吉川英治
新書太閤記(八)
[#表紙(表紙8.jpg、横140×縦140)]
目 次
天機刻々《てんきこつこく》
電《でん》 捉《そく》
安国寺恵瓊《あんこくじえけい》
笑《しよう》 歌《か》
諾《だく》
男をつくりて
薫風一扇《くんぷういつせん》
喪《も》を討《う》たず
堰《せき》を切《き》って
一《いち》 浴《よく》
風《かぜ》は追手《おいて》
涼《すず》しき頭《あたま》
雷《らい》 気《き》
淀《よど》・山崎《やまざき》・天王山《てんのうざん》
裁《さば》きの悲歌《ひか》
洞《ほら》ケ嶺《みね》
粽《ちまき》のこと
桂《かつら》 川《がわ》
火《ひ》ぶた
松松松《まつまつまつ》
相搏《あいう》つ両軍《りようぐん》
金瓢押《きんぴようお》し
御坊塚《おんぼうづか》
深夜行《しんやこう》
小栗栖《おぐるす》
瀬兵衛《せべえ》御苦労《ごくろう》
橋上橋下《きようじようきようか》
志賀《しが》の浦風《うらかぜ》
世々《よよ》の物《もの》
駄《だ》 農《のう》
桔梗分脈《ききようぶんみやく》
母《はは》の城《しろ》
心のふるさと
良《よ》い息子《むすこ》
柴田勝家《しばたかついえ》
折《おり》 鶴《づる》
薫香散《くんこうさん》
虎《こ》 口《こう》
離《り》
大物見《おおものみ》
大五《だいご》と書《か》け
むらさき野《の》
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新書太閤記(八)
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天機刻々《てんきこつこく》
依然。――秀吉はさっきの所に坐ったままであった。
燭《しよく》の下に、灰となった薄いものが散っていた。長谷川宗仁からの飛脚状を焼いたものと思われる。
飛脚の者を始末しおえた彦右衛門と久太郎秀政が、座にもどって来ると、間もなく、
「お見えなされました」
と、石田佐吉が、帰りを告げ、その佐吉が小姓部屋へ退《さ》がると、入れ代りに、黒田官兵衛|孝高《よしたか》がびッこ[#「びッこ」に傍点]を曳きながら入って来た。
「やあ」
と、眼で迎える秀吉も、不自由な脚を折って、どか[#「どか」に傍点]と坐る人も、いつもながらの風であった。
殊に官兵衛は、伊丹城中《いたみじようちゆう》の遭難《そうなん》以来、不治の隻脚《せつきやく》となっているので、君前でも、そのための横坐りはゆるされていた。なおついでにいえば、あのときの獄中生活でできた皮膚病も痼疾《こしつ》となったかたちで、今なお頭の毛の根はそれが治りきっていない。――だから余り燈火《あかり》に近くすわると、そのうすい髪の根までが透《す》いて見えて、この体躯|矮短《わいたん》にして胆斗《たんと》のごとき奇男児の風貌を、いやが上にも魁偉《かいい》に見せ過ぎる嫌いがある。
「この夜更《よふ》けに、何事でございますか。……お召しとは」
いつまで、ものいわぬ秀吉へ、官兵衛からそういった。秀吉は傍らを向いて、
「彦右衛門から話せ」
と云い放したまま、腕拱《うでぐ》みして、首を埋めてしまった。こういう間にも、むだなく思考をめぐらしているように見えるし、また、ともすれば嘆息となる意志の崩れを如何《いかん》ともし難いような姿とも眺められる。
「官兵衛どの。驚かれるなよ」
こう厳粛な悲痛味を予告しながら、彦右衛門は手短に事実を告げた。長谷川宗仁からの飛脚もそのまま語った。豪気をもって鳴る官兵衛孝高の顔いろも、それを聞かされた一瞬は凡人以外のものではなかった。
「…………」
何もいわず官兵衛もまた、大きな息と共にその胸へ腕を拱《く》んでしまった。
そして時を措《お》いて、じろっと額《ひたい》ごしに同じ姿でいる秀吉を見た。
と、堀秀政はすすと膝をすりよせて、秀吉へ云った。
「はや過ぎたるを思うてみても致し方ござりますまい。世風《せふう》は今日から吹き変りました。しかも風は順風と覚えられます。お船出の帆をお揚げなさるべき時節こそ到来。ふたつか一つかの御分別、いまこそ肝腎《かんじん》かなめ[#「かなめ」に傍点]かとぞんじまする」
それに応じて幽古も云った。
「秀政どのの御意《ぎよい》、まことに至言。世間の様態、ものに喩《たと》えて申すならば、吉野の桜、雪とけて、東風《こち》の訪れに会いたるごとく、人もみな、やがてお花見を待つ心地やらんと思わるる。早々、お花見のおしたく、遊ばされますように」
「よういわれたぞ、御両所――」
と、官兵衛孝高も膝をたたいた。
「天地《あめつち》と永劫《とこしえ》、万象も春秋に、そのすがたをかえてこそ、生命も久し。――そのあめつちの心をもて大きく申さば、このたびのこととて、めでたしといえぬこともない。吉野のさくら、時来らでは見られぬものよ。雨情を孕《はら》み、風の陽気に、おのずから咲き出るに、何の御分別や要《い》り申さん。――秀政、幽古などの申すとおり、この上は花見始めの御一戦。しかと御決意あそばして然るべきかと存じまする」
左右の者のすすめは秀吉をして、いうまでもないことよ、と会心《かいしん》の笑みを抱かせたにちがいない。
実に秀吉の本意もそこにあるのだ。――が、ただ、秀吉は人々がそれを云い出すのを待っていたに過ぎない。彼としては、信長の死をもって、
――天地の慶祝《けいしゆく》なり。
とはいえなかった。
その痛哀《つうあい》をして、天下の悲愁たらしめず、天下の慶祝とさせなければならない、とする小義や私情を乗り超えた信念が、よしいかほど自己のうちに固くあってもである――不用意にあらわしては誤解されやすい。総帥《そうすい》の死はやはり三軍の喪《も》であり、しかも彼の臣だった。
臣なるがゆえに、信長の死を犬死にとさせてはならないのである。その生命を不朽に継ぎ生かすこそ遺《のこ》された家臣の道と彼はかたく思う。けれど臣道なるものを、誰も口には説き、誰も行うに劣らずとしているが、その信行にはおのずから人まちまちな深さの差がある。
彼は彼の信念と深度を以てつらぬくしかない。その肚の底には持つものを確《しか》と持っての秀吉であった。
彼は、うなずきうなずき、面《おもて》をあげて、左右の者へ答えた。
「官兵衛も、秀政も、また幽古までが、よくぞ励ましてくれた。実、秀吉の思うところもそれよ。それ一つでしかない。――ついてはだが」
充分、肚の底ができていた証拠といえよう。そこで一語を切ると、彼のことばはすぐ実際問題へ入って来た。要するに、対毛利とのこの戦場をいかに処し、いかに打開し転進するかであった。
「ここで、できるだけ迅速《じんそく》に、かつ機密に、毛利との和睦《わぼく》を取りきめねばならぬが。……彦右衛門、御辺はきょうも、恵瓊《えけい》と会っていたろうが、どうだな、先の肚《はら》は」
「和議のことは、こなたからの申し出《い》でにはなく、安国寺恵瓊《あんこくじえけい》を使いとして、両三日前から、内々毛利方より申し入れて来たことゆえ、彼の示して来た条件ならば、すぐにも取結ばれましょうが……」
「いかん、いかん」
――秀吉は、たとえこの際でもと、つよく首を振って見せながら、
「断じて、あのままではいかん」
と、ことばを重ねた。
「されば。――もとよりこの前から、ここは毛利で何といって来ても、耳をかたむけぬ、との御意でありましたから、今日も恵瓊が来て、そっと、よそで会談しておりましたが、頭からその斡旋《あつせん》を突《つ》ッ刎《ぱ》ねて別れたわけでございまする」
「そこだな。……そのまま手切れとなっては困ることになったのだ」
官兵衛の方へ眼を向けて、
「安国寺恵瓊は初め、往年の知縁をたよって、彦右衛門を訪れて参り、二度目には、その方の陣屋へも行ったのではなかったか」
「左様でした」
「その方のところまでは、どのように云っていたか」
官兵衛は、秀吉の問いに答えて、
「やはり彦右衛門殿を介して、申し入れて来た条件とひとつに過ぎませぬ」
「――と、いうと?」
「つまり……毛利方から提示して来た条件というのは、この際、媾和《こうわ》するならば、備中《びつちゆう》、備後《びんご》、美作《みまさか》、因幡《いなば》、伯耆《ほうき》の五ヵ国を割譲《かつじよう》しよう。そのかわりに高松城の囲みを解いて、清水宗治《しみずむねはる》以下の城兵五千の生命は保証して欲しいと申すのでありました」
「ウム。それだな。五ヵ国を割いて献じるといえば大譲歩しているようだが、備後一国をのぞくほかは、今なお争奪《そうだつ》の地で、必ずしも、毛利方の領下として治められている地ではない」
「仰せのとおりです」
「さるを唯々《いい》として宗治の一命をも助け、和議に応じるわけにはゆかない。これは信長公の御意を俟《ま》つまでもないことだった。勝敗の決はすでにわが手にあるのだから。――しかし今となると、この機会は、だいぶちがって参った。この和を逸《いつ》してはならぬことになった」
「まことに、ここは間髪《かんはつ》、伸るか反《そ》るかの大機と存ぜられます」
「敵の毛利が、京都の変を知るがさいご、到底、和議はむずかしい。戦いの主導《しゆどう》は彼の手にうつり、必然、大勢すべてわれの不利となる。……が、毛利はなお気づいてはおるまい。おそらくはまだ」
と、秀吉は語尾に力をこめて、もういちど、
「おそらくはまだ何事も知っていまい。――天のわれにかし給える数刻の時は――敵がそれを知るまでの遑《いとま》でしかない。大機をつかみ、大策を施すも、そのわずかな間にのみ限られておるのだ。一刻一刻が、いまほど尊いときもない」
「まだ今夜は、三日の真夜半、ようやく子《ね》の刻(十二時)頃と思われます。あす四日中に和議をおすすめあるとも、両三日中には纏《まと》められましょう」
これは蜂須賀《はちすか》彦右衛門のことばだった。
秀吉は、その彦右衛門や秀政へ面《おもて》を向け直して、
「いや遅い。夜明けを待つまでもなく、すぐその運びにかかれ、幸い彦右衛門はきょう恵瓊《えけい》に会っておる。そのはなしの縒《より》を戻して、もういちど、恵瓊がこちらの陣地へ出向いて来るように取計らえ」
「では、すぐ恵瓊のところへ、使者など立てましょうか」
「待て待て。過日来から彼の斡旋《あつせん》を一蹴《いつしゆう》して来たものが、にわかに夜中、此方からただ使いを立てては、敵も、はて[#「はて」に傍点]? と不審をさし挟《はさ》もう。――使いを遣《や》るには、遣る口上も熟慮せねばなるまい」
それからしばしは、ここの声も洩れないほど密《ひそ》かだった。
間もなく蜂須賀彦右衛門がいそぎ足に出て行った。
小姓部屋のうちでは、幽古から眠気ざましの菓子を賜わったので、おでこ[#「おでこ」に傍点]押しや腕相撲に興じ、更《ふ》けるのもわすれて折々高い笑い声をあげていた。
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電《でん》 捉《そく》
秀吉の命をうけるとすぐ諸所の往来口へ早馬を打って、通行の検察《けんさつ》にかかっていた浅野弥兵衛の手の者は、同夜間もなく、その迅速な網の目に、一名の怪しげな男を捕えていた。
場所は首部《こうべ》という山村の、部落からも離れている間道だった。
「どこへ行く」
一小隊で取り囲むと、男は杖を止めて、
「備中の身寄りへまいります」
と、至極神妙である。
「備中のどこへ」
たたみかけると、
「はい、庭瀬《にわせ》で」
と、そら嘯《うそぶ》く。
「庭瀬へ行く者が何でこのような山道を好んで歩くか。しかもこの真夜半《まよなか》」
「ほんに、仰っしゃるとおりで、黄昏《たそがれ》に旅籠《はたご》を求めそこね、一里先へ行ったらあるか、二里歩いたら泊まれるかと、ついつい盲人《めくら》の勘と強情《ごうじよう》から、こう参ったのがまちがいの因《もと》でした。……どう参ったら旅籠のある人里へ出られましょうか、どうぞお教え下さいまし」
と、竹の杖に両手をのせて、さもさも愍《あわ》れを乞うようにうなずいた。
じっと、様子を見ていた部将は、いきなり指さして、
「こいつ、偽盲《にせめくら》だ」
と、一喝《いつかつ》をあびせ、部下へむかって、縛りあげろと命じたのである。
すると、盲の男は、眼があいたような驚き方をして、ぱッとうしろへ跳びのきながら、
「と、と、とんでもない」
無性《むしよう》に地を叩いては言い訳した。
自分は都の者で、検校《けんぎよう》の允可《いんか》も持っている。年久しく琵琶《びわ》など教えて生活していたが、庭瀬にある老年の叔母が危篤というので、身の不自由も顧みず、取るものも取りあえず、こうして西へ下って来たもの。……あわれ、この目のきかない者を、そのようにおからかい下さいますな。と、手を合わせて拝まんばかり顫《ふる》えていう。
「うそをつけッ」
部将は一歩つめて、
「目だけは、ふさいでいるが、貴様のからだのどこにも隙《すき》がない。かような物は要らないはずだ」
いきなり男のついている竹の杖をひッ奪《た》くった。そして短刀の抜く手も見せず、杖を二つにぱんと割った。
すると竹の中から一通の書簡が落ちた。盲人の眼はいつの間にか鏡の如くまわりの兵を睨んでいた。いまはこれまでと決意したものか、突然、一方の囲みを蹴って逃げ出そうと試みた。
約二十名ほどの人数であったので、辛《から》くもこの曲者《くせもの》は取り逃がさずに組みしくことができた。
がんじ[#「がんじ」に傍点]縛《がら》めとなって、馬の上へ荷物のように括《くく》し上げられた後も、曲者は、
「残念だッ。今に見ていろ」
と、歯ぎしり鳴らして、何を期してか、やがてこの報復を思い知らせるぞ、というような意味を喚《わめ》きつづけた。
「やかましいッ」
部将はその口へ土を喰わせた。そして馬腹へ一鞭《いちべん》を加え、部下二、三騎と共に西へいそいだ。
――これも同夜。
場所は、首部《こうべ》の間道で、偽盲《にせめくら》の捕まったときよりも、時刻はだいぶ後であったが。
岡山の東方一里ばかり乙多見村《おつたみむら》附近で、一|修験者《しゆげんじや》が、検察隊に誰何《すいか》された。
さきの偽盲があわれなふりを装《よそお》ったのと反対に、この山伏は傲岸《ごうがん》な態度に出て、
「それがしは聖護院印可《しようごいんいんか》の優婆塞《うばそく》で、京都|因幡堂《いなばどう》に住す金井坊《きんせいぼう》というものである」
と、云い、訊問にたいしても、尊大にかまえ、
「真夜半《まよなか》あるくは、山伏のならいだ。修行となれば、道なき道も行き、眠らずにも歩く。――なに、行く先はどこだと。つまらぬことを問い給うな。行雲流水の身、あて[#「あて」に傍点]など持って歩いたことはない」
と、飽くまでひとを煙に巻いて逸早《いちはや》く去ろうとする気振りだったが、隙を見て、検察の一兵が、槍の柄《え》でいきなり向う脛《ずね》を払うと、口ほどもなく、
「痛いッ」
悲鳴をあげてぶッ倒れた。
半裸にして調べてみると、果たせるかな、本来の山伏ではない。石山本願寺系の僧らしく、本能寺の変と共に、毛利方へ密報すべく昼夜をかけて急いで来た者とわかった。
で――これも直ちに、秀吉の本陣へ、荷駄同様に急送された。
同夜の獲物は、この二人|限《き》りだったが、うち一名でも、警戒網を洩れて、その目的が成功していたら、信長の死は、即日毛利方へ知れていたわけである。僥倖《ぎようこう》といえば僥倖だが、秀吉の応急策も、確かによろしきを得ていたものといえる。驚くよりも哭《な》くよりも前に、真ッ先に浅野弥兵衛を派して、この往来検察をさせたことが奏功《そうこう》したのである。
この山伏は、光秀の発した密使ではないが、さきの偽盲《にせめくら》は、いうまでもなく明智の士|雑賀弥八郎《さいがやはちろう》であった。光秀から毛利輝元へあてた一書を受け、二日の早朝、京都から立って来た者だ。
光秀の使者は、同日の早朝、二人立っている。もう一名の原平内は、大坂から海路備中へ入る経路を取っていた。
ところが、その原平内も武運つたなく、海上で風浪に遭《あ》い、そのため日数も費《かか》って、彼が毛利家へ着いたときは、中国の大機すでに決した後だったのである。
――こう観《み》て来ると、
本能寺以後、光秀の画策《かくさく》は事ごとにうまく運んでいなかったことがわかる。またそれは人智人力を越えた微妙のものであることも頷《うなず》ける。そしてかかる蹉跌《さてつ》や後の敗因は一体何から来ているかといえば、それは一に天意なりというしかない。人は人をあいてとして戦い、飽くまで人と人との戦場を描いているが、偉大なる宇宙の指揮も加わっているのである。陣上に天意をいただかず、人力を尽して神意に通ぜざる三軍であっては、いかに誇るも「人間の陣」にすぎない。「神人の陣」には打ち克《か》てない。
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安国寺恵瓊《あんこくじえけい》
和議の内交渉について、その日の昼、何度目かの会見を試みたが、やはり何の緒《いとぐち》も見られずに、空《むな》しく別れたばかりの蜂須賀《はちすか》彦右衛門から、急にかさねて、
(――さっそくに会いたい。できるだけ早いがよい)
という簡単な書面である。
時は、真夜中であったが、安国寺|恵瓊《えけい》は、
(これは、まとまるな)
という直感を信じて、すぐ身支度にかかった。そして使いに来た彦右衛門の子家政といっしょに、約一里ばかりの石井山へ急いで来た。
もちろん彦右衛門は寝もやらず自己の陣所で返辞を待っていた。恵瓊は彼の顔を見ると、
「明朝とも存じたが、何かは知らず、早いほどよいとの仰せに、すぐ罷《まか》り越《こ》した」
と、いった。
彦右衛門は、さり気なく、
「それは恐縮でござった。明朝でもよろしかったのに、文意の不備、お寝《やす》みもさせぬことに相成ったか。しかし早いに越したことはないので」
と直ちに、相伴《あいともな》って、石井山の中腹まで上ってゆき、途中からすこし曲って、俗に蛙《かえる》ケ鼻《はな》とよぶ所の一軒家まで導いた。
人のいない農家であった。彦右衛門は子の家政にいいつけて、燈火《あかり》を点《とも》させた。毛利側を代表する恵瓊と、羽柴方の彼との会見は、いつもこの人目のない所で行われていた。
「貴僧とそれがしとは、思えば不思議な宿縁《しゆくえん》だな」
対坐すると、彦右衛門は何思い出したか、沁々《しみじみ》いった。
「まことに……」
と、恵瓊もふかくうなずいた。
ふたりの胸には、二十余年前の蜂須賀村の小六のやしきが思い出されていた。わけて彦右衛門正勝には、その頃、僧侶としてはまだ多分に若気《わかげ》であった一旅僧の恵瓊の姿が追憶された。そして感無量な面《おもて》でながめ入るのであった。
織田信長の清洲《きよす》という小城のうちにも、木下藤吉郎という出色《しゆつしよく》な人物がひとりいる――ということを恵瓊が親しく知ったのも、旅の修行中、その蜂須賀村に一宿した機縁によるものであったのだ。
以来、年は経ても恵瓊《えけい》は、織田|麾下《きか》に藤吉郎という一青年将校のあることを久しく忘れることができなかった。天正元年といえば、まだ今日の秀吉が、その頭角《とうかく》すら認められず、柴田、丹羽《にわ》、滝川などの諸将から見ればずっと末輩《まつぱい》に置かれていた頃なのに、当時、恵瓊が都から中国へ報じた吉川《きつかわ》元春|宛《あて》の書状のうちには、偶然か、炯眼《けいがん》かこういうことすら認《したた》めてあった。
[#ここから2字下げ]
――信長の代、五年三年は持たせらるべく候。来年あたりは公家《くげ》などにも成らるべく見および候。左候ふて後、高ころびに、あふのけに転ばれ候ずると見申し候。藤吉、さりとはの者にて候。
[#ここで字下げ終わり]
恵瓊の予言は驚くべきものであったのだ。十年後の今日、まさにそのとおりになって来たのである。
――けれど、その夜の彼はまだ十年前に自分が云ったことが、かくまで的中していようとは夢にも知らない。ただ心ひそかに秀吉の人物に、敵ながらふかく傾倒しているにとどまっていた。
二十年も前に、秀吉の大器《たいき》をすでに観《み》ぬき、十年も前に、信長の運命を云いあてていた恵瓊もまた決して決して世のつねの凡僧《ぼんそう》とはいえない。
まだ彼が幼少の頃、安芸《あき》の安国寺を訪れた毛利|元就《もとなり》が、ひと目見て、
(あの小坊主を予にくれぬか)
と、求めたというはなしは、彼のひとつの名誉となってよく語られている。元就の在世中には、戦陣にも伴《ともな》われて、小僧小僧と、つねに愛《め》でられていたものだという。
中年に郷を出て、諸州を遊歴し、帰国したのちは、安国寺の西堂《さいどう》とあがめられ、小早川隆景や吉川元春の帰依《きえ》もあつく、戦いのある日は、軍事顧問、いわゆる陣僧として従いもしていた。
(ここは御和睦《ごわぼく》あるが善策です)
と、小早川、吉川の両将へたいして切にすすめていたのも彼である。秀吉をよく識《し》る彼には、秀吉を敵として中国の存立は考えられなかった。
またふたつには往年の知己蜂須賀彦右衛門というよい手づるもある。で、内々毛利側の媾和《こうわ》条件を提示してみたが、何度|折衝《せつしよう》を重ねても、こちらから折れて出た五ヵ国|譲渡《じようと》と、清水宗治を助命してほしいという交換的条件とは、秀吉の容《い》れるところとはならない――というのできょうも立別れたわけだったのである。
「いや、急におてがみを上げた次第は、きょう貴僧とお目にかかっての次第を、黒田官兵衛どのにはなしたところ、何、わが殿は、至ってお気持の寛闊《かんかつ》なお方なのだから、もう一歩毛利方において譲歩を示すならば、きっと和談のととのわぬはずはない。今夕もふとそんなおはなしにふれた時、無造作にほかの条件はともかく、宗治の助命はいかん、守将まで助けて城の囲みを解いたとあっては、よくよくわが織田軍の戦力も精いっぱいとなってやむなく微々たる条件で和に応じたという印象を世上に与える。殊には、信長公にたいしてお執《と》りなしも相成らん。宗治だけは宗治だけはと重ねて仰せられたということでおざった。……で、そこまでの和意をおいだきあるものゆえ、恵瓊《えけい》どののもう一と骨折りによっては調《ととの》わぬ筈はない。きっとこれは調う和談じゃと官兵衛どのは、かたい信念をもってそれがしを励ますのでござった。……どうあろうか、貴僧のお考えにある真底のものは」
彦右衛門のことばは昼間と変りのないものだったが、その人は恵瓊が昼見たようなものではない。
何事かこの間に大きな方針の推移があったものと、恵瓊の炯眼《けいがん》はそれを見のがしていなかったが、彼もあくまで平調な口吻《くちぶり》で、
「さ。その真底はもう申しあげ尽しておる。毛利領十ヵ国のうち五ヵ国を献じても、清水宗治の助命を得ずば、天下にむかって、武門が立たぬとしておる毛利家の心中もお察しねがいたい」
「あれから後、今夕にでも、小早川殿か吉川《きつかわ》殿に、御内意なりと質《ただ》されてみられたかの」
「伺ってみるまでもないことゆえ、伺ってみませぬ。たとえ中国全土を失うとも、毛利家にとって忠義無比の宗治はころすには忍びぬと固く臍《ほぞ》をきめておられまする。輝元様以下、小早川殿にせよ、吉川殿にせよ、毛利家の鉄則は百万一心、こうと定められたことに異存をいだくお方はひとりもない」
夜は白み、鶏の声が遠くする。いつか四日の朝となっていた。
恵瓊も応じない。彦右衛門も譲らない。
時はいたずらに経つのみで、和談はすこしも進んでいなかった。のみならず行詰まると、
「では、ぜひもない儀」
と、まま物別れになりそうな危局《ききよく》にさえ度々落ちかけた。
恵瓊も毛利側の君命をふくんでいる者だし、彦右衛門ももとより秀吉の肚《はら》を肚としての交渉であった。しかもこんどは、めったにこの交渉を物別れにさせてはならないのである。その容子《ようす》を、恵瓊は僧侶特有な眼でじいっと見つめては、根気のよい口調でぼそぼそと果てしなく同じことを繰り返していた。
「それがしの器量ではもう貴僧との折合いは見出し得ぬ。ここはひとつ黒田どのに代ってもらおう。貴僧もよく御承知のある黒田官兵衛どのともう一応、じっくりと、はなし合うてみるおつもりはないか」
「だれとでも熟談いたそう。野衲《やのう》のねがう和議に、すこしでも目鼻のつくものならば」
「家政――」
と、夜半から次にひかえたままでいる子息を呼んで、
「もうお目ざめの頃、黒田どのを迎えに行ってくれい」
と、いいつけた。
家政はまもなく官兵衛を伴《ともな》って来た。官兵衛は四名の家臣が支《ささ》え上げている手輿《てごし》の上に乗ってやって来た。降りるやいな、大きく体の一方を動かす歩みを曳いて、無造作にそれへ来るなり二名の側へ坐った。
そしてすぐ恵瓊にむかい、
「実はもういちど西堂《さいどう》(恵瓊のこと)を煩《わずら》わして、和睦するか手切れか、さいごの談判をなさいと彦右衛門どのへすすめたのは、かくいう官兵衛なんじゃ。どうなすった、やはりだめか。半夜中かかっても、折合のめど[#「めど」に傍点]はおつきにならなかったのか」
煮え詰まったような二人のあいだに、官兵衛の磊落《らいらく》な語調はよほど気分を前へもどすのに効果があった。恵瓊も朝の光に面《おもて》を少しあらためて、
「せっかくでしたが、どうも依然たるものでした」
と、笑った。
彦右衛門はそれを機《しお》に、
「今朝、信長公の御着陣について、堀どのと、なにかと打合わせをひかえておるので、失礼なれどちょっと中座をおゆるし下さい」
と、席を外《はず》してしまった。
官兵衛は呟《つぶや》くように、
「右大臣家のお着きも両三日と相成っておるので、和議のことも、きょう一日を除いてはもう二度と会見もなり難い。……ところで、どうです。よい程に取極めませんか」
彼の外交は単刀直入だった。またひどく高飛車《たかびしや》だった。到底、勝目のない戦局に立ちながら条件についてとやかくいうならば、もう一戦のほかはないというような極言まで敢えてした。そしてまた、
「ここで一つ東軍にお骨折りを示しておけば、貴僧としても将来の大を約しておかれるものではないか」
などという彼一箇の利にわたることをも露骨にほのめかした。相手がちがってからの恵瓊は前ほどの雄弁を失っていた。しかしその顔つきは彦右衛門と粘《ねば》り合っているときよりは大へん気がるそうに見えた。
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笑《しよう》 歌《か》
「城主|宗治《むねはる》の切腹さえ確約あるならば、五ヵ国|移譲《いじよう》の条件のほうは、いささかなりとも、殿へおねがい申して、こちらも譲歩をお示しいたそう。ともあれ今朝もう一度、吉川、小早川の両将へ、貴僧より切にお扱いを励まれてみぬか。和戦、その上でいずれとも一決いたそう」
官兵衛にこう説かれると、恵瓊《えけい》は何となく腰をすえていられなくなった。吉川元春の陣地岩崎山までは僅か一里。小早川隆景の陣地|日差山《ひざしやま》まで行っても二里弱にすぎない。彼は急に意をうごかされたらしく、
「お馬を拝借したい」
と、云《い》い出《い》で、この陣僧はやがて、馬をとばして駈けて行った。
「さて。何と返事があるか」
見送ってから官兵衛は、持宝院《じほういん》へ上がって行った。そして秀吉の昨夜の室をうかがうと、秀吉は衾《ふすま》も被《かつ》がず手枕で眠っていた。
油の尽きた燭《しよく》はすでに消えている。官兵衛は側へ寄ってゆり起した。
「殿。夜が明けておりまする」
秀吉は鼾《いびき》をやめた。
「……明けたか」
と、むくむく起きて、すぐ恵瓊《えけい》との会見のもようを聞き取り、ちょっと難しい顔つきをしたが、すぐ起ち上がって、
「飯のしたく」
と、いいつけ、一目散に廊下へ出て行った。
厠《かわや》であった。小姓たちは湯殿口のわきに、洗顔の水をたたえて待っていた。
「飯をくうとすぐ陣廻りに出るぞ。平常のとおり馬を曳き出し、供の者を揃えておけ」
顔を拭きながらの命令である。朝飯は忽ちにすました。桜若葉の山門から彼はもう金瓢《きんぴよう》の馬じるしと朱の大傘をかざさせて、ゆらゆら麓へ馬を打たせている。
彼の日課である陣廻りには、もとより規定の時刻はない。しかし常になく早朝だったことは珍しい。彼は日頃よりも機嫌もうるわしく、折々、剽気《ひようげ》た戯《たわむ》れなど云いながら悠々各陣地を視《み》てあるいた。
やがて帰り途にかかると、
「筆を持て」
と、祐筆《ゆうひつ》をそばへ呼び、
「――狂歌を一首思いうかべた。認《したた》めて毛利の陣所へ持たせてつかわせ」
と、いった。
そして馬上から自作の狂詠《きようえい》を供の人々に聞えるような声で誦《ず》した。祐筆はそれを懐紙に書いた。
両川《りやうせん》が一つになつて流るれば
毛利高松|藻屑《もくづ》にぞなる
「どうじゃ」
と、秀吉は左右を顧《かえり》みた。人々は笑い興じた。ひどくお下手《へた》な歌ではあるが、味方の気概《きがい》を示すには足りるし、あわせて一笑を放つには充分だ。
使いはすぐ敵方の陣へ出かけた。誰かよくこの機微《きび》を感知し得よう。
この余裕を誇示している人の胸に「信長の死」が秘せられていようとは。
為に、今朝なお味方の内にすら京都の変の洩れている気はい[#「はい」に傍点]はなかった。秀吉はそれを見届けて緩々《かんかん》と石井山の本陣へもどった。すると山門の前に、官兵衛|孝高《よしたか》が待ちうけていて、何か、眼でものを云いながら寺内へ従《つ》いて行った。秀吉は彼の顔色で、恵瓊の返事が不調に終ったことをすぐ覚《さと》っていた。秀吉のもどる少し前に、恵瓊も毛利の陣から帰っていたが、結果は予想どおりだった。最後の努力も何の効なく、毛利輝元を始め吉川、小早川の両川《りようせん》は依然、
(宗治を殺しては、毛利家の武門が立たぬ。宗治の助命を容《い》れぬ媾和《こうわ》には断じて応じない)
という絶望的な返辞にきまったという――恵瓊の答えなのである。
「ともあれ、恵瓊をここへ召し連れて来い。わしが会おう」
秀吉はまだ絶望を絶望としていない。熱意を昂《たか》めている程だった。
待つ間、傍らの生駒《いこま》雅楽助《うたのすけ》や蜂須賀彦右衛門に、何事か耳打ちしていた。
「安国寺どのが見えられました」
程なく官兵衛から披露すると、秀吉は朝陽《あさひ》のこぼれている書院へ彼を引いて打ち寛《くつろ》いだ。むかし話やら、都の噂などの末に、
「さて、御僧には、清僧《せいそう》か、妻帯《さいたい》か」
と不意にたずねた。
恵瓊はうろたえ気味に、
「清僧にござりまする」
と、答えた。妻は持っていないということである。
「やれ、やれ。それは」
秀吉はもったいないような顔をして、しかし、祝酒ならよかろうと、小姓に銚子《ちようし》を命じ、三宝に盛って出された昆布《こんぶ》、勝栗《かちぐり》、美濃《みの》の干柿《ほしがき》などのうちから、柿一つ取って自分も喰べ、恵瓊にも、
「取れ、取れ」
と、すすめ、
「さて」
――と、本題にはいって、こう説いた。
「宗治の命一つが、双方の面目問題にかかって、和議もさッぱり埒《らち》あかぬようだが、顧みるに、天正六年|播州《ばんしゆう》の序戦で、わが軍は作戦上ぜひなく、尼子勝久《あまこかつひさ》、山中鹿之介《やまなかしかのすけ》たちの上月城《こうづきじよう》を打ち捨てた。その折にも面目を失したし、次いで去年、伯耆《ほうき》の馬之山《うまのやま》においても、吉川元春と対陣の末、われはわれから陣を払って引き退《の》いた。――かく両度まで、われは天下に面目を欠き、毛利は武門を立てて来たことゆえ、このたびは高松の守将清水宗治に死を与えるとも、決して両川《りようせん》(吉川・小早川)の恥にはなるまいと思う。筑前はそう思うのだが御僧の分別はどうか」
「ごもっともにはござりまするが」
「――と真底、御僧もうなずくならば、なぜ御僧個人として宗治に会い、宗治に事態を告げ、自決をすすめんのか。――忠義な彼へ対して、主家より切腹は命じ難いであろ。しかし御僧からその主家の苦衷《くちゆう》をよく伝えたら、宗治とても、己れの一死が、城中五千のいのちに代り、かつ毛利家の滅亡を救うものとなして、よろこんで自決するに違いないと思われるが」
それだけいうと、秀吉は軍務にかこつけて席を去った。生駒雅楽助や官兵衛はなおあとに残って、恵瓊をかこみ、さらにひとつの秘密を打ち明けた。
それは毛利方の上原元祐《うえはらもとすけ》から秀吉へ宛てた幾通かの書簡である。元就《もとなり》の聟《むこ》たるこの人さえ内通しているという事実を見せるために恵瓊へ特に示したのだった。恵瓊はついに決意した。自己をふるい起して高松城へ出向いた。もちろんそれは濁水に棹《さお》さして蛙《かえる》ケ鼻《はな》から舟で渡るのであった。
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諾《だく》
水の城、孤立の城、高松のうちには将士や農民をあわせて五千のいのちが拠《よ》っていた。
「この水をのみ、壁を喰っても」
と、彼らは降伏を知らず、戦いにかたまっていた。
寄手《よせて》の浅野、小西などの軍は、遠く海から山越えで運送して来た大船三隻を泛《うか》べ、それに砲を載せて城楼《じようろう》へ弾丸をうちこんだりした。
櫓《やぐら》は半崩れとなり、死傷者もだいぶ出た。それにこの梅雨どきである。病人はふえるし、食糧も濡れびたしとなり、廓内《かくない》の惨状は目もあてられない。
西曲輪《にしぐるわ》と東曲輪《ひがしぐるわ》との往来さえ舟や筏《いかだ》でするほどだった。城兵は、染戸《そめど》の染板数百枚をあつめて、軽舸《はしけ》を作った。水上戦のとき、それに載って寄手の大船へ攻めかかった勇者もある。そのとき二、三の軽舸《はしけ》は沈没されたが、泳ぎ帰って、ふたたびこの中で指揮している者もあり、何しろ農民までが、今は兵にも劣らない決死のすがたを持っていた。
「他郷へ逃げれば逃げてもよいお前たちなのに、われらと運命をともにさせたのは不愍《ふびん》であった」
と、守将の清水宗治が見廻っていたわると、彼らやその家族たちは声をあげて哭《な》きながらも、
「殿さまと御一緒なればうれしゅうございまする」
と、みな答えた。
宗治の日頃の民望が今この声となったものである。
吉川、小早川の援軍が、彼方《かなた》の山々に到着して、その旗幟《はたのぼり》をここから望んだときは、全城の士民はみな蘇生《そせい》の思いを抱いて、
「もう大丈夫」
と、一日中、歓呼したものだった。しかし、それも遂に、自分たちを救うことの出来ないものであったと、彼我《ひが》の地勢や作戦上の理解に知って、一時は落胆したものの、決して戦意を捨てはしなかった。むしろその後のほうが、誰の顔にも「死ぬもの」と思い極めた明るささえ見えた。そこから沸《たぎ》り立つ強味には底知れない不屈があった。
だから味方の援軍から、密使をもって、所詮《しよせん》、救い難い実情を城中につたえ、
(――この上は、羽柴へ降伏して、城中五千のいのちを保つがよい)
と、元春や隆景の名をもってそれをゆるしても、宗治以下すべての者は、
(われはまだ、降伏ということを、習ってもおりませぬ。こんな時のために、日頃からわきまえていることは、一死あるのみです)
と、慨然《がいぜん》、恩を謝して、しかもそれには従わなかった。
こうして二十日余りを頑張り通して来た或る日の朝――六月四日の朝――はるか敵地の岸辺から漕ぎよせて来る一つの小舟が城兵の眼にとまった。
武士に櫓《ろ》をあやつらせ、その舟の中には、僧形《そうぎよう》の者がひとり乗っていた。これなん安国寺|恵瓊《えけい》であったことはいうまでもない。
恵瓊は、宗治に会った。
――切腹をすすめた。
もとよりそれはさいごの言で、それをいうまでには、
「先頃から両軍のあいだに、和睦《わぼく》の内談がすすめられ、愚衲《ぐのう》がその折衝《せつしよう》に当って、数次、羽柴方と会見しておりましたが」
と、そのいきさつを語り、またこの城の守将の一命を助けん、助け難し、とする両軍の面目問題が暗礁《あんしよう》となって、ついに行き悩んでしまった実情をも、事こまかに話した末、
「ここは其許《そこもと》のお心一つで、毛利家の安泰も確約され、ふたつには、多くの城兵や無辜《むこ》の民も、つつがなく助け出されることになるのでな……」
と、縷々《るる》、真心と熱弁をかけて、彼にそれを説いたものであった。
宗治は始終だまって聞いていたが、恵瓊が、これ以上はいうべき言葉もなしと、総身《そうみ》を汗にぬらして、俯向《うつむ》いてしまったのを見ると、初めて穏やかに口をひらいた。
「……やれ今日は何たる吉日《きちにち》。ありがたい仰せを承《うけたまわ》った。おことばに違いなきことは、御僧の面《おもて》を拝見してもわかりました」
承知とも、不承知ともいわないのである。――宗治の心はすでに諾否《だくひ》の先へ超えているのであった。
「さきには、数ならぬ身を、小早川殿、吉川殿にも、いたく御心配くだされて、城を開いて降れよとまで仰せ越しあったが、たとえ五千のいじらしき者どもを共に死なしても、宗治としては、降伏して命を助かるなどというは思いもよらぬことゆえ、お断り申しあげたが、御僧のおことばに任せれば、主家も安泰を約され、城中の士民も無事を得るとのこと。……さもあれば毛頭否《もうとういな》むすじはない。むしろ大きな歓びでござる。宗治として歓びでござる」
語尾を強くかさねて云った。
恵瓊はからだがふるえた。これほど易々と――というよりは歓びをもって相手に容《い》れられようとは思いもしていなかったからである。感激にふるえたのである。
と同時に、ひそかに恥じた。自分は僧侶であるが何かの場合、よくこの人のように死生に超然としていられるだろうか。死を受くるのに、顔いろもうごかさず、それを歓びとして迎えることができるだろうか――と。
「では、御承知下さいますな」
「御念には及びませぬ」
「御一族たちと御談合なくともよろしゅうおざるか」
「あとで告げます。みな共に歓んでくれましょう」
「それと。……甚だ申しあげ難いが、事は急を要しまする。信長の西下も一両日と沙汰されておりますゆえ」
「おそくも早くも、それがしにとっては同じこと。して、期日は」
「今日。……しかも午《うま》の刻《こく》までにせよとの筑前のことばでおざるが。午の刻までといっても、もう二刻半ほどのいとましかありませぬが」
「それだけあれば」
と宗治はうっすら笑って、
「死ぬには悠《ゆつた》りと支度もできましょう。御僧には疾《と》く立ち帰られて、宗治異存なき旨を、両軍へおつたえありたい。わけて長々|微身《びしん》をお目にかけられ下された主君輝元様。また小早川殿にも。吉川殿へも。……よしなに」
恵瓊《えけい》の小舟は矢のように帰って行った。彼はすぐに秀吉に会って、宗治の一諾《いちだく》を報告し、また馬をとばして西軍の岩崎山へ急いだ。
吉川元春も小早川隆景も、いまや重大な関心を彼の復命一つに寄せていたことはいうまでもない。
「破談か」
てッきりそれであろうと予想していたもののように、彼のすがたを見るとすぐ隆景は云ったが、恵瓊は、
「否」
と、答え、
「――ようやく曙光《しよこう》を見ることができました」
と、次の息でつけ加えた。
元春も隆景も、
「では、秀吉が譲ったか」
と、やや意外な顔したが、恵瓊はそれにも否と面《おもて》を横に振って、
「この和議のため、身一つ捨てんと、誰よりも御和睦を祈っている者の力でござりまする」
「はて、それは誰をさすのか」
「宗治どのが申されました。かくまで微臣《びしん》を庇《かぼ》うて給わる御主君に報《むく》わでやあるべき。このうえは、われだに切腹なせば、御和談も成り、かたがた、主家の御名にも傷つくことはあるまいと」
「西堂《さいどう》。御辺《ごへん》はその宗治に会ったのか」
「たった今、会うて参りました。今生《こんじよう》の拝顔も成り難けれど、輝元様以下、元春様にも、隆景様にも、くれぐれよしなにとのお言伝《ことづ》てにござりました」
「秀吉のすすめによって会いに行ったのか」
「もとより羽柴方のはからいなくては舟もやれませぬ」
「そして宗治には、御辺から仔細を聞くに及んで、腹を切ると云い出たのであるか」
「午《うま》の刻《こく》を期して、一舟《いつしゆう》を泛《うか》べ、敵味方の見る中で腹切らん。そのときをもって、和議を結ばん、毛利家を万代の安きにおすえ下されよ。また、城中五千のいじらしき者をお救い給われと、入念《にゆうねん》のごあいさつでありました」
「ううむ」
と、隆景もうめき、元春もうめいた。そして熱い眼と眼を見あわせていたが、その感動の波をふかい息として吐ききると、
「して、秀吉の意嚮《いこう》は?」
と、隆景が再度たずねた。
「城将の首を見ねば断じて和せず――とされていた筑前どのも、野衲《やのう》からそれを聞くといたく感じられた態で、さすがは大国の毛利、よい家臣を養いおられる。さてさて、清水長左衛門宗治は、毛利無二の忠臣なる哉《かな》――と、幾たびも長嘆して左右に語られておりました」
恵瓊はさらに云った。
「なお筑前どののいわるるには、それ程の忠臣を殉《じゆん》じさせ、彼の忠魂に報いぬは、敵たりとも、心なきわざ、かつは中国の名族毛利に、全土の半ばを割《さ》かしむるのも気のどくの至り、五ヵ国の移譲の約束であるが、われは三ヵ国を取り、残り二ヵ国は宗治の忠節に免《めん》じておもどし申さん。……かく両川《りようせん》にも申し伝え、異存なくば、宗治の切腹を見とどけた後、直ちに誓紙を取りかわすであろうとの明言にござりました」
間もなく、恵瓊をのこして、両川は毛利輝元の前にこれを伝えていた。元より異議を立てる理由はもうどこにもなかった。
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男をつくりて
わたくしもお供に。
それがしも何とぞお供に。
高松城の士《さむらい》たちは、次々に主人|宗治《むねはる》の前へ出て死を願った。
「成らん。相成らん。いけない」
宗治は、それを叱ったり、諭《さと》したり、なだめるのに、口を酸《す》くした。
一時は当惑につつまれた程だった。しかしすべての者に一様にゆるさなかった。
恵瓊《えけい》の舟が城を辞して離れるとすぐその後で、彼は自己の決意を全城の者に告げたのだった。
あわせて、また、
「きょう午《うま》の刻《こく》に、この濁水の湖上に舟をすすめ、敵味方見る中において腹切る所存」
と、その舟支度を士たちにいいつけていた。
号泣《ごうきゆう》の声が城に満ちた。いたずらに彼の屠腹《とふく》をかなしむのではない。人の死は日々眼にも見、耳にも聞き、おのれの死もそれと変らぬものと常に観《み》ている人たちである。
宗治の犠牲によって、はからずも自分たちのその命が救われたことを狂喜した哀号《あいごう》でもなかった。彼らはそれほど利己でもない無情でもない。
全城にみちた一瞬の号泣は、実に、人の真美が人の真美を衝《う》ったのである。宗治の無私大愛のあたたかさに触れて、先頃からみな鬼の如く防戦に凝《こ》り固まっていた一心が、突然、雪解《ゆきげ》の如く溶《と》けて誰も彼もの嗚咽《おえつ》となったものだった。
ようやく、諸士の願いを退けて、すこし座右《ざゆう》に暇を見出したと思っていると、こんどは宗治の兄の月清入道《げつしようにゆうどう》が来て、彼に説いた。
「長左衛門(宗治のこと)。いま仔細は聞いたが、お前が死ぬには及ばぬことだ。この兄が代ってあげる。死装束《しにしようぞく》はわしに譲れ」
「兄上は桑門《そうもん》のおん身、宗治はここの守将でござる。せっかくですが、代役はおねがいできませぬ」
「いやいや、元々、わしは兄の身だから、家督《かとく》を継ぐべきであったのを、生来、仏道になずみ、武門にはうとい身ゆえ、強《た》って、弟のお前に家名を継いでもろうたのだ。為に今日、この事に当って、お前が切腹するような立場になったのを、この兄のみ、余命を長らえているわけにはゆかない」
「僧門のお方は、世事死生の上に高くあるべきです。俗の古事など、何の今日の事とかかわりありましょうや」
「そうでない。僧たる者は、人の範《はん》ともならなければ、その道も行われぬ。さるを、世人から見て、月清入道こそは、弟にも似ぬ命惜しみの人かなと嘲《わら》われては、わしはともかく、桑門の道も教えも廃《すた》りになる」
「いかに仰せられても、宗治が切腹は、決してかえるわけに参りません」
「それも、もっともじゃ。しからば舟までのお供いたそう。それならよろしかろう」
月清《げつしよう》は去った。
すずやかな姿である。それを見ると長左衛門宗治も気安くなった。小姓どもにいいつけて、水裃《みずがみしも》や水いろの袴《はかま》など、死に就くべき曠《はれ》のものを揃えさせていた。
「そのまに一と筆」
と思いついて、三原にのこしてある妻と子の源三郎へてがみを書いた。源三郎には、武士の一生のための処生《しよせい》の歌三首を書き遺《のこ》した。
城中には目付《めつけ》として、また督戦のためもあって、味方の吉川、小早川の両家から来ている検使の将、数名がいた。
そのうちの一人末近左衛門は、宗治の部屋を窺《うかが》って、
「すこしの間、お邪魔してもよろしゅうござるか」
と、常のような容態で話しに入って来た。
ふと見ると末近もいつの間にか垢《あか》の見えぬ夏小袖に死装束を重ねているので、
「御辺のお支度は何のためか」
と、宗治はわざと、いぶかって訊ねた。
末近左衛門は事もなげに、
「御一緒にまいるつもりで」
と、答え、
「――幸いに、天気も快《よ》くして、舟の中での切腹は、さだめし爽やかなことでござろう」
などと、もう同行を独りぎめにしている口吻《くちぶり》だった。
宗治は固く断った。
「貴公には、ここの次第をよく見られて、隆景様や元春様へお伝えあれば、それでお役目は、尽されておる。お立場上、誰も卑怯とは云いますまい。――それがしの相伴《しようばん》はむしろ迷惑。おやめ下されたい」
「いや、御報告には、いくらも他に人がある。てまえはどうしても、其許《そこもと》と共に死ぬことに思いきめ申した」
「それはまた、どういうわけです」
「されば。――すでに当城へ臨むときに、もし貴公がいささかの異心でもさしはさみ、敵に通ずるごとき兆《ちよう》あらば、直ちに貴公と刺しちがえる覚悟でござった。しかるに、志もお変えあらず、この城を守り通して、しかも今、主家の安きを祈り、城中一同の命に代って御切腹あるとは、何たるここちよき、御|辞世《じせい》であろう。義に感じててまえも共に自刃いたしたい。それは、隆景様より厳命をうけてこれへ参ったとき、すでに、貴公とは死生一つなり、二度と郷地に帰らんと思うべからずと、独りかたく職分に誓っていたことでござれば、当然な勤めの一つと、笑って、お目に入れず、おゆるしおき下さい」
宗治は黙ってそれをうけた。左衛門の辞色《じしよく》には少しも騒がしいものは見えなかったが、たとえ説いても説き伏せ難い程のものがその姿を巌《いわお》のように見せていた。声の裡《うち》にこもっていた。
ところへ、大手の矢倉の上に在る部将白井与三左衛門から、一武士を使いとして、主人宗治の許へ口上《こうじよう》で、
(甚だ、憚《はばか》り多いことですが、自分はなお、お矢倉の守りについておる身なので、たとえ和談の議があろうと、誓紙の調印あるまでは寸時もこの部署を離れることはできませぬ。御足労、痛み入りますが、今生一期《こんじよういちご》のごあいさつを兼《か》ね、ちと申しあげたい儀もございますので、お矢倉の上までお運び願いとう存ずる)
と、伝えてよこした。
何事か知れないが、白井与三左衛門は多年仕えてくれた家の子のうちでも年頭《としがしら》の方である。宗治はすぐ矢倉へ上って行った。与三左衛門はうれしげに、主人の姿を、そこの不断の戦いの場所に迎えた。
与三左衛門は負傷していた。
まだこの城が水攻めをうけない卯月《うづき》二十七日の大寄せに、敵の鉄砲に中《あた》って、片脚にかなり痛そうな怪我《けが》をしていたが、この矢倉を預けられた以上、仆《たお》れてもここは降りない。眼のあいている限り死守してみせると頑張って、昼夜、物の具も解かず、きょうまでなお、満々たる城外の濁水を睨みまわして、弓を懸けつらね、銃口を並べ、手に陣刀の柄を放さずにいる老部将であった。
「おう、ようお越し、ようお越しを」
彼は、喘《あえ》ぐような声をして、主人の足もとにひざまずいた。
そして武士に、
「御|床几《しようぎ》をあげてくれい」
と、いいつけ、自分は、さらに片脚を寝かせて、どすと、武者坐りに腰を落した。
「与三左衛門。仔細は、月清《げつしよう》からも聞いたであろう。間もなく、自害に赴《おもむ》くこの宗治ぞ。相見るも今のみ。年来のそちの奉公、あらためて礼をいうぞ」
「おめでとうござりまする」
与三左衛門は片手を落した。どうしたのか、急に首の根が折れたようにがく[#「がく」に傍点]と前へ下がったからである。肩で大きく呼吸をして後、また宗治を振り仰いだ。
「さてさて、またなき御武運にお会いなされましたもの哉《かな》。人の一生も生涯の士道も、その仕上げは、よくも悪くも死によって定まるとか申しますが、今日の御生害《ごしようがい》は現《うつ》し身《み》の人をも数多《あまた》生かし、また御自身の一命をも末代に生かす曠《はれ》の一期《いちご》。およろこび申さずにいられませぬ」
「よういうてくれた。与三左衛門。悲しんでおくりゃるよりは、ずん[#「ずん」に傍点]とうれしいぞ」
「左様にお心も確《しか》とおすわり遊ばしているわが殿のこと。無用の憂いとは存じましたが、何せいきょうのお場所は、敵味方の両大将はもちろん、中国勢も上方勢も眼をこらして見まもっている真っただ中での御生害。万が一のことでもあってはと、年寄の取りこし苦労から、切腹とはいかなる味のいたすものかを、お先に試みてみましたところ、案外、軽いものでござりまする。――致さぬ前に思うほどのた[#「のた」に傍点]打つものでもござりませぬ。……まずまず、左様に思し召して、おこころ悠《ゆる》やかに遊ばしますように」
与三左衛門はそう云いながら、よろいの胴を外し、腹帯を解きはじめた。そしてことば静かに、
「――御覧候え」
と、宗治に示した。
宗治は眼をみはった。――見事に老腹《おいばら》を掻ッ切っているではないか。紅《くれない》の腹巻を解《と》くとともに、さすがに気丈な与三左衛門も鬢色《びんしよく》に死をあらわして、
「憚《はばか》りながら……」
と、首をさしのべ、眸《ひとみ》で介錯《かいしやく》を求めた。
その耳元へ口をつけて、
「与三左衛門、案じるな。やがて見ておれよ。彼方《かなた》の水の上を」
一颯《いつさつ》の光は戛然《かつぜん》と鳴った。宗治は、自分に先立つ道づれを、涙とつるぎの下に見た。
午《うま》の刻《こく》は近づいていた。
宗治はすっかり身支度も調《ととの》え終った。
きょうまでは、一滴たりと、城中の者の生命をつなぐ大事な物としていた飲み水も、今はよかろうと、手桶に一杯持てと命じ、その水で、籠城四十日以来の身の垢《あか》を浄《きよ》め、髪も梳《す》いた。
麻《あさ》の小袖《こそで》に水裃《みずがみしも》の姿もすずやかに見直された。小姓に、舟の支度を問わせると、
「まだ羽柴勢の堤に合図の小旗が見えませぬ。合図が見えたらお知らせ申し上げまする」
と、ある。
何という休戦の静けさだろう。陽《ひ》は無心に似て、刻々、中天にかかってゆく。
この日、風もなく、城外四方、百八十八町歩にみなぎる濁水の色は、依然として赤く濁ったままであるが、梅雨の霽《は》れ間のさざ波は、そよそよ陽を射返して、折々、白鷺《しらさぎ》の羽音のするほか、敵味方の陣営も、ここの一城も、実にしいん[#「しいん」に傍点]とひそまり返っていた。
そのとき、十数名の直臣《じきしん》たちは、やがて間もなく城を出る主人のおすがたに、さいごの名残を惜しもうものと、目顔で語らい合いながら、打ち揃って、そっと宗治のいる居室の外に居並んだ。
見ると、その宗治は。
時刻の来るのを待ち遠しげに、部屋の中で伸々《のびのび》と身を横たえ、ふたりの小姓に毛抜きで小鬢《こびん》の白髪や耳の毛を抜かせていた。
縁の端からその態《てい》をながめた老臣のひとりは、じん[#「じん」に傍点]と瞼《まぶた》に衝きあげてくるものを、わざと軽い戯れにして、宗治へ云った。
「これは、これは。殿には、時節がら不相応な男振りをお作りでござりますが、いかなる思し召しでございますか」
すると宗治は、片肱《かたひじ》起して、むくと面《おもて》をもたげながら、一同の者へ、
「さればよ。この首は、今日まで男競べいたした秀吉の見参にも入り、信長の前にも供えらるべきもの。――余りに窶《やつ》れていては、一旦《いつたん》の籠城にかばかり老いさらばいつるかと、中国武士の荒胆《あらぎも》を軽んぜられも致そうか。――さもありては口惜しきゆえ、かくは男をつくりて候ぞや。嗤《わら》うな。嗤うな」
と、いって笑った。
迎えが来た。――時刻とみえ、対岸の蛙《かえる》ケ鼻《はな》に赤い小旗が見え出したという。
「さらば、参ろうか」
宗治はつと[#「つと」に傍点]立った。
不覚と思いながらも抑えきれずに、この時、衆臣の中から嗚咽《おえつ》がながれた。宗治は耳なき人のように、さっさと、城壁の方へ歩いた。小舟は、新しき藁《わら》の莚《むしろ》を敷き、白き死の座を備え、あくまで清浄に、舷《ふなべり》を洗って彼を待っていた。
宗治の兄月清入道と、末近左衛門のふたりがさきに乗っていた。
ほかに宗治の郎党|難波七郎次郎《なんばしちろじろう》が櫓《ろ》を把《と》って控え、介錯人《かいしやくにん》を命ぜられた幸市之丞が端にいた。
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薫風一扇《くんぷういつせん》
舟は城を離れた。
難波七郎次郎の漕《こ》ぐ櫓《ろ》のあとに、ゆるい波紋が残されてゆく。
「あれよ、殿さまのお舟が」
「真っ白なおすがたで」
「わしらの命にお代りくださるのじゃ」
「勿体《もつたい》なや。勿体なや」
城中五千人のうちの三分の一は領下の百姓老幼であった。それらの者がみな水漬《みずつ》いた城壁の破れ目や、屋根の上や、狭間《はざま》や小高い所などから、声こそ揚げないが手をあわせ、眼を拭《ぬぐ》いつつ、見送っていた。
長年その人に仕えて来た家中の将士にいたってはいうまでもない。みな断腸《だんちよう》の思いを嚥《の》み、眼には悲涙を沸《たぎ》らせていた。為に、彼方《かなた》へ遠ざかる舟の影すら、涙にかすんで熟視していられなかった。
――しかし、舟と人とは、うらうらと、さも長閑《のど》けき途《みち》のように、雲の影の映《うつ》っている静かな水面を漕ぎすすんでいた。
振り向くと、高松の城は、かなり後になった。ちょうど、蛙《かえる》ケ鼻《はな》と城との中間あたりと覚しき所まで来ると、
「七郎。この辺でよかろう」
と、宗治の兄の月清入道がいった。難波七郎次郎は黙って櫓《ろ》を上げた。
待つ程もなく。
この舟が城を離れたとき、同時に対岸の蛙ケ鼻からも、一|艘《そう》の舟が湖心へむかって漕ぎ出していたのである。それは秀吉の陣から派せられた検使舟であることはいうまでもない。目印には舳先《へさき》に赤い小旗を立て、舟にも緋《ひ》の毛氈《もうせん》が布《し》かれ、中央に武者三名ほど坐っていた。
検使の将は堀尾茂助吉晴《ほりおもすけよしはる》であった。吉晴のみ陣羽織を着ていた。
白い死装束《しにしようぞく》の人を乗せて漂《ただよ》い待つ小舟と、紅《あか》の小旗をひるがえした検使舟とは、ようやくいま、この満々たる水上の中心で相会おうとしていた。
水も静か。四山《しざん》も静か。――漕《こ》ぎよせてくる検使舟の櫓《ろ》の音のみが耳につく。
はるか西の岩崎山から、今日はこの辺りまで手にとるように望まれているだろう。そしてそこには毛利輝元、吉川元春、小早川隆景などが座をつらね、味方三万の将士も鳴りをひそめて、この一点に眸を凝《こ》らしているにちがいない。
さらに。――羽柴筑前守秀吉の本陣石井山は、もっと近々とここを俯瞰《ふかん》する位置にあった。その麓《ふもと》から堤上数十町にわたる陣々も馬印と旗で埋められていた。
宗治は遠く岩崎山のほうへ向って、心のうちでは多年の恩顧《おんこ》を謝し、なつかしの主家の旗を見ては、ひとみに惜別《せきべつ》をこめていた。
「それへお渡りありしは、高松城の守将、清水|宗治《むねはる》どのでございますか」
検使の舟は、すぐ側へ来た。こう呼びかけたのは、使者の堀尾茂助である。
宗治は、こなたの舟から、
「おことばの如く、長左衛門宗治でありまする。御和睦《ごわぼく》の一条を相果すべく腹を切りに参ってござる。御検使の役、御苦労にぞんずる」
と、一礼した。
「なお、申しあげたいお言伝《ことづて》もござれば、少々、お待ち候え」
茂助は、そういってから、扇子を上げて、宗治のうしろにいる難波七郎次郎へ、
「もすこしお舟を寄せ候え。こなたよりも寄せ申さん」
と、云った。
相互の舷《ふなべり》と舷とが近づきあって、軽くどんとゆれた。
茂助は、威儀を正した。
「――さて。余の儀でもありませぬが、それがしの主人秀吉様の申さるるには、この度の和議も、其許《そこもと》の御一諾なくば、到底、調《ととの》い難《がた》きはずのところを、忠義のためには、一身もお顧みなき御返辞に、ほとほと感じ入って候との儀でござった。――今日はまた、時刻もおたがいなくお立ち越え、まことに殊勝《しゆしよう》のいたりに存じ申す」
と、まず慇懃《いんぎん》なる挨拶を呈《てい》して、次に、
「――ついては、永々の籠城《ろうじよう》、さだめし御辛苦の事もおわしつらんと、主人秀吉様より心ばかりの品お慰めにと、これへ持参いたしてござる。……まだなかなか陽も高うござれば、われらの役儀にお心づかいなく、悠々《ゆるゆる》と名残をお尽しあるように」
一樽《ひとたる》の美酒と、幾重ねの佳肴《かこう》などが、舟から舟へ手渡された。
宗治はよろこびを顔に湛《たた》えて、
「これは思いがけない好物のお贈り物。わけて秀吉どののお志とあれば風味喫《ふうみきつ》すべしと存ずる。遠慮なく頂戴いたそう」
と、杯をとりあげた。
そして、兄の月清《げつしよう》入道に、
「兄者人《あにじやひと》も、おひとつ」
と、すすめ、末近左衛門にも、難波七郎次郎にも、杯をまわして、順に酌《く》み交《か》わした。
「久しゅう、かような美酒もいただかなんだせいか、はやちと微酔《ほろよ》うてござる。――無骨者の余芸、おかしゅうお眺めあらんも、一《ひと》さし舞うて堀尾どのへお目にかけん。――兄者人。左衛門。鼓はなけれど、手拍子《てびようし》、膝《ひざ》拍子。いつもの曲舞《くせまい》の一節、共々《ともども》に謡《うた》われよ」
宗治は、小舟の上に起《た》って、さっと白扇をひらいた。そして日頃の一つ芸、誓願寺《せいがんじ》の曲を舞った。
舟がやや揺れる。波がやや立ちさわぐ。――高松の城中にある五千の人のこれは涙か。はるか彼方《かなた》の山々や岸にある三万将士のこれは感動の波か。――眼《ま》のあたり近々といた堀尾茂助吉晴は、正視するを得ず思わず頭を垂れていた……。
と。――謡声がやんだと思うとすぐであった。
「堀尾どの。確《しか》とお見届けおかれよ」
先方からいわれて、はっと顔を上げると、宗治はもう坐り直して、腹一文字に切っていた。
「市之丞《いちのじよう》。介錯《かいしやく》」
促《うなが》す声は凄愴《せいそう》を呼んだ。凜々《りんりん》、血は舟中を紅にしている。
「弟よ。わしもゆくぞ」
すぐ、兄の月清も屠腹《とふく》した。さらばと、末近左衛門もつづいて自刃した。
また、検使に首桶を渡して帰ると、郎党の七郎次郎も、介錯人の市之丞も、主人に殉《じゆん》じてともに後を追った。
清水宗治はときに、四十六歳であった。
持宝院では、秀吉以下、堀尾茂助の帰りを待ちかねていた。
小舟から上がるやいな、茂助は首桶をかかえて、息せわしく登って来た。そして、宗治の切腹を復命し、その首を、秀吉の床几《しようぎ》の前に供えた。
「あわれ、よい侍を」
秀吉は惜しんだ。きょうほど深く心を打たれたことはないような容子《ようす》だった。――が、すぐ、
「恵瓊《えけい》を迎えにやれ」
と、急《せ》き立て、やがてその恵瓊が来るまでの間にと、風呂所にはいって、水を浴び、清衣に着かえ、潔斎《けつさい》して待っていた。
恵瓊が来た。
秀吉はすぐ別間に出て、
「宗治の切腹も相すんだ。この上は誓紙の取り交わしが残されておるのみ。いま潔斎して、起請《きしよう》の一文は約束のごとく認《したた》めておいたが、予の筆元を御僧が見とどけ、また、毛利の筆元を見届けるために、こちらからも一名の陣僧をさしつかわすであろう。――まず一読いたすがよい」
と、恵瓊にそれを示した。
読み下してみると、
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起請文《きしやうもん》のこと
一、公儀(信長を称《い》う)に対せられ御身上御理《ごしんじやうおんことわ》りの儀、われら請取《しやうしゆ》申し候|条《でう》、いささか以て疎略《そりやく》に存ずべからず候事。
一、申すに及ばず候と雖《いへど》も、輝元、元春、隆景、深重《しんちよう》如在《じよさい》を存ぜず、われら進退《しんたい》にかけて見放し申すまじき事。
一、かくのごとく申し談じ候上は、表裏《へうり》抜け公事《くじ》これあるべからざる事。
右の条々、もし偽りこれあるにおいては、日本国大小の神祇《じんぎ》、殊に八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》、愛宕《あたご》白山《はくさん》摩利支尊天《まりしそんてん》、べつして氏神《うぢがみ》の御罰、深重罷《しんちようまか》りかうむるべきもの也。
仍《よ》つて起請文|如件《くだんのごとし》。
[#地付き]羽柴筑前守秀吉
毛利右馬頭殿《まうりうまのかみどの》
吉川《きつかは》駿河守殿《するがのかみどの》
小早川左衛門佐殿《こばやかはさゑもんのすけどの》
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恵瓊《えけい》が謹んでそれを秀吉の前へもどすと、秀吉はうしろの侍臣たちへ向って、
「白い小皿を持って来い」
と、命じ、さらに硯筥《すずりばこ》をこれへと求めて、恵瓊の眼のまえで書判《かきはん》を誌《しる》した。そして白い小皿のうえに左手の小指をかざし、刃をあてて血しおを出し、書判のわきへさらに血判を加えた。
「かたじけのう存じまする」
恭《うやうや》しく押しいただいて恵瓊が納めると、秀吉はさらりと打ちくだけて、めでたいめでたいと繰り返し、侍臣へむかって、
「さらば、吸物《すいもの》を」
と、酒、土器《どき》を促して、一献酌《いつこんく》み、使者にも酌《しやく》して、また受けた後、
「土器は手前にて納めておく」
と、祝の寸儀をすませた。
安国寺恵瓊は、すぐ辞して、毛利の本陣へいそいだ。毛利の筆元拝見の使いとしては、大知房《だいちぼう》という陣僧が彼に従《つ》いて行った。
大知房も程なく毛利三家連名の起請文をうけ取って帰って来た。和議調印はここに成ったのである。だが、それから幾刻《いくとき》も経たないうちに、毛利方の陣営は旋風《せんぷう》のごとき驚きと茫然《ぼうぜん》たる自失に見舞われていた。――初めて信長の死をその日の夕方に知ったのであった。
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喪《も》を討《う》たず
「出し抜かれた」
「秀吉めに、まんまと、乗せられたものだ」
「和睦《わぼく》の誓紙は破棄すべしだ」
この声は、そのせつなの、毛利の帷幕《いばく》全体のものだったといってもさしつかえあるまい。
信長の死を、彼らが知ったのは、その日の七刻下《ななつさ》がり(午後四時)の頃だったから、宗治の切腹直後、誓書の交換が行われてから、わずか一刻《いつとき》(二時間)ぐらいな後でしかない。
知らせて来たのは、当時上方方面に配してある諜報方《ちようほうかた》の一名で、これが全軍に知れ渡ると、毛利方のうちでも今度の和議を心から迎えていなかった強硬組の面々は、
「それ見たことか」
と云い、
「秀吉を討て」
と、さけび、
「討つは今だ。絶好《ぜつこう》なときだ」
と、たったいま調印交換をすましたばかりの和睦《わぼく》などは、頭のうちから消し飛ばして、陣々の諸士も、囂々《ごうごう》と私議紛説《しぎふんせつ》を放ちあい、天下一変の予想される昂奮の坩堝《るつぼ》のなかに各※[#二の字点、unicode303b]その感情を極端に揺すぶられていた。
輝元の帷幕《いばく》にも一時はあわただしい動きが見えたが、間もなく厳《きび》しい守兵を立てて一切の出入を断ち、ここは反対にひっそりとしてしまった。
「決して、お味方が欺《あざむ》かれたものではない。和議のことは、元々、後月《あとげつ》の末頃から、御当家よりはなしを進めさせたもので、秀吉から云って来たものではなし、その秀吉も、神ならぬ身の、何で京都の兇変《きようへん》を、事前に知って計ることができよう」
これは小早川隆景の言であり、それに同意していないのは、この際、秀吉を討たずにおいてどうするものかと、熱心に輝元へ説《と》いている吉川元春であった。
元春は耳朶《じだ》を熱していう。
「信長の死は、即ち、織田勢力の分解といい得られる。同時に、わが毛利家に比肩《ひけん》する強大はどこにも見られなくなったのだ。いま当面としている秀吉のごときは、織田氏の後継者としては、第一に指を屈しられる者だが、それすら今、ここにおいて一撃を加えるならば、その背後に持つ大きな弱点からいっても、易々《いい》たることであろうと思う。さすれば、天下はいやおうなく毛利の掌握《しようあく》に帰するほかない。――また和睦のことは今暁以来、秀吉の方から急速に運びすすめて来たもので、すでに昨夜あたりは、京都の兇変を、秀吉としては知っていたものに違いなく、それを秘して取り結ばれた調印である以上、たとえ当方で破棄しても、決して毛利家の不信義とは相成らぬ」
「いやいや。ここは大きな考えどころでしょう」
隆景はあくまで理性である。澄明《ちようめい》な頭脳はそのいうことばの適切と冷静がよく証拠だてていた。
「馬之山の対陣の後も、あなたは秀吉の人物を絶讃《ぜつさん》しておられた。正直それがしも彼の弓の取りようを見、その大志と智略を知るにつけ、敵ながら推服《すいふく》している。おそらく信長の後、天下の仕置《しおき》をなす者は彼ではないでしょうか。……武門には、敵の喪《も》を討たず、という古言もある。いま誓約を捨てて悲境の彼を攻めても、もしなお、彼がよくここを生き抜くときは、骨髄《こつずい》のうらみをもって、将来長くわれを仇《あだ》するに至ろう。――一山中鹿之介の敵対すら、あれほど年久しく禍《わざわ》いとなったことを思うと、ここはうかつ[#「うかつ」に傍点]には御方針も変えられますまい」
じゅんじゅんと説く隆景の常道論も、容易には元春を説得できなかった。元春は、飽くまで兵機を主眼として、
「時は今をはずせぬ」
であった。理論でなく熱情だった。兵家として、かかるまたなき機を逸《いつ》す法はない。弓取の冥加《みようが》につきるというのである。
隆景は兄の主張だけに、説きつけるのに一倍も二倍も骨が折れた。遂に元就《もとなり》の遺訓まで持ち出して、
「先主の垂訓《すいくん》にも、わが家は分を守るを一義《いちぎ》とし、天下をのぞむ勿《なか》れと戒《いまし》められておられる。いかに富強でも中国は辺土に過ぎず、中央を占《し》むる利は持たない。先君もそこに遠いおもんぱかりをなされていたものではあるまいか」
家憲《かけん》は絶対である。元春もこれには口を噤《つぐ》むほかなかった。また輝元も家の遺訓に照らして、
「隆景のことばは尤《もつと》もと思う。この際、破約《はやく》して、ふたたび秀吉を敵とすることは避けたい」
と、云い断《き》った。
密議の終ったのはもう四日の夜であった。ふたりは輝元の前を辞して各※[#二の字点、unicode303b]の陣所へ帰ったが、途々《みちみち》も元春が悄《しお》れている体《てい》なので、隆景は弟として、すまない気がしてならなかった。
途中味方の物見の一隊に出会った。その一部将すら甚だしく昂奮している眼をもって、遠くの闇を指さして告げた。
「――羽柴方では、すでに撤兵《てつぺい》を開始し始めました。五つ刻《どき》(八時)頃から続々と岡山方面へ引き揚げてゆく隊伍が見られ、それは多分、宇喜多勢でないかと思われます」
「そうか」
聞き流してすれ交《ちが》ったが、元春は舌打ち鳴らしていた。
――ついに機は逸したかと、心中歯がみしているのであろう。隆景はその気もちを読むが如く云った。
「まだ、残念に思し召しておられるのですか」
「そうだ」
問うまでもないことだと、鬱勃《うつぼつ》を色にあらわして元春は答えた。
隆景はそれへまたいった。
「――では、かりに毛利家が天下に臨むと致して、その場合、あなたが天下を取る思し召しか」
「…………」
「御返答がないところを見れば、それまでの御所存はないものと思われる。――ではこの隆景は如何《いかが》といえば、われらとても同様、輝元公をさし措《お》いて、天下を掌握《しようあく》するなどは思いも寄らぬこと。……しかるに輝元公の器量《きりよう》はどうか。果たして天下人《てんかびと》たる器《うつわ》を備えておられるでしょうか」
「…………」
「その器《うつわ》ならざる者が天下をうごかすの座にあるときは、天下の乱れはいうまでもなく、天下をも失い、家をも亡《ほろ》ぼし、宇内《うだい》の不幸は一毛利家の滅亡には止まりますまい」
「隆景。……もういうな。分ったよ」
元春は面《おもて》をそむけた。悵然《ちようぜん》と中国の夜空を仰いで、落涙しかける瞼《まぶた》を抑えた。一毛利家の家憲の下に在らざるを得ない遣《や》り場《ば》なき武魂は声なく哭《な》いていた。しかも彼は齢《よわい》はすでに晩節《ばんせつ》近き五十三であった。
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堰《せき》を切《き》って
即時|撤兵《てつぺい》は両軍|媾和《こうわ》の原則だった。
羽柴方では、もうその日の夜から実行にかかっていた。
が、それは高松城の北方を抑えていた八幡山の宇喜多|忠家《ただいえ》と、龍王|山麓《さんろく》の羽柴秀勝の二軍が陣払いしたに過ぎない。
兵略上、毛利方と遠く隔てたこの二陣は、すでにそこに在る必要を持たないものであった。高松の城にはもはや抗戦すべき守将もなければ精神もない。――なお万一の不測にそなえて依然うか[#「うか」に傍点]とは動かし難いものは、毛利方の直前にある石井山の本陣と、足守川《あしもりがわ》の線に沿う抑えあるのみであった。
夜をとおして宇喜多勢は岡山へ撤退していた。けれど秀吉の本軍はまだ一兵も退いていない。もちろん秀吉自身もじっとそこの持宝院にいた。
かくて四日の夜は明け、五日の朝となったが、なお彼はうごかなかった。心はすでに上方《かみがた》の空へ駈けていたろうが、滅多《めつた》に陣を払う気色すら見せていない。
一昨日もごろ寝、ゆうべもごろ寝。用事があらば時を選ばず起せといいつけては手枕で横になった。そして今朝、起きぬけに、蜂須賀彦右衛門から受けた報告のひとつは、
「お約定《やくじよう》によって、今朝、毛利方から二名の人質を送って参りました」
という件であった。
これも彼の気がかりとしていたことだった。まず毛利に豹変《ひようへん》はないとほっとした容子《ようす》に見える。しかしなお油断はできなかった。なぜならば、京都の兇変を、今朝もまだ彼が知らないものとすれば、たとえ質子《ちし》を送って来たにせよ、それを知った彼の変心は測《はか》り難《がた》いからである。
何もかも、ここは秀吉の肚一《はらひと》つにかかっている。秀吉はその肚芸《はらげい》を意識していた。和議が成立したからといって、余りに慌《あわ》ただしく退《の》くことは、毛利をしてわが虚を覚《さと》らしめるものと考えられた。東へ逸《はや》る心を西へ向けて、無策《むさく》な顔をしていたのも一《いつ》に毛利の虚実を測るためだった。
「彦右衛門。水はいくらか減じ始めたか」
「一尺程|退《ひ》いたようです」
「急には流すな」
秀吉は持宝院の庭へ出た。きのう宗治が切腹した一舟の跡も小波のみ見るだけだった。一部の堰《せき》を切らしたため、わずかずつの水量は減じ始めたとはいえ、まだ彼方の高松の城は水の中だった。
秀吉の麾下《きか》杉原七郎左衛門は、昨夕すでにそこへ入って、城受取りを完了していた。――今そこから渡船や小舟で続々陸上へ運ばれているのは、宗治の死によって救われた無数の領民である。籠城の将士は、それらの老幼を先にあげて、自分たちはいちばん最後に上陸した。
事なく一日は暮れた。
夜に入ると秀吉は、森勘八高政に毛利方の監視を命じ、また黒田官兵衛その他と何事か凝議《ぎようぎ》し、終ると、小姓一同にも引き揚げを伝え、急速に陣払いを準備し出した。
夜はまだ深いが、正しくは六日の朝といってよい。それは夜半をすぎた丑《うし》の正刻であったから。
総軍引きあげ準備を命じておいた秀吉は、いよいよ持宝院を出て、
「直ちに発足《ほつそく》」
を伝えさせ、念のため、もういちど伝令をもって、
「毛利方に何の異状も見えないか」
を殿軍《しんがり》の森勘八に問い合わさせた。なお、その間にも官兵衛|孝高《よしたか》を招いて、
「すぐ、諸所の堰《せき》を一斉に切れ」
と、命じた。
孝高はこれを家臣の吉田六郎太夫に託し、六郎太夫は駈けて山つづきの蛙ケ鼻へいそいだ。
六郎太夫は水攻めの築堤工事に当った奉行人のひとりだった。去月十九日にそれが成ってからちょうど半月目である。満々百八十八町歩にみなぎらした水は、思えば偉大なる歴史を劃《かく》した時代の分水嶺《ぶんすいれい》でもあった。
その水は、四日の和議締結とともに、一部の堰《せき》を落して少しずつ減水を示していたが、今や十数ヵ所にわたる大堰を一時に切り落して、もとの高松盆地に回《かえ》そうとするのである。彼は蛙ケ鼻の岩頭に立って、部下の兵が灯《とも》してさし出した松明《たいまつ》を両手に持った。
ふたつの松明は。
颯《さつ》、颯、颯――
と三度ほど、六郎太夫の手に振られて、美しい焔の線を闇に描いた。
それは鮮やかに、原古才《はらこさい》から福崎までの長堤一里に待機していた味方の見張小屋から見とどけられたに違いない。間もなく、眠れる湖沼の水面にはむくむくと諸所に活動が起りはじめた。無数の大きな渦とそれに伴《ともな》う水と地殻《ちかく》の咆哮《ほうこう》であった。ぐわうッと闇を鳴る異様な音響でもあった。
「よしッ」
六郎太夫は松明《たいまつ》を踏み消してもとの方へ駈けもどった。――時すでに、秀吉と秀吉をかこむ近衆小姓、将士たちの一群は、金瓢《きんぴよう》の馬簾《ばれん》を中心に、槍の光を並べ、弓をつらね、鉄砲をそろえ、青葉の露の頻りに降る暗い坂道を、一糸の紊《みだ》れもなく、粛々《しゆくしゆく》と麓へむかって降りかけていた。
進撃はなおやすく退軍はより難しいという。
和睦《わぼく》成っての引き揚げとはいえ、秘中の秘はなおつつまれている。ひとたび彼に豹変《ひようへん》があろうと、その責めは秘を包んでなした秀吉に帰さねばならない。
「おう。あの声は……」
彼は馬を止めて、虚空に耳をすました。嵐か海嘯《つなみ》かとも疑われる水の唸りが夜空を翔《か》けまわってゆく。――一時に十数ヵ所の堰《せき》を切って、阻《はば》めるものを知らず流れ狂う濁水は、瞬《またた》く間に、毛利方のいる岩崎、天神、黒住《くろずみ》などの高地を余す以外の地をことごとく水と泥とに化してしまうであろう。秀吉は想像した。
その水脚《みずあし》が迅《はや》いか、一鞭《いちべん》東へさす彼が迅いか。石井山はあとになった。全軍また奔河《ほんが》のごとく急ぎに急いでいる。
急行軍二里余。道はもう備中から備前に入っていた。
辛川村《からかわむら》である。秀吉は、
「ここから先、本軍は別れて、べつの進路をとれ」
と、しばし馬を駐《と》めて、その行軍路を各隊の将に指示した。
すなわち一軍は、西大川、真可上《まかがみ》、和気《わけ》、金谷《かなや》を経て三石《みついし》に至る旧道をすすむ。また一軍は、国府市場、沼、長船《おさふね》を通って西片上に出、三石に合する。そしてふたたび全軍一つになって舟坂峠をこえ、有年《うね》から姫路に入る。
この命令に、どの隊は旧道へ、どの隊は新道へと、一村に溢《あふ》るる軍馬が一時に混み合っているところへ、おくれ走せに追いついて来た官兵衛|孝高《よしたか》が、その率《ひき》いている黒田隊をひかえさせて、自身一騎だけ秀吉の所へ来た。
歩行に甚だしい跛行《びつこ》をひくが、馬に乗るにはさして不自由を覚えないらしい。彼は駒をひとの手にあずけて秀吉の前にひざまずき、あたりの騒音を幸いにそっと囁《ささや》いた。
「高松城の周囲一時に干潟《ひがた》と変りました。その代りに低地はすべて河と化し泥田となり、もはや毛利勢がお味方へ追い討ちかけんといたしても、ここ両三日中は急に踏み渉《わた》ることも相成りますまいか」
「そうか。それでまず一方はよし、というわけだな」
「――が、ここで毛利方の人質は、きれいにお返しあっては如何ですか」
「人質を返せと」
「そうです。留めておいても効《かい》ない人質などは、御返還あるこそ、良策かと思われますが」
「……ム。いかにもな」
孝高の説明をまつまでもなく、孝高の考えは、すぐ秀吉に頷《うなず》かれた。
帰するところ、これから羽柴の征《ゆ》かんとする一戦は、光秀を撃つか、光秀に撃たれるかにある。もし光秀に敗るるほどなら、毛利家の人質を抑えていたところで何の益にもならないであろう。
もしまた、光秀を誅戮《ちゆうりく》して信長のとむらい合戦を果し、義を天下に唱えんか、天下はおのずから秀吉の手に傾いて来ないわけにゆかない。そうでもなれば、たとえ人質を取っておかなくても、毛利氏一族がふたたび反抗を示そうとは考えられない。むしろこの際、彼に対して恩を施《ほどこ》し、彼の歓心を求めておくことのほうが、いかにその効果が確実に後でものをいうことになるか知れないとなすことが、官兵衛孝高の意中であり、秀吉の察したところだった。
「たれを添えて返しにやるか」
「てまえの家臣を遣《や》りましょう。返還するについては、先方から借用して置きたいものもございますから」
「まかせる。よいように計ろうておけ」
秀吉は直ちに、陣後に伴っていた毛利方の人質、吉川経言《きつかわつねこと》と毛利元総《もうりもとふさ》のふたりを、彼の手にゆだねて、先へ立った。
いまや彼の心は、矢のように急がれていた。一日遅れれば一日味方の不利である。それだけ明智の軍容は強化され、光秀の横奪《おうだつ》した天下を天下にゆるしておくことにもなる。
本軍と別れた秀吉は、ここから馬をすてて輿《こし》へ移った。なるべく疲労を少なくするためである。そして、麾下《きか》の将士と共に矢坂、野殿、野田を経、半田山《はんだやま》までくると、さきに引き揚げていた宇喜多主従が、岡山から迎えに出ていた。
秀吉は陣輿《じんごし》を停めさせた。
そして、宇喜多忠家以下、出迎えに来ていた岡山衆へたいして、
「やあ。大儀大儀」
と、洩れなく愛想をこぼし、またふと、諸士の中に囲まれている一少年の姿に目をとめて、
「お出《い》で。お出で」
と、さしまねいた。
忠家は少年の手をひいて、陣輿《じんごし》の側へひざまずき、
「ごあいさつ遊ばせ」
と、教えた。
少年は礼をした。蘭《らん》の新芽の如く素直である。まだ童髪で、武者人形のように化粧されていた。
「忠家、これか。――亡き直家どのの孤子《みなしご》は」
「はい。直家同様に、行く末とも、お引き立て下しおかれますように」
「案じるな、故人へもここで誓うておく。かならず筑前が育ててみよう。以後は秀吉の養子ともなして」
「ありがとうござる」
一族の忠家は涙をこぼした。岡山城主の直家はすでにこの一月頃病死していたので、幼い遺孤《いこ》を守り立てて高松へ参陣していた岡山衆の心境は、いとど多感であったのである。
そうした遺臣たちの心をとらえて、この急ぐ途上でありながら秀吉が「養子にする――」と約したこの宇喜多家の幼主こそ、後の宇喜多|大納言秀家《だいなごんひでいえ》であった。
このとき秀家はまだ十歳で、現下の旋風《せんぷう》にも父の死にもほとんど何らの感傷もうけていないふうだった。秀吉は可愛らしくて堪《たま》らないように、
「これへ乗れ」
と、手ずから抱いて陣輿《じんごし》の中へ入れ、自分の膝のあいだに置いて、
「幾歳《いくつ》になるか」
と訊ねたり、
「何が好きか」
と、問うてみたり、また、
「きょうから和子《わこ》は、この小父《おじ》さんの養子になったのだぞ。……どうだ、欣《うれ》しいか。欣しくないか。この小父さんは嫌いか」
などと戯れたりしていた。
その間にも彼はすぐ輿の者へ急げと命じていたのである。だから陣輿は舟のように揺れていた。かくて岡山の城下まで来るうちに、秀吉と少年とはすっかり仲よし[#「よし」に傍点]になっていた。
城下には着いたが、城中には入らない予定なので、秀家を輿から降ろし、忠家以下の岡山衆にも別れを告げた。
「ぜひとも、お先手について、御加勢申したいと望む者も少なくございませぬ。二千でも三千でもお召しつれ下さいませ」
忠家の好意にたいして、秀吉はあきらかに断った。
「かたじけないが後も大事だ。万一、毛利家に豹変あるときは、お汝《こと》らの力に俟《ま》つものが多い。ここの一塁は、毛利への抑えとして、筑前が恃《たの》みおくもの。呉々《くれぐれ》、抜からぬように」
種々策は授けたが、兵力は借らずに、ただ宇喜多家の旗だけを借りて去った。その後から、東へ東へと急ぐ軍馬は、ひッきりなしに城下を通過した。半日以上たっても、騎馬のいななきはなお断続していた。
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一《いち》 浴《よく》
六日夜は、沼城《ぬましろ》に泊まった。夜半ごろから暴風雨となった。すさまじい風雨の声をよそに、秀吉は深更まで、ここを守る宇喜多家の諸将へ、万一の場合の計を授けていた。
眠るも束《つか》の間《ま》しかない。秀吉は未明の頃から出立を発令して、残る人々へ、
「さらば」
と告げ、きのうは陣輿《じんごし》だったが、今朝は馬上で、風雨の中をもう真ッ先に急いでいた。
この日は七日、福岡の渡しまで来ると、河は出水に激している。沼城の者が、
(この大雨では、とても御無理でしょう。一日程も御休息あって減水をお待ち遊ばしては)
と引止めたのを、何のと、無碍《むげ》に急いで来たことなので、秀吉はもとより難儀も覚悟であった。
荷駄《にだ》と荷駄とを繋《つな》ぎ合わせて馬囲《うまがこ》いを作り、人と人とは手をつなぎ、或いは槍の柄を握り合いなどして、一陣一陣濁流を渡るのだった。
さきに越えた秀吉は、彼方《かなた》の水際《みずぎわ》に床几《しようぎ》をすえて、
「急ぐな、あわてるな。心しずかに河越しいたせよ」
と風雨もよそに落着きを見せていた。
「こういう時に、人ひとり取り落すと、五百も三百も損じたようにいわれるものだ。荷物一つ流しても、百荷も二百荷も捨て去りたりと沙汰されよう。かたがた、戦場とちがい、不覚といわれては、いのちも軍器も捨てがいがないぞ。悠々渉《ゆうゆうわた》れ、悠々と」
高松のあとへ殿軍《しんがり》として残して来た森勘八の一軍も、この頃、追いついて来たし、そのほか遅れた部隊も、続々見えて両岸にむらがった。
森勘八は秀吉の前に来て、あとの模様を報告していた。――味方の引き揚げは六日の未《ひつじ》の刻(午後二時)までに全部終了したということ。また、その後も、毛利方の陣営には、追撃に出て来る気配はなく、ぼつぼつ兵力の後退にかかっているらしく思われる、ということなどであった。
秀吉はほっと一《ひ》と安堵《あんど》したような眉を見せた。これで初めて全力を一方へ注ぐことができると確信を得たような面持《おももち》でもある。
強行軍は続けられた。人馬も旗も濡れて、みな雑巾《ぞうきん》のような姿となってゆく。雨は折々小やみにもなったが疾風《しつぷう》は終日やまない。
西片上《にしかたがみ》まで来て、さきに別れた本軍と合し、一方は船坂越えから姫路へ急行したが、秀吉はそこの嶮《けん》を避けて船で赤穂《あこう》へ上陸した。
船問屋の灘屋《なだや》七郎右衛門の家で小憩《こやす》みして、またすぐ陸路を姫路へ急いだ。この途中でも秀吉は、度々陣輿と馬とを乗り換えたが、輿《こし》の内では正体もなく鼾《いびき》をかき、馬上でも居眠りをし、幾度か落馬したということである。
こうして彼がわが城たる姫路に帰り着いたのは、八日の朝であった。全軍は、昨夜のうちに着いたのもあり、この朝、前後して着いたのもあって、ほとんど揃った。泥土を浴び、大雨疾風を冒し、一日二十里も歩いた軍馬は、ここへ来ると皆もう綿のようになっていて、思い思いの場所を選び、ともあれ一睡をとるに急であった。
姫路の居城は、沸《わ》き返すような騒ぎである。手の舞い、足の踏むところも知らずという有様だ。留守居の面々は、城門、玄関、その他へ走り出て、主の秀吉を、歓呼のうちに迎え入れると、そこにも此処にも、
「先ずまず、おつつがもなく――」
「真ッ黒にはおなりなされたが、お元気はいちばいのようにお見うけ申された」
「なんと、御武運のめでたさ」
と、ほっとしたような声が全城に聞かれた。
留守居の衆の心では、この城へ無事に主人を迎える日があるか否かすら、今朝まで確信もなく案じていたところである。
――で、今、秀吉の泥まみれな姿を見ると、その眼は、熱くならずにいられなかった。余りの歓びに度を外して、大廊下を往来するにもつい駈け足になり、互いに告げる用事も声を弾《はず》ませ合うので、秀吉が本丸へ入った後も、城内は物音でいっぱいだった。いや城下もまた馬のいななきや兵の声で沸《わ》いていた。
秀吉は本丸に坐るとすぐ、
「何よりは、一風呂浴びたい、湯殿のしたくを」
と、小姓にいいつけ、さて、
「骨折り骨折り」
と、自分の苦労は忘れて、他の者をねぎらっていた。
留守居の将、小出播磨守《こいではりまのかみ》と三好《みよし》武蔵守《むさしのかみ》も、彼の前に平伏していた。
ふたりは、主人の帰着を祝してから、長浜からの使いが別室に待っていること。またほかにも一名の客がひかえている旨を告げた。
「御用意がととのいました。御入浴、いつでも」
小姓が伝えて来ると、秀吉はとたんに起ち上がって、
「まず一浴してその後のことといたそう。あの大雨に、鎧下着《よろいしたぎ》まで濡れひたったせいか、湯が恋しさよ」
つぶやきながら室を出たが、ふと、侍たちを顧みて、
「堀どのは、どこに休息しておるか」
と、訊ねた。
「桐の間におられます」
と告げると、秀吉はつかつか立ち寄って、そこを覗《のぞ》いた。堀秀政は濡具足《ぬれぐそく》を側に置いて、寛《くつろ》いでいた。
「久太郎どの。どうだな。きつかったであろう」
「何の。それがしは、あなたより十も若い。あなたこそ、随分お眠そうであった」
「ははは。正直、まだ眠たい。――いま風呂の湯が沸いたところだが、実は、長浜の母の許から使いが見えておって至急会いたいと申すゆえ、先へ御免|蒙《こうむ》る。お許は後で秀勝(信長の子。秀吉の養子)とでも一緒にお入りあれ」
「御会釈《ごえしやく》でおそれ入る。さあ、どうぞお先へ」
秀吉の大股な歩みを追ってゆく家臣たちの跫音《あしおと》も忙しげである。湯殿の窓には雨後の朝陽が美しく刎《は》ねていた。このとき時刻は八日朝の巳《み》の刻《こく》(午前十時)頃であった。
ここのは蒸風呂でなく、中国風の浴槽《よくそう》だった。秀吉は、湯へ肩まで沈めて、
「あ。あ」
と、大きく肺を呼吸させた。
湯気の中なる彼の顔へ、高い櫺子《れんじ》から日光が降りそそいで来る。見るまに、彼の顔は赤黒く茹《ゆだ》って、その額から玉の汗がにじみ出し、無数の小さい湯気の虹が立った。
早湯、早飯は、習性である。ざぶッと、滝のような音をさせて出ると、
「おいよ。誰か、背を流せ」
と、外へ命じた。
揚り屋にひかえていた小姓の石田佐吉と大谷平馬のふたりは、はいッと、待ちうけていたように、すぐ秀吉のうしろに廻って、ごしごしと襟《えり》くびから手のさきまで、力にまかせてこすった。
秀吉は突然笑い出して、
「おもしろいほど、出るなあ」
と、自分の足もとを見まわした。小鳥の糞《ふん》を撒《ま》いたような垢《あか》である。
「痛い痛い。もうよい」
後はざっと自身で洗って、もう一度湯ぶねにざぶ[#「ざぶ」に傍点]と沈むとすぐ揚って来た。
戦陣で見られるこの人の威容《いよう》というものは、いったいどこに備わっているものなのか。こんなとき、一糸まとわぬ彼の肉体を熟視すると、それはまことに貧弱なものだった。ここ五年越しの打続く戦陣生活にもずいぶん無理はして来たに違いないが、それにしても四十七歳という体にしては余りに脂肪《しぼう》がなさ過ぎる。――この頃になってもなお依然として、尾張中村の貧農の子であった発育不足な面影がどこかにある。深刻な苦労を経て来たその筋骨は、たとえば岩礁《がんしよう》に生《は》えている痩《や》せ松《まつ》か、風雪に痛めつけられて来た矮梅《わいばい》の如き感じで、強くはあるがもう人間の老成《ろうせい》を呈《てい》していた。
しかし彼の場合は、尋常《よのつね》の人の年齢や肉体と較《くら》べては考え得られないものがある。それはそうした皮膚や筋肉とはまったく別箇のものみたいにある絶倫《ぜつりん》な精力だった。また音声、動作、眼《まな》ざし、笑うこと怒ることなどを見ては、到底まだ老成の影もない若々しさである。いや時には、幼稚ですらある場合も見ることがある。
「市松」
秀吉は、浴後の身を、揚り屋の腰掛にかけると、まだ乾かぬ汗を拭き拭き、小姓の古参福島市松を前に呼んで、こう軍令を口授《こうじゆ》した。
「すぐ天守から一番貝を吹かせて、全軍に兵糧をつかわせること。二番貝の鳴るときは、人夫荷駄などを先に出立させること。次に、三番貝は、城外に総揃《そうぞろ》いの合図ぞと、表方へ触れておけ」
「はいッ」
市松が駈け去ると、また直ちに、
「彦右衛門を呼んで来い」
と、べつの小姓を走らせ、その蜂須賀彦右衛門の姿もまだ見えないうちに、さらに、ほかの小姓たちを派して、姫路城の金奉行《かねぶぎよう》、蔵奉行《くらぶぎよう》などを、みなここへと、呼びにやった。
「彦右衛門にござりますが」
「見えたか。そこにいてくれ」
「はッ。何ぞ?」
「待て。いま金奉行を呼びにやってある。その上で、用事を申そう」
秀吉はまた汗を拭《ふ》く。湯上がりの体は拭いても拭いてもすぐ汗になる。が、それは一浴したためというよりも、彼の五体を駆けめぐっている血行と頭脳の活動から垂るる滴々《てきてき》のものだといったほうがあたっていよう。
湯殿の揚り屋といってもかなり広い。彦右衛門は板敷の一方にひかえていた。そこへ金奉行と蔵奉行が一緒に来た。
腰打掛けたまま、秀吉はすぐ訊ね出した。第一に、
「いま当城の金蔵には、いかほどの金銀があるか」
であった。
金奉行は、言下に、
「銀子《ぎんす》七百五十貫、金子《きんす》八百枚余りありまする」
と、答えた。
「彦右衛門――」
と、向き直って、こんどは彼に向って命じた。
「ある限りの金銀すべて、その方の手にうけ取って、番頭《ばんがしら》、鉄砲頭、弓槍頭などへも、洩れなきよう、知行《ちぎよう》に応じて分配せい」
「かしこまりました」
「速《すみ》やかにせい」
「はいッ」
打連れて、二人が退座すると、
「蔵には米がどれほどあるか」
と、蔵奉行へ在高《ありだか》を問うた。
「八万五千石ほどは」
と、答えると、秀吉は、
「よしよし、今日から大《おお》晦日《みそか》まで、日頃、扶持《ふち》取りの者の家族へ、五倍加増してつかわすがいい。ここに籠城する気はないゆえ、城米を蓄えて置くは無用である。――弓、鉄砲の組下や足軽小者などの残る妻子に、せめては煎《せん》じ茶のひとつもゆるゆる飲ませてやりとう思う。――その心もちをうしなわずに計《はか》らえよ」
「ありがとうぞんじまする」
「そちの退《さ》がるついでに、小西弥九郎に、すぐこれへと言伝《ことづ》けせい」
蔵奉行が立去ると、彼はその間に、鎧下着に着かえ、忽ち具足を身につけ始めた。
弥九郎行長は走って来た。
秀吉は、具足の緒を結びながら、陣中の所持金を彼にただした。高松陣の経理は弥九郎の任だったからである。費《つか》い余してあるかねは、銀子のわずか十貫目、金子四百六十枚に過ぎなかった。弥九郎がその旨を答えると、
「それだけは持って行け。使者や飛脚に与え、また何かの褒美につかう必要もあろう。よろしい、それだけを聞きおくのみだ」
彼は、浴室を出た。
そしてすぐ、小出播磨守に案内させて、長浜から来て待っているという使者の部屋へ自分から出向いた。
かかるうちにも、彼の心の一隅には、長浜の城にのこしてある老母と妻の寧子《ねね》の身が、絶えず案じられていたであろうことは、彼なればこそなおさらのものがあったに違いない。
平伏している使者を見るや、
「無事か、何かあったか。――そちのこれへ来るまでに、母上には、どう遊ばしておられたか」
と、秀吉は早口に訊ねた。
この使者も例外なく疲労しきった態であった。病人の喰べるような物を喰べ、一室に休んでいたところである。そこへ何の予告なしに秀吉が入って来て、直接、あれこれと早口に訊ね出したので、彼はひどく慌《あわ》てていた。
「はい。御母堂様にも、奥方様にも、まずは御無事でいらせられます」
「そうか。しかし長浜の城は、よも無事ではあるまい」
「さればで。――てまえが長浜のお城を脱して来たのは四日の早暁でございましたが、その時もうお城へは少数の敵が襲《よ》せ始めておりました」
「明智方の誰の手勢か」
「いえ。浅井の旧臣|阿閉《あべ》淡路守の浪人兵で、おそらく光秀に加担《かたん》してのことだろうと思われまする。けれど、てまえが安土から瀬田へと急いで来る途々《みちみち》のうわさでは、明智の将の妻木範賢《つまきのりかた》の軍勢が長浜を目ざして続々下って行ったと聞きました」
「そちの出立が四日とあれば、以後の安否は知るよしもあるまいが、留守の者どもの覚悟はどう決めておるか」
「所詮《しよせん》、籠城するほどの御人数もおりませぬゆえ、万一のときは、御母堂奥方様などを、どこか山深き地へお移し申しあげて、あとはあとのことと、侍衆は死を期して申し合わせておられました」
使いの者は、ようやく落着きを得て、懐中から一通の書面を取り出し、秀吉の前へさし出した。
それは妻の寧子《ねね》からのものであった。浅井の残党や明智勢の襲撃に備えつつ一面留守をあずかる主婦として、老母の処置を案じたり、家中の女どもや、侍たちをも励ましながら、嵐のような不安と混雑の中で書いたものとしては、文字のすがたも落着いていて、日頃の便りと変っているふうは見えない。
しかし、さすがに内容の辞句には、これが最後の便りかも知れないと感じている痛切なものがこもっていた。
まず、老母のつつがなきを告げ、中国表の御進退も今こそ大事、おからだもこの時こそお大事――と述べ、お国許《くにもと》の儀は一切お案じ遊ばし下さいますな。日頃は何不自由なく安穏に暮させて戴いている私たち女どもでありますが、こういう時に巡《めぐ》り合《あ》ってこそ、内助《ないじよ》の功とかも出来るものとありがたく思って、御老母さまを中心に、侍女《こしもと》の端までみな励み合っております。――ということから、終りに、
――たとえ万一の事あろうと、秀吉の妻がなどと、世に嘲《わら》われるような始末はいたしませぬ。万々、この方にはお心|遣《づか》いなく、どうかこの大事の時をお乗りこえ遊ばしますように、それのみを、御老母さまも念じ上げていらっしゃいます。
さすがに、手紙の末になるほど、筆のあとも走り書きに見えた。
秀吉は満足した。そして使いの者へ、
「立ち帰って後、もしなお、母や妻が無事でいたら、見た通りを伝えておけ」
といったのみで、彼は忽ちその一室を出ていた。折ふし城頭で吹く一番貝の音が城内城下へ流れていた。
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風《かぜ》は追手《おいて》
姫路城の内外から立つ炊煙《すいえん》は一時天も賑《にぎ》わうほどだった。一番貝の音とともに将士は、みなみな飯を喰いにかかった。秀吉もまだ広間の中央にあって、具足のまま飯茶碗をかかえていた。養子の秀勝、堀秀政、彦右衛門正勝、官兵衛|孝高《よしたか》などみな同座だった。
「何杯目か。これで」
秀吉は自分の喰べた量を傍人に訊いていた。給仕の侍が、
「四膳召し上がられました」
というと、苦笑して、
「湯漬《ゆづけ》を、もう一碗」
とまた求めた。
箸《はし》の間にも、彼は、その旺《さかん》なる食欲と同じように、絶えまなく時務を聴き、処置を断じ、また発足《ほつそく》の措置《そち》をあれこれと左右へ命じておくなど、飽くまで旺盛な気力と周到《しゆうとう》な頭脳を働かせていた。
さきに金奉行へいいつけておいた在庫金の分配のことも、
「終りました」
と、告げて来たし、庫中の在米を家中の家族へ残りなく頒《わ》け与えることも、
「一同へ布告いたし、割当てが相すみました」
と、それへ報告された。またその中へ、
「ただ今、亀井《かめい》殿が鹿野城《しかのじよう》から馳せつけられました」
という取次もあった。
「亀井茲矩《かめいこれのり》が来たか。これへ通せ」
と、秀吉は座のまま、そこへ迎えて、茲矩《これのり》の姿を見るや、やあ元気か、と訊ね、
「因幡《いなば》は辺土といえ、いつまた、吉川勢が変を窺《うかが》わぬものでもない。後いよいよ守りを固く頼むぞ」
と、いった。
亀井軍は吉川勢の一面を牽制《けんせい》するため、天正八年以来、因幡《いなば》の鹿野城に拠《よ》っていたものである。秀吉はいま、彼をここに見て、以前の口約を思い出した。
「中国の事成る上は、御辺には、出雲の国を与えるであろうと、信長公にもその儀は御内諾《ごないだく》を得ていたが、今度、俄《にわ》かに毛利と媾和《こうわ》したため、そこを与えるわけには行かなくなった。で、御辺へはべつに他の封土《ふうど》を遣《つか》わそう。どこか望みの地もあらばいうがいい」
「お忘れもなくありがとうぞんじまする」
と、茲矩《これのり》も抜からず礼を述べた。そして、いうには、
「このたび、明智の御征伐あるにおいては、自然、六十余州は風に靡《なび》いて御麾下《ごきか》と相成りましょう。従って私の望む地といっても日本国内では諸国共にさし合いがありましょうゆえ、願わくば琉球《りゆうきゆう》を賜りたいもので」
秀吉はふと眼をまろくして、こやつ俺の上手《うわて》に出たなというような顔をしたが、直ちに手に持っていた金扇へ「亀井琉球守」と書き、傍らへ「秀吉」と署名して茲矩へ与えた。
諸将がそれを羨《うらや》んで、
「今日のお門立ちに、逸早《いちはや》くかばかりなお墨附《すみつき》を戴いた者は他にない。琉球王は抜け目のない奴じゃよ」
と、打ち興じているところへ、留守として姫路に残る小出|播磨守《はりまのかみ》と三好武蔵守が、
「はや二番貝が鳴りましょう。ただ今から先発の荷駄隊や人夫が発足いたしまする」
と、また座の一方へ来て報らせていた。
「さらば」
と、秀吉も起ちかけた。
そしていよいよ、出陣するにあたって、彼は、留守役の小出播磨守と三好武蔵守のふたりへ、こう云い遺《のこ》した。
「勝敗は天運にもある。万一、秀吉が光秀のために討たれたときは、この城に火をかけて、一物ものこすな。わが母、わが妻、一族にも皆、然るべく云いふくめてある。総じて、本能寺にみまかられた御方に従い参らすつもりで、潔《いさぎよ》くあることだ」
一瞬、残る人々も、征《ゆ》く人々も、一様な厳粛に打たれていた。すると、播磨守のうしろにひかえていた一僧がやおら膝をすすめて両手をつかえ直した。これは日頃秀吉も帰依《きえ》している城下の真言僧《しんごんそう》なので、何か善言を呈する心であろうと見まもっていると、彼はようやく眉をあげて、憂わしげに忠告した。
「ただ今から諸軍を閲《えつ》して、御本陣は明九日の、暁天の御発足の予定とうかがいましたが、量《はか》るに明日は、出でて再び帰ることなしという大悪日にあたります。何とぞ、吉日を卜《ぼく》して、明後日、当所を御出陣なされますように。――この儀何とも心がかりのまま、折角のお立際《たちぎわ》ながら、御賢慮に入れ奉ります」
――と。秀吉は、もうぬッくと褥《しとね》から起ち上がっている。そして真言僧の切なる諫言《かんげん》が耳にはいったのか聞き流していたのか、突然、満座の者の憂いを吹きとばして哄笑した。
「何をいう。それなれば、明日はわれにとって大吉日ではないか。出でて再び帰るなしとは、明日ばかりか、毎度出陣ごとに、兵家の常とするところだ。――このたびとて、一死君恩に報ずるの覚悟、もとより生還《せいかん》を期してはいない。もしまた、幸いに、秀吉死なず、戦いに勝たば、何でこれしきの小城を我が居となすに足ろうか。べつに天下の地を相し大城を築いて住もう。――易経《えききよう》にもいう、卦《け》は卦面《けめん》に非ず解心《げしん》にありと。いずれにしても、またなき吉日。明日こそ待たれる。さあ、出ようか」
そのまま、彼は室を出た。そして城門の外、大手口の欄干橋で、なお後から続く小姓組の面々や諸将の出揃うのを待ち合わせていた。
二番貝が高らかに鳴った。すでに荷駄隊は発足を開始していた。そして陽《ひ》も西に傾く頃、秀吉はここから三番貝を吹かせ、自身の床几場《しようぎば》を城外へすすめて、海道口の印南野《いなみの》に移した。
三番貝は勢揃いの合図である。秀吉が印南野に床几《しようぎ》を置いた頃、もう海道の広野も松並木も夜になっていた。蜂須賀《はちすか》彦右衛門にいいつけて、十数名の祐筆《ゆうひつ》を臨時に選び、明々と高張《たかはり》を左右に掲げて、参陣者の姓名を着到帳《ちやくとうちよう》に記させた。
宵から夜半過ぎるまで、先鋒、中軍、後陣の配備に人馬の影は地を埋めて濤《なみ》のごとく揺れていた。なおそのうちにも、後から後から、取る物も取りあえず、具足を投げ懸け、得物を押ッ取って、着到場へ来て姓名を記入する者がひきもきらぬ有様であった。
秀吉は床几に倚《よ》って、終始、高張の下でそれを見とどけていた。
着到帳に記された姓名は一万余にのぼった。時はすでに九日の丑《うし》の刻(午前二時)を過ぎている。秀吉は左右にある彦右衛門正勝、森勘八、黒田官兵衛などに向って、
「出発の用意はよいか」
と、問い、一同が、
「何刻《なんどき》でも」
と答えると、さらば貝を吹かせよと命じ、起って、床几を畳ませた。
螺手《らしゆ》が貝を吹く。
長く緩《ゆる》く、また高く低く、合図の貝が鳴りわたると、先鋒鉄砲組の大将中村孫兵次の部隊から一鼓六足《いつころくそく》にて前進を開始していた。
第二軍は、堀尾茂助吉晴。次に中軍がつづき、羽柴秀勝は、養父秀吉の旗本たちより二、三町先に立って行軍し、後陣には、秀吉の弟秀長が将として続き、総軍一万は、五段になって、姫路城外の印南野《いなみの》を立った。
この頃ようやく、夜が明けて、海道の松のすがたの一つ一つも鮮やかとなり、東の方、播磨灘《はりまなだ》の水平線と横たわる黎明《れいめい》の雲のあいだに、真ッ赤な旭日《きよくじつ》が出陣の足なみを祝《ことほ》ぐようにさし昇っていた。
「風は追い手だ。見よ、旗、馬じるし、吹貫《ふきぬき》なんど、この西風に、みな京の方へ吹き靡《なび》いておる。一個の人命如きは、朝《あした》あって夕べも知れぬが、量《はか》るに、わが軍の門出《かどで》は、天もその名分を嘉《よみ》し、前途を味方し給うものと思われるぞ。まず、腹いっぱい、鬨《とき》をあげて、この発足を天下に告げよう」
貝の音をもって、人馬の足なみを止め、まず中軍から、大喊呼《だいかんこ》をあげた。それに和して、全軍も濤《なみ》の如く武者声を張りあげた。中には、朝陽《あさひ》に向って、馬簾《ばれん》を打ち振る隊もあり、一斉に槍の穂をさし上げるのも見え、いななく馬の意気までが、すでに北勢明智光秀の軍を呑《の》んでいた。
一路、摂津《せつつ》に入り、尼ケ崎に着くまでは、これまでの急行軍とひとしく、落伍する者は捨て去り、人馬ともに息を休めず、敢えて隊伍諸卒の整列や規矩《きく》にとらわるるなく、ただ、急ぎに急ぐことを旨として来た。
尼ケ崎に着いたのは、十一日の早朝だった。際限なくなだれ入って来る軍隊に戸を開けたばかりの民家はただ目を瞠《みは》りあっていた。
秀吉は路傍に馬を止め、
「禅寺でもないか」
と、休息する場所を求めさせていた。
「あれに一|小庵《しようあん》がございます」
と指さす小姓を案内に、海道から少し横道へ入って、附近の松原に馬を繋がせた。
「どこでもいい。どこでもかまわん」
秀吉は頻りに云っていた。なぜならば仰天《ぎようてん》して迎えに出た和尚《おしよう》も左右の者までが、余りに何の設備もない小寺に過ぎないことを諄《くど》く言い訳するからだった。
「上がるぞ」
彼はもうそこの濡れ縁を上がって、気に入った部屋の一つに坐りこんでいる。堀秀政もつづいて坐す。諸将、小姓などはそこには詰めきれないので、裏から表まで、ある限りの空地を占め、この小さい禅寺の内に人々はなく、人々の軍中に禅寺があるような恰好《かつこう》になってしまった。
「秀勝。これへお坐り」
白湯《さゆ》ひとつ飲むと、秀吉は、すぐ隣室に座をとって休んでいた養子の秀勝を膝近く呼びよせた。
秀勝は、十五歳であった。
信長の第四子として生れ、幼名は於次丸《おつぎまる》とよばれていた。秀吉の養子となってからも、もう五、六年にはなる。
秀吉が中国出征中は、長浜の城にいて、領下の政治を沙汰していたが、ことしの三月頃、信長の命をうけて、養父秀吉の麾下《きか》に参じ、具足始めの式をうけ、児島の城を攻めて、初の戦功をたてたのであった。
「秀勝」
「はい」
「お許《もと》の眼元を見ておると、亡き御方が偲《しの》ばれてくる。信長公によう似ておられる」
秀吉はしげしげと眺めた。秀勝は、諸将の中で今日この時、何事を養父からいわれるのかと俯向《うつむ》いた。秀吉は眼をうつして傍らにいた堀久太郎秀政と秀勝とを等分に見てからこう云い出した。
「先君御落命の報らせをうけて以来、高松から当地にいたるまで、お許らも見て来た通り、筑前は精進潔斎《しようじんけつさい》を守って来たが、ここ尼ケ崎の地は、すでに敵の明智軍とも指呼《しこ》の間近にある。――きょうにも、明日にも、いつ敵とまみえて、合戦に及ぶかもわからぬ」
秀勝は丸ッこい眼をあげた。若々しい感情はもうその眼の中に沸《たぎ》る湯となってあふれかけている。秀吉の親としての気持も、信長の死後は一《ひと》しおいじらしさと慈《いつく》しみを加えていた。
「わしも四十七歳、はや老武者の組に入りかけて来たが、このたびの合戦こそは、畢生《ひつせい》のもの、先君のとむらい合戦、いざといわば、みずから鑓《やり》も持ち、太刀打ちもなす覚悟でおる。――が、年はあらそえん、食物を精進物《しようじんもの》に限っておると、何となく力づかぬ。そこでわしは今日をもって、精進を廃《や》めるが、お許らは、若いのだから、なお、精進をつづけておれよ」
「はい」
秀勝は明答した。久太郎秀政もうなずいた。
「――次には」
と、秀吉はなお語をつづけて、秀勝へ諭《さと》した。
「敵の日向守《ひゆうがのかみ》光秀は、お許にとっては親のかたきたり、また主《しゆ》の仇《あだ》たり、申さば、二重の敵である。いうまでもないことながら、光秀を討たずして、お許の生命は天地にあり得ない。誰よりもさきに先陣せよ。わしより先に討死せい。養父も汝の健気《けなげ》を見とどけた上で討死いたすであろう」
「かならずおくれは取りませぬ」
秀勝は両手をつかえた。諸将は厳粛な気に打たれていた。秀吉がこの勝敗に一死を期している容子《ようす》は、疾《と》く姫路から見ていたが、さらに、強固な覚悟を、敵近きこの尼ケ崎へ来て、ふたたび胆に銘じ込まれたのであった。
「お湯が沸きましたが」
との、寺僧のことばに、彼は禅庵《ぜんあん》の裏へ出て、行水をつかった。そして、命じておいた食事を摂《と》った。彼の膳には調理された魚鳥の肉が豊富にのっていた。彼は、幾日ぶりの精進落しに、胃の腑《ふ》をみたした。
終ると、一房へ入って、ごろりと眠った。一刻、軍馬もしずかに、蝉《せみ》時雨《しぐれ》の声のみがつつんだ。食と眠りが、秀吉の戦備であった。
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涼《すず》しき頭《あたま》
ここ天下の諸相は急激に一転したが、経《へ》て来た日かずを顧みれば、信長の死後、まだわずか今日で十日程しか経《た》っていない。
近畿《きんき》の人心は、本能寺以来の動揺を、今なおそのまま抱いていた。柴田、滝川は遠隔にあり、徳川は自国へ退き、細川、筒井の向背《こうはい》は知れず、丹羽《にわ》は大坂表にあって織田信澄《おだのぶずみ》を始末したという風聞のみで、これもそれ以上に出ていない。
「――今朝来、尼ケ崎には、はや筑前守の先手、中軍の諸勢が、続々到着して、大物《だいもつ》の浦、長洲《ながす》のあたり、兵馬が充満して見える」
この噂は、事実のまま、十一日のその朝から風の如く、摂津《せつつ》を中心に拡《ひろ》まった。
けれど、なお、
「よもや、そう迅《はや》くは?」
と、半信半疑の者が多かった。
それというのが、やれ徳川殿が西上して来るとか、北畠殿が進撃中だとか、どこで誰と明智とが接戦中だとか、余りに耳を捉《とら》われやすい類似《るいじ》の風説が多いことと、もう一つは、
――羽柴軍は毛利に釘付《くぎづ》けにされておるため、そうやすやすとは中国をうごき得ない。
という先入観も、一般の常識になっていたからである。
しかし、事態の中核に身を置いて、真に、秀吉を観《み》、時代の推移を直視していた一部の人々にだけは、もちろんそんな錯誤《さくご》はなかった。何といっても、旧信長|麾下《きか》の諸大将のうちには、すでに動かない秀吉の支持者が存在していた。
多年、秀吉が中国で示して来た実際的な経略《けいりやく》は、西日本の戦雲を背景として、遠地にある諸将のうちへも、いつのまにか、秀吉なる者の真価とその偉風を、かなり大きく投影していたのであった。
これをもって見ると、彼の長い苦節は、ひたすら信長への忠勤にほかならなかった。が、結果的にいえば、秀吉は秀吉自身の素地《したじ》をこのあいだに築いていたということになる。
ともあれ、一部の人士は、秀吉が毛利と和を結んだと聞いたときから、
「さてこそ。東上の肚《はら》」
と、彼の意中を読み、また、日頃の期待を裏切られなかった歓びをも加えて、彼が現地を去り、姫路を経《へ》、奔転《ほんてん》、摂津へ向けて驀進《ばくしん》して来るあいだにも、その途上へ向けて、
(早々来り給え。待つこと切)
と、飛報したり、また、
(明智方、その後の動静は、かくかく也)
などと早打して、その旗幟《きし》へ鶴首《かくしゆ》していたものだった。
大坂の丹羽長秀なども、
(まずは、彼の来るを待って)
という態度で書簡を通じていたし、中川瀬兵衛、高山右近、池田信輝、蜂屋《はちや》頼隆等、みな同様に心を寄せていた面々である。
わけて高槻《たかつき》の高山右近と茨木《いばらき》の中川瀬兵衛の二将は、在城の地も近いので、秀吉が尼ケ崎辺に着いたと聞くと、すぐ一部の手勢をつれ、また各※[#二の字点、unicode303b]、ことし八歳ほどになる質子《ちし》を伴《ともな》って、秀吉の休んでいる禅寺へたずねて来た。――陣門の士は、前後して来た中川瀬兵衛へも高山右近へも、
「殿はただ今、お寝《やす》み中ですが」
と答えたのみで、二将の来会を狂喜して、あわてて取次ぐなどということはなかった。
ふたりはやや意外だった。
瀬兵衛も右近も、内心、自分たちの向背《こうはい》が持つ価値と力を知っている。
信長の生前までは、二将とも明智の麾下《きか》に置かれていた者である。その兵力ぐるみ一方の陣営へ転じて来ることは、敵味方の比率に二倍の狂いを生じさせるわけになる。
また、瀬兵衛は茨木の城主だし、右近は高槻の城を持っている。この領内を通らず京都へは出られないし、明智勢と接触はできない。ほとんど敵中にあるといってよいこの二基地を、戦う前に足場となし得るのは、作戦にも運輸糧食の上にも、大きな利といわなければならない。
で、当然、ふたりは、自分らが秀吉の陣門に参会してゆけば、秀吉としても、待っていたという顔まではしなくても、
――よくぞ、早く。
と、迎えもし、歓びもして、歓待《かんたい》を示すであろうと思っていたらしい。
ところが、案のほか、いまはお寝《やす》み中だからしばらくお待ち下さい、と陣門の将士はいうのである。それもよいが、寺内ほとんど人馬で、待つ間を休息している特別の設けもない。
中川瀬兵衛も、高山右近も、兵を外におき、伴《つ》れて来た質子《ちし》と少数の従者と共に、境内の一隅に佇《たたず》んでいるしかなかった。
ただ、その間も、時を忘れて眺められていたのは、後から後からと到着して来る遅れ馳せの軍馬に見える旺《さか》んな流汗であった。後に大村由己《おおむらゆうこ》が記録にも、
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――諸卒《シヨソツ》相揃ハズト雖《イヘド》モ、九日ニ姫路ヲ立チ、昼夜ノ境モナク、人馬ノ息ヲモ休メズ、尼ケ崎ニ至ル。
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とある秀吉の文字通りな急行軍のために、途中で落伍したものが、ひきも切らず、続々と、まず門前に来て、
「何の某《なにがし》、ただ今、着陣」
と、呼ばわると、これに立っている蜂須賀、森の二将が、どの辺に屯《たむろ》して命令を待てとか、また、誰の部隊が彼処《かしこ》におるから、その手について休めとか、いちいち指さして、それらの軍隊に所属と位置を与えていた。
また、どこの使者か、どこから帰って来た使番《つかいばん》か、寺中と外との往来も頻繁だった。その中には、どこかで見覚えのある武士もあって、
「はてな。今のは丹後の細川家の士《さむらい》ではないか」
と、瀬兵衛は、ひとりの背を見送って、呟《つぶや》いた。
光秀と細川藤孝《ほそかわふじたか》、その子|忠興《ただおき》との関係は密接である。藤孝と光秀とは、多年、莫逆《ばくぎやく》の友たるのみならず、光秀のむすめの伽羅沙《がらしや》は、忠興の妻でもある。
(細川家から何の使いを?)
これは今ここにある二人の関心であるばかりでなく、天下の衆目がみな強く意識している問題だった。――瀬兵衛のつぶやきに和して、右近もふとこう疑った。
「昼寝と申していたが、実は筑前はもう眼醒《めざ》めておるのではあるまいか。何にしても、余り無愛想な」
不満を顔色に現わして、すでに帰ろうかとすら思っているとき、ようやく、秀吉の小姓が走って来て、どうぞと、狭い禅庵の奥へ案内に立った。
通された一室にも秀吉は見えなかった。しかし疾《と》うに目醒めていることは確実である。方丈《ほうじよう》かどこか近い所で大きな笑い声がしているからだ。かかる応対をうけるのは、中川瀬兵衛にしても高山右近たりとも甚だ心外らしかった。
――秀吉、何者ぞ。とつい思いたくなって来るのだ。彼も信長の遺臣なら自分たちも信長の臣下だ。いまだかつて、彼から高下の差別をうけるような恩顧《おんこ》をうけた覚えもなし、主従の約をしたわけでもない。
ただ、今日これへ自分から駈けつけて、彼の陣門に駒をつないだものは、故主の敵光秀を討たんという一片《いつぺん》の耿々《こうこう》の志を一つにする者と思うたからにほかならない。しかるに、その同僚を迎えるに、この態度は何事か。こんなことなら吾れからここに臨むのではなかった。秀吉が礼を厚うして迎えに来るのを待って来てやるのであったに――と、右近もほろ苦い顔して悔いているようだし、瀬兵衛も頗る渋面《じゆうめん》をつくっていた。
それと、この二人の不快を手伝ってよけい堪らないものにしているのは、その日の暑さだった。梅雨《つゆ》はとうに明けているはずだが、いっこう空気は乾燥しない。そして空にはのべつという程、この頃の天下を象徴しているような去就《きよしゆう》の定まらない雲が往来していた。その雲間から折々かっと照りつける陽はまた脳膜《のうまく》を麻痺《まひ》させるような執《しつ》こさ[#「こさ」に傍点]と強烈な光を持っている。
「暑いのう、瀬兵衛どの」
「ムムム。風もないし」
ふたりも勿論、脛《すね》から籠手《こて》まで身を鎧《よろ》っていた。近来の具足は年々|敏捷《びんしよう》を貴んで軽略になって来たとはいっても、厚い革胴《かわどう》の下には汗が流れるようだったにちがいない。
「筑前も、もうよい加減に、出て来そうなものではないか」
瀬兵衛は軍扇《ぐんせん》をひらいて、しきりに頸《くび》をあおいでいた。そして、敢えて下らざる意志を示すもののように、右近とともに、上座を取って坐っていた。
ところへ、やあ、という声が風とともに入って来た。秀吉である。二人の前へ来て坐るやいなや繰り返して云った。
「やあ、どうもすまぬすまぬ。寝起きに御本堂へ出て、これをやっておると――(自分の頭をぺしゃぺしゃ叩きつつ)ただ今、遠路から細川藤孝、忠興父子の使者が見えて、帰国をいそぐとのことに、さきにその方の談合をすませた。そのため、まことに、お待たせしたようだが」
と、いつに変らぬ体《てい》で、座の上下などは眼のうちにない。
「ほう」
とのみで、ふたりは挨拶もわすれて、秀吉の頭ばかりながめていた。
秀吉が剃髪《ていはつ》していたからである。剃《そ》りたての頭に庭木のみどりがてらてら映って見える。
「先君の弔《とむらい》合戦と申して、せがれ秀勝も髪を剃《お》ろさんといい、堀秀政も剃髪すると云い出したが、お身らは若い、それまでには及ばぬ。武者振《むしやぶり》こそ作れと、ようやくあちらで止めて参った。――そして今、二人の髪の端だけを切らせ、筑前のと添えて、お位牌《いはい》の前に供えて参ったが、おかげでこの暑さにも、頭だけは涼しくなった。はははは。入道《にゆうどう》とは涼しいものよな」
とはいえ、気になるものとみえて、秀吉はしきりにそれを撫《な》でまわしていた。
瀬兵衛も右近も、最前からの不快は拭《ふ》き消された。こんどの一戦を前にして、秀吉が剃髪して臨むまでの決意を見せている以上、些末《さまつ》な私情に駆られるなどは、みずから恥ずべきだと思った。
ただ、いかんせん、談話中、秀吉の頭を見ると、折々、おかしくなって堪らなかった。
近頃は余り面と向っては人もいわなくなって来たが、秀吉をさして「猿々」と呼び慣わしていた頃の先入主が、今もこの二人のどこかに潜《ひそ》んでいた。そしてその旧観念と、眼の前のものとが、見る者の心のうちで、相互に擽《くすぐ》ッたい感情が挑《いど》み合っているのらしい。
「迅《はや》いには一驚を喫した。高松からこれまでの間、ほとんど、眠るまもなかったでござろうに。――いや、お元気を見て、われらも安心いたした」
瀬兵衛が、おかしさを怺《こら》えて、まずは尋常に挨拶すると、秀吉も急に思い出したかのごとく、
「いや、途上度々、お飛脚を賜わって、かたじけない。それによって、明智方のうごきも知れ、また何よりの儀は、御両所の味方だにあればと、大いに意を強ういたして参った」
と、世辞をいった。
高山右近も中川瀬兵衛も、そんな下手《へた》な世辞にすぐころりと欣《よろこ》ぶほど甘くはない。聞き流して、すぐ秀吉に注意した。
「いつ大坂へ向われるか。われはともあれ、大坂表には神戸信孝《かんべのぶたか》様もおられ、丹羽五郎左も、貴公の来るのを待ちぬいておる」
「いや、敵のおる方角でもない大坂表へなど、いま参っておる暇はない。大坂へは、今朝すぐ使いを出しておいた」
「信孝様は、先君の第三子。貴公から出向かなければ動くまい」
「秀吉の陣門へ来いと申し上げぬ。先君の弔《とむらい》合戦に参会せられよと云い遣《や》った。側には丹羽長秀もおることゆえ、常時の礼や、つまらぬこけん[#「こけん」に傍点]にこだわっておられるようなことは万あるまいと思う。かならず明日は参陣されよう」
「伊丹《いたみ》の池田父子は」
「これも相違なく会同する。まだ見えぬが、自分が兵庫まで来たとき、使者をよこして、此方《こなた》まで誓紙をとどけて参っておる」
味方の糾合《きゆうごう》については非常な確信をもっている容子《ようす》だ。わけて山陰の細川父子が、明智家とは切っても切れぬ姻戚関係にありながら、光秀の誘いを退け、却って、今も今とて、家臣の松下康之《まつしたやすゆき》を遠くから使いによこして、
(断じて逆徒には組みさない)
という誓約を入れて来たばかりである――という事実を、秀吉はかなり得意そうになって、また、これが当然な世間の大勢であり武門の大道でもあるといって、二人へ力説した。
そしてなお種々|談《はな》しの末、やがて中川、高山の二人が、いずれも伴って来た幼い者を、質子《ちし》として、秀吉の手許へあずけようと申し出ると、秀吉は大いに笑って、
「無用無用。御両所のお心はよく分っておるし、かつは、このたびの一戦は、そんな旧《ふる》い習慣によって辛くも結ばれ合う味方同士ではないはずだ。幼少の和子《わこ》たちは、早速、各※[#二の字点、unicode303b]のお城へお返しあるがよい」
といって断った。
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雷《らい》 気《き》
秀吉の休んだ禅庵《ぜんあん》は栖賢寺《せいけんじ》であったが、これと並んですこし先に広徳寺《こうとくじ》がある。彼の本陣はこの二寺をあわせ用い、刻々に増《ふ》える軍勢を、附近の長洲から大物の浦まで充《み》たして、十一日はここで過した。
その晩は、広い闇の諸方で、しきりに軍馬がいななき狂った。
「明智方の四方田政孝《しほうでんまさたか》の斥候隊が、近くの村落に出没している――」
というような風説もあって、陣中は夜どおし緊張しきった裡《うち》にこもごも一睡をとっていたが、馬が寝つかないのは、それとは無関係であった。宵の頃からいちめんに掻き曇っていた空から折々電光がひらめいて、遠く近く雷鳴も伴《ともな》っていたせいであろう。
「天王寺辺から東のほうは、ひどい大雨だそうな」
大坂表から来た早馬の者にそう聞いた哨兵《しようへい》が、共に哨戒《しようかい》に立っている友の影へ向って話している。
「この辺はポツーとしか降らないが、この風はどこかで降っているようなあんばいだ。あすは雨かな」
「嫁入りの晩と、戦いの出がけに降るのは、縁起がいいというから、ざッと来るのもいいだろう」
「敵もそう云っているかも知れまい」
「大きにそうだが、同じ大地へ天から降る雨でも、光秀の部下とおれたちとでは、濡れ心地が違うだろう。みろ、馬さえあのように勇んでいる」
「よかった、おれたちは」
「なにが」
「明智の家中でなくてさ」
「ははは。まったくだ」
闇の中の人声を聞きとめて、秀吉はふと佇《たたず》んだ。昼間、快睡《かいすい》したせいか、眠れぬままに、彦右衛門と茂助をつれて野営している士卒の様子をそっと見廻って来たところだった。
「彦右衛門。聞いたか」
秀吉は顧みた。いま、哨兵《しようへい》が大勢で語り合っていたことばをさして云ったものであることは勿論である。
「戦いは、勝っておる。もう勝った。そう思わぬか」
「まことに」
彦右衛門も茂助も、主人の気もちを正しく解《と》いてうなずいた。また、ここに聞く人ありとも知らず放言していた士卒たちの正直なことばにも心から共鳴した。
「もう丑刻《うし》の頃か」
「そうなりましょう」
「戻ろう。やがて進撃の貝も鳴るであろう」
裏門を探って寺中へ帰った。附近の農家であろう、長い声を曳いて牡牛《おうし》が啼《な》く。総じて、野良犬も鶏も鼠も何となく官能を尖《とが》らせているとみえて、どこの営でも兵は深々と眠っているが、動物たちは夜どおしかさこそ[#「かさこそ」に傍点]と物音をたてていた。
「お尋ね申していたところでした」
秀吉が灯もない縁先に腰を休めると、小姓たちが来てすぐ告げた。
「大坂表の丹羽《にわ》どのから、早馬のお使いが着かれております。すぐ御返書をいただいて、即刻、立ち帰らねばと、しきりに急いだり案じたりしておりまする」
「また、来たか」
同じ所からこれで三度目の早馬である。秀吉は苦笑した。この方面の問題だけでも今夜は彼を寝かさぬようにできていた。
秀吉は縁に腰かけたまま「大坂の使者をこれへ呼べ」と迎えにやり、やがて彼の前に来て平伏した使者の手から、丹羽長秀の書簡を直接受けとった。そして一読すると、祐筆《ゆうひつ》に筆を執《と》らせて、
「すぐ持ち帰れ、仔細は書中に」
と極めて簡単な一札を使者に託した。
けれど返書の文意だけでは余りに簡に過ぎると思ったか、使いの者が倉皇《そうこう》として起ちかけると、なお、ことばをもって伝言をたのんだ。
「やがて夜明けと同時に、秀吉は軍をすすめて、きょうにも敵と一戦の覚悟である。すでに敵は眼前にあることゆえ、たとえ味方の諸勢が揃わぬまでも、兵機さえよろしと見れば、いつでも時を移さず交戦に入るであろう。――折角、信孝君《のぶたかぎみ》をお迎え申して、子としては、父なき御孝道を尽させ給い、臣としては先君の弔合戦《とむらいがつせん》、ここは死生も御一緒に、御旗をひとつに、昨朝来、書簡を以て再三御参会を促《うなが》しまいらせたが、何のかのと御理由のみ立てられて、いっこうお腰の上がらぬ様子。……さもあれば是非なし。悠々《ゆうゆう》、いつまでお待ち申しあげておられぬ場合。後に、お悔い遊ばすことなどないように、丹羽殿も切にお心入れあるこそ輔佐《ほさ》のお役目であろうと。――左様に、筑前が申しおったと、あからさまに伝えてくれい」
使いは恐懼《きようく》して帰った。使いの者のうけた感じでは、秀吉が多少、癇癪《かんしやく》を起しかけているように見えたかもしれない。
事実、きのうから三度も四度もむだ[#「むだ」に傍点]な早馬と時間を空費しながら、まだ煮え切らない書面をよこしたり、返書を求めて来る神戸信孝《かんべのぶたか》の態度には、秀吉もこの多事と兵機を寸刻たりと、ゆるがせに出来ない中だけに、やりきれないような鬱陶《うつとう》しさを覚えていた。
神戸信孝としては、秀吉が、尼ケ崎まで来ていながら、大坂へ来て自分に謁《えつ》を執《と》らないことが第一の不満らしく、
(自分は、信長の子だ。我から彼の陣へ参じる理由はない。予のこけん[#「こけん」に傍点]にもかかわる)
という面目に囚《とら》われているのは確かだったが、それはそうとはいわず、丹羽長秀の名をもって、
(部下の大半が逃散したため、なお御軍勢の整備がつかぬ)
とか、また、四国の長曾我部《ちようそかべ》の動静がさだかでないから、一両日はなお見定めたいとか、あらぬ理由を立ててしかもなお、いちど貴所の方から大坂城へ来て、ここで御軍議を固められては如何《いかが》か――などと悠長なことをいって来ている。
で、秀吉はいま帰した使いに託した書中にも、これが最後の書状と断って――
(かくの如き時は生涯二度とはありませぬぞ。秀吉とて明日はこの世の者でないかも知れず、かかる時を逸《いつ》して悔いを千載《せんざい》にのこし給うな)
と極言して遣《や》ったほどだった。
一方の朝雲が白みかけた。今朝も雲脚《くもあし》は早く、まだ他地方はゆうべから吹き暴《あ》れているような天候である。
兵糧用意の貝の音が陣々で鳴った。
海の近いせいもあろう。夜明けの一頃《ひところ》は濃密な霧だった。それに一万以上の軍勢がつかう兵糧の炊《かし》ぎに、陣々の炊煙もたちこめて、松の多い尼ケ崎一帯は、松か霧か人か煙か。
秀吉は寺内の一隅にある老松の根がたに筵《むしろ》を敷かせ、堀秀政、中川瀬兵衛、高山右近、黒田|孝高《よしたか》、蜂須賀彦右衛門などと、膝組んで何か談笑を交えながら、そこで一緒に兵糧の握り飯を喰っていた。
「精進を廃《や》めて、魚鳥を充分に喰べたせいか、きょうは何かしら非常に力づいた気がするよ。やはり食は士気の根元だな」
秀吉の矛盾《むじゆん》を、彦右衛門が側から笑った。
「御剃髪《ごていはつ》と同時に、肉食をお始めになられた御出家は、古今、殿をもって嚆矢《こうし》といたしましょう」
「什麼生《そもさん》。それがわしの真骨頂だ。秀吉の出家は坊主の出家と甚だ意味がちがうからな」
これが生還を期せざる戦いに入る前の筵《えん》だろうかと思われるほど賑やかな朝餉《あさげ》である。そこへまた昨夜来、高槻の北方、芥川《あくたがわ》方面へ偵察に行っていた加藤作内光泰、福島市松などが帰って来て、
「おいいつけの地方、隈なく巡《めぐ》りましたが、敵らしい者には会いません。けれど民家は相当騒いでおります。昨日の昼、明智の小部隊が通過して、当所のお味方の動静を訊きあるいた上、勝龍寺方面へ立ち去ったと申しおりました」
と復命した。
秀吉は直接二、三の要領をたずねた上、ひと休みして、早く兵糧をとっておけと犒《ねぎ》らった。
程なくまた、
「ただ今立ち帰りました」
と、中村孫兵次、山内|猪《い》右衛門《えもん》などの一小隊が復命に来た。これも昨日の昼から出てようやくいま帰った斥候《せつこう》部隊である。そして命ぜられた先も、渋川筋から洞《ほら》ケ嶺《みね》附近の地域なので、かなり深入りして来たことが察しられる。
「洞ケ嶺にある筒井順慶《つついじゆんけい》を訪ねて参った光秀は、きのうお味方がこの尼ケ崎に着いたと聞き知ると、にわかに下鳥羽《しもとば》へ立《た》ち退《の》いたということでござります」
孫兵次の齎《もた》らしたことは重大な情報といわなければならない。諸将は聞き耳たてた。秀吉の眼も急にらん[#「らん」に傍点]として輝きをおびた。
「して、筒井は?」
「依然、洞ケ嶺にあります」
「光秀はそれに抑えの兵をのこしておるか、否か」
「斎藤|利三《としみつ》の一軍を留めて去ったようです」
諸将は顔見合わせた。秀吉も黙然とうなずいた。それによって、筒井順慶の向背はほぼ卜《ぼく》し得たからである。
秀吉はまた、下鳥羽へ移った以後の光秀が、さらに前進して来るもようか、後退する気配かを訊ねたが、そこまでのことは、中村、山内の二人にもわからないので、ありのまま、
「予察いたしかねます」
と答えた。やがて二番貝が鳴る。秀吉の周囲にいた諸大将は皆どこかへ駈け散って行く。間もなく各隊は尼ケ崎を発し、山崎方面へ向って進軍を開始していた。秀吉の馬上姿もまた、馬簾《ばれん》とともに押し流さるるように軍勢の中に見えた。
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淀《よど》・山崎《やまざき》・天王山《てんのうざん》
伊丹《いたみ》の池田信輝も、一子|勝九郎《しようくろう》を伴《ともな》って、この日、途中から秀吉の軍に投じた。信輝も、今朝出陣の間際に、剃髪《ていはつ》して、名も勝入《しようにゆう》とあらためていた。
秀吉とは、清洲《きよす》時代からの莫逆《ばくぎやく》の友であり、おたがいの莫迦《ばか》も知っていれば長所も知り合っている仲である。
「やあ、御身も髪を剃《お》ろされたのか」
「貴公も剃髪したか」
「期せずして、ひとつだったな」
「むむ。ひとつ心だった」
秀吉と信輝とは、それだけで他のことばを必要としなかった。信輝は携《たずさ》えて来た手勢四千人と共に行軍に加わった。
昨日以来、目立って、軍勢は強力になっている。秀吉の手兵約一万が最初のものであったが、高山右近の二千人、中川清秀の二千五百人、蜂屋頼隆の一千人、それに今また池田隊四千を加えたので優に二万を超えようとしている。
こうして全軍が、右に淀川を見、左に能勢《のせ》や有馬《ありま》地方の山々を見ながら、北進して行くうちにも、なお二十人、三十人の郎党や家の子を率《ひき》いて来る地方郷党の小部隊の参加もひきもきらぬ程だった。
それらの者は、口々に参会の意志をこう表明した。
「明智の行為はゆるされぬ不道である。逆を討ち順を扶《たす》くるは武門の当然な鉄則でござれば、従来の行きがかりや旧縁の誼《よし》みなど一切かえりみなく麾下《きか》に馳せ参じてござる」
このことばはほとんどみな一致していた。あながち羽柴軍の優勢だけを見て勝目に体を賭《か》けて来た者ばかりとはいわれない。
午《ひる》ごろ茨木《いばらき》に着き、小憩《しようけい》のあいだに、秀吉は諸方の情報を聞きあつめ、また前進をつづけ、茨木と高槻《たかつき》の中間、富田《とんだ》に陣営をさだめた。
布陣の令が終ると、秀吉はすぐ部下を会して、作戦を評議した。そのとき端《はし》なくも中川清秀と高山右近のふたりが、
「先鋒《せんぽう》はそれがしが」
「いや、先陣は自分に」
と、互いに云い張って、いずれも譲《ゆず》ろうとしない小争論を起した。
高山右近はいう。
「敵近き地にある城主がその手の先陣たることは古来弓矢の作法でもあれば、何と申されても、中川殿のあとにつくわけには参らぬ」
中川清秀も負けずにいう。
「先陣後陣のわけ目は、何も戦場と居城の近い遠いなどということで定めらるべきものではない。要は士馬精鋭の如何にある。将たる人の覚悟と質にある」
「では、この右近には、先鋒《せんぽう》として敵に当る資格がないといわるるか」
「いや、御辺《ごへん》のことは知らん。しかしそれがしこそ、余人におくれは取らぬものと、みずからかたく信じておる。故に、先陣はそれがしにと、誰へ遠慮もなく望む次第でござる。中川清秀にこそお命じあれ」
清秀はそういって秀吉に迫った。右近も秀吉に手をつかえてその命を仰いだ。秀吉は、当然、主将たるの態度を床几《しようぎ》に構えて決裁《けつさい》した。
「いずれの申し条も道理であれば、中川も一線に陣取れ。高山ももちろん一番合戦の所に出て、ことばに辱《は》じぬ功名を取ったがいい」
評議中にも、続々、斥候隊からの情報が入った。
「きのう以来、洞《ほら》ケ嶺《みね》、八幡の陣を撤した光秀は、山崎、円明寺あたりの兵力も結集し、或いは、京都坂本方面まで後退するのではないかのような空気も見えましたが、俄然《がぜん》、今朝以来、明らかに攻勢を示し、その一枝隊は早くも勝龍寺あたりまで転進しつつある情勢にござります」
この報らせをうけると、帷幕《いばく》の諸将は俄然、緊迫した眉を示し合った。ここから山崎、また勝龍寺との距離は、ほとんど、電馳《でんち》一突《いつとつ》の間でしかない。諸将のぎらぎらした眸にはすでにその辺に出没する敵影が見え始めているようだった。
中川、高山などは、先鋒の任を負ったので、すぐ立ちかけた。そして秀吉に向い、
「時を移さず、ここの本陣も直ちに、山崎あたりまで、お進めあっては如何」
と決断を促《うなが》した。
秀吉はこの場合の色めき立って来たものには乗らず、至極悠長に答えた。
「自分はここでもう一日、神戸《かんべ》殿のお出を待つ所存だ。半日一夜たりと、大事な機の刻々うごく時とは思うが、何としても、このまたとなき戦いに、幾名もおる先君の御遺子のお一方ぐらいはお加え申しあげたい。神戸殿をして生涯、悔いをのこし、世上にも顔向けならぬようなお立場にさせたくない」
「でも、とこうする間に、敵に有利な地勢を占《し》められては」
「されば、神戸殿を待つにも、おのずから際限がある。――明日ともなれば、いずれにしても、山崎まで秀吉も出向かおう。全軍、山崎に集結した上、さらに連絡《れんらく》を取るから、各※[#二の字点、unicode303b]はすぐ前進しろ」
「よろしい。ではなお刻々の状況は、後刻、使者をもって」
と、中川、高山は立ち去った。
すなわちここを発した先鋒は一番隊高山、二番隊中川、三番隊池田勝入という順序であった。
富田《とんだ》を離れるや否、高山隊二千余は、もう眼のまえに敵軍を見ているような迅《はや》さで驀進《ばくしん》し出した。中川瀬兵衛以下、二番手の勢も、その馬煙を望んで、
「山崎にはもう敵勢が入っているのか」
と、疑い合い、
「それにしても、余りな急ぎ方だが」
と、あやしまれる程だった。
山崎の町へ入るとすぐ、高山右近の部下は、町をつらぬいている道の木戸を封鎖して、附近の小道まで一切交通を遮断《しやだん》してしまった。
あとから来た中川隊は、当然、その遮断を喰って、さてはと、高山隊の急いだ理由を覚《さと》ったが、こうなると意地でも彼の第二陣に控えてはいられない。
「よし。その分ならば」
と、中川瀬兵衛はここの要所を捨てて、急に山の手方面へ向って行った。その方面に見える一高地、名は天王山。
秀吉はついにその夜は富田に宿営したが、翌十三日の午《ひる》近い頃になって、ようやく、
「ただ今、神戸《かんべ》信孝|君《ぎみ》、丹羽《にわ》長秀様などの一軍が、淀川の岸まで到着されました」
という報らせをうけた。
「なに。信孝様が、見えられたとか」
そのとき秀吉は、それを耳にすると共に、ほとんど、床几《しようぎ》を倒して駈け出さんばかり歓んで云った。
「馬を、馬を」
彼は、営外に立って、あたりの者へ急《せ》きたてた。そしてそれへ乗ってから、
「お迎えに行って来る」
と、陣門の人々へ、馬上から振り向いて、ひと言告げ、淀川の岸まで急いだ。もちろん数騎の部下はあとから駈けつづいた。
満々たる水をたたえた大河のそばには、約四千人一隊、約三千人一隊と、ふたつに別れた軍隊が、船や筏《いかだ》をすてて、馬に草を飼い、兵は河原に憩《いこ》うていた。
「信孝君はいずれにお在《わ》すか」
秀吉は大声で求めながら、自分を見まもる汗くさい兵の中に跳び降りた。
たれも秀吉とは思わなかった。
「どなたでござるか」
「筑前じゃ」
諸卒は初めて目をみはった。
秀吉は迎えも待たず、一部将のあとを見て、兵馬のあいだを押し分けて行った。
照り返す河原の水べりを避けて、出水あとの堤崩れが見える一|喬木《きようぼく》の下に、三七信孝は、馬印を立て床几《しようぎ》をすえて憩《いこ》うていた。
ふと、振り向くと、秀吉が、何事かを大声で呼びかけながら近づいて来る。
その顔、その目、その声に接すると、信孝は何かしら、はッと、すまないような気持に胸をうたれた。
また、父信長が、多年|手塩《てしお》にかけて来た一家臣が、このときは、主従の情をこえて、骨肉にも近いような感情で、つよく眼に映った。
「オオ、筑前か」
彼が手を伸べるも待たず、側近くまで早足に歩いて来た秀吉は、いきなりその人の手を取ってかたく握りしめ、
「信孝さま!」
それだけをいった。そしてあとは何もいわず、いい得ず、眼と眼に語らせていた。
どっちの眼にも滂沱《ぼうだ》たるものがながれた。その涙のなかに信孝は父|亡《な》ききょうの気持をことごとくこの一家臣に語り尽していた。秀吉もその胸のうちを察すればこそであった。彼はやがて、固く握っていた相手の手をやわらかにはなした。それと共に、地にひざまずいて、なおしばし嗚咽《おえつ》しつつ云った。
「よくぞ。よくぞ……お渡り下されました。いまは何事も申しあげている遑《いとま》もなし心も他にありません。……ただ、それのみをありがたくお礼申しあげまする。またこのことこそ、先君の御霊《みたま》もかならず泉下《せんか》において御満足に思し召しておらるるであろうことを信じて疑いませぬ。……やれやれ、筑前もおすがたをここに拝して、臣下の道のひとつを完《まつと》ういたしたような心地がされまする。真実、高松以来、初めてのうれしさにござりまする」
信孝は、秀吉の手をとって、
「ここはすでに戦場、主将たる御身が、左様にしておられては、信孝の居りようがない。まずまず床几《しようぎ》を取られよ」
と、自身すすめた。
べつの一軍は丹羽隊であった。丹羽長秀はその中にいたが、報らせをうけるとすぐこれへ来て、参会の遅延を謝し、またともにこの一戦に臨む同生共死のよろこびを誓った。そして程なく秀吉の案内で、この軍馬七千も、彼の陣営の一翼となった。
信孝を迎えた河原では、信孝の前にぬかずいた秀吉も、ひとたび自己の陣営に入ると、左右すべて彼に慴伏《しようふく》し、威風払わざるものはなく、たとえ神戸《かんべ》三七信孝たりとも、丹羽五郎左衛門長秀たりとも、全軍の指揮者たるその位置には、自然|憚《はばか》らざるを得なかった。
――といって、秀吉自身が、ことさらに信孝を下におくというようなところはみじんもない。むしろ、宥《いたわ》り慰めて事ごとに気を労《つか》うふうすら見える。そして富田《とんだ》の陣営に迎えるとすぐ、
「いまのところ、敵方の情勢はこうなっており、味方はかように進み出ております」
と、手にとるごとく、作戦図について、詳しく説明を与えていた。
きのう中川、高山などの先鋒《せんぽう》が進出してから、夜に入って、すでに勝龍寺の西方あたりで、足軽隊同士の鉄砲戦があり、その附近で、探り合いの放火が行われたという報《し》らせは――まず前線部隊からこれへ伝令されていた。
そしてゆうベは、遠方からもその火の手がボウと見えたが、大した展開も見せず、鉄砲の音も止んで、そのまま夜明けとなったものである。
きょう十三日も、空は依然荒れぎみで、折々、沛然《はいぜん》と驟雨《ゆうだち》が来ては、また霽《は》れたりしているが、ゆうべも山の方ではだいぶ降っていたらしい。そのために鉄砲隊の足軽は、敵味方とも火縄《ひなわ》の火が消えて難儀しているということだった。
それも一因であろうが、またひとつには、富田にある秀吉が前進して来ないため、中川、高山、池田、すべての軍は、満を持したまま、ただ彼の一令を待っているというすがたでもあった。
「合戦は恐らくこれから今日中に開かれましょう。大勢の決するところも今十三日中になりましょう。いずれにせよ、今日こそ定まる日です。御休息のおいとまもなかったでしょうが、秀吉と共に御出馬なされませ」
程なく、彼は信孝を促《うなが》して、富田の陣を払い、山崎へ向った。
出がけにも、また一雨来た。金瓢《きんぴよう》の馬じるしは鮮やかに濡れかがやき、諸将の陣羽織や太刀からも雫《しずく》していた。
「おお。虹が、虹が」
途中、秀吉は指さした。
しかし人々が仰いだときはもう見えなかった程、天相《てんそう》の変化は迅《はや》かった。
山崎へ着いたのは申《さる》の刻《こく》(午後四時)、先鋒三部隊の八千五百に、予備軍一万を加え、山も河も町も、兵馬の影のないところはなくなった。
「今、明智方の一軍は、天王山の東のふもとへ、死にもの狂いの突撃を開始し、お味方の中川隊と激戦中との報らせでございました」
着くとすぐ秀吉はこの一報を聞いた。秀吉は、戦機熟すと見た。で、予備軍中の加藤光泰を池田隊へ加え、また堀秀政の軍を高山右近、中川清秀の二隊へ増援させて、
「いざ。われも」
と、全軍全面にわたる大攻勢の命令を一下した。
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裁《さば》きの悲歌《ひか》
九日。――それは秀吉が早暁《そうぎよう》に姫路を出発していた日にあたる。
明智光秀は、この九日の朝、坂本を立って京都へ引っ返していた。
同じ日月の下に在《あ》るふたりの者の居所とその行動を見くらべて見ると、秀吉があのような心と姿で送った姫路城の八日の晩を、光秀は同じ夜、坂本の城に、どんな感慨と夢を抱いて過していたろうか。
ここで一応、本能寺変の後、それからのわずか五、六日間には過ぎないが、光秀の行動と彼に蒐《あつ》まった世の衆目の機微《きび》な現われとを、顧みてみる必要もあろう。
本能寺の余燼《よじん》もまだいぶっていた六月二日の当日、未《ひつじ》の刻《こく》(午後二時)頃には、彼はもう京都を去って、
「安土《あづち》へ。安土へ」
と狂風のごとく急いでいた。
もちろん京都にも部下を残して、残党狩りによる織田色の一掃に努めさせ、町々には地子銭《じしせん》免除(減税令)の高札とともに軍令をかかげ、また万一を思い、山城《やましろ》摂津《せつつ》方面のうごきに対し、その圧《おさ》えには明智家の属城勝龍寺の城へ、重臣の溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》を入れておくなど、朝来急速、万端の手配を終った上であることはいうまでもない。
だが、洛外《らくがい》を出た彼の第一歩は、その日、粟田口《あわたぐち》から瀬田まで来ると、もうそこに、
(そうは、させぬ)
となす障碍《しようがい》につまずいていた。
午《ひる》まえに、あらかじめ誘降状を送っておいた山岡美作守《やまおかみまさかのかみ》の兄弟はその使者を斬り、城を自爆し、瀬田大橋にも火を放って、家中とともに甲賀の山中へ遁走《とんそう》していた。
この違算のため、瀬田は通行できなくなった。光秀は憤《いきどお》りを眼に燃やした。焼き落されて半ば破壊された大橋の残骸《ざんがい》は、彼へむかってこういっているようにも見える。
(汝が世を観《み》るごとく、世は汝を観ない)
光秀はやむなく、坂本城に留まって、むなしく両三日を過し、橋の急修理をおえて、ようやく安土へ襲《よ》せかけた。
安土はすでに死の町と化している。主《あるじ》なく人なき巨城であった。
蒲生《がもう》賢秀《かたひで》以下の留守居衆が、信長の妻子|眷族《けんぞく》をつれて悉《ことごと》く日野の城へ退いていた後だし、町の家々にも、暖簾《のれん》も見えず商品の影もない。
しかし天下第一の大城の天守には、多年蓄積されていた金銀や名物ものなどの財宝がそのままあった。
城を収めた後、光秀は、それを見た。けれど彼の心は少しも富まなかった。却って反対な感情が呼び起された。
(自分の求めているものはこんな物ではない。こんな物を求めてしたと考えられたとは心外だ)
光秀は庫中の金銀を悉《ことごと》く取り出させた。そして部下の賞与や寄附や治民の費用に惜し気なく撒《ま》いた。小禄《しようろく》の者にすら数百両ずつ与え、上将たちの賞賜《しようし》には、三千両、五千両と頒《わ》け与えた。
安土に居あわせて、その状《さま》を見ていた宣教師のオルガンチノは、
「日向《ひゆうが》どのには、幸運を楽しむ日もそう長くないことを、もう自覚しておいでとみえる」
と、独りつぶやいた。異国人の眼にすら光秀の無理な力で持った「天下人《てんかびと》」の威権はそう観察されていた。
――われ光秀はいったい何を求めている者か。
光秀はそれを自分にしばしば問うてみる。「天下人たらん」と、当然な答が湧《わ》く。しかし、どうしたものか、われながらその響きはうつろ[#「うつろ」に傍点]にしか血に響かない。
信念からの発足《ほつそく》でなかったことを自認せずにいられない。元来そういう大望を抱いていなかった自分であることも誰よりも自分が知っている。
その器《うつわ》でもなく、その大望もなかったと知る彼が、かくなって来たわけはただひとつ、「天下人信長」を討ったからにほかならない。天下人は、天下人を仆《たお》した者が代るという不文律《ふぶんりつ》が時代の中にある。それを否《いな》みようもなく光秀をして大難業に駆《か》らしめ、光秀自身もまたひたぶるにその権化《ごんげ》たらんと見せている。――にもかかわらず、光秀の心の奥底に棲《す》む光秀の本質は、すこしもそこに自身の前途も理想も見出していない。
信念の根のない熱情を強いて振おうとする姿は狂躁《きようそう》にしか見えなかった。彼のねがいと満足とは六月二日の一火をもってもう果されていたのである。あの朝、信長の死を聞くや、堀川の陣にあった彼はうそか本心か、
(妙心寺の一室をかりて予も自刃せん)
といったという。そういう巷説《こうせつ》が一時行われた。心ある者はそれを取って云った。
(なぜ死なせてあげなかったのか――)と。
伝えられるところによれば、その際、帷幕《いばく》の重臣たちが極力それを引き止めたものだといわれている。或いはそうだろう。信長という者が一火の灰と化したせつなに、光秀の胸に凝《こ》り固っていた万丈《ばんじよう》の氷怨《ひようえん》は雪解《ゆきげ》のごとく解け去ったであろうが、彼をめぐり彼とともに事をなした将士一万余は必ずしも彼と同じような心態ではない。彼らにとってはむしろ事はこれからだと期せざるを得ない。元々、信長一箇を討つのみが挙兵目的の全部ではなかったからだ。そして彼らはみな信じた。
(今日以後現実に、わが光秀様が天下人に成られたのだ――)と。
ところが、彼らの仰ぐ当の光秀は、このときすでにその実《じつ》を失って虚になっていたのである。六月二日以前の彼とそれから後の彼とで、別人のようにその容貌も気魄も、叡智《えいち》までが変っていた。ひと口にいえば、虚化していた。どこかにうつろ[#「うつろ」に傍点]が窺《うかが》われるのである。――それは単なる疲労などとは大いに違う。
とはいえ、天下は動いた。愚者の暴挙と軽視し去る者はない。天下は光秀自身の肚《はら》以上、彼の一挙を計画的なものにも観《み》ているし、彼の才腕、彼の智嚢《ちのう》を大きく買っている。刻々として、彼の誘いに応じ、彼の軍に投じ、また遠くにいても、呼応《こおう》するかのごとき表情を見せている分子も少なくはない。
五日から八日の朝まで、彼は安土にいたが、その間とて、彼はただいたずらに、庫中の金銀や満城の綾羅珍什《りようらちんじゆう》の処分をしていただけではなく、次の段階にたいするあらゆる努力を一面に傾けていたことはいうまでもない。
丹羽長秀の本拠《ほんきよ》、佐和山《さわやま》を攻めさせてこれを収め、秀吉の城長浜も同時に陥《おとしい》れた。そして人的には美濃の諸侍を誘降し、六角家《ろつかくけ》の旧臣や京極家《きようごくけ》の一族、また、若狭《わかさ》の武田義統《たけだよしのり》などを加えて、それぞれ適所に用い、ひたすら兵力の増強にあせっていた。
一応、江州《ごうしゆう》附近の攻略をすませると、光秀は留守居軍の一部をとどめ、全軍装備を新たにして、ふたたび上洛の途についた。
途中は坂本城で泊った。
そこでも、軍勢の一半を割《さ》いて、山科《やましな》から大津方面へ陣取らせた。
気を労《つか》えば限りのない程、諸方面に万一の備えが要《い》る。それ程に、彼の期待の対象《たいしよう》はまだはっきりした意志を表示しないでいる。
明示しているものは、蒲生賢秀の如く、細川藤孝父子の如く、きっぱりと、彼の誘いを断った者のみである。
わけて、細川忠興は、またなき彼の愛婿《あいせい》である。信長を倒した以上、一も二もなく自分に従《つ》いてくるものと、光秀は決定的に思いこんでいた。
ところが、使者の齎《もたら》して来た返事によれば、その忠興も父藤孝も、
(もってのほか)
という立腹であったというばかりでなく、
(故信長公に二心なし)
と、髪を切って、誓いを示し、また直ちに、明智家から嫁《とつ》いでいる忠興の妻の身は、子供を添えて山ふかき里に隠し、一方即刻、秀吉の許へ使いをたてて、
(共に逆臣を討たん)
という誓約を送ったとも――その宮津《みやづ》から立帰って来た使者から、彼はつぶさに聞かされていたのである。
このときまで、彼は、味方に引き入れる者の対象にばかり気をとられていて、いったい天下の何者が、自分にとって、最大な強敵として立ち現われて来るであろうかを――まだ的確《てきかく》に想定していなかった。
秀吉。
という存在が強く彼の胸を打ったのもようやくこの日頃からのことだった。
中国在陣中の彼の兵力と、その人物などを、まったく埒外《らちがい》において、観過《みすご》していたのでもないし、軽視していたわけでもない。
むしろその存在には甚だ脅威を感じていた程だが、なお光秀をしてひそかに安《やす》んぜしめていたのは、
(毛利と四つに組んでいる秀吉は急にうしろを振り向けまい)
と、予想していたところにある。
かたがた、本能寺襲撃の早朝、堀川の陣から急派しておいた毛利向けの二使者が、海路陸路、いずれかの一人は、疾《と》くに芸州《げいしゆう》へ行き着いて、中央の異変を知り、自分からの書簡を見て、
(時こそ到る)
と、歓呼をなしている時分であろう。そしてやがて、東西|挟撃《きようげき》して在中国の羽柴軍を粉砕せんと答えて来るにちがいない。――そう希望し、そう判断して、吉報の到るのを、今か今かと、心待ちにしている程だった。
が、この方面の使いも、梨のつぶて[#「つぶて」に傍点]である。のみならず、自分の麾下《きか》に属し、しかも京都と近接している摂津あたりの中川瀬兵衛、池田信輝、高山右近などからさえ、まだ何らの返答がない。
また、大坂表にある織田|信澄《のぶずみ》は、光秀の婿《むこ》でもあるから、彼がこれにも望みをつないでいたことは確かだが、その信澄は、僚将《りようしよう》の丹羽、蜂屋などの手に襲われて死したといううわさが、もう一般に聞え渡っていた。
夜の明けるたび、光秀の耳に入るものは、事ごとの齟齬《そご》と、裁きの悲歌であった。
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洞《ほら》ケ嶺《みね》
彼にとって、坂本の城は思い出がふかい。
まだわずか半月前。
信長に面罵《めんば》され、饗応《きようおう》の役を褫奪《ちだつ》され、憤然、安土《あづち》を去って、居城亀山へ去る途中、幾日もここに留まって、悶々《もんもん》、迷いの岐路《きろ》に立ったものだが――
いまは迷いもない。恨みもない。同時に反省も失った。
光秀はいつのまにか、正しき知識人の本質を、一時的な「天下人」の虚名と取り換えていた。
従兄弟《いとこ》の左馬介光春《さまのすけみつはる》は、安土の守りに残して来たが、この城には、光春の夫人や、その子女たちや、また例の、ひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]者の叔父、明智|長閑斎《ちようかんさい》などという身内の者がたくさんいる。
わずか半月ぶりで接した光秀に、なぜか今度はそれらの内輪の者までが、何となくあらたまっていて、窮屈に覚えたが、相変らずなのは長閑斎であって、
「このたびは、天下様にお成り遊ばして、われらはまるで、夢かとしか思えません。瓜《うり》や茄子《なす》が、急に花園の壇に上されたようなもので、御眷族《ごけんぞく》の端たるわれらも急にお行儀をあらためております。末々公家衆などとのお交際も繁くなれば、瓜や茄子も冠《かんむり》して厳《おごそ》かにおらねばなるまいと惧《おそ》れましてな。――いや正直を申せば、先の短い愚老などには、迷惑やら仕合せやらで」
などと軽口を弄《ろう》して、その楽天振りに少しの変化も来たしていない。明智一族中、この老人だけは、べつな暦《こよみ》でも持って暮しているようである。
どんな無用人でも、その所を与えれば、世に無駄人はいないとよくいう光秀は、日頃、従兄弟にむかっても、この老人を祝して、
(左馬介の家庭には、あの屈託のない年寄がおるので、何ぼう奥が明るいか知れぬ。家に後顧《こうこ》がなくてよい)
と、称《たた》えていたものだが、今度の一泊には、長閑翁と戯れあう子らの嬉々《きき》たる声もうるさい気がした。
――明けると早暁に、白河越えを経て、京都へ向っていた。
吉田神社の神官吉田兼和とは日ごろの交誼《よしみ》も深い。その兼和が白河口に待っていて彼に告げた。
「御入洛と聞いて、摂家《せつけ》以下の公家方が、公式にお迎えに出ようと、慌《あわ》ただしく装《よそお》っております。この辺で御小憩ねがいたいが」
光秀は、拝謝した。
「いや、洛内もまだまったく鎮《しず》まったといえぬし、近畿の情勢もなおわからぬ今日、左様な重々しい儀礼は相互の迷惑。やがて御所へ御礼に伺候する日まで、おあずけ願っておこう」
その折、彼は、銀子五百枚を御所へ献上したいとて、その手続きをこの友に依頼した。同日また五山、大徳寺その他へも多額な寄附をしたので、安土から携《たずさ》えて来た手許の軍用金はすっかりなくなってしまった。そして夜は、下鳥羽に陣営して眠った。この夜九日である。彼はまだこの時まで、秀吉の動向については何ら知るところもなかったが、河内《かわち》、摂津方面に散在する諸大名の態度には、何となく不安を感じ出していた。
光秀は、翌十日の朝、本軍を下鳥羽において、一部隊だけをひきつれ、山城八幡に近い洞《ほら》ケ嶺《みね》へのぼって行った。
ここは山城の綴喜郡《つづきごおり》と河内の交野郡《かたのごおり》との境をなす峠路である。光秀は旌旗《せいき》を立てて、終日《ひねもす》、何ものかをこの国境に待ちうけていた。
「筒井家の先鋒は、まだ見えぬか」
「見えませぬ」
「高山、中川、池田などの使いは?」
「何の訪れもありません」
陽の傾く頃まで、光秀は幾度も、同じ問いを、帷幕《いばく》から陣外へ発してみた。
そして自身も折々、
(そんな筈はないが?)
と、いぶかる如く、陣外に出て、河内摂州の山野をながめ、焦躁《しようそう》の眉へ、手をかざしていた。
彼がここへ来た唯一の目的は、大和《やまと》の筒井順慶の軍を待つためだった。もちろん事前に順慶とは諜《しめ》し合わせてあることでもあり、平常の関係としても、一子十次郎を養子にやる約束まで結んである筒井家のことなので、この来会と協力は当然なものとして、ほとんど、何らの疑いもさしはさまず、約を履《ふ》んで、旌旗を立てていたものであった。
ところが、日も暮れかかるに、その順慶は遂に来ない。――のみならず、一面、疾《と》く檄《げき》を飛ばしていた高槻の高山、茨木の中川、伊丹の池田などの、わが麾下《きか》と見なしていたところの諸将も、いい合わしたように、ひとりとしてここに会合する者を見ないのである。
光秀の焦躁《しようそう》は当然であった。
「利三《としみつ》。何の手違いであろう?」
彼はなおこれをもって、諜状《しめしじよう》の手ちがいか、或いは諸軍勢の用意が遅れているもののような程度に解したがっているふうだったが、そう質問をうけた老臣の斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三は、すでに非なる大勢が心のうちに読めていた。
「……いや。筒井殿には、来会の意志がないのでしょう。さもなくば、大和《やまと》郡山《こおりやま》からここまでの坦々《たんたん》たる道、かように時遅れるわけはございませぬ」
「いや、左様な道理はない」
光秀は敢えて云い張った。そして急に藤田伝五を呼び、一書を認《したた》めて、急に郡山へ催促の使いにやった。
「伝五、乗換馬も良いのを曳《ひ》いてまいれよ。駒の足で急ぎに急げば、明朝までに立ち帰れるであろう」
「筒井殿がすぐお会いくださりさえすれば、夜明けと共に帰れましょう」
「会わぬなどというわけはない。深夜たりとも、すぐ会って、返辞をただしてまいるように」
「かしこまりました」
伝五は部下数騎をつれてすぐ峠を下り、木津川沿いに郡山の道を急いで行った。――が、この使いもまだ帰らぬうちに、諸方面の偵察隊は、秀吉の軍勢が疾《はや》くも続々東上を開始し、すでにその先鋒部隊は兵庫辺まで来ているという事実を相次いで、ここへ報らせて来た。
「あり得ないことだ。何かの誤報ではないか」
初めのうち、光秀はまだ、そう左右の者へいっていたほど、そのことについて、味方の物見が頻々《ひんぴん》と報じて来るような秀吉の迅速《じんそく》な行動は、頭から信じきれないような容子《ようす》だった。
――どうして秀吉がそう簡単に毛利と和議を取り結べよう。また、和議を計《はか》ったところで、あれだけの地域に膠着《こうちやく》されていた大軍を急に撤回《てつかい》して、上洛して来るなどは思いもよらない。到底、至難なことである。と絶対に信じていたものらしかった。
「いや、虚報とは思われませぬ。何しても早く、御対策を決せねば相成りますまい」
この際にも、正しく事態を直観していた者は、かの老将斎藤|利三《としみつ》であった。そして光秀が逡巡《しゆんじゆん》なお決しかねている進退にたいしても、
「それがしのみは、ここに止まって、筒井殿に備え、後おあとを慕うて参りますれば、殿には、急遽《きゆうきよ》下山あそばして、秀吉の上洛《じようらく》を阻止《そし》なさらなければなりますまい」
と、明確に指針を与えた。
「筒井は望みなかろうか」
「十中八、九までのところ、まずお味方には参りますまい」
「秀吉阻止の策は、如何《どう》したものだろう」
「伊丹、茨木、高槻などの諸勢も、はや秀吉に款《かん》を通じおるものと見るほかありません。筒井勢もまた同様とすれば、機先を取って彼を摂津の入口に邀撃《ようげき》するには、遺憾《いかん》ながらお味方の兵力は不足であります。――が、量《はか》るに、いかに秀吉といえ、ここへ到るまでには、なお五、六日を費やしましょうから、その間に淀《よど》、勝龍寺の二城を固めて、隘路《あいろ》の南北に堅陣を設け、その間に江州《ごうしゆう》その他の諸勢を糾合《きゆうごう》するならば、一時の防ぎにはなりましょう」
「なに。それでも一時の防ぎに止まるのか」
「爾後《じご》のことは、大策を要しましょう。局所の合戦のほかのものです。しかし今は焦眉《しようび》に迫っております。一刻もはやく下鳥羽《しもとば》へ」
利三《としみつ》は急《せ》き立てるように云った。
光秀が山を下りたのは、まだ夜明け前の暗いうちだった。――明けると十一日。前夜、郡山《こおりやま》へ使いに行った藤田伝五は、怒りを眉に持って立ち帰って来たが、利三の顔を見るやいな云った。
「だめだ。順慶《じゆんけい》めも、裏切りおった」
そして、相手の不信義を鳴らしてなおも、
「順慶坊主め、口の先では、程よく申しおって、いっこう去就《きよしゆう》を示さなんだが、帰途、探り得たところでは、彼からも秀吉からも、頻りと使者の取り交《か》わしがあったようだ。――げに頼みがたきは人心か。日頃、明智家とは、あれほど好誼《こうぎ》ある仲と思われたものすらかくの如しだ」
と、罵《ののし》ってやまなかった。聞く老将利三の方には、何らの感情のうごきも見られなかった。当然なことを当然と聞いているふうでしかない。ただ白い眉と、まばら[#「まばら」に傍点]な髯《ひげ》を持つ面《おもて》を、ありのままに彼へ向けていた。
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粽《ちまき》のこと
光秀が、むなしく洞《ほら》ケ嶺《みね》を去って、下鳥羽の本陣へ帰って来た頃――十一日の午頃《ひるごろ》――には、すでに一方の秀吉は尼ケ崎に着いて、一睡《いつすい》の快をとっている時刻だったのである。
光秀の本陣は、下鳥羽の秋山という一丘にあった。
この日の暑さは、尼ケ崎の禅寺も、この丘も変りはない。光秀はもどると直ちに諸将を会して帷幕《いばく》のうちに作戦方針を議した。――とはいえまだ、いよいよ当面の敵とわかった秀吉が、ここから指呼《しこ》のあいだ尼ケ崎に来ていようなどとは思いも寄らないふうであった。この先鋒部隊や先発の小荷駄隊は摂津口《せつつぐち》にぽつぽつ現われても、秀吉自身が到着するのはなお数日を要するものと観《み》ていたのである。
しかしこれをさして彼の叡智の混乱というのは当らない。彼はそのすぐれたる常識をもって常識の水準からこう判断を下したに過ぎない。しかもこの判断は世人すべての常識でもあったのだ。
「では、即刻工事を急がせましょう」
明智茂朝《あけちしげとも》がまっ先に帷幕から出て行った。評議は時をうつさず終ったのである。茂朝は駒をよせて淀《よど》へ急いだ。急遽、淀城に補強工事を加えて、敵に備えるためだった。
淀を右塁とし、勝龍寺の城を左塁とし、能勢《のせ》、亀山の諸峰と、小倉之池に狭《せば》められたこの京口の隘路《あいろ》を取って、羽柴軍を撃摧《げきさい》せんとなす準備行動のそれは第一歩とみられた。
また、前々から、散陣的に、淀川の対岸から山崎方面へ出しておいた幾つかの部隊にも伝令をとばして、
「勝龍寺へ籠《こも》って、防塁をかため、満を持して、敵を待て」
と伝えさせた。
伏見には家臣|池田織部《いけだおりべ》を。宇治には奥田庄太夫を。淀には番頭大炊助《ばんがしらおおいのすけ》を。また勝龍寺の城には、三宅綱朝《みやけつなとも》をそれぞれ籠《こ》めてある。
配するに万全を期しているが、敵方の兵数を推《お》し量《はか》るとき、光秀はなお一抹《いちまつ》の弱味を抱《いだ》かずにいられなかった。朝来《ちようらい》、午《ひる》を過ぎても、諸方から麾下《きか》に集まって来る兵は相当あったが、いずれも近畿の小武門や浪牢《ろうろう》の徒で、いわば、名もなき輩《やから》が出世のいとぐちを求めて来るに過ぎなかった。大量の兵力をひっさげて、一方の将たらんといって来るような曠《はれ》ある参加者はほとんどなかった。
「いまのところで、味方の兵数はどれ程にのぼっておるか。勝龍寺、洞ケ嶺、淀なども合わせて――」
光秀が左右に質《ただ》すと、祐筆は着到帳と、亀山以来の譜代《ふだい》の者と合算し、また安土、坂本その他、遠くに散在してある兵力とを差引いて、次のように書き出して、光秀へ示した。
斎藤|利三《としみつ》の隊 二千人
阿閉貞秀《あべさだひで》。明智|茂朝《しげとも》の隊 三千人
藤田伝五。伊勢|貞興《さだおき》の隊 二千人
津田信春。村上|清国《きよくに》の隊 二千人
並河《なみかわ》掃部《かもん》。松田|政近《まさちか》の隊 二千人
――御本軍 約五千
ざっと、計一万六千である。光秀は心のうちでつぶやいた。
「……もし丹後の細川と大和の筒井だにこれへ加わっていたならば、日本中部を縦断して、われは絶対に不敗の態勢を取り得たであろうに」
すでに作戦方針を決定した後までも、彼は甚だ兵力の差に重点をおいて苦慮した。
由来、彼の頭脳は計数的であって、にわかに、寡《か》をもって衆を破るが如き飛躍は、ひらめいて来なかった。
それと、秀吉と直面するの大戦を前にしたが、どこかに一抹《いちまつ》、敗戦を意識する気おくれが潜んでいた。これは決定的な敗戦の因をなすものであるが、光秀の性格とここ数日の齟齬《そご》がかくさせたもので、彼自身にも、どうにもならないものだったろう。
彼は、彼自身で起した怒濤《どとう》の高さに、今や溺るる怖れすら自覚していた。しかし、それは表面の彼の姿ではない。彼自身も気づかないでいる潜在意識においてである。
その夕方、この下鳥羽の陣へ、一群の町人たちが伺候《しこう》した。京都の町代表たちで、
「地子銭《じしせん》御免除の御礼のため、町民一同に代って参じましたもので――」
とのことだった。そして、祝福の意を表するため、
「御合戦の大勝利をお祈り申しあげ、併《あわ》せてお門立ちのお祝いまでに――」
と、手製の粽《ちまき》を献上した。
これらの者を迎えて、扈従《こじゆう》の将星を左右に繞《めぐ》らし、悠然《ゆうぜん》と床几《しようぎ》に倚《よ》っている光秀のすがたには、まさに新しき「天下人」たるの威風に欠けるものはなかった。
侍座《じざ》の一将は、京都市民のよろこびと、献上の粽《ちまき》とを、光秀の前に披露して後、一同へ向って、
「洛内の取締りは、厳に戒《いまし》めてあるが、なお日も浅いゆえ、さまざまな流言《るげん》も撒《ま》かれ、陰にあっては、御行動を誹謗《ひぼう》し奉るような説をなす者もあろう。しかし政《まつりごと》をなす主権者に悪行あるときは、それを廃せし例は、わが朝のみならず、唐土にもあることで、周武《しゆうぶ》がその主|紂王《ちゆうおう》を弑《しい》し、諸民の困窮を救い、周の八百六十年の基を開いたのを見てもわかろう。わけてわが日の本は上に万代不易《ばんだいふえき》の大君がおわしての武門であり、将軍職でもあれば、決して一信長が絶対の天下人でなければならぬ理由はない。汝らも、この辺をよく弁《わきま》えて、市民の者が妄説《もうせつ》に惑わされたりすることのないようによく努《つと》めい」
と、申し渡した。
光秀も、一言与えた。そして折角、志《こころざし》の粽《ちまき》だからといって、彼らのいる前で、そのうちの一つを取って喰べた。
ところが、剥《は》ぎ取った粽の笹が、まだ少しこびりついていたとみえて、光秀は横を向いて舌のさきからベッと吐き捨てた。
「――あかんぜ、あの御大将は。きっとあきまへんぜ」
帰り途。口さがない京童《きようわらべ》の性《さが》を持っている代表たちは、口々に語り合って行った。
「粽の皮はよう残るもんじゃ。それをよう見もせず口に入れるような大将ではあきまへんわい。戦いは明智方の負けでっしゃろ」
このことを、後の諸書が、みな誇称《こしよう》して、光秀が粽を笹の皮ぐるみ喰ったというように伝えているが、恐らくこの程度に過ぎない小事であったろう。
けれど京都人は由来、人に接すると、そうした小事を見つけて、すぐ相手の寸尺《すんしやく》を量《はか》る性癖をもっている。中原《ちゆうげん》へ中原へと、古来から多くの武門が侵入して来ては没落し、あらゆる有為転変《ういてんぺん》を、いつも被治者の立場から長い眼で見て来たため、自然養われて来たものかと思われる。
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桂《かつら》 川《がわ》
法体《ほつたい》の施薬院秀成《せやくいんしゆうせい》が、
「惟任《これとう》どのにお目にかかりたい」
と、下鳥羽《しもとば》の本陣を訪ねて来たのは、京都町民の代表者たちが、そこを辞してから間もない頃だった。
光秀は、藤田伝五、その他四、五の将を交《まじ》えて、兵糧をつかっていた折である。
伝五の報告で、筒井の変節はもうあきらかだったが、なお順慶《じゆんけい》の余りなる豹変《ひようへん》ぶりには、ここでも諸将の憤りのたね[#「たね」に傍点]となって、武門の風上にも置けぬ男と罵《ののし》られていた。
そこへの取次であった。
「はてな、施薬院が?」
光秀は眉をひそめた。施薬院は本能寺変の少し前に、信長から中国の陣へ差向けられていた者である。
「ま、通せ。――ともかく」
気のゆるせぬ心地もするが、また多大な感興と好奇も抱いた。秀吉の近状を知る者として、絶好な便りとも考えて面会したのである。
「まずは、御健勝で」
と、施薬院は事もなげに平常どおりな挨拶をのべた。信長のことにはすこしも触れて来ないのが、光秀には何となく痛痒《いたがゆ》い気がした。
「お許《もと》は、中国へ下ったばかりと聞いていたが、どうして、にわかに立ち帰って来たか」
「筑前どのが、直ちに、京都へ攻め上られるため、われらの如きは、足手纏《あしでまと》いと思し召されたのでしょう。急に、お暇を下されたので、早々立ち帰って来たわけでございまする」
「なるほど……ムムム」
と頷《うなず》いてから、ほんの言葉のつぎ[#「つぎ」に傍点]足しに過ぎないような語調で、
「筑前は達者か」
と、訊いた。施薬院《せやくいん》も、至極、無造作に、
「はいはい、いよいよ頑健な御様子に見られました」
と、答え、
「あのお方の御精力というものは底がわかりません」
と、問われぬことまでいった。
「筑前には早や、毛利と和睦《わぼく》して、北上の途中にあると聞くが、お許がこれへ来る頃には、どの辺まで来ておったか」
「何を仰せられます」
施薬院はその迂《う》を嗤《わら》うように、
「もはや、ついそこの、尼ケ崎まで来ていらっしゃいます。それも今朝ほどのことです」
「えッ……?」
「まだ御存じなかったので」
「先鋒ではないのか」
「おそらく先鋒の方がおくれたでしょう。筑前どの自身、紛《まぎ》れもなく着いております。途中の風雨も陸路《くがじ》船路も、ほとんど、不眠不休のおいそぎ方で」
「……そ、そうか」
語気やや紊《みだ》れるのを、光秀は強いて沈着をよそおいながら、
「尼ケ崎では面会いたしたか」
「余りに夥《おびただ》しい軍馬を見、わざと通り過ぎて参りました」
「兵数は」
「わかりませぬ。武家なれば目づもりでも知れましょうが」
「尼ケ崎へは立ち寄らず、この下鳥羽のわが陣へ立ち寄ったのは、何か用向きがあってのことか」
「中国でお暇をいただく折、日向守《ひゆうがのかみ》に会うたら申し伝えよと、筑前どのからお言伝《ことづ》てを頼まれておりましたので――」
「筑前からこの光秀へ言伝てとな? ……。おもしろい。何と云いおったか」
光秀は異常な昂奮を抱いた。人をもって言伝てして来たことばといえ、まさにそれは、敵将の決戦状ともいえるものと思ったからである。
施薬院は、次のように、それを伝えた。
「中国でお別れする折、道中用心のためにと、私へ手ずからお槍を一本下された上。――さて、筑前どのがいわれるには、その方は仕合せな仁じゃ、いずれ光秀と会うだろうが、このところ、後の天下は、光秀が取るか、自分が取るかだ。その両将のいずれにも心証《しんしよう》のよいその方の家はまことに安全を保証されているものといわねばならん。――ついては、自分より先に光秀に面会いたした折は、筑前がかく申しおったといえ。……そう仰せられまして」
と、施薬院は、ここでちょっと、額《ひたい》の汗を、懐紙で軽くたたいた。そして秀吉の口吻《こうふん》そのままいった。
「――日向守《ひゆうがのかみ》とは毎度会いはいたして来たが、戦場で会うは初めて。大将と大将とが、直《じき》の太刀打ちいたすも、数日のうちにある。主君の敵なれば、部下の槍も待たず、かならず直の太刀打ちいたして、勝負を決すであろう。日向にも左様に心得おられ候え――と、かように屹《きつ》と仰せられました」
「…………」
光秀はあきらかに感情をうごかしている。しかしじっと押し黙って聞いていた。がやがて、その硬直を解くと、しずかに一笑を見せて、
「筑前が云いそうなことよの」
と、立って、うしろに立て懸けてある槍を取り、施薬院に与えて、こう云い足した。
「言伝《ことづ》てたしかに聞いた。大儀である。――秀吉からも一槍を貰うたそうだが、わしからも贈ろう。洛中はまだ物騒じゃ。供の者に持たせて、用心怠りなく帰るがよい」
施薬院が辞去した頃は、すでに下鳥羽《しもとば》は宵だった。風が出て、雲脚《くもあし》が迅《はや》くなりかけている。
「暗いぞ。気をつけて参れよ」
光秀はそれを見送って、陣外の丘の端に佇《たたず》んでいた。――が、彼を送るのが主ではなく、白眼、天を仰いでいたのである。
「降りそうな……」
と、彼は独りつぶやいた。この風では降りもしないかと思われる一方に出た呟《つぶや》きだった。戦いに臨まんとするや、まず気象を見定めておくことは将の肚《はら》として重要である。光秀はかなり長く雲のうごきや風の方向を案じていた。
さらに、脚下の淀川を見た。
チラチラ、と風にそよぐ小さい灯は、味方の哨戒舟《しようかいぶね》であろう。大河のうねりは白く、山崎その他、摂津《せつつ》一円は、ただ漆《うるし》にひとしい闇でしかない。
「筑前|風情《ふぜい》が、何ほどのことを! ……」
この河の、はるか海口《うみぐち》、尼ケ崎の空へむかって光秀のひとみが、光芒《こうぼう》を放ったようにすわったとき、彼のくちびるはかつて吐いたことのない強い語気をもらした。
「作左。作左。作左衛門はおらぬかッ」
彼のすがたが大股に身をひるがえして元の営内にもどって行くとき、暗い烈風は、しきりに附近の幕舎に大きな波を立てていた。
「はいッ。堀与次郎、おりまする」
「堀か。そちでよい。すぐ貝を吹け。――全軍に出陣の用意をと」
陣払いの終るあいだに、光秀は洞《ほら》ケ嶺《みね》、伏見、淀、その他の味方へ、急使を派した。遠くは、坂本城にある従兄弟《いとこ》の光春へも、
(――退いて防がんよりは、前進して彼を邀撃《ようげき》、一戦に大事を決せん)
の覚悟を告げて、その来援を促《うなが》して発したのである。
夜は二更《にこう》。星ひとつ見えない。
軽捷《けいしよう》な戦闘隊をまず丘から降ろして、桂川の上下を見張らせ、荷駄、本隊、後軍とつづいた。
驟雨《しゆうう》が来た。全軍、渡河を半ばにしつつ、真っ白な雨に打たれた。
風も伴っている。西北の冷たい風だった。暗い川上を望みながら足軽たちはつぶやいた。
「この川の水も、この風も、丹波の山を越えて来たものだ」
昼ならば見えもしよう。老坂《おいのさか》も遠くはない。その老坂を越え、丹波亀山の故郷《くに》もとを出て来たのは、つい十日余の前だったが、彼らには、三年も四年も前のことだったように回顧された。
「溺れるなよ。火縄《ひなわ》を濡らすなよ」
部将は、組々の者へ注意していた。山岳地方は、大雨だったにちがいない。桂川の水勢は常よりも烈しかった。
槍隊は、槍と槍をつなぎ[#「つなぎ」に傍点]持ちにして渉《わた》り、鉄砲隊は銃座《じゆうざ》と筒口を持ち合って越えた。
光秀をかこむ騎馬の一隊は、迅《はや》い水泡《みずあわ》を残して対岸へ上がっていた。どこともなく前方の闇でパチパチと湿《しめ》っぽい銃音が断続して聞え、民家の火か、単なる篝《かがり》か、遠くに火花が見えたが、小銃の音が止むと同時に、それらの閃《ひらめ》きも消えて、真の闇に還《かえ》っていた。
「お味方の先駆が、敵の斥候隊を追い払ったものでござります。火花もまた、円明寺川附近の農家へ、敵の小勢が、逃げるに当って、火を放《つ》けたのでしたが、直ちに、消しとめました」
伝令将校から報告がある。
光秀は意に介するなく、久我畷《くがなわて》をすすみ、味方の勝龍寺城には入らず、わざとそこから西南方約五、六町ほどの御坊塚《おんぼうづか》に本陣をさだめた。
この二、三日の天気癖である雨はすぐ霽《あが》って、墨を流したような濃淡を見せている空に星すら燦《きら》めき出している。
「――敵もしずかだの」
光秀は御坊塚に立つと、山崎方面の闇を一望して呟《つぶや》いた。
すでに秀吉の軍と、わずか半里を隔てて相対したと思う無量な感慨と緊張とが、その語の底に大きく呼吸をしていた。
ここを全軍の基点として、勝龍寺を後方の補給|兵站《へいたん》基地とし、さらに西南方の淀から円明寺川の一線を扇なり[#「なり」に傍点]に引いた。前衛各部隊をそれぞれ配し終った頃――夜はすでに明け近く、淀の長流もほのぼの所在を描き初めていた。
突然。
天王山の一面に烈しい銃声が谺《こだま》し出した。陽はまだ昇らず、雲は暗く霧は深い。天正十年六月十三日。山崎街道にもまだ一馬のいななきすら聞えない時刻であった。
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火《ひ》ぶた
両軍が山崎に会して、この晨《あした》を、生の日か死の日かと期して相対峙《あいたいじ》したとき、秀吉から光秀へ「戦書」を送ったとも伝えられているが、果たして、そういう余裕があったかどうか。
また、そうした古法の陣押しによって、接戦の口火が切られたかどうか。
事実は。
光秀もまた御坊塚に着陣して間もない頃。また秀吉も、まだ後方の富田《とんだ》に在って、大坂から神戸《かんべ》信孝の来会あるを待っていた――十三日未明――まだ暗いうちに、期せずして、秀吉方の山之手隊と、明智軍の奇襲部隊とは、暁闇《ぎようあん》のうちに、もう激烈なこの日の序戦に入ったのである。
――今しがた。
天王山方面に聞えた烈しい銃声がそれである。夜来、折々湿っぽい小銃音の小ぜり合いはしていたが、このときのものは、
「すわ!」
と、耳あるほどな者はみな毛穴をよだてて、やがての戦況|如何《いか》にと、彼方なる雲か山かの一山影を凝視していた。
北軍光秀の陣営御坊塚から見るときは、天王山はここから約二十余町の西南にあって、その左の麓《ふもと》に、一《ひと》すじの山崎街道と、一条《ひとすじ》の大河とを擁《よう》している。河はもちろん淀《よど》である。
山頂はかなり高く嶮《けわ》しく、最高二千七百尺はある。別名をこもり[#「こもり」に傍点]の松山ともいい、宝寺《たからでら》の山ともいう。峨々《がが》たる岩山で、全山、松の木が多い。
――きのう秀吉の本軍が富田《とんだ》大塚附近まで進出すると、麾下《きか》の諸将はみなまッ先に、この山に目をそそいでいた。
「あれは何山というか」
「あの東麓《とうろく》が山崎の駅か」
「敵の勝龍寺は、あの山の、どの辺の方角にあたるか」
など口々に土地の案内者に問いただしていた。
地理に詳しい者を陣中に伴うことは、どの隊でも必携《ひつけい》の具としていた。それに問うて、天王山の軍事的価値に目をつけたこともまた、多少戦略眼のある人々のあいだではみな一致していた。
「あすの合戦はあの山を先に占《し》めて、高地から敵を俯瞰《ふかん》して打つの有利に立った方がまず勝ちであろう」
また必然、諸将の胸には、
「――先駆《さきが》けて遮二無二《しやにむに》、天王山にお味方の旗を立てた者こそ平野の一番首よりも、戦功第一の誉《ほま》れたらん」
と、ひそかに期するものがあったので、十三日の前夜、それを秀吉に献言し、或いは、みずからそこに赴かんと願い出た諸将が、幾人もあったらしい。
「いずれは明日《あす》一日できまる戦いと観《み》る。淀、山崎、天王山を中心に、死ぬも生きるも、およそ数里の外には出まい。われと思わんものは行け。ただし、味方争いするな。わたくしの功を競うな。ただ念ぜよ。故右大臣信長公の在天の霊と、弓矢八幡の照覧《しようらん》を」
が、秀吉のゆるしを得るや、勇躍して、真夜中のうちに、ここを立って天王山へ長駆したもの、鉄砲大将の中村孫兵次、堀秀政、堀尾茂助など、黒白《あやめ》もわかぬ一勢であった。
南軍秀吉の麾下《きか》がみな目をつけた重要な地点を、北軍の光秀が、迂闊《うかつ》に見のがしているわけは絶対にない。
光秀が、長駆、桂川《かつらがわ》を渡って、にわかに御坊塚まで出る決断をとったのも。
――同時に天王山を占めて。
と、作戦態勢をすでに描いていたればこその行動だった。
この辺の地理に明るいことにおいては、敵の先鋒の中川清秀や高山右近にもゆずらない光秀でもある。かつは、同じ山河の地勢を観るにしても、光秀の観るところおのずから彼ら以上のものを観ていよう。
で、光秀は、桂川を越えて、久我畷《くがなわて》を行軍中に、もうその途中から一軍を割《さ》いて、
「下海印寺村《しもかいいんじむら》を北に見、天王山の北側より攀《よ》じ登って、山上を取れ。敵|襲《よ》せ来るも、構えて、要地を譲るな」
と、激励して、そこへ送っていたのであった。
命をうけた者は、勝龍寺城にいた松田太郎左衛門で、並河《なみかわ》掃部《かもん》の配下であり、この辺の地理に精通しているところから特に選ばれたものである。
松田太郎左衛門は、弓鉄砲組をあわせ、約七百余の兵をひきつれて急いだ。
ずいぶん迅速《じんそく》といわねばならない。光秀の司令も行動も、決して戦機を外《はず》してはいなかったのである。
にも関《かか》わらず、この時すでに、南麓《なんろく》の広瀬方面を突破して来た秀吉の諸勢は、先を争って、山へ取ッついていた。
しかし、なお真ッ暗な時分であるし、土地に不案内の将士が多い。
「登り道がある」
「そこは登れまい」
「いや、登れる」
「間違った。このさき、崖だ」
などと麓《ふもと》を巡って、各※[#二の字点、unicode303b]攀路《はんろ》を捜《さぐ》り合うにあせっていた。
ここまではほとんど後先《あとさき》なく、一斉《いつせい》にかたまって来た堀秀政の隊、中村孫兵次の隊、堀尾茂助の隊なども、忽ち分散して、あなたこなたに、石ころ[#「ころ」に傍点]を落し、灌木《かんぼく》を掻き分け、騒然《そうぜん》と、麓一帯に物音を起しているに過ぎなかった。
さきに――前日の昼――先鋒部隊を命じられて、山崎まで出ていた高山右近と中川瀬兵衛の陣も、ここから近いのである。
わけて瀬兵衛は、高山右近に先んじられて、山崎の町から関門の閉め出しを喰って、この山之手方面へ陣していたので、忽ち味方の奇兵的行動に感づいた。
「そこの要地たることは、此方とて気づかぬではないが、筑前どのの命令もまたず、みだりに逸《はや》まった行動を起してはと、ふかくみずから慎んでいたのだ。――さるを、後方にひかえていた諸隊が、われらにも無断で、先駆けするとは怪しからぬ。その分なれば、瀬兵衛とて、彼らごときにおくれるものではない」
憤然と、旗本数名、銃士わずかを連れたのみで、山麓から数町上の宝寺へ駈けあがって行った。
この道こそ、唯一の登り口で、あとは容易に頂へ行けない樵夫道《そまみち》にすぎない。瀬兵衛は、それを知っていただけに早かった。しかし宝寺の門前まで近づいてみると、もう先に来て、そこの山門の扉を、大声あげながら叩いている一群の武者があった。
「誰だッ。味方か」
瀬兵衛が、声をかけると、山門の下の人影は、振り向きもせず、
「問うもおろか」
と、答えた。
これは堀尾茂助の声だった。
茂助吉晴は、いまでこそ、錚々《そうそう》たる羽柴|麾下《きか》の一将だが、その青年期までは、岐阜《ぎふ》の稲葉山つづきの山岳中に育った自然児である。彼の眼をもって見るときは、この天王山の如きは、ほんの一小丘としか思われないにちがいない。
「寺僧、起きろッ。山門を開けぬと踏みやぶるぞ」
堀尾の部下は、そこを叩きつづけている。戦いを予感して、寺内ふかく潜《ひそ》んでいた僧は、やがて紙燭《ししよく》を持って出て来た。そして山門をあけるや否、どこかへ隠れてしまった。
「つかまえろ、一名、道案内に――」
瀬兵衛たちが、それを求めているうちに、堀尾茂助の主従は、十数名しか見えなかったが、わき目もふらず境内を駈けて、裏山の道へのぼっていた。
瀬兵衛は、それを見送って、舌打ちしながら、捕えた僧を追い立てて、
「山上まで、案内せい。早く早く」
と、槍で脅《おど》していた。
とこうするうちに、山崎の町に陣していた高山右近の部下までこれへなだれて来た。――実にこの未明に行われた天王山先陣の士気の烈しさには、味方と味方のあいだにおいてすら相ゆるさぬものを互いに示していた。
味方と味方の負けじ魂は、時にきわどい摩擦《まさつ》を起こすし、全戦局を過《あやま》るような危険もなしとはしないが、さりとて、この気魄《きはく》もないような気魄では、敵と相見《あいまみ》えても、直ちに、霊魂そのものとなって、身を投げこむことはできない。
功を競《きそ》うべからずであるが、男は各※[#二の字点、unicode303b]磨き合え、恥はたがいに恥と知れ、というのが秀吉のこころであったろう。
とまれ、この暁闇《ぎようあん》中天王山一番駈けは、いったい誰が早かったのか、どこの部隊が先駆だったのか、ほとんど我武者羅《がむしやら》のあらそいで、後の軍功によるも、記録によるも、皆目、見当がつかない。
堀、堀尾、中川、高山、中村各家それぞれ自家の先登をその家の記録には主張しているし、「堀家家譜《ほりけかふ》」「川角太閤記《かわずみたいこうき》」「池田家譜集成《いけだかふしゆうせい》」「武功雑記《ぶこうざつき》」「明智軍記《あけちぐんき》」などの諸書の記載も、また、みなまちまちになっている。
しかし、想像に難くないのは、いずれにしても、逸早く山上近くに達した人数は、各隊のうちの極めて少数だけで、それも一将の下の一隊と限らず、諸将の部下が交《ま》じり合って、偶然、早足者だけの混成部隊となっていたろうと思われることである。
道は嶮《けわ》しいし、夜はまだ明けないし、味方には違いないが、誰の手勢やら組やら分らない中に伍《ご》して、ここの将士はただえいえいと山上へ急いだのだった。そして、はや頂上も近いかと思われた頃、いきなり方角も知れないところからつるべ[#「つるべ」に傍点]撃ちに弾《たま》をうけた。
撃ち出したのはもちろん明智方の松田太郎左衛門の銃隊である。
しかし、松田勢が先に火ぶたを切ったからといって、天王山の山上を先に踏んだのは明智方であったかといえば、そうはいえないものがある。
なぜならば、それよりずっと前に、羽柴方の侍、山川七右衛門、山川小七、岸九兵衛の三名が、こっそりそこへ登っていた。そしてまだ人気《ひとけ》なき山上や麓の闇を見下ろしながら、
「この要地を真ッ先に乗っ取った者は恐らくわれらが一番であろう。この三名を措《お》いてはあるまい」
と、遅れている味方や、まだ気配もない敵の静かさを嗤《わら》っていた。
すると、どこやらで、
「やかましい。黙ってその辺に身を伏せておれ」
と、叱った者がある。
驚いて、あたりを見廻すと、何ぞ図《はか》らん、自分たちより先に、この山上に来て、岩陰にうずくまり、居眠りをしていた男があった。
「誰か」
と、訊くと、
「高山右近の手の者、中川淵之助重定《なかがわふちのすけしげさだ》」
と、答え、
「貴公たちが、がやがやいうので、折角、敵が来るまで一睡《ひとねむ》りと思っていたのに、眼をさまされてしもうたではないか。ただ高い所へ登っただけでは、てがら[#「てがら」に傍点]でも何でもない。お互いにてがら[#「てがら」に傍点]を談じ合うていいのは、明智を全滅してからのことだろう。まだ勝敗もわからぬうちに、はしゃぐ[#「はしゃぐ」に傍点]のはちと早過ぎはせんかの」
ひどく愛想の悪い男である。こうぶつぶついうと、彼はまた自分の膝を抱えて居眠りを始めている。
しばらく経つとここへまた、中川家の臣、阿部仁右衛門も登って来た。二人の鉄砲足軽も一しょだった。――で、山上にはこの頃すでに七名の羽柴方がいたわけだった。
そのうちに麓の宝寺やその他の方角から、味方の大勢の声がかすかに聞えて来たし、同時に――ほとんど同じゅうして――北側の下海印寺方面からも、すさまじい勢いで、明智方の松田隊七百が、これも先は、先頭、後は後、隊伍の順もなく、先登を争って、あらしの如く駈け登って来た。
「まだ撃つな」
例の仏頂面《ぶつちようづら》した中川淵之助は、あだかも自分が、この手の指揮者でもあるように、逸《はや》りかける他の六名を戒《いまし》めて云った。
「――ずん[#「ずん」に傍点]と敵をそばまで引きつけてから一度に撃て。この下の道の曲り角に、白いものが見えるだろうが。あれは俺が松の枝に括《くく》しつけておいた白鉢巻の小布だ。銃《つつ》の標的をあの下に狙《ねら》いさだめておけ。そして敵の影がそこを曲って来たら、途端に浴びせかけるのだ」
小面《こづら》の憎い味方だが、云い分は良策だし、頼もしいところもあるので、みなその言に従って、敵の来るのを、待ち構えていた。
ところが、松田太郎左衛門の先鋒隊は、まだ山上に間のある八分所《はちぶどころ》からはや後方の山腹に羽柴勢の影を認めたので、忽ち機先を取る戦法に出て、一斉《いつせい》に銃火を浴せかけたのであった。
当然、羽柴方も応射した。
しかし、これはまだ距離も距離だし、暗くもあり、敵味方とも極めて目標の不的確な気勢射撃に過ぎなかったので、どっちに取っても、大した効はない。
むしろ、七名の小人数ではあったが、この途端に、山上から数百歩駈け下りて来て、明智兵の影を認めるや否、銃先《つつさき》下がりに撃って来たわずかな弾丸のほうが、はるかに奇効《きこう》を奏した。
最初の七発の弾《たま》のうち、三弾は確かに敵を仆した。のみならず多寡《たか》はともかく頭上に羽柴勢の現われたことは、明智勢をして少なからずあわてさせた。敵の顔まで見える距離で敵を見たのは、この大決戦において、この一瞬が初めてであったのだから、全隊が一時ぎく[#「ぎく」に傍点]と衝撃《しようげき》をうけたことには相違ない。
敵の形相《ぎようそう》も、阿修羅《あしゆら》の姿も、戦いが酣《たけなわ》となって、自分もそれとなったときは、何でもないものであるが、もっとも不気味なのは、初めに接近したときである。
その刹那には、敵と名のついた者は、人にもあらぬ悪鬼か羅刹《らせつ》の如き感じがするものだった。しかしこれは、敵方が視《み》る心理も同様なのであるから、その殺気に眩《めま》いをせず、日頃の丹田《たんでん》で、沈着に押し迫った方が、序《じよ》の勝口を取ることはいうまでもない。
松田隊の先頭には、主将の太郎左衛門はいなかった。太郎左衛門の部下の将、辻義助《つじよしすけ》が指揮に立って来たものである。義助は、よく肚《はら》もすわっていた侍とみえ、すぐ奇襲の敵が六、七人に過ぎないことを看破《かんぱ》して、
「騒ぐな。小勢だ」
と、不利な低地を取っているため怯《ひる》みがちな味方を励まし、
「銃口《つつぐち》をみなあの上の岩角にあつめろ。一斉《いつせい》に撃て」
と、呶鳴った。
少なくも、七、八十|挺《ちよう》はあろうかと思われる鉄砲の影がうごいた。それが皆、ひとつ焦点へ銃口を向けたのである。上の岩頭に立っていた七名は、当然、蜂の巣となるべき的《まと》に位置していた。
――と。中川淵之助は、他の岸九兵衛、阿部仁右衛門、山川兄弟などに対《むか》って、
「間に合わん。俺は突ッこむぜ」
云い捨てると、鉄砲を捨てて高きから低き敵へ、猛然駈け向って行った。
一弾放つと、一弾こめて、火縄を点じ関金《ひきがね》を引くまで、かなりの時を要するのが、この時代の火器のどうしてもまぬかれ難い弱点だった。
殊に、明智方の銃士は、桂川を渉《わた》るとき、驟雨《しゆうう》のために、だいぶ装備を濡らしている。中には幾筋もの切火縄がみな役に立たず、後に退っている者もいた。
その虚を衝《つ》いたのである。淵之助に倣《なら》って、阿部仁右衛門も岸九兵衛も、劣らじと、捨身に出た。パパパッと慌《あわ》てた弾煙《たまけむり》が立った。こう撃つ弾は中《あた》っていないこと確かである。淵之助の陣刀は、もうそこらの敵を薙《な》ぎ分けていた。山川七右衛門の弟小七は、素手で取っ組んでいた。槍を向けて来た敵がいたので、その槍欲しやと奪いにかかったためである。
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松松松《まつまつまつ》
後に思いあわせると、松田隊の七百余人の部隊は、このときもう二分されていた。
南軍のほうでは、堀尾、中川、高山、池田の各手の将士が、先を争って天王山の先登《せんとう》を競っていたが、堀秀政だけは、
「横道をとって、北側の麓へむかえ」
と、急に山の腰を迂回《うかい》して、行動を別にしていたのであった。
その目的は、すでに山へかかっていると観《み》た敵勢の退路を断つにあった。
果然、その横襲は、松田隊を中断して、主将の松田太郎左衛門を、目前に見ることができた。
ここの激突は、山上よりも烈しかった。松樹《まつ》や乱岩《みだれいわ》の多い山坂の混戦なので、鉄砲などはまどろい[#「まどろい」に傍点]となして、槍、太刀、長柄で喚《わめ》きあう者が多かった。
組んで、岩頭から落ちる者がある。惜しくも組みしきながら後から一《ひ》と突きに刺されるのもある。
もちろん、弓組もいるので、弓鳴《ゆな》りや銃声は間断もない。しかしそれ以上なのは、敵味方約五、六百の喊声《かんせい》だった。その声は、たれひとりとして、喉《のど》から出しているようなのはない。満身の頭髪と毛穴から発しているとしか聞えない。
押しつ押されつだ。いつか陽《ひ》はさし昇っている。めずらしく青空と白い雲が見える。こう照り出すと、いつもなら満山に聞える蝉《せみ》の声もきょうは唖《おし》となったかのようである。
そして山をも揺がす武者の叫喊《きようかん》が、それに代っていた。累々《るいるい》、あなたやこなたに、はや数えきれぬ朱《あけ》の屍《かばね》が点綴《てんてつ》された。或いはひとつに或いは重なり合っている姿は悲痛を極める。しかしそれが味方を叱咤《しつた》する力は非常なものだった。その屍《かばね》をふむ戦友はみなすぐ死生の外へ駈けた。堀隊の兵もそうである。明智隊の兵もそうである。
山上の戦況はまだ不明だが、ここも一勝一敗をくり返していた。そのうちに、北軍の松田隊に揚っていた諸声《もろごえ》がふと急変した。陽声から虚声になったのだ。わあッ――と、まるで嬰児《あかご》が泣くときのような退《ひ》く息を示したのである。
「ど、どうしたのだッ?」
「なぜ退くかッ。退くな」
味方のみだれを怪しむ者は、味方にむかって憤怒した。しかしそうした人々も、忽ち雪崩《なだれ》に巻かれて、麓《ふもと》のほうへ駈け出した。自分たちの主将、松田太郎左衛門が一弾に中《あた》って、部下の兵に担《かつ》がれてゆくのをようやく眼に見たからである。
「追えッ。突きまくれッ」
堀隊の大半は、すでに追撃をかけている。――が、秀政は、声をかぎりに、
「追うなッ」
止めていた。制していた。
けれどその間髪の勢いは到底、制止も何もきくようなものではない。果たせるかな山上から、松田隊の先鋒がまるで濁流のように駈けて来た。後続隊が来ないところへ、主将討たると聞いて、当然降りて来たものだった。
数においては、堀隊は彼の比でない。一戦どころか、ひと支えもなし得ず、急坂を駈け降りて来た敵の部隊に、つき飛ばされ、踏みつぶされてしまった。さきに麓へ追って行った堀隊の一部もまた、秀政の案じたとおり挟撃《きようげき》をうけて、惨たる苦戦に立ってしまった。
そのとき堀尾、中川、高山、池田の混成山之手隊は、山上にむらがり立って、
「取ったッ」
「天王山は、わが軍のもの」
と、序戦第一の歓呼を張りあげていた。
けれどそれは一部の将士だけに過ぎない。あらかたの者は、そこを占拠するや否、なだれを打って麓へ退いた明智勢を急追していた。そして途中から堀秀政の手ひとつになった。
秀政もこの時は、多くの味方を得たので、ためらいなく、さきに駈けた部下の一部を救うためにも、急《せ》きに急いて、追撃戦へ移っていた。
逃げ散る敵は道を選んでいないので、追う者また道を見てはいなかった。
このすさまじい「駈落《かけおと》し」のうちに、宮脇又兵衛(後に長門守《ながとのかみ》)は馬を用いていた。そして宝寺《たからでら》のうしろの断崖の上に来てしまったのである。馬は当然、硬直してうごかない。その間に、身軽な敵勢は、小道を駈け下り、或いは、藤蔓《ふじづる》などにすがって、蜘蛛《くも》の子のように逃げ降りてゆく。
「武門に伍《ご》して、日頃は人並の言を吐いている又兵衛も、いざとなっては、わずか数丈の切岸《きりぎし》に怯《ひる》んで、馬を捨てたといわるるも口惜しい。――源九郎がひよどり越えの嶮《けわ》しさは知らねど、ままよ彼も人、我も人」
又兵衛は両の手に手綱《たづな》を結んで、ひたと馬の背に胸を伏せると、逆落《さかおと》しに絶壁を乗り落した。
人に見せんためではないが、せつなの勇姿を目撃した者も多かった。敵とも味方ともつかず、ただ一つの喊声《かんせい》が、わあッと、その蹄《ひづめ》から立った砂煙へ驚嘆を送った。
砕けたか? 脚を折ったか?
と人々は、刹那のあとを、なお見まもったが、何のこともなく、馬は又兵衛を乗せたまま、追いついた敵勢のなかを狂奔《きようほん》していた。
この道筋ではなかったが、堀尾茂助も、馬で敵を駈け落していた一人であった。彼は、用い馴れた十文字の槍をふるい、目ぼしき敵を三名まで引っかけて突き伏せたが、そのたびに、徒歩《かち》の家来、堤五兵衛、松田又市、柿《かき》権八などを顧みて、
「いまの首を取れ」
と、いいつけ、自身はなお、寸間の時も惜しんで急追をつづけていた。
このほか、ここ一山を中心として、払暁《ふつぎよう》から午《ひる》まえの二刻《ふたとき》ばかりにわたる合戦中に、武功を示した将士は列挙するに遑《いとま》もないほどである。以《もつ》ていかに、秀吉|麾下《きか》の面々が、たがいに手に唾《つば》して、たとえば宇治川の先陣に臨むがごとき――曠《はれ》と、意気とを――心に期していたかがわかる。
この意気は、もとより彼ら箇々のものに違いないが、大きく観《み》ると、秀吉の意気の投映であり、秀吉という主体を得て、初めて、太陽系を環《めぐ》る諸衛星のような勢いと燦《かがや》きを持ったということもできる。
が、秀吉はこのときまだ前線に着いていなかった。神戸信孝の来着を淀川に迎えていたためである。信孝や丹羽長秀などの軍を加えて、彼がその本陣をここへ進めて来たのは、まだ陽ざかりの未《ひつじ》の下刻(午後三時)頃であった。この炎天に、暁の雨も乾いて、人馬は汗と埃《ほこり》にまみれ、華やかな縅《おどし》の色や陣羽織もみな白っぽくなっていた。ひとり燦々《さんさん》として烈日を射るが如きものは、金瓢《きんぴよう》の馬じるしだけであった。
秀吉はその馬印を、山崎八幡宮の社前に立てさせた。
天王山に銃声の谺《こだま》していたうちは、空家のようだった町も、明智勢が退却して、ここに新たな甲冑《かつちゆう》の潮が混み入ると、忽ち戸ごとに、水桶や瓜の山や、麦湯などが持ち出された。そしてその接待に、羽柴兵がむらがってくるのを歓びとする町民たちの中には、女子供まで立ち交じっていた。
「敵はもう一兵もあれにいないか」
秀吉は馬も降りず、間近《まぢか》の山上に見える味方の旗じるしを凝視していた。
「おりませぬ」
答えたのは蜂須賀彦右衛門である。諸隊の戦況報告を綜合《そうごう》して判断を加え、概念を秀吉に伝えていた。
「出ばな[#「ばな」に傍点]に、指揮者を亡《うしな》った敵の松田隊は、その一部は北の麓《ふもと》へ、残る一部は友岡附近にある友隊と合したようにござりまする」
「光秀ともあろうものが、なぜこの高地を左様にあっさりと抛棄《ほうき》したろうか」
「おそらく、彼とても、かほど迅速にとは思い得なかった結果でしょう。『時』の量《はか》り違いです」
「彼の主力は」
「勝龍寺をうしろとし、円明寺川を前にして、淀口《よどぐち》から下植野《しもうえの》にわたって、満々と陣しておるようです」
神官や小姓組が来て、木蔭の涼しい所へ、お床几《しようぎ》を設け置きましたが――と休息をすすめたが、秀吉はなお馬を立てたまま見向きもしない。
堀尾茂助、堀秀政、中川淵之助、宮脇又兵衛など、やがて続々これへ帰って来た。そして各※[#二の字点、unicode303b]、馬前に一閲《いちえつ》を受け、かつ、秀吉自身の前線出馬を賀し合った。
「山麓まで行ってみよう。まだ死骸もそのままだろうが」
休むいとまを秀吉は血戦のあとへ馬を向けた。そして、聖天堂《しようでんどう》のわきから中腹近くまで登って行った。ここからは淀も、円明寺川の一線も、敵の布陣も、一眸《いちぼう》のうちだった。
「秀政も茂助も、馬で駈け落したそうだの。中川や高山も、よい家来をもち、他家に恥なき戦功をあげたのはめでたい。とりわけ、宮脇又兵衛は、信長公の先発として、中国へ下るべきを、引っ返して、きょうの働きは、聞くも胸のすくような心地がする」
彼は、又兵衛を呼んで、手ずから長刀《ちようとう》一と振りを与えた。
敵味方の累々《るいるい》たる死屍《しし》は、松の根がた[#「がた」に傍点]や岩角に、そのまま、撩乱《りようらん》の朱《あけ》を見せていた。
「お味方もお味方ですが、敵もなかなかよく戦います。明智方にも、恥を知るさむらいは多いようです」
堀秀政がいうと、秀吉は、さもあろうと頷《うなず》いた。そしてそれらの死屍のあいだを歩いて、すぐ山を降って行きながら、こう連歌《れんが》の上の句を口誦《くちず》さんだ。
松松松どれも日本の姿かな
「たれぞ。下《しも》の句を附けてみんか」
――しかしそのとき、円明寺川の方面に、喊声《かんせい》と銃声が揚った。きっかり申《さる》の刻《こく》(午後四時)頃の陽脚《ひあし》であった。
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相搏《あいう》つ両軍《りようぐん》
円明寺川は、山崎の駅の東方にあたる。一《ひ》とすじの流れは川の姿をなして、淀川《よどがわ》に注《そそ》ぎこんでいるが、附近は葭《よし》や蘆《あし》におおわれた一帯の沼地である。そして常ならば行々子《よしきり》の声が喧《やか》ましく聞えるのだが、きょうは一鳥の声すらない。
――が、この附近にはすでに、その日の午前から、明智方の左翼と、羽柴方の右翼とが、一水を挟んで、じっと対峙していたのである。
折々、ザアと、葭《よし》の葉裏を白く翻《かえ》して、沼地を渡る風の中には、わずかに旗竿《はたざお》の先が見えるぐらいで、軍馬らしいものは両岸共に見えなかったが――北岸には、斎藤|利三《としみつ》、阿閉貞明《あべさだあき》、明智茂朝《あけちしげとも》などの兵力は、先頭予備を合わせて、約五千はいるはずであり、また南岸には、高山右近、中川瀬兵衛の部下四千五百に、池田|信輝《のぶてる》の兵四千というものが、重厚に陣列をかさねて、いわゆる一触即発の幾時間かを、むなしく湿地の暑熱に蒸《む》されて戦機を待っていたものだった。
これはもちろん秀吉の来着と、その命令一下を待っていたもので、はや味方の山之手隊が、天王山を占領したとも聞えていたので、この方面の将士は、なおさら武者ぶるいして、
「いったい、本軍は何をしているのだ」
と秀吉の着陣が遅いことを罵《ののし》りたいばかり歯痒《はがゆ》がっていたのである。
一面、御坊塚《おんぼうづか》に本陣をおいていた明智光秀は、疾《と》く天王山へさし向けた松田太郎左衛門の討死、またその部隊の全面的な敗退を聞いて、
「遅かったか」
と、自己の指揮が、時を誤っていたことを、まずみずから責めていた。
そこの一高地を、味方の勢力下に置いて戦うのと、敵の手に委して決戦に臨むのとでは、作戦上、重大な相違を来たすぐらいなことは、もとより彼も充分に知っていた。
けれど、これへ進出するまでの間に、光秀は、その機を掴む寸前において、三つの「未練」に惹《ひ》かれていたのである。未練とはいわゆる決断を鈍《にぶ》らせる迷いにほかならない。
一は、筒井順慶との会約にひかれ、むなしく洞《ほら》ケ嶺《みね》に一夜を焦躁して送ったこと。二は、下鳥羽に帰陣して後も、なお淀城の修築などを命じていたほど――秀吉の進撃に対して時間的な過誤《かご》を抱いていたことである。
また、その三としては、根本的な彼の肚《はら》の問題になる。つまり積極か消極か。攻勢をとるか、守勢を選ぶか。御坊塚へ進出する直前まで、彼の大方針は多分に、岐路《きろ》を決していなかった。
これは、老臣斎藤利三などの意見も大いに彼を迷わしていたといえよう。利三は、使いをもって二度まで、光秀にこうすすめていたのである。
(ここの御一戦では、どうしてもお味方の不利と考えられます。如《し》かず、秀吉の鋭鋒を躱《かわ》して、ひとまず坂本まで御退陣の上、江州《ごうしゆう》その他に散在しているお味方の勢を一つに結束し、不敗の陣容を確《しか》とかためた上、敵をお邀《むか》え遊ばすが、ここにおいては、唯一の良策ではございますまいか)――と。
斎藤利三の献言は、決して理由なきものではない。
一万六千と数えられる明智勢も、その質を見ると、内二割は、山城新附《やましろしんぷ》の兵である。これは子飼の士卒にくらべると、断然見劣りがする。あちこちで新たに糾合《きゆうごう》された未訓練の兵であるから、弱いことは知れきっている。
また部将のうちにも、諏訪飛騨守《すわひだのかみ》とか山本山入《やまもとさんにゆう》とか、その他、旧|公方家《くぼうけ》の遺臣だの、丹波武士《たんばぶし》と称する土豪なども交《ま》じっている。これらの者の闘志を、果たして、明智譜代《あけちふだい》の旗本たちと同様に視《み》て、この戦列に恃《たの》んでいられるかどうかも甚だ疑わしいのである。
これに反して、敵秀吉の軍容は、圧倒的な優勢にあるといわなければならない。
数においても。
中国から引っ返した彼の直属軍一万に、池田信輝の四千人、高山、中川の両軍をあわせて四千五百人。ざっと一万八千五百人を擁《よう》している。
加うるに、大坂表から参加した神戸《かんべ》信孝、丹羽《にわ》長秀、蜂屋《はちや》頼隆の総勢約八千を容《い》れたので、総計すると、
二万六千五百人。
が、その実数となった。明智方から比して、断然一万は多いのである。
のみならず、その麾下《きか》は、いわゆる精鋭であり、また故信長の譜代であり、かつ、絶好なる――
「故右大臣家の弔合戦《とむらいがつせん》」
なる大旆《たいはい》を持っているのだ。
これに対して、その出足早な潮さきにむかって行くのは、到底、明智方の不利である。
この際、明智方としては、京都という政略上重要な地をひとまず敵に委《ゆだ》ねても、坂本まで退《ひ》いて、そこにある三千の兵と、また味方のうちでも最も恃《たの》みがいある良将としている明智左馬介光春をも帷幕《いばく》に加え、かたがた、四国の政治的変化や、信長の遺臣中にも必然起るであろう内訌《ないこう》と自壊作用などを待って、おもむろに陣容をかため、ここに玉砕を選ぶよりは、万全な戦いをなすべきではあるまいか。
これが斎藤利三の考えるところであったのである。
老将の見解にはおのずから肯綮《こうけい》に値するところが多い。光秀も内心は大いに心を惹《ひ》かれないこともなかった。けれど彼は、
「ここで敗るる程ならば、坂本にたてこもるとも敗れ去らんは必定《ひつじよう》である。もし京都を敵に委すならば、光秀の名分は何によって立てようぞ」
と思った。たとえ幾多の不利はあるとも、一戦も交えず、京都を明け渡すことは、彼の心事として、断然、忍び得ないものがあった。
人にも語らず、檄《げき》の文にもそれは称《い》えないことだったが、光秀の心事というのは、実にこうであった。
(たとえ主と名のつく信長を一朝《いつちよう》に討つも、われも御民《みたみ》。信長も御民。弓矢の精神《こころ》になど変りのあるべき。さるを、一戦もせず、御所の地たる京都を易々《いい》として敵に渡すからには、あれみよ光秀こそは、何を奉じて天下に立たんつもりぞ。不利と見れば、禁門の御所在も打ち忘れて、引き退く心根の卑《いや》しさを見よ。信長を討ったる心も、それをもってみれば、まったくの乱臣賊子の出来心に過ぎまい。そういわれても是非がない。よし屍《かばね》はいかに辱《はずかし》めらるるも、その一点を疑わるるは百世までの心外である。――光秀は断じて、都をうしろに、この山崎で一戦を決しよう。なんの秀吉、何する者ぞ)
かくて、この戦いに面した光秀の心事は、すでにこれへ臨む前から、おのずから悲調を奏《かな》でていたものと観《み》てよい。
――秀吉、何する者ぞ。
との気概は示しても、心の底には、必勝を期すまでの確信はなかった。
その悲壮な決意は、主なる将にはみなよく酌《く》み取られていた。その点、彼にもまた、彼のためにはいつでも死のうとする腹心は多い。
とりわけ斎藤利三のごときは、年も老齢《とし》ではあるし、忠諫《ちゆうかん》すでに容《い》るるところとならず、大勢の見透しにも老将だけに、
「きょうこそ、一期《いちご》と覚えたり」
とは、誰より先に、ひとり決めていた覚悟であったろう。
――で、円明寺川口の銃声も、その斎藤隊から突如として揚《あが》ったものだった。
戦いの切っかけというものは微妙である。両軍とも小半日は葭蘆《かろ》のあいだに、ブヨや蚊に喰われながらも、じっと対峙《たいじ》したまま、上将の号令を神妙に待っていたが、そのうちに、羽柴方の陣から美しい鞍を置いた一頭の放れ駒が、水を呑もうとしてか、ふいに円明寺川の岸へ跳ね出して来たのである。
馬の持主は郎党であろう。それを追いかけて来た四、五名の兵が見えた。それへ向って、対岸の葭《よし》の中から、ぱッと弾煙《たまけむり》が立ち、つづいて、パチパチパチとつるべ撃ちが注《そそ》がれたのであった。
「あッ、殺《や》られた。撃て、撃て」
川べりに伏した味方の兵を救うために、此方からも、北岸の弾煙へ向って弾が送られた。かくてもう命令を待つ遑《いとま》はない。
「――全軍突撃」
という秀吉の命令は、実に、この銃声が揚ってから後に届いたものであり、明智方もまた、敵の動きに反動を起して、果然、川を渡って来たものだった。
淀へそそいでいる川口はかなり広いが、少し上流《かみ》のほうは、さしたる川幅ではない。
ただし、水は数日来の驟雨《しゆうう》で相当激している。鉄砲を持った明智の銃隊が北側の藪《やぶ》に姿をあらわして、南側の堤上に立つ羽柴勢を狙い撃ちするあいだに、はや彼方此方、しぶきを蹴って、押し渡ってゆく甲冑《かつちゆう》群は、明智の精鋭級と目されている槍隊の士たちであった。
「槍組ッ。出ろッ」
堤の上でも高山隊の一将が、躍り上がって、指揮していた。
川幅が狭いので、銃の効果は少なかった。前の一側が撃って、弾込《たまご》めするため、後列の一側が入れ代る間に、はや此方の岸へすがりついた敵は、直ちに、銃隊のふところへ跳びこんで来る危険があった。
「銃隊は横へ開け。味方の前を塞《ふさ》ぐな」
槍の穂をそろえて突き出した中川隊の一群は、あらかたその槍をふりかぶって、堤の下や水面を撲《なぐ》りつけた。
もちろん目ざすものは敵兵だったが、槍を繰り引いて突き出すいとまよりは、振りかぶって撲りにかかったほうが、より迅速に、敵の出足を防ぎ得るからであった。
激突は、川の中で起った。
槍と槍。槍と太刀。――或いは長柄《ながえ》。
斬ッつ、斬られつ、である。
「面倒ッ」
と、吠えて組む者。
しぶきを揚げて戦列から水中に没し去る者。
濁流は渦巻いた。
いや、武者と武者の中に、わずかに流るる水があるといってよい。川は戦う武者で埋められている。
血あぶらは、水面にぱっと泛《う》いては、ぱっともとの水に回《かえ》ってゆく。
そのうちに、南軍の第二陣、中川清秀の一隊は、下流の戦闘を、高山右近の手勢にまかせて、
「突ッこめ。突ッこめ」
「ただ、突ッこめ」
「横にも、後にも、顧《かえり》みするな」
「突ッこめ突ッこめ」
「ただ突ッこめ」
御輿舁《みこしかつ》ぎの懸声《かけごえ》をそろえて社を出るように、わっしわっし[#「わっしわっし」に傍点]と、重厚な戦列を押し出していた。そしてはやくも、円明寺川の東岸の藪に迫り、遮二無二《しやにむに》、敵の中へ駈け入った。
この辺は、明智の左翼第二隊、阿閉《あべ》貞明の陣地である。北軍の破綻《はたん》はまずこの一線から生じた。すでに味方の左翼が猛突撃を起しているにかかわらず、しきりと弾煙《たまけむり》のみ立てて、火器の威力を恃《たの》み過ぎていたためである。
藪を踏みこえると、所々の湿地のほかに、畑や野道や団栗林《どんぐりばやし》などが見える。明智勢はそのいたる処に真ッ黒なうごきを呈しており、今や、味方の陣地内へ一歩突き進んで来た敵を見ると、怒濤のように、思い思いの相手を目がけて駈け蒐《あつ》まった。
「ありゃありゃ」
と、異様な声を発して、明智方から挺身《ていしん》して来る巨漢《おおおとこ》がある。見るまに、彼の重そうな強槍は、中川隊の士を四、五名突ッかけて、左右に刎《は》ねとばし、なお此方へ奮迅《ふんじん》して来た。
具足はつけているが兜《かぶと》はいただいていない。鉢巻から逆立つ乱髪は一炬《いつきよ》の炎《ほのお》のように赤ッぽく見え、その大きな双眸《そうぼう》の光と共に、いかにも万夫不当《ばんぷふとう》のさむらいらしく見えた。
その漢《おとこ》に突き崩されて、中川隊の一角は、ふたたび川の側まで押し返された。――と見て、中川勢のうちから、
「おのれ、われ独り武者顔する憎い奴。ここに織部《おりべ》のあるを知らぬか」
と、呼びながら、颯爽《さつそう》、前を遮《さえぎ》って、猪《いのしし》武者の槍のなかばを、槍をもって、ぴしッと搦《から》み合わせて行った一将があった。
中川清秀の婿の古田織部重然《ふるたおりべしげなり》であった。
この二者の戦闘は、余り烈しくて、人交《ひとま》ぜをゆるさなかった。彼に比して、織部の槍は、細目だったせいか、戛然《かつぜん》、けら[#「けら」に傍点]首のあたりからポキンと折れて、その穂先だけが、あたかも氷片のように遠くへ飛んだ。
「あなや。若殿危うし」
と、周囲に戦っていた中川家の家士たちは、思わず眼前の敵を捨てて、救けに向いかけたが、織部は咄嗟《とつさ》に、折れ槍をふりかぶって、敵の手許を強く一打ちし、同時にそれを捨ててむずと猪武者のふところへ組みついていた。
中川家の家士達は、途端に後へ迫って、織部《おりべ》の相手方を、滅茶苦茶に斬りつけ、また、突き抉《えぐ》った。
秀吉の第二軍中川勢の突出は、明智方の最左翼にある斎藤隊が克《か》ち取った凸形《とつがた》を、忽ち危ういものにした。
中川勢が急に右転して来れば、うしろを巻かれる惧《おそ》れが生じるからである。
その斎藤隊の鋭鋒《えいほう》を、防ぎかねて見えた高山右近の部下も、
「二の手の中川勢はもう遥かに先を取っているぞ。中川勢におくれるな。彼らの下風《かふう》に措《お》かれて堪《たま》るか」
と励まし合って、押されては押し、押しては押し返され、ほとんど、川の中を両軍の死者で埋めるばかり吠《ほ》え戦った。
「退《ひ》けーッ。陸《おか》へ退《さ》がって、敵の奴輩《やつばら》を、寄せては叩け、寄せては突き伏せろ」
斎藤勢のあいだから振り絞《しぼ》るような号令が響いた。これは早くも味方の中川勢が敵のうしろへ迫った証拠と高山隊も見て、
「突け、突け、突けッ!」
「息つかすな」
と、対岸へ退く敵のしぶきをかぶって、追撃の槍を一斉にそろえた。
川口に近いこの辺には藪もない。湿地に続く湿地帯であった。それだけに、いちど退《ひ》き足《あし》となると、防禦物もなく、事実上総崩れとならざるを得なかった。
馬が駈け渉《わた》る。旗じるしが突き進んで来る。高山右近の隊も、ほとんど、北岸へのぼり尽した。
この頃、西陽はようやく傾いていた。たそがれ迫る茜《あかね》の雲は、悽愴《せいそう》な夕空の下に、喚《わめ》き合う真ッ黒なかたまりとかたまりを照らしながら、寂寞《せきばく》と、ひとり夜空のたたずまいを整《ととの》えるに他念がない。
ここでもまた、約|半刻《はんとき》にわたる激烈な戦いが繰り返された。いちど崩《くず》れるかと見えながら、また取って返して、沼地や灌木《かんぼく》地帯の足場の悪い所に立ちながらも、なおよく防ぎ戦う斎藤勢の粘《ねば》りづよさには、驚くべきものがあった。
ここばかりではない。
阿閉《あべ》貞明の隊といい、明智茂朝の隊といい、総じて明智勢のうえには、一種不気味なる死に物狂いがあった。何とはなく光秀の胸中に予期されていた悲痛の奏《かな》でこそ、この死に物狂いが揚げる破軍の声だったのである。
「ここは、孤立する惧《おそ》れがある。味方の山之手隊は、潰滅《かいめつ》されたという。並河《なみかわ》掃部《かもん》どのも討たれた。諏訪《すわ》飛騨守も討死した。――つつまれぬうちにはや引き退《の》こう。退《ひ》けや、退けや」
悲歌は、しきりに立ち、悲報は風の如く、明智方の一軍二軍、さらに中央の第三軍をもつつんだ。
予備隊としては中軍には、御坊塚《おんぼうづか》を中心とする光秀直属の五千人を真ん中にして、右は藤田伝五、伊勢貞興らの二千人が陣し、津田信春、村上清国らの二千人があった。
そしてこの中央部には、蜂屋出羽守頼隆が当って来た。
藤田伝五は、押太鼓を打ち鳴らして、歩武堂々、戦列を展開した。
さきに立てた弓隊が、一斉に弓鳴《ゆな》りを発して、物凄い矢風を送るや、蜂屋隊もそれに報いて鉄砲をあびせかけた。
「交《か》われッ」
と、伝五の麾《さい》が、一令、風を截《き》ると、弓隊は散開して、こちらも鉄砲隊が出て応戦した。漠々《ばくばく》、立ちこめる硝煙《しようえん》の霽《は》れるを待たず、次には、間髪をいれず、鉄槍鉄甲の武者が敵へ向って、その下を掻《か》いくぐっていた。
藤田伝五と、部下の精鋭は、蜂屋隊を撃退した。
蜂屋隊に代って、神戸信孝の麾下《きか》、峰《みね》信濃守《しなののかみ》、平田壱岐守《ひらたいきのかみ》が、新手を出して、明智勢に当った。
伝五行政は、それをも撃砕して、追い退《の》けた。
一時は、当る敵もないような勢いに見えた。
鼕々《とうとう》と、無敵をほこる藤田隊の押太鼓は、信孝の身辺をむらがり守る騎馬の士たちの足なみをも、しどろ[#「しどろ」に傍点]に乱して脅《おびや》かした。
ときに、国分佐渡守やほか二、三の部将が、およそ四、五百の兵をひきいて、藤田隊の横から、急に、攻《せ》め鉦《がね》を鳴らし、喊《とき》の声をあげ、さも大軍のように、喚《わめ》き襲《よ》せた。
雲はほの紅《あか》いが、地上はもう夕闇だった。藤田伝五は、自身、やや深入りを自省していたところでもあったので、
「右転!」
と、麾《さい》を振り、
「曲がれ、曲がれ、どこまでも右へ」
と、急に指揮をかえた。
全軍、円を描きながら、徐々にもとの中軍と合して、手固く戦うつもりだった。
ところが、急に左方から、秀吉の麾下、堀秀政の一手が、猛襲して来た。これは伝五にとっては、地から湧いた兵みたいに見え、
「退《ひ》く策《て》はない」
伝五は、咄嗟《とつさ》に思い返したが、もう陣容を立て直すいとまもなかった。堀隊は疾風のように、敵を中断し、一方の勢を包囲にかかった。
伝五の前には、金色《こんじき》の杵《きね》の馬印《うまじるし》が、近々と揺れて来るのが見えた。
「さては、神戸三七信孝、自身進まれたな」
と見たので、いまは猶予なく、子息の伝兵衛秀行《でんべえひでゆき》、舎弟の藤三行久《とうぞうゆきひさ》、伊勢与三郎などと共に、一団四百七十騎、
「この首渡すか。あの首を申しうけるか」
と、真ッ黒にかたまって、敢然、数もわからぬ敵の中へ駈け入った。
腥風野《せいふうや》を蔽《おお》うとはこの一瞬のことであった。宵はすでに暗く、死闘のおめきは、一声一声、血のにおいをふくんで天を翔《か》ける風となった。
羽柴軍の全陣のうちでも、神戸隊は最も兵力の多い点で重厚だったのである。それに丹羽長秀の三千人もそれを救《たす》けている。いかに、藤田伝五やその骨肉どもがみな豪勇であっても、到底、刀槍をもって掻き分けられるような薄手な線ではない。
伝五は、全身六ヵ所の傷をうけた。
そしてついには、戦い戦い駈けまわる馬の上で、われ知らず昏々《こんこん》と神気を失いかけていた。
すると、うしろの闇で、
「ち、父上ッ」
と、子の絶叫が聞えた。
息子の伝兵衛秀行の声よと思うと、彼はハッと馬のたてがみから面《おもて》を上げた。途端である。何やら右眼のうえに打《ぶ》つかったのは。――彼は空の星が額《ひたい》に落ちたように感じた。
「あッ。――鞍へ、鞍へ。固くおすがりになっておいでなさい。矢はそれています。額のお傷は浅手です」
「だれだ。わしを支《ささ》えたのは」
「藤三です」
「舎弟か――伊勢与三郎はいかが致した」
「はや、討死を遂《と》げられました」
「諏訪《すわ》は」
「諏訪どのも」
「伝兵衛は」
「――また、敵に囲まれましょう。お供いたしまする。鞍の前輪に、身をお伏せなされませ」
伝兵衛の生死には触れず、藤三は兄を乗せた馬の口輪を把《と》って、乱軍のなかを一散に落ちて行った。
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金瓢押《きんぴようお》し
相搏《あいう》つ味方の咆哮《ほうこう》は、申《さる》の刻《こく》(午後四時)から酉《とり》の下刻《げこく》(七時頃)までつづいた。
久我畷《くがなわて》から円明寺川に沿う北野一帯は、この咆哮のうちに、とッぷり暮れた。
「――思いのほか手強《てごわ》い」
と、秀吉をして、つぶやかせた程、明智勢の抗戦も熾烈《しれつ》を極めた。
が、何としても、この総決戦を展《ひら》く午《ひる》まえのうちに、明智方が、天王山の一高地を敵手《てきしゆ》に委《ゆだ》ね、その山之手支隊の大半を失い、かつまた、松田太郎左衛門、並河《なみかわ》掃部《かもん》などのこの手の大将を早く亡《うしな》っていたことは、決定的な敗因をすでにそのときに約したものというほかない。
機を見るに敏な秀吉は、この薄い線を衝《つ》いて進出した。まだ赤い斜陽が円明寺川を染めているうちに、自身の率いる予備隊一万をのこらず押し進めて、上流から敵を圧縮したのである。果ては、ほとんど敵の中に自己の中軍を置いたとも云い得るほど、大胆なる積極性をその馬印に掲げて、前進また前進、一歩たりと、退くことをしなかった。
とはいえ、こことても、決して易々《いい》として、進み得たわけではない。
御牧《みまき》三左衛門、奥田|宮内《くない》、明智十郎左衛門、進士作左衛門《しんしさくざえもん》、妻木忠左衛門、溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》など、明智家|譜代《ふだい》の名だたる勇将は、ことごとくこれへ殺到したといってよい。
「筑前、あれにありとみえたり」
「ござんなれ、猿面《さるめん》」
「われこそ、一《ひ》と槍《やり》」
と、およそ名のある程の者は、みな彼の夜目にも燦《さん》たる金瓢《きんぴよう》の馬印を目がけぬはなかったのである。
秀吉の姿は、秀吉を狙う敵方の将たちを、著しく勇気づけ、死をも忘れさせたことは確かだった。
故に、彼の予備軍は、一万という大軍とはいえ、尺地を刻むジリ押しにしか進み得なかった。
もっとも、この時もうその予備軍中から、加藤光泰や堀秀政に、各※[#二の字点、unicode303b]二千ずつをさずけて、中川、高山などの他の手薄な方へ救けに廻していたので、実数は五、六千しかなかったにちがいない。
で、ここの戦況も、一時は勝敗いずれともいえなかったというほうが正しいであろう。――光秀にとってもまさにここは本陣そのまま前衛であり、秀吉も自身|剣光戟風《けんこうげきふう》のあいだに馬を進めているので、いわば主力と主力の真の決戦は、ここにおいて定まるものと観るべきである。
思い出されるのは、秀吉が、さきに僧形《そうぎよう》の施薬院《せやくいん》をして、下鳥羽《しもとば》にある光秀の陣を訪わせ、
(毎度、合戦はしておるが、まだ大将と大将との、直《じき》の太刀打ちはしたことがない。このたびは主《あるじ》の讐《かたき》たる敵の討伐に向うのであるから、三日のうちに攻めのぼって、光秀と直《じき》の太刀打ちをいたすであろう。そう伝言しておいてくれ)
と、施薬院の口から光秀へ通じておいたことばである。きょうの秀吉の進撃ぶりを見れば、その予告は決して一場の戯《たわむ》れでも恫喝《どうかつ》でもなかったことが今思い当る。彼は本気に光秀と直《じき》の太刀打ちをせんと望んでいる血相だった。しかし馬前馬側の旗本たちとしては、甘んじて彼にその先駆を誇らせてはおかないことはいうまでもない。
川角《かわすみ》太閤記が誌《しる》すところの記述――
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秀吉ガ御馬ノ先手衆《サキテシユウ》、鑓合《ヤリアハ》セ申スト等シク、日向守ガ備ヘヲバ突キ崩サレ、一町バカリ引退《ヒキノ》ク処ヘ、又々、敵ノ先手|詰《ツメ》カケ候ヘバ、秀吉、味方若シヤ押掛《オシカカ》ラレ可《ベ》クヤト思シ召《メシ》ケム、味方ノ鑓《ヤリ》ノ石突《イシヅキ》モ働カザル程、御馬印ノ瓢《フクベ》ヲ御詰カケナサレ、ソレヨリ又敵ヲ突キ立テラル
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とある辺りの情景は、まさにそのときの情景を描いて躍如《やくじよ》たるものがある。
由来、秀吉といえば、智策に富み、攻城野戦にも、多くは敢えて戦わず、これを謀収《ぼうしゆう》する計に出で、また自身勇戦をなすは甚だ得意でもない人であると見られているが、必ずしも、彼が勇将でないという確証はどこにもない。
彼はただ、能《あた》うかぎり兵を損ぜず、無血の戦果と最大の戦果を希《こいねが》っているに過ぎないのだ。青年将校時代すでに、箕作城《みつくりじよう》の激戦には、味方に先がけて身に数ヵ所の手傷を負うほどな勇気を衆に示している。彼に、摩利支天《まりしてん》の一面がないとは決していわれまい。
わけて、山崎の一戦には、
(大将と大将との太刀打ちにて勝敗を決せん)
と、光秀へ云い送り、また、その場に臨んでは、
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――味方ノ鑓《ヤリ》ノ石突モ働カザル程、御馬印ノ瓢《フクベ》ヲ御詰カケナサレ
[#ここで字下げ終わり]
とあるを見ても、いかにこのときの彼の形相が、見敵必殺《けんてきひつさつ》の意気に燃えていたかがわかる。
きょうこの時の彼の戦法は、あだかも永禄《えいろく》の頃、越後の上杉謙信が、敵信玄の陣域深くへ基地を取って、一鞭《いちべん》、妻女山《さいじよさん》から川中島の敵幕中へ突入した――あの捨身不退《しやしんふたい》の構えにも似ている。
何で、この前に立ちふさがり得る敵があろうか。
明智方にも、勇者は多かったが、奥田市之介、溝尾五左衛門、桜井新五、逸見木工允《へんみもくのすけ》、堀口三之丞、磯野|弾正《だんじよう》、鳥山《とりやま》主殿助《とのものすけ》など、枕をならべて、討死を遂《と》げてしまった。
星が暗く、道は湿地。
血か、沼か、びしょびしょしたものを、踏みこえ踏みこえ秀吉の中軍は、間断なきジリ押しを進めてゆく。
そのうちに、一|窪地《くぼち》から、頻《しき》りにパチパチ撃つ者がある。
前列の四、五名が、次々、撃ち仆された。弾継《たまつ》ぎの早さから見て、一小隊も伏せてあるのかと思うと、撃手は、一名らしい。ただ左右に家来を三、四人置いて、撃っては弾をこめさせ、一弾撃ってはまた、ほかの鉄砲をとって狙っているらしく思われる。
「退《ひ》かざる敵はない中に、さりとて健気《けなげ》な敵。虎之助、参ってみよ」
秀吉がうしろへいうと、あッと、主人の声を潜《くぐ》って、もう駈け出している若武者が見える。当年、二十二歳となる小姓組の加藤虎之助であった。
ダン、ダン! 二つばかりの弾音に出会ったが、虎之助の迫る脚のほうが、その弾煙の消えるよりも迅《はや》かった。
窪地の敵は、もう間に合わないと見ると、銃を抛《なげう》って、
「汝、何を望んで来たか」
と、猛然、突っ立って、眼をいからした。
虎之助は、初陣ではない。
中国在陣中、冠山《かむりやま》の城、そのほかでも、一《ひと》かどの戦功はあげている。
手馴れの槍を横に進めて、
「戦場での望みは、名のある敵の首。名もない汝なれば、取るに足りぬ。――俺の槍にかかってよいほどの首か、さまでの値打もない首か。もう一度、吠えて見よ」
と、云い返した。
敵は猛者《もさ》だった。
からからと打ち笑って、
「日向守《ひゆうがのかみ》様の御内、伊勢与三郎|貞興《さだおき》の侍頭《さむらいがしら》、進藤半助《しんどうはんすけ》とはそれがしのことよ。主人貞興は、はやお討たれなされた。この半助も、生きて何かせん。――この上はただ一弾をあの馬印の下にある秀吉に報わんと身を伏せていたものだ。汝、まだ年ばえも未熟な小冠者《こかんじや》、半助が討ち取る相手には足らん。――退けッ。邪魔するな」
「烏滸《おこ》なお人よ。これでも相手とするに足らぬかッ」
虎之助は、いきなり槍の穂先を高目に、びゅッと、敵の真眉間《まみけん》をかすめた。
およそ槍は穂先下《ほさきさ》がりとなりやすいものである。顔を狙えば喉《のど》のあたりに、喉をねらえば胴のあたりに来るのが普通である。半助も、その的確には驚いたとみえ、
「かつッ」
と、首を交《か》わしざま、陣刀で払った。
払わせた槍を、咄嗟《とつさ》、そのまま、虎之助は抛《ほう》り捨てた。――ひどい乱暴である。兜《かぶと》の鉄鉢《てつばつ》を砲弾のように向けて、彼の横っ腹へぶつけて行った。
「あッ」
半助はよろめく。
虎之助は組みついている。
もう勝った形だ。
――が、両方とも無手《むて》。そうして双方とも、鎧通《よろいどお》しの柄《つか》に手をかける遑《いとま》がない。
「小癪《こしやく》な若者め」
半助の足軽三人が、わらッと、虎之助のうしろへ廻った。鉄砲の逆手、また、ふりかぶった刀、一度にその背へ落ちんとした。
どたッと、その三人が地ひびき立てて仆れた。虎之助危うしと見て、味方の前列から飛んで来た武者たちが、一人一人、敵の足軽を討ったのである。
軍鶏《しやも》と軍鶏のように、羽がいを組み合わせたまま、地上に諸倒《もろだお》れとなっていた虎之助は、自分の具足の緒をつかんでいる死力の拳《こぶし》を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ放すと、ぶるぶるッと、血ぶるいしながら、何物をか引っ抱えて、秀吉の馬前へ、一目散に駈けもどって来た。そして、
「仰せつけの物、持って参りました」
と、進藤半助の首のもとどりを掴《つか》んで、星明りに翳《かざ》して見せた。
「祐筆、筆を」
と、馬上のまま求めて、秀吉もまた、星の光に、白紙へこう書いて、虎之助へ投げ与えた。
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武勇心掛手柄者《ぶゆうこころがけてがらもの》の若者とは汝たるべし。いよいよ武功を尽すべし
[#地付き]秀 吉 判
六月十三日
加藤虎之助どの
[#ここで字下げ終わり]
真情率直《しんじようそつちよく》だ。何の文辞も、誇張もない。――が、この一片の紙は、黄金の兜《かぶと》、名物の茶入れにも優ること数等の勲章となろう。これを約された若い一武者は感涙にむせんで押しいただいた。市松、助作、佐吉、孫六などの他の小姓たちは、羨望《せんぼう》の眼をみはって、ひそかに後の自己へ誓っていた。
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御坊塚《おんぼうづか》
暗い松風が陣営を搏《う》つ。
陣幕は白い生き物のように、大きく膨《ふく》れる。はたはた[#「はたはた」に傍点]と翻《ひるがえ》ってはまたしきりにただならぬ悲歌を謡《うた》う。
「与次ッ、与次ッ」
「はいッ」
「いまあれへ来て、何事かを告げるや否、すぐまた、取って返した使者は、誰からの使いか」
「はッ」
「なぜいちいちこの光秀に告げぬ」
「まだ……事実や否やも、確《しか》と定まりませぬゆえ」
「何であろうと、伝令のつたえを、光秀の耳に入れぬ法やある。与次郎ッ」
「はいッ」
「しっかりせいッ。――味方の敗色にそちまでが度を失うたか」
「残念なことを仰せられます。堀与次郎は、死を期しておりまする」
「……そうか」
光秀はふと、自己の甲高《かんだか》さに気がついて声を落した。そして堀与次郎をたしなめたそのことばは、そのまま、自分に向けて聞くべきだと思い直した。
さるにても、御坊塚《おんぼうづか》のこの本陣も昼の一頃《ひところ》にくらべると、何と、寥々《りようりよう》たる松風の声ばかりではあると、彼は、憮然《ぶぜん》として見まわした。
ゆるい傾斜の下は、畑と野面《のづら》へつづいている。東は久我畷《くがなわて》、北は山岳、西は円明寺川まで一眸《いちぼう》の戦場もいまは青い星のまたたきと、一色の闇のみであった。
申《さる》の刻《こく》から酉《とり》の下刻《げこく》まで、わずかまだ一刻半《いつときはん》(三時間)のあいだでしかない。野に満ちていた味方の旗幟《きし》は、いずれへ潰《つい》え去ったのか。
――誰も討死しました。誰も敵の中で相果てました。誰も誰もと、相次いで報じて来る味方の名を、彼は胸に留めきれないほどここで聞いた。
一刻半の間にである。
今も、堀与次郎が、その悲報の上にまた一つの悲報を受け取ったにちがいない。
けれど彼ももうそれを光秀の耳へ取次ぐ勇気を失っているのであろう。――光秀に叱られて、ふたたび丘の下へ立ちに行ったが、見ていると、力なげに松の幹へ鎧の背を凭《もた》せかけて、黙然、星を仰いでいる。
「――何者だッ」
その与次郎は、ふいに、杖としていた槍を持ち直して、彼方の闇に馬を止めた者へどなった。
「お味方だ。お味方だ……」
息を喘《あえ》ぎながら此方へ登って来る影は、その足つきから見ても、明らかに傷を負っている。近づいた与次郎は、愕然《がくぜん》と、自分の肩をその者へつき出した。
「刑部《ぎようぶ》じゃないか。つかまれ。俺の肩に」
「お。……与次郎か。御主君は」
「上におられる」
「まだここにおられるのか。あぶない。もうここもいけない」
香川刑部。それは、藤田伝五の手に加わっていた明智の一部将であった。
刑部は、光秀の床几《しようぎ》の前に、のめるが如く手をつかえた。
「斎藤どの。阿閉《あべ》どの。津田どの。そのほか藤田伝五どのを始め、諸軍、総くずれと成り果てました。お味方の将、精鋭の士、屍《かばね》を重ねて、討死を遂げ、いちいち指折って、名を思い出すことも出来ません」
「…………」
この暗い松影の下なのに、光秀の顔ひとつが、白く泛《う》いているように仰がれた。
返辞はない。
聞いていないかのようである。
刑部《ぎようぶ》は苦しげに語をつづけた。
「いちどは、秀吉の中軍へまで迫りましたが、闇迫る頃から、退路を撃ち乱され、主将伝五どのの行方も知れずなりました。……また、御牧《みまき》三左衛門どのの一軍も、敵の重囲に落ちて、苦戦を極め、辛うじて、御牧どの以下、およそ二百ばかり、一団となって、西久我の部落まで、落ちのびておられましたが――その御牧どのが、それがしを見て申さるるには――はやここもこれまで、御主君には、一刻もはやく、勝龍寺の城へ退いて、御籠城《ごろうじよう》の用意あるか、さもなくば夜のうちに、江州《ごうしゆう》へお落ちあるこそ良策と思われる。御辺は、御坊塚へいそいで、はや疾《と》く、三左衛門のことばを主君へ伝え給え。それまでは、三左も死を逸《はや》まらず、ここにあって、殿軍《しんがり》を構え、主君がお立ち退きの合図を見て後、われら生き残りの二百余名、一手となって、秀吉の陣へ駈け込み、斬り死にして果て申さん所存――と、かように、申しおられました」
「…………」
光秀はなお沈黙していた。
使命を終ると、刑部の影は、急に平たくなった。地に俯《う》っ伏《ぷ》したまま、呼べど答えぬ者になっていた。
光秀は、じっと、床几《しようぎ》から見まもっていたが、冷然と与次郎をかえりみて、
「刑部は、深傷《ふかで》を負っていたのか」
「はい」――与次郎は悲涙を眼に溜めていた。
「ことぎれたものとみえるな」
「左様に思われます」
「……与次郎」
と、まったくべつな声がら[#「がら」に傍点]をもって光秀はふいに訊ねた。
「最前、そちの受け取った使番の報《し》らせは何であったのか」
「今はつつまず申しまする。あれは、筒井順慶の軍勢が、にわかに、洞《ほら》ケ嶺《みね》を降って、淀方面からお味方の左翼を強襲しに出て来たため、さしもの斎藤|利三《としみつ》どのを始め、お味方の諸隊も、踏みこたえる力も尽き、総くずれになったものと、その敗因を報らせて来たものにござります」
「何だ。そのようなことか」
「今さら、お耳に入れても、この挽回《ばんかい》はつきませぬ。いたずらに、御不快と焦躁《しようそう》を加えるまでのことと、実は折を見て、お話し申すつもりでおりました」
「なんの、人の世じゃ。とりわけ順慶のごときは、人の中でも、最もありふれた人柄。あれのやりそうなことよ。たれが歯牙《しが》にかけようぞ」
光秀は笑った。強《し》いて笑ったといえないこともない。そして彼の手は陣後をさし招いた。馬を曳《ひ》け、馬をと、にわかに、焦心《いら》って呼ぶのであった。
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深夜行《しんやこう》
援軍また援軍と追いかけに兵を出したので、残り少なくなっていたが、ここにまだ老臣旗下以外、二千に近い兵力はある筈。
光秀はその手勢をひっさげて、敵中の御牧三左衛門|兼顕《かねあき》の残軍に合し、最後の一戦を試みようとしたのである。
馬上に身を移すと、全御坊塚の営にとどろくような声で、自身、進撃の令を叫んだ。そして、全営の兵がむらがり寄るいとまも待たず馬首を振り向け、左右の士わずか数騎と共に丘を駈け下っていた。
「あッ。――立つは誰だ」
光秀は急に馬を止めた。ふいに一つの陣幕の内から転《まろ》び出た人影が、傾斜を駈け下って、いきなり道に立ちはだかり、光秀の馬の前に、大手を拡げて立ったからである。
「帯刀《たてわき》。なぜ止める?」
光秀の声はするどかった。
老臣の比田《ひだ》帯刀《たてわき》なのである。帯刀の手はすぐ主人の馬の口輪をつかんでいた。ひとたび、悍気《かんき》にまかせた馬は容易にその本能を制しきれないもののように、頻りに土を蹴って足掻《あが》いた。
「与次郎も、三十郎も、なぜお止めせぬか。降りろ、降りろ」
比田帯刀は、数騎の旗下をさきに叱って、慇懃《いんぎん》、光秀へ頭を下げた。
「常のわが殿とも覚えませぬ。――勝敗は一場の変に過ぎませぬ。目前の一敗をもって、直ちに、おん身を捨てんと遊ばすような軽挙に出るは、日向守光秀様らしくもないことです。血迷えりと嗤《わら》われましょう。――なおなお、ここには敗れても、坂本には御一族もあり、各地にやがてを待つ諸将の散在すること、必ずしも、後図《こうと》の策なきではありません。……まず、ここはひと度、勝龍寺の城まで、お立ち退きがしかるべくと思われまする」
「おろかよ、帯刀」
光秀は、悍馬《かんば》のたてがみと共に、顔を振った。
「――常ならぬ今だ。常の光秀をもってわれと視《み》るか。駈け崩された諸隊の兵も、光秀先陣に立てりと聞けば、ふたたび結集して鋭気を取り戻そう。――かたがた、御牧三左の一隊を、敵中に捨て殺しはできぬ。秀吉にも一泡ふかせん。筒井順慶の不信義も懲《こ》らしめてくれん。――光秀はただ漠然と死に場所を求めにゆくわけではない。光秀の光秀たるところを示そうとするのだ。――放せッ、要《い》らざる妨《さまた》げするな」
「ああ、さすが叡智《えいち》の殿の御眼も、きょうに限って、なぜかそのように曇らせ給うておらるるか。――きょうわが全軍にうけた傷手《いたで》は、討死の者、尠なくも三千人は降《くだ》りませぬ。傷負《てお》いは数知れず、しかも重将ことごとく討たれ、新附《しんぷ》の兵はみな離散し、この御本陣においてすら、今は幾何《いくばく》の兵が残っていると思し召すか」
「放せ。……何でもよいわ。放さんか」
「その御放言こそ、すでに死を急がれておる証《しるし》です。帯刀《たてわき》はあくまでもお止め申しあげる。――ここになお、三、四千の屈強があるならともかく、御馬に続く者どもとては、おそらく、四、五百もありますまい。あとは皆、黄昏《たそがれ》ごろから忍び忍びに陣地を脱して逃げ散っておりまする」
老臣の比田《ひだ》帯刀《たてわき》則家《のりいえ》の忠諫《ちゆうかん》は、声涙ともに下るものであった。
人間の智性などというものは、かくも脆弱《ぜいじやく》なものか。ひとたびその叡智に齟齬《そご》を来すと、こうも愚に還《かえ》るものだろうか。
帯刀は、光秀の狂躁《きようそう》を眺めて、
(こうもお違いになられたか)
と、痛涙して、以前の光秀の深慮聡明なすがたを偲《しの》ばずにいられなかった。
「――比田殿のおすすめは、われらも至極のおことばと存じまする。勝龍寺の城はすぐ間近、ひとまずそこにお入りあって、善後の策をお立て遊ばすも決して遅くはございますまい。いざ、御供仕りましょう」
進士作左衛門、明智茂朝、その他の将も、いつか馬前へ来ていた。二人は、いちど前線に立ったが、やはり光秀の身を案じて、これへ退がっていたものだった。
「こうしている間にも、敵勢に近々と詰め寄られたら、百事|空《むな》しくここに終ろう。さ、一刻も早く、お轡《くつわ》を把《と》って、勝龍寺へお移し申しあげい」
帯刀はもう主人の意志を問わなかった。貝を吹かせて急に北方へ後退を命じた。村越三十郎、堀与次郎などは、自身の馬を捨てて徒歩となった。そして主人の馬の轡《くつわ》をつかんで北の方へ無性に駈け出した。丘上の将士もまた追い慕った。しかし、比田帯刀のことばに違わず、その数はわずか五百ぐらいに過ぎなかった。
勝龍寺の城には、三宅藤兵衛が守将としていたが、ここも敗色の外ではあり得ない。一種|暗澹《あんたん》な凄風が満城に漲《みなぎ》っていた。
微《かす》かな燈を囲んで、一同はこの敗戦の収拾《しゆうしゆう》を凝議した。それを理性の正しい判断に求めるとき、光秀も、もう策なきことを覚《さと》った。
城外の哨兵《しようへい》は、頻りと敵軍の近づくのを告げている。この城もまた秀吉の破竹な軍勢を防ぐに足る堅塁《けんるい》ではない。元々、摂津《せつつ》の中川、池田、高山らにたいして、万一の変あらばと、擬勢《ぎせい》を張っていたに過ぎないものだった。
淀の城ですら、つい昨日、その修築を命じていた有様だ。怒濤の音を聞いてから築堤にかかったといえないこともない。事ごと逆にゆくと、光秀ほどの人物も、こう目先の晦《くら》くなるものかと思われるばかりである。
ただ、彼としても、おそらく遺憾なかろうことは、年来の宿将や家士たちに限っては、彼の恩顧《おんこ》を裏切るなく、まったく捨身|奮迅《ふんじん》の戦いをなし、涙ぐましき主従の義を示していたことだった。主筋の人を討った明智家のうちに、なおこの主従の道義の破れずにあったことは、一見、矛盾《むじゆん》なようでもあるが、やはり光秀の徳といえるし、また、道義に生きるほか生き所も死に所もない、武門の鉄則を明示しているものでもある。
為に、わずか一刻半の合戦だったが、その日の両軍の死傷は、夥《おびただ》しい数にのぼっている。もちろんこれは後の調査によるものであったが――明智軍の死者三千余人、秀吉方の死者三千三百余名、負傷を加えれば算を知らぬ数であったという。以て、彼の意気にも劣らなかった明智勢の気魄《きはく》も知るべく、しかも、敵の半数に近い寡兵《かへい》と、不利な地に立っての戦いであったことを思えば、光秀の敗北は、決して世の嗤《わら》い草《ぐさ》となるような敗北ではなかった。
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小栗栖《おぐるす》
淡墨《たんぼく》のような雲の裡《うち》に、水無月《みなづき》十三日の月が滲《にじ》んでいた。
離ればなれに先へ一、二騎、また少し後から数騎の武者が影をかさねて、点々十三騎ほど、淀川の北から伏見方面へ落ちて行った。
「ここは何処《どこ》の辺りか」
やがて道の暗い山のふところに入ると、光秀は、比田|帯刀《たてわき》則家《のりいえ》を顧みてたずねた。
「大亀谷《おおかめだに》でございましょう」
帯刀の面にも、続く数騎の影にも、梢を漏《も》る月の斑《ふ》が、青い潮光のようにこぼれていた。
「では、桃山の北を越えて、小栗栖《おぐるす》から勧修寺道《かんしゆうじみち》へ出るつもりか」
「御意《ぎよい》。――夜の白まぬうちに山科《やましな》、大津近くまで辿《たど》りますれば、もうお案じはございませぬ」
――と。光秀の少し前をゆく進士作左衛門が、ふいに駒を止めて、
「叱《し》ッ」
と、手を振った。
光秀も止まった。つづく駒もみな止まった。そして囁《ささや》きもやめて、道のゆくてをずっと離れて、物見をしながら先へ先へと歩いていた明智|茂朝《しげとも》と村越三十郎の二騎の影が眸《ひとみ》に入った。その二騎は、谷川のほとりに駒を立てたまま、うしろの人々へ手を以って、
(待て)
と、合図をしながら、全身を耳にしていつまでも、佇《たたず》んでいた。
(敵の伏勢ではなかったとみえる)
人々はやがてほっとした顔色にもどった。先頭の二人が振る合図に従って、ふたたび密々《ひそひそ》と駒を進めた。月も雲も真夜中の中天に寝まろんでいる相《そう》である。いかに忍びやかに進めても、馬は坂路にかかると石を蹴り、朽木を踏み折るので、小さい谺《こだま》にも、寝鳥が立つ。そのたびに、
(敵か?)
と、光秀主従の影は、駒の脚を竦《すく》ませた。
大敗のあと、宵にいったん勝龍寺の城へ入って、終日のつかれを休め、さて、
(どうするか?)
を議してみたが、結局、坂本へ落ちてゆくほか方策もなかったし、衆臣もみな光秀にその隠忍《いんにん》の道を選ばれたいと請《こ》うので、光秀もようやくそれに方途をきめて、城の後事は守将の三宅藤兵衛にあずけ、自身は宵の頃すでに、そこを脱していたものであった。
――がなお、その勝龍寺を出るときまでは、彼に従う手勢は約四、五百人はあった。しかし、久我|畷《なわて》から淀をこえ、伏見の里に来るまでに、ほとんど、散々に脱軍して、残るは腹心の者ばかりわずか十三騎とまでなってしまった。
「多いは却って敵の目につく。死生を共にするまでの覚悟のない者はむしろ足手纏《あしでまと》いだ。坂本にはなお光春様あり、三千の精鋭がある。ただただ、そこへ行き着くまでの御無事こそねがわしい。あわれ御主君のうえに、神助あらせ給え」
明智|茂朝《しげとも》、村越三十郎、進士作左衛門、堀与次郎、比田|帯刀《たてわき》などの腹心たちはそう慰め合っていた。
くわしくいえば、大亀谷は、山城の紀伊郡深草村《きいごおりふかくさむら》の山中である。道はこれから宇治郡《うじごおり》醍醐村《だいごむら》の南小栗栖《みなみおぐるす》へ通じている。
谷といい、山といっても、この地方にはさして嶮峻《けんしゆん》な所はない。そして、この夜に限って、久し振りの水無月《みなづき》十三日の月輪を空に見たが、先頃から雨天がちに、木《こ》の下闇《したやみ》はじめじめ[#「じめじめ」に傍点]泥濘《ぬかる》んでいるし、低い道には思わぬ流れが出来ていたりして、主従十三騎の落ちて行く道は、決して容易なものではなかった。
加うるに光秀も、その腹心たちも皆、綿の如く疲れきった心身を引きずっている。――山科《やましな》はもう程近い。大津まで出ればもう大丈夫。――と励まし合って行くものの、各※[#二の字点、unicode303b]の疲労感にうける感じでは、その間近な距離が、百里もあるような気がするのであった。
「オ。――部落へ出た」
「小栗栖《おぐるす》であろう。ひそかにしたまえ」
「そうだ。静かに通ろう」
やがて面々は目顔で、戒《いまし》め合っていた。草ぶかい山家《やまが》の茅屋根《かややね》がおちこち[#「おちこち」に傍点]に見えて来たからである。そうした人里は努《つと》めて避けたいのであるが、道はおのずから家々の間へ入ってゆく。
――が、幸いなことには、何処をながめても、燈影《ほかげ》一つ見えなかった。白い月の下、大竹藪に囲まれた山里の屋根は、世の騒乱《そうらん》も知らず、深々とみな眠り入っている気配だった。
厳密な眼を光らせて、はるか先の方を、物見しながら駈けていた明智茂朝、村越三十郎の二騎は、狭い村道の一とすじ道を、つつがなく通り越して、かの藪の曲がり道に佇《たたず》み、あとから来る光秀たちのひと群れを待ちあわせていた。
その影と、二人の引ッさげている槍の白さが、半町ほど先の樹陰に、キラキラ見えたときである。バリバリッと、青竹でも踏み折るような響きと共に、ううむ――と野獣でも唸《うめ》いたような声がどこやらでした。
「……や?」
光秀のすぐ前に立って、密《ひそ》やかに駒を歩ませていた比田帯刀は本能的にうしろを見た。
暗い竹叢《たけむら》に覆われた山家の柴垣《しばがき》に沿うている暗がりである。光秀の影は、十間ほど後に、釘付《くぎづ》けになったように立ち竦《すく》んでいた。
「お館《やかた》ッ……」
返辞もしない。
高い若竹の茂りが風もない空に揺れている。ばらばらと頻りにする地の音はそれから降る夜露だった。
「如何《いかが》なさいました」
帯刀が引っ返そうとしたときである。いったん馬のたてがみに俯《う》っ伏して脇腹を抑えているかのように見えた光秀は、胸の下となった手綱の手をうごかすと、急に面を上げて、トトトトトと、小刻みに駒の脚を早め出した。
ものもいわず、帯刀の前もサッと先へ駈け抜けてゆくのである。不審には思ったが、まだ何も気づかずに、帯刀はそこから後になってつづき、作左衛門や与次郎も、それに倣《なら》って駈けつづいた。
三町ほどは何事もなくそのまま駈けた。先に待っていた茂朝、三十郎の両名もひとつになり、光秀は一行十三人の六騎目にあって進んでいた。
すると、ふいに村越三十郎の馬が竿立《さおだ》ちになった。とたんに三十郎の抜いた白刃が鞍下《くらさ》がりに左の脇を払っていた。
かつん!
と鼓膜《こまく》をつき徹《とお》すような音響は、その白刃と竹槍のあいだから発したものである。
穂先を斬り落された青竹の手先が、ガサッと、竹叢《たけむら》のうちに隠れたのが、実に迅《はや》くはあったが、明らかに他の人々の眼にも見えた。
「土匪《どひ》か? 今のは」
「――らしいぞ。油断あるな。この大竹藪のうちに立ち廻っているとみえる」
「三十郎。何ともないか」
「なんの、野伏《のぶせ》りどもの竹槍などに」
「構うな。いそげ、ただいそげ。構うてはうるさいぞ」
「……が、お館《やかた》は?」
と見まわして、
「や。あれに」
と、人々は何か急に愕然《がくぜん》と色を失った。
つい百歩ほど先に、光秀は落馬していたのである。しかもただならぬ唸《うめ》きと苦悶《くもん》に身を曲げて、ふたたび起《た》ちも得ぬ容子《ようす》であった。
「殿。お気を慥《しか》と遊ばして下さいッ」
「お館ッ。お館……」
「もう少し参れば山科《やましな》です。お傷もさして深傷《ふかで》ではありませぬ」
「お心をたしかに」
すでに馬を降りて駈け寄っていた明智茂朝や比田帯刀などは、光秀を抱き起して、こう励ましながら、強《た》ってでももう一度駒の背に掻《か》い上げようと試みていた。
――光秀はすでにその意志もないようだった。ただわずかに顔を横に振っていた。
「あッ。如何あそばしましたか」
三十郎、与次郎、作左衛門など皆、われを忘れてそこに影を重ね合った。そして苦しむ光秀の唸きと人々の長嘆と、また嗚咽《おえつ》に似た声とが辺りに流れた。
空には、月一つ、そのときばかり殊さらに冴《さ》えていた。そして附近の大竹藪一帯の暗がりには、俄然、土民たちの露骨な跫音《あしおと》や喚《わめ》きが、ざわざわ立騒いで来た。
「さきほど、物陰から竹槍をつけた土寇《どこう》の徒が、なお尾《つ》け狙うているとみえる。弱味を見せると、足下《あしもと》を見て、よけいに執念《しゆうね》く寄って来るのは彼らの持前。――三十郎も与次郎も、ここよりは、辺りの土賊どもを――」
茂朝《しげとも》のことばに、人々は、急に前後へ立ち別れて、寄らば、と槍を持ち直すもあり、また陣刀をひきぬいて、
「こやつら」
と、大喝《だいかつ》して、気配のする大竹藪の中へ、躍り入ったものもある。
ザザザザと、まるで猿《ましら》の群れか、木の葉の雨のような音が、一瞬、小栗栖《おぐるす》の夜半《よわ》のしじまを破った。
「茂朝。……し、茂朝は」
「おりまする。こうして、確乎《しつか》と、殿のおからだをお抱き申しあげておりまする」
「お。……茂朝」
光秀は、ふたたび唇をうごかした。そして自分を支えている彼の腕や肩を、探《さぐ》るように撫でまわすのであった。
夥《おびただ》しい脇腹の出血は、すぐ視力に影響して来たにちがいない。舌もあやしくもつれて来た。
「いま、茂朝が、傷口を巻いて、所持の薬をさし上げますから、しばらくお怺《こら》えを」
「……無用」
要《い》らぬ――と首を振るのである。そして何か求めるように手をうごかした。
「……何でござりますか。……何ぞ?」
「やたて」
「矢立《やたて》と仰せなされますか」
茂朝はいそいで鎧《よろい》の袖から懐紙と矢立を取り出した。
おぼつかない指先に、光秀は筆を持たせてもらった。そして白い紙のうえを睨まえた。
(さては辞世《じせい》を書きおくお心とみえる)
茂朝は胸の塞《ふさ》がる気がした。今ここで光秀にそんなものは書かせたくないと思い募《つの》った。大きな運命というものへ対して、彼の執着は無性な反抗を心のうちで試みていた。
「殿。殿。……かいないお筆をお取り遊ばしますな。大津まではもう一息、そこまで辿《たど》りつけば、左馬介光春様にもお迎えに見えられましょう。……さ、傷口を巻きましょう」
と、懐紙を地に置いて、わが帯を解きにかかると、光秀はふいに、愕《おどろ》くべき力でその手を振った。
そして左の手をつかえ、地上の白紙へ向って右手を伸ばすと、筆の腰も折れるばかりな力で、
順逆《ジユンギヤク》無二門《ニモンナシ》
と書いた。
――が、次の文字は、もう手のふるえが烈しく書けないらしいのである。光秀は茂朝に筆を渡して、
「あとを書け」
と、云った。
「…………」
茂朝の膝に凭《もた》れたまま、光秀は、面《おもて》を天に向けた。一痕《いつこん》の月を凝視することしばしであった。その月よりも青い死色がみるまに面上へ漲《みなぎ》って来たとき、ふしぎにも少しの紊《みだ》れもない小声で、光秀は、偈《げ》のあとを、こうつづけた。
大道《ダイドウ》ハ心源《シンゲン》ニ徹《テツ》ス
五十五年ノ夢
覚《サ》メ来レバ一元《イチゲン》ニ帰《キ》ス
茂朝は筆を投げて哭《な》いた。
とたんに、光秀はわれとわが喉《のど》を短刀で掻き切っていた。
愕《おどろ》いて駈け戻って来た進士作左衛門や比田則家も、その体《てい》を見ると、
「いまは」
と、主人の屍《かばね》に寄り添って、各※[#二の字点、unicode303b]、自己の刃に伏した。――なお四人、六人、八人と、数を加えて、同じように光秀の死骸を繞《めぐ》って殉じた人たちの亡骸《なきがら》は、またたくうちに大きな一箇の血の花弁《かべん》と花心《かしん》を地上に描いた。
さきに大竹藪へ駈け入った堀与次郎と、一、二の者は、土民の群れと戦って、斬り死にして果てたものか、村越三十郎が闇へ向って、
「与次郎、戻れッ。与次郎、与次郎ッ」
と、いくら呼ばわっても、ふたたび帰って来なかった。
その三十郎も傷を負ったので、竹林の中をよろ這《ば》いよろ這い帰って来ると、すぐ側を摺《す》り抜けて通る人影があった。
「あッ。茂朝どの」
「三十郎か」
「お館《やかた》はいかが遊ばしました」
「御最期だ」
「げッ」
――仰天して、
「ど、どこに?」
「三十郎。お館はここにいらっしゃる」
茂朝は、馬の鞍覆《くらおおい》に包んで抱えていた光秀の首級《しゆきゆう》を彼に示し、暗然と面をそむけた。
「おおッ」
と、彼は烈しい勢いでそれへ跳びついた。主人の首級にむしゃぶりつくや否、おいおい声をあげて慟哭《どうこく》した。
「さいごのおことばは」
「順逆《じゆんぎやく》無二門《にもんなし》――の一偈《いちげ》であった」
「順逆無二門――と仰っしゃいましたか」
「たとえ、信長は討つとも、順逆に問わるるいわれはない。彼も我もひとしき武門。武門の上に仰ぎ畏《かしこ》むはただお一方《ひとかた》のほかあろうや。その大道はわが心源《しんげん》にあること。知るものはやがて知ろう。――とはいえ五十五年の夢、醒《さ》むれば我も世俗の毀誉褒貶《きよほうへん》に洩れるものではなかった。しかしその毀誉褒貶をなす者もまた一元に帰せざるを得まい。……そんな御鬱懐《ごうつかい》を吐かれて御自刃遊ばした」
「わかります。……わかります」
――三十郎はしゃくり上げながら、拳で顔じゅうの涙をこすった。
「戦巧者《いくさこうしや》な斎藤どのの諫《いさ》めもお用いなく、みすみす不利な地形と寡兵《かへい》をもって、山崎に決戦を辞さなかったのも、その大道に拠《よ》られたためです。山崎を退《ひ》いては京都を捨てることになるからです。御心事を察しると、哭《な》いても哭ききれません」
「いや、敗れたりといえ、その大道をお捨てにならなかったことだけは、ひそかに本懐として死なれたにちがいない。最期の偈《げ》がそれを天にさけんでいらっしゃる。……お、時移しておると、また土寇輩《どこうばら》が襲《よ》せ返して来るだろう。三十郎」
「はッ……」
「わし一人では御始末をする術《すべ》もなく、あれに取り遺《のこ》して来たお首級《しるし》のない屍がある。あれをどこぞ人目に見出されぬ土中へ埋めてお隠し申しあげてくれ」
「余の方々は」
「みな御遺骸を繞《めぐ》って、いさぎよく死に就いた」
「おいいつけの役目をすました後、それがしもどこぞ死所を求めましょう」
「わしもこのお首級を、知恩院《ちおんいん》にある光忠《みつただ》どのへお渡し申しあげ、その後、身の始末をする所存だ。――では、さらばぞ」
「おさらば」
ふたりは竹林の中の小道で立ち別れた。こぼるる月の斑《ふ》がきれいであった。
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瀬兵衛《せべえ》御苦労《ごくろう》
一方、勝龍寺城も、その夜のうちに陥《お》ちた。
ちょうど光秀が小栗栖《おぐるす》附近で最期をとげていた時刻である。
山崎、円明寺川の線に、明智勢を撃摧《げきさい》した南軍の堀、中川、高山、蜂屋などの諸部隊は野を吠え、草を掃いて、
「必定、光秀は、あれにこそ在《あ》らん」
と、勝龍寺を取り囲んで来たのであった。
だが、その光秀は疾《と》くに、伏見方面へ落ちた後とわかって、寄手は失望したが、なお囲みは解《と》かなかった。
城中からは、守将の三宅藤兵衛以下、数百の兵がいる様子だし、それらの者が、一時、矢弾《やだま》のあらんかぎり烈しく撃ちつづけて来るからであった。
ところが、その猛射は、滅前の一燦《いつさん》だった。程なく、はた[#「はた」に傍点]と止むと、城楼《じようろう》の一端から、ボウと赤い焔が映《さ》して、月の夜空へ濛煙《もうえん》を吐き出した。
「さてはみずから火を放って、城兵のこらず一手となり、城を出て斬り死にせんの準備《したく》と見ゆるぞ」
寄手は戒《いまし》め合って、各部隊に異様な緊張をたたえていた。そして城門から殺出する敵を迎えたがさいご、一兵も討ち余すことではないとひしめいていた。
するとそのうちに、城中の焔は消えてしまった。墓場のようなしじまと暗い余煙だけが望まれる。――はてなと、寄手は怪しみにとらわれていた。
「寄手の将にもの申す。守将三宅藤兵衛は、所詮《しよせん》、支え得ぬところと覚悟いたして、ただ今、自刃して相果てました。罪なき部下は、それぞれ郷里に帰してやりとうござる。――この儀、お聞き届けあらば、直ちに開城いたすであろう」
人影が一つ、城門の上に見られた。そこから寄手の陣へむかって、こう呶鳴っているのである。
三宅藤兵衛の股肱《ここう》、溝尾《みぞお》五右衛門であった。この申し入れは、もちろん寄手にゆるされた。五右衛門は、居る所から直ちに開門を命じ、城兵数百が事なく敵の手に接収されたのを見届けると、
「どれ、俺も行こうか」
と、そこから降りた。
しかし彼は、城外へは出て来なかった。間もなく櫓《やぐら》の下あたりから再び火焔《かえん》が立った。寄手は一斉になだれ込んだ。そして忽ち消火に当ったが、五右衛門はすでに腹を切って火中の白骨となっていた。
宵の頃、円明寺川の激戦にやぶれ、重傷の身を、駒の背に抱きあげられ、舎弟の藤三に守られて、辛くも戦場を脱した藤田伝五行政は、夜の明け方ちかい頃、ようやく淀《よど》の町はずれに辿《たど》りついていた。
「兄上。しばらくこれでお待ち下さい」
と、舎弟の藤三行久が、橋の畔《ほとり》をしきりに歩きまわるので、伝五は、
「行久。何を探すか」
とたずねた。藤三は答えて。――小舟を求めて、兄上をお落し申し上げんつもりですと云った。
伝五は、憤然と叱った。
「殿の御生死も知らぬうちに、我ひとり安き道に就《つ》けようか」
――が、そのうちに、勝龍寺城の落去も伝わり、光秀の死も聞えて来たので、兄弟は、淀の小橋のたもとに坐って、見事に刺《さ》し交《ちが》えて果てた。
勝龍寺城へ南軍が混み入った後も、西ケ岡方面や、久我《くが》、桂川一帯のひろい地域には、なお折々、ぱちぱちと遠い小銃音がしていた。
各所で掃討戦が行われているらしい。
一面、中川瀬兵衛、高山右近、池田|勝入《しようにゆう》、堀秀政などの諸将は、一応みなここに部隊司令部を移して、大かがりを焚《た》かせ、城門外に床几《しようぎ》をならべて、神戸信孝と秀吉の到着を待つことにしていた。
その信孝は、程なくここへ臨んだ。
かがやく戦捷《せんしよう》の入城だ。将士は旌旗《せいき》を正してつつしみ迎えた。信孝は馬を降りて全軍|堵列《とれつ》のあいだを通った。
「やあ。やあ」
彼はしきりに将士へ温顔をふり撒《ま》いた。とりわけ池田、高山、堀、堀尾などの面々へは、いんぎんに過ぎるほど、ていねいな会釈《えしやく》を与え、犒《ねぎら》いの意を示した。
殊に、中川瀬兵衛へは、その手を取って、こういった。
「このたびの大合戦に、さしもの明智軍をも一日に撃ち摧《くじ》き、亡父《ちち》信長のうらみを散じ得たのは、まったく御辺たちの忠節と奮戦によるものであった。信孝、忘れは措《お》かぬぞ」
高山右近へも池田勝入へも、同様な賞辞を呈した。
ところが、すぐその後から来た秀吉は、高山、池田などの前を通っても、何も言葉をかけなかった。のみならず彼は陣《じん》駕籠《かご》を用い、それに乗ったままでやや身を反《そ》り気味に澄まし返っているふうさえ窺《うかが》われる。
荒武者の中でも、精悍無比《せいかんむひ》な中川瀬兵衛は、小面憎《こづらにく》く思ったか、
「清秀がここにおるぞ」といわんばかり、わざと大きな咳払《せきばら》いを一つひびかせた。
――と、秀吉は、駕籠のうちから、一瞥《いちべつ》をくれた。そしてただ一言、
「瀬兵衛。御苦労」
と、云い捨てて通ってしまった。瀬兵衛は、足ずり[#「ずり」に傍点]して怒った。
「信孝様さえ、下馬して色代《しきたい》されたのに、駕籠のままで通るとは不遜《ふそん》極まるやつだ。――猿めが、もう天下でも取ったように心得おるか」
あたりの人へも聞えよがしに云い散らしたが、さて、それ以上には怒れもせず行為にも出せなかった。却って、自分が小さくなるばかりだからである。
ひとり瀬兵衛だけではなく、丹羽でも池田でも高山でも、みな同列の織田遺臣のはずだったが、いつのまにか、秀吉は彼らを自分の麾下《きか》同様にあつかい、彼らもまた、意識しつつ秀吉の下風《かふう》に在らざるを得なくなっていた。誰もみな割りきれない気持にちがいない。だが、さればといって誰もそれを拒《こば》むこともできないのであった。
城中に入っても、秀吉は焼け残りの建物に一瞥《いちべつ》を向けたのみで屋内に身を休めようとはしなかった。
広庭に幕を張らせ、信孝と共に床几《しようぎ》をならべて、すぐ諸将をここに会し、次の指令をさずけ始めた。
「久太郎(堀秀政)はただちに兵をひきつれ、山科《やましな》から粟田口《あわたぐち》へ押し通れ。目的は大津へ出て、安土と坂本との通路を遮断《しやだん》するにある」
また、中川、高山の二将に対しては、
「瀬兵衛と右近とは、丹波路へむかって、急げるだけ急げ。敵の残兵の多くは丹波へ逃げたろう。それらの者が、亀山に籠《こも》って、備えをなす遑《いとま》も与えぬようにだ。時おくれると、陥《おと》すにも手間どろう。明日中に亀山へ迫るぶんには、苦もなく陥《お》ちるはずだ」
そのほか、誰は鳥羽、七条方面に急げとか。誰は吉田、白河方面へ先発せよとか。すこぶる明快なさしずであるが、傍らに、信孝をさし措《お》いていっていることだけに、諸将の眼には、秀吉の態度が、甚だ不遜に見えてならなかった。
だが、この折には、最前、口に出してそれを立腹した中川瀬兵衛も、他の者も、
「心得申した」
と、云い、
「よろしい」
と云い、大様《おおよう》に命をうけて、たれもそれを色に出さなかった。そして、今朝から初めての軍糧を兵に解いて、酒を酌《く》み、腹をみたし、ふたたび次の戦場へ立った。
人を自分の麾下《きか》に服せしめるにも、時と所があることを秀吉はよくのみこんでいた。誰も彼もこの勝軍《かちいくさ》に気を好くして沸《わ》き立っている時と場所こそつけ[#「つけ」に傍点]目であったといってよい。こんな中で瀬兵衛の如きムキになって怒ってみたところで、あたりの雰囲気は却ってその小心を嘲《わら》い消してしまうのが常例である。
が、秀吉は、そのつけ[#「つけ」に傍点]目だけを利用して、これらの万夫不当《ばんぷふとう》や、扱い難い猪勇《ちよゆう》の同僚を、敢えて麾下に見るの冒険を試みているほどの無分別でもない。
軍には絶対に、首脳がなければならないし、統帥《とうすい》は明確でなければ紊《みだ》れる。身分上、信孝こそ主将たるべきだが、この軍には出おくれて来たし、戦陣に立っても果断、英邁《えいまい》、ともに欠けていることは、全軍の諸将もみな認めているところだった。
さればとて、秀吉を措《お》いて他に人があるかといえば、これはまったくない。箇々の胸には秀吉の下風に甘んじきれない自負を持っていても、
(自分では他が納まらない)
ことぐらいは各※[#二の字点、unicode303b]知っているからである。殊に、この弔合戦《とむらいがつせん》の主唱者が明確に秀吉であり、その糾合《きゆうごう》に応じて立った以上、今となって、
(ひとを部下扱いにするのは怪《け》しからぬ)
などと、筋目立ってみたところで、自分の小量を自分で吹聴《ふいちよう》するようなものだし、かたがた、戦捷の陣営に組みしながら、みずから功を捨てて裏切りの誹謗《ひぼう》を求めるような結果になろう。
で、諸将は各※[#二の字点、unicode303b]、休息する遑《いとま》もなく、命じられた新戦場へ向うべく、やがて、一斉に座を立ったが、それに対しても秀吉は、将座についたまま、
「大儀大儀」とか、
「いや、御苦労」
とか、極めてあっさりと、顎《あご》で会釈《えしやく》を送っているだけだった。
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橋上橋下《きようじようきようか》
秀吉もまた同夜のうちに淀《よど》まで進んだ。
ここで信孝と宿営を共にし、未明に立って京都へ入った。
六月十四日である。京都では何よりも先に本能寺の焼け跡を訪れて、亡主信長の霊を弔《とむら》って、戦況を報告した。
――といっても、もちろんここの焼け跡には、燃え残りの伽藍《がらん》の残骸と灰のほか何物も余されてはいなかった。
ただ一隅の池のほとりに、高台寺《こうだいじ》かどこかの法師達が来て石を積み重ねておいたという所に、誰とはなく花や水など供えていた跡があったので、仮に、そこを信長以下|殉難《じゆんなん》の将士一同の霊地として、信孝と秀吉は、姿をそろえて、額《ぬか》ずいたのであった。
「ここに立ってもまだ、安土《あづち》へ参れば、お目にかかれそうな心地がしてならぬ……」
といって信孝は落涙した。
秀吉も、去りがてに佇《たたず》んで、
「御無念さ、いかばかりでお在《わ》したろう。――その六月二日から、ちょうど今日は十三日目、燃え残りの棟木《むなぎ》や柱にもまだ火のにおいがするようだ。……おお。小袖の焼け布《きれ》が落ちている。弓の折れも見える」
と、其処此処を見まわしなどして、うたた感慨にとらわれていた。
しかし彼が軍を駐《とど》めて、ここへ立ち寄ったのは、この日さらに、蹴上《けあげ》を進んで、大津にまで出る行軍の途中であった。
ゆうべ勝龍寺から直接立った秀政の隊は、すでに、今朝あたり、近江辺まで突出していたであろう。そのほか、昨夜以来の配置によって、醍醐《だいご》、山科《やましな》、逢坂《おうさか》、吉田、白河、二条、七条、洛《らく》の内外いたるところも、秀吉指揮下の隊が部署についていない方面はない。
今朝は、陽の色までが、何となく爽《さや》けく違って来たように仰がれた。
(妙心寺《みようしんじ》から大勢曳き出されたそうな)
(嵯峨《さが》でも捕《つか》まったという)
(本阿弥《ほんあみ》の辻で斬られるのを見て来た……)
町々の噂は、残党狩りで持ちきっていた。山崎から逃げ込んだ落武者や、ここの治安に当っていた明智方の兵は、ほとんどひとりも余さず捕斬《ほざん》された。
さきに二条城の戦いで負傷し、のちに知恩院《ちおんいん》に入って療養していた明智光忠も、この朝、
(はや秀吉の馬じるしが京都に入ってきました)
と侍臣に聞くと、すぐ一室を閉じて自刃してしまった。数名の家臣もみな殉《じゆん》じた。
なおまた。
昨夜来、丹波越えに向った高山、中川の二隊は、十四日朝、亀山城を包囲していた。けれどここにはもう光秀の家族はいなかった。一子十兵衛|光慶《みつよし》が留守している筈と思われたが、それも見あたらなかった。老臣|隠岐《おき》五郎兵衛は前日病死していた。そのほかこれという程な将士もいない。為に、ここではほとんど何らの抵抗もうけることなく寄手の入城を見ていた。
明けて十四日というこの日頃には、中央以外の地方諸侯は、どういう方策を決していたろうか。
まだ依然たる昏迷《こんめい》中にあったといっていいが、さすがに海道の徳川家康と、越前の柴田勝家とは、やや積極的な動きを示していた。
勝家は、養子勝豊、勝政、その他の諸将をすでに先発させ、自身も北《きた》ノ庄《しよう》を出て、山越えに、近江《おうみ》へ急いでいる頃であった。――もちろん上洛を遂げて、故主のあだ光秀と一戦を果さんために。
家康の徳川勢も、同様の目的のもとに、今十四日には、すでに熱田《あつた》まで来ていた。そしてなお京都へ向って続々行軍中であった。
すでに遅しというほかはない。光秀はすでに破られていた。しかもその光秀と同様な誤算を、家康もまた勝家も抱いていた。――秀吉の反転突進が、さまで鮮やかに迅速に、てきぱき[#「てきぱき」に傍点]とこの大世転を処理し終っていようとは、なおまだ思いもよらぬこととしていたのである。
世人もまたおなじだった。きのう一日で、明智の存在が泡沫《ほうまつ》のごとく、地上から抹殺《まつさつ》されてしまった今朝、その起るときの急なるに愕《おどろ》いた世人は、ふたたび、その散滅《さんめつ》の呆気《あつけ》なさに、茫然としているふうに見える。
しかしまだこの日となっても、まったく無傷な兵力を擁《よう》している明智方の一族があった。安土を占領してそこに拠《よ》っていた約一千余人と、坂本の城に在る千数百という人数である。そしてこの方面の将は光秀の従兄弟《いとこ》にあたるかの明智|左馬介光春《さまのすけみつはる》だったことはいうまでもない。
あわせれば二城で約三千の兵力はある。むなしくこれを近江口に置いたことは光秀として用兵上すこぶる下策であったと酷評《こくひよう》する戦略家もあるが、光秀とて決してそれだけの軍をあそばせておくつもりではなかった。ただ秀吉の猛撃が余りにも一瀉千里《いつしやせんり》の急潮をもって押して来たため、予備軍としていた安土、坂本の新手を加えて反撃に出るいとまもない結果となってしまったのである。
光秀が山崎へ臨む前に、急遽《きゆうきよ》、従兄弟の光春へあてて早打《はやうち》した書面は、本来、遅くも十三日の朝には着いてよいはずだが、途中の連絡《れんらく》が困難なために、これが光春の手にとどいたのは、すでに十三日の夜半を過ぎていた頃だった。
急を知ると、光春は、
「これに遅れたら取り返しはつくまい」
と観《み》て、すぐ安土の一千余名にことごとく出軍を命じ、未明、城門を出て、陽ののぼる頃、瀬田の仮橋へかかった。
――もし光秀が小栗栖《おぐるす》に死なず、もう数里を遁《のが》れ得ていたなら、この朝、山科から大津へ出て、たとえ勝てないまでも、光春と共に最後の一戦を華やかにすることができたであろうに。すべては全く手遅れだった。
ここ瀬田の橋口も、光春の最期を見るべき所ときめて、夥《おびただ》しい敵影が手具脛《てぐすね》ひいて待ちうけていた。
橋は中断されていた。橋板を剥《は》がして、桁《けた》と杭《くい》ばかりになっている箇所だの、放火して焼き壊《こわ》した跡など見える。
「近くの民家を潰《つぶ》して、すぐ架《か》け渡せ」
馬上の左馬介光春の面《おもて》には、何のうろたえも見えない。
附近の民家はどしどし潰《つぶ》された。古材木の柱や戸板はわいわい担がれて来る。或る者は、瀬田の河流に身を沈めて、橋杭を補強し、或る者は、桁《けた》を這い渡って彼方から綱を投げ、長い板を引っぱっている。
頃あいを計っていたらしく、対岸の敵勢はこの機を見ると、銃を揃えていちどに弾丸を浴びせて来た。
「身を伏せろッ」
と、部下へ命じながら、自分は毅然《きぜん》と立ったままで、敵の弾《たま》けむりを睨んでいた明智方の足軽|頭《がしら》は、こめかみ[#「こめかみ」に傍点]の辺を撃ちぬかれて、橋桁《はしげた》からもんどり打って河中に墜《お》ち、ドボンと、大砲の弾が落ちたようなしぶきを揚げた。
「怯《ひる》むな、怯むな」
なおそこへ、長い棟木《むなぎ》だの、床板だのは、絶え間なく運ばれて来る。一歩一歩、決死の修理をつづけて、味方の突撃路は作られてゆく。
屍《かばね》は橋上を埋め、血は橋桁《はしげた》からしたたって、瀬田の流れを紅《あか》くした。
対岸の敵勢もなかなか重厚らしい。銃手が弾《たま》ごめに時を移している間には、弓隊が矢風|矢唸《やうな》りをたてて、これまた凄まじい鏃《やじり》の数を射て来るのだった。
この一軍は、事変の初めから反明智態度をあきらかに示していた瀬田の城主山岡景隆の全家中と、さきに山崎から急派されていた堀秀政の先鋒《せんぽう》の一隊である。きのう以来の勝ちいくさに続いて、光秀以下、敵の一族諸将の終りも聞き知って、いまや意気の昂《あが》りぬいている軍勢であるから、その矢弾《やだま》といい、喊声《かんせい》といい、ほとんど、左馬介光春の率いる一千余の兵力の如きは、主を失って路頭に迷う敗残のあわれなる群を揶揄《やゆ》するような概でしかなかった。
「明智の者どもよ、まだ聞き及ばないのか」
「山崎の総敗軍を知らずに、ここを通ろうとするのか、知って通ろうとするのか」
「日向守光秀さえ、昨夜、小栗栖《おぐるす》で相果てているぞよ」
「土民の竹槍で」
「悪因悪果《あくいんあつか》の見せしめを身に示して」
「それとも知らぬか」
「知ってか。ばか者」
「うつけたる、うろたえ軍」
「何のために通るぞ」
「どこへ落ちる気で――」
こう口々に罵《ののし》る敵側の弾けむりの裡《うち》に、時には、どッと笑う声すらするのである。
それに対して、光春の部下は、味方の作業隊のために、必死の掩護《えんご》射撃を酬《むく》いながら、尺歩丈進《せきほじようしん》、押し詰め押し詰め、味方の屍《かばね》を塁として、徐々に大橋の半ば以上を踏み取り、やがて左馬介の号令一呼の下から、千余騎いちどに、対岸の敵陣中に突貫した。
それは橋上ばかりでなく、橋の下の急流を、馬で渡し、筏《いかだ》で進み、或いは、半裸体になって、泳ぎ渡ってゆく者もあったのである。
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志賀《しが》の浦風《うらかぜ》
山岡景隆兄弟や、同苗美作守《どうみようみまさかのかみ》などの一族は、いわゆる甲賀武士の頭目《とうもく》だった。
こんどの大乱に際して、さきに旅行先の堺《さかい》からあわてて本国へ帰った徳川家康の道中の難儀を、甲賀山中で扶《たす》けた一種の山ざむらいも皆、この山岡一族の配下に属する者どもだったといわれている。
この一族が、節義を立てて、当初から光秀の誘降《ゆうこう》をしりぞけ、断乎《だんこ》として、反明智を守り通したことは、筒井順慶などにくらべると、大いに偉《い》としなければならない。――要するにこの瀬田城は、以前、瀬田《せた》掃部助《かもんのすけ》の居城であったのを、信長の代に、山岡一族に与えられたことを、深く恩としていたことによる。
こういう山岡勢に加えて、堀秀政の先鋒隊が合しているので、その強さはいうまでもない。しかも、光春が安土から率いてきた手勢一千余に対して、彼は少なくもその三倍に近い兵力を擁《よう》していた。
辛《から》くも、瀬田の大橋口は、遮二無二《しやにむに》突破して、光春以下、その大軍のうちへ、面もふらず駈け入るまでの果敢《かかん》は示したが――到底、それはみずから求めて苦戦の中へ自軍を投じたというしかない戦闘であった。
「散るな、崩すな、まんまると円陣をむすび、円を旋《めぐ》らしながら北進せよ。――味方の旗を離れて遠く戦うなよ」
光春は声をからして、その馬上すがたを、戦う喊声《かんせい》と馬けむりの中に、揉《も》みに揉まれていた。
この場合、軍の分裂は、敵のねがうところで、光春にとっては、自滅を意味する。彼はあくまで千余人の力を一団として、颱風《たいふう》のごとく、旋回陣《せんかいじん》を取りながら、大津まで突破しようと試みたのだ。
しかし、その大津まで出ることに成功しても、それは決して勝利をつかんだことにもならないし、大勢の上に曙光《しよこう》を見ることでもなかった。
ここで勝っても、ここに敗るるも、彼のゆくてにはただひとつ。
死、
それあるのみだった。
山崎すでにやぶれ、一族みな四散し、主将光秀もまた非業《ひごう》の死を遂げたり! と聞ゆる今、彼として赴《おもむ》いて何かせん、生きて何かせん――である。
とはいえ、その光春にも、なおまだ、これだけの苦戦をなしても果そうとする一つの望みはあったにちがいない。
それは、もちろん、
(ただは死なぬぞ)
であり、日頃からの覚悟と希《ねが》いからも、
(こころよく果てたいもの)
とする生涯最高の場と時とに今や直面していることの自覚であった。
(――さむらいの道、一生涯の華《はな》も実《み》も、成るか成らぬかは、ただ死《し》に際《ぎわ》の一瞬にあること。生涯のつつしみも守りも研《みが》きも、もしその死を誤《あやま》てば、生涯の言行すべて真を失い、ふたたび生きてその汚名を拭《ぬぐ》い直すことはできない)
日頃、彼が家中の子弟にもいっていたことばを、彼はいま、我とわが身に云い聞かせながら、馬上、槍を横たえて、怒濤《どとう》と怒濤の相搏《あいう》つごとき血戦の中を、悠々、少しずつ、粟津《あわづ》の方へ進んでいた。
――こうして、ようやく、大津の町の東口まで突破して来たものの、ふと炎のような息のひまに、前後につづく兵を見ると、わずか二百騎ぐらいしか見えなかった。
多くは、途中で討たれたか、或いは負傷したものだろうが、粟津の辺で、有力な敵の部隊に味方を中断され、それからは四分五裂となって来た結果である。
「坂本へ。坂本までは」
左馬介《さまのすけ》光春は胸のなかで、不断にそこの目標を意識していた。行き着くまでは、死なぬぞと誓った。
坂本の城には、なお多くの家中の者と、そして亀山城から移した光秀の夫人や子達や、そのほかたくさんな老若男女の眷族《けんぞく》が籠《こ》めてある。もちろん自分の妻子もいる。
「あれらの者にも、心安く逝《ゆ》けるように、よい死に方を取らねばならぬ」
光秀のなきあとは、当然、彼が一族の家長であった。光春はいちばん後から死のうと思っていた。
その坂本は程近い。もう一里半か二里である。
しかし大津の町へ入ると、町屋は煙につつまれている。光春の先に立って駈けていた荒木山城の子荒木源之丞、乙之丞《おとのじよう》の兄弟は、忽ち駒を返して、
「殿々。この道は通れませぬ。――道を変えねば」
と、手を振った。
兄弟に倣《なら》って、ほかの徒士勢《かちぜい》も、どっと後戻りして来た。両側の家々から火を噴いているので、所詮《しよせん》、熱くて通れないのである。
「なぜ通れぬ」
光春は、先へ出た。
荒木兄弟が、
「新手の敵が、町屋に火を放《つ》けて、この先の辻に充満しておりまする」
と告げると、光春は、
「この小勢で、田や畑道を奔《はし》らば、それこそ、敵に迂回《うかい》されて、よい獲物と包まれよう。敵の真っただ中を割って通るのが、どこよりもいちばん安いのだ。わしについて通れ」
と、やにわに、馬に鞭打《むちう》って、焔の町中を駈け出した。
火ばかりではない。その姿を狙って、矢や弾丸も彼へ蒐《あつ》まった。光春は、左の肱《ひじ》を曲げて、鎧の袖を額《ひたい》のまえに翳《かざ》し、馬のたてがみに俯伏《うつぷ》し気味に突撃して行った。
「それ、殿につづけ」
兄弟も、他の部下もわあッと、咽《むせ》びながら、火の下を駈けた。
辻へ出た。
登れば逢坂《おうさか》、西は三井寺《みいでら》。また一方の道は柳《やな》ケ崎《さき》の浜辺へ出る。
ここの要所を占めていたのは、堀秀政の本隊だった。もちろん久太郎秀政自身も、この中にいるはずである。当然、光春以下、明智勢はそれへぶつかってゆき、堀隊もまた猛然と邀《むか》え撃った。馬のうごきも槍の柄も意のままにならないほど道幅も狭い辻である。しばしの市街戦は、焼け落ちる建物のひびきと、人間の咆哮《ほうこう》と、血の黒煙で、夜か昼かも分らなかった。
ここの辻は、坂の裾《すそ》の三叉路《さんさろ》なので、当然、坂上を取っている堀軍は、地形上からも有利であった。
そのほかすべての条件からも、光春主従の終りは、いまここが、その時と場所であるとしか見えなかった。
けれど光春以下二百の兵は、その絶対的なものを、いわゆる「ものともしない」死にもの狂いをもって驚くべき勇戦を持ちつづけていた。
ここまで、光春を離れず、従《つ》いて来ただけでも、その兵は、尋常一様な兵数の質でないことはわかるのである。
――為に。
地の利をしめ、黒煙猛火を味方とし、あまっさえ数倍の兵力をもって、それを喚《わめ》きつつんでいた堀隊も、却って、少数の敵に、まったく一泡ふかせられた形となった。刻々敵も討ち減らしてはいるが、味方もそれに数倍する死傷者を累々《るいるい》と路上に重ねている有様であった。
「あれが左馬介光春か」
堀秀政は指さしていた。
坂上にある彼の床几場《しようぎば》は、燃えさかる町屋の煙のため、すぐ下の戦況すら透視《とうし》できなかった。
「どれでしょうか」
側に彼をかこんでいる家臣の堀|監物《けんもつ》や近藤重勝は、眼をこすりながら、秀政の指のさきを見わたしていた。
「あれ、あの白地の陣羽織じゃよ。乗っているのも良い馬らしい」
「オオ、なるほど」
「光春だろう」
「慥《しか》とはわかりませぬが」
「光春ならで、あれほどの武者が、部下のうちにいるとは思われぬ。久太郎秀政の前に立たせて不足のない敵だ。どれ……」
いうや否、彼は、傍らの馬へとび乗って、坂下へ駈け降りていた。
堀久太郎秀政は、この年、ちょうど三十歳である。天王山、山崎などで、彼の名は、羽柴軍のうちでも断然重きをなして来たが、なおまだ帷幕《いばく》にかくれて計謀《けいぼう》に参ずるよりは、陣頭の勇将であった。
彼は、味方を押し分けて、敵勢の直前に馬を立てた。同時に、大音声で何か敵へ云ったが、あたりの叫喚《きようかん》や炎の音で、到底、ことばの意味はとどかない。
けれど、その態度や物の具などで、大将秀政ということは、すぐ知れた。明智勢の眼が、みなそれへ蒐《あつ》まった。
「死ぬならあれと刺《さ》し交《ちが》えて」
と、雑兵までが、どッと秀政のすがたの下へ寄って来た。
「われと見て、うしろを見せるか。左馬介《さまのすけ》、左馬介」
秀政は、馬前の敵を見ず、彼方の白い陣羽織を見ていた。およその敵は、馬蹄《ばてい》にかけ散らし、槍をもって叩き伏せた。そしてただ白い陣羽織のみを目がけていた。
光春は、煙の中から、ちらと此方《こちら》をふり向いた。
――と、猛然、彼の影は、あたりの敵をふりすてて、秀政のほうへ馬首をめぐらして来たが、突然、前に立ちふさがった味方の若者の二人が、左右から主人の口輪をつかんで、ぐるりと、反対な方へ駈け出してしまった。
それは光春が、日頃目をかけていた二人の小姓だった。
うしろからは、堀秀政が、
「きたなし!」
と罵《ののし》り、
「返せ」
と呼ばわり、
「――逃げんとしても、逃げ得る道もあるまいに、左馬介光春は、死に場所を知らないのか」
と、乗れる駿足《しゆんそく》にまかせて、その追撃は物凄いばかり急だった。
堪《たま》りかねて、光春も、
「放せッ」
と、駒を止めて、二人の手を、馬の口輪から振り飛ばそうとしたが、二人の小姓はなお、
「いけませんッ。殿には、お落ち下さいまし」
「あとは、われら二人で」
と、必死に拒《こば》んで、しかも一人は槍の柄で、光春の馬の三頭《さんず》のあたりを、力まかせに撲りつけた。
馬は愕《おどろ》いて、光春を乗せたまま、盲目的に彼方《かなた》へ飛んで行った。ふたりの小姓は、もとの道へ取って返して、健気《けなげ》にも、堀秀政と槍を交え、枕をならべて戦死した。
――止《とど》まるを知らない奔馬《ほんば》の手綱をやっと締めて――光春が、田の畦《あぜ》の、湖に注いでゆく小川の縁から振り向いたときは、もうその二人も見えず、追って来る秀政のすがたも見えなかった。
そのかわりに、近くに望まれる街道にも、うしろの畑道の土橋や森の附近にも、百騎、二百騎ぐらいな敵の集団が、あだかも空から網の中へ翔《か》けこんで来た鳥を眺めているように、そう物々しく動きもせず、此方を見ている様子であった。
危地は決して脱していない。むしろ反対に、光春の危険は加わった。混乱の重囲から、完全な重囲のうちへ移って来ただけのものである。
こういうとき慌《あわ》てふためくと、後々までの語り草になされる。包囲している敵の意志も、
(左馬介光春が、どういう死にざまをするか、これは見ものである。見ていてやろう)
というような落着き払った意地悪さを示しているのだ。どう緩慢《かんまん》に放っておいても、所詮《しよせん》は檻《おり》の中のものに等《ひと》しい。左馬介が逃げきれるものではない――という自信たっぷりな気持を前提としてであるということはいうまでもない。
「叱《し》いッ……」
光春も悠々《ゆうゆう》たるものだ。手綱の一方をぐいと挙げて、馬を叱った。無理にここで馬を止めたはずみに、馬の前肢がやわらかい田土にふかく入ってしまっている。その前脚を怪我なく抜かせておもむろに馬首をめぐらすためだった。
駒は、田と小川のあいだを、ゆるやかに湖のほうへ向って歩み出した。
軽い速度になって、しきりと鬣《たてがみ》を振りながら、白い泡を口輪に吹いているのは、なお馬が悍気《かんき》をしずめていない表情である。光春の手綱は、努めてそれを宥《なだ》めながら歩ませていた。
びゅんッ――と、一矢、風を截《き》って、彼の面と鬣《たてがみ》のあいだを通った。
ぶすッと、そこらの畝《うね》にも、銃弾のもぐる鈍い音がした。
が、多くは、矢も弾《たま》も、田《た》の面《も》に落ちた。まだ彼の位置は射程圏外《しやていけんがい》にある。
しかし彼の駒はどこへ出る気であろう。行こうとする道はすべて敵にふさがれている。それ以外は琵琶湖《びわこ》の水あるのみである。
そのうちにふと光春のすがたが見えなくなった。
遠巻きにしていた敵勢は、多寡《たか》をくくって見ていた自己の心理を遽《にわ》かにたしなめて、
「逃げうせたぞ」
「どこかへ影をかくした」
急にあわて出した様子である。そして無性に、光春の姿の消えたあたりに向って、矢弾《やだま》を盲射《もうしや》し出した。
各※[#二の字点、unicode303b]、一騎打に自信のあるらしい武者が、東の森からも、西の街道からも、三騎、七騎、十騎と前後して駈け出した。もちろん光春に近づいて、雌雄《しゆう》を決する気ぐみにちがいなかった。その面々は馬上から味方のほうへ手を振って、
「射《い》るな」
「しばし撃つな」
と、制しながら、何か、口々に呼ばわり呼ばわり駈け巡って、光春のすがたを捜しているふうだった。
すると、彼方の葭《よし》の茂りが、風でも分けてゆくように、一筋、際《きわ》だって戦《そよ》いでいた。――見ると、まぎれもない金鞍《きんあん》を乗せた馬の背と、その馬の背を降りて、みずから口輪をつかんで曳いてゆく白地の陣羽織の武者が――葭《よし》のうちに影を沈めながら、しかも極めて悠々と、湖水の方へ歩いてゆくのが見えた。
「おッ。あれだ」
「左馬介。待てッ」
十数騎の武者は、功を競った。われこそ、その獲物をと、争うかのように、面々、いずれも馬をおどらせて葭《よし》の中へ駈け入った。
そこの田圃道《たんぼみち》から、湖の波打際までのあいだ約一町ぐらいな幅は、いちめんな葭におおわれているのである。乗り入れた面々は、みな葭の根の生えているやわらかい湿地に気づかなかった。馬の脛《すね》は蘆《あし》の根よりも深く泥土を穿《うが》って、到底、その駿足《しゆんそく》をあらわすことはむずかしい。
「――いけない」
と覚《さと》って、何騎かは、馬の背を降りた。或いはまた、ふたたび畦道《あぜみち》まで戻って、遠く、葭のない先の方へ迂回《うかい》を試みた。
葭のあるのは、町はずれの、この附近だけであって、柳ケ崎のてまえになると、松原つづきとなり、白砂青松の渚《なぎさ》である。
「ここへ出て来る他あるまい」と、光春の方向を察して、先へ廻っていたのである。この辺から打出《うちで》ケ浜《はま》にかけても、羽柴方の軍兵は充満していて、三井寺方面から明智兵を掃討して来た堀秀政とその旗下もまた、附近の松林のなかで、一息ついていた。
――と。そこのみでなく、湖岸の全味方のうちから、何事かわあッと歓声に似たような動揺《どよ》み声《ごえ》があがった。
見ると、彼方の蘆の岸から水面およそ半町ほど先をゆるい波紋が一すじ真っすぐに描かれてゆく。
それはまったく誰もが予想さえしていなかったことを、ふいに眼に見せられたときに出る敵味方なき驚嘆といえよう。
いま、琵琶湖《びわこ》の心をさして、一頭の馬は、鮮やかに水を掻いてゆく。そしてその波紋の中に浮きつ沈みつ見える白い陣羽織こそ、彼らがさっきから手に唾《つば》して求めていた左馬介光春のそれに違いなかった。
人間の想像力にはおよそどうしても一定の限界がある。あとでは当然その非に気づくことでも、事実のあらわれる瞬間までは、いつも十目十指的な常識の線から一歩も出られないのが普通らしい。
今、左馬介を逸《いつ》した羽柴勢が、むなしく声をあげている心理も、われとわが常識を嘲《あざ》けるに似ていた。
(甲冑を着、太刀を佩《は》き、あまつさえ、今朝からの戦いに疲れ果てた左馬介が、騎《うま》のまま湖上にのがれ得るはずはない)
と、きめこんでいた考え方が、眼に見せられた事実によって見事にくつがえされたのであった。――鉄は水に沈むもの、という確乎不抜《かつこふばつ》な通念のほうが顛覆《てんぷく》を見てしまったのである。
大きな不覚にちがいないが、かくまで鮮やかに受けた不覚に対しては、戦国武者のあいだでは、敵ながら天晴《あつぱれ》なものとして、一時の歓呼を惜しまなかったのみか、
「さすがは、明智一族のうちでも、彼ありといわれていた男」
「見事|哉《かな》、左馬介」
と、どよめきどよめき、私語を発して、それを賞《ほ》め称《たた》えている者すらあった。
殊に、堀秀政や、その他、互いに名を惜しむ武門の将は、美しきものに見恍《みと》れるときのような眼で、湖の沖を凝視していた。
弾も矢もとどかない距離にまで――すでに左馬介は泳ぎ出していた。
「よも坂本までは、あの馬を泳がせきれまい」
「――どの辺で、溺《おぼ》れ出すか」
兵の多くは、なおまだ期しているものの如く、無駄矢も無駄弾も放たなかった。
――と。波打際を数町離れた左馬介光春は、やがて弛《ゆる》い半円の波紋を描いて、水面わずかに見える馬の頭を――西の方、坂本のほうへぐるりと向け直していた。
「改正|三河後風土記《みかわごふどき》」や、その他の諸書が記すところによると、その日の光春が装いは、白練絹《しろねりぎぬ》の陣羽織に、時の名ある画匠《がしよう》が、水墨《すいぼく》をもって雲龍《うんりゆう》を描いたものを着ていたという。
また兜《かぶと》は、二ノ谷と銘のある明珍造《みようちんづく》りの輝かしき物であり、馬も大鹿毛《おおかげ》の雄で、よほど優駿《ゆうしゆん》であったろうことは、朝からの戦闘に耐えて、なおよく湖上遠くに出て、さかんに水を掻いている悍気《かんき》を見てもわかることだった。
しかしどんな名馬でも、その馬をして長く疲れぬように乗りこなすには乗人《のりて》の如何によるこというまでもない。
弓太刀の表芸以上、当時の武将が騎馬を重んじていたことはいうまでもないが、特に光春は馬術熱心だった。このことについては、青年時代秀吉とのあいだに一|挿話《そうわ》も遺《のこ》しているが、いまはそれをいっている遑《いとま》はない。――いま彼が馬首を向け直した湖上から斜めに見ても、彼方なる坂本の城は、なお目づもり[#「づもり」に傍点]約半里の余はある。そこまでよくこの馬が耐えるや否や。また、世の笑い草になるかならないかの衆目もある。光春としてもまさに畢生《ひつせい》を賭《と》していたにちがいない。
ただ見る眼には、いちめんの湖でしかない広さにも、その水底には深浅があるということはいうまでもない。
左馬介光春は、よくそれを弁《わきま》えていた。
安土を出たときから、死を期していた今日ではあるが、彼は本来の性格としても飽くまで無謀や愚挙《ぐきよ》はやらない人である。その点、従兄弟の光秀よりは、彼のほうが遥かに徹底した理性家であったといってさしつかえない。なぜならば光秀は生涯の完成にあたって、ついにみずから信ずるところの教養も忍耐も一挙に自身で破摧《はさい》してしまったが、左馬介光春はといえば、なおこの期《ご》になってもその自己を――敵軍すべて取り囲む琵琶の湖中においてさえも――珠《たま》の如く愛《め》でて持っている姿であった。
この湖上はいうもさらなり、この辺の地はみな自身の領土である。しかも坂本のすぐ城下である。光春が、田畑の畦道《あぜみち》から葭蘆《かろ》の茂りまで、どこはどうと、知りぬいていることは、当然であった。
水馬の技でもそうである。
彼が、湖に馬を泳がせたことは、彼としては、きょう初めてのことではない。
常に、居城の坂本の馬場から、この大津附近まで、水馬で渡ったことは何十遍も経験があるのである。従ってこの辺の湖底は、深いか浅いか、ほとんどそらんじている彼でもあった。
――馬の足の外れる深さにかかれば、身を馬の三頭《さんず》に下げて、かるく手綱をくれながら馬を泳がせ、また、浅瀬にかかれば、しぶきを咬《か》ませて駈けわたるのである。このようなことはあながち彼の創意でもなく、敵前渡河のときは、かく操《あやつ》るものと訓《おし》えている前人の貴い経験に基づくものであった。
ただし、これが非常な至難かのように考えられて、後世、説をなすものが絶えない。
いわく。
(左馬介の湖水乗切りというのは、派手がましく伝えた虚説で、ほんとは湖水の岸を駈け廻って坂本へ入ったにすぎない)
また、別説には、
(彼は、湖水と町屋とのあいだを駈けて通った)
ほかにもなお、小舟に乗って坂本城へ渡ったものである、などという説もある。
これらの説はみな、堀秀政やその他の羽柴勢が全然、その兵力を、湖岸や坂本への通路には配置していなかったもののように、あの戦局を見ているらしい。
用兵上、しかも敵に数倍する兵力と、時間の余裕をも充分に持っていた羽柴軍が、そんな一方抑えの作戦をする訳はない。
要するに、左馬介の湖水渡しを否定したがる史家心理には、そのことの至難に思われるのと共に、余りにも、事実そのものが劇的であり過ぎるということに却《かえ》って、懐疑《かいぎ》をもち、これを通俗中の巷説《こうせつ》と片づけてしまいたいものがあるのではなかろうか。
けれど古来、身をもって歴史を描いた日本武士のすがたは、常におのずから最高な劇的の一天地を作っている。湊川《みなとがわ》、四条畷《しじようなわて》、桶狭間《おけはざま》、川中島、高松城の一舟、松の間の廊下、雪の夜の本所松坂町、劇以上の劇でないところはない。
――が今、当の左馬介光春にとっては、そのことは決して、後の人が考えるような至難や無謀を敢えてしているものではなかった。彼はただ日頃の水馬の錬成《れんせい》をきょうはただ甲冑を着けてしている程度にしか思っていなかった。
そうして、悠々と、波間に馬を游ばせてゆく左馬介の白い陣羽織は、この湖に多く住む鳰《にお》の一羽が泳いでゆくようであった。
――依然として、なお、
「いまに溺れ死ぬだろう」
と、それを見ていた湖岸の羽柴勢は、やがてふたたび騒ぎ出した。固執していた自分たちの予想にまたも裏切られたからである。
左馬介光春の姿は、敵の矢弾の射程距離外を注意ぶかく迂回して、やがて難なく坂本城の東の浜へ、水を切って駈けあがっている――
唐崎《からさき》の一ツ松からその辺りは、いちめんにきれいな真砂《まさご》と松原の渚《なぎさ》だった。波打際のしぶきを離れるや否、彼はいっさんにその松原へ駈け込んだ。そしてしばらくその姿を緑のなかに没したと思うと、坂本の町屋と松原のあいだにある十王堂《じゆうおうどう》の前にふたたび姿が見えた。
――遠く、それを認めた羽柴方の兵は、われに返ったように、一時に鼓《こ》を鳴らし喊声《かんせい》をあげ合って、
「や、や。乗り抜けたぞ」
「城へ入れるな」
と遽《にわ》かに、潮を作って、こなたへ奔突《ほんとつ》して来る様子であった。
振り向いて、それを見ながら、左馬介はにこと笑ったようであった。――なお一鞭《ひとむち》当てて急ぐかと思うと、彼は十王堂の前でひらと馬を降りた。
馬の手綱を拝殿の廻廊柱につないでから、身をゆすぶって、鎧《よろい》の袖やふところの水を走らせ、二ノ谷の兜《かぶと》を脱いで、神前に置いた。
そして矢立を取り出した。筆を持って御堂の前に立ったのである。やがてそこの白壁にこう書いた。
[#ここから2字下げ]
明智左馬介光春、ただいま湖水を乗り渡し候ふ馬也。年来の忠勤をいたはる暇もなく訣別《けつべつ》をつぐ。誰にてもあれ、我に劣らぬもののふにこの大鹿毛《おほかげ》を給ふべきなり。愛《め》で給へかし。
[#ここで字下げ終わり]
筆を捨てて、階《きざはし》を降りると、左馬介は、大鹿毛の濡れ寝ている鬣《たてがみ》を幾たびも撫でて、
「鹿毛よ。おさらばだぞ」
と、人に語るように云った。
大鹿毛は鼻をすり寄せて、彼の肩へ顔を載せた。あだかも甘え泣いているようである。光春はその頸《うなじ》を抱えながら、あなたの唐崎の松をながめて、ふとこう吟《ぎん》じた。
われならで誰かは植ゑん一つ松
こころして吹け志賀《しが》の浦《うら》かぜ
この一首は、かつて光春が、初めて坂本の城を領したとき、唐崎に記念の松を植えさせ、その折、それに寄せて詠んだ和歌である。
何で、その歌がいま左馬介の口に出たか、左馬介にもわからない。ただ、説明できることは、こんなとき人間は、何か無性に鬱懐《うつかい》を放ちたくなる。天地に向って慟哭《どうこく》したい感情を反対な形で現わそうとした努力が、思わず朗唱《ろうしよう》となったのかもしれない。とにかく左馬介は、愛馬を捨ててそこから身を翻《ひるが》えすと、たちまち町口の木戸へ駈けこんでいた。彼の味方は、わッと哭《な》くような声をあげて、彼を坂本の陣営に迎え取った。
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世々《よよ》の物《もの》
光春は城に入ると、ここに留守していた全家の老幼男女から、そのすがたを、焦土に降った菩薩《ぼさつ》のように取り囲まれた。
坂本にとどまっていた光秀の夫人や一族の者も、かならず彼が一度はここへ来るものと信じて、必然、取らねばならぬ最期とは知りながらも、
「左馬どのがここへ見えられた上でも遅くあるまい」
と、待ちに待っていたのであった。
光春はすぐ令を下して、
「云い渡すことがある。将士はみな本丸へ集まれ。城外の木戸へ出ておる者も呼びもどせ」
と、下知《げち》させた。
やがて集まった頭数は三、四百に足らなかった。半数以上は、光秀の死を伝え聞くとともに、ゆうべのうち何処《いずこ》ともなく逃げ落ちてしまったものとみえる。
「よく今までここを支えていてくれた。しかし、事こころざしと違《たが》い、味方は山崎にやぶれ、大殿も昨夜|小栗栖《おぐるす》のあたりで敢《あえ》なき御最期と聞く。すでにわれらの惟任《これとう》日向守様のなき今日となっては、われらの望みも同時に終った。――かさねていう。この最後の最後まで、異心なく、踏みとどまってくれた各※[#二の字点、unicode303b]の善戦にたいして、左馬介は、故光秀様を始め、御内方《ごないほう》、ほか一族になり代って、心からお礼を申す。かくてこの一城は、わが明智一党の最後の墳墓《ふんぼ》と相成ったが、各※[#二の字点、unicode303b]にはもう武士として恥なき本分を尽し果されたことでもあれば、この上、求めて死をいそぐにあたらぬこと、それぞれの郷土に帰って、さらに、士魂をみがき、今日の訓《おし》えを生涯に活《い》かし、よいさむらいとして終ってくれるように。……これは光春が命じる最後の命令である。かならず守ってもらいたい」
左馬介はそう告げ終ると、やがて庫中の金銀から何くれとない器物や身廻りの物など、すべてをそれらの人々に頒《わか》ち、
「はやく落ちてゆけ。搦手《からめて》を出て山づたいに、四明《しめい》ケ嶽《だけ》を越えればなお遁《のが》れる先はあろう。とかくして、われら一族どもの足手まといになってくれるな。はやく、はやく」
と急《せ》いて、ほとんど、そのあらましの者を、追うように、搦手の一門から落してしまった。
あとの城中は、空洞《うつろ》のような広さだった。その寂寞《せきばく》のうちには限られた血縁の人々と、かしずく少数の女人たちと、そして極く内輪の近臣しか残されていなかった。
――すると、奥の丸の橋廊下を、幾人もの幼な子を、その母なる人や侍女《こしもと》たちと共に両手をひいて、こなたへ渡って来る老人があった。光春の叔父で明智|光廉入道長閑斎《みつかどにゆうどうちようかんさい》という、あの面白いひとであった。
「じじ様。みんなして、どこへ行くの」
光秀の末の子、乙寿丸《おとじゆまる》は八つであった。こうして、奥の者が揃って局《つぼね》を出ることはめずらしいので、ふしぎそうに訊いていた。
「さあ、いずこへ行きましょう。嵯峨《さが》の花見か、竹生島《ちくぶしま》へお舟で月見か」
このひとの常として、洒々落々《しやしやらくらく》と子供相手に戯《たわむ》れている容子《ようす》は、きょうも平生と少しも変りがなかった。夫人や侍女《こしもと》や乳人《めのと》たちは、さすがに、折々面をそむけて、そっと涙をふいていたが、長閑斎のことばを聞くと、涙の中でも、ふと笑ってしまうことがままある程であった。
もちろんここには左馬介光春の妻子もいる。その上に、亀山から光秀の妻子|眷族《けんぞく》までここへ引き取っていたので、ひと口に奥の者といっても、縁類を加えた老幼男女の数は何してもずいぶん大勢である。光春は、それを皆、叔父の長閑斎に頼んで、騒ぎ乱れぬように、本丸の広い一間に寄せ集めさせたのである。長閑斎の役目はなかなか難しくて辛いはずだった。しかしこの老人は辛い顔も悲しい容子《ようす》もしていない。例のとおり子らと戯れながら、何度にもわたって、橋廊下を往復し、やがて滞《とどこお》りなく奥の者を全部、ひとつ広間にあつめた。
「賑やかなことじゃな。このような多数の道づれでは、どこへ参ろうと、淋しゅうない」
彼は、その真ん中に坐って、たえず何か喋舌《しやべ》っていた。
けれど多くの女性は泣きぬれている。それが子たちの童心をも異様にしめやかにするので、いつもなら彼の肩や膝に取りついて忽ち、よい遊び相手とせずに措《お》かない子らも、各※[#二の字点、unicode303b]、その乳母やその母の側にすがって離れなかった。
「叔父上、みな、お揃いなさいましたか」
やがて光春はそれへ臨んで、光秀の夫人へむかい、
「はや敵は、城下近くに迫りました。いまはお心措《こころお》きなく、お始末遊ばしますように。――光春もすぐおあとを慕うて参りますれば」
と、最期をうながした。
光秀の夫人は、わが子、身寄りの子など、幼い者を左右に置いて、光春の妻と並んでいたが、
「何かと、こまやかに、嬉しゅう思います。わけてお許《もと》にひと目でも会えたのは、またとない仕合せでした。ここには気づかいなく、お許の思いのままよい死に場所を取って、敵に嗤《わら》われないようにして下さい」
「ありがとうぞんじまする。……では」
今生《こんじよう》これきりの一礼をのこして、
「叔父上。おねがいします」
「承知した」
「女房。みだれるなよ」
妻へも、一言いって、彼はすぐ去った。
城壁の外には、もう鉄砲の音が聞えて来た。それと、たった今、ここにいる者が立って来た奥の丸から突然、濃い煙が立ちはじめた。
これは光春の命によって、小姓の奥田清三郎と船木八之丞《ふなきはちのじよう》のふたりがみずから放った火であった。その火焔が橋廊下のある中庭を隔てて此方の広間の障子へ赤く映った。
「――怖《こわ》いッ」
取りすがる子の叫びや、急に泣き立てる子の声がながれた。その中にも、長閑斎の声だけは、何となく明るく、
「泣くじゃない、泣くじゃない。さむらいの子は、泣かないもの。――じじも行きますぞ、母御も参ろうぞ。みなも来い。お手々をつないで死出の旅出じゃ。さあ、お行儀よく、おすわりなさい。順々に、じじが連れて行ってさしあげる」
黒煙の漂《ただよ》い出した障子いちめんに、こまかい血しおの霧が打った。みだるる黒髪の下から最期の息で子の名をよぶ母の声も洩れた。しかしすべては一瞬の震撼《しんかん》に似ていた。刺《さ》し交《ちが》え、刺し交え、おくれる親も子もなかった。――ひとりなお生き残って、やがてそこから廊下へ出て来たのは、長閑斎だけであった。
その頃、大手の城門は、ぱりぱりと響きを立てていた。寄手の勢が破壊にかかり出したのだ。石垣の彼方此方からも、先を争う兵の影がよじ上って来る。
搦手《からめて》からは火であった。
この方面の火は、さきに城中の者がみずから放った奥曲輪《おくぐるわ》の火とつながって、忽ち半城を蔽うばかりの火勢となった。
「八之丞、清三郎。いちいち弾込《たまご》めしていては手鈍《てのろ》い。鉄砲を取り代え取り代え、弾のあるかぎり撃て」
光春は矢倉にのぼって、残り少ない左右の者に、なお下知《げち》していた。そして自身も、鉄砲を構えて、狭間《はざま》から筒先下がりに敵兵を狙撃していた。
すでに城兵の大部分を逃散《ちようさん》させたあとなので、武器だけは夥《おびただ》しく残っている。一弾放っては、またほかの鉄砲を取って撃ち、使い捨てに撃ちつづけていた。同じ矢倉にいる七、八名の小姓も部将もみなそれに倣《なら》って敵に猛射を浴びせた。
「左馬どの。居るか」
「居るッ。周防《すおう》か」
「そうじゃ」
「申しつけた品々は」
「矢倉の下まで運ばせたが、如何なされる?」
「何でもよい。すぐこれへ運び上げさせてくれい」
「心得た」
階段口から半身だけあらわして、そこから光春の背へこう云っていたのは三宅周防守だった。周防守はすぐ矢倉の二階辺りまで降りて行って、下に待っているさむらいたちにむかい、
「上げろ。上がって来い。それらの品を持って、お矢倉のうえまで」
と、手を振っていた。
その間も、光春は、鉄砲を撃ちつづけていたが、程なく、三宅周防守と、ほか四、五名の味方が、何やら蒲団《ふとん》包みにした荷物や、莚《むしろ》ぐるみにした梱《こり》などを三、四箇ほど、すぐうしろまで担《にな》い上げて来たのを見ると、
「鉄砲止めッ」
と、四方の狭間《はざま》へむかって、ふいに休戦を命じた。
なお漂《ただよ》う硝煙だけは立ちこめていたが、一令のもとに、そこはしいんと静まり返った。左馬介光春は、狭間から半身を乗り出すようにして敵勢を見ながら、
「寄手の大将、堀殿はあたりにおらぬか。かくいうは、守将の左馬介光春でござる。堀秀政どのに物申したい」
敵も急に喚声《かんせい》をひそめた。そして堀秀政の従兄弟にあたる監物《けんもつ》のすがたが矢倉の下に立った。
「左馬介どのか。今ほどは寔《まこと》にお見事であった。よい語草《かたりぐさ》をおのこしなされたぞ。はや最期のお支度と察しるが、此方に物申したいとはいかなる儀か」
「やれ、監物どのか」
と、覗《のぞ》き下ろして――
「なお少々さし上げる矢弾はあれど、武門のごあいさつもはや打ち切る。やがて全城火となり申さん。そのあとでは、われらの骨すらお求めあるも難《むずか》しかろう。ついては、可惜《あたら》、灰となすにも忍びぬ品々を、貴公の手を経て、世にお戻しいたしたい。お受け取りあれや」
云い終ると、蒲団包みや、莚《むしろ》ぐるみの荷物を、細曳《ほそびき》にからげて、狭間《はざま》から下へするする降ろして来た。
堀監物は意外な感に打たれた。寄手の将士もみな一様《いちよう》な眼をそこにこらした。矢倉の下なる監物と、上なる光春とのあいだに、なお数語が取り交わされた。
光春はいう。
「いま、お手許へお渡し申した品々は、亡き光秀様が、故信長公より生前功あるごとに拝領いたした物ばかりでござる。――それに添えてある目録《もくろく》を一見ねがいたい。――虚堂《きよどう》の墨跡《ぼくせき》、茶の湯釜、名物の茶入れ、ほかに太刀、その他数点」
監物は下で目録を見ていた。そして兵に荷を解かせ、照らし合わせて、すぐ答えた。
「お目録どおりたしかに受け取り申した。が、せっかくの御秘蔵を、憎き敵の手へお譲りあるとは、いかなる思し召しのことか。特に何人へお譲りありたいとかいうお望みでもあらるるか」
「何の」
と、光春は高き所から一笑を見せて、
「敗れ去れば天下さえ、次代の勝者に移ってゆくものを、一箇の茶器名刀の如き何かあらん――です。ただ、それがしの思うところは、かかる重器は、いのちあって、持つべき人が持つあいだこそ、その人の物なれ、決して、わたくしの物ではなく、天下の物、世々の宝と信じ申す。――人一代に持つ間は短く、名器名宝のいのちは世々かけて長くあれかしと祈るのでござる。これを火中に滅すのは、国の損失、武門の者の心なさを、後の世に嘆じられるを口惜しと、かくはお託し申す次第。――依って、その名器名刀が、やがて誰の御所有になろうと、左様なことは、ただ今、この世に暇《いとま》する光春の知ったことではありません。――流玩転賞《るがんてんしよう》――それでいい。持つべき資格のある者に持たれ、世の流れにまかせてゆけばよいのです」
告げ終ると、光春は、はや死を急ぐらしく、そこの狭間から姿をかくした。
堀監物はあわてて、再び、矢倉の上へむかってこういった。
「左馬どの、左馬どの。なおお訊きしたいことがある。もういちど姿を見せられたい」
「おう、何事」
ちらと、また光春が、下を覗いた。
「ほかでもないが、いま受け取った数々の重器のうちにも、かねて明智衆にありと聞く、世に名高い吉広江《よしひろえ》の脇差《わきざし》は、目録にも見えぬが、お取り出しを忘れたのではないか。――もし御失念なれば、庫中からお持ち出しになる間、お待ちいたしてもよいが?」
すると、左馬介光春は、呵々《かか》と笑って、
「あれは平常、日向守《ひゆうがのかみ》様が、特に御鍾愛《ごしようあい》の名刀。わけて明智家には、由緒《ゆいしよ》ふかい品でもあれば、やがて死出の山にて、光秀様にお会いしたとき、お手渡しいたさんものと思うて、わざと取りのぞいておいたのでござる。――はや火も本丸まで燃えついて来たようですから、余事を申しておる遑《いとま》もない。監物どの、いざ、攻めかかられよ」
ことばの下から、ぐわんッと異様な音がした。光春は一閃《いつせん》の火光と黒けむりの裡《うち》にかくれ、矢倉の狭間のすべてから、同時に濛々《もうもう》と硝煙がふき出した。
次の一瞬には、轟然《ごうぜん》と、全楼ことごとく、一火となって崩れて来た。火薬を積んで自爆したのである。
坂本城は、明智方最後の一拠地だった。左馬介光春以下、一族とその股肱《ここう》は、思い残りなく、生涯の終りを飾った。かくて地上にはこの日限り、明智方と名のつくものは、一城一兵もなくなったわけである。
自爆した矢倉の崩壊《ほうかい》と共に、全城また火の海となったので、寄手の勢は、いったんその火勢から、囲みを開いた。
ところが、その焔の下から、まだ生きていた一人の敵が躍り出した。
「寄手の若い者に物申さん」
と、その老武者は、熱風の中から駈け出して、
「われは光春の叔父、明智|長閑斎光廉《ちようかんさいみつかど》である。欲しくば寄れ、この首をさずけん」
そしてりゅうりゅう槍をしごき、堀勢の一角へ猛突して来たのだった。
日頃、家庭の児女たちや、坂本の家中一般からも、「のん気なお方」といわれ「おひゃらくな[#「おひゃらくな」に傍点]御老人」と、まるで奥曲輪《おくぐるわ》の玩具《おもちや》みたいに見られていた長閑斎は、この日、光秀光春の妻子から老幼すべての者の最期までを見届け終ると、やがて矢倉にのぼっていた。そして甥の光春に切腹をすすめて、その介錯《かいしやく》をつとめ、さらにまた、三宅周防守らの将士が、すべて自害し終ってから、矢倉下の火薬に点火するという――最後の一役までもしていたのであった。
「やあ、口ほどもないぞ。当年六十七歳の老武者の槍先から逃げまどうような奴は、この先ともに世に生きていたところで、世の役には立つまい。われと思わん若い者なら、この首を取れ。取ってみよ」
長閑斎は、広言を吐きぬいていた。実際、彼の槍に立ち得る者もなかった。真実死をきめた人の働きには、老若の差もありとは見えない。まさに老獅子の奮迅《ふんじん》に似ていた。
突き崩された寄手は、ついに鉄砲を揃えてこれを撃とうとした。すると堀秀政の旗本、薬師寺《やくしじ》某は、
「さすがに、甥も甥なり、叔父も叔父なり、あわれにも、見事な死に振りよ。ねがわくは、あの入道首はそれがしに給われ」
と鉄砲組の狙撃《そげき》を制して、一槍《いつそう》をもって立ちむかい、ついに突き伏せてその首級をあげた。
長閑斎は、さきに甥の光春を介錯《かいしやく》した光春所持の刀を帯していた。首級はその品と共に、やがて、堀秀政の手から三井寺へ送られ、秀吉の実検に供えられた。
「死んだか。……この長閑斎も、おもしろい老人だったが、とりわけ、光春は惜しい男だった」
秀吉は、首と刀を前にして、左右の諸将にこんな思い出を語った。
「あれはもう――だいぶ以前のことになるが、光秀が初めて坂本城を拝領した頃、信長公のお使いで、この筑前が祝いに参ったことがある。そのとき、光秀は下へも措《お》かずわしをもてなし、またしきりに、従兄弟の光春をも会わせたがって、何度も、左馬介を呼びにやったらしいが、ついに出て来なかった。――その帰りがけじゃ。わしが湖畔の道へかかると、松原の中で、茜《あかね》の陣羽織を着た男が、余念なく、馬の稽古を励んでおる。この方の行列にさえ一顧《いつこ》もくれず馬ばかり飛ばしているのだ。――あとで聞くと、それが左馬介光春であったそうな。その時分から、わしもひそかに骨のある男と見ていたが、果たして今日、その真価を天下に示した。……もしこの男が、わしの麾下《きか》であったらと真実思う。しかしこう惜しまるるもまた人の華《はな》だが」
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駄《だ》 農《のう》
秀吉は三井寺に宿陣していた。十四日の夜はまたも大雷雨であった。坂本城の余燼《よじん》は消え、墨の如き湖や四明《しめい》ケ嶽《だけ》の上を、夜もすがら青白い稲光《いなびかり》が閃《ひら》めきぬいた。
もし、地上の現実を超えて、人の感情や幻想をも、歴史の影として書くことができるならば、この夜の凄い黒雲の中には、明智一党の軍馬がなお轡《くつわ》の音や喊《とき》の声を止めず、また本能寺方面にもただならぬ武者声が聞かれたであろう。そして叡山《えいざん》の根本中堂《こんぽんちゆうどう》あたりには、かつてこの峰々で焼き殺された無数の僧侶、碩学《せきがく》、稚児《ちご》、雑人《ぞうにん》たちの阿鼻叫喚《あびきようかん》もたしかに聞え、或いは哭《な》き、或いは笑い、或いは闘い、それが電光と雷鳴をなしていたといっても、あながち過言ではないであろう。
なぜならば、京近畿《きようきんき》の諸民は、明智氏の滅亡を知っても、なお明日の世がどう向いてゆくか、地上の修羅《しゆら》がいつ熄《や》むか、大きくそれを見とおすことはできないのみか、むしろふたたび、信長以前の乱脈な風雲が世をおおうて来るのではないかと――夜の具をかぶりながら、この夜の雷雨に夜ッぴて脅《おび》えていたろうと思われるからである。
が、夜明けとともに、一天はきれいに拭《ぬぐ》われ、ふたたび暑い夏空となっていた。
この日は、十五日である。
三井寺の本陣から見ていると、湖の東岸に当る安土の方に、濛々《もうもう》と黄色を帯びた濃煙が揚り始めた。
「安土が旺《さか》んに焼けております」
哨兵の報に、諸将が廻廊に出て、秀吉以下、手をかざしていると、瀬田の山岡景隆から早馬があって、
「――今朝来、江州《ごうしゆう》土山に陣しておられた北畠殿(信長の第二子信雄)と、蒲生《がもう》殿の勢が一手になって安土へ攻めよせ、城下城塁に火を放たれましたため、火は湖の風をうけて、安土一円をつつんでおります。――が、すでに安土にはさしたる敵兵もおりませぬゆえ、合戦というほどな合戦は行われていないものと存じます」
こう情況を伝えて来た。
秀吉ははるかにその状《さま》を想像しながら、
「理由なき放火よ。信雄様はともあれ、蒲生までが、何をあわてて」
と、口のうちで、不機嫌な呟《つぶや》きを鳴らしていた。
しかし彼の眼はすぐ和《なご》んだ。信長が半生の血と財力をかけて築いた文化は、あらゆる意味において惜しまれはするが、秀吉にはやがて秀吉自身の力をもって、ふたたびそれ以上の文化や城廓を再現してみせる確信があった。その抱負は、このときはもう彼の肚《はら》にも充分な確信をもって描かれていた。むしろ今日を画《かく》して過去のものは過去に帰してゆく天意にたいして、新たな励みと感激を覚えた。
折ふしまた、山門の方から哨戒《しようかい》の将士が、一名の男を取り囲んでここへ連れてきた。
「小栗栖《おぐるす》の百姓、長兵衛という者が、日向守の首級を、醍醐辺《だいごへん》の畔《くろ》で見つけたと申して、ただ今、それを持参のうえ、訴えて参りました。――この儀、君前までお取り次ぎを」
中門の守将は、直ちに駈けて、ちょうど縁に出て立っていた人々の下へ行ってひざまずき、そのまま秀吉の耳へ達した。
敵将の首を実検するには厳《おごそ》かな作法と礼をもってするのが慣《なら》わしである。秀吉は扈従《こじゆう》に命じて、直ちに本堂の前に床几《しようぎ》を設けさせ、やがて左右の人々と共に着席して、光秀の首を見た。
「…………」
凝視《ぎようし》するのみで、秀吉は何もいわなかった。ただ無量な感慨につつまれている姿であった。
この折、秀吉が床几を立って、
(主君信長を討った酬《むく》いを思い知ったか)
と、光秀の首級を杖で打ったなどということが、「豊鑑《ほうかん》」には書いてあるが、嗤《わら》うべき筆者の臆測というしかない。
同じ臆測をするならば、秀吉が振り上げた杖は、むしろ首級の傍らにしたり[#「したり」に傍点]顔して控えていた訴人《そにん》の男に振り下ろされたろうと考えたほうが、まだ遥かに秀吉の心事に近い。
光秀の首を土中から掘り起してこれへ持って来た訴人というのは、年頃三十がらみ、風体から見ても、酒焦《さかや》けのした、面構《つらがま》えもどことなく悪ずれ[#「ずれ」に傍点]ている男だった。
当人の申したてでは、小栗栖村の百姓長兵衛と称えているが、元々百姓の家に生れ、農村の事に通じている秀吉には、ひと目見て、
(これは良農ではない。どこの村にもいる駄農というやつだ。かかる者に恩賞を与えて、郷土に誇らしめるのはおもしろくない)
と考えたことであろう。
事実、この長兵衛という男は、醍醐《だいご》辺の百姓とも、小栗栖の庄屋の息子だとも、諸書に種々伝えられているが、いずれにしても真面目な農でないことは確からしい。今もむかしも、農村にはかならず一人や二人はいるぶらぶら[#「ぶらぶら」に傍点]者――怠け者で、すれからし[#「すれからし」に傍点]で、屁理窟《へりくつ》ばかりこねて、勤勉な農をダニのように邪《さまた》げている――いわゆる駄農の類《たぐ》いには違いないようである。
従来の通説によると、とかく戦国期の百姓は、平常は田畑に出て働いているが、附近に戦争があると忽ち土匪化《どひか》して、弱い落人《おちゆうど》を襲ったり、戦死者の持物を剥《は》いだりすることを稼《かせ》ぎとしていたかの如く伝えられている。しかしこれは史家の大きな誤認だと思う。日本の百姓《おおみたから》の郷土における悠久なすがたを、他民族の百姓と同列に視《み》、或いは唯物史観に陥ちた史家の誤謬《ごびゆう》にほかならぬものである。決して、過去の史家にいわれたような弊風《へいふう》と悪質な生態が、当時の農村そのものであったわけではない。
ただこういうことはいえるかと思う。
戦乱による「時の敗者」にとっても、悪質な闇の横行者や怠け者にも、当時の農村は全国的によい匿《かく》れ家《が》にされていたという事実である。滔々《とうとう》とこれらの者が流れこんでいたには違いない。だが、こういう帰郷者や外来者と、祖先以来そこに住んで、黙々と土のみに天命を託して、五穀を祷《いの》り耕していた純然たる百姓とは、当然、区別して考えられねばならない。室町《むろまち》以来、一戦また一戦あるごとに、夥《おびただ》しい不純が純の中へ割りこんで来て農村の姿を殺伐化《さつばつか》したが、その荒《すさ》びきった時流の底にも、古来からの農は、依然|粗壁《あらかべ》の中に貧しい燈を細々ととぼして、時代の物音に脅《おび》えながらも、本然の勤めと農の心は失われていなかったことは確かである。――さればこそ時移れば、さしもの濁流も、ふたたびもとの純に澄むのであった。
「光秀の首はどこから持って来たか」
秀吉の問いをうけると、小栗栖《おぐるす》村の長兵衛は、待っていたように幾つも頭を下げて、百姓に似げない弁舌で答えた。
「醍醐道の藪の畔《ほとり》へ、誰知るまいと埋めておいたやつを、後から掘り返して持って参りましたので。はい」
「どうして、そこに埋《い》けてあったものが、すぐ分ったのだ」
「それや分るはずでございますよ。小栗栖村の大竹藪を、日向守やほか七、八騎が通るところを、こいつと見定めて、竹槍で一突きくれたのも、かく申す長兵衛でございますからね」
「おまえが竹槍で光秀を突いたというのか」
「へい、左様で」
「よく致したなあ」
「そりゃあ、大将様の前でござんすが、少しばかり腕にも覚えがありますから」
「百姓もし、腕にも覚えがあるとは、おまえはなかなか隅に措《お》けないしれ者だな」
「しれ者たあ、何でございますか」
「百姓らしくもない、喰えん奴じゃと申すことだ」
「へへへ。土地の百姓どもときては、意気地なしの、腰抜けばかり揃っておりますから、たとえ、明智方の大将株が、落武者となって通ると分っても、こいつに、竹槍をつけるなんという度胸ッぷしのあるやつは一人だっていやしません。憚《はばか》りながら、もしこの長兵衛が、音頭《おんど》を取って、野伏りどもを集めなかったら、日向守はまだこうして、首になってはいなかったろうと存じます」
「仲間の野武士は多勢か」
「五十人の余も狩り集めてやった仕事なんで。へい」
「では、汝一名のてがらというわけでもないな」
「左様でございます。その五十人の奴らは、てまえが帰るのを村で首を長くして待っておりまする」
「ふム。何で待っておるのか」
「てへへへ」
と、長兵衛は、自分の頸《くび》すじを平手で叩きながら――
「御大将には、申し上げかねますが……その、御褒美の金の割り前をもらおうってんで……」
「褒美か」
「へい。何分、よろしく」
揉手《もみで》をして、また平伏した。
秀吉は、左右に命じて、首を首桶に納めさせ、やがて云った。
「長兵衛」
「へい」
「汝は、酒好きだろう」
「すこしばかりは」
「遠慮するな。飲みたいばかりに働いたことだ。きょうは存分飲んで帰れ」
と、傍らの福島市松とほか二、三名の荒武者を選んで命じた。
「この男に、酒一斗与えて、飽きるほど飲ませてつかわせ。飲み切らぬうちはそちたちの刀にかけても帰すな。飲みほしたら門前から抛《ほう》り出してやれ」
「かしこまりました」
「あ。……た、大将様。御褒美のお金は」
「追って、小栗栖村一同の村民へ施与《せよ》いたすであろう。家臣をつかわして地頭名主へ手渡してやる。汝に持たしては、途中、一斗の酔でこぼしてしまうに違いない」
「さッ、立て。飲みに来い」
荒小姓の福島市松などは、左右から彼の襟《えり》がみをつかんで、面白半分に何処かへ引っ張って行った。
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桔梗分脈《ききようぶんみやく》
光秀の首は本能寺の焼け跡に曝《さら》された。水色桔梗《みずいろききよう》の九本旗がここの暁に鼓譟《こそう》してからわずか半月の推移であった。
もとより見るにまかせてあるので、市民は朝から夕べまで蝟集《いしゆう》した。それだけで充分このことの政治性はあった。ひとたびは光秀の逆を道義に照らして罵《ののし》った者も、いまは口の裡に称名《しようみよう》を念じて帰った。稀《ま》れに腐屍《ふし》の下へ花を投げてゆく者もあった。警固の武士もそれを見て咎《とが》めるようなことはしなかった。
京都を中心とする残党の詮議《せんぎ》なども、極めて短期間にすまされて、より大きな意味の人心転換がはかられていた。生前、光秀と親交のあった吉田兼和《よしだけんわ》や里村紹巴《さとむらじようは》などの召喚《しようかん》されたことが、ちょっと民間の神経をとがらせたが、これも即日、
――咎めなし。
ということで帰されていた。
秀吉の軍令は簡にして明であった。職に励め、悪事はなすな、紊《みだ》す者は斬る――の三則に尽きている。そしてまた光秀の場合とちがっていることは、京都に入ったからといって、すぐ地子銭《じしせん》の免税を布告したり、五山や公卿《くげ》たちへ献金したりするような媚態《びたい》のない点だった。いや彼はまだ正式に信長の葬いをしていないのである。この大葬はただ兵力によっては出来ず、また彼一名の名をもってするわけにもゆかない。
すべてはその後でという肚であろう。殊になお中央の大火はようやく鎮《しず》まったものの、飛火は各州の国々に及んでいる。
柴田、佐久間、前田。また徳川、滝川、毛利、長曾我部《ちようそかべ》。なお信長の遺子たる北畠信雄とか神戸信孝とか、親族たちの意向から、さらに、その間に伏在する諸武門の心態など、これをいちいちつぶさな思考に糺《ただ》して望見《ぼうけん》していたら、到底、手の下しようもない千波万波というほかはない。天下の相貌はまだまだ決して一旦《いつたん》の狂瀾《きようらん》からもとの平静に帰ったわけではないのみか、信長|逝《ゆ》き、光秀去って、ふたたび全土三分の大分裂を来すか、或いは、室町中期のもっとも悪い一時代のような、同族抗争と群雄割拠の状《さま》が再現するにいたるかも知れないと思われるようなものすらある。
かかる中に、秀吉は数日三井寺からうごかなかった。
十七日には、ここへまた、明智方の老臣斎藤内蔵助|利三《としみつ》が、捕われて引かれて来た。
秀吉は、この老虜将《ろうりよしよう》の白髪をあわれみ、
「望みは」
と訊いてやった。
「ただ、死のみ」
という利三の答えだった。
訊問《じんもん》によってわずかに彼が知り得たところによると、内蔵助利三は十三日山崎に敗れた後は子息の利光や三存《みつよし》とも別れ別れになり、江州堅田《ごうしゆうかただ》の民家にひそんでいたところを捕えられたものである。身には幾ヵ所かの矢傷槍傷を負い、毛髪は麻のように白く、見るからに愍《あわ》れであった。
十八日、洛中《らくちゆう》を引きまわし、後、首級は粟田口《あわたぐち》に梟《か》けられた。
ここに市井の一小事件があった。
首の紛失である。
粟田口に梟《か》けられた斎藤利三のそれは、本能寺から移して来た光秀の首級と並べられていたが、曝《さら》されたのはわずか半日、その夜、何者かに盗まれてしまった。
「明智党の仕業《しわざ》であろ」
「まだ残党がいるのだ」
洛中の者は、詮議の苛烈《かれつ》を予想して恟々《きようきよう》としていたが、このことについては、存外、その後さしたる余波もなかった。
ところが、それに安心し出した頃になると、だれいうとなく、
「首を盗んだのは、画家の海北友松《かいほうゆうしよう》らしい」
という噂がたった。
友松は当時洛北の一寺院に住んでいたが、そこを訪《おとの》うた者の言によると、彼は依然たる貧乏と画三昧《がさんまい》のうちに慎んでおり、それについて訊ねてみても、自分がしたともいわなければ、自分ではないともいわない。ただ笑っているのみであった。――ということであった。
前々から光秀とは心交を契《ちぎ》っていた彼ではあり、内蔵助利三とは取りわけ親密だった友松なので、
(てっきり、彼が)
という当然な臆測が生んだ風説にはちがいないのである。けれどまた、当人がどこかそれを肯定している容子《ようす》であるから、察しると、案外、世間の考えが中《あた》っているかも知れない――という者もあった。
しかし京都守護の軍から友松へたいしてべつに召喚もなく過ぎた。為に、洛の内外は、日ならずして、前にもまさる平穏に返っていた。
――これはずっと後の余談になるが、斎藤利三の末娘は、お福といって、やがて稲葉正成《いなばまさなり》に嫁《か》した女性である。
良人の正成は小早川秀秋《こばやかわひであき》に仕えていたが、関ケ原の役にやぶれて牢浪《ろうろう》の果て、妻のお福は二代将軍秀忠の息竹千代の乳人《めのと》になって柳営《りゆうえい》にあがった。有名な老女|春日局《かすがのつぼね》はこの女性なのである。ひと年、上洛して天顔《てんがん》にまで咫尺《しせき》するの栄すらになった。そのおり、この春日局は、いまは亡きひとながら海北友松の遺族をたずねて、
(天正十年六月の父の忌日《きじつ》をまつるたびに、あなた方の御先代友松どののお情けも思い出され、その御芳志は今もって忘れておりませぬ)
と、手土産の金一封を置いて東《あずま》へ帰ったということである。
これをもって見れば、いよいよ海北友松の――笑而《わらつて》不答《こたえず》――の態度には、その陰にひとつの事実があったことは確からしい。
明智氏は亡んだが、桔梗《ききよう》の根は諸家に分脈されている。そのうちにも妙《たえ》なるものは、後に伽羅沙《がらしや》とよばれた細川忠興夫人である。父光秀が叛旗をあげた日から最期にいたるまで――いやその後々までも、夫人がいかに世の批判と家庭のあいだに立って人知れぬ苦悩をしたかは、想像に余りあるものがある。それは一篇の戦国女性史をもってしなければ到底語りきれないものであるから、ここではこれ以上及ばないことにしておく。
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母《はは》の城《しろ》
三井寺の秀吉は、その本陣をそっくり十数隻の兵船の上に移した。馬も乗せ、金屏風《きんびようぶ》も乗せた。十八日のことである。目的は安土への移動だった。
陸路にも軍勢が蜿蜒《えんえん》と東進していた。微風にうごく旗幟《きし》を乗せて湖上を行く船列と、湖岸をすすむ陸の行軍と――両々相映じてゆくさまは壮観というもおろかであった。
が、安土はすでに焦土である。ここに到着するや、ひとりとして、憮然《ぶぜん》としないものはなかった。
金碧《こんぺき》の天守閣もない。外廊の諸門も総見寺《そうけんじ》の楼廂《ろうしよう》もほとんどあとかたなく焼けている。城下町はもっとひどい。野良犬の漁《あさ》る餌もなかった。南蛮寺のばてれん[#「ばてれん」に傍点]がうつろな眼をして歩いている影が妙に目につく。
ここにあるべきはずの北畠信雄《きたばたけのぶお》は、蒲生《がもう》賢秀《かたひで》とともに江州《ごうしゆう》の土山にたてこもり、いまなお伊勢伊賀の叛乱軍と抗戦中なることも来て見てわかった。
安土の放火は、直接、信雄が指揮したのでもなく、蒲生賢秀の意志でもないことが同時に判明した。一部軍隊の行為には違いないが、何か命令を穿《は》きちがえたものか、敵側の流説に乗ぜられて、逸《はや》まったものらしく想像された。
「心ない業《わざ》だ。取り返しもつかぬ。返すがえすも惜しいことを」
秀吉と同行の神戸《かんべ》信孝はしきりと嘆いたが、それでもこの放火が信雄の手でなされたものでないことが判明してからは、よほどその憤激もなだめられたようである。
秀吉はといえば、彼の志向はすでに江北から美濃方面へ転じている。
ここに着くとすぐに堀、中村、宮部などの諸隊に命じ、江北の山本山城へ急がせていた。明智の一将|阿閉《あべ》淡路守と、それに組みした京極高次《きようごくたかつぐ》一族などの逃げ籠《こも》っている小城である。
光秀の乱に呼応して起った若狭《わかさ》の武田元明は、丹羽長秀の佐和山の城を奪い、また、阿閉淡路守も同じ頃、秀吉の留守城を襲って長浜を占拠していた。
いくばくもなく、中央の戦況は俄然《がぜん》非となり、光秀も討たれたと知るや、長浜の阿閉淡路守はそこを出て、そこから約三里の地にある山本山城へ移ってしまった。もちろん京極《きようごく》一族と共に。
かくて猛烈な寄手の攻囲をうけると、山本山城は、脆《もろ》くも一日半で陥ちてしまった。阿閉淡路守は斬られ、一子孫五郎は湖畔から船でのがれようとしたところを、里の者に妨《さまた》げられた上、なぶり殺しにされてしまった。また京極高次も、坂田郡の寺内で捕われかけたが、ちょうど追手の堀秀政は、以前、京極家に仕えていた関係もあったので、その旧恩によって辛くも難をのがれ、これは越前の柴田勝家を頼って遠く落ちのびて行った。
安土滞陣もわずか二日だった。船列はふたたび湖を北した。秀吉はいよいよかつてのわが家たる長浜の城へその本軍をすすめた。
城は無事だった。敵影もなく、すでに味方の兵も入っている。
ここへ金瓢《きんぴよう》の馬簾《うまじるし》が上がると、城下の民は狂舞して、彼が船から城へ通る道すじへ溢れ出て来た。女も子供も年寄も土下座して迎えた。涙して顔をあげ得ない姿もある。歓呼して手を振るもあった。われを忘れて踊り出す領民も見えた。
(よかったよかった。みな息災でうれしいぞ。お前たちもよく怺《こら》えた。わしもこの通り達者だぞ)
秀吉の眼はそういっている。領民の熱意にこたえるため、かれはわざと馬上で通った。こういうときの領民は国主の慈眼を読みとることに甚だ賢《さと》い。語らずといえども領主の心はよく知るのである。
が、秀吉には、重大な不安も残っていた。長浜城へ入ってからそれはなお濃いものになっていた。一刻も晏如《あんじよ》としてはいられない寂しさと焦躁《しようそう》にかられていた。
「知れたか。――母上の御安否は?」
ここの本丸に坐ってからは、出入する諸将にたいして、彼はたえずこう訊ねた。――明智軍の襲撃にあうまでは、この城中につつがなく暮していた老母や妻などの身の上がにわかに案じられ出して来たのであった。
「百方、手分けして、お行方を求めさせておりますが、まだ確報もございませぬ」
と、いまも彼の前にひとりの将が復命していた。
「領民の内には薄々知っている者がおりはせんか」
と、秀吉はいう。
「――と、思われましたが、存外、その領民にも皆目得るところがございません。御一同して、ここをお遁《のが》れ遊ばす折には、極力、そのお行き先を秘して参られたもののようで」
「なるほど。それはそうかも知れんな。領内の者にそれが洩れていたようだったら、忽ち阿閉《あべ》淡路の手勢があとを追って危害を加えたにちがいないからの」
秀吉はまた他の一将を迎えて、こんどはまったくべつなことを話していた。この日、佐和山城の敵もそこを放擲《ほうてき》して、若狭《わかさ》方面へ逃走したということであった。で、そこも以前の城主丹羽長秀の手に戻ったという報告をいま耳にしたのである。
そして、夜に入ってからであった。
小姓組の石田佐吉と、ほか四、五名の同輩が、何処からかあわただしく立ち帰って来た。
秀吉の室まで来ないうちに、小姓|溜《だま》りや廊下のほうで、何やら歓びあう声が沸いている様子に、心待ちに待っていた秀吉は、
「佐吉がもどったか」
と、左右にたずね、
「なぜ早くこれへ来ぬか」
と、叱りに遣《や》ったほどだった。
石田佐吉は近郷の出生である。従って、浅井郡や坂田郡の地理にかけては誰よりも詳しい。そこで彼はこんなときこそ知識を生かすべきだと考え、みずから望んで、主君の母堂や夫人の落ちのびた先を昼から捜しに出ていたのであった。
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心のふるさと
石田佐吉はやがて秀吉の前にかしこまっていた。
「ようやく、さる所で、みな様の御所在を訊きあててまいりました」
と述べる彼の復命によると、秀吉の母堂と寧子《ねね》夫人などの眷族《けんぞく》は、ここから約十余里もある山奥に潜《ひそ》んでいるというのである。長浜から供して行った家士や侍女《こしもと》などもみな一つ所にいて、今日まで敵の目をのがれ、からくも一同は生命を保っている様子であるとも云い足した。
「佐吉」
「はい」
「そちはどこでそれを訊き出して来たか」
「寺の者から聞いてまいりました」
「寺とは」
「幼時わたくしが稚児《ちご》として養われていた真言寺《しんごんでら》の三珠院《さんじゆいん》でございます」
「よいところへ目をつけおった。すると、母や寧子の潜んだ先も、寺の縁つづきとみゆるな」
「仰せのとおり、浅井郡の大吉寺《だいきちじ》という山寺の由にござりまする」
「大吉寺とは、聞かぬ名だが、詳しくは、どの辺か」
「坂田郡の七条、鳥脇《とりわき》などを経て、伊吹《いぶき》の山裾へつきあたります。すると、北国街道が横たわっておりますが、これにならわず道を横ぎって、なおも伊吹の西麓へ登ってまいるのです。――その辺まででも、お城からおよそ六里はございましょう」
「くわしいな、汝《そち》は」
「三珠院にいた時分は、あの辺をよく飛びあるいたもので、いわば童《わらべ》時代の古戦場でございますから」
「うム、うム」
と、うなずき続けて――
「そこからまだ山奥か」
「なお六、七里、めったに里人も通わぬ道を参ります。姉川の上流|梓川《あずさがわ》の水は、渓《たに》をせき淵をなし、道に沿うておりますが、どこまで行っても水源に到りません」
「待て待て。そう聞いても呑みこめぬ。明日の道案内に従《つ》いて来い」
「おやすいことですが、わたしよりももっとよい道案内がおりまする。それを迎えにお遣《や》り遊ばしては」
「たれだ、それは」
「美濃衆《みのしゆう》の広瀬兵衛《ひろせひようえ》にござります。あの辺は美濃ざむらいの広瀬が領地の由を、三珠院でも申しておりましたが」
「いや、美濃へ使いをやっている暇はない。明日にも秀吉はそこへ参りたい。広瀬へは挨拶だけを遣っておこう」
「明日、何刻ごろお出ましになりますか」
「朝立てば、夕には、母にも妻にも会えようが」
「たといお馬でも、一日では参れません」
「早立ちでもだめか」
「到底――」
佐吉が首を振ると、
「では。――今からすぐ出向こう。今からなら、あすの夕には行き着けよう」
秀吉はいうとすぐ座を立ち上がっていた。
や[#「や」に傍点]もたて[#「たて」に傍点]もない気持ではあろうが、余りといえば急である。同席の諸将はあっけに取られた顔だし、扈従《こじゆう》の家臣たちは、支度にあわてふためいて、その忙《せわ》しなさは一方《ひとかた》ではない。
「あとは、たのむぞ」
堀秀政などをかえりみながら、秀吉は小姓のかける陣羽織を背にうけていた。そしてなお云った。
「大津には彦右衛門をのこしてあるし、安土には神戸どのが止まっておられる。佐和山といい、この長浜といい、はや抑えは心配ない。――で、ちょっと母を迎えに行って来るゆえ、両三日のいとまをくれい」
「行っていらっしゃい」
諸将はそういうしかない。
総立ちで、城門まで見送った。そのあいだ、人々のつらつら思うには、いったいこの羽柴という大将はどこまで続くものだろう。背中から眺めても、いっこう見ごたえもない体格なのに、そのどこからこういう気力や体力が湧いて出るものか――という驚嘆に似たあやしみであった。
「――なんと大仰《おおぎよう》な。母を迎えにまいるのは秀吉のわたくし事。……そう大兵を供して参るには及ばぬことだ」
秀吉は城門を出るとすぐ大声でどなっている。須臾《しゆゆ》の間《ま》に勢揃いして待っていた六、七百の兵列をそこに見たからであった。山崎、坂本と連戦して来て、安土でもほとんど休むいとまもなく、早暁そこを立ってこれへ来たばかりの今夜である。兵の顔はまだみな泥の如く疲れきっているのである。秀吉はそれをも察してそういったのかもしれない。
「供は、五十騎もあればよい。ただし小姓どもはなるべくみな来いよ」
すでに馬上へうつり、松明《たいまつ》を持つ人々が列の先に立つわずかな間を、秀吉はそう告げていた。あらかたの兵はあとに留むべしといった。
「それは危ない。五十騎では少なすぎる。この夜道――わけて伊吹の山近くにでもなれば、なおいかなる敵勢が潜《ひそ》んでおるかも知れぬに」
堀秀政も池田勝入も、口をきわめて諫《いさ》めたが、秀吉には、その懸念《けねん》はないとする確信があるものの如く、「案じるには及ばぬ」とのみで、やがて、松明の火光を先に、長浜の城門から東北方の並木道を一路遠ざかって行った。
宵から四更にかけて、秀吉はさして急がずも五、六里の道は捗《はか》どっていた。石田佐吉がさきに走って、七尾村の三珠院を叩いたのはまだ真ッ暗な時分であった。寺僧の驚きは一通りではあるまい――と思いのほか、何ぞはからん、山門をひらくと、寺内は煌々《こうこう》と燭をてらし水を打ち、清掃いたらざる所もない。
「たれだ、わしの立ち寄ることを、先触れしたものは」
「佐吉にございまする」
「そちか」
「はい。この辺で殿の御休息あるはまちがいなしと思い、足早な若党ひとり先へ走らせて、五十人前の弁当と、お湯漬の調《ととの》えなど命じておきました」
この寺のお稚児《ちご》だった佐吉が、秀吉に貰われて長浜城の小姓部屋に入ったのは、彼が十三のときだった。
それから八年目の今日である。石田佐吉も二十一歳の若武者とはなった。しかも事理に明るく敏才《びんさい》衆をこえている。秀吉も常に、
(市松も虎之助も助作も、みな武勇すぐれておるが、その中の佐吉はすこし異っておる)
と、いつもいっているほどである。
この佐吉を、親代りともいえるほど、幼時から育てた三珠院の住職は、いまなお健在だったので、今日の佐吉を見て、よろこぶこと限りもなかった。
同時に、久々な城主の来訪でもあったので、寺中をあげて款待《かんたい》につとめたことはいうまでもない。
けれど秀吉の気持は、唐突を知って、ほんの小憩《しようけい》を求めに立ち寄ったに過ぎないのであるから、従者の弁当を調《ととの》えさせ、自分も湯漬の馳走になって、一碗の茶を喫《きつ》し終ると、
「世話になった。いずれ沙汰するであろう」
と、直ちにそこを出発した。
この頃となっても、夜はまだ明けきっていなかった。ただ目のまえの伊吹山の線がほのかな暁紅と薄浅黄の空にはっきり浮き出して見え、耳に小禽《ことり》の声が聞かれて来たにすぎない。道の露はふかく、そして樹の下は暗かった。
住持のいいつけで、山にくわしいという若僧がふたり、わらじ穿《ば》きで、松明のさきに立ち、
「大吉寺まで御案内申しまする」
と、伊吹の腰へ上って行った。その僧が指していうには、
「伊吹に連なる彼方の山は国見といい、あのへんを東へ越えると、美濃の揖斐郡《いびごおり》になります。――またこれから奥は草野《くさの》ノ庄《しよう》といい、むかし平治の乱に源義朝《みなもとのよしとも》の父子が匿《かく》れたのもそこだと云い伝えられております」
秀吉は楽しげに見える。一歩一歩、母や妻に近づいていることを意識してであろう。道の嶮《けわ》しさも身のつかれも知らない容子である。そして静かに明けて来た伊吹の西谷《にしたに》を行くほどに、ここはもう彼にとって母の懐《ふところ》かのような心地がするらしかった。
さきに石田佐吉がいったことばの通り、梓川《あずさがわ》の渓流は、それに沿って溯《のぼ》っても溯っても水源らしくならなかった。却って、行くこと数里にして豁然《かつぜん》とあたりは展《ひら》け、山奥とも思われない広々した谷あいへ出た。
「あれが、かなくそ山です」
つき当りの巍峨《ぎが》たる一峰を指して、案内僧がひたいの汗を押し拭《ぬぐ》った頃、陽《ひ》もちょうど中天、真夏の暑さは昇りつめていた。
「まだよほどあろうか」
「この辺から東草野ですが、大吉寺までは、なお二里もございましょう。何しろひと口に草野ノ庄といっても、上草野、東草野にわかれ、東西二里、南北五里というひろい谷でございますからな」
僧はまた先に立って行く。道は狭《せば》まるばかりである。この辺からは騎馬では無理というので、秀吉も扈従《こじゆう》の家臣も徒歩になったが、そのとき、何を認めたものか、左右の者は、にわかにどよめき立って、
「敵らしいが」
と、噪《さわ》ぎはじめた。
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良《よ》い息子《むすこ》
ひとつの山陰を旋《めぐ》って、次の視野へ出たときなのである。――見るとなるほど、彼方の山腹にひとかたまりの兵が屯《たむろ》していた。向うでも驚いたとみえる。遠くこちらの一行を知るととたんに総立ちになっていた。何か指揮するような表情を示している者だの、また幾人かの兵はわらわらと何処かへ駈け散らかってゆくらしくも見えた。
「伊吹へもだいぶ逃げこんだと聞く。その阿閉《あべ》勢か京極《きようごく》の残兵どもであろう」
秀吉の供人たちは、あり得ることとして、直ちに、隊伍の中の銃手を前に繰り出した。すぐ打敷けと命じるのだった。すると前の方では、かの道案内の二僧が、
「敵ではありません。草野ノ庄を守っている哨兵《しようへい》です。大吉寺から出ている見張りの衆ですから撃ってはいけません」
と、手を振りぬいて後の者を制しながら、一方、あなたの山腹へ向っても、出せるだけの声を張って、何やら手真似《てまね》で意志を送っていた。
すると、山腹に屯《たむろ》していた兵の影は、崖をくずれ落ちる石ころのように、一斉にそこを降りはじめていた。まもなく背に小旗を差した一将が此方へ向って駈けて来る。近づくに従って味方にちがいないことが確認された。味方である。長浜の留守にのこしておいた一家臣にちがいない顔を秀吉も思い出していた。
もとより山寺である。大吉寺は大吉堂ともいい、一宇《いちう》の堂と、破《や》れはてた僧房|一棟《ひとむね》しかない。
平治の頃、義朝《よしとも》父子が匿《かく》れたという頃には、この山中にも、四十九院の殿舎があったと古記はつたえているが、いまは野瀬《のせ》とよぶ渓流に臨むそこの小部落をあわせてもそんな戸数はなかった。
雨が降ると、雨がもる。風がふくと、壁や梁《うつばり》の土がこぼれる。そうした本堂に、寧子《ねね》は老母に侍《かしず》いて住み、僧房のほうには、身内の幼い者や年寄や侍女たちを住まわせていた。また長浜からついて来た家臣やその郎党たちは、附近に小屋を建てたり、部落の農家に分宿したりして、ともあれ二百何人という大家族が、ここに半月以上の、きのうまで予想もしなかった必死の生活を体験していた。
六月始め、本能寺に! ――とあの乱が聞えたときにはもう長浜へも明智軍の急潮を目前に見ていたのである。――何をするまもありようはない。はるか中国にある良人《おつと》にあてて、妻として、寧子《ねね》が一書をしたため送ったのが、実にやっとの暇であった。老母を負い、眷族《けんぞく》を伴い、家臣を励まし、城をすててのがれ出るにあたっても、もとより持物などは顧《かえり》みていられなかった。老母の着換えと、良人が君公から拝領した品などを、馬の背に積ませたのがようやくであった。
この場合、誰よりも悲壮な覚悟と大きな責任を「女の道」に感じていたのは、いうまでもなく寧子である。家の留守をあずかり、良人の母に仕え、なお多くの召使を擁している身として、
(どうしたら戦陣にあるわが夫《つま》に、妻よ、よくやったと、欣《よろこ》んでもらえるだろうか)――を生命《いのち》にかけて念じたにちがいない。きのうまでは、良人は戦場に在り、自分たちは国内にある、という観念でいたのが、一朝にして、そのけじめ[#「けじめ」に傍点]もなく、居る所いずこも戦場と化したのである。
が、これが戦国のあたりまえな相《すがた》であった。戦国に生活してゆく人々にとっては、たとい一時の狼狽はしても、
(夢のような)
と、おろおろするようなことはなかった。あり得ぬことと嘆き沈んで、滅失《めつしつ》に囚われてしまうような不覚者は侍女のなかにもいなかった。
ただ、母の身を、何処へ移しまいらせようか――それには寧子も心をいためた。一時、城は敵手にゆだねても、あの良人のことである。いつかかならず奪回《だつかい》する。その信も固かった。けれど万一、老母の身にひとすじの矢でも負わせたら取り返しがつかない。留守をあずかる妻として、良人にあわせる顔はない。それをのみいっぱいに思った。
「ただ母様を。――母様のお身を護って給《た》も。寧子の身などかもうてくれるな。いくら惜しい物とて、財宝には心をひかれまいぞ」
寧子は、召使う女たちへも、一族の誰彼へも、こう諭《さと》したり励ましたりして、必死に道を東へ東へ急いだのであった。
長浜の西方一帯は湖だし、北は敵の京極や阿閉《あべ》の与党が牽制《けんせい》しているし、美濃路の方面はまったく動静が知れないし、必然、伊吹の山ふところを望んで逃げてゆくしかなかったのである。
勝者の一族たる場合は、よくぞ武人の妻にとあらためて思うほど曠《は》れた幸《さち》にもつつまれるが、ひとたび敗者に立ったときの――わけても居城を逐《お》われて落人《おちゆうど》になったときの――惨たる姿と心根とは、平常、野に働いたり、町に物を商《あきな》っているものには、到底、想像もできないみじめさであった。
その日から食には飢え、野伏《のぶせ》りや敵の斥候に脅《おびや》かされ、暮れては雨露《うろ》のしのぎにも困り、明けては血にそんだ白い足をたがいに励まし励まし逃げるのであった。
ただこういう辛酸《しんさん》のなかにも毅然《きぜん》として失わないものは、
(もし敵に囚《とら》われたら)
と、そのときの一つの覚悟と、
(時あれば、ふたたび、敵にものみせて)
と、ひそかに誓うやがての意気であった。不屈な女の一心だった。平常の臙脂《えんじ》や黒髪のうるわしさも、もしこの日にしてその芳香を心から発するのでなければ、ただ醜《みぐる》しさをかくす似而非《えせ》のものと、女と女のあいだですら蔑《さげす》み、卑《いや》しむ気風があった。
野瀬の部落は絶好な避難所であった。遠く哨兵《しようへい》を立たせておけば、まず敵の急襲にあわてる惧《おそ》れはない。真夏なので、夜の具、食糧なども、何とか間に合う。
ただ佗《わび》しさは、余りに人里と隔絶されているため、以後の世情が皆目知れないことであった。
(使いもはや帰りそうなもの)
寧子は西の空へ想いを走《は》せた。長浜を落ちる前夜、あわただしく一書をかいて中国の良人へ持たせてやった使いの消息もあれきりだった。或いは途中で明智の手にとらわれたか、ここの匿《かく》れ家を探し当てないものか。朝夕を千々《ちぢ》に思うのだった。
ところが、それより先に、山崎に合戦があったと近頃聞えて来た。ひそかに里へ出した一家臣が三珠院で聞いて来たことである。それを耳にしたとき、寧子の血は皮膚の表にまで色になって出た。
「……さもあろうよ。あの子のことじゃ」
これは老母の言葉であった。さも当然としているかのようにである。とはいえ、髪もいつか真ッ白になりかけているこの母は、朝起きるから寝るまで、大吉寺の本堂にべたと坐ったままほとんど身うごきもせぬ姿であった。
ひたぶるに、わが子の戦捷《せんしよう》を念じていた。いかに世は乱れても、自分の産んだ子が大道を踏みちがえるようなことのないことだけは固く信じているものの、いまなお寧子にうわさするときは、むかしの口癖をそのまま、あの子あの子と秀吉をよんでいるこの母であった。終日の祈念は一すじに、
(この年老いた身に代えても)
と、念じているにちがいない。――そして折々には、ほっと正面の本尊仏を仰ぎ見ていた。大吉堂のそれは立像丈余の聖観音《しようかんのん》であった。
「お母さま。何かしら近いうちに、ここへ吉報があるような気が寧子にはいたしますが、お母さまには……」
すこしの暇でもあれば、彼女も母のそばへ来て、ともに掌《て》をあわせていた。ここへ移ってからの彼女は一切召使の手をからず、母の食事から夜《よる》の具《もの》の上げ下ろしまでみなしていた。また間には、家中の妻子や病者を見舞ったり、とかく意気|銷沈《しようちん》しやすい郎党たちをも励ましてまわるなど、まったくもう一度、秀吉がまだ貧乏時代であった頃の一主婦に立ち還《かえ》っているすがただった。
「ほう。そなたもそう思うか。この母もそう思うてじゃ。何という故は知らぬが」
「わたくしは、この聖観音さまのお顔を仰いで、ふとそんな気がしてまいりました。おとといよりは昨日。きのうよりは今日。一日ましにはっきりと、わたくしたち母子《おやこ》へ御微笑を投げかけられてお在《わ》すような……」
朝、母子して、そんなことを話していた日であったのである。まことに虫の知らせというものであったかもしれない。
日没のはやい谷陰の部落は、もう御堂の壁に暮色をたたえ始めていた。
寧子《ねね》は内陣の陰で、燭《しよく》に燧石《ひうち》を磨《す》っていたし、老母のすがたはただ一つ暮れ残ったもののように、聖観音の下にじっと祈りの姿をつづけている。
非常な迅《はや》さで来る跫音《あしおと》がそのとき外の方に聞えた。少なくも十名足らずの武者らしい。老母ははっとしたように振り向いた。寧子も御堂の縁へ出て立った。
「――殿がこれへお出でになりますッ。間もなく殿が見えられますッ」
境内中へひびけとばかり呼ばわるほどな声だった。毎日、二里ほど先の下流まで見張りに出ている哨兵《しようへい》の者たちである。みなのめる[#「のめる」に傍点]ような姿勢をして、傾いた山門を駈けこんで来たものだったが、とたんに彼方の濡縁に寧子のすがたを見たので、そこまで寄る間も惜しい気もちで、みな口々にそこから叫んでしまったのであった。
「お供には、御家中の誰彼をひきつれ、およそ五十騎ほどで、お休みもなくこれへお急ぎ中です」
「殿をはじめ、供の衆も、みなすばらしいお元気で」
「とこうする間に、すぐお着きになりましょう。夢かのようですが、夢ではありません。まさに、中国から攻めのぼられて来たわが殿です」
かかる声々は、濡縁の前を去って、やがてまた、狭い寺中はおろか、裏の武者小屋から、部落の家々にまで伝わって行ったが、その伝わることの迅さは、たちまち大吉寺を中心に、野瀬の部落全体から、何ともいえない声が、わあッと一斉にわき揚ったのでもよくわかる。
「母さま」
「……寧子よ」
老母と彼女とは、その歓声をひとつの声とも思われず、相抱いてうれし涙にむせんでいた。
老母は聖観音へ額《ぬか》ずいた。寧子も心からひれ伏した。はや現《うつつ》もなげなその姿へ、母は母らしく促《うなが》した。
「寧子。いかにこの時とはいえ、あの子も、久しぶりにそなたを見るのじゃ。そのすがたは余りに窶《やつ》れ過ぎて見えよう。いそいで髪など撫でての……」
「はい。はい」
「そして、御門前まで出て、お迎えしたがよい」
寧子はいそいそと庫裡《くり》の水屋へかくれた。髪をなで、筧《かけひ》の水を掌《て》に溶いて、瞬間に薄化粧をほどこし、帯、襟もとも直してそこから藁草履《わらぞうり》を穿《は》いた。
一族の主なる者、家士はことごとく、すでに門前に出て、年の順、身分の順に、出迎えの列をととのえている。附近の木の間木の間にも、老幼の顔がいっぱいに覗《のぞ》いている。その多くは部落の者たちであった。何事が起るのかと眼をまろくしている様子である。
しばらくすると、また二名の武者が、先駆としてこれへ報らせて来た。――もうすぐそこへ殿を始め御一同お見えになります、というのである。寧子の前へ告げ終ると、その者たちもまた列の端に加わった。急にそこはひそまり返る。誰のひとみも一すじの道の彼方にさす影を待っていた。寧子《ねね》はもう眼にあやうげな潤《うる》みをたたえ、瞼《まぶた》にほのかな充血を見せながら、求める人々の肩の陰に佇《たたず》んでいた。
間もなく一団の人馬はこれへ着いた。汗と埃《ほこり》のにおいはまた、騒然たる出迎え人のどよめきに包まれて、大吉寺の門前は一時、馬つなぎ[#「つなぎ」に傍点]にいななく馬の影と、相擁して無事を祝しあう人と人の影で埋まった。
秀吉もまたその一人だった。彼は、部落近くから背を借りて来た駒を、いま山門の前で降りると、それを従者にあずけ、すぐ右側の列の端に並んでいた幼い童《わらべ》のひと群れを見かけて、
「どうだ、山の中は。遊び場がたくさんあってよかろう」
と、はなしかけた。そして手近な所にいた少年や女童《めわらべ》の肩を打ちたたいた。
これらは皆、家中の者の家族だった。で、もちろん、それらの者の母親や祖母、老父なども立ち交じっていた。秀吉はその顔を一つ一つ見てあるくように歩を山門の石段の方へ運ばせながら云った。
「よし、よし。みなつつがなくこれにおるな。筑前も安心いたしたぞ」
それから左方の列へ顔を向け直した。そこには家士一同が粛然《しゆくぜん》と頭を下げていた。
秀吉はやや声を高めて、
「一同、いま立ち帰ったぞ、留守中の難儀、察し入る。御苦労だったの」
列をそろえていた家士たちは、膝までの手を、さらに、膝の下まで下げた。
石段の上、山門のふところには、親族の老幼と、主なる家臣だけが迎えていた。秀吉は、そこでは左右へ向って自分の健康を示す笑顔を撒《ま》いて見せただけだった。わけて妻の寧子へは、ほんの一顧を与えたのみで、ことばもかけず山門を通った。
けれど、そこから先の良人の姿には、たえずつつましやかな妻の影が添っていた。ぞろぞろと従って行った小姓たちも、また一族の誰彼も、寧子のことばによって、みな休息につくべく去り、或いは、
「後刻、また」
と、縁の上で、礼のみを送って、各※[#二の字点、unicode303b]の居るべき所へ姿をかくした。
天井の高い御堂の中に、低すぎる燭台がただ一つぽつねんと燈《とも》っていた。そのかたわらに繭《まゆ》のように真白い髪の人が朽葉色《くちばいろ》のうちかけを着て、ひそと坐っていた。いうまでもなく秀吉の母である。後にやがて子が太閤《たいこう》となったときは大政所《おおまんどころ》とあがめられたひとである。
「こちらにおいでか」
妻に導かれていま濡縁へ上がって来た子の声がその陰でする。老母は音もなく立ってその姿を入口の端近くへ移した。
秀吉は蔀《しとみ》の下で、陣羽織の埃《ほこり》を払っていた。尼ケ崎の陣中で剃《お》ろした髪はまだそのまま陣頭巾《じんずきん》につつんでいる。寧子は良人のうしろへ廻って、そっと、
「お母さまが、板敷までお迎えに出ていらっしゃいます」
と、小声で注意した。
秀吉はあわてて母の前へ寄ってひれ伏した。どうしたのか何もいうことができなくなっていた。やがてようやく洩らしたことばは、
「母上。御難儀をおかけいたしました。おゆるし下しおかれましょう」
という一語に過ぎなかった。
老母はすこし膝を退《さ》げた。入口まで立って出迎えた礼を、もういちど繰り返して、わが子に手をつかえるのであった。わが子とはいえ、この際の礼儀は、凱旋した家の主《あるじ》を迎えるのである。こうするのが武門の家風でもあった。つね日頃の単なる親子としてではない。
けれど秀吉は、ここに無事な母の姿を見たとたんに、つい骨肉の情愛それだけになって、老母の膝へ寄りかけたのである。しかし老母の恭謙《きようけん》な礼儀はそれをそっと拒むかのようにして、こういうのであった。
「お許《もと》様もつつがなく、まずはようお帰りなされた。……けれど、この母の難儀や無事を問う前に、なぜ、右大臣様(信長)の不慮をお語りなさらぬか。また、憎い敵の光秀を討ったのか、まだか。……それを告げては下さらぬか」
「はい。まことに」
秀吉は思わず襟を正した。老母はかさねて、
「知りたや、如何あろうと、この老母までが、日々あこがれていたのも、お許という子の生き死にではない。右大臣家の臣、羽柴秀吉という大将のはたらき振りであった。御主君の亡きあと、どう御始末なされたか、尼ケ崎、山崎あたりまでは、軍を返して、お上りなされたとは聞きながらも、その後のことは、いっこうまだこの山奥までは聞えて来ぬ。……この年寄は、ただそれのみを案じておりましたのじゃ」
「申し遅れました」
言葉は愛もなき他人行儀に似ているが、秀吉は体じゅうの血が沸《たぎ》り立つような嬉しさに揺すぶられた。
母の母らしい当然な愛に慰撫されるよりも、いまの老母のたしなめは、彼にとって、百倍千倍の大きな愛と、同時に、将来までの励みを与えたような気がしたのである。
子を膝にかかえ寄せ、子に数々のやさしい愛撫をすることならば、それは鳥獣の母もしよう――けれど人の母ならでは見られない真の愛は、時にその本能にも超えた高さのものである。秀吉はその大愛に五体を打たれた。――なぜならば、彼も人の子として、実は、心のうちで、
(母からそういわれたい)
と、希《ねが》っていたことだからである。
なぜ、子は母に、そういう希《ねが》いを抱くかといえば、いうまでもなく、戦場でも、いとまあれば、うしろ髪をひかれるのが情《じよう》だからである。何は措《お》いても、ひと目、母の無事を拝してと、万難を冒して、これへ来たのも、彼としては、決して帰って来た心ではない。――明日はまたすぐ、この母をも何ものをも捨てて、死生の中へ――と胸には期している身である。
いや、秀吉ばかりでなく、およそ大義に生き、高い生命に燃えようというものは、家ではさりげなく見せていても、みなそうした希《ねが》いを、母にももち、妻にももち、また弟妹にも持つであろう。あとへ残してゆく弱い者を思えば思うほど、その心理は痛切である。だから、もしその弱い者たちの口から、健気《けなげ》なひと言でも聞けば、男子たるものは、それこそそれを無限の愛と受けて、同時に、顧みなき自己の雄魂を、弥《いや》が上にも強め得るのであった。
秀吉はまだかつて、ひとに向って、将来、大をなさんなどという壮語を弄《もてあそ》んだことはない。亡き信長はよく彼を評して、大気者《たいきもの》大気者といったが、おのずからな大気は辺りへ示しても、みだりな大言は放たない彼であった。けれど、彼を生んだ母は、誰よりも彼を知っている。きょうの言葉は、まさに、子を知る親の言葉にほかならない。
(――母は知っていてくれる。成るも成らぬも、母は覚悟していて下さる)
これは子にとって最大な強味であり恩愛でもある。秀吉は、中国以来連戦のつかれも、これから先の後顧《こうこ》も、いちどに取り除かれた気がした。今はただ、渾身《こんしん》の努力を天命に託して、天意の応《こた》えを待つのみとする清々《すがすが》しさがあるだけであった。
で、主君信長の死に会してから取って来たここまでの経過と、これからも貫かんとする大志望を、彼はこの老いたる母にもよくわかるように、噛みくだいてつぶさに語った。
老母は初めて涙をたれた。そしてまた、初めて、健気なことよと、子を称《ほ》めた。
「よう短い日のうちに明智を討ち尽しなされたの。右大臣様の霊も、さすが致したと、御生前のおいつくしみも、お悔い遊ばすこともなく在《おわ》そう。……実をいえば、この母とて、万一お許が、まだ光秀の首も見ぬのに、さきへこれへ来たのであったら、一夜とて、ここへ寝かすことではないと、心できつく思うていました」
「いや、秀吉も、それをすまさぬうちは、母上に合わせる顔はないぞと、つい二、三日前までは、一念ただ戦いのほかはありませんでした」
「それがこうして、無事を見合うことができたというのも、そなたの取った道が、神仏の御旨にかのうたからであろ。……さ。寧子《ねね》もこれへ寄ったがよい。揃うて、お礼を念じましょうぞ」
老母はそういって、正面の聖観音へむかって坐り直した。
そのときまで寧子は、良人と母の間よりも、もっと離れて、ただつつましく坐っていたが、老母にそういわれると、はい、と静かに立って御堂の内陣へあるいて行った。
二つの吊燈明《つりとうみよう》と龕《がん》の内へ燈《ひ》を入れに行ったのである。そしてもどると、初めて良人の隣に坐った。
母子三人は姿をならべて、ほのかな明りへぬかずいた。秀吉は頭を上げて凝視したのち、ふたたび三礼をなした。聖観音の御厨子《みずし》の側壇には、主君信長の俗名をしるした仮の位牌《いはい》が仰がれたからである。
それがすむと、老母は初めて、心の重荷も降りたように、
「寧子よ」
と、やさしく呼びかけ、
「この子は、風呂好きじゃ、湯浴《ゆあ》みのしたくはさせてあろうの」
「はい。おつかれを解くには、何よりはそれと思いまして、大急ぎで今、させておりまする」
「そうか。ともあれ、汗など流させたがよい。母はその間に厨《くりや》へ行って、何ぞ、この子の好物でも調理させておきましょう」
老母はふたりだけを残して立った。
「寧子《ねね》」
「はい」
「そなたも、このたびは、何かと心労であったろう。が、前後の処置、誤りなく、よく母上をお護り申しあげてくれた。秀吉もそれのみ案じていたが」
「武人の妻には、これくらいな難儀は、いつあるか知れぬはずのものと、日頃、覚悟しておりましたせいか、さほどとも存じませぬ」
「そうか。総じて苦難というものは、そこを乗り越えて、苦難をうしろに振り向いてみると、おもしろい、何とも愉快なものだ。……ということがわかったろう」
「いま、こうして、わが夫《つま》のお無事を眺めていることが、ほんとに仰っしゃるとおりな心地でございまする」
「人生、その起伏がなくては、何の味もない。――夫婦の仲とて、同じようなものではないかな」
「ホホホホホ。左様でございましょうか」
「中国の長陣中、安土までは帰っても、長浜の家まではつい立ち寄るいとまもなかった。――が、こうして久しく見ぬ妻に久し振りで会うと、わが家の古女房も、何となく目にさやけく[#「さやけく」に傍点]見え、そなたのつつましさまでが、花嫁の頃を思い出させる」
「ま。――」
と寧子は顔をあからめて、
「何を仰せ遊ばすかと思えば」
「いや、いや、ほんとだぞ」
秀吉は大真面目にいうのであった。
「ふたり限《き》りで、この御堂の素莚《すむしろ》に坐っておると、ふたりが祝言いたした清洲《きよす》時代の――あの弓之衆長屋が思い出されるではないか。そなたの羞《はじ》らう容子《ようす》、また、良人を迎える心からな容子。すべてが、その頃の楽しさに返って来る。余りに馴れた夫婦というものは、時に二、三年ほどは別れてみるもよいものじゃ」
「それは殿方のお気持でございましょう。女房心はまた少しちがいまする」
「そうかな。……ふうム、どうちがう?」
そのとき本堂の袖部屋《そでべや》に、ざわざわと人のけはいがした。睦《むつ》まじくはなしこんでいた夫婦はあいだを措《お》いて向き直った。見れば一族近親の老幼たちであった。ともあれ殿様へ御挨拶をというので、各※[#二の字点、unicode303b]、多少衣服を改めてこれへ拝しに来ているのだった。
「おう。誰も達者よな。誰も無事でおったの。よかったよかった」
秀吉はそれらの者一同へ、いちいちことばをかけて、息災を祝した。やがて、一浴の後、べつな室に夜食のしたくが調《ととの》うと、それらのうちの主なる者も加えて、賑やかな内輪の晩飯をたべた。
一家の者は、この主《あるじ》を中心として、心ゆくまで団欒《だんらん》の夕を過した。あすは早朝この山奥を引払って、ふたたび敵手から奪《と》り返した長浜城へ帰る――というので、老いたるはいうまでもなく、女子供も嬉々《きき》として寝つかれないほどだった。
「あすは早いぞ。早起きだぞよ」
子をたしなめつつ、親たちは寺域の中のお小屋へもどった。大吉寺の御堂も早目に燭を消していた。老母は、聖観音の前に臥《ふ》し、秀吉夫婦は、聖観音の御背にある内陣裡《ないじんうち》の一房にやすんだ。梓川《あずさがわ》の渓谷の音と、ほととぎすの声が、夜もすがら聞えていた。
短夜もまだ明けぬうちから身支度や馬の用意に大吉寺は騒《ざわ》めいていた。長浜落ちのとき何もかも捨てて来たので、帰る日にも荷物は少ない。
秀吉は、寺へは寺領を寄進し、村長《むらおさ》へは、村一同への恩賞を下げ渡して出発した。列伍は長々とつづいて行く。母堂は急づくりの山駕《やまかご》へ乗せられ、秀吉夫婦が側へついていた。
白い霧の海に、旭《あさひ》が映じている。梓川の渓谷に沿うて、道は狭くなってくる。騎馬の士は馬を降りて馬を曳いた。嶮《けわ》しさに馬も耐えないのである。
駕《かご》も楽ではない。秀吉は老母の辛抱を察して、
「母上。お辛うございましょう。ちとお休みなされては」
と駕の外で、しばらく休息させてから、自分の背を向けた。
「こんな難路、あと半里か一里の間です。こんどは、わたくしが背負うてさしあげましょう」
老母はためらわなかった。老いては子に従え――ということばのまま、すぐ両手をさしのべて、秀吉の肩にすがった。
「あ。わたくしに」
寧子も求め、小姓たちもあわてて来たが、秀吉は、頭を振り振り母を負って立った。
「十年の不孝の罪を一日で償《つぐな》うのじゃ。秀吉にさせろ、秀吉にさせろ」
秀吉は坂道を降り出した。――あなたの子はまだこんなに元気ですぞ――と母へ見せるように歩いた。が秀吉は母のからだの余りな軽さに、ひとり母の年齢をかぞえていた。
途中まで来ると、長浜から幕僚《ばくりよう》の一名が、きのうからの戦況報告に来るのと出会った。長浜でも秀吉がこう早く帰って来るとは思っていなかったとみえる。
報告には、別条もなかった。
「さきに御当家から諸家へ向って、明智征伐の事終ると――疾《と》く御通牒《ごつうちよう》のあったためか、徳川殿の軍は、昨日、鳴海《なるみ》から浜松へ引っ返されたとのことです。一方、近江境まで来ていた柴田軍も、これまた、大事すでに去ると、茫然《ぼうぜん》、進軍を見合わせておる様子です」
秀吉は黙笑のうちにつぶやいた。
「徳川どのも、この度はすこし慌《あわ》て気味《ぎみ》だったとみえる。間接ではあるが、この秀吉のために、光秀を牽制《けんせい》してその兵力を分散せしめる役をしてくれたような結果になった。いま、むなしく引っ返してゆく三河武士どもの無念顔が見ゆるようだ」
かくて、彼は、母を長浜へ安んじ終ると、翌二十五日、また直ちに、美濃へ進発していた。
一時、美濃も動揺しかけたが、彼が征《ゆ》くや、即日そこも平定を見た。彼は、故信長もいた旧山河、稲葉山の城を信孝に献じて、まず旧主家への誠忠を示し、つづいて、同月二十七日に開かれる予定となった清洲《きよす》会議の当日を悠々《ゆうゆう》、一睡《いつすい》のあとに待っていた。
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柴田勝家《しばたかついえ》
彼はことし五十三歳の武将としては千軍万馬の往来を積み、人間としても、世路《せいろ》の紆余曲折《うよきよくせつ》をなめ尽して来ている。加うるに門地|閲歴《えつれき》、並びにその麾下《きか》に持つところの実力といい、頑健な体格といい、この者こそは、時雲に選ばれた随一の男だと観《み》るに誰も不審とはいうまい。彼自身ももとより深くそう任じている。――この六月四日、越中魚崎《えつちゆううおざき》の陣にあって、本能寺の変を知ったとき、とたんに感じたこともそれであった。
(わしの動きは重大だ、ここぞ、万全を期さねばならぬ)――と。
為に、彼の行動は手間どった。その自重からである。――しかしまた、心は疾風のごとく、現地の京都へ急いでもいた。
彼とは、織田随一の出頭人、北陸の探題《たんだい》、柴田|修理亮《しゆりのすけ》勝家のことである。彼はいまや、畢生《ひつせい》の智と力と、そして、のるかそるかの一擲《いつてき》を賭《か》けて――越中魚崎での対上杉軍との戦場を捨て――急遽《きゆうきよ》、上洛の途中にあった。
急遽とはいえ、越中を離れるにも数日を要し、居城の越前|北《きた》ノ庄《しよう》でも幾日かを費やした。――が彼としては、決してこれを遅いとはしていない。ただ勝家ほどな者が、この大事に、ひとたび動くとなると、いわゆる不敗の万全を期すために、当然な自重が当然な時間を必要とし、その速度から時が差引かれていたに過ぎない。
越中で対陣中の上杉|景勝《かげかつ》の兵にたいしては、麾下《きか》の佐々《さつさ》成政と前田利家の二軍をのこし、北ノ庄にも部下を留め、勝家としては実に、超速度の転進とは見えたが、その主隊が、越前と近江の境、柳《やな》ケ瀬《せ》を越ゆる頃、日はすでに十五日となっていた。そして主将勝家に遅れて、北ノ庄や越中方面からなお追いついて来る後続部隊と合し、全軍が峠《とうげ》で馬をやすめていたのは、もう行くてに望まれ出した江北一帯に夏雲高い、翌十六日の午《ひる》頃であった。
十六日といえば、彼が信長の死を知った四日の日から数えると、十二日間を費やして来たことになる。何ぞ知らん、中国で毛利と対していた秀吉は、京都の飛報を入手した点では、勝家より一日程早かったにちがいないが、四日には毛利と和議の誓紙を交わし、五日そこを発し、七日姫路着、九日には尼ケ崎へ向い、そして十三日には山崎の一戦に光秀を討ち、今頃はもう洛中|近畿《きんき》にわたる残兵の掃討《そうとう》から、戦後の布令まで掲示し終っていた時分であったのだ。
越中から京都への道と、備中高松からの道とでは、多少道路の嶮《けん》や距離の差に長短はあるにしても、秀吉が対していた局面と、勝家が向っていた戦局とでは、比較にならない難易があった。勝家の立場のほうがずっと有利であったことはいうまでもない。全面的転進を計るにも、戦場から離脱するにも、秀吉の場合よりは遥かに変じやすい事情にあったものを――なぜこう手間どって来たろうか。――要するに勝家の自重万全≠フ観念が、この貴重なる時≠代価としてあたら費《つい》やされて来たものというしかない。
かたがた、余りに彼が百戦の老巧だけに、その自信と体験が、いよいよ思慮分別の殻を厚くし、今次の如き天下一変の大転機に当っては、却ってそれが疾風的行動の邪《さまた》げとなっても、常套的《じようとうてき》な作戦変更という形式からついに一歩も飛躍し切れなかったことの一因といえよう。
「やすめ。馬に水飼え」
「そのあいだに、全員は腰兵糧を解け。ただし、村口の哨戒《しようかい》に当っている隊は、交代で休息するように」
「また南条からこれまでのあいだに、途中から御陣列に加わった後入《あとい》りの組は、さっそく到着を認《したた》めて、その人員名簿を、ここの出立までに、本隊の祐筆《ゆうひつ》まで差出しておくように」
柳ケ瀬山中の一村は、いま人馬で埋められていた。
ここから西すれば京都方面へ。東すれば余吾《よご》の湖《うみ》を経て、江州長浜街道へつづく。
全軍が駐《とど》まると、勝家の主隊から命をうけ立ち別れた部将たちが、声を張って、前後の部隊にそれぞれ令を伝えていた。
次から次、次から次へ、令は令を伝えて忽ち全軍に届いたように思われたが、なお未だ北の方の登りを、蟻のごとく陸続《りくぞく》と、これへ向って行軍中の後続隊もあるらしく、前隊との連絡《れんらく》をとるための法螺貝《ほらがい》が遠く夏山のはるか下の方に聞えているので、ここでもたえず法螺貝をもってそれに答えていた。
この辺一帯の山地を総称して柳ケ瀬といっているが、くわしくいえば近江伊香郡片岡村。そして今、大将柴田勝家が馬をとどめた所は、椿坂《つばきざか》のほとりで、小さい神社の境内だった。
勝家は非常な暑がりやであるらしい。わけてきょうの山道と炎暑はこたえたもののようである。木蔭に床几《しようぎ》を設《しつら》えさせると、そこらの木から木へ幕を掲げさせ、その中で行儀悪く具足の緒《お》を解いていた。そして養子の権六|勝敏《かつとし》へ背を向けて、
「権六、拭いておくりゃれ」
と、鎧《よろい》をゆるめて、頸《くび》から背なかへ手を入れさせて、汗をふかせた。
二人の小姓は、大扇を持って、勝家の腋《わき》の下を、左右から煽《あお》ぎぬくのだった。汗が乾きかけると、勝家は身を痒《かゆ》がって、
「権六、もっときつくこすれ、きつく」
と、もどかしがった。
養子の権六は、まだ十六歳である。養父のそばにあって、行軍中も親孝行の体《てい》がいじらしく見えた。
勝家の皮膚には、汗腫《あせも》に似たものがいっぱいできていた。勝家にかぎらず、皮革と金属で包まれた夏の軍士の皮膚には、具足病とでもいうべき皮膚病が非常に多いのであるが、勝家はそれが殊にひどかった。
こう夏弱くなったのは、天正七年からここ三年越し、ほとんど身を北国の任地において、北陸経営の任にあたり、居住も多く北ノ庄の城廓で過していたため――と彼はよく自語しているが、実は老いていよいよ強壮な、胆汁質《たんじゆうしつ》ともいえるような体質からのものであることは否《いな》まれそうもない。今権六がいわれるまま強くこすっている所を見ても、すぐ毛穴から脂肪《しぼう》のような赤い血がふき出る程であった。
「大殿。ただ今、神官や村長《むらおさ》どもが、御門出《おんかどで》の祝いにと、この山の渓流で漁《と》れた串魚《くしざかな》やら餅など捧げ持って見えましたが」
幕の裾から武者のひとりが告げると、勝家はあわてて、もうよいと権六の手を退《の》け、具足を纏《まと》い直していたが、傍らの佐久間|玄蕃允盛政《げんばのじようもりまさ》をかえりみて、
「お汝《こと》、村人どもの挨拶をうけてこい」
と、いいつけた。
玄蕃《げんば》が立ちかけると、玄蕃と並んでいた毛受勝助家照《めんじゆしようすけいえてる》が、その足もとを遮《さえぎ》るように、
「いや、大殿」
と手をつかえて、勝家の大きな体を仰いだ。そして、
「村人どもの素朴な志、寸時なりと、大殿御自身、会釈《えしやく》をお与え遊ばしては戴けますまいか」
と、わが事のように願った。
「玄蕃、立たんでもよい」
勝家は、毛受勝助の乞いを容れて、自身、そこで神官村人を引見して、祝いをうけた。
またすぐその後で、幕僚たちと共に、献物の串魚なども披《ひら》いて兵糧をつかい始めたが、毛受勝助には、口もきかず、眼《まな》ざしも向けなかった。
勝助の諫言《かんげん》は、もっともなことだった。勝家も、それが頷《うなず》けないほどの愚将ではない。しかし、二十五歳の若い一部将からそんな注意をうけたということが、鯉の胆《きも》でも噛みつぶしたように、勝家の内省の中にいつまでも苦いものが消しきれないでいるらしいのである。
ここにはなお、勝助の弟、勝兵衛もいた。兄が二十五、弟が二十一。勝家としては、柴田家にとっては功労のある毛受茂左衛門の息子たちなので、左右において重用もし目にもかけていたが、弟の勝兵衛の方はともかく、兄の勝助家照の方はどうも余り好きでなかった。――というのは、時々、今のような直言をするからである。
鬼柴田とか、瓶破《かめわり》柴田とか、彼自身の上に、若い頃からの剛勇の誉れが高かったせいか、その剛胆無双をもってみずからもゆるす風が常々の起居にもあって、ともかく勝家の日常には、粗暴というか、倨傲《きよごう》というか、不行儀をもってむしろ矜《ほこ》るようなところがあった。慎みという念が乏しく、僻地《へきち》の陣中でも食いたいと思うときは「食いたい」といい、飲みたいときには「飲みたい」といい、痒《かゆ》いときには「痒いから掻《か》け」と、誰にでもその皮膚病をこすらせる如くにである。
(大殿はまことに飾り気がなくてよい。今日のような御大身になられても、御若年の当時とお変りなく、われらを窮屈がらせぬようにお扱い下さる)
そう解して、主人の一面を、ひどく磊落《らいらく》な、またその人物の大きな所以《ゆえん》であるとして、称《ほ》めちぎる家臣もあるが、毛受勝助などは、それを阿諛《あゆ》の言として、強《し》いても反対な苦言を呈している方だった。
越中の境に長陣の折、そのときも何か勝助として感じていたことがあったのであろうが、勝家から徒然《つれづれ》に読む書があったら差し出せといわれたのを機《しお》に、三略の一部の紙中を折って、すぐ目につくようにして出した。
後で勝家が繰展《くりひろ》げて見るとそこの一章にこういう文があった。
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軍井未《グンゼイイマ》ダ達セズ、将|渇《カツ》ヲ曰《イ》ハズ。軍幕未ダ弁《ベン》ゼズ、将|倦《ウ》ムヲ曰ハズ、軍|竈《サウ》未ダ炊《カシ》ガズ、将飢ヱヲ曰ハズ、冬、裘《キウ》ヲ暖ニセズ、夏、扇《セン》ヲ採《ト》ラズ、雨ニ蓋《ガイ》ヲ張ラズ。是ヲ、将ノ礼トイフ。
[#ここで字下げ終わり]
この時も勝家は、二、三日不機嫌な色をなしていた。しかし部下統率上のこれくらいな常識は充分わかりぬいている大将なので、為に、勝助を退けるなどという暗愚なまねは決してしない。ただ自分の持っている胆汁質な慾望と粗野な本質にたいし、彼自身としては、せっかく北陸探題の総大将たる威厳とにらみあわせて、極めて不調和なく、その矜持《きようじ》を保っているつもりなのへ、他の意志をもって水を割られると、甚だその節度が持ち難くなるらしかった。従って、一時は慎みもするが、すぐ以前の鬼柴田、乃至《ないし》、瓶破《かめわり》柴田に立返ってしまうのであった。
きょうの不興にも、きょうの事ばかりでなく、三略の文句がまた彼の頭に追加されていたかもしれない。何しろ、食事の席はあまり賑わなかった。ところへ折も折、秀吉からの早打がこれへ来合わせて、さすがの瓶破柴田の胆《きも》をも潰《つぶ》すような報告を彼に齎《もたら》した。
使者は二人であった。ひとりは秀吉の家臣、ひとりは神戸信孝《かんべのぶたか》の臣。
各※[#二の字点、unicode303b]、主人の一書を持ち、二通を併《あわ》せて、同時に勝家の前に呈した。
二通とも、大津三井寺に在陣中の秀吉、信孝の手で認《したた》められてあり、日附も同じ十四日とあった。
(――この日、逆将明智光秀の首級を検し、亡君信長公の弔《とむら》い合戦、ここにおいて、首尾よく遂げ果し終《おわ》んぬ)
と、秀吉の方には山崎以来の戦況が概略認めてある。そしてなお、
(――この由、在北国の織田遺臣一統へ、さそくに御披露ありたく、尊台まであらましを急達しておく、事あらためていうまでもなく、今次の変は、御同様悲歎にたえぬことながら、故主御さいごの日より十一日を出でぬうちに、逆将の首級をあげ、賊徒一兵もあまさず掃滅し得たことは、身の功を誇るにてはなけれど、いささか泉下《せんか》の尊霊をお慰め参らせたものと信ずる。この儀、貴公におかれても、まず不慮中の歓びとして、同慶給わるものと思う)
というような文章であった。
秀吉が書中でいっているとおり、大いに歓ぶべきことにちがいなかったが、勝家にはどうしても、歓びとすることができなかった。
むしろ、反対なものが、まだ文面から眼を離さないうちに、彼の満面にみなぎっていた。しかし返書にはもちろん祝着この上もなしと書いた。そして自軍もこの柳ケ瀬まで駈けつけて来たことを特に強調しておいた。
使者を帰すと、彼は、その使者の口から聞いた情報や書翰によって知った程度では、到底、次の行動にかかり得ないもののように、水野助三、鷲見《わしみ》源次郎、近藤無一などという健脚な若者をすぐって、大津方面から京都あたりまで、実状の探索に放った。そして、爾後の全貌が明確にわかるまでは、ここの椿坂に宿営するほかはないと肚をきめたもののようである。
「まさか? ……しかし、虚説であろうはずもなし?」
この日、勝家は、さきに信長の悲報をうけた時以上の驚きを喫したような容子《ようす》だった。すでに光秀の首級をあげたり≠ニいう厳たる報告に接してもなお頭のどこかで「まさか?」と疑惑する常識を一掃しきれなかった。――もし自分よりも先に光秀の軍へ向って弔《とむら》い合戦の先陣をつける者があっても、それは神戸信孝か丹羽長秀か乃至、堺に滞在中と聞いていた徳川家康などを加えた近畿合体の織田遺臣軍であろうと見越している程度だった。そしてそのいずれに形勢がうごいても、勝敗は到底一朝一夕のものでなく、織田家において、自分以上の上席にある者のない自分がそこに臨めば、当然、明智討伐の総大将として、われを仰ぎ迎えずにもいられまいと充分思いこんで来たものであった。
そういう予見のあいだに、秀吉という者の存在が皆無ではなかった。秀吉が見たとおりつまらない男だなどとは決して思っていない勝家でもあった。むしろかなり秀吉の底を知っている者といってよい。秀吉の一将校時代からずいぶん意地悪くその擡頭《たいとう》を邪魔したこともあるからである。踏んでも踏んでも拉《ひし》げない御小人の藤吉郎頃から、近年にいたっては、重臣の自分らと肩をならべ出して来た彼の器量にたいし、白眼《はくがん》、常にゆるがせには視《み》ていなかったのだ。――しかし、それにしても、どうして彼が、毛利軍を措《お》いて、中国から一転できたか、そんな早業《はやわざ》ができたか、勝家の常識では、ほとんど、奇蹟を聞くような気がしたのである。
宿営地の椿坂は翌日へかけて、本格的に警備が強化された。
往来は遮断《しやだん》され、京方面から来る旅人たちは、哨兵《しようへい》に留められて、悉《ことごと》く一応の訊問をうけた。
蒐《あつ》め得た情報は、すぐ本陣の幕舎へ、部将から伝えに行った。それらの巷《ちまた》の説を綜合してみても、明智軍の全滅は疑う余地もなく、坂本城も陥ちたこと確実である。なお昨日今日あたりは、安土方面に炎々と黒煙《くろけむり》が望まれる――といっている旅人もあり、羽柴筑前守殿は、一部の兵をひきいて、はや長浜へ向われたと機微《きび》を告げる者もあった。
一夜明けても、勝家の心は、依然として穏やかでない。「われは何をなすべきか」の問題が容易に決定しないからである。辱《はじ》や体面を考えると、限りなく不愉快になった。北陸の軍馬をすぐってここまで臨みながら、拱手《きようしゆ》して、秀吉の大活躍を眺めているごときは、真に、彼の耐えうることではない。
それにしても、「この勝家は何をなすべきや?」がすぐ頭にのぼってくるのだった。織田家の大老たり、首脳部の首席にある者の当然な任は何よりも明智討伐にあったのだが、そのことがすでに秀吉の手で終った今日では、何が最大な急務か、また、秀吉の上《う》わ手に臨みうる策か。――苦慮はそこなのである。
いつの間にか、彼の頭は全面的に、秀吉なる対象に占められていた。――しかも対敵感情に近い憎悪をもってそれが強く思考を左右してくる。古参の股肱《ここう》を寄せて、昨夜深更まで凝議《ぎようぎ》していたのもそれだった。その結果、きょうはこの帷幕《いばく》から急使或いは密使として立つ者が八方へ急いでいた。国元の北ノ庄へも、越中魚崎の味方へも。
また遠くは、上州三国の嶮《けん》をこえて、越後春日山へ討ち入り、上杉勢の本拠をつくべく、すでに呼応の連絡《れんらく》をとっていた滝川|一益麾下《かずますきか》の軍隊へも。同時に滝川一益個人へ宛てても、べつに懇《ねんご》ろな私書を送った。
特に神戸信孝にたいしては、きのう帰った使者に特に持たせてやった返書に追いかけて、さらにあらためてまた一書を認《したた》めた。使いの人物にも老臣の宿屋《やどや》七左衛門をえらび、ほかに心の利く家臣二名を添えて立たせ、何か重大な内意を含ませてやったようである。
以上のほか、祐筆二人が、勝家のことばをうけて、半日書き通していた書状は二十余通の多きにのぼった。要旨は、七月一日を期し、清洲《きよす》に会同、主家の継嗣《けいし》のこと、明智の旧領処分の問題など、当面の重大懸案を議せん――というのであった。
勝家は、この会議の発唱者として、いささか宿老の体面をとりもどそうとした。また、自分を措《お》いて、この重大懸案は一歩も解決に入り得ないことをも、充分承知していた。それを「鍵」として、彼は当初の方角を一転、尾張の清洲へと向った。
途上、聞くところによれば、また追々に帰って来た水野助三や近藤無一などの報告に徴しても、彼の廻状《かいじよう》が届く前に、織田遺臣のあらかたは、期せずしてみな清洲へ向っていることがわかった。そこには、信長の嫡子《ちやくし》信忠の遺子|三法師丸《さんぼうしまる》がいる関係上、自然、安土以後の織田家の中心がそこに移されたかのような観をなしていたためであるが、勝家には、そのこともまた、何か逸早く、秀吉が僭越《せんえつ》な音頭《おんど》を取って事態をうごかしているように邪推《じやすい》された。
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折《おり》 鶴《づる》
清洲城はここ毎日、登城の列、下城の人馬で、凡《ただ》ならぬ光景を見せていた。
かつては信長が起業の地であったここが、きょうは織田家の跡始末を議する会議地と目されている。
が表面、ここに集まった遺臣たちは、
(三法師君の御機嫌を奉伺《ほうし》するため)
と称して、お互いが、柴田勝家の飛状に接しているともいわないし、また秀吉の意によって来たということも表示していない。
しかし暗黙裡《あんもくり》に、やがて近く城中に大評議がひらかれるという予定は、誰にもわかっていた。議題の内容も周知であった。ただ日取や時刻などの公的な通状がまだ達しられていないにすぎない。――で、三法師君への伺候《しこう》をすませても、諸侯中、帰国する者とてない。各※[#二の字点、unicode303b]多くの軍兵を擁《よう》し、城下の宿所に待機していた。
真夏の暑気に加えて、狭い城下町に、何倍もの人口が一時に入ったので、その混雑や喧騒《けんそう》はひととおりでない。厩《うまや》の馬が町中へあばれ出したとか、御小人同士の喧嘩沙汰やら、頻々《ひんぴん》たる小火騒《ぼやさわ》ぎやら、無聊《ぶりよう》を感じるひまもない。
月の末近くには、神戸《かんべ》信孝、北畠信雄の一門もそろい、以下、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽《にわ》長秀、細川|藤孝《ふじたか》、池田信輝、筒井順慶、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》、蜂屋頼隆《はちやよりたか》など、あらかた到着していた。
ひとり滝川一益が、まだ見えていない。それについて、
「信長公御在世中は、一にも滝川二にも滝川と、御重用をうけて、関東管領の重職をもさずけられておりながら、今次の凶変に、こう馳せつけに遅るるとは何事だ。さてもぶざまな漢《おとこ》よな」
と、巷《ちまた》の悪評は、かなり露骨であった。
「自体、あの仁《じん》は、経略家肌で、忠義一徹ではない。このたびもそのために、すぐ足が立てなかったものであろ」
などと評して憚《はばか》らぬ者もある。
町中の酒亭《しゆてい》などでも殊さら聞えよがしに、談じている仲間もあった。
「一益殿の取柄《とりえ》といえば、新しい武器に精を入れてよく用いるぐらいなところじゃろ。だから射術には明るく、滝川勢といえば、鉄砲撃ちはみな巧者じゃ。その点を、信長公にも買われていたのじゃろうが、なんの戦争はからッ下手《ぺた》だ。若いうちは常に先鋒隊に置かれ、相当、勇名を鳴らしたが、それも当時の織田軍全体に破竹の勢いがあったからで、何も彼が秀《ひい》でていたわけじゃない」
「そうかもしれぬ。こんどのような場合に、立《た》ち際《ぎわ》の悪いところを見ると」
「立ち際のみか、頭も悪い。上州|厩橋《うまやばし》という遠方ゆえ、手間どったのは仕方もないが、途中、北条勢と勝目のない戦いなどして、神流川《かんながわ》ではさんざんに敗北し、やっとのことで、居城の伊勢長嶋へもどって来たなどは、気のどくといおうか、近頃の笑いぐさといってよい」
公然な非難である。そのついでに、明智討伐に出遅れた柴田勝家にたいする非難もちらちら沙汰されていた。当然、これが滞在中の諸家の耳にはいらないはずはない。羽柴家の家士もすぐこれを秀吉の耳にいれた。すると秀吉は顔をくずして頷《うなず》いた。
「そうか。……もうそろそろやり出しておるか。柴田をも難じておるので、柴田から出た流説《るせつ》とは誰も思うまいが、それは皆、勝家がさせておる反間苦肉《はんかんくにく》と観《み》てまちがいあるまい。大評議前の謀略戦じゃよ。小細工はやらせておけ。いずれ滝川は柴田に抱き込まれる者、それでよいのだ」
信長亡きあとの、織田王国の縮図が、ここ数日の清洲に見られていた。
やがての大評議を前にして、その帰結を、各※[#二の字点、unicode303b]の将来に予想し、おたがいの肚《はら》をさぐりあっているという形だった。そしてその間に、当然な黙契《もつけい》やら、反目やら、また流説を用い、誘惑を講じ、抱きこみ、切崩しなど、あらゆる謀略が行われつつあることも蔽《おお》うべくもない。
殊に、柴田勝家と神戸信孝との往来は、目につくものがあった。
一方は、宿老の上席、一方は故信長の三男。こう二者の公事を超えた親密ぶりは、時人の目につかざるを得ない。
「修理どの(勝家)には、御二男の信雄様を措いても、信孝様を、次のお世嗣《よつぎ》に立てんの下心《したごころ》と思わるる。はて、一波瀾《ひとはらん》はまぬがれまいぞ」
誰も、直感した。
けれど、その信孝|擁立《ようりつ》の競争者は、誰もが、信雄であると信じていた。
信長の跡目は当然、信長に殉《じゆん》じて、二条城で戦死した嫡男信忠の次弟たる信雄か信孝にゆくであろうという見解には、何人《なんぴと》も疑う余地のないこととしていたが、その二人のうちの、いずれが立つか、また、支持すべきかは、各※[#二の字点、unicode303b]迷うところであった。
信雄、信孝。――共に永禄元年正月生れの今年二十五歳だった。同年にして兄弟というのもおかしなわけだが、この時代の上流家庭にはままあるというよりは普通のこととされていた母系のちがう兄弟なのである。その上、信雄が兄、信孝が弟となっているものの、本当の生誕月日からいうと、弟の信孝の方が、二十日も先に生れていた。故に当然、彼が兄であっていいはずなのに、信孝の母の生駒氏が賤《いや》しい家系の女子であったせいか、出産の届け出を怠っていたため、信長の第三子と定められ、遅く生れた信雄の方が、第二子にすえられて来たものであった。
従って、この兄弟は、兄弟とはいえ、骨肉の真情はうすかった。信雄は陰性であり、消極的な性情だったが、信孝に対してのみは、常に反撥《はんぱつ》を起すような感情をもっていた。従って、殊さらにでも、この弟を下風に見て、兄たるの上座をかりそめにも冒《おか》させなかった。
信長の後継者として、公平にこの二者をくらべてみるときは、誰の目にも、第三子の信孝のほうに多くの資質が認められた。戦陣に出しても、彼は、信雄よりもはるかに大将らしくもあるし、平常の言動にも覇気《はき》を示し、何よりはまた、信雄のようにひっこみ思案でない。
故に、父信長、長兄信忠の死に会したこんどの場合でも、山崎へ出て来て秀吉の陣に君臨して以来、とみにその覇気をあらわし、はやくも織田の相続者を以てみずから任じているふうが歴々と最近の言動にもあらわれて来ている。その包蔵をしめす顕著な一証としては、山崎の合戦後は、事ごとに、秀吉をいみ[#「いみ」に傍点]嫌い始めているのでもおよその想像はつく。
明智勢の襲撃にあわてて、自軍の手で安土の大城へ火をかけた信雄にたいしては、
「賞罰をあきらかにするなれば、彼にも責任を問わねばならぬ」
と、いったり、また、
「信雄は、ばか者だ」
と放言したこともあるという。ところが、そういう陰での言葉も、誰が伝えるともなく、いつか信雄の耳にも入るような空気が今の清洲には濃厚だった。目に見えない謀略の網目が、人間の凡非凡を嗅《か》ぎわけている状態といってよい。
はじめ会議の開催は、月の内の二十七日と予想されていたが、滝川一益などの来着が遅れ、その後また、一日延びて、ようやく、七月一日の夕べ、在清洲の総大名衆へ、触状《ふれじよう》がまわった。
[#ここから2字下げ]
――明日、辰《タツ》之下刻、総登城候ヘ、御城ニ於テ、各※[#二の字点、unicode303b]申シ談ジ、天下人ヲ相定ムベク候也
[#ここで字下げ終わり]
というのである。
大評定|触頭《ふれがしら》は、いうまでもなく柴田修理勝家。
一益が到着後も、なお何という理由もなく、一、二日のびていたことや、諸般のさしずなども、すべて彼の一存によるものらしく思われた。もとよりそれに対する不平の声などはあり得ない。なぜなれば、彼が、神戸三七信孝を立て、すでにその信孝と事前に結託《けつたく》していることは、隠密の沙汰ではなく、公然、知れわたっていたからである。
信孝は柴田を威とし、柴田は信孝をかさ[#「かさ」に傍点]として、圧倒的に会議を押しきろうとする気勢が表面化され出した。しかも大多数はそれに傾いているかのような形勢の下に大評定はひらかれた。
当日の清洲城は、数ある間ごと間ごとが、思いきってみな開け放たれていた。この日も、照りつづいて、暑さと人いきれに堪えないためもあったろうが、見方によっては、物蔭での個人的な談合はゆるさぬと、暗に制御《せいぎよ》しているようにも取れる。武者|溜《だま》りの詰人を始め、要所の杉戸杉戸にいる控人も、悉《ことごと》く柴田の家来といってよいほど多くの外臣が入っていることもただの手助《てつだ》いとは見えなかった。
辰《たつ》の下刻には、すべてそろい、巳《み》の刻《こく》には、総大名衆すべて、大広間に着席していた。
席順から見ると、
柴田、羽柴、丹羽《にわ》、滝川、と左右両座にわかれて向いあい、以下、池田|勝入《しようにゆう》、細川藤孝、筒井順慶、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》、蜂屋頼隆など居流れていた。もちろん、正面の上座は、一門の神戸三七信孝と、北畠信雄の二人が、席をわかっていたが、なお一方の上襖《うわぶすま》へ寄って、もうひとりの幼い君が、傅人《もり》の長谷川丹波守に抱かれていた。
これが三法師君《さんぼうしぎみ》である。
うしろには、この遺孤《いこ》の父信忠が二条城で戦死した折、信忠の遺命をうけて、敵中からこれへ遁《のが》れ落ちて来たという――遺臣前田|玄以《げんい》がつつましげに控えていた。ひとり生きてこれに在ることは面目ないというような彼の容子《ようす》を衆目は見ていた。
三法師は、何といっても、まだ三ツなので、傅人《もり》の長谷川丹波守が膝へのせて正面へ向けていても、決してじっとしていなかった。手をのばして、傅人の頤《あご》を押しやったり、膝の上に立ったりしてしまう。
当惑顔な丹波守を扶《たす》けて、玄以がうしろから何か小声であやしていると、肩越しに、その玄以の耳をひっぱった。玄以も弱って、意にまかせていると、さらに、うしろに身をかがめていた乳人《めのと》が、そっと三法師の手へ色紙で折った折鶴を持たせて、玄以の耳を救った。
「…………」
列座の諸将の眸はみなこのあどけない遺孤《いこ》に注がれていた。微笑をふくむもあり、暗涙をたたえるもあった。ひとり勝家は大広間いっぱいに眼を放って、「困ったもの」とつぶやきたいような渋面《じゆうめん》をつくっていた。
きょうの清洲会議の胆煎人《きもいりにん》として、また議長として、いちばん威儀儼然《いぎげんぜん》として、先ほどから劈頭《へきとう》第一の口をきろうとしているのに、人々のひとみが徒《いたず》らに散っているため、その唇が、発言の機を逸して、むなしくあることが堪《たま》らない不快となっているらしかった。
勝家はついに口をきり出した。
「筑州殿」
秀吉をさしてである。
秀吉は、向う側の席から正視を向けた。勝家は強《し》いてその顔を笑い作りながら、
「どうであろう」
と、至極、談合的にはなしかけた。
「――何といっても、まだあの通りたあい[#「たあい」に傍点]ない御幼少じゃ。傅人《もり》の膝に置かせて、お苦しい目におあわせ致さんでも、よくはあるまいかの」
「さようにも」
秀吉の答えは、どっちともつかないものだった。――折れて出ればそう出るかと、すぐ対立感をとがり立てたものだろう。勝家の全身にはすぐ威厳を交《ま》ぜた反感が硬直し出した。劈頭《へきとう》早くも甚だおもしろからぬ顔つきが露骨だった。
「……が喃《のう》、筑州殿。三法師君の御出座を求めたのは御辺《ごへん》とはちがうか。――修理は、いっこうに知らんが」
「されば、筑前がおすすめ参らせたには違いありませぬ。ぜひにと」
「ぜひにと」
勝家は大紋《だいもん》の衣服の皺《しわ》を大きく揺りうごかした。午《ひる》まえなのでまだ暑気もさしてではないが、彼には式服の厚着と例の皮膚の腫物《できもの》とが人知れぬ苦痛らしかった。こういうことは些細に似ているが、時によると重大な意志表示にもふと語気の上へ大きな関《かかわ》りをもたないとは限らない。殊に、柳ケ瀬を越えてから後は、彼が秀吉を見る気もちは、まったく一変していた。従来とて彼を後輩視して来た先入観が根本をなしているので、決して折合いのよい間がらではなかったが、山崎の合戦を境として、逐日《ちくじつ》、織田遺業の勢力|圏《けん》に、秀吉なる名が、何とはなく、澎湃《ほうはい》たる威勢をもって聞え出して来たことは、勝家として、到底、晏如《あんじよ》としているに忍びない現象であるのだ。
そればかりか、秀吉が先君の弔《とむらい》合戦を果したというそのことの反動として、
(北ノ庄殿(勝家をいう)には、時遅れて、山崎にも参り合わず、さだめし手持ちぶさたなお心地であろうに)などという不面目も酬《むく》われている。近頃、何かにつけて、双者を対比する風潮が一般に表面化して来たことは何を意味するか。勝家にすればこれも苦々《にがにが》しい沙汰といわねばならぬ。筑前と自身とを、対等に視《み》られることさえ、不愉快この上もないのである。いわんやその者のたまたまあげた一殊勲《いちしゆくん》によって、数十年来の織田家における元老的地位を閑却《かんきやく》されて堪るかと思う。むかし清洲のお濠浚《ほりざら》いや馬糞掃除をしていた御小人あがりの匹夫《ひつぷ》が、今日、衣冠《いかん》して得々たるかの如き前に、何で柴田修理勝家ともあろう者が下風に置かれていようぞ――そう思うのであった。この日、彼の胸中は張りつめた強弓のように、そういう感情やら万策の懸引《かけひき》に緊《し》められていたのである。
「きょうの評定《ひようじよう》を、筑州殿には、何とお考えかしらぬが、およそ列座の諸侯も、このような大事を議す場所に臨むは、織田家あって初めてのことと、みな臍《ほぞ》を固めておられように。……何じゃ、三歳の幼君を、強《し》いて、ぜひ[#「ぜひ」に傍点]とまでこれに仰いで」
勝家はずけずけ云い出した。彼の言動は、ひとり秀吉にばかりでなく、辺りの諸大名へ共感を求めているという風だった。そして秀吉からいっこう冴《さ》えた返答も聞かれないと見ると、なお同様な語気をかさねて、
「追々、時刻もない。評議にかかる前に、御退座を願ってはどうじゃな。それとも、何か御辺《ごへん》の都合でもあるのか。筑州殿」
至極、風采のあがらない秀吉は、式服となっても、大紋の着ばえもせず、列座の中ではどう見てもやはり野生のものでしかない。
位置としてはすでに信長の在世中に、屈指の重職を与えられ、実力としては、中国征攻中も、山崎の一捷《いつしよう》でも、充分示されてはいるが、実際に、会ってみると、
(この人が)
と、むしろ聞いていた名声や想像を裏切られるくらいなもので、深くその人間にふれてゆけばともかく、ただの眼で、いわゆる一見した程度では、この者と不測の時代を共に進み、生涯の大事を一緒にするなどということは、考えものだという気を起すほうが、むしろ常識として無理もないといってよい。
一見、直ちに、さすがはと、その人らしく見られる者では、滝川一益など風采|奕々《えきえき》たるほうで、一流の武将とうけとるに誰も吝《やぶさ》かとしないであろう。丹羽五郎左衛門長秀にはどこか枯淡《こたん》があって禿《は》げあがっている鬢《びん》づら[#「づら」に傍点]など、戦陣振りも頼もしげに思われる。蒲生《がもう》氏郷は座中第一の若年ではあるが家柄のゆかしさ天性の気稟《きひん》、どこか薫々《くんくん》たるものがある。重厚なる風格において、身なり[#「なり」に傍点]は秀吉より小さいくらいなものだが、瞳光《どうこう》射るが如き池田勝入あり、また清雅温順《せいがおんじゆん》に見えて、腹中何をつつむか分らないような大人的風格の持主に細川藤孝がある。
秀吉の風采が栄《は》えないといっても、或いは、こういう人々の中だけに、よけい見劣るのかもしれない。何といっても、その日の清洲会議に列した程の者は、時代の一流級ぞろいである。ここには加わっていないが、北越の陣に残っている前田利家と佐々成政《さつさなりまさ》と。そして別格ではあるが、徳川家康とを加えしめれば、まず日本の中心的人物は網羅《もうら》されているといってもさしつかえはなかろう。その中においての秀吉である。人品となっては、どうもまだ仕方のないものがどこかにある。
それを自分でも感じるが、ここでは秀吉もひどく慎しく、謙虚《けんきよ》を旨としているふうであった。山崎で捷《か》つや、戦後、諸軍の礼をうけつつ駕籠の上から、
(瀬兵衛、御苦労)
といって、彼奴《きやつ》、もう天下人に成りおわせたような気でおるか――と同輩の将を口惜しがらせたような不遜の態度は、今日はどこにも見あたらない。さっきから非常な真面目さであるのみだった。勝家の口数にたいしても畏《おそ》るるかのように寡黙《かもく》であった。――が、勝家の執拗《しつよう》な言に、今はぜひなくというような容子で、
「いや宿老のおことばは、ごもっともです。三法師君の御出座を仰いだには、理由がないではありませぬが、なるほど、まだお無邪気なお年、長評議に、ああしておられては、御窮屈にちがいない。かたがた、今日の触頭《ふれがしら》たる宿老の御意《ぎよい》とあれば、ひとまず、御退座をねがうことにいたしましょう」
と、穏当な語を返して、少し膝を上座に向け直し、傅人《もり》の長谷川丹波守へ、
「そのようになされるように」
と、立座を促した。
丹波守は頷《うなず》いて、膝の三法師を、うしろの乳人《めのと》の手へ渡した。三法師は、盛装した大勢の人々が居ならんでいる様が、何か無性に楽しいらしく、乳人の手をつよく拒《こば》んだ。それを無理に抱いて、立とうとすると、こんどは突然、手足を振って泣き出した。そして手にしていた折鶴を列座の諸侯のまん中へ抛《なげう》ってしまった。
諸侯はふと、眼に涙をもった。
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薫香散《くんこうさん》
土圭《とけい》の間《ま》の点鐘《てんしよう》は、午《ひる》を報じていた。
それも耳に入らないように、大評議の広間は、ひそとした緊張にみなぎっていた。
「主君信長公の不慮の御他界は、おたがい何とも痛哭《つうこく》のほかはないが、すでに事定まった今日となっては、偏《ひとえ》にお跡目《あとめ》を正し、御遺業をうけついで、御在世の日にまさる忠勤を励ましあうこそ、臣下の道でもあり、また一尊霊をなぐさめ奉ることとも存じて……かくは今日」
と劈頭《へきとう》に、議長格の柴田勝家から、主君を悼《いた》むの辞やら、爾後《じご》の報告などがあって後、
「さて、それについて」
と、予定の議題が、これも彼の発言の下に、提出されたものだった。
即ち、その一は。
(御遺族のうち、どなた様をもって、お世嗣《よつぎ》とお定めするか)
の問題であり、二には。
(旧明智所領の配分如何)
であった。
まず第一の重大懸案について、勝家から列座一同へ、
「御意見もあらば」
と、訊《たず》ね。
「ほかならぬ儀。あとでとやかくのないよう、腹蔵なくお考えを述べられたい」
と再三にわたって、諸侯の発言を求めたが、誰も、顔見あわすのみで、押して私見を披瀝《ひれき》する者もない。
ないのは当然であった。
この場合、もし軽率に、自分の思うところを主張しても、万一結果において、その反対な立場の者が、織田の相続者として擁立されることにでもなれば、当然、その発言者の前途は危険なものにならざるを得ない。
で、誰もが、軽忽《けいこつ》に口をひらくべきでないとして――じっと、沈黙をまもったまま、およそ大勢の定まるのを見ようとしているふうであった。
勝家は根気よく一同の慎黙《しんもく》を慎黙にまかせておいた。さもあろうと、およそはこの場の成行きを予察していたもののようである。そしておもむろに威儀をあらためて口を切った。
「方々に別しての御意見とてなければ、さしずめ、宿老として、この方が愚存《ぐぞん》を申しのべるほかおざるまいが……」
その時、上座にあった神戸信孝の容子《ようす》に、ふと顔いろのうごくのが見えた。勝家の眼は、秀吉にそそがれ、秀吉は、滝川一益の姿と、信孝の容子とを、見くらべていた。
微妙なうごきが、一瞬、心から心へ眼に見えぬ波長を立てた。清洲一城、人なきかのような、異様な緊張としじまの中にである。
「この勝家が見奉るところでは、三七信孝様こそ、実《げ》に実《げ》にお年ばえと申し、生来の御器量、お跡目として、申し分なきお生れと存じ上げる。惑《まど》いなく、三七様をこそと、この方はすでに心に定めており申す」
ずば[#「ずば」に傍点]とした発言だった。というよりも宣言といったほうに近い。勝家はすでに、牛耳《ぎゆうじ》を取ったものと観《み》たのだ。ところが、
「いや、それはいけますまい」
すぐ反対の声が出た。云い出したのは秀吉である。
秀吉は、勝家の提議を、まっ向から反駁《はんばく》した。
「何さま、お見立てとしては、宿老のお考えもよろしかろうが」
と、かろく一蹴しておいて、
「筋目から申すなれば、正しく御嫡男信忠様の跡は、三法師様こそ、御相続あるべきところではおざるまいか。国に法あり、家々にもおのずから家法はあること。下々においてすら、かような大事は紊《みだ》さぬものを、まして」
勝家の面《おもて》は、朱へ墨をにじませたように、感情をあらわしていた。
「アア待て、筑州」
「いや」
と圧して、秀吉はいうだけを云いつづけた。
「三法師様は、まだ御幼少と、仰せられるであろう。――が、御一門以下、柴田どの始め、宿老諸将がそろうて、お守《も》り立ていたすからには、御幼少とて、何の御不足やあろう。忠勤をもて仰ぐ御方は、何もお年ばえ[#「ばえ」に傍点]の如何にあるわけではありますまい。――筑前においては、ぜひに、御筋目を正されて、三法師様をこそ、お跡目に仰ぐべきものと信じまする」
勝家は、ぐだっ[#「ぐだっ」に傍点]としたように、懐紙を出して、衿《えり》くびの汗を押し拭っていた。大きな暗礁《あんしよう》にのしあげたかたちである。しかも秀吉の主張は、家系の正法であり、常道であって、反対のための反対とは聞えない。
ここでまた、非常な失望を顔にあらわしていたのは、北畠信雄《きたばたけのぶお》であった。彼はあくまで信孝を対象として、表向き信孝よりは兄となっているし、生母の家系もいいので、ひそかに自分こそ――と独り期していた気もちがあったことはいうまでもない。
それが、暗に相違したので、すぐ彼らしい卑屈《ひくつ》が出て、居るに堪えないような容子をしていた。
三七信孝の方は、もっと覇気《はき》があるだけに、秀吉の横顔を、上座から凝視するの風を示していた。
「さあて、喃《のう》?」
勝家は、是《ぜ》ともいわず、非《ひ》ともいわず、こう大きく呟《つぶや》いて、席上の空気から何かを観てとろうとした。
しかもまだ容易にその賛否を態度に示す者もいなかった。勝家も本音をふき、秀吉も肚を割って、二者の二説が、真反対に立って、はっきり対立をあらわすとなっては、いよいよそのいずれに拠《よ》るかは重大である――となすもののように、緘黙沈吟《かんもくちんぎん》は、よけいに外皮の殻を厚くするばかりだった。
「筋目とな。……なるほど。……が、無事泰平の世とはちがい、先君の御遺業とて、まだまだ半ば、多難多端は、御在世の日にまして来ように。――さて、どうあろう」
勝家は頻《しき》りと、味方を誘った。彼がうめくようにこういうと、そのたびに、頷《うなず》いてみせているのは滝川一益だった。しかし、その他の諸将の胸懐《きようかい》は、依然、見てとるにむずかしい容子ばかりである。
秀吉は、再言して、
「もし信忠様の御簾中《ごれんちゆう》に、御懐妊の方でもあれば、御産のひもの解かるるを待って、御男子か女子かの上までお見とどけ申しあげた上、さてと、かような会議も開かるべきに、まして歴乎《れつき》たる若君がおありになるのに、何で異議や御詮議《ごせんぎ》の必要があろう。三法師様こそ、即座にお定めあってしかるびょう存ずる」
飽くまでも主張した。余人の顔いろなどは問うところではない。一に勝家へ向っての反駁《はんばく》だった。
諸将の容子には、声にこそ出て来ないが、秀吉の説にうごかされて、
(それこそ道理である)
と、内心大いにうなずいたかの如きものが見えた。
この心理の傾きは、秀吉がいう嫡孫承祖《ちやくそんしようそ》の正論に肯定を余儀なくされたというだけのものではない。「理」の半面にもうひとつ「情」の裏づけがあったによるのである。
――といえるわけは、
会議の直前、諸将は、信忠の遺孤《いこ》三法師のいたいけ[#「いたいけ」に傍点]な姿を見ている。
ここにいる諸将は、例外なくみな子をもつ家の父であった。今日あって明日知れぬ武門の身には――三法師のいじらしい姿をながめて、誰もが、身につまされずにいられなかったにちがいない。
その情念の上に、理念からも、堂々たる正論を掲げて、衆判《しゆうはん》に問うたのであるから、さしも自主|緘黙《かんもく》を持《じ》していた諸将も、秀吉の主張にうごかされたのは当然であった。
それに反して、勝家の主張は、一応|尤《もつと》もらしく聞えるが、根拠が弱い。方便主義であり、また、信雄の立場を完《まつた》くなくしている。信雄とすれば、自分をさし措《お》いて、弟の信孝が跡目に立つよりはまだ、三法師が擁立《ようりつ》されるを望んでいるであろうことはいうまでもあるまい。
勝家は反駁《はんばく》に苦しんだ。
きょうの評議で、秀吉が易々として自分の提議を容《い》れるものとは思っていなかったが、三法師を擁して、こう強硬に主張して来ようとも予測していなかった。また、秀吉以外の諸侯が、かくも易々と、しかも多数、三法師支持へ傾こうなどとは、なおさら、思っていなかった。
とはいえ、ここで秀吉にやぶれるなどは、何としても忍び難い。
「ふうむ。……なるほど、……理くつじゃな。理づめで申さば、まずそんなものであろうが、三歳の幼君をいただくのと、お年ばえ[#「ばえ」に傍点]もたのもしき将器豊かなる御方を仰ぐのとでは、われら重責を負う遺臣としても、その施政に士気に、将来の大計にも、やはり大きな違いがないわけには参るまい。毛利といえ、上杉といえ、なお安からぬものが多いところじゃ。三歳の若君でどうなろう。先君の御遺業も半途に止め、このまま縮もうという織田家ならべつじゃがの。――いや、守ろうとすれば四辺は、時こそ得たれと侵して来る。所詮《しよせん》ふたたび乱世じゃ。室町家の末路の轍《てつ》を踏もうも知れぬ。いや、勝家には危ぶまれる。どうあろう? 諸侯」
座中を見まわして彼の眼は支持者をさがした。が、どこからも明瞭な反応がないのみか、偶然彼の眼とかち[#「かち」に傍点]あった眸が、突として、
「御大老」
と呼びかけ、却って、横から斬りかけるような反勢を示してきた。
「おう、五郎左殿か、何じゃあ?」
勝家も反射的に、頼みをかけぬ返辞を投げた。五郎左――丹羽長秀は初めて発言した。
「だんだん御深慮は伺ったが、ここはまず羽柴殿の説を容《い》れられては如何なものかの。羽柴殿の云い条、五郎左も至極と存ずるが……」
宿老格では、丹羽長秀もまた、宿老の一人である。
その五郎左が、緘黙《かんもく》を破って、秀吉方へ、自己の旗いろを明らかにしたので、この時、勝家の面色ばかりでなく、座中は俄《にわか》に色めくものがあった。
「五郎左殿よ、それはまた、どういうわけでの?」
勝家は内心の忿懣《ふんまん》を抑えながらなじった。――が、形勢ここにいたっては、秀吉との対立、もはやまぬがれ難しと肚のうちできめこんだものか、焦躁《しようそう》の半面に、瓶破《かめわり》柴田らしい傲岸《ごうがん》不屈な体《てい》をも、わざと示していた。
多年のことだ。長秀は知っている。彼のそういう性情をよく心得ている。――でなだめるように、
「大老。お腹立てなさるなよ」
と、まず温顔を向けてから、自己の所存を述べはじめた。
「――何というても、羽柴殿は、最も先君の御意にかなっておる者ではござるまいか。右府様、御非業《ごひごう》の節、すぐ中国より取って返し、倶《とも》に天を戴かざる無道人の光秀を討ったるは、われ人ともに、悲痛の中の面目、ありがたいことでおざった」
「…………」
勝家の面色は惨たるものに塗られた。が依然、くずれないのは、その五体もあらわしている我意一徹な線であった。
長秀はなお云いつづけた。
「あの際、大老にも、越中の陣におかれて、右府様の御最期を知るやいな、たとえ手勢は揃わずとも、飛馬に鞭をあててお上りあらば、羽柴殿とくらべては、倍にも勝る御身上、明智ごときものの二つや三つは、立ちどころに踏みつぶされたであろうものを。……さてさて、御油断ゆえに、わずかの遅れ。惜しいことでおざった」
諸将、たれの胸にも、このことはあった。長秀の言は、諸将の感情を代表したものといえる。
同時に、これは勝家の大弱点であった。出遅れて、故君の弔《とむら》い合戦に会さなかったという一事だけは、何としても弁疏《べんそ》の道がない。長秀は巧みにそこを衝《つ》いてから、秀吉の提議が正しくもあり、穏当でもあるという、自己の賛意を忌憚《きたん》なく述べ終った。
彼が口をつぐむと、ここ大評議場の空気は一転、険悪を孕《はら》みかけて来た。勝家の苦境を救おうとするかの如く、滝川一益が側の者に急に私語《しご》し始めたのをきっかけに、諸所において、低語歎息が聞え出した。――これはむずかしい。織田家の御運の別れ目は今。――と表面は片語の騒《ざわ》めきに過ぎなかったが、声なき底に勝家対秀吉の正面切っての衝突が、どうなることかと、より以上の関心となったのはいうまでもない。
この重苦しい空気のうちに、当の勝家はと見れば、茶道衆が、すでに午《ひる》の刻《とき》を過ぎている旨をそっと伝えて来たのに対して、
「うむ。ウム」
と、うなずいたきりで、汗ぬぐいをくれといいつけ、同朋《どうぼう》の者《もの》が、水絞りの白布を捧げると、大きな手にそれをつかんで、襟《えり》くびの汗を拭きぬいていた。
「……はて。当惑な」
その時、秀吉は、左の手をわき腹にあてていた。そして急に眉をしかめて見せながら、勝家に向っていう。
「これはどうもならぬ。……柴田殿。にわかに、虫気が起ったものとみえ、腹が痛む。失礼なれど、しばし中座する。おゆるしを」
つと[#「つと」に傍点]立って、評議の席を抜けてしまった。
遠い、台子《だいす》の間《ま》まで来ると、
「いたい。……いたい」
秀吉は大げさに腹痛を訴えながら、まごまごしている同朋衆へむかい、
「枕、枕」
と、よび、それから、
「薬をくれい」
と、すぐ横になってしまった。
大病人のようである。
しかし心得ている病人とみえ、書院庭から吹きこんでくる涼風へむかって枕をすえ、うしろ向きになり、汗に蒸《む》れた襟元を自分でくつろいでいた。
が、典医《てんい》や茶坊主どもは、あわてぬいている。侍たちも、こもごも見舞に来て、
「御気分は……?」
と、気遣ったが、秀吉は、
「そっとしておけ。そっとしておけ。……持病だ。やがて癒《なお》る」
うしろ向きのまま、蠅《はえ》でも追うように手を振った。
同朋《どうぼう》がとりあえず、薫香散《くんこうさん》を煎《せん》じて来て献じると、秀吉は起きて、
「これは、暑気|中《あた》りにもよい」
呟きながら、喉も大いに渇《かわ》いていたところか、熱いのを、ふうふう云いながら飲みほした。
そしてまた、横になった。
どうやら本当に寝ついてしまったらしいので、同朋衆も侍たちも、次へさがって、そっとしておいた。
大評議の広間とこことは、幾つもの間数をへだてているので、秀吉が立った後、どうなったことか、気配も知れない。
だが、ちょうど同朋衆が、頻りと午を告げていた折でもあったから、秀吉の中座を機会に、どうやら午食の休憩に入ったらしくも思われる。
一刻《いつとき》ほどの時が経った。
そのあいだ、七月の真昼は、かん[#「かん」に傍点]と照りつけるのみで、一城の広さは、事もなげに静かである。
そして、次の風雲を孕《はら》み、明日の世代を分つともない一朶《いちだ》の夏雲が、清洲《きよす》の上に、じっと、動きもせずあった。
「筑前どの。御気分はどうじゃ。……落着かれたかの」
いつの間にか、枕許に、丹羽長秀が来て坐っていた。うしろに清洲の侍もひかえていた。
「……ウム? ……おう」
秀吉はむくと肱《ひじ》を立てて、長秀の顔を見、急に気がついたかのように、
「やあ、失礼を」
と、坐り直した。
「柴田殿が、迎えて来いといわるる。……はやお越しあるがよい」
「評議は」
「貴公が座にいなくては、評議にもならぬ。――ともかく参られてからと、柴田殿のことばだが」
「それがしの申し条は、はや尽しておる」
「いや、あれから各※[#二の字点、unicode303b]の詰所へさがり、半刻ほどの休息の間に、風模様は変った。柴田殿も、考え直したらしくみえる」
「参ろう」
秀吉は立った。長秀は思い入れの微笑を見せたが、それにニコともせず、秀吉はもう先に台子《だいす》の間《ま》を出ていた。
勝家は、眼でじろ[#「じろ」に傍点]と彼を迎えた。
座中一同も、ほっとしたかのようである。議場の空気は前とちがっていた。勝家は折れて、秀吉の提議を容《い》るべし、と確言した。ここに、三法師を相続者と定める議案は一決した。
勝家の譲歩によって、
「めでたい、めでたい」
と、一瞬、大評議場は、危雲を払って、解《と》けあう和気に醸《かも》された。
「三法師君を、天下人と仰ぎ奉ること、各※[#二の字点、unicode303b]にも御同心、勝家にもはや異存なし。祝着《しゆうちやく》、祝着」
彼もしきりにいっていた。自説の形勢|悉《ことごと》く非なるを見て、にわかに前言を撤回《てつかい》し、からくもこの場を切り抜けたというかたちである。
がなお、彼として、ひそかに期すものはあった。
それは次の議案――旧明智所領の処置――つまり領土分配をどう割り振るかの問題である。
これが直接、諸将の利害にかかわる実質的懸案だけに、相続問題以上、ひと揉めはまぬがれまいと予想されていたが、案外そうでなかった。
「そのことは、ひとえに、宿老方のよろしきように」
と、さきに一捷《いつしよう》を掴《かく》した秀吉から、謙譲《けんじよう》を示したことが、まず非常に、会議の進捗《しんちよく》を円滑にしたのである。
「では、一応、大老のお考えを……」
と、宿老格の丹羽、滝川などが、ここで前にはまるつぶれ[#「まるつぶれ」に傍点]となった柴田勝家の顔をたてて彼を中心に合議して原案をまとめにかかった。
しかし、すでに秀吉の存在は、何となく、冒《おか》し難いものになっている。纏《まと》められた原案は、やはり一応は、秀吉の前にも送られて来て、
「御意見、どうあろうか」
と、彼の内見を求めざるを得なかった。
「――筆を」
秀吉は同朋《どうぼう》からそれを求めて、原案を一閲《いちえつ》していたが、筆に墨をふくませると、無造作に三、四項へ棒を引き、かつ、私見を書き加えて、
「かようにされては、如何」
と、訂正して返した。
ふたたび勝家の手に廻されてくる。勝家は苦々しい容子である。黙思《もくし》久しかった。勝家の望みとしていた項目にベタベタ墨が引かれているからである。けれど、秀吉は自分へ割りあてられて来た江州《ごうしゆう》坂本の知行分にも自分で棒を引いて消していた。そして秀吉自身は、ふつうの諸将並に、わずか丹波一国を書き入れているに過ぎないのである。
寡慾《かよく》を示して、勝家にも、寡慾をすすめて来たものだ。そして信雄、信孝に多くを割当て、あとは山崎の弔《とむらい》合戦の功によるかの如き分割案の振り当てだった。
「……明日もあること。暑中の長評議とて、各※[#二の字点、unicode303b]も疲れたろうが勝家もちとつかれた。この議は、あすとしてはどうか」
ついに勝家は保留として即答を拒《こば》んだ。それには、異議はない。夕陽もさして来て暑さはいよいよ苛烈《かれつ》だ。第一日は閉じられた。
次の日。大評定第二日目。
勝家は、妥協案《だきようあん》をもって、
「かようでは、どうじゃな」
と、宿老たちに諮《はか》った。
夜前、勝家は、自身の家臣たちを集めて、宿所で鳩首《きゆうしゆ》談合して来たものだった。
が、秀吉は容《い》れなかった。
きょうもまた、この分割案を挟んで、両者の対立が激化するかとみえたが、大勢はすでに秀吉に加担している。どう粘《ねば》ってみても、結局、秀吉の云い条に拠《よ》らざるを得なかった。
午《ひる》、ひと息入れて、やがて午すぎの未《ひつじ》の刻《こく》を期し、その決定が諸将へ披露された。
配分に付せられた領地は、明智の闕国《けつこく》のほか、信長の直領地もふくまれている。
国分けの筆頭は、
信雄卿《のぶおきよう》 尾州《びしゆう》一円
信孝卿《のぶたかきよう》 濃州《のうしゆう》
の、ふた筆であった。
一は織田家の発祥地《はつしようち》として、一は岐阜在城の地として、共に、適切な処置とされたが、これも秀吉の意で、勝家の初案を直して、こうさせたものだった。
滝川一益の五万石加増、新付北伊の一部、蜂屋頼隆《はちやよりたか》の三万石加増等には、何らの筆を加えなかったが、
池田勝入父子、大坂、尼ケ崎、兵庫十二万石
丹羽長秀、若州、並びに江州《ごうしゆう》二郡
の二項には、原案よりも、加封を多くした。
その代りに、秀吉は、自分への割当を削って、丹波一国を獲《う》るにとどめ、また、勝家の取分も減らして、
――江州の内、長浜六万石
だけを彼に付与《ふよ》した。
長浜は現に、秀吉の城地となっている所である。
しかしそこは越前から京都へ通ずる咽喉《いんこう》の要地であった。
勝家はそれへ目をつけたにちがいない。強引にもこれを需《もと》めた。そのほか三、四郡の地をも望みに加えていたが、ほかは秀吉が抹消してしまった。そして長浜六万石だけは、きれいに彼へ渡してやったのである。
もっとも、それにも条件が付いていた。勝家の養子、柴田勝豊へ持たすという確約の下にされたのであった。
前晩、柴田家の家中は、勝家を囲んで、こういう屈辱的な分け前にたいし、大不服をとなえ、秀吉のやり口を、
(思い上がった下郎の専横沙汰、断じてお容《い》れあるべきではない)
と、一蹴《いつしゆう》し去るべきことを励《れい》していた程だったし、勝家もきょうここへ来るまでは、家臣と同じ気もちでいたが、評議の席へ臨んでみると、おのずからまた自我のみを強調し得ない諸将の大勢というものがここにはある。
(――自分を小さくしてはならない。我慾一点と見られてもなるまい。多数が可とする以上はやはり順応せねば却って後に悪かろう)
などと座中の空気とにらみ合わせては、自然、彼の我意もこう牽制《けんせい》されてしまわざるを得なかった。――で結局、
(長浜の要地さえ、秀吉から取り上げて、わが掌中に収めておけば)
と、他日を底意に期して、とうとうその条件付にも甘んじて受諾したものであった。
彼の狐疑鈍渋《こぎどんじゆう》に反して、秀吉の態度は淡々たるものに見えた。
中国以来、山崎の快捷《かいしよう》まで、戦政両略の主動を取って来た筑前守こそは、必ずや誰よりも多くの獲得を欲するであろうと人々はみな予想していたに関わらず、彼が受けたのは、諸将並に丹波一国にすぎず、既得の長浜も譲ってしまい、当然取ってよいものと人皆がゆるしていた江州坂本の地も、丹羽長秀にやって顧みなかった。
坂本は京都の関鍵《かんけん》だ。
(自分には、天下をうかがう意などはない)
それを秀吉は敢えて衆に示すべく、わざと取らなかったものか。或いは、
(いずれ帰すところに帰すしかないもの)
と、眼前の小事として、群議《ぐんぎ》にまかせておく気であったものか、なお未だ、彼の大腹中を真に知る者はなかった。
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虎《こ》 口《こう》
一時は決裂のほかあるまいかのような危局を孕《はら》んだ清洲会議も、二つの重大懸案が、ともかく議決されたので、あとの小問題は、一瀉千里《いつしやせんり》に片づいた。
信長の跡目を承《う》けた新君三法師の食邑《しよくゆう》として、近江《おうみ》の内三十万石をあて行う事――も異論なく決定した。
傅役《もりやく》には、従来どおり長谷川丹波守と前田|玄以《げんい》の二人のほかに、なお秀吉が輔佐《ほさ》すること。
また、安土は焼失したので、安土に仮館ができるまで、三法師の座所は、この岐阜としておく事。
信雄、信孝の二|叔《しゆく》は、幼主三法師後見人たるべき事。
等々の事項のほかなお、施政《しせい》体制の面としては。
京都に織田代表の四将を置く。柴田、羽柴、丹羽、池田の四家がその任にあたり、各自、家中から役人を派して、洛中の庶政《しよせい》を合議裁決せしめる。
という案も即決された。ここにすべての解決は終った。閉会の式として、
(いずれ協力一致して、幼君を奉戴《ほうたい》、異背《いはい》あるまじき事)
の誓書を納《い》れ、これを故主信長の霊前に供え、併せて、評定の結末を直ちに報告することになった。
その日は、七月三日。
信長の月辰《げつしん》――月の命日は、昨日の二日であった。もし会議が順調にすすめられていたなら、このことは、きのうの命日に行われるはずだったが、勝家の保留で一夜越したため、忌日追福《きにちついふく》の営みも、ついに一日延ばされてしまったわけである。
諸将は、詰所へさがって、まる三日間の緊張から解かれると、やれやれといいたげに、各※[#二の字点、unicode303b]、夕風に涼を入れて、家臣たちの宥《いた》わりに寛《くつろ》いでいた。
多くの同朋衆は、手分けして、各詰所の小部屋で、一筅《いつせん》をそそぎ、茶を献《けん》じ、香を薫《くん》じて、犒《ねぎら》いを扶《たす》けていた。
その間にもう清洲の臣が、
「御小憩がおすみに相成りましたら、酉《とり》の下刻《げこく》のお土圭《とけい》をあいずに、二の丸の御仏殿までおわたり下さるように」
と、触れあるいていた。
汗をぬぐい、喪服《もふく》にあらためて、諸将は刻《とき》を待っていた。
蚊うなりのする大殿廂《おおとのびさし》に、新月の影がほそい。
遠く土圭が鳴っていた。
喪服の武将たちの影が、もの静かに、二の丸へ渡っていた。
雲母襖《きらぶすま》に紅白の蓮花《れんげ》が描いてある仏間の裾《すそ》に沿うて、勝家以下、ひそと着席した。
次々に、一人来ては坐り、一人来ては、また加わった。
ひとり秀吉だけが見えない。
「はて……?」
と、いぶかりつつ眸をこらして正面の仏龕《ぶつがん》ほのかな辺りを見ると、厨子《ずし》、位牌《いはい》、金壁《こんぺき》、供華《くげ》、拈香《ねんこう》などの厳《おごそ》かなものの影のうちに、さきの誓書一束が供えられてあるのが一《ひと》しお目につく。
が、より以上、衆目をそばだて[#「そばだて」に傍点]しめたのは、壇下に接して、筑前守秀吉が、喪服《もふく》した三法師を膝にのせ、けろと、とり澄ましていることだった。
(これは――?)
と思わぬ者はなかったらしい。
けれどよくよく考えてみると、長谷川、前田などの傅役のほかに、秀吉も幼君の輔佐《ほさ》たるべしとは、昼の会議でみなが衆判の下に認めていたことである。僭上《せんじよう》なり――とは咎《とが》められない。
そうして、臣座を超えた別格の位置に坐っている秀吉にたいし、何ら咎める理由が見出せないだけに――勝家のおもしろくない顔つきは非常なものだった。
「……いざ、お順に」
二叔の信雄、信孝へむかって、こう促《うなが》すのさえ、頤《あご》のさきで、声こそ低かったが、業腹《ごうはら》の沸《たぎ》りが息になって洩れたような語調だった。
「お先に」
信雄は、信孝へ云って、さきに立った。これがまた、信孝には不興なこと夥《おびただ》しい容子《ようす》だった。少なくもこれだけの列将を前にして、信雄の次にされたことは、彼として、将来まで下風におかるることを無言のうちに確定づけられた気がしたのであろう。
信雄はと見れば――父信長と兄信忠の位牌にむかい、瞑目《めいもく》合掌して香をささげ、ふたたび厨子壇《ずしだん》を拝し、静かに、そのままうしろへ退《さ》がりかけていた。
――で、すぐに自分の座へ戻りかけるかのような物腰に見えた時、秀吉は、咳一声《がいいつせい》して、自分の膝に三法師君が在ることを――
(ここに新君おわすぞ)
といわぬばかり屹《きつ》となって、信雄の関心を促した。
秀吉の意識的な身じろぎに、はっとしたらしく、信雄はあわてて膝を向け直した。自体、気の弱いこの人のことである。それが気の毒なほどどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]と見えた。
「…………」
三法師を仰いで、信雄は、ごていねい過ぎるほど、恭《うやうや》しく拝礼をした。
「うむ」
うなずいたのは幼君ではない。秀吉である。
どうしたものか、秀吉の膝にあっては、駄々でおむずかりや[#「おむずかりや」に傍点]の三法師も、人形のように端然《たんぜん》としている。傅役の長谷川、前田、乳人《めのと》たちは、遠い末座に、ただひれ伏しているのみで、ほとんど、その人たちの手を焼かすこともない。
信孝が立つと、同じく、父信長、兄信忠の霊を拝し、これは信雄の前例を見ているので、諸将に笑われまじとするかの如く、まことに挙止《きよし》正しく、新君三法師にも謹んで伏礼をして退った。
次が柴田勝家であった。
彼の大きな姿が塞《ふさ》がるように厨子壇《ずしだん》の前に坐ったとき、障壁の紅蓮白蓮《ぐれんびやくれん》も、ゆらめく仏灯も、悉《ことごと》く瞋恚《しんい》の焔《ほむら》のごとく、その影を赤々と隈《くま》どった。
会議の報告、新君擁立の誓いなど、胸中の万感を交《まじ》えて、長々と信長の霊に告げているものか、黙拝|拈香《ねんこう》、いと重々《おもおも》しく、さらに合掌久しゅうしていた。
そして退座七尺、いちど胸を正して、三法師のほうへ向い直した。
すでに、信雄と信孝すら、三礼をなしているので、彼として怠ることはできなかった。ぜひなくではあったろうが、そのまま、腹中いっぱいの苦情を嚥《の》んで拝礼をした。
秀吉は彼へもひとしく、
「ウム」
と、頷《うなず》くかのような眉目《びもく》を示した。――勝家は、ぐいと猪首《いくび》を横に曲げて、ばさばさと自席へもどった。その後、唾《つば》でも吐きたいような顔をしていた。
丹羽、滝川、池田、蜂屋、細川、蒲生《がもう》、筒井など順次に拝儀は終った。――そして人と席とはそのまま、この夜――故信忠卿の御簾中《ごれんちゆう》より被下《くださる》――とあるお斎《とき》の間《ま》へ移って酒宴となった。
ここには、会議後、遅ればせに着いた金森長近や、菅屋九右衛門尉、河尻肥前守なども、席に加わっていた。
また両日中、城外の治安や城中の守備連絡などに助力していた諸侯の家臣中の一族とか老臣格の者も、各一、二名ずつ列席をゆるされ、清洲直臣の側からは、前田玄以、長谷川丹波などがつらなった。
信雄、信孝の在るは、もちろんのことである。配膳は四十客以上の多くに供えられた。すでにして杯は廻り燭《しよく》は夜涼《やりよう》にさやぎ、人々はこの二日間に初めての歓語《かんご》とくつろぎの中に各※[#二の字点、unicode303b]酔いを覚えていた。
酒宴と茶会とは、この時代の戦国社会では、流行《はや》り物《もの》のようであった。陣小屋の雑器としている備前壺に、一輪の野の花を生けて、物の具のまま一碗を喫し、また、陣後の往来や城中の諸会にも、昼に夜に、酒宴のひらかれるのはめずらしくない。百事の儀礼はみな酒宴の形式でされるといってもよいほどである。
これはもとより当時の世態と武門生活の要求から自然になされて来た風習であった。信長といい、柴田、羽柴、その他、当年の先駆者や中堅はすべて皆、この世に、生れた時から世は戦国であり、長じて四十、五十となった今でも、なお世の中は戦国である。
極言すれば、この時代の人間すべては、
(世の中とは、即、戦国のこと。戦国以外に、どんな世の中があるか)
を、まだ自分の生涯中には見てもいず味わってもいない人たちばかりであったといっていい。
故に、戦いは、日常であった。
(いつかかならず身をもって、天日うららかな平和を四海に回《めぐ》らし、万民をして和楽の地に安んぜしめん)
とは、武門の上に立つ大将としては、誰もがいだいている理想のうちの大なるものだったし、民土一般も、その日の来ることを生涯の憧憬《あこがれ》としていたことはいうまでもないが、さりとて、
(いつから始まった戦い、いつ頃になれば終るか)
などと月日から割り出した儚《はかな》い観測などに無為《むい》な日を暮している者はなかった。――この世は戦国、戦国は日常――という通念が徹していた。生活一切もそれに順応《じゆんのう》して、何の不自然もなく、苦しみも楽しみも、焼土も建設も、死別も生別も、涙も笑いも、悉《ことごと》く、人生の毎日にあり得る常のこととされ、しかもその中になお、この世に対する大きな希望と、苦しい日にも、愉快にあらんとすることを忘れなかった。
諸将のよくやる酒宴は、その積極性のあらわれの一つだった。戦陣の寸暇、甲冑《かつちゆう》を解いて、身をくつろぐと共に、心を寛《ひろ》くし、和楽のうちに、心身を養うことであった。
しかしまた宴楽のあいだには、外交の詭計《きけい》、私交の虚実、人物の試胆《したん》、戦不戦の打診など、善悪あらゆる機微のものも美味声色を仮りて入り交じっている。燭《しよく》は麗《うるわ》しといえどここもまた観《かん》ずれば刃《やいば》なき戦場なりといえないことはない。――しかもそれは深く秘して交杯《こうはい》談笑のうちに各※[#二の字点、unicode303b]が魂の素肌まで示しあうところにまた、人と人との交わりの微妙な味も醸《かも》されるのであった。
だから当時の武将はみな何か酒宴のときに振舞う芸能を持っていた。信長の幸若舞《こうわかまい》も有名だったが、あの真面目くさい徳川家康にしても、自然|居士《こじ》の曲舞《くせまい》はおはこ[#「おはこ」に傍点]の芸であったし、その家臣の酒井忠次といえば、蝦《えび》すくい[#「すくい」に傍点]の名人として、その珍なる踊りは、四隣にまで鳴っていた。
こよい、ここの宴は、常の場合とちがい、仏餐《ぶつさん》を賜わっていたのであるから、誰も演舞までやり出すような大酔はしていないが、しかしここの顔ぶれの中でも、演《や》ればずいぶん演り得る隠し芸の持ち主はいそうである。
わけて池田勝入の槍踊りは、自他共にゆるすものだった。
まだ信長の在世中であったが、或る折、甲府の使者を迎えて、安土に大酒宴の催されたとき、主客の使者が列席の武将のなかに、一《ひと》きわ背も低く、足も跛行《びつこ》の小男が、人からうけた大盃を乾してそれを返しに立ってゆくのを見て、
(あれよ、盃より小さい侍が、盃を漕《こ》いで、海をわたって行くわ)
と、一寸法師の噺《はなし》に事よせて、座興をいったつもりであろう、遠慮のない笑いかたをした。
すると勝入は、――この頃彼はまだ髪もおろさず名も勝入と変えていなかったが――黙って次の間へ退《さが》ったと思うと、ふたたび現われ、携えて出た見事なる朱柄《あかえ》の大槍を座のまん中に立てて主客の方にむかい、
(客人《まろうど》にもの申す。末座にまかりある者ゆえ、わざと御挨拶をひかえていましたが、お目にとまったようにござれば、かくは推参《すいさん》申してござる。……したが、客人《まろうど》の御眼には、この男、いたく小男のように御覧ぜられたかのようなれど、父母より賜える五体、幸いにして、五尺ほどはこれあり、今日までの戦場においても、いまだいかなる強剛に会うも、身の丈《たけ》の不便というものはかつて覚え候わず。……とはいえ客人は小さいと仰せられ、それがしは大きいという。いずれが是《ぜ》やら、いずれが非やら、篤《とく》と、見ていただきとう存ずる)
云い終ると、信輝は武者ぶり作って、りゅうりゅうと槍をふるい出した。あだかも四面|鉄桶《てつとう》の乱軍を駆けくずし、その悉くを槍にかけて、宙に大地に、突き投げ突き伏せて熄《や》まざるかのような大演技を演じて見せたのである。
信長を始め安土の同僚は、手をたたいて興じ入ったが、甲州の使者は、演舞の槍先がしばしば胸元近くまで閃《ひら》めいて来たので、酔もさめたような顔していた。
そして、その後のてれ[#「てれ」に傍点]かくしに、傍らの者へ、
(今のは、誰ですか)
と訊ねたところ、
(あれこそ、御当家の池田勝三郎信輝です)
と聞かされて、ふたたびふるえ上がったということである。
以来、信輝の槍踊りは、著名になって、折あるごとに見られたが、本当はそんな烈しい荒芸《あらげい》ではなく、虫の居どころによりなかなか優雅な舞い振りのものであったという。
――が、さて。
その池田勝入も、今夜の席に、居ることは居るが、こよいは亡君のお斎《とき》の賜膳《しぜん》である。酔うには酔うても、まさか槍踊りというわけにもゆくまい。
他の諸将も、同様な行儀であった。
しかし多少、酒気のあがるにつれて、あなたこなた、座をくずして、寄々《よりより》に談笑の声はわき出している。
殊に秀吉の前には、杯と人とがかたまっていた。
そこへまたひとり出て、
「おながれを」
と、改まって乞うた者がある。柴田勝家が自慢の臣、佐久間|玄蕃允盛政《げんばのじようもりまさ》であった。
玄蕃の驍勇《ぎようゆう》無双なことは、北越の戦陣で久しく鳴りとどろいているものだった。
(――佐久間玄蕃に二度出会った敵はない)
と、いうことばすらあるほどである。
勝家の愛し方は一通りでない。何かといえば、
(わが家の玄蕃は)
と、口癖にいい、
(甥《おい》めが、かように働いて)
とか、自慢たらたら、彼の武功を吹聴すること、他愛ないくらいであった。
勝家には、甥もたくさんいるが、彼が、「甥めが」といえば、それは玄蕃をさすことであった。
そして、その玄蕃盛政は、まだ二十九という若さであるに関《かか》わらず、柴田一族の上将として加賀の尾山城に住み、ここに在る諸大名とくらべても、何ら遜色《そんしよく》ないほどな封地《ほうち》と待遇をうけていた。
「……おう、筑州どの。ひとつその男に遣《つか》わされい。――甥めが、お杯を所望《しよもう》と申しおる」
勝家は側から云い添えた。
それに初めて気づいたように、
「甥御とは?」
と、秀吉は見まわして、
「やあ、これは」
と、玄蕃の男振りを見まもった。
さすがに音に聞えた偉丈夫《いじようふ》とは見えて、玄蕃の逞《たくま》しい筋骨は小がら[#「がら」に傍点]な秀吉を圧するに充分だった。しかし彼は叔父勝家のようなあばた[#「あばた」に傍点]の瓶《かめ》わり面《づら》とちがい、白皙《はくせき》の美丈夫にして、見るからに虎眉豹身《こびひようしん》の気にみちている。
秀吉は、杯をあげながら、
「なるほど、匠作《しようさく》(勝家のこと)にはよい家の子をお持ちではある。……どれ、ひとつ参らそう」
すると玄蕃は、首をふって、
「いや、どうせ戴くなら、そちらの大きいのを所望申す。大杯を賜りたい」
「これか――?」
それにはまだ酒がたたえられていた。
秀吉は無造作に器物へあけて、
「誰ぞ、酌してやれ」
といった。
朱のさかずきの縁へ、蒔絵《まきえ》の銚子《ちようし》の注《つ》ぎ口《ぐち》が当てられた。銚子が空になっても杯はまだ余地をのこしている。酌人は、べつな銚子を取りよせて、さらに、それへ満々とついだ。
虎眉豹身の美丈夫は、眼をねむって、盃を仰いだ。そしてなお余滴《よてき》まで舌なめずるごとく飲みほして、これを懐紙で一拭《いつしき》し、
「いざ」
と、返した。
秀吉は、笑って、
「わしは、だめだめ。その芸はできない」
手を振られると、玄蕃《げんば》は、ひと膝つめた。
「なぜ、受けて賜わらぬか」
「弱いためだよ」
「なんの、これしき」
「それは、戦《いくさ》のときのことばよ。酒はのむが、大酒はようせぬ筑前じゃ。ゆるせ、ゆるせ」
「あはははっ。あはははっ」
腹の底から玄蕃は笑った。そして満座へ聞えよがしに、
「ひとの噂にたがわず、なるほど羽柴どのは謝《あやま》り上手だ。まことに、お腰が低うていらせられる。むかし――二十余年前には、この清洲のお城で、馬糞《ばふん》を掃き、お草履をつかむ御小人《おこびと》であった時代もある。その頃をわすれぬためとか。さても殊勝なお心がけよの」
今日の羽振りをもつ秀吉を前において、これほどのことがいえる者は、この玄蕃を措《お》いてほかにあるまい――と、みずから誇るかのような彼の放言だった。人もなげな哄笑《こうしよう》であった。
はっとしたのであろう。
あちこちの談笑は急にやんで、人々の眼はみな玄蕃の姿にそばだてられた。
そして玄蕃の前にある秀吉の顔いろと、勝家の容子とを見くらべもして、
「すわ、また何事か起りはしないか?」
と、一瞬みな、酔いと杯を忘失していた。
秀吉はにやにやと玄蕃を見ているのみである。四十七歳の眼から、二十九歳の若さを見やっている眼であった。
いや年齢差だけでなく、秀吉が生れて二十九年をかぞえていた頃の人生と、玄蕃盛政が経て来た二十九年の歩みとでは、その境遇でも心態《しんてい》でも、たいへんなちがいがある。要するに、それすら思いいたらないほど、玄蕃は実世間的な苦労は知らないお坊っちゃんであったといえよう。為に、剛勇無比の名と共に、すぐ驕慢《きようまん》をも持ってしまうのであった。当代の代表的人物が一堂にある今夜のような畳の上の場合のほうが、戦場以上に実は危険な場所であるという戒心《かいしん》などはまったくないかの如き彼であった。
「――だが、筑前。ひとつ玄蕃の腹にすえかねることがあるぞ。やい、聞け筑前。……耳はないのか」
もう呼ぶにも呼び捨てである。酒くせよりは腹の虫が云っているらしく見える。しかし秀吉は酔態《すいたい》を眺めて、むしろ愛するごとく、
「お汝《こと》。酔うたな」
微笑でなだめると、玄蕃は、
「なんの」
大きく首を振って、
「事は、酒興ですむような、そんな小さい問題ではない」
と、大きく構え直して、さらに云いつのった。
「聞けばだ。――最前、お仏殿において、羽柴筑前には、信雄様信孝様以下の諸侯が、尊堂へ拝をなすにあたって、本来|下賤《げせん》の成上がりの身をもかえりみず、三法師君をわが膝にのせて、ずん[#「ずん」に傍点]と上座にかまえ、しかもいちいちおのれの方へも、拝礼を執《と》らせたということではないか」
「は、は、は」
「なにを笑う。筑州、なにがおかしいか。――三法師君を飾りものに抱いて、実は羽柴筑前というつまらぬ男に、御一門や諸侯の辞儀を故意に強《し》いたる汝の奸策《かんさく》であったにちがいあるまいが。……いや、そうだ。もしこの玄蕃允盛政《げんばのじようもりまさ》がいあわせていたらば、その座をも去らせず首のねを引きぬいてくれたであろうものを。――さてさて、わがお館《やかた》の匠作《しようさく》といい、並居る歴々の衆といい、みな歯がゆいほど、お人のよい方々ばかり――」
秀吉の席から二人ほど隔てて上座にいた柴田勝家は、そのとき急に杯をほして、他の顔をも見廻しながら云った。
「これこれ、玄蕃。何でそのように人の心事を猥《みだ》りに口にするか。いや何、筑州どの、甥めは、こういう男でな。……ははは、悪気ではないのだ。聞き流してくれい」
秀吉は、怒りもし得ない、笑いもし得ない、いわば微苦笑のほかない羽目におかれていたが、こんな場合、彼の特有な容貌はまことに都合のいいものを持っていた。
「ふ、ふ、ふ、ふ。柴田殿よ。そうお気をもまれるな。よいわさ、よいわさ。……この方《ほう》までが間が悪うなる」
判じのつかない態度でいうのだった。感情の揺れからのぼる顔色を見ても、大人の表情のようでない。
玄蕃のために、あたまからがん[#「がん」に傍点]と喝破《かつぱ》されて、手痛く参ったようにも見えるし、反対に、冷眼一瞥《れいがんいちべつ》、相手を歯牙《しが》にもかけていないとも見られるのである。
なおいえば、児童が爪を噛んで何かに拗《す》ねているような稚態《ちたい》と、老僧が山月に嘯《うそぶ》いて世にとぼけているかの如き狡《ずる》いものとを、猿面郎と綽名《あだな》されているその類の少ない顔にぼか[#「ぼか」に傍点]して、巧みに微酔の体《てい》を作っているものと思われぬこともない。
「なに、間が悪うなると。嘘をいえ。何の、猿が……猿が……あははは」
こよいの玄蕃もまた、日頃の玄蕃に輪をかけた傍若無人ぶりである。燃えない物にむりに火をつけて烈火を誘おうと努めているようなところもある。
「猿。……これは失言だった。しかし二十年来世上の通り名、一朝《いつちよう》にしてはあらたまらぬ。――左様、その猿で思い出した。むかし、この清洲のお城に、猿に似た御小人が、雑用にくるくる追い使われていた当時、そこにおるわが叔父も、まだ権六勝家と申されて、折々、宿直《とのい》なども勤められていたそうだが、……或る夜、つれづれのまま、猿を招いて酒をのませ、酔い疲れて横になったついでに――猿よ、すこし足腰を揉《も》んでおくれぬか――と申したところ、おやすいことと、猿は如才《じよさい》なく、権六の足腰を根気よく揉んだそうな」
「…………」
秀吉はともかく、衆はみな酒気を失って蒼白な面《おもて》に生唾《なまつば》をのみ合った。――事態、これはただ事でない。この宴席からいくらも隔ててない壁の外、木蔭、床下など、悉《ことごと》く柴田の手により剣槍飛弓が匿《かく》されているのではあるまいか。そして執《しつ》こく秀吉の怒髪《どはつ》を誘っているのではなかろうか。――そんな邪推や臆測から生じる一種の衆の鬼気が、満座にゆらぐ燭の影と、墨のごとき夜風となって、夏ながら背すじも寒い心地に襲われ出していたからであった。
と、秀吉は、玄蕃のことばが終るも待たで、からからと打ち笑っていた。
「いや、北ノ庄の甥どの。それは誰に聞かれたか、めずらしい思い出を語られるの。――いかにも二十余年前には、権六どののお腰はおろか、猿めは、導引《どういん》が上手《うま》いとて、御一門の衆などには、わけてよう揉ませられたものじゃった。そして、お菓子など賜わると、うれしくてなあ。……わははは。今はなつかし、あのお菓子の味はなつかしいものぞ」
「叔父上。聞かれたか」
と玄蕃は大げさに勝家のほうへ伝えて、
「筑前に、何かよいものをお遣りなされ。今でも、揉めといえば、揉んでくるるやも知れぬ」
「あまり座興の度をこゆるな。――お戯れだわ、のう、筑州どの」
「いやこの頃でも、折々は、ひとの足腰を揉んでおるにはおる」
「ほ。……誰の」
「ことし七十余歳に相成る老母の腰を揉むことは、この方が楽しみの唯一でおざる。しかしここ幾年は戦陣にある方が多く、近頃はとん[#「とん」に傍点]とその楽しみにも会い得ませぬ。……そうそう、俄かに思い出されて来た。おさきに失礼する。各※[#二の字点、unicode303b]には、まずごゆるりと過されい」
秀吉は先に宴を辞した。
そこを立って、大廊下へ出てゆく間も、たれも止めてはいなかった。
諸侯は、彼が席を立ったのを、むしろ賢明と思い、たえられぬ危うさを感じていた鬼気殺気も、それによってまず、ほっとするを得たからであった。
「……殿っ」
「お退がりでございましたか」
大玄関に近い溜《たま》りの一間から、つと出て、彼のあとに従ったのは、片桐助作と石田佐吉の二小姓であった。
城中二日の空気は或る程度ここの詰所《つめしよ》からでも感知することができた。が、秀吉は多くの家臣を城内に入るをゆるしていない。――で、二人の若者は、主人の無事を仰ぐと、各※[#二の字点、unicode303b]うしろからこう云った。
「お疲れでございましたでしょう」
「……が、何事もなくて」
秀吉はうなずくのみで、後の二人が小走りになるほど大股な歩みであった。
そしてすでに、外へ出て、助作と佐吉が、供の家中や馬を呼びたてていると、
「羽柴どの羽柴どの」
あわただしく追いかけて来て、空に三日月の見える宵闇の広場に、彼の姿を求めている者があった。
「ここじゃよ。ここじゃよ」
秀吉はもう馬上にあった。
そこで鞍つぼを叩いている音を知って、滝川一益は駈け寄って行った。
「何か」
秀吉は一瞥《いちべつ》くれていう。
その容子は、主君が臣下を見るのと、同じであった。
一益は、寄り添って、
「察し入る、察し入る。さだめし今夜は、お腹が立ったであろう。……が、酒のうえのこと。それに、北ノ庄の甥《おい》は、あのとおりまだお若い。ゆるしておやり下さるように」
頻《しき》りになだめる。
そして、次に告げた。
「既定の事。おわすれあるまいが、明四日の昼、三法師君のお世継《よつぎ》御披露の祝事には、ぜひ御参列を欠かされることなきようにと、柴田どのが特に、あなたの立った後ですぐ案じるごとく申されておられた」
「そうか。……うム」
「必ずおわたりあるように」
「わかった」
「くれぐれも、こよいのことは、水にながされよ。――北ノ庄殿へはわしから申した。なんの、大腹な筑前どののこと、若い者の一場《いちじよう》の戯言《ざれごと》などに気を悪うするものかと」
「叱《し》ッ――」
馬がうごいたのである。一益が馬の後肢を避けて身を転じると、
「老人。あぶない」
秀吉は一顧して、さらに馬をぐるぐるまわし、黒々と寄って自分を見まもっている供の人数へ、
「参るぞ」
すでに多聞《たもん》を出て、大手の唐橋を通っていた。
彼の宿舎は町の西端れで、小さい禅寺と隣地の一豪家を借りていた。寺坊には人数や馬匹をおき、秀吉はその農家の中二階ともいえるような所に起居していた。ここが気軽でいいというのである。
簡易な彼の旅営にしても、兵員は約七、八百名も連れている。――が、少ない方で、柴田などは出陣そのままの装備と兵力を擁して来たので、無慮一万にちかい麾下《きか》を清洲《きよす》に入れているだろうという噂であった。
宿へ戻るやいな、秀吉は、
「煙い煙い。窓を開けい。梯子口《はしごぐち》も開け放しでよい」
それと、暑さとで、桐紋《きりもん》の式服やら長袴《ながばかま》やら、蹴るように脱ぎすてて、
「――風呂は」
と、早や裸体での催促だった。
もう宵の五刻《いつつ》だが、八百の兵員の炊煙《すいえん》はまだ濛々《もうもう》と旺《さかん》であった。
ここの中二階の下の部屋には、堀尾茂助《ほりおもすけ》、一柳市助、木村|隼人佑《はやとのすけ》などの近衆がつめ、身辺の世話は、小姓たちが勤めていた。
隣地の寺坊の方にはなお、年長《とした》けた部将たちが兵と共にいたが、その中のひとり加藤|光泰《みつやす》がこれへ来て、
「殿は、どちらに?」
と、さがしぬいていた。
裏の風呂場と分って、光泰は廻って行ったが、豪家といっても、田舎家のことである。板屋根の、それも壁も羽目もない吹きぬきに桶風呂一つすえてある所に、秀吉の首が、湯気の中に浮いている。
「――作内光泰にござります。何か、急に来いとの仰せの由、憚《はばか》らずに参りましたが」
湯の流れてくる垣の元にひざまずいた。
「作内か」
と、秀吉は見て、
「寺内の者どもは、今ごろ飯をくうておるらしいが、なぜ晩《おそ》いのか」
と、訊ねた。
光泰は答えて、
「城中に万一の変もあらばと、きょう一日中、みな案じておりましたので、殿の御無事なお帰りを知って、初めて炊煙をあげ出したわけにございまする」
「無用無用」
秀吉は湯から出て、小姓の石田佐吉に背中を洗わせながら、
「兵どもに、いらざる苦労をさせるお汝《こと》らは、ちと拙《つた》ないぞ」
「はっ」
「兵には早う飯をとらせ、馬にも充分|飼糧《しりよう》をくれて、こよいは早目に眠らせておけ。――火の用心ぬかるな。時ならぬ沙汰あるも、すぐ打ち立てる心しておけや」
「かしこまりました」
「何している。蚊にくわれるぞ。……用はそれだけだ。はやく行け」
光泰は去った。
これはごきげんがよくないらしい。――佐吉はそう思いながら、小桶にすくった湯をおそるおそる秀吉の背にながした。
が、秀吉は、湯桶の中で、あくび[#「あくび」に傍点]を一つしていた。そしてその中で四肢の筋肉でもいっぱいに伸ばしているのか、ううむ――と鼻でうめいて、
「……すこし解《と》けた」
と、二日の凝《こ》りを喞《かこ》っていた。
「蚊帳《かや》は吊ったか」
浴衣《ゆかた》を捧げた小姓たちが、
「吊っておきました」
「よしよし。お汝《こと》たちも、早寝せよ。――詰《つめ》の者にもそう申せ」
秀吉は蚊帳の中から云った。
戸は閉《た》てられてあるが、窓は風を呼ぶためにあいていた。宵月のほの明りが揺れてくる。――と、眠りかけたかと思われる頃、
「殿……」
「なんじゃ。茂助か」
「はい」
と、堀尾茂助の声が外からいう。
「有馬法印が見えられて、そっとお目にかかりたいと申しておりますが」
「なに、有馬法印が」
「はやお寝《やす》みと申しましたが、それでもと、強《た》って申されますので……」
しばし、返辞がない。
秀吉は蚊帳《かや》のうちで、しばらく考えているふうだったが、やがて、
「では、梯子《はしご》を上がった所まで通せ。秀吉、ちと疲れ気味にて、お城よりさがるやいな、薬湯を服《の》んで臥《ふ》せておりますれば……と断ってな」
「承知仕りました」
静かに、茂助の足音が、中二階の段を降りてゆくと、間もなく、ふたたび上がって来る人の気配が、そこの狭い板の間にうずくまった様子であった。
「筑前どのには、お寝みのようでございますが」
「オ。法印か」
「……どうぞ、そのまま」
「蚊帳の中に臥《ふ》せったままじゃ。無礼はゆるされよ」
「なんの。今、御近衆にうかがえば、お城より帰らるるとすぐお茶を召されてお籠《こも》りの由。お案じいたしましたが、火急、お耳へ入ればやと、夜中を冒《おか》して参りましたので」
「何ぶん二日の会議で、心もいため、体もちと無理をしたのでな。……が、夜中、急に来たとは」
「はい。……羽柴どの」
法印は急に声をひそめ、
「明日、御城内での、三法師さまお跡目立ちの御祝宴には、お出ましのおつもりでございまするか」
「さ。……何せい、きのうもきょうも、薬を服《の》んでは、怺《こら》えて来たような体の調子。多分、暑気あたりかとも思わるるが……さりとて、登城を欠けばまた、うるさかろうしの」
「左様に御気分のすぐれぬのは、それこそ虫の知らせというものでございましょう」
「ほう。……とは、なぜか」
「先刻、宴のなかばに、御退席なされましたが、あの後にて、柴田党の方々ばかりなお残られ、頻りと、秘事の談合です。――解《げ》せぬ色よと、前田|玄以《げんい》などとも案じ申し、ひそかに窺《うかが》いまするに……」
ふと、口をとじて、法印は秀吉が聞いているのか否かをたしかめるように蚊帳のうちを覗いた。
青い虫が、蚊帳のすそでキチキチと啼いていた。秀吉は依然、仰《あおむ》けに寝たままである。
「法印。――それから?」
「詳しい謀《たくら》みはさぐり得ませぬが、あらましを察するに、柴田党の面々は、どうしても、筑前殿を生かしておけぬとしておりまする。――で、明日の登城を機《しお》に、一室へ拉《らつ》し、罪状の数々を拵《こしら》え立てて、いやおうなく腹を切らせん。切らずば無下《むげ》にも抑えて刺し殺さん。……それには、ああしてこうしてと、城内の兵のくばりから城下の抑えまで、残るくまなく、肚黒《はらぐろ》い密事を凝《こ》らし、しかも明日は、いとさりげなく、あなた様を清洲に待とうと致しておるものにござりまする」
「ははあ……。怖いのう」
「実は、玄以がお告げに参ろうと、気を揉んでおりましたが、玄以がお城を出ては、人目につく惧《おそ》れもあり、かくは法印がそっとお耳に入れにまいりました。……折ふし、御発病とあれば、これも天の御庇護《ごひご》、どうぞ明日の御参列は、お見合わせ遊ばしますように」
「さあ。どうしたものだろう」
「ぜひにも、お取り止めなされませ」
「ほかならぬ、新君の御祝事ではあるしのう。……が、法印、好意は謝すぞ。ありがとう」
降りてゆく梯子の跫音《あしおと》へ、秀吉は蚊帳の中から掌《て》を合わせていた。
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離《り》
彼は、眠ることが上手な人であった。
眠ろうと思うときに、どこでもすぐ眠れるということはやさしいことのようで実はむずかしい。
場所を問わず、また眼前の何事にもとらわれず、まつ毛をとじさえすれば、ごろりとなっても、物に倚《よ》りかかったままでも、すぐ寝られるのでなければならぬ。
しかも、ごくわずかな時を限って、思いのままに、眼をひらくと、直ちに、百年の眠りから醒めたるごとく、頭脳も肉体も一洗《いつせん》されて、
いざ。
と立ちどころに、大事小事を、行く水のごとく処理してしまうというような習性は――習性というよりは、ひとつの禅《ぜん》である。
秀吉の絶倫な精力と健康とは、彼の「眠り上手」にもあるといってもさしつかえなかろう。
努めるともなく、これに慣れたのは、年少放浪の頃、家なき子として、草の上でも、荒寺の床にでも、いわゆる大地を褥《しとね》としていた当時の賜ものと思われる。
――が、長じて、かつ世の指導的な一方に立って、いかなる逆境や困苦の重囲にも煩《わずら》わさるるなく、その少時の鍛練を、よく生かして、
即睡即覚《そくすいそつかく》
ともいえる悟道《ごどう》に近い妙生《みようしよう》を身にもつようになったのは、彼自身がその戦陣軍務の多忙と健康の必要から考え出したところの、ひとつの座右銘《ざゆうのめい》から得たものであった。
室町中期頃から、世上の騒乱暗澹《そうらんあんたん》たる半面に、心ある武門のあいだには、各※[#二の字点、unicode303b]がひそかに、
――われらは、これでいいのか。
という反省がよび起されて、その結果、武家の一門に、或いは、武士個々に、当時の座右銘ともいえる――家憲《かけん》、武士道訓、或いは、壁書《かべがき》――などというものが大いに行われ始めて、その道義的風興は、戦国期に入って、いよいよ磨《みが》かれ競《きそ》われているのであった。
で、秀吉にも、何がな日常の心養に、そういう座右の師語は幾つか心にあったであろうが、彼がひとりひそかに珍重している座右銘は、むしろ路傍で会ったつまらない旅の禅坊主からふと聞いて忘れ得ないものとなっている――
離《り》
という一字であった。
これが、彼の座右銘ともいえる護符《ごふ》だったのである。
離《り》。はなれる――
何でもないようだが、彼の眠り上手のこつ[#「こつ」に傍点]も離れ心であった。
焦躁、妄想、執着、疑惑、早急――あらゆる事々のきずなをも、一瞬、両の瞼《まぶた》で断ち切って、一切白紙の心になって寝てしまう。――また、瞬時にして、ぱっと醒《さ》める。
これが思うままにできるようになると、醒めるも快、眠るも快、百事、この世は快ならざるものはなくなってくる。
のみならず彼は――彼とても巧《うま》い戦や思いどおりな計画ばかりではなく――ずいぶん周囲に間《ま》の悪いような失策も度々だったのであるが、そんなときも、その失敗失戦にくよくよとらわれている風《ふう》は少しもなかった。こんな場合、彼が胸のなかで思い出していることも、
離
の一字だった。
よく人のいう臥薪嘗胆《がしんしようたん》とか、一念没頭とかそんな程度の懸命は、彼にとっては、特別な心がけでなく、日々当然にしている生活だった。――故に、彼にはむしろ、一瞬でも、それから離れて、大生命を息づかせる「離」の心がけの方がはるかに必要だったのである。惹《ひ》いては、生死ももちろん「離」一字にまかせていた。
わずかな間だった。――半刻も眠ったろうか。
秀吉は起き出した。
階下の厠《かわや》へ降りてゆく。――と、すぐ詰《つめ》の間《ま》の者が紙燭《ししよく》を掲げて板縁にひざまずいた。間もなく、彼が雪隠《せつちん》から出てくると、なおべつの一名は、小《こ》柄杓《びしやく》に水をたたえて待ち、傍らに寄り添うて、秀吉の手へ水をかけた。
秀吉は、手を拭きながら、軒ごしに月の位置をながめ、佐吉、助作の二小姓を顧みて、
「お汝《こと》らも、寝たか」
と、訊いた。
実は――眠る間などなかったのであるが、そういっては、きげんの良くないことを知っているので、
「はい。まどろみました」
と、答えると、秀吉は縁を五、六歩すすんで、そこの詰の部屋へ、
「権平《ごんぺい》も居るや」
と、直《じ》かに声をかけた。
平野権平が、答えて出ると、秀吉は中二階のはしご段へ足をかけながら振向いて、
「寺中へ参って、光泰に、出かけるぞと、合図して来い。――兵の分かちよう、道々の推行《すいこう》(行軍のこと)などは、夕刻下城のせつ、書きものに認《したた》めて、浅野弥兵衛に渡してあるゆえ、浅野弥兵衛について、さしずを聞けと申せ」
「はっ」
「待て待て。もう一言いいわすれた。大島|雲八《くもはち》に、ちょっと来いといえ」
裏の雑木林から寺の方へ、権平の走ってゆく跫音《あしおと》が遠ざかってゆく。そのまに秀吉は小姓たちに介添《かいぞ》えされながら、手早く鎧具足《よろいぐそく》を着けていた。
身支度さえすめば、さッさと先に出て、他の者に猶予《ゆうよ》していないのが彼の性分である。自然、まごついている者は置き残されてしまう。けれど扈従《こじゆう》もよく馴れていて、秀吉の身世話は、刻々に顔をかえて行われ、支度のできた者が来て代ると、前の者が退いて、忽ち、物の具を引っかつぎ、われおくれじと、後について来るといったふうであった。
宿の前は、伊勢路と美濃の往来になっている。秀吉は納屋《なや》の横を通って、そこへ向っていた。
――と、さきに召しをうけた大島雲八|光義《みつよし》が、よたよたと追いすがって来て、
「光義、参りました。御用の旨を承《うけたまわ》りまする」
と、立ちどまった人影の前へまわってひざまずいた。
大島雲八は七十六の老武者であった。一子の茂兵衛光政《もへえみつまさ》は丹羽長秀に仕えていたが、この老父は早くから秀吉に傾倒していた。その持城が美濃の関にあった関係もある。
「老人か。御苦労御苦労」
秀吉はその老体をいたわりながら、雲八が若い者に負けず、早くも甲冑を着けて来たのに目をとめて、
「やれやれ、物の具までには及ばなかったものを。――頼みおく用は明朝のこと。お許《もと》は、後に留まっておれ」
「明朝。清洲のお城へ参りますので」
「それよ。さすがは年の功、よう察した。――筑前こと、持病に悩み、昨夜、にわかに長浜へ帰国、残念ながら御祝事には列し難ければ、諸事よろしくと、城中へも、柴田へも申し入れておくのだ。……いずれは、勝家、一益などがくどくど[#「くどくど」に傍点]申すであろうが、お許の耄碌《もうろく》こそ倖《しあわ》せ、耳の遠い顔して、何事も聞きながし、そのまま関へ立ち帰るがよい」
「お云いふくめの儀、よう分りましてござりまする」
老齢七十六の武者大島雲八は、海老《えび》のように曲った腰にも、なお一筋の槍は手離さず、一礼して立つと、大鎧にかためた身を重たげに旋《めぐ》らして、そこからゆさゆさ[#「ゆさゆさ」に傍点]とあとへ引っ返して行った。
山門前の往来には、寺中あらましの人数がもう出揃っていた。一旗一旗の指物《さしもの》を目じるしとして、部隊は幾組にもわかれ、その組先には、各部将が馬を立てている。
火縄の火はチラホラしているが、一火の松明《たいまつ》も点じていない。
それに、その夜の月影も、いと細く。
並木つづきに、七百の兵馬は、渚《なぎさ》の波のように、静かに、黒々と、たゆとうていた。
「弥兵衛やい。――弥兵衛やい」
秀吉は、呼ばわりながら、将士の列のすぐそばを歩いて行った。並木の蔭なので、人影もさだかでない。わずか、六、七名をうしろに連れた背の低い小男が、竹の杖で地を叩いて通るので、小荷駄の組頭か――ぐらいにみな思っていたが――秀吉であったと気づくと、さらに粛となった兵馬が、彼のためにみな少しずつ馬蹄を避けた。
「あ。――弥兵衛、これにおります」
あなたの石段の下で、何か、一《ひと》かたまりの人影へ向って、さしずをしていた浅野弥兵衛は、秀吉の声に気づくと、早口にそれを終って、こなたへと、駈け出して来た。
「いいのか。いいのか」
秀吉は、彼に、ひざまずかせる遑《いとま》も与えず、こう性急に云って、
「――よかったら出かけい」
「はっ。よいのです。――では光泰、先に立て」
弥兵衛は、後ろへいう。
うしろにいた加藤光泰は、
「では」
と、山門のわきに立てていた金瓢《きんぴよう》の馬簾《ばれん》を預って、列の中へ持ちこみ、自身もすぐ馬上になって加わった。
秀吉はそれを離れた。そして小姓たち数名と、堀尾茂助、浅野弥兵衛、その他三十騎ほどの者に囲まれて、山門から揺《ゆる》ぎ出す兵列を見ていた。
貝を用うべきところであるが、貝の音も松明《たいまつ》も戒《いまし》めてあるものらしく、浅野弥兵衛が、秀吉から金采《きんさい》を受けて、秀吉に代ってそれを一颯《いつさつ》、二颯、三颯――打ち振った。それを合図として七百の兵馬は、先頭から徐々行進し始めた。
列の首端は、方向を一転、道を旋《まわ》って、秀吉の前を通って行く。――各隊先導の部将には、生駒甚助同三吉の父子、中村孫兵次、山内猪右衛門、木下助左衛門、弟の勘解由《かげゆ》、小西弥九郎、一柳市助など、いわゆる中堅の旗本のみだった。古参老練の顔があまり見えないのは、その多くが秀吉の城地たる長浜、播磨《はりま》、その他の占領地などに、なお残されているものと思われる。
こうして、その夜半。
秀吉の人数は、あたかも、秀吉も共に、その主隊にあるかのごとく見せて、清洲の城下を離れ、美濃本道をとって、一路、長浜へ立ってしまった。
また、当の秀吉も、その直後、同じくここを去ったが、扈従《こじゆう》はわずか三、四十騎にすぎなかった。しかも道はまったく別方面をとり、わざと津島を迂回して、まし江、いもらの渡りなど、人も気づかぬ田舎をいそぎ、美濃の長松で一夜を明して、やっと長浜へ帰ったのであった。
同夜、いや、もう翌《あく》る日といってよい、払暁《ふつぎよう》だった。
柴田勝家の宿所と、附近の玄蕃盛政《げんばもりまさ》の宿所などへ、どこから引き揚げて来た兵馬なのか、霧や露に濡れびたった夥《おびただ》しい甲冑のなだれが、幾回となく隠れこんで、その後、市人の目を惧《おそ》れるもののごとく、門をとざしていた。
「ぬかったのう、玄蕃」
「いや、ぬかりはなかったつもりですが」
「なかったということがあるものかよ。どこかに手抜かりがあったればこそ、せっかくな網の魚を、むざむざ取り逃がしたのであろが」
「だからこの玄蕃も、いわぬことではなかったでしょう。討つなら討つと、初めから堂々と鼓《こ》を鳴らして、彼奴《きやつ》の宿所へ襲《よ》せかけるならば、今頃はもう二人のあいだに、秀吉の首級《しゆきゆう》を置いて見ていられたものを。……それをば、叔父上が、やたらに、密《ひそ》かに密かにとばかり仰せられ、この玄蕃の策をお用いなさらなかったゆえ、こんな無駄骨に終ったのでござる」
「若い若い。そちは下策を取っていう。わしは計《はかり》の上策を思うのじゃ。――最上の策は、秀吉の登城を待って、一室に監禁し、罪状を云いかぶせて、詰腹を切らせる。……これに如《し》く良計はない。ところが、夜に入って、細作《さいさく》(密偵)どもの告ぐるを聞けば、秀吉は急に宿を引き払って、帰国する気配あり、夜立《よだ》ちの動き見ゆ――とのことに、これはいかぬと思い直し、万一、彼奴が夜のうちに清洲を離るるがごとき場合あれば、むしろ天の与え、無断当地を離脱なさば、その罪を鳴らすにも名分の立つことと、急遽《きゆうきよ》、そちに伏兵の策をさずけて、途中において、彼奴を撃てといいつけたのじゃ」
「それがそもそも、叔父上の手落ちでござる」
「なんで、わしの」
「あの猿めが、こちらの思うつぼ[#「つぼ」に傍点]にはいって、御祝事の今日、登城するだろうなどとお考えになっていたのが、不覚のひとつ。二つには、夜に入って、それがしに、兵を伏せて途中で撃てとおさしずなされたはよいが、他の者にも、手勢をさずけて、本道以外の抜け道にも充分兵を配しておくべき当然な御用意が欠けていたのではございませぬか」
「たわけめが。――それくらいなことは、そちの一存でも、抜かるはずはあるまいと信ずればこそ、そち一名に申しつけ、他の将には、玄蕃の指揮によれとのみ、いうておいたのじゃ。……しかるに、本道のみに兵を伏せて、ついに秀吉を逸したことを、まるでわしの手落ちのようにぬかしおる。すこしは、己れの不つつかも省《かえり》みたがいい」
「……ではもうこのたびは、玄蕃の失敗として謝りますが、叔父上にも、以後は余りに、智謀を弄《ろう》す癖《くせ》はお止めください。智を弄す者は、智に溺《おぼ》れる。またせっかくの機を逸しまする」
「なんじゃと。わしが智謀を弄《もてあそ》ぶというのか」
「いつものお癖です」
「ば、ばかな」
「いや、世間でも、よく申しおりますぞ。――柴田どののお癖が出たといえば、又候《またぞろ》、底に底があることのようにみな用心して」
「…………」
白髪交《しらがま》じりの太い眉を重たげによせて、勝家はおし黙ってしまった。
日頃は、主従以上、親子以上、仲睦《なかむつ》まじい叔父|甥《おい》であったが、狎《な》るるに過ぎて、ひとつ蹉跌《さてつ》が生じると、ふたりの仲には、威令《いれい》や尊敬を持とうとしても持てなかった。
何しても、この朝の勝家の渋面《じゆうめん》といったらない。
複雑なる不機嫌≠ウである。生理的には、ゆうべは一睡《いつすい》もしていないし――それもある。
玄蕃にいいふくめて、途中に兵を埋伏《まいふく》し、夜逃げの秀吉を急襲して、一挙に後の禍《わざわい》を絶ち、ここ腹いッぱい溜っている鬱《うつ》を晴らせるものと、夜明け方まで、
(今か。今に)
と、首を長くしていた吉報が、やがて戻って来た玄蕃自身の口から、
(通ったのは、羽柴の家中だけで、秀吉のすがたはその中に見え申さぬ。――秀吉も居ぬ行列へ、不意撃ちを仕掛けたところで、獲《う》るものはなく、却って、後日の不利と存じましたゆえ、むなしく引き揚げ申してござる)
とあったので、勝家は夜来の気づかれと共に、まったく心を腐らせてしまったものであった。
その揚句は、玄蕃にまで、「いつもの癖」だとか「智を構えてみずから智にやぶるる者――」だなどと、あげつらわれたのであるから、今朝の彼が怏々《おうおう》としてすぐれないのは無理もなかった。
しかし、そうしてはいられない。きょうは三法師の承祖披露《しようそひろう》の祝日である。朝飯後、一睡一浴して、勝家はまた暑くるしい大紋烏帽子《だいもんえぼし》を身にまとっていた。そして、たてがみ[#「たてがみ」に傍点]飾りをした馬に乗って城へ向っていた。
ひとたびは気を腐らせても、腐ったままでいるような柴田修理勝家ではない。きょうは曇天となって、暑さも一倍むし暑かったが、途上の彼のすがたには、さすがに、清洲城下の何物よりも高いような威風があったし、その面《おもて》には胆汁質《たんじゆうしつ》特有なあぶら[#「あぶら」に傍点]が光っていた。
ゆうべは――
甲《かぶと》の忍《しの》び緒《お》をしめ、鉄槍鉄砲を草むらに匍《は》わせて、秀吉の生命を道にうかがった猛者《もさ》どもも、きょうは烏帽子して、素襖《すおう》、小素襖《こすおう》、天正裃《てんしようかみしも》などを美しく着つらね、弓は袋に、槍|薙刀《なぎなた》も鞘《さや》に、何くわぬ行装《ぎようそう》のもとに蜿蜒《えんえん》と城へさしてゆく。
柴田家ばかりでなく、丹羽、滝川、その他、諸家の列も、前後して登城していたことはいうまでもない。
きのうまで見えて、きょうのみ見えなかったのは、羽柴筑前の列だけであった。
「宿老。お待ちしていた。――筑州の代人として、老臣の大島雲八が、早朝より参って。――筑前守こと、病気のため、本日は不参とやらで、おわびの旨を三法師君へお届けに及び……柴田どのにもお目通りしたいとかいうて、最前から待っておるが」
滝川一益は、城中に勝家のすがたを迎えると、すぐそう告げた。
勝家は苦《にが》りきって頷《うなず》いた。
念入りにしらばくれ[#「しらばくれ」に傍点]ている秀吉よと、肚《はら》には怒りながら、彼もまた、とぼけ[#「とぼけ」に傍点]た顔して、使いの大島雲八を引見《いんけん》した。
そして、秀吉の病気とは何病であるか――とか、急に帰国するならば、なぜ昨夜のうちにわが宿所へでも沙汰してくれぬか。さすれば自分もすぐ出向いて病状を見舞い、諸事打ちあわせも遂げたのに。……などと意地の悪い質問のみ発したが、老来、至って耳の遠い大島雲八には、その半分もよく聞きとれないらしく、
「はい。はい。……さればで。いかにもな」
何をいっても、馬耳東風《ばじとうふう》である。そして独り合点を繰り返しているばかりの相手だった。
まるでのれんに腕押しである、とは思いながら、勝家は、表向き重大な使者に、こういう耄碌《もうろく》武者を向けて来た秀吉の底意にたいして、何とも業腹《ごうはら》でならなかった。
いくらなじ[#「なじ」に傍点]っても、なじ[#「なじ」に傍点]りがいのない相手ではあったが、その業腹の余憤《よふん》をもって、立ちがけにこう訊ねた。
「使者。――いったいおぬしは、幾歳《いくつ》になるのか」
「さればで。……はい」
「年をきいておるのじゃよ。――おぬしの年齢を」
「御意で」
「なに」
「はははは」
まるで揶揄《やゆ》されているような気がする。憤《む》ッとした顔を雲八の耳のそばへつき出して、勝家は破《わ》れ鐘《がね》のような声でいった。
「汝《われ》は、今年、何歳に相成るか。――そのことを訊ねておるのじゃ」
すると雲八は、大きく何度もうなずいて、しかも暢《の》んびり答えた。
「ははあ。それがしの年をおたずね給わってか。世に聞ゆるほどな武功もなく、お恥かしいことでおざるが、当年七十六になり申す」
勝家は唖然《あぜん》とした。
きょうの多忙を目の前に、しかも一日も晏如《あんじよ》たるは得ない刻下《こつか》にあって、こういう老人をつかまえて癇《かん》を尖《とが》らせていたことの何たる愚ぞや――と自嘲を覚えるとともに、秀吉にたいする敵意は、倶《とも》に天を戴かざる者とまで誓われていた。
「立ち帰れ。もうよい」
顎《あご》を振って、促《うなが》したが、雲八は腰へもち[#「もち」に傍点]でもつけたように落着きすまして、
「何ぞ。御返書でもあらば」
と、勝家の顔をおっとり眺めこんでいた。
「宿老はどこにおいでか。北ノ庄殿には、どこにおわすか」
そのとき誰やら、自分をさがしている声がしたので、勝家は、それを機《しお》に、
「ない、ないっ。返辞など、何もない。いずれ会うところで会おうと、筑州に伝えておけ」
云いすてて、廊下も狭しと歩いてゆく彼の大紋姿は、本丸の方へ去ってしまった。
大島雲八も廊下へ出ていた。老いの腰に片手をあてて勝家の影へ振り向いているのである。やがて独りげたげた笑いながら、これはお表の方へ歩いて行った。
その日、三法師の祝事は終った。
さらに、きのうに勝る盛宴がそのあとで催された。新君|戴立《たいりゆう》の披露というので、席は城中の広間三ヵ所でひらかれ、人はきのうに数倍していた。座間、もっぱら話題にのぼったのは、羽柴筑前守こそ怪《け》しからぬということだった。仮病《けびよう》をかまえこの大事な日に欠席するなど、言語道断、彼に真底からの忠なく信もなきことは、はやくも今日に見えたり――という者などあった。
勝家はみずからなぐさめた。
(秀吉が帰国したことは、考えようでは、却って、この勝家に有利であった)――と。
この紛々《ふんぷん》たる秀吉非難が、滝川や佐久間などの徒の作為《さくい》から生じたものであることは、充分、承知していたが、勝家はなお、この空気をもって、爾後《じご》の形勢を卜《ぼく》す上に、自己に有利なものとして、強《し》いてひそかにほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑むの小快感をむさぼっていた。
会議、月の忌《き》、祝日と、多事な日がつづいたあと、清洲は、毎日の大雨だった。
諸侯のうちでも、細川、蒲生、池田などは、祝日のすぐ翌日、帰国の途についたが、爾余の諸侯は、木曾川増水のため、足どめにあい、
(きょうは? 明日は?)
と、霽《は》れを待って、なお無為《むい》な日を宿所に過ごしているほかなかった。
が、この無為は、柴田勝家にとっては、あながち無意義でもなかったらしい。
彼と神戸《かんべ》信孝との間には人目立つほど日々|往《ゆ》き来《き》が交わされていた。
といっても、こう二人の頻繁《ひんぱん》な会合が、直ちに、政治的な意味をふくむものとは云い切れない。――なぜならば、今は勝家の愛妻として、世にかくれないお市《いち》の方《かた》は、いうまでもなく、故信長の妹であり、信孝には、叔母にあたるひとである。
しかも。――近年のことにはなるが――そのお市の方を説き、信長にも乞い、彼女を勝家の室へ再嫁させることに運動した者も信孝であった。こうして信孝と勝家とは、その頃からすでに単なる姻戚《いんせき》以上の関係にあり、いわば切っても切れぬ仲だったのである。
で、そう二者の往来が、二者のあいだに止まっているなら、世人も何らこれを疑う理由もあるまいが、ふたりの会合ごとに、必ずそこには滝川一益も加わっていることが記憶されるについて、
(また何のお顔寄せか)
と、意味ありげにそれを見、
(秀吉退治の相談が、ぼつぼつ進んでいるものとみえる)
などと早くも、不穏なうわさと、その実現が、この夏中にもあるようにいわれ出していた。
折も折、その月の十日に、滝川一益は、宿所の待月軒《たいげつけん》に釜をかけて、朝茶の会の招きを諸侯へ出した。
趣旨には。
頃来《けいらい》の長雨も霽《は》れ、各※[#二の字点、unicode303b]にも近く御帰国と思わるるが、兵家の常、またの再会はいつとも測《はか》り難い。先君をお偲《しの》びいたしながら、朝露のまに、粗茶一ぷくさしあげたいと思う。長い御滞在で帰途もおいそぎの折ではあろうが、御来駕を待ち申しておる。
――というのであって、至極、あたりまえな催しに過ぎなかったが、
(さては、密々の軍議でも?)
と、その朝の出入りには、特に清洲の人の目がそばだてられた風だった。
朝茶には、蜂屋《はちや》、筒井、金森、河尻などが参会した。信孝、勝家のふたりは当然お正客であったろう。――しかしこの催しが、趣旨どおりな茶事であったか、密事であったかは、当日の主客以外、窺《うかが》い知るすべもない。
同日以後、これらの諸将も、やがてみな帰国した。そして柴田勝家は、さいごの十四日夜、越前への帰国を発表し、十五日朝、清洲を立ったが、木曾川を渡って、美濃《みの》に入るやいな、自己の予感と、途上の風説との一致に、愕然《がくぜん》たる脅威《きようい》にさらされた。
(垂井《たるい》から不破《ふわ》の山間の通路を扼《やく》して、秀吉の精兵が長浜を出て、昨夜以来、勝家ござんなれと、待ちかまえている)
と、もっぱらな噂なのだった。宿駅でも聞くし、旅人もいうし、物見もそう告げて来るのである。
[#改ページ]
大物見《おおものみ》
さきに、秀吉の帰国の途を襲おうと謀《はか》った勝家が、きのうと立場を逆にして、今日は自身の帰国に、薄氷でも踏むような途《みち》を、恟々《きようきよう》と歩まねばならない羽目にいたっていた。
彼が、越前へもどるには、どうしても江州長浜《ごうしゆうながはま》を通らなければならない。長浜には、先に帰った秀吉がいる。秀吉がだまって彼を通すか否か? ――これは大きな疑問としなければなるまい。
(滝川一益の領地を通過し、伊勢から鈴鹿《すずか》を越え、江州の西を廻って御帰国なされては……)
という意見は、清洲を立つ前からあったが、それでは、世上にたいして、みずから、秀吉を恐れるものと触れあるくようなものになろう。勝家としては忍び得ない恥だ。玄蕃盛政《げんばもりまさ》とてもとより同意するはずもない。
しかし事実の問題として、美濃路に入ると、面々は一歩一歩、
「彼方の山に、伏兵の気配はないか。彼処《かしこ》の煙は、敵勢ではないか」
と、前後に心を疲らせたり、情報の確かめられるまで行軍を駐《とど》めたり、隊伍を戦闘形態に改めたりなどして、寸時も、万一の変を思うことなくしては進めなかったのである。
ところへ。
秀吉の麾下《きか》らしき一軍が、不破附近に見えるといい、見たという噂なので、勝家以下、柴田幕下の輩が、馬上、身の毛をよだてて、
「来たか」
「――居るか」
と、ゆくてに待つ敵の量や策を想像して、忽ち、墨のごとき殺気にまみれたのはむりもない。
にわかに、揖斐川《いびがわ》てまえの牛牧《うしまき》附近に兵馬を駐《とど》めた。そして勝家と幕僚たちは、村社のある林の中で、
――当るか。退《ひ》くか。
を急に軍議した。
ひとまず退いて、あくまで清洲城と三法師を擁《よう》し、秀吉の非を鳴らして、諸侯を糾合《きゆうごう》してから堂々とそれに当るのも一つの対策。
また、ここにこれだけの軍勢はあり、何の鎧袖一触《がいしゆういつしよく》と、一気に蹴ちらして押し通るのも武門の快。
結果を考えると、前者は攻略戦に多く拠《よ》ることとなり、後者をとれば、即戦即決だ。――或いは一挙に、秀吉を挫《くじ》き得るかもしれぬ代りに、味方にとっても、万一の敗れなしとはいえない。
なぜならば、関ケ原以北の嶮隘《けんあい》な地形は、埋伏《まいふく》して待つものにとっては甚だ都合がいい。加うるに、いったん長浜へ引き揚げた秀吉の手勢は、きのうの如き寡勢《かぜい》でないことはもちろん、江南から不破や養老地方には、小城、土豪、散在のさむらいどもまで、羽柴家と気脈のある者が多く、柴田家に縁故の者といっては稀れである。
「どう思案するも、ここで秀吉に当るのは、策を得たものではない。彼奴《きやつ》が、一日早く帰国したのは、この有利に立つためであったのだ。その注文に乗って戦う不利を敢えて冒《おか》すべきではない」
勝家や老臣の考えはこれに傾いた。それにたいして、玄蕃盛政は、あざ笑った。
「それ程、秀吉が恐《こわ》いかと、世の笑いぐさになるのもお覚悟ならば、左様になさるがよろしかろう」
いつの軍議の場合でも、退《ひ》くという意見は弱い。進むという意見は強い。結果の如何をべつにして、その場の気勢において、一方は消極に見え、一方は積極に見える。
殊に、玄蕃の意見は、幕僚を左右する力があった。彼の比類なき武勇、一族中の地位、それに勝家の寵《ちよう》というようなものも言外に作用する。
「一矢《いつし》も交《まじ》えず、敵を見て退くなどということは、柴田家のお名折れでしょう」
「まだ、清洲から立たぬうちなら、ともかくのこと」
「玄蕃どののいわるる通り、ここまで来て、引っ返したと聞えては、末代、世上のわらいぐさだ」
「一戦の上で、退くまでも」
「なんの、猿の手下どもが」
若い武者|輩《ばら》は、口をそろえ、玄蕃のことばのあとから玄蕃を支持した。
ひとり黙って、口を発しなかったのは、毛受勝助《めんじゆしようすけ》家照ぐらいなものだった。
「勝助は、どう思う」
めずらしく勝家が彼に意見を求めた。――日頃、玄蕃のようでなく、何となく主君から疎《うと》まれていることを知っている勝助は、常に口数を慎んでいるふうであったが、このとき、
「されば、玄蕃どのの御意見、至極と思われます」
と、神妙に答えた。
血気はみな、戦意に燃えている中で、若いくせに、水のように冷《ひや》やかでいる勝助の容子《ようす》は、勇に乏しく、ただこの場合、ぜひなくそう答えたように見えた。
「勝助までが、左様にいうなれば、玄蕃の意にしたごうて、このまま、押し進むといたそう。――が川を打ち越えたら、直ちに、大物見を出し、うかつに、道を急ぐな。足軽多くを先に立て、槍隊をすぐ続かせ、鉄砲組は、後陣《ごじん》の先へ置け。――伏兵の起る際は、得て、鉄砲は近すぎて、咄嗟の用にはたたぬものよ。――敵ありと、大物見の合図あらば、すぐ押太鼓を鳴らし、寸毫《すんごう》乱れをみせるな。組頭どもは、勝家が麾《さい》の手もとに眼をあつめよ」
方針はきまった。
人数は、揖斐川《いびがわ》を渡り出した。
何事もない。
赤坂方面へとなお進む。
敵影まだ見ず――である。
大物見(斥候隊)は、ずっと離れて、垂井《たるい》の宿《しゆく》附近まで出ていた。この辺にも何の異状も認められない。
旅人が来た。
怪しいと見、すぐ物見の一兵が駈けて、つかまえて来た。物見頭が脅《おど》して訊ねた。旅人は、何でもしゃべった。脅したのが張り合い抜けするくらいである。
「羽柴様の御人数を途中で見たかと仰っしゃいますので。……へい、たしかにお見かけいたしました。今朝早く、不破の辺で。――それから、自分は遅れて、たった今、垂井を通って来ましたが、垂井の宿は、先に行った羽柴様の人馬でいッぱいでございました」
「人数は、どのくらい?」
「わかりませんが、何百という御同勢で」
「何百?」
物見は、顔を見合わせた。その男を突っ放して、すぐこれを後方の勝家に伝令した。
案外な――と思われた。敵は余りにも小兵力だからである。為に、なおさら危惧《きぐ》されたが、騎虎《きこ》の勢いだ。押せと、行軍をつづけて行った。――時に、彼方から羽柴家の使番がただ一騎でこれへ来るという報らせがあった。
やがて近づくを見れば、その一騎は、甲冑《かつちゆう》の武者ではなかった。紗《しや》の摺箔《すりはく》の小袖、藤色の天正裃《てんしようかみしも》、手綱まで装《よそお》いをこらし、目を奪うような姿の若者であった。
「御案内をいただきたい。それがしは羽柴秀勝《はしばひでかつ》様の近侍伊木半七郎です。――お使いに参りました。北ノ庄殿の御前まで」
途上、はた[#「はた」に傍点]と出会った大物見の武者たちへ、駒の上から会釈して、半七郎はもう駈け抜けてゆく。
大物見は、あっ気にとられた。物見頭ひとりが、何か狼狽した声をかけながら、半七郎の駒の後を転ぶように追いかけた。
柴田勝家と幕僚の一群は、
「何者か」
と、猜疑《さいぎ》の眸《め》をあつめて自己の陣列にこの若者を迎えた。
眼前に、一戦は必至と、われとわが殺気に昂《たか》ぶり立っていたところだけに、駒を降りて楚々《そそ》、慇懃《いんぎん》な礼をしつつ、静かに進んで来た伊木半七郎の優美な身なり[#「なり」に傍点]が、あたりの鉄槍や火縄のにおいに比して、妖《あや》しいもののようにまで眼をひいた。
「丹波殿の近侍というはまことに解せぬが。――ともあれ、連れて来い、会ってみよう」
勝家は路傍の雑草をふみこえて樹蔭の下へ寄った。そこへ床几《しようぎ》を置かせ、物々しい麾下《きか》の――いや彼自身の硬ばった緊張をも一先《ひとま》ず潜《ひそ》めて――
「何事のお使いかの」
と、さあらぬ容子を使者に示し、その使者へも、まずと、床几を与えた。
「この暑中、遥かまでの御帰国、おつかれでございましょう」
半七郎の言は、まるで平時の挨拶であった。そして、紅《くれない》の紐《ひも》で、胸に懸けていた文筥《ふばこ》をとり外《はず》し、
「筑前守からも、よろしくとお申し伝えでございまする。なお、詳しくは、御書中に」
と、勝家へそれを手渡した。
勝家は疑って、なお書面はすぐ披《ひら》きもせず、まじまじと半七郎を見てたずねた。
「お身は、丹波どのの近侍と申すが」
「はい」
「丹波どのには御健固かの」
「おすこやかにいらせられまする」
「御成人なされたろうな」
「はや、十五歳にお成り遊ばされます」
「ほ。もうそうなられるか。――早いものよな。久しゅうお目にかからぬで」
「今日は、お父君のおいいつけを奉じ、垂井の駅までお迎えに参られておられまする。後刻、お宿において悠々《ゆるゆる》お話し下されませ」
「な、なに……?」
勝家は、吃《ども》った。
床几の一脚が、小石を噛み外して、彼の重い体と一しょに、心までを、がた[#「がた」に傍点]と驚かしたのであった。
いうまでもなく、羽柴丹波守秀勝は、信長の子の末のほうの一男《いちなん》だったが、幼いうちに、秀吉が乞うて、養子としていた者である。
「迎えにとは、誰を? ……。誰をな?」
勝家は訊き直した。
「もとより、あなた様を」
半七郎は扇面を顔にかざして笑った。相手の瞼《まぶた》や唇が余りに複雑な痙攣《けいれん》をしてやまないので、微笑を怺《こら》えきれなくなったものとみえる。
「わしをな? ……この勝家を迎えにとな」
勝家は唸《うめ》きつづけていた。
「まず、御書面を。――御一見くださいませ」
半七郎は、促《うなが》した。
茫然たる余り、勝家はそれをすら、手にしたまま忘れていた。
「いや、そうか。……ウム、ウム」
何か、わけも分らぬ頷《うなず》きをくり返した。勝家のひとみは、文字を辿《たど》り出すと、なおさら心理の変化を、露骨にまで、顔じゅうに湛《たた》え出した。
書面は、秀勝からではない。まぎれなき秀吉の筆だ。そして、率直に、こういっている。
[#ここから2字下げ]
――江北から越前への道すじは、度々、お通りの地で、御不案内はなかろうと存ぜられるが、このたびのみは、養子の秀勝を、御案内にさしむけた。
とるに足らない世間のうわさであるが、わが長浜が、尊公の御帰国の足もとを取るに絶好な要地にあるため、世上とかくの臆測《おくそく》が撒《ま》かれておるらしい。そういう卑劣《ひれつ》な風説を打ち消すために、養子秀勝を、お迎えに上げたが、これを取って、質子《ちし》と召され、安心して、御通過をねがいたい。
一夕、長浜で酒茶でもあげたいが、あれ以来、筑前事なお病中にござれば、御道中のおつつがなきのみを、蔭ながら祈り申しておる。
[#ここで字下げ終わり]
使者のことばといい、またこの書面といい、勝家は自分の猜疑《さいぎ》や小心をかえりみずにいられなかった。何か、あんぐり[#「あんぐり」に傍点]と、秀吉の腹のなかへ呑まれたようなここちもする。――が、ほっとした。正直、ほっとした思いである。彼は以前から策略家と観《み》られて、何かやるとすぐ「また、柴田どののお癖が出た」といわれるほど陰謀に富むかの如く定評されているが、今、こんなときの感情をさりげなくつつむことすらしないほど事実は正直者であった。――こういう性情は、死んだ信長がよく見ぬいていて、その勇も、その謀《はかりごと》も、その正直さも、みな勝家の特徴として巧みに使いこなし、北陸探題の重任をも、多くの将士をも、また宏大な領土をも授けて、もって、充分な信頼をもかけていたものなのである。――最もよく己れを知ってくれていたその主君も今はなしと思う彼の心事には、もはや本当に信をつなぎ得る者はたれもないような気持でもあった。
ところが、今ふと、秀吉の書面にふれて、彼は、この日までの、秀吉に抱いていた感情を、一瞬、まったく覆《くつがえ》された。すべては自分の邪視《じやし》と、小心によるものだったと、正直に反省した。そして、
(故君のないこの後は筑前守こそ、信じあってゆける男だ)
と、偽りなく考え直した。
この考えは、その夜、垂井の駅で、親しく秀勝に会って、楽しく語り、また翌日、秀勝とともに、相携《あいたずさ》えて、不破を越え、長浜の城下を通るまでも変らなかった。
――が、その長浜で、自己の重臣たちを添えて、秀吉の城門まで、秀勝を送り返してからすぐ後になると、ふたたびぐら[#「ぐら」に傍点]つき出していた。
というのは、秀吉はもうとく長浜にはいないことが分ったからである。秀吉はあれ以来、京都へ上って、中央の枢機《すうき》で大いにうごいている。また、山城の宝寺《たからでら》の城をも大改築にかかっているなど、勝家の耳には毒のような取り沙汰が、頻々《ひんぴん》、聞えて来たからであった。
(かくては、またも秀吉にしてやられん)
と、彼は忽ち元の焦躁《しようそう》に返って、さらに帰路を急いでいた。
[#改ページ]
大五《だいご》と書《か》け
七月の下旬。
秀吉はかねての約束を履《ふ》んで、長浜の城地を、柴田側へ明け渡した。
柴田側でも、その際、秀吉から付せられた条件を履行《りこう》して、秀吉の希望による勝家の養子――柴田勝豊をそれへ入れることにした。
勝豊は、養父の命によって、越前坂井の城から、長浜へ移った。
なぜ秀吉が、
(勝豊を入れるならば、長浜を譲ってもよい)
と、清洲会議のときに言明したかを、愚かにも勝家は、まだ気づかずにいたのである。
いや、勝家ばかりでなく、その周囲も、世間一般も、何らこれを異として、ふかく秀吉の心事を窺《うかが》ってみる者はなかった。
そのくせ、次の事実は、およそ柴田家の一族で、心ある者どもは、みな憂いていることだった。
(御養父と御養子とのお仲が、あのようにお冷たくては、柴田家の末も案じられる)
勝家には、もうひとり、ことし十六になる養子があった。
柴田権六勝敏だった。
情愛にも、日常の感情にも、とかく偏《へん》しやすい性格の勝家は、
(勝豊は因循《いんじゆん》で、はきはきせぬやつじゃ。子のような気心がせぬ。それにひきかえ勝敏は、邪気もなく、飽くまでわしを父としてよう馴《な》つきおる)
これを、口にもいうのである。
けれどなお、その気に入りの勝敏にも増してもっと偏愛《へんあい》していたのは、甥《おい》の玄蕃《げんば》盛政だった。
玄蕃を愛することは、甥とか子とかいうものを越えて、
「甥めは、わが家の至宝じゃて――」
と、その凡情《ぼん》に溺るるような傾きさえあった。
従って、玄蕃につながる弟の久右衛門安政や三左衛門勝政などまで、よく目をかけて、まだみな二十五、六の若さであるのに、各※[#二の字点、unicode303b]へ要地の一城一城を持たせていた。
これらのお覚えめでたい鍾愛《しようあい》の親臣中にあって、ひとり養子の勝豊のみは、養父からも忌《い》まれていたし、佐久間兄弟からも冷《ひや》やかに視《み》られていた。
或る年の正月のごとき、親臣の輩が揃って勝家の前に年頭の祝いをのべに出た際、勝家から最初の盃がさされたので、勝豊は、当然、自分に向けられたものと思い、
「お盃、めでたく戴きまする」
と、謹んで膝を進めかけると、勝家は膠《にべ》なく手を逸《そ》らして、
「そちではない。――玄蕃、受けい」
と、彼へ先に与えて故意に、勝豊を後にさし措《お》いたりなどしたこともある。
このことは、勝豊の不平として、外部へまで洩れていたから、他国の隠密なども耳にしたろうし、従って、秀吉なども這般《しやはん》の消息には通じていたにちがいない。
その柴田勝豊へ、長浜を譲り渡すためには、秀吉は事前に、従来ここに住ませておいた家族たちを――老母や寧子《ねね》などを主とする家庭の老幼を――他へ移さなければならなかった。
「冬も暖かいし、内海の魚もある。しばらくは、姫路《ひめじ》がよかろう」
と、秀吉のさしずに、老母や彼の妻は一家をあげて、播磨《はりま》の持城《もちじろ》へと引き移った。が、秀吉は行かなかった。この間、寸暇もなかったのだ。
山州《さんしゆう》宝寺の城を彼はしきりに改築していた。山崎合戦の際には、光秀が牙城《がじよう》としていたところである。ここへ母や妻を入れなかったのも、彼には深慮のあることだった。
山崎の宝寺城から、彼は隔日のように京都へ出向いた。帰っては、工事を督し、出ては中央に政務を見ていた。
皇城の守護も、市政も、地方の経綸《けいりん》も、彼はみずから身をもって任じていた。
本来、清洲会議での決議では、ここの京都|政治所《まつりごとどころ》の閣臣《かくしん》は、柴田、丹羽、池田、羽柴の四人がひとしく庶政《しよせい》を宰《さい》することになっていて、決して、秀吉のみの中央舞台ではあり得ないのであるが、柴田は遠く越前にあって、もっぱら地方的勢力の結集と、岐阜や伊勢やまた、神戸信孝などと何やらの暗躍《あんやく》にせわしく、丹羽は坂本の近くにあっても、これはすでに秀吉に一切を一任のかたちでいるし、池田勝入は軍議ならともかく、庶政とか、公卿づきあいなどは、
(本来、わが才に非ず)
として、名目はあっても、関《かか》わらざるを潔《いさぎよ》しとしているような風であった。
その点では、秀吉は実に器《うつわ》であった。
生れながらの彼の能は、何よりも経綸にあったのである。今なお世人は彼を目するに武将として観《み》ていなかった。
本来、戦《いくさ》は彼の本技ではない。しかし戦は経綸の車軸であることを知っている。いかなる大理想をかざそうと、戦にやぶれては、その大経大綸も一尺として進み出さないことをよく知るところから、彼は、戦に絶対を賭《と》し、ひとたび戦陣を展《ひら》けば、権化《ごんげ》となって、戦いを戦い切るのであった。
京都は盆地の小山水に過ぎない地だが、政治的には、全日本を俯瞰《ふかん》するに足る所だし、思想的には、草莽《そうもう》の心の根という根は悉《ことごと》くここにつながっており、ここを根としていない家々なく華々《はなばな》なしである。
なおまだ、一介《いつかい》の奉公人にすぎなかったが、秀吉は、京都政治所でする日々の時務が実に楽しかった。忙しければ忙しいほど楽しまれた。その頃、彼が左右の者に、
(この筑前にも、時来って、ようやくほんとうのお勤めが与えられて来たようであるぞ。お汝《こと》らも心せよや)
と、本懐《ほんかい》のほどを洩らし、同時に側臣たちへも精勤をうながしたとのことであるが、春潮|盈《み》ちて船出を想うような彼の心事は、まさに、成るも成らぬも、われ世に会せりとして、時代に結ばれたる身のいのちを、今さらのごとく驚歎の眼で省《かえり》みていたにちがいない。
従って彼の部下も京都にあっては著しく人品を磨いていた。いやしくも恥あるを行わなかった。時務は私心なくきびきび決裁した。箇々が小秀吉のごとく明朗だった。わけて皇城の守護には、誇りをもって任に当った。
朝廷は、彼の武勲を賞して、右近衛中将たるべしと御沙汰あらせられた。彼は寸功《すんこう》を顧みて拝辞した。が、かさねて優渥《ゆうあく》なお沙汰を賜うて、従五位下、左近衛少将に叙任《じよにん》せられた。
よいことをする人間と見ると何か悪いけち[#「けち」に傍点]をつけたがる。正しく働く者にたいし、卑屈な働かぬ者が何のかのとあげつらう。
いつの世にもあることだ。大きく世の変動しているときは特に清濁《せいだく》の飛沫《しぶき》もはげしい。
「秀吉は早や専横《せんおう》を現わしおる。部下どもまでが、権をとって」
「柴田どのをさし措《お》き、他の奉公人など、有るか無しじゃ」
「きょうこの頃の羽振を見れば、まるで、信長の相続者は、筑前にて候といわぬばかりな……」
翕然《きゆうぜん》として、非難は彼を中心に喧《やか》ましい。――が、誰がという、火元の弾劾者《だんがいしや》の知れないのも、こういう場合の常である。
聞えても、聞えなくても、秀吉には頓着がない。そういう陰性の声は彼の多忙な心はおろか茶間《さかん》の耳を傾けさすにも足りなかった。
何しても忙しいのである。
六月、信長逝き、中旬、山崎に戦い、七月、清洲に会し、下旬、長浜を撤去《てつきよ》し、家族を姫路に移し、八月、宝寺城の工を起し――この間、京都政治所と山崎とのあいだを隔日に往来しつつ、朝《あした》に禁闕《きんけつ》に伏し、昼に市井を巡察し、夕べに庶政《しよせい》を見、答使《とうし》を発し、賓客を迎え、夜半の燈下に遠国の文書を閲し、払暁、部下の訴えに裁決を与えて、飯を噛み噛み一鞭またどこかへ出かけてゆくというような毎日だった。
行く先も頻りと多い。
公卿の第宅《ていたく》、会合、視察、そして近来は、紫野《むらさきの》へと度々出向く。
そこでも尨大《ぼうだい》な工事をやらせていた。寺である。大徳寺の地域のうちに、新たにもう一寺を興《おこ》しているのだった。
「十月の七日までぞ。八日には掃除片づけを終り、九日には式事一切の調《ととの》えをすませ、十日の朝方には何もすることないようにしておけや」
蜂須賀彦右衛門と弟の羽柴秀長にはかたくこういってある。何の工につけ、期限は二言とないものだった。
やれ、といわれたら、否といえず。はい、と受けたら、爾後《じご》の云い訳はゆるされない。
秀吉のすがたが見えても、ここの奉行や督励《とくれい》している侍たちは、彼をふり返る者もない。また、何千の木工、土工、左官、石工《いしく》、あらゆる工匠《たくみ》や人夫たちも、一顧《いつこ》しているすきもなかった。
秀吉は、かんな屑を、足にからませながら、そこここと、木の香のあいだを一巡し、
「できる。できる」
独りつぶやきつつ上機嫌に馬へ移って立ち帰ってゆく。帰るや否、そこにも訪客や政務や――また、今とりかかっている総見院|建立《こんりゆう》と、故信長の葬儀準備の用向きが山積して待っている有様だった。
「由己《ゆうこ》。はようせい」
「はい」
「認《したた》めたらすぐ、使いを走らすのじゃ。文言はざっとでよい。はやく書け」
「はっ」
祐筆《ゆうひつ》の大村由己は、今、秀吉の口述をうけて、一書を代筆していたが、ふと、醍醐《だいご》という文字をどわすれ[#「どわすれ」に傍点]して、頻りと、筆の穂を噛みつつ思い出そうとしていた。
秀吉は焦《じ》れったそうに急《せ》いていたが、横からのぞいて、それと知ると、
「由己っ。何しているか」
と、寝ている者でもよび起すように、
「大五と書けやい」
と、呶鳴りながら、手をもって、虚空《こくう》へ大きく、大の字と、五の字を書いて見せた。
大村由己は、驚いた。
醍醐と、大五では、まるで字がちがう。
宛字《あてじ》にしても、ひどすぎる。醍醐を――大五と書いたのでは、てんで意味をなさないではないか。そう思った。
「……は。恐縮にござります。……がそんな文字ではございませぬ。どわすれ[#「どわすれ」に傍点]いたしましたのは」
「何をまだ。……これ由己。そちが先程から眉をしかめて思い出そうとしているのは、だいご[#「だいご」に傍点]と申す文字であろうが」
「御意で」
「じゃからよ――」
と、秀吉は、ふたたび指をもって、空間へ手習いするように大きく書いた。
「大五と書け。それで分るではないか」
「……はっ、はい」
ぜひなく、急《せ》かれるまま、由己はそう書いて、代筆の書翰を終り、秀吉はすぐ、それを小姓の手から、使番に持たせて、公卿の邸へ走らせてやってしまったが――由己は何とも後味が悪くて、
(さだめし、あの手紙をうけた人は、無学にも程があると、嗤《わら》っているだろう)
とか、
(祐筆ともある自分が、いかにも物を知らないようで、末代まで恥かしい。何とかして、あの手紙をもらい戻して、焼いて捨てたいものだ)
とか、いつまでも、恋々《れんれん》とこだわ[#「こだわ」に傍点]って、気にかかる顔をしていた。秀吉はたくさんな客に会い、また以来不沙汰の毛利家へ、その夕、使いを出したりしていたが、煩事《はんじ》一掃のあと、やっと由己をあいてに|一碗▼《いちわん》の茶をのみながら、
「どうした? 由己」
と彼のすぐれない顔つきを質《ただ》した。由己も、こういう時ならと、彼の気色を察して、先刻の、無茶な宛字の愚痴を述懐すると、秀吉は、途方もない声して、いつまでもおかしがった。
「なんじゃあ? 祐筆の身として、あのような無学な書面が残っては恥になると。……はははは。由己よ、そちでも、自分の筆蹟が、千年も世に残ってゆくと思うておるのか。安心せい、お汝《こと》あたりの筆では、まず百年も世にあるまい。おまえが生きている間だけでもどうかな? ……よくしたものぞ、世は滔々《とうとう》と、無用の文字は塵《ちり》に流して余しはせぬよ」
そしてまた、云った。
「お汝《こと》らのように、醍醐とは、こう書いたやら、ああ書いたやら……などと首をひねったり、筆の穂をなめたりして、この多忙な一日を暮していては、何と、今日のように、日月も世情も、車輪のごとく早く移り変りゆく時勢にあって人寿一代《じんじゆいちだい》の限りある身をもち、いったいどれほどな業ができると思いおるぞ。秀吉には到底、そんな暇はない。――醍醐と書くべきところを、大五といたしても、たいがい、書面をうける方の者には、読み心があるゆえ、用向きの見当はつくであろう。……それでいいのだ。今の世はな」
「なるほど。承れば、まことにごもっともで」
「苦しゅうない。あれでいい。――見ろ、もう最前の使いが、どうやら返辞を持って帰って来たらしいぞ」
こんな日常の心事だった。大村由己はまもなく、故信長の葬儀を紫野に執行のため、織田|有縁《うえん》の近親や諸州の遺臣に、その期日参列の場を報ずる会状の代筆に多忙を極めた。
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むらさき野《の》
何か盛儀が行われれば洛中洛外は賑わい立つ。そして労銀が下層にまでゆき渡るほど、町々の灯や炊煙《けむり》にも、庶民の謳歌《おうか》があらわれてくる。
この秋。紫野において執《と》り行われるという故信長の葬儀と十七日の大法事は、どれほど貧しい者たちに、事前の布施《ふせ》となったかしれなかった。
六月以来、本能寺、山崎と打ちつづいた戦乱に、家を失い、職に離れ、なお屋根も壁も持たない人がたくさんいた。
討ち洩らされた明智部下のうちには、領主の代った丹波へ逃げ帰るよしもなく、すがたを変えて、市の裏や橋の下に、日の目も見ず、流民となって潜んでいる者もなお少なからずあった。
捕え尽すはいとやすいが、秀吉はそこまでの詮議《せんぎ》だてはしなかった。光秀の首級ひとつに一切の解決を負わせ、時の彼方に投げやっていた。のみならず、戦後の窮民とそれらの者をひっくるめて、これに、更生の仕事を与えた。
総見院建立《そうけんいんこんりゆう》と、信長の葬儀とが、それだった。
「これも、御供養《ごくよう》のひとつ」
と、彼はひとり呟《つぶや》いた。
信長の攻めるところは草木も枯れる――と恐れられたその人の冥福の営みをいまなそうとするに当って、秀吉はみずから、故主信長と自分との性格には、戦《いくさ》をするにも、経綸を行うにも、必然な相違があったことを、あらためて思いみずにいられない。
近頃、世人はややもすると、秀吉のやり口を評してこういう。
(筑前は、何事にも、信長の手口を真似、信長の行き方を、師として習《まな》んで、やがてその相続者となろうとしている)――と。
これは、秀吉の耳に、おかしかった。
信長があるうちは、信長は主君である。どこまでもその性格に副《そ》い、指揮に従い、日常も呼吸《いき》をあわせて、大道一貫の歩をそろえていたのは当りまえである。――が、すでにその人亡き今日、何ぞ先人の規矩《きく》にとらわるるの要あろうや――である。秀吉にはおのずから秀吉の資質がある。信長の長所に習《まな》ぶところあったにしても、それすら彼というべつな器《うつわ》に入って新たな経綸として現われてくるものは、まったく信長的な戦法や施政とはその趣《おもむき》を一変していた。どこまでも秀吉独自のものだった。
(まず窮民に仕事を)
と考えたことも、秀吉が、かつては、その窮民の子であった思いが、すぐ施策にも出たのであるし、なおまた、みすみす旧明智党の組子と知れている流離の者をも、大法事の工事に使うなどという寛度は、到底、信長には見られなかったところである。
かくて、紫野の工はすすみ、準備もほぼ調い、祐筆大村由己の手から、同日の招き状は、諸国へ発せられていた。
故信長の近親者はもちろん、清洲に会した日の宿老以下諸大名への招きも漏るるところなかった。そのほかおよそ有縁にして主なる公卿《くげ》、武門、町人、諸職にまで、案内状はゆきとどいた。
が、秀吉は、近親であり宿老であるからとて、特に、鄭重なとか、或いは執拗《しつよう》な書状などは出さなかった。それらの人々には、来るもよし、来《こ》らざるもよし、としている風に見えた。
果たして、風当りは強い。
不参か参列かの返辞もない代りに、柴田勝家からは長文の抗議が来た。神戸信孝からも嫌味たっぷりな書面が来た。共に、大不満なのである。
秀吉には、要意がある。こんどのことも、柴田や信孝へたいして、決して、唐突に参列の通知を出したわけではない。
事前に、養子の秀勝の名をもって、書面で相談はしてあった。
けれど、勝家も信孝も、
(於次《おつぎ》ごときが、何の小才な)
と、返辞もせずにいたのである。――於次丸とは、秀勝がまだ信長の第四子としていた頃の幼名である。功労を経た宿老勝家の眼からも、ずっと兄の信孝の眼からも、秀勝はまだ乳くさく見えた。おかしくて――と、それに真面目な返書もせずに打ち捨てておいたのもあながち無理でない点もある。
殊にまた。
この九月から十月にかけては、勝家にとっては、多忙な吉事があった。そのよろこびにも取《と》り紛《まぎ》れていたのである。
お市御料人《いちごりようにん》は、かねてからもう甥の信孝の斡旋で、北ノ庄へ再嫁することに内輪はきまっていたが、先夫浅井長政とのあいだに生《な》していた三人の子もあるので、身がらはなお織田家のうちにおいていた。
ところがここ四囲の情勢は、勝家と信孝との、両者の緊密を急速に強化するの必要にも迫られ、かつは、世上にたいしても、この際、公然と、
(柴田殿こそ、故信長様も、生前よりゆるされていた妹聟《いもとむこ》である)
ことを一度盛大な華燭《かしよく》をもって披露するも急務なりと考えられて来た。その結果、曠《は》れて輿入《こしいれ》をとにわかに、お市御料人の北ノ庄入りの盛儀が運ばれ出していたのである。
小谷《おだに》の城の落ちた年からすでに十年になるが、お市の方はまだまだほんとうに美しかった。年も三十四、五でしかない。まだ信長の生きていた頃から、世間では、しきりと、その人を、勝家と秀吉とが恋い争っているなどと、あらぬ噂をもしたものだった。が、それほど彼女の容色《ようしよく》が時人《じじん》に記憶されていたのは事実である。
けれど、当のお市御料人の胸としては、何としても、気がすすまなかったはなしであったにちがいない。それをしも拒《こば》みきれない環境の中にある彼女でもあった。兄の信長のない後はなおさら自分の意志は口にもいえなかった。信孝は初めから勝家のために運動していたが、今では自己の将来の計として叔母を用いる気になっていた。清洲会同の以後、彼や勝家も、策謀|連携《れんけい》の往来に寧日《ねいじつ》なく、勝豊を長浜へ入れたり、滝川ともしばしば会ったり、何かと心|忙《せわ》しかったが、信孝はその中で、同族のことばや四囲の事情を措《お》いて、どしどし事を運んでしまった。十六になる長女の茶々《ちやちや》をかしらに女の子のみ三人を連れたお市御料人は、それこそ、王昭君《おうしようくん》の遠きへ行く日にも似るかなしき綾羅錦繍《りようらきんしゆう》につつまれて、五彩の傘輿《さんよ》は列をなして北越の山をこえ、九月には、すでに北ノ庄の館に入っていたのである。
老木に花が咲いたように、五十三歳の聟《むこ》殿は、国中の被官《ひかん》を連日招いて、披露の祝宴に満悦を見せていた。――こういう折に、羽柴家の一養子たる於次秀勝から、紫野に一寺の建立と、故右府の法事の相談が書面で来たのである。つい怠ったまま打ち過ぎてしまったのもむりはない。
しかし、十月に入り、重ねて今度は、秀吉が名をうたっての正式の招き状に接してみると、
(これは黙視できぬ)
と、彼は事の重大と、瞋怒《しんど》の焔《ほむら》にわなないて、烈しい抗議の一書を、秀吉へぶつけたのであった。
歳月は人間を対象として流れてはいない。
が、人は往々、歳月をあて[#「あて」に傍点]にして歩む。
あだかもいつも歳月は味方のような片思いを抱いて。
雲無心。歳月の光輪響輪《こうりんきようりん》もまた、大虚《たいきよ》の車に過ぎない。
だが、同じ歳月を同じ時代のもとに持って、これを、どう用いるかは、人々の意志によるのである。ここに生態の分野が生じ、人間社会の隔差ができ、興《おこ》る国、亡ぶ国、――千載までの歴史も、天地間一瞬のまに、決定づけられてゆく。
とかくして、十月だった。
勝家がそれまでに用いた日数と、秀吉が費やして来た日数と、天は同じ運行のもとに施与《せよ》していた。本能寺の日から指折っても、まる四ヵ月。――清洲の会合からすれば、まだわずか百日たらずの歳月でしかない。
しかも両者が、その歳月をもって、自己の上へ具顕《ぐげん》して来たところの差は、今日――十月半ば――余りにも大きな差を結果していた。
即ち。秀吉が主唱し、また全力を傾けて実行した信長の大法要《だいほうよう》は、やがて、全日本の耳目をあつめ、
(彼こそ、右府の遺業を継ぐ人と見ゆる)
という印象を与えたばかりでなく、ひいては中央の庶政も、秀吉を措《お》いては行われないような感じを民心の中にふかく植えこんでいた。
この点、勝家がその権翼の拡大を、以後、同列の宿将や、織田家との婚姻による緊密化などに恃《たの》んでいたのとは、雲泥のちがいであった。秀吉が対象としていたものは、丹羽長秀でもないし、池田、細川、筒井の輩《やから》でもない。いわんや織田信雄や女子供の遺族達でもなかった。実に民衆であった。彼は百姓の子だ。土と熱を知りぬいている。
その月、十一日から十七日にわたって行われた紫野大徳寺の法要が、言語に絶す大規模なものであって、荘厳万華《そうごんばんげ》の大光演を極めたのも、単に、彼の大気や亡主を慕う真情の溢ればかりではなく、民衆をも会葬者とみなし、民衆にも親しく見せ、この善奉行を、衆と共にするという彼の大布施心《だいふせしん》によるものであった。
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――十一日より御わざ始まり、様々に尊き限り尽し給ふ。十刹《じつせつ》の僧ども経を捧げ諷経《ふうきん》をなせり。十五日には野辺の送りの御わざ始まり、蓮台野《れんだいの》には火屋《ほや》れいがん堂など厳《いか》めしく作り、竹垣をゆへり。大徳寺より道の警固きびしく、武士どもかためたり、弟美濃守秀長奉行をなせり、棺槨《くわんくわく》のよそほひ金繍《きんしう》をかざり、玉の瑶珞《えうらく》をかがやかせり。轅《ながえ》のさきは、池田|古新《こしん》(輝政)あとをば次丸(羽柴秀勝)これを舁《か》く。
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「豊鑑《ほうかん》」の筆者はその日の模様をこう記している。
「惟任退治記《これとうたいじき》」にも、
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羽柴小一郎、警固ノ大将トシテ、大徳寺ヨリ千五百軒ノ間、侍三万バカリ、道ノ左右ヲ護リ、弓|箙《エビラ》、槍鉄砲ヲ立テ、葬礼ノ場ニハ秀吉分国ノ徒党ハ云フニ及バズ、諸侍、悉ク馳セ集リ、見物ノ輩、貴賤|雲霞《ウンカ》ノ如シ――
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と、叙《じよ》し、輿《こし》の轅《ながえ》は輝政と秀勝。信長の位牌は、秀吉自身が、それを持ったことを明らかにしている。
正親町《おおぎまち》天皇には、この機会に、臣信長へ、従一位太政大臣を、贈位贈官あらせられた。
また、宣命を賜うた。
即ち、諡《おくりな》して
総見院殿大相国一品《そうけんいんでんだいそうこくいつぽん》、泰厳大居士《たいごんだいこじ》
という宣名《せんめい》のうちには、故信長にたいして、
惟朝《いちよう》の重臣、中興の良士なり
との勿体ない詔旨が宣《の》らせ給うてあった。これを拝し、泉下の信長は、望外の光栄と身の本分に泣いたであろう。
善不善、凡非凡、人間としての信長はどういわれようと、彼の弓矢は、まさしく九重《ここのえ》の御階《みはし》に立ち匂い、彼の臣子一片の忠誠は、はしなくもこのありがたい宣《のり》に浴して、千載《せんざい》、国土とともにあるものとなった。
あわせて彼は、父織田信秀の、皇室中心の祖承《そしよう》をも完《まつと》うしたものといえよう。まぎれなく、忠誠と臣道において、織田父子も、二代をかけた。信長は父|逝《ゆ》く日まで、父にひとかたならぬ心案《こころあん》じをかけていた不孝の子であったが、今日、その父へも、大孝の子となったのである。
四十九年ノ夢一場
威名什麼《イミヨウイカン》カ存亡ヲ説カン
請フ看ヨ火裡《カリ》の烏曇鉢《ウドンハツ》
吹イテ海花ト作《ナ》ッテ遍界《ヘンカイ》ニ香《カンバ》シ
これは笑嶺《しようれい》和尚の偈《げ》である。
大葬礼の式場は、百二間の火屋霊堂《ほやれいどう》のうちに執《と》り行われた。五色の天蓋は目にきらめき、千万の燈明は星に似、沈木《ちんぼく》のけむりは、幢旛《どうばん》の翻《ひるがえ》るあいだから流れひろがって、数万人の会者のうえに、むらさきの雲を作《な》していた。
僧侶だけでも、五岳の碩学《せきがく》、洛中洛外の禅律《ぜんりつ》、八宗の沙門《しやもん》、余す者なく集会して、九品《くほん》の浄土《じようど》、五百阿羅漢《ごひやくあらかん》、三千の仏弟子、目前にあるがごとし――と当時の目撃者はその状況を誌《しる》している。
諷経《ふうきん》、散華《さんげ》などの式のあと、さらに禅門各大和尚たちの、起龕《きがん》、念誦《ねんじゆ》、奠湯《てんとう》、奠茶《てんちや》、拾骨《しゆうこつ》、――などこもごもな礼拝が行われ、さいごに|宗※[#「言+斤」、unicode8a22]《そうきん》笑嶺和尚の、偈辞《げじ》が読まれ、笑嶺が満身から、発した――喝《か》つ――の大声に一瞬、寂《せき》とし――また仏音楽の奏せられるあいだに、蓮華降り、香木|薫《くん》じ、会者は還《めぐ》り巡りつつ、順次、焼香をささげていた。
が、その会者の中に、ぜひいなくてはならないはずの、織田近親者の半分は来ていない。第一に、三法師も見えなかった。信孝も列していない。柴田、滝川、その他、彼も見えぬ、誰も見えぬ、と思い出される当然な顔がたくさんに欠けていた。
それらは悉《ことごと》く、無視と黙殺をもって、すでに秀吉へむかって、抗争の布陣をあきらかにしたものと誰にもすぐ感じられた。
(このままでは治まるまい)
という思いは、期せずして、大法要の十七日がすんだ直後の人心に残されていた。
近畿《きんき》の諸将はあらかた会し、毛利輝元も代参を上《のぼ》せているが、柴田勝家|翼下《よつか》の前田、佐々、金森、徳山の諸将、また神戸信孝一類の滝川以下、みな云いあわせたように、上洛もしなかった。とりわけ無気味なのは、徳川家康の存在であった。いや彼の意中である。本能寺以来、まったく特殊な位置に拠《よ》って、この時流奔々たる外にあった彼の意志ばかりは、白眼、今日をどう観ているのか、誰にも皆目、推し測る材料がなかった。
[#地付き]新書太閤記 第八巻 了
吉川英治歴史時代文庫29『新書太閤記(八)』(一九九〇年七月刊)を底本