吉川英治
新書太閤記(十一)
[#表紙(表紙11.jpg、横140×縦140)]
目 次
黒石《くろいし》・白石《しろいし》
戦《せん》 算《さん》
大蟹《おおがに》・小蟹《こがに》
老《お》いらくの将《しよう》
女弟子《おんなでし》
内《うち》と外《そと》
姉《あね》の子《こ》
矢田《やだ》川原《がわら》
熱鉄《ねつてつ》を呑《の》む
表裏《ひようり》の北陸《ほくりく》
迷《めい》 霧《む》
奥村夫妻《おくむらふさい》
つなぎ烽火《のろし》
雪《ゆき》の迷路《めいろ》
北風南波《ほくふうなんぱ》
鳴門陣《なるとじん》
雑魚《ざこ》・大魚《たいぎよ》
笑《わら》い候《そうら》え
君《きみ》と一夕《いつせき》の会《かい》
関《かん》 白《ぱく》
忍《にん》の人《ひと》
若《わか》き日《ひ》の幸村《ゆきむら》
冬《ふゆ》の風《かぜ》
二《ふた》つの世間《せけん》
強引《ごういん》・強拒《ごうきよ》
禁園《きんえん》の賊《ぞく》
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新書太閤記(十一)
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黒石《くろいし》・白石《しろいし》
ぜひもなく秀吉もまた、軍をかえして、楽田《がくでん》へひきあげた。
彼が舌を巻いて嘆じて云った――モチにも網にもかからない家康と、またふたたび、小牧《こまき》において、にらみあいの対峙《たいじ》をつづけるほかなかった。
こうして、長久手《ながくて》の一戦は、池田勝入父子のあせり[#「あせり」に傍点]に大きな敗因があったにしても、秀吉にとって、重大な黒星であったことは、いなみ得ない。
だが。
こんどに限っては、終始、秀吉のほうが何となく、その序戦の前からすべてに立《た》ち後《おく》れをとっていたのも事実である。
それは、秀吉が、戦場における家康を見て、初めて、モチにも網にもかからない男だと知ったのでなく、戦わざるうちから、家康の何者なるかを、熟知《じゆくち》していたためだった。
いわば、達人と達人、横綱対横綱の、立ちあがりにも似ていた。
(途中の小城に目をくるるなよ。道くさすなよ)
と、あれほど、出撃のさいに秀吉が勝入へいっておいたにもかかわらず、勝入が、岩崎城の城兵から挑《いど》まれて、一《ひと》もみになどと踏みつぶしにかかったことも、帰するところ、勝入の人物が、それだけの器《うつわ》だったというほかはない。
器《うつわ》――
こればかりは、生れついた量を、急に、大きくさせようとしても、どうにもならぬ。
家康も器。秀吉もひとつの器――。この対照が、このいくさを、決定する。
長久手の総くずれを聞いたとき、秀吉は、実は、しめたと、手にツバしたほどだった。家康が、かたい殻《から》を出たので、勝入父子の討死こそ、家康を生《い》け捕《ど》る好餌《こうじ》になったぞ――と思ったからであった。
ところが、敵は、火のごとく出て、風のごとく去り、去るや林のごとく、また小牧へ退いては、泰然《たいぜん》と、前にもまさる山岳の重きを見せてうごかない。
秀吉は、脱兎《だつと》を逃《のが》した感じだった。だが、かれはみずからなぐさめた。
「ちょっとした指の怪我《けが》ではあったよ」と。
たしかに、かれの兵力と物質上には、大した損害でなかったにちがいない。しかし、精神的には、家康の陣営をして、
「猿面公《さるめんこう》。いかがでおざる」
と、いわぬばかりな凱歌のほこりを揚げさせた。
いや、この黒星は、その以後の長い――秀吉と家康とのあいだにかかる交渉と、両者の心理に、生涯なんとなく、胸のうちに継続していた。
しかし、家康もまた、
「筑前という人間は」
と、いよいよかれを見るに、大器量《だいきりよう》の男となし、それを向うにまわした自己の宿命に、ふかく意を用いずにいられなかったろう。
とにかく、長久手半日の激戦以後は、どっちもまた大事をとって、ひたすら一方のうごきを見、その機に乗じようとする呼吸ばかりで、かりそめにもヘタな攻撃はいずれもやらない。
誘いは、くり返された。
四月十一日、秀吉が、全軍六万二千を、小松寺山《こまつじやま》まで出したなども、その手だったが、小牧山の表情は、静かな微苦笑にすぎなかった。
その後また、同月の二十二日には、こんどは家康の方から誘いを仕掛けた。
小牧の徳川勢と信雄《のぶお》勢が連合《れんごう》して、一万八千人を十六編隊にわかち、二重堀の前から、東へ出て、
「出《い》でよ、秀吉」
とばかり、つづみを鳴らし喊声《かんせい》をあげ、先陣に酒井左衛門、井伊兵部《いいひようぶ》などを立てて、しきりに挑《いど》んだ。
二重堀の柵は、堀秀政《ほりひでまさ》と蒲生《がもう》氏郷《うじさと》が守るところ。敵の鼓騒《こそう》するのをながめて、
「われを、あなどるもの」
と、秀政などは歯がみをした。長久手以来、秀吉の麾下《きか》は、三河武士の手なみにふかく怯《お》じたぞと、敵は、声を大にして云《い》い囃《はや》しているからだ。
だが、秀吉からは、命をまたず、みだりに兵を動かすべからず――と厳命されているので、ただ、伝令をすぐ本陣へ飛ばして命令を待つしかない。
この日、秀吉は、小松寺を本営として、於通《おつう》をあいてに、碁《ご》を囲んでいた。
於通の碁は、秀吉よりも、はるかに強かった。
このあいだから、よいなぐさめを見出したように、ひまがあると、於通と碁を打っていたが、まだ、かの女に一度も勝っていなかった。
「そもじは、碁の天才というものじゃろ。碁打ちになれ、女の碁打ちに」
と、いったりした。
於通は、秀吉を、子どもあしらいに、笑って、
「ちっとも、わたくしが強いのではございませぬ。世にも、おめずらしいほど、殿さまが、おヘタなのでございます」
「ばかを申せ。高山右近、蒲生《がもう》飛騨《ひだ》。あれらは、青いが、浅野弥兵衛《あさのやへえ》すら、わしには、折々、負けおる」
「ホ、ホ、ホ。碁は、勝つこともでき、負けてあげることもできるものでございますもの」
「女性のくせに、そもじの碁はちと、きつすぎる。石の音まで、冷たいぞ」
「もう、於通と、碁をかこむなどと仰っしゃらずに、碁を習うと仰せられませ」
「この女童《めわらべ》が、どれ、もう一局まいれ」
こんなふうに、碁にかかれば碁に、女にかかれば女に、眼もなく、他意もなく、遊び呆《ほ》うけて見える彼だった。
そこへ、使番が、
「おびただしき徳川勢が十六隊にわかれ、たった今、小牧を出て、二重堀のお味方に近づきつつあります」
という報《し》らせを、悍馬《かんば》に汗して告げて来た。
秀吉は、ちょっと、碁盤から眼をあげて、
「家康も出たのか」
と、使番にきいた。
「徳川どのは、出馬とも相見えません」
すると、秀吉は、すぐ指のあいだにあった黒石を、パチと、盤へ打って、そのまま他を見ずに云った。
「家康が出たら報《し》らせい。家康が陣頭に出ぬかぎりは、秀政、氏郷、おもいのまま、戦うもよし、止《や》めておるもよい」
同じころ、小牧の家康の方へも、前線の井伊兵部、酒井左衛門から、
「いまこそ、御出馬の機。――すぐ御出馬あらば、きょうこそ、少なくも秀吉勢の中堅に致命《ちめい》を与え得ること疑いもありません」
と、二度も使いを飛ばして、催促《さいそく》した。
すると家康もまた、
「秀吉はうごいた? なに、小松寺山《こまつじやま》にあると。では、自分が出るには及ばん」
と、ついに小牧を出なかったという。
ずっと、後年になって。
何かの折、すでに太閤《たいこう》となった秀吉と、大納言《だいなごん》家康とが、小牧のいくさ語りに、その日のことを回顧しあって、
(なぜ、徳川どのは、あの折、出馬されなかったので)
と一方がたずねると、
(いや、そのたずねは、家康からも、おきき申したいことでした。自分の考えでは、もし、あなたが一歩でも、小松寺山から出たと聞いたら、ただちに小牧を発して、鯛網《たいあみ》を曳かせるつもりでおざったが、鯖子《さばこ》や鰯《いわし》ではと……さし控え申しておざる)
(ははは。何と、似たようなことを仰せらるる。秀吉もあの日、小松寺にて、女童《めわらべ》をあいてに、碁など打ち申していたが、もし徳川どのが、馬を出されもせば、一挙に、関東諸州は、わがふところの物と、実は、盤に打っていた碁石も、人知れず、手あぶらに濡れ光っていたものでおざったが……。やんぬるかな、打ちわかれの、碁となってなあ)
と、両雄が、胸と胸をひらきあって、ほんねを語りあったということである。
とにかく、こんなふうに、小牧戦はまた、千日手《せんにちて》のくり返しに、固着していた。
秀吉は、そのあいだに、長久手戦の賞罰をあきらかにし、加増、恩賞のことなどには、特にこころをくばったが、ひとり甥《おい》の秀次《ひでつぐ》にたいしては、まだ、一片のことばもかけていなかった。
秀次も、長久手から逃げ帰ってから後は、叔父にたいして、まがわるい気もちらしく、いちどは、秀吉のまえに出て、
「もどりました」
と、帰陣のあいさつを行い、つづいて、その日の敗北の理由や、自分の立場を、説明しようとしたが、秀吉は、座にいた諸将と話してばかりいて、秀次の顔も見なかった。
それにひきかえ、かれは、
「勝入を死なせたは、秀吉のぬかりでもあった。若年、彼がまだ池田勝三郎の時代から、貧乏も、夜遊びも、戦《いくさ》も、女買いも、共にやって来た男だけに、秀吉にとっては、何とも、忘れかぬるぞやい」
と、主従にして、むかしから友でもある彼のことを、人々に語るごとに、眼に涙すらたたえるのだった。
「於通《おつう》」
一日《あるひ》。――かれは自身、こまごまと書面をしたためて、
「大垣《おおがき》まで、筑前の名代《みようだい》として、使いに行ってこい。正使には、浅野|弥兵衛《やへえ》をつかわす。弥兵衛についてまいるのじゃ」
と、いいつけた。
秀吉が、かの女にもたせてやった手紙は、大垣の城にある亡き池田勝入の妻と、その母とへ、宛てたものであった。
ここ、大垣の城は、ひそと、声もない、喪《も》の城であった。
城主の勝入をはじめ、嫡男《ちやくなん》の紀伊守《きいのかみ》や聟《むこ》の森《もり》武蔵守《むさしのかみ》まで、一時に三名の柱が、長久手に戦死して、のこるは、若い三左衛門|輝政《てるまさ》と、まだ十五歳の長吉《ながよし》だけとなった。
勝入には、まだ、老いたる母があり、未亡人となった勝入の妻とふたりで、以来、城内の持仏堂《じぶつどう》にひきこもって、涙の日ばかりを送っていたが、突然、
「筑前守さまの御名代として、浅野弥兵衛さまがお越しあそばされました」
とのことに、老母と、未亡人は、まだ小牧のいくさもただならぬうちに――と、おどろき畏《おそ》れて出むかえた。
浅野弥兵衛は、主人の秀吉に代って、このたびの池田家の愁《いた》みを、心からなぐさめて、
「あとあとのことは、かならず御心配ないように。また、御遺族がたには、ひたすらお体をお大事にされたいとの、おことばでした」
と、伝えた。
そして秀吉からの、心入れの品々を、三つの位牌《いはい》に供《そな》えた。
弥兵衛と共に、副使《ふくし》として同行してきた於通は、そのあとで、女は女同士、こまやかな思いやりのうちに、
「秀吉様にも、明けてもくれても、惜しい父子《おやこ》を死なしたと、何につけても、勝入様のおうわさを持ち出され、お若いころの、むかし語りまで、私たちも、よくお伺いしておりまする」
と告げて、秀吉の直筆になる二通の手紙をふたりへ渡した。
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――このたび、勝入父子の事、なかなか申すばかりもござなく候。おちから落し、御しうたんの程、すいりやう申候(後略)
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と、秀吉の筆は、両女のむねを察して、こまごまと書きつらねている。
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ただ三左衛門、長吉の両人は何事もなく、われらも嘆きの中のよろこびとは此事にござ候。せめて、両人を取りたてて、勝入の御法事をも送り申すべく(中略)おん女房衆も、それにて力づけ給はるべく候
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また未亡人へあてた方の手紙には。
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――勝入を見まゐらせ候とおぼしめし候て、ちくぜんの守を御覧《ごらう》じ候はば、何やうにも、御ちそう申し、もの詣《まゐ》りをも致させ候やうにいたし候べく、たべ物などもきこし召し、身をがんじように、なされ給ふべく候
[#ここで字下げ終わり]
こう書いて、なお、
(自分の代りに、弥兵衛をつかわしたが、何ぶん、まだ戦のさいちゅうだから、いずれ寸暇《すんか》ができたら、見舞うてやるぞ。くれぐれからだを大事にせよ。そのうち、淋しくもあろうから、甥《おい》の秀次《ひでつぐ》を、また留守番にやろう。孫七郎め(秀次のこと)も、いのち助かり、せめて、おんとぶらいぐらいには行かねばすまぬ。くわしいことは、弥兵衛になお申しふくめた。何とか、そのうちお会いして、ねんごろに、おん物語りしたいとおもうている……)
というようなことを、めんめんと、女の身になって、云い送っているのであった。
秀吉の手紙を読んで、勝入の老母や妻が、どんなに泣いてよろこんだか、励まされたか、いうまでもない。
「三左も来やい。長吉も来て、お手紙を拝見したがよい」
老母は、孫の二人を始め、多くの女房たちや、重なる遺臣たちも、そこによび集めて、
「筑前さまのお手紙ぞや。これは、ひとりわが身たちへ給うたものではない。さきに勝入と共に、あえなく散った家中の士の女房たちへも下された――ねんごろなお文であるぞや。……そのつもりで、みな聞きなされ」
と、告げた。
泣きくれている老母や妻に代って、大勢の男女をまえに、於通がそれを読んで聞かせた。
於通は、菩提山《ぼだいさん》の松琴尼《しようきんに》の手許で、源氏《げんじ》の素読《そどく》を習っていた頃のような調子で、それを読んだ。
かの女が読むと、かの女の感情が、文を生かして、わずかな辞句《じく》にも、深味が加えられ、聞く者みな、涙をながした。
良人をなくし、子を死なせた、家中の者の遺族のうちでは、声をあげて、泣くのもあった。
いや、正使として来た、浅野弥兵衛までが、もらい泣きして、懐紙《かいし》に顔をつつんだ。
無事、慰問も終ったので、使者たちは、あくる日の早朝、大垣《おおがき》を立った。
すると。
大垣城を出たときから、見えかくれに、使者の一行について行く者があった。
たれも気がつかなかった。
しかし、於通は、すぐ気がついていた。
(三蔵らしい……)と。
けれど、そ知らぬ顔して、かの女は、駒にゆられていた。
五月にちかい野の道を、馬でゆく旅は戦争を忘れさせる。かの女は、さき頃、この曠野《こうや》を、ひとりで幾日も幾夜も迷いあるいたことを思い出した。そして、その時は、青鷺《あおさぎ》の三蔵が恃《たの》みだったが、いまは、うるさい、やっかい者と、眉をひそめた。
木曾川《きそがわ》に出、犬山《いぬやま》の渡しを待つあいだ、人々は、川原で休んだ。
かの女の駒に付いていた口取の小者が、馬糧《まぐさ》を飼っているあいだを、かの女も、草の穂に戯れながら、そこらを、すこし歩いていた。
「おひい様」
草の中で、声がした。
「三蔵だね」
と、於通は、自分の方から云ってやった。
「――なんです、まるで道中かせぎの悪者みたいに、ひとの後を、見えかくれに、尾《つ》けて来たりして」
「だって、おひいさん」
三蔵はおそるおそる草むらから身をのばし、あたりを見ながら寄って来て、
「ほかに、お連れ様が、大勢いるじゃございませんか。ですから、人目をしのんで来たんですよ」
「なぜなの」
「なぜって、ほかの衆に知れちゃあ、おひい様、あんたが、きまりが悪いでしょう」
於通は、何のひびきもない顔して、
「三蔵。どうして、私が、きまりが悪いわけがあるの。……連れの人たちにたいして」
と、問いかえした。
「でも……何でしょう」
そういわれては、三蔵も取りつくすべもなかった。
「でも。……何なの? 三蔵」
「……でも、おひい様、あなたに、三蔵みたいな男があるってことが、人に知れちゃあ、いけないでしょう」
「男って、おまえ、秀吉様をはじめ、陣中は、あらかた男ばかりですよ。それなのに、どうして、おまえ一人が、男だから、人目を、憚《はばか》らなければいけないというのですか」
三蔵は、いよいよ目鼻をまごつかせた。そして、余りに白々しいかの女の取り澄ましかたに、すこし、むかついて来た。
「まア、そんなこたあ、どうでもいいや。――それよりは、おひいさん。三蔵と約束したことを、約束どおり、ひとつ果たしてもらいたいもんだ」
「約束」
「とぼけちゃいけねえよ」
「あ。一しょに都へ行こうといった……あのことね」
「そうですよ。三蔵は、そればかりを楽しみに、きょうまで、待っていたんですぜ。……池田家の軍勢について、長久手《ながくて》までは、いやおうなしにくッ付いて行ったが、いいあんばいに、敗《ま》け軍《いくさ》となったので、いのちからがら舞いもどり、何とか、おまえ様へ、便りをする工夫はないかと、考えていたところだった」
「この於通に、便りをして、どうするつもりだったのです」
「知れたことじゃねえか。都へ行って、世帯をもち、夫婦たのしく、暮すのさ」
「おや、三蔵、おまえひとりで、夢でもみるの」
「じょうだんじゃねえ。小野の里を逃げ出した晩から、ちゃんと、約束を交《か》わしたろ」
「めっそうもない。おまえのような野良《のら》息子と、たれが夫婦のちかいなどするものですか。――都へ出たいのは、かねがね、私の望みではあるけれど、そんな目的で、云ったのではない。おまえは、路銀もたくさん持っているというし、途々《みちみち》の用心にも、おまえがいれば、何かにつけ都合がよいから、一《いつ》しょに家を出たまでのこと」
「な、なに」
三蔵は、けんまくを変え、
「じゃあ何か、於通、てめえはおれを、だし[#「だし」に傍点]に使っただけだというのか」
「なんです、その容子《ようす》は。おまえは、わたくしの乳母の子ですよ」
「乳母の子が、どうしたっていうんだ。やい、おれを、あまく見るなよ」
「主すじの姫へむかって、いわしておけば、慮外《りよがい》なことを」
「ふ、ふざけるな。もう、堪忍ならねえ。さ、おれと来い」
「どこへです」
「おれの女房だ。だまって、おれについて来りゃあいいんだ」
三蔵は、かの女の腕くびをとらえて、脅《おど》しつけた。
「もん句は、あとでいえ。きょうは、離さねえぞ」
「何をするの、三蔵」
「来いっていうんだ。さ、来やがれ」
「無礼でしょう」
於通は、振りほどいて、むしゃぶりつく三蔵の胸を、突きとばした。
三蔵は、くちを噛んで、
「よしっ、こうなれや、腕ずくでも、連れてゆく」
於通のきき腕を、小脇にとらえ、男の力で、駈けようとした。
於通は、大きな声で、助けをよんだ。
かの女のすがたを探していた浅野弥兵衛は、
「や。狼藉《ろうぜき》をうけておる。はやく参って、痴《し》れ者《もの》を追え」
と、供の武士へ云った。
槍が四、五本駈けて行った。
三蔵は、ふり向いて、
「こいつは、いけねえ」
と、うろたえたが、せっかく捉《とら》えた於通の腕に、未練を見せて、
「よくもおれを、だましやアがったな。みろ、きっと、思いとげて見せるから」
と、於通の白い手くびへ、咬《か》みついて、あざらかな歯型を与えた。
悲鳴をこらえて、於通は身をねじまげた。その体を、突き仆して、
「阿女《あま》。わすれるなっ」
三蔵は、捨てゼリフを投げ、脱兎《だつと》のごとく、草の波を蹴って、逃げ去った。
「どうなされました」
武士たちの二人は、三蔵を追ったが、とどかなかった。あとの者は、かの女をいたわって、川原の渡し口に待っている弥兵衛のそばへ連れて来た。
弥兵衛も、舟を渡しながら、舟の上でたずねた。
「於通どの。いまの男は、何者じゃの」
「乳母の息子で、それはそれは極道な、困り者でございます」
「そなたの乳母の子か。――すると、乳兄弟じゃないか」
「ええ、そうです」
「それが何で、そなたへ、あんな乱暴を働きおったか」
「金をくれいの、一しょに、都へ行こうのと、つねづね、難題ばかり申すのです。ところへ私が大垣のお城へ姿を見せたものですから、いい事にして、あとをつけて来たのでございましょう」
弥兵衛は、心に、おどろいているふうだった。
大垣城内での、物ごしといい、秀吉の手紙を一同に読んで聞かせた態度といい、いまの乱暴者にも、すこしも事に動じない容子《ようす》が、弥兵衛には驚異だった。
(これは風変りな婦人だ。いや、まだ小むすめだが、近ごろの若い女子《おなご》とは、こうしたものか)
つくづく感心したような面持《おももち》である。感心といっても、意外な感を持ったにすぎないが、弥兵衛はひそかに、
(主君も、妙な女性に、興味をおもちになるものだ……)
と、秀吉のすきごころに、思わず微苦笑をおぼえたものだろう。かれは、秀吉の妻の妹の良人。内輪《うちわ》の縁者だけに、秀吉のその道にかけてのクセは、たれよりもよく知っていた。
「もどりました」
浅野弥兵衛は、帰陣するとすぐ、秀吉の前へ出て、大垣城の遺族たちのもようを、こまかに復命した。
於通も、共に、
「みな、涙にくれておよろこびでございました」
秀吉の手紙が、いかに勝入の遺族たちをなぐさめたかを、こまごま云いたした。
「よかったよかった」
秀吉も、心の重荷が下りたような顔をした。人のよろこびを喜ぶ性情のつよい彼は、人のかなしみにも、ひとしい同痛《どうつう》を抱くらしかった。
「弥兵衛。そちは、休め。それから、秀次をよんでくれい」
「かしこまりました。しかしこの戦場、わずかな所へ、使いに参ったぐらいで、休息などをいただいては」
「まあよい。小牧の敵も、ここ数日、のびのび手足を伸ばしておるあんばいだ。退がって、くつろぐがいい」
まもなく、弥兵衛に代って、三好秀次《みよしひでつぐ》が、ここへ来た。
「秀次。お許《もと》はな、兵をまとめて、明日から大垣の留守番にゆけ。大垣の家中は傷手《いたで》も多く、残った老母や女房どものほか、三左衛門|輝政《てるまさ》と、末子《ばつし》の長吉《ながよし》だけでは、守備もさびしかろうほどに」
「はい。……」
秀次は、何か、もっと云いたげであったが、依然として、まだ叔父秀吉の気色《けしき》がわるいので、命をうけると、そのまま退出した。
――こらえているのだ。
秀吉の方こそ、何か、肉親の秀次にたいして、一喝《いつかつ》、云いたいところらしいのを、抑えておられるにちがいない。
於通の、かしこい眼は、そばでそう眺めていた。
案のじょう、秀次が立ってゆくうしろ姿を見ていた秀吉の顔には、苦々《にがにが》しげなものが、にじんでいた。
於通は、それと見て、
「殿さま。碁はいかがでございます」
と、すすめた。
「――囲碁《いご》か」
と、気を直し、
「持ってこい。いつぞやは、負けつづけたが、一手、思案をかえたぞ」
と、さっそく、盤《ばん》にたいして、烏鷺《うろ》を闘《たたか》わせ始めた。
白い石、また、黒い石が、点々とふたりの構想を描いて行った。めずらしく、秀吉の石に、ねばりがあり、於通も勝つになかなか骨が折れた。
「きょうは、妙な日です」
「なぜじゃ」
「殿さまの石が、ちがって参りました。こんなに、お強い殿ではなかったのに」
「そう、思えたか。よし」
石を投じて、その日は、ただ一局でやめてしまった。
何思ったか、秀吉は、
「大浦《おおうら》に、砦《とりで》を築け」
と、急に、積極的な命令を出し、つづいて翌々日の四月|晦日《みそか》、
「明日こそは、家康を降《くだ》すか、秀吉がやぶるるか、一期《いちご》の大決戦をこころみん所存である。よく寝て、心支度、おこたるな」
と、ひそかに云い渡した。
あくる日は、五月一日。
きょうこそ大決戦が行われるものと予期して、昨夜来、準備おさおさ怠りなかった諸軍は、やがて、陣前に秀吉の姿を見、その命ずる令を聞いて、呆然《ぼうぜん》とした。
「大坂表へ立ち帰るぞ。諸軍も順次をたてて引きあげい」
と、いうのである。
「黒田官兵衛《くろだかんべえ》、明石与四郎《あかしよしろう》の二隊は、二重堀、田中などの兵をひきまとめ、青塚《あおづか》のとりでに収めよ」
また、次の指令が出た。
「日根野兄弟《ひねのきようだい》、長谷川秀一《はせがわひでかず》は、中軍につけ。しっぱらい(殿軍《しんがり》のこと)は、細川忠興《ほそかわただおき》、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》のふたりがせよ」
ゆるぎ出した総軍六万余。
西へさして、背進《はいしん》を開始したのである。これが、夜明けの日の出ごろ。
なお、べつに、楽田《がくでん》には、堀秀政《ほりひでまさ》を、犬山城には、加藤光泰《かとうみつやす》をのこし、そのほかの兵はすべて、木曾川を渡り、かがみケ原を通過して、大浦へはいった。
この突然な総ひきあげは、諸将にとって、秀吉の真意が、どこにあるかを、疑わせた。
「ほんとに、おひきあげかの?」
と、途々《みちみち》も、ささやきあい、
「まったく、われらの凡慮《ぼんりよ》では、おし測《はか》れぬものがある」
と、嘆じさせた。
だが、秀吉の馬上の顔は、この日、いつもより一《いつ》そうさばさばとしていた。かれのそばには、碁相手の於通が、やはり馬上の男姿で共に手綱を打たせたが、時折、その於通と、平日のように笑いばなしなどしていた。
「於通。きのうのわしの碁《ご》が、常よりも強かったわけがわかるか」
「さ。わかりませぬが」
「なんでもない。ふと、気をかえる――ということを考えついただけのことじゃ」
「気をかえる……? と仰せられますのは」
「故信長公は、物事に、決して固着せぬお方であった。万象《ばんしよう》はつねに生々流々《せいせいるる》として動いておるもの。それを、人間はつい、動かぬもの、動かしがたい現実と考えて、固着する。……悪い病《やまい》だと仰っしゃるのだ」
「むずかしいおはなしですこと」
「いや、やさしい。……それを難しゅう観《み》る、考える、そこに病《やまい》が生じる」
「碁のおはなしではないのですか」
「同じじゃよ。……小牧山はおもしろい碁であった。だが、家康も固着し、秀吉も固着し、両軍、ああした形となっては、これは、抜くにかぎると、ふと思いついた」
「抜くとは」
「息をよ。……そして、気をかえて、出直すのだ。そのあいだに、自然なる時のうごきが、新しい局面をひらいてくれよう」
きき耳たてて聞いていた前後の諸将は、
「なるほど」
と、うなずいた。そして、小牧の空をふり向いたとき、ぞくと、何か身のひきしまる思いがした。
秀吉はいとやすやすというが、これだけの大軍を引きあげるのは、進撃以上のむずかしさがある。しっぱらい(殿軍《しんがり》)の任は、そのゆえに、至難中の至難とされ、よほどな剛気と勇猛の士でなければ、その大役は果せぬものといわれている。
小牧山の本営は、この朝、秀吉の大軍が、せい然と、西へひき揚げてゆくのをながめて、
「あれよ、羽柴筑前をはじめ、上方勢はことごとく撤退《てつたい》してゆく」
「いやいや。よもや秀吉が、ここを引き払う気づかいはない」
「不審《ふしん》、不審」
と、みな疑心暗鬼《ぎしんあんき》にとらわれて、変《へん》を、家康へ告げた。
「すわ、敵の戦意は、くじけたにちがいない」
と、なみいる諸将は、こぞって、
「ここを、追い撃ちすれば、上方勢は、支離滅裂《しりめつれつ》となり、お味方の大勝はうたがいもありません」
と、おのおの出撃すべしと気負《きお》い立って、令を求めたが、家康はいっこうよろこぶ気色もなく、また、追い撃ちも、断じてゆるさなかった。
かれは、秀吉ほどな者が、理由なく、大兵を撤退するわけはないと思った。そして、自軍には、守るに足る力はあるが、何らの条件もない曠野《こうや》に出て、かれと戦うには、なお力が足らないことを知っていた。
(いくさは、博奕《ばくち》ではない。これだけのものを、どうころぶか出る目の知れぬ運命に賭《か》けてよいものか。運命が自分をめぐんで来たときのみに手を出してつかめばよい)
かれは、冒険ぎらいである。またかれはよく自分を知る者であった。
その家康とは、まったく正反対なのが、北畠信雄《きたばたけのぶお》であった。
父の信長の偉大な声望と天質が、なお自分にもあるかのように、信雄はつねに錯覚《さつかく》をもっていた。この時も、かれは、他の諸将が、家康から、追いうちは相成らぬ――といわれて沈黙しているにもかかわらず、なお進んで、
「兵は、機を尊ぶとかいう。せっかくの、この天与《てんよ》の好機を、むなしく、手をこまぬいて、見ておるのは、いかがと存ぜられる。――ぜひ、信雄には、追い撃ちを、おまかせありたい。何としても、この機会は、見のがしかねる」
と、云いつのった。
家康は、二、三の言をもってそれを諫《いさ》めたが、信雄は、いつになく勇気を表に示し、また理論的なことばをもって、家康の制止を、だだっ子のように、きかないのであった。
「では、ぜひもない。お心まかせに」
と家康も、その失敗を知ってゆるした。信雄は、ただちに自軍をひきいて、秀吉軍のあとを追った。
「平八郎。お守《も》りに行け」
そのあとで、家康は、本多平八郎に、一手の兵をさずけて、また追いかけさせた。
果たせるかな、信雄は、秀吉軍のしっぱらい細川忠興《ほそかわただおき》と、途上に戦って、一どは優勢に見えたが、たちまち撃破され、かれにとって大事な家臣の、大槻助《おおつきすけ》右衛門《えもん》を討死させ、またその他の家臣をおびただしく失った。
もし後から、本多平八郎の助勢が来なかったら、信雄自身も、決死の殿軍《しんがり》――細川忠興や蒲生《がもう》飛騨守《ひだのかみ》のよい功名にされたかも知れなかった。
ほうほうのていで小牧へ逃げ帰った信雄は、さすがにすぐ家康の前へも出なかった。
が、家康は、平八郎からくわしく、もようを聞きとった。べつだんな容子《ようす》もなく、
「さもこそさもこそ」
と、わずかに、うなずいたのみである。
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戦《せん》 算《さん》
引き揚げるにも、ただは引き揚げない秀吉であった。
かれの大軍は、途々《みちみち》、
「よい土産《みやげ》はないか」
と、獲物《えもの》を求めた。
木曾川の左岸――清洲《きよす》ノ城から西北の地に、加賀野井城《かがのいじよう》がある。
これは、信雄の一翼で、信雄の重臣、加賀野井重宗《かがのいしげむね》や、神戸正武《かんべまさたけ》などがたてこもって、万一に備えていた。
「あれを取れ」
と、秀吉は、梢《こずえ》の柿でも指さすように、諸将に令をくだした。
大軍は、大浦《おおうら》を出て、木曾川《きそがわ》をわたり、聖徳寺《せいとくじ》に布陣して、目的にかかった。
一陣、細川|忠興《ただおき》、二陣に蒲生《がもう》氏郷《うじさと》。
秀吉は、予備軍の中にあって、四日の朝から攻撃をひらいた。
時々、かれは馬をすすめて、富田《とんだ》附近の山から、合戦を見ていた。
五日の戦闘で、城主の重宗《しげむね》は、討死をとげたが、落城には、六日の暁までかかった。
「忠三郎《たださぶろう》(氏郷)の働きを見とどけたぞ。見事なりしぞ。忠三郎」
秀吉は、このときの殊勲者を、彼なりとして、大いに褒《ほ》めたが、氏郷は、
「いや実は、自分の母方の叔父にあたる千草大学《ちぐさだいがく》と申す者こそ、私に、功を立てさせてくれた者です。ねがわくば、大学の罪をゆるし、大学をお取り立てくだされば、氏郷のよろこび、これに過ぎるものはございません」
と賞を辞退した。
仔細をたずねると。
氏郷は、叔父が、城中の一将として、たてこもっているのを知り、ひそかに、使いをやって、必然な時代の趨勢《すうせい》と、無用の死は、真の勇者のとる道でない所以《ゆえん》を説いて、城の一門を、戦わずに、解かせたのであった。
「そうか。忠三郎もいつのまにか、この筑前の手ごころを習《まな》びおるの。――戦わずして勝つ。いくさは、そうなくてはならん」
秀吉は、わけを聞いて、なおさら氏郷の功を、称《たた》えてやまなかった。そして、
「叔父の大学とやらを引いて来い。目通りを得させ、用いてやる」
と、かれの乞いをも容《い》れたが、千草大学は、氏郷がむかえに行っても、
「いやだ」
といって、どうしても、秀吉の前へ出なかった。
「筑前どののえらさは、かねがね人知れず慕《した》ってもいたが、自然なるめぐり合わせから、かりそめにも、敵として立ったからには、武人として、お目にかかるのは、身の恥だし、第一、甥《おい》の氏郷にとって、将来、肩身をせまくするであろう。氏郷の節操のためにも、わしは、筑前どのへ仕えたくない」
そういって、大学は、一個の身だけをもって、山野へ去り、後、僧門の人となって生涯を終った。
加賀野井城を落した秀吉は、さらに眼を転じて、
「あれも、途《みち》のついでに」
と、対岸の、竹《たけ》ケ鼻城《はなじよう》を、攻めに寄せた。
加賀野井、竹ケ鼻、二つの城は、ここ木曾川をはさんで、尾州口《びしゆうぐち》を堅守《けんしゆ》する姉妹城《しまいじよう》なのである。――秀吉は、ここを攻めるのに、武力を用いず、長堤《ちようてい》を築かせて、木曾川の水をそそぎ入れた。かれの得意とする水攻めをもって落した。
城は浮巣《うきす》になった。
城兵は、水に追いあげられ、屋根の上や、樹のこずえのほか、居る所もなくなった。
「この武器、この士魂も、いかにせん」
と、城将の不破広綱《ふわひろつな》は、筏《いかだ》に白旗をかかげて、みずから秀吉の陣に赴《ゆ》き、
「自分の一命をもって、城中二千の生命は、お助けねがいたい」
と、降《こう》を乞うた。
秀吉は、乞いをゆるし、城兵すべてを、解散した上、一柳市助《ひとつやなぎいちすけ》の部隊を入れて、不破広綱にむかっては、
「城兵から見れば、御辺《ごへん》は、二千の生命の恩人じゃ。とく退散せよ」
と、役をも解いて、放してやった。
秀吉は、多芸郡《たきごおり》の要所に、後日のための塁《るい》を築かせて、十三日、大垣《おおがき》まで帰った。
大垣の城では、さっそく遺族の――勝入の母や、妻と会い、
「日のたつほど、お淋しくあろ。しかし、末たのもしき三左衛門輝政《さんざえもんてるまさ》や長吉《ながよし》もおること。なお若木の育ちを楽しみに、四季の花々なども見て、余生を仲よくお暮しあれよ」
と、なぐさめた。
さきの慰問使といい、こよいのことといい、老母も、勝入の妻も、みじんの悔いものこせなかった。秀吉はまた、輝政、長吉の兄弟をよんで、
「しっかりやれよ」
と、励まし、その夜は、自分も家族の一人となって、勝入《しようにゆう》のおもい出ばなしに夜を更《ふ》かした。
「この筑前も、小男の方じゃが、勝入も小男じゃったな。あの小男が、諸将、集会のときなど、酔うとすぐ、怪態《けたい》なかっこうで、よく槍踊りをやったものよ――お許《もと》たち、家庭の者には、見せたこともあるまいが」
などと、まねして見せて、家族たちを、笑わせた。
数日を、特に、この城にいて、やがて二十一日、近江路《おうみじ》へ入り、その月二十八日、大坂城へ、帰り着いた。
かれの軍が、大坂へもどると、難波《なにわ》の津から一変した新しきこの大都市の住民は、道や城の附近へ押し寄せ、夜まで、歓呼《かんこ》していた。
金城《きんじよう》大坂の大規模な築城企画は、すでにその景観のあらましを竣工《しゆんこう》し終っていて、夜ともなれば、八層《はつそう》の天守閣《てんしゆかく》、五重の城楼《じようろう》、本丸、二の丸、三の丸にわたる無数の狭間《はざま》狭間から、あかるい灯が、夜空をかざり、東は大和川《やまとがわ》、北は淀川《よどがわ》、西は横堀川《よこぼりがわ》、南は大空濠《おおからぼり》を境として、この世の物か、と疑われるばかりな夜景を現出していた。
ことに、こよい。
秀吉をめぐる老母や、夫人の寧子《ねね》や、たくさんな近親たちが、どんなに、かれを迎えていることだろうか。
また、かれの供について、小牧から来た於通《おつう》も、幼少の頃、信長の安土《あづち》の城にいたことはあっても、この大坂城の雄大さと、内部の金壁《きんぺき》の美には、眼をうばわれて、おそらく、その夜は、茫然《ぼうぜん》としていたことであろう。
秀吉は、現地を去って、心機一転の「出直し」策をとったわけだが、一方の家康は、その変化にたいし、どういう動きを示したろうか。
かれは坐して、秀吉の引き揚げを見送った。
また、味方の加賀野井城や、竹ケ鼻城の急変を聞いても、家康はついに、援軍を送らなかった。
「なんたることだ」
と、信雄の麾下《きか》の内には、憤慨《ふんがい》する声もある。
しかし北畠信雄は、家康の制止もきかずに、秀吉の引き揚げに追い打ちをかけ、かえって、返り討ちの憂《う》き目にあい、本多平八郎に助けられてやっと帰ったところである。そのため、何となく、みずから発言権も失ったかたちで、陣中、気まずいものがただよっていた。
こういう同舟異夢《どうしゆういむ》の食いちがいが、内部にかもされやすいことは、連合《れんごう》軍の弱点である。
まして、こんどの大戦の主体者は、信雄であって、家康ではない。
家康は、信雄のために、義を唱《とな》えて、援《たす》けに起《た》ったという――いわば協力者の立場にあるので、なおむずかしいところがある。
「秀吉が大坂にあっては、伊勢方面にも、いつ何事が起るやもしれませぬ。いや、先頃からもう味方にとっては、おもしろからぬ形勢が現われておるところ。……中将《ちゆうじよう》の君《きみ》(信雄)には、一刻もはやく、長島《ながしま》の御本城へお還《かえ》りあるこそ然るべく存ずる。あとは、家康が、しかと要害《ようがい》をかためておきますから」
家康はこうすすめた。
それを機《しお》に、信雄は、自軍をまとめて、まもなく、伊勢の長島へ帰還《きかん》した。
その後も、家康はなおしばらく、小牧の営にふみとどまっていたが、彼もやがて、酒井忠次《さかいただつぐ》をのこして、清洲城《きよすじよう》へ退いた。
清洲の士民も、大坂ほどではないが、凱歌《がいか》して、家康をむかえた。
「お味方は勝ったぞ」
「あきらかに、徳川どのの大勝じゃ。上方勢は、攻めあぐねて、退《ひ》きおった」
長久手《ながくて》の大勝利が、つよく伝えられていたので、帰還した将士も、迎える領民も、みな徳川軍の完勝を謳歌《おうか》して、誇りあった。
家康は、その軽浮《けいふ》な驕《おご》りを、戒《いまし》めて、近習《きんじゆ》の口から諸士へ伝わるように、わざと話した。
「先頃の一戦は――武門の上では、わが勝ちであったが、城地、領土の損得においては、秀吉に実利を取られておる。うかうかと、虚名《きよめい》に酔うて、よろこび呆《ほ》うけてはならぬ」
事実――
しばらく戦《いくさ》のなかった伊勢方面は、この間に、秀吉の別動隊が、峰ノ城を陥《おと》し、神戸《かんべ》、国府《こう》、浜田《はまだ》の諸城をも乗っ取り、次いで、七日市《なのかいち》ノ城も攻め潰《つぶ》していた。
いつのまにか、伊勢全土は、秀吉方の手に移っていたのである。――しかもなお、この方面からの火勢はやまず、清洲と長島の要鎮《ようちん》であり、沿海の主要地でもある蟹江城《かにえじよう》にまで、今や、異変が起ろうとしていた。
信雄にとっても、家康にとっても、蟹江の危急は、母屋《おもや》の廂《ひさし》の火であった。
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大蟹《おおがに》・小蟹《こがに》
滝川一益《たきがわかずます》の名は久しく世人から忘れられている。いや、時間的には、そう年月を経ているわけでもないが、時代の急革《きゆうかく》は、ほんの短日月にも、そう感じられるのである。
かれの存在は、去年、賤《しず》ケ嶽《たけ》の戦につづき、かれが一味した柴田勝家《しばたかついえ》や神戸信孝《かんべのぶたか》が、相次いで滅亡したときから――忽然《こつぜん》と時代の中心から抹消《まつしよう》されていた。
その以前、信長の在世中には、柴田、丹羽《にわ》、滝川と、際立《きわだ》って、羽振りのよかった一人だけに、かれの没落は、また一歩の時の推移を思わせたものだった。
ところが。
その過去の人となりかけていた滝川一益の名が、突《とつ》として、こういう事実から聞え出した。
「蟹江城《かにえじよう》の内部へ手をまわして、ひそかに内輪から、切り崩しにかかっている者がある。……どうも張本《ちようほん》の人物は、蟹江を守る前田|種利《たねとし》と遠縁《とおえん》の関係にある滝川一益らしい」
噂は、もっぱらだったが、まだ、表面化するまでにはなっていない。
当時、滝川一益は、いつのまにか、伊勢の神戸城《かんべじよう》へ入っていた。
去年、失脚《しつきやく》の後、かれは越前大野郡《えちぜんおおのごおり》に蟄居《ちつきよ》していたが、先ごろの秀吉対信雄家康――の紛争が険悪となった頃、秀吉は、それに使いをやって、
(ここで一働きしては如何)
と、不遇《ふぐう》な心境へ水を向けて引き出し、策をさずけて、伊勢方面へ、隠密《おんみつ》に、別行動をとらしておいたものなのである。
不遇なものほど、不遇に伏すまいとする運命への、片意地がつよいものらしい。
一益は、先年の逆運《ぎやくうん》を、
(ここで、ひとつ)
と、挽回《ばんかい》にあせった。
折もよし、信雄の重臣で、蟹江の城主だった佐久間甚九郎《さくまじんくろう》は、信雄の命で、萱生《かよう》の築塁《ちくるい》に出張し、留守には、前田|与十郎種利《よじゆうろうたねとし》が、わずか三百人ぐらいな部下をもっているにすぎない。
(どうだ、寝返って、羽柴筑前どのに、加担《かたん》しないか。衆目《しゆうもく》の見るところ、十指のたとえ。秀吉公の将来と、信雄卿の将来とでは、比較にならぬ。いまが、考えどきだぞよ)
一益は、従兄の与十郎種利へあてて、こう密書をかいた。また、どんな重賞でも、自分が仲へはいって、保証すると、約した。
与十郎は、その弟たちと相談の結果、
(よろしい。お味方へ加わろう。秀吉公へ、よしなに取り次いでもらいたい。そして、迅速《じんそく》に、大軍をこの方面へ、お向けあれ)
と、承諾《しようだく》のむねを云いやった。
一益は、心中、
「わが事成る」
と、よろこんで、即刻、これを秀吉に通報し、伊勢の鳥羽港《とばこう》にある秀吉方の水軍、九鬼嘉隆《くきよしたか》と会談して、
(まず、長島《ながしま》と清洲《きよす》のあいだに兵を上陸させて、信雄と家康とを中断してしまうがよい)
と、策をきめた。
六月の十四日に、鳥羽港を発した船団は、十六日のまだ朝霧《あさぎり》のふかいうちに、蟹江《かにえ》の沖に影を見せ、一益は、軽舟に兵をわかって、すぐ上陸し、兵七百をひきいて、難なく、蟹江城へ入ってしまった。
「まず、上首尾」
一益は、与十郎と、手をにぎって、ほくそ笑んだ。たしかに、ここまでは、上首尾だった。
蟹江からわずか小一里、蟹江川の同じ蘆荻《ろてき》に沿って、大野《おおの》ノ城がある。
もとより、ほんの小城にすぎないが、清洲と長島との脈絡《みやくらく》を中断するには、いかにも邪魔《じやま》な地点にある。
「目ざわりな小城。攻めたものか。説《と》いたものか」
一益《かずます》が、気に病むのを、前田|与十郎《よじゆうろう》は、笑って、説明した。
「あれには、山口重政《やまぐちしげまさ》がいるが、この城には、重政の老母が、人質として来ておれば、よも、敵対はなりますまい」
「では、使いをやって、説いてみよう」
滝川一益は、与十郎を味方にひき入れた手と同じ手法で、山口重政へも、利をもって、誘いをかけた。
使者にえらばれた吉田小助《よしだこすけ》という武者は、馬をとばして、大野川《おおのがわ》の堤をいそぎ、やがて、川を距《へだ》てて向うの城へ、
「重政どの。重政どのへ、もの申さん」
と、大声で云い入れた。
「おお、何だ小助」
城の狭間《はざま》から、山口重政が、顔を出して答えるのを見て、
「やあ、重政どのか。おん身と拙者とは、年来の親友。殊に、おん身の老母は今、蟹江ノ城にあるので、この急場《きゆうば》を賢明な御思慮によって、過《あやま》らぬよう、一ムチ打って、申しに来た」
「御苦労、御苦労」
重政は遠くで笑いながら、
「何を云いに来たか、こっちでは分っておる。聞けよ小助。日ごろの朋友《ほうゆう》も、義なければ、アカの他人だ。――汝《なんじ》らは、長年うけた君恩をうらぎり、利に走って、蟹江ノ城を売ったな」
「いや、不義ではない。蟹江の城主|佐久間甚九郎《さくまじんくろう》どのは、家臣を愛さず、日頃からうらみに思っていた者が多いため――ついにこんなことになり終った。重政どの、御辺も、われらと共に滝川どのの手引に応じ、羽柴筑前《はしばちくぜん》どのの味方になれ」
「だまれ、小助。重政には、骨がある」
「といっても、蟹江にある御老母をどうするおつもりか」
「……や、やかましいッ」
と、重政は、涙をふって、泣き顔を、ひっつらせた。
「き、貴さま如き、義も恩も知らぬ人間から、武門の難に立った母と子の心がけを、講釈《こうしやく》してもらおうとは思わん。人非人《にんぴにん》めが、恥を知れッ」
それきり顔をひっこめてしまった。
すでに、山口重政の所へは、きのう、萱生《かよう》にある主人の佐久間甚九郎から、
(海上に、おびただしい炊煙《すいえん》や兵船の影が見える。思うに、沿海をうかがう敵の水軍かも知れぬ。油断すな)
という密報が来ていたし、蟹江《かにえ》の様子も変だったので、充分、覚悟していたところだった。
午《ひる》すぎ、また、川向うの堤のうえに、千賀新左衛門《せんがしんざえもん》という蟹江の武者が来て、重政を呼び出し、吉田小助と同じように、老母の生命や、報酬《ほうしゆう》の利をもって、かれを説《と》いた。
「また来たか。うるさい、虫けらども」
重政は、鉄砲でそれに答えた。千賀新左は、馬を撃たれたため、徒歩で逃げ帰った。
こういう中で、重政にとり、うれしいこともあった。
それは、蟹江の城にいた奥山次《おくやまじ》右衛門《えもん》という、かれの同僚で、次右衛門は、主人から預かっている蟹江城が敵に売られ、滝川勢が入って来たので、夜中ひそかに、妻子をつれて、この大野城へ、逃げ走って来たのである。
「城は売られても、身は売らん、山口殿、二人でここを死守しよう」
次右衛門のことばに、重政も泣いてよろこんだ。
「あれだけいる蟹江の留守衆の中で、ほんとの人間は御辺ひとりだったか。――いや、おたがい、日頃は、親友だの、刎頸《ふんけい》の友《とも》だのと、云いあっているが、こんな時にでも会さなければ、ついに、真の友も、真の主従も分らないところだった。――其許《そこもと》、たった一人でも、真の人間がいてくれたことがわかって、死ぬにも、世の中が、明るい気がする。何しろ、御辺が来てくれたのは、千人力だ、笑って死のう」
と、二人は、満足を感じあって、すぐ戦備にかかった。
すでに、その頃、大野川の下流から、無数の兵船が、滝川勢をのせて、みずすまし[#「みずすまし」に傍点]の群のように、ここへ遡江《そこう》して来るのが見えた。
滝川勢は、船から、大野ノ城を見て、
「これやあ、城とも呼べない小城じゃないか。陪臣者《ばいしんもの》の佐久間の家来が住むにはかっこうな虫籠《むしかご》だ。踏みつぶすには、半刻《はんとき》ともかかるまい」
と、あなどりぬいて、わいわいと城際《しろぎわ》の川辺へ寄りたかった。
突然――城壁の上から、火のついた松明《たいまつ》が降って来た。びゅっと、炎の尾をひいて、雨のように、船と人間の上に落ちた。
「アつッ。アつ、つ、つ」
「船火事っ」
「消せ。はやく、ふみ消せ」
「かた寄るな。船が、沈むぞ」
見るまに、二隻ばかりが、黒煙《くろけむり》の柱をあげた。
船と船は、ぶつかり合い、浅瀬にのりあげて、動かなくなったのもある。そこへまた、城中から、矢、鉄砲を、撃ちあびせて来た。
川に溺《おぼ》れ、土手へ這《は》いあがる者、それらは、蘆荻《ろてき》に潜《ひそ》んでいた伏兵の槍に屠《ほふ》られた。たそがれかけた水面は、流るる破船の火と、血のいろに、赤くなった。
山口重政はこの合戦の前に、変を、清洲の家康と、長島の信雄のところへ急報していた。しかし、その早馬が、清洲長島へ着くより早く、この事態を知って、救援に駈けつけていた一軍がある。
それは、折ふし松葉宿《まつばのしゆく》に駐屯《ちゆうとん》していた井伊兵部直政《いいひようぶなおまさ》だった。
「や。空が赤いが?」
その夕べ、大野方面の火光を見て、
「さては、敵の水軍」
と考え、かれもまた、家康へそれを報じると同時に、兵をひきいて、駈けつけた。
大野城は、健在だった。山口重政に、実情を聞き、その重大性におどろいて、井伊隊は徹夜で、海岸、川の海口などへ、防柵《ぼうさく》を設けた。
海上に遊弋《ゆうよく》している敵の水軍から、九鬼嘉隆《くきよしたか》の新手が上陸するのを防ぐためである。
夜が明けると、信雄の軍勢二千余も、ここへついた。
蟹江川筋から清洲までの距離は、騎馬なら、一鞭《いちべん》のあいだといえるし、徒歩でもまる一日は要さない。
清洲にある家康へ、事態の急を報じるため、大野城を出た早馬は、蟹江城の寝がえり、海上からの敵水軍の来襲を、その日のうちに、ここへ伝えていたにちがいない。
「あやういことよ」
ちょうど、食膳についていたところへ、家康は、情報をうけた。
「あやういことよのう……」
二度まで、そう云いながら、かれは飯のあと白湯《さゆ》を唇《くち》の辺でふウふウ冷《さ》ましては、近衆の者へ、目皺《めじわ》で微笑して見せた。
はじめ、変を知ったとき、城中の重臣は、卒然《そつぜん》と、足もとを揺すられたような驚愕《きようがく》におそわれたが、家康のつぶやきと、落着きすました白湯の呑み方を見て、
(何か、御確信があるな)
と、おもわれ、諸将の肚《はら》もそこですっかり坐ったという。
しかし、箸《はし》をおくや、いつもの家康とは、まったく別人のように、物の具出せ、馬を曳け、貝を鳴らせ。――そして、陣ぞろいには及ばぬ、身支度のできた者より、隊列の順、将士の上下にかまいなく、ただ家康の身を、目じるしと思い、わが後からつづいて来い――。
こう、云いすてて、彼は、居合わせた近衆、馬廻りの、わずかな者どもをつれたのみで、はや清洲の城門を、駈け出していた。
(きょうのわが殿は、さながら桶狭間《おけはざま》の折の、上総介《かずさのすけ》信長《のぶなが》さまにも、さも似たり。――打ち出たる所も同じ清洲の城)
あぶみ、口輪、よろいの草ずり、太刀の揺《ゆ》れ音《おと》など、鏘々《しようしよう》と鳴ってゆくがごとき武者群の疾駆のなかで、高らかに、こんな思い出を、語りあって行く声もする。
家康は、それを耳にして、
(何も、信長どのの故智《こち》を倣《なら》うではないが、危急の局面を決定づけるものは、ただ時間の問題だ。――自分の胸算によれば、たしかに、間にあう数字だし、ちょうど、海辺もまだ干潮時のはずである)
と、しきりに、計数をたてつつ駈けた。
かれの胸中辞典には、武人がややもすると口にする乾坤一擲《けんこんいつてき》――だの、また――運ヲ天ニ任《マカ》ス――などということばはない。
あくまで、経営であり、科学であった。だから、士気の鼓舞《こぶ》、戦機の一掴《いつかく》も、時により信長の風に似、信玄の智略に似、秀吉と共通する点はあっても、かれの胸算は、いつも合法的な計数にもとづき、決してケタは外《はず》していない。
その点で、きょうの急変への駈けつけは、まことに、割に合わない戦争だとかれは知っている。――しかしその、割に合わない出陣を、かくも余儀なくさせる秀吉の才腕にたいし、かれは出て来る際にも、最大な敬語をもって、敵秀吉をたたえて来た。
(あやういことよの……)
この際家康をして、かくも舌を巻かせた理由は、充分にある。秀吉としては、蟹江、大野、また附近の海岸線など、取れば得、失敗しても、傷手《いたで》はない。しかし、もし徳川方がこれを失えば、伊勢、尾張、小牧の全局面にわたり、忽ち、奔流《ほんりゆう》に堤を切られたような、敗土《はいど》の相《そう》を、まぬがれぬことになる。
家康の神速と、同時に、長島からも、信雄の麾下《きか》、梶川秀盛や小坂|雄吉《たかよし》などが、駆けつけた。大野附近から蟹江へわたる布陣は、たちまち成った。
清洲からでも、長島からでも、ここまでの距離は、同じぐらいである。信雄は、二将をやって、おちついていたが、まもなく使番から家康自身が、快馬|一鞭《いちべん》、前線へ出たと聞いて、
「こうもして居られまい」
と、一夜明けて、出陣した。
来て見ると――
もう蟹江川《かにえがわ》、筏川《いかだがわ》、鍋田川《なべたがわ》――そして木曾川《きそがわ》口へかけてまで、数里の海岸線は、防柵《ぼうさく》を結《ゆ》いまわし、塹壕《ざんごう》をほり、障碍物《しようがいぶつ》をおき、全隊、汗みどろに、働いている。
ごろごろと、眠っている兵の群れは、ゆうべの徹夜組とみえ、泥のように、正体もない。
「装備《そうび》のため、ちと駈けおくれたが、まだ、合戦にもいたらぬようで……」
信雄は、戦闘だけが、戦争だとおもっている。家康の顔を見て、間《ま》の悪さもあったのだろうが、床几《しようぎ》につき、初夏の真っ青な海へ目をそらした。
「やあ、わざわざ、お出ましには及ばんものを」
家康は、わざと、云ったにちがいない。しかし、信雄はことば通りうけて、
「いや、この方面から、敵に上陸《あが》られては、おたがいの間も、遮断《しやだん》される」
と、一応の見解をのべ、そしてまた、
「滝川一益などは、武門の風かみにもおけぬ奴ではある。伊勢の小郷士《こごうし》より、父の信長に取り立てられ、柴田《しばた》、丹羽《にわ》らと並ぶような地位と恩顧《おんこ》を給わりながら……恩義もわすれて」
と、罵《ののし》り出した。鳥羽《とば》の九鬼嘉隆《くきよしたか》も、忘恩の徒である、人でなしであると、家康に、理由を聞かせるのであった。
家康も、信雄の心理を誇大《こだい》に利用して、天下にむかい同様な悪名を秀吉にかぶせ、もって、小牧《こまき》に臨む徳川方の戦争名分とはしたのであるが――この頃では少々、信雄の不平も、聞き飽いている。
恩ということ。しかも、自身がほどこしたものでもない父の徳望を、この御曹子《おんぞうし》は、すこし過大な価値におもい込みすぎているのだ。
その人、その勢威が、実存している間ですら、恩を、意識し意識させる行為は、非常な危険なものであるにかかわらず、世間知らずのこの名門の末路の子は、今でもそれが世間に通用するものときめているらしい。
(あわれやのう……)
家康は、ひそかに、思わざるを得なかった。自分もいつか、信雄から、同じことばで、悪くいわれる日があろう――と考えられているからだった。
とにかく、家康と信雄は、ひとまず、そこで一《いつ》ぷくの形であったが――一方、海上に遊弋《ゆうよく》していた九鬼嘉隆の兵船群は、兵も食糧も馬も、上げることができないでいた。――なぜといえば、この沿岸は遠浅《とおあさ》のため、満潮時を待たねば船を寄せられず、潮が満ちて来たと思ったときは、すでに海岸線一帯の防柵《ぼうさく》が、徳川北畠の旌旗《せいき》をひるがえし、守備ぬかりなく見えたからである。
遠矢《とおや》か小銃のほかは、さしたる武器もない時代なので、九鬼嘉隆の水軍は、陸地の家康、信雄の眼からも、その船上の人影まで見えるくらいな近距離に、なすこともなく、遊弋《ゆうよく》していた。
寄手の滝川方としては、もとよりこんなはずではない。さきに兵七百を上陸させて、一益自身も共に、蟹江城へ乗りこんだが、それに続くはずの、糧食も弾薬も、またあとの大部隊も折悪《おりあ》しく退《ひ》き潮時《しおどき》にかかったため、上陸を見合わせているうち、家康の早い防ぎ手に、一歩、先んじられてしまったのである。
一手の、先《せん》の取りちがいは、当初の戦略的意図を、まったく、逆にしてしまった。
長島城《ながしまじよう》の信雄と、清洲城《きよすじよう》にある家康とを、分断してしまう作戦であったものが、反対に、いまでは蟹江へ上陸《あが》った滝川一益と、水上にぶらぶらしている九鬼船団とが、徳川、北畠の両軍によって、完全に、その連絡《れんらく》を切られたのである。
こうしている間に。
家康はなお、部将の榊原康政《さかきばらやすまさ》や、信雄の一隊長たる織田|長益《ながます》などにいいふくめて、
「――大野の山口|重政《しげまさ》を、先案内にたてて、下市場《しもいちば》ノ城を取り込んでおけ」
と、将棋盤の歩《ふ》を一ツ、つまみ取るように、軽く云った。
水軍も蟹江ノ城も、うごきの取れない孤立化を招いては、この下市場などは、まったく歩一ツぐらいな存在でしかない。
城主の前田|治利《はるとし》は、蟹江城を擁《よう》して、主人の佐久間甚九郎に叛旗《はんき》をたて、滝川一益を招き入れて――いまや事こころざしと大いに違って来た――前田種利の弟であった。
「兄の謀叛気《むほんぎ》を、諫《いさ》めようにも間にあわず、さりとて、兄を見殺しにもできず、なおさら、兄を敵として戦えもせず、結果はこうと、兄貴の馬鹿芸を承知のうえでわれも与《くみ》したが――。かくなれば、せめて自分は自分だけの笑《え》みをもって、ここを死に所とするしかあるまい」
この弟は、種利よりは、出来ていた男らしい。
「ここは平城《ひらじろ》、しかも小城《こじろ》、またどうせ落ちる城。おれと共に死んでも、あまり死に花は咲かないぞ。……逃げたい者は落ちてゆくがいい。女房子いとしい者は、搦手《からめて》から出て、徳川どのへ、後生《ごしよう》をたのめ。日頃、さしたる食《く》い扶持《ぶち》も与えぬ治利《はるとし》、ゆめ、そちたちを恨みはせぬぞ。――城を出るならいまのうちだぞ」
能うかぎり、かれは城兵のうちの、死ぬ必要のない者は、外へ追いやり、さて来い――と、榊原、織田、山口などの突撃をむかえた。
城の外は、蘆《あし》や葭《よし》の生い茂っている沼地だった。これは寄手にとり、ふつうの水濠やカラ濠以上、難所だった。
しかし、徳川方でも、名だたる榊原の部下は、ものともせず、膝まではいる水泥をこえて、迫った。
どうしても、城と共に死にたいと願う者だけが、銃をとって、それを狙《ねら》い撃《う》ちした。
一つの歩も、時には、根づよい。寄手は、予想外の犠牲をはらい、夜に入って、ようやく、陥《おと》した。城主の前田|治利《はるとし》は、意志どおり、心おきない討死をとげた。
下市場ノ城の危急は、海上にある水軍にもすぐ知れたので、九鬼|嘉隆《よしたか》は、むなしくもしていられなかった。
「兵船をすすめ、治利を救え」
水路――兵船団は赴援《ふえん》にいそいだ。しかし、ふつうの漁船や荷船とちがって、船脚のふかい大船なので、浅瀬をえらぶに暇どっているうち、忽ち、陸地の防柵から銃声がとどろき、
「――寄らば」
と、いう気勢の徳川勢がここにも見える。
陽は落ちて、水辺はくらく、ややともすると、浅瀬へのし上げる危険もあり、時を移しているうちに、小舟に乗った下市場の兵が、あとからあとから落ちのびて来る。
やがてまた、夜空を赤くこがす火が、下市場の方に望まれた。船上の声は、みな弔《とむら》うように、
「――ああ。落城」
と、つぶやいた。
「もういけまい」
嘉隆《よしたか》はそういって、
「愚だ。これ以上の、まずい戦《いくさ》をやるのは」
かれは、一書をかいて、部下にもたせ、暗夜にまぎれて、小舟を放った。――小舟は、蟹江川をこぎ上り、蟹江城の滝川一益へ、ひそかに、書面を手渡した。
嘉隆の意としては、その書中に、こういう意見をもらしていた。
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――機《キ》ハ逸《イツ》セリ。天ハ我ヲ利セズ。愚戦《グセン》ニ固着《コチヤク》シテ、愚ヲ重ネンヨリハ、如《シ》カズ、一タビ退イテ、再起ノ日ヲ計ランニハ。
今宵、軽舟《ケイシウ》ヲ溯江《ソカウ》サセテ、密《ヒソ》カニ拙意《セツイ》ヲ告グ。モシ貴意ウゴカバ、身ヲ以ツテ、本船ニ投ゼラレヨ。
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つまり嘉隆は、見込みのない戦はもうよし給え。生命《いのち》あってのものだね。身一つをもって、わが親舟へ逃げて来い――とすすめたのである。
「そうだ」
一益も、いまはまったく自信もない。さっそく身支度して、側臣数名と共に、小舟へ移り、暗夜にまぎれて、蟹江城の水門から落ちていった。
ところが、海口《かいこう》まで来てみると、嘉隆のひきいる鳥羽《とば》の水軍は、急に方向をかえて、沖へ走り出している。
「まさか、嘉隆が、たばかる理由もないが」
と、一益は、手を振り、声のかぎりに、呼び返していたが、やがて、それに答えて、暗い潮の中から近づいて来たのは――何ぞはからん、北畠信雄に属する伊勢水軍の兵船数隻であった。
パパパパッと、忽ち、小銃弾の飛んでくる赤い線が、闇を切り、船上から、敵の声々が、のがすな、引っ捕えろ――と聞えてくる。
嘉隆の兵船が、にわかに、進路をかえて逃げたのは、伊勢水軍の来襲を見、足もとの明るいうちにと、一戦もせず、避けて行ったにちがいない。一益は、狼狽した。――到底、味方に追いつけるはずもなし、まごまごしていれば、敵の兵船と附近の陸兵とのハサミ撃《う》ちにあって、捕虜となることは知れきっている。
「もどれもどれ。……力いッぱい、あとへ漕《こ》げ」
小船は、あらしに吹き返された木の葉のように、また元の、蟹江城の水門へ、もぐりこんだ。
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老《お》いらくの将《しよう》
蟹江《かにえ》城は、孤立した。
徳川、北畠の連合軍は、完全にそこを包囲した。
滝川一益は、自分の描いた奇計に、自分で陥《お》ちてしまった形である。かれの年配と、かれほどな思慮や体験をもちながら、どうして、こんなまずい[#「まずい」に傍点]運命をみずから招いたものか。
同じことは、先に長久手《ながくて》で戦歿した池田|勝入《しようにゆう》についてもいえる。
年は、一益のほうが、勝入よりもずっと上だが、奇功に逸《はや》って、自分から大蹴《おおけ》つまずき[#「つまずき」に傍点]を求めた点では、よく似ている。
二人とも、秀吉よりは、武門の先輩でありながら、大きな時代の変革《へんかく》は、いまや西に秀吉、東に家康と、この両巨人をもって、時の氏神《うじがみ》とあがめ、信長以前の老練家は、いくら、家格、閲歴《えつれき》の赫々《かつかく》たる実績があっても、みなそのどっちかの下風《かふう》に従《つ》かざるを得なくなった。
ひとつの、革新期を跨《また》ぐには、必然な区分だが、人間個々の心理には、時≠フ自然力にたいする不平と反撥を、素直に享受《きようじゆ》しきれない。
(なお、われなる者を、世に見む)
と、したり、
(老いたりといえ)
などという老魂《ろうこん》の血気《けつき》が、まま若い血気もやらぬ下手をやり出すのである。
血気や短気は、青くさい若者だけの通性でなく、初老にかかる老人こそあぶない短気の持ち主でもある。それは生理的にも、自制と反省が弱まる頃だし、ひとつには、
(いまのうちに、花見もせねば)
というアセリや、負けん気に駆られがちだからといえよう。
ともかく、ひと頃は、織田家の一家老のひとりと敬《うやま》われ、信長麾下《のぶながきか》の名将といわれた彼にして、蟹江《かにえ》の籠城《ろうじよう》に立ち至ったことは、何としても、その不手際《ふてぎわ》にあわれすら催される。
それに反して。
なんと、家康の手際のよさよ。また、その攻め口の、水も洩らさぬ鮮やかさよ。
「滝川とて、一《ひと》かどの男。小城一つと、あなどるなよ」
こう抑えて、あとは料理次第と見る――家康の態度は、さながら百獣の王が、餌《え》ものの致命《ちめい》に爪を加えてから、一応、あたりの気配を、おっとりと、見まわすときの容子《ようす》にも似ている。
南――海門口《かいもんぐち》には、榊原小平太康政《さかきばらこへいたやすまさ》、丹羽氏次《にわうじつぐ》などの諸隊を。
また、北門の戌亥口《いぬいぐち》に配するに、水野忠重《みずのただしげ》、大須賀康高《おおすがやすたか》。そのほか物々しい軍勢をおき、西部方面は、これを信雄の軍にまかせ、遊軍として、石川伯耆守数正《いしかわほうきのかみかずまさ》を、全陣のわきに備えた。
そして、東門の前田口には、家康自身が、その馬じるし[#「じるし」に傍点]たる金扇《きんせん》の下に、旗本たちの鉄槍陣をまんまると従え、前二段に、鉄砲隊を布《し》き、大物見を、その先に伏せさせ、さて、いつでもと落着きすました。
どっと、四方攻めに、押し揉めば、この陣、この軍勢をもって、蟹江一城のごとき、一《ひと》たまりもあるべきでない――と考えられるのに、家康は、
「城兵が死を決して出てくる公算《こうさん》は多分にある。まず、柵《さく》をたてよ。桝形《ますがた》の望楼《ぼうろう》も築《きず》け。そして、城内へ、遠矢《とおや》、鉄砲を撃ちこみ、昼も夜も眠らすな」
と、念の入った正攻法を守って変えない。
家康の攻めかたは、まったくがんじ[#「がんじ」に傍点]絡《がら》めである。息もつけない、手も足も出せない。そうした隙《すき》なしの攻城法でゆく。
つらいのは、かれの敵だ。
一益も、戦にかけては、百戦の老巧だが、連日の受け身は、一寸きざみの苦戦だった。
しかし、かれを始め、一味の前田与十郎種利も、事破れた以上、降参に出ても死、戦っても死。ままよ、という死にもの狂いに固まっていた。
六月十九日から開始された攻撃に、かれは不屈な力闘を示した。城中およそ一千の兵にすぎないが、甚だ、手ごわい。
殊に、その二十二日。
家康が、総攻撃の令を発したときなどは、まさに、窮鼠《きゆうそ》が猫を食《は》むの勢いを示し、寄手は、城兵の銃弾に、かなりな犠牲を強いられた。
家康は、それを見ると、
「竹楯《たけだて》を組め。竹楯の列を押して、城壁へ寄せろ」
と、命じた。
かれは、暇《ひま》をかけ、損《そん》を少なく――の方針をこんな場合もわすれない。
一益は、城中にあって、三の丸の手薄と疲労を案じ、二の丸の兵と入れ代えを考えたが、そのすきもないのだった。少しでも、防戦のゆるみを見せれば、その虚は、ただちに敵の乗じる機会となるからである。
で――たそがれを待った。暮れるや、かれは、諸門から、一《いつ》せいに、外へ反撃に出た。
その機に、かれは城兵の、部署を代えようと計ったが、打って出て引き揚げの際に、海門口の城兵だけが退路を切られて、敵の中に、取り残されてしまった。
「見殺しにはせぬ」
一益は、さすがである。自身で先に立ち、ふたたび城外へ出て、血戦の果て、ついに味方の孤軍を拾い取って、城門へ収容した。
こうして、二の丸への充実をやり遂げたが、同時に、三の丸は、寄手に乗《の》っ奪《と》られていた。
寄手は、三の丸に、また望楼《ぼうろう》を組んだ。そして目の下の二の丸へ、火箭《ひや》、鉄砲の雨をそそいだ。
「怺《こら》えよ。我慢のしどころだぞ。ここ十日も頑張《がんば》れば、先にやった密使もつき、必ずや、味方の援軍《えんぐん》がやってくる」
一益や与十郎の、こういう鼓舞《こぶ》も、いまは実際感に欠けてきた。――だがなお――城兵を力づけるために、一益は甥《おい》の滝川長兵衛《たきがわちようべえ》という剛胆者《ごうたんもの》をよびつけ、
「関《せき》ノ城《じよう》、峰城《みねじよう》、神戸《かんべ》ノ城《じよう》、伊勢路までゆけば、蒲生《がもう》どのの軍勢もおり、お味方は充満しておる。先にも、急使をやってあるが、そちも、城外へまぎれて出て、早馬を雇《やと》い、一刻もはやく、味方の救いの着くように、急いでくれい」
と、いいふくめて、城から出した。
しかし、その夜も、明けまで、引っきりなしの攻撃に、かれ自身も、城兵も、いまは綿のように疲れぬいた。
糧食、弾薬は、日を趁《お》って、欠乏しはじめ、二の丸の敵の浴びせてくる火箭《ひや》はのべつ火災を起し、防戦につくす兵力の大半も、消火に努めねばならなくなった。
一益から密使の命をうけた甥の滝川長兵衛は、その夜、城内の下水道から這い出して、水門の堰《せき》をわたり、暗《やみ》にまぎれて城の外へ駈け出した。
伊勢方面の味方へ連絡《れんらく》をとるにしても、果たして、その急援が間にあうかどうか。――長兵衛は心もとない気もしたが、叔父の滝川一益は、かれの門出《かどで》に、こういっていた。
(今はもうそれしか恃《たの》む途《みち》はない。そちが、城外へ脱出し、やがて吉報をもたらすぞと、それを待つだけでも、城兵の希望にはなる。首尾よく、敵の警戒を突破してくれよ)
――ちょうどその夜は、小雨でもあったので、長兵衛は、蓑《みの》、笠《かさ》にすがたを包み、城下|端《はず》れのなまず[#「なまず」に傍点]橋を西へ、高台寺道《こうだいじみち》をいそぎかけた。
細《こま》かい雨に、夜霧も交じって、自分の足もとしか見えないような闇を、ひたひたと大股にいそぐうち、かれは縄に足をとられて、あッと五、六歩、つンのめった。
両側の竹藪で、がらがらと、鳴子《なるこ》が揺れた。しまったと、後ろへ跳び、元の道へ、走ろうとすると、
「待てッ」
――もう遅い。濡れ光った甲虫《かぶとむし》のような人影が、厚ぼったく彼を取りかこんだ。ギラギラするのは槍であろう。ひとりの武者がその中から問いつめた。
「うさんな奴。どこの者だ。そして、どこへ行く」
長兵衛は、内心、観念してしまった。しかし、とぼけるだけは、とぼけてみようと、
「お見のがし下さい。てまえは、須成村《すなりむら》の百姓、長右衛門というもの。津島《つしま》まで、村の急用があって参ります」
「あ。そうか」
と意外に、あっさりだった。
「――通れっ」
という言葉に、ほっとして、長兵衛が歩みかけると、その武者は、部下の者へ、眼くばせして、とたんに、彼の背後から、
「この、曲者《しれもの》ッ」
と、数人が、おどりかかって、両腕をねじ捕《と》った。
くそッと、投げつけ、投げつけ、長兵衛はその本性を奮《ふる》い出したが、力つきて、ついに縄にかかってしまった。
「もう暴《あば》れはせん。拙者も、滝川長兵衛だ、おいッ、そう恐《こわ》がって、手荒にするな」
長兵衛は、その腕力を封じられると、こんどは、くそ度胸を面《つら》がまえに見せて云った。
「どうだ、ものは相談だが。――実あおれは、叔父の一益と喧嘩して、城から逃げて来たのだが。……上方へでも落ちのびて、気楽な町人で生涯を送ろうとおもい、城中の金子《きんす》を十枚、肌にかくして持っている。……それを、ここで吐き出して、皆に分けてしまうから、おれを助けてくれまいか。――おぬしたちだッて、金のいらないことはなかろう。戦争は一時、あとあとの暮しは長い一生だぞ」
武者たちは、顔見あわせて、かれの弁舌に、ふと、誘惑《ゆうわく》をおぼえた様子だったが、組頭《くみがしら》かと見える男は、突然、かれの縄目《なわめ》を自分の手に持ち直して、どなりつけた。
「だまれっ、金で戦《いくさ》を取り引きするような者は、徳川家にはおらん。世まい言を申さず、歩けッ歩けッ」
長兵衛を捕えたのは、遊軍《ゆうぐん》石川数正《いしかわかずまさ》の部下だった。
数正は、報告を聞いて、
「一益の甥、滝川長兵衛とあれば、またの名を、一鬼《いつき》ともよび、豪勇|無双《むそう》な男だ。すぐ御本陣へ送れ」
と、将士をつけて、家康の本営へ差したてた。
家康は、縄付《なわつき》を見て、
「城外へ連絡の使いに出るほどな男は、城中から選ばれた豪胆者《ごうたんもの》ときまっておる」
と、睨《ね》めすえた。
石川数正の部下は、
「しかし、こやつは、武士らしからぬ卑劣者でございまする」
と、捕縛《ほばく》したとき、長兵衛が、身に持っている金子十枚をやるから逃がしてくれ――といったことを、みずからの潔白《けつぱく》も誇るべく、家康へはなした。
家康は、かれらが、潔白を自慢するほどには、何も金銭を汚《けが》らわしいなどとは思っていないらしく、厚い猫背をすこし反《そ》らして、にやにや笑った。
「それみい。その通りな不敵者じゃ。――縄を解いて、望みどおり、放してやれい」
「えっ? ……」
と、数正の部下は、耳を疑った。家康は、かれらが、ためらっているので、
「東口まで引ッ立て、城門の方へ、放してつかわせ」
この処置は、数正の部下ばかりでなく、かれの帷幕《いばく》にも、不満の声があった。
(殿には、せっかく捕えた長兵衛を、しかも豪勇な者と、御存知ありながら、何で生かして城へお帰しなさいましたか)
後で、部将たちの質疑に、家康は、こう腹中を明かした。
「きょうか明日かと、陥《お》ちかけている城ほど実は怖《こわ》いものよ。長兵衛がもどらねば、城兵は、援軍に希望をつなぎ、一だん頑張るであろう。もしまた、長兵衛の首を打って、援軍の望みは絶えたぞと示さば、城中の将士は、落胆もしようが、復讐《ふくしゆう》の念に加え、やぶれかぶれの強味を増し、それだけ寄手も大きく犠牲を払わせられよう。……さるを、長兵衛が、むなしく、生きて戻ったとなれば、彼は、この家康の度量を、自己の弁護のためにも、大きく語り、聞く城中の者は、寄手の大将に、それほどな肚があっては、もはや、戦うも無益と、力を失うにちがいない。――一人の長兵衛が、いたとて、いぬとて、蟹江《かにえ》の落城は、わが手のうちじゃ」
「あ。なるほど」
かれの帷幕《いばく》は、家康から実地教育をうけるたびに、いわゆる徳川譜代をもって固めた、後の基盤《きばん》を作っていた。
この家康の前には、蟹江の小城と、晩生《ばんせい》あせり気味の一益などが、手も足も出なかったのは当然である。
一益はついに、身内《みうち》の津田藤三郎《つだとうざぶろう》を使いとし、旧縁《きゆうえん》をたよりに、織田長益《おだながます》(後の有楽斎《うらくさい》)の許へやり、長益の口ききで、降伏を申し入れた。
「よかろう」
家康は、降《こう》をいれたが、条件をつけた。――最初の裏切り者、前田与十郎種利の首をさし出すならば――というのであった。
家康からの条件に、おそらく一益は、困惑《こんわく》したろう。
事を謀《たく》む初《はじ》めに、与十郎種利をそそのかして、功成れば、秀吉に取次いで重賞を与えよう――と誘惑したのは、たれでもない、かれ自身である。
しかし与十郎は、かれよりずっと年も下だし、その経歴も位置も、かれの比ではない。大人と小児ほどなちがいがある。
「はて、どうしたものか?」
と、一益は、この条件を、たれにも秘して、ひと晩、迷いに迷いぬいた。
「与十郎の首を切らねば、自分の生命《いのち》はない。というて、彼を殺すのは」
たとえ、何の事情はない仲でも、共に、籠城《ろうじよう》をちかい、死を一つに約した友を裏切って、さいごに、自分の生命を保とうとする行為を、当時の人間は、苦悶《くもん》なしには、考えられないことだった。
まして、自責の上に、明らかな、自分の非は、わかっている。
だが、長くも迷ってはいられない。七月二日を期限に、回答の日は迫っていた。一益は、肚をきめた。
「お示しの条件、心得申してござる」
津田藤三郎ともう一名の近親とを、人質として城外へ出すと共に、この返辞を、家康へ届けさせた。
家康は、開城をゆるす――と城内へ云い送って、翌七月三日、大須賀康高《おおすがやすたか》に、武装解除の命をさずけて、城中へやった。
その、前夜。
前田与十郎は、一益の行動から、身の危険をさとって、城外へ逃げ落ちた。
一益は、それを知ると、
「与十郎を落しては、城中すべての者の生命は、城と共に、果てねばならぬぞ」
と、使嗾《しそう》して、追手をかけ、追手は城外の船入堤《ふないりつつみ》で、与十郎を捕え、めった斬りにして、その首を持って帰った。
一益に、首を見せると、
「わしの助かるためではないぞ。城兵、皆のためじゃ」
と、面《おもて》をそむけた。
首級《しゆきゆう》は、家康の本営へ送られ、即日、蟹江は開城となった。
凱歌《がいか》の陣《じん》に見物されながら、ちりぢりに、あとの生活のあてもなく、落ち別れてゆく人々の姿と心はさまざまだった。
中にも、笑止千万といわれたのは、滝川一益の生命だった。
「麒麟《きりん》も老いれば駄馬《だば》となるというが、いやはや、あの滝川の末路はよ」
「いや、老いてなお、晩節の香《にお》いを高うする人もあるがの」
「滝川くずれは、鼻つまみの晩糞《ばんふん》じゃ。風上《かざかみ》にもおけぬわい」
「くさすなくさすな。あれが人間の弱さじゃろ。――ひと事とせず、心得ておらねばならぬ。人もひとたび、心まで落ちぶれると、味気《あじけ》ない迂愚《うぐ》と堕落《だらく》を、恬《てん》として辿《たど》るものではある」
全徳川の将士は、一益の行方に、こんなことばを餞別《せんべつ》した。
一益は、木造《こづくり》ノ城へ落ちて、富田知信《とだとものぶ》を頼ったが、秀吉のゆるしなく開城した罪をとなえて、知信は、入れなかった。
ぜひなく、京都の妙心寺《みようしんじ》にかくれ、しばらく、世評に耳をふさいで暮した。
[#改ページ]
女弟子《おんなでし》
瓦《かわら》の一枚一枚が金箔《きんぱく》につつまれている大坂城の宇宙の大屋根は、時の力と、時の富と、時の志向《しこう》を、象徴《シンボル》している。
その金城の一閣の下に、秀吉は六月末以来、小牧《こまき》から帰って来ていた。そして七月上旬もなお、
(いくさは、どこにあるか)
と、いったように、悠々《ゆうゆう》、休養していた。
休養といっても、城門は車駕騎客《しやがきかく》の往来に賑わい、公卿諸侯《くげしよこう》の訪問は、朝から夕べまで、たえまもない。
敏感な市民は、
(土地の値が上がるぞ)
(盛り場も、もっと殖《ふ》えよう)
(諸大名のやしきも、どんどん建つにちがいない)
(安土とちがい、港がものをいう。いまに南蛮船《なんばんせん》も、みんな集まろうに)
(さて、小牧の御合戦に、これで上方《かみがた》の御勝利とあれば、すごい景気だが)
かれらは、長い見通しにも思惑《おもわく》をかけ、また、時局下の小牧の大戦にも、それぞれ、商機《しようき》を賭《か》けていた。
しかし、都市建設のすがたをもって、人智と人力が、進出する時、そこの自然は、極端にまで無視されてゆく。桑田《くわた》は町屋《まちや》に変り、広野《ひろの》は絃歌《げんか》の灯《ともしび》を映《うつ》す堀となり、無数の橋や新しい道路は、小鳥の巣や鷺《さぎ》のねぐらを奪って、丘の肌は、みな生々《なまなま》しい土層を露出し、削られたあとには、屋敷が建ち、門がならび、物売り小屋が、廂《ひさし》をならべる。
玉造《たまつくり》の一角。――ここも変らない新開地的な色彩の中に、難波津《なにわつ》のむかしのまま、こんもりと青葉の樹立《こだち》に抱えられた一宇《いちう》の堂《どう》と風雅《ふうが》な人の住居《すまい》の址《あと》がある。
さだめし、以前は、方丈記《ほうじようき》の筆者みたいな人物が、人間の世に、見きりをつけて、四季を友に送っていたような家かもしれない。
――そこに、昨年来、師弟二人の画家が、住んでいた。
師の狩野《かのう》永徳《えいとく》は、四十三、四歳、弟子の山楽《さんらく》は、二十五、六か。
どっちも、若い。
けれど永徳は、かの有名な古法眼元信《こほうげんもとのぶ》の孫ではあり、かつて信長が、安土《あづち》を築いたときの障壁画《しようへきが》にも彩管《さいかん》をふるい、
(古格にして新しき芸術人)
として、その作画も名声も、いまでは海内第一とすらいわれていた。
そんな大家だったが、かれは方丈記の鴨長明《かものちようめい》が観《み》たような現世観《げんせいかん》を、やはり自分の生きている今にも見て、自己の虚名《きよめい》に、酔えなかった。
――世の流転《るてん》のはげしさ、栄華《えいが》のはかなさ、人心のたのみなさ、なべて、かたち[#「かたち」に傍点]のあるものの泡沫《ほうまつ》にすぎない浮き沈みであることを、余りにも、かれは見てきた。
かれが、畢生《ひつせい》の心血《しんけつ》をそそいで描いた、安土城内のたくさんな作品は、もう一つも、見ることはできない。一朝《いつちよう》の兵火に、ことごとく、灰となっているではないか。
父の松栄《しようえい》、祖父の元信、家祖|正信《まさのぶ》などの作品にしても、みなそうだ。室町御所《むろまちごしよ》をはじめ、公卿《くげ》の家、武将の城、寺院などに遺した作品のあらかたはみな一つの運命になり終っている。
「のう、山楽」
「先生。なにか、およびでしたか」
「日ごと、そちと共に、大坂城のおふすまを描きには通うておるが……。権門《けんもん》の壁に生涯の業《ぎよう》をそそぐのは、時にふと、味気《あじけ》ない気がしないでもないのう」
その日も、狩野永徳は、弟子の山楽をつれて、大坂城内の金碧《こんぺき》のふすまに、終日の労作を終えて、帰ったところだった。
召使の少女と老婆にねぎらわれ、行水を浴び、食事をし、ぬれ縁に坐って、手入れもろくにしない自然なままな庭さきの打水《うちみず》に、ほっと、心を放つと共に、おもわず日頃のおもいが、弟子の山楽にむかって、口から愚痴《ぐち》のように出たのであった。
「権門《けんもん》の仕事はあじけない。先生は、そう仰っしゃいますが、世上《せじよう》の絵師は、みなあなた様を、羨望《せんぼう》の的としております」
「ほ。そうかの」
「さきの安土城《あづちじよう》にも。今また秀吉様の大坂のお城にも、先生が、その障壁画《しようへきが》に筆をふるわれる第一のお方と選ばれたということが――流行《はや》らぬ土佐派《とさは》の宮廷画家などからは、あくどい[#「あくどい」に傍点]色彩をもって俗画《ぞくが》を描《か》く男――などと蔭口いわれている原因でございましょう」
「ははは。さもしい声だの。自身の声を、俗声とはおもわずに」
「お上品ぶっているかれらの悪口は、いつも、先生の構図の雄大さを、こけ[#「こけ」に傍点]おどしといい、盛上げ彩色の豪壮を、俗気《ぞつけ》とよび、細かい筆致は、土佐の画法から盗んだものと申しまする」
「いや、中《あた》っていないこともない。芸術の領野《りようや》には、国境はなく、よいところは、たれのよさを取ってもよいのじゃ。……もしそれが悪ければ、如雪《じよせつ》も周文《しゆうぶん》も雪舟《せつしゆう》も、みな剽窃漢《ひようせつかん》ということになる」
「てまえも、先生のものの、剽窃漢でございますな」
「けれど、それは、調和、調味というもの。骨髄《こつずい》には、独自のものを、生まねば、絵師とはいえぬ」
「先生のような大きなお方が出てしまっては、あとの絵の世界に、どんな未開の領があるか、独自のものの生みようもない気がいたしまする」
「意気地のない――」
と、団扇《うちわ》で膝の蚊を追って、
「無限じゃよ、芸術の野は。……ただ、行き暮れるなよ」
「行き暮れそうです。さきほど先生のつぶやかれた、権門に筆を売るのはいやだと仰っしゃったようなことも」
「おまえには、まだ分るまい。――そちは、まだまだ、慾をもって描《えが》けばいい。慾で描け、慾で描け」
「と、おっしゃいますのは」
「うまい物を食いたい、よい女子《おなご》をもちたい、よい屋敷に住みたい、位置、名声を揚げたい、人によくいわれたい。――そうした慾望を仕事の張り合いにもつがよい。わしがさっきいったのは、その平凡を卒業した後の慾をいったのじゃ」
「すこし分りました」
「あまり分ってくると、何事にも、熱が欠けてくる。そうなっても、契情《けいじよう》のたかい人を、真の画人というのじゃろうな。……お、話に、身がいって、気がつかなんだ。山楽」
「はい」
「たれか、門を、訪れておりはせぬか」
山楽は、庭越しの枝折戸《しおりど》のほうへ、耳をすまして、
「ほんに」
と、急に、師のまえを退《さ》がって、住居の入口から出て行った。
「どなたですか?」
枝折戸の内で、山楽は、明けないうちに、内からたずねた。
女の声で。
「こちらは、狩野《かのう》永徳《えいとく》様のお住居でございましょうか」
「ああ、そうです。……あなたは」
「大坂城の北の丸のお末《すえ》に働いているものでございます」
「御用を仰っしゃってください。御用むきは」
「画を習いたいとぞんじまして……」
山楽は、また来たか、と思った。こういう子女の訪問には、しばしば悩ませられているので、取次ぐまでもないことと、すぐそこで断わった。
「先生は、お弟子は、おとりになりません。大名のお子たちでも、絵のお稽古は、断わっておられます。……それに、大坂城の障壁画もまだ何年たったら完成するお仕事やらわかりませんし。……ほかの、町の絵師へおつきなさいまし」
これっきりで、黙っていたら、やがて帰るであろうと、思っていると、ややしばらくして、また、
「くわしいことは、永徳様へお会いしてから申したいとぞんじますゆえ……ともあれ、お取次ぎだけを願われませんか」
「ごかんべん下さい。先生は、ここにいる間だけは、誰にも、会いたくないと仰っしゃっているのですから」
「……?」
さすがに、外の女は、困りはてたか、また、ことばが絶えた。
けれど決して、帰ろうとはしない。――ほど経《へ》て、また、かろく叩いた。
「お弟子さま」
「まだいたんですか」
「では先生へ……こう仰っしゃってみて下さいませ。おととい、御城内二の丸の大書院で、先生が絵をお描きになっているとき、秀吉様がそのお出来ばえ[#「ばえ」に傍点]を御覧あそばしたが――その折、秀吉様から、そっと、永徳たのむぞと、お声があったはずでございます。わたくしは、その女子《おなご》ですと、お伝えくださいませ」
「へえ? ……」
そんなことがあったのかしら――と、山楽は、甚だあやしく思ったが、秀吉の名をうたって来たものを、むげ[#「むげ」に傍点]にも、追い返せない気がした。
――で、あわただしく、戻って来て、縁先に端居《はしい》している師の永徳に、そのままを告げてみると、永徳は、
「来たか」
と、迷惑な顔をした。
事実は、たしかに、あったのである。
おととい、大書院いちめんの襖《ふすま》に、菊の図を構想し、さらに渓流《けいりゆう》のそばに菊慈童《きくじどう》を配すつもりで、その容貌に腐心《ふしん》していると――いつのまにか秀吉がうしろに来て眺めていた。
あれこれ、絵の質問のあったあとで、秀吉は、ひと言、小声でこういって、去った。
(永徳。女弟子ひとり、手許へたのむぞ。近日にやるからの)
かれは今、思いだして、
「それだろうか」
と、山楽の顔を見た。山楽には、なお分らないので、
「多分その女子でございましょうな」
と、あいまいに答えた。
――通された女性は、わびた草庵風《そうあんふう》の一間に、待たせられた。
短檠《たんけい》のあかりが、その横顔と、姿の半面を、明滅《めいめつ》させている。
案内した山楽《さんらく》も、枝折戸を開けてから、その美貌に、眼をみはった顔つきである。年は、まだ十七か八としか見えないのに、落着いた物ごしにも、少なからず、おどろいた。
「先生。通しておきました」
「……うむ」
と、永徳はうなずいた。
永徳も、そこの縁の端から、奥をのぞいて、かれが画心をもって自然を見るときのような眼で、じっと、眸《ひとみ》をすましていた。
(――ああ、この顔だ)
かれは、幾日も幾日も、下描きしては描き直していた菊慈童《きくじどう》の相貌を――生きているその顔を――いま目に見たような気がしたのである。
美貌《びぼう》であって気稟《きひん》があり、叡智《えいち》であって冷たくない顔。そして高貴なにおいをもち、いわゆる白痴美《はくちび》でなく、花にも負けない人間の顔の美。――そんなかれの注文にかなう容貌は、かれの空想と筆技《ひつぎ》からもなかなか生み出せなかった。
「――先生。お会いになるのでしょう」
「あ。会ってみよう」
かれは気がるに、そこへ行った。
「わしが、永徳ですが」
「お師匠《ししよう》さまでいらっしゃいますか」
と、すこし席を退《さ》がって、両手をつかえ――
「わたくしは、二の丸に、つい先頃から、お末《すえ》奉公をいたしております、於通《おつう》と申すものでございまする。夜ぶんあがりまして」
「いやいや。夜でなければ、宅におりませんからの」
「秀吉様から、おことばがあって、当分、永徳の家へ行っておれと仰っしゃいますので、参りました」
「絵師になりたいお望みか」
「ご厄介ついでに、絵なども、習っておいてもよいかと思いますが」
「ははあ……」
呆然《ぼうぜん》とした時に、よくこんな語が思わず出るものである。ついでに絵なども習おう――といわれたには、かれも、少しまごついた。
だが、一生をかけても、女絵師になろうなどという志願者よりは、始末がいいことは始末がよい。
永徳は大坂城普請《おおさかじようふしん》の始まりから、命をうけて、城中へ通っていたので、その間に、秀吉の家庭、閨門《けいもん》のうわさまでを、ずいぶん、聞きたくもないことまでも、聞かされている。
この、於通という少女のことにも、城中では、うわさがあった。
秀吉は、先頃の帰りに、この美貌で才はじけ[#「はじけ」に傍点]た女性を、小牧《こまき》の蝶々と呼び、こんどの拾い者だと称して、得々《とくとく》と大坂城へつれ帰ったのではあるが、はしなくも、それから数日後、北の丸の寧子夫人《ねねふじん》とのあいだに、何か、問題になり、秀吉の老母のことばもあって、於通を、二の丸の台所へ働かせるようになってしまった。
於通は、もとより不平である。かの女の理想は、台所働きなどにはない。おそらく、秀吉へ、不平を訴えたものだろう。秀吉は秀吉で、かの女の将来と境遇に、ひとりおもわく[#「おもわく」に傍点]の構想《こうそう》がある。――一時、永徳の女弟子として預けておこう。そう考えて、向けて来たにちがいはない。
「――ではべつに、絵師になりたい志望でもないわけかの」
狩野永徳は、於通の答えに、唖然《あぜん》としたあとで、やがて訊《たず》ねた。
「ええ、絵師が望みではございませぬ。――けれど、お城づとめでも、お台所向きなどは、なお、私は好みません」
「しかし、初めから、二の丸や北の丸へ上がるわけには、ゆきますまい」
「でも、秀吉様は仰っしゃいました。そもじの好むように、暮させてやる。そして歌も習え、絵も習え、学問もやれ。むかしにも紫式部《むらさきしきぶ》や清少納言《せいしようなごん》などという才媛《さいえん》があった。いまの世からも、女性の偉いものが出て欲しい。そもじは天正《てんしよう》の紫式部になれ、今の世の清少納言になってみい。そう励《はげ》ましてくださいました」
「ほ。……筑前様がか?」
「はい。……だのに、秀吉様は、私を、御本丸の大台所へまわし、お膳番《ぜんばん》の下で働くようになさいましたから、それではお約束がちがうと、申し立てましたら、よほど何か、お困りとみえて、しばらく、絵師の永徳の所におれとの仰せに、伺ったわけでございます」
「お幾歳《いくつ》じゃな? ……失礼だが」
「十七です」
と、これも、ためらいなく答えて――
「十五の年、安土のお城が亡《ほろ》びてから、美濃の田舎へ帰っていました。先生は、安土のお城のおふすまも描きましたね。わたくしは、あなたのお顔を覚えております」
「え。安土で」
「十二の時から、信長《のぶなが》様の大奥に、女童《めわらべ》として、お仕《つか》えして、秀吉様とも、小牧《こまき》でお目にかかる前から存じ上げておりました。……ここでまた、先生にお目にかかるとは、ほんに奇縁《きえん》でございまする」
十七というが、一人前の女性の感じである。肉体的な思春期《ししゆんき》よりも、頭脳の発達のほうが、先になっているのであろう。天性の美貌と果実《くだもの》を思わすような皮膚の処女色《しよじよしよく》は、いかにも新鮮でみずみずしいが、まだなにか女の甘美なにおいには乏《とぼ》しい。
永徳は、画家らしい観察のもとに、そんなふうに、かの女を見たり、また、秀吉の物好きと、女にあまい言葉にもあきれた。
――天正の式部《しきぶ》になれ、現代の新しい納言《なごん》になれ、などとはいかにもこの少女のよろこびそうな煽動《せんどう》だが、戦《いくさ》の出先の路傍《ろぼう》で拾った一少女にも、すぐそんな同情と励みを約して連れ帰るなどは、時の大坂城の主人としては、余りにも、軽々しいといわねばならぬ。
おそらく、かれの夫人や母堂や、ほかの局《つぼね》の女性たちからも、一《いつ》せいに、非難と糾弾《きゆうだん》の矢をあびせられたにちがいあるまい。――けれどまた、かつては、かれ自身も、少年|日吉《ひよし》とよぶ流浪児《るろうじ》だった。永徳には、秀吉のその気もちが、まるきり分らないこともなかった。
[#改ページ]
内《うち》と外《そと》
秀吉はここ一ヵ月ほど、大坂城にあって、内政を見、外治《がいじ》を計《はか》り、そして私生活にも充分、楽しみつつ、小牧役《こまきえき》の難局を、時には、ひと事みたいに、客観もしていた。
七月中に、かれは、ちょっと美濃《みの》へ往復した。そして八月|半《なか》ばとなると、
「余り長びくは、おもしろうない。この秋には、一《ひと》おもいに、片づけてしまわねばならぬ」
と、再び、大出陣のふれ[#「ふれ」に傍点]を発した。
その出陣を、明後日にひかえて、本丸の奥では、猿若能《さるわかのう》の笛や太鼓の音がしていた。時々、どっと笑いやまぬ大勢の声もきこえた。
「しばしのお別れに……」
と、秀吉が特に、猿若舞の上手《じようず》を招いて、老母を主賓《しゆひん》に、夫人を客に、そのほか城中の家族たちを皆、招待して、一日の楽しみを、共にしたのである。
その中には。
秀吉がいま、温室の花として、三の丸の秘園《ひえん》にその育ちを待っている三人の姫もいた。
茶々《ちやちや》は、ことし十八。二の姫は十四、末姫《すえひめ》は十二歳になる。
かの女たちは、去年、北《きた》ノ庄《しよう》の落城の日、養父の柴田勝家《しばたかついえ》や、実母のお市《いち》の方《かた》が世を去る煙をうしろに見て、北越《ほくえつ》の陣中からこの大坂へ移され、西を見ても東を見ても知らぬ者ばかりの中で、ひと頃は、夜も日も泣きはれた眼をしていて、笑いざかりの妙齢《みようれい》を、笑顔一つ見せなかったものだが、いつか城中の人々にも馴《な》つき、秀吉のらいらく[#「らいらく」に傍点]な調子にもアヤされ、三人の姫はみな、秀吉を、
(おもしろい小父《おじ》さま)
として、すっかり、慕《した》いきっている。
きょうも、その、おもしろい小父さまは、能役者たちの狂言が幾番かすむと、やおら自身、楽屋幕のうちへはいり込んで、やがて、扮装《ふんそう》して、舞台へ出て来た。
「あら。……小父さまが」
「まあ。あんな、ひょうげたお姿をして」
と、二の姫や、末姫は、あたりもわすれて、手をたたいたり、指さしたり、笑い興じて、やまなかった。
さすがに、姉姫の茶々は、もうはじらい[#「はじらい」に傍点]を知りそめて、
「指さしたりしてはいけません。しずかに、拝見していらっしゃい」
と、妹たちをたしなめ、強《し》いて、つつましく在《あ》ろうとしていたが、秀吉の猿若振りが、あまりにも、道化《どうけ》ていて、自然な滑稽をかもし出すので、果ては、茶々も、袂《たもと》を唇《くちびる》にあてて、お腹がいたいように笑っていた。
「なアに、お姉さまは。わたしたちが笑うと、お叱りになるくせに、御自分では、あんなに、ひとりで、おかしがって」
妹の姫たちが、両わきから突ッつくので、茶々は、いよいよ、笑いがとまらないで、自分でも困ったような姿だった。
秀吉の母は、そこよりも高い位置の、置き畳のうえに坐り、寧子《ねね》夫人をそばにおいて、見物していた。
ひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]な息子どのが演じている狂言舞を、この老母も、折々、笑って見ていたが、寧子にとっては、良人のそんな道化は、つねに家庭の楽屋内で見あきているので、さして珍しい顔つきでもない。
寧子にとって、めずらしいものは、西や東の、あちこちに、局《つぼね》の侍女《おんな》たちにかこまれている良人の側室のたれかれを、きょうは一だん高いところから、目静《めしず》かに、観察していられることだった。
つい、長浜にいた頃までは、まだ良人の側室も、おゆうの方と、松の丸の二人ぐらいなものだった。それが、この大坂城へ移ってからは、いつのまにか、三の丸には、三条《さんじよう》の局《つぼね》だの、加賀《かが》の局というのができ、また、二の丸には、寧子も、
(……まさか?)
とは思っているが、去年、北国攻めの凱旋《がいせん》と共につれ帰った――浅井長政のわすれがたみで、故信長の妹、お市の方のむすめ達三人を――秘園《ひえん》の花と愛《め》で育てている。
正妻の寧子に仕えている女たちは、三姫のうちでも、殊に、姉姫の茶々が、亡き母のお市の方にもまさる天質の美人なのに心をいためて、
(茶々のお方も、もう十八でございますもの。なんで上様《うえさま》が、ただ花生けの花のように、眺めてばかりいらっしゃいましょう)
などとそろそろ焚《た》きつけ出しているが、寧子は、良人のこの持ち前を、井戸茶碗《いどぢやわん》のキズと同じように、
(キズに珠――みたいなお人だから仕方がありませぬ)
と、あきらめ顔に、笑って見せ、周囲のお世話やき達の口にはなかなか乗らないのであった。
それというのも、かつては世間の女房なみに、ツノをたてたこともあって、長浜の城にいた頃、わざわざ手みやげなど持って、良人の主人である岐阜《ぎふ》の信長の許へゆき、
(いちど、御主君さまから、たく[#「たく」に傍点]のさもしい女あさりだけは止めよ、と御意見をして下さいますように)
と、手を廻してみたことがあるのである。ところが、その後、信長からの長い手紙を見ると、
(そなたは、女と生れて、めったにない男にめぐり合わせたのだ。めったにない男というものには、欠ける点もあろうが、よい所も大きい。ところが、大きな山ほど、山ふところに抱かれていると、山の大きさが分らないもの。まあまあ、大安心して、あの男の暮したいように、一《いつ》しょに暮しを楽しむがいい。――といって、やきもちが悪いとはいわぬぞ。ほどよいやきもちは、せいぜいやって、夫婦の味も、濃くするがいい)
と、かえって自分が、たしなめられた経験がある。
これにコリて、かの女は、以来つつしみを心がけ、良人のその方面のことは、天下第一の大目に見る女房となっているつもりであるが――近頃はすこしハメが外《はず》れかけているのではないか――と、やはり女ごころは、時々、穏やかでない日もある。
茶々姫のことも、その一つだが、先頃、小牧《こまき》の帰りには、また、於通《おつう》とかいう、氏素姓もさだかでない一少女を、しかも流浪児みたいなのを、戦場から拾って帰り、これも二の丸か、三の丸におこうとしたので、
(そう、あなたからして、ふしだらをお示しになっては、いくら奥の締《し》まりをお命じ遊ばしても、もう私には、責任がもてませぬ。道ばたの浮浪の少女などをお城へお入れ遊ばすことからして、私には、あなたのお気もちが分りません)
と、かの女も抗議し、それには老母も、一しょになって、秀吉をたしなめた。
秀吉は、このふたりには、一《いつ》さい、服従主義である。家庭における男性という者には、どんなに独裁《どくさい》の振舞える位置にいても、一面には、叱《しか》られたり、ただハイハイと甘えていられる者も欲しい――という相反した本能がある。
ともあれ、かれは今、男の四十九歳という最盛期の人生に近づき、外には、小牧《こまき》に天下分け目の大戦を抱えながら、内には、閨門《けいもん》の政治にも、なかなか多忙をきわめていた。よくもこう一個の身で、凡《ぼん》と非凡、大度《たいど》と細心、大見得《おおみえ》とまる[#「まる」に傍点]裸《はだか》との、仕分けができるかとおもわれるほど、いわゆる達者な生命力を、日々、飽くことなく生きていた。
「やれやれ、狂言舞も、見てこそ、おかしいが、おのれが舞台で演《や》ってみると、おかしいどころかよ、くるしいものぞ。イヤ、なかなか」
秀吉は、いつのまにか、母堂や寧子夫人のうしろへ来ていた。たった今、見物の喝采《かつさい》をあとに、舞台の上から引っこんだ彼だった。
その、舞台の余熱が、まだどこかに醒《さ》めきっていないような調子で、
「――寧子《ねね》。こよいは、そもじの部屋で、もそっと遊ぼう。たんと、馳走《ちそう》してくれい」
ちょうど、能狂言の終りと共に、あなたこなたは、明々《あかあか》と灯に染まり、招かれた客たちは、三の丸、二の丸へとおもいおもいに散って行った。
笛吹《ふえふき》や太鼓打《たいこうち》や狂言師《きようげんし》などを大勢つれて、秀吉は、寧子の部屋へ押しかけた。老母は、つかれたといって、自身の奥の間へかくれ、水入らずの夫婦と、楽屋連中だけとなった。
寧子は、こういう人々や召使などの、総じて、目下の者へは、日頃からよく気をつけてやった。わけて、きょうみたいな催しの後では、こんどは、かの女が彼らをねぎらい、大勢がたあいなく酒をつぎ交わしてムダ口を云いあう様を、自分も、楽しげに見るのだった。
秀吉は、さっきから、ぽつねんと、置かれたまま、妻の寧子もかまってくれないし、たれも皆、近づいて来ないので、いささか、不きげんな容子《ようす》だった。
「寧子《ねね》、わしにも、杯の一つぐらいは、さしてもよかろう」
「おあがり遊ばしますか」
「飲まいでか。なんのために、そもじの部屋へ来たとおもう」
「でも、御母堂さまの仰せには、明後日、あの子はまた、小牧へ下向するそうじゃから、出陣の前に、いつもの脚《あし》の三里と腰へ、灸《きゆう》をすえてやってくれい――と、かたく私においいつけ遊ばしました」
「なに。やいと[#「やいと」に傍点]をすえろと」
「まだ戦場は、秋の残暑。わるい水でもおあがりになって、お体をこわしては……と、御母堂さまの御心配。……さ、灸をおすえいたしましょう。お杯は、そのあとでさしあげまする」
「ば、ばかを申せ。やいと[#「やいと」に傍点]は、かなわん」
「お嫌いでも、御母堂さまの、おいいつけです」
「これだから、そもじの部屋には、つい足が遠くなるのじゃ。昼もわしの舞台を見てまで、笑いもせず、しかつめらしゅうしていたのは、そもじだけだぞ」
「こういう生《うま》れ性《しよう》でございますもの、ほかの、お美しいお方のようには、なれと仰せ遊ばしても、なれませぬ」
寧子は、すこし怒ってみせた。――そして、自分がいまの茶々姫ぐらいな年頃であり、良人も、まだ二十六、七だった藤吉郎《とうきちろう》の頃にはと、ふと、昔なつかしい涙が目にたまってきた。
「オヤ」
秀吉は、妻のふくれ顔を、仰山《ぎようさん》そうに、のぞきこんで、
「泣いておるのか。こら、何を泣く」
「知りません」
寧子が、顔を横に向けると、その顔について、秀吉も、膝をまわした。そして禁じ得ないおかしさを顔につつみ、
「わしがまた、出陣するので、淋しいとでも申すのか」
と、いった。
「何を仰っしゃいますか。信長さまに、お仕えして以来、美濃《みの》や姉川の御合戦《ごかつせん》、また中国への長陣と――長い月日のうち、あなた様が、幾日、家にいた日がございましょう」
「だから戦《いくさ》は嫌いだといわれても、世のしずまるまでは、ぜひもない。信長公に御不慮でもなければ、わしも今頃は、どこぞ田舎城《いなかじろ》の一つにでも納まって、そもじの側に、気のすむようにいてやれたろうに」
「人聞きの悪いことを仰せられまする。寧子には、そんな男心は、わかっております」
「わしにも、女心は、ようわかっている」
「ああいえば、こうと、あなた様のお口前《くちまえ》は、いつも私を、茶化《ちやか》してばかりおしまいなさいます。寧子は、世間の女子《おなご》のような、嫉妬《しつと》でいうのではございません」
「どこの女房も、そう申す」
「おふざけ遊ばさないでお聞き下さいませ」
「かように、畏《かしこ》まって聞きおるものを」
「あなた様のお身持は、あなた様のお働きと、とく、諦《あきら》めておりまする。ですから、御出陣のお留守居などを、ゆめ、淋しいなどと、甘えるのではございません」
「貞女、貞女。――藤吉郎のむかし、わしが、そもじを見こんだのも、そこのところだ」
「よい加減に、おふざけ遊ばせ。……御母堂さまも、それだから私へ、仰っしゃるのでございます」
「おふくろ様が、何というたの」
「そなたが余り、おとなしすぎる程に、あの子が、よい気になって、放埒《ほうらつ》するのじゃ。折にはちというたがよいと……」
「はははは。それで灸《きゆう》か」
「その御心配もおもわずに、よい気になって、不養生《ふようじよう》ばかり遊ばすのは、親不孝でございましょうに」
「いつ、わしが不養生を」
「おとといの夜も、三条の局《つぼね》のお部屋で、明け方ちかくまで、何を騒いでおいで遊ばしましたか」
「ア。わかったか」
「わかったかもないものです。――あなた様は」
次の間で酒もりしていた近習《きんじゆ》や能役者たちは、秀吉夫妻のめずらしい――いや、めずらしくない夫婦喧嘩に――見て見ぬふりをし合っていたが、そのとき秀吉の方から、かえって大声で、こう呼びかけられた。
「これこれ、そこの見物ども。いまの、ふたりの猿楽狂言《さるがくきようげん》を、何と見たぞ」
太鼓打の縫殿介《ぬいのすけ》が、答えた。
「はいはい。盲《めくら》の蹴鞠《けまり》と拝見いたしました」
「犬も喰わぬと申すか」
「いえ、勝負、果てなしで」
「笛吹きの大蔵は、どう見たぞ」
「されば、私は私の商売と、拝見|仕《つかまつ》りました。そのわけは。――どちらが、理ヤラ、非ヤラ。……リヤラ、ヒヤラ。リヤラ、ヒヤラ……」
「うまい」
と秀吉は、いきなり寧子《ねね》のかいどり[#「かいどり」に傍点]を剥《は》ぎ取って、褒美《ほうび》に、投げてやった。
翌日はもう、同じ城中にいながらも、かれの家族たちは、秀吉の姿さえ、見ることができなかった。
一日中、秀吉の身辺は、かれのさしずを待つ奉行や留守居の将や、また遠国からの使者や、祐筆《ゆうひつ》や、近習の取次などに、忙殺《ぼうさつ》されていた。
――明けて、次の日。
かれは、すでに、馬上《ばじよう》軍旅《ぐんりよ》の人だった。大坂を出た再出陣のえんえんたる兵馬の列は、美濃戦線《みのせんせん》へ向っていた。
越《こ》ゆるに馴《な》れし木曾川《きそがは》も、
わたる思ひは、つねならず
逢《あ》ふ瀬《せ》のたびに変《かは》るかな
春には秘《ひ》めし、焚《た》き香《かう》の
かぶとも、君のおもかげも
夏ぐさ茂《しげ》き日とすぎて
いつしか露《つゆ》の、槍《やり》すすき
小牧《こまき》へはやる雄《を》ごころは
穂《ほ》にこそ出さね、浪華《なには》なる
君も、寝ざめのくろ髪を
いかに梳《す》くらん、今朝の秋雲――
ふかい朝霧の中をゆく軍馬のうちで、たれかが、歌った。
秀吉は、あたりを見て、
「いまのは、誰か」
と、きいたが、すぐ側の馬上の影さえ、たれとも知れないほどな濃霧《のうむ》である。
「たれだ」
「いま歌うたのは」
次々と、訊《たず》ねあう声が、列を流れて行ったきりで、答える声も、何の某《なにがし》です――と、みずから名乗る者もなかった。
秀吉は思った。いまの歌は、自然の声であり、人間の声であると。
かれの想いの中にも、折々には、茶々《ちやちや》の顔が、ふと泛《うか》んだり、於通の横顔が、ふっと描かれたり、寧子や老母のことも、おもい出された。
うしろ髪ではなく――うしろにそういう、いじらしい者や、弱い者や、恋しい者がいることこそ、かれの強味であった。
八月二十六日。
幾たび目かの、木曾川《きそがわ》をわたり、翌日、二宮山《にのみやざん》に出て、敵情を偵察《ていさつ》し、転じて、二十八日には、小折《こおり》附近の敵の散兵を掃討《そうとう》し、附近を、火攻めにして、ひっ返した。
家康もまた、その二十八日には、
(秀吉、来る)
の急報によって、信雄と一しょに、清洲《きよす》から岩倉《いわくら》にかけつけ、またたくまに、布陣して、
(ござんなれ)
と、秀吉勢と、相対した。
この時も、家康は、徹頭徹尾、「守る」の態勢《たいせい》をとって、かりにも、自発的な行動や挑戦に出ることは、かたく味方へいましめた。
突けば、引き。止めれば出てくる。といって、大作戦をしかける余地のない鉄壁《てつぺき》だ。その不壊《ふえ》の構えに、強《し》いて、奇手をもてあそべば、かならず仕《し》かけた方の仕かけ破れになるにきまっている。
「ものに、飽くのを知らぬ男よな」
家康の根気のよさには、秀吉もやや手を焼いたかたちであるが、秀吉は、それにたいして、無策ではなかった。
螺《さざえ》のふた[#「ふた」に傍点]は、金槌《かなづち》でも、開かないことを知っていた。さざえ[#「さざえ」に傍点]の貝の尻《しり》を焙《あぶ》れば、自然、中身は抜けるという卑俗《ひぞく》な道理を、かれは先頃から考えていた。――丹羽五郎左衛門長秀《にわごろうざえもんながひで》を用いて、そっと、和睦《わぼく》のあたりをつけてみたのは――そのさざえ[#「さざえ」に傍点]の尻あぶりであった。
丹羽長秀は、織田家遺臣中の、大先輩であり、また穏健な人望家でもある。
勝家は亡び、滝川一益も零落《れいらく》してしまった今では、その閲歴《えつれき》から、もののいえる人間は、かれ一人となっている。
秀吉は、この温良な人物を、小牧の開戦に先だって、自分の「持チ駒《ごま》」として、手に入れておく必要を忘れていなかった。
いまや、家康との、根《こん》くらべになってしまった局面を前にして、かれは、その持チ駒を、使い始めた。
五郎左衛門長秀は、前田|利家《としいえ》と共に、北陸にいたが、長秀の部将、金森金五《かなもりきんご》や、蜂屋頼隆《はちやよりたか》は、秀吉について、参戦していた。いつのまにか、その金五や頼隆は、国もとの越前と、秀吉との間を、いくたびとなく、往来していた。
書簡の内容は、使いする二人にもわからなかったが、やがて、五郎左衛門長秀が、自身、ひそかに清洲へ旅立つことになり、たれ知らぬまに、家康とも、会合をとげたので、
(さては、和議か)
と、うなずいたことだった。
しかし、敵にとっても、味方にとっても、極秘《ごくひ》のうちに、それが、進められていたのは、いうまでもない。
秀吉方でも、それを知っている者は、丹羽長秀と、その家臣の、金森金五|長近《ながちか》、蜂屋頼隆ぐらいなものだった。
家康方へは、いつも、秀吉のさしがねで、石川伯耆守数正《いしかわほうきのかみかずまさ》の取次によって、秘密会合が行われていた。
ところが。
相互の条件の折り合いに、日を経ているうちに、徳川家の内部には、たれからともなく、
(上方との、和睦《わぼく》の議が、極秘のうちに、運ばれておるらしい)
という風聞《ふうぶん》が洩れ、家康方の、小牧を中心とする鉄壁の防禦《ぼうぎよ》に、大きな動揺がみえはじめた。
しかも、こういう秘密の壁から洩れたうわさには、必ず、尾ヒレがつくのが通例で、こんどの場合にも、かねてから、味方の内で白眼視されている石川数正の名がもち出され、
「伯耆守《ほうきのかみ》の取りもちだとある。……どうも、何かにつけ、秀吉と数正とのあいだは臭いぞ」
と、云いふらされた。
また、それを、家康にむかって、直言する者もあったが、家康は、
「それこそ、筑前の手に乗るというものじゃ」
と、かえって、告げる者をいましめ、彼自身は、毫《ごう》も、数正を疑わなかった。
けれど、ひとたび、そういう不純な疑いが、味方のうちに、囁《ささや》かれ出した以上、かれの布陣も、三河武士の剛毅《ごうき》も、もう健康な一体とはいえなくなる。
家康は、もちろん、充分、和談の肚《はら》も持っていたが、この内部情勢を見ると、にわかに、丹羽長秀の密使にたいして、
「和睦《わぼく》の意志はない」
と拒絶した。
そして、なお、
「いかなる条件にも、家康は筑前にたいし、和を持って解決する望みはもたぬ。あくまで、ここに雌雄《しゆう》を決し、秀吉の首級《しるし》をとって、天下に正義あることを知らしめるであろう」
と、かれに似げない壮語をもって、講和の手切れを云い渡した。
そして、これを、陣中に公表してしまった。徳川方の将士は、気をよくして、数正にたいする暗い噂も一掃され、
「秀吉の腰も折れ始めて来たぞ」
と、意気、数倍して、いよいよ旺《さかん》なるものがあった。
講和は、もとより、丹羽長秀の一存から出て、秀吉も長秀に説かれ、家康も長秀に説かれ、どっちが申し入れたことでもない形式によって、進められたのだが――結果としては、いかにも、秀吉から家康へ云い込んで、一蹴《いつしゆう》された形になった。
「やりおるわよ……」
秀吉は、甘んじて、苦杯をうけた。かれにとっては、この結果も、決して、悪いことではないらしく見える。で、彼は、あえて武力にも出ず、黙々と、各地の要所に、砦《とりで》の増築を命じ、九月の半ば頃、また兵を返して、大垣の城へ入った。
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姉《あね》の子《こ》
大垣の城では、甥《おい》の三好秀次《みよしひでつぐ》も、迎えに出た。
秀次は、長久手《ながくて》の合戦にやぶれて後、秀吉の不興《ふきよう》をうけて、
(勝入《しようにゆう》の遺族と共に、大垣の留守でもしておれ)
と、いいつけられ、ずっと、ここにいたのである。
「叔父の機嫌はなおっている」
久しぶり会った感じで、秀次は、胸をなでおろした。
すると、この秀吉の滞在中に、秀吉直属の部将、一柳市助《ひとつやなぎいちすけ》が、ある時、かれの所を訪ねて、
「いや、御落胆《ごらくたん》なさいますな。失敗もしてみなければ、人生の嶮路《けんろ》はわかりません。失敗の反省こそ、その人間に重厚《じゆうこう》な味と深みを加えてゆくので、失敗は、天の恩寵《おんちよう》だと思わねばなりません。まして、お若いのですから……」
などと、雑談によせて、かれの鬱情《うつじよう》をなぐさめて、帰った。
その折、秀次から、頼まれたにちがいない。
一柳市助は、幾日かを措《お》いて、秀吉のまえに出たとき、ふと、秀次の希望として、こういう願いを、云い出してみた。
「勝入どのの、遺臣のうちには、なお用うべき人物もたくさんいますが、中でも、池田|監物《けんもつ》と申す者を――秀次様には、何とか、御自身の家中へ、もらい受けたいものと、お望みにございまする。しかし、おゆるしなくてはと、実は、云い出しかねておられまするが……。ひとつ、お望みをかなえて」
――みなまで、聞かないうちに、秀吉の面《おもて》には、ありありと、
(ばかな!)
と、いわぬばかりな顔いろがうごいた。
一柳市助は、まずいと、急に口をにごしたが、もう、間にあわない。秀吉は、この頃にない不機嫌を、むき出しに示して、叱った。
「市助」
「はっ」
「孫七《まごしち》(秀次)めが、ぬけぬけと、そんなことを、そちに取次がしたのか」
「御意《ぎよい》のほども、いかがやと存じましたが」
「頼《たの》うだ孫七郎は十七歳、あほう[#「あほう」に傍点]にはちがいないが、若いともいえる。だが、そちは一体、いくつだ」
「おそれいりまする……」
「四十ぢかい年をして、たわけたことを、ようも、そのまま取次いだものよ。――そも、長久手《ながくて》の戦は、たれが、わしに代る総大将としてくり出したか。孫七郎秀次ではないか」
「……は、はい」
「その孫七めの、あの折の、負けざまはどうじゃ。家康に尾行《つけ》られて、破れたは、ぜひもない。……したが、本軍の将として、勝入父子をはじめ、森長可《もりながよし》その他、味方のものの討死も見とどけず、まっ先に、楽田《がくでん》へ、逃げ帰って来たあほ[#「あほ」に傍点]らしさ……。即座にも、腹も切らせんとまで思うたほどだが、余りなこけ[#「こけ」に傍点]を眺めては、もう、腹を立てる気も失《う》せた程なのじゃ」
「…………」
「さるを、自身、深くかえりみもせず、池田監物《いけだけんもつ》とやらを、家中にくれとは、何たるあつかましさぞ。市助っ。もしそちをくれいといわれたら、あんな馬鹿者に、そちはよろこんで貰われてゆくか」
一柳市助は、満身、冷や汗にぬれて、平伏したまま聞いていた。
秀吉の怒気《どき》は、容易にさめないのである。そばには、近衆たちも聞いている。そして、市助のすがたへ、秀吉と同じように、
(ばかなことを、取次いだものよ)
と、眸《ひとみ》をあつめているふうだった。
けれど、市助には、秀吉の怒罵《どば》が、そのまま、秀次という姉の子にたいしての、実は、大きな愛の現われ――に聞えた。秀吉ほど、周囲にも、わけても家族らには、目のないほどな凡愛《ぼんあい》をもっている人はない。
「どうじゃ市助。――そちにとっても、孫七のようなあほう[#「あほう」に傍点]を主に持つのは、心ぼそかろう。――勝入父子の討死も見ず、逃げ帰ったのは、まだしものこと。……彼には、彼の年若さを思って、秀吉から特に、思慮も勇気もある木下助《きのしたすけ》右衛門《えもん》と、木下|勘解由《かげゆ》の両名を、側に、ちゃんと付けてやってある。――しかるに、その両名をも、枕をならべて、死なせながら、池田監物とやらいう他家の人物を、家中に貰いうけたいなどとは怪《け》しからぬ限りである」
秀吉は、こう怒っていう間、われを忘れて、自分の膝を打ちたたいた。
その音がするたびに、市助は、自分が打たれてでもいるように、下げている首を、さらに、畳へ、すりつけた。
「……されば、亡き勝入父子にも、わけて遺族の老母や妻子にも、秀吉として、何ともすまぬ心地ではあり、かたがた、孫七めにも、よッく、反省もさせ、遺族たちへの、お詫《わ》びにもと、この大垣の留守居を命じおいたのに、もう秀吉の気《け》しきを見て、すぐ、子供の菓子ねだり[#「ねだり」に傍点]のように甘えおるとは、不届きなやつ。市助ッ」
「はいッ」
「池田監物を、くれなどという、孫七めの願いは、もってのほかだぞ」
「相分りました。秀次様には、自分から、おことば通りを、よくお伝え申しあげますれば、なにとぞ、お怒りをおなだめ下さいませ。――市助の、不所存《ふしよぞん》に、ござりました」
「そちも、そちだ」
「平に、おゆるしのほどを」
「不所存者は、孫七めである。なお、きっと、後日、叱りおかねばならぬ」
秀吉はやがて、大坂表へ帰ったが、帰ったあとで、長文の書簡を、甥の秀次へ送った。
この手紙には。
――秀次の長久手《ながくて》の醜態《しゆうたい》を叱責《しつせき》しているばかりでなく、日ごろから、秀次が、秀吉の甥だという気もちのもとに、とかく、わがままや慮外な振舞があることを、きつく怒りつけ、
(一時は、勘当せん、とまで思ったが、年もゆかぬので、こらえていたのに、木下助右と勘解由《かげゆ》の付人《つけびと》二人も、見殺しにしながら、池田監物を、家臣にもらいたいなどといっているようでは、まだまだ、性根《しようね》がついていないと見える。良い家臣を持ちたいなら、持てるような資格を自分の人間に持て。――もしこの後、なお、量見《りようけん》があらたまらぬときは、こんどこそ、追放して、かまいつけることではないぞ)
と、激越な辞句をもって、徹頭徹尾《てつとうてつび》、秀次の性格の短所を、突いているのであった。
秀次は、この叱言《こごと》を、何と読んだか。――真実からのきびしい叱言は、真実からの愛でなければいってやれぬものだということを、心にありがたく受けるには、年齢ばかりでなく、かれの天性は、叔父のごとく、おおらかで、また、率直でなかった。
秀吉の姉は、三好《みよし》武蔵守《むさしのかみ》に嫁《とつ》いでいた。孫七郎秀次は、その仲にできた子である。
まだ十七歳というこの姉の子に、秀吉は、河内《かわち》北山で、二万石を与えていた。そして、賤《しず》ケ嶽《たけ》、その他に、転戦させ、すこし功があると、
(よくやった。よくやった)
と、励ましては、少しずつでも、取り立てるように、目をかけていた。
これはかれが、秀次を愛していたからであるが、ほかに、なお重要な理由がある。
それは、かれが、日吉の幼少時代において、親不孝な自分に代って、ひとりの姉が、実によく母を扶《たす》け、そして母と共に、長い年月を、貧苦とたたかいながら、自分の成長を待っていてくれたことだった。
――かれは、そのありがたさを忘れていない。その間の、姉の孝養と苦労に、どうしたら報《むく》い得られようか。秀次の人となりを眺めるごとに、かれは常に、姉の心にもなって、その将来を思うのである。
だが。
秀次の性格は、決して、秀吉の望みどおりにはゆかなかった。
かれや、かれの姉とちがい、永禄《えいろく》十一年生れのこの御曹子《おんぞうし》は、生れながら、貧苦も知らず、世間の真実にもふれていない。
しかも、秀次の継《つ》いだ三好家は、室町以来の名門であり、父母の家は、月と共に栄え、叔父の秀吉は、日と共に、天下に赫々《かつかく》たる覇力《はりよく》と名声を揚げてゆく。――そのなかに、門族中の寵児《ちようじ》として、愛され、媚《こ》びられ、諂《へつら》われているのであるから、秀次の年頃として、思い上がっていたのはむりもない。
それが、一柳市助からも、返辞を聞き、つづいて秀吉からの書面で、峻烈《しゆんれつ》な厳戒《げんかい》をうけたので、かれとしては生れて初めての戦慄《せんりつ》をおぼえたことであろう。そして、あの物に大まかな叔父も、一《ひと》たび怒ると、肉親であれ眷族《けんぞく》であれ、仮借《かしやく》せぬぞ――というきびしい人間であったことを、今さらのように、知ったにちがいなかった。
為に――長久手の醜態《しゆうたい》は、かれとしても、後々まで、身に沁みぬいたこととみえ、ずっと、後年の話にはなるが、こんな挿話《そうわ》まで残っている。
関白秀次《かんぱくひでつぐ》と、徳川家康とが、或る折、将棋をさした。すると家康が、相手の王のコマをさし詰めてゆくたびに、
「お手なみは先刻承知。追っつけて進《しん》じょう。追っつけて進《しん》じょう」
と、口ぐせに、くり返しては、攻めていた。
すると、そばで見ていた細川|三斎《さんさい》が、しきりに、袖《そで》をひっぱるので、家康も苦笑して、いうのを止めたが、やがて退出して帰るとき、三斎がまた隙《すき》を見て、家康へ注意した。
「どんな場合でも、関白様の前で、長久手のはなしは、禁句ですよ。殊に、将棋の上などで、あのお口ぐせは、よくありません。……ほかの所で、祟《たた》らぬとは限りませんからな」
家康は、口を抑えて、
「沙汰なし、沙汰なし」
と、云って別れた。そして後から三斎へ、その好意の礼にという意味か、黄八丈《きはちじよう》の反物《たんもの》を送った。三斎はその黄八丈を着ると、老後にも、思い出して、よくその話をしては笑ったという。
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矢田《やだ》川原《がわら》
出陣を見、帰陣を見、大坂城と美濃地方とのあいだを、これでこんどは、幾度目の発向《はつこう》か。
路傍の人々の風評も、
「小牧の御陣は、焦《こ》げついたそうな」
と、きめている。
「あいても相手。おそらく、十年がかりになろうもしれん」
一般の観測だった。
時は、十月二十日。秋ももう深い。
いつものように、大坂、淀《よど》、京都と経て来た秀吉の大軍は、どうしたことか、こんどは坂本から急に道を転じて、伊賀《いが》甲賀《こうが》を越え、伊勢《いせ》へ出た。
これまでの、美濃路《みのじ》から尾張《おわり》へ出るのを一変して、
「桑名《くわな》へ――」
と、視角《しかく》をかえて働きに出たのである。
伊勢方面の信雄の支城や隠密《おんみつ》からは、おもわぬ箇所の堤を切って、濁水の奔河《ほんが》が向って来たように、
「秀吉の主力です」
「いままでの、一部将の兵ではありません」
「二十三日、羽津《はねつ》に陣し、縄生《なおう》には、とりでを築き、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》、蜂須賀家政《はちすかいえまさ》などに、それらの要所をかためさせては、刻々に前進をつづけて来ます」
と、早馬また早馬、飛状また飛状。ひきもきらない警報である。
信雄は、沈着をもちきれなかった。かれの胸には、ひと月も前から、この暴風が身ぢかに来そうな予感が何となくあったからである。
――と、いうのは。
こんな所へまで、徳川家で極秘にしている石川伯耆守数正《いしかわほうきのかみかずまさ》の内通問題が、妙に、誇張されて、たれからともなく、語られていた。
(徳川どのの内部も、決して緊密《きんみつ》ではない。伯耆守に同心の者もだいぶあり、時を待っているものらしい)
という噂なのだ。
いや、それだけのことなら、まだしも。
(御当家のなにがしも、数正とは、親交があり、また、先頃、両軍の調停に立った丹羽五郎左どのとは、従前から親戚同様な親しい者もたくさんおるので、頻《しき》りに、それらの者の間で、密書がやりとりされておるそうじゃ)
と、真《まこと》しやかに、囁《ささや》きまわる者もある。
のみならず、先頃の調停は、徳川家から極秘に秀吉方へ申しこんだもので、家康は、内部の破綻《はたん》のもれないうちに――急に和議を成立させようと試みたのだが、秀吉方の条件が苛酷《かこく》なために、ついに、物わかれになったものだ――などとも云いふらされた。
(あり得ることだ……)
と、信雄は正直に痛心していたところだった。もし家康が、自分をさし措《お》いて、秀吉と講和してしまったら、一体、自分はどうなるのか。
(もし秀吉が、方針をかえて、伊勢路へ出て来たら、そのときこそ、すでに大坂と家康との間に、御当家を犠牲にする上での、或る内約ができ上がっているものと、お覚悟せねばなりません)
かれの重臣の一名は、心からそれを信じて、献言《けんげん》していた。それは家中全般の底流にある不安なささやきとも、戦略的見地からも、一致する意見にはちがいない。
果たせるかな、秀吉の大軍は、背面から、忽然《こつねん》と、信雄の予感を裏書してきた。かれは、急を、家康へ報じて、助けを叫ぶしか、策を知らない。
清洲には、酒井忠次《さかいただつぐ》が留守していた。忠次は、信雄からの急報をうけると、すぐ家康へ伝令し、家康は即日、全力をあげて、清洲まで出た。
そしてすぐ、酒井忠次や、そのほかの部将を、
「桑名《くわな》へ、援《たす》けにゆけ」
と、急がせた。
桑名は、長島の喉首《のどくび》である。信雄もここへ兵を出して、縄生村《なおうむら》に本営をおいた秀吉と対陣していた。
縄生は、桑名の西南一里ほどな地点、町屋川《まちやがわ》に沿う一村落だが、木曾川《きそがわ》、揖斐川《いびがわ》などの海口にも近く、水陸両軍をあわせて、信雄の根拠地をおびやかすには、絶好な指揮地にちがいない。
晩秋――
この辺りに多い蘆荻《ろてき》は、数万の兵馬も、ひそやかに包んで、ただ兵站部《へいたんぶ》のけむりのみが、朝夕、おびただしく水郷を煙らせた。
まだ、何の戦令も出ない。
のん気な兵は、時々、ハゼ釣りなどやっていた。そんな時、はからずも、軽装した秀吉が、馬で陣見廻りなどに来ると、あわてて雑兵《ぞうひよう》たちは釣竿を捨てたが、秀吉は気づいても、ただニヤニヤと見て通った。
――思うに。
実はかれも、こんな場所でなければ、ハゼも釣ったり、裸足《はだし》で土も踏んでみたかったであろう。かれにはいつも、童心がある。その童心が、田舎《いなか》びた地方へ来ると、よけいに、幼少の腕白ごころを駆りたてる。
この川、一歩こえれば、尾張の土である。尾張中村の土のにおいが、秋の日の下に、かれの嗅覚《きゆうかく》をしきりにつく。
(いちど、中村へも、帰ってみたいな)
人知れず、そんなことを思いながら、馬をめぐらして、陣門へもどって来た或る日のこと。
富田|知信《とものぶ》と――津田藤三郎信勝《つだとうざぶろうのぶかつ》のふたりが――使い先から帰って、かれの姿を待ちわびていた。
「お! 帰ったか」
秀吉も、この二日ほどは、二人の吉左右《きつそう》いかにと、独りその返報を、案じていたところらしい。
陣門に、馬を捨てるや、かれは、いつになくあたふたと、
「こっちへ来い」
迎えに出た二人を、自身で引いて、たれも入れない木立の中の一|幕舎《ばくしや》へみちびいた。
木立の外には、数名の槍手が目をくばって、見張っている。幕いっぱいに、桐《きり》の紋《もん》のゆれているその中には、秋の木《こ》もれ陽《び》と、鳥の声しか、洩れなかった。
「どうじゃった? 三介どの(信雄のこと)の御返辞は」
声はひくい。しかし非常な眼光である。何か、よほどなものを、その眼は期待しているふうである。
「およろこび下さいませ」
津田信勝が、まず云った。
「信雄卿には、筑前どののおこころもち、よく分ったと仰せられ、御会見のこと、はっきり、御承諾《ごしようだく》遊ばしました」
「なに、承諾したか」
「むしろ、非常なおよろこびで――」
「そうか!」
秀吉は胸をのばして、大きな息をほっとつきながら、
「そうか。いや、そうであったか」
と、何度も云った。
今度、秀吉が伊勢路《いせじ》へ進出して来た意中には、初めから、大きな目算《もくさん》があったのである。
戦争目標ではなく、外交目的だった。いや、そういうよりも、うまく図に中《あた》れば外交的解決でゆく。まずく割れたら、一挙に、桑名、長島、清洲と突きすすんでゆく。そして小牧の正面的|堅塁《けんるい》を、その背後から、無意味なものにしてしまう。――要するに、和と戦との攻略二面のかねあい[#「かねあい」に傍点]といった方が当っていよう。
だが、秀吉は、
(この図は外《はず》れぬ)
という自信をもって、この縄生《なおう》に陣をとどめるとすぐ、津田、富田の二名に、委細《いさい》を云いふくめ、長島の信雄の城へ、ひそかに通わせていたのである。
密使の津田藤三郎信勝は、織田家の血につながる一人で、北畠信雄《きたばたけのぶお》とは、再《また》従弟《いとこ》にあたっている。
この藤三郎も説き、富田知信も、利害を説いて、ついに信雄の口から、
(何も、自分は、戦争を好んでいるのではない)
と、いわせ、また、
(筑前が、それ程まで、この身を思い、また和議を望むなれば、和談に応じても苦しゅうないのじゃが……)
と、ついに、そこまでの言を引き出し、さらに、使者がさいごの切り札として持ち出した信雄と秀吉との単独会見の案にも、
(会ってもよい)
と、無造作に、一諾《いちだく》させて、使者のふたりは、得たりとばかり――今、縄生《なおう》の陣へ、馳《は》せ帰って、来たわけだった。
「大儀大儀」
と、秀吉は、よろこびを、目皺《めじわ》にえがいて、限りなく、二使の労を謝した。
「ところで、三介どのと、お会い申す日どりや、場所なども、抜かりのう、取りきめて参ったろうな」
「もとよりです」
と藤三郎が答えた。
「日時をおくな。徳川方へ事がもれてはまずいぞ――というおさしずもありました事ゆえ、御会見の儀、よかろうと、信雄卿がうなずかれるとすぐ、この月、十一日の巳《み》の刻、桑名の西なる矢田《やだ》川原《がわら》までお立ち越しは如何……筑前にも同日同時刻、縄生より出て、お待ち申しあげますが――と、申し上げました」
「ウム。うむ。……それも御承諾あったのだな」
「たがいなく――と、御承諾でございました」
「十一日。明日の朝だの」
「左様でございます」
「退《さ》がって、休むがいい。そちたちも、気ぼねが折れたことだろう」
「桑名《くわな》を通るにも、長島へ入るにも、細心を要しましたが、しかし、長島城内へ足を入れると、これは成功するなと、何やら、予感がいたしました」
「ふうむ、そのような士気が見えたか」
「かねて、大坂表からお手をまわして、長島の家中や、城下の間にまで、いろいろお手をつくしておかれた御工作が、あきらかに功を奏《そう》しているものらしく……城下に来ておる徳川方の部隊と、北畠家の武者たちとは、互いに、冷たい眼で、行動を監視し合い、城中の士は同じ城内にありながら、何となく、一致を欠き、異論をいだきあい、とんと、ぬる[#「ぬる」に傍点]湯にはいっている感じでした」
秀吉は、さもあろう、とうなずいた。北畠の家中へも、徳川方の内部へもかれはあらゆる機会をとらえては、内紛《ないふん》と内訌《ないこう》の素因《そいん》を植えて来たのである。敵国のうちに、あらぬ流説《るせつ》をまいて、その結果を破るという手段は、古今、東西、変りはない。
小牧《こまき》の第一会戦において、
(家康、くみし難し)
と見た秀吉は、その後、人心の機微《きび》を窺《うかが》って、用うべき小もの大ものを、自由に、蔭であやつってきた。
徳川家の内部において、石川数正が、何かにつけて、狐疑《こぎ》されているのも、その作用の一波であり、丹羽長秀が調停にうごくと、北畠家の内部にも、忽ち、かれと旧縁のある人々が、和平派として排斥されたり、また、信雄自身が、家康の真意に不安をいだき出したり、徳川方の武将の眼が、とかく、北畠軍にたいして、急に、警戒的であったりするなど、すべてはみなこれ――遠い大坂あたりから出ている指令の作用なのだ。
(もう、よかろう)
と、秀吉はその効果を計算に入れて、こんどの伊勢進出を断行したわけだった。津田藤三郎《つだとうざぶろう》、富田|知信《とものぶ》の両使から、いまその実状をきいて、かれが、
「さも、あんめり」
と、ほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑んだ理由はそこにある。
外交によるどんな謀略を用いても、それは戦争による犠牲よりは、はるかに勝《まさ》る、というのが秀吉の信条だった。――まして小牧で対峙《たいじ》してみて明らかとなったように正攻法でも奇略でも、威嚇《いかく》でも、戦争ではてんで[#「てんで」に傍点]効《き》き目《め》のない家康にたいしては、他の手段によるしかない――と、かれは考えた。
次の日の、矢田川原における信雄との会見は、まさにかれのそうした深慮遠謀《しんりよえんぼう》の事実化なのだ。
秀吉は、早朝に起き、
「天気も、よいあんばい」
と、まず空を見た。
ゆうべの模様では、晩秋の風をもった雲行きが怪しまれたので、万一、風雨にでもなって、信雄の方から、延期だの、場所換えだのをいって来られると、徳川方に気どられる惧《おそ》れもあり、甚だまずいがと、案じて寝た今朝だったが――吹き晴れて、この頃にもない青空が見られたので秀吉は、さい先よしと、みずからを祝福しながら、縄生《なおう》の陣を、馬で出た。
供は、えらばれた極く少数の旗本小姓に、先に、使者の役をした富田、津田の両名しか連れなかった。
けれど、やがて町屋川を越えると、そこここの蘆荻《ろてき》や民家のかげに、昨夜のうちに配置された味方の将士が、かくれていた。――秀吉は、見て見ぬ顔で、馬上、談笑をかわしながら、やがて桑名の西郊にちかい矢田川の岸まで来て、
「信雄様のお越しあるまで、この辺でお待ち申しあげようか」
と、床几《しようぎ》にひかえて、あたりの風光をながめていた。
ゆうべまでは、信雄のことを、口ぐせ通り三介殿三介殿とよんでいたが、まだ姿を見ぬうちから、その人のよび方にまで、細かい気をつかっていた。小心な人の心を迎えるには、まず小心でなければならぬ――としているものか、いつもにもない謹直《きんちよく》さであった。
ほどなく。
信雄も、時刻をたがえず、彼方からその一群の騎馬を見せて来た。
「おお、来ておるな」
と、信雄も馬上からすでに川原の人影を見たのであろう。
かれは、左右の扈従《こじゆう》の将に、さっそく何か話しかけて、秀吉のすがたに、眸《ひとみ》をあつめて来る様子だった。
川原に待っていた秀吉も、
「や……。お見え遊ばした」
と、ひとり云って、すぐ、床几《しようぎ》から立った。
それと、同時に、信雄も彼方にあって、駒を止め、ひら――と地上に降り立っていた。
(秀吉が、どんな態度で、自分に会うか)
信雄には、まだ多少の危惧《きぐ》があるらしい。
かれは、従えて来た扈従《こじゆう》の武者群を、左右にひらかせ、その中央に、武威《ぶい》をこらした盛装《せいそう》に鎧《よろ》われた自身を置き――きっと、此方《こなた》を見まもっていた。
秀吉。
それはかれが昨日まで天下にむかって極悪《ごくあく》の兇首《きようしゆ》、忘恩の人非人と、鼓《こ》を鳴らして、家康とともに、その罪をかぞえた敵である。
いま、その秀吉の申し入れをゆるして、ここで会見するとしても、さて、秀吉がどんな眼《まな》ざしで、どんな底意をいだいて、自分を俟《ま》つかは――信雄として決して安易なここちではあり得ない。
――ところが。
かれがそこに、威容《いよう》をつくって、立ったと思うと、秀吉は、今まで腰かけていた床几をうしろへ残して、ただひとり、ととと、と小股《こまた》きざみに、駈け寄って来た。
「おうっ。……おお信雄様」
約束もなく、はからずここで出会ったように、両手を振りうごかし、
「やれ! おなつかしや」
これが、彼からの、第一声であったのだ。
いんぎんなる挨拶とか、会釈《えしやく》とかいうのではない、市中の凡俗が、よく路上の辻でやっているそれと、何の、かわりもない表情なのである。
いまや二つの天下を、一つにと争っている軍門の代表者としては、これはまったく型やぶりだ。信雄も、意外なものに打たれてまごついたが、鉄槍《てつそう》、甲冑《かつちゆう》、物々しく固くなっていたかれの将士も唖然《あぜん》とした。
おどろきは、そればかりでない。――秀吉のすがたはもう信雄の足もとへ膝まずいて、その武者わらじ[#「わらじ」に傍点]に、面《おもて》をつけんばかりに額《ぬか》ずいているのだ。
そして、呆然《ぼうぜん》たる信雄の手を下から取って、
「いつかは、お会いしたい、お会いしたいと、この春以来、思わぬ日とてはございませんでした。……まずは、お健勝のていで、何よりうれしゅう存じまする。……ああ、いかなる天魔がわが君を惑《まど》わして、のがれぬ合戦などに及んだことでございましょう。今日からは、もとの御主君。……秀吉の身にとっては、再び、きょうの秋空のような、陽の目を見た気がいたしまする」
人々は、秀吉が、泣いているのではないかと思ったほど、そのことばといい姿といい、見得《みえ》のない、ありのままに見えた。
「筑前。膝を上げい、膝を。――何で、やむなき合戦になど及んだかと、そちに悔いられると、信雄も、ことばがない。同罪じゃ。まず、まず、膝を上げい」
信雄は取られていた手で、秀吉を、かかえ起した。
十一月十一日の両者の会見は、こうしてすらすらと、単独講和の実現を見てしまった。
本来は、いうまでもなく、信雄は家康の同意を得るなり、事前に、相談もしてみるのが、順序である。
――が、かれは、渡りに舟と、応じてしまい、しかも単独の和議を成立させた。
このことについて、後の史家《しか》は、信雄の軽率と、その心事を、嘲笑的《ちようしようてき》に書いている。
新井白石の「藩翰譜《はんかんぷ》」は、
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――信雄大イニ悦《ヨロコ》ビ、徳川殿ニ、コノ由ヲ告ゲ申サルルニモ及バズ、十一月十一日、筑前守トノ仲直リノ見参《ケンザン》、事終リヌ。
[#ここで字下げ終わり]
と、特筆し。また、「甫庵太閤記《ほあんたいこうき》」では、
[#ここから2字下げ]
――或ル日、信雄卿ニ、群疑出態《グンギシユツタイ》シケルニ依リ、早速、和睦《ワボク》ノ儀、調《トトノ》ヒシトナリ。
[#ここで字下げ終わり]
といっている。
群疑《ぐんぎ》≠ニは何であったかはここで再言するまでもない。要するに、信雄は秀吉の手にのったのだ。家康がかれを手玉にとって用いたように、その手玉を、こんどは秀吉がひょいと横から取ったというだけのものである。
――が、その日、会見の第一印象に、秀吉がいかに信雄の歓心《かんしん》をつなぐのに、甘いことばをもってしたかは、想像に余りがある。
実に、気むずかしい、神経の嶮《けわ》しい人といわれた信雄の父信長にさえ、多年、仕《つか》えて来て、めったに癇癪《かんしやく》を起させずに来た秀吉である――他愛もないことだったろう。
しかし、先に、二使を通じて示しておいた講和条件の内容は、決して、甘くもないし、そう他愛ないものではない。
――条件の内容は、
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一 秀吉は信雄のむすめを養女にもらう。
二 秀吉方が占領した北伊勢の四郡は、信雄に、返還する。
三 信雄は、一族の織田長益《おだながます》や滝川雄利《たきがわかつとし》、佐久間正勝《さくままさかつ》、故|中川雄忠《なかがわかつただ》の子か母などを、質《ち》として、差し出すこと。
四 伊賀《いが》の名張《なばり》など三郡。南伊勢の鈴鹿《すずか》、河曲《かわわ》、一志《いちし》、飯高《いいだか》、飯野《いいの》、多気《たけ》、度会《わたらい》などの七郡。――それに尾張犬山城と、河田《かわだ》ノ砦《とりで》とは、秀吉へゆずること。
五 伊勢尾張、二州にわたる臨時の築城は、双方とも、これを破毀《はき》する。
[#ここで字下げ終わり]
「よろしい」
と、信雄はこれに調印した。
秀吉からは、その日、手みやげとして、黄金二十枚、不動国行《ふどうくにゆき》の刀|一口《ひとふり》を、かれに贈り、なお伊勢地方での戦利品米、三万五千俵をも、贈与《ぞうよ》した。
心を表わすには、身を屈《かが》めて恭敬《きようけい》。――利を示すには、物質の実をもって、こうまでされては、信雄は満足を顔に出さずにいられなかった。
だが。
この計算が、どういう回答になって出るか、信雄は、たいして考慮にいれていなかったにちがいない。
かれはたしかに、名門の子たる貴人の資格は持っていた。けれど、時代の激潮《げきちよう》からこれをいえば、単なるお人よし[#「よし」に傍点]とよぶだけではすまない愚者といわれても仕方がない。名門の子として時流の外にいたならば何も咎《とが》むべきすじはないのに、かれは時潮の尖端《せんたん》に出、戦《いくさ》の傀儡《かいらい》にされ、かれの旗の下でも多くを死なせている。
事あらわれて、驚いたのは、家康であろう。さしもの達人《たつじん》家康も、この愚かなる坊ンちには、まったく、出し抜かれたかたちになった。
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熱鉄《ねつてつ》を呑《の》む
家康は今や、秀吉との対戦に、岡崎から清洲まで出て、大編制にかかっていたところである。
十二日の朝のこと。
「にわかに、お目通りねがわねばならぬことが起って」
と、突然、桑名にいた酒井忠次《さかいただつぐ》が自身で、夜どおしの道程《みちのり》を、早馬で飛ばして来た。
「はて? 忠次が」
前線の司令が、無断、陣地を離れて来るなどは穏やかでない。しかも忠次は年六十の老将である。一族の与四郎重忠《よしろうしげただ》や与七郎忠利《よしちろうただとし》などもついているのに、老人自身が、なんで夜をとおしてやって来たか。
朝飯前だったが、家康は、
「すぐ」
と出座して、かれを待った。
「異《い》な事《こと》が起りました」
「忠次。……何事か」
「昨日。桑名の西、矢田川原におきまして、信雄卿《のぶおきよう》には、秀吉とご会見をとげられ、御当家へ何のおさたもなきうちに、和睦《わぼく》をお取りきめになったと、噂されておりまする」
「……矢田川原で」
「はい」
左衛門尉忠次《さえもんのじようただつぐ》は、家康の満面から、じいんと、沈みこんでゆくような、感情の抑圧《よくあつ》を見て、反対に、ぶるると、くちびるを慄《ふる》わせた。忠次には、抑えきれなかった。――信雄の大馬鹿者と、大声でどなりたいのだ。おそらくは今、家康が、心のうちで組みしくように抑えたものもそれだろう。怒るべきか、嗤《わら》うべきか、咄嗟《とつさ》に、自分で自分のうちにうごく激情をうけとりようもなく抑えてしまったにちがいない。
「…………」
茫然《ぼうぜん》たる家康の眼もとだ。
――あきれた、としているしかない面持《おももち》だ。
それが、かなり長い。
「…………」
そのうちに、家康は、ぱちぱちと、二つ三つ目《ま》ばたきをした。そして大きな耳たぶ[#「たぶ」に傍点]を左の手でつまみながら顔を横にしてこすっている。
困った。弱った。
しん[#「しん」に傍点]から当惑のていである。丸っこい背中を左右にすこし振りはじめた。左の手が、耳たぶ[#「たぶ」に傍点]から離れ、はたと、膝へ返った。
「忠次」
「は……」
「たしかなことか」
「これほどな大事。うかとはお報《しら》せにまいりませぬ。が、なお入念に、あとの調べは、追っつけ、仔細をもたらして、次々に、早馬をもってこれへ参るはずにございまする」
「して。……三介《さんすけ》どのからは、そちの陣所へも、まだ、何も申し越して参らぬのか」
「昨日。――長島をお出ましあって、桑名を通られ、矢田川原へお立ち出《い》でのせつも、守備、配陣を、御覧のことのみと存じあげておりましたし、やがて御帰城に際しても、なんらの、お内意もございませぬ」
「……左様か」
ここで、初めてうなずいて、口のうちで、
「それは、そのはず」
と、家康はつぶやいた。
次々の報告は、信雄がなした単独講和の風評を、いよいよ確定づけた。
しかもまだ、その日、信雄からは、何も云って来なかった。
信雄が単独講和をむすんだという真相は、すぐ徳川家の家中一般に聞えて、
「こは、意外な」
とばかり、井伊兵部《いいひようぶ》、榊原康政《さかきばらやすまさ》、大久保|忠助《ただすけ》、同じく忠隣《ただちか》、本多弥八郎《ほんだやはちろう》、同平八郎|忠勝《ただかつ》などの多感多血の若手を初め――鳥居忠政《とりいただまさ》、戸田《とだ》十郎《じゆうろう》右衛門《えもん》、内藤新五郎、松平康次《まつだいらやすつぐ》、同|与一郎広家《よいちろうひろいえ》、同|孫六郎康長《まごろくろうやすなが》、安藤彦十郎、酒井|与七郎《よしちろう》、阿部正定《あべまささだ》らの分別ある部将にいたるまでが、
「ほんとか」
「ほんとらしいのだ」
と、顔を合わせるごとに、信じ得ぬもののように確かめ合っては、各所で騒然《そうぜん》たる声を起していた。そしてついには、清洲の武者溜りに、納まらぬ顔がより集まって、信雄の無節操《むせつそう》を弾劾《だんがい》し、出し抜かれて、窮地に立った徳川方の立場を――また天下への面目をどうするか――と、みな悲涙をたたえて憤慨《ふんがい》した。
「もし、これが事実なら、いかに信雄卿とて、そのままにはしておけぬ」
と、までいう血気な平八郎|忠勝《ただかつ》と共に、井伊|兵部直政《ひようぶなおまさ》も、
「まず、信雄卿を、長島から迎え取って、その非を糺《ただ》し、しかる後、羽柴筑前と、雌雄《しゆう》を決せねば相成るまい」
と、まなじりを昂《あ》げていう。
「何せよ、言語道断だ」
「そも、最初から、たれのために、徳川家が起《た》ったのか」
「家康様の御助力にすがるほかは、秀吉に野望あるがために、亡き信長公の門葉《もんよう》は、自然、滅亡のほかはないと、泣きこんで来たために、わが徳川家は、義を唱えて起ったものを。――その義戦の旗、名分の主が、コロリと、敵へ寝返るなんて、馬鹿馬鹿しくて、話にも何もならん」
「しかも、御当家に、一言の相談すらなく」
「あげくに、まだもって、沙汰もない。このまま、口を拭《ふ》いて、すむ気でいるのか」
「いや、すませて、なるものか、いかに、春秋《しゆんじゆう》の道義は廃《すた》れりといっても」
「何しても、無念だ」
「このままでは、殿の御器量も下げ、われらとて、天下のわらい草だ。小牧、長久手の戦場に死なせた友や部下の霊にもすまぬ」
「そうだ、犬死だ」
「死者には、意味もなき死をあえなくさせ、生きてある者どもも、かく無念な思いを忍ばねばならぬ理由はない。……殿にはいったい、ここを、何と、御決心あるか」
「今朝から、お居間は、いと静かだ。――桑名から来た左衛門尉忠次どのや、大須賀康高《おおすがやすたか》どのなどの、老臣ばかりをよばれて……今日も何やら御熟議らしい」
「たれか、ひとつ、ここの意見を、その老臣衆まで、申し出ておいてはどうか。直々《じきじき》、申しあげては、かどが立つし」
「そうだ。たれがよいか」
阿部、内藤、松平の人々は座を見まわして、
「やはり、井伊どのが、よくあるまいか。平八郎どのも、ご一《いつ》しょに」
「よし、申して来よう」
本多平八郎と井伊兵部のふたりが、代表となって、そこを出たときである。
「長島の信雄卿から、ふたりのお使者が、ただ今、お表の大書院へ通られました」
と、かれらの部下が、わざわざここへ知らせて来た。
「なに。長島の使者が、やって来たと?」
これがまた、人々の憤懣《ふんまん》を、さらに沸騰《ふつとう》させた。
「どんな面《つら》をさげて――」
「のめのめと」
と、罵《ののし》りやまない。
しかし、大書院へ通されたとあれば、すでに使者を引いて、家康が面接しているものと思われるし、かたがたその主君の意志も表明されるであろうと、人々は、なだめ合って、その結果を待つことにしていた。
信雄の使者は――信雄の叔父、織田越中守|信照《のぶてる》と、生駒八《いこまはち》右衛門《えもん》のふたりだった。
信雄の意中はともかく、こう二人は、さすがに、使いとして、徳川家へ臨むのも、気まりが悪そうに、大書院の席に、ひどく萎縮《いしゆく》して、控えていた。
やがて、家康は、小姓だけをつれて――具足《ぐそく》なしの平服で、さっさと、気がるにあらわれた。
そして、しとねに坐るなり、すぐ云った。
「信雄卿には、急に、考え直されて、筑前と手をにぎられたそうじゃの」
「はいっ……」
と、二使は、平伏して、顔も上げ得ず、そのまま答えた。
「このたび、羽柴どのと、事遽《ことにわ》かに、和談な仕《つかまつ》りました儀については、さだめて御当家にとられては、意外とも、心外とも、思し召しは、恐察《きようさつ》のほかござりませぬが、それには、主人信雄様にも、事実、一方《ひとかた》ならぬ遠い深慮《しんりよ》やら眼前の事情もあることでござりまして……」
「察しる。いや、その辺のことは、くどう御説明には及ばぬ」
「委細は、この御書状のうちに、るる[#「るる」に傍点]と、お認《したた》めのよしにございますれば、何とぞ、御披見《ごひけん》を」
「ウム。あとで、ゆるり、拝見しよう」
「御立腹もあらんかと、それのみ、主人には心をいため抜いておりまする」
「何の何の、御斟酌《ごしんしやく》には及ばぬ。もとよりこのたびの戦《いくさ》は、家康の私心私謀《ししんしぼう》に出たものではおざらぬ。――お身たちとて、その発端の儀は、しかと、お分りであろうがの」
「よく分っておりまする」
「さすれば、何もかも、信雄卿の御運命よかれと願う一途《いちず》のほかに、きのうも今日も、家康の心はすこしも変りおざらぬわけよ。……無用な御心痛はなさらぬがよい」
「申し伝えまする。お心を伺って、主人もいかばかりほっとしますことやら」
「別間に、膳部《ぜんぶ》をもうけさせておいた。はや、戦も熄《や》んだこと、何しても、めでたいめでたい。ゆるりと、中食を喰べて戻られよ」
家康は、奥へはいった。
長島の使者は、別室で酒食の饗応《きようおう》をうけたが、倉皇《そうこう》として、まもなく立ち帰った。
――それを、伝え聞いた武者溜《むしやだま》りの血気組《けつきぐみ》は、もってのほか、憤慨《ふんがい》した。
「何たることだ!」
と、腕を扼《やく》して、怒るもあるし、
「いや、おそらくは、御主君には、ほかに深いお考えあってのことだろう。何条《なんじよう》、易々《いい》として、信雄卿と秀吉の野合《やごう》を御承諾あるものか」
と、思い入れして、なだめる者もある。
その間に、井伊兵部と本多平八郎は、一同の意見を、老臣席へ云いに行った。
「祐筆《ゆうひつ》」
と、家康が呼んでいた。
さっき大書院で信雄の使者に会い、自室へもどってからは、誰も入れずに、寂《せき》としていた所からの声である。
祐筆部屋からすぐ誰か行った。
「了庵《りようあん》か。ひと筆、持ってくれい」
家康は、脇息《きようそく》を置き換える。
祐筆は硯《すずり》を寄せ、かれの命じる代筆のことばを待った。
「北畠信雄卿と、羽柴筑前どのへ、それぞれ、賀詞《がし》の状を、送ろうと思う。わしの申すとおり認《したた》めい」
「はい」
と、了庵は筆に墨をしめし直して、ふと、家康の顔を仰いだ。
信雄と、秀吉へ、和睦《わぼく》の祝辞を送ろうというのだ。その文案に、家康は顔を斜めに、眼をふさいでいた。いや、辞句を練《ね》るまえに、熱鉄《ねつてつ》を呑《の》むような思いを、まず胸の中で、整理している容子《ようす》である。
やがて、淡々《たんたん》と、書面の文を、口述した。
七歳《ななつ》の頃から今川家の質子《ちし》とはなったが、臨済寺《りんざいじ》の寒室《かんしつ》で、雪斎和尚《せつさいおしよう》について、学問をうけた家康は、その点、秀吉とは、比較にならない高等教育をうけている。だから秀吉の祐筆は、秀吉が云いたい放題にいうことを、常識にもどした文体に書くのが役目だったが、家康の祐筆は、家康が口述するままを、一辞一句たがえず、清書すれば、それで足りた。
――二通。認《したた》め終ると、
「伯耆《ほうき》に参れと申せ」
と、小姓へいいつけた。
祐筆は、認めた二通を、家康のまえに残して、部屋へ退《さ》がる。
入れかわりに、燭を持った近習《きんじゆ》が、もの静かに、二ヵ所へ、明りをすえて去った。
いつか、日が暮れていた。灯を見て、家康は、何か今日一日が短い気がした。それだけ、自分の心に、胸中の多忙と、半面のうつろがあったものかと、独り思った。
その灯影遠くに、そっと、ふすまを開ける音がした。石川|伯耆守数正《ほうきのかみかずまさ》は、主人と同じように、はや平服にもどり、そこへぬかずいていた。
家中の将士のほとんどがまだ武装を解いてはいない。にもかかわらず数正は、今朝から家康が平服になったのを見ると、すぐ自分も日頃の小袖と麻《あさ》がみしもに、着かえてしまった。
(なんと、数正の身なりはよ。具足を着こむときは遅いが、脱ぐのは早い)
すぐ眼にカドを立てて、かれの表面だけでなく、内部の心理までを読もうとする視線が露骨《ろこつ》に向けられた。
どういうものか、伯耆守数正のすることといえば、同じ家中でありながら、人々はみな、ありのままには受け取らないのだ。前を示せば裏を――底を見せればまたその底に、二重底でもあるような人物としか取ってくれない。
(……心外なことではある)
近ごろめっきり数正の顔には深い皺《しわ》がきざまれていた。皮膚のいろにも生彩《せいさい》がなく、笑いを忘れていることが久しい。
「おお、数正か。そこでは遠い。寄ってくれい。もそっと、近くへ」
いつも変らないのはこの主君だけであった。数正は、家康の前へ出ると、かえって、気がほぐれた。
「伯耆《ほうき》」
「はい」
「明朝、家康の使者として、立ってくれい」
「いずこへのお使いにございましょうか」
「縄生《なおう》の陣所にある羽柴どのと、桑名の信雄卿のおん許まで」
「かしこまりました」
「賀詞《がし》の書状《しよじよう》は、これにある。両所へ、よしなに、伝えてくれよ」
「和睦《わぼく》のお祝いでござりましょうな」
「そうじゃ」
「お心のうち、お察し申されます。さるを、御不満のいろも示さず、かかる御寛度《ごかんど》に出らるるを見ては、いかな信雄様でも、さだめし、お顔を赤うされることでございましょう」
「いや何、数正。三介どの(信雄)に、お顔を赤うさせては、やはり家康の小心となり、義によって起った戦いの公言が、おかしなものになってしまう。――家康の立場は第二義に措《お》くがいい。偽和《ぎわ》であろうと、何であろうと、平和にたいして、不平を鳴らす理由はどこにもない。天下万民のよろこびと共に、家康も心より重畳《ちようじよう》に存じおります――と、そちの口からもくれぐれおよろこびを申し述べてくれよ」
伯耆守《ほうきのかみ》こそ、自分の心を知る者であり、またよくこの使いを果たす者として、家康は、特に、云いふくめている容子《ようす》だった。
が――数正にしてみれば、またもや一つの辛《つら》さに耐えねばならぬかと思われた。そもそもの自分にたいする家中の誤解は、自分と秀吉との接近に始まっている。
去年、秀吉の柳《やな》ケ瀬《せ》戦捷《せんしよう》のとき、家康から秀吉への賀の使者として、初花《はつはな》の茶入れをたずさえ、石川数正がえらばれて大坂へ行った。
そのとき秀吉のよろこびかたは一通りでなかった。初花の茶入れを披露すべく、まだ工事中の大坂新城の一茶室に、諸侯を招いて、茶会をひらき、徳川どのから祝いに贈ってくれた物と、その自慢もたいへんなものだった。使者の数正も、気に入られ、もう一日おれ、もう一日と、予定の滞在もつい延び延びになり、帰路には、おびただしい土産《みやげ》物を、主家へも、数正個人へも、荷駄《にだ》が列になるほど、持たせて帰した。
その後も。
何か、徳川家との交渉があると、かならず秀吉は数正の消息をたずね、また、徳川家と親交のある諸侯へも、よく数正のうわさをした。
(伯耆守は、いたく羽柴どのの、お気に入りらしい)
いつか、こういう先入観が、三河武将のあたまに深く根ざしていた。
小牧対陣中、また丹羽長秀の調停運動の前後など、何が起っても、すぐ味方の衆目が、味方の数正のうごきを嗅《か》ぎ探《さぐ》った。――武人の剛毅《ごうき》とよくいうが、武人の猜疑《さいぎ》と小心もまたうるさいものだ。さすがに家康はそれに惑《まど》わされない。それ一つがまた数正の恃《たの》みでもあった。
「はて。騒々《そうぞう》しいのう」
数正の顔から、家康はふと、あらぬ方へ、眼をそらした。
それは、そこから幾部屋も隔てた広間の人声であった。和議に、釈然《しやくぜん》たり得ない武将たちが、数正が君前に呼ばれたことを、さらに擬議《ぎぎ》してさかんに、憤懣《ふんまん》をもらし合っているらしい。
井伊兵部、本多平八郎などを代表として、鳥居、大久保、松平、榊原などの面々が、老臣の酒井忠次をとり囲んでいた。
「御老人は、先鋒《せんぽう》の兵をひきいて、桑名の城下にいたのではござらぬか。信雄卿と秀吉が、矢田川原で会合をとげるも知らず、また秀吉の密使が、桑名城へ通ったことも、御存知なかったでは相すむまい。――両者の野合的《やごうてき》な和睦《わぼく》ができ上ったのを知って、早馬にムチをあてて来たところで、それが何になりますか」
という詰問《きつもん》なのだ。
さきは秀吉だ。事前に洩れるような策をとるわけはない。忠次としては、それ以外の云い開きも充分にある。けれど、この不満なかたまりと、若手の多血性にたいしては、甘んじてその憤慨《ふんがい》や罵倒《ばとう》をうけてやるにしくはない――と老将らしい勘弁をもって、さっきから、一同へ、謝《あやま》りぬいていたのである。
だが、井伊兵部も本多平八郎も、この六十の老人を、いじめつけるのが目的ではない。主君に、自分たちの意中を達したいのだ。断然、野合的和睦を一蹴《いつしゆう》して欲しいのだ。信雄の単独講和は、徳川家の知ったことではないと、天下に宣言して欲しいのである。
「お取次ぎ下さい。御老人から」
「いや、そういう押しかけ沙汰は、穏やかでおざらぬ」
「この方どもは、なお甲冑《かつちゆう》をぬがず、戦場のつもりでおります。平常の礼とはちがう」
「いずれ、殿よりも、親しく御一同へ、おはなしもあろうほどに」
「仰せ出されては、間にあい申さぬ。仰せ出しのないうちこそと思うてわれらもヤキモキいたすのでござる。お取次ぎ下さらねばぜひもない。直接、御近習を通じて、お居間へ参じますぞ」
「いや今は、数正どのと、何やら、おはなし中でおざる。めったに、お居間を騒がせてはならぬ」
「なに、数正が?」
この際、石川数正が、ひとり主君の前に在《あ》るということもすでに、かれらに不安と不快を加えさせた。
そもそも小牧陣《こまきじん》の時から、ややもすると、和議が伝えられ、和睦といえば、その裏面に数正があるように、かれらの先入観がいつも視《み》ていた。丹羽長秀が調停にうごいた折も、もっぱらその折衝《せつしよう》には数正が当っていたし、こんどの信雄の単独講和にも、何か、かれの策動が蔭にあったのではないか? ――というのがここの人々の偽わらぬ感情だった。
その感情が、ふと、騒々しい物音となっていた時、幾間《いくま》もへだてた家康の耳にまでそれが聞えたのであった。――ばたばたと、廊下を小走りに、ひとりの小姓が来て、家康のことばを伝えた。
「お召しです! ……」と。
そして、云い足した。
「みな様、ひとり残らず、お居間へお揃いあるようにとの、仰せでした」
一同は、はっとした。――さてはと、顔見あわせて、恐懼《きようく》した。
だが、平八郎や兵部などの一徹者《いつてつもの》は、のぞむところと、いわぬばかりに、
「お召しとある。さ……参ろうではないか」
と、酒井忠次や他の面々をうながして、先に立った。
家康の居間は、甲冑《かつちゆう》の武者たちで、いっぱいになった。ふすまを払って、次の間まで、居ながれた。
「揃うたか」
みな家康の面《おもて》に眸《ひとみ》をあつめ合った。家康も一人一人を見まもるように、しばらく、口をつぐんでいる。
かれの側には、石川数正がいた。酒井忠次は、その次に坐り、以下、徳川家の中堅は、ここの顔ぶれで、あらまし代表されているといってよい。
「みな、聞いてくれい」
と、家康は口をひらきかけたが――ふと末席の方をながめて、
「末座の者は、ちと遠いの。家康、声がひくいゆえ、もそっと、こっちへ寄り集まれ。ずっと、家康のまわりを囲んで、聞いてくれい」
人々は、席をつめ合い、末座の者も、みな家康のまわりへ寄った。
「……さて。余の儀でもないが、信雄卿が突然にも、昨日、羽柴方と和睦《わぼく》を取り結ばれた。実は、明朝には、この由を、全家中へ布令《ふれ》出そうと存じていたが、はや、その方たちの耳にきこえ、いかい心配をかけたそうな。……ゆるせよ。決して、そちたちに、事実を、秘していたわけではない」
一同は、みな首をたれた。
ゆるせよ、ゆるしてくれい、と家康はそれを、はなしのうちに、何度もいった。
「信雄卿のたのみに応じ、そちたちを起《た》たせたのも、家康の過《あやま》りである。小牧、長久手の戦場に、あたら良き家臣たちを、たくさん討死させたのも、家康の過り。またさらに――三介どの(信雄)が、自分も知らぬまに、秀吉と手をむすび、汝らの義胆《ぎたん》と忠憤《ちゆうふん》を、ことごとく無意味なものにしたのも、科《とが》は、彼君《かのきみ》にあるには非ず、みな家康の不明と手落ちにありといわねばならぬ。……純誠一途《じゆんせいいちず》なる汝らにたいし、主君として、家康は、何と詫びてよいか、ことばもないほどである」
こういって、かれはまた、
「……ゆるしてくれい」
と、上座から、手をつかえぬばかりに、わびた。
「――無念であろう。憤《いきどお》ろしいことであろう。家康も、暗愚《あんぐ》ながら、その思いには、変りない。……さあれ、今となって、三介どのを責めたてても、それは、われらの名分を、みずから道化《どうけ》たものにするだけのものに終ろう。従って、羽柴どのに対しては、その智慮《ちりよ》を敢《あ》えて敬して、共に、平和を賀するほかはないのじゃ。謀略の平和、偽装の平和などと、ゆめ、罵《ののし》っては相成るまい」
いつかみな、面《おもて》を伏せて、たれひとり、家康の顔を見ている者もなかった。
ぽた、ぽた、と涙の音がしげく聞えた。男泣き、無念泣きの、ふるえが、肩から肩へ、波のように、うねった。
「ぜひもない儀と……ここは、こらえてくれい。肚《はら》を太く、大きく、ただ他日を期して」
井伊兵部も本多平八郎も、ここへ坐ってからは、一言もなかった。いや、ふたりとも、はな紙を出して、横向きに、顔ばかり拭いていた。
「めでたい。戦《いくさ》はやんだ。めでとう、明日は岡崎へ帰ろうぞ。そちたちも、はやはや家路について、女房子《にようぼうこ》の顔でも見よ」
家康も、懐紙《かいし》で洟《はな》をかみながら、そういった。
次の十三日。徳川軍の大部分は、家康以下、清洲城を立ち退いて、三州岡崎へひき揚げてしまった。
同日の朝。
石川数正は、和睦《わぼく》成立の祝使として、酒井忠次とともに、桑名へ行った。そして信雄に会い、また、縄生《なおう》の秀吉を訪れて、
「同慶《どうけい》にたえません」
と、家康の公式意志をつたえ、賀状を披露して、帰った。
数正の帰ったあとで、秀吉は左右の者にむかって、こういった。
「見やれ、さすがは家康である。これが、余人であったら、このたびの痛事を、こうさらりと、湯茶を呑むように呑みきれまい」
かれに熱鉄を呑ませた当人だけに、秀吉はよく相手の気も買っていた。立場をかえて、自分が家康になった場合、こう出来るかどうかと、自問自答してみた。
こういう幾日かが過ぎてゆく間にも、いい気なものは、信雄だった。矢田川原の会見以来、かれはすっかり秀吉の薬籠中《やくろうちゆう》の物となりきってしまい、何をするにも、
「筑前がどう思うであろ。筑前にきかずにしては悪かろう。筑前に問い合わせて」
と、さきには家康へ、身ぐるみ恃《たの》みきっていたように、今では、一にも秀吉、二にも秀吉と、かれの一《いち》びん[#「びん」に傍点]一笑《いつしよう》をただ惧《おそ》るるのみだった。
従って、講和条件の実行は、秀吉の意のままにすすみ、城地の分割、質子《ちし》や誓紙《せいし》を差し出すことも、残らず終った。
「まず、一段落」
と、ここで秀吉は、いささか意を休めた。しかし、縄生《なおう》の滞陣は、どうしても、越年にかかるであろうと思われ、留守をしている大坂表のものたちへも便りを出し、冬をむかえる用意をしていた。
いうまでもなく、秀吉の対象は、初めから、信雄ではなく、家康である。対家康の解決を見ぬうちは、時局は平定したとはいえないし、かれの意図もまだその半ばにあるにちがいない。
「ちかごろ、御健康はどうですか」
一日、桑名の城へ、秀吉が訪ねた折、よも山の話のあとで、かれがたずねた。
「いや、健《すこ》やかだよ。何よりは、いやな思いもなく、戦陣の過労も癒《い》え、すっかり心がらくになったからの」
信雄は、明るく、笑ってみせた。秀吉は、馴れついて来る子を、膝《ひざ》へ抱きとるように、何度もうなずいた。
「おう、おう、お心にもない一頃《ひところ》の戦には、さこそ、お心を労《つか》われたことでおざろう。したが、まだ少々、御苦労事が残っておりますな」
「はて。……なにがじゃ、筑前」
「徳川どのを、あのままにおいては、いつまた、お煩《わずら》いをかけるや知れますまい」
「そうの。……伯耆守《ほうきのかみ》を使いによこして、めでたいと、祝うてはよこしたが」
「まさか、御意《ぎよい》に逆らって、怒るわけにもゆきませぬ。もともとあなた様をかついで乗出した仕事ですから」
「いかにも」
「従って、あなた様から、何ぞお口をきいてやらねば相成りませんな。――徳川どのの肚《はら》としては、あきらかに、この秀吉に、和を講じたいは山々なれど、自分から降参を申し出ては、面目立たぬし、さりとて、なお秀吉に立ち向う理由はおざらぬし……弱っておりますよ。何ぞ、救いを出しておやりなされませ」
名門の出には、自己主義者が多い。周囲の人間はみな、自分のために存在しているという錯覚《さつかく》によるのである。自己が他のために尽すなどは思いも及ばないことだった。
だが、秀吉にいわれてみると、信雄も、
「このまま、家康を放《ほ》っておいては悪い」
と、気づいた。
また、自分の不利益も、考えられた。
そこで信雄は、数日の後、自分が、秀吉と家康との仲介者に立とうと申し出た。これは、当然なかれの義務であるのに、秀吉に示唆《しさ》されて、はじめて腰を上げたのである。
「この方の条件を受けいれるならば、お扱いに免じて、徳川どのの罪はゆるしてもよい」
信雄の口からいわせておいて、秀吉は、戦捷者《せんしようしや》の立場をとった。
条件としては。
――家康の実子、於義丸《おぎまる》を秀吉の養子にする。
石川数正の子、勝千代《かつちよ》。本多重次《ほんだしげつぐ》の子、仙千代《せんちよ》などを、質《ち》として差しよこすこと。
さきに、信雄と協定した城塁《じようるい》の破毀《はき》、領土の分割のほか、徳川方には、現状以外の変更は追求しない。
「徳川どのに対しては、秀吉の心中、なお容易には晴れやらぬ無念もあるが、あなたのお顔を立てて、この程度に、堪忍いたしておく。……お受けあるや否や、余りに、遷延《せんえん》しても困る。さっそく岡崎へお使いを立てられたい」
信雄は、こう云いふくめられて、即日、二名の重臣を、自分の代理として、岡崎へ向けた。
条件は、苛酷《かこく》ともいえないが、それを受けるには、家康こそ、大きな堪忍のいることだった。
於義丸を、養子にとはいえ――実は、人質である。世間も、そう見る。
そのほか、徳川古参の重臣の子たちを、質子《ちし》として、大坂へ送る以上、これは明らかに、敗者の契《ちか》いだ。
藩論はまた硬化《こうか》した。けれど家康は、平静であった。清洲でもそうだったように、かれは激すことを知らない人間みたいに見えた。すべてを自分の罪に帰して、
「条々、承引仕《しよういんつかまつ》った。よろしくお扱いをねがう」
と、使者に答えた。
幾たびかの往復があった。
そして、十一月の二十一日。――秀吉の方から正使《せいし》富田|知信《とものぶ》、副使《ふくし》津田|信勝《のぶかつ》のふたりが、講和使節として、岡崎へ来た。
信雄の代理として、滝川雄利《たきがわかつとし》も来て、調印に立ち会った。
かくて、秀吉と家康との和睦《わぼく》もでき、信雄は、
「まずまず、これで」
と、ほっとした。
十二月十二日。
家康の子、於義丸《おぎまる》は、浜松の城を出て、大坂へ送られた。
石川数正の子勝千代、本多重次の子仙千代も、一しょにである。
質子の行列を見送った岡崎の将士は、沿道に立ちならんで、みな泣いた。
一時、天下を震撼《しんかん》させた小牧《こまき》の役《えき》も、これで終った。かたちとして、暫定的《ざんていてき》に、ひとまず終った。信雄は、年暮《くれ》の十四日に、岡崎へやって来て、押しつまった二十五日まで滞在していた。家康は一言のいや味もいわず、この前途の知れている好人物を、十日あまりも馳走して帰したのである。
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表裏《ひようり》の北陸《ほくりく》
信雄の単独講和は、一挙に、家康の立場を失わせたが、その家康と秀吉との和睦《わぼく》が成ると、家康を支持して諸州に騒いでいた反秀吉党もまた、謀乱《ぼうらん》の目標をうしなって、あちこちで、旗なき捨て子にされてしまった。
紀州の畠山貞政《はたけやまさだまさ》、根来《ねごろ》の雑賀党《さいがとう》。そして四国の長曾我部元親《ちようそかべもとちか》などがその組だ。
わけて、越中《えつちゆう》の佐々成政《さつさなりまさ》は、さきに小牧の大乱が兆《きざ》すと、
「時こそ」
とばかり、日ごろの野望を時局に賭《か》けて、もっとも積極的に、反秀吉の気勢をあげた一人だった。
かれはむかしから猿ぎらい≠セと揚言《ようげん》していた。猿が、信長に見出されかけていた当時から、かれは尾州《びしゆう》春日《かすが》井郡《いごおり》の一城主だった。そして柴田勝家とは刎頸《ふんけい》の誓《ちか》いをつづけ、勝家が亡《ほろ》ぶ日まで、無二の柴田党だった。
本能寺変から賤《しず》ケ嶽《たけ》、北ノ庄の陥落と、かれには、あり得ない世の中の急変も、次から次へ、事実となって、身に迫って来た。
かれは信長の命によって、勝家の北陸|探題《たんだい》を輔佐《ほさ》して、共に越中に在任していたのであるが、勝家の滅亡と、秀吉の隆々《りゆうりゆう》たる勢いを見ては、
(我慢じゃ。ここは、我慢のしどころ)
と、観念せざるを得なかった。
先年、秀吉に誓紙を入れて降参したのは、決して本心ではない。かれのうぬ[#「うぬ」に傍点]惚《ぼ》れは、そんなことで、老いてはいない。
秀吉もまた、知っている。日吉、藤吉郎のむかしから、たれも自分に注意していないまに、信長をめぐる幕将たちの性格や習癖《しゆうへき》までを、つぶさに観察していたのが、今になってみれば、いかに大きく役立っていることか――だ。
(柴田、佐々《さつさ》は同じ型のうぬぼれ[#「うぬぼれ」に傍点]男だ。永禄年代の武人型といえよう。同じ瓶割《かめわ》り流《りゆう》でも、柴田は大ガメじゃが、佐々《さつさ》は一《ひと》まわり小さい素焼《すやき》のカメである。あれがこのまま秀吉に素直に服しておるはずはない)
とくに、こう観《み》ていたので、秀吉は小牧《こまき》へさして出陣する前にも、金沢の前田利家へ書を送って、
(おもとは、小牧へ来るには及ばぬ。尾山城《おやまじよう》の惣構《そうがま》えを堅固に、しかと、北陸を抑えていよ)
と、暗に、佐々の策動を、警告していた。
やがて、長久手《ながくて》の戦況が、秀吉方不利――と聞えてくるや、成政《なりまさ》は、
「それ、みよ」
と、手を打って、快を叫んだ。
「さきに徳川どのへ、大いに奮《ふる》い給えと、書簡は送ってあるが、念のため、自身、しめし合わせに行ってくる。……尾山城の於犬《おいぬ》めに、おれの留守を気《け》どられるなよ」
成政は、いい残し、わずかな供をつれて、越中さらさら越えから遠州《えんしゆう》へ微行の旅に立った。
「かく姿を変じ、軽々しき微行にては参って候が、それがしは御存知の佐々|内蔵助《くらのすけ》成政でござる。折入って、徳川どののおんために、申し談じたいことなおざって、越路《こしじ》よりはるばるまかり申してござる」
或る夕べ。
かれは遠州|井伊谷《いいだに》の井伊兵部直政《いいひようぶなおまさ》の門をたたいていた。
時は、長久手合戦のあと、五月上旬で、家康を初め、遠参《えんさん》の諸将はみな小牧に出ていた。もちろん直政も不在だったが、急を前線に報じると、この珍客のため、直政は家康の旨をふくんで、一夜、井伊谷へ帰って来た。
「兵部でござる。初めて、お目にかかります」
「おお御辺《ごへん》が、徳川どのの御内《おうち》に、井伊の赤備《あかぞな》えと、聞えの高い、兵部直政どのか。……いや、お若いのう。それがしが、佐々《さつさ》成政。お見しりおかれよ」
「主人は、小牧にあって、片ときも、陣所を離れ得ませぬ。よろしく申されました。遠路のお越し、何事やらん、お会いできぬは、残念じゃが、くれぐれもと」
「いや、このたびの、御合戦には、及ばぬながらも、佐々成政、北陸にあって、一臂《いつぴ》のお味方はいたしておる。さきに、その由は、徳川どのへ、密《ひそ》かに、密書いたしておいたが」
「およろこびでございます。佐々どのが、北陸において、後ろ巻くださることは、小牧に一陣をお加えあるよりは、万人力と、仰せなされました」
「されば、この成政の居るために、尾山城の於犬めも、秀吉の尾について、小牧に出られぬ始末でおざる」
「於犬とは、たれのことで」
「ご存知ないか、前田犬千代。あの利家のことを申すのでござる。若年よりの口ぐせで、つい、お犬お犬と、呼びならわし、今さら前田とも利家とも、呼び難《にく》うてな。あははは」
佐々成政と井伊兵部とは、酒を酌《く》み交《か》わしながらこんな調子で話しこんだ。兵部は、無遠慮に、訊いてみた。
「前田どのと、佐々どのとは、むかしから犬猿もただならぬ仲と承るが、こんどのお味方も、於犬が憎さに、徳川方へ御加担というわけですか」
「ばかなことを仰っしゃい」
成政は、眼をむいて、怒った。なるほど、自尊心のつよい一徹武者らしいと、年の若い兵部の方が、かえって、観察的な微笑をもって、かれの怒色《どしよく》をながめていた。
「柴田勝家の亡きあとも、なお、故信長公の思し召しのまま、北陸にあって、上杉その他の野望家を圧《おさ》えておるのは、この佐々のほかには、一人もおざらぬ。――於犬の如きは、同じ筋目《すじめ》の者でありながら、本能寺直後には、立ちどころに、態度をかえ、秀吉ずれに、媚《こび》を売って、身の栄達に汲々《きゆうきゆう》たる――文字どおりの犬でござる。いやしくも、成政は、人でおざれば、犬との交際《つきあい》には、事ごとに、蔑視《べつし》をくれておるにはおるが――このたび徳川どのへ申し入れた一儀《いちぎ》は決して私怨《しえん》などではない、公憤でござる」
この男は、すぐ本気になる。自己の正直さを、がんがんいって、ひたいの青すじに、その証明を描いてみせるというたち[#「たち」に傍点]の外装を好む正直者だ。
「何よりは徳川どのが、信長公とのよしみをお忘れなく、信雄卿をたすけ、不逞不埒《ふていふらち》なる秀吉の筋目ちがえを正さんとなし給うおこころに対し、不肖、佐々成政も、やわ、黙視しておらるべき。――おん頼もしゅう存ずればこそ、それがしも義胆《ぎたん》をふるい、越中にて御同心の肚《はら》をかため申したわけでござる」
成政は、呶々《どど》と、それをいって、兵部を閉口させたほど、秀吉の非を罵《ののし》り、家康の徳を称《たた》えた。
そして、さいごに、自分も時を見て、北国から伐《き》りのぼって、参戦するが、その報酬《ほうしゆう》として、大勝のあかつきには、北国五ヵ国をもらいたいと、家康の内諾《ないだく》を求めた。
果たして、家康が、北国五ヵ国をやるというような黙約《もくやく》を、かれにゆるしたか否かは、明らかでない。
けれど、数日、井伊谷に滞在していた佐々成政が、やがて勇躍《ゆうやく》して、自領の越中富山《えつちゆうとやま》の城へ帰ったことは事実である。
また、以後のかれの行動は、一そう反秀吉の旗幟《きし》を、強めてもいた。
かれの謀臣《ぼうしん》でもあり、かれの一族でもある佐々平左衛門は、たしなめた。
「前田はなかなか食わせ者ですぞ。あなた様のように懸引《かけひき》なしの肚の底まで初めから見せていては、到底、大事は遂《と》げ難いばかりです。ここはもすこし、抜け目を見せる必要がありましょう」
「平左。何かうまい謀略があるか」
「ないこともございませぬ。しかし、殿のように、色に出して、息まいておられては、策を施す余地もありません」
「どうすればよいのじゃ」
「まず、於犬於犬というお口癖をおやめなさい」
「前田どのと呼ぶか」
「そして、努《つと》めて、弱まることです」
「弱まるとは」
「強がらぬことで」
「造作もない。抜けておれとは、そのことか」
「されば、何かにつけ、前田どのの意を迎え、あの御方を通じて、大坂表へも、よしなに達しおかれたいと、事実の上にも、示さねば、かれも心をゆるしますまい」
「では、成政は、ふた股者になる」
「そうです。努めて、ふた股者と、さげすまれたがよろしいでしょう」
謀臣は、かれに、いろいろ策を献じた。
成政のいいところは、信じる者の言をきいた。かれもそこらは凡庸《ぼんよう》ではない。
或る日また、佐々平左衛門が、ささやいた。
「殿。……思いきって、御当家の姫ぎみへ、前田どのの次男をお迎えになってはいかがです」
「なに。於犬の次男を、おれの姫の聟《むこ》にもらえというのか」
「於犬は、おやめなさい。まだお口ぐせが」
「いや、やめておるが、時々出てしまうのだ。縁談など申し入れて、先に断わりなどされたら、成政の一分がたたぬ」
「もとより、策ですから、前田家で断われば、前田家の肚も明白となり、こちらの肚もきめやすいし、損はありませぬ」
「だが、おれと前田とは、年来気まずい仲でおり、世間でも、犬と猿だといっておる。――ちょっと、話をもちこむにも、わざとらしくはないか」
「ところが、折もよし、ちょうどよい橋渡しがございまする。……京都と北陸とをよく往来している京商人の油屋小金《あぶらやこきん》と申す男が、前田の重臣、村井長頼《むらいながより》に出入りしており、これがいつでも、お取次ぎしたいといっておるので」
「ふーむ。……そんな男がおるなら、そっと、前田の脈を引いてみてもいいな」
「脈はもう診《み》てあります」
「おれにだまって、すすめているのか」
「いえいえ。あくまで計略ですから、退《の》っぴきならぬことにはしません。けれど、小金にいわせると、このお話は、充分、前田家でも乗ってくる様子があると申すのでございまする」
その後、縁談は、急速にすすんだ。
京商人の油屋小金は、まさか兵家常習《へいかじようしゆう》の策略とは思わず、もしこれが成功すれば、北陸の商権は、両家の縁によって、自分の一手に占《し》められる――と、かれはかれの野心のもとに、両家のあいだを、奔走《ほんそう》した。
ついに、利家の次子|利政《としまさ》と、佐々成政のむすめとの、婚儀の約は、実現した。
成政の口上《こうじよう》としては、
(自分もやがて五十にもなるが、いまだに嗣子《しし》がない。もし、御次男を、ひとり娘の婿にもらえるなら、時を見て、自分は隠居し、跡目《あとめ》を若いふたりに任せたい)
と、いうにあった。
利家の、承諾の言は、
(もし、両家が不和を解いて、事実に、和を示せば、たれよりも、北陸一円の庶民がほっとするだろう。同慶《どうけい》にたえないことだ)
ということで、応じたのである。
夏。――七月の末。
成政の臣、佐々平左衛門は、結納《ゆいのう》の使者として、富山をたち、金沢の尾山城へ来た。
前田利家は、全城の家中をして、
「ようぞ、遠路を」
と、いんぎんを尽して、迎えさせた。
下へもおかない歓待である。夜は、散楽《さんがく》を催して、やがての聟《むこ》の君たる次男の利政にも、客のまえで舞わせて見せ、昼も、饗膳《きようぜん》の美をつくし、やがて帰国の朝には、
「いたらぬ利政であるが、富山の城へまいったあとは、何かと、お身たちの、心添えをたのみ申すぞ」
と、利家は、二口《ふたふり》の銘刀《めいとう》に、駿馬《しゆんめ》一頭を、成政に贈った。
平左衛門の報告をきき、成政はほくそ笑んだ。
「食わせ者の又左(利家)を、また輪をかけて食わせて帰ったその方は、まことに、漢土《かんど》の智者|謀将《ぼうしよう》にもまさる者だ。いや御苦労御苦労」
婚儀の準備をいそぐと見せて、富山城の密室では軍議をこらし、武庫《ぶこ》では、弓のつるを試し、鉄砲をみがき、また密《ひそ》かに軍需物資を集めていた。
八月になっても、以後、沙汰がないので、又左衛門利家は、重臣の村井長頼《むらいながより》を使いとして、富山へやり、華典《かてん》の吉日《きちじつ》をきめたいと、相談させた。
成政は、使いに答えた。
「いにしえから、仲秋《ちゆうしゆう》は婚姻を忌《い》む――という伝えがある。九月ともなったら、あらためて、御談合な仕《つかまつ》ろう」
長頼は、素直に、
「仰せのまま、申し伝えましょう」
と、馳走になって帰った。
すると、金沢への途《みち》すがら、かれの列を追って、富山から国境を脱して来たひとりの茶坊主があった。
いかに、両家の仲直りがいわれていても、国境の関所は、依然、きびしいことに変化はない。かれの脱出は、命がけでなければ出来ないことだった。
「お供衆のうちに、小林|弥左衛門《やざえもん》様と仰っしゃるお方はおりませぬか。てまえは、正林《しようりん》と申す富山の茶道の者でございまする。弥左衛門様にお目にかかって、ぜひぜひ、お知らせ申さなければならない大事がありまする」
正林は、まだ若い男だった。途中の兇変《きようへん》を怖れてか、顔に、膏薬《こうやく》を貼《は》り、ボロ法衣《ころも》を着て、旅の乞食僧に変装していた。
村井長頼の供先にいた小林弥左衛門は列を抜けて、正林の前へ来た。
「小林弥左衛門は自分だが、佐々どのの茶坊主とかいう其許《そこもと》が、何用あって、こんな所へ、自分たちを追い慕って来られたのか」
正林は、地上に、両手をつかえて、しげしげとその人を仰ぎ見ながら、
「……お見忘れでございましょうか。私は八年前に、七尾《ななお》の御城下であなた様に救われた浪人者の父子のひとりでございます」
「はてな……?」
「まことに古いことですから、或いはお忘れかも知れませんが、危うい一命を助けられた私ども父子は、その御恩を今も忘れてはおりません」
「ああ思い出した。では、利家様がまだ七尾御在城の頃、城下端れの茶店で、飢餓《きが》のあまりに、盗みをした浪人者の父子が、大勢の中で仕置《しおき》に遭《あ》っていたのを、助けてやったことがあるが、では、その時の」
「はい。その時の小せがれが私で、浪人していた父は、その後、魚津《うおつ》で病死いたしました。……後、縁あって、佐々どのの御家中へ、茶坊主の端となって住みこんでおりましたところ、はからずも、近頃の風聞、まことに、危ういこと哉《かな》と、蔭《かげ》ながら、御旧恩を想い出すにつけ、何とかして、お目にかかりたいと願っておりました」
「ほ。危ういとは、何をさして?」
「このたびの、御縁組でございまする。佐々どのの御本心は、決して御両家の和をおもうておられるのでもなし、利家様の御次男を、自身の姫の聟君《むこぎみ》へ、心から望んでいるのでもありませぬ」
「待て待て。何を、たわごと申すか」
弥左衛門は、わざと、叱りつけて、こういった。
「ほかならぬ御両家の慶事《けいじ》にたいして、ひょッと、そのようなこと、人にでも聞かれたら、そちの後難はまぬがれぬぞ。こよい、此方の旅舎へ参って、気を落ちつけてから、物を申せ」
その夜。
小林弥左衛門は、正林の口から、佐々成政の表裏を、つぶさに聞いた。
この初夏、成政が、遠州井伊谷《えんしゆういいだに》へ微行《びこう》して、北国五ヵ国をもらう条件の下に、家康と秘密協約をむすんで帰ったことから、以後、前田家との縁談を、故意にすすめながら、裏面では戦備をいそぎ、夜々、軍議に他念ないことまでを――正林は、いちいち事実をあげて、弥左衛門に告げた。
自分すらわすれていた一片の旧恩に感じて、命がけで、この大事を告げに来てくれた正林のやさしい心にたいして、弥左衛門は、
「よくぞ……」
と、両手をつかぬばかりに礼をいった。
「主人長頼さまも、大殿前田利家さまにも、決して、心底から佐々成政を、御信用になってはいないが……なおまだ、そのようにまで、深い謀略《ぼうりやく》があるものとは、思いも及ばぬことであった。そちの心は、大きく届いたぞ」
金沢へ帰国すると、弥左衛門はこれを村井長頼に報じ、長頼は一日、尾山城の前田利家の前へ、正林をつれて、直接、佐々方の内情をかたらせた。
利家は、かれのこの行動が、一片の旧恩にたいする感謝から出たものと聞いて、
「ちか頃、しおらしい奴《やつ》ではある」
と、黄金二枚に、時服《じふく》など与えて、以後、自分の茶堂《ちやどう》に召抱《めしかか》えた。
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迷《めい》 霧《む》
加賀《かが》、越中《えつちゆう》の境、河北郡《かほくごおり》の朝日山《あさひやま》に、いつのまにか、新しい砦《とりで》が築かれた。
築砦《ちくさい》にあたっていたのは、前田方の将、村井長頼《むらいながより》と、高畠九蔵《たかばたけきゆうぞう》、原田又《はらだまた》右衛門《えもん》などの物頭《ものがしら》たちであった。
八月二十二日頃、この一隊は、金沢から突として来て、不眠不休で工にあたり、忽ち、一|砦《さい》をここに設けてしまったのである。
とは、知らず、富山の佐々成政は、
「まず、朝日山に拠《よ》って、加賀を――」
と、機や今なりと、急に、軍を、催して、佐々平左衛門《さつさへいざえもん》を主将に、前野小兵衛《まえのこへえ》を副将とし、千八百の兵を放って、朝日山|占拠《せんきよ》にさしむけた。
ところが、なんと、すでにそこには、新しい砦《とりで》ができているではないか。
「や。前田か、あの旗は」
「前田勢です。千二、三百人はたてこもっておるようで」
平左衛門は、一驚《いつきよう》を喫《きつ》したが、つぶさに見れば、防禦工事はまだ半ばで、衝《つ》けば、案外、脆《もろ》いかと思われた。
「急ごしらえのコケ脅《おど》し、攻め落すに何の手間ひま[#「ひま」に傍点]やある。かかれっ」
と、攻撃に出たが、前田方の烈しい抵抗に会って、翌日へかけても、砦の一|柵《さく》すら破れなかった。
そのうちに、急を知った尾山城では、ただちに不破《ふわ》彦三、片山|内膳《ないぜん》などの騎兵隊七十名を、応援に急がせた。
「さてはなお次々に、金沢の助けが来るやもしれぬ」
と、攻めあぐねていた佐々平左衛門は、にわかに、兵をまとめて、富山へ帰ってしまった。
果然。――華燭《かしよく》の祝典《しゆくてん》は、血の祭典に変じて、布告《ふこく》なしの戦争状態にはいった。
「成政が、仮面《めん》を脱《ぬ》いだぞよ」
と、又左衛門利家は、周囲をかえりみて笑いあった。
まず、変を、秀吉へ報じ、
「この秋は、およそ御想像どおりな事態になりそうです。けれど利家は、小牧《こまき》の御軍役《ごぐんえき》にも参ぜず、領地において、暢《の》んびり夏も暮していたところですから、万端の手配はついております。憚《はばか》りながら御安心を」
と、書面のほか、使いの口上にも、くれぐれ云い送った。
ときに、前田方の加賀一円の配置を展望すると、長子の利長《としなが》は松任城《まつとうじよう》に。前田秀継《まえだひでつぐ》とその子|利秀《としひで》とは津幡城《つばたじよう》に。また前田秀勝、良継、高畠定吉、中川光重たちは、最も大兵を擁《よう》して、七尾の城を守備している。
そのほか、長連龍《ちようつらたつ》の徳丸城《とくまるじよう》、目賀田又《めがたまた》右衛門《えもん》、丹羽源十郎たちの鳥越城など――要所要所に二、三千人を入れ、
「佐々《さつさ》。ござんなれ」
と、手につば[#「つば」に傍点]して、旗幟の旺《さかん》を見せつけた。
一方、成政も、やっ気になって、国境のかためを厳にし、要地要地に、城砦《じようさい》を増した。
越中ざかいの勝山城《かつやまじよう》には、丹羽権兵衛を入れて、七尾城に対抗せしめ、阿尾城《あおじよう》には、菊地右衛門入道《きくちうえもんにゆうどう》とその子、伊豆守《いずのかみ》を。――森山城《もりやまじよう》には、神保氏張《じんぼうじはる》、同苗清十郎《どうみようせいじゆうろう》を。そのほか、兵力と布陣《ふじん》においては、はるかに、前田方を圧していた。
戦端はまず、これらの、敵味方の点と点とのあいだから始まった。
まず、局部的な、点と点との小ゼリ合いから、両軍の均衡《きんこう》が、揺《ゆ》るぎ始めた。
佐々方では。
森山城の神保氏張が、手兵三千をひきいて、前田領の鹿島郡《かしまごおり》へ侵入し、攻勢の第一火をあげた。
民家を焼きたて、刈入れ前の稲田をふみ荒し、敵の徳山城《とくやまじよう》へ、迫ろうとした。
が、見事、撃退された。
それと前後して、前田方の七尾城の将士も、佐々勢のいる勝山城を衝《つ》いた。
しかし、これも、烈しい反撃にあって、七尾へ退却してしまった。
一勝一敗、一進一退であった。――やがて、膠着状態《こうちやくじようたい》がつづき、大局は、四つに組んだまま動きのとれない様相を呈《てい》した。
こうなった時、そこに初めて、統率者の性格というものが、現われずにいない。
佐々成政は、この無変化に、ようやく、しびれを切らして、
「よしおれが」
と、ひそかに、戦略図を按《あん》じた結果、
「自身、山越えの間道より、加賀《かが》に攻め入り、能登《のと》を抑え、続いて、一挙に敵府《てきふ》金沢《かなざわ》を踏みつぶして見せん」
と、豪語を放った。
この大挙を思い立ったかれの心理には、
(遠くにある徳川どのや北畠信雄卿へも、わが勇猛のほどお見せ申さん)
とする武人の虚栄心がつよく働いていたことはいうまでもない。
時は、九月八日。
佐々勢の精兵二万余は、
「まず敵の、河北郡の鳥越城を、一蹴《ひとけ》ちらしに――」
と、気負い立って、全軍、富山の館《やかた》を出発した。
大軍、ゆるぎ出して、西するところ、一団の旗本たちに囲まれて、馬上、さんさんたる盛装の武将が見える。
黄ラシャの陣羽織に、南蛮笠《なんばんがさ》をかむり、陣刀、長やかに横たえて、金モールの分銅の旗を馬前に立てさせて行く人こそ、佐々|内蔵助《くらのすけ》成政《なりまさ》だった。
ラシャ、モール、南蛮笠などの、当時にあっては、極めて斬新《ざんしん》な異国調を、その武装に飾っているところは、宛《えん》として、小信長の身なりそのままといってよい。
おそらく、これはみな往年、成政が信長から拝領して得たものだろう。――そして信長亡きあと、今やひそかに、
(見ずや、われを)
と、成政は小信長を気どって、かれに取っての、一世一代の出陣に、晴れを着飾って出たものとみえる。
神通川《じんずうがわ》をこえ、射水《いみず》の曠野《こうや》を西へ西へ。やがてまた大河の畔《ほとり》まで来ると、成政は、
「小兵衛《こへえ》を、よべ」
と、駒を降りて、しばし全軍を休息させた。
その間に、かれは富山の城下から連れて来た百姓上がりの炭薪《すみまき》商人――田畑小兵衛《たばたこへえ》という者を、間近によんでいた。
小兵衛は、多年、炭薪を山出しして、北陸の諸都市へ販売している職業がら、山岳地の間道や、諸道の地理にあかるいというので、特に、道案内者として、成政が、その中軍に連れて来た者だった。
「小兵衛、このたびは、道案内の役目、大儀だのう」
「どう仕《つかまつ》りまして。御大将こそ、おつかれでございましょう」
「何の。まだ富山を離れたばかりじゃ。……ところで、その方は、何歳ぐらいから山歩きをして来たか」
成政は、この男を、充分、信頼して連れては来たが、かれ自身が、これから入ろうとする加能越《かのうえつ》の山境は、未踏《みとう》の地なので、ひどく細心であった。
「はい、はい。それはもう物心ついた時からでございまする」
と、小兵衛は、床几《しようぎ》に腰打ちかけている彼の姿に圧せられて、頭も上げ得ぬもののように――
「山姥《やまうば》の子のように、てまえは、倶利伽羅《くりから》のつづら折で生れましたので、幼い頃から、里を知らずに育ちましてござりまする」
「親も、炭焼だったか」
「へい。天田越《あまたご》えの南谷《みなみだに》で、じじの代からの炭焼で」
「すると、そちはなかなか出世をしたものだな。炭薪では、北陸一の商人とか申すが」
「みなお館《やかた》のお引立のおかげでござりまする」
「店や住居はどこか」
「御領内の神通川《じんずうがわ》に店をもち、家族どもや雇人もみな一つにおりまする」
「そうか」
と、成政はこの道案内者にたいして、さらに一だんの信用を加えたように、うなずいた。妻子眷族《さいしけんぞく》とその財産まで、自分の領内に置いてある者であれば、自分を裏切るようなことは、絶対にあり得ないと思ったからである。
ところが、人間の心態は、そんな尺度だけでは、測《はか》り難《がた》いものであることを、やがては知ったが、この時まだ、かれも気づかなかった。
兵馬の大群は、やがて般若野《はんにやの》から庄川《しようがわ》をわたり、戸出《といで》に夜営し、次の日はすでに、石動《いするぎ》の北方から山岳地へかかっていた。
倶利伽羅《くりから》の嶮《けん》を中心とする山また山は、加能越《かのうえつ》三ヵ国の境をなす北陸の脊梁《せきりよう》である。
倶利伽羅には、さきに佐々方が、砦《とりで》を設け、前田方の津幡《つばた》、鳥越《とりごえ》に備えてはいたが、そこの小規模をもって、かれを圧するには足りず、守るには、火急の場合、後方との連絡や援護に、余りにも遠く、また地勢の不便が甚だしかった。
成政は、味方のもつその弱点を除き、さらに敵が不落とたのむ鳥越《とりごえ》の牙城《がじよう》を抜いて、能登半島と加賀の境を中断し、一挙に、前田方の勢力を分断するにしかず――と思いついたことから、この大兵をうごかして来たものだった。
それには、鳥越城と対している味方の倶利伽羅《くりから》の砦《とりで》にも拠《よ》らず、敵の気づかぬまに、石動《いするぎ》から北方の山地を間道づたいに加賀へ抜けて、鳥越城の背後から、突如《とつじよ》、急襲しようという策をえらんだ。
これが成功すれば、たしかにおもしろい。しかし、加能越の脊梁《せきりよう》山脈たるや一通《ひととお》りな難所ではないのだ。そのため、山にくわしい道案内者を求めて、軍の先頭に立たせてまで来たわけだが、時は九月、山地は殊に霧がふかく、いかんせん山案内の小兵衛からして、折々、岐路に立っては、
「はてな……?」
と、咫尺《しせき》もわかぬ霧の中に、首をかしげる始末だった。
霧の錯覚《さつかく》は怖ろしい。
ひとりの場合も、大勢の場合も、そのため、あらぬ不安にさまよい、精神の消耗につかれることには変りがない。
いや、ひとりは、かえって、始末もよいが、作戦目的をもつ二万余の兵馬となると、行動の一致すら難しかった。
「おおーいっ」
「おうう……い」
隊伍と隊伍は、たがいに呼び交わしながら、遅々《ちち》として、山路を越えていった。
「荷駄隊《にだたい》を、落伍さすな。――大荷駄は、たえず、貝を吹いて、貝に答えよ。また先鋒隊《せんぽうたい》は、離れすぎて、道を過《あやま》るな」
中軍の佐々成政は、たえずこう気を配りながら、前後へ、伝令をとらせていたが、ともすれば、その中軍はおろか、左右、わずかを隔てて旗本たちの姿まで、まっ白な、濃霧にくるまれて、しばしはまつ[#「まつ」に傍点]毛も、水粒にふさがれ、立ち淀《よど》むしかないような困惑《こんわく》に陥ちた。
そんな時、かれはかならず、道案内の小兵衛の名を呼びぬいた。
「小兵衛小兵衛。……この道に、過《あやま》りはあるまいな」
霧の中で、小兵衛の答える声がする。
「ご安心なされませ。加能越の山ざかいなら、眼をつぶっても歩ける小兵衛でございます」
「いま歩いているのは、一体、どの辺かの」
「六郎谷《ろくろうだに》の下を、菅《すが》ケ原《はら》の登りへ向っておりまする」
「左様な聞きつけぬ山の名では、見当もつかぬが、加賀境へはいるのは、いつ頃か」
「まず今夜は、牛首峠《うしくびとうげ》のあたりで夜営をあそばし、明日、三国山《みくにやま》をこえ、菩提寺山《ぼだいじざん》、興津峠《おきつとうげ》などをすぎ、明後日の明け方あたり、鳥越城のうしろから、ふいにおかかり遊ばしたら、お味方の大勝利は、疑いもございません」
「思いのほか、日時がかかるの。さりとて、軍馬を疲らせては、戦いにのぞんで、充分な働きもなし得まい。……牛首とかには、夜営によい場所があるか」
「登れば登るほど、夜中はわけて、寒さもきつうなりますが、北をよけているよい平地が少しありまする。少々陽は高うても、夜霧に巻かれぬうちに、陣幕《とばり》をお張りになるのが、良策かと思われます」
小兵衛のことばに従って、牛首峠の八合目あたりに、明るいうちから、野営にかかった。
虹色《にじいろ》に染められた霧の気流がくるめく空に、黄昏《たそが》れと、方角を知るのみで、やがて全軍は、山の見えない山の中に、ただ赤々と、火を焚《た》いて、夜を更《ふ》かしていた。
成政は、寒さ防ぎに、酒をあたためさせ、一族、旗本たちと、鳥越城を攻め奪《と》ったあとの――二次作戦を、しきりに協議していた。
そのうちに、座の端にいた小兵衛の影が、いつのまにか、見えなくなっていたので、
「小兵衛は、どこに参ったか……?」
と、そばの者に訊いた。
みな、気づかずにいたとみえ、顔見あわせて、
「さあ? ……。どこへ行ったのであろ。まだ、眠りもしまいが」
と、あちこちの陣幕や寝小屋を探させた。
「見えませぬ。どこにも、小兵衛の姿は、見当りません」
兵も云い、探しに行った小姓たちも、そう告げた。成政は、ふと眉をひそめて、いないはずはない、もっと入念に尋ねてみろと、酔いを殺して呶鳴った。
怪しいことには、その夜かぎり、小兵衛の姿は、どこにも、見当らなかったのである。
道案内者の逃亡に、二万余人は、山中の迷い児となった。――しかも、敵地に入る寸前においてである。
「さては、初めからこの成政に、敵意をもつ曲者《くせもの》であったやも知れぬ。不覚不覚。探し出して、八ツ裂きにしろ」
夜が白むやいな、成政は、部下を手分けして、谷の底、峰々の道なき奥まで探させたが、ついに、小兵衛の足あとも嗅《か》ぎ出せなかった。
朝の間、ちょっと、太陽を見たが、そのうちにまた、乳いろの霧が、全山全軍、すべての視界をつつんだ。
「憎ッくい痴《し》れ者《もの》め。領土へ帰った後、小兵衛一族を、火あぶりにしても、なお、あきたらぬわ。……おのれ、覚えておれ」
成政は、果てなく、地だんだ[#「だんだ」に傍点]を踏んで、前後の大軍を見まわし、進むべきか、引っ返すべきか、ほとんど、立ち往生の様子だった。
午頃《ひるごろ》。やや霧がうすれた。そこで彼は、
「それっ、この間に、敵の鳥越城へ急げ」
とばかり、士気を励まして、山地を脱しようとしたが、行けども行けども、山は尽きず、かえって、いよいよ狭い谿谷《けいこく》へ迷いこんでしまった気がする。
「待てよ……? おかしい」
山絵図をひろげ、つぶさに、四顧《しこ》の地勢と考え合わせてみると、どうやら加賀境をうしろに、越中の西端、五位山《ごいさん》から梨《なし》ノ木峠《きとうげ》へ、向いつつあるように思われた。
翌日。兵を派して、猟師《りようし》小屋を探させ、道をただしてみると――ここ二日間の彷徨《ほうこう》は、まったく目的地とは反対な方角へ向いて、うろついていたことがわかった。
成政は、怒髪《どはつ》天をついて、また、小兵衛を罵《ののし》った。そして、自身の不覚を、転嫁《てんか》して、
「これまでの辛苦《しんく》をなめながら、いかで、手をむなしく引っ返すべき。梨ノ木峠を、西すれば、吾妻野《あずまの》から大海川《おおみがわ》――の北に出で、能登街道の加賀の口、末森城《すえもりじよう》の、側面に出る。ようし。敵の末森城は、そこにあるなれ」
と、にわかに、覇気《はき》を、盛りかえし、望むところの、焦点《しようてん》をつかみ得たように、
「行けっ。行こうっ」
と、指さした。
「能州《のうしゆう》、末森城《すえもりじよう》は、敵の七尾《ななお》と金沢《かなざわ》をむすぶ街道第一の要害。――津幡《つばた》、鳥越《とりごえ》などの小城を幾つ踏みつぶすよりも、そこ一つの方が、はるかに勝《まさ》るぞ。末森城を、わが手に陥せば、前田勢の敗勢は、いちどに崩れ出そう。――二日前の山中の迷路は、かえって、天が我らをして、小功を捨て、大功に導いたものと思わるる。奮《ふる》えや、者ども」
さすがに、かれも、老巧の武門だ。禍《か》を転じて福とする――いわゆる用兵上の将語をやはり心得ている。
軍馬は急に、目的を変え、梨ノ木の頂《いただき》さして登り出した。もし、そこに立って、霧の晴れまに、西方を望むならば、裏日本海の、鯖《さば》の背のような海洋を長く区切る半島線の一端に、白壁、石垣、やぐらなどの、末森城の影を、指呼《しこ》する距離に、望み得るであろう。
やがて、佐々軍二万が、そこを越えて、西する頃――途中、姿を消した田畑小兵衛が、一つの峰から、遠く兵馬のさして行く方角を、手をかざして、見まもっていた。
「あははは。アハハハ」
小兵衛はひとり、手を打ちたたいて、笑った。
「あれ、あれ。あんな方へ行きおるわえ」
と、心地よげに、遠くを見ていた。かれ一人の口さきで、二万の軍隊を、まる二日間、深山谿谷《しんざんけいこく》の中にさまよわせ、その目標を失わせたのだから――愉快にはちがいあるまい。
だが、小兵衛が、心から愉快としたのは、これによって、旧主の恩を報じたことであった。
かれの父は、もと前田家の浪人なのだ。或る年、云い開きのたたぬ役目上の落度があり、尾山城の一室で、切腹を命ぜられた。
――が、情に篤《あつ》い利家は、番の小姓に命じて、深夜、搦《から》め手《て》から、その者を、落してやった。
そして、夜が明けてから、わざと、激怒を見せ、承知の上で、方角ちがいへ追手をかけた。――もちろん、捕まるわけはない。
(わし達は、そういうお蔭で、余生を、倶利伽羅谷《くりからだに》に送り、おまえらを大きく育てあげることができたのじゃ。……ゆめ、利家様の御恩を、わすれてくれるなよ)
小兵衛の父親は、死す時、枕べの兄弟たちへ、云い遺《のこ》した。
父のそのはなしは、日頃も、炉ばたに寄ると、よく聞かされていたことなので、兄弟たちは、後、炭薪商人となって、都市人に立ち交じるようになってからも、朝夕忘れたことはなかった。
時。――はからずも、こんどの開戦だった。
小兵衛は、父の代のことがあるので、以来、前田領を憚《はばか》って、佐々領に店をもち、家族の住居も、富山附近においていたが、ひそかに、御恩返しは、この時と、思っていた。
努めて、佐々家の近臣にちかづき、あらゆる忠義立てを見せ、そして、今度の道案内の役に、自然、小兵衛こそ適任――と、衆口をもって、いわせるほどの、下地を積んでいたのである。
(鳥越城の裏へ、不意に打って出る山越えの、道案内をいたせ――)
と命ぜられた時、彼は、これは亡《な》き父親が、自分へいいつけたものだと思った。
かれは、一命と全財産を、賭《か》けて出かけた。そして、まんまと、疑いぶかい佐々成政を信用させ、二万の兵を、ひきずり廻した。
――だが、佐々軍の行く方向には、前田方の末森城があることにふと気づいて、
「あ。これはなお一大事だ。いい気になってはいられない。一刻もはやくこのことを、金沢表へお知らせしなければ、仏作って魂入れずじゃ」
急に、立ち上がると、小兵衛は猿《ましら》のように、加賀境の三国山を越え、河北潟《かほくがた》の水を遠く見ながら駈け出した。
富山を出るとき、かれは早くも後難を察して、留守の家族に、店をたたんで避難せよといいつけておいたので、恐らく今頃は、かれの家族も雇人も、家財一切を船につんで、神通川《じんずうがわ》から海へ脱し、他領へ逃げ去っているだろう。――小兵衛にとっては、その点も、後顧《こうこ》のうれいは何もなかった。
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奥村夫妻《おくむらふさい》
その朝。梨ノ木峠をこえた佐々軍二万は、米出川《よなでがわ》の上流、宝達山《ほうだつさん》の谿谷をわたると、はや、目ざす末森城や今浜の漁村などを、すぐ眼下に、指さすことができた。
午《ひる》ごろ、上田村に出る。
村を、南北へ貫《つらぬ》いている七尾《ななお》街道こそ、加能《かのう》両国をつなぐ動脈である。
成政は、ただちに、街道から小道までを遮断《しやだん》し、兵馬に糧と休息を与え、その間に、幕将の神保氏張《じんぼうじはる》、野々村《ののむら》主水《もんど》、久世《くぜ》但馬《たじま》、佐々与左衛門《さつさよざえもん》、野入平《のいりへい》右衛門《えもん》、寺島甚助《てらじまじんすけ》、佐々平左衛門《さつさへいざえもん》などを、ひと所に寄せて、手配をきめた。
まず。
加賀本国の敵の救援を断つため、神保氏張に全軍の約四分ノ一にあたる兵を割《さ》いて、末森城の南――大海川を境とする茄子山《なすざん》と川尻《かわじり》の辺に赴《おもむ》かせた。
また。
北方、七尾城との連絡を断つためには、羽咋《はくい》川と末森城との中間地帯――出浜《ではま》、敷浪《しきなみ》あたりに、一線を布陣して、海上をも監視させた。
こうして、なお、直接攻撃の部署《ぶしよ》もそれぞれ決めた上、大将|佐々《さつさ》成政は、城の正面、坪井山《つぼいやま》をうしろに、その山麓《さんろく》を、本陣とさだめて、
「陽の入りを合図に、一《いつ》せい、攻めかかれ」
と、指揮をとった。
民家に火をつけて、城外へ迫る。乱破《らつぱ》をつかって、流言を放つ。
侵入者の常套《じようとう》手段だ。
城内の驚きは一通りではない。
もちろん、これより少し前に、城門へ急変を報《し》らせて来た二、三の農夫があり、すわ、と煮えくり返るような騒音の中に、戦備をいそいでいたが、
「やや、もう敵が見える」
「城下を焼き立てておるぞ」
と、何をする間もなかったのである。
このとき、末森城の守将、奥村助《おくむらすけ》右衛門《えもん》永福《ながよし》は、あわて騒ぐ家中のなかを、一巡して、
「きょうも日頃ぞ。日頃もきょうぞ。――なにを、事改まって、立ち騒ぐのじゃ。常々の部署、教練の通りに、することをしておればよいのだぞ」
と、一応、その狼狽《ろうばい》をとり鎮《しず》めてから、
「はるかに、山また山を越えてきた佐々の軍勢。おそらくは、まだ、瀬ぶみ程度で、真の備えは、取れていまい。――一当《ひとあ》て、当てて、かれの攻勢を試してみん」
自身、一手の兵を引率して城門を出、町口まで殺出《さつしゆつ》した。
たちまち佐々方の先鋒《せんぽう》と、真正面にぶつかった。
助右衛門の連れて出た三好勘左、野瀬二郎などの若者は奥村家のうちでも、精鋭無比といってよい。
「ござんなれ。山犬ども」
ふたりが、奮迅《ふんじん》するのを見、助右衛門の部下も、みな、小具足姿《こぐそくすがた》の身軽で、槍をふりこみ、長刀をかざし、面《おもて》を冒して、逆攻《さかぜ》めをくわせた。
小銃のそれ弾《だま》が、地を掘ったり、民家の羽目板《はめいた》に、穴をあけた。佐々勢も、一《いつ》とき、奮戦を見せたが、そのうちに、後へ後へと、崩れ立った。
それを見て、助右衛門は、
「危ないぞ。敵の脆《もろ》さは、駈引《かけひき》だ。追うな追うな。追わば、敵のワナに陥《おちい》るぞ」
と、味方をよび返し、そこの町口へ、みずから火をつけて、城へ帰った。
人間の集団の中には、いつ何が起るかわからない。
きのうまで、何事もなく暮していた平和な海辺の漁村も城下町も、たちどころに、阿鼻叫喚《あびきようかん》のるつぼ[#「るつぼ」に傍点]となった。
侵入者と、その侵入者を防ぐ者との間に、まっ先に、犠牲にされたのは、漁村の住民だった。城下町の家々だった。
野を焼くように、村や町を焼きたてられ、家財はおろか、老人子どもを抱えて、右往左往するのが、やっとであった。
城主として、助右衛門は、その黒けむりの下を、見ていられなかった。日ごろ、領主とあがめさせ、お城と恃《たの》ませて――と、自責にかられた。
「新介、新六。――搦《から》め手《て》の木戸をひらいて、あの者たちを、三の丸へ入れてやれ」
かれが、外構えの矢倉に立ってこう下の者へ、どなっているのを聞くと、老臣の高野瀬左近《たかのせさこん》や、大西金《おおにしきん》右衛門《えもん》は、
「もってのほかです」
と、顔いろを変えて諫《いさ》めた。
「お城の裏山あたりへ逃げまどっている者は、みな足弱な女子供や老人などで、壮者はもっと遠くへ避難し、お城へ入れて、役に立つ者はいくらもおりませぬ」
「何をいう。それゆえにこそ、城へ入れて、庇《かぼ》うてやれと申すのじゃ」
「殿! それどころではございませぬ。お城の内には、御家中だけの食糧さえ、左様に、豊かにはありませぬし……殊には、戦闘力のない領民などは、いたずらに、足手まといとなるのみで」
「知れきったことを」
と、助右衛門は、叱りつけるように、云い張った。
「日ごろは、領民あっての領主。領民あっての城ではないか。かような時、その領民を見殺しになるべきか。われらの力が足らず、落城となるものならば、せんもなし。この城、この助右衛門のあるうちは、かれらをよそに見てはおれぬ」
「でも、いかにせん、御城内の食糧が」
「ええ、くどく申すな。たとえカユをすすり分けても、かれらを助けよ。……搦め手を開けて、逃げまどう者を城内へ救い取らせい」
城主の命に、そこの守備に当っていた武者たちは、ついに一門をひらいて、避難民を中へ入れた。
藁《わら》にもすがりたい恐怖の中の老幼男女は、人間の河をなして、城内へあふれこんだ。――すると、寄手《よせて》の一群が、それを見るや、群集の後について、城中へツケ入ろうと計った。
城将の前波三四郎《まえなみさんしろう》、高崎次兵衛などは、それと知って、一時、門をとじ、
「この中に、佐々の兵が、まぎれ込んでいるぞ」
と、警告した。
領民は、自分たちのまわりを嗅《か》ぎ合って、ひとり残らず見つけ出して騒いだ。ツケ入った敵兵は、袋の鼠となり、あちこちで、討たれてしまった。
城主の助右衛門は、また、城門の揚げ簀戸《すど》を開けさせて、あとの避難民を残りなく収容した。
そして、かれらの前に立ってこう告げた。
「もう案ずることはない。たとえ助右衛門が討死し、この城は落ちるとも、おまえたちは、武門と武門の合戦に、何のかかわりもない者だ。敵の佐々成政とて、善良なおまえたち領民をむごたらしい目にはあわせまい。領民なくして、領主はあり得ないのだから。……おまえ方は、身を守って、この成行きを見ているがいい」
城主の奥村助右衛門にも、家族がある。かれの長男の助十郎さえ、まだ十四歳だし、妻の常女《つねじよ》も、三十を一つか二つ出たばかりの美人だった。
常女は、かいがいしい身支度に、薙刀《なぎなた》をかかえ、良人のそばへ来て云った。
「お城へ入れた領民の年よりや女子供は、わたくしの手で守ってやります。あなた様には、心おきなく、御城門の防ぎをおさしず下さいませ」
「お。そなたも、身支度して出たか」
助右衛門は、妻を見て、ニコと笑った。おそらくは、この一城の突然な危急に会って、奥の老女や侍女たちと共に泣きおののいているか、或いは、幼い子たちを抱いて、うろたえ騒いでいるのではないかと、杞憂《きゆう》のひとつにしていたところである。
「はい。幼子たちは、御老母さまと、女たちにあずけ、助十郎も、初めての合戦を、お城の守りでするがよいと、物の具、着込ませて、御人数の中へ出してやりました」
「よくぞ気づいた。では、ここをたのむぞ」
と、助右衛門は、また矢倉の上へ駈けあがった。
その夜は明け、さらに不安な朝が来た。矢倉から城下を一望すると、佐々勢は、包囲の環《わ》を、急速にちぢめて来ている。あらゆる道は、遮断《しやだん》され、焼けのこった町のかけらが、今朝もなお、彼方《あち》此方《こち》に、いぶっていた。
敵勢は少なくも一万七千から二万近い――と彼は見た。そして、
「この城には?」
と、考えるとき、かれは、当然なものを、決せずにいられない。城中の兵は、七百にたらなかった。弾薬、食糧もかぎりがある。加うるに、友軍の城、七尾《ななお》も津幡《つばた》もみな遠く、しかも連絡《れんらく》をとる道は、途端に、断ち切られている。
孤城、無援。
たのむは、自分以外にない。――ただ、きょうまで、ひとつ城に住み、ひとつ道を励み、ひとつ主人を柱として、不足なく暮して来た人と人との心のむすびが、果たして、この不測なる大変事に、どんな様相と変化を描き出すであろうか。
「妻は、妻であった」
助右衛門は、敵の火矢や弾雨の来る矢倉に立って、ふと、或る幸福に、なぐさめられた。かの女と、初めて契《ちぎ》った婚礼の夜に見たときの美しさよりも、この時において、自分と同じ覚悟をもって、たすき、はちまきの、けなげなる姿の方が、――より深く、より美しく良人の眼には見えたのである。
指揮の間に、かれの眸《ひとみ》は、時にはふと、その妻の姿をもさがした。
かの女は、大勢の避難民を、危険なる外曲輪《そとぐるわ》から、二の丸の森と空地の一所に移し、召使の女たちを連れて、折々、見舞っていた。病人には薬を。子どもらには菓子を。また、大釜を運ばせて粥《かゆ》を炊《た》き、
「お城には、限りある糧《かて》しかないゆえ、皆して、命のつなぎだけを、分け合ってたもれ。たとえ、どうなろうと、そなたたちに、かかわりはない戦《いくさ》。怪我《けが》せぬように、辛抱していたがよいぞえ。怖がることは何もない」
と、励まし、慰めながら、自身でそれらの世話までしてやるのだった。
助右衛門は、遠くから見て、うれしかった。そして何か、覚悟の上に、もう一つ満足なる心の帰結を固められていた。
「殿っ。……まだ、烽火《のろし》が揚りませぬ。もはや、金沢表への連絡は、全く望みも絶えたようです」
そこへ登って来た大西金右衛門は、かれの前に膝を折ると、崩れるようにそういった。
この老臣は、城の防禦《ぼうぎよ》よりは、のろし[#「のろし」に傍点]の揚《あが》る遠い空ばかり、気にしていたのだ。
――と、いうのは。
佐々軍の来襲と同時に、城内から次々に、四回も、金沢表へこの急を知らせる――いわゆる敵中突破の決死的な伝令を出しているからだった。
第一の使いは、捕まった。第二の使いも、敵に見つかり、第三の使いも、失敗に帰した。
そして、今暁、
「これが、最後」
と思って出した兵も、待てど待てど、梨《なし》のつぶてだった。約束ののろし[#「のろし」に傍点]は、空に揚らない。
もし、首尾よく、敵の警戒線をくぐり得て、笠島あたりまで行ったら、山の上から、のろし[#「のろし」に傍点]を打ち揚げて、
(脱出に成功す!)
と、城方へ、合図をする諜《しめ》し合わせで出て行ったのである。
「いまもって、のろし[#「のろし」に傍点]を見ぬところをみれば、最後のお使いも、敵の目にかかったものと思われます。ああ、いかが致したものでございましょう」
大西金右衛門は、嘆息して、守将の考えを求めに来たのだった。――が、奥村助右衛門は、かれの当惑を笑って、こう慰めた。
「金右衛門。相手は、織田の勇将と、以前は、音に聞えた佐々内蔵助成政じゃよ。こんな小城一つ囲むのに、水を漏らすような手抜かりのあるわけはない。……何よりの証拠には、まず敵は、七尾とこことの中間、敷浪《しきなみ》にも兵をやり、津幡とこことの間の川尻《かわじり》にも、逸早《いちはや》く、兵を配《くば》っている。なんのためか、存じておるか」
「さあ。用兵上のことは」
「七尾から金沢表までの、能登《のと》加賀《かが》にわたる要所の城々には、つなぎのろし[#「つなぎのろし」に傍点]の設けがあることを、佐々は、とくに、探り知っていたからだ。――すなわち、川尻、敷浪の両地を抑えれば、いかに、この末森城からのろし[#「のろし」に傍点]を揚げても、その中間が断たれているため、用をなさぬことを、狙《ねろ》うたものじゃよ。……さすれば、佐々成政が、この城へかかる前から、いかに、われらが味方への連絡を、怖れていたか、重視してかかったか、分るであろう」
「ご尤《もつと》もにござります。しかし、能《あた》わぬまでも、万が一、敵の目をかすめて、お使いが効をあらわせば」
「よせよせ。あたら健気《けなげ》な勇士の一命を、むざむざ、捨てさせるは、勿体ない。かまえて、次の使いは、無用だぞ」
「では、このまま、お城をまくらに、討死のお覚悟ですかの」
「何も、死ぬのを、急ぐことはない。悔いなきまでの、全力をつくし、それでも落城のほかなければ、それまでのことよ」
「ああ、籠城のお考えなら、何で昨日、あのように多くの領民を、城中へお入れなされましたか。穀倉の兵糧も、ようやく二十日をしのぐほどしかございませぬ。それを、あの夥《おびただ》しい領民どもにむざむざと食わせては」
「老人、食物の泣き言はみっともないぞ。一椀《いちわん》の物は、半分ずつ分けて食おう。十日の物は、十五日に食いのばして戦おう。領主、老臣ともなれば、かかる日に、あわれな無辜《むこ》の者たちの生命を、守ってやるのが、武門の任というものではないか。おぬしや、おれたちはまだよいが、無慙《むざん》なのは、同じ武門に生れた若者たちこそいたましい。――早く、矢倉を降りて、その若者たちを励ましてくれい。わしがそういったと、みなに伝えろ」
佐々勢は、その大部隊をたのんで、夜も昼も、間断なく猛攻をつづけ、城兵に息をつかせないことを、一義としていた。
「三の丸が、あぶない」
と、聞え出した。
地勢上からも、ここを城方の弱点と見て、成政は、
「搦《から》め手《て》と外構《そとがまえ》とに、集中して、揉みつぶせ」
と、各部署へ、号令した。
佐々平左衛門《さつさへいざえもん》、野々村《ののむら》主水《もんど》、久世《くぜ》但馬《たじま》などの隊へ、さらに別動隊の野入平《のいりへい》右衛門《えもん》、桜甚助《さくらじんすけ》の兵が加わって、数千人、声つなみ[#「つなみ」に傍点]をあげて、
「わが手に」
と、ばかり攻め競《きそ》った。
夜になって、小雨となり、土手、石垣などで、踏みすべり、組みあいながらも、血戦はやまなかった。
しかし、城兵は、もう三日三晩も、寝ていない。加うるに、敵の何十分の一という小勢。
「だめだッ」
悲痛な叫びが一つ聞えたときは、もう雨と火と血と泥《でい》ねい[#「ねい」に傍点]にまみれきった三の丸は、敵人の影に充《み》ちあふれていた。
さなきだに少ない城兵の大半は、この夜、ここの守備で討死した。残った人数は、
「無念、無念」
といいあいながら、一応、本丸にあつまり、さらに、外曲輪《そとぐるわ》との間に、徹夜《てつや》で、防禦線《ぼうぎよせん》を築いた。
雨の中に、石や土嚢《どのう》を積み、また、森の大木を伐《き》り仆《たお》して、乱雑なる防塞《ぼうさい》を組み、部将から足軽の下まで人間力の限界まで、働きあった。
そのあいだ、たれひとり、不平や怯《ひる》みを洩らさなかった。おそらくは、かれらとても、この一城――いやすでに三の丸を失った半城の孤塁《こるい》が、余命、いくらもないことは、無言のうちに知っていたろうが、何としたことか、脱走者もないのであった。
これは、守将の奥村助《おくむらすけ》右衛門《えもん》の日ごろの仁愛と今日の明確な決意が、烈しい叱咤《しつた》や激励を伴《ともな》わなくても、よく各部の組頭《くみがしら》たちから士卒にまで、滲《し》みわたっているためともいえようが、もっと大きな力が、べつにかれらの士気を鼓舞《こぶ》していたのである。
それは、助右衛門の妻の力だった。かの女も、足軽小者たちと一緒に、初めの夜から帯紐解《おびひもと》いて休んだことは片刻《かたとき》もない。
かの女は、良人の気もちをよく酌《く》んで、領民の老幼をよく世話したが、なお、あちこちの防禦陣地から、負傷者を本丸へ運ばせては、自身、傷口を洗ってやったり、布をもって巻いてやったり、看護に、身のつかれも、忘れていた。
かの女の手が、手負《てお》いの傷口を繃帯《ほうたい》してやるときには、その眼に、涙があった。――詫《わ》びても、詫びきれないような気もちから、自然、にじみ出る涙は、その傷者をして、無限な慰藉《いしや》となり、愛情の結びとなった。
「なんの、これしきの傷」
と、かれらは、ふたたび、槍を杖についても、防ぎに向うのだった。
その姿に、戦友は鼓舞され、その昂《たか》い防禦精神を見舞って、かの女は、自分で炊《かし》いだ兵糧をくばり、また茶わんを持って、酒を好む者には、酒倉の酒のある限りはと、注《つ》いで廻った。
――今にも、その夜のうちにも、陥《お》ちるかと見えた城は、こうして、俄然《がぜん》、さらに強い反撥を示した。もっと意外なのは、おののきふるえていた領民までが、男という男をこぞって、材木を伐り、大石をころがし、防禦の一役を、自分たちから、買って出たことだった。
「まだか」
佐々成政は、その日、もう敵の末森城は、潰滅《かいめつ》は寸前のものという見通しで、坪井山《つぼいやま》からずっと本陣をすすめ、すぐ城下近くまで来て、
「だいぶ、手間ひまがかかるじゃないか」
と、三の丸占領の戦況を聞いても、まだ、部下の手ぬるさを、不平顔でさえあった。
夜は、城も城下も、焼けただれて見え、小雨の空は、どんよりと赤く、その反映に、床几《しようぎ》にかけている彼の顔まで、朱いろの仮面《めん》みたいだった。
「やあ、主水《もんど》か。どうだ、陥ちたか」
いま――雨に濡れ光った甲冑《かつちゆう》すがたを、馬の背から降ろし、本陣のとばりを揚げて入って来た前線の一将を見て、成政はすぐ、催促のような語調でたずねた。
野々村主水は、重そうな姿を、疲れと共に、がさりと、かれの床几のまえに屈《かが》めて、
「陥ちませぬ。敵は、思いのほか、頑強です」
「なに。陥ちぬ?」
「堅固は、意外なほどでございまする。お味方の多勢をもって、無二無三とかかれば、或いは、取り返しのつかぬ程、多くの犠牲を生じるやも知れませぬので……ひとまず、御思慮を伺って、肚《はら》をきめんと、平左どの、ほか面々とも、談合の末、てまえこれまで、おさしずを仰ぎに参じました」
「では、こよいのうちに、落城は、無理と申すか」
「夜を過ぎれば、敵は、本丸との境に、いよいよ防塞《ぼうさい》を強固にし、なお、むずかしくなりましょうし、さりとて、この雨中、一気にとあせれば、お味方の死傷は計り知れませぬ」
「なんじゃ。それでは、陥ちぬというのと、同じではないか」
「陥ちぬことはあり得ません。しかし、時を要することは、必定と思われます」
「日時を費やせば、いかに諸※[#二の字点、unicode303b]の道を封じ、つなぎのろし[#「つなぎのろし」に傍点]を断ち切っても、かならず七尾の敵、金沢表《かなざわおもて》の敵も、変を知って、駈けつけて来るにちがいない。――佐々成政ほどな者が、左様な下手《へた》な戦《いくさ》をするか。何としても、明け方までに、攻めつぶしてしまえ。汝らの手で陥ちんとすれば、成政がまいる」
「……はっ。御意、一同にも、申し伝えまする」
野々村|主水《もんど》は、ぜひなげに、立ち上がった。何か、胸のいたむものが、部下たちのうえに、思いやられ、つい、憤然《ふんぜん》と、色になって、かれの顔をかすめていた。
「では、これが、わが君とも、お別れかと存ぜられます。おさらばにござります」
幕《とばり》の外へ、出ようとすると、
「待て」
「はっ。……なんぞ」
「主水。ちょっと待て」
何を思ったか、成政は、こう急に呼び返して、主水がふたたび、ひざまずくと、声をひそめた。
「いつか、そちは、末森城のうちに、旧知の者があると申したな」
「はい、おります。千秋《ちあき》主殿助《とのものすけ》と申し、以前、越前に住み、後、前田家が府中《ふちゆう》にあった頃に、召し抱えられた者にござります」
「それは、幸いだ。ひとつその主殿助へ、その方からよびかけて、うまく、扱いをかけられんか。充分、利を喰らわせての」
と、成政は、一策を、かれに授けた。
籠城者のひとりに、千秋主殿助という男がいる。
利家から直々《じきじき》に、奥村助《おくむらすけ》右衛門《えもん》へ付けられた者で、末森城の一部将として、こんども東曲輪《ひがしぐるわ》にたてこもっていた。
その夜――
この主殿助の所へ、寄手《よせて》の隠密《おんみつ》の者が、一通の密書をもって、忍んで来た。
「何ぶんの御返答を」
と、いうのである。
披《ひら》いて見ると、佐々成政の物頭《ものがしら》――野々村主水の名がある。主水とは、旧知の仲だ。はて何事かと、燭《しよく》をかきたてて読み下すと。
(――君との旧縁を思うと、今明、おたがいの立場は、運命とはいいながら、惨《さん》として、心の傷《いた》みを禁じ得ない)
と、まず久闊《きゆうかつ》の情《じよう》を叙《の》べ、
(しかし、深く考えて見れば、一時の勢いと名聞《めいぶん》にこだわって、憎み得ない同士が、屍《かばね》を積み、城を焼き、以って、一生の事終れりとなすなどは、実に愚である。……ひとつ君から城主の奥村殿にも、説《と》いてみる気はないか。助右衛門どの御夫妻も、まだお若い身そら、好んで、知れきった死の道をえらぶのでもあるまい。――殊に、御自身はともかく、いと幼いお子たちや御母堂もあるとのこと。そして、幾百の部下をも、敢《あ》えなく死なさせるような無分別なお人とも思われない)
と、理非を述べ、さらに、次には、利を以って、こういう条件をつけ加えてあった。
(もし、助右衛門殿が、佐々どのへ、城をひらいて、お扱いをまかさるるならば、能州《のうしゆう》二郡の領主に封じ、黄金一千両を進上しようと、成政様も申しておられる。もちろん、貴下にも充分な恩賞を約してよい。……諾《だく》か非か。即時、隠密の者に、御意のほどをおもらしねがう)
主殿助《とのものすけ》は、腕ぐみの中へ、しばし面《おもて》を埋めこんだ。
人間である。考えるということは、人間の所為《しよい》にすぎないから、それを長くしていればいるほど、当然、高度な精神は、常識的な水準に下がってくる。
(いかに、防いでも、あすともなれば、落城は必至。遠い、金沢表の援軍も、まず、間にあわぬときまっている。――この首をひろわれて、屍《むくろ》を、焼け跡にさらすよりは)
かれは、あり合う竹べら[#「べら」に傍点]に、「諾」と一字だけ書いて、花押《かきはん》を加え、使いの手へ渡した。
真夜中《まよなか》だったが、主殿助は、すぐ本丸へ出かけて行った。
そして、あたりの守兵に、
「助殿は?」
と、たずねると、兵は、矢倉を指さした。登ってゆくと、助右衛門|永福《ながよし》は、やや攻勢をゆるめた寄手の様子に、矢倉の壁に倚《よ》りかかったまま、うとうとと、居眠りしていた。
「助殿。助殿……」
肩を、かるく揺すると、
「お。……千秋か。なんじゃの」
助右衛門は、かれを見上げて、いつものような微笑を見せた。
主殿助は、その前に、矢倉の上の兵を、みな遠ざけていたので、すぐ野々村|主水《もんど》からの密書を示し、前後を見まわして囁いた。
「どうじゃの、助殿。……お考えは?」
「さあて」
書面を巻き返し、主殿助の手へ返して、
「其許《そこもと》の御思案はな?」
「いちばん、ここは、思案のしどころと思うが」
「よしッ。拙者も、思案を見せよう」
いうやいな、助右衛門は、いきなり主殿助の喉首《のどくび》を攻めて、でん[#「でん」に傍点]と、床の上に組み伏せた。
主殿助は、眼を剥《む》いて、憤怒《ふんぬ》した。
「な、何をするっ。貴様のためを思って打ち明けたのに、その友情を、裏切るのか」
上の助右衛門は、組み伏せた手をゆるめなかった。
「主君を裏切り、城中の戦友を裏切ろうとした汝が、友情などとは、片腹いたい。汝をこそ、裏切り者とは申すのだ」
「くそうッ」
主殿助は、死にもの狂いに、足業《あしわざ》を仕かけたが、助右衛門の声に駈け上がって来た兵たちが、忽ち、かれを高手小手に縛《いまし》めた。
「その者は、角矢倉《すみやぐら》の柱に、くくり付けておけ」
助右衛門はすぐ、実弟の奥村加兵衛をよんで、千秋主殿助にかわって、東曲輪の指揮をとらし、そこの守兵を入れ替えさせた。
内に、こんな際《きわ》どい危険もあったりしながらも、末森城の守りは、依然、堅かった。
城主助右衛門の毅然《きぜん》たる態度にもあるが、一面、かれの妻が、よく兵をねぎらい、領民をかばい、自己の一命や安危《あんき》などは措《お》いて、衆と共に、良人と共に、女の道の善美をこの中に描いていた力も大きい。
ひとつの城も、一軒の家も、かわりはない。この家は、ふいの災難にも、世の波にも、あらゆる意味で、たやすく潰《つぶ》れないものを持っていたのだ。
寄手の佐々成政は、野々村主水からの吉報をあてにして、城中に裏切りが起るか、或いは、打連れて降伏に出るかを――待ちくらしていたが、何の変化もないのみか、士気いよいよ粛として、塁を堅《かた》めている様子に、俄然《がぜん》、ふたたび総攻撃を起した。
すると、十二日の夜明け前。
「きのうの夕方。津幡のお城の空で、たしかに、のろし[#「のろし」に傍点]らしい煙が見えました。この末森のお城からは、余りに遠くて見えないでしょうが、大海川《おおみがわ》の辺では、よく見えました」
と、城外から危険を冒して、わざわざ報らせに来た一農夫があった。
「それこそ、お味方の来援にちがいない。金沢表の御人数が、津幡から、ここまで、来たぞという烽火知《のろしじ》らせとおもわれる」
部将たちは、暗夜に光明を見たように、狂喜したが、助右衛門は、
「いやいや、にわかには信じ難い。万一、誤報であった時は、兵はみな落胆して、かえって、死守の勇気を失うであろう」
と、たしなめて、きびしい眉を、うごかしもしなかった。
ところが、夜が明けて、東に紅雲《こううん》のたなびき始めた卯《う》の刻《こく》ごろ。望楼にいた兵が、
「見えるっ、見えるっ。たしかに援軍だっ。金沢表の御人数だ!」
と、下へ絶叫した。
すわ、と満城の声が、わーっと、狂喜の喊声《かんせい》をあげ、足軽|頭《がしら》の上原清兵衛《うえはらせいべえ》は、大樹のてっぺんによじ登って、
「オオっ。今浜《いまはま》の砂丘に、鍾馗《しようき》のお馬印《うまじるし》が見えるわ! まさしく、金沢表のお味方が参られたぞっ。おおうい! みんなあ! よろこべ、よろこべ。われらの援軍は、今浜まで来ているぞ」
と、両手をふりあげて、満城へどなった弾《はず》みに、上原清兵衛は、歓喜のあまり、下の歓呼の声の中へ、木の上から落ちてしまった。
[#改ページ]
つなぎ烽火《のろし》
金沢表――尾山城へ、末森城の危急がわかったのは、十日の夜だった。
一番知らせは、富山の商人|田畑小兵衛《たばたこへえ》で、佐々成政の軍隊を、加能《かのう》ざかいの山中に行き迷わせ、三国山《みくにやま》の嶮岨《けんそ》から取って返して、金沢までの長途を、脛《すね》のつづくかぎり、駈け急いで来たものである。
「たいへんですッ」
と、この一報が城門をたたいて、奥へかくれてから、およそ一刻後《いつときご》。
「一大事でござります」
と、ふたたび、同じ門へ、漁夫のような身なりの男が、末森城危うしと告げて来た。その時もう城門の守りは、戦時態勢になっていた。
前田|又左衛門利家《またざえもんとしいえ》は、近ごろ夜食の酒量も減らし、夫人からもあやしまれる程、就寝の時間も、きめていた。
――年のせいじゃよ。
と、かれは夫人に摂養《せつよう》を説いた。そして、
「武人の欠点は、とかく命を粗末にすることだよ。いさぎよいのと、粗末とはちがうからな」
と、近頃、何か、感じていることがあるらしい面持《おもも》ちである。
かれの、近ごろの感懐《かんかい》というのは、つらつら殺伐《さつばつ》な世のさまを眺めて、深く、こう考えさせられていることだった。
(――自分のいのちをすら粗雑に考えている人間が、何で、他人の生命などを愛せよう。――他人の生命を愛せないような人間が、また、どうして無数の生命の上に立って、政治をとり、世を立て直すなどという資格があろうか!)
かれは、これを自身の生活態度にも、自省してみて、
(……酒も薬ほどに)
と、改めたのである。
好きな酒にさえ、自律《じりつ》をもって、愛命の戒としたほどであるから、女色、飲食、あらゆることにも、かれの起居はちがっていた。
もっと、かれの心事の秘を、深くうかがえば、
(いのち長く、心ゆたかに、気長に時を待つのほか、秀吉、家康の上に出ることも、伍すことも、むずかしい)
という時勢観も、或いはかれの五十をまたいだ心のすみに潜《ひそ》んでいたかも分らない。
その利家は、寝耳に水の、佐々異変を知って、すぐ寝所を出、
「成政のやり出しそうなことではある」
と、つぶやきながら、顔を洗い、うがいをし、朝のように、書院へ出た。
自身、小兵衛に会い、かれの心情と、佐々の道案内に立った仔細など、つぶさに聞き取った。そのうちに、第二報をもたらした男も書院の庭へ坐った。この漁夫ていの男は、末森城から敵中突破をこころみた数名の急使のひとりで、陸路は敵に遮断《しやだん》されているため、海路、河北潟《かほくがた》の沖を、早舟で大野川まで来た由を語った。
「ふたりとも、休むがよい」
と、労をねぎらって、利家は城中の広間に席を移し、ただちに、宿直《とのい》の宿老や侍どもを呼びあつめて、
「すぐ、松任《まつとう》へ早馬を」
と、第一に、子息利長のいる支城へこれを急報させ、同時に、配下各所の将に、出動令を発した。
かれの夫人は、事態を察して、早くも、利家のよろい具足を取揃え、のし[#「のし」に傍点]鮑《あわび》、かち栗などを三方に盛り、出陣の水さかずきを、一室の灯に、調《ととの》えていた。
まもなく、利家は、馬揃いの庭へ出て来た。かれの姿をそこに見ると同時に、二度目の出陣貝が、いんいんと鳴りぬいていた。
「山の者。烽火《のろし》をあげい」
城のうしろに、烽火山とよぶ一端がある。かれの命と共に、烽火番は、そこへ駈けあがって、すでに用意の硝煙筒へ、火を点じた。
一柱のけむりが、シュルッと、夜空へ高く走り揚ると、ごう然と、雷火の傘をひらいた。もし昼ならば、鼠いろの濃いけむりが、しばらく中天に見えているであろう。
ここ尾山城に、この一火があがると、北は、小坂、吉原、二日市《ふつかいち》、津幡《つばた》へと、能登《のと》の七尾《ななお》にいたるまで。西南は、野々市《ののいち》、松任《まつとう》、笠間《かさま》、手取川《てとりがわ》――と各地の、のろし山からのろし山へ、音響の駅伝《えきでん》となって、轟音がうけつがれ、つかのまに、非常事ありの警報が、領下のすみずみにまでゆきわたる仕組みになっていた。
これは、つなぎ烽火といって、元、中国大陸で行われた古戦法の一つを、そのまま移してわが兵家が用いたものである。
「いざ、行かん」
利家は、松任の利長の人数が来るのも待っていなかった。
――来る者は後から来い、とばかり、ただちに城門を出ようとすると、年の頃十四、五歳の少年が、小《こ》薙刀《なぎなた》を抱《か》い込んで、かれの馬前を、馬に負けじと駈け競《きそ》ってゆくので、利家は目ざわりなと思って、
「童《わつぱ》ッ。横へ退《の》きおれ」
と、叱った。
少年は、叱られても、なお馬のハナに立って、馬より早い足を誇っているようなので、利家は、ふたたび、どなった。
「たれじゃ、そこへ駈けて行くのは」
すると、少年は、走りながら振り向いて、
「叔父君。わたしです」
と、答えた。
「あっ、慶次郎《けいじろう》よな。たれに断わって、ついて来たか」
「叔母君から、お供してもよいと、おゆるしが出ましたから」
「なに、奥方《おく》にゆるしを受けて来たと」
「はい、もうここまで来たのですから、仕方がありません。どうか、お連れ下さいまし」
少年は、足をとめて、利家の馬の鞍につかまって、せがんだ。
これは、利家の兄の子。つまり彼には甥《おい》にあたる前田慶次郎という城内きっての腕白者なのだ。――かつて、京都に連れて行ったことがあり、一日、秀吉が利家を訪ねて来たとき、この慶次郎を見て、
(天下の一奇児だ)
と、あの変り者の秀吉も、この慶次郎の腕白ぶりには、一驚《いつきよう》を喫《きつ》して帰ったことがある。
こよいも、出陣触れと知るや、慶次郎はしきりに、叔父の利家にむかって、連れて行け連れて行け――と、せがんでやまずにいたが、何分、型にはまらない自然児なので、途中や戦場での荷厄介《にやつかい》が予想されるし、かたがた、兄の子に、万一があってはと大事をとって、
(よい子だ、留守をしていてくれい。留守居は、戦場に出る者よりは、大役なのだ)
と、だまし、すかして、出て来たのである。
ところが、その手にはのらないよ――といわんばかりな慶次郎の顔つきである。利家は苦笑の下に、うなずいて、
「せんない奴よのう。それほど見たくば来るがよい。だが、戦場へ出て泣き出すなよ」
と、わざと彼を気負《きお》わせて、一気に馬を早め去った。
利家たちの先頭が、城下外の小坂まで来た頃、丹羽五郎左衛門長秀の使者が、かれを追って来て、主人のことばを伝えた。
「取りあえず、村上|次郎右《じろうう》、溝口金右《みぞぐちきんう》の両名に、兵三千人をそえ、お供を申しつけおきましたゆえ、御軍勢の端にお加え下さるように」
すると利家は、好意は謝したが、従軍は断わった。
「せっかくのお思し召しではあれど、利家、利長ともに、十死に一生をも期しておりません。むしろ、丹羽殿のお手勢は、あとに残って、万一の一揆《いつき》や裏切りなどに、お備えあるならば、それも利家の強味と申すもの。何分、留守中のことのみお頼み申しおく」
この時、戌《いぬ》の下刻《げこく》(午後九時頃)ごろ。
利家はいよいよ駒を早め、百坂《ももさか》、森本《もりもと》、二日市《ふつかいち》あたりでは、途中から思い思いに加わる郷土所在の武者を入れ、行くほどに、人数を増して、十二日未明、津幡の城下についた。
もちろん、ここも、つなぎ烽火《のろし》の合図に、全城全土、武装のもとに、利家の本軍が来るのを夜どおし待ちぬいていた。
「さぞ、お疲れでおわさん。すぐ、大書院へ」
と、城主の前田|秀継《ひでつぐ》以下が出迎えると、利家は、
「いや、休息は、ここでする」
と、濠ばたに駒つながせ、床几に倚《よ》って、城内へは入らなかった。
そして、後から後から、駈けつづいてくる将士の到着をとり、兵を点呼《てんこ》した。
部将としては、不破《ふわ》彦三、村井|長頼《ながより》、魚住隼人《うおずみはやと》など。そのほか七百余人の士卒が従っていた。
それにしても、味方は小勢。敵は大軍。
(あやういお強気)
と、たれも思わずにいられない。そう観ることの方が、常識である。
津幡城主の秀継や、その老臣、寺西宗与《てらにしむねとも》などは、憂いをこめて、こう諫《いさ》めた。
「物見の情報によりますと、末森城は、もはや落城寸前にあって、せっかく、お駈け付け遊ばすとも、敵は大軍、とても救いは覚束《おぼつか》なかろうと申しまする。……むしろ、この津幡に、しかと、お踏みとどまりあって、大坂表の御援助を待たれては如何《いかが》なものと存ぜられますが」
云いも終らぬうちに、利家は勃然《ぼつぜん》と色をなして、
「敵、大軍と聞けば聞くほど、あわれ、末森にある助右衛門らの心はいかばかりぞと思いやらるるのじゃ。左様な意見は、士気を失うのみで、われらにとって、何の益やある。助右衛門らを、見放して、敵の中に、犬死させてみよ。それこそ、世間のよい物笑いであろう」
秀継は、赤面したが、なお何とかして、利家を思い止まらせようと試みてか、わざと、卜《うらない》の上手《じようず》をよんで、出陣の吉凶を卜《うらな》わせた。
利家は、易者と聞いて、失笑をおぼえたが、その易者をねめすえて、こういった後、占卜《せんぼく》をとらせた。
「こら、卜者《うらないしや》、予は必ず、末森へ向うぞよ。そのつもりで、心して易《えき》を立てい」
「……はっ」
と、卜者は、身をすくめた。そして頻りに、算卜《さんぼく》を案じ、やがて袂《たもと》のうちから一小冊をとり出すと、仔細らしく、こう答えた。
「日も吉なり、時も大吉。――軍をすすめて大功あらんとございまする。はい、お味方の御勝利はうたがいございません」
「吉か。……あははは」
利家は、手を打って、笑ったのち、その卜者に、褒美をくれて、
「朝飯、朝飯」
と、さいそくした。
すでに士卒は、兵糧をつかっていた。秀継たちは、城中に、朝食の用意をととのえたのであるが、利家は頑《がん》として、城内には入らない。
ぜひなく、そこへ膳を運んで来たが、利家は、馳走らしい物には何も箸をつけず、二コの握り飯と一椀の汁だけをすすったきりだった。その間にも、着到《ちやくとう》の将士は、続々とふえていた。
「長頼は、先鋒《せんぽう》に立て。利秀《としひで》、内膳《ないぜん》は第二隊に。第三隊には、利益《とします》、光之《みつゆき》、与三郎《よさぶろう》などをもって組み、第四隊は、利長《としなが》の手勢にまかすぞ」
かれは、ざっと、指揮すると、たれより先に、馬腹にムチを加えていた。
驚いた将士は、かれの姿に駈けつづきながら、途々《みちみち》、隊伍を作って行った。
武者奉行は、宮川《みやかわ》但馬《たじま》。さむらい頭《がしら》は山崎|庄兵衛《しようべえ》、
「走り組みの陣立て――などは初めてだ」
と、大わらわに、隊伍のさしずを、どなってゆく。
すでに、松任《まつとう》の利長も参加し、所在の武者も、駈け集まったので、この朝の総人数は、三千五、六百人とかぞえられた。
河北潟のほとりで夜が明け、午《ひる》まえすでに、高松の浜に着いていた。
夜来、蕭々《しようしよう》と、小雨になったり、風になったりしていた天候も、秋ばれの空を見せて、手をかざせば、はや、孤城末森の白壁も望まれそうであった。
前夜――
佐々方の神保|氏張《うじはる》の軍は、前田方の津幡や鳥越《とりごえ》の城などに、のろし[#「のろし」に傍点]の煙をみとめたので、
「さては」
とばかり緊張し、すぐ偵察《ていさつ》を放ってみたところ、金沢の援兵は、まだ津幡まで来ていないし、城中の形勢から見て、たとえ、利家が来ても、こん夜は、津幡城に泊るであろうという見方に一致していた。
「空あいも悪いし、金沢からの疲労もあっては、おそらく、津幡に留まることは、確かであろう」
氏張も、同様な判断のもとに、その夜は、何ら備えもせず、川尻の陣に、ただ歩哨《ほしよう》だけを、増しておいた。
ところが、その歩哨が、
「敵だッ」
と、自分の任務の重大に自分で気がついたときは、すぐ眼のさきの今浜のなぎさまで、利家の馬じるしが進んで立っていたし、大海川の浅瀬をわたる前田勢が、幾団にも、わかれわかれに続いて来るのが、見えていた。
中にも、今浜の海べに、利家の馬じるしを持って立った旗本たちの一団は、それを高々と振り上げ振りかざしては、はるかなる孤城の友へ、
「――来たぞ、来たぞっ。殿を初め、われらまで、はやここまで来ているぞ。頑張れ! 末森衆!」
声はとどくはずもないが、みな声かぎり叫ばずにいられなかった。
――と。声は聞えるわけもないが、末森城の内でも、遠く、今浜の方を見て、全城の者が、わあッと、喊呼《かんこ》をあげていたのである。大樹の上へ登っていた城兵の上原清兵衛なる者が、歓喜のあまり木の上から墜落したのも、この一瞬のことだった。
海づたいに、潜行《せんこう》していた前田方の先鋒《せんぽう》は、いつも中軍の馬じるしよりも、はるか先へ先へと、進んでいた。
中軍にいるはずの利家も、自己の馬じるしを追い越して、つねに先鋒隊のなかにいた。
「敵の本陣は、坪井山とみゆる。坪井山へかかって、まず、まっ先に、佐々どのの御首を頂戴せん」
先鋒隊長の村井長頼は、こう号令したが、利家は、馬首を向けかえて、
「長頼長頼。貰い物はあとにいたせ。――まず危急の味方を確かめてから」
と、わき目もふらず、末森城の城下へ駈けこんだ。
そこには、佐々方の諸将が、瀕死《ひんし》の孤城をとりつめて、水ももらさぬ鉄桶《てつとう》の陣を作っていた。当然、一角に激戦が起った。
利家は、長頼と、ふた手にわかれて、搦め手方面へ近づいた。
本庄市兵衛《ほんじよういちべえ》、野々村《ののむら》主水《もんど》、桜甚助《さくらじんすけ》、久世《くぜ》但馬《たじま》などの佐々方は、
「それっ」
と、銃口を向けかえて、驀進《ばくしん》して来る利家以下の一隊へ、狂的な乱射をあびせかけた。
ダダダッ――と、近づくまでに、幾騎かは仆れた。けれど、佐々兵が狼狽しながら、二弾、三弾を銃につめかえている間には、はや利家たちの鉄騎隊は、かれらの中を駈けめぐって、その布陣を支離滅裂《しりめつれつ》なものにしていた。
前田方の士、半田半兵衛は、槍をふるって、敵の猛者《もさ》ばかり目がけ、当る者をみな仆していたが、敵の部将、桜甚助に、
「何者ぞ。心憎い振舞い」
と目がけられ、遠矢に左肩を射抜かれて、あえなく乱軍の波濤《はとう》にかき消された。
するとここに、その半田半兵衛にも劣らぬほど、敵の中に深入りして、あばれ廻っている小男があった。
いや、たれも小男と見ていたが、よく見れば、それは十四、五の少年なのであった。身ごしらえや、槍の扱いや、進退の敏捷《びんしよう》さは、一人前以上なので、一見小さき怪物としか思えなかったが、
「さあ、来い」
だの、
「――思いさらせ」
だの、
「こなくそ!」
などと叫んでいるところは、いかにも、子供っぽく、ちょうど、火炎不動《かえんふどう》の脇座《わきざ》から躍り出したこんがら[#「こんがら」に傍点]童子《どうじ》そのままだった。
この童子は、佐々の部将、桜甚助が、弓を張っては、味方の者を、選《えら》み撃《う》ちしているのをながめて、大胆にも、
「うぬっ」
と、口をむすび、そのそばへ、駈け向って行った。
小さいので、甚助をかこんでいた士卒も、うっかりしていた。
「わっ」
と、甚助が、かれの槍先にかけられて、馬上からころげ落ちたので、初めて、この小怪物が、前田方のひとりだったことを知り、わっと、追いつつんだ。
童子は、逃げ廻った。逃げるのも、栗鼠《りす》のごとく、す早いのだ。
「この、童《わつぱ》めが。よくも、わが御主人の不意をついたな」
桜甚助の家来、小川鯰之助《こがわなまずのすけ》は、かれを追って、どこまでも、つけ廻した。さすがの童子も、息をきらし、ふみとどまって、鯰之助の顔を、ねめ返した。
「なんだ、うるさいやつ。おれをつかまえると、小便をひっかけるぞ」
戦場である。
子ども遊びの戦《いくさ》ごっことは事がちがう。
にもかかわらず、不敵な童子のことばは、まるで子供同士の遊戯のような悪たれ[#「たれ」に傍点]を叩いているので、小川鯰之助ほどな勇士も、あっと、きもを奪われた。
「な、なんだと、小僧」
「ひとが逃げるのに、どこまでうるさく追って来るんだ。ばか野郎」
「逃げるを追うのは、戦場のならいだ。貴様は、あたまがどうかしているな」
「何をいってるんだ。切れ物を持ち合って、殺しっこをしているこの戦場の人間は、みんな頭がヘンなのにきまってるわ。その中でも、おまえなんぞは、気の狂った猪《いのしし》だ。……だから、そばへ寄ると、小便をひっかけるぞと、申したんだ。それが、どうした?」
「はあて。いよいよふしぎなことをいう小僧だ。いったい汝は前田方の何者の小せがれか」
「古風な名乗りをし合うならまず汝から名を申せ」
「佐々六将のひとり、桜甚助の一の家来、小川|鯰之助《なまずのすけ》とは、かくいうそれがしだ」
「わしは、前田利家の甥《おい》、前田慶次郎だよ」
「なに、前田どのの甥だと」
「おお。戦というものを見てやろうと、初陣《ういじん》に、ここへ来たのだ」
「と聞いては、見のがせん。相手には不足だが、利家一族の初陣首、鯰之助がもらうぞ」
「ゆるせ」
と、慶次郎は、首をふった。
「首を捨てに来たんじゃない。戦を見に来たのだ。首をとるのは、かんにんせい」
その様子の他愛なさ――無邪気というよりは、常識を欠いている阿呆顔《あほうがお》に、鯰之助は、
(ははあ、わかった。……さてはこいつ、白痴だわい)
と、うなずいた。
しかし、軍功帳の書き上げには、白痴の首も、利巧者《りこうもの》の首も、首に区別はない。あるのは、身分の上下だけである。
「いや、首はもらった」
鯰之助は、飛びかかった。そして、いと無造作に、組み伏せようとしたのが、かれ終生の過りだった。
ぐわんと、いきなり顔へ、鉄拳を食った。よろめく足もとを、慶次郎の短槍が、力まかせに脛《すね》をなぐった。三つ四つと、所きらわず、乱打した。完全に、地へ伸びたところを、また叩いた。
「どうだ、鯰《なまず》……」
慶次郎は、念のため、なおその顔や胸を幾たびも、踏んづけた。しかし、かれはこの名だたる名誉の敵の首を、掻き切ろうともしなかった。
びくびく動いている敵を見下ろしながら、慶次郎は、槍を肩に立てて、鎧《よろい》の草ズリの下から向穿《むかば》きの前を解き、悠々《ゆうゆう》と、小便をし始めた。
尿のさきは、鯰之助の顔や肩に飛沫《ひまつ》をちらした。あわれ、敵は、わずかに身うごきしたのみである。
「わあーッ。ざま、見さらせ」
慶次郎は、槍をかついで、駈け出した。見ると、もうそこには、敵もいないが、味方もいない。
搦《から》め手《て》の城門が、ぽかんと、口をあいている。
末森城の内部の者は、利家以下が救援に近づいたと知り、満城、よろこびの声をあわせて、城外へ、打って出ていたものとみえる。
そして、この方面の包囲を蹴ちらし、利家を迎え入れて、今や、十死一生のうちに、われ生きたり――と手を握りあう人々のうれし涙に、そこの孤城は、かえって一瞬、ひそまり返っているふうだった。
こういう時、人間の感情は、泣いていいのか、踊っていいのか、わからなくなる。
城主の奥村助右衛門は、利家を迎えて、黙然《もくねん》――ただ黙然とそのまえにぬかずいた。
「助右《すけえ》。いま着いたぞ」
利家はこういって通ったが、助右衛門は、ことばもなく、ただその姿を拝むように、かれに従《つ》いて、本丸へ行った。
本丸といえ、書院といえ、いずこも、荒涼たる籠城の戦場である。いやその籠城戦はまだ終ってはいない。利家は、床几《しようぎ》について、助右衛門を助けている将士に会い、
「よく、こらえていたな」
と、一応のねぎらいを与えた後、ただちに、防禦の各部署を、見て廻った。
利家と、別れて、べつな城門へ近づいた村井長頼は、坪井山の背面を撃ちながら、城下の戦で、敵の佐々与左衛門《さつさよざえもん》を打ちとり、そのほか四十余名の敵首をあげた。
かれが、力闘しているうちに、後続隊の野村|伝兵衛《でんべえ》、山崎|彦《ひこ》右衛門《えもん》、篠原一孝《しのはらかずたか》などの人々も、それぞれ一手一手の兵をつれて、城下いちめんに展戦し、前田方の犠牲者も少なくはなかったが、佐々軍は、約七百五十余体の死者をすてて、全軍、総退却を始めていた。
こなたの門、あなたの石垣からも、城の内へ、友軍がはいって来た。その旗の一つ一つ、その顔の一つ一つを迎えるごとに、城兵たちは、わきあがる歓声と、感激の眼に、涙を光らせて、迎えの手を、さしのべた。
「……ああ、かくまでに」
と、かれらが、死守したあとを見廻りながら、利家の眼にも、涙があった。
殊に、いたく利家の心を打ったのは、こんなにも、さし迫った危急の中にも、この食糧の乏しい城中へ、無数の領民を、収容していたことだった。
また、その領民やら負傷兵のあいだに、立ち働いていた一女性と、幾名かの、女の姿が見えたことである。
「あの女は、たれか」
助右衛門が、はっと、答えかねている容子《ようす》を見、利家の方からこういった。
「そちの、内儀か」
「左様にござります」
「これへ、呼んでくれい」
「はい。……が、いずれ後刻、髪などなでさせて、お目通りに伺わせまする」
「そうか」
助右衛門の心を読んで、利家は、その場はよそに見て通った。
ひとまず、城下の敵も退いたので、利家は、全城の将士をあつめ、まず将士をねぎらい、恩賞の約を与え、そして、奥村助右衛門夫婦にも、あらためて、
「おそらく、利家の生涯にも、そちたち夫婦の功は、永く忘れ得ぬことであろう」
と、までいった。
その日、用いて来た鍾馗《しようき》の馬じるし、金《きん》の采配《さいはい》、刀などに、感状をそえて、助右衛門に与えた。
かくて、利家自身のたのしみは、大いに眠ることだった。敵ともよく闘ったが、利家は、肉体の意慾にも、よく剋《か》って来たと、われながら思うのだった。
一方。
坪井山本陣の佐々成政は、一夜に、戦況は逆転し、自身の周囲すら浮き足たって来たのを見て、
「ふがいなき奴どもよ」
と、かれらしい激怒のもとに、軍容をたて直し、末森城への再攻撃を計った。
「坪井山の成政が、捲土重来《けんどちようらい》の勢いを見せておりますが」
諜報《ちようほう》を聞いて、利家は、
「来るかな?」
と、つぶやいたが、またすぐ、何を思い出してか、こう笑った。
「……いや、襲《よ》せては来まい。自分と、成政とは、共に、織田家に仕えていた頃からの同輩だが、成政の性格として、くわッとするも早いし、冷めるのも早い男だ。激情と理智の、両極端をもち、その間に、損得もよく考えるたちだからな」
――果たして、
次の諜報《ちようほう》によると、
「坪井山の敵本軍は、いちどは、当城に総がかりの態を示しておりましたが、何思うたか、にわかに方向をかえて、総勢、津幡街道を南へと、あとも見ずに、退却しはじめておりまする」
と、あった。
「それ見よ。成政らしい」
利家は笑っていたが、そのときかれの近くにいた一武者が、
「僭越《せんえつ》ではありますが……」
と、身をすすめて利家に、献言した。
その武者は、三河の本多佐渡守正信《ほんださどのかみまさのぶ》の弟で、本多|正重《まさしげ》という若者だった。正重は、北陸の諸州を、武者修行としてあるいていたところ、ちょうど、この合戦の突発に会したので、利家がここへ急ぐ途上、路傍に名乗り出て、後学のため、従軍のゆるしを得て来た者だった。
これを陣借《じんが》り≠ニいい、武者修行者ばかりでなく、機会をつかんで、扶持《ふち》にありつこうとする在郷の浪人たちも、よく破れ鎧《よろい》に、一すじの槍をかついでは、御軍勢の端に――と願い出る例はたくさんにある。
「オオ。陣借りの武者修行者か。何じゃの、意見とは」
「されば。ただ今、伺っておると、坪井山の敵は、総なだれして、南へ退いてゆく由ですが、それを知りつつ、むなしく快をむさぼっておるのはどうかと存じます。――なぜ、一群の鉄騎を先に立て、かれの浮き足に、追撃をお仕かけなさらぬのでございましょう。……成政どのの首を獲《え》んこと、いとたやすいかと、存ぜられますが」
「いかにも」
と、利家は、この若い修行者の言を、つつしんで聞き、また感服したように、うなずいたが、その答えは、否定であった。
「以前、賤《しず》ケ嶽《たけ》の合戦の折、柴田どのの甥《おい》、佐久間玄蕃《さくまげんば》が、勝ちに乗じて、それをやった。総じて、味方の危機は、味方のすべてが、勝ったと思うときに生じやすい。――何の何の、成政の首一つ獲るために、左様な大事を賭ける要はない」
そういって、ついに、追わなかった。
しかし鉾《ほこ》を転じた佐々の猛軍が、退却の途《みち》ついでに、万一、津幡《つばた》城を襲うおそれもあるので、かれは翌朝――半夜の快睡からさめるやいな、総軍をひきいて、同じ津幡街道を、南下した。
能登の七尾からも、すでに前田|安勝《やすかつ》や、高畠定吉《たかばたけさだよし》などが、数千をひっさげて、駈けつけて来たので、いまや前田方の総兵力は、一万をこえていた。
さきに、同じ海沿い街道をなだれて行った佐々成政は、津幡の近くに来ると、
「よし、津幡を奪《と》れ」
と、すぐそこを窺《うかが》った。
かれの軍には、一貫した目標も軌道もない。さながら不連続線の雲に似ていた。
[#改ページ]
雪《ゆき》の迷路《めいろ》
津幡《つばた》を留守していた城中の将士は、末森方面から、にわかに逆転して来た佐々勢の怒濤《どとう》を認め、すわと、洪水《こうずい》を見たように騒ぎたった。
咄嗟《とつさ》の気転《きてん》で、城中の森、うしろの山、いたる所に、ありったけの旌旗《せいき》を立てて、気勢を示した。
ここは、末森以上の嶮城《けんじよう》だ。――成政は、遠くから眺めて、
「めったに、寄るな」
と、さきの敗北にこりて、ひどく要心した。
「察するに、ここは金沢への街道の要害。少なからぬ兵力をこめてあるにちがいない。附近を焼きたて、鳥越城へ行け」
と、命令をあらためた。
町家の一部や、加茂神社などへ放火して、成政は、ついにここへかからずに、また北転して、津幡と倶利伽羅《くりから》との中間――鳥越城《とりごえじよう》へ進路をとった。
ここは三国山の南、倶利伽羅の西、どっちを望んでも、山また山の山城である。
目賀田又《めがたまた》右衛門《えもん》、丹羽源十郎《にわげんじゆうろう》などの前田方の将が、守っていた。
だが、地の利と、嶮岨《けんそ》の安全感から、この人々は、台風《たいふう》の圏外《けんがい》にいる気もちで、至極、悠暢《ゆうちよう》にかまえこんでいたらしい。
ところへ、里の者が、
「佐々軍が、津幡を攻めに来たそうじゃ」
と、騒ぎ伝えた。
道は、山坂だが、そことこことは距離にすると、一里ほどもない。
「なに、佐々勢が」
寝耳に水とそれを聞いて、かれらは、事の実相《じつそう》をただす余裕ももたず、ただうろたえた。
「さては、末森城も落ちたとみゆる。――金沢表の援軍も、その分では、どうなるものやら心もとない」
「成政自身、津幡を攻めに来るようでは、お味方の敗北ときまった。さて、小城でどうしたものぞ」
上を下への騒ぎのうちに、
「はや、この鳥越へも、佐々勢の先鋒《せんぽう》が、ひたひたと、急ぎに急いで来る」
と、物々しく、報じて来る者もある。
城主の目賀田又右衛門は、いつのまにか、家族をつれて、倶利伽羅の奥ふかく、逃げこんでしまった。
「城主が城主なら」
と、丹羽源十郎も、部下をおきすてて、逃亡した。
のこる兵たちは、忽ち、士官と一しょに、野盗《やとう》と化し、城内の器物をあばき合って、またたくまに、一兵のこらず、何処《いずこ》へともなく、逃げ去ってしまった。
ほどなく、成政は、軍勢をひきいて、鳥越の城下に近づいたが、依然、大事をとって、しばらく、遠巻きにしていた。
「……はての?」
かれは、怪しんだ。
なぜならば、城の本丸といわず、城門の屋根といわず、いたる所に、この山間に多い烏が、群れをなしてとまっている。
「たれぞ、見て来い」
命をうけた物見の一名が、やがて、怖々《こわごわ》と、城壁にとっついて、内部を、篤《とく》と、のぞいて帰った。
「どうなのだ? 城中の様子は」
「烏が、遊んでいるはずです。城中は寂《せき》として、猫の子もおりません」
「なに、一兵もおらんのか、あははは。それは愉快だ」
成政は、快をさけんで、即座に、入城した。そしてここに兵馬を休め、数日来の溜飲《りゆういん》を下げた。
佐々成政は、やがて富山へひき揚げた。手濡《てぬ》らさずに、取った鳥越城の空巣には、部将の久世但馬をとどめ、倶利伽羅のとりでには、佐々平左衛門《さつさへいざえもん》を守りにおいて帰ったのだ。
――その直後のこと。
利家の使いとして、前田方の小林喜左衛門が来た。利家もかれも、まだ何も知らずに、味方の目賀田又右衛門へ、勝ち戦《いくさ》を知らせに来たのである。
「や、や。あれは佐々の旗じるしではないか?」
城頭高くひるがえる旌旗《せいき》を見て、喜左衛門は、愕然《がくぜん》と、馬を回《かえ》して、立ち帰った。
利家は、末森を立って、津幡まで帰って来たが、その途上で、鳥越城の不始末を聞き、目賀田又右衛門の怯懦《きようだ》を大いに怒って、
「武門の不名誉、前田の名折れ。すぐ、鳥越へ寄せて、奪《と》り返さねばならぬ」
と、令を発しかけたが、村井長頼や、一族の諫《いさ》めに、不快を胸にのんで、十三日の夕、ひとまず金沢表に凱旋《がいせん》した。
後日。
この目賀田又右衛門には、余談がある。
秀吉の聚楽《じゆらく》の第《てい》に、蒲生《がもう》飛騨守《ひだのかみ》、浅野弾正《あさのだんじよう》などが寄りあっていたとき、前田家の徳山五兵衛と斎藤刑部《さいとうぎようぶ》の二人がそこへまかり出て、
(実は先年、越中お取合いのせつ、鳥越城を空巣にして逃げ落ち、大いに面目を失うて、きょうまで姿をかくしていた目賀田又右衛門なる者がございまする。……その折の不覚を、当人も心から慚愧《ざんき》しており、頭を剃《そ》って、お咄《はな》し衆《しゆう》としてでも、何とかもういちど、前田家へ帰参はかなうまいかと、一生の願いといたしております。ついては、大納言《だいなごん》様(利家)へ、おふた方から、折入っておとりなしの儀を仰げますまいか)
と、旧友の誼《よし》みもあればと、切に、頼み入れたのであった。
飛騨守と弾正は、さっそく利家に会って、
(又右衛門も、さんざん物笑いにされ、頭まで剃ってというのだから、ひとつ御堪忍して、茶堂か、咄し衆の中へでも、抱えおかれてはどうでござる)
と、口をきいてみた。
すると、利家は、膝を正して、
(お扱いはかたじけないが、すべて、成敗《せいばい》すべき者も、時には、ゆるすこともあり、また、さまでの落度でない場合も、断じてゆるされぬ時もあるものです。又右衛門のごときは、国ざかいの大事な城を、この者ならばと、預けおいた者でござる。その信義を裏切り、全藩の危急を見すて、ただおのれ一個の安全だけを考えて生き長らえて来たもの――そのような人物を、再度、帰参させては、他の者どもが、侍奉公がいやになりましょう。せっかくですが、召し抱えるなど、思いもよりません)
と、きつく断った。
――以って、末森急援を果して、万死に一生を得、金沢表へ帰った当時の、利家のかれにたいする怒り方は想像するに難《かた》くない。
しかし、こういう侍もあれば、また、奥村助右衛門のような侍もいてこそ、武門も人間社会の外ではない種々相《しゆじゆそう》の坩堝《るつぼ》だと云い得よう。大きな時≠フ創造に参画《さんかく》しては、またその時≠ノ屠《ほふ》られ、過去、現在、未来の三道の辻に、咲いては散り、散っては去り、儚《はかな》い盛衰《せいすい》を、どの社会よりも早く忙しく、兵馬剣槍の瞬間にえがいて明滅極まりなきものが、武門の中の人々だった。
利家は、こんどの佐々異変を、すぐ書面にして、秀吉に報告しておいた。
その九月中旬の日附から、考え合わせると、秀吉は、まさに小牧の難攻に逢着《ほうちやく》して、いったん大坂にひきあげて後、また軍を催《もよお》しては、美濃《みの》、尾張《おわり》へ出動する一方、ひそかに丹羽長秀に旨をふくめて、徳川方へそれとなく、和睦の肚があるかないか、あたり[#「あたり」に傍点]をつけていた頃であった。
すぐ秀吉からも、戦捷《せんしよう》を賀す返事が来た。
そして、使者の口をもって、
「小牧の戦況も、決して御心配はない。まずまず今年中には片づこう。そして、明年に、自身、北陸の鎮めにも参るつもりでおるから、ここのところは、佐々《さつさ》が何をしようと、無事を守って、ゆめ、みだりに兵馬をうごかし給うな――」
と、ことづけさせた。
なお、秀吉は、
「このたびの事があって、なおなお御辺のお心がよくわかり、筑前も、いかばかりか、うれしゅう存ずる。ついては、さきにお預り申しておる御息女は、乳母《うば》を添えて、お国元へおとどけする」
と、利家から大坂へやっておいた七ツほどの息女を、即日、父の膝へ返してよこした。
なお、特筆すべきことは、その秀吉直筆の書面の中にも、
(――奥村助右衛門尉、粉骨《ふんこつ》を尽して働き、堅固《けんご》に持ちこたえられた由)
と、かれの名が、大坂表にまで、聞えわたったことである。これは、利家にとり、助右衛門の妻にとっても、どんなに、大きなよろこびだったか知れまい。いや、北雪北花幾星霜《ほくせつほつかいくせいそう》、加賀衆《かがしゆう》のお国自慢といえば、かならず助右衛門夫婦の名が語り出されたものだった。
ここに、末森城の危局は、ひとまず、利家にとっては、難なきを得たが――大きく観《み》て――佐々内蔵助成政のうごきは、大きな失敗だったことを蔽《おお》い得ない。
無謀の遠征。
確たる自信のない作戦。
要するに、盲動《もうどう》だった。――帰りがけの鳥越城における空巣稼《あきすかせ》ぎの程度では、その消耗も士気の挫折《ざせつ》も埋まるはずもないほどな打撃である。殊に、かれの悶情《もんじよう》は、癒《い》ゆべくもなかった。
「さきに、道案内に立った小兵衛を詮議《せんぎ》してひっ捕えろ。家は、闕所《けつしよ》にし、一族は磔《はりつけ》にかけろ」
役人はすぐかれの住居や店を襲ったが、家財、雇人の影もなく、まして小兵衛は、それきり姿も見せないという。
「前田の廻し者に、シテやられたわい。領下の雑人ばらを残らず洗って、臭い者は、片っぱしから取調べろ」
にわかに、成政は、第五列恐怖症にかかった。海陸の通路や城下の旅籠《はたご》、寺院にいたるまで、旅客の往来に、きびしい制度と、煩雑《はんざつ》な手続きを法令化したので、富山を中心とする経済的なうごきは、冬と共に、まったく停止してしまった。
その一面、軍備と防塞に、拍車をかけて、急に、殻をかぶったように、汲々《きゆうきゆう》と、国境をかためた。――前田方の出城《でじろ》の諸将は、これをながめて、一挙に、富山攻めを計るべし、と金沢表へ献策したが、利家は用いなかった。
「いやいや、佐々も、信長公のお目がねで、一時はお取り立てあった程な男だ。侮《あなど》るのはよろしくない。……負け腹立っている人間には、かまわぬがよい。かまわぬがよい」
――以後、北陸の佐々、前田の二勢力は、睨みあいの形のまま、冬にはいった。
大局からいうと、これは秀吉の望む既定方針でもあった。いまや小牧の帰結に手をやいている秀吉にとっては、慾をおもうよりは、北陸の現状維持こそが希《ねが》いであった。――小牧を片づけ終るまでは、ともかく、佐々のうごきを、前田が抑えてさえおいてくれれば――と、していたのである。
だが、成政も、利家の牽制《けんせい》に、そのまま繋ぎ止められている男でもない。
かれは、利家との対峙《たいじ》と、風雪にとじられた北越の冬に、しびれを切らして、
「その後、小牧の戦況も、さっぱり聞えぬが、中央の形勢は、どうあろうか」
と、気をもみ、ついにその年、天正十二年の十一月二十三日、ひそかに、供の者百人ばかりを召しつれて、富山城を出たのであった。
折ふしの大風雪を冒《おか》し、人馬も行き暮れるばかりの山また山の難旅行をたどって、ようやく、信州の上諏訪《かみすわ》に着き、ただちに使いをもって、
(内蔵助《くらのすけ》成政《なりまさ》、風雪の山路をこえて、ただ今、この地までたどり着いてござる。秋以来の北陸の状況をおつたえ申し、一面、小牧における御戦況やら、将来の方略《ほうりやく》をおうかがいして、秀吉征伐の大計に、遺漏《いろう》なきお打ち合わせもいたしおきたく、かたがた、御健勝ぶりをも拝しに参りました。いつ、いずこにて、お会い下さろうか)
と、かれの許《もと》へ云い送り、家康の都合を問いあわせた。
「なに。佐々が、北国からやって来たとか?」
家康は、当惑した。
かれはその頃、すでに小牧の軍勢を収め、清洲をひき払い、浜松城に帰って、怏々《おうおう》と、楽しまざる数日をここに過していた時だった。
「ぜひもない。迎えを出せ」
家臣に、手配を命じ、乗り換え馬や、荷駄《にだ》、案内などの人数をさし向けて、来賓《らいひん》の備えをさせたが、
「さて、困り者の客……」
と、家康は、かれに会って、いうべきことばに、会わぬうちから、苦念していた。
なぜならば。
このとき既に、小牧における秀吉との半歳《はんさい》にわたる対戦は、秀吉の奇手と、信雄の軽率きわまる単独講和によって、万事、終っていたのである。
秀吉が、家康を出しぬいて、直接、信雄を説き、信雄も家康を除外して、矢田川原の会見をとげ、そこで即日、単独講和の約をむすんでしまったのは――実にその月の十一日のことなのであるから――佐々成政が、富山を立って来るまえに、すでに、天下の情勢は、急転化していたわけである。
そのため、孤立の苦境に落ち入った家康の複雑なる心中の煩忙《はんぼう》と、小牧の後始末と、次に――秀吉対家康の和睦に移って、大坂へ人質を送るやら、家中の諸将の不平と憤懣《ふんまん》をなだめるやら、ここ十一月から十二月の初めにかけて、浜松の内外は、まったく、暗い冬を迎えていたところだ。
しかもなお、北陸の賓客、佐々成政は、まだ何も知らない様子で――迎えの人数|伝馬《てんま》を従えて、やがて浜松城へはいって来た。
それは、十二月四日。
家康は、こういう中にも、面《おもて》には、当惑ないろも見せない。
遠来の珍客、ようこそとばかり、客殿に迎えて、下へも措《お》かず、もてなした。
三河風を守る徳川家では、由来、外交上の使節や、稀れな賓客にたいしてさえ、歓待《かんたい》の馳走は、至極、質素なものだという定評がある。
しかし、その夜の、佐々成政の前には、美酒佳肴《びしゆかこう》の善美が運ばれ、あまり酒のいけない家康自身も、杯をかさねて、
「いやお寒いことであったろう。越路《こしじ》の山や大雪をわけて、真冬を遠くおいであるなど、ひと通りなことではおわさぬ。山国衆は、総じて、酒量も人一倍とうけたまわる。さあ、おくつろいで」
と、打ち解《と》けていう。
だが成政は、いつもの剛骨《ごうこつ》な風を、くずさなかった。かかる馳走になりに来たのではない――とするような態度すら見せて、
「時に……」
と、杯を下におき、接待役の近衆小姓たちを見まわして――
「酒は、酒豪といわるるほど好きでござるが、いただく前に、ちと御内談な申したいが」
と、人払いを求めた。
そして、家康とただ二人きりになると、成政は、ひと膝すすめて、さきに書面でも申し上げておいたが、小牧の戦況は如何、また今後の方略はどう進めてゆく計画か。しかと、御意中をきいておきたい――と改まった。
「…………」
家康は、微酔《びすい》して、まっ赤になった顔を、黙然と垂れて、かれのいうがままを、いわせていた。
成政は、その精力的な体を、両肱《りようひじ》に誇張して、頭の粗雑を舌で補《おぎな》ってゆくような雄弁で、日頃の抱懐《ほうかい》を、呶々《どど》と、云いまくした。
「ひそかに、拙者は、北越《ほくえつ》の謙信《けんしん》をもって任じ、徳川どのは、まさに当代の信玄《しんげん》にも比すべき人物と信じておるんじゃ。――謙信、信玄のふたりが、共に、あれ程な実力と機略をもちながら、惜しき時雲を捉《とら》え得ず、一代を甲山越隅《こうざんえつぐう》に送ってしまったのは、両雄、龍虎の争いを、相互の境に固執して、ついに眼を天下におくの大計を度外していたためでおざる。――もし両者にして、唇歯《しんし》の誼《よし》みと、相互の軍事協約をむすび、早くより望みを中原《ちゆうげん》にすすめたなれば……おそらく、今日の世は、よほど違っていたことは確かでおざろう」
かれは、咽喉が乾くか、頻りに、杯をあけ、汁ものを飲んだ。それを見て、家康が酌してやると、一献《いつこん》、二献、飲みほして、なお弁をふるった。
自分を謙信に擬《ぎ》し、家康を信玄に比し、二者協力して、天下に志を伸べん――というのが、かれの本音のところらしかった。
「秀吉ごときは、そもそも成り上がりのデキ星。到底、あなたの敵ではない。もし小牧の御陣を押し進めてお上洛《のぼ》りあらば、成政は前田を蹴ちらして、江州《ごうしゆう》、京都へなだれ入り、大坂城の道を断《た》って、猿めを、囲い捕りにしてお目にかけよう。……が、まずもって、緊密なるお打ち合わせと、今後の御腹中をも、うかがい申さねば相成らぬ。……徳川どの。腹をわって、篤《とく》と、御方寸《ごほうすん》を洩らされい」
膝づめに、こう問い寄られて、家康はやっと顔を上げた。そして、わざとらしい長大息をしながら云った。
「佐々どの、遅いわ。……事すでに遅しじゃ。ひと足、遅かったわい」
「なに、なんと仰せられる」
成政は、顔いろを変え、
「……遅かったとは?」
と、にわかに、せきこんで、髯面《ひげづら》を突き出した。
家康は、かれの鋭い眸《ひとみ》を外《はず》して、また、努めて、穏やかに、説明した。
「つい先頃の十一月十一日。北畠殿には、この家康にも計《はか》らいなく、突然、伊勢の矢田《やだ》川原《がわら》にて羽柴殿と会見をとげ、事にわかに、和睦《わぼく》を約してしまわれたのじゃ。……何と、家康のうつけたる面目かよ。佐々どの。察しられい。――遅いと申したのは、御辺《ごへん》の才覚も親切も、いまは後の祭りだということじゃ」
「えっ!」
成政は、足もとの大地を失ったような、大げさ[#「げさ」に傍点]な驚き顔をして――
「で、では……秀吉と信雄卿とは、すでに和を結んで、小牧の役は、双方、兵をひかれたのでござるか」
「されば、事は終った」
「して、御当家と、秀吉とは」
「もとよりこの家康は、羽柴どのに対して何の怨みもあるわけではない。ただ北畠殿のおん頼みもだし[#「もだし」に傍点]難く、義をおもうて、御加勢申したまでなるを、その信雄卿が羽柴どのと手を握られたとあれば、めでたい――と申すほかはない。家康の用事は、まずすんだと申すものじゃ」
「それや、不届きではござるまいか。――いかに、信雄卿が、世間知らずのお公達《きんだち》でも」
「いや、あの御方のなされそうなことじゃ。そこまで思い至らなかったは、家康の抜かりでござる。信雄卿を世間知らずと思う前に、自分もまだ若いぞ若いぞ、とひとり頭を叩いて、自分を叱っていたところでござる」
「思うに、奸智《かんち》にたけたあの猿めに、うまうまたばかられたものでおざろう。しかし、信雄卿はともあれ、徳川どのまで、その策《て》に乗って、おめおめ秀吉の下風《かふう》につき、秀吉が私慾を天下にほしいままにするのを、指を咥《くわ》えて、見ているという法はござるまい。この後の、御方針は、何となされるか。一《いつ》たん小牧の兵は撤回《てつかい》されても、ゆくゆくのお考えもまた、おもちでござろうが」
「いや。何もない何もない」
と、家康は、成政の充血した顔を煽《あお》ぐように手を振って、
「――さきにもいった通りでおざる。信雄卿に頼まれた義戦なればこそ、武門のてまえ、やむなく羽柴どのの向うに立ったものの、事落着と相成っては、われから大坂表へ戦を仕掛けんなどという考えは毛頭《もうとう》ござらぬ」
「ふーむ。毛頭ないのでござるか」
成政は、大きな鼻の穴から、聞えるような息を出して唸《うな》った。忌々《いまいま》しさと、失望と、そして遣《や》り場のないかれの胸中雑多な妄念が、眼をむき出して、何か、云いがかりをさがすように、家康を見つめた。
家康は、この男が、信長に用いられていた時代から――その用うべき長所と短所とをよく知っていた。で、初めから、かれの加担の押売りを、そう買いかぶってはいなかったが、あわよくば、北陸に働かせて、俗にいう、桂馬《けいま》の高飛び――のおそれはあるが、持ち駒の一ツに利用しておこうとしたのは事実だった。
で、まるきり、すげない挨拶をして追いやると、後のたたりもまずいと考えたか、色をつけるように、話のあとで、こう云いたした。
「いまのところ、この家康がうごいては、世上にまずいが、もし尊公が、思い立たるることあらば、家康、蔭にあって、かならず御助勢はする。いかようにも、御援助はいたすであろう」
さも誠意らしい言葉の裏に、実は、いっこう相手に要領をつかませず、言質《げんち》も取られぬように、巧みに、自己をぼか[#「ぼか」に傍点]して終るのが、家康のよくやる奥の手なのである。
佐々成政も、結局、この手に会って、不得要領に、浜松城を去った。
「いやはや、腹の立つことだらけだ。ひとりの信長公を失った世上には、もはや人物らしい人物はいないとみえる。多寡《たか》の知れた秀吉ごときに弄《もてあそ》ばれ、徳川どのまでが、手を引いて、猿の仕放題《しほうだい》に、天下のあり方を委せて仕舞うとは……」
成政は、旅館にもどっても、ごう[#「ごう」に傍点]腹《はら》で、忌々《いまいま》しくて、堪らない――といったような面持ちで、その夜も、家臣をあいてに、したたかに、酒をのんだ。
「不肖《ふしよう》の子とは、信雄のことだ。あれは、お人よしを通り越して、馬鹿じゃよ。稀代《きたい》の馬鹿者じゃよ。――家康に泣きついては、家康の飾り物にされ、秀吉に抱き込まれると、秀吉のいい道具につかわれる……」
やり場のない鬱憤《うつぷん》も、気のゆるせる内輪《うちわ》の家臣を前に、酒気を加えて洩れ始めると、口ぎたない悪罵《あくば》にまでなって、止まるなき有様だ。
それに太鼓をたたいて、かれの家臣どもも、聞きあつめた噂を材料に、かれの憤懣《ふんまん》に、口をそろえて、同調した。
「このまま帰るも無念。どうせのことだ。清洲《きよす》まで行こう」
清洲には、北畠信雄が来ていると聞いたので、急に、思い立ったことなのである。
同勢は、清洲に赴《おもむ》き、成政はさっそく、城中で、信雄に会った。
――これはまた、家康とちがって、
「おや、佐々《さつさ》か」
と、けろり[#「けろり」に傍点]とした顔つきで――何しにお見えかといわぬばかり。
成政は、拍子抜《ひようしぬ》けした。
だが、それだけに、むかっ腹を、語気にあらわして、露骨にいさめた。
「聞けば、秀吉と、和睦なされた由でござるが、もってのほかな御量見《ごりようけん》ちがいです。きゃつの姦計《かんけい》に陥ち給うて、後悔のほぞ[#「ほぞ」に傍点]を咬《か》む日を待つよりは、来春、ふたたび徳川殿に頼まれて、大坂表へ打ってお上りあるべしでござる。御一左右《ごいつそう》次第、この成政も、北国より攻めのぼり、きっと故右府様(信長)のお心を安んじ奉るでございましょう」
信雄は、成政のねちねちした口吻《くちぶり》や、忠義だて[#「だて」に傍点]の押売りをうるさそうに、
「まあ、そう申すな。秀吉とて、気のよい男、そう憎むべき者でもない」
とか、また、
「成政、飲まぬか。正月は旅で過ごすつもりか」
などと、さっぱり、話に乗って来なかった。
秀吉や家康さえかつぐ[#「かつぐ」に傍点]者なら、自分も一つこのお人よしをかついでやろうと思ったが、信雄も、成政の弁にはなかなか担《かつ》がれそうもない。
成政は、暇乞《いとまご》いの折、一首の歌を信雄に示し、「春を待って、重ねてまた――」と立ち帰った。
歌には、
何事も変りはてたる世の中を
知らでや雪の白く降るらむ
と、あった。その日ちょうど大雪だったので、雪によせての成政の述懐《じゆつかい》だったろうが、知らないのは雪ばかりでなく、佐々成政も、移りゆく世の動きを知らない一人だった。
[#改ページ]
北風南波《ほくふうなんぱ》
天正十二年は暮れた。人々はこの年の越年にわけて多感であった。
たしかに世の中は一変革した――という痛感の中にあった。天正十年、信長の死からわずか二年半。変れば、こうも早く変るものか――という驚きが誰にもある。
事実。かつては信長にあった衆望と栄位と、そして使命とは、もはや、そっくり秀吉の上に移っていた。いや、信長以上、秀吉的な色彩と大まか[#「まか」に傍点]さを加え、時勢は、かれを中心に、政治や文化の微妙な旋回推進《せんかいすいしん》を興《おこ》している。
さすがの家康でさえ、この時の潮《うしお》≠ながめては、時に逆《さか》らう≠フ愚をみずからなだめずにおられなかった。およそ、時運に逆らっては、よくその一生を得た一個の人間すら古来ないことを家康は知っている。人間の小と、時の偉大さとを、わきまえて、その時を得た人間に抗すべくもないことを原則に、すべての考慮をし、また秀吉に、一歩も二歩も譲っていた。
秀吉を観《み》るに、今は、家康でさえこう思意せずにいられないのに――佐々成政のごとき、単純なる一介《いつかい》の武弁《ぶべん》が、北陸の一隅などから、旧殻《きゆうかく》を脱《だつ》しきれない頭脳などをもって、時運の大局を覆《くつがえ》そうなどとは――自分を知らず、世を知らざる者というしかない。
けれど、こういう目無し鳥は、案外、世上の森のあちこちに、沢山、巣をつくって、時々|曠野《こうや》や大空へ飛び出して来ては、世のひろさにまごついて、もとの暗い森へ舞い戻ったりしているものだ。
佐々成政が、浜松を去り、やがて清洲でも、得るところなく、むなしく北陸へ帰ったと聞いて、家康が、
「やれやれ」
と、思っていると、またぞろその直後、紀州《きしゆう》の畠山貞政《はたけやまさだまさ》が、
(腹心の者二名、そっとさし遣わしたれば、御引見のうえ、何ら、御腹蔵なく、篤《とく》と、御内議を給わりたい)
とある書簡をもたせて、自身の家臣、江島太郎左衛門と渡辺《わたなべ》和泉《いずみ》の両人をさし向けて来た。
会ってみると、この使者たちのことばも、さきの佐々成政と同じような考え方で、
「いったい。どういう御和睦ですか?」
と、和睦にも、幾種もあるようなことを云い、
「主人、貞政の申すには、おそらく、これは徳川どのの、深いお肚にあることであろう。必定《ひつじよう》、来春早々には、再挙の御遠謀と察せられる。さる場合には、われらは、雑賀《さいが》、根来《ねごろ》の僧徒をかたらい、四国の長曾我部元親《ちようそかべもとちか》どのは、瀬戸内の海賊衆をも引き具して、時を一つに、大坂表へ攻めのぼらんと存ずるのでござる」
と、連合《れんごう》作戦の協定をもち出し、さらにまた、今日、秀吉の進出を抑えて、理想的な天下安定の指導力をもつ人物は、徳川どのを措《お》いてほかにはない――と主人も申しわれわれも信じておるとおだてあげた。
家康は、この時も、終始、真面目にきいていたが、かれらの長広舌が終るのを待って、さも残念そうにこういった。
「なるほど。仰せのような策戦をもって、大坂表を、東西、海陸の両面から挟み打てば、秀吉も腹背に多忙を極めて、ついに破れを見せたであろう。しかし、すでに和睦を結んだあとゆえ、御相談は、ひと足おくれでおざった。……家康の肚と仰せあるが、和睦にふた通りはない。今少し早ければよかったが、今となっては、せっかくの御名智も、火事のあとの水桶じゃ。畠山どのへも、長曾我部どのへも、悪しからず、お伝えあれよ」
闘争術策の世界には、常にかつぎ[#「かつぎ」に傍点]屋が立ち廻っている。かつぎ[#「かつぎ」に傍点]上げて、自己の志望をとげようとするのである。春秋以来、世には、説客という職能さえあって、一藩のうちには、遊説《ゆうぜい》向きの弁舌家が必ず幾人か抱えられている。
こんな手輩《てはい》が、浜松城の門をたたき、ここの主《あるじ》をかつごうとすることは、今に始まったことではなく、いまだかつて、家康をかつぎ上げた者はなかった。ただし、承知の上で、かつがれてやった例はある。――北畠信雄がそれだった。
いや、信雄からいわせれば、わしこそ家康にかつがれたと、今になっては、秀吉にざん[#「ざん」に傍点]訴していることであろう。
ともあれ、ここ人生の最盛期と、天正十三年の新春へむかって、意図《いと》のごとく、年を越した者は、秀吉だった。
かれは、こえて四十九歳。――五十にあと一つという男ざかりだった。
年暮《くれ》に押しつまって、家康の一子|於義丸《おぎまる》が、表面は、秀吉の養子としてだが――実は、人質として――大坂城に着いた。
年賀の客は、去年より倍加して、春の装いも新たなる大坂城門に、蝟集《いしゆう》した。
もちろん、家康は来ない。家康をはばかる少数の諸侯も来ない。
また、明らかに、反秀吉を今も唱《とな》えて、この正月にさえ、軍備や諜報に狂奔《きようほん》している一部の勢力も、大坂城の門には馬をつながない。
権門の往来は、そのまま人心の縮図《しゆくず》だった。勢力の争覇《そうは》をめぐる人間分布図といってもよい。――秀吉は来る客来る客を迎えつつそれを眺めた。
二月に入る。
信雄が、伊勢から出て来た。
(正月に来ては、諸侯なみに、秀吉へ年賀にでも来たようで、沽券《こけん》にかかわる)
かれの思いそうな心理が、顔にかいてあった。
こんな自尊心に満足を与えてやることほど、たやすいことはない。秀吉は、先頃、矢田川原で、彼の足もとにひざまずいた時のような礼譲《れいじよう》をとって、優遇《ゆうぐう》いたらざるなしの誠意を示した。
信雄は、思った。
「矢田川原で、筑前がいったことは、嘘ではない」と。
家康のうわさが出ると、信雄はしきりに、家康の勘定高い性格を暗に誹《そし》った。秀吉がよろこぶかと思ったからである。しかし秀吉は警戒して、黙々、うなずくだけだった。こういう人はまたいつ浜松へ行って、こんどは大坂のうわさを酒の肴《さかな》に持ち出すかしれないからだ。
滞城四、五日で、信雄は大満悦で、伊勢へ向った。――途中、秀吉のはからいと内奏《ないそう》によって、信雄にたいし、正三位権大納言《しようさんみごんだいなごん》の叙任《じよにん》の沙汰があった。
信雄は、京都にも、五日ほど留まって、ここではあらゆる歓待《かんたい》をうけ、今はもう、秀吉ならでは夜も日も明けないような満足をもらして、三月二日、伊勢に帰った。
大坂を中心とする新春以来の諸侯の往来。わけて、北畠信雄のこういううごきは、いちいち浜松へも報じられていた。――が、家康は、秀吉が信雄をこんなふうに懐柔《かいじゆう》しているのを、いまは第三者のように、傍観しているほかはなかった。
鬱々《うつうつ》たる家康の胸中のものが、ついに凝《こ》って、病《やまい》となったか、
「家康、病む」
という風評がどこからともなくぱっと立った。病は、不治のめんちょう[#「めんちょう」に傍点]だといわれ、いまや重態だという者すらある。
うわさは、隣国の北条家や、甲州その他の、潜伏勢力をよろこばせた。わけて大坂の羽柴方では、手を打って――家康病む――家康危篤――家康死す――とまで、話は大きく、しかも真《まこと》しやかに伝えられているという。
越後の上杉家にも、やがて風聞《ふうぶん》が伝わって来た。
一日、宿老たちが、上杉景勝《うえすぎかげかつ》の前で、この噂を持ち出すと、景勝は長嘆して、
「もし噂が真実ならば惜しみても余りあることだ。つい十余年前には、信玄、謙信、氏康、信長の四巨星が世にあって、それぞれの特長を備え、武門森列《ぶもんしんれつ》たる壮観を見せていたものだが、いまは大坂に秀吉、東海に家康の二人ぐらいしか人物らしいものはいない。しかも家康はまだ四十幾歳という若さだし、将来もある大器としているのに、ここで彼を失うことは、大きくいって日本の損失でもある。もし、家康がいなくなれば、秀吉にとっても、良敵を失うわけで、早成《そうせい》の弊《へい》をきたし、決していい結果にはなるまい。……われらにとっても、何やら大きな張り合いのなさを覚えずにいられぬ」
と、惜しんで、心から風聞の真実でないことを祈った――とある。
その頃、遠州秋葉《えんしゆうあきば》の一|修験者《しゆげんじや》が、越後に逗留していて、上杉家の家中の者からこのはなしを聞き、
「徳川どのは、秋葉坊の大檀家《おおだんか》じゃ。もし、御危篤《ごきとく》がまことなら、一山を集めて、御本復の修法を営まねば……」
と、大急ぎで、遠州へ向け、帰国した。
この秋葉僧は叶坊《かのうぼう》という者で、さっそく浜松の城下に赴《おもむ》き、酒井忠次《さかいただつぐ》のやしきを訪うて、
「越後の旅先で聞いたのですが、ほんとでしょうか」
と、声をひそめて訊ねた。
忠次は笑った。
「そちも聞いたか。いや、うわさというのは、妙なもので、だれが云い出したのか、諸方から訊かれるので、家中でも、一体、何が原因なのか、ふしぎがっているところだ。――思うに、もし今、徳川どのが死んでくれたらと、あらぬ望みをもっている人間たちの間に、ふと、何かつまらぬ話のタネが聞えたのであろう。笑止笑止、大殿は、ここ戦陣もなく、いよいよ御健康じゃよ」
「へえ、では何のお障《さわ》りもございませんので」
「先月、背中にちょっと、腫《は》れ物がおできになって、典医の糟谷良斎《かすやりようさい》にお診《み》せになったことがある。……それが大げさに、云いふらされたのではあるまいか」
「ああ、それならようございました。けれど、越後あたりでは、もはや御死去になったが、家中で喪《も》を秘しているなどという噂さえありまして――」
と、叶坊が耳にした上杉|景勝《かげかつ》のことばなどを、そのまま語って帰った。
後日、忠次から、また家康の耳に、その話がはいった。すると家康は、景勝のことばを、真にわが知己《ちき》なりとして、こういった。
「上杉家は、謙信以来、士風正しく、義理明白な国がら[#「がら」に傍点]ではあったが、当主の景勝も、まことに律義《りちぎ》な人体《にんてい》とみえる……」
これを記憶していてか、家康は、晩年となって、例の関ケ原合戦の前後に至っても、上杉景勝と行きあうときは、途上、かならず輿《こし》(かご)を下りて、礼儀を厚うしたということである。
いま、日本の北方に隠然《いんぜん》たる存在を示している一つの力は、越後の上杉景勝だった。
その特長は、謙信以来の士風であり、剛健と素朴にあり、また敢えて、他を侵さず、他からも、侵されるをゆるさないとする――独自の保守的性格にあった。
景勝の世評もよいが、側臣には、直江山城守《なおえやましろのかみ》のような輔佐《ほさ》もいて、徳川家ともよく交《まじ》わっているし、大坂表の気うけもよい。
こういう国交の調和をうまくとりながら、越後の辺境にあって、中原争覇《ちゆうげんそうは》の外に、じっと国を富まし、民と兵とを、内に強く養っているのを知ると――秀吉といえ、家康といえ、常にこれを軽視することはできなかった。いわんや、事あるごとに、節義を厚うし、信義を怠らない、景勝の人間にたいしては、なおさらである。
佐々成政の盲動と、その油断のならない野望にたいし、秀吉も夙《つと》に、景勝に誼《よし》みを通じ、時便《じびん》の往来も怠らずにいたが――ここ明けて天正十三年の春早々、秀吉は、
(北よりも、まず南のこと)
と、考え立って、前年、利家との約束もあったが、にわかに、紀州平定の軍令を出した。
三月二十二日。
大坂方の大軍は、年来の禍根《かこん》であった紀州方面の一掃を目ざして、その日、南へ立った。
根来《ねごろ》へ、根来へ、とそれは奔河《ほんが》をなして行く。早くも、根来の衆徒は、諜報《ちようほう》にこぞり立って、泉州岸和田《せんしゆうきしわだ》附近から、千石堀《せんごくぼり》、積善寺《しやくぜんじ》、浜城《はましろ》などにわたって、砦《とりで》を構え、
「いざ来い、一戦」
と、防禦をかため、四国の長曾我部《ちようそかべ》、瀬戸内《せとうち》の海賊たちに、
(変あり、われを援《たす》け、大坂を突かれよ)
と、あらゆる反秀吉へ向って、檄《げき》を飛ばした。
しかし、大坂方の急襲は、実に早かった。積善寺《しやくぜんじ》の砦へかかった細川忠興《ほそかわただおき》、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》らの軍勢は、一日にして、そこを叩きつぶし、千石堀を攻めた秀吉の甥《おい》、秀次も、去年、長久手《ながくて》の合戦に蒙《こうむ》った汚名を、この時ここに雪《そそ》がんものと――必死にかかって、またたくまに、これを陥《おと》した。
浜城をつつんだ高山右近長房《たかやまうこんながふさ》や、中川藤兵衛の軍も、火箭《ひや》、鉄砲の豊富な新兵器の威力をつくし、忽ち、そこを焦土とした。
――すでに、別動隊の堀秀政《ほりひでまさ》、筒井定次《つついさだつぐ》、長谷川秀一《はせがわひでかず》などは、一乗山根来寺の本拠を襲っていた。
秀吉の本軍もそこにあった。
多くの僧兵を養い、武器火薬を蓄蔵し、いわゆる根来衆《ねごろしゆう》∞根来法師《ねごろほうし》≠フ名をもって、かれらが世間乱流《せけんらんる》の中に暴力をほしいままにして来たことは、世上周知のことだった。
いまや、その巣窟《そうくつ》の上に、裁決の日は来た。一山の僧房や伽藍《がらん》は、わずか伝法院《でんぽういん》の一宇を残したきりで、炎々たる兵燹《へいせん》に罹《かか》った。
衆徒らは、四散し、かれらが待っていた呼応の武門も、援けに来るいとまもなかった。秀吉の祐筆《ゆうひつ》、大村由己は、その日の記を誌《しる》していう。
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一乗山根来寺《イチジヨウザンネゴロジ》ハ、開山上人《カイザンシヤウニン》、伝法院ノ建立《コンリフ》以来、専ラ近隣ト闘争シ、弓矢ヲ取ルヲ寺法トナス、六百年来、富ヲ恣《ホシイママ》ニシ、強敵ニ向フナク、小敵ヲ蔑《サゲス》ミ、趣《オモム》キ井蛙《セイア》ノ誇《ホコリ》ニ似タリ。今、一|刻《トキ》ニ破却《ハキヤク》ニ会ヒ、一修行者ノ狂歌ヲ聞ク。
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――似あはざる根来法師の腕たてはおのれを破る弓矢なりけり。
元来、紀州の統治は、信長すら手を焼いた宿痾《しゆくあ》の癌《がん》だった。
癌は、根来衆徒だけにあるのでなく、雑賀党《さいがとう》、熊野衆《くまのしゆう》、高野山《こうやさん》などの法城に巣くう僧徒兵力がみなそれであり、海を越えて、それを指嗾《しそう》する四国、それを力づける瀬戸島々の海上武族などがあって、禍根《かこん》は、一朝一夕のものではない。
「こんどは、やるぞ」
と、意を決した秀吉であるから、信長さえ持て余した手術ではあったが、いつになく、峻烈《しゆんれつ》な風があった。
雑賀党は、一瞬のまに、根来の潰滅《かいめつ》を見せられ、また秀吉軍の疾風迅雷《しつぷうじんらい》の勢いに驚き怖れて、戦わずして、雑賀孫一《さいがまごいち》以下の重なる徒党は、みな降人《こうにん》に出て、秀吉に伏した。
しかし、北雑賀の一党は、なお四国の援兵を恃《たの》んで、頑強な抗戦をつづけたので、秀吉はついに、かれ独特の、水攻めをもって、これに酬《むく》いた。
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――四方ノ堤、四十八町ヲ廻リ、路四里ナリ。堤ノ高サ六間、土台十八間。附近ノ家ノ棟《ムネ》、堤ヨリ低キコト、五尺バカリト定ム。
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実に大規模な土木である。
太田の小城一つ攻めるに、かくまでの大仕掛けも要《い》るまいと思う者も多かったが、これが秀吉の信じる秀吉流の戦略であり、多くの人命を損じるよりは、これしきの土木は、安価で、また効果も確実だとしているらしいのである。
四月、紀之川の大洪水に、この堤も、一部崩れたが、すぐ三十万貫の土砂の俵にて、修築し、水攻めの包囲は、鉄壁だった。
これを見て、城中の将士は、
「――籠城は、愚だ」
と、すぐ覚《さと》った。
すなわち、降使を出して、蜂須賀正勝《はちすかまさかつ》に、扱いを頼み、無条件降伏を申し出た。
主謀者の五十余人を、太田の野に、磔《はりつけ》にし、その他は、全部ゆるされた。
九鬼《くき》、仙石《せんごく》、中村|一氏《かずうじ》の諸軍は、さらに熊野へ進攻した。熊野本宮《くまのほんぐう》の社人《しやにん》、郷党たちは、膝をつらねて、降参したので、秀吉は新政を布《し》いて、いたずらな諸所の関所を廃毀《はいき》させ、通商と旅行の便をまず明るくした。
秀吉は、さらに、高野山へ臨んだ。
一山は、どうなることかと、戦慄《せんりつ》した。高野は、信長以来睨まれていた覇力《はりよく》の法城の一つだったからだ。――しかし、秀吉は信長のように、みだりに、寺院撲滅《じいんぼくめつ》を急務としている者ではない。
「年来、蓄《たくわ》え置く、武器硝薬の類は、ことごとく山外へ搬出《はんしゆつ》せよ。寺僧や行人らは、一切、武装を解け。そして近来、武力と威嚇《いかく》をもって掠奪《りやくだつ》した隣境の土地は、すべてこれを返すべきである。――そして、高野はもとの高野に還《かえ》り、僧は僧の本来にもどるなれば、兵を上げるのを控えてやろう」
秀吉から一山へこう云い送る。
と、高野衆《こうやしゆう》はこぞって、連署の誓紙をしたため――これを木食上人《もくじきしようにん》に託して、ひたすら秀吉の寛度《かんど》を仰いだ。
木食、名は応其《おうご》といい、興山上人《こうざんしようにん》ともいう。かれは一代の傑僧《けつそう》で、弁才に富む。秀吉に会い、かえって、秀吉を帰依《きえ》せしめて、本領《ほんりよう》を安堵《あんど》し、一山の大衆を助けた上に、秀吉に新しく興山寺の建築を寄進させた。――木食だけはたしかに、この悪時代の法燈の中にも、僧として、生々たる生命をもっていた者といってよい。
根来衆《ねごろしゆう》と高野衆《こうやしゆう》とは、むかしから犬と猿だといわれていた。秀吉のまえに、脆《もろ》かったのは、かれらが結束を欠いていることにもよるが、そのため、根来に殉《じゆん》ぜず、高野一山は、兵燹《へいせん》と、流血をまぬがれた。
高野が、難をのがれたのみでなく、以後、豊臣家の援護さえ約されたのは、これまた、木食上人の力によるところが大きい。
一山に、ただ一個の、ほんものの僧さえいれば、いかに荒廃の山の法燈でも、ふたたび、燈《とも》るものだということを、木食は、ときの僧衆に、身をもって教えた。
かくて、いつか征途に、山桜を見る頃となり、秀吉は四月二十七日、約一ヵ月ぶりで、大坂表へ帰った。
この間、かれの馬蹄《ばてい》のめぐり歩いた地は、摂《せつ》、河《か》、泉《せん》、和《わ》の四州にわたっている。
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信長公ノ御時ニサヘ、従ハザル諸所ヲ、カク僅カバカリノ間ニ、根来寺《ネゴロジ》、雑賀《サイガ》、熊野山中《クマノサンチユウ》、高野領《カウヤリヤウ》ニマデ亘リテ、悉《コトゴト》ク打チナビケ給フ、果断、決断ノ程、ヨク勘弁シテ見ルベシ。又アンヤ。関役所、停止《チヤウジ》ノ事。末代。旅人ノ賜モノ也。
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甫庵太閤記《ほあんたいこうき》の筆者|小瀬甫庵《おぜほあん》は、あらゆる辞で、かれの紀州平定の迅速と、その時機を得たことと、処置の見事さを、激賞している。
――おそらくは、秀吉自身も、
「まず、やった」
と、みずからいささか慰めて、くつろぐ気持もあったであろう。
大坂への帰途、紀州の和歌浦に遊び、そこで即興的に詠じた――
いにしへの人も眺めの和歌の浦
ひろふ貝こそあらまほしけれ
などという歌を、母堂や寧子《ねね》などに示して、旅物語りの興ともしたであろう。
ただここで、彼にとり、大坂帰城も、何となく、心につかえていることが一つあった。
それは、かれにとって、忘れ難い大先輩でもあり、恩人でもあり、また蔭の協力者でもあった丹羽《にわ》五郎左衛門長秀が死んだという報《し》らせをうけたことである。
越前からの使いの口上によると、長秀の健康は、もう昨年あたりから、以前のようではなかったという。
病《やまい》のためか、殊に、近頃は、怏々《おうおう》として、生を楽しまない風があったが、病にもがき死すよりはと、四月十四日、自室に籠《こも》って腹を切り、十六日の明け方、ついにこときれ[#「こときれ」に傍点]たものだとある。
なお、後々のことは、何事も秀吉どのへ計らえと、老臣衆にいい残し、子どもらは、年寄りの意見次第――と書いた遺書に、秀吉へのお遺物の物も添えてあったとのことである。
秀吉は、前後のもようを、聞きながら、幾度も、
「そうか。……さぞ、秀吉に会いたく、云いおきたいこともあったろうに。――惜しいかな、秀吉も、まだ北陸の旅を果さず、つい小牧以来、会う折もなく打ち過ぎて心のこりなことではあった」
と、人前もなく、涙を拭《ふ》いては、嘆息していた。
その夜、かれは、家族たちと食膳もべつにして、精進《しようじん》をとった。
もちろん、女たちの局《つぼね》にも忍ばず、独り寝て、寝床の中で、丹羽五郎左衛門の在りし日の事どもを、想いうかべ、
「……ああ、気の毒な人」
と、心から、かれの冥福《めいふく》を祈った。
「かれは、善人だった」
――丹羽五郎左という人物を思うとき、秀吉は、かれの正直誠実な性格とは、まったく対照的《たいしようてき》な自分の狡《ずる》さや人の悪さを、認めないではいられない。
「今となっては、この秀吉のために、彼が半生のことは、悉《ことごと》く、利用され尽して来たと、人にもいえぬ、悔いや憂いもあったろう」
秀吉には、五郎左の切腹した気もち――不治の病気が何よりの原因だろうが――それにしてもみずから死を急いだ考えが分る気がする。事実、だれよりも直接に、それが分っていた者は、秀吉以外にないはずであった。
かつて、信長の盛んであった時代の織田重臣といえば、第一に指を、丹羽、柴田と折られたものである。
その名誉にあやかりたいと望んで、二者の姓の一字ずつを乞いうけて、羽柴《はしば》と姓を名のって来た一介《いつかい》の藤吉郎《とうきちろう》が、いつのまにか、今日の大を成し、声望も実力も、故信長以上のものを身に示して、いまや家康一人をのぞくほか、彼にたいして、対等らしい行動のとれる者といっては天下にたれもいなくなった。
この現状を見。――丹羽五郎左は、日頃どう思っていたか。当然なりとしていたか、意外だとしていたろうか。また、本望としていたか、心外としていたか。
本望、当然と、していたなら何も自刃する必要はないはずである。……だがまた、その反対だとするならば、こういう疑問や反問が、他人には、生じてくる。
そもそも、本能寺の変の折から四国征伐の途中、大坂にいた丹羽五郎左が、明智光秀《あけちみつひで》に当るべく、たれよりも、頼みにしたのは、秀吉であった。
備中《びつちゆう》から引っ返した秀吉を待って、心を協《あわ》せ、力を合して、主君の弔《とむら》い合戦《がつせん》を遂行した。
その山崎の合戦から、次いで、清洲《きよす》会議にも、もし丹羽五郎左が、秀吉に加担しなければ、時勢は決してあのように、秀吉に飛躍の翼は与えなかったであろう。
また、小牧《こまき》、柳《やな》ケ瀬《せ》のときもそうだ。――もし、丹羽長秀なる人格者が、信雄、家康の共同声明をも無視して、秀吉に味方していなかったら、世上の武門、人心の向背《こうはい》は、おそらく七分通りも、信雄、家康の方へ傾いて行ったにちがいない。
わけて、秀吉の内意をうけ、秀吉の意のままに、和睦《わぼく》の裏面運動にも働き、ひそかに信雄をなだめたりなどしたことは、蔭のことでありながら、世間周知のことでもあった。
――だから、秀吉は、かれに対しては、本領の若狭《わかさ》、近江《おうみ》、越前《えちぜん》、加賀《かが》の一部など、百万石に近い報酬《ほうしゆう》と優遇をもってした。当然な報恩である。
けれど、丹羽五郎左は、秀吉がいまや天下人ともならんとするのを見ては、なぜか、怏々《おうおう》として、楽しめなかった。「事、こころざしと違う」とする苦悶《くもん》が日にまして見えたという。
実篤《じつとく》で、主思いで、分別家のかれは、自己が今日まで尽したことは、秀吉のためにではなく、清洲会議のとき、信長の正嗣《せいし》として立てた三法師《さんぼうし》(秀信《ひでのぶ》)をただ守り立てるためとして――自己を劉備玄徳《りゆうびげんとく》に遺孤《いこ》を託された諸葛孔明《しよかつこうめい》の心事になぞらえ――ひたすら時節を待って来たのであった。
ところが、何ぞはからん、時流の人々は、三法師の名すら、いつかみな忘れ果て、次代の天下人は、秀吉と、秀吉自身もゆるし、世人もすべてそれを自然のことと認めている。
世の中はこうなるもの、世の中はきっとこう行く。――こういう観測を誤るほど、悲惨なる人生をみずから招くものはない。
人間の小智で、複雑な人意人力による時勢と、微妙にして無形な天意天数の運行とを予測し、あて[#「あて」に傍点]にし、それに自己の業と志とを打ちこんだりした者の、得てホゾをかむ滅失である。
丹羽五郎左などは、決して、自分の先見をうぬ惚れて、そんな過誤《かご》をおかしたわけではなく、むしろ彼の場合は、
分別者の分別すぎ
と、いえるものだった。
自分の実直を、人の実直にもあてはめ、自分の誠意は、人も誠意をもって、その通りこたえるものとしている風が多分にあった。
――思いきや、世乱風騒《せらんふうそう》のここ幾年を経てみれば、かれの独りえがいていた良心の企画《きかく》は、みなその反対な現実を築造していた。そして心ひそかに、
(こんなつもりではなかったのに。――しまったり)
と、悔いを抱いたときは、すでに自分も手伝って造りあげた世代の大坂城は、いかんとも他から動かすことはできなかった。そこの主人は天下人として、彼が胸にもっている主人とは、まったく別人でありながら――である。
もし丹羽五郎左に、もっと肉体の健康と楽天的な超脱《ちようだつ》が性格にあったら、
(それも世の中、これも世の中。たのしまずして、何の人生ぞや。かくなるうえは、秀吉に臣事しても、天下人の気にさからわず、共に生涯のみじかい晩年でも楽しむにしくはない)
と、一心機を転じて、しばしば大坂へも顔を見せ、後図《こうと》をよろしくしたろうが、信雄、秀吉の単独講和あたりから、めったに、秀吉へ便りもよこしていない。
先頃、佐々成政《さつさなりまさ》の物騒《ぶつそう》な暗躍や、あばれ方に対して、前田利家にも、何事につけても、五郎左と協力してやれと秀吉は云いやっておいたが、その後も、丹羽五郎左の行動は、すこしも積極的でない。
事に、積極性を欠いているのは、この律義《りちぎ》なる分別家の、むかしからの性格ではあったが、わけて近来は、その心のある辺りを、非常に、ぼか[#「ぼか」に傍点]していた風がある。――秀吉に臣事するほど、卑屈ではなく、秀吉に対抗しても意志を明白にするには、勇気が乏しい。いやすでに、その健康がない。
「……ああつまらん愚痴《ぐち》を。こよいは、どうかしておる。寝よう寝よう」
秀吉は、寝床のうちで、頭を振った。ふと丹羽五郎左の死について、眠りをさまたげられてから、かれの思いは、めんめんと、とめど[#「とめど」に傍点]がなかった。
「五郎左が善良なだけに」
かれの良心に、何となく、あと味のわるいものが、残ったにちがいない。――あくる朝、かれはめずらしく、持仏堂《じぶつどう》にはいって、丹羽五郎左の位牌《いはい》に、何か、ぶつぶつ唱えていた。
こんなことは、めずらしいのである。かれにも仏心がある証《あかし》であろう。食後、茶室へはいり、一筅《いつせん》たてて、そこには、たれもいないのに、姿なき客に、茶礼をして、
「…………」
なにか、しばらく、畳へ両手をついていた。
――かと思うと、すでにその日あたりから、かれの頭脳には、四国攻めの計画が立案されていたらしい。
午《ひる》すぎ、重なる将を、一室に招いて、かなり長時間、何か、議するところがあった。
[#改ページ]
鳴門陣《なるとじん》
秀吉には、姉がある。また一人の弟と、一人の妹とがある。つまり四人兄弟だった。
それを、もっと、血別的《けつべつてき》にいうと、弟も妹も、秀吉とは、父親が異《ことな》っていた。異父弟、異父妹なのである。
父も母も、同じなのは、姉のおつみだけであった。
おつみは、後に、名を智子《ともこ》とかえ、三好《みよし》武蔵守《むさしのかみ》一路《かずみち》に嫁《とつ》いで、三人の男子を生み、長男三好秀次は、もう成人して、先頃の長久手《ながくて》の合戦にも出て、一方の責任を持たされる程にもなっている。
秀吉が、特に、この秀次に目をかけて、年齢としては早すぎる重任を負わせたり、その失敗を叱ったり、かれの骨肉にたいする煩悩《ぼんのう》の一面を見せたりしたのも、実に、秀次それ自体の素質を愛していることよりも、
(姉の子じゃ。秀次を取り立ててくれたら、さだめし、姉も安心しよう)
と、姉によろこばれたいとする気持の方が、むしろ多分にあったのである。
かれの一生を通じ、その私生活面の心の中に、常に、忘れ得ぬ人として住んでいた女性は、母と、この姉だった。
もちろん、夫人の寧子《ねね》は、これは、どこの女房とも、同じように、絶対的な位置と、発言権とをもって、良人《おつと》の心を把握《はあく》していたし、同時に、良人から把握されてもいた夫婦仲であるから、まず別格というべきである。
秀吉を繞《めぐ》る女性群としては、松の丸どの、三条の局《つぼね》、加賀の局、また、まだ少しあどけ[#「あどけ」に傍点]なさ過ぎるが、あの於茶々《おちやちや》だの、於通《おつう》だの、いまやその閨門《けいもん》の園《その》も、色とりどりに、妍《けん》を競《きそ》わんとしているが――その好色なる彼をしていわせても、ほんとの、心の底を、男性の本音《ほんね》としていわせたら、きっと、こう自白するにちがいない。
(それは、美しいのが、一番好きにきまっておるさ。その美しさにも、種々《いろいろ》だが、美貌では、松の丸。心ばえと、雪国の女の肌というきれいさでは、加賀の局《つぼね》。――上臈風《じようろうふう》な知性美と気品の高さでは、三条の局であろうか。……といえば、笑うであろうが、そもそも自分は下賤《げせん》の生れで、青少年のむかしより、深窓の花には、ひとつの憧憬《あこがれ》をもっていたものじゃ。徳川どのは、下淫《げいん》を好む質《たち》と聞くが、前に申したようなせいか、わしは上淫《じよういん》を好むほうだ。……茶々を愛するのも、その意味といえよう)
――けれど、これだけではまだ、秀吉の本音《ほんね》としては、皮相《ひそう》である。ここまでのことをいってしまえば、かれは必ず、次のことばを、そのあとに云い足したいとするであろう。
(だが。わしの心のうちでは、肉愛の対象と、情愛の対象と、同じ女性でも、ふたつにけじめ[#「けじめ」に傍点]をつけておる。前に申した女たちは、その妍《けん》なる美なる楚々《そそ》なること、|各※[#二の字点、unicode303b]《おのおの》、趣《おもむき》はちがっても、すべてみな一様《いちよう》に肉愛の花々だ。この秀吉は、浮気な蝶々。蝶と花との関係にすぎぬ。――しかし情愛の真心では、まずは一番に女房。これは面と向っていうとツケ上がるから、いつも逆表現を用いておるが、何といっても、身にとっての、観世音菩薩《かんぜおんぼさつ》とあがめていることは確かなのだ。しかし、ウソも隠しもないところ、その女房にも増して、世の女性全部のうちでも、自分にとって、第一の恋人といえば、わが母だ、おふくろ様だ。――姉は、そのおふくろ様のお添え物で、幼少から共に貧苦をして来たことだし、べつに邪魔にもならぬ者ゆえ、ふびんと、目をかけているまでのことだよ)
不愍《ふびん》なやつ。不愍な者。
――不愍やな、などと彼はよく口にもするが、かれが周囲の者を見る眼には、事実、不愍と思いやる眼《まな》ざしが、何を見るにも籠《こも》っていた。
いや、ひとり肉親にたいする場合だけでなく、彼にいわせれば、人間とは、そもそも不愍な同士の寄りあいであり、人として、不愍ならざる者はない。
わけても、もっとも不愍なる者は、自分であると、秀吉は思っている。
が、その世にも不愍な一個の浮浪児が、たまたま、時雲《じうん》に乗《じよう》じて、大坂城のあるじとなり、意志のまま、私生活も、政治上の理想も、やや行い得る身になってみると、自分以外の、同じ月日の下の人間たちが、なおさら不愍でならなくなった。年のせいもあろうが、いとど憐《あわ》れを覚えがちになった。
殊に、戦国の、しかも根本的に、弱いものを持って生れた女どもは、秀吉にとり、母でも、姉でも、妹でも、側室《そくしつ》たちでも、一様にみな、不愍な者のかたまりであった。
異父弟の、羽柴秀長も、紀泉二ヵ国の領主として、今では、大坂城中の有数な大名のひとりではあったが、もとより義兄《あに》秀吉の眼から見れば、これも不愍な生い立ちの弟だった。
母は同じだが、秀吉の父は弥右衛門、秀長の父は、後に入夫した筑阿弥《ちくあみ》という男である。――この筑阿弥が、幼い頃の秀吉を、いかに無慈悲に扱っていたかを、弟の秀長は、覚《おぼ》えている。
秀吉よりは五ツ年下だが、母や姉にも聞いて、年ふる程、また今のような一門の栄位を共にする身となる程、強く思い出されてならない。
何しろ、筑阿弥は、呑ンベで、博奕《ばくち》ずきで、怠け者で、継子《ままこ》だろうが実子だろうが、子どもへの愛情なんてものは、家で見せたことがない。
母を泣かせたことは、子どもらがみな、童心に沁《し》みて見て来ている。――だから、その筑阿弥が病死したといっても、泣いたのは母だけで、子どもは皆、ケロとしていた。
秀吉などは、まだ日吉の頃の流浪中で、その死に顔も見なかった。
だから秀吉は、今もって、およそおくび[#「おくび」に傍点]にも、義父《ちち》の思い出ばなしだけは、口に出したことがない。母はもちろん、秀吉の心を知っているので、これも彼の前では、語ることなく、ただ忌日命日《きにちめいにち》には、そっとただ独りで、持仏堂には、花をあげて、坐るぐらいなものだった。
「秀長。こんどの四国攻めには、ひとつ、お汝《こと》がわしの名代《みようだい》をして渡ってみい。――秀次も、手伝え。秀長を援《たす》けて」
きょうの評議は、秀吉のこの一語で、結びがついた。
午《ひる》すぎから夕刻近くまでにわたる議題はことごとく、四国入りの配備と進撃の手順だった。
長久手《ながくて》の合戦には、秀次に三河入りの総将を命じて、大失敗をまねき、為に、秀吉は深刻な後悔をなめたはずだが、いままた、肉親の秀長に、四国入りの総帥《そうすい》を、敢えて、こう任命した。
「かしこまりました」
秀長は、ことば短く、ひきうけて、一礼した。諸将の眼は、彼の姿と、座中にある一枚の鳴門《なると》海峡の絵図面とに集まった。
淡路《あわじ》の福良《ふくら》港には、ここ十日ばかりの間に、大船、小船が何百|艘《そう》となく、結集されていた。――海は五月の色の深さ。
試みに、数えてみると、小船百三艘、大船は五百八十余艘もあった。
舳々《へさきへさき》の、旗じるしを見ると、大和、紀伊、和泉《いずみ》、摂津《せつつ》、丹波《たんば》、播磨《はりま》などに、国別《くにわけ》することができる。
紀泉、大和の船は、羽柴秀長の兵。摂津、丹波は、甥《おい》の秀次のひきいるものと、すぐわかる。
すなわち、秀吉の名代として、長曾我部《ちようそかべ》の四国へ討ち入るべく、総帥秀長と、副将秀次が、ここに出港の準備を遂げたものとおもわれる。
この本軍は、ここ福良《ふくら》を発して、鳴門《なると》の渦潮《うずしお》を渡り、阿波《あわ》の土佐|泊《どまり》に、足場を取る作戦と見えた。
しかし、四国攻めの羽柴勢は、ひとりこの鳴門渡しの一陣だけでなく、べつに山陽道から内海をこえて、四国の西北面を押圧《おうあつ》している大兵もあった。
宇喜多秀家、蜂須賀正勝、同家政、黒田官兵衛らは、讃岐《さぬき》の八島に上陸し、毛利輝元、吉川元春、小早川隆景たちは、伊予の新麻《にいま》に、兵をあげた。
これを大観すると、全四国の太平洋面を除いた以外の三方から、進路を取っていることになる。
そして、その総勢は、十万と称され、或いは、実数八万ともいわれている。
いずれにせよ、一長曾我部を打つには、思いきった大がかりである。
もっとも、四国統治の難は、信長以来の、宿題であった。
信長が、その子|信孝《のぶたか》と、丹羽五郎左に、四国出兵を命じ、まさにその兵船が堺ノ浦を出ようという直前に――例の本能寺の事変が突発して、以来、そのままとなっていたものである。
土佐の長曾我部は、その間に、全勢力を四国にひろげ、そして紀州和泉の不平分子を通じて、ひそかに、家康、信雄に款《かん》を通じて来たのだった。
――なぜならば、秀吉も、また、当然、いつかは信長の策を踏襲《とうしゆう》して、四国へ兵を渡すであろうことを、必然のこととして、予見していたからである。
果たせるかな、その日は来た。しかも、長曾我部方の予想を超えた早期と、大規模な兵力をもって、目前に来た。
長曾我部の老臣、谷忠兵衛は、その守城一ノ宮城から、ひそかに脱け出して、主君の元親の白地《はくち》の居城へ来て、元親に会った。
「一ノ宮の城も、秀長の大軍に包囲され、もはや落城は必至《ひつし》と相成りました。――この辺で、お考えある方が、御賢明ではありますまいか」
「忠兵衛。この辺で考えろとは、何を考えよというのか」
「およそ、戦争などと申すものは、国の隅々までを焦土《しようど》とし、戦死、餓死者の屍《かばね》を山と積まなければ、勝敗が分らぬなどというものではございません。まず――一、二の戦場のやりとりを致してみれば、これは、勝ちか負けか、分るものにござります」
「では、忠兵衛。そちはこの度の戦《いくさ》を、もう初めから、味方の敗軍と思っておるのか」
「余りにも、明らかです。……敗るること明らかなる上は、一日も早く、御降伏遊ばすのが、領民の大幸、お家の安全、また可惜《あたら》、幾多《いくた》の人命を失わずともすみますので、万難を冒《おか》して、その儀をおすすめに来た次第です」
元親《もとちか》も、暗愚《あんぐ》な将ではない。忠兵衛の智略や武辺のたしなみは、老臣中第一の者とは、よく知りぬいている。
しかし、それにせよ、谷忠兵衛の諫言《かんげん》は、元親にとって、慮外《りよがい》なる暴言としか、聞えなかった。
「やい、待て。だまれ、だまりおろう、忠兵衛」
と、憤《いきどお》りを、満面にみなぎらし、時もあろうに、前線の守城《しゆじよう》を脱けて、のめのめと、自分に降伏をすすめに来たこの一老臣の言を、頭からどなりつけて、完膚《かんぷ》なきまで、罵《ののし》った。
「――見損《みそこな》ったわえ。年こそ寄れ、頼みある者とも思うたればこそ、一ノ宮の要害をあずけおいたに。……まだ籠城《ろうじよう》も半月か二十日《はつか》とも経《へ》ぬうちに、弱音《よわね》をふいて、これへ逃げ参ろうとは」
「殿。あいや、殿こそ、ちょっと、お待ち下さい」
「なんだ。何の文句やある」
「いつ、忠兵衛が、弱音《よわね》をふきましたか。逃げ戻りましたか」
「たわけめが。たった今、元親に降参せいと、申したではないか。それを申しに、汝は、ここに来て居るではないか」
「すべて、殿の御見解がちがいます。憚《はばか》りながら、谷忠兵衛は、槍先の功を競《きそ》う雑兵ではございません。一国の老臣です。老臣の任は、国の危急存亡に際して、よくその処断《しよだん》をあやまらず、国の滅亡を支《ささ》えて、領土の民の安穏を保つにあると信じますので、これへ参って、殿のお怒りにふれても、所信をとおす覚悟にございます」
「いかに口賢《くちがしこ》く申しても、元親は断じて、秀吉に降《こう》は乞わぬ。一ノ宮へは、他の者を守将にやる。そちはもう行くな。忠兵衛、謹慎《きんしん》申しつけるぞ」
「せっかくですが、お国存亡のとき、安閑《あんかん》と謹慎はしておられません。どうか日頃の御賢明に返って、お考え直し下さい。……今、降伏すれば、まだ土佐一国と、長曾我部家は残ります。しかし、最後のところまで戦ってしまったら、何が残りましょう」
「そちは一体、武門の男か」
「天晴《あつぱ》れ武門の柱石《ちゆうせき》と任じております。勝とう勝とうは武門の空念仏《からねんぶつ》。ひとりぐらいは、負けかたの良し悪《あ》しを考える御家臣もあってよろしいでしょう」
「そちは、この元親を、愚弄《ぐろう》しおるな」
「もってのほかな」
と、忠兵衛は、かれの嚇怒《かくど》をおそれるどころか、かえって、ジリジリと膝を突きすすめた。
「およそ、真に国を愛する者には、愛する国土を用いて利のない盲戦《もうせん》はやれません。また真に、主君を敬《けい》する者は、敬する主君が、敵手《てきしゆ》にかかって梟《きよう》せられるのを、眼で見るに忍べるものではありません。――不肖《ふしよう》、忠兵衛が、いささか、六十余年の乱国のあいだに習《まな》び得た体験のもとに、このたびの羽柴秀吉が起した四国攻略の配備を見まするに、げにも、驚くべき船数と、兵力と、物資とをもって、四国の三方面から一せいに上陸を起して、次第に、御城下まで圧縮して来ようという大規模な意図を示しております。……これに対して、おそれながら、わが長曾我部方の防禦力は、まことに、程が知れています。いかに殿の御麾下《ごきか》に、武勇の士がおりましょうとも、到底、秀吉方の――天を得、地を得、人を得、しかも豊富なる物資をもって、襲《よ》せ来るものに、抗し得べくもありません。勝敗は、歴々です。――としたら、一刻もはやく、降使《こうし》を遣《や》って、無益な戦いは避くべきではございませんか。そのお使いなら、谷忠兵衛、ただちに、お旨《むね》をうけて、羽柴方へ交渉に参りましょう」
一時は腹を立てたが、忠兵衛の言には、国を思い、主家を憂い、民を愛護する真実なものがある。
元親も、その真実には、怒りきれなかった。殊に、この老臣は、父祖の代からの者である。たとえ家来筋でも、国のため、家のためとなって、開き直られると、元親たりとも、ただ主人の権威をもって、
(手討にいたすぞ)
だの、
(無礼者。退《さ》がりおろう)
などと、暴君の月並《つきなみ》な脅《おど》しぐらいで、片づけるわけにはゆかない。また、片づけられて引《ひ》き退《さ》がる谷忠兵衛でもない。
「まあ。考えさせい」
と、元親の方から、こう逃げて、かれは一時奥へはいった。
そのうしろ姿へ、
「では殿。明朝にも、御一族と、諸将をおよび出しあって、御評議をねがいましょう。事は、急を要します」
と、忠兵衛が、云った。
元親は、答えなかった。
その日のうちに、谷忠兵衛は、廻文を認《したた》めて、遠くへは、使いを走らせ、城中城下にいる者には、自身、訪れて、所信のほどを、説いて廻った。
彼は、その廻文のうちに、秀吉と戦って勝味《かちみ》のない理由を、次のように、書いていた。
[#ここから2字下げ]
――上方《カミガタ》ノ軍兵軍船ヲ見ルニ、ソノ富強ハ、所詮《シヨセン》、四国ノ対シ得ル所ニアラズ。コノ四国ハ、二十年余ノ兵乱ニ因《ヨ》ツテ、民屋《ミンヲク》ハ兵火ニ罹《カカ》リ、村里《ソンリ》ノ業ハ破レ、田野ハ芒草《バウサウ》ニ蔽《オホ》ハレ、五年三年ノ間ハ、猶《ナホ》、耕農モ整ハズ、五穀ノ満ツル日モナカラン。
加フルニ、民ハ疲レ、諸卒|倦《ウ》ミテ、兵器馬具モ、古《フ》リ腐リテ、新鋭ノ精ナク、武人、徒《イタヅ》ラニ壮語大言ヲナスモ、田牛行馬《デンギウカウバ》ハ痩セ衰ヘテ、コレヲ戦場ニ駆ルモ、何ノ用カ為《ナ》スベキ。
心ヲ、平《タヒラ》ニシテ、敵ノ上方勢ヲ見ルニ、武具馬具光リ輝キ、将卒ノ気ハミナ暢《ノ》ビヤカニ、陣装燦爛《ヂンサウサンラン》、馬ハ長大ニシテ、悍気《カンキ》高ク、海外ヨリ得タル新兵器ト火薬ナドノ物智《ブツチ》ニ長《タ》ケ、武者立チ、厳《イカメ》シク、軍律ヨク行ハレテ、遠ク大坂ト海ヲ隔ツト雖《イヘド》モ、前線、常ニ秀吉ノ在ルガ如シ。
是《コレ》ヲ我ガ四国衆ノ、鎧毛《ヨロヒゲ》モ切レ腐リテ、麻糸ヲ以テツヅリシヲ着《チヤク》シ、腰小旗ヲ横ニ、柄長柄短《エナガエミジ》カノ不揃ヒナル駆ケ草鞋《ワラヂ》ノ軍勢ト見較ベンニハ、可笑《ヲカシ》キバカリ、事違ヒテ、上方《カミガタ》勢トハ似ルベクモナシ。剰《アマツ》サヘ、四面海ノ三方ヲ塞《フサ》ガレ、国中ノ兵糧ハ知レタモノナリ。コノ一事ヲ以テモ、上方勢ト取合フコトノ無益ハ、匹夫モ覚《サト》ルベシ。十《トヲ》ニ一ツモ相対スベキ勝味ハ無キ也《ナリ》。
[#ここで字下げ終わり]
谷忠兵衛の説《と》く、こういう理由と、かれの真実から溢れた大局の見とおしは、他の家老、重臣、元親の血族たちまでを動かして、
「いかにも、道理だ」
と、さしもの主戦熱も、一夜のうちに、みな非戦論者に変ってしまった。
「まだ一ノ宮の城も、岩倉城も守り支《ささ》えている間こそ、降伏するにも、有利ですし、後々《のちのち》の大きなおためと存じまする。何とぞ、ここは御賢慮《ごけんりよ》あって……」
と、翌朝、谷忠兵衛は、同意の家老、重臣、一族たちをひきつれて、再び、元親の前へ、苦諫《くかん》に出た。で、ついに元親も折れて、
「よいようにせい」
と落涙したので、衆臣みな、共に涙をのんだ。
裏面があれば表面がある。
四国|側《がわ》の内部では、すでに谷忠兵衛のごとき具眼《ぐがん》の士《し》があって、前途を見とおした極《き》め手≠打って、元親の同意を強請《きようせい》していたほどだったが、戦局上の表面では、攻略軍の羽柴方とて、決して、その作戦|企図《きと》は、易々《いい》とは進んでいなかった。
七月に入っても、一ノ宮城は陥《お》ちず、わずかに、諸所の出城《でじろ》を攻めつぶしたに過ぎなかった。そこで上方勢は、一ノ宮ひとつへ全主力をそそいだ。しかし長曾我部元親、盛親の父子も、土佐と阿波との境――大西白地《おおにしはくち》の城を本営として、それを援護し、旺《さかん》に督戦《とくせん》していたので、攻囲軍は、不落《ふらく》の絶壁に突き当ってしまった形だった。
この間に。
秀吉は、大坂にいて、捗々《はかばか》しくない報道に、舌打ちして、
「秀長、秀次らの手に合わぬなれば、自身、四国へ出馬するしかあるまい」
と、ただちに、筒井四郎に命じて、出船の準備に取りかからせたということが、四国に聞こえて来た。
秀長は、大いに恥じて、すぐ尾藤知定《びとうともさだ》を使いにたてて、大坂城へ、書を送った。
[#ここから2字下げ]
――御自身、御進発ときいて、恐懼《きようく》しました。もとより秀長の力足らざるところから、御憂慮を煩わしたもの。自責にたえませんが、しかし、天下に面目が立ちません。発奮して、必ず、御期待にそいます。どうか、御動座の儀は、お取止めの程をねがい奉ります。
[#ここで字下げ終わり]
こういう書面の内容を見て、秀吉は、秀長の意を諒《りよう》としたか、或いは、初めから秀長をして発奮させるためにやったことか、とにかく、秀吉自身の出馬は、沙汰止《さたや》みになった。
当然、秀長は、その任務に、数倍の努力と奮闘をかけて、一ノ宮へ迫った。
攻囲に当った諸将を見ると、第一に秀次。以下、蜂須賀父子、仙石、堀、長谷川、日根野、浅野、戸田、高山、一柳などの、およそ大坂方の将星を集めている。
七月十五日から、総攻撃は開始され、猛烈な砲撃のもとに、忽ち、外城《そとじろ》を破り、敵の水の手を破潰《はかい》することに成功した。
水の手を断《た》たれた城は、数日のまに、死相をあらわした。
「やま[#「やま」に傍点]は見えた」
「落城は、時の問題」
寄手は、第二段の攻勢を整えた。そして、一気に最後の踏みつぶしにかかろうとした前夜――城中の守将、江村孫左衛門と谷忠兵衛の二人の名前で、
「五日間の休戦を乞う」
と、軍使を送って来た。
秀長は、休戦をゆるした。
長曾我部元親は、質子《ちし》をさし出して、降伏を申し入れた。そして、
「お扱いは、秀長どの、秀次どののお旨におまかせする」
と、ほとんど、無条件に、処分を待った。
けれど、秀長と谷忠兵衛のあいだには、事前に、条件の黙約が取り交わされていたことはいうまでもない。
たとい、秀吉に異存が起っても、長曾我部の存続と、土佐一国の領地は、必ず残るようにするという保証を得ていたのである。
秀吉もまた、それを許容《きよよう》した。
七月下旬、四国の事は、一切解決した。阿《あ》、讃《さん》、伊の三ヵ国は、阿波を蜂須賀正勝に、讃岐《さぬき》を仙石権兵衛に、伊予《いよ》を小早川隆景に、それぞれ分割して封《ほう》ぜられた。
[#改ページ]
雑魚《ざこ》・大魚《たいぎよ》
秀吉の頭脳には、つねに何が構図されているか、傍《はた》の者《もの》にはわからない。
大きいというのか、複雑と称すべきか、多角的といっていいのか、とにかく、彼があたりまえなこととして運んでゆくことも、往々《おうおう》、人には、意表外な感をもたれた。
その年、天正十三年夏の、佐々《さつさ》征伐などが、その一例である。
七月十七日といえば、四国在陣の将兵は、一ノ宮城へ総がかりを起して、その外城《そとじろ》をやっと踏み破ったばかりの頃だ。
そして、四国攻略の難易《なんい》は、まだたれにも見通しもつかず、もし秀長秀次の力に及ばなければ、秀吉自身の渡海すらあろう――といわれていた直後である。
ところが。
たれ知らぬまに、秀吉は、その七月十七日|附《づけ》の手紙をもって、北陸の前田利家へ宛てて、
(――さて、前年の約束どおり、八月初めには、御地《おんち》へまかり越え、かねがね振舞うに委《まか》せておいた佐々成政を成敗《せいばい》して、積年《せきねん》、禍乱《からん》の地を正して、秩序を明らかにしたいと思う。そのおつもりにて、準備、お手配、抜かりなく、筑前の到るをお待ちうけ候《そうら》え)
と、蜂屋|頼隆《よりたか》を使いとして、もう云い送っていたのだった。
事実。
八月に入るやいな、突として、大坂のうごきは、南から北へ、向き変った。
初旬の四日、五日とつづいて、先鋒隊《せんぽうたい》は続々と北国攻めの途《と》についた。
秀吉自身も同月六日、大坂を発し、淀川は舟行の兵馬で埋まった。
「なんじゃろ。四国攻めは措《お》いて、この大勢と、お馬じるしは、一体、どこへ向いて行かれることぞ」
人々は、秀吉の意を、いぶかった。いや、従軍の将士すら、これでいいのかと危《あや》ぶんだ。
なぜならば、四国の役《えき》は、長曾我部の乞いによって、休戦中とは聞えていたが、その後始末もまだついていないはずだからである。
どんな名将でも、作戦には必ず重点がある。みずから、南もまだ片づかぬまに、また北へ大軍を分かち、あまつさえ、大坂城を留守にするなどという悪手《あくしゆ》を、どうして秀吉ほどな人がやるのかしら? ……と、疑われてならないのだ。
――が、秀吉にいわせれば。
(憂うるをやめよ)
と、微笑するであろう。
かれのこの挙《きよ》は、決して、二面作戦でもなし、いたずらに、戦局をひろげ、求めてみずから力を二分するものでもない。
かれには、やはり戦いの重点があり、その重点の足をもぎ、手を断って、後に敵の肺心に迫るための、一貫した大策をたどっているに過ぎなかった。
では、かれの敵は四国の長曾我部ではないのか。また、北国の佐々成政が目ざす敵でもないのであろうか。
もちろんのことだ。一長曾我部のごとき、一|佐々《さつさ》のごときは、秀吉の敵としている者ではない。かれの意図している重点ではない。
いま、秀吉の苦慮する者は、ひとり徳川家康あるのみであった。自己にとって、将来の大障害《だいしようがい》をなす人間は彼なりと、秀吉の慧眼《けいがん》は、もう次の歴史を見とおしている。
家康を恃《たの》む者、家康を助ける者、家康により野望を伸ばさんとする者。すべて家康の四肢《しし》となり、家康と通じる者の脈《みやく》を断って、その後、俎上《そじよう》に料理すべき大魚《たいぎよ》を観《み》ながら――彼は網を南へ打ち、北へ打ち、おもむろに重点のものを、手もとへ手繰《たぐ》り寄せようとするのだった。
雪が解ければ戦争が起り、戦争がやめば雪に埋《うず》められる。北国の庶民は平和を恋うこと久しかった。
佐々と前田の戦争は、ことしも吉例のように四、五月頃から諸所に兵火をあげ、相互に、一|城《じよう》一|塁《るい》を奪いあって、馬蹄《ばてい》にかからぬ田野《でんや》もなかった。
秀吉の北伐軍は、湖北を越えて、越前に入った。
総軍十万といわれ、その旗幟を国別に見ると、尾張、美濃、伊勢、丹後、若狭《わかさ》、因幡《いなば》、越前、加賀、能登《のと》の九ヵ国にわたっている。
また、それらの部将には。
織田信雄、同|信包《のぶかね》、丹羽長重、細川忠興、金森近重、蜂屋頼隆、池田輝政、森長一、蒲生氏郷、堀尾吉晴、山内一豊、加藤光泰、九鬼嘉隆《くきよしたか》――などのほかに、やがて前田父子も当然それに参加する。
例によって、秀吉は、
(戦わずしてすでに勝つ)
ほどな量と質をもって、出かけたのである。
かれが越前に入ると、前田利家は、金沢から松任《まつとう》まで出て、秀吉を待った。
街道は、清掃され、道路や橋も修築され、八月の炎天も涼《すず》やかに、十万の行旅《こうりよ》をやすからしめていた。
又左衛門利家は、その日、黄ラシャの陣羽織に、七曜《しちよう》の兜《かぶと》をかぶり、子息利長や甥たちと共に、馬を並木につないで、路傍に立ち並んでいた。
やがて、蝉《せみ》しぐれの中を、秀吉の旗本たちが、馬蹄を鳴らして近づいた。林のごとき槍、鉄砲の流れ、馬じるし、小姓組の華やかな一群、黄母衣隊《きほろたい》などの中に、一つ、にやにや笑っている赭《あか》ら顔《がお》があった。
「ア。猿どのだ!」
利家のうしろにいた甥《おい》の慶次郎が、頓狂《とんきよう》な声をして指さした。
利家は、振り向いて、
「これっ」
と、その手をハタいた。
相距《あいへだ》つこと、およそ三十間ばかりの所で、秀吉も馬を降り、手綱《たづな》を、武者にあずけて、つかつかと、こっちへ歩いて来た。
すでに、利家の眼と、秀吉の眼とは、遠くから、笑《え》み交わしつつ、北ノ庄陥落の一別以来を、万感のうちに、語り合っていた。
利家も、いそいで、数十歩、前へ出た。
「おう、又左」
と、手が伸びる。
「やあ。ついに、御遠路を」
と、掌《て》と掌《て》のぬくみを感じあう。
「――やって来たぞ。先年の約を履《ふ》んで」
「お待ちしていました。利家の力が足りず、四国方面の御多忙もあるところへ、かくもお煩《わずら》いをかけて、何とも、汗顔《かんがん》のいたりです」
「何の……よ」
秀吉はかぶりを振って、離した手で、利家の肩を打ち叩いた。
「何はなくとも、年に一度ぐらいは、会うて、旧情をあたためたいではないか。……ちょうどよい遊歴と思うて来たわさ」
「ははは。おそらく、あなたのことゆえ、きっと、それくらいなお気もちで参られるに違いないと、家内も申しておりました」
「御内儀《ごないぎ》がか。うム、又左の御内儀は、筑前の気心を、よう知っておられる一人じゃ。お達者か」
「相かわらずです」
「時に、お許《もと》の、黄ラシャの陣羽織は、よう似合うな。それも御内儀の見立てか」
「いや、これは、長篠《ながしの》の合戦の後に、信長様から拝領した思い出ふかい陣羽織で……」
と、ふたりの話は、少しも戦争などにふれず、さながら路傍で会った一個の友と友でしかない。
松任《まつとう》から尾山城まで――利家が案内に立って、秀吉とその軍旅《ぐんりよ》は、長い線を、えんえんと描いた。
いや、先頭が金沢へ着いても、まだ後尾の殿軍は、北ノ庄を離れなかったといわれた程だった。
おそらく、この飛報は、青天《せいてん》のへきれき[#「へきれき」に傍点]として、富山城の佐々成政の耳を打ったろう。
この日、八月十八日。
佐々方のうごきも、手にとるように、尾山城中の秀吉のもとへ早打してくる。
それらを綜合《そうごう》してみると。
佐々は、時なるかな、わが生涯の大事――とばかり、越中一国をあげて、これを防寨《ぼうさい》に堅めた。
倶利伽羅峠《くりからとうげ》の左右、鳥越の嶮《けん》、小原、松ケ根、そのほかの砦《とりで》三十六城に手を加え、また、根城、木舟、森山、益山など十余ヵ所に、新たに山材大石を積んで、防柵《ぼうさく》や矢倉を組み、そのほか国境のいたる所に防ぎを設け、兵をくばり、木戸関門などを加えれば、全部で五十八ヵ所にものぼる待敵点《たいてきてん》を急設して、
「このたびこそ、成政に随身《ずいしん》の者にとり、万死一生の戦いなるぞ」
と、恐怖的な懸け声のもとに、全土の者を、駆りたてた。
けれど、防禦に強制された成政の下級兵や一般庶民の中には、はやくも、こういう不平の声があった。
「おまえたちは、死なせぬぞ。われら武門が、先に立って、おまえたち庶民を守る。殊に、女子供は、怪我《けが》するな……とでもいってくれるなら、同じ土に生きた同士、いいえ私たちもと、進んで、敵に当りもしようが、こんな時ばかり、成政の随身と呼ばれちゃあ、かなわねえ。御随身というのは、一《いつ》しょに、栄華《えいが》もしたり威張ったりした人たちだけのことだろう」
人心は、微妙である。
成政もすぐ察して、
「線を広く守ろうとすれば、勢い、線の力は薄くなる。総力を、神通川《じんずうがわ》の一線に退《ひ》きまとめて、不退《ふたい》の守りを、結集せん」
と、にわかに、国界《くにざかい》の小防塁をすべて放擲《ほうてき》して、神通川の大河を前にあて、内には、国内の不平分子を抑えて、
「女子供も、死守に当れ」
と、狂気じみた布令《ふれ》を発して、佐々方は躍起《やつき》な準備をいそいでいた。
秀吉は、利家の兵八千を、先鋒にたてて、旗を越中にすすめていた。途上の小敵は、風《ふう》を望んで降《くだ》って来た。
二十日、倶利伽羅《くりから》を越え、砥波山《となみやま》を踏み、八幡峰《はちまんみね》にのぼって、越中一円を鳥瞰《ちようかん》し、
「かしこに誰々を。ここには、なにがしを」
と、掌《て》を指すように、諸兵の部署《ぶしよ》を、さしずした。
床几《しようぎ》にかけて、遠方《おち》此方《こち》の、かれには珍しそうな北越山脈の壮観や、裏日本の海の色など眺めながら、折々、左右の将と談笑している容子《ようす》は、まことに、遊歴にでも来ているような姿に見える。
呉服山に、仮城を作らせ、かれは八月中を、そこに滞陣《たいじん》した。
季節の豪雨がつづいた。
諸所に、山くずれを生じ、また各地の河川が、氾濫《はんらん》したと伝えられた。――そういう一夜、呉服山のふもとにある織田信雄の陣所へ、
「そっと、お目通りしたい者でござるが……」
と、三人づれの旅僧が、番兵を通じて、謁《えつ》を求めて来た。
名をたずねても、旅僧らは、お目通りすればすぐ分る者です――とばかりで名は明かさないのであった。
「決して、怪しい者ではおざらぬ」
と、旅僧の中の一人は、矢立《やたて》を取り出して、小さい紙片に、何やら書いて、結んで渡した。
番士は、部将へ。部将はそれを、信雄へ取次いだ。
紙片には。
越前家中、佐々平左、同苗与左衛門、野々村主水。三名の名がしるしてあった。
「はてな? ……」
ともかくも、会ってみると、かれら三名は、主人成政に代って、全面降伏を申し入れに来たのであった。
「一たんは、国中を焦土としても、成政以下、命のあらん限りはと存じましたが、到底、筑前どのには、及ばざるを悟り、主人内蔵助成政以下、われら重臣、座を共にして、城下の一寺において、剃髪《ていはつ》いたしました」
と、事情を告げ、
「何とか、筑前どのへ、お取做《とりな》しをもって、主人成政の一命、お救い上げねがわしゅう存じまする。そのため、夜陰《やいん》に乗《じよう》じ、恥をしのんで、おすがりに参った次第で……」
と、こもごも、剃《そ》りたての頭を、床《ゆか》にすりつけて、信雄に頼んだ。
信雄は、すがられて、いい気持にもなり、あわれにもなった。そして、自分が一言いえば、秀吉でも、文句がないように、ひきうけた。
「よしよし。助けとらせる。……何も、成政とて、決して、悪い人間ではないからの。殊には、父信長も、黄母衣《きほろ》の一|使番《つかいばん》から取りたてて、ずいぶん目をかけてきた男じゃ」
「成政の心中としては、一にただ旧主の御恩と、義を守って、あくまで節《せつ》を貫《とお》したいとしたものもござりまして」
「分っておる。……して、佐々は一体、いま、どこにおるのか」
「近くの寺院に潜《ひそ》ませてございます。もし、命乞いの儀を、保証していただけるなら、連れ参りまするが」
「まあ待て。ともあれ、わしが筑前に会い、篤《とく》と、計《はか》ろうて遣《つか》わすであろう。それまで、沙汰を待つように」
信雄は、ただちに、秀吉の営《えい》へ、訪ねて行った。
秀吉は、信雄を見ると、何かにやにや笑っている。
利家も、いたし、ふと、云い出しかねていると、秀吉の方から、先に云った。
「信雄卿。もう、戦《いくさ》のやま[#「やま」に傍点]は見えましたな」
「え。どうしてですか」
「たそがれ、神通川方面から戻った諜者《ちようじや》のはなしによると、佐々の家中では、先頃、筑前が云い触れさせた――能登の七尾港より軍船百艘を仕立てて、越中のいたる土地に大兵を上陸させん――という流説《るせつ》をほんとに信じて、狼狽《ろうばい》しておるらしいとのこと」
「ははあ、そのせい[#「せい」に傍点]であろうかの」
「何か、ありましたか」
「実は……」
と、信雄は、利家の方を見て、口をつぐんだ。
利家は、察して、ほかの事にかこつけて、すぐ座《ざ》を去った。
「――実は、佐々内蔵助が、剃髪《ていはつ》して、自分の陣所まで、降伏を申し入れて来ました」
「ふウむ……」
と、秀吉はよろこびもしなかった。
「さきに剃髪して降伏して来たのは、命が惜しいということでしょう。信雄様、あなたは、それをどう扱われましたかな」
「筑前どのに、取做《とりな》してやろうというて、返したが」
「ひきうけましたか」
「ぜひなく……」
「それは、困る」
秀吉はわざと苦《にが》りきって、口をむすんで見せた。
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笑《わら》い候《そうら》え
信雄は、秀吉の顔いろを見て、急に、自分がひきうけて来たことの重大さと難しさに、思い至って、はたと当惑の態《てい》だった。
「どうしても、成政の一命は、助けるわけには参るまいかの……」
と、独りつぶやいてみたり、
「成政も、今となっては、筑前どのへタテ突いたことを、真実、悔いてもおるともいう。……自体、あの男は、単純な武骨一片の男で、深い謀《たく》みがあったわけでもなく、まあ、徳川殿に、そそのかされて、巧《うま》く利用されてきたものじゃ」
と、秀吉の閉じた唇《くち》を見ながら、独《ひと》り言《ごと》みたいに、喋舌《しやべ》っていたが、ふと云い過ぎたと思ったか、信雄もまたそれきり黙りこくってしまった。
秀吉はなおも無言をつづけていた。しかし、彼のことだ。本当の腹は、きまっていたにちがいない。ただ信雄が余りにも軽忽《けいこつ》に安うけあいして来たことが、おもしろくなかった。――というよりも、いまだに甘い考えから脱けない信雄にたいして、或る戒告《かいこく》と将来のために、
(少し困らせておかねばクセになる)
という意識的だったに相違ない。
けれど、信雄は、困惑の次に、畏怖《いふ》をおぼえた。
「もう深夜です。明朝また伺って、ともあれ、お指図を仰ぎましょう」
そわそわと、辞去して、営門の外へ帰りかけたが、ふと思いついて、前田利家の幕舎へ立ち寄り、ありのままをはなして、
「どうしたものであろう。すでに剃髪《ていはつ》して、予の所へ、命乞いに来た成政を、見殺しにするも不愍《ふびん》だし……」
と、嘆息して、暗《あん》に、利家の助言を求めた。
利家には、秀吉の肚が、すぐ読めていた。――で、自分も共に、成政が助命となるように協力しようと、約して別れた。
そのせいか、翌日、信雄の陣所へ、石田佐吉が使いに来て、
「せっかくの御配慮ではあるし、殊に、前田殿には、年来の敵たる宿怨《しゆくえん》もわすれて、切《せつ》に内蔵助成政の一命を助けたまわれと、今《こん》早朝から、筑前様へ、熱心なおとりなしでござった。……為に、前田殿のお顔をたてられて、一命のみは、宥《ゆる》してとらせんとの、仰せでござる。……後刻、成政どのを、御営所まで、お曳《ひ》きつれ下さるように」
と、伝達して戻った。
信雄は、ほっとした。そのとき、次室には、佐々平左や、与左衛門も、姿をひそめて、佐吉の口上を聞いていたので、
「聞いての通りじゃ。すぐ成政に告げて、これへ来るように」
と、云《い》い遣《や》った。
ただし、この助命の成功は、信雄の力よりも、利家の命乞いによるような形になり、信雄は何かつまらない気もちがした。
やがて、ふもとの寺院から、成政一名、登って来た。
頭《つむり》をまろめ、染衣《せんい》をまとい、さしも数年にわたって、北陸の山野を震《ふる》わしていた猛虎も、いまは手頸《てくび》にかけた一聯の数珠《じゆず》に、自分で自分の覇気《はき》を縛《いまし》めていた。
佐々成政は、さきに、柴田勝家とも組して、秀吉に反抗し、そのときも、柴田滅亡のあとで、降伏した。
こんどは、二度目の降参である。
その逞《たくま》しい叛骨《はんこつ》を、坊主あたまと、法衣につつんで、彼は、間《ま》が悪そうに、信雄について、秀吉の前へ出た。
秀吉はにやにや笑い顔をして迎えた。
ふと、その笑顔を仰ぐと、成政は顔をどす赤くして、何かいおうとした言葉も出ず、黙って、平伏した。
「成政|事《こと》、切腹をも、お申しつけられるべきのところ、御寛大なお沙汰をうけ、感泣《かんきゆう》しておりまする。過去は水にながして、何とぞ以後も」
と、信雄がそばから口を添えて、取りなし役を努《つと》めて見せた。
秀吉はなお笑いやまず、
「ははは。何さ、何さ。いつまで過ぎ去ったことを根に持とうや。……筑前が笑うたのは、余りにも、佐々《さつさ》の頭が、おかしいからだ。いま初めて、佐々の頭の凸凹《でこぼこ》を見つけたからじゃよ。悪く思うな、佐々、面《おもて》を上げい、面を――」
云いながら、かれは、自身の短い差料《さしりよう》を、帯から解《と》いて、
「降参の褒美ぞ。佐々、これを遣る」
と、さし出した。
成政は、まごついて、どぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]していたが、にじり寄って、両手で拝領した。そして、すぐ退《さ》がろうとすると、
「待て待て」
と、秀吉はちょっと考えて、
「いかに剃髪して、法衣一枚の身がるになっても、扶持《ふち》がのうては、食うてゆけまい。離しがたい女房どもや眷族《けんぞく》もあろうに。……よし、祐筆《ゆうひつ》、筆をかせ」
と、みずから料紙に向って、墨付《すみつき》をしたためた。富山城をふくむ新川郡一郡を、この後も、成政の扶持料《ふちりよう》として与えるという印可《いんか》だった。
「か、かたじけのう存ずる……」
と、成政はやっと、これだけの言葉を、歯の根をふるわせながらいった。
「いずれ、大坂へも来いよ」
秀吉は、まるで彼を、旧友あつかいにして、それ以上、かれの恥じ入るのをみたがらなかった。
「ぜひにも」
と、成政は、礼をのべて、やっと退出した。
後日《ごじつ》。
かれは、秀吉のお咄《はな》し衆《しゆう》として、大坂表へ移住した。思うに、もしこれが、信長の場合であったならば、こんな寛典《かんてん》にめぐまれるはずもなし、かれの首は、二つあっても足りなかったであろう。
「おそろしい男だ……」
今さらのように、成政は、秀吉の真を知った心地に打たれながら、営所を退《さ》がって、前田家の陣所の前を、悄々《しおしお》と、退がって来た。
すると、前田利長やその旗本たちが、変り果てた彼の姿に、みな眼をそそいだ。
突然、旗本の一人が、
「笑いを怺《こら》えるのは体の毒でござる。御一同、笑い候え。笑い候え」
と、いった。
それをしおに、陣中、一《いつ》せいに、どっと笑い出した。
成政は、まっ赤になって足を早めた。
――笑うてやるぞ。は当時の最大な社会制裁であった。笑われた、は時によって死以上の致命的な侮辱《ぶじよく》を意味した。ひとり武門ばかりでなく、町人間の借用証文にさえも、
「もし返却の儀、怠り候はば、お笑ひ下さる可く候」
という文句さえあった。「首をかけても」という以上に、人に笑われるのは、辛《つら》かったのである。成政は、笑われたのであった。
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君《きみ》と一夕《いつせき》の会《かい》
成政の降伏直後、秀吉は、呉服山を発して、神通川を渡り、富山へ入城した。
これより前《さき》に。
隣国の上杉景勝は、新潟城を攻めるために、蒲原郡《かんばらごおり》に出撃中であったが、
(秀吉、大坂を発して、大挙、北上の途《と》につく)
という情報をうけとると、万一の変を考慮して、急に、兵を回《かえ》し、越後の糸魚川《いといがわ》城にはいって、八千余騎を、国境の変に備え、
(佐々の背後を突くにもあらず、また、佐々のうしろを援《たす》くるにも非ず。なお、秀吉に抗する者でもなし、また、秀吉に味方する者でもない。――上杉はただ上杉なり)
と、いう微妙な立場をとって、しかも、厳《げん》として、威を守り、かりそめにも、みだりに動かない態勢《たいせい》を取っていた。
それとて、もちろん秀吉をして疑惑させるような態度ではなく、秀吉が越前に着くと、直ちに、上杉家の使者は、かれの着陣を祝して、
(このたびの御成功を祈る)
という意味の景勝の書や見舞物など齎《もたら》して、敵意のないことは示していた。
敵意もないが、さりとて、媚《こ》びても来ず、味方にも加わって来ない――というのが、上杉家の独自な方針らしく見えた。
(いったい、こんなふくみ[#「ふくみ」に傍点]のある芸をするやつは、どこの何者だ?)
と、いぶかる気もちが、秀吉の心のすみにあった。今に始まったことでなく、前々年、北ノ庄陥落のときも、小牧戦の間にも――である。
かたがた、かれの眼《まなこ》は、越後の北端から、上杉家の充実している内容にも、おろそかな見方はしていなかった。
(とまれ、景勝の心をとらえ、上杉の実力を抱擁《ほうよう》しておかねばならぬ。われに傾かねば、他日、必ず家康に傾こう。……もし家康の背後に上杉家のもつ地の利と士風の重厚を加えたら?)
秀吉は、つとに、こう考えて、かれらしい触手の機会を待っていたにちがいない。富山入城のすぐ翌日、かれの姿は、忽然《こつぜん》と見えなくなった。
郡内一巡という触れ出しで、軽騎二十余の将士をつれ、城外へ出て行ったことは確実だが、たれもそれから先を知らなかった。
――いや、利家や腹心の或る一部は、当然、知っていたろうが、知らぬふりをしていたといっていい。
軽騎二十数名――馬をつらねた中に秀吉もいた。一行は、親《おや》不知《しらず》の嶮《けん》をこえ、越後にはいり、越水《おちみず》の宿《しゆく》まで来た。
ここは、糸魚川《いといがわ》を去ること遠くない。――一行の中から、木村|秀俊《ひでとし》が馬を飛ばし、糸魚川へ、先に、使いした。
城下で、上杉家の兵に、怪しまれたが、兵の付添いをうけて、城門へ行き、
「春日山《かすがやま》の太守《たいしゆ》景勝様には、当城に御在陣ときき、主人羽柴筑前守様にも、千載《せんざい》の好機なれ、ぜひとも、一夕《いつせき》お会い申したいと、陣旅《じんりよ》の寸暇《すんか》をさいて、富山よりこれへ参ってござる。……越水《おちみず》まで、お渡り下さるるもよし、また、主人がここへお訪ねしてもよいと申されます。景勝様の思し召しのほど、如何《いかが》にや、お伺いに参ってござる」
と、部将を通じて、城中へ申し入れた。
――これは、上杉家の家中の者を、ほんとか? と、眼をまろくするほど、驚かせた。
「まさか、嘘でもあるまい」
とは云い合ったものの、時めく、大坂城の秀吉が、何の予告もなく、突忽《とつこつ》として、越後の一城下へやって来るなど、余りにも、信じられない気がしたものらしい。
「どうぞ、ともかく、御書院まで――」
と、使いの木村秀俊は、疑われつつ、城内の一室へ、案内された。
待つ間ほどなく、
「自分は、景勝の臣下、直江と申す者ですが」
と、年ごろまだ二十六、七歳の若い武士が、平服を着、いんぎんな態度で、あいさつに出た。
秀俊は内心、こう伝えたら、景勝自身で倉皇《そうこう》と出てくるかと思いのほか、平服の若侍がただ一人、あいさつに出たので、ちょっと、平静をうごかした。
「あいや、主人秀吉様を、越水《おちみず》にお待ち願ってあるので、御都合のみを伺って、すぐ引っ返したいのです。御会釈《ごえしやく》は、略して欲しい」
すると、その若い武士は、にこやかに、
「心得ました。すぐさま、自分がお迎えにまいって、御案内に立ちましょう。主君景勝も、望外なるお運《はこ》びと、非常によろこばれておりまする」
北国人の特有なものか、あくまで落着いていて、口では非常なよろこびといっているが、城中も、この若者の容子《ようす》も、まことに、静かなものである。
第一、秀吉を迎うるに、この一青年をもってするというのが、秀俊には、気に入らない。しかし、そこまでの指図はできないし、その若侍も、やがて馬を呼んで、
「……では、お供に」
と駒を並べたので、そのまま二人して、城門を出た。
「ちょっと、お待ちを」
若侍は、大手の門外で、駒をとめ、二、三の部将を名ざして、呼びよせ、何か小声で云いのこして、また秀俊と共に駈けた。
秀吉の一行は、越水《おちみず》の街道にそう豪農らしい家に休息して、味噌漬《みそづけ》で茶をのんでいた。
秀俊は、馬を降りて、ありのまま復命した。
「では、すぐ参ろう」
秀吉の声である。かれには、迎えが誰であろうと、先の様子がどうあろうと、頓着《とんちやく》はない。
迎えに来た上杉家の若い武士は、ちょっと、遠くから一礼して、先駆に立った。
行くほどに――秀吉はその若侍のすがたを後ろから見て、
「よい男ぶりよ」
と、つぶやいた。
秀吉のそのことばで、誰もが同じ思いをしたのであるが、越後《えちご》は、美女の産地と聞いていたのに、
「美男もおるわ」
と、みな見恍《みと》れた。――といっても、蒲柳《ほりゆう》で柔弱《にゆうじやく》な型ではなく、四肢は伸びやかに、眉は濃《こ》く、頬は小麦色に、唇《くちびる》は丹《に》のごとく、いかにも健康そうな、美丈夫、偉丈夫の風があった。
「秀俊。あれは、上杉家の何と申す者か」
秀吉は、馬上から馬上へたずねたが、秀俊は、思い出せなかったので、こう答えた。
「いや。……まだ姓名もろくに聞いておりません。上杉家も、ちと粗末です。何しろ、すぐ御案内にといって、あんな若いのを、ただ一人、お迎えによこすなどとは」
――やがて、糸魚川《いといがわ》の町口が見えた。と、驚くべき秩序美《ちつじよび》をもった軍隊が、迎賓《げいひん》の礼を執《と》って待っていた。町中、道々も、塵一《ちりひと》つなかった。
――見れば、上杉景勝が、自身、そこまで、出迎えに出ていたのである。長尾権四郎、本庄越前、藤田信吉、安田|順易《のりやす》など十二騎の家臣をしたがえ、路傍《ろぼう》に下馬して秀吉を待った。
さきに、ただ一名の若者を応対に出して、甚だ不愛想な上杉方の態度であると、秀吉に不満を洩らした木村秀俊も、
(これは……)
と、その鄭重《ていちよう》さに、眼をみはって、恥じ入った。
景勝は、早くも秀吉の姿をみとめ、足早に歩み寄って、
「やあ。ようぞ遠くを。――景勝です。ごあいさつは、後として、いざ、いぶせき田舎城《いなかじろ》ながら」
と、自身、秀吉の馬の口輪《くちわ》を取った。
「おう。春日山《かすがやま》殿よな」
秀吉は急いで、馬の鞍《くら》から降りかけたが、景勝は、莞爾《かんじ》として、振り仰ぎながら、
「いや、そのままそのまま」
と、馬の口輪を取ったまま、糸魚川の町並木を通り、城門の内まで迎え入れた。
秀吉の訪《おとず》れも、実に無造作《むぞうさ》な突然であったが、景勝の迎え方も、虚飾《きよしよく》のない率直さであった。
けれど、城内各室は、客の来る間に、清々《すがすが》と掃き清められ、庭には水を打ち、暮るれば燈籠《とうろう》に灯《ひ》がはいり、武器や防禦設備はことごとく隠されて、
「まことに、田舎料理ですが」
といって出た饗膳にも、裏日本の味ともいえる魚介《ぎよかい》の新鮮や山野の菜根《さいこん》が、ゆかしく調理されていた。
「こんどの御出馬は、北陸山脈の嶮《けん》に跨《また》がり、陣中、御難儀も多かったでしょうに、お疲れのていもなくて」
と、景勝が、気軽な客の元気をたたえると、秀吉はまずこういった。
「いや、北征などというと仰山《ぎようさん》なれど、半ばは、北国遊歴のつもりで参った。ここへも、唐突な訪れで、何か筑前の肚《はら》に意図《いと》でもあるやに思し召すかもしれぬが、一度、お顔を見ておきたいだけのことにすぎん。いつかは、会いたいものと、年来、思うていたのでな」
「小牧以来、紀州、四国と打ちつづく御陣務には、景勝も、蔭ながら、お手さばきに、驚目《きようもく》をもって、遠くから拝見しておりました」
「その折々に、それともあらぬ蔭《かげ》の御援助には、筑前もふかく謝しておる。そうそう、これへ参った用向きといえば、まずそのお礼が第一であったに。はははは」
「いや、景勝は景勝の器《うつわ》だけしかないことを知っていますから、ただ、先代謙信の遺憲《いけん》を守っておる者にすぎません。……しかし久しい間、つい隣国に、こんど生《い》け捕《ど》りになった虎が穴居《けつきよ》しておりましたので、折々、好まぬ相手にもなっておりましたが」
「虎と申せば、その虎もこのたびは、よくよく暴虎《ぼうこ》の野望も及ばぬことを知ったか、神妙に、頭を剃《そ》って、詫び入った。以後は、御辺《ごへん》との境にも、うるさいことはなくなろう」
「祝着《しゆうちやく》にたえません。それだけでも、お礼はこの方から申さねばならぬ」
「時に、今日筑前を、越水《おちみず》まで迎えに来た若者は? ……」
と、秀吉は、盃を取って、景勝のひきあわせを求めた。
「直江山城守兼続《なおえやましろのかみかねつぐ》でしょう。山城、お盃を下さるとある。ごあいさつを」
と、景勝は、自慢の家臣らしく、末座をながめて、呼び出した。
「山城というか」
「お見知りおき下さいませ」
「きょうは、大儀であった」
「お盃、ありがとうぞんじまする」
直江山城は、盃を、秀吉の前に返して、もとの座へ、ひき退《さ》がった。
秀吉は、この一美丈夫の挙止《きよし》を、始終、見ていた。
北陸へ来て、かれは多くの人間を見た。その中で、この直江山城守は、かれの印象にのこった一人であった。
また景勝が、自身、率直に自分の馬の口輪を取って迎えてくれたことも、うれしいことの一つだった。
(越後にはなお謙信の遺風がある。よく交《まじ》わるべく、冒《おか》すべからず)
と、ひそかに思った。
雑談の末、
「謙信公のお跡目《あとめ》たる春日山の主《あるじ》に、馬の口輪を取っていただいたのは、おそらく筑前一人であろうが、途上の領民が、あれを見て、あなたを軽んじはしなかったか」
と、秀吉がいうと、景勝は笑って、
「いや、景勝を軽く見るという心配などは全くありません。ただ、噂にのみ聞いていた羽柴筑前どのを、眼に見て、いよいよ重《おも》んじただけでしょう」
と、答えた。
食後、秀吉と景勝とは、相互の家臣を遠ざけて、夕方から初更《しよこう》の頃まで、何事か、会談していた。
席に侍していたのは、秀吉の臣では石田|三成《みつなり》と、上杉方では、直江山城守との、二人だけだった。
この一夕《いつせき》のことを、後の史家は「越水《おちみず》の会盟《かいめい》」といって、以後、関ケ原戦後にまでつづいた豊臣家と上杉家との金石《きんせき》の盟約《ちかい》は、実に、この時、両者のあいだに結ばれたものだといわれている。
いや、この夜を機縁として、べつにもう一組の若い盟友の約が生れていた。
それは、石田三成と直江山城守とが、初めて、ここで相知ったことである。
士《し》は士を知る。ふたりは、主人の席に侍座《じざ》している間に、
(好漢《こうかん》、共に語るに足る)
と、相ゆるす微笑をもって、山城は三成を見、三成は山城を見ていた。
ふたりとも、退《さ》がって、少し休息するがいい――と許され、三成と、山城とは、相携《あいたずさ》えて、庭へ出た。新秋八月の大きな月が空にあった。
「失礼ですが、山城どのは、お幾歳《いくつ》になられますか」
「当年二十六歳です。……して、貴方《あなた》は」
「これは偶然ですな。私も当年二十六歳なんです」
「やあ、同《おな》い年《とし》でしたか」
「おたがいに若い」
「そうです、時勢も若い」
「自重しましょう」
「はからずも、一友《いちゆう》を得たここちです」
「自分も……」
城園《じようえん》の奥に、毘沙門堂《びしやもんどう》があった。ふたりは、月もる濡れ縁に腰かけて、天下の人物を論じ、時雲《じうん》を語りあい、また若い生命をこの秋《とき》にうけた身を祝福しあって、夜の更《ふ》くるのもわすれていた。
直江山城守は、もと上杉家の台所に勤めていた炭薪《すみまき》係の一|小吏《しようり》の子だった。
が、謙信のそばに、小姓として召仕《めしつか》われ、その才を愛されていた。そのうち、上杉一族中の名家、直江大和守の跡目《あとめ》が絶えようとした時、その養子に、謙信が、
(与六(山城守の幼名)をもらって嗣《つ》がせたら間違いはない)
と、いった。
謙信の名ざしで、与六は、一小吏の子から、忽ち、上杉家の老臣直江大和守の跡目をつぎ、後、幾たびの戦陣や内政に参与《さんよ》しても、故謙信の明鑑《めいかん》を恥かしめなかった。そして今や、白面《はくめん》二十六歳の青年にして、すでに上杉家随一の器量者《きりようもの》と、四隣《しりん》に存在を知られている。
石田三成もまた微賤《びせん》な浪人者の子であった。
三成は、佐吉といっていた幼少の頃、江州《ごうしゆう》の一寺に小坊主として養われ、たまたま秀吉が休息に立ち寄ったとき、その茶童《ちやどう》ぶりを見て、
(この小僧を、わしにくれ)
と、寺から貰われて、長浜城の小姓部屋に飼われたのが、かれの今日ある初まりだった。
年齢も同じだし、こういう二人の生い立ちも、相似ていた。
特に、三成も武弁《ぶべん》一片でない政治的な頭脳の持主であり、山城守も、弱冠《じやつかん》すでに戦陣の武名を剋《か》ち得ていても、その本質はあくまで経世的な抱負《ほうふ》にあり、そういう点でも、非常に、共通するところがあった。
毘沙門堂上《びしやもんどうじよう》、一輪の月の下。
話せば話すほど、二人は飽かない思いだった。肝胆相照《かんたんあいて》らすとは、まさに、この若い二人のこの場のことだった。
「一生のうち、良い友にも会い難いものだというが、お互いは、良主《りようしゆ》にもめぐまれている。良い主人を持った。このよろこびは、日々の張合いですな」
「良主をもつということは、良い使命をもつということになる。しかし、三成どの、主人に不足はないが、御辺《ごへん》と拙者とでは、身を置く地の理において相違がある。御辺は、中央の地に働き、拙者は北国の僻地《へきち》を出ることはない。慾を申せば、それだけがお羨《うらや》ましい」
「いやいや山城どの。そう固着してきめこんだものではあるまい。いずれ、われわれの良主が御健在のうちは、ひとまず諸国の戦乱や私闘も一応は終熄《しゆうそく》をつげ、しばしは泰平に似た幾年かは続こうが――さて、おたがいが、五十、六十の年となった頃、果たして、世の統一が続いていようか」
「それや分らぬ。おそらく、たれにも分るまい」
「……でしょう。われらは、私闘も戦乱もない下に、平和な生活を希《ねが》ってやまないが、時の動きは、人の願いと、必ずしも一致しません。歴史のくり返す過去によれば、群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》の小国と小国とが戦って大国となり、大国と大国とが戦って、かの唐土《とうど》の六国や三国のごとき対立の世代になり、ついには二大強国のふたつの世界にまでなってくる」
「ふたつの……なるほど」
「しかも、そのふたつも、またついには、どうしても、一つにまで行かなければおさまらない。宿命的な運命をたどって来ております。愚です。しかしその愚が人間の歴史です」
「どうして、ふたつの分権では、地上の人間がおさまらんのでしょう。――思いあわせれば、御辺の主君秀吉どのと、東海の雄家康どのとは、そうなると、まさに、ふたつの世の代表者ですが」
「そう。……そこまで貴公が仰っしゃるには、自分も、歯に衣《きぬ》を着せず、申しましょう」
三成《みつなり》は、めったに人にあらわさない情熱を面《おもて》に見せ、山城守のすずやかな眸《ひとみ》を見つめて云った。
「いまを、ふたつの世界というならば、仰せのとおり、誰しもすぐ、西に羽柴どの、東に徳川どのというでしょう。もしこのお二人が、真に、心を一つにし、利害を、ただ地上人間の億生《おくしよう》にだけ置いてくだされば、文句なしに、世は泰平のはずですが、自分の思うには、かなしいかな、その逆だとしか信じられません」
「はて。どうしてであろう」
「三成の小智が申すのではおざらぬ。前にも、断《ことわ》っておいた通り、歴史が云っているのです。人間の愚なる繰り返しを」
「それは分るが、何千年来、愚なる前例を、史に見ながら、なぜまた、二つのものが、分りきった愚の轍《てつ》をふむのか、拙者には、怪しまれる」
「てまえも、実に、怪しみにたえません。しかし、おそらく二つの分権は、二つのままではすみますまい。孔明《こうめい》の天下三分《てんかさんぶん》の計《けい》もだめでした。天下二分は、もっと、烈しい対立の相を呈しましょう。なぜといえば、二者の一挙一動はことごとくその対者を決定している。もっと大きな理由は、両者の猜疑《さいぎ》と、それに乗ずる策謀家、野望家、不平家どもの煽動《せんどう》です。いや人間本来のもっている飽くなき慾望自体だと宗教家はいうでしょう。所詮《しよせん》、宇宙の運行と天数《てんすう》の約束のように、また歴史の繰り返しをやるのではありますまいか」
「――と、したら二つは、一つにまでなるという御予見か。羽柴どのか、徳川どのかの」
「なるでしょう。てまえだけの考えですが」
「一つになったら、天下は泰平になり、庶民は長く安穏に暮らせましょうか」
「そう暮らせるはずです。……が、また限界が来るんです。両雄並び立たずですが、敵なき国は亡ぶというたとえもある。完全な一つも、世態の在り方からすると、まだ不完全なのかもしれません。一つの世界では、爛熟《らんじゆく》が早い、腐敗に陥りやすい、人間の闘争本能の吐け口が内訌《ないこう》する、予測せぬ不満がまた起るでしょう。そしてついに再び自潰《じかい》を起し、また再分裂の作用をかもし出す。革命とは、終止的なことばではなく、前の革命を革命し、次の革命を約束するものです。唐土大陸の永い歴史、この日本の近世をふり顧《かえ》っても、そんなふうに思われはしませんか」
「いや、そう考えると、拙者の生れた頃から、今日までの間にも」
「なお、これからの、三十年、五十年の先は、どう変るか分りません。……だから、貴公が、北国の僻地《へきち》に生れたという嘆《たん》も、何も嘆《なげ》くにはあたらない。自分は一生、北辺の一隅から動くまいと思っても、天下がうごく、時雲は案外、迅《はや》いものです」
「さて、そう思うと、努《つと》めて長生きすることですな」
「命を愛さぬような武人は語るに足りません」
と、三成は、きっぱりいって――
「ですから、自分などは、大坂城中でも、第一の臆病者と、いつも同じ小姓部屋出身の荒武者どもから爪弾《つまはじ》きです」
「ははは。よいことを承《うけたまわ》った。直江山城なども、少し武者振りがよすぎますかな」
ふたりが、手を打って、笑い合っていたときである。――お立ちですぞ、羽柴どのの御家来、御主人がお立ちですぞ! と上杉家の侍が、彼方《あなた》から駈けて来て、三成に教えた。
秀吉の扈従《こじゆう》たちさえ、当然、泊るものと思っていたのに、秀吉は、夜も二更《にこう》の頃というのに、突然、
「ただ今からお暇《いとま》する」
と、上杉景勝に別れを告げ、すぐ城門へ、馬を曳かせた。
三成は、駈け出して、からくも主人から置き去り食うのをまぬがれた。
景勝以下、山城も、上杉家の重なる者は、城門に炬火《たいまつ》をかかげて、秀吉の一行を見送った。
「さらば」
「さらば」
かくて、この日の会盟《かいめい》は、一夕《いつせき》のまに、果された。
秀吉は、この一会見に、上杉家との提携《ていけい》を固め、北陸の将来に、うごかない基盤をすえた。いや、帰するところ、この一行動もまた、徳川|牽制《けんせい》の先手取《せんてと》り≠フ一石《いつせき》を打ったものといってよい。
九月一日。
秀吉は富山を発し、金沢表まで引揚げて、尾山城に十数日を滞留していた。
遠征軍の将士を慰労するために、尾山城では、茶会や能楽《のうがく》が催され、秀吉もまた他愛なく、遊びくらした。
村井又兵衛、不破彦三、中川清六、長九郎左衛門、高畠孫三郎、前田利久、同安勝、秀継たちに、
「北国の士民も、これからは、いささか業を楽しめるであろう。その方たちの働きを、大きな勲《いさお》といわねばならぬ。さらに、又左衛門利家を親柱《おやばしら》となし、以後の安泰《あんたい》を守られよ」
そういって、それぞれに、黄金、時服、佩刀《はいとう》などの賞を頒《わ》かった。
特に、奥村助右衛門夫婦を招いて、みずから茶をたてて、その忠誠をねぎらい、利家にむかって、
「事ある日に、これほど人間をお持ちあれば、何はなくとも、まず人中で御自慢なさるにも、お気はひけまい」
と、いった。
奥村夫婦は、面目をほどこして、帰った。秀吉は、いよいよ大坂へ立つという前日、あらためて、又左衛門利家に、親しく告げた。
「――能登《のと》は、其許《そこもと》自身が、自力で従えた領土ゆえ、べつに秀吉から進上する理由はない。随意に、知行《ちぎよう》せらるるがよかろう。佐々の越中三郡もよろしいように治められよ。……そして、官位|叙爵《じよしやく》なども、考えておるが、とりあえず、自分の羽柴姓を、あなたに譲《ゆず》り、以って、秀吉がどれほど御辺《ごへん》の信義にたいして、感謝しているかを、酌《く》んでおくりゃれ」
事実、秀吉は最大なよろこびと恩遇《おんぐう》をもって、利家にこたえた。利家も、もちろんそれに感激した。おたがい、二十幾歳頃の若年から、五十に近い今日まで、叛服《はんぷく》常なき乱世の中をつきあ[#「つきあ」に傍点]って来て、ただの一ぺんも、裏切られず、裏切らず、一貫した交友をつづけて来たことだけでも、世間に稀れといってよい。
ましてや、その堅い交友の良心の上に築き得た成果の歓びを、互いに分けあう日に恵まれたのである。人生の至楽《しらく》、男子の会心事《かいしんじ》、これに越すはあるまい。
爾来、前田家は北国の雄藩《ゆうはん》として、後、数世紀にわたる治民と繁栄をこの時に約した。けれど、秀吉との交情と、その恩遇のために、又左衛門利家は、ついに、中原《ちゆうげん》に出て天下を争う考えは放擲《ほうてき》せざるを得なかった。
――とすると、彼もまた、秀吉の薬籠中《やくろうちゆう》の一個でしかなかったとも観《み》られるが、長い史眼をもってすれば、豊臣氏の滅亡後も、前田氏はなお長く北国の雄たるを保った。興亡の転変はすべて、何が、幸か不幸かわからない。
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関《かん》 白《ぱく》
春から秋へかけて、秀吉は文字どおり、南船北馬の征事を果たし、九月、大坂城へ帰府してからは、久しぶりに、内治外政を視《み》――また彼らしき小閑《しようかん》の凡生活《ぼんせいかつ》にもひたったであろう。
そして、時にはまた、ここまでの山坂を振り返って、自己の半生涯に、
(よくも登って来たものかな)
と、われながら、想いを深めずにいられなかったであろう。
なぜならば、かれも来年は満五十歳になる。五十という人寿《じんじゆ》の道標は、人生の行路のうちでも、ひどく、
(ああおれも五十か)
と、今さらのように、一応、過去の反省と、これからの歩みとを、考えさせる時期だからである。
そこで、人間である以上、いや人なみはずれて、凡夫《ぼんぷ》の煩悩《ぼんのう》にも富むかれは、当然、
(四十九も、あと幾月もない秋《とき》に来たぞ)
と、暮夜《ぼや》ひそかに、かれの生命が、過去、現在、また将来へ、その凡情《ぼんじよう》をさまざまに想いめぐらしたにちがいない。
人生の長い行路を、山登りにたとえれば、かれの思いは今や、目標の山頂への、七、八合目まで、よじ登ったように、麓《ふもと》を見たであろう。
登山の目標は、山頂ときまっている。しかし、人生のおもしろさ、生命の息吹の楽しさは、その山頂にはなく、却って、逆境の、山の中腹にあるといっていい。谷あり、絶壁あり、渓流あり、断崖あり、雪崩《なだれ》ありといったような、嶮路《けんろ》にぶつかって、
(もう駄目か)
と思い、
(いっそ死んだ方がましだ)
とまでおもいながら、
(いや、そうでない)
と、当面の艱難《かんなん》と戦って、それに打ち剋《か》ち、乗りこえた艱難を、見事、うしろへ振り向き得たときに、
(われ生きたり、よくぞ生きたり)
という生命《いのち》の歓びを、真に、人生の途上において、持ったのであった。
もし人の一生に、その多岐《たき》なる迷いと、多難なる戦いとがなく、坦々《たんたん》たる平地を歩くようなものであったら、何と退屈な、またすぐ生き飽いてしまうようなものだろう。畢竟《ひつきよう》するに、人生とは、苦難苦闘の連続であり、人生の快味といえば、ただその一波一波に打《う》ち剋《か》ったわずかな間の休息のみにあるといってよい。
だから、苦難を怖れない人にのみ、人生の凱歌と祝宴が供せられ、苦難に弱い、迷いに負けやすい人にのみ、悲劇がつづく。
(逆境おもしろし)
と、敢然《かんぜん》として立ちむかう人生の闘士の前には、およそその人間を自殺せしめるほどな逆境はこの世にはあり得ない。しかし、薄弱なるさまよい[#「さまよい」に傍点]の子には、逆境の魔が小石一つ彼に投げても、彼は生涯の傷痕《しようこん》に持って、容易にいつでも自分から落伍してゆく。
秀吉は、そういう点で、まさに、逆境の中から生れて、逆境と遊んで成人したようなものだった。
かれの今日から見れば、その栄達は、旭日昇天の早さにも見えるが、信長に随身してからでも、逆境なしという年は一年もない。
真の順調は、信長の死後、天正十年からことし十三年秋までの――ほんの二年半といってよかろう。
その二年半において、かれの生涯の大部分を築いたといえる。しかも、その一気呵成《いつきかせい》の大業もまた波瀾万丈《はらんばんじよう》な毎日毎日であった。
稔《みの》りの秋は、秀吉に来たのである。秀吉はこの夏、大きな収穫をやった。それは、関白《かんぱく》となり、初めて、豊臣姓《とよとみせい》を創《た》てたことである。
秀吉が関白となったのは、北国出征の直前であった。北陸へ立つ、つい一ヵ月前に、すでに、関白職の栄についたのであるが、戦陣中は、格式に頓着なく、従来どおり一介の武将羽柴筑前で通していたのである。
かれが、関白になり、豊臣姓を創《た》てたのにも、かれらしい挿話がある。
秀吉の望みは、初めは、平凡だった。征夷《せいい》大将軍――つまり将軍家という在来のものを、至上の職として、ひそかに、希望していたらしい。
ところが、将軍職名は、頼朝《よりとも》このかた、源系《げんけい》の者に限るような慣例になっている。秀吉は信長の家臣として、平氏《へいし》を称《とな》えていたので工合が悪い。そこでかれは、いま落ちぶれている前将軍の足利義昭を思い出した。
「義昭どのは、その後、どこに何をしておられるか?」
調べさせてみると、亡命からまた亡命をやって、時代の外へ、ぽかんと、置き忘れられていたこの人物は、依然達者で、今では西国の毛利家に寄食し、頭をまろめて、名も入道昌山《にゆうどうしようざん》といっていることが分った。
「いやとはいうまい。ひとつ、彼に会って、篤《とく》と、話しこんでみい」
秀吉はさっそく使いを立てた。要旨は、足利家の義子名目を求めるにあった。これは義昭にとってもいい話にちがいない。秀吉を養子ということにする以上、自身の生涯は、亡命生活から解かれて、都の中でも、立派に邸宅を構えることができるわけだ。
けれど、義昭の返辞は、案外だった。
「――お断りする」
義昭は久しぶりに、自己の誇りを満足させて答えた。
そして、秀吉の使いを、返したあとで、毛利家の人々に、その心事《しんじ》を、なお誇って語った。
「いかに、落魄《らくはく》しても、足利家数世にわたる重職を、氏《うじ》も姓もない下賤の成り上がり者に、売るわけには参らぬからの。……この昌山《しようざん》も、御当家の食客はいたしておるが、まだ先祖の栄誉を売り食いするほどには落ちぶれ果てもせんよ」
おもしろい人情である。一個の生活自立さえ持たない身なのに、過去の古着にひとしい空位空名を持って、あわれなる今は昔の虚栄心の名残を満たしているのである。
だが、その義昭にも負けない愚を、秀吉もやはり持っていたのだ。いや、人間共通の愚といってもよいかも知れぬ。特に、衣冠《いかん》、官階《かんかい》の尊貴《そんき》が、絶対に、人心のうえに大きな作用をもつその当時にあっては、秀吉なども、ただ自己の凡情を満足させるだけでなく、天下|収攬《しゆうらん》の具《ぐ》として、ひとつの必要事にはちがいない。
「ははは。だめか」
義昭の返辞をきいて、秀吉は笑った。その小心な面子《メンツ》を保つために、義昭が払った痩せ我慢が何と高価についたことかと思って、おかしくなった。
しかし彼は、義昭のその拒絶を、むしろ愛すべき小心者とあわれみ、この後とも、毛利家が隠居料を与えておく分《ぶん》には、まず大した禍《わざわ》いの火ダネにもなる気遣いはないと安心した。
「いちど、菊亭《きくてい》どのに、御意中を、さりげなくお話しになってみてはどうでしょう」
たれか、秀吉に、こう智恵づけた者がある。秀吉の左右に人間は多い。遺憾ながら、何者がそんな智恵をさずけたのかは明らかでない。とにかく、相当な賢者がいて、両者の会合を劃策《かくさく》したことは確かである。
菊亭《きくてい》右大臣|晴季《はるすえ》は、政治家肌の公卿《くげ》だった。
朝廷のかたちはあるが、ここには武力も、物財もない。あるのは、精神的な尊崇の象徴だけである。
実際の力も物もない、その尊厳を、守るためだけに、無数の雲上人《うんじようびと》は、衣冠《いかん》を正し、位階|勲職《くんしよく》の古制度だけをやかましく詮議《せんぎ》していた。
この宿命的な無能の仲間にあって、いささかでも、時勢に関心をもち、多少の野望でも抱くとすれば、当然、武門の武と権と財とに結びつかなければ、何もできない。
「菊亭どのは策士じゃよ」
かれがこういわれるのも、それに起因《きいん》していた。
朝《あした》に呉将《ごしよう》を送り、夕べに越将を迎うるの媚態《びたい》を――遊女のように、これ努《つと》めて、貧しき朝廷生活をうるおし、弱き雲上の存在をたもち、そして、武田、上杉、織田、明智、羽柴――と、上洛者のたれかれを問わず、これを奏聞《そうもん》に達して、それらの武門が望む叙爵栄職《じよしやくえいしよく》の名を聴許《ちようきよ》し、武家の音物《いんもつ》や黄白《こうはく》を収入とするのが、ともあれ、この人々の唯一な生きる道ではあった。
ひとり菊亭|晴季《はるすえ》だけではない。遠く、藤原氏の凋落期《ちようらくき》を境として、武門独裁の世となってからは、朝臣の策士はみな似たり寄ったりな者だった。それらのうちでも、菊亭|晴季《はるすえ》は、武門の棟梁《とうりよう》と取引するにしても、なかなか人を喰ったところがあり、徒《いたず》らに、安目は売らず、充分、朝廷のためにも、私腹のためにも、利を収めて、しかも威厳を損《そこ》なわないという線の太い特質があったというだけの人材だった。
「なに。わしに一度、大坂へ遊びに出て来ぬかと? ……。それは行ってもよいが」
晴季は秀吉の使いに、色気を見せた。――来たなと、すでに合点の顔いろである。
日を約して、かれは早速、大坂城へ、公用の名目を作って出向いた。そして秀吉と会った。
型どおりの饗応《きようおう》のあとは、例の、茶である。秀吉が茶をたて、千宗易《せんのそうえき》と、もひとり、妙な男がいて、晴季を主客に、もてなした。
近ごろ、武人の間に、茶は非常な流行をみせていたが、公卿仲間では、晴季はじめ、とん[#「とん」に傍点]と、こういう佗《わ》び≠ニか、閑寂《かんじやく》≠ニかいうものに、興味をもっている者はない。
なぜならば、公卿たちの極端な貧乏生活には、あらためて佗び≠竍閑≠取り入れるほど日常が豪奢《ごうしや》でも繁忙でもないからだった。
むしろ、ありのままな、貧乏ぐらしそのものが、佗び過ぎているくらい、貧しい、乏しい、暮しであった。
もっと重要な原因は、武家たちのように、何ら、生活の緊張というものがない。朝《あした》あって夕べの知れぬ、そんな生命観もない。――それが自然、風貌にも、感覚にも、のッぺりと現われているのが公卿だったが、晴季には、もっと俗気があった。
宗易は、茶が終ると、姿をかくしたが、もう一名の妙な男だけは、秀吉のそばにいて、主客のはなしを、にやにや聞いていた。
晴季は、その男が、気になるので、つい肚《はら》のうちを、云い出しかねていると、秀吉はそれと察したか、笑いながらこういった。
「菊亭どの。これは堺《さかい》のそろり[#「そろり」に傍点]と申し、毒にも薬にもならん男。お気づかいなく、お考えを、聞かせられい」
秀吉は、さきに腹蔵を打ちあけていた。足利義昭に養子を断られたことなども、不面目だからといって、隠し立てなどはしなかった。
晴季は、膝をすすめた。
「では、忌憚《きたん》のないところを申しあげるがの。将軍職のお望みは、まず御断念がよいとおもう」
「見込みはないか」
「あっても、つまらんではございませんか」
「ふーむ、そうかな」
と、秀吉は小鼻に皺《しわ》をよせて横を向いた。
うしろに坐っていたそろり[#「そろり」に傍点]が秀吉と眼を見あわせて、にやりと笑った。近頃、このそろり[#「そろり」に傍点]という猫背の老人は、秀吉の腰巾着《こしぎんちやく》といわれるほど、気に入りで、いつも彼のそばにいた。しかし、秀吉の虫の居どころによっては、時々、眼うるさく[#「うるさく」に傍点]なる場合もあるし、今も急に、云い出した。
「新左衛門」
「はあ」
「おまえも、退《さ》がっておれ。あとで呼ぶ」
「はい、はい」
聞き分けのいい猫のように、そろり[#「そろり」に傍点]は、茶室を出て行った。
「妙な老人ではあるが、あれも、茶人とかいう者でおざるか」
菊亭晴季は、気になる猫背が去ったので、やっと、主《あるじ》と二人きりの、水入らずという気やすさを、顔に見せて、訊ねた。
「いやいや堺の塗師《ぬし》で、杉本新左衛門という剽気《ひようげ》た男でおざる。刀の塗り鞘《ざや》をよう致すので、人呼んで、そろり[#「そろり」に傍点]鞘《ざや》といい、いつか、それが姓のようになって、曾呂利《そろり》新左衛門と、みなが申しおる」
「塗師をそばにお置きになるとは、あなたも、物好きでいらっしゃる」
「物好きといわれれば、将軍職の称号を欲しがるなどは、それ以上な物好きではあるまいか。あの猫背の歯抜け爺《じじ》を、堺から召し呼んで、伽《とぎ》の衆《しゆう》に加えおく物好きと、将軍家になりたいというわしの物好きと、いずれ劣らぬ愚とはおもうが――菊亭どの、笑うてくれい、秀吉は、是が非でも、成りたいのじゃ。思案はないか、何とか思案は」
「おやめなされい、将軍家なぞは。――それよりは、あなたともあろうお方が、なぜより以上の、職位をお望みなさらぬのか」
「なに、将軍以上の職位をとな。……ほう、征夷大将軍の上にも、まだ何か、えらい称号があったであろうか」
「関白《かんぱく》です。いっそ、関白にお就きになったらよいではありませんか」
「関白。なるほど」
子どもが、欲《ほつ》しる物を、鼻さきに見たように、秀吉の顔に、ぱっと、意欲の血が赤くさした。
「……だが待て、菊亭どの。その関白職はいまふさがっているではないか。二条関白|昭実《あきざね》と申す、現職の者がおるぞ」
「折もよしです……」
と、晴季は人のわるい微笑を見せて、しばらく秀吉をにたにた見まもった。当今、大坂城の主《あるじ》の声といえば、公卿百官はもちろん、天下の諸侯もみな慴伏《しようふく》せぬはないが、晴季から見ると、まるで児童のように他愛もないのだ。自分の手の上に置いたようなものだった。――こういう快味を、晴季はしばらく心のなかで愉《たの》しんだ後、
「実は、その関白の位は、二条どのから近衛信輔《このえのぶすけ》どのへ、もう疾《と》くに、譲《ゆず》るべき順位になっているのです。ところが一方は、現職に恋々として、いっかな、辞任の色もありません。為に、近衛派と二条派との間に、先頃からいろいろ暗闘沙汰が生じておる。……何と、乗ずべき機ではございませんか。横から、漁夫の何とかをお占《し》めになる。これは、あなたなら易々《いい》としてお出来になるはずでしょう」
菊亭晴季が京都へ帰ってから約一ヵ月後だった。突《とつ》として、朝廷から秀吉にたいし、関白の宣下《せんげ》があった。
前関白の二条|昭実《あきざね》に代って、爾今《じこん》、関白たるべしとの大命である。
晴季の暗躍によることはいうまでもない。由来、禁中雲裡《きんちゆううんり》の政治的なうごきは、武門のそれ以上、秘密が保たれやすかった。朝野の人々は茫然とした。この発表は、たれもが、意外としたのである。
「有史以来の異例じゃ」
「平の清盛《きよもり》が、太政大臣《だじようだいじん》となったのを、古今の異例といわれたそうだが、清盛はまだ平氏の帝系《ていけい》をひいた者。……氏素姓《うじすじよう》もない、一匹夫《いちひつぷ》とはちがう」
当然、公卿の中に、物議《ぶつぎ》が起った。紛々《ふんぷん》たる不平がたかい。
しかし、程なく、議論も不平も、掻き消えてしまった。秀吉の人心|懐柔《かいじゆう》は、すぐ功を奏した。一群の空論家が、しかも古い故典旧慣を唱《とな》えてみても、それが何の力であるはずもない。世は実力の時代だ。実力のみが人をうごかし世を処理してゆく。七月十三日、秀吉は、拝命の御礼として、南殿《なんでん》に猿楽《さるがく》を催し、叡覧《えいらん》に供えんと称して、天皇、皇子、五摂家《ごせつけ》、清華《せいか》、その他の公卿、諸|大夫《だいぶ》、諸侍までを、こぞって招待した。
演舞は、午前から午後にわたった。そのうちに、夕立が来て、舞台も観衆も、ズブ濡れになったが、正親町《おおぎまち》天皇も、秀吉も、座をうごかないので、舞人《まいて》も見物も、そのまま興《きよう》をつづけていた。
夕立はすぐあがって、松や梧葉《ごよう》に夕陽が染まり、東山《ひがしやま》の空には、夕虹《ゆうにじ》がかかった。
[#ここから2字下げ]
昨日は、参内《さんだい》候て、ことに申し沙汰、一《ひと》しほ忘れがたく思ひ給ひ候。終日、みこころを慰まれ候事、つくし難く候。上洛候折りふしは、再々《さいさい》、待ち思《おぼ》し召候《めしさふらふ》。
関白どのへ
[#ここで字下げ終わり]
これは次の日、勧修寺大納言を通じて、秀吉へ達しられた内勅《ないちよく》であった。
秀吉はまず朝廷の疲弊《ひへい》しきった経済面に貢献《こうけん》をはかり、貧しい公卿を救恤《きゆうじゆつ》するに努めた。
旱天《かんてん》に慈雨――猿楽の日の夕立のように――雲上人たちは、息をついた。
こうしておいて、彼は、例の佐々退治を目的とする北征の途にのぼったのであった。
そして、九月中旬。
北国から帰るとすぐ、また菊亭|晴季《はるすえ》と諮《はか》って、豊臣《とよとみ》という新姓氏《しんせいし》をたて、朝廷に請《こ》うて、以後、豊臣秀吉と称することになった。
関白は、氏《うじ》の長者《ちようじや》といわれ、参内には、内覧《ないらん》、兵仗《へいじよう》、牛車《ぎつしや》をゆるされる人臣至上の職であるが、尾張中村の一百姓の子には、もともと、はっきりした氏《うじ》も家系もない。
古くから文武の士の間には、源平藤橘《げんぺいとうきつ》の四姓があるが、源氏も平氏も藤原氏も橘《たちばな》氏も、みなその用と功によって、朝廷から命ぜられたもので、何も、末代まで四姓に限る必要はない。古姓《こせい》をつがなければならないというのはおかしい。新たな時代に、新たな使命をもつ、新たなる人間が現われた以上は、新たな姓を賜わりたいものである。――というのが、秀吉の、奏請《そうせい》の理由であった。
何につけても、故典、格式、旧例をたてにとって、ひと理論、ひねくらなければ得心《とくしん》しない公卿たちも、この四姓打破論には、何の異議をいう余地もなかった。
姓氏ばかりでなく、故実《こじつ》、旧制はみな、公卿たちの、観念だけにあって、秀吉の眼には、ひとつも、絶対的には見えなかった。その点で、彼も、すべての新時代の具現者とひとしく、自己の創意と建設のみが、つねに自己を励ます興味だった。
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忍《にん》の人《ひと》
もし、秀吉の座右に暦《こよみ》をそなえて、その月々に、彼がここ一年に仕遂げて来た事業項目を表にしてみたら、顧みて、秀吉自身すらも、
(一年足らずに、よくもこう幾多の難が、片づいて来たものではある。一体、これは何の力か?)
を怪しまないではいられなかったであろう。
ひと頃は、小牧の凝滞《ぎようたい》を見て、天下の耳目《じもく》は、あわや図に乗りすぎた秀吉が、ここで大つまずき[#「つまずき」に傍点]をやるのではないかと危ぶんでいたが、それも、彼の奇想天外の策に出た信雄との単独講和を一転機として――さしもの家康をしてまったく茫然《ぼうぜん》と策なき孤立に追いこんでしまい――以後、その徳川家をしり[#「しり」に傍点]目に、徳川系の与国たる紀州、熊野を攻略し、四国の長曾我部を降し、内海一帯を鎮《しず》め、転じて、宿題の佐々征伐を敢行し、北陸平定の基盤を前田利家にさずけ、また上杉景勝と一会の盟をかためるなど、その構想の大きいことと、南走北馳《なんそうほくち》の迅速さとは、まさに、天正十三年の日本の偉観であり、同時に、秀吉出でて、日本は急に小さく狭くなったような気もちすら世人に与えた。
しかも、そうした夜も日もない軍務征令のほんの余暇のまに、彼は、関白職になり、豊臣の姓をたて、また母には、大政所《おおまんどころ》の称位を請《こ》い、妻の寧子《ねね》を政所《まんどころ》として、内にも、内事《ないじ》の調《ととの》えを、着々とすすませていた。
かれが、関白に就《つ》くや、かれの股肱《ここう》もみな任官や叙爵をうけた。石田、大谷、古田、生駒、稲葉など十二人も諸大夫に任ぜられ、特に、内政の一刷新《いちさつしん》として、人材五人が選抜され、新たに、五奉行の文官制ができた。
前田玄以。増田長盛。浅野長政。石田三成。長束《なつか》正家。
こう五名の奉行が分担する職掌の範囲は、次のようにさだめた。
前田玄以は、京都の所司代《しよしだい》をかね、禁裡《きんり》、寺社の一切を奉行し、洛中洛外の諸事を裁判する。
長束正家は、知行《ちぎよう》、勘定方の歳出入、物資の購入、徴税などの経済面一切を裁決する。
石田、浅野、増田の三名は、自余の一般内務を奉行し、重要問題は、五奉行の合議によって、分別を一決し、諸政、簡潔と敏活を旨とする。
――そしてこの五奉行にたいして、べつに三ヵ条の誓約が掲《かか》げられた。
[#ここから2字下げ]
第一、威権をふるい、えこ贔屓《ひいき》のないこと。
第二、宿怨《しゆくえん》、私謀《しぼう》をいだかぬこと。
第三、金銀を蓄え過ぎ、酒宴、遊興、女色、美食、すべて過ぎぬこと。
[#ここで字下げ終わり]
職掌も、誓約も、実に単純である。が、多分に、その使命の重要性は、一にその人間への信頼に委《ゆだ》ねられているものだった。
後の、醍醐《だいご》、桃山、慶長《けいちよう》にわたる一世代のらんまん[#「らんまん」に傍点]たる文化の興隆に、これら五奉行の文官的な功績が、他の武将の武勲に劣るものでなかったことはいうまでもない。――短くはあったが、かの信長の一生には、その緒《しよ》も見られなかった文治文化面の施策《しさく》を秀吉は経綸《けいりん》の一歩として、この忙しい天正十三年のまっただ中で、すでに着手していたのであった。
こういう秀吉。こういう大坂城を中心とする内外のうごき。――そして、こういう天正十三年というただならぬ世代の日一日《ひいちにち》を、その後の徳川家康は、果たして、どんな構想と心境をもって過していたろうか。
転じて、家康を観《み》ることは、また秀吉の眼孔《がんこう》の底を覗《のぞ》くことでもある。
家康は、春から夏も、浜松城に暮していた。
岡崎は、石川|伯耆守《ほうきのかみ》数正にあずけ、ここ当分は静養という態度だった。
静養≠ニいう名目は、よく逆境にある政客や事業家などが好んで口にする語だが、閑に居て、閑を愛し、静養の真価を、よく身につけ得る者といっては、千人中の一人も稀れであるといっていい。
家康の場合――もとより問題はちがうが、族長的な位置にあるそれは、責任、体面、日々の対処など、身一つの逆境などとは比較にならないほど苦悩も大きいはずである。
まさに、小牧以来、信雄を秀吉に攫《さら》われてからの徳川家は、逆境へ向っていた。盛運とみに大坂の光輝《こうき》に奪われ、いわゆる落ち目の陣営≠フ観《かん》あるを否み得ない。
だが。
落ち目となると、て[#「て」に傍点]もなく弱い本質を出して、貧《ひん》すれば鈍《どん》するという諺《ことわざ》どおりに成り落ちる人間もあるし、また反対に、逆境に立つや、なお持ち前の生命力の充溢《じゆういつ》を示して、逆境いよいよその人の深い所の素質をゆかしく湛《たた》えて見せ、この人や逆境にいて逆境を知らず、逆境を愛してすらいるのではないかと、疑われるほど、常に、温顔ゆたかに、微笑をわすれぬ人間もある。
家康は、後者の型だった。
ただし常に微笑をもって、人に春風を感ぜしめるような慈光《じこう》は持たないが、決して、はた[#「はた」に傍点]目から見て、
(いかばかり御憂鬱《ごゆううつ》であろうぞ。お気のどくな)
と、人に、自己の胸中の寸尺を量《はか》らすようなみじめさも貧しさも見せはしない。
第一線に近い岡崎を退き、わざと浜松に、閑《かん》をめでて、大坂のことなど耳から遠い顔をしていた家康は、ことしになって、よく狩猟《かり》に出ていた。
鷹《たか》を、こぶしに据え、犬を曳かせて、浜松近傍の田舎を、従者七、八名と共にほっつき[#「ほっつき」に傍点]歩いている背のまろいずんぐりした四十六、七歳の武家があるなと、よく見かけるのを注意していると、それが家康であった。
「田も殖《ふ》えたのう。稲の植付けも、ことしはわけて、よいな」
検見《けみ》役人のように、家康は歩きながらも、田畑の耕作を、よく見ていた。そして、従者に、こんな述懐《じゆつかい》を聞かせたりした。
「おまえらは、そろそろ忘れかけているだろう。わしがまだ今川家へ質子《ちし》として、駿府《すんぷ》に、幼少を送っていた時分――おまえらもまだ鼻たれ[#「たれ」に傍点]で、おまえらの父や祖父《じい》が、織田、今川などの強国の間にはさまって、辛《から》くも、主《あるじ》なき浜松の小城一つを持ちささえていたものだ。……その頃はの、おまえらの、祖父《じい》や父たちは、朝には、境《さかい》の小ゼリ合いと聞いて合戦に駈け、夕べには、具足をぬぐやいな、すぐ田《た》ン圃《ぼ》に入って田草を抜いたり、畑へ出ては鍬《くわ》を持って、ようやく、芋《いも》ガユや粟《あわ》を食うていたものだったぞ。――そのおかげで、わしが十八歳の折、今川家から放たれて、浜松へ帰って来たときには、そうして長年の留守に蓄《たくわ》えておいてくれた物が、兵糧倉、武器倉に、国守るほどはあって、他日の驥足《きそく》をのばすことが出来たのだった。……そのとき、鳥居|忠吉《ただよし》が……もう八十こえた老人じゃったが……わしの手をひいて、倉の前に導き、中を指さして、若殿……といったときの言葉は今もわすれかねる。その頃を思えば、わしも近頃は、だいぶ気が奢《おご》りすぎて来たぞよ。忠吉に、申しわけがない」
かえりみれば、家康の幼少から、壮年期の大部分は、忍《にん》の一字につきる半生だった。
かれは、忍《にん》を守って人と為《な》り、忍《にん》を持《じ》して、強国の間に生き、忍に剋《か》って今日の位置を築いた。消極的な忍ではなく、積極的な大希望を遠くに期している忍であった。――おそらく、これからの後半生も、その特質を変えることはあるまい。
特に、近頃は家臣たちにも何かにつけて、忍耐ということを説いた。尺蠖《せつかく》の縮むは伸びんがためという意味を悟《さと》らせようと努《つと》めていた。
――というのは、今春来の不平不満は今なお鬱勃《うつぼつ》としていて、対秀吉感情は少しもあらたまらず、上方筋の情報を耳にすれば、忽ち、岡崎、浜松にその反撥が露呈《ろてい》して、
(人気《ひとげ》もなげな猿の振舞よ)
(このまま時を移して、猿の自由にさせておいたら、今に天下は文字どおりかれの意志一つになり、悔いても及ばぬことになろう)
(その期《ご》になって、どう争っても、ぜひがない。……いまのうちに。……やるなら今のうちだ)
依然、主戦論者の声が、圧倒的であり、以後の秀吉の行動にたいし、切歯扼腕《せつしやくわん》する中で、ひとり苦々《にがにが》と、無口でいたのは、かの石川数正ぐらいなものだった。
それともう一人は、家康である。――家康も、上方のうごきには、一切、不感症的《ふかんしようてき》な顔をしている。
たとえば。
小牧前後から、徳川家と黙契《もつけい》をもって、頻りに、大坂の留守を脅《おびや》かしていた紀州や熊野。また四国の長曾我部などが、ここ次々と、家康の手足を斬り取る仕事のように進められていても、家康は甘んじて、その四肢《しし》をもぎ[#「もぎ」に傍点]取られるのに委《まか》せている。
中でも、あれほど、家康や信雄にたいし、情熱的な加担《かたん》を示して、北陸一帯の反秀吉気勢を一手にひきうけていた佐々成政の潰滅《かいめつ》をも、じっと坐視しているに至っては、血の気の多い三河武士が、黙っていられないのも無理はない。
「それも、いかなる御量見《ごりようけん》やら……」
と、家康の無表現を、果ては、無能のようにすら、疑い出して、不平を鳴らした。
「それほど、秀吉を、わが殿にも、怖れておいでなのであろうか。――とすれば、つまるところ、われらが弱兵だということになる」
「或いは、天下は大坂にまかせても、駿遠三信の四ヵ国にわたって、無事を保てばよいとして、はや小成《しようせい》に安んずるお心やもしれぬ。――もしそうだとしたら、これは危険だ」
「秀吉の眼中に、ひとり邪《さまた》げとなる徳川家を、何で、そのままにしておこう。やがて、徳川方の与党《よとう》をすべて切りもいだ[#「もいだ」に傍点]あかつきには、いよいよ主体の敵へかかって来るにちがいないのだ」
「いちど、われらが、面《おもて》を冒《おか》して、この憂いを、率直に、殿へ建白してみたらどうであろう」
岡崎にある中堅たちは、表《ひよう》を書いて、連署した。しかし、その連名の中にも、石川数正の名だけはなかった。
かれらの建白書は、梨のつぶてだった。家康は、何にもいわず、鷹をすえ、犬を曳いて、野へ出ていた。――こういう中に、小田原の北条氏政、氏直父子から、何事か、常に浜松へ使者が来ていた。問題は、家康の悩みのひとつらしく、北条家の使者というといつもかれ自身が会って、何事か、その云いわけに努めていた。
北条家の督促使《とくそくし》は、松田尾張守|憲秀《のりひで》という者だった。
山中城の城主で、氏政に信任のあつい小田原の宿将のひとりであり、傲岸《ごうがん》な風貌と、雄弁とが、特徴であった。
「いつも同じような御返答では、児童の使いのようで、てまえも、ほとほと弱る。実を申せば、わが小田原の御方《おんかた》(氏政、氏直のこと)たちも、いささか業《ごう》を煮やしておるので」
ことばの裏には、必ず威圧があった。――わが北条家あっての徳川。もし北条家がつむじ[#「つむじ」に傍点]を曲げれば、徳川は存在し得ない。これが北条方の通念だった。
事実。――家康は信長の死を契機として北条家とは事なかれ主義をとって来た。
(徳川家では、信州を伐《き》り取ろう。北条方は、上州をお取りなさい。そして、お互いには、侵《おか》し合わないことにしよう)
本能寺|変《へん》という大転換と混乱の起ったとき、北条、徳川の間で交わされた秘密協約は、それだったのである。
で、秀吉が、山崎の合戦から今日まで、主として、中央に多忙を極めている数年間に、この二強国は、遺憾《いかん》なく、火事泥的《かじどろてき》な斬り取り稼ぎに飽満《ほうまん》した。
その間、どっちも、苦情は少なかった。
和睦《わぼく》のちかいに、家康は、わが娘を、氏政の子の氏直に嫁《とつ》がせもした。
この婚姻政策は、小牧戦にも、重大な効力をあらわした。――もし、そのクサビが打ってなかったら、秀吉と氏政とは、たちどころに連盟《れんめい》を唱え、天正十三年にはもう徳川氏の名は東海から払拭《ふつしよく》されていたにちがいなかった。
北条氏政は、這般《しやはん》のかけひきに、誤算を持つような男ではない。
かれは、五十を出たばかりで、はやくも息子の氏直を族長にたて、身は小田原城において、事実の執政は握っているが、名は截流斎《せつりゆうさい》と称《とな》えて剃髪《ていはつ》し、家祖|早雲《そううん》以来の野望はなかなか衰えてはいない。
(家康は食えぬ男よ。この氏政をも、あやつる気でおる)
北条家の隠然《いんぜん》たる庇護《ひご》が、ようやく家康の位置を大ならしめて来たと気づくと、氏政は、さっそく、浜松へたいして、手強《てごわ》い督促使《とくそくし》をうるさくさし向けた。
(天正十年来、和睦と同時に、徳川どのは信州を斬り取り、北条家は上州を自由にするという協定であったのに、結果として、徳川家は、佐久郡その他の地方を加えられたにかかわらず、当家においては、上州沼田ノ城を、貰い受けるべきなのに、上田の真田《さなだ》安房《あわの》守昌幸《かみまさゆき》が、何としても、明け渡さぬ。――その真田昌幸は、まぎれもなき貴家の臣である。真田を追い払って、即座に、沼田城をわれに渡されたい)
と、いうのである。
当然な、要求だった。
また、家康としては、小牧の事は終っても、秀吉以外に、背後に、新たな大敵をつくる不利は、分りすぎてもいる。
「心得申した。さっそく、真田安房守に云いやり、氏政どのの御意《ぎよい》に添うであろう」
家康は、こう答えて、ただちに真田の上田城へ、再三ならず、沼田明け渡しの命を達した。それを怠っているのでは毛頭ない。
ところが、上田の真田昌幸《さなだまさゆき》や、その子|幸村《ゆきむら》などの一族は、頑《がん》として、これに抗し、
「沼田も渡さぬ。上田もうごかぬ」
と、家康の命を、いっかな聞きいれる気色もなかった。
家康からの頻々《ひんぴん》たる督促《とくそく》にたいし、真田《さなだ》の方にも、一《ひと》かどの云い分があった。
理由はこうなのである。
「沼田ノ城は、先年、われらが一族の運命を賭《と》し、われらのみの力で、領土に加えたものだ。家康の力をかりて取得した地ではない。――それを何で、突《とつ》として、北条家へ明け渡せと命ずるのか。徳川家に、どうしてそんな権能《けんのう》があるのか」
命令の不当をこう鳴らす者は、ひとり真田父子ばかりでなく、一族|末輩《まつぱい》にいたるまで、
「渡すな。たって、開け渡せというなら、適当な替地《かえち》を先によこすべきだ」
という輿論《よろん》だった。
もともと、徳川対真田の関係は、主従というほど密接なものではない。――当時の大国が、どこでもやっていたように、自国の境や、遠隔の飛び地に、それとなく手なずけておいた程度の――一衛星国――それが徳川家における上田城の真田だった。
しかし、真田昌幸は、小さな存在でも、百錬《ひやくれん》の巧者《こうしや》である。武田氏の滅亡では、武田系の属将はほとんど亡散《ぼうさん》して、その名も形骸《けいがい》も社会の表面から消されてしまったが、かれのみは、信州上田に拠《よ》って、主家の潰滅後も、信長とうまく結んで、その本領を、無事にもちつづけた。
さらに、信長が死ぬと、越後の上杉と手をにぎり、上杉北条の合戦に、北条家の優勢を見越すと、また北条家にたよったが、間もなく、今度は、家康に倚《よ》って、徳川家の方略に従って、衛星国的な役割を果していた。
昌幸《まさゆき》の経歴は、こういうふうに離反《りはん》常なきものだった。手腕家ではあるが無節操であり、計謀に富むが、気局は大きくない。評されれば、その通りである。しかし、朝《あした》に夕べを計《はか》られぬ戦国の群雄たちの中間に挟まって、ささやかなる一族郎党を養い、しかも、亡家武田氏のほかには心から仕《つか》える主も持たず――とする心底のものを秘《かく》して、上田の小城《こじろ》一つでも持ちこたえて行こうとするには、こういう衛星国的な処世術も、またやむを得ないものがあるといえる。
それもただ、地の嶮《けん》を守って、生きながらえていようというだけの消極的なものではなく、昌幸も次男の幸村《ゆきむら》も、実は、鬱勃《うつぼつ》たる雄心《ゆうしん》を蔵していた。一族や、家臣のともがらにしても、みなこれ、かつて甲山《こうざん》の強者《つわもの》であり、すくなくも天目山《てんもくざん》以前までは、織田も徳川も何する者ぞ――と、信玄|盛時《せいじ》の自尊心はなお高かった者どもである。
だから、天正十年、信長の死によって、一時天下|紛乱《ふんらん》のすきに乗じて、北条や徳川の群雄が、さかんに小国の伐《き》り取《と》りを稼《かせ》いだ折も、小国ながら真田一族も、その尾について、領土を伐《き》りひろげた。――上州の沼田は、当時、かれらが手に入れたものなのだ。
それを今、やみやみ北条家へ明け渡せという。これは、渡さんと頑張るのも、むりはない。
しかし北条家では、
「約束がちがう」
として、厳重な抗議であり、家康としては、西に秀吉をひかえ、その秀吉から自己の衛星国を仮借《かしやく》なくもぎ[#「もぎ」に傍点]取られている今日、あえて背後の強大な北条家と不和をこのまぬのはいうまでもない。
「小の虫をころして、大の虫を……」
と、いう当然な打算は、また当然、高圧的な厳命となったので、真田《さなだ》方は、ついにその主体国徳川へ、弓を引いても、と悲壮な覚悟をかためるに至った。
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若《わか》き日《ひ》の幸村《ゆきむら》
「理不尽《りふじん》な、徳川」
「こうなれば、一戦あるのみです。何の、大国とて」
「沼田を北条に明け渡し、上田城一つとなってから、難題をいわれて、その期《ご》に、自滅を招くよりは」
「われら小勢ではあるが、高原《こうげん》信濃《しなの》の地勢をもって、冬まで持《も》ち支《ささ》えれば、四囲の情勢も変って来よう」
「いやいや、家康も名将、この夏中に、揉みつぶさんと、一挙に大兵をさし送って参るにちがいない。――その覚悟と備えをもたねばならぬ」
上田城に集合した真田《さなだ》一族の軍議の空気は、一も二もなく主戦的であった。
誰もが、これ以上、大国の隷属《れいぞく》あつかいに頤使《いし》されるよりは――と、堪忍の緒をやぶった顔つきだ。
しかし、上田、沼田の二領地をあわせても、すべてで兵は二千人、侍は二百足らずという貧弱さである。
今日の徳川は、既にきのうの徳川ではない。この小をもって、よくかれの強大と戦えるだろうか。
事、その問題となると、心細さは、誰の面上にもあった。
城主、真田昌幸、老臣赤庄伊豆守、高槻備中守、小池淡路守。侍頭、根津長右衛門、大熊源右衛門。丸子衆《まるこしゆう》の東条又五郎、米沢大隅守。それに、客臣の板垣修理之助などがいたが――その中でひとり、すずやかな容子《ようす》を持っていたのは、城主の次男、真田|弁次郎幸村《べんじろうゆきむら》だけだった。
弁次郎幸村は、その年、十七歳であったという。
「於弁《おべん》」
かれは、父からそう呼び慣《なら》わされていた。
「そちも、何か一言《ひとこと》、意見はないか。一族浮沈のさかいだ。常とちがって、慎《つつし》みは無用。吐きたい意見は、遠慮なく吐け」
「はい……では」
と、於弁《おべん》はすこし膝をすすめて、
「愚見を申しあげてみます」
「うム」
と、父は、十七歳のわが子が、こんな時何をいうかと、十七年の育成の結実をいま見るように、じっと見まもった。
「最前――当家の客将板垣修理之助さまが仰っしゃった意見に私は賛成です。いくら強がっても、微弱な小国が、大国に勝てないのは、明白です。……故に、越後の上杉景勝どのに援軍を頼むというお考えは、無上の策です、ほかに策はありません」
「だが、於弁。――それについては、とても上杉家で聞き容《い》れ申すまいし、また、この昌幸からも、今さら申し出で難《にく》い事情を、そちも今、聞いていたろうが」
「はい。その理由は、さきにわが真田家は、上杉家に隷属《れいぞく》し、その誼《よし》みを破って、北条家に奔《はし》り、また徳川家の与党《よとう》に変ったということでございましょう。つまり、一度、裏切った上杉どのには、われらに対して、全く信用があるまいという危惧《きぐ》でしょう」
「そうじゃ。その通り」
「おそらく、上杉家としては、亡ばば亡べと、嘲《わら》って見ていたいところでしょう。けれど、その上杉家でも、頼まねばなりません。さもなくば、われらは、滅亡します。どんな恥をしのんでも、生き通さねば」
「――というて、動かぬ上杉を、動かす策も、あるまいが」
「あります! ないとしてしまえば、ない。しかし生きる道です。あらしめねばなりません」
幸村《ゆきむら》の説《と》くところはこうだった。
「いま、各国の勢力と、版図《はんと》の推移を見ようとするなら、諸国の城主をいちいち指折るにはあたりません。大坂の秀吉か、東海の家康か。この二つを考えれば沢山です。われらは既に、その方から離脱したのですから、当然、この先の運命は、大坂方へ寄せるしかないでしょう」
明確な時勢観である。
昌幸も、人々も、みなうなずいた。
「上杉家の外交も、その二つを目標にしながら、しかも双方へ、不即《つかず》不離《はなれず》の日和見《ひよりみ》主義を取っています。ですから、われらが徳川を離れたから援《たす》けてくれと申し入れても、徳川を正面の敵に持ってまで、援助するかどうか、疑わしいものですし……殊には今さら、上杉家へ、面目が悪くて、そんなことは云い遣《や》れないという父上の悩みもある」
昌幸は幸村がいう通りな苦悩の色を、かくすことなく面《おもて》に見せて、もいちど深くうなずいた。
幸村は、言葉をついだ――
「率直に、大坂表へ使いをたて、羽柴どのへ、いきさつ[#「いきさつ」に傍点]を述べて、あなた以外にお助けねがうお方はありませんと縋《すが》りつく一手あるのみです。――そこで、秀吉公の胸中を察するに、これは迷惑とするよりも、時もあれ、うまい鳥が舞いこんで来たとよろこぶでしょう。理由は、大坂と浜松との、小牧以後、両者の冷たい和睦《わぼく》ぶりと、この春の紀州、四国にわたる大坂方の積極的なうごきを見れば、三歳の児童でも読みとれましょう。……そして、なおなお、大坂の秀吉公が、われらの背後にありときまれば、上杉家とて、粗相な動きはできません。当家より、援軍を求めるとしても、さまで、不面目な屈辱をもってしないでも――上杉家自体のために、応じて来ましょう」
「於弁《おべん》! ……」
父の昌幸は、幸村が云い終るやいな、声に、涙すらもって、その着想の非凡を、ほめ称《たた》えた。
「よくいった。いかさま、われらは田舎武士、井蛙《せいあ》のような眼孔《がんこう》をもって、周囲を見てばかりおるために、於弁の申すような大局に気づかなかった。みなは、どう思う」
板垣修理之助をはじめ、座中の老巧な智将たちも、今さらのように、十七歳の弁次郎幸村に、啓発《けいはつ》された面持《おもも》ちであった。
「若殿のおことばこそ、実《げ》にもと、同感にたえません。三日にわたる御評議も、弁次郎様の御一語をもって、各※[#二の字点、unicode303b]、腹のすわった心地がいたしましょう」
と、異口同音であった。
「では、たれが大坂城へ、使いに立つか」
という問題になると、これまた難しかった。時めく秀吉、噂にのみ聞いている大《だい》大坂の金城に入って、秀吉を説きつけるということにおいて、この山国の一小国の臣としては、己れを知る者ほど、自から怯《ひる》まずにいられなかったのである。
「私が参りましょう」
幸村は、すすんで、この使いの役を、父に乞うた。
そして、従者には、板垣修理之助を希望した。修理之助は、客臣として身をよせている浪人だが、その父は、甲州の名将として有名な板垣信形《いたがきのぶかた》であり、日頃、於弁ともよく気心が合っていた。
「ゆめ、徳川家の者に、気《け》どられるなよ」
父や一族は、於弁に細心の注意を与えた。
旅立つ二人は、田舎武士の兄弟ふたりが、修行がてら、上方見物にでも上《のぼ》るような態《てい》に見せて、中仙道《なかせんどう》木曾路から、大坂へ潜行した。
二人は、わずかな縁故をたどって、まず浅野弥兵衛長吉のやしきを訪ね、弥兵衛に連れられて、大坂城内で、秀吉に会った。
秀吉が折ふし、四国平定の帰結を得て、ひと息ついていたところだった。そこへ、信州の一地方から、思いもかけぬ真田家の申し入れである。事は小さいが、逸《いつ》すべからざる快報と彼は聞いた。
「ふム、ふうむ。……いや、よくわかった」
秀吉の肚はすぐ決まっていた。けれど、諾《だく》とも否とも答えない。ただ使者の真田弁次郎の容子《ようす》ばかり見まもっていた。殊に、弁次郎幸村が、秀吉の意をうごかそうとして、若い情熱を耳朶《じだ》に染めながら、怯《ひる》みなく自己の意見と、懇請《こんせい》とを述べるあいだ、秀吉は、聞き惚れるように、眼をほそめた。
「真田どのの次男と申すことだが、お汝《こと》は、ことし何歳になるか」
秀吉の問いに、弁次郎が、十七歳になりますと答えると、かさねて、
「兄は?」
と、訊かれた。
「はい、兄の昌輝《まさてる》は、天正三年、長篠《ながしの》の合戦に、武田勝頼様について出陣し、徳川勢に当って戦死いたしました」
「無念とおもうであろうな」
「私がまだ七ツの頃です。何も覚えておりません」
「でも、骨肉の情として、徳川家にたいし、どこかに、恨みは残るであろう」
「春秋《しゆんじゆう》の世の慣《なら》いです。一個一個の私的な恩怨《おんえん》など、生涯持ってはいられません。たとえ徳川どのであろうと、今度のような理不尽な威圧を父へ押しつけねば、父も、私を使いとして、わざわざ大坂表まで、御当家の庇護《ひご》をお願いにはよこさなかったでありましょう」
「では。……もし秀吉が、その方たち一族の乞いを退《しりぞ》けたら、真田どのは、どうする気かの」
「さもあれば、父の心はわかりませんが、私としては、いかなる屈辱《くつじよく》にも忍んで、即座に、浜松どの(徳川)の御意に従い、他日の力を養いおいて、やがて徳川軍が、大挙、大坂表へ攻め上る日には、その先鋒《せんぽう》を承《うけたまわ》って、いささかの功を挙げ、もって、今日の御好意に対するお礼といたしとう存じます」
「はははは」
秀吉も笑うほかなく笑って――
「浜松どのとこの秀吉とは、つい先頃、和睦いたして、今ではこよない程のよい仲じゃ。何とて、徳川勢が大坂へ攻め上る日があろうぞ」
「なければ、御当家の大幸です。けれど、われら小国の輩《やから》は、自存のために、御当家へ拠《よ》るか、浜松どのへ頼《たよ》るか、二つのうち、いずれかを選ばねばなりません。もし、御当家がわれらの乞いをお容《い》れ下さらねば、徳川どのへ、眼をつぶっても、屈せぬわけにゆきません。世に、大国小国は多しと見えても、ここ数年ならずして、天下はひとつに成りましょう。即ち御当家に非ずんば浜松どのです。ですから、われら一族を、どっち側の者にしようと、それはむしろ、あなた様のお心次第と申すものです」
正しく大局の趨勢《すうせい》をついている言だ。信州の山国育ちに似合わず、しかもまだ総角《あげまき》の一少年が、諸侯といえども畏れをもつ大坂城へ初めて臨んで、自分の前で、この大言をなすことよ――と、秀吉は、弁次郎の使者振りを、一しおうい[#「うい」に傍点]奴と見入りながら云った。
「よしよし、倚《よ》るなら大樹の蔭という。……秀吉に拠《よ》るがいい、庇《かぼ》うてとらせるぞ。心配すな」
秀吉はこの少年使者がよほど気にいったとみえ、その夜は大坂城に泊めて馳走し、翌日、時服《じふく》と刀を与えて、郷里へ帰した。
立ち際に、弁次郎幸村は、もういちど秀吉に、念を押した。
「帰ったら一族どもに、よくお言葉を伝えます。そして、実行に移ります。けれど、上杉家との交渉は、どういう風にいたしますか」
「上杉家へは、べつに大坂表から、すぐ密使をやって、お汝《こと》らへ、加担《かたん》するように申しておく。その辺も、心配すな」
「では、われらからは、特に申し入れは要《い》りませぬか」
「いや、真田どのは真田どので、従来のいきさつを詫び、幾重にも、加勢を頼むにしくはない」
「わかりました。首を長くして吉左右《きつそう》を待っている一族どもも、さだめし、よろこぶことでしょう。御高恩はわすれません」
於弁《おべん》は急いで信州へ帰った。
たれか思おう。
――以後二十余年の後、豊家の遺孤《いこ》を守って、徳川老|大御所《おおごしよ》の関東軍との義戦に、この一少年弁次郎が、いわゆる九度山《くどやま》の隠者《いんじや》真田幸村として、大坂入城者の到着簿《とうちやくぼ》第一にその名を見出す日があろうとは。
於弁の帰国に、真田一族はただちに、上田城の戦備をかため、
「あいさつは、これまで」
と、以後の浜松からの使者を追い返し、要路の交通を断《た》ッて、一方、上杉家の川中島衆を通じて、来援をたのんだ。
大坂表からは、秀吉直筆の迅速《じんそく》な飛札《ひさつ》が、すでに越後にとどいていた。上杉景勝としても、これを地方の一紛争と軽く見てはいられない。必然、自藩の運命を、秀吉に賭《か》けるか、家康に賭《か》けるかの大きな岐路に迫られたのである。藩論は、援兵を出すときまった。河田|摂津《せつつ》、本庄豊前などを将として、川中島衆六千の兵が、それに急派された。
徳川方は、真田を、寡少《かしよう》評価していた。
「昌幸《まさゆき》は信玄仕込みの戦《いくさ》の巧者にはちがいないが、山国の小戦《こいくさ》に長じているのみで、まだ真の大部隊に直面した兵法者ではない。城は小城《こじろ》、人数は三千に足りぬ小国。或いは、浜松の大軍を見たらすぐ降参に出るやもしれぬ」
こういう見解をもつ者が多かったのである。
徳川軍の総数は、一万八千をこえていた。信州奉行の大久保七郎右衛門。甲州奉行の鳥居彦右衛門。保科肥後守、同弾正、諏訪安芸守、平岩七之助、駒井右京など、二州の寄合衆に、浜松からは、井伊直政、城伊庵、玉虫二郎右衛門、矢代越中守などの諸将がそれに合流した。
八月上旬、この大軍は、上田城外一里余のかんが[#「かんが」に傍点]川に、その全容をあらわした。
城頭から眺めると、それは味方の十倍にも見え、軍装備のちがいが目についた。特に鉄砲隊などは、中央に接している強国間では、いかに急速な進化を示しつつあるかを物語っている。
「あの人数と装備で、城の木戸へ寄せられたら一たまりもない。敵が、かんが[#「かんが」に傍点]川を越える途中を、不意に打つべしだ」
昌幸《まさゆき》を中心に、諸将の意志が一致した。しかし客将の板垣修理之助は、
「下策です」
と、反対した。
「かんが[#「かんが」に傍点]川は、千曲《ちくま》の支流で、越ゆるに難儀なほどではない。城兵の半分を向けても、おそらく鎧袖一触《がいしゆういつしよく》でしょう。――むしろ、近々と引き寄せて、全力でこれを撃つべきです」
衆議は、修理之助の計を、採《と》ることに決めた。
「すぐ、手配を」
と、昌幸の考えによって、伏兵に出る組、敵の誘いに出る組など、持場持場の将と兵数など、指揮していると、
「徳川勢から、大久保、鳥居の名をもって、誘降《ゆうこう》の軍使が来ました」
と、大手を守っていた弁次郎幸村が、父へ伝えて来た。
「そちが、軍使に会ったのか」
「はい。主旨をきいてみたところ、かれらは、その大軍に誇って、こういうのです。――昌幸以下、いかに戦うも、徳川どののこの大軍につつまれては、いかんとも敵《かな》うまじ。前非《ぜんぴ》を悔いて、降参せよ。さもなくば、一《ひと》もみに、踏みつぶすであろう――と」
「まだ、一矢《いつし》も交《ま》じえぬうち、降伏せいとは、真田一族が骨のあるのを知らぬ奴らだ。於弁《おべん》、軍使に来た奴を、大手の木戸からつまみ出して、二度と参らば首を刎《は》ねるぞと申してやれ」
「それは痛快でしょうな」
「雑兵どもに、手を叩かせて、逃げもどる軍使を笑ってやれい。――士気も振《ふる》おう」
「いや、そんな小さい快味をむさぼることはどうでしょうか。すでにわれらの計は、遠く大坂につながり、北越とむすび、天下の風雲と、懸引《かけひき》の呼応《こおう》を持っているものです。地方的な小ゼリ合いなら、そんな戦《いくさ》遊びも面白いでしょうが、もすこし、御自重《ごじちよう》ねがいとう存じます」
「では、何とするのじゃ」
「お父上みずから軍使を迎え、いんぎんに、且つ、篤《とく》と先方の誘降文に耳を傾けて……心おどおど[#「おどおど」に傍点]と、弱味を示し――そして、何分の御返答をいたすまで、三日の間、御猶予ねがいたいといってお返しなさいませ」
「そして?」
「三日あれば、川中島衆も、ことごとく徳川勢のうしろまで、枚《ばい》をふくんで、つめ寄りましょう。われらも、それぞれ身を変じ、奇兵をひっさげて、彼方此方の要路にひそみ、充分、埋伏《まいふく》の計《けい》を図《はか》ることができます」
「そうか。三日の後に、手切れを云いやり、かれらの憤怒《ふんぬ》を誘いよせて討つか」
「味方は、時を稼ぎ、敵は惰気と奢《おご》りを長《ちよう》じ、かれの大軍と、味方の小勢は、そこで互角に、立ち合えましょう」
「そうしよう! 於弁、軍使をすぐこれへ伴《ともな》え」
「いいえ、お父上みずから、中門まで、出迎えにお越し下さい」
親ながら、於弁の才能を認めている昌幸は、子息のいうがままに、軍使を迎え、そして、三日の猶予を乞うて、返した。
三日目が来た。返事がない。催促が来る。さまざまないいわけをする。そして、だらだら七日も十日も引っ張っておいて、さいごに、手切れを通告した。
徳川軍は、憤怒の勢いを示し、その日のうちに、かんが[#「かんが」に傍点]川を押し渡り、上田城へつめ寄せた。
大久保、鳥居の両部隊のあいだで、作戦の不一致が起った。大久保勢は、町へ火をかけて、焼き立てろという指揮を出したが、鳥居勢は、
「こんな道幅の狭い宿場町に火をつけたら、土地に不案内の味方は、かえって、袋露地に迷ったら、引き揚げにも困難する」
と反対して、敵城を前に、云い争った。
城中からは、昌幸の指揮のもとに、真田方の精兵が、二段、三段とわき目もふらず、突いて出た。
すべて古い城下町の道路というものは、交通の便や、美観よりも、その主眼は、一朝《いつちよう》有事《ゆうじ》の場合の守備の町≠ニして設計されてあるものである。
信玄の治下に、甲州流を基礎として出来た甲斐、信濃地方の、城のあった古い町は、旅行者として、いま見ても、その構想の跡がわかる。
野戦に馴れた三河武士の精鋭も、山国のそうした迷路の町≠ヨ踏みこんでは、進退の雄飛を欠いたのもむりはない。
加うるに、かれらは小牧以来、やや自負しすぎていた。また、真田一族なるものを、単に、それだけの地方的小武族と、見くびっていた。
たちまち、混乱が起った。
「町屋は、焼くな」
「火を放《つ》けろ、焼き立てろ」
まったく反対な二号令が、同じ寄手から起っているまに、もう諸方から、もうもうたる黒煙《くろけむり》が立った。
往来は複雑で、通りぬけられるかと思うと、行きどまりだ。西へ出るかと思うと、東へ出てしまう。
大軍だけに、混乱は大きい。――しかも、城門から殺出《さつしゆつ》した真田昌幸の兵は、その火や煙を利用し、出没を極め、徳川勢をいたるところに捕捉《ほそく》して、
「手並みを見よ」
と、痛撃を加えた。
城際《しろぎわ》から町屋へ混《こ》み入った大久保忠世の兵、鳥居彦右衛門の兵、井伊直政の隊など――どれひとり弱兵というのではないが、時と所と統率を得ないではその力も奮《ふる》うすべもない。
やがて、総なだれとなり、元の陣線へ引き揚げようとするらしいのだが、その道がわからない。
そのうち、町屋の二階や、農家の戸内から、伏兵の狙撃《そげき》をあびて、おびただしい死傷が積まれた。
城頭の昌幸は、旗を振って、第二の合図をした。
城下を遠く、三々伍々、逃げ散ってゆく敵の影が、やがて小高い山や、河原にかたまり、味方の集合に、焦躁《しようそう》している。
昌幸の旗合図と共に、忽ち、そこらの林や、山蔭から、一隊、また一隊、真田方の伏兵が起《た》ちあらわれ、息をついている徳川勢へたいし、猛鷲《もうしゆう》のように、つかみかかって行くのが見える。
その中に、弁次郎幸村も、一隊をひきいて、鳥居勢の旗本へ、挑《いど》みかかっていた。
徳川勢は、そこでも叩かれ、川を逃げ越えて、真ッ黒に散ったが、折ふしの増水で、溺れ死んだ者もかぞえきれない。
しかも、かれらが落ちゆく先には、上杉方の川中島衆が、要路をふさいで、小鳥の大群を待つかすみ[#「かすみ」に傍点]網のように、仮借《かしやく》ない打撃を与えた。
――とまれこの一戦は、以後数日にわたって、徳川軍の大敗北に帰した。三河武士として、かつて前例のないほどな大クロ星をつけたのである。
手を焼いた猫。それのように、以後、徳川軍は、上田城を遠巻きにし、兵糧の道をふさいで、動かなかった。
上杉の川中島衆も、遠くにいて、積極的には出なかった。むしろ、かれらは、自国の境に立つという態度で。
昌幸は、動かぬ敵の持久策に、実は弱った。何しろ、小城である、長く持てる自信はない。
「この上は、上杉景勝自身の出馬をたのむしかないが……」
と、考えた。しかし、景勝の出馬が容易でないことは、わかり過ぎていた。
「父上」
と、幸村がいった。
「なんじゃ、於弁」
「御苦悩を、お察しします。どうか、私を、越後へ、人質にお出し下さい」
「そちが……行くというか」
「はい。一方、大坂表へも、お使いを出し、秀吉公から上杉家へむかって、再度の御催促あるように、おすがりなさりませ」
「徳川勢は、冬を越す構えである。冬になっては、景勝どのの出馬もむずかしい。……行くか、そちが」
「大坂への使いには、修理之助を、おつかわしになり、私は、お父上の書簡を持って、越後へ行きます。そして、景勝様の春日山《かすがやま》に、そのまま、質子《ちし》として、留まりますが、必ず、景勝様の出馬を実現せずにはおきません」
父子は、肚をきめた。
板垣修理之助は、ふたたび大坂表へ。また、幸村は、従者三名をつれたきりで、城を出、敵の重囲から脱出した。
越後春日山の上杉景勝は、孤城上田を脱して、父の書簡をもたらして来たこの年少なる使者が、
「父の以前の行為にたいし、御不信も抱かれましょうが、私の身を質子として、御当家にとどめおき、何とぞ、危機の上田城をお救い下さい」
と、健気《けなげ》にもいう弁次郎幸村の言にうごかされて、
「よし。きっと、景勝自身参って、うしろ巻きしてとらせる」
と、誓った。
もちろん、すでに大坂表からも、秀吉の名をもって再三、景勝に懇請《こんせい》が来ていたのである。
上杉家は、軍備にかかった。
越後にはいっていた徳川家の細作《さいさく》(第五列)は、すぐ浜松へ、変を知らせた。
家康は、愕然《がくぜん》とした。
「――上杉が?」
と疑うほど、これは、よもやと、予期していないことらしかった。
すでに今度の信州討伐軍が、その序戦からして、大失態を冒《おか》したことを、彼は心中に、自分の生涯の不覚と悔いていたところである。
加うるに今、景勝自身、兵を信濃へすすめて来たら、これはもう一|真田《さなだ》の問題ではなくなってしまう。
「自分も、出ねば……」
と、考えられてくる。
家康が今、浜松を空《あ》けて、馬を信濃に立てるとしたら、まず北条の向背《こうはい》も、疑問になる。
小田原の北条が、
(絶好なとき)
として、すぐ相模《さがみ》を出、駿河に立ち入り、乱を、東海に望むであろうことは――ないといえない。
しかも、大坂の秀吉は、自己の思いどおりな形が、ここに描き出されたものとして、いつ家康の足もとから大規模な次の事態が、惹起《じやつき》されないものでもない。
「……どうしたものか」
家康は、爪をかむばかりであった。――もうひとつ、かれの心に、絶えない危惧《きぐ》は、岡崎、浜松の将士の間に見える小牧以後の不満と不穏な空気である。
「そうだ。忍ぼう。忍《にん》の一字を護符《ごふ》として」
家康は、信州の出先き軍へたいして、即日、引き揚げを命じた。
九月二十四日以来、全部隊は、上田から退軍を開始した。真田昌幸は、逸《はや》る城兵を抑えて、これを追わなかった。
図に乗って、徳川勢を追わなかったのは、さすがに兵事に老巧な真田昌幸の賢明なところだった。
また、一時的な世上の嘲笑などにこだわ[#「こだわ」に傍点]らず、「これは、まずい」と観《み》るやいな、見切りをつけて、すぐ全軍の撤兵《てつぺい》を命じたのは、これも、さすがに、家康といわねばならぬ。
進む決断はやすく、退《ひ》かせる果断は難《むずか》しい。――内部の不平、世上のあざけり、自己の面子《メンツ》、あらゆる意味で、甘んじて負けて引き退がるほど、困難なことはない。
しかし、もし家康に、大局の明《めい》もなく、将来の見通しもつかず、もう一歩、強がって、
(景勝が出馬して、真田を助けるなら、自身も、馬を信濃に進めん)
とまで、動いてしまったら、もうそれは実に、秀吉の術中に陥《お》ちないではいられなかったであろう。なぜならば、秀吉は、すでにそうなった後の、第二次小牧戦の秘策をえがいて、
(家康、うごく)
という情報が、今くるかくるかと、首を長くして、大坂城中の深くに待っていたからであった。
かりに家康が、軽々たる世上の思わく[#「わく」に傍点]や面子《メンツ》にとらわれて、頑として、一真田の小城にかかわり、自身、それに動いた場合はどうなるかと想像すれば、まず第一に、隣接の大国北条が、かならず野望をこの時に乗ずるであろうし、大坂小田原間の密使は、何を約し合うか分るまい。
加うるに、さきに蟹江《かにえ》あたりを窺《うかが》った上方の海軍も、遠州、駿河沖あたりに遊弋《ゆうよく》しはじめ、美濃、伊勢、甲州にわたる信雄の与国は、秀吉に促されて、いや応なく、ふたたび第一次の小牧戦よりはるか岡崎に近く東下して来るであろう。そして今は、徳川を支持する北越の友軍もなく、大坂の背後をおびやかす、四国、紀伊などの同志もなく、家康は完全なる孤立を四囲に迫られて、
(ついに、小牧のおもしろからぬ結着に、自暴自棄の戦を求めて、あえなく、世の大勢をみな敵にして、むなしき最期を告げられた)
という彼の半生の終りと、歴史の一小曲をとどめて、彼家康の名は、ついにそれだけのもので終ってしまったろう。
――が、家康は、秀吉の肚を見抜いていた。
(誇れよ、真田。豎子《じゆし》に一時の名を成さしてやろう程に)
家康は、笑って、負けた。――この負けは、その価値の大なること、どんな大勝利にもまさるものであったことは、爾後《じご》の月日が、証明した。
この地方事変も、天正十三年の春から九月末までの、約半年にわたる出来事で、秀吉としては、その年の主力的な行動企画の線ではなかったが、家康とすれば、あやうくも自己の命とり≠招くやも知れなかった危険なる転落の崖《がけ》ふち[#「ふち」に傍点]だった。
得意は、時みじかく、不遇は長い。
またよく俗にもいう泣きッ面《つら》に蜂は――ひとり個々の小さな世帯異変《しよたいいへん》だけではない。
この頃、家康の運命率は、どっちを向いても、まずい事だらけだった。
わが勢力下の一被官と信じていた真田にそむかれ、しかも忍び難い敗退を余儀なくされて、家中の士気も滅入《めい》りこんだままの年の冬も十一月の半ばという頃。――またぞろ、家康の肌をそそけ立てるような深刻な事件がかれの内輪から突発した。
[#改ページ]
冬《ふゆ》の風《かぜ》
星一ツない、墨の夜空と、きびしい冬を示している大地。
沈黙の巨人のように、岡崎城の物見櫓《ものみやぐら》が、木枯しの中に、突っ立っている。狭間《はざま》狭間にも、こよいは、灯影が見えない。二の丸、外曲輪《そとぐるわ》などをつつむ樹林の闇が、吼《ほ》える空にあわせて、潮《うしお》のように、ただ揺れ鳴っているだけだった。
十一月十三日の――宵すぎた頃である。
つねに二の丸にいる物頭《ものがしら》の初鹿野《はじかの》伝右衛門は、余りに烈風なので、持場を一巡して、何気なく本丸|境《ざかい》の小高い芝地に立って、耳もちぎれそうな寒風の中に立って、闇一色のあたりを眺めていると、どこかで、馬のいななきが、ふた声三声きこえた。
「……はて、たれが出て行くのだろう?」
平常、開けることのない隠し門から、だらだら坂を下へ、馬のひづめや、かすかな人声が、ひそやかに、降《お》りて行く。
二人や三人の気配ではない。少なくも二、三十人は続いて行ったかとおもわれる。
伝右衛門はあわてて、本丸との境にある中木戸へ駈けて行った。
「番士。おいっ、番の者」
詰番《つめばん》の小屋をのぞくと、灯もない小屋の中から、当番の士が二人、牛のように、眠たげな顔を出した。
「あ。初鹿野《はじかの》さまですか」
「なんだ、いるのか。どうして燈火《あかり》をつけんのだ」
「今夜は、風が烈しいから、一切、燈火《あかり》は用いるなと、夕刻、御城代からのお申しつけでございました」
「おかしいじゃないか」
伝右衛門は、首をひねって云った。――二の丸から見ても、本丸の無数な狭間《はざま》に、一点のあかりも洩れていないのが、さっきから、不審に思われていたのである。
「冬の木枯しは、三河《みかわ》名物だ。風のひどいのは、こよいだけではない。今夜にかぎって、灯をともすなとは、どういう仔細《しさい》か」
「てまえどもには、分りません」
「御城代は」
「きのうから、お風邪気《かぜけ》だそうで、引《ひ》き籠《こも》っておられるとか、伺いましたが」
「ふウむ。……では、今し方、隠し門の裏坂を降りて行った大勢の者は、どなたの組の者が出たのか」
「存じません。べつに、てまえどもには、何もお沙汰はありませんから」
伝右衛門はいよいよ怪しんだ。――というのは、日頃からかれの胸には、城代の石川|伯耆守数正《ほうきのかみかずまさ》にたいして、一つの同情と、また或る疑惑とが、同棲《どうせい》していた。
で、もしや? ……という危惧《きぐ》がすぐ胸をついたのである。かれは本丸へ通って、数正《かずまさ》に直属している物頭《ものがしら》の工藤三五郎に会って、
「数正どのにお会いしたいが」
と、云ってみた。
「お風邪気《かぜけ》で――」
と、三五郎はすぐ断った。
「きょうも終日、お引き籠りで、人を通すなと、かたく仰せられて、臥《ふ》せっておられますので」
「では、御近習《ごきんじゆ》を、呼んでほしい」
と、伝右衛門は、ほかの者に会って、容体をたずねた。
ところが、たれの返辞も、あいまいである。のみならず、灯のない侍部屋の人々が、すべて、今し方、隠し門から出て行った一組の人間については、
「ほ。そんなことがありましたか?」
と、何も知っていないのであった。
それから間《ま》もない後。
初鹿野《はじかの》伝右衛門は、大股に、城門をうしろに、真っ暗な城下町の方へ歩いていた。
途々《みちみち》、彼は、
「――騎馬をまじえた二、三十名の者が、黙々と、ここを通りはしなかったか。そして、どっちへ向いて行ったか」
を、人に訪ねて、そのあとを辿《たど》っていた。
先のいぶかしい人馬の一群が行った先はすぐ分った。柳の馬場を半分めぐって、侍小路へ曲がる濠端《ほりばた》の二つ目の辻――そこの大きな角屋敷《かどやしき》だった。
「果たして、伯耆《ほうき》どの……」
石川|伯耆守数正《ほうきのかみかずまさ》の官邸――いわゆる城代屋敷なのである。伝右衛門は、門前に立って、憮然《ぶぜん》とつぶやいた。
「門をかたく閉じ、ここにも、灯影《ほかげ》はない。尋常に訪れても、会おうとはしまいが……はて、どうしたものか」
思案が必要だと思った。友情で胸がいっぱいなのだ。畏敬《いけい》する友であり先輩である。数正の不為《ふため》を意に介さないならば、事はかんたんだといえるが――極秘を前提として、四隣の耳目《じもく》を憚《はばか》ると、数正に会うことだけでも容易ではない。
表門を去り、横門へ廻った。
ここも、門扉《もんぴ》はかたく、真っ暗で、ただその夜の木枯しばかりが、宵より強く、あたりの樹木をゆすっている。
城代屋敷は、非常の場合、小さい砦《とりで》の代りぐらいにはなるように、小川を繞《めぐ》らし、吊り橋をわたし、すべて堅固な構えにできている。
かれは、さらに、裏門の方へ行こうとした。――と、そこに、さっき着いた四、五頭の駒がまだ暗闇の柳に繋《つな》いであった。そのほか、何か、忙しげに、小門を出入りする人影も見られた。伝右衛門は、しめたと思いながら、小走りに、近づきかけた。――すると、見張の者でも佇《たたず》んでいたのか、
「待てッ。どこへ」
と、呼び止められた。
はっと、振り向いたとき、かれの眸《ひとみ》に、槍を持って身を小具足にかためた兵の影が三人ほど映った。その姿といい語気といい、ただちに、戦時の殺気を思わせた。――が、伝右衛門は、努めて、ことばを穏やかにした。
「二の丸|詰《づめ》の物頭《ものがしら》、初鹿野伝右衛門でござる。御城代に折入って、お会い申さねばならぬことが出来、夜ぶんを押して訪ねて参ったのじゃ。取次いで給われい」
兵士たちは、顔見合わせた。伝右衛門の風采は、見覚えのないものではない。
一名が、小門の中へ走った。
寒風の中に、かなりの時が移った。やがて、やっと、数正《かずまさ》の股肱《ここう》の者らしい年配の家臣が出て来た。そして、いんぎんに謝していうには、主人は、城内に詰めきりで、殊に、数日来、風邪《かぜ》を召されていて、ここへ御帰邸にはなっていない。何かのおまちがいではないか――どうぞ、主人の病《やまい》が癒《い》えるのを待って、城内において御面会ねがいたい――と説《と》き詫《わ》びるのであった。
こういう返辞は、伝右衛門が予期していた通りのものである。かれは、強《し》いて、――微笑をふくみ、相手にも勝《まさ》る辞礼《じれい》で云った。
「いや、なに。……世間へは左様にお沙汰もされておられようが、伝右衛門にお気づかいは無用でおざる。数正《かずまさ》どのに辛く吹いている世間の風と、この伝右をも、一つにお考え下されまい。折入って、それがしも一個、数正どのも、ただ一個の人間として、こよいは、お会いしたいものでおざれば――」
――実は。と伝右衛門はなおいった。
「お風邪でお引き籠りと聞こゆる御城代が、つい今し方、そっと、御本丸を脱《ぬ》けて、これへ御帰邸になったことも、それがしのこの眼で、しかと、お見かけして参ったのでおざる。……イヤ何、知ったのは、幸いにも、それがし一名。たれも、気づかぬことでもあれば、その辺も、御懸念なきようにと、もいちど、御主人へお告げ下さい。会うて、御迷惑は、決してかけぬ」
数正の家臣は、伝右衛門の行き届いたことばと、そして何もかも洞察《どうさつ》しているらしい口吻《くちぶり》に、強《た》って、虚構も云い通せず、ふたたび門内へ入って、彼を外に待たしておいたが、ようやく姿をあらわすと、今度は、
「では、ともかく、お通り下されい」
そこの小門から邸内にみちびいた。
はいると、広いやしき内のそこここに、紙燭《しそく》や短檠《たんけい》のにぶい光がゆらめいているのが見え、室によっては、襖《ふすま》なども取り外《はず》され、何事か、この一軒の中に、大きな変事が起りつつあることを、それらのものの気配≠ェ明らかに語っている。
が、伝右衛門は、何事にも、横見もせず、みちびかるるまま、奥へ奥へと通って行った。
家臣が、先に、一室にはいり、何かささやく声につれて、たしかに、主《あるじ》の数正のことばで、
「……そうか。これへ、御案内」
と、いうのが聞えた。
伝右衛門は、はいるとすぐ、消えがてにまたたく燭台を横にして、半明《はんめい》半暗《はんあん》のさかいに、氷室《ひむろ》のような部屋の寒さにじっと耐えて坐っている六十がらみの一個の老武人をそこに見出した。
「オオ……」
「おう……伝右か」
相対して、しばらくは、ことばもない。
たれよりも親しい仲、たれよりもゆるしている仲の男と男との無言は、いうにまさる万感を語っているのだ。
「…………」
ついに、何もまだ語らぬうちに、伝右衛門の瞼《まぶた》からも、数正の瞼からも、ぼうだ[#「ぼうだ」に傍点]として、湯のような涙がたぎりかけた。
「御城代。……いや数正どの。あなたは、ついに、世間の冬に負けて、こよいの木枯しに身をまかせ、何処《いずこ》へか、敗《やぶ》れ去るお心とみえますな」
「…………」
「御本丸は出られたが、まだお屋敷の内に在《あ》られる。何とか、ここの一歩を、もういちどお考え直しはつくまいか。いや、つくはずだと、わしは思う。――あなたの御年齢、あなたの徳川家における位置、あなたの重責……また抱《かか》えておられる沢山な家従郎党たちのかなしみやら運命の岐《わか》れをお考えになられたら、決して、この一歩は、軽々《かろがろ》とここからは出られぬはずじゃ」
「伝右。待て。……もういってくれるな。辛《つら》い。いわれては辛い」
「意見立ては、いうなと仰っしゃるのか。それとも、考え直すというおことばか」
「いまに至っては」
「いまに至っては――どうなのです?」
「肚をきめた数正じゃ。おぬしのことばは、うれしく聞くが」
「では、どうしても、岡崎を立ち退《の》かるるお覚悟ですな」
「……ぜひもない」
霜も交じえた鬢《びん》の毛を燭に見せて、数正は、がく[#「がく」に傍点]と、項《うなじ》を折るように俯向《うつむ》いた。
「伯耆《ほうき》どの。お恨みにぞんずる。……な、なぜ、決意の前に、こうぞと、ただ一言でも、それがしにお洩らし下されなかったか」
真に、それが恨みとするように、伝右衛門は歯の根を噛むように、心の友の、心をなじった。
(おぬしをのみ、ただ一人の知己とのみ、数正は思うておる)
とは、その数正の口から、この春、正月の酒を共に酌《く》み交《か》わしたときもいったことばではないか。
その後も、この岡崎城を、数正は城代の主将に、伝右衛門は二の丸の副将に、選び任ぜられた時も、
(君だけが、心の友)
と何度、自分にいったか、知れないではないか。
それなのに――と、初鹿野伝右衛門は、数正が、これほどな重大決意を、事前、打ちあけてもくれず、岡崎を立《た》ち退《の》かんとしているのを――不満でならなく思うのだった。
二人の間は、決して、一朝一夕の、交《まじ》わりではない。
伝右衛門は元々、武田家の旧臣なのだ。外様《とざま》も外様、敵国の降参人として、家康の臣列に加えられ、爾来《じらい》、幾戦場の試《ため》しと、平時の居づらさや、同藩の猜疑《さいぎ》などにも耐えて、ようやく近頃、重用されてきた者なのである。
その初めから、彼の人間に傾倒して、陰に陽に、庇《かば》ってくれた石川数正を、伝右衛門は、どれほど、ありがたく、うれしく、自分を知ってくれる真の先輩と拝んで来たことかしれない。
もし徳川家に、数正がいなかったら、自分はとうに、この伝統の強い三河|生《は》え抜《ぬ》きの仲間を去って、ふたたび飄乎《ひようこ》として、浪々の身過《みす》ぎ世過《よす》ぎを送っていたかもしれない――と常に思うにつけて、その恩を、その知己を、感謝している彼なのである。
それだけに、こよい、伝右衛門は、腹が立った。善意に燃える憤《いきどお》りにたえない。
すでに、小牧前後から、信雄と秀吉との、和解以後には、殊に、石川数正が、大坂方とくさい[#「くさい」に傍点]という徳川家一般の者の白眼《はくがん》が――それに耐えている数正の胸中が――伝右衛門には人ごとならず察しられていた。
表面は、豪快《ごうかい》ぶって、至極、らいらく[#「らいらく」に傍点]恬淡《てんたん》とみせながら、内には、女性以上の、こまかい嫉妬や術策や排他根性などを蔵している――武門の男どもの、そうした白眼と猜疑《さいぎ》には、身分、生い立ちこそちがうが、伝右衛門もかつて、朝夕、針のむしろ[#「むしろ」に傍点]に坐すような辛《つら》さを味わいつづけたものだ。
(いや、自分などは、まだ微々たるよそ[#「よそ」に傍点]者としてだった。それはなお軽い。伯耆《ほうき》どのにいたっては――)
と、伝右衛門は、自己の百倍もの辛さを、数正の身におもいやられた。
人も知る、石川伯耆守|数正《かずまさ》といえば、酒井忠次と並んで、徳川家の今日ある二元老だ。よそから来た羈旅《きりよ》の臣ではない、譜代《ふだい》も譜代、家康がまだ洟《はな》みずを垂らしていた幼少から、八歳にして、今川家の質子《ちし》にとられていた時も、ずっと、側を離れずに来た糟糠《そうこう》の忠臣である。なくてならない柱石《ちゆうせき》でもある。
また、数正の軍功といったら、この三河|生《は》えぬきの勇猛はずいぶんあるが、かれに比肩《ひけん》し得る者はない。その点でも、赫々《かつかく》たる武勲第一の棟梁《とうりよう》といってよい。
――だのに、その数正の近ごろの憔悴《しようすい》は、はた[#「はた」に傍点]目に見るもあわれなほど、頬骨たかくやつれていた。しかし家中一般の白眼《はくがん》は、伝右衛門以外、たれもそれを、あわれもののふ[#「もののふ」に傍点]とは見なかった。
同情はおろか、数正に対する家中一般の眼は、徳川家が、ここ日を追うて、孤立と逆境の苦悶を濃くするにつれて、辛《つら》い風当りの度を、加えていた。
「かような、不利な立場を招いたのも、譜代の禄《ろく》を食《は》みながら、いつのまにか上方《かみがた》へ媚《こ》び、陰に陽に、秀吉の利を謀《はか》って、主家の武運を売り物にしている厄介なシロ物が、われらの上に、お家の柱石面《ちゆうせきづら》をしているからじゃ」
これは、数正を見る者の、通念にさえなっている。
そもそもは、同僚間の嫉妬が、禍《わざわ》いの芽だったには違いない。
数正が、家康の代理として、初めて、秀吉に接したのは、天正十年、秀吉が、山崎の合戦に大勝し、つづいて柴田勝家を、柳ケ瀬に破った後である。
賀使《がし》として、伯耆守数正は、大坂へ赴き、徳川家重宝の初花《はつはな》の茶入れを――家康から秀吉へ贈る――歴史的な使命を勤めた。
こういう使いは、たれでもやりたいことだった。たれが選ばれるか、未発表のうちは、誰もひそかに、自分を候補の第一においている。
家康は、この使いを、重視したにちがいない。
臣下中最高の者をそれに選んだ。これは数正に、決定的な君寵《くんちよう》を飾った。のみならず彼は、大坂新城に出向いて、秀吉からは大もて[#「もて」に傍点]にもてた。
滞在の予定日数も、秀吉にひきとめられて四日も延び、いわゆる「いかい、お気に入り」をうけて帰国した。――その帰るにも、さまざまな贈り物をうけたという。
落選組の口はうるさい。
(伯耆どのは、人蕩《ひとた》らしの名人といわるる秀吉から、すっかり甘いお土砂《どしや》をかけられて、ほくほく帰られたそうな)
この頃からもう、対数正感情が、同藩中に、根をおろしていた。
以後、何ぞの折に、
(われら、三河の田舎《いなか》武者は、まだ近頃の上方《かみがた》というものは見ておらぬが、伯耆《ほうき》どのが御見物中の御感想は?)
などと話につり込んでおいて――数正が他意なく、大坂城の雄大、市街の規模の大、庶民の文化水準の高さなど、思うまま話し出すと、その話し中に、眼引き袖引き、
(それ、伯耆どのの上方讃美が、始まったぞ)
と、それを、いかにも意味ありそうに、眼と眼で笑いあうことなどが、すでにその前後から兆《きざ》していたのだ。
後、秀吉の答礼使が浜松に来たときも、顔見知りなので、家康は、接待役を、彼に托した。また、小牧在陣中にも、秀吉から数正の陣所へ、幾たびも、使者が往来したことも事実である。
そんなことは、敵味方となっても、何ともしない秀吉の気風から、数正も、戦《いくさ》は戦として、応答していた。
いよいよ妙にまずいものが数正の身辺をつつみ出した。それは、和睦問題に、彼が介在《かいざい》したことだった。主戦論の味方からは、忽ち親敵《しんてき》人物≠ニ極印をおされた。
が、数正は、弁解もせずに通して来た。事実、彼は、秀吉と和すことこそ主家の安全第一と信じていた。――その文化度、その軍需資材、その規模の大、時運の趨勢《すうせい》など、かれは上方を実見し、秀吉の人物に接し、到底、岡崎や浜松の比でないことを痛感していた。
それに、同意なのは、家康だけだった。他のすべては、三河武士の勇猛あるを知って、高速な時代の文化や武備の進歩を知らない田舎武者の智識で、依然、大坂を過小視する者ばかりだった。
対石川数正への非難や、かげ口が、
(ふた股者《またもの》よ)
(獅子《しし》身中の虫だ)
などと、いよいよ露骨になって来たのは、秀吉と信雄の単独講和に、家康が置き去りをくって以来、事々に、徳川家の不利が目立って来た、この半年の間だった。
家康の耳にも、折には、かれの名が、危険なる人物として、聞えてきた。
が、家康は、
(数正の考えは理由のあることだ。疑われては心外であろう。気のどくな立場ではある)
そう察して、自分のしている忍耐を、数正も共に、忍耐しているものと、家中のうるさい[#「うるさい」に傍点]声には、つんぼを装《よそお》うていたのである。
――だが、数正には、家康ほどな忍耐にはたえない。また、彼の人生観が、
(なんで、そんな我慢に、耐えている必要があるか)
と、ささやく。
武人の人生観の裏には、常に死≠ェある。今朝あって夕べは知れない。その儚《はかな》い短い生涯を、針のむしろ[#「むしろ」に傍点]に耐えて、井の中の蛙みたいな事大主義の連中からまで、何で、猜疑《さいぎ》され、軽蔑《けいべつ》され、ひとり怏々《おうおう》と日蔭者《ひかげもの》じみた日々を過ごしていなければならないか。
考えれば、理由はない。
あるのは、自分の幻覚の檻《おり》だ。主従、信節、情義など、武門生活の約束だけだ。――だが、百度にちかい戦場を往来し、髪の白くなるまでその中に生きて来て、果たして、ほんとにそれの美しい約束が、同僚、知友のあいだにも、実行されて来たろうか。――徳川家第一の武勲を積んだ晩境の自分に今やむくわれて来たものは何か?
(これが、それか)
憤《いきどお》りがこみ上げてくる。そしてふと、晩節《ばんせつ》何かあらん、命みじかし、楽しまずして何の人生ぞや――と、拳《こぶし》を膝に思いつめもしたが、そんな時、怒《いか》る思いとは反対に、この老武人の眼は女のような涙にボロボロ濡れるのであった。
(もし、数正が、岡崎を去ったら、御主君のお心は、どんなであろう。不忠不義の人でなしと、数正を、お憎しみあるか。惜しや、堪忍をやぶって、ついに去ったかと、お嘆きあるであろうか)
彼はやはり檻《おり》の中の武人であった。帰するところ、主従のきずな[#「きずな」に傍点]が断《た》ちきれなかった。しかし、そういう妄念《もうねん》を抱いてからは、家康のてい[#「てい」に傍点]を見ても、何となく、冷たい主人に見えて来た。どう尽しても、命を捧げるまでやっても、この人は、どことなく冷たい。こっちが泣いても、泣いたことがない。現に、自分が、かくまで家中の蔭口や白眼視の中におかれているのを、目にも耳にも知っていながら、あだかも、知らぬかのように、いつもこの数正を見ておられる。
(秀吉公は、あたたかい)
つい、彼の心に、比較が生じる。秀吉を思うとき、新しい大坂城を中心とする文化、軍容の興隆を思う時、数正は、ふらふらと、上方が恋しくなった。
人は秀吉を、人蕩《ひとた》らしの名人というが、数正は、そうは思っていない。秀吉は、自分の真価をみとめていてくれる。肩をすら叩いて――縁あらばいつにても身を寄せよ、そち程な人物を、田舎城一つに、埋もれさせておく不運さよ――と、いってくれたこともある。
数正は、いつのまにか、重大な決意を、胸に秘め始めていた。――岡崎の脱出だった。折もよし、こよい十一月十三日の烈風の闇夜こそ、それには絶好な機会と考え、前の日から風邪ぎみと偽《いつわ》って、ひそかに、城中から私邸へ移っていたのだった。
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二《ふた》つの世間《せけん》
茶も求めず、召使も呼ばず、一室を閉めきったまま、客の伝右衛門と主《あるじ》の数正とは、話がもつれ[#「もつれ」に傍点]て――何か、容易に二人の間の折合《おりあい》はつきそうもない。
が、奥では。
いや、石川家の奥も表も台所も、すべてといった方がいい。
諸所に、かすかな紙燭《ししよく》をともして、身まわりの品をまとめた幾ツもの行李《こうり》を、侍に渡しては、そっと、馬の背に積むやら、数正の妻を始め、息女《むすめ》や、侍女《こしもと》たちが、各※[#二の字点、unicode303b]、身がるな旅支度を急ぎおうていたり、また台所では、三、四十人前もの弁当をこしらえて、これも侍たちで背負い分けるやら、この大家族が遠国へ夜逃げ同様に立《た》ち退《の》くためには、いくら事前に、手廻しよく準備しておいても、いざとなると、容易ではない。
すでに、きのう、おとといにわたって、石川家では、数ある家人《けにん》召使の大部分に暇《いとま》を出していた。家財は船で三|艘《そう》も、先にどこかへ送り出していたが、なお、城中から連れ出した二十余名の人間と、数正の妻子などを加えて約四十名という同勢が、屋敷を捨てて出るとなれば、秘密をつつむその物音だけでも、ただならぬ鬼気が、屋《や》の棟《むね》を、墨のように這《は》い漂《ただよ》う。
「佐内《さない》、佐内」
門内に、駕籠《かご》をひそませ、幾つもの人影が、寒々《さむざむ》と、風を避けて、佇《たたず》んでいた。もう立つばかり身支度して、そこに出ていた石川数正の妻子たちである。
家臣の山田佐内は、奥方の声に、あわててその前にひざまずき、
「さぞ、お冷え遊ばしましょう。もう程なく、初鹿野《はじかの》どのも、お帰りでございましょうから……」
と、人々の焦躁《しようそう》を察して、なぐさめた。
「いえ、寒さなど、厭《いと》いはせぬが、余りにも、お客の伝右衛門どのは、長ばなしではないか。……もしや、殿との間に、口論でも起して、争うておいで遊ばすのではないか。……佐内、そっと、見て来て下さい」
「ご心配なされますな。万一、初鹿野どのが、どんなお気持に出るかも案じられ、客間の外に、若い武者どもを三、四名伏せて、いざといえば、初鹿野どのでも、生かしてはおかぬ覚悟でおりまする」
「日頃から、殿とも、お親しい伝右どの。お人も好いお方。むざ[#「むざ」に傍点]としたことの起らぬように、何とか、早う帰っていただく思案はないであろうか」
「いやいや、もう御一家の退去を、充分、覚《さと》っておられる初鹿野どの。めったに放しては、殿を初め、御一同の破滅です。背に腹は代えられませぬ」
「そこのところを、事をわけて、殿には、篤《とく》と、伝右衛門どのに、熟議《じゆくぎ》しておいで遊ばすのではないか。何せい、心もとないことじゃ。佐内、御様子をおうかがいして来て賜《た》も」
「でもなお、大給《おぎゆう》の松平五左衛門様のところへお遣《つか》わしになったお使者がもどりませぬゆえ、その返事もわからぬうちは、すぐに御門は立てませぬ」
「オオ、松平どののお答えは、今夕までにあるはずだったが、まだその使者も帰らぬか」
風の音が、またひどくなった。
その雨なきあらしに似た中を、馬にムチ打って、ここへ帰って来た者がある。
「殿は。お支度は」
大給の松平五左衛門近正の屋敷から駈けもどって来た一家臣は、なぜか、眼のいろ変えて、あわてていた。
松平近正は、かねてから、石川数正と、ある黙契《もつけい》をもっていた。
(御辺《ごへん》が、徳川家を去らるるなら、自分も徳川家にいたくない)
と洩らすほど、近正も、同族の中から爪弾《つまはじ》きされ、多年、不遇におかれていた。不遇が結びつけた仲なのである。
そこで数正は、今夕、大給《おぎゆう》へ使いをやって、
(今夜、岡崎を立ち退き、かねての行き先へ、落ちて参る。鳴海《なるみ》の船着きにて、待ち合わせ候え)
と、手はずを、告げた。
ところが今。――その使者が帰ってのはなしによると、数正と運命を共にすることには、家族の内で、反対が起り、間際《まぎわ》になって、大揉《おおも》めに揉めているというのである。そして、近正の返辞としては、
(せがれ、一生《かずなり》も、家臣の内にも、不同意の者、これあるによって、御同行の儀は、成り難《がた》い)
と、急に態度を変えて、断った――とある。
違約が、違約だけならよいが、いま天下のどこに住んでも、地上の世間は一つでない。西か東か、大坂か徳川方か、二つの世間のどっちかに、身を托さねば、生きてゆけない。
数正との約をやぶり、数正|逐電《ちくてん》の秘密を事前に知ってしまった以上、とどまる松平近正は、かならず、急を浜松に報じて、身の潔白を証《あか》し立てるに利用するだろう。――一大事! とばかり数正の使いが、その狼狽ぶりを、帰るやいな、あたりの人々へわめきちらしたのも、むりはない。
「はて。何としたものか」
家臣たちは当惑した。数正の妻子たちはもとよりである。いよいよもって、帰らぬ奥の客がもどかしい。
「佐内佐内。もう猶予してはいられません。そっと、殿に、お耳打ちでもして……」
数正の妻は、気もそぞろに、いいつけた。山田佐内は奥へ走って、主人と伝右衛門のいる客間の外を窺《うかが》った。
――と、室内では、依然たる主客二人の声が、初めよりも感情を昂《たか》めて、たがいに、何事か、云い争っているふうである。
「……では、数正どのには、どうしても、思い止まるわけにはゆかぬと――仰せなのじゃな」
「もとより、住み馴れたこの郷土と、若年よりかしずいて参った家康様にお別れ申すのは、忍び難い辛《つら》さではおざるが……。事、ここにいたっては」
「うウむ……。さまでに、思い極《きわ》められたなら、もはや伝右衛門のお止めだても、無意味でござろう。お止めいたしますまい」
初鹿野《はじかの》伝右衛門もついにそう呟いて――
「したが、数正どの。たくさんな御眷族《ごけんぞく》を伴《ともな》って、いったい、これから先どこへ浪々《ろうろう》の晩年を、落着かれるおつもりか。お行く先を、お聞かせ下さい」
「…………」
「御迷惑なら、かまえて、伝右衛門、他言はいたさぬ。別れても、折には、お便りも申し上げたいと存ずるので」
「伝右」
数正は、あらたまった。
「こたえる以上、おぬしに対して、うそはいえぬ。まこと、数正は、大坂表へ立ち越える所存なのじゃ」
「げッ。大坂へ。――あの、秀吉公へ、身を寄せらるる思し召しか」
伝右は、耳を疑うように、さっと、顔色を変え、とたんに、座を三、四尺、跳《と》び退《の》いていた。
席をひらいた途端《とたん》、伝右の手は、無意識に、うしろへ遠く置いておいた自分の刀へ、左手を伸ばしていた。
数正も、はッと、身じろぎ[#「じろぎ」に傍点]を示し、
「伝右ッ。何とする」――と叱った。
「知れたこと。今を限りに、石川|伯耆守《ほうきのかみ》を、返《かえ》り忠《ちゆう》の謀叛人《むほんにん》と見ていうぞ。――主君の信をうけて、岡崎城の城代を勤める老臣が、大坂方へ寝返り打って立ち退くのを、たれが、目に見て、見のがそうや」
「待て、伝右。おぬしを、無二の友とおもえばこそ、正直に、左様には打ち明けたのじゃ。……数正に、むごい[#「むごい」に傍点]思いを、させてくれるな。ここは、見ぬ振り、知らぬ振りして、立ち帰られい」
「いや!」
と、伝右は、きつく顔を振って、「――人も知る伯耆守数正ともあろう者ゆえ、たとえ岡崎は去っても、さだめし、生涯を浪人して、つつましゅう武人の晩節を守ることかと……、今の今まで、信じていたのが口惜しい。……ほ、本心かっ、伯耆守」
伝右は、顔に、痛涙を描いて、しかも右手は、刀のつかを、握りしめつつ、つめ寄った。
数正のすがたは、燭を横に、惨《さん》として、うつ向いたままだった。
――自分の深い気もちは、この一徹な友にも分っては貰いにくい。
大坂へ出奔《しゆつぽん》しても、自分は決して、秀吉に寄って、身の栄達をはかろうなどとは――ゆめ、思いもしていない。
人間の六十にまたがる身が、何で、これ以上の浮雲や虚栄を望もうや。
武人の一生というものは、毎日、人間の浮き沈みと、栄位や名利の儚《はかな》さを、朝に見、夕べに見あきている。
しかも自分は、周囲の白眼と嫉視《しつし》の中におかれているが、ともかく、主君家康より信ぜられ、岡崎の城を預かり、一家眷族《いつかけんぞく》も、それぞれ、食と所は得ているのだ。
何の、それに、不満があろう。
不満は、時代にくらい、井の中の蛙《かわず》たちの独善的な強がりである。大坂軽視、狭小な反秀吉の危険思想にある。これこそ、やがては、徳川家を過《あやま》らすものでなくて何であろう。
文化の低さは、上方の比でない。その低い眼孔で、この数正を、親敵派《しんてきは》と見、つねに一藩の和を欠いていることは、自分の非とはおもわないが、主君にたいしては、申しわけない。その点で、数正はたしかに、味方の中の害虫といえよう。みずから、去るにしかずである。
が、去って、大坂方の一員となっても、自分は、秀吉のふところにあって、浜松と大坂との和親をはかり、ここの三河武士が、家康をして、将来に大きな過失をさせないように、陰で、努めることはできる。
それこそ、自分ならでは出来ない、忍辱《にんにく》の孤忠ではあるまいか。
――同時に、自分も、針のむしろ[#「むしろ」に傍点]の生涯から、座をかえて、住むことができよう。
これが、数正の本心として、友に、云いたいことだった。
けれど、その、いとまはない。伝右のまなこは、らんとして、すでに殺気を――数正と刺《さ》し交《ちが》えようとする態《てい》を示している。
数正はぜひなく、
「伝右、もう時刻がない。おぬしとも、お別れじゃ。さらばぞ」
云いすてて、つと、席を離れかけた。
「や、やらぬ」
伝右は、果たして、刀のさや[#「さや」に傍点]を遠く投げすて、数正の胸元目がけて、だっと、突いて来た。
――とたんに、紙燭《ししよく》が仆れて、暗黒の中に、白い糸のような、煙が曳いた。
「乱心したか。伝右っ」
「なんの、乱心は、伯耆守こそ。――伝右は、正気じゃ。国を売る忘恩の賊を、成敗《せいばい》せいで、何とする」
「あぶない。刃を引けい。話せばわかる」
「いや、聞く耳はもたぬ」
屋鳴《やな》りの中に、ふすまは破れ、調度は仆れた。――と、同時に、隣室や壁の蔭に、主人の身を案じて隠れていた数正の家臣たちも、つむじ[#「つむじ」に傍点]の部屋へなだれ入って、さらに、大きな震動をたてた。
「あっ。……待てっ、斬るな。伝右衛門に、傷つけるな」
捻《ね》じ伏《ふ》せた一人の上に折り重なって、あわや、伝右衛門の首を掻っ切ろうと、争い合っていた家臣たちは、数正のことばに、
「殿ッ、なぜお止めなさいますか。この者を助けておいては」
と、ひしめいた。
「いやいや。そこの柱へ、縛《くく》り付けておくだけで、事はすむ。構えて伝右を殺すな」
人々は、初鹿野伝右衛門のからだを、うしろでに縛《くく》り室の一隅へ、からめ付けた。
山田佐内は、その間に、数正の耳へささやいた。――大給《おぎゆう》の松平近正が、約を破って、浜松へ注進《ちゆうしん》する惧《おそ》れがある――ということをである。
数正は、あわてなかった。
「では、すぐ立とう。そちたちは、女子供を護って、先に出ろ。――わしも後からすぐ参る」
人々の跫音《あしおと》が、どやどやと流れて行った。数正は、ふたたび、伝右衛門の前へ寄って、
「伝右。ゆるせよ」
といった。伝右衛門は、眼をとじて、眉に無念をみなぎらしていた。数正は、なおいった。
「すこしの間、ここで、怺《こら》えていてくれい。おぬしの武士が立たんようにはせぬ。――主君にそむき、良い友を捨て、数正の心も決して、晏如《あんじよ》ではない。……が、運命の是非なさであろう。ゆるされい」
「…………」
数正は、なお、うしろに立っていた二、三の家臣へ、いいつけた。
「灯を、消し残すな。――屋敷うち、隅々《すみずみ》、消し忘れた灯はないか、よく見て、外へ出よ」
数正も去って、ただちに門外に出、馬の背にまたがった。
火の気もなく、今は、人も残さず、烈風の中に、ただの空き家として捨て去る多年の住居に、かれも、感なきを得ない。
憮然《ぶぜん》として、門を見ていた。
その門から、さいごの三、四人がとび出して、あとを閉め、
「みな様は、はやお先へ行かれました。いざ、お供を」
と、駒の前後について、足を早め出した。
しばらく駈けると、かれは一つの門の前で、急に駒を止めた。
「ここは、初鹿野《はじかの》伝右衛門のやしきだったな」
「は。左様で」
「たれか一名、門を叩いて、伝右の家中へこう伝えい。……御主人伝右どのが、石川伯耆守のやしきにて、お待ちゆえ、駕籠をもって、お迎えにお越しあれ、と」
「かまいませぬか」
不安な顔つきで云ったが、数正の従者は、命ぜらるるまま、その通り、門内に伝えた。
「それっ、急げ」
数正は、とたんに馬に、ムチを加えた。
その夜、鳴海《なるみ》附近の浜から、二艘の舟が、沖へはなれた。
漁村の灯すら見えない大風の晩である。舟はかなり大きいものだったが、さだめし風浪に揉まれ抜いたことだろう。――それは石川数正の将来の運命を暗示しているようでもあるし、また、この波浪と冬の大地の彼方《あなた》にこそ、やがて彼が晩生を托そうとする生活度の高い平和の世間があるかとも考えられる。
かれの向った方角が、彼の考える通りであったか否か。また、思いきった彼の脱出が、果たして、武人として、取る道であったか。取るべき道でなかったか。
大きな、時のうごき、歴史の作られてゆく過程も、実に、単純でないが、ただ一個の、人間の変転すら、かくのごとく複雑である。――そしてすべては、それらの幻影が、ことごとく、過去の彼方に埋没し、個々の者も、白骨と化した後でなければ、それが良かったとも、悪かったとも、云い難い。
「ああ、すでに、去ったわ」
半刻《はんとき》とも経《た》たないうちに、そこへ馬を飛ばして来て、荒るる海をながめていたのは、伝右衛門であった。
(――ここを去っても、伯耆《ほうき》どのは、おそらく、満足な地は得られまい。それが、人の世――世間なのだ。およそ、人間が住み、人間が営む世間に、伯耆どのが厭《い》み嫌う人間の醜《しゆう》なるものが、まったく、ここにはないなどという別天地があるわけはない。――あれほどな苦労と経験を世路《せいろ》に積んだ老武士にしても、迷えば迷うものとみゆる。……ああ風浪よ、伯耆どのの舟路《ふなじ》に、せめては辛《つら》く当るな)
黙然としている間、伝右の心のうちには、そんな思いが、駈けめぐった。
――彼は、甘んじて、数正の家臣のいましめに、身をまかせ、自分のやしきから、迎えが来ても、わざと、暇《ひま》どって、逃亡者のあとを、追って来たのである。
が、すぐ、馬を引っ返し、岡崎城の本丸に入って、非常太鼓を打たせた。
「伯耆《ほうき》どのが逐電《ちくてん》した」
「御城代が、逃亡したというぞ」
城中は、混乱した。なお、数正の部下に属す者も、沢山に、あとに残されていたからだ。
「立ち騒ぐまい」
伝右衛門は、城代の役を代行して、門々の出入りをかためさせた。そして、浜松の家康の許へは、早馬を立たせた。
非常太鼓におどろいて、城下の武者たちも、駈けつけた。出城《でじろ》の衆では、深溝《ふかみぞ》の城主、松平家忠が、三里の道のりを、汗馬《かんば》を飛ばして駈けつけて来たのが、到着第一であった。
一方。――事の、間際《まぎわ》に。
約を破って、数正との同行を見合わせた松平近正は、子息に家来二人を添えて、
「事の次第を、浜松表へ、お訴え申せ」
と、その夜すぐ、家康へ急訴《きゆうそ》のため、旅立たせていた。
そのほか、実相を知り、風評を聞き、あらゆる方面からの急報は、十四日の明け方から、その夜にいたるまで、ひっきりなしに、浜松城の奥へはいって来た。
家康は、本丸の冷《ひ》ンやりした一室に、大きな火桶と脇息《きようそく》をわきに置き、例の猫背を、よけいに丸く着ぶくれて、黙然と、明け方から、坐り通した。そして、次々の情報にも、さして、感情を示さず、時々、
「……身の不徳。身の不徳」
とばかり、つぶやいていた。
いったい、この人の腹の中は、近親者でも、側近でも、実に、読みとり難いとみないっている。――家康自身は、決して、技巧で、人にそう見せているわけでもないのだが。
いかに、細心をもってしても、技巧が、完全に、そう人を信じさせ得るものではない。家康のもうろう[#「もうろう」に傍点]性は、天の成せる本質である。家康が意識してやっている自己演出ではないのである。
その証拠には、かれにも、凡人と同じ感情はあり、時によって、感情も大いに動かす。――しかし、その動かす感情が、あらわ[#「あらわ」に傍点]に、外に出ないため、人は往々、見のがしているのである。何事にまれ、物に動ぜぬ御方≠ニ見て、驚嘆したり、怪しんだりする。
その点、秀吉は、真反対な性格である。大いに驚き、大いによろこび、大いに悲しみ、大いに怒《いか》る。すべて秀吉は感情の波を皮膚の下には打たない。明けっ放しに表情する。さらに感情の波長をひろげて、周囲を同調させ、世間大衆とも、共に歓び、共に悲しみ、共に暮して行こうとする――。
家康は、そうでない。彼も、衆臣と衆民を擁《よう》しているが、家康はつねに孤独であった。かれは生れながらにして、そういう質《たち》に出来ていた。独り苦しみに耐え、独り百年の計を按《あん》じ、独り痛心し、また独りひそかに楽しむところを持っていた。――ために、彼の、無表情に見える感情は、いつの場合も、皮膚の下にだけあった。だが、無表情とは、無感情のことではない。
むしろ、表に出さないそれは、秀吉などよりも、複雑で、多感であったといえるだろう。ただ、彼は、自己の感情の整理に、驚くべき綿密さをもっていた。これがすまないうちは、めったに、感情から行動へと、移行しないのが彼の常であった。
で、こんどの突発事件の初めにも、
(数正の、出奔!)
と、寝耳に水の急報をうけた刹那には、さすがの彼も、内心、ぎく[#「ぎく」に傍点]として、肝臓からにじみ出る不快な苦汁《くじゆう》に、内臓の諸機能も揉《も》めるような動悸をきざみ、一瞬《いつとき》、それが実にいや[#「いや」に傍点]な顔いろになって、彼の面《おもて》を通りすぎた。
けれど、唇《くち》からもれたのは、
(そうか。……)
というただ一語にすぎなかった。そして直ちに、措置《そち》を考え、あれこれと、名人の指が盤上へ、一石《いつせき》一石と打ち下ろすように、自室から、命令を出してはいたが、独りでいるその居室は、それ以外には、何の気配も咳《せき》の声《こえ》もしなかった。
家康としては、これが、寿命《じゆみよう》の毒になるほどな、強い心の傷手《いたで》であったことは、その、常にない容子《ようす》でも察しられた。
さきに、上田城の真田昌幸《さなだまさゆき》が反《そむ》いて、飼犬に手をかまれたような苦杯をなめたが、数正の離脱は、その比ではない。――まったく、自分の五体の一部と同様、死ぬまでは、離れるものではないと、思いこんでいた数正だったからである。
「……人間は信じられぬ」
元来、彼は、そうだったが、さらにその感を深うした。
ここにも、家康と秀吉と、二者の相違がある。家康は、信じられぬものは人間なりとし、終生、死後百年の計も、その思想に立脚している。秀吉は、正反対である。秀吉は、人間を信じ、人間に溺れた。――後、秀吉は、死ぬ間際には、この家康に、後事を頼んで死んだのである。
二つの世間は、この二人の主宰者の、性格的色彩にも、二つに塗り分けられていた。
――とまれ、数正の出奔は、家康が一生中の不祥事《ふしようじ》だったし、国中《くにじゆう》の大事件であった。彼は、即日、岡崎へ出向いた。
「オオ、酒井忠次も、来ておったか。松平家忠も、来ておりしか」
逸早《いちはや》く、駈けつけて、岡崎の諸門を堅《かた》めていた譜代《ふだい》の者に迎えられると、それらの多年手塩にかけて来た面々《めんめん》の顔が、いつもより数倍も、頼《たの》もしく見えた。
本丸には、初鹿野《はじかの》伝右衛門、内藤家長、松平重勝などが、協力して、数正の離脱したあとを預かっていた。
「またも、意外なことが、降ってわきました」
酒井忠次が、ここに彼が来てからの、報告だった。
「また……?」
家康にも、このところ、運命の執拗《しつよう》さにたいする一種の自嘲感が、こびりついていた。この上、どんな事件が重なってきたか――と、それを胸で支える気持ちがすぐ先に立った。
石川数正と共に、徳川家の棟梁《とうりよう》家康を扶《たす》ける両翼ぞと人にいわれていた酒井忠次の姿も、何となく、淋しく見えた。
「――信州、深志《ふかし》の城に入れ置かれました小笠原|貞慶《さだよし》も、伯耆守《ほうきのかみ》の出奔と同時に、妻子|眷族《けんぞく》を連れて、大坂表へ、落ちのびて行った由にござります」
「なに、貞慶《さだよし》も」
「かれも、数正も、みな大坂へ款《かん》を通《つう》じ、ひそかに、期を謀《はか》っていたものとみえまする」
「ぜひもない」
家康は、何か、グッと呑むような顔して、
「去る者は、去った方がいい。真に、固《かた》めあう者のために、これや、家康を恵んでくるる作用じゃろう。……のう、忠次」
忠次は、老眼を伏せて、まつ毛を、指の腹で抑えた。
地崩れに似た震動は、この十六日も、なおやまなかった。
「刈屋《かりや》の御城主、水野忠重どのもまた、数正と諜報《ちようほう》を交《か》わし、いずこの道をえらんでか、城をすてて、大坂方へ奔《はし》られた様子でござる」
これもまた、青天の霹靂《へきれき》だった。情報をもたらした早馬の者が、この離脱者に、敬称を用いたのは、遠州刈屋の水野忠重は、実は、家康の叔父にあたる人だったからである。
「ああ、叔父までが」
家康のこころはまさに、満身創痍《まんしんそうい》といってよい。
叔父の身のまわりにも、不平や内紛《ないふん》はあった。知らないではない。しかし家康として、忠重までが――とは、考えられもしなかったことらしい。
「地震《なえ》は、揺れるだけ、揺れてしまった方がよいのだ。地底に、空隙《くうげき》を、余さぬように」
左右の者へいうともなく、家康はひとりつぶやいて、この大地震《なえ》に耐えるが如く、坐っていた。
そして、数正が残した城中の部下は、すべてこれを、内藤家長の手に、所属|代《が》えさせた。
また、信州|小諸《こもろ》の、大久保七郎右衛門忠世を召還《しようかん》して、
「以後、岡崎を持て」
と、数日の間に、入れ代えた。
同時に、甲州|郡代《ぐんだい》鳥居彦右衛門をも、俄《にわ》かに、呼びかえして、
「従来、わが家《や》の兵制、兵器、軍形の一切を、この際、根こそぎ[#「こそぎ」に傍点]、改革せよ」
と、その奉行たることを命じた。
こういう時、家康が耳にする、近しい人々のことばは、およそ一致していた。
「忘恩の伯耆守《ほうきのかみ》も、大坂方へ属してみたら、後には、元の巣をおもい出して、ほぞ[#「ほぞ」に傍点]を噛む日がございましょう」
「――要するに、伯耆守が、世上一流の人物と見られたのも、徳川家という背景があったからで、太閤《たいこう》に従属したとて、何ができるものですか」
等々々、みな悪《あ》しざまに、数正の非行を罵《ののし》って、家康の鬱《うつ》を、慰めようとするのだった。
――が、家康は、いった。
「伯耆の心は、憎くおもう。けれど、伯耆はやはり一流の人物たるに変りはない。武夫《もののふ》の行化《ぎようげ》は侮《あなど》るべからず――じゃ。家康にとっては、大きな損失よ。この損を、何かで埋め合わせつけねばならぬ」
他から慰められて安んじ得る家康ではない。不幸な生れつきの家康は、まだ誰も考えつかない先の憂いにもう心をつかっていた。
急遽、甲州から鳥居彦右衛門をよんだのもそれだった。従来、徳川家の特色として来た独味の兵制軍法が、石川数正の離脱によって、その秘裏《ひり》と機密《きみつ》が、つつ抜けに、大坂方へ読み取られてしまうことは、必然としなければならない。
周囲が、幾日も幾日も、果てしなく、石川伯耆守の、後のざんそ[#「ざんそ」に傍点]に、日を暮しているまに、家康は、
「彦右衛門。そちの手で、およそ信玄の遺法といえるものは、軍書、兵制の文書、土木、経済にかかわるものは、申すに及ばず、武器、兵具、馬具の類から、地誌絵図類、その他、陣具、陣絵図にいたるまで――手に入るかぎりの物を、最短日のまに、甲州地方より取り蒐《あつ》めて来い」
と、いいつけ、なお、
「もと、甲州の士《さむらい》にて、それらの一部門に通じながら、山野にかくれておる古老などもあらば充分、礼をもって酬《むく》ゆる程に、探し出して、連れ参れ」
とも、命じた。
さらに、家康は、井伊直政、榊原《さかきばら》康政、本多忠勝の三人を、兵制改革の奉行とした。そして、
「長篠《ながしの》、天目山などの後、わが家《や》に投じて、召し仕《つか》われおる元武田の甲州出のさむらいどもの籍を調べ、それらの者どもよりも、信玄の軍法を聞き取って、改革の案に、参考といたすがよい」
と、云いそえた。
迅速な研究が行われ、連日、さかんな討議の下《もと》に、ここに、従来の徳川式兵制は撤廃《てつぱい》され、代るに、信玄流の軍法に時代の創意を加味した――新三河流軍制が採用された。
ひとり兵事上の改革ばかりでなく、信玄の頭脳の最もすぐれたものという定評のある通貨制度、交易法、土木などにいたるまで、家康は、この機会に、その特長を容《い》れて、習慣的な古い制度を、思いきって、革新した。
「伯耆は、よい置き土産を、家康に与えて去った。――かかることでもなければ、軍制、経済の改革など、さて、容易に古きを捨てることはできぬ、数正が、みずから数正を、わが家から抛《なげう》ったのも、いわば古きを捨ててくれた一つのようなものだ」
何につけても、家康のことばの裏には、禍《わざわ》いを転じて福としようとする心理の努力でないものはなかった。その証拠には、こうもいった。
「どんなことにも、まる[#「まる」に傍点]損はないものじゃぞよ。……思うてもみい、どんな災難、凶事に会った場合といえども、まる[#「まる」に傍点]損というものはない。決してない」
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強引《ごういん》・強拒《ごうきよ》
北畠信雄が、岡崎城を訪ねて、家康に、用あり気な顔を見せたのは、石川数正|出奔《しゆつぽん》の十数日後――十一月の末だった。
「どこか、お体でも、おすぐれなさいませぬか」
信雄は、家康の血色を見て、案ずるように、まずいった。
去る者は追わず――として、家康はもう対石川問題は、努《つと》めて感情から洗っていた。多少、不健康な色が他に見えたとすれば、それは軍制一変の急改革のため、衆議の中で、ここ幾晩も、夜ふかしが続いていたせいであろう。
「いや、べつに」
家康は、信雄が、何しに伊勢から出て来たか、目的は何? ――と、もう信雄の顔に描《か》いてあるものを、ジロと、細目に読みとって、
「この家康よりは、あなたの方が、ここ四、五十日、お目にかからぬまに、少しお痩せになったような気がするが……の」
と、いった。
「いや、自分は健康です。ちか頃は、戦《いくさ》の苦労もありませんし。……どうも自分は、父信長とちがい、戦《いくさ》はきらいです」
「たれも、好きではない」
家康は、いつになく、苦《にが》りきったので、信雄は、あわてて云い直した。
「――いや、この信雄のためから、小牧の合戦では、御当家にも莫大な費《つい》えをかけ、関白どのと和睦の後も、何かと、お心をわずらわせてばかりいて、申しわけもおざらぬ。それだけに、信雄は、責任を覚えております。御当家と関白どのの講和が、どうか、永遠の平和を約し、四民一般も、心から泰平を楽しめるように努《つと》めるのが、自分の義務とも、心得て」
「中将どの。それは、あなたお一人の望みではない」
「だのに、なぜ、こう世の中が、いつも火山の上に在《あ》るように。そして人はみな、日々、うす氷を踏むような思いの中に、はらはら生活しているんでしょうな」
「こんど、関白《かんぱく》になられた、大坂城のあるじに訊いてみられたらどうじゃ」
「……いや。実はです」
と、信雄は急に、いとぐち[#「いとぐち」に傍点]を得たように、薄手な容貌が持つ気の弱いひとみに活気を見せた。
「ちか頃、雑用をおびて、大坂表へ出た折、関白どのとお会いして、いろいろ話が出たのです。……そのせつ、殿下が申さるるには、世上では、つまらぬことの端《はし》にも、すぐ、小牧以上の大戦が、すぐにも起るようにいい、口に泰平を祈りながら、流言浮説《るげんふせつ》をよろこんで、偶然な出来事も、みな戦争へこじつけて考える癖があるが、いったい、自分と徳川どのとが、どうして、戦いを決せねばならぬ理由があるのか――秀吉にはとん[#「とん」に傍点]と分らぬ、と沁々《しみじみ》、御述懐《ごじゆつかい》なすっておられた」
座には、家康のほか、榊原康政もいた、本多忠次もいた、そのほか三、四の重臣も居あわせた。
かれらは、主人の容子《ようす》とは、まったくべつな態度をもって、信雄を、蔑《さげす》みの眼で、見つめていた。信雄が、ひと口ごとに、太閤どのといったり、殿下などと敬称したりするのを、いかにも、耳づらそうに――不快にたえない顔していた。
が、信雄の神経は、そういう反応には、至って敏感でない。
「――こんど、岡崎へ立ち寄られたら、秀吉が左様に申して嘆じおったと、徳川どのへ伝えて欲しい。そして、徳川どのは、何とお考えあるやという殿下のおことばでした。ちょうど、いまお訊《たず》ねのことを、反問しておられるようなものですな。……はははは」
と、独りで、好人物らしい笑い方をした。
信雄という人物ほど、薬のよく利《き》く人はない。
家康は、この好人物の、調法《ちようほう》なことを知っている。この人を、自家|薬籠中《やくろうちゆう》のものにして、秀吉に当らせたり、世上へ見せる偶像として、利用した覚えがあるからである。
ところが、今は。
この調法者《ちようほうもの》は、秀吉の掌《て》の中《なか》にある。そして秀吉は、こんどは逆に、自分を責める責め道具に、つかって来ている。
(因果《いんが》は巡《めぐ》る)……と、おかしくもなってくるし、(これは、苦手)と、時々、信雄の人の好さから来る無恥《むち》と無反応に、処置《しよち》のない惧《おそ》れも感じさせられた。
憎めない――という人間ほど始末のわるいものはない。殊に、身分があって、気位も高いくせに、廉恥《れんち》と来ては、家康も、手の施しようがない。智や、手や、常識などは、ある方が、負けである。
「太閤殿下は、そういっておられましたよ。徳川どのの、御真意をききたいものじゃと。……どうですか。このお答えは」
たたみかけられて、家康は、苦笑のほかなかった。
「同意じゃ、同意じゃ。――その通り」
「では、御同意ですか」
「うム。家康と秀吉とが、小牧でやってみたことさえ、げにも、おろかな沙汰であったに。……なお、ふたたび、家康と秀吉とが、天下の不幸をおもわず、自己のすべてを賭けて、大戦乱をひき起すとせば、家康も愚、秀吉も愚、天下の二大馬鹿者というしかない」
「ははあ。それまでに……」
「中将どの。こんど、大坂へ行かれたら、左様に、家康が申しおったといわるるがよい。――そして、なお一言、しかるに何ぞ、猿公《えんこう》の大欲《たいよく》の急《きゆう》なるや。欲望の急なるところ、かならず小人の野望の乗ずるところたらん。……戒《いまし》め給え、と家康がつぶやいておったと、つけ加えて、申されい」
「云いましょう」
信雄は、自分なら憚《はばか》らずにいえることを、他へ、自慢するように、胸を張った。
「おみずから、愚と仰っしゃるゆえ、自分も愚見をのべますが、まったく、人間はどうしてこう愚のかたまりに出来ているのでしょうか。――いま、たれの眼にも、この国の広い地上、大部の勢力は、大坂と、徳川どのと、二つに分かれているだけです。おたがい、仲よく二つに分けた地上で、政治も、文化も、経済も、また御自身のやりたいことすべて――栄耀栄華《えいようえいが》でも、したいことをして、境を守り合っていたら、ずいぶん、よい御位置ではないかと思う。信雄のごときは、そう思って、両者のこれ以上な喧嘩沙汰は、判断に苦しみます」
「その通り……。その通り」
家康は、何度も、うなずいて、信雄を得意がらせたが、その通りをくり返すことばのひびきは、少しも、その通りな、肯定には、聞えなかった。
「そこで、実は、自分からもいちど、御賢慮《ごけんりよ》をうながすわけですが」
と、信雄が、いよいよ本題にはいりかけると、家康は、ニッと、片頬で皮肉な笑《え》みをうかべた。
「何かな? 家康に、うながすこととは」
「例の、御上洛《ごじようらく》の件です」
「大坂へのぼって、秀吉に、臣下の礼をとれというおすすめか」
「いえ。決して――」
と、信雄は、鼻白い顔の前で手を振った。
「臣礼などと、そんな御無礼なおすすめを致すのではない。ただ、天下の人が安心します。世上に泰平を招来するために、いちど、御上洛あって、殿下とお会いなされたら……と、望んでいる次第なので」
家康にたいし、陰に陽に「いちど大坂へ上るべきである」という慫慂《しようよう》は、もう久しい懸案になっている。この夏以来の――いや小牧講和の前後から、名は秀吉の養子でも、実際は、質子《ちし》として、家康の一子|於義丸《おぎまる》が、大坂城へ送られたときから――
(徳川どの御自身も、機を見て、いちど上洛あるがよい)
と、いう秀吉の意向が、しばしば大坂方の使者からも、北畠信雄の口からも、直接、家康へ告げられていた。
和睦《わぼく》を約し、養子をやり、老臣の子まで、質子に送り、もう喧嘩はすまい、という公的な形式をゆるした以上、家康も、わが子をやった養子先へ、いちど遊びがてら、あいさつに出向くくらいなことは、個人的には、何ら、むずかしい問題であるはずもないが、家中一般の輿論《よろん》は、俄然、
(とんでもないことだ。そんな虫のよい要求には、耳もかすな。断じて、殿がお心をうごかさぬよう、われらも、警戒せねばならぬ)
と、猛反撥をおこし、三河武士の対大坂感情は、この問題からも、一そう硬化の一途をたどっていたのである。
一時、石川数正の身にあつめられた一般の白眼視なども、この問題に無関係ではない。かれと主君との間を、極めて、危険なる接触と見た家中の心理がひどく神経質に、数正の行動を、警戒しあっていたことなど、たしかにその一因であり、輿論《よろん》の底流作用ともいえるものだった。
隠れもない徳川側の輿論にたいし、当然、大坂方にも強硬な輿論が、伏在していた。
(家康が、頑《がん》として、上洛に応ぜぬのは、怪しい限りである。みずから、和睦をあざむいている証拠といえよう)
この対立を、案じる調停者として、信雄が、時局に一役買って出る余地はあった。けれど、かれの口吻《くちぶり》は近頃、秀吉の模写そのものであり、いつも、家康をして、ニタニタ苦笑させるほどな力しかなかった。
織田長益だの、滝川|雄利《かつとし》だの、また羽柴|勝雅《かつまさ》、土方《ひじかた》雄久《たかひさ》などという者も、ある時は、公式な大坂方の使いとして来たり、また個人として、すすめにも来たりして、執拗《しつよう》なまでに、この問題には、秀吉の強引《ごういん》な意志が、かくされていた。
殊に、秀吉が、北国出陣を決した際には、
(形式だけでも、一部の将兵を、御当家からも、参加させて、誼《よしみ》をお示しあるべきではないでしょうか)
と、信雄はすぐ駈けつけて来て、しきりと家康を説《と》いたものである。
家康は、諸将を、浜松にあつめて、これを衆議に問うた。もちろん、輿論《よろん》は、満場一致で反対した。家康は、その通り、信雄に答え、
(せっかくじゃが)
と、あっさり断った。
事、重大と見ると、家康はよく衆議に問う。輿論を尊ぶように見せて、実は、輿論をつかうのである。外に利用し、内には、各自の責任感を重からしめる。そして、家康一個の私闘でなく、公憤であるという、構えを作るのだ。
「……いや、中将どの。たびたびの、御好意は、受領いたすが、何ぶん、家中の輩《やから》が承知せぬ。家康も、近ごろ、とん[#「とん」に傍点]と出おっくう[#「おっくう」に傍点]が癖になって、遠い旅や、都の人中へ、出るのは好まぬ。ゆるされいゆるされい」
この日も、家康は、信雄の長居《ながい》を退屈そうに、生《なま》欠伸《あくび》をかみころしているだけだった。
自分の長居に、家康が、家康らしい意地悪な退屈顔を、わざと見せているとは、気がついたが、信雄はなお、もじもじと粘《ねば》って、
「御家中の反対は、お声一つで納まりましょう。何とか、ここは、太閤どのの意志に一歩ゆずって、御上洛あるようお考え直しを、願われぬであろうか。……さもないと、実のところ、この信雄も、殿下とあなたの間に挟まり、何とも立場がなくなります」
信雄は、もう、懸引《かけひき》をもってはいられない調子だった。秀吉に催促されて、秀吉の代弁に来たものであることを、泣き言にも取れることばの裏に、いわないでも、自白していた。
こんな正直者のねばり[#「ねばり」に傍点]に負けたり同情をうごかしたりする家康ではない。
ふっと、いきなり、話の縁を切って、
「お。……きょうは、お泊りか。またすぐ御帰途につかるるか」
「え……?」
まごついて、
「いや、実はその、当城において、落ち会う約束の者もあるので、御迷惑でも」
「なんの、御逗留《ごとうりゆう》なら、御遠慮はない。しかし、なお誰が参る約束を召されたのか」
「織田長益、滝川|雄利《かつとし》のふたりでおざる。もう着城の頃ですが」
「はて、まだ、御加勢がやって来るのか」
家康は、うんざりした顔をかくさなかった。おんち[#「おんち」に傍点]な信雄も、居づらそうにはしたが、決して、断念の容子《ようす》はない。
まもなく、長益と雄利は、秀吉の使いと触れて、正式に、ここを訪れた。
礼には、礼をもって、遇さないわけにはゆかない。家康も、公式に、家臣へ命じた。
「御丁重《ごていちよう》に、客殿《きやくでん》へ」
べつに、一老臣へ、
「晩の、御饗応を、粗末ないよう、用意させておけ」
と、いいつけた。
そして、衣服をかえ、使者へ会いに行った。
面接は、かんたんに、すんだとみえ、すぐ元の室へ帰って来た。
その間、独り置かれていた信雄は、家康の顔の濁《にご》りを、チラと見た。また、家康と共に、座へもどった本多、酒井、榊原《さかきばら》などの侍臣も皆、にがりきった顔つきである。――何か、とりつく島もない空気が、家康主従と、彼とを加えて、妙な空気を、そのまましばらくもちあっていた。
「お使者方の御饗応《ごきようおう》は、富士の間《ま》にいたしておきました」
外から、老臣のひとりが告げた。家康は、うなずいた眼を、信雄へ向けて、
「お夜食は、使者たちと御同席ということにしておいたが」
と、断った。
信雄は、さしつかえない旨を答えた。さっきから抱いていた小心な不安を眉にややひらいて、ついでに、訊ねた。
「大坂表からの使いはやはり御上洛の、催促でございましたか」
「いや、見舞じゃと、いうておる。……わしには、使者のいう趣《おもむき》がよう分らぬが」
「はて、お見舞とは、何のお見舞でしょう」
「当家を落ちた石川|伯耆守《ほうきのかみ》が、大坂城へ、養うてくれと申して参ったそうな。――それについて、秀吉も意外に存じたという云いわけと、さだめて、御心外であろうに――という太閤からの、お見舞じゃよ。はははは。お見舞じゃよ。……あはははは」
めずらしく、家康は笑った。反対に、酒井や榊原たちの、まわりの顔は、ひどく硬直した。笑うかわりに、涙をしばだたく顔もあった。
大坂の使者ふたりも、客の北畠信雄も、その晩、もちろん城内に泊った。
「昨夜は、いたく失礼を」
と、織田長益と滝川雄利は、朝食がすむとすぐ、信雄の客殿へ、あいさつに出た。
「きょうは、早速、御帰洛《ごきらく》か」
「われらでござるか」
「うム。使いも滞《とどこお》りなく、すんだのであろ。昨夜の酒宴となってからは、徳川どのにも、ごきげんが直ったように見られた。数正出奔の件も、まあ、これくらいな気まずさですめば」
「いや、実はまだ、大事な件が、一つ残っておりましてな。両名とも、頭を悩めておるのです」
「徳川どの、上洛の儀か」
「それです。昨日も、実は、徳川どののお気色《けしき》がよろしくないので、申し出ずにいたわけですが」
「自分からも、昨日、ずいぶん下話《したばなし》はいたしておいたよ。しかし、容易に、うんとは仰っしゃらない」
「きょう、お会いしたら、われわれからも、もちろん、強硬に、御承諾を求めますが、ひとつ中将様からも、さらにお口添えを、努《つと》めていただきとう存じます」
「ああ、よろしい。何とか、よい御返辞をいただかねば、自分としても、太閤殿下に、顔むけがならぬ」
三名は、時刻をはかり、岡崎の老臣を通じて、きょうの昼、もいちど、家康に会いたいという旨を申し入れた。
が、老臣は、すぐ首を振った。
「それはそれは、昨夜のうちに、側衆《そばしゆう》まで、仰せ置かれるとようございましたな。……殿には、今暁《こんぎよう》、未明のうちに、もはやお立ちでございます」
「えっ。どちらへ」
「吉良《きら》へ、お鷹狩《たかが》りに――」
三名は、ぽかんと、顔見あわせて、思案に暮れた。
やむなく、信雄は、伊勢へ帰った。――が、長益と雄利《かつとし》とは、秀吉から、ほとんど最後的な内意をうけて、上洛あるや否や、家康の真意をただして来いといいつけられて来たので――このまますごすご大坂へは引っ返せない立場にあった。
「では、吉良のお狩猟場《かりば》まで行って、お目にかかろう」
ついに、彼らは、吉良まで、家康を追って行った。
鷹野に立っていた家康は、野袴《のばかま》に、草鞋《わらじ》ばきで、田舎《いなか》親爺《おやじ》のような頭巾《ずきん》をかぶり、追って来た二名の姿を見ると、
(まだ帰らぬか)
といわぬばかりな顔つきを、素《そ》ッ気《け》なく振り向けた。
二人は、家康に謁《えつ》すると、諄々《じゆんじゆん》と、利害を説き、秀吉の意を諭《さと》して、大坂への入京をすすめた。ことばの裏には、多分に、丁重なる威嚇《いかく》もふくまれている。
「よかろう。太閤が、兵をもって、家康を強《し》いるなら、家康も、三《さん》、遠《えん》、駿《すん》、信《しん》四州の兵をもって、動くまい。再び、一戦とあれば、それもよし。家康の用意は、こぶし[#「こぶし」に傍点]の鷹が一飛びの間ぞ。早々、帰れ。立ち帰って、太閤に伝えよ。この上の使いは、無用じゃ」
と近侍らの眼も、猟犬の眼も、二使を、睨《にら》まえて、二の句をいわせなかった。ふたりは、ほうほうのていで、大坂へ帰った。
[#改ページ]
禁園《きんえん》の賊《ぞく》
秀吉対家康の手切れはいよいよ確実だ。ふたたび天下は騒乱《そうらん》の巷《ちまた》と化すだろう。両雄並び立たず、ついに、二つの世界は、それを演じずには、おかないものか。
使命にやぶれた使者の気持は悲痛だった。織田長益と滝川|雄利《かつとし》とが、吉良《きら》の狩猟場《かりば》まで家康を追いかけてゆき、そこで、必死の弁をこころみた最後交渉も、全然、家康から一蹴されて――
「開戦は必至だ。もう、避け難いものになった……」
と、思い、帰る旅の途々《みちみち》も、何も知らずに、年暮《くれ》を迎える生業《なりわい》に忙《せわ》しがっている町々や、ここわずかな平和に、ほっとしているような家々の夜の灯を見ても、何か、胸の傷《いた》みに耐えなかった。
ふたりは、大坂城へ到るや否、この重大な復命をもって、秀吉の側近に、すぐ目通りを得たいと、取次を仰いだ。
ちょうど、たそがれ時であったが、
「殿下は。――でんかは」
と、本丸の殿楼《でんろう》を、あちこち尋ねまわったが、見あたらない。
「でんかは、つい先程、小姓衆をつれられて、西の丸へ渡らせられた」
とも聞えたので、側近たちが、大廻廊《おおかいろう》の殿橋《とのばし》をこえて、西の丸との境――お錠口《じようぐち》まで行ってみると、一群の小姓たちが、錠口部屋にかたまって、奥へ入った主君のもどりを待っていた。
「今夕は、二の丸で、久しぶり、お局方《つぼねがた》と御一しょに、お食事をなさると仰せられて、先ほど、お入りになりました。西の丸へお渡りになると、いつも、晩《おそ》くおなりでいつお戻りやら分りません」
小姓たちのことばである。しかし、それを待っていられない問題だし、一刻も早くと思うので、織田、滝川の二人は、西の丸での謁見《えつけん》を、強《し》いて、小姓から秀吉の耳へ通してもらった。
ところが、
「でんかは、大奥にも、お見えになりません」
という意外な答えだった。
事情を聞くと、たしかに、秀吉は、こよいは久し振りに、奥の女どもと、夕食を共にしようと約束し、西の丸へ渡ったにちがいないが、三条の局《つぼね》だの、お茶々《ちやちや》だの、松の丸たちが、もうさっきから、膳部やしとね[#「しとね」に傍点]の用意をもうけ、秀吉の姿を待っているのに、その秀吉は、
(庭を見てくる……)
と、外に出たまま、いくら待っても、戻って見えないというのである。
先ごろ十月。――北国出陣の帰りに、秀吉は、前田利家の三番目のむすめ――ことし十五になる摩耶姫《まやひめ》というのを、もらって帰った。まや子、まや子と、これがまた秀吉の大気に入りで、小娘が子猫を抱いたように西の丸へ来ると、離さない。
いまも、その摩耶《まや》をつれて、外へ出たきり見えないので、たれよりも、気をもんだのは、お茶々であった。
茶々は、いよいよ美しくなり、いよいよ母のお市《いち》の方《かた》もしのぐばかり、美人系の織田家の高貴な血液を、春蘭《しゆんらん》の花の肌にも似た頬にも襟すじにも、仄見《ほのみ》せて来た。けれど、かの女はまだ、熟《う》れてはいない。男を解するにはいと幼かった。戦陣軍旅、多忙なりといえ、秀吉には、しばしば、禁園の木の実《み》をもぎ[#「もぎ」に傍点]に忍びこむ余裕はなおあったらしい。それは近頃、茶々の素《そ》ぶりからも読むことができる。しかし茶々は、秀吉によく馴《な》ついてはいたが、その点だけは、
(いやな小父《おじ》さま)
と、断じて、禁園の盗賊に、春の扉は、ゆるさなかった。
茶々も、しかし、この年暮《くれ》を過ぎれば、もう二十の春である。生理的にも、女の自覚が萌《も》え初《そ》めて不思議はない。殊に、後宮《こうきゆう》生活の女性群のうちには、自然、それを助ける上品な淫《みだ》らの香が濃厚であった。深窓は、その意味では、未開花の温室だった。
五十がらみの男の通有性として、秀吉もまた、つぼみ[#「つぼみ」に傍点]の開花に手塩をかける気永な遊戯を面倒とも思わなくなっている。茶々が、イヤな小父さま、と自分を嫌ってきだしたのを、彼は、それこそ、茶々の成長とながめて、秘夜、茶々が彼の頬ッぺたを爪で引ッ掻いても、うしろを向けて、身を鞠《まり》のように固く丸めて夜もすがら解《と》かずにいても、決して、怒《いか》ったり、暴力の征服に出たりすることはなく、かえって、その可憐《かれん》さを、彼自身が、にこにこ、守り見つめている風だった。
そこで彼は、近ごろ、北国から連れ帰った十五歳の摩耶子《まやこ》を、わざと、茶々の前で、愛して見せた。あきらかに、茶々のひとみは、気をもみ始めている。――今夕の場合も、それだった。たれよりも、茶々がいちばん本気になって、秀吉と摩耶のすがたを、庭のあちこちに探しまわった。
「……どこへ行っておしまいになったのであろ。……でんかは」
彼女は、夕星《ゆうずつ》の下で、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。
侍女たちは、
「お風邪《かぜ》を召すといけません。でんかが、どこへおいでになろうと、いずれは、このお城の中、やがて、お戻り遊ばしましょう」
と、なだめすかして、室の中へ、連れ上げていたところだった。
――その頃。
秀吉はいったい何処へ行っていたかというと、実は、城外|玉造《たまつくり》町の、狩野|永徳《えいとく》の佗《わ》びたる住居を、訪れていたのである。
従者もたった二人しか連れていない。それに、少女の摩耶を連れ、西の丸から広い外廓《そとぐるわ》へ出、まだ工事中の玉造口《たまつくりぐち》の城門を出て、ぶらりと、ここへ来てしまったものなのだ。
――が、彼のこんな一個人としての軽々しい訪問は、この古堂の佗び住居では、きょう初めてではないらしい。
「おや。また、おいで遊ばした……」
というような迎え方が、画師|永徳《えいとく》にも、弟子の山楽《さんらく》にも、召使の婆やの様子にも、ありあり見えた。
秀吉は、ずかずか通って、
「於通《おつう》は、相かわらず、画の修業に、精出しておるかの」
云いながら、奥のせまい、画室をのぞいた。
「いらっしゃいませ」
と、於通は、かれの立ち姿を、ふすま際《ぎわ》に迎えて、手をつかえ、
「一所懸命に、お教えを、いただいておりまする」
と、答えた。
画室は、毛せん[#「せん」に傍点]の上に、無数の絵の具皿だの、筆だの、硯《すずり》だの、反古《ほご》などを、一面に散らかしていた。あわてて、彼女が片づけようとしたのも、間に合わない程にである。
「……これは、そなたが描《か》いたのか」
秀吉は、毛せん[#「せん」に傍点]の上に展《ひろ》げてあった一葉の花鳥画をのぞきこみ、於通《おつう》の筆と知ると、手ずから、くるくると巻いて持った。
「もろうて、帰るぞ」
そしてもう、門口へもどり、さらに彼女をかえりみて云った。
「於通。稀れには、永徳に伴《ともな》われて、西の丸へ遊びに来い。秀吉へも、余り無沙汰するなよ」
かれの粋狂《すいきよう》は底が知れない。ひとは秀吉を好色というが、そんな単純な、そして、現実的に事のすむ、程度ではない。
たしかに、彼は女好きであり、この点は、夫人の政所《まんどころ》(寧子《ねね》)からも公認されていることだが、彼の女ずきは、彼以外の者が考えているよりは、実は、もっともっと女が好きなのである。
その結果は、三十代、四十前後の頃のように、単に、生理を果たして、事終るというわけにゆかなかった。元来が、煩悩児《ぼんのうじ》であり、情痴においては、自分を制御《せいぎよ》したり、かくせない一面を、生れながら持っている大凡人《だいぼんじん》である。
それが、いまや、旺盛《おうせい》なる男ざかりの五十に達し、しかも少年期の飢餓生活と、中年期の事業欲と戦陣の禁欲生活から脱し、あらゆる条件が、煩悩《ぼんのう》の履行《りこう》を自由になしうる境界へ達してきたところである。
ただ、単に、好むところの女を側室《そくしつ》に入れ、代る代る、これを御《ぎよ》するなんどという、そんな程度の秘戯《ひぎ》が、いつまで、おもしろかるべき筈がない。
殊に、幼少、栄養不良で、ようやく、人となった彼の体質は、家康のごとき、脂肪と筋肉に富んだ重厚さは持っていない。健康の大事は、治民|経国《けいこく》の大事と共に、これの消耗《しようもう》を、夜間の秘戯にスリ減らすほど、愚かでもなかった。秀吉も知っている松永久秀のごときは、真昼、愛妻と帳中《ちようちゆう》に交戯《こうぎ》しながら、将士の報告を聞くのに、その帳《とばり》を半ば上げて聞いたということだが、秀吉の人間性では、それほどまで、人間自体を、侮辱《ぶじよく》できなかった。むしろ彼は、彼自身、凡夫煩悩の典型でありながら、人間なるものを、より美しく、見ていたかった。いわんや、女性をやである。
かれが、上淫《じよういん》を好んだのも、良風良俗のうちに育《はぐく》まれた子女には、おのずから、優雅な香気があるからであった。また、十七、十五の未開の少女を愛したのも、少女の純情と向きあっていると、彼も少女のごとく、少女と共に、胸の血が高鳴るからであった。それにしても、結局、色を好むことは、誰とも変りはないが、彼は、その経路と、雰囲気と、そしてあらゆる伴奏を前提において、さいごの秘曲を聴こうとする多情多慾の人だった。
かくて、かれの身辺には今、三人《みたり》の可憐なる未開花がつぼみ[#「つぼみ」に傍点]をかたく運命を托していた。於通も、そのひとりだし、茶々も、摩耶もそうだった。
絵師永徳にあずけた於通を、ふいに、軽々と、見に行ったのも、これで三度か四度目だった。絵を習っている。やっているな。――それだけで、その時の彼の気もちはすむのである。さっさと、城中に帰り、もう宵の灯となった。西の丸の女たちの群れのなかに、彼の姿は、他愛のない、一個、情痴《じようち》の人間として、在《あ》った。
「でんか。……ちょっと、お耳にまで達しておきますが」
座に、居あわせた、曾呂利《そろり》新左が、錠口からの取次を、囁《ささや》いた。
聞くと、秀吉の眼が、きっとなった。こんな眼を、あたりの女性たちは、めったに見ないので、ふと、笑いさざめきを止めた。
「なに。滝川と長益が、三河から戻ってきたというか。……いや、すぐ聴こう。ここでよい。すぐ連れて来い」
滝川|雄利《かつとし》と、織田長益のふたりは、けんらん[#「けんらん」に傍点]、お花畑のごとき女性群の中の秀吉を見て、次の間に、平伏した。
「や。御苦労だった。――今、帰ったのか」
秀吉は、自分から立って、次の間の二人の前へ来て坐った。
華やかな燭《しよく》や、とりどりな女性たちの色彩に、隣りしているせいか、使者二人の顔は、一見して、余りにも、蒼白な悲痛を剥《む》き出しているように見えた。
「はなしは、調《ととの》わぬな」
秀吉の方から先に云った。沈痛な平伏をつづけている二人へ、救いを出してやったようなものである。
「はっ……」
と、織田長益はそれに誘い出されて、
「――徳川どのには、依然、寄ってもつけぬ御返事にござりました。いや、返答無用といわぬばかりのニベなさで」
それから、滝川雄利も、こもごも、使いの不調について、ありのままを、復命した。――吉良《きら》の狩猟場《かりば》まで家康を追って行って、衷心《ちゆうしん》から説《と》いたことも、家康が、常になく、こぶしに据えた鷹《たか》にたとえて、一戦も辞せず――と大言したことも、かくすべきではないと思って、その通り、秀吉に、伝えた。
――と、秀吉は。
さざめきを密《ひそ》めていた隣室の女性群もびっくりするような声で笑い出した。何が、おかしいか、独りで、幾度も笑った。
「なるほど、むりもない。地蔵《じぞう》の顔も、三度という。それを、十度も越す催促じゃ。……あの、辛抱づよい、徳川どのが、とぼけ[#「とぼけ」に傍点]頭巾《ずきん》も、そらつかい[#「そらつかい」に傍点]の仮面《めん》も脱《ぬ》いで、ついに、かんしゃく玉を破った顔が目に見ゆるようだぞよ。おもしろい、おもしろい」
彼にとっては、家康との交渉の不調が、実に、興味|津々《しんしん》たるものであるらしいのだ。
いまも彼の口から出たように、とぼけ上手で、忍耐づよく、しかも強情無類な難物《なんぶつ》を、いかに、自己の掌《て》の上に乗せるかを――彼は、茶々を愛する如く、摩耶をあやすが如く、於通の軟化を待つがごとく、興味をもって対している。
家康は何事にも、気の永い熟柿《じゆくし》主義を奉じているが、それを、読み抜いている秀吉も、かれに負けない根気のいいところがある。決して、力や威をもって、懐柔《かいじゆう》できない相手とは、小牧以来、秀吉がとうに観《み》ているところだった。
「いや、ふたりとも、しん[#「しん」に傍点]が疲れたことであろ。そう気を病むな、鬱《うつ》するな。大儀大儀、酒でも参るがよい」
と、二人をねぎらい、秀吉は、隣を振り向いて、銚子《ちようし》を持つ女童《めわらべ》を招いた。
「よいわさ。徳川どのにも、それくらいな駄々《だだ》はこね[#「こね」に傍点]させてやらねばなるまい。……が、長益も雄利《かつとし》も、見ておれよ。やがて、近々《ちかぢか》のまに、そのすね[#「すね」に傍点]者を秀吉の膝に上げて、三河|鯛《だい》のさかなに赤飯を食わして見しょうぞ。ははははは。七ツ頃から人質の苦労はなめても、あれはやはり大名ッ子よ。秀吉とは、おのずから、苦労がちがう」
長益、雄利に、盃を与え、秀吉も自分も飲み、やがて大歩して、西の丸の寝室へ入った。その小さいからだが、秀吉より背のすぐれた女たちにかこまれて、寝所へ向って行くのが、すこしも、おかしくは見えなかった。いや、長益と雄利には、巨鯨《きよげい》が、春の潮《うしお》にのって、水と空の一線へ、模糊《もこ》と、かくれて行ったように見えた。
[#地付き]新書太閤記 第十一巻 〔完〕
吉川英治歴史時代文庫32『新書太閤記(十一)』(一九九〇年八月刊)を底本