっている。
領民が踊り遊ぶ日は、自分も領民のなかへ出て踊る信長だった。少年期からの素行にみても、こういうことはさして意表に出た行動とは、家臣たちも思わない。
ただ時節がら[#「がら」に傍点]、危険だけが案じられる。で、勝家として、重大な任を負っているわけだった。信長はまた、少しもそんな点は意に介していないらしい。
ここしばらく軍旅のこともないので、彼はもっぱら内政と外交に心をいれていた。殊に、戦えばいつも岐阜《ぎふ》を出るので、治下の民心の如何は、彼自身の健康ほど、常々細心にこころを労《つか》っていた。
「――断っておくが、わしはこの通り、僧門の身。わしの眸《ひとみ》は弥陀《みだ》の眸だ。あの国とこの国、西と東、東と南、諸処方々で戦っているらしいが、仏者には敵味方はない。ただ気のどくなおまえ方に慈悲の手を垂れよと、弥陀如来《みだによらい》の仰せをうけているまでだ」
法師は、喋舌《しやべ》りぬいている。さすが敵地にはいって民心を攪乱《かきみだ》そうとするほどの者だけあって、不敵な面《つら》だましいと雄弁を持っている。――ともすれば、聞き入っている民衆は、その詭弁《きべん》を、ほんとうのものと、魅せられかけているふうだった。
「このぶんで行くと、ことしも合戦、来年も合戦、未来無限、戦は熄《や》むまい。わしは予言する。この夏ごろは、大疫病《だいやくびよう》が流行《はや》る。秋は飢饉《ききん》となろう。さあおまえ方、どうして生きる」
背なか合わせに、演者の三方にわかれて、人なかを見張っている同行の僧は、演者の法師が、自己の弁に酔って、次第に露骨な煽動《せんどう》を放って来たので、時折、うしろを振り向き、
「どうか、みなの衆に、ありがたいお札《ふだ》をあげてください。疫病|除《よ》けのおまもりを、ここに寄った仏縁の方々に、お頒《わ》けしてあげてください」
と、数珠《ずず》をあげて催促した。
「では。――今、お札を頒《わ》けてあげるが、静かに、われがちにならないで、順に待っておいでるがいい」
演者の法師が、そういって石を降りると、ほかの三名が、
「これを、屋の内に貼って、朝夕一向に念仏すれば、疫病はまぬがれる。そして七月か八月頃、自然のお札焼《ふだやき》が始まるから、その時は、疫病焼のお手つだいに、おまえ方も集まって来い。風のつよい夜、岐阜の諸処から火の手があがる。それがお報《し》らせじゃ。疫病焼がすんでの後は、斎藤家時代よりは、もっと安楽な御政治が布《し》かれよう」
おまもりと称する小さい紙きれを、群集のひとりひとりに渡すたび執《しつ》こくいって聞かせるのだった。忽ち雪の撒《ま》かれたように、多勢の手に一枚一枚持ち去られてゆく。
「わしにも」
うばい合う肩と肩のあいだから、勝家も手をつき出した。
ほかの僧と一緒に、札配りをやり出した雄弁法師が、何気なく、その手へも一枚つかませると、勝家の手は、咄嗟《とつさ》に彼の腕くびを捕えて、
「売僧《まいす》ッ」
ずるずると人ごみの中から引きずり出し、勢いを与えておいて、いやという程、大地にたたきつけた。
「あッ、今の坊さんが」
「捕まったッ。まわし者だ」
驚いた群集は、こけ転《まろ》んで、逃げちりながら、各※[#二の字点、unicode303b]の手にもらった物を、魔符《まふ》のように、おぞ毛をふるって捨ててしまった。
演舌していた首魁者《しゆかいしや》らしい僧は、勝家の手に縛《くく》りあげられ、逸《いち》はやく逃げたほかの三名も、そこここで捕まった。
「や。あのお武家は?」
と、市に躁《さわ》いでいた庶民が、信長のすがたを信長と知ったのは、勝家が捕えた法師を、町なかの寺院の門前まで引っ立てて行ったからであった。
そこには、騎馬の家臣七、八名に、なお多くの徒歩《かち》の家来が、ひそやかに、信長の帰りを待ちもうけていた。
万一のため、市の附近に、あちこち立っていた御小人《おこびと》たちも集まると、かなりな人数になり、縄目の法師四人を、列の後《しりえ》につれて、やがて稲葉山の城門へかくれて行った。
一刻ほど後。
信長は湯殿からあがって、さわやかな顔を、岐阜《ぎふ》城の一室に見せていた。
「蘭丸《らんまる》、笄《こうがい》をかせ」
濡髪《ぬれがみ》のほつれへ手をやりながらいうと、小姓の蘭丸は、うしろへすり寄って、
「おなでいたしましょうか」
「む、む」
と、頭《つむり》をまかせ、信長は、やや上気した面《おもて》を、燭に上げていた。
侍臣がつたえたとみえて、頃をはかっていた勝家が、それへ、
「取調べてまいりました」
と、報告に来る。
懐紙をとって、そっと、額《ひたい》の汗へあてがいながら、信長はうしろへ、
「もうよい」
と、いってすぐ、
「どうだった。坊主どもの申し立ては」
「なかなか実を吐きませんので、手をやきました」
「さもあろうず。寺籍《じせき》はどこに属する者か」
「ひとりは長嶋の長円寺」
「やはりそうか」
「二名は、性懲《しようこ》りもない、叡山《えいざん》の僧であります。もう一名は、三好の残党で、法体《ほつたい》はしておりましたが、僧ではありません」
「より集まりか。――類と類だな」
「首魁《しゆかい》の長円寺の坊主は、さすがにいかに叩いても、そら嘯《うそぶ》いて口をあかず、三好の残党も、泥を吐きませんので、叡山の二名を、べつにして、拷問《ごうもん》してみましたところ、すべてを白状いたしました」
「そうか。ふふム……おもしろいな、同じ坊主でも、そうちがうか」
「この初夏を期し、かねて領民をまどわしておいて、御城下の各所に火を放ち、一揆《いつき》を煽動《せんどう》しておいて、北からは浅井、朝倉の兵を呼び、南からは長嶋の一向宗徒を糾合《きゆうごう》し、石山本願寺の門徒兵や、叡山や、また畿内《きない》の三好、その他の残党もあつめ、一挙に、岐阜を葬らんという企謀《たくらみ》をめぐらしておるとのことにございます」
「なるほど。――この信長を憎しとする敗者、競争者、旧弊の擁護者《ようごしや》が、みな自分らの末期をさとって、くさいもの同士、団結してきたな」
「いずれも、亡び去るものの様相には違いはございませんが、軽視はできません」
「もとよりのこと」
「坊主の自白によりますと、なおこの一連の密盟には、甲州の武田殿まで加わっておるやに思われます。その武田家と、京都の将軍のあいだに、近ごろ繁く、密使の交わされていること、双方の肚《はら》の中など、思いめぐらせば、御当家は今やまったく、四面楚歌《しめんそか》の中にあるかと考えられます。寸刻とて、御油断はなりません」
信長は、黙然《もくねん》、燭《しよく》を見つめていたが、やや疲れたように、
「勝家、また明日《あした》聞こう。法師どもは獄に下げて、しばらく生かしておけ」
と、いった。そして蘭丸をつれて休息の間へかくれた。
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伏龍悶動《ふくりゆうもんどう》
「よくもいった、四面楚歌《しめんそか》の中とは。――信長がこの居城、見まわせば、八方敵ならぬ境はない」
独《ひと》り居《い》となると、彼は手枕をして横になった。
まだ寝所にはいるには惜しい気もする四月末のよい気候であった。
城下の蒸し暑い夜も、この山上の本丸は、爽涼《そうりよう》だった。
「四囲《しい》の敵ばかりではない」
彼は、反省してみる。自分の領下にある施政《しせい》がどうか。自分が果たして、領民の心をつかんでいるか否か。
岐阜《ぎふ》の領は、親ゆずりの遺産ではない。自己の実力で新たに版図《はんと》に加えたものである。領民はついきのうまで、斎藤家を領主と仰いでいたものだ。それだけに困難が多いのである。
「ひと眼でも知れている敵の諜者《ちようじや》の詭弁《きべん》に、すぐに動かされるような領民では」
信長は、心をいためた。誰のせいでもない、信長自身の施政と徳のいたらぬためと考えるからである。
どうしたら民心を? ――と、瞑目《めいもく》して苦念する。
信長を信じろ。
と、令してみたところで、民心が自分の思うままに向くわけもない。
領民の本義にもとるやつは縛《しば》るぞ。
と、圧力を加えてみたらどうなるか。
これも覚つかない。
心の形体《ぎようたい》はどうにでも取れる。法令を布《し》くはやすいが、法令に心服させるのは難しい。
いや民心には、法令と聞くと、内容を汲《く》まないうちに、先に厭《いと》うような性格さえある。かつての遠い時代の暴圧が民層のなかに深くしみこんで、生理的にさえなっている。
では、法令と被治者、これはいつも溶《と》けあわない片恋か。
「――で、あってはならない。ふたつが離反すれば、必定《ひつじよう》、国は亡ぶ。……国主の任とは」
信長は思う。
むすぶことだ。
歓《よろこ》んで民心がうけとるような法令でなくてはならない。
そんなことをしていたら国政は成り立つまい。――こう自問自答してみながら、
「そうでない」
と、信念した。
民衆はもとより生活の豊かと安心を渇仰《かつごう》しているが、といって、放恣《ほうし》な快楽とか安易な自由とか、そんなものにのみ甘やかされて歓んでいるほど愚《ぐ》なものでもあるまい。
一個の人生にしたところで、余り気まま暮しな人間や、物に困らないものが、却《かえ》って、幸福でない例を見ても、総括《そうかつ》した民心というものにも、艱難する時代と、共栄謳歌《きようえいおうか》する時代と、こもごもの起伏があっていい。なければ却って、民心は倦《う》む。
「まちがっていた」
信長は、そこに思い至って、ひそかに悔《く》いた。
祖先以来の受領地、尾張にあっては、ずいぶん艱苦を領民に強いたが、岐阜の占領地へ来ては、前の斎藤家が、放漫な施政をしていたので、華美自堕落《かびじだらく》に馴れている新領土の民には、きょうまで、信長としては極めて生《なま》ぬるい政策をとって、徐々に馴《な》らして行こうという方針でいたのである。
「まずい。民心を知らないものだ。かえって領民は、前の領主のやり方と、似て非なる信長のやり口を疑っていたろう。信じないはずだ」
自堕落な領主の下に、自堕落に生きて、滅亡を告げ果てた歴史を眼で見ている領民である。彼らが今求めているのは、斎藤家のそれとはちがったものであるにちがいない。
自分だに、信念と徳を示せば、彼らはよろこんで、艱苦を享受《きようじゆ》するにちがいない。むしろ清新な希望をかかげ、民心に、艱苦せよということであった。
子に対する父の愛を、もっと宇宙大にもしたような、民心への大愛をもって。――しかも民心を打つことだ、鞭打《むちう》つことだ。
蘭丸は、室のすみに、その小さいすがたと年齢のわりにしては、余りに行儀よく、ちょこねん[#「ちょこねん」に傍点]と坐っている。
が――いかに彼が怜悧《れいり》でも、信長の心のなかの惨憺《さんたん》たる経営はわからない。
「うたた寝を遊ばしては」
などと、彼の手枕の顔を、遠くから案じていた。
山の若葉を漉《こ》してくる夜風が冷たくなった。蘭丸は立って、
「まだ御寝所へ入らせられませぬか」
と、信長の顔へそっといった。
「もう少しこうしていよう」
ほそく開いた主君の眼には、睡そうな気はすこしも見えない。蘭丸は、信長の背へまわって。
「おつかれ遊ばしたのでしょう。すこしお体でもさすりましょう」
と、肩へ手をあてがった。
無用とも、せよともいわない。しかし蘭丸は、信長がよく背が凝《こ》るというのを聞いているので、揉むところを知っていた。揉めば信長は、なすままに、体をまかせている。
「……むりもない、民心がこの信長に、頼りきらぬもむりではない」
彼はなお思いつづけている。
「いま信長の味方といえば、三河の徳川家があるばかり。それとて、近ごろは武田家との抗争で、力とは恃《たの》み難い。その徳川家をのぞいたら、この信長を、父とも思うといった将軍家|義昭《よしあき》をはじめ、遠くは西国の毛利家にいたるまで、みなわが敵であらぬはない。――領民の眼から見たら、この城も、危うく見えよう、儚《はかな》く見えるも尤《もつと》もである」
どうして、そういう民心の信望をつなぐか。この人でなければと、領民が一心一体となってくるか。信長にはこうしか考えられなかった。
「まだやり足らないのだ。身をもってやり通そうと誓ってやって来た年来の実行も、まだ人眼《ひとめ》から見れば、やり足りていなかった。――そうだ、これからも、身をもって信念を実行に示してゆく。それしか、民心を得る途《みち》もなく、また信長の生きる途もない」
むく[#「むく」に傍点]と、彼はふいに起きた。
晏如《あんじよ》と、身を横にしていられないような衝動が、唐突に、意識を度外して、からだを起させたのである。
蘭丸は、驚いて、
「どうかなさいましたか」
「いや。……いま何刻《なんどき》だな」
「亥《い》の刻《こく》ごろかと思います。お時計番にたしかめて参りましょうか」
「それには及ばぬ」
と、支《ささ》えてふと、蘭丸の腫《は》れぼったい瞼《まぶた》に眼をとめ、
「なにを泣いていた?」
「はい」
「眠とうて、奉公が辛《つろ》うなったか」
「そんなことはございませぬ」
「では、なんで泣いた」
「どうしたのか、わかりませんが……」
と、蘭丸は両方の眼を肱《ひじ》でかくしながら――
「殿のおからだをさすっておりましたら、討死した父のことが、急に胸にせまって来て、ひとりで涙が出てしまいました。おゆるし下さいまし」
「三左衛門|可成《よしなり》のことを思い出してというか」
「……はい」
「そちの父|可成《よしなり》は、去年、叡山《えいざん》をかこむ前、朝倉の大軍と僧兵につつまれ、宇佐山《うさやま》の城と共に相果てた。あとに遺《のこ》ったそちもまだ少年、悲しむは無理もないが、嘆《なげ》いては、父のいさぎよい討死も、可惜《あたら》、何もならないものとなろうぞ。泣くな。可成は死んではいない」
「えッ、父は死んだのではございませんか」
びっくりしたように蘭丸は顔から肱をはなした。信長は坐り直して、
「生きている」
強くうなずいて見せた。
「どこに……どこに父は、生きておりますか」
蘭丸は手をついて、顫《わなな》きながら、主君の唇《くち》もとを見つめた。
信長は、自分の胸へ、手をあてながら、
「ここにだ。信長の胸にだ。――生きているというたのは、そちの父の形ではない。討死しても、可成の忠魂《ちゆうこん》は、信長の胸に生きていると申すのだ」
「ど、どうしてですか」
「可成ばかりではない。信長の軍について、今日まで、諸処の合戦で死んだ者も、みな信長の胸に合祀《ごうし》してある。それが信長の心となって、艱苦にぶつかるたびに、信長を勇気づけてくれる。怯《ひる》む心や惑《まど》う心のうごくたび、わしが幼年の頃、わしを忠諫《ちゆうかん》して自害した平手政秀をはじめ、そのほかたくさんな忠魂が、わしを叱咤し、わしを善に善にと導いてくれる。そちの父三左衛門可成も、そのひとりじゃ。そちが悲しむと、信長の心もかなしむ。――見よ、わしはなお、無数のよい将士を死なすだろう。かなしんでいては出来ないのだ」
噛《か》んでふくめるようなことばになる。生来、利発な蘭丸は、凝然《ぎようぜん》と坐りなおしていた。
「……だが、信長はそちにも誓う。信長はかならず乱脈と暗黒に沈んでいる日本全土の人々を甦《よみが》えらせてみせる。大君《おおきみ》の御こころを安んじ奉る日を迎え取ってみせる。なお百世の後の代までも、信長のなしたことが、かならず日本によいことであったという事実を地上にのこしてみせる。……これだけのことを信長がしたら、信長の麾下《きか》に討死した白骨どもも、むだ[#「むだ」に傍点]に死んだとは悔い嘆《なげ》くまい」
「殿。……殿。……よくわかりました。蘭丸も決して嘆きません」
山上の闇の森に、ほととぎすが啼《な》きぬいている。幼い者や弱い者には心情をみだされやすい。信長も眼のまえの蘭丸のすがたに、日頃の彼らしくもなくふと感傷にとらわれたが、それは長いあいだではなかった。
「蘭丸。料紙と硯筥《すずりばこ》を」
「はいッ。……これに置きまする」
「墨をすれ」
筆をとって、信長は一書を認《したた》めた。横山城にある木下藤吉郎へ宛てて。
文面はかなりつぶさである。秘封《ひふう》して宿直《とのい》の者をよび、
「すぐ早打ちをもって」
と、使番へ下げる。
その後また筆を取りあげて、家臣の重なる人々の名を列記していた。城中に住んでいる者と、城下にある者とに限っている。
「これを、勝家の部屋へとどけて参れ。明朝|卯《う》の刻《こく》までに、これに誌《しる》してある者ども一同、評定《ひようじよう》の間に集まるようにと申し添えて」
宿直《とのい》にそれを渡すと、信長は間もなく寝所にはいった。
卯の刻といえば早暁《そうぎよう》だった。召しをうけた人々は、何事かと暗いうちに起き出て来た。ここ久しく軍議もなかった。主君の胸に、そも何事か、機も熟せりと神算が立ったのだろうかと。
出揃った朝の顔は、天井のたかい大広間に居ながれていた。柴田、佐久間の首席をはじめ、氏家卜全《うじいえぼくぜん》、安藤伊賀守、武井夕菴《たけいせきあん》、明智十兵衛などの顔もあった。
信長が着座した。
軍議は、実にみじかい時間で終った。一決して、すぐ各※[#二の字点、unicode303b]席を立つ。
外へ出てみれば、まだ朝の大気が水々しい。
「朝飯前に決ったな」
「左様さ。御評議のみか、駈け向うところも、この意気では、朝飯前で片づいてしまうじゃろ」
廻廊をながれて退る諸将のすがたには、もう明らかに戦気が立っていた。――その朝、信長が諸将に諮《はか》ったのは、
「まず、長嶋《ながしま》の門徒|一揆《いつき》から平らげて、四敵八塞《してきはつそく》の象《かたち》にある岐阜の位置を、一角から打開してゆこうと思うが如何に」
と、いう議であった。
大坂の石山本願寺、京の叡山《えいざん》、尾張、伊勢境の長嶋門徒。
なお江州《ごうしゆう》や各地に、僧徒の勢力は、根ぶかく散在しているが、以上三つが、反信長連盟の三|本山《ほんざん》として、歴然たる抗争の旗をひるがえしているものだった。
信長にとって、およそ始末のわるい相手は、はっきり領土を持たないで、しかも諸国の民心にふかく蝕《く》いこんでいるこの末期的僧団であった。その煽動力であった。
五月にはいってすぐ。
岐阜城下に、信長の大軍は、勢ぞろいした。
重《おも》なる人々のほか、その日まで発向を知らなかったので、
「どこへ。どこに戦いが?」
と、城下の者は、眼をみはったが、その出陣の血まつりに、先頃、八日の市で捕まった四人の間諜僧《かんちようそう》が首を刎《は》ねられたので、
「さては、長嶋か」
と、初めて知った。
「あのまわし者の僧に、疫病除《やくびようよ》けの守り札をもらって家に貼っておいた者は、剥《は》がしておくがよいぞ」
領民のなかにも動揺が見えた。彼らはあわてていろいろな物を湮滅《いんめつ》した。
夏ともなれば、強風のふく夜が来れば、疫病焼の火の手があがる。それに手伝うものは、生きては安楽なくらしに会い、死しては仏果を得るなどと囁《ささや》かれたことを、よほど盲信していたらしいのである。
中にはまた、その夜、用いよといわれて、正直に蔵《かく》して持っていた一揆《いつき》の旗を、こっそり焼きすてた者などあった。
その旗というのは、白木綿に梵字《ぼんじ》をしるし、下に、
退一歩堕地獄《たいいつぽだじごく》
進一歩生極楽《しんいつぽしようごくらく》
と、書いてあった。
長嶋には今しもこの旗が林立していた。一揆の僧俗《そうぞく》は七万をこえ、なお、一向僧の煽動《せんどう》にのって、鍬《くわ》をすて、商《あきな》いを抛《なげう》って、自暴自滅の騒乱へ身を投じるものが日に増しふえるばかりだった。
(――男たるものは一歩も退くな。女たるものは一言も悔《くや》むな)
一揆に加わると、そういう誓詞を立てさせる。また宗祖親鸞《しゆうそしんらん》のことば、
如来大悲の恩徳は
身を粉《こ》にしても報ずべし
師主智識の恩徳も
骨を粉にして謝すべし
…………
難行雑修自力《なんぎようぞうしゆうじりき》のこころを捨て
一心|後生《ごしよう》にたすけたまえと
弥陀《みだ》をたのむべし
と、あるような聖者の文章を、人間への光明と安心には役立てないで、破壊と騒擾《そうじよう》を意図とする咀呪《そじゆ》の歌として称《とな》えさせた。
信長の軍は、絶滅を期して、長嶋へ詰めよせた。
去年には。
この地方の、小木江《おきえ》ノ城《じよう》の城主であった信長の弟、三七|信興《のぶおき》は殺され、城は一揆の者に奪われていた。
「弟三七のとむらい合戦」
とは、口にこそ出さないが、信長の胸にはあろう。全軍の将士は、もとよりそれを誓っていた。
だが。
長嶋は容易に破れなかった。
むしろ攻めれば攻めるほど強くなった。一心一向の称《とな》えそのままに凝《こ》り固《かた》まって戦う。矢も鉄砲も槍もつき通らない抵抗を示すのであった。
「誤った。蛇をころすには頭《かしら》をこそ打てだ。蛇尾《だび》を叩いて、日を過しているまに、わが大事は去ろうも知れぬ」
信長は、長嶋の要害や地勢を、自身|視《み》てあるいた日、そう悟って、にわかに全軍へ総退却の命をくだした。
その伝令をうけて、各陣地にある諸将は、
「やッ? 何ゆえに」
と、信長のこころを疑って、ひとしく意外な愕《おどろ》きに打たれた。
孫子《そんし》も訓《おし》えている。
攻進は易《やす》く、退くは難いと。
その難事を、信長は、喰いかけていた飯茶碗でも、思い直して置くように、
「退《ひ》け」
と、総軍へ命じたのである。
当然、全軍は大混乱を起した。今が今まで、攻略一方で、退くなどということは、考えてもいなかった人々である。――なぜか? 何故の退却か? 部将たちの頭からして混乱を呈していた。
「各※[#二の字点、unicode303b]はそも、何を疑い惑うのか。退《ひ》けとの御命令である。主命は絶対ではないか。理由などは、後で問え。ともあれ、退くのだ」
殿軍《しんがり》をいいつかった柴田勝家や氏家卜全《うじいえぼくぜん》などは、なお退《ひ》くことをいさぎよしとしない部隊を駈けまわって、退却をうながした。
急速度な転回は、そうして寄手の一角から徐々に開始された。その日まで、広い地域をかこんでいた大兵が、にわかに引揚げ始めたのをながめて、
「すわ、信長の後方に、何か、突発的な大事が起ったにちがいない」
と、観《み》て、急に門徒の大兵団は、長嶋を出て、追撃に移った。
追撃にかかった僧兵の一隊は、川を遡《さかのぼ》って先に廻り、やがて潰走《かいそう》して来る見込みで、敵を待っていた。
殿軍《しんがり》の柴田軍は、堰《せき》を切って出た門徒勢のため、さんざんに撃破された。彼の作戦どおり、逃げ走って行ったが、そこには、待ち伏せていた新手の敵があった。鉄砲、乱箭《らんせん》を浴びせられたあげく、全部隊の半分は、僧兵のために殺された。
柴田勝家自身も、左の股《もも》に一弾の銃瘡《じゆうそう》と、肩のあたりに一矢の矢痍《やきず》をうけていた。そればかりか、中軍に持っていた金幣《きんぺい》の馬標《うまじるし》まで、敵手に奪われてしまい、主従、ちりぢりになって逃げ走った。
「殿! 殿! もう私は、お別れします。お供もこれまでです」
彼の小姓のうちに、当年十七歳になる水野采女《みずのうねめ》という少年がいた。突然、勝家の駒のそばを離れて、後へもどろうとする様子に、
「采女《うねめ》、どこへ行く」
と、勝家が叱った。
すると采女は、
「恃《たの》みに足らぬ細腕と思し召しましょうが、馳せもどって、殿軍《しんがり》の殿軍をいたしまする。わたくし如きは、お見捨て下さって、すこしも早くお退きなされますように」
と、いうたかと思うと、もう身を翻《かえ》して、敵の中へ駈けて行った。
死を決して奮進した采女《うねめ》は、奪われた味方の馬標《うまじるし》を敵の手から奪《と》りかえし、しかも後日、身をもって危地から遁《のが》れてかえった。
この引揚げが、いかに至難であったかは、勝家と共に殿軍《しんがり》した氏家|卜全《ぼくぜん》が戦死し、安藤伊賀守も潰《つい》え、将士の戦死八百余人、負傷二千余名と数えられたことを見ても、その犠牲のほども想像されよう。
――が、信長は、ようやく岐阜へ近づくと、
「まず、よかった」
と、つぶやいた。そして乗れる愛馬の平首《ひらくび》を叩いて、
「もう一年の辛抱だ。ほんとに汝の駿足《しゆんそく》を労すことは、一年の後にある」
と、独り云った。
一死ただこれ君命あるのみと、敵中へ馳せもどって、金幣《きんぺい》の馬標《うまじるし》をとりかえして来た少年水野の如きは、退却に際しても、何の理窟もこね[#「こね」に傍点]なかったが、諸将のうちには、岐阜帰着後も、こんどの引揚げと、その犠牲に対して、信長への批判や懐疑がひそかに絶えなかった。
それに対して、信長は一日《あるひ》、群臣のいるところでこういった。
「わしには――わが織田軍には、前途多くの任務が横たわっている。彼処《かしこ》の敵も捨ておき難いが、長嶋はまだ一地方の敵、この信長を仆さんとする敵の根元ではない。――火事を消すに火元を措《お》いて、他の壁に映っている幻影に水をそそいでいたら人は嗤《わら》う。しかも、そこで大切な時と軍馬を費やしてしまうなど、愚のいたりではないか。……まあしばらくやすめ。百日がほど、休養して、どこが根本の火元か、そち達も、ひろく天下をながめて見定めておくがよい」
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毘沙門堂主《びしやもんどうしゆ》
甘糟三平《あまかすさんぺい》は、甲斐《かい》の名将として聞えのたかい甘糟備中守が一族の子であるが、特殊な才能のあるために、かえって低い役目におかれたまま、十年も働いていた。
「――人間、あまり重宝がられるのもよし[#「よし」に傍点]悪《あ》しだよ。むしろ鈍物《どんぶつ》に生れて、生涯一度か二度という時に、一生の働きをいちどにして、あとは不器用者といわれていたほうがいい」
近ごろ四十にも近くなると、甘糟三平も、時々そんな愚痴をこぼした。
けれど、彼はまだ依然として、持ちまえの才能をもって、敵国と甲州のあいだを、まるで韋駄天《いだてん》か天馬のように、のべつ往来していた。
三平の所属は、武田家の乱波組《らつぱぐみ》(隠密)であった。敵国|攪乱《こうらん》、諜報、連絡、流言浮説の撒布《さんぷ》など、あらゆる実戦以外の戦闘に跳躍しているひとりであった。
その三平は、若い時から敏捷《びんしよう》と健脚で仲間のうちでも鳴っていた。どんな山道でも一日に二十里から三十里は歩くという脛《すね》を持っていた。
――が、いくら彼でも、そんな速度を毎日は続けきれないのであろう。遠隔から急いで来る時は、馬の使える地帯では馬を用い、嶮路《けんろ》にかかると、自身の脛で飛ぶことにしているらしかった。
そのために、彼は常に往来する要処要処に、「馬継《うまつぎ》」をする小屋をもっている。多くは猟師《りようし》の小屋か、木挽《こびき》小屋などであった。
「おーいッ、炭焼。――この小屋の親爺《おいぼれ》はおらんか」
三平は今、その馬継らしい炭焼小屋のまえで、馬を降りていた。彼も大汗をかいていたが、彼にも負けないほど、馬も汗にぬれていた。
五月の末である。
山にはいると、まだ緑も浅いが、里のほうはもう、草いきれや蝉《せみ》の声であった。
「いないのかッ」
面倒になったとみえ、破《や》れ戸《ど》の腰を膝で蹴った。小屋の戸はすぐ外《はず》れる。
三平は、ここへ預けるつもりの馬を、小屋のなかに曳《ひ》き込んで、くくりつけると、土間の奥へはいって、勝手に飯櫃《めしびつ》や漬物や土瓶《どびん》などを持ち出した。
そして腹いっぱい喰べ終ると、
「どれ……」
と、すぐ腰をあげかけたが、矢立の筆をぬくと、鼻紙へこう書いて、それを御飯つぶ[#「つぶ」に傍点]でお櫃《ひつ》のふたへ貼っておいた。
[#ここから2字下げ]
狐狸《こり》のわざにはあらず。空《から》にしたものは三ぺい也《なり》。うま、留守ばんにあずけおく。こんど通過の折まで、よく草を喰わせて肥《こ》やしおくべし。
[#ここで字下げ終わり]
三平が出て行こうとすると、馬は別れを惜しんで、ばたばたと羽目板を蹴った。
無情な飼主は、ふりむきもしない。その蹄《ひづめ》の音へ、がたッと戸を閉め、こんどは持ち前の両脛《りようずね》で、飛ぶが如く――というのも大げさ[#「げさ」に傍点]だが、何しても身軽そうな迅足《はやあし》で、南巨摩《みなみこま》の山地へいそいで行った。
もとより彼のさしてゆく方向は甲府であった。駿遠《すんえん》方面から本国へもどって来たものであることもいうまでもない。日ごろの健脚に一倍風をきッて行く様子から見ると、何かよほど急を要する情報でも携《たずさ》えているらしく思われる。
次の日の朝には、早くも彼のすがたは幾山をこえて、脚下に富士川の水を見ていた。山峡《やまかい》のあいだに見える屋根は鰍沢《かじかざわ》の町だった。
「まず、午過《ひるす》ぎまでには」
と、そこで甲府に着くまでの時間と歩速に、すっかり見込みがついたらしく、ひと休みして、甲斐盆地にも訪れている夏の日をながめていた。
「どこへ行っても、いくら山国の不便や損はあっても、やっぱり己れの国ほどいいところはないなあ」
つぶやきながら、膝をかかえていると、夥《おびただ》しい馬の列が、背に漆桶《うるしおけ》をつけて、何十頭か数も知れないほど、麓《ふもと》から追われてのぼって来た。
「はてな。どこへ?」
甘糟《あまかす》三平は腰をあげて降りて行った。山の中腹で、下から来る百駄の輸送隊と出会った。
「やあ」
馬上の先頭の人は、武田家の荷駄|頭《がしら》、佐奈田《さなだ》源太左衛門だった。
もとより相識のあいだから、三平はすぐたずねた。
「夥《おびただ》しい漆《うるし》ではありませぬか。かように大量な漆桶を馬にのせて、いったい何処へ輸送するのですか」
「岐阜《ぎふ》へじゃよ」
源太左衛門は答えて、彼の不審そうな顔いろに、説明をつけ加えた。
「一昨年、織田家から注文のあった漆が、ようやく、その量に達したので、岐阜まで送ってまいるところじゃ」
「なに、織田へ」
眉をしかめて、三平は、それは御苦労至極なと、笑いも作れないような顔をした。
「――ずいぶんお気をつけておいでなされ。路次はなかなか物騒《ぶつそう》ですぞ」
「長嶋の門徒も、よく戦うそうだの。織田軍の戦況はどうじゃな」
「主君に御報告せぬうちは、口外はなりません」
「そうそう、そちは今、その方面から帰って来た途中であったな。では、立話も憚《はばか》りあり。……おさらばおさらば」
百駄に近い荷駄と、源太左衛門のすがたは、峠をこえて、西へ去った。
三平は、見送って、
「山国はやはり山国。世の情勢が伝わることもどうしても遅い。兵馬は強くても、大将はお偉くても、これは何割の損かわからない」
彼は、自分の任務の重いことを一《ひと》しお感じた。
岩燕《いわつばめ》のように、麓まで駈け降りた。
鰍沢《かじかざわ》の町で、また馬を求め、それからは一鞭《ひとむち》で、甲府へはいった。
盆地の甲府はむし暑い。
信玄の居城、躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の館《たち》は、常になくきびしく固められていた。
よほどな大問題か、軍議の折でもなければ、平常めったに通らない顔が、ぞくぞくと城門へはいったので、
「何事かあるな? ――」を、門の士卒でも予感していた。
戦国のいま、事があるといえば戦《いくさ》ときまっているようなものである。それかあらぬか、今朝から城内へ通った人々では、一族の孫六《まごろく》入道逍遥軒《にゆうどうしようようけん》をはじめ、穴山梅雪《あなやまばいせつ》、仁科信盛《にしなのぶもり》、山県三郎兵衛|昌景《まさかげ》、内藤|修理昌豊《しゆりまさとよ》、小幡信定《おばたのぶさだ》、小山田備中守などの譜代などがあった。
「御軍議だろうか」
「いうまでもない」
「出軍とすれば、どこへであろう」
「さあ、どこへだか」
「川中島か、善光寺|平《だいら》の西か」
「上杉家とは、和議が成っておるはずだが」
「わかるものか。和睦と開戦は、天気のようなもので、急に風雨になった、こんな約束ではないといっても、その時はもう人間のせいにはならない。天を嘆いてみても始まらない」
城門の士卒たちには、そんな臆測《おくそく》を交わし合ってみるしか、明日のことは分らなかった。
城の奥は、若葉のみどりにつつまれて、時折、初蝉《はつせみ》の声がするほか、寂《じやく》としている。しかもなお今朝から登城した諸将で退《さが》って来るものは一名もなかった。
そこへ。甘糟《あまかす》三平は駈けついた。
濠《ほり》の外で、馬をすて、その馬の手綱をつかんで、駈け足で橋をわたって来た。
「何者だッ」
と、鉄扉《てつぴ》の横から番兵の眼と槍が光る。三平は、馬を柳にくくって、
「それがしだ」
左右の兵に、自分の顔を示し、すたすたと城内へはいって行った。彼の顔は、通り手形である。何の某《なにがし》と詳しく知らぬ者はあっても、その顔と役目を知らぬ兵はなかった。
躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の城館《しろたち》のうちに一宇《いちう》の伽藍《がらん》がある。毘沙門堂《びしやもんどう》といって、信玄入道の禅室でもあり、政務所でもあり、時には軍議の場所ともなった。
信玄は、今そこの廻廊に立っていた。庭の泉石から室を吹きとおしてくる風に、彼のからだは緋牡丹《ひぼたん》の花が炎のように揺れた。彼は、具足のうえに、大僧正《だいそうじよう》の緋衣《ひい》を着ていた。
ことし五十一歳。
かた肥りに肉の緊《しま》ったからだをしている。背は並である。どこか異相にはちがいないが、彼に謁《えつ》したことのない者がよく、どんな怖ろしいお方かなどというが、そんな近づき難いひとではない。むしろ温容のほうであろう。――ただ見るからに重厚な風をそなえ、眉といい手脚といい、多毛質で不屈な面《つら》がまえではあるが、これは山国甲斐の人の共通な特色で、ひとり信玄に著《いちじる》しいわけではない。
「ではお暇を」
「退《さが》らせて戴きます」
伽藍《がらん》のうちから次々に席を立って退出してゆく人々は、階《かい》を降りて、もういっぺん廻廊にある彼のすがたへ、挨拶してゆくか、黙礼をして散って行った。
朝からの軍議だった。――軍議といえば、彼は具足を下に着、緋衣《ひい》をうえに纏《まと》って、陣中にあるとおりな装いをしていた。
さすがにきょうの暑さと長座にはややつかれたものとみえ、今しがたそれが終ると、一同から退出の会釈をうけて、すぐ廻廊の外に立ち出ていたのである。
小幡、内藤、山県《やまがた》などの譜代《ふだい》をはじめ、逍遥軒《しようようけん》孫六、伊奈四郎|勝頼《かつより》、武田|上野介《こうずけのすけ》などいう一族にいたるまで、およそきょうの軍議に列した者は、踵《くびす》をついで帰って行った。――それがみな云い合わせたように、どこか沈重な眉と、決意をもった唇と、倉皇《そうこう》と先をいそぐ足どりをして行った。
人は去って、人気《ひとけ》ない毘沙門堂《びしやもんどう》は、風に光る金壁と、しずかな蝉《せみ》の声《こえ》だけになった。
「……ことしの夏は?」
信玄は、この国を繞《めぐ》る山々の影を、遠く見まわすような眼をした。
十六歳の海野平《うんのだいら》の初陣から、彼の想い出ふかい経歴は、ほとんどみな、夏から秋にわたることが多かった。
冬となれば、引籠って、内に力を養っておくしかない山国である。自然、生理的にも、春が来、夏ともなれば、
――さあ、出て戦え。
と、おのずから満身の血は、限られた区域から外へ向って逸《はや》り止まないのであった。
それもひとり信玄ばかりでなく、甲斐武士には共通な心理であった。町家や農田の人々まで、勃然《ぼつぜん》と、
――時こそ来れ。
という太陽を夏には感じるのであった。
殊に、信玄自身は。
ことし五十を一つこえて、痛切に或る悔いと、生涯に期する焦躁《あせり》を抱いていた。
「……余りにも、戦《いくさ》のための戦ばかりやりすぎて来た」
と、いうことである。
「今にして、越後の謙信も、そう覚《さと》っておることだろうに」
と、多年の好敵手を考えれば、敵のためにも、同様な苦笑を禁じ得ない。
しかしこの苦笑は、五十一にもなってみると、深刻に胸を蝕《く》う。これから何年を生きられるか、当然、人間の天寿というものをいつも考えるからである。
一年のうち、三分の一は雪に閉じられる国である。田も生産もその間は遅れ、文化には遠く、新しい武器なども入手するに困難な領土にありながら、人間のもっとも精力的な中年期のほとんどを、可惜《あたら》、越後の謙信と、十幾年も戦いつぶしてしまった。
「思えば。……今にして思えば、この信玄を、ひとは老巧というが、むしろ岐阜の信長や三河の家康などに、まんまと、欺《あざむ》かれていたにひとしい。あの小国の若輩《じやくはい》どもに」
陽は強く若葉の陰は濃い。そのせいか、彼の面《おもて》にも、彫《ほ》ったような悔いがあらわれていた。
信玄は、多年、
(関東第一の兵家)
をもってみずから任じて来た。
士馬精鋭と、その特有な国内の経済政策などは、天下のひとも認めているところである。
――にも関《かか》わらず、いつのまにか、甲斐は天下の大勢から圏外《けんがい》におかれかかっている。
信長が、いちど京都に出て、その存在をにわかに大きくし始めた去年あたりから、信玄自身も、
「甲州の位置は」
と、あらためて眼界から自身を見直し、そして愕然《がくぜん》と、気づいたのであった。
武田家は今も、関東第一の兵家にはちがいない。
しかし、天下の重鎮《じゆうちん》ではない。
経済力も、精鋭な士馬も、ひるがえって視《み》ると、中心のうごきや天下の大勢とは、甚だ遠い感があった。――余りに小さく規格されすぎた武田家の経済施政、武田家の士馬精鋭でありすぎた。
さればといって。
彼ほどな大腹中が、甲斐近国の伐《き》り奪《と》りを、生涯の理想にしていたのでは決してない。
彼にも中原《ちゆうげん》の志は、早くからあったのである。信長や家康が洟《はな》をたらしていた頃から、すでに次の時代に野心をかけ、
(この山国は仮《かり》住居《ずまい》)
と、京の使臣にも洩らしたことがある程だし、越後との長期にわたる合戦も、実に、それへ発足するための一部戦として端《たん》を開いたものだった。
ところが、川中島その他、あらかたは、対謙信との戦いで、国力の消費と、貴重な年月を、過してしまった。
年齢の五十が、信玄に、大きな警告を与えたことはいうまでもない。――が、そう覚《さと》った時すでに武田家の位置は、信玄がつねに、
尾張の小せがれ、とか。
岡崎の童《わつぱ》、とか。
眼の中にもなかった信長や家康よりも、時代の大勢からは、はるかに、縁遠いところにおかれている自身を見出したのである。
「あれも謀《はか》られたようなもの。……これも今思えば、大失策」
悔いはかぎりもない。戦《いくさ》にかけてだけは、彼は悔いを知らなかったが、外交的にふりかえる時、われながら、
「まずかった」
と、思うことが幾つかあった。
今川家滅亡の時、なぜ東南へ出なかったか。また、家康から質子《ちし》をとって、なぜ彼が駿遠《すんえん》へ領土をひろげてくるのを黙視していたか。
それよりも大きな過誤《かご》は、信長から歓心を迎えられて、彼と姻戚《いんせき》をむすんだことである。
ために信長は、やすやすと西隣、南隣の国々と戦って、一気に、中原へ足をかけてしまった。家康の質子《ちし》はまた、機を窺《うかが》って逃げてしまい、信長と家康が、その緊密な同盟のもとに謀《はか》り合ってしたものという外交的効果が、今では余りにも明らかにされていた。
「――が、いつまでその策《て》はくわぬ。姻戚以外、甲斐に武田信玄あることを、思い知らせてやらねばならぬ。家康の質子は出奔した。これ、家康から義を絶つもの。もう何の仮借《かしやく》を要そう」
きょうの軍議で、彼はそう宣言したのであった。
折ふし信長は、長嶋へ出陣して、苦戦のもようと聞えたので、機逸すべからずとなし、にわかにこの動議となったものであることは、機を見るに敏な兵家のこと、いうまでもないことである。
甘糟《あまかす》三平は、側衆《そばしゆう》まで取次ぎを申し出て、控えで湯など飲んでいたが、いつまでも沙汰がないので、
「てまえが帰着のこと、お耳へとどいたであろうか。もう一度、御催促ねがいたいが」
と、再度の取次ぎを仰いだ。
側衆からの返辞は、
「今しがた、御評議が終ったのみで、ややおつかれの体《てい》にお見うけされるゆえ、もうしばらく相待つように」
とのことだった。三平はかさねて、
「その御評議なればこそ、てまえの用向きも、よけい火急を要しますわけで。恐れながら即刻」
と、請求《せいきゆう》した。
すると、側衆から信玄へ達したとみえて、すぐ通れとのことだった。毘沙門堂《びしやもんどう》へ行く中門まで表の武士が附いて来る。そこから奥の武士へ引き継がれて、彼は、信玄の身近へ歩いて行った。
「三平か」
信玄は、毘沙門堂の縁に、床几《しようぎ》をおかせて腰かけていた。幹の大きな若楓《わかかえで》が、そのすがたに燦々《さんさん》と日光の斑《ふ》をそよがせていた。
「――余事は措《お》きまして、取りいそぎ、急の御報告までを申しあげまする」
「ウム。うむ。……余事などは措《お》け。何事が起ったか」
「さきに、早馬をもって、伊勢からお知らせ申した儀は、情勢、まったく一変いたしましたゆえ、万一のおうごきもどうかと、自分、夜を日についで、駈け参りました」
「なに。長嶋の様子が一変したと? ……。それはいかなるわけじゃ」
「一時はほとんど岐阜表を空《から》にして、総がかりに長嶋へ攻めかかるやに見えましたところ――信長が長嶋の戦場に着いたかと思うと、即日、総引揚げを命じ、かなりな犠牲をも払いながら、潮《うしお》のごとく、ひっ返してしまいました」
「ええ、引揚げた……とか?」
「織田の麾下《きか》さえ、意外であったらしく、味方と味方のあいだにすら、信長の意中が解《げ》せぬと、すくなからず狼狽の者もありましたが」
「……喰えぬやつ哉《かな》!」
信玄は舌をならして、しばしは唇《くち》を噛んでいたが、
「織田が、長嶋から手を引いては、虚をついて、この信玄が、三遠の平野に家康をよび出して討《う》ち懲《こ》らそうとしたのも画餅《がべい》となった。――危うし危うし」
つぶやいて、急に、
「信房《のぶふさ》、信房」
と、あわてて堂房《どうぼう》の一間へ向って呼びたてた。そして、きょうの軍議によって決定した出陣のことはにわかに取り止めるという旨を、すぐ家中へ沙汰せよといいつけた。
老臣の馬場信房《ばばのぶふさ》さえ、その理由を問う間もなかった。まして、つい今しがた、ここを退出したばかりの諸将は、
「はて、今を措《お》いては、徳川家を切りくずす好機はあるまいに」
と、思いまどった。
だが、その機会を逸したと知ると、信玄は釈然《しやくぜん》として、もうそれにこだわ[#「こだわ」に傍点]ってなどいなかった。はやくも次の対策と、次の機を得るもののように、物の具を解いてから、あらためて三平を禅房の一間に召し入れ、人を払って、詳細に岐阜《ぎふ》、伊勢、岡崎、浜松あたりの情勢を聞きとっていた。
その後で、こんどは三平のほうから、ひとつの不審を、信玄にただした。
「夥《おびただ》しい漆《うるし》の輸送を、途中で見かけ申しましたが、織田徳川は一体の国。なんで織田家へ、漆などをお送りになられますので?」
「約束は約束。……それにまた織田のこころも鈍ろうし、あの荷駄が、先に徳川領を通ってゆけば、徳川家でも油断しておろうにと。――さように奇略を試みたのじゃが、それもむだ[#「むだ」に傍点]となった。いや、むだ[#「むだ」に傍点]でもない。時は、明日にもまた来ようも知れぬ」
彼は、自嘲《じちよう》をもらして、どこか淋しげに意中を語った。
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雁《かり》と燕《つばめ》
甲軍の精鋭は、一時、出動見あわせとなって、むなしく夏を送ったが、秋九月というと、ふたたび西山東岳のあなたに、
(機会は、今!)
と、世の物音が聞えだした。
信玄の耳は、秋風ならぬ時代の跫音《あしおと》にそばだッ[#「そばだッ」に傍点]て来た。
その中を、彼は一日、笛吹川のほとりへ駒をたてていた。従者もわずかで、気がるに秋の日を浴びてゆくすがたは、自身の領下の完全な治政を、みずから誇っているかのようであった。
乾徳山《けんとくざん》
と、山門の額《がく》に見える。
信玄の帰依《きえ》している快川国師《かいせんこくし》が住む恵林寺《えりんじ》であった。
あらかじめ通じてあったものとみえ、迎えをうけて、信玄は庭園に通った。ほんの立ち寄るという程度で、わざと伽藍《がらん》にははいらなかったのである。
そこに、わずか二間《ふたま》の茶屋がある。小さい水屋が附いているのみで、青苔《あおごけ》の匂うばかりふかい泉石に、銀杏《いちよう》の黄色な落葉が、筧《かけひ》の下に溜《たま》っていた。
「和尚《わじよう》。きょうは当分のおわかれに参った」
信玄のことばに、快川《かいせん》はうなずいた。
「いよいよ、御決心かの」
「されば、機の到るを、ずいぶん根気よく待ち申したゆえ、この秋こそは、どうやら信玄にも、やや時運がひらけて来たようにぞんずる」
「この九月にはいって、織田の衆は、またも大挙して西へうごき、叡山を掃滅《そうめつ》するとて、去年にもました大軍を催しておるそうな」
「そこでおざる。待てば日和《ひより》。――かねて京都の将軍家からも、この信玄へ、しきりと御内書を通《かわ》されて、織田のうしろを衝《つ》かば、浅井、朝倉も同時に立つ、叡山、長嶋もともども手伝う、三河の家康ごときは一蹴《いつしゆう》して、はやはや京地まで上洛あれと――御催促も再三ではなかったが、いかようとも岐阜が難所――今川義元が二の舞はしたくないので、機を計っておざったが、その岐阜の手薄に乗じて、雷発一迅《らいはついちじん》、三遠尾濃の諸州を一走りに、都までのぼりゆく心底でおざる。――さればことしの年越しは洛中にあって、正月も都で迎えることになろうとぞんずる。和尚《わじよう》にも、御健固《ごけんご》におすごしあるよう……」
「左様かの……」
快川《かいせん》は、浮かない返辞だった。
兵事、政事、何事も和尚にただして、ふかく信頼している信玄は、その顔いろを観《み》るに敏《さと》かった。
「和尚には、信玄の思慮に、なんぞ危惧《きぐ》をお抱きであろうか」
「……いや」
快川は、面《おもて》をあげて、
「あなたの生涯の御大志じゃ、何で不同意なはずはない。……じゃが、おもしろうないのは、将軍|義昭《よしあき》の小策である。頻りとあなたへ催促して来たような内書を、あなたのみならず、越後の謙信へもさし向けていると聞く。また、この夏六月、死去されたが、中国の毛利|元就《もとなり》へも、同様、出兵をうながしておったらしい」
「その辺のこと、信玄も知らぬではございません。胸中の大策を天下に布《し》くには、なんといっても、上洛せねば行われません」
「可惜《あたら》、あなた程の人物を、甲斐の盆地に埋もれ果てさせてよいとは、わしとしても思いきれぬ。ゆくゆく御難儀は多かろうと思うが、御旗楯無《みはたたてなし》のすすむところ、敗れた例《ため》しのないあなたの麾下《きか》だ。ただおからだのみは御自身のものだから、天寿に仕えて素直にお持ちあるように。――それ以外、お餞別《はなむけ》のことばとておざらぬ。お大事にお出ましあれ」
その時。
茶を煮《に》るため、奥の清泉を汲《く》みに行った一僧が突然、手桶を抛《なげう》って、何か大声をあげながら、木の間を駈けだしていた。
鹿の駛《はし》るような物音が寺園の奥に響いた。その跫音を追いまわしていた一僧は、やがて息を喘《あえ》ぎながら茶屋の庭面《にわも》へ駈けて来て、
「はやくお手配下さいませ、怪しい者をただ今、とり逃がしました」
と、告げた。
この寺内に、怪しげな者などいるわけはないが――と、快川がたずねると、その一寺僧は、こう云い足した。
「まだ和尚《わじよう》のお耳には入れてございませんでしたが、実はその者は……昨夜おそく門をたたいて、わたくしどもの房へ泊めておいた旅僧でございます。――それも時節がら[#「がら」に傍点]見知らぬ僧なれば、もちろん泊めもいたしませんが、顔を見ると、以前、お館《やかた》の乱波組《らつぱぐみ》におりまして、御家中の方々と、寺へもよく来たことのある渡辺天蔵どのなので、仔細はあるまいと、同房の衆とも計らって、一泊をゆるしましたところ」
「待て、待て。……それはなお不審《ふしん》ではないか。もう数年も前に、織田方のさぐりに行って消息も絶え果てていた乱波組の者が、ふいに夜中、しかも僧形《そうぎよう》して、門を叩いて一泊を乞うなど。……なぜよく糺《ただ》してみなかったのじゃ」
「その儀は、何とも、手ぬかりでございました。――が、彼のいうには、織田家の領に入りこんで、探りを働いておるうち、甲州の諜者と露顕《ろけん》して、獄に投げこまれ、幾年かを牢中で送っていたところ、幸いに、よい折があって、一命をひろい、姿を変えて帰って来たと、真《まこと》しやかに申すのでございました。――そして明日は、甲府に出て、組頭の甘糟三平《あまかすさんぺい》どのをお訪ねするつもりなどとも云いますので、すっかり真《ま》にうけておりましたところ、今し方、てまえが水屋から手桶をさげて出ると、お茶屋の北窓の下に、その天蔵めが、やもり[#「やもり」に傍点]のように貼《は》りついて、立ち聞きいたしておるではございませんか」
「なに。……ここでの、お館《やかた》とのおはなしを、物蔭でぬすみ聞きしておったとか」
「はい。――跫音に、てまえの方を振り向くと、さすがに愕《おどろ》いた態《てい》で、すたすたと庭の奥へ歩いて行きますゆえ、これ、天蔵どの、これ待たんかと、声をかけましたが、まるで耳もない顔して、そそくさと、足を早め出しました。――で、わたくしが突然、曲者《くせもの》ッ、と一声どなりますと、恐ろしい眼を振り向けて睨みつけました」
「もう逃《に》げ失《う》せたか」
「大声で、呼ばわりましたが、お供方は、ご中食中《ちゆうじきちゆう》、どなたも出合わず、残念ながら、私の手にはおえぬ相手でございましたため――」
信玄は、その僧へ、見向きも与えず、さっきから黙然と横耳で聞いていたが、快川《かいせん》の眼《まな》ざしに会うと、
「供の中に、甘糟三平を召し連れおります。彼に、追わせましょう。これへお呼び下さらぬか」
と、静かに云った。
和尚《わじよう》から旨をうけて、寺僧はすぐ山門のほうへ走って行った。やがて三平は、茶屋庭に平伏して、何事かと床上《しようじよう》の信玄を仰いだ。
「そちの組下に、数年前、渡辺天蔵という者がおったであろうが」
信玄にきかれて、三平はすこし考えていたが、
「思い出しました。尾州《びしゆう》蜂須賀《はちすか》村の生れで、叔父の小六が堺鍛冶《さかいかじ》に作らせたとかいう新しい鉄砲を持って御領地へ逃げこんで来、それをお館へ献じた功に依って、数年、お扶持《ふち》を下しおかれた者ではございませんか」
「その鉄砲のことで、信玄も覚えておるのだが、尾張者はやはり尾張者、今では、織田家の側に従《つ》いて働いておるらしい。そちが追いかけて、首にして来い」
「追いかけてとは?」
「仔細は、そこにおる寺僧に聞いて行け。早速に追わねばとり逃がすぞ」
三平は、畏《かしこ》まってそこを退《さが》り、やがて恵林寺《えりんじ》の門前から一頭の駒を解いて、どこへともなく鞭《むち》を打って行った。
韮崎《にらさき》から西へ、駒《こま》ケ岳《たけ》や仙丈《せんじよう》などの裾《すそ》を縫《ぬ》って、伊那の高遠《たかとお》へ越えて行く山道がある。
「おおウーいッ」
と、この山間にめずらしく人間の声がした。ひとりの旅僧はふと立ちどまって振り向いたが、それきり谺《こだま》もしないので、また峠路《とうげじ》を先へいそいでいた。
「オオーイ、旅の御坊」
二度目の声はなお近くした。それに御坊とよぶ声も明らかだったので、僧は笠に手をかけて、ややしばし佇《たたず》んでいた。程なく、喘《あえ》ぎ登って来た男は、近づくとまず、皮肉な一笑を相手に投げて、
「めずらしいのう、渡辺天蔵。いつ甲州へ来ておったか」
と、いった。
旅僧はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした容子《ようす》であったが、すぐ平静に立ちかえると、クツクツと笠のうちで、髪切虫のような笑い声をもらした。
「ほう。誰かと思ったら、甘糟三平どのだったか。いや、お久しぶりでござる。――いつもお達者で」
皮肉へ返すに、皮肉をもってした。お互いに敵地へはいって味方のために機密を探るのを職分とする者同士である。これくらいな図太さと沈着がなければ勤まるものではない――と、教えているような態度である。
「御挨拶だな」
と、三平も至って洒然《しやぜん》としたものであった。自国の中に敵国の密偵を見出したからといって、にわかに物々しく立ち騒ぐなどは、平常、注意のない常人のことで、泥棒の眼でみれば、世間に昼間も泥棒はあるいているので、あながち驚異するにもあたらないことだった。
「おとといの晩、恵林寺へ泊って、きのう同所で、快川|和尚《わじよう》とお館の密談を盗み聞きして、寺僧に見つけられ、それから一目散にお立ち退きだったな。……そうだろう天蔵」
「そのとおり。貴公もあそこへ来ておったのか」
「生憎《あいにく》とな」
「知らなかった。それだけは」
「おぬしに取っては不運だ」
「そうかしらて」――と、天蔵は、ひと事のように空《そら》うそぶいて、
「武田の間諜、甘糟三平は、まだ伊勢境か岐阜あたりで、織田家の虚《きよ》を嗅《か》ぎあるいていると思っていたが……いつのまに帰国したか。さすがは三平、お迅《はや》いことだ、賞《ほ》めておこう」
「むだ[#「むだ」に傍点]な追従《ついしよう》、いくら賞めても、おれの眼にとまったからには、生かして帰すわけにはゆかん。――この国境を生きてもどる気か」
「まだ自分には死ぬ気など少しもない。……だが、そういえば三平、おぬしの顔にも死相がただよっておるぞ。まさか、死にたくて俺を追いかけて来たわけでもあるまいが」
「主命によって、首をもらいに来た。申しうけるからそう思え」
「たれの首を」
「その首をだ!」
三平が太刀を引き抜くと、渡辺天蔵もぱッと杖を向けて身構えた。杖の先と刀の先とは、かなりな距離をおいてである。だが、凝然《ぎようぜん》と長い睨《ね》め合《あ》いがつづくうちに、どっちの呼吸もあらくなって、さながら死に瀕してゆくような蒼白が二人の面《おもて》にみなぎって来た。
すると、なに思ったか、三平は刀を引いて、
「天蔵。杖をひけ」
と、いった。
「怯《ひる》んだか」
「いや、怯みはせぬが、お互いに同じ職分ではないか。役目の上で死ぬのはよいが、斬り合って相討ちしてもつまらん。……どうだ、その着ている法衣《ころも》を脱ぎ捨ててゆかぬか。さすればそれを持ち帰って、討取ったと披露しておくが」
乱波《らつぱ》の者――と、呼ばれている、いわゆる戦国の密偵仲間は、ほかの武士にはない特殊な信念を持っていた。それは職分の相違から自然に持たれてきた生命観のちがいであった。
――君の馬前で死ぬ。また、主君のためにはいのちを鴻毛《こうもう》より軽んじる。しかも華やかに潔《いさぎよ》く。
それがふつうの武士の信条だったが、乱波《らつぱ》の者の考えは反対だった。
いのちは惜しめ。どんな恥や苦痛をしのんでも、いのちは持って帰れ。
たとえ敵国へはいって、どんな貴重な情報をさぐり得ても、生きて本領へ帰って来なかったら何の益にもならない。だから乱波者が敵国において死ぬのは、それがどんなに華々しい死に方でも、犬死である。たとえ、その者一個人には武士道らしくあっても、帰するところ、主君のためには無益な死であり、犬死である。
故に、乱波者は、生きて犬侍と呼ばれても、生き通して、必ずその任を完《まつと》うしなければいけない。窮地となっても、意地|穢《きた》なく、小心|狡智《こうち》、あらゆる非武士的な行為にみずから辱《は》じても、飽くまで生きて帰るところへ帰ることをもって、乱波組に働く者の本旨とする。
――そういう特殊な職分の中にあって、骨《ほね》の髄《ずい》まで信念にしている三平、天蔵の二人であった。で、いま一方の甘糟《あまかす》三平が、
(お互いに同じ職分。ここで相討ちしてもつまらないではないか)
と、刃《やいば》をひいて、相手の理性に訴えると、天蔵も直ちに得物を引いて、
「もとよりこっちも好むことではないが、首を賭けようというから相手をしたまでのこと。この法衣《ころも》の端ですむと申すなら置いて行こう」
と、あっさり身にまとっている法衣《ころも》の片袖を破って、三平の足下へ抛《ほう》り出した。
三平は、拾い取って、
「これでいい。これを証《しるし》に持ち帰って渡辺天蔵は討ったりと披露しておかばすもう。名だたる敵の侍なら知らず、多寡《たか》が乱波《らつぱ》の者ひとり、首を御実見なさろうとは仰っしゃるまい」
「そう話がわかれば、双方の祝着《しゆうちやく》、では甘糟三平どの、お別れとしよう。……いずれまたと申したいが、会えば最後、もう生涯二度と会わないようにお互いに祈ろう」
云い捨てると、渡辺天蔵のほうも、急に相手が恐くなって来たとみえ、生命《いのち》びろいでもしたように、足を迅《はや》めて立ち去った。
その姿が峠の降り坂へかかった頃だった。三平は、その前に、草むらへ隠しておいた鉄砲と火縄を持ち直して、天蔵のあとを追いかけていた。
やがて、鉄砲の音がした。――つづいて鉄砲を投げすてて、倒れた敵へ止刀《とどめ》を刺しにゆく彼のすがたが跳ぶ鹿のように彼方《かなた》の坂に見えた。
杣道《そまみち》の草むらに、渡辺天蔵は仰向けに倒れていた。――が、三平が踏み跨《また》がって、その胸いたへ、刃の先を向けたせつな、天蔵はふいに起って、敵の諸足《もろあし》へ両手で抱きついて行った。
「――あッ」
三平は仰向けに倒れる。天蔵の石あたま[#「あたま」に傍点]は、いや[#「いや」に傍点]というほど、その鳩尾《みずおち》へ打《ぶ》つかッて逆立《さかだ》ちする。
「ざまを見やがれ」
蜂須賀村の産、野武士小六の甥《おい》――である天蔵の野性は遺憾《いかん》なく発揮された。相手の喉《のど》をしめつけて、狼のように立ちあがると、傍らの石を両手に振り上げて、三平の面部にたたきつけた。
ぐしゃッ[#「ぐしゃッ」に傍点]と、柘榴《ざくろ》の割れるような音がした。天蔵の影は、もうその傍にいなかった。
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権《ごん》 化《げ》
信長が長嶋《ながしま》から引きあげた後も、横山城の藤吉郎は、江州《ごうしゆう》の各地を転戦していた。
始末の悪い一揆《いつき》の火である。
ここを消せば、かしこに燃えあがり、そこと馳せ向えば、後方がまた再燃している。
あの信長でさえ、自身、長嶋征伐に赴《おもむ》いて、現地の実情を知ると、直ちに兵を引っ返して、
(――これを攻めるのは愚だ。火事の火元をつきとめずに、火事の映っている遠い壁や塀に水をそそいでいるようなもの――)
と、嘆じて、以来、各地の一揆に対して、いちいち虱《しらみ》つぶしに出る戦法はやめてしまった。
で、藤吉郎の方へも同様な指令が来た。藤吉郎は、信長のこころを察して、
「さすがは御賢慮《ごけんりよ》あったとみえる。このひと夏は、悠々、昼寝でもしておれとの仰せだろう」
忽ち、横山城へ馳せもどって、将士をねぎらい、夏を江北の山城にすずしげに送っていた。
が、武人の休養は、戦場より苦しいと兵などはいう。毎日、鍛錬《たんれん》は怠らない。その休養のあいだが約百日ほどつづいた。
九月にはいると、
「出陣!」
の令が下って、山城の門はひらかれた。横山を降りて、湖岸に出るまで、兵たちはどこへ戦いに行くのか知らなかった。
湖畔には大船が、三|艘《そう》もついていた。馬も人もどかどかとそれに乗ってから、士卒たちは初めて、
「石山か。叡山《えいざん》か」
と、こんどの戦場の方角を知ったくらいであった。
兵船はすべて新造の木の香を放っていた。ことしの正月以来、丹羽長秀《にわながひで》が奉行となって、孜々《しし》と造船していたものである。
大湖の秋を渡って、対岸の坂本についてみると、すでに信長以下の――佐々《さつさ》、柴田、佐久間、明智、丹羽などの諸大将はさきに寄せていた。叡山のふもとは眼のとどく限り、織田軍の旗だった。
「いつのまに?」
と、味方ですら眼をみはったほど迅速な行動だったのである。去年の冬、ここの囲みを解いて、岐阜《ぎふ》へ引きあげた時から丹羽五郎左衛門に命じて、いつ何時《なんどき》でも湖を押し渡れる大船の準備を命じておいた信長の遠謀を、今になって、人々は思いあわせるのであった。
思い出されることといえば、長嶋の攻撃を中止して帰った折の信長のことばも胸に呼び起された。――信長の眼から諸処の一揆《いつき》や騒乱の火をながめる時、その地方地方の火の手はみな壁に映っている火事であって、禍根《かこん》の火もとはまさにここ叡山のうえにあり――と、見さだめたものに違いない。
今日、ふたたび大挙して、この山を取りまいた信長の眉には、実に、かつてのいかなる時にも見られなかった、決意と勇猛な気がただよっていた。
そのせいか今、中軍の幕《とばり》のうちには、彼のいつにない激越な声が営外へまで聞えていた。さながら敵の中で叱咤するような声で、
「なに、攻め上るに、火を放っては、山上の伽藍《がらん》を焼くおそれがあるから、火計《かけい》は用いたくないと申すのかッ。……ば、ばかなことを。戦《いくさ》とはどんなものか、なんのためにするか。そちたち、各※[#二の字点、unicode303b]一方の将たりながら、まだそれすら弁《わきま》えずに、今日まで戦って来たかッ」
と、洩れ聞えてくる。
内を窺《うかが》うと。
その信長の床几《しようぎ》を繞《めぐ》って、佐久間右衛門、武井|夕菴《せきあん》、明智十兵衛などの驍将《ぎようしよう》が、頭《ず》を垂れて居ならんでいた。――ちょうど、親たちが息子に意見されてでもいるように。
いかに主君とはいえ余りな極言である。――佐久間信盛も武井夕菴も、また十兵衛光秀も、そう思って恨めしげに面《おもて》をあげた。
「…………」
そして信長のひとみを、敢えて正視した。
なんのための戦いか。それを思えばこそ、憂えればこそ、面《おもて》を冒《おか》して、自分たちは、諫《いさ》めに出たものである。
「情けないことを御意あそばします。われわれとても、それくらいなことは、弁《わきま》えぬではございませぬ。……が、数百年このかた、国家鎮護の霊域《れいいき》とあがめられている叡山を焼き払えなどという乱暴な御命令には、臣として――いや臣なればこそです――なおもって、仰せに従うわけにはまいりません」
信盛《のぶもり》はもう決死の気を眉にも見せていた。すぐにも、従容《しようよう》と死を受けとる覚悟でなければ、今の信長の顔を見て、これだけのことはいえないはずであった。
常日頃でも、この君には、なかなか直言のし難いところがあるのに、きょうのその人は、さながら斬魔《ざんま》の剣か、狂う烈火か――と、疑われるような姿に仰がれる。
果たして。
「だまれッ、だまれッ」
信長は、彼のことばにつづいて、夕菴《せきあん》や光秀が、つづいて自分へ口を開こうとしたので、頭からそれを抑えつけて云った。
「そちたちは、常に諸国の僧徒が、教化《きようげ》の道を誤って、衆民を煽動《せんどう》し、財をあつめては武器を蓄《たくわ》え、門を出ては流言《るげん》を放ち、いたずらに政道を紛糾《ふんきゆう》させ、宗門末派を利用しては私権をむすぶなど――手におえぬ醜状《しゆうじよう》や、また蜂起《ほうき》する一揆《いつき》をながめて、日頃、何と憤慨していたか」
「それは、眼にあまるものでございます。われらとても、その悪弊をお懲《こ》らしあるに、なんの異存を抱くものでもございませぬ。けれど、諸人の信仰をあつめ、特殊な権能をゆるされておる教団の改革は、そう一朝にはまいりかねましょう」
「そんなことは誰もいう常識というものだ。八百年来、その常識がさまたげて来たればこそ、夙《つと》に、山門の腐敗堕落は嘆かれながら――何人もそれを革《あらた》めることができずに今日へ来てしまったのだ。――畏れ多くも、白河法皇の御ことばにさえ――朕《ちん》の心のままにならぬものは、双六《すごろく》の賽《さい》と賀茂川の水――とある。山法師どもが、日吉の御輿《みこし》を奉じて来る時は、朝廷の御威厳すら、光もなかったと史書にも見える。源平の騒乱に、またその後の乱世、この山が、どこに国家の鎮護たるつとめをして来たか。衆民の心に安心と力を与えて来たか」
信長は、突然、右の手を、いっぱいに横へ振った。
「――今の世の通りだ。数百年来どんな国家の大患《たいかん》という時でも、彼らは、自分たちの特権を汲々《きゆうきゆう》と守ることしか知らぬ。愚民から献じさせた財をもって、城廓のような石垣や山門を築き、内に銃槍を蓄えて――しかも、日ごろの行状に至っては、荒淫腥食《こういんせいしよく》、心ある人間には、できないような生活も平然とやっておる。法燈修学の頽廃《たいはい》など、いうもおろか、破戒乱行の末世と申すも過言でない。――左様なものを焼き払うのになんの惜しみがあろうぞ。色をなして諫《いさ》めだてするそちたちの心がむしろ信長には解《げ》せぬ。止めるな、信長は断じてやる」
「仰せは、いちいち御尤もですが、われわれ三名も、断じて、お止めいたします。死すとも、この座は起ちませぬ」
信盛、夕菴《せきあん》、光秀の三人は、同時にまた両手をついて、あたかも諫言《かんげん》の砦《とりで》のように主君の前をうごかなかった。
叡山は天台《てんだい》、石山は門徒《もんと》、宗派はちがうが、仏徒であることに変りはない。
その仏徒の団結は、教義のうえでは、他宗とよび合っているが、信長に対抗することだけには、完全に一致し、完全に同じ性格をあらわしている。
浅井、朝倉と通じたり、将軍家を利用したり、各地の残党に利便を与えたり、越後や甲州へまで密使を送ったり――また信長の領土を中心として、気ままな野火のように、一揆を蜂起させて、信長を奔命につからせてしまおうと謀《はか》ったり――すべては霊山の大堂に住む僧形《そうぎよう》の策や指命であった。
この特殊な世界――不可抗力とされている、法城の清掃を措《お》いて――織田軍の行動はなし得ないし、信長の理想の行えないことは、三人の臣も、充分に知っていた。
だが、信長がここへ着陣してからの命令というのは、
(――全山を取り詰め、山王二十一社を初め奉り、山上の中堂も、坊舎堂塔《ぼうしやどうとう》、すべての伽藍《がらん》も経巻《きようかん》も霊仏も、ことごとく焼き払え)
と、いう余りにも過激なもので、しかもその焼討ちにかかったら、
(有智無智《うちむち》の僧たるを問わず、貴僧と堂衆のけじめ[#「けじめ」に傍点]なく、僧形たれば一人ものがすな。児童、美女とて仮借《かしやく》するな。俗体といえ、この山にかくれ、火を見ておどり出る者は今日までの害物と見てさしつかえない。みなごろしとして址《あと》を人気《ひとけ》もなき焼け山としてしまえ)
と、いうのである。
羅刹《らせつ》といえどそんなことのできるものではない。命に接した諸将は実に戦慄したのだった。
(気でも狂わせられたか――)
と、武井|夕菴《せきあん》がつぶやいたのを聞いて、佐久間信盛も、明智光秀も――そのほかの将にもなお多くの反対者はいたが――ともあれ三名だけが君前に出て、御意見をしよう。――われわれが御意にさからって割腹したら、次々に罷《まか》り出て君公の前に死骸をつみあげても、無謀極まる焼討ちなどをおさせしてはならないぞ――と、そう誓って、直言に出た三人であった。
攻めるもよい。
叡山《えいざん》を占領するも当然である。
が、焼討ちだの、そんな殺戮《さつりく》をする必要がどこにあろう。
そんな暴挙を敢えてしたら、せっかくの人心は、信長を離れてしまおう。
天下にみちている反信長の陣営では、よろこんで、それをあらゆる機会に悪用し宣布《せんぷ》するにちがいない。
古来、何百年、何人《なんぴと》も恐れてうけなかった悪名をこうむるのみである。
(――君をあやまる左様な戦《いくさ》にわたくしどもは戦えません)
それが諸将を代表しての三名のことばであった。
もちろんそれを告げるには、臣下として、声涙ともに下るばかりな真心を披瀝《ひれき》してであったが――信長の肚はぐわん[#「ぐわん」に傍点]と決まっていて、さっきから三名の縷々《るる》数百言にも、
(もいちど考えてみよう)
と、いう容子《ようす》も見えなかった。
いや、むしろ彼の強固な意志を一そう打ちかためてしまったような傾きさえあった。
「…………」
「……退れ。もういわん。もう聞く要もない。そち達が、命をうけぬとあれば、他へ命じる。他の将士も従わねば、信長一人をもってもやる。やらねばならないのだ」
「この山一つ、攻めとるのに、何で仰せのよう暴虐《ぼうぎやく》をする要がありましょうか。むしろ血も見ずに陥《おと》すのが、まことの大将、まことの軍《いくさ》とぞんじますが」
「利巧そうな常識のみをならべるな。八百年来の大藪《おおやぶ》だ。根こそぎ焼き払わねば、新しい若草の芽は萌《も》え出でぬ。……この山一つとそち達はいうが、信長は、叡山ひとつの処置に逆上しておるのではない。この全山を焼き払うことは、諸山の仏閣を救うことであり、この一山の僧俗をみなごろしとするも、諸国の不心得者が眼をさませば、未然に、それだけの助けはするわけだ。――眼前の阿鼻|叫喚《きようかん》など、信長の眼にも耳にも、何ものでもない。この信長ならで、誰がこれをなしきろう。天は今日信長をこの土に生ませて、やれとお命じになっておるのだ」
信長の英才や経略、すべて彼の偉大さは、誰よりも知っているつもりの三名にも、いま彼自身、
(――この信長ならで、誰が、これをやりきろうぞ)
と、いったのには、これはもうただ事でない、天魔にでも魅入られたかと、悲しまずにいられなかった。
信盛につづいて、武井夕菴《たけいせきあん》も、主君の床几《しようぎ》の間近へ身をかがめて、
「いや、なんと仰せありましょうとも、われわれどもは、臣として、御諫止《ごかんし》いたすしかございません。――勿体なくも、桓武天皇このかた、伝教《でんぎよう》以来の霊跡《れいせき》を、灰燼《かいじん》にしてしまえの、また……」
「うるさいッ。――黙らぬか。――信長は、この心に、桓武天皇の勅を奉じて焼き払うのだ。――胸に、伝教大師の大慈大悲をもって殺戮《さつりく》の命を汝らに下すのだ。わからぬか」
「わかりません」
「わからねば去りおろうッ。邪《さまた》げするな」
「お手討ちあるまでは、御諫言を申しつづけまする」
「亡者めッ。立て」
「何で立ちましょうや。生きてわが殿の狂気沙汰を見、君家の滅亡に会うよりは、死をもってお邪《さまた》げ仕《つかまつ》ります。――古来、入道清盛《にゆうどうきよもり》をはじめ、幾多の例をみても、仏舎霊閣《ぶつしやれいかく》を業火《ごうか》として、僧徒を殺戮《さつりく》した者に、よい終りをとげた者はありません」
「清盛のは私の怒気だ。彼一門の擁護にすぎぬ。――信長はちがう。そんな儚《はかな》い痴人《ちじん》の夢を、この地上に描くため、夥《おびただ》しい血と兵燹《へいせん》を弄《もてあそ》ぶものではない。――信長は信長のために戦《いくさ》はせぬ。わしの戦は、わしをして旧弊のあらゆる邪魔ものを破壊させ、また、わしをして生々たる新しい世を打建てよと命じる――神か、民か、時か――何かは知らぬが、うけたる使命によって戦うのみだ。そちたちは気が小さい、眼がせまい。そちたちの嘆《なげ》きは、小人のかなしみだ。そち達の説く利害は、信長一個を出ておらぬ。叡山のごときを、灰としようが、無辺の国土と、かぎりない衆民を擁してゆく世々の末までを思えば、何ほどのことがあろう」
「御理想はそうありましょうとも、これが民心に映るものは、悪鬼の所業と見えましょう。得《え》て、小愛の仁は、衆民によろこばれますが、余りな苛烈《かれつ》や峻厳《しゆんげん》は、うけ容れられません。たとえそれが、わが殿の大愛から出たものでありましょうとも」
「右を顧《み》、左を眄《み》して、今この時、なにができようぞ。――古来の英雄どももみな、一時の人心を恐れて、禍根《かこん》を末代にのこして来たが、信長はその根をぬいてみせる。やるからには、徹《てつ》してやる。さもなくば今日、弓矢をとって中原《ちゆうげん》に出る意義はない」
怒濤《どとう》にも、間断がある。
信長の声もすこし穏やかに返って来た。三名の臣が、ほとんどそれに抗弁する辞《ことば》もつきて、首を垂れてしまったからであろうも知れぬ。
――藤吉郎は、折ふし、その日の午《ひる》ごろ、湖を渡ってここに着いたが、着陣のあいさつのため、中軍に来てみると、この有様なので、さっきから外に佇《たたず》んでいたが、その陣幕の割れ目から顔を出して、
「よろしゅうござるか。木下藤吉郎ですが……はいってもよろしいでござろうか」
と、中へたずねた。
ふと、ふり向いた。
そこに藤吉郎の顔を見出すと、さながら炎そのものの形相《ぎようそう》だった信長も、氷の如く張りつめて、死を決していた三名も、
「……お。お」
救われたように、ほっと眉を和《なご》ませた。
「ただ今、船が着きました。――湖上の秋は、また格別、竹生島《ちくぶしま》など、はや紅葉《もみじ》しておりました。何やら、戦場へ向うようなここちもせず、船中で下手《へた》な歌など作ってまいりましたが……いずれ戦《いくさ》の終ったあとで御披露に及びましょう」
そこへはいって来ると、藤吉郎は、ひとりで好きなことを喋舌《しやべ》り出した。彼の顔には、どこをさがしても、ここにいる主従のような険《けん》もないし、また屈託《くつたく》らしいものさえなかった。
「……どうなされたのです?」
なお、凝然《ぎようぜん》たるまま、ものもいわない君臣を見くらべながら、彼のみは独り春風のように、
「――ははあ、ただ今、陣幕の外で聞いていましたが、そのことで御沈黙でござるか。臣下は、君を思うの余り、死を決して、諫言《かんげん》し、御主君には、臣下の衷情《ちゆうじよう》を知るも、斬りすてても、思うことをなさろうとするほどな暴君でもおわさぬために。……なるほど、困ったものですな。これは、いずれを是《ぜ》、いずれを非《ひ》ともいえぬし」
信長は、きっと、向きをかえて、
「藤吉郎」
「はッ」
「よい折に見えた。あらましを聞いていたとあれば、余が胸中も、三名の申すところも、分っておろう」
「分っております」
「そちは、信長の命《めい》を、うくるかどうか。信長の命を非と思うか」
「思いませぬ。つつしんでおうけいたしまする。――いや、お待ちください。その御命令の本旨は、元々この藤吉郎が、書をもって、殿のお手許へ献策いたしたことで、殿の御決断は、それがしのおすすめに依るものでござりましょう」
「な、なにを。……いつそちが左様な献策を」
「いや、そうです。お忘れかも存じませぬが、すでにもうこの春頃でしたかな。――あいや明智殿、武井、佐久間の御両所にも、先ほどからの御忠諫《ごちゆうかん》、うるわしき臣道の真心、藤吉郎も蔭にあって、涙をもよおしましたが……しかし、各※[#二の字点、unicode303b]の第一にお案じあるところも要するに、叡山を焼討ちになどいたしたら、世の人心が君公から離反するにちがいない、故に君公のおんためには、死をもっても、お諫《いさ》めせねばならぬという御決心でござろうが」
「もとよりのこと。仰せのごとき暴をなせば、上下《しようか》の怨嗟《えんさ》をうけ、諸方の敵方に乗ぜられ、末代、殿の悪名は拭《ぬぐ》うべくもおざるまい」
「いや、そこが、ちと違いましょう。……叡山へお手入れのうえは、断じて、徹するまでやるべしとは、この藤吉郎が献策で、実は殿の御発意《ごほつい》ではござらぬ。さすれば、いかなる悪名《あくみよう》も呪詛《じゆそ》も、藤吉郎が負うべきで――また自身、そう決意いたしておりますので」
「僭越《せんえつ》でおざろう。何で一木下ごときを、世人がとがめよう。織田軍として行うたことは、すべて殿の御名《おんな》に帰してくる」
「もちろんです。――が、各※[#二の字点、unicode303b]もなぜ藤吉郎に御加勢くださらぬか。あなた方三将と藤吉郎とが、殿の御命令以上、騎虎《きこ》の勢いで徹底的に――つい、やり過ぎたのだと――世間に触れたらよいわけではござらぬか。忠の大なるものは、諫言《かんげん》して死処に迫らざるにあり――とかいいますが、藤吉郎にいわせれば、忠諫して死んでもなお、真の忠臣には忠義がし足りないであろうと思われる。――むしろ生きて、悪名《あくみよう》、罵詈《ばり》、迫害、失脚、何でも殿に代って、身にひきうけんと藤吉郎は所存いたすが……各※[#二の字点、unicode303b]にはまた、お考えがちがいましょうか」
うなずきもせず、否定もせず、信長はだまって聞いていた。
するとやがて、武井|夕菴《せきあん》がまず云った。
「木下。お身のことばに同意いたす。……わしは同意いたすが?」
彼が顧みると、明智、佐久間のふたりも、異存のない旨を、共にちかった。
――信長の命令を命令以上、勝手に超えて行動したものとして、徹底的に叡山焼討ちの挙に出ようというものである。
それなら信長の決心もつらぬけるし、死をもって忠諫に出た三名の臣道もとどこうという藤吉郎の提案である。
「名策である」
夕菴は、嘆声に似た声で、こう彼の機智を賞《ほ》めたたえたが、信長はすこしも歓ばない顔していた。むしろ、よけいな斟酌《しんしやく》など要らぬことである――と、いわぬばかりだった。
それに似た色が、ちらと光秀の面《おもて》にも見えた。
光秀も、心のうちでは、正直に、藤吉郎の説に感じていたが、何か自分たちの真実をもってした忠諫まで、彼の一言に、その功を奪われてしまったような嫉《そね》みが、胸のどこかで滲《にじ》み出していたのだった。
けれど聡明な彼はすぐ、この際のそんな私心をみずから恥じた。そして、
(死をもって君を忠諫しに出た身が、かりそめにも、何たる浅ましい考えを)
と、ふかく内省して、みずから誡《いまし》めていた。
三名の得心はそれでついたが、信長はいっかな[#「いっかな」に傍点]藤吉郎のことばなどを、恃《たの》みともしないふうだし、それによって初志をうごかす気色《けしき》もない。
――誰を呼べ。彼を呼べ。
と、続々と口をついで諸部隊の将校を床几《しようぎ》の前に呼び、
「今夕、本陣の貝を合図に、いっせいに山へ攻めかかれ」
と、さきに三名に下した厳命と同じ令をもって、自身から伝えた。
諸将のうちに、武井、明智、佐久間の三将と共に、焼討ち反対のものも多くいたらしいが、すでにその三人も、命に服しているので、みな二言もなく領受して去った。
陣地の遠い部隊へは、中軍の使番が、伝令をおびて駒をとばした――伝令はその以後も、次々に前線の山麓《さんろく》へ放たれた。後からのそれは、作戦行動の指令であった。四明《しめい》ケ嶽《だけ》のうしろに、夕雲の燦爛《さんらん》をとどめて、陽は落ちかけていた。――湖上にも虹のような光芒《こうぼう》が大きく走って、水面は波騒《なみざい》を起こしていた。
「……見よ」
信長は丘に立って、叡山の上を――さらにその上の団々たる雲を仰いで――あたりの者にいった。
「天意も、信長の意思を、励ましたもうている。――風がつよくなって来た。焼討ちをかけるには上乗な空あい[#「あい」に傍点]であるぞ」
そういう間にも、颯々《さつさつ》と、秋の夕風の冷やかに、そして次第に烈しく、人々の陣羽織をふいて来た。
ほんの五、六名しか、彼のまわりにはいなかったが、その時、夕風を孕《はら》んでふくらんでいる彼方《かなた》の陣幕の辺に、ひとりの味方が、誰か探しているように覗《のぞ》きまわっていた。
武井|夕菴《せきあん》が、大声で、
「何用だッ。殿には、これにお立ち遊ばしておられる」
と、注意すると、その武士は駈け寄って、遠くへひざまずき、
「いや、殿へのお伝えではございませぬ。木下殿がおられましょうか」
と、いった。
藤吉郎が、人影の中から進んで、何用かとたずねると、取次の武士は、
「ただ今、御家中の渡辺天蔵と仰せられる僧形《そうぎよう》の者が、甲州の旅より立ち帰って来たばかりとかで、すぐお眼にかかりたいと、丘の下に待っておりまする。――何か、火急を要する大事とかで、しきりと急いでおりますが、まだ御帰陣には間がございまするか」
と、彼の都合をたずねた。
やや離れていたが、信長はふと聞きとがめて、彼を振り向いた。
「藤吉郎。甲州から立ち帰って来た者とは、そちの家中の者か」
「殿にも御存じかとぞんじますが、蜂須賀彦右衛門の甥《おい》、渡辺天蔵のことでございます」
「……むむ、あの天蔵か。さてはなにか耳新しいことが聞けよう。ここへ呼べ、信長も共に聞こう」
丘の下へ、一武者が取次に駈けてゆくと、やがてひとりの旅僧が伴《ともな》われて来た。それが天蔵であった。
天蔵は、そこへ来て、主人の藤吉郎と信長へ、甲州の見聞をつぶさに告げた。そのなかでも重要な事柄は、彼が恵林寺《えりんじ》にしのんで直接、耳ぶくろに入れて来た甲軍の出兵に関する機密だった。
「……ふーム」
信長はうめいた。こうしていても背後の不安はもちろんある。去年の叡山攻めの時からくらべて、その危険と不安は、すこしも良好になってはいない。むしろ、武田家との関係も、長嶋方面の状態も、悪くなっている。
ただ、去年の陣には、叡山のうえに、浅井、朝倉の大軍がのぼって協力していたが、こんどはその遑《いとま》を敵に与えなかったので、当面の勢力はさして厖大《ぼうだい》ではない。ただ背後の危険が常にあるのみである。
「叡山へも、はやこのことは、武田家から早打ちされておるであろう。……坊主どもは、またしても、信長がいそいで軍を返すものと楽観しておるにちがいない」
彼は、天蔵の労をねぎらって、丘の下へ退《さが》らせた。
「これも天の御加勢だの」
藤吉郎や夕菴《せきあん》をかえりみて、信長は会心《かいしん》の笑みをうかべた。
「甲山をこえて、尾濃へ迫る武田勢が早いか、叡山を粉砕して京、摂津《せつつ》を席巻して還る織田勢が早いか、われらに、競《きそ》いと励みを与え、なお必死の信念を加えてくれるようなもの。……各※[#二の字点、unicode303b]もはや部署につけ。夕星《ゆうずつ》が見えはじめたぞ」
信長は陣幕のうちにかくれた。――丘のうえ、丘の下。また叡山の裾をめぐる諸処の陣所に、兵糧を炊《かし》ぐ煙があがっていた。
夜に入ると、風はなお烈しくなった。常に聞く三井寺の鐘も鳴らなかった。――が、やがていんいんとして中軍の丘に貝が鳴る。諸処の陣所からは鬨《とき》の声があがった。
その晩から九月の十三日の暁にかけての大修羅《だいしゆら》であった。
中腹、山上にかけて、十数ヵ所の嶮《けん》に防寨《ぼうさい》をかまえていた山徒の守りを突破して、全山を翔《か》けまわった織田軍の兵は、火を放って、烈風に喊声《かんせい》を嗄《か》らした。
黒煙は谷をうずめ、火焔は満山に狂い、ふもとから仰ぐと、大きな火の柱が、叡山の各所からあがっていた。
湖まで赤かった。
その巨大な火の柱の位置から察しると、根本中堂も焼けている、山王七社も焼けている。また、山上の大講堂から、鐘楼《しようろう》、法蔵、諸院の坊舎、宝塔、高塔、峰々谷々の末院坊舎にいたるまで、残された伽藍《がらん》というものは一つもなかった。
(――心に桓武天皇の勅を奉じ、胸に開山伝教大師のゆるしをうけて我は焼くのだ!)
そら恐ろしいばかりな炎を仰ぐたびに、諸将は、信長のいったことばを、胸によび起して、自分を励ました。
将の信念は、兵にのりうつる。炎をこぐり、黒煙のなかを駈けて、寄手の兵は、信長の信念をそのまま遂行した。
八千の僧はみなごろしにされた。阿鼻叫喚《あびきようかん》は谺《こだま》した。谷間へ這い下り、洞《あな》にかくれ、木へ逃げ登りなどした山徒も、稲の害虫をころすように狩りつくされた。
自分の大英断と、部下の大猛烈と、ふたつの合致からここに現出された未曾有《みぞう》な光景を、その夜、夜半頃には、信長も自身、山上へのぼって来て、まざまざと眼に見ていた。
叡山側は、誤算していた。
かれらはその夕方まで、信長の大軍をふもとに見ても、
「物々しき虚勢ではある」
と、多寡《たか》をくくっていた。
そしてまた、
「いまに慌《あわ》てふためいて、総勢、退軍しはじめるから、そこを追い討ちすればよい」
と、晏如《あんじよ》としていた。
そういう心理にはどうしてなったかといえば、山から遠くない京都から、かれらを安心させるような情報が頻々《ひんぴん》と、山徒の本陣へ来ていたからであった。
京都といえば、いうまでもなく、そこにいる将軍|義昭《よしあき》の府のことである。叡山は諸国の僧侶や信徒にとって、もっとも顕著な反信長の本山であるが、その叡山に、裏から兵糧を送り、武器を与え、間断なく、煽動と督戦《とくせん》に努めているものは、義昭そのものであった。
その将軍家の府には、もう逸《いち》はやく、甲州から早打ちが来ていて、
(――信玄うごく!)
という大きな期待を抱き、その意向が、叡山にも伝わっているので、山徒も当然、
「今に、甲州の軍勢が、信長の背後を衝く。――さすれば信長は、またぞろ[#「ぞろ」に傍点]、長嶋の二の舞だろう」
と、観察をくだして、ひたすら一面の雲ゆきばかり空恃《そらだの》みにしていたわけだった。
それと、もう一つは。
かれらが八百年来安住して来た特権の下に、いまもなお、時代の変遷《へんせん》を見くびっていた錯誤《さくご》も大きい。かれら自身が、自身で法《のり》の霊場を世間以上に俗化したり、国家からうけた特別な待遇を腐敗させたり、また世人の魂の燈《ひ》を踏み消してしまいながら――なお金色の大日如来《だいにちによらい》の像《かたち》だけにすがって、この特権と信仰の塁《とりで》に対しては、どんな猛勇な兵も、そうやすやす、駈けあがって来ることはできまい――宝塔|伽藍《がらん》を蹂躪《じゆうりん》するまでのことはなし得まい――と、そう充分に恃《たの》んでいたふうもあった。
ところが。
信長の果断は、まったくかれらの想像外に出て来た。全山の焼討ちと、僧俗すべての大殺戮《だいさつりく》が無言の答えとして敢行された。この世ながらの地獄が半夜のうちに|天※[#「風+炎」、unicode98b7]《てんぴよう》のごとく全山をつつんだ。
それに対して。
遅いにも程があるが、猛火のさかんな真夜半《まよなか》頃となって、恐怖と狼狽の底に捲《ま》き堕《おと》された叡山の代表者は、信長の陣へ使いをたてて、
「いかなる莫大な償金なりともさし出しまする。また、いかなる条件にもきっと服しますれば」
と、和議をいって来たが、信長は一笑を見せただけで、
「答えには及ばん。その僧どもも斬りすてろ」
と、鷹へ投餌《なげえ》をやるように、左右の者へ云い放った。
僧徒の使いは、二度も来た。二度目の使いは、信長のすがたを拝んで、
「……お慈悲に」
と、まで叫びながら合掌したが、信長は、
「ならん!」
首を振った。
そして即座にまた、使いの僧を斬らせてしまった。
夜が明けた。
叡山は、余煙と、灰と、黒い枯木と、峰谷々まで、さまざまな断末のすがたをした死骸で埋《うず》まっていた。
「――このなかには、一世の碩学《せきがく》も、大智識も、未来ある若僧もいたろうに」
ゆうべ殺戮の先鋒となった明智光秀も、今朝は余煙のなかに立って、面《おもて》をおおい、胸のいたみを覚えた。
その光秀は、その日、
「志賀一郡はそちにあずける。以後、ふもとの坂本城に住め」
と、いう信長の恩命に接した。
信長は、一日|措《お》くとすぐ山を降って、京都へはいった。
その日もまだ叡山は黒煙をあげていた。おとといからの余焔である。
かれの大虐殺の手をのがれて、京都へかくれこんだ僧俗もかなりあるらしい。その者たちの口から信長の名は、
「生ける魔王」
だとか、
「地獄の使者」
だとか、また、
「暴戻《ぼうれい》な破壊者」
だのと、極端な恐怖の象徴に擬《ぎ》せられ伝わっていた。
眼に、比叡《ひえい》や四明《しめい》の大紅蓮《だいぐれん》を見、耳に当夜の惨状を聞かされていた京洛《きようらく》の人々は、信長が兵をひいて下山して来ると聞くと、
「こんどは京都か」
と、震えあがって、
「室町将軍の館《やかた》は焼討ちをまぬがれまいぞ」
などと、昼ながら戸を閉めたり、荷をからげて逃げ支度する者も多かった。
しかし信長の兵は、加茂川べりに屯《たむろ》して、市街に入るを禁じられた。
禁じた者は、それを統率しているおとといの魔王である。
かれは少数な部将だけをつれて一寺院にはいった。そこで甲冑《かつちゆう》をぬぎ、湯漬を喰べ終ると、これはまた優雅《みやび》な衣冠にすっかり着かえて出て来た。
駒も派手な鞍をおいた月毛に乗り換え、わずかな部将だけは甲冑のままであったが、それらの十四、五名を従えて、ゆるやかに大路を通って行った。
魔王のすがたは余りにも平和であった。かれの面や眼ざしはその日、わけても市民たちをニコやかに見まわしているふうだった。
「何事もないらしいが?」
市民たちは辻々にあふれ出て、信長を拝した。ほっとした安心がもりあがる歓呼となって、わあッというどよめき[#「どよめき」に傍点]の波になった。
するとその歓呼の辻から、ふいに一発の鉄砲が鳴りとどろいた。弾丸《たま》は信長の身をかすめたが、信長はけろり[#「けろり」に傍点]としたのみで、音のした方を振り向いただけだった。
当然――
まわりにいた部将たちは、馬をとび降りて、曲者《くせもの》を捕えにどっと駈けたが、かれらよりは、市民たちのほうが勃然《ぼつぜん》と一致して、
「ばか者を捕えろ」
と、怒った。
市民は自分たちの味方だと考えていた曲者は、案に相違したので逃げ場をうしない、忽ち抑えられてしまった。山門第一の勇僧といわれていた法師で、捕まってもまだ、
「仏敵め、魔王め」
と、信長を罵《ののし》っていた。
信長は、眼のなかにチリがはいったような顔もしていない。予定どおりかれは道をすすんで、やがて皇居に近づくと下馬した。
神泉で手をきよめ、しずかに御所の門前へあゆみ寄って、そこに坐った。
「一昨夜来の猛火、さだめし内裏《だいり》におかれても、お愕《おどろ》きのことと拝しまする。御宸襟《ごしんきん》をなやまし奉りました罪、おゆるしおかれますように」
胸のうちでそう詫び入っているかのように、かれは長く拝跪《はいき》していたが、やがて御所の新しい門や墻《かき》をながめあげて、
「皇居の御普請《ごふしん》も、あらまし竣工《しゆんこう》したな」
と、満足そうに、左右の諸将を顧みた。
起って、御門脇に整列し、古式のとおり奏文《そうもん》の伝奏を仰いで、しずかにまた、引っ返して来た。
家業を離るる者大罪たり
蜚語流言《ひごりゆうげん》を放つもの即死罪《そくしざい》
総じてきのうの如くあるべし
[#地付き]信 長 代 官
法三章、市中各所にそれを立てさせると、信長は岐阜《ぎふ》へひきあげた。――ひと頃は生きたそらもなく、濠《ほり》を深め、鉄砲を持ちこみ、焼討ちを覚悟していた将軍|義昭《よしあき》には、とうとう会わずに帰ってしまった。ほっとはしたが、室町御所では、無気味にかれを見送っていた。
[#改ページ]
時々刻々《じじこつこく》
兵燹《へいせん》のけむりは叡山《えいざん》だけに濃かったのではない。
三河の西部地方から、天龍川に沿う諸部落、また美濃の一端までも、野火の飛火のように、けむりが挙《あが》っていた。
甲州の連峰をこえて、武田信玄の精鋭は、南へなだれ降りて来たのである。
「すわ! 足長《あしなが》の信玄めが」
浜松を本拠とする徳川家康の部下たちは、まなじり[#「まなじり」に傍点]をあげて、それに立ちむかった。
かれらの意気は、信玄の上洛をくいとめるにある。
「西へ通すな」
と、するのである。
それは同盟国の織田家のためにではない。甲州と三遠とは、宿命的に隣接している。武田勢に突きやぶられたら、徳川家の存立はあり得ないからである。
その家康は、ことし三十の男ざかりである。その家中の三河武士は、貧乏と体面と、あらゆる困苦欠乏をここ二十年来もしのんで来た者どもである。ようやく成人した主君をいただいて、信長と隣交をむすぶ一方、今川家の領をすこしずつ蚕食《さんしよく》して、
「これからだ!」
と、老臣も若い臣も、その家族たちも、百姓町人も、草も木も、立ちあがって奮《ふる》い立っているというような、興隆の希望と進出の勇気にみちみちている領土なのである。
「信玄何者ぞ」
であった。――その装備、物資においては、もとより彼には及ばない若い国であったが、意気においては、すこしも劣る気はもっていない。
その三河武士が、信玄をさして「足長《あしなが》、足長」とあだ[#「あだ」に傍点]名しているのは、どういうわけかというと、かつて信長から主人に来た書状のなかに、そういう警句《けいく》が書いてあったのを、家康が見て、
「うまいことをいわれるものだ」
と、家中へはなしたのが伝わったのであった。
きのう北国の上杉勢をむかえて甲信の境に戦っているかと思えば、きょうは上州や相州に出て北条家をおびやかし、また忽ち転じては、三州遠州美濃までも兵火を放って駸々《しんしん》とやってくる。しかもその陣にはかならず信玄自身が指揮にあたっていた。だから世間はかれには七人の影武者がいるなどといっているが、事実は、どこの戦いにも自分で臨まなければ気のすまない信玄であるらしかった。とにかくそういうふうに山国にいながら足が長い――そこを信長が諧謔《かいぎやく》したのである。
けれど、信玄が足長なら、信長は足早といえよう。
信長は、叡山へかかる前に、使いを送って家康に、
「いま甲州の鋭鋒へは余りむき[#「むき」に傍点]になって相手になられぬがよい。事迫る場合は、浜松から岡崎へ退《ひ》いても、堅忍持久《けんにんじきゆう》されておられるように望む。――時は他日に待つとも遅くはなかろうから」
と、わざわざ云い遣《や》ったが、家康は、その使者のまえで、近臣を顧みながら、
「この城を退《ひ》くほどなら、弓矢をふみ折って、武門を捨てたほうがまし[#「まし」に傍点]である」
と、いった。
信長にとれば、家康は国防の一線だったが、家康にとっては、絶対的な三河であり遠州であった。ここの土を措《お》いて他国に骨を埋《うず》める地はないのである。
信長は、使いの返事をうけて、
「困った逸《はや》り者《もの》」
と、つぶやいたが、そのためか、叡山の事が終ると、例の足早で、疾風のごとく、岐阜《ぎふ》へ帰っていた。
その早さには、信玄もまた舌打ちをもらしたろう。さすがに彼も機を見ることは敏であるから、
「また時もある」
と、甲山の彼方《かなた》へ旗をひそめてしまった。
こういう険悪な空あいのうちに年は暮れて、元亀《げんき》三年の春は迎えられた。
その春。
熱田《あつた》神宮では、本殿そのほか、大修理の工事にかかっていた。
応仁の乱このかた、めずらしい鑿《のみ》の音だった。
地方民も豪族も、長いあいだの不安と暗黒に漂って来て、各※[#二の字点、unicode303b]が自分たちの営《いとな》みにだけ追われていたかたちだった。
荒れきった神宮の森に、この春、鑿の音を聞くと、かれらは、耳をそばだてて、
「どなた様の御寄進であろう。さても御奇特な」
と、にわかにそこの勿体《もつたい》なさに眼をみはった。
「――年の暮、熱田の祠官《しかん》岡部又右衛門どのを岐阜へお召しになって、信長様が、私財をもって、お命じなされたものだそうな」
こう実相が伝わると、
「あの、信長様がか?」
と、諸人はまた意外な思いに打たれた。
叡山の堂塔伽藍《どうとうがらん》から坊舎楼門《ぼうしやろうもん》のすべてと山王七社までを一夜に焼き払ったという信長が――と、信長のこころを、どう解していいかわからないような顔をしたものである。
だが近頃、街道を往来する旅人のうわさなどから、上方や諸国の評を聞くと、
「――叡山を焼いたのは、叡山自身じゃとみないうている。神仏は焼こうとて焼けるものではないぐらいなことは、信長様も知らぬはずはないさ」
と、いう者が多かった。
いや、むしろ彼は人いちばいな敬神家でさえある。熱田の修築が実証している。また、仏教に対しても、憎悪をもっているわけはない。若年の頃、自分を忠諫して死んだ一老臣のために、政秀寺《せいしゆうじ》を建立《こんりゆう》して供養《くよう》しているではないか。
また毎年。
一月の元旦といえば、衣冠《いかん》をただして、遠く皇居を拝し、次に、祖先の廟《びよう》にぬかずいて、父母のみたまに一年の報告をすることを例としているというはなしもある。
桶狭間《おけはざま》へ出陣の明け方、
――人間五十年、化転《けてん》のうちをくらぶれば。
と、舞い唄ったあの唄のこころというものは、明らかに、仏教から来ている生命観である。それをあの場合あの人がうたっているからこそ、武士道になっているが、その源泉には、濁《にご》らない仏教の精神もせせらいで流れているといってよかろう。
こんなふうに、つぶさに彼の心にはいって、彼を批評する者もあった。
いずれにしろ、近頃、世相のうえに、非常に濃くあらわれて来た現象は、
信長びいき[#「びいき」に傍点]と。
信長ぎらい[#「ぎらい」に傍点]と。
こう二者の分れ方であった。
叡山焼討ちという曠世《こうせい》の大猛断をやったことが、その是々非々、ふたつに分れて、暴風のような批判を天下にまき起した結果であることはいうまでもない。
「きらい」のほうでは依然、かれを悪魔視して、いよいよ反感をつのらせたが、「ひいき」側の一部では、はやくも、
「天下はやがてあのお方に」
と、予想するものもあらわれて来たりした。
いやたとえ信長を敵とするものでも、具眼の大将は、彼のやり口を見て、いよいよ恐るべきものと観《み》て来たにちがいない。
信玄などは明らかに、
「一日おくれれば一年の難事となる」
と、上洛《じようらく》という多年の宿望に対して、いまは一日も急ぐ気もちになっていた。
ために、あらゆる外交策が内々、急がれていた。
北条家との修交は、それによって功を奏したが、上杉家とは、依然、交渉がはかばかしくない。
ぜひなく彼は、その年の十月を待って、甲府を発した。――甲越のさかいは早、雪にさまたげられて来るから、謙信へ対する憂いは、まず大丈夫と見てである。
総軍約三万は――かれの領する甲斐《かい》、信濃《しなの》、駿河《するが》、遠州の北部、三河東部、上野《こうずけ》の西部、飛騨《ひだ》の一部、越中の南にまでわたる、およそ百三十万石の地から徴《ちよう》せられた将兵であった。
「守るに如《し》くはない」
「織田どのの援軍がいたるまでは」
一面、浜松城のうちには、こういう守勢論もあった。
徳川家の兵力は、その全土のものをあげても、一万四千に足りないのである。
武田方の半分だ。むりもなかったが、若い家康は、
「なんの。――織田どのの援軍などは待つほどのこともない」
と、出軍を令した。
家臣はみな、この際、当然な義務として――過ぐる姉川の役に徳川家が助力した義理からでも――織田から大兵の来援があるものと期待していた。
その空気に対して、家康は努めて、あて[#「あて」に傍点]にしない顔をしていた。今こそ、危急存亡の時であることを覚悟させると共に、真に恃《たの》むものは自力以外にないことを悟らせようとした。
「――退《ひ》くも滅亡、進むも滅亡ならば、突きすすんで、乾坤一擲《けんこんいつてき》のなかから、もののふの名と、死に華《ばな》を、両手につかみ取って死のうではないか」
と、かれは家臣たちへ静かにいうのである。
この君は幼少から実にみじめな苦労にもまれながら、こせ[#「こせ」に傍点]つかず才走らず、どことなくぬう[#「ぬう」に傍点]と成人されている。
いま、こんな際になって、浜松の城中はかなえ[#「かなえ」に傍点]の沸《わ》くような殺気だが、そこに坐って、しかも誰よりも烈しい主戦論を口にしながら、その語気はほとんど平常と変りがなかった。
だから家臣のうちには、
「あんなお気色《けしき》で」
と、そのことばと内容の差をあやぶむ者すらあった。
けれど家康は、櫛《くし》の歯をひくような物見の者の報告を、いちいちうけとりながら、着々と出陣の用意をすすめていた。
その間にも。
敗報はもう頻りであった。
信玄の大軍は、すでに遠州を冒《おか》して来たという。只来《ただき》、飯田の二城は、敵へ降伏を余儀なくされたとある。
袋井、掛川、木原地方の村落は、一として甲州勢に踏みしかれない所はない。――わけても、味方から偵察に行った本多、大久保、内藤の三千ばかりの先鋒が、天龍川附近の一言坂《ひとことざか》で武田勢に発見され、全滅に近い打撃を与えられて、池田村から浜松へ潰走《かいそう》して来たという報告のはいった時には――城中みな色をうしなって動揺した。
だが家康は、黙々と軍事を見ている。交通路の確保にはもっとも注意し、十月の末近くまでに、その方面の守備をととのえ、また天龍川の二俣城《ふたまたじよう》の抑えに、援軍と軍器食糧などを増派しておいて、
「いざ、立たん」
と、浜松城を出た。
そして、天龍川の岸、神増村《かんましむら》まで軍をすすめたが、甲州二万七千余の大軍が、各部に整粛な陣をはり、その陣地陣地が、信玄の中軍から車軸と車の歯のように、完全に統一されているのをながめて、
「ああ、さすがは」
と、家康も、丘に立って、しばらく拱手《きようしゆ》したまま、嘆称していたということである。
信玄の中軍には、はるかから眺めても、四語の旗が立っていた。近づけば、その文字も鮮やかに読めよう。敵も味方も知る有名な孫子《そんし》の語がかいてあった。
其疾《そのはやきこと》如風《かぜのごとし》
其徐《そのしずかなること》如林《はやしのごとし》
侵掠《おかしさるや》如火《ひのごとし》
不動《うごかざること》如山《やまのごとし》
うごかざること山のごとし――その文字のとおりに、幾日かを、信玄もうごかず、家康もうごかず、天龍川を挟んで対陣したまま冬も十一月にかかっていた。
[#改ページ]
三方《みかた》ケ原《はら》
家康に過ぎたるものが
ふたつあり
唐《から》の頭《かしら》に本多《ほんだ》平八。
占領した一言坂《ひとことざか》のうえに、誰かがこんな落首を立てた。
勿論、武田方の中の者である。
陣地を捨てて敗走はしたが、負けぶりがいい――とは、後で勝ち誇った武田軍の衆評だった。
大久保|忠世《ただよ》、内藤|信成《のぶなり》などの武者ぶりもよかったが、とりわけ本多平八郎の退《ひ》きは見事――徳川家にもさむらいはいるぞと、歌ったのであろう。
「敵として、不足のない敵。このたびの合戦こそは、全甲州の実力と、全徳川の実力とが、真正面にぶつかって、のるかそるかの乾坤一擲《けんこんいつてき》となるだろう」
ひとりでに身ぶるいの出るような張合いが、甲軍全体の士気をいやが上にも高くしていた。
こういう余裕をもって。
信玄はその本陣を江台島《えだいしま》にうつし、一方、伊奈《いな》四郎勝頼、穴山梅雪《あなやまばいせつ》などの一手を、二俣城《ふたまたじよう》へ向けて、
「手間どるな」
と、厳命した。
それに対して、家康は、
「味方には、大事な防禦《ぼうぎよ》の線。敵が奪《と》れば、攻め入るに有利な一|拠地《きよち》。――守将、中根正照を苦戦におちいらすな」
と、すぐ援軍を送り、自身も後詰に向って、督戦《とくせん》していたが、変幻極まりない武田軍の陣容は、たちまち変貌《へんぼう》して、左右に迫り、へた[#「へた」に傍点]をすれば、うしろ巻きしている家康自身の陣地が、浜松と遮断《しやだん》されそうな形になった。
しかも、その間に。
城は水の手の動脈を断《た》たれてしまった。
二俣城のもっとも痛い弱点を、敵の詭計《きけい》に突かれたのだ。この城の一方が天龍川に臨んでいるので、飲料その他、城兵の生命とする水は、城壁の一端から懸出《かけだ》してある井楼《せいろう》に車をかけ、井戸水を汲むように川から上げていたものである。
それへ向って、武田方は、上流から筏《いかだ》をぶつけ、櫓《やぐら》の脚を破壊する策に出た。
奇策は成功した。城兵はその日から水に困った。視野のかぎり流れる大河を前に、炊《かし》ぎの水にも困りだした。
十二月十九日の夜。
守将以下の城兵のすべては、力尽きて、闇のなかを退却して行った。
開城を知ると、信玄は、
「依田信守《よだのぶもり》、そこにおれ。そして佐野、豊田、磐田《いわた》の諸郡と、よく連絡をたもち、敵の掛川、浜松方面の退路に備えよ」
と、いいつけた。
かれの布陣とその前進とは、名人の碁《ご》の一石一石を見るように慎重であった。
こうして着々と、まっ黒に、地を這う雲かのような甲軍二万七千余の兵は、押太鼓《おしだいこ》を天地にとどろかせながら、祝田《いわいだ》、刑部《おさかべ》、引佐川《いなさがわ》と迫って来た。
――そこから。
信玄の中軍は、井伊谷《いいだに》をこえ、三河の東部へ出ようとしていた。
二十一日の昼である。
鼻も耳も削《そ》がれるばかり寒い。弱い冬陽をかすめて、三方《みかた》ケ原《はら》の方面に、赤い土ほこりが舞っている。久しく雨がなかったので、空気は乾ききっている。
「井伊谷へ。井伊谷へ」
と、中軍の使番が、各部隊に信玄の令をつたえると、諸将のうちから異論がおこった。
「井伊谷へとあらば、浜松城をお取り囲みの御決意と思われるが、それで違算はあるまいか?」
人々が、そう危ぶんだのは、織田の援軍が、もう続々と、浜松へ着いたし、なお後続中のその兵量は、どれほどか分らないものであるという諜報を――その日の朝からチラチラ耳にしていたからだった。
敵の真相というものは、敵に迫れば迫るほど、分らなくなってくる。
情報もまた同じであった。目前の敵地から、頻々《ひんぴん》と、敵の動静は報じられてくるが、その偵察がみな血走った眼《まな》ざしと、余りに鋭い耳を持ちすぎていて、却って、大勢を見誤りやすい。
行くゆく沿道の村落で聞く風説などにも、ずいぶん戒心《かいしん》を要するものがある。その中には多分に、敵の流言も混《ま》じっているからだった。――けれど、織田の救援軍が、続々と南下して、浜松に合しているというその日の風説は、どうもほんとらしかった。
「もし信長が、大兵をもって、浜松の後詰をして参れば、ここは慎重に、御考慮を要するところではございますまいか」
信玄|麾下《きか》の諸将は、ひとしく中軍に伺候して、各※[#二の字点、unicode303b]から献言した。
「浜松一城へかかって年を越えることにでもなりますると、お味方は当然冬期の長陣となり、日夜敵の奇襲をうけ、兵糧不足と病人の続出にも、疲労|困憊《こんぱい》してまいるかと案じられまするし……」
「また、一面には、海道その他の退路を遮断《しやだん》されるおそれもあり」
「なお、織田の後詰に後詰のかさなる時は、お味方は狭隘《きようあい》な敵地に立って、にわかの転勢もままなりませず」
「かくては、御西上の宿望もさまたげられ、むなしく血路をひらいて引揚げるのがようやくの儀となりましょう。そも、このたびの御出軍は、浜松一城の御攻略にあらで、初めから御上洛のことこそ大目的にもござりますれば――」
信玄は、中央の床几《しようぎ》にあって、そういう口々の諫言《かんげん》へ、針のように細い半眼をもっていちいちうなずいていたが、やおら口をひらいて一同へ答えを与えた。
「みなの意見、至極もっともと思う。しかし、織田の援軍とて、たかだか三千か四千の小勢に過ぎまいとは、この信玄の胸づもり[#「づもり」に傍点]である――なぜといえば、もし岐阜《ぎふ》の大半なと浜松へさし向ければ、かねて、信玄より申しやってある浅井、朝倉が必然、江北からうしろを衝こうし、また洛中の将軍家よりも、各地の門徒、残党どもへ一斉に激励の教書を発せらるるはず。……まずもって織田の懸念《けねん》は大してない」
と、いちど語を切ってから、また静かに、
「もとより上洛の目標は一途《いちず》に志すところではあるが、家康にかぎっては、路傍の邪魔石と、ただ避《よ》けて通るわけには参らぬ。やがて行く手の岐阜へ迫れば、当然、家康めは、手兵をひッさげて、わがうしろを塞《ふさ》ぎ、織田を救《たす》けるに相違なかろう。さすれば、織田の充分に加勢のなし得ぬいま、直ちに、浜松城をふみつぶして通るが上策ではあるまいか」
諸将はそれに服すしかなかった。主君の言であるばかりでなく、戦術にかけても大先輩たる人の信念である。
だが、各※[#二の字点、unicode303b]が隊へ帰ってゆく中で、ひとり山県昌景《やまがたまさかげ》は、行軍のうえに薄ら寒く曇っている冬の陽を仰ぎながら、口のうちでこう嘆じていた。
「……実に天性、戦《いくさ》がおすきであられる。武将としては、稀な御器量ではあるが……」
一方。
浜松城へ、甲軍の方向急転がつたえられて来たのは、二十一日の夜だった。
信長からの援軍としては。
滝川|一益《かずます》、平手汎秀《ひらてのりひで》、佐久間信盛などを武将として、三千ばかりが城下に着いていた。
「思いのほかな少数」
と、失望の声もあったが、家康はさして歓びも不平の色も見せなかった。そして次々と情報の来るあいだに、軍議をひらき、城将の多くも、また織田方の部将のすべても、
「ひとまず岡崎へ退いて」
と、自重を望む中で、かれのみは依然、
「敵に城地をふまれながら、一矢《いつし》も酬《むく》わずに退《ひ》けようか」
と、主戦論をとって動かなかった。
浜松から北へおよそ十町。横二里、縦三里に余る高原に出会う。
三方《みかた》ケ原《はら》であった。
高原を二つに割って縦走している断層がある。深さ十八尺もあろう崖をのぞく、清冽《せいれつ》な水がながれている。そこを犀《さい》ケ崖《たに》という。
二十二日の未明、浜松を出た家康の軍は、犀ケ崖の北に陣をしいて、武田勢がさしかかるのを待っていた。
「いかがなされたのやら。……こんどの御陣に限って」
軍目附《いくさめつけ》の鳥居忠広《とりいただひろ》は、陣地で出会った石川|数正《かずまさ》をとらえて、痛嘆していた。
「何をお憂いなされておるか。御合戦のさきにあたって」
「いや、常には、われわれの血気をお叱りなるとも、先へ逸《はや》るようなことはない殿が、こんどばかりは、初めから誰よりも烈しく攻勢を主張しておられる。……何となく、すでに御心中、玉砕をお覚悟されているように思われての」
「む、む。……だが、この期《ご》になっては、名を惜しむか、恥を負うかだ。殿が名を惜しまれての御決意はさすがではある。わしたちはよい主君を持った。そう思われぬか」
「常々、そうありがたく思えばこそ、おたがい永《なが》の困苦をも困苦とせず、艱難《かんなん》を楽しみとして、これまでお家を護り合って来た。それを一朝《いつちよう》にと思うと残念でならぬ」
「軍目附《いくさめつけ》たるおん身からして、そう負目《ひけめ》にお考えでは困る。たとえ武田の二万七千に対して、お味方は一万に足らぬ小勢といえ、われら三河武士の骨ぶし[#「ぶし」に傍点]が、甲州者にやわ劣ろうか。ひとりひとりが敵の三人に当れば足りる」
「各※[#二の字点、unicode303b]に憂いはない。だが、それがしの眼で、全陣地を見るところ、殿の御本陣を中心に、鶴翼《かくよく》(横隊陣)の右翼にすこしも戦気がない。そこの弱点が気がかりではある」
「右翼は、援軍の織田勢の三千人か」
「左様。……察するに、佐久間、滝川などの部将たちは、信長から援《たす》けに赴いても、兵を損するな、好んで戦うなと、内々いいふくめられて来たものと思われる」
「それもあて[#「あて」に傍点]にはすまい。殿御自身からして、|※[#「口+愛」、unicode566f]《おくび》にもそれにはお触れにならぬところを見ても、悲壮なお覚悟のほどが窺《うかが》われる。われらも共々、殿と同じ心であればよい」
ゆうべから垂れこめている低い雲は、朝焼けして赤かった。今朝、あらためてその天地を見、またわが身というものの、露よりも脆《もろ》い生命《いのち》を考えたものは、忠広《ただひろ》や数正《かずまさ》だけではなかった。
右翼の織田軍をのぞく徳川家の全将士は、もう明らかに主将家康の決心をうつして、そのまま自己の決心としていた。
ゆうべの軍議までには、まだ異論も聞えたが、ここへ来ては、もう夢にも、退《ひ》くなどという考えはなかった。
いつでも、跳《と》びつけるような姿勢と、光る眼と、重厚にむすんだ唇とが、兜《かぶと》の眉《ま》びさし[#「びさし」に傍点]の下から、前方を睨《ね》めあっているだけであった。
陽《ひ》がのぼる。陽がかげる。
草みな枯れ伏している高原のひろい空を、鳥影が一羽、しずかに横切ってゆく。
たまたま、その鳥影のようなものが、枯れ草を這ってまた、走り帰ってくる。――物見の兵である。
そういう偵察は、もちろん武田軍のほうにも行われていた。
今朝、野部《のべ》を立った信玄の大兵は、天龍川をわたり大菩薩《だいぼさつ》を経て、なおその行軍態勢をつづけながら、午下《ひるさ》がりの頃、犀《さい》ケ崖《たに》の前面へかかって来た。
「止まれ」
の令が全軍へとどいた。
信玄のそばへ、小山田|信茂《のぶしげ》やその他の将が、もうすぐ前方にある敵軍の状況をもたらして集まっていた。
しばらく凝議《ぎようぎ》していたが、信玄は一部隊を残してそれへの抑えとし、本軍以下の大部隊は、予定どおり三方ケ原を横ぎって進軍をつづけた。
祝部《いわいべ》の部落は近い。
行軍の先鋒は、もうそこにはいったかもしれない。何しろ、蜿蜒《えんえん》とつづく二万何千騎の中軍からでは、馬の背にのび上がっても、味方の最前列は見えなかった。
「やりおるぞ」
信玄は馬上から左のほうを振り向いて前後の旗本たちにいった。
「オオ。なにさま」
人々も眼を凝《こ》らした。
はるかに黄色い土けむりが立ち始めていた。抑えに残してきた一部隊が、敵から小勢と見くびられて、やにわに猛襲をうけているらしい。
「あ……。つつまれたな」
「あの小勢だ。つつまれたら一《ひと》たまりもあるまい」
「二、三千ほど、駈けつけてやらいでは」
長途の馬は首をさげて、歩足ものたのた[#「のたのた」に傍点]と行くほうへ歩いている――だが諸将はみな、彼方《かなた》の埃《ほこり》の下を思いやって、手綱《たづな》の手もかたく握りしめられ、気が気ではないような眼《まな》ざしをそろえていた。
「…………」
信玄は、黙々として、誰にも答えを与えない。
みすみすこうしている間にも、彼方の土つむじ[#「つむじ」に傍点]の下では、もう味方の幾人かが、覚悟のまえとはいえ、将棋倒しに討たれているのである。
某《なにがし》の子も、某の親も、某の兄弟たちも、そこの部隊には混《ま》じっているのだ。信玄のまわりにいる旗本や諸大将ばかりではない。長い行軍の列のすべてが――足軽のはしまでがみな横を向いていた。眼を彼方へ凝《こ》らしながら行軍していた。
――と、その列に沿って、大物見の小山田|信茂《のぶしげ》が、信玄のそばへ駈けて行った。信茂の声はいつになく弾《はず》みあがっていたし、馬上のままなのであたりへもよく聞えた。
「お館《やかた》、お館ッ。敵の一万を捕捉《ほそく》して、みなごろしにする機は、いまを措《お》いてありません。ただ今、味方の抑えに向って攻めかかる陣容を物見してまいりましたところ、各隊一段備えに、鶴翼《かくよく》のかたちを展《ひろ》げ、一見、大兵と見えますが、二陣、三陣とも奥行はうすく、家康の中軍とても、たかの知れた小勢で守られているに過ぎません。――のみならず旗幟《きし》甚だととのわず、わけて援軍の織田勢には、戦意のないこと明らかです。機をはずさずお懸《かか》りあれば、勝算は歴々」
ことばのうちに信玄はうしろを見て、
「物見番。見とどけて来い」
語気を聞いて信茂はすこし駒をさげ、そのままひかえていた。
物見番の室賀信俊《むろがのぶとし》と上原能登守《うえはらのとのかみ》が、ただ二騎で駈けて行った。――敵は味方の何分の一しかない小勢と知れていながら、念に念を入れて、かりそめにもうごかない信玄の落着きかたを、信茂は充分敬服はしていたが、やはり、
「兵機《へいき》は電瞬《でんしゆん》の間《かん》、いまを逸しては」
と、悍馬《かんば》が前脚で土を掻くような焦躁《しようそう》をどうしようもなかった。
室賀、上原のふたりは、駒を躍らして帰って来た。そして、
「小山田の物見も、われわれの偵察も、お答えは同様にござりまする。天機は今まさに、めったにない幸いを、お味方へさずけておるように存ぜられます」
と、復命した。
「ウム、そうか」
太い声が出る。信玄のかぶとの白毛が、しきりと前後に振りうごき、次々と、その太い声から左右の将に命令が発しられた。
――貝が鳴る。
二万数千の先鋒から末端までその貝の音がきこえ渡ると、たちまちそれまでの行軍序列はドドドドと地鳴りしてくずれ立ち――くずれたかと見るまにまた、魚鱗《ぎよりん》を組んで、いっせいに押太鼓を打ちながら徳川陣の側へ迫って行った。
これは合戦後の余談に属することではあるが。
その時の迅速《じんそく》な陣替《じんがえ》ばかりでなく、総じて甲州勢の大兵が、信玄の指揮ひとつで、実にあざやかに動くのを見て、家康はあとで、敵ながら実に見事であったと嘆賞して、
(自分も兵家に生れた名聞《みようもん》に、信玄ほどな年になったら、いちどは信玄のように大兵を自由にうごかしてみたいものだ。――あの総帥《そうすい》ぶりを見ては、たとえ今、信玄を毒をもってなら殺せるといわれても、鴆毒《ちんどく》では殺したくない)
と、ひとに語ったそうである。
それほどに、信玄の采配《さいはい》は、敵の大将をさえ感銘させる神変をもっていた。かれの戦争はかれの芸術であった。その麾下《きか》の勇将猛卒も、それぞれ武器馬具旗さし物などに、死出の派手《はで》を凝《こ》らして、数万の鷹が、餌《えさ》をめがけて、いちどに信玄のこぶしから、それッと放たれたかの如く、声の怒濤を作って、
――うわあッ……ッ。
と、敵の顔が見えるほど近くまで一気に駈けだした。
厖大《ぼうだい》な人数の輪が車形《くるまなり》に旋《めぐ》るように、徳川勢も鶴翼の陣形をそのまま向きをかえて、敵のまえに人間の堤をきずいた。
敵のあげる埃《ほこり》、味方の埃、双方で蹴だてる埃《ほこり》に、一瞬は晦《くら》くなった。夕陽に光る槍ばかりが――晦《くら》いなかにキラキラしている。
甲州方も槍隊を前に押しすすめ、徳川勢も槍隊を前面に曝《さら》して対《むか》いあったのである。
「うわあッ」
と、彼方で武者|吠《ぼ》えをあげると、うわあッと、こちらも谺《こだま》をかえした。
塵煙《じんえん》がうすれると、敵の顔やすがたはよく見えるが、距離はまだずいぶん遠く距《へだ》てているのである。そしてその槍の列からは、容易に一歩でも踏み出すものはなかった。
この場合は。
実に百錬《ひやくれん》の武者でも、歯の根がわななき、眼はつりあがり、平常のことばでいえば、総毛だつばかり誰も恐《こわ》いのであった。
恐いといっても、日頃のそれとはまるで違う。意識がふるえるのでなく、五体がひとりでに、がたがた[#「がたがた」に傍点]と、常時の生態から戦闘生態へ変ろうとするのである。
それは、一瞬の迅《はや》さで行われるので、肌は鳥肌になり、皮膚のいろは鶏《とり》のとさか[#「とさか」に傍点]のように紫ばむ[#「ばむ」に傍点]。
髪の毛から爪の先まで――睫毛《まつげ》の一本一本にいたるまで、その生態を怒らせて、敵へかかろうとしないものはない。
一兵の生態を、戦っている一国として見るなら、鍬《くわ》をもつ民も機《はた》を織る民も、一本の髪の毛なり一指《いつし》の爪にひとしい役は各※[#二の字点、unicode303b]持つ。主体が亡べば当然自分もないからである。にもかかわらず国土の興亡をよそに、この生態をとらない惰民《だみん》がいるとすれば、それは人体にたか[#「たか」に傍点]っていても睫毛《まつげ》の一本にも値《あたい》しない垢《あか》のごときものだといえよう。
限《き》りがない、余事は措《お》いて、とにかく敵と顔を見合ったせつなは、恐いものだと平常語でいっておく。昼ながら天地は晦冥《かいめい》となり、耳に聞えるのは何か、眼に見えるのは何か、一瞬は分らなくさえなって、前にも出ず、後にも退《ひ》かず、ただ槍先ばかりそろえて、わあわあ揉《も》みあっているこの線を――実にこの一歩の線を――他人《ひと》より先に出た勇気の者に、
一番槍
の誉れはあとで称《たた》えられるのであった。
後になれば、何でもないこと。
しかしその刹那には千軍万馬の士でも容易に行えないこと。
一番槍は、そこに値うちがある。大きな意義もある。武士最大の機会はいま、何千という両軍の武士のまえに平等に与えられていた。けれどその一歩を――たった一歩を、誰も容易に踏み出し得なかった。
すると、ひとり、
「徳川家の、かッ、加藤ッ九郎次ッ、一番槍ッ」
と、どなって、向う側の列から、砲弾のように、駈け出した者があった。
具足の粗末。名も聞いたことはない。加藤九郎次、たぶん徳川家の一|平侍《ひらざむらい》にすぎないものであろう。
だが、九郎次の一番槍に、あと何千がいちどに、どどどッと、数歩すすみ寄った。
と。その中からまた、
「九郎次の弟、加藤源四郎ッ。――二番槍ッ!」
つんざく[#「つんざく」に傍点]ような声がした。
さては先に出たのは、兄だったとみえる。その兄なる九郎次は、武田勢の前まで近づかぬうち、さっと突き出して来た敵がわの列に呑まれて、乱戟《らんげき》のなかに姿も没していた。
「二番槍はおれだッ。加藤九郎次の弟なるぞ。――みろッ、甲州とんぼ[#「とんぼ」に傍点]め」
そこの武者と武者とのかたまりを、源四郎は槍で四、五振りなぐった。
振り向いた甲州兵の一兵が、
「小癪《こしやく》なッ」
と、突いて来た。
源四郎は、仰向けにひッくり返ったが、よろいの胴を刎《は》ね辷《すべ》った敵の槍をつかんで、
「くそッ」
と、一度は起きかけた。
ところが、その時もう味方はいちどに押し出していた。甲州勢も出足をそろえてぶつかって来た。怒濤と怒濤が噛《か》みあい狂いあうあのすがたを、血と槍と甲冑《かつちゆう》がえがき出していた。
「あッ、兄上ッ」
味方の兵や馬蹄《ばてい》の下にふみつけられながら、源四郎はさけんでいた。しかし手と脚で這いながら、甲州兵の足をひっ掴んで倒し、首を掻いて横へ抛《ほう》り出した。
それきり彼のすがたは誰も見とどけていた者はない。
ここは全くの乱軍とはなった。
だがなお、徳川勢の右翼と、武田方の左翼との衝突は、ここほどの接戦にはなっていない。
一町余もひらいていた。
砂けむりのなかに、押太鼓《おしだいこ》のとどろきや貝の音がもの凄《すさ》まじく聞える。どうやら信玄の旗本がそのうしろに在《あ》るようだった。両軍とも、鉄砲組を前に立てるいとまもなかったので、甲州勢は、その最前線に「水俣《みずまた》の者《もの》」とよぶ軽士隊を出し、さかんに石つぶて[#「つぶて」に傍点]を抛《ほう》らせていた。
石とはいえ、まるで雨のように飛んでくる。ここの前線は酒井|忠次《ただつぐ》の一陣、二陣以下、織田家の援軍《えんぐん》だった。
「ちいッ」
忠次は馬上で舌打ちしていた。
甲軍の前列から投げてくる砂礫《されき》が馬にあたるので、馬が狂って仕方がないのだった。自分の駒ばかりでなく、待機している槍組のうしろにいる騎馬の者のそれがすべて竿立《さおだ》ちとなって荒れるので、さなきだに陣形は動揺する。
槍組の諸士は、忠次の号令を待っていた。忠次が声をからして全軍に、
「出るなッ。この采配が、風を切るまでは」
と、抑えていたからである。
石を投げている敵の前列は、甲州方の進撃路をきり拓《ひら》いて来た工兵である。だからその水俣の者の隊は怖ろしくないが、一|側《かわ》後ろに精鋭が手に唾《つば》して機を計っている。
強い甲軍のうちでも強いと音に聞えている山県《やまがた》隊、内藤隊、小山田隊。なお内藤|昌豊《まさとよ》や小幡信定《おばたのぶさだ》などの旗じるしも見えた。
「水俣《みずまた》の者《もの》にあしらわせて、わざ[#「わざ」に傍点]とこっちの怒りを誘おうとする策であろう」
そう敵の計を見ぬいている忠次であったが、すでに左翼の戦闘は乱軍の状態にあるのに、かくては、二陣の織田家の将士のてまえもある。また本陣の御大将も何と見ておられるやも知れないという気がして――遂に、
「かッ、かかれッ」
と、兜《かぶと》の緒《お》も切れそうなほど、大きな口をあいて、突貫を命じた。
知りながら敵の策《て》に乗って出るという、序戦からして不利な位置を取らざるを得なかったのである。果たして、全軍におよぼす負け口はここから生じた。
石の雨が、ばたとやむ。
同時に、石礫《いしつぶて》を抛《ほう》っていた七、八百の水俣の者が、隊を左右に割って、一線からさッと退《ひ》いた。
「しまった」
と、敵の二陣が、酒井忠次の眼にみえた時は、もう遅かった。
水俣の者と、次の陣の騎兵のあいだに、もう一列、鉄砲隊が潜伏していたのである。みな腹這いになって身をしずめ、銃身を左手《ゆんで》と顔の横に当てがって――。
ド、ド、ドッと、つるべ撃ちの弾《たま》けむりが草から燃え立った。弾道の低いため突貫して来た酒井隊の多くは足を撃たれた。刎《は》ねあがった馬は、腹に弾《たま》をうけたものであろう。倒れぬうちに鞍を離れて、歩卒と共に、突進して来る将もある。戦友の屍《かばね》をこえて、槍をふりしごいて来る勇兵もある。
「――退《ひ》けいッ」
武田方の鉄砲組へかけられた命令であった。わき眼もふらず迫って来た槍組に接触されたら鉄砲組は一たまりもない。かれらは、うしろにいる味方の騎兵隊を繰り出すために、できるだけな迅さで散った。
どっと、馬の鼻づら揃えて、一番に甲軍随一の山県隊、二番に小幡隊と、重厚な備えで奔出してきた。酒井|忠次《ただつぐ》の手勢は、ためにさんざんに駈けくずされた。
「くずれ立ったぞ」
勝ちほこる声が、甲軍にあがる。――と見るや小山田隊は、迂回《うかい》して、徳川方の二の備え、織田勢の側面へ馬けむりをあげて来た。
見るまに、甲軍の大兵によって、鉄の輪のような囲みができてくる。織田兵も、酒井、本多、小笠原などの旗じるし[#「じるし」に傍点]も、すべてその中に揉《も》み揺《ゆ》られていた。
中軍の小高い陣場に、味方の全線をながめていた家康は、
「――ウム! 負けたッ」
と、はっきり呻《うめ》いた。
「……ぜひも、ございませぬ」
凝視して、同じように、側に立っていた軍目附《いくさめつけ》の鳥居《とりい》忠広は、ちと、無念そうに、唇《くち》をかんだ。
きょうの戦いばかりは、どれほど諫《いさ》めたことか。
――勝目はありません!
断言して、家康に、手出しを止め、こよい敵が祝田《いわいだ》に野営するところを放火して奇襲するようにすすめたのであったが、老獪《ろうかい》な敵の信玄は、わざと、小人数の抑えをのこして家康の手出しに「放《はな》し餌《え》の戦法」を掛けたのであった。
「はや、手の下しようはありませぬ。この上は、味方をおまとめあそばして、一時浜松へ」
「…………」
「お引揚げが、一瞬早ければ、一瞬の利がありまする」
「…………」
「殿。……殿ッ」
「うるさいッ」
家康は、忠広の顔も見ない。――陽は沈んで、刻々、三方ケ原の野末《のずえ》には、白い夕靄《ゆうもや》と夜の闇とが、二条《ふたすじ》に濃くわかれていた。
冬風に乗って、使番の旗は、頻々《ひんぴん》と……悲報をそこへつたえた。
「織田家のお身内、佐久間|信盛《のぶもり》どのには、まっ先に潰《つい》え、滝川一益《たきがわかずます》どのにも逃げくずれ、平手長政(汎秀《のりひで》)どのはお討死。酒井どの、ひとり御苦戦にございまする」
「敵、武田勝頼の勢、山県隊と力をあわせて、お味方の左翼をかこみ、石川数正どのには、傷《て》を負《お》われ、中根|正照《まさてる》どの、青木広次どのなど、次々に御戦死です」
「松平|康純《やすずみ》どの、敵のなかへ駈け入ったまま、斬死なされました」
「本多|忠真《ただまさ》どの、成瀬正義《なるせまさよし》どの始め、その手勢八百余人の将士、信玄の旗本めがけて深入りされ、数千の重囲におちて、生き還ったもの幾名もございませぬ」
次の声、また次の声と、敗報は悲調をおびてくるばかりだった。
「御免ッ」
なに思ったか、鳥居忠広は、やにわに家康のからだを引っ抱えて、部下と共に、かれの駒のうえに押上げた。
「――逃げろ!」
それは、馬の尻を打って、馬にどなったのである。家康をのせて馬が飛ぶと、忠広その他の旗本もあとを追って駈け出した。
[#改ページ]
卍《まんじ》
雪となって来た。――陽《ひ》が沈みきるのを待っていたように。
雪かぜは霏々《ひひ》と、敗軍の旗を兵馬を吹きまくして、一層、拠《よ》るところを失わせた。
「殿は。殿はいずこに」
「御本陣はどこへ」
「おれの隊は?」
路頭に迷った逃げ足のかたまりへ向って、甲軍の銃隊は、けむる雪の中から、鉄砲を撃ちあびせた。
「おひき揚げだ」
「退軍の貝が鳴っている」
「さては、もはや御本陣をひき払われたか」
敗軍の鯨波《げいは》は、まっ黒に北へなだれ、西へまよい、その間にもなお多くの死傷者を出しながら、やがて南のほうへ一路|潰走《かいそう》しはじめた。
さきに、鳥居《とりい》忠広と一緒に、危地を脱して行った家康は、うしろに続く、人々を顧みて、
「旗を立てい」
と、急に駒をとめ、
「――旗をたてて、味方の者どもを、ひとつに呼びあつめろ」
と、命じた。
夜の闇はせまり、雪はふり増してくるばかりである。家康をまん中にして、旗本たちは貝をならし、馬じるし[#「じるし」に傍点]を振りまわしては叫んでいた。
「おうういッ」
「オオーイ」
追々と、敗軍の士卒は、そこへ集まってきた。どれもこれも血にそんでない姿はない。
だが忽ち。
敵の中軍がそこにあると知った甲州の馬場|美濃《みの》、小幡《おばた》上総《かずさ》の二隊が、一面から弓、一面から鉄砲を撃ち放ちながら詰めてきた。――そうして早くも退路を断《た》たんとするかに見えた。
「ここも危ない。各※[#二の字点、unicode303b]には殿を守って、早々お立ち退《の》きあるがよい。それがしは一手の人数を頂戴して、敵のなかへ、体当りにぶつかって行きますから」
大勢のうちから伸び上がって、悲壮な声で家康とその旗本たちへ最後の袂別《べいべつ》を告げた者がある。
水野左近であった。
左近はあたりの部下へ。
「われこそお身がわりにならんと思うものは、おれに続け」
と、云いながら、続くものがあろうとなかろうと、それは意《こころ》にもかけず、驀《まつ》しぐらに敵のなかへ駈けこんで行った。
――が、そのあとからすぐ三、四十人ばかりの兵は、彼と共に死ぬべく続いて行った。たちまち、敵軍の一角で、わめく声、吠えあう声、噛みつくような声が、剣槍のひびきと共に、雪唸《ゆきうな》りを交《ま》ぜて、渦巻きはじめた。
「左近を死なすな」
家康はもうまったく平常の家康でないようだった。侍臣が止めるつもりでかれの轡《くつわ》を阻《はば》めたが、ふり飛ばされて、あッと、起きあがってみた時は、もう主君のすがたは、白と黒の卍《まんじ》のなかに、魔人のような馳駆《ちく》を見せていた。
「わが殿うッ。……わが殿ッ」
その日。浜松城の留守居にあった夏目次郎左衛門は、味方の敗亡と聞くと、手勢わずか三十騎ばかりひいて、家康の安危を見とどけようものと、これへ駈けつけて来た。
そして今、これへ来て、家康の勇戦しているすがたを見ると、駒をとび降り、槍を左に持ちかえて駈け寄るなり、
「な、なんたることですッ。常のあなたにも似げない御粗暴。おかえりなさいッ。早、お退きなされい、お城のうちへ」
と、駒の口輪をつかんで、ぎりぎりと後へ廻した。
「離せッ、次郎左でないか。敵軍のまっただ中で、邪《さまた》げするたわけがあるかッ」
「てまえがたわけなら、あなたは大馬鹿者でいらっしゃる。こんな所で討死なさるほどなら、きょうまでの御苦労などせぬ方がよい。日頃の云いがい[#「がい」に傍点]もない馬鹿大将ではある。功をたてたいなら後日天下の大事にむかってお立てなさいッ!」
眼に涙をため、口を耳まで裂いて主君をどなりつけると、次郎左は、持っている槍で家康の馬をいや[#「いや」に傍点]というほど撲《なぐ》りつけた。
譜代《ふだい》の臣や、近習の誰彼のうちにも、ゆうべここを立って、こよいはもう見えない顔がたくさんある。将士の戦死者、三百余、手負いは数も知れなかった。
「無念、無念」
「畜生」
惨たる敗軍の名を負って、われとわが身へ怒るような顔が、宵から夜半にかけて、続々と、雪の城下へなだれ帰って来る。
空は赤かった。
木戸の口々の篝《かがり》のせいである。
が、大地の雪の紅《くれない》は、駈けまわる武者のこぼした血しおに違いない。
「――殿はどう召された?」
半ば、人々は発狂している――泣いている。
もう先に家康は、浜松の城内へ帰っているものと思って引きあげて来たところ――
「まだ、御帰城はない」
という留守衆のことばに、さてはまだ敵の重囲のうちにおありか、或いは、御戦死か、いずれにせよ、殿より先に逃げて来たといわれては、浜松の住民に対しても、面目ないと、城にもはいらず地だんだ[#「だんだ」に傍点]踏んでいるのだった。
その混雑のところへ、
ドドドドッと、すぐ西の木戸のあなたで鉄砲の音がした。
敵軍だ。最期は迫った。もうここまで甲州勢が来るようでは、殿の運命もおぼつかない。
徳川家の人々は、
「これまで」
「このうえは!」
と、絶望の眼《まな》じり[#「じり」に傍点]をあげて、わッと、鉄砲の音へむかって、討死を果しに駈けだした。
すると、木戸のあたりに押しもんでいた味方のかたまりを衝きやぶって、吹雪と共に、どッと駈けこんで来た騎馬の面々がある。
思いがけなく味方の将たちであったから、兵は悲壮なさけびを、歓呼にかえて、太刀をふりあげ、槍をさしあげて、迎え入れた。
――その影の、一騎、二騎、五騎、七騎とつづいて来る第八番目に、家康が、鎧《よろい》の片袖《かたそで》もちぎ[#「ちぎ」に傍点]られ、雪や朱《あけ》にまみれた姿で、駈けつづいて来た。
見るやいな、木戸の将士は、
「殿だッ、殿だッ」
「御無事だったぞうッ――」
伝えあい伝え合い、われを忘れて、躍りあがった。声かぎり歓声をあげた。
それのみか。
すがたこそ、惨憺《さんたん》には見えるが、思いのほか、家康がにこにこしているのをながめて、半狂乱になっていた将兵たちも、ひどく安心して、その後はおのずから秩序づいた。
家康主従二十騎ほどは、城下の辻に、駒を立てて、まだ後から続いて来るらしい部下を待っていた。
追いかけて来た甲州の山県勢《やまがたぜい》へ小返りして、さんざんに打ち戦い、もうよい頃と、ひと足あとから城下へはいって来たのは、一隊四十人の槍組だった。
その四十人は、二十七人に討《う》ち減《へ》らされていた。中のひとり高木九助が、槍のさきに、敵の坊主首《ぼうずくび》をさし貫いて帰って来たのを、家康は遠くから見て、
「九助、九助」
と、さしまねいた。
何事かと、九助が駈けよって行くと、家康は顔を寄せんばかり鞍のうえから身をかがめて、
「……、……。よいか、九助、あらん限りの大音にて、存分に大言を吐け」
と、何か策をさずけた。
心得て候う――とばかり高木九助は勇躍して城のほうへ走り出した。そして雪を蹴だてつつ、
「聞けや、味方の衆。――今日の乱軍にて、武田|晴信《はるのぶ》入道信玄の首を、高木九助が討ちとったぞ。――眼にも見よ、耳にも聞け、俺だぞッ、信玄の首、打ちとったのはかくいう九助だぞッ」
城の唐橋を駈渡りながら、狭間《はざま》狭間に案じている留守の将士に、ひとり残らず聞えわたるような大声をあげて行った。
「なに、信玄を討ったと?」
「信玄の首をだと? ほんとか」
「あの声は高木九助であろう。坊主首を槍さきにさして、気狂《きちが》いみたいに触れまわっている」
城兵はみなどよめき立った。そのどよめきは絶望から希望へ一変した。
非常などん底には、非常識も通用する。善くも悪くも通用する。
しかもまた、いちどは生死さえ案じられていた家康が、その中へ無事、にこやかな面《おもて》をもって生還して来たのであるから、一時は、まったく敵将信玄の死をみな信じた。
城門にはいって、留守の将士の出迎えにかこまれ、駒の背から降りると、さすがの家康も、ほっと、満身で吐息《といき》をついた。
「水を。――水をひと口くれい」
そういって、家臣を見まわし、ひとりが柄杓《ひしやく》のまま汲んでさし出す水を、がぶがぶ飲み干していた。
と、その前へ。
黒革《くろかわ》の鎧《よろい》具足にがっしり[#「がっしり」に傍点]身をかためた四十がらみの武者が、部下の中から走り出してひざまずいた。
「殿。お久しゅう存じまする」
家康は、柄杓の残り水を切って、小姓へ渡しながら、
「誰だ? ……其方《そち》は」
「石川善助めにございまする」
「なに、石川善助と?」
「――四年前、酒の上で朋友と不埒《ふらち》な争いを仕りまして、御当家をお暇《いとま》となり、やむなく他国へ立退《たちの》きましたお厩組《うまやぐみ》の善助です。はやお忘れでございましょうか」
「忘れはせぬが、その善助が何しに参った。――そちは当家では三十貫の扶持《ふち》しておったが、その後、他家へ仕えて三百貫の高禄にありつき、近ごろは至極よき身分と聞いていたが」
「前田殿のおなさけで、身にあまる扶持をうけておりましたが、常に、故主の御恩は忘じ難《がた》く、折ふしまたこのたびは、甲州軍の乱入にて、天龍川その他の要所は次々と撃破され、御当家の危急存亡は今に迫ると遥かにうけたまわるにつけ、矢もたて[#「たて」に傍点]もたまらず、意中を前田殿に訴え、三百貫の禄をお返しいたし、召抱えの者八十ほどひきつれて、御加勢の端《はし》にもと、夜を日についで馳せつけて参りました。……何とぞ、先の不行状《ふぎようじよう》はおゆるしあって、以前のごとく、厩組《うまやぐみ》の端くれになと、お抱えおき下さいますように……。おねがいでござりまする」
善助は、家康の足もとに、額《ひたい》を伏して縷々《るる》といった。
かれの義と忠誠を、かれの面《おもて》にも見た人々は、いずれも大きな感動に打たれていたが、家康の容子《ようす》には、さほどな歓びも見えなかった。
「要《い》らざる業《わざ》を」
と、むしろ不興げに、
「その方などが加勢をうけずとも、戦《いくさ》に事を欠くわが徳川勢ではない。せっかく前田殿の下された高禄をば打ち捨てて参るなぞ、勿体ないことではある。――が、すでに馳せ参ったからには、ぜひもない、戦の終るまで、どこへなと陣場をもって働いておるがいい」
そういう間にも、敗軍の味方は後から後からと、城内へひきあげて来た。
武者|溜《だま》りも、狭間塀《はざまべい》の陰も、大玄関の廂《ひさし》の下も、負傷者のうめき声でいっぱいになった。家康は、不愍《ふびん》らしい眼もくれず、その中を押し通って、本丸へはいって行ったが、ふと傍らの旗本たちをかえりみて、
「善助には是非とも、充分に働ける陣場をくれてつかわせよ。……ああは申したものの、近ごろ欣《うれ》しい男ではある」
と、心から洩らした。
櫓《やぐら》に立ってながめ下ろすと、雪は小やみになったが、甲州の大軍は潮《うしお》のように、はや城外の近くへまで迫っていた。――その先鋒隊の襲来であろう、城下の木戸から町屋へわたって焔々《えんえん》と焼き立てられていた。
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天放無門《てんぽうむもん》
「ひさ野。ひさ野ッ」
本丸の広間に突ッ立つと、家康はこう大声で呼んだ。
まだ戦場にいるような声しか出ない。肺臓も声帯も、異常になったまま平常に返らないのである。
「はいッ」
ひさ野という侍女は、小走りに寄って、そこへ手をつかえた。
彼女のたもとの風に揺れた短檠《たんけい》が、家康の半顔に明滅していた。その頬に血しおが光っている。惨として、髪の毛がほつれている。
「櫛《くし》をもて」
どっかと坐る。
ひさ野に髪をあげさせながら、
「空腹だ。……湯漬を」
と、あとの用を命じる。
湯漬の膳《ぜん》や飯櫃《めしびつ》が前へ運ばれてくると、すぐ箸《はし》をとりかけたが、その箸で、
「縁障子《えんしようじ》をみな開け放せ」
と、いった。
燭《しよく》はゆれても、開けひろげたほうが、室内まで明るいほどな雪だった。縁には、武者たちが、ここかしこ黒々とかたまって休息していた。
湯漬を掻きこみながら、家康はそこのひとりへ、
「三五郎、怪我《けが》をしたか」
と、たずねた。
布を噛《か》んで、肱《ひじ》の槍痍《やりきず》を巻いていた野中三五郎という若い近習《きんじゆ》が、
「いえ、些細《ささい》です」
と、そのまま答える。
「これへ来い――」
と、さしまねいて、家康は彼に杯をとらせた。杯の底に三日月の蒔絵《まきえ》がしてあった。
押しいただいて、飲みほした後、三五郎は、
「これを拝領しておいてもよろしいでしょうか」
と、杯の底を見ていた。
「何にするのか?」
「身の誉れですから、この三日月を、家紋にして伝えたいと思います」
家康は、うなずいて、湯漬の箸をおいた。
なお距離はだいぶあるが、敵軍の銃声はさかんに聞えて来るし、庭さきの雪なども、城兵の右往左往に、忽ち泥土と変ってゆく。
雪はやんで、大廂《おおびさし》ごしに見える夜空は、冴《さ》えかけてさえいた。それにまた、城下の町屋の焼けさかる火の粉がいちめんに舞っている。人に悲壮な感傷と、地に敗軍の呻《うめ》きがなければ、麗《うるわ》しいともいえる空だった。
「松井左近《まついさこん》はおるや?」
「おりまする」
「もっと寄れ。きょう引揚げる途中、よくいたした。家康に明日の命はないかもしれぬ。こよいのうち褒めておくぞ」
そのほか、きょうの戦場で、家臣たちのなしたあらゆる働きに対して、彼は洩れることなく、感謝と、賞のことばを与えた。
「――あんな中で、どうしてあんなことがお眼にとまっていたろうか?」
と、怪しまれるくらい、彼は細事まで見ていた。
野中三五郎が、特に三日月の杯を頂いたのは、こよい家康が落ちて来る途中、七、八騎の甲州武者が先へ迫って道をふさいだのを、よく奮戦して、血路をひらいたのみか、そのうちの敵の剛勇、長《なが》弥九郎の首を打ちとった功によるものだった。
その長弥九郎は、もと徳川家にいて、甲州へ奉公替えした男なので、家康も明らかに記憶していたとみえ、
「この長《なが》め、この長《なが》め」
家康自身、刃《やいば》に対《むか》ってどなったほど、憎い敵であったから、その首は一倍値うちがあったのである。
松井左近の功は。
きょうの乱軍のなかで、甲州の孕石忠弥《はらみいしちゆうや》という剛の者が、家康にせまって、家康の乗っている馬の尻《し》ッ尾《ぽ》をつかまえた。――家康は竿立《さおだ》ちになった馬の背から、太刀をうしろへ振って、馬の尻ッ尾を切り離した。ために孕石忠弥は仰向けに倒れたが、なお起きあがって槍をつけようとしたせつなを、松井左近が、跳びかかって、討ったのであった。この首も、首帳の三、四番目に値するものだった。
大敗は喫したが、総じて、きょうの戦に遺憾《いかん》はなかった。足軽の末までも、よく苦戦に耐えてくれた。
家康は満足だった。取りあえず左右の者の功を賞したのも、政治ではない、心からな満足の溢《あふ》れであった。
湯漬を喰べ終るや否、彼は本丸を出て、諸所の防備を見まわり、天野|康景《やすかげ》と植村正勝のふたりに惣懸《そうがか》り口の防ぎを命じ、鳥居、内藤、水野、酒井の諸将を配して、大手から玄関口までの守りに当らせた。
諸将は、死守を誓って、
「たとえ甲州の大軍が、その全力をかたむけて、これに襲《よ》せ参りましょうとも、御武威を示して、石垣の一つだに、取りつかせることではございません」
と、口をそろえて壮語した。強《し》いてでも、家康を安心せしめ、家康を励まそうとしたことばだった。
「うむ!」
家康は、その意気を受けとって大きく頷《うなず》いたが、諸将がすぐ部署へ駈け向おうとすると、呼びとめてこう注意した。
「大手の城門、多門《たもん》、玄関まで、すべて閉じてはならんぞ。城門はみな開けひろげておけい。――よいか!」
「えッ? ……何と仰せられましたか」
諸将はみな疑った。
自分たちの意志とはまるで反対な命令だからである。
すでに城門は大手といわずどこも鉄扉《てつぴ》を閉めてある。味方の総くずれを追迫して、敵の大軍はもう城下間近まで来ているのである。海嘯《つなみ》の襲来をまえにしながら、何でみずから堤防の口を開けておけと命じるのか――人々には家康の気もちが分らなかった。
「いや、それまでには及ぶまいかと存じます。後から引揚げてくる味方には、その都度、門を開けて、入れてつかわせばすむことです。特にそのため御城門を、八文字に開いておかずとも――」
鳥居元忠が云いかけると、家康は笑って、彼の思いちがいを諭《さと》した。
「帰り遅れた味方のためではない。かならず勝ち誇って、これへ潮のごとく襲《よ》せ来るであろう甲州勢に対する備えだ。――ただ城門を開けおくばかりでなく、大手の門外五、六ヵ所に、煌々《こうこう》と、大篝《おおかがり》を焚《た》かせい。また城内には燎火《にわび》を旺《さか》んに焼かせるがよい。――ただし防禦は厳に、部署は整然と、鳴りをしずめ、敵の懸りようを見まもっておれ」
この場合、何という放胆な対策だろう。諸将は余りにも剛愎《ごうふく》な彼のことばに、遅疑《ちぎ》をいだくまでもなく、はッと服命して、各※[#二の字点、unicode303b]の持場へ駈け競った。
城門の鉄扉は、家康の胸のごとく、大きく開け放された。
まっ赤な篝《かがり》が、濠《ほり》の外から玄関まで、煌々と雪明りに燃えだした。
家康はそれを眺めながら、ふたたび本丸のほうへ歩を移していた。主なる部将は心得ていたろうが、城兵のあらかたは高木九助が喧伝した「信玄の首」を信じて、ここへ襲《よ》せてくるものは、首将を失った敵の敗残軍にすぎないと考えているらしい。
「ひさ野、つかれた。わしも酒を一盞《いつさん》まいろう。ひとつ酌《つ》いでくれい」
家康は、最前の広間へもどって、一杯の冷酒をのみほすと、そのまま身を横たえて、侍女のかける衾《ふすま》をひき被《かつ》ぐなり、いびき[#「いびき」に傍点]をかいて眠ってしまった。
それから間もなく。
殺到して、濠《ほり》のまぢかまで、まっ黒に襲《よ》せて来たのは、甲軍の馬場|美濃守《みののかみ》の隊、山県昌景《やまがたまさかげ》の隊など、気負い立った精鋭だった。
――が、美濃守も昌景も、浜松の城門を真ん前に見ると、
「や、や? ……。待てッ」
にわかに駒足を抑《おさ》え、逸《はや》りきった味方の奔勢《ほんぜい》を、全軍にわたって制止した。
「美濃《みの》どの。どう思う」
山県昌景は、彼のそばへ馬を寄せて行きながら訊ねた。いかにも解けない謎につき当ったようにである。
「……?」
美濃守も、凝然《ぎようぜん》と、かぶとの眉廂《まびさし》から、敵方の城門を見つめたままであった。
その面《おもて》も遠くから焦《や》かんばかりに、城門の内外には、篝火《かがりび》がどかどか燃えさかっている。そしてそこの鉄扉《てつぴ》は八文字に開け放たれてあるではないか。
門なきも、門あり。
門あるも、門なし。
これをいかに見るやと、質問を出して、こちらを計っているように、濠《ほり》の水は黒く、満城の雪は白く、寂《せき》として、物音ひとつ聞えないのである。
もし耳をすませば。
バチバチとはぜる[#「はぜる」に傍点]篝《かがり》の薪《まき》の音が遠く聞えて来たろう。またもっと心耳《しんじ》を凝《こ》らせば、本丸のうちに、無門の胸襟《きようきん》をそのまま手枕の一夢をむさぼって、
(――妄動《もうどう》何かせん。観ずれば死生は一瞬の風裡《ふうり》。悠久は天にあり、死を帰すも天、生を托《たく》すも天)
としている敗軍の将家康の鼾声《かんせい》も聞えて来たかも知れないのである。
けれどそれは、心耳なくては聞えないものだった。昌景は云った。
「味方の追撃があまり早かったので、敵は狼狽のあまり、城門を閉じるいとまもなく、鳴りをひそめてしまったものと思われる。いざ、攻め入ろう」
「いや、待ちたまえ」
馬場|信房《のぶふさ》はさえぎった。
美濃守信房といえば、信玄|麾下《きか》のうちでも有数な武将であり兵学の巧者であった。
智者は智を修めて智に溺《おぼ》る――
かれは断じてその不可なことを昌景にむかって説いた。
「この場合、競《きそ》って、門を固めるのは、敗北の自然な心理である。諸所に篝を焚《た》くいとまをもちながら、門扉をひらいておくのは、彼に怯気《きようき》なく、沈着のある証拠といえよう。――思うに、充分勝計を信じて、一城一心に、われの不要意に攻めかかる機を待っているに相違ない。危うい哉《かな》だ――相手は若将ながら徳川家康、うかつ[#「うかつ」に傍点]に踏み入って甲軍の武名をけがし、後のもの笑いになってはなるまい」
遂に。――そこまで迫りながら二将とも、軍をめぐらして引っ返してしまった。
それと、近侍の声を、寝耳に聞くや否、家康はがば[#「がば」に傍点]と刎《は》ね起きて、
「我なお死なず!」
と、雀躍《こおど》りした。
そして即座に、鳥居《とりい》元忠、渡辺|守綱《もりつな》の二臣に、手勢をさずけて、追い討ちをかけた。
山県、馬場の二隊は、さすがに狼狽もせず、抗戦しながら、名栗《なぐり》附近に放火して、あざやかに交《か》わし去ったが、一方、城内からはなお、間道づたいに、天野|康景《やすかげ》や大久保|忠世《ただよ》の奇襲隊が潜行して、信玄の本陣地、犀《さい》ケ崖《たに》附近の敵へ鉄砲を撃ちこんで帰って来た。
雪に辷《すべ》って、犀ケ崖へ落ち、寒流に溺死した甲州兵が何十人かあったという。
大敗はうけたが、徳川勢としては、なお骨ぶし[#「ぶし」に傍点]の程を示して、最後に万丈の気を吐いたものといえる。
のみならず信玄をして、またも上洛を断念させて、空しく甲山へ引揚げることを余儀なくさせてしまった。
犠牲は多かった。甲軍の四百九人に対して、徳川方の死傷は実に千百八十人にのぼった。
意外なのは、戦意もなく上手に立ちまわっていた織田家の援軍に、思いのほか死傷が多かったことである。総勢三千のうちから二百余名という十分の一に近い死傷を出していた。要するに戦場の危険率は、誰へも平等であって、勇者にのみ危険が多いとは限らないものとみえる。
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田園《でんえん》の一悲母《いちひぼ》
小閑《しようかん》を楽しむというのは、まだ閑のある人のことである。戦国に生れ、ことし三十二、しかもなお逆境の小君主、家康に閑日などはない。
「――けれど、それでもいけません」
老臣は諫《いさ》めていう。
「弓も弦《つる》を懸けたままでおくと、そのまま弛《ゆる》んでまいります。大山《たいざん》へ坐るには大悠《たいゆう》なれという通り、時には、御放心も必要でしょう。――稀には殿御自身、忙を離れて、気をお養いあそばさなければいけません。家中一般も、ほっ[#「ほっ」に傍点]と息をつき、領民が仰げば、何かしら安泰《あんたい》を感じて、国中が寛《ひろ》やかな心になりましょう」
家康はうなずいて、
「もっともな言だ。ひとつ鷹でも放しにまいるか」
「よかろうと存じます」
甲州の足長《あしなが》殿は一時|退《ひ》いたが、三方ケ原以来、なお多事多端に明けた翌年の天正《てんしよう》元年――春もまだ浅い頃だった。
季節とすれば、狩には遅い。だが放鷹《ほうよう》が目的ではない。君臣十騎ばかり徒士《かち》一隊をつれて、一日、山野を駈けあるいた。
帰途――
祝部《いわいべ》の村落までかかると日が暮れた。村民は戸ごとに篝《かがり》を焚《た》いて領主の通路を照らした。そして軒端軒端の下にみな土下座していた。
「待て。前の者」
前駆《ぜんく》の家臣をよびとめて、家康は駒を止めた。
道のかたわらに、一戸の旧家らしい軒が見える。夜目にも白髪のわかるほどな老婆が顔をあげていた。何か、粗相《そそう》でもあったのかと、村の人々は眼をそばだてた。
「……何か?」
と、家臣たちも怪しんだ。見れば家康は鞍《くら》を降りて、そこの軒先へ歩み出していたからである。
「老婆。――そもじは今、わしのすがたを見て、嗚咽《おえつ》したであろう。にわかに泣きじゃくっ[#「じゃくっ」に傍点]た声が、ふと、わしに聞えた。……なぜ泣いたか、わけを聞かせい」
近習の者があとから寄ってゆくと、家康は、腰をかがめて、せむし[#「せむし」に傍点]のように平伏している老婆へ、やさしく訊ねているのだった。
「…………」
老婆は顔をあげ得ない。いつまでも答えないのである。――で、家臣のひとりが、
「殿のおたずねじゃ。直々《じきじき》でも苦しゅうない。お答えせい」
と、注意した。
家康は、老婆に眼をあつめている近臣たちを、あなたへ遠ざけて、ただひとりになって訊ね直した。
「恐れることはない。ただ、そもじの洩らした咽《むせ》び泣きが、ふとわしの心へ食い入るようであったから問うてみるまでじゃ。何ゆえ、わしを見て泣いたか」
老婆はようやく面《おもて》をあげて答えた。
「田舎者《いなかもの》の婆《ばば》は、巧みにものを申すことができませぬ。正直にもうしまするで、お怒りくだされますな。――殿のおすがたを見ましたれば、急にお恨めしゅうなって、つい愚痴《ぐち》なむせび泣きが出てしもうたので」
「わしが、恨めしいとな。してそもじは誰の妻か」
「加藤|政次《まさつぐ》という郷士《ごうし》の後家でござりまする」
「では、浜松の家中にあって、先頃三方ケ原で最期をとげた、加藤九郎次、源四郎、ふたりの母にあたるものか」
「おお。……殿さまには、あんな侍の端くれにも足らぬ若者でも、お忘れなく、お覚えおきくださいましたか」
「さては、ふたりの子を、戦場で死なせた悲しさが、この家康を見たとたんに、胸へこみ[#「こみ」に傍点]あげてきたのじゃな」
「ありようは、それに違いございません。ふたりとも、ひと一倍、孝行ものでございましたゆえ……」
偽りなく老母はいってまた咽《むせ》び泣いた。家康は肺腑《はいふ》をえぐられる思いに迫られたが、同じ悲嘆を抱くもの、この老母以外にも無数にあることを知ると、彼は、なんと答えるべきか、慰めるべきか、襟《えり》を正して、自分もまた、偽りなき心を告げなければすまない気もちになった。
「老婆、そもじには、ほかに子はないのか」
「先ごろの戦《いくさ》で死んだ二人のほか、子も孫もございませぬ」
「縁者は」
「何かとおりまする」
「では、縁者の子を養い、家督《かとく》をつがせるがよかろう。いずれ家康が、その子は取立てて得させる」
「ありがたいおことば……」
老婆は、頭《かしら》をさげたが、さして欣《うれ》しそうでもない。気のせいか、家康は、自分を仰ぐ彼女の眼に、なお何ものか含んでいるように思えてならなかった。
「そちの子の九郎次、源四郎の両名は、三方ケ原で共に一番槍二番槍をつけて、もののふの華《はな》と散った殊勲者《しゆくんしや》、ほまれは末代まで伝えられよう。恩賞の沙汰も疾《と》く達してあるはずだが、なおなんぞ望みはないか」
そう慰めると、老婆はあわててかぶりを振り、いとど恨めしげに家康を見あげて、
「御領主さま。おこころのほどは身に沁みて忝《かたじけの》うござりまするが、子をふたりまでも戦《いくさ》のにわに死なせた母の身には恩賞のお沙汰など耳にははいりませぬ。……この母は、この母はただ……」
急に、ここでまた、よよと咽《むせ》び伏したところを見ると、老婆が、家康に向って、何か云いたいとする真実もこのことばの先にあるらしく思われた。
で、家康がなお、ねんごろに質《ただ》すと、老婆はこういった。
「あれも、さむらいの子。わしじゃとて、さむらいの子の母でござりまする。討死を、なんでめめ[#「めめ」に傍点]しゅう嘆きましょう。……けれどただあなた様、徳川家のお栄えだけを旨としておいで遊ばすのでは、わしらが子の討死は、なんのためになったやら、なんの誉れといえようやら――迷わずにはいられませぬ」
こう云い出すと、老婆はもう泣いてもいない。老いさきのない命はそこにさし出しているというふうにすら見える。
「わしらを初め、村々の者は、代々ここの土に住み着いて百姓しておりまするが、いずれも遠い大祖《おおおや》は、伊勢の大神《おおかみ》さまにしたごうて諸国にわかれた御先祖がたの裔《すえ》でござりまする。いまとても天朝さまの百姓《おおみたから》に相違ございませぬ。――源平のころ、建武《けんむ》の後、また応仁のみだれなど、長い幾世のあいだにかけて、ここらあたりも、御領主さまは遷《うつ》り変ってまいりましたが、わしらにおさずけ下されている田や畑の土ばかりは変りませぬ。――それを耕すにも、安穏に暮してゆけるのも、それは御支配のお守りがあればこそで、御領主さまの恩はよく弁《わきま》えておりますが、さればとて、その御領主がみな善いわけではございません。天朝さまの百姓《おおみたから》を――あだ[#「あだ」に傍点]に死なせる御領主もないことではございませんでした」
「老婆。そもじは、この家康が、そういう領主と思うておるか」
「そんな武将ではおわさぬと、せがれどもも、お慕いしておりましたればこそ、足軽奉公に出、やがて浜松で、侍のはしにまで、お取立ていただいたのでございまする。……けれど、ありよう申しあげれば、戦《いくさ》のため、年々|年貢《ねんぐ》のおとりたては高まり、若い働きては召し出され、麦秋や収穫時《かりいれどき》といえば、他国の兵に荒らされたり……それはもうことばにも尽せぬほど、村は困窮しておりまする。冬になれば、飢えるもの、薬も求められぬもの、妊娠《みごも》っても産めぬものなどが、いっぱいでございまする。……これが伊勢の大神さまに侍《かしず》いたものの御裔《みすえ》かと、正直、日頃そう嘆かれまするで、折ふしきょう、御領主さまのお通りを拝んだら、急に、胸がふさがってまいりました。――せがれどもの生命《いのち》二つが、わしらへ下さる恩賞に代って、もっとこの村のうえに、ひろい御仁慈《ごじんじ》となってくだされたらと。……はい、それやこれ、せがれどもの捨てた生命に、つい慾の涙を掻きこぼしたわけでござりまする」
家臣たちは、案じて、
「夜もおそくなりますゆえ、なお老婆へおたずねの儀もあれば、他日お城へ召されてのことになされては如何で」
と、家康の帰城をうながした。
なにか、夢からでもさめたように、家康もつぶやいた。
「おお、留守の者も、案じておろう……」
老婆へは、近日、あらためて沙汰しようと約束して、彼は黙々と、そこを去ったのであった。
前後の騎馬に守られながら、彼はまた暗い夜道を、浜松のほうへ駒を向けていた。
「田野のなかにも、無智な田夫《でんぷ》ばかりはいない。真実をわきまえている怖ろしい民もいる。……世はみだれても、やはりかわらぬ皇国《みくに》、そこの土に生きる民くさ、明国《みんこく》や朝鮮とはちがう」
彼の若い烈しい弓矢の精神も、きょうばかりは棒打ちされたここちで、あの一老婆に、まったく頭《かしら》があがらなかった。――が、その自責は確かに、老婆とひとつな民くさの心が、彼にもある証拠だった。
「あッ、いかん……。後日を待っては」
途中、よほど来てから、家康は、急に、鞍のうえから振り向いて、なに思いだしたか、家臣のひとりへいいつけた。
「駈け戻って、いまの老婆を、すぐ城へ伴《ともの》うて来い。自害せぬよう、眼をはなたず、やさしく、よう宥《いたわ》って」
「はッ」
と、二騎ほど後へ引っ返して行った。――けれど家康が浜松の城門にかかる頃、その二騎はまた忽ち帰って来て、
「真に御賢察のほど、おそれ入りました。あれから急いで老婆の家へもどってみましたところ、果たして仏間を閉め、見事に自害しておりました」
と、告げた。
「間にあわなかったか」
家康はここでもまた、なにか心を痛打された。しかし侍臣には何も洩らさなかった。
後に、一老臣が、
「どうしてあの折、加藤兄弟の老母が、自害すると、お予見がつきましたか」
と、訊ねたのに対して、彼は初めてこう述懐《じゆつかい》した。
「領主たるわしにむかって、あれほどなことのいえる者は、おそらく譜代《ふだい》の家臣にもないであろう。即座にも、死を決していたからこそ、あの老婆は、思うままを、わしへ訴えられたのだ。――しかも家康は、乱世の武門として、これから行くべき弓矢の大義を訓《おし》えられた。くれぐれも老婆の死後はねんごろにいたしてやれ」
彼はまた、家中一統を集めて、こういう諭告《ゆこく》を発した。
「近ごろ、伊勢境は鎮《しず》まり、織田家とは同盟し、今川|氏真《うじざね》はわれに屈して、いささか領土も拡まり、日常、家中一般の生計も、むかしのような窮乏もなくなってから、自然、おのおのの衣食は美をこのみ奢侈《しやし》にかたむき、気風一変のきざしが見ゆる。……省《かえり》みるに、家康自身も、知らず識らずそうだった。自分は六歳から他国の人質《ひとじち》となって、一衣一飯にも、つぶさに辛苦をなめて来たが、それにもまさる貧苦困乏の味を知っている譜代の家中すら、みなこう変って来たかと思うと、恐るべきものを感じる。――まだまだ、今ぐらいな小功で心を驕《おご》るなど、早すぎる。家康もまず改めようほどに、各※[#二の字点、unicode303b]も、もういちど以前の窮乏時代に立《た》ち回《かえ》った気になって欲しい」
次に、彼は、軍事経済の諸奉行と老臣をあつめて、
「農民たちの税をかろくし、いっそう軍備には資材を増強するように、藩政一変の策を考えてもらいたい」
と、求めた。
彼自身が、まっ先に、実践《じつせん》するので、全藩一致、それぞれの施政は忽ち実行された。
農民の疲弊《ひへい》は甦《よみが》えってきた。
家中は、以前にまさるほど、質素|剛直《ごうちよく》になった。
しかも武備はいよいよ強化され――ここに徳川家なる一国は、小国ながらも、領民と領主と、人と物と、さながら一体の強みを確乎《かつこ》と顕《あきら》かにして来た。
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君臣春風《くんしんしゆんぷう》
もとの稲葉山、いまの岐阜《ぎふ》。
その高い山上のお城から、ヒラ、ヒラ、と紅いもの白いものが、城下の町屋根に降ってくる。
「御本丸の梅ばやしも、もう散りかけているそうな……」
人々はそう想像する。
かれらは一年ましに、城主に信頼をたかめている。その信頼は生活の安心から来ていた。どこに住むよりも、ここにいる幸福を事実に知って来たからである。
法令は厳だったが、ここの国主は空言を吐かない。領民の生活に約束したことは必ず行う。実利《じつり》をもって示してみせる。
戦《いくさ》にはきっと勝つ、安心しろ。そういえば必ず勝ち、勝てばよろこびを領民にわかつ。三日ぐらいぶっ通しに、飲め、踊れ、歌え、遊べ――を奨励する。
人生五十ねん
化転《けてん》のうちをくらぶれば
夢まぼろしの如くなり
酔えばうたう彼のおはこ[#「おはこ」に傍点]は、領民にまで知られている。しかし室町頃の、世を儚《はかな》み世を無常とのみ観じていた、隠遁僧《いんとんそう》のうけ取っていた解釈と、信長の気もちとには、同じ歌謡《うた》でも、たいへんな隔たりがある。
――死のうは一定《いちじよう》
この一節が彼のいちばん好きなところで、いつもそこになると、声をはりあげる。
思うに、彼の生命観は、そこにあるものとみえる。
いのちを深く考えない人のいのちは、完全に生かされていない。
やがて死ぬ――いのちを知っている彼であった。
人生の四十。まだ先は長いとしていない。
そのみじかい間に、かれの抱負《ほうふ》は途方もなく大きかった。無限な理想があった。それに向い、その障難《しようなん》を克服してゆく、一日一日のたまらない愉快な日があった。――しかるに人間の天寿がある。かれは惜しまずにいられないのである。
「於蘭《おらん》、つづみを打て」
きょうも彼は舞わんとしていた。伊勢の使者を饗応《きようおう》して、使者が帰っても、まだ興じて、ひとり杯をあげていた昼だった。
蘭丸は、つぎへ退《さが》って、つづみを抱いて来たが、信長のまえに寄って、
「ただ今、横山の木下藤吉郎どのが、御着城になられましたが」
と、取次のことばを、また取次いだ。
ひと頃、浅井も朝倉も、三方ケ原の結果によっては、大いに為《な》すあらんとしていたらしく、しきりに蠢動《しゆんどう》しかけていたが、信玄が退《ひ》いてからは、ぴた[#「ぴた」に傍点]と自領の限界にすくみこんで、国境の保守に汲々《きゆうきゆう》としていた。
――まず、このぶんでは。
と、当座の平穏を見こして、藤吉郎はひそかに横山城を出、畿内《きない》から京地をすこしばかり巡遊していた。
どこの城将でも、またいかに戦乱でも、栄螺《さざえ》のように、そうのべつ城のなかにとじ籠っているわけもない。
留守とみせて実は居たり、居るとみせかけて居なかったり、兵家の生活は虚実の影をつかいわけている。もちろん藤吉郎のこんどの小旅行も、すがたをかえた微行《びこう》で、この岐阜城へも、そういうわけから突然やって来たものにちがいあるまい。
「やあ、藤吉郎か」
信長は、彼を別間に待たせておいて、やがて非常なきげんで上座にすわった。
藤吉郎は、ふつうの旅行者とことならない極めて素朴な身なり[#「なり」に傍点]で平伏していたが、面《おもて》をあげると、
「お愕《おどろ》きでしょう」
と、笑いながらいった。
解《げ》せぬ顔して、
「――何がか?」
「唐突の参上で」
「なにをばかな。そちが半月前より、横山におらぬことぐらいは知れておる」
「でもてまえが、今日これへ推参いたそうとは、御意外でございましたろう」
「ははは。そちは信長を盲《めくら》と思うているな。京では京の浮かれ女《め》とあそび呆《ほう》け、近江路《おうみじ》へ来ては、長浜のさる豪家《ごうか》まで、そっと於《お》ゆうを呼んでおいて、密《ひそ》かに会って来たであろう」
「ははあ……」
「なにが、ははあじゃ。……どうじゃそちこそ愕《おどろ》いたであろう」
「これは愕き入りました。さすがに御主君、なにもかもお分りですか」
「この山は高いから十州も見とおしである。だが、信長よりは、もっとそちの行動にくわしいものがいる。たれか知っておるか」
「そのような諜者《ちようじや》がそれがしを尾《つ》けておりましょうか」
「そちの家内じゃ」
「お戯《たわむ》れを。……ちときょうは御微酔の御容子《ごようす》で」
「酔うてはおるが、申すことにまちがいはあるまい。そちの妻は、洲股《すのまた》に住居しておろうが、遠いと思うと、甚だ相違であるぞ」
「いや、どうも、悪い折に伺いましたな。……どうぞもうおゆるしを」
「はははは、遊びはとがめん。ひそかに、たまたまの桜狩など、大いによかろう。……しかし長浜で落ち合うてやるほどなら、なぜ、寧子《ねね》を呼んで会ってやらぬか」
「はい」
「もうだいぶ夫婦の対面もしておるまい」
「なにか……愚妻から、殿へつまらぬ書状でも、さしあげて参ったのではございませぬか」
「案じるな、そういうことはないが、信長の思いやりである。――そちのみならず、誰の妻も彼の家内も、戦陣となれば、長い留守となるものを、せっかく少しでも暇《いとま》を得たら、せめて無事な顔ぐらいは、たれより先に妻に見せてやるべきが……」
「御意ですが、ちと」
「異存があるか」
「ございまする。――ここ数ヵ月は、四辺《あたり》も無事でございますが、それがし自身の気もちは、まだ寸毫《すんごう》も、戦陣から解《と》かれてはおりません」
「口賢《くちがしこ》いやつ、またいらざる弁をふるうか」
「やめましょう、このへんで旗を巻いて」
主従は哄笑《こうしよう》する。そしてやがて、杯をとり合うと、小姓の蘭丸《らんまる》までしりぞけて、酒間のはなしは、却ってまじめに、また小声になっていた。
「――して、近ごろ、京都の情勢はどうか。たえず村井民部より使いは通うてまいるが、そちの観たところを聞きたい」
信長は、期待していう。
藤吉郎のいおうとするのも、そこにあるらしい容子《ようす》であった。
「ちと、座が遠ございまする。殿がお寄りくださるか、てまえが進みましょうか、もすこし間近になりたいもので」
「わしが寄ろう」
と、信長は、銚子《ちようし》や杯と共に上座を降りてすすみ、
「次の間のふすまも閉めい」
と、いいつけた。
藤吉郎が立ってそこを閉めかけると、ふと蘭丸の白い顔が見えた。
「はや、日も暮れてまいりましたから、燭《しよく》をこれまで持参しておきました」
すぐ、退《さが》ってゆく。
明りを内に入れ、あとを閉めて、藤吉郎は信長のすぐ前に坐り直した。
「情勢は相かわらずです。ただこのところ、信玄入京のあて[#「あて」に傍点]がはずれたため、室町《むろまち》のお館《やかた》は、失望のいろ濃く見えますが、公方家《くぼうけ》の依然たる策謀は、いよいよ露骨で、あくまで信長ぎらい[#「ぎらい」に傍点]で一貫しておりまする」
「いや、そうだろう。せっかく信玄が、三方ケ原までまいりながら、引っ返したと聞いてはな。……義昭《よしあき》の顔が眼に見えるようだ」
「しかしなかなか政治家でいらっしゃる。洛中の市民に、こせこせ恩恵をほどこしたり、暗に、信長政治を怖ろしがらせたり、叡山《えいざん》の焼討ちなどは、殿を誹《そし》る好材料とし、いよいよ諸山の僧団を焚《た》きつけておるようで」
「ふうむ……始末のわるい」
「――が、御懸念にはおよびません。さすが僧門陣も、叡山の結果を見ては、しん[#「しん」に傍点]から胆《きも》を寒うしたらしゅうございます。あれは徹底しております。あれだけは、御不成功ではございません」
「洛中に逗留《とうりゆう》中、藤孝《ふじたか》には会わなかったか」
「細川どのは、遂に、公方《くぼう》どのに忌《い》み厭《いと》われ、どこか田舎へ蟄居《ちつきよ》されたそうです」
「義昭《よしあき》将軍に退けられたか」
「どうかして、織田家とのあいだをむすび、また両家の円満な提携《ていけい》こそ、室町将軍家の命脈をたもつためにも、万全の計と信じておられた細川どののことゆえ、面《おもて》をおかして、幾たびか義昭公を忠諫《ちゆうかん》されたものかと考えられまする」
「たれの言も、義昭の耳にははいらぬとみえる……。ちと、狂態だな」
「いやなおまだ、室町将軍家なるきのうの遺物を、過大視しておられるのでしょう。およそ時代のさかいに、過去のもの将来のものと、二つに分け去られる大濤《おおなみ》にのって、あぷあぷ溺れてゆくものは、ほとんどが、旧態の威力や、その遺物の未練に、世の推移をケタ違いに見ちがえておる人々です。――その大濤からちょっと上がって、平然と見ていれば分りきっていることでも、将軍職とか、一国とか、小城や小財力など持っていると、それが重荷で、時勢の濤《なみ》から這いあがってみることもできません。思えば、あわれなもので」
「さしずめ、うごきは、そんな程度かな」
「いや、大変事があります。――申しおくれましたが……」
「なに、大変事が」
「さればです。……これはまだ世間に洩れておりませんが、例の手飼《てがい》の乱波《らつぱ》、渡辺天蔵の早耳ですから、おそらく信をおいてよいかと思いますが」
「何事か……?」
「惜しむべし、甲州の巨星は遂に隕《お》ちたようです」
「……え。信玄がか?」
「この二月、刑部《おさかべ》から三州へ攻めに出て、野田城をとりつめておるうち、一夜、鉄砲で撃たれたと聞きました」
「……?」
しばらくは、ひとみを澄ましている信長であった。藤吉郎の唇《くち》もとを見つめて。
信玄の死。
もしそれが事実ならば、たちまち天下の象《かたち》が変る。
それほど、信玄の存在はたしかに大きい。
わけて信長には、直接的な影響をもつ。彼は、大きな衝動をうけた。なにか忽然《こつぜん》と、うしろの虎が消え失せたここちだ。
信じたいが、信じられない気もちもわく。むしろ不気味を感じ出す――なぜならば、そう聞くうちにも、
(彼なくば――)
と、すぐ背後の安心がおこるからである。彼は、名状しようのない歓びをも味わいながら、ほど経てから、
「そうか! ……。それが真《まこと》とすれば、古今、稀なといえる、惜しむべき将が、世を去ったものだ。――これからという時代を、われらの手に委《い》して」
と、嘆息をもらして云った。
藤吉郎は、それを告げるにも、彼ほど複雑な面《おも》もちではない。食事の席について、順におはち[#「おはち」に傍点]がまわって来たぐらいな感情しか出していなかった。
「――その鉄砲傷がですな、どこにあたったものか、即死か、怪我《けが》の程度か、そのへんの儀はまだ仔細にわかりません。……が、にわかに野田城のかこみを解き、甲州へひきあげた武田の士気旌色《しきせいしよく》というものはなかったと申しまする」
「そうであろう。甲山の将士いかに猛《たけ》しといっても……信玄を亡《うしな》っては」
「旅の途中、この報を、ひそかに渡辺天蔵からうけましたので、ふたたび天蔵を、すぐ甲州領へ放ちました。追ッつけ、もすこし具体的に、事実をさぐって帰り着こうとぞんじますが」
「諸国にはまだ聞えわたらぬふうか」
「なんの気《け》ぶりも見えません。おそらく甲府一門としては、かりに信玄亡きあとも、しばらくは厳秘に附して、なお信玄健在なりとしておるでしょう。――ですからもし甲州領において、何かわざとらしき積極政策や、信玄の名を謳《うた》うような兆《しるし》あれば、まず十中の八、九まで、信玄の死は事実か、かろくとも重態と見てよろしいでしょう」
「ム、ウム……」
信長は二度もうなずいた。強《し》いてでも肯定したいかのように。
ふと彼は、冷たい杯を手にして、人生五十年、化転《けてん》のうちを……思いうかべていた。
しかし、舞いたい気もちは、わき上がらない。
自己の死を観るよりも、彼はひとの死を観るほうが大きく心をうごかされた。そして複雑になった。
「そちの放った天蔵は、いつ頃もどるか」
「三日のまに帰りましょう」
「横山城へか」
「いや、ここへと、申しふくませておきました」
「では、それまで、そちもこれに逗留《とうりゆう》しておるがいい」
「そのつもりでございまするが……願わくば、旅舎は御城下にとって、お召しを待ちたいとぞんじますが」
「なぜか」
「べつ儀もございませんが」
「では、城内に泊ってはどうか。久々の対面」
「それほどごぶさたとも存じません」
「はりあいのない男。信長のそばは窮屈か」
「いえ、実は」
「実は、なんじゃ」
「その……城下の旅舎に、連れを待たせておりますので、それが淋しかろうし、こよいは、戻ると約束してまいりましたので」
「連れとは、女子《おなご》か」
信長が呆《あき》れていう。信玄の死を聞いて囚《とら》われている彼の感傷と、藤吉郎の心配とは、これほどな距離があった。
「つかれもしたであろう。こよいは旅舎《やど》へ退《さが》るがよいが、明日は連れの者をも伴《つ》れて、登城いたせよ」
――帰りがけに、信長からいわれたことばである。
藤吉郎は、途《みち》で、
「釘《くぎ》をお打ちになったな」
叱られたような気もしたが、また粋《すい》な御主君とも思う。
釘のあたまが気にならぬよう、ほどよく美術的な釘隠しで包んでいる。
で、あくる日、於《お》ゆうを連れて登城するにも、そう恐縮には及ばなかった。
きのうと違う書院で、信長もきょうは酒気をふくまず、藤吉郎と於ゆうをならべて、上座から見た。
「竹中半兵衛の妹とか聞いていたが、左様か」
親しげである。
於ゆうは、はじめての御見《ぎよけん》、それに藤吉郎となので、消えも入りたげに、面《おもて》をふせていたが、
「……はい。お見しりおきくださいませ。兄|重治《しげはる》へも、お眼かけていただきました。妹のゆうと申しまする」
かすかな声ほど美しい。
信長は、ながめ入って、感心していた。
その意味を、藤吉郎にすこし揶揄《やゆ》してやりたいような気もちがうごいたが、罪な気がして、
「半兵衛は、その後、健在かの」
と、まじめになる。
「久しく、兄とは会いませぬ。戦陣のせわしさに……便りのみは折々にございますが」
「今、そなたは、どこに身を置いておるか」
「すこしばかり所縁の者がおりますので、不破《ふわ》の長亭軒《ちようていけん》のお城に身をよせております」
「そうか、なるほど、あれには樋口《ひぐち》三郎兵衛が今もおったな」
なるほど――と、いって、特に藤吉郎の顔を見る。彼のその方の才を称揚《しようよう》している微笑だった。
藤吉郎は、すこしてれ[#「てれ」に傍点]て、
「時にまだ、渡辺天蔵は、もどりませぬかな」
わざと、とんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]をいう。これが曲者《くせもの》である。信長はその手はくわない。
「なにをいう、うろたえて。天蔵の帰りは、三日目ぐらいと、昨夜、自分でいうたばかりでないか」
「なにさま」
藤吉郎の面《おもて》がひどく赤くなる。信長は、これで気がすんだらしい。――彼が羞恥《はにか》んで困るのをさっきから見たかったのである。
「ゆう。遊んでゆけ、ゆるりと……」
女性には当りのいい信長である。藤吉郎はうれしくもあり、時々気ももめる。終日《ひねもす》、いろいろに、春を暮らした。
夜に入ると、
「わしの小舞を見たことはなかろう。藤吉郎はたびたびじゃが」
と、夜の酒もりにも彼女を交《ま》じえた。そこには、奥の侍女《こしもと》、家族の老若《ろうにやく》、重臣たちも共になる。いかにも、春の夜らしい人々であった。
「……泊ってゆくがよい」
と、いわれたが、ゆうはお暇《いとま》をねがった。
信長は、強《し》いもせず、
「では、藤吉郎も帰れ」
と、彼にはにべ[#「にべ」に傍点]なくいった。
人々に、囃《はや》されながら、ふたりはお城を辞した。けれど、間もなく藤吉郎ひとり、あわただしく帰って来て、
「殿は」
と、もとの酒席のおつぎへ来て、小姓にたずねた。
「ただいま、御寝所のほうへ、おひきとりになられたばかりでございます」
聞くと、藤吉郎は、いつになく忙《せわ》しげに、またそこへ行って、侍臣に取次を仰いだ。
「どうしても、こよいのうちに、まいちどお目通りをねがいたい儀がございまして――」と。
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旧閣瓦解《きゆうかくがかい》
寝所にはいったが、信長はまだ衾《ふすま》に就いていなかった。
藤吉郎は、人ばらいを乞い、宿直《とのい》が遠く退《さが》っても、なお注意ぶかく見まわしていた。
「何事じゃ……藤吉郎」
「はッ。……おつぎの隅にまだもう一名、たれかいるようですが」
「心配なものではない。蘭丸《らんまる》じゃ、少年じゃ、さしつかえあるまい」
「さしつかえます。恐れ入りますが」
「いけないのか」
「はい」
「――蘭丸、そちも退れ」
ふり向いて、つぎへいうと、そこから黙然《もくねん》と礼儀をして、蘭丸は立って行った。
「もう、よかろう。……何か」
「実は、ただいまお暇をいただいて、麓《ふもと》までもどりますと、はからずも天蔵に出あいました」
「なに、渡辺天蔵が立ち帰ってまいったか」
「昼夜もわかたず、山越えで来たと申しまする。――そして、信玄の死は、うごかぬ事実とのことでした」
「……やはり……そうか」
「細かくは申しあげませんが、甲府の内輪には、さあらぬ表面のかげに、歴然たる憂色がうかがわれる由です。――はや、まちがいのないことと、お認めあってよかろうかと存ぜられます」
「まだ、喪《も》はかたく、外部に秘しておるのだな」
「もちろんです」
「――と、他国は知らんな」
「いまのうちなれば……」
「そうだ、今のうちだ。……天蔵にはかたく口どめしておいたろうな」
「御念には及びません」
「したが、乱波者《らつぱもの》などには、心のいやしい者もある。まちがいはないか」
「かれは蜂須賀《はちすか》彦右衛門の甥《おい》ですし、いささか義に感じて、わたくしに仕えおるもの、そのへんの儀は」
「でも、万一があってはなるまい。賞はとらすが、体はこの城内にとめおいて、事のすむまで、監禁しておいたがよかろう」
「いけません」
「なぜ」
「そういう人使いをいたしますと、次の大事の機会には、もうこんどのように、死に身になって働こうという気が出なくなります。――また、かれの人間は信じぬが、功によって、賞は与えるというような扱いをすると、何かの折、敵から莫大《ばくだい》な利を喰らわせると、それに心がうごくようになりましょう」
「では、どこへ留めおいたか」
「さいわい、ゆう[#「ゆう」に傍点]も戻るところでしたから、於ゆうの女《おんな》駕籠《かご》を守ってまいれといいつけ、長亭軒《ちようていけん》の城のほうへ送りつかわしました」
「夜を日についで、甲州より帰って来たとあれば命がけ。その者に、そちはすぐ、自分のおんなの送りをいいつけたのか。――それで天蔵は、そちを恨まぬのか」
「よろこんで附いて参りました。おろかな主人でも、私というものを、よく知っていてくれますから」
「そちの人づかいは、ちと信長とちがうようだな」
「なお、安心なことは、女子ながら、ゆうの側におけば、もし天蔵がひとへ機密をもらすが如き気ぶりでも見えれば、すぐ刺し交《ちが》えてでも守りましょう。よく云いふくめておきましたから」
「自慢はよせ」
「おそれ入りました。つい」
「そんなどころでない。――甲山の猛虎《もうこ》が斃《たお》れたからは、猶予《ゆうよ》もならぬ。世上に信玄の死が知れわたらぬうちこそじゃ。――藤吉郎、そちはこよいのうち発足して、横山へいそいで帰れ」
「もとよりすぐ、そのつもりでしたから、ゆうも長亭軒のほうへ戻しましたので」
「余事を申すな。……わしも眠るいとまはあるまい。夜の明け次第に出陣する」
信長の思うところは、そのまま、藤吉郎の考えていることだった。
平常に窺《うかが》っていた機会――かねての宿題を仕果す時は今だという直感である。
その宿題とは。
いうまでもなく、旧態の公方家《くぼうけ》という厄介ものを始末するにある。室町幕府なる複雑怪奇な存在によって起るさまざまな煩《わずら》いを、一挙に解決して、中央の明朗化をはかるにある。
いうまでもなく、それに代らんとする新時代の登場者として、信長の進出は急速に実現され、翌三月二十二日、勃然《ぼつぜん》とうごいて、大軍いちどに岐阜城から雷発した。
湖岸まですすんで、軍はふたつに分れた。
右するは信長を中心として、丹羽長秀《にわながひで》の迎えと合し、大船数隻にのって、一路湖上を西へ向ってゆくもの。
また、陸路左へさして、湖南をすすんで行ったのは、柴田、明智、蜂屋《はちや》などの諸部隊である。これは堅田《かただ》から石山あたりに、いまなお蠢動《しゆんどう》している僧門内の、反信長勢力を駆逐《くちく》し、途中の諸処に構築中の木戸|防寨《ぼうさい》などを撃砕《げきさい》してゆくものだった。
「疾風《はやて》が来た」
「すわ、信長」
洛中のさわぎ、わけて二条御所と称《とな》えている義昭《よしあき》の館《やかた》は、色を失って、
「抗戦か」
「和を乞うか」
を、にわかに評議しはじめた。
二条の公方《くぼう》がたでも、大きな宿題をもっていた。
それはことし天正元年の正月早々、信長から正面をきって、義昭にぶつけてよこした十七ヵ条の諫書《かんしよ》――つまり意見書に対する明瞭な返辞をまだしていないことである。
十七ヵ条の諫書には、冒頭、
条々、
として以下、ひとつ何々、ひとつ何々の事というふうに、信長が日ごろ義昭にいだいている不満、苦情、鬱懐《うつかい》などのかずかずを、箇条書として、痛烈に弾劾《だんがい》したものであった。
まず義昭が、二条へ入館以後も、旧態依然として、皇室にたいし奉ってすこしも勤王のこころざしがないこと。
その不忠節は、前代|義輝《よしてる》将軍も同様であったが、わけても当今|至尊《しそん》につかえまつる念がうすく、幕臣どもみな王事を閑却《かんきやく》しているふうがある。
――これは何事か。
と、詰問的に責めているのを第一条として、そのほか十六条にわたって、義昭の不信、悪政、陰謀、公事訴訟《くじそしよう》の依怙《えこ》から、金銀の横領などにわたる私的行為の不徳までを、綿々、烈々、辞句にかざりもなく認《したた》めて突きつけた弾劾文《だんがいぶん》であったのである。
それに対して、
「僭越《せんえつ》だ」
義昭は充分に怒った。
「――自分は将軍である」
落魄流寓《らくはくりゆうぐう》時代のひがみもある。信長に庇護《ひご》されて二条に立ったという、日ごろの気がね[#「がね」に傍点]も勃然《ぼつぜん》と反撥する。――怯者《きようしや》の怒りは、時によると、盲目的に、すて[#「すて」に傍点]鉢をあらわすものである。
「たれが、信長ごとき、一地方の領主に、屈しようぞ。義昭から彼にたいして、服従をちかう理由はない」
諫書《かんしよ》は、ふるえる手から、一擲《いつてき》されて、かえりみられなかった。
信長のほうから、朝山日乗《あさやまにちじよう》、島田|所之助《ところのすけ》、村井長門守などが、こもごも和談のあつかいに来たが、退けて会わなかった。
そして、その返辞のように、堅田《かただ》や石山方面の――京にはいる通路へ木戸や防寨《ぼうさい》を築いていたものである。
信長が待っていた「時」も、藤吉郎が計っていた「時」も、そこを押し通って、義昭に十七ヵ条の返答を面詰《めんきつ》する適当な時節であった。そしてその時節は、ふたりの予想していた以上早く来た。信玄の死が、それを急に与えたのであった。
いつの時代でも、亡ぶ者が、かならず抱いている滑稽《こつけい》な信念は、
(おれは亡ぶ者でない)
という錯覚《さつかく》である。
義昭将軍などは、その過《あやま》ちを、もっともよく身にあらわして、盲動派の傀儡《かいらい》となるに都合のよい、位置と性格の人だった。
また信長の眼からも、べつな意味で、
(あれもつかえる道具の一つ)
として見られ、尊《とうと》まざる貴重扱いを、日頃うけているのであった。
しかしこの時代価値のない将軍家は、自分の値《ね》ぶみ[#「ぶみ」に傍点]を知らないし、何を思惟《しい》するにも、知識的で、その知識がまた室町文化からすこしも出ていないのである。せまい京都だけの文化面を、日本の様態とながめて、依然たる小策をたのみ、その恃《たの》みを本願寺の僧団や、諸国の信長の敵なる群雄に依存していた。
信玄の死を、彼はまだ知らなかったらしい。
だから強がった。
「予は将軍家だ。武家の棟梁《とうりよう》。叡山《えいざん》とはちがう。もし信長が二条へ弓をひくならば、信長は求めて、反逆の名を負うものだ。諸国の武門がゆるすまい」
一戦も辞さぬ態度を示して、近畿の兵家に檄《げき》をとばし、もちろん浅井、朝倉、越後の上杉、甲州の武田家などの遠方にも、急使を送って、ものものしげな防備にかかった。
信長は、情報を聞くと、
「公方どのの顔がみたいな」
一笑を、洛中に向けて、そこへは一日も軍を停めず、大坂へ出てしまった。
ふいを衝かれたのは石山本願寺である。にわかに信長の軍を迎えて、なすところを知らなかった。
しかし、信長は、
「いつでも叩くぞ」
と、いう陣容だけを示すにとどめている。兵力の消費は彼のいまもっとも避けようとしているところだった。そしてこの間に、使者はたびたび京都へ出向いている。
この正月、信長よりさしあげた十七ヵ条の意見書にたいするお答えは如何《いかが》? ――であった。
またそれには、強硬な最後|通牒《つうちよう》の意味もある。
義昭《よしあき》としては、将軍家という司権者の立場から、自分の諸政にたいする信長の意見書などに、耳をかす気もなかった。けれどただ十七ヵ条のうち二箇条だけは、強硬《きようこう》に迫られると、困る問題だった。
それは第一条の、
――武門|棟梁《とうりよう》の職にあって、王城のもとに館居しながら、朝廷に参内もせず、王事をかえりみぬ不臣の罪。
と、第二条の、
――天下の泰平をはかり治安民福を任とする位置にありながら、諸国へ密使を通わせ、みずから乱をつくるなど大政|輔弼《ほひつ》の身にあるまじき狂態。
とをさした二つだった。
「むだです。ただ文書や使者をもってなさる詰問《きつもん》では、到底、うけつけますまい」
摂津《せつつ》で信長を迎えた荒木|村重《むらしげ》はそういった。また、義昭を去って、姿をかくしている細川藤孝も、陣見舞に来て、
「おそらく御自分の最後の日を、眼に見ぬうちは、将軍家の覚醒《かくせい》など、望み得ないことでしょう」
と、嘆いた。
信長はうなずいた。よく分っているらしい。けれど叡山でやった果断猛行《かだんもうこう》を、ここでは用いる必要もないし、また二度も同じ手法をくりかえすほど策の乏しい彼でもない。
「京都へ返せ」
四月四日、信長は発令したが、それは単に、大兵の行列を庶民に示す運動にすぎなかった。
「それ見い。長陣はゆるさぬ。信長がまた例のごとく、岐阜《ぎふ》に不安をおぼえ、あわてて兵を退《ひ》いて行くことを」
義昭は、左右へ云って、得意であった。
けれど情報の次々とはいるに従って、顔色を変じはじめた。
こんども洛外を通過し去るものと多寡《たか》をくくっていると、大坂からの沿道、示威運動をかねて、悠々と流れてきた織田の大兵は、そのまま洛中へはいって来た。
そして、鬨《とき》の声《こえ》もあげず、演習よりもしずかに、いつのまにか義昭の二条の第《てい》をとりかこんでしまった。
「皇居にお近いから、ふと内裏をお愕《おどろ》かせ申してもならぬ。粛《しゆく》として、馬蹄喊声《ばていかんせい》をつつしみ、ただ横着|公方《くぼう》の罪を責めればそれで足る――」
と、いう信長の命令が、よく足軽のはしにまでゆき届いていた結果である。
鉄砲もひびかない。弓鳴《ゆな》りもしない。不気味なことは、かえって喧騒震撼《けんそうしんかん》するよりも甚だしい。
「大和《やまと》。どうする気だろうな? 信長はわしを」
義昭のつぶやきに三淵《みぶち》大和守は、
「情けないお覚悟、この期《ご》になっても、まだ信長の心がおわかりになりませぬか。信長はあきらかに、あなたを攻めに参ったのです」
「でも、わしは将軍であるぞ」
「乱世です、そのような御自尊がなんの恃《たの》みになりましょう。御決戦のお肚をすえるか、和をお講じになるしかございますまい」
侍臣三淵大和守は、そう云いながら涙を溜《た》めた。
細川|藤孝《ふじたか》とともに、義昭が落魄《らくはく》していた頃から側を離れずにいた功臣であった。藤孝が、諫言《かんげん》いれられず、身をかくして後も、大和守はつねに左右に仕えていた。
(この辛抱は、栄誉のためでもない。保身の策でもない。明日どうなるかもわかっている。――それだけに、この暗愚な将軍家を、どうして見捨てられよう)
大和守は或る折、鹿苑寺《ろくおんじ》の一僧に、しみじみとそう述懐したことがあったという。――たしかに彼は、救うべからざる義昭の性情と、時代の行くところを知りながら、じっと、いまの二条の第《てい》にふみとどまっているらしい眉根をしていた。年はもう五十を半ばもこえた武将だった。
「和を乞う? ……将軍のわしから、信長ずれに和を乞わねばならぬ理由があろうか」
「一にも二にも、将軍家なる名分に囚《とら》われておいであっては、このまま御自滅のほかありません」
「勝てまいか、戦って」
「勝つわけにはゆきません。勝つと思し召して、この第《てい》に、防禦をなされたのなら、笑止千万です」
「では、な、なんのために、そちをはじめ、武将どもは、物々しゅう甲冑《かつちゆう》をしたか」
「せめては、死に花をかざらんものと思いまして。……二条の第に、覚束《おぼつか》なくも、鉄砲をならべ、楯《たて》をかこみましたのも、足利《あしかが》御代々のいまや終ろうとする墳墓《ふんぼ》に、多少のさむらいはあるぞと、花を立てておるに過ぎません」
「……待て。撃たすな、へたに鉄砲などを」
義昭は奥にかくれて、日野、高岡などという誼《よし》みのある公卿《くげ》と、額《ひたい》をあつめて、凝議《ぎようぎ》していた。
午《ひる》すぎ、日野参議から、ひそかに城外へ使いを出した。つづいて、信長方から、京都奉行の村井民部が来、夕方ちかくなって、公式に信長の使者として、織田大隅守《おだおおすみのかみ》信広が見えた。
十七ヵ条の諫書に対して、
「以後は、条々、慎んで守るであろう」
義昭は、本心にはないことばを、信長の使者へほろ苦い顔して誓った。やむなくその日、和を乞うたのである。
信長の兵は、退《ひ》くもまた静かに、岐阜へ帰って行った。
けれど、それからわずか百日とたたないまに、改めて、その軍はまた、二条をかこんだ。――もちろん理由がある。四月の和談以後も、義昭のやり口は、ひとつとして反省されていなかったのである。
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去《さ》りゆく人々《ひとびと》
二条|妙覚寺《みようかくじ》の大屋根は、初秋七月の長雨に、蕭条《しようじよう》と打ちたたかれていた。
信長の本営である。
こんどの出陣には、琵琶湖《びわこ》を例の大船で渡って来るときから、ひどい雨と風だった。
将士の戦意はそれがためむしろ荘重を加えている。雨と泥にまみれた軍隊が、足利家《あしかがけ》の第《てい》を厚ぼったく取り巻いて、
「いつでも」
と、命令一下を待機している形だった。
首にするも、捕虜にするも、将軍|義昭《よしあき》の運命は、完全にもう味方にある。信長の将士は、やがて屠殺《とさつ》にかかる高貴な猛獣を、しばし檻《おり》の外から見ている感じだった。
「どうなさる思し召しですか」
「いまさらどうもこうもない。このたびはゆるさん。断乎《だんこ》、世に代って、彼に最期をつきつけるまでのこと」
「――が、将軍職です、あいての公方《くぼう》どのは」
「知れきったことを」
「なお、ここでもうひとつ、御分別の余地がありませぬかな?」
「ない。――もはや断じてない」
信長の声と、藤吉郎の声がもれる。
外はきょうも雨に暮れかけているうす暗い寺院の一室だった。まだ七月の残暑にこの長雨なので、金泥の仏体にも墨絵の襖絵《ふすまえ》にもカビが生《は》えそうな蒸《む》しあつさである。
「御分別をと願うのは、御短慮なりとお諫《いさ》め申す次第ではありませぬ。――将軍の職は、朝廷の御任命によるもの、その官職にたいし、畏《おそ》れあるやに思われるのです。それと、世上の反信長党に、将軍|弑逆《しぎやく》という絶好な旗じるしを与え、正義を唱えさすなども、下策《げさく》でないかと考えられますが」
「……ム。それもあるな」
「さいわいなことに、義昭将軍はあの柔弱ですから、もはやのがれ難い窮地とわかりきっていながら、まだ自刃もせず決戦にも出ず、この霖雨《りんう》に濠《ほり》の水嵩《みずかさ》がふえたのを、いささかの恃《たの》みに、館門をとじております」
「――で、どうせいというのか。そちの策は」
「わざと一方の囲みを解いて、将軍の逃《に》げ途《みち》を設けてやるのです。他国へ落ちて行かれるように」
「将来の厄介ものになりはせぬか。またぞろ、地方の武力や野心の徒に利用されると」
「いや人心は次第に義昭という人物へ、あいそをつかして行くでしょう。それが自然に分ってまいれば、将軍家が中央から追われたのも、やむを得ない成り行きと納得し、信長の処置も、正しかったのであると得心いたしましょう」
――その夕方からである。
包囲軍は、囲みの一方を解いて兵の手薄を見せた。
第内《ていない》の公方軍は、
(計略だろう?)
と、疑っているらしく、夜半までなんの行動にも出て来なかったが、雨の小やみになった明けがた近く、突忽《とつこつ》として、一隊の兵馬が、濠橋《ほりばし》を渡って、洛外に逃げていった。
「たしかにその中に、将軍家が混《ま》じっていたようです」
報告があると、信長は、
「そうか、空家になったか。空家を攻めても効はないが、歴世十何代、足利義昭にいたって、将軍家はみずから職を抛《なげう》って遁亡《とんぼう》した。室町幕府はここに終りを告げた。一攻め押して、鬨《とき》の声をあげろ。足利十五代の悪政のあとを弔《とむろ》うてやれ」
と、暁の陣前へ出て云った。
二条の第《てい》は、一押しに踏みつぶされた。館中の旧臣は、あらかた降伏した。日野、高岡の二卿も出て、信長に詫びを入れた。
ひとり三淵《みぶち》大和守《やまとのかみ》は、子飼の郎党六十余人と共に、最後まで屈せずに戦った。ひとりも逃げず、ひとりも降伏せず、彼以下の六十余体は、武士の華《はな》となって、きれいに枕をならべて討死した。
腐敗しきった数百年の濠水《ほりみず》の底にも、なお一脈の真清水《ましみず》は涸《か》れていなかった。
義昭は京都を落ちて、宇治の槇島《まきしま》へたて籠《こも》ったが、もとより無謀、それに敗残の寡兵である。やがて信長の追撃が、平等院の川下、川上から押しわたると、一支《ひとささ》えもなく、捕捉《ほそく》されてしまった。
「床几《しようぎ》をさしあげい」
捕われて来た義昭のすがたを見て、信長は左右の将に云った。
うつ向いたまま、義昭が、与えられた床几へ力なく腰かけると、
「みな幕外に退《さが》れ」
ただふたりとなって、容《かたち》を正し、正視して義昭に云った。
「お忘れはあるまいが、かつてあなた様は、この信長を父とも思うと、仰っしゃったことがある。――二条の新館にすわられて、ひとたびは瓦滅《がめつ》した室町御所を、からくも再興なされた欣びの日であった」
「…………」
「お覚えか」
「岐阜《ぎふ》どの、忘れはせん、なんであの時のことを。また、いまとても」
「御卑怯である。信長は、あなたのお生命《いのち》など、こうなっても戴こうとしておるのではない。――なぜ、虚言《きよげん》をかまえられるか」
「……ゆるせ。わるかった」
「その御一言を聞けばよい。したが、さてさてあなたという者は、困ったお方ではある。身、将軍の職をつぐ位置にお生れありながら」
「……死にたい。岐阜どの、わしは、わしを、か、介錯《かいしやく》して」
「はははは。およしなさい。失礼ながら、お腹を召す作法も御存じはなかろう。信長は決して、あなたを心から憎む気にもなれぬ。ただあなたの火《ひ》悪戯《いたずら》は、あなたと信長のあいだに止まらず、国々へ飛び火する。庶民を苦します。――いや、何よりも、御宸襟《ごしんきん》をなやまし奉る。その罪の大を、ちとお考えあられたがよい」
「よく、わかった」
「では、何処へなと、しばし身をお慎みあったがよかろう。若公《わかぎみ》のおん身は、信長の手もとに止めおいて、行く末、お案じなきよう御養育申しあげよう」
義昭は、彼の陣所から、放たれた。――何処へでも自由にと。――つまり追放である。
義昭の一子は、藤吉郎が警固して、河内《かわち》の若江《わかえ》の城へ送った。これも、恨みを恩で酬《むく》われたとはいうものの、ひがみきっている義昭から見ると、
「ていよく、人質《ひとじち》に取った」
と、いう気持しかしなかった。
若江城には、三好|義継《よしつぐ》がいる。義昭も一時そこへ身をよせたが、
「ここにおいであっては、御身辺のほど、何とも、危のうぞんじます。信長は、ああ申しても、いつ心が変って、あなたに殺意を生じるかしれませぬ」
と、強《し》いて不安がらせた。
厄介な敗亡の貴人を、家に置きたくないからである。
義昭は、またあたふたと、紀州方面へ遁走《とんそう》した。そして、熊野の僧や、雑賀《さいか》の徒を、しきりと煽動《せんどう》して、
「信長を討ちさえすれば、こうしてやる。ああしてやる」
などと、なお将軍の名と権威をふりまわして、いたずらに世人の嘲笑《ちようしよう》を買ってあるいた。
紀州にも、長くはいず、やがて備前のほうへ渡って、浮田家に居候《いそうろう》しているなどとうわさされたが――以後しばらく、ようとして、その消息はたえた。
時代はここに一変した。
室町幕府の抹殺《まつさつ》は、密雲にとざされていた天に、突《とつ》として、青空の肌の一部が、穴のあいたように見えはじめたともいえるものだった。
久しい、実に久しい、それまでの日本のすがたは、どうだったか。
あってもないようなものの存在が、国家の枢要《すうよう》なところに、名だけをもっている時代ほど、怖ろしいものはない。
下剋上《げこくじよう》があらわれる。室町幕府の弱体は、余りにも、久しい前から、見すかされていた。
幕府はあったが、統一されたためしはない。武門は武門で、各地にあって、私権をふりまわし、僧団は僧団で、財力を山にあつめて、教権にたてこもる。そうなると、公卿《くげ》もまた公卿で、廟堂《びようどう》の鼠と化し、きのうは武家をたのみ、きょうは僧団をおだてて、政治を自分たちの擁護に濫用《らんよう》する。
僧国、武国、廟国《びようこく》、幕府、これがみな、ばらばらに、べつべつに、日本をわすれて私闘して来たのである。田も畑もたまったものではない。
いたましくも、豊葦原瑞穂《とよあしはらみずほ》ノ国《くに》は、こういういなご[#「いなご」に傍点]みたいな害虫の蝕《むしば》みにまかせて、荒れ放題《ほうだい》に国土を荒して来たといっても、そう過言ではない。すくなくも応仁の乱このかたの日本の乱れは。
そういう末期の人として、足利義昭などは、まだまだ人のよいほうといえよう。けれど捨てておけば、なお彼が、しがみついていようとした幕府、将軍職などというものの存在は、有害無益にちがいなかった。一日放置して置けば一日国家のみだれが長びく。
「やったな! 遂に」
天下の衆目は、信長の行動へ、ひとしく眼をみはった。
蒼空《あおぞら》を見たのだ。
けれど、密雲はまだ濃い。
「このあとをどうする?」
たれも、保証できなかった。一角の密雲がくずれると、一天すべて激変の相を呈しだすのが天象《てんしよう》のつねであり、地上の自然|均等《きんとう》である。
いや天地のうごきは、激変のようで、実はまた、極めて徐々と推移しているようでもある。
ここ二、三年のまに、過去となった重要な人だけでも、指を折るとかなりある。
西国の巨藩、毛利元就《もうりもとなり》の死んだおととしの同じ年に、東海の雄、北条|氏康《うじやす》が世を去っている。
しかし信長にとっては、ことしの武田信玄の死と、義昭の退場ほど、大きな意味を含むものはない。
わけて、たえず北の後ろをおびやかされていた信玄の死は、もう彼にとって、全力を注ぐほうへ注ぎ得る強味となった。
思うに、これからの将来は、一そう戦乱が激化するだろう。
――われこそ中原《ちゆうげん》へ。
と、室町幕府のないあとへ、旗を打ちたてて、諸国の武門が、競《きそ》い出てくるにちがいない。
その前提として、
「叡山《えいざん》を焼打ちし、将軍家を逐《お》った暴逆、信長を倒せ」
と、風当りを強めて来ることも疑いない。
信長は、そう観《み》る。
そしてその機先を制し、かれらに何の連携《れんけい》もつかないうちに、びしびしと叩いてしまうべきだと考えた。
「藤吉郎、そちはまず、身軽に先へいそいで帰れ。――いずれ信長も、近日のうちに、そちの横山城へ臨むであろうから」
信長のささやきに、
「では、お越しを、待ちあげまする」
と、それだけで、以後の方針はのみこんでいるらしく、藤吉郎は義昭の子を、若江の城へとどけるとすぐ、兵一小隊をつれて、まっ先に、近畿の戦場から北《きた》近江《おうみ》の横山へひっ返していた。
信長が岐阜へ帰ったのは、七月の末。
月をこえるとすぐ、横山から早打《はやうち》で、
――機は熟しました。いざ。
と、出馬の催促状《さいそくじよう》が、藤吉郎のまずい自筆で届いて来た。
北越の山ざかいを越え、雲の峰のくずるるような大軍が、残暑の七月、梁《やな》ケ瀬《せ》から田神山《たがみやま》を経、余吾《よご》、木《き》ノ本《もと》のあたりへ濛々《もうもう》と陣地を構築していた。
越前兵。
いうまでもなく一乗ケ谷から出てきた朝倉|義景《よしかげ》の大軍だった。
この七月末。
北近江の連盟国、小谷《おだに》の浅井久政、長政父子から、一鞭《いちべん》の飛信があって、
「――織田の大軍が、続々北上して来る。いそいで援軍あれ。もし救援がおそいと、当城のささえもおぼつかない」
と、あったので、
「よもや?」
と、評議では疑うものもあったが、何せよ盟約のてまえ、
「それゆけ」
と、急遽、一万の兵を先発し、その先発が田神山までゆくとすでに、
――織田の江北《こうほく》攻めは事実。
と知れたので、たちまち二万余の後続軍が発向され、主将朝倉義景も、このたびこそ大事と――その陣に加わったのであった。
なぜこうまで、越前の朝倉が、江北の戦いに大きな震駭《しんがい》をうけるかといえば、いうまでもなく、越前にとって浅井の北近江は、自家の国防の第一線といえる地勢にあるからだった。
宿命の地、小谷城にいる浅井|父子《おやこ》は、それまでにも、すぐ近くの地にある横山城(約三里のあいだ)に、木下藤吉郎というものが、信長のために、たて籠って、常に凝視のやじりを向けているので、手も脚も出ない苦境にあったのである。
その藤吉郎が、室町幕府最後の始末がすむかすまないうちに、疾風《しつぷう》のごとく畿内《きない》の戦場からひっ返し、また直ちに、岐阜へむかって、
「――もう頃あい」
と、戦機の熟したことを報じて、信長の大軍をよび迎えたものである。
その間、実に、半月というまもない迅《はや》さだった。
八月初旬。
信長はもう浅井攻めにとりかかっていた。
藤吉郎の案内で、かれは虎御前山《とらごぜやま》の高所へのぼって、作戦をねりあった。
「あれが八|相山《そうやま》、宮部《みやべ》ノ郷《さと》、小谷から横山まで三里のあいだを、鹿垣《ししがき》、柵《さく》をもって遮断《しやだん》すれば、敵の出ずる道はもう一方しかありません」
藤吉郎はつぶさに説明する。さながら自分の庭園の設計を説くようにである。
幅三間の軍用道路が横山まで通った。城へ迫って五十余町のあいだ高い牆壁《しようへき》を作ってしまった。そして渓流の水をせき入れて、道路の安全をはかる一方――持久戦の腰を示した。もろもろの防寨《ぼうさい》などもすべて、半永久的に築いたのである。
こうしたら敵も決戦に出てくるに相違ない。
と、計ったのである。
だが、智者のはかりも外《はず》れることがある。自己の廉恥《れんち》と気もちでひとを考えた時である。浅井父子は、いよいよ朝倉の外援をたのむのみで、自身から討って出ることはしなかった。
しかし信長は、それ一策を恃《たの》んではいなかった。兵家にはかならず変通がある。かれは、俄然《がぜん》、鉾《ほこ》を転じて、木《き》ノ本《もと》を衝《つ》いた。――越前軍へ急襲したのである。
八月十三日、その日、織田軍の手にあげた首級だけでも、二千八百余級。
十四日、十五日も、逃げくずれる敵を追って、梁《やな》ケ瀬《せ》から田神《たがみ》、田部《たべ》、引田《ひきた》などという部落部落を、残暑に乾ききっている夏草の野を、血しおで黒くするほど駈け捲《ま》くした。
「こうも弱いか。越前は」
越前の心ある将士は、味方のふがいなさに哭《な》いた。
けれど、そういう猛将や勇士は、かならず取っ返しては討死した。なんのための弱さか、なんのゆえに織田軍に当りきれないか、ふしぎというほかはない脆《もろ》さであった。
亡ぶものは亡ぶ素因《そいん》を多分に持って、当然な崩壊《ほうかい》の一瞬に来るのであるが、その瞬間には、自他共に、
――あれほどな大廈《たいか》が。
と意外に思う。
しかしあらゆる興亡の現象には、すべて当然があるのみで、奇蹟や不思議はすこしもない。朝倉勢の弱さなども、主将|義景《よしかげ》の行動を見るだけでも、その理由がわかる。
潰走《かいそう》する味方にまじって、梁ケ瀬から逃げて来る途中、すでに義景は、織田軍の猛烈な追撃に度を失って、
「だめだ! 逃げきれん! もう馬もわしも疲れた。美作《みまさか》美作《みまさか》、山へ」
と、反撃を試みようとする策もなければ気力もない。ただ身一つを考えて、急に馬をすてて山中へ隠れようとしたほどだった。
託間美作《たくまみまさか》という重臣は、
「そんなことでどうしますか」
と、哭《な》かんばかり叱咤して、彼の太刀帯《たちおび》をつかんで引き戻し、無理に馬へ騎《の》せて、越前の方へ落した。
そして自分は、義景を逃がすためにふみとどまり、千余の手兵をもって、驀進《ばくしん》して来る織田軍を、幾刻《いくとき》かそこで支えていた。もちろん美作以下、枕をならべて、惨憺《さんたん》たる全滅をこうむったことはいうまでもない。
そういう忠誠な臣下を犠牲にしながら、義景は、本城|一乗《いちじよう》ケ谷《たに》にこもって、祖先の地を死守しようという気ももたなかったのである。
城へもどると、妻子一族をひきつれて、大野郡の東雲寺へ深くかくれこんでしまった。城池《じようち》の中にいると万一の際、遁《のが》れる道もないからだった。
主将がその有様なので、そのほかの将卒もみな思い思いに分散した。
ひとり本城に残った桑山清左衛門という一将は、あまりのふがいなさに、声をあげて哭《な》いたという。
「藩祖|教景公《のりかげこう》このかたここに五代、越前の名門|庶流《しよりゆう》、あわせて三十七同族、世々|恩顧《おんこ》のさむらいを養うことも何十万、それがいま、祖先の地を敵兵に蹂躪《じゆうりん》され、本城も墜《お》ちんとするのに、ただひとり共に死のうとする者もないとは! さむらいの廃《すた》れか、君の御不徳か!」
清左衛門は、わずかな郎党とちかって、寄手《よせて》と一戦をまじえ、これまでと観念してひっ返すと、城内一乗ケ谷にある歴代の藩主の墓前で、腹を切って麗《うるわ》しい鮮血のなかに身を伏せた。
この父にはまた、この父の子らしい娘があった。名は伝わらぬが、芳紀《ほうき》その時十八であったという。
彼女は夙《つと》に美人のきこえがあった。美人が多いといわれる越路《こしじ》の花のうちでも、藩中第一の美人だろうと日頃からいわれていた。
けなげにも父を援《たす》けて城内にいたが、父の清左衛門をさがしているまに敵兵に捕まってしまった。
寄手の兵は気が立っている。仮借《かしやく》もなく引っ立ててどこかへ拉《らつ》して行こうとした。彼女は死にものぐるいに一時は反抗していたが、やがて、
「もうおてむかいはしませんから筆と懐紙を持たせてください。乳母へ一言書きのこせば、どこへでも神妙にまいりますから」
と、哀訴《あいそ》した。
前後をとり囲んだまま、兵が筆紙を持たせてやると、彼女は走り書きに何か書いて、それを下へおいたかと思うせつな、守り刀をぬいて、あッとまわりの者がさけぶまに、自害して果ててしまった。
懐紙は、点々、紅梅をちらしたように染まっていたが、なお鮮《あき》らかに乾かぬ墨の痕《あと》が読まれた。
世を経《へ》なば
よしなき雲も
おほひなむ
いざ入りてまし
山《やま》の端《は》の月
難攻不落も、腐る時は腐る。幾万の将兵も、その根幹に精髄《せいずい》をうしなえば、また片々たる落葉の脆《もろ》さに似てしまう。
越前三十七門の本城はいま最期の炎をあげたが、そのなかに一輪、名もない越路の花だけが薫々《くんくん》たる気を吐いた。
義景の最期は、浅ましいものだった。
信長の兵が、やがて亥山《いやま》を囲んだので、彼は、東雲寺にも居たたまれず、山田の六坊へ奔《はし》り、そこの堅松寺《けんしようじ》に潜伏した。
「もはや遁《のが》れるすべもござりますまい。あなた様は越前三十七門の御惣領《ごそうりよう》、たとえ降伏して擒人《とりこ》となられても、信長が、お命を助けおくわけはありません。さる生き恥をさらさんよりは……」
と、一族の魚住景賢《うおずみかげかた》と朝倉景雅《あさくらかげまさ》のふたりが迫って、とうとう義景に対して、自決をすすめるまでの窮地となった。
もう堅松寺《けんしようじ》を遠巻きにして、海鳴りのような兵馬の音が、刻々、耳ぢかく聞えていたのである。
「……だめか」
と、一言つぶやいて、義景はまッ蒼な慄えを顔に走らせたが、自分に死をすすめる二人の親族も共に死ぬものと思って、山門の方でバリバリッという凄まじい震動のきこえた刹那、急に屠腹《とふく》して、俯伏《うつぷ》した。
「お。――お果てなされた」
それを見ると、景賢《かげかた》、景雅《かげまさ》のふたりは、あわてて立ち去ろうとした。
騙《だま》したのである。
しかもこの悪臣の二名は、それより前に信長へ降伏を申し入れ、義景のありかへ敵を導いていた者だった。
「おのれッ、どこへ去る?」
と、近習の鳥居|某《なにがし》、加藤景政、小姓の高橋甚三郎などが、怒り立って、ふたりを本堂の外へと追いかけたが、時すでに遅しであった。信長の兵は、怒濤《どとう》のごとく寺内へあふれこんでいた。
越前一国はここに亡んだ。
かなしい哉《かな》、義景もまだ若かった。四十一の男ざかりだったのである。――しかも歴世の国富を擁《よう》し、名門に生れ、天嶮《てんけん》と沃地《よくち》をもち、そしてまたとない時代に遭《あ》いながら、その生命を、実に勿体ないほど、つまらなく終ってしまった。
彼にも、足利公方《あしかがくぼう》の義昭と、どこか共通している錯誤《さくご》と性格があったのである。時代の奔激《ほんげき》をあくまで甘く見て来た顕門《けんもん》のお坊ッちゃんは――こうして次々に溺れてゆくしかなかった。
彼の死や、足利公方の亡滅にくらべると、天下の器《うつわ》とはいえないかもしれぬが、信玄の死などはもっと深く惜しまれる。
一時甲州では、ふかく喪《も》を秘していたが、この秋、隠れもなく知れわたって、甲州の武田信玄の在世は、もう誰も信じるものはなくなっていた。
信玄に死なれて、一時に気を落とし、甲山峡水《こうざんきようすい》の勇猛も、すっかり旌旗《せいき》の色が褪《あ》せたようだ――といわれただけでも、信玄の存在はやはり大きかった。またその為人《ひととなり》も平時の心がけも、義昭や義景などという修養のない若輩とは比較にならなかった。
国持大名が侍を召し抱えるのに、いわゆる武勇一徹や行儀者ばかりを尊重する風をわらって、
「おのれの好みによって、同じ型の人物ばかり揃え、人間を一律《いちりつ》にみること信玄は大嫌いである。――春は桜の色めき[#「めき」に傍点]、秋は紅葉《もみじ》のいさぎ[#「いさぎ」に傍点]よさ、夏の清涼淡々たる、冬の黙々と鈍重なる、みな人間にもある特質で、いずれを是《ぜ》、いずれを非ともいえない。要は、用うる者が天体のごとく、それらの人々を自然大にうごかせば、万象《ばんしよう》みな有能でないものはない」
と、語っている如きは、彼の人間観や、また家士を養う心がけの窺《うかが》えることばである。
また、彼はつねに、分別ということをよく云った。小才や機智を嫌って、
「遠慮――すなわち遠き慮《おもんぱか》りを常にもって、日々の近きを処してゆくのが、百難の道をあゆむ法ぞ」
と、近親に訓《おし》えたが、その折に、
「――が、ただ人間の寿命だけは、遠い慮《おもんぱか》りでは及びがたい」
と、云いたして、呵々大笑《かかたいしよう》したことがあったという。
その及び難いところへ、彼も遂に逝《い》ってしまった。そして地上の圏外からこの地上の争覇《そうは》を、今は永遠の傍観者として、脾肉《ひにく》の嘆きもなく、公平に観《み》ていることであろう。さだめし自嘲をおぼえていることであろう。
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お市《いち》の方《かた》
秋もさかりである。八月の末、二十五、六日の頃には、信長はもう北《きた》近江《おうみ》の小谷《おだに》をかこむ虎御前山《とらごぜやま》の陣地へ、帰っていた。
ここへ来てからの信長は、
「小谷の城は落ちるのを待て」
と、いったふうに、至極おっとり構えていた。
電光石火《でんこうせつか》の陥滅《かんめつ》を与えた越前の戦後の経営も、彼は、一乗ケ谷の余煙がまだのぼっているうちに、体だけを、急速にここへ引っ返して、ここから何くれとなく指令を出していたほどだった。
越前の降将、前波吉継《まえなみよしつぐ》を、豊原の城へおき、同じく朝倉景鏡《あさくらかげあき》に、大野城の守護を命じ、富田|弥六郎《やろくろう》に府中の城を――と、いったふうに、旧領の事情に精通している旧将を多く用い、その目附として明智十兵衛光秀だけを抑えに残して来たのである。
ここには、光秀以上、適任なものはあるまい。かつて浪々の不遇時代に、朝倉家の家臣となり、一乗ケ谷の城下にも住んでいたことのある光秀は――そして当時家中の人々から冷眼視されて、ここでも世間へ泛《う》かび出せなかった過去を持つ光秀は――いま、まったく反対な立場になって、旧朝倉の一族を監視した。多少の得意とさまざまな感慨が、光秀の胸を往来したことであろう。
それに、光秀の才識は、事ごとにみとめられて、いまや彼は、信長の寵臣《ちようしん》のひとりだった。
人を見るに人いちばい明敏《めいびん》な彼は、ここ数年の戦《いくさ》や、日々の奉公によって、信長というひとの性格もよくのみこんでいた。信長の顔いろ、片言《かたこと》、気色など、鏡にうつして見るように、遠くにいてもわかっていた。
彼は、越前から日に数度の早馬を立てた。かりそめにも、わたくしな専断をせず、いちいち信長のさしずを仰いだ。
その文書や書簡などを、信長は、虎御前山《とらごぜやま》の陣所で、毎日、うららかに見ては、裁決を与えていた。
「戦《いくさ》も、こんな戦ばかりだと、のん気なものだな」
「ばかをいえ。その心があぶない。今夜にも、どんな御命令が出るかわからん。――敵の浅井一族といっても、あの堅めをみると、存外、手強《てごわ》そうだぞ」
「守りきる覚悟かしら」
「もとよりだろう。北《きた》近江《おうみ》六郡、あわせて三十九万石の本城支城が、そう将棋|仆《だお》しに陥ちるはずはない」
陣外ものどかである。哨兵《しようへい》たちが雑談していた。雲もない一碧《いつぺき》の空に、かさなり合っている山々の秋色《しゆうしよく》、その裾に見える湖の明るさ、ふとすると、禽《とり》の音《ね》に、欠伸《あくび》を誘われそうだった。
「あ。……木下様が来る」
横山城から、すぐ山むこうまで陣地をすすめている藤吉郎であった。四、五人の郎党をつれて、大股に彼方《かなた》の沢を下りてくる。何か、従者と笑いあっている。秋《あき》の陽《ひ》に、歯が白い。
たちまち近づいて来ると、
「やあ。……やあ」
右へいう。左へ会釈《えしやく》する。
洲股《すのまた》の城を築き、横山城をあずけられ、その任も位置も、いつのまにか、織田軍の将校中では、嶄然《ざんぜん》重きをなしてきた彼であったが、まことに相変らずである。
(彼は少し軽々しいよ)
と、部将のうちでは、自分たちの重々しさにくらべて、軽忽《けいこつ》と評するものもあるけれど、また一部からは、
(いや、彼は、位負《くらいま》けしないのだ。一躍|禄高《ろくだか》が上がっても、きのうの彼と変らないし、御小人《おこびと》から士《さむらい》になり、また忽ち一城のうえに坐っても、あのとおりだ。まだ相当なところまで禄を漕《こ》ぎつけるだろう。――とにかくいいところがあるよ、あの男は)
と、いう評もあった。
まずこの辺の理解者は、彼にたいして、最大な好感をもっているほうで、その数はもとより百人にひとりくらいなものだった。
ぶらりと、藤吉郎が、本陣に顔を見せたと思うと、いつのまにか、至極、簡単に信長を誘いだして、山のほうへ登って行ったものである。
「怪《け》しからぬやつだ」
柴田勝家、佐久間|信盛《のぶもり》などは、営外まで出て来て、
「あれだから憎まれずともよいのに人に憎まれるのだ。どうも小才《こさい》を弄《ろう》すやつほど不快なものはない」
と、唾《つば》しながら、彼方《かなた》の沢を、信長に従《つ》いて縫《ぬ》ってゆく藤吉郎の影を見送っていた。
「われわれに、何の目的も告げず……。諮《はか》らいもせずに」
「第一、危険至極ではないか。いくら白昼でも、ひろい山地には、敵の忍びもいる。もし遠くから狙撃《そげき》でもされたらどうするか」
「殿も殿。ちと……」
「いや。木下がいかん。多勢してお附添いしては、眼につくなどと、殿に阿《おもね》って」
勝家や信盛以外の幕将たちも、決して快《こころよ》くなかった。
いずれどこか、山の高所へお供して、藤吉郎が例の智弁で、なにか作戦上の献策でもするつもりだろうとは察しられたが――そもそもそのこと自体が不快でならなかった。その不快は、
「われわれ帷幕《いばく》の謀将を、無視しておる」
と、いうところにあるらしい。
そういう人間の機微《きび》は分らないのか、無関心なのか、藤吉郎はまるで遊山《ゆさん》にでもゆくような笑い声を、時々、山あいの静寂《しじま》に発しながら、信長の先頭に立ってゆく。
彼の郎党と信長の従者と、あわせてわずか二、三十人の小隊でしかない。
「汗ばみますな、山を登ると。――殿、お手を引きましょうか」
「たわけたことを」
「もうわずかです」
「登り足らんな。もっと高い山はないか」
「生憎《あいにく》とこの辺には。……やあ、しかしだいぶ高い」
汗をふいて見まわした。
信長もそこに立った。――立ってふと、附近の谷間や沢を上から見下ろすと、いたるところに、藤吉郎の手勢らしいのが、ふかく木の間にひそんで、万一を厳しく警戒していることが分った。
「お供の衆、各※[#二の字点、unicode303b]は、しばらくこれに休んでおられい。これから先は、大勢ではちと工合がわるい」
藤吉郎はそういって、信長とただ二人きりで、南の山鼻のほうへ、数十歩あるいて行った。
そこらはすべて樹木がない。飼糧《かいりよう》によさそうな柔らかい穂や芝草がいちめんに山肌をつつんでいる。
萱《かや》のあいだに、ちらと戦《そよ》ぐのを見ると、桔梗《ききよう》の花だった。太刀の帯革に絡《から》むのを見ると、女郎花《おみなえし》や葛《くず》の花であった。
一歩一歩、ふたりは、無言ですすんだ。海へのぞんでいるように、少しさきは何もなかった。
「殿……。お屈《かが》みください」
「こうか」
「なるべく、草の穂に、お身を紛《まぎ》らわせて」
そして、這うが如く、なお断崖のへり[#「へり」に傍点]まで行くと、眼の下の盆地に、忽然《こつぜん》と、鮮《あき》らかな城廓《じようかく》が望まれた。
「……小谷《おだに》の城です」
声を低めて、藤吉郎は、指さした。
信長はうなずいた。
無言のまま。
そのひとみに、何かふかい感情がつつまれている。単に、敵の本城に接しただけのものでない。
自分の大軍をもって包囲しているこの城中には、わが妹のお市《いち》の方《かた》が、城主の妻となってから、もう四人の子まで生《な》して、いまも暮しているのだった。
主従は、坐った。
秋草の花や穂が、ふたりの肩までつつむ。
眼の下の城廓を、あかず見つめていた信長は、その眼を、藤吉郎の面《おもて》へ向けた。
「……さぞ妹は、兄を恨んでいよう。我意《がい》もいわせず、浅井家へ嫁《とつ》がせたのは、この信長であった。――国を保《たも》つためには是非もない。わが家の犠牲《にえ》になれといいふくめられて、泣く泣く輿《こし》にかくれて行ったお市のすがたが……。藤吉郎、いまも信長は眼に見えるようなここちがする」
「それがしも、よく覚えております。夥《おびただ》しいお荷物、美々《びび》しいお輿。飾り馬だのお供の人々にかこまれて、湖北へ嫁がれた日の御盛事を」
「お市は、まだ十五の、何もしらぬ処女《おとめ》だった」
「小さくて、お可愛らしい花嫁すがたは、王昭君《おうしようくん》のようでした」
「……藤吉郎」
「はい」
「そちにはわかるであろう、信長の苦痛が」
「それゆえにこそ、てまえも苦慮しておりまする」
「この城ひとつ――」
と、信長は、顎《あご》でさして、
「踏みつぶすだんには、なんの造作もないが、お市の身を、怪我《けが》なく外に救い出そうと思うと……これは、一国の戦と、信長の煩悩《ぼんのう》と、ふたつにかかる難事となる。――というて、凡夫信長、そのいずれも捨てかねておる」
「ご無理はありません」
藤吉郎は、頭《かしら》を垂れた。彼も情痴の所有者である。信長の感情に富むところと、彼のそれとは、理解しあうことができた。
「先頃から――いちど小谷の地形が見たい、案内せよという御内意のあった時も、また、ここを措《お》いて、さきに越前の攻略をお果しなされたのも、そのお悩みによることとは、疾《と》くから拝察しておりました。――口幅《くちはば》たい申し方ですが、てまえから忌憚《きたん》なくいわせていただくなら、その煩悩こそ、殿のよいところと、人間の至情、何をか、臣下へ御遠慮がありましょう。失礼ながら藤吉郎は、一《ひと》しおわが殿の御美点を、もひとつ見出したようなここちにござりまする」
「そちだけだ」
信長は、舌打ちして、
「ここへ陣して、旬日をむなしくわしが過しておるを見て――柴田、佐久間、そのほか帷幕《いばく》の者どもも、解《げ》しかねる顔のみしておる。わけて勝家などは、わしが愚かを危ぶみもし、ひそかに嗤《わろ》うてもおるようだ」
「殿御自身が、まだ、いずれにしたものかと、お迷いになっておられるからです」
「迷わずにおれぬ。このまま小谷の外城から、ひとつひとつ粉砕して敵の死命をにわかに制せば、浅井長政父子のものは、かならずお市を監視して、炎の底まで、ひき連れてゆくであろう」
「まず、そうなりましょう」
「藤吉郎。そちは最前から信長の心に同意とは云いおるが、至極平然と聞いておる。……なにかそちに策でもあるのか」
「ないわけでもありません」
「では、なぜ早く、信長の意をやすめてくれぬか」
「近ごろ、献策はあまりせぬことに、みずから慎んでおるものですから」
「なぜか」
「帷幕《いばく》には、他に人も多うございますゆえ」
「余人《よじん》の嫉《ねた》みを惧《おそ》れておるか。それもうるさいことだ。しかし要は信長のこころ一つにある。まっすぐに、所存をいうてみい。……いや、よい策があらば、聞かせてくれい」
「篤《とく》、御覧なさいませ」
藤吉郎は指さした。
眼下の――小谷城|全廓《ぜんかく》を、その一指にさしていうのである。
「この城の特質は、三つの曲輪《くるわ》がふつうの城よりも、劃然《かくぜん》と、各※[#二の字点、unicode303b]独立しておるように分れていることです。すなわち一の曲輪には、大殿とよばれる浅井久政が住み、三の曲輪には、子息の長政どのと、御内室お市の方様やお子たちが住まわれておりまする」
「むむ……。あれにか」
「そうです。そして一の曲輪と三の曲輪との中間に見える一廓《いつかく》は――あの二の曲輪は、俗に京極曲輪《きようごくぐるわ》とよび、そこは老職の浅井玄蕃《あさいげんば》、三田村右衛門大夫、大野木土佐《おおのぎとさ》の三臣が固めておるのです。――ですから、この小谷を抜くには、尾を叩くよりも、頭《かしら》を打つよりも、あの京極曲輪をさきにお手に入れてしまえば、両曲輪は中断され、ふたつとも孤立無援のわびしいものと相成りましょう」
「そうか。……そちのいう意味は、中の京極曲輪だけを攻め陥《おと》し、そのうえで計《はかり》をなせと申すわけだの」
「いや、それも力をもって、無碍《むげ》に攻め陥《おと》そうとすれば、当然、一と三の両曲輪からも援けを出し、お味方は挟撃《きようげき》をうけて、勢い全体の激戦と化さざるを得ません。……さある時には、一挙にふみ潰《つぶ》すか、退いて弛《ゆる》めるか。いずれにせよ、御城内にあるお市の方様のお生命《いのち》など、どうなるか分らなくなりまする」
「それでは、どうするがよいと申すのか」
「やはり、お使いを立てて、浅井御父子に、よく利害を説いて降《くだ》し、城も無事に、お市の方様のお身も無事に、すべて難なくお手に入れることが、戦術の第一策にまちがいございません」
「それはすでに、二度まで繰り返しておること、そちも存じておる筈じゃ。安藤伊賀守を予の使いとして城中へつかわし、降伏なせば、小谷の旧領は、そのまま与えようと申し遣《や》り、また、恃《たの》みとする越前も、信長の手に収められたことなど、篤《とく》、云いつかわしてみたが、浅井父子の頑迷《がんめい》、すこしも顧みようとはせぬ。依然、強がっておるのみなのだ。……その強がりは要するに、信長の骨肉を、城中に抑《おさ》えておるゆえ、よも無二無三には攻め得まいと、お市の生命を、楯《たて》としていう強気に過ぎまいが……」
「いや、それだけでもありません。ここ一、二年、横山城にあって、自分がじっと観《み》ておりますに、長政どのには、さすがに英気もあり意地もあります。ただその意地が小さいだけですが、足利|公方《くぼう》や越前の義景どのなどの比ではありません。……で、一朝《いつちよう》、ここの攻略となった場合には、どうするが最善の策かと日頃から工夫をめぐらしておりましたので、いささかそれが今日に役立ち、もはやあの京極曲輪だけは、この藤吉郎の手に一兵も損せず、墜《おと》し入れてありまする」
「なに? ……何と申したか」
信長は、耳を疑った。
藤吉郎は、繰り返して、
「あれに見えます、二の曲輪です――。あの一廓《いつかく》だけは、もうお味方に収めてございますゆえ、御安堵《ごあんど》あそばすようにと申しあげたのです」
「まことか。……それは」
「なんで殿に、この折、そのような戯《たわむ》れを申しましょう」
「……が。信じきれぬ」
「ごもっともです。その真実はすぐお分りになりましょう。ただ今これへ、一名の僧と、一名の老将を呼び迎えますから、これにてお会い下さいましょうか」
「何者じゃ。そのふたりは」
「ひとりは宮部善性坊《みやべぜんしようぼう》というもの。もう一名は京極曲輪をあずかる老臣の一人、大野木土佐守にございまする」
藤吉郎は手を振った。
彼方《かなた》からひとりの士卒が、草のなかを屈《かが》み腰に駈けてくる。近くへ呼んで、何事かいいつけ、
「はやくせい」
と、すぐ追いやった。
そして信長に向い直して、
「ただ今、呼びにやりました。やがてこれへ連れて見えましょう」
と、いう。
信長は意外な面持《おももち》から解《と》かれなかった。この男のこと――とは充分に信じてもいるが、なお、どうして浅井家の老臣などを、自由にこれへ拉《らつ》して来るか、ふしぎな念を消しきれなかった。
だいぶ間がある――
そのあいだの座談として、藤吉郎は事もなげに、ふしぎでない理由を打ち明けた。
「横山の城を、殿から賜わってから、間もない頃のことで――」
と、彼は云い出すのである。
信長はいささか愕《おどろ》いた。まじまじとそういう彼の顔を見つめずにいられない。
横山城は、前線の要地なので、特に、浅井、朝倉の抑えとして、藤吉郎の隊を籠《こ》めさせたものである。暫定的《ざんていてき》な駐屯《ちゆうとん》の意味で命じたおぼえはあるが、城地をやると約束した記憶はない。
いつのまにか、藤吉郎のほうでは、貰ったようなことをいっている。――だが、この際だし、あとの話に、心をひかれている信長とて、ケチなことを糺《ただ》してもいられなかった。
「その頃とは、叡山《えいざん》攻めのすぐ翌年、そちが岐阜《ぎふ》へ年賀に見えた春さきのことか」
「さればで。――その途中、竹中半兵衛が、今浜のあたりで、発病したりなどいたし、予定がおくれて、横山へかかったのがもう夜にはいっておりました」
「長物語りは聞いている心地もせぬ。要をはやく申せ」
「それがしの留守と見、横山城は夜襲をうけていました。もとより直ちに撃退しましたが、その折、生擒《いけど》った敵方の勇僧に、宮部善性坊《みやべぜんしようぼう》なるものがおりました」
「生擒《いけどり》のものか」
「そうです。首にするところ、以来、ねんごろに養っておき、暇《ひま》をみては、時勢の将来を諭《さと》し、武門の本義を訓《おし》えなどしておりますうちに、彼のほうから進んで、旧主大野木土佐守を説き、また土佐守から他の老臣を説かせ、まったく手前に帰伏しておる次第でございます」
「まったくか」
「戦場に戯言《ざれごと》はございません」
「うう……む」
感服という度をすこし超えて、彼の遠い要意と、またそのあいだ閃《ひら》めいている狡《ずる》さに、信長もあきれ顔であった。
戦場に戯言《ざれごと》はない!
大言したとおり、間もなく、宮部善性坊と大野木土佐守は、藤吉郎の家来に導かれてそれへ来た。
遠く、草のなかに、ふたり平伏して、信長に謁《えつ》した。
信長は、なお、藤吉郎のことばに相違ないか否か、二、三のことを土佐守に質《ただ》した。
土佐守は、つつしんで、
「自分一存の降伏にはございませぬ。京極曲輪につめおる他の二老臣も、お敵対は愚《ぐ》、かえって、主家の滅亡を急がせ、領下の民をいたずらに苦しめるものと、ふかく反省いたして、木下殿まで、誓紙《せいし》をさしあげてあるとおりに所存をかためておりまする」
と、明らかに答えた。
「誓紙まで持っておるのか」
信長が、顧みて訊くと、
「もとより白紙のままで殿のお耳へ入れる気づかいはございません」
笑って彼は答えた。
まもなく信長は山を降り、藤吉郎と善性坊は横山の陣地へ。また大野木土佐守ひとりは、小谷の二の曲輪へ、間道づたい、ひそかに帰って行った。
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母《はは》の戦《たたか》い
長政《ながまさ》はまだ若い。
妻のお市《いち》の方《かた》とのあいだに、もう四人の子を生《な》しているが、その妻もまた二十三、四。彼もまだ三十には一つ欠ける。
ひろい小谷《おだに》の地を三分して、一劃《いつかく》ごとに一城を築き、長政はその三の曲輪《くるわ》にたて籠《こも》っていた。小谷城とは、三城あわせた総称である。
たそがれ頃まで、南の狭間《はざま》で小銃の音がかなり烈しく聞えていた。時折、格天井《ごうてんじよう》もゆすれるような大鉄砲の音が交《ま》じる。
「オオ……」
お市の方は、怯《おび》えたひとみを、思わずあげて、ひしと、ふところの児を抱きしめた。
まだ乳の離れない達姫《たつひめ》であった。
風もないのに、煤《すみ》を吐いて、ゆらゆらと火色の変じる短檠《たんけい》のあかりを見て、
「……怖いッ」
「おかあ様」
と、右のたもとへ、次女の初姫がすがると、ひだりの膝へも、長女の茶々《ちやちや》が、だまって、しがみついた。
さすがに、もうひとりは男だけに、まだ小さいが、母の膝へは来ない。側仕《そばづか》えの侍女《こしもと》をあいてに、棒などをふり廻していた。長政の嫡子《ちやくし》、万寿丸《まんじゆまる》だった。
「見せてよ。いくさを見せてえ」
万寿は、だだ[#「だだ」に傍点]をこねていた。侍女を、鏃《やじり》のない矢柄《やがら》で打っているのだった。
「……万寿。なぜ召使を打ちますか。戦《いくさ》は、お父さまがなされています。戦のあいだは、おとなしゅうしているのが、よいお子ぞと、お父さまの仰っしゃったことを、もうお忘れか。……郎党たちに笑われたら、大きくなっても、良い大将になれませぬぞ」
母のいう理《ことわけ》も、すこしは分る年ごろである。黙然《もくねん》と、聞いていたが、急に、
「戦《いくさ》を見たあい。いくさを見たあい」
大声で駄々泣きをはじめた。
傅役《もりやく》の者も、もてあましてただ眺めていた。そのあいだにも――だいぶ小歇《こや》みにはなって来たが――ばちばちと、小銃の音はきこえてくる。
長女の茶々は、もう六歳か七歳ごろ。
父の苦境や、母のかなしみや、一城の将士のもっている敵愾心《てきがいしん》なども、女の子だけに、なんとはなく分っていた。
少女《おとめ》にしては、ませ[#「ませ」に傍点]たことばで、
「万寿《まんじゆ》。わからないことをいうものではありませんよ。おかあ様がおいとしいと思いませんか。お父さまが、敵と戦っているのがわからないんですか。……ねえ、おかあ様」
弟を、たしなめると、万寿はこっちを見て、
「なにを」
矢柄《やがら》をふりかざして駈けだして来た。茶々を、打とうとするのである。
「この、お茶ッぴーめ」
茶々は、袂《たもと》をかぶって、
「あれッ……」
と、母のうしろへ隠れた。
「およしなさい」
なだめて、お市の方が、矢柄を取りあげ、静かにまた云い聞かせていた時である。
跫音も荒々しく、
「なんじゃッ、織田ごときが! ……。ついこの頃尾張の片田舎から時を得て、のさばり出た小侍にすぎないッ。信長|風情《ふぜい》に屈するわしか。浅井の家はすこしちがうぞッ」
聞えわたるような声を放ちながら、どやどやと、二、三の武将をしたがえてはいって来た人がある。いうまでもなく、この深殿《しんでん》へ、そうして無断に来るひとは、浅井長政のほかにはない。
「……オオ、みなこれにいたか」
ほの暗い短檠《たんけい》のあかりにしては、洞然《どうぜん》と広すぎるここの一間に、無事な妻子のすがたを見出すと、彼は、やはりどこかでほっとしたように、
「あ……少しくたびれた」
どかと、坐って、すぐ鎧《よろい》の一部を脱ぎ、うしろの部将たちへ向って、
「その方どもも、すこし休め。……たそがれの様子では、こよいの夜半あたり、敵は夜襲に出て来るかもしれぬ。……今のうち休んでおくがよい」
と、息もあらあらしく云った。
部将たちが立ち去ると、長政の心は、何かほッと息づいた。――戦《いくさ》の中にも、ここでは家庭の父であり良人である自分を、ふと見出したからである。
「夫人《おく》。……怖ろしかったか。夕方の銃音《つつおと》は」
お市の方は、子たちに囲まれながら、白い顔を横にふった。
「いいえ……。ここにおりますからにはなにも」
「万寿も、茶々も、泣き怯《おび》えはしなかったか」
「お賞《ほ》めくださいませ。みなおとなでございました」
「……そうか」
強《し》いて笑顔を見せて、
「安心せい。執《しつ》こく奇襲して来た敵も城中からのつるべ撃ちに麓のほうへ潰走《かいそう》した。……たとえこの後、幾十日、いや幾百日、織田の大軍が襲《よ》せようとも、屈する長政ではない。浅井一族ではない! ……。信長ごときに」
唾《つば》するように罵《ののし》ったが、急に口をつぐんだ。
短檠《たんけい》のあかりに反《そむ》いて、お市の方が、ふところの乳のみ[#「のみ」に傍点]へ顔を埋めたからである。
――信長の妹!
長政の感情が揺れた。どこやら信長に似ている面《おも》ざし、肌目《きめ》のよい頸《うなじ》から横顔の面長な線も、織田家の血液にある特質だった。
「夫人《おく》。泣いておるのか」
「いえ、泣いてなど、おりませぬ。……乳の出ぬせいか、姫が焦《じ》れては、時々、乳くびを噛みますので」
「乳が出ない? ……」
「ええ。この頃になって」
「ひと知れず、悲嘆を抱いておるせいだ。そなたの痩せが目だって来た。――そなたは母だぞ。母の戦《いくさ》だぞ、そなたの役は」
「わ、わかって……おりまする」
「むごい良人と思うであろうな」
憤然と、格天井《ごうてんじよう》を仰ぐと、彼女は、子たちを抱えたまま良人のそばへ身をすりよせた。
「……思いません! なんでお恨みなどいたしましょう。……何もかも宿命と観じておりますから」
「ただ宿命というだけでは、おたがい人間、諦《あきら》めきれるものでない。つるぎを呑むより辛かろうが、武将の妻、もっとはっきり理解をもて。そのうえの覚悟でのうては、まことの覚悟とはいえぬ」
「その理解を、持ちとうございまする。……けれど、女子《おなご》のあたまでは、自分は母ぞ、と思うのがいっぱいで」
「無理もない。平常、世上の知識も、表むきのことも聞かせず、いきなり解《わか》れと申しても。……今は話そう、はっきりと」
「…………」
「夫人《おく》。わしはそなたを娶《めと》る初めから、そなたを末長く契《ちぎ》る妻とは思い得なかった。父久政も、浅井の嫁とはゆるさなかった」
「えッ……なんと仰っしゃいましたか。いまの、いまの仰せは」
「かかる時こそ人は真実を吐くものだ。またとない折、長政はそなたに、心を打ち割ってみせるのじゃ。乱世の武人の表裏と詐謀《さぼう》のむずかしさ、また人間的な苦しさ……。いま世の裏を教えるのじゃ。悲しまず、疑わず、落着いて聞け」
いまにもわっ[#「わっ」に傍点]と泣き伏しそうな彼女の面《おもて》を見つめながら、長政はそう宥《なだ》めて、
「信長が、そなたを、この長政に嫁《とつ》がせたのは政略以外のなにものでもない。読めていたのじゃ、初めから信長の心はの」
と、語を切ってすぐ、
「だが――それと知りつつ、わしとそなたのあいだには、もう何ものも断《た》てぬ愛が生じた。いつか四人の子が生れた。ここに至って、そなたはもう信長の妹ではない。長政の妻だ、長政の子の母だ。……敵の信長に、なみだをもつことは許さん。なぜ、そのように痩せるか、子にあたえる乳を渇《か》らすか」
今になってみると、あらゆる運命の結果は「政略」という呪符《じゆふ》から始まっている。
政略の花嫁――お市の方を娶《めと》った初めから、長政は同時に信長をも、
政略に富む男。
としか見られなかった。
政略も、もちろんあった。しかし信長は、心から妹|聟《むこ》の長政を愛した。初めから愛していた。
長政は、弱冠の十六歳に、もう将として陣頭に立ち、度々、南近江の六角承禎《ろつかくじようてい》を破ってその領土を拡張し、信長がこの地方に驥足《きそく》をのばしてきた頃には、浅井家の領土は、愛知川《えちがわ》を境とするほど、目ざましい進出を遂げていた時だった。
(浅井の息子には将来がある)
信長はこう観《み》た。
彼の武勇を見こんだのである。
で――妹をと、お市の方の縁談は、彼のほうから熱心に浅井家を説いて、成り立ったものだった。
しかし、その結婚には、初めから、無理があった。
なぜならば、越前の朝倉家と浅井家の親密は、三代にもわたっている。単に、攻守同盟というだけではない、旧恩の関係もある、そのほか複雑な交誼《こうぎ》も入りくんでいて、断《き》るに断れない間がらである。
ところが、その朝倉と織田は、年来の敵国だ。
信長が、岐阜の斎藤を攻略するにあたって、いかに邪魔したか、いかに斎藤方を援けたか。それだけでも、双方の感情はわかる。
(いや、そのことなら、何の御憂慮にも及ばぬ。信長が一札入れ申せばよろしかろう)
と、縁組の妨《さまた》げに対して、信長は信長らしい解決を計った。
朝倉家へ一札、誓紙を入れたのである。ゆく末とも、朝倉領には兵を入れぬという約定《やくじよう》だった。
朝倉義景は、それをとって置いて、ひそかに長政の父久政へも、彼へも、
(ゆめ、お心をゆるし給うな)
と、警戒を与え、つねに信長の野心と行動を、裏面から報じた。
若い長政は、新婚早々から、何も知らぬあどけ[#「あどけ」に傍点]ない妻を、強《し》いてそう見るべく、父からも、旧恩のある朝倉家からも、のべつ励まされていたのである。
そのうちに、朝倉と足利|公方《くぼう》との、密盟がむすばれ、甲州の信玄とも、叡山とも、あらゆる反信長連盟の構成のうちに、いつか長政もひきこまれていた。
その、のろし[#「のろし」に傍点]を揚げたのが、過ぐる年、信長が越前の金ケ崎に攻め入った時である。
ふいに、うしろを衝いたのだ。遠征の信長の退路を断ち、朝倉家と呼応《こおう》して、かれの全滅を計ったその時に、
(政略の妻には惹《ひ》かれぬ)
と、長政は、その態度を、信長へ明らかにしたのである。
信長は、その折、
(嘘だろう)
と、疑ったほどだった。
自分が、長政を愛している真情にたいして、ありえないこととしたのである。
以来――
信長が見こんで、妹をさえ嫁がせた長政の武勇と浅井の勢力は、かえって、足もとの火となり、鎖《くさり》となっていた。
そして遂に今。
一挙、越前を屠《ほふ》ったあとの小谷城は、もう火でも鎖《くさり》でもなくなった。どうするも、信長の胸ひとつにある。
けれど今なお、信長のほんとの胸には、長政を殺したくない気もちがあった。――もとより長政の武勇も惜しんではいるが、より以上妹にたいする愛情の悩みであることはいうまでもない。
ひとは不思議に思った。
叡山《えいざん》の焼討ちでは、魔王と呼ばれることも辞さなかったあの殿が……と。
まだ朝霧がふかい。
大きな太陽が、山の肩へ、のッと昇っているが、小谷の盆地からは、四山の山襞《やまひだ》も霧で見えなかった。
浅井が城は
小さいな、小さい城や
ああ、よい茶の子
ささ、朝茶《あさちや》の子
そう遠くはない。どこか霧のなかでする声だった。それも、ひとりふたりのものでなく、多勢の合唱と手拍子《てびようし》である。踊っているのかとも察しられる。
「どこだろ」
「なんであろ?」
子どもは早い朝起き。――寝所からとび出すと、大廊下を駈けめぐり、声をめあてに、茶々《ちやちや》も万寿《まんじゆ》も跣足《はだし》で庭へとび降りた。
そして、城廓《じようかく》のはずれまで行って、北のほうを、眺めていた。
「いたいた。あんな所で踊っている、歌っている。たくさんに」
万寿はうれしかった。
姉の茶々も、
「どこに、どこに」
と、眼をつぶらにする。
北の山の中腹である。雲の断《き》れ目のように、ぽかと、そこだけ霧がはれて、陽のあたっている所がある。
ちょうど、大仏の膝のような阜《おか》だった。
明らかに、敵である。一小隊ほどな信長方の兵が、朗らかに、秋の朝を、囃《はや》しているのだった。
「やあーい。聞えぬか」
と、どなっている。
そしてまた、一斉に。
浅井が城は
小さいな、小さい城や
ああ、よい茶の子
ささ、朝茶の子
すると――
茶々と万寿のふたりの上で、いきなり小銃の音が、パンパンパンとつづけざまに響いた。
櫓《やぐら》の狭間《はざま》から彼方《かなた》の嘲弄者《ちようろうしや》の群れへむかって、つるべ撃ちを喰わせたのである。
「――怖《こわ》ッ」
茶々は、うつ伏して、耳をふさいだ。万寿はさすがに男の児である。仰向いて白壁の狭間に這う弾《たま》けむりを見あげていた。
歌の声はやんだ。
敵の影も、霧にかくれた。
「……いなくなっちゃった。つまらない」
万寿はまだ見ていた。うしろの方で、乳母と母の声がした。
お市の方は、さっきから見あたらない二児をここに見出して、
「……まあ!」
と、さも胆《きも》を冷やしたように絶叫をもらし、
「あぶないッ。なんでこのような所へ」
彼女は、茶々をかかえ、乳母は万寿をひっぱって、半ば叱りながら本丸のほうへ連れもどった。
「なにしている」
良人の長政は、一群れの老臣や部将と共に、無念そうな唇《くち》をかんで突っ立っていた。
「御城外の歌声に、和子《わこ》たちが釣られて、あの遠くに身を曝《さら》し、おもしろげに見ておりましたので……」
「……子どもだのう」
と、長政は苦笑して、
「奥へつれて行け」
「……はい」
「いや、待て待て。ほかの子も抱いて、その辺りから、見物しておるがよい、寄手のやつ輩《ばら》も、長陣に倦《う》むまいとして、戯れておるものを、鉄砲で返答するも、ちと狭量《きようりよう》じゃ。……和子《わこ》たち、いまよいものを見せてやるぞ」
長政は、雑兵をあつめて、敵方へ歌い返せといいつけた。籠城《ろうじよう》の退屈に、やや倦《う》みかけていた城兵は、よろこび勇んで、
浅井が城を
茶の子と仰っしゃる
赤飯茶《せきはんちや》の子
強茶《こわちや》の子
と、大声あげて歌い出した。
城兵が歌い囃《はや》すと、
「やりおるぞ。敵も」
と、寄手の兵は、また以前の山にすがたを現わして、
浅井が殿は
熟《う》れ栗の実
棘《とげ》のよろいに
可愛《かわ》いのもの抱え
揺《ゆ》るるも恐《こわ》や
ああ、落ちかぬる
憂い身かな、憂き城かな
もとより即興――口まかせである。敵の一踊りがしずまると、城内方も負けずにやり返した。
信長どのは
橋の下の泥亀《どろがめ》
ひょいと出て、ひっ込み
ひょいと出て、ひっ込み
首わざの巧《うま》さよ
こんど出たら取ろ
茶せん首
どっと笑う。
彼方の山まで谺《こだま》する。
それを機《き》ッかけに、その日の小銃戦はまた始まった。いま歌っていた兵、いま踊っていた兵が朱《あけ》にそまって、ばたばたと傷つき始める。
こういう毎日の生活のなかに、お市の方は、四人の子をかかえ、彼女は彼女の戦いを心のうちで血みどろにしていた。
谷間をわたる鵯《ひよどり》の声に、秋は日ましにふかくなる。城草の露もしとど冷たい或る朝だった。
「――殿ッ、一大事ですぞ」
いつにない藤掛《ふじかけ》三河守のあわただしい声がした。
子や妻の紙帳《しちよう》に近く、夜はやすんだが、長政は、具足も解いたことはない。
「三河。何事かッ」
すぐ寝所を出た彼の声も、あやしく息が弾《はず》んでいた。
朝討《あさうち》! そう直感したのである。だが、三河守の告げた異変は、もっと重大であった。
「二の曲輪――あの京極曲輪《きようごくぐるわ》が、一夜のうちに、信長方の軍に占《し》められておりまする」
「な、なに?」
莫迦《ばか》な! ――と、いわぬばかりである。
「お疑いはまず措《お》かれて、櫓《やぐら》の上より篤《とく》と、殿にも」
「そ、そんなはずは、ありえない」
望楼《ぼうろう》をのぞんで、彼は駈けのぼった。
真っ暗な階段で、いくたびか躓《つまず》いたほどである。
櫓に立った。
京極曲輪とは、かなり距離があるが、ここに立てば、眼の下といってもいい。
見ると。彼方《かなた》の城頭には翩々《へんぺん》と、いく条かの旗幟《きし》が流れている。
その一|旒《すじ》でも、浅井家の臣、大野木土佐や三田村右衛門や浅井|玄蕃《げんば》のものではなかった。
しかも。
燦《さん》として、朝空に誇っている馬印《うまじるし》の一つは、明らかに、敵方の将校、木下藤吉郎の陣地を証明しているものだった。
「裏切ったか。老臣どもは浅井家を去ったか。名を惜しまぬは去れ。勝手だッ。こうなっては、われをわれの思うままに生かすしかない。よしッ、見せてやろう。信長に。いや天《あめ》が下《した》の武門すべてに。……浅井長政の生き方を」
彼はもう微笑すらその面《おもて》に持つことができた。
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説《せつ》 客《きやく》
――黙然《もくねん》と、長政は、三重|櫓《やぐら》の暗い階段を下へ降りて行った。
あとに続いてゆく臣たちの眼にも、なにやら、ふかい地の底へでも――こうして供に従《つ》いてゆくようなここちがした。
「な、なんたることだッ」
真っ暗な階段の途中で、ひとりの部将が、泣いているような声でさけんだ。
「――大野木土佐、浅井|玄蕃《げんば》、三田村右衛門など、三人もそろって、お味方を裏切るとは」
すると、呻《うめ》くように、また他の一名が、
「身、老職にありながら。……しかも重要な京極曲輪《きようごくぐるわ》を、預けられておるご信望をも、むざ[#「むざ」に傍点]と、ふみにじッて」
と、悲涙して咽《むせ》ぶと、
「に、人非人《にんぴにん》めッ」
ひとしく、唇をかみ破って、三老の不忠を罵《ののし》った。
長政が、うしろを向いて、
「やめい。……愚痴は」
と、いったとき、一同は階段を降りきって、やや明るい、いちばん下の広い板敷の間に立っていた。
巨大な檻《おり》か、牢獄のような頑丈さである。ここにはたくさんな負傷者が莚《むしろ》を敷いて呻《うめ》いていた。
長政が通ると、仰臥《ぎようが》していたさむらいも、起きあがって、両手をつかえた。
「犬死にはさせんぞ。――あだ[#「あだ」に傍点]には死なせんぞ」
長政は、右へも左へも、そういって通った。
外へ出ると、かれの瞼《まぶた》にも、泣いたらしい痕《あと》が見えた。
けれど、彼はかたく、部将たちへむかって、愚痴を禁じた。
「敵に降《くだ》るも、長政に殉《じゆん》じるも、去就《きよしゆう》は各※[#二の字点、unicode303b]が選むところで、いたずらに罵《ののし》るべきでない。――この戦い、信長にも名分あり、長政にも名分がある。彼は、天下の改革をこころざし、長政は、武門の名と義に拠《よ》って戦うのだ。そちたちも、信長に降るがよしと思うならば信長に奔《はし》れよ。敢えて、止めはせぬぞ」
そういって、諸所の防備を見まわるため歩き出したが、その足数が、百歩とならないうちに、またも彼にとって、京極曲輪を失った以上の大変が報じられて来た。
「殿ッ……と、殿ッ。……無、無念ですッ」
と、彼方《かなた》から朱《あけ》にまみれた姿で駈け転んで来た一部将の口からであった。
「おうッ、休太郎ではないか。いかがいたした」
長政は、何か、不吉な予感に胸をうたれた。湧井《わくい》休太郎は、三の曲輪の侍ではなく、父久政の侍臣だからである。
「たった今、大殿には、御自害なされました。……こ、これまで、敵のあいだを斬りぬけて、お遺物《かたみ》を持ち参りました」
と、休太郎は、べたと、ひざまずいた。そして苦しげな息の下から、久政の髻《もとどり》と、それを包んだ小袖とを取り出して、長政の手にささげた。
「やッ? ……。では、二の曲輪のみでなく、父上のおる一の曲輪もはや落城したか」
「まだ夜も明けぬうちでした。京極曲輪の間道から一隊の兵が城門の外まで参って、大野木土佐守の旗さし物を打ち振って、土佐守でござるが、火急に大殿へお目にかかりたい儀があって罷《まか》りこした、門をひらかれよとの声に、味方とばかり信じて何気なく城門をあけますと、とたんに、多勢の兵が、ふいを衝《つ》いて、奥の丸まで斬り込んでまいりました」
「そ、それは……敵であったのか」
「木下藤吉郎の手勢が大部分でしたが、道案内の者や、旗を振った者は、まぎれもなく裏切者の大野木が家来どもでした」
「ううム。そして、父上には」
「最期まで、よくお働きあそばして、自身、奥の丸に火を放《か》け、御自害なさいましたが……そこへ躍りこんで来た木下勢が、忽ち、火を消し止めて、あくまで静かに、城中を掃蕩《そうとう》し尽しました」
「そのためか。……火の手も煙も見えなんだが」
「もし、一の曲輪に、火の手が揚ったら、三の曲輪の人数が、直ちに城門をひらいて加勢に出よう。――加勢はやむを得ないとしても、大殿の御最期と共に、あなた様以下、奥方さま、和子さま達までも、火をはなって、炎のなかに御自害なさりはせぬか――それを敵は、いたく怖れての作戦かと考えられまする」
休太郎の気息は、そこまでが、いっぱいであった。突然、大地に爪を立ててもう一声、
「お、おわかれ申しあげます」
と、いったのが終りで、がくんと、手をついたまま地面へ顔をぶつけた。斬り死にしての戦死よりも多くの苦闘に剋《か》って死んだ。
「……一魂、また逝《ゆ》く、ああ壮烈な散る華《はな》ではある」
誰か、長政のうしろで、つぶやく人があった。そう嘆じて、また低く、
「――なむあみだぶつ」
数珠《ずず》の音がした。
ふりむくと、木ノ本の雄山和尚《ゆうざんおしよう》が、そこに佇《たたず》んでいた。彼の浄信寺《じようしんじ》というのが先頃の兵燹《へいせん》に会ったため、小谷の城中へ来て共に籠城していた。
「……大殿も今朝がたはや御最期あらせられたそうな、お察しもうしあげる」
雄山がいうと、
「和尚。おたのみがあるが」
長政はわりあいに乱れずに云った。ことば静かなほど、悲調はおおいようもないが、
「――次は長政の番でござる。ついては、生前のうちに、家中一統をあつめ、形ばかりでも、葬儀を営んでおきたく思う。――この小谷の奥曲《おくまが》り谷《だに》に、かねて和尚からいただいておいた戒名《かいみよう》を刻んだ石碑が建っておる。あれを、ご苦労ながら、城中へお運びくださるまいか。僧のあなたが通るなら、敵もだまって通すでござろう」
「承知いたした」
和尚は、すぐ去った。それとほとんど入れちがいに、
「不破《ふわ》河内《かわちの》守光治《かみみつはる》というものが、御城門の下まで参りましたが」
と、部将のひとりが、駈けて来て告げた。
「不破河内とは、何者だ」
「織田殿の直臣にござります」
「敵かッ」
と、唾《つば》するように、
「追い返せッ。――信長の家臣などに、長政、用はもたぬ。帰らねば、城門のうえから、岩石でも、喰らわせてやれ」
長政の意を体して、城門のさむらいは、すぐ駈けもどって行ったが、また、他の部将が来ては、
「なんといっても、敵方の使者は、城門の下に立って、帰りません。――戦《いくさ》は戦、交渉は交渉、一国を代表して来た使者にたいし、礼を執《と》らぬ法やある――などと抗議を申し立てておるのみで」
長政は、聴く耳も持たぬと、いわぬばかりに、顔を振って、
「脅《おど》しつけて、追い払えというに、相手の抗議などを、何で取次ぐか」
と、罵《ののし》った。
そこへまた、他の一将が来て、
「いや、ちょっとでも、会っておやりなされるが、戦陣の慣《なら》いかと思います。浅井長政は逆上して、敵国の使者を引見する余裕すら失った――などと取沙汰されては、必然、御不利かとぞんじられまするし」
彼の一徹を、諫《いさ》めるような口吻《こうふん》であった。
「では、通せ。とにかく会ってだけやろう」
「はッ。では何処へ」
「あれへ誘《いざな》え」
長政は、武者|溜《だま》りの大床《おおゆか》をさして、自分の身も、大股に運んで行った。
取次いだ部将やさむらい達は、反対なほうへ駈けて行った。
そして、織田家の使者に、城門をひらいた。
その門から、平和のはいって来ることを望んだのは、浅井家の城兵中、半分以上はあった。
かれらとて決して、長政に心服していないではなかったが、長政の唱える義と、戦《いくさ》の意義は、まったく小乗的《しようじようてき》で、越前との関係とか、信長への単なる反感とか、それに絡《から》まる意地といったようなものが中心であるのに対して――とにかく信長の唱える志とその覇業《はぎよう》とは、くらべものにならないほど、大きなものであることが分っていた。いわゆる大乗に立つか、小乗に拠《よ》るか、を彼らも考えさせられたのである。
それも。
この小谷の城が、牢固《ろうこ》として、不抜の強味を持っている今までならば格別だが、すでに一の曲輪《くるわ》も、中の曲輪も墜《お》ちて、孤塁落莫《こるいらくばく》の一城にたて籠って――どう勝目があろうか。死にがいがあるか。考えずにいられなかった。
だから織田家の使者にたいして、彼らのあいだには、どことなく待つ者を迎えたような空気を示した。――通された使者の不破《ふわ》河内守《かわちのかみ》は、城内の大床の間で、長政と対した。
はり繞《めぐ》らした陣幕のすそに沿って、露骨に敵意をあらわした眼や、頬骨や、ざんばら[#「ざんばら」に傍点]髪や、負傷した手を首に吊っている者やらが――恐い顔をそろえて、みな河内守を凝視していた。
河内守は、そのなかで、甚だ温厚な物ごしで告げた。これが武将かと疑われるほど、彼は、物やわらかな人がら[#「がら」に傍点]であった。
「主人信長の御意《ぎよい》を、そのままにお伝えいたします。――おそらく長政どのには、御無念でおわそうと、まず仰せられてでござる」
「戦場だ、お見舞の世辞などに及び申さん。要用だけを聞きおこう」
「朝倉家に対する御義心のほど、さすがなお心根と、主君信長にも御敬服を払っておいでなされますが、それもこれも、朝倉家が存立しておればのこと。――今日、越前もすでに亡び、その越前と浅からぬ足利公方《あしかがくぼう》殿にも、京を去って遠く退去し、恩怨《おんえん》すべて過去となった今、何を好んで、織田浅井の御両家が、戦わねばならぬ理由があるか。……まして、あなた様からは義兄。信長様からは愛《いと》しい、妹聟たるあいだにありながら」
「せっかくだが、それは毎度のはなし。和議なれば、いくら手を換え品を代えても、断じて、おことわりする。無駄口をいわるるな」
「……でも、失礼ながら、もう御開城のほかはありますまい。これまでにお戦いあれば――武門の面目も立派におたてなされたというもの。いさぎよく、城地をお渡しあって、あとあとのお栄えを講じられてはいかがですか。――そうなされば、信長様にも、決して粗末にはできぬ、大和《やまと》一国をあて行《おこな》うであろうとまで、心からお案じなされておりまする」
長政は冷笑をもらした。
説客《せつきやく》のことばが終るのを待って、
「さような巧言にのる長政ではないと、織田殿へ伝えてくれい。この城を開けわたすぶんには疎略にいたすまいと。――当然じゃ。弾正忠《だんじようのちゆう》どの(信長のこと)が案じておらるるのは、この長政が身ではなく、肉親の妹可愛さにある」
「いや、それはおひがみです」
「いわばいえ。何とでも」
唾《つば》するように――
「が、長政は、妻の縁につながって、一命を助かろうなどとは、みじん[#「みじん」に傍点]も考えておらぬ由を、立ち帰ってよく申しつたえよ。……それとだ。妻のお市も、いまは信長の妹のお市ではないことを、弾正忠どのへ、得心《とくしん》まいるよう、くれぐれはなして上げるがよい」
「では、どうありましても、この城と共に、御運命を決するおつもりでございますか」
「わし以上に……妻のお市も、そう覚悟しておる」
「……ぜひもございませぬ」
説客の不破河内守は、もうあとのことばもつげず、これまでと、帰ってしまった。
そのあとの城中には、絶望的な――というよりも一種べつ[#「べつ」に傍点]な空虚が、陰気にみなぎっていた。
和議の使者に、平和を期待した城将や兵の一部が、
(やぶれたか……)
と、気落ちをあらわしたのと、それまでは、死を決していたものにも、ふと、生きのびられはしまいかという気がさしたため、にわかに、前のような結束と決死にもどれない心理になったからであった。
城中が陰気になったのは、もうひとつ理由がある。それは戦時中だが、長政の父久政の仮《かり》の葬儀が営まれ、次の日にいたるまで、本丸の奥のほうで、読経《どきよう》の声がもれていたからである。
お市の方以下、四人の子たちもその日からみな白絹の衣服をまとい、帯も、髪の紐《ひも》までも、黒い喪色《もしよく》を用いていた。
そのすがたは、もう生きながらこの世のものでないように、余りに浄《きよ》らかで、当然、城を枕にと、覚悟している侍臣たちの眼にも、傷《いた》ましく、冷たすぎて見えた。
そこへまた、このあいだ城外へ出て行った浄信寺《じようしんじ》の雄山《ゆうざん》が、曲《まが》り谷《だに》の奥から、わざわざ人夫に石塔《せきとう》を負わせて、帰って来た。
石塔には、長政の戒名――いわゆる生前の戒名が刻んである。
徳勝寺殿《とくしようじでん》天英宗清大居士《てんえいそうせいだいこじ》
それを――
明ければ八月二十七日という前の夜、城中の大広間にすえて、香炉、樒《しきみ》の花など供え、生前の葬式というものを執《と》り行った。
「当城の御城主、浅井長政どのには、武門の名を惜しんで、あっぱれ、華《はな》とちるごとき、御最期をとげられた。――よって、累代恩顧《るいだいおんこ》の諸士には、つつしんでこの世のお別れを告げられるがよい」
と、雄山が、導師《どうし》として、将士一同へそういった。
長政は、石塔のうしろに、ほんとにもう死せる人のように、坐っていた。
諸侍は、はじめのうち、腑《ふ》に落ちない顔をしていた。
(何もこんなことをしないでも)
と、多少、変な空気が騒《ざわ》めいていた。
けれど、お市の方や、まだ幼い子たちが、次々に焼香して、一族のものどもが、順々にそれにならってゆくうち――誰からともなく、すすり泣きの声がながれていた。水を打ったように、広間いっぱいの甲冑《かつちゆう》の男が、みな首をたれ、瞼《まぶた》を抑えて、面《おもて》をあげているものはひとりもなかった。
式が終ると、
「いざ、夜の明けぬうち、お石碑《せきひ》を沈めに行け」
と、雄山和尚を先に立てて数名の侍が、ふたたびそれを負って、城外へ出て行った。こんどは麓《ふもと》のほうへ降りて、湖岸から小舟をこぎ出し、竹生島《ちくぶしま》から八町ほど東のあたりで、ざんぶと湖底へ投げこんで帰った。
「生前の葬式もすんだ。かくと見ては、城中の将兵も、いまはわしの決意をさとり、みな討死を覚悟したろう。……来れ、最期の日! いつなりと」
長政は、自分へ迫る死へたいして、敢然《かんぜん》、云い払っていた。
彼もさすがに凡将ではない。
和議に望みをつないでいた一部の士心の弛緩《しかん》を見のがしていなかった。
彼のやった生き葬式は、弛《ゆる》みかけた城中の空気には、果たして、効果があった。
「すでに、殿御自身、あれほどまで、お討死と御決意を披露《ひろう》なされたからには」
と、みな討死のほかはない運命を、各※[#二の字点、unicode303b]も覚悟した。
「――これまでだ」
「死ぬのだ」
そこに一致した。
悲壮である、長政の決意はそのまま家臣に映じ、長政の施《ほどこ》した士心振起《ししんしんき》の策は、たしかに奏効《そうこう》した。
けれど、彼は凡将ではなかったが、傑出《けつしゆつ》した将器でもなかった。なぜならば長政は、それほどな将士に、死を歓ばせることを知らなかった。
兵法ノ極《キヨク》ハ、兵ヲシテ、歓《ヨロコ》ンデ死ナシムルニアリ
孫子のいっている用兵の極致にまで到っていない恨みがある。
彼の将士も、譜代《ふだい》足軽のべつ[#「べつ」に傍点]を問わず、死ぬことはもう忌《いと》わなかったにちがいない。けれど、大きな死にがいを持ちたかったことは疑いもないことであろう。
大きな死にがい。
歓んで死に得る戦い。
死のうとするさむらい達の望みはいまそれしか持ち得ない。またそれは人間の希望の最大なもので最後のものだ。どんなに熱望することであろうと思いやられる。だから古来の名将は、かならずその渇望《かつぼう》をむなしくしない。いや、戦うまえに、その意義と正義を旗のうえに持たなければ、戦わないのが兵法である。
その点、長政の家臣は、やや張合いが小さかったろう。それもいただく大将の意志でぜひもないという、観念で臨むしかない最後となった。
――寄手の総攻撃。
いまは、待ちかまえていた。するとその日も、寄手からは小銃ひとつ射って来ない。
ともすれば、晩秋の山の美しさや雲のゆく空の碧《あお》さが、死の覚悟をにぶらせる。
「……来たッ」
午《ひる》ごろである。城門の兵がどなった。
附近の狭間《はざま》だの石垣のうえに見える鉄砲のかたまりが、すぐひしめ[#「ひしめ」に傍点]いて、標的をさがした。
ところが、来たという敵は、たった一人だった。それも至って暢気《のんき》な漫歩を彼方《かなた》からぶらぶら運んで来るのである。――使者ならば、尠なくも従者も連れ、騎馬ぐらいな儀容は装って来ようにと、疑わしげに城兵たちは、彼の近づくのを見まもっていたが、そのうちに、
「やはり敵将だ。使者とも見えんし、不敵なやつ。一発、ぶっ放せ」
と、部将のひとりが、鉄砲の者へいった。
脅《おど》しに一発――というつもりで命じたのであったが、三、四人が一しょに、パン、パンと射った。
すると、びっくりしたのか、彼方の男は立ちどまった。そして、金地《きんじ》に日の丸の軍扇《ぐんせん》をひらいて、頭のうえに振りかざしながら、
「待て待て。雑兵ども。木下藤吉郎を鉄砲で射つやつがあるか。城主長政どのに、よく訊《たず》ねてからにいたせ。それがしを射ったところで、浅井方の勝軍《かちいくさ》になるわけでもあるまい。百年、悔いをあとにのこすな」
大声でいった。――いやいっているまに、駈け出して彼はもう城門のすぐ下まで来ていた。
「……おうッ、なるほど、織田家の木下藤吉郎だ。なんで来たのか?」
のぞき下ろした浅井方の将は、彼の目的を疑って、彼ひとりへの殺意などは忘れていた。
藤吉郎は、城門を仰いで、
「奥の丸へ、お取次ねがいたい。どなたでもよい、御一族へお取次ねがいたい」
と、ことばを重ねて呶鳴った。
「…………」
どうしたものか?
評議しているらしい声ががやがや聞える。やがてそれが嘲笑を交《ま》ぜてくると、城門のうえに、浅井方の一将が顔を出して、
「無用無用。何で来たか知らぬが取次はできぬ。おそらくはまた信長どのの使いで、説客に見えたのであろう。度々の徒労《とろう》、むだなことだ、立ち帰れッ」
と、いった。
藤吉郎は、声を励まして、
「だまれッ、家臣の分際《ぶんざい》をもって、主人の意向もうかがわずに主人の客を追いかえす法やある。すでに落城したも同様なこの城を落すために、わざわざ手間|暇《ひま》かけて、説客に来たり詭謀《きぼう》をかまえる莫迦《ばか》はない」
と、大言をはらい、
「それがしが参ったのは、信長様の代参として、長政どののお位牌《いはい》へ焼香に来たのでござる。うけたまわれば長政どのには、はやお覚悟あって、生きながら御自身の葬儀まで執り行い、さきごろその碑《ひ》を、琵琶湖《びわこ》へしずめて水葬式をすまされたよし。――生前のよしみ、一片の御焼香ぐらいは、お互いにゆるさるべきであろう。……それとも、もはやそういう礼儀も情誼《じようぎ》も交わしている余裕はないのでござるか。長政どの以下、各※[#二の字点、unicode303b]の覚悟とやらは、附《つ》け焼刃《やきば》のいつわりか。虚勢かッ。臆病ものの強がりか」
恥じたのか、城門のうえの顔はいつのまにか引っこんでいる。そしてややしばし、返辞もして来なかったが、やがて、城門の一方を少しひらいて、
「御老職の藤掛《ふじかけ》三河守どのでよろしければ、寸時、お眼にかかってみようと仰せられるが、それでよろしくば」
と、中へ促《うなが》し、なおつけ加えて、
「御主君長政様には断じてお眼どおりかないませぬぞ」
と、念を押した。
藤吉郎は、うなずいて、
「もとよりのこと。長政どのにはすでに亡きお方とこの方も心得ておれば、強《し》いてとは申さん」
云いながら、左右も見ずにはいって来た。こうも平気で敵のなかへ来られるものかと、浅井家の将士は、自分たちの努めている恫喝的《どうかつてき》な顔つきや槍ぶすま[#「ぶすま」に傍点]に、張りあい抜けを感じ合っていた。
案内する将について、藤吉郎は、一の門から中門までのかなり長い坂道を、至極、無関心にのぼって行く。
大玄関まで来ると、長政の一族で、また老職の任にある藤掛三河守が、迎えに立っていた。
「やあ、しばらくでした」
平常のあいさつに異《ことな》らない気がるさである。
相識《そうしき》のあいだがらなので、三河守も、にこやかに、
「まことに、お久しいことでござる。こんなことになって、かかるいでたちで、お眼にかかろうとは、夢のようでござる」
と、会釈をかえした。さすがに城門にいる将士の血ばしった眦《まなじり》とちがって、この老将の面《おもて》には、そうさし迫ったものも見えなかった。
「三河どの。あなたとお眼にかからないことは、お市の方さまが、御当家へお輿《こし》入れになられた時からですな。ずいぶん久しいものだ」
「さよう。あれ以来かもしれぬ。……あの折は、嫁君のお輿をお迎えのため、それがしが奉行して、岐阜《ぎふ》まで参りましたから」
「……あの日のめでたさや、上下のよろこびにひきかえて、きょうの御両家は」
「宿命とやらいうものでござろう。しかし、いにしえの治乱興亡《ちらんこうぼう》のあとをみれば、これも武門としては、めずらしいことでもありません。……まあ、こちらへおいで下さい。ゆるゆるはおもてなしもできんが、茶なと一ぷくあげましょう」
三河守は、さきに立って、彼を庭園の茶室のほうへみちびいた。――その白髪の将のうしろ姿には、さすがにもう生死を超脱《ちようだつ》しているなと、うなずけるだけの落着きが見えた。
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珠《たま》
一|棟《むね》の数寄屋《すきや》がある。
木《こ》の間《ま》の路地を導かれて、そこの一室にすわると、ここにはまったくべつ[#「べつ」に傍点]な天地がある。清楚《せいそ》な自然と、幽寂《ゆうじやく》な茶室の規矩《きく》にかこまれて、主客共に、血なまぐさいたましいから、しばし洗われていた。
折ふし秋の末。
そこらの木々の葉は、数寄屋のうちまで舞ってくるが、炉《ろ》のあたりにも、床《ゆか》にも、塵《ちり》ひとつなかった。
「織田どのの御家中でも、近ごろはみな、茶に御熱心と伺っておるが……」
などと和《なご》やかに雑談しながら、藤掛三河守は、釜に対して、柄杓《ひしやく》を把《と》っていた。
藤吉郎は、彼の作法を見て、あわてて断《ことわ》っておいた。
「主君信長はじめ、みなお嗜《たしな》みは深いが、それがしのみは、生来の無骨者、何も弁《わきま》えません。……ただ飲むは好きというだけのことで」
「結構じゃ」
三河守は、茶わんを置き茶せんをそそぎ、女性のような細心な点前《てまえ》を静かにつづけている。もとよりいかめしい武装のままである。
が、その鎧具足《よろいぐそく》にかためている手や体が、すこしも窮屈そうに見えなかった。むしろさび[#「さび」に傍点]た釜と茶碗としかないこの室にあっては、この老将の装束《しようぞく》がひとつの華麗な道具にすら見える。
(よい者に会った……)
と、藤吉郎は心のうちで、茶よりも、それを歓《よろこ》んでいた。
――どうしたら城中のお市の方を助け出せるか。
この信長の悩みにたいして、彼も悩みを共にした。ここまでの攻略作戦には、もっぱら彼の智謀が用いられて来ただけに、その問題にも責任を感じていた。
いつでも陥《おと》そうと思う日に陥し得られるこの城だが、目的の珠玉《しゆぎよく》を、焼けあとの灰のなかに掻き探すようなへた[#「へた」に傍点]をしてはならない。
しかも城主長政は、もう内外に決死を宣言しているし、夫人も良人《おつと》に殉《じゆん》じる覚悟でいるという。
四人の子まであるその夫人だけを、つつがなく奪取して、戦の成果もあげようということは、信長がむり[#「むり」に傍点]な望みというほかはないのであるが――藤吉郎はその任務をいまは一身に負ってこれへ来ているのだった。
「……お使者、不点前《ふてまえ》でござるがどうぞ、お寛《くつろ》ぎあって」
三河守は、炉のまえから、茶わんをさし出した。
武者坐りのまま、藤吉郎は無造作にひきよせて、がぶがぶと、三口ほどに飲みほし、
「ああ、うまい。……きょうほど茶をうまいと思ったことはござらん。お世辞でなく」
「如何ですか。もう一ぷく」
「いや、渇《かつ》は医《い》えました。口中の渇は。……しかし心中の渇はどうしたら医えましょうな。三河どの、あなたは話せそうだ。ひとつ、それがしの相談あいてになってはくれまいか」
「この方は浅井家の臣、其許《そこもと》は織田方の使者。明らかな立場のうえで承ろう」
「長政どのに会わせてもらいたい。いかがであろう」
「その儀は、城門でお断りいたしてある筈。其許《そこもと》もまた、長政どのに会いに参ったのではないと仰せあったゆえ、お通し申したのじゃ。ここへ来ておことばを違《たが》えるなど、使者として醜《みぐる》しい弄策《ろうさく》。かまえてお会わせいたすことはできぬ」
「いや、生ける長政どのに会おうとはいわん。長政どのの霊に、信長の代参として、一片の礼拝を遂げもうしたい」
「詭弁《きべん》はやめられい。たとえお取次いたしたところで、長政様が会おうと仰っしゃる筈はない。この際、一ぱいの茶は、この方として最高な武門の礼を執《と》ったつもりじゃ。恥を知るなら其許《そこもと》きれいにここからお帰りなさい」
うごくまい。断じて。
藤吉郎は肚《はら》の底でそう独り誓っていた。
目的を達するまでは! と。
「…………」
で、彼は根気よく黙っていた。弁舌の雄も、説く相手による。――こう練《ね》れている老将に、ヘタな饒舌《じようぜつ》は、策を得たものでない。
「……さ。お立ちください。お帰りの御案内いたそう」
三河守は、促《うなが》した。
藤吉郎は、むッつりと、あらぬほうへ眼をやって、う[#「う」に傍点]もす[#「す」に傍点]も答えずにいるあいだ、自分で点《た》てた一碗の茶を、鷹揚《おうよう》にひとり飲みほして、それらの道具なども、水屋《みずや》に退《さ》げた後にである。
「いや、勝手ながら、もう少々、ここへ置いておいて下さい」
と、藤吉郎は初めて答えた。
うごかない。
いや、てこ[#「てこ」に傍点]でも、うごくまい――と、する顔いろである。
すこし蔑《さげす》むように、藤掛三河守はいった。
「いつまでおいであっても、むだ[#「むだ」に傍点]でござろうに」
「かならずしも、むだではございません」
「この方のいま申したことに二言はない。ここにいて、どうなさるか」
「釜の沸《たぎ》る音を聴いております」
「釜の……。はははは、茶もわきまえぬといわれたお身が」
「いやいや、まったく茶道《さどう》もなにも弁《わきま》えはいたさんが……どうにも、これは快《こころよ》い音でござる。久しい長陣に、雄たけびや、馬のいななき[#「いななき」に傍点]のみ聞いていたせいか、甚だ、快いかぎりでござる。……暫時《ざんじ》、ここに独坐をおゆるしください。そのうちに、篤《とく》と考えておりますれば」
「どう御思案あろうと、長政様へお会いさせ申すことは勿論、ここより先、御本丸のほうへは、一歩もお通しいたさぬぞ」
――それには答えず、
「……む、ウむ。どうもよい音のするものだな。この釜は」
と、藤吉郎は、炉べりへすこし膝をよせて、しきりと感服しながら、とつこうつ眺めていた。
蘆屋《あしや》であろうか、古天妙《こてんみよう》の作であろうか、そんなことは、彼の知識のほかである。彼がふと、おもしろく見たのは、古びた鉄肌《かなはだ》に浮いている猿の地紋であった。人間か猿か、甚だあいまいな一個の小動物が、木の枝に四肢《しし》をささえて、天地のあいだに、傍若無人《ぼうじやくぶじん》なその姿態と愛嬌を示しているのである。
――誰かに似ているぞ。
藤吉郎は、おのずからな微苦笑を禁じ得なかった。松下嘉兵衛《まつしたかへえ》のやしきを出て、食も宿もなく、山林を逍遥《しようよう》していた時代の自分が――ふと思い出されてきた。
次の間にでもかくれて様子を窺《うかが》っているのか、もて余して、戸外《そと》へ出てしまったのか、三河守はもうそこにいなかった。
「いや、おもしろい。おもしろいものだ」
釜と談合の恰好である。ひとりで首を振っていた。そうしながら飽くまでも、うごくまいという算段を考えていた。
すると、どこかで、クツクツ笑うものがあった。時には、嬉々《きき》と、べつな忍び笑いも洩れる。
どっちの笑いかたも、明るくて無邪気だった。藤吉郎の耳が聞きのがすはずはなかった。――じっと顔を数寄屋の囲いのほうへ向けた。
「……ほら。ほらネ。あんなに似てるだろ」
「ほんに、お猿のような」
「どこのお人だろ」
「きっと、日吉《ひえ》のお使いさまでしょ」
ふたりの子どもの眼であった。
計らざりき――藤吉郎が釜の地紋に友愛を感じていると、その藤吉郎の顔をのぞいて、垣の外から興がっている幼い者たちがあった。
「……おッ?」
怒ったのではない。藤吉郎は歓喜《かんき》に衝《つ》かれた。
長政とお市の方とのあいだにありと聞く四人の和子《わこ》。――そのうちの万寿《まんじゆ》と茶々《ちやちや》にちがいないと直感したからである。
にこ[#「にこ」に傍点]……と、藤吉郎はそこから笑《え》みを送った。
すると。
垣のすきから覗いていた万寿と茶々は、
「あら。笑ってるよ」
と、ささやいて、もう一倍、ひくい声で、
「……お猿さんが笑った」
と、ふたりのうちの、どっちかがいった。
藤吉郎は、それを小耳にはさむと、こんどは、
「……めッ」
と、にらむ真似《まね》をした。
これは、笑って見せたよりも、効果があった。
万寿と茶々は、このおじ[#「おじ」に傍点]さん与《くみ》し易《やす》しとみて、垣のあいだから、ヒインと、馬がくちびるを剥《む》くように、歯を出して見せた。
それでも、笑わずに、藤吉郎がにらまえているので、ふたりも睨みはじめた。睨めッこ[#「めッこ」に傍点]をしはじめたのである。
「やあい、笑ったぞ」
万寿も茶々もよろこんだ。藤吉郎は、あたまを掻いて、もっと、何かして遊ぼうという意味を、手真似《てまね》や顔つきで誘った。
「おもしろいおじさん……」
ふたりの子どもは、かれの手招きにつりこまれて、そっと柴折《しおり》を押してはいって来た。
「なあに? ……。なにするの」
「おじさん、どこから来たの」
藤吉郎は、縁を下りて、武者わらじの緒《お》をむすんでいた。その彼をからかい[#「からかい」に傍点]半分に、万寿が手に持っていた芒《すすき》の穂《ほ》で、彼の襟《えり》もとを擽《くすぐ》った。藤吉郎は、擽ったさを怺《こら》えて、両方の足の緒をむすんでしまった。
おそろしく敏感な子どもの神経は、彼が身を伸ばした途端の顔いろに何ものかを読み取ったとみえて、咄嗟《とつさ》に、意味もなく、逃げ出そうとした。
「……あッ」
むしろ藤吉郎のほうが、不意を喰ったくらいである。
跳びかかるやいな、彼の片手は、万寿の襟がみをつかんだ。
なお、左の手で、茶々をつかみかけたが、茶々は、ありッたけな声を出して、
「――怖《こわ》いッ」
泣きさけびながら走った。
捕まった万寿は、愕《おどろ》きのあまり、声を出さなかった。
藤吉郎のからだの下に、あお向けに倒されて、その人の顔を、大空といっしょに、逆しまに大地から見あげた時、初めて、
「きゃッッ! ……」
と、悲鳴を発した。
彼方《かなた》へ泣いてゆく茶々の声と、ここの絶叫を、誰よりもまっ先に聞いたのは、藤吉郎ひとりを数寄屋にとり残して、路地の外へ出ていた藤掛三河守であった。
――何事? と思ったにちがいない。ここへ駈けつけて見てからさらに、
「や、やッ?」
仰天《ぎようてん》してさけぶやいな、すぐに手は――ほとんど無意識に、
「おのれッ」
と、陣刀のつかをにぎっていた。
藤吉郎は、万寿のうえに、ふみ跨《また》がったまま、
「あぶない!」
と、却って、相手の注意をうながすような、制止の声をかけた。
すんでのこと。
一颯《いつさつ》の陣刀とともに、彼へぶつかろうとした三河守は、思わず足をすくめた。
藤吉郎の手もとを見たからであった。万寿の喉《のど》を一突きに刺して、その一命をとるに何の苦もない――彼の手もとと彼の眼にぎく[#「ぎく」に傍点]としたからである。
さすが沈勇な老将の顔も、鳥肌に変っていた。白い鬢髪《びんぱつ》はそそけ立つばかりである。
「お、おのれ、幼い御嫡子《ごちやくし》を捕え奉って、な、なんとするぞ」
半ば、哭《な》くが如き声だった。三河守は、悔いと怒りにふるえながらつめ寄った。
三河守のつれていた郎党たちであろう、かくと知って、
「わッ、たッ、たいへん」
「みんな来ういッ」
「いで合え! いで合え!」
声かぎり、絶叫し、手をふり、足を舞いして、急を告げた。
それと、また。
わんわん手放しで泣きながら逃げて行った茶々の告げ口からも、このことは、中門から奥の丸まで聞えて、
「すわ」
と、まっ黒な武者群が、いく組にもなって、駈けつけて来た。
忽ちであった。
万寿の喉《のど》に短刀を擬《ぎ》しながら、あたりを睥睨《へいげい》している異様な敵人のまわりには――文字どおり甲冑《かつちゆう》の「鉄桶《てつとう》」ができて――それも藤吉郎の手もとと眼《まな》ざしを恐れてか、甚だ遠巻きに――ただわいわい躁《さわ》ぐしか、なす術《すべ》を知らなかった。
「藤掛どの。三河どの」
藤吉郎は、そのなかの一つの顔へ呼びかけた。
「どうなされた、御返辞は。――甚だ暴《ぼう》な仕方でござるが、それがしとしてはかくするよりほか、主を辱《はずかし》めぬ方法が見出せないのでぜひもござらん。……はっきり、御返辞がなければ、万寿どのを、刺しころしますぞ」
と、爛々《らんらん》、大きな眼をして、ずっと見まわしながら、ふたたび、
「藤掛どの、三河どの。あなたは何のために茶を嗜《たしな》んでおられるか。茶の真境は、ここではあるまいか。ついただ今、あなたから学んだばかりだが、それがしはそう信じる……すでに、生きて還ろうとは思わぬこの方に、あたりの犇《ひし》めき合いは御無用である。はなしは茶室のつづき、おん身とそれがしのふたりで足ること。……お退《ひ》かせなさい。そこらの武者どもを、みなお退かせなさいッ。そのうえで談合いたそう」
「…………」
「なお、御分別がつき難いか。さりとは遅いお悟りだ。それがしだけを殺して、御嫡子《ごちやくし》の一命を無事に救おうと召さることは、所詮《しよせん》、難事でござろう。――それはちょうど信長様が、この小谷城を陥《おと》して、お市の方様のお身だけは無難に助け出そうとなさっているのと同じでござる。……何とて何とて。万寿どのを無事におこうや。たとえ藤吉郎の身を鉄砲でお撃ちあろうと、せつなには、この刃が、御喉《おんのど》もとを貫いておるであろう」
さっきから舌をふるっているのは彼ひとりだった。しかも懸河《けんが》の弁《べん》である。
舌ばかりでない、眼もよく働く。いや五体の端までが、その雄弁とともに、八方の敵へ戦々と鋭敏な気くばりを怠らないのであった。
「…………」
たれも手が出せなかった。
わけて三河守は、自分の責めの重大を感じているし、彼の説くことにも、だいぶ耳を傾けて来た容子《ようす》だった。一時の驚愕をとりもどして、茶室で見せた彼の落着きになりかけていた。
「一同の者」
ようやく、彼は身をゆるがした。手を遠くへ振って、
「去れ、去れ。彼方へ退《ひ》いておれ。――ここは三河守にまかせて。――三河守が一身にかえても、若君にお怪我《けが》はさせぬ。各※[#二の字点、unicode303b]の部署《ぶしよ》にもどっておるがいい」
と、云った。
そして、藤吉郎へ向って、ことばを改めた。
「のぞみ通り、多勢《おおぜい》のものは退《の》けた。このうえは、万寿さまを、この方の手へおわたしなさい。左様な策はおたがいに避けて、信義と信義をもっておはなししよう」
「ならぬ!」
と、つよく頭《かぶり》を振ったが、藤吉郎は一転語気をかえて、
「――それがしは今、こういえます。長政どのの掌中の珠《たま》を奪《と》ったから。……しかし、信義と仰せあらば、何をか疑いましょう。若君はお返しする。しかし、長政どのへお返ししたい。長政どの御夫妻にお眼通りの儀、かならず計らってくれますか」
さきに退《ひ》いた大勢の中に、長政も立ち交じっていたのである。藤吉郎のことばを聞くと、子の愛に惹《ひ》かれた彼は、自制を失って、それへ駈け寄って来るなり罵《ののし》った。
「長政はこれにおるが、何も知らぬ幼児《おさなご》の生命《いのち》を扼《やく》して、ものをいおうとは、卑劣ないたし方。そちも織田家の一方の将、木下藤吉郎というほどの者ならば、さような奸策《かんさく》はみずからに恥じたがいい。――ともあれ、万寿の身を、こなたへ渡したうえにて物を申せ」
「オ。長政どの、おられましたか……」
藤吉郎は、あいての血相にも関《かか》わらず、いんぎんに辞儀を施《ほどこ》した。――といっても、依然、万寿のうえにまたがって、それへ短剣の先をさし向けたままにである。
「木下殿。お離しなさい。かくの如く、殿御自身、おことばのある以上は、御不足もござるまい。万寿さまの身を、それがしの手へ」
と、かたわらから藤掛三河守も声をふるわして云った。
藤吉郎は、それを横耳に聞きながしたまま、浅井長政の方を見つめていた。長政の蒼白な血相と眸《ひとみ》へじっと、正視を向けながら、やがて長嘆して云った。
「ああ。……あなたにもやはり肉親の情愛はあったのか。……可憐なものにたいする不愍《ふびん》をご存じであったのか。そうとは、藤吉郎、すこしも知らなかったのでござる」
「渡さぬかッ、おのれ、その幼い者を、刺すつもりか」
「毛頭《もうとう》、さような意志はない。……だが、親御たるあなた様にも、なんらの情愛はおぼえぬと仰せあれば――」
「たわけ[#「たわけ」に傍点]たことを。親として、子を愛さぬものがあろうか」
「そうです、禽獣《きんじゆう》でも」
と、藤吉郎は、あいてのことばを裏書して、
「――さすれば、それがしの御主君信長が、お市さまを救い出したいばかりに、恋々《れんれん》、この小城ひとつを陥《おと》しかねているのも、愚かしい沙汰とは嗤《わら》えますまい。……また、お市さまの良人であらせられるあなた様はどうか。信長様の弱点を覚《さと》って、強《し》いて、母子数人の可憐《いじら》しいものを、この城と運命を共にさせようとしておいでになるではないか。それはちょうど、今こうして、それがしが、万寿どのを下に敷いて、御喉《おんのど》に匕首《ひしゆ》をつきつけながら、あなたへ談じつけているのと同じことだ。……藤吉郎の仕方を卑怯と仰せあるまえに、御自身の戦略を、卑劣でないか、残忍でないか、篤《とく》、お考えくださいませ」
云いながら藤吉郎は、万寿のうえから身を退《の》けて、抱き起していた。――ほっと眉をひらいた長政の顔いろを見るなり彼はつと[#「つと」に傍点]寄って、その手へ、万寿をわたし、その足もとへ、両手をつかえた。
「心にもない先ほどからの狼藉《ろうぜき》、また非礼の罪、幾重にもおゆるしおき下されませ。――かような手段《てだて》をとりましたのも、何とかして、御主君の御《み》こころを慰め、ふたつには、武将の御最期として、すでに天晴《あつぱれ》なお覚悟を示されながら、可惜《あたら》、浅井長政は血迷うて亡びたなどと、末代までの汚名をおのこしあらぬようにと……あなた様のおんためをも考えていたしたことに相違ございませぬ。何とぞ、微衷《びちゆう》お酌《く》みとり賜わって、お市の方様、ならびにお子様のおん身は、この戦場の外へお放ちくださいますように……。あわれ、すぐれたる武将には、人いちばい強しとか聞く、大慈悲心にむかい申して、藤吉郎、かくのごとく、祷《いの》りまする。私心なく、ただ御不愍《ごふびん》なる女性《によしよう》と、末長き御幼少の御方《おんかた》たちのために――良人たり父たるあなた様の大乗大愛を――かくのごとく祷《いの》りまする、お縋《すが》りいたしまする」
彼は、敵将長政へ訴える気もちをもたなかった。ひたぶるに、人のたましいへ向って真情をのべた。彼が、胸に合掌して、長政のすがたを拝んだのも、決して、虚偽ではなかったのである。自然に双《ふた》つの掌《て》が合わさったのであった。
「…………」
黙然《もくねん》、長政は、眼をつむって、聞いていた。
両腕を拱《く》んで。
がっしりと、両の足を踏んで。
そのすがたは甲冑《かつちゆう》の仏像のようだった。
藤吉郎は、合掌したまま、そのまえを立たなかった。かれがこの城へはいって来るとき公言したとおりに、生ける屍《しかばね》の長政の霊へ、一片の回向《えこう》をしているかの如きすがたであった。
一心祈念するものと、一心よく死のうとするものと、二者の心は、その寸間に触れ合った。
敵とか、味方とか、そういう隔《へだ》ても掻き消え、長政が信長にいだいていた感情やら反抗やら、あらゆる小さい妄念《もうねん》は、ふと、彼のすがたや心から古蒼《こそう》した胡粉《ごふん》のように剥《は》がれていた。
「永勝《ながかつ》(三河守のこと)……」
「はッ」
「しばし木下殿を、どこぞに迎えて、もてなしておくがいい。――一刻ほどの別れを告げたい。……そのあいだな」
「お別れとは」
「夫人《おく》やら、子達と、この世のわかれをしたい。すでに、死を期して、生き葬式までした身ではあるが……生別は死別より辛いとか……。信長どののお使い、それはおゆるしあろうな」
「……えッ?」
愕《がく》と、顔をあげて、藤吉郎はそういう人の面《おもて》を見つめた。
「では、何と仰っしゃいます……。不肖《ふしよう》藤吉郎の言をおきき容れ下さいまして、お市の方さま、和子さま達のおん身を……」
「夫人《おく》も子たちも、みな死の腕に抱いて、城とともに、果て終らんとしたは……長政が小さい量見《りようけん》であった。すでに死んだ身と思い極めながら、なお浅ましい愛憎やら煩悩《ぼんのう》だけはのこしていたのじゃ。……いま、そちにいわれて、思わず一笑をおぼえ、みずから恥じ入るものがある。――まだ若いお市、幼い者たちの行く末、くれぐれもたのみ参らすぞ」
「……身にかえましても」
藤吉郎は、大地へ額《ぬかず》いた。
せつなに、かれの脳裡《のうり》には、信長のよろこぶ顔が見えていた。
小我な欲望は、とどきそうなことでも得手《えて》とどかないが、忠節からほとばしる真心なら、どんな至難と思われることでも貫けるものではある――ということをひし[#「ひし」に傍点]と感じた。
「……では、後刻会おう」
長政はいい捨てると、本丸の奥のほうへ、大股にあゆみ去った。
つづいて三河守は、改めて、彼を信長の正使として、客殿のほうへ導こうとした。
藤吉郎は、起ち上がった。彼の眉にも、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたような明るさが見えた。そして、三河守へこういった。
「おそれいるが、暫時、城外の味方へ、合図をいたすまで、お待ちくださらぬか」
「……合図を」
三河守は怪しんだ。これは怪しむほうが無理でなかった。
が、藤吉郎は、当然のように、
「さればです。……御主君信長のおむねをうけてこれへ参る折、こうお約束をして来たのでござる。――もし藤吉郎が一命をすてても事のかなわぬ場合は、かならず城中より火気をあげて、破談《はだん》のあいずを仕《つかまつ》れば、殿にもその上には、最後の御決心あって、いちどに城へ攻めかかられますようにと。……また、首尾よく長政どのに会い得て事成るときは、携《たずさ》えて参った自分の小旗を、城中の高い樹に掲げまする。いずれにせよ、それまでは兵をうごかさずに待機あそばすようにと――そう云い合わせて参ったものですからな」
三河守はかれの周到《しゆうとう》な用意に驚いた面持《おももち》だった。いや、もっと驚いたのは、茶室の炉辺に、いつのまにか一個の狼煙玉《のろしだま》がおいてあったことである。藤吉郎は、城外へのあいずをすまし、客殿へ通ってから、あとで笑いながら話した。
「もし、事成らずと見たときは、遮二無二、もういちど茶室までのがれて、あの狼煙玉《のろしだま》を炉のうちへ蹴こむつもりでした。いや、それこそ、とんだ茶の湯になるところでしたな。ははは」
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さむらい集《つど》い
ぽつねんと、藤吉郎はただひとり置かれていた。
五十畳もある広間である。
ここに通されて、藤掛三河守から、しばしお待ちを――といわれてからもう一|刻《とき》半もたっている。
「……長いなあ」
退屈をおぼえざるを得ない。ひと気もない大広間の格天井《ごうてんじよう》には、もう夕暮のかげが濃い。
ここの内は燈火《ともしび》も欲しい暗さなのに、外を見やると、城外の遠い山肌に、かッと、晩秋の落日が、茜色《あかねいろ》に刎《は》ねかえっていた。
彼のまえにある高脚《たかあし》の菓子の器《うつわ》には、菓子はひとつもなくなって紙だけが残っていた。
ようやく、人の跫音《あしおと》がした。
茶碗をさげに来た茶道衆の者である。
「籠城中のこととて、何もございませぬが、夜食をさしあげよとの、殿のおことばでございますれば、ただ今、粗膳《そぜん》をさしあげまする」
茶道衆は、客をなぐさめて、二ヵ所ほどに、燭《しよく》をおいた。
「あいや、こういう中、夜食の御斟酌《ごしんしやく》などにはおよばん。それよりも、藤掛三河どのにお顔を拝借したいと、憚《はばか》りながら、これへお呼びください」
「かしこまりました」
茶道衆が立ち去るとすぐ、三河守が奥からすがたを見せた。ふた刻《とき》とたたない間に、十年も白髪を加えたように、その影には力がなく、瞼《まぶた》には、泣いたような痕《あと》さえ見られた。
「いや、なんとも、失礼をいたした。ただおひとり、置きはなしたまま、つい長い時刻を……」
「なんの、平常のお礼儀などにはいささかもお気づかいに及ばぬが、長政どのには、如何《いかが》なされてあるか。また、奥方やお子たちのお別れは、はやおすましあられたか。……それが懸念でござる。日もはや暮れて参れば」
「ごもっともでござる。最前、殿にも潔《いさぎよ》くあのように仰せられたものの、さて、御生別のことを、御妻子にお告げあるとなると……さすがにの……」
老将は、俯向《うつむ》いて、指がしらで、瞼《まぶた》を抑えた。
藤吉郎もふと眼を熱《あつ》うして、その眼のやりばに困った。
「……わけても、奥方のお市の方様には、どうしても、良人《おつと》のおそばは去らぬ、この城を出て、兄君信長の許へ帰るこころはないと……綿々《めんめん》、御心情をおもらしあって、いつお名残が尽きようとも見えませぬ」
「……むむ。さも……おざろうなあ」
「この三河へも、お訴えなさるのです。女子《おなご》は嫁ぐときすでに、このお城を墓とさだめて嫁《か》したものをと――。その母御のおなげきや父君のおことばを、幼心《おさなごころ》にも、もう茶々様などは、うすうす御理解あそばすので、共々、母君と泣き悲しまれて、なぜ、父君とわかれねばならぬのか、なぜ、父君は死ぬるかと……藤、藤吉郎どの……おゆるしください、尾籠《びろう》のていをお眼にかけて」
三河守は、懐紙で面《おもて》をつつんでしまった。そして咳《せ》き入りながら泣き伏した。
君臣の情、もっともなと、藤吉郎は思いやった。まして長政の心中やお市の方の悲嘆は察しるにあまりがある。ひと一倍、涙もろい藤吉郎は、忽ち、顔じゅうを涙で汚らしくしてしまった。何度も洟《はな》をかんだり、天井をむいたりしていた。
――が、彼はここの一瞬に大事があることだけは忘れなかった。小さい愛情にひかれて使命を誤ってはならないと戒《いまし》めた。涙をはらって、こう要求した。
「お待ち申すことは約束だが、際限なくこうしてはおられん。お名残の時刻を限っていただきたい。何刻《なんどき》まで――と」
「よろしゅうござる。……では、それがしの一存でござるが、こよい亥《い》の刻《こく》(十時)までの御猶予《ごゆうよ》をねがいたい。亥の刻ともなれば、かならず御母子の身は城外へお移し参らせまする」
藤吉郎は否《いな》めなかった。さりとて、そんな悠長な状況にないことはもちろんであった。城外にある味方の意志では、長政の返答次第で、きょうの日没前にも、小谷城の攻略はかたづけてしまおうという予定をもち、全軍、満《まん》を引いて待機している際である。
その味方へは、昼のうち、城内から小旗をあげて、
(御救出のこと、成就《じようじゆ》せん)
と、あいずはしてあるが、それにしても、時間は経ちすぎる。
信長をはじめ諸将が、事の結果を、城外から知るよしもなく、さまざまに思いまどって、帷幕《いばく》の異論や、行動に迷って、紛々《ふんぷん》たる声にとりまかれて困惑している主君の顔が――藤吉郎には、こうしている間も眼に見える気がするくらいだった。
「……いや、御無理もない。亥《い》の刻《こく》まで、お待ち申そうほどに、ごゆるりと、お名残をつくされたがよい。それまでは、城内の御安穏は、藤吉郎がひきうけておりますれば」
彼の快い承諾になぐさめられて、藤掛三河守は、ふたたび奥へもどって行った。その頃もう宵の色は深かった。
小侍と茶道衆が、こもごも、彼のまえに来ては退《さが》って行った。戦場では見られない膳部や酒が饗《きよう》された。
「お身方もせわしかろう。独りのほうが勝手でござれば、銚子《ちようし》、飯櫃《めしびつ》なども、ここへおいてお退《さが》りください」
給仕の者を退けて、彼はひとりで酌《く》みはじめた。薄口な塗りの杯から全身に、秋の沁《し》み入る気がした。
「…………」
酔い得ない酒だった。寒々と、ほろ苦くばかりある。
「いやこの酒もうまく飲めねばならぬはずだ。こういう間も人間の修行になろう。死んでゆくもの、生きのこる者、その差はどれほどか。一瞬ともいえるだろう。……長い長い、幾千年の時の流れから大観すれば」
彼は、強いて、からからと打ち笑うような気を持とうと努めた。
しかしふくむたびに、酒は心腸《しんちよう》に冷たく沁みる。
どこかで、しゅくしゅくと、すすりなくのが、身にせまるような心地がする。
お市の方の泣き悲しむ様や、長政の面《おもて》や、幼児《おさなご》たちの無心なすがたや――どうも奥の様子が想像されてならなかった。
元来が、彼は多分に痴愚《ちぐ》な男である。その痴愚が働きだすと、ひと事ながら、声をあげて泣きたい気もちがしてきた。
「……もし自分が、浅井長政の身であったら」
などと、思い遣《や》ったりした。
ところが、そう考えてから、ひどく気がからり[#「からり」に傍点]として来た。つねに妻の寧子《ねね》にいい渡してある遺言を思い合わせたからである。
――もののふの常。
いつどこの戦野で果てるかもわからない。
おれが、討死したら。
そなたは、他家へ嫁《とつ》げ。そなたが三十まえであったらば。
が。年三十をこえると、色香《いろか》はとぼしい。従って良縁のさきも狭い。だが分別はできてくる。人間、人生の見さかいも備わっていよう。
だから年三十すぎていたら、そなたは、そなた自身の分別で、よい道をえらべ。嫁《か》せともいわぬ。嫁すなともいわぬ。
またもし。
そのあいだに、子を生《な》していたら、若くあろうと、年とってからであろうと、子を主として将来の道をはかれ。女の綿々《めんめん》な愚痴にまような。何ごとも、母として考え、母として分別をとれよ。
「……そうだ、ひと身を思いやるほうが辛い。兵家に稀なことではない。お市の方は生きていてよいのだ。長政は当然、ここで死ぬこそ華《はな》であろう」
ひとり呟《つぶや》いて、また一杯、唇にふくんだ。その一杯から、ようやくふだんの味覚が感じられて来た。
いつか藤吉郎は眠っていた。といっても横になってではない。坐ったまま――あたかも坐禅《ざぜん》でもくんでいるようにである。こくりこくり、時々あたまを低く垂れる。
彼は眠ることが、上手であった。
人いちばい働くには、人いちばい有効で短い睡眠をとる必要がある。
逆境中、それを心がけていたのが、やがて戦陣生活でいよいよ鍛錬《たんれん》され、いまでは眠ろうとすれば即座にどこでも眠れるし、その長短も、その場所も、随時随時に居眠る修養ができていた。
「……?」
そのうちに。
ぱちと、彼の眼は、鼓《つづみ》の音でさめてしまった。
膳部も酒も、いつのまにか退《さ》げられてある。
燭《しよく》のみ白い。
「だいぶ寝たな……」
一洗《いつせん》された頭のかろさと、疲れの去った肉体から、すぐそう分るのであった。
同時に、彼はなんとなく身をつつむ陽気を感じた。居眠るまえまでは、巨大な墓場のようだった城中の陰々滅々《いんいんめつめつ》な気が、一転して、鼓の音や、笑い声に変って、どこやらに和《なご》やかな温かさすら漂《ただよ》っている不思議を――急に発見したのであった。
「はてな」
狐につままれたような気がしないでもない。
しかし、はっきりと、眼がさめてからは、なおさら事実であった。鼓の音ばかりではない、謡《うた》うたう声もする。――もちろん遠くのほうで、微かにではあるが、どっと、笑うときなどは、はっきりと聞えて来た。
「奥の丸らしい」
彼は、人なつかしくなって、大廊下へ出てみた。
ひろい中之庭をへだてた彼方《かなた》の大殿に、無数の明りと、たくさんな人影が見える。そよ風は、酒のにおいを送って来て、その風のまに、侍たちの手拍子が――
花は、紅《くれない》
梅は、におい
やなぎは、緑
ひとは、こころばえ
人のなかの人
さむらい、われら
花の中の花
さむらい、われら
と、同音に歌っていた。
人生はかくこそ送れ。楽しみなくして何の人生ぞや。よしあす知れぬまでも。いや、あす知れぬ身なればこそ。
藤吉郎の持論である。陰気ぎらいで陽気をこのむ彼は、何か、ほっとこの世の祝福を見出していた。そしてわれ知らず、歌の声につられて少しずつ陽気なほうへ歩いていたのである。
ばたばたと、忙しげに、侍たちが通る。多くは台所方の者らしい。大皿にもりあげた肴《さかな》だの、酒の瓶《かめ》だのを、防塁の戦いみたいに懸命に運んでゆく。
いかにも陽気だ、どの顔にも、生命力が光っている。――いったいどうしたのだろう? と疑われるくらいに。
「や。木下殿ではないか」
「オ……三河殿で」
「広間にお見えなさらぬので、あちこち、探しておりました」
そういう藤掛三河守も、ぽっと酔を頬にもっている。ついさっきまでの憔悴《しようすい》は姿にもなかった。
「どうしたわけでござる。奥の丸のあの賑わいは」
「いや、お約束いたした如く、亥《い》の刻《こく》までが、家中一同にとっても、最後の最期。いずれは死ぬもの、死ぬなら華やかにと、殿長政をはじめ、将士すべて、すっぱりと気軽うなって――さらば城内にある限りの酒瓶《さけがめ》をあけ、さむらい[#「さむらい」に傍点]集《つど》いせばやと云い囃《はや》し、あのとおりこの世の名残を酌み交わしているわけでおざる」
「して――かんじんな御夫人《おくがた》と和子《わこ》たちとのお別れは」
「それも、兼ねて……」
三河守の眼もとは、酔いながら、またふと涙にうるみかけた。
――さむらい集い。
どこの家中でも、平常によくある宴である。ふだんの階級や君臣の鉄則も、さむらい集いの座だけでは大まか[#「まか」に傍点]にゆるされる。上下一体、暢々《のびのび》と、生命を楽しませて酔い歌う慣わしであった。
「なるほど」
藤吉郎は大きくうなずいて、
「こよい限りの君臣の死別と、こよい限りの御妻子との生別と、ふたつを併《あわ》せての、さむらい集いでござったか。――そこまでに、長政どのの御心境もきまった上は、いかがでござろう。それがしも、亥《い》の刻《こく》まで、ぽつねんと、鼠に引かれそうに居るのは退屈。――ご宴の末席に加わりたいが――いけませんかな?」
「されば、そのため、お探ししていたところでござる。殿にも、そういう御意にござれば」
「なに長政どのも」
「御夫人《おくがた》やお子たちを、織田家に託せば、あとあと何かにつけて、お世話にもならねば相ならぬと……。わけて幼い和子《わこ》さまたちの行く末をお思いなされて」
「お案じあるな! ――と、そう直接申しあげたい。三河どの、ご案内たのむ」
「さ、こちらへ」
あとに従って、藤吉郎は奥の大広間にはいった。
満座の眼が、すべて彼にそそがれた。
酒気、堂にみちている。
もとよりみな甲冑《かつちゆう》のままだ。しかも、死を寸前に決している人たちである。ともに死ぬ仲間であればこそ、同じ覚悟をすえている戦友であればこそ、和気あいあい[#「あいあい」に傍点]、散り際《ぎわ》の花のそよぐが如く、歓《かん》を尽しあっていたのであるが――咄嗟《とつさ》に、
「敵人!」
と、藤吉郎の顔にあつまった眼というものは、たいがいな者ならば、身《み》の竦《すく》んでしまうほど、鋭い血走った眼ばかりであった。
「やあ、ごめんを――」
誰へともなく、藤吉郎は、こう大きくいったものである。
そして、それを会釈に、つつつとすすんで、長政を中心に、浅井一族のぎっしりとかたまっている上座のまえへ出て平伏した。
「それがしにまで、お杯をくださるとの仰せ、ありがたく、まかり出でました。なお、御幼少なお嫡男《ちやくなん》、お三人の姫《ひい》さまたちのお行く末については、藤吉郎、身にかえても、お護りいたす所存《しよぞん》にございますれば……畏れながら、それについては、いささかのお心残りも遊ばさぬように」
ひと息に云った。
もし、間《ま》を措《お》いて、恟々《おどおど》などしていると、あたりの鋭い白眼が、たちまち酒気と敵愾心《てきがいしん》に駆られて、何をやり出すかも知れない――実に、間髪の危機といってもいい、殺気のなかに彼はいたからである。
「……たのむぞ、木下」
長政は、杯をとって、じかに彼のほうへさし向けた。
「慥《しか》と、たのまれましてござります」
杯をうけて、それといっしょに彼はもう一度云った。
「……御安心を」と。
「うむ」
長政は、満足そうだった。藤吉郎は、敢えて、お市の方と、信長の名には触れなかった。
その美しくて若い御方《おんかた》と、幼い姫たちは、かたわらに繞《めぐ》らした金屏風《きんびようぶ》のうちに、可憐なかきつばた[#「かきつばた」に傍点]の花が、池の汀《みぎわ》に群れ咲いているように、かたまり合っていた。
藤吉郎は、そこの銀燭《ぎんしよく》のまたたきをちらと、眼のすみから見た。
さすがに、正視に堪えなかったのであろう。
つつしんで杯を長政の手へかえしてから、
「かかるあいだは、敵も味方もございますまい。さむらい集《つど》いの御酒をいただいたからに、小舞をひとつ、お眼にかけとう存ずる。おゆるし下さいましょうか」
「なに、舞うとか」
長政ばかりでない、人々みな眼をみはった。
胆斗《たんと》の如《ごと》し――ということばもあるが、この男の、何と身なりも小さいくせにと、やや気をのまれたかたちであった。
雛鳥《ひなどり》を庇《かば》う母鳥のように、お市の方は、子たちをみな膝に抱えて、
「怖うない、怖がることはない。……母のそばにいやるからには」
と、ささやいていた。
長政のゆるしを得た藤吉郎が、起って、満座の中ほどへ、つつつつと進み出し、小舞を舞おうとした時だった。
万寿と、茶々が、
「あれッ」
と、母の膝に、しがみついた。――昼の怖い小父《おじ》さんの顔を、真正面《まとも》に見たからである。
藤吉郎は、足拍子をひとつ、とんと踏んだ。とたんに手からさッと日の丸|扇子《せんす》が咲くと、
あまりの、徒然《つれづれ》に
あまりの、つれづれに
門に瓢箪《ひようたん》つるして
ながめ候えば
折ふし、そよ風の来て
あなたへ、ひょこり
こなたへ、ふらり
ひょこり、ふらり
ふらり、ひょこり
瓢箪《ひようたん》つるして面白やの――
声も大きく、小舞歌をうたって、他念なく舞い出した。
だが。その舞も終らぬうち。
ド、ド、ド、ドッと、城壁の一劃《いつかく》で、つるべ撃ちに銃砲が鳴った。パチ、パチと旺《さか》んに応射《おうしや》し出したのは近くの音である。城内と城外と、彼我一瞬に銃火を交わし始めたらしい。
「――しまった!」
藤吉郎は、扇子を投げすてた。
亥《い》の刻《こく》にはまだ至っていない。
けれど、それは城外の味方は知らないことである。
藤吉郎は、自分が二度目のあいずをしない限りは、総攻撃にはかかるまいと、多分に安心していたのであるが――ついに味方の帷幕《いばく》にあっては、諸将みなしびれ[#「しびれ」に傍点]をきらして、信長に、その悠長をなじり、また即座の行動を迫って、とうとう総がかりに出てしまったものらしい。
しまった!
と、彼の投げた扇子《せんす》は、同時に、総立ちとなった城将たちの足もとへ飛んで、それは、今まで忘れていた敵という観念を、はっきり藤吉郎のすがたに思い起させた。
「すわっ、寄手《よせて》が」
「卑怯。虚を衝いたな」
満座の将士は、ふたつに分れた。一方はどッと外へ駈け出し、一部は藤吉郎のまわりを取りかこんで、忽ち、彼を無数の陣刀の下に斬りさいなんで、これから死にに出る血まつりにしようとした。
「だれが命じたッ。斬るなッ――その者を殺してはならん」
咄嗟《とつさ》、長政のおどろくべき大喝《だいかつ》を、彼の家臣たちは、むしろ意外として、
「寄手の総がかりは始まりましたぞ」
と、喰ってかかるような顔してみな叫んだ。
答えもせず、長政は、
「小川伝四郎ッ」
と、さむらい達の中へ呼んだ。
「はッ」
と、返辞を聞くとまた、
「中島左近ッ」
と、呼びたてた。
ふたりとも、平常、彼の嫡子《ちやくし》や姫たちに附いている傅役《もりやく》であった。
ふたりが、前へ出て平伏すると、長政はいよいよ早口に、次には藤掛三河守を近く呼び、
「三名して、夫人《おく》と幼児《おさなご》たちの身をまもり、木下藤吉郎を案内として、疾《と》く、城外へ落ちのびよ。すぐ行けッ」
と、いいつけた。
そして、屹《きつ》と、藤吉郎のほうへ向って、努めて、落着きを保ちながら、
「では。お頼み申すぞ」
と、いった。
その足もとへ、お市の方と、幼いものたちが、走りよって、わッと泣きかけるのを振り払って、すべての人々へ、
「おさらば」
云いすてるや否、長政は大《おお》薙刀《なぎなた》を把《と》って、吠《ほ》える闇夜の外へ、駈けだして行った。
[#改ページ]
未来《みらい》の女性《によしよう》
城廓の一方に、大きな火の柱が、ぐわうッと立ちのぼった。駈け向って行った長政は、思わず片手で顔を抑えた。何か、火焔《かえん》の翼をもった木片が、熱風のつむじとともに、あやうく彼の顔をかすめ、うしろへ飛び去ったからである。
「殿ッ、殿ッ」
「お供つかまつりますッ」
小姓の浅井於菊《あさいおきく》、河瀬丹三《かわせたんざ》、脇坂左介《わきざかさすけ》などがあとにつづいて来た。
「於菊、袈裟《けさ》は持ったか」
「持ちました」
「よこせ」
長政はそれをとって、ひらと鎧《よろい》の肩にかけた。
もうもうと濃い黒煙が地を這ってくる。もう眼前の事実だった。はや城内には、一番乗、二番乗、と名乗り続けて、われ先と争う敵の尖兵《せんぺい》が入りこんでいるのである。
火は、本丸の館《たち》にも燃え移っていた。大廂《おおびさし》の雨樋《とい》を奔《はし》る火の迅《はや》さといったらない。長政は、そのあたりを潜《くぐ》って来る一隊の鉄甲《てつかぶと》をみとめて、
「寄手だッ。いで」
と、ふいに横を襲った。
赤尾新兵衛、浅井|石見《いわみ》、そのほかの側臣や一族も、彼と前後して、敵へ当った。
焔の下。黒煙の中。
甲冑《かつちゆう》は鳴った。槍と槍、刀と刀とは、噛みあい、喚《わめ》きあって、またたくまに死者と傷負《ておい》のみが、大地にのこる。
城兵の大半は、長政に従ってみな存分に戦い、それぞれ華やかな死をとげたという。あとの半数は、傷負《ておい》やら行方の知れぬものであった。捕虜となったものも、自分から降伏して出たのも、極めて少なかったというのを見ても、小谷の城の最期は、越前の朝倉や、京都の公方家《くぼうけ》のごときものではなかった。――彼を妹|聟《むこ》として選んだ信長の最初の眼は、決して誤ってはいなかったといえるのである。
――なお、その夜。
お市の方、また小さい子達を、戦火のなかから救出した藤吉郎と、藤掛三河守たちの苦心も、戦闘以上であった。
寄手が、もう一刻半《いつときはん》も、彼の出て来るのを待っていてくれたら、やすやすと、城外へ連れ出されたのであるが、何分にも、本丸の館《たち》を出る時から、もう城内は火となり接戦となっていたので、四人の幼児を、護って出るだけでも、たいへんだった。
乳のみ[#「のみ」に傍点]児の末の姫は、藤掛三河守がよろいの上に背負い、次女の初姫は、傅役《もりやく》の中島左近が背に負った。そして万寿は同役の小川伝四郎がしか[#「しか」に傍点]と背に結《ゆ》いつけて立ったので、木下藤吉郎も、上の姫の茶々《ちやちや》に背をむけて、
「いざ、わたくしへ」
と、すすめたが、茶々はいやがって、どうしても母のお市の方のそばを離れないのであった。
お市の方も、離しともないように、それを抱えて、うろうろしていた。藤吉郎は、ふたりをもぎ離して、
「お怪我《けが》でもあってはなりません。たのむぞと、それがしへ仰せあった長政どののおことばにたいしても。……いざ、わたくしの背へ、しっかりと」
やさしく宥《いたわ》ってなどいられなかった。彼のことばは丁寧でも、彼の語気は怖かった。お市の方は、茶々を抱いて、彼の背に託した。
「各※[#二の字点、unicode303b]、お支度はよいか。かならずこの木下のそばを離れぬようにして下さい。お市さま、お手を……」
藤吉郎は、背に茶々を負い、片手を出して、お市の方の手を引いて、まっ先にそこから走り出した。
お市の方も、転ばぬばかりに、つづいて出た。
けれど、藤吉郎に曳かれた手は、すぐ、無言のうちに、もぎ離していた。
そして、彼女は母らしく、あとやさきの子達に心をひかれながら、修羅《しゆら》のなかを、半ば、狂気したように急いでいた。
虎御前山《とらごぜやま》の陣地から、北の上山田のほうまで本営をすすめて、信長は、面《おもて》を焼くばかり近い小谷の落城の火を、じっと見まもっていた。
三面の山、谷間、みな赤い。
城は、巨大な熔鉱炉《ようこうろ》のように、雄《お》たけびの沸《たぎ》りをあげている。――その火花がやがて黒ずんで来て弱まる時、すべてのことは終るのかと思うと、信長は、
「……ばかなやつ」
と、妹の運命を、哭《な》かずにいられなかった。
比叡《ひえい》全山の伽藍《がらん》仏塔も、僧俗のおびただしい生命も、火中に見て、冷然たるものだった信長の眼に、いまは涙がある。
比叡の殺戮《さつりく》とは、くらべものにならない、たった一人の妹のために。
知性と本能と、ふたつを持つ人間には、だれにも矛盾《むじゆん》はある。
だが、信長とすれば、比叡の焼討ちには、大きな信念があった。あれだけの生命をころすには、あれ以上、無数な世の生命に、のちのちまでの幸福を誓いうるだけの信念を持っていたのである。要するに、大乗の精神をもってしたのだ。
浅井長政にたいしては、なんらそういう大意義がなかった。長政が、小乗的な義理や感情で戦ったと同じように、信長の戦いも、小乗的にならざるを得なかった。長政さえ、小義をすてて、信長の大義を解してくれたらよかったと、信長からはいえるのであろう。なぜならば、彼はおよそ長政にたいしては、最後まで、寛大と考慮の余裕を与えていたからである。
それも、程度がある。こよいはもう彼がゆるそうとしても、周囲の幕将たちがゆるさなかった。甲州の信玄は死んだといっても、彼の諸将猛兵はなお健在である。しかも一子武田勝頼の俊英は、信玄以上という評さえある。
長嶋の門徒軍も決して、下火になっているわけではない。ただ、信長の蹉跌《さてつ》をうかがっているものだ。――遠く越前をさえ一気に攻略しておきながら、こんな北《きた》近江《おうみ》の一局部に、のめのめと長陣をすえているなど、実に、愚といわなければならない。
こういう諸将の論や諫言《かんげん》の出る軍議の席では、信長も、お市の方のことなどを、恋々《れんれん》と口には出せなかった。
で、もっともよく、自分の愚かな一面も知っている藤吉郎を、
(きょうかぎりの使いとして)
と、城内へさし向けたわけであったが、まだ明るい頃、吉報の合図があったにかかわらず、黄昏《たそが》れても、夜に入っても、それきり杳《よう》として沙汰はなかった。
「敵に計られたのだろう」
「殺害されたとみえる」
「この虚に、敵は何かきっと、策謀しているにちがいない」
寄手の諸将は、憤激した。また疑うのあまり、ひしひしと、城塁《じようるい》へ迫って、口合戦をし始めていたりした。およそ夕刻頃には、すでに一触即発の危機は醸《かも》されていたのである。
――これまで。
と、信長も思いきった。
そしてついに、総がかりの令を、発したのであった。
だが、そう決したのちも、藤吉郎を犠牲にしたかと考えると、痛恨《つうこん》にたえなかった。
その痛恨は、併せて、お市の方のうえにかかった。――あれほど、出城の機会を与えてやったのにと、彼女の貞節を、彼の肉親的な感情では、どうしても称《たた》えることができなかった。
ところへ、黒おどしの具足をつけた一名の若者が、ひっ抱えている槍の穂さきが、ほとんど、信長の身に触れるくらい、向う見ずに駈けて来て、
「あッ。殿ッ」
と、急に立ちどまって、息を喘《あえ》いだ。
「下におれッ」
「槍をうしろへ置かんかッ」
信長の周囲から睨《ね》めつけられて、若者は、べたッ[#「べたッ」に傍点]と大地に坐った。
「ただ今、主人藤吉郎が、ここへ参りまする。おつつがなく、城中を出られて……」
「なに藤吉郎が、もどって参ったと」
「はッ。はいッ」
「ひとりでか」
信長の訊《たず》ねようは急だった。
若者は、はじめて気がついたように、自分の口不足を、あわてて云い足した。
「城内から、お市の方様、また小さい和子様たち、お幾人《いくたり》も背にしばって、浅井家の傅人《もりびと》三、四名の衆とごいっしょに……」
「えッ……」
信長は、身を揺すぶった。
「――相違ないか。見たのか、その方は」
「われわれどもの人数で、途中からお守り申しあげ、はや、焼け落ちる御城門を、驀《まつ》しぐらに外まで駈け出しました。どなたも、いたくお疲れのてい[#「てい」に傍点]ゆえ、安全なところで、しばしお水などさしあげておりまする」
「……ううむ、そうか」
「そのあいだ、寸刻たりとも、わが君におかれては、御痛念にちがいない、先へお触れ申しあげい――と、主人藤吉郎のいいつけによって、いそいで駈け参りました」
「そうか。ああ」
と、信長はなお口のうちでくりかえして――
「して、その方は、藤吉郎の家中で、なんという者か」
「小姓頭《こしようがしら》、堀尾|茂助《もすけ》にございまする」
「ゆき届いた使い、大儀であった。しばし休め」
「ありがとう存じますが、いまなお合戦のまっ最中、御用のすみました上は」
と、茂助はすぐあとへ取って返し、遠い武者声のなかへ駈けこんで行った。
「まったくの……天佑《てんゆう》じゃ」
信長のわきで、誰か、ふとい息と一しょに呟《つぶや》いた。柴田勝家であった。
丹羽《にわ》、蜂屋《はちや》、佐久間などの諸将も、
「はからずも、およろこびごと、御満足にござりましょう」
と、口々、祝福した。
そのなかに、一脈の感情も、ことばなくながれていた。藤吉郎の功をそねむものと、いちど信長に断念をすすめて、総攻撃の期を早めさせた人々だった。
が、何しても、信長のよろこびは、蔽《おお》いようもない。彼の上機嫌はたちまち帷幕《いばく》を陽気にどよめかせた。如才ない柴田勝家は、賀を述べるに気をとられて、誰もまだ気のつかないうちに、
「その辺まで、お出迎えに参りましょう」
と、信長のゆるしを得、従者をつれて、駈け降りて行った。――そこは石ころの多い沢の急坂《きゆうはん》にあたっている。
やがて、信長の待つ妹は、藤吉郎その他のものに護られて、坂の下から、彼の仮陣屋のある高地へのぼって来た。一小隊の兵が、前に立ち、松明《たいまつ》をかざしてくる。
その後から、藤吉郎は、茶々を背負って、あえぎあえぎ歩いて来た。
信長は、何よりさきに、藤吉郎の額《ひたい》に光っている汗を、松明のあかりに見た。
次に、敵の老将の藤掛三河守《ふじかけみかわのかみ》と傅役《もりやく》の人々が、各※[#二の字点、unicode303b]の背に、和子をおぶって、上って来た。
「…………」
信長は黙然、その子たちを、ひとりひとり眼に迎えていた。しかし何の感情も彼の面《おもて》にはまだうごき出さなかった。
――すこしとだえて、二十歩ほど間をおいてから、柴田勝家がのぼって来た。勝家の鎧《よろい》の肩に、白い手が懸っていた。お市の方の手であった。
彼女は、半ば喪心《そうしん》していた。
敵将の夫人とはいえ、主君のお妹なので、郎党の手をかりては非礼にあたる――と、勝家は敢えて周囲に断って、彼女の腕《かいな》をわが肩にまわし、一歩一歩もいたわりながら、いちばん最後に登って来たのであった。
「御陣所です。……お市さま。御兄君は、もう眼のまえにおいで遊ばしますぞ」
勝家は、すぐ君前まであるいて来て、そっと彼女の腕《かいな》を、肩からはずした。
意識が回《かえ》ると、お市はそのまま嗚咽《おえつ》しつづけた。
女性の泣きぬく声は、一瞬、戦陣の物音も奪ってしまった。あたりの諸将も、腸《はらわた》をかき|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》られた。――が、信長のみは、どうしたのか急に苦《にが》りきっている。
あれほど愛して、実に、たった今し方までも、案じぬいていた妹であるのに――と、諸将は、彼が狂喜して、お市どのを迎えてやらないのが、不審でならなかった。
(何が御気色を損《そこ》ねたか?)
藤吉郎すら、ふと解《げ》せなかった。
信長の側臣が、つねに苦しむのは、主人のこうした気心の変り方である。その鋭感な顔いろを見ると、みな沈黙をまもり、沈黙の中に、ただはらはらばかりしているので、当人の信長も、容易にまた機嫌を直すことが出来かねてしまうのであった。
その機微《きび》を読んで、気むずかしく閉じられた信長の眉《まゆ》をほぐす者は、侍臣のうちでもそう多勢はいなかった。藤吉郎と、いまここにはいないが、お気に入りの明智光秀ぐらいなものだった。
藤吉郎も、しばらく見ていたが、だれもこの場合を和《なご》めようとする者もいないので、ずいと、お市の方のそばへ寄って、泣きあえぐ背へこう云った。
「……さ、さ、御方《おんかた》。お側へすすんで、過ぎこし方のおはなしやら、このたびのお礼をも仰せなされませ。ただ、欣《うれ》し泣きにばかり暮れておいで遊ばさずと」
「…………」
「どう遊ばしたものです。御《ご》兄妹《きようだい》の御仲《おんなか》ではありませぬか」
「…………」
――が。お市の方は、何としてもうごかなかった。兄の信長に、顔をあげて見せなかった。
明らかに、彼女はまだ、良人の長政を忘れかねていた。――長政を思うとき、信長は良人を滅ぼした敵将となり、身は、敵陣のなかに辱《はずかし》められている捕虜にひとしい心地がするのだった。
信長はひと眼見て、妹のこころがすぐ分った。そして、妹の安全に満足するとともに、兄の大愛を解さない愚痴な女ごころが、抑えようもない不満となって、何か、面倒くさい気もちすらジリジリ起って来たのである。
「藤吉郎」
「はいッ」
「抛《ほう》っておけ。要《い》らざることをいわんでもよい」
信長は、つと[#「つと」に傍点]床几《しようぎ》を立った。そして一方の陣幕を払って、
「……小谷も墜《お》ちたな」
と、火の手をながめた。城を焼く火も、そこの喊声《かんせい》も、下火になって、峰や谷には、残月のひかり白く、夜の明けるのを待っていた。
ところへ、一手の将と部下が、勝鬨《かちどき》をつつみながら駈け登って来た。そして信長のまえに、浅井長政以下の首を披露した。
お市の方は、身もだえして泣き声あげた。母にとりすがって、子たちも泣き出した。すると信長は大喝《だいかつ》を発して、
「うるさいッ。幼い者たちを抱いて、あっちへ行け。勝家」
「はッ」
「そちにあずける。お市も、幼い者たちも。……はやく眼に見えぬところへ連れてゆけ」
彼は、なんの矛盾も感じることなく、そう大声でいって、そして次に藤吉郎を呼びたて、
「浅井が城のあとは、そちに与える。あとの始末、施政、何かと心して守れよ」
彼は、落城を見とどけると、すぐにも岐阜《ぎふ》へ帰るつもりらしい。
お市の方も、泣く泣く麓《ふもと》へ扶《たす》けられて行った。やがて、この女性は、のちに勝家の室《しつ》に嫁《か》した。
もっと、ふしぎな将来を身にもっていたのは、その宿命の母とともに、戦火の山を降りた三人の幼い姫たちであった。
すなわち長女の茶々は、のちに大坂城での淀君《よどぎみ》となり、初姫《はつひめ》は京極高次《きようごくたかつぐ》の室となった。そしていちばん末の姫は、二度嫁して、二度良人にわかれ、三度目に徳川二代将軍|秀忠《ひでただ》に嫁いで、家光を生み、東福門院《とうふくもんいん》を生む大幸にめぐり会った。
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母と妻
あくる年、天正二年の三月初めであった。
寧子《ねね》にうれしい便りが来た。いうまでもなく良人の藤吉郎からである。
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折返し、母うえの御文《おんふみ》、そもじの文、いつもくり返しくり返しよみもうし候
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彼女や母から出した手紙にたいしての返辞とみえる。藤吉郎の手紙にはいつも妻や母をよろこばそうとする意志があふれているが、こんどの便りは、わけても、文字どおりふたりを狂喜させることだった。
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今浜《いまはま》のふしん、まだあら壁も所々ながら、母うえにもおいそぎ、そもじにも久々にて会いたさ、待ちわびられ候えば、すぐ御したく、おうつりあるよう、そもじより母上へつたえ賜われかし、余《よ》の事、近々の御見《ぎよけん》にゆずり、あらあら右まで
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]藤 吉 郎
これだけでは、何のことか想像もつきかねるが、この吉報が来るまでには、正月以来、幾たびか、良人と妻のあいだに、書簡の往復があったものである。
――と、いうのは。
ここ久しく、藤吉郎は北《きた》近江《おうみ》の山間に陣して、転戦また転戦、やや小康を得た時でも、各地に奔命して、身に暇《いとま》もなかったが、こんど浅井、朝倉の平定を機として、信長は、
(そちの家族どもも、近江へ迎えてはどうか)
と、初めて、彼の領土に、その永住を認め、また家庭を移すことまですすめたのであった。
小谷の攻略については、何といっても、彼の勲功《くんこう》は、冠絶《かんぜつ》していた。
けれど、その功にたいして、これまではまだ一将校にすぎない藤吉郎へ、
(その城へ住め)
と云い、また、
(浅井の旧領のうち十八万石はそちに与えるであろう)
と、賞した信長の酬《むく》ゆるところも大きかった。
のみならず、信長は、
(以後、木下の姓をかえて、羽柴《はしば》と名のれ。丹羽《にわ》五郎左衛門の一字と、柴田修理勝家《しばたしゆりかついえ》が一字をとり、羽柴と申すがよい)
と、姓さえ与えた。
丹羽、柴田のふたりは、どっちも織田家の重臣中の首席だった。その人物も、信長や藤吉郎の観《み》ている以上、世間では大きく評価している宿将である。
(ありがとう存じます。この後は羽柴筑前守秀吉と名のりまする)
彼にしても、不足のあるはずはない。筑前守に任ぜられたのも、この頃のことである。一躍、大名の列に入り、所領《しよりよう》二十二万石。――木下藤吉郎ではそれらしくない。そう信長は思いやって改姓させたものかも知れない。なにしても、秀吉の擡頭《たいとう》は、譜代《ふだい》の宿将とこの秋《とき》に肩を並べてしまった。
しかも彼は、小谷《おだに》の城に甘んじなかった。
(この城は、保守的だ、退いて守るにはいいが、進出には不利な地である。なおなおこの上にも大志をいだく主君に仕えながら、かような所に、殻《から》をかぶってはいられない)
彼は、三里ほど南の湖畔にある今浜《いまはま》こそ、わが住むところと眼をつけた。
岐阜《ぎふ》のゆるしを乞うて、すぐ修築にとりかかり、白堊《はくあ》の櫓《やぐら》、堅壁鉄門《けんぺきてつもん》は、もうこの春、でき上っていたのである。
(出来上ったら、すぐ今浜の地へ、家庭を移そう)
と、秀吉から疾《と》く便りしたので、彼の妻はもとより彼の母も、一日もはやくがよいと待ちわびて、幾たびか手紙で急《せ》いていたことが、ようやく、きょうの返辞となって、洲股《すのまた》の留守の家庭にとどいたのであった。
洲股の城はそのまえに、当然、信長へ返上してある。秀吉の母と妻の寧子《ねね》とは、廓内の一|邸《やしき》に住んでいたので、旅装もそう暇どらなかった。
数日ののち、今浜から蜂須賀《はちすか》彦右衛門の一行が着いた。迎えの役としてである。老母と寧子《ねね》は塗《ぬり》駕籠《かご》に乗せられた。前後についてゆく将士の装いも平和である。百人にちかい行旅の列には、女人もあり童女もあり、沿道の畑からながめると実にきれいだった。
「岐阜の御城下を通していただくことじゃ。そなたは秀吉の妻として、信長様にお目通りをねがい、日頃の御恩をよくお礼もうし上げねばなるまい」
前もって、母からいわれていることである。寧子はそれがとても重任のここちがして、それのみが苦労になっていた。――岐阜城へあがって信長の前に出たら、身がふるえてなにもいえないのではなかろうかと。
けれど。
その日が来て、母を旅舎にのこし、ひとり種々《くさぐさ》な土産《みやげ》ものを携《たずさ》えて、いざ、岐阜の殿中へあがってみると、心がすわったというものか、取り越し苦労はわすれていた。
それに、初めて仰いだ主君が、想像のほかで、どんな話も気さくにするし、
「そもじも、筑前の長い留守をあずかり、老母への孝養やら、何かと、骨折りであったろう。いや、それよりも、淋しかったであろう」
などと親しみぶかく云いかけられたので、彼女は、自分の家も、この君の端につながる一家族であったことに気がついて、すっかり打ち解けた気もちになった。
「めっそうもないおことば、ほかならぬ戦陣の留守、安穏《あんのん》で暮していられるさえ、朝夕もったいないこととぞんじておりますのに、さびしいなどと考えては、罰《ばち》があたりましょう。ただお母《か》あ様には、はや御老年でございますから」
云いかけると、信長は笑い声にうち消して、
「いやいや、女ごころは女ごころ、包まいでもよい、さびしいのは当りまえじゃ。留守のさびしさを、慥《しか》と、噛みしめてこそ、持った良人のよいところも一《ひと》しお深く分るというもの。誰やらの連歌《れんが》にも、下の句はわすれたが――
旅に出て妻ありがたし雪の宿
とやらあったぞ。おそらく筑前も待ちわびておろう。それに今浜の城は新しい。戦陣の留守は長く辛かろうが、ふたたび家庭に会えば、また新妻|新聟《にいむこ》の頃の思いを新たにすることができる。軍人《いくさびと》ならでは味わい得ぬよろこびといえような」
「まあ、そのような……」
寧子は、襟もとまで紅《あか》くして、両手をつかえていた。そぞろ、十六の年が、想い出されているにちがいない。――信長はそう見ながら微笑した。
食膳が饗《きよう》された。朱《あけ》の杯も添えてある。信長からそれをうけて、ひと口、美しく飲んだ。
「寧子……」
笑いまじりに、信長はまた気がるにいう。
「はい」
何ごとかと、寧子はひとみをあげた。ようやく正視することが出来た頃おいである。すると信長がいきなり云った。
「ただ、悋気《りんき》はすなよ」
「……はい」
何の気なく答えてしまったが、寧子はあとから、かあっと熱くなった。というのは、良人の秀吉がいつか、自分でない美しい女性をつれて、この岐阜城にあがったという噂をきき、ふと、ふだん口に出さないことを、誰やら側の者にもらした覚えがあったからである。
「あれはな。筑前のことじゃ。――あれはちと、そのほうの行儀はよくないようだ。……しかし、|茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]《ちやわん》でも、あまり無疵《むきず》は風情《ふぜい》がない。たれにも一癖《ひとくせ》はあるものよ。それも凡物の大疵《おおきず》は困りものだが、藤吉郎ほどな男は、数ある男のうちでまず少ない器《うつわ》だろう。そもじはよくもあれを見つけたな。信長は平常から感じおった。いったい、かような男を生涯の持ちものと選んだ女子《おなご》とはどんな女子であろうかと。――それをきょうここで出会うて、なるほどと思うた。筑前も好いたはずなれとな。……よいか、悋気《りんき》はすな、仲よく暮らせよ」
女性の心というものをこの殿はどうしてこうよくご存じなのだろうか。恐ろしい気もするし、また良人にとっても自分にとっても、頼もしい御主君ではあると、真実思われた。彼女は、うれしさや間《ま》の悪さや、どうしていいか知れないような心地だった。
――ともあれ、こんなふうに、寧子の印象はよかったし、御前の首尾《しゆび》も上乗《じようじよう》であった。
そして岐阜城を退《さ》がる折には、とても身に持ってなど帰れないほど、莫大な賜わり物をもらった。
目録だけを先にいただいて、彼女は城下の旅舎へ帰った。そして待ちかねていた老母へいちばん多く語ったことは、
「信長様といえば、たれもみな震《ふる》い恐れるので、どんなお方やらと思っておりましたら、世にも尠ないほどお優しい御主人でいらっしゃいます。あんな優雅な殿が、馬上となれば、鬼神《おにがみ》も恐れるようなお人になるのかと、思わず疑われました。お母様のことも、何かとごぞんじで、よい伜《せがれ》をもち、日本一の幸せ者ぞと仰せ遊ばし、またわたくしへも、筑前ほどな男は、海内《かいだい》幾人もおるまい、よい良人を選び当て、そもじも眼が高いことよ――などとお戯《たわむ》れも仰っしゃいました」
と、いうようなことだった。
老母も眼をほそめて、
「そうか。そうかいの……」
と、さも欣《うれ》しげに聞き入った。
およそ名将といわれるほどな人物は、麾下《きか》の将士の心服をうけているばかりでなく、個々の将士の家族たちからも、頼もしい親柱として慕われもし尊敬をうけていたようである。もっともそれくらいな景仰《けいこう》をあつめていなければ、それらの最愛な良人や、ふたりとない子を、自分の馬前で死を競わせることはできなかったに違いない。それもただ華やかに散るだけでなく、死ぬ者も、あとに残る者も、ともにそれを歓びとし、誇りとしたことを見ても、将たる人の平素には、戦略や政治以外にも、なみならぬ心がけを要したであろうと思いやられる。
民衆の杞憂《きゆう》を知らない、また世間や人間を知らない、いわゆるお大名とか殿様なるものは、まったく泰平の永きに狎《な》れた末期の子孫のことで、信長の時代、実力がすべてを決した戦国の世では、そんな特殊人の存在はゆるされなかった。義昭《よしあき》でも義景《よしかげ》でも、また今川義元のごときでさえも、位置や名門に晏如《あんじよ》としていれば、たちまち時代の怒濤が覆《くつがえ》して行った。
だからこの時代に立つ一方の大将たる資格には、高い教養と位置と権力のほかに、庶民の実体がよく分っている者でなければならなかった。一面、文化人であるとともに、一面、野性人でもあることが必要だった。
旧態の頽廃《たいはい》を一掃するにも、生々と新たな建設へかかってゆくにも、そう二つの機能が、絶対な力だった。純粋すぎる文化人でもいけないし、純然たる野性だけでも成就《じようじゆ》しないことだった。
信長はどうやらその資格に適合した大将であったらしい。
とにかく、寧子《ねね》も秀吉の母も、それ以来は、一《ひと》しお君恩をふかく感じて、夜も岐阜城のほうへ足を向けて寝ない――といったような心を真実にいだいて、それがまた母子のあいだでも、夫婦のあいだでも、自分が主人として家の子郎党をしつけ[#「しつけ」に傍点]るにも礼儀や情操の基本になった。
甚だしい乱世にも、平和面の社会や家庭の内部までは、さまで乱脈にならずにいたのも、個々の家庭や主従のうちに、そうした強固な情操と家風の美があったからであろう。
――さて、母子《おやこ》の旅はつつがなく、不破《ふわ》をこえて、春の湖を、やがて駕籠《かご》のまえに迎えた。
その日今浜の賑わいは、今浜が始まって以来のものであったという。いや、今浜という地名まで、秀吉が築いた新城とともに、長浜と改められた。町をあげての祝賀には、その意味もふくまれていた。
[#改ページ]
楽《たの》しみここにあり
春の曙《あけぼの》――。
湖水はほのかに、暁の紅《くれない》をうつしてはいたが、まだ所々、かすみが深い、山は暗い。
「お目ざめ。――お目ざめですぞ。――お目ざめになられましたぞ」
まだ白壁も真新しい長浜の城内では、はやくも、この有明《ありあ》けを燈《とも》し灯《び》がうごき出している。
いま。
秀吉の寝室の次から、宿直《とのい》の部屋や小姓部屋へ、いちいち声をかけながら、大廊下を表まで触れて行ったのは、ゆうべ寝ずの番にあたっていた堀尾|茂助《もすけ》だった。
諸所の部屋部屋で、
「おはやいなあ」
「それッ」
と、起き出る気配がいちどにうごく。
虎之助も、起きていた。
七歳《ななつ》の時、手をひかれて、初めて洲股《すのまた》の城へ母と共に頼ってゆき、小姓として仕えてから九年、虎之助ももう十五になっていた。
ちか頃では、先輩の市松にも、なかなか負けてはいなかった。福島市松はすでに二十歳《はたち》をこえていたが、今も、
「於市《おいち》どの。おいッ、於市どのッてば。――殿さまがもうお目ざめだぞ」
と、年下の彼に起されていた。
市松は、むっくり身を起したが、春眠|暁《アカツキ》ヲ覚エズ――といったように、渋そうな眼をこすりながら、
「まだ暗いではないか。雀みたいに、夜さえ明けると、よく躁《さわ》ぐやつだ。あわてるな」
「じゃあ、寝ていたらいかがですか。殿さまはもうお起きになって、きちんとしていらっしゃるんだから」
「ほんとか」
いやおうなく、市松も衣服を着けて、
「どうして、今朝はこんなに、お早いんだろう。見ろ、まだ有明けの月さえあるに」
「だってきょうは、洲股《すのまた》から御母堂さまや夫人《おく》がた様がお着きになる日だろ」
「それにしたって、長浜へお着きは、午《ひる》ごろというご予定ではないか」
「ご予定はそうでも、きっと、お心のうちで、待ち遠しくて、お寝《やす》みになれなかったにちがいない」
「そんなことがあるものか。どんな戦場の中でも、御大将が寝なかったことなどありはしない」
「それとこれとは、はなしが違うよ。於市どのなどは、親不孝だから、殿のお気もちなどは、分りっこない」
「こいつめ、また朝から生意気な」
睨みつけたが、この頃では、於虎にたいして、その睨みもあまり効《き》きめがない。
秀吉は、風呂が好きだ。一面、無精《ぶしよう》で身のまわりをかま[#「かま」に傍点]わないくせに、湯にはいることは好きである。
何かにつけ、一風呂浴びようという。戦場へ出ても、長陣の時などは、野原に坑《あな》を掘らせて、坑のなかに桐油紙《とうゆし》をしきつめ、それへ湯をいっぱい汲みこんで、浸《ひた》ったりした。
「この野天風呂の味はこたえられん。湯の中から青空を仰ぎ、飛ぶ鳥の腹を見ているのはいいものだ」
入浴ぎらいな者には、何がそんなにいいのか、気が知れなかった。思うに、彼の入浴好きは、お洒落《しやれ》や潔癖《けつぺき》からのものではなく、少年の頃、逆境と漂泊の垢《あか》にまみれて、ふた月も三月も、湯になど浴《ゆあ》みしなかったことはままあったので、その当時の慾望が、やがてあたり前に湯にも入れる身分になってから、いつとなく満された上に「好き」というまでに習慣づけられて来たものではなかろうか。
今朝も起き出ると、もう風呂場だった。
ばしゃばしゃと、鵜《う》が浅瀬で騒いでいるような音がする。好きなかわりに怖ろしく早湯である。
「於福《おふく》、於福」
湯殿の中で呼びたてていた。
於福とは、例の茶わん屋の落ちぶれで、両三年前、湖畔の造船場で人夫をしていたのを、秀吉に救われて、以来、横山城の庭で、瀬戸物焼きなどしていた男である。
侍の仲間にはいって、茶わんばかり焼いているのも能がなさすぎる。いちど戦場へ出て、拾い首でもして来いと、幾度《いくたび》か秀吉にいわれたが、
――戦争ばかりは。
と、ふるえ上がった。無理にも連れて行くとからかえば泣かんばかり謝《あやま》るのである。
だから四十面《しじゆうづら》をさげながら小姓組の於虎《おとら》や於市などからも、臆病者臆病者と、のべつ揶揄《やゆ》されているふうなので、秀吉はつねに不愍《ふびん》に思い、庭から引き上げて、余り人に接しないでよい湯殿番に召使っていたのであった。
「お呼びでしたか」
「於福か。着物、着物」
「いま、お剃刀《かみそり》を調《ととの》えておりますが」
「顔か……。いや、上がってから剃《そ》ろう。はやく衣服をよこせ」
「もうお上がりで」
於福はくるくる舞いして運んでゆく。生来が好人物のほうなのである。あわてて秀吉のうしろへ廻って、背なかを拭き、足を拭き、爪先まで拭いて、杉戸をひらき、その傍らにうずくまる。
「やあ、明け放れたな。天気は快《よ》いぞ」
誰へいうともなく秀吉は大声でいいながら外へ出た。
小姓の虎之助と市松のふたりが、彼の佩刀《はかせ》をささげて、扉口《とぐち》のそとに畏《かしこ》まっていた。
「いま起きたのか」
「はッ。……ちと、寝坊いたしました」
「いや、けさは、わしが早かったのだ。髯《ひげ》を剃《そ》ろう、市松、鏡を立てい」
「はい」
広い居間のすみに、鏡台をすえかけると、秀吉はみずから場所をさしずして、もっと明るい窓の下に置けという。
そこの書院窓には、旭《あさひ》が紅《あか》く映《さ》していた。鏡をおくと鏡にもキラキラする。しかし彼は眩《まぶ》しさなどは意にもかけず、顔をしかめて、頬や顎《あご》を剃りはじめた。
彼は総体に毛深いほうであったが、顎などは、幾日おいても、鬚《ひげ》が伸びなかった。――というよりは、まだ生《は》え揃わない感じである。精神的には急速に発達して来たが、肉体の発育は人なみより遅れている傾きがどうもあった。そのせい[#「せい」に傍点]でもあろうか、時々彼は稚気《ちき》を演じる。幾歳《いくつ》になっても、どこかに、世のつねの大人らしくないところがある。
「さ、よいぞ。剃刀は下げてよい。こんどは髪だ、市松、うしろへ廻って、髪の根を締めてくれい、少々、鬢《びん》だらい[#「だらい」に傍点]の水をしめして」
「お笄《こうがい》を拝借いたします」
市松は、主人のうしろへ坐り、秀吉の脇差に挿してある金象嵌《きんぞうがん》の笄をかりた。
それを、鬢《びん》だらい[#「だらい」に傍点]の水にひたし、秀吉の髪を撫であげてから、
「よろしゅうございますか」
「よし、よし」
「もすこし、お髪の根を、かたく締めましょうか」
「いや、そう固いと、眼じりが吊《つ》る。このくらいでいい」
「殿さま」
「なにか」
「きょうに限って、暗いうちにお目ざめ。そしていつにないおめかし[#「おめかし」に傍点]。みな不審《ふしん》がっておりまする」
「なにが不審。あたりまえではないか。日本一の恋人に会う日であるぞ」
「ははは。殿さまが、真顔をなすって。あははは」
「市松、何を笑うか」
「でも。……いえ、そうお聞き遊ばしたなら、さだめし、夫人《おくがた》さまにも、およろこびなさいましょう」
「妻のことをいうたと思うているのか。寧子《ねね》は二番めじゃ」
「二番めという仰せは?」
「わしのいう第一の恋人とは、母者人《ははじやひと》のことよ。わからんか」
「あ。左様でしたか」
「わしが窶《やつ》れ顔などしていたら、苦労性な母者人はすぐ、せいでもよい思《おも》い遣《や》りを子になさろう。子の窶《やつ》れを見て、そう思うたらもう、この新城の壮麗も結構も、女親の胸にはみな苦労のたね[#「たね」に傍点]となるのみで、ここに住もうて、心から楽しんでは下さるまい」
「おそれ入りました、そういうお考えとも知らずに……」
市松は、両手をついてから、秀吉のまえの鏡立を片よせて行った。けれど、その市松よりは、秀吉のかたわらに、佩刀《はかせ》を持って、ちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]と坐っていた虎之助のほうが、いまの主人のことばを、じっと心から聞き入っていたふうであった。
ふと、秀吉は見て、
「於虎」
「はい」
「そちも会いたかろう。故郷《ふるさと》の母に」
「会いたくありません」
「なぜか」
「でも、私はまだ、殿さまのような手功《てがら》をたてておりませんから」
「ふん……うい[#「うい」に傍点]ことをいうやつ」
と、撫でてもやりたいように虎之助のすがたを見て、
「そうだ、この長浜の城下に、塚原小才治《つかはらこさいじ》という兵学者がおると聞いておる。近日、塚原の道場をたずねて、勉強に通え。精出して、修行しておけ」
と、いった。
虎之助は、欣《うれ》しそうだった。そこへ近侍が、朝の茶を運んですすめた。秀吉は浴後の渇《かつ》をおぼえていたらしく、すぐ飲みかけたが、何か、思い出したように、
「薄茶をくれい」
と、云いだした。
彼の家中にはまだ茶道衆《さどうしゆう》はいなかった。そういう閑人《ひまじん》は無用であると思いこんで召し抱えずに来たものである。ところが小谷の城中で、あの戦時中、ふと、一茶室に坐って、自分とよく似た猿の地紋のある釜などを眺め入ったときから、急に、これはいいものだと、大仰《おおぎよう》に感心しだしたらしい。そう感じるとまた遮二無二、熱くなるのが、彼の性情でもあった。
「はッ……薄茶で。心得ました」
たれが点《た》てるのやら、その道の者はいないので、侍臣のうち、少々は茶筅《ちやせん》の持ち方ぐらい知っているのが、がちゃがちゃ[#「がちゃがちゃ」に傍点]と掻きまわして来るにちがいない。
それでも、秀吉は、大満悦《だいまんえつ》である。主君の信長などのすることは度々見ているので、茶わんを持って、茶わんに礼をすることだけは知っている。
「ああ、うまい」
大まかに、彼は飲んで、掌《て》のうえの茶わんを、しばらく眺めていた。
「これは横山城の庭で、於福が焼いた|茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]《ちやわん》だな」
「左様でございます」
侍臣は答えた。
秀吉は、とつこうつ、茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]の裏を返してみたり、また下に置いてその姿など見入りながら、
「……。何となく面白い。やはりあの男にはあの男の天分があるとみえる。於福を呼べ、於福を」
と、急に何か思いついたらしく、やがて湯殿番の於福が、恐る恐る前へ来て坐るとすぐ、
「そちは今日から湯殿番はやめろ。どうもそんな職分は、そちの天性でないらしい」
と、いった。
於福は、小心な眼をみはって、秀吉の顔を仰いだ。
何か粗相《そそう》でもして、役目を取りあげられたようにでも考えたらしい。気の弱い眼にすぐ涙をいっぱい溜《た》めた。
「はて、おかしな男、何を悲しそうにするか。わしは叱言《こごと》をいったのではない。そちの天分をふと見つけたから、忘れぬうちに、そちに将来の行《ゆ》く途《みち》を与えてやろうと考えたのだ。硯《すずり》を持って来い」
「はい」
小姓が立って、すぐ前におくと、秀吉は懐紙をとりあげて、無造作に、さらさらと手紙をかいた。あやしげな当字《あてじ》や仮名まじりで、書風も至って稚拙《ちせつ》であった。
ついでに手文庫のうちから、なにがしかの金を取り出して、書簡とともに於福に与え、
「これを持って、泉州《せんしゆう》の堺《さかい》へ行くがいい。かねは路用に。てがみは堺の千宗易《せんのそうえき》というものに宛ててあるから、その宗易に会って、身のふりかたを計るがいい。そちの天分を生かすように考えてくれるだろう」
と、教えた。
「では、お暇《いとま》を下さいますので」
「そうだ。おまえのために」
「ぜひもございません」
於福は、よろこばないのみか、手をつかえて、泣いている。天分天分としきりにいわれるけれど、彼自身、何のことか分らないのである。むしろ秀吉の温情から遠ざかることが、将来のことより、現実に悲しかった。
「ははは、わからんやつだ。立つ日はいつなと、気ままにせい。べつに急《せ》きたてるのではないぞ。ただ忙《せわ》しくなると、わしが忘れるから、にわかに云ったまでだ……いや、うれし涙かしらぬが、涙など見せるな、きょうはわしの歓びの日だ」
彼は風の子のようにぷいと庭へ出てしまった。朝陽《あさひ》は土いちめんにこぼれている。すたすたと本丸の奥の丘へ上ってゆく。一叢《ひとむら》の林のなかに、古い神社がある。ほがらかな拍手《かしわで》の音が谺《こだま》する。
降りて来ながら、
「どうだ、きょうの晴天は」
と、まるで自分が創作した天気のように、小姓や家来を顧みて誇った。
それから朝飯を食う。
箸《はし》をおくと、もうそこにいない。
武者|溜《だま》りをのぞいて、若ざむらいたちへ、快活な声をかける。何か、冗談でもいったとみえる。若ざむらい達が旺《さか》んに笑う。
「おいおい、厩《うまや》の者」
「はッ」
「馬はみんな元気か」
何十頭もいる馬までを、彼は家族のうちと心得ているらしい。厩方の侍は、両手をつかえて、その健在を答えた。
「きょうは、どの馬に乗って、母者人のお迎えに出ようか。どれどれ。草履《ぞうり》を出せ」
厩方を案内にして、自身、乗馬をえらびに出かけた。
細長い厩舎《きゆうしや》には、悍気《かんき》のつよい軍馬がたくさん顔をそろえていた。これもみな戦陣の功労者である。秀吉の顔を見ると、わかるのか、怖るるのか、嘶《いなな》いたり、蹄《ひづめ》を鳴らしたり、躁《さわ》がしいこと夥《おびただ》しい。
「や? ……。なんだあの太鼓の音は」
秀吉は耳をたてた。馬が躁《さわ》ぐのもそのせいであろう。遠く城下町のほうで、太鼓や鉦《かね》の音が旺《さか》んに聞えはじめた。
「あの太鼓囃子《たいこばやし》はなにか?」
秀吉がいぶかると、厩衆《うまやしゆう》のひとりが答えた。
「城下の百姓町人たちが、きょうのお城入りを祝うとて、きのうから踊り囃子の稽古をしているのでございます」
「いつぞや見たあの踊りか。はてな、小谷から長浜へ移る折の、入城祭りはやったでないか」
「いえ。今日のは、御母堂さまと奥方さまの、お城入りをよろこんででござりまする」
「きょうのわしの歓び。それはわしの一私事としておるが、領民たちまで、そのように歓んでくれておるか」
「かたがた、旅路から着くおふた方の眼をおなぐさめ申さんと、道には砂をまき、戸ごとには花見幕やら軒飾りをして、それはそれは賑やかな由にございます」
「わしも、早く見たいな」
「まだお時刻までには」
「どうしてきょうは、こう午《ひる》まえの日が長いのであろうか」
「暗いうちからお目ざめでしたものを」
「あ。そうか」
まだ母に会わないうちから、彼はそろそろ子どもッぽくなり始めている。母と妻の駕籠《かご》は、もう湖を見ているであろう、もうどの辺りへと、想像していた。
「――間もなく御城下はずれまでお見えでございます」
城門へ先触れの一騎が告げて来る。その頃、彼はもう城門内に駒を立て、家中の面々およそ二、三百人、徒歩《かち》もあり騎馬もあり、粛然《しゆくぜん》と、隊伍を作って待っていた。
城門が開いた。
正月のように塵《ちり》一つない。幅のひろい道が城下町まで見とおしである。
貝の音につれて、燦々《さんさん》、粛々、秀吉につづく隊列は流れ出した。その日の秀吉の服装はいうもおろか、小姓、近習以下、列のすそに至るまで、さながら絵巻を繰《く》るような美しさだった。
町中の往来には、犬の子も通っていない。金屏風《きんびようぶ》や作り花の軒が両側に見え、家先には、家じゅうこぞって晴着をきて筵《むしろ》に平伏していた。そして秀吉のてかてかした顔が行列のながれにつつまれて通ると、横町や裏辻のほうで太鼓ばやしと俗謡《ぞくよう》の節だけが聞えた。
てんてこてん……
おん大将のお装束《しようぞく》には
金糸赤地《きんしあかじ》のよろい召し
よろい召しよろい召しよろい召し
銀のかぶとの
赤糸《あかいと》しめさせ
朝日にかがやく
海山に海山に海山に
お馬の先の
のぼりのだしには
金のひょうたん
ぴかぴかとぴかぴかとぴかぴかと
御馬のあしおと
たかく召されて
あっぱれ大将
御大将《おんたいしよう》御大将御大将
いさみ進める
若武者ばらには
紫あやの母衣《ほろ》かけて
母衣かけて母衣かけて母衣かけて
ご威勢たのもし
村々おさまり
五穀《ごこく》は成就《じようじゆ》
大安心大安心大安心
平和の歌声はどよめいて、埃《ほこ》りも瑞気《ずいき》の虹に見えてくる。この俗謡は秀吉が小谷から居城を長浜にうつした時、領民がよろこびのあまりその入城の折に踊り狂ったもので、歌詞はもとより俚翁《りおう》か文字のない市人の作で拙《つたな》いが、領民の真情は、おのずからその張りあげる諸声《もろごえ》のうちにこもっている。
「この辺でお待ち申すのか」
秀吉は促《うなが》されて駒を降りた。松並木の見通せる城下口の道《みち》の辺《べ》である。そこに仮の休み茶屋が設けられていた。
「まだお見えなさらぬか」
彼はそこに憩《いこ》いながら床几《しようぎ》に腰をすえているあいだも、いく度となく軒先へ出ては、並木道を眺めやっていた。
やがて午《ひる》近く――彼方《かなた》から一列の人馬や駕籠が見えて来た。陽は急に輝かしく、蝶の影のほか舞うものは塵もなかった。
「母上だな。母者人《ははじやひと》だな。……あの、前に参るお駕籠が」
伸びあがりつつ秀吉は待ちもうける。左右の家臣に何かいっている顔つきなど、まるで他愛ない容子《ようす》だった。でも慎んでいるのか、寧子のことはそう口に出さなかった。
「――大儀ッ、大儀」
彼が大声を発しながら足を前に踏み出したときは、行列は仮の茶屋のまえに停まり、先駆の蜂須賀彦右衛門が駒を降りて、秀吉のほうへ一礼をしていた。
その彦右衛門以下、大勢の供の者に、秀吉は大声で、道中の労をねぎらったのである。そして自分はすぐ、二つの塗駕籠の側へすすみ、
「寧子、元気か」
と、まず妻へよびかけ、彼女のニコとほほ笑む顔を、久しぶりに一目見ると、すぐ老母の駕籠わきへ寄って、ひざまずいていた。
「藤吉郎でございます。お迎えに出ました。母上、すこしそこの茶屋でおやすみ遊ばしてはいかがですか」
老母もにこりと顔を見せた。やわらかい春の日は、この人の胸にこみあげている幸福感と感謝をあざやかに見せていた。それだけで秀吉はもういっぱいな満足につつまれ、かつてのどんな楽しみも、この一瞬には及ばない気がした。人生の至上の楽しみは、今にあることを意識して胸に刻んでいた。
「秀吉どの、お手をおあげなさい。あなたはもう一国の主《あるじ》、路ばたの土に指をつかえることがありましょうか」
むかしのように、膝へのせて、駕籠のうちへ抱え入れたいほどな母性の愛をその眸《ひとみ》にあふれるほど湛《たた》えながら、老母はかえって、こう躾《たしな》めるようにいった。そして、
「旅の道も、一里来ては休み、二里来ては憩《いこ》い、彦右衛門やその他の衆が、よういたわってくれました程に、なんのつかれもおぼえてはおらぬ。すこしも早くそなたの新しい住居が見たい」
との希望だったので、秀吉は駒を招いて、馬上に身をうつし、老母の先駆をして、長浜の城へ導いた。
そのとき、城下町全体は、祭りのような賑わいに沸いていた。およそ貧しきも富めるも、老いたるも若いものも、城主の歓びを自分の歓びとし、秀吉の孝養を自分たちの親孝行のように、
「御母堂さまのお目にとまるのじゃ。お母堂さまのおなぐさみじゃ」
とばかり、辻々に花車《だし》屋台を押し出し、濠《ほり》ばたには踊りの輪を幾つも作って、城門がそこに見えながら、城門のうちに入るまでには、半刻《はんとき》もかかったほどであった。
母と妻を伴《ともな》って、北曲輪《きたぐるわ》の一廓《いつかく》に新たに造った住居を秀吉は見せてあるいた。そこはうしろに伊吹連峰をのぞみ、前に大湖の春と四明ケ嶽を見はらし、庭園の泉石《せんせき》には花木珍石を配し、どこと一点のいうところもない殿造りだった。
けれど、老母は、ふとさびしげに、秀吉を顧みて云った。
「畑がないのう。……ここの御本丸には、わしが菜や豆など作る畑地がないの」
秀吉は母の顔を見ているきりで頷《うなず》きもしなかった。頷けば眼のなかの涙がこぼれ落ちそうだったからである。
また寧子《ねね》は。
同じ本丸ながら遠いむこうの一廓に、べつな女性の住むらしい一屋根がなおあることを後に気づいていた。そして岐阜城へ立ち寄ったとき、主君信長がそれとなく云ったことばを思い出して、みずから深く戒《いまし》めていた。
[#地付き]新書太閤記 第四巻 了
吉川英治歴史時代文庫25『新書太閤記(四)』(一九九〇年六月刊)を底本