吉川英治
新書太閤記(十)
[#表紙(表紙10.jpg、横140×縦140)]
目 次
初《はつ》 花《はな》
予譲《よじよう》の車《くるま》
大坂築城《おおさかちくじよう》
中《ちゆう》 庸《よう》
九年母《くねんぼ》
同《どう》 憂《ゆう》
名門禍《めいもんか》
小牧《こまき》の序《じよ》
泣虫甚内《なきむしじんない》
構《こう》 想《そう》
花・ふた色
静夜騒客《せいやそうきやく》
さすらい人《びと》
去《きよ》 就《しゆう》
青さぎ
のら息子《むすこ》
犬山《いぬやま》・陥《お》つ
二つの世
地図屏風《ちずびようぶ》
小牧山《こまきやま》
小牧《こまき》の蝶々《ちようちよう》
病《や》める鬼《おに》
陣中《じんちゆう》の一花《いつか》
虚《きよ》 実《じつ》
みだれ笹《ざさ》
金扇来《きんせんらい》
薫風陣《くんぷうじん》
山つつじ
達人眼《たつじんがん》
龍泉寺川《りゆうせんじがわ》
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新書太閤記(十)
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初《はつ》 花《はな》
一年。――実にわずか一年の間でしかない。
去年天正十年の初夏から、ことし十一年の夏までの間に、秀吉の位置は、秀吉自身すら、内心、驚目《きようもく》したであろう程な飛躍を遂《と》げた。
明智を討ち、柴田を斃《たお》した。
滝川、佐々《さつさ》も膝を屈した。
丹羽長秀はひとえに信を寄せて協力し、前田利家は義を示していよいよ旧誼《きゆうぎ》に変るなきを努めている。
およそ、信長の分国は、いまは一国余さず、秀吉の意志下にあった。いや、その信長頃には、なお敵国であった分国外の諸州さえも、この一年に、その関係は、まったく一変を呈している。
信長の覇示《はじ》にたいしては、あれほど長年に、また執拗《しつよう》に、対抗を続けて来た毛利も、いまは質子《ちし》を送って、盟下《めいか》に属し、九州の大友|義統《よしむね》も、こんどは祝書を寄せて、款《かん》を通《つう》じて来たし、また讃岐《さぬき》の十河存保《そごうながやす》も、和を求めている有様である。
さらに。
越後の上杉景勝も、慇懃《いんぎん》、賀使を送って、盟約を履《ふ》み、四道の風は悉《ことごと》く、秀吉に靡《なび》き、秀吉の袂《たもと》に吹くを、歓ぶかのような状況である。
――が、ただひとり、宿題の人物がある。
東海の徳川家康だ。
家康が、秀吉のこの旭日昇天のごとき擡頭《たいとう》を、果たして、どう観《み》ているかは、大きな疑問的存在としなければならない。
(彼が肚《はら》は?)
と、秀吉の方でも観ていよう。
(さても筑前という者は)
と、家康もまた刮目《かつもく》しているにちがいない。
そしてこの両者の間は、ここ久しく、音信も絶えていた。双方、ヘタな打つ手は休むに似たり――と無外交の空間に推移を委《まか》しておいたものといえよう。――が、それは例の無為無策のことではない。既成的事実をもってそれを示してゆく秀吉の位押《くらいお》し≠ニ、黙々と先ず自己の陣営をかためている肚芸《はらげい》のかねあい[#「かねあい」に傍点]にあった期間なのである。
しかし、この無表情の持続は、やがて家康の方から外交形式をとって動いて来た。
秀吉が京都へ帰還してからやがて間もないうちにである。それは五月二十一日のこと。徳川家第一の宿将、石川|伯耆守数正《ほうきのかみかずまさ》は、家康の旨を帯びて、山崎|宝寺城《たからでらじよう》に秀吉を訪い、
「このたび、柳ケ瀬表の御大捷《ごたいしよう》は、まこと天下の治、定まるの日到来と、主人家康も、御同慶の至りにたえず、かくは微臣に仰せ遣わされ、御祝のため、罷《まか》り越えてござる」
と、披露|厳《おごそ》かに、銘初花≠フ茶入れを献じた。
初花の茶入れは、夙《つと》に天下に鳴っている銘品だった。からもの肩衝《かたつき》で、これが東山義政《ひがしやまよしまさ》の手に入ったとき、義政がよろこびの余り「くれなゐの初花染めの色深く思ひし心我れ忘れめや」の一歌を詠《えい》じたというのでこの銘がある。
近来、とみに茶にも熱心な秀吉が、まずこの贈物に非常な喜悦を見せたであろうことはいうまでもない。しかし、より以上な満足は、家康から先に、こういう礼を執《と》って来たことにあったことは、これまた、いうまでもないことだった。
数正は、即日、浜松へ帰国する予定であったが、秀吉は、
「そう急がずもよかろう。両三日は遊んで行け。三河殿(家康)へは、筑前よりよしなに申しておこう程に」
と、云い、また、
「わけて、明日はいささか、内祝いの儀もあれば」
と、たって引き留めた。
その内祝いというのは、去年以来の秀吉の内治戦功を嘉賞《かしよう》あらせられて、朝廷より彼にたいして、このたび従四位下、参議に補せらる、という叙旨《じよし》を賜ったによるのであった。
秀吉は、この栄を、さらに、家臣にも頒《わか》つべく、七本槍の若者以下、有功の将三十六人、その他へも、広汎《こうはん》な論功行賞を同時にした。
また、新たに分国二十ヵ国に、新進の城主を取り立て、畿内五国を藩屏《はんぺい》とし、この五月から大坂に大築城を企画《きかく》して、年内にはそこへ移る予定――ということなども発表していた。
「それやこれの歓びじゃ。まあ居れ、まあゆるゆる居れ」
秀吉にこういわれては、数正も、辞去する口実に窮した。慶祝の意を表しに来た使節が、慶祝の席を断って去るも妙なもの――と分別された。
宴は三日にわたった。恩賞を受けた将士やら賀客の登城はひきもきらず、城市はせまく城門も小さい宝寺城は、それらの車駕《しやが》人馬に溢れた。
けれどこの一城市に靉靆《あいたい》とたなびいている瑞気《ずいき》というようなものを、石川数正は見のがせなかった。
(時代はついにこの人の双肩に――)
と、いう感を正直に抱かずにもいられない。
数正は、今日まで、
(わが主君こそ、その人なれ)
と固く信じて疑わない者であったが、ここで秀吉と起居を共にしている間に、その心境には尠なからぬ変化が起っていた。
彼は事々に、自国とこことを、見くらべた。徳川|麾下《きか》の一般と、羽柴麾下の一般とを、比較し、反省していた。
そして、内心の結論として、
(何としても、浜松、岡崎はまだ地方的――)
と歎ぜざるを得なかったし、秀吉、家康の人物比較からも、
(わが御主君といえども、筑前守の天性の大気と、天衣無縫《てんいむほう》の茫《ぼう》とした人がら[#「がら」に傍点]にある衆望には、到底、及ばないものがある。時人は滔々《とうとう》この人の驥尾《きび》に付し、時勢は着々この人に次代を築かせてゆくに違いない)
具眼の数正はそう観《み》た。いや、具眼の士でなくとも、秀吉を盟主として興りつつあるものは、悉《ことごと》く日本全州の暁雲《ぎよううん》のうごきを思わせ、その中心の力たるを実証しているに較べて、浜松の家康はといえば、なおまだ東海の一地区に限度せられた地方的勢力に過ぎないことは、誰とても、否《いな》み得ないところであった。
「余りな、おもてなしに、思わず数日を、浮々と、過ごしました。明日はお暇いたしとう存じまする」
「帰るか。では明日は、京都まで、同道いたそう。筑前も、京まで出向けば」
数正の暇乞いに、秀吉はそういって、さらに半夜を、彼のために、彼と興を共にした。
あくる日。――石川数正の帰国と行を共にして、秀吉も京都まで出向いた。
「伯耆《ほうき》(数正)。――伯耆」
途中、秀吉は馬上から列後をふり向いて、やはり馬上の彼をさしまねいた。
数正は、徳川家の使節として、城中では賓礼《ひんれい》をうけていたが、途上の列伍には、陪臣《ばいしん》なので当然、秀吉の後についていた。
が、頻りに呼ぶので、
「何事で」
と、供廻りをおいて、彼自身のみ、秀吉の側へ馬を寄せて行った。
秀吉は、緩々《かんかん》たる気軽さで、
「伯耆《ほうき》よ、同行の約束じゃったぞ。離れ離れにあるいては同行にならぬ。京都までの途《みち》、殊に退屈、話しながら参ろうよ」
と、いうのである。
数正は、恐縮したが、
「御意にあまえて」
と、そこからは轡《くつわ》を並べて、話し相手になっていた。
沿道の衆目から仰げば、恐らくこれは、秀吉が数正を京都まで送って行くかのような景観となっていたろう。――が、秀吉は、いっこう無頓着の容子《ようす》で、
「この地にあって、京都への出入りは、何とも、不便でならぬよ。往き来の時間の費《つい》えも勿体ない。……で、年内には大坂表へ居を移し、浪華《なにわ》と京都とを緊密なる一環の府として、諸事、そこで司《つかさど》ろうと思う」
などと、大坂築城の抱負の片鱗を語ったりした。
「大坂とは、よい地を相されました。信長公にも、御生前多年、大坂をお望みであったように伺っておりましたが」
「当時なお本願寺の法城堅く、やむなく安土を選まれたが、御本意は大坂であったやも知れぬ」
「それが今日においては、彼処の御普請《ごふしん》と聞くや、諸州を挙げて、石を運び材を寄せ、むしろ下命をよろこんで、昼夜、御工事を孜々《しし》と競《きそ》いおるとの由。……偏《ひと》えに御威徳と申すものでしょう」
「なんの、何事も機運じゃよ。浪華の地のそうなる機が、今日、熟して来たというに過ぎぬ」
いつか京都の町中だった。数正が別れを告げようとすると、秀吉はまた留めて、
「この暑さに、陸路を廻るは、賢明でない。大津より湖上斜めに、舟便とされるがよい。舟用意のできる間、玄以《げんい》の家で、弁当なとつかおう。まあ、来い、来い」
玄以とは、先頃京都所司代の任についた半夢斎前田玄以のことだろう。否やなく、秀吉は数正を拉《らつ》して、その玄以の役邸へ伴ってしまった。
門は清掃されていた。あらかじめ予報されていたものとみえ、玄以の数正を迎えることは、鄭重を極めた。秀吉は、却って、
「そう、堅うするな、堅うするな」
と、飽くまで寛《くつろ》いでみせ、茶亭で午《ひる》の饗宴がすむと、いやその食事や喫茶の間も、大坂経営のはなしの続きをやめなかった。
「玄以、絵図を持て、絵図を」
「御普請の図面で」
「そうじゃ。ここにも、写しが一図あった筈」
「ござりまする」
やがて、玄以がそこへ、取り寄せて来た大図面を拡げた。他国の外臣にたいして、平然とこういうものを示す秀吉の意中を、見せる者も、見せられる者も、ひとしく惧《おそ》れるような顔つきである。
秀吉は開放主義である。この胸襟《きようきん》をひらいて語る前には、数正が、徳川家の臣であるとか、その徳川家が、自己に取っての何者であるかなども、ほとんど、忘れ去っているかのようにしか思われない。
「ま。見てくれい」
と、いうのである。そして、
「御辺は、築城にも精《くわ》しいと聞く。何ぞ、心づきもあらば、遠慮のう申してくれい」
ともいって、その設計の批判を、数正に求めるのだった。
原図は、そこの茶室一ぱいにもなる大きさだった。いわれた通り、数正は、築城土木には、多少|造詣《ぞうけい》もあり、興味も持っていたので、普通なら、秘中の秘として、他国の使臣などには、絶対に示すものでないものを、秀吉が、どういう心意で自分に見せるかの疑いはまず措《お》いて……
「では、拝見させて戴きまする」
と,絵図の上へ、身を伸ばして、見入った。
「…………」
秀吉のやること、およそ小さな規模ではあるまいと、予想していた数正も、つぶさに辿《たど》り見るに従って、その構想の大と、用意の深遠には、まったく気をのまれた容子《ようす》だった。
「ははあ」
とのみ、何度も唸《うめ》いて、図中の夢に囚《とら》われ去っていた。
彼が、思い出すのに――
かつて、本願寺の根拠であった頃には、方八町の城廓であったが――いま、この設計図を見るに、その方八町は、わずか本丸の一基礎となっているに過ぎない。
そして、その周辺の四川山海の自然を悉《ことごと》く取入れて、景勝《けいしよう》を按《あん》じ、攻守の難易、経営の利害を考え、兵馬の出入、車馬|舟楫《しゆうしゆう》の利便に応じ、本丸、山里丸、二の丸、三の丸などのほか、べつに馬出しと総曲輪《そうぐるわ》を構え――これらを囲繞《いによう》する外廓の周《まわ》りは、実に、六里余にわたっている。
また、結構の中心をなす天守閣はというに、城中の最も高い位置に、数十間の楼台《ろうだい》を築き、さらに巍々《ぎぎ》たる層々の五重が設計されてあり、総塗《そうぬ》り籠《ご》め、大矢狭間《おおやざま》を開き、頂上の瓦は、悉く消金《けしきん》をもって箔《は》るとある。
「ううむ。なるほど」
またしても、数正は深く唸《うめ》いた。――驚歎、ただ舌を捲くばかりである。
――が、彼が最前から凝視していた部分は、まだ城府の一地区だけでしかない。それを繞《めぐ》る五畿七道の市街交通等を概望すれば、その広大遠計は、さらに驚目を奪う。
皇城の京に近く、伏見、鳥羽の要津《ようしん》をひかえ、淀川の流れをひいて、即ち、城|濠《ぼり》を繞《めぐ》らすの水とし、堺の繁華は眼下に近く、中国、朝鮮、南方諸島に通う無数の交易船をそこに繋ぎ、奈良街道は遠く大和《やまと》、河内の山脈を牆壁《しようへき》として自然の守りをなし、山陰山陽の両道は、四国九州の海陸路をここに結んで、四通八達の関門をなし、まさに、天下第一城の地として、将《は》たまた、天下に号令するところとして、信長の安土に勝ること幾倍、どこといって、不足の見出しようもない。
「どうじゃな。そこらでは」
秀吉はいった。
「申し分ございますまい」
数正は答えた。正直、そういうしか、ほかに言葉もなかった。
そこへ玄以の家臣が、お席を移しましょう、と云って来た。
余り熱心に絵図を見たので、数正もちと肩の凝《こ》った容子である。秀吉はすぐ、
「よかろう」
と、気を変えて、先に立った。広間の松韻亭《しよういんてい》は、翠簾《すいれん》をかかげ、水を打ってあった。
「ただ、驚き入るのほかありません」
そこへ来てから、数正は云ったが、
「何が?」
と、秀吉はもう忘れているかのような顔をした。
「大坂経営の、あの絵図に見る、広大な御計画でありまする」
「あ、大坂の住居のことか。あれでよいかな」
「もし、あれが成るあかつきには、古今|未曾有《みぞう》の大城市が、地上に実現されましょう」
「そうするつもりじゃが」
「いつまでの、御予定で」
「年内には、移りたいと思う」
「えっ、年内に?」
「あらましのところでな」
「それにしても、あれ程な大土木、優に、十年はかかりましょうに」
「ははは。十年も費やしては、世が変ってしまう。秀吉も老いてしまう。……城内の細部、調度装飾をも、悉皆《しつかい》、三年で仕了《しお》わせよと、命じてある」
「工匠の督励《とくれい》とて、容易とは思われませぬ。また石垣、木材などの数量も、夥《おびただ》しいものでございましょうな」
「二十八ヵ国より木材を伐《き》り出し、陸海から運ばせおる」
「要する人夫の数は」
「これや、わからぬ、何万何十万を要するやら。……内濠、外濠を掘るだけでも。三ヵ月、日々六万人を用いても、ざっとであろうと、奉行どもはいうた」
「ははあ」
数正は沈黙した。あきれ顔なのである。また、自国の岡崎城や浜松城と思いくらべて、余りな懸隔《けんかく》に、気の滅入《めい》るような顔でもあった。
いったい、石のない大坂に、そんな巨石が思いのまま集まるか否か。この多端な戦国にその厖大《ぼうだい》な費用をどこから捻出《ねんしゆつ》する気か。疑惑を抱けば、いろいろあるし、秀吉の大気も、或いは、大風呂敷の類《たぐい》ではないか、などとも疑われたが、当の秀吉は、その数正を前にして、早や何か急用でも生じたとみえ、祐筆の大村|由己《ゆうこ》を招いて、
「いちいち申すから、それにて書け」
と、書面の文言を、口述し始めているのである。そして恰《あたか》も、大坂築城のごときは、片手間の閑事に過ぎず、いま祐筆に認《したた》めさせている方のことこそ、自己の本領たり、ゆるがせならぬ問題と、数正の在るをすら忘れて、章句を按《あん》じ、また首をかしげては、次の文言を、認《したた》めさせているのだった。
「…………」
聞くまいとしても、目の前で秀吉の口述するのは耳に入る。しかもそれは、毛利の一族、小早川隆景《こばやかわたかかげ》へ返書する大事な外交文書であるらしい。――これにも、数正の常識は、身の措《お》き所を失うてまご[#「まご」に傍点]ついた。
「御公務、急な御様子。ちと退座しておりましょうか」
「いや、要らぬ遠慮。すぐ終るすぐ終る」
秀吉は、意にも何にも介していない。そして縷々《るる》と、口述をつづけていた。
返書というのは。
小早川隆景から、このたびの大捷を賀して来た書にたいして、秀吉が、柳ケ瀬戦況の報に事よせて、この際、毛利家の将来の向背《こうはい》を、しか[#「しか」に傍点]と、その旗幟《きし》に明らかにすべきことを――思いきったことばをもって促《うなが》している――私信とはいえ、重大な書面なのであった。
秀吉がいうそばから、祐筆が書いてゆく。
祐筆の筆の運びを眺めては、秀吉が口述する。
石川数正は、黙然と、そのそばで、眼を、庭前の叢竹《むらたけ》に遊ばせていた。
(――柴田に息つがせては、手間どるべきかと存じ、日本の治、この時に候ふ条、兵をも討死させ候ふても、筑前守の不覚にては有まじと存じ、ふっと思い切、二十四日寅の下刻、本城へ取掛り、午《うま》の刻乗入れ、悉《ことごと》く首を刎《は》ね候事)
これは北ノ庄陥落の状を書かせているのである。――日本の治この時に候ふ――という文言を吐いたとき、秀吉の双眸《そうぼう》は、まったくその折のもののように、|炯《けい》として見えた。
文言は一転、毛利家の肚《はら》へ立ち入って、
(――総人数をいたづらに置くべき儀も、いらざる事に候ふ条、その御|国端《くには》へもまかり出て、境目の儀をも相定め、つれつれなほざりなき胸をも相見せ申すべく候間、御分別ありて、秀吉が腹を立てざるやうに、御覚悟、尤《もつと》もに候ふ事)
「…………」
数正は、思わず、秀吉の顔をぬすみ見た。大胆な――と舌を巻いた。だが秀吉は、当の隆景を前に、膝組みの談笑でもしているように、こんな露骨な云い分をも、さも気軽げに書かせている。――傍若無人《ぼうじやくぶじん》といおうか、天真爛漫《てんしんらんまん》といおうか、数正には、推《お》し量《はか》れないものだった。
(――東国は北条氏政、北国は上杉景勝、共に、筑前守が覚悟に任すの態に候ふ。毛利|右馬頭《うまのかみ》殿にも、秀吉が存分の次第、御覚悟なされ候へば、日本の治、頼朝《よりとも》以来、いかで勝《まさ》るものあるべきや。よくよく御量見専用に候ふ。また御異存これあるに於ては、お心おかれず、七月以前に仰せをかうむる可く候ふ。八幡|大菩薩《だいぼさつ》、秀吉が存分のごとく候はば、|弥※[#二の字点、unicode303b]《いよいよ》、互に申し承るべく候ふ事、右の趣き、一々輝元へ相達せらるべく候ふ事、肝要に候)
「…………」
数正の眼は風竹の戯れに見入っていたが、耳はまったく秀吉の低声に魅せられて熱していた。そして、心の奥のものが、風竹の葉のごとく、顫《おのの》き戦《そよ》ぐのをどうしようもなかった。
――思うらく。
この人にとっては、大坂築城のごときも、ほんの片手間仕事らしい。毛利へたいしてすら、異存あらば、七月以前に、申し越されよ、旗鼓《きこ》の間に、解決しようと、云い切っているのである。――数正は、歎《たん》を越えて、かろい疲れすら覚えて来た。
「お船の御用意ができた由でございます」
折よくも、所司代《しよしだい》の士が告げて来た。秀吉も、ちょうど書面を認《したた》めさせ終っていた。
暇を告げた。
秀吉は、帯びていた一腰を、
「古びたれど、良い刀と人は申す。寸志ぞ」
と、数正に与えた。
数正は、押し戴いた。
外へ出ると、秀吉の馬廻り衆一隊が、彼を大津の船着まで見送るべく、馬を揃えて待っていた。
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予譲《よじよう》の車《くるま》
京都に出れば京都にも、彼の裁決を待つ問題は山積している。秀吉は座臥《ざが》間断なく決し去った。
柳ケ瀬以後、大勢はすでに定まって、戦はすんだかの如くであるが、伊勢方面には、滝川一益が降ってもなお頑《がん》として屈しない地方的な局面が、幾ヵ所かに燻《くすぶ》っていた。
長島、神戸などにたて籠《こも》っている伊勢の残軍である。
その方面には、専ら、織田信雄が当った。掃討《そうとう》も終りを告げかけていた。
で。――秀吉が越前から還《かえ》ったと聞き、信雄は、戦地から京都へ来ていた。そして、この日、京都で秀吉と会った。
「長島が陥ちたら、長島城へお還りあるがよい。美濃、伊勢には、御縁故の深い家すじや侍どもも多く、あなたをお慕いしていよう」
秀吉はいった。
信雄は欣然《きんぜん》として、長島へ帰った。庸劣《ようれつ》なこの公達《きんだち》は、秀吉から約された微々たる戦捷《せんしよう》の分け前をもって、鬼の首でも取ったように、得々《とくとく》として去った。
「大徳寺の使僧が、御寸暇にお目通りねがいたいと、今朝から控えておりますが」
信雄が辞去した後の客は、大坂表から来た池田輝政であった。この輝政が長尻《ながじり》で、折々、秀吉と共に、笑声を洩らして来るので、近習がこう伺い出ると、
「お、お」
秀吉は、思い出したように、
「二日の法要の打ち合わせか。――今朝参ると、自分から大徳寺へ申しやっておきながら、うか[#「うか」に傍点]と、忘れおった。――彦右衛門へいえ」
「蜂須賀どのには、昨夜、槇島《まきしま》へお立ちでございました」
「そう、そう、彦右衛門はいないの。……はて、誰か、法要の儀に、明るい者はおらぬか」
側にあった輝政は、自ら任を求めた。
「六月二日は、故右府様の御一周忌。そのお営みについて、大徳寺の僧どもと、打ち合わせの儀でございますか。……それなれば、拙者が出て、諸事、談合をすませましょう」
「む、古新《こしん》(輝政のこと)には、昨年の大法要にも、奉行の一人であったな。今年の一周忌も、何かと、頼もうか」
「承知いたしました」
輝政は、別室へ立って、大徳寺から来た仙岳和尚《せんがくおしよう》や四、五の使僧たちと膝を交《まじ》えて、夕刻まで、一周忌法要の相談をしていた。
灯ともし頃――
その間の訪客のひとりだった公卿《くげ》が、牛車でここの役邸の門から帰ってゆくと、しばし客も絶えて、秀吉は夕|風呂《ぶろ》を出、丹波から来た養子の秀勝や前田|玄以《げんい》などを加えて、夕食を摂《と》っていた。
ところへ、役邸の門の柳へ、従者に駒を繋《つな》がせて、どこからか立帰って来た者があった。
秀吉の座へ、すぐ近習の知らせがあった。
「ただ今、蜂須賀どのが、槇島《まきしま》からお帰りになりました」――と。
心待ちにしていた使いとみえ、秀吉は聞くと、
「帰ったか。これへ」
と、すぐ膳を退《さ》げさせた。
軒の翠簾《すいれん》に、風がうごき、どこかで女童《めわらべ》たちの笑いさざめきが流れていた。
彦右衛門正勝は、すぐ奥へは通らず、風呂所のわきの流しで、口を漱《そそ》ぎ、鬢《びん》の毛など、撫《な》でていた。
宇治の槇島に使いし、帰りも馬だったので、埃《ほこり》を浴びていたからである。
使命は、槇島の配所に送檻《そうかん》してある佐久間玄蕃允《さくまげんばのじよう》に会って、秀吉の意を伝えることにあったのである。これが、やすきに似て、なかなか難しい使いであり、秀吉もそれを知って、
(そちでなくば……)
と、昨夜特に旨をうけて、宇治まで出向いたわけだった。
越前の足羽《あすわ》山中で捕えたあの玄蕃允《げんばのじよう》を、すぐ斬ることなく、宇治の槇島《まきしま》へ送らせておいた時からして、秀吉には、今日の下心があったとみえる。
その送檻の道中も、秀吉は護送の武者にむかって、
(つれなく囚人扱いにすな。縄目はぜひなしとするも、あれぞ越前の捕虜と、道々、人目の辱《はじ》に曝《さら》すまいぞ。縄もゆるやかにし、乗り物にのせて、槇島におけよ)
と、自身こまかい注意までしていた程であった。
野に放てば立ちどころに猛虎と変じるかも知れない無双《むそう》の勇者とは分りきっているので、槇島の牢には、きびしい番を付けておいたが、食事その他は、秀吉の内意とあって、極めて、優遇していた。
敵の虜将《りよしよう》とはいえ、秀吉は、明らかに、心のうちで、玄蕃允盛政を惜しんでいたのである。勝家同様、秀吉もまた、彼の天質のどこかを愛して、
(殺すに惜しきもの)
と、きょうまで、宿題に附しておいたに違いない。
で、秀吉は、京へ還ると、間もなく、使いを遣って、率直に意中を告げ、もって玄蕃允に諭《さと》させた。
その旨というのは、つまりこうなのである。
(勝家はすでに逝《ゆ》く。この上は乃公《だいこう》を勝家と思え。やがて帰国もできるから、その方のために、どこか大国一ヵ城を宛《あ》て行《おこな》うであろう。よくよく思い直すがいい)
これに答えて、玄蕃允は、
(勝家は勝家なり。勝家に代えて思い替うべき御方がなおあるべしとは思われず……)
と、笑い、
(すでに、勝家自害の上は、玄蕃ひとり浮世に留まる念慮《ねんりよ》はない。――たとい、天下を下され候とも、筑前に仕うるなどとは存じもよらぬこと)
と、云い切った。
昨夜、蜂須賀彦右衛門が、旨をうけて行ったのは、その使いがむなしく帰ってから数日後の、二度目の使いだったのである。
それだけに、彦右衛門は難しいと思って行ったが、果たせるかな、夜来、根気よく説いてみた彼の老熟の弁も、玄蕃允の意をひるがえさすことはできなかった。
「彦右か。どうであった?」
秀吉は彼を見るや問うた。銀母屋《ぎんほや》の蚊遣《かや》り炉《ろ》からのぼるその燻煙《くんえん》がその姿を巻いている。
「いけませぬ」
彦右衛門が答えると、あらまし、それとは知っていたように、秀吉も、
「だめか」
といった。
「ひとえに、首を刎《は》ねられ候えとのみ、どう諭《さと》しても、玄蕃の心はかたく、一切、余事を申しませぬ」
「そちがいうてみても、それのみとあれば、なお強《し》いるは、情けであるまい」
秀吉は、ふっと、あきらめ顔に、顔の筋を解いた。
「せっかくの思し召も、よう使いを果し得ませんで……」
彦右衛門は、調《ととの》わぬ使命を、ふつつかとして詫びた。
「詫びには及ばぬ」
秀吉は却って、なぐさめた。
「――囚《とら》われの身となるも、利にうごかず、筑前に屈せず、玄蕃の節義見事よ。その骨ぶし、面《つら》だましいこそ、秀吉が惜しむものなれど……これや無理なはなしじゃ。……もし彼がそちに説かれて、筑前の前に節を変じて来たら、その姿を見ると共に、秀吉の愛惜《あいせき》は失せるやもしれぬ」
「おそらく、左様なことになりましょう」
「ははは。そちも武門、そこまでのことが、肚の底に分っていては、無態《むたい》に、玄蕃を説けぬのもむりはない」
「おゆるし下さいまし」
「なんの、大儀大儀。……が、玄蕃は、ほかに何も申さなかったか」
「されば、もう強《し》いだてはせぬと約して――他の話の末に、てまえが、玄蕃にむこうて、いかなれば、おぬしほどのさむらいが、戦場でも死なず、山中にのがれ入って、百姓ばらの手にかかり、捕われなどされたのか。――また、かく、虜囚《りよしゆう》の日を送りながら、自刃もせずに、首斬らるるのを待っておられるにや? ……と訊ねましたところが」
「ウム、何というたの」
「玄蕃申すには。――否とよ彦右どの、御身は、腹切り斬り死のみが勇士の勇の最大なものと思し召すや。それも武門の華なれど、それがしの場合は、さばかりも弁《わきま》え申さぬ。――生きて生きて生きぬかん所存にてありしにて候う、というのでござりました」
「うむ。……して?」
「柳ケ瀬、茂山の乱軍より落ちのびた節は、まだ勝家の生死も定かならねば、北ノ庄まで落ちのびて、共に再挙を図《はか》らんとしたものでしたが、途中、手傷の悩みにたえかね、農家へ立ち寄って灸治《きゆうじ》のもぐさ[#「もぐさ」に傍点]を求めたことから……武運|拙《つたな》くもかくの如し……としばし眼をふせておりました」
「無念、さもあろう」
「また、檻車《かんしや》をもって槇島《まきしま》へ送られ、虜将の生き恥に耐え忍びおるも、番士の隙あらば、ここを破って脱出し、晋《しん》の予譲《よじよう》に倣《なら》うまでもなく、いつかは筑前に狙い寄り、お命をいただいて、亡き勝家の怨念《おんねん》をなぐさめ、賤《しず》ケ嶽《たけ》中入《なかい》りの不覚の罪を、ひたすら詫びせん心底なり――と、平然として云い払うのでありました」
「ああ、惜し、惜し」
秀吉は歎声を発すると共に、眼に涙すら見せて、玄蕃允の心底に同情していた。
「それほどな男をよ……。へたに使い殺したは、やはり勝家のほうが不覚じゃ。……よし、よし、望みにまかせて、きれいに死なせて遣《つか》わさん。彦右、取り計らえ」
「畏《かしこま》りました。――では、明日にも」
「うむ。早いがよい」
「首の座は?」
「槇島の野」
「引き廻しますか」
「…………」
考えていたが、
「むしろ、それは玄蕃の、望むところであろう。京中を引き廻したうえ、その夜、槇島の野で斬れ」
と、命じた。
そして次の日、彦右衛門が槇島へ出向くに際して、秀吉は、
「さだめし囚衣も垢《あか》じみていよう。死装束《しにしようぞく》に、これ与えよ」
と、小袖二重ねを、玄蕃允へ、持たせてやった。
彦右衛門は秀吉の意を帯して、その日、再び槇島の配所《はいしよ》へ赴いた。
そして幽居中の玄蕃允に会い、
「望み通り、近日、京中引き廻しの上、槇島の野において、斬首《ざんしゆ》のこと、仰せつけられた」
と、伝えた。
玄蕃允は、悪びれた風もなく、
「忝《かたじけの》うござる」
と礼をのべた。
そこで、彦右衛門は、さらに、
「その日は、これを着られ候えとて、特に、お小袖二重ねを、筑前守様より下しおかれました。お受けあれ」
と、秀吉の好意を告げて、広蓋《ひろぶた》にのせた衣裳を見せた。
玄蕃允は、見ていたが、やがて云った。
「御芳志は寔《まこと》にありがたい。さりながら、この衣裳の紋から仕立てよう、玄蕃允盛政が晴着としては、気に入り申さず。……お返しおき願いたい」
「ほ。気に入らぬとか」
「銃卒が着る如きものを着て、京中の人目に、あれが柴田の甥《おい》かと見らるるは、亡き勝家にたいしても面《つら》よごしでござる。つづれ[#「つづれ」に傍点]たりといえ、まだこの鎧下着《よろいしたぎ》の垢《あか》じみたままで引廻されたほうがよろしゅうござる。――しかし、筑前どのに、新たな小袖の一つも玄蕃に着せてやらんという御好意がなおあるなれば、もそっと玄蕃が好みの衣裳を下されたい」
「お伝え申そう。……お望みは」
「大紋の紅のものの広袖《ひろそで》。裏はもみ紅梅《こうばい》に銀摺《ぎんずり》の小袖をこそ賜われ」
歯に衣《きぬ》を着せぬ玄蕃允が云い分であった。
なお、彼のいうには。
「すでに、越中の山中にて、百姓ばらに召捕られ、縄打たれて槇島へ送られたことは、世間に隠れもないことでござる。――その間の生き恥もしのび、折もあらば、筑前どののお首をいただかんと心がけたが、それもならず、今日、玄蕃、首の座につくと聞え渡らば――さこそ都の人々の眼も騒がしからんと存ずる。――見そぼらしき[#「見そぼらしき」に傍点]貰い小袖など着るも口惜し、着るならば、戦場にて大差物《おおさしもの》を指すにも似たる派手やかなる大紋広袖をこそ。――その上、縄詫言《なわわびごと》はせぬ証拠に、車を寄するとき、人前にて、わざと縄を掛けられよ」
率直、実に愛すべきところがある。彦右衛門は早速、この旨を、また秀吉の所へ、云い送った。
秀吉もまた、それを聞いて、
「最後まで、武辺《ぶへん》の心がけ、しおらし」
とて、さっそく玄蕃允が望みどおりな衣裳を届けてよこした。
刑の日が来た。
佐久間玄蕃允は、その朝、湯あみもし、剃刀《かみそり》もあて、青髯《あおひげ》のあと涼やかに、髪まで結いあらためて、もみ紅梅の小袖に、大紋の広袖を着、
「縄を」
と、みずから縛《いまし》めを求めて、車に乗った。
当年、ちょうど三十の美丈夫、誰も、その死を惜しむ姿であった。
車は、京の七条、六条から引廻され、夜に入って、槇島へもどると、野に敷皮をのべ、
「お腹を召されよ」
と、情けの脇差《わきざし》を、扇にすえて差出したが、玄蕃允は笑って、
「斟酌《しんしやく》、御無用」
と、縄も解かせず、従容《しようよう》、首を斬らせた。
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大坂築城《おおさかちくじよう》
秀吉を繞《めぐ》る戦後の多忙は、戦前の多端《たたん》に勝《まさ》るものがあった。
大坂築城と、それに附随《ふずい》する、五畿経営のことだけでも、容易な事業ではない。
従来の築城土木の程度なら、天下の智嚢《ちのう》と、奉行人たちの進行でも運ぼうが、秀吉の構想は、それまでの如何なる日本人の創意よりも遥かに雄大で、その都市計画面だけでも、余りに規模が大きすぎて到底、他人の頭では間に合わないのである。
設計者が、いかに思いきった企画のつもりで作成した原案も、秀吉の前に示すと、必ず、
「小さい、小さい。――この十倍に。ここはこの百倍にも」
であった。
大に過ぎるゆえ、小さくとか、縮《ちぢ》めよ、とかいわれる例はほとんどなかった。
たとえば。
大天守閣、小天守閣の層楼なども、信長の安土城をも遥かに凌《しの》ぐものであったし、また殿館の規模も、当初、設計者の原案は、千八百余坪に、大小約二百余の室数を構図して、
「かくなされれば、天下無比です」
と、規模の大を誇って見せたが――秀吉は一見の後、
「住むには、ちと狭い」
と呟いて、地坪四千六百余坪に拡大し、殿廊客館をあわせて、総部屋数六百二室という途方もない間数に訂正させた。
総じて。
彼の規格眼と、当事者の規模の頭脳とが、甚だしく懸隔《けんかく》していることが、この土木によって明らかになった。
しかし、奉行人や築城当事者の考えるところは、要するに、当時の一般常識の最も高度な創意なのであって、秀吉の企画や構想の方が、独り余りかけ離れすぎていたからであることはいうまでもない。
そしてこの相違の原因が、何によるかを考えてみると、二者の観念に、根本的なひらきがあり、つまり眼のつけどころ≠ェ全くちがっているのであった。
日本の一般人士には当然、この創意、構想にも、日本という限界があった。あらゆる物の比較も、限界の外を出ない。
ところが、秀吉の場合は、その対象を、日本に限っていず、海外をも考慮にいれていたのである。少なくも彼は全|亜細亜《アジア》を鳥瞰《ちようかん》していた。堺の港湾は一潮遠く欧羅巴《ヨーロツパ》の十七世紀文化につづき、五畿の経営は、西欧の使臣や宣教師らの本国へ寄する報告によって、日本の国威にかかわるところ大なりと信じていた。
従って、彼以外の者が、悉《ことごと》くその大げさ[#「げさ」に傍点]にあきれたという程な企画も、彼にとっては、なおまだ腹中の全を尽したものでなかったに違いない。
それと。
彼のこうした理想の具現は、きょうや昨日の思いつきでないこともいうまでもない。
もとよりそういう大気宇は、彼の本質にあったものに違いないが、時、ようやく、勃興的《ぼつこうてき》気運に向いつつあった日本の文化的使命と、海外からの西漸《せいぜん》の風潮などについて、時代の活眼を与えてくれた恩人は、実に、彼にとっては主君であり師でもあった、故信長なのであった。
藍《あい》より出でて藍より青し。
信長の衣鉢《いはつ》は、まさしく、秀吉によって継がれたものといっていい。秀吉は故主の長を取って短を捨て、独味の行き方と、天質の大を加えて来た。
早くから海外に眼を放って、いつか世界的知性を帯びていたのも、畢竟《ひつきよう》、信長の恩恵《おんけい》であった。安土の高閣の一室にあった世界地図|屏風《びようぶ》は、そっくり秀吉の脳裡に写しとられていた。
また、堺《さかい》や博多《はかた》の大町人たちから得た知識も少なくない。それらの者たちとは、公用としては、鉄砲火薬の取引などで日常に接し、私人としては、茶友として会することもしばしばだった。
秀吉は、卑賤《ひせん》に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮す年時などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。
だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下《ぼんげ》な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝《まさ》る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。
――我れ以外みな我が師也。
と、しているのだった。
故に、彼は一箇の秀吉だが、智は天下の智をあつめていた。衆智を吸引して本質の中に濾過《ろか》していた。また時々、濾過しない衆愚《しゆうぐ》らしい振舞も見せ、本質の個性をむき出して見せる場合もあるにはある。彼は自分を、非凡なりとは自信していたが、我れは賢者なりとは思っていない。
――とまれ今日、彼にとって、何といっても、忘れがたい人は、やはり故信長であった。
猿よ。
大気者よ。
こっちを向け。
あっちを向いてみろ。
ああ、もう一度、そういわれてみたい――という思いもするのだった。――で、この戦後の建設に多忙極まる中にも、六月二日の忌日《きじつ》を忘れず、大徳寺において、総見院殿《そうけんいんでん》一周忌の法事を営んだのも、決して、単なる政略のみではない。人はそうも見ようが、彼は由来、煩悩児《ぼんのうじ》である。愚かなる追憶や、その追慕とは相剋《そうこく》する、信孝の処理や、信雄にたいする考えも、こうして先君の位牌に冥々裡《めいめいり》に、お告げもし、お詫びしておけば、彼の心は信長の生ける言を聞き得たように、大いに救われる気もするのであった。
その法事もすんだ。
六月の末である。
「だいぶ工事も進んだ頃、いちど見ておこう」
彼は、大坂へ出向いた。
城普請《しろぶしん》奉行は――石田|三成《みつなり》、増田長盛、浅野長政の三人。市区建設奉行は、堀久太郎、片桐且元、長束正家《なつかまさいえ》などである。
秀吉を迎え、石山の高地に立って、何かと説明に努めた。
そのむかしの難波《なにわ》の葦原《あしわら》は、埋めたてられ、切り拓《ひら》かれ、はや掘割も縦横に掘られ、町地割のできた所には、商人の仮屋が軒を並べ始めている。
堺の港や安治《あじ》川尻などの海面を望めば、石を積んだ数百隻の石船が、満々と帆を揃えて入って来る。――そして、秀吉の立った本丸予定地からそれらの眼のとどく限りな地上には、昼夜交代で一刻といえ工事の停止することなき数万の人夫と諸職の工匠《こうしよう》が、蟻《あり》の如く働いていた。
築城の大工|棟梁《とうりよう》には、当時の代表的な者のみが選ばれていた。
金剛《こんごう》、中村、多門《たもん》、武辻《たけつじ》
の四家だった。
人夫の供出はすべて、各藩に賦課されている。怠慢あるときは、諸侯といえ、厳罰に処せられる。
各職の下には、下請《したうけ》があり、小頭《こがしら》があり、現場頭があって統率されていたが、要するに、それらの組々の名は、責任範囲の名称だった。
そして、責任者のいる所には、かならず明らかなる責任があった。
もし、それに欠くる場合は、直ちに、馘《くびき》られた。監督者たる各藩の士は、責めをまたず腹を切った。
こうして、平時の土木といえ、その真剣さは、生命《いのち》がけだった。戦場と異ならなかった。
また。
この時代の特徴として、工事はすべて、請負《うけおい》制度だった。いわゆる「割ぶしん」とよぶ制度である。
割普請《わりぶしん》は、むかし、清洲城の名と藤吉郎の出世仕事として、有名であるが、あれはべつに藤吉郎が初めて案出した仕組みではない。
戦国時の土木といえば、火急を要さない工事などはほとんど少ない。殊に、城塞《じようさい》の工は、大概の場合が、敵前の突貫《とつかん》工事である。
いかに迅速に、いかに緊密に――しかも敵をして間隙《かんげき》を窺《うかが》ういとまもなきうちに、これを成就《じようじゆ》さすかが――眼目であった。
割普請制は、それに応《こた》えて、自然にできた約束なのである。
この制約の進捗《しんちよく》中に、最も戒《いまし》められるのは、俗にいう、
(迅《はや》かろう、悪かろう)
の拙速《せつそく》が常態になりやすいことだった。
反対に。
割普請制の特徴の第一は、働く者各※[#二の字点、unicode303b]が、
(俺の領分、俺の時間)
を持つことになるので、そこに日傭《ひやと》い根性では出て来ない自己への試し≠ェ現わされて来ることにある。
(俺が本気でやればどのくらいな働きができるか)
を先ず試み、それから、
(やれば、こんなものだ)
という自信をもち、
(迅いばかりじゃないぞ、俺の仕事にケチがつけられるならつけてみろ)
という誇りを生じ、ひいては、仕事への熱中と没我から、自然、仕事そのものに魂も入り、おもしろさも湧き、彼ら独自の、職人的道義も昂《あが》って来るのである。
もとより、この請負制は、人間凡衆のもつ利己心を活用したものであるが、結局は、小我に始まって無我に入り、利に始まって利を見ざる境地に人を動かすもので――もしこの手段が悪いといえば、人が道を求めて聖賢の語を求めるのも、ひとつの利己だし、仏心を起して菩提《ぼだい》を求めるのもいけないことになる。ひいては社会万般のこと、人間凡衆の働く活泉には、悉《ことごと》く不純ありということにもなる。
――が、いま。
大坂城の大工事場では、そんな理念に問うている暇はない。孜々営々《ししえいえい》である。昼夜|兼行《けんこう》である。そしてこの割|普請《ぶしん》制の汗の下に、磐石《ばんじやく》も巨木も、思うままに動かされていた。
以上、述べたように、大工事もまだ半ばの――いや、半ばにも達しない着手|匆々《そうそう》というのに、秀吉は、それをここに見に来た数日の後、
「ひとつ、初の茶会《さかい》を、この大坂城で催そう」
と云い出し、にわかに堺の千《せん》ノ宗易《そうえき》と津田宗及《つだそうきゆう》の許へ、
「すぐ来い」
と、使いをやった。
ふたりは来た。しかし驚いた。広大な地域すべて、さながら土木の戦場である。本願寺時代の古い建物とてみな取り毀《こわ》されている。どこで茶会などやる気かと疑われた。
「こういう中での一会も、またおもしろかろうが」
秀吉はいうのである。
そして、彼の滞在のために、にわかに囲った仮屋作りの八畳で、七月七日から十三日まで、七日のあいだ茶事を興行するゆえ、その趣向《しゆこう》をせよ、と命じた。
「御即意、いちだんと、興深いことでございましょう」
ふたりは、畏《かしこま》って、宗易と宗及とが、隔日に、席を持った。
七月七日は、七夕《たなばた》に因《ちな》み、|玉※[#「石+閨v、unicode7900]《ぎよつかん》の暮鐘《ぼしよう》の絵を床に、紹鴎《じようおう》のあられ釜を五徳《ごとく》にすえ、茶入れは、初花《はつはな》の肩《かた》つきが用いられた。
客は、築城の工に奉行している諸侯たちで、一夕、四、五名ずつ順次に招いた。
掛けもの、花入れなどは、その日その日にかえられたが、初花《はつはな》の茶入れだけは、連日つかわれた。そして亭主の秀吉から、
「これは近頃、柳ケ瀬の勝ち軍《いくさ》の賀に、三河どの(家康)からわざわざ使いをもって、祝うてよこした物で……」
と、東山伝来のそのことよりも、もっぱら家康が自己にたいして、かくの如き礼を執《と》って来たという点を、しきりに……いや名器自慢に事よせて、罪なく語り聞かせるのだった。
また、聞く方でも、それが世に隠れもない名器と、みな知っているだけに、
「まことに、三河どのにも、よく思い切って、これをば……」
と、その懇厚《こんこう》な信問《しんもん》には、誰もが、事実どおり、家康の秀吉に対する礼のなみなみならぬことに、頷《うなず》き合うのであった。
七日間の茶事に、主なる諸侯は、あらましこの初花を拝見した。いや、亭主の吹聴《ふいちよう》を聞かせられた。
亭主は、茶事といえば、茶事にも、戦争へかかる時のような熱心を示して、七日間、ぶッ通しでやった。秀吉の口ぐせは、
「たぎりたッた茶の湯をやる」
ということだった。彼は、何事にまれ、ぬるい[#「ぬるい」に傍点]ことが嫌いなのである。
こうして、諸将をよろこばせながら、工事も励まし、また一面の目的も彼は達していた。――いま彼の心のうちに、何が最も大きく伏在しているかといえば、それは家康のほかの者ではない。
秀吉が今日までの一生中、故主信長をのぞいて、真に、人物中の人物――畏《おそ》るべき人間――とひそかに観ていたのは、ただひとりの徳川家康あるのみだった。
嶄然《ざんぜん》、自己の位置が、ここまで擡頭《たいとう》して来ると、次には必然な――家康との対立がいまは避け難いものとして予想されていたのである。
盂蘭盆《うらぼん》が来た。
秀吉は、大徳寺の総見院へ、盆詣《ぼんまい》りした。姫路にある母と妻へ、久しぶり、便りを出した。
(――今、難波《なにわ》に新たなお住居を作らせつつあります。ここの眺望、居心地は、姫路の比ではありませぬ。来年のことを申すと、鬼が笑うそうですが、次の正月は、寧子《ねね》も共に、そこで春をお迎えするようになりましょう。もちろんあなたの息子も、それまでには大坂へ移ることにし、諸事取り急いでおるところです)
こんな便りだった。
彼は母と妻が、この文に、顔を寄せおうて読む様を、眼にえがきながら、これを書いた。
八月。――涼秋。
彼は、侍臣津田|左馬允信勝《さまのすけのぶかつ》へむかい、
「浜松へ参って、徳川家へ答礼して来い」
と、特使を命じた。
託すに、不動国行《ふどうくにゆき》の名刀をもってし、こう伝言した。
「いつぞやは、御家臣石川|数正《かずまさ》をよこされ、またとない名器を賜わって、筑前は無性によろこんでおります――とな」
不動国行は、その折の、茶入れの礼として、彼から家康への贈り物に持たせたのである。
「ついでに、数正にも会い、その節は、大儀であったと、よろしく申せ」
秀吉の心くばりは、数正にまで届いていた。数正への音物《いんもつ》もあった。
左馬允は、月の初旬、浜松へ出発し、十日頃に帰って来た。
徳川家の歓待は、こちらが恐縮するほどで、実に、行き届いたものでありました――と報告した。
「三河どのも、達者に見えられたか」
「至極、御壮健のていにござりました」
「家中の士風はどうか」
「他家には見られぬものが感じられます。質素のうちにも何やら皆、不屈な面構《つらがま》えを潜《ひそ》めて」
「新参も多いと聞くが」
「多くは、武田武者のように思われました」
「さこそ……」
秀吉はうなずいて、使い、ご苦労であったと犒《ねぎ》らった。その間に、彼はふと、自己の年齢と、家康の年齢とを胸のうちで、比較していた。
彼は、家康より年上である。家康は四十二、彼は四十八。――六つちがう。
はるかに年上であった柴田勝家よりも、年下の家康に対する方が、彼の心は、大きな要心を強《し》いられていた。
――が、すべては胸三寸の秘にあることで、表面の秀吉には、寸毫《すんごう》も、戦後間もなく、再びそんな大戦が予期されていようなどと外から見られる風は窺《うかが》えなかった。――というよりは、二者の関係は、いかにも円満に見えた。
十月。
秀吉は家康のために、その功を朝議に仰いで、正四位下左近衛権中将《しようしいのげさこんえごんのちゆうじよう》の昇進を奏請《そうせい》し、程経てふたたび、従三位参議に任叙《にんじよ》さるべく取做《とりな》した。
秀吉は、その時、従四位下の参議であった。彼は、年下の家康に、自分以上の位階を取做しても、なおかつ、ここしばしは、家康の歓心をつなぐことをもって、最善の方策としていた。
かくて、その年十二月には、予定のとおり、彼は、宝寺《たからでら》城の旧居を払って、摂津大坂の新たなる大城に移り住んだ。
[#改ページ]
中《ちゆう》 庸《よう》
左近衛権中将三河守家康は、強健な胃ぶくろのように、腹いっぱい食い溜めたものを、この半年は、――去年天正十年の下半期から、ことし十一年の上半期にわたる一年の収穫を、――悠々《ゆうゆう》とただ消化するだけに留めていた。
彼は、風貌からして、のっそり[#「のっそり」に傍点]坊に見えた。
首が、猪首《いくび》である。からだは肥えていた。顎《あご》が厚く、耳が大きい。
[#ここから2字下げ]
――徳川家康ほど、をかしき人はなし。下腹ふくれておはす故みづから下帯しむることかなはず、侍女共にうち任せ結ばしめらるる。
[#ここで字下げ終わり]
このたぐひさまざまにて、すべて云ひ立つれば、おほやう過ぎたる大名なり。
当時のものの本などにもそんな風に書かれていた。いささかの鋭さもない、怜悧《れいり》なふうもない。
鈍重で、田舎《いなか》臭くさえ見える大将だった。いや、そう見せているところに、彼の真面目《しんめんぼく》はあった。
しかし、信長の死後、忽ち、甲信に兵を入れて、宿望の地を拡大し、二女の徳姫を北条|氏直《うじなお》へ嫁《とつ》がせて、その小田原とは矛《ほこ》を収め、
(上州には手はつけぬ。二家の争うは、徒《いたず》らに、越後の上杉をよろこばすのみではないか)
と、占領範囲の悉《ことごと》くを、既成事実として認めさせ、一稼《ひとかせ》ぎの後は、恬《てん》として、澄まし込んでいる迅《はや》さの如きは、蟇《がま》が蚊を呑んで嘯《うそぶ》いているような横着さである。
その陣中へ、北ノ庄の遠くから勝家が鄭重《ていちよう》な使者と音物《いんもつ》を齎《もたら》して来たことにたいしては、それきり答礼もせず、書信も送らず、柳《やな》ケ瀬役《せえき》の帰趨《きすう》が明らかになってから、却って、無沙汰の秀吉の方へ、われから初花の茶入れなどを贈って、その歓心《かんしん》を試みているなども、この人、ひと筋縄や二筋縄で測られる下腹ぶくれ≠ナないことがわかる。
日を経て、今度は。
秀吉の方から、不動国行の名刀が贈られて来たり、つづいてまた、正四位下権中将に昇すなどの、吉事の取做《とりな》しが齎《もたら》されて来ても、さして欣《うれ》しそうな顔つきでもなく、
「筑前も、このところ、いこう気を遣《つか》うような」
と、ひとりの侍臣に、皮肉な笑顔を見せただけであった。
この頃――
彼の侍坐《じざ》に、いつもよく見える家臣は、返り新参の本多弥八郎正信であった。
勘当がゆるされて、又帰りする家臣もなくはないが、正信のように長かったのは稀である。
正信は、家康が幼時、質子《ちし》として、今川家に養われていた頃から仕えていたほど、生《は》え抜《ぬ》きの三河武士であったが、長島|一揆《いつき》の際、勘気をうけて、以来、十八年のあいだ諸州を浪々していたものである。そして去年、本能寺変の直後、家康が堺の旅行中からあわてて国許へ引っ返す途中、その急に駈けつけて、危難の道を払い、無事浜松へ守って来たことによって、実に十九年ぶりの帰参がかなえられたのであった。
「羽柴どのの気を遣うのが、殿にお分りのようでは、殿にも、少々、お心をつかわれておられますな」
その正信も、家康に似て、どこという特徴も見えない、平凡なる侍だったが、年は主人より四ツ上だし、多年、世間をひろくあるいて、家康とはちがう苦労をなめているので、おのずからな人間の錆味《さび》が、彼には、古天妙《こてんみよう》の釜肌《かまはだ》のように自然身についていた。
正信の帰参以来、彼と家康とは、よく主従二人きりで、こうして地味に、話すことをただ楽しむ如く話していることがあった。
憎くもなく、恨みもふくまず、十八年間も別れていた幼少からの主従が、ふたたび盆に返って、水魚のような君臣の情契《じようけい》を新たにしたことなので、往時の追懐だけでも、尽きないものがあるのであろう。
――が、家康は、そう情懐にのみ耽《ふけ》る者ではない。彼がしきりに、本多正信を近づけているのは、正信の流浪中に学んだ諸州の実状やら、世路《せいろ》の苦労ばなしに、得るところが多かったからである。
それと。
近年、浜松の家中には、その版図《はんと》の増大に伴って、以前、今川家に仕えていた駿河衆や、武田家出身の甲州武者が、夥《おびただ》しく麾下《きか》に加わって、それに松平村から起った一族同様のいわゆる譜代《ふだい》の家臣を交え、このところ実に錚々《そうそう》たる人材がおのずから叢淵《そうえん》をなして来た観があったが――その中に、また一人の本多弥八郎正信が帰り新参として殖《ふ》えたのを見ると、
(これは、これほどある家臣のうちでも、二人と類のない男だ)
という点に、家康の眼と、彼を珍重する所以《ゆえん》があったようである。
かつて正信の流浪中に、松永久秀も、彼の為人《ひととなり》を見ることがあって、
(三河武士といえば、みな艱苦《かんく》によく耐え、質朴《しつぼく》にして卑《いや》しからず、気骨稜々《きこつりようりよう》、鷹《たか》のごとき概を感じるが、正信は、素朴にして、言語温和、人に接してかど[#「かど」に傍点]がなく、しかもどこかにふくみ[#「ふくみ」に傍点]のある腹据《はらず》わりが窺《うかが》える。三河衆にしては、ちと、毛色がちがう者のようだ)
と、評したというが、この言はなお、家康の眼をもっていわしめれば、決して、正信の全貌《ぜんぼう》を云い尽したものとはしまい。
家康が、正信にひそかに期待したものは、
(これは、何事にまれ、一応分別させてみるによい相談あいてじゃ)
と、思ったことにある。
智嚢《ちのう》ということでは、家康はおのれ一箇の智をもって、決して、足りないとはしていない。けれど彼は、その大頭《おおあたま》のうちに豊かに持っているものの他に、もう一つ、非常な特質を持っていた。
おそろしく、用心ぶかいのである。
智者ハ智ニ溺《オボ》ル
という戒《いまし》めを、彼は常に身に持しているらしい。鋭智の錐《きり》をつつむこと、そののっそり[#「のっそり」に傍点]然たる風貌でもなお足らぬとしているかのようだった。
「――数正のはなしによれば、筑前の取りかかっておる大坂の城は、古今|未曾有《みぞう》のものという。昇天の勢いとは、近頃の筑前をいうことばと思わるる。かくては、この家康も、少しは心を向けていずばなるまいが」
「少しでは足りませぬ」
正信は、笑いもせず答えて、
「唇やぶれて歯寒し――のたとえもあります。追々、風当りが参りましょう」
「早いか。遅いか」
「思いのほか、早いこと、確かでございまする。うわさの如く、羽柴どのが、年内にも、大坂の城へ移ったら、時はもう迫れりとしてよろしいでしょう」
「……と、せば、何を名分に」
「ちと、申しあげ難《にく》うござる。御推量を――」
「む……」
家康は、信雄を、思いうかべていた。
正信は、なお久しく、家康の前にひきつけられて話していた。
この主従の間に、早くも、対秀吉策がしきりに練られていたことは疑いなかった。――けれど、表面はあくまでも、互いに、相手の歓心《かんしん》を求め、どちらも謙譲《けんじよう》の礼を取って、敢えて、驕傲《きようごう》に出るふうなどは毛頭もない。
ここ、何らかの大機をふくむ、名人と名人との対局の序盤《じよばん》を見るようなものがある。一手、さしては相手の肚《はら》を見、一手|酬《むく》いては相手の意を逸《そら》して嘯《うそぶ》き――いわゆる七分三分のかねあい[#「かねあい」に傍点]の状態が――天正十一年から十二年に入ろうとする期間の、大坂と東海方面の間に孕《はら》みつつある気象だった。
そして――
この気流配置による二者の二天地は、著しく対蹠的《たいしよてき》な相貌《そうぼう》を違えていた。
新興|難波《なにわ》の大坂は、一夜明ければ明くるごとに、隆々たる旭昇の勢いをもって、人心と物資を蝟集《いしゆう》せしめつつあるに反し、ここ東海浜松を中心とする駿遠甲信《すんえんこうしん》に跨《また》がる一団の雷雲は、むしろ晦冥濛々《かいめいもうもう》、なお地方的な潜勢力たるに留まっていた。
――が、家中一般の士気は、決してそうでなかった。三河武士の通念としては、依然、
(秀吉、何者ぞ)
である。また、
(彼は元来、匹夫《ひつぷ》より成り上がった織田家の一家臣。わが殿は由来、信長公とも同座の御方。同位置にある盟国の大将。――彼より来って礼を取るなら知らぬこと。何ぞ、われより礼使を送る理あらんや)
となす固執《こしつ》は、家中のほとんどすべてが持っているものといっていい。
ところへ。
石川数正が帰って来て、しきりに秀吉の大気や、大坂築城の経綸《けいりん》の大を称《たた》えたので、家中の反感は、却って勃然《ぼつぜん》たるものを現わし、
(気鋒《きほう》すでに、天下を横奪《おうだつ》の肚《はら》とは見ゆ。織田の宿老と争いを構えて、柴田を討ち、滝川を亡ぼすなどは、まだ見のがしもなるが、織田一門の信雄公をもって、信孝公を自滅させ、居館を大坂に起して、早や天下人《てんかびと》の虚態《きよたい》を装《よそお》うなど、沙汰のかぎり、徳川家として、それを許しておるべきではない)
という者が多かった。
ひいてはまた、先頃、秀吉の許へ使いした石川数正個人にまでも、へんな眼が向けられて、
(数正どのには、だいぶ筑前に頭をなでられて、お帰りじゃそうな)
などと専《もつぱ》らいわれていたところへ、やがて秀吉の答礼として、津田|左馬允《さまのすけ》が来た折は、他の重臣に訪礼はなかったにかかわらず、ひとり石川数正の私邸だけには訪れて、音物《いんもつ》を伝えたということなどからして、数正はよけいに、痛くもない腹をさぐられ勝ちであった。
そんな事、こんな事、家康の耳にも、何となく聞えてくるが、家康は、鈍根な貧乏性を頑《かたく》なに守っている吝嗇家《りんしよくか》のように、本多正信とぼそぼそ話していない時は、独り居室で書物など繙《ひもと》いている折が多かった。
彼の居室の特徴といえば、これは信長にもない、秀吉にも見られない、書巻の気があることであった。
そこには、論語《ろんご》、中庸《ちゆうよう》、史記、貞観政要《じようがんせいよう》、六韜《りくとう》などの漢書やら、延喜式《えんぎしき》や吾妻鏡《あずまかがみ》などの和書もあった。中でも、愛読の書は、論語と中庸の二書であり、和書では、吾妻鏡だった。
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九年母《くねんぼ》
「御書見中にございますか」
「帯刀《たてわき》か。なんじゃ」
「お邪《さまた》げでなくば、雨夜《あまよ》のつれづれに、ちと世間ばなしでも、お耳に入れようかと存じまして」
「入るがいい」
家康は書を措《お》いた。
招かれもせぬのに、こうして主君の室を訪うほどな家臣は、主従でも、よほど打解けている者でなければならない。――が、それは他家のことで、浜松城という大きな家では、こういう親しさはめずらしくない。
なぜというに、ここの譜代《ふだい》の臣たちは、かつて海道一の貧乏といわれた小国を守って、久しき逆境と闘いつつ、いまの主君の家康という者を、自分たちの手で襁褓《むつき》から育てあげて今日に至った者達だからである。
主君が家来を養って来たのではなく、家来が主君を養い育てて来たという変則が、却って、本当の意味の家族的団結をかため上げ、他家に類のない徳川家≠ニいう独自なものを醸成《じようせい》して来た結果にほかならない。
つまるところ、それもこれも、この国が過去において、海道一の貧国であった賜物である。――と共に、今となれば、君臣共に、武門第一の苦労人揃いの家中――という得難い堅実性をもその基礎に持つものとなっていた。
「では、おゆるしを」
と、帯刀はにじり入って、うしろの障子を閉めた。――冬の雨が、大廂《おおびさし》を寒々と打っている宵である。
「…………」
べつに、何の用でもなさそうに、安藤|帯刀《たてわき》直次《なおつぐ》は、主君の前に、ぽつねんと、畏《かしこ》まったままだった。
「…………」
おかしな男かな、と家康もだまって眺めていた。
――が、何の窮屈でもない。不自然でもない。
雨の音を聞きながら、家康はその間に、この者の亡父を思い出していた。――幼少から「爺《じ》イ、爺イ」といって困らせてばかりいた安藤家重という老臣の面影をである。
――今、いたら。
と思う功臣は、ひとり家重ばかりでなく、家康の脳裡《のうり》には、十指に余るほどあった。みな、今日の盛運に遭《あ》わず、家康の成人も見ず、この国の逆境中に、敢えなく先だった老臣ばかりである。
帯刀《たてわき》も、その功臣中の一名の子だった。
――が、年は家康よりずっと上なので、その子すらもう髪に初老の霜《しも》を見せている。
「帯刀。……何を見ておる?」
「はあ」
と、帯刀は初めて、にやりとしながら、
「御書物が、いつも変らないので、不審に眺めておりました」
「これか……」
と、家康は書見台に眼を落して、
「書は同じでも、心は折々にちがう。従って、読み得る所も、時により同じではない。――たとえば、中庸《ちゆうよう》にせよ、論語にせよ、二十歳代に読んだのと、三十代、四十代になって読むのとでは、大いな差がある。……また、書物は、そのようにして、一生読める書でなくば、真実の書とは申されまい」
「ははあ。そういうものでございますかな」
いったい、退屈を慰めに来たのやら、退屈を催させに来たのやら、気の知れない帯刀ではある。
「…………」
また、黙ってしまう。
家康も、黙然といる。
瀟々《しようしよう》、外の雨声ばかりで、寒室の燭《しよく》は、油も凍るか、いとど火色も細い。火の気といっては、家康の側に、手炉《しゆろ》一つあるきりだった。
「世間ばなしに来たと申すが、何か、変ったことでもあったか」
ついに家康から催促した。
「は。左様で」
と、帯刀は、口をうごかし始めた。その咄々《とつとつ》たる容子《ようす》では、この男に、そんな弁巧《べんこう》は持ち合わせていそうもない。
それを知っている家康は、苦笑をもらして云ってみた。
「帯刀。そちは若い者に尻をつかれて参ったの。近頃、上方《かみがた》に威を張る者にたいして、家康が安閑と坐視しているかの如き態にあきたらぬ若者輩《わかものばら》にケシかけられ、ひとつ、家康の前へ出て、諫言《かんげん》を試みよと、唆《そそのか》されて来たのであろう。……どうじゃ」
「は。……」
「ちがうか」
「い、いえ。違いませぬ」
「ははは」
豪骨な帯刀が、処女のように顔を赤らめて、もずもずするのを見て、家康はいよいよ笑った。
「――それでもよい。まあいうてみい、帯刀《たてわき》」
「実は。……今日、登城の前に、作左どのに会いました」
「作左。……おう、奉行の爺《じ》イに会ったか」
「されば、その奉行の本多作左衛門どのにござります。折入って――と、作左殿がいわるるには。――近ごろ、上方において、信雄卿が殺《あや》められたりとの聞えがある。秀吉の勢威、日に募《つの》って、畏るるものを知らぬ折から、ありそうなことだ、何とも心許《こころもと》ない」
「…………」
「然るに、わが殿には、上方の情勢を何とお考えか、秀吉との使者の遣り取りなどにお心をゆるされてや――近日、甲信の境へ向って、国境の御巡視にお出ましあるようなお触れ出しを拝しておるが、この際、そんな用でもない辺境の地方をお歩きになっている場合でもあるまいに……いや、困ったものだと――あの鬼作左どのが、顔を皺《しわ》めて、憂いておりましたようなわけで」
「帯刀」
「はい」
「家中の若者がそちをけし[#「けし」に傍点]かけたものと思うたら、そちの尻を突いたのは、あの爺イであったのか」
「いや。ひとり作左殿ばかりでなく、御家中の多くも、みな同憂の歎を抱いておりまする」
「それこそ、困ったものじゃ。よい年をして、あの爺イまでが、そのような勘のわるい耳では」
「なぜでございますか」
「三介殿(信雄)が殺されたなどと申すうわさは、いわゆる流言|謀説《ぼうせつ》、そのような巷《ちまた》の沙汰こそ、奉行が取締まらねばならぬのに、奉行が先に立って、乗ぜられていては困る。……帯刀、明日はそちも供をせい。時雨《しぐれ》にかかわらず、わしは甲斐《かい》信濃《しなの》の旅へ立つであろう」
十二月の初旬。
勅使の参向があった。
折ふし家康は、先月から甲信の境へ出向いて、浜松にはいなかったが、急報によって、早速、旅先から帰って来た。
昇階の御沙汰は、すでに内示《ないじ》されていたが、勅使は公式の伝達に下向したものである。
拝受の後、二日間、勅使|饗応《きようおう》の盛儀が催された。日ごろ質素な浜松の城中にも、猿楽《さるがく》の鼓や笛の音が聞え、城下の庶民も、餅など搗《つ》いて、共に、国主の栄を祝った。
帰洛《きらく》の公卿行列を見送るとまもなく、浜松には、師走《しわす》の風景が訪れていた。歳暮の市は、年ごとに殷賑《いんしん》を呈した。ここにも、増大してゆく国の富強が見られ、むかしを知っている市の古老は、
「おらが子どもの時分は、餅はおろか、稗粥《ひえがゆ》も見られねえ正月が、何年もあったもんだが……」
と、隔世《かくせい》の感を喞《かこ》って、ようやくここも華奢《きやしや》ならんとする町の風を戒《いまし》めるのであった。
だが、城市のまん中にある厳《いか》めしい官衙《かんが》には、泣く子もだまるという怖ろしいお奉行が住んでいた。外は他国の諜報《ちようほう》策動に、内は市民の道義と起居に、いやしくも法縄《ほうじよう》を飾り物にはしていない。正邪断明、罪あきらかなれば厳科に処し、家中の士とて仮借《かしやく》はなかった。奉行は本多作左衛門重次であった。
その頃、岡崎、浜松あたりの童歌《わらべうた》にも、
ほとけ高力《こうりき》
鬼作左
どちへんなしの
天野三郎兵衛
と、謡《うた》われたほど、鬼作左の名は、士民の中の怖《こわ》いおやじ≠代表していた。
彼と、高力左近と、天野|康景《やすかげ》の三人は、永禄以来、その職をうごかず、徳川家の三奉行といわれていた。鬼作左は、峻厳《しゆんげん》をもって聞え、仏高力《ほとけこうりき》は仁者として親しまれ、天野は、中和の人という定評だった。――どちへんつかず[#「どちへんつかず」に傍点]というのは、三河の方言《ほうげん》で、どちらにも偏《へん》せぬということらしい。
その鬼作左が、ひと頃、目かど[#「かど」に傍点]を立てていた上方方面から出た流言も、歳の暮には、いつか下火になっていた。
信雄卿が殺された……などという浮説は、家康が一笑し去ったように、明らかな浮説に過ぎぬものであったことが、やがては、自然に分っていた。
正月を前にして、京から、南洋の九年母《くねんぼ》というものを献上した者があって、その入荷が、浜松の城へ着いた。
「これは、支那やわが邦《くに》でいう九年母とはいささか違う。南蛮蜜柑ともいう木の実であろう」
などと城中でも珍しがったが、美味なので、家康はこれを百|顆《か》ほど分けて、先頃、二女の徳姫の嫁《とつ》いだ北条家へ送った。
ところが、北条家の役人は、これを橙《だいだい》だとばかり思って、
「浜松には、だいだいが珍しいとみえる。小田原にはこんなにあるということを知らせてやれ」
と、時を措いて、本物の橙を、役夫八人にかかせるほど献じて来た。
家康は、その皮肉に対して、
「小田原の者どもは、人の贈り物を、目にだけ見て、味わいもせず、かかるなめげ[#「なめげ」に傍点]の挙動《きよどう》をなすことよ。かしこの政事もおよそこれに似たるものか。よし、よし……何もいうな」
と、却って、家臣の口をかたく慎ませていた。
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同《どう》 憂《ゆう》
安土《あづち》にある三法師君《さんぼうしぎみ》も、明けて五歳になった。この正月を迎え、その健《すこ》やかな成長を拝すべく、年賀に伺候《しこう》する大名も多かった。
「勝入《しようにゆう》どのではないか」
「おお、忠三郎殿よな。さて、よい折に」
本丸の大書院前で、出会いがしら、こう初春らしい声で、御慶《ぎよけい》を陳《の》べおうている諸侯があった。
秀吉の大坂移居によって、去年その大坂から大垣へ移封《いほう》された池田勝入斎信輝《いけだしようにゆうさいのぶてる》と、ひとりは蒲生《がもう》忠三郎氏郷《たださぶろううじさと》であった。
「いよいよ、おすこやかな態。まず何よりで」
「いや、元気は年と共にだが、何とも、忙しゅうてな。……まだ、今度の大垣の地にさえ、幾夜も寝ておらぬ」
「そうそう、勝入どのには、大坂御普請の奉行をも御兼務でしたな」
「ああいう御用は、増田や石田などには打ってつけじゃが、われら武弁には向かぬ。やくたいもないことのみ多くてよ」
「いや、適任でないお人を、一日でも、不適所におく筑前様ではありません。やはり何か奉行衆の中に一枚、あなた様を必要とするものがあるに違いございませぬ」
「ははは。戦《いくさ》以外に、左様な才覚があると見らるるは、勝入、大迷惑じゃ。……ときに、幼君へのお年賀は」
「いま、おいとま申して来たところです」
「わしも退出するところじゃ。……が、よいしおである。折入って、ちと内談申したい儀があるが」
「実は、お顔を見たとたんに、それがしも、ぜひあなたに伺ってみたいことが胸に呼びおこされていましたので」
「それや双方の思いが、はからず符節《ふせつ》を合わせたわけじゃ。……どこで語ろう」
「小書院へでも」
人なき一室に二人は坐った。火桶《ひおけ》もないが、障子越しの春の日が程よく暖かい。
「先頃、しきりに行われた、巷《ちまた》の流言を、聞かれたか」
「聞きました。三介様(信雄)が殺されたと、真《まこと》しやかに伝えられたことでしょう」
「それじゃて……」
と、勝入は眉をひそめ、息を大きく、
「――今年も早や何事か動乱の兆《きざ》しがみゆる。相手によっては、それも大いによろしいが、火元が火元だけに、近頃の兆しは困る。忠三郎どの、おぬしは若いが、分別はこの勝入にまさると観《み》る。何ぞ、未然によい思慮を施す智嚢《ちのう》はないか」
と、深憂の色を示した。
氏郷《うじさと》は、問い返した。
「いったいあのような浮説は、どこから出たものでしょう」
「さて、それはちと、いえんがな。……ただし、こういうことはいえる。火のない所に、煙は出ぬ」
「では、何かそれに紛《まぎ》るるような事実があったことはあったので?」
「いや、ない。事実はまったく逆《さか》さ事じゃ。――と申すは、三介信雄卿が、去年十一月、山崎の宝寺城《たからでらじよう》へ、筑前様をお訪ねなされた。その節、伊勢平定の労をおねぎらい申すとて、筑前様には、自身御接待のさしずをなされ、大そうな御歓待《ごかんたい》で、城中に四日もお引き留めなされたという」
「なるほど」
「三介様の家臣どもは、翌日御退城の予定が、二日目もその触れなく、三日目も、四日目も、信雄卿の御退出を見ぬために、さてはと、悪く邪推《じやすい》して、城外の下人どもまで、あらぬ臆測《おくそく》を口走ったものらしい」
「はははは。さては、そうした仔細《しさい》でしたか。世上の説というものは、根を糺《ただ》すと、おおむね、他愛ないものですな」
氏郷の眉が得心を見せると、池田勝入は、その問題をまだ語り尽していないように、
「ところが……じゃよ」
と、急いで云い足した。
「その後にまだ、一《ひ》ト物議《ぶつぎ》もあり、なお種々な浮説が、伊勢長島と、京大坂の間を、虚々実々、伝えられた。――第一には、宝寺の城中で、信雄卿が殺されたなどという虚説の出所は――決して信雄卿のお供衆からではない。羽柴家の小者の口から出たのが、躁《さわ》ぎとなった因《もと》だとなす一方の云い分と。――いや違う、信雄卿の家臣の疑心暗鬼《ぎしんあんき》より出たものじゃと、反駁《はんばく》する宝寺城の人々の云い分とが、双方、声を大になすり[#「なすり」に傍点]合うているうちに、世間の方は、いきさつにかまわず、信雄卿が謀殺されたらしいということだけを、風の如く伝えてしもうたわけなのじゃ」
「世間はやはり、そのようなことを――あり得ぬこととはせず、ありそうなこと也――と、考えているものでしょうか」
「一般の人心は測り難いが、北畠《きたばたけ》殿に縁故の者どもや侍臣中には、柴田の滅亡につづき、神戸《かんべ》殿の御最期を見た後では――次に来るべきものは何かと……自ら問い自ら悪夢をえがいている者が少なくないことは確かでおざろう」
「さ。そこですが」
と、氏郷は初めて自己の秘懐《ひかい》を解くかの如く、膝をすすめて、云い出した。
「どんな流言が行われようと、羽柴、北畠両家のあいだに、堅い御理解さえ結ばれておれば……ですが、筑前様と信雄卿のお心の間には、多分に、そこに喰いちごうている遺憾があるやに思われます」
氏郷は、眸《ひとみ》を澄ませた。勝入がそこで大きく頷《うなず》いたのをみる眼だった。
「これも世の流説《るせつ》ではありましょうが、近頃、こんな沙汰も耳にしました。――故右府様の御他界に伴うて生じた合戦やら諸事情も、ここ一先ず落着を見、ともあれ平定に帰した上は、筑前どのも、その身を輔佐《ほさ》の分にとどめて、すべての権を、旧主の遺族に還すにちがいない。それには、いかに筋目を立てても、三法師君では幼少に過ぎるゆえ、天下の跡目には、どうしても信雄卿を立てることになるであろう。また、そうなくては、筑前守として、義も立つまい。織田家の恩顧《おんこ》に酬《むく》ゆる道もかなうまい――などと専ら聞くのですが」
「まずいのう。……まるで旱《かん》に火を撒《ま》くような言葉じゃ。あの御方の底意が見え透いておる。――却って、その逆の来ることが分らぬとみゆる」
「が。あの御方は、本当にそんな甘いお考えを抱いておらるるのでしょうか」
「おるやも知れぬ。何せい、気のよいお公達《きんだち》の胸算用《むなざんよう》では」
「必ず、大坂表にも聞えておりましょうし、かくては、相互の御意志に、齟齬《そご》が増すばかりですが」
「いや。困ったものよ」
勝入は、さらに、歎息した。
池田勝入も、蒲生氏郷も、秀吉の将として、秀吉とはとうに完全な主従関係に結ばれて来たかのように一般には見られていたが、大乗的陣営を離れて、勝入個人とか、氏郷個人とかの、個々の立場に返ってみると、今もって、そう簡単にはゆかない事情もあり絆《きずな》もあるのであった。
第一に、氏郷は、信長の君寵《くんちよう》浅からぬ頃において、信長の末のむすめを娶《めと》って妻としている。
また、勝入池田信輝は、信長の乳母の子であり、信長とは乳兄弟にあたるという非常にふかい関係がある。
従って、清洲《きよす》会議にも、このふたりは、単なる遺臣資格でなく、織田家の外戚《がいせき》として列していたし、その折の誓約にも、連帯の責任を負っているわけである。――かたがた織田家の将来という問題には、当然、冷淡ではあり得ないし、幼少な三法師を除いては、今はただ一人となった信長の血の直系者――北畠中将信雄とも、切っても切れない親族というつながりにある。
しかし。――その信雄が、もう少し、どうにか取柄《とりえ》のある人物だと、この二人の人知れぬ苦労も少ないだろうが、いかにせん凡庸《ぼんよう》はもう定かだ。清洲会議前後からすでに、十目十指、この人に信長のあとを襲う素質はないものと埒外《らちがい》に措《お》かれていたといってよい。
けれど、名門の子の不幸なる所以《ゆえん》は、信雄の前で、そういう者の一人としていないことだった。お気のよい公達《きんだち》は、依然、何事も拝伏して肯《うなず》く衆臣と、巧言令色の訪問者と、また、利用すべく彼を操《あやつ》る者の力にうごかされつつ――この大変動期をそれとも自覚せずに過しているのである。
勝入や、氏郷のごとく、時代の大波が、身にもこたえ、眼にも見えている者には、信雄のしていること、考えていることの甘さ加減が、はた[#「はた」に傍点]目にも、はらはらされて、時には、
(ああ。危うし)
と、歎を発せずにいられないような場合が、幾らあるかわからない。
たとえば、去年のような複雑な情勢下に、こっそり三河まで出かけて、家康と密会したり、柳ケ瀬の戦後には、いかに秀吉に慫慂《しようよう》されたからとて、兄弟の神戸信孝を自刃せしめたり――近くは、戦捷《せんしよう》の功賞として、伊勢、伊賀、尾張全州の所領百七万石をうけて、大得意になったかと思えば、忽ち、次には秀吉が、中央の権をも当然に自分へ移譲するであろう――などと、すぐ出所の知れるようなまずい策を風説に託して、秀吉の肚をさぐってみたり。――挙げて数えれば限りもない。
「……が。この状《さま》を、成り行きまかせに、われらが傍観してもおれますまい。勝入どのに、何ぞ、御分別はお持ち合わせありますまいか」
「いや、その智慧は、御辺にこそ借ろうと存じたのじゃ。忠三郎どのよ。何とか、思案をかせ」
「氏郷の存ずるには、いちど信雄卿に長島から出てもろうて、筑前様と会わせ、お胸をひらいて、じゅっくり[#「じゅっくり」に傍点]語らるるが、何よりではないかと思いますが」
「良策だが。……さて、あのお公達の、近頃の権式張《けんしきば》りでは、どうあろうかな」
「お誘いは、氏郷がよきに計《はか》らいまする」
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名門禍《めいもんか》
きのうは、おもしろく、きょうは、おもしろくなく、信雄の心は、常に、平らかでなかった。
また、それが、何に起因するかを、反省してみるような人でもない。
昨秋、伊勢長島城に移って、伊賀、伊勢、尾張三州で百七万石の封《ほう》を持ち、位官は従四位下右近衛中将。出づれば群臣伏し、退けば管絃《かんげん》迎え、欲して行われぬことなく、しかも年歯はこの春をもって、未だわずか二十七歳。名門の子の不幸は、名門の子が好みそうな、そういう諸条件の揃っている中にあったが、信雄としては、なお意に満たぬものがある。
「伊勢は田舎じゃ」――と。
そして、去年から、おもしろくなさそうなことは、
「筑前は、何で大坂に、あのような途方もない大城を築くのか。己れが住むつもりか、或いは、天下の世嗣《よつぎ》を迎えるつもりか」
であった。
その口吻《くちぶり》のうちには、今もって、この人のあたまには、亡父信長がものを云っていた。――その精神はなく、形だけがあった。父の衣鉢《いはつ》はうけず、勢威だけを受ける気でいた。
その眼で、大坂を見る、秀吉を眺める。そして身辺を考える。
「筑州こそ、不遜《ふそん》なれ。いつのまにか、父の臣たる分を忘れ、父の遺臣に、賦課《ふか》を申しつけ、未曾有《みぞう》の築城を急ぐ上に、この身を邪魔あつかいにして、近頃は、何ひとつ諮《はか》ろうて来ぬ」
相互の音信が絶え出したのは、去年十一月頃からである。――近頃、秀吉が信雄を除く計画をしておるとか、信雄はすでに殺されたとか、彼の猜疑《さいぎ》を募《つの》らすに充分な流言がしきりに取沙汰された頃からの現象である。
同時に、信雄が側臣の間で、不要意に洩らしたことばが、これまた、世間に伝わって、自身の底意が、多少、秀吉を刺戟したらしくも思われていたので――ついにこの正月となっても、互いにまだ新春の賀すら交わされずに過ぎていたのである。
「日野の若殿がお越し遊ばしましたが」
正月、子《ね》の日だった。
信雄が、城内の後庭で、婦女子や小姓をあいてに、蹴鞠《けまり》しているところへ、表の侍がこう告げて来た。
近江《おうみ》蒲生郡《がもうごおり》日野の若殿といえば、氏郷のほかにはいない。年は信雄より二つ上だが、姻戚《いんせき》関係からいえば妹|聟《むこ》だ。――信雄は、あざやかに鞠《まり》を蹴りながら、取次の者をふり返って云った。
「飛騨《ひだ》が来たか。――いい相手が見えた。ちょうどいい。すぐ庭の方へつれて来い。ひとつ、彼と鞠を競《きそ》おう」
取次は走り去った。
程なく、また来て告げた。
「お急ぎとあって、はや御書院でお待ちでございます」
「鞠《まり》は」
「――そのような芸能は、氏郷、わきまえぬと、御挨拶で」
「田舎者よの」
信雄は、笑った。
歯はつやつやと鉄漿《かね》を染めている。
装束《しようぞく》を解いて、書院へ上がった。やがて室をかえてから昼餐《ちゆうさん》が運ばれ、主客の歓語は、さすがに親睦《しんぼく》であった。
信雄と氏郷とは、年齢も似たほどだし、対比してみて、興が深い。
一は、信長という名門の子。
一は、その信長に征せられた蒲生《がもう》賢秀《かたひで》という降将の子。
幼少氏郷が、信長の手許で養われ出したのは、まだ十三歳の頃だったという。
信長|侍坐《じざ》の諸将が、常に、兵を談ずる側にいて、この少年は、それがいかに深更《しんこう》に及ぶとも、かつて倦怠《けんたい》を見せたことなく、一心不乱に、語る人の口元を見ていたと。
稲葉|貞通《さだみち》が、云ったことがある。
(蒲生の子は、尋常でない。この童《わらべ》が、一かどの武将にならなければ、成る者はない)
また、信長もいった。
(蒲生の子を観《み》るに、眼睛《ひとみ》がまこと美しい。いい若者になるだろう)
当時信長は、弾正忠《だんじようのちゆう》と名乗っていたので、ついにその忠の一字を与え、忠三郎と名づけ、やがて、わがむすめをも娶《めと》らせた。
初陣は、十四歳のとき、信長が河内城を攻めたときで、この年少が、敵の首を取って帰ったので、
(それみろ、ただの童であるまい)
と、信長は自身で打鮑《うちあわび》を取って彼に与えたという。
こういうこともあった。
織田金左衛門が、名馬を持っていた。譲《ゆず》れ譲れの懇望者がたえない。そこで金左衛門は、厩《うまや》の前に立て札して書いた。
[#ここから2字下げ]
こはこれ、一朝御陣の節、敵前へ一番駈けのため、養う所の名馬也。飼主の心にも劣らず、名馬にも恥なきほどの乗人とあらば、天地神明に誓約の上、譲りてもよい。
[#ここで字下げ終わり]
為に、所望者の足が絶えた。ところが、当年十六歳の蒲生のせがれが、いつの間にか出かけて、この名馬を貰っていた。人々、怪しみ合うている程に、やがて武田|晴信《はるのぶ》の甲軍が、東美濃へ焼《や》き働《ばたら》き(放火|攪乱戦《こうらんせん》)に出たとき、弱冠《じやつかん》の忠三郎氏郷、かの馬に乗って、敵中へ駈け入り、敵の物頭《ものがしら》たる豪の者と引ッ組み、首を鞍わきにくくって駈けもどった。
こうして、信長の愛、家中の衆望、共に篤《あつ》かったにかかわらず、氏郷は十七歳のとき、われから信長へ、こう申し出ている。
(御君側を離れて、又者《またもの》(陪臣)になるわけですが、私を柴田殿の組下へお付け下さい。下級の士と立ち交じって、武士の態をよく見習いとうございます)
勿論、ゆるされた。故に、氏郷はその若年時代には、柴田勝家の配下にあって、兵たちと、馬糞《ばふん》の中の陣生活をしていたこともあるのである。
いま、二十九歳。すでに彼の重器たる質は、秀吉も世間も、認めている。
柳ケ瀬の後、秀吉が、戦功として、亀山を、氏郷へ与えようとしたが、彼は享《う》けなかった。
(亀山は、関一政《せきかずまさ》が、祖々|累代《るいだい》所領の地。あわれ、私に下さるおつもりで、一政に返し賜われば、彼も私も、いかに欣《うれ》しいかわかりませぬ)
関氏と蒲生家とは、遠縁にはあたるが、それにしても、できないことである。信長に深く愛されていた氏郷は、今、秀吉からも、心から惚れ込まれていること、疑うべくもない。
――が、思うに。
いかに信長が、彼を愛していたにせよ、その実子、信孝、信雄の愛に比すれば、当然、同日の談ではなかったろう。しかも、信孝をあのような悲命に終らせ、信雄を今日のごとき者にしたのは、またその盲愛であったといえないこともない。
難《かた》い哉《かな》、名門の父も。
氏郷《うじさと》の訪問後、数日経て、再び氏郷と池田勝入の名で、書状があった。
信雄は、数日来、甚だ機嫌がよく、浮いている色さえ見えたが、
「明日大津へ出向くぞ。園城寺で筑州が待つという。……会いたいというのじゃよ。秀吉の方から」
と、急に四名の老職を招いて、供を云い渡した。
――だいじょうぶですか?
と云いたげに色をなす者も中にあった。信雄はきれいに鉄漿《かね》を染めた歯を笑みに見せて云った。
「弱っておるらしいぞ、筑州は。――何というても、この身と不仲のような態《てい》は、世上へ困るらしいのじゃ。そうもあるわさ。主筋にたいして、名分が悪いからの」
「……が、園城寺での御会見とは、いかなるお運びから」
四家老のひとりが訊ねた。それへの答えも、信雄は、至極得意そうで、いささかの不安も感じていないらしい。
「こうじゃ。先頃、飛騨守が来てわしと筑州との中が、何か、おもしろからぬように世間でいうが、筑前の腹は、決してそんな水くさいものではない。為にする者の策謀とは知れておれど、さりとて、筑前からこれへ来るも異なもの、初春の御対面を兼ね大津の園城寺までお運びなされませ。必ず、筑前も大坂を出て、それまで罷《まか》り越えましょう――というた。――そういわれてみれば、この身とて、何も筑州にふくみ恨みはあるわけでなし、よかろう、行こうと、約束したのじゃ。……決して、身にまちがいなどはないように仕《つかまつ》ると、両名のてがみにも書いてあろうが」
書翰《しよかん》でも、人の言でも、正直に受け取って、すぐ信じこむ傾向がつよいのは、おうような育ちのよさともいえるものだったが、老職たちの任としては、それだけに小心にもなり、一事あるごとに、危惧《きぐ》から離れ得ないのである。
で、鳩首《きゆうしゆ》、氏郷の書翰を、廻覧しながら、
「なるほど……」
と、頷《うなず》き、
「相違なく、御直筆のようで」
と、つぶやき合い、
「ほかならぬ、勝入様や氏郷様のお肝煎《きもいり》で、かくまでのお扱いとあれば、万《ばん》間違いもございますまい」
と、ようやく、同意を示した。
「しかし、御要心には如《し》くなしで」
と、供も厳しく、四家老もみな扈従《こじゆう》してゆくことになった。岡田|長門守《ながとのかみ》、浅井田宮丸、津川|玄蕃《げんば》、滝川三郎兵衛の四名である。
次の日、北畠信雄は、こういう経緯《いきさつ》から大津へ出向いた。指定地の園城寺というのは、三井寺のことである。彼は、北院総門の奥、二町ほど西の、蓮華谷《れんげだに》の法明院を宿とした。
さっそく、氏郷が訪ねて来、池田勝入も後から見えた。そして、
「筑前様には、前日御到着あって、お待ちしておられます」
と、いった。
会見の場所は、秀吉の宿所、中院の金堂《こんどう》に準備されてあるが、日時は、いつがおよろしいか、御都合は――と訊かれて、信雄は、
「道にも疲れたから、明日一日は身を休めたいが」
と、ちょっと、わがままを出してみたくなって云った。
「では、明後日のことと、取り極めましょうか」
と、二人は、その旨を秀吉へ答えに帰った。
今時、誰ひとりとして、一日たりと、無為《むい》に送っていられる閑人などはないが、信雄の希望で、
(あす一日は休養したい)
というままに、翌日は、園城寺中の宿泊人|悉《ことごと》くが、益なき退屈の中に置かれていた。
この園城寺全域では、何といっても、中院の金堂は建築の主閣である。そこへ、秀吉主従が泊りこみ、信雄の旅舎には、蓮華谷《れんげだに》の法明院が宛《あ》てがわれていた。――これへ着いたとたんに、信雄が愉快でなかったことはいうまでもない。
会見日の取り極めに、小さい我意を通してみたくなったりしたのも、そんな気まぐれのわがままからであったらしいが、さて、翌一日は、当人の信雄自身からして、退屈に困《こう》じ果てたかの如くで、
「家老どもも、顔を見せぬ」
などと喞《かこ》っていた。
寺宝の歌書を見せられたり、老僧の長たらしい話などに倦《う》み果て、ようやく一日を過ごし得た黄昏《たそが》れ近く、
「きょうは、ごゆるりと、煩《わずら》いなく御休息がとられましたろう」
と、四名の老職が、顔を揃えて、その室に見えた。
――ばかな、と信雄は腹が立った。所在なくて仕方がなかった程だ、と呶鳴りたかった。けれど、いかに主君たりと、彼らの善意な考え方までいちいち是正《ぜせい》することもできない。
「ム、ム。のびのびしたよ。お汝《こと》らも各※[#二の字点、unicode303b]の宿所でくつろいだか」
「くつろぐ間もございませぬ」
「なんで?」
「各家から、御音問《ごいんもん》のお使いが絶えませぬで」
「そんなに訪客があったのか。なぜわしに通じて来ぬ」
「せっかく、御休息の一日を、お客にお邪《さまた》げ遊ばされてはと……」
信雄は、指で輪をこしらえては、膝がしらを弾《はじ》きながら、上品で無感興な顔を、鳩のようにじっと持っていた。
「ま、よいわ。……夜食はお汝《こと》らもここでせい。一盞酌《いつさんく》もう」
老職たちは、顔を見合わせた。やや困ったような容子が見える。そういう心理を看取ることにかけては、信雄は敏感であった。
「何か、障《さわ》りがあるのか」
「ござりまして――」
と、四名のうちの岡田|長門《ながと》が、詫びるように云い出した。
「実は、先ほど、筑前守様からのお使いで、今夕、四名とも揃うて、宿所まで来い、とのお招きでございますゆえ、おゆるしを仰いだ上でと、このように、伺い出たわけでございまする」
「なに。筑前からお前たちに来いと云って参ったと。――また、茶事か」
いやな顔つきである。おもしろくないらしい。
「いや、そのようなことではないように存じます。わが殿も措《お》き、また、お連れ遊ばしている諸侯方もおわすのに、又者《またもの》のわれらを、特に、お茶に招かるるわけはないと考えまする。……何やら、折入って、われら四名に、談合《だんごう》な申したいというおことばでもございますれば」
「ふうム。……はてな」
信雄は、小首をかしげ、
「すると、その方どもを招いて、やがてこの信雄に、織田家からの一切を受け継いでくれいというような相談でもあるのかな? ……。そうかも知れぬ。儂《み》を措いて、秀吉が天下人などに坐ったらおかしい。第一、世間がゆるさぬわさ」
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小牧《こまき》の序《じよ》
中院|金堂《こんどう》の一室には、人なく、燭のみが夜を待っていた。
やがて客が通された。
津川玄蕃、滝川三郎兵衛、浅井田宮丸、岡田長門守の四名である。
茶菓。それだけが出た。
正月半ばである。きびしく寒い。
程なく、咳《せき》の声が近づいて来る。扈従《こじゆう》の足音もひとつなので、秀吉とすぐ察しられた。何か高声でいいつけながら来るようだ。風邪声だと思う。間もなく入って来た。
「おう」
という。
「待たせて気のどく――」
という。そして、拳《こぶし》の中へ咳をしぬく。
仰ぐと、ただ一人なのだ。小姓すら後ろにいない。
四名は、容易に気楽になりきれなかった。こもごも、挨拶する間、秀吉の方は、鼻汁《はな》ばかりかんでいた。
「おかぜ気味のように拝されますが」
ようやくにして、三郎兵衛がくだけていう。秀吉もくだけて答えた。
「ことしの風邪はぬけ難《にく》うてこまる」
あいそのない招きである。酒肴《しゆこう》も顔を見せない。雑談もさして出ない。秀吉はやがて云った。
「三介様(信雄)にも、近頃のような御行状では、困ったものでないか」
四名は、ぎく[#「ぎく」に傍点]とした。さてはその叱責《しつせき》かと胸へこたえたのである。老職にある責めをみな思った。
「みなも、骨が折れるだろう」
次のことばは、こうだった。四家老の面《おもて》には、生色が甦《よみが》えった。
「…………」
「一かどの者揃いよ。が、三介様の下では、どうにもなるまい。察し入る。……筑前とても、同様、御為《おんため》に相成るようと、心はくだけど、却って、逆に逆にとなり行く態《てい》、心外に思う」
語尾に激気があった。四名は、身の竦《すく》みを覚えた。秀吉はなお縷々《るる》と衷情《ちゆうじよう》を洩らした。具体的にも例を挙げて、信雄に対する不満の意を明かし、帰するところ、
「いまは、思い断《き》った」
と、いうのであった。
「誠を尽して、多年随身のその方どもには、気のどくではある。が、是非もないぞや。ただし、秀吉と思いを一つにするなれば、老職たるお汝《こと》らが相結んで、三介様に迫り、お腹を召さすなり、髪を剃《お》ろさせ申すなれば、事は小さくすむ。兵も動かさずにすむ。――また、左様に首尾よく調《ととの》い終らば、お汝《こと》らには、伊勢伊賀などの内で、関所の地を、それぞれ功として頒《わ》け遣《つか》わすであろう。……招いたのは、こういう内談じゃ、よく分別して答えい」
「…………」
寒気だけではない。身のうちにそそけ立つものを四名はどうしようもない。
四壁はすべて声なき刀槍《とうそう》に感じられた。秀吉の眼は、光る穴みたいに見すえている。いやともいえ、おうともいえ、と促《うなが》している眼《まな》ざしだ。
こういう大事を語られた以上、座も去らさせまい、時もまつまい。絶体絶命だ。四名は歎息の中に首を垂れた。――が、ついに承諾した。すぐ誓書を認《したた》めて差し出した。
「身内の者どもが、柳の間で酒もりしておる。お汝《こと》らも、打ち交じって、遊んでゆけ。筑前も相手になって遣わしたいが、風邪ゆえ早う寝《やす》む」
誓書を収めると、彼はすぐ奥へ立ってしまった。
その夜、信雄は落着かない気持らしかった。夜食には、侍臣、御伽衆《おとぎしゆう》の者、僧、日吉神社の巫女《みこ》などまで交えて、賑やかに、はしゃいでいる声もしていたが、座も散って、独りに返ると、
「いま何刻《なんどき》か」とか、
「老臣どもは、まだ金堂から戻らぬか」などと幾度も小姓から詰侍《つめざむらい》へ問わせていた。
そのうちに、四名のうちの、滝川三郎兵衛|雄利《たけとし》だけが帰って来た。
「ひとりか?」
と、信雄は怪しんで目の前の三郎兵衛を見まもった。
「はい、ひとり戻りました」
そういう顔いろがただの容子《ようす》でない。信雄までが動悸《どうき》をうけた。三郎兵衛は両手をつかえたまま顔を上げない。涙の音がした。
「ど、どうした、三郎兵衛。……筑州の用談とは、何であったのか」
「辛いお招きでござりました」
「何、おまえらを呼んで、折檻《せつかん》でもしたというか」
「そのような儀なれば、辛いとは申しませぬ。心外にござりまする。刃の中に坐せしめられ、心ならずも、誓書を取られました。……殿にも、お覚悟なくてはなりませぬ」
彼は、秀吉が自分たちへ計った企謀《きぼう》を、余すなく、信雄の前で吐いてしまった。
「いやと申せば座を外さず、その場で殺害をうくるは知れきっておりましたゆえ、ぜひなく、四名|連署《れんしよ》の誓紙に名をつらね、後――家中同座の御酒席から、隙《すき》を見て、ひとり密かに走り帰って来たような次第です。……後で、三郎兵衛ひとりが見えぬと躁《さわ》ぎ立てれば、はや、ここのお座所さえ、安全ではございません。疾《と》く、お立ち退きの御用意を」
信雄は唇の色まで変えてしまった。三郎兵衛のいう半分も耳に入らないような眸《ひとみ》のうごきである。恟々《きようきよう》と早鐘《はやがね》をつくような胸が、じっと、黙っていられないように、
「そ、そして。……長門や、玄蕃などは、如何いたした。そちの他の者は」
「てまえは、てまえの料簡《りようけん》を以て、かく遁《のが》れて参りましたが、余人の心は分りませぬ」
「あれらも、誓書に名を書いたのじゃな」
「長門どの以下、残らず」
「そして、筑前の家中の者と、なお酒もりしておるのじゃな。見損《みそこの》うた。あれらは、犬畜生にも劣る奴らよ」
罵《ののし》りつつ、彼は不意に、つと立って、後ろにいる小姓の手からわが太刀を引ッたくった。そして、あたふたと、法明院の外廊へ出て行くので、三郎兵衛もあわてて後を追いながら、殿々、どこへ渡らせらるるかと問うと、信雄は振り向いて声をひそめ、馬を馬をと頻りに急ぐ。
意を読んで――
「お待ちあれ」
と、三郎兵衛は、厩《うまや》へ走った。
馬は名馬を持っている。「金槌《かなづち》」と名のある有名な鹿毛《かげ》だ。信雄は、それに跨《また》がるや、
「あとは頼むぞ」
と、三郎兵衛に云い残したまま、法明院の裏門から夜にまぎれて奔《はし》り去った。厩《うまや》武士一名、韋駄天《いだてん》のごとく追いかけて、途中から口輪を取ったが、伊勢に入るまで、とうとう供といってはこの侍一人だったという。
夜のうちに影の失せた金槌は、かくの如く迅速だったので、翌日まで、誰知る者もなかった。当然、秀吉との会見は、信雄の発病という理由で流会となった。秀吉は、予期していたことのように、平然と大坂へ帰った。
長島へ帰った信雄は、城中ふかく隠れたきり、以来、病と称《とな》えて表の家臣にさえ、一切顔を見せなかった。
が、この籠居《ろうきよ》は、あながち仮病《けびよう》でもないらしい。彼としては充分に病みつくだけの理由はある。典医《てんい》だけは奥へ出入りしていたし、城後の梅花は、日々|綻《ほころ》びそめて来るのに、その後、管楽《かんがく》の音は絶えて、春園も闃《げき》たり――であった。
それに反して城下は、いや伊勢、伊賀一円は、みだれ飛ぶ浮説が、日と共に蔓延《まんえん》していた。さきに園城寺で置き去りにあって、信雄の後からのこのこ帰って来た供侍の空列も、諸人の怪訝《けげん》のたねとなって、
「何があったのか?」
と、専らな噂である。また、その折|扈従《こじゆう》の老職輩が、云い合わせたように、各※[#二の字点、unicode303b]郷里へ引き籠《こも》ってしまい、近頃、長島への出仕がないことなども、
「只事《ただごと》には非ず」
とする巷説《こうせつ》を裏書して、いやが上にも領下の不安を募《つの》らせていた。
真相は伝わり難いものだが、またぞろ、信雄秀吉間の不和が、濃密な複雑さをつつんで、再燃《さいねん》して来たことは確かだった。それも今度は、去年の情勢以上、極めて険悪なものを孕《はら》み、しかも事態はもう逼迫《ひつぱく》している――となす人心の底気流は早や全国的ですらあった。
当然、信雄の位置は、颱風の中心にあった。かくなれば、彼にも大いに恃《たの》むものがあるようだった。由来、保守的な彼が常に秘策と信じているのは、両天|賭《が》けの二面主義だった。あっちがいけなければこっちへつく。また、一致したと見せても、俺にはまちがえば別に他の後ろ楯《だて》はあるぞ、という虚勢をその一致者へ仄《ほの》めかしておく。それは彼自身が、始終、そういう万一のときの黒幕を持たなければ安心していられないためでもある。
信雄の胸には、今その黒幕の者が大きく呼び起されていた。東海浜松の臥龍《がりゆう》、従三位参議徳川家康こそ、恃《たの》みとしていた者だった。
家康は、明けてこの二月、権中将から再び昇官していた。旧来の位置も、近来の実力も、その存在は大坂の秀吉といよいよ対蹠的《たいしよてき》な重さを加えている。信雄が、秀吉と協同しつつ、裏面、家康との密交を温めていたなどは、小策といえ、この公達《きんだち》、なかなか隅《すみ》におけない悪戯《いたずら》をする者といっていい。
しかし、弄策《ろうさく》も相手によりけりである。信雄が、家康を用いて、秀吉を牽制《けんせい》し、万一の持ち駒として家康を使おうなどという考えは、そもそも、相手を知らぬ骨頂《こつちよう》というほかはない。けれどまた、迂眼《うがん》者の強味は、相手を知らぬところにある。鹿を追う猟師《りようし》の山を見ずだ。信雄もその例に洩れない。
この上は、家康を押し出して、秀吉の擡頭《たいとう》を抑えようと図《はか》ったのは、彼として、当然に考え至る帰着点であった。
信雄の密使は、一夜こッそり長島を出て、岡崎へ急いだ。
二月に入ってからである。
家康腹心の臣、酒井与四郎重忠は、伊勢地方への旅行を名として、ひそかに長島を訪い信雄と会って、何か、密議するところがあった。
極秘裡のことだったが、その日時から推して、信雄の密使が岡崎へ行った直後なので、それが信雄に対する家康の答え≠ナあったことは、詮索《せんさく》するまでもない。
同時に、信雄と家康との軍事同盟が秘中に結ばれ、或る時を期して、
秀吉を討つべきこと
に、両者の合意成立を見たことも、恐らく間違いないであろう。かたがた、諸般の手筈を諜《しめ》し終って、酒井与四郎が帰ったであろうことも、およそ想像に難《かた》くない。
信雄は、以後、病室を出て家臣にも接し、また頻りに、股肱《ここう》の者と、密議めいた夜を更《ふ》かしたり、遠国へ使いを派すことなども多かった。
そのうちに、三月六日のこと、園城寺の一夜から久しく登城の姿をここに見せなかった四老臣のうち――滝川三郎兵衛を除くのほか、三老職そろって、この日、長島に顔を見せた。
勢州《せいしゆう》松ケ島城の津川玄蕃。
尾州《びしゆう》星崎城主、岡田長門守。
同、苅安賀《かりやすか》城主、浅井田宮丸。
などである。
饗応を名として、信雄から特に招いたものだった。――が、あれ以来、
(秀吉に通じて、われを廃《はい》さんと謀《はか》る逆臣ども)
と、ふかく思い込んでいた信雄には、この三名の顔を見るのも、憎悪に胸がむか[#「むか」に傍点]つく程だった。――もとよりきょうの招きというのも、決してただの饗応であろうはずはない。
が、さりげなく、三老をもてなした後、信雄は、ふと思いついたように、
「そうそう、堺の鍛冶《かじ》から、新たな鉄砲が出来てきた。長門、見てくれい」
と、彼ひとりを、別室へ連れ去った。
そこで、岡田長門が、示された鉄砲を見ていると、土方《ひじかた》勘兵衛という一家臣が、ふいに、
「上意っ」
とおめいて、後ろから引っ組んだ。長門は、
「こは、お情けなし」
と、脇差を七、八寸抜きかけたが、大力の勘兵衛に組み伏せられて、もがくのがやっとであった。信雄も、座を立って、
「勘兵衛、放せ放せ」
と云いながら、壁の周《まわ》りを走り歩いた。激しい格闘《かくとう》がなお続いた。信雄は、手に白刃を提げながら狼狽して、
「放さねば、そ奴を、斬ることができぬぞ。勘兵衛、放してしまえ」
と、なおも云っていた。
勘兵衛は、長門の喉《のど》を、拇指《おやゆび》で圧してから、機を計って、突っ放した。――放したと思うと、勘兵衛の脇差が、信雄の太刀もまたず、長門の脾腹《ひばら》を突きとおしていた。
室内いちめんの鮮血を見ても、信雄は案外、平然としていた。気の弱いくせにして、一面、残忍酷薄《ざんにんこくはく》な性質もこの人のどこかには持たれているらしい。
その時、他の家臣たちが、室外にひざまずいた。そして口々に告げた。
「玄蕃が身は、ただ今、飯田半兵衛があちらにおいて、刺しとめました」
「田宮丸は、森源三郎が、誅《ちゆう》を加えました」
信雄は、血臭《ちぐさ》い顔もせず、そうか、と軽く頷《うなず》いた。しかしさすがに、ホッと大きな息を肩でついていた。いかにとはいえ、多年、側近に仕えて来た輔佐《ほさ》の老職三名を、一時に誅殺《ちゆうさつ》してしまうなどは何といっても、無残である。その手段も、酷薄極まる。
この兇暴ともいえる血液は、信長にもあったものである。けれど、信長のそれは、天下の士を頷《うなず》かしめるだけの大きな意義と情熱と、さらに、その犠牲も後には大きく活《い》きうる理想を離れては行なっていない。
だから、時による兇も暴も、信長のは、英断といわれたのが、信雄のは、小策と感情による暴断でしかない。
すべて、大岐路にのぞんでは、一指を世にさす者の断≠アそ大事といわれている。しかし、活眼なき者の断≠ルど怖ろしいものもまたあるまい。過《あやま》った一指はついに一世を過つ。
「すわ、大乱が起ろうも知れぬぞ」
長島城中一場の惨劇は、忽ち、ここの家中の足もとから、その夜からでも、四面の国境がみな戦乱と化すような、狂瀾《きようらん》の心理を捲き起した。
三家老の殺害は、秘密裡に行われたものの、その日、時を移さず、長島の兵は、老職各自の居城を攻め潰《つぶ》すべく、伊勢の松ケ島、尾州の苅安賀、星崎などの各地へ急派されたので、人みなが、
「こうなっては、秀吉との手切れも、お覚悟の上に相違ない」
と、とたんに次の大戦を予想したのもむりはない。そして、昨年来、何か世の底流に、燻《いぶ》りに燻っていたものが、ここに火を噴いて、やがて満天満地を焦《こ》がす戦炎となろうとするのを――今は巷《ちまた》の声でなく臆測でなく、早や、眼に見たという感じだった。
このとき、四家老のひとり、滝川三郎兵衛|雄利《たけとし》だけは、伊賀の上野にいた。
彼は初めから、他の三家老とはべつに、独自な行動をとり、信雄に向っては、逸早《いちはや》く、秀吉と会合の折の真相を告げていたので、信雄から猜疑《さいぎ》されることはなかった。
従って、三家老が長島へ召された折も、彼のみは、名が洩れていたわけである。そして間もなく、伊賀の上野にも、三老職が殺されて、各居城は、信雄の派兵が、直ちに奪《と》り上げてしまったという沙汰が、疾風のように聞えていた。
「――こうしてはおられぬ」
三郎兵衛はすぐ旅支度して、大坂へ立って行った。
これは彼として、一見、奇異な行動のようであるが、主人信雄と秀吉との開戦が目睫《もくしよう》に迫ったと知るとたんに、彼が、はたと当惑したのは、羽柴家へ人質として取られてあるひとりの老母の身であった。
――が、幸いなことに、その老母は、秀吉の家臣で、近ごろ世に評判されている賤《しず》ケ嶽《たけ》七本槍の勇士の一名、脇坂甚内|安治《やすはる》の家に預けられていると人伝《ひとづ》てに聞いている。
そこで彼は、
「開戦の前に、何とか、母者人《ははじやひと》のお身をこっちへ――」
と、一ト思案きめて、急に旅立ったものらしかった。
大坂の殷賑《いんしん》は、三郎兵衛の眼を驚かした。この新都市の一月か半月の変化は、他地方の十年二十年にも勝《まさ》る発展ぶりである。破壊も一夜になされるが、さて、建設となれば、建設もまたなせば一日にしてなるものよ――という驚歎を抱かずに、そこは歩けない。
仰ぐと、黄金の甍《ぼう》、白碧《はくへき》の楼台《ろうだい》、大坂城の大天守閣は、市のどこからでも見える。三郎兵衛は田舎者のように、大路小路を迷って、ようやく、脇坂甚内の邸をたずねあてた。
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泣虫甚内《なきむしじんない》
塀土は真白く、木の香も高い新邸である。しかも主はまだ三十がらみ。以ていま、新興の都府大坂と、秀吉勢力の推進力が、どの辺の年配の人物にあるかがわかる。
「拙者が、脇坂ですが」
「甚内《じんない》どのでおわすか。それがしは、北畠家の老職、滝川三郎兵衛で」
「お名は伺っていました。信雄卿のお老職が、不意のお訪ねは、何御用ですか」
「武人の煩悩《ぼんのう》。――語るもお恥かしいが」
「煩悩といわるるは」
「恥をしのんで申しあげる。……実はてまえの老母のことでおざるが」
「ああ、御老母の身か。……ならば、決して、お案じあるな。主人筑前様から申しつかって、質人たる御辺の母堂を、拙者のやしきにお預りいたしてあるが、及ばずながら、御面倒は見てあげておる。――それに、おからだも至極すこやかだ。近頃、紅毛人の外科医に命じ、入れ歯などおさせ申しておる」
「お情け、忝《かたじけの》う存ずる」
三郎兵衛は、情に打たれて、さし俯向《うつむ》いた。――が、思い切ったていでまた云った。
「さまで、お手厚うして戴きながら、この上のお縋《すが》りは申しあげ難いが。……実は、あの老母が、幼少から慈《いつくし》んでいた末娘が、近頃|病《やまい》のため、母のことのみ申し、うわ[#「うわ」に傍点]言にも、母よ母よと恋い、起きても、会いたや、一ト目会いたやと、泣き慕《しと》うてやまぬのでおざる」
「ほ。それはそれは」
「嬰児《あかご》でもない。年もはや、十八という娘、聞きわけのない愚痴をと、叱りはするものの、ゆうべも母の夢を見た……と余命の迫る身と知りつつ、訴うるのを聞けば、人間、誰にもある母子の情――。つい、あわれでおざってのう」
「ごもっともじゃ」
「弱りまいた。……おたがい戦場でなら、骨肉の屍《かばね》もふむが」
「む、む」
甚内は、相手の涙ぐむのを見て、われとわが心の揺れを、抑えつけていた。情に脆《もろ》い生来を省《かえり》みる警戒だった。
けれど、その娘はすでに命|旦夕《たんせき》にあるというし、日常、見ている人質の孤独な老母の心情も思い遣《や》ると、彼は、泣くまいとしても、ぼろぼろ貰い泣きせずにいられなかった。
「……では、病中の御息女に、ひと目、御老母を会わせてやりたいとて、わざわざこれへお越しか」
ついに、彼は先の云いかねているところを、自分の方からいってしまった。
三郎兵衛は、身をふるわした。
「御推察のとおりでおざる。――滝川三郎兵衛が生涯のおねがい、おかなえ下さるまいか」
幾度も頭をすりつけた。哀願あらゆる言を尽した。
「よろしい、お連れなさい。――主君にお伺い申さねば計れぬことだが、お伺い申せば、ゆるされぬことにきまっておる。拙者一存で、七日の間、そっと、御老母の身をおかし申そう。かならず、再び連れ戻られよ」
三郎兵衛は、狂喜して、母を連れて帰った。もちろん極く内密のうちにである。ところがその夜明けるとすぐ甚内は大きな悔いに打ちのめされた。
――昨日はよいことをした。
と、独り清々《すがすが》しく思っていた翌朝だけに、甚内のうけた衝動はつよかった。
長島における三老職の刺殺事件や、勢州尾州にわたる三城の兵革《へいかく》などが、この日の朝になって、初めて大坂にも知れて来たのである。またその一|波濤《はとう》のあとにはすぐ、
(長島表では、大軍備に着手した。背後には三河殿(家康)がある)
という声も、大坂城中の然るべき者の口から、明らかに云われ出していた。
甚内は、愕然《がくぜん》と、耳を疑った。
「ほんとだろうか?」――と。
彼はその朝、登城の途中でそれを聞いたのである。慥《しか》と、明言したのは、池田勝入の家士竹村小平太だ。――まちがいないことかと、念を押すと、小平太はなお云った。
「昨夜|深更《しんこう》、主人の許へ、伊勢の衆二名、駈け込み、かくかくと事の顛末《てんまつ》を告げおりました。津川玄蕃の家来とか聞きました。いずれにせよ、信雄卿と三河殿のあいだに、何事か由々しい準備が始められていることだけは、もう何人《なんぴと》も疑っている者はありません」
大坂城は、今なお旺《さかん》なる工事中である。城濠、外廓、諸侯の邸第《ていだい》などには、相変らず数万の人夫と工匠が昼夜なく働いている。
彼は、本丸に遠い一門に馬を捨て、それらの巨石や木材の間を、額《ひたい》に汗して駈けていた。
「甚内、何を急ぐか」
同僚の片桐助作が、彼を見かけて声をかけた。振り向いただけで、答えもしなかったが、ふと駈け戻って、
「助作、助作」
「おい、なんじゃあ」
「長島あたりに、何か、由々しい変がありそうだと申すは、本当か」
助作は、笑って答えた。
「それよ。次の七本槍の場所は何処かの。――伊勢路か、三河か。追ッつけ知れよう」
寸時の後。
甚内は秀吉の前にいた。秀吉の座下に平伏したきり、頭も上げないでいた。
命ぜられて、わが家に預かっていた北畠家の質人を、無断で、質人の子の滝川三郎兵衛に渡してしまった次第を――
「彼奴《きやつ》のそら涙にほだされて、つい、てまえ一存にて、三郎兵衛めに、貸しました。然るところ、今朝に及び、北畠殿には、はや御当家と、お手切れの覚悟あると聞き、さてはと、臍《ほぞ》を噛みましたものの、もはやどうもなりませぬ。……実に、拙者は、莫迦者《ばかもの》でござりまする」
と、慚愧《ざんき》して、詫《わ》びぬいた。
赫怒《かくど》して、叱ると思いのほか、秀吉は笑い出していた。
「莫迦者とか。よう申した。まことにそちは、幼少からよく泣く泣き虫であったからの。……で、どうするつもりか」
「さきに頂戴いたしました七本槍の御賞辞、御加増、みなお取り上げくださいまし」
「そんなことではすむまい」
「決して、すみません。けれどかかる不始末で、腹は切りとうございませぬ。御成敗《ごせいばい》とあらば、首さしのべますが」
「そう急がずともよいわ」
「てまえ一存で致した失策。なお、てまえ一存の始末をおゆるし下されば、その後においては、いかなる罪を賜わるも、おうらみには存じませぬ」
「面倒な。……ま、気のすむようにして来い」
秀吉は横を向いて、大村|由己《ゆうこ》と何かべつなはなしをしていた。
秀吉の前を退がると、彼は、飛ぶが如く、やしきへ帰った。
母の室へ、帰りを告げて、坐ったときは、もう心も静かだった。
「甚内どのは、きょうは、常より早い御退出の」
「はい」
と、間《ま》を措《お》いて、
「にわかに、さる方面へ、出陣と相成りましたので」
「おう、そうか。今というても、お支度にさしつかえはないはず。心おきなく行って来るがよい」
「……はい」
と、またしばし、ことばの間を措いて、
「ただこのたびの合戦は、いつもの如く、御麾下《ごきか》に従うて参るのと違うて、脇坂甚内の一家の兵をもって戦わねばなりませぬ」
「どうあろうと、戦は戦、武門の名にかけて、存分に働きめされよ」
「もとよりです。……が、この一戦においては、必定《ひつじよう》、わが脇坂の家は、勝つも滅び、負くればなおのこと、滅ぶものと、かように覚悟いたされます」
「ぜひもあるまい」
「昨日、滝川三郎兵衛めに、お預かりの人質を、主人にも無断で、そっと渡してやりましたこと――はや、お聞き及びでございましょう」
「聞きました。……お許《もと》にも、わしという老母がある。滝川三郎兵衛が、お許をだましたのは、憎い仕方じゃが、それも老母の身を思うての余りであろ。……お許が情にほだされて、義をもってなしたこと。大きな科《とが》ではあろうが、この母は、何とも悔いてはおりませぬぞ」
「思慮なき子、祖先以来の家名を今日、ついに滅ぼすに至りました。大不孝、おゆるし下さいませ」
「何の何の、御先祖さまには、まことに相すまぬが、義において、情において、いささかお慰め申しうる道は立つ。義といえ、情といえ、これもさむらいの美しさじゃもの。……不義無道で家を滅ぼすのとはわけがちがう」
「そう仰せ下さいまして、甚内もどれほど快く死ねるかも知れませぬ。ついては、郎党どもは元より連れて参りますが、不愍《ふびん》な女わらべや老僕どもは、ただ今みな、暇をつかわして、それぞれ郷里へ帰しとうございますが」
「それがよかろ。母の身は、お案じめさるなよ」
「母上には、妻ひとりを、お側において立ちまする。やがて、戦場にて、甚内死せりとお聞き遊ばしましたら、筑前様にお伺いをたてて、御余生に入らるるとも、罪をおまち遊ばすとも、御主君の思し召しどおりになされて下さいまし」
「オオ、おお、そなたのいうように致しましょう。さらば、時を移さず、すぐ召使たちへ、暇を申しわたしたがよい」
動ずる色もない老母である。
甚内はすぐ邸内の召使をのこらず庭へ呼び集めた。
つい昨日まで、小姓組二百五十石の小身であったのが、賤ケ嶽の後、七本槍に加えられ、功によって、三千石の知行と一邸の主となったものの、まだ家の子郎党も少なく、馬の数さえ多くはいない。――が、集まった召使たちは、その脇坂甚内が、まだ微禄《びろく》な時代から、水を担《にな》い、薪を割って、貧苦の中を仕《つか》え通して来た者が、大部分だった。彼らはすでに今朝から主人の苦境を知っていた。みなわがことのように、憂いを共にし、固唾《かたず》をのんで、主人の面をみまもるのであった。
甚内は口を開いた。
「多年、至らぬわしを主人と立て忠実に仕えてくれたお前方を、にわかに離すのは忍びぬことだが、仔細あって、きょう限り暇を出す。――各※[#二の字点、unicode303b]、故郷へ帰って、余生、倖せに送れよ。また、わが物は何なりと、欲しくば、仲よく分け合うて持ち去るがよい」
「…………」
忽ち、すすり泣きが流れた。慟哭《どうこく》する者もあった。
と、ひとりの老僕が、一同の中から叫んだ。
「旦那様。お情けないおことばです。深いわけは存じませぬが、旦那様が、お肚《はら》をきめてござらっしゃることは、わしらといえ、お台所の女どもまで、みなお察し申しておりまする。なぜ、共に覚悟をしろと仰っしゃっては下さいませぬか」
「ありがとう、ありがとう」
甚内は、何度も頷《うなず》きつつ、その面《おもて》から涙をはふり落して、
「――では申すが、さても愚かなこの主人は、御主君筑前様に対して、腹を切っても償《つぐな》い得ぬ大しくじりをしてしもうたのじゃ。そこで、死ぬまでも、せめて命のある前に、お詫びのあかし[#「あかし」に傍点]も立て、汚名の一端もすすがずば、死にきれぬと」
「わかっておりますだ。おこころもちは」
「まあ、聴け」
と、一同の嗚咽《おえつ》を抑えて、
「――よって今より、滝川三郎兵衛の居城、伊賀上野へ押し襲《よ》せる所存。しかし、さむらいどもと事ちがい、お前方、老いたる者や、常々拙者の母の世話や、炊《かし》ぎのことまでしていてくれた女ども、わらべなどは、連れ参るわけにはゆかず、また、邸へのこしておいても、脇坂の家も、きょう限り絶えるのじゃ。いや、みずから断絶を示して最後の家の門を立つのじゃ。……聞きわけてくれ、皆よ、どうか泣かずに、別れてくれい」
「な、なぜでござります。どうして、お家を見捨て遊ばすのでございますか」
綿々《めんめん》というのは、甚内を小さい時から育てて来た婆あやであった。彼女はなお、
「ご、ご先祖様にたいしても、そ、そのような、大不孝なことが、ござりますものか」
と、脇坂家の先祖に代って、自分が叱るように、袂《たもと》をかんで歎いた。
一同の涙を見ながら、甚内も負けずにぽろぽろ泣いていた。声を揚げないばかりである。
「婆あやよ。まったく、わしほど大不孝者はない。――が、既にしてしもうたしくじり[#「しくじり」に傍点]じゃ、きのうを責めるな。また、今日これから甚内の向う戦《いくさ》も、主命を俟《ま》たぬ勝手の振舞いじゃ。あわれや、この大不孝者の立場は――行《ゆ》いて勝つも滅び、戦って負くれば滅び、いずれにしても、家名は到底保ち難いことになりおった。それゆえに、おまえたち、何の科《とが》ない者は、各※[#二の字点、unicode303b]、郷里に帰って、いのちを守れと申すのじゃ。……わかったか。わしの心が」
「わかりませぬ」
おはしたの若い女がいった。
「そう仰っしゃって下されば下さるほど、何で、旦那様がたばかりを、お見送りできましょう。わらべや、お年よりは残しても、わたくしたちは、おつれ下さいませ」
「いや、わしの母上、また妻や子も、のこして行くのじゃ。郎党のほか、供はならぬ。――皆が、それまでいうてくれるなら、あれにある甚内のひと粒だね――あの子の後々だけを、お前方にたのむぞ」
彼の妻は、ことし二ツの乳のみを抱いて、人の気づかぬ縁の端にさし俯向《うつむ》いていたのだった。
生れたばかりの一子と妻と、そして母の身とを、多年甚内に仕えて来た老僕や下僕たちに頼んで甚内は、直ちに、家を捨てて出た。
常に厩《うまや》におく馬も、まだ二、三頭しか持たない身分である。門前には、邸内の男たる者はひとり残らず、打物把《うちものと》って集まったが、総人数、わずか三十余名。これが、家の子郎党の全員なのだ。
この小勢をもって、我らの主人はこれから何処へ何を働きに行こうとするのか? ――そういう疑念はみな持ったろうが、
(合戦をなされますか。相手はこの人数で破れるほどの勢でございましょうか)
などと理をもって主人に問うような者はない。ただ主人の駈け向う後につづき、主人の戦えというものに対して、戦いを尽すというほかに何の考えも持っていない。
こういう簡単な生命の合致《がつち》は、もとよりその場ですぐできるものではない。さむらい奉公のしきたり[#「しきたり」に傍点]がある。武家やしきに住み、さむらいの飯をたべ始めてから数年、或いは何十年のしつけ[#「しつけ」に傍点]のうちに出来ているものだった。厩の小者から、草履取《ぞうりとり》の端まで、
(さあ、御奉公のしどころが来たぞ)
と思うだけなのだ。
こういう主従関係は、武家社会の定則で、どこの家にはあり、どこの邸にはないというものではない。もとより主人の日頃の人づかい如何にもあるが、さむらいを志して、武家を主人に持つ以上、それと同時に、無言の奉公証文を主人に入れている気持は、足軽小者の末にもみなあったことなのである。
いまは、大坂城という大きな家の主《あるじ》になっているが、その秀吉が、弱冠《じやつかん》十八、名もまだ日吉といっていた頃、数年放浪の果て、郷里の庄内川の畔《ほとり》で、当時の若い城主織田三郎信長に近づき、いきなり馬前にとび出して、
(さむらいになりたいのです、わたくしをつかって下さい)
と、哀願したとき、信長が、日吉にたずねた一言は、
(汝は、何の能があるか)
ということだった。そのとき、日吉が答えたには、
(何の能もございませぬが、ただ、事ある時には、死ぬことだけを、習い覚えておりまする)
というたという。
信長は、そのただ一言を聞いただけで、日吉をその場から列に加えて、清洲《きよす》のお小人の端に使ったのであったが――これを見ても、さむらい奉公の眼目とするところは、使う主人も、仕《つか》われる者も、ただ一朝の事ある日≠ノあったことが充分|窺《うかが》い知られよう。
さて、余事はともあれ。
脇坂甚内安治は、家をすてて上野へ向ったが、決して自暴や無策の窮余に出たのではない。
(小勢たりと雖《いえど》も、われと一体の奉公人三十余名あるからには)
と、かたく期していたこと勿論だった。何をか期す? いうまでもない。欺《だま》すに事を欠いて、涙をもって男の情をほだし、義をかりて武士の心胆《しんたん》をあざむき去った滝川三郎兵衛を討ってその首を見ることである。
「いかに、母を奪うために、子のなした情の上のことたりといえ、その奸策《かんさく》、その卑劣、やわか生かしておくべき」
というのが甚内の誓ったことだった。
白昼、甲冑《かつちゆう》の騎馬二、三、兵三十余り、大坂の新市街を東へ一散に駈けつづいて行ったので、市人はみな眼をそばだてたが、余りの小人数でもある。たれもそれが死をきめた合戦に急ぐ人々とは見ていなかった。
甚内の率いる小勢は、平野街道から龍田《たつた》へ出、その夜は、郡山《こおりやま》で夜営した。
郡山の国主、筒井順慶の家臣は、彼らが夜営している処へ来て、こう咎《とが》めた。
「野武士とも見うけられぬが、物々しいいでたちで、何処へ行かれるか。他国へ来て、無断、営を結ぶは、いずこの領内でも、不法なことぐらいは、ご存じであろうが」
甚内が、挨拶に立った。
「ごもっともなお叱り。しかし、その遑《いとま》なき非常の途次でござれば、悪しからず、ゆるされたい」
「非常の途次とは」
「非常と申すからには、合戦でござる。それへ参る途中でござる」
「はて、いずこに?」
「秀吉公の御命をうけて、伊賀上野城を攻め潰《つぶ》しに参る」
「物見衆か」
「何の、ここは本陣。これは総人数でござる。御主人、筒井どのには、右の如く、お伝えおきあればよい。拙者は、大坂城小姓組の脇坂甚内でござれば」
「オ。七本槍の」
そう聞くと筒井の家臣は、倉皇《そうこう》と帰ってしまった。
一飯一睡を摂《と》ると、夜はまだ暗かったが、甚内主従は野陣を畳《たた》んで、また伊賀路へ急ぎ出した。その日の道は、奈良、柳生《やぎゆう》、相楽《さがら》と駈けた。
柳生、相楽のあたりへ来ると、甚内は道々、こう触れて行った。
「これは、羽柴殿の御内《みうち》、脇坂甚内安治なり。秀吉公の御命をうけ、伊賀の滝川三郎兵衛を仕置に参るにてあるぞ。上野城を分捕り、三郎兵衛の首を得るときは、何びとにもあれ、その功を上達《じようたつ》し、存分、御褒美《ごほうび》を取らすであろうぞ。――時を得ずして僻村《へきそん》にある勇者は出でよ。われこそと思う草土の猛者は得物《えもの》を持ってついて来い。この機を逸しては、ふたたび世に会うときはないぞ」
一軒の茅《あば》ら屋《や》を見ても呶鳴り、一つの部落を通っても呼ばわった。
声を聞き伝えて、忽ち、
「いで、道案内を」
「いで、お供を」
と、甚内の人数に合する者、見るまに、数を加えて行った。しかも誰ひとり、これが上野攻めの全軍とは思っていない。先鋒隊のほんの一部だと思って参加したのである。
滝川三郎兵衛|雄利《たけとし》は、受封《じゆほう》数万石、信雄の老職として、伊賀上野の城に、尠なくも二千余の兵力はもっている。素肌に近い甚内の奉公人三十余名ぐらいな小勢で、これが攻め破れるはずはなく、また誰も、これが総軍力とは、そういわれてもそう思えまい。
しかし甚内は、その三十余名に、途々《みちみち》で得た二百余名の野武士と農兵をもって、上野城の濠際《ほりぎわ》へ迫った。
そして、堂々と、
「滝川三郎兵衛出でよ。恥を知らば、矢倉に出て、おれの言を聴け」
と呼びかけ、彼の不義と、卑劣なる仕方とを、痛烈に面罵《めんば》した。
三郎兵衛は、笑って、
「甚内どのか、よくぞ来た。さむらいの礼儀なれば、まず一矢、挨拶申すぞ」
瞬間、矢玉がばらばらと答えて来た。小勢ながら甚内方は、石垣へ取ッついて、夕方まで奮戦した。
夜に入った。どうも手応えが薄いが――と怪しんでいると、やがて、城主滝川三郎兵衛以下、城兵はみな、搦《から》め手から逃げ去ったという報《し》らせが入った。
甚内は、却って、茫然としてしまった。
試みに、城門へ近づいてみた。撃って来る銃声もなく、一すじの矢も飛んで来なかった。
「やはり虚伝《きよでん》でもないらしい」
甚内は、城門を越えた。さらに外曲輪《そとぐるわ》をふみこえ、本丸まで入ってみた。
「空き城だ。……まるで」
「城将滝川三郎兵衛始め、ひとりの城兵も出で合わぬが」
「いったい、これはどうしたことぞ?」
甚内に続いて来た決死の郎党たちも、意外な事実にあたりを見廻し、こういぶかり合うのみだった。
この伊賀上野は、筒井の持ち城として以来、ここの地勢と相俟《あいま》って、世上有名な堅城のひとつである。しかも豪勇の名ある滝川三郎兵衛が、三千に近い兵を擁し、これに拠《よ》って防守するとなれば、いかに脇坂甚内が、一死をもって当ったところで、たかだか手飼《てがい》の郎党の三、四十名や、遽《にわ》かに糾合《きゆうごう》した地侍の百や二百で、踏みやぶれるわけは絶対にない。
明白なその相違は、三郎兵衛も知らぬはずはなかろうに、何で、その優勢な兵をひいて、この一城を振り捨てて、夜のうちに、伊勢へ退却してしまったか? ――甚内を始め、城へ入った者どもが、無血占領の歓びを歓ぶことも措《お》いて、
「ふしぎだ?」
「解《げ》せぬことよ」
と、ただ疑いの中にあったのは無理もないことだった。
すると、甚内の家来の一名が、あわただしく何か告げて来た。甚内は、
「なに、天守の壁に?」
と、すぐそこへ駈け登って行った。
見ると、天守三層目の白壁に、滝川三郎兵衛の筆で、墨くろぐろと、一文が書き遺《のこ》されてあった。
[#ここから2字下げ]
一つ、此城預け申す証文の事
母ハ我ガ胎《ハラ》ナリ、胎ハ我ガ身命ノ基《モト》ナリ。一命元ヨリ君家ニ託《タク》セド、君家未ダ兵馬ノ命ヲ発セズ、猶一日ノ無事アルヲ窺《ウカガ》ヒ、即チ、質《シチ》ノ母ヲ偸《ヌス》ミ、御辺ノ義ヲ欺《アザム》ク。罪大ナレド、非義ヲ咎《トガ》ム勿《ナカ》レ。人間誰カ母ノ子ナラザル者アランヤ。而《シカ》アレ、御辺ノ情ニ対シテ、弾《ヒ》ク弓ナク、御辺ノ恩ニ向ツテ衂《チ》ヌル刃《ヤイバ》ナシ。為ニ、御辺ガ主家ニ得タル罪ト同坐シテ、我モ一旦、敢テ不忠ノ名ヲ蒙《カウム》リ、此一城ヲ御辺ニ預ケ、敗者ノ辱《ハヂ》ヲ忍ンデ伊勢ニ退《ヒ》ク。
御辺、是ヲ受ケヨ。他日、我レ是ヲ再ビ敗《ヤブ》ラン。将来ノ風雲、未ダ云フニ早シ。唯|茲《ココ》ニ過日ノ御辺ガ温情ノ一片ヲ謝シ、愈※[#二の字点、unicode303b]御弓ノ誉レヲ祈ル
[#地付き]三郎兵衛|雄利《タケトシ》
脇坂甚内どの
[#ここで字下げ終わり]
「…………」
読み去り読み来り、また凝視《ぎようし》しているうちに、甚内の眼からは湯のごときものが流れ下っていた。
すぐ大坂の秀吉へこれを報じ、慎んで、罪を待っていた。
使節山岡|隆景《たかかげ》が、すぐ大坂から来て、事実を見聞して帰った。また折返して、増田|右衛門尉《うえもんのじよう》長盛が、秀吉の旨をおびて使いに来た。
「甚内の武士は立った。見苦しからぬ仕方よ、さきの落度は取り返し、辱《はじ》に勝《まさ》る功をなしたぞ――と、秀吉公には、ひと方ならぬお褒めである。このまま、伊賀城に在って、堅固に守れとの御意でもあった」
さきの罪も問われず、甚内は、大面目をほどこ したのであった。
[#改ページ]
構《こう》 想《そう》
伊賀上野の一城が、その持主を換えたことは、起りは、私事に発していたが、直ちにこれは、秀吉と織田、徳川連合軍との、公式な開戦布告に移る端緒《たんしよ》となった。
伊勢へ退いた滝川三郎兵衛は、すぐ長島へ早馬を打って、
「敢えて、辱《はじ》をしのび守将の任にそむき、一旦、城を敵手に委《まか》してござる。いかようとも御処罰を俟《ま》つ」
と書中して、仔細に事情を訴え、罪の下るのを待った。
すでに、三老臣を誅《ちゆう》して、信雄の胸にも、やや悔いのあったところである。それとまた、三郎兵衛には園城寺でも、秀吉に組せず、真を自分に告げた功もある。
信雄は、こう返辞をした。
「罪を俟《ま》つには及ばない。そちの軍兵は直ちに、伊勢一志郡松ケ島村の城へ向え。――松ケ島城は、逆臣津川玄蕃の居城だが、玄蕃その者は、すでに長島で誅殺した。そして、長島表より木造長政を討伐にさし向けてあるが、いまなお落城の報がない。よってそちは長政の手勢と合して、津川の家臣を追い、そのまま松ケ島城を堅めておれ」
信雄の命に接して、滝川三郎兵衛は、直ちに、松ケ島へ馳せつけ、木造長政と協力して、そこを攻めた。
彼が、津川の遺臣を討って、松ケ島へ入城した頃、信雄から二度目の書状がとどいた。
書中には、
[#ここから2字下げ]
――秀吉はついに、年来の野望をあらわにして、公然、われへの戦書を発した。われまた決して策なきにあらず、すでに徳川殿の援軍は、続々、増派されつつあり、西国、四国、紀州|根来衆《ねごろしゆう》、北越の佐々《さつさ》、関東一円も当方に加担《かたん》呼応あるべく、織田|有縁《うえん》の諸侯、池田、蒲生《がもう》などの参加も疑いない。序戦、秀吉はかならず、その先鋒をもって、伊勢へ進攻するものと思われる。主力我れと、所は隔つとはいえ、一心|堅塁《けんるい》に拠《よ》って、その地の善防奮戦を祈る。
[#ここで字下げ終わり]
とある。
信雄は、この書を発すると共に、麾下《きか》の佐久間甚九郎正勝に兵五千余を付して、
「急速に、峰の城を修築し、秀吉の来襲に備えおけ」
と、伊勢の鈴鹿《すずか》口へ向けて、急行させた。なおまた、一宮城主の関|成政《しげまさ》、竹鼻城主の不破広綱《ふわひろつな》、黒田城主の沢井|雄重《たけしげ》、岩崎城主の丹羽|氏次《うじつぐ》、加賀ノ井城主の加賀野井重宗、小折城主の生駒家長などの諸臣の人質を一せいに長島へ収めて、自身は、
「清洲へ」
と、移る地を指さして、ここに初めて、彼の旗馬は、公々然と、軍事的うごきを明らかにし出した。
長島城のあとには、生駒家長を入れ、信雄の旗本と主兵力は、ほとんど、清洲へ移った。それが、三月十三日のことであった。
この行動は、もとより彼が単独の意に出たものではない。徳川家康との間に、
(十三日には、清洲において、会見申さん)
という緊密な連絡があったものに相違なく、同日、徳川家康も、その精鋭をひきいて、自身、清洲まで馬をすすめて来た。
帷中《いちゆう》、槍影の守りきびしき処、両者の懇談は、数刻にわたっていた。
[#改ページ]
花・ふた色
美濃《みの》の養老と伊吹《いぶき》の山のくびれには、万葉や古今《こきん》に、古くからわび歌われた幾つかの古駅があり、関ケ原から湖南へ往来する旅人たちは、この峡谷の街道をあゆむごとに、かならずそれらの遠い時代の人々の歌ごころや旅ゆく姿を今にしのんでみるのだった。
その東海道筋から横へまがる。それも不破《ふわ》から二里、垂井《たるい》から一里余りでしかない。すると、伊吹の曳く山すそが西南へながれてゆく半山地に拠《よ》って、人の住むらしい屋根が点々と望まれてくる。里の名を岩手郷といい、背後の一丘を、菩提山《ぼだいさん》という。
世の往還《おうかん》からへだたることわずかであるが、冬は気温がひくく土地は痩せているために、かえって山水は清美であり、人は素朴で、言語や風俗のさまにも、室町《むろまち》期以前の古態がなおどこかに残っていた。
いま、三月初め。尾張地方からみると、半月以上もおそいといわれる梅の花が、おちこちに、ま盛りであり、空も水も鳥の音も、澄みとおって、春というには、まだ寒すぎる肌ごこちである。
「おじさん、絵をくれよ」
「おじさん、その絵、くれよ」
「くれよ、おじさん」
子どもたちは、彼のあとについてきた。
あきらかに絵とわかるひと巻の紙を彼が手に持っていたせいである。子どもらは、この絵描《えか》きのおじさんに、こうセビリつけばきっと絵をくれるということを、これまでの経験でも知っていた。
「これはいけないよ」
友松《ゆうしよう》は立ちどまって、うしろの子どもらを、追い返した。
「――また描いてやるからな。きょうはゆるせ。これは、おまえらには、やれないのだよ」
「どうして。どうしてさ」
「子どもには、つまらない絵だからさ」
「つまらなくッてもいいよ。くんなよ、おじさん」
「やれん、やれん。帰る子は、いい子だぞ。おとなしく帰る子には、また好きな絵を描いてやろう」
「じゃあ、その絵、たれにやるの」
「あそこのお人へ」
と、友松はあなたの柴折《しおり》門を、手にある紙の巻いたのでさした。
「なアんだ、禅尼《ぜんに》さんにやるのか。……」
と、子どもらは一《いつ》せいに云った。すこし嘲弄《ちようろう》めいた笑《え》クボをそろえ、
「おじさんは、尼さんにばかり描いてやるんだぜ。ちぇッ、つまんねえや」
あきらめて、子どもたちは、もとの道へ散っていった。友松のあかるい笑い顔が見送っていた。組しやすい風貌《ふうぼう》の持ち主と見えるせいか、子どもたちによくからかわれるので、すさまじい世の中に、家もなく、身を守る何ものもない彼ではあったが、漂泊《ひようはく》の行く先々にも、何か、知己はあるという心だけは失われずにある。
知己は、あなたの柴折門の内にもあった。彼がこの里に足をとめてから、ふと知りおうた若い禅尼だった。
「おいでですか」
友松はやがて庵《いお》の戸を押していた。この尼院を訪うごとにいつも感じるのは、常に箒目《ほうきめ》のたててある平らかな庭土と、竹の葉ごしに屋のうちまで、清潔なひかりの映《さ》していることだった。
「尼どのには、お留守ですかな」
返辞がない。
気さくな尼は、留守を小鳥の音にまかせて近所へでも出かけたのであろうか。――友松はたたずみ黙した。すると、尼ではない人声がどこかでした。話し声ではない、読書の声だ。物語り物でも素読《そどく》しているらしい抑揚《よくよう》である。声のぬしは、主《あるじ》の禅尼より若い女性らしくおもえた。
障子明りの冷ややかな小部屋の中ほどに脚のひくい小机をおき、それを挟んで年のころ十六、七とみえる小娘が、松琴尼《しようきんに》とむかい合いに坐っていた。
源氏の帖《じよう》が何冊も、かたわらに重ねてある。小机にひらかれてあるのは、その中の「空蝉《うつせみ》の巻」で、
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――昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせ給ふといふ。さて対《むか》ひ居たらんを見ばやと思ひて、やをら歩み出でて、すだれの間隙《はざま》に入り給ひぬ。この入りつる格子はまだ鎖《さ》さねば、間《ひま》見ゆるによりて西ざまに見通し給へば、この際《きは》にたてたる屏風も、端のかたおし畳まれたるに、紛《まぎ》るべき几帳《きちやう》なども、暑ければにや打掛けて、いとよく見入られける。火近うともしたり、「母屋《もや》の中柱にそばめる人や我が心懸くる」と、まづ目とめ給へば、こき綾《あや》のひとへ襲《がさ》ねなめり、なにかあらん上に着て、かしらつき細やかに、小さき人の物げ無き姿ぞしたる……
[#ここで字下げ終わり]
淀《よど》みもなく小娘は読みすすんでいた。源氏物語もこの「空蝉」や「箒木《ははきぎ》」や「夕顔」の帖などは、たれも好《す》くところなので、もう何十遍も読みかえしているらしく、暗誦《そらん》じているほどだった。
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――母屋《もや》の几帳のかたびらひきあげて、いとやをら入り給ふとすれど、みな静まれる夜の御衣《おんぞ》のけはひ、柔らかなるしもいと著《しる》かりけり。女は、さこそ忘れ給ふをうれしきに思ひなせど、怪しく夢のやうなることを、心に離るる折なき頃にて、心解けたる睡《い》だに寝られずなん。昼はながめ夜は寝覚めがちなれば、春ならぬ此目も、いとなく歎かしきに、碁打ちつる君、「今宵はこなた」と今めかしく打語らひて寝にけり。若き人は何心なく、いとよくまどろみたるべし。かかるけはひの、いと香《かう》ばしくうち匂ふに、顔もたげたるに、単衣《ひとへ》うち掛けたる几帳のすきまに、暗けれど、うち身じろぎ寄る気はひ、いと著《しる》し。あさましく覚えて、ともかくも、思ひわかれず、やをら起き出でて、生絹《すずし》なる単衣《ひとへ》一つ着て、すべり出にけり。君は入りたまひて、ただ一人|臥《ふ》したるを、心やすく思《おぼ》す。床のしもに二人ばかりぞ臥したる。衣《きぬ》を押しやりて寄り給へるに、有りし気はひより物々しく覚ゆれど……
[#ここで字下げ終わり]
「あらっ。……いけない」
小娘は、にわかに顔を紅くし、本をふせてしまった。銀杏《ぎんなん》のようなつぶらな眼は、いとど大きく、ため息さえついた。
日課として、源氏の訓《よ》みと解《とき》を教えている松琴尼は、文学には熱心なこの少女が、勉強の中途でこんな声を出したのは初めて見ることだったので、
「おや? 於通《おつう》は、どうしたことですか」
と、笑った。そして於通の眼とともに、濡れ縁の障子明りをふり向いて見まもった。
「いやですわ、禅尼さま。……たれかそこで、聞いているのですもの」
「そんなことはないでしょう。たれも人のいるはずはありませんもの」
「いいえ、います。さっきから、きき耳たてていたにちがいない」
「たれがです」
「たれだかわからないから、なお……」
「きっと、いつもの子猫でも来ているのであろ」
気休めとはおもいながら、松琴尼は立ってそこをあけてみた。すると、思いがけない者が、いつの間にかそこのぬれ縁の端へ来て、ちゃんと腰かけていた。内から障子があいたので、何か、恍惚《こうこつ》としていたその客も、
「やあ、これは」
と、ふいを打たれたていで、尼の姿へふり向いた。
「まあ、おひとが悪い。友松《ゆうしよう》様ではありませんか」
松琴尼がいうと、内から於通も云って誇った。
「それごらんなさい。いたでしょう、よそのお人が」
親しい間とみえ、友松は、尼の招き入るるまま、内へ通って、
「いや、ごめんなさい。失礼しました。何もべつに、源氏の君みたいに、女御《によご》たちの密《ひそ》かな世界を隙間《すきま》見たりなどしたわけではありませんが、お門《かど》べの静けさ、お留守か、否かとおもいまどい、つい庭へはいりました。すると久しぶり、空蝉《うつせみ》のくだりを美しいお声で読まれるのを伺い、聞いているうちに、うっとりとして」
坐るなり、まず云い訳から頻りにし出した。
於通は、あわてて小机や源氏の帖を、部屋のすみへ片寄せてしまった。そしてわざと、ぷんと、少し怒った顔つきをこの客へして見せた。
彼女の気性のわかっている尼には、おかしくてならないように、くすくす笑いこぼれながら、
「いえ、お気にかけて下さいますな。この娘《こ》はすこし変っているほうなんですから」
すると於通は、いよいよ、ぷんと、怒り澄まして、
「ようございますよ禅尼さま。わたくしはどうせ、変り者ですから」
といった。けれどその仏頂《ぶつちよう》顔は、心からのものとは見えない。むしろその中には非常な愛嬌すらふくんでいた。せっかくの勉強を客に邪魔された不平はあるが、その不平と客へのあいそとを、巧みに、軽いおかし味として、しかも、あどけなく、表現しているものに見える。
「ははは。何しろ手前が悪かった。於通どの、堪忍してくれい」
「いえ、しません」
「なに、堪忍せぬ。これは困った。あやまる」
「そんなにあやまるならゆるしてあげましょう。女性《によしよう》の所とて、これからそのような失礼はなさらぬように遊ばせや。もしこれが男と男とのいる席でしたら、あなたは無礼打ちにされてもしかたがないところでしょ」
「おそれ入った。いや、なるほど、変っている御息女ではあるなあ。……ふうん」
と、友松はその姿へながめ入った。前からもこの辺の山家娘《やまがむすめ》とはおもっていなかった。しかし今ふと、清麗《せいれい》たとえようもなく友松には見えた。源氏の君をめぐるあまたの女性の中にも類型《るいけい》のない新鮮な感覚と知性をこの乙女に見て、彼は、
(これは、すぐれた造化の花だ。しかしあどけ[#「あどけ」に傍点]ないどころかよ、花にしても、叡智《えいち》の結晶のような花――)
と、心のうちでおどろいた。彼が五十余年のきょうまでの生涯に、若くしてはたくさんな女性にもあい、けわしい世を、滅亡の武人から貧しい漂泊の一絵師へと生を求め、さまざまな人間と世路の経験を経《へ》つつ、自然の中に養ってきた物を観《み》る眼との――その画家的な眼をもって、彼は正直に驚いたのである。
「禅尼さま。わたくしがいたします」
彼女は、松琴尼が立ちかけるのを見て、あわてて自分が代って奥へかくれた。お客への茶と気がついてである。
友松はなお、その姿を見送りながら、
「禅尼どの。あのひとはあなたのお妹か、身寄りの御息女でもあるのですか」
「よく、そう訊ねられますが、妹でも姪《めい》でもありませぬ。もっとも、わたくしどもの親の代から、亡くなった兄も親しゅうしていた家の御息女ではありますが」
「そうですか。あの年頃のおとめにしては、よほど頭脳もすぐれていますな。源氏の訓《よ》みを聞いていても、句点のきりめ、ことばと地の文章との読みわけかたなど、感心しました。そこはかとなく、源氏の香気や情景をあのように、聞く者に感じさせるには、それが充分に、読み手自身に分っているのでなければできないことだ。……いずれ、由《よし》ある家がらに生れ、よい環境のもとに、都で教養なされたのでおざろう」
「いえいえ」
と、尼はホホ笑んで、彼のひとりのみこみを、訂正した。
「田舎生れです。やはり美濃《みの》の内で、これから東へ、八里ほどの在所、北方郷《きたかたごう》の小野の里で、小野政秀《おのまさひで》ともうすのが、於通《おつう》の父親でございました。……が、政秀どのはあのひとが幼い時に、合戦で亡くなられ、身寄りや郎党たちもちり失《う》せて、ひと頃、わたくしの兄の身近な者が養っておりましたが、十三歳の折、手づるがあって、安土《あづち》のお城へ御奉公にあがりました。あの悧発《りはつ》な子のことですから、お局方《つぼねがた》にも愛され、信長公からも、またなく可愛がられていたそうですが、天正十年、信長公も本能寺で御最期となり、安土もあんなことになって、あわれやそのときまだ十五歳のおとめも、途々、さんざんな苦労をして、もとの美濃へさまよい帰ってまいりました。――合戦というと、敗れた武者方のみが、みじめらしゅう思われますが、どうしてあんな何知らぬおとめまでが、それはそれは怖ろしい目やら辛い思いをしたらしゅうございます。……けれどまたあのひとのすぐれた素質は、芽生えにうけたその憂き艱難《かんなん》を、自分にとって、よい試煉として身に生かしているようなので、それだけでも、すこしいまの乙女たちとはちがっているなと思われまする。……ですから、あんなあどけない容子《ようす》もありながら、折にふれては、男も及ばない剛毅《ごうき》なところがあったりして、私なども、ままびッくりさせられることがあるのでございます」
尼のことばが切れたのは、そのとき当の於通が、ふくさに茶碗をのせ、楚々《そそ》と、友松のまえにそれをささげて来たからであった。
茶礼をして、のみほした茶碗を、友松が返すと、於通は、次に尼のために、また炉へ茶をたてにかくれた。
「そうでしたか。いや、そうでしょう。あの教養も、安土の大家で、身につけたものでしょう。――そして今は、あなたのお手許で、ゆく末、よい禅尼《ぜんに》にでもなるために、勉強中というわけですかな」
「とんでもない、あの子は、田舎ぎらいです。ひと頃の安土の御城下やお城うちの、すばらしい繁栄やら、海外からいっさんに流れこんだ異国の文化にも、すっかり馴《な》じんでおりますから、尼院生活など、夢にも思ってはおりますまい」
「なるほど、それも無理ならぬことですな」
「いまの世には、無数な尼僧がおりますが、たれとて、われから好んで尼院へ入った者などありませぬ。わたくし達はみな乱国のあらしに吹き落された梢《こずえ》のない花々です。まして人いちばい才はじけた於通ですから、折さえあれば、私のそばを去って、都へ出たがっておりまする。……それを、わるいとは私も申してはいず、ただ、まだほんとの平和の世ともおもえぬほどに、時を待つがよいと、若い心をなだめてはおりますものの、さて、あの賢《さか》しさで、いつまでこの退屈な山里に、私と一しょに、水仕事をしたり、読書したり、鳥の声のみ聞いていましょうか……」
尼は、自信なげに、云いむすんで、ふとまた、自分のその年頃を、思いめぐらしているような眉であった。
この尼とて、年のころは、まだ三十七、八でしかあるまい。若いといえば、いたいたしいともいえる若さの禅尼なのである。殊には、精進しているためにか、皮膚にしのびよる初老のかげもなく、人をして、妙齢の頃にはさぞや[#「さぞや」に傍点]と思わせるものがある。
「オ。そうでした、友松様。いつぞやは御好意に狎《な》れて、とんだ御無心をし、さぞ御迷惑でございましたろう」
尼は、自分の前に、於通が茶をおいたのをしおに、さりげなく話をかえた。友松も、それと共に、うしろの紙巻の物へ手をのばして、
「そうそう、伺ったのも、そのことでした。あれからです、さっそく画稿《がこう》にとりかかり、いくたびか描きあらためて、ようやく、下絵が成ったので、ここへ持ってまいりました。……ともあれ、ごらん下さい。そして、あれこれ、お心にそわぬ点は、忌憚《きたん》なく指摘していただきたい。それをまた参考に、下絵を練ってみますから」
いううちに、彼は、尼の方へ向けて、携《たずさ》えて来たというその下絵を展《ひろ》げはじめた。そして静かに依頼者の感想をまった。
それは、若い武人の、肖像画であった。
もとより細かい模様や傅彩《ふさい》はまだほどこされていない。しかし描き直し描き直し、幾重にもかさねられてある描線には、筆者の苦心が、生々《なまなま》とあらわれていた。未完成画とはいえ、全体を通じての構成にも、一線一劃の筆力にも、このまますでに観賞にたえるだけの力と精神は充分に見られる。
「いかがでしょう」
三つの顔が、ひとつ焦点を見つめあった。三人おもいおもいな沈黙のうちに。
「……ああ。よう似ておられまする」
松琴尼の眼には、涙がわいてきた。
彼女は、画を見て画を見ない。亡き兄の姿を、それに観《み》た。
「ほんに。そのお方らしゅうございますこと」
於通も、一緒になって、感歎をもらし、
「わたくし、このお方がたれか、すぐわかりました。きっと、私の胸にうかんだお人にちがいありません」
と、いった。
尼は、涙をまぎらわすに、よい話題として、
「この似絵を、於通はたれと思いましたか」
「禅尼さまの、お兄君でございましょう」
「まア、よく……」
と、尼はおもわずなつかしさを顔いッぱいに――
「その通りですの。して、そなたにそれがどうしてお分りかの」
「だって、武人の似絵は、どれを見ても、みんな強そうにか、でなければ、威権《いけん》を誇示しているのが普通でございましょう。ところがこの似絵のお人は、甲冑《かつちゆう》もつけず、床几《しようぎ》にかかって采配《さいはい》を持たず、衣冠束帯《いかんそくたい》というのでもありません。……そこらの山の中にもいそうな、ただのおさむらいが、袖なし胴着に、ふだん穿《ば》きの袴《はかま》をつけ、ちょこねん[#「ちょこねん」に傍点]と、あぐらをくんでいるだけのお姿です。ただ違っているのは、書物をたくさんそばにおいて、読みかけのその一冊を、膝にひらいているところだけが、山家ざむらいにはないことです」
「それだけですぐこの尼の兄と覚《さと》れましたか」
「いえ。もっと、はっきりしていることは、武人にして武人らしくない面《おも》ざしです。蒲柳《ほりゆう》のお質というよりも、御病身であったでしょう。学問におふかく、叡智にあふれ、お若くして逝《ゆ》かれたお方のそれらしき御容貌が、この絵にもありあり出ているではございませんか」
「そう……。ほんにそうです。この身も、そぞろ生きている兄に会うような心地がして」
「なお、小袖の御紋をごらんなされませ。丸に蔦《つた》の葉でしょ。丸に蔦の葉の御紋は、この庵《あん》のうしろから登れる菩提山《ぼだいさん》のお城の古い屋根瓦にも見られます。もう申すまでもなく、そのむかし、菩提山の城の主として住み、のちに、栗原山《くりはらやま》に身を隠され、羽柴秀吉さまの幾度とないおせがみに、よんどころなく秀吉さまの麾下《きか》に加わり、中国攻めのせつ、平井山の長陣に、おん病《やまい》を重うさせられ、ついにお亡くなり遊ばしたと聞いております……あの、竹中半兵衛重治《たけなかはんべえしげはる》さまこそ、この似絵のおひとにちがいありません。……ね、禅尼さま、中《あた》ったでしょう」
「…………」
尼はもうとどめ得ない思い出に、まぶたを抑えたまま、横向きにうなじを折って、何という答えもなかった。
その竹中半兵衛が妹とあるからには、この松琴尼こそ、病身の兄にかしずいて、栗原山の山居にもいたあの山《やま》百合《ゆり》にも似ていた可憐な――名を、おゆうといった女性であることは、もうあらためて問うまでもない。
山を降りて、時の潮と、権力の中に住めば、あの節操、竹のごとき兄ですら、ついには秀吉の一軍師として仕《つか》えるの生涯を、どうにものがれ得なかった。
ましてや乙女、おゆうが、秀吉の眼にとまって、秀吉的な情炎の誘惑に、ついに剋《か》てないでその側室《そくしつ》となったのもぜひがない。
が、このことは、兄の半兵衛にとり、生涯、人知れぬ不快と苦痛だったにちがいない。おゆうも、もとよりそれを察し、いつかはと、秀吉の寵《ちよう》に別れる日を期しているうちに、平井山の陣における兄の死だった。
おゆうは、それをしおに暇をねがった。秀吉は、半兵衛の死に会って、まったく純な悲嘆にくれていた折なので、迷いなく、彼女の乞いをゆるした。そこで、彼女は兄の遺骨をいだいて美濃のふるさとに立帰り、髪をおろして、名も松琴尼とかえ、新たな尼院生活に余生を清めていたのだった。
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静夜騒客《せいやそうきやく》
「ありがとうございました」
と、尼は友松へむかい、心から礼をのべて、
「まるで生き写しのようにおもわれます。このようなお絵を描き上げていただいたら、きっと妙心寺へお納めするのは惜しゅうなって、いつまでも、自分と一しょに、この草庵へ置きたくなるかもしれません」
と、かぎりない歓びをこぼした。
半兵衛重治の死は、天正七年の六月であったから、おもうに尼は、ちょうどことし七年の回忌《かいき》を機として、一画像を表具《ひようぐ》させ、それをこの夏、妙心寺に納めて供養《くよう》をいとなもうという考えのもとに、折よくこの地方へ旅して来た海北友松《かいほうゆうしよう》に素懐《そかい》をのべて、揮毫《きごう》を依頼したものであろう。
「いや、寺院へ納められるより、それはもうあなたの側において、朝夕に、偲《しの》んでいただいた方が、どんなに故人もうれしいかわかりますまい。画者にとっても、そのほうがありがたいことです」
友松はさらにいった。画稿です。訂正できます。何かお望みなり御不満があったら遠慮なくいって下さい、と。――それを何度も質《ただ》したのち、ではこれを基本に描きあげましょうと、はや図を巻いて、帰りかけた。
「もう、たそがれですのに」
と尼も於通もひきとめた。
「何もありませぬが……」
と、ひとりは急いで厨《くりや》へ立ち、ひとりは灯をともし、強《し》いて辞すひまもなく、たちまち夜食の膳は運ばれた。
もらい物の手づくりですがと、酒まですすめ、馳走らしい物とてないがと、心いッぱいもてなすのであった。友松が一片の依頼画にかくまで良心をもってするに対して、これくらいな心入れはなお足らないとしている尼の気もちもよく酌《く》みとれる。
酒は好むところであり、宿とする草深い百姓家へもどってみても、語るあいてもない毎夜なので、ではと、友松も腰をすえ、
「尼院で御酒をいただくなどは、里人の口もいかがかとおもわれるが、せっかくのおこころざし、遠慮なく」
と、受けた杯をふくみ、季節もよし、梅のにおう宵、久しぶり微酔の快を味わった。
「里人の口《くち》の端《は》など、お気づかいは、御無用です」
と、尼は、銚子をすすめて云った。
「わたくしたち、禅家の者は、世間の口の端などには、いっこう頓着《とんじやく》しておりません。あなたも、権勢に仕えず、白雲を友とする境界の画家でありながら、なぜそのようなこと仰せられますか」
「ははは。切りこんできましたな、禅尼どの。身の迷惑はかまわぬが、あなたの迷惑をふと思うたので」
「いえいえ。なんの迷惑も感じませぬ」
「しかし、この友松は、お尋ね者なのですぞ。御存じか」
「お尋ね者とは」
「おととし、山崎合戦のあとで、京の三条河原で、二度も首盗人があらわれました。一敗地にまみれた明智方の人々の首が、次々と、京都の河原にさらされましたろう」
「血ぐさい世の中は、久しく知りませぬ。風のたよりには、聞いていましたが」
「初めに、小栗栖《おぐるす》の里で百姓たちに討たれた光秀どののさらし首が、一夜、何者かに盗み去られました。また幾日かおいて、明智衆の老将、斎藤内蔵助|利三《としみつ》どののさらし首がまた失《な》くなった。京の騒ぎはえらかったですよ。はははは」
「その下手人《げしゆにん》は、友松さまだったのですか」
「――と、当時、もっぱらな評判でしたな」
否定もせず、肯定もせず、友松はただ笑ってのみいた。無住の山水に籍をおいて、武将生活を見きッてからの彼もすでに久しいものだが、浩然《こうぜん》と笑えば、なおその笑いの底にさびたる戦場声のおもかげはどこやらにある。
生い立ちを洗えば、友松もまた、竹中半兵衛や於通の父小野政秀などと同列のいわゆる美濃衆といわれた稲葉山の斎藤|義龍《よしたつ》の家中であり、覇府《はふ》斎藤が、信長に亡ぼされた永禄《えいろく》六年を転機として、竹中一族も、於通の父も、海北友松も、それぞれ、ちりぢりに異なる次への運命にわかれ去っていたものであった。
だから、いいかえれば、こよいの燈下の三人は、同じふるさとで、ひとつ元木のこぼれ芽が、年経《としへ》てここに会したものといってもよい。いやその気もちは、いわずとも、各※[#二の字点、unicode303b]の胸にはあるものと思われる。
かかる縁もあればこそ、竹中半兵衛が死して七年の忌年《きねん》に、偶然、その血縁から画像をたのまれもしたのであろうと、友松もその筆には一《ひと》しお精を入れたにちがいない。半兵衛が栗原山にかくれ、また秀吉に招かれてからは、ついに会わずじまいであったが、弱冠時代には、幾度かその人に親しく会ってもいたのである。はからずもその記憶が役だって、画稿《がこう》の線のひとつひとつになろうとは。
(何しても、惜しい人ではあった)
と、彼が回顧される以上に、尼もこよいは、その兄にかしずいていた栗原山の春の夜をおもい出しているのであろう。それかあらぬか、尼はめずらしく、
「お客人《まろうど》に、何の御馳走もなさすぎますから、せめて尼の琴なりおきかせしましょうか」
と、めずらしくも云い出したので、於通も、
「え。ほんとに」
と、興がって、さっそく一面の琴をかかえてきた。そして、
「禅尼さまのお琴は、それはそれはお上手なんです。秘曲《ひきよく》を極めておられますから。――けれど、たれがせがんでも、めったにお弾《ひ》きになったためしはありません。今夜はよほど、どうかしていらっしゃるんですよ」
と、友松に紹介した。そして彼女自身も、おもわぬ倖せに会ったように、座をすべらせて、奏《かな》で出づる秘曲をこころ澄まして待ちもうけた。
琴を前に、絃《いと》の調べをしつつ、そのあいだに、
「わたくしよりも、亡くなった兄のほうが、琴は上手でございました。栗原山の山住居に、わたくしが弾き、また兄が弾き、月の夜の更《ふ》けるのも忘れたことがありました」
彼女のまぶたには、その兄が、その頃のまま、もう見える心地がしているらしい。
友松は、大きくうなずいた。手の杯を置きわすれて。
絃は鳴りはじめた。秘妙な音階が十三の絃からかぎりない変化を織り、またひとつの正しい響音に統一され、突《とつ》として崩れ、みだれ、相寄り、相離れ、ときには、坐しているまま、波濤のそこへでも沈んで行くかのようなものにつつまれるかとおもうと、明るいこと、かがやきみつること、天界のようなところへ、心をもってゆかれもする――
(長く、極まりない文化の変転、また興亡の幾かわりや、人それぞれの運命の、ときには盛り、ときには沈み、悲嘆し、歓喜し、遊戯し、争闘する、その相《すがた》を音階にしたようなものではある。雨の音、風の声、鳥の鳴く音、虫のすだき。自然の声あるものの声もみんなこの中にはある。さてさて、不可思議な……)
何の秘曲やら友松にはわからない。音楽的な知識はない。しかし眼をとじていると、そう感じてくるものの万象が、まぼろしのように脳裡を去来するのだった。
そのとき、夢みる人々を、たたき起すように、庵《いおり》の柴垣の外で、何やら人声がし出した。あきらかに、馬蹄の止まった物音もした。それからつづいて、
「もの申す。もの申す。松琴尼どののお住居は、こなたでござるか」
と、入口の方にあたって、武辺らしい者のおとずれも聞えた。
「外に、お客らしいが……」
と、友松は尼の注意をひくように呟いたが、尼は、意にかけるふうもなく、依然、曲をつづけて、ついに終りまで弾き終ってから、やおら於通の方へ云った。
「こんな夜中に、たれであろ、出てごらんなさい」
「はい」
於通は、やがてもどって来て、
「たれか余人がおるらしいから、名はいえぬ、禅尼どのに、お目にかかればわかる――というて、上方の武家らしきお人、従者三名ほどをつれ、馬二頭ひいて立っておりまする」
と告げた。
尼は、存外きつく首をふって、
「夜中、名もつげぬお方にお会いはできぬ。ここは尼院、宿ならほかへお求め下さいと仰っしゃい」
「ハイ」
と、また於通は立ってゆき、こんどはなかなかてまどって、何か押し問答に会っているらしい。
友松は、膳の前を離れた。
「思わず長座しました。上方の武辺と聞いては、事面倒、お尋ね者は、逃げ出すとしましょう。……ああよい半日を過ごさせていただいた」
「まあ、よいではございませぬか」
「いやいや、ほろりと、よい頃、夜梅を見ながら寝に帰ります」
「そうですか」
と、尼は自身、送って出た。
入口に立ちはだかって、取次げ、取次がぬと、於通と押し問答の最中だった四十がらみの、旅装《たびよそお》い物々しげな武者は、微醺《びくん》をおびて奥から出てきた男を、うさんくさい眼《まな》ざしでじっと見、また尼の顔を見、これは怪《け》しからぬといわぬばかりな顔つきを示し、出て行く友松のうしろ姿を、露骨な眼でじろじろ見送った。
その影が、柴垣の外へ消え去るのを待って、彼は、尼のすがたへ辞儀をした。
「お忘れかもしれぬが、羽柴家の臣、武藤清左衛門でござる。また、これにおるは……」
と、うしろに佇《たたず》む一僧をさして、
「妙心寺の塔頭《たつちゆう》大心院の御僧、漸蔵主《ぜんぞうす》でおざる」
「そうですか。ま、お上がりなさるがよい」
と、尼はさして珍客あつかいもせず、といって、わるびれもせず、奥へ通した。
琴、膳など、まだ片づけるいとまもなく、室の隅に寄せられてある。禅僧の漸蔵主は、あだかも自分の恥辱のごとく、さげすみを面《おもて》にみなぎらして、つれの者へ、眼でものをいった。
「なに御用ですか」
と、尼はいった。
問われたのを幸いに、武藤清左衛門は、なすべき礼儀を忘れ顔してすぐ答えに移った。
「されば実申すと、この方どもは、木曾川近くの黒田ノ城まで、大事の秘命をうけたまわって、大坂表から下ってまいった。そこで主人秀吉様の思し召しであるが、さしたる寄り道にもならぬ菩提山のふもとゆえ、おとずれて、近ごろの消息を問うてつかわせとのおことばでおざった。――で、わざわざ不破《ふわ》より横道して来たわけで」
「それはそれは御大儀な」
と、尼は、人事《ひとごと》みたいにいう。
武藤は、馬の背から従者におろさせた品々を、尼のまえに披露した。すべて秀吉からの贈り物とある。何疋《なんびき》かの絹、二重箱の茶器らしき物、その他、金銀につもっても、少なからぬ程のもの。
松琴尼は物を見ず秀吉の情を見た。年経《としへ》ても忘れておられないということは、髪をおろした身にも、やはりうれしいにちがいなかった。
男女の愛慾としてでなくても、人間と人間とが歓び合う情愛はなお純粋である。おそらくは、いや、はッきりと、秀吉の心もそうであろう。いまの身には、用なき物質ではあるが、そのお心はありがたく戴いておこう。彼女はそう思いつつ厚く礼をのべて、
「大坂表へお帰りの上は、かように、何も事なく暮しておりますと、よろしくおつたえくださいませ」
と、使いのふたりへ、ことばを託した。
「その通り申しあげておこう」
と、清左衛門は、ざッと云った。本来、かつては、主人のおもい者だった婦人。もっと、いんぎんにあるべきだが、門口で変な男と感じられる者を見てしまい、尼の住居というのに、世間もはばからず音曲をかき鳴らしたり、酒杯のあとなど見るに至っては、つい尊敬を欠くのもしかたがないと、自身へいいわけを持ちながら意識してぞんざいな態度をとるのだった。
日頃も、好まない客には、好まない顔をしてみせる尼なので、清左衛門が非礼であろうと、何であろうと、尼としても問うところではない。
あたりを取片づけている於通にむかい、笑いばなしなどしかけていた。清左衛門も、つれの漸蔵主《ぜんぞうす》と、何やら私語していたが、やがて蔵主から尼へ、
「ちと重要なおはなしがあるので、その若い女子を遠ざけて給わるまいか」
と、云い出した。
お安いこととして、尼は於通に旨をふくめた。於通は退《さ》がる。清左衛門はかたく改まって口をきり出した。
密談とは、こうである。
いよいよまた避けがたいものが始まる形勢が濃い。今までのは、こんどの戦争にいたる前提戦にすぎず、こんどこそ天下わけ目の争いとなろう。いや、それはもう眼前に始まっている。――伊勢その他の各地において。
各地の有力な武門にたいする北畠信雄の呼びかけ策は、とみに活溌になっている。なかんずく東海の徳川家康とは、全幅的な攻守同盟をむすび、家康もまたようやく、彼本来のうごきを明らかにしかけている。
また、諜報《ちようほう》によれば、この三月なかばまでには、信雄は清洲に移り、家康は岡崎を発し、両者は清洲に会同して、作戦をねり、かつ大々的に秀吉の非を鳴らして、自己の名分を天下に訴え、堂々と、両者の連合軍を押しすすめ出すものと観察される。
――とすれば、この大戦の決戦場となる地域は、どうしても、伊勢、美濃、三河を外廓として、木曾川を中心とする尾濃《びのう》の山野たることはいうまでもない。
秀吉方においても、それらの考慮には、おさおさぬかりはない。
大坂城はすでに竣工《しゆんこう》した。京都の治民組織もまずできたところである。この新版図《しんはんと》、この新勢力の府へ、おめおめかれらの馬や旗をまつものではない。
大挙、東下して、徳川北畠の連合軍とたたかうであろう。――さて、それについてはである。
ここに、木曾川近くの、戦略的要地に、沢井左衛門|雄重《たけしげ》というのがあり、尾張領への間道を扼《やく》す黒田ノ城をあずかっているが、それだけに北畠中将(信雄)が恃《たの》みとしていることはいうまでもない。
ちと、むりだが、これを何とか説きふせて、味方に加えるときは、木曾川渡りの便はいうまでもなく、戦略地全般にたいして七分の利を占め、尾張三河へ入るにはやすく、連合軍の進出には絶対的なさまたげになる。
(どうしても、沢井を口説《くど》き落さねばならぬ、利を喰わすに物惜しみすな。条件は望み次第とし、何でもかでも、説きつけてこい)
秀吉の命はこうだった。武藤清左衛門ひとりの使者ではなお心もとないとして、大心院の漸蔵主《ぜんぞうす》、弁舌のさかんな禅僧なので、これをも付けて、大坂を立たせたのである。
立つに際して、秀吉はまたふと、
(わかれて七年になる、半兵衛が妹のおゆうは息災《そくさい》かどうか、途中、立ちよって、消息を問うてみてくれい)
と、ことづけた。
情ふかく、わけて女には親切であくまで甘い主人である。清左衛門は、仰せかしこまって出立したが、敵地へ反間《はんかん》の計をいだいて入りこむ命がけの使者として、ただ立ち寄るのも道楽に考えられた。で、漸蔵主とも、途中ではなしあい、
(これは却って、もっけの倖せだ。おゆう殿のいる地から、目的の沢井左衛門の城地までは、わずか十二、三里の近さ。いきなり、先の黒田城へ向うには、危険も多く、万一の失敗も考えられる。ひとまず菩提山《ぼだいさん》のふもとを足場として、策もねり、旅装も変え、内々の連絡もとり、万全を期して、黒田へ乗り込もう。それに如《し》くはなく、それには願ってもない足がかりというもの)
漸蔵主も、それは名案とした。おたがいにやり損《そこ》なえば生きて還れない仕事である。智慧はしぼらねばならない。功名に危険はつきものといえ、死んでは何もならないと考えた二人だった。
しかし武藤清左衛門が、これらのことを、すべてありのまま松琴尼へ打明けたわけではない。松琴尼にたいしては、もとよりその一端のみをかたり、自分たちの考えは、秀吉からのいいつけであるとなして、
「ご迷惑ではあろうが、当分の間、ここをわれらの宿に拝借したい。そして、明日にでもあれ、ひとつおん許《もと》に御足労をねがい、黒田ノ城まで、お出向きねがわねばならぬ」
と、持ちかけたのであった。
声を落したりつよめたり、長々と、清左衛門がかたるのを、松琴尼は、だまって聞き終ったが、やがて、ひと事のように、
「ほ。わたくしが、なぜ黒田へ行かねばなりませぬかの」
と、まるで無反応な顔してたずねた。
清左衛門は、ジリつく気もちを、あいての冷静さへ、押しかぶせて、
「御主君のおさしずなのじゃ。まずおん許を、そっと黒田ノ城へやって、沢井の内意をうかがわせ、尼どのの手引きで会うのが、人目にも立たず、良策であろうと」
「迷惑いたします」
「なぜな?」
と、清左衛門は尖《とが》ッた。
「なぜというて、この身は、ごらんの通りな無用人です。仏の弟子です。戦の役になどたつ者ではありませぬ」
「いやいや、尼|御前《ごぜ》のお身なればこそ、かえって都合がよいのだ。大坂表の御命令とあれば、いやとも仰せられまい」
「どなたの仰せつけでも、そのようなことに、関《かかわ》りあうなどは、亡き兄が悲しみまする。――兄は武門に生れながら武門の宿命をよく見通していた人でした。その兄を、否《いな》み難くさせ、御自身の軍中のものとなされた秀吉様は、やはりよほどお偉くて、兄以上のお人であったからでしょう。……兄は、栗原山を下りるときから、平井山の長陣で病死するまで、よく自分を嘲《わら》って申しました。かく行けばかくなるものと知りながら、やはりこう来てしもうた、おろかなわれよ。妹よ、そなたは、つよく生きてゆけよと。――さればこそ髪をおろして、お暇をいただいたわたくしです。お使者方、よく御分別くださいませ」
「…………」
清左衛門には、返すことばが見出せなかった。が、弁舌家の漸蔵主《ぜんぞうす》は、あざ笑った。
「口ぎれいなこといわるる。尼どの。それはほんとか」
漸蔵主は、罵倒《ばとう》し出した。
「今ほど、こそこそ出てうせた男は何じゃ。尼寺で琴はまアよいとしても、男をひき入れて、酒もりなどは、どんなものか。近頃、世のみだれをよいことにし、坊主どもの行状は、ひどくなるばかりじゃが、とりわけ尼というメスどもがよろしくない。都でも、物好きな男たちが、比丘尼《びくに》買いを知らずに色事はかたれぬなどと申すをよく耳にするが、まさかこんな山里にまで、みだらな悪風が行われていようとは思わなんだ。いかに落ちぶれ召されたとはいえ、以前を思うたら、恥かしいと思われないものか。秀吉公の面《つら》よごしじゃ。こんな尼に、大事はたのめぬ。武藤どの、長居は無用だ。さ、帰ろう帰ろう」
禅坊主というものは、いったいに口ぎたないものだが、漸蔵主はことに舌がよくうごくので、聞くにたえないばかりである。
が、松琴尼は、ちらと、ほほ笑んだのみで、
「お帰りか。それは、さっそくな」
と、止めもせず、ただ二人をながめている。
清左衛門は、まずい顔をした。ここを出て、どこへ行くかだ。蔵主はちと云い過ぎた。従者を入れれば五人づれ、旅籠《はたご》もない山村をうろうろしていたら人の噂のたねになろう。大事の前の小事ということもある。そう考えて彼は急に、
「いや尼どの。お気をわるくされな。蔵主は有名な毒舌家じゃ。それも、肚《はら》からいうたわけではおざらぬ。平に」
と、あやまり入って、決して怒りもしていない尼をなだめぬいた。
おかしくてならないように、松琴尼は笑い出した。清左衛門は従者をよび、泊るときめて、馬のつなぎ場を、於通へたずね、自身も旅装など解きはじめる。
「夜中に、追い立てるも無慈悲であろ。よいようにお使いなされ」
細い渡り廊下をこえて、尼はあなたの小部屋へかくれた。武藤の従者たちは、於通に厨房《くりや》の案内をさせて、それから夜食の炊《かし》ぎにかかるという騒ぎだ。行糧は馬の背に持っていて、地酒はのめぬ、都の酒をと、それまで携《たずさ》えているのである。
「いや、負けたな。今夜は、負けたわ」
漸蔵主《ぜんぞうす》は舌打ちならした。したたかな酒豪らしく、旅の途次も飲まねば眠れぬたちらしくみえる。真っ赤な顔を振り振り云った。
「なにが負けたといわるるか」
清左衛門が怪しんで問うと、彼は、
「イヤ、最前の雑言《ぞうごん》は、あれや禅坊主の奥の手でな、機鋒《きほう》を奪《と》るというやつだが、あの尼はビクともせん」
「よくやる手か。これや心得ておく必要がある」
「さすがは、半兵衛重治の妹、できている。あれなら黒田ノ城へやっても、うまく手引をつけてくるだろう」
「が。行かぬといっておる」
「明朝、あらためてもう一度頼んでみるのだな。それでもきかねば諦《あきら》めるとして」
「あの口吻《くちぶり》では、きくまい」
「ウム。きくまいな。何せい、近ごろ出色の比丘尼《びくに》を見た。尼の偉いのになると男僧も及ばぬのがある」
「ひどく感服されたの」
「はなしに聞いていた慧春尼《えしゆんに》のごとき者だ」
「慧春尼《えしゆんに》というのは」
「鎌倉の世の頃に、相模《さがみ》の糟谷《かすや》に生れ、容姿花のごとき美人だったが、年三十を過ぐるや、尼となって、無数の恋人を唖然《あぜん》とさせてしまった。ところが、禅門に入っても、若僧や老僧や、つきまとってやまない」
「鎌倉時代にも、貴僧のようなのが、たくさんいたとみえるな」
「あはははは。まず、そうなんじゃ。するとここに熱烈な一僧があり、いのちがけで尼に恋し、ある夜、腕力にもかけまじき血相《けつそう》で、わが情慾を遂げさせて炎の苦患《くげん》を救えと迫った。すると慧春尼が云ったという。おやすいことです。しかしおん身も僧、わらわも僧である以上、交会はよろしく俗ならざる所をえらんで相楽しみましょう。けれど御僧はまさかその場に臨んでおいやとは云いますまいねと、念を押した」
「なるほど、そして」
「火のごとき恋の若僧、なんのと答えた。もし尼がわが願いをかなえてくれるならば、湯火《とうか》を辞せずと約束した。――数日の後、了庵《りようあん》の上堂に、一山の大衆が雲集した。と、ひとりの尼、真白い全身に尺布《しやくふ》もまとわず、赤裸の観世音かと見ゆるばかり、凜《りん》として階《かい》の上に立ち、微妙の霊音ともひびく声を張って大衆の中へ云った。先の夜、尼の室に忍んできた御僧、お約束のごとく、今日ここで交会しましょう。はやく来て、おん身の慾情をほしいままに遂《と》げ給えや――と」
「おどろいたろうな。一山の禅坊主も」
「当の若僧は逃げ出したそうだ」
「やれ、あわれ。それや若僧の方に同情される」
「する値打はない。禅坊主などにならねばよかったのだ」
「そうもいえるな。慧春尼とは、それでいて、そんな美人だったのか。聞くだに、惜しいここちがする」
「慧春尼には、もっとおもしろい話もあるが……。ま、やめておこう」
「なぜ。なぜの」
「いかにわしでも、美しいおとめの前では、ちとしかねる話だから」
いわれて、清左衛門は気がついた。
いつのまにか、於通が来て、坐っていたのである。ほの白い顔に、燈火のまたたきをうけながら、漸蔵主の露骨なはなしにも、とんと無風の花の枝のような静けさで――。
「や。ここにも、慧春尼がひとりいた」
清左衛門は、ほんとに、びっくりしたような声でいった。
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さすらい人《びと》
――鳥瞰《ちようかん》して、視界のかぎりを、ここから見渡すと。
尾濃一円の平地には、網の目のような交通路と、静脈動脈にも似た大小の河川《かせん》と、周囲の山岳地方からちぎれて飛びわかれているかのごとき丘陵と、無数の村落と、それから碁石の利《き》きどころにも似た要所要所に町があり、また城がある。
郷、郡、国の境界は、それらの小都会の城地を中心に、複雑な勢力の入りくみかたをして、その分布をたしかに見分けるのはむずかしい。
朝に移り、夕べに変じ、どこはなにがしの何領といっても、忽ち領有権のかわること、四季の移りより早いからである。それをふつうとし、住む者も、異《い》としていない地上だった。
天正十二年三月初め頃におけるこの一帯は、まさにそうした分布変動の直前にあった。それもこんどは劃期的《かつきてき》な大変化を予測された――たとえば地震の震源地帯のような――無気味な様相におおわれていた。
この無気味の因をなすものは、前にいったような、複雑極まる勢力と勢力の交錯《こうさく》にあるのであって、これは戦争が行われているときよりも、人間の心を悪くし、また疲らせた。
小手《こて》をかざせば望めるような――或いは川をへだてて相対しているような――または、丘と丘とで睨み合えるような――郡を隣りしているそれらの城と城とのあいだには、まったく一刻の安心をももち合えなかった。
あなたの城は、こなたの城を。こなたの城は、あなたの城を。――いつ敵になるやもしれぬと、警戒しあい、人や物質の出入りにも、すぐ猜疑《さいぎ》をつのらせた。夜もおちおち心までは眠らず、
(いったい彼は、東軍へつく者か、西軍へゆく者か)
と、諜報交戦に猜疑しあっているその者自身、実はまだ、自分の肚は決めてもいないのが多いのである。
とはいえ、帰するところ、かれらの拠《よ》り場は、西につくか東かの、二つ以上にはなかった。
いわばいつのまにか、覇力《はりよく》の日本は、二つに割れ、その二つの対峙《たいじ》が、いまや表面化してきたものといえる。
歴史をかえりみると、或る到達の階梯《かいてい》には、いつも二つの対峙という過渡期がある。
二つの相対は、過去の例でみると、かえって、多くの複数よりも、対立が尖鋭《せんえい》化され、なぜか、両者の吻合《ふんごう》的平和にはあまんじない。あくまで一つにまでなろう、一つにまでならねばやまないとする本能がある。
なぜかを、人は考えもし、その理由なき成りゆきに追いこまれる愚を知らないではないが、地上に人間集団の歴史が描かれ始めてから、二つのものの勢力が二つにとどまって平和の長きを得た例をほとんど見ない。
もともと人間の集団社会は、原始部落の闘争から発足《ほつそく》して、次第に大をなし、郷を称え、郡をなし、やがて国を形成し、さらに国と国との複数が戦い戦い単位に近づき、ついにその最大なるものが二つとなり一つにまでなって、ここに帝王や将軍の一世が擁立《ようりつ》され、或る期間の最盛時代が現出する。
しかしその統一本能が実現されても、ひとつなるものは極めて文化の爛熟《らんじゆく》から廃頽《はいたい》への過程が早く、また忽ち、分裂を起しにかかる。しかも、その再分裂作用もまた本能的に不可避なのである。世紀以来、これは近東や地中海に発足した西洋史に観《み》ても、東洋大陸の長い興亡史にみても、ほとんど、例外がないといっていい。かんたんにいえば、宇宙の意は奈辺《なへん》にあるやを知らないが、人類のしてきたことは、何千年も同じことを繰り返して来たようなものだった。古くから哲人は何度も云った。なんと、人間は、愚かであることか――と。
愚かなるもの、人間≠ニ、人間の中でも多少思慮あるものは、考えつかないではない。けれどそんな一部の思慮分別などは無視し去ってぐんぐん行くべき方向へ行ってしまうなにか狂猛な本能が人のすむ地上には所在するらしい。それはあながち一箇の風雲児や一箇の梟雄《きようゆう》のみが作り出すものでもないようである。
この愚をもっとも広汎《こうはん》に演じ、また、最も深刻に経験し、同時に早くから悟り、たれよりも深く考えていたのは、古い歴史をもつ中華の禅僧たちであった。その禅家がこれに下した断案として、人間にある三つの本能をあげている。
飲食即是道《おんじきそくぜどう》
淫慾《いんよく》即是道
闘争即是道
つまり人間が人間として生きつづくための要素をこう三つに大別して、この絶対必要でまた厄介きわまる身のなかのものを、まず個人のうちに解決しようとかかったのが、かれらが面壁《めんぺき》や公案《こうあん》のねらいであった。そして初祖以来、世々の群禅の末孫たちのうちには、解明のかぎ[#「かぎ」に傍点]をつかんだものも少なくはあるまいが、それはみな彼らの山房林室のうちにとどまり終って、ついに衆生《しゆじよう》のうちには、やはりさしたる影響ももたらさなかった。いや、かえって禅の生死|超脱《ちようだつ》の工夫を、修羅《しゆら》の中で、闘争のために用うる者の方が殖《ふ》えてしまった。
いまや、天正の世は、応仁の乱麻《らんま》から、割拠《かつきよ》していた群雄のおびただしい複数が、徐々に単位に近づき、信長によって、飛躍的にそれが一《ひとつ》に達しようとしたとき、忽然《こつぜん》と彼は世を去り、彼の死は加速度に、一のてまえの――二《ふた》つの世代≠眼前にして来た。
そうした人の世を、これまた、まったく無感覚のように、
「オ……。ここまで来ると、もう梅も散っている。岩手の里よりよほど陽気は早いな。水のすがたも春らしく、桜のこずえも、あと一雨でほころび初《そ》めよう」
わらじに踏む草萌《くさも》えを楽しみながら、おちこち眺めては、ひとり自然の草木と語ってゆく一旅人がある。
赤坂の宿場から南平野へ出、やがて神戸《かんべ》の町はずれへ来たその旅人は、相川堤の桜並木に立つと、ふと思い出した山家集《さんかしゆう》の一首を、小声でひとりごちに歌っていた。
「……春となるさくらの枝は何となく花なけれどもむつまじきかな。――花なけれどもむつまじきかな」
その時どこかで「友松さま」と、よぶ者があった。旅人は堤から川のみぎわを見まわしたが、耳のせいかと思い出したらしく、また、花なき桜の梢《こずえ》を見あげていた。
友松は、前の夜、尼の庵から帰ると、ただちに筆をとって、あの下絵を基本に、隠士《いんし》竹中半兵衛像を一気に描きあげてしまい、なに思ったか、それを早暁、松琴尼の許へとどけると、すぐその足で、ひと月余り客遊していた菩提山のふもとを辞し、例によって、あてなく先の旅路へむかい出して来たのであった。
(どうして、そんな急に……)
と、松琴尼にも今朝あやしまれたが、彼は笑って答えなかった。御機嫌よう、と一言のこして、霞の中へ消え去った。尼と於通は、見送っていた。そして前の晩、友松が冗談のようにいったことばを思いだしていた。
(お尋ね者です、てまえは。――明智《あけち》の首を盗んでどこかへそッと埋葬したと噂されている……下手人で)
当人の口からそういっても、なお聞く者をして、嘘か真《まこと》か、迷わすような風であった。
しかし、秀吉の家士武藤清左衛門の一行が、尼院へ着いたとたんに、彼は、風のごとく帰ってしまい、またすぐ翌未明に岩手の里を立って来たなど、不審にすれば充分な不審である。明智どのの首盗人≠ニひと頃、市井《しせい》の話題だった犯人は、案外、噂どおりのものかもしれない。
主家斎藤家の亡滅後から、彼はいまの境涯にあまんじて来たのであるが、その斎藤家を亡ぼした織田家のためには、かつて信長が安土城の大|普請《ふしん》に、あまねく天下の画匠に障壁画の彩管《さいかん》をふるわせた時でも、彼のみはそれに参与しなかったのみならず、かえって彼は明智光秀やまたその老臣の斎藤利三などと風交の深いものがあった。特に光秀は、晩年閑を得る身となったら、友松について、画などを習って悠々自適したいなどともいっていた。
火のない所に煙は立たぬというが、思いあわせれば、それやこれ、彼と明智との縁故はふかい。山崎一戦の後、三条河原から、暗夜、心の友の首を抱いて、人知れぬ所へそれを埋《い》けてやった犯人が、事実、友松であったにしろ、かれの芸術家としての名をけがすものでは決してない。世間もまた、同じ盗人でも、この首盗人には、ひそかな同情と理解をもっているのだった。
けれど、当時の秀吉の名による逮捕令はまだ解かれていない。三年ごし、犯人は分らないでいるが、詮議《せんぎ》はつづいているかたちだ。それも友松にはなんの苦痛でもあるまい。日蔭の道こそ、彼の画生活と漂泊《ひようはく》の旅にはむしろ好ましかろう。
「友松さま。いつまで何を見ていらっしゃるんです」
二度目の声がした。あきらかに今度は彼のすぐ背に聞えた。
堤の蔭にさっきから腰をおろしてぽつねんとしていた小娘であった。友松はふりかえりざま、
「オヤ」
と、眼をみはった。
「於通《おつう》どのではないか。何しに来たのか」
「あれ。友松さまこそ、私とのお約束を忘れたのですか」
「約束?」
「あなたが岩手の里を立つときは、きっと私を、京都へ連れて行ってやる。さもなければ、都の知人を、紹介してあげると、あんなに仰っしゃっていたでしょう」
「ああ、あのことか」
友松は、おもわず頭を掻いて、にが笑いした。いや、当惑にみちた顔をした。
「忘れてはいない。こんど……この秋、岩手へまた来たときに、きっと、約束を果す。それまではおとなしく、松琴尼のそばに仕《つか》えて、学問をいそしみなさい」
「それくらいなら友松さまに、あんなに何度もおねがいはしませぬ。尼院の生活は、とてもわたくしには心にそまないのです」
「若い女は、都へ都へと、みな夢みているが、いま時、この乱れた世に、都へなど出たって、自分を悪くするだけのものですぞ」
「お説教は、お卑怯《ひきよう》でしょう。それも耳に飽くほど伺いました。けれどわたくしの気もちも、それ以上、おはなししたつもりです。……それ程にまで望むならと、ついにあなたも御同意の上、岩手を去る時はと、お約束して下すったのではございませんか」
「そうだ。そうではあったが」
「うそだったのでございますか」
「弱ったのう」
「いけません。たとえ嘘で仰っしゃったにしても、私はもう尼院へは帰りません。正直にあなたのお後について、禅尼さまにも黙って出て来てしまったのですから、……きっと、そんなことだろうとおもい、わたくしは近道して、ちゃんと、友松さまの来るのをここに待っていたのでございますよ、――お困りになりまして」
「冗談ではない。ほんとに、禅尼どのにも黙って、出て来てしまわれたのか」
「あなたとちがい、於通は嘘はつきませぬ。この通り、常から旅支度もととのえて、いつでもと心がけていたのです」
「やれやれ。だましもすかしも利《き》かぬ女子《おなご》だ、まあ、そこへ坐ろう。そしてもう一ぺん友松のことばを聞いてくれい。わるいことは、決していわぬ」
友松は、さきに腰をおろして、思案の膝をかかえこんだ。
「なんですか」
於通も素直に、彼に倣《なら》って、草の上に坐った。
すがた、ことばは、素直であるが、これほど素直でない娘を友松は余り知らない。
ひと月あまり、同じ里にいる間、彼の借りている宿へ、於通もよくやって来た。それには、彼女としての目的があった。
田舎暮しはたえられない。尼院の日々はかなし過ぎる。都へ出たい。新しい知識にふれ、文化に浴し、希望ある生活の中へ立ち交じりたい。
――こう訴えてやまないのだ。
友松は、よい程にあしらい、また、幾度となく、その非を諭《さと》した。
(それはとんでもない野望だ。われわれ武門の端《はし》くれだった者さえ、弱肉強食の巷《ちまた》には剋《か》てず、落魄《らくはく》、愍然《びんぜん》たる境界に追いやられ、いまは争闘の世に、まったく思い断《た》っているのに。――若い女性の身そらで、あんな乱世の中心、有為転変《ういてんぺん》のるつぼ[#「るつぼ」に傍点]へ、何で好んで飛びこんで行こうとなさるか。友松には気が知れん。わしは反対だ。それよりは、草ふかくとも、平和な田舎に住み、月明りに源氏を読み、秋日に画筆をとり、雪の夜に、歌など作っていられたら、至楽、これに越すものはあるまい。そしてよく働く男を夫にもち、すこやかな子をもうけ、母の愛の中に、女性の安住と満足を求めようとするなら、おそらくかなわぬことはなく、失望、傷魂のいたみをうけることもあるまい)
友松のいうことはいつもこれに尽きていた。ふつうの若い女性へなら、多少、聞かれるふしもあるかもしれないが、於通にたいしては、寸効《すんこう》もなかった。
彼女は、友松などの考えを、すでに古い人の固定した観念としか聞いていない。彼女は幼少すでに安土《あづち》文化の新鮮な空気に、ものごころを揺《ゆ》り醒《さ》まされていた。当時の信長の華美な生活ぶりも見ていたし、城下の南蛮寺では、海外の知識をそそぎこまれもした。
そこでは、馬太伝《マタイでん》やヨハネ伝も読んだ。伊勢や竹取《たけとり》や源氏などの古典に親しんだのは、もっと早くからだった。安土の大奥では、まだ十三、四歳の彼女をさして、早くも、将来の才媛《さいえん》のようにたたえた。信長の耳にはいって、信長の前で、小色紙に即興の和歌をしたためて見せ、美しい菓子と手筥《てばこ》を褒美にもらったこともある。
すぐれた天性にちがいなかった。しかし短い期間の急進的な安土文化は、あまりにこの鋭感な少女の発芽期には強烈な太陽でありすぎたかもしれない。また、本能寺変による槿花《きんか》一朝のみじめな敗戦亡流のうき苦労も、彼女の年齢としては、余りに深刻な経験でありすぎた。
一時、生れ故郷の小野の里へ帰ってから、彼女の幼少をむかしから知っている者は、人がちがったようになったとみないった。事実、彼女の天性の才と天質の容姿のうちには、前に述べたような影響がかなり濃く――後天的なものとして加えられていた。
だから、姿に似ず、云い出したらきかない、また、思いこんだら果さずにはおかない――といったような性格が折々に行動や言語に出た。小野の里の老人たちは「いよいよおきれいにはなったが、女らしゅうなくなった」といって、孤独な彼女をうとんじるようになった。乳母の良人《おつと》が縁故をたどって、松琴尼の許へ彼女をつれて行ったのは、彼女に冷たい故郷の風からそッと温かい陽なたへ根を移そうとした育ての思いやりであったろう。
小野の里の老人のみでなく、友松もこの小娘を心から好きにはなれなかった。が、その才気には、正直、舌を巻いて、田舎におくのは惜しいとも思った。本来、居るべき所を得ないために、田舎人も彼女をうとんじ、彼女も田舎をきらうのであろう。時と所を得しめれば、この名木は、時代の文化の中に、咲き匂《にお》うかもしれない。
ふと、そう思ったのと。――また、どう諭《さと》してみても彼女が初志をひるがえさないので、とうとう或る時、約束してしまったのである。――承知した、尼にはなして、都へつれて行ってやる。そして、どこかよいお邸へ紹介の労もとろうと。
それはもう十日も前のことだった。友松は、絵のためにすっかり忘れていたのである。今朝立つとき、ちょっと、思い出しはしたが、おそらく、彼女も忘れているのではないか。昨夜の容子《ようす》をながめても、けろり[#「けろり」に傍点]と忘れはてているような風でもあった。――ならば幸いである。彼女のためにも。自分のためにも。
松琴尼とともに、尼院の裏に立って、自分の立つ姿を見送ってくれた彼女なので、友松はもうすッかり安心し、そのことについては、いささかの顧慮《こりよ》もなく、この相川堤まできて、ひとり久しぶりの旅心地にわれともなく佇《たたず》んでいたところを、不意に、その於通に面《めん》とむかって違約《いやく》をなじられたのであるから、五十をこえた男の彼が、まだ十七の小娘に顔をあからめてどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]したのも、あながち故なきことではない。
「春も、春さきは、一《ひと》しおよい、平和だなあ」
友松は、相川の大きくゆるやかにゆく水の曲線にむかって、ひとりごちに云ってから――
「こんな平和な自然も、あと幾日、無事でいるやら。おそらくこの堤の桜が咲きそろう頃には、この辺りも、軍馬に荒れ、弾《たま》けむりや血泥にまみれ終るだろうよ」
「ゆうべのお客たちのはなしでは、また大きな合戦になりそうな……」
「なるな、いやでも。きっとこんどのは世をあげての大戦乱になる。……と感じたから、わしはさっそく、人里を遠くはなれ、これから飛騨《ひだ》の奥へでも行って、静かに、絵を描く場所を見つけようと思うて来たのだ。しかるにお許《もと》は反対に、これから都のまッ只中へ出たがっている。何としたことか」
「お分りにならないんでしょう。けれど私には私がよくわかっております。無分別ではございませぬ」
「聡明なお許《もと》のことだ。考えなしとはいわぬが、ちと功利心に燃えすぎる。虚栄も夢を手つだッていよう。せっかくの天性をもって、かえってそれを不幸のもとにせねばよいが」
「わたくし。……ここでお別れしましょう」
於通は不意に立った。眉をひらいた友松の顔が瞬間に見られた。思い直してくれたか――と、うれしく、ほッとしたらしい。
「や。覚《さと》られたか。思いとまって、帰ってくれるか。帰ったら禅尼どのにも安心させてあげたがいい。……そして二人とも、くれぐれこのすさまじい世に捲き込まれぬよう、分《ぶん》を守って、無事にお暮しなされよ」
「いいえ、友松さま。わたくしは、そこへ帰るのではございませぬ。一度出て来た尼院へまた戻る気はありません」
「えっ。では、どこへ」
「小野の里へ行きます。そしてそこから自分の好きな所へ行きます。もう人を恃《たの》みにはしないつもりです」
彼女はその堤づたいに、さッさと上流の方へ歩み去ってしまった。すぐ彼方《かなた》の加納《かのう》の渡しを越えると、わずか一里にして北方郷となり、彼女のふるさとの小野の里は長良《ながら》街道の山ぞいにあった。
渡し舟を見出すと、於通は足をとめてふりむいた。友松の影が遠くに小さく、まだ佇立《ちよりつ》したまま自分の方を見ていた。唖然《あぜん》とした友松の顔つきがおもい出され、彼女はなんとなくおかしくてならなかった。笑いながら、笠を振った。彼方の友松は手も振らない。棹《さお》を立てたようにいつまでもじッとしている姿だった。
渡しの中には四、五人の旅行者や里人が先に乗っていた。於通もその中に交じり、もういちど下流の堤をふり向いた。どこへ立ち去ったか。友松の影はもう見あたらない。
彼女にとっては、それも過去へよぎった鳥の一影でしかない。一年余り養われた菩提山《ぼだいさん》下の草庵も、きのうまでかしずいていた松琴尼も、過去すべて彼女の今のこころを振りかえらすには何の魅力もないものばかりだった。ゆくての夢のみが彼女の胸には春の野のように匂い拡がっている。舟べりを洗う水の音も、空にかすむ雲雀《ひばり》のねも、自分の勇気と希望の門出を祝福するためにあるもののような心地だった。自己のために存在しないものはすべてちょうどこの渡し舟の中にある乗合客のようなもので、岸につけばすぐ忘れ去る人々だった。
「おい、お前ら、何も知らず暢気《のんき》な顔をしておるのう」
舟が川の中ほどへ出た頃、乗合いのうちにいたひとりの侍が、小商人や百姓たちを、無智の凡下《ぼんげ》とあわれむように見くだして云った。
「近いうちには、またこの辺も戦《いくさ》になるぞ。お前らあ、今のうちに、山の方へ逃げおらんと、火攻め鉄砲攻めになってから、じじ婆や子どもを抱え、吠《ほ》え面《づら》かいてまた路頭に迷うのだ。いつもその日まで、金儲けや畑打ちなどして、暢気づらしておるから泣きを見るんじゃ」
百姓の女房も、旅商人らしい男も、あきらかに顔色を失ったが、さりとて問う言葉も、答える言葉も知らないのである。
対岸は、加納の宿《しゆく》だ。ちょうどここで日いっぱいに暮れ、軒傾いた屋並びに夕煙がこめている。於通は、雇い馬を求め、荷鞍《にぐら》の上へ横乗りになった。小野の里へはそこからまだ一里半はある。
「お前さまは、小野のお館《やかた》のお姫《ひい》さんではござらっしゃらぬか」
馬子は彼女をうすら覚えている者だった。於通が、そうだと答えると、馬子は、春の宵をゆたりゆたり手綱《たづな》をひきながら、
「やっぱりそうでござらっしゃったか。お館のお姫《ひい》さんは、一年の余もどこへ隠れておしまいなすったずらと、里の衆がよう折々お噂しておりますだに」
ふるさとの人々には、この地方の豪族として古かった小野政秀の在《あ》りし時代が、なお根づよく記憶にあるらしかった。けれど彼女は、その父を知らない。母のおもかげもいと淡《うす》かった。憶《おぼ》えているのは、むかし自分が生れたという所の、城づくりのような石垣と焼け亡《ほろ》んでいる屋敷|址《あと》の濠《ほり》だけだった。ふるさとといっても、彼女には、さして深いなつかしさも執着《しゆうじやく》もない。
ただ預けられた松琴尼の許から離れては、さしずめ帰る所もないので帰って来たにすぎない。そしてそのあとは、むかしの乳母の家しかなかった。
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去《きよ》 就《しゆう》
木曾川の上流は、犬山城の根を洗って、長流の下ること十里、また一つの城を南岸に見てながれる。
尾張領|葉栗《はぐり》郡の黒田ノ城である。
城の内に起居している人々はすべて先月以来、非常態勢につき、戦時生活をしていた。
城主の沢井左衛門|雄重《たけしげ》のまわりは、つねに甲冑の人々でつつまれていた。
「会うて四の五を聞くのもうるさい。説客というやつは、どこの使いでも、弁舌の士ときまっていて、かならずうまいことをいう。――追い返せ、追い返せ」
左衛門雄重は、特に、語尾をにごさぬように、云いきっていた。
十数名の股肱《ここう》がつめあっていた。彼らの容子には「会っておやりなされてもよいではないか」とする色があきらかに漂《ただよ》っている。左衛門は、取次の者への返辞としてよりも、それらの者たちへ自分の意志を明確にしておくため、今のごとき語気を用いたものだった。
「あ。……いや、殿」
果たして、棚橋《たなはし》甚兵衛という物頭《ものがしら》が、一部の家臣の意を代表して云い出した。
「ともあれ、一度ならず二度までの、羽柴殿からのお使い。さように、追い返さるるも、御狭量《ごきようりよう》にとられて、おもしろくないでしょう。諾否《だくひ》は、もちろん御意にあること。一応、使者なるものを、おん前にお引かせなされても、よろしかろうと愚考されますが」
矢頭主膳という老臣もつづいて述べた。
「説客のことばには、まま思わぬ示唆《しさ》を得るものでおざる。存分、申し分を吐かせ、その上の御賢慮なり、或いはまた御評議に附されても、決して、殿の清節にかかわることはございますまい」
久保勘次郎、その他四、五の家臣も、もっとも――と頷《うなず》くような面持《おももち》を示した。左衛門は、彼らがなお、首尾両端を持《じ》し、秀吉方へつこうか、家康方へ組そうか、一城の方向としてよりも、自分自分の方途として、心のうちで迷っているらしいものを見のがせなかった。
「うむ……それ程にいうならば」
と、左衛門もいやいやながら承知した。
「――会うだけは、会うてみよう。では、羽柴の密使とやらを、すぐここへ通して来い」
すぐといっても、それから小半刻《こはんとき》はかかった。
ふたりの禅僧と、ひとりの山伏ていの男が、やがて客室に案内されてきた。室には、平服の左衛門のほか、たれもいなかった。しかし、武者隠しの小ぶすまの内には、屈強なる侍が、万一に備えていることは、どこの城内においてであろうと、普通なこととされていた。
「羽柴どののお使いとはお身たちか」
「左様で――」
と、三名は礼儀をとった。山伏ていの男が正使、禅僧のひとりが副使。羽柴秀吉の臣、武藤清左衛門と大心院の漸蔵主《ぜんぞうす》ですと告げた。
ここへ、秀吉からの派使は、これで二回目だった。第一回は、秀吉方として、明らかに失敗し、沢井左衛門のその折の返辞としては、
(たとえ、どういう好条件でも、羽柴方に味方する意志はない。自分はあくまで主恩のある北畠信雄様と行動を共にする。もし信雄様を離れるほどなら、秀吉ずれの乱臣賊子《らんしんぞくし》の仲間入りするより、将来の大器と尊敬している徳川家康どのへ従うだろう)
と、いってやった。
秀吉方をさして、乱臣賊子といったということは、かなり秀吉を刺激したにちがいないが、ひとり沢井左衛門の言ばかりでなく、近頃、こういう非難は、世上に聞くところである。大戦前夜の空気をまえにし、早くも、徳川あたりから、戦争名分がとなえ出されている。同時に、秀吉方の旗幟《きし》にたいし、理由なく野望の乱をかもす天下の賊――という悪印象を一般に植えつけようとする策謀がすでに拡《ひろ》く行われていた。
宣伝戦なら、より以上、秀吉方もやっていることだ。秀吉の怒る理由はない。彼は数日をおいて、ふたたび第二の派使を決行した。これが武藤と漸蔵主であった。その人選において、これも重ねての失敗だったということは後には分ったが、いまや秀吉の周囲は猫の手も借りたいほど四方八面に事端と劇務をひかえている。おそらくは、無難平凡な点において武藤が選ばれ、弁舌の雄として、漸蔵主が添えられて来たものであろう。
「もう一名の御僧は、いかなるお人か」
左衛門のたずねに、それまでさし控えていた漸蔵主のそばの禅僧は、
「御城下にある雲林院《うじい》の和尚にござります」
と、初めて答えた。
「雲林院の和上《わじよう》が、何の御用ばしあって、御同行なされたのじゃ」
「実は、岩手の松琴院とは、同系の友でございまして、その松琴尼より聞いて参られたとのことに、お宿の世話を申しあげ、また御城内へのお使いにも、拙僧が労を執《と》りましたような仔細にございます」
「そうか。それは大儀といいたいが僧侶などが、要らざる密使の手引などはせぬがよろしかろう。――これからの用談にも、御僧には関《かか》わりあるまい。先に帰られたらどうだ」
「はッ、願うてもないことで」
と、雲林院は、赤面と狼狽《ろうばい》をもって、そこそこに室外へ退《さ》がって行った。
沢井左衛門は――これがすでに自分の返辞である――として緘黙《かんもく》していた。この強硬なものへ、武藤清左衛門には、ちょっと、取りつき得なかった。
が、漸蔵主は、あいてが金銅仏であろうと、うごかして見せるといわぬばかりな自負《じふ》をもって、滔々《とうとう》と、弁じ出した。迫りつつある天下分け目の形勢をである。また、羽柴徳川のいずれに次代が幸いするやをである。さらにはまた、秀吉を支持する諸雄のいかに緊密にして勇武比類なきかをである。――ひいては今、工成って、浪華《なにわ》の壮観となりつつある大坂城の規模の雄大なことや、その主城をめぐって、はやくも新しい浪華の市街が、新興的な賑わいを呈し、かつての安土文化にもまさる浪華文化が婦女子の服装から居宅《きよたく》の様式、歌舞音曲にまであらわれて、それはそれは盛んなものであるなどと、世間ばなしまで織り交ぜて語りつづけた。そして、その言裡《げんり》には、
(家康どのが、近頃いかに人物らしくいわれていても、要するに、地方的人物にすぎまい)
というところを、暗にほのめかして、ついては――と、また要点を秀吉からの内意へもどした。
「秀吉様には、是が非でも一度、あなた様にお会いしたいと仰せておらるる。と申しても、物情騒然《ぶつじようそうぜん》、すぐとは望みも得まいが、やがてにおいては、秀吉様御自身、この方面へ御馬をすすめられる日のあるは見えておる。そのとき、木曾川渡しの前に、もし沢井どのの迎えに出会うならば、いかにうれしかろうぞ――などとも仰せられた。まったく、左衛門どのに、打ち込んでおらるるのでおざる。先頃、われらの以前に当御城内へ参り、いたくお叱りうけて立帰った使者どもの報告を聞かれても、秀吉様には、さらにお怒りないのみか、かえって貴殿の節義を愛され、なお御執心を高められたようでおざった」
ここまで漕ぎつけてもらったので、武藤清左衛門も、潮に乗って、説き始めた。
「いま、蔵主が申しあげたことばに、何の誇張もありませぬ。もしお味方の御内諾を得るにおいては、後日のため、当方よりも何かのお証《しるし》を――とて、実は、秀吉様より御朱印をおあずかりいたして来たような次第で」
と、彼は、肌着の襟《えり》の糸を解いて、秘めたる一書を取り出して左衛門に見せた。尾州領のうち四郡、望む所を与えるという封国の印だった。
沢井左衛門は、一べつして、それを破りすててしまった。返辞はない、この通り秀吉へ伝えれば足りる。すぐ去れ――とのみで席を蹴ってしまった。
漸蔵主は、あつかましく、なおでん[#「でん」に傍点]と坐って、舌をふるいかけたが、左衛門は睨みすえて、
「夜に入る前に、木曾川向うまで引きあげぬと、いかなる災害《さいがい》が身に及ぶやもしれぬぞ。それを承知なら、ゆるりとおれ」
とたんに、どやどやと家臣たちが入って来て、両使を追い立て、城門の外へつまみ出してしまった。これら家中は、主人と共に、反秀吉の意志を初めから一貫してうごかさぬ者どもだった。
しかし、この日をもって、多少城内にもあった去就《きよしゆう》静観組の空気も一掃されてしまい、黒田ノ城だけは、信雄、家康へ二心なきものと、明朗な態度を示すに至った。
西か、東か、いずれへ加担《かたん》するかの去就二途の迷いは、おそらく全国的なものであろう。ただ美濃尾張は、その縮図にすぎない。
信雄が三老臣を誅殺《ちゆうさつ》した事件に端を発した伊勢の戦火は、すでに一日ましに拡大している。もう地方的事件でも限られた地域戦争でもない。天下分け目の大戦たる様相はいつのまにか充分すぎるほど準備されつくしている。
のこる問題は、ただ秀吉対家康、信雄の二大勢力の鋭角が、どこを会戦地とし、どこまでが作戦地域として、両雄の胸に算定されているか――それであった。
ここ黒田ノ城へも、諜報《ちようほう》は刻々、東西から入っていた。
が、伊勢から南尾張方面の形勢は、三月初め頃からとんと分らなくなった。秀吉の西軍が、蒲生《がもう》、滝川、堀、その他の諸将にひきいられ、ひとたび信雄の麾下《きか》に取られた峰の城、星崎城、松ケ島城などに、猛攻をしかけ、急速な奪回戦《だつかいせん》にかかり出したことは聞えている。
また信雄が、伊勢の守りを、叔父の織田|信照《のぶてる》や佐久間甚九郎正勝などにまかせ、にわかに清洲《きよす》へ移ったことも沙汰され、同時に、徳川方の援将《えんしよう》として、水野忠重とか酒井重忠などの手勢が、疾風、伊勢へ馳せ向ったこともかくれない風聞ではあった。
どこの城は、西軍の手におちた。いや再び奪い返した。否、なお対峙《たいじ》のまま、朝夕に、城外戦をくりかえしているなど――紛々《ふんぷん》と、情報そのものにも、雑音が入り、臆測《おくそく》が加わり、そして戦火が次第に、身近に寄って来つつあるという感覚だけが、慥《たしか》なもののように思われた。
「申しあげ難い使いですが、主君の仰せどおりにお伝えする。――御嫡子おひと方を質《ち》として、直ちに、徳川家へお渡しあるようにとのことでござった」
長島|伊豆《いず》、安井|将監《しようげん》と名のる徳川家の使者が、今朝、前ぶれもなく、黒田ノ城へ臨んで云った。
きのう秀吉の使いを追い返した沢井左衛門は、きょうは家康の使者に接し、急に、人質を求められたのである。使者は、彼の感情のうごきを怖れ、気をつかいながら云ったが、左衛門は、
「武門のならわし、あらかじめ用意申しておった」
と、さっそく一子文吾|安雄《やすたけ》に、家士二人を添えて、使者に託した。
伊豆と将監の二使は、その潔白《けつぱく》にむしろ驚いて、
「先頃から徳川殿の内意により、諸家にむかって、御当家へなした同じ要請《ようせい》をして廻ったが、貴殿のようにあッさり質《ち》をさし出した者はほとんどない。何のかのと、例外なく支障をならべたり、日延べを策したり。……それをもってみるも、なお首鼠《しゆそ》両端の日和見《ひよりみ》がいかに多いかがわかりますて」
と、一般的な実相《じつそう》を打ち明けて帰って行った。
ところが同日、家中へ伝わった風評によると、大垣城の池田|勝入《しようにゆう》のところへは、同家から信雄への質として、伊勢の長島へやっておいた質人の紀伊守|之助《ゆきすけ》(勝入の長嫡子、二十六歳)が、突然、帰されて来たということだった。
「徳川どのは御当家のような潔白な家からも、仮借《かしやく》なく、質人を召されて行った。北畠どのは、反対に、二心なき者へは、取っておかれた質人も、お帰しなさる」
家中の一部は、この対照に、不平をもらした。けれど左衛門は、
「苦情をいう筋目はない。要は、おたがいお味方のむすびが強固になれば共によいのだ。大垣と岐阜の二城は、この黒田と、木曾、長良の両川をへだてて、ちょうど三角|対峙《たいじ》をなし、彼ら父子の向背《こうはい》は、油断ならず思われていたが、信雄様が、この際、池田父子を信じて、その質人をお返しになったのは、まことに御賢明なといわねばならぬ。またそれだけの信頼を見極めて、わざとお返しになったものであろう。――さすれば、当城にとっても、大きな不安が去ったというもの。お味方全体にとっても、よろこぶべきだ」
と、あくまで彼は善意に解した。というよりも、彼の性格どおりに解した。
ところが、詭謀反覆《きぼうはんぷく》は今の世のならい、こういう一方的な見解ほど危ないものはない。
十三日のことだった。
――その十三日は、家康と信雄とが、清洲に落ち会って、重大な密議をしていた日でもある。真夜半《まよなか》ちかい頃。
「諜報《ちようほう》の者です。諜報方です――開けてくれい。開門、開門」
と、黒田ノ城の門を打ち叩く者があった。
合言葉をたしかめ、鉄扉《てつぴ》をひらいた。諜報の者らしい影がツイと消え込む。
それから明け方にかけてである。城中の空気にただならぬ動きが見えた。重臣から武者|溜《だま》りへ、それから下部の軽士たちへ――やがて洩れて来た内聞《ないぶん》によると、
「犬山城の城主中川勘右衛門が、昨夜、何者かの手に襲撃され、途上で討ち果された」
と、いうのである。
事実とすれば、これはこの城中を驚愕《きようがく》させるに充分な悲報である。中川は正しく味方の一人であるのみならず、時あれば、秀吉の大軍をむかえ、この木曾川の一線を、上流犬山と、下流黒田の二塁に拠って、共に助け、共に守らねばならぬ約束にある姉妹城である。かれは上わ歯、ここは下歯だ。
その犬山の中川は、先ごろから伊勢へ出向いていた。徳川家の酒井、水野などの伊勢急援隊についてである。
遭難は、その伊勢から帰る途中だったとある。信雄の清洲移動にともない、戦雲の拡大にただならぬところもあり、にわかに犬山へ引き揚げを命ぜられ、左右わずかな人数をつれて、夜をかけて急ぎに急いできた途上の災禍《さいか》であったという。
宵闇《よいやみ》の樹上から鉄砲で狙撃《そげき》されたのである。馬上の影が、ただ一発の弾音に、地上へころげ落ちると共に、土民や野武士の入りまじったのが、十数名、もろ声あわせて突ッ込み、また瞬時に、風のごとく消え去った。
虚をつかれ、狼狽して、なすを知らなかった従者たちが、主人勘右衛門を抱き起してみると、佩《は》いていた陣刀がなくなっていた。
日頃から、中川こそわが仇《あだ》なりと広言していた池尻平左衛門という牢人者《ろうにんもの》がある。下手人はそれと、みないった。
――これだけの情報が、十四日朝までには綜合《そうごう》された。黒田ノ城の者は、主将の沢井左衛門をはじめ、いちじるしく殺気をそよがせ、
「いつ清洲から、いかなる軍令があるやもしれぬぞ。馬には飼い、物の具ととのえ、荷駄《にだ》兵糧の用意も変に応じて、ぬかりなきように」
と、いい合わせていた。
しかしその緊張した鋭角を、南尾張や伊勢方面の戦場へのみ向けていたのは不覚だった。また、きのうきょう、家康と信雄の在城する清洲本陣のみへそそいでいたのも間違いだった。
戦火は彼らのもっとも身近な、しかも致命《ちめい》な所に、飛び火していた。
ついにここ濃尾《のうび》の大平野にも、その最初のものが、すでに昨夜からいぶり出していたのだった。
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青さぎ
小男――豪胆――槍踊《やりおど》り――の三特色をもって、若い時から名物男視されていた池田|信輝《のぶてる》入道|勝入斎《しようにゆうさい》も、はやよい年配になった。秀吉と同年の四十九歳。五十の坂まで、もう九ヵ月しかない。
秀吉には、実子がない。彼には、よい子と自慢のできるのが男だけでも三人もいる。
それぞれもう一人前だ。嫡男、紀伊守|之助《ゆきすけ》は二十六、岐阜の城主である。次男三左衛門|輝政《てるまさ》は、年二十一、安八《あはち》郡池尻の城主。
次の、藤三郎長吉は、ことし十五になる。そして父のそばにあった。先頃、秀吉からそっと、
(どうだ、長吉をおれの養子にもらおうじゃないか)
といってよこしている。
秀吉と彼との仲は、秀吉がまだ藤吉郎といっていたむかしから、馬鹿な遊びもやりつくした間である。これくらいなことをいって来てもふしぎはない。
けれど今の秀吉と勝入とでは、大きなひらきができてしまった。人間的な心情では、竹馬《ちくば》の友だが、公人的には、重さもちがう、官位もちがう、声望もちがう。
が、勝入とても、凡々として、無為にこの時勢を送っては来ない。信長の死後は、たとえ一時でも、柴田、丹羽、羽柴、池田の四人して、京都の庶政《しよせい》も分担したほどだった。また、今日とて美濃にこそあれ、大垣、岐阜、池尻の三城を父子で持ち、むすめ聟《むこ》の森武蔵守|長可《ながよし》も可児《かに》郡|兼山《かねやま》の城主である。めぐまれていないとはいえない。不平もあろうはずはない。――がただ、秀吉に比すればちがいすぎる。
如才《じよさい》ない秀吉は、それでも折々、むかし友達には気をつかい、甥《おい》の秀次に、勝入のむすめを娶《めと》り、会えば、ことばの端にも、
(おれとおぬしとは、むかしは悪友、いまは姻戚《いんせき》。よくよく切っても切れぬ仲ではあるよ)
などと、平常から万一の時のため、抜け目なく紐《ひも》をつけはしていたが、いよいよ今年このたびこそは、必然、並び立たぬ大物相手に、天下分け目の一戦やむなしとなると同時に、逸早く、この大垣へも使いを派し、
(水臭いことを云い遣《や》るようだが、おぬしが、秀吉に加担をちかってくるるなら、いつか申したように、長吉を羽柴家の義子とし、それに尾濃参の三ヵ国を与えようではないか。気前よく、ウンといえ。返事が待ち遠いぞ)
と、二度まで、彼一流の仮名文字で、直筆の書面まであった。
すぐ返辞のやれなかったのは、勝入に、そねみや卑屈があったわけではない。秀吉と共に働くことは、誰と仕事するよりも、愉快なことはよく知っている。また、秀吉も大慾だが、自分も大利を占めうることもわかっている。
――が、ただここに、勝入として、立ちにくい一理由は、いまや世上にいい触らされている東西抗争の戦争名分だ。徳川方の宣伝は、はやくも秀吉をさして、
「強《し》いて事をかまえ、旧主の遺子をのぞいて、信長公のあとを襲わんとする乱臣」
という非難を極力世上へばら撒いている。そしてそれが、かなり強く人心をとらえていることも事実だ。
道義や節操が、必ずしも大きくものをいう世でもないが、さりとて人間の善美の性や真実の姿がまったく枯れはてた世ともおもわれない。
往々、世間の大衆は、美しい犠牲心、高い良心、香りゆかしき愛情、一諾《いちだく》をゆがめぬ節義など――人道的光彩の発露をその実践者に見るたびに、わが事のように、絶讃し感涙し、その善行をたたえてやまない底のものを持っている。ところがまた、現世の半面には、野盗の横行やら、姦淫売色《かんいんばいしよく》のみだらな風儀やら、良家の閨門《けいもん》のみだれやら、僧門の堕落やら、嘘つき上手と腕力のある者勝ちな人間のわが世の春をゆるすような暗黒面も持つのである。
庶民のうちにある矛盾は、武門のあいだにもある矛盾であり、一箇の人間、池田勝入のこころの中にも、そっくり持っているものだった。
(秀吉につけば、名分のうえで歩《ぶ》が悪いし、信雄を援《たす》ければ、名分は立つが、将来の望みはまず薄い)
勝入の悩みは、もう一つある。
故信長と、勝入とが、乳兄弟であったことは、世上にかくれなしである。そうした深い関係から、信長の亡きのちも、信雄にたいしては、主従の礼節をすてるわけにゆかず、嫡男の紀伊守|之助《ゆきすけ》は、昨年以来、質《ち》として、信雄のいる伊勢の長島へ遣《や》ってある。
(あれを、捨て殺しにもならぬし……)
というのが、秀吉の誘いに接するたびに、すぐ勝入の胸にのぼってくる惑《まど》いだった。
これを、家臣の評議にはかると、義は重し、名分は捨つべからず、という一部と、家門の繁栄と大利を占むるはこの時なり、と主張する老臣の伊木忠次《いきただつぐ》らの意見と、ふたいろあった。
やはり勝入の胸のうちを、そのまま二つに現わしたような結果でしかない。
ここでも、日和見《ひよりみ》がつづいた。が、秀吉の催促、濃尾近界の戦雲の推移は、もうそれをゆるさなくなった。
(いかにせん?)
と迷いもいよいよ深刻になるところへ、はからずも、実にはからずも――長島へ質人として行っていた長子の紀伊守|之助《ゆきすけ》が、突然、帰されて来たのであった。
(北畠どのの寛大な思し召によって、特に……)
という之助のことばである。
北畠信雄は、事態の急に、こうでもしたら池田父子が、情に感じて、よもや寝返って秀吉方へ走ることはしまい――と、恩をきせて、敢えて、之助を国へ返してよこしたのである。
しかし、こういう甘手は、余人には効《き》くかもしれぬが、世情の表裏から、戦争のかけひきまで、あらゆる人間の機微を、舐《な》めつくしている池田入道勝入には、ちと子どもッぽい好意の押売り――見えすいた現金主義としかうけとれなかった。
人間としても信雄が、本来どんな愛情の持ち主か、真実に富む性か、勝入は、信雄がまだむつき[#「むつき」に傍点]にくるまれてピイピイ夜泣きしていた頃から、知りつくしているのである。
(肚《はら》は、きまった。日ごろ信仰する妙見の夢告によれば、西に味方して大吉なりとある)
家臣へはそんなふうに決意を云い渡した。さらに、その日のうちに西軍の秀吉へむかって一味承諾≠フ返書を送った。
もとより妙見の夢告はうそであるが、勝入が肚をきめた直後に、嫡子の紀伊守が何気なく父に語ったことばの端には、百戦の巧者たる彼をして、
(耳よりなこと。それこそ天の与えるものだ)
と直感的に、生来の功名心を、むらと、燃えたたせた一事がある。
犬山の城主中川勘右衛門が、にわかに引き揚げを命じられ、自分らのすぐ後から犬山へ帰って来るはずです――と紀伊守のはなしなのだ。
きのうまでの犬山城は、やがての味方か、やがての敵か、この日までは、勝入にも定めのつかないものだったが、すでに秀吉方へ加担《かたん》を申し送った以上、その犬山は、眼前の敵城だ。しかも天嶮《てんけん》の要地、また、信雄や家康が、本領守備の第一線を託すに足る中川勘右衛門としていることも確実である。――なればこそ、にわかに伊勢陣から外《はず》して、その持ち場へもどるべきことを命じたものにちがいない。
勝入は、秘策をねった。そして、
「青鷺《あおさぎ》の者を呼べ。頭《かしら》の三蔵がよい」
と、どこかへ近侍を走らせた。
城外の搦《から》め手《て》にあたる黒沢の裏谷に、黒沢衆とも青鷺衆ともよばれている外者《そともの》(藩外の雇傭人《こようにん》)の小屋|溜《だま》りがある。近侍は、そこの屯《たむろ》から二十五、六歳の小がらで固肥《かたぶと》りな男を呼び出した。
青鷺の者の頭という三蔵はそれだった。旨《むね》をうけて、搦め手門内から奥庭へ入った。城主の勝入が木蔭にたたずんでいる。頤《あご》で招く……。そして勝入の足もとに平伏する三蔵の耳へ、直々《じきじき》、勝入が何事かを命じた。
青鷺衆という組の名は、その服色からきたものらしい。つつ袖の上着も膝行袴《たつつけ》も青黒い木綿の一色で、刀はつる巻の一本差し、みな敏捷《びんしよう》な者ばかりである。そして事あるたびに、何処へでも飛んでゆく。さながら空へ立つ青鷺にも似ている。
これが九日のこと。中二日ほどおいて――十二日の夜明け方、三蔵はどこからともなく帰ってきた。すぐ搦《から》め手門内に入り、前と同じ奥庭の疎林《そりん》の蔭でまた勝入の前に平伏していた。勝入は、彼が桐油紙《とうゆがみ》づつみから解いてさし出した血痕《けつこん》生々しい陣刀を受け取って、とつこうつ検《あらた》めたうえ、
「たしかだ」
と、うなずき、
「よくいたした」
と、褒《ほ》めた。そして黄金数枚を、賞として三蔵に与えた。
その陣刀は、犬山城の中川勘右衛門の持ち物にちがいなかった。まぎれなき定紋《じようもん》が鞘《さや》には蒔絵《まきえ》されている。
「ありがたく頂戴いたしまする」
三蔵が退《さ》がりかけると、勝入は、待てと押しとどめ、さらに近臣をよんで、馬の背にでも積まなければ持てないほどな金銀をそこに置かせた。蔵役人と近侍は、彼が唖然《あぜん》と見ている前で、それを数箇の菰包《こもづつ》みに荷作りした。
「三蔵。もう一役働け」
「へい。働けと仰っしゃるのは」
「委細《いさい》は、勝入が腹心の者三名に篤《とく》と申しふくめてある。そちは馬子に扮《ふん》して、この金を馬の背に積み、その者たちにただ尾《つ》いてゆけばよい」
「いったい、行く先は」
「訊《き》くな」
「へ。へい」
「仕果したら、そちほどな奴、外者《そともの》にすてておくも惜しい。藩士に取り立て、目をかけてやろう」
「ありがとう存じまする」
不敵者だが、血を浴びたよりは、この大金を見たことのほうが、彼には無気味なふるえを覚えたらしい。やたらに地へ額《ひたい》をすりつけた。そしてふと面《おもて》を上げてみると、いつのまにか田舎の老郷士といったような老人一名と、見るからに強げな供の若党がふたり、馬を曳いて来て、そこの菰包《こもづつ》みを重そうに鞍へ積んでいた。
数寄屋《すきや》で朝茶を一ぷく。久しく別れていた父子が水入らずの朝飯と見せて、勝入と嫡子の之助《ゆきすけ》は、密談に他念なかった。
「では、すぐ岐阜《ぎふ》へ参ります」
「オオ、そうせい」
そこを出ると、紀伊守之助はすぐ自身の家来に、供や馬の用意を命じた。
岐阜は、彼の持ち城、帰国と同時にすぐ移るべき予定を、勝入に何か都合があったらしく、二、三日延びていたものである。
(ぬかるなよ。あすの夜の諜《しめ》し合わせを)
勝入は、之助が居室へいとまを告げに来た帰りの間際《まぎわ》まで、何度も小声で念を押した。
紀伊守之助は、充分、心得顔にうなずいてみせたが、その燃えやすい眸の若さは、父親の眼に、まだまだ心もとない乳臭児を思わせるものとみえ、
(ゆめ、怠るなよ。しかも密にだぞ。……その時にいたるまでは、たとえ家中の者たりと、密かな上にも密かにせいよ)
くれぐれも、その耳もとへ、いいきかせて、遠くもない岐阜城へ、何事なのか、あわただしく出立させた。
が――翌十三日のたそがれには、勝入の考えが何であったか、紀伊守がなぜ前日岐阜へ急いだか、すべてはかくれなく知れた。大垣の城内だけには知れ渡っていた。
突如。
陣|触《ぶ》れが出たのである。
家中には、寝耳に水であった。
令は犬山へ――≠ニある。
ごッた返している中に、武者ぶるいをわめいている若者ばらの多い武者溜りへ、籠手《こて》の革紐《かわひも》を結び結び姿を見せた一部将は、
「今夜のうちに、犬山を乗っ取るのだ」
と、土気《つちけ》いろを帯びた顔して云った。
強度な緊張は、顔色を異様にする。強がりをいっている者ほどそうである。そしてかかる火急《かきゆう》の出陣令の場合には、身につけまとう物の具さえ、常に似ず、間違いをやりやすい。
静かなのは、さすがに、主将勝入の居室だった。
次男三左衛門輝政をそばにおいて、いま土杯《かわらけ》の祝い酒を酌みかわし、父子共に、よろい姿を、床几《しようぎ》に倚《よ》せて、出門の時刻を待っていた。
ところへ、留守をいいつかった老臣の伊木忠次が、
「殿。お門出の間際にはございますが、とんだお忘れものがございましょう。……あの者たちの処置は、いかが致しておきましょうか」
と、たずねに出た。
勝入は、はてと、思い出せぬ面《おもて》で、
「あの者たちとは……」
と問い返した。
「数日前、木曾川口の木戸で、大坂表から黒田ノ城へ使いに来た帰りの途の者とは承知のうえで、わざと捕えておいた禅坊主と山伏ていの男ですが」
「ア。あれか……」
と、勝入は、おかしげに呟いて――
「そうよな。あのまま牢に忘れておいては事だわえ。過日はまだ、われらの去就《きよしゆう》も定まらぬうちゆえ、後の推移次第で、利用の道もある人間とおもい、牢へ投げこんでおけいと命じおいたのだが……両三日の忙しさに、つい失念しておった。さっそく放してやらねばなるまい」
「秀吉様へお味方と決した以上は」
「もとよりその当家が、羽柴家から他国へ説客に参った使いの者を、故なく抑留《よくりゆう》しておくのは辻褄《つじつま》も合わぬ。……が、あの両名、姓は何といったかの」
「一名は、漸蔵主《ぜんぞうす》。もう一名の者は、武藤清左衛門とか」
「そうそう、そういったかな。特に、他国の説客にまで選ばれたくらいな人間。いずれ小智慧や舌巧者なやつどもであろう。上方表へ立ち帰り、これを意趣《いしゆ》に、当家のことを悪しざまにざん[#「ざん」に傍点]訴《そ》されても困る。伊木、何とかしておけやい」
「かしこまりました。御出陣のあとで、牢より出して充分に馳走し、木戸を守る者の間違い事と詫びて、あとの祟《たた》りのないように、歓ばせて放しますゆえ、御懸念《ごけねん》なく」
「うむ」
と、軽くうなずき捨てて、床几《しようぎ》から立ち上がったとき、発足の時刻もちょうど、勢揃いもととのいましたと、表から告げて来た。
堂々、出陣を宣して立つ場合ならば、貝を用い、旗鼓《きこ》をさかんにして、城下をくり出すところだが、わざと三々五々《さんさんごご》、騎馬を散らし、歩兵を前後し、旗を巻き火器をしのばせつつ発したのである。春三月の宵はおぼろおぼろ、何が起ったのかと、町の者がふりむいても、さだかに出陣とは思えなかった。
大垣を去ること三里ばかり、岐阜城下の茜部《あかねべ》ノ原で、
「やすめ――」
と令して、前後になった手勢をここに集結した。そして夜半《よなか》の空腹にそなえて早兵糧をつかい、なお、明朝の一食分を、腰兵糧に持てとふれ廻した。
「合戦は暁のつかの間にすもう。帰陣はその日のうちである。できるだけ軽装がよく、腰兵糧なども、多分には持つな」
馬にも水飼い、槍鉄砲の調べなどもすます間に、勝入の注意は、細かに行きわたった。やがて、隊伍は前進した。
「青鷺《あおさぎ》の者の三蔵は、まだ駈けつけて来ぬか。――姿は見えぬか」
勝入は二、三度それを左右にたずねた。何かしきりと待ち顔であった。隊伍のあと先について行動している大物見、小物見の者も、ただにその一事のみでなく、全軍の触角として、野をよぎる夜の鳥影も見落すまじき眼をくばりながら、木曾川上流をさして急ぎに急ぐ騎馬歩兵について進んで行った。
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のら息子《むすこ》
彼女の乳人《めのと》は、生れながらの小野の里を別れかね、以前の生活などはあとかたもない夢とは知りながらも、なお草深い小野の片隅に、春は麦をまき、秋は蚕《かいこ》の糸などつむいで、侘《わび》しく老後をすごしていた。
「お姫《ひい》さま。ゆうべも乳母《うば》は、お亡くなり遊ばしたお館《やかた》さまの夢をありありみましたよ。……さも、御心配そうなお顔色して」
乳人のお沢《さわ》は、かすかに手元だけを照らしている灯皿《ほざら》のそばで、夜なべ仕事に、たれの肌着《はだぎ》か、男物のぼろに針を運んでいた。
「また、あんなことをいって――」
於通《おつう》の声は舌打ちに似ていた。
いとけない頃から、駄々をこね、慕いもし、困らせもした人なので、いまでも於通のことばつきは、余人に対する時とはまったく違っていた。容子《ようす》から口振りまで、自然に幼いままになるのだった。
「いやなばあや……。何かというと、死んだ人のことばかりいうんですもの。自分の口でいえないことを、みんな死んだ人のせいにして、於通に、もういちど禅尼《ぜんに》さんの所へ帰れというんでしょう。そんなこと、わかりきっている」
於通は、つつみなく、機嫌をわるくして見せた。――ほのかにしか明りのとどかぬ破《や》れ窓《まど》のそばへ倚《よ》って、わざとツンと、軒端のおぼろ月を、頬杖《ほおづえ》して、見上げながら。
乳母の眼は、涙になった。針の手を止めている。
於通がふいに、しかも真夜中、ここの草屋の戸を叩いてから、もう幾日たったろう。かぞえれば六、七日でしかないが、長い気がする。於通も、乳母のお沢も。
なぜならば毎日が、こんなふうな同じことばのやり取りだからである。
お沢は、彼女が岩手の尼院を無断で出て来たということに、
「滅相もないお振舞い」
とか、
「あられもないお迷いごと」
とばかりいって、決して、仕方がないとは諦《あきら》めない。この数日のあいだにも、ニコともしてくれないのである。
(こんな強情で冷たいばあやだッたかしら)
と、於通にすらあやしまれた。が彼女は、お沢の乳ぶさの甘さを覚えている。恐くも何ともないのである。
乳母のお沢にはすでに良人がない。於通を岩手へつれて行って、遠いむかしの縁にすがり、松琴尼に薫陶《くんとう》を頼んだのはその良人だった。――が、まもなく一昨年、病で亡くなった。
(以前のわたしではいけない)
と、お沢は、於通のすがたを見たとたん、自分の胸へいいきかせた。良人の意志を思えば――いや、於通の父小野政秀が日ごろから良人や自分たちの夫婦へ、
「たのむぞ、万一のときには頼みおくぞ」
と口ぐせに遺孤《いこ》を案じていっていた遺託を思えば――心を鬼にもしなければいけないとお沢はかたく笑顔を閉じているのだ。
「ばあや、いくら帰れ帰れといっても、尼院はわたくしの性には合わない。於通は、都へ出たいんです。いけないと止めても、きっと行ってしまうからいい」
「おひいさまは、いつの間に、そんな悪性《わるしよう》におなり遊ばしたんですか。乳母《うば》は……いいえ、あなた様のお父君も、わたくしの良人も、草葉の蔭でさだめし嘆いておいでられましょう」
「ほ、ほ、ほ。ばあや、草葉の蔭なんて、そんな世界は、どこにもあるものじゃありませんよ。だから尼院はつまらない」
「ま、あんなお口を。仏罰がおそろしいとはお思いになりませぬか」
「おそろしいのは、無智で生きていることです。こんな世の中に、無智で漂《ただよ》っているほど恐いことはない。於通は、田舎もいや、田舎人もきらい、なぜといえば、余りな愚鈍《ぐどん》を、見ていられないからです。わたしは都へ出て、さむらいどもにまけないような女になる。画の道でも、歌の道でも、そのほかの学問でも、女子でもすぐれた者になってみせる道はいくらもあろうに」
於通のことばに勝ち気が出ていた。武門の息女の血としてはそれのあるのは怪しむにたらない。けれどこの場合には、お沢にいとど悲しくひびいた。乳母の信じている女の道――乳母の願っている女らしき幸福の道――それとは余りちがいすぎる。
小野家の滅亡以来、変りはてたと思うこの姫の今のような口吻《くちぶり》を聞くと、お沢はすぐ、於通は不良になったと悲しまれた。この土地ばかりでなくひとたび戦禍《せんか》に見舞われたあとには、村にも町にもたくさんな家なき子が出来、それが忽ち、野盗の手先や、寺荒しや、火放《ひつ》け鳶《とんび》や、戦後の死骸|剥《は》がしなどになって、残暑の蠅《はえ》みたいに殖《ふ》えるばかりだといわれている。――現に、この姫さえそうなりかけている。
これも戦争のせいだと呪《のろ》わしかった。そうした怖ろしい戦災に、小さい姫は、一度ならず二度までも出合っている。主家斎藤一族の滅後は、この小野の館《やかた》は信長方に接収され、小野政秀はそれから数年信長に従っていたが、浅井攻めに出て戦死し、その留守のまに、日ごろ織田方に根づよい宿怨《しゆくえん》をもっている本願寺末派の長島|門徒《もんと》に襲撃されて、この地方の織田被官はたいてい殺戮《さつりく》や焼亡の難に遭ったのであった。
そのとき姫はまだ五歳の幼さで、お沢がいまも耳にのこっているのは、戦火に焼けさかる館の炎を、逃げ落ちた暗夜の山中から望みながら、幼い姫が、父の名をよび、夜すがら泣きやまぬその時の声であった。
お沢の良人の日置《へき》大炊《おおい》は、血路をひらいて姫をさがし求め、それ以後、父なく家なく身寄りも絶えた姫を、乳母夫婦の手でわが子のように育てて来たが、姫が十二のとき、小野政秀の遺孤ときこえて信長に不愍《ふびん》がられ、安土《あづち》の大奥へ女童《めわらべ》として奉公に上げたことは、さらに姫を不幸にしたものとお沢はいまだに悔いている。
さしもの安土城もいくばくもなくまたあのような業火《ごうか》にくるまれ、信長一門のさいごこそ地獄絵巻の一図にもありそうだった。女童《めわらべ》たちの逃げ惑《まど》うたさまも思いやられる。十五の姫もその中のひとりであった。それが年端《としは》もゆかぬおとめの身で、どう落ちのびて来られたのだろうか、ともかく姫は或る夜この小野の里まで乳母の家を求めて帰って来た。何を訊いても泣きじゃくってばかりいる。数日はこんこんと寝てばかり居、折々、うわ言のように、悲鳴に似た声をもらした。
戦後の山野には、かならず出没する野武士だの悪い里人などにつかまって、途中どんな目に遭われたことやらと、お沢は寝顔を見ては泣いた。そう思えば、ここへ帰って来たときの姫の玉のような真白の肌《はだ》には、痣《あざ》や打ち傷が紫いろに腫《は》れあがっていた。召していた衣服もすべて剥《は》ぎとられたか、おとめの羞恥《しゆうち》をわずかにつつみ得る布一枚に細紐《ほそひも》一ツのすがたでもあった。
が、勝気な姫は、その途中で出遭った生涯のおそろしい目を、決して人に語ることはなかった。お沢にもはなしたことはないのである。しかし、気をつけてみると、それからの姫には、どこやら変ったふしがみえる。性情に一変を来している。末おそろしい萌《きざ》しさえある。お沢の良人、日置《へき》大炊《おおい》は、猟師のような仕事をして、細い煙をたてていたが、
「いまのうちに尼院へでもお入れ申した方が、御生涯のためである。亡き殿さまも御安心遊ばそう。このまま野育ちにしておいたら、どんな悪性の女子におなりなさるやら行く末のほどが案じられる」
と、知縁《ちえん》を求めて、松琴尼の許へあずけたのであった。
が、松琴尼も、大炊の生前、手紙をよこして、
「この子については、わたくしにも末始終の保証はできない。わたくし自身に師として導く資格もない。おあずかりはしておくが、ただ知人のおむすめがしばらく来ているという程度でありたい。それでおよろしければ」
と、あきらかに於通が到底長く尼院にとどまる質でないことを断って来ていた。
でも、どうやら落着いたようであり、いつか二年近くもたった。この分ならと近頃はお沢も安心していたところだった。蔓草《つるくさ》の芽はやはり蔓となって伸びてきた。良人の大炊が生きていたら――とおもい出され、また、姫にとって自分がほんとに血を分けた母であったらこうもわがままはいわせまいに――などとも悲しまれるのであった。
「ひいさま……」
と、彼女は思い直して、すこし機嫌をとり、
「ま、こん夜は、おやすみ遊ばせ、あしたになればまたお考えも変って参りましょう」
と、いつまでも窓に拗《す》ねている姿をなだめた。
「…………」
於通はもう返辞をしない。
春の月は、軒ばを離れ、どこかの山桜がほの匂《にお》う。彼女は若い血のなかに、この春の夜をむなしく過ごしている身を口惜しげにもだえた。
いぶせき老婆、煤《すす》だらけな壁、埋《うず》め火《び》のような夜の燈火。ああ耐えられない穴ぐらだと思う。これが自分に与えられた宿命の穴ぐらなのか。そんなはずはない。人はいのちの自由な生き方を求めて、悪いというはずはないものと思う。自分にはよい血液の両親をもって生れた由緒《ゆいしよ》もある。人より立ちすぐれた才能もあると思う。また何よりは、自分は美しい容貌をもっている。なんで花も見ぬ蕾《つぼみ》のまま冷たい尼院にいなければならないか。そこを出ればまたもこんな草深いあばら家に寝なければならないのか。――人のせいではない。運命は拓《ひら》いてこそ行け。こうして朧《おぼろ》の窓辺《まどべ》に不平ばかり思いつづけていたとて、たれが外から幸運の車をもって迎えに来よう。
「おいっ、おふくろ。……おふくろ。早いなあ。もう寝たのか」
その時、誰やらガタガタと、土間の雨戸をこじ[#「こじ」に傍点]動かして、わめく者があった。
「開けてくれい。おいっ、起きねえかよ、おふくろ。――三蔵|御曹子《おんぞうし》が御帰館あらせられて候ぞ。……あはははは。入れねえッたって、おれの家だからはいらずにあおかねえ」
だいぶ酔っているものらしい。上機嫌だが勝手なタワ言を云いちらし、そこの雨戸を破りもしかねない物音であった。
のら息子が帰って来たのだ。お沢の顔にはまた別な苦悩が重なった。男親が世にいたじぶんから家にもろくに落着いていず、世間で何をやっていつも飲み歩いているか、親さえその職業もよく知らない野良《のら》息子。
それは青鷺《あおさぎ》の三蔵だった。
「なあんだ、起きていやがるくせに」
三蔵は炉のそばへぶッ坐って、酒くさい息で、しなびた母の腕くびを抑えた。
「よしなせえ、おふくろ、腐ったような眼をしながら、針のメドなど突ッついたってどうなるんだ。本能寺のたッた一夜で、この世の中はもんどり打ってしまったじゃあねえか。どいつも、こいつも、大浪に揉《も》まれながら、あッぷあッぷで泳ぎッこだ。正直正兵衛じゃ生きてもゆかれねえ。何でも上手に立ち廻るに限らあ。肚は太く機転は細かく、握ったツルは離さねえこッた。……おふくろ、のら息子でも、たまにゃあ孝行してみせるから、また眼にかど[#「かど」に傍点]たてて強意見《こわいけん》など云いなさんなよ」
母親の膝もとへ、三蔵は黄金を一枚、ぽんと抛《ほう》ってやった。が、お沢は見もしなかった。かえって眼に涙をため、ひたすら針の眼に、現実の苦労を忘れようとしているように手も休めない。
「取ッときねえってことよ。え、おふくろ。その代り、酒があるだろう。……どこだい、酒は」
片膝を立てかけると、お沢はきびしい眼を初めて息子に向けて、
「おまえ、お仏壇が見えないのか」
といった。
三蔵はセセラ笑って、
「死んだ親父を持ち出す手はねえだろう。親父と来ちゃア、生きているうちだけでも沢山だった。おふくろもばか正直だが、親父も世渡り下手の随一さ。どうにも融通《ゆうずう》のきかねえ人間だった。――それにひきかえ、この三蔵は、親に似気《にげ》なき天晴《あつぱ》れ者と、きのうも直々、池田入道勝入さまから、お褒めのことばを頂戴し……さ。しかも、今夜のことがうまく行ったら、士分の列に加えてやろうとも仰っしゃった」
何か、大得意であるらしい。他人には極秘《ごくひ》だが、おふくろへなら話してもかまうまい。問わず語りに、そういって自慢ばなしに喋舌《しやべ》るのだった。
「世間の奴あ、大垣の青鷺者ッてえと、お城の掃除人夫か、土方人足みたいにばかにするが、同じ青鷺仲間にも、一本差している組と、何も知らねえ日傭《ひやと》い稼《かせ》ぎのふた色ある。おれなんざ、こう見えても、御城内から格別なお手当をいただいて、乱波《らつぱ》(敵国に潜入する第五列)もやれば、隠密《おんみつ》もやる。しかもそのお頭《かしら》だ。この間、伊勢路でやられた犬山の中川勘右衛門を手にかけたのも、何をかくそう、この三蔵様だ。……それにつづいて、きのうから昨夜にかけては、小荷駄《こにだ》に千両余りの金箱を積んで、お蔵《くら》役人ふたりと、池田家の御老臣と、かくいう俺と四人して、その黄金をみんな犬山城の城下の奴らへ、バラ撒《ま》きに行ったんだから、豪勢なものだろう。それもたッた、一日半夜に撒き散らしたのだ」
と、まるで自分の金でもあるように、鼻うごめかして――
「犬山城の侍どもは、主人が変死したので、後の始末と、葬式の揉め事にばかり気をとられていやがる。その隙に、池田の御老臣やおれ達は、城下の町人、町に住む野武士、それからお城の番士とか足軽なんぞの気のきいたやつらを選《すぐ》って――どうだと、黄金をにぎらせて歩いたのだ。もとよりタダ遣《や》るわけのものじゃあねえ。こっちの方策をのみ込ませた上にだがね……」
さすがの酔っぱらいも、少し喉《のど》が渇《かわ》いてきたらしい。不意に台所へ立って、竹《たけ》柄杓《びしやく》からガブガブ音をさせて水を呑んで戻って来た。
「おや? ……」
と、そのとき初めて、三蔵は、うす暗い窓際に、肱《ひじ》をもたせてこっちを見ていた於通《おつう》の姿に気がついたらしく、
「たれか、そんな所にいたのかい。たれだい、おめえは……?」
と、近づいて行った。
酔いどれの万一の悪戯《わるさ》をおそれて、彼女はすばやく坐り直した。三蔵の眼は、じっと、月|洩《も》る竹窓のおぼろ明りに彼女を見すえて、おもわず酒気をさましたらしい。
「ううむ……。これやあ驚いた。お美しくおなんなすったなあ。於通さまでしょう、あんたはね」
「ええ。三蔵も、覚えていましたのか」
「忘れッこはねえが、見ちがえた。あんまりお変りなすったので」
「どう変りました? わたくしが」
「さて、なんといったらいいか。……水もたれそうなお年ばえに」
「だって、わたくしでも、育ちますもの」
「なるほど、育たねえのは、うちのおふくろだけだッたか。はははは。……ところで於通さま、何しにこんな所へ来ているんですえ」
「都へ出たいと考えてね」
「都へ。……造作アねえじゃございませんか。おふくろは何と云いましたえ」
「尼院へ帰れとばかりいって、わたしの心なぞは少しも分ってくれません」
「勿体ねえ、勿体ねえ」
ぶるる、と強く首を振って、瞬間、真面目なひとみを燿《かがや》かした。そして、一どに醒めたような酒気の名残の底でひそかに思う。――こんな天女を野末《のずえ》に迷わせておかないでも、おれの女房に持つことはできないものか。持って不思議はないではないかと。
そこで彼は彼女の希望を釣り糸に仕掛けた。おふくろがいては口うるさい。ちょっと話があるから外へ出て欲しい。なアに、あなたは旧主のおひい様だ。ばあやに気がねなんかいるもんか。外はおぼろ月、夜桜の下で、とっくり相談を聞こう――といったふうにである。
於通が、その口車にのせられて、のら息子と一緒に戸口へ出たので、お沢は、はだしになって土間へとび降り、その袖をとらえて引きとめたが、
「うるせえなあ。籠《かご》の鳥《とり》じゃアあるめえし、こんなに大きくなったおひい様を、自分の思う通りにしておこうたッて、やきもきするおふくろが無理というもんだ。――年寄は先に寝ていねえ。すぐ帰って来るからな」
無理に、お沢の手を彼女の袖からもぎ離して、三蔵は、外から戸を閉めてしまった。
「……あ。追ッて来やがった。於通さま、駈け出そう」
どこへとも訊くひまもなく、ただ三蔵が走るために、彼女も走った。
小野の里は、夜霞《よがすみ》のあとになって行く。急に、彼女の理性がうごいた。あまり人里遠くなってもいけないと。
「三蔵。もういいでしょう」
「あ。もう大丈夫だ。……が、事のついでに、もう十町ばかり急いでしまおう」
「……すると。何処」
「すぐそこは、長良《ながら》の川原じゃねえか。稲葉山が見えてらあ」
「そうそう、小さい時に、三蔵と、よく遊びに来たことがありましたね」
三蔵は、ゾクとしてすぐ体じゅうが火照《ほて》ってくるような経験のない昂奮につつまれて、これはものになる、とうぬ[#「うぬ」に傍点]惚《ぼ》れた。
長良川の中川原へ出た。於通は休むところを見まわした。するともう三蔵は、船橋を渡っていた。追いかけて、
「三蔵。どこまで行くのです」
「渡りましょうよ。こんな晩、歩くのもうれしいじゃございませんか」
「けれど……歩いてばかりいても」
「わかっております。京都へお出でになりたいんでしょう。――ですからさ、黙ってついておいでなさい。世の中がおもしろくねえんで、グレた真似をしていますが、三蔵だって、日置《へき》大炊《おおい》のせがれです。旧主のおひい様におたのみをうけて、粗略《そりやく》にゃいたしません。……こう歩きながらも、自分でお供して京都へのぼりたいが――と、いろいろ思案しているんで」
「おまえが付いて行ってくれますか。於通には、途中の路用《ろよう》も、知《し》る辺《べ》もないし、それに不破から先の山道や、長い江州路には、野武士や悪者がたくさんいて、先おととし、安土が攻め落されたとき、そこを迷うて怖ろしい目におうているので、今もひとりでは京都まで行けぬ心地が先立って……」
「何の、幾夜の泊りではなし、てまえがお付き申して行きゃあ造作アありません。――が、弱ったことにゃ三蔵めには、あすの朝の卯《う》の刻(午前六時)までは、首を質に入れて乗りかかっている大役がある。そいつを見事果さねえうちは、この体を、どこへ動かすこともできねえので」
「だっておまえは、暢気《のんき》にお酒をのんだりして、こんなにぶらぶらしているではありませんか」
「どういたしまして」
と、三蔵は大げさに反《そ》りかえって――
「一杯ひッかけたなあ、まず最初の犬山乗りこみと、ふんだんな黄金の力で、早いとこ人間の買占めをやり歩く大仕事が、まずまず思った通り運んだので、あとは今夜の亥《い》の刻(午後十時)に、その御報告を池田勝入様のお耳へ確乎《しか》とお達しするという役目だけが一ツ残ってるんで……。それにゃあまだだいぶ時刻のいとまがあると思って、居酒屋でちょぴッとひッかけ、ひとつ、おふくろを驚かしてやろうと家へ寄ってみたわけなんでさ」
いつかうかうか船橋も渡り、道は稲葉山の裏にあたる日野から古市場への峠路《とうげみち》をのぼっていた。
ここまで来る途々の話に、きのうきょう、三蔵が池田家の密命をおびた武士たちと共に犬山に入って、何を暗躍《あんやく》していたかが、於通の想像にも、明瞭になっていた。
いや、三蔵は彼女につつもうとはしていない。むしろ知ってもらって、いかに自分が働ける末頼もしい男であるかを認めさせようとしている程なのだ。
その犬山潜行の策動は、勝入の予測以上、万事うまく運んでいた。三蔵のもう一役は、こよい大垣から犬山への道を急行軍してくる池田勝入の馬前に、その事の成功を、
(御計略は図に中《あた》って、うまく運び、万端、内応《ないおう》の手筈はできておりまする。てまえと同行した御老臣ほか二名は、なお城下に潜伏して、御手勢の到着を待ちかまえておられますれば、御懸念なく、犬山へおかかりなされますように)
と報告し終れば、こんどの大役はすむのであった。
「それもわずか、朝までの御辛抱《ごしんぼう》ですよ。ねえ、おひい様、ここで待っていておくんなさい。もうお膳立ては出来てるんだから、犬山が陥《お》ちるのは、夜明け前さ。そして、勝入様がお引き揚げになるのをお迎えして、でかした三蔵と、約束の褒美をいただいたら、すぐその足で京都へお供しようじゃございませんか。……てまえも大働きをやッた後、ゆるりと、都見物のひとつもしたいし……」
峠の上の程よい地点に腰をおろして、三蔵はしきりに於通の意をむかえた。自分はあともう一役果すために、これから麓《ふもと》の街道に出て、池田勢の来るのを待つ。――そして明朝|卯《う》の刻までには、必ずここへ引っ返して来るから、そこの御堂の縁にでも寝て待っていてくれというものである。
於通の眉は惑《まど》っていない。といって、彼のことば通りを正味にうけて、自分の夢に酔っているふうでもない。やや冷たいがいつも理性と賢い判断を伴のうている美しい眼、それが彼女の心のさざ波を映じている。
「ええ……。待っています」
と、うなずいた。そのしおに、三蔵はすぐ立って、山神堂か何かの古い廂《ひさし》の下へ彼女を伴い、またくれぐれもここから居場所を変えないようにと念を押した。
「や、だいぶ更《ふ》けて来たようだ。こいつあおもわず少し時刻を過ごしたかも知れねえ。じゃあ、よござんすか於通さま。約束をたがえると三蔵は一生お恨みしますぜ。きっとお待ちなすって下さいよ、あしたの朝まで」
そこを離れると、三蔵の脚は、まるで宙を飛ぶようだった。
ふもとの野一色《のいつしき》から各務《かがみ》ケ原へ出、西から東へまっ直《すぐ》に貫いている犬山街道を、とつこうつ、眺め渡した。
「はてな。もうここを通ったものか。――まだなのか?」
彼方に農家の灯が見える。背戸《せど》へ近づき、三蔵は訊ねてみた。
「おっさん。今し方、何かここを通らなかったかね。――たくさんな馬や武者が」
牛小屋で牛の鳴き声がした。人影が振り向いている。牛が返辞をするように聞えた。
「そうよな。通ったようでもあるわい。なんじゃったやら。えらい迅《はや》いことじゃあったし、よう知らんが、東の方へ、たくさんに、駈けおったには、駈けおったようじゃ」
その百姓の女房でもあるか、べつな女の声で、また云った。
「それよか、もっとめえだがよ。まだ明るいうちにの、鮎舟《あゆぶね》を二十|艘《そう》も三十艘も牛車に乗せて、東さ向いて行ったがの。鵜飼《うかい》衆が川へ寄るには、まだ早すぎるが、犬山に祭りでもあんのかよ」
三蔵は、返辞とも自分への叱咤ともつかず、しまッたと、身を刎《は》ね返して、
「ウム、祭りだ。犬山は血祭りだ。下手アすれやあ、おれの方も後《あと》の祭りだ」
と、足のかぎり犬山街道をさらに東へ向って走った。月もおぼろ、道も夜がすみ、初更《しよこう》はすぎていた。
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犬山《いぬやま》・陥《お》つ
犬山の町、犬山の城は、すぐ対岸であった。隔《へだ》つ一川《いつせん》はいうまでもなく木曾の上流。岩に鳴る水や瀬にしぶく水の響きはするが、ふかい水蒸気につつまれて、月も山も水も雲母《きらら》の中のもののようだ。ただ幾つかの濡れた灯が、対岸の高きあたりに、また、低い所に、にじんで望まれるだけである。
「みな、馬を捨て、馬を一所につながせておけよ」
勝入自身も、馬を降りて、川を前に、床几《しようぎ》へかかった。
旗本三、四十騎は、すぐ主人に倣《なら》って、徒士《かち》となり、また、後から後からここへ駈けつづいて来た者も、野へ馬をあずけて、みな軽身で川の水際に立った。
「オオ、時刻たがえず、紀伊守さまの御手勢が、あれへ――」
と、その中の人々が指さした。
勝入は、のび上がって、上流の河原のほうへ眸《ひとみ》をこらしながら、
「物見、物見」
と、早口にいった。
すぐ走り戻って来た小物見の一名が、相違ありませぬ、と報告してから程なく、総人数四、五百の一手が、池田勝入の引率《いんそつ》する約六百と合して、およそ千余の人影が、魚紋のように乱れうごいていた。
青鷺《あおさぎ》の三蔵は、ようやくここで人数に追いついた。背後の目として見張っていた哨兵《しようへい》は、三蔵を槍囲みにしたまま、池田勝入の床几《しようぎ》の前へつれて来た。
勝入は、三蔵に何のムダ口も開かせず、要点を訊きとるとすぐ眼ざわりな者でも追うように、去れ、と頤《あご》を振った。
その時もう、おちこちの水際から底の平たい鮎舟が河流を横ぎりはじめていた。それには山もりになった軽装の甲兵が、身を伏せ、次々に対岸へとび上がり、またすぐ舟は棹《さお》を返して、新たな組を運んでゆく。
迅《はや》かった。またたくうちだ。残された影は三蔵ひとりだった。やがて対岸から犬山城の下あたりで、いちどに夜をゆるがす武者声がわあっと揚った。――とたんに水分の多い夜空の一角がぼっと赤らみ、城下町の上をチラチラと光り舞う火の粉だった。
城内からも立ち騒ぐ声があふれた。が、それは狼狽《ろうばい》と混乱のどよめきでしかない。また、逃げまどう味方を味方が怒り罵《ののし》る叫びでしかなかった。ひとり城主中川勘右衛門の叔父にあたる者だけは、騒がず愕《おどろ》かず、
「この城の喪中《もちゆう》をうかがい、嘆きの虚をついて、夜半来れる卑怯な敵は何奴《なにやつ》か」
と、城壁の上に立って、りゅうりゅうと槍をふるい、当るを仆《たお》し、自身も満身に創痍《そうい》をあび、のちの記憶にとどまるような死に方をした。
勝入の奇策は、適中した。犬山城は、手に唾《つば》するほどもなく、わずか半刻《はんとき》のまに墜《お》ちた。
城内からも、城下からも、裏切りが出て、不意をつかれた城兵方を、いやが上にも混乱させたことが、この天嶮《てんけん》をかく短時間に落城させた原因の一つだが、もっと大きな理由はもともとこの犬山はそれ以前に、池田勝入が城主となっていたことがあり、町の人々や近郷《きんごう》の長《おさ》、百姓にいたるまでが、今も、前の領主を慕っていたことが何よりの大きな要素だったのである。
そうした以前の縁故と心のつながりがあったために、勝入がこの奇襲直前に人を派して行った買収策も、黄金の力以上に、功を奏したものだった。
いずれにせよ、池田入道勝入は、秀吉へ味方を約した手始めに――まだ何ら秀吉から催促もないうちに、加担《かたん》第一歩の証《しるし》を、あッさり犬山攻略という手みやげで西軍へ示した。また、これをもって、信雄と家康への答とした。
夜明け頃には、城中の人間は、ひとり残らず、池田方の家臣にかわり、あとの守備は、稲葉入道一鉄に託して、勝入父子は、はやくも、旗本数十騎をつれ、ゆうべとは道をかえて、岐阜へ、引っ返していた。
襲《よ》せるも返すも、まるで一過の高波のように疾《はや》かった。退軍には、城中から四散した中川の残兵たちが潜伏して万一の変あることも思い、途々の小口、楽田《がくでん》などの部落を焼き立て焼き立て駈け通った。
没落の過程にある名門の身辺には、とかく複雑な人物が寄りたかるものだ。
先の見える者、軽薄な者、直言忠告が容《い》れられない慷慨《こうがい》者、などは、さッさとこの周囲から去って行く。――また自分に頽勢挽回《たいせいばんかい》の才力はないとして、時勢に敏なる者もまたいつか離れ去って行く。
残る者は、ここを離れては、他に生活の拠《よ》るところも自立の能もない者か、さもなくば、栄枯、生死、喜憂《きゆう》もともに、あくまで主従の道に生きようとする真の忠臣か――だけである。
ところが、たれがその誠実の士か、たれが方便家か、たれが利用のためにだけついている者か。それが容易にわからない。各※[#二の字点、unicode303b]、それぞれ、こういう群の中では、偽態《ぎたい》を買いかぶらせることに虚実の巧妙をつくすからだ。その中に主人としていて、それを正しく識別《しきべつ》し得るような中心者だったら、たとえ二代目三代目でも、短時日に没落から消滅へ、人為的な運命を、みずから早めることはしないであろう。
だが、同じそういう取りまきでも、徳川家康のような付き者≠ニなると、これはまた大いに趣《おもむき》のちがったものだ。世間の何かもろくに知らない乳臭児《にゆうしゆうじ》信雄とは、とても同日の論ではない。信雄に有形無形の名門的遺産があり、それをぜひ必要とするも、われから近づくのではなく、彼をして、縋《すが》らせ、頼ませ、掌《て》のうえにおいて、自己の持駒《もちごま》の一つとしてしまう。それくらいな人間の相違はある。
「さてさて、稀有《けう》なお心入れではある。中将(北畠信雄)どの。もう、あとは湯漬でも頂戴しよう。由来……貧乏そだちの家康とて、こよいの豪華な馳走には、ただただ舌も胃の腑《ふ》もおどろくばかり。おもわずいこう喰べふくれておざる」
いうとおり、家康は、馳走攻めにあっていた。
十三日の――この清洲についた当夜である。
ひる、清洲につくとすぐ、城外の寺院で、信雄の迎えをうけ、ただちに密談に移って数刻。たそがれ、城内の客殿にくつろいでからの、もてなしだった。
かつて中原《ちゆうげん》にむかっては、信長の変にすら、今日まで容易に動くことのなかった家康が、自分のために、いよいよ岡崎を出て、しかも多年、蓄積された徳川家の全力を賭して、自身、清洲まで馬をすすめて来たのである。信雄として、この人を、敬慕《けいぼ》と感激の眼で仰がずにいられない。亡父はいい知己をのこしておいてくれた。そう思わずにいられない。この人こそほんとうの義を重んじ情誼《じようぎ》にあつく、弱きをあわれみ強きに屈せぬ正義|仁侠《にんきよう》の武門というべきだろう。あらゆる歓待の労も、饗膳の美も、信雄は、精いッぱいを傾けた。
しかし家康の眼からみると、まことにみなこれ乳臭の児戯《じぎ》。ただ気の毒なとおもわれるのみだった。かつて家康がこの息子の父信長の――甲州凱旋の帰路を富士見物にことよせて、道中七日の馳走歓待をつづけたときの規模などをおもいあわせると、こよいの貧しさをあわれまずにはいられなかった。
それは、物質の贅《ぜい》そのものではない。物質の活用にあるのである。物すらよく生かして用いられない信雄を考えると、あたりに世辞追従《せじついしよう》のみいって、酒杯《しゆはい》のあいだに、うようよしている彼の家臣どもが、人としてよく用いこなされていないのは明瞭だった。
その信雄が、たとえ先の誘いにせよ、相手もあろうに、秀吉にむかって、端《たん》をかまえ、秀吉に一口実を与えて、戦をはじめ出したのであるから、それだけでも、信孝《のぶたか》亡きあと、この名血族の断絶も、はや遠くない気がされるのだった。
――あわれと見るしか、見ようはない。家康は、同情をおぼえる。しかし彼は、当然亡ぶべき素質のものが亡び去るのは、人間皆が死ぬべきときには必ず死んでしまう作用と同一視することができる男だった。自分だからとて、例外な考え方はもってはいない。自分もその通り、不徳短才にして、この乱国に多くを擁《よう》して立ち得ない質ならば、直ちに、亡び去るべしと、つねに自身へいっている程なのである。
だから彼は、こんな歓宴の中でも、あわれを覚え、同情はいだいても、この一箇名門の脆弱児《ぜいじやくじ》を、自己の薬籠中《やくろうちゆう》にして、完全に利用しきろうとする底意には、何らの矛盾《むじゆん》も良心のまどいも覚えはしない。
なぜならば、名門の余望と遺産を持つ遺族の暗愚なる者ほど、禍乱《からん》の火だねとなりやすい存在はないからである。利用価値が高ければ高いほど、それは危険な存在だといえるのだ。それはたえず周囲に何らかの犠牲者を生み、四隣の揉《も》め事《ごと》をかもし、庶民の惨害をひき起してやまない。
おそらく秀吉も、それを思うにちがいない。が秀吉はそれを自己の目的にさまたげとして信雄の処置を考え、家康はより遠大な野望への一歩を基礎づけるために信雄の活用を考えていた。こう相反する二つの信雄観は、秀吉も家康も、目的の根柢《こんてい》は一つだが、策において、対立のかたちをここに現わして来たものだった。
故に、もしこれが反対に、家康が信雄を除こうとする策に出ていたら、秀吉は、敢然、信雄を助けて立つ方へ廻ったであろう。
いずれにしても信雄は一箇の傀儡《かいらい》にすぎない。どっちにころんでも、われは信長の肉親なりとする過去のものを、みずから捨てて凡人正味のただの人間であまんじない限り、彼の悲運は宿命的というものになるほかなかった。それを覚《さと》らぬのも、家康の感じている気の毒さのひとつであるが、もっと一般的な見方でいえば、家康のごとき、また、秀吉のごとき人物の時をひとしゅうして東西にならび立った時代に彼が置かれたことそれ自体が、すでに約された不幸児の運命といえる。――しかも彼はその家康なるものを、無二の同情者、理解者、絶対な味方と信じて疑わないのであった。
「なんの、馳走はこれからです。おつかれもおわそうが、信雄が心からな献立《こんだて》です。徳川どのへよする敬意と信頼を盛ったものと、召し上がられなくば、眺めてだけでも、お酌《く》みください。……春の夜、まだまだ寝所に別れるのは、名残《なごり》惜しい」
信雄として接待の最善を尽くそうとするつもりである。が、ここでなくとも、家康はあまり宴楽《えんらく》に興味がない。日頃、彼が主催して、客や家中にする酒宴も、彼には実はおつとめだった。
「いや、中将さま、殿はもう御酒はまいれませぬ。あの通りなお顔……お杯はひとつわれらの方へ」
侍坐の酒井、奥平、本多などの輩《ともがら》は、主人が生《なま》欠伸《あくび》をこらえているていを察し、信雄の度《ど》の過ぎた好意をこう防ぎにかかった。
が、信雄はまだ主賓の有難迷惑に気がつかない。主賓の眠たげな様子はなお彼の見当ちがいな努力と気づかいになって行った。彼が、家臣に何かささやくと、忽ち、正面の大襖《おおぶすま》が除かれ、二次の馳走として用意されていた猿楽《さるがく》役者が、楽器を調《ととの》え、扮装《ふんそう》をこらし、待ち控えていて、すぐ狂言舞を演じはじめた。
家康には毎度の趣向である。が、彼は辛抱づよい面持《おももち》で折には興じ入ってる風をみせ、折には笑い、終ると一緒に手をたたいたりした。
彼の側臣たちは、それをしおに家康の袖《そで》を引いて、寝所へ入られては――とソッと合図をしたが、そのいとまもなく、次の瞬間には、大がかりな鳴物と共に、ひとりのひょうげ[#「ひょうげ」に傍点]た男が出てきて、
「これからこよいの貴賓《まろうど》のために、近ごろ都はいうもおろか鄙《ひな》にまで聞え渡った於国歌舞伎《おくにかぶき》をごらんにいれまする。そもそもこの於国《おくに》歌舞伎となん申しはべる歌舞の由来は……」
と、頗《すこぶ》る饒舌《じようぜつ》にしゃべり出した。出雲《いずも》の巫女《みこ》が神社舞に世の嗜好《しこう》と時粧を加味し、それに従来の猿若や幸若舞《こうわかまい》を織りまぜておもしろおかしく仕組んで諸国を打って廻ったのが、はからずも各地で大受けをとり、都には先年の天正十一年初めて四条の河原で興行し、連日の大当りをつづけ――などとこの新興歌劇の紹介一くさりをやって、その男がひらりと几帳《きちよう》の蔭にかくれると、数人の美人が出て、舞い唄い、歌劇の恋の筋が高調したところへ、評判の於国《おくに》という主役があらわれた。
この血なまぐさい世の一面に、こんな糜爛《びらん》した官能的な肉慾主義を謳歌《おうか》する一群の花畑がどうして咲かれたのかと怪しまれるほど、主役のうごきは、悩ましい空気を醸《かも》して、日ごろの荒武者どもを、恍惚とさせた。
そしてこの一座の中の作者には、かなり知性のある才人がいるとみえ、近年、西国大名のうちに行われているというキリシタンの聖歌隊《コーラス》の一節やミサの唱歌なども巧みに取りいれてあり、楽器にも、教会でつかわれているバイオラに似たのがあったり、衣裳の模様にも、頗《すこぶ》る目新しい西欧風の図案がモールや刺繍《ししゆう》となって、けんらんに、在来の日本衣裳に調和を試みられているのだった。
(なるほど、これは洛内《らくない》でも諸国の町でも、いちど見たら見た者が皆、もて囃《はや》すわけだ)
たれも感心し、たれも陶酔《とうすい》した。凡俗のよろこぶものは、大将や士《さむらい》階級でも楽しいものにちがいなかった。しかもこの歌劇の骨子には、今の時勢にもっとも圧塞《あつそく》されている人間本能の肉慾の世界が演舞の主題になっていた。また室町以前からの長いあいだの無常観やら諦《あきら》めの生活やら来世主義からいッぺんに脱して、極端にまで、人間的な現世主義を歌ったり舞い展《ひろ》げて見せるところにも、今日の庶民の気もちを捉《とら》えた大きな素因《そいん》があるものと観《み》られた。
(これは、秀吉の人がら[#「がら」に傍点]が、おのずと作り出したものの一つだ)
家康はそう思った。秀吉的政治は、前の信長的な強圧主義を一変し、室町時代のつねに暗い感じをも急速に明るくしてきた。敏感な庶民の本能は、強圧や暗いものがのしかかっているうちは、陰性にそれを出しても、こう陽性には決してあらわさないものだ。――この新しい歌劇が西国から興って京に流行し東海方面にまで波及してきたのは、これは形をかえた一つの秀吉攻勢の浸透《しんとう》とも見ないわけにゆかない――とも家康は考えていた。
「――中将どの。殿にはもうお眠いと仰っしゃっておられるが」
於国に見とれている信雄へ、徳川の奥平九八郎がわざと露骨に云った。
「え。お眠い?」
と、信雄はにわかに恐縮し、倉皇として自身案内に立って家康を寝殿の渡り廊下まで見送った。於国歌舞伎はまだ終ってない中途であったので、それからもまだ音曲のバイオラや笛太鼓が遠くに聞えていた。
あくる朝――十四日、信雄としては例外な早起きをして、客殿へ行ってみると、家康はもうとくに朝の新鮮な顔つきをもって、侍臣たちと雑談していた。
「御朝食は?」
と、わが家の者にきくと、もうとくにおすみです、と聞いて、信雄はちょっと恥かしい顔をした。
そのとき、庭番の士と物見やぐらの上の者が、彼方《かなた》で何か大声でものを云いかわしているふうだった。家康も信雄もそれに気づき、ちょっと黙しあっているところへ、家中の一名が、一異変を告げてきた。
「ただ今、御やぐらの物見どもから申しまいりましたが、西北方の遠くの空にあたって、先ほどから黒煙《くろけむり》が見え、初めは、山火事かとおもわれましたが、次第に所をかえて、それが幾すじにもなって立ち昇る様子、ただ事ならずとの報らせにございますが」
「なに、西北の遠くに?」
信雄は、首をかしげた。東南と聞けば、伊勢その他の戦場が想起されたであろうが、心得ぬといったような顔つきなのである。
家康は前々日、中川勘右衛門の変死の報を耳にし、それが何となく報告通りには解しかねていたところなので、すぐ、
「それは、犬山の方に望まれるか」
と、たずね、返辞も待たず、また、
「九八郎、見てまいれ」
と、自身の左右へいいつけた。
榊原《さかきばら》小平太、大須賀五郎左衛門、奥平九八郎などが、信雄の家来たちと共に、大廊下を駈け、やぐらへ登って行った。
「オオ、あの煙は、まさに羽黒か、楽田《がくでん》か、犬山か、いずれにしても、その辺りにちがいない」
そこから駈け降りてくる人々の跫音《あしおと》は、もう異変の突発をかたっていた。もとの客殿へ来てみると、家康の姿はすでにそこにない。べつな一室で、彼はすでに甲冑を着こんでいた。
あわただしい城中の物音が一しきり釜《かま》の湯鳴りみたいだった。城外の馬出しの広場で貝が聞え、取る物もとりあえず駈け集まる武者たちの大半が、もうそこでも家康の姿を見なかった。
家康は、火の手の方角を犬山と的確に知ると、ひと言、
「ぬかッたわ」
と、さけんで常の彼にもない急ぎ方だった。
人数の先頭にたち、馬へ鞍をあてて、西北の煙へ向って駈けていた。
本多康重、榊原《さかきばら》小平太、松平又七、奥平九八郎なども、われおくれじと、彼に前後した。
清洲から小牧へ一里半――小牧から楽田《がくでん》へ三十町――楽田から羽黒へ同じ距離、さらに羽黒から犬山までは三十町。
小牧へ来ると、もう全貌がわかった。今暁、つかの間《ま》に奪取《だつしゆ》された犬山落城の事実だった。家康は、小牧と楽田のあいだに馬をたて、羽黒、犬山附近にわたる幾ヵ所もの煙を凝視しながら、
「おそかった。家康として、このぬかりはあるまじきこと」
と、痛嘆をもらした。
立ちのぼる黒煙のなかに、家康は、池田勝入の得意顔をおもい泛《うか》べた。さきに池田の人質を長島から放して帰したという噂のときも、信雄のお人好しが功を奏《そう》するやいなと、危うんでいたことだったが、かくも現実主義に、こうも迅速に、それまで態度を保留していた勝入入道が、空巣働《あきすばたら》きをやりに出ようとも考えられずにいたのである。
が、その不覚を、あくまで不覚として、彼は自責せずにいられなかった。
(勝入という男が、どんな曲者《くせもの》かを、知らぬでもなかったに)――と。
犬山の要害が、戦略的にいかに適切な地にあるかも、あらためて思うまでもない。近く、秀吉の大軍とまみゆる場合、それはさらに重大さを加えるものだ。――美濃、尾張を境する木曾の大川をその上流に監視し、まぢかに鵜沼《うぬま》の渡しを扼《やく》して、一城よく百塁の嶮《けん》にあたるものを、あたら敵へ加えてしまった。
幸いにも、木曾下流の黒田ノ城の沢井左衛門からは、二心なしと、極めて態度をあきらかに、人質を送って来たが、それも犬山を敵手にゆだねてしまっては――甚だ価値もすくなくなる。
「もどろう。引っ返せ。あの煙の立ちようでは、すでに勝入父子は風のごとく、岐阜へひき揚げおッたに相違ない」
家康は、卒然と、馬をめぐらした。そのとき彼の眉にはもう日頃に見る気色しかなかった。ゆったりとした腹中にその損失を償《つぐの》うて余りある或る成算《せいさん》がすでにできたかのような感を周囲の旗本にもいだかせた。旗本たちは激越な口調で、勝入父子の忘恩をいったり、その奇襲戦法の卑劣を罵《ののし》ッたりして、あすの戦場において思い知らすべきことを口々に云いやまなかったが、家康は、それらの声をも、大きな耳たぶ[#「たぶ」に傍点]の外に聞き流しながらいまはべつなことでも考えているらしく、ひとりニヤニヤ笑顔をたたえながら、もとの清洲へ馬を向けていた。
だいぶおくれて、清洲を出て来た信雄と、直属の軍隊とには、その途中でぶつかった。
信雄は、引っ返してきた家康の姿を、さも、意外そうにながめて、
「犬山には、別条もなかったのですか」
と、たずねた。
家康が答える前に、家康のうしろの旗本たちの間で笑い声が聞えた。が、家康は、信雄にたいして、その理由を説明するのに、実に、懇切《こんせつ》と鄭重《ていちよう》を極めた。
真相を知って、信雄は悄《しよ》げ返った。家康は、馬をならべて、その肩をたたき、
「中将どの。何も御心配はありません。こちらに一失あれば、秀吉にも、より大きな一失がある。――彼方を御覧ぜよ」
と、彼の眼を導いて、小牧の丘を指さした。
かつて信長はあのすぐれた戦略的な着眼から、清洲の城を、この小牧へ移そうとさえした所である。標高わずか二百八十余尺という円い一丘陵にすぎないが、尾張の東《ひがし》春日井《かすがい》と丹羽郡の平野に孤立して、四方を俯瞰《ふかん》し、八方へ殺出し得る便があり、尾濃にわたる平野戦ともなれば、ここに一歩の先《せん》を取り、中心の一旗を立って、塁をその周囲の要所に配しておけば、西軍の東下にたいして、抜き難い攻防両策の用をなすことはいうまでもない。
そこまでの説明のいとまはなかったが、家康は、指さし、また顧みて、こんどは旗本たちの方へ云った。
「小平太(榊原康政)は、ここより直ちに、人数を分けて、あの小牧一帯の築塁《ちくるい》にかかれ。――さしずめ附近の、蟹清水《かにしみず》、北|外山《とやま》、宇田津のあたり、途《みち》、崖、流れを構えて、柵《さく》をもうけ、塹壕《ざんごう》を掘ること。――また家忠(松平)や、家信、家員《いえかず》らも、助力して、工は昼夜をわかたず、起き番、寝番、四組にわかれて、できるかぎり早くしておけ」
と、即座に命じて、それからの帰途は、駒の脚さばきも爽《さわ》やかに、信雄と馬上の談笑を交わしながら清洲へもどった。
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二つの世
ひとは皆、秀吉はいま、大坂城にいるものとのみ思っていた。
が、彼は、江州《ごうしゆう》の坂本にいた。
家康が信雄と清洲で会見していた三月の十三日も、秀吉の身は――その坂本にあったのである。秀吉らしくもない立ちおくれ――という形がないでもない。
家康は、すでに立って、万端、後図《こうと》の策も終り、浜松――岡崎――清洲と、着々、予定の進出を捗《はかど》ってきているのに、従来、疾風迅雷《しつぷうじんらい》の早仕事ではしばしば世におどろかれてきた秀吉たるものが、なぜか、こんどは出脚《であし》がにぶい。――いやにぶく見える。
「たれか来いっ。おおい子ども。おらぬか。鍋丸《なべまる》も、於六もおらぬのか」
主人の声である。例によって大きい。
わざと、遠くひかえていた小姓部屋の面々は、ソラ起きたと顔見あわせ、こっそりやっていた双六《すごろく》をあわてて片づけた。そのまに、十四歳の鍋丸が、しきりと手が鳴りぬく主人の部屋へ素ばやく走り出して行った。
この小姓部屋もいつのまにかみな顔がちがってきた。かつての加藤|於虎《おとら》、福島|於市《おいち》、脇坂甚内《わきざかじんない》、片桐|助作《すけさく》、平野|権平《ごんぺい》、大谷|平馬《へいま》、石田佐吉などのいわゆる子飼《こがい》の子どもたちも、いまは悉《ことごと》く二十四、五から三十近い若者となり、殊に賤《しず》ケ嶽《たけ》このかたは、|各※[#二の字点、unicode303b]《おのおの》、二千石三千石を加増され、馬をもち土地をもち家来を持って、それぞれここを巣立ちしていた。
いまいるのは、第二期生組であった。一期生の山出しや貧乏ッ子の腕白ぞろいとちがって、二期生はみな相当な家の子弟であった。大名の子で質として来ている者もあった。上品で行儀よく、知性に富んだ子は、南蛮寺の附属|耶蘇《やそ》学校でならったミサの歌や讃美歌も知っていた。第一期生のような乱暴者や野性の横溢《おういつ》はいまの小姓部屋には見られなかった。
「殿さまは、お目ざめになってるぞ。わしでない者に来いと仰っしゃった」
最年少の鍋丸は、何の命もうけず帰って来て、ほかの仲間へそう告げた。
ひとりが、訊ねた。
「ごきげんが悪いのか」
鍋丸は、首をふり、
「ウウん。そんなことはない」
聞いて安心したように、菅《すが》六之丞が秀吉の部屋へ行った。ここは一昨年焼けた坂本城を改築して出来た仮城で、松原越しに、湖が見え、裏窓から叡山の山桜がかすんで見えた。
「おや、おいでがない?」
部屋には、山風が通っていた。どんなに忙しくても、わずかな時間をぬすんでも、昼寝は薬と、怠りない秀吉だったが、起きるとたんに、爽快な気をあたまにも面上にも満たした彼の活動が始まり、周囲をあわてふためかせるのが常だった。
「あれや、佐吉だろう。大坂表からもどって来た佐吉とみゆるぞ。……すぐここへ呼べ」
秀吉は、欄へ出ていた。城下から大手の坂下へ馬をとばして来る小さい人影をそこから見つけ、うしろの跫音《あしおと》へ、顔も見ずにいいつけた。
何か、ほかの用事を命じるつもりでいたにちがいないが、それは忘れ顔に、厠《かわや》から出てくると、筧《かけひ》の音のする手洗囲《てあらいがこ》いで、ガボガボうがいをし、ついでに、辺りへ水を刎《は》ねかしながら顔を洗った。
侍部屋からひとりが出て来て、小姓衆はたれもいないのかと彼方へ叱り、いそいで秀吉の袂《たもと》をうしろから持ちながら、
「殿。ここはお便所のお手洗場ですのに」
と、注意した。
「かまわぬ。水はきれいだ」
さっさと、一室に入り、
「茶をくれい」
と、どなって、
「――これこれ、おまえたちでも、ガシャガシャ掻き廻せるだろう。茶道へ命じるに及ばん。坊主にしてもらうと手間どる」
小姓のひとりが、その|茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]《ちやわん》をささげて来ないうちに、石田佐吉の汗ばんだ顔が、鬢《びん》をぬらしたまま彼の前に平伏した。
「どう運んでおる? 大坂表の留守居どもは?」
「おさしず通り、猶予《ゆうよ》なく、手当ていたしておりまする」
「そうか。西国表は、備前《びぜん》、美作《みまさか》、因幡《いなば》の三ヵ国とも、毛利への万一の備えに、一兵もうごかすなと申しつけたことも、手ちがいなく達しておるか」
「その儀は、わけて御念を入れられてのおさしずとて、充分に触れを達し、また使いも立て、毛利への固めは万ぬかりございませぬ」
「泉州岸和田《せんしゆうきしわだ》の孫兵次(中村|一氏《かずうじ》)へ、これも念のため、黒田官兵衛、生駒甚助、明石与四郎などの手勢六、七千を加勢として送りつけておくことも」
「は。てまえのおる間に、即日、加勢衆、岸和田へ向いました」
「よしよし」
と、秀吉はそこで、薄茶を一わん、うまそうにのんで、
「母上も、ごきげんか……」
と、ひとみを静かにした。
老母はすでに七十四である。妻の寧子《ねね》も四十に近い。一日家をあけても、妻はともあれ、老母は年が年なので、心にかかるものらしい。
「はい。おかわりなくいらせられました。御母堂さまには、かえって、戦の忙しさに、殿が不養生はしておらぬやと、殿のお身の方をお案じなされておいででした」
「また、あの子は灸《やいと》をすえおるかと、訊かれたことであろ」
佐吉は笑って、その通りです、と答えた。
他を遠ざけて、ふたりだけの対座に、こう笑い声の出たはずみに、秀吉はまた、ふと、
「茶々は? ……。茶々たちも、元気ようしていたか」
と、たずねた。
「は、あの、お三方の姫《ひい》さまたちで」
佐吉はちょっと思い出せぬような顔してみせた。待っていましたという風に答えては、佐吉め、嗅《か》ぎつけておるナと、かえってこの主人にはおもしろくない気持が後日《ごじつ》にやってくるにちがいない。ぼやっとして見せるに限ると、考えたからである。
その証拠には今、茶々は? と、ぎごちなく[#「ぎごちなく」に傍点]訊ねたとたんに、主人は、家臣にたいする主人顔もくずして、何ともつかぬごま[#「ごま」に傍点]化し顔に、羞恥《はじ》らいみたいな色をふくみ、ひどくテレてお在《わ》すではないか。
佐吉は、敏《さと》くもそう見てとり、心のうちでは、おかしくてならなかった。
三人の姫たちとは、いうまでもなく、おととし北ノ庄落城のみぎり、城将柴田勝家と夫人のお市《いち》の方《かた》が、幼き子らには罪なきものをと、その養育を、秀吉に託《たく》してきたあのときの可憐《かれん》な息女三名のことである。
その後、秀吉は、わが子のように、この姫たちを家に養い、大坂城|普請《ふしん》のときも、特に、彼女たちのために明るい一小|曲輪《ぐるわ》を設計《せつけい》させ、黄金の籠《かご》に名鳥を飼っているように、折々そこをのぞいては、共によろこんでいたのだった。
が、この名鳥とこの飼主のあいだには、将来、それだけの関係ではすまないものが約束されそうなことは、たれにも予測できることだった。とりわけ三人の姫のうちでも、長女の茶々の君は、年ばえもちょうどことし妙齢十八、世にはあるまじき麗人よと、そろそろ城内のうわさにもなりかけている。北ノ庄の業火《ごうか》が世に生みのこした名花だという人もあり、織田どのの由来美人系の血をひかれて、母君のお市の御方にも増してお美しいとほめ称《たた》える者もある。何しても、大坂新城の竣工《しゆんこう》と、茶々の君のめっきり人目立ってきたこととが、何か、時を同じゅうして、羽柴家の家運の季節を象徴しているようでもあった。
十八の茶々の君のそうした佳麗《かれい》さが、秀吉の眼をひかないわけはない。この道にかけても、六韜《りくとう》の奥の手、三略《さんりやく》の妙に通じている主人である。或いは、そろそろ暮夜《ぼや》ひそかなる花盗人を真似て、一度や二度ぐらいは、茶々の君に声をたてられて、逃げ帰っておられるやもしれない。――そんな匂いを石田佐吉は前からうすうす嗅《か》いでいたところである。おかしさをつつもうとするがつつみ得ない。
「佐吉。なにを笑う」
秀吉は見とがめた。が、自分も少し、おかしげである。やはり佐吉の気持はもう見ていた。
「いや、何という儀でもございませぬが、軍務にまぎれ、このたびは、お三方の御起居までは、ついお伺いもせで戻りましたので」
「そうか。ふム……まあ、よい」
と、秀吉の方から急にその話を逃げて――「途上、淀川《よどがわ》や京都あたりの風聞《ふうぶん》は、どうじゃな」
と、世間ばなしへ転じた。
遠くへ、使いをやると、秀吉はかならず、これを訊ねた。世上の機微、人心の動向を、以って、つねに打診しているらしかった。
「いずこにあっても、きのうきょうは、戦のことでもちきりです。淀川《よどがわ》は舟で上りましたが」
「淀と申せば、淀、枚方《ひらかた》、伏見などの葭《よし》や葦《あし》は、よく刈《か》れておるか。運上も収《と》れておるか」
「おかげをもって、だいぶ佐吉の身入りはよいようにございます」
「それはよかった」
と、秀吉はよろこんでくれた。佐吉も、同僚なみに、近ごろは相当な侍どもを抱えているのに、くれてやる禄にも困っておりはしないかということを、主人が案じてくれていることが、佐吉には、よく分っており、またありがたかった。
賤ケ嶽の後、同僚の加藤福島を始め、七本槍とうたわれた若者はみな千石、二千石の加増をもらったが、佐吉は、実戦の武功といっては、首一つ取っていないので、彼にも加増の恩命があったとき、固くそれを辞退していた。――そしてそれに代るに、淀川すじの枚方《ひらかた》、伏見、淀などの不用地に枯れ捨てになっている葭や葦を自由に刈りとることと、附近の運上権(河川税)の支配を願った。与える方にとっては、無価値《ただ》のものであった。が、佐吉のこと、それをどう利用し、どのくらいな収入としているか、秀吉は興味をもって見ていたのである。
佐吉がそれを乞うとき、もし私にその不用地を賜わるならば、事あるとき、一万石取りに匹敵する侍を出して、軍務のお役にたててみせます、と大言していた。――これも秀吉が、おもしろいことをいうやつだと思ったことのひとつだった。
その佐吉から京都大坂の世情を徴《ちよう》してみると、信雄に端を発したこんどの戦争は、たれも秀吉対信雄とは考えていない。秀吉対家康と見ているのだ。信長なき後、秀吉にとって、せっかく平和になるかと思われたものが、またぞろ、天下を二つにわかち、諸州にわたる大戦争が眼前に来たものとして、人心は極度な不安にくるまれているという。
たとえば、堂上のうちにも、大いにこれを悲しむ者があり、多聞院《たもんいん》日記の筆者のごときは、天正十三年三月の日記の一項に、
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――天下動乱ノ色アラハル。如何ニ成リユク可キヤラン。心細キ者ナリ。神慮ニ任セ、闇々《アンアン》トシテ明ケ暮スマデ也。端《ハシ》ナキ事端ナキ事。
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と、その痛嘆を書きつけているがごときものが、一般の世態にも、もっと濃厚《のうこう》に露骨に見られていたであろう。
(人間はなぜこう戦争のない世には生きてゆけないのか?)
これがこの節、世上の疑問だった。
応仁以来、戦争の惨はなめつくし、生きるべくあらゆる試煉にも辛抱づよくされて来た庶民だが、この頃はすこし懐疑的になりかけてきた。
いったい、こんどの戦こそ、天下分け目というが、二つの天下なら二つのまま、何とか折合いはつかぬものか。つきそうなものではないか。世間はそう考える。
口に平和を約さない指導者はなく、戦の酸鼻《さんび》を知らない士人もなく、始まればすぐ生命をおびやかされるを怖れない庶民はない。人間という人間ことごとくが平和を希《ねが》っていない者はないのだ。戦を呪《のろ》っていることは確かなのだ。それでいて熄《や》まない。熄《や》んだとおもうと直ちに次の戦争へ準備する。勢力の分布がたった二つの世になってもなお停止しないばかりか、かえってそれは、従来の恐怖よりも、最大な険悪さを帯び、天下総がかりの規模と犠牲とをおもわせる。
これは人間のせいではない。人間がやるとすれば、人間ほど愚かな動物はないということになる。
では、何が、何ものが、それをやるのか。
個人ではない。人間の結合したものがやるのだといえる。
正しい人間性というものは、必ず、一箇のものでなければ、人間性として見ることはできない。
人間と人間とが群をなし、万、億と結合したものは、もう人間ではなく、奇態なる地上の群生動物にすぎない。これを人間と観《み》、人間的解釈に拠《よ》ろうとするから、わけが分らなくなるのである。
だから庶民はいっている。
(天下を二つに持ち分ければ、どんな理想も栄華もできそうなものじゃないか。何だって、分け目の勝負を賭《か》けてまで、それを独り占めにしたがるのだろう?)
凡下の俗言だが、これは個人の通念的正しさをいっているものだ。時の秀吉にせよ、家康にせよ、それくらいなことは分っているにちがいない。一箇の人間としてはである。しかし、過去、現在を通観してくると、世の中が人間意志だけでうごいて来たとおもうのは人間の錯覚《さつかく》で、実は、人間以外の宇宙の意志といったようなものも多分にある。宇宙意志というのが当たらなければ、人間もまた、太陽、月、星のごとき宇宙|循環《じゆんかん》に約された運命に、どうしても動かされているといってもいい。
いずれにせよ、時の代表者となった者は、もう純粋なる一人間とはよべない。秀吉にしても家康にしてもである。一箇の中に、無数の人間意志や宇宙意志を融合《ゆうごう》しており、彼自身は、それをわれ≠セとしている者である。また周囲も、庶民も、それを彼≠セとしている者である。そしてその我なり彼なる者≠ノ、物々しい位階官職や姓名や特種な風貌があるために、これを人間同士で「何のなにがし殿」とつよく印象しあうが、実は、姓名官職はすべてみなこれ単なる仮の符牒《ふちよう》でしかない。その正体は、たくさんな人間の中の、やはり一つの生命体にすぎないのである。
こう観《み》てくると、あわれ庶民の望んでいる平和はいつも遠いようだ。しかし、時の代表者とて、平和を望んでいないのではない。いや誰よりもその到達を熱望しまた実現をいそいでいる者だ。が、彼には、条件がある。彼はその目的の権化《ごんげ》でもあった。だから相反する者に会えば、両者は忽ち戦争に入る。いかなる外交の秘策も敢然として行いきる。――そして、この代表者の意志とうごきの間を縫って、無数の人間――あるがままな人間のすがたが、譎詐《きつさ》、闘争、貪欲《どんよく》の本能に躍り、また犠牲、責任、仁愛の善美な精神をも飛躍させる。これが人間みずから人間の住む時の地上を作りもし、彩《いろど》りもし、また副産物として、ときには、文化の飛躍をも示すという――解き難いふしぎを天正の世にも見せているのであった。
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地図屏風《ちずびようぶ》
佐吉が退《さ》がる。
入れ代りに、金森金五、蜂屋頼隆《はちやよりたか》のふたりが見える。
「あちらへ移ろう」
秀吉は、席を換え、橋廊下をこえた一棟《ひとむね》へ入った。
そこの口も、庭まわりにも、小姓を番にたてて、長いこと、密談だった。
金森、蜂屋のふたりは、今、北陸にある丹羽長秀の麾下《きか》の将だ。秀吉は、長秀を味方にすべく、先頃から、肺腑《はいふ》をくだいている容子《ようす》だった。
もし長秀をして、敵方へ走らしめんか、これは彼として由々しい不利とおもう。戦力の上ばかりでなく、戦争名分の上に、信雄や家康の云い分を、世上に信じさせる力が大きい。――なぜならば、丹羽長秀という者は、柴田に次ぐ信長の重臣であったのみでなく、この乱世にめずらしい、温厚篤実《おんこうとくじつ》な人物という信用をもっているからだ。
それだけに名分では歩《ぶ》の悪いことを承知の秀吉は、是が非でも、彼を味方に加えねばと、きょうまでも、長秀の歓心を買うためには、百方手をつくしていたのである。
もちろん家康や信雄からも、あらゆる誘引策《ゆういんさく》が長秀へ向けられていることも確実だ。しかし秀吉の熱意にはついに彼もうごかされたか、数日前、まず助勢として、金森、蜂屋の二将を北陸からさし向けて来た。秀吉はよろこんだが、さりとてまだ安心はしていなかった。
「御祐筆《ごゆうひつ》に、すぐこれへ参るようにとの仰せですぞ」
金森金五が、ひとり出て来て、番の小姓へいいつけた。
大村|由己《ゆうこ》がすぐやって来た。
中では、秀吉のことばに従って、彼が筆をとり、長文な書状が書かれ始めていた。――丹羽長秀宛にである。
箇条箇条のうちの、重《おも》なるところをいってみれば。
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一去る十一日、美濃守秀長へ下された御書面を拝見し、涙がこぼれ申した。
一五畿内の固めはもちろん、西国表まで、丈夫に申しかため申した。勢州表の戦況は、ここ坂本において、さしずいたし、甲賀、伊勢の間にも、城三ヵ所も、新たに築き、味方は毎日の勝報に士気いよいよふるい申しておる。
一美濃方面は、御存じの池田勝入、稲葉伊予、森武蔵など、慥乎《しつか》と構えており、別条なく、江州永原に、孫七郎秀次、高山右近、中川秀政、そのほか一万四、五千もの人数を、陣取らせ申した。
一秀長をば守山に。於次《おつぎ》(秀勝)をば草津に。長岡越中(細川忠興)をば勢多に陣取らせ申した。また、加藤作内、堀尾茂助をば、甲賀のまん中にすえおき、筒井は大和に、こちらの人数を副《そ》え、さしおき申した。
一備前、美作《みまさか》、因幡《いなば》など、西国表は、一人もうごかさず、大磐石。紀州、泉州へも、昨日、蜂須賀、黒田、生駒、赤松などの人数六、七千も増してやり申した。
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このほか、秀吉は、このたび大戦にのぞむ兵力配備を、微に入り細にわたり、しかも具体的に、一切ぶちまけて長秀への書面に書かせた。そしてまた、
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一右のように、こちらは万々|御懸念《ごけねん》は御無用であるが、御身の御用心と、御城の御用心こそ、肝要たるべきこと。
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と、かえって、長秀の健康に注意を云い添え、さらに、前田又左衛門|利家《としいえ》こそ、北陸では無二の同心の者だし、北陸の一の木戸でもあるゆえ、せっかく充分に意志の疎通を計られて、唇歯《しんし》のお交わりあるようにとも云い添えている。さらに終りには、
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一もしそちらに人数がお入用なら、蜂屋、金森はお返しする。そのほか五千や一万の軍勢はいつでも加勢に向ける余裕があり申す。
一このところ、世上一般は、物狂いのていで、人心|恟々《きようきよう》としており申すが、筑前は覚悟をもって、ここ十四、五日のうちには、きっと世をしずめて見せ申すべくに付、くれぐれお案じなきように。
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として、擱筆《かくひつ》させた。
使者はこれを持って、この数寄屋からすぐ北陸へいそいだ。
伊勢方面からの戦況報告の使いだけでも、夕刻までに、三回も着いた。
その書状を見、使いを引いて、直接、情勢を聞き、またことづてを託し、返書をかかせたりしながら、夕飯はたべた。夕飯はほかの侍臣も交えて大書院でたべた。
大書院の一隅に、屏風《びようぶ》がある。一双全面にわたり、日本全国の地図が金泥《きんでい》のうえに描かれてあった。秀吉は、それへ眼をやるとふと、
「越後へやった使いは、まだ何の沙汰もないか。――上杉|景勝《かげかつ》へやった使者どもじゃよ」
と、あたりへ訊ねた。
「まだ、日数にいたしましても」
と、指を繰《く》って、遠国の不便を語ると、秀吉も指を繰って、
「そうか。きょうは十三日だったな」
と、あらためて日を呟《つぶや》いた。
木曾の木曾|義昌《よしまさ》へも、使いが出してある。常陸の佐竹|義重《よししげ》へも数度の密使が通っていた。そのほか地図屏風に見える細長い国の端から端まで、彼の外交網はゆきとどいていた。
秀吉は由来、戦は最後の手段なりとしていた。外交こそ戦であるという信条なのである。故主信長の弔《とむら》い合戦という名分をかかげ、山崎の一戦に光秀を討ったとき以外はみなそうだった。
だが彼のは、外交のための外交ではない。また、外交あっての軍力でもない。――常に、軍力あっての外交なのだ。軍威軍容を万全にそなえてからいつもものをいうのである。丹羽長秀に送った手紙の内容にも、その独参湯《どくじんとう》的な味がつつまれている。
が、家康には、この手もきかない。
たれにも黙っているが、実は秀吉は、事態のこうなる前に、密《ひそ》かに人を浜松へやって、
(筑前が其許《そこもと》に好意をもっていることは、前年、其許《そこもと》の官位昇進のために、この方から朝廷へ奏請《そうせい》したことを思い合わされてもお分りであろうと思う。御辺とこの方とが、何故、戦わねばならぬ理由があろうか。信雄どのというお方は、元来ああした御性格だと、暗愚は天下の定評になっている。愚昧《ぐまい》な遺族を擁して、御辺がいくら名分をふり廻しても、世間は其許の挙を仁人の義軍とは申すまい。結局、つまらないことではないか。ふたりが喧嘩するなどは。――もし賢明な御辺がそこに気づいて、この方と将来の共栄を約すならば、御辺の所領へ、美濃尾張の二州をさらに加えようではないか。以って、尊意は如何となすか)
と、云い送った。
相手による。これは明らかに秀吉の失敗に帰した。が秀吉は、信雄と手切れになった後までも、なお使いを立てて前にもまさる好条件を附して、家康を口説《くど》こうと試みた。
使いは、家康の激怒を買って、ほうほうのていで戻って来た。その報告に、
(筑前は、家康を知らぬ)
といわれました、と使者は秀吉に語った。すると秀吉は、苦笑して、
(家康も筑前の真は分らぬのだ)
と、いった。が、このことはあまり彼の上出来とはいえない。彼もそれきり触れなかった。で、側臣でも裏面でこんな交渉《こうしよう》が行われていたとは誰も知らなかった。
なにしても、ここ坂本におけるかれの起居は、日々|繁忙《はんぼう》をきわめていた。伊勢南尾張方面の軍司令部と、北陸東奥から南紀西国にわたる全土の外交諜報本部をかねていた。こういう機密な中枢《ちゆうすう》部としては、大坂表よりも、坂本のほうが地理的にも時間的にも便であり、使者の往来も、人目立たず、四道八通の利があった。
大坂、京都は、第五列の活動がさかんである。表面、家康は東海から東北。秀吉は近畿から西国と、その勢力範囲は劃然《かくぜん》としているように見えるが、彼の本拠地たる大坂表のうちにすら、徳川方へ気脈を通じているものは無数であろう。公卿堂上《くげどうじよう》のうちにすら、暗に家康へ意をよせ、秀吉の蹉跌《さてつ》を待っているものが絶無ではない。
また一般人士のうちには、父母は関西に主取りしているが、子は東軍の将に仕えているのもあり、兄は義をもって、家康方に与《くみ》しているが弟は大坂城と切れない縁故をもっているものもある。思想的にも、一方は秀吉の理想に賛し、一方は家康の名分に共鳴し、同じ一族のうちでも、血みどろな葛藤《かつとう》を起して、骨肉がわかれて相闘うの悲劇をかもしている。
戦の惨は、戦場の血しおより、事前と事後の、こういう生々しい人間苦に、より以上深刻である。――が、そんな悩みは、ものともせず、人間の大多数が、混乱と自失に墜ちているまに、時こそ来れと、平常の社会状態では遂げ得ない望みをとげようとする悪侍の一部もたち交じって、経済も道義も秩序もみだれ始め、戦の外に、戦以上の生活苦やら闘争も渦まき始める。
秀吉は、よくその苦味を知っている。彼が、尾張中村のあばら屋に育ったときから多年の放浪時代の世がすでにそうだったから。――以来、信長の出現により、一時はなお社会苦は苛烈《かれつ》だったが、半面に、庶民生活の明るみと歓びも伴ってきた。この人によって、真の平和がくるかとおもわれた。その中道にして、本能寺の変である。秀吉は、信長の死によって頓挫《とんざ》したそれを、おれがやると、誓い出した。ここ二年余にわたる不眠不休の努力は、それへの一歩まえまで、近づいてきた。――いまは彼の、わが望みならんとするまさに最終の段階に近い。千里の道を九百里まで来たものといえる。が、あとの百里に最大難関はあった。この難関にはいつか当然正面から抜くか破るか直面しなければならないものと予測はしていたが、さしかかってみると、これは想像以上手ごわいものらしい。
家康――
この名ほど今日まで、彼のあたまへ重量を感じさせるものはない。家康=\―近ごろは、眠りのまも、この二字だけは、眠っていない。
刻々の諜報《ちようほう》は、その家康の行動を、いながら彼に明らかに知らせている。家康もまたわれに劣らぬ覚悟と要意と全力とを傾けつつあることが手に取るように彼には見える。
自分が、ここ旬日を、坂本に送っているまに、家康は今や清洲まで大軍をすすめてきたとある。おもうにこれは、伊勢伊賀紀州の戦を蜂の巣をついたような状態において、みずからは西上を策し、一挙、京都に入って大坂へ迫ろうという颱風路を示すものであるは明らかである。
が、家康とて、その道が易々たる坦道《たんどう》とはおもっていない。西上までに一大会戦を期しているであろう。秀吉もそれを期す。――その地はどこか。いうまでもなく、この曠世《こうせい》の東西両大軍の乾坤一擲《けんこんいつてき》に自由なる平原は、木曾川を境する尾濃大平原のほかにはない。
一歩先んずれば、その戦備に構築に、地の利を占め、要意に欠くなき利をうるであろう。家康はすでにそこに臨んで満を持しているのだ。秀吉は、その意味で、立ちおくれている。この十三日が暮れんとしても、なお、坂本からうごく様子は見えない。
これは相手を知らぬからではなく、家康の何者たるかを、知りぬいているからである。この相手は、明智、柴田の比ではない。要意のためには、立ちおくれもやむを得まい。彼は万全を期すのだった。丹羽長秀を抱きこむために。毛利をして西国に変を起させないために。上杉、佐竹に関東の背後をおびやかさせるために。四国、紀州の根来《ねごろ》や雑賀《さいが》党などの危険分子にまず潰滅《かいめつ》を与えておくために。さらに手近な、美濃や尾張の信雄|恩顧《おんこ》の諸将にたいし、利をもってそれを切り崩すために。
「殿。また、早馬です」
と、食事中にも、あわただしい取次が絶えない。
ちょうど、飯をたべ終ったところだった。秀吉は、箸《はし》をおくなり、
「どこから」
と、書状|筥《ばこ》へ、手をのばした。
「使いは、尾藤甚右衛門どのの御家来です」
「や。来たか」
待ちかねていたものの一つである。
大垣の池田勝入の城へ旨をふくませて、再度の説客としてやった尾藤甚右の返辞。――吉と出るか、凶と出るか。
さきに黒田ノ城主、沢井左衛門を説かせにやった武藤清左衛門、漸蔵主《ぜんぞうす》の二使は、その後、杳《よう》として消息がない。密偵は九分九厘までの不成功と知らせてきている。尾張春日井郡の丹羽勘助を抱きこみにやった今井|検校《けんぎよう》もついきのう、恥辱を与えられてむなしく帰ってきたばかりだ。――秀吉は、尾藤甚右からのてがみを、神籤《みくじ》の封を切るような心地でひらいた。
「よしっ」
それしかいわなかった。
「使いを、いたわってやれ」
その夜の深更、彼も眠りについてからのことだ。なに思ったか、ムクと起き、例の声で、宿直《とのい》をよびたてた。
「甚右の使いは、明朝帰るか」
「いえ、かかる折と申して、ひと休みの後、夜道をかけて美濃へ帰りました」
「はや帰ったか。……では、祐筆《ゆうひつ》をよべ」
「はっ、御祐筆には、どなたを」
「由己《ゆうこ》がよい」
と、いったが、すぐ思い直し――「いや、料紙《りようし》、硯《すずり》をもって来い。祐筆も眠たかろう」
と、思いやった。だが実は、その祐筆が髪をなで衣服を着かえて来るのがもどかしいふうであった。
寝床の上で筆をとり、彼は一書をしたためた。尾藤甚右衛門宛てにである。
[#ここから2字下げ]
――骨折りによって、勝入父子、われへ同心一味の誓約、大祝この上もない。
だが、にわかにわざわざ申しやる一事は、勝入秀吉へ加担《かたん》と知らば、かならず信雄、家康が手をかえ品をかえ合戦を挑《いど》み来るは必定《ひつじよう》なれど、決してその手にのって応ずるな。逸《はや》まるな。池田勝入、森武蔵は、前々から敵を侮《あなど》りがちな武勇自慢の者どもである。その方、軍監《ぐんかん》として、よくよく心得おくように。機を過《あやま》らず諫《いさ》めよ。その段、肝要《かんよう》のこと也《なり》。謹言。
[#ここで字下げ終わり]
筆をおくと、すぐ、
「使番の者に、今からこれを大垣の甚右のところへ持たせてやれ。いそぐぞ」
と、いいつけた。
ところが、翌々日の夕、十五日にはもうその大垣からべつな情報がまた届いていた。
犬山落城。――すなわち勝入父子が、去就《きよしゆう》一決と同時に、木曾川第一の要地を占領して、秀吉へ加担《かたん》の引出物《ひきでもの》とした快報であった。
「やりおッたわ」
秀吉はよろこんだ。しかし、憂えた。
[#改ページ]
小牧山《こまきやま》
あくる日は、十六日。
秀吉はもう坂本にいなかった。
彼の杞憂《きゆう》は、果たして単なる杞憂ではすまなかった。この十六、七日のあいだに、早くも憂うべき破綻《はたん》の兆《きざ》しが事実となってあらわれた。
犬山|快捷《かいしよう》のあと、勝入の聟《むこ》の森武蔵守が、われも一功名をと、徳川方の本営|小牧《こまき》を奇襲するつもりで、羽黒へ潜行し、かえって大敗を喫したのみか、鬼武蔵とよばれた森|長可《ながよし》は、討死したということが聞えたのである。
「あたらよ、気負《きお》い者。その愚や、言語道断《ごんごどうだん》」
秀吉の痛嘆は、自分への罵《ののし》りだった。家康に出鼻《でばな》をくじかれた恥に燃えた。そして、
「今は――」
と、趾《あし》を挙《あ》げて、十九日、いよいよ大坂を出発せんと、意を決した前夜、またも火のつくような凶報《きようほう》が、紀州方面から入った。
紀州の畠山貞政《はたけやまさだまさ》が、根来《ねごろ》、雑賀《さいが》党などの一揆《いつき》をかたらい、海陸から大坂へ迫ろうとしている。勢い猛烈、油断ならずとある。
信雄、家康の手がそこへまわっていることはいうまでもない。さなくとも紀泉の各地には、本願寺与類の不平の徒が、淡路、四国の諸豪と呼応して、つねに機会を狙っている。もっと危険なことは、それらの仲間が一般庶民にすがたを変えて、新府大坂城下には、たくさんに住んでいるという事実である。
「おれの世帯は大きい。かろがろと、にわかに立てぬもしかたがない」
秀吉は、発向の日を延ばした。
そしてほぼ二日間に、万事をすました。留守のかため、市街の戦備も、遺漏《いろう》なく手配した。また前に蜂須賀勢、黒田勢などを助けにやってある各出先へ、指揮、激励を送って、その状況を聞いた。そしてまず一安心と見たか、
「たのむぞ」
と、留守を蜂須賀正勝にまかせ、いよいよ大坂を立ち出でた。
天正十二年三月二十一日の、早朝のことだ。
難波《なにわ》の葭に、行々子《よしきり》の音《ね》が高い。花はちり、行く春の巷《ちまた》に、埃《ほこ》りが舞って、長い長い甲冑の武者や馬の出陣列に、花つむじが幾つもの小さいつむじを捲き、それが自然の餞別《はなむけ》のように見えた。
沿道には、それを見物する庶民の男女が、果てなく垣を作っていた。
この日、秀吉に従う将士、総軍三万余と称された。
たれも、その中のただひとり、秀吉のすがたを見ようとした。
「見えなかった」という者と「見た」という者と、まちまちであった。
おそらく気がつかぬ者が多かったのであろう。小男の秀吉が逞《たくま》しい騎馬の諸将にかこまれると、よけいに小さくみえ、風采《ふうさい》もあがらないので、眼に見ても、それと教えられなければ、ちょっと気づかぬ程である。
が、秀吉はこの群衆を見、
「浪華《なにわ》は繁昌《はんじよう》しよう。いまや興りつつあるようだ。まずまず大丈夫」
と、ひそかな笑みに確信していた。
秀吉の六感は、群衆の色彩を見てそう思った。彼らの好みは明るくて大どかな色と模様を択《えら》んでいた。亡運をたどる城下にこの光景はない。男女の皮膚の色には進取《しんしゆ》な気が燿《かがや》いている。市民の生活はうまくいっているらしい。彼らは健康で勤勉でそれぞれ生活を工夫し、この新府の地に希望をつないで住んでいるにちがいない。それはここの中心をなす新しい城への信頼と支持でなくて何であろう。――勝てる。こんども勝てる。秀吉は将来をそう卜《ぼく》した。
当夜は、枚方《ひらかた》に宿営。――翌早暁から三万の兵馬はまた淀の河流にそって蜿蜒《えんえん》と東下した。
そして伏見近辺までくると、淀川の渡しに、およそ四百ほどな人数が迎えに出ていた。
「あれや、たれの旗か?」
諸将はあやしんで眼をこらした。
たれとも知れず、赤地に黒く大一、大万、大吉と書いた大のぼりを立て、五本金のふきぬき、馬じるし、金の団扇《うちわ》に九曜の小馬じるしをかかげ、騎馬武者三十、長槍三十本、鉄砲三十|挺《ちよう》、弓二十張、そのほか徒士《かち》武者一団、華やかに、川風に戦《そよ》がれながら、まんまるに、かたまっていた。
秀吉も見て、使番の平塚太郎兵衛に、
「行って、質《ただ》して来い」
と、走らせた。
太郎兵衛はすぐ駈け戻って来て、
「石田佐吉でした」
と、報じた。
秀吉はかろく鞍《くら》つぼをたたいて、
「佐吉か。さてさて。佐吉のはずだわ」
と、何か思い当ったらしく、機嫌のいい感声を放った。
近づくほどに、石田佐吉が、やがて馬前へあいさつに来た。佐吉は云った。
「かねてのお約束は今日の事と、このあたりの不用地をかく刈《か》り拓《ひら》き、日ごろ蓄えおきました運上金をもって、一万石の御軍用を備えおきました。何なりと、明日のお勤めに相かなわば、かたじけのう存じまする」
「おお、ついて来い。佐吉は、うしろにいて働け。うしろの兵糧《ひようろう》方や大荷駄のやり繰りなど、しかとやれよ」
一万石の兵馬そのものよりも、ひとりの佐吉の頭脳の方が、秀吉には拾い物の気がされた。先駈けを争う武功一徹の武者ばらは雲のごとくいるが、当節、経済的にすぐれた頭脳などは、この三万の甲冑のなかにも見当らない。長浜以来の小姓部屋が生んだ一異才として、佐吉のあたまは、秀吉にとり、まさに珍重に足りるものだった。
その日、大半は京都を通過し、近江路に入り、翌二十三日の午前は早くも不破、赤坂の古駅を通っていた。このあたりは秀吉にとり、青年逆境の頃の追憶が路傍の一木一草にもあった。
(おお、菩提山《ぼだいさん》も見ゆる……)
菩提山を望めば、菩提山ノ城もおもい出され、そこの主《あるじ》にして栗原山に隠棲《いんせい》した若き竹中半兵衛のすがたも彼のまぶたにうかんでくる。その栗原山へ膝を屈《ま》げ礼を低うして、何度となく登った頃のあの熱意と謙虚《けんきよ》と希望の高さとを胸にあらたにするとき、秀吉はわれながら青年の血の純情さを尊くおもった。かえりみて、その短き青春を、一日とて、徒食に送らなかった多艱《たかん》に謝した。年少の逆境、青春の苦闘、それが今日の自分を作ってくれたとおもう。暗黒の世と濁流の巷がわれに与えてくれた恩恵であったとおもう。
主とよばれたが、心の友、竹中半兵衛も、彼の半生には忘れがたい人だった。半兵衛亡きのちも、困難に会うと、半兵衛あらばと、おもい出された。それを何ら酬《むく》ゆることもなく逝《ゆ》かせてしまった。ふと、痛涙を刺すようなものが秀吉の眼を熱くした。――菩提山上、一片の雲は、無心だったが。
「あ。……おゆう」
彼はそのとき路傍の松影に、ひとりの清楚《せいそ》な尼法師の白い頭巾《ずきん》をしてたたずむのを見た。
尼のひとみは、ちらと秀吉の眼と合った。それは征《ゆ》く人の行くてへの祈りと、つい先ごろの施物《せもの》の恩謝とを語っていた。秀吉は、馬をとめた。うしろを振り向き、何ごとかをいいつけようとしたらしかった。――が、松影の白鳥はもう見えなかった。
その夜、彼の泊った宿営に、一盆のよもぎ[#「よもぎ」に傍点]餅が届けられていた。ひとりの若い尼が名もつげずに、さしあげて賜《たま》われ――と、おいて行ったものという。
「これは、うまい。……なんと蓬《よもぎ》の香のよさよ」
食後ながら秀吉は二つも喰べた。ただおかしいことには、美味《うま》い美味いといいながら、眼には涙に似たものがあった。
眼ばやい小姓は、怪《け》しいことでございます――と、それを扈従《こじゆう》の将たちにあとで話した。はて? ……と一同も解《げ》せぬ顔して、
「なんのおん涙やら」
と、疑い、
「あすは尾濃《びのう》平原に馬を立て、徳川どのという大敵にまみゆるに、つねの殿ともおもわれぬ」
と、主人の愚痴《ぐち》を案じあったが、枕につくや、秀吉の高いびきに変りはなく、憂うるをやめよ、といわぬばかりに、快睡《かいすい》わずか二《ふ》タ刻《とき》、天もまだほの暗い早暁にここを立ち、その日のうちに、第一|梯団《ていだん》、第二梯団とも、続々、岐阜に着いていた。
勝入父子の迎えをうけ、城内城外、この大軍にあふれた。
夜空をこがす松明《たいまつ》やかがりは、遠く長良《ながら》の大河をよぎり、なお第三、第四の後続部隊が、この平原も狭しとまで、夜どおし東へ東へと流れつづくかに見えた。
「やあ、久しや」
これが秀吉と勝入との、会ったとたんの、どっちからともない声だった。
「御父子、このたびの同心は、筑前、真実うれしゅう思う。あまつさえ、犬山一城、引出物の御殊勲《ごしゆくん》は、さすがというもおろか。――いや筑前すら、その迅《はや》さ、機に敏なるには、胆をつぶし申した」
秀吉は、口を極めて、その功をほめたが、勝入の聟《むこ》が、その以後にやった岩崎の大敗については、何もいわなかった。
いわれぬだけなお勝入は面目なかった。聟《むこ》の森武蔵守がやった失敗と損害は、犬山の功をもっても償《つぐな》いきれぬものをと深く恥じているふうに見えた。――殊に、秀吉から十三日付けの坂本発の書状が、尾藤甚右衛門の手にとどいたのが十七日の夕方であり、それには、家康の挑戦にのるな、功に逸《はや》るなとかたく戒《いまし》めてあったが――時すでにおそしであった。勝入がそれを示されたときは、すでに聟が軽々しい行動をやって、惨敗、また主将森の討死という大傷手《おおいたで》を味方に見てしまった後なのであった。
それについて、勝入が、
「いや、そう曠《は》れがましゅう仰《おお》されては、勝入は、穴にでもはいりたい。聟の短慮からお味方の出鼻をくじき、何と、お詫び申そうやら、実は、お目にかかるのが辛《つろ》うおざった」
「やれ、よけいな気づかいをするものかな。ははは、池田勝三郎らしくもないぞよ」
秀吉はわざと、彼の青年時代に呼びなれた名をもって彼の精気へ呼びかけたが、共に笑っても、勝入の笑いにはどこか明るさがなかった。ふとしたらこんどの大戦には勝入は死ぬのではないかというような気もちが秀吉のどこかでしていた。
むずかしい。叱るべきか、叱らないでおくべきか。秀吉は、次の朝の寝ざめにも、ふと考えた。
しかし、何はあっても、犬山一城が、来るべき大会戦のまえに、味方の手にある利は非常なものだ。単なるなぐさめでなく、秀吉はそれを繰返し繰返し勝入にいってその功を賞した。
二十五日の一日をもって、秀吉は、身の休息をかねて、諸兵の集中を終了した。その後、なお集まった諸軍を合して、総兵力、ここに八万余と号された。
次の二十六日は、出陣でなく、すでに出戦だった。朝、岐阜城を発して、ひる鵜沼《うぬま》につき、ただちに木曾川に船橋を架《か》けさせて、夜営した。
そして翌二十七日の朝、野陣を払って犬山に向った。秀吉が犬山城に入ったのは、ちょうどその日の正午であった。
脚下に、木曾上流の淙々《そうそう》たるをのぞみ、若みどりの燃ゆる四月に近い青空の下にたつと、彼は、寸刻も惜しまれた。彼の血はなお若かった。
「脚の丈夫な馬を――」
と、いいつけ、ひるの兵糧をつかうとすぐ、軽騎軽装して、城門からとび出したのである。
「あっ、いずれへお越し?」
と、駈けつづいて来る諸将をふりむいて、
「あまり来るな。たくさんは敵の目につく」
勝入の聟《むこ》、森武蔵守が、つい数日前に戦死したという羽黒村を駈け通って、敵本営にまぢかな二宮山へ登って行った。
ここに立てば、小牧山は眼のまえにあり、尾濃の平原は、草の海にも似る。
北畠、徳川の連合軍は、およそ六万一千余と聞いていた。秀吉は、遠くへ、眼をほそめた。真昼の陽がまぶしげであった。何もいわず、小手をかざし、おッとりと、眼にあまる敵営団々たる小牧山をながめていた。
この日、家康はなお、清洲にあった。
いや、小牧へ出ては、布陣《ふじん》のさしずをし、またすぐ清洲へ帰っていたのだった。
進退、いやしくもしない。その要心ぶかさ、名人が一世一代として打つ一石の重さにも似ている。
「筑前守が、昨夜、岐阜へ入りました」
という確実な諜報《ちようほう》を彼が得たのは、二十六日の夕方だった。
ちょうど、榊原《さかきばら》や本多、その他の側臣たちと、一室にあって、諸塞の構築が終ったのを聞きながら、脇息《きようそく》を胸に抱かせて、絵図を見ていた家康は、
「……筑前、出でたるか」
と、ひくい声でつぶやき、左右の者と、面《おもて》を見あわせて、にやと、亀のような眼元に皺《しわ》をよせて笑った。
(ほぼ予見は中《あた》った――)
と思うのである。
つねに出脚の迅《はや》い秀吉が、容易に立ち上がりを見せないのは、その主力を、伊勢へさし向けるか、この濃尾《のうび》へ東下してくるか、それが大きな懸念《けねん》であったところだ。
が、なお、岐阜まででは、いつその颱風路を急角度に変えないものでもない。家康は、次の諜報《ちようほう》を待った。
「筑前。木曾川に船橋を架《か》け、犬山へ入城したもようです」
二十七日のたそがれ、それを確かめ得た。さらば、という家康の面持ちだった。夜をかけて出戦の準備は成った。留守となる清洲には、その本丸に内藤|信成《のぶしげ》を。二の丸に、三宅|康貞《やすさだ》、大沢基宿、中安長安の諸将をとどめ、二十八日、旗鼓《きこ》さわやかに、小牧山へ進出した。
信雄も、いちど長島へ帰っていたが、報をうけて、即日、小牧山へいそぎ、徳川軍と会同《かいどう》した。
家康は、出迎えるつもりでいた。
なにかの手ちがいで、それがなかった。
姿が見えなければ、来いといって、呼べばよいのに、人のよい信雄は、着くやいな、みずから家康の営所へ行って、取るものも取りあえず駈けつけて来たことなど語って、
「筑前の兵力は、ここだけでも八万余。各所の軍勢をあわせると、十五万を超えるであろうと聞きました。この大戦は、どうなりましょう」
と、たずねたりした。
彼は、自分のことから、かくも大規模な天下分け目の大いくさになろうなどとは思っていなかったらしく、蔽《おお》い得ない胸のものを、おどおどとその高貴な両の眼にあらわしていた。
[#改ページ]
小牧《こまき》の蝶々《ちようちよう》
――春の空の下だが。
美濃《みの》、尾張《おわり》のさかい、木曾川のながれも、ひろい曠野《こうや》も、あらしの前の静けさに似て、耕《たがや》す人の影も、旅人のすがたも、人ッ子ひとり、見えなかった。
妙な平和である。
蝶や小鳥には、ありのままな天地の春だったが、人間たちには、この真昼も、何か、不気味なものがあるにちがいない。
平和の偽《にせ》もの、偽の平和――と、まったく影をひそめてしまった庶民たちの猜疑心《さいぎしん》が、らんらんたる太陽一つを、空におきのこして、なおさら、この地上を、わびしいものにしていた。
「……どうしよう?」
かの女《じよ》は、当惑した。
この白昼なのに、行きくれていた。
川原の漁師小屋《りようしごや》をのぞいても、農家の母屋《おもや》をたたいても、まるで夜半《よなか》のように声一つ聞かれない。
「町へ」
と、おもって、これはおとといから、道をかえてみたのだが、町へ近づくと、かならず軍の柵門《さくもん》があり、兵馬がいて、
通るべからず
の制札《せいさつ》がいかめしい。
村にも、人はいず、ただ野良犬《のらいぬ》の声ばかりだ。
遠くに霞んでいる山の方へゆけば、たくさんな人民が疎開《そかい》しているにちがいないとは考えるものの――さて、かの女の性格では、それまでにして、生命《いのち》の無事をはかるのも、嫌《いや》だった。
「戦《いくさ》をこわがって、穴にかくれていても、死ぬときに死ぬ。いっそ、戦のあるまん中へ行って、本陣をたずねてゆけば、ものの分る人がいるであろう」
――そこでかの女は、犬山城《いぬやまじよう》の白壁を目あてに、曠野の道を、ここまでは来たが、川原を歩いても、小舟はなし、木曾《きそ》の奔流《ほんりゆう》は、瀬や岩々に、白いしぶきを激《げき》し、いくら大胆なかの女でも、渡りも得ず、たださまよいつづけていた。
「……晩には」
と考えると、さすがに気の勝っているかの女も、まだ十七歳の処女《おとめ》らしく、どこに寝よう、どうして喰べよう、さまざまな脅《おび》えが、胸にせまってくる。
疎開したあとの農家には、何かしら喰べ物もあり、夜のむしろも、そこを借りては過ごして来たが――このあたりには、そんな小屋もあるかどうか。
つかれも出て、かの女は、やがて川原の石に腰をおろした。そしてぼんやり、夕雲を仰ぎながら、越し方行く末を、夢のように、えがいていた。
「あッ? 女が」
そのとき、かの女のうしろで、男どもの声がした。
男どもこそ、驚いたふうだったが、かの女とて、やはり、びっくりしたらしく、うしろの蘆間《あしま》の土手をふりむいた。
物見隊《ものみたい》の兵らしく、みな槍をもち、銃をもち、甲虫《かぶとむし》みたいに武装したのが、ひとしく、かの女のもつ処女のうつくしさに眼を奪《と》られて、しばらくは、ただ見まもっていた。
やがて。
七、八人の物見の小隊は、かの女をとりかこんで、口々に、質問しだした。
「おまえは、どこの者だ。――たれのむすめか」
「こんな所で、何をしておったか」
かの女は、悪びれもせず、素直《すなお》に答えた。
「はい。……もう四日も迷いあるいたので、くたびれ果てて休んでおりました」
「どこから、どこへ行くつもりで?」
「家は、岐阜《ぎふ》と大垣《おおがき》のあいだの、小野《おの》の里《さと》でございます。その小野を出て、稲葉山《いなばやま》の裏道で、連れの者と、待ちあわせる約束をしたのに、どうしたのか、その男がもどって来ませぬ……」
「男? なんだい、それは」
「乳母《うば》の息子です」
「その息子どのと、いったい、どこへ行く約束をしたのだ」
「京都へ」
「――京都へ?」
「ええ」
「ふウ……ん」
と、みな感心したり、クスクス笑い出したりした。
中でも、若い雑兵《ぞうひよう》のひとりは、大げさな表情を、そのことばと共にして、
「これやあ、おどろき入ったもんだ。この大戦争をよそに、都へ、駈け落ちなどは、まアいいとしても、見ればまだ、ほんの小娘でしかないのに、おれたちの前でも怖《おそ》れ気《げ》なく、男ののろけ[#「のろけ」に傍点]を申すとは。……これが、おどろかずにいられるか」
今さらのように、ほかの連中も、かの女の髪、目鼻、身なりまでを、あらためて、見直したあげく、
「だが、ことばつきといい、髪粧《かみよそお》いといい、土民のむすめとは思われない」
「いまのは、ウソかもしれんぞ。――嘘でもなければ、こうおちついて、男のことなどいえるものじゃない」
疑惑《ぎわく》をもって見れば、いくらでも疑わしい点が出てくる。
「おまえの親は、武士か。姓は、なんというか」
「父は、小野政秀《おのまさひで》と申し、もとは斎藤義龍《さいとうよしたつ》さまの家臣であったと聞いていますが、幼い時に、戦死しました」
「そして、おまえは」
「乳母のお沢《さわ》に育てられ、小野の於通《おつう》とよばれております。十三のころ、手づるを求めて、安土《あづち》のお城へ御奉公にあがりましたが、天正十年、信長さまが本能寺《ほんのうじ》で、あえない御最期をおとげ遊ばしてから、安土も亡《ほろ》んでしまったので、田舎へ帰っておりました」
「え。信長公のお城へ仕えていたことがあるのか」
「つい先頃までは、松琴尼《しようきんに》の許《もと》で、勉強しておりました。乳母は、わたくしを、どうしても尼《あま》にしようとするのです。……けれど私は、尼僧《にそう》になるのはいやです。都へ出て、もっと勉強もし、生きがいのある一生をおくりたいのです。……お沢ののら[#「のら」に傍点]息子などと、駈け落ちする気ではありません」
気品があり、ことばは爽《さわ》やかである。偵察隊の雑兵たちは、質問しているまに、何か、この少女のおちつきに、気押《けお》されるようなものを感じて来た。――しかし、たれもなお、疑いは解かなかった。
兵たちは、仲間のあいだで、
(どうしよう?)
と、いう相談になったらしい。
かれらは、何か、ヒソヒソいいあっていたが、いまや大戦の火ぶたを目前にはらむ日ではあるものの、この端麗《たんれい》な、しかも、もと安土城《あづちじよう》にもいたという曰《いわ》くつきの美少女を、不問《ふもん》に捨て去るのは、何やら惜しい気がしてならない。
「ともあれ、陣所まで曳いてゆこう。――万が一、敵の密偵《みつてい》でもあったら、悔いてもおよばぬ」
話がきまると、於通は、ただちに引ったてられた。
そこからすこし上流の方へゆくと、この物見隊が乗って来たらしい筏《いかだ》があった。
槍ぶすまに囲まれたまま、かの女は、筏《いかだ》の上に立った。
木曾川のしぶきを棹《さお》さして、筏は、激流を横ぎり、犬山城の下についた。
「あぶないぞ」
かの女の降りるとき、ひとりの兵は、その手へ槍の柄《え》をのばしてやった。
そこの岸から、断崖をのぼってゆく。すると俄然《がぜん》、地上の相貌《そうぼう》は、まるで変っていた。
家康の本陣、小牧《こまき》にたいして、秀吉の大軍八万余が、東《ひがし》春日《かすが》井郡《いごおり》の数里にわたって、みちみちていた。
つい二日ほど前。
大挙して上方《かみがた》から下って来た秀吉は、敵の小牧山と呼び交《か》わせるほどな近距離――楽田村《がくでんむら》に本陣をすすめ、犬山の城には、岐阜大垣から前進した池田|勝入《しようにゆう》と、嫡子《ちやくし》の紀伊守之助《きいのかみゆきすけ》がはいっていた。
物見組は、その池田家のうちの一小隊だった。
夕がたの兵糧《ひようろう》の炊《かし》ぎに、城外の陣場は、どこも煙っていた。馬糞《まぐそ》や汗のにおいに、人馬ともごった返している中を、かの女は、おそれげもなく、物見組と一しょに通った。
「おや、たいしたものだぞ」
「おいっ、どこから拾って来た――そんな美《い》いのを」
ふり向いては、何とか、騒ぎ立てない兵はない。
物見頭《ものみがしら》の千田《せんだ》主水《もんど》も、
「ほう? ……」
と、連れて来た部下の報告を聞きとりながら、目をみはった。
「小野《おの》の里の、於通《おつう》と申すものか」
「はい……」
「うまいこといって、実は、徳川家の知るべの者か何か、頼まれておるのだろう。正直にいえばよし、かくして、あとから知れると、怖ろしい目にあうぞよ」
「お疑いあそばすなら、わたくしを、おん大将の秀吉様に会わせてください」
「なに、羽柴《はしば》どのに、お目にかかればわかるとか」
「ええ。先頃まで、わたくしの師として、お仕え申していた菩提山《ぼだいさん》の松琴尼《しようきんに》さまは、秀吉さまもよく御存知の……いまは亡き竹中半兵衛|重治《しげはる》さまの、お妹君でいらっしゃいますから」
「……はてな」
主水《もんど》は、半信半疑だった。
「おい」
と、部下をかえりみて――
「ともかく、兵糧でも分けてやって、すこし仮屋《かりや》で休ませておけ。ひょッとしたら、あわれな気狂《きちが》い娘かもしれん。どうも、いうことが、いちいち腑《ふ》におちんわい」
池田勝入は、この日も、わずか四、五騎をつれたのみで、城外へ出ていた。
前日も、出て、どこかを一巡して、帰ってきた。
そのまえの日も、ふた組の、将校偵察を放ち、しきりと、犬山、小牧の地方から、東海道方面へぬける山街道の地勢をしらべさせていた。
「ひどい煙だな」
兵糧炊《ひようろうかし》ぎの夕けむりに、勝入は、顔をしかめながら、城門を、馬上のまま通った。
その眉を見てさえ、池田家の将士は、
「まだ、ご機嫌がお悪いようだ……」
と、かれの気色《けしき》をおそれた。
勝入の不きげんは、聟《むこ》の森|長可《ながよし》の失敗にあることは、たれも知っている。
その長可《ながよし》が、功にはやって、小牧の敵塁《てきるい》へ、奇襲をしかけたのが、過《あやま》ちの因《もと》で、まだ総帥《そうすい》の秀吉が、この大決戦場へ、着陣もしないうちに、おびただしい序戦《じよせん》の傷手《いたで》を、味方へ負わせてしまったのである。
数日前。
秀吉は、犬山につき、すぐ布陣にかかって、いまは楽田村《がくでんむら》に陣しているが、出迎えた勝入父子にも、
(よく犬山を早く陥《おと》した)
と、功はほめたが、その功をもっても償《つぐな》いきれぬ、聟の森《もり》武蔵守《むさしのかみ》長可《ながよし》の大クロ星について、なにもいわなかった。
云われないだけに、なお、つらいのである。のみならず、味方のうちでは、紛々《ふんぷん》たる悪評が立っている。池田|勝三郎信輝《しようざぶろうのぶてる》のむかしから、人にうしろ指はさされぬ自負《じふ》をもって、四十九歳までの武人生活をつらぬいて来た彼として、すくなくも、こんどの名折れは、心外でならないにちがいない。
「之助《ゆきすけ》も来い。三左もここへ来い。老臣どもも、みな寄ってくれい」
本丸の居室に、あぐらを組むとすぐ、かれは、息子の紀伊守之助《きいのかみゆきすけ》(二十六歳)や、三左衛門輝政《さんざえもんてるまさ》(二十一歳)や、また重臣たちをよびあつめて、
「みなの、忌憚《きたん》のない、意見をききたい」
と、通路に番人をおいて、密議にかかった。
「まず、これを見い」
勝入は、陣羽織の襟裏《えりうら》から、一片の山地図を出して披《ひろ》げた。
「徳川、北畠の両兵力は、小牧山へあつめられ、あとは清洲にすこし後詰《ごづめ》しておるのみだ。――思うに、家康の本国、三河の岡崎には、わずかな留守居しか残されておるまい」
山絵図《やまえず》を、席順に、廻覧していた人々は、そのあいだの勝入の言に、自然、ハッと思いあたるものがあった。
地図面には――
この犬山から、山間や渡河を冒《おか》して、三州《さんしゆう》岡崎へ抜ける道が、朱筆で点々と引いてある。
「……さては?」
と思いつつも、見終った人々は、黙然と、勝入のくちもとを見つめていた。
勝入は、一同へ諮《はか》った。
「敵の小牧や清洲《きよす》を打ッちゃって、一路、徳川の本城地――三河の岡崎へ、味方をすすめたなら、さしもの家康とて、うろたえるにちがいない。……ただ、心すべきは、行軍の途中、小牧山の敵の目を、いかに密《ひそ》かに忍んで、兵馬をやるかという点だけだが……」
たれも、急には、口をあく者もない。
これは、兵の奇道だ。
しかもまちがえば、味方の全体に、致命的な破綻《はたん》をきたす禍《わざわ》いとならない限りもない。
「……わしは、この一策を、羽柴どのへ、献策《けんさく》してみようと思う。のるか、そるかの、奇計だが、首尾《しゆび》よくゆけば、徳川家康も、北畠信雄(信長の遺子)も、この手にツバして、捕虜《とりこ》としてみせることができよう」
勝入《しようにゆう》は、やりたいのだ。
何か、大功をたてて、聟《むこ》のクロ星をつぐない、自分のカゲ口をいう者たちを、見返してやりたいのだ。
その意中が、よく分っているだけに、だれも、
(いや、奇計は、めッたに、功を奏するものではありません。危険です)
と、かれの私《わたくし》の感情を、いましめる者はなかった。
いったい、武人と武人の会《かい》するときは、得てして、壮挙《そうきよ》とか決死とか、威勢のよい案に、決まりやすいものである。肚《はら》では、危ういと思っても、弱音《よわね》に似た意見をのべることは、たれも好まない。それをあえていえる者は、よほどな信念家か、忠臣といってよい。
勝入の策も、その夜の密議では、帰するところ、
(それこそ、必勝の奇計)
(中入《なかい》りの先陣には、ぜひ、それがしを)
と、同《どう》じあって、知らず知らず、気負《きお》い立った一決を見たにちがいない。
中入《なかい》りとは、敵地ふかく潜行《せんこう》して、敵国の腹中《ふくちゆう》から敵をやぶる戦術語である。
かつて、賤《しず》ケ嶽《たけ》のたたかいにも、柴田勝家の甥《おい》の玄蕃《げんば》が、この手をやって、大敗北をまねいた先例もあったが――勝入はなんとしても、これを、秀吉に説《と》こうとした。
「あすにも、楽田《がくでん》の本陣へまいって」
と、眠りの間《ま》も、秘策に、想をこらして、一夜をすごしたが、朝になると、
「きょう、御陣廻りの途中、筑前守さまが、午《ひる》ごろ、犬山へも、お立ちよりに成られましょう」
と、楽田から伝令があった。
勝入は、待ちもうけた。
四月初めの微風を駒のうえに味わいながら、この日、秀吉は、楽田を出て、家康の小牧本陣と、附近の敵塁をつぶさに望見しながら、小姓、近習《きんじゆ》など十数騎をつれ、犬山のほうへ道をかえて来た。
「ほ。……あれへ、きれいな蝶が、野を舞っておる。たれぞ、捕《つか》まえて来い」
ふと、馬をとめて、秀吉が指さしていうことばを、人々は、何のことか? ……と、疑った。
秀吉は、眼ばやい。
いや、かれに続いてゆく将士はみな、大将の警固に、緊張していたのに、かれ自身の眼だけが、晩春四月の野を、遊山《ゆさん》でもしてゆくように、遊んでいたため、見つけたものといったほうが、ほんとだろう。
「見えぬのか。お汝《こと》らには、あの蝶が」
秀吉は、左右の者が、いぶかしげに、遠くを見ている眼を――さらに、指さし教えながら、
「あれじゃよ、あれじゃよ」
と、すこし笑い出した。
福島市松が、その顔つきを、読みとって、
「ア。あれですか」
「うむ、あれよ」
「あの蝶々を、捕《つか》まえて来いと、仰せられますか」
「そうだ」
さすが、子飼《こがい》からそばにおいて来たやつは、下手《へた》な宿の女房よりは、ひとの気もちを読みとるわい、といったような秀吉のうなずき方であった。
市松は、もう馬を、その方へ飛ばしていた。
「――何をしに?」
まだ気づかない人々は、市松の行方を、視線の焦点にしていた。
野末《のずえ》へ、影が、小さくなってゆく――。
やがて、市松は、ぽんと馬の背からとび降りた。
チラと、紅《あか》いものが、かれの立ちどまった所に、見える。
その紅いものが、女の帯か、小袖の模様の一部だとわかったのは、市松がその女性をつれて、片手に駒の手づなをひきつつ、だいぶこっちへ近づいて来てからのことだった。
「オオ、殿が、蝶々と仰っしゃったのは、あの小娘のことよな」
ようやく、すべての将士が、こうさとると、列は、にわかに騒《ざわ》めいた。
ここらは、敵にとっても味方にとっても、危険なる、やがての決戦場である。
どうして、かよわい小娘がこんな所を? ……と、あやしみすら超《こ》えた好奇心に、たれも眼を燃やしたのもむりではない。
「捕《つか》まえて参りました」
市松は、少女の片手をとらえながら、列の横に立った。
秀吉は、ま近に見て、かれが女性にたいして、物に何かを感じたときに見せる眼もとの表情を、チラとうごかした。
「どうだ、きれいな蝶々だろう」
かれは、ふと、甲冑《かつちゆう》の身と、甲冑の将士を思って、云いまぎらした。
「……だが、毒の蝶かもしれん。何しても、乙女《おとめ》で、かかる所を、うろつきおるなど、奇怪なことだ。市松、もそッと、馬のそばへつれて来い」
市松は、少女と共に、数歩すすんだ。
鞍《くら》のすぐそばまで、近づいた。
けれど、かの女は、ここでも、犬山城の将兵の中をすまして通ったときのように、いささかも、悪びれない、怖れない。世のつねの処女《おとめ》のように、うつ向くこともないのである。
「そもじは、何者だ」
秀吉は馬の上から、わざと、あどけ[#「あどけ」に傍点]ないほど無恐怖《むきようふ》でいる白い顔を、じっと見下ろした。
「小野の於通《おつう》といいます」
於通も、じっと、秀吉を見かえした。
於通は、前の夜、城外の池田部隊のうちで、からくも、一夜を明かした。
部将の千田《せんだ》主水《もんど》は、部下に、
(親切にしてやれ)
といってくれたが、兵たちにとっては、この好餌《こうじ》を見て、ただ親切だけをつくしてはいられない。
当然ないたずらが、夜どおし、かの女をなやました。
やっと、夜が明けてから、仮屋《かりや》のすみで、すこし眠ったが、朝の兵糧《ひようろう》を分けてもらうと、逃げることに、心をきめた。
こんな雑兵《ぞうひよう》の中でない、総軍の大将の陣所へゆき、その保護を求めようと考えたのである。
ところが、犬山を出てから道をまちがえ、どことも知れない野末をあるいていると、そこでも、三名の兵にゆき会い、いきなりまた、ゆうべのような悪さを挑《いど》みかかられたので、
(馬鹿ッ)
と、罵《ののし》って、足のかぎり、野を逃げ走っていたのであった。
小娘のけんまくに驚いたか、それとも、遠い並木道に、秀吉の行列が見えたせいか、野良犬兵は、あっけにとられた顔していた。
秀吉が、遥かから、蝶と見たのは――かの女が、もう追っても来ないものを恐れて、なお走っていた姿だったにちがいない。
「於通というか」
秀吉は、自身でいろいろ訊ね出した。
こんな所をなんの用があって、さまよっているか?
年はいくつ。生地《しようち》はどこ。親の名はなんと申すか――など、かなり細《こま》かい。
於通は、きのうも木曾川べりで、池田の物見隊へ語ったとおり、つつまず、怯《ひる》まず、身の上を、はなした。
ゆうべ、難儀したことや、いまも野原で、あやうい目にあうところだったことも、何の、はにかみなく告げた。
そして、ことばの終りに、
「わたくしは、十二、三歳のとき、よそながらですが、あなた様を、折々、お見かけ申しておりました」
と、白珠《しらたま》のような歯を、ちらと、笑みこぼして見せた。
「はてな? そうか」
秀吉は、小首をかしげたが、於通のはなしに、以前、安土《あづち》の城に奥仕えしたこともあるとのことを思い出して、
「安土のお城でか」
「ええ」
「この筑前も、亡き右大臣様(信長のこと)のお側へは、よく召されたことゆえ、そんな時でも、見かけたのであろ」
「信長さまが、宣教師《バテレン》の連れて来た黒色人《くろんぼ》を、安土のお庭へ通されて、局《つぼね》の女房どもも、見よとて、大勢で、御覧あそばしたことがありました」
「おおあったの。そんなことも……」
「その折、あなた様も、お側近くにおられましたでしょ。あなた様のお顔も、いちどお会いした者は、わすれることはないと、たれもが申しておりました」
猿に似ていることは周知《しゆうち》であり、自分でもよく知っている自分の顔であった。
それを、棚おろしされたような気がしたのであろう、秀吉は、大いにてれ[#「てれ」に傍点]て、
(小さかしい女童《めわらべ》め。なにをいうか)
と、於通の唇《くち》もとを、睨《ね》めすえたが、於通は、生まれつきな叡智《えいち》に澄んでいる眼を、よけいに澄まして、
(ほんとに、似ていらっしゃる)
と、いわぬばかりに、なお、じっと、秀吉の顔を見てばかりいた。
秀吉は、ひそかに、かれの体験にない、おそれを抱いた。
かれは、自分の視力というものに、由来、非常な自信をもっている。
いかなる現下の梟雄《きようゆう》でも、手におえない豪傑《ごうけつ》たちでも、かれと談笑のうちに、ふと、眼をカチ合わせるときは、十人が十人とも、その視線を、横にそらすか、伏せるかして、よく秀吉の正視に耐《た》えて、長く、ひとみを射返し得る者はすくない。
信長の亡きあと、かれの眸《ひとみ》の威《い》は、清洲《きよす》会議でも、満座を圧し、山崎、賤《しず》ケ嶽《たけ》の合戦でも、柴田、滝川の輩《はい》をまったく射すくめて来たものだった。――そして、きょう、ここにまた――東海の惑星《わくせい》といわれ、天下の大器とも視《み》られて、秀吉にとっても、このさき第一のやっかい者と考えられている徳川家康の大軍と、伊勢一円の北畠信雄の兵力、あわせて六万余の陣する小牧山《こまきやま》の敵塁にたいしても、かれは、
(――家康、何かあらん)
と、心のうちは、どうあろうと、すくなくも、その眼は、敵を呑むの概《がい》をもって、らんらんたるかれの生命力、戦闘力を、たたえているものであった。
ところが。
それほどな自信と、自信にみちている眼を――名もなき一少女の眼が、恬《てん》として、いっこう、何のおそるるふうもなく、かえって秀吉の方が、さきにてれ[#「てれ」に傍点]惑《まど》うほど、澄まして、見つめ返してくるのであったから、秀吉が、
(これは?)
と、まごつき、
(これは、そも、何たる女童《めわらべ》だろう)
と大いに、怖れたり、好奇心をおぼえたりしたのも、むりではない。
「おウいっ。平馬《へいま》やある」
振り向いて、彼はふいに、うしろの小姓組《こしようぐみ》の騎馬群へ、どなった。
列の内から、大谷平馬《おおたにへいま》(後に刑部《ぎようぶ》)が、はっと答え、馬首を主人のそばへすすめた。
「御用ですか」
「うム。そちの馬をかせ」
「馬を……ですか」
「降りて、この女童《めわらべ》を、乗せてやれ。そして、犬山まで、口輪をとってやれ」
平馬は、顔を、ふくらました。
返辞をしなかった。
「平馬。なぜ答えぬ」
「嫌《いや》です」
「なに、嫌じゃ?」
「はい。戦場では、たとえ戦友のたのみでも、馬だけは、貸すはイヤだと断っても、友情には欠けぬものと、聞いております。……まして、女などに、馬をかして、自分が口輪をとってゆくなんて……私には、お叱りをこうむっても、出来ません。お断りいたします」
嫌なことは嫌といい、うれしいことはうれしいといい、ともあれ、主従のあいだでも、形式にとらわれず、生命と生命の真実をもって、ぶつかり合っていたのが、秀吉とその直参《じきさん》たちの間がら[#「がら」に傍点]であった。
いや、当時の、先輩と後輩とのあいだ、老いと若きとのあいだ、すべて、こうした気風だった。
で――平馬が、嫌だと、だだ[#「だだ」に傍点]をコネても、それが正しい云い分をもっているので、秀吉も、
「はははは。しょむない[#「しょむない」に傍点]やつじゃな」
と、笑って、敢えて、咎《とが》めず、
「戦場ゆえ、平馬めは、貸すのはイヤだという。おいっ、たれかほかに、於通に馬をかして、みずからは口輪をとって、犬山まで歩いてやるような、優雅《みやび》な男《もの》はおらんか。たれでもよいぞ」
秀吉のこのことばは、殺伐《さつばつ》なる列のなかへ、かえって、一場の和気《わき》と、笑いとを、かもし出し、やがて、
「では、それがしの馬を貸しましょう」
みずから、鞍を下りて、馬をすすめた者がある。
たれかと見ると、蒲生《がもう》忠三郎《たださぶろう》氏郷《うじさと》。――日野《ひの》ノ城主の子、二十九歳の若者だった。
「や、氏郷《うじさと》か。恐縮恐縮」
かれの身分にたいし、秀吉は礼をいった。
氏郷は於通をたすけて、馬の背へ押し上げ、
「これも、風流です」
と、なんのこだわりもなく、口輪をとって、秀吉のあとに従《つ》いた。
秀吉は、うなずいて、列を進め出した。たくさんな若い人材のなかには、石田佐吉のような、経理の才もあり、智謀にとむ者もいるが、多くは、一番槍、一番首などを虎視《こし》たんたんと望むもので、
(さすが、忠三郎の望みはちがう)
と、秀吉は、振り向いて、氏郷のすがたを見、氏郷は、秀吉のその眼を仰いで、ニコと笑った。
犬山へ着いた。
城内には、池田勝入父子が、出て迎えた。
秀吉以下、すべて、本丸その他へ、わかれて入った。
午《ひる》すこし過ぎなので、すぐ中食。終ると、秀吉は、ごく少数の者と、茶をのみ、くつろぎながら、
「ときに、聟《むこ》どのの、経過はどうじゃな、長可《ながよし》の容体は」
と、たずねた。
勝入と会ってはなすときは、秀吉は、いつでもすぐ、昔友達そのままになった。勝入が、まだ池田勝三郎のむかしから前田犬千代などと共によく清洲の町を、飲みあるいた悪友でもあり、以後、おたがいに、生死のなかも、離反《りはん》せずに来た善友でもあるからである。
「いや、聟の血気には、ミソをつけ申したが、おもいのほか、恢復がはやく、一日もはやく、陣前に出て、汚名《おめい》をそそぎたいと、それのみ、口ぐせに申しおりますわい」
聟とは、いうまでもなく、森《もり》武蔵守《むさしのかみ》長可《ながよし》のことで、羽黒の敗戦で、一時は、敵にも味方にも、長可《ながよし》戦死――と伝えられたが、実は、犬山城の奥でひそかに、満身の負傷を、一族の手で、必死に手当されていたのであった。
[#改ページ]
病《や》める鬼《おに》
秀吉は、雑談好きだ。
雑談のうちに、衆智《しゆうち》を、搾取《さくしゆ》しているらしい。今も、
「市松(福島)は、きょう見て来た小牧の敵塁のうち、どこの備えが、もっとも堅固《けんご》に見えたか」
とか、
「与一郎《よいちろう》(細川)は、もしそちが、敵の二重堀の陣形を攻めるとせば、榊原《さかきばら》の陣へ当ってゆくか、松平《まつだいら》の塁をくずしにかかるか」
とか、また、
「きょう一巡して来た間に、何ぞ、敵の弱点と見たところ、或いは、味方の弱味と考えられたことがあれば、何でも、遠慮なくいって聞かせい。助作《すけさく》(片桐)はどうじゃ。虎之助(加藤)も、意見あらば申せ」
などと、左右の者へよびかけて、若武者たちの率直な言を、よろこんで聞くのだった。
こんなとき、彼を中心とする一群の若い近習《きんじゆ》たちは、決して、歯に衣《きぬ》などは着せていない。
かれらが熱しると、秀吉も熱し、主従だか友だちだか、わからない空気にもなるが、ひとたび、秀吉が、すこし儼《げん》とすれば、即座にみな、襟《えり》を正してしまう。
池田勝入は、そばにいて、いつ果てしないこの主従に、
「――時に、折入って、きょうは勝入からも、申し述べたいことがおざるが」
と、人々のはなしの腰を折って、秀吉へ、何か云った。
秀吉は、耳を寄せて、ふムと、一つうなずいて見せ、近習たちへ、人払いを命じた。
「みな、ちょっと、座を退《ひ》いておれ――座を」
「はい」
掃いたように、人々は、そこを立って、休息にしりぞいた。
ひとり、於通だけが、片隅にのこっていた。
勝入は、見とがめて、
「筑前どの。うしろにおる女性はたれでおざるの」
「お、これか」
忘れていたものを思い出したように、ふり向いて、
「途中で、拾うて来た、おんなじゃよ」
「ほ。……この戦場で?」
「さればよ。風変りな女子ではあるまいか。――於通、そもじも、ここを遠慮せい」
於通は、はいと立ちかけたが、ふと、
「どこに退《さ》がっていたらよろしゅうございましょう」
と、勝入の方へたずねた。
勝入は、二男の三左衛門|輝政《てるまさ》をよんで、於通を、べつな部屋へ案内してやれと、いいつけた。
「三左、三左」
秀吉は、うしろから、呼びかけて、
「なんぞ、この女子に似合いそうな、陣羽織と具足《ぐそく》があったら、貸し与えてやってくれい。――陣中に、その身なりでは、歩行にも不便、兵どもの眼にもよくない。……よいか、控えにおる間に、着せかえてやってくれよ」
女にあまいことは、いまさらつつむ必要もない勝入なので、人前もなく、秀吉はいいつけた。
みな去った。
勝入と、秀吉と、ふたりきりの室となった。
室は、本丸の広間である。見とおしなので、見張りもいらない。
「折入ってとは……。勝入、何ごとじゃの」
「実は、そのため、御本陣へおたずねせんと、思っていましたが」
「ここでいい。何なと、うけたまわろう」
「ほかでもおざらぬが、今日、御巡視になられて、もはやお考えは、おきまりのことと存ずるが、家康の小牧の備えは、さすがでは、おざるまいか」
「いや、見事よ、あれほどな築塁《ちくるい》と布陣は、まず、家康ならでは、こう短時日に、出来《でか》しうるものはあるまい」
「てまえも、幾たびか、馬をめぐらし、小牧附近を、見まわりましたが、あれへ攻めかかるべき手だては、とんと[#「とんと」に傍点]ありませぬ」
「にらみ合いだの。型のとおりに――」
「家康も、相手が相手とおもうて、大事をとり、お味方も、名だたる徳川勢との初めての決戦なれば――と、自然、かくのごとき、ねめ[#「ねめ」に傍点]合いの対局と相成りました」
「おもしろいの。連日、小銃一発の音もせず、寂《せき》として、戦わざるうちの戦いじゃ。……妙《みよう》は、この機微《きび》にある」
「さ。そこです」
勝入は、膝をすすめ、先頃から彼が胸にえがいていた奇略を――例の、山道地図をもひろげて――熱心に、献策《けんさく》した。
秀吉も、熱心に、聞き入った。
いくたびも、
「うん。うむ……なるほど」
と、うなずきもした。
けれど、さいごの結論にいたると、難色をしめした。よかろうとも、やろうとも、容易に、策を容《い》れる顔いろはない。
「もし、おゆるしあれば、勝入は、一族をあげ、率先《そつせん》して、かならず岡崎の城を衝《つ》いてごらんに入れる。ひとたび、徳川の、本国岡崎が、突《とつ》として、お味方の馬蹄《ばてい》の下《もと》と聞こゆるならば――小牧の堅塁、いかに備えたりといえ、また、家康、いかに武門の大器なりといえ――攻めずして、かれの内より、総崩れを来《きた》すは必定《ひつじよう》とおもわれる」
勝入は、るる[#「るる」に傍点]として、説いてやまず、執拗《しつよう》にまで、かれの持つ中入《なかい》りの奇略≠フ採用を求めるのだった。
「……わかった。うム。考えておこう」
秀吉は、即答を避け、
「だが、おぬしも、そうわが事とおもわずに、ひと事として、もう一晩、考えてみい。奇略だし、壮挙《そうきよ》ではある。それだけに、危うくもあるぞ」
と、たしなめた。
勝入の武勇も剛胆《ごうたん》も、秀吉はよく知っている。しかし、それ以上には、秀吉は買っていない。
ふたりの、小声が、しばらくとぎれた。――と、次《つぎ》部屋のふすまを開け、勝入の嫡子《ちやくし》紀伊守が、遠くから、両手をついた。
「父上。……おさしつかえなくば、これまで、ちょっとお立ち越しを」
それより、すこし前。
城中の一室を、病間とし、先ごろから、満身の負傷《てきず》を治療していた勝入の聟《むこ》の森武蔵守|長可《ながよし》は、
「仙千代《せんちよ》。三左をよんでこい。……三左を」
と、日夜、看護にあたっている弟の森仙千代――十六歳の若武者に、しきりに、だだ[#「だだ」に傍点]をこねていた。
「兄上。そんなに、お体をうごかすと、また夜になってから、傷口に、熱をもって痛みますぞ」
「よけいなことをいうな。三左をよんで来いと申すのだ」
「だめです、今は」
「なぜ、貴様は、ツベコベ拒《こば》むか」
「でも、ただ今は、御本丸へ、秀吉様がお越しになって、紀伊どのも、三左どのも、御前《ごぜん》でお話し中だといってるではありませんか」
「だから、筑前どのの帰らぬうちに、三左に、云っておきたいのだ。……よし、そちが取次がんなら、おれが行く」
長可は、起きかけた。
満身を、繃帯している。頭も顔も、片腕も、白い布で、巻いているので、さしも鬼といわれた彼も、ままにならない。
それが、鬼《おに》武蔵《むさし》長可《ながよし》には、じれったいのである。
しかも彼は、後月《あとげつ》の十八日、功《こう》に逸《はや》って、小牧山の敵の堅塁へいどみかかり、惨憺《さんたん》たる敗北をうけている。――部下八百余を失ったあげく、かれ自身も、重傷をおい、からくも、味方の戸板にひろわれて、逃げ帰って来たほどなクロ星をとった。自己のみならず、舅《しゆうと》の勝入の武名にまで、それは、ただでは拭《ぬぐ》うことのできない、不名誉を、ぬりつけてしまった。
鬼《おに》武蔵《むさし》、死せり
と、敵は、凱歌《がいか》をあげ、味方のうちでも、信じている者がある。――と聞くにつけ、
(このまま死んでたまるか)
と、長可は、日夜、無念のまなじり[#「まなじり」に傍点]をあげ、傷の痛みよりは、心のいたみに、五体を炎《ほのお》にしているのだった。
「だめですよ、兄上は」
仙千代は、兄の気もちに、泣きながら、背を抱きかかえて、怒ってみせた。
「御用がすめば、三左どのを、およびして来ますから、それまで、待って下さいというのに、どうして兄上は、そんなに……」
「筑前どのが、お帰りのあとでは、間にあわんから、急《せ》いておるのだ。それを貴様は」
「じゃあ、紀伊どのまで、お願いして来ますから、お動きになってはいけませんよ」
兄を、そっと、もとの枕へ寝かせて、仙千代は、立って行った。
ほどなく、三左が来た。
顔を見るとすぐ、長可は、
「どうだ。舅《しゆうと》どのは、あのことを、羽柴どのへ、献策《けんさく》したか」
「いま、人を遠ざけて。おふたりで、密談中だが」
「ではまだ、羽柴どのが、献策を容《い》れるか、どうかは、分らないな」
「ム。わからぬ」
「もし、容《い》れぬようだったら、すぐ、知らせてくれ。……わしは、筑前どのの足もとへしがみ[#「しがみ」に傍点]ついても、お頼みする気だ。いいか三左」
一方――
以前の広間のほうでは、まだ人払いのまま、秀吉と勝入だけが、黙然《もくねん》と、対坐していた。
いま。
次部屋の境から、子息の紀伊守が、ちょっとお顔……と父をよんで、何かささやいたが、聞き終ると勝入は、またすぐ、秀吉の前にもどっていた。そして、
「岡崎へ中入《なかい》り≠フこと、やれと、この場にて、御命令ねがわれぬものでおざろうか。――病床の長可までが、御諾否《ごだくひ》のほど、心配いたして、ただ今も、紀伊を通じて、伺いに来ておるような熱心さ。何とぞ、御決断を」
と、さっきからの献策を、くり返して、やまないのであった。
勝入の戦略は、たしかに、奇想天外である。要心ぶかいことでは、石橋を叩いて渡る主義の家康も、まさかと気づかずにいる間隙《かんげき》にはちがいない。
しかし秀吉の考えは、おのずからちがう。
秀吉の生来としては、奇略だの奇襲だのという手は、あまり好まないのだ。かれは戦術よりも外交、小局の快勝よりも、大局の制覇《せいは》を――手のろく[#「のろく」に傍点]ても、望んでいる。
「ま。急《せ》くな」
秀吉は、気をほぐした。
「明日までに、肚《はら》をきめておく。――明朝、楽田《がくでん》の本陣まで来い。否やを聞かすであろう」
「では、明朝また」
「むむ。もどるぞ」
と、秀吉は、立った。
「御帰陣」
と、紀伊守が、諸※[#二の字点、unicode303b]の溜《たま》り溜りへ触れる。
近習《きんじゆ》たちは、大廊下《おおろうか》に待って、秀吉の供についた。
そして、本丸の出口までかかると、駒つなぎ[#「つなぎ」に傍点]のわきに、一名の異様なる姿の武者が、下坐《げざ》していた。
頭も、片腕も、繃帯で巻き、具足の上の陣羽織も、白地きんらん[#「きんらん」に傍点]といういでたち。
「や? そちは」
秀吉の向ける眼に、その重傷者は、顔の半分まで、白布で巻いた面《おもて》をあげて、
「勝入の聟《むこ》、森長可めにござります。かような、醜《みにく》いすがたを、お目にさらし、お不快を加えることとはぞんじまするが」
「オオ、武蔵守か。――臥《ふ》せっておると聞いたが、負傷《てきず》は、どうじゃ」
「きょうから、起き出ることに、きめました」
「無茶をするなよ。体さえなおせば、いつでも、汚名《おめい》はとりかえせる」
汚名――といわれたので、多感多血な長可は、ぽろりと、涙をこぼした。
陣羽織の襟《えり》うらから、かれは一書をとり出して、うやうやしく秀吉の手へ渡し、また平伏して云った。
「御帰陣の後、御一読を得ますれば、ありがたい倖《しあわ》せにぞんじまする」
心根を、不愍《ふびん》と察したか、秀吉は、うなずいて、
「よしよし、読んでやる。――くれぐれも、大事にいたせよ」
いいすてて、城門を出た。
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陣中《じんちゆう》の一花《いつか》
青鷺組《あおさぎぐみ》の三蔵《さんぞう》は、犬山から四里ほどの地、大留《おおとめ》の城主、森川権《もりかわごん》右衛門《えもん》のところへ、池田勝入の密書をもって、使いに行っていた。
青鷺組というのは、池田家の秘密隊――つまり隠密組《おんみつぐみ》の異名《いみよう》である。
三蔵は、犬山攻めの前にも、一役たてて、その賞として、池田勢の犬山入りと同時に、金ももらい、お暇ももらい、かれの夢が、実行できるつもりだったが、
(戦は、これからだ)
との理由で、褒美の金は、ふんだんに拝領したが、軍を抜けることは、ゆるされなかった。
三蔵の夢≠ニいうのは。
於通《おつう》と、都へ行って、暮らすことである。
この、のら息子の母親というのは、小野政秀《おのまさひで》の旧臣の後家《ごけ》で、於通にとっても、育ての親――乳母のお沢《さわ》なのである。
於通は、のら息子の三蔵を利用し――三蔵は於通をかどわかすつもりで――この二人が家出したのを、お沢は、あの小野《おの》の里《さと》のあばら屋で、後で、どんなに悲しんだことだろうか。
とまれ、若い者の夢は、よくも悪くも、いまのような草深い田舎にすみ、戦争にはのべつおびやかされ、貧しい衣食に耐えてはいられないのが、ふつうだった。
けれど、於通の夢と、三蔵の夢とでは、月とすっぽん[#「すっぽん」に傍点]ほどちがう。
同舟異夢《どうしゆういむ》の家出だった。
けれど三蔵は、色と慾のふた道を、盲目にあるいた。於通を、かねて約束の場所に待たせ、池田家から褒美の金と、お暇をもらったら、すぐ戻って、予定どおり、かの女と、手に手をとって、京都へ道行きするばかり――と、ひとり有頂天になっていたのだ。
ところが、その虫のよい考えは、この大戦の直前に、まかりならぬとされたのである。
一時は、脱走しようかとおもったが、つかまれば、当然――首。
伊勢路《いせじ》、美濃路《みのじ》、いずこといえど、この大戦場の十里四方、柵門《さくもん》のないところはない。
(於通は、どうしたやら)
それのみ、思いながら、命も欲しさに、軍にとどまっているうちに――数日前、また、勝入父子によび出され、
(この密書をもって、徳川家の森川権右衛門の城まで行って来い。返事は、わらじ[#「わらじ」に傍点]の緒《お》の中へない[#「ない」に傍点]こんで戻るがいい。もし徳川勢の者に捕まった場合とて、死しても敵に見つけられまいぞ)
と、いいつけられた。
三蔵は、いまその大役を果たして来て、犬山城へ、帰って来たところだった。
ちょうど、秀吉の帰るところで、城門の前は、兵馬で、混みあっていた。三蔵は、道ばたに、土下座して、通過を待っていた。
先駆《せんく》――旗本――近習のなかに、秀吉の馬が通った。
三蔵は、あッと、驚いて、とび上がった。
その中に、於通がいた。
しかしすぐ、人ちがいか、とも疑った。似てはいたが、華《はな》やかな具足に陣羽織を着、白い馬にのって、秀吉のすぐあとから行ったものを――。
秀吉は、その日の、戦場視察を終って、夕方、楽田《がくでん》の本陣へ帰った。
楽田村のかれの本陣は、敵の小牧山のような高地ではない。
しかし、附近の森、耕地、小川までを、完全に利用して、方二里余にわたる塹壕《ざんごう》や柵のうちに、布陣は、鉄壁のまもりを誇っている。
そして村社の鳥居から内の、ひろい境内と本殿とが、かれのいる所のように、偽装されていたが、敵の夜襲にそなえて、秀吉の身は、神社のうちにはいなかった。――そこの林より東の方に離れている一群の仮屋に起居していたのである。
もっとも、敵の家康のほうから見た場合は、秀吉が、犬山にいるか、楽田にいるかも、疑問だった。――それほど、互いの陣形は、水ももらさぬ一線をへだてて、相互の偵察を、困難にしていた。
「おれの湯好きが、大坂を立って以来、何度も風呂《ふろ》に入っていないぞ。きょうはひとつ、汗をながしたいものだ」
秀吉のために、仮屋の雑兵たちは、ただちに野戦風呂をわかした。
地上に穴を掘り、大きな油紙を、穴いっぱいに敷くのである。それに、水をたたえ、古金《ふるがね》の焼いたのを、投げこむと、いいあんばいに沸《わ》いてくる。
流し場には、板をならべ、まわりにはまん[#「まん」に傍点]幕を張ってしまう。
「ああ、よい湯だ……」
この簡素な野天風呂に、あまり立派でない肉体の持ち主は、肩まで、湯にひたして、飽かず、夕空の星を仰いでいた。
「……天下の奢《おご》りだ」
かれは、からだの垢《あか》をこすったり、ヘソの下を、かろくたたいたりしながら、真実、そう思った。
去年から、浪華《なにわ》の地をきりひらいて、大坂築城の大工事にかからせ、その規模、その結構の雄大なること、前古にないと、天下の耳目《じもく》をおどろかせているものの、かれ自身の、人間的な愉楽《ゆらく》は、そこの金殿玉楼《きんでんぎよくろう》よりも、案外、こんなところにあった。
小さい頃、叱られ叱られ、母に背なかを洗ってもらった尾張中村の故郷《ふるさと》の家が、ふと、なつかしくなるのであろう。
「おい。たれかおるか」
幕の外へ、声をかけると、湯浴《ゆあ》みの間も、槍をならべて、外を守っている武者のひとりが、答えて、顔だけ中へ見せた。
「何ぞ、御用ですか」
「うム、いくらこすっても、垢《あか》が出るぞい。於通をよべ、於通を。――背なかを洗わすのじゃ」
小姓のする役であろうが、特に秀吉がいうので、於通は、やがて呼ばれて来た。
「おお、於通か。背なかを流してくれい、こっちへ、はいって」
いくらかの女がまだ何も知らない乙女《おとめ》でも、四十九歳の秀吉は、男ざかりの男である。――いいつけても、或いは、羞《は》じらいして、ためらうかと思っていると、於通は、
「はい」
と、すぐ赤裸の秀吉のうしろへ廻って、かれの背をごしごしこすり始めた。秀吉は、体をまかせて、背といわず、腕といわず、足のさきまで洗わせた。
風呂を出る。体を拭《ふ》かせる。腹巻、よろい下着、具足などを、すっかり着《つ》けおわるまで、於通は、女らしく、かしずいた。
殺伐《さつばつ》な陣中のせいか、女武者の白い手は、よけいに美しく見えた。秀吉は、久しぶり、心までほぐ[#「ほぐ」に傍点]れて、柔らかになった五体を、仮屋のうちへ運んだ。
「やあ。もう揃うていたか」
座には、その夕、召しをうけた諸将が、居並んで、待っていた。
浅野|長吉《ながよし》、杉原|家次《いえつぐ》、黒田官兵衛、細川|忠興《ただおき》、高山右近|長房《ながふさ》、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》、筒井順慶《つついじゆんけい》、羽柴秀長、堀尾茂助吉晴《ほりおもすけよしはる》、蜂須賀小六|家政《いえまさ》、稲葉入道|一鉄《いつてつ》――など。
それぞれ、一陣の首将である。
「おう、お湯浴《ゆあ》みで……」
諸将は、秀吉のてらてらした顔をながめて、まず、大きな安心をもった。
だが、かれに従《つ》いて、小姓の端に坐った於通を見ると、具足こそ着けているが、女と、すぐわかった。そして、
(これは少々、閑《かん》日月がありすぎる)
とも思うのだった。
「みな、飯はやって来たか」
と、秀吉。
「兵糧をしたためて伺いました」
と、返辞は、一致する。
「つかれたろう。長陣で」
「いや、殿こそ」
「なんの、大坂表にいるほうが、よほど忙しい。野天風呂にはいって、こうしておると、まるで保養じゃよ」
笑って。――無造作に、
「これを見い」
と、陣羽織の襟《えり》うらから抓《つま》み出した一通と、一面の地図とを、諸将のあいだへ、投げ出して、順に見せた。
書面は、病中の森武蔵守長可が、犬山の帰りがけに、直接、秀吉へさし出した血書の嘆願書。
地図は、池田勝入が、秘計を説いて献策《けんさく》した――例の、岡崎表を奇襲せんとする中入《なかい》り≠フ山道図《さんどうず》なのである。
「どうであろ? 勝入と武蔵守の望み出た作戦は。……忌憚《きたん》なく、みなの意見も、ききたいのだ」
しばらく、たれも無言。さあ? ……と考え沈む顔ばかりである。
「妙計とぞんじます」
是《ぜ》となす者、半分。
「奇略は、奇功を恃《たの》むもの。運を賭《か》けるもの。――まだ一戦も交えぬうちに、お味方八万余の運命を、一挙に、賭けるのは、いかがかと思われる」
非となす者も、また半数。
議論は、もめた。
秀吉は、その間、にやにや聞いているだけだった。余りに、問題が大きいので、衆議はまとまらず、ただ、
「御明断に、よるほかはございませぬ」
として、諸将は、夜に入って、各《かく》、持ち場持ち場の、陣地へ帰った。
「於通、木枕をかせ」
陣中の眠りには、彼も、具足を解かない。ごろりと、随時に、仮寝《かりね》をとる。
小姓たちは、もちろん、武器を抱いて、交互に、寝ずの番に就いていた。於通は、備えつけの硯箱《すずりばこ》を寄せ、次の室で、何やら筆を走らせていた。
勝入の献策を、容《い》れるか、容れないか。
秀吉の肚《はら》としては、実は、犬山から帰る途中で、すでに、きまっていたのである。
森長可の血書の献言書も、諸将に示すまえに、秀吉は帰り途の馬上でそれを読んでいた。
いいかえれば。
肚をきめかねて、諸将をよんだわけでなく、肚をきめたので、諸将をまねき、
(どうだろう?)
と、一応、協議にかけてみたのである。そこにも、かれの肚芸《はらげい》があり、諸将は、
(まず、行われまい)
と、見て帰ったのだった。
だが、秀吉の意中は、すでに決行を断じていた。
もし、勝入父子の策を容れてやらないと、かれらの立場は、武門上、非常にまずいものになる。
また、あれほど、思いこんでいる勝入父子の意気地は、ここで抑えても、ほかの場合で、何かの形をとって、あらわれるにちがいない。
それは、統軍上の、大きな危険だ。――いや、それ以上にも、秀吉がおそれたのは、勝入父子に、不平をいだかせておくと、老獪《ろうかい》な家康が、かならず手をまわして、寝返りの誘惑を、かれら父子に伸ばしてくるにちがいないと、思われることだった。
さなきだに、勝入父子は、もともと、北畠信雄とは、乳兄弟であり、その信雄は、家康が、小牧の陣営に奉じて、
(自分は、戦は好まぬが、故右大臣家(信長)の遺子《わすれがたみ》たるこの御方《おんかた》のため、義に依って、戦うのである)
と、徳川方のたたかいを、義戦であり、正義戦であり、私慾の軍でないことを、天下に称《とな》えさせている、唯一の、生き証人となって、この戦場に、臨んでいるのだ。
もし、その信雄なり、家康なりから、この戦争名分をおもてに、利益を裏に、そっと、犬山へ誘惑の密使でもはいった場合――勝入父子に、不満、不平があるとすれば――彼とて、いつ寝返らないとも限らない。
(若いときから、情《じよう》に激《げき》しやすく、こうと思いこむと、やまれぬ男だ)
秀吉は、寝入りばなにも、そんな回想を、めぐらしていた。
人いちばい、寝つきのいい秀吉だが、その夜は、木枕につむりを当てても、なかなか寝入られなかった。
若年時代、清洲の城下で、勝三郎(勝入)や犬千代(前田)などと、飲み廻っては、夜遊びに更《ふ》かした頃などをおもい出して――
(当年の池田勝三郎が、いまでは自分の麾下《きか》につき、しかも、不名誉な取沙汰に、とり巻かれている気もちを察しれば……かれの焦《あせ》りも、むりではない)
こうも、考えられ、同時に、現在の状況は、まったく、千日手《せんにちて》の対局《たいきよく》になっているので、なんらかの変化を誘う積極的な一手は、どうしても、今や、打たねばならぬときに来ている。
「そうだ、明朝、勝入がこれへ来るのを待つまでもなく、夜のうちに、黄母衣《きほろ》(使者)の者をやっておこう」
秀吉は、むっくり起きて、寝ずの番へ、料紙と硯《すずり》をもって来い――と、どなった。
小姓たちが、硯箱をさがしている間に、於通は、秀吉のまえに、料紙をそろえて、
「おことわりなく、お硯を拝借しておりました。おゆるし下さいませ」
と、詫びながら、さし置いた。
「そもじも、まだ寝ずにいたか」
「はい」
「何を書いていた?」
「つたない和歌を」
「そもじ、うたを詠《よ》むのか」
「ほんの、古今《こきん》のまね[#「まね」に傍点]詠《よ》みにすぎませんが」
「長陣の間には、折りに、茶の会、歌の会など、やることもあるが、このたびの合戦では、まず、そんな日はありそうもない。そのうちにそっと、わしだけに見せい」
「でも、お目にかけるほどな歌は……」
於通は、はにかみながら、硯《すずり》の水をあらためて、側《そば》で、墨をすっていた。
小姓たちは、片すみへ寄ったまま、余り愉快でない顔つきを揃えていた。
陣中に女性を置くことは、諸将のあいだにも、ないことではない。時代の風習としても、べつに異《い》とするにはたらない。
けれど、路傍《みちばた》から拾って来た猫みたいないやしい女性を、かくのごとく、にわかに、秀吉が眼をほそめて重用するのを見ているのは、名だたる羽柴家の小姓部屋として――命がけの奉公をしている者として――甚だおもしろくないことは事実である。
「よし、よし。……」
と、秀吉はやさしく、於通の墨の手をとめて、筆をとりあげ、すでに心にできている文言を、ざっと、一筆に書いた。
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ご献儀《けんぎ》、得心《とくしん》そろ。
さらに、だんがう、申すべく、未明《みみやう》、いとひ無し、即刻、
一むちあて、陣所へまゐらる可《べ》く候
[#ここで字下げ終わり]
[#地付き]ちくぜん
於通は、そばで見ていて、秀吉の文字のヘタなのに驚いた。
けれど、その文字の、天真《てんしん》らんまんで、なんの、見えも、小細工もなく、大らかな、気ままいっぱいな筆つきであることにも、何か、びっくりさせられた。
「おいっ」
と、小姓の中の顔を見て、
「大谷平馬《おおたにへいま》、丹羽鍋丸《にわなべまる》。ふたりして、これを黄母衣《きほろ》(使番)の加藤孫六《かとうまごろく》へあずけ、三名、同道のうえ、すぐ犬山城の勝入へ手わたしてこい。――返書には、及ばぬ」
「はいっ」
ふたりは、あわただしく退《さ》がった。
「もう用はない、於通も、余の者も。よく寝ておけよ」
秀吉は、ふたたび、横になった。――まもなく、かれのいびき[#「いびき」に傍点]が、次室まで、きこえて来た。
飛状をうけて、池田勝入が、自身、馬をとばして来たのは、まだ夜のうちといってもよい、四|更《こう》であった。
「勝入。きめたぞ」
「えッ。岡崎攻めの奇襲を、お命じくださいますか」
夜明けまえに、万端の打合わせは、二人の間に、終っていた。勝入は、秀吉の朝飯をお相伴《しようばん》して、犬山へ帰った。
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虚《きよ》 実《じつ》
あくる日も、うわべは、無風帯の大戦場だったが、底流には、微妙なうごきが、兆《きざ》していた。
果然《かぜん》――
うす曇りの、午後の空に、大縄手《おおなわて》方面から、パチパチと、敵味方の銃声が、聞えだした。
宇田津《うだつ》の軍道路にも、砂ほこりが、遠く望まれ、二、三千の西軍の兵が、敵の塁へ、いよいよ攻勢をとり始めたという。
「はじまるぞ」
「――総攻撃が」
「こよいか。夜明け前か」
見わたすところ、諸将の陣気も、この日、ミリミリと、殺気を天にあげていた。
小牧山《こまきやま》、対、楽田《がくでん》。
いま、その西軍側の旌旗《せいき》を、一望すれば――
二重堀の塁 日根野弘就《ひねのひろなり》兄弟(兵、二千五百人)
田中ノ陣 堀秀政《ほりひでまさ》、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》、長谷川秀一《はせがわひでかず》、加藤|光泰《みつやす》、細川|忠興《ただおき》など。(総数一万三千八百人)
小松寺山《こまつでらやま》 三好秀次《みよしひでつぐ》(兵、九千七百人)
外久保山《そとくぼやま》 丹羽長秀《にわながひで》(兵、三千五百人)
内久保山《うちくぼやま》 蜂屋頼隆《はちやよりたか》、金森長近《かなもりながちか》(三千人)
そのほか、岩崎山、青塚、小口《こぐち》、曼陀羅寺《まんだらじ》などの陣々をあわせて、ざっと総兵力約八万八千と称《とな》えられている。
それにたいし、東軍の徳川、北畠の連合軍は、井伊兵部《いいひようぶ》、石川|数正《かずまさ》、本多《ほんだ》平八郎、彦八郎などの一族、鳥居《とりい》、大久保、松平《まつだいら》、奥平《おくだいら》などの譜代《ふだい》、酒井、榊原《さかきばら》などの精鋭、水野、近藤、長坂《ながさか》、坂部《さかべ》、などの旗本たち――。それに伊勢の北畠の諸将をあわせ、総数六万七千といわれる実動力が、小牧山を旗にうずめ、ふもと、道路、低地、高地、あらゆる地形の変を利用して、塁壕《るいごう》をつくり、柵をつらね、
(この鉄壁陣を破り得るものやある)
と、ほこっている。
まさにこれは、天下の壮観であり、当代戦国の、世のわかれ目といえる。
秀吉が勝てば、秀吉の世代。家康が勝てば、家康の世代。大きな時の分水嶺《ぶんすいれい》≠セ。
家康は、秀吉を知る者だし、秀吉が、恐れた人間は、前には信長。いまでは、家康以外にはない。その家康の方でも、今朝からしきりに、偵察隊のうごきが見え、しかも、西軍の瀬ぶみ[#「ぶみ」に傍点]的な小攻撃には、
(めったに、応じるな)
と、戒《いまし》めているもののように、小牧山全陣、一旗《いつき》のうごきも見えない。
すると、たそがれ頃だ。青塚方面の戦闘からひき揚げて来た西軍の一支隊が、秀吉の本陣へ、道で拾ったという数枚の檄文《げきぶん》(宣伝ビラ)を、届けて出た。
秀吉が、その一枚を手にしてみると、自分の悪口が、全文に書いてある。
秀吉は天下|横奪《おうだつ》の賊である。
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秀吉は、大恩ある故主信長公の遺子、神戸《かんべ》どのを、自滅させ、今また、信雄《のぶお》どのへ弓をひき、常に、武門を騒がせ、庶民を禍乱《からん》に投じ、自己の野望をとぐるために、手段をえらばぬ元兇《げんきよう》である。
[#ここで字下げ終わり]
――まだ、箇条書に、いくつも並べてある。そして、徳川どのこそ、正しい戦争名分に起った、義軍であると、誇張してあった。
秀吉は、激怒《げきど》した。かれとして、めずらしいほど怒色《どしよく》を、面《おもて》に出した。
「この檄文は、敵の、たれが書いたものか」
蜂屋五介《はちやごすけ》が答えた。
「家康の直臣、石川|数正《かずまさ》の部下が、諸所へまきちらしたところから見て、数正がしたためたものと思われまする」
「祐筆《ゆうひつ》」
と、うしろを顧《かえり》み、
「各所に、同文の高札を掲げさせい。――石川数正の首を取りたる者には、一万石の重賞をとらすであろうと。――すぐ板にしたためて、陣々へ配れ」
こう命じた秀吉は、それでもまだ腹がいえないように、
「筒井伊賀《つついいが》、滝川儀《たきがわぎ》太夫《だゆう》」
と、居合わす将士をよびたてて、自身、出撃の令を出した。
「憎ッくき数正の振舞じゃ。汝らは、遊軍となって、数正の陣の前面にある味方をたすけ、夜をとおして、攻めたてい。あすも攻めい。あすの夜も、攻めに攻めて、数正めに、息つかすな」
さらに、また、
「一ノ瀬仁右衛門。夕賀宗十郎《ゆうがむねじゆうろう》、山内猪《やまのうちい》右衛門《えもん》」
などと、屈強の者を選びよんで、同じように、手勢六百、七百とさずけては、前線へ駈け向わせた。
こうした後で、
「湯漬《ゆづけ》。湯漬を」
と、さいそくして、夕方の食事をいそがせた。どんな時も、かれは、飯をくうことを忘れない。
於通《おつう》が、給仕につく。
飯のあいだにも、黄母衣《きほろ》の武者が、犬山との連絡《れんらく》に、ひんぱんな往復をつづけていた。
――そして、さいごの使者が、池田勝入の報告をつたえて来たとき、
「……よし」
と、ひとりつぶやいて、飯のあとの白湯《さゆ》を、気長に飲み終った。
宵になると、小銃の音が、後方のこの本陣まで、豆をいるように遠く聞えてきた。
「怖くないか」
於通へ、いった。
於通は、笑って、
「安土《あづち》のお城でも、鉄砲の音は、つねに聞いておりましたから」
と、あたりまえに答えた。
「そうか、では……」
と、秀吉は眼で、近う――と彼女を膝近くへ招いて、一つの任務をさずけた。
「そもじならでは難しい使いがある。これから行ってくれぬか」
「お使いなら、いと、おやすいことです」
「いや、たやすくない使者だ。なぜならば、ゆく先は、敵国の領地――岡崎への間道にあたる徳川方の森川権右衛門の城まで行って、この墨付《すみつき》を、届けてもらいたいのじゃ」
秀吉は、そのわけを、云いふくめた。
大留城《おおとめじよう》の森川権右衛門には、すでに池田勝入が手をまわして、岡崎の間道を通るときは、寝返って、味方につく密約ができている。
しかし、成功のあかつきに、賞として、五万石を与えるという条件は、まだ、勝入の口約だけで、秀吉の墨付は行っていない。――それを、秀吉は、ふと気がかりしたのであった。
「参りましょう」
かの女は、秀吉のことばの下に、はっきり答えた。――それには、かえって、秀吉のほうが、
「行けるか」
と、二度まで、念を押したほどである。於通は、微笑のもとに、
「はい。今からでも」
と決意を眉に示し、はや、身支度のことやら、途々《みちみち》の敵状などを、さすがに女らしい細心さで、訊ねたりした。
身なりは、百姓女に変装するのが、安全であること。道順は、山絵図に従って、なるべく、間道をえらぶこと。
そして、万一にも、敵兵に捕まったら、あくまで百姓女を装《よそお》って、決して、秀吉の墨付を、見つからぬよう死守すること。
それらの注意をうけて、於通はやがて、ただ一人で、深夜の陣営から立って行った。
「見たか、皆の者」
秀吉は、そのあとで、近習や小姓たちへ云った。
「あれが男であったら、そちたちは、やがて於通の前に、上将の礼をとらねばなるまい。女子であって、倖せじゃよ」
かれの左右の若者ばら[#「ばら」に傍点]は、これは心外なり――というような顔をした。そして、明日にてもあれ、徳川勢と相撃つ日には、獅子児《ししじ》の本性を武勇にあらわし、主人秀吉の今のごとき女尊男卑の失言を訂正させなければならん――と、ちかって、みな、ふくれ面《つら》のまま黙っていた。
小ぜりあいの銃声は、明け方から、翌日も、前線の所々で、絶えまなく響いた。
――それを口火に、いまにも、西軍秀吉の大兵が、総攻撃に転じてくるように思われた。
しかし、きのうからの、この手出しは、秀吉の陽攻《ようこう》≠ナあって、真実のうごきは、犬山を中心とする池田勝入の、岡崎奇襲の準備にあった。
家康をして、虚相《きよそう》の総攻撃≠ノ心を向けさせ、そのまに、間道を下って、一挙、徳川の本国岡崎の手薄をつく作戦だった。
いまや、その打合わせと、準備は成り、犬山城を中心に、奇襲軍は、次のように編制されていた。
第一隊 池田勝入ノ兵六千
第二隊 森武蔵守ノ兵三千
第三隊 堀 秀政ノ兵三千
第四隊 三好秀次ノ兵八千
右のうち、先鋒《せんぽう》の第一第二がもちろん決死行の中心力だった。堀秀政は軍監、秀次は総帥の格である。
その夜は、四月六日(陽暦の五月十五日)――真夜半を期して、二万の将士は、犬山をはなれた。
――極秘のうちに。
旗を伏せ、馬蹄《ばてい》をしのばせ、二宮村、池内村をすぎ、物狂《ものくる》い坂《ざか》で、朝となった。
兵糧。小憩。
ふたたび行軍をつづけ、大草《おおぐさ》、柏井《かしわい》、篠木《しのき》を経て、上条村《かみじようむら》につき、ここに宿営を張って、
「大留城の様子を見てこい」
と、偵察を放った。
かねて、大留城の森川権右衛門にたいしては、池田勝入から、青鷺《あおさぎ》の三蔵をやって、裏切りの約束をしめし合わせてあるが、なお、念のために――と、その三蔵を頭として、一組の隠密《おんみつ》を、瀬ぶみに向けたものだった。
三蔵たち、青鷺組の者は、そこから小一里さきの、庄内川《しようないがわ》の渡り口を扼《やく》している大留城を、やがて宵空《よいぞら》の彼方に見る辺りまで、近づいて行った。
すると、青鷺の一人が、
「やっ、今のは?」
と、道から林の中へ、脱兎《だつと》のように、駈けこんだ人影をみとめて、
「怪しいぞ」
と、ほかの者へ注意した。
「いや、ただの百姓が、おれたちを怖れて逃げたのだ」
という者があり、また、
「いや、女らしかった」
「いや、敵兵かもしれない」
など、まちまちだったが、三蔵は、
「捕まえてみれば分る。むだ[#「むだ」に傍点]でも何でも、捕まえてみろ」
と、自分も、まッ先に、林の中へとびこんだ。
あなた、こなた、鹿を狩るように追いまわした。ついに、かの女は、捕えられた。
「この百姓女めが」
「なんで逃げまわったか」
「何か、おそれるわけがあるから逃げたにちがいない。つつまず申せ」
「いわねば、裸にするぞ」
青鷺組に取りかこまれて、この女は、ぺたんと大地に坐っていた。唖《おし》のように、白い顔を、振って見せるだけだ。
「おやっ……?」
三蔵が、ふいに、どなった。
星明りをすかして、じっと顔へ顔を近づけ、われを忘れて、また叫んだ。
「これや、於通《おつう》だ。……おめえは、於通じゃねえか」
仲間の青鷺達は、意外な顔して、
「三蔵。おめえは、この女を、知っているのか」
「知ってるどころの沙汰じゃあねえ! この女あ、おれのいいなずけ[#「いいなずけ」に傍点]なんだ」
「えッ、いいなずけだって」
「いや、ゆく末、夫婦の約束をしたんだから、内縁の女房といったほうが分るだろう」
「ほんとかい、なるほど、美《い》い女だが」
「だれが、嘘をいう!」
と、三蔵は、仲間へ、誇っていった。
「美しいのは当り前。おれのお母《ふくろ》や親父の旧主、小野政秀さまのわすれがたみの姫《ひい》さまだ。……おれのおふくろは、この姫《ひい》さまの、乳母だったのさ」
「ふウむ。その姫さまが、よくおめえなどと、夫婦約束などしたもんだな」
「見下げるない! こう見えても、三蔵様は、さきにも、犬山攻めのとき、大功をたて、やがては、池田家随一の出世はきまっているんだが、戦さえすめば、おれはこの於通《おつう》と一しょに、都へ出て、暮すつもりさ。……だが、於通、いったい、そんな身なりで、何しに、こんな所を歩いていたのだ」
三蔵は、仲間の者を見まわして、急に、間がわるそうな顔をした。
「……すまねえが、みんな、ちょっと、遠慮していてくれねえか。俺はいいが、お姫さま育ちの於通……おめえたちが、ずらりと、見物していちゃあ、何も、口がきけねえらしい。たのむから、ほんのチョンの間《ま》、ここは二人だけにして、あっちへ行っていてくれねえか」
「あつかましい男だぞ」
顔見あわせて、仲間の者は笑ったが、
「三蔵、おごれよ」
と、そこを離れて、しばらく遠くへ影を沈めていた。
三蔵は、いきなり、於通を抱きしめた。
「おいっ……。会いたかったよ。於通、どんなに俺《おら》あ、おめえを、案じていたかしれねえぜ」
於通は、その手を、拒みもせず、自分の手を、さしのべもしなかった。
「……そうですか。そんなに」
「だって、そうだろうじゃねえか。おめえは、俺との約束なんか、忘れちまったのか」
「忘れやしませんが、約束の場所へ、来なかったでしょう」
「それがよ。勝入さまから、また大役をいいつけられ、お暇《いとま》のおゆるしが出なかったんだ。――よっぽど、逃げ出しちまおうと思ったが、この戦場じゃ、ヘタをやると、首があぶねえ」
「だから、あなたのせい[#「せい」に傍点]でしょう。私が約束をちがえたわけではありません」
「そ、そんなことを、云い争っているわけじゃねえ。俺は、こんなにも、胸いっぱい、おめえを忘れずにいたということを分ってくれればいいんだよ。――だが、いつぞや、犬山城のお城外で、おめえが、秀吉様の近習方《きんじゆがた》にまじって、澄まして、馬で通ったときは、気絶するほど、びっくりした。一体、どういうわけで、秀吉様へ近づいたのかい」
「筑前様とは、安土の頃から知っています。――あちらは、御存知なかったでしょうが、私には、初めてではない」
「なるほど、その縁故《えんこ》をたよって、御本陣へ行ったのか。そして、今夜は」
「お使いの帰りです」
「たれの? そして、どこへ行って?」
「筑前様のお墨付《すみつき》をもって、大留城《おおとめじよう》の森川権《もりかわごん》右衛門《えもん》の所へ」
「あ。じゃあ、お墨付は、届いたね。――すると権右衛門から何か、秀吉様へ、誓紙《せいし》か、返書でもことづかったろうな」
「ええ。おあずかりして参りました」
「それを、ちょっと、見せてくれないか」
「お断りいたします」
「いやに水臭《みずくせ》えな」
「でも、極秘の公用です。――三蔵さんも、そのための偵察《ていさつ》でしょう。はやく戻って、大留城の裏切りは、確かめられましたから、安心して、軍をお進めあるがよいと、勝入さまへ、お伝えをお果しなさい」
「ありがと」
三蔵は、安っぽく、頭を下げて、
「権右衛門の返書は見なくても、おめえがいうからには、そのことは安心した。……だが、於通、おれとおめえとの約束は、どうしてくれる」
「私との約束ですって」
「あ、あんな、白ばっくれた顔をして。そう恥かしがるこたあないよ」
三蔵の眼が、獣《けもの》じみた光をおびると、いきなり白い顔へ、彼の顔が、重なりかけた。
「何するんですッ」
ぴしゃッと、やわらかい手が、つよく頬を打った。
そして、かの女の影は、もう星の下を走っていた。
どっと、仲間の青鷺が、木蔭で笑った。
――三蔵の悄気《しよげ》た姿が、腰を立てると、また笑った。
敵地潜行軍の池田隊、森隊、堀隊、三好隊の二万は、八日の明けがた、宿営を払って、また、前日のような南下を、極秘につづけていた。
もう徳川領だ。敵地である。
三河《みかわ》へ。三河の岡崎へ。
全軍の一歩一歩は、かくて家康のいない家康の本城、勇将強卒はことごとく小牧の前線へ出払って、空き家にひとしい出殻《でがら》≠ニなっている徳川家本国の中核へ、一挙に、致命を与えるべく、刻々近づいていたのである。
しかも。
この間道のうちの一城である徳川方の大留城は、すでに勝入に誘われ、秀吉からも、五万石の墨付を見せつけられて、籠絡《ろうらく》され、この朝――池田勝入以下の南下部隊を、朝霧のうちに見ると、
「さあ、通られよ」
と、ばかり城門をひらいて、無防備を示し、城主森川権右衛門が、自身、出迎えて、道案内をする始末。
道義のすたれ、武門の堕落《だらく》は、ひとり室町旧幕府の専売ではなかった。
主従とも、ひえ[#「ひえ」に傍点]飯や、芋《いも》がゆ[#「がゆ」に傍点]をすすって、人となり、出でては戦い、帰っては田に鍬《くわ》をもったり、手内職などして、ようやく、貧苦と艱難《かんなん》の一時代をのりこえ、ここに天下の大勢を二分して、秀吉と対峙《たいじ》しうるほどな強大となった新進国家康の下にも、やはり権右衛門のような侍もいたのである。
――が、これは潜行奇襲軍にとって、最大な手引きであり、よいさい[#「さい」に傍点]先であった。
「やあ、権右どの。約束をたがえず、きょうのお迎え、かたじけない。事成るあかつきにはかならず、羽柴どのへ進言して、五万石をまいらせるぞ」
勝入はよろこびを満面にして、彼に云った。
「いや、昨夜すでに、お使いをもって、羽柴どののお墨付はいただいた。この上は、われらも、二心なく御加担《ごかたん》いたすであろう」
権右衛門の返辞に、勝入は、秀吉の気くばりと、その実行の確実さに、驚いた。
「して、御進路は?」
「山絵図によれば、これより岡崎への間道《かんどう》は、三ツあるようだが」
「さればです。一道は、三本木《さんぼんぎ》を経て伊保《いほ》へ出るもの。また諸輪《もろわ》をとおり挙母《ころも》へ出る道。……それと、長久手《ながくて》、祐福寺《ゆうふくじ》をこえ、明智《あけち》、堤《つつみ》と出て、岡崎へいたる道との三つでござるが」
勝入は、聟《むこ》の武蔵守と、協議の末、さいごの――祐福寺《ゆうふくじ》、明智《あけち》の線《せん》をえらんで、庄内川《しようないがわ》を渡りはじめた。
軍団は、三縦隊にわかれ、諏訪《すわ》ケ原《はら》、平子山《ひらこやま》のふもと、印場《いんば》とすすんで、矢田川をこえ、さらに、香流川《かなれがわ》を渡って、長久手《ながくて》の原へかかった。
ここにまた、一城がある。
徳川の麾下《きか》、加藤忠景《かとうただかげ》、丹羽氏重《にわうじしげ》のふたりが、士卒わずか二百三十名ほどで守っている、岩崎の城であった。
「捨ててゆけ、捨ててゆけ。こんな、とるにも足らぬ小城に、道草すな」
勝入も武蔵守も、眼の中のゴミほどにもせず、横に見て、通りかけた。
しかし、城中からは、バリバリ撃ちあびせてきた。その一発の弾は、勝入の馬の横腹に中《あた》った。
馬は、いなないて、竿立《さおだ》ちになり、勝入は、落馬しかけた。
「ちぇッ、小癪《こしやく》な」
と、勝入は、怒りをこめたムチをあげて、第一隊の将士へ、大喝《だいかつ》をかけた。
「あの小城、踏みつぶせ」
潜行軍《せんこうぐん》初めての戦闘がゆるされた。――犬山を出て以来、夜も日も、たえず密《ひそ》かに密かにとばかり腕をさすって通って来たともがらは、その号令に、わっと答えた。
鬱《うつ》ぼつが、発したのである。
片桐半《かたぎりはん》右衛門《えもん》、伊木忠次《いきただつぐ》。
ふたりの部将が、それぞれ約千人ほどの部下をひきいて、城へ突進した。こういう意力と、心理の兵のまえには、不落《ふらく》の堅城《けんじよう》も、もののかずではない。
いわんや、城は寡兵《かへい》。
またたくまに、石垣をよじられ、堀をやぶられ、瓦礫《がれき》を抛《ほう》りこまれ、火を放たれ、中天の太陽が、くろ煙にかくれ出すと、城将丹羽氏重は、斬って出て戦死し、城兵のあらかたも、無残、悉《ことごと》く斬り死した。
ただひとり……。
これは、この急を、小牧山の家康へ知らせるため、血路をひらいて、西方へ逃げた一将がある。
氏重の弟、茂次《しげつぐ》だった。
この短時間の戦闘中。
森武蔵守の第二隊は――第一隊との間に、かなりの距離をおいているので、生牛《おうし》ケ原《はら》に、兵馬を休め、兵糧をつかっていた。
兵たちは、飯をくいながら、
「何だろう? あの煙は」
と、ながめていたが、すぐ前隊との伝令で、岩崎城の陥落《かんらく》がわかり、笑いどよめいて、馬にも草を飼ったりしていた。
それにならって、第三隊もやはり一定の距離をおいて、金萩《かなはぎ》ケ原《はら》に兵馬をやすめ、最後方の第四隊も、白山林《はくさんばやし》という地点に馬をとどめて、静かに、前方の隊が、行進し出すのを、待っていた。
春は行き、夏は近い。山間の昼。空の碧《あお》はすみとおって、海よりも深い。すこし駐《とど》まると、馬は眠げに落ち、山畑の麦には雲雀《ひばり》、木々には、ひよどりの声ばかりが、折々、高かった。
――それより二日前。
四月六日の、夕刻である。
篠木村《しのきむら》の百姓が二人、西軍の眼をさけながら、畑を這い、木かげから木かげを走り、
「お訴えな申しまする。どえらいことなござりますで」
と、小牧山の本営へ、駈けこんで来た。
井伊直政《いいなおまさ》が、聞きとり、一大事と、すぐ家康の将座たる屯営《とんえい》の深くまで、二人を引いてきた。
家康は、いまし方、幕《とばり》のうちで、信雄とはなしこんでいたが、信雄が自陣へ帰ったあと、きょうもバチバチ遠くでする銃声を、そら耳に聞きながら、よろい櫃《びつ》の上の、論語《ろんご》をとって、黙読していた。
秀吉より六ツ年下の、ことし四十三歳という男ざかりの武将。こんな、やわらかそうな肥肉と色の小白い皮膚をもった好人物が、胸に百計を蔵し、ひとみに大兵を収《おさ》めて、戦争などするのかと、疑われる温和に見える。
「たれじゃ。なに、……直政か。はいれ、はいれ」
論語をとじて、家康は、ずしりと床几《しようぎ》を向けかえた。
二人の百姓は、篠木村三十六人の代表だといった。そして、今夕、秀吉の軍隊が、犬山から間道を縫《ぬ》って、おびただしく、三河方面へ南下したので、すわ大変と、お知らせに駈けつけて来たという。
「よく告げに来た」
家康は、ねぎらって、
「当座の褒美《ほうび》ぞ」
と、銀銭|若干《じやつかん》を二人の百姓に与えて帰したが、にわかに、慌《あわ》てるふうもない。――いや、まだその真偽《しんぎ》を疑っていたのである。
ところが、また、半刻もたつと、青塚方面から帰って来た諜者《ちようじや》の服部平六が、
「異《い》なうごきが見えまする。森武蔵の兵が、潮のひく如く、いつのまにか、青塚を退《ひ》き、何処へか、陣替えしましたか、行く先がわかりませぬ」
と、報じた。
同じ諜者組の桑山久太《くわやまきゆうた》、花田仁助《はなだにすけ》、島源三《しまげんぞう》なども、犬山その他から、立ちもどって来、それぞれ、
「敵に、不審《ふしん》な移動あり」
として、篠木村の百姓代表の密告を、裏づけた。
「――今は」
と、家康も、眉《まゆ》を硬《こわ》めた。
岡崎を衝《つ》かれたら、万事休すである。さすがの彼も、敵が、この小牧山をおいて、三河の本国へ出て行こうとは、予測していなかった。
「忠勝《ただかつ》やある。数正《かずまさ》やある。酒井忠次《さかいただつぐ》もすぐまいれ」
かれは、あわてない。鈍重《どんじゆう》にさえ見える。
すぐ呼ばれて来た、酒井、本多、石川の三将に、
「小牧の留守をせよ」
と、命令し、のこりの全軍をあげて、西軍の追い撃ち≠決意した。
その頃また、如意村《によいむら》の郷士で石黒善九郎という者が、信雄の営所へ、密告に来た。
善九郎をつれて、信雄が、家康をたずねて来た頃は、すでに家康は、夜を徹して、追い撃ちの作成と、編制と、進路の協議などに、諸将と、首をあつめていたところだった。
「信雄どのも、参られよ。この追撃戦こそ、主力戦となり申そう。主力のある所、おん身がおわさでは、このたびの合戦の意義はなくなる」
家康のことばに、
「もとよりのこと」
と、信雄もすすんで、追跡隊《ついせきたい》に、加わった。
追跡隊は本隊と支隊にわかれ、総兵一万五千九百。水野忠重の四千余が、先駆《せんく》して、柏井村から小幡城《おばたじよう》へいそいだ。
その八日の夜。
すでに、家康、信雄の本隊は、もう小牧にいなかった。
南外山《みなみとやま》、勝川を通り、兵は、旗を伏せ、馬は、枚《ばい》をふくみ、庄内川を、そっと渡った。
敵の潜行軍――森武蔵、堀秀政らの隊は、その夜、そこから約二里ほどの地点――上条村《かみじようむら》に宿営していたのだった。
あやういかな。潜行軍は、すでに潜行の意味を失っていた。奇計の功をいそぐの余り、徳川方に察知されて、あとを尾《つ》けられていたことを、夢にも覚《さと》らなかったのである。
夜半ごろ。――まだ八日のうちである。
家康は、龍源寺《りゆうげんじ》にはいり、湯漬を喰べた。そして一睡後、
「あすは、必定《ひつじよう》、敵に会おう」
と、ここで、初めて、甲冑を身に着けた。
土地の郷士、長谷川甚助《はせがわじんすけ》をよんで、地理をたずねたり、先発隊から頻々《ひんぴん》と来る伝令に接したりしていた。
味方の小幡城は、もう程近い距離だった。
先鋒の水野隊は、ひと足さきに城へついて、夜どおし、斥候《せつこう》を放ち、西軍の進路と情況を、手にとるように察していた。
まもなく、家康の主力も、ここに着き、すぐ軍議をひらいた。
水野|忠重《ただしげ》は、云った。
「敵は、二万余り、お味方は一万四千。かれの優勢に、正攻を取るのは不利とおもわれます。――一応、やり過ごして、敵の尾端《びたん》から撃破してかかるべきでしょう」
家康は、うなずいて、
「うしろから、逆攻《さかぜ》めを食わすもよい。しかし、要は、敵を二つに分裂させてしまうことだ。汝らは、敵の後尾を打て。自分は、敵の先鋒《せんぽう》へ立ちむかわん」
と、決意を告げた。
たれにも、異議はない。迅速《じんそく》こそ、この場合、唯一の大事ということを、一兵卒にいたるまで知っていた。
九日の寅《とら》の刻(午前四時ごろ)には、もう徳川勢の一半は、小幡城《おばたじよう》をくろぐろと、忍び出ていた。
刻々と、昼も夜も、三河路を南へさして、大きく、迅く、しかも強力な破壊力をもって流れつつある――西軍潜行隊の尾端をとらえて――追跡するためにであった。
追跡隊は、右翼、左翼にわかれ、右の千八百人は、大須賀康高《おおすがやすたか》が、指揮し、左の千五百五十人は、榊原康政《さかきばらやすまさ》、本多康重《ほんだやすしげ》、穴山勝千代《あなやまかつちよ》などが、部将として、急ぎにいそいだ。
田水や小川の仄白《ほのじろ》さは、夜明け近くも見えるが、四顧《しこ》は、黒綿のようなもや[#「もや」に傍点]につつまれ、空は未明の雲がひくい。
「おっ、あれだっ……」
「伏せい。身を伏せい」
田に、草むらに、木かげに、地《ち》の窪《くぼ》に、追跡隊の影のすべてが、ばたばたと、身を折りかがめて、じっと、耳をすましていると、彼方の防風林をつらぬく一《ひと》すじの道を、まさに、西軍の長蛇《ちようだ》が黒々とつづいて行く。
彼方の志向《しこう》は、ここの志向を気づかない。
ただ、目ざす岡崎を、功名心にえがき、逸《はや》りに逸ッているのみだ。
「ひそかに」
「静かに」
あらゆる行動と、意志の集中をも、目顔でしめしあいながら、追跡隊は、左右両翼にわかれて敵の最後尾隊――つまり池田勝入を先鋒とする潜行軍の第四隊――三好秀次のうしろから、ひそかに尾行していたのであった。
これが九日朝の、両軍の運命のかたち≠セった。しかも、秀吉から選ばれて、この大事に総目付《そうめつけ》として加わっていた秀吉の甥|秀次《ひでつぐ》は、夜が明けてもなお、まだ何も気づかずにいたのである。
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みだれ笹《ざさ》
秀次《ひでつぐ》は、秀吉の姉の子である。
秀吉は、伊勢の滝川攻めにも、賤《しず》ケ嶽《たけ》にも、この甥《おい》をつれ、一方の将に立てた。そして功があると、
(よくやった)
と、眼をほそめて褒《ほ》めてやった。――それほど、三好一路《みよしかずみち》の子秀次は、叔父秀吉から愛されていた。
で、秀吉は、こんどの三河侵入軍にも、軍監《ぐんかん》としては、堅実な堀秀政をつけたので、総将格には、この秀次を向けた。
しかし、秀次は、年まだ十七の弱冠《じやつかん》である。そこで秀吉は、自分の左右から、木下助右衛門と、同姓の勘解由《かげゆ》のふたりを選抜して、
(孫七郎《まごしちろう》(秀次のこと)を、よう見てやれい。孫七も、両名を力として、世話やかすな)
と、旗本の内へ加えてやった。
九日の朝。
夜来の行軍のつかれもあり、陽もうらうらと朝を告げて、全軍、ようやく飢《ひ》もじさを覚えていたので、潜行軍の最後方の――この秀次隊は、
「止まれ――」
を令し、
「兵糧をとけ」
と命じて、将は将と、兵は兵と、思い思い、脚を休めながら、朝飯にかかっていた。
所は。――白山林。
小さな丘の上に、白山神社があり、附近には、疎林《そりん》が多いので、そうよばれている。
秀次は、岡の小高い所に、床几《しようぎ》をすえ、
「助右。水はないか。わしの竹筒の水は、もうない。……よう喉《のど》がかわく」
と、侍者の竹筒まで取って、ごくごく飲みほしていた。
「行軍中、あまり水を飲むのは、よくありません。すこし御辛抱《ごしんぼう》なさいませ」
木下|勘解由《かげゆ》は、たしなめた。
だが秀次は、顔を向けなかった。秀吉から特に付けられたこの二人は何となく目の上のこぶ[#「こぶ」に傍点]だった。十七歳の総大将は、当然、気負いぬいていたからである。
「ア、誰だっ。駈けて来るのは――」
「おう、穂富《ほとみ》どのです。穂富山城《ほとみやましろ》どのです」
「山城は、何しに来たか?」
秀次は、眉をひそめて伸び上がった。槍組の部将、穂富山城守は、そこへ来て、ひざまずいても、息を切っていた。
「孫七様。異変です」
「異変? ……なんだ、異変とは」
「もすこし、岡の上まで、お登りください」
秀次は、彼について、駈け上った。そういうことには、敏捷《びんしよう》で、何のおっくうがる風もない。
「あれ。あの土けむりを、ごらん遊ばせ。――まだ遠くではありますが、彼方《あなた》の山蔭から、平地へかけての」
「ウム。……旋風《つむじ》でもないな。……ほう、先の一《ひと》かたまり、また、あとからの一群《ひとむ》れ。――何だろう、たしかに人数だ」
「お覚悟がいりますぞ」
「敵か」
「そうとしか思えませぬ」
「……待て。敵だろうか。ほんとに」
秀次は、まだ、のん気だった。――よもや、とばかり考えるらしい。
だが木下勘解由、木下助右、山田平市郎、谷平助、芳野宮内などの旗本が、つづいて、駈け登って来るやいな、
「しまッた」
と、さけび合い、
「敵には、追いがかりの計があったと覚《おぼ》ゆるぞ。用意、用意ッ」
と、秀次の命を待ちきれずに、どよめき合った。
地鳴り、馬のいななき、将士の声々。
それが、草ほこりを立てて、一瞬に、兵糧時間の休息から戦うべき相《すがた》に移るまでの間に――一方、東軍徳川方の部将、大須賀康高《おおすがやすたか》、岡川長盛《おかがわながもり》などの追跡隊は、
「撃《う》てッ、射《い》よッ」
と、秀次隊のまん中へ、小銃と弓の一せい乱射を加え、
「よしっ、突っこめ」
敵の乱れをのぞんで、騎馬、槍隊が、どっと駈けこんだ。
これは右翼隊。――さらに左翼隊の榊原康政《さかきばらやすまさ》は、もっともっと敵部隊の末端にある大荷駄隊《おおにだたい》(輜重《しちよう》)へ、不意打ちを加えた。
荷駄隊には、足軽、軍夫、そして厄介物の重荷をつけた馬ばかりが多い。
奔馬《ほんば》は、その荷を振り落し、自軍の列を、駈けみだした。小荷駄頭の朝舎丹後《あさのやたんご》は、よく指揮し、よく戦ったが、足手まといに煩《わずら》わされ、
「いまは」
と、まなじりを昂《あ》げて、榊原康政を目がけて、近づきかけたが、康政の士、永井《ながい》蔵人《くらんど》がさえぎって槍をあわせ、
「丹後《たんご》を打ッたぞ」
と、この合戦第一のてがら[#「てがら」に傍点]名乗りを、蔵人にあげさせてしまった。
秀次の中堅隊に、部将|長谷川秀一《はせがわひでかず》がいる。
「うしろも、敵。前方にも敵――」
いずれへ、援軍したものかと迷ったが、
「三好《みよし》の若殿こそ、あやうし……」
と、秀次の援護にいそいだが、徳川の水野《みずの》隊、丹羽《にわ》隊が、猛然、これにぶつかって来て、
「やらじ!」
「蹴ちらせ」
の烈しい格闘《かくとう》が――それは戦闘というよりは死力の噛みあいとなって――ここにも、ひと渦、巻き起った。
しかし、どこよりも強く圧迫をうけたのは、当然、秀次の本隊と、殊に、かれを守るその旗本陣だった。
「御方《おんかた》を討たすな」
「ここ退くな」
秀次の身をつつむ叫びは、すでに、かれの一命を守れ守ろうとする狂声だけであった。
そこ、ここの、林のあいだ、草原の起伏のあいだ。灌木帯《かんぼくたい》のあいだ、道のあなたこなたに、むらがり戦う鉄甲のかたまりのうち、眼に余る数は敵であり、血路をたたれている少数が、秀次の部下だった。
秀次も二、三ヵ所、かすり傷を負い、槍をもって、働いていたが、
「まだ、おいでかっ」
「早く、お退きあれ、お落ちあれっ」
と、味方の旗本は、かれの姿を見ると、叱るように云っては、討死していた。
木下勘解由《きのしたかげゆ》も、秀次が、馬を見失って、徒歩《かち》だちになっているのを見、
「さ。これに召して、一鞭《ひとむち》、眼をつぶって、ここをお立ち退きなされませ」
と、自分の馬を、かれに与え、そしてかれ自身は、旗さし物を地に立てて、敵勢の中へ斬りこんで死んだ。
秀次は馬に、手をかけたが、その馬も、秀次が乗らないうちに、弾《たま》に中《あた》った。
そのそばで、木下|助《すけ》右衛門《えもん》も、秀次を助けるために、斬り死してしまった。
「おういっ。その馬を貸せ」
秀次は、乱軍の中を、夢中で逃げのびながら、すぐわきを駈けてゆく味方の騎馬武者を見つけ、こう声をかけた。
呼びとめられた騎馬武者は――三好家の家臣、可児才蔵吉長《かにさいぞうよしなが》だった。
がきっと、手綱《たづな》をしめて振り向きながら、歩いてくる主人の秀次を見、
「若殿。何事です?」
「才蔵。馬を貸せ」
「雨降りに傘。――貸せません。いかに主君のおことばでも」
「なぜ、貸さぬ」
「あなたは逃《に》げ人《びと》。てまえはなお、先へ駈け入る兵力ですから」
ニベもなく断って、才蔵は駈け去ってしまった。その背に、一枚の笹が、風に鳴っていた。
仰々《ぎようぎよう》しい旗さし物だの、家の紋だのを、背中にさして戦うのは、名誉慾の印《しるし》をかかげているようなものだ。大人《おとな》げない飾り物だ――と日頃からいっていて、戦場に出ると、つねに、路傍の笹の枝を切って、無造作に、よろいの背に差し、悍馬《かんば》を馳駆《ちく》して働きまわるところから、人呼んで彼を笹《ささ》の才蔵《さいぞう》≠ニも称している一風変った男なのである。
「……ちぇッ」
と、秀次は、才蔵の目に、路傍の笹ッ葉ほども見られなかった忌々《いまいま》しさを、舌打ちにもらして、見送った。
うしろを見る。敵の土けむりだ。――が、槍、銃、太刀、ごっちゃにした潰走兵《かいそうへい》の一かたまりが、秀次の姿をみとめ、
「殿、殿。そちらへ走っては、さらにべつな敵に会いますぞっ」
呼びとめて、近より、彼のからだを、引っかつぐように包んで、香流川《かなれがわ》の方へ逃げた。
途中で、放れ馬をひろい、やっと秀次をそれに乗せ、細《ほそ》ケ根《ね》という所で、ひと息ついていると、またも、敵の襲撃にあい、さんざんになって、稲葉《いなば》方面へ落ちのびた。
こうして、池田勝入《いけだしようにゆう》が作戦の侵入軍は、その本隊であり、主将のいる最後方の第四隊から、まっ先に、完全なる殲滅《せんめつ》をうけてしまった。
第三隊は、軍監の堀久太郎秀政《ほりきゆうたろうひでまさ》がひきいていた兵力、数は約三千。
第一から第四までの、隊と隊とのあいだは、およそ一里か一里半ぐらいな距離をもっていた。
その間、たえず使番が連絡しているので、一隊が休息すれば、当然、次々に、各隊も行軍を停止する。
久太郎秀政は、ふと、
「鉄砲だな?」
と、遠くへ、耳をすました。
ところへ、秀次の臣、田中久兵衛が、馬をとばして、休息中の陣へ、のめり込んで来た。
「味方、総やぶれだッ。本軍はあとかたもなく、徳川勢に駈けちらされた。秀次様のお身もこころもとない。すぐ、取って返されい」
と、血まなこで、わめいた。
久太郎は、愕《がく》とした。しかし重厚な眉がこういうときの意志を支えていた。
「久兵衛。おぬしは使番かの」
「この場合、何を問わるる」
「使番でもない御辺《ごへん》が、あわてふためいて、何しに駈けた。逃げて来たか」
「いや、知らせに来たのだ。卑怯《ひきよう》か、卑怯でないかは知らぬが、何しろ、大変じゃ、この一大事を、森どのへも、池田どのへも、一刻もはやく知らすのじゃ」
秀次の番頭田中久兵衛は、そう云い捨てて、さらに一里――また一里先の味方へ――ムチをあげて消え去った。
「使番が来るべきに、番頭の久兵衛が来るなど、察するところ、後方の味方は、はやらち[#「らち」に傍点]もない総敗軍をとげたものとみえる。――ああ!」
堀久太郎は、こみあげる気ぜわしさと、心の動揺を、じっと抑えて、しばらくは、床几を立ちもしなかった。
「みな前へ来い」
もう事態を知って、面色を土のようにしている旗本、部将を、そこに集めて、
「やがて、いとまもなく、勝ちほこった徳川勢が、ここをも踏み潰《つぶ》しに襲《よ》せるであろう。――かれの勝ったる勢いこそ、浮き足と見て、かれの弱点とおもえ。――その敵の、十間以内に近づくまでは、ムダ弾をうつな。立ち向うな。じっと、ツバをのんで、この方の合図を待て」
配置をいい渡し、そして、
「敵の騎馬武者ひとりを仆《たお》した者には、百石の加増をするぞ」
と、約した。
かれの予想は外《はず》れなかった。秀次隊を一挙に木《こ》ッ葉《ぱ》みじんとした徳川勢の水野《みずの》、大須賀《おおすが》、丹羽《にわ》、榊原《さかきばら》の諸隊は、騎虎《きこ》の勢いをもって殺到した。
水野|忠重《ただしげ》は、この破竹の気を、みずから惧《おそ》れて、
「あやういぞ。逸《はや》るな逸るな」
戒《いまし》めたが、それは先を争う他の友軍を、わざわざ前へ出してやることになり、かれの部下は、
「何とて、ひとに」
と、口惜しがった。そして忠重の号令も行われず、全部隊は、怒濤の相《そう》をなして、進んで来た。
泡《あわ》をかむ馬の顔。硬《こわ》ばった人間の顔。血とほこりになった甲冑《かつちゆう》の怒濤《どとう》。――それが、地鳴りをたてて、近々と、射程距離《しやていきより》にまで迫ったとき、見すましていた堀久太郎は、
「撃てッ」
と、下知《げち》した。とたんに、ドドドッと、銃弾のひびきがすさまじい音と煙の壁を作った。
火縄銃《ひなわじゆう》には、弾《たま》こめ、点火のために、およそ呼吸の数で、熟練者でも、五ツ息《いき》か六息ぐらいな時間が空《あ》く。
そのため、交互射撃の方法をとるので、一斉射撃となると、やはり弾音はつるべ撃ちに敵へ浴びせかかる。
強襲の兵馬は、そのまえにバタバタ仆れた。弾けむりの間にも、その夥《おびただ》しさが地に見える。
「備えがあった」
「――退けや。とどまれっ」
と、味方は味方へわめいたが、怒濤は急にとどまるものではない。
久太郎秀政は、今ぞッと、ふたたび下知《げち》して、襲《よ》せてきた者へ逆《さか》よせを喰わせた。この場合の勝敗は、心理的にも、実体的にも、結果をまたず明らかである。
せっかく勝ちかがやいた本多、榊原、水野、大須賀などの諸隊も、たった今、秀次に加えたものを、自分たちの上に受けた。堀の槍隊といっては、羽柴家のうちでも、精鋭をもって鳴ったものだ。その槍さきにかけられた無惨《むざん》な屍《かばね》は、いたずらに逃げ返す部将たちの馬蹄《ばてい》を妨《さまた》げた。
水野|総兵衛忠重《そうべえただしげ》、榊原小平太康政《さかきばらこへいたやすまさ》など、その追い槍の烈しさに、たえず手の長刀を、うしろざまになぎ[#「なぎ」に傍点]払いながら、やっと退《ひ》いたほどだった。
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金扇来《きんせんらい》
長久手《ながくて》一帯は、香流川《かなれがわ》の水面もふくめて、うすい弾煙の膜《まく》の下に、屍《かばね》と血のにおいをおいて、朝の陽も、虹色にけむっていた。
そこはすでに一場の大戯曲《だいぎきよく》のあとのような静けさに返ったが、人馬は、夕立ち雲のように、次々の新たな地上を修羅場《しゆらじよう》にして、岩作《やざご》方面へ、一瞬に移動していた。
逃げ足は、逃げ足をさそい、果てしなく逃げくずれる。――この徳川勢を追いに追いまくしつつ、堀秀政は、
「うしろの隊は、おれにつくな。猪子石《いのこいし》の方へ迂回して、両道から追いつつめ」
と、頭の働きも失わなかった。
一隊は、わかれて道をかえ、秀政は、麾下《きか》六百をひッさげて、さらに敗地の敵を、袋の物とした。
途々《みちみち》、東軍徳川方の捨てて行った死者負傷者は、五百人をくだっていない。秀政の部下も、行くに従って減《へ》った。――主隊は遠く先へ駈け去っているのに、屍《かばね》と屍のあいだに、なお呼吸している敵味方の二人が残り、槍を合わせ、槍を捨て、面倒と、肉闘をいどみあったものの、組んずほぐれつ、下になり上になり――勝負果てなく格闘している個々の武者もある。
ついに、一方が一方の首を挙《あ》げ、
「取ッたあッ」
狂気したような大口をあいて、主隊の戦友のあとを追いかけてゆき、ふたたび黒い血けむりの中に姿を没するもあれば、追いつかぬうちに、流弾に中《あた》って、仆《たお》れ伏す影もある。
「やっ長追い無用ッ――。源左、源左、百《もも》右衛門《えもん》。――止めろ。退《ひ》けといえ」
何思ったか、秀政は、にわかに声をからして叫ぶ。
侍頭の柴田源左《しばたげんざ》、名村百《なむらもも》右衛門《えもん》、長瀬小三次《ながせこさんじ》などが、
「退けや」
「御馬じるしの下にあつまれっ」
「出るな。もどれッ」
馬を駈けまわして、からくも味方の兵を収めた。
秀政は、馬を下り、道から崖の鼻へ歩いていた。そこに立つと、視界をさえぎるものがない。
じっと、遠くを見、
「ああ。早くも来たか」
と、つぶやいた。満面の血色を、醒《さ》めたようにあらため、見よ、といわぬばかりに、長瀬小三次、名村百右衛門らをかえりみた。
ここから西――朝陽《あさひ》と真反対な高地、ふじケ根山の一端に、キラと、かがやくものがあった。
家康の陣標――金扇《きんせん》の馬じるし[#「じるし」に傍点]ではないか。
堀久太郎秀政は、嘆声をあげた。
「残念ながら、あの大敵と出会っては、われら如きに策はない。もう、この場のことは終った」
かれは、さきの分遣隊《ぶんけんたい》も収めて、急に退却しだした。
そこへ、長久手の方から、味方の第一、第二隊の使番四、五騎が、一しょになって秀政を探し求めて来た。いうまでもなく、第一隊の池田勝入、第二隊の森《もり》武蔵守《むさしのかみ》、ふたりの口上伝令である。
「お引き返し下さい。そして、お味方の先鋒《せんぽう》と合体せよとの――仰せです。池田どの御父子のおことばです」
「いやだ。もどらん」
堀秀政は、ニベもなく、断わった。
池田、森の使番は、自分の耳を疑って、
「合戦はこれからですぞ。即刻、御加勢のため、お引っ返しねがいたい」
と、声を大にして、云い直してみた。
すると久太郎秀政も、なお大きな声をして、
「もどらんといったら、もどらんっ。――われらは、秀次様の御先途《ごせんど》も見とどけねばならぬ。また、この方の軍兵も、大半は傷つき、この疲れをもって、新手の敵にあたっても、戦《いくさ》の結果はわかりきっておる。堀久太郎は、負けと知れきっている戦をするわけにはゆかん――と、勝入どのへも武蔵守どのへも云ってくれい」
云い払って、そのまま馬を急がせてしまった。
この堀隊は、稲葉附近で、さきに四散した秀次隊の残兵に会い、また秀次その人をも、隊のなかへ拾い取った。そして途々《みちみち》、民家へ放火しながら、徳川勢の追撃を防ぎ防ぎ、その日のうちに、秀吉の本拠《ほんきよ》――楽田《がくでん》の基地へ帰ってしまった。
怒ったのは、池田、森の二隊から、協力を求めに来た数騎の使番たちである。
「この期《ご》にいたって、味方の苦境をかえりみず、基地へ逃げ帰るとは、何たる腰ぬけか」
「臆病風にふかれたにちがいない」
「堀久太郎も、きょうはみずから、化けの皮をあらわしおった。――生きて帰らば、きっと、笑ってやるぞ」
かれらは、使いの首尾が果せなかった鬱憤《うつぷん》も加えて、罵《ののし》りやまなかった。――が、ぜひなく、今や長久手《ながくて》にとりのこされて、家康が金扇の馬じるし[#「じるし」に傍点]を迎えんとしつつある――孤軍池田父子の自隊へむかって、腹だちまぎれの鞭をビシビシ馬腹へ鳴らして駈けもどった。
さても、池田勝入|入道信輝《にゆうどうのぶてる》と、聟《むこ》、森武蔵守|長可《ながよし》の二隊こそ、いまは、家康の好餌《こうじ》であった。
人のちがい、器《うつわ》のちがい。
これは、どうにもならない。
秀吉と家康との、こんどの会戦は、まさに天下の横綱|角力《ずもう》であり、両者は、たがいに相手の何者なるかを、知りつくしている。
事ここに到るまでにも、家康と秀吉とは、いつかは、今日あることを知っていたし、今日になっては、なおさら容易に、けれん[#「けれん」に傍点]小手技《こてわざ》で、伏しうる敵でないことを、相互に知っての自重《じちよう》だった。
あわれむべし、武弁《ぶべん》のほこりだけあって、敵を知らず、おのれを覚《さと》らず、ただ意気のみに燃ゆる猛勇の人。
――池田勝入は、一路、三州岡崎をさして、敵地行を決して来ながら、その目的地からは横道の――岩崎城へ攻めかかり、朝めし前に、小城一つを踏みつぶした快にひたりきって、
「かちどき!」
と、武者声を命じ、
「三州入りの、幸先《さいさき》よいぞ」
と、六坊山《ろくぼうざん》に床几《しようぎ》をおかせ、かち獲《と》った敵の首級二百余を、実検していた。
それが、その朝の辰《たつ》の上刻《じようこく》(七時)ごろ。
かれはまだ、後方の変を、夢にも知らなかった。目前に、余燼《よじん》の煙をあげている敵の城骸《じようがい》だけを見て、武勇の人の陥《おちい》りやすい、小さな快味に酔っていた。
首実検や、軍功帳への記入を終ってから、ここでは朝めしの兵糧だった。
兵たちが、口をうごかしながら、時折、西北の空を見ているのが、ふと、勝入も気になった。
「丹後、何じゃろ、あの空いろは……」
池田丹後《いけだたんご》、池田|久左《きゆうざ》、伊木清兵衛《いきせいべえ》など、かれをめぐる将星たちが、同じ角度に、みな西北へ顔を向けた。
「一揆《いつき》どもではありませんかな」
「一揆。おかしいな」
「左様?」
――でもまだ、残りの弁当を、喰べていると、丘のふもとで、騒然と、何か、わめきが聞える。
はて。――と、いぶかるまもなく、森武蔵の使番、加賀見兵庫《かがみひようご》が、駈け上がって来て、
「不覚なござりますぞッ。――尾《つ》けられましたッ」
と、どなって、床几のまえへ、仆れるように、平伏した。
さッ――と、鉄かぶとをも吹きぬけるような冷感が、勝入以下、周囲の武者たちの頭をかすめた。
「兵庫。尾《つ》けられたとは?」
「秀次様の第四隊へ、夜来、追いしたって来たらしき敵勢が」
「や。うしろへか」
「ふいに、しかも両《りよう》がかりの車輪陣《しやりんじん》をとって」
「ちいッ。ぬかったか」
勝入が、突ッ立ったときである。さらに、聟の武蔵守から、第二報の使番が来た。
「――御猶予《ごゆうよ》はなりませぬ。秀次様の御人数、総くずれと、聞えてまいりました」
物々しい動揺《どよ》めきが、六坊山のいただきに沸《わ》き、つづいて、号令、叱咤《しつた》、武具の音となって、山下の道へながれ出した。
その渦が、陣列をなさないうちに、さきに堀久太郎へ伝令して、久太郎秀政から、使番でもない者が何しに来た――といわれて去った田中久兵衛吉政が、
「一大事一大事」
と、告げ渡って、ここへも飛んで来た。
かれの報は、より詳細だ。しかもみじめにまで殲滅《せんめつ》をうけた秀次隊の運命に、いまは疑う余地もない。
「武蔵守にも告げたか」
「もとよりです。森どのには、即座に、長久手《ながくて》へ向われました」
「聟《むこ》は、何と申した」
「にんまり、御一笑なされて――さらば家康にきょうは見参《げんざん》の日か……と、すぐ馬上へ移られました」
久兵衛からこう聞くと、
「さもこそ」
と勝入も、にことして、肚《はら》をすえたようだった。
かれは、子息の紀伊守之助《きいのかみゆきすけ》や、その下の三左衛門輝政などの年若い者までつれて来ていた。すぐ、旗本の梶浦兵七郎《かじうらへいしちろう》に、その子らの組へ、何事かを、伝えさせた。
覚悟を――たしかめさせる以外のことばではなかったろう。
やがて、陸続《りくぞく》と、甲冑《かつちゆう》の団々たる群れと群れとが、今朝までの方向とは逆に、背進《はいしん》しだした。
途中。かれもまた見た。
ふじケ根山の山かげから、さん[#「さん」に傍点]として、ゆれ現われた徳川軍の上なる金扇《きんせん》の馬じるし[#「じるし」に傍点]を。
それは何か的《まと》の象徴≠ンたいな魅力をもって、曠野《こうや》の士魂を、おののかせた。
一途《いちず》に直進して来た軍と、身をめぐらして、もとへ背進する軍とでは、すでに兵気において心理的な差がある。
回《かえ》し備《ぞな》えはくずれやすい。
馬上、それを鼓舞《こぶ》してゆく森武蔵守は――その姿は、すでに死を期していたかのようなものに見えた。
紺糸《こんいと》の黒皮《くろかわ》のよろい、白地きんらんの陣羽織、かぶとは鹿の角《つの》の前立ち、それを背投げに負い、頭《かしら》は、なお癒えぬ戦傷を、まるで白頭巾《しろずきん》のように、頬へかけて、巻いていた。
かれは、徳川勢の追躡《ついしよう》を知ると、ただちに、生牛《おうし》ケ原《はら》に休めていた第二隊を挙げて、家康ここにあり――と、さし招いている、ふじケ根山の金扇《きんせん》をにらんで、堂々たる決戦の意志を、それへ返してゆく歩武《ほぶ》に示していた。
「不足のないあいて」
かれは何度も云った。
「――羽黒の不覚、そそぐも今日、おれのみならず、舅《しゆうと》どのまでの名折れを、ぬぐうて見せるも、目前の一戦にある」
左右の旗本に、そんな述懐も、もらした。かれが抜け駈けの功を剋《か》ちそこねた羽黒村《はぐろむら》の不覚な一戦は、そのとき五体にうけた手傷以上に、かれの心を、さいなんでいる。
きょうを雪辱《せつじよく》の日となす気が――白布《しらぬの》につつまれた眉に見える。燐《りん》となって、白い炎をたてているように見える。
美男であり、勝入の姫とのあいだには、ほのかな恋のうわさまで立って夫婦《ひとつ》になった彼として――きょうの死装束《しにしようぞく》は、あまりにも悽愴《せいそう》すぎる。
けれど、美男のかれを、鬼とよぶ、いわれは世間になく、かれ自身の性情のうちにあるにちがいない。
「おお、兵庫か。――先鋒《せんぽう》へ報らせはとどいたか」
六坊山からすぐ取って返して来た使番の加賀見兵庫は、主人の鞍わきへ、馬をよせ、歩をそろえつつ、復命した。
「そうか。そうか」
と、武蔵守は、耳だけで聞きとりながら、手綱を打たせて、
「して、六坊山の御人数は」
「すぐ隊伍を立て直され、生牛《おうし》ケ原《はら》、金萩《かなはぎ》ケ原《はら》と、あとに続いて参られまする」
「さらば。第三隊の堀久太郎どのへ、われらは、かくかくに軍勢をまとめ、家康のふじケ根山へ立ち向えば、堀どのにも、引っ返して、助勢あれと、申して来い」
「はっ。ごめん――」
と、前を駆け抜けて、軍より先へ出たとき、池田隊の使番二騎も、勝入から同じむねをうけて、堀隊の所在へいそいだ。
だが、この要求が、堀秀政の容《い》れるところとならず、使番たちが激怒《げきど》して帰ったことは、さきに記した通りである。
「秀政の云い分には……」
と、使番の復命を、森武蔵守がうけとったのは、すでに彼の隊が、狭隘《きようあい》な山あいの湿地《しつち》をふんで、岐阜《ぎふ》ケ嶽《たけ》の上へ、陣場を求めようとして登りかけていた時だった。
金扇の馬じるし、また無数の旗さしもの。その敵は目の前の高地に近々とあった。武蔵守は、他に何の感情もうごかしてはいられなかった。
岐阜ケ嶽――これへ三千の兵を上げて、森武蔵守長可は、ひとまず後続軍の、池田勝入が到着するのを、
「待とう」
と、きめた。
が、大敵は、わずかな低地をへだてて、目前の山に、布陣、しずかにこっちを見ている。
武蔵守も、老臣の林道休や伊木清左衛門《いきせいざえもん》などとはかって、たちどころに備えを終り、将座をえらんで、四方を眺めた。
複雑な地相である。
ここに立てば遠く東《ひがし》春日井《かすがい》平野《へいや》の一端を入口として、長久手《ながくて》の名のごとく、山と山とに狭《せば》められたり、小平野を抱いたり、屈曲したりしながら、やがて南のはるか、岡崎へつながる三河《みかわ》間道《かんどう》が、望まれる。
だが、視野の半ば以上は、山である。嶮峻《けんしゆん》、高岳《こうがく》ではないが、丘とよび、小山とよび、低山という程度の起伏の波が、春を脱《ぬ》いで、ようやく、木々にほの紅《あか》い芽をもっていた。
「見えた」
「おっ。着いた」
兵のうえを、歓呼に似たどよめきが走る。武蔵守は、勝入の顔を心にえがいた。
かれも、それの望まれる位置へ足をうつした。金萩《かなはぎ》ケ原《はら》から山道をふみ、自分がこれへ来た通りの道を、池田軍六千の旗、馬じるし、武器の穂さきも、せいせいと進んでくる。
その幾だん、幾組にもわかれた縦隊は、やがて、こうべ[#「こうべ」に傍点]狭間《はざま》で、歩をとめ、すぐ前の岐阜ケ嶽へむかって、
(われらは来たぞ)
と呼びかけるような、軍の表情を、ざわめかせていた。
使番と、使番とが、矢つぎばやに、行《ゆ》き交《か》いされる。武蔵守の意中、勝入の意中、それも、いわずして、相通じた。
勝入の六千の兵は、ただちに二分された。
約四千は、そこを離れて、こおろぎ[#「こおろぎ」に傍点]狭間《はざま》の低地を北方へ出て行った。そして、田《た》ノ尻《じり》とよぶ高地の東南面に、陣をとった。
陣の主将を示す、旗、馬じるし[#「じるし」に傍点]などを望めば、それは勝入の長男紀伊守之助と、次男|輝政《てるまさ》のいることを宣明している。
これを右翼に。森武蔵守の岐阜ケ嶽三千の兵を左翼に。――そして勝入は、のこる二千人を擁《よう》して、予備隊のふくみを持ち、そのまま、こうべ[#「こうべ」に傍点]狭間《はざま》に、陣どった。
鶴翼《かくよく》の中心――やや退《さ》がったところの、尾の位置に、かれは将座をすえて、
「敵家康は、どう出るか」
と、大きな口をむすんでいた。
陽を仰ぐと、まだ辰《たつ》の下刻《げこく》(午前九時)ごろだ。長い。またみじかい。どッちといっていいか、たれの頭にも、時間の観念が、もういつもの日ではない。
くちが渇《かわ》く。しかし水を欲しない。いや、腰にある竹の水筒を思い出さないのだ。
ふと、山間の無気味なしじまが、肌をしめつける。ひよどりか何か、ただ一羽、けたたましく啼いて谷をよぎる。しかしそれきりだ。鳥類はみな地を人間にゆずって他の平和な山へことごとく移動していた。かれらには、この壮大豪華をきわめての人間の演舞が、何のためにやるのか、不可解にちがいない。
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薫風陣《くんぷうじん》
家康は、すこし猫背ぎみに見える。四十をすぎてからまた肥りかげんで、よろいをつけても、背がまろく、両肩をむっくりと、くわ形の兜《かぶと》の重さに、首が圧《お》しこまれているようなあんばい。
采配《さいはい》を持っている右手も、左手のこぶしも、膝において、ひらき股《また》に、床几へ腰うちかけた姿勢は、余りに前かがみで、何となく、威風にさわるように思われる。
いや、この体ぐせ[#「ぐせ」に傍点]は、平常、客と対坐しても、歩くときでも、そうなのである。反《そ》り身になっていたことがない。
老臣が、何かの折、それとなく注意した。すると家康は、その時は、そうかそうかとうなずいていたが、べつな日、左右の人々との夜ばなしに、こんな述懐をもらしていた。
(何せい、わしは貧乏そだち。また、六歳の幼少より、他家へ人質にとられ、目に見るまわりの人間は、みな自分より威権《いけん》のある者ばかりじゃった。自然、子どもの中でも反《そ》り身に歩かぬくせがついてしもうた。――それと、もひとつの理由は、臨済寺《りんざいじ》の寒室《かんしつ》で勉学するにも、低い経机一ツで、せむしのようにしがみ[#「しがみ」に傍点]ついては書を読んだ。いつの日か、今川家の人質を解かれ、自分の体が自分のものになろうぞ――と、一心にこり固まって、子どもらしい遊戯も出来なんだ……)
かれの今川家時代。
家康は、みずから、その頃のことを忘れまいとしているらしく、かれの人質ばなしは、徳川家の側臣で、聞いていない者はない。
(じゃが、のう)
かれはなお語った。
(――臨済寺の雪斎和尚《せつさいおしよう》にいわせると、禅家では、人相よりも、肩の相――肩相《けんそう》というものをたいへん尊ぶ。肩を見て、その人間が、正覚《しようがく》を得ているやいなや、できておるか、おらぬか、分るそうじゃ。威《い》ありげに反《そ》っても、肱《ひじ》を張っても、肩相から観《み》ると、だめ[#「だめ」に傍点]らしい。……そこで和尚の肩相はいかにと、常々、見ておると、円光のごとく、まろい、やわらかいものじゃ。三千大世界をふところに容《い》れんとしても、反り身では、はいらんのじゃな。対立し、突っぱり合うてしまうらしい。――で、わしはわしのクセも悪うないなと思うようになった。しかし、汝ら、いざ[#「いざ」に傍点]ことある時、一番首でも争わんほどな若者ばら[#「ばら」に傍点]のことではないぞよ。わしには、わしのクセというだけのもんじゃ)
以来、たれもかれの姿勢について、いう者はなかった。ところが、家康も四十をこえ、また貧乏名物の三河がふくれて、次第に、東海の雄《ゆう》たる位置になるにつれて、かれの前かがみの姿が、何となく、大きく、偉なるものを抱擁しているように見え、この姿のあるところ、百難の城中でも、苦戦の戦場でも、つねに、不壊《ふえ》の太柱《ふとばしら》が、でん[#「でん」に傍点]と坐っているような力強さを、たれにも感じさせるのだった。
今も。
ふじケ根山の一端に、かれはその姿をおき、さっきから静かな目をして、見まわしていた。
「ほ。岐阜《ぎふ》ケ嶽《たけ》というか。――あれへ、取りついた人数は、森武蔵じゃの。さては、程なく勝入の軍勢も、どの山かに、備えるであろう。物見っ、物見の者。急いで見てこい」
かれの令に、敵前偵察の死地をさして、わらわらと、駈け争ってゆく勇士が、幾人となく眼の下の坂に見えた。
まもなく、物見の者は、次々と立ち帰って来て、家康に復命した。
もとより、各個のもたらしてくる敵状は、部分部分の情況でしかない。
家康の耳ぶくろは、それを綜合して、あたまに、戦闘をえがいていた。
「藤蔵《とうぞう》は、まだ帰らぬか」
「いかがいたしたか、まだ戻りませぬ」
旗本の面々も、さっきからその菅沼藤蔵《すがぬまとうぞう》ひとりが遅いのを、案じていた。
戦機は、熟しきっている。いつ敵から火ぶたを切るか、味方がうごくか、寸前がわからない。
当然――敵前偵察に行った者たちも、つばめ返しに、帰って来ているのに、若い菅沼藤蔵ひとりが、行ったきりだった。
「捕われたか。打たれたか」
かれを惜しむ思いが人々の眉をかすめる。
藤蔵は、日ごろ小姓組に籍をおいていたが、小牧出陣以来、物見組へはいっていた。
先ごろ、また小牧の対峙中《たいじちゆう》、かれは大胆にも、秀吉方の田中砦《たなかとりで》と二重堀の附近まで入りこんで、白馬に乗った敵将一名を、部下六人で生捕りにし、重大な敵の機密を、家康のものとしたりして、家康も、しかと覚えている若者だった。
「……おや、あれは藤蔵ではないか。そうだ、菅沼藤蔵だ。あんなことをしておる」
山鼻に立った諸将が指さしあって眺めている。家康も、遠くに、かれの影をみとめた。
かれは、騎馬だった。
その馬を、かれは降りている。
地点は、森武蔵|勢《ぜい》の拠《よ》っている岐阜ケ嶽の下――仏《ぶつ》ケ根池《ねいけ》のなぎさ[#「なぎさ」に傍点]である。馬に水を飼い、馬の脚を、水に浸《つ》けて冷やしているのだ。
「悠長なやつ」
と、ふじケ根の味方には、あきれ顔もあったが、
「いや、馬の脚を冷やしているところを見ると、よほど、あなたこなた、湿地、山坂をかまわず、駈け飛ばした揚句《あげく》にちがいない。――もう帰るのだろう」
と、その大胆さに、感嘆する者もある。
池は、敵の目の下だ。バシッ、バシッと、魚のはねるような白い飛沫が立つのは、その敵が、かれを狙撃《そげき》している逸《そ》れ弾《だま》にちがいない。にもかかわらず、菅沼藤蔵は、やがて池へむかって、悠然と、放尿していた。
すむと、それで一息やすめたとみえ、すぐ馬の背に返って、駈け出した。しかし味方のほうへではない。いよいよ深い敵地の中へ。
折ふし、勝入の子息紀伊守が、六千の兵をもって、田《た》ノ尻《じり》へ移動したときなので、その陣容が成るのを待ち、菅沼藤蔵は、そっちへ駈けて行ったのである。
偵察は密なるものときまっているが、この時のかれは、公々然と、敵の左翼陣の前を駈けぬけ、さらにまた、右翼の陣容をグルグル見てまわった。
もとより田ノ尻の池田勢も、気がついていたものの、
「オヤ、変なやつが通る」
「何だろ。あいつ」
「敵じゃないか」
「敵かしら。ただひとりで」
「何か、使いか?」
まさか物見とはたれも思わなかった。藤蔵が自軍のふじケ根山へさして疾風《しつぷう》のごとく駈け出したとき、初めて、バチバチ撃ち浴びせたが、もう間にあわなかった。
やがて、菅沼藤蔵が、無事にふじケ根山の味方の中へもどって来ると、全山の将士は、わーっと、歓呼して、かれを迎えた。
家康も、将座から立ち上がって、かれの復命を待っていた。
「しかと、敵の布陣のうらおもて、見さだめて参りました」
藤蔵はその前にひざまずいて、田ノ尻、岐阜ケ嶽、こうべ[#「こうべ」に傍点]狭間《はざま》の三高地にわたって、三段備え鶴翼《かくよく》の陣をとった池田軍のくばりを、てのひらを指すように、説明した。
その部将は、誰々。
鉄砲隊はどこに多く、槍隊はどこに潜《ひそ》まっているか。
見えない遊軍の有り無し。また士気の如何。――そして、敵の脆弱点《ぜいじやくてん》はどこか。
藤蔵の復命は、微に入り、細にわたっていた。
「ウム、そうか。左様か」
家康も、いちいち得心《とくしん》のていで、うなずいた。ほかの物見と事ちがい、敵前敵中の十七、八町にわたる低地高地を、悠々と、ただ一騎乗りわたして、ぬすみ眼でなく、胆力《たんりよく》で見とどけて来た藤蔵の報告である。家康も、信頼した。
「藤蔵の物見は、きょうの会戦のさい先に、一番首にも、まさる働きぞ。大儀大儀」
褒め惜しみのつよい家康が、こんなに褒めたことは、めったにない。
藤蔵は、面目をほどこしたが、ほかの将士は、いささか嫉妬《しつと》をおぼえないでいられなかった。戦国の荒武者どもにも、男の嫉妬というものはある。かれらは、藤蔵が退《さ》がるのを見て、髀肉《ひにく》をうずかせ、
(なんの、あれしきの働き)
と、燃ゆるがごとき闘志の眼《まなこ》をそろえていた。
時刻は、この頃、すでに巳《み》の刻《こく》(十時)――。敵の旗幟《きし》が目のまえの山々に見え出してから、はやくも二時間ちかく経過している。
けれど、家康は、なおおっとりしたもので、
「四郎左。半十郎。これへすすめ」
と、まだ床几《しようぎ》にかまえたまま、四方を見まわして、うららかな顔していた。
軍奉行《いくさぶぎよう》の内藤四郎左衛門と渡辺|半十郎政綱《はんじゆうろうまさつな》のふたりが、
「はっ」
と、よろいを響かせて、そばへ寄る。
家康は、手の地形図と、現場の附近とを、見くらべながら、
「思うに、こうべ[#「こうべ」に傍点]狭間《はざま》の勝入の手勢が、曲者《くせもの》じゃの。あの二千が、どう動くか、それによっては、このふじケ根も、よい地の理とは申されぬ」
と、ふたりの意見を求めた。
四郎左衛門は、そこから東南の峰をさして、
「つば[#「つば」に傍点]競《ぜ》りの御決戦をお覚悟ならば、ここよりは、あれなる前山、仏《ぶつ》ケ根山《ねやま》の方が、いちだんとよい、御旗場所かとおもわれます」
と、答えた。
「ウム。移せ」
決断は、実に早い。
ただちに陣替えが、行われた。すなわち、北畠信雄の軍を仏ケ根に。家康自身は、前山へと、移ったのである。
ここに立てば、敵の高地とは、まったく、眉を接した近距離にあり、あいだの仏ケ根池、からす[#「からす」に傍点]狭間の低地をへだてて、敵の顔も見え、はなし声まで、風に乗って、相互に聞えそうだった。
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山つつじ
たれは、あの山鼻に。
たれの手勢は、崖下に。
また、誰々は、坂の両わきに、兵を潜《ひそ》めよ。
沢には、なにがしが行け。
鉄砲隊は、やや高目の地に。槍隊は、駈け出しのよい地勢に着け――などと、持ち場持ち場の配置も、のこらず云い渡される。
家康も、見とおしのよい、前山の一角に、将座をすえた。
すると、軍《いくさ》奉行の渡辺半十郎が、
「お馬じるしが高い。――お馬じるしは、もっと木蔭に立てられい」
と、遠くから注意した。
高地と高地との近接戦に、あまりにも、れいれいと、総大将ここにありと、馬じるしをかかげては、鉄砲の集中をわれから求めることになる。
家康も、微笑して、
「しばし、伏せい」
と、小姓へいった。
金扇《きんせん》の馬簾《ばれん》が、ゆらりゆらり、そこから少し山蔭へかくされた頃――仏《ぶつ》ケ根《ね》の山腹から裾にかけて、井伊兵部直政《いいひようぶなおまさ》の赤一色の旗さし物や人数が、岩間岩間を山つつじの花が染めるように、展開していた。
「おう、きょうは井伊が先鋒《せんぽう》か」
「赤備《あかそな》えが、前へ出たぞ」
「眼にこそ、あざやか。だが、働きはどうだろう」
敵も、味方も、そういった。
部将の兵部直政。ことし二十四歳。家康が秘蔵の若者とはたれも知るところ。
つい、今朝までは、旗本のうちに、伍《ご》していたのであるが、日ごろ、使える男と見ておいた家康が、
「きょうこそ、思いのまま、そちの性根《しようね》を出してみい」
といって、手勢三千人をさずけ、きょうの、最名誉であり、また最苦難でもある、先鋒に立たせたのであった。
しかし、何分、若いので、
「老巧の言も聞けよ」
と内藤四郎左《ないとうしろうざ》と高木《たかぎ》主人《もんど》の、ふたりをつけてやった。
田ノ尻にある池田紀伊守と三左衛門輝政の兄弟は、その南高地から、赤備えをながめて、
「あの強がッておる赤隊の出鼻をたたけ」
と、山あいの側面から二、三百の一群と、真正面から約一千の正攻隊を押し出して、まず、ドドドッと、鉄砲の火ぶたを切った。
仏ケ根山も、前山も、それと同時に、迅雷《じんらい》のとどろきを発し、雲を吐くように、弾けむりを、白くひいた。
その硝煙が、うすい狭霧《さぎり》のようになって、低地の池、田の面、蘆《あし》の湿《しめ》り地《ち》などへ降りてゆく下に――早くも、井伊の赤武者が、走っていた。それと先駆を争う黒具足の群れや、雑多な軽兵も――たちまち近づき、距離をつめあって、槍隊と槍隊との、接戦になった。
およそ、武者合戦の、壮絶さは、槍と槍とのたたかいに尽きる。
また、これによって、くずれ立つか、押しきるか、大勢の勝負もわかれる。
井伊隊はここで二、三百の敵を仆した。もちろん、赤武者たちも、無傷ではない。直政の身内の惜しい者も何人となく、討死した。
池田勝入は、さっきから、一作戦を案じていた。
田ノ尻にあるわが子紀伊守と輝政の軍勢が、井伊の赤備えと接戦して、ようやくそこの戦況が激化してゆくのを見て、
「清兵衛、機会だぞ」
と、うしろへ、声を放った。
前もって、約二百の決死組が、槍をそろえて、待機していた。行けっ――と清兵衛からいわれるや否やその一組は、長久手村《ながくてむら》の方へ降りて行った。
勝入の戦法は、こんなときにも、奇手をえらぶ、奇道をこのむ。
かれの性格といえよう。
この一群の奇兵は、かれの策をうけて、長久手を迂回《うかい》し、徳川勢の最左翼――つまり赤備えが挙げて前に押し出したあとを狙って、敵の中核を急襲し、全山の陣容がみだるるを見て――家康を捕捉《ほそく》しようと考えたのである。
ところが、それは、成功しなかった。――途中、徳川勢に発見され、弾丸の集中をうけて、足もとのわるい湿地で立ち往生してしまい、退《ひ》きもならず、進みもならず、惨たる損害を作ってしまった。
また一方。――森武蔵守は、岐阜ケ嶽から、この戦況を見て、
「ああ、ちと早いぞ。なんと、常にも似げなく、舅《しゆうと》どのの、あせり気味なことよ」
と、舌打ちならして、嘆《たん》じていた。
義父の勝入《しようにゆう》よりも、この日は、かえって若いかれの方が、どことなく、落ちついていた。
武蔵守は、きょうを死ぬ日と心中にきめていた。また、多くを見ず、思わず、ただ正面の前山にある金扇の将座だけを、じっと見ていた。
(家康だに打てば――)
という気なのである。
家康もまた、
(森武蔵の陣気《じんき》こそただならない……)
と、岐阜ケ嶽を、どこよりも、監視していた。
そして、物見の者から、森武蔵守のきょうのいでたち[#「いでたち」に傍点]振りを聞いて、
(さては、死装束の用意とみゆる。死を決した敵ほどこわいものはない。あなどッて、死神につれ込まるるな)
と、左右の者へも、戒心《かいしん》を与えていた。
だから、ここの一点の対陣だけは、どっちからも、容易に手出しをしなかった。
武蔵守は、こころに、
(田ノ尻の戦況が烈しくなれば、かならず家康は、坐視していられまい。兵をさいて、加勢を送るだろう。――その潮こそ、討ちこみどころ)
と、相手のうごきを見ているし、家康もまた、
(精悍無比《せいかんむひ》のきこえある鬼武蔵が、じっと、鳴りをしずめておるには、何ぞ、劃策《かくさく》があるにちがいない)
と、容易に、その手はくわないのである。
が――田ノ尻のもようは、武蔵守の期待をうら切って、かえって、池田兄弟たちの敗色が濃い。
(いまは)
と、かれも、待ちしびれを思い断ッた。ところが、そのとき家康のある前山の一端に、今まで、見えずにあった金扇の馬簾《ばれん》がさッと高く揺れあがり、全軍の半分は、田ノ尻へ駈け、のこる半ばの軍勢が、わーっと、声つなみ[#「つなみ」に傍点]をあげて、この岐阜ケ嶽へ、先《せん》を取って、攻めてきた。
森隊も、どっと駈け合わせた。からす[#「からす」に傍点]狭間《はざま》の低地は、駈けあう両軍の兵で、血の卍《まんじ》になった。
銃声は、たえまもない。
山と山とに狭《せば》められた地形の中の決戦なので、馬のいななきも、槍太刀のひびきも、吠えあい、名のりあう武者声も、木魂《こだま》にひびいて、天地の鳴るような、無気味さだった。
すでに、この狭間いったいの地は、戦わざる一陣なく、戦わざる一将も一兵もいない。
そして。
勝つと見えれば崩れ、敗れたかと見れば突出し、いずれの旗色がよいのやら、ややしばらくは晦冥《かいめい》の修羅《しゆら》だった。
この中に、ある者は討死し、ある者は勝《か》ち名乗《なの》りをあげ、また或る者は、傷を負い、卑怯の名をうけ、勇者のほまれを剋《か》ちとり――そして、よく見れば、人間個々が、永世にかけての、奇異なる運命を作っているのでもあった。
妻、親、子ども、愛人、まだ生れない腹の子までの――一個につながる無数の運命も――かかるあいだに、次へ約束づけられている。
ふしぎな、人間の行為。人間が、穴に相寄り、部落をつくり、社会のかたちを持ってから、ついに、その禍《わざわ》いの大を、またおろかさも、知性にわかりきっていながら、なおやめるにやめられないでいるすさまじい宿業《しゆくごう》の修羅。
この中に、戦国の武者ばら[#「ばら」に傍点]は、いかに生き、いかによくこの宿業を果たさんや――とあわれにも、生命を奪いあうのであった。名を美しく、いさぎよく、そして、犬死にならぬ人間の死を、せめては、忠とよび、義とよび、信とよぶ、当時の道義にむすびつけて、仆るるも、頬に微笑を持とうと、希《ねが》うのでもあった。
若き鬼武蔵――白皙《はくせき》の美丈夫《びじようふ》、森長可《もりながよし》の気もちなどがそれである。
かれの若い生命こそ、戦国の苦悶の象徴だった。
恥《はじ》!
この一つが、かれをして、ふたたび平常の世間へ、生きて還ることを、思わせないのである。
それと、男の中の嫉妬。これもかれに、きょうの死装束《しにしようぞく》を、よろわせた一因なのだ。
「家康に会わん」
かれは、誓っていた。
いよいよ乱軍となるや、武蔵守は、母衣武者《ほろむしや》四、五十人ばかりを、両わきにひきい、金扇の馬じるしを目がけて、
「家康に会おう。家康、見参《げんざん》っ――」
と、向うの山へ、駈け渡そうとした。
「やるな、やるなっ」
「鬼武蔵を」
「あの白地陣羽織の駿馬《しゆんめ》を――」
と、かれをさえぎる、甲冑の浪が、そのそばへ、寄っては蹴ちらされ、寄っては、血けむりにつつまれ、悽愴《せいそう》、ことばにも尽きる。
このとき、飛雨《ひさめ》のように、白地きんらんの武者羽織を目標にあつまった銃弾の一つが、かれの眉間に中《あた》った。
面《おもて》をつつんでいた武蔵守の白布が、ぱッと、紅になったせつな、
「ううむッ」
馬上、身を反《そ》らして、四月の空を、この谷あいから一目見て、二十七歳の生命は、手綱《たづな》をもったまま、地にまろび落ちた。
鬼武蔵の乗っていた日頃の愛馬――百段《ひやくだん》――と名のある駒は、かなしげに、竿立《さおだ》ちになっていなないた。
わッと、泣き声に似た味方のおどろきが、すぐ、武蔵守のそばへ駈けより、死骸を肩や手に担《にな》って、岐阜ケ嶽の上へ、引き退いた。
徳川家の本多八蔵《ほんだはちぞう》、柏原与兵衛《かしわばらよへえ》などが、軍功のしるしを争って、
「首をッ」
と、追いしたって来たが、
「くそッ」
主を失って、泣きベソを掻《か》いている母衣武者《ほろむしや》たちは、おそろしい形相で、うしろへ槍を向け直し、からくも、武蔵守の屍を、どこかへ隠した。
けれど、鬼武蔵討たれたり――という声は、全戦場に、一陣の冷風をつたえ、ほかの戦局の不利とともに、たちまち、池田勢のうえに、急転直下の変化をおこした。
ちょうど、蟻《あり》の群れに、熱湯をそそいだように、峰、山道、低地の窪《くぼ》、あらゆる所に、方向のない武者の影が、支離滅裂《しりめつれつ》に逃げみだれた。
「いいがいのなき味方どもよ」
勝入は、徒歩《かち》だちになって、小高い所へ立ち上がり、寂《せき》として、人影まばらな周囲にたいし、憤然と、怒号《どごう》していた。
「勝入は、これにあるぞ。みにくい退きかたをするなッ。日頃をわすれたか。返せッ返せッ」
しかし、かれの左右にいた黒母衣《くろほろ》五十人組も、老臣や諸頭《しよがしら》たちも、ひとたび崩れ立っては、逃げ足が止まらなかった。かえって、まだ年ごろも十五、六の、いじらしげな小姓などが、おろおろ、かれの腰について、
「お馬を召しませ。大殿、お馬を召しませ」
と、迷い馬を、曳いて来て、懸命に主人にすすめていた。
勝入は、坂下のたたかいに、馬を鉄砲で撃たれ、いちど落馬して、敵兵にかこまれたが、必死に、斬りひらいて、ここまで登って来たのである。
「もう、馬はいらぬ。――床几《しようぎ》をかせい。床几はないか」
「はいッ、これへ」
小姓は、かれのうしろへ、床几をすえた。勝入は、腰をおろして、
「四十九年の事、いま終る……」
と、ひとりつぶやき、まだ年少の小姓をながめて、
「そちは、白井丹後《しらいたんご》のせがれであったな。父も母も待っておろう、はやく犬山へ逃げてゆけ。……それっ、弾《たま》がとんでくるぞ。はやく去れ、はやく去れ」
と、泣き顔になるのを、追いやって、いまはかえって、ただ一人こそ、心やすしと、悠然、最後のこの世の景色を、うち眺めていた。
と、すぐ崖下に、咬《か》みあう猛獣のようなうめきと木の揺《ゆ》れが聞えた。まだ、味方の黒母衣《くろほろ》か誰かが残っていて、死闘をふるっているものとみえる。
勝入の面《おもて》は、無感覚にみえる。すでに、勝敗もない。功利もない。現世との淡《あわ》い離愁《りしゆう》が、母の乳の香のする遠い過去までを、ふと、思いかえさしているだけだった。
がさッと、眼のまえの、灌木がゆれた。
「だれだッ」
と、勝入の眼が、くわっと射て――。
「それへ参ったは、敵ではないか」
と、よびかけた。
余りに、落着き払った声と、そこの姿に、近づきかけた徳川方の一武者は、思わず、ギクとして後ずさった。
勝入は、なお叫んで、
「――敵ではないか。敵ならば、わが首を取って、功名にするがいい。かくいう者は、池田勝入であるぞ」
と、催促《さいそく》した。
灌木の茂みの中に身を伏せた武者は勝入の姿をふり仰いで、身ぶるいした。そして、昂《たか》ぶりきった声と共に身を起して、
「おうッ、よいお人と出会い申したり。徳川家の永井伝八郎《ながいでんぱちろう》ッ。見参ッ」
と、槍をつけた。
当然、それと共に、音に聞く猛将の陣刀が、さつ然と、反撥を見せるものとばかり思っていたところ、伝八郎の槍は、そのまま、何の苦もなく、相手のわき腹へ深く通ったので、
「あッ」
と、刺された勝入よりは、かえって、伝八郎の方が、力を余して、前へよろけた。
床几《しようぎ》は仆れ、勝入のからだも槍の穂さきを背に貫かせたまま、ころがった。
「首を打て」
もいちど、彼はどなった。
しかもついに、そうなるまで、かれは太刀に手をかけずにいた。
みずから死を迎え、みずから首をさずけたのである。
伝八郎は、昂《たか》ぶりきって、夢中だったが、ふと敵将の最期のすがたに、その心もちを覚《さと》ると、なにか、人間同士のこうした相剋《そうこく》に、泣きたいような激情をつきあげられ、こめかみ[#「こめかみ」に傍点]から眼の底を、ツンと、涙に刺された。
「おうッ」
と、かれは吠えたが、――そして望外な大てがら[#「てがら」に傍点]に、われを忘れるほど歓喜したが、次に、くだすべき手を、わすれていた。
すると、崖の下から、ガサガサと、先をあらそって駈け登って来たかれの味方たちが、
「安藤彦兵衛ッ、見参」
「上村伝右衛門、これに」
「あッ、勝入か。徳川家の蜂屋七兵衛《はちやしちべえ》ッ」
と、名乗りかけ、名乗りかけて、一個の首を、あばき合った。
首は、たれの手にかけられたか、とにかく、まっ赤な手が、もとどりをつかんで、ふり廻しながら、
「大将、池田勝入信輝《いけだしようにゆうのぶてる》のくび、永井伝八郎、打ったぞッ」
「安藤彦兵衛、打ったりッ」
「上村伝右衛門ッ、勝入の首を打ッた――ッ」
血のあらし、声のあらし、功名慾の自我のあらし。――四人、五人、もっと多くになった一かたまりの武者が、一個の首を中心に、自陣の家康のいる方へ向って、まるで一陣のはやて[#「はやて」に傍点]雲みたいに駈けて行った。
勝入討死――の声は波になって、あなたの峰、こなたの沢、全戦場の徳川勢に、わあっと、歓呼をあげさせた。
声なき人々は、みな池田勢の打ちもらされた人々だった。
かれらは、瞬間に、大地と大空を失って、その生命を託す所を、枯葉のようにさがしまわった。
「ひとりも、生かして返すな」
「追えや、追えや」
勝者は、あくなき勢いを駆《か》って、そのちりぢりなものを、思うままに屠《ほふ》った。すでに自己の生命すら忘却しきっている人々にとっては他の生命を打ち散らすことも、落花に戯《たわむ》れているような心理なのかもしれない。
勝入も果て、鬼武蔵も討死し、のこる田ノ尻方面の一陣地も、いまは、あとかたなく、徳川勢に駈け散らされていた。
そこは、勝入の子の紀伊守之助《きいのかみゆきすけ》と、三左衛門輝政の兄弟が、指揮していた一線だったが、側面の味方の総くずれと、前面からの敵の突撃に、一たまりもなく揉《も》みつぶされて、
「三左。何としたことだろう?」
「兄上。お退《ひ》きなさい。もう、危険です」
「ばかをいえ。勝入の子ともある者が」
「でも、この敗色が立っては、もはや、味方の逃げ足を止めるすべはありません」
ふたりは、あたりを見まわして、寥々《りようりよう》たる味方の影に、歯がみをして、死地はここ、死すは今、と観念した。
兄弟のまわりには、梶浦兵七郎《かじうらへいしちろう》、片桐与三郎《かたぎりよさぶろう》、千田《せんだ》主人《もんど》、秋田加兵衛《あきたかへえ》などの八、九人しか見えなかった。
「長吉《ながよし》は、如何《いかが》した? 長吉は?」
と、兄弟おもいの之助《ゆきすけ》は、ことし十五になる幼い末弟のすがたが見えないので、だれにともなく、こう口走った。
だが、乱軍の中、たれも、知る者はなく、その安否も聞かないうち、またも一群の敵の騎馬兵が、怒濤《どとう》の一呑《ひとの》みを示してここへ向って来るのを迎えた。
「お二方《ふたかた》は、お退《ひ》きなされい。しんがり[#「しんがり」に傍点]は、われわれに、おまかせあって」
旗本たちは、槍ぶすまを作って、防ぎに当ったが、勝ちほこっている精鋭の騎馬隊にたいし、若い主将ふたりの一命を庇《かば》おうとする敗残の数士では、まるで戦闘にならなかった。
片桐与三郎、千田主水など、あっというまに、枕をならべて仆れ、岩越次郎左衛門や秋田加兵衛も、たたかいたたかい、血けむりの叫喚《きようかん》のなかに姿を没し去った。
紀伊守|之助《ゆきすけ》は、備え場から二町もあとへ退《さ》がって、そばを見ると、梶浦兵七郎ひとりしかそばにいない。
「兵七。弟は」
「三左様も、血路をひらいて、遠くへ、お立ち退《の》きとおもわれます。あなた様も、おはやく」
「いや、わしはなお、父上の先途《せんど》を見とどけねばならぬ。父上はいかがなされたやら」
かれはもう一軍の将であるよりも、ひとりの人の子だった。兵七郎の止めるもきかず、また引っ返して、父の陣地の山へ、登って行った。
ちょうどその時、勝入の首を上げた一群の味方とわかれて、ひとり降りてきた徳川家の安藤彦兵衛と、ばったり出会った。
道は急な山腹であった。
おうっと、上から叫び、おうっと下からも叫んだ。相見たとたんに、こう二人の槍は、からみ合って、すさまじい一|旋風《せんぷう》を巻いてたたかったが、紀伊守之助のほうは、当然、その地の理からも、不利をまぬかれず、彦兵衛の槍の下に、ことし二十六歳の若い命を、あえなく、朱《あけ》のよろいにつつんで、最期をとげてしまった。
彦兵衛は、首級《しゆきゆう》をかかえて、
「紀伊守を討ったる者、安藤彦兵衛直次ッ」
と、躍るがごとく、駈け去った。
之助《ゆきすけ》の家臣、梶浦兵七郎は、その敵を、追いかけにかかったが、届かないため、槍を抛《ほう》り投げた。けれどその槍がまだ地へ落ちないうちに、流弾《りゆうだん》のため、どうと仆れて、かれの体も、急な崖をゴロゴロころがって行った。
一方、兄にわかれた三左衛門輝政も、
「父上の安否も知れぬうちに、戦場を退けようか。父上は? 兄上は?」
と、潰乱《かいらん》する味方の流れから駈けもどって、どうしても、退かなかったが、そのうちに、勝入の老臣、伴道雲《ばんどううん》が、来あわせて、
「いや大殿には、矢田川の方へ、はやお立ちのきです。そのお姿を、道雲も、お見かけ申してござる」
と、時にとっての機智で、こう止めたので、輝政も、
「父上が御無事ならば」
と、ついに駒を回《まわ》して、敗走する味方のあとから、共に、逃げ落ちて行った。
――もう、負けいくさ。
と、闘志を失った池田の士卒は、三々五々、田のあぜ[#「あぜ」に傍点]、山の小道、林や湿地のあいだなど、道をえらばず、潰走《かいそう》していた。――その思い思いな人間の流れは、やがて、みな矢田川の岸へ出た。
その中に、勝入の側臣、池田丹後守もまじっていた。これは早退《はやの》きして来たものとみえ、傷手もすくない士卒を四、五十人もつれて、ぞろぞろと逃げていた。
すると、あとから、
「池田丹後よな。丹後、返せッ」
と、ただ一騎で、田の道を、追いしたって来た徳川家の荒武者がある。
大久保七郎右衛門の息子――新十郎忠隣《しんじゆうろうただちか》だった。まだよい敵に会わないで、今朝から不遇《ふぐう》をかこっていたかれは、せっかく、目ざす敵に近づいたとき、あぶみを踏みはずして、落馬しかけた。
「しまった」
と、あせるところへ、また、うしろから退いて来た池田方の一武者が、新十郎のよろいの揚巻《あげまき》を目がけて槍を突きさした。
槍は、わずかに、皮膚をかすって外《はず》れたが、新十郎は、泥田の中へ、ころげ落ちた。
ざッと、泥水が、かれの全姿へも、敵の顔へも、刎《は》ねかかった。逃げ退いて来た敵ではあるが、その男、すこぶる磊落者《らいらくもの》とみえ、突然、わははははと、泥だらけな顔をくずして笑った。そして、田の中の新十郎にむかい、
「おい、小せがれ。汝のような乳くさい青武者の首をとっても荷物になるだけのことだ。首の代りに、逃げるに欲しいこの馬をもらってまいるぞ。――いつか、この馬で、おれがまた戦場へ出たら、取り返すがいい」
と、新十郎の馬へ飛び乗り、ふりむいて、また一笑を与えたまま、さっそうと、駈け去った。
新十郎は、這《は》い上がって、歯がみをかんだが、ふとみると、その敵も、あわてていたか、さきに自分を突きそこねた槍を、地上におき捨てていた。
「いまいましいやつ」
かれは、槍を拾って、歩いて帰った。そして後に、家康の床几《しようぎ》のまえに呼ばれたとき、事の次第を、無念がって話すと、
「そちは、敵に馬を取られたと嘆くが、槍も武者には大事な道具。面目《めんぼく》の上では、まず五分五分の取り換えごとと申してよかろう。よしよし。そう恥じ入るな。萎縮《いしゆく》するな」
と、家康も大いに笑ってなぐさめたという。
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達人眼《たつじんがん》
家康の金扇陣の下には、手柄をみやげに、追々と、ひき揚げてくる諸将がたえなかった。
その中の一人、水野|藤十郎《とうじゆうろう》は、大久保新十郎の顔を見て、
「おう、めでたく、帰られたか。さっき、泥田へ落馬されたときは、あわれ、よい若者をひとり徳川家から失《な》くしたと見ていたが……」
と、かれの無事を祝した。
その藤十郎のはなしで、新十郎の馬を奪って逃げた豪胆《ごうたん》らい[#「らい」に傍点]落《らく》な敵は、池田家の臣でなく、三好秀次《みよしひでつぐ》の家来、土肥権《どひごん》右衛門《えもん》という者であることが分った。
「三好勢は、とくに、長久手《ながくて》から総くずれに逃げ去ったのに、どうして、秀次の家来たる土肥権右衛門が、池田勢のなかにいたのだろう」
と、不審《ふしん》がる声があった。
天野三郎兵衛だの、小栗又市などが、答えた。
「いや、土肥権右ばかりでなく、秀次の家来は、幾人もこの辺の戦場で見かけ申した。そのわけは、秀次の軍が、まっ先にやぶれたのを、しのびがたき恥として、主君も主隊も、楽田《がくでん》をさして、逃げ落ちたあと、ひとり引っ返して、池田勢のうちへ、陣借りして、戦っていたものとみえる」
そう聞いて、人々は、
「道理で、特にかれらは、強かった」
と、思いあわしたが、新十郎も自分の出会ったのが、その一人であったと知って、
「よし、覚えておこう、いつかまた、他の戦場で、きょうの愉快な敵に、めぐり会うことがあるかもしれぬ」
と、忘れぬように、その日、拾い取って来たあいての槍の柄に、
――土肥権右衛門ニ返上ヲ期ス物也。
と、小柄《こづか》で彫りつけておいた。
将士は、こんな話題に、はればれと、勝《か》ち軍《いくさ》のよろこびを沸きたたせていたが、家康を中心とするごく身辺の帷幕《いばく》のうちは、なお、容易に、凱歌《がいか》をあげていなかった。
「すくない。どうも……ちとすくないぞ」
家康は、何か、憂《うれ》いている。
この大将は、よろこびも、かなしみも、めったに、気色にあらわさないのを、普通としていた。
さっきから、かれがしきりに、少ないとつぶやいていたのは、すでにここから幾度も、引き揚げの貝の合図を吹かせているのに、勝ちに乗って、敗軍の敵を追いかけて行った味方が、意のままに帰って来ないのを、案じているらしいのである。
家康は、さっきから、二度も三度も、云っていた。
「勝ちに勝ちを重ねぬものだ。――勝ったるうえに、なお勝とうとするのは、よくないぞ」
かれは、秀吉という名をここでは出さなかったが、あの天性の兵略家が、すでになにか、自軍の大敗北にたいして、一指をこの方角にさしていることを、どこかで、直感していたにちがいない。
「長追いは危ないぞ。四郎左は、行ったか」
「はっ。とうに、御命令をもって、駈けております」
井伊兵部《いいひようぶ》が、答えると、家康はさらに、
「兵部、そちも行け。長追いすなと、騎虎《きこ》の者どもを、叱ッて来い」
と、いいつけた。
いまは見栄《みえ》もなく敗走していた池田方の士卒は、志段味《しだみ》、篠木《しのき》、柏井《かしわい》――と支離滅裂《しりめつれつ》になって、遁走《とんそう》したが、矢田川《やだがわ》を越え得たものは、みな助かった。
「打ちもらすな」
と、追撃して来た徳川勢も、そこの川原まで来ると、内藤四郎左衛門の一手が、横列を作って、各※[#二の字点、unicode303b]、槍の柄を横にならべ、
「止まれッ」
「止まり召されっ」
「長追いは相成らぬと、御本陣からの命でござるぞ」
「長追いは無用」
と、口々に云って、この急追して来た怒濤をあとへ押しもどした。
井伊兵部も、駈けて来て、
「いたずらに勝ち驕《おご》り、なお図に乗って追う者は、帰陣のせつ、軍罰に問わんとの、おことばであるぞ。――もどれ、もどれ」
と、声をからして、味方のなかへ、云ってまわった。
ようやく、騎虎のいきおいは熄《や》み、徳川勢は、矢田川を境として、みなひきあげた。
時刻は、午《うま》の下刻《げこく》(午後一時)ごろであった。
陽は、ちょうど中天《ちゆうてん》。四月初めとはいえ、雲は、夏近いすがたを示し、将士の顔は、どれもこれも、土と血と汗にまみれて、燃えるような色をしていた。
未《ひつじ》の刻(午後二時)――家康はふじケ根山の陣所を降りて、香流川《かなれがわ》をわたり、権道寺山《ごんどうじざん》のすそで、首実検の式をあげた。
今朝から半日の全戦場にわたって、秀吉方の死者は、二千五百余人とかぞえられ、徳川、北畠、両軍の損害は、討死五百九十余人、手負いは、数百名にものぼった。
しかし、秀吉方にくらべて、徳川方の犠牲は、約三分の一強であった。
そのとき、本多佐渡守は、家康へいった。
「この大捷《たいしよう》は、あまり自慢にはなりません。なぜならば、秀吉方の軍勢は、かれが上方からひっさげて来た全兵力の一支隊にすぎないものですが、お味方は、小牧にある全軍をあげてこれへ臨んだものです。――然るに、もし万一のやぶれをここで取ると、お味方にとっては、致命的なものになる。――一刻もはやく、小幡城《おばたじよう》まで、お立ち退きあるが万全かと思われます」
すると、高木《たかぎ》主水《もんど》清秀《きよひで》は、
「いやいや。勝目《かちめ》がついたときは、大胆に、勝目を取っておくのが勝負というものでござろう。――必定《ひつじよう》、秀吉はこの大敗を聞いて、怒りをもよおし、手勢をすぐり、軽装のまま、駈けつけて来るにちがいない。それを迎え打って、一挙に、猿面公《さるめんこう》の首をあげるこそ、兵家の手につば[#「つば」に傍点]して待つところではござるまいか」
その両論にたいし、家康はここでもまた、同じことばをくり返した。
「勝ちに勝ちを重ねぬものよ」
そして、また、
「部下もみなつかれておる。――今にもここへ筑前(秀吉)が砂塵をあげて来ることは確かだが、きょうは早や筑前と会うべきではない。小幡へ移ろう」
と、即座にきめて、白山林の南をとおり、まだ陽もたかい申《さる》の刻(午後四時)ごろ、小牧山のつなぎ[#「つなぎ」に傍点]城《じろ》――小幡城《おばたじよう》のうちへ入った。
つなぎ城とは、繋ギの意味で、出城《でじろ》とも、取出し城ともいったりする。
中心基地の本城から、予想される各戦線の主要地に、足溜《あしだま》りとして、あらかじめ守兵や糧食を入れておく飛び飛びの点≠ナもある。
これは、武田信玄《たけだしんげん》がよく用いた甲州流兵学の特徴であったが、長篠《ながしの》の合戦《かつせん》ののち、徳川家には多くの武田の遺臣が身をよせていたので、家康の戦術には、以来、いちじるしく信玄風が加味されていた。
こんどの場合も、小幡、岩崎の二つのツナギ城が、どれほど大きくものをいったかわからない。
ことに小幡城は、小牧から出て来たときも、ひき揚げにも、ここが家康の完全なる前線基地となって、その進退を、頗る速《すみ》やかにさせたのであった。
「これで、よし」
家康は、小幡城へ全軍を入れ、八方の城門をとじてから、初めて、きょうの大勝を、心から味わったにちがいない。
かえりみても、きょう半日のたたかいには、まず彼としても、
「そつ[#「そつ」に傍点]はなかった」
と、満足を感じたろう。将卒たちの会心《かいしん》とするところは、一番首、一番槍などの手がらにあったが、主将たる者のひそかな満足は、ただひとつ、自分の達見《たつけん》が的中していたと感じるところにある。
だが、達人は達人を知る。この直後の、秀吉のうごき一つに、かれの関心はいま傾注《けいちゆう》されていた。
「……筑前来らば」
と、家康もそれにたいして、変通《へんつう》≠ふくみ、努《つと》めて、こころも体もやわらかにもち、そしてしばしを、小幡の本丸で休息していた。
さて、秀吉は。
かれは、その本拠《ほんきよ》、楽田《がくでん》にあって、池田父子が発向したあと、つまり九日の朝――細川忠興《ほそかわただおき》をよんで、
「ひと当て、当てよ」
と、小牧の攻撃を、急に、命じた。
日根野弘就《ひねのひろなり》にもいいつけ、高山右近長房《たかやまうこんながふさ》にも、同じ命をくだした。
そして井楼《せいろう》(組み櫓)のうえに登って、戦況をながめていた。
増田仁右衛門も、そばにひかえて、はるかを見ていたが、
「あれ。忠興どのの血気、あのように、深入りしても、大事ありますまいか」
細川兵が、余りにも、小牧の敵塁へ近づくのを案じて、秀吉の眼いろを見あげた。
「大事ない大事ない。忠興は若くとも、思慮ぶかい高山右近もひとつに出ておる。右近が行くほどなら、仔細《しさい》はない」
今朝の攻勢は、ここで勝つための攻撃ではない。小牧の敵を牽制《けんせい》するための、秀吉の偽計《ぎけい》であった。秀吉のこころは、遠く、
(勝入父子の首尾《しゆび》いかに)
と、実は、その吉左右《きつそう》のみを、心にかけていたのだった。
すると、午《ひる》ごろ。
長久手からこれへ引っ返して来た数騎があった。どれもこれも、惨憺《さんたん》たるすがたをもち、口々につたえてくることはみな悲報だった。――三好秀次の本軍、総くずれとなり、秀次の生死も知れないとある。
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龍泉寺川《りゆうせんじがわ》
「なに、秀次が?」
秀吉は、正直、おどろいた。――驚くべきことを、驚かないような顔はしていられない彼である。
「さては、ぬかッた」
これが二度目のことばであった。これも、秀次や池田父子のぬかりを罵《ののし》ったわけではなく、自分の落度として、あきらかに、敵の家康の活眼《かつがん》を、ほめたたえるような声だった。
しかし、三度目は、かれのよくやる口ぐせの――
「よし、よし。……」
であった。
「仁右衛門。早貝《はやがい》、早貝」
「はっ」
増田仁右衛門のごときは、事態の重大さに、顔色を失っていたが、主人のよしよしを聞いてから、やや意気をとり返し、命ぜられたまま、貝を持って、やぐらの上から早貝を吹き鳴らした。
秀吉は、たちまち味方の各陣地へ、黄母衣《きほろ》の者を飛ばして、非常令をつたえ、それから、半刻もたたないうちに、二万の兵が、ここ楽田《がくでん》を発して、長久手《ながくて》の方へ、いそぎ出した。
この大きな、しかも急速な大移動を、小牧山《こまきやま》の徳川方の本営が見のがしているわけはない。
家康は、すでにいない。そして留守は、わずかな人数で、守られていたのである。
「やあ、秀吉自身、楽田の軍勢をあらましひきいて、大挙、東の方へいそぐらしいぞ」
留守番の一将、酒井左衛門尉忠次《さかいさえもんのじようただつぐ》は、これを知ると、手を打って云った。
「思うつぼ[#「つぼ」に傍点]よ。秀吉以下、主力の出払った虚をついて、楽田の本営、黒瀬《くろせ》の砦《とりで》など、片ッぱしより焼きたてて、秀吉を、立往生にさせて打ち取らんは今にあり。――各※[#二の字点、unicode303b]、この忠次について、大功をたて給え」
すると、これも留守をあずかる一方の部将、石川数正《いしかわかずまさ》が、正面から反対した。
「なに逸《はや》り給うか酒井どの、秀吉ほどな神算鬼謀《しんさんきぼう》に富むものが、いかに取りいそいで発向したとは申せ、あとの本営に、守りも得ぬほどな将士をのこさずに参ろうか」
「いや、いかなる人間でも、あせり[#「あせり」に傍点]を思うては、日ごろの器量《きりよう》も出ぬものだ。――あの、またたくまに早貝鳴らして打ち出た様子は、さすがの秀吉も、長久手の敗を聞き、狼狽《ろうばい》したさまが、眼に見ゆるようだ。いまを外《はず》して、猿面公の尻に火をつけるときはない」
「浅慮《あさはか》浅慮」
石川数正は、大いに笑って、なお極力、反対した。
「秀吉の手ぐちとしては、むしろ相当な兵力をのこし、われらが、小牧の堅塁《けんるい》を離れて、出たところを、付け入らせるという策をのこしておるやも知れん。――この小人数で打って出るなどは、もってのほか」
評議はまちまち。事態は急である。もし、人々が自我にとらわれていたら、機会は、その人たちのあらゆる考えをみな振りすてて去りかねない。
そのとき、この紛論《ふんろん》に、あいそをつかして、慨然《がいぜん》と、席を突っ立った一将がある。本多平八郎忠勝《ほんだへいはちろうただかつ》だった。
「議論か。いや、議論ずきは大いにしゃべり合っているがいい。この方は、安閑《あんかん》と、こうしてはおられぬ。――おさきへ御免」
かれは、口ベタで、意志の男であった。めんどうくさくなったとみえる。
いたずらに、我説《がせつ》を固持《こじ》して、論争の陣を張っていた酒井忠次も石川数正も、かれが憤然《ふんぜん》と席を蹴ったすがたに、眼をみはって、
「平八郎。どこへ行くか」
と、あわててたずねた。
本多平八郎は、ふり向いて、
「この方は、子飼いからの、殿の家人《けにん》でござる。この期《ご》にあたって、殿のおそばへ参るよりほか、行く所はござらぬ」
と、何かふかく思いきめたように云い放った。
「待て」
と、数正は、単なるかれの血気と見たらしく、手をあげて、制した。
「われらは、殿より小牧の留守をこそ命ぜられたが、勝手にうごけとは、命ぜられておらぬ。まずまず、落着かれい」
忠次も、一しょになって、たしなめた。
「平八郎。今さら、おぬしひとりが参ったとて、何の足しになろう。それよりは、小牧のお留守が大事というものぞ」
すると、本多平八郎は、かれらのせまい考えをあわれむような口辺の微笑をちらとゆがめたが、みな年上の上将なので、ことばはていねいに、こういった。
「いや決して、諸将をかたろうて行くのではござらぬ。各※[#二の字点、unicode303b]は、おこころ任せだ。ただ平八郎としては、いま秀吉が新手の大軍をひきいて、殿の出先へ押しかかるのを見ては、手をこまぬいて、じッと、ここにはいられないというだけのことでござる。――思うてもみられい。夜来、また今朝と、戦いつかれておらるる殿の軍勢へ、秀吉の二万が、敵に加わって、前後からつつみ打てば、何条、御無事でおられようか。平八郎一人たりとも、長久手に駈けゆき、もし殿のお討死とあらば、共に、御死骸をまくらとして、この方も死ぬまでの心得でござる。おかまいあるな」
かれの言に、座中の雑音は、はたと、声をひそめてしまった。
平八郎忠勝は、自分の手勢わずか三百余をひっさげ、小牧から駈け出した。
かれの意気に感じて、石川|左衛門康通《さえもんやすみち》もまた、部下二百余人をつれて、
「この世のおもい出を共にいたそう」
と、決死行に加わった。
あわせて、六百に足らない小人数であったが、平八郎の意気は、小牧を出るときから、乾坤《けんこん》を呑んでいた。二万の敵軍何ものぞ、一猿面公、何するものぞ、という気概《きがい》だった。
歩兵は、軽装とし、旗は巻かせ、馬にムチ打って、一団の砂けむりは、つむじのように、東へ駈けた。
そして、龍泉寺《りゆうせんじ》川の南の岸へ出たとき、秀吉の大軍が、その北岸を、流れにそって、続々、下ってゆくのに追いついた。
「おう、あれこそ」
「金瓢《きんぴよう》の馬じるし」
「群れ立ってゆく旗本どものなかにこそ、秀吉はいるにちがいない」
平八郎以下、息もつかずに、ここまで来て、一川《いつせん》を中に、対岸をながめた士卒は、騒然と、指さしたり、小手をかざして、武者ぶるいした。
おおーい、と呼べば、おおーい、と敵からの声もとどいて来そうな距離である。その敵の顔顔顔、二万の足音にまじる無数の馬蹄のひびき。それも、川をこえて、こっちの胸へこたえて来る。
「左衛門、左衛門」
平八郎は、うしろから来る馬上の石川|康通《やすみち》へ呼びかけた。
「おウい、なんじゃ、平八」
「左衛門。対岸を見たか」
「いや、おびただしい大兵じゃの。この龍泉寺川の長さよりも長く見える」
「あはははは。さすがは秀吉、わずかな間《ま》に、これだけの大兵を、手足のごとく、速《すみ》やかにうごかして来たのは手際《てぎわ》といえる。敵ながら、賞《ほ》めておこう」
「さっきから、打ち眺めておるが、秀吉は、どの辺におろう。あの金のひさご[#「ひさご」に傍点]の馬じるしの見えるあたりか」
「いやいや。おそらく、他の騎馬武者のなかに、姿を没しておるにちがいない。――鉄砲の的《まと》になるような所に、のんのんと、馬を進めておるわけはない」
「敵の士卒も、急ぎに急いで、早足だが、みな、こっちを向いて、いぶかしげな顔をしておる」
「左衛門。われらの、ここになすべきことは、秀吉をして、この龍泉寺川の道を、寸時でも、ひまどらせることにある」
「かかるのか」
「いや、敵は二万、味方は五百余人、かかったところで、ほんの一瞬《いつとき》、ここの川面《かわも》を、赤く染めてしまうだけだ。討死は、覚悟だが、その死を、できるだけ有効にして死なねばならぬ」
「おお、さすれば、長久手《ながくて》にある殿の軍勢も、充分、備えをあらためて、秀吉を待つ余裕を生じるわけだの」
「そのことよ」
と、平八郎忠勝は、馬のくらをたたいて、うなずいた。
「長久手の味方に、時をかせがすため、われらは、死をもって、秀吉の足にくい下がり、すこしのひまでも、秀吉の進撃が、おくるるように励むのじゃ。左衛門、その心得で、働こうぞ」
「よし、わかった」
左衛門康通と、平八郎忠勝は、ちょっと、馬首を横に向けて、
「鉄砲隊は、三段にわかれ、道をいそぎながら、交互、一組ずつ折敷いて、対岸の敵を、撃ち浴びせては、進んで行け」
と、いう命をさずけた。
川水の早さにも似て、敵は、向うの岸を急いでいるので、こっちも、それと同調して、急ぎ足をつづけているため、挑《いど》むにも、作戦するにも、また隊伍の編制替えも、すべて駈け足をとりながらやらねばならぬ。
――が、この命令一下とともに、三段になった鉄砲隊は、まず、その第一組から、水ぎわ近く折敷いて、ドドドドッと、撃ち始めた。
水辺なので、銃声は、何倍にも大きくひびき、弾《たま》けむりが、ばくばくと、幕をひいた。
すぐ、その組は、先へ駈け出し、次の組が、銃口をそろえる。そして駈け出すと、またすぐあとの組が代って、対岸へ撃ちあびせる。
秀吉方の人数の中に、バタバタと、仆れる影が見えた。
あきらかに、急行軍中の列は、動揺し出した。何か、ののしり騒ぐ声と、そして動作とが、手にとるようにわかる。
「や。何者か、あれしきの小人数をひきいて、挑《いど》みかかっておる者はいったい誰か」
秀吉も驚いたらしい。非常なおどろきの眼を放って、おもわず駒をそこに止めた。
浅野弥兵衛《あさのやへえ》、有馬刑部《ありまぎようぶ》、山内猪《やまのうちい》右衛門《えもん》、片桐助作《かたぎりすけさく》など、かれの駒をつつんでいた諸将や近衆《きんじゆ》なども、共に手をかざして、対岸を見たが、秀吉の問いに、すぐ答えられる声もなかった。
「さてさて、不敵な奴もあるものよ。千にもたらぬ小勢をもって、筑前のこの大軍にたいして、けなげなる振舞いをなす者。敵なればなお、名を知っておかねばならぬ。――たれぞ、あの敵将を見知っている者はないのか」
秀吉は、なお前後の味方を見まわして、しきりに、それを訊くのだった。
すると、前列の方で、
「存じておりまする」
と、いう声があった。
見ると、美濃安八郡曾根《みのあはちごおりそね》の城主で、こんどの大戦にあたり、秀吉のために、老躯《ろうく》をひっさげて、途《みち》の案内に立ち、終始、かれのそばにあった稲葉伊予守入道一鉄《いなばいよのかみにゆうどういつてつ》であった。
「おう一鉄。そちは川むこうに見ゆる敵将を、たれなるか、見知っておるや」
「されば、あの鹿角《かづの》の前立《まえだ》て打ッたる兜《かぶと》と、白糸おどしのよろいには、すぐる年、姉川《あねがわ》の合戦で、しかと、見覚えがござりまする。――彼こそ、家康の股肱《ここう》の臣《しん》、本多平八郎にちがいありませぬ」
聞くと、秀吉は、今にも、涙のたれそうな眼をして、
「ああ、剛気《ごうき》なやつよ。一をもって万に当る。平八郎とやらは、まさに、大丈夫というべき者だ。おのれは、ここに死して、一刻たりと、われを龍泉寺川に阻《はば》め、主人家康をのがれしめんとする心根のいじらしさよ」
そう、つぶやいてまた、
「あわれ、あわれ。たとえ、彼奴《きやつ》よりどんなに撃ちかけてまいるとも、味方は、一矢一弾も、かれに放つな。……他日、もし縁もあらば、この筑前の家中に加えて、愛《め》づべき男……撃つな撃つな、見すてて行けやい」
こういう間も。
もちろん、対岸からは、容赦《ようしや》なく、三だん交代の銃手が、弾《たま》ごめせわしく、撃ちつづけていたし――その一、二弾は秀吉のそばをかすめた程だった。
そして、秀吉が、眼をこらして見ていた装《よそお》いの武者――鹿角のかぶとをかぶった平八郎忠勝は、そのとき、水ぎわへ寄って、馬から降り、馬の口を、川の流れで洗っていた。
一川をへだてて、秀吉もかれを見、平八郎も、あきらかに、秀吉ありと見ゆる一群が、馬を止めているのを、じっと、眺めているふうである。
「ひともなげな態度」
「小憎い敵」
秀吉軍の一銃隊は、あわや応戦の火ぶたを切りかけたが、秀吉は、ふたたび、
「本多にかまうな。ただ急げ、先へ急げ」
と、全軍を叱咤《しつた》して、いよいよ馬を早めた。
それと見て、対岸の平八郎も、
「やるな」
と駈け足になって、道の先をとり、龍泉寺附近で、ふたたび物すごく挑戦したが、秀吉は、相手にせず、まもなく長久手ノ原にちかい一山へ陣地をとった。
目的地に着くやいな、秀吉はすぐ、堀尾吉晴《ほりおよしはる》、一柳市助《ひとつやなぎいちすけ》、木村隼人佑《きむらはやとのすけ》の三部将に、
「長久手から小幡へひき揚げてゆく徳川勢を、見かけ次第打ってとれ」
と、いいつけて、三隊の軽騎兵群を、その方角へ駈けさせた。
ここ龍泉寺山は、その直後に、かれの本陣となり、赤い夕陽の下に、二万余の新鋭が、いざ、主力と主力との雌雄《しゆう》を決せん――と、きょうの勝てる敵家康へ、雪辱《せつじよく》の意を示して、展開した。
「大物見《おおものみ》」
と、秀吉は呼んだ。小坂甚助《こさかじんすけ》、天野源《あまのげん》右衛門《えもん》のふたりが、物見頭となって、まもなく、小幡城の方へ潜行する。
そのあとで、秀吉は、ただちに、全軍にわたる作戦行動の案をねっていた。――ところが、その命令のまだ発せられないうちに、
「家康の姿は、すでに、きょうの戦場には、見えません」
と、いう飛報がはいった。
「そんなはずはあるまい」
と諸将もうたがい、秀吉も沈黙していると、さきに長久手へ向けた木村、一柳、堀尾などが、駈けもどって来て、
「敵のツナギ城小幡へさして、家康以下の主力はすでにひきあげました。われらは、小幡へ駈けおくれた敵のこぼれに出会ったのみで、せめて、もう半刻も早かりせば――と、残念ながら立ちもどりました」
と、口々にいう。
それでも、約三百人の徳川兵を、打つには打ったものの、目ぼしい将は、その中にいなかった。
「おそかったか」
と、秀吉は、やり場のない怒気《どき》を、あきらかに、面《おもて》に燃やした。天野、小坂の物見の復命も、
「小幡の城は、かたく城門をとじ、もはや、もの静かに見うけられました」
と、家康がそこに引き取って、悠々《ゆうゆう》と、きょうの勝ち軍《いくさ》を味わい、身をやすめている様を、証言した。
秀吉は、複雑な感情のうちに、おもわず、家康のために、手を打って祝してしまった。
「さすがは家康。よくも逸早《いちはや》く、ツナギ城へ引き取って、誇ることなく、城門を閉じたことよ。さてさてモチでも網でも捕《と》れぬ男ではある。……だが見よ、やがて、幾年か後には、その家康に長袴《ながばかま》をはかせて、秀吉のまえに、礼をとらせてみせるであろう」
ときすでに薄暮《はくぼ》であり、夜に入っての城攻めは、兵法の禁もつとされているし、長駆《ちようく》、楽田から息もつかずに来た人馬なので、こよいの行動は一時見あわせ、
「兵糧をつかえ」
と、いう命に変った。
宵の空に、おびただしい炊煙《すいえん》がたちのぼった。
小幡の偵察隊は、その様子をすぐ、家康に知らせた。
家康は、眠っていたが、その情報に起されて、そう聞くと、
「さらば、われらは」
と、急に、小牧山へ帰る発令をした。
水野、本多、その他の諸将は、夜半、秀吉の龍泉寺山を夜襲しようと、極力、すすめたが、家康は笑って、しかも、まわり道して、小牧へ去った。
[#地付き]新書太閤記 第十巻 了
吉川英治歴史時代文庫31『新書太閤記(十)』(一九九〇年八月刊)を底本