吉川英治
新書太閤記(六)
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目 次
官兵衛救出《かんべえきゆうしゆつ》
死後《しご》の花見《はなみ》
有馬《ありま》の湯《ゆ》
屍山血河《しざんけつが》
秋風平井山《しゆうふうひらいやま》
地下《ちか》なお奉公《ほうこう》
紅葉《もみじ》を喰《く》う
父と父
軍旗祭《ぐんきさい》
醜《しこ》ぐさ
日本丸《につぽんまる》
丹波《たんば》・丹後《たんご》
二《ふた》つの門《もん》
鷹《たか》を追《お》う
折《せつ》 檻《かん》
名将《めいしよう》と名将《めいしよう》
父《ちち》信長《のぶなが》
用心濠《ようじんぼり》
年《とし》 玉《だま》
大気者《たいきもの》
蘭《らん》 丸《まる》
京《きよう》 都《と》
潮声風語《ちようせいふうご》
中国陣《ちゆうごくじん》
銭《ぜに》と信長《のぶなが》
南蛮学校《なんばんがつこう》
古府《こふ》・新城《しんじよう》
高遠城《たかとおじよう》
春騒譜《しゆんそうふ》
天目山《てんもくざん》
火《ひ》も涼《すず》し
淋《さび》しき人《ひと》
客来一味《きやくらいいちみ》
富士《ふじ》を見《み》つ
東海風流陣《とうかいふうりゆうじん》
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新書太閤記(六)
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官兵衛救出《かんべえきゆうしゆつ》
秀吉《ひでよし》の赴《おもむ》いている中国陣。
光秀《みつひで》の活躍している丹波《たんば》方面の戦線。
また、包囲長攻のまま年を越した伊丹《いたみ》の陣。
信長の事業はいま、こう三方面に展開されている。中国も伊丹も依然、膠着《こうちやく》状態と化している。やや活溌にうごいているのは、丹波方面だけだった。
そう三方面から日々ここへ蒐《あつ》まって来る文書、報告なども夥《おびただ》しい。もちろん参謀《さんぼう》、祐筆《ゆうひつ》などの部屋を通って一応は整理され、緊要なものだけが信長の眼に供された。
その中から、佐久間|信盛《のぶもり》の一通が見出された。非常に気に入らない顔色でそれを読み捨てた。
読み反古《ほご》の始末は蘭丸《らんまる》がする。
(……なにが、御意《ぎよい》に召さなかったのか)
と、怪しんでいたので、その反古《ほご》をあとでそっと披《ひら》いてみた。べつに信長の気色に触れるようなことも書いてはない。ただそれには、伊丹へ帰陣の途中、竹中半兵衛を訪うて、かねてのお申し附けを催促しておいたという報告だけしか読まれなかった。
もっとも、微細に、その辞句の裏を読めば、信盛がいおうとしているところは、べつに深く酌《く》めないこともない。
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意外にも半兵衛儀は、まだ御申《おんもう》し附《つ》けの事を、実行しておりません。使者たるそれがし落度とも相成る事、厳《きび》しく督促《とくそく》いたしおきました。大事の御命、仕損じてはと、小心にも自身手をくだすつもりと見えました。近日に御命を果しましょう。それがしにとっても重々、迷惑、伏して御寛仁を仰ぎます。
[#ここで字下げ終わり]
こういったようなものである。この辞句の裏には何よりも信盛が自己の罪のみを汲々《きゆうきゆう》と怖れて弁解している気もちが出ている。いやそれ以外には何もないといってもいい。
(それが御機嫌に逆《さか》らったものであろう)
蘭丸にもその程度にしか考えられなかった。――けれど信長がこの書面を憎んで、信盛という人間に対しての認識を一変していたことは、やがての後に事実となってあらわれるまで、信長以外誰も信盛の肚《はら》を理解することは難しかった。
ただ、その一端として、窺《うかが》われ得ないこともなかったといえる一事は、信盛から右のような通告に接しても、信長はその時、半兵衛重治の違命と怠慢に向っては、べつに激怒する容子《ようす》もないし、その後も不問のまま敢《あ》えて自分からは督促していないことだった。
しかしまた、信長のそういう複雑な気の変り方を、竹中半兵衛とても、知ろうはずはなかった。
半兵衛はともかく、侍《かしず》いて看護《みとり》しているおゆうや家臣たちは、
「何とかなされずばなるまいが……」
と、案じ合い、なお何日《いつ》になっても、その問題を処決する容子《ようす》もない半兵衛の心を読みかねて、
「どう遊ばすおつもりか」
と、無言のうちに胸をいためていたことは一通《ひととお》りでなかった。
そのうちに一月も過ぎた。
二月も半ばとなった。
梅が咲く。――南禅寺の山門あたりにも、この草庵の軒ば近くにも。
日ましに陽ざしも暖かになって来たが、半兵衛の病《やまい》は、やはり軽くなかった。気丈《きじよう》ではあり、むさくるしいのが嫌いなので、どんな朝でも、病室は清掃させ、そして浄《きよ》らかな朝の間の陽ざしを浴《あ》みに、縁近い南の端に黙然と疲れるまで坐っているのが、朝々の習慣のようだった。
彼女はそこへ、茶を汲んでゆく。病中の一楽はその茶碗からたちのぼる湯気《ゆげ》の虹を朝陽のなかに眩《まばゆ》く見ることだった。
「けさほどは、お顔色も大変良いようにお見うけいたしますが」
「そうだろう」
茶碗を抱いていた細い手のひとつを、わが頬へやって撫でまわしながら、半兵衛は、
「わしにも春が来たらしいよ。たいへんいい。この二、三日は、わけて気分がいい」
と、笑ってみせた。
顔いろもよし、気分もこの二、三日は、わけて快《い》いという。
そういう今朝の兄をながめて、おゆうは無上に欣《うれ》しかった。しかし、またふと、淋しくもあった。
なぜならば、
(所詮《しよせん》、根治するとまでは、おうけあいいたしかねる)
と、これはいつか、そっと医者から戒告《かいこく》されていたことばである。
何かにつけて、それがすぐ胸をかすめるからであった。
けれど彼女は、ひとりこうきめている。――不治の病と医者にいわれながらも癒《なお》ったひとの例はいくらでもある。自分の真心と、不断の看護《みとり》をもって、きっとこの兄を、もういちど健康にしてみせる。
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いまは、そもじの御つとめ、それ唯ひとつと、丹精《たんせい》くれぐれたのみ入候《いりそろ》
[#ここで字下げ終わり]
とは、ついきのうも、播磨《はりま》の陣から彼女の許へ来た消息に見える秀吉のことばだった。
「お兄上さま。このぶんで御快方にむかえば、さくらの咲く頃には、きっとお床上げができましょう」
「ゆう……」
「はい」
「心労をかけたな。おまえにも」
「なんの……。またにわかに改まって、お兄上さまが、何を仰っしゃるかと思えば」
「は、は、は」
病者の笑いには力がない。半兵衛は愛《いと》しげな眼を凝《こ》らして、
「兄妹《きようだい》であるがために、却って日ごろは、ありがたいということばすらいったためしはないが、何か、改まって、今朝は礼を云いたくなった。……これも気分がよいせいであろう」
「それなら欣《うれ》しゅうございますが」
「顧《かえり》みれば、もう十年の余になるな、菩提山《ぼだいさん》の城を去って、故郷栗原山の山中にかくれた時から」
「月日のはやさ。ふり顧《かえ》ってみると、何もかも夢のようでございます」
「すでにその頃から、山中人のわしの側にあって、朝夕の炊《かし》ぎ、身のまわりから薬の世話まで、みなそなたがしてくれていた。思えば長いあいだの苦労を」
「いいえ、それもわずかの間でした。お兄上さまは、あの頃からよく、わしの病は癒《なお》るまいと仰っしゃっていましたが、それがたちまち御快方に向うと、秀吉さまの帷幕《いばく》に参じて、姉川の戦《いくさ》、長篠《ながしの》の戦い、さては越前へ、大坂へ、また伊勢路へと、御合戦のやむ間もない年々を、あんなお元気にお過し遊ばしたではございませんか」
「そうだったなあ。……この躯《からだ》でよくも耐えたと思うこともあった」
「――ですから、こんども御養生ひとつ、きっと癒ります。もとのお体になるにきまっております」
「死にたくはない」
「そんなことがあるものではございません」
「――生きていたい。生きてこの激しい世のなかの落着くさまを見とどけたい。また、かりそめならぬ主従の縁にむすばれた秀吉様の将来をも……ああ、からださえ丈夫ならば微力のかぎりお扶《たす》けして参りたい」
「どうぞ、そうして下さいませ」
「……だが」
と、半兵衛はふと声を落して、
「どうにもならないものが人間の天寿《てんじゆ》だ。いかにせん、こればかりは」
無念そうに呟《つぶや》いた。その眸《ひとみ》を見て、おゆうは、はっと胸をつかれた。なにか、兄はひそかに独り期しているのではあるまいかと。
南禅寺の鐘はのどかに午《ひる》をつげている。戦国とはいえ、梅が咲けば、梅に杖をひく人影も見え、梅が散れば、梅に啼《な》くうぐいすの声もする。
快《よ》いほうとはいいながら、夜に入ると、春もまだ二月、草庵《そうあん》の燈《ともし》は、半兵衛の咳《せ》き入《い》る声に、寒々と揺れた。
ためにおゆうは幾たびか、夜半にも起きて、兄の背をさすり明かした。――ほかに家来もいるが、半兵衛は、
「彼らは一朝自分が戦場にのぞんだとき、自分の馬前を駈ける人々。病骨の背なかなどさすらせては勿体《もつたい》ない」
と気がねして、どうしても、家来の手にはそういうことをさせないのである。
その夜も、彼女は起きて、なおも兄の背をさすったり、台所へ通って、薬を煎《せん》じたりしていたが、ふと、板戸の外で、
――ばりッ
と、垣根の古竹を踏み折るような音につづいて、何かひそかに囁《ささや》きあう声がしたので、ぎょっと耳を澄ましていた。
「……お、燈火《ともしび》がもれています。お待ちなさい。誰か起きておりましょう」
外の人声は、やがて軒下に寄って来た。そして軽く、雨戸をたたく。
「誰じゃ?」
「おゆう様ですか。熊太郎でございます。伊丹《いたみ》へ参った栗原熊太郎《くりはらくまたろう》、いま戻って参りました」
「おお。帰って来ましたか。――お兄上さま、熊太郎が帰って参りました」
弾《はず》んだ声で、彼女はこう奥の兄へ告げ、それから水屋の戸を引きあけた。
ひとりと思いのほか、三名の人影が星明りを塞《ふさ》いでいた。熊太郎は手を出して、おゆうから桶を借りうけ、ほかの二名を誘って、井戸のそばへ行った。
「……誰方《どなた》であろう?」
彼女はそこに佇《た》っていた。熊太郎というのは、半兵衛が栗原山に閑居していた頃から召使の童子《どうじ》として年来側近く育てて来た家来である。その頃は小熊と称していたが、いまはもう三十がらみの見事なさむらいとなっている。
その熊太郎が、釣瓶《つるべ》を汲みあげては桶へ水をそそぎ落すと、他の二名は、手足の泥や袂《たもと》の血など洗い落している容子《ようす》であった。
兄の半兵衛に命じられて、深夜ながら取り急いで、おゆうは小書院に明りを燈《とも》したり、火桶《ひおけ》へ火を入れたり、客の褥《しとね》をそろえたりし始めた。
兄のことばによると、
「熊太郎の伴《つ》れて来た客のひとりは、きっと黒田官兵衛どのだろう」
とのことに、彼女もすくなからず驚いた。去年から伊丹城の中に囚《とら》われて監禁《かんきん》されているとか、荒木の同類になって立て籠《こも》ったとか、いろいろ沙汰されている問題の人だからである。
公《おおやけ》のことについては、まして機密な軍事にかかわる問題などは、日頃から家人にも一切何も語らない半兵衛であるので、おゆうにしても、栗原熊太郎が、去年以来、いったい何処へ何しに行って、長い間ここへ帰って来ないでいたか――その目的などもまるで知らないのであった。
「ゆう。わしの胴服《どうふく》を」
病間では、半兵衛が起き出て、衣服をかえていた。
案じられるが――おゆうは兄の性格として、どんなに病の篤《あつ》いときでも、ひとたび床を出て客に接しるには、いつもそうある習慣を知っているので、
「はい」
と、胴服をそのうしろから羽織《はお》らせた。
病髪を撫で、口を嗽《すす》ぎ終えて、半兵衛が小書院へ姿を運んで行くと、家来の熊太郎と他の客ふたりは、すでに席について、物静かに主《あるじ》を待っていた。
「おうッ」
ひとりの客がすぐいえば、半兵衛も情感のこもった声で、
「やあ、御無事で」
と、答えながら、ひたと坐って、互いに手を取り合わんばかりだった。
「案じていたが」
「なんの、このとおりだ」
「――が、よくこそ」
「お身にも、心配をかけたそうな。その段、申しわけない」
「ともあれ、再会を得たのは、まことに天佑《てんゆう》、めでたい。半兵衛にとっても、近頃のよろこび」
「いや、御主君や、尊公のお力によるものだ。忘れはおかぬ」
ふたりの歓び合っている様は、傍《はた》で見ている眼も熱くなって来るほどだった。――もう改めていうまでもなく、今宵のひとりは伊丹城から脱出して来た黒田官兵衛|孝高《よしたか》だったのである。
ところで、最初から沈黙を守っているもう一名の年かさ[#「かさ」に傍点]な武士は、ふたりの感激を妨《さまた》げまいとさし控えているふうだったが、やがて官兵衛孝高にひきあわされて、こう名乗り出た。
「初めてお目にかかる気はいたしませぬ。てまえも羽柴家の一士で、いつも陣中ではおすがたを遠く見ておりました。――が平常はお味方の中にいることも少ない隠密組《おんみつぐみ》に籍をおいておりますので、或いはそちらではお覚えがないかも知れませぬ。蜂須賀彦《はちすかひこ》右衛門《えもん》の甥《おい》にあたる者で、渡辺天蔵《わたなべてんぞう》と申します。以後はお見知りおきのほどを」
半兵衛は、膝を打って、
「やあ、渡辺天蔵どのとは、あなただったか。かねがねよくおうわさは聞いていた。……そういわれれば、どこかで一、二度は、お見かけしたこともあるような」
その間へ、家来の熊太郎が、末席からこう話をつないだ。
「実はゆくりなくも、伊丹の城中で、同じ目的の下に入り込んでいた天蔵どのと、城内|櫓下《やぐらした》の獄舎《ひとや》の前で出会うたのでございました」
すると、天蔵も、
「いやまったく、偶然といおうか、神の御加護と云いましょうか、図《はか》らずも、こちらの熊太郎どのと出会ったため、あの重囲の中から、辛《から》くも官兵衛どのの身を救出することができました。もし、拙者ひとりか、熊太郎どのお一人だったら、或いは途中で、斬り死にしていたかも知れませんな」
相顧《あいかえり》みて、莞爾《かんじ》とした。
ここにおいて、事情はあらかた明らかになっているが、なお云い足すならば、黒田官兵衛の救出については、秀吉のほうでも、今日までさまざまな苦心を重ねていたものであった。
或る時は、人を派して、荒木|村重《むらしげ》に彼の身の引き渡しを乞い、或る時は、村重の信ずる僧侶を入れてそれとなく説かせてみたり、手段をつくしたが、頑《がん》として、官兵衛の身は返されない。
この上は――と最後の手段を命じられたのが、渡辺天蔵であった。天変、兵変、火変、何か城内に虚《きよ》の起る機会を待って、獄中の官兵衛を助け出せ――といいつけられたものである。
天蔵は城内に忍びこんで、その機会を待っていた。――と、つい二、三日前の夜、何か祝い事でもあったらしく、荒木村重の一族と将士は大広間に、また士卒にも残らず酒が振舞われた。折ふしその晩は、月もなく風もない暗い夜なので、
(こよいこそ)
と決行を計って、かねて目をつけておいた櫓下《やぐらした》の大牢《おおろう》の外へ這いよってゆくと、そこに番人とも見えぬ男が、やはり自分のように忍びよって、しきりに牢内を窺《うかが》っている。
怪しんで、初めは、もちろん油断せずに、測《はか》り合っていたが、どうやら城方の者でないらしいので、名をあかし合ってみると、
(自分は、竹中半兵衛の家来、栗原熊太郎)
と、先もいい、彼も、
(羽柴筑前守様のしのびの者)
と名乗ったばかりか、ここへ来た目的もまったく一つだと知れたので、互いに協力し始め、牢窓《ろうまど》を破壊して、中なる官兵衛|孝高《よしたか》を助け出すと、闇にまぎれて、城壁をこえ、石垣を辷《すべ》り降り、水門口の小舟をひろって、濠《ほり》を渡って逃げて来たものであった。
――つぶさにそうした経路や苦心を聞いて、半兵衛は、
「熊太郎に、無理に命じたものの、成るか成らぬか、十中八、九までは、難《むずか》しい望みと案じていたが――かく成就したことは、まったく神明の御加護とただありがたく思われる。……して、その以後の数日は、どうして過し、どうしてこれまで辿《たど》りついたか」
と、なおも熊太郎に向ってたずねた。
「さればです――」
と、熊太郎は功を誇るような顔もせず、畏《かしこ》まって、
「割りあいに、城外までは、難なく脱出しましたが、それからの方が難儀でした。諸所の木戸や柵《さく》に荒木勢が野営しているのです。ために、幾度か取り囲まれて、時には敵の刀槍の中で、ちりぢりに分れかけたりしましたが、ようやく斬り破り斬り破り逃げおわせはしたものの、その間に、官兵衛様には、左の足の膝がしらへ、一太刀うけておいでになり、跛行《びつこ》をひいて駈けるため、遠走りはできません。やむなく、農家を叩いて、納屋に寝たり、夜は這い出て、道ばたの堂にやすんだりして、やっと京都まで参りました」
と語り終るとすぐ、後から官兵衛自身が云い足した。
「なに、そうまでせずと、城を遠巻きにしておる織田軍の中へ逃げこめば、もっと楽に救われたろうが――城中で荒木村重からたびたび聞かされたことばによると――信長公にはこの官兵衛をいたく猜疑《さいぎ》しておられるとか。――村重はそれを頻りにいって、自分に加担《かたん》しろ、信長とはそんな人なのだ――と度々|口説《くど》きおったが、自分として彼らの詭弁《きべん》と一笑に附しても正直、かくまでの事情とも御存じなく、お疑いをかけられるとは、いささか心外でないこともない。……で、わざと寄手のお味方へ救いを乞うことを避けて、この京都までやって来た。何はともあれ、貴公のお顔も見たいと思って」
彼はさびし気に微笑した。半兵衛も、黙然、うなずいた。
問いたいこと、語りたいこと、互いに相尽すと、夜は白みかけていた。おゆうはもう朝の雑炊《ぞうすい》を台所で炊《た》いていた。
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死後《しご》の花見《はなみ》
語り明かした面《おもて》はみな疲れていた。朝餉《あさげ》をすますと人々は少し眠りをとった。そしてふたたび覚《さ》めてからの話である。
「時に」
と、竹中半兵衛は、孝高《よしたか》へこう計った。
「ちと遽《にわ》かだが、それがしは今日ここを立って、美濃《みの》の国許《くにもと》へまかり越え、その足ですぐ安土《あづち》へ伺い、信長公の御処分をうけようと思う。――貴公のことは、自分からよろしく披露申しておけば、これより直ちに播州へ下られては如何《いかが》か?」
「もとより拙者も、一日たりと安閑としている気はないが……。しかし」
と、官兵衛孝高は怪しむように、半兵衛の面《おもて》を見まもった。
「まだ病中のお体で、急に旅へ立たれなどして、どうあろうな。お国許へとあれば、行く先に心配はないが」
「いや、きょう限り、病褥《とこ》をあげて起きるつもりです。病《やまい》に負けていては限《き》りもなし、気分もここ数日来ずっと快《よ》い」
「――が、病の仕上げは、そこが大事と、よくいうこと。いかなる急用がおありか知らぬが、もう少し怺《こら》えてここに療養しておられてはどうかな」
「心のうちでは、この春と共に、もっと早く病間を出たいと念じていたのですが、実は、貴公の安否が分るまでと、心待ちに、|旁※[#二の字点、unicode303b]《かたがた》、身の養生をもきょうまで長引かせていたところです。かく御無事を見とどけたうえは、それに懸る気残りもなし、同時に、安土城へ伺って、御処分を待たねばならぬ科《とが》もござれば、きょうこそ病褥《とこ》あげの吉日、ここでお別れ申すことにする」
「安土の御処分をうけねばならぬ科《とが》とは? ……それは一体何事かな」
「まだ、おはなし申してないが、実は……」
と、半兵衛は初めて、去年から信長の命を拒み、今日まで敢《あ》えて「違背の罪を冒して来た事情」を彼にはなした。
官兵衛孝高は愕《おどろ》いた。何もかも初耳であった。自分の行動がそれほどまで信長に疑われていたことも。また、その嫌疑《けんぎ》のために、わが子の松寿丸《しようじゆまる》へ打首の厳命が出ていたことなども――まったく夢想もしていないらしかった。
「……そうだったか」
と、唸《うめ》きのなかに、孝高はふと信長に対して、冷《ひや》やかな感情の空虚《うつろ》を覚えた。単身、伊丹城へ入って、九死の中から一生をひろって帰って来たようなこの苦心も――それは帰するところ誰のためか。そう思うことをどうしようもない。
また、その反動には秀吉の深情や、半兵衛の友情に、瞼《まぶた》の中《なか》を焦《や》かれるような涙をもたずにいられなかった。
「――では、安土へ行くと仰せあるは、信長公に謁《えつ》して、その罪を自首する思し召ですか」
「さよう。かねてから期《ご》していたこと。――併せて、貴公のご潔白も申しあげるつもりです」
「かたじけないが、何で、この官兵衛の子のために、貴公を罪の座へすえられよう。その儀なれば、黒田官兵衛自身、安土へ参上して、一切を申しひらく。あなたは、ここにおいで下さい」
「いや、君命を拒《こば》んで今日に至った罪はそれがしにある。御身の知ったことではない。……ただ貴公に委嘱《いしよく》しておきたいことは、播磨《はりま》の御陣にある秀吉様の傍《そば》にあって、この上とも、良い輔佐《ほさ》となっていただきたいことしかない。――罪を得るも、まぬがるるも、いずれにせよ、この病身、世に長い半兵衛とも思われねば、どうかくれぐれもお身に頼んでおく。一刻も早く、播磨へ下っていただきたい」
頼むように、半兵衛は友へ向って、両手をつかえた。
病人とはいうが、その病人の決心である。まして熟慮に欠けることのない半兵衛|重治《しげはる》でもあった。云い出しては、断じてひかない。
ついに、官兵衛|孝高《よしたか》も、
「それほどまでに仰せあるなら――」
と、彼の意に従わざるを得なかった。
その日。
友は東西に袂《たもと》を別った。
官兵衛孝高は、すなわち渡辺天蔵をつれて、播磨の陣へ。
また、竹中半兵衛は病躯をおして、国許《くにもと》の美濃《みの》不破郡《ふわごおり》へ。――供には栗原熊太郎一名をつれたきりで、余の者も、妹のおゆうも草庵にのこして立ってしまった。
その兄の立つのを、おゆうは南禅寺の門前で泣きながら見送った。もうふたたび帰って来ない兄と思うて泣くのであった。共に見送っていた僧侶たちが、
「果敢《はか》なきおなげき」
と、しまいには倒れかかる彼女を抱きかかえるようにして山門のうちへかくれた。
半兵衛とても、おそらくは同じ思いを――いやより以上悲痛なものを抱いていたにちがいない。
急に調《ととの》えた黒鹿毛《くろかげ》の鞍も古びて佗《わび》しげな背にゆられながら、蹴上《けあげ》までかかると、思い出したように、彼は手綱《たづな》をとめて、
「熊太郎」
と、馬の口輪をのぞき下ろした。
「――云いわすれたことがある。一筆ここで認《したた》めるゆえ、ちょっと走り戻って、ゆうに手渡してくれい」
と、いった。
懐紙を出して、馬上のまま彼は何か走り書した。それを文結《ふみむす》びにして、
「わしは、ぼつぼつ先へ行っているぞ。あとから来い」
と、熊太郎に促《うなが》した。
熊太郎は、それを預かると、畏《かしこ》まってすぐあとへ駈けて行った。半兵衛はもういちど南禅寺の境内を見下ろしていたが、
「――ああ、誤らした。自分の踏んで来た道には、毛頭《もうとう》悔いはないが、妹には、女の道を」
と、愁然《しゆうぜん》、口のうちでつぶやきながら、駒の歩むにまかせて行った。
さむらいの道は一筋だ。かつて栗原山を下りて以来、目ざして来たこの道にくるいはない、悔恨はない。たとえ今日、人生を終るまでも。
けれど彼として――いや兄として、たえず心ぐるしく思われて来たことは、妹のゆうが秀吉の側室にいることだった。それは自然といえば極めて自然なうちにそうなって来た運命ともいえるが、彼の潔白がゆるさないのである。また、兄としての責任感にもたえず責められてならないのだった。女の道をえらぶ大事な頃を自分の側においておきながら――と。
しかしそれもはや十年のむかしに遡《さかのぼ》る悔いである。罪は自分にあって妹にはない。けれど自分のないのちはと、ひそかに妹のあとの半生をなお案じるのだった。
所詮《しよせん》は終生の栄華《えいが》でもなし、女の不幸にきまっている。ことに心ぐるしいのは死を賭《と》している士道の純白にも何か一点の汚染《しみ》がのこるような気がするのだった。幾たびかこのことについては、主君におわびをして暇をもらおうか、妹に苦衷《くちゆう》を打ち明けてどこかへ姿でもかくしてもらおうか、愚痴に迷ったこともあるかしれないが、つい適当な機会もなく過して来たものだった。
「……が、今は」
と、彼もきょうの出立を、帰らない旅としているので、それが妹にいえる気がした。あのいじらしい姿を見ては、やはり云いかねていたが、一筆歌に寄せていうことなら。
おそらく妹は歌の意《こころ》をすぐ酌《く》んでくれるだろう。そして自分のないのちは、兄のあとを弔《とむら》うことを口実にして、蔓草《つるぐさ》の垣にも似ている閨門《けいもん》の花々の群れから脱《のが》れてくれるだろう。
「いまは何の心のこりもない」
この日の偽りない半兵衛の心境はそうであった。遅々《ちち》、春の日は、まだ山科《やましな》あたり、陽は舂《うすず》きもしていなかった。
所領地の不破へ帰り着くと、半兵衛重治は、その一日を祖先の展墓《てんぼ》にすごし、また一刻《いつとき》を、菩提山《ぼだいさん》に佇《たたず》んで、
「あの山も、この河も」
と、なつかしげに故郷の天地と語っていた。
久しぶりの帰郷ではあったが、長居は気もちが許さない。――今朝は起き出るとすぐ髪を結い、また病《やまい》のため滅多にしない湯浴《ゆあ》みをもして、
「伊東半右衛門をよべ」
と、命じた。
菩提山の裾野にも、城中の樹々の間にも、鶯《うぐいす》の音がしげく聞える。また、どこかで小鼓《こつづみ》も聞える。
「半右衛門にござりまするが」
白いふすまを背に、やがて豪骨《ごうこつ》な老武士が手をつかえていた。質子《ちし》の目附兼傅役《めつけけんもりやく》として松寿丸に附けてある者だった。
「半右衛門か、寄れ」
眼でさし招いて、
「かねてそちだけには、詳しく告げてあるが、いよいよ質子《ちし》の於松《おまつ》(松寿丸のこと)どのを、安土へ伴《つ》れねばならぬ日が参った。今日にも打ち立つ所存《しよぞん》。急ではあるが、その方より附添《つきそい》の衆にも申し告げ、すぐお支度あるように伝えよ」
主人の苦衷《くちゆう》も事情も、よく弁《わきま》えている半右衛門ではあったが、さすがに顔色をかえて、
「えッ。……では、どうしても於松様のお生命《いのち》は」
と、鬢《びん》にふるえを見せた。
半兵衛は、笑って見せた。安心を与えるように、至極平静に、
「否。お首にはせぬ」
そしてなお云いたした。
「半兵衛の身にかえても、信長公のお怒りは解いてみせる。於松どのの父官兵衛には、はや伊丹を脱出して、播磨の御陣へ参加しておる。無言の潔白は示されたというものじゃ。――ただ残るものは君命を違背《いはい》したわしの罪があるのみ」
半右衛門は黙然とそこを退《さが》って彼方《かなた》の子ども部屋の方へ足を運んで行った。近づくとそこでは鼓《つづみ》の音だの|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》として騒ぐ少年の声が賑やかにしていた。
松寿丸を中心に、舞の上手な幸徳《こうとく》という小坊主やら、家中の少年たちが、鼓を打って戯れているのだった。
竹中家では、数年来預かって来た松寿丸の身を、人質とも思われないほど優遇して来た。日常の教育、健康その他、わが子以上な愛育へ、より大きな責任感をも抱いて守り育てて来たものであった。
黒田家の方からは、井口兵助、大野九郎左衛門の二名が、附添って来たが、なお竹中家からも家臣伊東半右衛門を侍《かしず》け、協力的にこの一子を珠《たま》の如く磨《みが》いていた。
そうした竹中半兵衛の好意の下に、きょうまでは、深い仔細も知らずに来た傅役《もりやく》たちも、いま半右衛門の口から、
「すぐお旅立ちの御用意を」
と、促されると、愕然《がくぜん》、顔いろを失った。――秘《かく》されてはいたものの薄々の事情は察していたからである。
「では、安土へ?」
と、傅役の井口兵助と大野九郎左衛門が、絶望的な顔を見あわせて嘆息するのを、半右衛門は、
「御心配には及ばぬ。たとえ安土へおつれ申そうと、主人重治様の義心を固くお信じあって、何事もおまかせあるがよろしゅうござる」
と、しきりに慰めていた。
何も知らぬ松寿丸は、小坊主の幸徳や大勢の少年たちと、鼓《つづみ》を打ったり舞ったり、|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》として遊びくるっていた。
松寿丸は、ことし十三歳。松千代とも、於松どのとも呼ばれている。
のちの黒田長政は、この少年だった。――他家の質子《ちし》とはなっても、父|孝高《よしたか》の剛毅《ごうき》と、戦国の骨太《ほねぶと》な育成に生い立って、すこしもいじけ[#「いじけ」に傍点]た子となってはいなかった。
「兵助、何だ。半右衛門が、何をいったのか」
鼓をおいて、於松は、井口兵助のそばへ駈けて来た。もうひとりの傅役《もりやく》、大野九郎左衛門と彼とが、顔見合わせたまま、何か、嘆息しているのを見て、子ども心にも、
(何か起ったか?)
と、心配を抱いてのことらしかった。
「いや、さして、ご心配なことではありません」
と、二家臣は、問わず語りにまず宥《なだ》めて、
「すぐ旅立ちのお支度を遊ばして半兵衛重治様とともに、安土へおいでになるのです」
「たれが」
「和子様《わこさま》が」
「わしも行くのだって。……あの安土へ」
「はい」
ぽろぽろと泣いて顔をそむける傅役《もりやく》の二人を、於松《おまつ》は見てもいなかった。聞くと共に、おどり上がらぬばかり手を打って、
「うれしい。ほんとか」
座敷の方へ駈けもどっていた。
そしてお相手の少年や、小坊主の幸徳などへ向って、
「安土へゆくのだ。ここの殿とご一しょに、旅へ立つのじゃそうな。――もう踊りは止めた、鼓もやめた。仕舞え仕舞え」
それから大声してまた、
「兵助、九郎左。衣裳はこれでよいのか」
と、身支度を促《うなが》した。
そこへ伊東半右衛門が来て、
「湯浴《ゆあ》みをして、髪もきれいに束《たば》ねてさしあげるように――と、殿からのお気づけでございます」
と、注意した。
二臣は、於松の君を、湯殿へ誘《いざな》った。そして風呂に入れ、髪もきれいに結い直して、門出の晴着にと、竹中家から贈られた衣裳を着せてみると、肌着も小袖もすべて純白な死に装束《しようぞく》であった。
「――さてはやはり、半右衛門どののはなしは、われらを狂気させまいと、一時のなぐさめで、まことは信長公の面前で、お首になさるおつもりであろう」
ふたりは、そう解して、悲涙にくれたが、於松はすこしも頓着《とんちやく》なく、白装束を着て、その上に、それだけは華やかな赤地錦《あかじにしき》の陣羽織に、唐織《からおり》の袴《はかま》をはいた。
白い小袖の上に重ねた赤地錦が、いとど美しく見えた。また、その紅顔の粧《よそお》いが、さらに二臣の涙をそそった。身ぎれいにすると、二臣に連れられて、於松は、竹中半兵衛の部屋へ行った。半兵衛はすでに立つばかりに支度して、彼を待っていた。
立ち振舞――と称して、極く内輪《うちわ》だけで、小酒もりが交わされた。
「御飯をたくさんに食べて行かれよ。馬でも、旅は腹のすくもの」
と、半兵衛にいわれて、
「はい。ではもう一膳」
と、於松は元気に食事をすまし、飽くまで機嫌よく、家臣の泣き顔などは、まったく眼もくれずに、
「さ。参りましょう」
と、二度も半兵衛を促した。
「行って来るぞ」
半兵衛は、ようやく立った。――立って座中の一族や旧臣を沁々《しみじみ》と見おろしながら、
「あとは、頼むぞ」
と、いった。
後に思いあわせれば、あとは――といったこの短いことばの中に、彼の万感と、死後の委嘱《いしよく》は、すべてこめられていたのであった。
姉川の戦いにも、またその以後も、殊勲《しゆくん》のあるたびに竹中半兵衛は信長から幾度となく、恩賞も授かっているし、目通りも得ている。
(秀吉から聞けば、そちは秀吉の臣たるのみでなく師とも仰がれておるそうだが、信長もおろそかには思わぬぞ)
とは、かつて、姉川の役に、半兵衛の殊勲が聞えたとき、直接、信長から彼にもたらしたことばだった。
――で、岐阜以来、登城も目通りも、直臣の格に扱われていた。いま安土の城へのぼって来た半兵衛|重治《しげはる》は、側に、官兵衛孝高の嫡子《ちやくし》於松《おまつ》をひきよせ、病後――いや病中とて、疲労は面《おもて》にあらわれていたが、いつにない盛装をして、一歩一歩、鷹揚《おうよう》に御座之間《おざのま》のある楼上へ通って行った。
前夜、届けがあったので、信長は待っていた。
半兵衛を見るとすぐ、
「めずらしや」
と、いい、機嫌うるわしく、
「よく見えた。もそっと、間近う寄れ。ゆるす、褥《しとね》をとれ。たれか半兵衛に敷物を与えい」
などと破格《はかく》な宥《いた》わり方で、なお遠く平伏したまま恐懼《きようく》している半兵衛の背へ、
「病《やまい》は、もう快《よ》いのか。播磨《はりま》の長陣では、心身ともに疲れたことであろう。信長から診《み》せに遣《つか》わした医者のことばには、当分、戦場は無理、少なくもなお、一、二年は静養を要すると申していたが……」
かくばかり臣下に対してやさしい言葉をかけた例は、ここ二、三年来、珍しいことであった。半兵衛重治は、何か、欣《うれ》しいとも悲しいともつかない戸惑《とまど》いを心におぼえた。
「勿体ないお宥《いた》わりです。戦いに参っては病躯、陣後に帰っては、碌々《ろくろく》御恩に浴すのみで、何ひとつ、御奉公らしいこともならぬこの病骨へ」
「いやいや、大事にしてもらわねば困る。第一には、筑前の力落しが思いやらるる」
「そう仰せ下されては、半兵衛、身の置きどころもございませぬ。本来、ここへ罷《まか》り出るさえ恐れある面《おもて》を冒《おか》して、今日、お目通りをねがい出ましたのは、すでに去年――佐久間信盛どのをもって、わたくしまでお沙汰を下しおかれました、松寿丸どの打首の儀を、わたくし一存にて、今日まで」
云いかけると、
「待て待て」
信長は、遮《さえぎ》って、半兵衛のことばなど、耳にもおかず、その傍らに、半兵衛とならんで手をつかえている少年へ、
「それか。於松とは」
「……御意にございまする」
「ううむ、なるほどのう。官兵衛孝高に似て、童形《どうぎよう》ながら、どこか違ったところが見える。たのもしい少年。――半兵衛、この上とも、愛《いと》しんで与えるがよい」
「では。……於松どのの首は」
半兵衛は、胸をあげて、信長を凝視した。もし今なお、この少年を打首にせよと、信長が云い張った場合は、死を賭《と》して、その愚を諫《いさ》め、その非を説破《せつぱ》するの覚悟でこれへ来た彼であったのである。
――が、信長には初めから微塵《みじん》そんな気色《けしき》がないばかりか、いま半兵衛から直視をうけると、突然、哄笑して、自分から自分の愚をかくしもせずこういった。
「そのことは、もう忘れてくれ。実は信長自身、あとではすぐ後悔しておったのだ。なんと、わしは邪推ぶかい漢《おとこ》よ。筑前に対しても、官兵衛孝高に対しても間《ま》のわるいことではある。――しかしさすがは叡智《えいち》な半兵衛重治、よくぞ予の命を拒《こば》んで、於松を斬らずにおった。よくこそと、実はそちの処置を聞いて、胸なでおろしておったのである。――何をか、汝に罪ありと問おうや。罪は信長にある。ゆるせ、信長の至らなかったことを」
頭こそ下げないが――手こそつかえないが――信長は正直にいって、はやくその問題から話を逸《そ》らしたいような顔をした。
――けれど半兵衛重治は、信長のゆるしに、易々《いい》として、甘んじるふうはなかった。
(忘れおけ。水に流そう)
信長はいったが、半兵衛は、むしろ歓《よろこ》ばない容子《ようす》を示して、
「一たん仰せ出された儀を、このまま有耶無耶《うやむや》に過しては、あとあとの御威令《ごいれい》にもかかわりましょう。父孝高の潔白と功に鑑《かんが》み、松寿丸の打首は免じるが、然るべきよう子としても証《あかし》を立てよ。また、この半兵衛が御命を違背《いはい》した罪も、同様、みずから寸功をたてて償《つぐな》うべし――と、かように御意下されば、これに越す君恩はございませぬ」
と、心底のものを吐露《とろ》するように、ふたたび平伏して信長の公明な仁恕《じんじよ》を仰いだ。
もとより信長の気もちも、そうありたかったことである。半兵衛はあらためて、信長からその寛大を得ると、
「ようお礼を申しあげなさい」
と、傍らの於松へささやいて、臣礼を訓《おし》え、そしてまた信長に向っては、
「両名とも、或いは、これが今生《こんじよう》のおわかれとなるやもしれませぬ。弥栄《いやさか》の御武運を祈りおります。今日は先もいそぎますれば、これでお暇を」
と、いった。信長は、解《げ》し難《がた》い顔をして、
「今生《こんじよう》のわかれとは異なことをいう。それでは重ねて予の意に反《そむ》くというものではないか」
と仔細を追求した。
「決して――」
半兵衛は、顔を振って、傍らの於松の扮装《いでたち》へ眼をそそぎながら、
「ごらん下さい、この和子の身支度を。すぐここより父孝高のいる播磨《はりま》の陣へ参って、父に劣らぬ勲《いさお》を立てて、華々《はなばな》と生死の関頭《かんとう》に、将来の命数をまかせる覚悟にござりまする」
「なに、では戦場へ行く気か」
「孝高《よしたか》も名ある武士、於松《おまつ》もその人の子。ただ御寛仁《ごかんじん》にあまえているも本意ではございますまい。――こう察して、半兵衛の取り計らったことでございます。ねがわくば、この少年の初陣《ういじん》のために、ひと言、勇ましく働けと、お励ましを賜わるなれば、どんなにありがたいことかわかりません」
「ううむ。……してそちは」
「病躯、何ほどの力も、お味方の足《た》しとなるまいかに存ぜられますが、ちょうどよい折、於松を伴《つ》れて、ともども、帰陣の考えにございまする」
「よいのか。体のほうは」
「武門に生れて、しかもこのような秋《とき》、畳のうえで死ぬるのは、何とも口惜しゅうございます。薬餌《やくじ》に親しんでいても死ぬときには死なねばなりません」
「そうとは気づかなんだ。それまでの覚悟とあれば……。そうだ、於松にも、初陣を祝ってやろう」
信長は、少年の眼をさしまねいて、手ずから備前兼定《びぜんかねさだ》の脇差《わきざし》を与えた。また家臣に命じて、勝栗《かちぐり》土器《かわらけ》をとりよせ、酌《く》み交《か》わして、
「めでたい。曠々《はればれ》とゆけ」
と、餞別《はなむ》けした。
少年十三、決して、早くはない初陣である。於松は、きょうここへ登城する前夜、半兵衛からよく嗜《たしな》みをうけていたので、敢えて驚きもしなければ、また特にはしゃぎもしなかった。
しずかに、礼儀をして、半兵衛とともに君前を退って行った。信長は楼上の欄《らん》へ出て、その小さいすがたと半兵衛の影が城門を出てゆくまで見送っていた。
あくる朝、播磨へ向うべく、安土を早く立った。京都を通った。南禅寺の屋根は蹴上《けあげ》からその森を見下ろしただけで、遂に立ち寄らなかった。
半兵衛の心には、もう妹のことも国許《くにもと》のこともなかった。あるはただ戦陣のことだけだった。楽しみは、何事も、
(――死後の花見)
と期する百年の後にしかなかった。
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有馬《ありま》の湯《ゆ》
有馬《ありま》の温泉町《ゆまち》は暮れかけている。池之坊|橘《きつ》右衛門《えもん》の湯宿《やど》へ、いま、ふたりの武士がそっと入った。
ひとりはただの旅すがた、ひとりはひどい跛行《びつこ》である。衣服も粗末、垢《あか》じみているどころか、側に寄ると臭《くさ》いほどだった。
「すぐ寝床をひとつ展《の》べてくれい」
部屋にすわると、宿の者へ、ひとりがすぐいいつけた。――跛行の男は、すぐ身を横たえた。
「いたみますかな」
「……どうやら、熱を持って来たらしく、膝ぶしの傷口が、火でもあてているように感じられる。はて、残念な」
跛行《びつこ》の男は、数日前、南禅寺の一庵で、竹中半兵衛とわかれて来た官兵衛孝高《かんべえよしたか》なのである。――あれまでは、襤褸《ぼろ》を巻いているだけで、苦痛も傷口の大きさなども、さして意に介してもいなかったが、播磨《はりま》へと志して、数里、歩き出してみると、まったく歩くにも耐え難いほどな激痛に襲われ出した。
伊丹城《いたみじよう》から脱出した晩、暗夜のなかで、何者とも知れぬ敵に一太刀|薙《な》ぎられた左の脚の関節部だった。……そっと、襤褸《ぼろ》をめくってみると、血膿《ちうみ》をふくんだ傷口は大きく口をあいていた。柘榴《ざくろ》の胚子《たね》のように白い骨が見えるほど深さもふかい。
「このまま、陣中へ行かれても、どうにも、お手当の仕方はありますまい。むしろ、日は遅れようとも、有馬の湯につかって、しばし、御養生の上行かれては」
同行の渡辺天蔵が、しきりにすすめたのである。――考えてみると、身動きもままならぬ体を運んで途中、哨戒《しようかい》のきびしい兵庫街道あたりで、再び荒木勢に捕まるなどは愚《ぐ》な沙汰である。こういう愚は決して勇気ともいえまい。
「そうしよう」
官兵衛は、伴《つ》れのすすめをすぐ容《い》れて、道をかえた。――それにしても、この有馬の温泉町《ゆまち》へはいるには、細心な警戒を要した。何分にも、いたる処、荒木方の哨兵がいたり、木戸があったりするからだ。
着いた翌《あく》る日である。
池之坊の門口へ、ひとりの町人が佇《たたず》んで、宿の女をつかまえ、何か、世間ばなしをしている。
外から戻って来た渡辺天蔵の耳に、ちらと、いやな言葉が入った。女へ、町人が訊いているのである。
「……いや、たしかに、いるだろう。町の衆から聞いているよ。きのう黄昏《たそがれ》、跛行《びつこ》をひいた汚い客が泊ったと」
すれちがいに、天蔵の姿を、女は見ぬふりをして見送っていた。着くとすぐ宿の主《あるじ》へ、天蔵から口止めしてあるので、女は、答えに困ったものらしい。
天蔵は、部屋にはいると、蒲団の中の顔をのぞいて、
「どうです、昨夜、今朝と、まだ二度ほどの入浴では、効《き》き目もありますまいが、すこしは楽になりましたか」
「む、む」
と、枕の上から振り向いて、
「だいぶ楽だ。温泉《ゆ》は効《き》くものだな」
「せっかく、お楽になったところを、酷《むご》い気がいたしますが、今夜はここを立たねばならぬかと存じますが」
「なに。……ああそうか。嗅《か》ぎつけて来たのだな」
「どうも、そんな気《け》ぶりが」
「ぜひがない、いつでも立つ。決して、足手まといに考えてくれるな。いざとなれば、片脚ぐらいはなくても駈けるよ。ははははは」
障子の外に、人の気はいがした。天蔵はすぐ向き直った。官兵衛は手をのばして、刀を蒲団の下へ抱き入れた。
「ごめん下さいまし……。さだめしご退屈でございましょう」
宿の召使である。茶盆と共に膝を入れ、すぐ茶を汲みながら、世事ばなしを始めた。――が、ふたりとも、何か油断のならないものを、なお障子の蔭に感じていた。
「誰だ? ……。まだ外に、誰かつぐなんでおるようではないか」
官兵衛は、ふいに、そう咎《とが》めて宿の手代《てだい》の顔いろを見た。
「はい、実は」
と、手代は、云い難《にく》そうに、
「どうしても旦那さま方へ、会わせてくれというて、肯《き》かないものでございますから」
そういってから、障子の外の中縁へ首をさし出し、
「新七さん、おはいりよ。何をここへ来てから、もじもじしていなさるのじゃ」
と、いった。
さっき渡辺天蔵が門口で見かけた町人である。図々《ずうずう》しく来たなと天蔵は眼をかがやかした。しかし、案外な気がふとしなくもなかった。というのは、
「はい。……ぶしつけに。……せっかくお休みのところへお邪魔しまして」
と、おずおず入って来たのをあらためて凝視すると、あながち荒木の部下が変装して来たというようなするど[#「するど」に傍点]さは見えない。その道にかけては、多年、天蔵自身こそ本職であるから、いま一見すると、
(これは自分の勘ちがいであった)
と感じ、すぐ疑心を訂正していた。
で、それを官兵衛にも気づかせるように至極気らくに、
「さあ、入るがいい。その方もこの宿で入湯中のものか」
「いえ、伊丹《いたみ》の御城下におりまする銀屋《しろがねや》新七という者でございます」
「なに、伊丹の者?」
「はい。釵《かんざし》や小金具《こかなぐ》などの、金銀の細工物《さいくもの》をしておりますので」
「ふム……。して何ぞ、この方たちへ、細工物でも誂《あつら》えてくれとでも申すのか」
「それもございますが」
と、軽く笑って、宿の召使へ、そっと包みらしいものを与えていた。そして耳のそばへ口をよせながら、
「お頼みだよ。いいかね」
とささやいた。
手代はうなずいて、すぐ立ち去った。いよいよ解《げ》せない町人と、官兵衛はにらまえていたが、銀屋新七というその男には、少しも暗さが見えなかった。
「さあ、これでいい。どうぞお両方《ふたかた》も御安心くださいまし。もう人目はございませんから」
「いったい、そちは何者だ」
「さきほども申しあげました――伊丹の新七と申しまする」
「うそであろう」
「どうしてですか」
「そちのような町人に、何の縁故もない」
「いえ、大ありです。……場所が場所、人目もあるので、さきほどから不作法のみいたしておりますが、そちらにおいで遊ばすのは、播磨《はりま》の小寺政職《おでらまさもと》様の御家臣、官兵衛|孝高《よしたか》様でございましょう」
「なにッ」
天蔵が、刀をよせて、眼からくわっ[#「くわっ」に傍点]と殺意を放つと、新七は、初めて跳びあがるばかり驚いて、官兵衛の夜具のすその方へ逃げまわりながら、
「お、おゆるし下さい。い、いけなかったら、もう、な、なにも申しません」
と平伏したまま、ふるえ抜いていた。
「いや、斬りはしない」
と天蔵は、無意識に出た自分の身構えを、自分で笑い消しながら、
「どうしてそれを知っているのか」
と、穏やかに訊ねた。
新七はしばらく口の渇《かわ》きに口もきけない顔つきだったが、やがて横を向くと、懐中《ふところ》をひらいて、肌の奥から一通の書面をやっと取り出した。
封をひらいて、読み下していた官兵衛の面《おもて》には、驚きと、涙とが、交錯《こうさく》していた。
黒田家の臣、母里太兵衛《もりたへえ》、栗山善助、井上九郎の三名が連署《れんしよ》の書面だったのである。
書面の内には――
殿、伊丹の城中に、御幽囚《ごゆうしゆう》をうけて以来、われわれ三名、いかにしても、お救い申しあげんものと、早くから城下の一商人|銀屋《しろがねや》の奥にかくまわれ、機を伺うこと半歳、ついに目的を達して、城中のさる者に賄賂《まいない》を送り、村重《むらしげ》誕生祝いの夜、城内より放火させ、お身近まで忍び入りましたところ、こはいかに、すでに獄舎は破れ、あたりは火ばかりで、おすがたは見あたりません。
さては、村重が手早く、お体を他所《よそ》へ移し去ったものかと、一時は悲嘆絶望のあまり、三名刺し交《ちが》えて死なんかとまでいたしましたが、その後、城内でもお行方をしきりに厳探中と聞え、さては、無事に他へお逃《のが》れあったか、さすればわれわれの苦心もむなしからず――と、実は御武運の幸《さち》を祝していたところでした。
折も折、昨夕、お姿を変えて、有馬の湯へひそかに御潜伏と、新七よりの情報に、狂喜雀躍《きようきじやくやく》、すぐにもお宿へうかがい、お目通りをとも思いましたが、なおそこらは敵地に遠からぬ所、人目の憚《はばか》りもあり、かたがた、ふいにお愕《おどろ》かせ奉るもいかがと弁《わきま》え、わざと一応、かく書面|仕《つかまつ》りました。
つぶさなことはなお新七より直々《じきじき》お聴取りを仰ぎます。
というような文意であった。
「新七とやら。……この書面によれば、母里《もり》、栗山、井上の三人は、わしが伊丹の城中に囚《とら》われとなったときから、そちの奥にかくれて、苦心をかさねていたようだが……今なお三名はそちの家に潜《ひそ》んでおるのか」
「はい。たしかに、お城外《しろそと》へ無事にお逃げになったことは知れましたが、なお、はっきり御生死をつきとめぬうちはと」
「して、そちと、三人とは、どういう縁故から……?」
「母里太兵衛様には、てまえの妹が、御奉公中から嫁にゆくまで、並ならぬお世話になっておりましたので」
「……ああ、知らなかった。家来三人が、よそながらわしの身を救い出しに来ていたとは」
「ここへお泊りと聞いて、お三人様とも、飛び立つように、すぐお目にかかりに行くと仰っしゃいましたが、どうして、この有馬も油断はなりません。強《た》って、てまえがお止め申して、実は瀬ぶみ[#「ぶみ」に傍点]に参ったわけでございまする」
「そうか。……いや、よく注意してくれた。ここもなかなか人目は多い。わしが宿を立つまでは、近づいてくれるなと伝えてくれい。脚の傷口も癒《い》えきるまでには日数もかかろうが、まず一時の痛みさえ歇《や》んだら播磨へ立つつもりじゃ。ここ五、六日も湯に浸《つか》って」
「では、帰りまして、そのようにお伝えいたしておきましょう。しかし、よそながら御身辺は、きっと、お守りしておりますゆえ、まずまず、ここにおいでの間は、大事ないものと、御安心あそばして、ゆるりと御療治《ごりようじ》なされますように」
新七はそう告げると、長居を避けてすぐ帰った。
すると次の日、池之坊の斜向《すじむか》いにある温泉宿《ゆやど》へ、三人づれの旅商人が泊った。表二階の障子をたてた部屋の内から、一人はかならず外を見張っていた。
七、八日目頃である。黒田官兵衛は、渡辺天蔵を連れて、池之坊の門口を出た。足の痛みもよほど快《よ》くなったとみえ、歩行にもさほど跛行《びつこ》をひいていない。町端れまで来ると、馬を雇った。そして官兵衛だけは馬の背にゆられ、六甲の麓《ふもと》を右に望みながら兵庫路へさして行った。
赤松の梢《こずえ》に、山藤の花が垂れていた。道はひくい山陰《やまかげ》をめぐってゆく。ふと、官兵衛は馬をとめて、
「天蔵。この辺で休もうか。後の者が追って来たらしい」
と、云いながら、もう鞍を降りかけた。
おうーい、おうーいと遠く呼ぶ声がしている。渡辺天蔵にも聞えていた。またその声の主《ぬし》が何者かもわかっていた。
柔らかい春の陽を正面《まとも》に、陽炎《かげろう》も立ちそうな崖の山芝を背に、官兵衛は、木の切株に腰かけていた。
わらわらと、そこへ喘《あえ》ぎながら追いついて来た三名の旅人がある。どれもこれも、名乗り合わなければ知れないほど、顔も姿も変っている。みな黒田家の家来で、みな官兵衛の若年からそばに仕えて来た者たちではあるが――。
「おお」
「殿!」
官兵衛は、腰をあげて、突っ立った。――同時に、その足もとへ、三名の家来は、ひたと、ひれ伏していた。
「……御無事なお姿を拝しまして」
母里太兵衛《もりたへえ》、井上九郎、栗山善助――そう三人のうちの誰かが云ったが、嗚咽《おえつ》をのんで、辛くもしぼり出した声なので、それは低くふるえ、異様にかすれて、よく言葉の意味も聞きとれないほどだった。
しゅくしゅくと、三人はただ泣いていた。欣《うれ》し泣《な》きである。男泣きである。戦場に立っては、鬼神《きじん》もひしぎ、家庭にあっては、平素でも、泣くことを知らないといわれている人々が、ほとんど、手放しで、慟哭《どうこく》していた。
「…………」
茫然《ぼうぜん》、官兵衛|孝高《よしたか》も、いうべきことばを知らなかった。欣《うれ》しくもありまたすまなくもある。子飼のこの者たちが、きょうまで、陰にあって、これほどまで自分の救出に苦心していてくれたということを――いまは眼《ま》のあたりにある三名の変り果てた姿に見たからである。
三名とも、各※[#二の字点、unicode303b]、旅《たび》商人《あきゆうど》に身を窶《やつ》していたが、その容貌までを変えるため、母里太兵衛は、片鬢《かたびん》の毛を、焼ごて[#「ごて」に傍点]で焼いて、わざと大きな禿《はげ》をつくっていたし、栗山善助は前歯を数本欠き、井上九郎は、元々、片眼を戦場でつぶしていた勇士だが、そのうえに、面に焼きあばた[#「あばた」に傍点]を作って、ふた眼と見られない顔をしていた。
滂沱《ぼうだ》と、ふたすじの、白いものが、官兵衛の頬にもながれたとき、少し離れて、街道を見まわしていた渡辺天蔵は、
「てまえは、お先に参ります。はや御身辺も安心ですから、後よりごゆるりと」
と、告げて、先へ立ち去った。
官兵衛は、腰をおろして、さて三名にむかい、手をも取らないばかりにいった。
「よろこんでくれ、このとおり身はふたたび天日を仰ぐことができた。天まだ官兵衛を見すてたまわず、この官兵衛にも、なお世にあって、なすべき事あれとのおいいつけあったものと深く思うておる。――伊丹の獄中にあるうちは、よもそち達が、城下にあって、そのようにわが身のため、苦心していてくれておろうとは、ゆめ気づかなんだが……幸いに、秀吉どのから遣《つか》わされた渡辺天蔵と、竹中どのから向けられた栗原熊太郎の両人の手で救け出された。それもこれも、後に思いあわせれば、陰にあって、そち達が、あらゆる策を講じてくれたおかげであった。手をつかえて礼ものべたい。どう謝してよいか、ことばも見出せぬ。ただただこの至らぬ主人に対してそちたちの忠節は辱《かたじけな》いと申すしかない。――ただこの後は、天意によって保ち得たこの余命を、いかに使うべきか、いかにそち達にも酬《むく》うべきか、それしか今は考えられぬぞ。ゆるせ、わしも泣かずにはおられん」
と、官兵衛は肱《ひじ》を曲げて、その面《おもて》にあてると、ややしばし肩をふるわせて、共々に泣いていた。
剛骨な中には、柔弱な内よりも却《かえ》って、多くの涙をたたえているものとみえる。有馬路《ありまじ》の真昼、往来の人もたえて、ただ山藤の香《にお》いのみが高かった。
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屍山血河《しざんけつが》
三木城は、今なお頑《がん》として陥《お》ちずにある。
この小さい一山城に、別所|長治《ながはる》、長定《ながさだ》の兄弟とその一族がたて籠って、こう長期に頑張り得ようとは誰にも予測できないことであった。
包囲《ほうい》長攻《ちようこう》をうけてから足かけ三年。秀吉の軍勢に、城外を遮断《しやだん》され、糧道を断《た》たれ、完全な封鎖のうちに孤立化してからも――すでに半年以上。
どうして喰っているのか。
どうやって生きているのか。
城兵のうごく影を見、元気な声を遠く聞くたび、秀吉方の寄手は、
「奇蹟?」
と、呆れるしかなかった。いや時には、何か不気味な感じすらうけないこともない。
なぐっても、叩いても、蹴っても、どう締めつけてもなお動いている生きものと闘っているような根気《こんき》負けが、ともすると却って寄手の方に生じて――それは著《いちじる》しく士気を沮喪《そそう》せしめることがある。
「自分から焦躁《あせ》りをみせてはならん。疲れてはならん」
全軍の上に立つ秀吉としては、ようやく倦《う》み疲《つか》れやすくなっている士気に対して、細心な注意をしながら、しかもその細心をおもてに現わすまいと自戒《じかい》していた。
しかし、長陣の窶《やつ》れと、苦慮の憔悴《しようすい》は、唇《くち》のまわりの髭《ひげ》にも、落《お》ち窪《くぼ》んでいる眼にも蔽《おお》い得ないものがある。
「あきらかに誤算をした。いくら持ち支《ささ》えるとしても、こう長く陥《お》ちまいとは思わなかった」
彼は正直にそれを自分でも認めている。そして、戦争というものが、必ずしも兵数兵理だけでは割り切れないもののあることを、今、痛切に学んだ。
糧道も断《た》たれ、水路も塞《ふさ》がれ、外部ともまったく絶縁されている城兵約三千五百が、餓死《がし》に瀕するのはまずこの一月中旬と見ていたのである。それが月の末になっても陥ちない。二月にかかっても頑《がん》としている。いや三月に入り、今や四月というのに、何たることだ。城中の士気はいよいよ旺《さか》んなるものこそあれ、降伏して来るような気《け》ぶりもないではないか。
勿論、食はあるまい。城兵は牛馬を喰い木の根も草も喰い尽しているにきまっている。――が、なお煌々《こうこう》たる士心の不屈さが、石垣一つ敵に渡さないでいるのは、そうなればなるほど、べつにまたいよいよ熾烈《しれつ》を加えてくる一心一体の闘志があるからにちがいない。
要するに、三木城の現在は、生命力のかたまりだ。これに対して糧道を塞《ふさ》ぎ水道を断《た》っても、それが直ちに落城の極《き》め手《て》とはいわれない。いや却って城兵の団結と情味とを外から強めさせてやるような観をすら呈《てい》してくる。
過ぐる二月十一日の夜のごときは、そうした決死の城兵が約二千余り、死を決して志染川《しそめがわ》を徒渉《としよう》し、秀吉の各陣所へ夜襲をかけて来たほどである。士気の壮烈なることは、以て、察しるに余りがある。
その晩の暗夜戦には、秀吉方もかなり手痛い損害をこうむった。城兵は暁になって、将士三十五人、卒七百八十の戦死体を収めて、意気揚々と引きとったが、寄手はそれに倍する死傷を与えられた。――朝の陽が峰のうえに昇ったとき、志染川の畔《ほとり》も、そこここの崖や谷間も、文字どおり屍山血河《しざんけつが》の惨状をえがいていた。
また、三月に入っては、こんなこともあった。
別所長治の家老、後藤将監《ごとうしようげん》の家来が約七十人ばかり、骨と皮のようになって、ひょろひょろ降伏して来た。粥《かゆ》など喰わせて、ともあれ陣中に捕虜としておいたところ、この捕虜は、やがて夜半となると、俄然《がぜん》、行動を起して、忽ち寄手の一|塞《さい》を占領し、武器を奪い、火を放ち、追々勢いを加えて、あやうく平井山の秀吉の本陣近くまで猛襲して来たものである。
もちろんこれは忽ち数倍する兵力で包囲|殲滅《せんめつ》してしまったが、その戦闘精神の強靭《きようじん》なことと、士節の高い心根には、寄手の将士も舌を巻いて歎服《たんぷく》し、死体はみな一つ一つ手厚く葬って、そこらの野辺の花など手向《たむ》けられていた。
死にもの狂いな城兵の抵抗はこの程度には止まらない。
中村五郎|忠滋《ただしげ》は、別所家の侍だったが、寄手方の一将、谷大膳《たにだいぜん》とは以前から多少縁故があったので、対陣のあいだにも、時折、歌など書いて示して来た。
「ははあ、さては?」
と、大膳は、彼に二心あるものと読んだ。――で、ひそかに密者を忍ばせて、
「城中から裏切《うらぎり》して、この方の人数を手引きするなら、落城の後、羽柴様に願って、所領家名の安泰はもちろん、将来良きように取り計らうが」
と、もちかけてみた。
果たして、中村は同心して来た。けれど万々、念を入れて、谷大膳は、人質《ひとじち》を要求した。
すると一夜、暗にまぎれて、
「これは、わが家の惣領娘《そうりようむすめ》、何とぞ、大事の終るまで、お手許に」
と、妙齢十六、七の眉目《みめ》うるわしい処女《おとめ》を、そっと城中から送って来た。
「よし」
と、谷大膳は、以後、時期攻口など、万端ぬかりなく諜《しめ》しあわせて、或る夜、尖兵《せんぺい》一千余人、中村五郎の手引のもとに、三木川の対岸の崖からよじのぼり、首尾よく城壁のうちへ送りこんだ。
「火の手や揚がる?」
と、谷大膳を始め、寄手は固唾《かたず》をのんで合図を待っていた。――ところが、火の手はおろか、内からの裏切はおろか、却って、城門各所、ひしひしと守りかためて、遂に夜の明けるまで、寄手は一歩も近づき得ずに終ってしまった。
しかも。――中村|忠滋《ただしげ》の手引きで先に城中へ入った一千余の将士はとうとう一名も生きて帰って来なかったのである。中に入るやいな、完封殲滅《かんぷうせんめつ》、文字どおり血漿《けつしよう》の巨墳《きよふん》をそこに作ってしまったのであった。
「憎さも憎し!」
谷大膳は地だんだ[#「だんだ」に傍点]踏んだ。秀吉の前へ出て、慚愧《ざんき》、詫びることばも知らず、
「大切なお味方を一千も亡《な》くした罪、今さら申すことばもございません。ねがわくば、大膳がこの首を刎《は》ねて、以後の士気をお奮《ふる》い遊ばしてください」
と、哭《な》いて云った。
「ばかを申せ」
秀吉は叱った。――この上にもまた、そちのような将を一人死なしてどうする、というのである。とはいえ、苦《にが》りきるほかはなく、
「人質の娘はどうした?」
と、たずねた。
大膳は答えていう。
「きょう三木川に引き出し、父の中村忠滋や城兵の遠見しているまえで、磔刑《はりつけ》にしてくるる所存《しよぞん》です」
「磔刑に」
「……なお飽き足りはいたしませぬが」
「いや待て、まずい」
秀吉は、急にいいつけて、中村の惣領娘を、本陣へ呼びつけた。
父から旨をいい含められて、これに来ているほどな処女《おとめ》である。死ぬものと、清々《すがすが》しく覚悟をしているらしい。秀吉は殺すにしのびなかった。
――が、はた[#「はた」に傍点]と睨みつけて、
「父の忠滋《ただしげ》と肚をあわせて、わが兵をあざむいた憎い女子《おなご》、首にして死骸は裏谷へ取り捨てろ」
と、近侍の者へいいつけた。
侍たちは、平井山の裏谷の上へ引っ立てて行った。秀吉はあとで、
「城兵にとっては可憐《かれん》な女子。そのいじらしき者を、三木川で磔刑にしては、一層、城兵の結束《けつそく》と決死の気を強めさせるようなものになる。人知れず処置したほうが得策《とくさく》であろう」
と、大膳や味方の将に、意中をはなしていたが、実は、その間に、側臣の堀尾茂助《ほりおもすけ》をあとから裏谷へ追いかけさせて、その惣領娘は、遠く戦場の外へ逃がしてやっていたのであった。
このことは、誰も知らなかったが、三木落城の後、丹波《たんば》で捕われた中村五郎忠滋の前に、その惣領娘を呼んで、
「そちに与える」
秀吉からひき合わされたので人みな初めて彼の仁心を知ったのだった。中村忠滋が、以後、秀吉に随身を誓ったことはいうまでもない。
城中の結束のいかに強固なものかを、秀吉は、前の中村の惣領娘のときにも、手きびしく示されたが、その後の小競《こぜ》り合いにも、こんな一例があった。
まだ、十四、五の少年である。
いつも敵方から寄手の柵《さく》へ奇襲して来るときは、その先頭に立って、小つぶ[#「つぶ」に傍点]に似げない敏捷《びんしよう》な働きをし、
「またあのチビ助にしてやられた」
と味方の首を持ってゆかれる度に舌打ちしていたものだが、いつかそれが陣中の聞え者になって、
「あれは、城将別所長治に仕えるもので、名は石井彦七、当年わずか十五歳だそうだ」
と、知れ渡っていた。
秀吉の小姓にも年少組がたくさんいる。うわさを聞いて、彼らは切歯扼腕《せつしやくわん》した。石田佐吉、加藤孫六、同じく虎之助、片桐助作など、
「こんど出て来たら」
と、待ちかまえていた。
もちろん秀吉のゆるしによる。そのうちに三木川の南口の柵《さく》へ或る朝、敵の決死隊が朝討ちをしかけて来た。そのむらがる中にチビ武者の奮戦ぶりが見えた。助作、虎之助、佐吉など、
「きょうこそ」
と、争って駈けつけた。
秀吉は危ぶんで、
「子どもらを討たすな」
と、屈強な者にいいつけていたので、前後は大人《おとな》の鉄甲が囲んでいた。すると、敵味方のあいだに力戦していたチビ武者の石井彦七に向って、誰か、遠矢を射たものがある。或いは、流れ矢であったかもしれない。
ところが、矢は、何と、可憐なる彦七の鼻の下に中《あた》っていた。もちろん、どう[#「どう」に傍点]と仰向けに倒れた。そこへ、駈け寄った小姓組の面々が、
「ここな、小僧めが」
憎さも憎しとばかり、折り重なって、生《い》け捕《ど》りにして来た。
蹴ったり、引き摺《ず》ったり、ようやく秀吉の前まで引っ立てて来たのを見ると、無残や、鼻の下に深く突き刺さった矢はまだ抜けずにある。
余りに、幼いのと、その痛々しさに、秀吉が、
「待て待て、鼻の下の矢から先に抜いてやれ」
と、いった。
「心得て候」
と、一、二名の者が、矢に手をかけたが、鏃《やじり》は骨に引ッかかっているとみえて、彦七のからだに、足をふみかけて引っぱってみても、抜ければこそ。
彦七は、顔じゅう血になりながらも、黙って、それに任せていたが、さすがに苦痛にたえかねたとみえて、秀吉へ、
「お仮屋《かりや》の柱をおかし下さい。さもなくては抜けません」
と、訴えた。
どうする気と、彦七の意にまかせてやると、彼は立って、陣屋の柱に、自分の頭と胸いたを、縄でかたく縛ってもらった。そしていうには、
「鍛冶鋏《かじばさみ》がありませんか。鍛冶鋏で矢をまっ直ぐに挟んで、一気にお抜き取りください」
といった。
これには、いわれた方が、やや顔の色を失ったが、彦七は、貧血も起さなかった。
この剛気を見ていた浅野長政は、秀吉に、
「ぜひ」
と、懇願《こんがん》して、助命を乞い、後に自分の家臣とした。
うら若い女性にも、まだ親の膝を離れたばかりな一少年にも、これくらいな気魄《きはく》があるとすれば――三木一城は取るに足らない小城としても――これは容易に陥ちるわけはない。
秀吉は、事々《ことごと》に驚異した。――一致した精神力の強さといっても、よもこれほどまでとは今日まで考えていなかった。
――こう城兵側の意気だけを語ると、いかにも寄手は、ただ受け身に、虚を衝かれてばかりいたようだが、秀吉の麾下《きか》にも、彼に劣らぬ若者はむらがっている。なんで、ひとり三木勢にばかり気を吐かせておこう。
小姓組にある脇坂隼人《わきざかはやと》は、当年十六。ここの陣中で、或る折秀吉が、
「たれか、この母衣《ほろ》に望み手はないか。欲しくば与えるぞ」
と、一張の見事な赤い母衣を示して、諸士を見まわした。
金糸で山みち模様を縫い、赤地に白い輪交《わちが》いが染め出されている。
「目ざましき母衣《ほろ》」
とは思ったが、諸将もちょっと手が出なかった。なぜならば、華やかな母衣を負うことは、同じに、母衣に恥かしくないほどな、華やかな武勲を公約することになるからである。
「わたくしに、それを、拝領させてください」
そういって出たのが、まだ十六の脇坂隼人《わきざかはやと》である。秀吉はふり向くと、
「欲しいか」
と、隼人の上へ、投げ与えてやった。
その後、城の西坂の戦いに、隼人は身に母衣をかけて、死闘奮戦した。小さい体の腰帯に、敵方のさむらいの首二つをくくりつけて引揚げて来た。
「よしよし。その紋も、そちにくれる」
輪交《わちが》いの家紋をも秀吉からもらったのである。それに感奮して、また数日の後、城壁の下まで戦い迫って行ったが、こんどは敵方から襲《う》った一弾に中《あた》って、仰向けに倒れてしまった。
「やれ、無残」
と、すぐ味方の宇野伝十郎が、掻《か》い抱《いだ》いて、退《ひ》こうとすると、
「嫌だ、退《ひ》くのは嫌だ。何でもないッ」
と、急に隼人は腕の中でもがいて、伝十郎の手から離れてしまった。
弾《たま》は兜《かぶと》の鉢の真ッ向《こう》に中《あた》ったので、倒れたのは、一時眼が昏《くら》んだだけに過ぎなかったのだ。
それにしても、脇坂隼人は伝十郎の手をもぎ離すと、傍らの岩に腰うちかけて、悠々、兜の緒《お》をむすび直し、さて落した槍を拾いとると、ふたたび真紅《しんく》の母衣《ほろ》をひるがえして、敵の中へ駈け入ったという。なかなか見るも清々《すがすが》しいすがただった。
こういう者もあるし、また福島市松なども、この三木城攻めには、別所随一の剛勇と聞えた末石《すえいし》弥太郎を討って、秀吉の感賞にあずかっている。
もっとも、市松もまだ弱冠、尋常では討てるわけの相手ではない。その日、末石弥太郎が傷《て》を負って三木川の草むらに、水を掬《すく》って休んでいたのを、いきなり屈《かが》み寄って、
「市松だッ、羽柴の家来、福島ッ――市松ッ」
と、早口に名のりかけながら不意に突きかけたものである。
名乗《なのり》――と、ひと口にいうが、一度や二度の合戦をふんだくらいでは、しかも相手が相当な敵と知る場合など、思いのまま名乗声の揚げられるものではない。
せつなに、口も渇《かわ》き、舌の根ももつれ、なにをさけんだか、あとでは自分でもわからない――というのが、後々、一騎当千なつわものと呼ばれるようになった人々にしても、正直に述懐《じゆつかい》するところである。
この時、市松は、一度敵の末石弥太郎に襟《えり》がみをつかまれて、すでに首を呈するところだったが、彼の郎党、星野なにがしという者が、そこをまた後ろから滅多斬りして、主従ふたりがかりでようやく弥太郎の首級《しるし》を獲たのであった。
このほか、大崎藤蔵とか、黄母衣組《きぼろぐみ》の古田吉左衛門とか、蜂須賀彦右衛門の子家政とか、いちいち軍功をあげれば数かぎりもない働きは寄手の中にもあったのであるが――しかもなお頑として陥《お》ちも揺るぎもしないのが別所一族のたて籠《こも》った三木城であった。
――こういうところへ、しばらく陣地を退《ひ》いていた病軍師竹中重治は初陣《ういじん》の少年、黒田|松寿丸《しようじゆまる》を伴《つ》れて戻って来たのであった。
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秋風平井山《しゆうふうひらいやま》
これよりも先に、秀吉は、渡辺天蔵の報告によって、黒田官兵衛が無事に伊丹《いたみ》の獄中から救い出されたことは聞いていた。
だが――
ここへ病中の竹中半兵衛が帰陣して来ようとは意外であった。
しかも、官兵衛のほうは、まだ帰陣していないのである。
「おう……」
と、その意外な面《おもて》をもって、彼のすがたを迎えた秀吉は、
「どうして、ここへは?」
と、むしろ怪訝《いぶか》らずにはいられなかった。
長陣の仮屋はほとんど平常の住居のように住み古びていた。久しぶりにこの主従が対面したのはその一劃の幕《とばり》の中だった。特に、半兵衛にも松寿丸にも床几《しようぎ》が与えられ、秀吉も床几に倚《よ》っていた。
半兵衛は、頭《ず》を垂れて、
「長陣の御労苦、いかばかりぞと、お案じしておりましたが、思いのほか、お元気にわたらせられ、まずは欣《うれ》しく存じまする。半兵衛も、御仁慈のおかげをもって、このところ御覧のごとく病も癒《い》え、はやいかなる陣務にも耐え得べしと、自信もできましたれば、おゆるしも待たず、ふたたび帰陣仕りました。――ただならぬ御苦戦の折、しばしなりと、勤めを欠き、何かと御用も怠っておりましたが、向後《こうご》はお心安く思し召しくださりますように」
いつものように静かな沈重な物腰である。ふいに姿を見た初めにはすぐ病体が案じられたが、こうして話しているうちに、
(まったく快方に向ったものとみえる)
と、秀吉も心のうちでやや安堵《あんど》を抱いて来た。
一方、黒田官兵衛が、ここへ戻って来たのは、それから三日目であった。――官兵衛は、秀吉に会うと、男泣きに泣いて、
「このたびの難に当って、初めてあなたの真情というものが、真底から相分った。この厚恩《こうおん》は、死ぬまで忘れません」
と、いった。
また、竹中半兵衛に対しては、
「御友情のほど、骨髄《こつずい》に徹するほど、ありがたく思います。お礼のことばもない。ただこの上は、幸いに、なお生きることを得た生命を、あらん限りまで、よく生き用いて、おこたえ仕《つかまつ》るしかありません」
と、再三、礼をかさねた。
松寿丸を呼んで、半兵衛が、
「長らく、質子《ちし》として、それがしの手許におあずかりしていましたが、いまはその要もなしと、信長公より御帰家のおゆるしの出た御子息、久しぶりに、御父子、御対面なされたがよい」
と、つつがなく、父の手へ、松寿丸を返すと、官兵衛|孝高《よしたか》は、子の大きくなった身なり[#「なり」に傍点]へ、ひと目向けたのみで、
「来たか」
と云い、また、その扮装《いでたち》を見遣《みや》って、
「ここは、戦場、そちにとっては、一人前のさむらいに、成るか成らぬかの初陣《ういじん》の場所、父のそばへ帰ったなどと思うなよ」
と、諭《さと》した。
秀吉にとって、両の腕ともたのむ二人が帰って長らく堅氷《けんぴよう》に閉じられていたような帷幕《いばく》も、ここ遽《にわ》かに、何となく華《はな》やいで来た。
彼の周囲、彼の帷幕のそうした空気は、すぐ全軍の士気へ、微妙な作用をもって映る。
作戦、攻城は、急に活溌になった。城南城西の一塁一塁へ向って、寄手の兵は間隙《かんげき》を見ては攻めたてた。
五月になった。
雨季に入る。
ここは中国の山地なので、たださえ雨が多いため、道は滝津瀬《たきつせ》と変じ、空壕《からぼり》は濁水にあふれ、平井山の本陣の、その登り降りには、泥土に踏み辷《すべ》るなど、ここいささか快速を加えて来たかに見えた攻城も、ふたたび自然の力に阻《はば》まれて、まったく膠着《こうちやく》状態になってしまった。
平井山の牙営《がえい》から戦線四里にわたる寄手の支営を、黒田官兵衛は、たえず陣輿《じんごし》に乗って、見廻っていた。
片脚の傷口はついに有馬の湯でも癒《い》えきれなかった。終生の跛行《びつこ》になりおわるらしいと彼自身も苦笑している。――で、兵卒に陣輿を担《にな》わせ、それに乗って、戦闘中の指揮にもあたっていた。
「……あれを見ては」
と、竹中半兵衛も病苦を忘れて激務《げきむ》を克服していた。奇なるかなこの帷幕《いばく》は。――と誰かがつぶやいた。秀吉の双璧《そうへき》とたのむ謀将勇将のふたりが二人とも、満足な体でなかった。一方は宿痾《しゆくあ》の重い病軍師であり、一方は跛行の身を輿上に託して指揮奮戦にあたっている猛将官だった。
が、この二人が秀吉を扶《たす》けたことの尠なくなかったことは、ただその智謀だけのものではない。両者の悲壮なすがたを見るごとに、秀吉は崇高な感激と涙なきを得なかった。ここに至って、彼の帷幕《いばく》というものは、まったく一心一体になっていた。
ただこれあるがゆえに、攻城の士気は弛《ゆる》まなかった。そしてなお半歳もかかったが、よく三木城の堅守《けんしゆ》を陥《おと》し得たともいえると思う。
もし寄手の帷幕に、不壊一体《ふえいつたい》の中心がなかったら、恐らく三木城はついに陥ちなかったかも知れない。そして、毛利の水軍が、包囲の一角を突破して、ここへ粮米《ろうまい》を入れるなり、或いは、備中《びつちゆう》から山野を越えて、急援に迫り、城兵と協力して、寄手の鉄環《てつかん》を粉砕し、羽柴筑前守秀吉なるものの名へ、ここで永遠の終止符を与えて事は終っていたかもしれないのである。
だから秀吉も、時には、余りに俊敏《しゆんびん》な官兵衛の働きや、その機智に、出し抜かれなどすると、
(また、あのちんば[#「ちんば」に傍点]めが)
と、戯れ半分に、その驚嘆を、悪口であらわしたりすることもあったが、内心はふかく尊敬し、信頼していたことは確かで、彼が祐筆《ゆうひつ》に記録させておいたところを見ても、それを半兵衛重治と対照して、
[#ここから2字下げ]
竹中ハ総軍ヲ己レノ任トシ、強《アナガ》チニ小事ニ精《クハ》シカラズ、万《ヨロヅ》自然ニ任セタリ。彼、先駆《サキガケ》、殿《シンガリ》ニアルトキハ、軍中何トナク心ヲ安ンジタリ。
[#ここで字下げ終わり]
と称《たた》え、また官兵衛に関しては、こういっている。
[#ここから2字下げ]
我等、播州《バンシウ》ヘ入国ノ初ヨリ、朝暮、官兵衛ヲ側ニ置テ、ソノ才智ヲ計リ見ルニ、我等モ及バヌ処アリ。事ノ決断成リカネ、息ノツマル程、工夫ニ悩ム折ナドモ、官兵衛ニ語ラヒ、何トスルヤト問フニ、彼サシテ分別《フンベツ》ニ惑《マド》フ態《サマ》モナク、ソレハ箇様《カヤウ》ニナスガヨロシクコレハ左様ニ仕《ツカマツ》ルガ然ルベシナド、立チ所ニ答ヘ、我等ガ両三日昼夜カカリテ分別ナリ難キ事モ、水ノ流ルル如ク決シテ少シモ過《アヤマ》ツコトナシ、我等ガ及ビ難キ臨機応変《リンキオウヘン》ノ性《タチ》ヲ得タルモノト云フベキカ。
[#ここで字下げ終わり]
これを見ても秀吉がいかに官兵衛半兵衛のふたりに嘆服し、またその扶《たす》けを徳としていたかが窺《うかが》われる。
ところが。
その徳を大としていただけに、ここに秀吉の心へ、大きな傷手《いたで》となることが起った。というのは――その年の雨季もすぎ、炎暑の夏もこえて、ようやく涼秋《りようしゆう》の八月になりかけた頃、半兵衛重治の病《やまい》がどっと重くなって、もう今度は二度と、その病骨に、鎧具足《よろいぐそく》もまとえまいと思われるような容体に陥《おちい》ったことであった。
「ああ、天もついに秀吉を見捨てたもうか。まだ若い英才半兵衛に、余命をかし給わぬか」
と嘆いて、仮屋の一囲いに、秀吉も共に閉じ籠って、昼夜、看病に怠りなかったが、半兵衛の容子《ようす》には、その夕べ、刻々と、危険が迫っているように見られた。
鷹之尾《たかのお》、八幡山などの、敵の支塁《しるい》も、夕靄《ゆうもや》につつまれていた。
宵が迫る――
白い靄の中から、銃声が谺《こだま》していた。秀吉は、平井山の一角に佇《たたず》みながら、
「また、あの跛行《びつこ》どのが、余りに深入りせねばよいが」
と、敵へ迫って行ったまま、まだ帰って来ない官兵衛|孝高《よしたか》を、案じていた。
あわただしい跫音が、その時、彼の横へ来て止まった。見ると、ぺたと、大地へ両手をついて、泣いている者がある。
「於松ではないか」
「はいッ」
官兵衛孝高の子、松寿丸《しようじゆまる》は、半兵衛|重治《しげはる》に伴《ともな》われて、この平井山の味方へ初陣《ういじん》として加わって以来、もう幾たびか戦場も駈け、生れて初めて、鉄砲槍の中も歩き、わずかな間に、見ちがえるほど、気丈《きじよう》となり、骨太になり、また大人《おとな》びていた。
七日ほど前から、半兵衛の容態が急変したので、秀吉は於松《おまつ》に向って、
(誰が枕許《まくらもと》にいるよりは、そなたがいてやるのが病人にとっても欣《うれ》しかろう。わしが看護《みとり》してやりたいが、気をつかっては、却って病気によくあるまい)
と、自分に代る丹精を彼に命じておいたのである。
於松にとっても、半兵衛は、数年|薫育《くんいく》をうけた恩人、また生命《いのち》の親でもある。ここ昼夜その人の枕許に侍したまま具足も解かず、薬餌《やくじ》の世話に精根を傾けていた。
――その黒田松寿丸が今、これへ駈けて来るなり大地へ泣き伏したのである。直感に秀吉は、はっと、胸を衝かれた。
「泣いていては分らぬ。於松何事か」
わざと、叱咤すると、
「おゆるし下さい」
と、於松は、籠手《こて》を曲げて、瞼《まぶた》を拭《ぬぐ》いながら、
「重治様には、もうものいうお力も弱られ、お生命《いのち》は、こよいの夜半を持つまいとのこと。……どうぞ、戦いのお暇に、ちょっと、お越しねがいとうございます」
「……危篤とな」
「は、はい」
「医師のことばか」
「さようでございます。――が半兵衛様御自身は、私に向って、かならずとも、自分の容態をわが殿へも、陣中の人々へも、告げるなかれと、固く仰せられておりますが……。今生《こんじよう》のお別れもはや間もないことなれば、ひと言、殿のお耳へ達しておいたほうがよかろうと医師、御家士方の仰せのままに、急いで、これまで、お知らせに伺いました」
「そうか」
と、答えた時には、秀吉もすでに観念の眼を心にとじていた。
「於松。……そちはわしに代って、しばしこれに立っておれ。やがて鷹之尾《たかのお》の戦場から、そちの父、官兵衛が引き揚げて来るであろうから」
「父は、鷹之尾に出て、戦っておりますか」
「むむ、例のごとく、輿《こし》にのって指揮にあたっておる」
「――では、私の方から、鷹之尾に行って、父に代って、兵を指揮し、父を半兵衛様のお枕辺《まくらべ》へ呼びもどしてはいけないでしょうか」
「よくいうた。――そちにその勇気があるなら」
「行って参ります」
と、すぐ起って、
「半兵衛様の息のあるうち、父もひと目会いたいでしょう。口にこそ出さね、半兵衛様も、父の孝高《よしたか》に会いたいと思っているにちがいありません」
松寿丸は、健気《けなげ》に、そういうと、身なり[#「なり」に傍点]に較べては、大き過ぎて見える槍の柄《え》を横にかかえて、山すそへ、駈け下りて行った。
秀吉は、その踵《くびす》を、反対のほうへ回《めぐ》らして、途中から次第に歩速を大股に運んでいた。営中、幾棟にもわかれている仮屋の一つに、燈火《ともしび》の影が漏《も》れていた。そこが竹中半兵衛の寝ている病棟で、折ふし、そこの屋根越しに宵の月が淡くのぼりかけていた。
枕許《まくらもと》には秀吉から附けておいた医師もいる。竹中家の臣もいる。ほんの板囲《いたがこ》いに過ぎない仮屋の藺莚《いむしろ》のうえではあるが、白い衾《ふすま》は厚くかさねられ、片隅には、職人図を描いた屏風《びようぶ》が一張《ひとはり》立てられてあった。
「半兵衛……。わかるか。秀吉じゃ、筑前じゃ、どうだの、気分は」
そっと、側へ坐って、枕の上の顔をさしのぞいた。
夕闇のせいか、半兵衛の面《おもて》は、|琅※[#「王+干」、unicode7395]《ろうかん》のようにきれいである。――かくまで人は痩せるものかと、涙なきを得なかった。
秀吉は、辛《つら》くなった。見ているのが、どうにも、傷《いた》ましい。
「医師」
「はい」
「……どうだなあ」
「…………」
医者は何とも答えないのである。もちろん時間の問題とその無言は答えているのだが――秀吉としてはなお、何とかならないものかと、云いたいのだった。
昏々《こんこん》としていた病人は、そのとき微かに手をうごかした。秀吉の声が耳へとおったらしく、うっすら眸《ひとみ》をあけて、何か、近侍に意志を告げようとしていた。
「殿が、お見舞いに成らせられました。……殿が、お枕べに」
「…………」
うなずいて、なお、何かもどかしがる。――自分の身を抱き起せと、命じるらしいのであった。
「いかがでしょう」
医師をかえりみて、近侍が諮《はか》ると、さあ、と医師も答えきれない顔した。
秀吉は半兵衛の意を覚《さと》って、
「なに、起きたいと。まあ、そうしておれ、そうしておれ」
と、子をあやすように宥《なだ》めた。
半兵衛は、微かに、顔を振って、さらに、近侍を叱った。といっても、もとより大きな声も出ないが、とたんに、落ち窪んでいる眼にそれが見えたので、はっと一も二もなく、近侍は彼の命のまま、二人ほどして、板のような病人の半身をそっと抱え起した。
夜具で身のまわりを支えようとすると、半兵衛は、無用と、退けて、唇をかみしめながら、寝床のうえから徐々に身をずり降ろした。
それは、今、息もたえんとする病人にとっては、必死な努力にちがいなかった。すさまじいばかりな懸命さである。凝視したまま――秀吉も医師も並居る家臣たちも、息をのんで見まもっているしかない。
ようやく、寝床を離れること二尺ばかり、藺莚《いむしろ》のうえに、半兵衛重治は、きちと坐った。何たる肩の尖《とが》り、膝の薄さ、また両手の細さ。女にも見まほしい姿だった。
ひそかに、唇《くち》をしめて、息を調《ととの》えているらしい。やがて、折れるように、ぺたと両手をつかえた。そして、
「はや、おわかれも、今夕《こんせき》にせまりました。……多年の御鴻恩《ごこうおん》、あらためて、お礼申しあげまする」
と云い、またすこし間をおいて、
「散るも咲くも、死ぬも生まるるも、ふかく観じてみれば、宇宙一円の中の、春秋の色相《しきそう》のみ。……おもしろの世かな。さようにも思われます。……殿には、御縁あってかく御厚遇をうけましたが、顧《かえり》みるに、何の御奉公も仕らず、ただそれのみが、臨終《いまわ》の心のこりにござります」
糸のような声であるが、ふしぎにすらすらと唇からもれて来る。或る厳粛なる奇蹟に対する心地で、一同は、粛《しゆく》として容《かたち》をあらためていた。わけて秀吉は、襟《えり》を正し、項《うなじ》を垂れ、両手を膝にのせたまま、慎んでその一語一語も聞きもらすまいとしていた。
まさに、消えなんとする灯は、滅前、鮮《あき》らかな一閃《いつせん》の光りを放つ。
いま、半兵衛のすがたは、その生命《いのち》は、あたかもそうした崇高な一瞬に似ていた。
――必死に、彼はなお、この世に最期のことばを、秀吉へ告げようとし、そして云いつづけた。
「多事、これからの多事多端、世のうつり変りは、寔《まこと》に、思いやらるるばかりです。……大きな変革期《かわりめ》のさかいにある今の日本。……生きられるものなら、半兵衛ごときも、生きてそのゆくてを見とどけたい。真実、左様に存じますれど……天寿、いかんともなし得ません」
次第に、ことばも明晰《めいせき》になってくる。生命力だけでものをいっているようだった。肉体そのものはさすがに時々大きく喘《あえ》ぎ、肩を抑えては、次のことばまでの呼吸をやめていた。
「……が、殿。……あなた様こそは、かかる時代に、生れあわせ、また選ばれたるものぞと、御自身、お思いにはなりませぬか。……つらつら半兵衛が、見上げ奉るところでは、あなた様は、ゆめ、天下人《てんかびと》たらんなどとは、野望しておいででない」
ここで、また、間をおいて、
「それが、今日までは、あなた様の御長所で特徴でもありました。――失礼ながら、あなた様は、お草履取であるときは、お草履取の職分に万念《ばんねん》をつくし、また、一士分の身であるときは一士分の職分に全能をつくし、決して、徒《いたず》らに上ばかり見て足を浮かしているような妄想家ではおわさなかった。いまとても恐らくは、そのお心にたがいなく、いかにせば中国|探題《たんだい》の職分を完《まつと》うしうるか、いかにせばよく信長公の御委嘱《ごいしよく》に最善な御満足をおこたえし得るか、またいかにせば目前の三木城を陥《おと》し得るか――それに御専念のほか、また他事や一身の栄達などはお考えないものに相違ございますまい」
「…………」
房中は寂《せき》として他に人はないようであった。秀吉はふかく垂れた頭をあげることも身ゆるぎも、まったく忘れ果てたもののごとくじっと聞いていた。
「しかし……です。かかる時代を収拾《しゆうしゆう》する大器量は、かならず天のお選びによって、どこかに用意されてあるものです。群雄天下にみち、各※[#二の字点、unicode303b]、この乱世の黎明《れいめい》を担《にな》うもの、万民の塗炭《とたん》をすくうもの、われなり、われを措《お》いて、人はあらじと、自負し自尊し、ここに中原《ちゆうげん》の覇業《はぎよう》を争っておりますが、すでに、偉材謙信は逝《ゆ》き、甲山の信玄亡く、西国の雄|元就《もとなり》は、おのれを知って、子孫に守るを訓《おし》えて世を終え、そのほか浅井朝倉は当然の自滅をとげ、何人かよくこの大くくりを成し遂げて、次代の国土に文化に万民をして心から箪食壺漿《たんしこしよう》せしめるような大人物がおりましょうか、残っておりましょうや……指を折ってみるまでもないではございませぬか」
「…………」
秀吉は、そのとき、むく[#「むく」に傍点]と面《おもて》をもたげた。――と、半兵衛の眼の窪《くぼ》からも、らんとして、射るような光が彼の面へ向って来た。――いま死なんとする臨終のものの眼と、なおどこまで生きるかしれない秀吉の眼とが、せつなに、葛藤《かつとう》した。無言のうちに、射合ったのである。
「信長公。――右大臣家をさしおいて何をもうすかと、あなたは心中に半兵衛のことばを御迷惑がっておられましょう。……そうです、そのお心もちはわかります。……けれど、信長公には信長公でなくては能《あた》わぬ使命をもって、天意は充分に、公《おおやけ》に振舞わせておられます。現在の状態を打ち破るあの御威勢、今日までの百難をふみこえられて来たあの御信念、それは徳川どのでも、あなた様でも、よくなしうることではありません。信長公を措《お》いて誰か時代の混乱をここまで統率して来ることができましょう。……さはいえ、それをもって宇内《うだい》のすべてが革《あらた》まるとはいえないでしょう。中国を征し、九州を略し、四国を治め、陸奥《みちのく》を伐《う》つとも、それのみで、上《かみ》朝廷を安んじ奉り、四民を和楽せしめ、しかも次の文化の建設、世々の隆昌の礎《いしずえ》がすえられるとはいえません。……いえませぬ」
時代が英雄を生み、英雄が時代を創《つく》る。
また、破壊の英雄があり、建設の英雄もある。
天数人命、宇宙のふしぎな配置を、かりに天意とよぶならば、天意は、その時代に応じて英雄をつくり、その器量に応じて、任じる使命を、局限《きよくげん》しているようである。
春秋三国の史に照らして、またかつての日本の治乱興亡をかえりみて――半兵衛はふかくそう観じているらしい。歴史の実をもって、現状の変を洞察《どうさつ》し、また時局の底流を按《あん》じ、多年、身は秀吉の一幕下に置いては来たが、心は高く栗原山の山巓《さんてん》から日本中のうごきと、時代の帰趨《きすう》とを大観して――或る結論を、
(こうだ。こうなる)
と、かたく胸奥《きようおう》に秘めていたものの如くである。
彼は信じている。
縁あって、多年、自身が輔佐《ほさ》したこの主人こそ、いわゆる破壊の時代を承《う》けて必然現われなければならない――次の人ではないかと。
明け暮れ、余りに側近くいて、時には、夫人の寧子《ねね》と夫婦喧嘩をしたり、時には、愚にもつかないことを歓んだり、鬱《ふさ》いだり、馬鹿をいったり――風采《ふうさい》ときてはまた、他家のどの主人と見較べても、優《まさ》るとは思えない――御主君であるので、とかく、そう偉材な天質と観るものは、まず、羽柴家の家中でさえ、十人のうちに一人とはないらしいが、竹中半兵衛は、この人に侍側《じそく》し、この人のために半生を送ったことを、今とても、決して後悔していないどころか、
(よくぞ、かかる御主君に)
と、結ばれた天縁に対して、大きなよろこびと、そして臨終《いまわ》の間際までも、確乎《しつか》とした生きがいを感じているのであった。
(この殿が、かねて自分の信じているような役割をもち、また将来の大を成しとげてくれるなら、重治そのものの形骸《けいがい》は、ここにおいて事の中道に死すとも、決して、空《むな》しき生命を終ったものとはならない。――この君の精神《こころ》をとおし、この殿の将来をとおし、自分の理想は、何らかの象《かたち》で世に行われよう。自分はこの喬木《きようぼく》を大ならしめる根もとの肥料《こえ》であっていい。ただこの喬木が、亭々《ていてい》、次代にそびえ、爛漫《らんまん》、この世を君が代の春とのどかにする日があれば――わが願いは足れりといえる。ひとは夭死《わかじに》というかも知れないが、以て半兵衛重治は充分に瞑《めい》すことができるというものである)
「……以上、申しあげたことのほか、もう……もういうべきことばは、何もございませぬ。どうぞ……殿。御自身をお大切にして下さい。またとなき御自身であることを信じて、重治亡きのちも、一層、御勉強あそばして……」
――と、いったとき、半兵衛の胸は、朽木《くちき》の折れるように、前へ曲った。それを支えるべく、細い手を、畳へ落したが、手にも、すでにその力さえなく、がば[#「がば」に傍点]と、莚《むしろ》の上へ顔を俯《う》つ伏せてしまった。
顔と莚のあいだから、とたんにぱっ[#「ぱっ」に傍点]と、紅《くれない》の牡丹《ぼたん》が咲いたように、血しおが拡がった。もちろん吐いたのである。――秀吉はとびつくように、半兵衛のこうべを抱えた。なお、こんこんと流れるものが、自分の膝、胸へかかって汚れるのも意識せずに、
「重治ッ、重治ッ。わしを置いて。わ、わしを残して――そちひとりはや逝《ゆ》くか。そちに別れて、この後の軍《いくさ》に、秀吉は何としよう……重治ッ」
と、掻《か》き口説《くど》いて、秀吉は大声で泣いた。醜態といえば醜態ともいえるくらい、見栄《みえ》も外聞もなく、おいおいと泣くのであった。
――がくりと、その膝に、項《うなじ》を折っている白い顔は、いまは主君の胸に甘えて、
(否とよ。これからのあなたには、もうそんな憂いはありません)
と、微笑《ほほえ》みながら、秀吉の繰言《くりごと》を、否定しているようであった。
[#改ページ]
地下《ちか》なお奉公《ほうこう》
朝見た人も夕べはいず、夕べに見かけた人も晨《あした》には死んでいる。
そうしたことが、べつに無常観を誘うでもなく、日ごとに梢から散ってゆく紅葉《もみじ》を見るように見られている戦場にあって、どうして半兵衛重治の死だけが、こうもひどく秀吉を悲しませて熄《や》まないのだろうか。
余りな彼の嘆き方には、共にそこで哭《な》いていた人々ですらあやしんだほどであるが――やがてようやく子どものムシが収まったようにわれに回《かえ》ると、秀吉は、冷たくなった半兵衛のからだを、自分の膝からそっと自分の手で白い衾《ふすま》の上に寝かしてやりながら、なお生ける人へでもいうように呟《つぶや》いていた。
「ひとの二倍三倍、長寿《ながいき》しても、やりきれない程な、大きな理想をもっていたのに、まだその望みの中道どころか、緒《しよ》にもつかないうちに……。死にたくなかったろう……。わしにせよ、今迎えに来られても、山々、死にたくない……のう重治、いかばかり心残りの多かったことであろうぞ。可惜《あたら》、おぬしほどな才をこの世にもって生れながら、その百分の一の思いも世に果さないでは、死にたくないが当りまえじゃ」
何たる恋々の多い人か。またしても死骸に向って愚痴である。掌《て》を合わせて、念仏ひとついってはやらないが、綿々と喞《かこ》ちごとは尽きない彼であった。
「せっかく、蜀《しよく》に立つや、劉玄徳《りゆうげんとく》は、遺孤《いこ》を孔明《こうめい》に託して逝《い》った。孔明のかなしみは、食も忘れたほどだったという。――だが、わしとおぬしの間はあべこべだ。孔明に先立たれた劉備《りゆうび》にひとしい。――ああ、孔明に先立たれてとり残された劉備。考えてみても、落莫《らくばく》たるものではないか。わしの落胆、わしのさびしさ、喩《たと》えるものもありはしない」
あわただしい物音が、そのときこの陣小屋の外に聞えた。松寿丸の知らせを聞き、戦場から輿《こし》に乗って、えいえい[#「えいえい」に傍点]と急がせて来た官兵衛である。
「なに、もうだめかッ。……間にあわなかったか」
さも、残念そうに、大声で辺りに応《こた》えながら、官兵衛は跛行《びつこ》をひいて、ここへ入って来た。
そして、眼を赤くしたまま、枕許《まくらもと》に坐っている秀吉の姿と、――今は一躯《いつく》の冷たいなきがらとなっている友、半兵衛重治のすがたとを見て、
「……う、うむ」
と、重く呻《うめ》いたまま、身も心も、挫《くじ》けたように、腰をついてしまった。
それなりである。官兵衛も秀吉もただ凝然《ぎようぜん》と一つものに眼を向け合ったまま、ものもいわず坐っていた。いつか室内は暮れて洞《あな》のように暗くなっていたが、燭を燈《とも》す者もなかった。死者の白い衾《ふすま》だけが谷底の雪みたいに見えていた。
「……官兵衛」
全身から嘆息をもらすように、秀吉の方からやがて一語《ひとこと》いった。
「惜しいのう。かねて、むずかしいとは、思っていたものの……」
官兵衛も、それに対して、多くをいえなかった。共に茫然たる面持ちで、
「ああ、分らないものですな。伊丹《いたみ》の城に囚《とら》われて、所詮《しよせん》、亡いいのちと、諦《あきら》めていたてまえは生きのび、だいぶ快《よ》い快いというていた重治どのが、あれからまだ半年も経たぬまに、こうなろうとは」
そこで、彼は気がついたように――
「これこれ、左右の方々、いつまで共に嘆き沈んでいたとて、どうなろうぞ。――燈火《ともしび》をつけぬか。そして、重治どのの御遺骸を浄《きよ》め、室を掃《はら》って、安置せねばなるまい。いずれにせよ陣葬のこと、万端、充分には参らぬまでも――」
彼が、さしずを始めると、秀吉はいつのまにか、もうそこにいなかった。
ゆらぐ燭《しよく》の光の中で、人々は寒々と働きはじめた。すると重治の枕の下から、一通の遺書があらわれた。黒田官兵衛に宛てて死ぬ二日ほど前に認《したた》めておいたものだった。
――仮に平井山の一部に、重治の遺骸を厚く葬《ほうむ》って、何やら、喪旗《もき》にふく秋風もさびしく、気落《きお》ちのあとの疲れも出て、陣中ともすれば寂寥《せきりよう》にとらわれやすい真昼だった。
ひそとした陣幕の内を訪《と》うて、黒田官兵衛は、一通の書を、秀吉に示していた。
「なに、半兵衛の遺書が、枕の下にあったと。……そちへ宛ててか」
秀吉は、促《うなが》さるるまま、すぐ拡《ひら》いて、読み下していたが、そのあいだ幾度となく、眼をあかくし、瞼《まぶた》を指で拭《ぬぐ》い、ついにはしばらく面《おもて》をそらして、一気に読み終ることができなかった。
歿《ぼつ》する二日前に、心友の官兵衛|孝高《よしたか》へ宛てて認めたものではあるけれど、その書中のことばは、一行半句たりと、自分の望みや交友のことに触れているのではない。
冒頭からしまいまで、すべてみなこれ主君秀吉の身にかかわることか、将来の経営について、憂いを述べ、善処《ぜんしよ》を託し、また日頃から脳裡にある経策《けいさく》をつまびらかに書き遺しているのだった。
その一節には、
[#ここから2字下げ]
――たとへ身は化《け》して土中の白骨となるとも、殿にして微衷《びちゆう》をわすれ給はず、おこころのうちに、ふと[#「ふと」に傍点]だにも御想起くださるなれば、重治の魂魄《こんぱく》は、いつなんどきたりとも、殿のうつし身のうちに息吹《いぶ》き奉り、草葉の蔭よりの御奉公も決してかなはぬ事とは存じ申さず……
[#ここで字下げ終わり]
と、書いているところなども見える。――生きている間の忠勤もなお足らずとし、若くして逝《ゆ》くこの世に恨みも思わず――白骨となってもなお奉公の道あることを信念して死を待ったかと、重治の心根を思いやると、秀吉は哭《な》かずにいられなかった。どう気を取り直しても、涙が出て仕方がなかった。
「殿。……そういつまでも、お嘆きなすっている時ではありますまい。どうか、書中のほかの所へ眼を転じて、篤《とく》とお考えを願わしゅうございます。――そこに半兵衛どのが、三木城攻略の極め手として、書きおかれた一策がございましょうが」
官兵衛が、やがて、強くいった。従来、ずいぶん秀吉に打ち込んできた官兵衛ではあるが、こんどのことについては、すこし秀吉の痴愚凡情《ちぐぼんじよう》な半面をあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に見せられて、少しあいその尽きた顔つきであった。
重治はその遺書のうちに、
――三木落城もあと百日を出で間敷《まじく》は候も。
と、予言はしていた。けれど、ただ力攻《ちからぜめ》して兵を損じることの不可なることを説いて、最後の一策を、味方のために、書き遺《のこ》して逝《い》ったものである。
――敵方三木の城内で、もののよく分る人物といえば、やはり別所の家老、後藤将監基国《ごとうしようげんもとくに》に如《し》くものはない。
自分のみるところでは、彼は大局の帰趨《きすう》も分らず盲戦《もうせん》に強がっているような暗将ではない。戦前、姫路の城で同坐して、幾たびか語りあったこともあれば、自分とは浅いながら友交もあった人といえよう。
別封に、彼へ宛てて、一書を認《したた》めておいたから、これを携えて、一度城中に彼を訪《と》い、彼、後藤基国をして、その主君別所長治によく利害を説かせ、大勢の帰するところを諭《さと》したなら、長治とて、よも鬼神《きじん》ではなし、かならず開悟《かいご》一転、城を開いて、和睦を乞うて来ようかと考えられる。
ただし、これを行うには、潮時の測《はか》りが肝要である。晩秋、地には枯葉|捲《ま》いて、天には孤月寒く、そぞろ兵の胆心にも、父母や弟妹への思慕と郷愁の多感なる頃をもって、最もよしとする。冬近きを思うにつけ、飢餓《きが》に迫っている城兵はいよいよ悲壮な哀腸《あいちよう》を抱いて死の近きを覚悟しているにちがいない。これへ徒《いたず》らに力攻を加えることは、むしろ彼らによい死場所と死出の道づれを与えるに過ぎないことになろう。ここしばしは、戦いもやめ、彼に静思のいとまを与えて然る後、それがしの書簡を送って、懇《ねんご》ろに、かつ真情をもって、敵の城主と家老をお説きあれば、おそくも年内には、落着を見ること疑いもない。
と、筆をすすめ、なお、
――成るか成らぬかなど、事に当るに先だって、自身から疑うようなことで、事の成るはずはない。
とも書き添えて、その実行を信念づけることまで忘れていなかった。
にも関《かか》わらず、幾分、成否を疑っているらしい秀吉の態《さま》を見て、官兵衛孝高は、遺書に見えない点を云い添えた。
「実は、その策について、半兵衛どの生前にも、一、二度語られたことはありましたが、時機でない、なお早いとて、見合わせていたものです。殿のおゆるしさえあれば、いつなりと、それがしが使いして、城中の後藤将監と会って参りますが」
「いや、待て……」
秀吉は、首を振った。
「――この春だったか、浅野弥兵衛の縁組という手引きで、城中の一将に、その策を用いたことがある。ところが、いくら待っても、返辞がない。後に探ってみると、その者が主人の別所長治へ降伏をすすめたのを、将士が怒って、即座に斬りころされたということだった。――半兵衛の遺策も、それと似たりよったり、まあ同じ策ではないか。下手《へた》をしたら、寄手の弱味を知られるばかりで、得るところは何もない」
「いや半兵衛どのが、行うに機を測《はか》るが大事といっているのは、そのことでしょう。今なればと存じますが」
「しお時かな?」
「確《かた》く信じまする」
「…………」
その時、陣幕《とばり》の外で人声がした。聞き馴れている将士の声のほかに、どうも女らしい声もふと聞えた。
はからずも、この陣中へ秀吉をたずねて来た一女性は、亡き半兵衛の妹のおゆうであった。
兄の危篤と、知らせをうけるやいな、彼女はすぐわずかな従者をつれて危険も思わず京都を立ち、
――せめて、ひと目でも、この世にあるお顔を。
と、ひたすら急いで来たのであったが、女の脚ではあり、物騒《ぶつそう》な戦地に近づくほど、道も思うまま捗《はかど》らず、とうとう兄の臨終《いまわ》には間にあわなかったものであった。
「……おゆうであったか」
秀吉が床几《しようぎ》の前に彼女の変り果てたといってもいい――旅姿とその面窶《おもやつ》れをながめて――こう言葉をかけているとき、官兵衛|孝高《よしたか》も小姓たちも、わざと側を外《はず》して、幕《とばり》の外へ出ていた。
「…………」
おゆうは、涙ばかり先立って、いつまでも秀吉を仰ぎみられなかった。旅寝のあいだにも、長い長い戦陣の留守のまも、夢にすら見て恋い描いていた人であるのに、ここに来ては側へも寄れない心地に打たれた。
「……聞いたか。半兵衛の死を」
「……聞きました」
「あきらめい。ぜひもない」
それが秀吉としても、精いっぱいの慰撫《いぶ》であった。
――が、おゆうは、秀吉からそう優しくなぐさめられると、雪解《ゆきげ》のように、心もなだれて、一度にせぐりあげて来る涙と共に、よよと声を放って、大地へ哭《な》いた。
「よせ、よせ。見っともない」
あわてて秀吉は床几を離れて、何とはなく、立ち上がってしまった。ここに人目はないにせよ、すぐ幕《とばり》の外に近習《きんじゆ》たちがいるので、家来の耳を気がねするふうなのである。
「ふたりして、半兵衛の墓へ詣ろう。おゆう、尾《つ》いて来い」
秀吉は先に立って、陣屋の裏から山道をたどって、なお小高い一丘の上に登った。
一幹の松がうそ寒い晩秋の風に嘯《うそぶ》いていた。その下に、土色もまだ新しい土まんじゅう[#「まんじゅう」に傍点]が盛られてあり、一個の石が、墓標のかわりにすえられてある。
かつては、長陣の徒然《つれづれ》に、この松の根がた[#「がた」に傍点]へ莚《むしろ》をしき、月を賞しながら、官兵衛、半兵衛、秀吉と鼎坐《ていざ》して、古今を談じたこともある。
「…………」
おゆうは、草むらを見まわして手向《たむ》ける花をさがしていた。
そして、秀吉の次に、土まんじゅうへ向って、額《ぬか》ずいた。
涙はもうこぼれなかった。人の命数を哭《な》き悲しむには、余りに山上の自然は、宇宙の当然な理を、晩秋の草木をもって訓《おし》えている。――秋去れば冬、冬去れば春――自然の中には何の悲嘆も涙のたね[#「たね」に傍点]もない。
「殿さま……」
「何か」
「おねがいがござりまする。兄のお墓を前に折入って」
「そうか。……ウム、そうか」
「おわかりでございましょう……。おそらく、殿さまのお胸には」
「わかっている」
「ゆうに、お暇をくださいまし。……おきき入れ下されば、兄もどんなに地下でほっとすることかと存じまする」
「身は地下に埋もれても、魂魄《こんぱく》はなお奉公するといって死んだほどの重治じゃ。その重治が生前から気に痛《や》んでいたこととあるのに、どうしてこの秀吉とて反《そむ》けよう。心のままにしたがいい」
「ありがとう存じまする。おゆるしを賜わるうえは、兄の遺命どおり、兄の遺物《かたみ》を抱いて……」
「どこへ行くか」
「どこか、草深い里の尼院《にいん》へでも」
またしても、涙にくれた。秀吉もあらぬ方を向いて立っていた。同じ自然の中には棲息《せいそく》していても、やはり人はあくまで煩悩《ぼんのう》の外のものではあり得ないとみえる。
――散る紅葉《もみじ》や啼《な》く小鳥、その清々《すがすが》しさには秀吉も学び得なかった。
[#改ページ]
紅葉《もみじ》を喰《く》う
秀吉からいとまも許された。亡兄《あに》の遺髪《かたみ》や小袖を持った。陣中に女の長居は無用。おゆうは次の日すぐ秀吉に、
「お別れ申しまする。くれぐれもお身を御大切に」
と、旅支度までして、最後の暇乞《いとまご》いに出たが、
「まあ待て、もう二、三日、陣中にとどまっておれ」
と、ひきとめられた。
かけ離れた仮屋の一棟に、おゆうは幾日もぽつねんと、兄の遺髪を弔《とむら》っていた。四日五日と過ぎるのに、秀吉からは何の沙汰もなかった。
山には霜がおりて来た。時雨《しぐれ》るたびに四山の木の葉はふり落されてゆく。――と、一夜、めずらしく月の冴《さ》えた宵、
「おゆう様。お召しです」
小姓のひとりが、秀吉の使いとして、小屋をさしのぞき、
「こよいお出立《しゆつたつ》の用意をあそばして、半兵衛様のお墓のある山の上までお越しあれ――との仰せでした。……ええ、すぐにです」
と伝えて、使いの小姓も、先へ行ってしまった。
身支度といっても、かねて旅包みとしてある物のほかは何もない。亡兄《あに》の遺臣栗原熊太郎と、ほか二人ほど連れて、おゆうはやがて、墓山へ上って行った。
草も木も枯れて、山路のながめは、落莫《らくばく》たるものだったが、その夜は、霜でもおりているように、月の光が白かった。
黒い人影が、六ツ七ツ、秀吉のまわりに佇《たたず》んでいる。近習とみえ、おゆうの来たことを告げていた。中に、官兵衛|孝高《よしたか》らしい影も見えたが、おゆうがそこへ行き着いた時は、もう辺りに見えなかった。
「おう、ゆうか。あれ以来、つい軍務に忙しくて、朝夕訪れもしてやらなかったが、……山もめっきり寒くなって来たし――心細く思うていたろう」
秀吉はやさしい。総じて誰にでも女にはやさしい秀吉であるが、この際、やさしくいわれることは、却って、情けでない気がした。
「これから先は、生涯独りで草深い里に住もうと、心に誓っておりますせいか、もうどこにいても、寂《さび》しいなどという心地はおこりませぬ」
彼女の答えを聞きながら秀吉はうなずき、うなずき、
「たのむ。半兵衛の後生をよう弔《とむろ》うてやってくれい。いずこに住もうと、生あるうちには、また会う折があろうが」
と云い、そして、その人の墓のある松の下を振り向いて、
「おゆう、あれに用意させておいた。もうこれ限《き》り、そなたの妙《たえ》な琴《こと》の音を聞く日もあるまい。……ずっと遠い以前、そなたは兄半兵衛に伴《ともな》われて、当時、織田どのに抗して一族たてこもっていた美濃の長亭軒《ちようていけん》の城に臨み、琴を弾じて籠城《ろうじよう》の鬼となっていた将士の心をやわらげ、ついに城をひらいて降《くだ》したこともあった。――半兵衛の霊にも手向《たむ》けとなろう。秀吉も名残に聞きたい。……もしまた、その琴の音が、風のまに、ここから近い敵の三木城にまで聞えて、彼らのあら[#「あら」に傍点]胆《ぎも》に、有情《うじよう》を思わせ、意味なき死を覚《さと》らせれば、これは大きなてがらだ。地下の半兵衛もどんなによろこぶことかしれぬ」
と、彼女をそこへ促《うなが》した。それまでは、彼女も気がつかなかったが、見ると、松の下に、莚《むしろ》をのべ、その上に、一面の琴がおいてある。
足かけ三年にわたる籠城に、さすが気節を以て、上方武者は浮華軽薄《ふかけいはく》のものと、一概に見下《みくだ》していた中国の将士も、いまは見るかげもない姿を持ち合って、
「討死は、きょうか、あすか。せめて餓《う》え死にだけはしたくない」
と、ただそれだけを希望するに過ぎない窮極にまで墜《お》ちこんでいた。
――あさましい。
と、人のすがたには見ながらも、自分も死馬の骨を舐《しや》ぶり、野鼠《やそ》を喰い、木の皮、草の根まで漁《あさ》った。
「この冬はもう、畳を煮、壁土を喰うしか、食うものはない」
窪《くぼ》んだ眼と、窪んだ眼とが、おたがいを憐れみながら、なおこんなことをいっていた。――壁土を喰ってもなお、この冬を持ち越すつもりで気魄《きはく》だけは失っていないのである。小競《こぜ》り合いでも、敵が寄せてくると、俄然、飢《う》えもつかれも忘れはてて戦える。ところがこの半月余りは、いっこう寄手が襲って来ない。これはどんな死にもの狂いな目にあうより却《かえ》って城兵には辛かった。
日が暮れると、城中一帯、どすんと、沼の底へ落ちたように真っ暗になる。燈火《ともしび》などは、一点たりと灯《つ》かない。魚油も菜たね[#「たね」に傍点]油もみんな食糧として舐《な》め尽してしまったのだ。朝夕は城中の冬木立へ群れる鵙《もず》だの雀だのという小禽《ことり》が、何よりもよい食物と兵に狙われて捕られたため、近頃は鳥も知ってきたか、少しも城内の木には集まって来ない。鴉《からす》を喰ったことはたいへんな数で、その鴉さえほとんど手に入るのが稀れになったほどである。
――がさっと、何か暗闇のなかで、鼬《いたち》の駈けるような物音がしても、哨兵《しようへい》はすぐ、眼をひからせた。本能的に胃が胃液を滲出《しんしゆつ》するため、その後では、きっと、
「腹が絞《しぼ》られるように痛い」
と顔をしかめ合うのだった。
その晩は、月がよかった。だが、城兵は、
「ああ。――月は喰えない」
と喞《かこ》った。
見張っている寨《とりで》や、城門の屋根に、わらわらと、落葉がこぼれてくる。ひとりの兵は、むしゃむしゃと紅葉《もみじ》を喰っていた。
「うまいか」
ひとりの哨兵が聞くと、
「藁《わら》よりはまし[#「まし」に傍点]だよ」
と、また一つかみ拾って喰う。
だが、忽ち、こそばゆく[#「こそばゆく」に傍点]なったとみえ、しきりに咳《せき》をして、喰っただけの紅葉を吐き出していた。
「……あッ、御家老が」
誰か、突然、呟《つぶや》くと、みな気を緊《し》め直《なお》して、槍の穂へ、確《しか》と、意志を示し直していた。――ひた、ひたと、ただ一人で、灯の気のない本丸のほうから歩いて来る人影がある。別所家の家老、後藤|将監基国《しようげんもとくに》であった。
「やあ、大儀だのう。ご苦労だのう。何も変ったことはないか」
「べっして異状はございません」
「そうか……」
と、将監は、片手に携えていた矢を示して、
「夕方、平井山の敵陣から、この矢を射こんで来た。矢文を負わせて。……それによると、羽柴の客将、黒田官兵衛|孝高《よしたか》が、こよいわしに面談したいとかで、これへ訪れてくることになっている」
「なに、官兵衛が、来ますと。――故主に反《そむ》いて、織田の陣営に奔《はし》った中国武士の面《つら》よごし、参ったら、なぶり殺しだ。ただはおけん」
「いやいや、秀吉の使者として、あらかじめ、矢文で通告して来るものを、斬ってはならん。使者を殺すなかれ、これは兵家《へいか》のあいだの約束だ」
「敵将でも、ほかの者ならともかく、官兵衛とあっては、肉を啖《くら》っても飽きたらぬ気がします」
「敵に、肚の底を、見すかされまいぞ。むしろ笑って迎えろ、笑って――」
と、将監がなだめているとき、ふと、それは非常に遠く、また断続してではあるが、琴かと思われるような音が、人々の耳に聞えて来た。
そのとき三木の城は、ふしぎな静寂に囚《とら》われていた。墨のような一色の夜の底には、呼吸する人の気もなく、空には|※[#「風+炎」、unicode98b7]々《ひようひよう》と影なく形なく舞う落葉の声が不気味に翔《か》けめぐって――。
「あッ? ……。琴だ」
ひとりの兵が、突然、眼を宙へあげて呻《うめ》いた。
じっと、立《た》ち竦《すく》み合っていたほかの兵も、その声につられて、
「おお、琴の音がする! ……」
「琴の音だ! ……」
と、さもさもなつかしいものにでも巡《めぐ》り会《あ》ったように、眼をほそめ、耳をすまして、聞き恍《と》れていた。
ここばかりでなく、恐らくは、櫓《やぐら》の上でも、武者溜《むしやだま》りでも、支塁のここかしこでも、一瞬|悉《ことごと》く同じ思いに囚《とら》われたのではなかろうか。
矢かぜ、銃音《つつおと》、雄叫《おたけ》びに、明けては暮れ、暮れては明け、ここ三年のあいだというもの、まったく家なく身なく骨肉なく――ただこの一城を中心に、飢えても傷《きず》ついても、屈せず退《ひ》かず、鬼のごとく立て籠《こも》って来たひたぶる[#「ひたぶる」に傍点]な身に――ふと聞えてきた琴の音は、卒然《そつぜん》と、この中の将士の心に、さまざまな思いを喚《よ》び起させた。
ふるさとは
こよひかぎりの命とも
知らでや人の
われを待つらむ
元弘の忠臣菊池|武時《たけとき》が、賊将|少弐大友《しようにおおとも》の軍に包囲されて、最期の孤塁から家郷の妻を思い、一子|武重《たけしげ》に歌を託《たく》して、母の許《もと》へ奔《はし》らせたというその辞世《じせい》を――いまの自分に思いあわせて、思わず口誦《くちず》さんだ人たちもあろう。
流離した老母を思い、絶えて消息のない子や弟妹のことを思い出した兵もあろう。いや、何も後顧《こうこ》はないこの身ひとつとしている兵にしても、石でない木でない有情《うじよう》の心琴を揺すぶられて、何とはない涙が眦《まなじり》からひとりでに垂れてくるのをみな、どうしようもなかった。
「…………」
家老の後藤将監も、まさにそうした中の一人だったが、あたりの兵の顔に気づいて、はっと、醒《さ》めたように、まず自分の心をとり直し、次に、城門の将士たちへ向って、わざと快活に、
「なに、寄手の陣地で、琴の音がすると。ばかなッ……。琴の音がなんじゃ。いずれ柔弱な上方勢のことだ、長陣に倦《う》んで、里の唄《うた》い女《め》でもつかまえて来て戯れているものだろう。そんなものに心を掻きみださるるなど、言語道断《ごんごどうだん》、もののふの鉄石心とは、そんな脆《もろ》いものじゃない。のう、そんな脆いものじゃあるまい」
と、鼓舞しながら、すぐことばを続けて、各※[#二の字点、unicode303b]、われに返った顔へ、
「それよりは、持場《もちば》持場の守りを怠るな。この城寨《じようさい》はちょうど、洪水の濁流を、じっと防いでいる堤と同じだ。堤は蜿蜒《えんえん》と長いが、寸土でも一尺でも、崩れたがさいご全部の破滅だ。――各※[#二の字点、unicode303b]の胸幅《むねはば》と胸幅をつなぎあって死すともうごくな。三木の城は、誰それの持場から破れて全城ついに陥《お》ちたりなどといわれたら――貴さまたちの先祖はこの国の地下で哭《な》くぞ。貴さまたちの子孫はこの国のあるかぎり笑いものの汚名を負うぞ。いいか、たのむぞ」
さらに、将監が、こう励ましているときであった。城下の坂下から、二、三の兵が駈けあがって来るのが見えた。――あらかじめ矢文《やぶみ》をもって予告のあった敵方の客将黒田官兵衛|孝高《よしたか》が、いま輿《こし》にのって、山下の柵門《さくもん》まで来た――という報《し》らせであった。
官兵衛孝高は、輿《こし》の上で待っていた。
輿は木と藁《わら》と竹でつくられた軽いものである。屋根の蓋《おおい》もなく、両側の腰も浅く、革紐《かわひも》を十文字|綾《あや》に懸けて、わずかに身を支える程度にとどめ、輿上《よじよう》に坐《い》ながら、大剣を揮《ふる》って敵と戦闘するに便ならしめてある。
こういう構造なので、担《にな》い棒は挿《さ》し渡しでなく、前後べつべつに附いている。それを士卒四人が、あと先に別れて担《かつ》ぎ、千軍万馬の中をも、駈けまわるのであった。
――が、今夜の彼は、平和の使者である。官兵衛は黄の鎧下着《よろいしたぎ》に、卯《う》の花おどしの具足を着、白地|銀襴《ぎんらん》の陣羽織をつけて、輿のうえにあぐらを組んでいた。非常に都合のいいことには、彼は五尺一、二寸ぐらいな小男であり、体重も人より軽いので、士卒の肩も楽だったし、彼自身もそう窮屈を覚えなかった。
城寨《じようさい》の門の内で、やがて、たたたっと足音が聞えた。幾人かの城兵が坂の上から駈け戻って来たものらしい。
「お使い。通んなさいッ」
いかつい声と一緒に、眼のまえの柵門《さくもん》が大きく口を開けた。暗闇の中にひしめく兵の影は、一団百人以上もいるかと見えた。その波の揺れるたびに、閃々《せんせん》と槍の穂が瞳を刺す。
「大儀でござった」
と挨拶して、官兵衛は、
「それがしは、跛行《びつこ》でござれば、輿《こし》のまま罷《まか》り通る。無礼をゆるされよ」
と、断って、ただひとり供として連れて来た子息の松千代|長政《ながまさ》(松寿丸)のすがたを後ろにふり向き、
「松千代。先に立て」
と、命じた。
「はいッ」
と、父の輿の前へまわって、松千代は、敵兵の槍の中をまっ直ぐに歩いて行った――。輿は、四人の士卒に担《にな》われて、その後から柵門へ入ってゆく。
十三歳の一少年と、跛行《びつこ》の武者とが、悪びれた様子もなく、使いとして、自分たちの陣営に入って来たのを見ると、殺気立っていた餓狼《がろう》のような城兵も、敵ながらこの父子を憎む気もちは起らなかった。――自分たちの臥薪嘗胆《がしんしようたん》している戦いの苦しみを、ひとしく敵もしているものと、おたがい、もののふ同士の立場を思いやって、むしろ一種の同情すら抱いた。
柵を通り、城門をくぐり、やがて中門へかかると、そこに家老の後藤将監と城士の精鋭級が、厳然と、白眼を揃えて、来る者を待っていた。
(なるほど、これでは、食糧がなくなったくらいでは、なかなか陥落《おち》ないわけ、石にかじりついても、この城はこの人々で守られよう……)
官兵衛はここへ来るまでのあいだに、なお少しも衰えていない城兵の士気を見て、いよいよ自分の任の重きを感じた。――それはまた直ちに、主君秀吉の直面している現状の容易ならない立場が、思いやらるる深憂《しんゆう》ともなった。――
(どうしても、自分の託されている使命は、首尾よく果して、亡き半兵衛どのの霊をなぐさめ、また殿の直面しておらるる長囲難攻の御困難をも、ここで打開し去らなければならん)
と、独り心に誓いかため直していた。
今、そうした彼のすがたを、目前に迎えた後藤|将監《しようげん》以下、城方《しろかた》の人々も、
「――これは」
と意外な思いに打たれた面持《おももち》であった。
前年以来、勝ち誇っている寄手の敵将、さだめし威儀をつくろい、傲然《ごうぜん》ここへ臨むと思いのほか――供といえば可憐な一少年ひとりしか見えない。そして当の官兵衛は、将監のすがたを見かけると、いそいで輿《こし》を地上に降ろさせ、不自由な隻脚《せつきやく》を立てて、
「やあ、別所どのの御家老、後藤基国どのとは、あなたでござったか。黒田官兵衛です。お使いに参りました。筑前守《ちくぜんのかみ》秀吉の代人として。――やあ、方々には、おそろいでお迎え、恐縮です」
と、にこやかに挨拶する容子《ようす》、いかにも磊落《らいらく》で、しかも何の衒《てら》いも見えなかった。
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父と父
敵中に使いした官兵衛の印象は、案外、敵に好感をもたれた。
君も武士、我も武士、もののふの慣《なら》いにこそ――と、勝敗の立場は度外《どがい》して、心をもって心に接して行ったからであろう。
けれど、これだけで、彼の使命とする――開城降伏の勧告《かんこく》――を敵がうけ容《い》れるわけではない。
燈火《ともしび》もない城中の一室で、後藤将監と会見、半刻《はんとき》ほどの後、官兵衛から、
「では、お答えを待つ」
と、席を立つと、
「いずれ、主人長治や諸将とも評議のうえ、御返辞つかまつる」
と、将監も立った。
こうして、会見当夜のもようでは存外、この交渉は、成立を見るかと思われたが、以来、五日経ち七日経ち十日経っても、城方からの返辞は音沙汰もなく過ぎた。
冬は、十二月に入り、とうとう対陣のまま第三年の正月を迎えてしまった。
尠なくも、寄手方たる平井山の陣営では、餅もつき、将士は少しずつの酒も頒《わ》けてのんだが、
「城方では」
と、敵ながら、この正月を、一体どうして露命を繋《つな》いでいるやら、何を食って生きているやらと――偲《しの》びやらずにいられなかった。
官兵衛の使いした十一月の末から十二月に通じて、三木の城は、実に、寂莫《せきばく》としたものをひそめて、沈黙していた。もう寄手に撃つべき鉄砲の弾《たま》すらないことは読めていた。けれど秀吉も今は、
「おそらく、城の余命も長くはあるまい」
とみて、無下《むげ》な強襲も抑《おさ》えていた。
単に、こうして、根競《こんくら》べというだけならば、秀吉のいまの立場は、決して困難とも逆境ともいえないが――この平井山の陣営も彼の立場も、決して、秀吉一箇の独立した戦いではなく――要するに信長の制覇《せいは》に対抗する西、南、東、北の敵性|連環《れんかん》の一角にぶつかって、その包囲環《ほういかん》に撃破の穴をあけようとしている信長自体の、手脚の一つである秀吉に過ぎないのだ。従って、その主体たる信長の感情は、
(なにを、無為無策《むいむさく》に)
と、前線の長陣を、焦々《じりじり》思っているかも知れないし、また日頃、秀吉にこころよからぬ周囲の者どもも、
(筑前どのには、始めから荷の勝つ大役)
とか、
(このまま、彼一手に、お任せおきあっては)
とか、さまざまな誹謗《ひぼう》も行われていることは、疑いもないことだった。――その証拠には、やれ、秀吉は土着民の人気取りばかりやって、無用な軍用金を冗費《じようひ》しているとか、陣中の将士の反感をおそれて、飲酒の禁も厳格でないとか、何とかか[#「か」に傍点]とか、信長へ聞えてゆくほどな問題でもない些事《さじ》がいちいち中央に聞えて行って、それが微妙な中傷の材料とされているのを見てもよく分ることだった。
――が、秀吉は決して気にもとめなかった。彼も人間であり、ふつうの感情の持主である以上、眼中にないというわけではないが、
(些事《さじ》は、どこまでも些事、糺《ただ》せばいつでも明白なこと)
として気に病まないだけのことであった。
ただ、彼が憂いとしているのは、何といっても、西の強大、毛利というものが、かかるあいだに、着々と国内態勢をととのえ、また大坂本願寺の強固な勢力といよいよ緊密な作戦をこらし、東は遠く北条、武田に呼びかけ、北は丹波の波多野《はたの》一族から裏日本の諸豪を誘導し、全日本にわたる鉄のごとき反信長陣の連合《れんごう》を一日ましに強めてゆくことであった。
その力の、いかに隠然《いんぜん》と、大きなものかは、現在、中央軍の直面している荒木|村重《むらしげ》一族の一|伊丹《いたみ》城すら、いまもって、陥《お》ちないことを見てもわかる。村重一族が頼んでいるのも、ここの別所一族が頑張っているのも、すべて自力とその城壁ではなく、
(いまに毛利軍が大挙して、救いに来る! 信長を撃つ!)
それなのである。
およそ始末のわるいものは、正面の敵でなく、陰《かげ》の敵である。
石山本願寺、西国の毛利、こう両面の二つの旧大勢力こそ、まさしく信長の敵だったが、直接、死にもの狂いに信長の理想へ組みついて来ているものは、伊丹《いたみ》の荒木村重であり、ここでは三木城の別所長治などだった。
「可惜《あたら》、胸と胸を打ち割って、語りあえば分る――敵ならぬ敵と、かくも死闘して、かくも長い月日をここに費やすとは」
と、こよいも秀吉は、慨然《がいぜん》と、篝火《かがりび》を焚《た》かせて、夜寒をしのいでいたが、ふと、うしろを振り向くと、そこには何の屈託も知らない小姓組のうちでも、年少な小つぶばかりが焚火《たきび》に寄って、一月の寒さというのに、半裸体になり合って何かおかしげに騒いでいる。
「佐吉、松千代。おまえたちはさっきから、一体、何をはしゃい[#「はしゃい」に傍点]でいるのだ」
羨《うらや》ましげに、秀吉が訊くと、近頃、小姓組の仲間に入った黒田松千代が、
「何でもありません」
と、あわてて肌を入れて、具足を着直した。
すると、石田佐吉が、
「殿さま。松千代どのは、穢《きたな》いことと、お耳に入れるのを憚《はばか》って、お答えを避けましたが、申しあげないと、御不審かもしれませんから、私から申しまする」
「ムム。何じゃ穢《きたな》いこととは?」
「みんなして、虱《しらみ》を捕り合っていたのでございます」
「虱を」
「ええ。いちばん初めは、助作どのが、私の襟《えり》に這っていたのを見つけ、それから虎之助どのが、仙石《せんごく》どのの袖にも見つけ、みんなして、移るぞ移るぞといって、からかっているうち、こうして焚火にぬくもっていたものですから、誰の姿を見ても鎧《よろい》の上に、虱がぞろぞろ這い出して来ました。――それから急に痒《かゆ》くなって、敵の大軍をみなごろしにするのだ、叡山《えいざん》の焼討ちだなどと、肌着の大掃除をやっていたところでございます」
「はははは。そうか。こう長の陣では、虱も籠城につかれたろう」
「けれど、三木城とちがって、ここには兵糧が豊かですから、焼討ちでもしないと陥《お》ちません」
「もうよせ。そのはなしは。わしも痒《かゆ》くなった」
「殿さまも、もう幾十日、お風呂をお浴びなさらないかしれません。きっと殿さまのお肌にも、雲霞《うんか》のごとく、敵が立て籠っているかもしれませんよ」
「佐吉。よせと申すに」
秀吉は、わざと、彼らに体をゆすぶってみせた。小姓たちは、自分ばかりが虱たかり[#「たかり」に傍点]でないことを証明されると、大よろこびに歓んで、
「ハハハハ」
と、雀躍《こおど》りせんばかりくるくる廻った。
すると陣幕の外から陽気な笑い声と温かい煙にみちたここを覗《のぞ》いて、
「お小姓組の黒田松千代どのはここにおいでか」
と、ひとりの兵がたずねていた。
「はいッ、おります」
立ってゆくと、それは父の部下だった。
「御用の折でなければ、ちょっとお越しあるようにと、あちらのお小屋で、お父上が召されておられますが」
松千代は、秀吉の前に行って、
「参ってもよろしいでしょうか」
と、ゆるしを仰いだ。
はて――? と秀吉はそれへ眼をそそいでいた容子《ようす》である。平常あまりないことだからである。しかしすぐ頷《うなず》いて、
「行って来い」
と、いった。
松千代は父の家来に従《つ》いて駈けて行った。陣屋陣屋ではどこも火を焚《た》いていた。またどこの部隊も陽気だった。もう餅も酒もないけれど、正月気分は幾ぶんかまだ残っている。――こよいは一月十五日だった。
父は陣屋の中にいなかった。この寒いのに、仮屋《かりや》からずっと離れた山鼻の一端に、床几《しようぎ》をおかせて、腰をかけていた。
吹き曝《さら》しである。見晴らすには何の邪魔物もないだけに、寒風は好き勝手に肌をめぐって血も凍《こご》えるばかりである。が、官兵衛|孝高《よしたか》は、まるで木彫《きぼり》の武者像のように、ひろい闇へ向って、じっとしていた。
「父上、松千代にございますが」
そばへ来て、ひざまずいた子のすがたへ、彼は初めて、少し身を動かした。
「殿のおゆるしを得て来たか」
「はい。お断りして来ました」
「しからば、しばしの間、父に代って、ここの床几に腰かけておれ」
「はい」
「眸《ひとみ》はしか[#「しか」に傍点]と、ここから真正面の三木城をにらんでおれ。――というても、星さえ暗い、城の方には、一点の灯もない。おそらく見えまいが、じいっと、眸をこらしているうちに、自然、太虚《たいきよ》のうちにも、うッすらと見えて来る。城の影が、敵の気はいが……」
「御用とは、それだけでございますか」
「それだけだ」
と、床几を譲《ゆず》って――
「ここ両三日からだ。この父がみるところでは、何となく、城の内に、ものの動きが感じられる。ここ半年以上もたえて見なかった煙なども立ち昇った……城をつつむ唯一の目かくしとなる木立なども、惜し気もなく伐《き》り下ろして焚物《たきもの》にしている形跡がある。深夜、心耳《しんじ》をすまして、ここから聞けば、哭《な》くような、笑うような、名状し難い人の声もするように思われる……いずれにせよ、この正月の松の内をこえて、彼らのなかに、一つの変ったうごきが起りつつあるのは事実だ」
「……あ。そうでしょうか」
「とはいえ、それは象《かたち》で現《で》ているものではない。うかと放言して、味方に徒《いたず》らな緊張を起させ、誤っては、父の失態、また敵に乗ぜられる虚を作る。……ただ父はそれを感じておるため、こうして、おとといの夜も、昨夜も、床几をすえて、城を観《み》ていたのじゃ。眼で観るのではなく――心眼をもって」
「むずかしい見張りでございますが」
「そうだ。むずかしい、がまた、やさしいともいえる。心さえ澄明《ちようめい》にしておればよいのだ、妄想なく。――それゆえに、他の士卒には、命じておかれぬ。しばしだが、そちに代らせておくわけじゃ」
「わかりました」
「居眠るなよ。肌をさす寒風の中だが、馴れると、ふしぎに眠うなる」
「大丈夫でございます」
「そしてもし……ひとたび城方の方に、チラとでも、火の気を認めたら、すぐ諸将に諮《はか》れ。また、明らかに、城中の兵が、どこか一方から、城外へ出て来るなと見たら――それ、そこにある狼烟筒《のろしづつ》にすぐ火縄を投げこんで、それから殿さまのところへ駈けてゆけ」
「畏《かしこ》まりました」
松千代は、眼のまえの大地に埋《い》けてあるのろし[#「のろし」に傍点]筒へ、そっと眼を落しながらうなずいた。
戦陣なので、当然ではあるが、彼の父は、彼に対して、いちどでも、辛いかとか、痛いかとか、慰めらしいことばをかけたためしがない。――けれど、事にふれ、折にふれ、こうして絶えず兵学の常識を教えて下さるのだとは、松千代にもよく分っていた。そして厳《おごそ》かな中にも、人知れぬ温かみを感じ得ている自分を、またなき仕合せ者と思っていた。
官兵衛は杖をついて、そこから仮屋の方へ歩み出していた。黙々と、ひとり山を下って行くらしい様子なので、従者が、あわてて、
「どちらへ?」
と、訊ねたが、官兵衛は、
「――麓《ふもと》まで」
と、簡単に答え、なお、
「輿《こし》は要《い》らんぞ、輿はいらんぞ」
手を振りながら――跛行《びつこ》ではあるが――上手《じようず》に杖にすがりながら、ぴょんぴょんと、軽く跳《と》ぶように山道を降り始めていた。
あらかじめ、供に従《つ》いてゆく者は、命じられてあったとみえて、母里太兵衛《もりたへえ》、栗山善助のふたりが、それと見て、彼のあとから駈け下りて行った。
「殿、殿」
「お待ち下さいまし」
官兵衛は、杖をとめて、
「おう、両名か」
と、山の中腹で振り返った。
「お早いのには驚き入ります。御不自由なお脚下《あしもと》で、お怪我《けが》をあそばすといけません」
「ははは。跛行《びつこ》もだいぶ引き馴れて参った。気をつこうて歩くと却って転ぶ。ちか頃は、勘で跳ぶのじゃ、こつ[#「こつ」に傍点]で歩くのじゃよ。見栄《みえ》はいらんからのう」
「合戦の中ではいかがですか」
「戦場は輿《こし》にかぎる。乱軍となれば、双手《もろて》に剣もつかえるし、敵の槍を奪《と》って、突き返すことも自在。ただし、進退の駈引は、まことにままにならぬが」
「さこそと、お察しいたしております」
「けれどやはり輿にかぎるな。輿の上から雪崩《なだ》れ打つ敵軍を眺めやると、むらむらと満身から大気が発する。叱咤する自分の声に、敵も退《ひ》くかと思われる」
「……あ。危のうございます。この辺の崖道、山陰に雪があるため、雪解《ゆきげ》のしずくで辷《すべ》りまする」
「下は渓流だな」
「お負《お》いいたしましょう」
母里太兵衛が、背を向けた。官兵衛は、負われて渓流を越えた。
さて、何処へ行くのか?
それをまだ家来の二人とも聞いていない。つい今し方、麓の柵《さく》から、一人の武者が使いに来て、官兵衛の手へ何やら一通の書面を手渡して行ったのは見ていたが――それにしても何用が起ったのか、想像もつかない。
ただ松千代を呼びにやったとき、同時に、ほかの部署についていた太兵衛と善助へ、麓へ参るとき供して行け――ということばはうけていたが、内容はまだ聞いていないのである。
「殿……」
だいぶ歩いてから、ふと、そのことにふれてみた。栗山善助の口からである。
「こよいは何ぞ麓の陣地にあるお味方の部将から、お招きでもあって臨《のぞ》まれますので?」
すると官兵衛は、からからと笑って、
「なに馳走にでも、呼ばれて行くというのか。いつまで、正月をしていられるものぞ。筑前どののお茶会もすんだし……」
「では、どちらへ」
「行く先か」
「さればです」
「三木川の柵だ」
「えッ、河原の柵へ。あの辺は危険です」
「もちろん危ない。だが、敵にとっても、危ないところだ。ちょうど、相互の陣地と陣地が、相接しているところだから」
「それでは、もっと御人数を……」
「いやいや、敵も大勢は引き連れて来ぬ。従者一名に子どもひとりぐらいだろう」
「子どもを……」
「そうだ」
「解《げ》しかねまするが」
「まあ、黙って来い。知れても悪いことではないが、ひそかな方《ほう》が、今のうちはよい。筑前どのへも、落城のあとになって、御披露に及ぼうと思うている」
「城は陥ちましょうか」
「陥ちないでどうする」
「失言しました。近いうちにと申し足すのを忘れました」
「まず、落城も、ここ両三日を出ることはあるまい。まかりちがえば、明日《あす》にも」
「えッ、明日にも?」
ふたりは、孝高の顔を見まもった。その面《おもて》に、はや仄白《ほのじろ》く、水明りがうごいていた。――蕭条《しようじよう》として、そよぐ枯《か》れ蘆《あし》、瀬の水音も耳を打ってくる。
母里太兵衛と栗山善助のふたりは、そのときギクと足を竦《すく》めた。
河原の蘆《あし》の中に、敵らしい人影を見たからだった。
「やッ? ……何者か」
次の愕《おどろ》きは、刹那のそれとは違っていた。敵方の大将らしい者には相違ないが、ひとりの従者に幼児《おさなご》を担《にな》わせ、それ以外に、郎党もつれていないし、敵対して来る容子《ようす》も見えない。――こちらから歩みよって行くのを、凝然《ぎようぜん》、待つもののように佇《たたず》んでいるだけだった。
「その方たちは、ここでしばらく待っておれ」
官兵衛のことばである。すべては主人の意中にあるものと察して、
「お気をつけて」
のみ答えながら、先へ歩いてゆく主人の影を見まもっていた。
官兵衛が近づいて行くと、蘆の中に佇《たたず》んでいた敵も、すこし前へ歩み出して来た。そして相見るやいかにも昵懇《じつこん》そうに挨拶を交《か》わしていた。十年の知己《ちき》でもあるかのように。
かかる場所で、かかる敵味方のあいだで、こういう密会をしているのを認められたら、直ちに、敵へ気脈《きみやく》を通じるものと疑われよう。――が、二人はほとんど無関心であるものの如く、四方山《よもやま》の話など交わして、その末に、
「書面をもって、厚顔《あつかま》しくも、お願い申しあげたわが子とは、それに背負わせて来た幼児でござる。この戦陣の中、明日にも城とともに相果てる身をもちながら、なお煩悩《ぼんのう》な親心とおわらい下さるまい。……余りにもまだ何も知らぬ頑是《がんぜ》ない者にござりますれば」
こういっているのは、敵方の将だった。それは、三木城の家老、後藤|将監基国《しようげんもとくに》にちがいない。官兵衛|孝高《よしたか》が昵懇《じつこん》のものといえば、去年の晩秋のころ、秀吉の使いとして、降伏の勧告に赴いたとき、親しく城中で会見したことがあるという――その後藤将監以外に、知っているものはないはずである。
「やあ、それへ、お連れ召されたか。どれどれ、お会い申そう。……御家来、背から下ろして、その和子をこれへ」
やさしく麾《さしまね》いているのは、官兵衛孝高である。将監の従者は、主人のうしろからおそるおそる進んで、背に紐《ひも》で十文字に負って来た幼い者を解いて下ろした。
「お幾歳《いくつ》じゃ」
「お八ツにおなり遊ばします」
日頃から傅役《もりやく》として侍《かしず》いていた郎党であろう。解いた紐で眼の涙を拭《ふ》きながら、答えると、辞儀をして、うしろへ退った。
「お名は」
こんどは、父なる人の将監《しようげん》が答えて、
「巌之助《いわのすけ》といいます。母もすでに亡《な》し……父もやがて。――官兵衛どの、切に、行く末よろしくご養育を」
「お案じあるな。それがしもまた子をもつ父。あなたの父としてのお気持はよう分る。かならずそれがしの手にお育て申して、成人の後は、後藤の家名を絶やさすまい」
「それ聞いて……あすの夜明けは……心おきなく討死ができまする……巌之助よ」
と、将監基国は、そこへ膝を折って具足のふところに幼いわが子を抱えて云い諭《さと》した。
「いま申す父のことばを、よう聞けよ、そちもはや八歳。さむらいの子というものは、いかなる時でも泣くではない。まだ元服とて遠い先だし、常の世なれば、母も恋し、父のそばにもいたい年頃であろうが――世のなかは今、このとおり合戦の真ッただ中じゃ。父にわかるるも是非なし、また君と共に死ぬるも当然、すべて、そなた独りが不運というのではない。まだまだそちは、こよいまで、父の側におっただけ仕合せ者――よう天地の神さまに、その仕合せをありがとうござりますとお礼をいえ。よいか……。そしてこよいからは、あれにおらるるお方――黒田官兵衛孝高様のそばにて、御主人とも、育ての親とも、大切に仕えるのじゃぞ。……わかったか。わかったであろうな」
頭《つむり》を撫でて、こう云い聞かせると、巌之助は、黙って幾たびも頷《うなず》いた。ぽろぽろと涙はもとよりこぼしていたが。
三木城の運命も、いまは旦夕《たんせき》に迫っていた。城中数千のもの、もとより城主別所長治と、かたく死をちかい、潔《いさぎよ》く死ぬべく、斬って出る覚悟をしていた。
家老後藤将監も、もちろん鉄石の心に、今とて寸分の揺るぎもない。――だが、彼にはただひと粒の幼児《おさなご》、巌之助があった。この頑是《がんぜ》ないものまでを、死なすにはしのびない。また武門の意義を負わせるには――余りにもまだ年少すぎる。
一見、敵ながら、頼みがいある人物とみていた官兵衛孝高に、彼は書を送って、
(父母なき一孤児を、養育して賜わるや)
と、意中を明かしてみた。
(父と父、武士と武士、相見たがいのこと、おひきうけした。明夜、三木川の畔《ほとり》までお連れあれ)
とは、将監がきょう手にした官兵衛からの返辞だった。
で、ここへ、わが子を従者に負わせて、連れて来たわけであったが、さすがに、あすは死を期している身だけに、
(これが最後)
と思うと、つい、子を諭《さと》しながらも、彼もまた、不覚の涙をどうしようもなかった。
突き放すように、
「巌之助。そちからも、ようおねがいせい」
と、膝を立てて、その可憐《いじら》しいものを、官兵衛の方へ、わざと力づよく、追いやった。
官兵衛は、幼児《おさなご》の手をとって、
「かならず、お案じあるな」
と、くれぐれも約し、やがて母里太兵衛《もりたへえ》を呼んで、
「陣地まで、負って行け」
と、いいつけた。
太兵衛、善助のふたりも、初めて主人の心と、こよいの用向きを解した。心得て候と太兵衛が巌之助を負う。善助がそばに従《つ》いて行く。
「……では」
「では、これにて」
云いつつも、別《わか》れ難《にく》かった。官兵衛も、心を鬼にして、早く去ることが、情けだと思いながら、つい逡巡《しゆんじゆん》して、去りがてに、同じことばを繰り返していた。
――と、将監基国は、
「官兵衛どの、あすは戦場で、お目にかかりますぞ。おさらば。――その折に、おたがい、こよいの私情にさし挟まれて、槍さきを鈍《にぶ》らせては、末代までの名折れ、まかりちがえば、あなたのお首《しるし》を頂戴するやも知れぬ。貴公もまたおぬかりあるな」
と、笑って、さらに、
「さらば」
と、投げ捨てるようにいうやいな、足を早めて、すたすたと城の方へ駈けて行った。
官兵衛は、早速、平井山へもどると、秀吉の前に出て、敵将から託されたこの幼児《おさなご》を見せた。
「育ててやれ。よい善根《ぜんこん》だ。――それになかなかよい子ではないか」
いいものを拾ったといわないばかり、子ども好きな秀吉は、眼をみはって巌之助《いわのすけ》の顔を見たり、傍へ寄せて、頭を撫でまわしたりしていた。
おそらく、まだ何もわかるまい、この正月でわずか八つになったばかりの巌之助である。知らない小父《おじ》さんばかりいるこの本陣の中では、ただ団栗《どんぐり》のような丸い目をきょろきょろさせているだけだった。
後の――ずっと後年に。
黒田家の数ある武士の中でも、彼こそ真《まこと》の黒田武士ぞ、と世にいわれた後藤又兵衛基次《ごとうまたべえもとつぐ》とは、このときの木から落ちた山猿みたいなこの一孤児、巌之助であった。
ここに、三木城も遂に陥落を告げる日が来た。天正《てんしよう》八年正月十七日である。城主別所長治は、弟の友行、一族の治忠とともに割腹して、城を開き、家臣|宇野卯《うのう》右衛門《えもん》を降使として、秀吉へ一書をもたらし、
(抗戦二年、武門の尽くすところは果した。ただ忠勇な部下数千と、一族の不愍《ふびん》なる者どもを、すべて殺すは情として忍びない。ねがわくば足下に託し、足下の寛大に仰ぎたいが、尊意如何)
と、あった。
もちろん秀吉は、欣然《きんぜん》その潔《いさぎよ》きねがいをいれ、併せて、三木の城を収めた。
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軍旗祭《ぐんきさい》
降使、宇野卯右衛門が、長治《ながはる》以下、三名の首を献じて、三木城内にある数千の助命を仰いだ日、秀吉側からは、浅野弥兵衛が応接に出た。
検分もすみ、開城の手続きも、滞《とどこお》りなく、終った。
秀吉は、全軍に令して、
「城内から出て来る降人どもには、わけて懇《ねんご》ろにしてつかわせ。――まず、大釜に粥《かゆ》を煮《た》かせ、飢えたるものには、温かい粥を。病人には薬を。怪我人には手当を」
と注意した。
開城の日はほとんど、そうした餓鬼振舞《がきぶるまい》と、施薬《せやく》などに暮れてしまった。
宥《いた》わる方も、宥わられる者も、いまはおたがいに熱い眼をもち合っていた。
「――秀長」
秀吉は、義弟《おとうと》の羽柴秀長を呼びよせて、こう告げた。
「三木の城は、この後、そちに守りを申しつける。こうして陥《おと》した大事な一城であるぞ。心してよく守れよ」
「はい」
秀長は、重責《じゆうせき》を感じたように、首をたれた。いうまでもなく、彼は後の大和《やまと》大納言《だいなごん》秀長《ひでなが》である。幼時は、父こそちがうが、秀吉と同じ尾張中村の茅《あば》ら屋《や》に生れ、同じ母のひざに甘え、同じ貧苦と寒飢《かんき》の中に育てられてきた骨肉である。――が今は、兄の力に励まされ引き上げられ、彼も一箇の部将として洲股《すのまた》、長浜《ながはま》以来、つねに秀吉の出陣といえば従軍していた。
この際――
秀吉が、三木城へ、弟を入れて、ここを引き払ったのは、彼の意志でなく、もっぱら官兵衛|孝高《よしたか》の献言《けんげん》によるところが多かった。
秀吉としては、自身、三木城に入るつもりだったが、
(不得策《ふとくさく》です。――播磨《はりま》一円を抑えるには、よろしく、姫路に拠《よ》るべしです)
と、官兵衛が力説したのである。
要害《ようがい》の堅城というのでは、三木の地形がすぐれている。しかし、領政交通の利は、断じて姫路が優《まさ》っている。なお、中国の攻略、四国の征定など、将来の大計を考えれば、姫路城に拠点《きよてん》をおくことの利は、議論の余地もない。
「しかし……」
と、遠慮ぶかそうに秀吉はいった。
「姫路の城は、前々よりお許《もと》ら父子《ふし》一族の住居《すまい》ではないか。秀吉が入城しては」
「なんの、それがしどもへは、べつに一城を取って下し賜わらば結構です」
「うむ。そうするか」
「自慢ではありませんが、姫路の城は、南に飾磨《しかま》の津をいだき、舟行《しゆうこう》の便はいうまでも候わず、高砂《たかさご》、屋島《やしま》などへの通いもよく、市川、加古川、伊保川《いほがわ》などの河川をめぐらし、書写山《しよしやざん》、増位山《ますいやま》などの嶮《けん》を負い、中国の要所に位《くらい》し、中央へも便ですから、大事をなすにはあの地に如《し》くはありません」
――で秀吉は、一も二もなく姫路へ入ったのであった。
黒田父子の主人筋で、一たん織田方へ味方しながら、中道で寝返りを打った御著《ごちやく》の小寺|政職《まさもと》は、三木陥落と聞くやいな、戦いもせず、居城御著をすてて、備後《びんご》方面へ潰走《かいそう》してしまった。
世間は、もの笑いにした。しかし官兵衛孝高は、
「惜しむべし、惜しむべし」
と、痛嘆幾たび、このみじめな主家の末路に哭《な》いた。
後のことにはなるが――彼がいかに末路の主家を悲しんだかということは、その後天正十年、流寓落魄《りゆうぐうらくはく》の果てに、備後《びんご》の鞆《とも》で政職が死んだとき、その子|氏職《うじもと》が、落ちぶれ果てているのを求め、信長に詫び、秀吉にすがり、旧主の子の助命に骨を折って、黒田家の客分として迎え、故主の旧恩にむくうことを忘れなかった事実を見てもよくわかる。
君君たらずといえども臣臣たり、――智あるも智に溺れず、彼は真面目な漢《おとこ》であった。
中国|探題《たんだい》の居城として、まさに姫路は絶好な拠点だった。秀吉はそこに移るとすぐ、
「この城郭《じようかく》もよいが、様式のすべてが旧い。この城の設けられたときは、一地方の防塞《ぼうさい》として築かれたのだろうが、いまは時代がちがう、目的もちがう。信長公の図南西覇《となんせいは》の基点として、秀吉がその前駆《ぜんく》をうけたまわるところのもの。もそっと、雄大たらねばならん、重鎮《じゆうちん》の風を示さねばならん」
一族の浅野弥兵衛にこう命じて、直ちに改築――というよりはまったく新たに規模を革《あらた》めて、その工事に着手させたのだった。
彼の建築好きは、いわゆる私生活中心のそれとはちがう。建設好きなのである。信長が旧態を壊《こわ》してゆくそばから、彼は新しいものを建ててゆく。信長の性格は、破壊によくあらわれ、秀吉の特性は、その建設好きによく出てくる。
「こんな大工事を起されて、信長公からお疑いをうけはしませんか」
官兵衛は心配した。信長の一面を知っているし、懲《こ》りていることもあるからである。が、秀吉は、
「だいじょうぶ――」
と、笑って、
「この城に、わしの母や妻子を入れさえしなければ。……わしの母や妻は長浜に置いてあるじゃないか」
と、いった。
「いかにも」
官兵衛もうなずいた。
「ところで、孝高《よしたか》。――足下《そつか》は御著《ごちやく》の城へ入って住め。幸いに、小寺政職が捨てて逃げたからそのあとへ」
「過分です」
「いや、お礼などは、却って、こちらが過分に存ずる。あの御著に住むには、なおなかなか骨が折れよう。――今もって、毛利に属する英賀《あが》城に三木|通秋《みちあき》、山崎城に宇野|祐清《すけきよ》、朝水山《ちようずさん》城に宇野|政頼《まさより》など――あちこちに、うるさいのが、頑張っておる」
「お案じには及びません。その程度の、小城、山城などは、ひとつひとつ暇をみては、ふみ潰《つぶ》して参りますれば」
「――と存じて、御著に赴《い》かれるようにたのみ申すのだ。何分たのむ。――そして岡山の宇喜多直家《うきたなおいえ》と連絡をとられ、児島地方に砦《とりで》をかためて、一先ずは、毛利の大軍をそこに喰いとめておかれよ。秀吉、但馬《たじま》、播磨《はりま》のうちの諸般にわたり、一掃除すました上は、直ちに、第二段の策に乗り出して合体申せば」
その約束は、六月から七月にかけて果された。占領地の内政やら、城郭の大改築、軍の再整備などがすむと――七月の二十日、御著の官兵衛の麾下《きか》を誘い、総軍、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》へ入った。
この二ヵ国にあった地方の小群雄も、西の毛利と、東の織田を見くらべて、きょうまでは叛服《はんぷく》常なく、あしたに和を乞い、夕べには裏切り、始末の悪い存在だったが、秀吉の旗幟《きし》をいま眼前に見ると、ことごとく陣前に来て降順《こうじゆん》を約した。
ここに、中国攻進の覇業は、いちじるしく曙光《しよこう》を見た。――一時は、暗澹たる前途を思わせたが、三木一城の陥落以後、急速に、秀吉の軍威は振って、但馬、播磨、因幡、伯耆の四ヵ国はいまや完全に新しき勢力下に置かれることになった。
「――ああせめて、もう半歳《はんとし》も竹中半兵衛が生きていたら」
と、秀吉は、地下の人に、これを見せてやりたいと思うにつけ、
「官兵衛孝高の終始一貫変らぬ信義こそ、きょうある第一の功」
と、書をもって、信長に乞い、彼のために、播州で一万石の領土と感状とを乞いうけて与えた。
官兵衛は、初めてここに、大名の列に加わったのである。
また、それまでは、旧主小寺家からもらった小寺姓をも名乗っていたが、この時から、旧姓をまったく廃して、黒田姓ひとつに回《かえ》った。
後の黒田如水《くろだじよすい》――官兵衛孝高もこうして今や自他ともにゆるす一箇の武将とはなった。生れもつかぬ片脚の身は不具にこそなったものの、男のすがたの疵《きず》にはならない。
その後もまた官兵衛には、加増の恩命があって、城地|御著《ごちやく》から山崎の城へ移された。
重なる歓びを、家中の諸士にも頒《わか》つため――また戦風陣雨の幾春秋をきょうまで各※[#二の字点、unicode303b]の不惜身命《ふしやくしんみよう》の印《しるし》ともふり翳《かざ》して来た陣旗を祠《まつ》るために、一日、大振舞いをほどこした。
救民を賑わし、町屋も業を休み、城中の諸士は、無礼講《ぶれいこう》とあって、正月のように、昼から頬を赤く染めていた。
「あれ見い。きょうから戴くわれわれの軍旗を」
「御家紋も定められたな」
もの珍しげに、人々は、城頭を仰ぎあった。
それまでの旗幟《はたのぼり》は黒田家として定まったものもなく、仏号、星の名、干支《かんし》などを、その時々に書いたものを用いていたが、そういう祈祷的なものであってはならぬと、官兵衛孝高がその地の惣社大明神《そうしやだいみようじん》に七日間の禊《みそぎ》をとって、神前に新しい旗幟《きし》をたてならべ、神酒《みき》をささげ、のりと[#「のりと」に傍点]を奉じ、家士一統、潔斎《けつさい》して、
「士魂のうえ、常に神あり。神いますところ、四時、この旗あり。――誓って神意にたがい申すまじ事」
と、宣誓の式をとり行い、やがて城頭に翻《ひるがえ》したものである。
それはまたおそろしく大きな旗幟《はたのぼり》だった。幅は練絹《ねりぎぬ》で三幅。長さは一丈三尺。上下一尺五寸ほどは黒く染めて、上部の黒の中には永楽銭の紋を染め出し、その竿頭《さおがしら》には「まねき」と呼ぶ一幅三尺ぐらいな五色の布を虹のごとく吹き流してある。
馬印も、それにつれて、雄大なものだった。余りに、これ見よがしに過ぎはしまいかと、家臣のひとりが、官兵衛にいうと、
「否々。筑前どのは、なべて豪気雄大の風がお好きだ」
と、彼は答えた。
また、従来の永楽銭の紋のほかに、藤の花を巴《ともえ》にした紋を定紋《じようもん》に加えた。これも官兵衛の考案とあるので、家中の人々は、何で藤巴《ふじともえ》を選んだか、彼の心を酌《く》みかねていたが、きょう軍旗祭の神酒《みき》を一同していただく席上で、官兵衛からこういう話があった。
「――かつて、わしが伊丹城《いたみじよう》の獄中に囚《とら》われていたとき、獄舎の窓に、藤の花が咲いていた。この藤の花が咲きみつる頃は、到底、わが生命《いのち》はあるまいと、朝に見、夕べに見、密《ひそ》かに覚悟をきめていた。……然るに、はからず、そち達の忠義や、また筑前どのや竹中半兵衛の情誼《じようぎ》により、ふたたび世の陽の目を仰ぐ身とはなった。――そこでみずから怖るることは、かく隻脚《かたあし》の不具となっても、年月|経《た》てば、いつか往年の苦しみも恩も忘れ、横着なわがままごころが、とかく不足を思い出すもの。そうあっては勿体なし、そちたちの忠義にも、亡友の恩にもすまぬ……と、わざと、定紋に藤をえらび、小袖の紋を見れば、すぐ伊丹の獄中を思い出すようにいたしたのじゃ。……われ一生の事のみではない。子々孫々忘れぬようにな」
――軍旗祭の祝いに、秀吉もその日、わざわざ山崎へ来て、歓《かん》をともにした。旗幟や馬印を見て、
「豪腹《ごうふく》豪腹。官兵衛らしい」
と、非常に恐悦《きようえつ》していた。
官兵衛はその日、一通の古手紙を取り出して、
「これは、殿の前で焼き捨てたいと思う」
と、いった。
「なにか?」
と、怪しんで見ると、それは秀吉から官兵衛へ与えた自筆の書状である。中国|発向《はつこう》のとき、
――御身を兄弟とも思うぞ、永代粗略にはせぬ。
と書き送ったものである。
「こういうものがあっては、却ってよろしくありません。君臣の別は厳たるこそよけれです」
と、彼は、秀吉の目前で、焼きすててしまった。
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醜《しこ》ぐさ
――ここで視野を一転しよう。
敏《さと》くも、時代の方向を、見さだめたつもりで、中国経略の途中から、突如《とつじよ》、主将の秀吉を裏切り、また盟主信長に反抗を宣言して、伊丹《いたみ》の城にたてこもった荒木|摂津守村重《せつつのかみむらしげ》の孤立化こそ、見ものであり、笑止《しようし》な存在となった。
(三木城は陥《お》ちない)
彼は、こう見たので、呼応したものであった。
また、
(今に、毛利の水軍が、海路《うなじ》を舳艫《じくろ》相銜《あいふく》んで東上してくる。また陸からは、吉川《きつかわ》、小早川の精鋭が播州を席巻《せつけん》し、秀吉をやぶり、諸豪を麾下《きか》に加えて、怒濤のごとく中央へ攻めてくる!)
そう固く信じていた。
なおなお、
(同時に、本願寺も起つ)
と思いこみ、
(裏日本からは、丹波の波多野を始め、越前の残党も、あわせてふるい立ち、驕児《きようじ》信長を、中央につつんで、ふくろ叩きとする)
とも空想していたのである。
いや、それは決して、彼の空想だけでもなかった。事前において、毛利家からは、
(かならず、水陸より攻めのぼる)
という誓紙も入っていたし、細目にわたる攻守同盟の約文も交《か》わされていたのである。
ところが。
一昨年六月、叛旗《はんき》をたてて籠城以来、その秋になっても、毛利は進出して来ない。冬になっても、年は明けても、形勢は変ってこない。
さらに、一年を籠城し、ことしこそは、毛利|輝元《てるもと》自身も、吉川、小早川も、西ノ宮附近に上陸し、大挙、信長を圧して来るかと見えたが――依然、その包囲は、示威恫喝《じいどうかつ》にとどまっていた。
とこうするうち、三木の城もはや危ういと聞えて来た。
「三木の城さえ救い得ない毛利軍だとすると? ……」
と、村重もあわてだしたが、事すでに遅しである。
「しまった! 恃《たの》むべからざるものをおれは恃んだ!」
いまは足ずりして、独り自己の迷妄と暗愚を羞《は》じるしかなかった。
顧みれば、左右の腕とも頼んでいた中川瀬兵衛、高山右近もすでに敵の招降に従って、伊丹《いたみ》の運命は見離されていた。
孤立。そこにしか、自己を見出し得なかった。
頻々《ひんぴん》、あらゆる方法で、毛利に来援を催促しても、
(八月には攻めのぼらん)
と、いい、
(九月には事故あれば、十月に至って援軍せん)
といい、返書のたび、猫の眼のように変るので、さしもの村重も、
(いかん!)
と、観念した。
主に引く
荒木《あらき》ぞ弓の筈《はず》ちがひ
射るに射られぬ
有岡《ありをか》(伊丹)の城
寄手の者から世上にまで、こんな落首《らくしゆ》さえうたい囃《はや》されていた。当然、村重についてここに至った将兵の士気はひどく腐りきってしまった。九月の中旬《なかば》頃である。足軽大将の中西新八郎、渡辺勘太夫、そのほか、だいぶな人数が、彼を見すてて脱走してしまった。
城を捨てて逃げて来た将士は、信長に降伏を願い出た。しかし信長は、
「ひとたび士道を廃《すた》らした降人ども、生かし飼うとも何の益にかなる。斬ってしまえ」
と、処置を命じ、ひとりも免《ゆる》し置かれなかった。
不義の旗、反臣の軍。村重もまた、毎日、散々《ちりぢり》に脱軍する部下を恨むこともならなかった。
信念を失った集団はもう何の力もないのみか、たがいにその腐敗を急いで、自解を早め合うだけだった。
次々と、部下の脱走がやまない中にあって、九月中旬の一夜、主将の荒木村重からして、一族の者にも無断で、極く身近な家臣五、六人を連れただけで、突然、城を脱け出し、尼ケ崎方面へ逃げてしまった。
「何たることだ!」
あとの人々の憤慨はいうまでもない。各※[#二の字点、unicode303b]、足ずりして、村重の卑劣《ひれつ》を罵《ののし》った。
毛利に売られた荒木村重は、今また、その一族と部下を売ったのである。毛利の援助を恃《たの》み、主将の言を恃《たの》んで、共にこの城にたてこもった無数の人々は、いまやまったく見殺しに捨てられた。
「かくなる上は」
と、老臣の荒木久左衛門や、そのほかの歴々は、城を開いて、その妻子たちを人質《ひとじち》として差出し、寄手の織田|信澄《のぶずみ》へたいして、降参を申し出た。
その云い条もまた浅ましく、
「われわれども、袂《たもと》をつらねて、村重に面会いたし、尼ケ崎、花隈《はなくま》の二城も差出しますれば、なにとぞ、御仁恕《ごじんじよ》をもって、一命だけはお救いおき下されたい。もしまた、村重がなお肯《き》き容《い》れぬ場合は、自分たちが一手となって、村重を討ち取り、尼ケ崎、花隈の二要害も、寄手方に先立って、これを陥《おと》し、悉《ことごと》く信長公に献じ奉ります」
と、いうのである。
――が一方、村重はなお、尼ケ崎の支城にかくれて、頑迷に、無条件降伏には同意しない。自己の生命だけに執着しているからだった。
久左衛門たち一族は、持て余したか、うろたえたか、伊丹城へも戻らず、尼ケ崎を乗り取る術《すべ》もなく、
(身こそ大事)
と、ついにその醜劣《しゆうれつ》な性根をあらわして、思い思いにそこから逃亡してしまった。
織田信長の寄手の一軍は、機をすかさず、伊丹城《いたみじよう》へ入って、これを占拠してしまった。
信長は、怒った。
敵国の崩壊《ほうかい》は、当然、味方の大捷《たいしよう》をここに齎《もたら》すものだったが、それを歓ぶ前に、敵とはいえ、余りな醜さ、余りな卑劣に、武門人道のうえから、信長は持ち前の感情を激発して、
「いやしくも身を武門におきながら、末期《まつご》に臨んで、妻子兄弟を人質に出して捨て去り、各※[#二の字点、unicode303b]身ひとつばかり助からんとするなど、弓矢の人なかには、前代未聞の醜事《しゆうじ》」
といい、
「醜類《しゆうるい》の面々、一匹も生《たす》けおくな。その妻子|眷族《けんぞく》も、見せしめのためすべて刑に梟《か》けよ」
と、峻烈《しゆんれつ》を極めた。
彼の憤《いきどお》りは、日本武士道の清節のために抑止《よくし》できなかった。私憤よりも公憤のほうが大きかったのである。けれどその処分の苛烈《かれつ》が、醜類の敵だけに止まらず、かよわい妻子|眷族《けんぞく》にまで及んだので、世人はその酷《むご》たらしさに、みな面《おもて》を蔽《おお》った。人間の美醜両性、ぜひない世相の一面とはいえ、いまその惨状を筆にするも傷《いた》ましい気がする。ざっと誌《しる》せば、その折、信長の手に捕われていた敵方の妻女百二十幾人と、その召使の女たち三百八十余人は、すべて、一ヵ所に集められ、鑓《やり》、薙刀《なぎなた》、鉄砲の類で殺された。――その悲しみ叫ぶ声は、天地に谺《こだま》して、眼に見、耳に聞いた人々は、十日も二十日もその日の記憶を忘れることができなかったということである。
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歴々の上臈《じやうらふ》たち、衣裳美々しく粧《よそ》はれたるまま、かなはぬ道とさとり、並居《ならびゐ》たるを、さもあらけなき武士たち請取《うけとり》、その母親にいだかせて、引上げ引上げ張付《はりつけ》にかけ――
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とは、当時の見聞記《けんもんき》に書かれている一節である。
処刑は苛烈を極めた。
それらの上臈たちに仕えていた侍女、若党などの百何十人も、まわりに乾草《ほしくさ》を高く積んだ四つの空家に押し籠められて、一刻《いつとき》のまにみな焼き殺された。
また幼い子どもらや、その乳母などは、車一|輛《りよう》に、七、八人ずつ乗せ、それを幾輛もつらねて、京都の町々を引き廻しにして曝《さら》した。
六条の河原では、やがてそれらの可憐《いじら》しい和子《わこ》たちや女房たちの打首が執行された。
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みな歴々の女房衆にてましませば、肌には経《きやう》かたびら、色よき小袖うつくしく出立《いでたち》、少しも取みだれず神妙也。……中にもたし[#「たし」に傍点]女と申すは、聞えある美人、かつてはかりにも人にまみゆる事もなきを、あらけなき雑色共《ざふしきども》に、小肱《こひぢ》つかんで車に追ひ乗せらる。最期のときも、彼たし[#「たし」に傍点]女と申すは帯しめ直し、髪高々とあげ、小袖のえり押しのけて、尋常に斬られ候也。いづれも最期よかりけり。
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「信長公記《しんちようこうき》」の筆者はその折の実状をこう書いている。たし[#「たし」に傍点]女とは、村重の妻であるとも噂された。伊丹一城の男ばらが、前代未聞の醜態を巷《ちまた》に曝《さら》した中にあって、ともあれ、醜草《しこぐさ》の中にも花は花らしくと――一点の清香を放ったものであった。
それと、当時、世人の賞《ほ》め者《もの》となって、ひそかに涙をそそがれたのは、荒木久左衛門の息子で十四歳になる少年と、伊丹安太夫の伜《せがれ》のわずか八歳といういたいけ[#「いたいけ」に傍点]な幼児《おさなご》だった。
ふたりとも、死の座にひき立てられて来ても、少しも悪びれず、
「最期所《さいごどころ》はここか」
と訊ね、河原の素《す》むしろに直ると、掌《て》をあわせて、頸《えり》に刃《やいば》を受けたという。
「何たるいさぎよさ」
「いじらしい和子《わこ》たち」
「親の顔が見てやりたい」
それもこれもみな荒木一人の逆意から――不料簡《ふりようけん》から――と、世人はごうごう[#「ごうごう」に傍点]と彼の罪を責め、またこれらの人質を捨てて逃げた親たちを恨み罵《ののし》った。
けれど、その荒木村重やその親たちを、憎むとも、
「科《とが》もない幼児《おさなご》や女房衆を、こうまで苛烈に遊ばさなくても」
と、世人は、信長の処刑の余りにも峻烈《しゆんれつ》すぎたことにも、決してよい感じは抱かなかった。
「おそろしいお方ではある」
という畏怖《いふ》のみが先だって、信長が、武門の節義を正すために敢《あ》えてした大乗的《だいじようてき》な憤りまでを読み知ることはできないのである。
「あのお方に叛《そむ》いたものは、悉《ことごと》くこんな目にあうぞ。これはわざとこうして見せた右大臣様のおしめしじゃろ」
つとめて善意に解釈したつもりで、人々はまずこんなところで口をつぐんだ。そしてこの稀有《けう》な出来事を、一生のうちでも忌《いま》わしい見聞の尤《ゆう》なるものとして、みな少しも早く記憶から消し去ろうとするものの如くであった。
一方、伊丹城を始め、花隈《はなくま》や尼ケ崎の支城を捨てて諸所へ逃げかくれた男らしからぬ男どもは、当然、見つかり次第討ち取られた。中には、
「世を捨てたら?」
と、寺へ駈け込んで、一夜に髪を剃《そ》りこぼち、きのうの具足太刀を、数珠《ずず》法衣《ころも》に着かえて、どこまでも命を保とうとした醜類中の醜《しゆう》もあったが、
「仮借《かしやく》すな」
とある信長の厳命に、織田軍の兵はそれらの者もすべて山門から引きずり出して斬った。
ただここに最も世人を歯ぎしりさせた一事は、この酸鼻《さんび》を起した当の張本人荒木村重が、ついに追捕《ついぶ》の網にもれて逸早く逃げてしまったことである。
うわさには、花隈《はなくま》から兵庫の浜へ出て、船をひろい、備後《びんご》の尾道《おのみち》へ落ちて行ったとあるが――杳《よう》としてしばらく所在が知れなかった。
さもあらばあれ、彼村重は、もう人の中の人ではあり得ない、完全に死んだものだ。いやなお、どこかに生を偸《ぬす》んでいる限り、窒息《ちつそく》の苦悩をしながら腐肉《ふにく》を抱えているものにすぎない。
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日本丸《につぽんまる》
こんどの荒木|村重《むらしげ》退治の合戦にあたって、織田方に一|異彩《いさい》を加えた手勢がある。九鬼嘉隆《くきよしたか》の率《ひき》いる水軍だった。
摂津《せつつ》の花隈《はなくま》城陥落の日、この船手勢は、思いもうけぬ海上から霧を払ってあらわれ、艨艟《もうどう》数十|艘《そう》を浜にならべて軽舸《はしけ》を下ろし、たちまち川口から溯《さかのぼ》って各所へ陸戦隊を上げ、花隈から逃げ落ちて来る敵のものをことごとく首にして、信長へ献じたのである。
「船手は海上のそなえとのみ思うていたが、機に応じて、陸上の働き奇特なことである」
と、信長は、九鬼嘉隆の本高三万五千石へ、さらに七千石の加増を与えて、
「いよいよ水軍の充実に力をいたすように」
と、励ました。
織田氏の水軍は、その部門ができてから、まだわずか三年ぐらいしか経っていないのである。もとより非常に幼稚だった。
けれど、その短日月のうちに育成して来たものとしては、目ざましい発達といわなければならない。
なにしろ、ごく近年までは、信長自身すら、兵事といえばほとんど攻城野戦のこととして、海上の軍備までには思いいたる遑《いとま》もなかった。
その通念を破って、彼に、
(水軍なくしては)
と、痛切に、その必要を知らしめてくれたものは、敵であった。西国の強大|毛利《もうり》なのである。
大坂石山本願寺の頑強な交戦力は、信長がいかに畿内《きない》の陸上から包囲しても、その交通路を遮断《しやだん》しても、すこしも衰えるふうがない。――その持久力と反抗はむしろ日を逐《お》うて強烈にさえなって行った。――で、その依って来る原因をつきすすめてみると、何ぞ知らん、武器も弾薬もまた夥《おびただ》しい食糧も、海上から商船に偽装した毛利方の兵船が、いくらでも満々と帆をはって、安治川口《あじがわぐち》から大坂市街へそれを輸送しているのだった。
(そこを断《た》たなければ)
と、彼は陸上の装備と、訓練のない、また極めてあり合わせな漁船など集めて、大坂の川口で毛利の水軍を阻《はば》めた。それは三年前の天正四年頃のことである。
ここでは、さしもの織田軍も、惨敗《ざんぱい》を喫《きつ》した。以来、彼は、
(水上の戦いでは、われまだ毛利の敵にあらず)
という非を痛切に知った。そしてひそかに水軍の建設に苦慮していたが、いわゆる素質のない将兵を基本としては、その業は容易でなかった。
赤壁《せきへき》の江上戦に、魏《ぎ》の精猛《せいもう》を率《ひき》いる曹操《そうそう》が、完敗を喫したのも、当初、彼の軍隊の兵は多く北国産の山沢《さんたく》に飛躍したものであり、それに反して、江南の国|呉《ご》の兵士は、大江の水に馴れ、南海の潮《しお》に鍛えられたものが多かったことに、大なる敗因があったという。
いま、安土《あづち》の豪壁《ごうへき》を地上に築いた信長である。その勢力と財をもって、彼にまさる兵船を造ることは至難でなかった。――現に琵琶湖の往来にさえかなり巨《おお》きな船舶はもっている。
けれど、彼が苦しんだのは、船の大や数ではなかった。その機動の生命となる人である。
柴田、佐久間、滝川、その他、羽柴筑前と見まわしても、適任とは思われない。西海の雄藩毛利とはおのずから質がちがう。
折も折。
こういうところへ、彼に接近して来た一人物がある。九鬼嘉隆《くきよしたか》という贅肉《ぜいにく》もなく骨じまりの慥乎《しつか》とした色のくろい男だ。いわゆる潮みがきにかけられた皮膚と生きのいい鰡《ぼら》みたいな眼をもって、
「てまえに仰せつけあるなら、毛利に劣らぬ水軍を組織し、かならず数年のうちにあなたの麾下《きか》に加えてみせる」
と、或るとき、信長の前で、信念がなければ決していえないことばをもって、云い断《き》ったのである。
嘉隆は、伊勢の産だとあり、その一子は、鳥羽《とば》の城主|原監物《はらけんもつ》の聟《むこ》でもあるというので、信長も相当に礼遇《れいぐう》し、その言にもかなり耳をかたむけた。
面《つら》がまえもよし、海事の知識にも富んでいる。信長は一見、
――この男、用《つか》える。
と、思った。
九鬼右馬允嘉隆《くきうまのすけよしたか》は、信長から水軍の建設をいいつかると、鳥羽、熊野などの船大工や、多年海上で動作に馴れた水夫《かこ》などを糾合《きゆうごう》して、やがて七艘の大船を作り立て、これを堺《さかい》の浦へまわして来た。
彼の使命は、西国から輸送される軍需船を、大坂の海口で封鎖《ふうさ》するにある。
毛利方では、堺《さかい》の浦に忽然《こつぜん》と出現した一船団を、当然にすぐ探知していたが、
(一夜作りの織田の水軍、何ほどのことがあろう)
と、多寡《たか》をくくって、相かわらず、九鬼船隊の視界のまえを、悠々と、兵糧や武器を満載して舟行していた。
(やらせておけ。やらせておけ)
右馬允嘉隆は、時を計っていた。そしてその年七月の烈風の夜――毛利方の大船団が大坂港へはいったのを見とどけると、
(こよいこそ)
と、舳艫《じくろ》をしのばせて襲いかけた。
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――九鬼右馬允は九艘の大船に、無数の小舟を相添へ、山のごとく飾りたて、敵船まぢかく寄せつけ、やにはに大鉄砲をいちどに放ち懸《かく》る。
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と、当時の記録に見える。「山のごとく飾り立て」とあるのは船楼や艫《とも》に、旗幟《はたのぼり》だの鑓《やり》や熊手を植えならべて進んで行ったものであろう。
この夜、風浪が高かったので、碇泊中《ていはくちゆう》の西国船は各※[#二の字点、unicode303b]、船と船とのあいだに繋綱《もあい》をとりあい、また海泥に深く碇《いかり》を下ろしていた。
たちまち一|艘《そう》が火災を起した。すわと、抗戦に立ち向ったときは、ほかの船にもあちこち飛火が移っていた。敵にのみ気をとられていた毛利勢は、繋綱《もあい》を切って、友軍の火の船を、まず先に避けねばならないことを忘れていたのである。
(よし引き揚げろ)
燃えさかる数艘の巨火《きよか》へ、さらにさんざん矢や小銃をうち浴びせて、九鬼船隊はすばやく淡《たん》の輪《わ》方面へ逸走《いつそう》した。――毛利方の水軍は、してやられたりと憤《いきどお》って、
(多寡《たか》のしれた伊勢や熊野の漁夫兵、大国毛利の水軍の面目にかけても揉《も》み潰《つぶ》せ)
と、残余の大船小舟をととのえて、堂々たる船陣をつくり、淡《たん》の輪《わ》の海上へ追いかけて行った。
物見の舟を放って、とつこうつ敵船をさぐっているうちに夜があけた。朝霧のあいだに双方の石火矢《いしびや》や銃火がかわされ出した。すると、思いもうけぬ方から霧を破って、またべつな一船隊が毛利方へ迫撃して来た。その旗艦らしい一艘には、あきらかに滝川左近将監《たきがわさこんしようげん》の旗じるしが望まれた。何ぞ知らん伏勢《ふくぜい》があったのである。
九鬼右馬允の乗っている大船には、熊野権現《くまのごんげん》の大幟《おおのぼり》と日の丸がひるがえっていた。名づけて日本丸とよぶそれは、胴《どう》の間《ま》七間|縦《たて》十数間という熊野船だった。
荒浪の中を乗りまわし乗りまわし、鯨のように日本丸は暴れまわる。近々と寄せては、敵船へ松明《たいまつ》を投げこみ、退いては、大鉄砲をうちこむのだった。
七月の陽が、海面《うみづら》をも焦《や》くばかり高くなった頃、淡の輪の海上は黒煙《くろけむり》にみちていた。毛利方の船はほとんどといってよいほど焼き沈められた。風浪がつよい日なので、炎は高く壮観をきわめた。
このことは、堺《さかい》、大坂の耳目《じもく》を震駭《しんがい》させた。信長の勢威を知っても、なお毛利の富力と強大をずっと高く評価している一般民も、これはと、それまでの常識と観念の訂正にまごついた。
抜け目ない信長は、ここに自己の水軍を持つと、それらの大船を連ねて豪壮な船飾りをほどこし、一日、近衛《このえ》公やそのほかの公卿《くげ》を堺へ招いて船御覧《ふなごらん》の催しをした。もちろん彼は民衆を忘れない。貴賤僧俗、男女老幼、すべての者へも船見物をゆるし、堺の数日を船祭に沸《わ》きたたせた。
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丹波《たんば》・丹後《たんご》
山陽の北部には山陰がある。
ふたつを併《あわ》せて中国という。中国攻略は、当然、二方面作戦にならざるを得ない。
秀吉が、山陽に働いているあいだ、山陰方面の司令官としては、明智光秀が任じられていた。
山陰は、光秀の働き場だった。
ここ数年に、光秀は、よくその任に対して、功を挙げた。
細川|藤孝《ふじたか》を副将として、丹波、丹後の敵性を、一城一城、攻め陥《おと》して行ったのである。
この地方の強敵は、何といっても、波多野秀治《はたのひではる》の一族だった。
討伐にかからない前は、その大敵の本拠、八上城《やかみじよう》を中心として、ひとしく織田信長へ反意を示している大小地方武族の旗は、各地の要害に散在する四十余ヵ所の城と、三十余ヵ所の砦《とりで》にわかれて翻《ひるがえ》っていたものである。
それをここ数年間に、営々と攻め、孜々《しし》として降し、約三分の一にまで伐《き》り平《たい》らげて行ったのは、まさに山陽の秀吉の武勲と比べても、決して遜色《そんしよく》のない惟任光秀《これとうみつひで》のてがらといっていい。
もちろん信長が光秀に信頼することも、その功労を賞揚することも、決して秀吉以下ではなかった。
「筑前と日向《ひゆうが》とは、まず、織田軍の双璧であろう。いずれも錚々《そうそう》、いずれも若い。両者の働きを見くらべるは、当代の壮観というもの。彼らもよき世に生れあわせたが、予もよき将を左右に持ったな」
率直に、信長は、或る時、老臣たちへこういったこともあるそうであるが、物に感じると、人いちばい激賞して惜しまない信長としては、それも決して政治的なことばではなかった。
その証拠には、特に、惟任《これとう》の姓をゆるされ、丹波亀山の城に六十万石を附与され、一門の眷族《けんぞく》もみな余栄をうけて、いまの明智日向守光秀は、もうむかしの漂浪零落《ひようろうれいらく》時代の十兵衛光秀ではなかった。
「この御厚恩をわすれてはならんぞ」
とは、光秀自身が、つねに六人のわが子にも、甥《おい》や姪《めい》の一族のものにもいっていることばであった。
その心がけは必然に、所領地の内治や法令にもよくあらわれていた。彼は、信長の名を辱《はずかし》めない新興勢力下の一大名として、次々に、領民をよく悦服《えつぷく》させていた。
おまえ見たかや
お城のにわに
きょうも桔梗《ききよう》の花がさく
領民はそう謡《うた》って、新しい領主の温情とその家門を祝福した。
光秀の明晰《めいせき》な頭脳をもってする文化の振興や新味ある政治は、到底、前に住んでいた地方豪族の施政ぶりなどとは比較にならないものであっただけに、土着民は、たちまち彼に随喜した。また風《ふう》を慕《した》って、戦わずして彼の城門に投降して来る地方武族もすくなくなかった。
酒井孫左衛門、加治見石見《かじみいわみ》、四方田《よもだ》但馬守《たじまのかみ》、萩野彦兵衛《はぎのひこべえ》、並河《なみかわ》掃部助《かもんのすけ》など、みなその砦《とりで》を捨て、部下をつれて、この春、彼の家臣となった人々である。
だが、かんじんな丹波第一の敵の嶮要《けんよう》――八上《やかみ》城だけはなおまだ頑として陥《お》ちずにあった。
細川藤孝、織田信澄、滝川一益、丹羽《にわ》五郎左衛門などの諸将が、光秀を援《たす》けて、年来、伐《き》りくずしにかかっていたが、波多野秀治は、時に帰順したり、時には反抗したり、また忽《たちま》ち、勢威を旺《さか》んにして来たり、どうしてもその防塞《ぼうさい》と敵性は抜くことができなかった。
天正七年の五月である。
「今でしょう、八上を叩くのは」
これは、秀吉からの献議《けんぎ》だと聞えている。両面作戦とはいえ、その機動は、たえず一つに活流《かつりゆう》している。播州《ばんしゆう》方面の手は今なら移動できるという秀吉の保証によって、
「一挙に、八上を陥《おと》せ」
とある信長の総攻撃の令は発しられたのである。すなわち光秀の本軍は山城方面から、秀吉の弟秀長の軍勢は但馬《たじま》方面から、また丹羽五郎左衛門の一手は摂津口からと、三方面から競進の勢いで波多野の牙城《がじよう》八上へ迫った。
羽柴秀長、丹羽五郎左衛門、この二将にひきいられた各大隊は着々、その担当地域に戦果をあげて、敵性の砦や城地を、席巻《せつけん》して行った。
――が、光秀の前面は、ある程度で停頓《ていとん》を見てしまった。しかしそれは主隊として、ここで彼が絶対に粉砕《ふんさい》して見せなければならない――敵の牙城八上との対峙《たいじ》であった。
「明智勢の面目にかけて陥《おと》せ」
光秀の指揮は、いつになく、実に激越を極めた。
「――あらゆる犠牲をはらうとも」
と、部下の将士に、夜も夜討を朝にも朝討を、敵に息つく間も与えないほど、味方をも猛烈に督した。
けれど、八上城は陥ちない。――そのあいだには、羽柴軍や丹羽軍の赫々《かつかく》たる戦功が両方面から聞えてくるのである。――光秀は、膠着《こうちやく》したままの自軍をながめて、
「あら。恥かし!」
と思った。
信長の恩寵を、人いちばい厚くうけている自身を、そこに顧みるほど世上にたいしても、
「かくては名折れ」
と、焦心《あせ》らずにいられなかった。
悠々《ゆうゆう》と政治軍事の経策に理念をめぐらしている人である時、彼は世間にもざら[#「ざら」に傍点]にない大器であった。いわゆる人材のすぐれたものであった。けれど、その裏面性の感情から衝《つ》かれて、ものの思考に入ると、別人のように、みだれやすかった。当面の些事《さじ》にもひどく拘泥《こうでい》して、明晰《めいせき》な頭脳も、それに支配されてしまう。
かれの聡明と、文化人的なつつましさは、平常の言語行動においては、彼の内部にそんな脆弱《ぜいじやく》な欠陥があることなどは、まったく気《け》ぶりにも他人へ覗《のぞ》かすことはしない。一族近臣にすら窺《うかが》わせない。ただ彼自身が、自身だけで、
(――こんなことでは)
と、誡《いまし》めているだけだったから、その胸中の苦悶はまた人いちばいのものであった。
「だめです。あらゆる作戦も、ほとんど城中の敵には、何のこたえもないかのようで。――この上はただ濠《ほり》を深め、柵《さく》をかため、長囲を期して、敵を干乾《ひぼ》しにするよりほかには」
と、帷幕《いばく》の智嚢《ちのう》も、前線の部将も、いまは挙《こぞ》って、それにだけ一致していた。
光秀の兵理軍学の蘊奥《うんおう》も、ここに至ってはすでに施し尽きていた。しかも彼は、今日明日のうちにも、敵城を揉《も》みつぶさねばと焦心《あせ》っていた。
(――さだめし歯がゆき者と、信長公も思し召しつらん。丹羽、羽柴の友軍も、あれ見よ光秀が手を焼いておるわ、と密かに笑いてやあらん)
などと味方の上下の思わく[#「わく」に傍点]までを、こんな中にもひとり苦慮する光秀であった。
さらに、ここは自分の働き場所――丹波の役であるという責任感もある。惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》たるの誇りもある。断じて、悠々と、ここに膠着《こうちやく》を続けてはいられない。
「なに。長陣で囲んでいるしかないと、いやいや、光秀には疾《と》くより考えておることもある。無為無策《むいむさく》の長陣をきめこんで、友軍のめざましい戦功をよそに眺めてなどおられようか。……作左、作左」
と、一方にいる部将たちの一名を呼び、
「いつぞやそちが本陣へ伴《つ》れて参った大善院《だいぜんいん》の和尚《おしよう》をもう一度呼んで来い。夜に入るもかまわぬ、すぐにだぞ」
と、いいつけた。
旗本、進士《しんし》作左衛門は、命をうけると、すぐ駒をとばして、多紀郡《たきごおり》の大善院へ駈けて行った。
攻城数月、すでに季節は夏に入っていた。陥《お》ちない城を目のまえに、光秀は、毒虫や蚊を追うべく篝《かがり》を焚《た》かせて、その夕迫る煙のなかを黙々歩み巡《めぐ》っていた。
大善院の住持が、進士作左衛門に伴《ともな》われて、光秀の陣所へ見えたのは、それから間もないことだった。
「夜中、ご苦労であった」
と、光秀はこれを、帷幕《いばく》に迎えて、左右の者を退《しりぞ》け、ほんの近側の、二、三名と住持を加えただけで、何か、密議をこらしていた。
八上《やかみ》城の波多野《はたの》一族と大善院とは交渉浅くない。
「貴僧の骨折りひとつで、領下の民の塗炭《とたん》の苦は救われ、城中幾千のものの生命《いのち》は安泰を得よう。この任務こそは、僧侶たる御身に課せられた当然の使命というものではおざるまいか」
光秀は、切々、彼を説くのであった。
城中へ行って、波多野秀治《はたのひではる》兄弟を説《と》けとて、招降の使いを命じたものである。
それも、理において、嫌といえないように、光秀は明晰《めいせき》に理論だてて説き伏せた。大善院の見るところでは、公平に見ても、まだこの八上の城を挟《はさ》んで戦っている攻防両軍の勝負は、いずれが勝ち、いずれが衰えたとも見えない。むしろ寄手は、やや攻めつかれ、守城側の士気のほうが、はるかに振っているかとも思われるのであった。
――が、否《いな》み難く、大善院の住持は、
「成るか成らぬかは、天意にまかせて、ともあれ、最善の努力を尽しましょう」
と、約した。
光秀は、懸念した。彼の口吻《こうふん》からも、すでに事の不成功が予感されたからである。無条件では――と、この交渉に熱意のもちきれないような容子《ようす》が、住持の面《おもて》にありあり読めた。
内心、功を収めるに急だった光秀は、自身から一つの具体的な条件を提出した。――大善院は、いかに彼が焦心《あせ》っているかを憐れみながら、
「それならば、城中へお使いに参るにも、単に降伏をすすめるというのでありませぬゆえ、守将の御面目も立ち、事を運ぶにもまことに運びよいかと思われます」
と、多分にその可能性のあることを告げ、やがて深更《しんこう》に退去した。
大善院では次の日、本目《ほんもく》の西蔵院《さいぞういん》と協議をすすめ、和議の斡旋《あつせん》にあたるべく、万端その備えをしていた。
程なく、光秀の本営から、西蔵院側へ、ひとりの老女が送られて来た。それは光秀の母ということに表面いわれていたが、事実は、かれが養っている叔母であることは旧臣などみな知っていた。また西蔵院や大善院側でもうすうすは知っていたが、飽くまで光秀の母として鄭重《ていちよう》に取り扱い、城中との折衝《せつしよう》が運ぶに至って、これを人質として、守将の波多野秀治《はたのひではる》の許へ送った。
それに従《つ》いて、当然、大善院の住持も、使いとして城へ行った。秀治と会って、彼が伝えたところは、
「もともと信長公の御本意は、室町以後の諸国の乱脈を、統合一和するにあって、決して各地の旧家旧領の制を、徒《いたず》らに打ち壊し、また徒らに討殺《とうさつ》することが、本来の御趣旨《ごしゆし》ではおざらぬ。――光秀どのが最もつよくいわれている重点はそこで、たとえ御開城あるとも、誓って、本領安堵《ほんりようあんど》と御家名の存続は請《う》けあうとの固い御約定《ごやくじよう》を示されておる。御母堂までこれへ遣わされてまでの御誠意に対しても、何とぞここは御賢慮《ごけんりよ》のほど切に仰ぎあげまする」
それに対して、波多野秀治は、
「降伏はいやだ。しかし対等の和談ならば」
と、いい、また、充分心のうごいた証拠には、
「ともかく、光秀と会見してみての上で」
と、まで応じる色を見せて来た。
その結果、光秀と波多野秀治とは、まったく素肌《すはだ》な心と心とをもって、話し合ってみようとなり、一日、本目《ほんもく》の西蔵院で双方会見の約束が成り立った。
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二《ふた》つの門《もん》
「――お見合わせになってはいかがです。断《ことわ》るぶんには、今からでも関《かま》いますまい」
一部の将士は、波多野秀治の出城を、心もとなく思うらしく、切に諫《いさ》めた。
右衛門《うえもん》大夫《だゆう》秀治《ひではる》は、きょう城を出て光秀と会見するため、もう身支度から供揃《ともぞろ》いまでしているのである。何で今さら――といわぬばかりな顔して、
「いかに光秀なればとて、自身の老母を質《しち》として、この城内へあずけておきながら、この秀治に危害を加えるはずはあるまい。安心せい」
と、笑って出かけた。
いうまでもなく和睦《わぼく》のための会見だ。服装もつとめて平和的に装《よそお》うが礼儀である。しかし万一を慮《おもんぱ》かって、供には屈強な士《さむらい》ばかりを選《よ》りすぐって連れて行った。騎馬、徒歩《かち》、総体八十余名という人数。かなり物々しくはあった。
列は、本目《ほんもく》の西蔵院につく。
住持以下出迎える。
山門に駒をつないで、右衛門大夫秀治は、院内へ通った。
時刻をたがえず、明智光秀の側でも、すでに来ている。大書院二間を抜いて、西の間に城方の波多野主従、東の間に寄手方の光秀とその侍将たちが、おごそかに居並んでいた。
きのうまで、城壁と濠《ほり》をへだてて、矢弾《やだま》を交わして来た敵味方が、いま閾一《しきいひと》すじを間において、こう対坐したのである。
「…………」
らんらんとした眼と眼が、いずれも卑下《ひげ》なく、相手方の顔やすがたを見つめ合った。瞬間は、やはりどうにもならない。味方敵方の意識に圧しられて、顔のすじも肩の骨も、硬《こわ》ばりきったままだった。
しかし西蔵院や大善院の住持が出て、きょうのよろこびを述べ、この長い籠城《ろうじよう》と猛攻の根くらべが、平和|裡《り》におさまって、波多野氏の旧領も安堵《あんど》となれば、領民もどれほどありがたく思うであろうか――などと巧みに扱うと、ようやく、双方の心体もほぐれ出して、そこに何とはなく人間的な親しみすらお互いにわきはじめた。
「何もありませぬが」
と、僧衆が立ち出で、饗応《きようおう》の膳がくばられる。光秀は、膳部を見ると、
「こう閾《しきい》をへだてていては、いつまでも対峙《たいじ》しているような形でおもしろうない。打ち交《ま》じろうではないか、一名おきに」
と、みずから努めて親しみを寄せて行った。
波多野秀治は、彼よりももっと磊落《らいらく》だった。ほんとに交《まじ》われば赤裸になれそうな人物である。光秀のことばに、
「いかにも」
と、すぐ同意を示し、すすんで床《とこ》の間をうしろに光秀と隣りあって着席した。
光秀は、杯をすすめ、また、籠城百日に近いあいだの防戦ぶりを、口を極めて賞《ほ》めた。
秀治は、哄笑して、
「そうですか。そんなに寄手方としては、攻めあぐみ[#「あぐみ」に傍点]ましたかな。面目至極じゃ。惟任《これとう》光秀どのの軍勢に持て余されたとあっては――」
と、酒はつよいとみえ、すぐ杯をほしては光秀に返しながら、秀治はなお談じる。
「城攻めの成否は、またたくまに陥《お》ちれば陥ちる。或る期間をすぎて、陥ちこじれると陥ちないものでござる。城中の人間はいくらでも飢餓と危険に馴れて来ますからな。すでにそれがしの八上《やかみ》の城なども、それになりかけて来たところで、広言ながら、この先まだ一年や一年半は支えてごらんに入れてもよい。はははは」
ふと、光秀が座中を見わたすと、城方の者は、云い合わせたように、箸《はし》もあまりとらず、杯も唇《くち》へ運んでいなかった。
――ああさすがに嗜《たしな》み。
光秀はながめ遣《や》ってひそかに感服した。
(みなが、揃って、喉《のど》から手が出そうな食物を――日頃の飢《ひも》じさを、じっと、つつましく怺《こら》えているな)
と、察したのである。
城中にはすでに二十日《はつか》も前から兵糧が完《まつた》く尽きているはずである。ここにいる城方の面々も充分に食べていたとは思われない。食べていたにせよ、ただ露命をつなぐに足りる程度に胃の腑《ふ》をしのいで来たに過ぎまい。
それを、いかにも、
(こんな食膳には飽いている)
という顔して、珍味佳酒《ちんみかしゆ》のまえに、泰然《たいぜん》としているのは辛いだろう。武士は食わねどというが――また、これもきょうの和睦《わぼく》の交渉に強味をもつひとつの兵法とはいいながら。
光秀は、秀治へいった。
「御家中の方々みな、主君のあなたへ御遠慮のように見うけらるるが、どうか其許《そこもと》よりお声をもってちと過《すご》せと、おゆるしを与えて下さらぬか。われらの方の者どもは、かくの通り気《き》ままに頂戴しておるゆえ」
「やあ、お心入《こころい》れな」
と家来思いな秀治は、自分がすすめられたより欣《よろこ》んで、さて城方《しろかた》の一同へ向い、
「飲め飲め。せっかく、ああ仰せられるものを、辞儀固くして、戴かぬはかえって無礼に似る。――飲めぬ者は箸なと取れ」
と、いった。
黙然と、城方の面々は、かしらを少し下げた。それからおもむろに箸を上げ、杯を手にし始めた。努めてがっ[#「がっ」に傍点]つかないように。
会見の最初からの約束で、今日の一会《いちえ》は、いわゆる厳《いか》めしい談判ではなく、勝敗優劣の念も去って、酒間の談笑のうちに、和そうと思えば結び、非と考えたら別れよう――そういう条件のもとに敵味方一座したものであるから、光秀と秀治とは、この辺からぼつぼつその話に触れているような容子《ようす》であった。
至極、武人肌でまた磊落《らいらく》な波多野秀治は、光秀のものやわらかさや、驕慢《きようまん》のふうもなく、心から接待してくれる態度に、すっかり感激してしまったらしく、
「爾後《じご》のおあつかいは、御身にまかせる。ただ城中の者の生命と、その後の扶持《ふち》だに保証して賜るなら」
と、無血開城の大事を、ほとんど一諾《いちだく》にひとしいことばをもって、光秀にこたえているのだった。
「いや其許《そこもと》が、それ程までに光秀を信じて下さるなら、信長公へたいしては、光秀かならず一身を賭《と》しても、八上城の旧領安堵のことと御家門諸臣の永続は、おうけあいいたし申す。誓って、御名誉をも傷つけはいたさぬ」
光秀もまた、それに対して、力をこめて云った。
宴が終る。
終ってまた、会談に入る。
和議はここに成った。剛愎《ごうふく》な波多野秀治は、
「おまかせすると決めたからは、すべてを貴所に御一任する」
と、むすんだ。
「では、このままの休戦状態を、長く滞《とどこお》らせておいては、兵と兵のあいだに、勝手な事端をおこさぬ限りもない。ここからすぐ御同伴申すゆえ、安土《あづち》へ参って、信長公に直接お会いなされては如何」
光秀のすすめに、
「異存はござらぬ」
と、秀治はこうなると飽くまでさっぱりしていた。
城中へも、使いが行く。
寄手の陣へも、
(和談成立、数日休戦)
の趣《おもむき》を、光秀から伝令をもって、諸所の攻口へ伝えしめる。
かくて、午《ひる》まえからの会談は、半日にして一決していた。また夕餉時《ゆうげどき》となったので、夜食は光秀の饗応として、陣中から酒肴《しゆこう》すべてを取り寄せ、こんどは精進料理に限らない晩餐《ばんさん》となった。
秀治も、家臣一同も、すっかり心をゆるしたものか、午《ひる》よりはよく過した。そして灯ともし頃、ここで身支度をして、すぐ安土へ出発となった。
「御乗馬は、西門口へまわしてあります。御家来方も、はやそこにてお待ちうけです」
右衛門大夫秀治は、さいごに室を立って、三、四名の側臣にかこまれながら寺の玄関を出たが、そこで案内者として待ちうけていた明智方の人々がそういうので、
「御苦労」
と会釈しながら、夕闇の境内を縫って、西門の方へ従《つ》いて行った。
ところが、彼よりも先にどやどやとここを出た波多野家の諸臣は、同じように外に待っていた明智方の武士たちに、
「御主人の御乗馬は、東門の外につないでおきました。どうぞ、あちらへ」
と、指さされたので、彼らは主人の秀治が行った方角とは真反対な、東門の方へ伴《ともな》われていたのである。
いずれ自分らの主人は、すぐあとから来るものと信じていた。しかし、東門の外へ出てみた途端にふと怪しんだのは、そこに待っているはずの乗馬も小者たちの影も見えない。ただ寥々《りようりよう》たる夕闇があるだけだった。
「御乗馬や供の者は、いずれにおりましょうか」
一団になって佇《たたず》みながら、波多野家の臣たちがこう明智方の者へたずねると、そのことばが終らないうちに、四方の夕闇から一斉に答えたものがある。
ド、ド、ド、ドッ、ドッ――
銃声と、弾《たま》けむりだった。
何でたまろう。そこにいた約四、五十名の人影は、折重なって打ち倒れ、或いはのけ[#「のけ」に傍点]反《ぞ》り、或いは跳びあがった。
口々に異様な声で、
「――あっ」
「計ったなッ」
「ひッ、卑怯!」
と、いうような叫びが渦まいたが、それも瞬間。
辛うじて、弾《たま》をのがれた三分の一ぐらいな人々が、
「ちッ、ちくしょうッ」
「うぬッ」
と、明智方の武士へ向って、大刀を抜き、眼をいからして、猪突《ちよとつ》して来た。
けれどそれに対しての、第二段の備えのあった明智方では、たちまち木陰や物陰から、一隊の槍組をさしまねき、
「ひとりも遁《のが》すな」
と、追い包んだ。
夕月の下に、青光りするものはみな鮮血であった。生きて八上の城へ馳《は》せ帰ったものは、十人に足らなかったろう。――その余の小者はすべて明るいうちに捕虜《とりこ》となっていたものだった。
東門の銃声は、当然、宵のしじまを破って、西門の方まで聞えた。
右衛門大夫秀治と、近臣の三、四名とは、ちょうど、たった今、西門の外へ足をふみ出したところだった。
さすがに、休戦中の銃声には、剛愎《ごうふく》な彼も、愕《がく》としたらしく、低い石段の途中に、その歩みを立ちすくめたまま、
「光秀どの! 惟任《これとう》どの」
と、すぐ前後を見まわした。
その一瞬へ来ても、彼はまだ光秀のきょうの饗応に見えた好意や、あの温和な物ごしや、なおまた固く誓った和議に対して、疑いをさし挿《はさ》んでみようとはしなかったのである。
「や。お見えになりませんが」
「いや、すぐ今の今まで、伴《つ》れ立っていたが?」
秀治は、降りかけた石段を後ろへもどった。そして、自分が先に来過ぎたかと――西門をくぐって境内のほうを覗《のぞ》きこんだ。真っ暗な門の陰からピラと魚に似た光が走った。大型な笹穂《ささほ》の槍であった。無意識に――
「ばかッ」
と、秀治はさけんだ。
怖ろしい大声だった。山門の棟木《むなぎ》にぐわん[#「ぐわん」に傍点]と鳴ったような。――それと共に、彼の佩《は》いていた陣刀は電光をえがいて槍のケラ首あたりを斬り落していた。
しかも、彼の眼にとまったのは、その一槍だけだったが、事実はうしろからも一本の槍がいちどに彼の身ひとつへ蒐《あつ》まっていたのである。陣刀一|閃《せん》のもとに、彼が前なる一槍を斬り落していたとき、彼のからだは、そのまま横へ泳いで行った。二ヵ所の槍傷に堪えやらず――。
「ううむッ。小人《しようじん》めッ」
光秀の奸智《かんち》を罵《ののし》ったのであろう。そう唸《うめ》きざま、山門の壁に身をぶつけると、そのまま倒れて息絶えた。
この突発事に、当然、彼の近臣、三、四名も無事でいるわけはなかった。けれど、その人々も網のなかの魚でしかない。あたりに潜《ひそ》んでいた鉄甲の武者の、夥《おびただ》しい人影は、たちまち包囲して、縛《くく》りあげたのか、斬りころしたものか、その結果すら見え分かぬほど、手早く仮借《かしやく》なく始末してしまった。
八上の城は、こうして落城してしまった。
守将なく、重《おも》なる部将も、みな城外へ出て、だまし討ちに打たれてしまっては、いかに頑強な城兵でも、支《ささ》え得るわけもない。
一難を抜いた光秀軍は、つづいて、赤井一族の宇津城《うつじよう》を攻めやぶり、進んで福知山の鬼ケ城を略し、ここに丹波全州の平定を完《まつと》うして、援軍の丹羽、織田信澄らの味方へも、まず面目を保ったし、安土へ対して、勝軍《かちいくさ》を報じることができたが――彼の心中には、この勝軍《かちいくさ》を心から歓《よろこ》ぶことができたかどうか。
その後、八上城の残軍は、城を出ても、ことごとく光秀に心服したかのような色を示していた。しかし世評は、彼をめぐっていろいろに沙汰した。
もっとも多い非難は、
「いかに功を焦心《あせ》ればとて、母なるお人を城方へ人質としてさし出す所為《しよい》はなかろう。しかも、城将をあざむくための方便とすれば、危ないことは知れているに」
と、いう声だった。
かりそめにも母と名のあるものを、光秀たりとも、そんな具には用いていない。人質に送ったのは、実は叔母であったのだ。以《もつ》て、光秀はみずから慰めようとしたかもしれぬが、やはり慰めきれないものが、心にわだかまっていたにちがいない。
彼は、荒木村重のように、荒削りな神経の持ち主ではない。いや人いちばい繊細《せんさい》でもあり、また正邪を知り善悪の批判にあきらかな知能である。
それだけに、あとの苦味《にがみ》はいつまでも消えまい。
亀山領内の民治には、明主ぞ仁君ぞと仰がれていながら、その政治的手腕にも似あわず、軍事にかけては、焦心《あせ》り気味がみえ、不手際《ふてぎわ》が目立った。殊にそれを、三木城その他の攻略を遂げた秀吉の行き方と較べるにおいて、一《いち》だんまずい[#「まずい」に傍点]と思わせるものがあった。
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鷹《たか》を追《お》う
信長も、多忙であった。
わけてここ両三年の生活は。
彼のいるところ、政務の中枢《ちゆうすう》となり、彼の赴《おもむ》くところ、軍の本営となる。
そのあいだに、好きな角力《すもう》を見たり、山陽、山陰その他の戦場から戻って、折々、伺候《しこう》する部将をねぎらっては、大いに酒宴も張り、例の、
「――人生五十年、ゆめまぼろしの如くなり。死のうは一定《いちじよう》」
とある得意な小舞を歌ってみせたり、また、家臣と家臣の家のあいだを取り持って縁結びの世話までやいていた。
細川|藤孝《ふじたか》は、丹後の一色義直《いつしきよしなお》を亡ぼして、その田辺の城を、信長に献じ、信長から、
「御身、そこに在《あ》るべし」
と、ゆるされて、いま、丹後一円の地を所領している。
その細川藤孝と、隣国丹波の明智光秀とは、親戚以上の親睦《しんぼく》をつづけている。
ふたりの仲は、信長にまみえる前からの交わりだった。
まだ光秀が時にも主にもめぐまれず、越前の朝倉家に客となって、訪う人もない浪宅に微禄《びろく》していた頃、初めて門をたたいて、将来の希望を語りあった人こそ細川藤孝であった。
その将来の人物を、
(信長のほかにはない)
と見極めて、共に、越前を脱して、将来の計を岐阜城に説き、以来、款《かん》を通《つう》じて、今日までその志を、信長に託して、成し遂げて来た――藤孝、光秀のふたりだった。
だから、ふたりが会えば、かならず往年のことを思い出して、
「あの時は。この時は」
と、苦労を語りあうことが、他目《よそめ》にも羨《うらや》ましいほど親しい藤孝と光秀なのである。
信長も、この二人の功は、充分に認めていた。いわゆる譜代《ふだい》の臣以上なものがある。とりわけ細川藤孝には、その家筋の高さに対しても、別格の尊敬を払っていた。
「幽斎《ゆうさい》の息子、与一郎|忠興《ただおき》、あれはもう幾歳《いくつ》になるな?」
ふと、老臣の林佐渡は、信長から突然、こう訊かれてまごついた。
幽斎というのは、細川藤孝の道号である。歌道や茶道では、幽斎のほうが通りがよい。信長もまた親しみを示しているつもりか、多くの場合、その方の名を呼び慣れていた。
「さあ? ……」
と、佐渡は額《ひたい》に手をあてて、
「御記録所へ参って、調べて参りましょうか」
と、立ちかけた。
「それには及ばん」
信長は、制した。近ごろは、佐渡もすこし耄碌《もうろく》気味な、と舌打ちするように、
「二十歳《はたち》は越えたろうな」
「細川どのの御嫡男《ごちやくなん》は、初陣《ういじん》このかた、御功名も度々聞えておりますれば、はや、それどころではございますまい」
「光秀には、たしか、息女《むすめ》が多かったように聞いておるが」
「お子、七人のうち、上の五人までが、女子《おなご》ばかりとか……いつかおこぼしなされておられましたが」
こんな座談が出てから間もなくである。信長はいつのまにか、細川、明智両家の家庭にすっかり詳《くわ》しくなっていた。縁故のある臣下からいろいろ聞きあつめて耳ぶくろ[#「ぶくろ」に傍点]へ入れておくので、誰よりも精通《せいつう》するはずであった。
その年の九月。
両家のあいだに、華やかな婚儀が執《と》りむすばれ、媒人《なこうど》は、
「我なり」
と、信長みずから名乗ってそれを盛大にさせた。
婚儀の後、花婿花嫁は、安土にお礼に来た。至極、似あいの夫婦《みようと》であった。花婿の与一郎忠興は、後の細川三斎。
花嫁は、明智家の三女で、時まだ十六の蕾《つぼみ》であったが、やがて細川家の内室、ガラシヤ夫人といえば、垣間見《かいまみ》たこともない者までが、美人だそうな――と噂した。
内には、臣下と臣下との、こういう家政的な些事《さじ》にも心を用いながら、外にはまた、着々と、大局へ向って、大きな手を打ってゆくことも忘れていない信長であった。
いま、彼の企画《きかく》にある最大な宿題として、密《ひそ》かに手をつけている問題は、
対本願寺との政治的解決
であった。
それを為《な》すに、
「機会は今だ」
と、彼はみたのである。
およそ信長がここまで来る百戦苦闘のうちに、寝てもさめても、信長の苦慮となっていたものは、本願寺門徒の活躍であった。表面的には、教団という極めて消極的な存在でありながら、その執拗《しつよう》な反抗と、抜けきらない潜勢力とには、まったく手を焼いて来たものだった。
その本願寺に対して、
「一撃に抹殺せん」
とばかり、大坂出兵を断行し、川口、桜ノ岸に、堂々と展陣して、しかも何の効果も挙がらず、却って、彼らの結束と抗戦を強めたのみで退陣した元亀元年から――顧みると今年|天正《てんしよう》八年まで――ちょうど足かけ十一年になる。
あきらかに、本願寺軍と織田軍とのあいだに、合戦が宣せられてから、実に、十一年間。この長期を、信長が、この怪敵のために、悩まされ、妨《さまた》げられ、また常に一部の兵力をそれに割《さ》かれて来た有形無形の損害は、言語に絶しるといってもよい。
が――隠忍《いんにん》に隠忍をかさねて、いまやようやく、根本からその患《うれい》を除くときが来た。いまこそと、彼はひそかに、手に唾《つば》して、それへ取りかかったのである。
八年の二月、大挙して、京都へ出た信長は、その夥《おびただ》しい人数と行装《ぎようそう》の威を誇示しながら、山崎、郡山、伊丹《いたみ》などの大坂近郊を、巡遊していた。
「鷹を追うのじゃ」
と称して、鷹狩と触れてはいたが、その狩衣《かりぎぬ》をかなぐり捨て、その将士の勢子《せこ》に矢弾《やだま》を命じて、
「屠《ほふ》れ」
と、号令一下すれば、石山本願寺を中心とする全大坂の教団街《きようだんまち》は、一挙に、灰ともなし得るほどな布陣と兵力と、そして明瞭な意志とを、彼へ示していた。
そういう態勢を作っておいて、信長はおもむろに、
「どうするか?」
と、彼の思慮を、ながめていたのである。
足もとは見すかされていた。さしも全土にわたる教門の勢力をあつめて、この浪華《なにわ》の一丘に、巍然《ぎぜん》たる特異な法城を構えていた石山本願寺も、もう以前ほどな実力はなくなっていた。
ここ十一年間の推移があきらかにその衰退を実証している。
まず将軍|義昭《よしあき》の没落は、その第一だった。遠く連携《れんけい》して、腹背《ふくはい》からたえず信長を苦しめていた反信長派の一環、武田信玄が忽然《こつぜん》と死去したことも、本願寺にとっては、片翼をもがれたようなものだったし、つづいて越前の朝倉、江州《ごうしゆう》の浅井、伊勢の長嶋門派の殄滅《てんめつ》をうけたことなど――満身|創痍《そうい》の傷手《いたで》だったといっていい。
わずかにたのんでいた上杉謙信も逝《ゆ》いた。紀州地方の雑賀《さいか》門徒も、信長にくだってしまった。松永久秀また討たれ、播州の三木城、伊丹城の荒木村重、丹波の波多野一族までが――相次いで、征伐をうけ、本願寺からながめているかすかな希望までを、地上から掃《はら》いつくされてしまった形である。
なお強《し》いて、恃《たの》めば、
「東には、武田勝頼。西には大国毛利がある」
という豪語も吐けないことはないが、その武田も長篠《ながしの》の一敗に屏息《へいそく》し、西国の毛利も、このところ一戦一退のみをつづけ、加うるに元就《もとなり》以来の保守主義もあるので、果たして、この上積極的に東上の意志があるかどうか――すこぶる覚《おぼ》つか[#「つか」に傍点]ないとみなければならない。どう楽観的にみても、いまや石山本願寺は、あらゆる外勢力と絶縁された無援の島であった。
兵略と、政略と。
こう二つは、いつも、二つで一つであった。信長の胸の中では。
いまや衰兆を現わして来た孤立本願寺にたいしても、
「陥《お》とせば、陥ちる」
と、確信をもって、ながめながら、信長はまだ、一気にそれを、力攻しようとはしなかった。
「相成るべくは、一兵をも損せずに」
と、思慮し、また、
「石山の法城を中心に、方八町の門前町、そのほか浪華《なにわ》三里の内の町屋、港、橋々などを、兵火にかけて、灰燼《かいじん》とするも惜しい」
と考えているからであった。
彼の兵馬が、表面、鷹狩ととなえて、大坂近郊の地を、示威的に巡遊しているあいだ、彼の命によって、洛中にとどまっていた佐久間右衛門、宮内卿法印《くないきようほういん》などの外交家たちは全力をあげて、関白《かんぱく》近衛前久《このえさきひさ》にはたらきかけ、
「本願寺のために。いや、法燈の滅却と仏徒数十万を救う意味で」
と、理を説いて本願寺一類の大坂退去を慫慂《しようよう》していた。
近衛|前久《さきひさ》は、信長とも親しかったが、とりわけ本願寺|新門跡《しんもんぜき》の教如《きようによ》や、その父の顕如上人《けんによしようにん》とは昵懇《じつこん》だった。
そんな関係もあるところからすすんで、
「身にかえても」
と、その衝《しよう》にあたることをひきうけた。
勅命を奏請《そうせい》して、まず、
「事なきように」
と、本願寺側を諭《さと》した。
けれど十一年のあいだ、全門徒の血と信仰をもって、信長に抗し、ここに拠《よ》って来た本願寺としては、いまいかに恃《たの》む味方を諸所に失ったからといって、
「では」
と、すぐ大坂から地方へ後退することも為《な》し難かった。
新門跡の教如《きようによ》は、強硬派の随一である。父の顕如が、
「――この上は」
と、大坂退去の意を発表すると、彼は彼でまた、
「われらは、一寸たりと、当石山|御堂《みどう》は退《ひ》きませぬ。たとえ父君以下、門徒ことごとくこの地をお去りあろうとも」
と、号して、さらに防塁を築き、同心を語らい、廻文を飛ばしなどして、
「信長と最後の一戦せん」
と、激気いやが上にも、昂《たか》いものがあった。
けれど、大坂を退《ひ》くべし、との通達は、もう一近衛|前久《さきひさ》の調停ではなく、すでに、朝廷からのお心遣いであった。勅命であった。
[#ここから2字下げ]
去ル程ニ、大坂退城仕ルベキノ旨、辱《カタジケナ》クモ禁中ヨリ御勅使|降《クダ》サレ、門跡《モンゼキ》、北之方《キタノカタ》、年寄共《トシヨリドモ》如何アルベキヤ否ヤノ儀、権門《ケンモン》ヲ恐レズ、心中之|存《ゾン》ジ寄《ヨリ》ノ旨趣《シシユ》、残ラズ申シ出ヅベキノ由尋ネ被申《マウサル》――
[#ここで字下げ終わり]
と、その折の古記に見えるとおり、勅答を迫られていたのである。
衆議、また幾回かの評定をかさねた結果は、当然、こういう答えしか案じ出せなかった。
[#ここから2字下げ]
第一には。勅命に違背すべからず。
第二には。所詮《しよせん》、信長に敵抗しても、信長には勝ち得ない。
第三には。門徒一般の実状を見ても、既にその非を悟っている。これ以上、無辜《むこ》の人命を犠牲にするは、仏者のえらぶ道ではない。
第四には。法燈の保存。
[#ここで字下げ終わり]
なお、ここは退《ひ》くべきであるという理由は、いくつも数えあげられる。
それに反して、強硬派の玉砕主義は、要するに、武門と沙門《しやもん》の立場を混同しているきらいがあった。
結局、五月には、大坂退去が宣言された。それからも、葛藤《かつとう》はあったが、遂に、七月下旬から八月初めにかけて、最後までふみとどまった強硬派の教如の一類もみな大坂を立ち退いた。その終りの日こそ、浪華津《なにわづ》にこの街が開かれて以来の見ものであった。
法城の請取役《うけとりやく》は、織田家の臣矢部善七郎であった。
大坂市内外にある本願寺の、端城《はじろ》や木戸の砦《とりで》など、五十一ヵ所の守りは、つぎつぎに破却されていた。
いまは裸城《はだかじろ》の石山御堂《いしやまみどう》に、矢部善七郎以下の夥《おびただ》しい織田兵が乗りこんで来たその日まで、教如上人と六、七名の扈従《こじゆう》は、なお去りがてに残っていたが、善七郎から、
「御切腹のおつもりか」
と、糺《ただ》されて、
「否、否」
と、上人《しようにん》以下は、ぜひなく囲みの一方を解いてもらって、悄然《しようぜん》、石山を立ち退《の》いたものであった。
伝来の宝物も、仏具調度の七珍八宝も、ことごとく堂宇《どうう》のうちに遺《のこ》したままであった。
「やがて、信長が来て、検分のとき、醜《みぐる》しくも、取り乱したるものかな――などといわれては恥辱《ちじよく》ぞ」
と、本願寺側でも、その以前に、あらゆる什物宝器《じゆうもつほうき》を展列して、いちいち目録を添え、塵《ちり》を払い、欄《らん》を浄《きよ》め、立つ鳥水を濁さず――のことばの通りきれいにして去っていた。
最後の最後までふみとどまっていた教如は、その去るときに、法衣の袂《たもと》へ、茶入れ一ツ入れて行っただけであった。そしてその日のうちに、泉州佐野川の辺まで落ちのびて行ったという。
[#ここから2字下げ]
爰《ココ》ニ大坂ヲ創《タ》テ初《ソ》メテヨリ以来四十九年ノ春秋ヲ送ルコト、昨日ノ夢ノ如シ、世間之相、事時之相ヲ観ズルニ、生死ノ去来《キヨライ》、有為転変《ウヰテンペン》ノ作法ハ、電光朝露ノ如シ、タダ一声《イツセイ》称念《シヨウネン》ノ利剣《リケン》、コノ功徳《クドク》ヲ以テ、無為涅槃之部《ムヰネハンノブ》ニ至ランニハ如《シ》カジ――
[#ここで字下げ終わり]
当時の人、太田牛一《おおたぎゆういち》の手記によれば、大坂開市以来の繁栄と、顕如、教如などの心中を、いかばかり口惜しくも名残惜しけんと、こう記述している。
[#ここから2字下げ]
――然リト雖モ、今、故郷離散ノ思ヒ、上下涙ニ打沈ム、然《シカ》ウ而《シテ》、ヤガテ退城ノ後ハ、信長公ノ御成《オナリ》アツテ、御見物ナサルベシ、其意ヲ存ジテ、退去ヲ前ニ、端々《ハシバシ》普請掃除《フシンサウヂ》ヲ申シツケ、表ニハ弓鉄砲ノ兵具、ソノ員《カズ》ヲ懸並《カケナラ》ベ、内ニハ資財雑具ヲ改メ、有《アル》ベキ態《テイ》ヲ結構ニ飾置《カザリオ》キ、御勅使、御奉行衆ヘ相渡シ、八月二日|未《ヒツジ》ノ刻、雑賀《サイカ》ノ浦、淡路島ヨリ数百艘ノ迎ヘ船ヲ寄セ、端城《ハジロ》ノ者ヲ始メトシテ、右往左往ニ縁々《ユカリユカリ》ヲ心ガケ、陸路海路ヲ蜘蛛《クモ》ノ子散ラスガ如ク別レ候。
イヨイヨ時刻到来シテ、松明《タイマツ》ノ火ニ西風来ツテ吹キ懸《カケ》、余多《アマタ》ノ伽藍《ガラン》一宇《イチウ》モ残ラズ、夜昼三日、黒雲トナツテ焼ケ終ンヌ……。
[#ここで字下げ終わり]
故意か、自然か。
こうして極めて合法的に石山本願寺の空《あ》け渡《わた》しはすんだが、そのあとで、一炬《いつきよ》、全山の堂塔伽藍《どうとうがらん》と、多年の築城的|門塁《もんるい》は、三日三晩にわたって、炎々、大坂の空に歴史の光煙《こうえん》を曳いて、すべては灰と化してしまった。
火は、あらゆるものの決裁と清掃を執《と》り行う時《とき》の氏神《うじがみ》だ。そして残る白い灰は、次の土壌《どじよう》に対して、はやくも文化の新しい萌芽《ほうが》をうながし、灰分的《かいぶんてき》な施肥《せひ》の役目をはたしている。
このとき、誰が思い至っていたろうか。
やがて、この丘の灰のうえに、大経綸《だいけいりん》を抱いた主《あるじ》が居館《きよかん》を構えようとは。
しかもそれが、安土を数倍も大きくしたような構想をもった、かの大坂城の出現であろうとは。
いやいや、もっと、誰にも予想できなかったであろうことは、その大坂城に君臨するものが、いま中国の一隅にあるところの、筑前守秀吉なりとは――たとえそのとき、偉大な予言者があって明らかに予言しても、万人が万人とも、誰もほんとにはしなかったであろう。
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折《せつ》 檻《かん》
涼みがてら――。あたかも、そんなふうにすら見える。
信長は、川舟で、宇治橋を見、そのまま大坂へ下って来た。
本願寺開城の直後である。八月の十二日だ。残暑の陽は、川波を射、舷《ふなべり》をつよく刎《は》ね返している。
「於蘭《おらん》」
「はい」
「何を考えておる」
「……べつに何事も」
蘭丸は笑った。
紫の幕《とばり》が、信長と蘭丸だけのいる一囲《ひとかこ》いを、めぐっていた。近習の多くはみな艫《とも》の方に陽の直射を浴びている。川舟なので屋形《やかた》は小さかった。
そのかわり、この一舟を中心として、数百艘の川舟が、笹の葉を撒《ま》いたように清流をくだってゆく。
「涼しさに居眠ったか」
信長も苦笑する。
風を孕《はら》んでは、紫の幕が裾《すそ》をはため[#「はため」に傍点]かせる。蘭丸の顔に、その色や、波の影が、頻りに映る、頻りに揺れうごく。
「料紙《りようし》、硯筥《すずりばこ》があるか」
「備えてございます」
「これへ」
と、信長も、さきほどから、実は何か考えこんでいたらしいのである。――で、蘭丸が、妨《さまた》げぬように沈黙をつづけていたので、自分の思案顔に、ひとの顔まで、思案顔に見えたのかも知れない。
蘭丸は、硯《すずり》の面へ、水滴からわずかをこぼして、静かに墨を下ろした。気みじかな信長は、料紙と筆とを手にして、もう待っている。近頃になく、その眉に、険《けわ》しいものが潜《ひそ》んでいる。
「これに置きました」
「うむ、む……」
と、のみである。
――蘭丸はあとへさがった。衣摺《きぬず》れも憚《はばか》るようにである。信長は、何やら苦念しては書き、書いては眉を恐《こわ》くしている。まったく、きついお顔である。敏感な蘭丸は、
――これはただ事でない。
と、ひそかに寒い思いがした。
人には、ゆめ、語れることではないが、蘭丸自身にも今、心痛にたえないものがあるのだった。――それと信長の眉のむずかしさと見くらべて、
「――何か、この身に」
と、そぞろ惧《おそ》れられたのである。
幼少から多年、信長に近侍しているので、信長の感情をその眉や唇《くち》に見ることは、誰よりも敏《さと》い蘭丸であっただけに、
(きょうのお書き物は、凡事《ただごと》ならじ……)
と予察されたのであった。
彼の直感は、過《あやま》っていなかった。けれど幸いにも、それが自分に対するものかと惧《おそ》れた心配は外《はず》れていた。
その日、信長が船中で書いていたのは、折奉書三枚にもわたる長文の折檻状《せつかんじよう》であったのだ。――或る一臣下の怠慢に対して、日ごろの憤りを発し、峻烈《しゆんれつ》な辞句をつらねて、その罪状を責めつけたものであった。
「いま大坂はお手に入り、積年の禍根《かこん》はのぞかれ、こうして宇治の清流を、爽やかにそれへ向って御入城あろうという――かかる日に、どうしてそんなおむずかり[#「おむずかり」に傍点]を起されておいでやら?」
と、蘭丸はひとり呟《つぶや》いていた。けれど、こういう機微な心理になると、いくら信長の胸の中に住んでいるような蘭丸でも、
――わからぬお方。
と、つくづく思うしかなかった。
方八町四方という石山御堂の城構えは、三日三晩の火にかかっても、まだ一部の建物はのこっていた。
信長は、そこに入城すると、すぐ認《したた》めておいた折檻状を、中野又兵衛、楠木《くすのき》長安、宮内卿法印《くないきようほういん》の三人にあずけ、
「佐久間|信盛《のぶもり》父子へ、これを渡せ」
と、使者の役をいいつけた。
信長が大坂へ入って、その占領地を検分の後、第一に発したものは、怠慢な臣下にたいするこの、
折檻状
なるものであった。
大鉄鎚《だいてつつい》は、佐久間右衛門信盛|父子《ふし》へ下った。
いや、それを頭上に受けない者までが、例によって、峻烈《しゆんれつ》極まる信長のそれが始まったかと、他人事《ひとごと》ならず身をちぢめて、
「いったい、どんな罪状で?」
と、成行きを見まもっていた。
使者の手は、冷然と、信長自筆の問責状《もんせきじよう》を、佐久間父子に手渡したと伝えられた。
信盛父子は、ここ五年ばかり、石山本願寺に対する寄手の大将として、大坂の抑え城に在番していたのである。――つまり石山御堂の落城は、本来、彼の手によってなされなければならない任にあったのだ。
とかくして、五年の間、この対大坂の寄手勢というものは、何もなすことなく暮れていたのである。
いわゆる無為《むい》空日を過していたのだ。信長が、いかにこの間を、焦々《じりじり》思っていたことかは、今、その譴責状《けんせきじよう》となってから、初めてみな、
「ごもっとも」
と、思い当った。
相手は、十一年余も、信長自身ですら手を焼いて来た門徒の本拠である。これが佐久間勢の一手で陥《お》ちなかったからといって、ただそのことのみでは、そう責めもしまい。
信長が怒ったのは、次のような箇条によるものであった。
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一。−在任五年のあいだ、ほとんど、戦争らしい戦争を開始していない。これは世間がみないっていることだ。
二。−力攻が至難なら、策略外交もあるべきである。しかるに、五ヵ年間、まだ、一度も、安土へ献策を携《たずさ》えて来たためしもない。
三。−兵力不足を常に喞《かこ》ちおる由であるが、信長としては、三河、近江《おうみ》、和泉《いずみ》、紀州、そのほか根来衆《ねごろしゆう》など、七ヵ国の在郷に、人力、兵糧、何事にもあれ、大坂寄手の勢へ与力《よりき》すべしと申しつけてある。大将として信盛父子もそれは篤《とく》と承知のはずであるに関《かか》わらず、少しもそれらの人的資力も物資も活用しようとはしない。これ、無能、無策、未練、戦意に欠けているためでなくて何であろうぞ。
四。−この間、軍費を冗費《じようひ》しながら、与力、被官の輩《ともがら》には恤《あわれ》まず、ひたすら自家の費《つい》えを惜しみ、衆心みな軍を離れ、士紀また振わず、世上に織田軍たるの面目を汚し、この戦国の中に、ひとり悠々閑日を偸《ぬす》んで、今日に至る。実に前代未聞の怠け者とは汝らのことである。何のかんばせ[#「かんばせ」に傍点]あって今、信長にまみゆるや。
[#ここで字下げ終わり]
――大要、以上のような罪状をかぞえあげたものであるが、辞句痛烈、こんな生やさしい程度ではないのである。
このほかの条《くだり》にも、自身、面罵《めんば》するような激語がずいぶん見える。
たとえば、
「汝は、信長の代になってからでも、三十年奉公して来たが、そのあいだ、佐久間右衛門が比類なき働きをしたと、世間から称《たた》えられたような例《ためし》が、一ぺんでもあったか」
と、いうような言葉や、
「丹波国にある惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》の働きをみろ、天下に面目をほどこしているではないか。次には山陽数ヵ国を平定している筑前守秀吉《ちくぜんのかみひでよし》にも辱《は》じたがよい。小身でも池田勝三郎は、花隈《はなくま》城を攻め陥《おと》している。またそちと同様の宿老ながら、柴田修理亮勝家《しばたしゆりのすけかついえ》は、すすんで北国攻めに当り、難治の地に苦労しているのを何と思う」
と、痛罵を加え、その上、
「汝のような者が、信長の統業下にあることは、世間のうたがい、物笑い、日本にとどまらず、明国《みんこく》、高麗《こうらい》、天竺《てんじく》、南蛮《なんばん》までの恥さらしである」
とまで極言しているのである。
これを受けた佐久間父子が、いかに慄《ふる》え戦《おのの》いたかはいうまでもない。
信長の使者から、口上で、
「即日、遠国へお立ち退《の》きあるべし」
と、云いわたされた佐久間信盛父子は、いわゆる取るものも取り敢《あ》えずといったような狼狽ぶりで、
「お詫びは、いずれ後から」
と、匆々《そうそう》、高野山《こうやさん》へ逃げのびた。
ところが、信長の令は、なおそこまで追求して、
「高野に在住は罷《まか》りならぬ」
と、達した。
信盛父子は、生ける心地もなく、そこからさらにまた、紀州熊野《きしゆうくまの》の奥へ落ちて行ったという。
[#ここから2字下げ]
――譜代の下人《げにん》召使《めしつかひ》にも見離され、足にまかせての逐電《ちくてん》也。われと我が草履を取るばかりにて、徒歩《かち》はだし[#「はだし」に傍点]のすがた、昨日はゆめか、見る目も哀れの有様とぞ。
[#ここで字下げ終わり]
当時の筆記に見ても、時人は何の同情も持たなかった。むしろ信長の厳罰を当然として、この一事件を、冷笑視していたらしい。
森蘭丸も、そのひとりだった。
彼は、賢いので、こういう噂に対しても、自分から先に口を出して、死屍《しし》に鞭打《むちう》つようなことばは決して吐かなかったが、近習の同輩が、あれこれと、佐久間父子のうわさをして嗤《わら》うと、
「あまりに、寵遇《ちようぐう》に狎《な》れすぎてお在《い》でたからじゃ。五年余の間、天王寺に在陣中も、茶之湯ばかりに凝《こ》られて、陣務はいっこう怠っておられたという。信長公にも、お茶はお好きの一つであり、茶はよく遊ばされるが、佐久間父子とはお心入れがちがう。……何事にせよ、手がける者の心入れ一つで、邪道ともなれば、修養ともなる。ともあれ、五ヵ年の長い間、それを黙って視《み》ておられた公も公なれば、甘えていた佐久間も佐久間。われらも、顧みて、日常に誡《いまし》めねばなりますまい」
こんな程度に、当らず障らずの批判はしていた。
けれど、実をいえば、蘭丸は心のうちで、
「あの御折檻状が、佐久間父子へ下るものでよかった。……ああ心配な」
と、人知れず、ほっとしたり、なお安んじきれないものを、胸の奥に残して、頻りと心を労《つか》っていたのである。
それは、彼自身の問題ではなかったが、自分以上なものの身に関《かか》わることだった。
――と、いうのは、蘭丸の老母――森三左衛門|可成《よしなり》の後家の妙光尼《みようこうに》と、本願寺方の謀将鈴木|重行《しげゆき》とは、かねがね信長にはごく内密で文通など交《か》わしていた。
十一ヵ年、信長に抗戦した本願寺陣営には、実に、鈴木重行という稀代《きたい》な謀将がひそんでいたのである。重行は、蘭丸の母の妙光尼が、後家となって後は、ひたむきに仏門を慕い、信仰のこととなれば、何ものもない女性であると知ってから、法話や仏縁を頼って、その人にいつか昵懇《じつこん》をむすんでいた。
そして、蘭丸の母から、安土の動静を、それとなく、たえず探り取っては、本願寺方の作戦に利して来たのである。
その鈴木重行も、いまは本願寺一類の人々とともに、十一年の寓営《ぐうえい》をあとに、何処かへとおく落ちのびてしまった。――従って、複雑な時局や、世情にうとい蘭丸の母自身は、自分の行為が、今日までどんな妨《さまた》げを主家にしていたかなども、今もって気がつかず、ただ茫然としているのであろうが、
「もし、知れたら?」
と、このところ蘭丸の心痛というものは、一通りではなかったのである。
疾《と》くから、母に諫《いさ》めたこともあるが、母は、絶対にそんなことはないという。早くから、良人とわかれた母にとって、たった一つの信仰であったし、子として、無下《むげ》な意見立ても云いかねるまま、ただ、
「……困ったもの」
と、蘭丸は、今日まで、そのことについては、細心な警戒を、母の周囲に払いとおして来たのである。
佐久間父子の処分が片づいた後も、蘭丸はまだ安心しきれなかった。
蘭丸ばかりでなく、信長の衆臣はみな、過去の行為や、身を顧みて、
「他人事《ひとごと》ではない」
と、無言のうちに、動揺していた。
大坂に停《とど》まることわずか五日、その月十七日には、信長はもう去って京都へ移っていたが、二条城に入るや否、彼はまたまた、宿老の林佐渡守|通勝《みちかつ》や、安藤伊賀守父子へ対して、
――遠国へ追放申しつけらる。
という折檻状を発したのだった。
「何事も、やり出せば、徹底的にやるお方。きっと、まだあるぞ」
とは、みなひそかに、囁《ささや》き合っていたことだったが、譜代中の譜代、林佐渡がその槍玉にあげられようとは、たれも思いもしていなかったし、当人さえも、寝耳に水であったとみえ、譴責《けんせき》の使者が行っても、
「お戯《たわむ》れではないか」
と、初めのうちは、真《ま》に受けなかった程だったという。
それもその筈。――今日、信長が彼を処罰した理由は、いまから二十五年前、信長がまだ清洲《きよす》にあって暗愚で乱暴な若殿と――四隣からうとんぜられていた頃の旧《ふる》い問題なのである。
その頃、林佐渡が、彼にあいそをつかし、信長の弟の信行《のぶゆき》を奉じて、織田家のあとに立てようと謀《たく》んだことがある。
「いまだに、あんな昔のことを、深くお心のそこに据えておられたのか」
と、聞く者はみな呆れもし、慄《ふる》え上がりもした。――二十五年という長い過去を洗いだてすれば、どんな者にも、多少の過失や怠慢は各自に必ず思い出された。
また、同時に追放された安藤伊賀守父子の罪案も、十四年前の旧いことだった。
信長が、伊勢へ出馬したとき、その留守に、甲州軍を引き入れようと計ったらしい形跡があったのである。――が、これは未然に敏《さと》くも信長の知るところとなって、当時、安藤伊賀の一味は、詫状《わびじよう》を入れて、一応、すんだ問題になっている。
「――それを、十四年後の今日となって?」
と、人々は信長の余りに強い執念に今さら驚きと戦慄を抱かずにいられなかった。――どうしても宥《ゆる》せぬものならその時罰しられたらよいにと思った。いまようやく、天下の大半がその有に帰し、敵性の牙城《がじよう》大坂までが掌《て》に入ったこの時に会して、何も、ふた昔も前の臣下の罪や過失を罰しなくてもよいであろうに――と、恐怖をとおり越して、臣はいささかその苛烈《かれつ》な追求に対して、うらめしい感じさえ抱いた。
わけて、蘭丸の心痛は、ひと通りではない。朝夕、信長の側にいて、信長の眉を見ているだけに、気が気ではない。
「……もし、母と鈴木|重行《しげゆき》とのことが、ちょっとでも、お耳にはいったら」
と、逸早《いちはや》く、母のいる安土へ向けて、弟の坊丸《ぼうまる》を使いにやり、また兄の森伝兵衛にも言伝《ことづ》けて、過去数年のあいだ、鈴木|飛騨守《ひだのかみ》重行と往復した手紙などは、一切、密《ひそ》かに焼き捨ててしまうように注意しておいた。
その坊丸が帰って来た。人目のないところで、蘭丸は、坊丸へたずねた。
「手落ちなくいたして来たか。また母の禅尼《ぜんに》へも、過去のこと、これから先のことも、ようくお心得あるように、お諭《さと》しいたして来たか」
「はい。母の禅尼も、今度という今度こそは、よくお解り下すったようです。――けれど、兄上の伝兵衛様には、なかなかまだこれで心配がなくなったとはいえぬと仰っしゃって、嘆息しておいでになりました」
「まだ何か、後日の患《うれい》があるといわれておいでたか」
「そうです。いくら手紙などを焼き捨てても、かんじんな鈴木飛騨守重行という者がこの世に生存している限り、なんにもならないと仰っしゃっていました」
「……ううむ、その重行は、本願寺一類と共に落ちのびて、今はどこにいるやら?」
蘭丸も、眉を曇らした。
[#改ページ]
名将《めいしよう》と名将《めいしよう》
大坂も。また本願寺一門も。――と、その総敗退が聞えて、この際、もっとも衝撃をうけたものは、当然、中国の毛利であった。
すでに、その地盤の一角、播磨《はりま》から但馬《たじま》、伯耆《ほうき》にわたるまで、秀吉の進攻に、刻々、削り取られているところへ――この飛報である――さらに濃い敗色を加えたことは蔽《おお》いようもなかった。
近畿《きんき》にも、丹波、丹後にも、恃《たの》む味方は次々と倒れてしまい、いまは織田氏の圧力を、全面的、直接に受けもし防ぎもしなければならない立場を余儀なくされて来た。
毛利家には、元就《もとなり》の遺言であったという、一つの方針があった。鉄則があった。
それは、
(分《ぶん》を守り、中国を固《かた》め、父祖が百戦によって得た領土を失うな)
ということだった。
しかし、時の潮《うしお》は、決して、元就の遺言のみを、敢《あ》えて避けてはいなかった。
滔々《とうとう》として、その保守主義の防塁へも、革新を迫って来た。
吉川元春《きつかわもとはる》も小早川隆景《こばやかわたかかげ》も、智勇兼備とよんで恥かしくない大将である。ただこの国に生れ、この家門に育ち、その遺訓を奉じて、
「中国の尺土《せきど》たりとも、敵に委《まか》すな」
と、戦い、また戦い、あらゆる善戦を施して来はしたものの、要するに、その起ち向っている立場は、時潮の逆であった。――抗し得ぬ時代の怒濤《どとう》にたいして、ひたぶるにその保守的家訓の旗を、血にまみらしているものであった。
さもあらばあれ、毛利も誉れある武門の家だ、両川《りようせん》も非凡といえる将器である。ここまでの戦績を見ても、遠くは越後の謙信、甲斐《かい》の武田までを、外交的機略に用い、また、その名分《めいぶん》を大きくするためには、前室町《さきのむろまち》将軍の義昭《よしあき》を自己の国土に引き取って養い、中央には、本願寺の法門勢力の広大な組織とその財その実力を余すなきまでに利用し、水軍に陸上に、あらゆる反間《はんかん》の策、正面攻撃など――驚くばかりな大規模と遠謀《えんぼう》の下に、よく戦いぬいて来たことは、天下の認めているところだった。
もし、毛利方に、吉川元春なく、小早川隆景もいなかったとしたら、毛利輝元の名は疾《と》くに屠《ほうむ》られ、中国全土はこれより数年も前に、信長の治下に収められていたにちがいない。
いま、そのあらゆる外郭《がいかく》陣営を破られても、なおかつ、
――中国に毛利あり
の厳然たる勢威を失わずにいるのは、実に、智勇双璧の両川が、その指揮にあればこそといっても過言ではない。
――が、必然の結果として、年ごとにその陣容が、退嬰策《たいえいさく》になってゆくのは是非もなかった。
隆景は、もっぱら山陽方面の防禦《ぼうぎよ》にあたり、吉川元春は、山陰道のふせぎに当っている。
これに対して、秀吉は、
「まず、鳥取の城を」
と、奪取にかかった。
そう意志して、行動にかかり出すまでには、かなり長い時間があった。そのあいだが、秀吉の戦いなのである。
いざと、攻めにかかるときは、彼としてはもう仕上げを成すようなものだった。
数ヵ月前から、彼の命をうけた黒田官兵衛は、若狭《わかさ》方面へ潜行して、その船舶を買い占め、鳥取地方に散在している食糧という食糧は、あらゆる手段をつくして他へ運漕《うんそう》させてしまった。
また、吉川元春が、そこの味方へ、粮米《ろうまい》を積んでは、海上から輸送する途《みち》のあることを知って、沿海洋上に、船隊を配備して、それをも完全に封鎖してしまった。
「もう、よい頃です」
官兵衛から、時到れりと、鳥取城の弱まった情報を手にすると、秀吉は初めて、軍をうごかして、敵の城下に迫ったのである。
もちろん秀吉の軍がそこへ到るまでには、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》などに散在する敵の諸砦《しよさい》を、その前年から、次々と、攻め潰《つぶ》して行ったものである。
鳥取の城には、初め、山名豊国《やまなとよくに》がたて籠《こも》っていた。
秀吉は、その前に、鹿野城《しかのじよう》を陥《おと》したとき、多くの降人の中から山名豊国のむすめを見出して、陣中に留めておいた。
「豊国ごときは、札つきの豹変武士《ひようへんぶし》である。初め、元就《もとなり》の威に伏して、毛利に従い、後には、尼子、山中の勢力に脅《おびや》かされてそれに組し、近年また吉川、小早川に款《かん》を通《つう》じて、この一女を人質にさし出していたもの――かかる武士を動かすには、矢弾《やだま》を消費するまでもない」
と、秀吉は、その第一次攻戦の折には、ほとんど戦わずに、山名豊国の招降に成功していたのだった。
それは、豊国のむすめを、きれいに粧《よそお》わせて、城から見える麓の丘に立たせ、
「やよ、見給え」
と、城中へ呼びかけたのである。
豊国が、城から見ると、美しく化粧したわがむすめが立たされている。そしてその側には、新木の磔《はりつけ》ばしらが聳《そび》えていた。
「むすめも不愍《ふびん》、因幡《いなば》の所領も惜しと思わば、よくよく御分別あるがよかろう。――御返答は明朝まで相待たん」
と、城外から云い送った。
案のじょう、山名豊国は、その晩、使者を出して、降伏を誓って来た。
けれど、彼の家臣のうちには、硬骨もある。
「余りといえば、薄志弱行な」
と、主人ながら、豊国にあいそをつかし、結束して、豊国を、他国へ放逐《ほうちく》してしまった。
そして、急使を、毛利軍の吉川勢に報じ、
「急援をたのむ」
と、告げた。
吉川元春は、すぐその部下の勇将、牛尾元貞《うしおもとさだ》を向けたが、元貞が、矢痍《やきず》をうけて、病臥してしまったため、ふたたび、
「市川《いちかわ》雅楽允《うたのすけ》、参れ」
と、代りの将を派遣した。
けれどなお、誰か、毛利一族のものを上に戴くのでなければ、士気の程も心もとないという鳥取からの要請《ようせい》に、吉川|経家《つねいえ》が新手八百余人をひきつれて、城へ入った。
前からの城兵とあわせて、約二千人が一つになってたて籠《こも》ったわけである。けれど、それ以外にも、城下の家族や百姓などの非戦闘員も悉《ことごと》く、城郭内に避難したので、たちまち在庫米は食べつくしてしまった。
城の西を賀露川《かろがわ》は、北流して日本海へそそいでいる。そして糧米を積んだ船舶は、ここを遡《さかのぼ》って、城兵の糧《かて》を運んでいたのである。
だが、それは従来のことで、ここ二ヵ月余も、その軍需船《ぐんじゆせん》は、はた[#「はた」に傍点]と絶えてしまった。――若狭《わかさ》その他の地方にあって、糧米買止めの策と海上封鎖に活躍していた、秀吉|麾下《きか》の黒田官兵衛が働きは、ようやく顕著《けんちよ》になり、城兵の胃の腑《ふ》へ、直接こたえて来たのであった。
「もう城中の糧《かて》は、あと半月を支えるほどもない」
急は、度々、吉川元春の手許へ告げられた。元春は、ために、数百石の糧米を、自領から取り寄せて、これを一船隊で海上から廻送したが、時すでに遅し、そこは封鎖されていたし、陸上には、秀吉の大軍二万が着いて、もう到るところを取り囲んでいたのである。
秀吉は、鳥取城外の帝釈山《たいしやくざん》に陣し、水ももらさぬ包囲陣を布《し》いていた。
勇敢な城兵は、暗夜、たびたび袋川を泳いで、芸州の味方との連絡を計ろうとしたが、一兵たりとも、秀吉の布陣の網の目を潜《くぐ》ることはできなかった。
みな、捕虜となるか、その場で殺された。
かくて、山陰第一の要塞《ようさい》を誇っていた鳥取城も、自焚全滅《じふんぜんめつ》か、開城降伏のほかはなくなった。
まだ、もうひとつ、城兵にとって、致命的な事実があった。
八月の一夜である。
瀕死《ひんし》の城兵に、糧《かて》を入れるため、毛利方では、運送船五隻に、兵船十隻をもって護衛にあたらせ、海上から決死の覚悟で、賀露川《かろがわ》を溯《のぼ》って来たのであった。
「来たな」
と、河口の警備隊は、これを繋《つな》ぎ狼煙《のろし》で、沿岸の味方へ報らせた。
夜半《よなか》だったが、封鎖陣には、一尾の魚も通さないほどな手配りがととのっていた。
羽柴秀長、藤堂高虎《とうどうたかとら》、細川|藤孝《ふじたか》の援軍などが、一丸になって、河中の船団をつつみ、小舟から投げ柴《しば》投げ松明《たいまつ》などで、彼の主船を焼き沈め、乗員三百余人の毛利兵を殲滅《せんめつ》してしまった上、その主将|鹿野元忠《しかのもとただ》の首をあげて、城中へ、
「各※[#二の字点、unicode303b]が、鶴首してお待ちかねのものも、かくの通り」
と、送りつけた。
七月中でさえ、鳥取城のうちには、もはや一粒の糧《かて》もなく、兵のうちにも、避難民の中にも、餓死や病者がふえていたところである。――もうそれに怒って反抗する気力も乏《とぼ》しかった。
羽柴秀長は、藤堂高虎に諮《はか》って、もう敵方も参ったであろうと、能弁《のうべん》な一臣下を、使いとして、敵の一拠点《いちきよてん》、丸山の陣へ、
「はや、降伏せられよ」
と、説きにやったが、その使いは帰って来なかった。よくよく調べてみると、案に相違して、使者は馘《くびき》られてしまったということがわかった。
「小癪《こしやく》な」
と、秀長も高虎も、直ちに、一挙粉砕をもくろんで、行動にかかりかけたところ、忽ち、秀吉の本陣から、
「みだりに動くなかれ」
という厳命が来た。
炎熱八月の雲の峰の下に、帝釈山《たいしやくざん》の旗幟《はたのぼり》は、すずやかに、また、こともなげに、ひるがえっていた。
例によって、秀吉は、何かにつけ、いちいち安土の信長へ使いを派していた。
――かように計らいたいと存じますが如何でしょう。
――かくかくの事態に見えますゆえ、かく致しておきました。
時には、無用なと思われる事々まで、いちいち急使を立てていた。
信長の代理として、高山|長房《ながふさ》が陣中の視察に来た。それが月の中旬《なかば》頃。
九月――空しく過して――やがて十月となると、秀吉は初めて、堀尾茂助吉晴をよび、
「城中へ使いして来い」
と、命じた。そして、
「かような使いは、そちとしては初めての勤めであろう。心して参れよ」
と、いろいろな心がけを訓《おし》え、茂助もいつか、自分の側で、かような任務にも当る一かどの武者になったか――と感慨深そうに彼のすがたを見まもった。
回顧すれば、もう十数年前になる。信長が、斎藤|義龍《よしたつ》の岐阜《ぎふ》を攻めるに当って、金華山の峰つづきを、その裏山から攀《よ》じて奇襲したとき、山中で道案内をした一|樵夫《しようふ》――まだ十六、七歳の、山家《やまが》育ちの若者こそ、今日、寄手の一方に、一部隊をあずかり、人後に落ちない武者振りを見せている――この堀尾茂助であった。
ふと、今も、
「はやいものだのう」
秀吉は思わずにいられなかった。わが息子の育ったのを見るような眼でながめた。
「よくお旨を奉じて、行って参ります」
茂助は、この大役に、感謝した。懸命な容子《ようす》が顔いろに出ていた。
「待て、待て」
立ちかける茂助へ、秀吉は念を押すようにいった。
「この使い、できそうか。自分に問うてみて、――」
「はい。きっと」
「さきに藤堂家の臣は、即座に斬られておる。覚悟はあるか」
「もとより、事不調の節は、生きては帰らぬ所存《しよぞん》にござります」
すると秀吉は、急に不《ふ》きげん[#「きげん」に傍点]極まる顔をして、
「坐れ。もう一度そこへ坐れ」
と、叱った。
堀尾茂助は、坐り直した。なんで急に秀吉の叱りをうけるのか、彼には分らなかった。
「使者のつとめは、使者の役を完全にしとげるこそ、本分というもの、それ以外の覚悟など要らざることだ。死に赴くことなら余人でもする。敵を説く使者はそんな生やさしい肚《はら》では難しい。死にもならず、生きて帰ることもなおできず、という境に性根《しようね》をすえて説かねばならぬ。吉川経家《きつかわつねいえ》も中国では誉れのある武将。しかも秀吉の大軍につつまれながらも、きょうまでの長日月を、かくの如く立派に守りとおしている者だ。それを説く。戦《いくさ》よりは難しいぞ」
秀吉のいうところを、茂助は、両手をつかえたまま、耳朶《じだ》の充血してくるほど、熱心に聞いていた。
「御意《ぎよい》。よくわかりました。めったに生命《いのち》は捨てぬよう、ただ懸命をこめて、行って参ります。お使いを果して来まする」
「よし、行け」
茂助は、いちど自分の陣所へ退《さが》った。それから身支度をすずやかに改めて、ただ一人で敵の城中へ赴いた。
寄手の使者が来たというので、吉川経家は、
「ともあれ、会おう」
と、城中の一間へ彼を引いた。
かかる使いに、茂助はまだ不馴れである。また、特に弁舌の士でもない。
そしてなお、すでに、この城は持ちきれないことも、目に見えている敵ではあったが、秀吉から云いふくめられて来た通り、茂助は、礼を篤《あつ》うして、飽くまで敵の善戦を敬《うやま》い、慇懃《いんぎん》、理《わけ》をつくして云った。
「主人筑前守には、この鳥取城のお守りを、よくこれまでお支《ささ》えなされたと、口を極めて、われら部下の者にも、嘆賞しておられます。けれど、もはや糧道も絶え、御名分も立ったというもので、これ以上、おすがりあっても、餓死のほか途《みち》はございますまい。あなた方武士たちは、斬って出て、死《し》に様《ざま》もお心のまま選ぶことができましょうが、傷者、病人、また三千余の領民を共に餓死《うえじに》させるは、無情の至りです。私義《しぎ》にこだわ[#「こだわ」に傍点]って大義なきものです。ところで主人筑前守がお心では、わずか二人の者の生命だにお差出しあれば、全城の生命は甦《よみが》える。あなたの御名誉をも十分に考慮しようと、頻《しき》りに安土ともお打ち合せにござりますが」
「はははは」
経家は、黙って聞き入っている途中から、ふいに笑い出した。しかし嘲笑ではない。この使者の飾り気のなさを、その眼は、むしろ愛している。
「あいや、お使者」
と、彼もていねいに呼んだ。
「誰が、いつ、降伏致すと申しやったかな。筑前のひとり呑込《のみこ》みであろ。筑前が望みは、城中の難民やわが士卒の生命《いのち》ではあるまい。鳥取の城であろう。そうはやすく参らん。これには、経家が住んでおる」
「いや、おことばですが、この一城、攻めおとさんとするならば、これはもう陥ちます、誰の眼にも」
「陥《おと》せ」
経家が、軽く、突き放すようにいうと、茂助はあわてて、
「お互い、武門の弓矢は、そう故なく用いるべきではありますまい」
「そう秀吉がいうたか」
茂助は、顔あからめて、ちょっと次のことばを見失ったが、飽くまで、その誠実をこめて、
「はい。主君のことばでもありました。また、それがしの信じるところでもあります。そもそも、憎むべきものは、先に、ここの城主山名豊国を、家来の分際《ぶんざい》として追放した山名の臣、中村|春次《はるつぐ》と森下|道与《どうよ》の二名です。この二人の首を打って、城中数千の生命《いのち》をお救いあるようにと、主人筑前からのおすすめにござります」
「要《い》らざることをいう。中村、森下の両名は、寄手にとっては憎むべき者か知らぬが、わが毛利軍にとっては、またなき忠臣、その首を渡すなどということはできぬ。――できぬ相談というものじゃ」
経家は言外に、開城の意のあることを仄《ほの》めかしていた。
この事ある前から、吉川経家としては、夙《つと》に或る決心を抱いていたのである。到底、持ち支えようはない鳥取城の守将として彼の信念した肚《はら》のものは、
おのれを殺して、衆を救おう!
それであった。
ところへ、秀吉の使いとして来た堀尾茂助のことばによれば、
(あなたのお首は求めない)
という。
(前の山名豊国を追放した二臣の首さえお渡しあれば、あなたは本国|安芸《あき》へお引き揚げあるがよい。構えて、秀吉は、貴下の首を安土へ献じて、自分の功を誇らんなどとは思うていない)
と、懇《ねんご》ろに伝えてよこしたのであった。
これは、経家の抱いている意志とは、反対な申し越しである。
しかし、秀吉がその優越な立場に驕《おご》らず、たとえ政略にせよ、敵将に示そうとするその寛度と好意は充分知ることができる。
また、その使者も、智者弁者をえらばず、特に、堀尾茂助一箇をさも気軽そうに向けて来たのも、尠なからず、敗者の心情を酌《く》んで、こちらの意気地を駆り立てないように、意を用いていることが分る。
「…………」
使者の堀尾茂助が、至って口少ない男なので、経家も、無言にまかせて、あれこれと、胸のうちで思案していた。
――秀吉のような、世事にも人間の心理にも理解のある者への徒らな意地立てや強がりは、効《かい》なきことと思われた。経家は、いま使者をうけたこの機《しお》を逸《いつ》すべきではないと、独り問い独り答えたあげく、やがて茂助へ向って云った。
「開城のこと、同意いたすであろう。立ち帰って、筑前どのへ、そう伝えてくれい」
「えッ……。では」
茂助は、茫然とするほど、歓びにつつまれていた。こんなにやさしく彼が城地の明け渡しを承知しようとは、まったく予期していなかったからである。
「――だが、あわせて、この儀も慥《しか》と、筑前どのへ御念を押しておかれたい。山名の二臣は、飽くまで馘《くびき》ることはならん。この城の守将は吉川経家なり。守将の責任は一切を負うもの。経家一人の切腹をもって、城中の将兵を始め、難民どももことごとく御保護の下におひき取りねがいたい。――さもなくばこの城を、無血|開《あ》け渡しは成りかねると」
「仰せ、立ち帰って、主君におつたえ申しあげます」
「筑前どのの麾下《きか》浅野|長吉《ながよし》どのとは、前々より面識もある。使者の見えたのを幸いに一書、託したいが、届けてくれるか」
「おやすいこと、お届けしましょう」
「しばし、休息していてくれ」
経家は奥にかくれて、手紙を認《したた》めて来た。それをあずかると、茂助は間もなく城を出た。
すぐ秀吉に復命した。
秀吉は浅野長吉を呼んで、書面をわたし、内容をたずねた。
「――やはり、自分の一死をもって、すべてを赦《ゆる》されるならば――という旨しか認《したた》めてございません」
長吉は、自分|宛《あて》のその書面を、秀吉に見せた。
秀吉は、真から惜しむもののように、
「長吉、もう一度、そちと茂助と二人して行って来い。そしてよく経家を諭《さと》し、山名の二臣の首を出して、自身には、芸州へ帰るようにすすめたがよい」
といった。
浅野長吉はさっそく茂助吉晴と共に、ふたたび城中へ赴いた。けれど、経家の心をひるがえすことはできなかった。
「惜しいが、ぜひもない」
秀吉は、遂に、経家の要求を容《い》れた。
望みがかなって、十月二十五日の昼、吉川経家は、城外の真教寺《しんきようじ》へ移って、切腹した。
――まだ若い身を、実にしずかに、すずやかに、腹を切って、城中数千の生命にかわって逝《い》った。
同じ日。
吉川経家の近臣――奈佐日本助《なさにつぽんのすけ》、佐々木三郎左衛門、塩谷高清《えんやたかきよ》の三人も、主君のあとを追って、腹を切った。
「いたましい哉《かな》」
秀吉は篤《あつ》く弔《とむら》った。
首は函送《かんそう》して、これを、安土の信長に供え、遺物《かたみ》の種々《くさぐさ》は、安芸の吉川元春の許へ送り届けてやった。
「第一に、米を施せ」
秀吉が、鳥取城を占領すると、まっ先に手をつけたのが、城中の飢民と、城外の窮民の救済だった。
即日、三百石の米が、それらの人々を潤《うるお》した。
次には、交通の復旧である。袋川の橋も、その日から架設にかからせた。
「これからは鳥取も、羽柴筑前守様の治下になる」
と聞えると、驚かれるばかり、この城下の様相は一変して、山陰地方の離民を吸収した。
戦のため、一時、ここを避難して帰って来た土着人ばかりでなく、
「わしは丹後から移って来た」
「おれは丹波だが」
と、語り合っている町人百姓もある。
物売りも寄る、職人も集まる、遊芸人も流れて来る。僧侶、医師、何くれとなく一つの社会を構成するに必要な百業の人々が、求めずして、集合して来る。それらの者の口うら[#「うら」に傍点]をひいて見ると云い合わせたように、
「――筑前守様の御領下にいれば、何となく安心で、それに、同じ暮すにしても、陽気で、張合いが持てて、何となく励みがつく。――丹波、丹後、そのほか畿内《きない》も、住むにはもう安心だが、陽陰《ひかげ》と陽なた[#「なた」に傍点]ほどな違いがある」
と、いうのである。
批判も学問もない民衆の声とはいえ、どうやらこの相違は、近年に至って、かなり明瞭に、民衆のうちに印象づけられて来た。――国々各地方の戦いの実相というものは、口から口をつたわるのか、案外、民間などには知れていそうもないことまで、実につぶさに、また、かなり正確なところまで、よく知れているのだった。
惟任《これとう》光秀どのは、こう戦ってこう勝った。そしてこういう法令で治めているが、内実は、どうだとか、こうだとか――までをいう。
また、信長が出向いて、直接、指揮に当ったり、占領治下の後始末したところなどは、余りに、その峻厳《しゆんげん》に、民衆はただ恐れ竦《すく》んでいる風があった。
たとえば、信長公の御出馬と聞くと、その地方の民衆は、
「もう戦《いくさ》も長くない」
と、その威力によって、どんな頑強な城も敵も瞬《またた》くまに屈服するであろうことを信じるかわりに、
「あのお方が御征伐に向って来られては、草も木も枯れはててしまう」
平和の近づく歓びよりも、これから酷寒の冬に向うような恐怖に近い顫《おのの》きのほうを先に抱いてしまうのだった。
それはともかく、鳥取陥落の報に、毛利方のうけた衝撃はいうまでもない。
吉川元春は、自身、安芸《あき》を発し、同じ頃、秀吉は、占領地を宮部善性坊《みやべぜんしようぼう》、木下|重堅《しげかた》の二将にあずけて、姫路へ退陣して行った。
急を救わんと駈けつけて来て間に合わなかった吉川軍と、功をとげて帰る秀吉軍とは、途中、伯耆《ほうき》の馬之山《うまのやま》に、相互、必殺を期して対陣した。
だが、大軍と大軍は、相《あい》対峙《たいじ》したままで、一ヵ月余も、兵を交えずに、そのまま、別れてしまったのである。
去るに臨んで、秀吉はいったという。
「戦わないのもまた、戦法のひとつだ。元春の器量はよく分った」と。
吉川元春もまた、安芸へ引っ返しながら、独り喞《かこ》っていたということである。
「中国の将来はいよいよ多難だろう。彼の如き者が現われる時代では――。今や世は凡事《ただごと》の戦乱ではない」
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父《ちち》信長《のぶなが》
いそがしい。だが、秀吉はほとんどそのいそがしさに、
「たまらぬ」
と、愚痴をこぼしたことがない。
鳥取を始末し、馬之山《うまのやま》に対陣し、姫路城へ帰るとすぐ、
「船舶はどうだ。充分に、用意はあるか」
と、舟手の者へ質問である。
四国へ渡海する考えを持っていた。なぜならば、これより前に、黒田官兵衛の手勢は、鳥取城の陥落も見ずに、寄手の陣から後退して、急に、淡路へ渡り、四国に散在している雑然たる敵性の烏合《うごう》に、しらみ[#「しらみ」に傍点]つぶしの剿滅《そうめつ》を加えていたからである。
四国に勢力を持って、頑然《がんぜん》、信長に対抗している敵は、由来、長曾我部元親《ちようそかべもとちか》であったが、信長は、その敵に対して、三好《みよし》の一族を遠くから援護して当らせ、ともかく今日までは、その伸展《しんてん》を制して来た。
ところが、その三好の力ぐらいでは、もう長曾我部勢力の防火壁として立つには、覚《おぼ》つか[#「つか」に傍点]なくなった。急は、秀吉に通報され、秀吉は、鳥取攻城中の兵力を割《さ》いて、黒田官兵衛に仙石権兵衛を添え、
「四国の急へ」
と、赴かせたのである。
しかし、彼にとっては、飽くまで、中国攻略が経営の根幹《こんかん》であり、四国は、傍系《ぼうけい》にすぎない。
「長曾我部元親なるものも、風の中に抛《ほう》っておけば、炬火《きよか》になる質がある」
とは思いながらも、今は、それへ灰をかぶせて、埋《うず》め火《び》の程度にしておけばいい。
淡路《あわじ》を占領して、大坂と中国との海上を安穏ならしめ、その須本城《すのもとじよう》に仙石権兵衛を入れて、四国の抑えを命じると、また直ちに、官兵衛を連れて、姫路へ帰って来た。
それが、十一月の半ばごろ。
そして帰るや否――といっていい。
こんどは、備中《びつちゆう》の児島へ向い、出陣の指令を出す。
そこの麦飯山城《むぎめしやまじよう》に、植木出雲守《うえきいずものかみ》が鮮明なる敵色をひるがえしているのだ。児島奪取の計は、その前からも、官兵衛が、
「今のうちに」
と、しばしば献言中だったが、その都度、秀吉は、
「まあ、まあ」
と軽く聞き流し、
「あれには考えもあるから」
といっていたものである。
この際、その考えとは、どんなことかがわかるわけだった。――と、出陣の間際《まぎわ》になって、さては、と官兵衛には頷《うなず》けた。
かねて、秀吉は、長浜の自分の家庭へ、主君信長の四男|於次丸《おつぎまる》を、養子として乞いうけ、妻の寧子《ねね》と、留守中さびしげな老母とに、それをあずけて中国へ来ていた。
その於次丸も、いつか、元服の年ごろとなった。それかあらぬか、秀吉は、この春以来、
「武将の子だ。陣中の困苦にも馴れねばならん」
と、長浜へ迎えを出し、わざわざこの戦場の地へ、わが子を呼びよせておいた。
ときには、前線に連れて行って、風雨にも打たせ、飢餓《きが》も味わわせ、怖い中を歩かせたりしていた。
「あんなにも厳《きび》しくなさらないでも」
と、士卒たちが、傷《いた》ましがるようなことも、秀吉は、知らぬ顔していた。
こんど、麦飯山《むぎめしやま》の出征には、兵力一万五千が発向《はつこう》を命じられている。秀吉はもちろんそれに対して、老巧な臣と、勇敢なる若手の将を、部隊部隊に配しはしたが、総大将としては、
「於次《おつぎ》にそれを命じる」
と、発表したのである。
そして、初めて軍の上に立って、戦いへ臨むわが子を招いて、
「よく、習《まな》んで来いよ」
と、云いきかせた。
勝って来いとも、死ぬ気で行けともいわなかった。時に、於次丸はまだ十四歳だった。
やがて十二月の中旬《なかば》ごろ、於次丸の軍は、功を遂げて凱旋した。
養父《ちち》でもあり、中国|総督《そうとく》でもある彼だが、秀吉は凱旋《がいせん》将軍をむかえるの礼をもって、わが子を待った。
そして、座に請《しよう》じ、肩を撫でて、
「よういたして来た。どうだ戦《いくさ》というものは、おもしろいものだろうが。敵に勝つとは、こうするものかということが、わかったであろう」
と、いった。
彼はまた、この歓びを、ひとりで陶酔《とうすい》している気はない。もうひとり自分以上に歓んでもらいたい人がある。いや、自分の満足感はさて措《お》いて、その人のために、この歓びごとを、構成したのではないかとさえ思われぬこともない。
「於次が初陣の勲功《いさおし》をお聞きあられたなら、右大臣家におかれてもいかばかりか、お歓びあろうぞ。さっそく、安土《あづち》へ使いを立ててお報《し》らせ申そう」
浅野弥兵衛をして、その使者にえらび、即日、手書《しゆしよ》を持たせて、安土へやった。もちろん右府信長へ宛ててである。
書簡の内容をくだいていえば、秀吉の口吻《こうふん》のまま、こんな意味がしたためてあった。
はやいものです。於次も十四歳になりました。老母も愚妻の寧子《ねね》も、日ごろは、眼のなかへも入れたいほど可愛がって、長浜の奥から外へも出しませんが、かくては行く末大器となる質を可惜《あたら》盲愛のため親が弱めてしまうようなものですから、このたび中国の役を幸い、陣中へ招いて、つぶさに戦陣の悲雨|惨風《さんぷう》を味わわせ、約一年を過させました。
そのため、めっきり気丈者になり、骨柄《こつがら》も失礼ながら、あなた様に髣髴《ほうふつ》たるものが見え参りました。そこでこのたび備中《びつちゆう》麦飯山の植木出雲守の征伐をいいつけ、一万五千の大将となし、晴の初陣《ういじん》に立たせましたところ、攻略わずか一ヵ月足らずにて凱旋し、戦の統率《とうそつ》ぶりも養父《おや》の慾目《よくめ》ばかりでなく大出来でした。どうか共々《ともども》およろこび下さい。
ついては、歳《とし》も押しつまりましたし、久々で御健勝の体をも仰ぎ申したく、近く歳暮《せいぼ》の儀をかねて、出府《しゆつぷ》いたすつもりです。そのせつなお詳《くわ》しくお物語りしますが、さしずめ、於次も早、男一人前の働きもいたしたことですから、この機会に元服させて、羽柴少将|秀勝《ひでかつ》と名のらせたくぞんじます。秀吉の名は殿より頂戴のもの、その秀の一字はまた親譲りのもの、御意《ぎよい》如何でございましょうか。
大体、こんなふうに率直な親心を述べた書簡であった。
信長の歓びかたは一通《ひととお》りでなかった。そのてがみには眼を細くして何度も繰り返し繰り返し読んだものである。
――わが血をわけた子、四男の於次丸、それは臣下の家とはいえ、やはり他家の嗣子《しし》に遣《や》ってあるということは、親ごころの当然として、たえずどこかで、どう育っているやらと、案じられていたものにちがいない。
「信長も、心から満足いたしおると、よろしく伝えてくれよ。そして、筑前自身、歳暮に出府の由、心待ちにいたしおるとも申しそえて」
使者の浅野弥兵衛は、厚くねぎらわれて、姫路へ帰った。
この前後である。信長にとっては、もう一つ同じことが重なっていた。
それは、年久しく、甲州に質子《ちし》として養われていた末子の五男|御坊丸《ごぼうまる》が、甲州の使者に伴われて、安土へ送《おく》り還《かえ》されて来たことである。
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用心濠《ようじんぼり》
信長の第五子、御坊丸《ごぼうまる》というのは、ずっと以前、美濃《みの》の岩村城の城主遠山|景任《かげとう》へ、養子にやった子であった。
元亀三年の頃、その城主は、没落した。――城もろとも、御坊丸の身は、敵方なる甲斐の武田家に引き取られ、以来、信長の血すじなので、武田勝頼は、よい人質《ひとじち》と、手許《てもと》に養っていたものである。
それを――その御坊丸の身を、わざわざ甲州から送還して来たのであるから――信長のよろこびは、秀吉から於次丸の元服を報じて来た以上でもあるはずなのに、
「そうか」
と、いったのみであり、御坊丸の成人を見ても、
「大きくなったの」
という一言を与えただけで、あとは家臣と一しょになって、甲州の使者を歓待する宴席へ臨み、自身、酒をすすめてばかりいる。
「なぜか、御坊丸様のお帰りには、さして御喜色もうかがわれぬが」
家臣たちの方が、却って、こんどのことを、慶賀し合ったり、またその欣びの見えぬ信長を、物足らなく、感じたほどだった。
程なく、甲州の使者たちは、満足して還った。信長はそのあとで直ぐ、
「時なるかな時なるかな。ついに待っていた日は近づいた」
と、侍側の腹心に洩らした。
そして、なおいうには、
「甲州の勢いも、はや落日の褪色《たいしよく》をあらわして来たではないか。――われから求めもせぬ質子《ちし》を、送りかえして来たことは、われに寄せる甲州の媚態《びたい》でなくて何であろうぞ。この一事によって見るも、甲軍の内容に昔日《せきじつ》の意気は衰えて来つつあること慥《たし》かである」
果然。
彼は、わが子の無事成長を見たことよりも、その一瞬に、甲軍の衰兆《すいちよう》を直感して、父として欣《よろこ》ぶこと以上のよろこびを、べつなところに、もっと大きく、ひとり歓喜していたのであった。
使者の歓待に、みずから出て、何かと、胸をひらいて語り合っていたような振舞いも、使者のことばなどから、自己の直感を卜《ぼく》してその確信をつかむためであったことを――後になって、
「ははあ……。そういう御遠謀であったか」
と、侍側の腹心たちは、ようやく覚《さと》り得たのであった。
日ごろ、信長が手もとに蒐《あつ》めている甲州の近状やら、こんどの使者の言などを綜合して、もう一つ、信長をして、甲州の亡兆を確信させたものは、武田勝頼が、この夏の七月以来、父祖代々の住居である躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の居館《きよかん》のほかに、「御新府」と称する新城を、甲州|韮崎《にらさき》の辺《ほと》りに築いて、もうそこへ引き移っているという事実であった。
信長は、そのことを指摘して、
「――信玄はやはり信玄であった。彼は、その存生中に、天下へこう云っていた。われ一代のうちは、甲州四郡の内に、決して、城郭は構えず、濠一重《ほりひとえ》の館《やかた》にて結構、事は足るなりと。……いま、勝頼の代になって、そこを引き移り、新城に拠《よ》ったのは、すでに父信玄の自信を失ったからであろう」
ともいった。
書庫のうちから、一面の城絵図《しろえず》を取り出させて、彼は、侍側の腹心たちへ、
「それを展《ひろ》げてみよ」
と、命じた。
味方の諜者《ちようじや》が、苦心して写しとって来た甲府の躑躅《つつじ》ケ崎の絵図面である。これを世上一般では甲館《こうかん》と称したり、お館《やかた》とよんだり、また躑躅ケ崎城ともいっているが、決して城造りではなく、平凡平坦な土地に、水濠《みずぼり》ひと重廻《えめぐ》らした大きな邸宅にすぎないのである。
東西百五十五間、南北百六間という広さではあるが、一丈ほどの築《つき》土堤《どて》と、四方の門と、用心|濠《ぼり》があるだけだった。
「どうじゃ……これを見ても、信玄は、甲斐《かい》一国を城としていた意気がわかろう。――しかしすでに、子の勝頼となっては、甲府、韮崎《にらさき》のみしか、彼の城でない」
信長は、すでに、甲斐一円を、わが掌《て》にしたように、城絵図をのぞきこんで云った。
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年《とし》 玉《だま》
多事多難であった今年――天正九年という歳《とし》も、余すところ僅かになった。
その年暮《くれ》に迫ってである。
中国の総督《そうとく》、羽柴筑前守秀吉、安土へ上府《じようふ》す――と公然に称《とな》えて、彼は、その任地|播州《ばんしゆう》姫路からものものしくも出向いて来た。
(いずれ年暮《くれ》には伺って、ごきげんを拝しまする)
とは、さきに養子の於次丸《おつぎまる》の元服を書中で報らせたときにいってある。もちろん信長も待ちかねていたことである。
その於次丸、元服して、羽柴秀勝となった養子も伴《ともな》って。
そして安土へ、着くと、
「秀吉。ただ今、御府下に到着いたしました」
という趣《おもむき》だけを、早速に、城中へ達しておいて、ひとまず宿所へ入った。
その由は、すぐ信長の耳へ上申《じようしん》される。信長は、
「来たか」
と、面《おもて》を明るくして、すぐ侍臣の堀久太郎と、菅屋《すがや》九右衛門を呼び、
「久々にて、戦地から秀吉の上府じゃ。多年の陣務《じんむ》、戦場の不自由、思いやらるる。――明朝の登城には、充分、なぐさめて遣《つか》わしとう思う。饗膳《きようぜん》のこと、そちたち奉行《ぶぎよう》いたせ。たくさん馳走してやれよ」
「承知仕りました」
「彼も、むかしの藤吉郎ではない、いまは数ヵ国を所領する諸侯である。その心得をもって致さねば、馳走も馳走にはなるまいぞ」
「はい。粗略《そりやく》なきよう今夕より諸事準いたしおきまする」
ふたりは退《さが》って、膳部や調度の係をあつめ、献立の協議や、用具の品々を命じてから、城外へ出て行った。
あらかじめ、明朝の秀吉の登城時刻やら、相伴《しようばん》の人員やらを問い合わせ、また、信長の懇篤《こんとく》な内意をも伝えておくためであった。
秀吉の一行が泊った桑実寺《くわのみでら》の宿所は、まだ混雑していた。
「堀、菅屋の両名ですが」
と、幕打ち廻したそこの玄関へ訪れると、中小姓の福島市松と加藤虎之助のふたりが、出迎えに出て、
「どうぞ、お通りください。殿には、ちょうど唯今、さっそくに旅の垢《あか》をと、お風呂所へお入りになっていますが」
と、いそいそ両使を請《しよう》じて、寺中の大書院へ案内した。
ふたりは、湯から上がって来る秀吉を、そこで待ちながら、茶菓を運んで来る小姓や挨拶に来る家臣などの出入りを眺めて、
「羽柴どのの家風というか、ここへ来ると、家中の誰もが、まことに気軽で、容態《ようたい》ぶらずに、世辞《せじ》ぶらず、至ってみな明るい感じがする。――一家中というものは、こうありたいものだが、さてなかなかこう参らんものでな」
などと噂していた。
そこへ、黒く拭《ふ》き磨いてある方丈《ほうじよう》の大廊下の方から、秀吉のすがたが見えた。後ろについて来る家臣たちも、置去りにするほど、彼の足の運びは、無造作で早かった。
「――やあ、御両所」
座に着かないうちからである。
ふたりの後ろからこういって、それから着席し、
「しばらく。御機嫌よう――」
は、手をつかえて、礼儀となってからの、ほんの形式だけの挨拶だった。
堀久太郎と、菅屋の二人は、ここでふと、信長のことばを思い出していた。――むかしの藤吉郎には非《あら》ざるぞ――と念を押されていることだった。
で、ここへ来ての挨拶にも、充分に心のなかで、その注意を構えていたのであるが、先方の秀吉自身が、いっこうむかしの藤吉郎と変りのない会釈なので、このつぎ[#「つぎ」に傍点]穂が継《つ》がないように、二人とも、何かあわてて、
「やあ、これは」
といってみたり、また、
「その後は、おつつがもなく、大慶至極で――」
などと改まって、席を辷《すべ》るなり、慇懃《いんぎん》の礼を執ってみたりしていた。
「さあさあ。お寛《くつろ》ぎあって」
と、秀吉は早速にも、戦場のはなしである。
また、少し見ない間にも、安土の町とその文化が、長足《ちようそく》な進歩を遂げているには驚いた――などと座談に興じ入ろうとする。
「いや、実はその」
と、菅屋と堀のふたりは、辛くも、ことばをさしはさんで、
「今日は、右府《うふ》様の御内意をもたらして、お使いに参ったのでござれば」
いうと、秀吉は、
「や、や。わが君のお使いとして渡られしか。――粗略、粗略」
と、あわてて席をすこし下がって坐り直し、
「まだ、お届けのみに止めて、自身御挨拶にも罷《まか》り出ぬ間に、君より先へお使いを賜わって、怠慢、申しわけもござりませぬ――。して、御内意とは」
「いや、恐縮なさるには及びません。右府様にも、お待ちかねのこと、かたがた、其許《そこもと》との御対顔を、非常なおたのしみとしておらるるらしく、明朝、筑前が登城のみぎりには、こう饗応せい、こうもてなせ[#「もてなせ」に傍点]と、御自身、おさしず遊ばすような次第です。――で、明日の御予定などもあらかじめ伺っておきたいと存じて」
「それはそれは、身に余ることです。いつもながらの君恩」
秀吉は、平伏して、明朝の登城時刻を答え、また、二通の目録をさし出して、
「拝顔の儀をすました上は、またすぐ中国の任地へ赴かねば相なりませぬゆえ、一度の上府をもって、歳暮《せいぼ》の御祝儀と、年賀の年玉を兼ね、いささかばかり新占領地の国産の品々を携《たずさ》えて参りました。これは筑前がほんの手《て》土産《みやげ》代りと申しあげて、よろしく、御前へ御披露のほどを」
と、頼んだ。
一通は、右大臣家へ。
もう一通の目録は、御簾中《ごれんちゆう》、ほか奥向女房衆へのものであった。
「お取次ぎ申す」
と、押しいただいて、堀久太郎がふところに納め、
「では、おつかれのところでもあるし、われらも、明朝のお支度に忙しい。そろそろ、お暇《いとま》をしようではないか」
連れの菅屋九右衛門をうながして匆々《そうそう》に辞しかけると、
「あいや、しばしお待ちあれ」
と、秀吉も一緒に立って、そのまま奥へ立ち去った。
ぜひなく、両使とも、そこに佇《たたず》んでいたが、だいぶ手間どれるので、何故待たせるのかと疑いながら、広縁へ出て、折ふし冬ざれ[#「ざれ」に傍点]の寺の庭面《にわも》に、霜除《しもよ》けをかぶって、仄《ほの》かな紅《くれない》を見せている寒牡丹《かんぼたん》など眺めていた。
――と、特徴のある、さっ、さっ、と聞える跫音がして来て、秀吉から二人をこう急《せ》きたてた。
「さあ、参ろう。お待たせ致した」
おや? と思って振向くと、秀吉はすっかり衣服を着かえている。しかも礼服であるのみならず、何を問う間もなく、もう玄関のほうへ向って先に歩き出しているのだ。
使者の馬も、彼の馬も、もうそこに廻されてある。小姓たちが、わらわらと、先を争って供につく。
「――何処《いずこ》へ?」
と、訊く必要もなさそうだ。礼服を着かえて出て来たからにはお城へ行くつもりであろう。しかし羽柴筑前守の登城は明朝ということになっているから、城門でもまごつくだろうし、何よりは、信長も予期していないことだ。どういうものだろう、その辺は?
堀、菅屋のふたりは、すこし案じ顔して従《つ》いて行った。秀吉は、顧みて、
「両所、御案内をたのむ。――君公の方から先にお使いを賜わりながら、明朝までとは申せ、御挨拶にも及ばず、城下におるのは、まことに恐れ多い。――今日は、お目通りはさし控え、ただお広間まで参って、陰ながらお礼だけを申し述べて参りとう存ずる。いざ、お先へ、お先へ」
と、道をひらいた。
そこはかとなく、仄《ほの》かな燭《しよく》は燈《とも》されはじめている。女房衆の声かと思う。遠く近く|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》としたさざめき[#「さざめき」に傍点]が洩れて来る。安土の奥の殿深くは、宵ごとにちかづく初春《はる》を待つ支度などに忙しいのであろう。
狩野《かのう》山楽《さんらく》の絵、また某《なにがし》の彫刻など、ここは当代の巨匠の精華《せいか》をあつめた芸術の殿堂でもある。むかし――といっても遠くもないわずか二十年足らずの清洲の小城から較べれば、ここの主《あるじ》の右大臣信長も、時には感慨なきを得ないにちがいない。
奥殿と中殿とのあいだを渡してある唐橋《からはし》の欄《らん》に立って望むと、無数の舞扇を重ねたような天守閣の五層の廂《ひさし》と、楼門の殿閣《でんかく》の大廂《おおびさし》とは、見事な曲線を宙《ちゆう》に交錯《こうさく》させている。そして山上から麓にいたるまでも、豪壮な建築物の壁や屋根の森のあいだに点綴《てんてつ》され、それから平面に展《ひら》けている安土城下の全市街は、濃藍《のうらん》な暮色のなかに星を撒《ま》いたような灯の海をなしていた。
信長は、いま、食膳に向いかけていたが、
「なに、筑前が見えたと」
意外そうにいうとすぐ、一室から一室へと、歩を移して、
「袴《はかま》。袴」
と、小姓の者へそれを急《せ》いた。そして毎夕、食膳のときには、給仕に侍《はべ》る女房衆のあきれ顔を振向いて、
「――夜食は、あとに致す。膳部は退《さ》げてよい」
と、いった。
あわてて小姓たちのさし出す袴をとって穿《は》きかえるべく、その紐《ひも》を結びながら、
「久太郎、九右衛門。……筑前はどこに通っておるか」
と、信長はまた、一隅へ目を向ける。
堀久太郎と菅屋九右衛門は、こう信長を狼狽させたことをひどく恐縮しながら、
「お広間に通ってただひとり控えております。今日は、陰ながら遠く御礼のみを申し上げて、宿所に戻り、予定どおり、明朝登城して、お目通りを仰ぐつもり、お耳へ達しるには及ばぬ――と仰っしゃっておられますが」
答えると、信長は、
「筑前らしいわ。気も軽々と見えたもの哉《かな》、せっかくのこと、会わずに帰す法やあろう。こよいは、忍びの対面ぞ。会おうぞ! そっと一目」
軽々しくも来たるもの哉――と、手をたたいて信長はすぐ袴を穿《は》きかえたという。信長は気さく[#「さく」に傍点]が好きだ。気軽な中に認められる誠意を砂中の金のごとく愛する。
――などと思って、へた[#「へた」に傍点]に狎《な》れたりして近づけば、かならず激怒に触れるのだ。
事大主義は嫌いかと思えば、出入りの威儀、君臣の礼儀などには、徹頭徹尾、やかましや[#「やかましや」に傍点]のほうである。
かりそめにも、それを軽んじたりなどしたら、いかなる譜代《ふだい》でも諸侯でも、たちどころに痛罰を喰う。――で、侍側《じそく》も諸将も、またあらゆる文化面の人たちも、信長にまみえるときは、精進潔斎《しようじんけつさい》の心地で接しる。挙止一語半句、みだりにも笑わず、かりそめに戯れない。
だから時々、信長としては、甚だじれったい[#「じれったい」に傍点]ものを覚えるにちがいない。人間の味とか、本心の光とかいうものの乏しい嘘の中に住んでいる自分に、まず[#「まず」に傍点]嫌気がさして来るらしい。いきなり客をまえに、大あくび[#「あくび」に傍点]と共に、伸びなどして、
(ああ、明けても暮れても、木像と話しているというものは、退屈だのう。とはいえ、木像自身も、身をもて余すじゃろう。衣冠束帯《いかんそくたい》、脱ごうにも脱げんし――)
こんなことをいったりする。
何か気にくわないと、ひとのことをよく木像木像という。安土《あづち》の殿楼《でんろう》に人は多いが、その中にも彼はたえず追求しているのだった。――真実な生活味と、人間の感じがする人間とを。
今宵しも、彼の求めている気もちに、いつも、ぴったりする男がひょこ[#「ひょこ」に傍点]とおとずれて来たのである。
しかも、明朝登城という約束を、信長のことばでいえば、気も軽々と、儀容や形式にこだわらず、不意に今夜のうち来てしまったという――まことに埒外《らちがい》な男である。
「やあ、久しや、筑前か」
袴《はかま》の紐《ひも》もまだ結びきれぬまに、彼はもう大股に広間へ来ていた。そしてそこにただひとり坐っていた秀吉のすがたを見るや否やの声であった。
「さても、さても、懐《なつ》かしいぞ。会うは明日《あした》とのみ思うていたに、よう来た、よう来た。――この広間では広すぎて寒い。こなたへ来い。此方《こなた》へこそ」
と、さしまねく。
これは驚くべき例外である。右大臣家みずから先に立って、しかも自分の居間へと案内するのであった。
秀吉たるものも、この主君の歓待《かんたい》に、どうして易々《いい》と甘んじていられよう。
「……あ、いや。わが君」
なにか、あわてていおうとはした。けれど、信長がさっさ[#「さっさ」に傍点]と行ってしまうので、身を屈《かが》めたまま、膝をもって駈けるように追いすがり、
「勿体ないお扱い、お座所にお在《わ》して、近臣へおいいつけ給われば」
「まあ、よい。入れ」
すでに、常住の一間の前である。信長の気もこよいは実に軽々《かろがろ》と見うけられた。――それ、筑前に褥《しとね》をとらせよ、寒いから手炉《てろ》を与えよ、茶よりも、酒がよかろう、まだ夕食は前かすんだか――などという細々《こまごま》しいことまで、左右に命じ、彼にたずね、さながら親身の弟でも迎えてくれるようだった。
「……はい。……はい。はい」
とばかりの他は、秀吉は平伏したまま答えも出なかった。何をいおうとしても、ただ感泣が先だってしまう。有難なみだというものか、甘やかな感情の底から、時々、嗚咽《おえつ》になりそうな熱いものが痞《こ》みあげて来てならなかった。
それを見ると、信長もまた、眼の縁《ふち》に充血をあらわした。泣き虫な男と泣き虫な男とが寄ったように、しばしはお互いに面《おもて》をそむけ、小姓や近臣の怪しむ眼を憚《はばか》っていた。
やがて、信長はいった。
「極暑の頃からこの極寒にいたるまで、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》の僻地《へきち》において長々の苦労。病みもしつらん、老いもしつらん、などと案じていたが、思いのほか、却って、若やぎ[#「やぎ」に傍点]て見ゆる。筑前、ひと頃よりは若《わこ》うなったのう」
若くなったぞと、自分のみ賞《ほ》められていては、相すまないと思ったのか、秀吉は、
「いや、わが君にも、年ごとにお若くなるやに仰がれます」
と、これへ来る前に剃《そ》ったばかりの髯痕《ひげあと》を撫《ぶ》して、初めて、笑った。
膳部、銚子が来る。杯は、和《なご》やかな主従のあいだを、幾たびも往復する。こういう打ち溶けた待遇《たいぐう》は、一族の者でも、めったに恵まれないものであった。
「於次が、初陣《ういじん》したそうな。いつのまに、具足を着る年になったかとおもうほどじゃ。早いものだの」
「ひと目、御覧に入れたく存じました。――明朝は連れ参ります。長浜の寧子《ねね》や老母にも、見せたいと思いますが」
「見せたがよかろう。これまで来たついでじゃ。そちも一夜は長浜へ泊れ」
「いえいえ、そうしてはおられませぬ。なお、播州《ばんしゆう》の任地には、二年も三年も、妻子の顔を見ぬ部下は、たくさんおりますれば、秀吉ひとりが、老母の膝にあまえ、妻の顔を見てかえったとあっては」
「きびしい遠慮じゃの。……そうそう、久しく甲州に取られていた五男御坊丸が、武田家から送りかえして来たことを、そちは聞いていたか」
「……おうわさに」
「どう思う?」
「めでたいことと存じました」
「御坊丸の無事をか」
「それもそれ……また一つには、織田家の御武運にとっても」
「むむ」
と、多くをいわず、また聞かず、胸と胸にうなずき合って、
「さっそく、明春には、山路の雪の解けるとともに、甲州へ討ち入ろうとおもう……が、どうだな」
「然るべしと存じます。熟《う》れた木《こ》の実《み》を揺すぶるようなものでしょう」
「いや、そうもなるまい」
「徳川殿を語らい、十分、三河衆にも働かせたがよろしゅうございましょう」
「家康からも、しきりと、甲州入りの儀を、これまでにすすめては来てあったが、大坂表の本願寺一類の始末がつかぬうちはと、ひとえに大事をとっていたことが、今日となってみれば、却ってよかったように思わるる」
「わが君が甲州へお入りの頃には、秀吉の兵馬も、備中へ乗り入れ、芸州の毛利が中軍へ、なだれ入っているやも知れません」
「甲州と、中国と、その攻略はいずれが早かろうか」
「むろん甲州がお早く片づきましょう」
「筑前」
「はい」
「弱音をふいたの。信長に負けじと、そちが強がるかと思うたが」
「毛利と武田とでは、本来、その強味がちがいます。甲山|峡水《きようすい》は嶮《けん》なりといえ、嶮の破るるときは、一挙にして潰《つい》えの早いものです。武田譜代の士馬精鋭《しばせいえい》、なお数万騎ありましょうと、すでに信玄という支柱を欠き、内に和なく、各※[#二の字点、unicode303b]、誇って譲るなく、しかもその人、その地の利には、文化に遠く、武器も戦法も、はや時代遅れといってよいでしょう」
「中国におりながら、そちは却って、甲州方面の機微《きび》に詳しいようではないか」
「おのれを知り、敵を測《はか》るためには、どこの国とも睨みあわせておらねばならぬ必要からです。――武田に比せば中国の毛利というものは、なかなか跡形《あとかた》もなく亡ぼし去ることはできません」
「そんなに根づよいか」
「海運の利便、海外からの文化、殊には物資にもめぐまれ、人は鋭感でまた智的です。加うるに、その豊かを内にもちながら、故毛利|元就《もとなり》が遺訓はまだ一族に生きていますから、ただ武力|一途《いちず》でそれを絶滅せんなどは思いもよりません。――戦いつつ、攻めつけつつ、お味方もまた彼に劣らぬ文化と政略を布《し》いて、土着の領民をも悦服《えつぷく》せしめてゆかぬことには、ただ一城一城と戦い取っても、結局、さいごの勝利――真《まこと》の戦果は、掴《つか》むことができますまい。……どうか、秀吉の戦い遅々として捗《はかど》らずとも、ここ数年は、大洋を旅するごとく、風と波とに、おまかせおき下さるようひとえに御寛容を仰ぎまする」
かくも親しい主従というものがあるだろうか。夫婦の仲というもおろか、刎頸《ふんけい》の友《とも》といってもこれ程ではあるまい。
信長も秀吉も、更《ふ》けるを忘れている容子《ようす》だった。このぶんでは、夜もすがら語っても語り尽きまい。――部屋を隔てて控えている近習たちの顔いろに案じている色も出るほどだった。
「明朝のこともあれば、そっと、筑前どのへ、御注意申しあげてみてはどうか」
やはりその中へ来て控えていた菅屋九右衛門が、堀久太郎に小声で諮《はか》った。久太郎もそれには同意だ。黙ってうなずくと、すぐ起って、縁へ廻り、二間ほど越えて、おそるおそるそこの一室へゆるしをうけて入った。
そして、秀吉のうしろへ寄り、それとなく時刻を注意すると、秀吉も初めて気がついたように燭をながめて、
「ほう。もうそんな深更《しんこう》か、いや、何も覚えず、つい、意外な長座を」
座をさがりかけると、信長はまだ飽かない顔して、
「久太郎、何じゃ」
と、いう。
「いや明朝もお早い御登城、余り夜も更けましたことゆえ」
「ムム、そうか。筑前も旅装を解いたのみであったな。さだめし疲れていたろうに」
「なんの、余りの欣《よろこ》ばしさに、私こそ、御寝《ぎよしん》の時刻もわきまえず……」
と、堀久太郎の好意を謝して辞しかけながら、その堀久太郎へ、そっと訊ねた。
「今夕《こんせき》、宿所においておあずけ致した目録は、御覧に供えて下されたか」
「いや、それすらまだ、わが君のお目にかける遑《いとま》もありません。何せい、これへあなた様を御案内して来るとすぐ引き続いてのお物語りで――」
「そうそう、これは筑前が落度でござった。では、お後にでも」
云いのこして、彼は、やがてそこを退出した。
その後で、堀久太郎と菅屋九右衛門の両名から、さきに秀吉から取次を託されていた献上品の目録を、信長の前へさし出した。
御前へ。
という一通のほかに、
御奥《おんおく》女房衆へ。――とある二通のそれを披《ひら》いて、その品々の名目を読み入っていた信長は、
「ほう」
と、幾たびか、眼をみはっていた。
物驚きをしない信長も、何かそれにはよほど驚いたらしい。例外な献上事に相違ない証拠には、寝所に入る前、ふたりへ念を押して、
「筑前が心をこめての献上品、篤《とく》と見てやらねば、彼の誠意にたいして悪《あ》しかろう。明朝、彼がそれを山へ運びまいる頃には、相違なく信長へ知らせい。――信長、天守の上から一見いたすであろう」
と、いって眠りについたのをみてもわかる。
饗応奉行の堀、菅屋のふたりは、さて何事かと顔見あわせた。ただ事の献上物ではないらしい。それを天守閣から望見しようという信長のことばもあるので、
「塵一つもあっては」
と、にわかに、夜半ではあったが、足軽や小者をあつめて、山上門から山上門の道筋はいうまでもなく、玄関前の広庭、さては麓の濠《ほり》の唐橋あたりまで、すべて視界に入るところを、夜明けまでに隈《くま》なく掃かせ、さらに、琵琶湖の砂をいちめんに敷かせて、果てなきまで、きれいに箒目《ほうきめ》のあとを立てた。
「物々しいお迎え。そも、明日は誰方《どなた》様の御登城か」
と、まだ仔細を知らない人々は目を見はった。よほど貴顕《きけん》な堂上人《どうじようびと》でも見えられるのであろうと、誰もが想像していたふうであった。
ゆうべもいたく晩《おそ》かったのに、今朝もまた信長は夙《はや》くから起きていたふうであった。
彼の座右《ざゆう》には、目につく者がひとり召し呼ばれていた。堺《さかい》の千宗易《せんのそうえき》である。茶道衆のひとりとして、茶事があればかならず趣向《しゆこう》を問われ、また平素にも信長の相手によく見える者ではあったが、この頃としては、その姿をここに見せたのは珍しいといえるのである。
なぜならば、大坂本願寺落去の直後に、きびしい追放を喰った佐久間右衛門父子に対するお咎《とが》めのうちに、
――陣中、茶事《さじ》に耽《ふけ》り、風雅《ふうが》にうつつ抜かす事、言語道断。
なる一箇条があり、その詰問的な辞句からみると、信長は、かの仏教にたいして、苛烈《かれつ》な破壊をやったように、近年の茶事流行の弊風《へいふう》に対しても、また、極端な強圧をやり出すのではないかと、世の茶道者流はみな怖れおののいたのであった。
東山殿《ひがしやまどの》からの茶が武家一般に伝わって、それが公式な饗応のあとに、また、各※[#二の字点、unicode303b]の家庭のうちに、さらに、陣中の交友や心養にまで用いられだして来た傾向は、もう近年ともいえないほど、また流行ともいえないほど、日常のものになりきっていたが、これに伴う趣向《しゆこう》の数寄《すき》とか道具の贅《ぜい》とか、淫《いん》すればおのずからどんな道にも余弊《よへい》の生じるのは同じことで、この道にも近ごろはややそういう悪風がないでもないとは、茶外の人の非難ではなく、茶道に携《たずさ》わっているものの口から憂いられていたことでもある。
その憂いが、果たせる哉、佐久間追放の罪状のひとつとして、世上に喧伝《けんでん》されたので、
(ふたたびお叱りのあらぬうちに――)
とばかり、極く近頃、茶杓《ちやしやく》や袱紗《ふくさ》いじりをし始めた諸侯までが、折角の志を急に変じて、
(茶などは知らぬが無事)
とばかり、遠ざかってしまったのが、ここすくなからずあるらしい――という下火をあらわしていた。
だから自然に、茶事の往来も聞かれず、堺や京都を中心として、いわゆる「茶家《さか》」と呼ばれている者の門戸までが、ひっそりとしてこの道のさびれを思わせていた折に、千宗易《せんのそうえき》のすがたがここで見られたことは、久々の珍しさというよりは、それに心をもつものにひとつの明るさを感じさせていたにちがいない。
――今朝、その宗易は、疾《と》くから、安土の園内の茶室に入って、ひとりの茶弟子を手伝いに、しきりと室内の拭掃除《ふきそうじ》から露地の清掃まで自身の気のすむまで心を入れてしていたが、やがて炉《ろ》の灰も見、道具のかざりなども終ると、
「一応、御内覧をねがいまする」
と、信長の室へ来て、それの終ったことを告げた。
信長は、うなずいて、すぐ共に起《た》った。茶席は六畳であった。茶入れかざりには秘蔵の大海が出ている。――花入れは目につくが花はまだ挿《い》けてない。客を迎える寸前に挿《い》けるべく水屋甕《みずやがめ》のそばの小桶に根を浸《ひた》してある。
「よろしかろう」
一閲《いちえつ》して、信長は露地へ出た。ぴょいと、木陰《こかげ》へ退って、平ぐも[#「ぐも」に傍点]のように地に額《ぬか》ずいた者がある。
「誰だ?」
うしろから宗易が、
「弟子の者にございまする」
と答えると、何もいわず、通って、広庭へと歩みながら、
「宗易。まだ霜も解けぬ。けさはちと早すぎたかな」
と、顧みて笑った。
それから、築山《つきやま》の亭《ちん》に立ち寄って、近頃とみに茶事がさびれた噂などを宗易が持ち出すと、信長はまた哄笑して、
「そうか、そんなふうにみな受け取っておるか。どうした勘ちがいやら、信長はまだかつて茶事を禁じた覚えはない。――だが、佐久間ごとき無能がそれに溺れるはひとつの茶弊《さへい》、茶害ともいえよう。世をあげて戦い、或いは孜々《しし》と働いている中に、ひとり閑逸《かんいつ》を貪《むさぼ》るためにのみし澄ましている者あれば、それは茶避《さひ》、茶懶《さらい》の徒とも申すべきか、信長は感心せぬ。……が、秀吉のような忙しい男には、すすめてもやらせたい。けさの炉はその支度、釜の湯も、彼のごとき男にこそ汲まれたかろうに」
近習たちが迎えに来た。やがて筑前どのが御登城の時刻も近づいて候《そうろ》うとある。信長は宗易をのこして天守閣へ立ち去った。
陽はたかく、冬の朝はあたたかに煙っている。木々の梢《こずえ》の氷花《こおりばな》も露ときらめき、一望、安土の全市も、霜に濡れていた。
「ええ、ほウい」
「えーッ、ほウッ」
旺《さか》んな声が、麓の城門から聞えて来た。信長は眼をこらした。彼のそばには、簾中《れんちゆう》の女房衆もおり、子息たちもいた。もちろん近習小姓は居ならんで、みな朝陽のなかに眩《まば》ゆげな顔をそろえていた。
「やあ、あれか」
信長の嘆声だった。
今の信長をして、目をみはらせる程な物資は、けだし容易な物ではない。
その信長が、
「――見ずやあれを」
と、指さしながら、傍らの人々を顧みながらいうのである。
「何と、夥《おびただ》しい進物の台の数ではないか。あれがみな筑前の手みやげなりと彼は云いおる。中国入りのしるし[#「しるし」に傍点]までに、携えて来た進物《しんもつ》とは、いやさすがに、大気者《たいきもの》大気者。あはははは」
実に愉快そうに信長は眺めて止《や》まず、笑って止まなかった。
けれど、彼以外の人々は、ただ眼をうばわれていた。また、胆《きも》を飛ばしていた。
およそ、安土城が創《はじ》まって以来の出来事にちがいない。山麓から目の下まで、かなり長い坂道の門から門のあいだは、後から後からと担《にな》い上げて来る、進物台《しんもつだい》の列でうずまったまま、いくら見ていても、列が終りそうもない程だった。そのあいだをまた羽柴筑前守が家中として、見栄《みば》えの劣らない者どもが、各※[#二の字点、unicode303b]盛装を凝《こ》らし、進物之奉行《しんもつのぶぎよう》として、或いは警固や足軽|頭《がしら》として、陸続《りくぞく》山へ登って来る。
「まだか。……まだ続くか」
信長もあきれ顔に、
「かほどな進上物とは、おそらく世上に例《ため》しもあるまい。信長でさえ、眼に見たは初めてじゃ。この安土城の門をすら、筑前めは、狭くいたしおる。無双《むそう》な大気者よ」
その目録は、ゆうべのうちに一見していたが、まさか、これ程とも思っていなかったものとみえる。信長は、あたり隈《くま》なく聞えるような声で、大気者という感嘆を、二度も三度もくりかえしていた。
進物台の総数は、二百幾十という数だった。多門、中門をこえ、大玄関の広場に先頭が順にそれを下ろして並べていても、まだ麓の門は、あとの台を入れていた。
庭上、広前にいたるまで、城内は満目それでいっぱいになった。被《おお》いの布を払って披露された品々は、その一端をあげても――お小袖《こそで》之料二百余反、播州《ばんしゆう》杉原紙二百|束《そく》、鞍置物《くらおきもの》十|疋《ぴき》、明石干《あかしほ》し鯛《だい》千籠、蛛蛸《くもだこ》三千連、御太刀幾振、野里鋳物《のざといもの》の種々《くさぐさ》などと――その数も品目の多いことも、まったく言語に絶している。つまり当時の人々の慣例や常識にないことであった。
「やあ、見えたか」
やがて、謁見《えつけん》の広間に、席をかえて、秀吉を待っていた信長は、ゆうべの信長とちがって、日常、諸侯に接しるとおりな信長であった。
秀吉も、いと慇懃《いんぎん》に、
「爾来《じらい》は、陣務のため、つい奉伺《ほうし》を怠りまして」
と、詫び、
「いつもながら御健勝のていを拝して」
と、式どおりな礼儀を述べたが、ただ今朝の登城には、養子の秀勝を連れて来たので、
「かくの如くに」
と、その元服すがたを、信長の眼に供えた。そして主君の満足そうにうなずく面《おもて》を仰いで、彼自身も同じ満足をこの朝に抱き合った。
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大気者《たいきもの》
饗応《きようおう》には、秀勝も同席したが、後の茶の湯には秀吉だけが招かれた。
お相伴《しようばん》には、丹羽《にわ》五郎左衛門と長谷川《はせがわ》丹波守。それに、医師の道三《どうさん》がお詰《つめ》という顔ぶれ。
亭主役の信長は、いつのまにか衣服もかえて、簡素な十徳《じつとく》を着ていた。陰の水屋には宗易《そうえき》の心くばりがはたらいている。
「筑前には、但馬《たじま》、因幡《いなば》などの陣中でも、折ふしには、茶をいたされておられるか」
信長の問いである。
炉のまえに在《あ》る彼のすがたは、そこに懸けられてある姥口《うばぐち》の霰釜《あられがま》とともに破綻《はたん》なくひた[#「ひた」に傍点]と坐っていた。話しぶりにも幾ぶん亭主という心もちが加わって、丁寧なうちになお親しみをも示している。それは臣下との語らいというよりは茶友を迎えているすがただった。
「いや、どうも、それがです……」
と、秀吉もここでは暢々《のびのび》とくつろいで、
「ふと、致してみたり、また、とんと忘れ果てたり。また茶というものと私とがいっこう一つになりません。たまたま、服《の》むにしても、相かわらず不精《ぶしよう》なことのみしておりまして、かように清々《すがすが》とお茶室のうちでいただくことなどは」
相客の五郎左衛門長秀がわらい出して、
「いやいや、筑前どのには、それが結構茶の精神《こころ》に適《かな》っているものでしょう。無法の法です。無規格の中の大規格です。ちょっと寸法にははまらないかのように見うけられるが、御辺《ごへん》には御辺の寸法というものをちゃんとお備えになっておられる。むしろお羨《うらや》ましいほどである」
「これはたいへんなお褒《ほ》めにあずかりましたな。茶の精神《こころ》とやらも、いっかどまだ弁《わきま》えんので、折角のお褒めも、どこをどう買っていただいたのやら分らぬが」
「その茫漠《ぼうばく》としているところですな。たとえば春霞《はるがすみ》のたなびいている天地のようなお寛《ひろ》さ。そのお懐《ふところ》のうちには海もたたえ山もそびえ野も広々とあるかのようで――また、ないかのようでもある――といったような茫漠さが」
「ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していてよろしいと仰せられますか」
「そう思う」
「すると、茶の心とは、ぼんやりしているほどよろしいもので?」
「いや、そうはいえません。これは筑前どのに限ったことで」
「むずかしい! いや、厄介なものですな」
「それを筑前どのには、いともやさしく、気軽に持っておられようが」
「何も分らんからで」
「うははは。これはどうも、いくら申しても、蒟蒻《こんにやく》問答のような」
客と客のはなしを、水屋の陰《かげ》で、宗易はじっと聞いていた。何か、興深そうに耳をすまして。
ひそかになった。信長自身が、点前《てまえ》しているものとみえる。茶《ちや》柄杓《びしやく》から茶碗におとす湯の音が、しずかに聞える。それは量にしては、小柄杓一ぱいのわずかな湯であったが、茶室の静寂《しじま》をやぶるただひとつの音であった。聞きようによっては、とうとう[#「とうとう」に傍点]と滝つぼへおとす千丈の飛瀑《ひばく》とも大きく聞える。
茶筅《ちやせん》の音。そして亭主からすすめる。客側がいただく。それらのかそけき[#「かそけき」に傍点]うちに交わされる主客の和敬《わけい》の礼と睦《むつ》みを、水屋の宗易はやはり前のままの姿で、板敷《いたじき》に凍りついた人の如く聞きすましていた。
一碗また一碗、お正客からおつめまで、一巡すると、やがて亭主の信長も、自服で一ぷくのみながら、客とともに四方山《よもやま》のはなしに交《ま》じる。ここでは床《とこ》の花を愛《め》であい、高麗茶碗《こうらいぢやわん》の古雅《こが》を語り、露地の風趣や、冬日のあたたかさなど――話題はまったく日頃の戦陣や人間の葛藤《かつとう》を離れて、おたがいにさながらの生命を養い楽しませようとした。――ひとたび事ある日には、その生命を最大価値にまで昂《たか》めて捨てもし働かしも得るように。
そのあとで、茶入れ、茶板《ちやいた》など拝見のことがあり、それがすむと、亭主の信長は水屋へ退《さが》る。
客は隣の広間へ移って、雑談にくつろいだ。
信長も、あらためて、それへ出て、客一同へ向い、手をつかえて、
「まことに、不行き届きでござった。何の興もあるまいが、ゆるゆるおはなしなと」
と詫び入っていう。
客は臣下、亭主は主君。ここでの形は、何か逆《さか》さま事に見えるが、たとえ主君でも亭主である以上、客に対して、慇懃《いんぎん》、いやしくも和敬《わけい》を崩さないことは茶礼である。――常に群臣を下に睥睨《へいげい》して、皇居へ伺候するとき以外は、頭《ず》を下げることを知らない信長にとっては、ここはよい修行室になるともいえよう。客に仕《つか》え、自分に慎み、低頭屈身《ていとうくつしん》、すこしの粗相《そそう》もないように、終始、おのれの心を人の満足と歓びのために提供しきるなどという行いは、とても信長の性《しよう》には合わぬことと思われもするのだが、それがこの茶室では極めて自然に行えるのだった。主君が奉公人となり、奉公人がかりに主座にすわってみる。これは小閑のあそびといえ、なかなかおたがいによい反省にもなった。
「御亭主には、いつのまにやら、お点前《てまえ》も行作《ぎようさ》も、お見事になられましたな。きょうは、篤《とく》と拝見して余りのお変りように、思わず見恍《みと》れました」
これはお正客の秀吉が、そこで話の口きりに述べたお世辞であった。すると次客の丹羽《にわ》五郎左衛門長秀が、
「それはそのはずです。失礼ながら、ここの御亭主には、何事にむかっても、不可能ということはないのです。自分には出来ぬということは仰せられた例しがない。――ですから茶道の御勉強にかかっても、桶狭間《おけはざま》や長篠《ながしの》の戦場へ奮迅《ふんじん》したあの心ぐみでやるのだと、いつかもおはなしがあったそうで、京の大黒庵《だいこくあん》も、驚き入っておりました」
亭主の信長は笑いながら黙ってそれを聞いている。客と客との興じ入るのにまかせた。
秀吉がたずねた。
「大黒庵とは、誰方《どなた》です」
「京都の六角堂の隣に住む武野|紹鴎《じようおう》のことです」
「あ。紹鴎ですか」
「ここの御亭主のお手ほどきは、初めに、その紹鴎がお導き申しあげたが、近ごろは、堺《さかい》の千宗易《せんのそうえき》が伺って、お磨《みが》きをかけておる。されば、御上達はあたりまえともいえましょう」
「宗易。あれなら御師範として、申し分はありますまい」
「織田の軍が、初めて、堺へお討入りのせつ、どこやらの家で、お茶をあがられ、その折、侍坐《じざ》しておられた筑前どのが、挨拶に見えた千宗易を一見されて――これは名器《めいき》だ――と仰っしゃったそうな」
「そんなことを云いましたな。はははは」
「後に、それを思い合わされてか、安土へ召しよばれ、近ごろでは、ここの御亭主がよく仰せられるおことばにも――筑前は大気、宗易は名器、一対《いつつい》の者と、一《ひと》しおお目にかけられておられます」
亭主の信長は、初めて口をさし挟んで、
「筑前には、その後、宗易とも久しゅう会わぬことであろうの」
「はい。両三度は、何かの折に相見ておりますが、中国へ参って以後は」
「幸いじゃ。あとでこれへ呼ぼう」
「ほ。参っておりましたか」
「水屋をいたしおる」
「それは、ぜひ……」
と、待ちもうけている折へ、縁をめぐって来る静かな跫音がした。
「宗易か」
「はい」
「入るがよい」
そこの障子が腰低くあいて、冬日の中に宗易のすがたが見えた。
宗易が加わってからそこの座談はなお賑わった。多くは他愛ない世事ばなしである。また、茶器名物のことなどだった。
その茶器のはなしから、宗易が唐物《からもの》茶入れについてかなり詳しい説を述べた。するとそれまで、いっこう分っているようないないような顔をしていた秀吉が、俄然《がぜん》、口をひらいて、それらの花器や茶入れの渡って来るところの明《みん》という国がらについて、その風俗、気候、山川《さんせん》、地域の広さなどを、見て来たように得々《とくとく》と語り出した。
「日本国内の御始末も、一応お成し遂げあそばした暁には、こなたの御亭主にも、いちどその明国《みんこく》へお渡りあって、長江千里《ちようこうせんり》という流れを溯《さかのぼ》り、南宗北画《なんそうほくが》などによくみるような程よきところに、茶室をお建てになってはいかがで」
信長は、客の談と尊敬して、いちいち頷《うなず》いて、
「ほ。……ほう左様か」
と、さも感じ入ったように聞いていたが、口辺のどこやらではやや笑っているようでもあった。
宗易もまた、にやにや聞いていたが、秀吉が弁じ終るのを待って、
「おはなしで思い出したが、わたくしの茶の徒弟に、折もあらば、筑前守様にお目通りをして、お礼を申しあげたいといっている者がある」
と、いった。
「はて、誰であろう。あなたの茶弟子のおひとりで」
「はい。お忘れはありますまい。御幼少のときには、尾張の中村でよく遊んだこともあるなどといっていました。成人の後には、長浜のお城へ拾われ、だいぶお目かけられていたそうで、当人は、再生《さいせい》の御恩人じゃと申しております」
「あ。思い出した」
と、秀吉は小膝を打って――
「では、於福《おふく》ではありませんか。もと清洲《きよす》の茶わん屋|捨次郎《すてじろう》の息子。後に、流浪していたのを、しばらく長浜へ拾って飼いおいたことがあるが」
「その福太郎です。お察しのとおり……」
「於福が、宗易どのの御門弟になっているとは、これは知らなかった。どういう御縁でしたか」
「堺の南之荘《みなみのしよう》の辻に、塗師宗祐《ぬしそうゆう》というものがおります。宗祐ではおわかりになるまいが、本名を杉本新左衛門といい、彼の塗る鞘《さや》をそろり[#「そろり」に傍点]鞘《ざや》などと申すところから、曾呂利《そろり》新左衛門というほうがよく世間に聞えておるようです」
「ああ、曾呂利ですか」
丹羽長秀がそばから頷《うなず》いた。医師の道三も知っている顔つきをあらわして微笑《ほほえ》む。
宗易は、ことばをついで、
「てまえが、於福を弟子にいたしたのはその曾呂利の家が機縁でした。棗《なつめ》などを塗らせるため、折々、訪《おとな》ううちに、いつも見馴れない男が、漆粕《うるしかす》を漉《こ》したり、木地の下拭《したぶ》きをしたりしています。仕事の手すじ[#「すじ」に傍点]はなかなかよい。気もねれているし、人なつこい男。目をかけておるうちに、わたくしに縋《すが》って茶を学びたいという。職人が学んでどうするというと、茶道具をつくるからには、茶の心がなくては、良い器《うつわ》はできぬからという。師匠の曾呂利もともに、この男には、何か知れぬが、おもしろいところがある。すこし置いて、庭掃除でも雑巾《ぞうきん》がけでもさせてみて下さいとしきりに頼む。……ま、そういった次第でかれこれ三年ほど側においてみましたが、至極、心得がよく、やがて一《ひと》かどの茶人にはなれようかと楽しんでいるわけです」
「そうですか。それを聞いて、何やらこの筑前までが、ほっと安心いたした。中村にいた頃からの幼《おさな》友達ですからな。いつも思い出すごとに、幸せを祈っていたものです」
「では、お庭先へなと、呼んでみましょうか。会ってやって下さるか」
「これへ来ておるので」
「供に連れて来て、何かと、掃除の手伝いなどさせておりました」
亭主の信長はさき程から、客のはなしの穂を折らぬようにと、控えめに口をつぐんでいたが、ふと、笑いだして秀吉へ、
「思い出した。その於福とやらのことで思い出した。筑前がさい前、得意になって話された大明《だいみん》の知識は、於福が幼少のとき、父の茶わん屋捨次郎から聞いたはなしの又聞《またぎ》きではないかの。……どうも、予がいつか於福から聞き取った話と余りにも変っておらぬが」
と、その時云い出した。
「やあ」
と秀吉は、仰山《ぎようさん》に、恐縮の手を頭へあてて、
「――では、いつの日か、御亭主には、その於福を召されて、親しく、明土《みんど》の国情をお聞きとりになっておられましたか」
「だいぶ前であるが、宗易の口から、こんど茶門の徒弟にゆるした男に、めずらしい素姓《すじよう》の者がおると聞いたのじゃ。――十数年の長いあいだ、陶器《すえもの》の技術を習《まな》ぼうため、明《みん》の景徳鎮《けいとくちん》に渡り、かの地にとどまるうち、異国の一女を妻として子まで生ました。そしてやがて日本へ帰国の日には、その子を連れ帰ってそのまま家に養い、この国の子らと何ひとつ変らぬように育て上げて来たという。……その茶わん屋捨次郎の子なるものが、いま宗易の許《もと》におる於福じゃそうな」
「これはどうも、秀吉よりは、もっとお詳しそうですな。……御亭主も、宗易どのも、お人が悪い。前もって、そうならそうとお断り置きくだされば、明国《みんこく》の話をするにも、多少、手加減がありましたものを」
「ははは。いや決して、客どのに恥をかかせんなどという気はなかったが、筑前にも、海外の事どもに、さる関心を持っておるやと、心から耳かたむけて、御身の明国に対する知識を窺《うかご》うていたまでじゃ」
「それではなおいけません。浅薄なところをすっかり御亭主に観破されたようなもので」
「何の何の、まだ日本には、堂上方《どうじようがた》はいうに及ばず、諸侯のうちでも、識者とみずから任じおる面々でも、明国と問うても、どんな国がら[#「がら」に傍点]か、また暹羅《シヤム》、呂宋《ルソン》、天竺《てんじく》などを訊ねても、どの辺か、どんな国か、皆目、弁《わきま》えぬものがまず十中八九といってよい。――然るに、筑前には、茶席において唐物《からもの》茶入れ一つ見るにも、異国の茶わん一つ手にして観るにも、いつも油断なくそれらの器物をとおして海外の事情と文物に触れようとする心がけが見える」
「おそれ入りました。実をいえば、幼少の頃、於福の父の茶わん屋に奉公中から、かの地に長くいた捨次郎と申すものから、そうした話を聞くのが娯《たの》しみのひとつでした。けれど以後は、さる事情に詳しい者に会う折もなく、至極お恥かしい程度の知識しかございませぬ」
「あすの夜、あらためて、また登城されるがよい。この安土へ蒐《あつ》めた舶載《はくさい》の品々、悉《ことごと》く展じて見せよう」
「ぜひ、おねがいいたします」
「また、御身も、信長がゆるした程の大気者《たいきもの》じゃが、もっと大気な輩《やから》が、幾人もおる。それらの者にも会わせよう。呂宋《ルソン》、暹羅《シヤム》、和蘭陀《オランダ》、天竺《てんじく》など、南蛮諸州のくわしいはなしも聞きおかれたがよい」
「遠い異国のことに、左様に詳《くわ》しい輩《やから》がおりますか」
「おる」
「ははあ。宣教師《バテレン》ですな」
「ちがう、ちがう」
と、信長は手を振って、
「きょうは茶事。その儀は、あすの夜の馳走にしよう。あすの夜、渡られい」
と、笑った。
間もなく、お正客の秀吉たちは、亭主の信長と宗易に見送られて、茶庭の柴折門《しおりもん》から退《さが》った。
松落葉のしっとり積んだ道に、針葉樹の梢《こずえ》から陽がこぼれている。いま茶席の柴折門を辞して、安土の庭を戻ってくる秀吉の影を慕って、
「もし、もし。……殿さま」
と息せいて追って来た者がある。
秀吉は歩みをとめて、その男を眼の前に待った。葛布《くずふ》の小者袴《こものばかま》に藍木綿《あいもめん》の肩衣《かたぎぬ》を着ていた。秀吉の足もとへ来て額《ぬか》ずくなり両手をつかえたまま云った。
「お久しゅうございました。茶わん屋の福太郎でございます。長浜からおいとまをいただいて去った――」
「おう、於福《おふく》よな」
秀吉は膝を折って、共にそこへ跼《うずく》まりながら、まるで身寄りの者に親しむように、
「達者か。さてさて、どことなく、物腰までも変ったのう。その後は、堺《さかい》の宗易の門に入って、茶道修行に身を入れておるそうな。秀吉も聞いて安心したぞ。……勉強せいよ、一筋に」
彼の肩へ手をかけて懇《ねんご》ろに励ますのだった。遠いむかしの友達時代を思い出させるような温情があふれている。が、その頃を考え出すのは、於福にとって、辛《つら》かった。また、余りにも今は身分の懸隔《けんかく》がありすぎる。彼は、秀吉の手の下に、いよいよその肩を低く伏せて、
「……それだけを、ちょっとお耳に入れて、欣んでいただきとう存じまして、まことに、御無礼とはぞんじましたが、お戻りを窺《うかが》って」
「いや、歓《よろこ》んでおるとも、わが事のように、秀吉はうれしく聞いた。中国の探題《たんだい》羽柴筑前守と一介の茶弟子|於福《おふく》とは、おのずから奉じゆく道はちがうが、世に楽土《らくど》を創《た》て、人に益し、あわせて自分一箇も人間らしゅう達成してゆこうとする志に変りはない。――今はなお、合戦また合戦と、遑《いとま》なき世の中だが、かならず次には、おまえたちの奉公がいよいよ大事な世となって来よう。それまでに確《しつ》かりと励んでおけよ、自分を作っておけよ」
「ありがとうございまする」
「また会おう」
「……御機嫌よう」
於福は、秀吉の膝を払った。そして自分はなお松落葉の上にひざまずいたまま、秀吉の影が、櫓門《やぐらもん》の陰にかくれ去るまで見送っていた。
秀吉は清々《すがすが》しい心を抱いて宿所へ帰った。きょうのお茶のあいだも愉快だったし、於福が適当な道をみつけて、そこに正しい生き方をしているのを知ったことも欣《うれ》しい一つであった。
秀吉は、自分の知る周囲に、ただひとりでも、不幸な者があると気にかかった。親類遠縁から故郷の旧知の端にいたるまで、自分を頼みとする者なら心にとめて、その息災《そくさい》を計っていた。それはあながち人のためにするのではなく、彼自身が幸福であろうとする希《ねが》いから来ているものだった。周囲に不幸な者を見ながら、自分だけを幸福とし、その幸福に満悦していることは由来できない性質の彼だからである。
桑実寺の宿所へ帰ると、彼はその日、手紙をかいた。
湖畔、ここから程近い、長浜を思いながら、久しくそこに留守している老母と、そして妻の寧子《ねね》へ宛ててである。
[#ここから2字下げ]
歳暮《せいぼ》、新春の御祝儀をかねて、多忙の陣中から上府し、右大臣家に謁《えつ》し、一両日は滞在はすれど、すぐにもふたたび中国の御陣へ帰らねばならぬ身ゆえ――
[#ここで字下げ終わり]
と書中に詫びて、留守の近状を問い、自分の健康をも告げて、加藤虎之助と福島市松のふたりに、使いとしてそれを持たせてやった。
つぎの日は。
せめて今日一日だけでも、長陣のつかれ、旅の気疲れなど、すべてを一擲《いつてき》して、気ままに宿所に籠《こも》っていたいとしていたが、それも周囲がゆるしてくれない。
「筑前どのには、御在宿か。池田じゃ」
早朝からもう訪客であった。池田|信輝《のぶてる》が見える、滝川一益が来る。
それが帰ったと思うと、佐々成政《さつさなりまさ》が立ち寄り、蜂谷頼隆《はちやよりたか》が訪い、市橋九郎右衛門と不破《ふわ》河内守《かわちのかみ》が同道して見え、京都の貴顕《きけん》から使いやら、近郷の僧俗から、種々《くさぐさ》の物を持って、
「おなぐさみに」
と、献じに来るものやら、午過《ひるす》ぎては、休養どころか、門前市をなすばかりだった。
時も時、年暮《くれ》なので、歳暮の祝儀を述べるため、安土へ参向の諸侯が期せずして集まっているせい[#「せい」に傍点]もある。あすは北陸の柴田勝家も入府するだろうと聞え、また前田利家の宿所にも、夥しい荷駄がいま着いたなどと客の口にうわさされていた。
噂といえば、応接いとまなき中なので、誰がいったことやら、秀吉は頭にも止めていなかったが、
「明智どのに、何か、御不首尾なことでもあったのか」
と、惟任光秀《これとうみつひで》について、囁《ささや》く人が多かった。
「御歳暮の献上にと、数頭の名馬を曳かれて見えられたが、何やら御前てい[#「てい」に傍点]よろしくなく、お上《かみ》にはそれらの物をすぐ突っ返されたなどと沙汰する者があったが――」
というものもあるし、また、
「いやいや、昨夜、細川どのやその他、大勢の者に、御酒《ごしゆ》を下された席において、明智どのばかりいつものように冷静な面《おもて》を澄まして、興じ入る乱酔《らんすい》の徒をながめていたのを、右大臣家のお癖として、却って、ちと小憎《こにく》く思《おぼ》されてか、光秀飲めと、大杯を強《し》いられ、飲まぬか、なぜ飲まぬ、強《た》って飲めなどと――一瞬《いつとき》ではあったが、険《けわ》しいお模様があったそうな。そんなことが、種々《いろいろ》に聞えたのではないか」
という者もあった。
そうかと思うと、
「めったに、口にはいたされぬがあの衆《しゆう》には、どうも異心があるらしいということを、なぜか、ちらちら耳にいたす。その出所はよくわからんが……」
などと由々しい事柄を、めったに口外はできぬがと断りながら、衆の中で口外している人物もある。
人物というものも、それが一国一城の主《あるじ》とか、一方の将とかになって、重責《じゆうせき》を感じ、自重を怠らないでいるときは、各※[#二の字点、unicode303b]、しかるべき人柄を保っているが、酒に蝟集《いしゆう》して、座興放談に耽《ふけ》りなどしていると、案外な不用意を露呈《ろてい》して、知らぬまに、重大な波紋を作っていることが多い。
幾歳《いくつ》になっても、男性には童心が失《う》せない。殊に戦国の諸将にはみなその愚に似たものが濃い。集まると小児みたいに他愛なくなる一面があるのだった。――故にこんな口にも出すまじきことばを口に出したりする者もあるのだろうが、信長を始めとして、安土を中心とする諸列侯の中で、そんな愚劣な童心振りのみじん[#「みじん」に傍点]ない者といったら、それは十目十指、たれでもすぐ、
惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》光秀《みつひで》
と、いうにちがいない。
あの知性と、あの冷静な風采とは、明智どのとうわさすれば、すぐ瞼《まぶた》に描けるほど、たれの脳裡《のうり》にも、際だって、鮮《あざ》やかに、また冷たく映っていた。
秀吉にくらべ、秀吉にも劣らないその戦功や、また織田随一といってよい頭のよさ、軍治両政の知識には、ひそかに推服《すいふく》していたのも、余りに教養のにおいを表に持ったその人品には、何人《なんぴと》も、なぜか親しめない。むしろ、離れてそれを観《み》たがる雰囲気《ふんいき》をもってめぐっていた。
せっかく、きょう一日の宿所の閑《ひま》を、気ままにと考えていた私生活を、こう朝から夕までの訪客攻めと、その訪客の醸《かも》す思い思いな雑談とに煩《わずら》わされては、秀吉も、閉口するばかりか、
(人の陰口などは迷惑)
という顔も時には示したろう。
そう考えられるのが、常識であるが、ここの主《あるじ》は、また変っているのだ。――明智どのにはどうも謀叛《むほん》の兆《きざ》しがある――などと重大な口外をする客が傍らにいようと、べつにそれへ目をくれるでもなく、
「ははは。左様かなあ。ふーム……。それは美味《うま》かろう。それがしも帰陣したら、ぜひそれは食ってみよう」
と、大声でべつな客と話に熱中していたりなどしている。
何かと思えば、冬季の陣中、食物に困ったとき、兜《かぶと》の鉢金《はちがね》を鍋《なべ》として、猪肉《しし》や山鳥を捕《と》っては食ったという話などに、ひどく傾聴《けいちよう》しているのだった。
それでもなお、一方の客たちが、人の陰口に興じて、光秀の是々非々などくり返していると、
「甘いなあ、諸公も。そういう類《たぐい》の風説は、いわゆる埋言《まいげん》の計と申して、他国から敵対国へ来ている者が、そっと火だね[#「だね」に傍点]を埋《い》けて行った場合が相応に多いもの。惟任《これとう》どののうわさなども、出どころは、ひょっとしたら先頃帰国したという甲府筋の者ではないかな。――それが人に火のついたときはいくらでも沙汰していられるが、いつ何時、自分が火だね[#「だね」に傍点]にされているやも知れぬ。御用心、御用心」
これで話はおしまいになってしまう。秀吉が呵々《かか》と笑うと、それについて、是《ぜ》といった者も、非といっていた者も、同じ哄笑の下に、それを忘れ去ってしまった。
よい機《しお》として、秀吉は、
「やあ、もう日暮に迫るか。実は今夜は、御礼のため、もう一度登城いたして、明朝には、また中国へさして帰陣の予定。失礼だが、これで……」
と、客の帰りをうながして、自分もさっさと、湯殿へはいってしまった。
時間がないのは口実ではない。家臣たちは事実もう明早暁の出発に、何かと荷梱《にごり》をまとめているのに、訪客がたえないため、片づかないで困っているのだ。秀吉もそれを察して、あれも要《い》らぬ、これも要らぬ、こよいはほんのお別れのごあいさつ、略服でよい、客ももうお断りしろなどと――湯殿から上がるなり衣服を着けながら云っていた。
すると、そのいいつけが、まだ表の者まで届かないうちであったため、いっていることばの下に、また取次が来て告げた。
「惟任《これとう》日向守さまが、お越しになられました。ちょうど同日の参府《さんぷ》、久しぶりに、お会いして帰りたいと、慇懃《いんぎん》に仰せられて――」
「なに、日向どのが来た?」
秀吉は、何か偶然のような気もした。それと、登城のまぎわだし、折のわるいような気もした。けれど、取次へは、すぐこう云っていた。
「書院へお通し申せ。そして、しばしの間、御猶予《ごゆうよ》とな」
その猶予は、これから髪を結《ゆ》い直すためだった。元結《もとゆい》はかえなかったが笄《こうがい》や櫛をもって、ひとりで髪をなでつけていた。
「――馬に鞍をつけて、表へ曳いておけよ。間もなく登城するゆえ」
外に控えていた近臣たちへいいつけると、秀吉はその足で、客書院のほうへ廻った。
ふつうの居館とちがって、寺院なので、たそがれの一刻は、何となく、物のあいろ[#「あいろ」に傍点]も深沈《しんちん》と仄暗《ほのぐら》い。――ふと彼がそこを開けると、まだ灯《あか》りの来ていない広やかな壁と畳の寒々とした中に、寂然《じやくねん》と独り――たとえば、一箇の砧青磁《きぬたせいじ》の香炉がそこに在るかの如く――澄んだ面《おもて》をしてひた[#「ひた」に傍点]と坐っていた。
「やあ、どうも」
いつでもだが、秀吉の声は、その伽藍《がらん》がもっている寂寞《じやくまく》を鐘のように破るものだった。
主《あるじ》の明るさに対しては、客もどうしても快活にせずにいられなかった。
「やあ、これは。――筑前殿にはいつもながらお麗《うるわ》しい御気色《みけしき》で」
光秀としては、最大な表現といっていい。努めて磊落《らいらく》であろうとしたのだ。けれどすこし話しているまに、そういう努力はすぐ霧消して、彼のすがたはやはり知性の結晶に回《かえ》っていた。
隆《たか》い鼻すじ[#「すじ」に傍点]から額《ひたい》にかけて、てらりと聡明が光っている。この年暮《くれ》でちょうど五十四を越えようとしている光秀であった。凡材《ぼんざい》でも五十四の年輪《ねんりん》を数えるほどになると、おのずから重厚が備わって来る。まして治乱の中に心胆を磨き、逆境から立身の過程に飽くまで教養を積んで来たほどな人物というものには、云い知れぬ奥行がある、床《ゆか》しいにおいがある。
(――良いさむらい哉《かな》)
秀吉の眼で見ても、しみじみ思う。信長がその寵愛を傾けて打ちこんだのも無理はないと思う。丹波亀山の城にあって、五十四万石を所領する諸侯として見ても、すこしも不足のない人がら[#「がら」に傍点]と頷《うなず》ける。
「筑前どの。何をおわらいでござりますか」
ふと、話のとぎれに、光秀からこう訊かれて、秀吉は初めて、しげしげと客に見入っていた自分の恍惚《こうこつ》に気がついて、
「あははは。いやべつに」
と、卑屈なく声を放って、さり気なく措《お》こうとしたが、もし光秀がひがん[#「ひがん」に傍点]ではいけないと考えたものか、
「あなたもだいぶお薄くなって来ましたなあ、額の際《きわ》が」
と、思いもよらぬことを云い出した。そしてそのあとへなおこう云い足した。
「お口の悪い信長公は、てまえのことをさして、猿々《さるさる》とおっしゃるように、あなたのことをば、きんか[#「きんか」に傍点]頭とよく呼ばれる。丹波《たんば》のきんか[#「きんか」に傍点]頭(禿頭《はげあたま》という方言《ほうげん》)が負けずにやりおるわ――などと日頃のおうわさにもよくお口に遊ばす。あははは、今、お頭《つむ》を見ておるうちに、ふと、お上のお戯れを思い出したのでござった。おたがいにいつか年経《としふ》りましたなあ」
秀吉は、自分の鬢《びん》を撫でた。かれの頭髪はまだ黒い。はっきり光秀とは、九歳《ここのつ》の年下を示している。
「いや、御辺《ごへん》などは、まだまだ……」
光秀は、羨《うらや》ましげにすら、相手を見ていた。何不足ない栄達を自覚しながら、年齢《とし》だけはもう十年も若くあって欲しいなあと云いたげな顔いろである。
自分のきんか[#「きんか」に傍点]頭を云い出されたことから、客としての居心地は、たいへん気楽になって来た。光秀は、何でも云いたいことのいえる秀吉の性格にも、また羨ましさを感じないでいられなかった。
今夕、丹波へ帰国するので、ちょっとお顔を見に御門前まで立ち寄った――と、さっきもいっていたが、何ごとか、折入って胸の思いでもじッくり聞いてもらいたいような容子《ようす》が、光秀には見えた。
にも関《かか》わらず光秀は、容易にそれを持ち出し得ないのである。秀吉は、折ふし出かける間際ではあり、客の容子《ようす》にも観《み》えるものを感じたので、
「――時に、惟任《これとう》どの、お目にかかったのが、幸いだ、人のうわさというものは、何を云い出すやら知れたものではないが、さりとて、火のない煙と打ち捨てて措《お》こうも、衆口金《しゆうこうきん》を鎔《と》かすの惧《おそ》れがある」
「なんぞ、それがしのことについて、お耳にふれた儀でも……」
「されば、親しい御辺のこと、これは書面をもっても、お告げせずばなるまいと思っていたところです。あなたは、誰かへ書いて与えた詩に、亀山城の北にある愛宕山《あたごやま》を、周山《しゆうざん》に擬《なぞ》らえ、御自身を周の武王に比し、信長公を殷《いん》の紂王《ちゆうおう》となしたようなことはありませぬか」
「やくたい[#「やくたい」に傍点]もないことを」
光秀は手を振った。やや面《おもて》を青白うして、二度までいった。
「やくたいもなや! いったい、誰がそんな悪意のある取り沙汰をば――」
光秀の吐いた声は、沈痛そのものであった。言葉というよりは長嘆に似ていた。
けれど、秀吉は、それ程な相手の深刻な表情を見ていながら、まるで鞠《まり》でも受けとるように、彼の口真似そのままにいった。
「まったく! いやまったく。――やくたい[#「やくたい」に傍点]もない! やくたいもないことをば。――あはははは」
この笑い声はまた、天井を揺するばかりだった。次の間に控えていた家臣が驚いて、何事かと、襖《ふすま》を細目に開けてみたくらいであった。
「これ、これ」
その気配へ、秀吉は目ざとく振り顧《かえ》って、
「――馬を曳いたか」
と、たずねた。
家臣がそこから、
「御用意はととのうておりまする」
と、伝える。
光秀は、急に、燭台の灯へ、面《おもて》をあげた。
「おお、ついうか[#「うか」に傍点]と、つまらぬ話にお出ましの間際を邪《さまた》げ、思わず失礼を――」
と、褥《しとね》を退《の》け、そしてなお起ちもやらずに、
「申さば、世間の毀誉褒貶《きよほうへん》、これはたれにも、避けられぬこと、また歯牙《しが》にかけるにも足らぬことにございましょうが、最前も仰せのごとく、衆口金を鎔《と》かすのたとえもある。慎まねばなりません。……何とぞ、やくたい[#「やくたい」に傍点]もない一儀は、以後、お耳にふれるごとに、唯今のごとく、お笑い捨てくださるように」
「心得申した」
こんどは真面目に、深々と相手へ同情の眼を凝《こ》らして、
「御辺にも、余りに深くお気にとめぬがよろしい。僭越《せんえつ》とお叱りなくば、この筑前のごとく、物事にちと無神経でおられたら――と申しあげたい」
「それは常々おうらやましく存じておる」
「では」
と、促《うなが》して、
「こよいは、これより御礼のため登城いたしますから」
「長座|仕《つかまつ》った」
主客一しょに起って、書院を出、玄関のほうへ共に歩いて行った。
草履を穿《は》いてからも、山門の外の駒つなぎ[#「つなぎ」に傍点]まで、なお肩を並べ合っていた。光秀はなおもっと早く、もう少し時間の余裕を見て、この人を訪《と》わなかったかと悔いているふうだった。
「さあ、お召しなさい」
先へ、駒をすすめて、秀吉は佇《たたず》んだ。なおここまで主客の礼儀をとっているのである。語り尽きない残り惜しさを滲《にじ》ませていたが、光秀は、御免と会釈して、先に馬上の人となった。
秀吉も、鞍へ移った。
そしてこの門前から、双方の従者の列は、各※[#二の字点、unicode303b]の主人を先にして左右に別れた。
安土の夜を行くには、松明《たいまつ》も提灯《ちようちん》も要らなかった。歳暮のせいか、町の灯は種々《さまざま》な色彩《いろどり》をもち、家々の灯は赤く道を染めて、春を待つ騒《ざわ》めきを靄々《あいあい》と煙らせていた。冬靄《ふゆもや》の空には、一粒一粒に、星が滲《にじ》んでいた。
「この頃は、聞き馴れない唄や器楽が流行《はや》るのう」
秀吉は、家来にはなしかけた。従者のひとりがそれに答えて、
「この町に、南蛮寺《なんばんでら》が建ってからだそうです。異国の笛とか抱琴《ほうきん》が入って来たばかりでなく、その音階に馴れて来て、これまであった歌謡の節《ふし》や曲までが、何となく違って来たと申します」
「でも、洛中の六条坊門にも、南蛮寺はあったが、こんな風潮はなかったようだが」
「まだあの頃は、二、三ヵ国の宣教師《バテレン》しかおりませんでした。けれど近頃、この安土の町に住んでいる異国人の種類はたいへんです。皆が皆、宣教師《バテレン》ではありませんが、それが連れて来た家族やら召使やらを加えますと……」
――なるほど、辻へかかると、賑やかな雑鬧《ざつとう》の中には、かならず異人のすがたが見えた。松や竹や餅など売っている日本の歳《とし》の市《いち》を、物珍しそうに見物して歩いていた。
信長はその夜も、彼が帰国の暇乞《いとまご》いに来るというので、心待ちに待ちわびていたらしい。
全城の燭《しよく》は、秀吉を迎えた。
主従、夜食を共にした。また、堀久太郎から、拝領物《はいりようもの》の沙汰などあった。
「御品々《おんしなじな》は、明朝、御出立までに、御宿所へお届け仕ります」
とて、その内容だけを聞いた。国次《くにつぐ》の刀や、茶の湯の名器十二種などである。
「かさねがさねの重恩。ただ冥加《みようが》のほどおそれます」
秀吉はありがたさの余り、涙にも暮れそうな姿だった。そして暇を告げかけると、
「いや待て、なおまだ、きのう申し交わした約束が残っておる」
といって、信長は、彼を促《うなが》して城楼《じようろう》の上へ伴《ともな》った。
ここの一閣へは、よほどな貴賓《きひん》でもないと案内されることはないし、重臣でもほんの、二、三の者しか知っていないということだった。
「きのう茶席で約束したように、そち以上な大気者《たいきもの》を見せてつかわそう。はいれ」
信長は一室を開かせた。
驚くべき人間が、そこの扉を開いたのである。更紗《さらさ》を纏《まと》い、黒い皮膚に、珠《たま》や金環《きんかん》を飾っている二人の黒奴《くろんぼ》だった。
しかしこの黒奴については、秀吉はそう瞠目《どうもく》もしなかった。安土の城内で度々見かけていたし、また宣教師《バテレン》から薦《すす》めたものということも知っていたからである。
けれど、信長に従《つ》いて、一歩室内へ入ると、思わず、ああという声が出た。ここは安土の内かと疑った。
大きな部屋と小さい部屋と、二つがひと間になっている。あわせて約百坪ほどな広さはあろう。その壁、その天井、装飾、床、敷物にいたるまでことごとくが、異国の色彩と調度品で彩《いろど》られていた。
「その床几《しようぎ》へ倚《よ》って休むがいい」
信長は、椅子をさして、床几と称《よ》んだ。美《うる》わしい天鵞絨《びろうど》と密陀塗《みつだぬり》のような塗料をもって造られてある。
秀吉は、観るものに、眼が忙しかった。
次室と広間との境には、裾《すそ》長やかな帳《とばり》が一方へ絞《しぼ》られてあり、それは天竺織《てんじくおり》というか、欧羅巴《ヨーロツパ》のゴブラン織というものか、秀吉すら初めて見るものだった。
呂宋《ルソン》、交趾《コーチ》、安南《アンナン》あたりの舶載品らしい陶器、武器、家具の類から、印度とかペルシャなどから齎《もたら》した物らしい鉱石の塊《かたまり》や、仏像、絵革《えかわ》、聖多黙縞《サンタマリアじま》、それから南蛮船の模型だの、金銀の細工品だの、自鳴鐘《とけい》だの――と数えて行ったら限《き》りもないほどである。
その間にも、しきりと鼻を襲ってくるのは、まだかつて日本の上では嗅《か》いだことのない執拗《しつよう》な香料のにおいであった。そうした視覚、嗅覚、あらゆる官能から異様な刺戟をうけて秀吉はやや呆れ顔をしていた。
あまりに珍奇な世界へいきなり連れて来ると、子どもは側の親も忘れて口をきかなくなる――そんなふうな秀吉であった。
信長は、それを見て、ひそかに楽しんでいた。どうだ、といわないばかりな顔して――。
と、秀吉はふいに、つかつかと彼方《かなた》の壁へ向って歩いて行った。そこには日本的な六曲屏風《ろつきよくびようぶ》が二面だけ現わして立ててあった。彼は手をかけてその六曲全面を部屋へ展《ひら》いた。そして、腕拱《うでぐ》みして、その前に坐ってしまった。
「……うーむ」
と、唸っているように見える。
金泥《きんでい》の地に、重厚な顔料《えのぐ》で、地図が描いてあった。
「……?」
秀吉はやがて、それへ顔をすりつけるようにして、頻りと、何かさがしていた。
その背なかへ、微笑を向けながら、信長が遠くからたずねた。
「筑前。何をさがしているのか」
すると秀吉は、見向きもせず、なお屏風に顔を彷徨《さまよ》わせながら答えた。
「日本です。……日本は、どこでしょう」
信長は歩いた。そして、彼のうしろに立って、にやにや笑っていたが、やがて教えていう。
「筑前、筑前。そんな所をいくら見ていても日本はないぞ。その辺りは、羅馬《ローマ》、西班牙《スペイン》、また、埃及《エジプト》などという国々の抱《だ》いておる内海《うちうみ》――」
その屏風の左半双の端から、右の半双面の方へと、信長は秀吉をさしまねいた。
そして、秀吉と並んで、屏風絵の世界地図の前に坐った。
葡萄牙《ポルトガル》の、一|宣教師《バテレン》が献上したものを原図として、狩野派のお抱え画工がそれを美術化して、六曲一双に濃彩をもって描いたものなので、もとより地図というほど精密でもないし、また、原図そのものからして、まだ地球の全貌図としては、はなはだ幼稚|杜撰《ずさん》なものであったことはいうまでもない。
けれど、大体において、世界の広さは描かれている。地中海もあれば、印度洋もあり、大西洋もあった。太平洋も紺碧《こんぺき》な厚い顔料《えのぐ》に塗りつぶされてあった。
「筑前。見よ」
「はあ」
「日本はここだ。この細長い島国。われらはこの上に生れている」
「これが日本でございますか。……これが」
秀吉は、凝視《ぎようし》した。
息もせずに見つめていた。
そして顔を離すと、あらためて、六曲一双の屏風の広さを――いや世界の広さを見直して――また眼のまえの細長い一|島嶼《とうしよ》の小ささを全図と比例しては見入っていた。
「支那、南蛮諸島、西欧の国々、どこと見くらべても、何と、日本は小さいのう。小さいではないか」
信長がいうと、秀吉は、しばらく黙っていたが、
「そうとも思いませぬ」
と、答えた。
そして、さっきからとんでもない所を見まわして、日本をさがしていた海外的な知識の浅さを、ここで取り返そうとする面目を以て云った。
「おそれながら、わが君も、お体といっては、五尺二、三寸。お肉は薄く、決して大男ではありません。然るに、世には六尺豊かの大男と称する者、たくさんおりますが、あながちそれをもって、大なる人物とは思えませぬ。故に、絵に描いた国の広さや、小ささには秀吉決して驚きませんが、ただこれをみていると、頻りに、嘆じられるものが痞《こ》みあげて来ます。――思わず、ああと嘆きたくなります」
「最前から、しきりに感に打たれておる容子《ようす》だが、そちらしくもないぞ、何をさようにかなしむのか」
「桶狭間《おけはざま》の御合戦のみぎり……またその後も折々、わが君がよくお口にあそばす小歌の一節を思い出しまして」
「はて、妙なことを、そちはかような折に思い出すな。――人生五十年……あの歌か」
「左様でございます。この世界の広大を、この生命のあるうちに見尽すには、五十年では足りそうもありませぬ。せめて百年は生きたいものと思いまする。ああ、生きたい、生きたい。――折角、この身、日本に生れ、やわか、中国、四国、九州ぐらい見物して、それで生涯の満足ができましょうや。君には、如何《いかが》思し召すや存じませんが」
「こやつが」
信長は、いきなりその右の手を以て、秀吉の肩を、強く叩いた。それは、会心《かいしん》の笑《え》みと力とをこめて思わず打った強さだった。
「覚《さと》くも、わが胸を察して云いおるわ。生きようぞ、百年も」
この時代の人の眼孔《がんこう》は大きかった。
日本を、当時の日本だけにしか、観ることの出来ないような狭小な眼は、徳川期になってから、後天的に努められた観念である。
信長は、後の鎖国《さこく》主義などというものを、知らなかった。
秀吉においては、日本の小ささをさえ知らなかった。彼の世界観は、彼の常識と観念の上から、日本を最大なものと考えていた。日本と較《くら》べるような地球上の「大なるもの」はあるわけがないとひとり呑みこんでいた。
だから彼はこよい信長から、六曲一双にわたる全世界の地図を見せつけられて、日本の存在をその尨大《ぼうだい》な陸地面からさがし求めるのにまごついたにしても、西欧南洋|北夷《ほくい》諸州の箇々の大きさに、そう驚きはしなかった。
ただ、
「これが日本か」
と、眼を凝《こ》らして、
「思っていたよりは小さい」
と、感じただけに過ぎなかった。
そして、嘆じられたのは、
――世界は広大だ。
ということだった。人の天寿はそれに比して、余りにも短いと思ったことだった。
彼ばかりでなく、総じて徳川|鎖国《さこく》主義以前の――元亀、天正の人間には、おぼろげながら、万里の波濤の彼方《かなた》にも、人とよぶ異人、国とよぶ国が、無数にあることについて、詳しく知っていた。その海外知識はまた、宗教を通じ、美術を通じ、鉄砲を通じ、織物や陶器や自鳴鐘《とけい》を通じて――日に月に滔々《とうとう》と東漸《とうぜん》して来た時でもあった。
「国は多いよ、海は広いよ、けれど何千何万里、漕《こ》ぎ巡《まわ》ってみたって、日本のような国は、ありはしない。唐天竺《からてんじく》といったって、ありはしない」
こんな言葉は、幼少の時から、秀吉などよく聞かされていたものである。
尾張の中村附近にも、そういうことをよく語る年老《としより》が、二、三人はいた。
村の人のいうには、
「彼《か》の衆はみな若い頃には、八幡船《ばはんせん》とかいう船に乗って、明国《みんこく》から南蛮へまで押し渡ったものじゃそうな」
とのことであった。
秀吉がまだ子どもの頃だった天文年間には、もう和寇《わこう》はだいぶ下火《したび》になっていた。けれど昔を語る潮焦《しおや》けのした老人は、まだたくさん田舎に生きていた。
「もっと多くの話を彼らから聞いておけばよかった」
と、長じて後は、惜しいことをしたと、秀吉も思い出すことがあったが、とにかくそうした人々が、民間に語り伝えて来た海外知識もまた、決してばかにできない下地を持っている。
いわんや堺、平戸《ひらど》そのほかの海港と、呂宋《ルソン》、安南、暹羅《シヤム》、満剌加《マラツカ》、南支那一帯の諸港との往来は、年ごとに頻繁《ひんぱん》を加えて来るし、それが国民一般の宗教に、軍事に、直接生活に、濃く影響し始めてきた今となっては――その政治的重要性からも、信長が多大な関心をもっていたことは、当然すぎるほど当然なことだった。
「…………」
「…………」
この夜。
信長と秀吉とは、世界地図の六曲|屏風《びようぶ》を前にしたまま、ずいぶん長いこと、黙然と坐りこんでいた。黙想に耽《ふけ》っていた。
何を語りあったろうか。
それはその屏風しか聞いていたものはない。けれど、結論において、ふたりの理想が合致していたことは確かだ。なぜならば、やがて深更、ふたたび暇を告げて別れるに際し主従の面《おもて》には、これまでにない、もっともっと深い男児の心契《しんけい》ともいえるものが、あきらかに双方の眉宇《びう》にたたえられていたからである。
[#改ページ]
蘭《らん》 丸《まる》
早暁《そうぎよう》の出立《しゆつたつ》だった。
庭面《にわも》も、屋根も、霜が白い。桑実寺《くわのみでら》の広間小間には、また燈火《ともしび》を立てている。
早飯は秀吉の習慣だ。箸《はし》をおくとすぐ身支度もすましてしまう。
それに遅れまいと、障子の外、廻廊の彼方《かなた》などを、あわただしく家臣たちの跫音が往来している。荷梱《にごり》など運び出している。
「昨夜、帰って参りましたが、深更の御退城、すぐお寝《やす》みになられましたから御返辞をひかえておりました」
福島市松と加藤虎之助は、この出発間際の寸暇を見て、秀吉の前へ復命に出ていた。
ふたりは、秀吉の意を帯して、長浜の城に在る母堂と夫人を見舞い、留守の近状を、つぶさにまた、秀吉の老母と寧子《ねね》夫人から言伝《ことづ》かって来たのであった。
「おう、ゆうべのうち、帰っていたか。して、どうじゃった。長浜の様子は」
「はい」
と、市松がいう。
「どなた様にも、おかわりもなく、わけて御母堂さまには、たいへん御機嫌でいらっしゃいました」
「そうか、この冬、お風邪も召さずに、起きておられたか」
「中国からの殿のお便りには、いつも身を案じて給《た》もるゆえ、寒いうちは、外へ出て百姓もせぬようにしておる。そして、筑前どののすすめに従い、部屋を温かにし、合間には、鼓《つづみ》の大倉《おおくら》、小舞《こまい》の幸若《こうわか》などを招いて、奥方さまやその余の御家族たちに囲まれ、至極、陽気に暮しておるから、もういささかも陣中では留守を案じて下さるな――と、くれぐれも左様に仰せられました」
「そうか。いや、それを聞いて、安心いたした。つい間近の安土まで参りながら、ちょっとの暇に、顔ぐらいは、見せに来てもよさそうな……などとお愚痴はなかったか」
こんどは、虎之助へ向って訊ねた。元々から二人は、遠縁の者だけに、こういう家庭の内輪事《うちわごと》も、秀吉も気軽に訊かれ、また答える方も、どこか気安く語られるのであった。
「お愚痴どころか、お母堂さまには、私たちが伺っていたところへ、ちょうど右府《うふ》様からもお迎えの使いがお見えなされて、久しぶりのことである、筑前が安土に参っておるゆえ、寧子《ねね》様を伴い、ちょっとわが城へ来て対面してはどうか――とありがたい御諚《ごじよう》があったにもかかわらず、お母堂さまのお答えには、中国の役《えき》すら、まだ半途と聞く、安土に来たのも、公《おおやけ》の御用、こちらから婆や妻などが会いになど行っても、あの子は決してよろこび顔をいたしますまい。折角、右府様のありがたい思し召ではござりますが、お断り申しあげまする――と、美々しいお迎えのお船をも、むなしくお返しになったほどでございまする」
虎之助は、市松ほど弁舌がまわらない。わけて主君の前では、畏れるの余り吃《ども》り気味なので、これだけ伝えるには一所懸命であった。
それをもどかし[#「もどかし」に傍点]く思ったのか、秀吉は聞いている途中から、身をまげて、傍らの文机《ふづくえ》や文庫から手まわりの物を取って、腰に帯びたり、懐紙をふところへ納めてみたり、まるで空耳《そらみみ》に聞いているかのような容子《ようす》に見えた。
そして、虎之助が、語り終るとすぐ、
「よしよし、使いの返事、よくわかった。もう今朝はここを立つ。はやはや外へ出て、そちたちも、供廻《ともまわ》りのことなど急げ」
追い立てるように、退けてしまったのである。
二人は、倉皇《そうこう》として、そこから出て行った。――と、入れちがいに、堀尾茂助が、何事か告げるべく、またそこの障子を開けると、秀吉は独りで泣いていた。懐紙を面《おもて》にあてて涙を拭《ぬぐ》っているのである。
「…………」
おや? という顔して、そのまま、茂助が障子の下にうずくまっていると、秀吉はひどくあわてて、
「吉晴。何用だ?」
と、まるで咎《とが》めるような声音でいった。
「はッ、はいッ……」
茂助も理由もなくあわてて、早口に、
「右府様のお使いとして、森長定《もりながさだ》どのがお越しですが」
と、取次いだ。
「なに。森蘭丸どのが」
秀吉は、何か、唐突な感じをうけたように呟《つぶや》いたが、すぐ思い当ったらしく、
「――ああそうか。お迎えして、あちらの客書院へお通しせい。ここは取り散らしておれば」
と、自分も立ち上がった。
ゆうべ安土へ暇乞《いとまご》いに登ったとき、信長から拝領物の目録を賜わった。その品々を今朝、蘭丸に持たせて、これへ差向けられたものであろう。秀吉はそう察しながら、客書院へ歩いていた。
案のじょう[#「じょう」に傍点]蘭丸は、国次《くにつぐ》の刀、十二種の茶器など、信長からの餞別《せんべつ》の品を携《たずさ》え、上座に坐って待っていた。
相変らず美しい。華奢《きやしや》な装いを凝《こ》らしている。すでに、今年あたり、二十三、四歳にはなるはずだが、今もって、世間が美童と目しているのも無理はない。
主君の使者なので、秀吉は下《しも》にすわり、一応の礼儀があって後、初めて話も日頃の親しみ振りに返る。
「もう、お立ちでしょう」
「いやいや、お急ぎ下さるには及ばぬ。いずれ一夜は京都のつもりですから」
「せっかくたまたまの御出府でしたのに、御休養の暇もなかったでしょう。しかし上様の御機嫌は近来にないものでしたな」
「訪客の多いには閉口いたした。柴田どのも北陸から今日あたり御着府とか」
それには答える興味もなく、蘭丸長定は軽くたずねた。
「明智どのも、お立寄りになられたそうですな」
「見えられた。旅づかれか、少しお元気がなかったようだ」
「何か、申されてはおりませんでしたか」
「何かとは?」
「上様からお叱りをうけられたこととか、私のうわさなど」
「いや、べつに」
「お気のどくに堪えません。このたびは、非常な御不首尾《ごふしゆび》でお帰りなされた。きっとその鬱《うつ》を筑前どのに聞いて戴こうと思っていたにちがいない」
「では、明智どのが、信長公からいたく叱られたという沙汰は、ただの噂ではなかったのかな」
「いったい、明智どのの重くるしい勿体《もつたい》振りが、日頃から上様のお気性《きしよう》にはちくちくと御不興を刺戟するのです。それがたまたま、御酒宴の中であらわに爆発したというに過ぎません。――然るに、明智どのには、女性のような邪推《じやすい》をなさる一面から、何か、この蘭丸長定が君側からそれを焚《た》きつけでもしたように取っておらるるらしい。……これは蘭丸として心外にたえぬところです」
「ははは。そうかなあ。彼も惟任《これとう》光秀、亀山の城主、当代の人物だ。それがしには分らんが、仰っしゃるような感情があるとすれば、何か、そこにべつな原因があるのではないか。お身様の方に、そう猜疑《さいぎ》せらるるべつな理由が」
「思い当るのは、私が、鈴木|重行《しげゆき》のことを、上様へ御忠告したことがあるだけです。かの本願寺の謀将鈴木重行の始末について……」
「その重行が、本願寺散亡の後、どうしたというのでござる?」
「あなたも御承知ないか。大坂石山の没落とともに、姿をかくしていた鈴木重行は、いつのまにか名を変えて、丹波亀山の城中に客臣となっていたのです。――十二年の久しきあいだ、織田家を悩ませた本願寺の黒幕の謀将を、おゆるしも仰がず、匿《かくま》うなどという行為は、明らかなる叛意《はんい》と申されても仕方がないではございませぬか。かりにあなたが、信長公であった場合、それを知ってもなお光秀どのを、重臣として、快く、迎えておられますか」
こういう時、秀吉の面《おもて》は、すこぶる微妙なものを湛《たた》える。
熱心に聞き入る色もあらわして来ないし、といって、相手の訴える気もちをへし[#「へし」に傍点]曲げて、うわの空に外《そ》らしているという顔でもない。
「ふむ。ふむ。なるほど」
いずれともつかない頷《うなず》きを見せてはいるが、彼自身の意志は、そのあいだ縹渺《ひようびよう》として、天外に遊んでいるのかもしれない。
正直なところは、余りこういう話題には触れたくないとするのだろう。ひとの陰口、毀誉褒貶《きよほうへん》、中傷|讒訴《ざんそ》、これに関《かか》わっていた日には限《き》りがないからである。障子の桟《さん》のチリを吹いて、わが目もチリにこすら[#「こすら」に傍点]なければならない。秀吉の性分《しようぶん》に合わないことだ。
のみならず、彼としては、すでに前日、光秀から這般《しやはん》の消息はうかがっている。さすがに、五十余齢の光秀は、童形の青年蘭丸とはちがって、露骨にことばには出さなかった。けれど秀吉には、充分、
(……ははあ)
と、その意中も葛藤《かつとう》の根も読みとれていた。ほぼ察しがついていたのである。
蘭丸の母堂の妙光尼が、帰依《きえ》するの余り、かねてから本願寺軍の謀将鈴木|重行《しげゆき》のため、表面信仰、裏面密謀、ふたつの仮面《めん》の使いわけに操《あやつ》られていたことを――その危険を――軍事にたずさわる秀吉としては、当然な防諜監視《ぼうちようかんし》の眼から疾《と》くに覚《さと》っていたからである。
蘭丸は母思いだ。また、才長《さいた》けた好青年でもある。
母の妙光尼の老後の幸福も、兄弟多勢の今日の出世も、ひとえにみな蘭丸の君寵《くんちよう》浅からぬためといってよい。
彼らの亡父《ちち》、森三左衛門|可成《よしなり》の忠節が、深く信長の胸に銘記《めいき》されていたことも間違いないにせよ、信長が蘭丸に傾けている信用と寵愛は、また格別なものがある。
それ、これ、思い合わせれば、石山本願寺の滅散後、鈴木重行が、何かの縁をたよって、明智光秀に恃《たの》み、亀山城の家中に、姓名を変えて、なお生きているということは、蘭丸にとって、到底耐え難い不安を抱かせられたにちがいない。
(もし、重行の口から、母妙光との、前々からのことが、事細かに洩れでもしたら?)
こう恐怖し出したら、蘭丸とて、じっとしていられないのも無理ならぬことである。信長の君寵も信用も一度に覆《くつがえ》って、その代りに何が妙光尼に与えられるか、蘭丸に酬《むく》われるか、余りにも明白である。
石山本願寺落去のときから、すでに蘭丸はその恐怖を抱いて来た。佐久間信盛|父子《おやこ》の追放だの、宿老林佐渡の末路だの、すべて髪の毛ほどでも信長に異心を抱いたものの処断には、たとえそれが遠い過去であろうと昨日の事であろうと決して宥《ゆる》さないのが、愛されているわが御主君であった。特に、蘭丸が人知れず胸をいためているその事一つは、身ひとつだけの心配でなく、母以下、森兄弟一門の今や致命的な不安となっているのである。
「――やあ、世間は面白い。たまたま、戦陣から出府して、世間ばなしをいろいろうかがうと、いやもう限りもなく、世の味を満喫《まんきつ》いたす。まずそれだけこの安土は、平和の余裕綽々《よゆうしやくしやく》たりで、四民を安からしめておるわれらの寸功もありといえましょうか。われら戦陣に在る身では、晨《あした》にはきょう死ぬかと思い、夕べとなれば明日《あす》はとちかい、明けても暮れても、慾といえば死に花を如何にとしか考えられぬ者にとっては、またなき耳の楽しみ、腸《はらわた》の薬でござる。来年はまた一、二度出て参りたいもの。――今朝は立《た》ち際《ぎわ》で甚だ落着かんが、次の出府の機《おり》にはぜひゆるゆるとおはなしいたそう。……あははは。きょうはどうも、失礼ばかりで」
これは、間もなく、秀吉が、蘭丸とともに席を立って別れる際にいった世辞《せじ》である。これこそは、ほんとの世辞であった。
秀吉の行装《ぎようそう》一列が、まばゆい朝日の下を、桑実寺の門前町から流れ出てゆく時、使者の蘭丸もまた安土の城門へむかって帰っていたが、何ぞ知らん、この地上におけるこう二人の相識《そうしき》は、この時が終りだった。誰か、この朝から半年後の本能寺《ほんのうじ》の変を予知することができようか。
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京《きよう》 都《と》
秀吉は京都に一泊した。
京都。――京都のすがたは実に一変した。
わずか十年前の京都を知っている者はみなそういう。二十年、三十年前の京都を見ている人々はなおのこと、隔世の感なきを得ないという。
それほどな推移を短いあいだに示していた。
まず、何より違って来たことは、洛中《らくちゆう》に入るとすぐ、大君ここにましますという光耀《こうよう》と清潔さに盈《み》ちていることと、その「民」たるをもって幸福としている人々の平和な生活ぶりだった。
それとまた、ここに立てば、
説明なしに、日本の正しい在《あ》り方とは、やはりこうであったかとおのずからわかる心地もしてくるのだった。
一般の庶民が感じるところは、やはり秀吉が感じるところだった。
彼は、その少年時代、東海道を漂泊中などに、よく仰いだことのある――あの富士の秀麗な山容を――今の京都にふと思いあわせた。
千古万代、この国とともにある不壊《ふえ》の富士も、雲におおわれて、一天晦冥《いつてんかいめい》まったく人界から見えなくなる数日もある。
と思うと、忽ち一片の雲だにない澄明《ちようめい》の青空に、飽くまであざらかなその姿容《しよう》を示す日もある。
あくせくと、下界の生業《たつき》に追われている人々は、その全姿を眼に仰ぐせつなのみ、
ああ、富士。
と、呼ぶ。驚嘆する。
そしてはまたそれに馴れて忘れるともなく、雲を見ては雨を嘆くばかりで、雲のうちにも不壊《ふえ》の富士のあることを思わなくなる。
近くは、応仁《おうにん》以後からつい室町幕府の末にいたるまで、もっと前には、足利氏《あしかがし》、北条氏などの暴政を私した時代など、思えば、この国の曇と晴も、富士と雲とのように、繰り返され繰り返され、治乱久しいものであった。
(――今の京都は、晴れた日の富士のようだ)
秀吉は、洛中に馬を駐《とど》めるたびに、ここ二、三年は、いつも同じ感激を抱く。
そして、
(これは、何に依って来たものか)
と、考える。
雲そのものの変化は問題ではない。富士そのものの実存だけが動かない事実である。
けれどその快晴を齎《もたら》したものは、なんといっても自分の主人信長の力だったと思う。信長がなかったらなお乱雲晦冥《らんうんかいめい》の下に、多くの四民は、さる堂上の公卿《くげ》が日記にも書いているように、
――如何に成りゆく世にやあらん。
と、恟々《きようきよう》、安き思いもなく、きょうを送っていなければならなかったろう。
それが、今はどうか。
皇居をめぐる山紫水明《さんしすいめい》のひかりといい、町屋町屋の輝きといい、そこに生業《なりわ》いし、そこに楽しみ、そこに安堵《あんど》しきっている市民といい、つい一昔前の、室町幕府の治下には、まったく見られなかったものが盈《み》ちあふれているではないか。
誰よりも信長をよく知りぬいている秀吉は、また信長の理想を今眼で見た心地がした。兵馬|倥偬《こうそう》の中に、武人として、伊勢神宮を修理したり、禁裡《きんり》の築土《ついじ》の荒れたのをなげいて、御料を献じたりしていた人に、信長の父信秀がある。そんな篤志家はあの時代にはほとんど稀れだったといってもいい。
思うに信長が、朝廷に仕える一信長をもって任じだしたことは、父の影響によるものであり、そして父以上、積極的な性格をそれに加えて来たのであった。
御所の造営。
御墻《みかき》の築き。
内大臣拝受の御礼。
御節会《おんせちえ》の復興。
そのほか内裏《だいり》の御経済の改良やら、公卿殿上の生活安定から、諸祭事の振興など、あらゆる面にむかって、彼は皇室の復古に心をかたむけた。
室町幕府を捨てて足利|義昭《よしあき》を追ってから、わずか十年、眼《ま》のあたりに、ここまでの推移と民生活の安定を見ては、もうこの頃の信長をさして、
(公方の謀叛人《むほんにん》)
などという者もいなくなっていた。かの叡山焼き打ち直後には、
(稀代《きたい》なる大魔王)
とまで罵《ののし》った法師輩《ほうしばら》まで、彼にきのうの非難を繰り返し得ないのみか、共に、今日の明るい洛中洛外にあって、その平和に浴しているすがただった。
わけて、ことし天正九年の春に行われた馬揃《うまぞろ》いの盛観《せいかん》は、年の暮れかかる今になっても、人々は何かといえば、忘れ得ない語り草としていた。
この春の大馬揃いは、要するに平和の大祭であり、信長の覇《は》を誇った示威《じい》でもあり、また、外人宣教師などに対する国際的意味も多分にあったが、もっと、重大な意義としては、親しく至尊《しそん》の臨御《りんぎよ》を仰いで、兵馬の大本を明らかにしたことであった。
遠い上古《じようこ》には、防人《さきもり》と称され、つわものとみずから誇り、都に集《つど》う若者たちが歌ったという、
つるぎ太刀
腰にとり佩《は》き
すめらぎの
御門《みかど》のまもり
我を措《お》きて人はあらじ
のあの気高い王朝時代の――きれいな濁り気のない、純正|無垢《むく》な誇りと誓いとを――尠なくも、信長は、この大馬揃いの挙行をもって、身にも示し、世にも顕《あら》わそうとしたことは確かである。
いつの世からか、皇室と武門とのあいだは、建国のときの神則《しんそく》、天皇の兵は治安を守る防人《さきもり》であり、軍は国の御楯《みたて》であり、剣は我を磨き人を生かす愛ですらあった本質から私《わたくし》にうごき紊《みだ》れて、時には分離し、時には皇室を威嚇《いかく》するなど、その弊《へい》は、応仁以後の室町末期にいたってまったく極《きわ》まっていたといっていい。
その紊《みだ》れを時代の主人公として世もゆるし自身も任じている信長が、このとき大馬揃いの催しをもって、それらのあらゆる意義を、理窟や法制に恃《たの》まず、上下ともに楽しみ歓ぼうとしたことは、さすがに武弁《ぶべん》一遍の頭領ではない、偉大なる政治家としての信長のすがたをここには見られるのであった。
さて、その景観を思い起してここに一端を写してみるならば――
その日は、二月二十八日、京洛《けいらく》の春も闌《たけなわ》の頃だった。
上京内裏《かみぎようだいり》の東から南への馬場八町には、若草の色もまだ浅く、柵《さく》のところどころの八尺柱は、緋毛氈《ひもうせん》でつつまれていた。そして、禁裡《きんり》東之御門外のあたりに、御出御《ごしゆつぎよ》をあおぐ行宮《あんぐう》は建てられてあった。
仮殿とはいいながら、それは清々《すがすが》しい白木に金銀の菊花が鏤《ちりば》められ、珠簾《しゆれん》には紫の紐《ひも》が神々しく垂れて、大屋根の甍《いらか》もさながら金砂を刷《は》いた大和絵そのままに霞《かす》んで見える。
摂家《せつけ》以下、殿上月卿雲客《てんじようげつけいうんかく》はことごとくそこに陪観《ばいかん》の席を賜わって寄り集《つど》うていた。――衣香《いこう》あたりをはらい、四方《よも》に薫《くん》じ、箇々の御粧《おんよそお》い、御儀の結構、華やかなこというばかりもなく、筆にも詞《ことば》にも述べ難し――とはその日の有様を書いている当時の筆者の嘆声であった。
日月の旛《はた》、五色の御旗、ゆるやかに春風のなぶる下には、なお御親衛の弓、矛《ほこ》をたずさえる防人《さきもり》の隊伍が、花園の花のように揃っていた。そして時刻の辰《たつ》の刻《こく》(午前八時)の頃としなれば、遠く、下京《しもぎよう》の本能寺から、貝の音は聞えて、――一番隊、二番隊、三番隊、四番隊と、京の大路を練《ね》って一条東の馬場口へすすんで来る行列の出発を報《し》らせていた。
その頃もう馬場のまわりには人か霞《かすみ》かと疑われるほど、数十万の民衆は、この日の盛儀を微《かす》かにでも拝《おが》もうものと雲集していた。
やがて、柴田勝家、前田利家などの、北国衆がまず、信長の馬廻りとして、さきに馬場へながれて来た。燦々《さんさん》と、その旌旗《せいき》や甲《よろい》かぶとに旭光《きよつこう》がきらめいて、群集は眼もくらむような心地に打たれた。
――が、これはほんの前奏曲にすぎない。やがて七番隊の武井夕菴《たけいせきあん》が馬場にはいると、次に、信長のすがたが見えた。
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御床几持《ごしやうぎもち》四人。奉行|市若《いちわか》。地を金に、浪を絵取りたり。左に、御先小姓、御杖持北若《おんつゑもちきたわか》。御《お》長刀《なぎなた》持ひしや。
また、御小人《おこびと》五人、御《お》行縢《むかばき》持小市若《もちこいちわか》。
召されたる御馬|大黒《おほぐろ》。惣《そう》御人数二十七人。
右、御先小姓、御《お》行縢《むかばき》持小駒若《もちここまわか》。御木刀《おぼくたう》もち糸若《いとわか》。御長刀持《おなぎなたもち》たいとう。
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これは「信長公記」の中の一節であるが、ほんの左右の供人だけを誌《しる》してあるに過ぎない。そのほか扈従《こじゆう》近臣の壮美な粧《よそお》いに至っては、ただただ言語に絶した偉麗《いれい》というほかはない。
さて、信長自身のその日の装束はといえば、
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梅花ヲ折《ヲリ》テ首《カシラ》ニ挿《サ》シ
二月ノ雪、衣《コロモ》ニ落ツ
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の心かと当時の筆者は形容している。
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――御頭巾《おづきん》は唐冠《からかんむり》、うしろに花を立てさせられ、御小袖《おんこそで》は紅梅に白、上に蜀江《しよくかう》の錦《にしき》をかさね給ふ。御肩衣《おんかたぎぬ》、紅《べに》どんす[#「どんす」に傍点]に桐唐草《きりからくさ》なり。お袴《はかま》も同然。お腰に牡丹《ぼたん》の作り花をささせられ、御太刀、御佩《おは》き添へはさや巻の熨斗《のし》付也。
御腰蓑《おんこしみの》には白熊、鞭をおびられ、白革《しろかは》のお弓懸《ゆがけ》には、桐のとう[#「とう」に傍点]の御紋あり、猩々皮《しやうじやうがは》の御沓《おんくつ》に、お行縢《むかばき》は金に虎の斑《まだら》を縫ひ、御鞍重《おんくらかさ》ね、泥障《あふ》り、御手綱、腹巻、馬の尾袋《をぶくろ》まで紅《くれなゐ》の綱《つな》、紅の房、鞦《しりがい》には瓔珞《やうらく》を付《つけ》させられ――
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と、実地に見た者の感激を、そのままここに借りるとしたら、それは際限もないくらいな描写である。
もっとも、この日に着用する信長ひとりの装束のため、京都、奈良、堺《さかい》などの唐綾《からあや》、唐錦《からにしき》、唐《から》刺繍《ぬいもの》の類《たぐい》から、まだ一般《いつぱん》には珍しいゴブラン、印度《インド》金紗《きんしや》、南蛮織のあらゆる物まで、選《よ》り蒐《あつ》めてその粋《すい》を凝《こ》らしたものだった。細川与一郎――藤孝の子の彼なども、その係の一員だったので、信長の着用する蜀江《しよつこう》の小袖の袖口につかう金縒《モール》を捜すため、京都中を奔走《ほんそう》してようやく適当な品を見出したというほど、金力と人力がそれまでには費《かか》っていたものである。
(――まるでこの世のお方とも見えない。住吉明神の御影向《ごようごう》でも仰ぐようだ)
と、その日の群集が、ただ、もう礼讃《らいさん》したというのも、あながち誇張な嘆声ではなかったであろう。
織田家の血すじは、総じて美男型であり、女子はみな美人である。この年、信長は四十八歳、なお端麗な余風をとどめているばかりでなく、気稟《きひん》はまだ青年に劣らず、眉にも頬にも化粧をほどこし、きょうを曠《はれ》と装ったのであるから、陪観《ばいかん》の外国人の群れ――耶蘇会《ゼスイツト》の代表者などもみな驚目をみはって、
(すばらしき大演武会の司会者は、また欧羅巴《ヨーロツパ》の国王間にも到底見られない華麗豪壮な扮装《ふんそう》に鏤《ちりば》められた端正なる一貴人であった――)
と、彼らが各※[#二の字点、unicode303b]の本国への報告書に、あらゆる讃辞をもって伝えているのも無理ではない。
しかもそれは、信長一人の盛装と、扈従《こじゆう》の美観だけではなかった。信長は、この大馬揃いに出場を命じた諸侯へ対しては、すべてに向って、
「天子の御叡覧《ごえいらん》にそなえ奉る曠《はれ》の日にてあるぞ。明国《みんこく》、南蛮、西夷《せいい》の国々へまで聞えわたるわが国振《くにぶり》の武家式事《ぶけしきじ》ぞ。心いっぱい豪壮《ごうそう》せよ、美術せよ、われとわが姿と行動とを芸術せよ」
と、命令したのである。
実に、この盛典を機として、時の人々は、それまでの余り好まない暗灰色をいちどにかなぐり[#「かなぐり」に傍点]去ったといっていい。
時人《じじん》の心理は、まさに今、夜の明けたような曙色《しよしよく》を欲していた。明るさに向ったときは明るい色を、身にも世間にも彩《いろど》りたいのが本能だった。希望に燃えている、豪壮を愛している、殺伐な裏には優雅に渇《かわ》いている、血腥《ちなまぐさ》い半面には華麗を慕う。――それは武人自身でなく、むしろ暗鬱《あんうつ》な戦国の下に長く恟《おび》えいじけ[#「いじけ」に傍点]て来た民心にたいして、
(さびしむなかれ。歓《よろこ》べ、謳《うた》え。このとおり時勢は、今し刻々と暁天のような光彩にうつりつつあるぞ)
を感じさせる為にもなった。
さて、この曠世《こうせい》な大演武には、信長の一族、岐阜《ぎふ》中将|信忠《のぶただ》、北畠《きたばたけ》中将|信雄《のぶお》、織田三七|信孝《のぶたか》、柴田、前田、明智、細川、丹羽《にわ》そのほかの諸侯から将士約一万六千余と、会衆十三万余人という盛況の下に行われ、各人各隊の演技のあった後、やがて最後の番には、信長自身、演技に立ち、悍馬《かんば》に跨《また》がって馬場を縦横に駈けめぐり、馬上剣をふるい槍を把《と》り、またその槍を投げて、的《まと》を射たりした。
衆人の喝采《かつさい》は、その度ごとに鳴りもやまず、天地を動かすばかりだったという。
馬上から、的《まと》を睨み、槍を投げては、的を射潰《いつぶ》す彼の演技は、風神|颯爽《さつそう》として、華麗壮絶を極め、しかも一度の失敗もなく、五、六たびも繰り返された。
十三万余人といわれるその日の会衆は、一箇の信長を、みな自分の持物でもあるかのように、歓呼し、礼讃し、果ては、
「さすがだ!」
と、対象視しているぐらいでは飽き足らなくなり、ひろい馬場の外では、熱狂した人浪のしぶきが、
「如何《いか》にや如何に」
と、踊り狂っている態《さま》が、はるか、玉座の御間近《おんまぢか》にある堂上|諸卿《しよけい》の席からも眺められたとみえ、その辺りの無数な顔もことごとく紅潮をたたえ、また微笑《ほほえ》みをふくんでいた。
時に――
御階《みはし》の下から、わらわらと、十二人の朝臣《あそん》たちが、信長のほうへ駈けて来て、
「勅使」
と、声をかけた。
いま演技をすました信長は、地に降りて疲れた馬を宥《いた》わっていた。馬は海から泳ぎ上がったように汗に光り、その全身から湯気をたてていた。
「勅使です」
二度目の声に、彼は、はっと気づいたものか、馬の下にひざまずいた。
勅使は、綸言《りんげん》を伝えていう。今日の事、叡覧《えいらん》あって龍顔《りゆうがん》殊のほか御うるわしく、上古末代の見もの、本朝のみか、異国にもかほどのさまはあるべからずと宣《のたま》わせ、斜めならぬ御気色《みけしき》に仰がれた。千秋万歳、御名誉なことであるという犒《ねぎら》いだった。
「…………」
信長は、感泣していた。
亡父《ちち》信秀の志を、子として、いまその一つでも成し遂げたような心地もしたろう。
たそがれ頃、彼は、路傍の群集から、さらに大きな歓声をもって送られながら、宿所の本能寺へもどって行った。
群集は、口々に、
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かかるめでたき世に生れ合はせ、天下安泰、黎戸《れいこ》の烟《けむ》り戸ざさず。生前の思ひ出、ありがたき次第にこそ――
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と、云い囃《はや》したとあり、なおまた、
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忝《かたじけな》く、かけまくも、一天万乗の大君を、信長公の御盛儀のため、間近う拝み奉る事、ありがたき御代《みよ》かなと、貴賤老幼の輩《やから》、ただただ合掌、感じ敬《うやま》ひ申し候事、この世はさながら歓喜感涙のうるはしき大一宇《だいいちう》とも見え侍《はべ》り候也
[#ここで字下げ終わり]
と、その日の状況を記録した筆者、太田牛一《おおたぎゆういち》もまた感激のなかに浸《ひた》って書いている。
…………
秀吉は今、京都を通過しながらその日を偲《しの》び、また主君の一日の偉大を考え、ひいては自分に顧みていた。
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潮声風語《ちようせいふうご》
秀吉は、大坂へかかった。
淀川《よどがわ》まで来ると、
「先にお着きのお荷駄《にだ》は、すべて積み終り、御船中のお囲《かこい》幕も、万端、ととのうておりますれば」
と、九鬼家の使いである。
迎えの使者はなおいう。
「陸路のご予定にございましたろうが、浪華《なにわ》の浦まで道をまげてお立ち越えねがいまする。それよりお船に召されて、海路、姫路へのお渡りまで、われわれども、お供仕りますれば」
秀吉は、淀川に近い休み茶屋の床几《しようぎ》をかりて、供の人数と一緒に休息中であったが、口上を聞くと、自身気軽に出て、
「それは、九鬼殿のご好意か」
と、たずねた。
三人の使者の答えには、
「主人の命によってお迎えに罷《まか》り出ましたが、お船廻しの儀は、安土の上様から早打をもってのお指図と伺っておりました」
と、ある。
「大儀」
と、秀吉はすぐ承知し、
「九鬼衆の使いにも、茶など与えよ」
と、左右へ心づけた。
彼としては、勿論、もう平定した播州《ばんしゆう》と中央とのあいだの往来などは、さして危険ともしていなかったが、信長はなお、
(道中いかなる変があろうも知れぬ――)
と、秀吉の帰国を後からふと案じ出して、海上を行けと、にわかに、船手方《ふなてがた》の者へ、その用意を早打でいいつけたものとみえる。
「かくまでに、この秀吉の身を、大事と思《おぼ》し召《め》し下さるのか」
と、彼は心のうちで、安土の方を振り顧《かえ》らずにはいられなかった。
何条《なんじよう》、その知己に反《そむ》くべき――である。秀吉は、九鬼家の案内に従って、その夕方、大坂の川口から船に乗った。
船は、かつて、この沖で、毛利家の輸送船団を撃砕《げきさい》した戦歴をもっている軍船の一つである。
艤装《ぎそう》いかめしく、大鉄砲の銃座もすえてあるし、長柄《ながえ》や、鉤槍《かぎやり》なども、舷《ふなべり》に立てならべてあった。
けれど、船楼の一間は、あたかも本丸|住居《ずまい》の一部屋を、そのまま移して来たように、衣桁《いこう》もあれば金屏風もあり、蒔絵《まきえ》の文棚《ふだな》、小鼓、香炉、火鉢、褥《しとね》、膳具酒器など、ないものはなかった。
「幸いに、海上は穏やかです、どうか夜もすがらでも、お過しください。飾磨《しかま》の浦《うら》に着くまでは」
と、九鬼家の家臣という三名のさむらいが、船中料理の粋をこらして、やがてそれへ伽《とぎ》に出て来た。
「船旅は楽でいい」
と秀吉は、近侍たちと打ちくつろいでいたところだった。さっそく杯を与えて、
「この船は、何石積みか」
と、質問した。
織田軍の船手方、九鬼家の家臣といえば、みな潮焦《しおや》けのした顔に鯔《ぼら》のような眼を持って、歯ばかり白いさむらいばかり多い。ここに臨んで接待役に当った三名も、年配はみな四十以上らしいが、骨逞《ほねたくま》しく、贅肉《ぜいにく》なく、ひどく大きな手を、不器用に両膝へ乗せて、坐り仕事は不勝手でござると、その容子《ようす》からして物語っている。これなん今、天正時代の海国武士とでもいう者どもか、風采いかにも洋々と寛《ひろ》く、顔にも陸棲人士《りくせいじんし》のごとく焦《いら》ついた神経などなく、各※[#二の字点、unicode303b]、鯱《しやち》か鯨《くじら》の子みたいに、頗る縹渺《ひようびよう》たる風格のなかに、また一種の楽天的な気概をそなえている。
「は。何でござるか」
ひとりが反問した。
陸上での政治的な勢力とか、そこでの権勢家とか何とかいう憚《はばか》りも、彼らにはすこしも反映していない。故に、媚《こ》び諂《へつら》いも知らないぶっきら棒である。――秀吉は、その三人のぶっきら棒を、愛すべきもの哉《かな》と、見まわしながら、もう一度いった。
「この船は一体、何石積みか。――これで朝鮮国ぐらいまでは、航《ゆ》けるかな?」
接待役の三名は笑った。ただ笑っているだけで答えをしない。秀吉はすこし腹をたてた。
「何を笑う。わしの問いが何でおかしいか?」
すると急に恐懼《きようく》して、ひとりが謹直《きんちよく》に答えた。
「この船は、七百八十石積みで、三本|帆檣《ほばしら》。ただ今、これで朝鮮まで行けるやとのお訊ねでございましたが、高麗《こうらい》、大明《だいみん》はおろか、安南《アンナン》、柬埔寨《カンボジヤ》、婆羅納《ブルネオ》、暹羅《シヤム》、高砂《たかさご》、呂宋《ルソン》、爪哇《ジヤバ》、満剌加《マラツカ》はいうに及ばず、遠くは奥南蛮《おくなんばん》から喜望峰《きぼうほう》の岬《みさき》をめぐり、大西洋へ出て、西班牙《スペイン》、葡萄牙《ポルトガル》、羅馬《ローマ》、どこへでも、行けば行けないところはございませぬ」
「ふ……ウム」
秀吉は、すこし鼻白んだ。
彼らの親切な説明によって、この船の力も、可能な航海の範囲も、分ることはよく分ったが、同時に、自分の幼稚な愚問に気がついたからである。
「南蛮南蛮と、よくひと口に申すが、いったい、それらの国々のどこをさして、南蛮ととなえおるか」
こんどは平凡を旨として質問した。答える方も平凡にいう。
「呂宋《ルソン》、爪哇《ジヤバ》、婆羅納《ブルネオ》、安南《アンナン》、暹羅《シヤム》あたりまでを総じて南蛮諸国と申し、また島々とよび、満剌加《マラツカ》から先、臥亜《ゴア》などを奥南蛮とも申しております」
「臥亜《ゴア》とはどこか」
「天竺《てんじく》でござります。てまえどもは印度といっておりまする。臥亜には東印度総督がおりまする」
「そこまでは、航路どれほどな日数を要するか」
「長崎から媽港《マカオ》あたりまでですと、順風でおよそ十四、五日には着きましょうが、それから先は天候まかせで、予定の日をもっては参るわけにゆきません」
「どうして」
「暴風雨《あらし》にあえば、島に寄って隠れ、船が壊れれば、船を修理し、道程《みちのり》ではなく、度胸と根気の航海ですから」
「その方たちは、至極、審《つまび》らかなことを申すが、いったいそのような航海をして、南蛮までも参ったことがあるのか」
するとまた三名は、曖昧《あいまい》な笑顔を示しているだけで、口をつぐみこんでしまった。お互いに答えを譲り合っているらしいのである。
「ないこともございませんが――」
と、やがて中の一名が思い切ったように答え出して、
「それを仔細に申し上げますと、だんだんわれわれの前身が――つまりおさと[#「おさと」に傍点]が知れて参ることになり――この儀は主人|九鬼嘉隆《くきよしたか》よりも、平常、図に乗って自慢げに語ることは相成らぬと、固く戒《いまし》められておりますことゆえ、ちと、どうも」
「これこれ、それは自慢顔に無用なおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]は慎めといわれたのだろう。大隅《おおすみ》殿(嘉隆)に叱られたらわしが詫びてやる。どういうことだ、語って聞かせい」
「――では、申し上げてしまいますが、実は、われわれどもは年久しく、海浪人《わだつみろうにん》の身にござりまして、かような窮屈な武家奉公は、去《い》ぬる天正五年、信長公より勢州の九鬼|右馬允《うまのすけ》殿に仰せ付けられ、織田家の水軍というものが組織されました折に、初めて九鬼殿に呼ばれて召し抱えられたもので、その前は、弓矢を持ち、海上往来はいたしおりましても、武家奉公というものは一向に存じない者にござります」
「そう詫び入らんでもよい。決してその方たちの作法とか言語などを咎《とが》めはせぬ。……それよりは、何だ、海浪人《わだつみろうにん》とは?」
「つまりその、海上浪人のことで」
「ははあ、和寇《わこう》か。――おぬしらの前身は」
「まあ、そのようなものでござります」
八幡船《ばはんせん》なるものに乗りこんで、海濤万里《かいとうばんり》をものともせず、南の島々から大明《だいみん》の沿海はいうに及ばず、揚子江は|※[#「魚+厥」、unicode9c56]魚《けつぎよ》のごとく千里を遡《さかのぼ》り、高麗の辺境までも鯨遊《げいゆう》して、半生、海を家として送って来た男どもの果てであると聞くと、
「ほうッ……」
と、秀吉は、わざ[#「わざ」に傍点]とのように、眼をまろくして、いきなり前の銚子《ちようし》を把《と》った。
「ばかなやつだ。さあ飲め」
これが次に飛びだしたことばで、そのことばの下からまた――。
「愚にもつかん輩《やから》ではある。最前から何をもじもじ云《い》い憚《はばか》っておるかと思えば、前身、和寇《わこう》と呼ばれていたというだけの遠慮か。いやはや、笑止千万。そんな小さい胆《きも》を持って、よくも海上を暴れ廻っておられたもの。主人九鬼殿もちと分らん男であるな。――八幡船、和寇、何がいかんか。秀吉なども、もし、十六、七歳の頃に、その方どもと巡り会うていたら、かならず汝らの手下に属して、南海|西蛮大明高麗《せいばんだいみんこうらい》、ひとわたりはぜひ見物しておいたろうに、残念に思う。――いや、まったくだぞ」
「はッ……」
三名が、首を揃えて、恐縮すると、秀吉は銚子《ちようし》をつきつけて、
「順に、杯を持て、あらためて一巡|酌《しやく》してつかわす。……よく致した、よく致した」
何を犒《ねぎら》われているのか、彼らには自覚がなかった。故に秀吉は、銚子を下に置くと、それを歯痒《はがゆ》がって、諭《さと》すのであった。
「和寇というもの、いつのまにか、海上に影をひそめてしまったな。惜しいものとはいわん、また秀吉、奨励《しようれい》もせんが、自体、八幡船の活躍は、起るべくして起ったものだ。……と、思わんか」
「はあ」
「遠い上古、神功皇后《じんぐうこうごう》さまの挙を今日より偲《しの》び奉っても、あの前後からすでにいかにこの国を侵《おか》さんとする外夷《がいい》があったか思いやられようが。降《くだ》って、元寇《げんこう》の変に、相模《さがみ》太郎《たろう》時宗《ときむね》をして、一剣護国の難にあたらせ、民ことごとくの憤怒が、筑紫《つくし》の大捷《たいしよう》となった時の如きは、それの最も歴然たるものだ。十万の元兵、数百の艨艟《もうどう》、すべてを日本に失ってから、さすがに懲々《こりごり》したか、その後は襲《や》って来なくなった。……だが鎌倉以後、もし来られたら、あの大難以上な大難だったろうと思われる時代は、この国内にだいぶ続いた。たとえば、吉野の宮の時代、足利幕府の初期、つづいて応仁の乱、義満、義政などの無能な将軍の腐敗政治に委されていた時世などに……どうだ、想像してもみよ、もし元寇があったら」
「左様でございますな」
「幸いに、高麗も明も、元ほどな威を、彼もその時代は、持たなかったからいいが――それにせよ、室町幕府の腐敗ぶりがそのまま海外に露呈《ろてい》していたら何とも知れん。……それを、室町将軍の援護《えんご》でもなく、また幕府の指令でもなく、ただこの国の民の意欲で、気ままに、存分に侵攻を防禦していたのは、汝らの仲間だった。汝ら、八幡船の力といってもいい」
「ははあ。そうですかな」
「いや、待った。その方どもの時代になっては、八幡船もすでに末期、和寇という名ばかり残って、恐らくその魂は失われていたろう。――だが、かつては、その方どもの先祖にはあったものだ。ひとつの信念があったに相違ない。なくて何であんな大胆不敵ができる。生命を波濤《はとう》に抛《なげう》てるか。由来、この国の民というものは、故なくして生命は捨てん。いかなる匹夫《ひつぷ》でも生命の価値を知っておる。大明、高麗の各地に上陸《あが》り、珍器重宝をどんどん持って来た。だから海賊だといっている。愍《あわ》れむべし、笑うべし、そんな行為はついでの仕事だ。――そもそも、その方どもの祖先には、もっとべつな熱情があった」
日頃から云いたくていたことにちがいない。秀吉は、なお云って熄《や》まなかった。
和寇《わこう》の功績を。
また、和寇の気もちをだ。見よ、八幡船の起ったところ、彼らの出生地は、みな国難のときの記憶と、体験のもっとも強かった西国や、南海の士民なることを――と。
その中には、国内に志を伸ばせない豪族のくずれもいたろう。海賊の徒党に過ぎない暴れ者もいたろう。けれど鎌倉以後の剛毅《ごうき》大志のさむらいもいた。現に、みずから長い旗に書いて「海賊大将軍」と名乗っていた村上なにがしと呼ぶ和寇の大将のごときは、足利氏に亡ぼされた楠家の一族だったともいう。
すでに、国を愛するがために血をながした一族のわかれが、一帆万里をこえて、国外に武を振うとき、どうしてその生命の光焔《こうえん》に、護国のたましいが発しられないわけがあろう。国を愛する念の出ない理由があろう。
ふかく思ってやらなければ可哀そうだ。和寇の涙を。――和寇の心を。
国外千里の異境に、名もわからず、花一枝の手向《たむけ》もうけず、天の星とともに黙している土中の白骨にも、いわせれば、綿々と、憂国の所以《ゆえん》を吐くかもしれない。
事実。
室町幕府の長い時代を、ふたたび元寇の襲来もなく、外夷のうかがう眼からも防いでいたのは、幕府そのものの力でも何でもない。私設国防軍をもって任じていた、彼ら和寇の功績ではなかったか。
「みずから、海賊大将軍と唱えていたのは、事海外に関し、万一の難を、自国の外交上に及ぼすまい、愛する本国へ迷惑をかけまい、またその国家の名を傷つけまいとする――のふかい考えからと思われないこともない」
――などと秀吉のはなしは尽きないほどだった。そして前半生を八幡船に送って来たという三名は、却《かえ》って、
「はあ、なるほど」
と、ただ感じ入っているばかりである。
秀吉は、ここで話の気をかえた。
「近頃はまた大いに事情が違うて来たな。西班牙《スペイン》のゼビエーという宣教師《バテレン》が来たのは、たしか天文二十年頃とか聞いているが、以来、来るわ来るわこの日本へ。……信長公が、至極、そこのところを不即不離に、包容なさるものだから、南蛮の島々、奥南蛮の大国、西欧の諸辺から、種々な物を舶載《はくさい》してくる。だがゼビエーは本国へ書簡をもって云っている。――この国だけには兵船を向けて来るな。文化と宣教師は送ってもとな」
冬荒れか、船はすこし揺れて来た。寒さも痛烈に夜更けを覚えさせる。秀吉は、彼らから聞くだけを聞き、語るだけを語り尽くすと、
「寝《やす》むぞ。――そちたちはなお心ゆくまで飲んでおるもよい。旅だ、楽しめ」
と云いのこして、さっとべつな船室へはいって眠ってしまった。
内海とはいえ、沖へ出ると、かなり大きな濤音《なみおと》が船体を横に搏《う》つ。
快い眠りのなかへひき込まれながらも、秀吉の浪漫的《ろうまんてき》な空想の血だけはなおどこかでうずいていた。
半眠りのなかのその空想がさまざまな幻像をえがく。
茶わん屋の座敷が泛《うか》ぶ――
少年の頃だ。自分の手はひびあかぎれ[#「ひびあかぎれ」に傍点]に腫《は》れている。
大勢の奉公人のすみに、ちょこなんと、畏《かしこ》まっている自分だった。手代《てだい》もいる。飯炊き男もいる。下婢《かひ》もいる。
主《あるじ》の茶わん屋捨次郎は、美しいお内儀《かみ》と、息子の於福《おふく》をそばにおいて、火鉢と晩酌《ばんしやく》の膳をそばに、よいごきげんでみんなに話をして聞かせている。
それがいつでもご自慢の大明国《だいみんこく》のはなしだった。十年以上も、大明の景徳鎮《けいとくちん》にいて、支那の陶磁の製法を習《まな》んでいた人に下僕《しもべ》として仕えていたというこの家の主《あるじ》の見聞談はまた、どんなに尾張あたりの田舎しか知らない奉公人たちにとっては、驚異であったものかしれない。
けれど、誰よりも、その驚異を大きな眼と、熱心な耳で、聞き入っていたものは、その頃まだ、日吉といっていた――自分だったろう――。そう秀吉はいまなお少年の日に、胸ふくらませた鼓動を思う。
芽というものは強いものだ。きっとその生命を日光へ伸ばさずにはおかない。
考えてみると、自分の中に、夢のままで終るか実現するかはべつとして、ともあれ、一度はかならず海外の未知の地をも踏んでみたいという夢を抱いていた。
それが図《はか》らずも、数十年後、自分と同じ夢の持主とこの世で遭遇《そうぐう》したのである。
(おまえもか)
(あなたもですか)
心底を語りあってみてお互いに驚き合ったものである。日本には自分のような夢を抱いているものなど自分以外にはあるまいと、どっちも思いこんでいたからだ。その人を誰かといえば、いまの主人の信長公であった。ひとつ理想を持つ御主人とめぐり合う。こんな倖せなことがあろうかと、秀吉は真実そう思うのであった。
海外について学ばねばならぬ。徐々に、眼孔の小さい諸将にも、狭小な考え方を改めさせてゆかねばならない。
(ああ濤音《なみおと》がする。この濤は、大明の岸をも搏《う》ち、南蛮の島々にしぶき、西欧の国へもつづいている。古来、この国の者は、何でこう日本の内にのみ屈曲してせめぎ[#「せめぎ」に傍点]合って来たことだろう。ひとり信長公に至っては、従来の英雄とすこし型がちがっていて、眼界のひろさが、けたちがいだ。かつてない文明人でもある。旧《ふる》い物にはすさまじい破壊力をあらわすがまたそれ以上の建設的な情熱を持っておられる。お年は明けて四十九歳、なお、二、三十年は優に御活躍できよう。よしこの二十年に……)
秀吉は唇をむすんでほんとに深い眠りに入った。けれど彼を乗せた船はまだついそこの山陽の地へさしてゆくに止まる。しかも人生の測り難さは、この帰路の旅が、主君信長との最後の別れになりつつあるものとは、遂に、夢にも知らずにいたことであった。
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中国陣《ちゆうごくじん》
秀吉は姫路へ帰った。
帰る匆々《そうそう》、彼は中国総司令官として、誰よりも高いところに位置していた。
播州《ばんしゆう》、但馬《たじま》、美作《みまさか》、因幡《いなば》などの占領下の諸将は、入り代り立ち代り姫路を中心に去来した。
それらの人々からの歳暮《せいぼ》の辞や礼物を、こんどは受ける身に立つ秀吉であった。
「みなに頒《わ》けてやれ。一物も残さんでもよい」
浅野|弥兵衛《やへえ》に命じて、彼は、その悉《ことごと》くを、部下の全将士に頒《わ》けて今年の労を犒《ねぎ》らい、また来たるべき年の覚悟についてこう云い渡した。
「来年こそ重大な意義をもつ年だろう。そしていよいよ多事なことはいうまでもない。今までのいかなる年よりも急激に天下の相貌《そうぼう》は一変し、宇内《うだい》の文化も遷《うつ》ってゆこう。どう遷ってゆくかといえば、旧態の破壊撃砕もほぼ一段落をつけ、なお戦いつつも建設期へ入ってゆく。ここに、新しきを創《た》て、人文清新を競《きそ》い、久しく枯田衰煙《こでんすいえん》の歎きにあった民をしてみな再生のよろこびに会わしめる。それなくては信長公の多年の戦いも、ただ単に覇《は》たるにとどまり、真の世業というわけにならん。世業とは何、私業でないことだ。国業だ。いやしくも天日の下《もと》に、剣槍を振舞い、人血を地にながす業《わざ》が、かりそめにも私業であってよかろうか」
と、日頃の思いを述べ、
「しかも筑前守は、また来る年にも、各※[#二の字点、unicode303b]の血ぶるいを励まし、いよいよ剣槍を研《と》ぐべしと叱咤するだろう。これ決して、筑前が求めるに非ず、信長公が強《し》いるのでもない。天地の命だ、いわばわれらみな悉《ことごと》くこの世この国の奉公人だ、信長公はただその奉行におわし、秀吉はそのお手先の一人たり。いま筑前その任をおびて、この中国に軍をすすめ、毛利を討つも、毛利にして、時勢にあきらかなれば、抗し難きここの理に目をみひらき、旗を巻いて、われらに合体《がつたい》して来るべきだが、かなしいかな元就《もとなり》以来の毛利は、保守、排他、旧態固執《きゆうたいこしつ》、その国政は一毛利家の家計にとどまり、その奉じるところすべて私業に過ぎない。――年明くれば早速にも、わが中国陣はふたたび合戦を展開しよう。彼も名だたる強大な武門、侮《あなど》り難いものはあるが、彼は私業の兵、われは世業の軍、勝つことは決まっている。必勝の進軍、間近し。初春《はる》三箇日《さんがにち》は、大いに飲み、大いに心胆を養っておくがよろしい」
と、むすんだ。
諸将は日頃から秀吉の恬淡《てんたん》を知っていた。その秀吉のことばとして聞くとき初めて世業という意義に大きな感動を覚えた。ひとり毛利家ばかりでなく、総じて戦国初頭から群雄|割拠《かつきよ》しはじめた各地の豪雄英傑のあいだには、私業のみあって世業はなかった。いわんや国業とまで理想し自覚しているほどなものはほとんどなかったといっていい。
秀吉が、今までになく、麾下《きか》の将士に、こんな訓示をしたのも、こんど安土から姫路に帰ってくる途中、船中で彼自身が大いに覚《さと》ったことが要因となっていたかもしれない。
海外を考える。
それは当然、
日本を考える。
ことの始まりだからである。日本を日本だけにしか考えられない狭量と狭量がこの中で角逐《かくちく》し、この中で私業の争いを繰り返して来た群雄割拠はそれであった。それも無意義ではなかったが、もう今日に至っては、意義も理由もない。むしろ障害だ。秀吉はこう信じて来たのである。
天正九年は暮れた。
中国陣は、次の段階へ向って、春とともに、準備おさおさ怠りなかった。
明けて、天正十年。
この正月となると、毛利方の陣営へはもう挙国的な防戦気がまえが漲《みなぎ》っていた。
山陽方面の総帥小早川|隆景《たかかげ》は、敵の総帥秀吉が、思いのほか早く、中国へ帰陣したので、彼と信長との会見に、何らかの大方針が決まったものと見、それに備えるべく、諸所の味方へ令を飛ばして、
「時やいま非常、中国の興亡この際にかかる。年暮《ねんぼ》の辞儀を廃さん。歳首《さいしゆ》の祝礼も、敢えて努むには及ばず。それただ敵に尺地《せきち》寸土も辱《はずかし》むるなかれ――」
と、激励していた。
そして、一月の末、ふたたび檄《げき》を発して、
「備後三原《びんごみはら》に会せよ」
と、その日時を通報した。
備中高松の城主、宮路山《みやじやま》の城主、冠山《かむりやま》の城主――加茂《かも》、日幡《ひはた》、松島、庭瀬《にわせ》などの主要な七ヵ城の守将は、前後して三原に集まった。
隆景は、その人々に告げた。
「山陰山陽両方面とも、今日までの戦況では、遺憾ながら秀吉の精鋭の駸々《しんしん》たる攻勢に利があって、毛利方に戦捷《せんしよう》があったとはいいがたい。しかも彼の兵力は年月とともに増強され、やがて十万にのぼろうとしている。そして備後境へ襲《よ》せて来るからには、宇喜多直家がその案内者たることも想像に難《かた》くない。宇喜多は多年わが毛利方の一翼だったが、利を見て信長へ款《かん》を通《つう》じた者である。これも是非なし、敵に武門の節義を売ろうというほどな者には、またその人間だけの小理窟《こりくつ》と打算があるにちがいない。ところで、信長、秀吉からは、将来もあらゆる計策や利をもって、内々に、御身方《おんみがた》まで味方に引き入れんと手をくだくに相違あるまい。明《あか》らさまにここで隆景は申しておく。信長へ通じたいと思う者は、遠慮なく彼に従って去るがいい。古今に例のないことでもないから、今のうちならば隆景も、さまで遺恨《いこん》にはふくまぬであろう」
平常にはないことばである。
ことばそれ自体が、隆景の決意のほどを割って見せるにも余りがあった。
「…………」
七城将は、ややしばらく、黙然としていた。
そのうちに一名が、
「ただいまの御諚《ごじよう》は口惜しいことにござります。多年御恩顧の輩《ともがら》を、左様に心許《こころもと》なき者と思し召されてか」
と、声を嚥《の》んだ。
つづいて発言した者も、
「この期《ご》に、何の二心《ふたごころ》を抱きましょうや。大事な境目の守護を仰せつけられ、死すとも誉れと覚悟してあるのみにござります」
と、答えた。隆景は、一言、
「満足に存する」
といって、あとは馳走の酒にまかせた。
酒宴中にも攻防二様の政略やら、方針について、種々談合があった。そして、協議も酒の興も尽きると、
「この初春《はる》は諸事祝儀も一切、先の佳《よ》い年に延ばしたが、これは臨戦の門祝いである」
といって、七将の者へ、各※[#二の字点、unicode303b]一腰《ひとこし》ずつの脇差《わきざし》を与えた。
七人の将は、
「御勝利の上、重ねてまた、めでたくお祝いの日にお目にかかりましょう」
と、退出しかけた。
すると、高松城の守将、清水長左衛門|宗治《むねはる》だけは、ひとりその挨拶を欠いて、自分だけはべつ[#「べつ」に傍点]なことばで、その拝領物《はいりようもの》にこたえた。
「それがしどもの持口は、たとえば洪水に当る土堤《つつみ》のようなもの。敵十万の怒濤は、どこを切るや分りませぬ。さある場合は、自分の持分においては、城を枕に討死あるのみです。この長左衛門には、重ねてめでたくお祝いに逢《あ》わんなどとは存じも寄りません。この御拝領はその意味で一《ひと》しおありがたく頂戴して参りまする」
清水長左衛門宗治は、真を吐いた。よい加減がいえなかったのである。
といって、他の六将が、嘘言《うそ》を飾ったわけではない。宗治以外の者は、ただ真がいえなかった。総帥小早川隆景に対してばかりでなく、自分の心に対して、
(こんどは必然、味方毛利側の総敗軍はまぬがれぬ)
とは、云いたくなかった。云いきれなかったのである。
だが、隆景は当然、それをみずから知っているべき位置にいた。
彼の胸《むな》心算《づもり》では、
「いかによく動員し尽しても味方の兵力は四万八千――乃至《ないし》五万せいぜい」
と、みている。
敵はといえば。
摂津の伊丹《いたみ》、花隈《はなくま》の二城がくずれ、大坂本願寺が滅去してから、頓《とみ》に増兵運輸の利を得て、この春には、固いところ十万以上の兵力を挙げて来よう。
いや、筑前守秀吉のことだ。目安《めやす》十万と見せて、十三万も、さらに十五万も、怒濤のごとく次々に送って来るかもしれない。
いずれにせよ、兵力において、すでに毛利方は、半分に足るまい。
加うるに、士気の問題だ。
いかんせん山陰山陽とも敗軍をつづけているばかりか、信長を孤立せしむべく計ったあらゆる紐帯《ちゆうたい》の要所要所はことごとく彼のために破砕されてしまったかたちである。
しかもなお隆景が、
「むざ[#「むざ」に傍点]とは」
と、心中に恃《たの》んでいるものは、ただひとつ、元就《もとなり》精神ともよぶべきものがまだ中国武士にはあることだった。
毛利元就が、本国|安芸《あき》の吉田山に城を築いたとき、
――人柱《ひとばしら》は要《い》らず、魂柱《たまばしら》こそ要《い》るなれ。
といって、土台深くに「百万一心」と刻んだ巨石《おおいし》を埋めたことがある。このことは元就在世中からたえず藩士のたましいへ家訓としてうち込まれていたものである。
ああ、それが今、この中国の興亡のわかれ目に来て、どれほどなものをいうか、光をあらわすか、試《ため》さるる秋《とき》とはなった。
事実、智者といわれる隆景も、今日ではもう策もなかった。滔々《とうとう》たる中央織田の大軍と秀吉の指揮に対して、
「所詮《しよせん》、小策などは無益」
と、観念していた。
最善をつくし、必死で当る。
それしかなかった。また、どうしても防戦防禦を専らとするしか方針も立たなかった。
かくて、一月、二月、三月――警固おさおさ怠りなく、厳《げん》に密《みつ》に、山川草木《さんせんそうもく》、およそ中国の土にあるものはすべてを動員して来るべきものを待ちうけていた。
一面、秀吉の方でも、着々と戦備はととのえられ、その大方針としては明らかに、
――一挙備中に入り、高松城を占め、進んで安芸《あき》の本城吉田山に肉薄して、否やなく毛利をして、城下の盟《ちかい》をなさしめん。
と、いうにあった。
播磨《はりま》、因幡《いなば》、但馬《たじま》に散陣していた秀吉の麾下《きか》は、二月中に、はやくも姫路に集合を命ぜられていた。
三月末,姫路を発したとき、その兵力は、すでに優に六万はあった。
堂々、岡山城に着く。
ここには宇喜多秀家の軍勢二万余騎がある。
宇喜多勢、先鋒を命じられ、まさに備中へ入るの態勢をとった。
その前に。
「一応は」
と、不調は承知ながら、秀吉は蜂須賀彦右衛門と黒田官兵衛とを使いにたてて、高松城の城主清水宗治に、降伏をすすめた。
「かたじけないが」
と、宗治はまず毛利家の「百万一心」の実を示してきれいに断った。ここに中国陣の戦局はついに最後の段階へ直面することとはなった。
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銭《ぜに》と信長《のぶなが》
わかれたその後とても、心契《しんけい》の主従は、何かにつけて、朝夕遠くから思いを交わしていたにちがいない。
中国陣の秀吉と、安土《あづち》にある信長とは。
秀吉は相かわらず軍務のひとつとして、まめ[#「まめ」に傍点]に安土へ消息を出していた。信長はいながら毛利の版図《はんと》を俯瞰《ふかん》していた。そして、
「――彼さえおれば」
と、その方面の策略は、安心していたにちがいない。
その秀吉を、中国へ見送ってから、安土で年を迎えた信長には、新春《はる》と共に、年暮《くれ》の混雑へさらに輪をかけたような多忙がめぐって来た。いや、多忙を作っていたというほうが適切である。
天正十年、壬午《みずのえうま》正月。
[#ここから2字下げ]
隣国の大小名、御近族の御衆《おんしゆう》、そのほか参賀の輩《ともがら》、百々之橋《とどのばし》よりおのぼり成され候に、夥しき群集にて、築垣《ついぢ》を踏みくづし、石と人と一つになつてくづれ落ち、死人も有、怪我人《けがにん》は数知れず、刀持、槍持の若党共は、槍刀を失ひ、迷惑したるもの多し……「信長公記」
[#ここで字下げ終わり]
正月早々、年始の客は、こんなふうに安土城へ押しかけたものとみえる。ひとりの信長へ、ひと口の年賀をのべるために、あの総見寺《そうけんじ》山の広い石段道や大手の惣門《そうもん》から奥へかけて、こんなにも芋《いも》を洗うような混雑を呈したとは、信長の威光というか人気というか、人心の流れ方というものの怖ろしさをさえ考えさせる。
もっとも、人死にすらあった程だから、ことしの年賀は、特に異例で、毎年こんなことがあったわけでもあるまい。
どうしてこんな騒ぎになったかというと、信長が、除夜の晩に、
「元日の年賀客は、誰彼を問わず、ひとり百文ずつの礼銭をとれ。めでたく新春に会い、今日を無事に過ごし、信長に謁《えつ》して賀を述べられる冥加《みようが》として、百文ぐらいな年賀税は徴してもよろしかろう。――堀久太郎、蒲生《がもう》右兵衛《うひようえ》、ふたりして明日は奉行せい」
と、いいつけたことに起因する。
それだけでなく、信長は、
「年賀税をとる代りに、日頃人々には開かぬ城中の秘閣深殿《ひかくしんでん》をあけ放ちて、悉《ことごと》く見物させてつかわすがいい」
と、開放を免《ゆる》したからだった。
人気といえば、これも人気を喚《よ》び起した原因といえよう。
すでに、数日前から、安土の町々に旅舎《やど》をとって、待ちかまえていた大小名や、或いは、有資格者の町人、儒家《じゆけ》、医師、画人、工匠《こうしよう》、あらゆる階級のものから、大小名の家中も挙げて、
「きょうの折をのがしては」
と、いちどに山へさして来たから堪《たま》るべきわけはない。人死にまで生じるような満山の大混雑となってしまった。
だが人々はそれだけの値打もあったと後悔はしなかった。
まず総見寺|毘沙門《びしやもん》の舞台から見物し、表之門から三之門に入り、御殿主《ごてんす》から白洲まで来て、ここで、御慶《ぎよけい》を申しあげる。
――といっても、人浪に揉まれるし、後から急がれるし、肝腎《かんじん》な信長の顔もすがたも見えはしなかった。ただ、
「あれが三位信忠卿」
「今、向うへ行かれたのが、織田源五様」
「こちらを見て、笑っていらっしゃるのが、北畠中将信雄卿《きたばたけちゆうじようのぶおきよう》ではないか」
などとせめて一門の歴々を、遠くから望む程度で満足し合っていた。
いや、一般の者が、満足もこえて、感激にひれ伏したのは、はからずも、この安土城のうちにかつてありとも聞いていなかった「御幸《みゆき》の間《ま》」を、この日、拝観したことであった。
安土に「御幸の間」があろうとは、一般には、きょうまで、思いも及ばなかったことである。
いつかは、主上《しゆじよう》の行幸をここに仰いでと、人知れず忠誠を心がけていた信長の用意を今知るとともに、人々は、
「こうして、恭《うやうや》しくも、至尊の玉座を眼《ま》のあたりに拝観するとは、一生の思い出。ありがたい極み」
と、ここへ来ると自然、雑鬧《ざつとう》の人波もみな自発的にひそまり返って、階《きざはし》の下、廊の陰など、思い思いに額《ぬか》ずき合った。
こうして、年賀の群集は、次々に殿中の座敷を見物して歩いた。狩野《かのう》永徳《えいとく》のふすま絵に佇《たたず》み、繧繝縁《うんげんべり》や高麗縁《こうらいべり》の畳に目をみはり、みがき立てた金壁に気もすくみ、恍惚《こうこつ》とした心地で白洲へ降りると、
「御台所口より戻れ」
と、城士が通路を指さし、大勢の足は自然に、結《ゆ》いまわされた青竹垣に誘われて、御台所の側へ流れ、お厩口《うまやぐち》へあふれ出して行った。
するとそこに、思いがけなくも信長自身が、近習たちと共に、新莚《あらむしろ》の上に立ちはだかっていて、
「礼銭を忘れずに置けよ。百文ずつの礼銭をわするるな」
と、手ずから銭を受取っては、後ろへ向って投げているのだった。
もちろん無数な群集のさし出す無数の手と銭とは、とても信長ひとりでは受けきれない。堀久太郎の部下や、近習も、手伝い手伝い受けてはうしろへ投げている。
けれど、群集の心理は、必然、信長の前へ前へと押して来た。わずか百文の税を、信長に手ずから受取って貰えるなどは、これも一代の光栄、この後はないことと思うのであった。
こうして信長のうしろには、またたくうちに、銭の山が幾つもできた。それを足軽組の者がすぐ叺《かます》につめ込んだ。そして叺詰《かますづめ》の銭は間もなく奉行の手から城下の役所へ下げ渡され、安土の町々に窮民を尋ねて、この正月をぽかんとしていた貧民を戸ごとに賑わした。
そうして裏町の隅々まで、この正月には飢えている顔はない、と想像することも、信長にとってはやはり一つの愉楽《ゆらく》だった、自己の正月を大らかにするものだった。
「どうだ、年賀税は。おもしろいことだったろう」
堀久太郎に向って、彼はあとでそう誇った。
久太郎は、初め奉行を命じられた時、かりそめにも天下の覇者《はしや》右大臣家たるものが、そんな平民的な真似を遊ばしてよいだろうかと案じていたが、民衆の声は、まったく自分の憂いとは反対なものであったので、
「実に、結構な思いつきでした。参賀の人々も生涯の語り草と大よろこびですし、お礼銭のお施《ほどこ》しをうけた窮民たちは、うわさを聞きつたえ、これはただの銭と違う、右府信長様のお手にふれたものだ、ただ費《つい》やしては勿体ない、これを資《もと》にし、来年の正月までには、困らぬようにしよう……左様にみな申しおりますと、役人どもまで歓んでおりました。かような善事は、来年の正月も、また次々の年頭にも、吉例といたしてもよいかと存じまする」
と、口を極めて称《たた》えた。
すると信長は、存外、すげなく首を横に振って、
「二度とはいたすまい。窮民どものよろこびも、それに狎《な》れさせたら、それは却って、政《まつり》を執《と》る者の科《とが》となる」
といった。
この正月半ば、森蘭丸は、お使いに派遣されていたが、公務を果して、岐阜《ぎふ》の城から帰って来た。
「もどりました」
「於蘭《おらん》か。大儀だった」
「岐阜の御金蔵の鳥目《ちようもく》一万六千貫、のこりなく束《たば》ね直して参りました」
「そして、蔵出しのこと、中将へも、委細頼みおいたか」
「はい。お旨のとおりに」
信長は満足そうに頷《うなず》いた。
織田中将信忠の岐阜城へ、蘭丸が使いした用件というのは、かねてそこの金蔵に入れておいた巨額な金が、年久しく山積みのままになっているので、信長が、
(さだめし鳥目《ちようもく》の束ね縄もみな腐っていよう。一切縄を改めて束ね直して来い)
と、命じたものである。
土蔵の中の金の縄目は何年ぐらいで腐るものか――までを心得ている信長に、蘭丸は心の底から、
(ひとは御主君の軍略の才のみ知って、経済的な御頭脳は余り認めないが……経済といわず、この君に対しては、秘《ひそ》か事《ごと》は少しもできない)
と、つくづく畏《おそ》れた。そしてそういう驚嘆に出会うたびに、母の妙光尼のなした過去の過《あやま》ちが案じられ、鈴木|重行《しげゆき》を家中に匿《かくま》っていると聞く明智光秀の一挙一動が心懸りになるのだった。
とはいえ、それは蘭丸一箇の心の影である。或いは、幻に過ぎないほどな、思い過ごしかも知れない。ここでの問題はおのずからちがう。
彼の使いの用件を聞くと、はしたない奉公人の末は、
「さすがに、吝《しわ》い御大将。お目のつけどころが偉い。またそれへ蘭丸とは、打ってつけのよいお使い」
などと陰口し合ったが、やがてその後、もっと深い事実を知ると、彼らは、自分で自分の口を抓《つね》らずにいられなかった。
いったい信長には、その豪放と派手気に似合わず、本性は吝嗇《りんしよく》なのだという評がよく世間に撒《ま》かれていた。また実際、その例ともいえるようなことを挙げればいくらでもあった。
――で。いわゆる召使い根性から、今度の金の縄直しの件も、さっそくその口吻《こうふん》で囁《ささや》き合ったわけだが、なんぞはからん、その後伝えられたところによると、岐阜城の金は間もなく、続々金蔵から搬出《はんしゆつ》されて、世の陽の目を見ているという。
しかも、その金はみな、陸輸海運などで、みな伊勢へ送り出されていた。
思い合わすと。
伊勢大神宮は、ここ三百年このかた、遷宮《せんぐう》の執り行いもなく、神廟《しんびよう》の荒れようは畏《かしこ》き極みであったし、国家的な神事も久しく断《た》えたままになっていたので、信長は、新宮御造作のことを思い立ち、昨年来、すでにそれに着手させていたのであった。
その御費用として、新宮造作の奉行は、およそ千貫という額を予算して、年暮《くれ》に差し出したところ、信長は、
「さきに自分が勧進《かんじん》した、やわたの八幡宮の造営も、予算三百貫というのが千貫をこえた。このたびはわけても伊勢の御事《おんこと》、三倍はおろか数倍も要ろう。御費用を切りつめるな」
と、いって、かねて有事の備えにとしてあった岐阜蔵《ぎふぐら》の金子《きんす》をそれに捧げたのである。信長のケチはこうしたケチだった。彼は、武人銭を愛すという誹語《ひご》に対して、みずから恥じない信条を持っていた。
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南蛮学校《なんばんがつこう》
一月も半ばを過ぎた。松や竹も除《と》れてから安土の市民は気がついたのである。
「何じゃろ。たいそう荷を積み込んで、毎日よく船が出て行くが?」
その船は、例外なく、湖南から湖北へ行くものだった。
と思うとまた数千俵の米が、陸路を車馬で蜿蜒《えんえん》の列をなして行く。
それも湖岸を北へ北へと流れた。
安土の殷賑《いんしん》は二十日《はつか》正月を過ぎても衰えは見えない。旅客の往還と、参府帰府の諸侯は相かわらず繁《はげ》しいし、街道にお使番の早馬や、他国の使臣の寛々《かんかん》たる歩みを見ない日もなかった。
「瀬兵衛。参らぬか」
「どちらへです」
「鷹を放ちに」
「何よりの好き。ぜひお供仕りましょう」
「三助も来い」
浅春のひと朝だった。
信長は安土を出た。供の衆は前夜からきまっていたが、ちょうど参り合わせた中川瀬兵衛を誘い、また池田勝三郎|信輝《のぶてる》の子、池田三助も供に加えられた。
お鷹《たか》八|据《すえ》を八人の鷹匠にすえさせ、供の近習も多くは騎馬で、愛智川《えちがわ》の近くまで遠乗りをかねて出かけた。信長の好きは、騎馬、角力、放鷹《ほうよう》、茶道といわれているくらい、狩猟《かり》は趣味のひとつだった。
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毎日ノ御鷹野《オタカノ》、御辛労申ス計《バカ》リモナシ。御気力ノ強サ、諸人感ジ申ス也――勢子衆《セコシユウ》ト供ニ御狂ヒアリテ、御気ヲ晴ラセラル。
[#ここで字下げ終わり]
祐筆《ゆうひつ》もこう記している。勢子や弓の衆はためにへとへと[#「へとへと」に傍点]になるのだった。趣味といい余技といえば消閑《しようかん》のなぐさみに聞えるが、茶の湯にせよ何をやるにせよ、彼のはそんな生《なま》ぬるい沙汰ではなかった。
たとえば、相撲《すもう》にしても、それを安土で観《み》ようとなると、江州《ごうしゆう》、京都、浪華《なにわ》そのほかの遠国からも千五百人からの相撲取をあつめて興行したりする。諸侯、群集と観覧のあげく、日が暮れてもまだ飽きないで、家臣の内から幾組も土俵にのぼせ、
(堀久太郎と蒲生《がもう》忠三郎。ふたりして相撲《すま》え)
と、組合わせを命じたりしている。
忠三郎とは、後の蒲生氏郷。久太郎とは音に聞ゆる堀秀政である。こういう一世の人物や勇将を端的に土俵へあげて闘わせて観る愉快さには、またべつな興味もあったに違いなかろうが、ともかく兵馬|倥偬《こうそう》のあいだにあっても、彼は天放快活に遊ぶ日はよく遊んだ。その遊びにも天下の事を成す気宇をあらわしていた。
だが、この正月の愛智川行は、至って簡素だった。そして放鷹もあまりせず、ほんの野駈《のがけ》程度にすまし、携帯の茶の湯道具を取り出させて野立てで一服のんだりしてすぐ帰りを命じた。
ところが、この日、信州木曾の一族の苗木久兵衛《なえぎきゆうべえ》という者が、供も連れずただ一名で、ここへ信長を訪ねて来ている。信長は、久兵衛の手から書簡を受け取り、一読すると、
「義昌《よしまさ》、他《ほか》お身内の意嚮《いこう》、たしかに信長承知はいたしたが、然るべき人質《ひとじち》など、安土へ送り来ぬうちは、否とも応とも、即答いたし難い」
と、答えて、後のことは、家臣の菅屋《すがや》九右衛門とよく談合したがよいと云い残して去った。
きょうの鷹狩は、ここで木曾の使者と落ち合うことが主要な目的であったかもしれない。彼の帰途を追って、やがて菅屋九右衛門が追いついて来ると、すぐ鞍側《くらわき》へさし招き何事か小声に聞き取った上、
「そうか。ウウム、そうか」
と、満足そうに幾たびもうなずいていた。
その時の帰り途である。鷹狩の列は安土の町へ入って来た。――と、信長は駒を停めて、木立の中の異国風な建物を振り仰いだ。
そこの窓から提琴《ていきん》の音がながれて来る。彼は急に馬を降り、従者の一部だけを連れて門内へ入って行った。
「右府様のお立寄りですぞ」
先に駈け出していた池田三助が扉を排《お》して、階上に呶鳴った。
階段の下の廊下には、大きな裸男の彫像があった。基理蘇督《キリスト》の像か何か三助は知らない。三助はつい珍しげに見まわしていた。
「おう……」
牛のような声が答えた。階上からである。二、三人の宣教師《バテレン》があわただしく降りて来た。信長はもう家の中に立っていた。
「オオ。君主さま」
宣教師は、仰山に表情して、最大な敬意と不意の愕《おどろ》きを、こもごもに示した。
ここは隣の南蛮寺と共に創《た》てられた附属|耶蘇《ヤソ》学校であった。信長も寄附者のひとりだが、高山右近だのそのほかの帰依《きえ》大名が、材木から校舎の内の物まで、一切寄進して出来たものである。
「授業の模様を参観いたしたい。子供らは集まっているだろうな」
信長の望みを聞いて、宣教師《バテレン》たちは狂喜しながら光栄を語り合った。そのおしゃべり[#「おしゃべり」に傍点]に関《かま》いなく、信長はどしどし階上へ登ってゆく。
狼狽を極めながら、宣教師の一人は先に教室へ走って、生徒達にこの唐突な貴賓《きひん》の参観を告げた。
提琴《ていきん》の音がはた[#「はた」に傍点]と止む。私語《ささやき》がしんと鎮まる。信長は教壇に立ってややしばしこの一堂をながめていた。
(珍しき寺子屋もあるものかな)
と云いたげな顔つきだ。教室の机や腰かけなど、悉《ことごと》く泰西風《たいせいふう》である。一冊ずつの教科書を各机の上に置き、さすがに諸侯や旗本の子弟だけに、信長のすがたを仰ぐと粛として礼をした。
十ぐらいから十三、四歳の児童が多い。中には元服前後の少年もいる。みな名門の子ではあり、華麗な欧風文明のにおいにくるまれているので、町にある日本の寺子屋とは、比較にならない花園だった。
だが、どっちがほんとの人間を薫陶《くんとう》するか、信長のあたまのうちでは、すでに解答はついているらしかった。故に、さして感嘆も驚異もしていない。手近な机の上から生徒の教科書を取りあげて、黙ってめくっ[#「めくっ」に傍点]ていたが、それもすぐ生徒に返して、
「いま、提琴を弾《ひ》いていたのは誰だ」
と、たずねた。
信長の問いを受け継いで、宣教師《バテレン》の一名が、生徒に質《ただ》した。信長はすぐ察した。この教室には今まで教師はいなかったものとみえる。生徒たちはまた、それをよいことにして、西洋の楽器を弄《ろう》したり、雑談したり、|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》と騒ぎ合っていたところだったにちがいない――と。
「伊東ゼローム殿です」
生徒たちは、自分らの中のひとりへ、方々から眼をそそいだ。
信長も、その視線を辿《たど》って、十四、五歳の一少年を見出していた。
「はい。あれにおります、ゼロームでありました」
宣教師が、指さすと、その少年は真っ赤になって俯向《うつむ》いた。信長は、覚えのあるようなないような気がして、
「ゼロームとは、誰か。誰の子だの」
と、またたずねた。
宣教師は厳《おごそ》かに、子の師として、その生徒へ告げた。
「ゼローム、起立して、君主さまに、お答えしなさい」
その生徒は起った。机と机のあいだに、姿勢よく起立し、信長のほうへ礼をした。
「はい。私です。今ここで提琴《ていきん》を弾いておりましたのは」
言語も明晰《めいせき》である。眸に卑屈がない。貴人の子らしい感じがある。
信長は、その眼へ、きびしい眼をそそいだ。しかし、少年は眼を俯《ふ》せない。
「おまえだったのか。提琴を調べていたのは」
「はい」
「何の曲を弾いていたのか。洋楽にも曲譜があるのだろう」
「あります。私がいま弾いていたのは、以色羅列《イスラエル》の民が埃及《エジプト》を出る太闢《ダビデ》の聖歌でありました」
少年は得意らしい。あたかも、こんな質問に答えることのある日を待っていたかのように、スラスラいった。
「誰に教わったのか」
「師父ワリニヤーニに教えていただきました」
「ああ、ワリニヤーニか」
「右大臣様にもよく御存じでいらっしゃいましょう」
少年は反問して来た。
「むむ、見ておる」
と、信長はうなずいてから、
「ワリニヤーニは、今どこにおるか」
「ついこのお正月までは、日本におりましたが、もう長崎を立って、媽港《マカオ》から印度のほうへ帰ったかもしれません。従兄弟《いとこ》からの手紙には、多分二十日頃出帆するだろうと書いてありました」
「そちの従兄弟とは」
「伊東アンシオと申します」
「アンシオなどとは聞き及ばん。日本名がないのか」
「伊東義益《いとうよします》の甥《おい》、義賢《よしかた》のことであります」
「お。あの何か、日向《ひゆうが》飫肥《おび》の城主、伊東義益が一族のものか。そしてそちは」
「はい。義益の一子です」
信長は奇妙なおかしさにくすぐられた。この切支丹《キリシタン》文化の花園に教育された小ましゃくれ[#「ましゃくれ」に傍点]た美少年を見ながら、その親の伊東義益という男の、我武者《がむしや》な髯面《ひげづら》を連想したからである。九州大名の大友、大村、有馬などといい、またその伊東義益といい、西日本沿海の城下は、近年いよいよ濃厚に、南蛮色や欧風の文物に彩《いろど》られてきた観がある。
鉄砲、火薬、望遠鏡、医薬品、皮革、染織類、日用|器玩《きがん》の類、何でも信長は迎え入れるに吝《やぶさか》でない。わけても医学、天文、軍事に関する物など大いに欲求し熱望しているといっていい。また、それに伴う多少の弊風《へいふう》も仕方のないお添え物とまず大きく呑みこんではいる。けれど歯も咀嚼《そしやく》しようとせず、彼の消化器も絶対に拒否しているものがある。宗教と教育であった。
しかし、その二つを宣教師《バテレン》に与えなければ、彼らは武器も医学もその他の物も持って来ない。信長は大きな意義を文化に賭《と》して、この安土の一区劃にも、南蛮寺やその学校を許していたが、さてこうして、心にもなくやらせている学園から、芽や蕾《つぼみ》を持ちかけている球根や苗木《なえぎ》を見ると、
「これでは困る」
と、ここの子弟の将来を憂い、また、
「いつまで、放漫に捨ててもおかれまい」
と、急に考えられもするのであった。
信長はそこを出ると宣教師《バテレン》たちに導かれて、華麗な休息室へ導かれた。そして貴人のために特に備えてあるかのような金碧燦然《きんぺきさんぜん》な椅子《いす》に倚《よ》った。宣教師《バテレン》たちはまた、自分らが貴重としている自国の茶や煙草などを出して、この大賓に饗応《きようおう》したが、信長は手にもふれないで、
「いま、伊東|義益《よします》の子の申すには、ワリニヤーニはこの正月の末、日本を船出するとかいうことだが、もう帰ったのか」
と、たずねた。
宣教師のひとりが答えて、
「いえ、こんど師父が、欧州へ行かれるのは、自分の御用ではなく、日本の文化のために、御使節の御案内役に従《つ》いてゆくのです」
「使節とは?」
信長は不審な顔をした。九州はまだ彼の勢力下でない。九州の諸大名と海外との交友や通商には、彼も尠なからぬ神経をはたらかせていた。
「まだお聞きおよびございませんか。実はワリニヤーニの発案で、いちどは是非、日本の有力な子弟に、欧羅巴《ヨーロツパ》の文明を視《み》ていただかなければ、真実の通商も国交も始まらないと、欧州諸国の国王、また法王までを説いて、その御承諾を得、いよいよこんど日本からその御使節を遠くお迎えすることになりました。そしてその人選にのぼった御使節の方々は、十六歳を頭《かしら》にして、まだ皆、いとお小さい少年たちばかりであります」
と、それらの者の人名までを詳しく告げた。
ほとんどが、九州の大藩の子弟だった。伊東義益の甥《おい》伊東アンシオの名もその中にあった。大村、有馬の一族の子もあった。
「それは、勇ましい」
信長は、欧州の遠くへ立つという、十六歳を頭とした少年使節の行《こう》を、心からよろこんだ。
が、同時に、
「ままになるなら、その少年たちに会って、自分の精神の一片でも、餞別《はなむけ》に語って、信念の中に持たせてやりたいが」
と、思った。
何のために、欧羅巴《ヨーロツパ》の諸国王が、また師父ワリニヤーニなどが、大名の子弟らを、さまで熱心に欧州見学に連れてゆくのか。文化的意志は諒解《りようかい》する。しかしまた彼らが最後に期している大きな野望も信長は充分に洞察している。その二つをあわせて、信長は、安土の城にもある地球儀を、いつも眺めているのである。
「ワリニヤーニは、そのため、去年京都を去る折、口惜しげに申しておりました。安土の主君様の御事を」
「ほ。……何とな?」
「安土の主君様は、いつでも御洗礼をおうけ遊ばしそうでいながらさてとなると、容易に、うんとお頷《うなず》き遊ばさない。とうとうこの度も、安土の主君様に御洗礼をおさずけせずに欧州へもどるのが、ただ一つの心残りであると……」
「は、は、は。そうか。そういっておったか」
信長は、椅子《いす》を立った。そして鷹を拳《こぶし》にすえて後ろに立っている従者に向って、
「思わず道草した。さあ帰ろう」
いうやいな、もう大股に階段を下りて、忽ち扉の外で駒を呼んでいた。さっき提琴を弾《ひ》いていた伊東ゼローム以下、生徒たちは、校庭に整列していた。
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古府《こふ》・新城《しんじよう》
韮崎《にらさき》の新府の城は、御台所《みだいどころ》や上臈《じようろう》たちの住む奥の館《たち》まで、すべて落成した。
「同じ正月を迎えるならば」
と、武田勝頼は、父祖数代の古府――甲府の躑躅《つつじ》ケ崎《さき》からこの新府へ――年暮《くれ》の二十四日というのに、引き移ってしまったのである。
その引越しの壮観と美麗さは、沿道の百姓たちに、この正月となっても、まだ語り草となっているほど、言語に絶したものだった。
勝頼とその簾中《れんちゆう》を始め、侍《かしず》く数多《あまた》の上臈たちや、大伯母の君とか、御むすめ子とか、京の何御前とかいう女性の輿《こし》や塗駕《ぬりかご》だけでも、いったい何百つづいたろう。
一族の老武者《おいむしや》、若武者、またお旗本やら、近習やら、それぞれのお役の者やら、金銀の馬鞍《ばあん》、青貝の鏤《ちりば》め、蒔絵《まきえ》の光、開いた傘、つぼんだ傘、弓とうつぼ[#「うつぼ」に傍点]の群、鉄砲の筒の列、赤柄の槍の林……。そうして行列の果てなく続く中にも、もっとも人目を奪ったものは、武田重代の法性之旗《ほつしようのはた》で、
南無諏訪南宮法性《なむすわなんぐうほつしよう》上下大明神
の十三字が、真紅の布地《きれじ》に金色にかがやいているのと、もう一|旒《りゆう》は、人も知る信玄が座右の軍旗としていた、紺地精好織《こんじせいごうおり》の長旗に、こう二行の金字が記《しる》してあるものだった。
疾 如[#レ]風 徐 如[#レ]林。侵
掠 如[#レ]火。不[#レ]動 如[#レ]山
それはまた信玄がふかく心契《しんけい》していた道の師、恵林寺《えりんじ》の快川和尚《かいせんおしよう》が筆になるものとは、どんな者でも知っていた。
(ああ、あのお旗の霊《たましい》は、躑躅《つつじ》ケ崎《さき》が館《やかた》を捨てて行く、きょうのお引き移りを、何とも惜しんでいないだろうか)
甲府の領民は、誰もがそんな哀愁に似た感じを抱いた。そしてこの孫子《そんし》之旗や十三字旗が、ここを立っては川中島へ赴き、その帰るごとに、帰って来た勇士たちも領民も、同じ感激と涙と嗄《か》れるばかりの喊声《かんせい》で、迎え合い答え合った永禄《えいろく》前後の頃が、今は、何となく恋しく振りかえられた。
そして確かに、同じ物にはちがいないが、その頃の孫子之旗と、きょう見る孫子之旗とは、べつな物のような気がしてならなかった。
しかしまた、それらの一族門葉の車駕金鞍《しやがきんあん》と共に、韮崎《にらさき》新府へ移されて行く夥《おびただ》しい重器珍宝、軍需の資材などが、蜿蜒《えんえん》何里のあいだ、牛車や車輛の列になって流れ行くのを見ると、
「甲州はまだ強国だ」
と、意を強うせずにいられなかった。信玄以来の自負心だけは、将士はもとより領下の者にまであった。
そうして、引き移ってからまだ間もない新府の城であったが、二月の声を聞くと、ここには古くからある白梅や紅梅がもう綻《ほころ》びかけ、勝頼《かつより》は今も、叔父の武田|逍遥軒《しようようけん》と共に、奥の丸からその梅林のあいだを縫いながら、鶯《うぐいす》の声をよそに、頻りと何か語りながら本丸の道へと歩いていた。
「――この正月の賀にも、ついに顔をすら見せぬ。病気というが、何か、叔父上のほうに、消息はありませぬか」
勝頼がいう。
それは、勝頼の従弟《いとこ》にあたる、一族の穴山梅雪《あなやまばいせつ》のうわさをしているのであった。
武田方にとって重要な南方の要衝《ようしよう》、駿河口の江尻《えじり》の城をあずけてあるその梅雪が、ここ半年以上も伺候せず、何があっても病気と称して出て来ない心配からであった。
「いや、ほんとに病気らしく思わるる。梅雪入道は正直な男、よも仮病《けびよう》などではありますまい」
そういう逍遥軒こそ、亡兄信玄の気性に似もやらで、実に誰にも負けない好人物なのだから、勝頼としては、この答えに、安心しきるわけにもゆかなかった。
逍遥軒は口をつぐんだ。
勝頼もそれなり沈黙した。――が、二人の歩みだけは、黙々とつづいてゆく。
本丸と奥の丸との間には、雑木の狭い谷間がある。渓流《けいりゆう》もある。左右の崖には梅が咲きかけていた。
その谷間の橋まで来たときである。何に驚いたか鶯《うぐいす》が一羽落ちるように、翻《ひるがえ》って逃げた。――と、同時に梅の崖から、
「お館《やかた》。それにお在《い》でられましたか。一大事です」
と、跡部大炊《あとべおおい》の子で、近習役の跡部源四郎が、顔のいろを変えて、何事か告げに来た。
逍遥軒は叱って、
「源四郎。ちと嗜《たしな》みをもて。一大事などということは、さむらいが滅多に口にすべきではない」
と、いった。
若い近習に訓《おし》える意《こころ》ばかりでなく、逍遥軒は、勝頼の愕《おどろ》きを宥《なだ》めるためにもいわざるを得なかった。なぜならば日頃の剛毅《ごうき》にも似合わず勝頼がひどく顔色を変えたからである。
ところが、源四郎は、
「かりそめには申しません。真実一大事にございまする」
と、はや崖道を駈けて来て、橋のそばに平伏し、
「ただ今、御表へ、信濃《しなの》高遠《たかとお》の仁科《にしな》五郎様からの早打があり、木曾義昌殿《きそよしまさどの》、逆心の旨を、告げ参られました」
と、一息にいった。
「えっ、木曾が?」
と、愕《がく》として、疑いと、半ば、信じたくないような感情を声にして放ったのは、武田逍遥軒のほうであった。勝頼はすでに或る予感をもっていたのか、唇を噛んで、近習のすがたを見下ろしているのみだった。
逍遥軒は、容易にしずまらない胸の鼓動を、なお語気のふるえにみせながら、
「書状は。書状は」
と、早打が携えて来たはずの仁科五郎信盛の手簡を求めた。
源四郎は、答えて、
「事は、火急。寸刻も争えばとあって、五郎信盛様の御手簡は、第二の早打がお持ちするであろうとのこと。ただ今、着いたばかりのお使いは、口上をもって、右の儀を、お館へと、云い終るやいな倒れて、前後も弁《わきま》えませねば、煎薬《せんやく》を与えてそっと休息させておきました」
まだ手をつかえている源四郎のそばを大股に通りこえて、勝頼は、うしろの逍遥軒へ、大声して云った。
「五郎の手簡など、見るまでもない。木曾の変心は、事実だろう。彼といい、梅雪入道といい、近年、いぶかしい兆候《しるし》はいくらもあった。――叔父御、御苦労ながら、また御出陣ください。勝頼も参りますれば」
それから一刻《いつとき》と経たないうちに、新府|今城《いましろ》の櫓《やぐら》から太鼓が鳴っていた。城下には陣触れの貝がながれている。梅は白々と暮れかけている山国の静かな春のたそがれを物々しげに。
発向はその日のうちだった。韮崎《にらさき》の夕日に焦《せ》かれながら木曾路へ向った軍馬は初め五千――夜に入ってなお一万近くも立った。
「よくぞ、彼より叛心《はんしん》を明らかにした。この事なくば、忘恩の賊も、討つ日はなかった。この度こそ、木曾のみか、二心ある者、悉《ことごと》くを、粛清《しゆくせい》して余すなく、甲軍の陣紀を一新せねばならぬ!」
抑え難き憤《いきどお》りもこめて、途中、勝頼はしばしば馬上でつぶやいた。けれど、彼と共に怒り、彼と共に、木曾の不信を憎む声は少なかった。
勝頼は相変らず強気である。
北条と手を断《き》っても、
(北条、何者ぞ)
とばかり、この大きな後ろ楯の力を顧みもせず捨ててしまった。
周囲の献策で、多年、質子《ちし》としていた信長の子を、安土へ送り返しはしても、心のうちではなお、
(信長ずれが、何するものぞ)
という軽視は充分に残していたし、浜松の徳川家康に対してはなおさらのこと、
(やがて、見よ)
と、いう反撃ばかりを、常に、長篠《ながしの》以後は殊に、誇示していた。
強気が悪いわけではない。積極の精神だ。強気は心の瓶《かめ》に満々と湛《たた》えておくべきものである。わけて強者絶対の戦国ではなおさらともいえる。けれどそれには絶対に、軌《き》を過《あやま》らない文化的な省察《せいさつ》と、一見、弱気にも似ている沈着な力の堅持が必要である。
みだりな強がりは、正しい相手を威嚇《いかく》できない。むしろ逆効果を生んでしまう。勝頼の剛毅|勇邁《ゆうまい》は、ここ数年のあいだに、ようやく信長や家康からそういう観察のもとに軽んじられて来た傾向がある。
いや、敵国ばかりではない。甲州の中においてすら、ややもすると、
(信玄公が御在世ならば)
という声がする。
一族、譜代の輩《やから》が、折にふれ、事にふれ、故主を慕うこころは、それだけの空虚を今に抱いている証左だともいえる。
信玄は、強力な軍国政治で押し通した。けれど、一族郎党をして、いや領民すべてのものに、
(この主君があるからには)
という絶対な安全感をもたせて、自分に頼らせきった。
勝頼の代となっても、軍役、徴税、そのほかの諸政すべて、信玄の遺法どおりに行っていたが、何か欠けていた。
勝頼には、その欠けている「何か」が、何であるか分らなかった。いや、欠けていることすら気づかない憾《うら》みがあった。
和と。中心への信頼だった。
こう二つの足らない強力な信玄政治は、却って一族の和を齟齬《そご》しはじめた。ひいては、信玄時代には、上下一般の信条だった――甲州ノ四境ハ一歩モ敵ニ踏マセタル例《タメシ》ナシ――という誇りにも、
(この分では)
という危惧《きぐ》をどことなく抱かせるような傾きがあらわれて来た。
それが長篠《ながしの》の大蹉跌《だいさてつ》を境にして、顕著となって来たことはいうまでもない。あの大敗戦は、ただに甲軍の装備とか戦略上の失敗とかにとどまらず、勝頼の性格的な短所――また日常の強気に対しても、彼を柱と恃《たの》む周囲や一般が、ひどく失望を覚えて、
(勝頼公は、やはり信玄公ではなかった)
という認識を急にあらためさせたことが、後の重大な頽勢《たいせい》を醸《かも》す原因となっていた。
木曾福島を守る木曾|義昌《よしまさ》が、信玄のむすめ婿《むこ》でありながら、方向一転を計り出したのも、
(勝頼には持ちきれぬ)
と、甲州の将来に見通しをつけ出したことに始まっている。彼は、美濃《みの》の苗木城《なえぎじよう》の遠山久兵衛を介して、もう二年も前からひそかに款《かん》を安土の信長に通じていたのであった。
諏訪《すわ》の高原から木曾福島へ、甲軍の部隊は、幾筋にもわかれて行った。
みな、往くときは、
「木曾勢のごとき、一揉《ひとも》みに踏みつぶさん」
と、大言して立った。
けれど、日を経て、諏訪之上原《すわのうえはら》の本陣へ聞えて来る戦況は、一として、武田四郎勝頼父子に、会心の笑みを刻ませたものはなかった。いや、会心の笑みはおろか、
「なかなか、木曾も頑強です」
「福島の嶮岨《けんそ》を擁《よう》し、難所に奇計をもうけ、お味方の先鋒もまだそれへ近づくだに、よほど日数を要するものと見られます」
など、捗々《はかばか》しくない戦報ばかりであった。
「自身、その場へ、臨まぬことには――」
勝頼は、聞くごとに、唇をかんだ。彼の性格にあるものが、旺《さか》んに忿懣《ふんまん》し、じりじりと埒《らち》のあかぬ戦況に業《ごう》を煮やしはじめていた。
月をこえて、二月の四日頃だった。
所詮《しよせん》、この程度どころでない大悲報が諏訪《すわ》へはいって来た。このときの混乱と騒擾《そうじよう》と、武田方の生色《せいしよく》を奪った愕《おどろ》き方《かた》というものは、けだし信玄以来の甲州人としては覚えがない程なものであった。
諸地方からの早馬や物見の者など、いちどに諏訪口からここの陣所へ混雑して、口々にいうところは皆、次のように一致していた。
「安土の信長、織田|麾下《きか》へ、急に出動の令を発し、すでに、信長自身も、江州を出たとのこと」
またいう。
「――駿河口よりは、徳川家康の手勢、関東口からは北条氏政の兵、また、飛騨《ひだ》方面から金森|飛騨守《ひだのかみ》、呼応して、いちどに甲州入りを目ざし、伊那《いな》口には、信長信忠の父子、ふた手にわかれて、はや乱入と聞えわたり、高き山に登ってみますると、東、西、南――いずれを眺めても、濛々《もうもう》たる薄煙《うすけむり》が、遥かに望まれておりまする」
「……信長が! 家康が! そして北条氏政までが? ……」
愕然《がくぜん》、勝頼は、腰をついたように叫んだ。
諜報の報告どおりに聞けば、自分の立場は、すでに袋の中の鼠にひとしい。
つい、七十日ほど前ではないか。――親切をこめて、わざわざこちらから信長の質子《ちし》を安土へ送り返してやったのは。
そのとき、使いの者に、信長は何といったか。
(武田家におあずけしておくのは、わが家におくより気安う存じていたが、かくまで御養育の上、お送り返し賜わるとは、四郎勝頼の温情、寔《まこと》に忘れ難い。この一事は、いよいよ両家の親和を永久にする楔《くさび》ともなるであろう)
そういったというではないか。
その信長が。
勝頼は、敵の不信に、髪も逆立つような感情を示した。そしてこの感情の中には、自分を省《かえり》みてみる余裕など微塵《みじん》も失《な》くなっていた。
だがまだまだ信長に対する彼の怒りは、遣《や》り場《ば》があった。この騒然たる陣営に黄昏《たそが》れの迫った頃、
「――先手《さきて》の武田逍遥軒どの初め、一条右衛門大夫どの、武田|上野介《こうずけのすけ》どのにいたるまで、夜来、各所の御陣地を捨て去り、いずことも知れず逃《に》げ退《ひ》かれて候う」
という報が入った。
もちろん木曾の前線からである。
「嘘だろう」
勝頼は、信じなかった。
しかし、その夜のうちに、かかることまで、すべて事実に相違ないことが、次々の飛報によって、否《いな》みようもなく証明された。
「何たること!」
勝頼は、罵《ののし》った。
「木曾のごときは、疾《と》くに亡ぶ家なるを、旭《あさひ》将軍以来の名門とて、父信玄がむすめまで嫁《とつ》がせて、一族並に待遇して来たものではないか」
と、あたりの者へ云い散らし、陣営の内を檻《おり》の中の猛虎のように歩きながらなお云い熄《や》まなかった。
「逍遥軒《しようようけん》も逍遥軒だ。かりそめにも勝頼の叔父、一族の長老ではないか。戦陣を退《ひ》いて無断、逃げ退《の》くとはどういう料簡《りようけん》か。その他の奴輩《やつばら》に至っては、ただ不忠忘恩、いうも口の穢《けが》れッ……」
彼は、天を恨み、人を恨んだ。そして自分を恨むことを忘れていた。
そうした程、平常から暗愚な彼でもなかったが、よほど肚のできている人間でも、彼の立場に置かれたら、動転せずにいられなかったろう。いわんや勝頼の程度では無理もなかった。
「ぜひもない儀。この上は、一《ひと》まず陣払い仰せ出されて」
小山田|信茂《のぶしげ》やその他のすすめで、勝頼はにわかに諏訪之上原《すわのうえはら》から引っ返した。さあれ何たる寂寥《せきりよう》さだろう。二万余人と数えられた兵数が、まだ一戦も交《まじ》えぬのに、旗本以下、彼に附随して韮崎《にらさき》まで帰ったもの四千ばかりに過ぎなかった。
悶々《もんもん》とやり場のない心を訴えようとしたのか、彼は、恵林寺《えりんじ》の快川和尚《かいせんおしよう》を呼び迎えた。
どこまで、悲運は急に来るのか、ここに帰城してからも、彼は、かさねがさねの凶報をうけていた。それは、一族の穴山梅雪入道も明らかに離反を宣して、事もあろうに、その拠城《きよじよう》江尻を敵に委《い》したばかりか、徳川家康の道案内をつとめて、甲州乱入の先手にあるというのであった。
自分の妹聟《いもむこ》にあたる梅雪までが、こう歴々と、反心を示し、しかも自分に向って滅亡を強《し》いて来るという事実を見ては、彼も、苦悶のなかに、少しは、自己を顧みずにいられなかった。
いったい、自分のどこが悪かったのか? ――ということをである。
しかもなお、一面には、負けじたましいを、いよいよ猛《たけ》くして、百方防備を命じながら、韮崎《にらさき》の新城へ、快川《かいせん》を迎えたのは、時すでに遅しではあるが――彼としてはしおらしい自省の現われであった。
「父の信玄が歿してからちょうど十年。長篠《ながしの》の合戦を経てよりまだ八年。どうして、かくも急激に、わが甲州の武将どもは、かつての節義を失ったのでしょうか」
勝頼は、和尚にたずねた。
対座したまま、いくら経っても、快川の方から何もいわなかったからである。
「つい十年前までの武将は、こんなものではなかった。各※[#二の字点、unicode303b]、恥を尊び、名を惜しみ、かりそめにも、主君に裏切るなどということは、父信玄の在世中、稀れにもなかったものです。いわんや一族においてをやです」
快川はなお瞑目《めいもく》していた。
冷たい灰のような相手に対して、勝頼はさながら火のように云いつづけた。
「しかも、その叛逆者《はんぎやくしや》を討ちに向った者どもまでが、皆、一戦も交《まじ》えぬばかりか、主命もまたずに、離散するという始末です。これが、さしも上杉謙信にすら、川中島以南、一歩も踏みこえさせなかった甲州の一族や武将のすることでしょうか。いったい、かかる士風の頽廃《たいはい》は、世の中の罪でしょうか、彼ら自体が堕落して来たのでしょうか。もっとも馬場、山県《やまがた》、小山田、甘糟《あまかす》、その他の宿将の多くは老い、多くは歿し、いま残っているものは、その次代の嫡《ちやく》か、乃至《ないし》はまた、往年の父信玄が直属のつわものとは、たいへん人間もちがって来てはおりますが……」
快川はやはり答えなかった。
この老師も老いを思っているのかもしれない。信玄とは並ならぬ心交のあった快川は、齢《よわい》もはや七十をこえていよう。雪を置いた眉の下から、変れば変るものと、亡き信玄の後継ぎを眺め入っている体《てい》であった。
「老師。――事ここに至ってからでは遅いと思し召すか知りませんが、政治の布《し》き方が悪ければ政治を。軍紀の統率がいけないなら大いに軍紀の振粛《しんしゆく》を。……勝頼は革《あらた》めんと苦慮しています。老師は道友、父に訓《おし》えられたことも多大であったと聞いています。何とぞ、不肖の子勝頼にも、善策をお授け下さい。どうか、お教えを惜しみたまわず……信玄の子ぞと思し召し……ここが悪い、かく致せ、ああせいと、忌憚《きたん》なくお聞かせを仰ぎとうぞんじまする」
「…………」
「では、勝頼から申してみます。父の歿後、いよいよ国防を厳にし、軍備を増強するため、河川関門《かせんかんもん》の徴税、そのほかの諸税など、急に増して取り上げたのが人心を離れさせたのでしょうか」
「否」
快川は頭《こうべ》を振った。勝頼は急《せ》きこんで、
「では、賞罰の分明《ぶんめい》に、勝頼の落度がありましたろうか」
「なんの……」
雪眉《せつび》の面《おもて》がしずかにまた、横へ振られただけである。
勝頼はついに、泣かんばかりな声をして俯《う》っ伏《ぷ》した。豪気強情、稀に見る自尊心の持主も、快川のまえには身もだえして哭《な》いた。
「哭《な》かれな。四郎どの。御身は決して不肖ではない。不孝な御子《おんこ》でもない。……ただお気づきあらぬ落度が一つあられた」
やがて、快川は喩《さと》した。やさしく宥《なだ》めた。
「――御身と信長とを、並び立たせた今の時代が無情じゃな。所詮《しよせん》、あなたは信長の敵ではない。甲山は文化に遠く、信長は地の利を得たりというが、否、重因はそれではない。信長は、一戦一戦戦うにも、一令一令政治するにも、心の裡《うち》、かならず朝廷を忘れず、朝廷の奉公人をもって、武門自身の本分としておる。皇居の造営、馬揃いの天覧など、ほんの一事だが、また信長の万事ともいえる。当然じゃ。甲州ならずとも、割拠の群雄に属するものが、みな帰するところへ帰してゆくのは」
信玄に聘《へい》されて、甲斐《かい》の恵林寺に来る前の快川和尚は、京都の妙心寺に出世し、美濃の崇福寺《すうふくじ》にいたのである。
正親町《おおぎまち》天皇には、禅に御心《みこころ》をよせ給うこといと深くおわした。妙心寺の愚堂など幾たびか召されて宮中の禅莚《ぜんえん》に参じている。従って、朝廷に奉じる禅家一般の臣節にも、武家以上かたいものがあった。わけて快川《かいせん》は、こんな遠隔にありながら、去年、天正九年には、畏《かしこ》くも、正親町天皇より大通智勝国師《だいつうちしようこくし》の号をいただいて、特賜《とくし》の天恩に感泣していた。
そうした快川の心境から、世勢の大きなうごきと、この甲州の推移をながめていると、今、勝頼の痛切な質問にたいして答え得るものは、前にいった一語しかなかった。
彼は、亡き信玄とは、心契《しんけい》のあいだにあったし、信玄が彼を尊崇したことも一通りでなく、彼も信玄を信じること篤く、その七周忌の偈《げ》には、故人を評して、
――人中ノ龍象《リユウゾウ》。天上ノ麒麟《キリン》。
と称《たた》えたほどであるが、なお決して、その父に比して、子の勝頼を、いわゆる不肖《ふしよう》な者とはしていなかった。
むしろ勝頼には、同情していたほどである。人が、勝頼の非をいえば、
(それは、望むが無理じゃよ。余りに親が偉《えら》すぎた)
と、答えるのが常だった。
彼として、いささかなお、不足を思うならば、もし今日まで、信玄が生きていてくれたなら、その信玄をしてその業を、甲斐一国にとどめさせず、もっと大いなる意義の下に、その大器|宏才《こうさい》を用いさせたにと悔やまれることであった。しかし、すでにその大処に着眼して、源平時代以後の武門の割拠的存在を、皇室中心に、徐々と是正し、またみずから臣下としての、その範を身に示している信長というものの大きく中央に在る今日となっては――信玄よりなんといっても人物の小さい勝頼では、快川の嘱望《しよくぼう》はまったくなくなったといっていい。――春秋すでに去る。快川の気持だったにちがいない。
では、その勝頼をして、織田家の麾下《きか》にひざまずかせ、せめて信玄亡きあとの安全をはかろうとせん乎《か》――これはできないことだった。新羅《しんら》三郎以来の名族、また余りに宇内《うだい》に燿《かがや》きすぎた信玄の名にたいしても、勝頼たるものが甘んじて今さら、信長の膝下《しつか》に、降を乞えるものではない。
また、それ程までに、辱《はじ》も意地もない武田四郎勝頼でもない。
領下の庶民の間には、信玄時代の政治よりも悪くなったという声もある。重税を課されたのがその重なる原因とみられる。けれど快川がみるに、勝頼は決して、自分の贅《ぜい》や驕《おご》りのためにそれをしたのではない。悉《ことごと》く軍事に向けているのである。武器、戦法、あらゆる文化も、中央はもとより四隣の国々まで、ここ数年間に、長足に発達し、銃器火薬の購入だけでも、信玄時代の支出程度では、到底それらの国々と伍しては行かれなくなっていた。
「お身を大事になさい」
快川はやがて辞しかけた。
「はや、御帰山ですか」
勝頼はなお問いたいことを胸いっぱい抱いていたが、松籟颯々《しようらいさつさつ》、呼びかけても、答えは同じものしか聞かれないことを察して、
「これが、最後のお別れやも知れません」
と、両手をつかえた。
快川も、数珠《ずず》をまとった指を、下について、
「おさらば」
と、いった。否とはいわずに帰り去った。
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高遠城《たかとおじよう》
「いざ、甲山の春を探って、桜を狩り草を摘《つ》み、帰路は東海に出て、富士見物などして来ようか」
出陣のことばに、信長はこんなことを云いながら、安土《あづち》を立った。
こんどの甲州入りには、充分な勝算があったらしく、どこか悠々たる門出だった。
二月十日、すでに信濃に入り、伊那口、木曾口、飛騨《ひだ》口などの手配を終る一方、関東方面には、北条家を促《うなが》し、駿河方面からは、同盟国の徳川家康に、進撃を催促していた。
姉川、長篠《ながしの》の戦いなどの時からみると、こんどの甲州討入りは、まるでわが畑の物でも採りに行くような信長の落着きぶりであった。
もう敵国の中に、敵ならぬ味方がいた。苗木《なえぎ》城の苗木久兵衛も、木曾福島の木曾|義昌《よしまさ》も、彼の旗を、ひたすら待っていた者に過ぎない。
織田信忠、川尻与兵衛《かわじりよへえ》、毛利|河内守《かわちのかみ》、水野|監物《けんもつ》、滝川左近などの岐阜《ぎふ》から岩村へ入った軍勢など、その行くところ敵なしという有様だった。
武田方の砦々《とりでとりで》は、風を望んで降《くだ》ってしまい、武田一族が守るところの松尾城も飯田の城も、夜が明けてみると、空城《からじろ》になっている。
「伊那口方面は、ほとんど支える敵もなく進んでいる」
こういう連絡《れんらく》をうけた木曾口方面でも、
「これでは何やら物足らな過ぎる」
と、将士のあいだには、こんな談笑さえ交《か》わされていた。
この手の軍勢は、二月十六日頃、鳥居峠へかかっていた。そしてここで埋伏《まいふく》の味方、苗木久兵衛父子の兵と合し、奈良井《ならい》附近ですこしばかり敵の抵抗もあったが、小合戦で終り、敵の遺棄《いき》死体四十余名を葬ったに過ぎなかった。
馬場|美濃守《みののかみ》信房の息、昌房《まさふさ》のたてこもっていた要害|深志城《ふかしじよう》も、またたくまに陥ちてしまい、これへ迫っていた織田|長益《ながます》、丹羽|氏次《うじつぐ》、木曾義昌などの合流軍も、燎原《りようげん》の火のように、次々と甲州の外廓《がいかく》を攻めつぶして進んだ。
勝頼の叔父|逍遥軒《しようようけん》すら、伊那郡《いなごおり》の一城をすてて逃げたほどである。一条右衛門大夫、武田上野介、同左馬之助などが、旗を巻いて、行方を晦《くら》ましたとて怪しむにあたらない。
何がかくも、彼らを脆《もろ》くさせていたのか。原因は複雑ではあるが、また簡単にいえないこともない。
――こんどは甲州も保てぬ。
悉《ことごと》くの武田方が、いつのまにか必敗を観念していたのだった。或いはむしろこの日の来ることを待っていた傾きさえあったのである。
だが、こういう時、たとえいかに必敗を知っていても、
「ここに我あるを知れ」
という侍らしい侍が現われない例《ため》しは古来からなかった。
信州|高遠《たかとお》の城にあった仁科五郎信盛《にしなごろうのぶもり》は、まさにその人であった。信盛は、四郎勝頼の弟でもある。
そこまでほとんど、一気に席巻《せつけん》して来たので、織田信忠は、
「これも、およそ」
と見込みをつけ、一書をしたためて、弓勢《ゆんぜい》の強い一武者に、矢文として、搦手《からめて》の山から城中へ射込ませた。もちろん勧降状である。
すると、城中からは、すぐ返書が来た。――芳札披閲《ハウサツヒエツ》ソノ意ヲ得候――という起筆から堂々とした文面で、終りには、
[#ここから2字下げ]
当|籠城《ロウジヤウ》ノ衆ハ、一旦身命ヲ、勝頼方ヘ武恩トシテ報《ムク》イ居リ候ヘバ、臆病ナル輩《ハイ》ニハ準ズベカラズ、早々御馬ヲ寄セラル可候《ベクソロ》。信玄以来、鍛練ノ武勇手柄ノ程、御目ニ懸ケ可候《ベクソロ》。恐々謹言
[#ここで字下げ終わり]
と、墨|匂《にお》わしく覚悟のほどが答えてあった。
信長の命をうけている中将信忠である。しかも若い。
「よしッ、その分ならば」
と、強襲を命じた。
搦手之口《からめてのくち》、大手之口から、寄手はふた手にわかれて城へ攻めかかった。
初めてここに、戦《いくさ》らしい戦が見られた。仁科信盛以下、城兵一千余は、もちろん死を期してのことだ。さすがに甲州武者の武勇はまだ廃《すた》っていない。
二月から三月初めにかけて、高遠城の石垣は、攻守両軍の兵がながす碧血《へきけつ》に塗られた。濠際《ほりぎわ》半町を隔てて結《ゆ》い廻してあった第一柵も突破され、濠も石や草や土木に埋められ、寄手は駈け渡って来て、敏捷《びんしよう》に石垣の下にへばり[#「へばり」に傍点]つく。
「うぬ」
「来てみろ」
上の土壁や築土《ついじ》越しに、恐ろしい敵の目が無数に覗《のぞ》き下ろす。そして槍を出す、岩石を落す、油をぶっかける、材木を転がして来る。
石と共に、材木と共に、また汚水のしぶきと共に、寄手の兵は、石垣の七分目、八分目まで攀《よ》じのぼって来ては墜《お》ちてしまう。
しかし、陥《お》ちた兵ほど、勇敢だった。陥ちてもなお意識があるのは、すぐ刎《は》ね起《お》きて、また、
「何を」
と、石垣へ取りつくのである。
その兵のすがたを見た兵は、その敢然たる勇姿へわっと声を送り、後から後から負けじと攀《よ》じのぼる。そして墜《お》ちてはまた繰り返し、墜ちては石垣にとりつき、奮迅《ふんじん》のまえには何ものもない。
しかし、守る方にも、決してそれに劣らない一致と死力がある。
土壁、築土、櫓《やぐら》などから、半身或いは全身を曝《さら》して、それへ応戦しているのは、城中でも逞しい甲州武士のみで――寄手の側からは知れなかったが――一重《ひとえ》城壁内の活動を見るとすれば、そこにはさらに涙ぐましい全城一心の奮戦ぶりがあった。
籠城と同時に、ここへ避難して将士と共にたてこもった無数の家族、老いたるも幼きも、女も、そして身重《みおも》の妊婦《にんぷ》までが、悉《ことごと》く、防備の何かを手伝って、必死に働いているのである。
若い女は、矢を運び、老人は焼けついた鉄砲の掃除をし、また傷負《てお》いを扶《たす》けたり、兵糧《ひようろう》の炊《かし》ぎに働いたり、どこもかしこも混乱沸くが如き騒ぎを呈しておりながら、しかも誰が命じるでもなく、一《ひと》すじの秩序はその中にきちんと立っていて、愚痴めいた顔一つ混《ま》じってはいなかった。
「所詮《しよせん》、急には陥ちますまい……。いかなる犠牲も惜しまずと申すなればべつ[#「べつ」に傍点]ですが」
寄手の一将、河尻肥前守は、中将信忠のまえに出て、余りな力攻めの無理と、過大な犠牲をここで払うことの非を説いた。
「ちと、討死負傷が多すぎたな」
信忠も、反省しているのである。肥前守は舌を鳴らしていった。
「しかもまだ、あの通り、城は、頑然《がんぜん》たるものです」
「策はないか。何か、良策は」
「思うに、城兵の強味は、まだ新府には勝頼ありと、信じているからでしょう。――ここを一まずおいて、先に甲府、韮崎《にらさき》を攻むるのも一策ですが、そうするには全体的な作戦がえを要します。……もっともよいのは、新府の落去、勝頼の死を、城方へ信じさせるにありますが」
信忠は、うなずいた。
三月一日の朝だった。寄手から射込んだ二回目の矢文が城内に落ちていた。
「児戯《じぎ》にひとしい偽文《にせぶみ》、攻めあぐねた寄手の顔を見るような」
仁科五郎信盛はそれを読んで笑った。
矢文には、こう書いてある。
[#ここから2字下げ]
去《イ》ヌル二十八日、甲館落去、勝頼殿ニハ生害《シヤウガイ》アリ。一門ノ面々ニモ或ハ殉《ジユン》ジ或ハ降人トナリ、甲州中府スデニ定マル。
片々一地方ノ一城ニ過ザル当城ニ於テ、武門申シ立テアルモ既ニ意義ナカルベシ。早々、城門ヲ開カレ、本領ノ安堵《アンド》ヲコソ計ラセ給ヘ。
織田中将信忠、情ヲ叙《ノ》ベテ、敢テ勧《スス》ム。
[#ここで字下げ終わり]
「甘いものだな。見《み》え透《す》いたこんな小手技《こてわざ》を、兵法とでも思うているのか」
その夜、五郎信盛は、小宴《しようえん》をひらいて、家の子郎党たちに、その書を示し、
「もし、これに意《こころ》をうごかす者があるなら、遠慮はない、明夜までに、裏谷からこの城を落ちて行くがいい」
鼓《つづみ》を打ち、謡《うたい》を微吟《びぎん》し、いと楽しく夜を更《ふ》かした。
その夜に限って、各侍大将の妻女たちも召しよばれ、一巡り杯を賜わった点などから、一同は早くも、
「こよい限りのお胸であるな」
と、直感していた。
果たして、翌二日の朝、五郎信盛は、大《おお》薙刀《なぎなた》を杖ついて、左の太い足に、草鞋《わらじ》をくくりつけ、その片足を引き摺《ず》り引き摺り城の多門《たもん》まで歩いて来て、
「昨夜来、なおこの城にふみ止まり、今日をここに待ち合わせたる人々は、一同、この下に集まり候え」
と、命じて、自分は多門の上へ登って行った。
やがて、床几《しようぎ》を置かせて、多門の上から彼が見まわすと、城中の老幼婦人をのぞいた精鋭の将士千人足らずの人数は、ほとんど一名も減っていなかった。
「…………」
黙祷《もくとう》でもしているように、彼はしばらく頭を下げていた。――御覧ぜよ、なお甲軍にはこういう者もおりますると、父信玄の霊に念じているのであった。
やがて、面《おもて》をあげた。きっと全軍をそこから見ていた。
彼は、兄の勝頼のように、豊頬美肉《ほうきようびにく》の男子でなかった。長く田舎暮らしの質素に甘んじていたので、何の贅食《ぜいしよく》も奢侈《しやし》も知らない。颯々《さつさつ》と山野の風に育って来た若鷹《わかたか》のような眼《まな》ざしを備えていた。
生年三十四歳、父信玄に似て毛ぶかく、眉は長く、唇《くち》は大きい。
「さてきょうは、雨かとも思うたが、一天は晴れわたり、遠山の桜も見え、死ぬには佳《よ》すぎるほどな日和《ひより》となった。とはいえ、われら何ぞ、浮雲の富をのぞんで名を捨てんや。……ただ五郎信盛、一昨日の防戦に、見るとおり片脚に深傷《ふかで》を負い、進退もままならぬゆえ、まず、各※[#二の字点、unicode303b]が最後のいくさを見とどけた後、悠々《ゆるゆる》と、ここに敵を待ちうけて存分合戦の後まいるぞ。――いで、大手、搦手《からめて》を押し開いて、雄々しき山桜花の散りぶりを見せよ」
その朝の彼のことばだった。
おう、おうッ、と答えあう声の嵐、口々に、畏《かしこ》まって候うと呼ばわり猛《たけ》ぶ武者たちの人渦。そしてみな顔は、多門の上なる主人のすがたを仰いで、今を見納めぞと、しばしは同じ声のみを繰り返していた。
死ぬか生きるかでなく、絶対にこれは死の一途であった。
城の門は、城中の者の手で、敢然と、大きく開かれ、千余人の将士は、喊《とき》の声をあげて斬って出た。
大手の一門と、搦手《からめて》の一門から。
寄手の備えは、その第四陣まで突きくずされた。
一時は、織田信忠のいる中軍すら、危うくも、混乱しかけた。
「退けや。出直せ」
と、城方の侍大将、今福《いまふく》又右衛門は、頃を計って、城中へ迅速《じんそく》に退いた。
小幡周防《おばたすおう》の隊、春日《かすが》河内守の隊なども、今福隊に倣《なら》って、
「帰れ帰れ」
と、引っ返す。そして、各※[#二の字点、unicode303b]、獲《え》た首をかぞえては、多門の上の主君に見せ、
「湯など一杯飲んで、また出直します」
と、悠々たる意気を示した。
こうして、大手、搦手《からめて》とも、一休みしては駈け出し、斬り崩してはまた引き揚げ、大波の寄せ返すような激戦を繰り返すこと六度、首を獲ること四百三十七級――その日もはや暮れなんとして――ようやく味方の人数にもめっきり[#「めっきり」に傍点]減《へ》りが目立ち、残る人々もすべて満身|創痍《そうい》を負って、恙《つつが》なく歩いている人影はほとんどなかった。
パチパチと生木《なまき》の焼けいぶる響き。ごうごうと炎の迫る音。すでに寄手は、ここかしこから、城中へなだれこんでいた。
仁科五郎信盛は、なお多門の上にいて、味方の最期を――その一人一人の働きまでを――眼《ま》じろぎ[#「じろぎ」に傍点]もせず見とどけていた。
「殿ッ。殿ッ。――いずれにおわすか」
家中の小菅《こすげ》五郎兵衛は、多門の下を駈けめぐっていた。信盛は上から、
「これにおる」
と、健在を知らせ、ようやく近づいたな、そちの顔も見せよ――と下をさし覗《のぞ》いた。
五郎兵衛は、煙の上に、主君の影を仰ぎながら、
「小山田備中どのを始め、お味方の将士、あらましは早お討死です。殿にも、御生害のお支度を遊ばしますように」
と、喘《あえ》ぎ喘ぎ告げた。
「五郎兵衛、ここへ登って来い。――介錯《かいしやく》に」
「はッ。ただ今」
大きく上へ答え、五郎兵衛はよろよろと、多門の階段の方へまわって行ったが、いつまでも楼上へは来なかった。いたずらにそこの梯子口からは、刻々と、濃い煙が昇って来るだけである。
信盛は、べつな狭間《はざま》の板扉を押して、覗《のぞ》いてみた。もう下に見えるは敵兵ばかりだった。――がただ一人、その大勢の中に奮闘している味方がある。しかも薙刀《なぎなた》を持った女性であった。
「あ。諏訪《すわ》勝左衛門の妻が……」
信盛は、いますぐ死ぬ身なのに、ふと抱いた意外な感を、解こうと努めた。
「日頃、ひとの前では、薙刀を持つなどはおろか、口すらよう得《え》きかぬほど、内気なあの婦人が……」と。
しかし、彼自身、今はすることが迫っていた。そのまま、狭間《はざま》から大声あげて敵へ云った。
「信長、信忠の手勢ども、しばし常に返って、虚空《こくう》の声を聞け。この世の千年も歴史では一瞬。信長いま覇《は》を誇るも、散らぬ桜やあらん、燃えぬ覇城《はじよう》やあるべき。――永劫《えいごう》、散らず、燃えず、不朽のものとは、どんなものかを、いま見せてやる。信玄が五男五郎信盛が見せてやる」
織田兵がそこへ登って来てみた時は、腹十文字に掻っ切った死体のみで、首はもうなかった。そしてここも一瞬のまに春の夜空を焦《こ》がす火柱と化《な》った。
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春騒譜《しゆんそうふ》
新府|韮崎《にらさき》城の混雑は、この世の終りを叫んでいるようだった。
「はや高遠も陥《お》ち、御舎弟信盛様以下、城とともに、悉《ことごと》くお討死の由にござります」
こう家臣から聞いたとき、武田四郎勝頼も、動ぜぬ顔色に受けて、
「ううむ、そうか」
とはいったが、さすがに、いまは自分の力の及ばないことを、明らかに観念した容子《ようす》であった。
つづいて、次の早打には、
「織田中将信忠の兵は、すでに上諏訪《かみすわ》から甲斐へ乱入――御被官《ごひかん》の一条右衛門|大輔《だいすけ》どの、清野美作《せいのみまさか》どの、朝日奈摂津《あさひなせつつ》どの、山県《やまがた》三郎兵衛どの御子息など、戦うも降《くだ》るも、容赦《ようしや》なくこれを殺し、斬っては路傍に梟《か》けながら、潮のごとくこれへ近づきつつあります」
またの飛報には、
「信玄公のお血すじたる盲人の龍宝法師《りゆうほうほうし》も、敵の手にとらわれ、敢《あ》えなき死をおとげなされた由」
と、聞えて来た。
そのときこそ勝頼は眦《まなじり》をあげて罵《ののし》った。
「無慈悲な織田勢。盲人の法師に何の罪やある。何の抵抗力があるかッ」
しかし彼は自分の死のほうが、より強く今は考えられてきた。じっと、空《むな》しい唇《くち》を噛んでは、心の波の底に、
「こういう憤《いきどお》りを外に出しては、勝頼、逆上せりと思われぬでもない。あたりの家臣どもにも不面目――」
と、自制しているふうだった。
神経が太い、粗《あら》いと、彼の剛毅《ごうき》な表面を全部に観《み》ている者も多いが、実は、家臣にたいしてすら、細かい気をつかう勝頼であった。それにつれて、彼の節義とするところも、主人としての面目も反省も、総じて小乗的《しようじようてき》だった。
父の遺風をうけて、彼も快川和尚《かいせんおしよう》から、その禅義を授かっていたが、同じ師、同じ禅を学んでも、信玄のような禅を活《い》かし得なかった。
「――まちがいではないか。高遠の城だけは、まだまだ半月や一月は支えきっていると信じていたが」
高遠|陥落《かんらく》と聞いたときなど、こういう呟《つぶや》きすら洩らした程である。防戦上の誤算というよりは、人間としての未熟さを忌憚《きたん》なく出している。何せい、生れながらの素質はあっても、その未完成なうちにこの時運に会ってしまったのである。
ここ数日、彼のいる本丸は、広い評定《ひようじよう》の間とそのほかの袖部屋《そでべや》まで、すべての襖《ふすま》をとり外《はず》し、さながら連日連夜の大地震でも避難しているように、一門一族、家老その他、みな起居を共にし、雑居しているのだった。
もちろん、庭さきにも、幕を張り、楯《たて》をならべ、兵は高張《たかはり》を掲げて、夜も寝ずに警備している。
そして、刻々の状況は、大手から中門を通り、直接庭づたいに、ここに報じられ、勝頼は、縁越しに早打の報《しら》せまで、自身聞いていた。
去年、普請《ふしん》したばかりの、木の香の新しさも、金銀のちりばめ[#「ちりばめ」に傍点]も、調度の美も、何もかも、今はすべてが、邪魔物、足手まといの物としか、誰の目にも映らなかった。
「お館《やかた》さまには、いずこにお在《わ》せられましょうか」
かいがいしく、裳《もすそ》をくくしあげた女房が、侍女《こしもと》ひとりをつれて、御台所《みだいどころ》のお使いと称し、その混雑な庭面《にわも》から、ほの暗い広間の中の人群れを見わたしていた。
それほどそこには、老若《ろうにやく》の武将がいっぱいにいて、何やら騒然と、思い思いな声をもらしていた。
彼女は御台所《みだいどころ》付きの女房で茅村《ちむら》の局《つぼね》という。やがて勝頼の前へ来て、奥の丸からのお使いという旨をこう訴えていた。
「何せい彼方《かなた》の曲輪《くるわ》は女子《おなご》のみでございますゆえ、こことは違い、泣き惑うてはただうろうろ、どう宥《なだ》めても、悲嘆してやみませぬ。御台所の仰せ遊ばすには、いずれにせよ、最期はひとつ時、奥の丸の女子どもも、こなたへ共に立て籠り、侍衆とひとつにいたら、すこしは覚悟も早くつこうかとの御意にござります。おゆるしあれば御台所様のお座も、すぐこなたへお移しいたして参りますが、如何でございましょうか……」
勝頼は聞くとすぐ、
「それがよい。奥方《おく》も幼い者たちも、みな連れて、わしの側へ移って来い」
と、いった。
そのとき彼の周《まわ》りには、ことし十六になる嫡男の太郎信勝だの、宿将|真田昌幸《さなだまさゆき》、小山田|信茂《のぶしげ》、長坂|長閑《ちようかん》などもいて、何か評議中らしかったが、茅村《ちむら》の局《つぼね》が立ちかける前に、信勝は、つと進んで、
「父上。それは却って、およろしくありますまい」
と、諫《いさ》めた。
不機嫌に――というよりは、むしろ尖《とが》った眉、眼《まな》ざし[#「ざし」に傍点]を、子に向けて、
「なぜ、いけない?」
「……でも、女子《おなご》たちがこれへ来ては、足手まといになります。悲嘆を見て、剛気な侍どもの心も乱れがちになります」
太郎信勝は若年ながら、今、一説を主張していたところである。すなわちここは新羅《しんら》三郎以来の父祖の地、同じ戦うにも死ぬにも、最後の最後まで、先祖の地でそれをなすべきで、新府《しんぷ》を捨てて奔《はし》るのは、武田家の名にかけて最大な恥辱だと云い張っていたところだった。
それに対して、真田昌幸は、
「ともあれ、四面すでに敵、甲府は盆地なので、一度敵の侵攻に会っては、湖の底にいて、水をうけるようなものです。この上は、上州|吾妻《あがつま》へおのがれあるが然るべきでしょう。三国山脈の一端まで逃げおわせれば、四顧、いずれへ出るも国々はあり、隠るる術《すべ》もあり、なおお味方を糾合《きゆうごう》し、御再起の便りもつきましょう」
と、進言していた。
小山田信茂は、また、
「上州方面にもはや、年来、甲州家に宿怨《しゆくえん》ある輩《ともがら》が、織田の手廻しを迎え入れて、火の手をあげ、道を塞《ふさ》いでいる。お館《やかた》以下大勢して、無難に通れようとは考えられぬ。如《し》かずこの上は、郡内の岩殿山《いわどのやま》にひとまず御籠城遊ばし、その上の御思案。そのまにはなお、四散したお味方も馳せ加わりましょうし……」
という献策をすすめた。
長坂長閑も、
「それがよい」
と、同意を示し、勝頼の心もほぼ傾いていたところなのである。
勝頼は、信勝にそそいだ眼を、次には黙って、茅村《ちむら》の局《つぼね》へ向けて、こう促《うなが》した。
「起《た》つがよい」
「では、ただいまのことは、御台所様のお望みのように……」
「うむ、そうせい」
茅村の局は去った。
信勝の主張はこれで父に否定されたことになった。彼は、無言に返って、さし俯向《うつむ》いた。
残る問題は、上州吾妻へ遁《のが》れて行くか、岩殿山方面にたて籠《こも》るかの二つだった。しかしそのいずれにしても、この新府を捨てて亡散することは、もはや勝頼の心にも宿将の胸にも、避け難い運命と諦《あきら》められているもののようである。
三月三日。毎年のようならば、桃の節句に奥の丸に華やぐ日を、勝頼の簾中《れんちゆう》一門の老幼は、黒煙に追われながら、新府の館を捨てて落ちた。
もちろん勝頼も城を出た。附き従う侍たちも残らず城外へ出た。けれど勝頼はその総勢を顧みて、
「これだけか」
と、唖然《あぜん》たる顔をした。
宿老の面々をはじめ一族の典厩信豊《てんきゆうのぶとよ》までが、いつのまにかここに姿がない。聞けば今朝暗いうちからの混雑に乗じて、各※[#二の字点、unicode303b]郎党を連れて、自分自分の在所や城へ遁《のが》れ去ってしまったというのである。
「太郎。いたか」
「おります。――父上」
十六歳の太郎信勝は、孤影の父に寄り添って、共に駒をならべていた。
そのほかは旗本から平侍《ひらざむらい》や足軽までを合わせても、千人には足りなかった。しかも夥《おびただ》しい数は、簾中以下|上臈《じようろう》たちの塗駕《ぬりかご》や輿《こし》や、被衣姿《かずきすがた》や徒歩《かち》、駒の背などの傷々《いたいた》しいものの数であった。
「おお、燃ゆるわ」
「焼《や》け旺《さか》ることよ」
未練のふかい女たちの群れは、韮崎《にらさき》を離れて十町も来ると、歩みもやらずみな振り向いた。
朝の空に、火焔と黒煙《くろけむり》を高く挙げて、新府の城は今し焼け落ちようとしている。ちょうど明け方の卯《う》の刻《こく》頃(午前六時)にみずから放《つ》けた火であった。
「長生きはしとうない。何たる末を見ることぞ。これが信玄公のお家の果てか……」
勝頼の伯母君とよばるる尼や、信玄の孫むすめという可憐な乙女《おとめ》や、一門の妻女やその召使の女たちなど、みな簾中の乗物にとりついて泣き沈むやら、抱きおうて嘆くやら、また幼子の名を呼び交うなど――金釵環簪《きんさいかんしん》も道に委《まか》して顧みるものなく、脂粉や珠玉も泥土にまみらせて惜しむ眼もなかったという――長恨歌《ちようごんか》のうちにもある漢王の貴妃《きひ》との長安の都を落ちる状《さま》にも似て、道はすこしも捗《はかど》らなかった。
「いそげ。――何を哭《な》く。――人の世のつね。百姓たちの見る目も恥ずかしいぞよ」
勝頼は、励まし励まし、遅れがちな駕籠《かご》や輿《こし》に入り混じって、東へ東へ、逃げのびた。
小山田信茂が城を恃《たの》んで、甲府の旧館《ふるたち》もよそに見ながら、山へ山へと、めざして行くのである。その間にも、輿《こし》を担う凡下《ぼんげ》は姿を消し、荷を持つ小者や駕籠の者も次々に逃げ去り、いつか人数は半分に、またその半分に減ってしまった。
勝沼辺の山中へ来たときは、二百人ほどの総勢のうち、騎乗の武者は、勝頼父子を入れても、わずか二十騎足らずという、あわれな変り方を見せていた。
しかも、ここまで唯一の恃《たの》みとして来た小山田信茂は、勝頼主従が駒飼《こまがい》の山村にまで辿《たど》り着くと、急に変心して、
「ほかへお立ち退《の》き候え」
と、笹子《ささこ》の嶺道《みねみち》を切り塞《ふさ》ぎ、勝頼らの来るのを拒んだ。
勝頼父子をはじめ、一同ははた[#「はた」に傍点]と当惑した。ぜひなく道をかえて、田子《たご》という部落まで遁《のが》れてゆく。ここは天目山の山裾という。春は撩乱《りようらん》だが、見はるかす限りの野も山も今わの慰めにもならなければ頼みともならなかった。そして今はわずか、四十四、五人となり果てた末路の人々は、途方に暮れている勝頼ひとりをなお杖とも柱とも恃《たの》んで、ひと所に寄り添うたまま、茫然と、吹く山風の中に佇《たたず》み合った。
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天目山《てんもくざん》
織田徳川の連合軍は、はやくも甲州内へ怒濤のごとく入って来たと、この辺の土民までが云い合っている。
家康の軍は、穴山梅雪を案内として、身延《みのぶ》から文殊堂《もんじゆどう》を経、市川口へ。また織田信忠は、上諏訪《かみすわ》に進攻し、諏訪明神《すわみようじん》そのほかの諸伽藍《しよがらん》を焼きたて、沿道の民家までも黒煙《くろけむり》としながら、残兵を狩り立てつつ韮崎《にらさき》、甲府へ向って夜も日もなく急進して来るという。
ついに、最後は来た。三月十一日の朝である。
「織田勢の先鋒《せんぽう》、滝川左近、篠岡《ささおか》平右衛門などの兵が、はや近くの村々に入りこみ、ここにお館《やかた》以下御一門がおわすことを里人から聞き知ったらしく、遠巻きに通路を断って、やがてこれへ押し襲《よ》せて来るらしゅう見うけられます」
これは、ゆうべから里へ出て、敵の情勢をさぐって帰った勝頼の側衆《そばしゆう》小原丹後《おはらたんご》が息喘《いきせ》いて今朝告げて来たことである。
ここ数日、勝頼父子をめぐる残余の侍四十一名と、簾中上臈《れんちゆうじようろう》たち五十人の一群は、天目山のうちの平屋敷とよぶ所に、しばしの柵《さく》を結《ゆ》って立て籠っていたが、こう聞くと、
「今は……」
と各※[#二の字点、unicode303b]、死ぬ身支度に忙しかった。
その中に御台所《みだいどころ》の勝頼夫人は、白い花のような容顔《かんばせ》にやや茫《ぼう》としてみえる現《うつつ》をたたえ、館《やかた》の奥の丸にあるとおりに坐っていた。
よよと泣き縋《すが》ったり取り乱したりしているのは、彼女をめぐる女房たちであった。彼女らは口々に、
「こんなことになるものなら、いっそ新府のお館においで遊ばした方がましであったもの。お傷《いた》わしゅう。これが武田の御簾中ともある御方のおすがたか」
「生れては、北条家の姫様《ひいさま》として、珠《たま》のように愛《いつく》しまれ、嫁いでは武田四郎勝頼様の御簾中とも仰がれた御身が……」
「まだ御年《おんとし》も十九というに」
などと限りない悲嘆と悲嘆を交わして、果ては人目もなく声を放って泣きみだれる上臈さえあった。
「奥方《おく》。奥方」
勝頼は、その妻を顧みて、
「いま、小原丹後に、馬をいいつけたぞ。いつまで、これにいても名残はつきず、はや敵も麓《ふもと》近う迫って来たという。――ここは相模《さがみ》の都留郷《つるごう》にも近いと聞く。そなたは、はや去るがよい。山を越えて、相模の実家親《さとおや》が手許へ帰れ。北条方の骨肉たちは、よも悪うは計るまい」
と、急《せ》きたてた。
「…………」
夫人は眼に涙をいっぱい溜《た》めてはいたが、決してここを起とうとはしなかった。却って、その眼は良人のことばを恨んでいるかのようだった。
「土屋。土屋右衛門。奥方《おく》を馬の背へ抱き乗せてやってくれい」
「はい」
側衆《そばしゆう》の土屋右衛門が、畏《かしこ》まって、夫人の側へ寄りかけると、夫人はにわかに、涙をはらって、良人の勝頼へ云った。
「まことの侍に、二君はないように、いちど嫁いだ女子《おなご》には二度と帰る家などあろう筈はありません。ここからひとり立ち去って、小田原へ帰れとは、お慈悲には似ても、妻の身として聴くには、余りにお情けないおことばにござります。……わたくしはここを動きませぬ。御最期までお側におります。そしてその先までもお供をさせていただきまする」
そのときまた、秋山紀伊守の家来たちが、
「敵は間近です」
「ふもとの寺近くまで来ております」
と、眉に火がつくように注進して来た。
勝頼の夫人は、侍女《こしもと》たちの悲嘆を叱って、
「嘆いてばかりいる時ではない。用意のものをこれへ備えてたも」
と、きつくいった。
まだ二十歳《はたち》にも足らぬこの夫人は、最期がせまるほど端正を失わずまた水のように冷静であった。
かえって、良人の勝頼こそ、その夫人の落着きぶりに、たしなめられる心地がした。
「はい……」
と立った侍女たちは、素焼の盃と銚子《ちようし》とを取り揃えて来て、勝頼父子のまえにおいた。
こんな物まで夫人はいつのまにか支度しておいたものとみえる。白木の三宝《さんぼう》の土盃《かわらけ》を、黙然《もくねん》と、勝頼にすすめた。
勝頼は手にとった。そしてまず飲んで、嫡子《ちやくし》の太郎信勝にわたした。次に、夫人とも酌《く》みわけた。
「殿。土屋の兄弟たちにも、おながれを……。土屋、この世のおわかれ、今のうちに申しあげよ」
これも夫人の心遣《こころや》りであった。
近習の土屋惣蔵《つちやそうぞう》は、その弟ふたりと共に、実によく忠勤を励んでいた。兄の惣蔵は二十七、次の弟二十二、末の弟十九。兄弟一致して、新府落去からここまでの途々《みちみち》悲運の主君を守って、涙ぐましいばかり仕えて来た。
「これで、思いのこすこともありません」
いただいた盃を乾《ほ》すと、兄の土屋惣蔵は、にこ[#「にこ」に傍点]としながら弟たちを顧みた。そしてまた、勝頼夫妻に向って、
「このたびの御悲運は、まったく御内方の一族に、離反があったためによる。殿にも、御台所様にも、こうしておいで遊ばす間も、人の心は知れ難いものと、定めし恟々《きようきよう》と、安きお心地もないでしょう。……が、そうした人ばかりがおる世の中でもありません。せめて、御最期の一刻《いつとき》だけでも、ここにいる者はみな一心同体ぞと、人を信じ、世を信じ、お潔《いさぎよ》く、また安らけく、死出のお門立《かどた》ち遊ばしませ」
と、なぐさめた。
惣蔵はつかつかと起って行って、上臈《じようろう》たちの中にいるわが妻の側へ寄った。突然、そこで「きゃッ」と魂切《たまぎ》る児《こ》のさけびがしたので、勝頼が、遠くから、
「惣蔵、逆上せしか」
と、激しく叱った。
惣蔵の妻も、声をあげて泣いている。彼は、五ツになるわが子を妻の眼前で刺し殺したのであった。血刀も収めず、惣蔵は遠くから勝頼のすがたへひれ伏して、
「おなさけないお叱りです。ただ今申しあげた言葉の証《あかし》に、まず、足手まといのわが子から先に、死出の道へ立たせてやったまでのこと。いずれ惣蔵も、わが君のお供して参りまする。先といい、後というも、わずか一刻……」
のこりなく
ちるべき春のくれなれど
さきだつはなを
あはれとも見つ
面《おもて》を袖に蔽《おお》うて、あわれと泣きしずみながら、勝頼夫人が口誦《くちず》さむと、侍女のうちのひとりが、同じように咽《むせ》びながら、
咲くときは
数にも入らぬ花ながら
ちるには洩れぬ春のくれかな
と、詠《よ》んだ。そして声の終るのと共にはや幾人かは、懐剣を抜いて、われとわが手に、乳を刺し、喉《のど》を突いて、流るる血のなかに黒髪を浸《ひた》された。
びゅうん――
矢唸《やうな》りが近くをかすめた。
ぶすッ、ぶすッ、と辺りの土が刎《は》ねて掘れる。
彼方には小銃の谺《こだま》がする。
「来たぞッ」
「お館《やかた》。御用意を」
武者たちは、総立ちになった。
勝頼は、子の太郎信勝へ、
「よいか」
と、覚悟をただした。
信勝も、一礼して、起ちあがりながら、
「お側を離れずに死にましょう」
と、答えた。
「さらばぞ」
と、父子が、駈け出そうとするとき、夫人はうしろから初めて大きな声して良人《おつと》へ云った。
「お先に参っておりまする」
「……オオ」
勝頼は、立ちどまった。そしてその目に凝視した。短い刃《やいば》を持って、山の端の月とも見える真白い面《おもて》を仰向《あおむ》けたまま目をふさいだ夫人が、日頃、愛誦《あいしよう》している法華経《ほけきよう》の五之巻の一章をしずかにその唇《くち》から唱《とな》えているすがたを。
「土屋。土屋」
「はいッ」
「介錯《かいしやく》をしてやれ」
「……は。……はい」
しかし夫人は、その助けの刃《やいば》を待たずに、自ら法華経のながれ出る唇《くち》の中へ、手の懐剣をふくんだ。
がば[#「がば」に傍点]と夫人のすがたが、前へ俯っ伏したせつな、ひとりの上臈が、
「御台所《みだいどころ》様には、はやお立ち遊ばしましたぞ。皆々にも、死出のお供、おくれませぬように」
と、残る人々を励まして、すぐことばの下に、自分も刃を仰いで仆れた。
「おさらば」
「いざ」
呼び交わし、さけび交わし、五十余名の女子たちは、撩乱《りようらん》、野分《のわけ》に吹き荒らさるるお花畑の花のように、或いは横ざまに、或いは俯向《うつむ》けに、或いは、相抱いて刺し交《ちが》えに、悉《ことごと》く自刃してしまった。
この中に、あわれなのは、乳のみ児や、まだ母の膝を離れない幼児の泣き声だった。土屋惣蔵は、そうした子を持つ母ばかり四人ほどを、遮二無二、馬の背へ押しあげて、鞍へ縛《くく》しつけ、
「あなた方は、ここを落ちても、不忠ではない。せめてお命を保ったら、子を育てて儚《はかな》い故主の御一門の御供養なとなされるがよい」
と、子供と共においおいと泣く母親を叱りつけて、それらの者を乗せた馬の三頭《さんず》を、槍の柄《え》でびしびし撲《なぐ》った。
馬は驚いて、母子の泣き声をのせたまま、向う見ずに駈け去ってゆく。――土屋惣蔵は、弟たちを顧みて、
「さあ、いいぞ」
といった。
そのときもう山の上へ上って来た織田方の滝川左近、篠岡《ささおか》平右衛門などの部下の顔はつい先の方に見えていた。
柵《さく》の際《きわ》で、勝頼父子は、まっ先に敵兵の目がけるところとなって取り囲まれている。その側へ、加勢に走ろうとすると、味方の跡部《あとべ》尾張守が、反対な方へ逃げ腰で駈けてゆく。
「不忠者ッ」
かっとした惣蔵は、まずその方へ向って、追いかけていった。そして、
「跡部。どこへ行くか」
と、うしろから一刀浴びせつけると、血ぶるいして、今度は、まさしく敵の中へ駈けこんだ。
最後の一戦。それは武門の者にとっては、この世の名残をし尽すことだった。
「弓の代《か》えを。土屋ッ、弓の代えを」
勝頼は、二度も弦《つる》を切って、弓を持ちかえた。惣蔵は側を離れず主君の楯《たて》となっていた。
面々、あるかぎりの矢を射尽すと、弓を投げて、長巻を持ち、或いは、太刀をふりかぶった。
当然、敵兵も、眼の前へ来た。しかし斬ッつ斬られつの白刃戦も一瞬の間でしかない。大勢はきまっている。
「おさらば」
「殿。若君ッ。おさきに参りますッ」
呼び交《か》わし、呼び交わし、ばたばたと討死を遂げてゆく。勝頼もはや鎧《よろい》を朱《あけ》に染め、
「太郎ッ……」
と、わが子を呼んだが、もう眼は血にかすんでいる。うごくものはすべて敵にしか見えなかった。
「殿ッ。惣蔵めは、まだおります。お側におりまする」
「土屋か。敷皮を持て。はや……生害をせん」
「こなたへ行《い》らせられませ」
土屋惣蔵が肩をかす。勝頼は彼にすがって、約百歩ほど退いた。
敷皮の上に坐る。矢瘡《やきず》、槍瘡《やりきず》、すでに手がきかない。急ぐほど、手はみだれる。
「御免ッ」
見るにたえず、惣蔵はすぐ介錯《かいしやく》した。そしてわが刃に落した主君の首級にとびついて、それを抱えると男泣きに号泣した。
「弟ッ、弟ッ」
十九の弟にそれを渡してお首を持って逃げろという。けれど弟もまた泣いて、どうしても嫌だという、兄と一緒に死ぬという。
「ばかッ。行け!」
突き飛ばしたが、すでに遅い。兄弟のまわりは敵兵の鉄桶《てつとう》と化《な》っている。無数の槍と刃《やいば》のしぶきをかぶって、土屋兄弟は、華々しい死を果した。
中の弟の二十二歳になるほうは、終始、主君の嫡男《ちやくなん》太郎信勝の影身にそい、この若い主従も、同じ頃、討死していた。
太郎信勝は、よほど美しかったとみえ、武田一門の死を誌《しる》すに少しの同情もない「信長公記」の筆者すら、
[#ここから2字下げ]
御年十六歳、さすが歴々の事なれば、容顔麗《かんばせうる》はしく、肌《はだへ》は白雪《はくせつ》に似たり、潔《きよ》さ、余人に優れ、家の名を惜み、父の最期まで心に懸け、比類なきの働き、感ぜぬはなかりけり
[#ここで字下げ終わり]
と、極力、そのきれいな死《し》に際《ぎわ》をほめ称《たた》えている。
勝頼父子、土屋兄弟以下、討死|相伴《しようばん》の衆としては、次の人々の名を列記している。
秋山紀伊守。長坂長閑。小原|下総守《しもうさのかみ》、同じく丹後守。跡部尾張、同子息。安部加賀守。鱗岳《りんがく》長老。
以下四十一名侍分。
ほか五十余名簾中上臈たち。
時刻はまさに巳刻《みのこく》(午前十時)ごろで、諸事終っていたという。
武田家はここに亡《ほろ》んだ。
長坂長閑、跡部大炊《あとべおおい》などが、勝頼を陥《おと》しいれた佞臣《ねいしん》という云い伝えは嘘である。跡部は、最後になって逃げ腰を見せ、土屋惣蔵に殺されたが、それでもこの日まで勝頼のそばにいたし、長閑は立派に主君に殉じている。
また、勝頼の首を見て、信長が足蹴《あしげ》にして罵《ののし》ったというのも嘘である。反対に慇懃《いんぎん》床几《しようぎ》を下って、その首に敬礼したという家康の人物を引きたてるために、捏造《ねつぞう》した徳川時代御用史家のこしらえ事にすぎない。
ほんとは、月の十四日、呂久川《ろくがわ》の陣中で、勝頼父子の首を実検し、そのとき、
「日本にかくれなき弓取の子も、運尽きては、こうなるものか。あわれよの」
と、左右の者へ呟《つぶや》いたという。
そして飯田の木戸に梟《か》けさせたというのが、平凡なる真相であった。
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火《ひ》も涼《すず》し
東山梨の松里村へ、その日|夥《おびただ》しい兵馬が入った。もちろん全軍織田色である。大将は三位中将信忠と聞えたが、
「すぐ部署《ぶしよ》につけ」
と数千の兵を分けて、包囲にかかった直接の指揮者は、麾下《きか》の河尻《かわじり》肥前守だった。
目標は、恵林寺《えりんじ》だった。
けれど、山林一里四方、境内一万六千余坪の寺内である。ほとんど、村全体をつつむほどな大掛りにならざるを得ない。
包囲は即日終った。
黄昏《たそが》れである。選ばれた四名の御成敗奉行人《ごせいばいぶぎようにん》が、くつわを並べて山門へ向った。
織田九郎次、長谷川|与次《ともつぐ》、関十郎、赤座七郎右衛門などである。それに部下の兵|若干《じやつかん》とはいえ、鉄砲や素槍《すやり》をたずさえ、それらの兵は甲州全地を蹂躪《じゆうりん》して、皆どこかで鮮血を味わっている、いわゆる常ならぬ殺気の持主だった。――あわれあの衆が山門をたたいた果てはどうなるのか――と村の人々は戸のすき間や壁の蔭からのぞいていた。
奉行人四名は、
「おらんのかッ。誰も」
本堂に上がってどなっていた。
地内はいわゆる七堂|伽藍《がらん》が巍々《ぎぎ》としていた。七十二門の廻廊、三門、草門、鼓楼《ころう》、五重の塔など、甲州第一山の名刹《めいさつ》たる名に恥じない。けれど、黄昏《たそが》れの色深く、葉桜や若葉の蔭に、老鶯《おいうぐいす》の啼き迷うのが時々聞かれるぐらいなもので、本堂も洞然《どうぜん》、留守のような静けさだった。
「方丈《ほうじよう》へ踏みこんでみろ」
関十郎が云った。
ことばの下に、土足のままの兵たちが、廻廊を左右に駈け出そうとしたとき、
「誰だッ」
と、強い声を響かせて、紙燭《ししよく》を持った一僧が、内陣柱の蔭からこなたへ歩いて来た。
奉行人の中の織田九郎次が、ずかずかと此方からも歩み寄って、
「おう、そちは先日、挨拶に出た勧心《かんしん》とかいう者だな」
勧心はかくべつ驚きもしなかった。静かに、紙燭を下に置いて、平伏した。
「これは、中将様のお旗本衆でございましたか。寺を訪《と》うひとには、おのずから礼もあり、あれに訪鉦《ほうしよう》も備えてあるに、本堂の上まで、土足でみだれ入るお客は、さしずめ夜盗か、血まようた落人衆《おちゆうどしゆう》かと危ぶみ、わざと、失礼いたしました。おゆるしのほどを」
「坊主、その方は先日も、無用なことばのみ吐いて、中将信忠卿のお使いを怒らせたが、また今日も、われらをわざと腹立たすつもりか。それでは大きな損であろうが」
「お使いのお旨に、正直なお答えを仕《つかまつ》るのほか、まだ自身の損得など、考えたこともございません」
「おまえはそれでよかろうが、師の快川国師《かいせんこくし》にとって不利だろう。快川のほかにも、一山にはまだ、たくさんな長老、衆僧、稚子《ちご》、雲水などいるだろうに」
「あ、いや。わたくしの言葉は、一語としてわたくしの言ではありません。みな和尚のおことばです」
「快川の言だというか」
「はい。相違ございませぬ」
「ではなぜ、快川が出て、自身お答え仕らんか」
「塵外《じんがい》のおひと、殊には老躯、たいがいな俗務は、わたくしが皆、いたしております」
「俗務とは何かッ」
赤座七郎右衛門が、横から足をつめて睨みつけた。勧心という僧は、首を曲げて、柄《つか》に鳴った彼の手を、冷やかに振り仰いだ。
織田方の軍使は、きょうまでに、二度もこの寺に臨んでいる。
そして、命じるには、
(当寺内に潜伏している足利|義昭《よしあき》の手先、上福院というもの。また以前|六角承禎《ろつかくじようてい》といい、今は佐々木次郎と変名している人物。もう一名は、大和《やまと》淡路守《あわじのかみ》という織田どのを呪う曲者《くせもの》。こう三名の首を揃えて出せ。――首にして差し出すことが沙門《しやもん》では出来ぬというなら寺から突き出せ。いずれでもよい)
と、達したのであった。
恵林寺《えりんじ》側は、そのたびに、言を左右にして、
(畏《かしこま》りました)
と、いわない。
のみならず、いつ使者が臨んでも、その応対は、きょうの通りなのである。門を叩く雲水を見るのと何らの変りもない冷淡さだ。
(誠意がない)
と、織田軍は観《み》たばかりでなく、自分たちに対して、被征服者一般の抱いている反感すら示しているものとなして、
(この上は)
と、わざわざ仰山にも、数千の軍勢を、こんな山村まで押しすすめて来たわけだった。
四名の奉行人《ぶぎようにん》は、舌打ちして、
「返答を待つの、待たぬの。また、いるの、いないのと、かような一野衲《いちやのう》を相手にして、暇どるのもくだらない。かつ面倒だ。この上は、家捜《やさが》しを行うまでではないか」
「まず。それしかない」
「やるか」
「ただ、寺域は広い。伽藍《がらん》も多い。やるとなれば、もう一応、河尻《かわじり》殿へ沙汰して、これへ人数および、万全を尽さぬと、可惜《あたら》、野鼠《のねずみ》を逃がす惧《おそ》れもある」
「よろしい。それがしが、その人数をつれて、すぐ取って返して来る。それまで、監視をたのむ」
長谷川|与次《ともつぐ》が、織田九郎次へいって、廻廊から階《はしご》を降りかけた。そのときである。
「お待ちください」
「……?」
振り顧ると、稚子《ちご》を連れたひとりの老僧が、廻廊の横に立っている。与次は、それへ向って、すぐ云った。
「お身は、この寺の和尚、快川か」
老僧はたそがれの中に白い眉を横に振った。
「わしは、ここの末院宝泉院の雪岑《せつしん》でおざる。快川国師ではない」
「末院の和尚か。して、何の用か」
「寺内に逃げこんだ武田どのの残党をつき出せとの御意。快川も決してお拒《こば》みはしておらぬと聞くが……」
「われらの求める者は、そのような木ッ端武者の処分ではない。上福院、佐々木次郎、大和《やまと》淡路《あわじ》の三名だ」
「そのようなものはおるかしらて。……いや、何かはよく知らぬが、もう一応、あしたの朝まで、静かにお待ち下されてはどうかな。かならず、雪岑《せつしん》も仰せを奉じて、いるものなら突き出す、おらぬものならば、お詫びに罷《まか》り出る。いずれともはっきり御挨拶に伺わせまする」
「誰をか」
「国師を」
「しかし、おらぬなどという詫《わ》びはうけぬぞ。当方には、確《しか》として証拠もにぎっており、また密訴して出た証人もあることだ」
「それほど、慥《たし》かなことなれば、おそらく寺内にいるのでしょう。しかし、合戦以来、縁故を辿《たど》って、此寺《ここ》に落ちて来た武田衆は、身分ある者、身分のかろい者、何分大勢のことですから、入念に糺《ただ》さねば」
「ではかならず明朝までに、快川自身、河尻殿のお陣所まで挨拶に来ることを、汝が誓うか」
「かたくお誓いいたします。雪岑《せつしん》の首にかけても」
「確《しか》と、約したぞ」
念を押して、奉行四名は、ひとまず陣所へ帰った。
明朝|辰《たつ》の下刻《げこく》(午前九時)までには、かならず寺中から挨拶に出向く――という雪岑長老の口約束をとって。
さればとて、もちろん警戒の手はゆるめない。織田勢は終夜、村の道々に、大篝《おおかがり》を焚《た》いて、半ば威嚇《いかく》していた。
ところがその夜半に、恵林寺の裏山づたいに、そっと脱け出したものがある。三人の法師だという。上福院、佐々木次郎、大和《やまと》淡路の変装したものに違いない。見とどけたのは織田兵ではなかったが、山小屋の樵夫《きこり》が降りて来て、朝になって村へ訴え出たのである。
「なぜ、夜のうちに知らせぬか」
と、訴えたあげく、二人の樵夫は、胆《きも》のちぢむほど叱られた。
時刻といえば、すでに辰《たつ》の刻《こく》だった。
「寺中からの挨拶など待つまでもない」
河尻肥前守、織田九郎次、関十郎、数千の兵は、山門裏門から恵林寺へなだれ入った。
方丈《ほうじよう》、庫裡《くり》、いずこも、掃き清めてあってきれいである。ただ、内陣にあった信玄の木像がない。またどこかへ寺宝の文書や墨付などは運び去ったらしく、ひらひらと、そこらにこぼれ落ちている数片が眼にとまるだけだった。
「や、や。人もおらぬ」
「どこへ?」
このうろたえは、すぐ解決した。寺の四方から火を放《つ》けても、転《まろ》び出す者はほとんどなかった。寺中のひとすべては、本堂を立ち退いて、楼門のうえに上っていたからである。
「あれだッ。あれにおるわ」
河尻肥前守と織田九郎次は、馬をならべて、鞍上から指さしている。むらがった兵たちも首をあげてそこへ眸《ひとみ》をあつめた。驚くべきものをそこに見たような眼いろである。凝視したまま、しばしがほどは、みな心をうつろにしていた。
山門の楼上、正面には、朱《あけ》の椅子《いす》に倚《よ》り、紫衣金襴《しいきんらん》の袈裟《けさ》をつけた老和尚のすがたが見えた。いうまでもなく一山の長老|快川国師《かいせんこくし》である。
左側に、雪岑《せつしん》、また藍田《らんでん》、右側には大覚和尚《だいがくおしよう》。そのほか老僧十一名、弟子僧数十人、生ける羅漢図《らかんず》のようにずらりと並んでいた。いやまだ、そのほかにも、寺中の老幼、稚子《ちご》、堂衆《どうしゆう》まで、ひと目に数えても百五十人に近かろうと思われる人々が、恐ろしげに、幼きは老いたる者へ、老いたるは若者へ、抱き合ったまま竦《すく》んでいた。
「和尚ッ」
馬上から肥前守が呼んだ。
快川は、答えない。
織田九郎次が、また呶鳴った。
「快川《かいせん》ッ。あざむいたな」
白い眉は動きもしない。
「焼き殺せッ」
河尻肥前守が、叱咤《しつた》した。山門の下には柴《しば》、薪《まき》、焼き草が積みあげられた。織田九郎次は、馬を跳《と》び下りて、ためらう兵を叱った。
「なぜ、火を放《つ》けぬッ。草だけ積んで見ていて何になるか」
煙は楼門の千本廂《せんぼんびさし》へ立ちのぼった。
「衆僧」
快川は初めて口をひらいて左右の法友へいった。
「諸人、今、火焔《かえん》の裡《うち》に坐す。法輪いかに転ずるや。各※[#二の字点、unicode303b]、転語を下して、最後のことばとされよ」
みな、一偈《いちげ》を唱えた。もう焔は欄《らん》をこえて、快川のすそを焦がしていた。稚子《ちご》老幼の阿鼻叫喚《あびきようかん》はいうまでもない。いま偈《げ》を叫んだ僧も唸《うめ》いてのたうち[#「のたうち」に傍点]まわっていた。
快川《かいせん》は、いった。
「――安禅《アンゼン》必ズシモ山水ヲ須《モチイ》ズ。心頭《シントウ》ヲ滅却《メツキヤク》スレバ火モ自《オノズカ》ラ涼シ。喝《カツ》」
快川の死は、それを眼で慥《しか》と見ていた者でも、いったい彼は死んだのやら生きたのやら、分らない気持につつまれた。
安禅必ズシモ山水ヲ須《モチイ》ズ
心頭ヲ滅却スレバ火モ自ラ涼シ
と、さけんだ焔の中からの声がいつまでも耳から去らなかった。
満身の法衣《ころも》がみな焔と化し、腰かけている朱椅子《しゆいす》も火になっていながら、快川の体はまだ、そのまま姿勢もくずれていなかった。
楼門の上の老幼衆僧がみな、焔《ほのお》の壁や焔の床に昏絶《こんぜつ》して、声も出さなくなり、びく[#「びく」に傍点]とも動かなくなってからでも、快川のすがたはまだ紅蓮《ぐれん》の傘蓋《さんがい》をいただき、猛火の欄にかこまれながら、椅子に倚《よ》って、平然としていたのである。
あやしい奇蹟のような恐怖感に囚《とら》われた山門下の武者|輩《ばら》は、
「あれよ」
「……あれよ」
と、囈言《うわごと》のような声を放って遠巻きに見まもっているだけだった。
ふしぎや、焔の勢いが最も旺《さか》んになった頃、快川の眼が二つ白く、火と黒煙の中に、くわっと開いたように感じられた。
間もなく、山門の廂《ひさし》は、ばらばらとくずれ、火塵《かじん》はまるで華火《はなび》のように噴きあげて、快川の影も、だんだん黒く変ってきたが、しかもなお|曲※[#「祿」のつくり、unicode5f54]《きよくろく》に懸ったまま倒れもせずに楼上にあるではないか。
その影を失ったのは、山門の大厦《たいか》が、大きな響きを立てて焼け落ちた瞬間だった。
焼け落ちたのちも、巨大な火の山は、終日《ひねもす》、紫いろの余燼《よじん》をめらめらあげている。そしてようやく夕方には灰になった。
その夜、恵林寺に屯《たむろ》した数千の兵は、大半、快川の夢をみた。いや夢にあらぬものが、あくる日も夢のように、頭につきまとっていたのかも知れない。
「士道を悟った」
心ある者は、そういう感銘をもらした。そして、
「快川《かいせん》のような境地にまでなり得れば、武士、僧侶の差別はない。いわゆる達人の境だ。われわれ、朝《あした》にも夕べにも、血腥《ちなまぐさ》い戦場を駈け、敵の死を見、友の死を送り、自分の死をも、覚悟はしていながら、戦場以外では、さて、そこまでには成りきれない」
そんな述懐をもらす武者もあった。
とにかく快川の死は、それを伝え聞いた織田、徳川の全軍にまで、何かしら大きな問題を投げかけた。
生死観。――生死の大事。
つまるところそれであった。
古来あらゆる智識や達人が、仏教に問い、儒道《じゆどう》に質《ただ》し、またその究明に身をもって、十年二十年の難行苦行を試みたのも、その究極は、生死の問題でしかない。
そのいのちを、鴻毛《こうもう》よりも軽んじて、主君の馬前、乱軍のちまたを、何十遍となく往来したというさむらいでも、居を家に、身を平時に還《かえ》した日常では、やはり戦陣中のようにはゆかない。
で、道を聴く。禅に参じる。
或いは、聖賢《せいけん》に問う。或いは、剣を練《ね》って、胆心を養う。
それとて、なかなか徹しきれないのが、おたがいの常である。死は、生きているかぎり生と対立する。何事に当ってもこのあいだにさまよう。
(死が何。二度とは死なない)
口ではいえるが、またやさしいが、同時に、難《むつか》しい。生きとし生けるものすべて、この問題を課せられている。その自覚もない者は、死を惧《おそ》れぬのでなく、生もよく知らない人というほかはない。
或いは、いう者もあろう。快川はなぜ死を選んだかと。
素直に、武田与類さえ、寺内から突き出せば、無事にすんだのではないかと。
武人ではない、沙門《しやもん》である。それでも、非難はなかろうにと。
そうだ。足利期《あしかがき》を通じ、室町没落までの禅家はそんなものだった。けれどかつての鎌倉時代の禅門では、そんな妥協の卑屈はゆるさなかった。
北条時宗《ほうじようときむね》が、断乎として、
(蒙古討《もうこう》つべし)
と為《な》した大決心も、いわば大禅機である。その時宗に、一語を贈って激励した仏光禅師《ぶつこうぜんじ》を見ても、当時の禅林の気骨稜々《きこつりようりよう》な風は窺《うかが》える。
その禅も、いつか文字禅、理論禅になり、遊戯に堕し、風流に化し、そして骨抜きになりかけた時、ここに日本僧快川が在《あ》ったのである。
僧童七十四名、堂塔三十宇、七堂の荘厳も一火としてしまったが、快川の気魄とともに、それは光焔万丈をあげて、禅の認識を、ふたたび世に新たにした。
さればとて、快川は、時代に反抗したのではない。時勢に盲目であったのでもない。彼は、それより前に、明らかに勝頼へ対しても云っている。
(何事につけ朝廷を尊び、朝廷を中心として統治をなす主義の信長には、地方の侍や土豪とて、おのずから心をひかれ、一地方の主たるに過ぎぬ武門の主人に対しては、つい離るるともなく心入れのちがって参るのは、ぜひもない成行きと申そうより、自然に帰するが如きものでしょう。決して、信玄公の御子として、あなたが不肖《ふしよう》な子というわけではない)
そう慰めているのを見ても、彼はその自然に帰してゆく時勢に反抗する理由もないし、また盲目でもないことは明瞭である。
にも関《かか》わらず、彼が、求めて死についたのは凡人の眼にこそ、驚嘆されたり、異なことのように映《うつ》るが、彼自身は、元来、生死の別に、さしたる区別を持っていないし、死中生有り、生中生無し。極めて自然な行為だったにちがいないのである。
しかもその自然な行為のうちには、故信玄の恩顧《おんこ》に対する厚い情誼《じようぎ》もあったし、平常、禅林の堕落に対して訓《おし》えたい気もちもあったに相違ない。しかも、その生命は枯化するなく、肉体のないいのちも、幾世にわたって、思うところの動きをなしうるのであるから、むしろ欣然《きんぜん》として、大火焔の裡《うち》に微笑をたたえていただろうと思われる。
さて。
世変転化は、落花と倶《とも》に行く春の移りも早く、甲州の山野は信長の領下に染められ、右府信長の征旅《せいりよ》は日程のとおりすすんだ。
三月十日。高遠城着《たかとおじようちやく》。
同月十九日。諏訪《すわ》入陣。同時に、軍政発令。
二十日。木曾義昌《きそよしまさ》来謁。義昌に旧領|筑摩郡《ちくまごおり》に安曇《あずみ》を与う。
同日。穴山梅雪参礼。梅雪には、旧領そのままの朱印を下附。
廿三日。滝川一益を、上野信州の二郡に封じ、関東|管領《かんりよう》の重職にのぼす。
廿六日。小田原の北条氏より米千俵到来。
――といったように彼の陣門と軍旅の道は、往来、出入り、繁昌を極めていた。
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淋《さび》しき人《ひと》
木曾口や伊那《いな》を攻めた兵もやがて続々|諏訪《すわ》に集結した。諏訪は信長の軍勢であふれた。
彼の宿所、その総本陣たる法養寺《ほうようじ》では、二十九日に、全軍将士への論功行賞を発表し、また次の日には、諸将を会して、戦勝の祝宴を催した。
これより前に、恩賞の沙汰をうけていた者のほかに、この度の拝受者には、
徳川家康には、駿河《するが》を加封《かほう》。
河尻肥前守《かわじりひぜんのかみ》には、甲斐《かい》の一部と諏訪郡を。
森長可《もりながよし》には、信濃《しなの》四郡を。
毛利秀頼《もうりひでより》には、伊那郡《いなごおり》を。
団景春《だんかげはる》には、岩村城を。
森蘭丸には、兼山城を。
などの行賞が目立っていた。
いろいろ遠方から気をつかってくる北条|氏政《うじまさ》にたいしては、梨地蒔絵《なしじまきえ》の太刀|一腰《ひとこし》与えただけで、
「いずれ家督相続もいたさねばならぬな」
と、暗にそのときはそれを認めてやろうという程度の口吻《こうふん》をもらしたに過ぎない。
みな信長の一心に出ることだ。恩賞の厚薄はぜひもない。甲州討入だけのものでなく平常の勤めぶりや首尾不首尾も加味されているものとみな解している。で、ここにも君側から離れずにある森蘭丸なども、ひそかに、
「このぶんでは、過去のことなど、すこしもわれらには御懸念もないらしい」
と、受賞のよろこびよりは、むしろ母の妙光尼のために、胸なでおろして、森一家の累進《るいしん》を、ひとり祝っていた。
「お兄上の長可《ながよし》どのにも、信濃四郡の封《ほう》を受けられ、まことにお覚《おぼ》えのめでたいことで」
と、羨《うらや》む人々から祝辞をいわれても、以前のように、そう後ろめたい気もしなかった。
祝宴の席でも、蘭丸の面《おもて》には、つつみきれない得意があふれていた。
信長から、於蘭《おらん》、ひとつ小舞《こまい》せい、といわれればすすんで舞い、鼓《つづみ》をせよと命じられれば、非常によい高音《たかね》をその掌《たなごころ》から出して聞かせた。
「きょうは、惟任《これとう》どのにも、めずらしくお過しになられてみゆるの」
座中、どこかで、そんな会話が聞える。みると、諸大将のうちに光秀も交じっていた。話しかけたのは、隣の滝川一益《たきがわかずます》であった。
「酔わいで何としましょう」
光秀はまったくいつにない酒気に染まった顔をしている。信長から何かというとよくいわれる「きんか[#「きんか」に傍点]頭」のすこし禿《は》げ上がった生《は》え際《ぎわ》まで赤くてらてらさせていた。
そして一益へ、
「一盞《いつさん》、いただきましょう」
と、杯を乞《こ》いながら、非常に明るい口吻でなおいった。
「長い人生にも、きょうのようなめでたい日に会うことは、そう幾度もありますまい。あれ、御覧《ごろう》ぜられい。墻《かき》の外はいうに及ばず、諏訪《すわ》一帯は申すもおろか、年来われらの骨折って来た効《かい》あって、いまや甲信すべてお味方の旌旗《せいき》に埋まっているではありませんか。多年の宿願が、眼のまえに、実現したのではおざらぬか……」
彼の声は、常のとおりで、さして大声でもなかったのに、ひどくそのことばは、一座によく通った。
なぜならば、ここかしこで、私語騒然《しごそうぜん》としていた者が、いつとはなく口をつぐんで、信長の顔と、光秀の方とを、見くらべていたからである。
信長の眼は、まっ直《すぐ》に、光秀のきんか[#「きんか」に傍点]頭を見すえていたのであった。
余りに、ものの観《み》えすぎる眼というものは、時によると、見出さなくてもいい不幸をも見つけ出す。なくてすむ禍《わざわ》いをもあるものにしてしまう。
光秀のきのうからの姿に、信長の眼は、そうしたものまで観《み》とっていた。
常に似あわず光秀は、努めてことば多く明るく粧《よそお》っている。
そんなはずはない。
と信長は観るのだった。
なぜならば、こんどの論功行賞には、意識的に、彼の名を除外してある。武人として、行賞にもれることは、事そのものよりは、功のない身をみずから辱《はじ》ることのほうに、むしろ痛切な寂寥《せきりよう》がある。そのさびしさを、光秀はどこにもあらわしていないのだ。この人中では却《かえ》って反対な笑顔《えがお》や楽しげな会話にばかり立ち交じっている。
正直でない。いつわりだ。
どこまでも裸になれない漢《おとこ》。可愛げのないやつではある。
なぜ、愚痴のひとつも、こぼさないか。
――信長の眼は彼を見ていればいるほど、さっきからこうきびしくなっていた。酒気も手伝っていたろうが、無意識についそう観えてならないのである。
ここにはいないが。
秀吉を観る眼には、そういう感情を唆《そそ》られる危険はなかった。家康を観るにしても、こうまで意地わるくはならない。
それが、光秀のきんか[#「きんか」に傍点]頭に接しると、むらむらと、眼のなかで、ひとみが一変する。かつては、決して、こうでなかった。いつのまにとも覚えない時の推移とともにこうなっていた。
この時、かかる事件から、こう遽《にわ》かに変った、という変り方でないのである。強《し》いてその一劃期をさがすならば、彼が光秀へ感謝するの余り、坂本城を与え、亀山の本城を持たせ、惟任《これとう》の姓をさずけ、むすめの嫁入りにまで世話をやき、逐次《ちくじ》、出世を追わせて、丹後五十余万石に封じたりなど、優遇を極めた――その優遇の翌日《あした》あたりから――すこし彼の光秀にたいする眼は、前とちがって来たことはたしかだといえよう。
それともう一つは、こればかりは、光秀自身にしても、どう改めようもないその風采《ふうさい》、人品などに、原因がある。いやしくも事を処理して過《あやま》らない明晰《めいせき》なきんか[#「きんか」に傍点]頭の生《は》え際《ぎわ》の照りを見ると、信長の感情は、彼の性格的なにおいに向って、ひどく天《あま》の邪鬼《じやく》な焦気《いらき》が立ってくるのだった。
だから、信長の意地悪な眼は信長から射向けるのでなく、光秀そのものが、自然に唆《そそ》りたてるのだともいえないことはない。それは、光秀の聡明な理性が何かに光るときほど、信長の天《あま》の邪鬼《じやく》が、言語や顔いろに現われるのを見ても分ることだった。これを公平にふたつ合わせて鳴った掌《て》はいったい、右掌が先か、左掌が先か。そう第三者は見ていてもさしつかえない。
ともあれ、今。
滝川一益を相手にさりげなく話していた光秀のすがたへ、じっと注いでいた信長の眼は、すでに凡事《ただごと》と見えなかった。
光秀は、気がついた。――無意識に何かはっとしたらしい。なぜならば、信長が、とたんに席を起ったからである。
「日向《ひゆうが》。これ、きんか[#「きんか」に傍点]頭」
信長の足のつま先へ、光秀は面《おもて》を伏せて慎んでいた。と、その首すじを、冷《ひや》やかな扇の骨が二つ三つ軽くたたいた。
「はッ。はい……」
光秀の面色は、その酔《えい》も、きんか[#「きんか」に傍点]頭の額《ひたい》の照りまでも、さっと褪《あ》せて、土のように変じていた。
「座を退《さが》れ」
信長の扇は、彼の頸《くび》すじから離れたが廻廊を指して、なお剣の如く見えた。
「何事か存じませぬが、御《み》けしきを損《そこな》い、光秀、恐懼《きようく》身のおき場も弁《わきま》えませぬ。どこが悪いと、お叱りくださいましょう。この場にて、お叱りくださるも厭《いと》いませぬ」
詫び入りながらも、彼は、平伏したまま、身を辷《すべ》らせて、廻廊の広縁へさがった。
信長も、そこへ出た。
どうなることかと、満堂の人々は酔《えい》をさまし、口腔《くち》の乾く思いをじっと抱いていた。
――どたっ[#「どたっ」に傍点]と、そこの板の間に大きなひびきがしたので、わざと、気のどくな光秀のすがたから眼をそらしていた諸将も、はっとして、室内からみな振り向いた。
扇は、信長のうしろへ、投げすてられてある。
見ると、信長は。
こんどは手ずから光秀の襟がみをつかんでおられる。そして何かいわんとする光秀にその余裕を与えず、ずずずと圧《お》して、廻廊の欄干《らんかん》まで押し詰め、もがく頭を、ごつごつ欄干に小突《こづ》いていた。
「――なんというた。日向《ひゆうが》。たった今、なんというたか。――われら、骨折りたる効《かい》あって、この甲州に織田家の兵馬が充満《みちみ》ちて見ゆるは、まことにめでたい日であるとな。――左様に申したであろうが」
「も、もうしました……」
「これッ」
「……あ」
「いつ、汝が骨折ったか。今日の甲州入りに、いかほどな殊勲《しゆくん》をなしたというのか」
「も、勿体ない」
「なに」
「光秀、いかにお祝酒に酔いましょうとも、なんで左様な、驕《おご》りがましきことばを」
「さもあろうず、そちに、驕り得る理由はない。したが心の油断というもの、信長が酒興にまぎれ、耳をそらしておると思うて、つい不平を申したな」
「畏《おそ》れ多《おお》い。天地の神も御覧あれ。光秀、破衣孤剣《はいこけん》の身より、今日の重恩《ちようおん》をいただきながら、なんとて」
「いうな」
「お放しください」
「放してやる」
信長は突き退《の》けて、
「於蘭。水」
と、大声で呼んだ。
蘭丸が、器《うつわ》に水をたたえて捧げた。その水を手にとる眸《ひとみ》は火であった。彼は彼自身の心火に燃やされて肩で息をしていたが、光秀は、いつか主君の足もとを去ること七、八尺も向うに、襟《えり》を正し、髪をなでて、板敷に胸もつくばかり平伏していた。
「…………」
あくまで取り乱さないそのすがたが、なぜか好意に見えないのみか、信長の足をしてさらにそれへ歩ませようとさえしかけた。
「……あッ。もし」
蘭丸がたもとを抑えなければ、ふたたび広縁の床が鳴ったろう。蘭丸は多くをいわず、また眼の前のことに触れなかった。
「お席へおかえり下さいまし。信忠《のぶただ》様。信澄《のぶずみ》様。また丹羽《にわ》どのを始めとして諸将方、手もちぶさたに、お控えでいらっしゃいます」
信長は素直に、大勢のなかへ戻って来た。けれども坐らなかった。そのまま、座中を見まわして、
「ゆるせ、興醒《きようざ》めたことであろう。各※[#二の字点、unicode303b]は、存分に。存分に」
云い捨ててさっさ[#「さっさ」に傍点]と、奥の房へかくれてしまった。
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客来一味《きやくらいいちみ》
土蔵《どぞう》長屋の廂《ひさし》に、燕《つばくろ》が、群れ鳴いている。陽の暮るるも知らず、親燕は巣の中の雛《ひな》に、餌《え》を運びぬいているらしい。
「画題になりますかな」
ひろい中庭を隔てた住居の一室で、明智の老臣、斎藤利三《さいとうとしみつ》が客にいう。
客は、海北友松《かいほうゆうしよう》という画人。この諏訪《すわ》の人ではない。
五十前後か。画人ともみえない骨ぐみ。無口である。幾棟もある味噌屋蔵《みそやぐら》の白壁が、そこだけを辺りの夕闇から暮れ残している。
「いや、この戦時中、ふいにお訪ねして、世外人の悠長なはなしばかり……。おゆるし下さい。さだめし、御陣務も多かろうに」
友松は、暇《いとま》を告げるつもりらしく、長座したしとねを退《さ》がりかけた。
「まあ、よかろう」
斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》は、おっとりしたものである。うごかずに、ひきとめて、
「せっかく見えられたのに、光秀様に、お目にかからず帰られるなどという法はない。主君、お立帰りの後、お留守に、友松どのが見えましたと申しあげたら、なぜ止めておかなかったかと、わしが叱られる。まず、まず……」
と、殊さらに、新しい話題を出して、このゆくりない来客をひきとめていた。
いま京都に家を持っているが、海北友松は、江州堅田《ごうしゆうかただ》の人。つまり光秀の領する坂本城の近くに生まれた由縁《ゆかり》をもっている。
のみならず友松は、以前、武人として、岐阜《ぎふ》の斎藤家に禄仕《ろくし》していたことがあるので、その頃から、内蔵助利三とは、よく知っていた。――利三も、明智家に属するまえは、斎藤一族のうちに驍名《ぎようめい》ある稲葉伊予守長通《いなばいよのかみながみち》に仕えていた時代があるからである。
友松が、浪人後、画人生活に入って行ったのには、岐阜の滅亡という理由が進退を明らかにしているが、利三が、故主をすてて、明智家の家人《けにん》になったことには、複雑な内容があり、旧主と光秀とのあいだに生じた葛藤《かつとう》を、信長のまえにまで持ち出して、裁決《さばき》を仰いだような、紛争もあったりした。
しかしいまは、その当時、世間を騒がせた噂など、誰も忘れて、彼の真っ白な鬢髪《びんぱつ》を見るものは、
(明智家にとって、なくてならぬお人)
と、その重要な老職の位置と人がら[#「がら」に傍点]とを、みな矛盾《むじゆん》なく尊敬していた。
信長の本陣法養寺だけでは、宿舎の割当てがつかないため、一部の将は、諏訪《すわ》の町家に分宿していた。
明智の一隊は、ここの旧《ふる》い味噌問屋に屯《たむろ》し、兵も将も、数日来の戦労から解かれている今日であった。
主《あるじ》の息子らしいのが来て、留守居の斎藤利三へいう。
「御家老さま。お風呂をお召しなさいませぬか。お士《さむらい》衆、足軽衆まで、はや夕餉《ゆうげ》の兵糧《ひようろう》もおすみになりましたが」
「いやまだ、殿のお帰りもないうちは」
「殿様には、だいぶ晩《おそ》ういらせられますな」
「きょうはの、御本陣におかれては、戦勝の大宴じゃ。殿にも、あまり参れぬ御酒をたんと戴いて、めでたさのあまり、酔を過しておらるるものとみゆる」
「では、お夕餉《ゆうげ》など、先へおすましなされては」
「いやいや、お戻りを見ぬうちは、食事も摂《と》りとうない。……したが、折角、引き留めたお客には気のどくじゃ。客人だけを、湯殿へ案内してくれぬか」
「昼のうちお見えなされた旅の画師でございますか」
「そうじゃ。あれに蹲《うずく》まって、退屈そうに、独り牡丹畑《ぼたんばたけ》の牡丹を見ておる。声をかけてやってくれ」
息子は退《さが》ってゆく。そして隠居所の裏を見まわした。黒々と牡丹の叢咲《むらざ》きしている前に、海北友松は、ぽつねんと、膝を抱いて、眺め入っていた。
すこし後から斎藤|利三《としみつ》がそこの柴折門《しおりもん》から出て行ったとき、もう息子も友松もいなかった。
利三は、実はすこし気懸りになり出していた。主君の帰りが遅すぎる。祝賀の大宴なので、ずいぶん今日は盛会だろうし、長くもなろうとは察しられたが、
「……それにしても」
と、やや不安に似たものを覚え出していた。
旧《ふる》い茅葺門《かやぶきもん》を出ると、道はすぐ湖畔の街道に出る。諏訪湖の西空にはまだ残照が仄明《ほのあか》るい。内蔵助利三は、街道の彼方へしばらく眼をすましていた。
案じていたほどのこともない。やがて彼の主人はこなたへ向って来る。馬、槍、従者などの一群を従えて。
けれど、その影が近づくにつれて、内蔵助利三の眉には、やはり不安に似たものが去らなかった。なぜならば、どこか常とはちがう気がしたからである。
戦勝の祝宴から帰って来たひとの姿とも見えないのである。颯爽《さつそう》と馬上にゆられ、その従者たちも、きょうは賜酒《ししゆ》の酔に、華やいでいるはずなのに、悄然《しようぜん》と、その光秀は、徒歩《かち》で来る。
乗馬は、郎党に曳かせ、至極浮かないすがたで、歩いて来る後から、従者たちも、同様に、どこか冴えない空気をながして、黙々と、供して来るのだった。
「これまで、お迎えに出ておりました。おつかれにございましょう」
利三が、前に屈むと、光秀は、なにか驚いたように、面《おもて》を向けて、
「利三か。……いや心ないことをした。儂《わし》が帰りの遅いのを案じていてくれたの。ゆるせ、ゆるせ。ちときょうは御酒をいただき過したゆえ、わざと酔を醒《さ》まそうものと、湖畔を徒歩《ひろ》うて戻って来たのじゃ。顔いろが青いとて案じるなよ。気分もだいぶ快《よ》うなったし……」
何か御不快なことにお遭《あ》いだったとみえる。多年側近く仕えている主人である。内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》が見のがすはずはない。
けれど、敢えて、深くは問わなかった。ただ、いかにその気色《けしき》を慰めようかと、この老職は、その世に馴れ人に練られた心をくだいて、宿舎に入ると、主君光秀の身のまわりの世話までやいていた。
「いかがですか。あちらのお座所で、まず茶なと一ぷくさしあげましょうか、それとも、お召《めし》かえのついでに、すぐお風呂をお浴《あ》みあそばしますか」
戦場に立てば、驍名《ぎようめい》敵を畏怖《いふ》せしめるに足る猛将|利三《としみつ》が、小姓の手もからず、光秀の小袖から袴《はかま》をはく手助けまでしているのだった。光秀には、この老臣の、やさしい舅御《しゆうとご》にも似ているいたわりがよく分っている。
「湯浴《ゆあ》みか。……そうだの。こういうときは、一風呂浴びたらさだめし爽《さわ》やかになるかもしれんな」
「そう遊ばしませ。御案内いたします」
利三は、いそいそ、先へ立つ。
風呂と聞いて、早速、次の間にいた小姓が、この家《や》の息子に告げにゆく。
紙燭《ししよく》を持って、息子は、宵の湯殿の入口に、うずくまっていた。
「田舎《いなか》風呂でござりまする。まことに、やぶせくて、諸事行き届きませぬが」
光秀は、息子の影へ、眼を落したが、黙ってそのまま湯殿へ入る。小姓、利三がうしろに寄り添う。
しばらく、中で湯の音がしていた。利三が外から云った。
「殿。……お背中をおながしいたしましょうか」
光秀の声で、
「小姓がおろう。老体の手をかりては気がすまぬ」
「いえいえ」
利三は、入って行った。そして小桶《こおけ》に湯を汲んで、うしろへまわった。かかる例《ためし》はないが、ここは戦陣の出先、また折ふし、きょうは常ならぬ主人の顔いろ、何とかして、その気分を、一転させたいと願うのであるらしい。
「一方の将たる者に、垢《あか》など落させては」
光秀はあくまで謙虚だった。家臣に対してもつねにこう遠慮気を示すのは光秀の特長でもあり短所でもあると、利三などは、むしろその性格の一面は余りよいとは考えていないほうであった。
「何の何の。この老骨の武名などは、桔梗《ききよう》の御旗の下にあればこそで、明智家あっての内蔵助利三。利三あっての明智家ではございませぬ。さすれば、生きて御奉公しておるうちに、一度ぐらいは、わが君のお肌の垢など洗い流すことも、身の思い出と申すもので……」
利三は、袴《はかま》をからげ、片襷《かただすき》をかけて、彼の背を洗っていた。仄暗《ほのぐら》い湯気と明りの中に、光秀は甘んじて、背を洗わしながら、首うなだれて、黙りこんでいた。
内蔵助利三が、自分に尽してくれる心入れを、そのまま、自分と信長との君臣のあいだに移して、ふかく自省しているのだった。
(ああ過《あやま》てり)
光秀は心のうちで痛切に自分を責めた。何を不快としていつまで根に持って苦しんでいるか。信長ほどな良い主君を持ちながら、自分の忠節と情操とは、この一老職にも及んでいないではないか。ああ恥かしい。――彼はうしろから利三にザッとかけられた湯を、あだかも水のように心へ浴びた。
湯殿を出ると、光秀の気色《けしき》も語音も変っていた。心気一爽《しんきいつそう》。利三もともに爽やかを覚えた。
「やはり一浴してよかった。悪酔ばかりでなく、疲れもあったとみえる」
「御気分が癒《なお》りましたか」
「内蔵助。もうよいぞ。そちも心を労《つか》うな。さばさばいたした」
「きょうのお顔色では、凡《ただ》ならぬ御不快と、実は、お案じいたしていましたが、なによりでございました。……では、お耳に入れますが、お留守の間に、珍客が見えられて、お帰りをお待ちしておりまする」
「ほ。この戦場の仮宿へ、珍客とは」
「画師の海北友松どのが、ちょうどこの甲州に旅しておられ、他は訪れぬまでも、殿にはちょっとでもお目通りして、御機嫌を問うて参りたいと、昼から来ておりました」
「どこにおるの」
「てまえの部屋と定められたあの隠居所に控えさせておきました」
「そうか。ではそちの部屋へ参ろう」
「殿からお運び遊ばされては、客が恐縮いたしましょう。後より御前へ連れ参りまする」
「いやいや、客は一風流子、格式張るには及ばぬ」
母屋《おもや》の広間には、光秀のため、鄭重《ていちよう》な夜食が支度されていたが、彼は、内蔵助利三の部屋で、客の海北友松を交《まじ》え、至極簡素な夕食を共にした。
友松と会ってからの彼は、いよいよ明るい面《おも》もちに返って、南宋北宋《なんそうほくそう》の画風を問い、東山殿《ひがしやまどの》の好みと土佐の絵所の比較を論じ、また近世の山楽などの狩野調《かのうちよう》から和蘭陀絵《オランダえ》の影響などにいたるまで、その方面にも日頃から浅からぬ修養のあるところを洩らして、ひいてはなお、
「自分も、老後にでもなったら、清閑をたのしみ、童学のむかしに返って、絵でも描いてみたいと思う。そのうちに、ひとつ光秀のために、絵手本を描いておいてくれい」
などといった。
「かしこまりました。不つつかですが、ぜひ認《したた》めて、お手許にさしあげましょう」
これは友松も心から欣《よろこ》んでいうことのできる返辞だった。光秀のために、光秀の晩節は、ぜひともそういう所へ落着かせたい。閑雅《かんが》へ導きたい。穢《けが》すことあらしめたくない――とは、昼もここで内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》としみじみ語り合ったことだからである。
友松は中国の梁楷《りようかい》の画風を倣《なら》って、狩野、土佐ともべつに、近頃、独自な一家の画境を開拓し、ようやく世人に認められて来ていたが、なぜか安土の襖絵《ふすまえ》を信長から委嘱《いしよく》されたときには、病気と云い立てて、乞《こ》いに応じなかった。
信長に亡ぼされた斎藤家の遺臣たることを思えば、信長の居室の装飾に、その筆を用いることを潔《いさぎよ》しとしなかった彼の心事はわかる気がする。
外柔内剛《がいじゆうないごう》ということばは友松の人がら[#「がら」に傍点]にそのままあてはまる。その友松なればこそ、光秀の聡明も理性も信じられなかったのである。この冷静や叡智《えいち》もひと足踏み辷《すべ》らすと、いつなん時、常識の大河を決して、みずから濁流に身をまかせないとも限らない――およそ正反対なあぶな[#「あぶな」に傍点]気を――この人も多分に持っていることを彼は平常からはらはらした眼で見ているのだった。
で。その光秀からこよい、絵手本でもと乞われると、それこそこの人の晩節を完《まつと》うする所以《ゆえん》と考えられたのである。そして光秀自身も、ふかく自身のあぶな[#「あぶな」に傍点]気に反省していることも分って、何せよ、それは早速にも、画《か》いて上げねばなるまいと思われたことだった。
光秀は、その晩、快眠した。
一浴のおかげであった。また、思わぬ佳《よ》い客のお蔭であったと思う。
暁――
兵はもう暗いうちから起きて、馬には草飼い、身には甲《よろ》い、そして腰兵糧までつけて、主人の出るのを待っていた。今朝、法養寺に勢揃いし、諏訪《すわ》を立って、甲府に向う。そしてさらに、東海道を経て、安土へ凱旋という予定。
「殿。はやお身支度も」
「おう内蔵助か。ゆうべは、よう眠ったぞ」
「それはおよろしゅうございました」
「立ち際に、友松へ、志ばかりと申して、路用の手当なと遣《つかわ》すがよい」
「ところが、その友松どのは、今朝起きてみますと、もうおりませぬ。兵と共に起き出て、まだ夜も明けぬうち、一笠一杖《いちりゆういちじよう》の気軽さ、飄乎《ひようこ》として立ち去ったものとみえまする」
「さても気がるな……」
と、光秀はつぶやきながら朝の空を見て、
「羨《うらや》むべき境涯ではある」
と、いった。
内蔵助利三は、その前へ一巻の画軸を展《ひろ》げて、
「かような物を置き残してまいりました。忘れ物かと思いましたが、よく見ますと、まだ墨の痕《あと》も乾いておりませぬ。……思うに、昨夜殿からおたのみ遊ばした絵手本をすぐ思い立って、ゆうべあれから眠らずに朝まで画いていたものと考えられます」
「なに、寝ずに」
光秀は、画巻《がかん》のうえに、ひとみを落した。朝の光になおさら白い紙のなかに、みずみずと大輪の牡丹《ぼたん》一枝《いつし》が描かれていた。そしてその絵の肩に文字があった、「無事是貴人《ぶじこれきじん》」と賛語《さんご》してある。
「無事是貴人」
口のうちに誦《よ》みながらそこを巻いてゆくと、大きな蕪之図《かぶらのえ》が繰り展《の》べられた。蕪の題語には、
客来一味《きやくらいいちみ》
と、ある。
何の苦心もなく一抹《いちまつ》したかのような墨画《すみえ》の蕪《かぶら》であったが、見入っていると、土のにおいが鼻をつくばかり迫って来る。大地の生命をそのまま一茎の葉とはちきれ[#「はちきれ」に傍点]そうな根にもった蕪の野性は、甚だしく無邪気にまた屈託なく、光秀の理性を嗤《わら》っているかのようであった。
「…………」
あとは、いくら繰り展《ひろ》げても、何も描いてなかった。余白のほうが遥かに多い。
「この二図で、夜が明けてしまったものとみえますな」
利三も絵は好きなので、共に頸《くび》をのばして、鑑賞していた。
光秀には、その蕪が、見ているうちに、裸の嬰児《ちご》が、手をひろげて、欠伸《あくび》しているように見えて来た。
美を見出すよりは、理を酌《く》むような心理になって来るのである。光秀は、長く観《み》ていることを惧《おそ》れた。
「内蔵助。巻いてくれ」
「お預り申しておきましょう」
そのとき遠くの空に貝の音が聞えた。本陣法養寺から市中の諸隊へ用意をうながしているのである。血戦の巷《ちまた》に聞く貝はいんいんと悽愴《せいそう》な余韻《よいん》をひいて何ともいえぬ凄味のあるものだが、かかる朝の貝の音はいかにもおおどか[#「おおどか」に傍点]な悠々と寛《くつろ》いだ気もちのするものであった。
「いざ、寄場《よりば》へゆこうか」
光秀もやがて馬上の人になっていた。今朝の彼の眉は、今朝の甲斐《かい》の山々のごとく、何の曇りも翳《かざ》していなかった。
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富士《ふじ》を見《み》つ
いちど富士を見たい。
それは信長が多年抱いていた願望だった。およそ、自己の欲することとして、能《あた》わぬことのない信長に、いったいどんな私慾があったかといえば、
(富士を見たい)
という恋であった。
尾張に起って、西へ西へと、その驥足《きそく》を伸ばして来た信長は、まったく、ことし四十九の今日まで、富士山を見ていなかった。
長篠《ながしの》までは出馬したが、富士の神容《しんよう》には接していなかったし、参州吉良《さんしゆうきら》まで鷹狩《たかがり》に出向いたこともあるが、ついぞ富嶽《ふがく》の秀麗《しゆうれい》は仰いでいない。
(いつかは、いちど)
思いながら年々、北征南略、中央にある日も、劇務と人にかこまれて、そんな簡単な――他愛ない少年の希望にも似たことが――却って信長の心には長いあいだの憧憬《あこがれ》となっていた。
四月の四日。
信長はもう甲府にいた。
相模の北条氏政は、その居館へ、また使いを立てて、
「御滞陣のおなぐさみまでに」
と、武蔵野に狩猟《かり》して獲たという雉子《きじ》五百羽を贈って来た。
それからまた、三日目には、目録に添えて、
馬十三頭
鷹三疋
とを献上して来たが、信長は躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の館《やかた》の広庭に、それを曳かせ、一見しただけで、
「馬、鷹ともに、さして珍重するに足らぬ物。――信長の気に入らぬと申して、氏政の許《もと》へ持ち帰れ」
そういって受取らなかった。
北条の使いは、面目悪げに、持って帰った。そして、忌々《いまいま》しさの余り、誰もいないところへ来ると、
「増長坊《ぞうちようぼう》め」
と、舌打鳴らした。
こんなこともあったりして、信長はその月十日、いよいよ甲府を出発し、待望の「富士見物」をしながら凱旋《がいせん》の途についた。
彼の全軍が、甲府を出る朝の町々は、この盆地の城府がひらかれて以来の賑いだった。
いかに新羅《しんら》三郎以来の家武田氏が、ひと頃の隆盛を極めた文化があった所にせよ、中央の精兵と衛軍の豪美荘重な粧《よそお》いにはくらべようもない。かの馬揃えの天覧に、御簾《ぎよれん》のあたりの月卿雲客《げつけいうんかく》を驚嘆させ、三十余万の民衆の眼を奪った絢爛《けんらん》に劣らない曠《はれ》のいでたちが、この日も、信長とその前後の諸大将旗本をつつんでいた。
後漢《ごかん》のむかし、魏《ぎ》の曹操《そうそう》が、西涼軍《せいりようぐん》の北夷《えびす》の兵が自分らの行装に、おどろきの眼をみはって、指さし囁きあうのを見て、馬の上から、
(おまえ達は、何を驚き珍しがっているのか。この曹操とて、目はふたつ、鼻はひとつ、人並と何のかわりもない。変っているのは、知識深謀の才だけだ)
と、未開の西涼勢をからかいながら通ったというが、きょうの信長の面上にも、沿道の民衆にたいして、ややそれと似たような得意さがうかがわれた。
五彩の霧が行くように、旌旗《せいき》の列は、笛吹川にそうて下る。
やがて、川を越えて、蛯口《えびぐち》。――町屋はみな商いを休み、道を浄《きよ》め、砂を掃き、領民はみな香を焚《た》かんばかりに軒下につつしんで出迎えた。そしてここには徳川家の武士が大勢出て、警固や、接待の事にあたっていた。
「近衛《このえ》どのが、お目にかかりたいと申しまするが」
この町へ入ったとき、一行の中にいた近衛前久《このえさきひさ》が、旗本を通じて、信長に面接を求めた。
前久は、龍山と号し、近衛|信尹《のぶただ》の父にあたる。そして太政《だじよう》大臣の現職にある。
朝廷と武門のあいだにあって近衛前久はよくうごいていた。武門によって下意を上達するうえに都合のよい人でもあったらしい。永禄四年といえば川中島の大戦のあった年であるが、その夏も、彼は上杉謙信の乞いに応じて、上州|厩橋《うまやばし》に会し、謙信の小田原攻めに従軍し、越後へも行っている。
関白氏長者《かんぱくうじのちようじや》ともある重臣が、軽々しく諸州を歩き、武将の陣門を出入りするので、室町《むろまち》幕府からも妙な眼で見られたらしい。京都へ帰るとまもなく職を削《けず》られ、前久自身は、失踪《しつそう》してしばらく行方を晦《くら》ましていた。
その頃、嵯峨《さが》にかくれて、嵯峨記《さがき》を書いたり、詩歌風月を友として、本来の公卿《くげ》生活にもどっていたが、信長が出て、室町幕府を廃し、義昭《よしあき》を趁《お》うと、またいつか世間に出て、信長のため薩摩に使いしたり、石山本願寺との交渉に出向いたり、そしてことし二月、太政大臣の重職を拝していた。
こんど甲州入りの役に従って、信長の陣中にあったのも、もちろん信長の乞いによるものでなく、前久《さきひさ》の望みであったろう。信長としては現職の太政大臣などいう大賓《たいひん》は、わけて陣中、好まぬ荷もつだったにちがいない。
――お目にかかりたい。
この前久からこう改めて云いよこしたので、信長は、彼の存在を急に思い出したような顔して、
「そうそう。まだこの中にいたか」
と、つぶやいた。
輿《こし》を降りて、近衛前久は、沓《くつ》の運びも雅《みや》びやかに、長い軍列の遥か中ほどから此方《こなた》へ歩いて来た。
兵、旗本、諸将、みな最大の礼と静粛を姿勢にとった。けれど信長は、馬から降りもしない。
「やあ」
と、鞍の下へ来た前久を至極あっさり迎えて、何か? と問うような眼をみはった。
諸人環視の中なのに、その眼を見ると、前久は、つい要《い》らざることをしてしまった。馬上の人に対し、その無礼をとがめもせず、却って自分のほうから笑顔《えがお》や会釈をして話しかけたことである。
「右府《うふ》には、富士見物をしながら東海道を経て、安土へ御凱旋とうけたまわるが、予も共々、同道してよかろうか。何のおさしずもなきまま、これまで軍に従《つ》いて参りはしたが、いっこうわれらの身まわりは、かもうてくれる者もない」
待遇がおもしろくないらしい。不平を訴えに来たものだ。
信長は訊き直した。
「なに。何ですと?」
「いや、その、前久《さきひさ》も右府と共に東海道を上《のぼ》ってもよろしかろうと、念のため、聞きおくわけじゃが」
「近衛《このえ》。わごりょうなどは、木曾路《きそじ》を廻って帰られたがよかろう。晴々しゅう凱旋する兵とともに、東海道をあるくはおかしかろ。まず、まず、木曾路を上りませ」
云い捨て、さっさと、先へ馬を進め、その日の宿舎へ入ってしまった。
前久はとり残された。ぜひなく彼は柏坂《かしわざか》の麓から道をかえて中山道《なかせんどう》へ廻ったが、このことは、だいぶ旅行中の評判になった。ずっと後に書かれた「三河後風土記《みかわごふどき》」の筆者など、
――信長の粗暴さもあらん
などと記しているが、粗暴だけでいえることばではない。この性格があってこそ頑固な旧態一掃もなし得たのである。しかし、このとき諸将の中にいた明智光秀などは、自分の心事にひきくらべて、近衛前久の立場を、ひどく気のどくに眺めていた。
翌《あく》る日は、裾野《すその》の本巣湖泊《もとすこどま》りだった。
「冬のような」
と、信長をはじめ、行軍の将士はみな寒気におののいた。
前に、富嶽を仰ぎ、うしろに湖を見る落葉松林《からまつばやし》の中にすべて新しい木口の宿殿が建てられてあった。
ここへ着いて、徳川家の将士の出迎えをうけ、本陣内の青畳の上に坐ると、信長はまず、
「行き届いたことよ」
と、道中から宿舎まで、隈《くま》なく心入れの行き渡っていることを、徳川家の家臣へ、褒めたたえた。
事実、こんどの事に、徳川家康が頭をつかっていることは、なみたいていなものではないらしい。何せい、信長のきげん[#「きげん」に傍点]をとり結ぶのは難しい。まして、満足を感ぜしめるなどは、よほどでなければ求められない。
だから、きょう一日の道中を振り返ってみても、道の悪い所は、石を除き、樹を払い、橋はすべて新しく架けかえてあるし、山坂は土をならし、谷へ降りれば、谷間に茶亭《さてい》が造られてあり、峰へ登れば、見晴しを計って、お茶屋の設けが待ちうけ、彼処《かしこ》では、里の女が茶を献じ、ここでは思いもうけぬ美人が、山の物を料理し、風光を景物に、一献進上《いつこんしんじよう》のもてなしがあるなど、かりそめにも一日中の旅を飽かしめないように、あらゆる気心が配られていた。
北条氏政が、苦労して、武蔵野の雉子《きじ》や、相模《さがみ》の名馬をあつめ、これをうやうやしく献上に出ても、
(気にいらぬ)
とばかり、目にも入れず突っ返したほどな、大ざっぱ[#「ざっぱ」に傍点]かと思うと、道々の箒《ほうき》の目にも、宿舎の手洗鉢にたたえてある水にも、真心があるかないか、ひと目で知ってしまう信長の眼であった。
もしこの行《こう》に、秀吉が加わっていたら、家康のこの行届き方を眺めて、真に誠意の現われと観《み》たか、これは喰えない曲者《くせもの》と察したろうか。とにかく、信長なる一箇の気むずかしや[#「むずかしや」に傍点]をして、こうまで旅の日々を、日々是好日《にちにちこれこうじつ》として楽しませるなどという手腕も、決して尋常一様な人間のよくなし得る設計ではない。おそらくこの状況を、はるか中国の遠くにいて、便りに聞いただけでも、秀吉の胸中には、家康のすがたが、従来より一倍大きく腹蔵《ふくぞう》に据え直されたにちがいない。その程度の想像は確かであるといっても過言にはならぬと思う。
夜は夜とて、酒肴《しゆこう》の善美、土地の名物、鄙《ひな》びた郷土の舞曲など、数々のお伽《とぎ》。そして宿殿の外には、夜空も焦がす大篝火《おおかがりび》を諸所に焚きつらね、
(侍どもが、かくまで、心をこめて、警固しておりますれば、かりそめにも、御道中とて、御不安のないように)
と、彼の眠りの安らかなるようにというところまで、少しの抜かりもなく、徳川家の誠意を示していた。
夜もすがら篝火《かがりび》にいぶされていた墨の富士は、暁と共に、茜色《あかねいろ》を映《うつ》し、信長が本巣湖《もとすこ》を出立する頃は、飛ぶ雲すらない一天に、くっきりと白妙《しろたえ》の全姿を見せて、その裾野《すその》のゆるやかに野へつづく果てまで、鮮《あき》らかな線を描いていた。
「めずらしい。実に、このように、富士が全姿を見せることは、一年のうちでも、極めて稀です。右府様の富士御見物に、山霊木花咲耶姫《さんれいこのはなさくやひめ》にも、雲をはらって、お迎え遊ばしているものと思われます」
徳川家の人々は、富士にも意《こころ》があるように、口々にきょうの快晴をたたえあった。
「富士。富士」
信長は馬上で幾たびも子どものように讃嘆を発した。
見飽きぬ面持《おももち》で、
「見たか」
と、扈従《こじゆう》の人々へも、感動を求めた。
こういう会心《かいしん》なものに対しながら、やはり平常の如き理性をもって、すこしも表に感激をあらわさない大人どもが、信長には、張りあいがない、飽きたらない。
ふと、彼は、
(秀吉がいたら)
と思ったが、また、
(いや、あれは何度も、見ているかもしれないな)
と、思い返した。
そんなことを考えながら何気なく振り向いた諸大将の列の中に、ちらと、日向守光秀の顔もあった。
(……何だ、あの顔は)
彼のひとみは、翡翠《かわせみ》が水底を覗《のぞ》いたときのように、じっと、光秀の面《おもて》を見ていた。
(彼。すこしも、今日の旅を楽しんでおらぬ。富士に対しても何の興もないらしい。法養寺のことを、まだくよくよしておるな。女々《めめ》しいやつ)
思わず舌打ちが出た。自分が楽しもうとするとき、自分の眷族《けんぞく》のなかに、ひとり楽しまぬものがあることを知ると、信長は、つつがない五体のなかに、ただ一本痛んでいる歯みたいに、気にかかって、楽しむ心の邪魔になった。
――が、そのとき、彼の行くての先に、わあっという頗る大らかな喊声《かんせい》がきこえた。今朝、暗いうちに、道筋の先駆をして行った小姓衆が、各※[#二の字点、unicode303b]、若駒にまたがって、裾野の広さを吾がもの顔に駈け廻り駈け廻り、責め馬しているのだった。
「やりおるな」
信長はにこ[#「にこ」に傍点]とながめて、
「この広い天地へ出ては、魚のように、鳥のように、人も振舞いたくなるの。いで、予も一鞭《ひとむち》」
つぶやいていたかと思うと、信長は衝動的に、いきなり鞭打《むちう》って駈け出した。道案内の徳川家の諸臣、まわりの旗本、諸大将以下、行軍のものすべてを置去りにして、ただ一騎、十方碧落《じつぽうへきらく》のうちへその影は、一羽の小鳥の如く溶けて行った。
「あッ」
「あれ」
驚いた人々は、口をあいたまま、あっけにとられていたが、しかしまだ平常の謹直と、裃《かみしも》を着た気持から解かれることなく、
「駈け続きましょうか」
「いや、それも」
などと徒《いたず》らにこの周章《うろた》えを周章えまいと自重していた。
兎でも追っていたか、彼方《あなた》此方《こなた》を、自然の児となって、縦横に跳びまわっていた騎馬の小姓衆は、どこかで、
「おおういッ……」
と呼ぶ声に、ふと、眸をその方へ放ってみると、自分らの仲間とも思われぬ絢爛美衣《けんらんびい》の一貴人が、鞭をあげてさしまねきながら、裾野を横に駈けてゆく。
「あッ。良い馬だな」
「誰だろ」
「迅《はや》いはず。馬も良いはず。お上《かみ》だッ」
「なに。御主君か」
天《そら》を翔《か》けてゆくような鞍のうえから、信長は此方《こなた》へ向って、遠い声を張りあげていた。
「小姓ども、小姓ども。追いついてみよ。われと思うものはつづいて来い」
聞くやいな、小姓たちは、
「なにくそ。馬は劣っても、手綱《たづな》にかけては、負けるものか」
草埃《くさぼこ》りを蹴たてて、われがちに、信長一騎を追いかけて行った。
上野ケ原、井手野、富士の裾野の平らかな限りを、駈けに駈け、狂いに狂いして、馬も信長も、汗みずくに濡れた。
「ああ、爽やか」
燃えたつ汗の気とともに信長は空を仰いで云った。甲州在陣中、何か生理的に鬱屈《うつくつ》していたものが、はじめて発散したように快適を覚えた。風邪気《かぜけ》の微熱が除かれたように軽々した。
彼のからだの汗が肌に冷えて来たころになって、ようやく小姓衆は追いついて来た。信長は愉快そうに笑って、
「遅いぞ、遅いぞ。もし戦場であったら、汝らは、今日、またとなき大将首を取り逃がしたであろう」
と、戯れた。
すると小姓の一人、湯浅|甚介《じんすけ》が、
「ですから、以後は、わたくしども小姓組の厩《うまや》にも、名馬を多くお備えおき下さいませ」
と、臆面《おくめん》なくいった。
その云い分が気にかなったとみえて、信長は、
「よしよし。申し出た順に、まずこの馬は、甚介にくれる。乗り負けするな」
と、すぐ鞍を降りて、手ずから馬の口輪を甚介に渡した。
甚介も、朋輩《ほうばい》も、眼をまろくした。そこへ、厩中間《うまやちゆうげん》の虎若《とらわか》、藤九郎、弥六、小熊、彦一などが大汗かいて駈けつけて来る。
ほどなく蘭丸も追いつき、その他の近習も寄って来た。
徳川家の士が、
「近くに、お茶屋の設けもございますゆえ、御休息遊ばして」
と、導いてゆく。
そこまで、信長は歩いた。
「汗におよごれの御容子《ごようす》。お湯殿でおぬぐい遊ばして、御服《ぎよふく》を召しかえられますように」
「風呂の用意もあるか」
「日中はおおかた御不用とはぞんじましたが、いつどこにても、お汗を洗うほどな設備はいたしおきました」
「さてさて、入念な」
徳川家の好遇には、不足を思うときがなかった。
湯を浴《あ》み、衣服をあらため、ここで一献《いつこん》を酌む。
そのあいだに、将士はみな弁当をつかう。徳川家から足軽のはしにまで、茶菓が頒《わか》たれる。
やがて出立。富士の人穴見物にゆく。
ここにも、お茶屋があり、一献進上となる。
ところへ、大宮神社の神官、社僧などが、大勢して、出迎えに見えた。信長は、
「みな、大儀だな。道の掃除まで行き届いたことに思う」
と、犒《ねぎら》って、それぞれへ、杯を与えた。
神官達の案内で、頼朝《よりとも》の狩倉《かりくら》のあとを質《ただ》し、白糸の滝を見物し、また、しばし浮島《うきしま》ケ原《はら》に馬を立てて、舂《うすず》く夕富士にわかれを告げながら、やがて大宮の宿駅《しゆくえき》へさしてこの行軍はゆるやかに流れていた。
部落部落は、篝《かがり》を焚いていた。高いところから見ると夕霞《ゆうがすみ》が赤く虹のように地を染めていた。山家の人々がいかに驚嘆したろうか想像も及ばないほどだったにちがいないが、信長の眼には何里行っても掃き浄《きよ》めた道の砂と、とざした草屋しか見えなかった。
だが、一歩大宮に入ると、軒《のき》ごとに万燈《まんどう》をともし、幕をもって壁をかこい、花を挿《い》け、金屏風《きんびようぶ》をすえ、人はみな晴衣《はれぎ》を着て、町中、大祭のような賑いであった。
それに、徳川家康は、自身、譜代《ふだい》の家臣とともに、この大宮に待ちあわせて信長の迎えに出ていた。信長一行がここへ着いたのは、もうとっぷり暮れた宵であったが、その明るさは昼をあざむくばかりだった。
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東海風流陣《とうかいふうりゆうじん》
その夜の泊りは、大宮神社の社内だった。本殿、拝殿をのぞく以外は、すべて信長一行のために、旅舎として宛《あて》がわれた。
わけても、信長の座所は、金銀|珠簾《しゆれん》の結構をつくし、彼が一夜の休息のために、すべて新たに普請《ふしん》したものと思われる。
とりわけ警固には万全を策した用意が窺《うかが》われる。四方には木小屋を設け、信長の直属の旗本を配し、また三河武士の隊を、随所の木戸に置いて、座所にはいささかの不安も感ぜしめない。
「信長にたいし、かくまで、心を用いられ、御誠意のほど、奇特に存ずる」
容易に、満足を満足といわない信長も、その夜、家康の心からの歓待には、こういわずにいられなかった。
「――それにひきかえ、北条氏政の仕方は、心のそこが見え透いておる。甲府から大宮までの道すがらにも、随所に氏政の手勢が働き様は、この眼で確《しか》と見て参った。かくせぬものは、人の心のうそと真《まこと》」
信長は酔後についこう胸中の不満をもらした。
こんどの甲州入りには、徳川家も北条家も、ともに兵を出して、信長を扶《たす》けることになっていたが、北条勢の働いたのは、この大宮近傍から裾野の寒村あたりを焼き払っただけで、さして重要な所には少しも、戦果を挙げていないのである。要するに、真実を示していない。そして献上物や口先だけで、信長の歓心を取り結ぼうとしたのだった。
が、そんな辞令や尋常な形式でごまか[#「ごまか」に傍点]される信長ではない。北条家からの献上の馬匹を、
(気に入らぬ)
と突っ返したのは、すでに無言の表示だった。
今頃は定めし北条氏政も内心安からぬものを抱いていよう。信長の近習たちは、こんどの経過と、信長の口吻《くちぶり》から見て、そんな想像を持つのだった。
「夜も更《ふ》けました。それに日ごと、山坂の御旅、おつかれにございましょう。いずれまた明朝」
家康は、頃をはかって、退席しかけた。すると、信長は、蘭丸に告げて、
「申しつけておいた品々を、徳川殿へ披露申せ」
と、いった。
蘭丸から目録をわたした。信長の嘉賞《かしよう》をあらわした礼物の品である。
一 御脇差《おんわきざし》吉光之作《よしみつのさく》
一 御《おん》長刀作《なぎなたさく》一|文字《もんじ》
一 御馬黒《おんうまくろ》ぶち
家康は篤《あつ》く礼をのべて退った。名馬黒ぶちは、信長が常に離さず伴《つ》れている愛馬である。馬好きな信長としては何物にもかえ難かろうに、それをしも割愛《かつあい》して贈ったのは、誠意にたいして誠意を見せたものであろう。家康もまた、心ひそかに、満足を抱いた。
譎詐権謀《けつさけんぼう》を常道としているこの戦国に、二十年来、あざむかず、またあざむかれず、同盟のよしみを持ちつづけて来たものは、決して双方の利害だけによるものではない。信長も真実は知る人だった。家康も真実を尽した。氏政のようなごまかし[#「ごまかし」に傍点]をもってこの動流変貌の烈しいときを渡ろうとするような、あぶない芸当はする気もなかった。
明ければ、十三日。
信長は、払暁《ふつぎよう》すでに、大宮を立って、浮島ケ原から愛鷹山《あしたかやま》を左に見て進んでいた。旅行中も、寝るには晩《おそ》く、起きるには夙《はや》い信長だった。朝の食事|嗽《うが》いなどは暗いうちにすまし、宿舎を立ってから、一、二里も行った頃、ようやく、日の出を見るのが、ほとんど毎朝の例であった。
日々の行軍、日々の風流は、このときも随行していた信長の祐筆《ゆうひつ》太田牛一が、その「信長公記」に克明に書いている。却ってその原文に見るほうが、髣髴《ほうふつ》と当時を偲《しの》ばしめるものがある。
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四月十三日。払暁ニ大宮ヲ立タセラレ、愛鷹山ヲ左ニ御覧ジ、富士川ヲ乗越サセラレ、蒲原《カンバラ》ニ御茶屋ヲ構ヘ、一献進上候也。
ココニ暫シ御馬ヲ立テラレ、吹上《フキアゲ》ノ松、和歌ノ宮ノ仔細ナド御訊ネナサレ、向フ地ハ伊豆ノ浦|目羅《メラ》ケ崎《サキ》カナドツラツラ聞キ及バセラレ候。
高国寺、吉原、三枚橋、伊豆相模ノ境目《サカヒメ》ニアル城ナドニモ、何カト訊ネ質《タダ》シ給ヒ、由井《ユヰ》ノ磯浪袖《イソナミソデ》ヌレテ、ココニ興津《オキツ》ノ白浪ヤ、田子ノ浦浜、三保ケ崎、三保ノ松原|羽衣《ハゴロモ》ノ名所名所ニ御心ヲツケラレ、江尻ノ南、久能《クノウ》ノ城、御尋ネナサレテ、ソノ日ハ江尻ノ城ニ御泊。
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天候は毎日よかった。
十日の夜、裾野の宿で、夜雨の音を聞いただけであった。
本巣湖《もとすこ》では、初《はつ》時鳥《ほととぎす》を聞いた。この夜、江尻の城でも聞いた。
「夏も近いな」
信長はつぶやいた。
新緑を思い、近づく夏を思うにつけ、心のなかに、何かもう次の事業の段階に、忙《せわ》しいものが駈けめぐっている。
次の段階。もちろんそれは中国攻略への決定的な方策でなくてはならない。
――秀吉は如何に。
初時鳥の音に抱く彼の感慨は、詩でも歌でもなく、それであった。
彼に、詩はない。しかし、彼のいまなしている日々のことは、そのまま大なる長賦《ちようふ》の詩であった。
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四月十四日。夜ノ間ニ江尻ヲ立タセラレ、駿河府中ニ御茶屋立置《オチヤヤタテオキ》、一献《イツコン》進上申サル。
今川ノ古跡、千本桜ナド詳シク尋ネ聞《キコ》シメサレ、阿倍川《アベガハ》ヲ越エ給ヒ、武田四郎勝頼ガ此地ニカカラレ候折ノ持舟《モチブネ》ノ城トイフヲ問ハセラル。又、山中路次通リ、鞠子《マリコ》ノ川端《カハバタ》ニ山城ヲ拵ヘ、防ギノ一城|有《アリ》。
名ニシオフ宇治ノ山辺《ヤマベ》ノ坂口ニ、御屋形《オヤカタ》ヲ立、ココニテ一献進上。花沢ノ古城、コレハ昔、小笠原肥前ガタテ籠リシ折、武田信玄、コノ城ヘ取懸《トリカカ》リ、人《ヒト》数多《アマタ》討タセ、勝利ヲ失ヒシ城也。
山崎ニハ虚空蔵《コクウザウ》マシマス。能《ヨ》ク尋ネ訊カセラレテ、ソノ日ハ田中ノ城ニ御泊《オントマリ》。
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次の日の日誌を見ても、
十五日。田中、未明ニ御出立。
とある。
ほとんど毎朝、暗いうちの早立だった。
大井川は、馬で渉《わた》った。
それも家康の心くばりで、万一があってはならぬと、川の上下に何百人という人間を並べ、その人垣の間を信長の馬が渉って行く。
大天龍には船橋が架けられてあった。やがて浜松に入る。浜松は家康の居城ではあり、同盟国の城下なので、その歓迎には、領民もあげて祝意を表し、待遇も馳走も、善尽し美尽したものだった。
次の日。吉田泊り。
吉田城の酒井忠次に送られて、池鯉鮒《ちりふ》から鳴海《なるみ》へ入った。これまでが徳川領、鳴海から先は織田領なので、ここには織田家の一門が凱旋の主君を出迎えに立っていた。で、徳川家の諸臣は、ようやくその大任を終って、各※[#二の字点、unicode303b]、ほっとした面持《おももち》で引っ返した。
鳴海から清洲《きよす》への道。それは十九日の旅だった。
この道、そこらの河、田畑、まろい山、麓の藁屋根《わらやね》、信長のひとみは、飽かず馬上から見まわしていた。
「変らぬものよ。……はや二十三年と経つに」
思い出は尽きない。永禄三年、時も今頃。
桶狭間《おけはざま》へ。桶狭間へ。
あの真昼、汗と土けむりをあげて、駈け出して行った自分のすがたを。
「……若かったなあ」
さしもの彼も、今にして顧みれば、自分の元気にわれながら驚嘆を禁じ得ない。
よくもあれで勝てたと思う。まんまと今川|義元《よしもと》の首を見ることができたと思う。
いま沁々《しみじみ》、それを回顧すると、
(はて? あれは一体、自分のしたことか。自分だけの力だったか)
と、あやしまれた。
ふと彼は、自己の驕慢《きようまん》に気づいていた。天を怖れた。そうだ、以来わずか二十三年に、これほどの業を成して来たのは、ただに自分だけの力ではない。またわが将士だけの力でもない。
大きくは、神明の加護、小さくは、父母の余徳を思った。それあっての織田信長なるを今、みずからふかく考えた。
熱田之宮《あつたのみや》に下馬して、口を嗽《うがい》し手を清め、まずは神前に額《ぬか》ずいた。
その夜の泊りは、なつかしの清洲《きよす》であった。
故郷《ふるさと》。
実に、はからずも、彼はこよいを、故郷にすごすのだった。
――後に思いあわせれば、これこそ、産土《うぶすな》の導きか、尽きせぬ宿縁か、それとも天が不言のうち、彼の人生の名残を尽させたものだろうか。
こよい四月十九日から、わずか四十余日の後には、本能寺の猛火の中に、その肉体を一塊《いつかい》の灰となしていた信長だったのである。
知らない。知るよしもない。それから四十余日後の身の運命など、もとよりこのときの信長が、思い寄るわけもない。
だが、あだかも彼の霊は、すでにその時からそれを予知していたように、清洲の城のおくつき[#「おくつき」に傍点]に詣でては、久しぶりに父|信秀《のぶひで》の墓前を掃き、そこから暮靄《ぼあい》遠く、政秀寺の方を眺めては、
「ああ、爺《じい》がいたら」
と、信長の眼に、うたた回顧を起させていた。
まだ少年の頃、老臣の平手中務政秀《ひらてなかつかさまさひで》は、手にもおえぬ[#「おえぬ」に傍点]少年信長を諫《いさ》めるため、老腹《おいばら》を切って死んだ。――信長の父信秀から、
(たのむぞ)
といわれた生前の一言を、ついに死をもって尽したのである。
この老臣のことだけは、信長も一生|胆《きも》に沁みこんでいたとみえ、何かよいことがあるとかならず、
(爺《じい》がいたら……)
と、よく口にもらしていた。
その供養に建てた政秀寺はここから近い。清洲の城から信長は今こそ、爺や、安心してくれよと、胸のうちで云っていたにちがいない。
政秀ばかりではない。その老臣に、懇々《こんこん》、亡きあとを頼んで逝《い》った信長の父も、おそらくは、
(あれが、成人しても、この清洲一城が、無事に保ってゆければよいが)
と、いまわの際《きわ》まで、案じていたにちがいない。そしてその信長が、今日の如くあろうとは、夢にも思っていなかったであろう。
二十日は、岐阜《ぎふ》に着く。
稲葉山の新緑に、また、ここは信忠の城でもあるし、信長はもうわが家に帰ったようなここちである。
だが、翌朝は、また早立。
ろくろの渡しでは、お座船飾《ざぶねかざ》りして、稲葉伊予《いなばいよ》が、船中で一献《いちこん》進上する。
垂井《たるい》では、ここにも休息の屋形をしつらえて、犬山の御坊――去年武田家の質子《ちし》から送り帰された信長の末子が――待ちもうけ、やはり一献進上の儀があり、今洲《います》でも、佐和山《さわやま》でも、山崎でも、ほとんど一駅一駅に、茶屋屋形の設備と、織田領下の各臣が出迎えに出ていた。
その人々には。
丹羽五郎左衛門、山崎源太左衛門、不破《ふわ》彦三、菅屋《すがや》九右衛門などがある。
湖畔に出ると、近くの長浜城から、羽柴家の臣が、秀吉の留守とて、名代に出ていた。
「筑前の老母は息災《そくさい》か」
と、信長はそれらの者に訊ね、振《ふ》り顧《かえ》って、長浜の城を見ていた。
こうしていよいよ彼が安土《あづち》へ着いたのは、黄昏《たそが》れ早めの時刻であったが、城下全体はこの日挙げて商《あきな》いも休み、朝から凱旋軍の歓迎にあらゆる心をくだいていた。
さすがに、信長の騎馬、幕将たちが、城門に入るまでは、静粛、拝伏、ただ夕空に雲の紅々《あかあか》と燃ゆるのみだったが、長い長い軍隊の列も、ようやく終りになろうとし、陽も没して、夜の灯火《ともしび》がつきかけるや、わあっと、どこからとなく沸《わ》きあがった歓呼から歓呼の波を喚《よ》んで、そのまま街中は灯と踊りと酒と歌と音楽の坩堝《るつぼ》になった。
「城下は、たいへんな騒ぎらしいのう。踊っているな。踊っているな」
信長は、湯殿のうちで、旅の垢《あか》をながしながら、街の光景を、想像していた。
踊りの歌声や、それにつれる笛太鼓、鉦《かね》の音までが、お湯殿まで聞えてくる。
「夜食は、大仰《おおぎよう》にすな」
湯からあがると、近習へいいわたしていた。十一日間の旅行中、いたるところの馳走攻めに、さすがの彼も、湯漬《ゆづけ》に梅干一つぐらいな味が恋しかった。
さらさらと、それを一、二碗すますと、すぐであった。
「信孝《のぶたか》を通せ」
と、すぐ座をあらためていた。
神戸《かんべ》三七|信孝《のぶたか》が来てひかえていたのである。信孝は、四国攻めの陣に派遣を命ぜられたので、人数その他のさしずを仰ぎ次第、直ちに出発するつもりで、これへ見えたものだった。
夕刻、城中に入ってから、まだ二刻《ふたとき》とも経っていないまに、もう信長は、四国征伐の方策に没頭していた。
「征《い》って参ります」
三七信孝が退《さが》ると、
「留守中の文書を出せ」
と、それを見る。
多くは、陣中でも見ていたが、なお残余の書状やら何かの文書は山のようにつかえていた。
とりわけ、彼の重大な関心は、中国陣に関するものだった。
これも、刻々甲州在陣中から、報告は手にしていたが、二月九日以来、征旅《せいりよ》まさに七十日、そのあいだの状勢の推移は、信長の予測をやや裏切って、どうも捗々《はかばか》しくない感がある。
静止を知らない彼の精力は、久しぶりに還《かえ》って、安土に坐ると、そこに寛《くつろ》ぐ心地にはならないで、忽ち、次の段階に対して、いかに戦うか、必勝を期すか、思索|苦吟《くぎん》、寝ても枕を耳に熱うしていた。
[#地付き]新書太閤記 第六巻 了
吉川英治歴史時代文庫27『新書太閤記(六)』(一九九〇年六月刊)を底本