吉川英治
新書太閤記(九)
[#表紙(表紙9.jpg、横140×縦140)]
目 次
偽《ぎ》 和《わ》
不惑《ふわく》・大惑《だいわく》
家《いえ》 康《やす》
掌上《しようじよう》の物《もの》
蕗《ふき》のとう
下坐《げざ》の民《たみ》
大慈悲《だいじひ》
楔《くさ》 子《び》
民《たみ》とその国《くに》
心耳《しんじ》と機眼《きがん》
砦《とりで》
謀《ぼう》 略《りやく》
内《うち》に敗《やぶ》る者《もの》
中入《なかい》り
序《じよ》の勝《か》ち
驕《きよう》 兵《へい》
その日のうち
しっぱらい
獅子児一群《ししじいちぐん》
静《せい》 林《りん》
位《くらい》
毛受家照《めんじゆいえてる》
途上一別《とじよういちべつ》
良《よ》き家《いえ》、良《よ》き妻《つま》
虞氏《ぐし》と楚王《そおう》
童女抄《どうじよしよう》
阿修羅《あしゆら》の伜《せがれ》
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新書太閤記(九)
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偽《ぎ》 和《わ》
越前はもう積雪の国だった。
雪となり出すと、明けても雪|霏々《ひひ》、暮れても雪霏々、心を放つ窓もない。
が、北《きた》ノ庄《しよう》の城廓は、この冬、いつもの年よりは、何か、あたたかいものがあった。
お市《いち》の方《かた》と、連れ子の三人の姫たちが、本丸に近い一廓に住みはじめていたせいであろう。
めったに、お市の方のすがたは見るを得ないが、三人の姫たちは、限られている局《つぼね》の中だけにじっとしていなかった。それに、姉の茶々が十六、中の妹が十二、末の妹が十という――木の葉が落ちてもおかしがるほどな――いわゆる乙女ざかりなので、その笑い声がたえたことがない。折には、本丸のほうまで明るく聞えてくる。
それにひかれて、勝家はよく局《つぼね》へ渡った。そして彼女たちの明るい中に、屈託《くつたく》の多い心を一時でも忘れようとした。けれど、勝家がそこへ臨《のぞ》むと、茶々も初姫も、末の姫も、いいあわせたように変な顔をしてしまって、ホホともケロとも、笑わなかった。
――何しに来たんでしょう。
――怖《こわ》らしい小父《おじ》様。
――はやく帰るとよいに。
鳩《はと》みたいな眼を見あわせて、暗にそう囁《ささや》き合っているような容子《ようす》だし、お市の方も、名玉《めいぎよく》の香炉《こうろ》のごとく、端厳《たんげん》として、飽くまで麗《うるわ》しくはあるが、冷《ひや》やかに、
「いらせられませ」
と、わずかに、銀の籠目《かごめ》の火屋《ほや》を掛けた手炉の端をそっと頒《わか》つぐらいなものだった。
久しい過去の主従の観念がまだどこやら除き切れずにあった。お市の方にもあり、勝家にもある。
「初めて見る越《こし》の大雪に、寒さも佗《わび》しさも、一《ひと》しおでおわそ」
勝家が、なぐさめると、
「さまでには」
と、お市の方は、わずかに面《おもて》を振って見せたが、やはり暖地が慕われるのであろう。
「越の雪が解けるのは、いつの頃になって――」
と、外を見やりながら訊ねた。
「岐阜《ぎふ》、清洲《きよす》などとちがい、彼の地に、菜の花が咲き、桜も散る頃になって、ようやく、野や山が、斑々《まだらまだら》に雪解《ゆきげ》してまいる」
「それまでは」
「毎日、このようなもの」
「解ける日ものう」
「雪千丈《ゆきせんじよう》じゃよ」
終りの一語は、吐き出すような響きだった。こんな話は、勝家に何の興もないのである。
のみならず、越路の雪の長さを思うと、彼の胸には、千丈はおろか、万丈の恨みが悶々《もんもん》とふり積った。かくて寸閑も女子供など相手に晏如《あんじよ》としていられないものに趁《お》われ出すのであった。
そこに姿を見せたかと思うと、勝家はまたすぐ本丸へあるいていた。小姓どもをしたがえて、吹雪する渡殿《わたどの》の廊を大股にゆく後ろでは――もう三人の姫たちの声が、嬉々《きき》と、局《つぼね》の縁へ出て、雪へ戯れかけるように、越の謡《うた》ならぬ、尾張の歌をうたっていた。
「…………」
勝家は、振向いて見る気もしないようだった。本丸へ来るとすぐ室へ入る前に、
「五左衛門と五兵衛とに、急いで、まいちど儂《み》の部屋へ、参るように云ってこい」
と、小姓の一名へいいつけた。
小姓の姿は雪明りの大廊下を、光もののように寒々と走って行った。
加賀|大聖寺《だいしようじ》の城主、拝郷《はいごう》五左衛門|家嘉《いえよし》、石川郡|松任《まつとう》の城主徳山五兵衛|則秀《のりひで》、ふたりとも、柴田|譜代《ふだい》の重臣だし、勝家が股肱《ここう》の老職たちだった。
「昨夜来、熟議《じゆくぎ》して、とりきめたことだが――前田への使いは、はや出してしもうたか」
勝家の言だった。
五左衛門がいう。
「御書面をもたせ、先刻、七尾《ななお》へ向って急がせましたが」
それに云い足して、五兵衛則秀も、
「……何ぞ、お云い残しでも」
と、顔を窺《うかが》った。
勝家はだまって頷《うなず》いた。
しかし容易に、次の口は開かなかった。なお何か、思い惑《まど》うものの如く――
「使いは出たか」
「出ました……が?」
老職に、在城の一族も加え、昨夜来、熟議されたことは、かなり重大らしかった。
対秀吉との問題である。
肚《はら》はきまっている。受け身ではなく、積極的にだ。
で、ここ北ノ庄は、その予備工作に向って、八方|画策《かくさく》の秘策を施しつつ冬に入ったのであった。伊勢の滝川一益をしては、辺界の小城小城を余すなく結束させ、神戸信孝《かんべのぶたか》の手からは、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》を説かせ、丹羽長秀《にわながひで》へ加担《かたん》の申し入れ、また、勝家自身としても、遠く東海の徳川家康へ音信して、それとなく家康の意中を打診してみるよう、昨今、備後《びんご》の鞆《とも》ノ津《つ》にありと知った足利義昭《あしかがよしあき》へも使いを派し――この古物の野心家をうごかして――いざ[#「いざ」に傍点]の場合、毛利をしてふたたび秀吉の背後を脅《おびや》かさしめんなど、几案《きあん》作戦は、おさおさ怠りないものがあった。
けれど、惑星《わくせい》家康の反応は、可とも不可とも、全く不透明である。義昭の多情は唆《そそのか》すにやすいが、毛利、吉川、小早川という三家鼎立《さんけていりつ》から成る大勢力が、たやすく自己へ傾いて来るような公算は取りきれなかった。しかのみならず、信孝から当ってみた蒲生氏郷父子は、秀吉へ随身を明らかにし、丹羽長秀は、
(いずれも、故主の遺臣、柴田どのへも与《くみ》し難く、羽柴どのへも合力《ごうりき》いたしかねる。それがしには、三法師君あるのみ)
と、これは態《てい》よく、中立を云いたてて、それ以外、答えない。
こういう間に、京都では、秀吉施主のもとに、盛大|未曾有《みぞう》の信長法要が着々と行われ、為に、全国の人心は一時そのことに蒐《あつ》められたかの如き観《かん》をなしたし、それに伴う秀吉の中央的存在と名声とはいよいよもって、北辺に自負する豪強勝家をして、なすべきことの断≠ニ急≠ニを思わせて来たのだった。
が、如何せん、越前の山野は、鬼将軍の夜も鏘々《しようしよう》と鳴る心事に反し、十月末はもう白皚々《はくがいがい》の雪、意はうごかし得るも、軍はうごかすよしもない。折から、
(明春、雪解《ユキドケ》ヲ待ッテ、大事一挙コソ上策。ソレマデハ、秀吉ト和セラレ候エ)
と、滝川一益の密書はすすめて来たのであった。勝家も、よしとした。そこでゆうべから、老臣一族と協議して決したことも、実に、この問題だったのである。
「何か、又左どのへ、お云い足し遊ばしたいことでもあるなれば、追いかけに、早馬など飛ばせましょうか」
老臣ふたりは、勝家の案じ顔へ、かさねてそういってみた。
「さればよ」
と、勝家は初めて、ふたりの者へ、迷いを諮《はか》った。
「秀吉へ、和議を云いやる使者として、儂《み》が腹心の不破《ふわ》彦三、金森五郎八の二名に、前田又左衛門利家を添えてつかわそうとは……これはもう協議の折、とりきめたことじゃあるが。……さて、どうあろう?」
「どうあろうとは」
「又左という男じゃよ」
「お使いの向きに、御不安でもござりますか」
「あれはの、勝家がもっともよく知っておるが、秀吉がまだ下賤の頃から、夜遊びの放埒《ほうらつ》にも、家と家との間でも、縁者同様、親しゅう交わっていた仲じゃ」
「それは聞き及んでおりまする。信長様が安土《あづち》に御普請《ごふしん》を起された頃にも、秀吉と又左どのとは、垣を隣りして、仮屋敷をもち、夏など、褌《ふんどし》一つで、両人が夕顔の下に筵《むしろ》をのべ、高笑いして、夕餉《ゆうげ》など一つに喰べていた様を、よくわれらも見かけ申したことでござりました」
「そういう仲ということもあるし、かたがた、又左衛門利家というものは、われら宿老よりは、末輩に相違ないが、何というても、織田家の直臣じゃ。羽柴、池田、蒲生、佐々などと同列の遺臣のひとりじゃ。久しく、北国の陣にあって、この勝家の麾下《きか》に属しおるも、要するに信長公の命によって、柴田軍の一翼に参じおる者。――これを今、猿めの所へ、使いとしてやるは、果たして、策を得たものか、どうじゃ。……実は、後になって、その辺がふと案じられて来たので、急に、まいちどその方どもに諮《はか》ってみるわけじゃが」
「ご心配はございますまい」
「ないか」
「毛頭《もうとう》」
拝郷五左衛門は云った。
「又左の所領、能登七尾《のとななお》の十九万石も、子息利長の領地越前府中の三万石も、共に、御当家の領国と、われら腹心の者の城々に囲まれておりまする。秀吉とは、地勢の上で、左様に絶縁されております上に、彼の妻子|眷族《けんぞく》は、いやでも府中と七尾にのこして参らねばならぬこと――。それは、御杞憂《ごきゆう》にすぎないかと存ぜられます」
徳山則秀も、それに同意して、
「御主君と又左殿との間には、今日までの長い戦陣中にも、まだただの一度でも、御不和の見られた例はありませぬ。――むかし清洲の若ざむらい仲間に、犬千代といわれた頃の前田どのは、名うて[#「うて」に傍点]の乱暴者で聞えていた人でしたが――変れば変るもの、近頃は、律義人《りちぎじん》といえば、又左どのか、実直人といえば、前田どのかと、すぐ人も頷《うなず》くほどに信ぜられておりまする。されば、このたびのお使いには、むしろ打ってつけの適任者ではござりますまいか」
「……なるほど」
そう聞けば、そういう気もしてくる。勝家は、自分の迷いを、迷いに過ぎなかったかと、その後では笑った。
しかし、この一策にして、もしまず[#「まず」に傍点]い結果にならんか、事態は、急悪化する。しかも、雪国の軍は、明春まで、動かせないとなると、何よりは、岐阜の信孝の孤立化と、伊勢の滝川の分裂などが、大きな不安となってくるのであった。
故に、この使いは、重大中の重大だった。そのうちに、日ならずして、前田利家は七尾城からこれへ来た。
又左衛門利家は、左眼がつぶれている。これは若いときからのものだ。
秀吉よりは一つ年下であったからことし四十五のわけだ。戦陣の風雲が人を磨《みが》くことはひどいものである。一眼のない容貌まで、どこか沈剛《ちんごう》な風格のひとつになっている。
「こん夜はひどく御優遇でございますな」
北ノ庄に着城の晩。
彼は、勝家の歓待《かんたい》をうけながら、その歓待の過分に笑っていた。
初め、座にはお市《いち》の方《かた》もいて、勝家夫妻で彼をもてなしたが、利家は、
「われら武辺者の、すさまじき酒の座に、寒夜のお侍《はべ》りは、お辛くおわそう。われらもちと窮屈、どうぞお室へ」
と、強《し》いて奥へ籠《こも》るように云ってひきとらせた。
勝家は、遠慮とのみ、解していたが、利家の気持では、亡き信長にどこかやはり似ておわすと思われるお市の方が――所も遠い北国の城廓に、今は、勝家の夫人となって、この又左衛門利家ずれ[#「ずれ」に傍点]の酒席に侍しおられるかと――その心のうちを思いやると、胸もいたみ、盃のふちも冷たくて、酔い心地にもなれないのであった。
「さすが、よく参るの。したたかとは、承知していたが」
「酒ですか」
「おいの」
「はははは」
利家は、片目を燭にしばだたいて、浩然《こうぜん》と笑った。
痩身の方だが、肩胸幅はひろく、薄手な美男型の容貌であるが、鼻ばしらと口の大きいのが目立つ。それにもみあげ[#「もみあげ」に傍点]の毛がもじゃもじゃと長いのもこの人の特徴に見えた。
「たしか、筑前は余り、飲《い》けなかったの」
「筑前。ああ、あれは弱い。すぐ赤うなって、酒には意気地ござらぬ」
「が、若い頃は、ずいぶん彼とは、夜歩きを共にされたらしいが」
「いや遊ぶにかけては、あの猿冠者《さるかじや》のほうが、飽きもせず、達者でおざった。此方は飲むばかり、飲めばどこへでも、他愛のう寝てしもうたが」
「近頃も、筑前とは、よほど御入魂《ごじつこん》なことであろうの」
「いやいや。世に、遊び友達などというものほど、あてにならぬものはおざらぬ」
「左様かなあ」
「柴田どのには、お覚えはないか。若い頃には、誰でもある。飲む、喰う、唄う、夜を歩き明かす。そういう時の友達は、手で首を絡《から》みあい、親兄弟にも語らぬことも打ち明けなどして、真底の交わりとも、その時は思うが、時経ち、互いに必死の世の中へ働き出し、やがて主をもち家をもち妻や子まで持つにいたり、久しき後に相見るなれば、部屋住み頃の心とは、双方が甚だちがうものでおざる。――世を観《み》る考え、人を観る眼、すべての思想も、以後育って、以前の彼に非ずわれに非ず、ただむかしの如く軽んじ合うことのみ残されるからでおざろう。――真の、心契《しんけい》の友、刎頸《ふんけい》の友というものは、やはり艱苦《かんく》の中で知りおうた者でなければ生涯を契《ちぎ》られますまい」
「それはちと匠作《しようさく》が思いちがいいたしたわい」
「何をな。修理どの」
「いや、お許《もと》と筑前とは、もっと深い交わりと存じ、おり入って、一事を托し申したいと思うたが」
「筑前との喧嘩なら、利家、一番槍は御免こうむる。和談なれば、先陣なとおひきうけして見しょうが……。事はちがいますかな」
利家は、云い中《あ》てた。――どうです。そういわぬばかりだ。盃をあげながら笑《え》みをふくんでいる。
どうしてそれが彼に漏れたか。勝家はどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]した眼をみはった。――が、よく考えてみると、最初から筑前筑前と話題に出しては利家を試していたのは自分だった。能登にいても、隅にはいない利家である。中央の情勢にも通じ、自分と秀吉とのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]にも明るいこの人間が、しかも自分の不時《ふじ》な招きをうけて、この雪中を物ともせず、早速にやって来た以上、それくらいな洞察力《どうさつりよく》もない者と観るのは、こちらの見方が甘すぎていたかもしれない。
勝家は、その反省の中から、利家という者を、もういちど見直すことを余儀なくされた。――将来もいよいよ大事な一翼として、自己の陣営のうちに、この有力な味方を抑えて置くために。
元々からの部下ではない。――勝家が利家に接する今の気持はすべてがこれに根柢《こんてい》をなしている。
佐々成政《さつさなりまさ》もそうであるが、前田利家もまた、そもそもは、信長の命によって、勝家の麾下に配属されて来た一軍団であった。――で、過去五ヵ年にわたる北陸攻略では、当然、勝家は利家を指揮下の一部将と見なし、利家は勝家を、北陸探題の総大将と仰いでは来たものの、さて今日、その信長が死去してみると、この関係は、このままあり得るものか否か。大きな疑問である。いや不安であるといったほうが、より勝家の感情に近いであろう。
殊には、故信長も、於犬於犬と呼んで、犬千代のむかしから、織田の人材中でも、一器量として、愛重措《あいちようお》かなかったほどの人物である。――
勝家が、その上の宿老たり総司令であったという重さも、帰するところ、信長という主体あってのことで、それなくして、単に、武門の一将と一将、人間と人間という対比に返って接してみると、これは以前とだいぶ感じがちがって来ないわけにはゆかない。
前田又左衛門利家という人間の重さは、やはり信長なればこそ、於犬於犬と、軽々持てたものであって、柴田修理勝家では、にわかに何かずん[#「ずん」に傍点]とするものを抱えた気持だし、始終、持っていることを意識にしなければ持っていられないものだった。
「さればよ。何も筑前を相手どって、此方は喧嘩している気もないが、世上の取沙汰は、なかなかそうでないそうな。あははは。匠作も、大迷惑じゃよ。ははは」
人が老成しかけて来ると自然熟練して来る笑い方というものがある。相手とのあいだに直視をぼか[#「ぼか」に傍点]す霞《かすみ》が曳かれるのである。
勝家はそこでなおいう。
「喧嘩もせぬ筑前へ、和談の使いもおかしいが、三七|信孝《のぶたか》様も、また滝川からも、ぜひ此方から使いを立てるようにと、まことに切なる御書状が一再ならず参っておる。――故右府様御他界このかた、半年も経《へ》ぬまに、遺臣の輩《やから》が、はや相剋内紛《そうこくないふん》しておると聞えては、世上に醜《みぐる》しい。かつは、上杉、北条、毛利などの窺《うかが》う間隙《かんげき》ともなりはしまいか。こう三七様にも、いたく御心配されておるもののようでの」
「わかりました、そのことは」
利家は、諄《くど》く聞く要もないように、元来、口下手な勝家のことばを取って、あっさりひきうけた。
「ひとつ、秀吉に、会いましょう」
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不惑《ふわく》・大惑《だいわく》
次の日。又左衛門利家は、使いとして、北ノ庄を発した。
不破《ふわ》彦三勝光に金森五郎八長近のふたりが随行《ずいこう》した。こう二者は共に柴田の直臣だ。副使の格であるが、利家にたいする目付《めつけ》たることはいうまでもない。
一行は、十月二十九日、長浜へ着いた。ここはすでに柴田家の養子伊賀守勝豊の居城となっている。折わるく勝豊は病中だった。
しかし勝豊は病床を払って、三名を迎えた。そして三名の使命を聞くと心からよろこんだ。勝豊は、養父と秀吉との関係が日にまして険悪になりつつある情勢にたいし、衷心《ちゆうしん》、憂いていたところだったのである。
「ぜひ、自分も行こう」
勝豊は云い出した。
「いや、御病気を押して、さまでには」
と、利家もとどめ、二臣も諫《いさ》めたが、勝豊はきかなかった。若い純熱をもっていうのである。いま養父勝家と筑前守との間さえ和せば、織田遺臣も円《まる》く治《おさ》まってゆき、ふたたび天下に大乱を見ることもあるまい。上《かみ》、御軫念《ごしんねん》を安んじ奉り、下万民のためだ。一身の病《やまい》ぐらいどうなろうと物の数ではない――と。
晦日《みそか》の朝、船は長浜を出た。
勝豊の侍医《じい》は、船中に囲いをしつらえて薬を煮、湖をわたる寒風を気づかった。しかし勝豊は、毅然《きぜん》と坐して、努《つと》めて、利家や五郎八などと談笑していた。
大津から先、一行は騎馬だったが、病人は肩輿《かたごし》に助けられて、京都に入り、同夜は洛中に一泊し、翌日、山崎天王山の宝寺城《たからでらじよう》へ向った。ここはこの夏、光秀の敗《やぶ》れ去った旧戦場であった。その前までは、古びた一宿駅に過ぎなかった寒村が、いまは活気ある城下町をなさんとしていた。淀川を渡るとすぐ望まれるのはかなり大規模な改修計画と見られる宝寺城の丸太足場であり、通路は牛馬の轍《わだち》で縦横にえぐられ、耳に聞えてくるものもすべて秀吉の旺《さかん》なる意欲の縮図と観《み》られないものはない。
「これでは?」
と、利家すらも、秀吉の心事を疑ってみたい気がしたほどである。柴田、滝川、また三七信孝などが、何かにつけてよく秀吉攻撃の口癖としている――
(筑前こそ、清洲以後は幼君のお傅《も》りも怠って、ただ偏《ひとえ》に、私利私慾の営みに汲々《きゆうきゆう》とし、洛内においては、私権を恣《ほしいまま》にし、洛外においては、事もない今日、憚《はばか》りもなく、堅固な築城に莫大な費《つい》えをかけている。西域北辺なら知らぬこと、いったい中央の地で、誰をあいてにする軍備か)
という声をふと思い泛《うか》べたからであった。
それにたいし、秀吉はまた秀吉として、
(清洲会議で定められた――三法師君を安土へ移し奉るという約も今もって実行しないのはなぜか。故信長様の御葬儀について諮《はか》っても、一片の返書すらなく、袖を連ねて参列せぬは如何なる意か。宿老宿老と結び、みだりに御遺族のお一方《ひとかた》を擁《よう》し、党を組み、遺臣を誘説《ゆうぜい》し、求めて世上の不安を醸成《じようせい》しつつあるなど、そもそも、その理由の了解《りようかい》に苦しむものである)
と、大いに反駁《はんばく》しているとも利家はかねて聞いている。さらに、このもつれ[#「もつれ」に傍点]には相互の複雑な感情もあるし――と、彼は早くも使命の至難さを予想せずにいられなかった。
前夜、京都からあらかじめ連絡《れんらく》はしてあったことである。一行は、直接宝寺城へは入らず、その日は、城下の富田左近将監《とみたさこんしようげん》の宿所に泊った。
四使と秀吉との会見は、翌十一月二日の昼、新築半ばの本丸で行われた。
挨拶だけで、会談の主題に入らないうちに、饗膳《きようぜん》が出て、
「遠路のお疲れもあろう。まず、おくつろぎあって」
と、家臣たちの接待で、下へも置かずもてなされた。
終ると、茶一ぷく。
これは秀吉が亭主となって、自身、四使への犒《ねぎら》いであった。
密事を談じるには茶室に如《し》くはない、とよくいわれているが、そういう場合とも場合がちがう。四使は、ここでも使命の本題にふれかねた。けれど、こう膝ぐみになると、利家と秀吉とのはなしは頻りにはずむのであった。共に、若年から仕《つか》えてきた信長という主柱をうしなって、今日、会うのが初めてであり、その以前からも、北国陣と西国陣とに遠く別れて、相見ぬこと久しいものがあったのである。
「於犬、幾歳《いくつ》になられたの」
「四十五じゃよ。やがて四十六」
「そうなるか。おぬしも」
「何をとぼけて。……むかしからお汝《こと》の一つ年下ではないか」
「そうそう。一つ年下の弟であったよな。……が、こうして見ると、おぬしの方が、大人《おとな》に見ゆる」
「何の、わしの方が若い。お汝《こと》は老《ふ》けておる」
「老けているのは若いときからじゃよ。――正直、この秀吉は、幾歳になっても、大人になった気がいたさぬで困る」
「四十|不惑《ふわく》とか申すに」
「たれがいうたか、あれはうそらしい」
「そうかの」
「君子は――と上につけて申すことばである」
「君子ハ四十ニシテ惑《マド》ワズか。なるほど」
「われら凡夫《ぼんぷ》は、四十初惑というてよい。於犬などは、なかなかそうであるまいが」
「とぼけ召さることよ。猿どのが。……のう、御両所」
利家は、とかく話の外に措《お》かれがちな柴田勝豊、金森、不破の三名をかえりみて笑った。
面と対《むか》って、猿殿へ猿どのと呼びうる程な親しさが、三名にはふと羨《うらや》ましく見えた。
「てまえには、前田殿のことばにも、羽柴殿のお説にも、何やら服しかねまする」
金森五郎八がいった。この人は四使中の最年長者で、六十であった。
「どう服せぬのか」
秀吉が興を寄せると、
「愚老をもっていわしめれば、人生十五にして不惑、と申しとうござります」
「それはまた、早いな」
「元服がすんだかすまぬか頃の――初陣の若者どもを御覧《ごろう》じなされませ」
「ウム。いかにもな。十五にして不惑、十九、二十歳《はたち》にしていよいよ惑わず、四十からそろそろいけなくなるか。おもしろい。……して、尊老頃の年配になるとどうじゃ」
「五十、六十は、大惑でござる」
「七十、八十となっては」
「それはもう、忘惑《ぼうわく》の境に入りましょう」
「忘惑か。ははは」
みな笑った。
夜は夜でまた饗宴であろう。病人の勝豊には、耐えきれるところではない。
秀吉が、容子《ようす》に気づいて、ふと訊ねてくれたのを機《しお》に、利家から打ち明けた。
「実は、病気で臥《ふ》せられていたが、われらが当城へ参ると聞き、病《やまい》を押して共に一緒に来られたのじゃ。――身を顧みてはいられぬとて」
これを話の転機に、折入って――と改まりかけたのであるが、秀吉が、
「座を移そう」
と云い、ひとまず先に茶室を出たので、四名は案内を待っていた。
その間に、羽柴家の典医《てんい》が見え、強《た》ってと願って勝豊の脈を診《み》た。そして薬湯をすすめた。
また、家臣も来て、
「御大儀でいらせられましょう。その召服物《めしもの》で、お寒くはございませぬか」
などと再々見舞った。
やがて会談となった大書院は、病人のために、調度を尽してあたためられてあった。
秀吉の眼も、無言のうちに、絶えず病の人を宥《いたわ》っていた。
「かねて三七信孝様からも、御書状をもって、柴田殿との和をおすすめ申されてある由でおざるが」
利家は口を切った。
秀吉はうなずいた。――大いに聞こうという態度である。
故信長を主柱として今日にまで至ったおたがいの臣節ということから利家は述懐を披《ひら》いた。その臣節にたいし万全を尽したものは実に御辺であったとも率直にいった。けれど、爾後《じご》において、宿老輩との和を欠いて、三法師君を奉ずることが薄くなっては、足下の臣節も誠意も、私利私慾の営みに汲々《きゆうきゆう》たり――などと誤解されても詮《せん》ないことになりはしまいか、友人として自分は惜しむ。
神戸《かんべ》殿や北ノ庄殿の立場にもなって見給え。一方は御失意、一方は世上へ間が悪いのだ。瓶破柴田《かめわりしばた》、鬼柴田ともいわれた仁《ひと》が、遅れ通しで、ここ何事にも後輩の足下にすべてを先んぜられてしまい、清洲会議でも、足下には一目も二目もおいていたというではないか。
「ひとつ、さっぱりと、啀《いが》み合いはやめてもらえぬか。利家の顔にも免《めん》じて。――いや利家ごときは問題でないが、先君の御遺志はまだ中道にある。早くも、遺臣仲間の同床異夢《どうしよういむ》は見ッともない。一切はそれひとつでも和解し得るはずと思う。いわんや其許《そこもと》には、先頃、叙位《じよい》任官のありがたい恩命にも浴された折ではないか。この上、御軫念《ごしんねん》を悩まし奉るは、余りに畏れ多くはないかの」
秀吉はひとみを正した。利家の終りの一言によってである。利家はそれを猛烈な反駁《はんばく》の出る準備かと覚悟した。不和の主因が、勝家よりも秀吉の方により多くあるかの如き云い方を承知の上でしていたからである。
「いや、真にそうだ、その通りだ」
案外、秀吉は、幾度も大きくうなずいた。決して、軽々しくではない。歎息して云った。
「筑前に落度はない。故に、云い条を立てれば、山ほどあるが、御辺のようにいわれてみると、ちと、筑前のやり過ぎはあったようだ。いや大いにあったな。悪かった。その点、筑前が悪い。……前田殿、まかせる。あつこうてくれい」
和談は立ちどころに成った。
余りに秀吉があっさりしているので使者たちが却って懸念を抱いたほどである。
利家は、秀吉の性情を知熟《しりつく》しているので、
「忝《かたじけな》い。それ聞いてそれがしも、遥々北国から来たかいがあった」
と、釈然《しやくぜん》としたが、不破、金森の二使はなお歓びを迂闊《うかつ》に現わさなかった。
気《け》ぶりを察して、利家は、
「――が、筑前どの。北ノ庄殿にたいして、云い条なり御不満があらるるなら、忌憚《きたん》なく申されたに越すことはあるまい。それを包んでの和議では永続きせぬ惧《おそ》れもある。どうせのこと、利家、いかようとも、お取次や解決の労は惜しまぬが……」
と、一歩すすんで云い足した。
すると、秀吉は笑って、
「無用無用、それを腹に溜めて、黙っておるこの筑前かよ。云いたいことは、とくに申し尽しておる……神戸殿へも、柴田殿へも。――長い長い書面をもって、逐一《ちくいち》、箇条書して云い送った」
「あれなれば、北ノ庄を立つ前に、実はそれがしも見せていただいた。其許《そこもと》としてはみな一理あることと、柴田殿も今日においては、充分、お心も解けての和談、重ねて伺うまでもない」
「三七信孝様にも、同様、筑前の歯に衣《きぬ》きせぬ云い条を見られた後の和談のおすすめと読まれたので――実はの又左どの、御辺の来られる前からもうもう柴田殿の気色には触れまいと、内心慎みおったところじゃよ」
「そうか。やはり元老はどこまでも元老として立て召されよ。と人にはいうが、この又左なども、折々、鬼柴田の角《つの》に触れることがあるのじゃて」
「あの角にさわらぬように事をするのは難しい。おたがい若輩の頃からとかく意地の悪い怖《こわ》かった角だったからの。殊に、この筑前など、時には、信長様のお気色より、鬼の角のほうが怖かったことも毎度じゃった」
「あはははは。聞いとるよ、聞いとるよ。御直臣《おじきしん》たちが」
利家は、片手で腹をかかえながら、片手で金森五郎八や不破彦三たちの顔を指さした。不破勝光も、金森老人もつりこまれて共に笑った。主人の悪口も、蔭口でなく、こう面と向っていわれると、却って同感禁じ得ないものを覚えたりして、わけもなくおかしさを共にしてしまうのであった。
ひとの心理は微妙である。それからというもの、金森、不破の両使も、心から秀吉にも解け、利家にたいする警戒の眼もやわらげた。
「祝着《しゆうちやく》にぞんじまする」
「われらどもも、この上のよろこびはございませぬ。かつは、主命を達しまして、身の面目、御寛容、お礼申しあげまする」
などと口を極めてふたりとも拝謝《はいしや》した。殊に、病を冒して来た勝豊が、涙せぬばかりよろこんだのはいうまでもない。
勝豊は早く城を辞して、富田左近将監の宿で手厚い手当をうけ、利家、金森、不破の三名は、その夜の饗宴に臨んで、晩《おそ》く同じ宿所へ帰って来た。
あくる日。
「どうであろ。このまま、越前へ帰って、主君へおこたえ申しあぐるにも、何がな、筑前どのの墨付《すみつき》でもなければ、頼りない気がいたしはすまいか」
また疑い出したのは、金森五郎八だった。
六十、七十は大惑といったあの老人である。
使者たちは、その日、出立を前にして、
「御礼のために」
と、再度城内へ入って秀吉に会った。
大玄関の外に、馬を立てた従者が佇《たたず》んでいたので、来客中かと思いつつ通ったが、それは秀吉が外出のため待たせていたものらしく、折ふし、本丸から出て来た秀吉は、途中で使者たちを待ち、
「よく来られた。さあ奥へ」
と、ひっ返して、自身、小侍と共に客を導いて一室へ入った。
「昨夜は、腹の皮がよれたことであった。おかげで今朝は寝坊いたして」
と秀吉はいった。なるほど彼は、いま顔を洗ったような寝起き顔をしていた。ゆうべは腹の皮が縒《よ》れたといった意味は、あの宴の後でおたがいが羽目《はめ》をはずしたことをいうのだろうと思ったが――今朝の使者たちは各※[#二の字点、unicode303b]が別人のような殻《から》に籠《こも》って、何か改まった容子《ようす》を示していた。
「御多事の中、過分なおもてなしを賜わりましたが、今日帰国の途につきたいと存じまして」
金森五郎八が一同に代って礼をのべた。秀吉はあっさり頷《うなず》いて、
「左様か。帰国の上は、柴田殿へもよろしくいってくれい」
「御和談のこと、快くお誓い下されて、北ノ庄様にも、いかばかりお歓びかわかりませぬ」
「大儀大儀。筑前も、お汝《こと》らが使いに来てくれて心が軽うなった。とかくひとに喧嘩をやらせてみたがる世間のものは、これでがっかり[#「がっかり」に傍点]致したろうがの」
「さてまた、その世上の口端《くちのは》をふさぐためにも、和議のお固め変りなしとの、ひと筆の御誓紙を、お認《したた》め賜わるわけにまいりますまいか」
これだった。今朝になって急に使者が気づいた肝腎《かんじん》なものは。
和談は予想外にすら[#「すら」に傍点]とまとまったが、ことばとことばの上だけでは不安になって来たのである。
これを勝家へ告げるにしても、何か一札なくては、確約を得たというだけのものに過ぎない。――で、迚《とて》ものついでに、誓紙の交換を申し入れ、まず秀吉の証文を、この立ち際に求めたのだった。
「うム。それよ」
秀吉も同意のいろを満面に見せていった。
「こちらからも渡そうし、柴田殿からも、もろうておこう。……が、このことは、ひとり筑前と柴田殿との間にかぎったものではない。他の宿将も名をつらねておかねば意味のないことになる。さっそく、丹羽や池田などへもわしから談じておく」
「は。……なにとぞ」
「よかろう。――それで」
利家の眼へ、秀吉の眼が移った。
「よろしいでしょう」
利家は明晰《めいせき》に答えた。
彼のひとみは秀吉の胸を読み抜いていた。いや既に、北ノ庄からこれへ臨む前に、彼は、やがて到来すべき必然の将来をさえもう看破している者だった。曲者《くせもの》といえばこれくらい上品にして物騒《ぶつそう》な曲者はない。
秀吉の他出を待つ供や馬を玄関に見ていたので、使者たちはすぐ暇を告げかけた。と共に秀吉も席を離れて、
「わしも出かけるところ。城下まで一緒に参ろう」
と、本丸を出た。
歩みながら訊ねた。
「伊賀どの(柴田勝豊のこと)は見えぬが、先に長浜へ帰られたか」
「いや、今朝は御病気のすぐれぬ体《てい》ゆえ、むりに宿所へのこして参ったので」
不破彦三がいうのを聞くと、秀吉はひとり言のように、
「それはいけない」
玄関を出た。秀吉は待っている馬に乗った。使者たちは徒歩で来たのである。秀吉は従者をかえりみて云った。
「お客の方にも、馬をあげろ」
忽ち、三頭の馬が曳かれ、使者たち各※[#二の字点、unicode303b]の前に鞍をすすめた。普請中《ふしんちゆう》の大手の道を、秀吉と三使の姿が駒をならべて降りて行った。城下の辻へ来ると、利家がたずねた。
「筑前。きょうは、どちらか」
「常のように、京都へまいる」
「では、ここでお別れいたそう。われらはまだ宿所に寄って、旅装をととのえねばならぬゆえ」
「いや、伊賀どのの病気をちょっと見舞うてやろう」
秀吉がふいにそこを訪れたので、家臣の富田《とみた》左近将監もあわてたが、一室にやすんでいた柴田勝豊は殊のほか驚いて、急いで病床から出ようとした。
秀吉は早やその室へ来て坐っていた。そのままそのままと、勝豊の起き上がるのを止めて、
「御容体は、どうじゃな」
と、先ずたずね、
「それ程な病を押して、寒さもいとわず、長浜からこれまで来らるるなど、自体御無理であったのじゃろ。しかしお許の真心はむだ[#「むだ」に傍点]ではない。その熱意を見たればこそ、筑前も大いに心をうごかされたことでおざった。何も申さず和談にもお応《こた》えしたのじゃった」
「ありがとうございました」
勝豊は感泣した。
昨夜の宴を断り、今朝の答礼も欠き、使者の中に加わって来たことも、名目に過ぎないかたちになり終って、心から相すまぬと、慚愧《ざんき》している者にたいして――秀吉がいってくれたことばは余りに温かい。しかも、病苦を怺《こら》えて使いに来た御身の誠意を買って、何もいわずに和談に応じたのであるともいった。それはあだかも今度の功を、勝豊の熱意一つに帰しているかのような口吻《くちぶり》である。勝豊としては、その恩に感じて、涙せずにはいられなかった。
なおまた、秀吉はねんごろにいう。その体できょう立つのは無理である。いくら肩輿《かたごし》の中でも冬風がさわる。数日はここで充分療養してゆくがよい。薬餌や手当も万全を尽させよう。その間に、京都表の者にいいつけ、湖上の船も充分良いのを支度させて置く――。
利家たちの、三使もすすめた。
「おことばにあまえて、そうなさいませ。筑前どの、おたのみ申す」
「よいとも」
そこで秀吉は、これから京都の政治所へ出向くのでと、忙しさを告げて、病間を辞した。
利家が襖《ふすま》を開けた。不破、金森は平伏する。その間を、秀吉はずっと通って来たのであるが、それらの動作と同時に、うしろの方で、誰か手を叩いて笑った者があった。まったく憚《はばか》りもない天放の一声であった。
ものに動じない秀吉も尠なからず驚いたらしく、振向いて、きょとん[#「きょとん」に傍点]としていた。
うしろに見えるのは病人の勝豊である。襖際《ふすまぎわ》には、平伏している金森五郎八と不破彦三と、それに利家がいる。それだけしかここには見えぬ。
どこで、誰が、何を? ――笑ったのか。
しかも、明るい、無遠慮な、いかにも「快」とするような声をもって。
「……何じゃ」
怪訝《けげん》そうに秀吉がいう。金森も不破も、同様な眼を、的《まと》なくうごかすのみだった。
――と。謡《うた》の声がした。
猿殿のおいどは
紅《べに》つばき
折るに 折れない
藪《やぶ》の花
猿殿が お嚏《くしやみ》に
ちんと散ろ
南縁の障子の腰に、小猫のような影が日にうごいた。さっきの笑い声も、謡の流れたのも、そこに違いなかった。
「――此奴《こやつ》な」
利家がさっと開けた。
あ――と軽い声が庭へ跳《は》ねたが、庭では、利家がもう飛躍したその小さい者を捉《とら》え伏せて、
「汝《な》れな。――これっ」
と二つ三つ打擲《ちようちやく》していた。
「痛いっ。ごめんなさい」
悲鳴しながら、拳《こぶし》の下で、小さい悪戯者《いたずらもの》はまだ笑っていた。利家の打擲をくすぐったいように笑うのである。
「何たる、御無礼をッ」
膝がしらと両手とで利家が締めつけたので、息の根が止まったのか、少年はついにぐにゃり[#「ぐにゃり」に傍点]と黙ってしまった。
「止せ、止せ。又左」
縁の上から手を振って留めぬいているのは秀吉だった。その秀吉の短い羽織の裾から、少年持ちの赤い扇が半開きにブラ下がっていた。最前、少年が茶菓を運んで来た後、しばらく後ろに控えていたようだったが、その僅かな間にやった仕事らしいのである。
「あ。――こんな悪戯《わるさ》をしおったぞ。やくたいもない小僧め」
気がついたので、解《と》こうとしたが解けなかった。身を廻すと、それがちょうど猿殿のおいど[#「おいど」に傍点]を思わすように付いて廻った。
「解きまする。解きまする」
「平に、平に。おゆるしを」
不破と金森は恐縮そのものを示した。――秀吉のうしろへ寄ってすぐ取った。が、秀吉は赤い扇子を見ると、自身でも、連想《れんそう》にくすぐられたか、腹を抱えて笑い出した。
「又左。連れて来い。そう手荒うすな。――童《わつぱ》は、お汝《こと》の小姓か」
「あきれた奴です」
利家は摘《つま》み上げて、そのまま秀吉の前に連れて来た。さすがに少年は泣き出していた。小姓にしてもまだ十一、二歳としか見えない幼さである。
「これはおもしろいぞ」
秀吉はいうのである。何を見ての言か分らないが独りで大いに頷《うなず》くところあるもののようだった。そして唐突《とうとつ》に云い出したものである。
「これはいい。末楽しみがありそうじゃ。又左衛門、この童、筑前にくれぬか」
皆、意外な顔した。――が、利家の答はこうだった。
「飯をつけても捨てたい程な悪戯猫でございますが、生憎《あいにく》と、他家へは差し上げられない者で――」
秀吉の乞いを物好きなと、一笑に附したのではない。利家は理由を云い足した。
「――実はこの童は、それがしの兄|利久《としひさ》の子でおざる。そのうえに、瓜のへち[#「へち」に傍点]実《な》りにひとしい奴で、腕白を通りこした変り者。他家へつかわすなど、とても、親どもが同意いたしませぬ」
「ほ。利久どののお子だったか。道理で、物怯《ものお》じせぬ面《つら》がまえよ。幾歳《いくつ》になられる」
秀吉は見直すような眼を与えて、少年の頭へ手をのせた。
利家は、捉えていた小さい腕首を離しながら、小声で促《うなが》した。
「これ、お答えせぬか。……年は幾ツかと、おたずねなされておる」
少年はニヤニヤ笑うのみで、無遠慮に相手の顔を眺め入っている。猿に似ている小柄な大人を見出して、友達として馴《な》れてみたいぐらいにしか心得ていないらしい顔つきなのだ。その愛くるしい中にある不敵な眸に会って、秀吉も少々顔負け気味であった。ふと――白痴《はくち》かナ? と疑ってみたくもなった。
利家は赤面しながら、
「これ。慶次」
と、きつい眼でたしなめた。
慶次郎なる少年は、とたんに答えて、
「十二っ」
と云い放ち、鵯《ひよ》のごとく、庭木のあいだへ駈け去った。逃げたのである。利家は大きく舌打ちした。そしてもう一度秀吉へ詫びを云った。
「自分の兄の子ですが、あのとおりちと馬鹿なのでござる」
そのくせ利家には、歎《なげ》いているふうはなかった。むしろ、この一奇児を、ひそかに珍重している容子《ようす》さえどこかにある。
「いや、暇どった。又左、来春陽気が好うなったなら、また上洛《のぼ》られい。悠《ゆる》りとな」
「ぜひ、参ることになりましょうな」
利家は、門まで秀吉を送り出しながら、なお一語、云い足した。
「――越路の雪の解け次第に」
「さらば。雪でも解けたら」
秀吉は振返って、後から来る顔のそばでニコと笑った。利家も微笑した。
前田利家、不破彦三、金森五郎八の三使は、同月十日北ノ庄に帰り、直ちに、仔細を柴田勝家に復命した。勝家は、偽和《ぎわ》の計が、予想以上、うまく運んだものとして、
「寒天の節、遠路|辛苦《しんく》の使い、何とも大儀であったよ。満足満足」
とよろこぶことかぎりなく、やがて利家が越府を辞して、能登の居城へ帰った後、極く腹心の輩に、密かにこう囁《ささや》いていた。
「先々《まずまず》、冬中は筑前を騙《たばか》りおいて、明春、雪解けの頃を待ち、一挙に宿敵を屠《ほふ》り去ろうぞ。兵馬、軍糧、そのほかの備え、すべて雪のうちのこと。おぬしらも抜かりあるなよ」――と。
時にまた。
一方の秀吉は秀吉で、その側臣にこう語って、大いに嘲《わら》っていたということである。
「そもそも、われらを謀《はか》らんほどの者は、異朝にては子房《しぼう》、わが朝にては、楠多聞兵衛《くすのきたもんのひようえ》にてもあれば知らぬこと、柴田なぞが、愚意をもって筑前を謀らんなどは笑止の沙汰じゃ。見ておれ。蟷螂《とうろう》の斧《おの》とは、このことぞ」
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家《いえ》 康《やす》
天正《てんしよう》十年はかくて暮れんとしていた。さらに多事いよいよ多事を予想さるる天正十一年は迎えられようとしている。しかも黙々の天機運行の下、人は、来るべき年が地上にとっていかなる現象を事実となす年かを寸前にも知ることができなかった。それが悉《ことごと》くの地上の人であった。
ただわずかに、その大きな未来の空間をみつめて、一箇の胸三寸に、天、地、人、三運の神機を捉《とら》えて、克《よ》く自己の掌上に日月のうごきと麾下《きか》百万の生命とを照らしみながら、
――明日は、かく。
――来年は、こう。
と、あきらかな予見と信念のもとに、遠大な方図を徐々に進めながら、この時の「時」を歩んでいる極く少数の人物のみがまたべつにあった。
こういう特異な人物は、そう沢山にあろうはずはないが、どんな乱麻《らんま》と暗澹《あんたん》を呈《てい》している時流の中でも、かならずどこかにいることはいるのである。
けれど、そういう時に限って、人すべてが、天も観《み》えず、地も見得ぬような、狭小な心殻《しんかく》にとらわれているので、人は、人の中からその人を見出すことすらできないでいるらしい。
為に。一般多くは、心の支柱を、柴田に倚《もた》せて見、羽柴に寄せて見、毛利に寄せて見、上杉に寄せて見、徳川に寄せて見、北条に寄せて見、或いは織田遺族の信孝や信雄などに付託《ふたく》して、
(誰かがやがてはこの日本をもっと日本らしき相《すがた》になすであろう)
とは期しているが、さてその人が以上のうちの誰かとなると、これはまったく判定がつかなかった。――後、歴史としての結果が明確にされた頃に至ってみれば――どうしてそれくらいな見通しがつかなかったかと怪しまれるほどのことも、天正十年末の時局下には未だ、そこまでの秀吉の業績や人間を眼に見て来た者でも、
(この人に、信長ほどな器量《きりよう》があるかどうか。ここまでは意外な神速と才腕を見せて来たが、この辺が精いッぱいな弓勢《ゆんぜい》ではないか)
などと自分自分の尺度《しやくど》にあてがって、次期の蹉跌《さてつ》を危ぶむ気もちも多分だったのである。それほどに当時なお人が人を見出すに模索《もさく》の域を出ていなかった証拠には、翌天正十一年春となって、いよいよ柴田羽柴の衝突不可避と定まり、各家その旗幟《きし》を両陣営のいずれかに拠《よ》り所《どころ》を明らかにしなければならない日になってから初めて、
(二者のいずれに属すか)
の問題が、事改めて、諸家の内部では重大な岐路として討議されていた事実でもよく分るのである。蒲生《がもう》賢秀《かたひで》、氏郷《うじさと》の父子でさえ、その際には、思案を決しかねて、成願寺《じようがんじ》の陽春和尚を請《しよう》じ、卜占《ぼくせん》をたてさせて、決断を易《えき》に訊いたというほどであるから、爾余《じよ》の諸勢力の迷い方も思いなかばに過ぎるものがあった。
こういう中でも、英雄は英雄を知る。或る感能の持主だけは、世のうごきを観とおすと共に自己の位置を覚《さと》り、自己を知ると共に、自己のあいてを知っていた。その点で、柴田勝家などもひとかどの具眼者《ぐがんしや》にはちがいない。
彼は、表面秀吉と和して、まずその一策が成ったと思うと、すぐ同年十一月末には、またも使者を派して、徳川家康をその居る所に訪わせていた。
この半年六月以降。
徳川家康というものは、まったく中央から離れていた。
本能寺以来、天下すべての者の意志耳目が、突然陥没された中心の充空《じゆうくう》に注がれて、他を顧《かえり》みるいとまなく皆過ぎていた間に、彼は、彼独自の途《みち》を取っていた。
あの時、堺見物の途中から、九死一生の目にあいつつ、辛《から》くも、自国まで帰り得た彼は、すぐ軍備を令して、鳴海《なるみ》まで押し出した。
が、ここの心事は。――越前から柳ケ瀬を越えて出た柴田勝家のそれとは大いに違う。
すでに秀吉軍が山崎に到る――と聞いても、家康は、秀吉のひ[#「ひ」に傍点]の字も口にせず、そうか、と頷《うなず》いたのみで、
「領内は静かなようだな」
と、あっさり浜松へ引揚げてしまったのである。
もとより彼は、信長の遺臣らと同列に自分を置いていない。織田家の客分であるのだ。柴田、羽柴の徒は信長の一部将に過ぎない。何で彼ら遺臣間の乱後の乱に立ち入って、余燼《よじん》の拾得《しゆうとく》を争おうや――という襟度《きんど》があった。それとまた、彼にはもっと実質的な「この際になすべき事が」一方にあった。
参遠駿《さんえんすん》の自領に接続している甲信二州への版図拡張《はんとかくちよう》は、長いあいだ彼の虎視眈々《こしたんたん》のものであった。これは、信長という者が生きているあいだは、手の出せないものであったし、今後も中央の定まる日となっては、機会がないかも知れないのである。
この絶好な機会へ、家康の意が向いたやさきへ、愚かにも、その虎視へ道を拓《ひら》いて与えた者こそ、相州小田原の北条新九郎|氏直《うじなお》だった。
氏直もまた、本能寺の変を機会に「この際」と動き出した一人である。北条勢の五万という大軍は諸所から境を切って信州へ入った。大部は信州|海野口《うみのくち》から甲州を南下した。――奪《と》るべし、と思うだけの領分を、遠慮なく線で地図面に引くような規模をもっての大侵攻であった。これは家康にとって絶好な出兵の名分である。が、彼の挙げ得た実力はわずかに八千。そのうち三千の先鋒は、諏訪《すわ》以南、乙骨《おつこつ》ケ原までの七里のあいだに、よく北条勢の数万を牽制《けんせい》しつつ、やがて家康の後陣と合して、新府|韮崎《にらさき》の地形に拠《よ》り、浅生《あそう》ケ原をはさんで対陣幾十日に及び、さしもの北条の大軍をして、動けば不利、窺《うかが》うも隙なく、まったく立ち往生のほかなきものとしてしまった。
和議が起った。家康の待っていたものである。扱いは、北条美濃守|氏規《うじのり》。これは家康が幼時、今川家に質子《ちし》となっていた頃、共に質子として同家にいた幼な友達である。これ以上の口きき人はない。
「上州一円は、北条に渡され、甲信二国は徳川家に」
という折合いである。家康の意図は成っている。
家康は二女の徳姫を、氏直へ嫁《や》る約束にも承諾した。和と婚と分領《ぶんりよう》と、三|項《こう》一約のもとに、相互、十二月中に軍を退《ひ》くことになっていた。
越前から柴田勝家の使いが、荷駄行装《にだこうそう》に北国の雪をかぶって、遥々《はるばる》これへ着いたのは、十二月の十一日であった。
遠来の使節はひとまず古府の客館に休息の時間を与えられた。一行は柴田家の老臣宿屋七左衛門、浅見対馬守入道|道西《どうせい》、ほか士分二十余名、荷駄足軽の供数十人という大人数であった。
公式の使節たるはいうまでもない。石川数正が接待役として、一行の世話に当った。
「お会い日のお沙汰あるまで、まずごゆるりと」
両日ほど、一応のもてなし振りであったが、数正は、
「何分にもこの陣中。爾後《じご》の御軍務もおせわしく、家中の手も廻りかねておる有様です。馳走のおかまいも充分にとどきかね、主君にも、お気のどくなと申されておられまする」
同じような文句と鄭重《ていちよう》さをもって、幾度も詫びるのであった。けれどその言を裏書するような誠意は少しも見あたらなかった。
「どうもお寒いことだ」
一行は冷遇《れいぐう》を喞《かこ》った。第一、柴田家からの沢山な音物《いんもつ》にたいしても、目録を収めたきりで挨拶もない。
三日目である。石川数正が、
「今日、お会いすると仰せられます。宿屋殿と浅見殿だけお渡り下さい」
と、初めて家康のいる古府の館《やかた》へ案内した。
この厳冬というに家康は火の気もない伽藍《がらん》のような広間に坐っていた。貧苦と逆境には骨の髄《ずい》まで虐《さいな》まれて来た人とも見えない。頬の肉はむっちりと厚く、その筋肉に引ッぱられて、大きな耳たぶの根が茶釜の環付《わつき》の如く相好《そうごう》の全体を重からしめている。これがまだ四十になるやならずの大将かと思わせられる。充実した生命となお若い筋骨とは、黒皮の鎧《よろい》のうちに、賢者の威と健康の美をつつんでいた。
もし、かの金森五郎八老が、今度の使いにも来ていたら、一見直《いつけんただ》ちに、この人こそ四十不惑の語にあてはまる人と、歎じたことであったかもしれない。
「遠国の路を、数々の音物《いんもつ》、心入れなことよ。匠作《しようさく》には、相かわらずかの。――云いわすれたが、故右府殿のお妹、久しゅう後家でおわしたお市|御料人《ごりようにん》を先頃お室へ迎えられたそうな。めでとう存ずる。――家康、その折より、境界の騒乱《そうらん》に出馬を余儀のうせられ、つい祝いも申さで過ぎおった。帰越のうえは悪しからず伝えておくりゃれ」
語品が高い。澗《しずか》なうちに人を圧す声である。さらに、本多、大久保、榊原、井伊、岡部などの諸臣が眸《ひとみ》をそろえて二使を見すえている。宿屋、浅見の二名は、貢《みつ》ぎしに来た属国の臣みたいな卑下《ひげ》を強《し》いられる心地がした。この上、主人の口上をそのまま伝えるのは心外な気もしたが、是非なく、
「このたびは、甲信二国を御平定あそばされ、主人勝家も蔭ながらお歓び申しおりまする。そのための寸志の賀、これまた、お快くお納め賜わりまして、面目の至りにござりまする」
「疎遠なるこの家康へ、匠作にはわざわざこの度の賀を陳《の》べに、お許《もと》をつかわされたとか。さてさて、ごていねい」
挨拶として率爾《そつじ》はないが、噛んでも味のない辞令《じれい》一片である。石川数正もそうだったが、総じてここの家中には一種特別な家風が儼《げん》としてあるやに感じられる。
よく世間は対比していうのである。
徳川家に臨んだ者は、秋霜《しゆうそう》のごとき三河武士の軍紀と、弛《ゆる》みなき緊張にむすばれている組織力と、そして家康の、依然むかしを忘れぬ質実な風に打たれるということを。――また近頃、羽柴家の内を窺《うかが》う者は、ひとしく秀吉の大気を称《たた》え、その陽々たる家族的な和こそ羨ましいものであるといい、ここの家中にある和と大気と若い者の力こそ、今日、彼に未来を嘱《しよく》す人が日に増しつつある所以《ゆえん》であるとも説《と》く。
一は陰。一は陽。
また一は精神を髄《ずい》とした理念的の組織体。一は人間――わけて情念の面を壁とし理想を柱として寄った巨大なる家族体。
こう観《み》る者もありまた、何の武門、それはまだ主たる家康なり秀吉なりの個性の反映にすぎない。時と位置と対象が変れば、天相《てんそう》の晴曇《せいどん》によって、海の色や山のたたずまいも変るように、一定したものがあるわけでなく、帰すところ、相拠《あいよ》れる生命群が、相拠れる一方の生命群にたいし、いかに高く生き輝かんかの相貌《そうぼう》であって、一顰一笑《いつぴんいつしよう》悉く神変の意をふくむもの。軽々しく、某家の風はかくの如しとか、何々家の陣容はかかるものなりとか、一度や二度使者に臨んだとて、めったな推定を掴み帰り、これを主君や自藩の家中に吹聴《ふいちよう》するのは、まことに危ないことであるばかりでなく、時には自己の主をして過《あやま》らしむる不忠とならぬ限りもない。凡小井蛙《ぼんしようせいあ》の眼孔《がんこう》をもって、軽々な取沙汰は慎むべきであると――苦々《にがにが》しくたしなめる老武者もあった。
(使者というものは、鈍《どん》にも卑屈にもなれる者でのうては出来ぬ)
柴田家の一行は、今度という今度、まことに後味《あとあじ》のわるい帰路を味わった。
家康からは、勝家にたいし、遂に、土産《みやげ》になるほどなことばもなかったのである。
自分らが冷遇されたことはともかく、
(よろしく)
という一言すらなかったなどとは主人に報告するにもしかねる。
殊になお、勝家から家康へ宛てた懇篤《こんとく》なる書翰《しよかん》にたいしても、
(いずれ……)
とのみで、返書はついになかったのである。要するに、今度の使節は、まったく無効果に終ったのみでなく、何となく、家康の鼻息前《びそくぜん》に、勝家自身、自己の心事を必要以上、卑下《ひげ》したような形になってしまったことは否み得ない。まずい[#「まずい」に傍点]といったら、これ程まずい打ち手はなかったのだ。気がついても、復命《ふくめい》の後では遅い。
「この上は余り御気色を害《そこな》わぬ程に、軽くお伝え申しおくほかはあるまい」
宿屋七左衛門と浅見対馬守の両使が、途《みち》すがら口を合わせていた憂いのうちには、当然の敵秀吉ある上に、依然、北越の上杉をひかえているのだ。この上、徳川家とのあいだに、感情の齟齬《そご》などあらば大不吉、と唯々無事を祈る気持しかなかったのである。
ところが、時雲の早さはそんな小心者の杞憂《きゆう》ごときは、いつでも遥かに超えていた。この一行が越前へ帰った頃には、つい前月の口約もやぶられ、初春《はる》迫る年越しを前に、秀吉は、江北《ごうほく》の一部にたいし、断乎《だんこ》重大な軍事行動を起していたし、同時に、徳川家康も、何を思うか、急遽《きゆうきよ》、浜松へひきあげを開始していた。
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掌上《しようじよう》の物《もの》
前田利家らの一行三使が、越前へ帰ってから約十日ほど後である。――なお後に残って、宝寺《たからでら》の城下で、療養に努《つと》めていた柴田伊賀守勝豊も、ようやく健康に復したので、一日秀吉に暇乞《いとまご》いをなし、
「このたびの御温情は、忘れることができませぬ。いつかまた、折を見て上洛、あらためてお礼に伺いまする」
と、辞去して、長浜へ立った。
その帰るに際しても、秀吉は京都まで同道して、みずから途中の世話を見、大津までは加藤|光泰《みつやす》、片桐助作などに護らせた。また特別仕立の湖船に医者をも添えて、長浜まで送らせた。
勝豊は、秀吉の温情の翼に抱かれて、恍惚《こうこつ》となるほどだった。親身、真情というものを、初めて知った。――それは、彼の心に渇《かわ》きぬいていたものだった。
彼は自分こそ、北陸の大柴田の一族中でも第一に坐るべき地位にあったが、事実は、常に孤独の中におかれていた。勝家にも忌《い》まれ、一族にも冷眼視されていた。従って、今日までは、彼が彼を反省してみてさえ、どこやらにひがみ[#「ひがみ」に傍点]者の蔭《かげ》がないとは云い切れない思いがしていた。
それが、秀吉に接してからは、恥かしくもなり、また本然の自己に立ち返ろうとする意志ともなっていた。肉体の元気を取り戻したばかりでなく、こんどのことは、心の病《やまい》にも秀吉の投薬をうけて、何やら胸の明るさを持ち帰っているような気がしていた。
「風の興《おこ》るところ人あり、人の興るところ上にありというが、まこと羽柴家のうちには、何ともいえぬ居心地のよいものがある。日蔭がない。違和《いわ》がない。蔭口を聞かぬ。そしてその底に、草萌《くさも》え頃の地熱にも似た誓いがどの顔にも燃えている。ずいぶん苦しい任務や内輪の艱難《かんなん》もあるにはあるのだろうが、家中の誰にも不平や卑屈の顔が見えないのはふしぎだ。――柴田家とは比較にならぬ。わが柴田ではああではない。羨ましいことではある」
若い勝豊は、こういう風に、早や秀吉の鳳翼《ほうよく》に慈《いつく》しまれ、身は、柴田勝家の養子にして、心は、すでに秀吉のものだった。養父勝家を思う以上、秀吉にふかく帰依《きえ》してしまった。
もっとも、彼が秀吉を慕うようになったのは、決して突然のものではなく、久しい以前から折あるごとに秀吉のひそかに積みかさねていた好意の上に、今日のことがさらに彼の心を大きく揺りうごかしたものだった。
しかしその間の秀吉の情誼《じようぎ》が、いかに純なる「不遇な者への温情」であったとしても、これを今日、大局の上から観《み》て、一言もって結果的にいえば、
彼はすでに秀吉の薬籠中《やくろうちゆう》のものたるのみ
である。
秀吉は、さきに前田を、今また勝豊を見送って、さて以後の約半月は、城普請《しろぶしん》も京都表のことも、ほとんど顧みぬかたちで、何やら目に見えぬ他方面へとその毎日をふりむけていたが、やがて十二月に入ると、かねて清洲へ密行させておいた脇坂甚内|安治《やすはる》と蜂須賀彦右衛門正勝のふたりが、月の早々ここへ立ち帰っていた。――この一便こそ、秀吉が清洲会議以後の受身と隠忍《いんにん》の、休息期を離れて、初めて天下の棋盤《きばん》へぱしっ[#「ぱしっ」に傍点]と一石打って出た、消極から積極への一転を予告するものだった。
蜂須賀、脇坂が、清洲へ行ったわけは、清洲に在る織田信雄に稟議《りんぎ》して、その承諾を求めるためであった。
理由は――
(信孝の暗躍《あんやく》は昨今いよいよ甚だしい。勝家らの軍備も今や顕然《けんぜん》である)
(信孝は今もって三法師君を安土へ移し参らせず、岐阜の自城に抑留《よくりゆう》している)
(これ奪嫡《だつちやく》の罪たり。また、清洲条約を公然と破棄するもの)
等々の箇条を実状に照らして、それらの因をなせる謀略の首魁《しゆかい》勝家を討つには、まず北陸の勢が、積雪のために南下し得ぬうちに、これを果しておかねばならぬ――と、説かせたのであった。
信雄はもとより信孝に満腔《まんこう》の不平を抱いている。勝家にも快くないこと勿論だ。彼は決して、秀吉を信じ、秀吉を理解し、将来を秀吉に恃《たの》んでいるものではないが、勝家よりは遥かにまし[#「まし」に傍点]だとしているのである。自分の力ではどうにもならぬ信孝を除いてくれた上、云い得ないでいた不平まで、秀吉の軍が天下に布告してくれるものと歓んだのだ。何の否やのあるべき筈はない。
「……いやもう、信雄様には大乗り気でいらせられました。このことは、遅い程であると仰せられ、筑前が岐阜へ出馬あれば、自身も陣に立つとまでいわれて、却って、稟議のおゆるしを得に参ったわれらどもが励まされたような次第で――」
と、彦右衛門と甚内は、信雄に謁《えつ》した様子を伝えた。
「大乗り気か。……いや、目に見ゆるような」
秀吉は愍《あわ》れみつつ胸にえがいた。典型的な名門の公達《きんだち》がそこには思い出されるのだった。救いがたき性情の持主を感ぜずにいられないのである。
が、それを大きな僥倖《ぎようこう》としている自分の意図も同時にはっきり自認していた。彼は従来、かりそめにも、大望大言をいったことのない人間であったが、信長|亡《な》きこのかた、特に山崎の一戦からは、
天下われを措《お》いて人やある
の自覚と大信念を明確に持ち、敢えて、その自負その自尊をつつまぬ者となっていた。
またもっと著しい変化は、本来どう名分をかかげても、私意の拡大に過ぎないものに疑われやすい天下人たらん≠フ大望が、以前とちがって近頃は、自己にも公にも怯《ひる》みなく心のうちに当然視されて来たことである。仮に、そうなって来た心懐《しんかい》を、秀吉自身の説明に求めるとすれば、
(然り。――太陽が出なければ世は明けまい)
というであろうと思われる。
闇、闇、闇。そこにもかしこにもなお低迷する闇の面のなんと多いことか。信長は久しき暗夜の密雲を一掃した大疾風ではあったが、太陽ではなかった。秀吉はみずから這い出したものでなく、一世を翔《か》け去った信長のあとに、前から在るままに在った者である。太陽はのっ[#「のっ」に傍点]と昇るように見えるが、実は地表の迅《はや》い旋回《せんかい》によってそう見えるようにである。
突として、実に突として、一彪《いつぴよう》の軍馬が、相国寺の門前にかたまったかと思うと、さらに、西、南、北から相流れ寄るものを、千実《せんな》り瓢《ふくべ》の下に集めて、忽ち都のただ中に、幾軍団もの勢揃いを起した。
師走のから風がふき捲くる七日の朝という陽の下である。
「なんでっしゃろ?」
庶民は、故を知らなかった。
つい十月の、大徳寺大法要の荘厳さ、麗《うるわ》しさ、あの日の賑やか。――庶民は小判断にとらわれやすい。もう戦争は当分ないかのような独断に温《ぬく》もり返っていた顔つきである。
「筑前様自身、馬を先にして行かっしゃる。筒井勢も見える。丹羽殿の軍勢も」
路傍の声は、なおこの出陣の行く先を不審にしていた。急速に、蹴上《けあげ》を越えた蜿蜒《えんえん》の甲冑《かつちゆう》は、さらに、矢走《やばせ》で待ちあわせていた一軍を加え、渡頭の軍船は、白波をひいて湖心から東北に舳艫《じくろ》をすすめ、陸上軍は安土その他に三晩の宿営を経て、十日、佐和山《さわやま》城に達していた。
そして十三日にはここへさらに細川藤孝、忠興父子が麾下《きか》を率いて丹波から来会した。
藤孝父子は、すぐ秀吉に謁《えつ》を求めて、
「遅れました」
と、つつましかった。
それにたいして、秀吉は、
「よくぞ」
と、この父子をまつこと極めて篤《あつ》く、
「伊吹《いぶき》、北国路もあの通り。途中さだめし大雪に悩まれたろうに」
と、いたわった。
思えばこの藤孝父子ほど、この半年を、薄氷をふむ思いで通って来た者はあるまい。
かの光秀と藤孝とは、共に、信長に仕える前から莫逆《ばくぎやく》の友であった。忠興の妻の珠子《たまこ》(伽羅沙《がらしや》夫人)は、光秀のむすめであった。そのほか切っても切れない絆《きずな》は両家の家中と家中のあいだにも多かったのである。光秀が、必然なる味方と、謀挙《ぼうきよ》の公算に入れていたにもそれだけの理由は大いにあったといってよい。
が、藤孝は組さなかった。もし一髪《いつぱつ》の私情にでも引かれたら彼の一門も明智と同じものになったろう。まさに累卵《るいらん》をささえたのである。しかし、外に善処《ぜんしよ》し、内にはその危機を脱するまでの苦心は言葉に絶えたものがある。麾下《きか》の内争も生じ、光秀の娘たる忠興の妻を救うにも、生《なま》やさしい藤孝の苦労ではなかったのだ。――今日はすでに、秀吉も、ゆるすところとなっているし、父子の大義に拠《よ》って来た真情も認められて、かく秀吉の優遇はうけているが、秀吉が見るに、藤孝の糸鬢《しびん》はたしかにあの頃から急に霜となっている。――ああ、達人《たつじん》なるかな、と思うと同時に、大局に立って誤らぬには、人間やはりここまで肉体と髪の黒さを削らねばならぬか――と、秀吉は彼を見るごとにそぞろ気の毒になるのだった。
「湖上からも、城下からも、はや鼓を鳴らしてお取詰《とりつめ》のように見られますが、せがれ忠興にも、先手の一攻め口を、どこかお与え下されますように」
藤孝のことばを、秀吉は、
「長浜か」
と、まるで目標外のもののように云って、さて、それとは切り離して答えた。
「水陸からやってはおるがな。……何、何。真の攻め口は、城の中にあって、城の外にはない。多分、今明のうちには、城を捧げて、伊賀守勝豊の家来どもが、これへ参るであろうよ。――お許《もと》らにはまず長途のつかれを充分に休めておられい」
藤孝は、秀吉の今のことばに思いあわせて、ふと、
――克《ヨ》ク人ヲ休メ得ル者ハ、又克ク人ノ死力ヲ用イ得ル者也
という古語の滋味《じみ》をあらためて心のうちに噛みしめていた。
子の忠興も同じように、秀吉の横顔を仰ぎながら、ひとつのことを思い出していた。それはかつて細川家の運命が大きな岐路に立ったときである。その去就《きよしゆう》に、家中を挙げて紛論のかわされた席で、父の藤孝がこういって、就《つ》く所を直指したことがある。
(自分はこの年まで観《み》ることの稀れな人間を、今の世において二人まで見ている。ひとりは浜松の徳川家康、もう一名はまぎれもなく筑前守秀吉である)――と。
しかし、それを今考え出してみてもなお、若い忠興には(――そうかなあ?)と思われるのみであり、
(これが父のいうような、稀れな人だろうか。今の世に二人ぐらいしかいない程な大将だろうか?)
を疑わずにはいられなかった。――殊に、秀吉という実物を眼の前に見ていると、よけいにそう惑《まど》われてならない。どう見ても、それ程とは、思えないのである。
やがて、佐和山城中の一廓《いつかく》へ退《さ》がって、父子一室にくつろいでから、この気持をありのまま、父にいってみると、藤孝は、さもあろうといわぬばかりに、
「わかるまい。そちなどの器量《きりよう》と年齢では、まだまだ」
と、つぶやき、忠興の不服そうな眸《ひとみ》に気づくと、若い者の心を察してまた云い足した。
「巨《おお》きな山は、山へ近づくほど巨きさが見えなくなる。山のふところへ入るとなお分らなくなるものだ。諸人の批評を聞き較べておるがよい。たいがいは山の全体を観《み》て云っているのではない。一峰一渓を見て全体と思っていたり、限られた眼界の草木や道を見て全山の評をしているに過ぎない。ほんとの人物というものは、到底、そんな狭い眼で見とおせるような者だったら、それは所詮《しよせん》、或る程度の、求めれば世間に代りの幾らもある人物でしかあるまいが」
こう教えられてもまだ忠興のあたまには依然として(そうかなあ?)が残されていた。が、世の経験と、あらゆる人間を観て来たことにかけては、父藤孝に遠く及ばない子である点において、忠興は素直に父の言を肯定せざるを得なかった。結局、人間として、もっと自分が成長してみなければ分らない観念の限界の問題であろうと、彼は謙虚に返って眸をおさめた。
驚くべきことには、それから二日目に、長浜の城は、一兵も損せず、秀吉の掌《て》の物になった。
秀吉が、細川父子へ、「彼の方から城を捧げてくる」といっていた予告通りに運ばれて来たのである。
伊賀守勝豊の老臣、木下半右衛門、大金藤八郎、徳永石見守の三人がその使いだった。すなわち誓書を以て、
「勝豊以下、家中一統、御手に属しますれば、以後のおさしず、宜《よろ》しきように」
と、秀吉のすすめに応じて来たものである。
「よく分別した」
秀吉は満足そうに云った。約束にもとづいて、所領も旧により、長浜の城も現城のまま、勝豊に持たせておこうと確言した。
長浜の城は、清洲会議の結果、柴田家へ譲《ゆず》った物であるが、秀吉はそれを七月に明け渡して、同年の十二月には早や取り戻していたわけである。
当時、世人は、
(あの要地を、よくも思いきりよく)
と、彼の心事を測《はか》りかねていたものだったが、今となってみれば、それを柴田の手に委《まか》しておいたのは、実にわずか半年にも足らない間でしかなかった。
明け渡すにも、あっさりと、きれいであったが、取り返すにも、左の掌の物を右の掌へ移すぐらいな容易《たやす》さに思われた。
がしかし、これは秀吉を中心に見た場合のことで、対者となった柴田勝豊の身辺は、この数日、颶風《ぐふう》の巻くようなものであったに違いない。
越前へ援兵を求めるにも、積雪のために、到底、それは望んでも望み得ないことだった。
加うるに、養父勝家は、その後も勝豊にたいして、依然、辛く当ってばかりいた。殊に、前田、金森などの使者に加わって、あの折、勝豊が共に宝寺城へ赴いたことにたいしては、
(出過ぎ者が――)
と、口ぎたなく一族の者へ不興をもらしていたというし、また、
(病にかこつけて、筑前のもてなしに甘え、幾日も羽柴の城下に遊び過ごして帰るなど、言語にたえたうつけ[#「うつけ」に傍点]者よ)
と罵《ののし》りぬいているという取沙汰なども、越前に在る家中の家族の便りなどから勝豊の耳にも入っていた。
今、秀吉の軍にかこまれて、孤城、恃《たの》むところなく、孤心、拠《よ》るところなき勝豊は、
(如何にせん)
かを思い余って、これを老臣たちに諮《はか》り、老臣たちは、彼の意中をすでに酌《く》んで、家中の衆議に懸けるまでもなく申し渡したのであった。
「――越前に家族を残されてある人々は、越前へ帰らるるもよし、また、勝豊様と共に留まって、以後、筑前殿の手に属す心ある者は、変りなくここに居られたい。……何せい、いかなる理があろうと、北ノ庄殿は、殿にとっては、御養父にあたられる御方、叛《そむ》くは、人の道ならねど、よくよくの御心事とお察し致して、われらどもは、すでに殿へ御同意申しておざる。さりとて、柴田家を離れては、士道の一分《いちぶん》立ち難しとお考えの面々には、遠慮なくお立ち退きあるように」
一時不穏な空気が漲《みなぎ》った。けれど事すでにここに至っては――の感がふかい。異論百出までもなく悲痛な面にうなだれてしまった。男のしのび泣く声ほど人の腸《はらわた》をえぐるものはない。その夜、主従義別の杯が酌《く》まれた。しかし、越前へ帰った者は、家中の十分の一ほどもなかった。
かくて勝豊は、養父を離れて、秀吉に従《つ》いた。彼はこの時から秀吉に属した。しかしそれは形の上のことである。勝豊の心はそれより以前からすでに秀吉の籠《かご》に飼われた小鳥だったのである。
ともあれ長浜の接収はすんだ。が、このことは秀吉にとっては、岐阜への行きがけの一仕事に過ぎなかった。こんどの軍の目標は飽くまで神戸信孝の岐阜城にあるはいうまでもない。
とはいえ長浜は、北越勢の出撃を予想する場合、何といっても、掌《て》に収めておかねばならぬ重要な地ではある。秀吉は予定のごとく勝豊を降し、まずこの要地を自陣に加えたが、守将はそのまま柴田勝豊に命じ、本領安堵《ほんりようあんど》の墨付《すみつき》を与え、転じてさらに、岐阜へ前進したのであった。
凡《およ》その者ならば、この場合、腹心の者と入れ替えねば、気のすまないところである。
冬の不破《ふわ》越えは、伊吹を左に、名だたる難行だった。関ケ原あたりの風雪はわけてひどい。
十二月十八日から二十日にかけて、秀吉の軍はこの辺を通った。軍団は幾部隊にも分れて前後し、部隊はまた小荷駄、大荷駄、鉄砲、鑓《やり》、騎馬、足軽等の組々に分れて、雪泥《せつでい》を冒しつつ進んで行く。二日にわたって、約三万ぐらいな兵力が南下した。
それを旗幟《きし》別に見ると。
丹羽勢、筒井勢、細川勢、池田勢、蜂屋勢などの各軍各将の指揮下に編制されていた。これが大垣《おおがき》に近づくにつれて、大垣の城主|氏家行広《うじいえゆきひろ》も来て合し、曾根の城主稲葉一鉄も参加し、秀吉に謁《えつ》して麾下《きか》に属した。
主陣は大垣に置かれた。ここを作戦本部として、秀吉は、美濃《みの》一円の小城を次々と攻め潰《つぶ》しにかかった。
急は岐阜へ報じられ、信孝はここ数日来、まったく狼狽《ろうばい》あるのみで、防戦の令はおろか、執《と》るべき策も知らなかった。
なぜならば彼は、意志を展《の》べる計のみを思っていて、意志をなし遂《と》げる道を知らなかったからである。従来、柴田や滝川などと固く結んで、秀吉を伐《う》たんの企《くわだ》ては着々とすすめていたが、その秀吉から逆攻をうけることなどは全く予期していなかったのだ。敵を知らざることも甚だしい。
「いまは手段《てだて》もない。この上は、五郎左など頼んで――」
と、信孝は当惑の果て、一切の運命を、老臣たちの善処にまかせた。いやこのような帰着となってから善処などという余地があろうはずはない。
老臣らもまた、秀吉の陣門に叩頭《こうとう》のほかはなく、信孝の生母の坂氏、及び家族の女子たちを質子《ちし》とした上、なお自分らの母たちまで送って、
「ただ御寛大なお処置を仰ぎまする」
とのみ、丹羽五郎左衛門長秀にすがって、ひたすら信孝の助命を乞うた。
秀吉は、ゆるした。
和を容《い》れるに際して、信孝の老臣たちへ、
「三七どの、お目がさめたか。わかれば祝着《しゆうちやく》」
と、苦笑して見せた。
即刻、人質を安土に送り、つづいて岐阜城内におかれていた三法師の身を受け取って、これまた安土へ移した。
そして以後、三法師の擁護《ようご》を、信雄の任として、これを託し、同月二十九日、宝寺城に凱旋した。――帰って二日めには、はやその年の大《おお》晦日《つごもり》であったのである。
天正十一年の元旦は雪のあとのうららかな日ざしが、朝から新城の真新しい木々に照りかがやいていた。
家臣たちの年賀の受礼は、どこでもおよそ二日が慣例であったが、羽柴家には由来、慣例というものが余りない。時により、所に応じ、適当に速やかに事を践《ふ》むのが慣例だった。それかあらぬか、今年は大晦日と元旦とが一しょになった。天正十年中の御用仕舞と共に、家臣たちは、湯にも入らず式服を着て、暗いうちからぞろぞろ年賀に登城して来た。やしきへ戻らず、そのまま、城中にいて、屠蘇《とそ》をいただいた者も多い。
雑煮《ぞうに》の香が、満城にただよい、鼓の音など流れて半日すぎた。――と、午《ひる》の頃、にわかに、
「姫路へ御下向じゃ」
と、奥から触れ出された。何たる急。何たる暇なしである。ことしもまた忙しい前表であろうぞ――と、人々は多忙を楽しむごとく、その準備に駈けずり廻った。
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蕗《ふき》のとう
秀吉が姫路へ着いたのは、元旦の日もほとんど夜半に近い頃だった。
先駆けした一家臣が、馬の脚力のかぎり急いで、前もって、それを姫路へ報《し》らせはしたが、姫路の城でも、まったく思いもうけぬことだったので、
「それは――」
とばかり上下を挙げて、久々な主人の迎えに、大さわぎの体《てい》だった。
この姫路へは、秀吉が中国を離れて、山崎の一戦へ赴《おもむ》いたときから、実に初めての帰国だったのである。
ここには、その折残された腹心の家来、家中の者、その家族らも、沢山いた。殊には、長浜から昨年七月移っている秀吉の老母、妻の寧子《ねね》、また縁につながる多くの子女老幼も住んでいる。そのすべてが、秀吉を戸主と仰ぎ、秀吉を柱とたのみ、朝に蔭膳《かげぜん》を供《そな》え、夕に武運を祈り、今生《こんじよう》の箇々小さなる命をまとめて、
「生も共に、死も共に、幸いも共に、苦も共に。――進めとあれば進み、留守せよとあれば留守し、ただ御声にまかせ、御運にまかせてよき家の子とお賞《ほ》めにあずからん」
と、いう気持一つに成りきっているものだった。
「寧子よ。あの子の好物《こうぶつ》は、何であったかの」
北の一|曲輪《くるわ》にある老母すら、報を聞くと、うれしさに落着かない容子《ようす》なのである。ましてや寧子は、思いの溢《あふ》れを、どう包もう。
「ほんに、お嫌いというものがござりませぬので、何をさしあげたらおよろこびやら」
「幼いときは、薯汁《いもじる》が好きじゃったが」
「薯汁と申しますると」
「麦飯に山の薯を、汁かけ飯にしてたべる。あれが好きでの……余りたべて連れあいの筑阿弥《ちくあみ》どのに穀《ごく》つぶしよと、いたく怒られたことがある」
「ホ、ホ、ホ、とろろ汁のことでございますか。それも作らせましょうが、深夜のお着きと申しますゆえ、御空腹とて、またきっと湯漬をと仰せ遊ばすかもしれませぬ」
「いつもせっかち[#「せっかち」に傍点]な子じゃてのう。さて、湯漬には何がめずらしかろ」
「御老母さま。よい物がござりまする」
「よい物とは」
「お庭をごらん遊ばしませ」
寧子は起って、塗骨《ぬりぼね》の障子の腰にひざまずき、一尺ほどそこを開けた。なお春の夕ともいえぬ寒さなので、老母が襟をすくめもせんか――と、流れ入る冷えを怖れながら、
「はて、何か?」
たそがれの庭面《にわも》には、ところどころに、土佐派の絵師が屏風《びようぶ》に盛った雪のように、白いまだら[#「まだら」に傍点]が厚く消え残っていた。広芝のあなたにも、築山のすそにも、まだ若菜《わかな》の色も木の芽も見えない春なのである。
「あれ、あの雪の下の物でございまする。すこし土を掻きさがせば、もうきっと、青い青い蕗《ふき》のとう[#「とう」に傍点]が、芽をふいているに違いございませぬ。それを採《と》って蕗味噌《ふきみそ》にしてさしあげたら如何なものでございましょう」
「おう、おう、よいものへ気がつかれたの。ここでもまだ膳部に見ぬゆえ、あの子もまだたべていないにちがいない」
老母は縁へ出て来て、上の掻着《かいぎ》の裾を、腰衣《こしぎぬ》とともに短く括《くく》りはじめた。夕方の寒さではあるし雪もある。寧子は、お風邪でも召してはと、たって止めたが、老母は早や庭へ降り立って笑いながら云った。
「なんの、百姓の母じゃがの……」と。
――庭面は暗くなってゆく。残雪だけが暮れ残る。小島のように飛々に白い。
老母と寧子とは、雪と土とを根気よく掻《か》き掘《ほ》じっていた。求める蕗のとう[#「とう」に傍点]の一ツでもと、祈りに似る気持で捜していた。
「寧子よ。ないのう」
「いまに……ありましょう」
「まだ早過ぎるのであろ。もうすこし春もさきにならねば」
「けれど、なければないほど、それは貴《とうと》うございますから」
「そなたもそれを知るか」
老母の影は、ふと腰を撫でていた。そして、わが影に添う影を顧みていった。
「のう。――たとえ海ほど山ほどの馳走を盛ろうと、もしそれが、心の副《そ》わぬものであったら、何のことはない、人は物に、たばかられているようなものに過ぎない」
「わが良人《つま》のお嫌いも、心の副わぬ、物だけの、物脅《ものおど》しでございました」
「さればよ。また、いつものむかし語りじゃが、わしもあの子も、尾張中村にいた頃は、或る夜は、一握りの稗《ひえ》だに無《の》うて、ただの湯に味噌を落して飢えをしのぎ、寒夜をわなわな抱きおうて、母子《おやこ》して過ごしたこともある。――極道なあの子の義理の父親が、幾日も家をのぞかぬため、あわれ物乞いにもなりかねて、人様には人なみに喰べた顔を装《よそお》いながら、飯つぶはおろか、塩気を溶いた湯のほかは、あの子の腹に糧《かて》らしい糧の入っていない日が、ああ、それはもう、幾日幾日もあったものぞよ。……世間の衆は、あの子をみるたびに、餓鬼《がき》とよび、筑阿弥どのが家に帰れば、穀つぶしめ、穀つぶしめが、と罵《ののし》ったものじゃが、育ちざかりじゃ、むりはなかった」
「…………」
「寧子《ねね》よ。そなただけぞや。このような打ちあけた古事《ふるごと》を語るのは。――生涯、あれに添うてくださる妻と思えばじゃ。あの子を、……いえのう。そなたの良人《つま》を、天下一、大きゅうなさるも、小さくなさるも、蔭にいてたもるそなたのお心ひとつと、真実、この老母まで恃《たの》みにしているためと思うてくだされよ」
「…………」
ふたりには、土が見えているのであろうか。ふたりの手と棒のさきは動いているが、あたりは梅のつぼみも凍るかのような寒さと夜の闇になっている。
「……が、寧子よ。わしは今でもよいことしたと思うています。そのような乏《とぼ》しい中にあの子を育てはしたが、わが身は常にこういうて聞かせていた。――日吉よ、さもしゅう[#「さもしゅう」に傍点]なって下さるなや。人は心次第で、物など今にどうにでもなる。かりそめにも、物の下に自分を置くな。時により、貧しい月日を送る日とて、心は高く、物の上に置いてたも。氏神《うじがみ》のお子ぞ。お日様の生かしている人間じゃぞよ。何で、物に指を咥《くわ》えて、物の下に虐《ひし》がれてよいものぞ。――物の上に在って、天の下の物を自在に用いるはずの人間が、物の下に置かれなどしたら、もうおしまいというものぞよ……と」
老母は、なお云いつづけた。
「貧乏な時ばかりではない。富めばなおなおそうであろ。物に驕《おご》り、物に媚《こ》びられ、物を持てば持つで、物の下に召し使われ、あわれ、物には頭の上がらぬ富者が何と多いことかよ。――わが身たちは今、あの子のお蔭で、一城の主の妻となり母となったが、それを忘れてはなりますまい。自身を物の下に置いて、何で一国の上に立てましょう。……のう、寧子よ。そうではないか」
侍女、老臣、若侍など六、七人の影が、紙燭《ししよく》のゆらぎを袂《たもと》で庇《かば》いながら、
「北の丸さま」
「御母堂様――」
と、広庭のあなた此方《こなた》を、呼びまわりつつ探していた。そして、
「これにおる」
との答を知ると、皆、一つ所に駈けよって来て、口々に、
「奥にも常のお部屋にもお見え遊ばさず、灯ともし頃を、どう遊ばしたやらと、御表の方まで、お尋ねいたしました」
と、安堵《あんど》を語り合うのだった。
老母は詫びて、
「おう、ここはもう北曲輪《きたぐるわ》の遠い端《はず》れよの。……思わず来てしもうたと見える」
寧子と顔を見合わせて笑った。そして老母は、腰衣《こしぎぬ》を折って採《と》り蓄《た》めた蕗《ふき》のとう[#「とう」に傍点]をのぞいて、
「寧子、幾つ見つけてぞ」
と、たずね、彼女が自分の腰衣のなかを数えて、
「七つ」
と、答えると、
「やはりそなたの方が多い。ばばの採ったのは五つしかない。一つにして持ってたも」
と、彼女の方へ移して、一つ腰衣のうちへ合わせた。
「オ。蕗のとう[#「とう」に傍点]を」
「ようお探し遊ばしましたな。雪もあるのに」
侍女や家臣たちは、紙燭をよせて、近々とそれを覗《のぞ》き合った。まだ土ふかく秘められていた植物の淡い春の青さが、人の目に見られるのを羞恥《はにか》むような形して、薄紅梅の腰衣《こしぎぬ》にくるまれていた。珠《たま》のように持たれていた。
「まあ」
侍女たちは眼をみはった。――と、老母は、うしろに離れて佇立《ちよりつ》していた瀬尾《せのお》金五郎という――いつも中門の守りをしている年若い侍をふりむいて、
「金五。――そなたの家の御病人は近頃どうじゃの。この寒さでは持病も募《つの》ろう。蕗のとう[#「とう」に傍点]は、痰持《たんも》ちには無二の薬と聞いておる。煮るなと、汁に入れるなとして喰べさせてあげたがよい」
と、いちど寧子の手にあずけた蕗のとう[#「とう」に傍点]の幾つかを取って、懐紙につつみ、家に病父を抱えているその家臣へ頒《わ》けてやった。
「はっ。……あ、ありがとうございまする」
金五郎は、意外な恩に、度を失ったものの如く、へた[#「へた」に傍点]と、雪の中に坐ってしまい、両手にそれを押しいただいて、
「雪を分けて、手ずからお採り遊ばした物を。……勿体ない。父は、何たる冥加者《みようがもの》でございましょう」
若い声もわなわな顫《ふる》え、いつまでも感泣している様子だった。
城楼で刻《とき》の太鼓が鳴った。こよいに限り夜空もあかあかと篝《かがり》が照《て》り映《は》え、今朝の初日の出がまだ沈みきらずにあるようだった。
寧子は老母の手を扶《たす》け、先へ立つ明りと、侍女たちの影はそれを囲んで、やがて暖かな大殿の内へ戻って行った。
瀬尾金五郎も、持役の中門へ帰った。だが、ふところの蕗のとう[#「とう」に傍点]が萎《な》えてはと、明朝までの置く所に迷っていた。
同役の話合う侍小屋の壁に、小さい神棚が吊ってある。その御榊《みさかき》のそばへ、彼の背伸びした手がそっと白い紙包みをのせていた。
「瀬尾。何じゃそれやあ?」
同役の四、五人が怪しんでたずねた。金五は答えず、しばし掌《て》をあわせてから、彼らのいる炉ばたへ来た。
同僚は非番である。餅を焼いていた。金五は非番でない、炉へ寄って来たものの、すぐ立つ構えをしていた。
「あれか。あれは蕗《ふき》のとう[#「とう」に傍点]だよ」
「蕗のとう[#「とう」に傍点]?」
同役たちは餅を喰いながら――
「この忙《せわ》しいのに、そんな物を採《と》っていたのか。何でまた、そんな物を、神棚へなぞ上げたのか」
金五は、中腰をすえ直して、炉の火を見つめた。眼のなかにも、火が沸《たぎ》り、ぼろぼろと赤くこぼれた。
「ははは。瀬尾が泣いてる」
ひとりが不用意に笑ったが、他はみな粛《しゆく》と黙してしまった。金五の涙に真摯《しんし》な光を見たからである。
「俺が採ったのじゃない。お役中に、誰がそんな閑事《ひまごと》をしているものか。……御母堂様から拝領《はいりよう》したのだ」
「え。御母堂様から」
「聞いてくれ。こうだ。……俺の父、甚右衛門の長煩《ながわずら》いを、どうして御存知か、蕗のとう[#「とう」に傍点]は、痰持《たんも》ちに無二の薬、病人にやるがよいと、下されたのだ。まだ雪もあるこの寒夜を、北の丸様とお二人して、お庭へ出てやっと手ずからお捜しなされた物を頒《わ》けて。……同役、これが泣かずにいられるか。誰か、笑うたが、笑ってくれ、俺は泣く……」
金五は両手で顔をかくした。ふいに、ひとりが立って、神棚の下へ寄った。
「お明《あか》りを上げ忘れていた――」
燈明がともった。
皆、その一穂《いつすい》を仰いだ。母堂の心のつつまれている白い物と、榊葉《さかきば》の青さとが、何か、清々《すがすが》しいものを人の胸へ映《うつ》した。
「…………」
誰も立って行って拝みもせねば口にも出さなかったが、皆ひとしい幸福につつまれていた。この城を枕にこの場に死んでも惜しくないというほどな幸福感だった。今日あって明日知れぬ戦国に、よくぞ羽柴家の家中にはなっていたぞ、とも思うのだった。
ふしぎな心理といえばいえないでもない。燈明は一勺《いつしやく》の油の作用であり、御榊《みさかき》はそこらにもある植物の一枝である。白い紙包みとて、中には、数箇の蕗のとう[#「とう」に傍点]があったに過ぎない。――物としてこれらをみれば物。しかもいと小《ささ》やかな物とよぶにも足らないほど貧しい物質でしかない。
しかもそれが、人をして泣かしめ、小禄《しようろく》の士をしてすら、時あらば歓《よろこ》んで死なんの思いを内に誓わせている。
蕗のとう[#「とう」に傍点]は、物だろうか。とよぶのがほんとうだろうか。
蕗のとう[#「とう」に傍点]のあのほろ[#「ほろ」に傍点]苦い――冬中の苦難と春さきの希望を舌に思わすような香と味は――あれは苦《にが》いまずいといって嫌う人もあるが、好む人はいたくその苦味と苦薬の香を愛するのである。
四季をもち、その四季からなっている微妙な国土は、一草の芽にもまた単純に噛み難い香、色、味を含んでいる。なおそれが人の掌《て》に取り上げられ、人の愛にかけられると、物と心との区別はまったくないことになる。物にして心。心にして物。それがこの国のふしぎな伝承《でんしよう》であった。
だから、物と心が別離されたり、逆作用を起すような仕方は、武門も百姓も、戒《いまし》めていたところである。秀吉の母も、それを間違えまいとしていたに過ぎない。
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下坐《げざ》の民《たみ》
「御城主がお還《かえ》りなされる」
「筑前守様の御帰国というぞ」
「お着きは夜半《よなか》頃になろうとある」
不時の篝《かがり》と、城中の者から、これは忽ち城下にも知れ、口々に伝えられて、どよめき渡るものがあった。
元日の夕方は、毎年、町屋は早く大戸を卸《おろ》し、いずこの家も、大《おお》晦日《つごもり》のつかれを見せて、宵にはもう真っ暗に寝しずまるのが例だった。――が、天正十一年の姫路城下は、その例をやぶって、宵から万戸、戸をひらいて、道を掃き、かがりを焚《た》き、或いは金屏《きんびよう》に花を添え、軒に香を焚いて気を浄《きよ》めなどする者もあって、見廻りにあるいた騎馬の城士が、
「それには及ばん」
と、制しても、また、
「御到着は、夜半か、或いは、それより遅くおなり遊ばすやもしれぬゆえ、お迎えには及ばぬぞ。わけて寒天凍地、城下の者に風邪ひかすなと、御母堂様のおことばでもある。――みな戸をとざして、眠るがよい」
と諭《さと》して廻っても、眠るどころか戸をたてて引っこむ者もないのである。
初めは、軒々に佇《たたず》んで、かたまり合っていたり、各戸の店頭に腰かけなどして、町中が雑談笑声に賑おうていたが、やがて更《ふ》けて来た夜靄《よもや》のうちを、先触《さきぶ》れの先駆二、三騎、
「お着き。程なくお着き」
と、飾磨《しかま》方面の並木道から、辻の木戸へ、路傍の警固へむかって、合図して駈け去ると、大手の夜空は一きわ明々と篝を熾《さかん》にし出し、町の沿道は、急に、凍《い》てついたようにひそまり返っていた。
領民はのこらず軒下の路傍に坐っていた。薄氷も張る寒夜の大地に、莚《むしろ》も敷いていないのである。
――が、時は経っても、城主の列はなかなかこれへ見えない。思うに秀吉はその日、尼ケ崎辺から乗船して、海路の北風を負って今しがた飾磨《しかま》の港に着いたのであろうが、船はついても、多くの供の衆や、馬匹、荷駄などを降ろすのになお手間どっていたのであろう。
土下坐《どげざ》して待つ領民の背に、白い霜が立つように思われた。あちこちで咳声《しわぶき》もする。騎馬の城士はなお再三、
「まだまだお着きにはいとまがある。夜半の御入国じゃ。御母堂様のお気づかいもあること。皆、戸をたてて眠りにつくがよいぞ。内へ入れ、家の内へ入って寝《やす》め」
頻りに諭《さと》し廻ったが、情をもって、そういわれればいわれるほど、土下坐の領民は、なお立たなかった。
そのうちに、飾磨《しかま》道の並木のうえに、ぼっと火光が映《さ》して来た。点々と、松明《たいまつ》が近づいてくる。凍《い》てた大地を戛々《かつかつ》と馬蹄《ひづめ》の音も聞えてくる。
多勢ではなかった。近臣、小姓足軽などすべてで七、八十人足らずの列。時の羽柴筑前守の入国としては軽装に過ぎるほどなものである。――が何分、その日、思いたつやいな、飛び出して来たので、扈従《こじゆう》の臣も、顔を揃えているひまはなかったに違いない。
「オオ。お健《すこ》やかそうな」
「去年《こぞ》よりは、なおお元気に」
「たのもしい御大将ぶり」
土下坐の民は随喜した。眼の前を通ってゆく秀吉を見てである。彼は金鞍《きんあん》の上にあり、これは氷上にぬかずいているが、ここにある階級の別こそ、却って民の大安心であった。国主と民の二者に、何の対立なく、民の心は国主であり、国主の心は民だった。要するに、そう二つのものは、完全なる一者の境にあったからである。
「ほ。……おう、おう」
秀吉は、馬上から、道の右を見――左を見――感声をもらしていた。
前後の松明《たいまつ》が、彼の横顔を、赤く照らし、その口から白い息が吐かれていた。
扈従には、蜂須賀父子、生駒、稲葉、堀尾、脇坂などの部将。小姓には加藤、片桐、石田、福島などの輩。みな領民には見覚えのある人たちである。
「寒いのに」
秀吉のそういった片語だけが、ふと、土下坐の上に聞えた。
(私たちのことを思いやって下されたのだ)
領民は直感した。せつな、一《ひと》しお頭が下がって、町と道のつづく限りつづいている土下坐の人影は、靡《なび》くがごとく、なおひれ伏した。
「どの家の鏡餅も、大きゅう出来ておるよ」
これも秀吉の声だった。町中に馬蹄《ひづめ》の音もゆるく大股に運ばれていた。
地へ垂るる慈眼と――
仰ぐ無数の信頼の眼と――
この場合、二者は完全な一者だった。別体でなく、同体である。もし別々であれば、この光景は地に描けない。驕《おご》りと卑屈との対立から、平等に名を藉《か》る闘争や、際限なき人間の欲望の葛藤《かつとう》が、永劫《えいごう》に血で血を洗いはじめるであろう。
真の平等は、形に作られた平面にはない。儼《げん》たる上下にある。ことばの如く、上下が真の一体一者になったときにある。
侍――さむろう――下坐に着く――武士の本質もさむろう下坐の姿にある。その武門の棟梁《とうりよう》に下坐する民も、強《し》いられてするのでなく、われからする信頼と安心の姿なのである。
こよい、秀吉を仰いで、涕涙《ているい》している老人も少なくない。
妄信迷拝《もうしんめいはい》と見るには、余りに真摯《しんし》で素朴な涙だった。涙は、彼らの大安心から溢れ出ているものだからである。
(この御方の下に住めばこそ)
と思う大いなる感謝。また、
(国にこの人あれば)
となす真っすぐな信頼。――今日も明日も、先知れぬ戦国の生涯も、一切、秀吉のふところに、まかせきっている民だったのである。
この地方も、応仁以後の暗黒乱麻な時代的苦難の長い流れの外ではなかった。今の老、壮、青年はみなかつての久しい血と飢餓《きが》の中の漂《ただよ》いを身に知っている。
かつての不安時代には、今夜のように、土下坐したくも、心から仰ぐ人がなかったのだ。忽ち来て忽ち去る私兵的勢力か、また、それを掃討《そうとう》して国守郡守と称する者が現われても、徳なく威なく長計なく、ただ民に拠《よ》り民に媚《こ》び、汗税《かんぜい》の追求のみを能とした。為に、下また上をあげつらい、吏の非違やお互いの悪ばかり見つけあった。当然、これは亡び去る。そしてまた、同じような国守が立ち同じように滅亡してゆく。――が、果てしれぬ不幸はむしろ民自体の中にあった。心から尊敬して土下坐する者を持たない民は、同時に、心からな安心を持つことができないからだ。
「…………」
炎々の篝《かがり》に迎えられ、秀吉は早や城内へ入っていた。その盛んな景観を見、最大級の歓びを抱いていた者は、秀吉にあらずして、秀吉の領民だった。
大手の欄干橋のほとりには、家中の士の家族が、女子老幼まで出て、自分を迎えていたのを見た。
また、城門に入れば。
多門|櫓《やぐら》から大玄関までの上りから広前まで、およそ満城の家臣という家臣が軽輩まで残らず地にひざまずいて、われを迎えているのを見た。
ここへ来ると、秀吉は漆黒《しつこく》の駒の上から親しく、眼をもって、ことばをもって、
「オオ、みな息災よな。――達者でよい、達者でよかった」
と、歓びを共にしつつ通った。早やわが家に帰った心地とみえる。
駒繋《こまつな》ぎの前で、ひらと降り、手綱を扈従《こじゆう》の手へ渡した後、一瞬、無量な感慨を面《おもて》にして、城内を見ていた。
(さて、生命《いのち》あったか)
今さらのようにそう思ったことであろう。
昨年の夏六月。
一去、高松攻めの兵を撤《てつ》し、一鞭《いちべん》山崎をさして、故信長の弔《とむら》い合戦に向ったときは、
(生きて再び還る日やある?)
と立った門口である。
あとに残した三好武蔵守、小出播磨《こいではりま》守などへも、
(もし秀吉の敗れと聞えなば、わが眷族《けんぞく》も悉《ことごと》く処分し、城中に家《いえ》一宇《いちう》も残さず焼きはらえ)
と遺命をさずけて行ったほどであった。
その家の門に今日還る。天正十一年元旦の真夜半《まよなか》に帰ったのだ。感なきを得ない。
もしあの折――
大機を踏みまよい、長浜の妻子眷族に思いをひかれ、ここの一城に執着し、ここを、死すべし――の一図をもって踏み出しきれずにいたら、西は毛利の大軍に圧せられ、東は明智の強化も成って、ついに今日の帰趨《きすう》は見られなかったことであろう。――と。
一箇の人の場合も、一国の場合も、興亡の境は常に、死生いずれへ賭《と》すかにかかる。死中生あり、生中生なし。
彼を迎えた留守居衆から端々《はしばし》の召使までが、その夜、身を粉にしても、主人の剋《か》ち獲《え》たその尊い「生」をなぐさめようと争い努めたのはむりもない。
――が、秀吉は、休養をとるべく帰った様子でもなさそうである。本丸に入るやいな、旅装も解かずに、はや小出播磨や三好武蔵などの留守居衆をあつめ、
「ウむ、うむ。そうか。……いやよくしておいた。して、あの方は?」
などと、以後の中国情勢や、領下の諸事情を、きき耳たてる如く聴き、また問うべきことを、たて続けに訊ねた。
子《ね》の下刻《げこく》。夜は深更なのである。終日のつかれもあろうに――と、家臣たちは自己の労を惜しむのでなく、主人の余りな精力が体にさわりはせぬかと惧《おそ》れた。
「御母堂にも、寧子《ねね》どのにも、宵よりいたくお待ちかねでおられます。ともあれ奥へ渡らせられ、殿のお健《すこ》やかぶりもお見せ申しては」
三好武蔵守|一路《かずみち》は秀吉の姉婿《あねむこ》である。この人なのでこう奨《すす》めもできるのだった。首を突っこむように家臣と膝を交えていた秀吉は、今は夜半かと初めて気がついたように「ウム」と頷《うなず》き、頷くやいな起ち上がって、
「あすは皆、存分に休めやい。腹いっぱい正月せい」
と、云い残して奥へ入った。
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大慈悲《だいじひ》
奥へ渡れば奥にも、彼を待つ老母や妻や姪《めい》や義妹《いもと》らが、寝もやらずいた。
揃って手をつかえる顔、顔、顔――の出迎えを秀吉はまばゆいような眼と微笑にうけて通った。そして老母の前に出て、
「この正月、ようやく寸暇を得ましたので、ちょっと御拝顔にもどりました」
と、まず何より先の対面をした。
下坐《しもざ》について、母を拝す秀吉の姿は、さながらこの老母がいまもって口癖にいう「あの子」そのものであった。
ふくよかな白絹の頭巾《ずきん》の中に、老母の面《おもて》は、いわずしてもういう以上の欣《うれ》しさを綻《ほころ》ばせていた。
「越し方、並ならぬ御苦労、わけて去年《こぞ》は、やさしいものではなかったのう。――が、ようぞ怺《こら》えなされた。まずはめでたい」
「この冬は、例のない寒さと覚えましたが、母者人《ははじやひと》には、思いのほかお元気のようで」
「おいのう。何もかも和殿《わどの》のお蔭で、このようによい年を迎えさせて貰うておる。年齢《とし》は覚えぬものというが、いつかこの身も古稀《こき》を一つ越えましたわいの」
「ほんに、明けて七十一とおなり遊ばしましたな」
「思わぬ長寿をするものかな。こう長生きしようとは、ゆめ、思わなんだが」
「いえいえ、百歳までもお生き遊ばして戴かねばなりませぬ。秀吉とてまだこのような子どもでございますから」
「ほ、ほ、ほ。和殿とてこの春は四十八におなりなされたのであろに。……ホホホホホ。何で子どもなどと」
老母は笑いこぼれる。寧子《ねね》もまた笑いを扶《たす》けた。
「でも、御老母様も常に、あの子あの子と、朝夕に仰せではございませぬか」
「あれは口癖じゃがの」
秀吉は、歓《よろこ》びきって、
「どうかいつまでも、そうお呼び下され。年のみは老《と》っても、秀吉、正直のところ、心はいっこう年並みに育ちきれませぬ。――その上にもし母者人でもおられなければ、この子どもは大きな張合いを失うて、なお育つ穂も止まってしまうやもしれません」
と、いった。
ひと足遅れて見えた三好武蔵守は、秀吉がまたここでも老母と話しこんでいるのを見、いささか、あきれ顔に、
「殿。まだ御旅装も解かずにおいでか」
「武蔵か。まあ坐れ」
「坐りもしようが、まずお湯殿へなと渡らせられ、一浴《ひとあ》みした上にいたされては」
武蔵守も、ここへ来れば、御表とちがい、秀吉の姉|婿《むこ》として、内輪の者のひとりだった。秀吉もまた義兄の言と素直に肯《うなず》いて、
「そうそう、それよ」
と、やおら起ち、
「寧子、案内」
と頤《あご》をすくって出て行った。
うれしそうであった。それはすぐ「はい」と、良人の声に応じて従《つ》いて行った妻のすがたに、ありあり見えたものである。
偉大な男性をわが良人とした女性は、選ばれた幸福者には似ているが、狭い女ごころや小さい貞淑《ていしゆく》の対象とするだけでは、到底、この良人は持ちきれない。
ほとんど、家にいない日の方が多く、たまたま家にある日も、良人のまわりは十重二十重の公務や家臣や近親が取り巻いてしまう。また、その男性が不断に闘っている創造の世界が儼《げん》として妻を隔てがちである。が、妻はあくまで侍《かしず》く妻でなければならない。しかも、よい女房でなければならない。
寧子は、湯殿の揚り屋に脱ぎ捨てられた良人のものを自身で畳みつけていた。武者羽織、小袖、下着、肌襦袢《はだじゆばん》など、それは久しく替えたこともないように垢《あか》じみていた。
家にいる身が勿体なく思われ、お側にいれば――とふと思われて来ないでもない。けれどこれは日常秀吉の側にいる者の手が届かないわけではない。一事に取り懸ると、その関頭を越えるまでは、体が垢に臭《くさ》くなろうが身に虱《しらみ》を見ようが、幾十日でも平気でいる習慣の良人である。――だから、そう感じるときは、彼女が畳みつけた衣裳を退《さ》げさすにも、侍女たちへ注意して渡した。
「――お虱《むし》がたかっているかもしれないから、べつな所へ置いて、お肌着もお下帯も、熱い湯にひたして洗わせますように」
――馴れない侍女は笑いを怺《こら》えるのに苦しむ。けれど羽柴家と虱《しらみ》とは切っても切れない縁もある。そもそも彼女がまだ十六、良人も二十六歳というむかし、軒傾いた清洲の弓長屋で、ふたりが形ばかりの祝言を挙げた晩から、親類のほかなるこの親類が、すでに夫婦の生活に立ち交じっていたらしいのである。
この新妻が初めて新夫のものを洗濯したとき、彼女は、たくさんな良人の親友を、肌着の縫目に発見して、目をまるくしたものだった。
以来、虱《しらみ》のことでは、
(わたくしが世間に笑われますから――)
と、妻がいい、
(ばか、天然にわくものは仕方がないではないか)
と良人がいい、若夫婦の口喧嘩になることもしばしばだったが、結局|寧子《ねね》が良人を理解してくるにつれ、また、戦陣即家庭、家庭即戦陣の――吹きすさぶ所のけじめない時代――を歩むにしたがい、虱の問題は自然解決がついていた。それを良人の肌着に見出すときは、却って、良人が妻に告げないでいる辛労《しんろう》をひそかに察して涙ぐましくなるようになっていた。苛烈《かれつ》なる永禄《えいろく》、元亀《げんき》、天正《てんしよう》の世にかけて、彼女も良人に遅れぬものを日々に学んでいたのである。
「ああ……。極楽、極楽」
お湯殿のうちの声である。
それから、せっかちに五、六ぱい、湯をかぶる音がして、
「寧子、背を拭け」
がらと、檜戸《ひのきど》が開いた。
あまり見事でない背中がこちらへ向けられている。
寧子のさしずの下に、替えの衣裳や足袋、懐紙など細々《こまごま》捧げて、それへ取揃えていた侍女たちは、その背を見ると、あわてて揚り屋のお次へ退がってしまった。
そこで皆、つつましくお次の床に控えていると、聞くまいとしても、聞えてくる。
「どうだ、肥《こ》えたであろ」
「ホ、ホ、ホ。さまでには」
「よく見い、この辺を」
と誇って、ぴしゃぴしゃとわが手で肉体を叩いて見せているらしく――
「一頃《ひところ》からみれば、近頃は、金剛力《こんごうりき》ぞ」
「ま。お肌着をはやく」
「待て待て」
「何の、お真似ですか」
「知らぬか。角力《すもう》取りの四股《しこ》を。――寧子、一番とろうか」
侍女たちはおかしさに、口を抑え、ククククと苦しがった。
これが五十近い御夫婦かと、あきれ顔の目と目を見合わせるのであった。
彼の家族は馴れている。むかしから秀吉の私生活は、時間は極《きま》りなしである。寝食出入、ただ時による。きょうの定めは、あしたの例でなく、あしたの予定は、決して、あしたの規則ではない。
すべてを、公生活に基づけ、私生活は、その隙間《あいま》のこと、時雲の緩急とにらみ合わせ、自由自在としているのである。
自然、日々変化が多い。きのうは虱《しらみ》に頸《えりくび》を蝕《く》わせ、きょうは一浴に王者の快を思う。
こよいも、土圭《とけい》の間の土圭はすでに、丑《うし》(午前二時)を報じている。――が今、湯殿から出て来た秀吉は、さあこれからといわぬばかりだ。さばさばと改まった血色を、ふたたび老母の部屋の燭に見せて、
「どれ、すぐ戴こう。秀吉、お腹が減《へ》りました」
という。
はや、膳部の前に座を構えて、杯をもつ、汁を吸う。箸を取る。また杯を挙げる。せわしいことであった。
三好武蔵守は、老母とともに、笑って見ていた。
「よほど御空腹で在《わ》せられたとみゆるの」
「ウむ、ウむ、またたくまに酒がまわる」
と、姉婿の武蔵守へ、杯をわたして、
「寧子。湯漬くれい」
「お酒は」
「あすもある。止めておこ。飯、飯」
今日の海上の寒かったことや、船中でもいろいろ馳走は並べられたが、こうして老母の顔を見、皆と共に喰う楽しみを予想して、努めて過ごさぬように、空腹を守って来たなどと、秀吉は湯漬を掻きこみつつ、興じ入って語りながら、ふと、箸の先にかけた蕗味噌《ふきみそ》を見、ちょっと、前歯で味わうように噛みしめて、
「これは、珍味」
と、また箸をのばした。そしてさらに、湯漬を一椀よけいに喰べた。
老母の眼もとは、うれしそうな波に刻まれて、給仕している寧子をかえりみて、
「お気に召されたようのう」
と、ささやいた。
寧子もニコとうなずいた。酬《むく》われたもので胸いっぱいな笑みであった。が、秀吉は頓着《とんじやく》なく、一語、
「美味《うま》かった」
とのみで、箸をおさめ、もう姉婿をつかまえて、話である。
「姉者人も、子たちも、みな達者かの」
「つつがのうおりまする。いずれ伴うて、御年賀に罷《まか》り出ましょうが」
「そう聞けば、見ずともよい。家の中の事をさせておけ。女房という役もなかなかよ。いや、御辺にも去年は、ここの留守という女房役をさせ申して、肩が重かったことであろ」
「西国へは、常に、不測あらば一死をもっての気を示して、ぐっと圧《おさ》えてはおりましたが、一城の留守をお預かりしてみて、初めて、人を用うる難しさを知りましたわい。諸衆を一人の如く、また手足の如く動かすのは、まこと、難しいことで」
「難しいといえば難しい。やさしいといえばやさしい」
「それは、お殿のごとき器量にして――じゃあるまいか」
「なに。違う」
「いや、誰でもできることではない。おのずから、諸衆を率いる器《うつわ》であらねば」
「器」
「さればよ」
「姉の婿。秀吉は、そんなに小さく見ゆるかやい」
「小さいとはいわぬがな。――御殿《おんとの》の器量を称《たた》えたのじゃ。自然、諸侯を率いる器をそなえておらるるものと」
「器ではまだ駄目駄目。小さ過ぎるわえ。秀吉をさしていうには当らぬ」
「なぜな」
「いかに大きくあろうと、器には形がある、限度がある、容《い》るるに足るものと、容れ得ぬものとあろうが」
「それは」
「一城を率いる者、それは器で足りよう。一郡を治める者、それも器でよい。だが、三千世界の知識|碩学《せきがく》、乃至、不羈狷介《ふきけんかい》、乃至、愚婦|懦夫《だふ》、あらゆる凡下《ぼんげ》までを容れるには、器では盛りきれまい」
「はて。わからぬ」
「わかりきっておる」
「では、そもそも、秀吉という人間は、いったい何じゃ」
「そう訊かれると。……さて、なんであろ、摂津二郡|播磨《はりま》ノ国守平《くにもりたいらの》朝臣《あそん》左近衛少将《さこんえのしようしよう》――は、さアなんであろうな」
わざと、小首を傾げ、
「やあ、忘れていた。思えば大きな忘れものよ。――この身もやはり人間であったわえ。姉婿、よう見知りおいてくれ。秀吉は人間にて候うぞや」
「ホホホホ」
「ほ、ほ、ほ」
秀吉のひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]には、内輪では度々見ている老母も妻も、お末の人々も、周《まわ》りで笑いこぼれていた。――が、彼と義兄の間には、それこそ滅多に見られない真面目な眉と眉があった。
「われも人間じゃによって、秀吉、人間誰もの心が、まず分る。民のほかにある別拵《べつあつら》えの器などではないが、民と同じの秀吉ではある。――秀吉は民と一者なり。それしか云いようがない」
「…………」
「さあるからには、政《まつりごと》諸事、心やすい。智者賢人もくるめて人はおよそ凡下《ぼんげ》なものと思う。……が、凡下といえど、底の底には、事あらば涙とも噴《ふ》き、怒れば天も搏《う》つ、霊の泉をみな胸に持っておる。誰にはある。彼にはない。そんなものじゃない。自身気づかぬ凡愚でも持っている。この国に生れた者の生れ性。それだけは確かじゃよ。――何といおうそれを。神といってもよい。仏と名づけてもよい。――とまれ、無限の霊の泉、民にある心底の井戸。――政《まつりごと》といい、戦《いくさ》といい、秀吉はただその釣瓶《つるべ》よ。上と下とを、くるくる通っておるに過ぎぬ」
「それが汲みかねる。われには汲みかねる」
「いや、汲もうとせぬのであろ。――井をのぞいて、水のうわべのみを見、これは濁《にご》り井じゃ、これは涸《か》れ井じゃなどと、だいじゅう[#「だいじゅう」に傍点](大衆)を粗相《そそう》に見て、釣瓶の仕替えや、井を罵《ののし》ることばかりを能としておらなかったか――底の底の清水がこんこんと湧き出づるまで真を尽しぬいてみたか」
「…………」
「総じて、諸州の国守もその手代どもも、領下の民といえばなおさら、天《あめ》が下のだいしゅ[#「だいしゅ」に傍点]を見るに、大衆《だいしゆ》といえば低きもの、智なきもの、いかようにもなるものとなしおるが、秀吉には心得難きことに思う」
「では、御殿《おんとの》の眼には」
「大衆は大知識じゃよ。秀吉とて偽《いつわ》れぬ。手くだ[#「くだ」に傍点]ではままにもならぬ。それを動かし、死生も苦楽も共にさせんには、ただただ真と誠を示して、それと一者になるしかないわさ」
いつにないこと――
と老母も、寧子も、他言をさしひかえて、燭のまたたきと共にじっといた。
姉婿の武蔵守には、折々、耳のいたいこともあるらしい。
が、秀吉が、かくも沁々《しみじみ》、真面目に心事を語るのは、めずらしいことだった。それは彼が、いまや天下に為《な》さん抱懐《ほうかい》の緒《しよ》を布《の》ぶるに当って、この年の初めを、まさに重大な岐機《きき》と見、
(――外よりは、内に敗れぬ備え)
を、まず一族の武蔵守にそれとなく嘱《しよく》しているものと思われる。
姉婿たる武蔵守も、そこは以心伝心《いしんでんしん》、わかっている。それほど秀吉が自分に恃《たの》むところ篤《あつ》いわけでもあると。
殊に、彼の長子孫七郎秀次(後の豊臣秀次)は、秀吉の手によって、三好康長の養子となり、まだ十六というに、河内北山で二万石という寵遇をうけてもいる。秀吉の母思いな天性は、骨肉すべてに及んでいた。いやその心情をもって、領民へも臨み、天下の民とも楽しんで暮そうというのが彼の人臣としての誓願らしく思われるのである。
けれど、彼が惧《おそ》れているのは、その大誓願もまだようやく緒《しよ》についたか否かにある今日、早くも自己の眷族《けんぞく》や家臣のうちには、いまの小成をもってもう誇り驕《おご》るの風が絶無ではないことだった。わけて権をもつ吏務《りむ》の面にしばしば、耳づらいことを聞く。
民と一者の彼は、自分の配下の吏が、民へ無情だったり、民へ不当な私権を振舞うのを聞いたりすると、そのたびに、どこか痛むような顔をした。
事実、ずきずき胸が痛むのだった。なぜならば、彼は幼にして、またやや長じてからの、貧苦、漂泊、あらゆる下積みの生活のうちに、その権柄《けんぺい》や無情な笞《しもと》が、身の皮に肉に骨髄《こつずい》に、どういう味がするものか、路傍の犬が人の手の小石を見るときのように、さんざん知って来ているからであった。
そのくせ、彼自身が、民の公事《くじ》を聴き、訴訟の裁決になど当ると、これはひどい。驚くべき、厳罰主義を下す。
姫路ではその暇もなかったが、久しくいた長浜や京都政事所では、吏と共に法務を処した場合もある。
彼の断罪は大ざっぱで、およそ三罰のほかは出ない。三罰とは、
叱る。
叩く。
斬る。
右のうち、罪の性質にもよるが、斬罪を科すこと度々だった。斬るのを何とも思っていないように斬らせた。時には、刑吏の情においてさえ、余り重きに過ぎるやを思って――畏る畏る秀吉に意を糺《ただ》して再考を求めたところ、秀吉はその吏を叱咤《しつた》して云った。
(たわけよ。誰が可愛い領民を好きで殺すか)
すぐ云い直した。
(殺すのじゃない)
また早口に云い足した。
(――一殺多生じゃ。万のいのちをよく生かすためには、折々、ひとりの人柱ぐらいは何でもない。いわんや、金輪際《こんりんざい》、叩き直らぬような悪性をそれに用うるのは、秀吉の大慈悲じゃわえ)
そう大喝《だいかつ》したとき、秀吉の赤い顔が、さらに眼の中まで赤くなって、今にも泣き出しそうに見えたことを――。それは、長浜時代のことだったが、武蔵守は、今ふと思い出されていた。
大慈悲。
と、武蔵守は、思い当る――
それが持てれば、もし権化《ごんげ》ともなりきれれば、民と一者の指揮者は、無限な民の心泉から、無限な力を汲みあげられないはずはない――と。
なお、元寇《げんこう》の国難のような場合では、なおさら、時の先達《せんだつ》は、民の多くのものの憤怒を身に具足し、民の中に懦民《だみん》怯民《きようみん》を、羅刹《らせつ》の鞭をもて打つことでもなし能《あた》わないわけはない。
到底、覚《さ》めざる者は、これを斬って、市に示すとも、天は非道とはなし給わぬであろう。
――ただそれが、真に、寸毫《すんごう》の私なき、権に紊《みだ》るところなき、民と一者の、大慈悲心の下にされるならばである。
(……できない。できないから尊い。故に、もしそういう一者が出れば、一世の日輪《にちりん》、民の師父だが)
武蔵守は、そうした反省と、留守中を嘱《しよく》せられた領政《りようせい》とに顧みて、
(似たほどもやっていなかった)
と、正直に恥じた。
――膝ぐみでこう在《あ》る夜などめッたにない。燭は四更、衆臣もいず、内輪ばかり、寧子《ねね》や老母の迷惑は察しられたが、彼は、以上の思いを吐いて、なお秀吉に問うた。
「最前。――難しいといえば難しい。やさしいといえばやさしい。政《まつりごと》も戦《いくさ》も一定《いちじよう》と仰せられ、さて、秀吉も人間、民と一者なり、と伺いましたが、その人間とは一体、見た通りのものが真性か。底の底にあると仰せの善美が真性か。いずれが慥《しか》と人間の本性なるものでありましょうか」
「きめてかかるが間違いの因《もと》じゃよ。――のう、姉婿」
秀吉も常になく真摯《しんし》にいう。
「おたがい、身の姿は一つじゃが、心の相《すがた》は一つでない。お許《もと》の性《さが》にも善あり悪あり、秀吉の性にも凡愚あり聡明あり。いわんや大衆。ただその惑濁《わくだく》の大海より真を汲み、美を飛沫《しぶき》せしむることに尽きるわさ」
「さ、それですが?」
「命こそじゃよ。命豊かな民でのうては、求めても汲めまい。また命豊かな者ほど、死も怖れぬ。秀吉、この眼で、若い武者輩にそれを常に見た。――が、人間はみな生きたいものにはきまっておる。帰すところ民はそれよ。何たる寡慾《かよく》。あわれいじらしい。われら武門は、百難苦戦を真ッ向にかぶって進み行くとも、民の婦女老幼は、生々と生き楽しませつつ連れ歩みたいものよ」
「誰しも思うところですが」
「ここの領下とて、いつ修羅《しゆら》の巷《ちまた》となろうも知れぬが、ならばなおさらぞ。およそ人間の生命力とは子を生む。喰う。闘う。沙門《しやもん》のいう、愛慾即是道。飲食《おんじき》即是道。闘争即是道。の三つに尽きると聞く。しかもみな菩提《ぼだい》へ通じる業とある。戦はおれどもがやる。見ておれというても、見ておれぬのが民の本能じゃ。その戦、いよいよ烈しき日とならば、喰うこと。生むこと。ただその二つを絶対に欠かすな」
「…………」
「また余り世話をやき過ぎぬがよい。政、密に過ぎれば、民、創意を失い、民の力は弱まるという」
「その折の大慈悲は」
「憤怒の不動《ふどう》たればよい」
「と。不動明王に」
「不動明王と、観世音菩薩とは、二相にして実は一体の御仏ぞや。表裏一の大愛を現わしたものじゃ。……そうそう、お身に与えよう。――寧子、そなたの室に、小さい金色の観音像があったの。あれを明日でも、姉婿の持仏にさしあげろ」
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楔《くさ》 子《び》
鶏鳴におどろいて、ちょっと、横にはなったが、ほとんど、語り明かしたといっていい。
早暁の太鼓と共に、秀吉はもう衣冠《いかん》して、姫山の社前に、朝拝していた。
寧子《ねね》の部屋で雑煮をたべた。
そして本丸へ出た。
この日、正月二日、秀吉の下向《げこう》と知って、遠近から年賀の礼に登城する者が、朝からひきもきらぬ有様だった。
秀吉は一々迎え、一々杯を与えて、やがて退《さ》がろうとする賀客も留めて、
「まあ飲んでゆけ。ゆるゆると」
小姓たちも忙しく、
「いざ、こなたへ」
と、他の寛《くつろ》いだ室へ案内して行くのだった。
そこには必ず、その前に通って、はや麗《うらら》かな顔を揃えている幾組もの先客がいた。
本丸、西丸を通じて、客のいない部屋はなく、あなたで謡《うた》うと、こなたも謡い返し、満城陽気|藹々《あいあい》であった。
午《ひる》すぎても、秀吉の前にはなお、新たな賀客がたえず、その間に秀吉は、祐筆《ゆうひつ》三人ばかりを側において、何か雑然と藩の扶持帳《ふちちよう》や庫帳《くらちよう》などを展《ひろ》げさせ、
「それには小袖|一襲《ひとかさね》をやれ。それには太刀をつかわせ。……待て待て、茶具には何がある。彼には、茶入れをやるがよいか、馬をやるがよいか」
などと年来の功を按《あん》じ、或いは日頃の人物に勘考《かんこう》して、留守中の諸士にたいする恩賞の要務を執《と》っているのだった。
すべてで八百六十余人という家士への論功行賞は、秀吉は、この日の隙間《あいま》隙間に見て、
「播磨《はりま》をよべ」
と、たそがれ近い頃、ひとまず祐筆に認《したた》めさせたものを一括《いつかつ》して、小出播磨守に下げ渡し、かつその奉行を命じて、
「悉皆《しつかい》、四日のうちに仕舞うようにいたせ。五日朝、沙汰を下し、一時に皆のよろこぶのを見るであろう」
と、いった。
さすがの秀吉もつかれたか、やれやれと云いたそうに、腰をのばすと、すでに左右に燭があった。
奥の寧子《ねね》から使いがあって――
(お忙しく遊ばすのも、お身に限りのあること。程々になされて、せめて今宵ぐらいは、早く奥へお入りあって、ゆるやかにお寛《くつろ》ぎなされますようにと、これは、御母堂さまからのくれぐれのお言伝《ことづ》てでございまする)
と、いわせ。――そして、
(いつ頃、渡らせられますか、御母堂さまもわたくしも、お食事をいただかずに、お越し待ち上げておりますから)
とのことだった。
秀吉は、奥の使いの者へ、
「程なくまいる」
と返事して返し、祐筆|輩《ばら》と播磨守へ、
「遺漏《いろう》はないな」
と、残務をただした。
一同は、書類を整えて、
「――滞《とどこお》りなく」
と、答えた。
「退《さ》がっていい」
秀吉も一緒に立った。寝不足と疲労で、立ったとたんに眩《めま》いがした。部屋部屋の謡声や鼓の音は、燭とともに熾《さか》んだったが、それすらちと頭のしん[#「しん」に傍点]に痛いような気がした。
そこへまた――どやどやと一組の賀客と小姓たちの跫音《あしおと》がした。播磨|宍粟《しそう》郡山崎の城の黒田官兵衛|孝高《よしたか》が、せがれの吉兵衛長政を携えて、今これへ着いたというのである。
奥へ入りかけていた秀吉であったが、そう聞くと、
「なに官兵衛|父子《おやこ》が来たと。――通せ、通せ」
彼と黒田とは、ただの仲ではない。彼が手を振っているまに、官兵衛はすでに来ていた。黄昏《たそがれ》のあいろに紛《まぎ》れて、もう広間の中ほどに立っていた。
小姓たちが、彼のために、あわてて燭や褥《しとね》を席に調《ととの》えるのをよそに、
「おう、お達者よな」
立ったままで、挨拶だった。
秀吉も立ち待ちしていたからである。
「やあれ、官兵衛か。――よくぞ、よくぞ」
ずかずか歩み出して来て、両手で官兵衛の肩を慥《しか》と抱いた。
「あぶない」
官兵衛は跛足《びつこ》だ。その手を持ちつつ、褥《しとね》のない所に、ぺたんと坐ってしまった。――往年、荒木村重が叛離《はんり》のとき、単身、有岡城へ入り、その折、遂に失った左の一脚に――秀吉は、気づいた。人の身なので、つい当人より後でハッとしたのである。
手と手を持ち合いつつ、秀吉もびっこ[#「びっこ」に傍点]のように共に坐り崩れ、
「よろこばしいぞ」
といった。官兵衛も、
「うれしゅうござる」
と、いった。
相擁しているかたちである。
秀吉は、遠くに、おとなしく控えている彼の一子にも気づいて、
「あれが、松千代か。さても、大きゅうなったな」
「元服いたさせました」
「そうか、名は何と」
「それがしの幼名吉兵衛を継がせ、吉兵衛長政と与えました」
「吉兵衛か。来い、来い」
手招きして近づけ、本年十五歳と聞いて、
「たのもしい」
と、自分のものみたいににこにこして眺め入った。
彼の心の楽しいときは、おのずからことばの弾《はず》みにも、それが人に分る程だった。秀吉は、自分らの主客が、燭や褥《しとね》からも離れて、冷たい素畳《すだたみ》の上に勝手に坐ってまだ席にも着かずにいるのも忘れて、
「これ。何をしおるか」
と、傍観をとがめ――
「屠蘇《とそ》、馳走。なぜ早うせぬ」
と、頤《あご》を振った。
小姓どもは笑った。――笑いつつ畏《かしこ》まって答えた。
「疾《と》くに、お席もお膳部も、あれに設《しつら》えてござります」
秀吉も苦笑し、振向いたが、席は主座下座に隔てて置かれてあった。それが気に入らぬでもあるまいが、動くのが面倒といった顔つきで、
「これへ持て。膳も一緒に持って来い」
と、広間の真ん中に膝交《ひざまじ》えの座をさだめ、
「まずは」
と、屠蘇を酌《く》み交《か》わし、吉兵衛へも、みずから酌《さ》して、さて、正月はこれからというように、
「久しぶりよ。さあ、飲《や》ろうぞ。更《ふ》くるまで語ろう」
と、ゆたかに坐りこんで見せた。
大書院の隅のほうへ、その時、侍女《こしもと》らしい者が手をつかえていた。――また寧子からの使いであった。御老母さまも北の御方もお膳につかれず待ちわびておられますが……というのである。秀吉はこっちから大声で云った。
「さきに喰べいといえ。先に。――わしを待っておると、夜半になるか朝になるか知れぬぞと申せ」
「晩《おそ》くに罷《まか》り出て、申しわけおざらぬ」
官兵衛は、奥の者の気づかいと、秀吉の心からな歓待を知って、すまない顔をした。
「何の、何の」
秀吉はそうは思わせてはならないように、われも酌《く》み、彼にもすすめ、
「近頃、脚はどうか」
と、たずねた。
官兵衛は、悪い方の片膝を撫《ぶ》して、
「寒さとなると喃《のう》――」
と、ちと痛《や》める容子《ようす》を見せた。それに対し秀吉が、どこかへ入湯でもしては――とすすめると、彼は、ほろ苦い笑みを口辺にゆがめた。
「いや、近々に、けろりと忘れる場所がおざろうて。待ち申しておる」
「どこへの。どこへ行かるる」
官兵衛は、また笑い、
「殿のほうが、御存じのはずじゃが」
――すると秀吉も、破顔一笑して、頷《うなず》き、
「はははは。……そうか、戦場のことをいうのか」
「まだ官兵衛を中国の片田舎に隠居さすは早かろう。こんどは率いて行きなされ。せがれも連れて上らにゃならぬ」
「それで先からちと不機嫌のていか。御辺は、退屈性よの」
「なぜ」
「高松退陣以後、まだ半年と遊んじゃおらぬではないか」
「ていよく、毛利への番人じゃった。誰かにさせて賜われ。官兵衛にゃ向かぬ」
「いや、向いたわ」
「向かぬ、向かぬ」
「この山陽に坐したまま、西国四国までを睨《にら》まえて動かさぬほどな者。御辺をおいて、誰かある」
「狛犬《こまいぬ》と間違えなさるな」
「よういうた。似たりや似たり」
「ほうけたことを」
「怒るまい怒るまい」
「何せい、この度は、ぜがひでも、従《つ》いて上り申す。――雪解けまでとは待つまい」
「何がじゃ。いったい」
「しら[#「しら」に傍点]を切り召さることよ。さりとは筑前どの、水臭《みずくさ》かろ」
ほんとうに鬱《ふさ》ぎかけて来た。官兵衛ほどな男がと、それを見ると、秀吉も気のどくに覚えたか、
「北ノ庄かよ」
と、急に声を落した。真顔にである。
官兵衛が顔を解いて、頷《うなず》き笑いをして見た時である。――夜となっても、まだ登城を伝えて来た。播磨|飾西《しきさい》郡|置塩《おきしお》の城主赤松次郎|則房《のりふさ》が、同苗《どうみよう》弥三郎|広英《ひろひで》を伴って――という取次であった。
赤松の末流で中国土着の豪族たちである。秀吉が中国|探題《たんだい》として、ここに臨んで後、織田に属し、自然秀吉に随身《ずいしん》して来た輩ではあるし、かつは、黒田官兵衛にとっても、家系の主筋にあたる人々。替《かわ》ってそれらの有縁《うえん》を説《と》いて、秀吉の麾下《きか》にまとめたのも、専ら官兵衛の働きにあったことなので、
「それはよい折へ」
と、ばかり迎え入れて、さらに新規の客膳が増《ふ》えた。やがてまたこれへ三好武蔵守が加わる。蜂須賀彦右衛門父子も交じる。在城の近臣の――あれも来い、これも来い、となって、いつかここの広間は、賓主従《ひんしゆじゆう》一堂の花畑のような盛会となっていた。
――寧子《ねね》と老母の旨をふくみ、折々伺いに来た奥の使いも、この旺《さかん》なる男の集まりを覗いては、秀吉の耳へ、それを伝えるすべもなく、ただ喞《かこ》ち顔《がお》に、行きつ戻りつしていた。
――ようやく、奥へひきとって、秀吉が眠りについたのは、その夜も子《ね》の下刻《げこく》頃(午前一時)であった。
元旦の午《ひる》、山城を出、陸路海路を経て、同夜入国、翌二日も受賀と、家中一統への恩賞の要務などを見つつ、ぶっ通しに起きつづけて、初めて眠るべく眠ったのである。
その精力の絶倫《ぜつりん》さには、彼の家族も側近も、驚き呆れていたらしい。小瀬道喜《おぜどうき》の甫庵太閤記《ほあんたいこうき》にも、その状を写して、
[#ここから2字下げ]
――百合《ゆり》若大臣軍《わかだいじんいくさ》にしつかれ、熟睡せられしにも超えたり。傍人《ばうじん》、笑止に思ひ侍《はべ》りていふ。およそ、人の気根もつづく程こそ有るべけれ。去《い》ぬる年のうちは、つひに夜の隙《ひま》さへ穏かならざりし。昨今の熟睡の体、思ひやられて痛みにけり。
三日之午後、やうやうよろぼひ出で給ひ、いささか休息し侍《はべ》りししるしにや、
鬼共とも組み打つべうぞ覚えける。さらばと(中略)――御前絶えまもなく拝謁《はいえつ》にぎはひけり。四日五日は近国の衆、或は城主、或は諸寺、諸社の僧官神人集まりつどひ、その様おびただし。
朝には、大名小名に対し、親愛を尽し、夕べには寵臣近習に向つて、政道の損益を評し、天下泰平の工夫、更に懈怠《けたい》もなかりけり。
[#ここで字下げ終わり]
といっている。
これに見るも、彼の暮から正月への日々がよく窺《うかが》われよう。そして、諸人への恩禄賞施《おんろくしようし》なども万端、五日中に仕舞って、その夕には早くも、
「明日は上洛する」
と、物頭《ものがしら》どもへ、足もとから鳥の立つように、準備をうながしていた。
「これは何としたこと」と毎度のことながら、人々はその急なるにまたまたあわてた。
少なくも今度は、中旬ぐらいまでは在国であろうといわれ、事実、秀吉の容子にも、その日の昼まで、出立の風は見えなかったのであるから、諸士が不意をくったのも無理はない。
後日になっては、さてはそういう仔細《しさい》かと、人々にも頷《うなず》けたことだったが――それには、こういう動機があり、機を外《はず》さない秀吉が、即刻、それに対して動き出たものなのである。
関盛信《せきもりのぶ》なる一将がある。
これは伊勢亀山の城主で、神戸信孝に仕えていたが、夙《つと》に、誼《よし》みを秀吉に通じ、伊勢ではかくれもない異心のある者≠ニ見られていた。
ほかにも、同じ鈴鹿《すずか》郡の峰ノ城代岡本重政がやはり睨まれていたし、かたがた神戸信孝の岐阜|失陥《しつかん》にも衝動《しようどう》されて、同国の形勢は、頓《とみ》に騒然たるものがあったらしい。
ところが、この正月。
亀山の関盛信は、一子|一致《かずむね》を伴《つ》れて、そうした四囲険悪な中を、ひそかに姫路へ来て、年賀を兼ね、かつ、爾後《じご》の策を仰いでいた。
そこへ早馬が来たのだった。伊勢からである。盛信父子へ伝えていう。
(御不在中、家中の岩間三太夫らが、隙《すき》に乗じて、亀山城を乗《の》っ奪《と》り、滝川一益のさしずを仰ぎ、一益の軍、また長島を出て、岡本重政殿を追い、峰ノ城以下、附近の諸城残らず収めて、厳に鈴鹿口を堅めて候う)
折も折だったのである。
かく聞くや秀吉は、猶予《ゆうよ》なく姫路を発した。同夜|宝寺《たからでら》城に着、七日すでに入朝し、翌日は安土に到り、九日、三法師に謁した。
賤《しず》ケ嶽《たけ》決戦の楔子《くさび》はこの日に打ちこまれたといっていい。
即ち、その日秀吉が、明けて四歳となったばかりの三法師に謁して、携《たずさ》えて来た春駒の玩具など種々《くさぐさ》の土産物をならべ、
「御機嫌御機嫌。おお、おうれしそうな」
と、他愛なく相手になって、やがて程なく、幼君の前を辞し、安土の一広間へ、姿を現わした時からである。
ここには、三法師付きの衆臣もい、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》もいた。――関盛信、一致の父子も姫路から従って来た。山岡|景隆《かげたか》、長谷川|秀一《ひでかず》、多賀秀家といったような近国衆も詰合わせていた。
「滝川一益征伐のこと。ただいま三法師君のおゆるしを仰いだ」
秀吉は座に着くとすぐ宣言した。こんな大事を、鞠《まり》でも投《ほう》るように、満座の中へいきなり云って投げたのである。――が、まだ伊勢方面の変を、正しく知っていない者もあるやと、
「仔細は、関盛信から語らせよう。盛信、一同へ話せ」
と譲って、自身は口をとじた。百言に勝《まさ》る怒りを見よといわぬばかり沈黙を守っていた。
留守の間に、家士の岩間三太夫に裏切られ、自城も峰ノ城も奪《と》られた盛信の感情は、それを移して、一同の義憤となすに充分だった。
わけて蒲生氏郷の妹は、盛信の子一致に嫁している。両家は姻戚《いんせき》だ。氏郷の眉目には、誰よりも強い決意が見えた。
「――初めの早馬は、姫路で受け、これへ参る途中でも、次々の報を聞き申したが、その後、岩間三太夫めは、当然、滝川一益と合体し、一益は令を下して、峰ノ城には甥の滝川|詮益《のぶます》を、関には滝川|法忠《のりただ》を、亀山には佐治|益氏《ますうじ》を、それぞれ配して、鈴鹿口を扼《やく》し、こなたの南下を犇々《ひしひし》備えておるとのことでおざる」
盛信が云い終ると、
「滝川ずれ[#「ずれ」に傍点]は何ともないが」
と、秀吉が補足《ほそく》した。
「主要は、柴田勝家のうごきにある。柴田がのうては、そんな動きをなす滝川でもない。――で、ここは、柴田の北兵どもが出《い》で来らぬ以前に、伊勢一円を片づけてしまわにゃならぬ。柳《やな》ケ瀬《せ》、賤《しず》ケ嶽《たけ》など、境の山々が、いまや積雪千丈の自然の防ぎをなしておるこそ一倍の強味よ。何とよい機《しお》に、岩間三太夫とやらが、滝川を否応なく、筑前の一撃下に、引き出しておくれたではあるまいか」
そして、笑い出しつつ、その苦笑の下に、
「滝川とて、うつけじゃない。おそらく一益、あの禿げ上がった額《ひたい》をたたいて、ちと早かったと、臍《ほぞ》を噛んでおるにちがいないわさ」
と、いった。
勿論、彼の肚《はら》は疾《と》くにきまっていたが、伊勢経略の意表を、衆座の中で言明したのは、この日この時で初めてであった。
彼の口吻《くちぶり》から見ても、岩間三太夫の無謀の挙を、彼がいかに天恵《てんけい》の機会とひそかに慶していたかが察せられる。
が、彼は決して、事を急ぐがために、順を過《あやま》るような愚はしない。入っては朝を拝し、出でては三法師に謁し、なお評議の必要とてないが、ここに衆将を会して、その名分をいやが上にも明らかにしてかかった。
檄《げき》はここから発せられた。
領国の輩はもとより、友邦の諸将にも広く伝え、共にその正大の兵を安土に集合せんことを求めた。
あわれむべき盲策《もうさく》の持主。それは北ノ庄の雪深きところに、麗人お市御料人を室に迎え、
(――陽春、雪解けの時来らば)
と、むなしく自然を恃《たの》んでいた柴田修理勝家にほかならない。
誰か知らん千丈の雪。彼が鉄壁と見ていた方略の雪壁は、すでに春ともならぬまに崩れ出して来たではないか。
勝家とて、その地響きに、耳|愕《おどろ》かされぬはずはない。
岐阜落城。長浜の叛離。神戸信孝、秀吉の軍門に降る、等々の報。
つづいて、近頃、
(筑前、檄《げき》を飛ばし、伊勢攻略の企てあり。滝川また頻りにうごく)
と聞いては、焦躁《しようそう》いよいよ思うべしである。居ても立ってもいられない心地があろう。
しかし、江越《ごうえつ》の境は、雪、蜀道《しよくどう》の如きものがある。兵も輜重《しちよう》も越えられたものではない。
(彼より襲い来る憂いなし)
と、ひそかに恃《たの》み安んじて、進むはそれの解くる日にありとしていた雪は、何ぞ知らん、事今日に到ってみると、敵国の防壁と化していた。おのずから、みずからの兵を、氷雪の裡《うち》に為《な》すなく押しこめておくほかなきものとしていたのである。
(一益ともあろう老巧《ろうこう》が、亀山や峰の小城など奪《と》るに、何で時も計らず粗相《そそう》に兵を動かしおったか。愚かな沙汰よ)
勝家は真に腹を立てた。
すでに大計において、自己の盲策が過《あやま》っていたことは措《お》いて、時を待たず起した滝川一益の行動を、愚だと、罵《ののし》った。
こういう取返しのつかぬ大きな齟齬《そご》に行き当たったとき、いよいよ、味方は味方を励ましあうべきはずなのに、事実は、妙に味方が味方を口ぎたなく憤《いきどお》り合う傾きを生じやすい。
一心同体の感情にあるので、べつな所の失策も、自分の失策として、自身に怒り自身を辱《は》じしめる気持からではあろうが、勝家の場合に見ても、その憤激の向けどころがまるで違っている。
怒るならば、正面の敵、秀吉へ向ってこそ、彼は、大いに怒るべきであった。
たとえ滝川一益が、勝家の内示を守って、雪解けの頃まで、じっと動かずにいようとしたところで、すでに敵の意を看破していた秀吉が、それまでの時を藉《か》すものではない。
要するに、秀吉は、勝家の裏を掻いたのだ。――勝家が和談の使いを立てたときから、勝家の肚の底まで見抜いていたものである。
その秀吉に憤激を向けずして、味方の滝川一益を罵《ののし》るなど、柴田修理ほどな人物も、老来やや旧年の名も褪《あ》せはじめて来たかの趣《おもむき》がないではない。
――が彼も坐してそれを観《み》ている者ではなかった。再び使いを派して、備後《びんご》の鞆《とも》の津《つ》にある足利|義昭《よしあき》に密書を送り、毛利をして西国より動かしめんと努め、一方、浜松の徳川家康へも使いを立て、極力一方の援けを求めつつあったらしい。
ところが、その家康は、一月の十八日前後、何の意があってか、また、どういう連絡《れんらく》を取ったものか、自領岡崎まで双方から出向いて、ひそかに織田信雄と会見していた。
厳に、局外中立を標榜《ひようぼう》している彼が、これはいったい何の魂胆《こんたん》か。
時も時である。この喰えない男と、喰える男との会合に、周囲も眼をそばだてたが、
(人、その故を知らず)
と嘯《うそぶ》き、みな口をとじて、噂が噂となることを警戒しあった。
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民《たみ》とその国《くに》
大勢に晦《くら》いのも甚だしい。
もっと突っこんでいえば――
自分の地位の重きも弁《わきま》えぬ軽率無恥なさもしい行為と見られても致し方がない。
織田信雄の心事である。――いくら家康が招いたからといって、この際、物欲しげに、岡崎までのこのこ出かけて行った彼の気持は、およそ面目とか個性とかの尊ばれていた天正人士のあいだでは、理解に苦しんだことだろう。
(お公達《きんだち》の心は、お公達になってみにゃ分らん)
と、されていたに違いない。
しかしこの――時代の激潮に恟々《おどおど》している名門の二世を自家の秘室へ呼んで、わざわざその脆弱《ぜいじやく》性を甘えさすような歓待や密語をさずけた家康という者こそ――時人《じじん》はまだ東海の一若将としかこの頃では注意していなかった風だが――まことに油断のならない存在といわねばならぬ。
家康が信雄を遇するや、まるで大人が子どもをあやす[#「あやす」に傍点]ようなものだったろう。その会見が、どういう内容を結んだかは「人、その故を知らず」である。いわゆる秘中の秘とされていた。
ともあれ信雄は満悦《まんえつ》して清洲へ帰った。匹夫《ひつぷ》がほくほくした時のような体《てい》であった。が、小心な彼はその姿にまで、終始うしろめたいような蔭《かげ》を持っていた。秀吉の眼を極度に憚《はばか》っていたものらしい。
時に、その一月十八日前後、秀吉はどこで何していたかというに。――彼は、腹心わずか十数騎を連れ、安土から湖北へ繞《めぐ》って、江越国境の山地を忍びで歩いていた。
すでに柴田の先手を打ち、滝川討伐の檄《げき》を諸州へ発し終り、あれから直ちに長浜へ赴き、そこで軽装を調えて、北境の山岳地方へ廻ったものだった。
視察はこれで二回目である。年暮《くれ》のうち長浜を収め大垣を攻めたあの振旅《しんりよ》の帰途にも、秀吉はひそかに賤《しず》ケ嶽《たけ》から柳ケ瀬をあるいて京へ帰った。その目的が、柴田勝家とやがての決戦を期す必然な大戦場の実地|踏査《とうさ》にあったのはいうまでもなかろう。
「天神山というか。あれにも一塁《いちるい》を。そこ、かしこの山にも急いで砦《とりで》を築きおけやい」
数日にわたって、雪なお深い山村、渓谷、高地などを歩き巡《まわ》りながら、秀吉は、杖にしていた竹のさきで、折々、要地を指しては、こう指図して歩いた。
そして、その陣地構築と、守備とを、柴田勝豊家中の大金藤八郎、山路正国《やまじまさくに》などに命じ、
「いちいちのことは、丹羽五郎左に聴け」
と、いって帰った。
丹羽長秀をもって監視とするの意であった。
こえて二月七日。
在京の秀吉は、西雲寺の住僧を使いとし、信州海津城の須田相模守のもとに書を送った。
須田相模守は、上杉景勝の臣である。秀吉の託した一書の内容が何か、もって察しられぬこともない。
秀吉は、この時において、北陸の上杉景勝と結ぶべきを思い、攻守同盟の約を、我から求めて行ったのである。
書面は、臣の増田仁右衛門、木村弥右衛門、石川兵助の三名の名をもってさせ、須田を介して、上杉へ申し入れたが、秀吉の胸には早くから「このこと、必ず成るべし」という自信があった。
なぜならば柴田勝家と上杉とは、数年間にわたる血戦に一奪一譲《いちだついちじよう》を続け、両国|麾下《きか》の士には解くに解けない骨肉の宿怨が累として横たわっている。今や勝家はそれをも解いて、後の患《わずら》いなく、正面の秀吉に全力を集中したいと念じてはいるだろうが、彼の我意と驕武《きようぶ》の質は、よくそのような含みのある経略はなし得ぬ者とみていたからである。
北の上杉へ、二月七日附の一書を送ってから、中二日の後、秀吉は勢州出陣を触れ、総勢、堰《せき》を切って南下していた。
三軍にわかれ、三道から進められ、旗鼓《きこ》雲に喊《かん》し、歩武|山嶮《さんけん》を揺《ゆ》すった。
即ち、同日同時刻、安土から揚った一柱の狼煙《のろし》を見て、一斉に発向した三道三軍の編制は、次の組織であった。
[#ここから2字下げ]
左軍=\―佐和山ヲ発シ、土岐多良《トキタラ》越エヲ行ク。兵二万五千。
中軍=\―高宮ヲ発シ、多賀、大君ケ畑越エヲ行ク。兵二万。
右軍=\―安土ヲ発シ、草津、水口ヲ経、安楽《アンラク》越エヲ行ク。兵三万。
[#ここで字下げ終わり]
統率の将は。
左軍、羽柴小一郎秀長に――筒井順慶、伊東|祐時《すけとき》、稲葉一鉄、氏家行広などが属し。
中軍、三好孫七郎秀次には――中村一氏、堀尾吉晴、その他、南近江一円の兵力、それに属し。
右軍、羽柴秀吉は、秀勝を伴うほか、丹羽、蒲生、細川、森、蜂屋など合力衆を始め、蜂須賀、黒田、浅野、堀、山内などの直系の幕僚旗本を擁し、彼の全勢力を挙げてみせたかの観があった。
――が、事実は、これに用いた七万五千は、なお彼の持つものの一部でしかない。
備前の宇喜多は一兵も召集していないし、織田信雄の兵もまだこの日には会していなかった。池田、筒井の兵力も一部の参加であったし、因幡《いなば》の宮部、淡路《あわじ》の仙石なども、特に徴していなかったのである。
宇喜多、宮部は、中国の毛利の抑えに、池田、仙石は、阿波及び土佐にまたがる長曾我部元親の抑えに。
また虚に乗じて起るおそれのある根来《ねごろ》や雑賀《さいが》の土冦《どこう》的なものに対して、畠山貞政や筒井の一部をもってその抑えとし、さらに、雪なお解けぬ江越方面の境にも、秀吉は、手許の武将を割《さ》いてまで、このことの前にちらほらと、幾隊かを目立たぬ程ずつ派していたもようであった。
で、秀吉には、今は後の憂いは何もない。尠《すく》なくも、万全をそれに尽し切って出た姿である。彼が、滝川一益を踏み潰《つぶ》しにかかるに、約一ヵ月のこの間の準備は、やや長すぎたし、また大懸《おおがか》りに過ぎるきらいがないでもなく見える。――しかし、一月七日、姫路を発して以来の彼は、胸中すでに、一滝川を敵の全貌と見てはいない。充分重視していたのは柴田である。彼自身、二回も雪中を冒して、柳ケ瀬、賤ケ嶽などの境を巡視しているように、彼はまた自然をも歳月をも恃《たの》みとはしていなかった。
戦は常に人智を超える。それはわれに観るところ、当然敵も奮《ふる》うところだ。で、秀吉は思う。
(彼奴《きやつ》、雪解けも待つまい。熊のように穴から出て来おるにちがいない)――と。
備えは、そこの一面だけに止まらない。中国も阿波も四国も近畿もである。
よし。
――となれば彼は、集中をもって当るのがその真面目《しんめんもく》だった。
これは、大事小事に関《かかわ》らないのである。前後の方略は持つが、やる、と当面したことに集中する。戦ばかりでなく、日常の時務、楽しみにも、そうであった。
さて。
三道の軍は、近江伊勢の脊梁《せきりよう》山脈をこえて、やがて南降を示し、かねての作戦にもとづいて、目標の桑名、長島附近に合流した。滝川一益はここにいる。
「ひとつ、秀吉の戦《いくさ》ぶりを見るか――」
敵迫ると聞えた時、これは滝川一益が、左右へ放った揚言《ようげん》であったという。
彼にもそれくらいな自負は充分あるべきところである。
ただ、否みがたい内心一|齟齬《そご》として、
(ちと、早かった)
となす時機の問題があった。開戦の機を誤ったことである。それは勝家と信孝と自分と、三人だけの密契《みつけい》として、一族幕僚にもかたく秘めていたために、却って、内に機を焦心《あせ》る味方から盲目的な口火を発してしまったのだ。他を責める前に、余り秘密主義過ぎていた首脳者の自身を責めずにいられない性質のものでもある。
で、この喰い違いは、
(事ここに及んでは――)
との当然なる一擲《いつてき》に附し、事態の急に一切を挙げたのだった。
岐阜へも、越前へも、事態の急を早馬しておき、長島の城には、一族の滝川源八、同彦次郎などの兵二千を籠《こ》め、自身は日置《へき》五郎左、谷崎|忠右《ただう》、小林直八、玉井彦三などの旗本精兵をひっさげて、桑名の城に拠ったのであった。
一面に海を環《めぐ》らし、一面の市外には丘陵を持つ桑名城は、長島よりは守るによく、敵を撃つに利がある。
といって一益も、この狭隘《きようあい》な地区に、徒《いたず》らな持久を策すのみではなかった。勢州西方の山地から鈴鹿口へかけて、峰、国府、関、亀山などの諸城が散在している。敵の六万余も、その一部は、岐阜《ぎふ》方面の抑えに割《さ》かねばならず、長島へも幾部隊かを当てるであろう。さらに、以上の諸城へ攻撃を向け、この桑名へも迫ろうとするとなれば、当然、寄手の兵力は分散され、たとえその主力軍たりとも、いうが如き怒潮《どちよう》の勢いをもつわけにはゆかなくなる。
かつは、敵大軍も、数量いかにも物々しくは聞ゆるが、三国《みくに》、鈴鹿《すずか》などの尾甲《びこう》山脈の嶮を越えて来た長途の兵だ。軍需、食糧などの荷駄隊が多くを占めていることも察知するに難《かた》くない。
こう観《み》て、一益は内心、
(秀吉を破ること難《かた》からず)
となし、
(ひき寄せて、散々に撃ち、機を計って、信孝を再蹶起《さいけつき》せしめ、岐阜の兵を合わせて長浜へ殺出《さつしゆつ》せん)
と、期しているかのごとき軍容だった。もちろん今度は齟齬《そご》なきように、亀山、関、国府、峰などの守将たちへも、この方針を伝えてもあるらしい。
麾下《きか》の将士もまた、
(近頃、驕《おご》り面《づら》の羽柴勢に、目にもの見する日は今だ。百錬《ひやくれん》の滝川勢の鑓《やり》鉄砲がどんな味のするものか覚えさせてくりょう)
と、意気はすさまじく昂《たか》い。
結果が出た後になってみれば、そうした一概の強がりは、やはり大処大観にうとい地方認識に過ぎなかったことが合点されるのであったが、滝川|子飼《こがい》の者や一族の頭には、何といってもまだ神戸信孝の存在や、柴田勝家の勢力などが、よほど重大視されていた。――のみならず、滝川左近|将監《しようげん》一益という自分らの主人と秀吉とを端的に比較しても、秀吉の指揮する兵に敗れ去るような大将とは、どうあっても考えられない者たちであった。
――ただ、一益の麾下《きか》の士には大勢には晦《くら》いが、土地と縁の深い土着の強味のある者は多い。一益の出がやはりこの地方の甲賀大原の産だからである。
甲賀でも、滝川姓の族は、みな由緒《ゆいしよ》ある家すじだった。一益もその血系の子であった。鍛武の習《まな》びはもとよりのこと、若年ずいぶん辛酸《しんさん》もなめたらしい。
彼もまた、明智、羽柴などと同様に、信長に見出されたことが、何といっても、世に伸び出した緒《いとぐち》であった。
けれど、年配、家柄などからも、当然、彼は明智の上にあり、秀吉などよりはずッと先輩であったのはいうまでもない。
よく世間は、信長が秀吉を愛したことを特にいうが、秀吉が大成して、その君愛を世に生かしたからこそいわれることであって、信長としては、いわゆる士を愛していたのである。等《ひと》しく、光秀も愛していたし、勝家も愛していたし、一益もまた、並ならずその質を愛されていたものだった。
それに応《こた》えて、一益の武功も、数えきれぬ程なものがあり、ひと頃、織田の滝川槍隊の前に立ち得る敵はなかった程である。
めずらしく彼はまた、士人にして経営の才にも富んでいた。信長が志業を中央へ展《の》べる始めに、その後顧《こうこ》たる三河の家康を説いて、織徳《しよくとく》同盟を成功に導いた彼の功は信長も大きく買っていたらしい。
ついに、丹羽、柴田などと共に、宿老の重きをなして来たのも当然とされ、蟹江《かにえ》、長島を所領しては、その地方的信望も篤《あつ》きを得ていた。由来この地方は、牢固《ろうこ》たる門徒勢力が錯綜《さくそう》していて、家康も手をやき、信長さえも散々手こずった難治の地である。――先に信長の死去に際し、上州引揚げの帰途には、北条勢に阻《はば》まれて、為に清洲会議にも出遅れるというまずさ[#「まずさ」に傍点]を見せたが――一益ほどな男が、いつもそんなまずさをやる者とは思えない。よくこの地方を治めて来たという一事だけでも、彼が尋常一様な凡物でないことは証し得て余りがある。まして麾下百錬の精鋭はなお滝川衆≠フ名を持《じ》して誇る剛強揃いでもあるにおいては。
秀吉は、この敵を前に、決して軽視していない。
桑名へ迫るに先だって、鈴鹿郡川崎村の峰ノ城へ、一部兵力を抑えに残し、神戸、白子などの民屋を焼き立てて、途々|小邀撃《しようようげき》してくる敵を鎧袖一触《がいしゆういつしよく》の勢いで圧しながら、やがて矢田に陣した。
土岐多良《ときたら》越えの一軍も、大君ケ畑越えの一軍も、共に、桑名攻囲の部署についた。
一益の予想に反して、秀吉は各地の小城出城には右顧左眄《うこさべん》なく、敵の中巣《ちゆうそう》へ向って、全主力を傾倒し来ったのである。
――が、布陣終ると、
「構えて敵を粗相に見、城壁の下へ詰め寄るな」
と、戒《いまし》めた。
臆病なほどの令である。しかし、秀吉は敵の火器を重視していた。世に銃火器に精通《くわ》しい者、明智に次ぐは滝川なり、という定評のあった過去を今も忘れてはいない。かたがたその城庫には多量な矢石《しせき》火薬の蓄蔵も必至と見られたので、
「まず、城下を焼け」
と命じ、目前に敵府へ迫りながら、敢えて急追の体を見せなかった。
令一下、寄手の軽兵は、町々へ放火しだした。
これには焼草と火薬をつかう。
敵国へ侵攻の際、これは多量に携行した。火攻は、戦略遂行の要法とされていたからである。
こんどの勢州入りでも、秀吉の軍は、沿道の民屋から、矢田の本陣附近の村落まで、余さず焼きたてて来たのである。
|※[#「風+炎」、unicode98b7]煙《ひようえん》は忽ち城下を蔽《おお》う。
すぐそこに見えていた桑名の城すら見えなくなった。辻は火の跳舞《ちようぶ》と、家々の残骸と、煙る鉄甲《てつこう》の人影しかない。
奇兵を用うるに便となった。城兵は、炎煙に紛《まぎ》れて突出し、到る処で、寄手の軽兵のうしろへ廻り、箇々に包囲して、鏖殺《みなごろし》にするの策に出た。また市倉や民家を楯《たて》として、鉄砲で狙撃《そげき》する。これも寄手を悩ました。
「――母ちゃあん」
「婆ようっ。婆ようっ」
あわれ、これらの声は、甲冑《かつちゆう》の者から出る叫びではない。
包囲二日後にも、なお残っていた庶民がある。小《ささ》やかな食器家財などを持ち、老いたるを負い、病人を励まし、乳のみ児を抱き、足弱を曳きつれ、火の家を出て、剣槍の下を奔《はし》る髪おどろ[#「おどろ」に傍点]な人影が――武者たちの眼を幾度かよぎった。
――あな、いたまし。
と見ぬではない。
が、戦いである。
火と戦いは付きものだ。戦い始まるや煙を見る。一日前か二日前に、その予報を眺めながらも、何する間さえないのも戦《いくさ》だった。
煙の店で母を呼び、剣槍の間から子を呼び求める。しかし、これがあり得ぬ大変とは、魂消《たまげ》もしない領民だった。
「戦ッ。戦だぞよっ」
と、励まし、扶《たす》けあうばかりである。戦のない世間はなく、戦のない生涯など、考えられもしなかったその頃の人達だった。いや、この戦国期だけでない。かつての応仁前後、建武正平の頃、鎌倉期、遠くは上世の応神、推古、宇多、後宇多等の御年代にわたっても、外夷《がいい》の征、内賊の伐《ばつ》など、地に戦を見ぬ日が、果たして幾日あったろうか。
文化の万朶《ばんだ》、華のごとき時代といわれ、上下みなおおらかに、日々、春日《しゆんじつ》の下にいたかと思われている――あの万葉の歌の生れた時代でさえ、後人はその歌のみを見て、天平宝字《てんぴようほうじ》の絢爛《けんらん》を慕うが、実は、その万葉の世頃、約四百年の間にも、国家には、外征、外冦《がいこう》の変、国内の乱。飢饉《ききん》、天変地災などが、代々にわたってあった程であることは、人、誰もいわず、誰も思わない。
いずれにしても、戦いは、地震の頻度《ひんど》ほどあった日本である。わけて戦国期の民は、その中に苦楽し、その下から新しい年々を創《た》てていた。都でさえも、洛内|隈《くま》なき地、兵火の灰より成っていない地層はほとんどなしといってよい。
桑名も、秀吉軍が迫る前に、疾《と》く城内から領民へ、
「退《ひ》く者は早く立ち退《の》け」
と、布令《ふれ》られていたが、やはり多くは残ってしまったものらしい。可憐《いじ》らしさ、不愍《ふびん》さ。しかもベソは掻かず、飽くまで生きんとし、生きんとし、奔《はし》り遁《のが》れる生命のたくましさ。甲冑《かつちゆう》の士の流す血しおとは、またべつな健気《けなげ》さがある。
およそ長い歴史を通じ、何が強靭《きようじん》かといって、民の不撓不屈《ふとうふくつ》ほど、驚歎されるものはない。
往時、浅間山が大噴火すると、麓の村々は、一夜にすがたを消し、地物はみな灰の下になったという。灰が土と化し、木が生え、畑ができ、村ができると、また大噴火があったという。
しかもいつかまた、村が創《た》ち、町につづき、雛《ひな》の節句《せつく》には、草餅をつき、秋の月見には、新酒で蕎麦《そば》を喰べたという。
史上の、いかに烈しい戦乱といえ、それによる転変といえ、この民の力の大示に勝《まさ》る力を見ず、この不撓不屈な業《わざ》に比類するものもない。
それと戦いとは違うが、民の性根《しようね》というものは、これ程なものだというには、証《あか》し得て余りがあろう。
また、その克己《こつき》と、戦いの艱苦《かんく》とをくらべれば、戦火のごときも、物の数ではない。いかに烈しかろうと、人と人との戦いだというに尽きる。
戦国時代の民が、のべつ戦乱の中に置かれながら、あの大どかを持ち、ついに醍醐桃山《だいごももやま》の文化を築いたのも、元来、こういう性根の民だったことを思えば、驚くには足らないことであるかもしれない。
しかし、古来からあの当時までも、ひとたび戦争となれば、その領辺一帯には、早くも敵国兵の姿を見、春ならば麦を、秋ならば稲を、農田のあらゆるものまで、焼かれ、刈られ、掠奪《りやくだつ》され、家は勿論、ぱりぱり焼き立てられたものだった。
村落を焼き、町を焼き、橋を焼き、敵を断つ。――これは攻城野戦ともにやる常套《じようとう》的な正攻法で、兵家としては、まことに陳腐《ちんぷ》な一攻手に過ぎない。
――が、百姓町民はその都度《つど》に会うことである。火に追われ、流れ弾《だま》や、白刃|素槍《すやり》にも見舞われる。血にすべり屍《かばね》につまずき、落ちてゆく山地の夜には、また、剽盗無頼《ひようとうぶらい》の徒が待っていた。
この民に、食を供与《きようよ》してくれる者はなく、却って、彼らが持って逃げたわずかな食糧をも、これを奪う者のみが、野や山にはまだ多かった。
――が、こういう後にも、なお彼らが、再び群をなして、何処からか焼け跡へ帰って来る姿を見ると、幾日も幾日も、喰う物とてなかった筈なのに、――しかも非常に明るくて和《なご》やかで、もう明日の希望にかがやいていた。
何が、彼らをして、こう不死身にしたかといえば、それは、物乏しければ乏しくなるほど、彼らは相見互《あいみたがい》に扶《たす》けあい、心と心とのやりとりをもって、より強く美《うる》わしく、生きる道を知っていたからだった。
そして、田に帰ればまた、黙々と田を耕し、町へ帰ればまた、孜々《しし》として、小屋を建てた。
――やがてまた、これへ。
さきに籠城《ろうじよう》と同時に城へ入って、城中の士を助けていた若い男どもも、間もなく各※[#二の字点、unicode303b]の土と家に帰って来るのだった。およそ働き得るほどな男どもは、日頃の城主の恩を思って、家中の士と共に城入りするのが、彼ら庶民の道義としても、当然とされていたからである。
これ程な民だった。故に、この民を持っても、よくこの民の心を持ち得ない国主が、過去|永禄《えいろく》以来、滔々《とうとう》、亡び去っていたのも当然だった。
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心耳《しんじ》と機眼《きがん》
互いに軽兵を出して、諸所に、奇襲逆襲の交綏《こうすい》はあったが、桑名攻守の両軍のあいだには、依然、大戦闘はなかった。
四六時中、決戦機の寸前を、いッぱいに孕《はら》みながら、相互ともに、本格的なうごきを示すなく、数日は過ぎたのである。
その間に、滝川一益は、秀吉の本陣地、矢田山の情況を充分に偵知《ていち》し得たものの如く、城中の首脳部を会して、或る作戦≠フふくみを湛《たた》えていた。
秀吉もまた、直ちにそれを、察知したものの如く、前線の尖角《せんかく》陣地から山麓の要所へわたって、壕を掘らせ、柵を結《ゆ》わせ、かつ、
「こよいから陣々には、夜どおし篝《かがり》を絶やすな」
と、令した。
城兵の動かんとする気配を――必ず大挙して大夜襲に出てくるもの――と予感しての先手を打ったものだった。
果たせるかな滝川勢は、翌晩、城中の精鋭数千を七手に分けて、一手は城の北門を出て市街、一手は西路へ出、これは常の如き小奇襲を行うものと見せながら、他の大部隊は、黒々と搦手《からめて》から市外を遠く迂回して、全軍|枚《ばい》を銜《ふく》み、必殺の意気をこらしつつ、矢田山の敵本営へ向って進んでいた。
「――や。待て」
一益は、突として、鞍の上から声を発した。
「待て。兵を止めろ」
流るるが如き列の中にありながら、彼は馬首をめぐらして阻《はば》めていた。
前後にある幕僚《ばくりよう》たちの影は、何事やらん? ――と疑うように、彼に倣《なら》って駒を止めたが、前隊はなお知らないで先へ進んでいた。――当然、中軍との間が約半町も隔てられた。
「……見合わせよう」
一益のことばである。
部将たちは意外として、
「こよいの夜討をですか」
と、ひとしい眼をみはった。
「そうだ。早く、先鋒《せんぽう》を呼びもどせ」
「はっ」
なぜと、問《と》い糺《ただ》している場合でもない。四、五騎がすぐ駈けた。後続隊へも、
「もどれ。――戻るのだ」
と、物頭《ものがしら》たちが、いぶかり惑《まど》う足なみへ、俄《にわか》に、令を伝えている。
矢田山へはまだ一里の余もある。
どうして急に大夜襲の決行を見あわせたのか、城へ帰った一益の口から親しく説明されるまでは、誰にも、その意《こころ》が分らなかった。
「いかぬわい。さすがは筑前、疾《と》くに夜討を備えておる。なに、どうしてそれが分ったというか。……はて、愚なる問い、それしきの心耳《しんじ》と機眼《きがん》がのうて、戦《いくさ》ができるかよ。見ておれ、やがて物見が帰って来て告げることばを」
程なく、大物見の者が帰城して、帷幕《いばく》へ詳細を報告した。それによって、一益の言が過《あやま》っていないことがより明瞭になった。敵の矢田山附近には、一日のうちに、新たな柵と塹壕《ざんごう》が急設されており、各陣地には、炎々と篝《かがり》が望まれ、夜半といえ、戦気はみちみち、少しの間隙も見えなかったという。
「ああ、危うかった」
諸将は一益の明察に推服《すいふく》した。同時に敵の秀吉にも感心した。秀吉もまた心耳と機眼のある大将かなと密《ひそ》かに思った。
――が、当の秀吉は、その夜すでに、矢田山の本陣にはいなかったのである。
秀吉の主力は一転して、鈴鹿口の攻略に移っていた。
桑名の攻囲には、単に城を攻囲しているだけの兵力を残して、忽ち南進し、十六日から、まずこの地方の小城寨《しようじようさい》の主塁と目される亀山城へ攻めかかっていた。
「踏みつぶせ」
秀吉の令はこれだけだった。
桑名へ取りかかったときとここでは、まるで気魄《きはく》が異《ちが》っていた。
彼処《かしこ》には、長期をゆるし、転じてここでは、寸刻の時もゆるさぬ猛相《もうそう》を示して攻めさせた。
さきに一益に直面したときの秀吉の戦策を、ひそかに皆、
(歯がゆし!)
としていた麾下《きか》である。先を争って、城壁へ肉薄《にくはく》した。
が、城将の佐治新助益氏《さじしんすけますうじ》は、これも聞えた侍である。防戦実に見事だった。秀吉をして折々、
「やるの。佐治め、やるの」
と唇を噛ませる程だった。
山城《やまじろ》なので、濠《ほり》はないが、鉱山《かなやま》掘りの坑夫をつかって、城のまわりに塁壕《るいごう》を深く掘らせ、これに鈴鹿川の渓流を切って流し、寄手の徒渉《としよう》を困難にした。
西北を山にして、守り口を狭く取っているのもこの城の強味だった。どうしても、寄手に際限ない出血の犠牲を払わせなければ、足もとへも寄せつけない天嶮《てんけん》と最善の戦備をも持っていたのだった。
「――今日は」
と一揉《ひとも》みに見えた城が、明日も陥《お》ちない。次の日も陥ちない。
総攻撃は、毎日だった。
「この小城一つに」
と、羽柴勢は、部隊をかえてかかるごとに、その部将が、一番乗りの先頭を期すのであったが、頑として亀山は陥ちない。
かくて、羽柴軍の主力も、約半月、ここで釘づけになりかけた。その間、わずかに占め得たところは、東側の城壁に接した一隅の地だけであった。
「城の小さいやつは、攻むるにはむしろ攻め難い。大城は厳なるに似て、実は、虚を生じ易く、内の破れを誘う手段《てだて》も施しうるが、数千に足らぬ人数も、慥《しか》と、小城の内に拠《よ》って、一心|凝《こ》り固まって一つとなると、これは十州の兵を追うより難いぞ」
秀吉もちとあぐね[#「あぐね」に傍点]気味にこう洩らしたが、決して策なき前には、こんな気持を幕僚に洩らす彼でもない。
すでに数日前から、兵をして東側の城壁の下から深い坑道を掘らせていたのである。もちろん城中へ向けてである。ひとつの土龍《もぐら》戦術ともいえるものだった。これは前例のない戦法でもなく、城壁を高く持つこと極端なほど堅固な中国では古くから行われている法である。
また、そこから搬出《はんしゆつ》される土をもって、城外の濠をどしどし埋め立てて行った。城中には明らかに動揺が認められた。秀吉はひそかに、
「――落城近し」
と結論を抱いていた。
ところが、やがてその地下突撃路が、城内へ貫通する日も間近のうちと思われていた一日、轟然たる大爆音が地を揺《ゆ》すった。
「ア。何か」
城に近い山上に在った秀吉も思わず床几《しようぎ》から突っ立った程であった。
その手の堀秀政が、やがて息を切って、告げに来ていた。
「――敵もまた城内から、同じ方向へ坑《あな》を掘り進めて来たものらしく、爆薬の火計にかかって坑内のお味方はほとんど全滅を蒙《こうむ》りました」
聞くと、秀吉は言下に云った。坑道突撃隊の味方が全滅した――という悲報にたいし、彼は、その「報」は耳に取っても「悲」は膝を打って刎《は》ね返していた。
「やあ、では坑道《あなみち》は貫《とお》ったな。ようし、道は拓《ひら》けた」
振向いた秀吉の眸《ひとみ》に、諸将は、ことばも俟《ま》たず、片手を地へつかえ、各※[#二の字点、unicode303b]、眼をかがやかした。
「氏郷《うじさと》、長可《ながよし》――すぐその坑道から城中へ入れ。敵は二度三度と、火薬をもって、埋め塞《ふさ》ぐであろうが、もう容易《たやす》い。時移すな」
「はっ。――参ります」
蒲生氏郷、森長可は、すぐ立って、各※[#二の字点、unicode303b]、麾下《きか》のいる方へ駈けた。
「やれ、この小城に、存外な長戦《ながいくさ》させられたが、勝目は見えたぞ」
呟《つぶや》きながら、秀吉は床几《しようぎ》から立った。そして幕舎の外へ出ると、彼方《あなた》此方《こなた》に、空の屋根と草のしとねを楽しんでいる武者たちの群が見られた。
「貝の者――」
と、呼ぶ。
おうっ、という応《こた》え。
あたりの甲冑《かつちゆう》は音を揃えて一斉に立ちあがっていた。
「吹け。総がかりぞ」
「はっ」
螺手《らしゆ》はそこからもう一段高い岩上へ向って駈け上がった。
その影が、くっきりと一つ、夕空に浮く。
螺《ほらがい》は鳴った。高く、低く。
これを吹くにもむずかしい法があるという。
吹鳴《すいめい》の合図を果しながら、なおその中に秋霜《しゆうそう》の陣気がなければならない。進むに、死を超《こ》えしめ、退くに、乱れなきよう、粛たるものを感じさせなければならない。で、耳のある将は、螺声《らせい》を聞いて、その兵の怯勇《きようゆう》を知るといわれている。なお心耳《しんじ》のある名将となると、いかに上手《じようず》が吹いても、敵の詐《さ》を看破《みやぶ》り、虚実を察し、鋭鈍《えいどん》を量《はか》り、決して、その耳を詐《あざむ》くことはできないという。
故に、螺手《らしゆ》の気は即、味方の士気でもある。沈剛大気の士がそれに選ばれたことはいうまでもない。
が、中には、
(貝の音ぐらいで、そんなことまで分るはずはない)
と疑う者もある。疑うのはそもそも、耳はあっても、心の耳を持たないからだと説く者もある。
(では、心の耳とは?)
と来ると、問われた者も、これは教外別伝に附すしかないであろう。けれど茶や禅などに参入した人ならすぐ会得《えとく》はつくはずである。
一例がある。茶の席入りにつかうあの銅鑼《どら》、あれは非常に余韻《よいん》を尊ぶ。客は、主の一打、一打に、身を澄まして、心でその音を聴くからである。
銅鑼には、南蛮、朝鮮、明《みん》、和作など種々ある。ところが、争われない事実は、その国の盛んにして民土興隆の時代に製せられた物は、ボーンと一打のあと、音いろの末になるほど、陽々と天上に昇るかの如き余韻をひろげてゆくが、それに反して、もしその国の衰退期に作られた銅鑼であると、いかに打手がよくても、音が美わしくても、余韻は陰々と地へ地へと消え入って、いわゆる楽しむ声を帯びていないものだという。
また、一般の歌調音楽も、あれは知《し》らず識《し》らずに、民の志気を導くものとされているので、古来の名宰相は、巷《ちまた》の童歌も決しておろそかには聴いていなかった。それをもってみれば、螺手の一吹《いつすい》も、聴く耳にとっては、怖いものとする方が、或いは本当かもしれぬ。
籠城の将、佐治新助は、
「城門をひらけ。巽《たつみ》矢倉を除くのほか、持口の守備わずかを残し、一陣に各所から突いて出ろ」
と、急に命じた。
腹心の老将が注意した。
「あれ聞き給え、寄手の陣所の方に、折ふし、総がかりの貝を烈しくふき鳴らしておりまするぞ」
新助は、にが笑いした。
「御老体。それゆえに出て働くのじゃよ」
「この塁壕《るいごう》に拠《よ》って守れば、戦うに利がありましょうず」
「壕はすでに埋められておる。城壁を恃《たの》んでいる時でもない。敵の越える前に、存分、城外で駈け蹴散《けち》らしてくりょう。――それからでも守るには遅くあるまい。御老体、機を観て、退《ひ》き太鼓を打て」
云い放って、佐治新助もまた、一門から馬上に槍を掻《か》い抱《いだ》いて駈け出た。
鈴鹿山と思える空の落日がまだ遮《さえぎ》る物なく地上を茜《あかね》にしていた。広きへ殺出《さつしゆつ》した城兵と、押太鼓を打って、狭きへ迫り会った寄手とが、喊声《かんせい》をあげ、奔馬《ほんば》を駈け合わせ、はやくも狂瀾怒濤の相搏《あいう》つ状をえがき出した。
寄手にとって、城兵の猛出撃は意外だった。守ることすでに半月、相当疲れているものと観《み》ていたし、また、この大事の総がかりには、必然、彼はいよいよ守塁や城門を堅く守る一方と見込んで駈け寄っていたからだった。
ところが、貝合図と同時に、城門を開いて出て来た城兵の方が、むしろ攻勢を示して突ッこんで来たのである。鉄砲はほとんど組織だてて射つ間はなかった。寄手は各隊ともに、ひたすら城乗りの一番を心がけている槍組の将士が列をくずして駈けて来たところだった。
為に、近頃の野戦では見られなくなりかけていた槍と槍、白刃対白刃、馬上馬上の斬りあいが、全軍にわたって展開された。高地から望むと、馬けむりと喊声の中にきらめくそれが無数の針のように見えた。
いかに秀吉の兵でも、必死の兵には押されざるを得ない。山の上の秀吉は、凝然《ぎようぜん》と唾《つば》をのんでいた。平日の彼には見られない顔の皺《しわ》が一つ二つよけいに寄っている。
――と。やがて、
「あ。……氏郷か、長可か。はや城中へ入りおるな。坑道は通った」
初めて顔をほぐし、それと共に狂気の如く鳴っている敵の退き太鼓を、体じゅう[#「じゅう」に傍点]で聞いているように、床几《しようぎ》の身を少し前屈みに曲げていた。
佐治新助を始め、城方の兵は、あざやかに退いていた。
尾《つ》け入《い》る機と見て――敵に離れず追い討ちかけて行った寄手は、すぐ眼のさきに、城の石垣を見たと思うと、その下に、伏せ身をしていた城兵にわッと立たれて、思わず退き足を乱した。そこを、城壁の上からも、城門の上からも、一斉に狙撃《そげき》を浴びせかけられた。
これは城方の老巧が、出撃の味方を滞《とどこお》りなく収容する奇策だったこというまでもない。瞬時にして、城門の鉄扉はかたく閉められていた。
そして、次には、それらの者が城壁の上に現われ、
「寄らば、これぞ」
と、攀《よ》じ登ろうとする寄手の頭上へ、火矢乱石を浴びせかけた。
その中に、城を離れて、動かない一軍団があった。敵とも味方とも分たぬ位置に黒々と見えるのである。
山野は暗紫色に暮れかけ、落日の射るところだけが、草も地も赤かった。
秀吉は、山上の床几場《しようぎば》から、ふと、不審な一軍が野中にかたまり合ったまま、さっきからじっと動かずにあるのを認めて、
「はて」
と、小手を眉に翳《かざ》し、
「あれや、誰の組だ?」
と左右へたずねた。
小姓の中の石田佐吉が、きぱと答えた。
「お味方の勢ではございませぬ」
「なに。味方でない」
驚いたらしい。
秀吉はさらに凝視していた。
乱軍の果て、敵は悉《ことごと》く城中へ引きあげ、味方はそれに尾《つ》いて皆、城壁の真下へなだれ寄っていた際なので、今頃なお敵の一軍が、この本陣地の近くに、じっと、居残っていようとは思いもしていなかったのである。
「ウム……。健気《けなげ》な奴よ」
敵を賞《ほ》めるかの如く唸《うめ》いた彼は、辺りへ向って、その敵を見届けて来い、と言葉強く命じた。三名の武者が声に応じて駈けた。程なくその影は、麓《ふもと》から三騎となって、動かぬ敵団の方へ近づいていた。
ぱっと、敵の前で硝煙《しようえん》の立つのが見えた。三騎のうち二騎まで落ちた。が、うちの一騎は程なく駈け戻り、床几の前に報告した。
「敵将佐治新助の老臣、鵜殿《うどの》斎宮《いつき》の手勢でありました。人数は三百に足りませぬ」
「さてこそ手練者《てだれもの》。――序戦の乱軍には目もくれず、じっと、動かず居残っている体は、死を決した者のみが捨身をもって、暮るるとともにこの本陣へ突き入って来る覚悟と思われる。いや、危ういことだ」
秀吉がこう呟《つぶや》いている間に、秀吉の令を待つのももどかしく思っていた味方の旗本の小勢であろう、陣していた麓《ふもと》の疎林からいちどに駈け出して、彼方なる不動の敵団へ、わあっと咆哮《ほうこう》を向けてゆく人数が見えた。
「何者だ。――出たのは」
左右の武者たちは口々に声を弾《はず》ませてそれに答えた。
「猪右衛門です。猪右衛門ですっ」
「山内猪右衛門一豊の手勢に見えまする」
秀吉もつり込まれて、
「猪右衛門か」と、思わず叫び――
「敵は必死の兵、心もとないが、猪右衛門なら、あれも生きる気で出おるまい」
果たして、山内一豊の手勢は、それへ当るに、驚くべき果敢を示した。動かざる必死の敵団も、その一触《いつしよく》をうけるや、眠れる虎が、一吼《いつく》して立ち上がったような猛気をふるい、両勢、およそ同数の兵が広き地域へ分裂もせず、渦《うず》となって戦い合った。彼も必死、これも必死、まさに鮮血一色の死闘図だった。
その喊声《かんせい》もハタと止んだ。野はすでに暮色である。勝敗は一瞬に決したのだ。猪右衛門一豊以下わずかの影が、綿のように戦い疲れて引っ返して来る。馬の足もとまでよろめいているかに見えた。
約三百の兵が、わずか四、五十騎しか戻って来なかったのである。その時、秀吉の側から、秀吉の旨をうけた使番の尾藤勘左衛門が急に下へ駈け降りていた。そして中腹の岩鼻から、下を通る一豊へ向って勘左衛門は、
「猪右衛門、猪右衛門。お働き御覧ぜられ、筑前様には、大慶《たいけい》斜めならず、やるわやるわと、躍り上がって、尻餅をお搗《つ》きなされ候う程ぞ。――御面目にこそ!」
と、大声で祝った。
猪右衛門は、馬のまま、上を仰いでニコと歯を見せ、
「仰山《ぎようさん》にいわるるなよ。面映《おもは》ゆいわえ」
亀山の城は、その夜、陥ちた。
守将の佐治新助以下、よく防ぎ戦ったが、城中に火を見るに至って、ついに力尽き、新助は、重囲の中に捕えられてしまった。
一説には、身を秀吉の軍に委《まか》して、城中数千の士民の助命を乞うたものともいわれている。
かほどな堅塁《けんるい》が、さいごの粘《ねば》りになって、こう急に敗れた原因は何かというと、寄手の遮二無二《しやにむに》な土龍《もぐら》戦法が犠牲を無視して城中へ入ったのが、彼の致命を制したこと勿論だが、何よりは、指揮者の機眼がよく機をとらえて、
「今だ」
と感じたことを、直ちに即行して破敵《はてき》の機を外《はず》さなかったところに最大な勝因があったというに尽きよう。
機をつかむ≠ニいうことぐらいは誰も知りぬいている常識に過ぎないが、事ある日の大機小機を、平然と見遁《みのが》してゆくのもその常識の病であるといえよう。敗軍の側から見ても、決して、非常識を策して敗れ去るのではなく、多くは常識を辿《たど》って常識に敗れ終るのである。
亀山の落城は、三月三日で、秀吉は翌四日、虜将《りよしよう》佐治新助の縄を解かせて、
「長島へ帰れ」
と、これを放った。
新助は、茫然とした。秀吉の意を解しかねた面持ちである。秀吉は笑って、
「いずれ、滝川殿とも、こうして会う日が近いであろう。桑名にも立ち寄って、ありのまま、伝えおかれよ」
と、陣門から追い立てた。
一隊をあとに留めて、秀吉の軍は、六日にはもう国府城へ移動していた。数日のまにその国府も収め、転じて同国鈴鹿口に結集した。そして一手をもって関ノ城を収め、主力は峰ノ城へかかった。
峰は、亀山以下の小城だ。そこに立籠《たてこも》っている兵も千二百ぐらいな小勢でしかない。しかし山腹の嶮《けん》を負い、渓谷を前にし、寄手の作戦行動は、極めて狭隘《きようあい》な悪地にしかゆるされない条件にある。
それとここを守る滝川儀太夫は叔父|勝《まさ》りといわれている勇将だった。叔父とは、滝川一益のことで、いうまでもなく、彼は一益の甥《おい》なのである。
寄手の主先鋒は、仙石権兵衛、木村|常陸《ひたち》、脇坂|中務《なかつかさ》、服部《はつとり》采女《うねめ》などの手勢だった。いわゆる新進気鋭の旗本たちである。奇襲、猛攻、夜襲と城兵の息もつかせず攻めた。しかし峰は微動もしない。折々にやりと笑って城外を望見してるかのごとき守将滝川儀太夫のすがたが櫓《やぐら》の上に見えたりする。
「彼奴《きやつ》」
と、寄手の陣地で認めて、
「一発で――」
と、好い獲物的《えものまと》にして、引き金ひいて撃ち争ったが、当時の鉄砲である。弾《たま》はそこまで届かない。
旬日にして、寄手は夥《おびただ》しい犠牲をかさねた。この城、短兵急には陥《お》ち難しと見えた。帷幕《いばく》の作戦もまだこれに対して何らの神算なきものの如く特に新たな令も出なかった――こういう折も折、江北から急使が着いた。長浜、佐和山、安土などから前後して報じて来たのである。
事態は容易でない。世を蔽《おお》う時雲急潮は、真にその日その日、同じ姿の世でなかった。
――いわく。
「越前の先鋒《せんぽう》、柳ケ瀬を経、一部は早や江北《ごうほく》へ攻め入りて候う」と。
次の急使もいう。
「柴田勝家、ついに、積雪の解くる日を待ちこらえず、数万の役夫をして、沿道の雪を払わせつつ、主力の大軍、徐々南進中に候う」
また、べつの飛札も、事態の急を、大々的に告げて、こう報らせていた。
(――柴田が軍勢は、ほぼ当三月二日頃、北ノ庄を発したるやに思われ、その先鋒、五日には、近江柳ケ瀬附近、また椿坂《つばきざか》にまで進出。七日、一部隊は早くもお味方の天神山へ迫るの気勢を示し、他の部隊は附近村落、今市、余吾《よご》、坂口辺りを放火しまわり、爾後、大将勝家以下、前田利家らの中軍およそ二万余は、なお続々南下中に相見え候う)
これらの報告を綜合して、秀吉はその半日のうちに、ほぼ勝家のうごきを坐《い》ながらに知った。
あとは、この大事態に処して、いかに号令すべきかの、彼の頭ひとつにある判断しかない。
「遂に、しびれ[#「しびれ」に傍点]を切らして出て来おったの……」
勝家のことをいっているのであろう。秀吉はその匆忙《そうぼう》な間、至極にやにやしていた。
「雪にとじられていた穴熊《あなぐま》も、かくなっては、春の日長を待ちきれなくなったものとみゆる」
かねて期していたところとしている容子《ようす》である。その口吻《くちぶり》には、勝家の出撃時期を、批判しているようなふうも窺《うかが》われる。
もし地をかえて、秀吉が越前にあるものならば、この時機に、出動したろうか。おそらく非常な相違があろう。こういう定石の後手は追うまい。
なぜならば、今、数万の役夫を徴用《ちようよう》して、あの江越《ごうえつ》国境の山また山を除雪しながら進む難儀は、それをもっと早い一月に決行しても、去年の冬に断行しても、帰するところ、難渋《なんじゆう》な点は同じであった。
――それを「雪の解くる日まで」と、悠々《ゆうゆう》、以後の期間をむなしく過ごしていたところに、実に勝家の常識≠ェ常識どおり踏襲《とうしゆう》されて来たものといっていい。
しかも、岐阜、勢州方面などの事態が起ると、到底、その予定も保持しているわけにはゆかなくなった。つまり事態を見ては事態に動かされていたもので、極言すれば、勝家その人の方策は、あるもないも結果においては同じものになっている。
少なくも、こういう愚は、秀吉の決して踏まないところである。およそ必然来るべき事態の見通しに対しては、彼はあらゆる先手の布石を施してからこの勢州陣へも取りかかっている。
たとえば、長浜の柴田勝豊を誘降したのもその一手であり、岐阜攻略も急速な先手だった。敵の出動路にあたる江北の各要地を巡視して、疾《と》く幾つもの砦《とりで》を築かせておいたのもそれである。さらには、遠く使いを派して、越後の上杉景勝へ、親交の書を送るなど、抜け目ない先手先手を打っている。
が、先手取りは、常人の常識ではよくつかみうるものではない。心耳に聞き、機眼に視《み》る。その人の胆略《たんりやく》如何にある。
[#改ページ]
砦《とりで》
秀吉の肚《はら》はきまった。
それがひとつの号令となって行動に移されてみれば、事は簡単に似ているが、もし主脳がその断≠下すまでに、徒《いたず》らに惑《まど》うていたら、やはり惑うに際限はなかったことであろう。そして遂に、重大な時≠柴田軍の破竹の如き出足に藉《か》してしまったに違いない。
滝川の本城桑名はなお陥ちていないし、長島も健在である。ひとたびは秀吉の陣門に詫証文《わびしようもん》を入れた神戸信孝の美濃勢力も「勝家南下す」と知れば立ちどころに豹変《ひようへん》して、これまた一益と共に厄介な火の手となることは容易に予想がつく。
今、亀山も陥《おと》し、国府も収めたといえ、それらは要するに地方的な端城《はじろ》に過ぎず、勢州攻略のことはまだ敵地を踏んだというだけのものでしかない。――この時において、越前の柴田軍が嵎《ぐう》を負う虎の如く、柳ケ瀬越えの境から大挙南進して来たということは、位置勢州にある羽柴を主力として、決して軽々に方途の定められる問題ではない。
――が、秀吉は、その明示を下すに、無為《むい》な時日を移さなかった。彼が帷幕《いばく》のうちから、
「すぐ陣払いを」
と命を発し、つづいて、
「北近江へ」
と、転陣の先をあきらかにしたのは、実に、報を受けたその日――夕刻から夜半までの間に、万端の手筈もすべてなし終っていたのである。
即ち、勢州方面の、爾後《じご》作戦は、これを織田信雄と蒲生氏郷の二将にゆだねて、その麾下《きか》には、関盛信、山岡|景隆《かげたか》、長谷川秀一、多賀秀家らの部隊を残して、
「要路は断ち、城はつつみ、来れば応じ、敢えて追わず、構えて、滝川の誘いに乗って、老巧な詭計《きけい》にかかるな」
と、かたく戒《いまし》め、そして一切を託した上、にわかに、次の日から軍を回《かえ》して、続々、土岐多良越え、大君ケ畑などの峠路から、近江へ向い出したのであった。
そして主軍秀吉が、佐和山に着いたのは、三月十五日。――十六日には、長浜に移り、翌十七日には、すでに湖岸の道を蜿蜒《えんえん》と北江州へ前進してゆく金瓢《きんぴよう》の馬簾《ばれん》や夥《おびただ》しい旌旗《せいき》の中に、馬上、春風に面《おもて》をなぶらせて行く彼のすがたが見られた。
国境、柳ケ瀬方面の山々には、まだ鮮やかな雪の襞《ひだ》が望まれた。そこを越えて、北の国から湖へ落ちてくる風はまだ武者輩《むしやばら》の鼻を赤めさすほど冷たかった。
たそがれ、柳ケ瀬附近に着くとすぐ、全軍は黒々と布陣の位置に別れ出した。すでにこの辺へ来ると、何となく、敵臭《てきくさ》いものが感じられる。そのくせ敵の姿も、立てる煙の一《ひと》すじも見えないが、
「天神山の裾《すそ》。椿坂。あのあたりには、柴田の先鋒がだいぶおる。木之本《きのもと》、今市、坂口辺にも、大部隊が駐《とど》まりおると申す。眠るにも油断をすまいぞ」
組々の将は、そういって、寸前にある見えぬ敵を、兵のために、指さしていた。
が、夜霞《よがすみ》は白く曳いて、戦いのある世とも思えぬほど、静かな春の夜に入っていた。
パチパチパチパチと、どこかで銃声がし始める。途絶えてはまた聞える。
そのすべてが羽柴勢から撃つ音ばかりで、敵は眠っているのか、終夜、遂に一発の音もなかった。
夜の明けがた。
鉄砲隊の数隊が、三方面から引揚げて来た。
夜どおしパチパチ聞えていたのは、これらの散隊が、諸所で敵の方へ当てていたさぐり撃ち≠ナあったらしい。
早朝、秀吉は床几場《しようぎば》に、銃隊長を寄せて、
「そうか。……ウむ。むむ」
頻りに、夜来の敵状況を、聞き取っていた。
で、大体の敵布陣の図が、彼の頭には、描かれて来た。
別所山には、前田利家とその子利長の軍。
橡谷山《とちだにやま》方面にあるは、金森長近と徳山|則秀《のりひで》の手勢。
また、林谷山には、不破《ふわ》勝光、中谷山には、原|房親《ふさちか》の部隊。――これがまず第一線を布陣しているもようだった。
第二隊には、佐久間盛政兄弟の大部隊が、行市山《ぎよういちやま》に拠《よ》って八方破りの堅陣を示し、その附近から奥の中尾山まで、新しい幅二間道路を切り拓《ひら》いて、中尾の頂上までつづけ、ここに総大将柴田勝家の本陣をおいて、視野と連絡《れんらく》に、遺憾なきを期していた。
「佐々の陣は見ぬな」
秀吉は、念を押した。
銃隊長三名は、三名とも、
「佐々成政の旗は、いずこにも見えませぬ。このたびの出兵には加わっておらぬものかと思われます」
と、答えた。
そうだろう――というような秀吉の頷《うなず》き方《かた》であった。勝家が出て来るにしても、背後の上杉に後顧なきを得ない。そのために、残して来る者は、必ず佐々成政あたりであろうとは、秀吉の予測していたところだった。
「よしよし。退《さ》がって眠れ」
入れ代りに、昨夜から大物見に出ていた部将が二名、そこへ入った。これらの細作隊《さいさくたい》の情報も、前の報告と、さして相違はなかった。
「朝飯」
それから後は飯だった。
手にした野戦食は、柏《かしわ》の葉でくるんである色の黒い握り飯だった。中に味噌が入っている。秀吉はそれをボソボソ噛みながら小姓組の石田佐吉、福島市松、片桐助作などと何やら語らっていたが、自分がまだ半分も喰べ終らぬまに、みなペロリと食い終っているのを眺めて、
「お汝《こと》らは食物を噛まぬか」
と、たずねた。
小姓たちは笑って答えた。
「殿が遅すぎるのでございましょう。早飯早糞は私どもの慣《なら》いです」
「心構えはそれでよかろう。早糞もよろしかろう。じゃが、飯は佐吉のように喰わねばいかぬ」
片桐、脇坂、その他の輩は、そういわれて皆、佐吉の方を見た。――秀吉と同じように、佐吉もまだ手に半分ほど飯をのこして、お婆さんのように念入りに噛みしめていた。
秀吉は云った。――
「なぜと申せば、かかる戦いの日にはまだよいが、いよいよ、城に籠《こも》って、限りある物を、一日でも長く喰いのばす時には、一城の者が、少量の食をよく噛むと噛まぬでは、大きな違いが、城の支えにも体の元気にも現われて来よう。また、山城渓谷の深きに入って、糧《かて》なく持久を策す折も、草の根、松の根、何でも噛んで胃の足《た》しにせにゃならぬ。平常、その癖をつけおかぬと、時に当って、そう随意にはならぬものぞ。――佐吉の噛んでいるのをみい。勘定高くよく噛みおる」
それから、ふいに床几《しようぎ》を立った。手招きして云ったのである。
「みんな来い。父室山《ふむろやま》へ登ってみよう」
父室山は、東浅井郡の余吾ノ湖《うみ》と、西浅井郡の琵琶湖《びわこ》との大小二つの湖の北端にある群山の一つである。麓の父室部落から頂上まで、標高二千六百尺、道程二里余。その嶮しい道を攀《よ》じるとすれば、優に半日はかかってしまう。
「お出ましぞ。お出ましぞ」
「え、殿が」
「何処へ、俄かに?」
床几場《しようぎば》警備の武者たちは、小姓群の姿を見て追いかけて行った。――秀吉はと見ると、細い青竹を杖とし、まるで鷹狩の折のように、気楽げにテクテクと先へ一人で歩いているのである。
「お登りなされますか」
追いついた一柳《ひとつやなぎ》市助、木村|隼人佑《はやとのすけ》、浅野日向などが、息せいて訊ねると、秀吉は顧みて、
「おう、あの辺りまで」
と、竹の杖を上げて、中腹の一高地を指した。
山の三分の一ほど登ると、小平地があった。秀吉は額《ひたい》に汗を吹かせて見せながら風の中に立った。そこに立つと、およそ柳ケ瀬から下余吾方面までの山河が一眸《いちぼう》に俯瞰《みおろ》された。山を縫い村落をつなぐ北国街道も一すじの帯のように眼で辿《たど》れる。
「中尾山は」
「あれでございます」
木村隼人の指さす所へ、秀吉の眼は向いていた。敵の主陣地である。夥《おびただ》しい旌旗《せいき》が山の皺《しわ》に沿うて麓までつづき、その麓にも、一軍団が認められる。
さらに眼を放つと、彼方の山々、此方の峰々、或いは道の要衝《ようしよう》を取って、北国勢の旗は、ここと思う所に、見えぬ所はない。あたかも兵法の妙手が、ここの一天地を棋盤《きばん》として、大展陣を試みたかのようである。布置《ふち》の妙、配備の要、隙なく、間なく、逆なく、またすでに呑敵《てきをのむ》の気も昂《たか》く示して、壮観言語に絶すばかりだった。
「…………」
秀吉は黙々眺め渡していた。そして眸を、またもとの柴田勝家の主陣地たる中尾山の一点にもどして、凝視を久しゅうしていた。
よくよく見ると、中尾山主陣地の南面に、蟻《あり》のように動く人影が認められる。一ヵ所や二ヵ所ではない。小高い所には悉《ことごと》く何らかの活動が見られるのだった。
「……ははあ。さては勝家、長陣の心組みでおるか」
秀吉は答えを得た。
敵は、主陣地の南方へ、幾段もの砦《とりで》を構築しているのである。中軍から展《ひら》いている全陣形の綜合的陣容もまた極めて念入りな主守|漸進《ぜんしん》の大事を取っているものであり、急潮をなす気勢はまず見られなかった。
「む、そうか」
敵の企画は読めた。そういったふうな彼の独語だった。――要するに勝家は、これへ秀吉の主力を寄せつけ、一たん勢州の危急を救うと共に、ここではなるべく接戦を避け、持久を策して日を移し、その間に、伊勢美濃その他の味方に充分時を稼がせて、機の熟すや南北から大攻勢を起し、秀吉をして腹背《ふくはい》二面の苦境に陥《おちい》らしめんとする意図であったのだ。――秀吉が察知したところもまたそれであった。
「戻ろう」
秀吉は歩き出し、山下を望みながら、供へ訊ねた。
「べつな降り口はないか。登って来た道でない道が」
「あります」
片桐助作が心得顔に、側を摺《す》り抜け先に立った。
「杣道《そまみち》ですが、あれを、左へ降りると、天神山の西、池ノ原へ出まする」
「助作はこの辺の生れとも聞かぬが、どうして杣道まで詳しく存じておるか」
「去年《こぞ》の暮、この辺を御巡視の砌《みぎ》り、お供の余暇を窺《うかが》って、独り彼方此方、歩きましたから」
「ふム。何を思うて?」
「二度まで殿がお歩きある以上、後日、必ずこの地こそ、柴田勢との決戦場たる地に相違なし――と思い定めましたゆえ」
「そうか」
頷《うなず》いたのみだったが、秀吉の眼は、うい[#「うい」に傍点]奴《やつ》――と愛《め》でているようだった。
たえず彼の側にある小姓組のうちでは、脇坂甚内|安治《やすはる》の三十歳が年頭《としがしら》で、次が助作の二十八歳であった。
ついでに、他の面々を見ると、平野権平と大谷平馬吉継とが、同い年の二十五歳。
福島市松が、二十四。
加藤虎之助が、二十二。
加藤孫太郎|嘉明《よしあき》、二十一という順になる。
このほか、秀吉の側にはいないが、今度の戦陣に参加している若桜には、一柳四郎右衛門十八歳、黒田吉兵衛長政の十六歳、菅六之丞の十七歳、羽柴秀勝の十六歳などがあり、恐らく、最年少と思われる者に、丹羽長秀の子、丹羽鍋丸の十二歳などがある。
これらは皆、武将の子、名門の子弟だが、槍、荷駄、その他の組にも、年まだ十五、六の紅顔の兵は沢山いた。そのすべてが皆、実戦への参加をわが子にせがまれ[#「せがまれ」に傍点]、或いは、父が望んで、相携《あいたずさ》えてきたものだった。
なぜといえば、死生の間を通らずには、一箇の人としての成長もなく、戦場に学ばずしては、武門の子の教学もなかったからである。
ここに見る羽柴家子飼の者にしても、かつて、長浜の小姓部屋時代には、どれもこれも、青洟《あおばな》を垂らしかねない芋《いも》の子、山の子揃いだったのが、それが、どうして? と疑われるほど、いつのまにか各※[#二の字点、unicode303b]、一《ひと》かどの人品と武者振を備え、天下大惑の乱れを救うものわれなり――となす秀吉の左右にあって、大事小事、如何なる用にも事欠かぬだけの教養もみな持っていた。
それは決して、平日|机坐《きざ》の学問から受けたものではない。
多年、戦陣また戦陣で、主人の秀吉自身からして、勉強らしい勉強を書物に就いてする暇などなかった。兵書、国学、道義の書など、折にふれて手に取っても、それは悉《ことごと》く戦陣の燈下か、敵前の小閑だった。彼の小姓部屋の輩が、洟《はな》たれ[#「たれ」に傍点]時代から今日へ来た教学の過程もまた、同じものだったというてよい。
しかも秀吉始め下手《へた》ながら、国風《くにぶり》の和歌も詠《よ》まんとなれば詠みもするし、筆書諸道、人なみはみな嗜《たしな》んでいる。思うに、彼らの学問は、机というものを知らず、ただ、生死の道の生命を手鑑《てかがみ》とし、人間世態の現実を訓《おしえ》と省《かえり》み、天地自然を師となして体得されたものである。
降《くだ》りを変えたので、道を巡《めぐ》って来るにつれ、東方の平地が展望されて来た。
秀吉はふと足を止めて、
「あの煙は何か」
と、木下日向守を顧《み》た。
「高時川の部落が焼けておるのでございましょう」
「その彼方《かなた》の煙は」
「新堂かと思われまする」
「もそっと、右の方へ寄って、なお旺《さか》んな煙の見ゆるのは、どの辺か」
「今市の町と、狐塚《きつねづか》辺に当るかと存じられますが」
「柴田め。……焼きおったの」
と、秀吉は東浅井の半ばにもわたる辺土のいちめんな濛煙《もうえん》を見て、ふと唇《くち》をかむかの如く呟《つぶや》いて、
「見よ、やがてこの火が、柳ケ瀬を越え、北ノ庄まで焼き払うであろうことを」
急に早足になった。降《くだ》りなので扈従《こじゆう》はみな追いかける程だった。秀吉の胸には何か、勃然《ぼつぜん》たる怒りが発したものらしい。
彼が主力をひっ提《さ》げてこれへ来るまでの間に、柴田勢が放火したり、田畑や穀倉《こくそう》などを蹂躪《じゆうりん》した地域はかなりの広さにわたっている。すでに詳報も聞いていたが、その被害をまざまざと眼に見ては、激怒に衝《つ》かれざるを得ない。
しかし、彼が感情に駆られざるを得ないまでに、町、村落、農田、山林までを荒し廻った柴田勢の底意は――要するに秀吉のその通りな気持を誘致《ゆうち》しているものであって、いわゆる激を誘って備えに撃つ≠フ策たることは明らかである。
「――遅いぞ、遅いぞ」
麓《ふもと》に着くや、秀吉は遅れた者を振向いて、こう大声に呼んでいた。そして、供の顔が側に揃うと、
「どうじゃ、早かろう。筑前、まだ年は老《と》らぬな」
と、健脚を誇った。
焦土の余煙を遠望して、勃然とうごかした感情はもう顔のどこにもない。竹の杖を弄《もてあそ》びつつ細い藪《やぶ》道を歩みながら、
「ホ。野梅が咲いておる」
などと美麗《きれい》なものを見出してしばし見恍《みと》れていたりした。
藪鶯《やぶうぐいす》の声もする。世は戦いというのにあわれ啼きぬいている。秀吉は、左右へ向って云った。
「春ながら、誰も見てやる人もない。ふと眺めてやるも路傍の情よ。誰ぞ、発句せぬか」
「…………」
つかの間、みな黙った。陽に立つ梅の香が皆の顔へそっと触《ふ》れてくる。
大谷平馬吉継が発句した。
来る人に語りたげなる野梅かな
すると、平野権平|長泰《ながやす》が、声に応じて、
花は過ぐとも待て勝つ日まで
と、下の句を附けた。
秀吉は上機嫌を示し、よしよしと感賞しながらまた歩き出した。歩みつつ上下の句を一聯して、口のうちで微吟《びぎん》していた。
天神山と池ノ原の間まで来ると味方の一陣地があった。陣旗を見ると、細川与一郎|忠興《ただおき》の持場であった。
「喉《のど》が渇《かわ》いた。白湯《さゆ》なと貰おう」
そんなことを云いながら秀吉は陣門へ近づいて行った。忠興とその家臣たちの驚きは一方でない。突然の陣見廻りかと考えたらしい。
「いや何、父室《ふむろ》へ登った帰り途じゃ。――が、思い出したゆえ、ここで伝える」
と、秀吉は忠興を前に見ると、白湯をのみながらこう命じた。
「お汝《こと》の軍勢は、直ちにここを陣払いして、国許へ帰れ。そして、丹後宮津一円の兵船を挙げて、越前の敵沿海を脅《おびや》かせ」
忠興は、ありがとうぞんじますると即座に答え、秀吉が去った後で、すぐ陣を引払い、宮津へ帰国した。
そして、やがて一ヵ月後、ここに賤《しず》ケ嶽《たけ》決戦の果さるる日となるに及び、この細川軍の一手は、水軍をもって、越前の領海を水上から襲撃したのであった。
山へ登って、水軍を着想する。こういう連想によらない構想は、秀吉でなければちょいと働いて来ない頭脳《あたま》といってよい。
彼の頭脳のはたらきと、肉眼の視界とは、大して関係がないのである。
それはともかく、その日、忠興に唐突《とうとつ》な引揚げを命じて、一椀の白湯《さゆ》に喉をうるおし終ると、秀吉は、
「どれ」
と、床几《しようぎ》を辞し、国許へ帰ったら藤孝によろしく伝えてくれい――などと忠興に語りながら陣外へ出て来たが、別れるとすぐ振向いて、
「与一郎、与一郎」
と、また忠興を呼んだ。
まだ何か命じ残したことでもと――忠興が駈け寄って行くと、
「与一、筑前に、馬を一頭おくれぬか」
というのであった。
忠興は、名馬を望まれたことと思い、当惑そうに、
「私の愛馬はさし上げるわけにはまいりませぬが、他の馬なれば」
と、いった。
秀吉は無頓着に似ていた。彼の繋《つな》ぎ杭《ぐい》を見て、自身立ち寄り、
「これを貰うぞ」
と、もう乗っていた。
それは、鞍こそ置いてあるが、荷駄組の者の乗用していた丈夫一方の不恰好な馬だった。
(大将、馬相を観《み》る目がないな)
若い忠興はふと軽んじるような念を抱いたが、いつか佐和山城内で、父の藤孝から懇《ねんご》ろに諫《さと》されたことばを思い出して、
(いやそう見ては、自分こそ、人を観《み》る目がない者かも知れぬぞ)
と、すぐ、自己を戒《いまし》めて、駄馬に乗って行く秀吉の姿を見送っていた。
秀吉は、馬の背から、
「虎之助」
と、供のうちの加藤虎之助を呼んでいた。
「なんぞ?」
と、鞍側へ寄って見上げると、秀吉は、鞍腰をすえ直しながら云った。
「この馬は、癖馬《くせうま》か。左へ左へと寄りたがるぞ。どうしたことか」
「ははは。その筈です」
「脚でも悪いか、鞍ずれか」
「いえ、片目が曇っておりまする」
「何、片目か」
秀吉も、大いに笑って、
「与一めが、馬を惜しむは、士《さむらい》らしい物惜しみ、そうありてよしと思うたゆえ、筑前が帰陣までの用達《ようた》しには、駄馬にてよけれと、わざと駄馬を選んだのじゃが、片目とは思わなんだ。これは厄介な物を所望《しよもう》してしもうたぞやい」
「お気づかいなされますな。虎之助がよいように口輪を取りますれば」
「廃馬《はいば》も曳きようか」
「そういえましょう」
一里余にして、新堂から高時川附近へ出た。この辺の村落は悉《ことごと》く敵に焼かれていた。秀吉はつぶさに見つつ折々|傷《いた》む眉をしていた。わけて今市の町へかかると、灰燼《かいじん》のほか眼にふれる物もなかった。聞けば二日前の夜に敵が焼き払ったとのことであるが、以後、雨もないせいか、なお煤《いぶ》り煙っている土もある。
東浅井の今市は、彼の思い出ふかい長浜時代の領下である。
多くの領民は皆、山地へ遁《のが》れて姿を見せぬが、広い焼けあとにはなお焼け出されたままの姿で何を求めるか歩いている人影もある。それや路傍の敢《あ》えなき亡骸《なきがら》や、何を見るにつけ、秀吉も胸に傷《いた》みを覚えずには通れなかった。久しい年月、手塩にかけた旧領下の民である。かつて領内歩きのときには、あれもこれも、馬前で見かけた老若男女だったような気がする。
(――不愍《ふびん》な者どもよ、こういう憂き目を見すること、戦乱の世の常といえ、筑前、民の上に立ちながら、民に頼まれ効《がい》もないこと。しかも不時に越前軍の出撃あるべしとは、かねて知られながら、敵をして、かく誇らしめたるは、ひとえにわが不覚のいたせるところぞ。――ゆるせよ、ゆるしてよ)
そこらの死者にも、灰燼《かいじん》にも、また生ける人影へも、秀吉は詫びつつ馬を歩ませていた。そのうちに彼は何を見かけたか、
「虎之助、待て」
と、馬の口輪を止めさせた。
「彼方《かなた》の焼け跡に、家を失うた者が大勢して、焦土にひれ伏しておるようじゃが、どうしたことぞ。飢えておるのか、泣いておるのか」
木村|隼人佑《はやとのすけ》、浅野日向、小姓組の面々も、秀吉のことばに、初めて広袤《こうぼう》な焦土の中に、その異様なる一群の人間がいることを知り、みな不審そうな眼をこらしていた。
「あ。分りました」
石田佐吉だった。ふいに膝を打って、馬上の主人へ告げた。
「あれはたしか、今市観世音の跡でございます。観音堂の焼け跡にちがいございませぬ」
「観音堂のあとか」
「そうです。伽藍《がらん》も楼門も、木々までも、跡かたなく焼け失せておりますが」
「ああ……」
秀吉は驚歎した。人の真実に打たれた面持《おももち》だった。一物も焼け残っていない灰へ向って、庶民の心はそこになお、観世音の実在を観ているのであった。そして再生の誓いをしているものと思われる。
荒涼たる焦土にはもとより何ものも眼に入るものはないが、戦災民の額《ぬか》ずいている前には、まさしく大慈悲光の観音が降りていた。秀吉の眼にもそれが見えた。
彼は馬を降りて、彼方の一群の方へ向い、掌《て》を合わせた。そしてふたたび鞍に回《かえ》ってそこを通り過ぎた。庶民たちの方では気づかない風だったが、秀吉は、本陣へ帰ってからでも、焦土の中のその一光景が、頭から消えなかった。
半日にわたるその日の戦区視察で、秀吉の作戦構想はほぼ肚がきまったらしく、その夜、帷幕《いばく》のうちへ、諸陣地の将をあつめて方針を授けた。即ち、敵の持久戦にたいし、われもまた、さらに諸塁を構築して、持久対峙の策を取るべし――ということだった。
砦《とりで》の構築が、開始された。
土木は、民意を旺《さかん》にさせる。民土にひそむ敵愾心《てきがいしん》を、戦いへ総結させるためにもこの際――と秀吉は大規模にそれへ取りかからせた。
目睫《もくしよう》の大決戦期に、敵前これを実施するのは無謀とも大胆ともいえる。もし間隙《かんげき》に敗《やぶ》れんか、敗因の罪は一に敵前土木の工などに、かかずらっていた迂愚《うぐ》にありと、世に嘲《わら》わるるは必定《ひつじよう》である。
が、彼は敢えてその迂《う》を取った。まず領民を総結するためである。彼の仕えた信長の軍《いくさ》ぶりは、常に破竹の勢いを示し信長の征《ゆ》くところ草木も枯れる≠ニいわれたものだが、秀吉の軍はやや趣《おもむき》を異《こと》にし、彼の征く所、陣する所、おのずから民を寄せ、市をなし、まず克《よ》く民を持つ――そのことを、敵に勝つ前の大事としていた。秋霜凜烈《しゆうそうりんれつ》はもとより軍紀の骨胎《こつたい》だが、血風|蕭々《しようしよう》の日にも、彼の将座にはどこか春風が漂っていた。誰やらの句にもいう。
春風や藤吉郎の居るところ
――なる趣が確かにあった。
さて。砦《とりで》の設営箇所は、北国街道中之郷の北山から東野山、堂木山《だんぎやま》、神明山への第一線地区と。――岩崎山、大上山、賤ケ嶽、田上山、木之本などの第二陣地区にわたる広範囲なもので、当然、延《のべ》何十万人もの労員を要する。
秀吉は長浜の領下からこれを徴集した。特に戦災地には高札を立てさせた。
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一 老幼男女を問わず、せむし足なえたるも構いなし、土かつげぬ者は、縄ないさせ申すべし。
一 当座、米《よね》と塩とを与うべし。後日には、竈《かまど》の年貢《ねんぐ》、一年|赦《ゆる》しあるべし。家失いたる者には御合力のお沙汰あるべし。市《いち》、この夏より立つべし。盆には、踊りあるべし。
一 馳《は》せおくれまじき事。各※[#二の字点、unicode303b]見あいて、寝盗人《ねぬすびと》家におくな。構《かま》えて、重罪たるべし。
[#ここで字下げ終わり]
山々は日ならずして人間で埋まった。木は伐《き》られ、道は拓《ひら》かれ、彼処にも一塁、ここにも一塁、やがて一大|要塞地圏《ようさいちけん》の現出が思われた。
が、事実の工事は、そう容易でない。その一塁といえ、望楼陣舎も要る。濠《ほり》や築堤の工もある。山麓は鹿砦《ろくさい》を繞《めぐ》らし、中腹には迷路を作り、一ノ柵、二ノ柵、三の木戸と畳み上げて、敵が攻め口として登りそうな道の上には巨木巨石を蓄えて置くなど、戦略的施設も随所に多い。
殊に、第一戦区の、東野山から堂木山までの間は、柵と塹壕《ざんごう》で、蜿蜒《えんえん》と繋《つな》がれた。この土掘りだけでもたいへんである。その大土木もわずか二十日程で完了していた。この力の中には文字どおり老いも女も子供も参加していた。笊《ざる》に一杯の土を抱えてよたよた運ぶ婆すら見えた。乳呑み子を持つ女房が湯沸かし場で炊《かし》ぎする姿もあった。もとよりそれ自体の力は多足というに足らない。しかしそれが一般強壮な者の汗闘《かんとう》を奮《ふる》わすことは大きい。彼らは戦災の悲愁《ひしゆう》をわすれ、希望の明日をこの土木へ賭《か》けたのである。
秀吉は、各|砦《とりで》を一巡して、
「よし」
と、頷《うなず》いた。
砦の工事――それのみに強味を得たのではない。領民の胸にもこれで心の砦≠ェ固められたとなしたからである。
軍民ひとつの心の砦≠ニ、地物一切による要塞の全工事が成ると、秀吉はここに麾下《きか》各将の部署をさだめた。
第一線地区。――東野山の砦には堀秀政の五千人、街道の北方に、小川佐平次|祐忠《すけただ》の千人。また堂木《だんぎ》山には、山路|将監《しようげん》正国、木下半右衛門などの勢各※[#二の字点、unicode303b]五百。
神明山に陣する者、大金藤八郎、木村|隼人佑重茲《はやとのすけしげのり》など、同じく各五百――この辺は、柴田勝豊の持ち場だが、折ふし勝豊がまた病気中のため、その家臣大金藤八郎と山路将監が代って指揮に当っていた。(勝豊は程なく京都にて病死す)
第二線地区。――
ここには秀吉直属の高山右近長房が岩崎山に。中川清秀が大岩山に。桑山重晴が賤ケ嶽に、各隊千人の同兵力で中核的な堅陣を示した。
さらに、田上山に羽柴秀長の一万五千人が置かれ、諸塁はこれらの衛星とも見られる。
このほか客将格の丹羽長秀は、湖北の警備に当って、海津近傍に七千余の兵力を出した。その子丹羽長重も三千人をひきいて敦賀《つるが》方面の牽制《けんせい》に任じている。元よりこれが秀吉軍のすべてではないが、大体、以上の部署へ兵力配置をなし終ったところで、秀吉はべつに、一構想をひとり胸底に抱いていたのだった。
――が、なおそれは誰にも洩らさず、数日は敵の動向を量《はか》っていた。初め、秀吉方で諸砦を構築しだすと、柴田勢は夜間奇襲や、種々《いろいろ》な小策を取って、盛んに妨害して来たが、常に備えあるものに対しては、何の奇功もないことを覚《さと》ったらしく、以後はまったく山の如く動かず、むしろ無気味なものすらあった。
――なぜ容易に動かぬか。
秀吉には分っていた。与《くみ》し易からぬ老練の強敵よ、と秀吉が思いつつあることを、勝家も同様に思って自重に自重していることは勿論だが、他に重大な理由がある。
勝家としては、もうここでの戦備は充分としていたが、他方面にある手持の持駒《もちごま》たる味方の機動力が、全面的に動員されて来るには、機なお熟せず、と観《み》ていたからであった。
持駒としているのは――いうまでもなく岐阜の神戸信孝だった。信孝が起つことによって、滝川一益も、桑名の城から積極的攻撃に移り、ここに初めて、勝家の考えていることが戦略上に実際化されるのだ。
(さもなくばこの戦、容易には勝ちを取り難い)
とは勝家が初めから密《ひそ》かに苦慮《くりよ》していた公算だった。その公算は、われと彼との、国力比較から来ている。
当時、秀吉方は山崎以来、急激にその勢望を加えており、彼の与国は、播州《ばんしゆう》、但馬《たじま》、摂津、丹後、大和《やまと》を始め、他の幾州に股がって高二百六十万石に及び、兵力六万七千は動かし得る。――それに織田信雄の尾張、伊勢、伊賀に散在する兵や備前の宇喜多その他を合わせれば、無慮《むりよ》十万に上るであろう。
柴田方は、越前北ノ庄を主力に、能登《のと》の前田、加賀|尾山《おやま》の佐久間盛政、越前大野の金森長近、加賀|松任《まつとう》の徳山則秀、越中富山の佐々成政などを併《あ》わせ、百七十余万石、動員兵力量四万四、五千にすぎない。
――これに美濃、伊勢の信孝、一益の国力を加え、ようやく、ほぼ敵と拮抗《きつこう》し得る六万二千人の兵力を持ちうることになるのだった。
[#改ページ]
謀《ぼう》 略《りやく》
旅の僧形《そうぎよう》である。壮夫の如き足つきだった。いま集福寺坂を登って行く。
この辺は、西浅井の沓掛《くつかけ》、集福寺、柳ケ瀬など、山また山へ続く間道だ。しかも柴田軍の主陣地をなす行市山《ぎよういちやま》から中尾山の警備区域内でもある。果たして耳ざとい哨兵《しようへい》の一群が、突如、木蔭を排して踊り出で、
「どこへ」
と、僧の前へ槍垣《やりがき》を示した。
「おれじゃよ」
僧は、かぶっている法師|頭巾《ずきん》を剥《は》いでみせた。哨兵たちは、粗相《そそう》を詫びて、うしろの柵へ手合図を振った。木戸にはべつな一隊がかたまっている。僧はそこの番将へ向って何か話しかけた。馬を貸せと懸合《かけあ》っているらしい。迷惑そうであったが否み難い要務の者とみえ、番将自身、曳いて来て渡した。僧はそれに乗ると、行市山の営へと前にも増して急いでいた。
行市山の営は、佐久間|玄蕃允盛政《げんばのじようもりまさ》兄弟の陣所だった。僧形の男は、玄蕃の弟安政の臣水野新六という者で、秘命を帯びてどこかへ使いしたものらしく、半刻ほど後には、
「いま戻りました」
と、主人の久右衛門安政の帷中《いちゆう》にあって、畏《かしこま》っていた。
「どうだった? 吉左右《きつそう》は」
と、待ちわびていたらしい安政。
「まず、調《ととの》いました」
と、新六。
「会えたか、首尾《しゆび》よう」
「いやもう、敵の監視きびしく、山路殿へ近づくだけでも、容易ではございませんでした」
「そうあろう。それでこそ特にその方をさしむけたのじゃ。して、将監《しようげん》の意中は」
「これに携《たずさ》えて参りました」
網代《あじろ》笠の裏を覗き、笠の緒の付根《つけね》をパリッと|※[#「手へん+劣」、unicode6318]《むし》り取った。その下に貼り込めて来た一通の書状が彼の膝へ落ちた。新六は、畳み目を伸ばして主人の手へ渡した。
安政は、封の表をとくと見て、
「うむ、たしかにたしかに将監の手蹟《しゆせき》。……が、これは兄者人《あにじやひと》への名宛てになっておる。新六、わしに従《つ》いて来い。すぐ兄者人へお目にかけ、また、中尾山の御本陣へも急達して、およろこびの顔を見よう」
「お待ち下さい」
新六は倉皇《そうこう》として、べつな小屋へ退《さ》がり、僧衣をかなぐり捨てて具足を纏《まと》い直して来た。
「お供いたしましょう」
主従はそこの柵を出て、なお行市《ぎよういち》山の頂上へと登って行った。兵馬、柵門、営舎の布置は、上へ行くほど堅密《けんみつ》になる。そしてやがて仮城とも見える本丸小屋と無数の陣幕が山上に展《ひら》かれ、中央に馬簾《ばれん》、旌旗《せいき》などの簇立《ぞくりつ》している所こそ問わずして、佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》の床几場《しようぎば》と知られる。
「久右衛門安政じゃ。兄者人へ伝えられよ」
陣門の番将へいうと、旗本の近藤無一が走り出て来て、
「おう、御舎弟様ですか。――殿は御床几におられませぬ」
「中尾山へでも行かれたか」
「いや、あれにおられます」
無一が指さす彼方《あなた》を見ると、なるほど兄の玄蕃允は、本丸小屋から離れた彼方の山芝のうえに、何をしているのか四、五の武者や小姓達と共に坐りこんでいた。
近づいて行って見ると、玄蕃允は、小姓の一名に鏡を持たせ、また一名には鬢盥《びんだらい》を捧げさせて、青空の下に他念なく、顎鬚《あごひげ》を剃《そ》っているところだった。
この日は四月十二日。(陽暦六月二日)
天地はすでに夏に入り、江南の駅路《うまやじ》や、平野の城市はもう暑さを覚える頃だが、その山上も、一眸《いちぼう》の山岳地も、春はいまが闌《たけなわ》である。木の芽の叢《むら》、浅みどりの谷々には、所々、燃ゆるような山つつじ[#「つつじ」に傍点]や山桜の盛りが眺められる。
「兄者人、これにおられましたか」
安政が来て、その芝地へひざまずくと、
「おう、舎弟か」
と、玄蕃はちょっと横目に見た。が、なお剃《そ》りかけている顎《あご》の先を、小姓の持つ鏡の前へ突き出して、悠々《ゆうゆう》と剃り終り、さて剃刀《かみそり》を置き、鬢盥《びんだらい》の水で青髯《あおひげ》の痕《あと》を洗いなどしてから、初めてこっちへ向き直った。
「何用か。――安政」
「小姓どもをみなお退《しりぞ》け下さいませ」
「小屋へ戻ってもよいぞ」
「いえいえ、ちと密談、こここそ充分見通しのまたとない座敷」
「そうか。しからば」
と、顧みて命じた。
「みな遠くへ退《ひ》いておれ」
小姓たちは鏡や鬢盥を捧げて去った。近侍も退いた。山上の芝地は相対す佐久間兄弟のみとなった。いやもう一人いる。安政の伴って来た水野新六である。新六は身分柄、遠くにあって平伏したままだった。
玄蕃も今、気づいて、
「新六が戻ったか」
「首尾よう戻りました。御用も上々に足りたようで」
「御苦労御苦労。して山路将監の返答は」
「新六が託されて参った将監の書状です。――まず御披見《ごひけん》を」
「お。……これをな」
玄蕃允は手に取るとすぐ開封した。蔽《おお》い得ない喜悦が眼にも溢れ唇元《くちもと》にも漂《ただよ》い出した。いかなる秘事の成功をこう歓ぶのか。彼はじっとしていられないように肩を揺すぶった。
「新六。もっと近う寄れ。そこでは遠い――」
「はっ」
「将監の書中によれば、なお詳しくは使いの者に仔細申し授《さず》け置く――と相見ゆるが、将監からの伝言、余すところなくそれにて申せ」
「口上をもって、山路殿がお伝えには、何分、自分と大金藤八郎の両名は、もともと、長浜の臣、長浜のああなる前より勝豊様とは意見を異にしおる者とのことを、秀吉始め麾下《きか》の諸将も存じおるゆえにや、われらに、堂木《だんぎ》山と神明山の二塁を預けて、それが守備に立たせながらも、いっこう油断なく、べつに秀吉の腹心木村|隼人佑《はやとのすけ》を監視に付け、滅多に、動きもとれぬ始末と申されておられました」
「……が、書面には、明朝、大金藤八郎と共に、必ず堂木|砦《とりで》を脱出して、この方の陣所へ投ずべし、と認《したた》めおるが」
「その儀は、秘中の秘ゆえ、書中にはお認めございますまいが、詭謀《きぼう》を用いて、木村隼人佑を殺し、さそくに旗を反《かえ》して、同勢一散に、柴田方へ馳せ参ぜんとのお確約にございます」
「明朝といえば、間もない。こなたからも途中まで迎え勢を繰り出しておけや」
と、安政の眼へ云いふくめ、また新六の方へこう訊ねた。
「秀吉は今、陣中にいるらしくもあり、長浜にいるとも聞くが、そちの見たところではどうじゃ。正しくは何処におろうか」
「さ。それのみは、とん[#「とん」に傍点]と定かに相分りませぬ」
水野新六は率直に答えた。
「分らぬか」
と、玄蕃允も歎じていう。
柴田側として、秀吉が、前線にいるか、長浜にいるかの疑問は、重大な謎だった。
いかに探《さぐ》らせてみても、確報をつかむに至らないのである。殊に、ここ数日来は、羽柴軍にも微妙な戦気が見え、味方の作戦も熟しつつあるのだったが、肝腎《かんじん》な、
秀吉の所在如何?
の問題が慥《しか》としない以上、どうにも、現在の戦態から一歩も積極的に移行することができない実状にあった。
なぜというに。
柴田軍はあくまで一方的侵攻を方略としていないのである。神戸信孝《かんべのぶたか》の岐阜軍が蹶起《けつき》の機の熟す日を待つこと久しいのであった。かたがた、伊勢の滝川一益も攻勢に転じ、勢濃二州がこぞって秀吉の背後を脅威《きようい》するに至る日をもって、即ちここの二万余勢の総兵力も、一挙、なだれ打って、西浅井、東浅井の諸砦《しよさい》を攻めつぶし、秀吉を長浜、佐和山の一隅へ追いつめ、完全なる終局の勝利をかたく期しているものだった。
すでに、岐阜の信孝からは、
(近々に、不測《ふそく》を起し、勢州とも諜《ちよう》じ合わせ、秀吉のうしろを奪《と》るべし)
と、密書をもって、勝家まで告げに来ているのである。
それにたいし、もし秀吉が長浜にいるものなら、秀吉は早やその気配を察知して岐阜、柳ケ瀬の両面に備えているものと見てよい。そしてこちらも充分その要意あるべきだし、もしまた秀吉が、今なお江北前線にあるとすれば、信孝の起つべき時はまさに今を措《お》いてはない。
柴田軍としてはそのことに先立って、極力、秀吉をここに膠着《こうちやく》せしむべき方策を取り、信孝が作戦に有利な情勢を速やかに展開しておく必要もある。
「不明かのう、その一事は」
玄蕃允《げんばのじよう》は、もういちど、口の裡《うち》で繰りかえした。彼の旺盛《おうせい》な戦意や日頃の性格からしても、月余にわたる無為に似た長陣は、もはや到底耐えきれない鬱屈《うつくつ》となりかけていたにちがいない。
「――いや、慾をいえば限《き》りもないこと、山路|将監《しようげん》の誘致が調《ととの》うただけでも、この際、まずまず祝着《しゆうちやく》とせねばなるまい。どれ、早速に北ノ庄殿のお耳へ達しておこう。……安政、おぬしは勝政(末弟)とよく計って、明朝山路が内応の合図を見さだめ、抜かりのう手配しておけ」
「畏《かしこま》りました」
「新六には、いずれ後日、御褒美のお沙汰あろうぞ」
「ありがとうぞんじまする」
安政と新六とは、先に立って、自陣へ帰って行った。玄蕃允は小姓をさしまねいて、愛馬青嵐《せいらん》≠彼方から曳かせ、武者十名ほど具して、そこから直ちに中尾山の本陣へ向って行った。
行市《ぎよういち》山から中尾本陣までの軍用路は、幅二間の新道で、蜿蜒《えんえん》二里余、ほとんど嶺の上を縫っていた。折ふし満目、深山の春である。名馬青嵐を打たせてゆらゆら行けば、玄蕃允の荒胆《あらぎも》にも月花の風流ならぬ歌心が、しきりに胸を往来した。
中尾山の本陣は幾柵《いくさく》にも囲まれている。彼は木戸へかかるたびに、馬上から一言、
「玄蕃允ぞ」
と、名乗るだけで、衛将番卒を見下ろしながら、通って行った。
ところが、本丸小屋奥の木戸も、その顔≠もって、通ろうとすると、
「待て」
と、守備の衛将が、きびしく制止して、
「何処へ行かれる?」
と馬上の玄蕃允を誰何《すいか》した。
玄蕃允は、じろと振向いて、
「やあ、毛受《めんじゆ》か。――叔父御に会いに参る。叔父御はお小屋か、お陣幕《とばり》の裡か」
案内せよ、といわぬばかりである。毛受|勝助家照《しようすけいえてる》は、ふと苦々《にがにが》しい眉をあげ、玄蕃允の前へ廻ってこうたしなめた。
「まず馬からお降り下さい」
「なに」
「ここは御大将の帷幕《いばく》に間近な陣門です。いかなる御方であろうと、また急用であろうと、馬上のまま乗り入れはゆるされませぬ」
「いうたの。勝助」
苦笑いしながら玄蕃允は降りた。こいつが≠ニいう反感であったが、軍紀には抗し得ないのである。その代り相手の要求通り下馬すると、もってのほか語気は荒くなった。
「叔父御は、いずれか」
「御軍議中です」
「誰と誰が寄っておるのか」
「拝郷《はいごう》殿、長《おさ》殿、原殿、――浅見殿。御子息権六勝敏様なども加えられ、御幕下のみで御陣幕に籠《こ》もられておられまする」
「ならば、さしつかえない、そこへ罷《まか》り通る」
「いや、お取次しましょう」
「それには及ばん」
玄蕃允は押通ってしまった。
毛受勝助は、その姿を見送っていた。ふと蔽《おお》い得ない憂色が眉をかすめていた。彼が面《おもて》を冒して今のような咎《とが》めだてをしたのは、ただに軍律ばかりでなく、日頃から玄蕃允の態度に対して、ひそかに反省を求めたいものがあったのである。それは玄蕃允が何かにつけて、勝家の寵《ちよう》に驕《おご》っている風があることだった。北ノ庄の主脳部に一族間の私情的な盲愛と狎恩《こうおん》が濃くうごいているのを見ると、勝助は、この堅陣も心もとない気がしてならない。尠なくも、軍中においては、叔父御≠ネどという私称をもって、この大軍の総帥《そうすい》を呼ばせたくない気持だったのである。
――が、当の玄蕃允《げんばのじよう》は、勝助家照の憂いなどは、もとより意にもなかった。彼は直接、叔父勝家の帷幕《いばく》へ臨んで、居合わせた衆臣を尻目《しりめ》に、
「御用がすみましたら、ちと内密に」
と、勝家へ囁《ささや》いて、しばらく、傍らの床几《しようぎ》にひかえていた。
勝家は匆々《そうそう》に、評議を切上げ、諸将を退けてから、さて何事? と床几の膝《ひざ》をこの甥とつき合わせた。
玄蕃允はまず、にんまりと笑ってみせてから、この叔父をよろこばすべく、黙って、山路将監の返書を先に示した。
「ううむ。でけたのう」
勝家の満足はひと通りではない。元来、これは彼が着想して、玄蕃允に工作させた陰謀であっただけに、
謀略《はかりごと》は図に中《あた》った
とする快は、誰よりも彼自身の内に特に大きい筈であった。わけても陰謀好きと世に定評もあった彼である。将監の書状を巻き納めながら、彼が涎《よだれ》を垂らさんばかりな喜悦《きえつ》をあらわしたのは無理もない。
謀《はかりごと》を施すをもって、ひそかに得意とする勝家が、山路将監《やまじしようげん》へ目をつけたのは、さすがは敵の病《やまい》≠知るものであった。
敵の弱質な部面に病菌を植えつけ、敵の内臓を内より蝕《く》い破るのが謀の目的である。――秀吉の戦列の中に、山路将監|正国《まさくに》や大金藤八郎などのいることは、勝家の目から見てまたなき謀略の温床だった。この存在をいかにして敵中の味方≠スらしめるかに彼が腐心したのはいうまでもない。
繰り返すまでもなく、山路将監や大金藤八郎らの一類は、もともと柴田勝豊の家臣であり、勝豊が秀吉に降ると共に、以後、羽柴方の陣営にある者たちだった。
(これを説いて、返《かえ》り忠《ちゆう》をなさしめ、敵を内から切り崩すにかぎる)
勝家は謀《はかりごと》の手段を密々、玄蕃允にさずけ、玄蕃允は弟たちと計って、敵の腹中に毒を盛るの隠密を放つこと幾度か知れなかったのである。しかし堂木山、神明山の二|砦《とりで》は木村|隼人佑《はやとのすけ》の監軍が厳しく出入を見張っているため、いずれも不成功に終って来た。そしてこの日までは、当の将監に近づくことさえ成り難いかと、折角の謀略もむなしく諦めるものになりかけていたところだった。
そこへ水野新六が、遂に、将監に会い、将監の返書を持って来たのである。佐久間兄弟の誇りは申すまでもない。老兵勝家が、わが術成れり、と喜悦《きえつ》斜めならず、それを甥の玄蕃允の殊勲《しゆくん》として、
「骨折り骨折り」
と、ほくほく顔で労をねぎらったのも当然だった。
謀は利をもって計ること、古来からの常例である。勝家も、山路正国を説かすに香餌《こうじ》をもってした。――即ち越前坂井郡の丸岡城と、その近地|併《あ》わせて十二万石を与えようという約束なのだ。正国はそれに目が眩《くら》んだ。彼自身は理由をたてて、みずからの醜《しゆう》に良心の目をふさごうとしたではあろうが、明らかに彼はすでに家門の名も生涯も利に売った人間と成り下がっていた。
老獪《ろうかい》な勝家は、将監の利用価値は買っても、その人物を買ってはいないのだ。すでに利にうごく人間と彼すら観《み》ているのである。いかにこれへ香餌を約束しておこうと、戦いが終れば、後の処置は意のままにつく。
古来、内応|醜反《しゆうはん》の徒が、利に走りながら、利を得て生涯を栄えた例《ため》しのないのもまた不思議だ。後日、その約束が無視されて、利に代るに、斬《ざん》や毒を以てされ、或いは、自滅に委《まか》されても、天下の嘲笑はむしろ快とするのみで、誰ひとりその末路を憐れむ者すらない。
そうした史上無数な例も知らぬではない山路将監が、どうしてそんな愚に迷ったかというに、彼もまた、
(これだけは巧《うま》くゆこう。北ノ庄殿も確約していること)
と、自身の場合だけを例外なものに見、しかも戦が柴田側の勝利に帰すことまでを、強《し》いて信じていたのである。驚くべき妄動《もうどう》というほかはない。しかし、後では彼も煩悶《はんもん》した。良心に問われもしたにちがいない。――が諾書《だくしよ》はすでに渡してあった。悔ゆるも及ばずである。是が非でも明朝は内応を決行して、その砦《とりで》に、柴田軍を引入れなければならない運命を自身で作っていた。
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内《うち》に敗《やぶ》る者《もの》
十二日の子《ね》の刻《こく》頃である。
子の刻といえば、正に真夜半、篝《かがり》も暗く、山中の軍営は、粛々、松の葉か、露のふる音ばかりだった。
「――御開門ねがいます。……ちょっと、御開門を」
誰やら頻りに陣柵の木戸をたたく。声も、憚《はばか》るように忍びやかである。
ここは本山《もとやま》の本丸小屋だ。――本山というのは、堂木《だんぎ》山、神明山の総称である。以前は、山路|将監《しようげん》が坐っていたが、秀吉が、配置代えを命じて、山路や大金を外曲輪《そとぐるわ》に出し、木村隼人佑|重茲《しげのり》を本丸へ入れたのは、つい先頃のことであった。
「――何者だ? 叩くのは」
柵の内から、武者の顔が外を覗《のぞ》いた。闇に佇《たたず》んでいる顔は一人らしい。
「大崎殿をお呼び下さい」
とその者は外からいう。
番士は叱って、
「名をいえ。どこの某《なにがし》と、先に申せ。さもなくばお取次もならん」
「…………」
外の人影は去りもしない。雨に似たものがぱらぱら打つ。墨のような天《そら》である。
「――ここでは、ちと申しかねる儀です。怪しい者ではありませぬ。ここの木戸組頭、大崎宇右衛門殿に、柵までお顔を拝借いたしたい。この通りお願い申す」
「味方か」
「知れきったこと、この辺りまで、敵をやすやす歩かせる程、御守備は粗漏《そろう》でもありますまい。また、敵の隠密などなら、かくは木戸を叩きなど致しませぬ」
筋の通ったことばである。番士は頷《うなず》き合っていたが、やがて部将の大崎宇右衛門へ通じたらしい。宇右衛門が近づいて来た。
「何じゃ。外の者」
「大崎殿ですか」
「いかにも、大崎だが」
「私は、柴田勝豊様の臣、野村勝次郎と申し、只今は、山路将監の麾下《きか》に従《つ》いて、神明下の二番|櫓《やぐら》に陣しておる者です」
「その御辺《ごへん》が、深夜、何用があって、本丸木戸を忍びやかに叩かれるか」
「私を、木村|隼人佑《はやとのすけ》殿の所へ、御案内ねがいたいのです。……と、だけでは御不審でしょうが、折入って、しかも火急、お耳に入れねばならぬ一大事があるので」
「それがしからの取次では、打明け難い程のことか」
「直々《じきじき》ならでは申しあげかねる。念のため、これをお預け申す。一刻も争う大事、何とぞ俄かにお計らい下されたい」
野村勝次郎は、太刀《たち》と小刀を外《はず》して、柵の間からそれを宇右衛門の手へ渡した。
宇右衛門は、彼の誠意を見とどけて、自身門を開いて通した。そして部下十名に囲ませて、自身その先に歩み、木村隼人佑の小屋へ導いて行った。
まず、宇右衛門が先に入って、侍臣を通じ、隼人佑の起床を促《うなが》した。戦陣なので、深夜早朝のけじめはない。隼人佑の室にすぐ燭《しよく》がゆらいだ。小姓二名、やがて出て来て、
「お通りあれ」
というのである。
部下十名を外に残し、宇右衛門は野村勝次郎を伴って、一室へ入った。本丸とはいえ仮普請《かりぶしん》なので、居室はほとんど板囲いに過ぎない。程なく、隼人佑はそれへ来て、静かに座をしめ、さて、
「承《うけたまわ》ろう」
と、野村を正視した。横明りのせいか、勝次郎の面《おもて》は、蒼白く見えた。
「明朝、あなた様をお主客として、山路将監の神明山の陣小屋で、朝茶の会があるはずですが。……将監からお手許へ、その招きが参ってはおりませぬか」
勝次郎の眼にはつきつめた感情が燃えていた。深夜の無気味な静寂は語気の微かなふるえまでを伝える。――隼人佑も宇右衛門も、何かただならぬ気持を抱かせられた。
「参っておる。たしかに、将監から招きが参っておる」
隼人佑は簡明に答えてやった。疑わない態度を見せて、この正直者らしい人間のいおうとする懸命な気持を扶《たす》けてやるように耳傾けた。
「――ではすでに、それへお出向きなさることに、お約束なさいましたか」
「されば、折角の招き、明朝参じようと、使いにいうて帰したが」
「いつ頃のことで?」
「きょうの午《ひる》頃であったかの」
「さてこそ、急に思いついた計とみえまする」
「計とは?」
「――決して、明朝はお出向きなされてはなりませぬ。朝茶をさしあげたいとは大嘘でございます。将監の本心は、あなた様を茶室に封じて、刺し殺さんと、手に唾《つば》して、待ちうけておるものにござります」
「…………」
「すでに将監は、柴田方の密使と出会い、敵へ誓紙を入れております。――そのため、まずこの本山の守将たるあなた様を殺し、直ちに、叛旗《はんき》をかかげて、柴田勢をこの堂木、神明の二塁へ引き入れんと、深く謀《たく》んだものに相違ございませぬ」
「おぬし、どうしてそれを知り得たか」
「将監が、祖先の忌日と称し、近くの集福寺《しゆうふくじ》から、僧侶三名を陣内へ呼び入れました。それが一昨日のことです。……ところが、うち一名の僧は、私が見覚えのある者にて、水野新六と申す柴田の臣にちがいないが……はて? と気をつけておりますと、果たして、お斎《とき》の食後、腹痛を起したとか称し、僧三名のうち二名だけその日に帰って、一名だけが山路の陣中に泊まりました。そして翌早朝、集福寺へ帰るとて木戸を出て行きましたが、念のため、小者にあとを尾《つ》けさせてみると、案のじょう集福寺へは戻らず、佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》の陣山へ飛ぶが如く走り去ったと申しまする」
「いや。ありそうなことだ」
隼人佑はもう多くを聞く必要もないかのように頷《うなず》いて、
「よく知らせてくれた。かねて山路と大金の両名は油断なり難し、と仰せられ、筑前様自身にも、お心はゆるしておられなかった。もはや彼らの逆意は明白じゃ。……宇右衛門、何としようのう?」
大崎宇右衛門は膝を寄せて、自己の考えを述べてみた。勝次郎の考慮も容れ、立ちどころに一策が立った。宇右衛門は、外に置いていた部下十名を、その場から長浜へ急がせた。勿論、極秘のうちにである。中の一名だけが宇右衛門の旨をふくんで、夜のうちに搦手《からめて》から出て行った。
木村隼人佑は、その間に、一通のてがみを認《したた》め、宇右衛門に託した。山路将監へ宛てた断り状である。――夜来、風邪気味、せっかくながら、今朝のお茶に参じ難し、春風なお機あらん、近日拝面、おわび申す、諒《りよう》せられよ――という意味の短い謝状であった。
夜が明けると、宇右衛門は、その手紙を携えて、神明山の将監の所へ訪うて行った。
その頃の風として、陣中でもよく釜をかけた。もとより仮屋の茶室、荒かべ藁莚《わらむしろ》、一壺の野の花――その程度の簡素にちがいない。要は胆養にある。また長陣に倦《う》まぬためにも心がけられる。
その朝、山路将監は、早暁から露地を掃き、風炉の灰などを作っていた。まもなく相客の大金藤八郎と木下半右衛門が見えた。共に、柴田伊賀守勝豊の家臣で、今度の裏切には、将監に打ち明けられて、行動を共にすべしと、深く誓いあった同腹の輩だった。
「遅いのう、隼人佑は」
どこの陣屋で飼っているのか、鶏の声がし出すと、藤八郎も半右衛門も、とかく過敏《かびん》な眼いろだった。が、さすがに将監は、何気ない亭主ぶりを振舞いながら、
「いや、程なく見えられよう」
と、落着き払っていた。
待つ人の姿は見えず、やがて大崎宇右衛門が、隼人佑の手紙を齎《もたら》して来た。断り手紙である。――三名は顔を見あわせた。
「使いの宇右衛門は」
と、小者にたずねると、手紙を置くやいな、すぐ帰ってしまったという。
「はて。感づいたかな?」
三名の顔は、同じものだった。不安に塗《ぬ》り潰《つぶ》されたのである。いかに勇猛な者どもも、こうした後《うしろ》めたい[#「めたい」に傍点]破綻《はたん》に立つと日頃の顔色もない。
「どうして漏れたろう。これほど密々に運んだことが」
呟《つぶや》きも、愚痴《ぐち》に似ている。すでに大事が露顕《ろけん》した上は、朝茶どころではない。いかにしてここを脱出するかだ。一刻をも争わねば――と、もう焦躁《しようそう》座に耐えない姿が大金と木下の二人に見えた。
「ぜひもない。……この上は」
という呻《うめ》きが、将監の唇から出たとき、二人はもう一度、胸を衝《つ》かれた。が、将監は、その太い眉をもって、うろたえ召さるな、と叱るように二人を睨んだ。
「貴公たちは、すぐ手勢を伴って、池ノ原まで駈け降り、あの大松の畔《ほとり》で待て。それがしは、一書を認《したた》め、長浜へ使いをやって、後より直ちに駈けつける」
「長浜へ、何の使いに」
「はて、長浜の城には、この方の老母や妻子どもが、まだ置いてあるのじゃよ。身ひとつは、如何ようにも、ここの陣を脱しようが、老母どもは、時を移すと、必然、人質《ひとじち》に捕われよう」
「あ。――それは遅い。間に合うかどうか」
「何とあろうが、置き捨ててはゆかぬ。藤八郎、そこの硯《すずり》をかしてくれい」
将監は早や懐紙に筆を走らせ始めた。ところへ、部下の報じるものがあった。昨夜来、二番木戸の士、野村勝次郎がどこにも姿を見せぬというのである。将監は、筆を投じて、罵《ののし》った。
「さては、彼奴《きやつ》よな。日頃からの薄野呂《うすのろ》、何がと、油断していたのが、誤りじゃった。おのれ、今にみよ」
呪咀《じゆそ》の眼に似ていた。妻へ宛てた文の目を封じる手さえわなわなさせ、
「野上を呼べ。逸平太《いつぺいた》を呼べ」
と、声にも疳気《かんき》を乗せて云った。すぐ逸平太が見えると、
「早馬で長浜へ急ぎ、儂《わし》の老母と妻子に会って、貨財などには目もくれず、ただ身をのみ船へ移して、湖を漕ぎ渡り、柴田殿の陣所へと落してくれい。――頼むぞ。一刻も争うぞ、早く行け」
と、いいつけた。
そして云いも終らぬまに、将監は具足を取って身を鎧《よろ》い、大槍を横ざまに持って、小屋の外へ躍り出た。
大金藤八郎と木下半右衛門のふたりは、早くも部下をまとめて麓へ立ち退いていた。
その頃、夜はまったく白み、本山の木村|隼人佑《はやとのすけ》の令による手配も開始されて、全山は、
「裏切り者をやるな」
「神明|砦《とりで》の寝返りぞ」
「同士打ちすな。謀反人《むほんにん》は、旧柴田勝豊の家中のみなるぞ」
と、呼ばわり、駈け合う声々に谺《こだま》した。
大金、木下の二群は、麓まで行く間に、大崎宇右衛門の手勢に待ち伏せられて寸断され、残る者どもと、池ノ原の大松の下で山路将監の来るのを待ち合わせていると、堂木山の北方を迂廻して来た木村隼人佑の旌旗《せいき》が、早くも行くての道を遮断して包囲して来たので、再び散々に潰乱《かいらん》してしまった。
――山路将監もまた、ひと足おくれて、部下一団と共にこれへ駈け降りて来た。
鹿角《しかづの》の前立《まえだ》ち打った兜《かぶと》に、黒革のよろいを着、大槍を手《た》ばさんで、馬上に風を切らせて来た武者振りは、さすがに勝豊の麾下《きか》中第一の剛の者と見えたが、いかなる大勇も、すでに武門の大道を踏み過《あやま》っては、その馬蹄に、正義堂々たる威風はない。血相はただならぬものだったが、どこやらしどろ[#「しどろ」に傍点]な姿だった。
押っとり囲んだ木村隼人佑の部下たちは、長槍と長槍の流れをなして、前に立ち、後を追い、
「裏切り者。どこへ失《う》せる」
「この恥知らずよ」
「醜夫め、犬畜生め」
と、あらゆる悪罵《あくば》を浴びせかけた。
しかし将監は、死に物狂いに血路をひらき、遂に、鉄桶《てつとう》から脱出した。そして二里ほど奔《はし》ると、かねて諜《しめ》し合わせておいた佐久間安政の軍が昨夜から野営して待機しているのと出会った。――木村隼人佑の謀殺に成功すれば、将監ののろし[#「のろし」に傍点]を見次第、堂木、神明の二塁へ攻めこんで、忽《たちま》ち占領《せんりよう》するつもりであったが、案に相違したので、辛くも山路将監の身だけを救い取り、行市山の自陣へ引揚げてしまった。
大金と木下も、後から行市山へ投じて来た。けれど、将監と同様に、彼らもほとんど身ひとつで、部下の大半以上は、途中で打たれたり、逃げ散って、手勢はいくらも連れていなかった。
「――なに、今暁に至って、露顕《ろけん》のため、隼人佑に先手を打たれてしもうたと? さてさて、将監の謀としては、知慧の足らぬことをしたもの哉《かな》。……が、まあよい、ぜひもない。三名をこれへ連れて来い」
弟の安政から顛末《てんまつ》を聞いて、佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》はこう苦《にが》りきったものだった。事前には、あれほど手を尽して将監の内応を誘致しておきながら、思惑《おもわく》のつぼが外《はず》れたとなると、まるで厄介者を遇するような口吻《くちぶり》に一変していた。
将監たちは、下へもおかぬ優遇を夢みていた。が、玄蕃允の態度にまず大きく失望した。――けれど、落度も省《かえり》みて、胸を撫でていた。そしてその落度を償うて余りある重大な機密を、北ノ庄殿に会って、直接告げたいという希望をのべた。
「ふム。それや耳寄りな」
と玄蕃允は、やや機嫌を直したが、大金と木下には依然、膠《にべ》もなく、
「お身どもは、当所に控えておれ。御本陣へは、将監一名だけを伴うであろう」
と、その朝、直ちに中尾山へ出向いた。
今暁、十三日の出来事は、はや詳細に、そのいきさつ[#「いきさつ」に傍点]まで、勝家の耳にとどいていた。
程なくこれへ、玄蕃允が山路将監を伴うて来るとのことに、彼は、将座|厳《おごそ》かに待ち構えた。何事につけ、威儀張る人である。これは彼として何の不自然でもないが、やがて将監が帷幕《いばく》に伺候し、一応の挨拶などあってから、
「将監。このたびは、不出来だったのう」
と、本音を吐いたときの顔つきは、ひどく複雑だった。俗にいう現金な性質≠ヘ、柴田の叔父甥に共通なものとみえて、勝家もまた、玄蕃允と同様、将監を待つこと甚だ冷薄だった。
「抜かりました」
山路は謝すほかなくあやまりぬいた。今にして密《ひそ》かに臍《ほぞ》も噛《か》まれたであろうが、再び返る所はない。辱《はじ》の上の辱もしのび、腹立ちも怺《こら》えて、ただただ、傲岸《ごうがん》でわがままな相手の前に額《ひたい》をすりつけ、
「今暁の手違いは、まったく自分の浅慮のいたすところで」
と、勝家の憐愍《れんびん》にすがるしかなかった。しかし、彼はなお一つの献策をもって、勝家の鼻息《びそく》をうかがい、功をつないで、恩賞の約を追うことを忘れなかった。
秀吉の所在が問題である。将監がそれを云い出すと、かねて深い関心をよせていた勝家も玄蕃も、
「まこと、秀吉は今、何処におるか」
と、熱心に耳をかした。
将監は、告げた。
「筑前の所在は、味方内でも、常に極秘にされておりまする。砦《とりで》の構築中は、折々、姿を見かけましたが、ここ久しく陣地に見ませぬ。恐らく長浜にいて、一面岐阜に備え、一面当所の動きを見、変に応じる所存かと考えられます」
「そうか。やはりそうか」
と、勝家は重々しく頷《うなず》いて、玄蕃允と顔を見合わせ、
「……察しに違わず、長浜におるときまったわ」
と、呟いた。
玄蕃允はなお糺《ただ》した。
「――が、それには何ぞ、確証があるか」
「もとより嘘言《きよげん》は申し上げませぬ。しかし、ここ数日の御猶予あらば、なお仔細に、筑前の動静をお耳に達し得られましょう。……長浜表にはなお、それがしの目をかけておいた者、幾十人かはおりますゆえ、この身が北ノ庄殿へ加担と知れば、必ず長浜を脱して尋ねて参る者も幾人かございます。またべつに放ちおいた細作《さいさく》の報らせもある筈で――」
将監は、期すところを述べて、
「その上、羽柴勢を敗地へ墜《おと》し入るの良策をも、同時におすすめ申したく存ずる」
と、信念の程をほのめかした。
「念には念を入れよ――か。さらば、将監の申すにまかせよう」
と、勝家は大いに喜色を持ち直した。玄蕃允もまた心に満を持しきって、来るべき戦機を待ちかまえた。
――越えて、十九日の朝方である。山路将監は佐久間玄蕃允と共に、ふたたび勝家の帷幕《いばく》を訪うた。そしてここに、彼がゆうべ早耳に入れた重大な敵の機密と、併《あ》わせて、それに沿う作戦上の献言とを、勝家に呈したのであった。
降将山路将監正国が、その朝に齎《もたら》したものは、たしかに重大であった。玄蕃允はすでに聞いていたが、初耳の勝家は、一瞬、眼をらん[#「らん」に傍点]とさせ、全身の毛穴をそそけ立てた。少なくも彼の張りつめている戦意に一大衝撃をうけたことは否み難い。
将監も激を含んだ口吻《くちぶり》で告げた。
「先日来、長浜に退居していた秀吉は、一昨十七日、突如、兵二万をひきい、長浜城を発して、早くも大垣へ着陣したこと確実にござりまする。――申すまでもなく、岐阜の神戸《かんべ》殿を、一撃に砕き、後顧《こうこ》を断って、忽ちにその全力を挙げ、こなたへ向って、乾坤一擲《けんこんいつてき》の決戦を挑《いど》み来らん覚悟をなしたものと察せられます」
彼はなお補足していう。
「長浜を発《た》つに先だって、かねて安土に籠《こ》めおいた神戸殿の質子《ちし》はみな討ち果したということでおざる。もって、筑前めが、岐阜へ向った決意のほども窺《うかが》われ申す。……また、昨十八日には、すでに麾下の稲葉一鉄、氏家広行《うじいえひろゆき》などの先鋒《せんぽう》は、各地に放火し、またたくまに岐阜城を取詰めんの猛勢を示しおるとも聞え、このたび筑前が決意と動きは、これを、なお余日ありなどと、悠《ゆる》やかに観るわけには断じて相成りませぬ」
「…………」
勝家、玄蕃允、将監の三名ともしばし口をとじていた。凝然《ぎようぜん》とひとつの熟慮に向って集中された各※[#二の字点、unicode303b]の眼《まな》ざしだった。
(機乗ずべし。待ちに待ちたる時は来る)
勝家は舌なめずりして思う。
若き玄蕃允はなおのこと、燃ゆるが如くそう思う。
が、この好機を――またとない絶好な機会を――いかに掴《つか》むか。
それこそが、重大だった。
小機、小運は、戦いのうち、千波万波だが、興亡一挙にかかる真の大機会は、繰り返されない。
(今だ、それが。――この機を掴むか、掴まぬかにある)
勝家は、思うだに、唾《つば》のねばる心地だった。玄蕃允の唇は常になく紅い。またいつになく口数もきかぬ。
「将監……」
とやがていった。勝家がである。――「何か、献策があるというたが、申してみい。腹蔵なく」
「ありがとう存じまする。――愚存、信じますところは、この機を逸せず、敵の岩崎山|砦《とりで》と、大岩山砦の二塁を攻め、遠く、岐阜の神戸殿に呼応の火の手を示すと共に、秀吉の急なるに劣らず、お味方もまた、破竹の電突をもって、羽柴方の幾砦をことごとく踏み潰《つぶ》し去ることにござりまする」
「おおよ。そう致したいものではある。……が、将監、いうはやすいが敵にも人がないわけでなし、砦もあだには築いておるまい」
「いや、秀吉の布陣も、内から見れば、大きな間隙《かんげき》を持っております。よく御覧《ごろう》じませ。……敵の岩崎、大岩の二砦はお味方の陣を隔たること最も遠い地点にあり、敵にとっては中核の堅塁かの如き観がありますなれど、それだけに、実はこの二塁の構築が他のどこよりも手軽く粗末にできておる。加うるにそこの守将も将士も、よもこの陣地へ敵の襲撃はあるまじとその位置に恃《たの》んで、守備に怠るの風も相見えまする。――今、電撃の不意をもって衝《つ》くならばここです。しかもひとたび敵のその中核部を突き崩せば、他の諸砦の如きは何程のものでもありませぬ」
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中入《なかい》り
「なるほど。――さすがはさすがは」
勝家は感悦《かんえつ》をくり返した。そして彼の献策にも一応の頷《うなず》きを与えた。それに附随して玄蕃允も、
「将監の達見は、たしかに敵の虚を衝《つ》いたものじゃ。筑前に泡吹かすは、その一策を措《お》いてはあるまい」
と、これは率直に賛同し、口を極めて将監の才略を賞《ほ》めた。
将監がこう持てたのは初めてだ。過日来、多少、怏々《おうおう》と楽しまぬ色のあった彼も、俄かに気色を持ち直して、
「まず、これを御覧ぜられい」
と、携えて来た戦図を拡げた。――それには、堂木《だんぎ》、神明の二砦のほか、余吾《よご》ノ湖《うみ》の東方に隔っている岩崎山、大岩山の砦、またすぐ南方の賤《しず》ケ嶽《たけ》から田上山などの幾塁や、北国街道に沿う一連の陣地線と、所在兵力にいたるまで、掌《たなごころ》を指すようであり、勿論、附近一帯の地勢、湖沼、山野、間道なども詳密《しようみつ》に写されていた。
あり得ぬことが、あり得るのである。こういう秘図が、戦わぬ前から、敵軍の帷幕《いばく》のうちで拡げられていた秀吉側の不利の大はいうまでもない。
従って勝家のよろこびは、それだけ大きいともいえる。彼は眼を皿にしてそれを検討していたが、やがてもういちど大仰に称《たた》えた。
「これはよい土産《みやげ》じゃったよ。将監、出来《でか》されたのう――」
傍らの玄蕃允《げんばのじよう》も共にそれに見入っていたが、戦図から顔を離すと、とたんに何か確信を抱いたものの如く、
「叔父御――」
と、つよく呼びかけて、半ば、その熱意を眸《ひとみ》にいわせながらこう求めた。
「いま、将監の申した一計、――不意に敵中ふかく入って、敵の岩崎、大岩の二塁を奪取する先鋒にはぜひとも、それがしをお向けねがいたい。また、玄蕃ならでは、そのような果敢迅速《かかんじんそく》を要する奇襲は、果し得ぬものと、自負《じふ》いたしまする」
「まア待て。……まあ」
勝家は、抑えた。気負う鋭気を危ぶむかのように熟慮《じゆくりよ》の眼をふさいだ。玄蕃允の自負と熱血はすぐそれを反撥した。
「この期《ご》にのぞみ、何を御思案なさるるか。お考えの余地もない儀を」
「なに。そうではない」
「天機は、待ってはおりませぬぞ」
「…………」
「こうしている間も機会は刻々逸《こつこくいつ》しつつあるやも知れぬ」
「焦心《あせ》るまい、玄蕃」
「いや、御熟考も時にこそよれ。かほどの勝目を見ながら、なお御決断がつきかねるとは、ああ、鬼柴田殿も老いられたとみゆる」
「たわけを申せ。その方こそ未だ青いというものじゃ。戦闘には剛であろうが、戦略にはまだ青い青い」
「な、なぜですか」
玄蕃允は色をなしかけたが、さすがに勝家は激さない。百戦の老巧らしい落着きを失わずに訓《おし》えた。
「玄蕃思うてみい。およそ中入《なかい》り(兵家ノ熟語、敵中核ニ深ク入ッテ撃ツヲイウ)ほど危うき戦法はないのじゃぞ。……左様な危険を冒してまで、取るべき策か、どうか。ここは悔いなき思慮を、練りに練ってみねばなるまいがな」
聞くと、玄蕃允は、大いに笑った。
――乞う、安んぜよ。
玄蕃允の笑い方は、そういうものだった。無用な御心配を――と仄《ほの》めかす裏に、若い鉄の意志が、老齢の分別と逡巡《しゆんじゆん》を嘲《わら》うものも含めていた。
――が、勝家は、この甥のあけすけ[#「あけすけ」に傍点]な嘲笑にたいして、
(何を笑う?)
と咎《とが》める色もなかった。むしろこういう無遠慮までが愛すべき奴≠ニいう感情に変るらしいのである。そしてその意気の旺《さかん》なるを、ひそかに愛《め》でている風すらある。
日頃から、叔父の寵《ちよう》に狎《な》れぬいているこの甥は、すぐその気持を読んで、組しやすしと、なおこう主張するのだった。
「玄蕃、若年ですが――中入《なかい》りの危険な戦法であるぐらいなことは、万々、承知しております。それゆえ、自身、難に当らんと申すわけで、ただ策を恃《たの》み、功に逸《はや》る次第ではありませぬ」
それでも、柴田勝家は、容易に「うむ」といわなかった。依然、熟慮の体である。
玄蕃允は、強請《せが》みあぐねた気味で、ふと将監を顧み、
「いまの図面を、まいちど見せてくれい」
と求めた。そして床几《しようぎ》に倚《よ》ったまま、ふたたびそれを繰り拡げ、片手を頬に当てて、彼もまた、いつまでも、黙りこんでいた。
かくあること半刻《はんとき》に及んだ。
勝家は、甥が、熱意を燃やして云っている間は、危ぶんでいたが、口をとじて、戦図に静思している体を見ると、俄かに、頼もしさを覚えて来たものか、
「よかろう」
遂に、自身の分別に断を下して、玄蕃允の方へこういった。
「――抜かるなよ、玄蕃。こよいの中入《なかい》り、そちに命じる!」
「えっ」
玄蕃允は、顔を上げ、同時に床几から突っ立って、
「では、それがしに、おまかせ下さいますか」
狂喜した。礼を慇懃《いんぎん》にした。まちがえば、死地となる中入りの先鋒に立つことを、かくばかり正直によろこぶ甥を、勝家は、心には歎賞しながらも、なお固く、戒《いまし》めた。
「くれぐれも申しおくぞ。岩崎山、大岩山の砦《とりで》を踏みつぶし、目的を遂げたときは、速やかに兵をまとめ、味方の後陣まで風の如く退《ひ》けよ」
「はい」
「いうまでもないが、戦は、切レ(兵家ノ熟語、開戦前ノ隔縁《カクエン》状態、或イハ退陣ニ際シテ追撃ヲ断ツ手際《テギワ》ナドニイウ)が大事じゃ。わけて、中入りの戦いに、切レを取り損じては、九仞《きゆうじん》の功《こう》も一簣《いつき》に欠こう。くれぐれも、引揚げの機を誤るなよ。風の如く赴《ゆ》いて、風の如く去れよ」
「御訓戒《ごくんかい》、よく心得おきまする」
希望はすでに容《い》れられたので、彼も至って素直だった。勝家は直ちに使番《つかいばん》を呼び、各陣地の主将をこれへ集合した。――この日、帷幕《いばく》に会する者、前田利家|父子《おやこ》を始めとし、勝家の養子勝政、不破《ふわ》彦三|勝光《かつみつ》、徳山五兵衛|則秀《のりひで》、金森五郎八|長近《ながちか》、原彦次郎|房親《ふさちか》、拝郷五郎左衛門|家嘉《いえよし》、長《おさ》九郎左衛門|連龍《つらたつ》、安井左近太夫|家清《いえきよ》など。ここに参じては去る将星たちの唇元《くちもと》にも、何やら厳しいものが結ばれていた。
たそがれまでに、令は悉《ことごと》く行きわたり、諸隊の準備は万端整い終ったらしい。
時、天正十一年四月十九日の夜――正確にいえば二十日というべきであろう。先鋒、先鋒本隊、中軍、監視隊などの総勢一万八千が、ひそかに各※[#二の字点、unicode303b]その営からゆるぎ出した時刻は、まさに子《ね》の下刻《げこく》(午前一時)の一点であったから――。
総軍は、大略、二手に分けられている。
中入《なかい》りして、肉薄突撃にあたる先鋒及び先鋒本隊。これは各四千、合わせて八千の兵力を以て、集福寺坂から塩津谷《しおつだに》へ降りてゆき、足海《たるみ》峠を越えて、余吾《よご》の西岸を、東へ東へと延びて行った。
また、それとべつに。
勝家の本軍をふくむ一万二千の主力は、牽制《けんせい》的な略を計って、まったく道を変え、北国街道に沿うて、徐々、東南下していた。要するに、この方面の進出は、中入りの佐久間盛政、不破彦三などの奇襲戦の成功を側面から扶《たす》け、同時に、他の敵塁のうごきを監視するという役割をもつものだった。
――で、この主力牽制軍のうち、柴田勝政の一隊三千人は、飯浦坂の東南に、旗甲《きこう》を伏せて、敵の賤ケ嶽方面のうごきを、じっと、監視していた。
前田利家父子の持ちは、塩津から堂木《だんぎ》、神明山にわたる一線の警戒にあり、そのため前田隊の兵二千は、権現《ごんげん》坂から川並《かわなみ》村の高地|茂山《しげやま》あたりにかけて駐《と》まっていた。
さらに、総大将柴田勝家も、同時刻、中尾山の本営を出たこというまでもない。この中軍兵力は約七千である。即ち、北国街道を流れ下って、狐塚《きつねづか》まで進み、東野山方面にある有力なる敵――堀秀政の兵五千――をひきつけて動かさぬために、敢えて、旌旗《せいき》堂々たる進出を誇示した。
かくて、かかるまに、夜はようやく、明けなんとしている――
この日、陰暦四月二十日は、陽暦の六月十日にあたり、ひと頃より、夜はずっと短くなっている。日の出は、四時二十六分のわけである。
中入《なかい》りの先鋒《せんぽう》、不破彦三、徳山五兵衛、原房親、拝郷五郎左衛門、安井左近太夫。それに玄蕃允の弟、佐久間安政などの諸将が、余吾ノ湖の白い汀《なぎさ》を、暁闇《ぎようあん》の下に見出でた頃が――ちょうどその刻限でなかったろうかと思われる。
その兵四千につづき、すぐあとの一隊四千があった。これが中入り本隊で、佐久間玄蕃允盛政は、その中にあった。
霧が深い――
余吾の湖心に、ぽかっと、虹色の光が見える。それだけがわずかに暁を思わせるだけで、前を行く味方の馬の尻すらよく見えぬほど、草原の道は未だ暗かった。
旗も甲冑《かつちゆう》も、槍の柄や草鞋《わらんじ》、脛当《すねあて》などはもちろん、水の中を行くように、しとどの露に濡れていた。
(はや、敵地だぞ……)
身の緊《し》まる感が迫っていた。眉や鼻毛にたまる霧も冷たい。これほどな兵馬が一緒に歩いているとも思えないほど接敵は密《ひそ》やかに行われていた。
……すると。
余吾の東南岸の渚《なぎさ》で、ザブザブと水音が聞えた。何か、声高に笑い合っている話し声もする。中入り軍の大物見は、すぐ伏せ身となって、霧の中の人影を窺《うかが》っていた。それは大岩山砦の中川瀬兵衛の部下らしく――武者二名に、馬卒十人ばかりが、湖の浅瀬に入って、馬を洗っているのだった。
「…………」
大物見の兵は、先鋒隊の近づいて来るのを待ち、声なく、後ろへの手合図を振った。そして敵兵の先を断ってから不意に、
「生《い》け擒《ど》れッ」
と、その少数の敵へ、一斉に喚《わめ》きかかった。
何も知らずに、馬を洗っていた馬卒と武者たちは、あっと、水を蹴合って、
「敵だッ。敵っ」
と、渚から一散に逃げかけた。五、六名は逃げおわせたが、うち半数は、捕えられてしまった。
柴田勢は、その者たちの、襟がみをつかんで、
「初物だ。お目にかけてから――」
と、部将不破彦三の馬前まで引きずって来た。
槍ぶすまの中に置いて、彦三が訊問してみると、一人は池田|専《せん》右衛門《えもん》という中川瀬兵衛の隊士、あとは組下の馬卒たちと分った。
処置を仰ぐべく、伝令を走らせておいた本隊の佐久間玄蕃允からは、その返辞として、
(左様なものに手間どるな。斬って、血祭りとなし、直ちに大岩山の砦《とりで》へかかれ)
と、激励して来た。
不破彦三は、馬を降りて、陣刀を抜き払い、自身、池田専右衛門の首を刎《は》ねた。そして、
「それっ、血祭りぞ。他の首もみな打ち落して、いくさ神へ贄《にえ》を捧げ、鬨《とき》を合わせて、大岩砦へ攻めかかれ」
と、大呼して、先鋒全員へ号令した。
「おうっ」
と、左右の麾下《きか》は争って、馬卒らの首を斬り落した。その血刀を高々と暁天に挙げて、まず生血を捧げた人々から、
「わあーッ」
と、修羅神《しゆらじん》を呼び降ろし、それに応《こた》えて、全軍も、
「うわーっ」
と、鬨《とき》の声を合わした。
怒濤の相を現わした甲冑が、われ先と、朝霧をくぐって、もくもくと揺るぎ出したのは、そのとたんであった。
悍馬《かんば》は悍馬と絡《から》みあって先を争い、槍隊は槍隊で、穂先一尺を争って駈け出してゆく。
すでに銃声はさかんに聞え、長柄や太刀《たち》の光も、はや大岩山の一の柵あたりで、異様な物音をたて始めたが、みじか夜の残夢なお深し矣――秀吉方の要塞帯中核――中川瀬兵衛が守るところの大岩山の内も、高山右近が固むるところの岩崎山の懐《ふところ》も、未だこれを知らぬかのように、白雲の帯は岫《しゆう》をとざして、山上山下をなおひそ[#「ひそ」に傍点]としていた。
廓《かく》は外の曲輪《くるわ》をいい、塁は各部の囲いをいい、砦《さい》はその中心全体をいう。
急築粗造ではあるが、城廓《じようかく》様式の形は備えているので、この大岩山のそれも一つの城といってさしつかえない。
中川瀬兵衛清秀は、その前晩中腹の一塁にある寝小屋に眠っていた。
「――はて?」
物音か、叫喚《きようかん》か、何かはまだ意識せず、彼はふいに、ガバと首を擡《もた》げたのだった。
「何かある……?」
夢《ゆめ》と現《うつつ》の境の――第七|識《しき》のはたらきが、彼をして、突然、何ということもなく、枕もとの鎧《よろい》を、手早く身につけさせていた。
ところへ、寝小屋の戸も外《はず》れよとばかり外から叩く者があった。また一名が、それへ体をぶつけたらしい。
戸は、内側へ倒れ、三、四名の部下が、転《まろ》びこんだ。
「し、しッ、柴田勢ですっ」
「はや、押しかけました、大軍をもって」
湖畔から駈け通して来た太田平八と、馬取《うまとり》の小者たちだった。
「落着け」
瀬兵衛は、叱った。
――が、太田平八を始め、馬卒たちの告げることは、余りにうわずっていて、敵の兵力、懸《かか》り口《くち》、その主将など、何ひとつ、要領を得ない。
「不敵にも、これへ中入りして来る程の者とあれば、およそ生やさしい敵ではあるまい。柴田の麾下《きか》でその人を誰かとなせば、玄蕃允《げんばのじよう》盛政のほかにあろうとは思われぬ」
瀬兵衛清秀は、よく観《み》た。
そう感じると、ふるえが、身のうちを走った。
強敵!
と、否みがたく、思われてくる――。が、その圧倒感にたいし、べつな力は、肚《はら》の底から沸《わ》き立って、
(狗鼠《くそ》っ。ござんなれ)
とも、反撥しているのだった。
ふるえは、そう二つの、まったく相反したものが、意識を通さずに起した瞬間の衝動だったといえよう。
「出合えやっ。おうういっ――」
瀬兵衛は、大槍を立てて、寝小屋のすぐ前の、小高い盛土の上から呶鳴った。
銃声が旺《さか》んである。
ふもとの方にもするが、案外近いところの、山の中腹にあたる西南の樹木のうちでも聞える。
「間道からも来たな」
霧がこめているため、視界のうちに、敵軍の旗幟《きし》を認め得ないのが、却って、焦躁《しようそう》を駆らしめる。
「おオオいっ――」
また、呼ばわった。……声は、山ふところへ谺《こだま》した。
ここを守る中川隊千人は、まさしくもう眼前の襲変に眼をさましていた。全山、あわただしい物音がこたえている。
とはいえ、不意を喰っていたことは間違いなかった。
ここは、柴田軍の敵陣地を隔《へだ》つこと余りに遠い後方になる。その距離感が、何となく日頃から、ここの守兵に安易を抱かせていたことは否み難い事実だった。
――来れ。としている所へ敵は来ない。よもやここへは、と恃《たの》んでいるらしい虚を知るやいな、敵は疾風を作《な》して襲うて来る。
大岩山は、たしかに油断していたのである。瀬兵衛は、地だんだ[#「だんだ」に傍点]踏んで、味方を罵《ののし》った。
「――熊田孫七はおらぬかっ。榧野《かやの》五助は何しておるっ。森本|道徳《どうとく》、山岸|監物《けんもつ》、はや出合え出合え。鳥飼《とりがい》平八っ、馬印をこれへ立てよ」
「おうっ、参りました」
「殿ッ。これにおられましたか」
各※[#二の字点、unicode303b]が各※[#二の字点、unicode303b]を、求め合っていたものとみえ、そこに立った馬簾《ばれん》を見、瀬兵衛の声を知ると、忽ち、組々の物頭と、その手兵とが駈け集まって、瀬兵衛を中心に、まんまると一陣を作《な》した。
「寄手の勢は、柴田の甥《おい》、玄蕃允盛政が采配《さいはい》か」
「御意です」
鳥飼平八が答えた。
「人数は?」
と、瀬兵衛、たたみかけて訊ねる。
「一万とはありませぬ」
「ひと手か。ふた手か」
「二軍に見えます。玄蕃の勢は、庭戸《にわと》ノ浜《はま》から麓へ襲《よ》せかけ、また、一手は、不破彦三、徳山五兵衛、などの一隊、尾野路山《おのじやま》の間道をとって、山腹から迫って参りまする」
守兵総員を寄せても、千人しかいない砦《とりで》である。襲《よ》せて来た敵は、一万足らずの勢という。
間道にしても、麓の木戸にしても、手薄なことはいうまでもない。時移せば、忽ち、個々全滅は目に見えていた。
「淵之助っ、間道へ向え」
瀬兵衛は、股肱《ここう》の中川淵之助に兵三百をさずけて先にやり、また直ちに、
「入江土佐、古田喜助、久保甚吾――。おぬしらは、五十名ほど持って、本丸小屋にたてこもれ。玄正坊《げんしようぼう》も参れ」
早口に、命じ終ると、
「他の者は、瀬兵衛について来い。摂州|茨木《いばらき》このかた、負《おく》れは知らぬ中川勢ぞ。面とむかった敵には、尺地も退くな」
と一語、麾下《きか》の士を励ますや、自身、旗、馬簾《ばれん》などの先に立って驀《まつ》しぐらに、麓口《ふもとぐち》へ駈け降りていた。
「殿っ、殿っ。しばらく」
うしろで榧野《かやの》五助が、呼ばわった。振りかえると、
「お使いですっ。桑山殿からの御使者が、何やら申し上げたいとのことで――」
と、五助が、その使者を伴って、追いついて来た。
「何か――」
と、瀬兵衛の眼はすでに敵と戦っている。使者は、火急とあって、口上で伝えた。
「主人、修理大夫(桑山|重晴《しげはる》のこと)の申しまするには、今暁、中入《なかい》りの敵勢は、いかにせん大軍。それに反し、ここの寡勢《かせい》、いかに中川殿が勇猛なりとも、所詮《しよせん》、支《ささ》えはならぬこと、――無念には候えど、疾《と》く疾くお退きあって、他の味方内へ、お纏《まと》まりあるようにとの、お心遣いにござりますが……」
「無用でおざる」
瀬兵衛は、きびしく顔を振って、その使者へ、こう返答した。
「御厚情浅からず、まことにかたじけなく思うが、清秀の胆は、まださまでには、萎《しぼ》みており申さぬ。――余吾に臨むこの尾崎の二砦は、少なくも味方の陣地として中核の要害、瀬兵衛、この守りに当りながら、敵多勢と見て、一支えにも及ばず、捨てて他へ移りたりと聞えては、末代、世のわらいぐさ、子孫の恥こそ、不愍《ふびん》でござる……」
口を結びかけたが、そこへ後に続いて来た麾下の士がかたまったので、それにも聞えよと、さらに云った。
「――われら、摂津|茨木《いばらき》の郷より身を起し、元亀《げんき》元年、和田伊賀守を討ち、家の子郎党、中川衆の名一つに武門を磨《みが》き、去《い》ぬる年の山崎の一戦に、明智が将、御牧三左衛門、伊勢三郎|貞興《さだおき》を討ちとるまで、いまだ戦場において、敵にうしろを見せた例《ため》しなく、戦わずして退《ひ》いたる兵一人も持ち合わせぬ。――広言には似たれど、真実のこと。桑山殿へ、瀬兵衛がそう申したと、有様《ありよう》に、伝えておくりゃれ」
「……はっ」
使者が、顔を上げたときは、はや瀬兵衛の姿は見えず、瀬兵衛のあとに続く武者たちが、山つなみのような声をあげて、下へ下へ、雪崩《なだ》れうっていた。
桑山重晴は中川瀬兵衛と同数の兵を持って、賤《しず》ケ嶽《たけ》を守っていたのである。賤ケ嶽はここから山つづき一里余の南方に在り、岩崎山、大岩山、茶臼山、足海《たるみ》峠など、余吾ノ湖をめぐる群峰の主山をなしている位置にある。
使者が、帰って来た。
復命を聞いて、重晴は、
「瀬兵衛らしい。さもあろう」
と呟《つぶや》いたが、六十歳の彼の分別は、さらに再三急使を飛ばして、瀬兵衛に退陣をすすめてやまなかった。
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序《じよ》の勝《か》ち
武将感状記《ぶしようかんじようき》の一節に、こういう記載が見える。
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――玄蕃《ゲンバ》盛政ノ側《ソバ》ニ老功《ラウコウ》ノ武者アリ。志津《シヅ》ケ嶽《タケ》(大岩山ノ誤リ)ニ向フ時、中川瀬兵衛清秀ノ取出《トリデ》(防塁ノコト)昨今ノ急築ナレバ、塀土《ヘイド》モ乾ク可《ベ》カラズ。之ヲ攻ムルニハ、塀越シノ槍コソ利アラントテ、十文字、鑰槍《カギヤリ》ナド打捨テサセ、皆、長柄ノ素槍ヲ持テトテ諸手ニ配ル。按《アン》ニ違《タガ》ハズ、塀越シノ槍、長柄ニテ大イニ利ヲ得タリト。
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また、同じ項に。
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――玄蕃《ゲンバ》ノ家人ニ老功《ラウコウ》アリ。玄蕃ガ前ニ来ツテ申ス。中川ハ勇ヲ好ム将ナリ。敵寄スルト聞カバ、坐《ヰ》ナガラ待ツ可《ベカ》ラズ。必ズ中途ニ迎ヘ戦ハンニ、他ノ間道ヨリ奇兵ヲ放チテ、砦《トリデ》ノ背後ニ廻シ、多クノ下小屋(兵舎)ヲ焼カシメナバ、中川勢火ヲ見テ、後《ウシロ》ニモ戦ヒ有リト思ヒ、急ニ引退《ヒキノ》ク気《ゲ》ニ浮キ立ツベシ。之ヲ伏兵ニテ撃タバ、御味方ノ勝利、歴々《レキレキ》タラント述ブ。
[#ここで字下げ終わり]
などという記事もある。
玄蕃允の左右には、屈強な武者も勿論多かったが、彼にたいし、こういう良策を献じていた老功とは誰をさしたものだろうか。
徳山五兵衛|則秀《のりひで》か、拝郷五郎左衛門あたりかと思われる。わけて拝郷は名だたる者で、加賀|大聖寺《だいしようじ》に一城を有し、智謀もあり武勇の聞えもあった老将であるから、玄蕃允を扶《たす》けて、中入りの奇略を完《まつと》うさせた側近といえば、まずこの辺の人物と見てまちがいあるまい。
とにかく、この朝――。
佐久間勢としては、その突ッ込みの序において、思い通り敵中へ肉薄し、敵をして、相違なく不意を喰わせたものだった。いわゆる序《じよ》の勝《か》ち≠占《し》めて、
「踏み潰《つぶ》すはまたたく間ぞ」
「乗り奪《と》れ、一気に」
と、はや麓口へかかった勢は、一ノ柵を突破し、大手の妙見坂《みようけんざか》を半ば近くまで攻め登って来た。
これらの木戸木戸には、せいぜい一部将に七、八十名の守兵が配されていたに過ぎない。怒潮四千の軍馬に揉み込まれては、文字どおり鎧袖《がいしゆう》の一触《いつしよく》で、敢然、孤槍を揮《ふる》って立ち向う兵は、忽ち、泥地《でいち》の血漿《けつしよう》と化し、多くは四散して、次の防塁に拠《よ》ろうとした。
この頃だった。主将中川瀬兵衛とその麾下たちが、猛然、一団となって、山上から邀撃《ようげき》に出て来たのは――。
「推参《すいさん》な雑兵輩《ぞうひようばら》、ここを無人の砦と思うて紛《まぎ》れ入ったか」
陣頭、真っ先に、槍|唸《うな》りをさせて駈けこんで来たのが、たしかに瀬兵衛その人と見えた。馬腹、槍手、すでに血ぬられ、馬蹄《ばてい》の躍るところ、前に立ち得る敵もない。
「――玄蕃やある」
瀬兵衛の声は、敵味方に聞えるほどだった。剛槍《ごうそう》みずから誇る彼は、北ノ庄の身内《みうち》に佐久間|玄蕃《げんば》ありと聞ゆる程なその男に、きょうこそ会ってみたいと、駈け廻るのだった。
この将の下に、鉄火の兵をもって鳴る中川衆がある。森権之丞、榧野《かやの》五助、鳥飼四郎大夫、山岸監物など、馬上、或いは徒歩《かち》などで、総勢四百余人――それは当面の敵兵力の十分の一に過ぎなかったが、各※[#二の字点、unicode303b]の捨身の血相を持って、
「おのれっ」
面《おもて》もふらず、佐久間勢の槍隊のうちへ、これも多くは槍を揮《ふる》ッて突入した。からみ合う長槍の響きは、怒罵《どば》、絶叫《ぜつきよう》、馬のいななきと入り交じって、それら悉《ことごと》くが、血の音、血の声と聞かれた。
およそ寡《か》に対する多数というものは展《てん》じては強いが、局部的には、まぬがれ難い弱点を持っている。
中川隊四百の捨身の邀撃《ようげき》は佐久間勢の腹中へ入って暴れ廻った。約十倍の大兵は、その量だけの力を、狭い一局戦に集めることは困難だった。
「退《の》けっ。麓口まで」
余りの犠牲に、佐久間勢のうちの一部将が、帛《きぬ》を裂《さ》くような声で叫んでいた。――が、それにしても、多数の行動を変じるにも自然、遅鈍《ちどん》ならざるを得ないのである。
「今ぞ。追い落せ」
瀬兵衛清秀を始め、中川衆の猛者《もさ》は、いわゆる当るにまかせて敵を屠《ほふ》るの勢いを示した。占めていた地勢にも利があったし、何といっても、佐久間勢の兵は、夜来、一睡《いつすい》もしていない。
わっ――≠ニ、初めの攻め声が、虚声《きよせい》に変った。ひとたび崩れ≠生じると、これは如何ともなし難い勢いを示すものだ。全軍、先を争って、麓へ駈け出す。踏みとどまって、支《ささ》えんとする者まで、顔色を失った味方に押され、石を落すに似た勢いで、落着く所まで持って行かれてしまうのである。
「越前勢、ひとりも生かして帰すな」
瀬兵衛の声である。追いかけ追いかけ味方へ云っていた。すでに勝てりと思ったものか、飽くまで追撃してやまない。
「危うし……」
これは危険と感じた麾下《きか》もあったにちがいないが、主人の姿を見て、怯《ひる》むわけにゆかなかった。果たせるかな、妙見坂を降り、尾野路ノ浜の渚《なぎさ》まで見える平地まで来ると、俄然、両側から、佐久間勢の押太鼓が、耳も聾《ろう》せんばかり鳴りとどろき、あたりも見えぬ弾煙《たまけむり》が、中川隊をつつみ出した。
瀬兵衛の左右だけでも幾人か斃《たお》れた。しかし瀬兵衛はこういう死地には馴れているので、さして驚きもしなかった。
初一念の怒号をつづけて、
「玄蕃に会おうっ。――玄蕃允《げんばのじよう》っ、出でよ」
なお獅子吼《ししく》していた。
「おう、中川殿よな」
と、敵方から誰か応じた。ゆらっと、黒い大波にも似て、瀬兵衛のすぐ側へ、馬を寄せて来た者がある。
「この老爺《おやじ》、存じはあるまいが、加賀大聖寺の城主、拝郷五郎左衛門じゃ。――よい御首に恵まれ申した。貰うぞ」
槍を付けた。――が余りに、馬と馬とが寄り過ぎていたので、ぐるりと一転するまに、瀬兵衛は振向きざま、
「その頬《ほお》げた[#「げた」に傍点]へ、進上」
と、一槍高く、後ろへ、飛電を見せた。
五郎左の体は、馬のたてがみに伏していた。しかも手の大槍と、その眼は、敵の内身を窺《うかが》って、外《はず》す、突き入る、二つの動作を同時にした。
「仕損《しそん》じたり」
と、瀬兵衛は馬を退《さ》げたが、五郎左の大槍は、退《さ》がる槍へ絡《から》んで、さらに、攻勢を取って来る。加うるに、敵らしい徒歩《かち》立ちの武者が、瀬兵衛のうしろへ迫ったらしい。
――と、直感の下に、瀬兵衛は槍を返して、馬の後ろを一払いした。どさっと、倒れた者の上へ、飛鳥の如く、ひとりの武者が飛びかかって、立ちどころに首をあげたのを見た。
「鳥飼か、先を開け」
主人の声に、鳥飼四郎大夫は、瀬兵衛の前に立ちふさがり、拝郷五郎左へ立ち向った。
瀬兵衛は、咄嗟《とつさ》、横ざまに馬を飛ばして、なおも、
「玄蕃に会わん」
と血眼《ちまなこ》で、将座の旗を、敵中に求めて行った。
修羅《しゆら》の中にも、真空に似た寂《じやく》がある。それは、勇者の姿にのみある。仏陀の背光《はいこう》にも似たものといえよう。
勇の極致は、すずやかだ。無碍自在《むげじざい》の境にあるからである。己れもなく目に余る敵大軍もない。無我無想のうちに、あるはただ武門の一魂《いつこん》、それのみだった。
中川瀬兵衛清秀は、たしかにそういう境地にまで到達し得る勇者ではあった。けれど、武勇にも限りがあった。彼と共に、奮戦していた近侍の小姓や馬廻りの面々は、敵の新手新手を迎えて、大部分が斬り死していた。
この間にも、味方の桑山重晴の使いが、幾度、彼の後退を促《うなが》しに来ていたか知れなかった。岩崎山の高山右近からも、使番が馳《は》せ来って、
「ぜひとも、ここはお退《ひ》きあって、せめてお身ひとつなと、無事をお守りあるべしと、主人右近も、今朝来、わがことの如く、心痛いたしおりますれば――」
と、その高山隊の使番のごときは、強《た》って、瀬兵衛の馬の口をつかみ、遮二無二、後方へ曳き退がろうとした程だったが、瀬兵衛は、
「ばかをいえッ」
と、いよいよ鬼となって、
「ここが退けるか。ここを敵に委《まか》して引き揚げろと申すは、この瀬兵衛に、男も名も、捨てろというに等《ひと》しいことだ。――それ程、凡《ただ》ならずと思うなれば、なぜ、賤ケ嶽の桑山修理も、汝《なんじ》の主人高山右近も、速やかに、手勢をもって、馳せ加わらぬか」
叱咤と共に、その使者を、槍の石突《いしづき》で突き倒し、ふたたび阿修羅《あしゆら》となって、敵兵を迎えた。
血戦場、約三町ほどの間を、こうして押しつ押されつ、一進一退を繰り返すこと十三回。――早暁、寅《とら》の下刻《げこく》(午前五時)頃から辰の下刻(九時)にいたる約四時間というもの――よく戦いも戦ったり――ほとんど、眼に血の色のほかを見ぬまで奮戦した。
「か、かくまで……お働きのうえは、も、もはや、お心のこりはない筈。……ぞ、ぞう兵どもの手に、かからぬまに」
誰か、またも一人の味方が、瀬兵衛の馬の口を曳ッぱって、驀《まつ》しぐらに、砦《とりで》の内へと走っていた。さすがの瀬兵衛も、息はあえぎ、眸《ひとみ》は始終、火焔を見ているように、熱くばかりあって、物なべて、霞《かす》んで見える。
「だ、だれだ?」
「ふ、ふ、淵之助《ふちのすけ》重定です」
「お。……重定か。間道のふせぎは。……か、間道は如何《いかが》した」
「破れました。無念です」
「何を歎く。――桑山、高山輩こそ、そういうがよい。存分、闘いぬいた俺どもには、悔いはない」
「いえ、敵の計に乗ったのが、残念と申したのです。滅多に、本丸の囲いまでは、敵を入れることではないぞと、一人が十人にも当って、鎬《しのぎ》を削《けず》っていましたが、裏山の下小屋に、俄に、火の手が揚ったのを見――すわや、敵は後ろを巻いたりと崩れ立ち、遂に、何処の防ぎも、敗れ去りました」
「では、あの火の手は、裏山の小者小屋か」
「敵の徳山則秀が、わずかの人数を廻して、火を放った煙に過ぎませぬ」
「――あ。待て」
瀬兵衛は突然、あぶみに突っ立って、
「淵之助、わしを、どこへ導くつもりだ」
「はや、合戦もこれまで、本丸囲いへお退《ひ》きあって、お心静かに、お腹を召させられませ」
「何、腹を切れと。――ば、ばかな。瀬兵衛、ただ腹を切るのは嫌いだ。――離せっ、離せ。馬の口輪を」
――ただ一騎となっても、なお最後の一戦を思い捨てぬ瀬兵衛だった。
「腹を切るより、よき敵と刺しちがえてこそ死ね。……淵之助、無用な死所へ俺を連れて行くな。死にざまなど、どうでもいいわさ。俺は、もいちど敵へ見参する。おぬしは、いいように死ね」
云い放って、手綱に波をくれ、馬の首を悍強《かんづよ》く振らせた。
「それまでに、仰せなれば」
と、中川淵之助は、口輪の手を離して、一瞬、眼に涙をためた。血のつながる同族であり、山崎の合戦にも、終始、死生の境を共にして来た主人でもある。
「……あっ、追って来ます」
「来たか。――仕合わせ」
うしろへ迫る喊声《かんせい》にたいして、瀬兵衛は直ちに、馬首をめぐらそうとしたが、あわれ、馬さえ疲れ果てている。焦心《いら》ッて、あぶみの踵《かかと》で馬腹を蹴った。しかし朱《あけ》にまみれた馬の巨体は、嘶《いなな》いては、よろめくばかりだった。
そのとき――
「中川瀬兵衛清秀はここぞ。――瀬兵衛これにあり。いざ、いざ寄れ」
という声が、彼方に聞えた。
瀬兵衛は、はっと、振り返った。
とたんに、馬は膝を折った。どうと、鞍の上から、彼をも地へ抛《ほう》り出していた。
「やあ、淵之助めが、俺の身になり代り、八面に敵をうけて戦いおるわよ。――身をもって敵に当り、なおも俺に、落ちよというか」
うれしさ。しかし、涙は出ない。ニコと笑ったようにすら見える。けだし淵之助重定の心境も、彼の心境も、まさしく一つだったからである。
「淵之助っ。死出の道も一つにしようぞ」
彼方へ向け、こう大声を送りながら、両の掌《て》を、地上でこすッた。血糊にぬるぬるする槍の柄が、手に辷《すべ》ると、自然、全力の発揮を欠くからである。
われから行くまでもなく、敵は早くも寄って来た。閃々《せんせん》、槍を揃えた甲冑の一群は、波状を作《な》して、彼の前に迫り、しばしば、声ばかり発していたが、
「真の瀬兵衛はこれだ。これこそ、敵将清秀っ」
一箇の武者が、喚《わめ》いて、一歩出た。突ッかけたのである。――が届かない。また一人出た。瀬兵衛の槍は、巻きこんで、叩き伏せ、石突《いしづき》を返して後ろを突いた。
せつな、乱戦となった。人は容易には死なぬものである。幾度か、瀬兵衛のすがたは、朱をあびて、蹌《よろ》めいたが、豹《ひよう》のごとく、躍ってはまた、敵を斃《たお》した。――というよりは、遂には、口をもって、敵の喉笛《のどぶえ》へ噛みつくような勢いだった。悽愴《せいそう》を極め、鬼気胆を刺した。さしもの敵兵も一角をくずした。まだ生きている瀬兵衛は、折れ槍をひッ提げて、幽火《ゆうか》の宙《ちゆう》を歩くように、ひょろ、ひょろと、血路を辿《たど》った。
――朦朧《もうろう》たる眸が、坂道へ行き当った。もう登る力もない。
匍匐《ほふく》して尾《つ》けて来た佐久間勢のうちから、一武者が、ぱっと立った。武者は槍もろとも、瀬兵衛の体へぶつかッて行き、
「佐久間殿の身内、近藤無一ッ」
と、名乗っていた。ごろごろっと、二つの体が転がり合った。再び起った無一は、
「討ッたっ。中川殿の御首、近藤無一、討ち取ったりっ」
と、絶叫し、鮮血したたるものを、高く差し上げていた。
大岩山は陥ちた。
中川瀬兵衛が討死した時刻、山上の本丸小屋からも、濛々《もうもう》と、黒煙がのぼっていた。内曲輪の中川衆五十余名も、その頃、尽《ことごと》く斬り死したものとみえる。
山裾の北方から東にかけての兵舎や厩舎《きゆうしや》なども各所に煙を噴《ふ》き、火薬であろう、折々、炸爆《さくばく》する音も交《まじ》えて、生木の燃える熱風で、血臭い大地に、一時、木の葉の灰を雪のように降らせた。
「油断すな。ほっとするは、まだ早いぞ」
馬上の佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》は、途々《みちみち》、部署の将士へこう云いながら、幕僚《ばくりよう》数十騎、兵二千をつれて、まだ燃えているさかりに、山上へ登って行った。
やがて、勝鬨《かちどき》がとどろいた。
天辺に聞えた万雷のそれに応《こた》えて、ふもとの庭戸ノ浜や、尾野路山の間道や、その他、諸所の警備に分駐《ぶんちゆう》された味方の各部隊も、その居る所から、
「わあーっ。うわあっ」
勝ち誇る鬨《とき》の声をあげ、この朝の予想外な戦捷《せんしよう》を天地に祝した。
時に、陽は巳《み》の刻《こく》(午前十時)頃であった。
(この間に、腰兵糧を解き、休息あるべし)
という令が伝わる。令は、貝をもって知らされ、心得は、使番をもって、各隊の部将に達せられた。
即ち、いう。
(中入《なかい》りの一挙は、首尾上々、味方の大勝に帰したとはいえ、なお賤ケ嶽、岩崎山、堀秀政の東野山より堂木《だんぎ》へわたる敵のうごきも定かでない。飯咬《めしか》むあいだも油断あるな。――常に、山上の旗合図、のろし、或いは随時、貝をもって報ずる令に心せよ)
炎煙はやや鎮まった。
焼け跡近く本陣をおいた佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》のまわりは、花見のようなざわめきだった。玄蕃允は大機嫌なのである。床几に倚《よ》って、次々に持って来る首級を視《み》にかかった。首帳第一は、当然、何といっても、瀬兵衛の首をあげた近藤無一であったが、無一は、
「首を掻いたのは、私ですが、討ったのは、大勢のお味方です。私一名が、筆頭を占めてよい理《わけ》はございませぬ」
功を戦友に譲《ゆず》って、かたく記名を辞退した。
無一、年二十一歳だった。よい侍、目をかけてやれとは、勝家もいっていた者である。佐久間家にも、こうした武者は少なくなかった。
戦捷の飛札《ひさつ》を添えて、中川瀬兵衛の首級は、直ちに狐塚《きつねづか》の柴田勝家の本営へ送られた。それと共に、玄蕃允は、使いをして、
「夜来、長途を来て、今暁からの合戦にて、兵馬は大いに疲れておるゆえ、今夜は、当所において夜を過ごす覚悟。――お案じあるなと、お伝え申せ」
狐塚までは、迂回路をとると四、五里もあるが、直線に行くと一里余しかない。勝家が、瀬兵衛の首級を目に見たのは、同日の午頃《ひるごろ》だった。
「やったわ。甥めが」
大喜悦である。
しかし、今夜は所在の陣地に一泊するという伝言を聞くと、急に眉をひそめた。
「――もってのほかな」
と、厳しい反対だ。大利に酔うて驕《おご》るは兵家の禁物とするところである。一刻もはやく敵中から足を抜け。さもなくば袋叩きの目にあうであろうぞ――と、戒告《かいこく》して、その旨を、かたく使者に答えて帰した。
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驕《きよう》 兵《へい》
同日の朝である。
琵琶湖の湖心を水鳥の群れのように北上して来る六、七隻の兵船があった。
船楼《せんろう》をつつむ軍幕《とばり》には、杜若《かきつばた》の大紋がはためき、武者囲いの蔭には、銃身や槍の穂先が林立していた。
「や。……あの煙は?」
丹羽《にわ》五郎左衛門長秀は、船楼に立っていたが、ふと湖北に連なる一山から立ち昇る黒煙《くろけむり》に、思わず声を大にして、左右へ訊ねた。
「――大岩《おおいわ》辺か、賤《しず》ケ嶽《たけ》か」
「賤ケ嶽かと相見えます」
坂井与右衛門、江口三郎右などの幕僚が答えた。
実際、この辺から望むと、山また山の重畳《ちようじよう》なので、大岩山の火の手も、てっきり賤ケ嶽と見られぬでもない。
「はて。解《げ》せぬが」
長秀は、眉をひそめて、なお凝視《ぎようし》しつづけていた。
解せぬ――と思ったのは、余りにも、彼の予感が中《あた》り過ぎていた驚きであった。
この日の二十日未明、長秀は、海津《かいづ》に駐《と》めてある一子|鍋丸《なべまる》を将とする軍隊から、早馬をもって、
(昨夜来、柴田、佐久間などの営中、何となく騒然《そうぜん》、不審《ふしん》に候う)
との通報をうけた。そのとき彼の六感はすぐ敵の奇襲≠直感した。なぜならば、十七日以来、秀吉が大垣へ発して、岐阜へ作戦中のことを知っていた彼には、敵がこれを偵知《ていち》すれば、時を移さず、虚を撃って来ることは――必然的に察し得るところだったからである。
で、長秀は、早馬の者が、
「昨夜来の敵の様子、不審にて候う」
と聞くや、
「かくある間も心もとなし」
と、手勢わずかに千余人を兵船五、六艘に乗せて、直ちに、
「葛尾《くずお》附近へ」
と、漕《こ》がせて来た。――と果たして、賤ケ嶽方面に煙が見られ、やがて、葛尾の岸近くに来ると、旺《さか》んな銃声さえ聞えて来たのであった。
「敵は早や本山の砦《とりで》を攻め陥《おと》したと見ゆるわ。賤ケ嶽も危うい、岩崎山も恐らく持つまい。……与右衛門、三郎右、その方どもは何と見るの」
幕僚の二人は、長秀から意見を問われると、率直にこう答えた。
「まことに、事態容易とは思われませぬ。必定《ひつじよう》、敵は大軍を動かし来ったものに相違なく、今この小勢をもって、破竹の敵に向ってみたところで、到底、お味方の危急を救うには到らぬものと見られます。事態、かくの如き上は、このまま、坂本へ引っ返し、坂本城にお籠《こも》りあるが上策ではないかと思考されまする」
「愚かなことを……」
と、長秀は聞き流した。そして却って、二人へ火急に命を下した。
「早々、船を渚《なぎさ》へつけ、兵馬を悉《ことごと》く、岸へ上げい。そこでまた、その方どもは、急いで船を返し、海津《かいづ》に駐《とど》めてある鍋丸の軍勢の三分の一を分けて、即刻、当所への加勢に駈けつけさせよ」
「でも、五里の湖上を、往き返りしていては、目前の御合戦に、間にあいましょうや」
「戦に当っては、日頃の算用一切無益じゃ。――五郎左衛門長秀が、これに兵を上げたりと敵へ響けば、それで既に効はある。よもやかかる小勢とは、敵も測り得ず。必ず一面に猶予《ゆうよ》を生ずるであろう。小さい思慮分別、かなぐり捨てて、早や船を着け、海津へ急げや」
丹羽長秀の上陸した地点は、葛尾《くずお》村の尾崎であった。船はすぐ引っ返した。装備に一刻余り費やされた。銃隊、槍隊、騎隊、荷駄隊など、列伍が組まれると、それはすぐ賤ケ嶽へむかい、急流のごとく進軍し始めていた。
途上の一部落で、長秀は馬を止めた。村民の群れを見かけたので、情報を聴取するためだった。
村民たちのいうには、
「夜明け方の合戦は、不意のことで、何やらいっこう分りませんでしたが、この辺までも、流れ弾が飛んで来、程なく大岩山の方に火の手が揚ったと思うと、鬨《とき》の声が、幾度も、海嘯《つなみ》のように聞えて参りました。そして佐久間隊の武者が――多分、斥候隊かもしれませぬ――馬を飛ばして何度も余吾《よご》の方から村を駈け抜けて行きました。うわさには、中川瀬兵衛様の軍勢は、砦《とりで》を守って、一人のこらず討死したとやらで、どうなることぞと、今も皆して語り合っていたところでございまする」
また、賤ケ嶽方面の味方については、何か知るところはないかと訊ねると、村民たちは、口を揃えてこう告げた。
「――つい今し方のこと、賤ケ嶽の桑山重晴様は、砦のお手勢をみな率《ひ》きつれて、木之本の方へと、山伝いに、急いでおいでなされました」
これは、長秀を唖然《あぜん》とさせた。
加勢して、共にそこへ楯籠《たてこも》ろうとして来たのに、当の桑山隊は、中川隊の全滅もよそに、持場を捨てて、早くも落ちて行ったとある。何たる醜態《しゆうたい》、何たる心事。長秀は修理重晴のあわて方に愍《あわ》れみすら覚えた。
「村民ども、見かけたのは、今し方と申したの」
「はいはい。まだ十町とは遠ざかっていないと存じまする」
「……猪之助」
と、長秀は徒士《かち》の一名を呼び出して、急にいいつけた。
「桑山隊を追いかけて、修理殿に会い、長秀、これまで参ったる由を告げ、共に賤ケ嶽を守るべし。早々、引っ返されよ……と申して来い」
「承知仕りました」
使番|安養寺《あんようじ》猪之助は、馬に鞭をあてて、木之本の方へ急いだ。今朝来、中川瀬兵衛へ向って、退陣の諫《いさ》めを再三くり返すのみで、協力にも出ず、ひたすら佐久間勢の猛襲に狼狽《ろうばい》していた桑山重晴は、中川隊の全滅を知るや、いよいよ浮き足立てて、この味方の中核陣地の潰乱《かいらん》を前に、一弾一槍の反撃を試みず、賤ケ嶽の持場を捨てて、今し、われがちの速度で落ちて行くところだった。
その意《こころ》は、木之本にある味方と合流して羽柴秀長の命を仰ごうとしたものだったが、途中まで来ると、丹羽家の安養寺猪之助が、長秀の来援を伝えて来たので、
「なに丹羽殿が加勢に駈けつけられたとか。さらば――」
と、俄に勇気づいて崩れ立った部下をまとめ、急旋回して、また元の賤ケ嶽へ引っ返した。
その間に、長秀は、附近の村落に諭告《ゆこく》して、住民を安堵《あんど》せしめ、賤ケ嶽へ登って、やがて桑山重晴と合した。
また、即刻、一書を認《したた》めて、美濃大垣の陣にある秀吉の許へ早馬を立て、事態の重大を急報した。
この日の夕方、羽柴秀長の命をうけ、藤堂与右衛門高虎も、一隊をひきつれて来援し、賤ケ嶽の死守に加わった。
一方、大岩山の佐久間勢は、戦捷《せんしよう》気分のうちに、そこの暫定主陣地で、午《うま》の刻《こく》(正午)から約|一刻《いつとき》余りは、悠々、休息をとっていた。昨夕方からの長途と激戦のあげくである。将士は、勿論疲れていた。
――が、兵は腰兵糧を摂《と》った後も、血まみれな手足を誇りあい、談笑に興じなどして、疲れも忘れていた。物頭は令を伝えさせて、
「寝ろ寝ろ。この間に、一眠りしておけ。夜もどうなるか分らぬぞ」
と、組々へいわせた。
雲も夏めいて来た。新樹に初蝉《はつぜみ》の声もする。湖から湖へ渡る山上の風はわけて快い。空腹を満たした兵たちは、ようやく眠気ざし、槍や銃を抱いたまま、彼方此処に転がり始めた。
木蔭の馬も、瞼《まぶた》をふさぎ、部将たちも、木の根に倚《よ》って、居眠っていた。
「…………」
静かである。激戦のあとの一瞬ほど寂たる感を誘うものはない。つい夜明け前まで、敵が夢をむすんでいた営はすべて灰と化し、その人は悉《ことごと》く屍となって草むらに委《まか》されていた。昼ながら鬼気肌に迫る――。哨兵の姿のほかは、帷幕《いばく》のうちまでひそ[#「ひそ」に傍点]としていた――。雷の如しというほどでもないが、主将|玄蕃允盛政《げんばのじようもりまさ》の鼾声《かんせい》が、そこから、さも快《こころよ》げに洩れてくる。
――戛《か》つと五、六騎がどこかで留まった。一群の甲冑はすぐこっちへ駈けて来た。玄蕃允をめぐって、各※[#二の字点、unicode303b]、坐態のまま眠っていた幕僚たちは、くわっと、すぐ眼を外へ向けて、
「何かッ」
と、呶鳴った。
「松村友十郎、小林|図書《ずしよ》など、大物見の者どもにござりますっ」
「はいれっ」
そういったのは、玄蕃允だった。不意に起きて、大きくみはった眼はまだ寝足らないように赤かった。一睡《いつすい》に入る前に、嗜《たしな》む酒を仰飲《あお》ったとみえ、座のかたわらに朱の大盃が乾《かわ》いていた。
松村友十郎だけが、幕裾《まくすそ》にひざまずいた。そして物見を報じていう。
「岩崎山には、早や敵の一兵もおりませぬ。万一、旗をかくして、埋伏《まいふく》の計《けい》もやあると、入念に見ましたが、守将高山右近長房以下|悉《ことごと》く、一刻半ほど前に、田上山(羽柴秀長の陣地)のふもと辺りまで、遠く退却いたしたようにござりまする」
玄蕃允《げんばのじよう》は手を打って、
「逃げおッたか」
と、哄笑《こうしよう》し、幕僚たちを顧みて、重ねて、
「――右近は逃げたと申すよ。迅《はや》い奴かな。わはははは」
と、全身を揺すって笑った。
祝盃の余酔がまだ醒めきっていないらしい。玄蕃允は、なお笑いやまず、
「むかし富士川に平家あり。今日、岩崎山に高山右近あり。いやはや、とんだ道化者よ。武門の生れぞこないよ。嘲《わろ》うても嘲いきれぬ」
このとき、さきに狐塚《きつねづか》の柴田勝家の本陣へ、戦捷《せんしよう》報告にやった使いが、勝家の旨を帯びて帰って来た。
「使番。――戻ったか」
「は。ただ今、帰陣いたしました」
「御本陣狐塚の方面には、敵のうごきはないか」
「別条もない由にござりました。お館《やかた》にもいとお気色ようて」
「さぞ、およろこびなされたであろうな」
「さればで――」
使番は、玄蕃允のたたみかけるような問いに、汗を拭《ぬぐ》うひまもなく答えつづけた。
「今暁からの合戦のもようを、逐一《ちくいち》、申し上げましたところ、そうかそうか、甥《おい》めの面目見るようじゃと、いつものお口癖もしばしば出され、斜めならぬ御感悦にござりました」
「して、中川の首級《しるし》は」
「すぐ御一見あって――たしかに瀬兵衛よ、と仰せられ、左右の方々を顧みて、幸先《さいさき》よいぞ、めでたい――といよいよ御機嫌の体《てい》にお見うけ申されました」
「さもあろうず」
玄蕃允は上機嫌だ。
勝家の喜悦を聞くことは、同時に彼の得意をも楽しませた。なお、その叔父をして、もっと大きな歓びに驚倒《きようとう》させてやろうという意図にすら燃えていたのである。
「岩崎山の砦もまた、つづいてわが手中に入ったことなど、北ノ庄殿には、まだ存じはあるまいに。……ははははは。さりとは、ちと御満足が早過ぎる」
「いや、岩崎山のことは、それがしがお暇申す頃には、早や狐塚にも伝わっておりました」
「では、再度、早馬には及ばぬな」
「そのことだけならば――」
「いずれ明朝と相成れば、さらに賤《しず》ケ嶽《たけ》も、わが手のものじゃ。併《あわ》せて耳に入るるも遅くはあるまい」
「さ。……その儀ですが」
「その儀とは」
「戦いの大利に乗じ、余りに与《くみ》しやすしと敵を見るは不覚のもとと、よそながらお案じの御容子《ごようす》で」
「たわけたことを」
と、一笑して、
「玄蕃、これしきの勝ちに、酔うてはおらぬ」
「……が、お館《やかた》には、御発向《ごはつこう》の前、特に御訓戒《ごくんかい》のあったことでもあり――中入《なかい》りは退《ひ》きの切レこそ大事、一勝を捷《か》ち獲た上は、敵中に長居はくれぐれ無用――と、今日も繰り返され、きっと、殿へその旨を伝えよとの仰せにござりました」
「すぐ引揚げよ、とか」
「疾《と》く退《の》いて、後方の味方に合せよとのおことばです」
「はて、腰弱な」
微《かす》かな嘲笑すら見せて、玄蕃允は、強く口のうちでいった。
「まあ、よい」
ところへ、偵察隊の一報がまた入った。丹羽長秀の三千が桑山隊に加勢し、共に賤ケ嶽へ拠《よ》って、防備を固め直しているというのである。――これは、賤ケ嶽の攻略を、独り明朝に期していた玄蕃允には、さらに、火へ油を注ぐものとなった。猛将の猛気は、かかるとき、いやが上にも旺《さか》んなる戦意に駆られるばかりだった。
「おもしろい」
玄蕃允は、陣幕を払って、外へ出て、南の方二里余、青嵐眉《せいらんまゆ》にせまる賤ケ嶽を見た。
――と、麓から登って来る一将があった。従者数名を連れている。そしてその案内に、木戸の守将が先に立ち、これへ急いで来るのが見えた。
「入道じゃな」
玄蕃允は舌打ちした。
その人間が、常に叔父勝家のそばにいる浅見入道|道西《どうせい》とわかると、すぐ彼がこれへ使者に来た用向きも、会わないうちに知れた気がしたからである。
「オ。……これにおいでで」
道西入道は、汗をかいていた。佇《たたず》んでいた玄蕃允は陣幕のうちへ誘《いざ》ないもせず、
「対馬《つしま》どのか、なんじゃ」
膠《にべ》もない眉を示した。
道西は、ここでは申し上げかねるが――という意を容子に見せたが、玄蕃允はそれに先手を打って、
「こよいは宿陣して、引揚げは明日と相成るぞ。――先刻、狐塚へも伝えておいたが」
と、余事には耳もかさぬ顔をした。
「伺いおりまする」
道西入道はいんぎんに礼を仕直した。そして、大岩山の大勝をくどくど祝した。玄蕃允は思う。こいつに粘《ねば》られては堪らん。――そこでぶッきら棒に云い出した。
「叔父上には、まだ何か、取り越し苦労をなされて、御辺をこれへよこしたのか」
「御賢察《ごけんさつ》のごとく、その宿営の儀を、いたくお案じで、夜ともいわず敵との切レを取って、わが本陣へ来るべし――との御意で」
「案ずるな、入道。玄蕃が麾下の精鋭《せいえい》は、進まば破竹《はちく》、守れば鉄壁。未だかつて、辱《はじ》を取った例《ため》しはない」
「もとよりそれはお館にも御信頼のことにござりますが、兵法の上よりみて、中入りの地に凝滞《ぎようたい》あるは、なんとしても、策を得たものではないと……」
「まて、入道。凝滞の陣とは、変通自在を欠く死陣をさしていうことぞ。玄蕃を兵法知らずと申すか。その一言は、汝《なんじ》の言か、叔父上のことばか」
ここに至っては、道西入道もおぞ毛をふるって口を緘《つぐ》むほかはなかった。そして到底、かかる間の使いに立つのは身の危険であるとも考えた。
「それほどまでの仰せとあれば、ぜひもございませぬ。御信念のほど、お館に申し上げておきましょう」
倉皇《そうこう》と、入道は辞去《じきよ》した。玄蕃允《げんばのじよう》は、将座へもどると、すぐ指揮を発して、岩崎山へ一隊を派し、また、賤ケ嶽と大岩山の中間にあたる観音坂附近や蜂ケ峰へも、各※[#二の字点、unicode303b]監視小隊をさし向けた。
すると、程なくまた、ここへ取次の声があった。
「狐塚の御本陣より、国府尉《こくぶじよう》右衛門《えもん》殿、御軍令を承《うけたまわ》って、ただ今、これへお越しになられます」
この度の使いは、単なる面談や、勝家の意思の取次でなく、正式なる軍令を伝達する者として来たのである。玄蕃允も、床几を譲《ゆず》らざるを得ない。
――が、命令の内容は、さきの繰り返しに過ぎなかった。神妙に聞いてはいたが、玄蕃允の答は、依然、自説を固持して敢えて服する色もなかった。
「すでに、中入りの一戦は、指揮進退、玄蕃に御一任くだされたこと。おことばを容《い》れては、せっかくの作戦も、画龍点睛《がりようてんせい》を欠くことに相成る。さらに、ここはもう一歩、玄蕃允の采配《さいはい》におまかせおき賜わりたい」
使いをもって、懇《ねんご》ろに伝えさせても肯《うなず》かないし、総大将の命なりと達しても服さないのである。そうした自我を楯《たて》に取って構えた佐久間玄蕃允の前には、勝家から選ばれて来た国府尉右衛門といえども、ついにその剛性《ごうせい》を説き伏せることはできなかった。
「やむを得ぬ儀」
彼は忽ち見切りをつけた。軍令の使者たる手前でもそうなければならなかった。やや憤然たる眉色《びしよく》さえ見せて、
「お館《やかた》の御意は測《はか》られませぬが、お答え通り申し上ぐるでおざろう」
余談は何ひとつ交えず、すぐ帰って行った。勿論、往復ともに快足の駿馬《しゆんめ》に鞭打っているのだ。
その三度目の使者が帰り、折返して、四度目の急使がこれへ来た頃、陽は西にうすずきかけていた。
勝家侍側の老臣で太田《おおた》内蔵助《くらのすけ》という老武者が、ことばを尽して、説きに来たのである。――というよりは、叔父甥の仲に入って、若気な玄蕃允の剛性をなだめに来たというかたちだった。
「まあまあお志もおわそうが……お館とても、あなた様をば、御一族中でも格別に思し召されればこそ、かくまでの御心配を遊ばすというもの。……殊に、ここまで敵の一角崩せば、後は陣勢堅固に立てて、勝目勝目と、おもむろに敵の弱身を破ってゆけば、ここに、わが大柴田の策す天下の計は定まると申すもの。……のう、玄蕃どの、ここは一つ折れて」
「老人。――日が暮れると、途中があぶない。帰れ」
「なりませぬかの」
「何がじゃ」
「御決意は」
「そんな決意は、初手《しよて》からしておらぬ」
この老臣も手持無沙汰に帰った。――五度目の急使が来た。実にこれで五人目の使いである。玄蕃允の剛性に角《つの》が生えた。わがままも、ここまで来ると、意地である。
「会わんといえ」
追い返そうとしたが、使者の宿屋七左衛門は、小武者ではない。きょうの使者はみな馬上の歴々だったが、わけて七左衛門は君側の一雄である。
「――われらのお使いにては、不足かは存ぜぬが、勝家様自身、これへ迎えに参らんと仰せ出されましたのを、まずまず、さまでにはと、われら近衆がおひき留め申して、不肖七左衛門が、かくは大殿の代りに参ったのでござる。なにとぞ、御分別あって、一刻もはやく、ここ大岩山を、御陣払いのほど、伏して願い奉りまする」
陣幕《とばり》の外に平伏して訴えるのであった。――が、玄蕃允の胸にはべつにこういう判断があった。いかに大垣の秀吉が変を知って駈けつけたところで、大垣からここまでは約十三里。きょうの注進が着くのも夜にかかろう。また、そう急には岐阜《ぎふ》の陣地を離れ得るものでもない。その転進をよほど早目に予想しても、まず、明日の夜か、明後日《あさつて》にはなる。――そう彼は多分に多寡《たか》をくくっていたのだ。――頑《がん》として初志を翻《ひるがえ》さない一因のものは、彼の持ったその公算にもあったのである。
(――玄蕃めがどうしても肯《き》かぬとあれば、われ自身出向いても、こよいのうちに引揚げさせん)
とまでいったという柴田勝家の焦躁《しようそう》は、焦躁としても、さすがに兵家の老練といっていい。玄蕃允のあまい公算とは大きにちがう。
その日、狐塚の本陣は、中入り軍の快捷《かいしよう》の報をうけて、一時は、歓呼に沸《わ》きたてられていたが、勝家の戦局観による中入り軍の急速な後退命令が、いっこう行われず、特に、馬上歴々の衆を次々にさしむけても、悉《ことごと》く玄蕃允の拒否や嘲笑に追い返されて来る始末に、俄然、勝家の憂色濃く、
「甥めは、この勝家に、皺腹《しわばら》を切らす男じゃ。……ああ、何たる奴」
と、歎声を発し、果ては、身もだえせぬばかり、玄蕃允の我意《がい》を罵《ののし》っておられる――という帷幕《いばく》の内紛が洩れるに至って、中軍の士気も何となく鬱々《うつうつ》と重く、
「また、お使者が出た」
「や、またも」
と、頻々《ひんぴん》たる大岩山との往復に、将士までが胸をいためていた。
勝家も、この半日で、寿命をちぢめる思いをしたらしい。五たび目に使者の宿屋七左衛門の帰るのを待っている間などは、床几《しようぎ》についていなかった。陣所は狐塚の一寺にあったが、そこの廻廊を、黙々と、めぐり歩いては、山門の方を見て、
「まだか。七左は」
と、幾たび、近衆に訊ねたことか知れない。
「――はや黄昏《たそが》れるか」
せまる暮色まで、彼をいらだてた。が、日の長いさかりである。鐘楼《しようろう》のあたりにはなお夕陽が残っていた。
「宿屋どのが帰りました」
山門固めの武者が階下まで走って来て告げた。オオと白髪《しらが》まじりの眉をしかめ、近づく影を見るや、
「七左。どうした?」
と、ひざまずく間も待たず、彼から訊ねた。
七左は、玄蕃允《げんばのじよう》が会わぬというのを強《た》って会って、縷々《るる》、お旨を伝えて来ましたが――結局、大垣にある秀吉がこの方面へ駈け向って来るには、ぜひとも、一両日は要し、また迅速《じんそく》に来たところで、長途につかれた兵、これを撃つのは、さして困難とは思われぬ。それゆえどうしても大岩山に踏みとどまるお覚悟と申され、如何とするも、意志を変じるお気色は見えず、やむなく立ち帰りました――との口上を有態《ありてい》に復命した。
――と、勝家は、眼のくぼをぎら[#「ぎら」に傍点]とさせた。憤怒《ふんぬ》をまぜた骨肉の感情をよこに沸《たぎ》らせて、
「ば、ばかな」
と、血を吐きそうな叫びをなし――大きなうめきの下に、また、
「途方もない男よ」
と身をふるわして罵《ののし》った。
「弥惣《やそう》っ、弥惣っ」
右を見、左を見、次室の武者|溜《だま》りの内へ、こう甲《かん》だかく呼びたてた。
「吉田弥惣どのですか」
毛受《めんじゆ》勝助が問い返した。勝家は、その勝助へまで当りちらすように、
「そうじゃよ。早く呼べ。弥惣にすぐこれへといえ」
あわただしい跫音《あしおと》が、寺中を駈けた。呼ばれて来た吉田弥惣は、またすぐ勝家の命をうけて、大岩山へ馬をとばして行った。
長い日もようやく暮れ、若葉の木蔭に、篝《かがり》の火色が揺れ始めていた。――勝家の胸奥《きようおう》を象徴《しようちよう》するもののように。
二里余の往復は、飛馬|一鞭《いちべん》のまたたく間だった。吉田弥惣は、忽ち帰って来た。
「これが最後のおことばとまで――切にお諫《いさ》めいたしましたが、玄蕃允様には、ついにお肯《き》き入れもございませぬ」
六度目の復命もこうだった。勝家はもう怒る気力もないようだった。もしここが戦場でなかったら落涙もしかねない容子に見える。ただ歎息に沈んで、今は責めを自己にたずね、
(……儂《み》が悪かった)
と、日頃の彼になしていた盲愛《もうあい》が今さら、悔《く》やまれてくる。
軍律《ぐんりつ》一本の儼《げん》たる統率になければならない戦場において、端《はし》なくも、今日の玄蕃允は、日頃の叔父甥の感情を持ち出し、平常の狎《な》れたる態度で、興亡の処決に向い、しかも、自我のわがままを押し通して、いッかな顧みもしないのである。
(困った!)
実にそう思う。臍《ほぞ》を噛《か》んでそう思う。
勝家の拳《こぶし》は膝に顫《わなな》いている。
――が、若年の彼をして、そう狎《な》れしめた者は誰か。誰でもない叔父たる自身の盲愛ではなかったか。玄蕃允の素質を愛するの余り、さきには養子の勝豊と長浜城を失い、今は、全柴田軍の運命からさらに大きな――またと取り返しのつかない機運を失おうとしているのだ。――こう思い来るとき、柴田修理勝家は、まったく誰をも恨みようのない悔恨《かいこん》の底に、暗然たらざるを得なかったのである。
吉田弥惣は、なお告げた。――玄蕃允が云ったという返答をである。それによれば、玄蕃允は、弥惣の切なるすすめに対し、依然一笑を酬《むく》いて、
(むかしは、柴田殿といえば、鬼ともいわれ、神算鬼謀《しんさんきぼう》の大将ともいわれたか知らぬが、今日となっては、北ノ庄殿の戦法も、すべてのおさしず振りも、はや時勢に副《そ》わぬお古い頭となっておる。古風な軍略では今時の合戦はでき申さぬ。このたびの中入《なかい》りにせよ、初手はなかなかおゆるしもなかった程だ。ともあれ、ここは玄蕃にまかせ、修理叔父は、狐塚にお控えあって、一両日は、御見物が然《しか》るびょう思われる)
と揶揄《やゆ》して、てんで[#「てんで」に傍点]受けつけもせず、その間にも、観音坂や蜂ケ峰方面の新地点へ、積極的に小部隊を増派している様子でした――と弥惣はつつみなく語るのであった。
勝家の憂いと、惨心の影は、見るに堪えないものがあった。なぜならば、彼は、秀吉の真価を誰よりも知っていた。日頃、玄蕃允や侍臣などに云っていた評は、敵を怖れしめないための戦略的言辞に過ぎないのであった。秀吉の怖るべき理由は、中国引っ返し以後、山崎の合戦でも、清洲会議のときでも、飽くほど、胆に知らされて来た勝家である。――いま、その強敵を前にし、乾坤一擲《けんこんいつてき》の火ぶたを切って起った出ばな[#「ばな」に傍点]に、はからずもこの一蹉跌《いちさてつ》を味方に見ては、いかに勝家みずから勝家を恃《たの》むも、決戦の前途に、早くも安からぬ困難を感ぜずにはいられない。
「途方もなき玄蕃かな。勝家、今日まで、一度も不覚を取らず、敵に総角《あげまき》を見せたこともなきに。……ああ、ぜひもなや」
沈痛な嗟嘆《さたん》のうちに、宵闇ふかい夜は、彼の苦悶に、あきらめを強《し》いていた。遂に、ふたたび使者は出なかった。
[#改ページ]
その日のうち
大垣の秀吉の陣所へ、羽柴秀長からの第一報が入ったのは、その日二十日の午《うま》の刻《こく》(正午)頃であった。
(今暁、佐久間勢八千、間道より中入りを遂げ、大岩砦の瀬兵衛苦戦)
と、早馬をもって告げて来たのである。
木之本《きのもと》から大垣まで十三里、早馬としても、非常なる迅《はや》さだったといっていい。
すぐ、第二報が着いた。
(柴田勝家の本軍一万二千もまた時を同じゅうして、全面的にうごき出て、狐塚を中心に、北国街道に沿い、東野山方面へ当てて、布陣|凡《ただ》ならず見えて候う)
時、ちょうど秀吉は、呂久川《ろくがわ》べりへ出て、増水の勢量を視て帰って来たところだった。
一昨日《おととい》から昨夜にかけて、美濃方面は豪雨だったとみえ、大垣|岐阜《ぎふ》間の合渡川《ごうとがわ》も呂久川も氾濫《はんらん》していた。
そのためここでは、作戦に大狂いを生じていたのである。――予定としては、昨十九日、岐阜城へ向って、一挙に総攻撃を開始するところであったのが、豪雨と呂久川の出水に邪《さまた》げられて、きょうも渡河の見込みなく、一両日、待機《たいき》となっていた折であった。
秀吉は、一番着の使いの飛札《ひさつ》を陣外の馬上で受取り、手綱《たづな》を挟んで、鞍の上でそれを読むと、
「大儀」
と、使いへ云ったのみで、何の表情も示さず、陣小屋へ入った。
「由己《ゆうこ》、茶を一ぷく」
と所望し、飲みおわる頃、第二報をうけた。
三番飛脚は、堀秀政からの者で、秀政の書中によって、善戦した中川瀬兵衛の討死や、高山右近の抛棄《ほうき》による岩崎山の失陥など、やや詳密《しようみつ》なことが明らかになった。
これらの早馬は、時間にしても、わずか半刻《はんとき》(一時間)ほどを前後していたに過ぎなかった。
秀吉は、帷中《いちゆう》の床几《しようぎ》に移っていた。誰彼と、幕僚を呼びあつめ、
「秀長から今、かく飛札して来たが――」
と、淡々と一同へ打明けていた。そこへ堀秀政の詳報が着き、諸将の眉色も凡《ただ》ならぬものを現わしたが、秀吉もまた、瀬兵衛戦死の報に接しては、
「……惜しいことを」
一瞬、瞑目《めいもく》していた。
その容子が、諸将の面《おもて》に、さっと凄気《せいき》をながした。その唇々《くちぐち》から、
「大岩山の瀬兵衛には、早や斬り死いたしたるか」
と、期せずして沈痛な問いが出た。そして、この危機を如何に処すかを、秀吉の面《おもて》から読もうとするもののように皆、一点に凝視をあつめた。
秀吉はそのとき云った。
「瀬兵衛を討たせたは、返すがえすも無念ではある。不愍《ふびん》ではある。じゃが、犬死はさせぬ。……」
ここから一段と語気高く、
「よろこべ。よろこびをもって、瀬兵衛への手向《たむ》けとせよ。――戦いはいよいよわれらの大捷利《だいしようり》と天も告げ給うぞ。いわれは、久しく切所《せつしよ》に引籠《ひきこも》って行蔵《こうぞう》をつつみ、手策《てだて》のなかりし柴田めも、いまみずから牢砦《ろうさい》を出で、勝ちに驕《おご》って遠く陣を張れるは、まさに、勝家が運の尽きよ。彼奴《きやつ》が屯《たむろ》を作《な》さぬうち、切崩《きりくず》さば、何の一溜《ひとたま》りもあるべき。天下の雌雄《しゆう》を決し、われらが大志を果すとき、この節到来。今ぞ到来ぞや。――怠るな各※[#二の字点、unicode303b]」
突如の霹靂《へきれき》にも似た危機の悲報は、秀吉の一言に、却って、晴天を指す快報となっていた。
――われ大捷《たいしよう》を獲《え》たり。
と、すでに秀吉は諸将へ向って明言を与えたのである。そして時も措《お》かず、次々と命令を発し始めたのだ。命をうけた諸将も、
「時こそ来れ」
と、将座の前を辞して、飛ぶがごとく、各自の営へ駈け出してゆくのだった。
一時はすわ大事≠ニ危局の感に迫られた面々も、立ちどころに、
「この勝ち軍《いくさ》に、後に置き残されては――」
と、秀吉の命令が、自身を名ざす[#「ざす」に傍点]までの順番さえ、もどかしそうに緊張していた。
左右の小姓近衆のほか、召し呼ばれた諸将はあらまし準備のため退いたが――氏家広行《うじいえひろゆき》、稲葉一鉄《いなばいつてつ》などの地侍二、三の輩と、直属の堀尾茂助吉晴には、まだ何の指令もなかった。
たまりかねた容子《ようす》で、氏家広行は、われから進んで秀吉へ訊ねた。
「それがしの手勢も、お供の用意にかからせたく存じますが?」
「いや、お汝《こと》は、大垣に残っておれ。――岐阜《ぎふ》の抑えに」
そして、堀尾吉晴へも、
「茂助。その方も残れ」
と、同時に命じた。
それを最後に、秀吉は陣幕《とばり》を出て行った。と、すぐ大声で、
「作内っ、作内っ」
と呼びたて――
「さきに吩咐《いいつ》けておいた飛脚どもはどうした。揃うたか」
「はっ、あれにお指図を待ちおりまする」
加藤作内|光泰《みつやす》は、すぐ走って、彼方に控えさせていた約五十名の健卒を秀吉の前につれて来た。
これはさきに秀吉が(足達者な飛脚を五十人ほど揃えておけ)――と光泰に命じておいたものである。
秀吉は、その健卒たちへむかい、直々《じきじき》にこう告げた。
「きょうこそは、われらの生涯のうちにも、またとない一日。――その日の先駈けに選ばれたその方どもまた男《お》の子冥加《こみようが》というものじゃ。各※[#二の字点、unicode303b]、日頃鍛えた脛《すね》にものをいわせて急げや」
――次に、使命をさずけた。
「二十人は、垂井《たるい》、関ケ原、藤川、馬上《まけ》、長浜のあいだ、行く先々の村民に触れて、日暮れなば、松明《たいまつ》を道々に灯《とも》しおくこと。また、道の邪《さまた》げとなる手車や牛や木材などは往来に置くな。子供らは悉《ことごと》く家のうちに抱《かか》え入れ、危うき橋はすぐ繕《しつ》らえ置けよ――と大声にて触れつつ走れ」
「はいっ」
右端から二十人は、一斉にうなずいた。後の三十人には、さらに、こう命令が降った。
「爾余《じよ》の者どもは一散に、長浜へと急ぎに急ぎ、城内の留守居とも力を協《あわ》せて、町の年寄、村々の百姓に告げ渡し、われらの通る途々に、木之本《きのもと》まで隙間もなく、兵糧を並べ置けと申せ。湯水、松明《たいまつ》、馬糧《まぐさ》なども供《そな》えおけと布令《ふれ》いたせ。――戦いおわらば、汝らにも、褒美あろうぞ。――早や行け」
健卒五十名は、すぐ駈け去った。
秀吉もまた、直ちに、
「馬をっ。馬を」
と、左右に促して、脇坂甚内の曳いて来た黒駒へ乗りかけていた。すると、
「殿。しばらく」
不意に誰か駈け寄った。氏家《うじいえ》広行であった。秀吉の鞍にすがりついて、武者たる者が、声なく泣いているのである。
氏家広行は大垣の城主で、いわゆる地侍の頭目《とうもく》である。岐阜の抑えとして、その氏家だけを留めておくのは、不安な上に、或いは、神戸信孝と通じて、離叛《りはん》せぬ限りもない。――そう秀吉は疑ったのである。
――で敵の抑えに、また抑えが必要となる。堀尾茂助にたいして秀吉が、氏家と共に残れ――と命じたのは、そのためであるはいうまでもない。
(お疑いをかけられたか)
と広行は、心外に思った。
なお、自分のために、堀尾茂助までが、千載一遇《せんざいいちぐう》の決戦主戦場から除かれて、残留組に廻されたのは、何とも気のどくの感に堪えない。
そうした真情に訴えるべく、秀吉の馬前にすがった広行は、
「――それがしのお供はかなわぬまでも、何とぞ、堀尾殿はぜひ御左右にお加え下されませ。広行、この場にて、腹掻《はらか》ッ切り、殿の後顧《こうこ》は、断ってお見せいたしまする」
と、までいって鎧通《よろいどお》しに手をかけた。
「うろたえな。広行」
秀吉は鞭《むち》をもって、彼の手を打った。
「それ程、筑前について参りたくば、後より続いて来い。――が、総勢立ち払った後より来いよ。……おおさ、茂助ばかりとはせぬ、その方も来い」
「えっ、それがしまでも」
狂喜して、広行は、陣幕のうちを振向き、
「堀尾どの、堀尾どの。おゆるしを得たぞ。出て来いっ。お礼を申せや」
と、大声で伝えた。
堀尾茂助は、駈け出して来た。二人して、大地に平伏した。しかし、びゅっと風に鳴る鞭の音がしたのみで、秀吉の馬はもう彼方へ駈けていた。
「あっ、お立ちぞう」
それには侍側の面々すら、不意をくッて、われがちに、
「おくれるなっ」
「おくれては――」
徒歩《かち》で走り出す者、馬上へとび乗る者、列なく纂《さん》なく、わっと、またどっと、主人のあとを追って一斉に発した。
時に、時刻はちょうど未《ひつじ》の頃(午後二時)であった。飛脚の第一使が着いてから、秀吉の発するまで、実にまだ一刻(二時間)しか費やしていない。
その一刻のあいだに秀吉は、江北の敗れをもって、むしろ天与の勝機と断じ、立ちどころに、全軍の大方略を一決し、乾坤一擲《けんこんいつてき》の大道十三里余にわたる途々《みちみち》の布令《ふれ》まで先駆させて、ここに肚《はら》も態《たい》も、
「よし!」
となすや、総勢一万五千の真ッ先を疾駆《しつく》して行ったのもまた、彼自身であった。
羽柴軍二万のうち、五千は後に留められ、一万五千が、旋回《せんかい》一路、秀吉に続いたのである。
しかし、先頭一騎駈けの秀吉の姿に、辛《から》くも追いついていた者は幾人もなかった。旗奉行の石川兵助、軍《いくさ》奉行の一柳市助、加藤光泰のふたり、小姓組では加藤虎之助、脇坂甚内、平野権平、石田佐吉、糟屋《かすや》助右衛門など七、八輩が徒歩《かち》または馬で秀吉の近くを走っていたに過ぎない。
長松、垂井、関ケ原――
道が、山間にかかると、徒歩の士は遅れがちになり、代って、騎馬の者が追いぬいてゆく。
しかし、秀吉の姿はなお、先頭にあった。
不破を過ぎると、先頭にかけ離れていた秀吉と七、八騎の影は、突然、街道に見えなくなった。
「や。いずれへ」
驀走《ばくそう》して来た騎馬また騎馬の奔流と、徒歩《かち》立ちの武者たちは、玉村|端《はず》れの並木に、堰《せき》となって立《た》ち淀《よど》みながら、
「はて。お姿は?」
「この行くてには見えぬ」
「しもうた。――道をかえられたに相違ない」
「さては、伊吹の裾道《すそみち》よ。――玉村から川寄りへ曲がれば、藤川、上平寺下《じようへいじした》、春照《しゆんしよう》村を通って、この街道を行くよりは、およそ二十町の近道になる」
「オ、それだ。返せ」
「おういっ、道をもどれ」
「返せや、後の者っ」
なお、駈け来る者と、引っ返す者とで、渦《うず》をえがく混騒《こんそう》が生じた。
中には、かかる暇も惜しとばかり、そのまま北国街道をまっ直ぐに、鞭を上げて走るもあり、玉村の追分から、伊吹山の裾を見ながら、狭い間道をとって、急ぎに急ぐ人々もある。
何せよ、秀吉に続く数多《あまた》の将士が、秀吉におくれじと、また、余人に先は譲らじと、鋭気を競い、先を争うて急ぐこと、戦国の日、諸所に大小の合戦は繰り返されたが、まだかつて今日ほど、その先争いの烈しかったことはなかった。
当時でも、抜け駈けや味方争いは、儼《げん》に軍律のゆるさないところではある。しかし、秀吉はこの日、一切の日頃の規縄《きじよう》を解いて、将士の意気と思いに委《まか》せたのである。それも、ことばや法文で示したものではない。――彼自身がまず先頭を切って、味方一万五千の先に一騎駈けして見せたのである。
なおまた、この日、彼が決した大方針といい、行くての主戦場といい、指揮一切は、帷中《いちゆう》の短時間に、ばたばたと裁決したことなので、その要綱《ようこう》を知悉《ちしつ》していた者は、まったく首脳部だけで、大衆一万五千の兵は、ただ木之本へ木之本への合言葉と、
「軍《いくさ》は勝ちだと、御大将がいっている」
という以外に、何のためにかく急がれているのか、仔細は何もわからずに走っていたのがほとんどといってよい。
けれどただ、兵すべては、
「御大将が、急ぐからには――」
と、信念信頼の一点を、先頭の姿に託して、
「死ぬも定《じよう》、生きるも定。――どうせ生死を超《こ》すならば、俺らの御大将まかせだ。筑前守様に従《つ》いてこそ行け!」
これが兵の意気だった。偽わらぬ気もちだった。彼らも、騎馬の将におくれを見せず、脛《すね》をもって、飛馬と競い、中には血を吐いてついに途上に仆れた歩兵も多く出たほどであったという。
いわんや、年ばえみな蕾《つぼみ》の桜にも似る、秀吉近侍の小姓組の若人輩《わこうどばら》においてをやである。
「わっ、うわっッ。前に行く馬|下手《べた》っ。避けろ。退《の》かぬとあぶないぞ」
山裾の間道は道がせまい。為に、あぶみ一つ外《はず》しても、後続の者が喚《わめ》きに喚く。――いや、何の理由なくも、追いつかれると、後の者は、前の者を威嚇《いかく》し、一人でも追い抜こうとするのだった。
その競争は、必然、寸時でも秀吉の側を離れては恥辱《ちじよく》とする小姓組のあいだに、最も猛烈であった。
前も見ず、後も見ず、同勢無二無三に先行を争うので、折々、馬と馬とぶつかり合い、棹立《さおだ》ちとなって狂う馬も少なくない。
「あっ、脚を折った」
加藤虎之助は、鞍上から馬の首を跳びこえて、地に立った。彼が自慢の逸足《いつそく》も余りに烈しく打ち叩いて来たので、遂に乗り潰《つぶ》してしまったのである。
この一頭は、勢州峰の城攻めの際、彼が、敵の鉄砲頭近江新七を討った功で、秀吉から賞に貰った黒鹿毛《くろかげ》だった。
馬を拝領したのは、主人から「馬に乗ってもよろしい」と許されたものとしていいのであるが、まだ小姓組の若輩ではあり、馬を持たぬ朋輩《ほうばい》のてまえを思って、鞍は据えても乗った例《ため》しはない。いつもただ手綱を持って曳き歩きながら、欣《うれ》しそうにしていたものだった。
しかし、今日こそは、拝領の駿足《しゆんそく》にものをいわせてみせる時と、終始、秀吉の後を離れずに飛ばしていたが、今はぜひなくそれを捨て、
「やあいっ、又蔵っ。乗り換馬《かえ》を曳いて来いっ。早く来いっ」
と、頻りに、後から来る郎党を呼びぬいていた。
そういう瞬間にも、騎馬、徒歩の激流は、彼の姿を目にも入れず、疾風をなして駈け抜いてゆく。
虎之助は、気が気ではない。
「おういっ。又蔵っ。六助っ。早く来うっ」
地だんだ[#「だんだ」に傍点]踏まぬばかり呶鳴っていた。
その姿へ、日頃顔見知りの谷兵太夫が、あやうく馬首を突ッかけそうにした。
兵太夫は、はっと手綱を抑え、全身の弾《はず》みを語気に発して、
「ばかっ。もそっと、道の傍《はた》へ退《す》ッ込《こ》んでおれっ」
と罵《ののし》った。虎之助も、負けてはいず、
「真っ直ぐに馬をやれぬほどなら、その馬を、俺にくれてしまえ」
と、云い返した。
「青二才。何を申すか」
と、兵太夫は振り顧《かえ》って、じろと地上を眺め、
「途中で脚を折るような馬を持って、烏滸《おこ》がましい口を叩くな。不吟味なる若者めが、以後、つつしめ」
そのまま、行こうとすると、虎之助は、兵太夫のあぶみを抑え、
「谷殿、待て。――馬は仆れても虎之助の膝栗毛《ひざくりげ》は、この通り達者ですぞ。先々でも、敵の名馬を奪《と》ってみしょう。槍の働きにかけても、貴殿におくれは取り申さぬ。覚えておかれよ」
「小賢《こざか》しいこというな」
兵太夫は、鞭をくれて、他の馬群のうちへ走りこんだ。
ようやく、虎之助の槍持と、空馬を曳いた郎党が追いついて来た。――が、その乗り換馬も、また忽ち乗りつぶしてしまい、遂には、
「ええ面倒」
と、持って生れた脛《すね》の限り宙を駈けてゆく虎之助であった。――が、駈けるには、具足は重く邪魔にもなるので、しまいには、それをも脱いで小者に担《かつ》がせ、ただ白地に朱蛇《しゆじや》の目《め》の陣羽織一枚となって、韋駄天《いだてん》のごとく走り、いつかまた秀吉の側に追いついていたという。
秀吉もまた、大垣からの一頭は乗り殺してしまっていた。余儀なく途中で馬を換えた。そこは、伊吹山麓の馬上《まけ》という部落だった。
秀吉が馬を乗換えていると、土地の本願寺宗の僧侶夫婦が、
「御軍旅のおなぐさみに」
と、草団子《くさだんご》を献上した。
「布施《ふせ》か。かたじけない」
秀吉は馬上ですぐ喰べた。喰べながら、僧に訊ねた。
「ここは何村か」
「馬上《まけ》村と申しまする」
その答えを嫌って、秀吉はなお訊き返した。
「馬上寺《まけじ》村か、馬上寺村か」
僧は、マケという語の不吉にハッと気がついて、
「はい、はい。馬上寺村で――」
と云い直した。
秀吉は、呵々《かか》と笑い捨てて、早や飛鞭《ひべん》遠くを指していた。疾駆する馬の背から、折々|陽脚《ひあし》を仰いだ。刻々の寸時も惜しまれているらしい。
山裾の間道を離れると、ふたたび本街道に出た。黄昏《たそがれ》近きを思わせた山蔭《やまかげ》の道も、明るく展《ひら》けて来た視野には、なお夕陽にはだいぶ間のある空であった。
「どうしたことぞ」
秀吉は前後の臣にいった。
「そこらまでは、沿道の村々みな、先触《さきぶ》れどおり、兵糧、松明《たいまつ》の供えなど、抜かりなきよう見えたが――この辺には、行届いておらぬかにみゆるが」
「されば、その筈です」
石田佐吉がすぐ答えた。
「布令の衆は皆、二本の脛でお先駆けしていること、いかに迅脚《はやあし》とて、そういつまで、殿のお馬の先にあるわけはございません。――早や皆、追い越されて、後になったものと相見えます」
「そうか。いや、そうときまッた。さらば、行く行く布令《ふれ》ねばならぬ」
部落を見かけるたびに、秀吉は持前の大声をもって、家々の前を駈け抜けながら呶鳴って行った。
「――やよ聞け村人。秀吉、今宵がうちに、柴田勝家を討ち取る手筈あって、駈け向うなるぞ。――家々、米《よね》や豆を出し合わせ、ぬる粥《がゆ》にして、後より来る武者どもに接待せよ。夜に入らば、篝《かがり》を出し、松明《たいまつ》をかかげ、武者どもの駈けゆく便りにせよ。戦い終らば、褒美あるべし。米、豆など、費《つい》えはすべて十倍にして取らすであろうぞ」
かくて、石田村、十条、南郷をまたたく間に駈け、やがて並木越しに、湖が見えて来た。
「お。長浜」
「早や長浜ぞ」
鏘々《しようしよう》と揺れ響く馬具甲冑の激流のなかで、人々は声をもって、また鞭をもって、励まし合った。
長浜の町は、鼎《かなえ》の沸くような騒ぎだった。すでにここは木之本、賤ケ嶽にも近く、今暁以来、前線の崩壊《ほうかい》に恟々《きようきよう》としていたところだった。しかし、秀吉の先駆が着くと同時に、極端に脅《おび》えていた人心は、それだけ反動的に沸騰《ふつとう》して、
「大垣の味方衆が回《かえ》って来たぞ」
「筑前様が先頭に立って」
「欣《うれ》しや、もう大丈夫」
「なんたるお迅《はや》さ!」
事実、秀吉の姿を目に見た領民は、せつな、感極まったものの如く、わあっ、わあっと、歓呼とも泣き声ともつかぬ絶叫をあげて、物狂わしいばかり往来に手を振っていた。
秀吉とその先頭隊が、長浜に入ったのが、申《さる》の下刻《げこく》(午後五時)だ。
以下の一万五千という後続軍である。それが後から後から続き、最後方の人馬までが、悉《ことごと》く、大垣を出払ったのは、ちょうどその時分であったろう。
以て、秀吉が、発するに先だって、沿道の民家に、松明や糧食の供出を命じておいた用意が頷《うなず》かれる。
長浜に着いても、秀吉は、直ちにその先手の準備を怠らなかった。
機変に当って、ただ迅速を能としたのみでなく、いかに彼がその頭脳を精密に働かせていたかは、川角道億《かわすみどうおく》の一文が最もつぶさにその状況を活写している。
[#ここから2字下げ]
――道々の在々所々の庄屋、大百姓ども召寄せられ、馬の食《はみ》をば合せ糠《ぬか》にせよ。先手先手に、持《もち》たるたしなみの米を出し炊《たか》せよ。米の算用《さんよう》は、百姓ばら自分の米ならば、十層倍にして、後に取らす可《べ》き者也。急げ急げと、御自身、お触れ候。
飯《めし》出来候はば、あき俵をさき、俵の端をば其儘おけ。俵を二つに切りあけ、塩水のからきを以てよくしめし、食を入れよ。出来候はば、牛馬に付けさせ、賤ケ嶽を心がけ、急ぎ参るべきなり。
合せ糠には、木の枝か、紙など印につけよ。後より人数つづかば、草臥《くたび》れたるもの多くある可きなり。「これは食にて候、参る可し参る可し」と言ひ聞かせよ。さだめて皆、喰ふべき者多くある可き也。ばい[#「ばい」に傍点](奪い)とる者あるならば、其儘とらせよ。「きるものに御包み候へ」「手拭などにも御包み候て然る可し」と、おしはなし取らす可き也。
たとへばい[#「ばい」に傍点](奪い)とる食も、先へ持ち来りなば、みな用に立つべき也。食かと思ひとる者あらばこれは「御馬の合せ糠にて候が、御用に候はば、之を進ず可し」と、是も相渡すべきもの也。
[#ここで字下げ終わり]
この周到な用意は、またよく人心の機微《きび》をもつかんでいる。その時代の性格として、軍民の真の同苦協力はまずむずかしかった。捨身の将士と私情の領民との一結し難いものを、苦もなく一縄《いちじよう》に率いてこれを鼓舞《こぶ》している。
戦いである以上、秀吉とて、実は、勝敗の帰結《きけつ》は期し難いものを、われ勝てりと、士気すでに沖天《ちゆうてん》、希望の大道を目にも見よ≠ニ、民衆に見せ示していた。振わぬ領民のあるはずはない。
持出し米は、一戸一升と触れても、彼らは五升一斗と担いで来る。老人子供は家に在れといっても、薪をかつぎ水を汲んだ。通る武者へ湯を捧げ、食物を供した。
純な一途《いちず》と情をもって、女たちもよく働く。殊に娘たちの打ち振る手や送る目も、また若き武者ばらに愛護《あいご》の念を抱かせた。
篝《かがり》、松明は道のかぎり、蜿蜒《えんえん》と光焔《こうえん》を連《つら》ねた。その火は町から村を縫い、湖畔の水に映じ、山蔭山裾にそい、陽も落ちて、夕闇せまる頃は、一大美観を現じていた。
馬上に握り飯を取って喰い、湯《ゆ》柄杓《びしやく》で寸時の渇《かつ》を医《いや》したぐらいで、秀吉は、疾《と》くに長浜を出、曾根、速水《はやみ》と駈けつづけていた。――そして目ざす木之本に着いたのは、まさに戌《いぬ》の刻《こく》(午後八時)――夜なお宵であった。
大垣から通算およそ五時間。一気に走破《そうは》して来たわけである。当時としては超々速度といっていい。が問題は速度ではない。彼の大気明快な統率と、無碍《むげ》自在な方略の断にある。
田上山には、羽柴秀長の麾下《きか》一万五千人がいた。
木之本は、山の東麓《とうろく》に沿う街道の一宿駅で、山上軍の一部は、ここに屯《たむろ》し、宿端《しゆくはず》れの字地蔵《あざじぞう》という所には、屋根なしの井楼《せいろう》(物見|櫓《やぐら》)を設けて斥候陣地としていた。
「どこだ、此処は」
奔馬《ほんば》の脚を、急激に止めながら、秀吉は、馬の背にへばり[#「へばり」に傍点]ついたまま訊ねた。
「地蔵ですっ」
「木之本の御陣場近くです」
誰となく口々に答えるをよそに、秀吉はなお鞍坐《あんざ》のまま、
「湯をひと口。水でもよい……」
と、求めた。
さし出す柄杓《ひしやく》を、柄《え》短に取って、ガブと一口のみ、初めて胸をのばした。
駈け寄った屯《たむろ》の部将が、馬前に来て、何か挨拶したが、秀吉の注意をひく間もなかった。秀吉と同時に馬から降りた人々やら、五馬身、十馬身、または半町、一町ぐらいな差で、駈け続いて来た面々が、わらわらと一時に駒を捨てたからである。忽ち附近はこの怒濤《どとう》一色に塗りつぶされていた。
「高いな。だいぶ」
秀吉はすぐ歩を運び、櫓《やぐら》の下へ寄って宙を見上げていた。野天の井楼《せいろう》なので、階段もない。組まれている脚木《あしぎ》を頼りに攀《よ》じ登るのである。
彼は率然と、若年一軽兵の頃の体験を、その肉体に思い出したらしい。持っていた柿《かき》団扇《うちわ》(軍配)の紐《ひも》を佩刀《はいとう》の環にくくり付けると、井楼の雁木《がんぎ》に足を懸け始めた。小姓たちは、その尻を押し上げ押し上げ、人梯子《ひとばしご》を重ね上げた。
「あっ。お危《あぶ》のうござる」
「ただ今、お梯子を」
遠くでは叫んでいたが、秀吉の姿は、はや二丈余の宙に立っていた。
この夜、天《そら》は清明《せいめい》――
尾濃《びのう》平野を過ぎた暴《あ》れの余波もしずまり、星は静かに、琵琶《びわ》、余吾《よご》の二湖は大小の鏡を投げたように見える。
さっき、馬の背では、さしも疲れたかに見えた彼が、そこに立つと、毅然《きぜん》たる影を宇宙に印《しる》していた。彼には楽しみがあって疲れはないようである。危局が大なれば大なるほど、労苦が深ければ深いほど、正反対な生きがいを抱くのであろう。――逆境をのり越えて逆境を見返し得たときの快。これは大なり小なり年少から嘗《な》めてきたものである。人生の至楽は、成るか成らぬかの苦しい境にあるとみずから称している所以《ゆえん》でもある。
――が、今ここから間近な賤ケ嶽、大岩山などを一望したとたんに、彼の面にはすでに勝算歴々たる余裕がのぼっていた。
しかし、彼は人一倍、用心ぶかい。彼の習性として、この際も、一応静かに目をとじていた。そして自己を、敵でもない味方でもない、大宇宙の上においた。天地の運行と、人間抗争の布図《ふず》に眺め合わせ、彼勝つか、これ勝つかを、無私冷静に、大観してみた。――軍勢の多寡《たか》とか、わが羽柴軍がとか、この秀吉がとかいう、すべての自家撞着《じかどうちやく》から脱却して、純無雑、宇宙の心となって、天意の答を聴いたのである。
やがて、秀吉は呟いた。
「まず、ざッとすんだ……」
そして、微笑を見せた。
「佐久間めが、青々と出たことよ。……豎子《じゆし》、何を夢むか」
その夜、斥候櫓《せつこうやぐら》から、敵陣地を一望した秀吉が、
(ざッと、すんだ……)
と独語したという言葉の意味の中には、彼がそのときすでに、全戦局に対して綽々《しやくしやく》たる余裕を持ち得たことを示したものといっていい。
「武家事紀」の記載によると、秀吉は独語のあとでなお、
[#ここから2字下げ]
――佐久間メガ、青々ト出タルゾ。皆討チ取ル可《ベ》シトテ、跳《ヲド》リ給フ。尾藤甚右衛門、戸田三郎四郎ナド、下ニテ聴テ、亭主ハいかう[#「いかう」に傍点]浮気ニ成リ給ヘリトテ、笑ヘリト也
[#ここで字下げ終わり]
と、彼が例のごとく跳《おど》ってよろこんだと誌《しる》してある。
書中に、亭主とあるは、もちろん秀吉をさしていう。「いかう浮気ニ成リ給ヘリ」と諸将にも見えた程であるから、もっていかに彼が、望楼から敵陣を一見したせつなに、しめたッと、手を打って跳り上がったことか、歓びの状が目に見えるようである。
何が、彼をして、さまでに歓ばせたかといえば、それは、
(佐久間めが、青々と出たぞ――)
の一言がよく証明している。青々というのは青くさく[#「くさく」に傍点]も≠フ意味だ。佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》が、中入りの危険を冒して大岩、岩崎の二城塁を一挙に攻め奪《と》り、これに驕旗《きようき》をひるがえして、
(天下、乃公《だいこう》に如《し》く武略家あらんや)
と誇っている陣も、秀吉の目からは、青くさく[#「くさく」に傍点]て、青い玄蕃≠ニ微笑を覚えるほどな芸当《げいとう》に過ぎなかったものとみえる。
兵法に、九ツの付目ということがある。
その要綱を、「相」「体」「用」の三位三段にわけて、九ツの見所と、九ツの戒と、九ツの大事を示し、機微|悉《ことごと》くこのうちにあり[#「あり」に傍点]と説いたものであるという。
(相)……切《きれ》……紛《まぎれ》……位《くらい》
(体)……隙《すき》……凝《こり》……弛《たるみ》
(用)……起《おこり》……居着《いつき》……尽《つき》
玄蕃允の場合についていえば、まだ戦わぬ序において、彼は、敵と対峙《たいじ》の「相」の期間に、秀吉の「マギレ」をつかみ、よくその「隙」を衝《つ》いて中入りの奇功を奏《そう》したものといえる。
つまり「用」の用兵。序戦の立ち上がり――起――の疾風|迅雷《じんらい》の点では、遺憾《いかん》なかったのであるが、勝家の六回の諫使《かんし》も退けて、「キレ」を取らずに、傲然《ごうぜん》、その夜も陣地を動かさずにいたことは、まさに、兵法の忌《い》みたる「居着」の戒を無視していたものだった。――秀吉が、望見して、
(豎子《じゆし》、居着いておるわ)
と、手を打って、思うつぼとなしたのは、確かに、ここに理由があったのである。
櫓《やぐら》を降りると、彼はすぐ、美濃部勘左衛門という地侍を案内に立てて田上山の中腹へのぼった。そこで羽柴秀長の迎えを見、指揮をさずけ終るや、また山を降って黒田村を渡り、観音坂を経て、余吾の東方、茶臼山《ちやうすやま》へかかって、初めて床几《しようぎ》代りの、挟み箱に腰をおろした。
この頃、追々と、後から駈け続けて来た将士も、約二千ほど数えられた。
挟み箱に腰かけた彼の服装を見るに、昼から汗と埃《ほこり》にまみれきった柿色染《かきいろぞ》めの木綿陣羽織に、柿《かき》団扇《うちわ》をもち、徐々、それをうごかして、戦闘指揮にかかっていた。
ときに、ようやく真夜中、時刻にして亥《い》の下刻《げこく》から子《ね》の刻《こく》近く(午後十一時過ぎ)かと思わるる頃だった。
[#改ページ]
しっぱらい
蜂ケ峰は、鉢ケ峰とも書く。賤《しず》ケ嶽《たけ》につづく東方の一山である。
佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》は、夕刻、ここに一部隊を上げていた。翌朝の賤ケ嶽攻撃に、飯浦坂《いいうらざか》、清水谷などの西北方にある味方先鋒部隊と呼応《こおう》し、敵を孤塁《こるい》に拠《よ》らしめて撃つ意図《いと》であったのはいうまでもない。
星は満天をちりばめている。しかし山中の夜はげき[#「げき」に傍点]として暗かった。樹林と灌木《かんぼく》におおわれた山また山も墨一色だし、道も細い杣道《そまみち》が一すじ縫うているに過ぎないからだ。
「はてな?」
ひとりが呟いた。
四、五名の哨戒《しようかい》兵が立っているその中の声だった。
「何が。何がだよ、おい」
べつの声がそれにいう。
「来てみろ」
と、少し離れた所から呼んでいる。それに応じて、ガサゴソと灌木を踏む音をさせ、哨兵《しようへい》たちは山鼻に影をかさねていた。
東南方を指して、
「妙に、彼方の空が、明るいような気がするが?」
ひとりは云ったが、誰の目にも遽《にわ》かに認め得るほどな異変でもない。
「何処がじゃ」
「いや、そんな方角じゃない。――ほれ。あの大きな檜《ひのき》の右手から、ずっと南の方へかけて」
「なにかと思えば――」
と、みな笑った。
「あれは大津か黒田村のあたりで、百姓が何か焚《た》いておるのじゃろ」
「郷《さと》に百姓はいないはず、みな山へ逃げこんでおる」
「では、木之本《きのもと》に屯《たむろ》している敵の篝《かがり》でもあろうよ」
「何の、雲の低い晩なら知らず、この冴えた夜に、あのように空を染めているのはおかしい。……オ、ここは眼をさえぎる樹が多いが、あの屏風岩《びようぶいわ》のてッぺんに登ればよく見えよう」
「――止せ。あぶない」
「踏み外したら谷間だぞ」
止めたが、ひとりはもう攀《よ》じ登っていた。蔦《つた》かずら[#「かずら」に傍点]に取ッついて。
登りつめた一ツの人影が、猿のように岩山の頂に見えた。――と思うと、その兵の口から出た叫びだった。
「あっ。たいへんだっ」
下でも、驚いた。
「何だ! 何が見えたのか」
「…………」
上の影は、凝然《ぎようぜん》、自失しているように見える。次々に、下の者も登って行った。そして皆、夜風の空に、肌をすくめた。
そこに立てば、余吾《よご》、琵琶《びわ》はいうに及ばず、湖に沿うて南へ一すじの北国街道も、伊吹《いぶき》の裾まで一望される。
――見れば。夜目なので定かでないが、長浜あたりと覚《おぼ》しき地点をつらぬいて、ここの麓《ふもと》に近い木之本まで、一条の光焔《こうえん》が河をなしているではないか。松明《たいまつ》、篝《かがり》の隙間なき流れだ。炎々、点々、眼のとどく限り火流光輪である。
「これは!」
と、眼を奪われた一瞬から醒めると、
「それっ、早くっ」
哨兵たちは、辷《すべ》り降りて、転《ころ》ぶが如く、部隊陣地へ知らせに駈けた。
明日は――
と、胸に期すところ深かったので、玄蕃允《げんばのじよう》は早くから帷幕《いばく》に寝ていた。
兵も寝ていた。
馬も眠りおちていた。
亥《い》の刻《こく》(午後十時)に近い。
玄蕃允はむく[#「むく」に傍点]と身を擡《もた》げた。――なにかが、ふと鋭感《えいかん》な彼の緊張をゆり起したものらしく、
「対馬《つしま》っ」
と、呼んだ。
同じ帷中《いちゆう》に、手枕で眠っていた大崎対馬守が、刎《は》ね起《お》きたとき、玄蕃允もまた立って、無意識に小姓の手から槍を取っていた。
「馬のいななきが聞えた。――見て来い」
「はっ」
と対馬がそこの幕《とばり》を上げたのと出《で》あい頭《がしら》に、やあと、いう者があった。清水谷に陣している佐久間勝政の部下今井|角次《かくじ》なのである。
「一大事です」
まず、角次の第一語に、
「何の報《し》らせか」
と、玄蕃允の声も弾《はず》み上がった。――よほど慌てているらしく、角次のことばは、火急の報告として、ひどく簡明を欠いていた。
「――今、物見の知らせによりますと、美濃路から木之本まで数里の間、夥《おびただ》しい松明《たいまつ》や篝《かがり》が、赤々と動き渡り、ただならぬ様子とのことにござります。――勝政様にも、必定、敵の移動ならん、早くお耳に入れよとのことに、駈け参りました」
「なに。美濃路から火の列じゃと? ……」
まだ玄蕃允には腑《ふ》に落ちぬ顔いろであった。しかし、清水谷からの急報とひと足ちがいに、蜂ケ峰の原房親《はらふさちか》からも、同様な異状をこれへ急告して来た。
陣中の将士は一斉に起きて、暗いざわめき[#「ざわめき」に傍点]の中にあった。忽ち、ここの波紋が拡《ひろ》がって、
(美濃路から秀吉がひっ返して来た――)
と伝わったからである。
が、玄蕃允はなお、
「よもや、まだ?」
と、半信半疑の体であった。固持する自己の公算からも割りきれない面持《おももち》なのである。
「対馬。確かめて来い」
いいつけると、床几《しようぎ》を求め、彼は強いて、悠然《ゆうぜん》たる容態《ようたい》を保《たも》とうとした。自分の顔いろを窺《うかが》う衆臣の心理はいま微妙にうごきつつあるからだった。
大崎対馬守は程なく馬を打って帰って来た。清水谷、蜂ケ峰とも方角を変えて、茶臼山から観音坂まで行って見届けて来たという。――そしてその言によると。
「篝、松明はおろか、耳をすますと、馬のいななき、馬蹄の戛々《かつかつ》、木之本を中心として、まことに、凡事《ただごと》ならぬ物声にござりまする。早や早や御対策なくてはかないますまい」
「さては、筑前か」
「秀吉自身、まッ先に、駈け参ったものと思われます」
「ちいッ。かくも……とは」
今さらの如く愕然《がくぜん》とした玄蕃允《げんばのじよう》はいうことばすら欠いて、こう唇を噛んだまま、しばし黙然と蒼白な面をじっと仰向《あおむ》けていた。
ややあって、彼は、
「退《ひ》こうっ。――退《ひ》くよりほかにあるまいではないか。来るは大軍、われは孤軍」
牛の唸《うめ》くように云い放って、にわかに陣払いを触れ出した。
つい夕方まで、叔父勝家のあれ程な命にも服さず、強硬に我執《がしゆう》を持していた玄蕃允も、今は、
「疾《と》くせいっ。早くせい」
と、あわただしい陣払いの支度を、足下から火のつくばかり、旗本小姓の面々に、急《せ》き立てている人と変っていた。
「蜂ケ峰の使いは帰ったか、まだ居るか」
馬の背に移りながら玄蕃允は左右に訊いていた。そして、いると聞くと、馬前へ呼び、
「すぐ立ち帰って、彦次郎(原房親)に申せ。われら本隊は、今よりここを立ち退き、清水谷、飯浦坂を越え、川並《かわなみ》、茂山《しげやま》を経て引揚ぐるほどに、彦次郎一手の者は、しっぱらい[#「しっぱらい」に傍点]しつつ後より来いと――」
命じ終るとすぐ玄蕃允は旗本たちと一群になって、真っ暗な山道を辿《たど》り出した。
「彦次郎を後におけば」
と、いささか心のゆとりも生じて来た。しっぱらい[#「しっぱらい」に傍点]とは、殿軍《しんがり》のことで、後払《しりはら》い――武者訛《むしやなま》りから来たものであろう。
かくて、佐久間本隊が総退却にかかり出したのは、亥《い》の下刻《げこく》(午後十一時)頃であり、この夜、月の出は、今の時間にして、十一時二十二分。――で、約三十分間ほどは、敵に移動を覚《さと》られまいとするため、松明《たいまつ》もつかえず、ただ打ち振る火縄と星を頼りの暗夜行路だったのである。
玄蕃允の根本的|誤謬《ごびゆう》が、いかに部下の将士を極度に狼狽《ろうばい》させたことか。小瀬甫庵《おぜほあん》の甫庵太閤記《ほあんたいこうき》に、その状を、
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――玄蕃允陣中もいよいよさわぎ立ち、立ち退きなんとひしめきしかど、昨夜《よべ》は節所を窘歩《きんぽ》し来り、昼は終日戦ひ暮れたり、目ざすも知らぬ夜の道、小笹《をざさ》が上の露もろとも、おちまろび、起きては倒れ、倒れては起き上り急ぎしが、せめて月をよすがにせむと、ののじる内に二十日夜《はつかよ》の月、山の端に、ほのかなりければ……。
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とあるに看《み》ても、その混乱と喧騒ぶりは、察するに難くない。そしてこの山また山の難路退却は、翌暁の午前三時過ぎまで――約四時間にわたるものとなっていたのである。
一方――
秀吉の進撃と、ここの動きとを、時間的に対比してみると、玄蕃允が陣払いを始めていた頃、ちょうど秀吉は、黒田村から茶臼山《ちやうすやま》へのぼり、挟み箱を床几として、ひと休みしている時分かと思われる。
秀吉は其処で、秀吉に謁《えつ》するために、賤ケ嶽から急遽《きゆうきよ》降って来た、丹羽長秀《にわながひで》に会った。長秀は客将分である。彼にたいして秀吉の礼が篤《あつ》いのはいうまでもない。
「いまは、何も得《え》いわぬ。――今朝来、いこう骨折りでおざったな」
ことば短に、そういっただけで、床几を頒《わ》かち、あとは敵状や地勢などを問い、折々には、ふたりの笑い声が、山上の夜風に流れていた。
かかるまも、二百三百と、秀吉におくれた将士が追いついて来た。彼の周辺は、刻々、満潮時のように、兵を加えているばかりだった。
「――蜂ケ峰附近に、一部の殿軍《しんがり》をのこし、玄蕃の隊は早や清水谷へと退き始めておりまする」
物見は、頻りに、告げて来た。
秀吉は、長秀に命じて、味方の諸砦《しよさい》へ、次のことを伝達させた。
――予は、丑《うし》の刻《こく》(翌二十日午前二時)より、玄蕃の急追撃にかからん。
――土民をも聚《あつ》めて、黎明《れいめい》とともに、各山上において、大喊声《だいかんせい》を発せしめよ。
――夜、曙《あ》けんとするや、一斉の銃声あるべし。まさに、嚢中《のうちゆう》の敵を一掴《いつかく》の機《き》、そのときにあり。
――未明の銃声は、敵のものと心得てよし。総がかりには貝合図あるべし。機、外《はず》すことなかれ。
丹羽長秀《にわながひで》が去るとすぐ、秀吉も床几を払わせ、
「玄蕃は落ち退いたりと申すぞ。玄蕃の退き道を、ひた追いに尾《つ》けて、無二無三、追いつめよ」
と、馬廻りの士をもって、全軍へいわせた。
「夜の白むまで、鉄砲撃つな――」
それも心得させた。
坦々《たんたん》たる街道とちがい、折所《せつしよ》の多い山道である。進撃先鋒《しんげきせんぽう》は、続々、動き出したが、意の如く進めない。
中には、馬を降りてみずから曳き、互いの腰を押し合って、道もない沢や崖を踏みこえて行く隊もあった。
夜半過ぎからは、いとど中天に冴えて見えた二十日月《はつかづき》は、佐久間勢の退路も扶《たす》けていたが、急追撃を思う秀吉|麾下《きか》の将士にとってもまた絶好な明るさだった。
両軍の距《へだ》たりは、その序戦行動に入った時間から見ると、約三時間の差でしかない。
秀吉が、この一局戦に、敢えて圧倒的な大軍を傾けて来たことと、立ち上がりの士気とにおいて、両軍の勝敗は、戦わぬうちに、すでに帰趨《きすう》を明らかにしていたといっていい。
世人はよく評していう。
秀吉の戦法は、常に、衆をもって寡《か》を討つものであり、この点、信長とは大いに趣《おもむき》を異にする――と。
中《あた》っていない、と秀吉はいうだろうと思う。
なぜならば、小より大がよく寡より多の方がよいことは平凡な道理であって、戦略や信条といえるものではない。できれば誰でもそれを択《と》るであろうことは言を俟《ま》つまでもない。
秀吉の場合は、この平凡な道理に従って、常時、戦のない日でも、それを戦務と政略に、孜々《しし》、心がけて来ている結果のものなのである。
そして、いざ戦闘にも、
――五指ノ弾《ハジ》クハ、一拳《イツケン》ニ如《シ》カズ
の古語を践《ふ》んで、一玄蕃を粉砕《ふんさい》するにも、美濃から引ッさげて来た全軍を注《そそ》いだのである。――が、彼はその量をもって妄信《もうしん》している愚者ではない。――五指は彼の部下であり、五指をもって一拳の力となすには、自身、陣頭に立つことであるを知っている統率の体現者であった。統率こそ、彼の本領であり、彼の真面目《しんめんもく》のあらわるるところといえよう。
短い初夏の夜も、まだ明けきらない。
秀吉は、猿ケ馬場まで進み、
「あれが、余吾か……」
と脚下に俯瞰《ふかん》された湖をながめて云った。
「余吾です」
馬廻りの武者たちが答えた。
秀吉は、手綱をとめ、地勢を按《あん》じているふうだった。
パチパチッ、パチッ……
左方の高地で銃声が聞えた。烈しい武者声も谺《こだま》してくる。秀吉はまた問うた。
「佐久間勢のしっぱらい[#「しっぱらい」に傍点]と見ゆる。いずれ玄蕃の子飼《こがい》であろうが、あの健気《けなげ》な敵は誰だ?」
「殿軍《しんがり》の敵将は、原|房親《ふさちか》とか、聞えております」
馬廻りの一名が答えた。
何か思い当るものへ、秀吉は、独りうなずいて、
「あ。あの原彦次郎かよ」
と、なおしばし、谺《こだま》に耳をすましていた。
彼方の銃声と喊声《かんせい》は、まッ暗な山腹を通って、次第にその戦闘地点を、西へ西へと移行しているらしい。また、時々、尾撃《びげき》してゆく羽柴勢が、逆突《ぎやくとつ》をくって押し返され、阿修羅《あしゆら》の両勢のおめき合うのが、すぐその辺のもののように迫って来る。
秀吉は、そこの激闘を偲《しの》んで、
「彦次郎めにしッぱら[#「しッぱら」に傍点]われては、蜂ケ峰へ向った味方も、辛《つら》い目を舐《な》めおるにちがいない。……が、まずよかろう」
といった。そしてふたたび、馬をすすめ出していた。
今し、序戦の火ぶた[#「ぶた」に傍点]が切られている蜂ケ峰とは、反対な方角へ、秀吉の主力は降りて行ったのである。
その道を、斜めに降りて行くと、尾野路《おのじ》山を右に見、やがて余吾ノ湖の畔《ほとり》――庭戸ノ浜へ出る。
と――
坂の途中に、切れ草鞋《わらじ》、手拭、折れ矢、笠、馬糞《ばふん》などが踏みにじったように散乱していた。
「玄蕃の軍勢も、尾野路よりここを横切って、清水谷へ越え出たものとみゆる。――見よ、地に描いて行ったこの慌《あわ》てぶりを」
秀吉が察した通り、佐久間本隊は、つい一刻(二時間)前に、ここを通過していた。
「急げ。夜明けまでには、追いつこう。逃ぐる敵との間も、はや遠くはない。もう一息ぞ、もう一息ぞ」
余吾ノ湖《うみ》の水面は、こころもち明るくなって来たかと思われる。山坂の嶮隘《けんあい》にかかると、秀吉は馬を曳かせて、若者輩にも負けずに歩いた。
浜へ出た。
渚《なぎさ》の水明りのみでなく、夜も白々と明けたのである。
「糧《かて》喰え、糧喰え」
軍奉行《いくさぶぎよう》に触れさせて、秀吉も行糧を喰べた。けれど、烹炊《ほうすい》の煙は一切あげなかった。昨夕、美濃街道を急行軍して来る途々《みちみち》、領民たちから給与《きゆうよ》された握り飯を、木の葉や、手拭包みから解いて、立ったまま、むしゃむしゃ頬張り始めたにすぎない。
また、云い合わせたように、兵は渚の水へ首を伸ばして、馬のように、湖を飲み合った。
「渇《かわ》きにまかせて、飲みすぎるな。日盛りともなれば、頭から照りつけるぞ。よい功《てがら》を持たぬうち、汗塩をかき過ぎて徒《いたず》らにつかれるなよ」
二人の軍奉行は呶鳴っていた。
夜来、遅れていた面々が、追々に到着するので、ここの主力はなお増強を示していた。――明けて二十一日朝の雲もない朝空の下に、ざっとその頭数を見わたしてみると、約六、七千の兵はあった。その揺れあう甲冑の波の上に、常に見馴れた金瓢《きんぴよう》の馬印も、今朝ほどうるわしく見えたことはない。
卯《う》の刻《こく》(午前六時)頃――一斉にまた急追にかかった。程なく、敵の一尾隊に接触した。その敵は佐久間本隊の殿軍《しんがり》、安井左近の手勢だった。
退き≠いそぐ佐久間軍主力の殿軍と、尾撃すべく躡《つ》け≠早めていた羽柴方の先鋒とは、初めて電雷一触の叫喚をここに起したのであった。
佐久間方のしっぱらい[#「しっぱらい」に傍点]の任に当った安井左近|家清《いえきよ》は、手勢数百を、道々、半町ごとに伏せて、秀吉の先鋒がかかるやいな、
「外《はず》すなっ」
小銃の一斉音と、弾《たま》けむりをもってつつみ、銃手が弾込《たまご》めするあいだには、
「射ろ射ろっ。弓の手」
と、代る代るに、烈しい矢攻めを喰わせて、敵の先手に、ひと泡ふかせ、見事、たじろがせたのであった。
それに対し――
秀吉の姿の見える中軍のあたりは、軍《いくさ》奉行、旗奉行たちの、叱咤の声が高かった。激越《げきえつ》なる貝鉦《かいかね》のひびき、また、押太鼓の音が、鼕々《とうとう》、濤《なみ》となって、先鑓《さきやり》を励ました。――組々の武者頭も、退くな、ただ突っ込め、殿軍の小勢のごとき、踏みつぶし踏みつぶし、駈けて通れっ――と声を嗄《か》らし、
「つづけ」と、われから先を開いてゆくのである。
殿軍《しんがり》は、小勢ながら、地勢を利しており、羽柴方は、大軍ではあるが、狭隘《きようあい》な地なので、全力を注ぎ得ない。
しばらく、一進一退の、押しあい、揉《も》みあいが、前方でくりかえされていた。
秀吉は、鉄砲隊へ、
「いちどに撃て」
と、命じた。
これは、敵兵を撃つものではない、敵軍を威圧するため、かねて丹羽長秀に諜《ちよう》じておいた大喊声《だいかんせい》を起すべく、のろし[#「のろし」に傍点]代りに撃たせた銃声であった。
銃声にこたえて、味方の賤《しず》ケ嶽《たけ》からも、諸所の散隊や砦々からも、いちどに、わあッ≠ニいう鬨《とき》の声が揚った。
声の濤《なみ》は、山を越え、余吾ノ湖を越え、木之本、田上山《たがみやま》、堂木《だんぎ》、神明、街道中ノ郷の諸部隊にまで呼応しつつ伝わって行ったので、さながら万雷一時に鳴る――の思いを敵になさしめた。
かつは、味方の先手を、鼓舞したこと、ひと方でない。
この勢いに、安井勢は潰《つい》え去り、怒濤の羽柴軍の躡《つ》け≠ノ委《まか》せて追われたが、突然、蜂ケ峰方面から駈け下って来た隊伍なき捨身の一群が、
「味方よ、返せ。彦次郎が来たわえ! 俺と共に、しッぱらえ、しッぱらえ!」
と安井左近へ呼びかけながら、猛烈な槍風を揃えて、ふたたび秀吉方の先手へ突っかかった。
未明から、蜂ケ峰道の敵別動隊に当っていた佐久間方の殿軍《しんがり》の一手、原彦次郎房親だった。
原隊の奮戦は、さしもの躡《つ》け≠フ激流を釘付けにして、一時ながら大いに羽柴軍を悩ました。
原彦次郎の「抜槍の殿軍」といわれて、この折の彼のすぐれた働きは、当時、諸人の目を醒《さま》すと称《たた》えられた。抜槍≠ニいういわれはこういう乱戦となれば、長槍短槍を問わず、敵味方とも、たいがい乱打の叩き合いとなるものだが、原彦次郎のみは、終始、突いては引き抜き、突いては引き抜き、駈け廻って、手練沈着《しゆれんちんちやく》、見事であったと、人みな感じたことによるのである。
原彦次郎の勇名と共に、ほかにも、一挿話が残っている。
原隊の一士に、青木|法斎《ほうさい》(当時、新兵衛)という者があった。
この法斎は、晩年、越前家に仕えたが、或る夜、同藩の荻野《おぎの》河内《かわち》の宅で、寄合い振舞いがあり、彼も客の中に招かれていた。
その頃までも、武辺者のならいで、飲めばすぐ往来の戦語《いくさがた》りである。その夜も、客のひとりが云い出した。
「――賤ケ嶽の繰引《くりびき》に、余吾《よご》ノ湖《うみ》ばたで、羽柴勢の躡《つ》けを、猛烈にしッぱろうた合戦のもようを、ひとつ、ここに居る法斎どのから聞こうではないか」
「それは初耳じゃが、法斎老に、左様な体験がおありなのか」
と、みな彼の顔を見た。法斎は、迷惑そうにしていたが、男は、旺《さかん》にたきつけた。
「あるともあるとも。法斎老は、常に薄とぼけた体《てい》をしておざるが、当時、原彦次郎の手について、倫《みち》を離れて見事な働きをなされたお一人と聞き及ぶ」
そこで、相客たちは皆、口をそろえて、法斎に、ぜひ話せ、ぜひ聞こうと、興じ入って求めた。
断りきれず、法斎は、ぽつぽつ語り出した。そしていうには、
「べつに、手柄ばなしとておざらぬが、その節、羽柴方の先手から、ひとりの武者が襲いかかり、てまえに槍をつけ申した。……その武者、金か銀かは、慥《しか》と覚え申さぬが、盆ほどの大前立をなし、烈しゅう突ッかかり来おッたを、この方の大槍、前立にカチと当り、突きそびれて候うが、その武者、突き廻されて、無念げに、おのが陣へ引取りまいた。したが、殊のほか、見事な相手の振りに、今も忘れずにおりますわえ」
すると最前から聞き入っていた亭主の荻野河内が、
「近頃、めずらしいお話を承《うけたまわ》った。その折の武者の具足は、朱漆《しゆうるし》とは御覧なかりしか?」
法斎は、そうだと答えた。河内は、たたみかけて訊ねた。
「指物は、然々《しかじか》。――また、そのとき尊公の革胴《かわどう》に、槍の痕は残らざりしか」
「なかなか、仰せの通りじゃが……」
と法斎が、いぶかると、河内は、きッと改まった。
「客衆多くのなかで、よいお物語りを出されたものかな。その折の朱具足の武者こそは、この河内にて候う。仰せには、突き廻されて、引取ったりと聞えたが、迷惑な御記憶ちがい、末代までの家名にもかかわる儀、慥《しか》と、御詮索《ごせんさく》の上のこと、まいちど承り申したい」
開き直ったので、大議論になった。双方ゆずらないのである。
ところへ、河内の一子、生年十七歳の若者が、台所を手伝っていたので、袴《はかま》も着けず、それへ来て、二老の前に両手をつかえ、
「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。思えば、その方々へ、蔭膳《かげぜん》の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」
と、窘《たしな》めて、文句なしに、扱いすませたということである。
[#改ページ]
獅子児一群《ししじいちぐん》
玄蕃允《げんばのじよう》の弟、柴田勝政は、前夜以来、兄玄蕃允の命をうけて、手兵三千と共に飯浦坂《いいうらざか》にあった。
飯浦坂というのは、琵琶湖北岸の入江にある小部落から、賤ケ嶽の西にかかる山ふところの坂道をいう。
地勢は極めて狭い。
もし、戦況が不利となれば、立ちどころに、危地となる惧《おそ》れがある。
で、玄蕃允は、自己の率いる本隊を、余吾《よご》の水際《みずぎわ》から清水谷を経て、急速に引き退かせつつある間に、勝政の支隊へも、使いを飛ばして、
「事態は急変。お許《もと》にも、飯浦坂の堀切を捨て、早々、峰道を西へとり川並、足海《たるみ》峠のあたりまで、一気に兵を退《さ》げられよ」
と警告していた。
すでにその前から、飯浦部落や賤ケ嶽から、羽柴方の先鋒が、散弾的にこれへ襲撃を示して来て、勝政の麾下《きか》は善戦していたが、玄蕃允の伝令をうけるに至って、
「さては、何事か起って、にわかに、作戦がえになったものとみゆる」
と、ようやく、敵の気勢のただならぬ一変と、自陣の危地に気づいたものであった。
これが当朝の、卯《う》の下刻《げこく》過ぎ(午前七時半頃)であった。
「飯浦、堀切の谷あいを、西へ攀《よ》じ越え、総勢、峰づたいに、足海、権現坂方面まで繰引《くりびき》≠ケよ」
あわただしい退《ひ》き貝《がい》に急《せ》かれて、勝政の麾下は、それぞれの旗幟《きし》と組頭の行くを目あてに、堀切の崖を、道も選ばず攀《よ》じ登り出した。灌木帯の浅みどりも、岩間をつづる山つつじも、一瞬、嵐のように揺れ騒いだ。
堀切とよばれる名にも想像されるように、ここの谷あいは、谷というよりは、樹木の生い茂った断層といったほうが適切なくらい狭いのである。西の高地と、東の高地との、ふたつの嶺《みね》の空間は、さしわたし僅か十数間しかない。数百年も経たかと思われる山桜の巨木は、残《のこ》んの花と、若葉を見せ、西の崖から東の絶壁へ届くかと思われるばかり、その巨《おお》きな枝を伸ばしてもいる。
降りはよいが、登りとなると、馬は容易に進まない。辷《すべ》り落ちる馬の下になって、共に転げてゆく兵もある。
荷駄隊は、困難を極めた。――がようやく、先手は登りきり、馬印と中軍旗などが、そこの八分頃まで押し上っていた時である。
――不意に。
耳もつぶれるような小銃の音が東側の高地からとどろいた。
鬱蒼《うつそう》の断層は、その銃声と同時に、硝煙につつまれて、
だ、だ、だだだッ――
ザザザザ
と、凄まじい物音を起した。大木の転がるような、また、土砂のくずれ落ちてゆくような音だった。
が、それは皆、弾に中《あた》った人馬のかさなり落ちてゆく響きだった。
「やっ、敵ぞっ」
「羽柴勢っ」
愕然《がくぜん》と、うしろを見た眼は、すぐ彼方の対崖に、むらがり立っている敵軍を眉の前に感じた。旗さし物や、甲冑で、槍の光が、朝の陽にきらめいているのが、忽《こつ》として、山霊のふところから湧き出た雲の如く見えた。秀吉の姿は目撃されないまでも、秀吉のそこに在ることが証せられていた。
秀吉勢の方向を、急に、これへ招いてしまったものは、他の何らの原因でもない。勝政自体の動きであった。
彼の麾下《きか》三千が、遽《にわ》かに、飯浦坂を去って、堀切から西の峰へ退き始めたことを、逸早く偵知《ていち》した羽柴方の大物見が、これを秀吉に報じたので、秀吉は、
「それこそ、三左衛門(柴田勝政)よ。よい獲物《えもの》。討ちもらすな」
と、すぐ物頭に令し、七手《ななて》の鉄砲組を先に急派して、峰の岨路《そばみち》や谷の木蔭などに足場を取らせておいたのである。そして敵勢の大部分が堀切の登りへかかった背並《せなみ》を狙《ねら》って、この手の鉄砲が、一斉に火ぶた[#「ぶた」に傍点]を切ったものだった。
弾けむりの下に約二、三百の兵が、間の谷へ、転げるのが見えた。
――と、共に、山をゆるがす程の喊声《かんせい》が、西の崕《がけ》にも、東の峰にも、わき起った。谷あいの手負《てお》いも、馬も、異様な声を発した。
そのとき、秀吉の主力は、早や東の高地に殺到し、秀吉自身の、
「かかれっ」
という総がかりの叱咤《しつた》に弦《つる》を切られて、われがちにそこから駈け降りていたのである。
いや、道を求めている間などはない。多くは、灌木帯を目がけて跳び降り、その上にまた跳び降り、跳び降り、青葉をかすめる槍の光や差物《さしもの》が、山つつじの花と共に、一瞬、あらゆる色彩の卍《まんじ》を描いた。
世に、賤ケ嶽の七本槍――三振の太刀などと聞えたのは、このときのことをいう。
叱咤《しつた》に、声をからしていた秀吉は、さらに、左右の若者たちへ、烈しく采配《さいはい》を示して、
「軍法も、時による。小姓どもとて、きょうは法度はなしぞ。思いのまま、駈け向えや。やりたいように、戦《いくさ》してみよっ」
と、励ましたのである。
「あっ」
と、躍り立つ者。
「わっ」
と、そこからもう先を争ってゆく者、侍側十数名の若者が、猛然、崖をくずして雪崩《なだれ》たかと思うと、早くも、谷あいの両勢の対峙《たいじ》は、均衡《きんこう》を破って叫喚《きようかん》の乱軍となり始めていた。
一方に、旺《さかん》なる貝が鳴れば、一方も攻《せ》め鉦《がね》を乱打して、各※[#二の字点、unicode303b]、武者声を扶《たす》け、
「うしろは見せじ」
と、武門の名にかけて、烈しく鎬《しのぎ》をけずり合った。
――が、一歩おそく駈け出した若者ばらは、すでに渦巻いている遠方《おち》此方《こち》の戦闘を捨てて、云い合わせたように、敵のむらがりを目がけてその中核へ突き進んでいた。
この一群の獅子児《ししじ》は。
福島市松、加藤虎之助、奥村半平、大谷平馬、加藤孫六、石川兵助、石田佐吉、一柳《ひとつやなぎ》四郎右衛門、平野権平、脇坂甚内、糟屋《かすや》助右衛門、片桐助作、桜井佐吉、伊木半七などであり、ほかにも秀吉馬廻りの面々があった。
獅子児は、強敵を選ぶ。
彼らの無言に求めていたものは、少なくも敵将の首だった。敵から槍をつけられても、一瞥《いちべつ》、
「この木《こ》っ葉《ぱ》」
と見るあいては、蹴倒し、叩きつけて、駈け廻った。
「よい敵と見た。見参《げんざん》」
真っ先に、その大物を捉えて、こう挑《いど》みかかっていたのは、年少十八、紅顔の武者、石川兵助であった。
兵助は、年まだ十八に過ぎなかったが、秋田助右衛門と共に、旗奉行を任ぜられていたほどで、こんなとき、断じて、人後に落ちる若者ではない。
――が、敵は、
「小冠者《こかんじや》っ」
と、馬上から一喝《いつかつ》し、槍先の邪魔といわぬばかり、扱い過ごして、駈け抜けようとした。
「筑前どのの旗奉行、石川兵助を知らぬかっ」
兵助は、敵の大きな背へ向ってどなった。敵はふり向きもしないのである。兵助はふたたび、
「卑怯だぞッ、返せ」
と、喚《わめ》きながら、手の槍を馬の尻へ投げつけた。
そこは赭土《あかつち》のくずれを見せた崖近くだった。どうっと、逞《たくま》しい甲冑の全体と、棹立《さおだ》ちの馬の影とが、濛々《もうもう》、土けむりにつつまれたのを見たとき、兵助は早や、
「討ッた」
と、思いこんだものの如く、その白刃と身とを、まだ起き上がるいとまなかった敵将の上に躍らせて行った。
彼の猛烈な白刃が、敵将の前立物に火を発し、その横顔に鮮血を吹かせたことは確かであったが、敵もまた同時に、陣刀を横ざまに抜いて、兵助の諸足《もろあし》を薙《な》ぎ払っていた。
当然、兵助はひっくり返った。――傷手《いたで》をものともせず敵将は起き上がって、兵助の上に刃を擬《ぎ》した。
「ちいっ」
叫ぶと、兵助は、敵の腰にしがみついた。同体になって、赭土《あかつち》の上を転がり合った。――と思うまに、崖の下へ、そのまま廻転して行った。
戦友、片桐助作は、石川あやうしと見て、このとき駈けて来たが、間に合わず、
「あっ――兵助ッ」
と、断崖をのぞいた。
下で、味方の誰かが、すぐ駈け寄って、敵将の首をあげ、兵助を抱き起していたが、兵助は、こときれていた。
助作は、足もとに落ちている敵将の旗さし物を見、兵助の死と、働きを、祝してやるように、
「敵の拝郷《はいごう》五左衛門|家嘉《いえよし》を、石川兵助、討ッたり。羽柴どのの小姓組、石川兵助が討ったり」
と、その高い所から叫んだ。
拝郷といえば、柴田方随一の猛将である。助作の声は、敵を震駭《しんがい》させた。また、小姓組の獅子児《ししじ》たちは、兵助の戦死はまだ知らないので、
「彼に先んじられたか」
と、いよいよ猛気を奪いあった。
中でも、福島市松は、
「兵助に、見返されては残念。――拝郷五左にまさる敵を仕止めねば」
と、衆を離れて、血風を捲き、敵将浅井吉兵衛と槍をあわせてその首を獲《え》た。
彼とは、常に競《きそ》い相手の不仲の親友たる加藤虎之助も、附近に荒れまわっていたが、
「拝郷どのの手の者、鉄砲頭の戸波隼人《となみはやと》ぞ」
と、名乗って、羽柴勢をなやましている強豪を見出し、十文字の槍を以て、これと闘った。激闘、草をとばし、土を蹴上げ、ついに隼人の首を取った。そこで大音声に、
「加藤虎之助、一番槍」
と、四方へ告げると、誰かが彼のうしろで、大いに笑った。
「甚内。何を笑う」
振向いた虎之助は、そこにいた脇坂甚内を見、むッと、眼にかど[#「かど」に傍点]を立て――ふざけたことをいうと朋輩《ほうばい》とて許さんぞ――といわぬばかりな威を示した。
甚内は、なお笑って、
「怒るなよ、虎之助」
と、彼の方から歩み寄り――
「強敵、戸波隼人を討ったのは、出来《でか》したが、それが精いッぱいか、貴様、少し逆上《あが》っているぞ。――その首、敵兵に奪《と》り返されぬように気をつけろ」
「だまれ。ひとの功をそねんで要らざる雑言《ぞうごん》。どこに虎之助が逆上《あが》っているか」
「人前もなく、虎之助一番槍なりと、たった今、呶鳴っていたではないか」
「一番槍ゆえ、一番槍と名のりを揚げたのが、どうして悪い?」
「ははは。無理もない」
甚内安治はずっと年上なので、平常でも虎之助輩を下風に見たがる癖がある。この折もそんな口調だった。
「――知らぬか、ついこの先の切崖《きりぎし》で、石川兵助が拝郷五左衛門を討ち取り、石川の一番槍なりと、片桐助作が代って名乗りあげておったのを」
「あっ。そうか」
「福島市松も、浅井吉兵衛を討ッたりと、呼ばわっていた。おぬしの如きは、一番槍でも二番槍でもない。味方の声も聞えぬようではその首を持ち帰る途中も危ないと思うたゆえ、気をつけてくれたのじゃ」
「…………」
正直者の虎之助は、二言なく、顔を赧《あか》めていた。脇坂甚内も、すでに槍の穂を衂《ちぬ》り、敵の一首級は腰にくくっていたのである。
「わかったか、於虎」
「わかった」
「もそっと、場馴《ばな》れせずばなるまいぞ」
云い捨てて、甚内は、さらに敵勢の馬けむりを追い慕って行った。
虎之助ばかりでなく、この激戦には誰もみな、無我夢中だったといってよい。地形も、谷間や断崖や峰の坂道などで行われ、殊に、小姓組の獅子児たちは、決して初陣ではないが、槍を把《と》って、真の死生一髪の間に、名だたる強敵を求めて、これと一騎打ちに当るなどという晴がましい体験は、まず初めてといえる者が多かったのである。――従って、意気烈しかったが、虎之助のように、誰も彼もが、一番槍一番槍と名乗って、後に秀吉の前でも、云い争いとなった程だ。晩年、加藤清正が、若年時代の体験をその子に物語ったこととして「甲子夜話《かつしやわ》」にある記載を見ると、
[#ここから2字下げ]
――坂ヲ上ルト、向フニ敵アリ、ソレト行キ合ヒテ闘《タタカ》ヒ始マル。其時《ソノトキ》ノ胸中ハ、何カ向フハ闇夜ノ如クニテ、一向分ラズ、目ヲ瞑《ネム》リ、念仏《ネンブツ》ヲ唱《トナ》ヘテ、一図ニ飛ビ込ンデ鑓《ヤリ》ヲ入レタルニ、何カ手答ヘシタルト覚エシガ、敵ヲ突キ留メタルナリ。其レヨリ漸々《ヤウヤウ》、敵味方モ見分ケタリ。後ニテ聞ケバ、柴田方ノ戸波隼人トテ由々《ユユ》シキ豪ノ者ナリシ由ニテ、其時ノ一番槍トモ称《イ》ハレタレ
[#ここで字下げ終わり]
と清正自身が噺《はな》していることになっている。一番槍は前にいったように問題だが、彼の正直な一面と、彼ほどな勇士においてさえ、真の決戦場に立った刹那の心理はさもあろうかと思われるふしがある。死生を軽々しくいうはまだ決して真の勇者ではない。
戦闘はもちろん瞬時も、一ヵ所に膠着《こうちやく》していない。
初期は、柴田勢が引っ返して、高所の地の利に立ち、谷間|攀《よ》じに迫る秀吉勢を眼下に邀《むか》え撃つ戦態にあったが、獅子児一群の奮迅が、忽ち堀切のタテを踏みのぼり、彼が中軍の幾将を槍先に梟《か》けるにいたるや、
「すわや、不利」
と、そこは色めき立ち、
「――退《ひ》けや」
の声が各所に聞え、みだれ奔《はし》る馬、士気なき旌旗《せいき》、草ぼこり蹴だてて退《ひ》く荷駄、歩卒などの崩れが、嶺道《みねみち》を、西へ、約二十町も、急退していた。
秀吉は、叱呼《しつこ》一番、
「今ぞっ」
と、潮に乗せて、自身、東の崖上から降りて、谷あいを駈け渡り、武者輩に、尻を押されながら向う側の高地へ這い上がっていた。
「馬をよこせ。馬を曳いて来い」
秀吉は、彼方に立つと、大声で呼ばわっていた。
敵の去った敵陣には、もう味方すら影まばら[#「まばら」に傍点]だった。尾撃の急なるまま、ともすれば、秀吉自身が、置き残されてしまいそうである。
「あっ、お馬ですか」
わずか四、五人の武者がそこらにいたに過ぎない。秀吉に、馬を馬をと急《せ》かれて、彼らはうろたえ気味に、駈け廻りつつ、口々に答えた。
「お馬は、乗換の鹿毛《かげ》まで、賤ケ嶽の岨道《そばみち》に、お捨て遊ばして来ましたので、これには曳いて参りませぬ」
すると、秀吉は、癇癪《かんしやく》を起し、ばかっ、と呶鳴ったようである。足踏み鳴らして見せながら、柿団扇で指した。
「――そこらに、落ちているのを拾って来い。馬はいくらもあるではないか」
事実、敵の捨てて行った馬はいくらも飛び廻っていた。矢を負って、いなないている馬。見事な鞍のみ置いて、人はなく、手綱を引きずって歩いている馬。選ぶにまかせている姿である。
彼は、敵の馬を拾って、敵の退却路を、鞍上から一望した。
ここに立つと――
ここから南北の嶺道《みねみち》は、嶺ながら概《おおむ》ね平らだった。余吾西岸の足海《たるみ》、茂山のあたりまで、ほとんどゆるい傾斜をもった降りである。今やここの山岳戦は、一転、野戦に移るべきことを地勢は教えていた。
「馬の尻を、その槍の柄《え》で、ひとつ叩け」
手綱の先を定めながら、秀吉は武者に云った。
武者は持てる槍で,秀吉の馬の尻をなぐった。そして、驚いた馬が、弾丸のようにすッ飛んで行く後から、彼らも、のけぞるばかり駈けつづいた。
ゆくてに、再び、黄塵《こうじん》が望まれた。踏みとどまった柴田勢には、新たに、佐久間の一隊が援《たす》けに加わったものらしく、猛追の拍車をかけて蔽《おお》いかかった秀吉軍とのあいだに、物凄い咆哮《ほうこう》と血風を喚《よ》び起していた。
その味方の中へ、秀吉はどっと馬を乗り入れ、
「押太鼓、押太鼓」
と、鼓手を励まし、また、
「己れの額《ひたい》で、敵の胸いた、敵の背を、押し倒せ」
と、叱咤、激越を極め、いつか彼自身も、槍隊先鋒の真ッ先に出ていた。いや、幾つもの、団々たる敵味方さえ後にして、最も迅《はや》い若者たちと共に、あくまで敵のくずれを追尾していた。
柴田三左衛門勝政は、この辺りの乱軍中に討死した。宿屋、徳山、山路《やまじ》などの諸将も、相次いで斃《たお》れた。
勝家の養子、玄蕃允の弟、柴田三左衛門勝政は、この時、二十七。
一手の大将として、恥かしくない戦はしたものといえよう。
枕をならべて討死した麾下《きか》の部将徳山五兵衛は、獅子児|糟屋《かすや》助右衛門に首をさずけ、宿屋七左衛門は、同じく小姓組桜井佐吉に討たれ、山路将監は、加藤孫六が首級《しるし》をあげた。
右のうち、桜井佐吉の戦功については「老人雑話」に、
――志津ケ嶽合戦のみぎり、桜井佐吉が高名、比類なく、七本|鑓《やり》の衆にも勝れり。早く病死する故に、人是を知らず。
と、ある。
どういう戦闘ぶりをしたかというに、彼は、敵将宿屋七左衛門が、乱軍を避けて、小高い地点から味方の虚を測っているのを見かけ、大胆にも、その真下から、
「良い敵と見申した。羽柴どのの小姓、桜井佐吉、ただ今、それへ参るぞ。――去《い》ぬな」
と、声をかけて、道もないのに、登り始めた。
味方の内に、それを見ていた者もあって、遠くから、
「桜井、あぶないっ」
という声もしたが、果たして、敵の足もとまで近づくと、上からの長槍で胸いたを突かれ、見事、ごろごろと転び落ちてしまった。
誰もが、刹那《せつな》、それを見て、
(桜井、討死)
と思っていたところが、須臾《しゆゆ》の間にまた同じ所を、攀《よ》じ登ってゆく者がある。
金の大半月《おおはんげつ》の母衣《ほろ》の出シ≠ヘ折れ、幌《ほろ》かご[#「かご」に傍点]も押し潰《つぶ》れたか、半月の折れたのが、鎧《よろい》の背にかかり、不屈の一念で、ふたたび前に槍で突かれたあたりまで這いゆき、そこで先に取り落した自身の槍を拾うと、さらに、踏み上がって、敵へ突いて蒐《かか》った――というのである。
敵の宿屋七左衛門も、自己の一突きで赤母衣《あかほろ》の小武者は死したものと思い、踵《くびす》を回《かえ》して、十四、五間も先へ歩を移していた。
不意に、七左衛門は絶鳴をあげて、よろめいた。うしろから脇腹を目がけて突っこんだ槍をその死力に握られたので、桜井佐吉は、槍の柄を離して、太刀をひき抜き、一打、二打、三打――相手が殪《たお》れるやいな跳びついて首を掻いた。
「見事」
と、彼の味方は、鬨《とき》を作って遠くから祝した。
石田佐吉、大谷|吉継《よしつぐ》、一柳兄弟、糟屋助右衛門なども、各※[#二の字点、unicode303b]、劣らない働きをしたが、戦場は刻々、西へ移ってゆく。場所は同じでなく、時刻もちがう。
ここに。
末路的な最期をとげたのは、先に味方を裏切って、節を、柴田側へ売りこみ、玄蕃允《げんばのじよう》を導いて大岩山中入り≠フ手引きをした叛将の山路将監正国《やまじしようげんまさくに》である。
彼も、この日、この戦場で、秀吉子飼のひとり、加藤孫六の手に討たれ、可惜《あたら》、三十八歳の有為を、拭《ぬぐ》い得ない汚名と、取り換えてしまった。
のみならず、あの時、長浜から脱出を企《くわだ》てさせた将監の老母や妻子も、途中、番船に捕えられていた。そしてつい数日前に、敵味方環視の原頭において、
「山路、これを見よ」
と、悉《ことごと》く磔《はりつけ》にされ、羽柴方の兵に、どっと、嘲《わら》い囃《はや》されたのであった。
きょうの決戦に、彼が脆《もろ》かったのはむりもない。彼が得たものは、彼の迷いとは、正反対なものだった。
[#改ページ]
静《せい》 林《りん》
陽は高くなった。
この日は、初夏の爽風《そよかぜ》もなく、殊に照りつけて、暑かったらしい。
柴田勝政が戦死し、幕将の多くも、途々《みちみち》惨として、屍《しかばね》を並べてしまった結果、爾後《じご》、柴田勢が大幅な潰乱《かいらん》状態となり終ったのはいうまでもない。
「外すな。――離すな」
追撃の羽柴勢は、これ一点張りであった。地勢もまた追うによき降り一方へかかっていた。
陽あしは、辰《たつ》の刻《こく》(午前八時)頃かと見られる。
余吾の西岸で、また一合戦あったが、柴田勢は、踵《きびす》もつかず、ふたたび奔《はし》って、茂山、足海峠の辺へまとまった。
ここには、前田利家父子が、旌旗《せいき》しずかに、陣していた。
まことに、静かである。
今暁来、彼は、大岩、清水谷、賤ケ嶽にわたる火花と銃撃とを、ここの床几《しようぎ》から静観していたにちがいない。
もとより彼は、柴田勝家の一翼と恃《たの》まれて、ここに展陣していたものの、その心懐《しんかい》と、本来の位置とは、実に微妙な立場に置かれていた。――一歩、誤れば、領土一族、一切は亡《な》い。
当初、勝家に抗していたら、勝家から滅亡をうけていたのは必定であったし、さればとて、秀吉との長い長い友誼《ゆうぎ》を捨て去らんか、情において、自己を偽りきれぬ気もする。――のみか、勝家と運命を共にするまでの、肚《はら》も固めてかからねばならぬ。
勝家と。
秀吉と。
彼の、切れ長なほそい眼が、こう見くらべて、帰趨《きすう》の人を、いずれに取るか、誤っているはずもない。
――が、彼は、このたびの出軍に際して、そのいずれに加担《かたん》するも、下策《げさく》となしていた。兵を具し、陣は張ったものの、これは一時の擬態《ぎたい》だった。彼が心に期していたものは、自己の戦闘による運命の打開でなく、天に順《したが》うことだったらしい。
今度、府中の城を出て、この戦場に発するとき、彼の夫人も、良人《おつと》の意中を案じて、そっと、こう訊ねていたという。
(このたびは、是も非もなく、どうしても、筑前どのを敵とせねば、武門の立たぬものでございましょうか)
(おまえとして、察してみい)
(柴田どのに、かくまでのお義理はないかとぞんじますが)
(ばかな、武士の一諾《いちだく》を、みずから裏切れようか)
(では、どちらに)
(天のおはからいにまかす。それしかあるまい。人の小智の及ぶところかは)
良人はそういって立った。夫人はたいへん安心した。彼女は、斯波《しば》家の臣、高島左京大夫のむすめで、利家に嫁《とつ》いだのも、その仲人《なこうど》は、まだ小身時代の、秀吉|寧子《ねね》の夫婦だったのである。
当時、女性でも禅に参ずるものが多く、彼女も、大徳寺玉室の室に参じ、後には、芳春院《ほうしゆんいん》と称されている。――で、彼女はすぐ覚《さと》ったのである。良人が、天に順《したが》うのみ、といったことばを。
天佑《てんゆう》とは、要するに、大いなる天運に順うことで、天の運行に、逆《さから》うことでないことと解している。
その考えは、利家の深意に中《あた》っていた。利家の進退はまさにそれだったといえる。
前田陣の前衛は――いや中軍の近くまでも、敗走して来る佐久間勢の喚《わめ》きや血まみれを容《い》れて、見るまに、砂塵《さじん》の渦となり、濛々《もうもう》たる凄色《せいしよく》にくるまれた。
「あわてるな。みぐるしい」
騎馬一団の士たちと共に、ひとしくこれへ退いて来た玄蕃允《げんばのじよう》は、手綱の一方もちぎれている朱の鞍から跳び降りると、叱咤《しつた》にしゃ[#「しゃ」に傍点]嗄《が》れた声をしぼって、
「何だ、これしきの戦に」
と、みずからをも励ますように、眼にさわる者どもを、悉《ことごと》くたしなめた。
――がさすがに。
どか、とそこらの岩に腰を落すと、焔のような息を肩でついた。蔽《おお》い得ない悲痛は唇をも眦《まなじり》をも常のものではなくしている。しかも、将たる矜持《きようじ》を失うまいとする努力は若年の彼にとってこの混乱惨敗の中では並ならぬものにちがいない。
途中で、弟の三左衛門勝政が戦死したことも、彼は今、ここへ来て初めて知った程だった。
原、拝郷《はいごう》、徳山などの勇将も討たれ、山路将監までが、敵に首をさずけたとは、何か、信じられないような面持《おももち》ですらあった。
「ほかの弟たちは如何したか。――安政。また七右衛門などは」
ふと、その二弟の身をたずねた。すると、家臣のひとりが、彼のうしろを指さして云った。
「御舎弟の、お二方は、そこにおいでられまする」
玄蕃允は振り向いて、無事な二人を血ばしった眼で見た。
安政は、足を投げ出して、茫然と空を見ており、末弟の七右衛門は、どこかの傷手《いたで》からポタポタと血しおが膝に溜《たま》るのも知らずに、首を垂れて居眠っていた。
(いたのか……)
と安んじる情愛の半面から、彼は、烈しい骨肉の怒りに駆られたものの如く、いきなり頭からどなりつけた。
「立てっ、安政っ。――七右衛門も慥《しつ》かりせいッ。お汝《こと》ら、へばる[#「へばる」に傍点]にはまだ早いぞ。――何のざま[#「ざま」に傍点]」
それを気力の弾《はず》みにして、彼もどこか傷手を持つらしい五体をやっと起し、
「前田どのの陣所はどこか。……ウム、あの坂上か。よしよし、この間に会うて」
と、足をひきずッて歩み出したが、従《つ》いて来そうな弟たちを顧みて、
「来んでもよい。お汝《こと》らは、人数をまとめ、敵に備えろ。――脚早《あしばや》な筑前、間は措《お》かぬぞ」
云い捨てて坂上へ向った。
陣幕のうちの床几《しようぎ》に倚《よ》って待っていると、利家がすぐ姿を見せて、
「御無念、察し入る」
と、なぐさめた。すると、
「何の。……」
と玄蕃允《げんばのじよう》は、強《し》いてではあるが苦笑を見せ、
「凡慮《ぼんりよ》のいたすところで、負けてみねば分らぬところでござった」
と案外、素直な答なので利家は、玄蕃允を見直すような眼をした。
玄蕃允は、敗戦の咎《とが》を、ただ一身に責めているらしく、利家が動かぬことには、一言もふれず、ただ、次の希望を告げた。
「さしずめ、御辺の新手をもって、これへ襲《よ》せ来る羽柴勢に、一防ぎ、御加勢くださるまいか」
「心得申した。――が、槍隊か、鉄砲隊か」
「ずん[#「ずん」に傍点]と前に、銃列を伏せられたい。足もとも見ずに来る敵の乱れに突ッこみ、われら二陣となり、血槍を揮って死にもの狂いに闘い申す。――たのむ、即刻」
利家にたいし、たのむというようなことは、日頃なら、|※[#「口+愛」、unicode566f]《おくび》にもいう玄蕃允でない。
あわれ、と利家も思わずにいられなかった。同じ陣営にありながら、この遠慮は、玄蕃允自身が失戦の弱味を持つためでもあろうが、ひとつには自分の真意を、彼もすでに察しているものであろうか――と。
「小塚藤兵衛、木村三蔵に、これへといえ」
利家はすぐ呼びにやった。そして玄蕃允の目前で、二名の鉄砲組頭にむかい、
「佐久間どのの手について、陣前に銃列を布《し》き、羽柴勢の近づくのを見たら、いちどに撃って放せ。――進退の指揮、一切、玄蕃どのにうけて、両勢混みあうな」
と、いいつけ、かつ、誡《いま》しめを与えた。
そのほか、匹田左馬助《ひつたさまのすけ》、関戸弥六などの組にも、命《めい》をさずけて、馳《は》せ向わせた。
「お。……敵が近づいたらしい」
玄蕃允の神経は一瞬たりと休んでいない。こう呟くと、早や腰を立て、
「――では、後刻」
と、陣幕を払って出たが、後から送って来る利家をふり向いて、
「おそらく、生きての再会はなかろうが、玄蕃允も、おめおめは死なぬ所存でおざる。――たとえ一人となって、予譲《よじよう》の故智《こち》に倣《なら》うまでも」
頻りに、こうした問わず語りの激語を発する彼であった。利家はさっき佇《たたず》んだ坂上まで彼を送った。
「――おさらば」
と、玄蕃允はそこから駈け足となって降りて行く。
眼下の視野は、つい最前とは、比較にならないほど一変していた。
佐久間勢八千は戦死傷、脱落者をのぞき、三分の一にも足らぬかに見えたが、それは悉《ことごと》く潰乱《かいらん》の兵、逆上の将で、呶号喧騒《どごうけんそう》は、たがいの心理を、実状以上、凄惨《せいさん》なものにし合っている。
それは、玄蕃允の二弟、七右衛門と安政などでは、到底、制しきれぬものだったにちがいない。何せよ、幕将の重なる人々はあらまし斃《たお》れ去っているのだ。組に組頭なく、隊は部将のいない兵が、まだ何ら次の指揮に統一されないまに、はや彼方から近づきつつある秀吉軍の急調な進撃を目に見出していたのである。いったんここに潰走《かいそう》を止めても、なお浮き足の熄《や》まないのもむりはなかった。
しかし、前田軍の鉄砲隊が、新手の静粛《せいしゆく》さをもって、水の如く、この喚《わめ》きの中を走り、ずっと、陣地の先に離れて、ばたばたと伏せ≠フ列を布《し》いたのをながめると。
「二陣につけ」
と、玄蕃允の口から出た命令もよく徹《とお》って、ようやく、落着きが見え出した。
前田勢の新手が出た――と知ったことは、一時、生色を失った彼らにとって、非常なる力であった。玄蕃允もであるが、残余の部下も、ひとしく勇気をもり返した。
「猿めが首を、味方の槍先に見ぬうちは、一歩も退くな。――前田衆に嘲《わら》わるるな。恥を知れや、者ども」
玄蕃允は励ましつつ将士のあいだを巡《めぐ》っていた。さすがに、ここまで、彼についていた将士はみな恥を知る者だった。具足も血、槍も血にまみれている姿が多く、その血は、朝から照りつけている陽に干からびて、草ぼこりや土にまみれている。
(水が呑みたい。ひと口)
誰もの顔がそう見える。しかし求めている間もない。万丈の黄塵《こうじん》と、敵の馬蹄の音は、はや彼方に近づいていた。
賤ケ嶽からこれまで、一|席捲《せつけん》の勢いで進撃しつづけて来た秀吉も、茂山を前にひかえて、
「ここは、前田父子の陣前――」
と見ると、にわかに先駆の盲進をとどめた。そして一応、人数をまとめ、陣容をととのえているらしく思われる。
この場合、対峙《たいじ》の線は、鉄砲の射程距離外にあるこというまでもない。
前田勢の銃手をもって、玄蕃允はすぐ敵の進路に、急速な配置を指揮しつつあったが、彼方の砂塵は、動かぬ人馬を蔽《おお》いつつんだまま、射程《しやてい》に入って来なかった。
「…………」
利家は、玄蕃允と別れた後も、山の端に佇《たたず》んだまま、それを遠くに見ていた。彼の意中は、この時なお、周囲の将にも、謎だった。――が、そこへ、馬廻りの相浦新助と阿岸《あぎし》主計が、利家の馬を曳いて来たので、
(さてはいよいよ、打って出られる御決意よ)
と、人々みな馬前の働きを中心に期していた。ところが、利家は鐙《あぶみ》の側へ立ち寄りながら、いま、子息利長の陣所から帰って来た使番に、何か小声に返辞を質《ただ》していたが、馬上に移っても、なお容易に駒をすすめるふうもない。
――と。そのとき、何が突発したのか、麓の方で、ただならぬ喧騒が起った。利家始め、何事かと俯瞰《ふかん》してみると、味方の後方から一頭の荒馬が繋《つな》ぎを離れて陣中を駈け狂っているのである。
常ならばともかく、折も折だったので、混乱が混乱をよび、一方ならぬ躁《さわ》ぎとなっているらしい。――利家は、相浦、阿岸の二士を顧《かえり》みて、眼で何事かを頷《うなず》かせ、
「皆もつづけ」
と、辺りへ云って、急に馬を飛ばし始めた。
とたんに烈しい銃声が平野で谺《こだま》しはじめた。これが味方の銃隊のものであるからには、敵羽柴勢が一斉に突撃を開始して来たこともまちがいないことであろう。――利家は坂を駈け降りながらその黄塵《こうじん》万丈と硝煙を横に見て、
「今ぞ。今ぞ」
と幾度も鞍つぼを叩いた。
同時に、茂山一帯の陣地では、懸《かか》り鉦《がね》や押太鼓《おしだいこ》が乱打されていた。破竹の羽柴勢は、銃列の防禦線には、多少の犠牲者をふみこえて来たらしいが、はや佐久間隊、前田隊のふところ深く突入して来て、さなきだに喧騒混乱に揉まれていた中軍を思いのまま蹴ちらし、手もつけられない猛威を振った。
時に。――利家はというに、その乱軍激闘を見ながら、道を避けて、子息利長の手勢と合し、遽《にわ》かに、塩津方面へ退却し始めた。
「こは、何事」
と、憤るもあり、怪しむ部下もあったが、利家としては、予定の行動にすぎないのだった。元々、彼の本心は、局外にあり、彼の希《ねが》いは、中立にあった。その領国の地位と四囲の情勢上、初め、勝家に請《こ》われて、参加を余儀なくされていたが、今は、秀吉への情誼《じようぎ》上、黙して退いたまでなのである。
が――秀吉の進撃の手は、仮借《かしやく》なく前田軍をも撃ち捲《ま》くった。前田方の殿軍《しんがり》、小塚藤兵衛、富田与五郎、木村三蔵など、十数名は、この時に、討死した。
その間に、利家父子は、ほとんど、無傷といっていい家中を率いて、塩津から疋田、今庄《いまじよう》を迂回《うかい》し、利長の居城、越前府中の城へひきあげてしまった。
二日にわたる激戦中、前田父子の陣地だけは、たとえば乱雲の中に寂《せき》としている一叢《ひとむら》の静林にも似ていた。
もし彼が、積極的に玄蕃允盛政と力を協《あわ》すとしたら、茂山、足海の線でも、長途の兵たる秀吉方をして、ああまで思いのまま蹂躪《じゆうりん》させるようなことはなかったろう。
彼の近臣、小塚藤兵衛、木村三蔵、その他数輩は、力戦して、ここに死す――とは「前田創業記」などにも見えるが、その力戦も、実は、消極的な退軍の怪我《けが》だったに過ぎない。
為に、戦後には、
(前田父子は、あの日すでに、前夜から秀吉の密書をうけて、当日の裏切を約していたものだ)
と、世上から推察され、
(そういえば、あの前夜、前田どのの陣中へ、百姓ていの男ふたり、書状をたずさえて御陣中へ紛《まぎ》れ入り、その夜半から、茂山の篝《かがり》が、わざと明々と、朝方まで焚《た》かれていた。あれも、秀吉方へ応ずる、何かの火合図であったとみゆる)
などと巷《ちまた》の批判まちまちであったが、これは、巷説《こうせつ》の常として、少し穿《うが》ちすぎている。事実はいつも複雑に似て単純だ。それを複雑怪奇にするのは、世上の臆測観察の業《わざ》である。一の実相にたいして、分解に分解を試み、さらに分解を附加して、相迷うところから生じるものに他ならない。
[#ここから2字下げ]
――彼は柴田と同敵でありしか共、昔よりの誼《よし》み深かりけり、内々、秀吉に心を通じければなり
[#ここで字下げ終わり]
「豊鑑《ほうかん》」の著者が、その点、一言でこの問題を尽しているのは、世の虚相《きよそう》に迷わされない評といえる。
利家の一女は、秀吉の養女になっているとか、利家夫妻の仲人《なこうど》は、秀吉であるとか、内輪事はまず措《お》いても、いわゆる男子と男子の刎頸《ふんけい》のちぎりにおいて――彼と彼とは、一朝一夕の交友ではない。
おたがい、若い頃の、破《や》れ垣《がき》、夕顔棚の貧乏暮しのときから、褌《ふんどし》一ツで、肝胆《かんたん》のかたらいもし、出ては、莫迦《ばか》もしあい、ときには喧嘩もし、
(貴様の、いいところには、ずいぶん惚れるが、阿呆なところには、つきあわんぞ)
一方がいえば、一方も、
(おぬしの短所は、あいそがつきる。が、俺にとっては、手本になる。そのため、つきおうてくれるのだ。俺に、阿呆なところがあれば、おぬしの、よい手鑑《てかがみ》、良友と思うて粗末にすまいぞ)
いわば、こんな風に、底の底まで知りあって来た仲である。――当時すでに上将として臨んでいた柴田勝家と、こうして今日に会した二人の仲とは、だいぶわけが違う。――仲の味がちがう。
それを、勝家ほどな老将が、利家の領国が、自己の完全勢力圏にあるというだけを利して、この大決戦に当るに、前田父子の兵力を加算してかかったばかりか、賤ケ嶽方面にこれを配置したなどは、すでに、敗れざる前の敗れというほかはない。恃《たの》むべからざるものを恃んで出た――失策たるは争えない。
賤ケ嶽、柳ケ瀬の戦いを通じ、柴田の敗因は、一に玄蕃允の中入《なかい》りの居着《いつき》≠ノありとされてあるが、こう観じてくると、むしろ玄蕃允の失策は、局地的であったに反し、勝家の誤謬《ごびゆう》は、それ以前に、異体《いたい》脆弱《ぜいじやく》なものを、敢えて、内容にゆるしていたという根本的な誤謬を冒《おか》していたことがわかる。
敗因は、おおむね、内にある。――内に敗るる者の敗れ――は、古今を通じての戦の定則である。
[#改ページ]
位《くらい》
ここで、視野をかえて、狐塚《きつねづか》方面のうごきを視《み》る。
さて、柴田勝家陣所の、夜来の情況は如何――である。
その前に、留意すべきは、この戦争が図《はか》らずも結果した特異性にある。
――というのは、玄蕃允《げんばのじよう》の中入り≠ノよる支隊の戦闘が、すでに全戦局を決し、総帥勝家の主力は、もはや傍系《ぼうけい》的なものでしかなくなっていたということだ。
要するに、勝家としては、冒険ではあるが、一奇手なりと、玄蕃允《げんばのじよう》にゆるしたほんの序戦の取≠ェ、思惑《おもわく》と相違して、忽ち、味方全軍の致命を招来《しようらい》し、敵の大挙を見たときはもはや、狐塚主力の機動も、彼の総帥力《そうすいりよく》も、それを現わすすべ[#「すべ」に傍点]もないものと化していたのであった。
故に、これをもって、後世の史筆は、玄蕃允を非難して、
(賤ケ嶽、越軍の敗れは、一に豎子《じゆし》大事を誤るによる)
と、彼が、叔父勝家の言を用いず、敵地に切り据《す》わった罪に敗因の一切を帰しているが、玄蕃允の才略が老巧の将とちがって、いわゆる青い≠アとは確かであるとしても、それらの論断もまた極めて小乗的な結果論でしかないことは、以下、勝家が当夜から翌日までの、総帥としての処置をみれば、おのずから分ってくることと思う。
前夜――
二十日の宵である。
勝家は、玄蕃允へ、六回もやった使者が、ついに全くの徒事《とじ》と帰《き》して、怏々《おうおう》として楽しまず、万事休す――とまで歎じていた。そして、
(ともあれ、一睡)
と、やがて悲痛なあきらめの下に、陣所の寺の一房で、みじか夜の眠りについたが、さて、眠り得べくもない。
こめかみ[#「こめかみ」に傍点]のあたりの血管が、著しく太くなって、しきりに愚痴妄想《ぐちもうそう》をよぶ。耳が鳴る。
(途方もない男かな。この勝家に、腹切らす奴よ)
と、玄蕃允にたいして罵《ののし》った自分のことばも、陣夢|寂《せき》たる裡《うち》に、独り沸《たぎ》らせていると、その憤怒も、やがては誰へも向けようもなく、自業自得《じごうじとく》と、自己に思い返してみるしかない。
余りな、偏愛の咎《とが》であった。盲愛の毒であった。
ひいては、叔父|甥《おい》という、骨肉のそれと、軍律の中の、総帥と部下との、儼《げん》たるものとを、感情にまかせて、混同していた大なる過誤の生んだものである。
(それも、わしがさせた……)
勝家は、いま覚《さと》った。
養子勝豊が、長浜で叛《そむ》いたのも、その原因は、玄蕃允にあった。また、かつて能登《のと》の戦場では、前田利家に向ってさえ、おもしろからぬ、不遜《ふそん》な行為があったと聞いたこともある。
――が、そういう瑕瑾《かきん》を認めても、なお、玄蕃允の素質は、慥《たしか》に、衆にすぐれていた。べつに、良いところを、多分に持っていた。
(ああ、それが却って、今日、命とりになろうとは……)
呻《うめ》いて、寝返《ねがえ》りを打った。悪夢でもみているように。
その時である。ここの短檠《たんけい》もゆれるばかり、武者たちが、外の廻廊を駈けて来たのは。
隣室、またそれに連なる部屋ごとに、仮寝していた国府尉《こくぶじよう》右衛門《えもん》や浅見対馬守や、小姓頭|毛受勝助《めんじゆしようすけ》などは、
「叱《し》ッ。何者だっ」
と一方で、寝所の衛兵が、跫音《あしおと》を制する声を聞きながらも、各※[#二の字点、unicode303b]、すぐ廻廊へ立ちあらわれて、
「何事か」
「何か、異状でもあるや」
と、口々にたずねた。
急を告げに来た武者の動作がすでにただ[#「ただ」に傍点]事でなかった。ひッつれるような早口でいう。
「木之本《きのもと》方面の空――先刻より赤々とみえ、不審と存じ、東野山近くまで、物見をつかわしましたるところ」
不意に、毛受勝助が、
「くどいッ。要を、ひと口に云い召され!」
と、きびしく注意した。
報告者は、一気に述《の》べた。
「大垣の秀吉、到着。木之本附近、人馬喧騒、物々しき有様に見られます」
「なに、秀吉が」
色めき立った人々は、これをすぐ勝家の寝所へ報じようとしたが、勝家もすでに耳にして、みずからそこを出て来た。
「お聞きになられましたか。――唯今のこと」
「聞いた」
勝家はうなずいた。宵に見たより顔色がわるい。
「この事よこの事よ。中国陣の場合にみても、筑州として、これくらいには、やって来そうなところじゃ。愕《おどろ》くにはあたらぬ」
さすがに、自若《じじやく》として、左右を鎮《しず》めたが、蔽《おお》い得ないものは、感情の残滓《ざんし》である。――この事よこの事よと、玄蕃允に戒告《かいこく》した自己のことばの的中を、暗に誇るかのようにいったのは、かつては、瓶破《かめわり》とよばれ、鬼柴田ともいわれた剛将の声として、それを思う者には、あわれに聞えた。
「玄蕃は早や恃《たの》むに足らぬ。この上は、勝家みずからここに踏みとどまり、存分の一合戦してみしょうぞ。うろたえな、躁《さわ》ぐな、筑州、これに来らば、むしろ倖《しあわ》せ」
部将を堂前によび集め、彼は、采《さい》を持って、床几《しようぎ》にかかった。戦闘配置の命を降してゆく。――沈剛《ちんごう》な采配ぶり、さすがにまだ老いずの風はある。
しかし。――ここまでは、彼も万一を予期していたことだが、真に狼狽させたものは、その次の、自軍内のあらわれだった。
――秀吉来る。
と伝わるや、陣中、殊のほかな動揺なのだ。部署につくは少なく、急に、仮病を云いたて、命にさからい、紛《まぎ》れ紛れに、脱陣逃走する者が続出し、七千の兵が、忽ち三千余しか数えられぬという醜状なのである。
さきに越府を発するや、秀吉と戦うべく、意気たかく来た将士である。それが――秀吉来る、と聞いたのみで、こう浮足立てる理由はない。
この、あやしい部下の心理を醸成《じようせい》したものは、万余の大軍はあっても、そこに儼《げん》たる統率がなかったという、ただ一事に尽きる。
昼間、上将の間に、使者六回にも及ぶ我執《がしゆう》の争いが交わされていたとき、すでにこの不吉は培《つちか》われていたのだ。――それに、秀吉の行動が、予想外に迅《はや》く、彼らのどぎもを抜いたことも手伝い、かくて嘘説妄言《きよせつもうげん》入りみだれて、臆病風に拍車《はくしや》をかける結果を生じたものというしかない。
味方の、この醜い混乱ぶりを見ては、勝家も、憮然《ぶぜん》たるばかりでなく、
「あさましき奴輩《やつばら》かな」
と、切歯《せつし》して、忿怒《ふんぬ》の余勢を、あたりの幕将たちへも、吐かずにいられない容子《ようす》だった。
「いつまで、あの躁《さわ》がしさは、どうしたことか、組頭どもへ、勝家が命を、慥《しか》と伝えたのか」
浅見対馬守や国府|尉《じよう》右衛門《えもん》なども、先刻から、座に居たり起って行ったり、少しの落着きもない。そして、御命令は再三きびしく伝えておりますが――と口を濁して答えると、勝家は、
「何、うろたえて」
と、左右をたしなめ、
「――取り鎮めて来い。あの様子では、部署にもつかず、蜚語雑言《ひごぞうごん》を猥《みだ》りにして、味方が味方を惑《まど》わしておるにちがいない。左様な者あらば、厳科に処してかまわぬ」
叱咤《しつた》に、叱咤をかさねていた。
吉田弥惣、太田内蔵助、松村友十郎などが、再度、厳令触れに、駈け出してゆく。その後でも、何か、勝家の声高な罵《ののし》りが聞えていた。――躁《さわ》ぐな、狼狽するな、と抑えるつもりでいう彼自身の声からして、狐塚本陣の、騒然たる狂躁《きようそう》のひとつだったのである。
――はや夜明けも近かった。
賤ケ嶽方面から、余吾西岸へ移りつつある銃声や喊声《かんせい》は、水を渡って手にとるようにわかる。
「あの勢いでは、羽柴勢が、これへ来るも、遅くはないぞ」
「午《ひる》までには」
「何の、午を待つものか」
臆病風は臆病風をさそい、ついに恐怖状態をここに巻き起していた。敵は、一万もあろうといえば、いや二万だ、何の、あのような猛威では三万も来たにちがいないと、自身の恐怖に輪をかけて、他を同ぜしめなければ気がすまないようになり、また、そのうちに何者かが、
「前田父子も裏切りして、秀吉と共に襲《よ》せて来る」
などという虚説を、真《まこと》しやかに触れまわる者も出て来た。
こう極端になってはもう物頭《ものがしら》たちの抑《おさ》えもきかない。帷幕《いばく》からの厳命も、部将に委《ま》かせておいたのでは、到底|収拾《しゆうしゆう》はつくまいと、勝家は思い極めたものとみえる。
彼はついに寺門から馬にまたがって出た。そして自身、狐塚附近を巡り、陣々の物頭たちへ、口ずから呶鳴った。
「故なく陣地を離れる者は、仮借《かしやく》なく斬れ。卑劣なる脱走者は、鉄砲で追い撃ちにせよ。浮説虚言を放ち、味方にして味方の内に、士気を挫《くじ》くがごとき振舞いある者は、即座に、突き殺して見せしめとせい」
命は厳、声は峻烈《しゆんれつ》を極めた。
が、こういう秋霜の気が活《い》かされるのも、時にこそよれで――時すでに遅しのうらみは濃い。
すでに七千のうち、半数以上の脱走者を出し、残る者も足が地についていないのである。加うるに彼らはすでに自己の総帥にたいする信頼を失っていた。ひとたび下からの畏敬《いけい》なき馬上におかれては、鬼柴田の号令といえ、ついにうつろな空声に帰せざるを得ない。
「ああ。勝家も終りよ」
打っても響きのない士気をながめて、今はいかぬと、彼も覚《さと》った。しかし、彼自身の猛気は反対に彼に最後の死にもの狂いをちかわせた。夜は白々と明け、疎陣《そじん》、人馬の影もまばら[#「まばら」に傍点]だったが――。
狐塚の地と、指呼《しこ》のあいだに対峙《たいじ》していた羽柴軍の第一陣地――堀秀政の東野山の兵も、今朝になって、ようやく、動くところあらんとしていた。
勝家の主力が、この方面へ出たのも、要するに、その優勢な敵第一軍の牽制《けんせい》にあったのだから、勝家としては、その目的は達していたといってよい。
しかし、堀秀政ともある者が、この要地に、大兵を擁《よう》しながら、甘んじて、その陣地に釘付《くぎづ》けにされていたのは、秀吉側から見れば、甚だ遺憾なりともいえよう。
一説には、こういうことも伝えられている。
当初、秀政は、直ちに積極的な攻撃を計ったが、その臣堀七郎兵衛なる者が、
「下策です」
と、極力|諫止《かんし》したというのである。――理由は、
(――この半日、敵のうごきを見ていますと、勝家から玄蕃の陣へ、急使の往来、幾度か知れませぬ。これは勝家が、玄蕃にむかい、急速に引き取れと、矢の催促《さいそく》をなしているものと思われる。その諫《いさ》めを肯《き》いて、玄蕃が引揚げるとせば、玄蕃が元の道を帰るわけはなく、必定《ひつじよう》、この近くで一戦はまぬがれますまい。――もしまた、玄蕃が居据わって、帰ることなければ、勝家も居たたまれず、必ず来って、この街道を中心に一合戦と相成りましょう。いずれにせよ、この二途は出ませぬ。――故に、今は兵を分けず、一陣一挙の力を堅《かた》めて、敵が二途いずれに出るかを、観《み》ているべきです)
と、いうにあった。
これが、真説か否か、とにかく大垣から駈けつけた秀吉の直属が、賤ケ嶽附近を席捲《せつけん》し、翌朝へかけて、余吾西岸を追撃しつづけるまで――東野山の第一陣地が、目と鼻の先に、敵勝家の本陣を見ながら何らの見るべき活動を起していなかったのは事実である。
堀七郎兵衛の鑑識《かんしき》が、秀政を肯定させたことも一理由ではあろうが、もっと大きな理由としては、二十一日の明け方まではなお、柴田|匠作《しようさく》勝家あり、となす彼の存在が、その陣営の上に、無言の位《くらい》≠ニいうものを敵に作用していたことは争えない。
要するに、勝家の位≠ェきいていたために、秀政としても、うかつ[#「うかつ」に傍点]に動き得なかったものである。
ここでいう位≠ニはいわゆる位階勲位などの、それとはちがう。
よく平俗のあいだに、
位≠ェきく。
位≠ェきかない。
などといわれるあのことばなのである。棋盤《きばん》の上での戯れによく使われるが、因《おこ》りはやはり兵学上の語だろうと思う。聖賢の語は、こう率直でない。
軍容、陣気、静、動――すべて、位≠フ光揚《こうよう》である。機変も、初謀も、外に位≠ェきかなくては行われ得ない。外交でも政治でも、これがものをいう範囲は大きい。
一つの家でも、家の主にして、ひとたび位≠失わんか、わが女房にすら、あげつらわれる。一戸の亭主においてすら然り。吏≠フ時務、指導者の指揮、大臣《おとど》の威令など――言《げん》を俟《ま》たない。
――この朝、堀秀政が、突如、進撃を決して来たのも、敵本陣の空気に、不審を認めたからではあるが、換言《かんげん》すれば、それは勝家の位≠フやぶれによるともいえるのである。
[#改ページ]
毛受家照《めんじゆいえてる》
秀政の兵五千のほかに、麓の街道に駐屯《ちゆうとん》していた小川佐平次|祐忠《すけただ》の一千も、ひとつになって狐塚の正面へ当った。
先鋒槍隊の前を、銃隊が、露ばらいのかたちで、撃ちつづけながら、尺地尺地、踏みとって行った。
敵も、バチバチ撃ってくる。
しかし、至って断続的だ。弾《たま》の密度も少ない。しかも外《そ》れ弾《だま》が多いのである。
「槍組っ。駈けこめ」
小川佐平次は、その槍手たちと共に、馬を躍らせて、銃隊の先へ出た。
――敵は脆《もろ》い。槍でよし。
と、見たからである。
堀|本隊《ほんたい》が、それに後《おく》れているはずはない。小川隊が、今市の町の焼け跡から迫って行くのを見ながら、堀|麾下《きか》の各隊は、山沿いに突撃し、狐塚の直前で、はや激戦に入っていた。
堀|監物《けんもつ》、堀半右衛門、堀|道利《みちとし》など、組々の下にある士たちが、背の指物《さしもの》を低く屈《かが》めて、敵中ふかく突きこんでゆく姿が、おちこちに認められる。
辰《たつ》の下刻《げこく》(午前九時)だった。
時刻で見ると、湖西の対岸を急進撃して来た秀吉軍が、ちょうど茂山の前田父子の陣前に迫った頃――であった。
彼方の西方にも塵煙|濛々《もうもう》の大喊声《だいかんせい》。ここにも、新たに起る鬨《とき》の声の潮《うしお》。――かくて、余吾の湖を抱いて、全羽柴勢はまもなく東西相結ぶ形を示していた。
それに反して、狐塚の軍は、この一衝撃に会しても、まったく戦意が盛り返されて来ない。
前哨《ぜんしよう》の散兵陣地、尖角《せんかく》陣地、第二陣地、ほとんど一溜《ひとたま》りもなく押し崩され、中軍の寺院附近は、それらの為《な》すなき将兵や馬のいななきで埋まっていた。
「大殿っ。……ひとまず。……ひとまずここは」
浅見入道道西、国府尉右衛門などである。勝家の大きな体を、鎧《よろい》の両脇から掻い抱くようにして、
「日頃にも似ぬ御短慮」
と、いまそこの山門から、無理やりに、この人馬の渦の中に連れ出し、口々にあたりへ呶鳴っていた。
「はやく、これへ馬を曳けっ。お館《やかた》のお馬はどうしたっ」
その間にも、勝家は、
「退《の》きはせぬぞ! 勝家、何とあろうが、ここは退かぬぞ」
猛《たけ》るばかり、云い募《つの》って、さらに、自分を離さぬ幕将たちへ、
「汝《わ》いらはいったい、何のために、かくは勝家の討って出るを、阻《はば》めるのか。勝家を迎えるあいだに、なぜ目に見えている敵を支《ささ》えぬか」
と、眼をいからして罵った。
乗馬が、寄せられた。金《きん》の御幣《ごへい》の美々しい馬印を持った士卒も、側に立った。
「所詮《しよせん》、ここの支えはなりませぬ。――さあるからには、お討死も、あたら犬死。……ともあれ、北ノ庄までお落ちあって、御再挙をお図《はか》りあるなり、その上の御思案もまたござりましょうに」
「ばかなっ」
勝家は、一喝《いつかつ》、大きく顔を振ったが、左右の人々は、押し上げるように、彼の体を、鞍の上へ移そうと焦心《あせ》っていた。
それほど、事態は急だったのである。――すると、日頃はついぞわれから差し出たことのない勝助――小姓頭の毛受勝助《めんじゆしようすけ》家照が、つと走り出て、勝家の馬の前に平伏して云った。
「おねがいですっ。……大殿っ。その金の御幣《ごへい》のお馬印を、私に、拝領させて下さいまし」
馬印を賜わりたい――と、彼が主君に求めたのは、いうまでもなく、身をもって、後にふみ留まり、大将の身代りにならんと、われから志願して出たことにほかならない。
勝助は、その後、
「……何とぞ」
とばかり、ことば少なく、ひれ伏したままだった。
その姿には、決死とか、必死とか、猛《たけ》ぶるものも見えず、平常、勝家の前で、小姓頭として仕えているときの挙止と何の変りもなかった。
「なに、馬印をくれいとか」
馬上の勝家は、地にある勝助の背を、あやしむ如く見すえてしまった。
左右の諸将も、ひとしい面持《おももち》と眸《ひとみ》を、勝助の上にそそぎ合った。
みな、意外に打たれたのである。なぜならば、およそ柴田家の近衆|数多《あまた》なうちでも、毛受勝助家照ほど、日頃、主の勝家から冷《ひや》やかにあしらわれていた臣はない。
常々、勝助の無口も、そのための憂鬱だろうとさえ、いわれていたくらいである。
彼を、毛嫌いしていた勝家は、直接、誰よりもよくそれを知っていたであろう。――しかるに、その勝助が今すすんで、
(お身代りに)
と、馬印を望むではないか。
敗風ひとたび陣に荒《すさ》ぶや、今暁《こんぎよう》からの味方の浮足は見るにたえないものだった。逸早《いちはや》く武器を捨てて身一つ大事と脱走し去った卑怯者も少なくない。その中には、勝家が日頃、篤《あつ》く目をかけていた恩顧《おんこ》の者どもも幾人かあった。
それを思い、これを思い来り、勝家は、咄嗟《とつさ》の中ではあったが、ふと、瞼《まぶた》を熱くせずにいられなかった。
が、勝家は、何と思ったか、あぶみの踵《かかと》で馬腹を蹴り、瞼《まぶた》にせぐりくる脆《もろ》いものを、われとわが獅子吼《ししく》をもって、追い払うように、
「何の勝助。死なば一処ぞ。そこ退《の》け、そこ退け」
躍り立つ馬の下から、勝助は身を避けたが、彼の手は、その口輪を取って、
「いざ、そこまで、御案内仕りましょう」
と、勝家の意志とは反対に、戦場をあとに、柳ケ瀬村の方へ駈け出した。
馬印を守る者も、旗本たちも、勝家の馬をかこんで、一団に急いだ。
しかし、時すでに、堀秀政、小川佐平次らの先鋒隊は、狐塚を突破し、支《ささ》えに立つ柴田の将士には目もくれず、彼方へ奔《はし》る金幣《きんぺい》の馬簾《ばれん》一つを各※[#二の字点、unicode303b]目がけて、
「匠作《しようさく》はあれよ。――遁《のが》すな」
と槍を持った韋駄天《いだてん》の群れが集中して行った。
勝家を守って、一緒に奔《はし》っていた部将たちも、
「はや、これまで」
と一言の別れを投げては、勝家のそばを離れて、引っ返し、追い来る敵の猛烈な槍と槍の中に、敢えて、屍《しかばね》を横たえた。
毛受勝助も、いちどは身を翻《ひるがえ》して、尾撃の敵を邀《むか》えていたが、ふたたび主人の駒の後を追い、勝家のうしろから、なお叫んでいた。
「お馬印を、賜わりませ。――勝助に、下しおかれませ」
柳ケ瀬の端《はず》れであった。
勝家は、寸間、馬をとめて、側《かたわ》らの者の手から、生涯の思い出多き――鬼柴田の名と共に今日まで陣営に掲げて来た――金箔捺《きんぱくお》しの御幣の馬簾《ばれん》を自身の手に取って、
「それよ、勝助。――侍中《じちゆう》へ」
と、云いながら、颯《さ》ッと、後ろへ向って投げた。
勝助は、身をのめらして、鮮やかに、その柄を受けた。
勝助は歓喜した。一瞬、その馬簾を振りまわしつつ、主人勝家のうしろ姿へ、
「さらば、さらば。お館《やかた》」
と、最後の声を送っていた。
勝家も、振り向いた。しかし馬は、柳ケ瀬山地へ、駈けつづけてゆく。
そのとき、勝家の周《まわ》りには、わずか十数騎しか見えなかった。
馬印は、勝助の乞いにより、勝助の手へ投げ与えられたものだが、その折、勝家のことばのうちに、――侍中へ。
という一語もあった。
侍中へたのむぞ、という意味であり、勝助と共に、死地にのこる者達への、思い遣《や》りもあったにちがいない。
金幣の馬簾《ばれん》の下には、忽ち、三十余名、一かたまりに集まった。
これだけは、正味、名を惜しみ、主家に殉じる志の輩だった。
(ああ、柴田衆といえ、人なきではない――)
勝助は、たのもしき顔々々を見まわして、
「いざ、心楽しく、さいごを飾ろう」
と、武者一名に馬簾を持たせ、自身真っ先に立って、柳ケ瀬村から西へ数町、橡《とち》の木《き》山の北尾根へ駈け上った。
ここはさきに、徳山五兵衛、金森五郎八などが陣していた地点である。
四十名を出ない小勢といえ、覚悟を一つにかためて、いざ来い――となると、なお数千の兵があった狐塚の今朝方などよりも、遥かに凜《りん》たる志気も示され、凄気《せいき》、敵を睥睨《へいげい》する概もあった。
「勝家は山へ拠《よ》ったぞ――」
「さては、さいごを覚悟し、必死の足場をとったとみゆる」
迫って来た堀|麾下《きか》、小川麾下の武者|輩《ばら》は、さすがに、一応、戒《いまし》め合った。――この頃、堂木山砦《だんぎやまとりで》の木下半右衛門の手勢五百も、この追撃に合し、
「勝家の首はわが手に」
と、先を争って、橡の木山へ分け登って来た。
山上に燿《かがや》く一基の金色標と、三十余名の決死の士は、そのまま、鳴りをひそめていたが、麓からの道あるを問わず、道なき所を問わず、それを目がけて、争い登る屈強な者の数は、刻々、姿を増すばかりである。
「……まだ、水盃を交わすぐらいないとまはある」
山上では、毛受勝助を始め、三十余名が、このわずかなひと刻《とき》を、岩間に滴々と湛《たた》えられた清水を掬《く》み分けて、涼やかにさいごの心支度をしていた。
そのとき、勝助はふと、自分と共にある兄の茂左衛門と、弟の勝兵衛を見て、
「兄上は、ここを落ちて、郷里へお帰り下さい。三人の兄弟が、三人までも討死をとげては、家名が絶え、また、留守をしていらっしゃる母上の老後を見てあげる者がいなくなります。――兄上は、家を嗣《つ》ぐべきお方でもありますから、どうかここは」
すると、茂左衛門は、
「弟ふたりは、敵に討たせて、兄が、今帰りましたと、母上にお顔が合わせられるか。わしは残る。……勝兵衛、そちがいい、その方は去れ」
「嫌です」
「なぜ、嫌か」
「こんなとき、生きて帰ってくれたからというて、それを歓ぶような母上ではありませぬ。亡き父上も、きょうこそ、草葉の蔭で、われら兄弟を見ておられましょう。きょう越前へ向って歩く足は私も持っていません」
毛受勝助家照。
[#ここから2字下げ]
モト尾張国春日井郡ノ人ナリ、十二歳ニシテ勝家ニ仕へ、後、扈従頭《コジユウガシラ》トナル。
性信厚、学ヲ修シ、古風ヲ好ミ、母ニ孝アリ(後略)
[#ここで字下げ終わり]
「近江国《おうみのくに》地志略《ちしりやく》」の橡谷《とちだに》の条《じよう》に、著者|寒川辰清《さむかわたつきよ》は、彼の芳魂《ほうこん》を弔《とむら》って、その生い立ちをこう誌《しる》している。
はやくに父を亡《うしな》い、母の手に育てられた毛受兄弟の親思いはそれによるまでもなく、藩内でもみな人の知るところであった。
その兄弟が、兄弟三人とも、主家の馬印の下にふみとどまって、勝家の危急を救い、武門の名に殉じたのを見れば、平常、その家の風や、母なる人の躾《しつけ》ぶりも、さこそと、窺《うかが》われる。
――とにかく、兄茂左衛門も、弟の勝兵衛も、勝助家照が残るからにはと、一魂の死盟《しめい》、炳《へい》として掲げたる馬印の、金簾燦風《きんれんさんぷう》の下を、去る気色《けしき》もない。
「さらば共に」
と、勝助もいまは、兄へも弟へも、家郷へ帰り給えとはすすめなかった。
そして、岩清水《いわしみず》一掬《いつきく》の、水盃を汲み合うて、清涼《せいりよう》の気、胸をとおるとき、兄弟三人がひとしく家郷の母へ向って、
(余生、おさびしくお在《わ》しましょうが、世間に、肩身のお狭いような死《し》に様《ざま》はいたしませぬ。それのみを、せめてと、独りおなぐさめ下さいませ)
と、心に念じたことを察するに難くない。敵は早や、声の聞えるところまで、四方から、近々と迫っている。
「勝兵衛、馬簾《ばれん》を守れ」
勝助は、弟へ云いながら、顔へ面頬《めんぼお》≠当てた。――勝家なりと名乗って、すぐ敵に面を知られないためである。
五、六発、耳近くから、銃弾が飛んで来た。
それをきっかけに、三十余名、一斉に、身を伏せ、起すや否、
「八幡照覧」
唱《とな》え合わせて、敵へ当った。
およそ十二、三名一組ずつ、三手に分れて、敵を目の下に、斬って出たのである。喘《あえ》ぎ上って来た方は、到底、この決死の形相の前には立ち得なかった。真っ向に、太刀を浴び、胸いたへ、鑓《やり》をくい、早くも、いたる処に惨たる犠牲を、出してしまった。
「死をいそぐな、面々」
勝助は、一たんさっと、柵の間へ退いた。彼のいるところに、金幣の馬印は添い、馬印の行く所に、味方は駈け集まる。
「五指ノ弾《ハジ》クハ一拳《イツケン》ニ如《シ》カズ――だ。しかもこの小勢、散っては弱まる。進むも退くも、馬簾の下を離れぬように」
戒《いまし》めて、また飛び出した。――斬って斬って斬り捲《ま》くり、突いて突いて突き捲《ま》くり、風のごとく、塁の間へ引く。
かく闘うこと六、七回。
寄手はすでに二百以上の死者を出した。陽は烈々、中天に午刻《ひるどき》の近きを思わせ、鎧甲《がいこう》の鮮血も忽ち乾いて、漆《うるし》の刎《は》ねのような黒光りを見せている。
馬簾の下にも、いまは十人ほどしか残っていない。爛々《らんらん》たるお互いの眼は、相見て、相見えぬ眼ざしだった。籠手《こて》、乱髪、膝がしら、満足な五肢を持つ者はひとりもない。――と、そのとき、
「あっ……」
一矢、勝助の肩に立った。
木蔭に弓をつがえて、勝助を射たものは、小川佐平次の家来、大塚彦兵衛だった。
「ちいッ」
と、勝助は籠手《こて》に流るる鮮血を見ながら、肩に立ったその矢を、わが手で引き抜いた。そして矢の来た方をきっと振向いた。
ざざざ――と彼方の笹むらを、猪《いのしし》の分けて来るように、兜《かぶと》の鉢金《はちがね》だけが、笹波の中に、幾つとなく、近づいて来る。
「のう。これまでではないか」
勝助はなお、残るわずかな戦友へ、こう静かにいうだけの余裕を持っていた。
「闘《たたか》い去り闘い来り、思いのこすところはない。面々も、よい敵を選んで、華やかに名を遂げ給え。まず、勝助より御名代の討死を遂げん。いやしくも、御馬印を伏せず、高々と持ち、まんまるとなって、続かれい」
決死一団の血まみれ武者は、馬印を押し立てて笹波の中の敵へ向って進んで来た。
この手に近づいて来た敵は、敵の中でも、各※[#二の字点、unicode303b]期するところある一《ひと》かどの猛者《もさ》ばかりらしい。
ぎく[#「ぎく」に傍点]ともせず、反対に、槍に誓いを示して来た。勝助はそれへ向って、その鋭気を挫《くじ》くような音声で云った。
「推参ぞっ、雑人《ぞうにん》ども。――柴田|修理亮勝家《しゆりのすけかついえ》の身に、汝《おの》れらの槍が立とうや。鬼柴田の名はあだ[#「あだ」に傍点]には持たぬぞ。――われに立ち向わん程の者は、小川土佐(佐平次|祐忠《すけただ》)か木下美作《きのしたみまさか》。――さもなくば堀秀政みずから参れ」
阿修羅《あしゆら》かとも疑われる勝助のすがただった。事実、彼の前に立ち得る者なく、目前に、数名は突き伏せられた。
この勇猛を見、また馬印を死守する面々の奮闘に遭《あ》い、さすが自負して近づいた寄手の猛者《もさ》も、包囲を割って、二町余り、麓へかけて、わっと道をひらいた。
「勝家自身、往来なすぞ。筑州あらば、一騎駈け、これへ出会えや。――猿面郎《さるめんろう》、出よっ」
勝助は、坂路へ出た。
そこでも、よろい武者一名、突き殺した。――が、兄茂左衛門は、そこまでの間に、はや討たれ、弟勝兵衛も、太刀の敵と斬りむすび、相打ちとなって、近くの岩の根に斃《たお》れた。
その側に、金の御幣の馬印も、真っ赤になって、打ち捨てられていた。
坂上から――坂下から――閃々《せんせん》と勝助の身ひとつにつめよる無数の槍は、その馬印と、勝家なりと信ずる彼の首とを、賭《か》け物のように、
「われこそ獲《え》ん」
と、競《きそ》い合った。
ほとんど、乱槍の状の下、毛受勝助は討死した。
(さすがは、鬼柴田よ――)
と、敵の名だたる武者輩をしてさえ、肌に粟《あわ》を生ぜしめたほど、最後のたたかいは、勇猛無比であったという。
誰か知ろう。
日頃は、無口で、おとなしく、人いちばい好学温雅なるために、却って、勝家や盛政などからも余り好かれなかった白面二十五歳の若武者が――その面頬《めんぼお》の下に純なる面《おもて》をつつんでいようとは。
「柴田勝家を討ったりっ」
「金御幣の馬印、この手に、分捕《ぶんど》ったりっ」
口々の名乗り声、凱歌の諸声《もろごえ》、全山をゆるがして、しばし鳴りもやまなかった。
このときまだ、羽柴方では、その首級が、柴田勝家ではなく、身代りに立った毛受勝助であったことを知らなかったので――
勝家を討ったり!
北ノ庄の首級を挙げたぞ!
と、動揺《どよ》めき立ち、それと共に、敵の馬印、金御幣も、奪《と》った奪った、と揉み合うばかり喊呼《かんこ》してやまなかったが、ここで、困る問題は、毛受勝助の首を挙げた者は誰か? 馬印は誰の手に克《か》ち取ったものか?
諸書すべて、異説紛々で、いっこう分らないことである。
ここの主力、堀秀政麾下の功を誌した記録によれば――
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秀政ノ士、堀半右衛門、勝家ガ馬幟《ウマジルシ》ノ御幣ヲ取リ、首二ツヲ獲タリ。秀政之ヲ秀吉ニ献ジ、半右衛門ニ黄金一枚、刀一腰賜ハル。又首二ツノ賞トシテ、金銭三枚ヲ下サル。半右衛門、二銭ヲ頂戴シテ壱銭ヲ返上ス(近代諸士伝略)
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また、別書の「寛永譜」には、
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堀|監物《ケンモツ》直政、柴田ト合戦ノ時、十文字槍ヲモテ、柴田ガ金ノ御幣ノ馬符ヲ奪ヒ取ル。コノ時、小塚藤右衛門、馳《ハ》セ懸リ、直政ニ蒐《アツマ》ル。直政御幣ヲ捨テ、藤右衛門ヲ組伏セ、首ヲ取ル。
[#ここで字下げ終わり]
と、あって一致していない。しかしこの堀監物は、その頃、又者《またもの》(陪臣《ばいしん》)で名高きは、刑部《ぎようぶ》、監物、松井佐渡――と世間に謳《うた》われたほどの剛の者であったことは慥《たしか》であり、また、柴田の驍勇《ぎようゆう》小塚藤右衛門を討ったことは他書にも見えるから、その一事は、ほぼ確実と見てまちがいあるまい。
けれど、毛受勝助の首を挙げたとみずから名乗っていた者は非常に多かったとみえ、「余吾合戦覚え書」には、
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――木下、名乗《ナノ》リ懸《カケ》名乗リ懸《カケ》、勝助ガ首ヲ取ツテ、筑前守ヘ見参ニ入ル。比類ナキ働キ哉ト、諸陣申合ヘリ。
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と見えるのもあるし、また一書には、小川佐平次祐忠の内の者これを討つとも誌《しる》されている。
同様に、馬印の方も、誰彼一致せず、蒲生《がもう》飛騨守の兵士長原孫右衛門が獲たという説もあり、なお一説には、稲葉八兵衛、伊沢吉介、古田八左衛門、古田加助、四人|蒐《がか》りで、辛くも捕ったという伝えなどもあって、まったくどれを是《ぜ》としどれを非《ひ》とすべきか、拠《よ》るところに苦しむ。
結局、分らないというのが事実であり、その場にいて、そこに闘っていた人々もまた、分らなかったというのが、真の真相であろう。
それほど、毛受家照が、勝家と名乗って、馬印の下になした最後の血戦は、烈しい瞬間であったにちがいない。肉漿《にくしよう》飛び交い、碧血《へきけつ》草を染むる。悽愴《せいそう》比なき乱軍であったことを、証するものであるともいえよう。
この時刻。――一方の秀吉は、すでに狐塚附近まで入っていた。
この前に、前田父子の陣は、茂山から旗を返して、遠く帰北し、佐久間の残兵も、一応踏みとどまって抗戦を試みたが、支《ささ》え得べくもなく、再び、潰滅されていた。
羽柴主力は、こうして、もはや鎧袖一触《がいしゆういつしよく》に値するほどな敵にも会わず、秀吉を囲む騎馬一団の幕僚と、前後、夥《おびただ》しい軍列は、差物、馬印を陽に焦《や》きながら、蜿蜒《えんえん》、北進をつづけて――茂山から父室《ふむろ》村を経、国安、天神前を通って、今市の北、狐塚と橡《とち》の木《き》山との間に当る街道へ続々溢れ出て来たのである。
茂山からこの辺まで、約二里ほどな距離だった。
当日の天候は「賤嶽合戦記」にも、
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――四月二十一日、辰《タツ》ノ下刻《ゲコク》ノ事ナルニ、一天曇リナク、照リニ照リタル空ナレバ、手負《テオヒ》共、日ニ照リツケラレ、イト苦シガリケリ。
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とある通り、初夏とはいえ、尾濃《びのう》大暴《おおあ》れのあとで、気象一変し、急激に暑くなって、炎日|焦《や》くような日であったと思われる。
従って、大垣出発以来、駈けとおし、戦いとおしで一睡もしていない将士の疲労も、やさしいものではなかったろう。
焦《や》けきった甲冑の重さもさることながら、それに包まれている五体の汗腺《かんせん》から流れるものは汗という程度のしずくではない。どの顔もどの顔も赤銅《しやくどう》いろに燃えていた。こうなると、満身の血痕も泥のしぶきも、その人々の意識には何の関《かか》わりもないものになっている。――ただ非常な空腹にある容子がうかがわれ、はやく一杯の水をのみ、土の上でも、草の中にでも、ごろりと一睡したいような色が兵全体にうかがわれた。
長途の兵、無理もない。実に秀吉としても、無理を承知であったろう。ただ敵に大きな虚≠るがために、敢えて取った強行戦法だった。――もしこの長途一気の労に対し、勝家が、また前田父子が、一体に結束し、逸をもって、これを邀《むか》え撃つなら、破竹羽柴の精鋭といえ、ついにこの辺りで、さしもの力も尽き、断弦《だんげん》の恨み、一挙に勝敗の地をかえて、惨たる敗退を強いられたかもしれないのである。
――が、前田はすでに問題外だし、勝家の狐塚本陣も、いかに玄蕃允の大きな齟齬《そご》があったといえ、余りに崩るるに急だった。昨夜から今朝までの間に、総帥勝家に何らの対策がなかったことは、すでにこの日をもって、柴田は亡ぶものとなっていた運命というほかない。
この日、賤ケ嶽、余吾、狐塚附近の三戦場にわたって、柴田軍の戦死者は、五千余人という多数であった。
もちろん、この夥《おびただ》しい犠牲は、決して一方だけのものではない。秀吉の側にも、無数の死傷者を出したことは明らかだ。しかし羽柴軍の方のは、記録的に明確な数字が残されていないのである。
その負傷者について、一話が伝えられている。秀吉が、茂山から方向を転じ、狐塚方面へ進軍してくると、途々《みちみち》、乱軍のあと、無数の手負いが、炎熱の地上に呻《うめ》いているのを見た。
「いたましや、苦しかろ」
秀吉らしく、そこで彼は、先を急がるる駒を止めて、附近の山を見まわしていた。
山の手の遠方《おち》此方《こち》には、郷の者が戦に追われて、雲霞《うんか》のようにむらがっていた。秀吉は、黒鍬《くろくわ》(工兵)の組頭をよんで、
「笠を被《かつ》ぎ、蓑《みの》など携えている村人の老幼男女があれに見える。後に、褒美をつかわすゆえ、渡せと申して、笠や蓑をある限り集めて来い」
といいつけた。
そして、やがて、黒鍬の兵が集めて来たそれを、手負いの一人一人に、覆い着せてやるのを見届け、初めて、
「よし、よし」
と、気がすんだような顔をして、進軍をつづけて行ったというのである。
麾下《きか》諸将がようやく疲れを思い、空腹を覚え出していたとき、彼はなお人心の収攬《しゆうらん》をわすれず、戦後に思慮をめぐらしていたと、この逸事を説く者もあるが、さてどうであろうか。
秀吉の真情は、負傷者の苦痛を、いかに急場といえ、路傍に見て行けなかった。ただそれだけの凡情であったと観た方が、日頃の彼の性格に近いと思う。
――ともあれ、秀吉主力の湖西進撃軍と、堀秀政以下の湖東留守居軍とは、柳ケ瀬山地に入る北国街道の路上で、完全な連繋《れんけい》を見、同時に、
「勝家、討死。――勝家以下の重なる部将も、あらまし斬り死を遂《と》ぐ」
との喧伝《けんでん》もあって、ここでも一時、万雷に似た歓喜を発したのであった。
しかし、勝家戦死は、誤報である由が、すぐ訂正された。
勝家の帷幕《いばく》にあり、越軍の名だたる武将のうちの、国府尉右衛門、吉田弥惣、太田内蔵助、小林|図書《ずしよ》、松村友十郎、浅見対馬守入道道西、神保若狭《じんぼうわかさ》、同八郎右衛門などが、狐塚から柳ケ瀬の突地にわたる路上で、相次いで斃《たお》れ、その首級を、堀隊、小川隊、黒田隊、藤堂隊などの羽柴方の勇士の手に克《か》ちとられたことは確報にちがいなかったが、誤報については特に、
「大将勝家と見えたるは、偽首にて、北ノ庄の小姓頭、毛受勝助の身代りに立てるものにて候う」
と、秀吉の前に堀久太郎秀政自身、釈明《しやくめい》に来た。
秀吉は、その首を見た。
面頬《めんぼお》は脱《と》られている。――勝家とは似せても似つかぬ白皙明眉《はくせきめいび》の若者の首級である。
「主《あるじ》の馬印を乞《こ》いうけ、勝家なりと名乗って死んだか。……涼やかな死に顔よの」
秀吉は惚々《ほれぼれ》と見入っていた。首級の若い唇は、紫いろを呈していたが白い歯なみを少し見せ――君、君タラズトイエ臣、臣タリ――の義をつらぬいた本懐《ほんかい》を自ら微笑《ほほえ》んでいるようだった。
毛受勝助家照の名は、よほど秀吉の脳裡《のうり》に感銘を与えたものとみえ、後、彼が越前に軍を進めて、その平定を見た日、勝助の母と、毛受家の縁類をたずねさせ、それに鄭重《ていちよう》な慰問を送り、かつ扶養の約を与えたということである。
彼の戦下行政は、いや自然に振舞う事々は、常に情義本位の政道になっていた。もとより政策の軌道は理念を基調とはしているが、表わるるところは、ひとりでに彼の性格を加えて、情念を主調とし――また物に、道義を骨胎とし、道義をもって、法治賞罰の鑑《かがみ》とする――戦下行政をおのずから布《し》くのであった。
これも、数日後のことだが。
佐久間玄蕃允の生捕《いけど》られたときにも、そうした施政の一例が見られる。
玄蕃允は、二十二日の夜、自身の知行所たる越前の山中で、百姓たちの手で捕われ、秀吉の陣所に曳かれて来たのであるが、その際、秀吉は、侍側の者をもってこういわせた。
「玄蕃生け捕りに手助《てつど》うた者どもへは、その悉《ことごと》くへ褒美あるであろう。老若男女に限らず、訴人の百姓は、明日、一緒に罷《まか》り出るがよい」
次の日、われもわれもと、一群になって罷《まか》り並んだ。また、われ劣らずと、その功を述べたてた。
秀吉は、百姓に、告げた。
「敗れたりといえ、きのうまで、領主と仰いでいた地頭を搦《から》め捕り、侵攻の敵軍へ渡すのみか、百姓の業を怠り、利のためこれへ出て、功を争い述べるなど、野人の浅慮《あさはか》といえ、心情|悪《にく》むべしじゃ。すでに民の本性を見失うた奴輩《やつばら》、悉《ことごと》く首を刎《は》ねい」
こういうのである。百姓たちは号泣したが、叱咤して、それを睨みすえ、遂に、ゆるすといわなかったという。
民に道義を立てるには、示すに情義の政治をもってせねばならぬ。情義を法≠ノ持つためには、温情美賞主義のみが、決して策を得たものではない。時に、峻烈《しゆんれつ》無情にも似る厳科《げんか》の断刀もまた下さねばなるまい。
[#改ページ]
途上一別《とじよういちべつ》
勝家は身をもって遁《のが》れたが、勝家の羽翼《うよく》であった全軍は、完全に潰滅《かいめつ》し霧散《むさん》し去った。
柳ケ瀬附近には、今朝までの金御幣の馬印に代り、秀吉の千瓢《せんぴよう》の馬印が望まれる。
異色のあるそれが、きょうは特に烈日にかがやいて、何か、人智人力を越えたものの標識のように人々の眼を射る。
またその辺りから一帯の街道、平野、部落へかけて、麾下《きか》諸侯の幡旗《ばんき》や、各隊のつわものの指物《さしもの》が、霞むばかり蝟集《いしゆう》して、宛然《えんぜん》、戦捷式《せんしようしき》かのごとき盛観を呈した。
羽柴小一郎秀長の兵団がもっとも大きく、丹羽、蜂須賀、蜂屋、堀尾などの一部隊。堀久太郎、高山右近、桑山修理、黒田官兵衛父子、木村|隼人佑《はやとのすけ》、藤堂与右衛門、小川佐平次、加藤光泰などの全隊など――見わたすにも目に余るほどな軍馬だった。
――捷《か》てり。われ捷てり。
この雲霞が波打っている光瑶《こうよう》はそれだった。一兵の姿もその歓喜の一波だった。馬の汗にかがやき見えるのもその光だった。
事実、この日において。
決するものは早や決したといってよい。
秀吉対勝家の――相互全力を挙げて、天下の帰趨《きすう》を賭《と》した一戦は、ここに勝敗を明らかにし、ふたたびこの形が覆《くつがえ》る余地も奇蹟もあり得ない。
山嶮《さんけん》、湖沢《こたく》、城市《じようし》、塁寨《るいさい》、平野など、さしも広汎《こうはん》な天地に雄大な構想を展じ、布陣の対峙《たいじ》久しかったこの大会戦も、その念入りな仕切りのわりに、さいごの帰結に入った血風闘地の死にものぐるいの戦いは、まことに短いものだった。また、あっけない程、一方的な突進猛撃に席捲《せつけん》されていた。
後に、歴史として観れば、
当然かくあり、かく帰するものだった。
和漢幾多の史例が、さきに無数の国土と血をもって、明らかに示しておいた興亡の公式どおりなものでしかなかった。そう分るのである。――しかし、勝家の心事にしてみれば、到底、そんな単純には片づけられまい。なおさらのこと、定まれる法則の逆を踏んで入ったものなどとは敗れても頷《うなず》くまい。また秀吉にしてさえも、かく一気に捷《か》てるとは予期していなかったにちがいない。
大垣を発するときの、
我すでに勝てり
の一声と、あの快馬|一鞭《いちべん》は、勝てるという晏如《あんじよ》な気持からは出るものではない。すでに勝家との、喰うか喰われるかを予期して出た――死中生アリ、生中生ナシ――の大号令を、単なる令でなく、自身の姿をもって、全軍に震わしめたものである。
彼がすでに、この合戦に、
(勝たねば死のみ)
と思いきめていたに違いないことは、屍山血河《しざんけつが》を現出した賤ケ嶽の乱軍中も、終始、陣頭に立って、二十歳台、三十歳台の若者たちにも劣らず、
(額で敵の背を押せや)
と、声を嗄《か》らしつづけていたあの元気さでも、充分に想像がつく。
勝てば、直ちに、明日からは、天下人《てんかびと》ともいわれる約束をもつ彼が、もしこの間に毛ほどでも、明日以後の世や一身の栄えを思っていたら、決してこんな赤裸一挙の勝負を果し得るものではない。
閑話休題。
さてその秀吉の精力と迫敵心は、まだまだこんな所に駐《とど》まって、凱歌《がいか》に酔っているものではなかった。
時に、二十一日の正午。
一応、全軍は、兵糧を取った。
顧みると、賤ケ嶽で序戦に入ったのが今暁《こんぎよう》の午前四時。
あれから約八時間ぶっ通しの戦闘であったのである。が、兵糧がすむと、全軍はまたすぐ北進の命をうけていた。
柳ケ瀬、椿坂、大黒谷《おおくろだに》と、蜿蜒《えんえん》の兵馬は蜀《しよく》に入る魏《ぎ》を偲《しの》ばせた。
国境の橡《とち》ノ木《き》峠にかかると、西に裏日本|敦賀《つるが》の海が早や望まれ、北方越前の山野は展《ひら》けて馬蹄の下にあった。
すでに陽は傾き、春めく天地のものみな、虹色の暮色に燃えていた。
秀吉の顔にも茜《あかね》が染められた。大垣以来、一睡もしていない顔とも見えぬ。おそらく彼は人間に眠るという時間のあることを忘れているのであろう。――進めど進めど駐《とど》まろうとはいわない。夜は短く、日は長いさかりである。
日いッぱいに、越前|今庄《いまじよう》に宿営した。
先頭部隊は、なお行軍をつづけ、夜のうちに、二里余の先、脇本まで進出すべしと命ぜられ、後方部隊は、中軍からほぼ同距離の板取《いたどり》に駐《とど》まったから、首尾およそ四、五里にわたる夜営陣であった。
山ほととぎすの啼きぬくも知らず、秀吉はさだめし快睡に入ったことであろう。
(――明日は、府中の城下にかかるが、さしずめ、前田のひと挨拶、どう出るか、どう受けるか?)
眠りに入るまえ、当然、この宿題は、彼の脳裡《のうり》にあったにちがいない。――が、茂山退陣の態度に見ても、利家の意中はある程度、仄《ほの》めかされているともいえるし、それを前途の障碍《しようがい》として取り越し苦労に病んでいる秀吉でもなかった。
――翻《ひるがえ》って、その前田利家は、どうしていたかというに。
利家は、同日の午頃《ひるごろ》には、早やこの辺を通過し、陽もまだ高いうちに、子息利長の居城府中に、全軍を引揚げていた。
「おつつがもなく」
と、夫人は出迎え、良人は、
「帰った」
とのみ、意中のことは、言外に措《お》いていた。
「手負いも出た。城中に入れて、それぞれ厚く見て給われ。わしの世話は後でよい」
利家は式台を踏もうとしなかった。草鞋《わらじ》もぬがず、武装も解かない。そして大玄関の前に佇《たたず》んだ。小姓たちも、静粛に立ち並び、何かを厳《おごそ》かに待つふうであった。
やがて、大手門からこれへ、幾組も幾組も、武者の群が静かに進んで来た。楯《たて》の上に寝かした戦死者の屍を守って来るのだった。甲冑《かつちゆう》の死骸の上には、その武士の誉れある指物《さしもの》が乗せられてあった。
十幾個の楯と指物が、城内持仏堂へ迎え入れられた。――次には、戦傷者が、負われたり、肩に扶《たす》けられたりして、べつの曲輪《くるわ》に入った。
この情景で見ると、茂山退陣の際に、前田軍が払った犠牲は、戦死十数名、戦傷三十七、八名であったことがわかる。
柴田、佐久間の比ではない。けれど利家夫妻が、この少数な犠牲者にたいする礼は鄭重を極めた。従来の場合とちがい、礼以上な、詫びる気持すらあるやに見えた。
持仏堂に鐘が鳴り、陽も夕づく頃、城内城中には炊煙《すいえん》が立ちこめた。兵糧を取れと令せられたのだ。しかし、軍隊はなお解かれない。将士は、戦場に在るままの制で、各配置につき、城壁を固めていた。
「北ノ庄殿がっ。――ただ今、御城門へ見えられました」
大手の番兵から、奥へ、こう大声で伝令があった。勝家がここへ立ち寄ったというものらしい。
「なに。匠作殿(勝家)が城門へ見えられたとか」
折ふし、櫓《やぐら》にあった利家は、大手からの知らせを聞いて、憮然《ぶぜん》と呟《つぶや》いた。
意外ならぬ容子でもあるが、また早くも、落人《おちゆうど》となったその人を眼に描いて、会うに忍びない風でもある。
――沈思していたが、
「お迎えに出よう」
子息利長と、居合わす幕将四、五を伴って、歩みかけた。
「父上」
櫓《やぐら》の降り口で、利長が云った。
「お迎えには、私一名が先へ走《は》せ参って、お玄関まで御案内|仕《つかまつ》りましょう。お父上には、そこでお待ちうけあっては……」
「お。……そうしようか」
「そう致しましょう」
櫓梯子《やぐらばしご》は急で足下も暗く、三層も階を重ねている。利長は、とととととと先へ駈け降りて行った。
後から降りてゆく利家の足は、歩々、ものを思いつつ運んでいるようだった。最後の階段を降り、堂のような太柱が幾本となく暗闇に立っている武者溜りの歩廊へ来たときである。
扈従《こじゆう》のうちの、村井又兵衛|長頼《ながより》が、つと、利家の後にすり寄って、
「……殿」
と、袂《たもと》を引くように囁《ささや》いた。
眼だけで、何か? ――と長頼の顔を見た。
長頼は、さらに、主の耳へ頤《あご》を近づけて、
「折も折。……これへ北ノ庄どののお立寄りあるは、またなき倖せ、討ち止めて、その首級を、筑前どのへお送りあらば、御当家と羽柴家とのお仲も、難なく御和解を見られましょうに」
と、賢《かしこ》げに、献策した。
すると利家は、やにわに、又兵衛長頼の胸いたを、どん[#「どん」に傍点]と押し叩いて、
「だまりおろうっ」
と、怖ろしい声で叱った。
長頼は、よろよろと、後ろの板壁まで行って、からくも尻餅をまぬがれた。真っ蒼な顔をして、立ち直すことも、下に坐すことも忘れていた。
それを睨《にら》めすえながら、利家はなお余憤《よふん》のさめぬような語気で云った。
「非義、卑劣、口にするも恥ずべき邪謀《じやぼう》を、主の耳にささやくなど、沙汰の限りな奴! 士にして士道を知らざる奴めが! ……誰か、門を叩く窮将《きゆうしよう》の首を売って、自家の経営に利せんとする者ぞ。まして、如何あろうと、勝家と利家とは、多年同陣の人。たわけをいうも、事にこそよれ。――慎《つつし》めっ」
顫《おのの》く影をあとにおいて、利家は、そのまま勝家を迎えるため、玄関へ出て行った。
佇《たたず》んでいるほどの間もなく、勝家は馬上のまま通って来た。切り折った槍の柄を片手にもち、負傷している容子はないが、満面いや満身、悽愴《せいそう》の気にまみれている。
その馬の口輪《くちわ》は、迎えに走った子息利長が握って、親切にみずから案内して来たのである。供の八騎は、中門外に残して来たとみえ、これは勝家一騎だった。
「御子息。……恐縮恐縮」
世辞よく、馬から降りて、そこで利家の顔を見ると、まず自嘲《じちよう》するように、こう大声で云った。
「負けたわ負けたわ。……無念ながらかくの如しじゃ」
思いのほか元気であるのだ。いや、そう見せている勝家なのかも知れないが、とにかく見ぬ前に、利家が想像していたよりは、はるかに磊落《らいらく》な風である。
「まずまず。……さ、そのまま、そのまま」
利家は、この敗将を迎えるに、日頃以上、懇《ねんご》ろだった。子息の利長も、父に劣らぬ誠意をもって、この落人の血に染《まみ》れた草鞋《わらじ》の片方を解いてやりなどする。
「やれやれ。……わが家に帰ったようなここちだわ」
かかるときの人の温情が、滅失の淵にある人に真実の感動を与え他を恨む心や猜疑《さいぎ》を捨てさせ、なお世に光を思わせる唯一の救いであるはいうまでもない。
よほど欣《うれ》しかったとみえ、勝家は本丸に通ってからも、父子の無事を祝して、
「このたびの敗れは、すべてこれ、儂《み》の落度にほかならぬ。御辺にも、累《るい》を煩《わずら》わしたが、ゆるされい」
と、率直に詫び、
「――ともあれ、北ノ庄まで落ち行《ゆ》いて、心措《こころお》きなく始末、きれいに、所存《しよぞん》を遂げたいと思う。……この上の御造作《ごぞうさ》じゃが、湯漬を一椀《いちわん》、馳走して賜わるまいか」
さしもの鬼が、仏《ほとけ》柴田となったようなことばである。
利家も、涙なきを得なかった。――子息をして、
「すぐ、お湯漬を持て。いうまでもない、一献《いつこん》、何はなくとも共に」
と支度をいそがせ、さて、慰めることばもなかったが、
「よくいわれることですが、勝敗は兵家の常。きょうの御無念は万々お察しされるものの、大きく、宇宙の輪廻《りんね》から観《み》れば、そもそも、勝つも驕《おご》れば亡ぶ日の一歩、敗るるも徹《てつ》すれば勝つ日の一歩。――興亡の流転《るてん》、一朝《いつちよう》の悲喜のとおりではありませぬ」
などと他事なく語りかけると、勝家ははや利家のいわんとするところを悟って、
「さればよ、惜しいのは、朽《く》つるなき、流転の移りなき、名のみではある……が、又左殿、安んじておくりゃれ。決定《けつじよう》はつけておるで」
そういうのも、至極自然であって、日頃の勝家とちがい、今はまったく、焦《いら》ち迷っているふうもない。
銚子が来ると、快く一献|酌《く》み、おそらくこれが別れであろうと、利家父子にも酌し、さて、利家の給仕で、サラサラと湯漬を一椀喰べ終ると、
「生涯の馳走、きょうの湯漬に如《し》くものはなかった。いかい造作《ぞうさ》をかけた。忘れはおかぬ」
と倉皇《そうこう》、暇乞いをつげて、元の玄関へと歩いた。
利家は、外まで送って出て、勝家の乗馬のひどく疲れているのを見、
「厩《うまや》からわしの葦毛《あしげ》を曳いて来い」
と、小姓にいいつけ、自身の愛馬をもって、勝家にすすめた上、ふたたび利長に口輪《くちわ》を取らせて、
「万一あってはならぬ。城外の町屋端れまで、そうしてお見送り申せ」
と、命じた。
そしてなお、馬上の人へ、
「北ノ庄へお入りあるまでは、ここの防ぎお気づかいなく」
と、特に告げた。
勝家は、いちど去りかけたが、ふと何か思い出したように、また駒を戻して、利家のそばへ寄った。
相別れて、いちど去りかけながら、また別れを告げ直しに戻って来た勝家の意は、こうであった。
「又左どの。――御辺と筑州とは、若年からの、二《ふたつ》なき別懇《べつこん》。戦いかくなるからは、この匠作に義理遠慮は早要《はやい》り申さぬ。御分別よろしくあれや」
彼のこの言葉は、利家にたいする最後のものとして、彼の最大な好意と、今日までの感謝をあらわしたものにちがいない。
馬上の顔は、いつわりなくそれを表情していた。利家は、
「恐れ入る」
と、その心にむかって、心から辞儀をした。
城門を出る勝家の影を、夕陽の赤さは特に濃く浮かせてゆく。馬上の供八騎、歩卒十数名という微々たる残軍の列はこうして北ノ庄へ落ちて行った。
利長は、父のいいつけなので、勝家の馬の口輪を取って従い、勝家が幾度か、
「もうよい。お帰りあれ」
と、気のどくがっていうにもかかわらず、万一の変を思って、府中の町屋端れまで、送って来た。
途中、勝家は、城下町の新屋敷など見て、
「ここも、お許《もと》の治政で、見ちがえるばかり繁昌になって来たの。軍《いくさ》もむずかしい、領治のむずかしさは格別、父上にお習いなされよ。勝家にお倣《なら》いあるな」
と、さりげない馬上からの四方山《よもやま》ばなしをしかけたり、折々、戯れをいって、利長を笑わせたりして行った。
城下|端《はず》れまで来たので、利長は口輪を供の者に譲り、
「ごきげんよう。……では、ここにて」
と、別れて帰った。
父は、勝家の去った本丸の一室に、寂として、独り坐っていた。
「――御無事に、お送り申し上げて、戻りました」
「そうか」
とのみであった。――感慨何を思うか、利家はなお黙然たる姿だった。
二十一日の府中城はこうして暮れかけていた。――時に、秀吉の羽柴軍はすでに橡《とち》ノ木《き》峠の国境を続々越え、この府中と一路つながる板取、孫谷、落合などへ駸々《しんしん》と近づきつつあったことは、まだここには分っていなかった。
「父上、燭をお持ちしましょうか」
「いや、ここには要らぬ。――こよいは櫓《やぐら》におらねばならぬ。そちも大手の守りについて、しかと怠るな。とかく疲れておる将士じゃ。そちの弛《ゆる》みは皆の弛みなるぞ」
「はい……では」
「わしも櫓に立とう」
共に、そこを出た。その時であった。
櫓下の暗い歩廊で、
「阿呆《あほう》っ、阿呆っ」
ふいに、井戸の底でするような声が、がんがん響いた。
「――いけない、いけない、離すものか。イヤ離さぬ。こんな所で、犬死しようとするような阿呆、まいちど、頭から叱られるがいい。……さあ叔父上の前へ来い」
必死の声をしぼっているようでもあり、またどこか剽《ひよう》きん[#「きん」に傍点]な調子にも聞えないではない。
「……誰じゃ、あの叫びは」
利家がきき耳たてると、利長はすぐ答えた。
「慶次郎です。慶次にちがいございませぬ」
声、物音の方へ、利家は歩いて行った。櫓下の武者|溜《だま》りに通ずる真っ暗な歩廊であった。ひとみを凝《こ》らすと、甥《おい》の慶次郎が、ひとりの武者を拉《らつ》していた。
「さあ、来い。来いッてば」
無性にその腕くびを引っ張っているらしいのである。
武者が、本気で争うならば、まだなり[#「なり」に傍点]の小さい、十四歳の慶次郎の手を払うが如きは、何の造作でもあるまいが、主人の甥というところに、低頭平身、なすままになりながら、ただその無下《むげ》な意志だけを拒《こば》みぬいているのである。
「慶次郎ではないか、何をわめいておる」
「ア、叔父御。よいところへお越し下さいました」
「たれだ。そちが捉《とら》えておる者は」
「又兵衛です」
「なに、長頼《ながより》じゃと」
「ええ、さっき、叔父さまが、櫓梯子《やぐらばしご》の下で、かんかんにお叱りになった又兵衛長頼です。叔父さま、もう一ぺん叱ってやってください。又兵衛は、大|莫迦《ばか》者ですから」
「そちこそ童《わらべ》のくせに、何をいう。……長頼があれから、どうかしたというのか」
「そこで、腹を切ろうとしたんです」
「ふむ。……そして」
「止めました。わたくしが」
「なぜ止めた」
「だって……」
慶次郎は、賢《さか》しげな鼻の穴をつん[#「つん」に傍点]と上へ向けた。そして叔父の意を解しかねるといった顔つきで抗弁《こうべん》した。
「さむらいのくせに、犬死するなんて、勿体ないじゃありませんか。腹も切りどころがあるでしょう。主君にお叱言《こごと》をいわれ、面目ないからといって、いちいち腹を切っていたら、この慶次郎なんか毎日、腹を切っていなければなりません」
「ハハハ。慶次がまたおかしなことを申しおります」
父のうしろにいた利長は、これを機に、長頼の詫びがかなえば――と、前へ出て、わざと、父の話を横から取った。
「慶次よ。そなたは、どうしてここにいたのか」
「さっきから。――隠れて」
「隠れて?」
「又兵衛が叔父さまに叱られたとき、これは、きっと腹を切るぞと思ったから、あの柱の蔭に行って、ひとりでそっと見ていたんです」
「ハハハ。悪戯《いたずら》もするが、賢いやつ。……父上、慶次までが、こう案じておりまする。長頼の最前の失言は、どうぞ免《ゆる》してあげて下さいませ」
慶次も一緒になって、長頼のために詫びた。
「叔父さまの許へ引張って行って、もう一度、叱っていただこうと思ったのです。又兵衛を堪忍してあげて下さい」
利家は黙然としたまま、ゆるすとも許さぬともいわなかった。――が、やがて、又兵衛長頼へ、直接こういった。
「長頼、恨むなよ。わしを」
又兵衛は、意外に打たれて、床に額《ひたい》をすりつけ、嗚咽《おえつ》に似た声でさけんだ。
「な、なにを仰せられますっ。慚愧《ざんき》にたえませぬ。ただ、死を仰せつけられませ」
「主君を思えばこそいうそちの言だ。何の、悪《あ》しく聞こう。……が善意の献言も、時により主家を危ううすることもある。かつは、余人の示しにも叱ったことじゃ。いつまで根に持たいでもよい。忘れろ、忘れろ」
村井長頼は、感涙にぬれまみれた面《おもて》を、いつまでも、上げ得ないでいた。
慶次郎は、彼がゆるされたと見ると、すぐどこかへ、飛んで行ってしまった。寸時といえども、時をむだ[#「むだ」に傍点]なく遊び跳《は》ねている少年だった。
もう十四歳にもなるので、初陣にも連れて出ていい頃であるが、利家は、兄の子という預かり者に万一があってはと思うのか、または人いちばい才はじけた[#「はじけた」に傍点]ところのある甥《おい》の素質を見て、時を選んでいるのか、やかましいこともいわず、ほとんど、放ち飼いの小鳥のように、天性にまかせていた。
その慶次郎は忽ち、櫓《やぐら》の上へ駈けのぼっていたとみえ、
「ああ、見える見える」
何か、大声を放っていたが、ふたたび駈け下りて来ると、頻りに利家父子のすがたを捜しているふうだった。
利家は、利長、長頼をつれて、広庭の幕舎へ向って歩いていた。
「御叔父。敵が見えますよ。敵が」
慶次郎は、追いついて、少年らしい興奮を見せた。――望楼《ぼうろう》へ上って、東の方を見ると、北陸街道に沿う脇本の辺に、羽柴方の一軍が早や旌旗《せいき》を現わして来た、と告げるのであった。
そのことはいま、物見櫓の者からすぐ連絡《れんらく》があったので、利家は、彼に聞くまでもなく知っていた。しかしその一軍が、秀吉自身の先駆して来たものか、他の部将の先鋒隊かについては、まだ詳報《しようほう》はない。
「慶次。うるさいぞ」
黙って歩いてゆく父に代って、利長が、睨むような眼を見せた。
だが、従兄弟の利長では、この少年に、何の効き目もないのみか、却って、慶次郎の好い相手にされるばかりだった。
「孫四郎(利長)さま。合戦は、今夜始まりそうですか。いつでも、いつでも、御叔父はわしを連れて行って下さらないけれど、ここで戦《いくさ》が始まれば、おゆるしがなくたって、今度は慶次郎も戦に加われる。わしは孫四郎様にだって、負けないぞ」
「うるさいと申すに。そちは、西の丸の、母上の方へ行っておれ」
「女の中へなんか、いやなこった。戦だというのに」
「これっ、去《い》なぬか」
利家は、振向いて、
「孫四郎。放っとけ放っとけ」
慶次郎は、手をたたき、苦笑する従兄弟を囃《はや》した。と思うと、大庭の端れまで走って、そこから脇本方面を望み、敵の篝《かがり》に赤く染められている夜空へまるい眼をこらしていた。
大手を駈けて来る二、三騎があった。物見組の者らしく、すぐ城門の内へかくれ、やがて利家のいる幕舎へ姿をかくした。
詳報は、物頭たちの口々から、すぐ全城の者に知れ渡った。
「こよい、脇本に営した敵は、堀秀政の先鋒で、秀吉は、後方の今庄に宿陣したらしい。何ぶん長途一気に疾駆して来た兵だから、すぐに、このお城に襲《よ》せて来る惧《おそ》れは万々ないが、何をやるか知れぬ羽柴勢のこと。明け方は、警戒を要する」
府中城の将士は、さきに村井又兵衛長頼が、いたく叱責《しつせき》された噂を耳にしているので、それをもって利家の心を推し、秀吉を寄せつけて、ここに興亡一挙の勝敗を果さんものと見、まぬがれ難き籠城戦を、みな心に覚悟していた。
[#改ページ]
良《よ》き家《いえ》、良《よ》き妻《つま》
一夜を、いや、ほんの半夜を、今庄に快睡した秀吉は、翌二十二日には、早くも営を立って、脇本まで馬を進めていた。
堀秀政が出迎えた。馬印をもすぐ受けて、そこに立てた。総帥《そうすい》の在るを示して、この先鋒隊の位置が、即《そく》、中軍となったことを顕《あら》わすのであった。
「昨夜中、府中城のうごきは、どうあったか」
秀吉の問いに、
「別条もございませぬ」
と、秀政は答え、
「しかし、なかなか意気まいておるやに見られまする」
と、いい足した。
「ふうむ、固めておるか。筑前との一戦必至と」
自問自答して、秀吉は、そこの丘から、府中の方角を見ていたが、唐突に、
「久太郎、要意せい」
と、布令を促《うなが》した。
「御出馬で」
「もとより」
坦々《たんたん》の大道を望むような頷《うなず》きであった。秀政はすぐこれを秀吉の各部将に達し、また自身の先鋒隊にも貝触れを出して、まもなく、きのうの通りな序列で行軍を起した。
府中までは一刻《いつとき》を要さない。秀吉は久太郎秀政を先駆させて、先鋒のうちに在った。はや城壁が見える。城方の緊迫はいうまでもなかろう。位置をかえて、城頭から望めば、駸々《しんしん》と迫って来る兵馬の奔流と、千瓢《せんぴよう》の馬印《うまじるし》は、さらに、手に取るように見えているはずである。
(――駐《と》まれ)
という令が出ない。秀吉の姿はなお馬上に見える。で、先鋒隊の将士は、さてはこのまますぐ包囲態勢につくものと思った。
府中城の大手に向って、奔河《ほんが》の羽柴勢は、鶴翼《かくよく》のひらきを示した。そしてただ千瓢《せんぴよう》の馬印だけが、しばらく動かずにあった。
そのとき、城の総構えが、ぱっと硝煙を吐いた。とたんに、つるべ撃ちの銃声である。
秀吉は、秀政へ、
「久太郎、もすこし、後へ退けい、後へ」
と、兵の後退を命じた。
そして、また、
「兵を展《ひら》くな、陣形を取らず、一所にまとめ、まんまると、無態《むたい》の態にもどせ」
と、備えを変えさせた。いや、備えをなくさせたのである。
先手の兵が、射程距離の外へ退《さ》がったので、自然、城方の鉄砲もやんだ。が、相互の戦気は、まさに、一触即発の寸前にあるかに見えた。
「たれぞ、馬印を持って筑前の行く前を、十間ばかり隔てて、真ッすぐに先へ駈けよ。――口取りは、無用じゃ、秀吉ひとりして、これより城中へ参るほどに」
前もって、誰へ意中を告げるでもなかった。彼は不意に馬上からこう云い出したのだ。そして、諸将の愕然《がくぜん》と噪《さわ》ぐ顔を、事もなげに見捨てて、すぐトコトコとひとり駒を進め、大手の城際へ向って行く。
「しばらくっ。――お先に立ちますれば、しばらくお待ちを」
のめるように、それを追いかけた一士が、辛《から》くも、十間ほど先へ越して、命じられた馬印をかざして駈けると、忽ち、その金瓢《きんぴよう》へ向って、数発の弾丸が飛んで来た。
「撃つな、撃つな」
馬上、大声をあげながら、その弾《たま》の来る方へと、敢えて、駈けてゆく一騎は、一箭《いつせん》の飛ぶような姿でもあった。
「筑前を、見知らぬか」
近々と、城門の際まで寄ると、彼は腰の金采《きんさい》を抜いて、城兵へ振り示した。
「これは、筑前守ぞや。見知りおる者もあろう。鉄砲は撃つな撃つな」
大手大門|脇《わき》の矢倉にいた高畠|石見《いわみ》と奥村助右衛門のふたりは、あっ、と驚いた様子で、矢倉から飛んで降りた。そして内から門扉《もんぴ》を押し開くと、
「羽柴殿におわせしか」
さも、意外らしい顔のまま、挨拶に困《こう》じている態だった。
二人は、顔見知りの者だった。秀吉ははや馬から降りていたが、われから歩み寄って、
「又左は、帰ったか」
と、問い、かさねて、
「――又左衛門父子共に、別条はないか。無事帰城いたしたか」
と、見舞うように訊いた。
奥村助右衛門が、
「されば、お二方ともつつがなく、御帰城されておりまする」
と、答えると、秀吉は、
「そうか。よかったよかった。それ聞いて、いささか安堵《あんど》。――助右、石見《いわみ》。わしの馬を曳いて来い」
馬の口を、二人へ渡すと、秀吉はあだかも、わが家来をつれてわが家へでも入るように、さっさと、城門の中へ入って来た。
総構《そうがま》えに拠《よ》っている甲冑《かつちゆう》のむらがりは、茫然《ぼうぜん》と、この一箇の振舞いに気をのまれていた、――また、利家父子の姿も、ほとんど時をひとつに、彼方から駈けて来た。
そして、相近づくや、
「おおこれはこれは」
「やあ、又左か」
というようなわけである。巧《たく》むのでもなく、強《し》いていうのでもない。年来の友と友とのありのままに、
「どう召された」
と、一方がいえば、一方の又左衛門利家も、
「どうもせぬわ」
と、一笑に云い放ち、
「まず、こうござれ」
と、子息利長と共に、先に立って、本丸内へ迎え入れた。
しかも、わざと、かたくるしい大玄関は避けて、露地門を押開き、庭づたいに、杜若《かきつばた》の紫を見、白つつじの咲く間を縫い、奥書院へじか[#「じか」に傍点]に導いて行くふうだった。
これはまったく内輪《うちわ》の客あつかいといっていい。むかし、垣一重《かきひとえ》の隣り合わせに住んでいた頃の往来も、こうだったのである。秀吉もまた、この粗にして親しい扱いを、むかし懐かしくよろこびながら、やがて利家が、
「さあ、これへ」
と、書院の上に請《しよう》じても、わらじを解かず、佇《たたず》み見まわして、
「彼方の囲い内に見ゆる一棟は、お台所らしいが」
と訊ね、利家が、そうだと答えると、
「――ではまず、御内儀《ごないぎ》に会い申そう。御内儀は在るや」
と、そこから声をかけながら、早や台所の方へずかずかと歩き出していた。
利家は、おどろいた。
妻に会ってくれるなら、いまこれへ呼ぶから――という間もなかったし、台所へなど行ってはいけないともいえなかった。
で、あわてて子息利長へ、
「孫四郎、御案内に立て。はよう行け」
と秀吉のあとを追わせ、自身は書院から廊下を出て、妻へ知らすべく奥へ急いだ。
より以上、びっくりしたのは、本丸の大台所に働いていた台所役人や、庖丁人《ほうちようにん》やお下《しも》の婢《おんな》たちであったろう。
ふいに、のっそりと、柿色の陣羽織を着た――武者にしても小づくりな一将が「やあ」と土間の内へ入って来たと思うと、そこの大勢を見まわして、
「又左の御前《ごぜん》はおられぬか。御内室はどこにおらるる」
と、馴々《なれなれ》しげに喚《わめ》くではないか。
ここには、誰も、彼を彼と知る者はない。――が、腰にたばさんでいる采《さい》や太刀づくりは誰の眼にもただの部将とは見えない。どうしても大将である。しかも味方の内では見たこともない大将だ。
「……?」
初めは、みな怪訝《けげん》な顔をしていたが、金采装剣《きんさいそうけん》の威を見て、はっと、一斉に下に退《さが》った。
「又左の御前。又左の御前。……筑前じゃ。顔をお見せなされ」
秀吉はなお台所部屋の奥へ向ってこう呼びぬく。
ちょうど、膳部屋の物片づけに、召使い達と共に立ち働いていた利家の夫人は、ふと、それを耳にして、
(誰ぞ?)
と、あやしみながら、腰衣《こしぎぬ》、襷《たすき》がけのまま、何気なくそこへ出て来た。
そして、秀吉の姿を、突然そこに見たときの、彼女の驚きようといっては、どう形容すべくもない。
「あれっ……?」
としばし、眼をまるくしたまま、立ちつくし、
「まあ、これは、夢ではございませんでしょうか」
と、いった。
「御内儀、久しいなあ。――さてさて、いつもお達者で、めでたい」
秀吉が歩みよると、彼女も初めて、われに返り、襷をはずして、板床の下へ退った。そして、まずまずと、身を低めて請《しよう》じたが、秀吉は無造作に、大土間の框《かまち》に腰をすえこみ、
「御内儀の顔を見て、何よりも先に聞かせたいのは、播磨《はりま》にある娘(利家の女《むすめ》を秀吉の養女とせる者)も、姫路の女どもと打ち交じり、至極、息災《そくさい》に成人したる由じゃ。御安堵あるがよいぞ。――また、この度は、亭主又左衛門殿も、辛い御出陣と相見えたが、進退|立《た》ち惑《まど》いなく、繰《く》り退《ひ》きの切ッ先も烈しく、前田一陣のみにおいては、戦にも、負けなしと申してよかろう。これも、めでたい。御亭主の武運は、まず上首尾よ。御内儀、よろこばれい」
「……あ。ありがとうござりまする」
彼女は、ひれ伏した額の下で掌《て》をあわせた。
ところへ、夫人を奥の方にさがし求めていた利家が、ようやくここに見えて、
「ここでは、端ぢかも端ぢか、余りにお粗末すぎる。ともあれ、どちらからでも、お草鞋《わらじ》をお解きあって、まずまず上へ――」
と、夫妻して、手もとらぬばかりすすめたが、秀吉は、依然立ち寄りの客≠フ気がるさで、
「北ノ庄へ急ぐ途中、ゆるりとも致しかねる。だが、御意にあまえて、冷飯なと一膳たまわろうか」
「――おやすいことではあるが、それにしても、書院か数寄屋《すきや》へでも、ちょっと、お上がりなされて……」
と、一家を挙げて、秀吉の小憩を乞うたが、彼は、
「他日もある。きょうは早速こそよけれじゃ、御内儀、所望は冷飯一膳、ただ手軽うたまわれ」
とのみ、草鞋を脱いで、寛《くつろ》ごうとするふうもない。
秀吉の気性は、好いも悪いも知りぬいている夫妻である。義務や恰好が価値を持つほど水臭い仲でも元々ない。
「はい。……ではざっと差上げましょう」
利家の夫人、いちど外した襷《たすき》をかけ直して、自身、調理場の水瓶《みずがめ》や俎板《まないた》の前に立った。
一城の大台所である。たくさんな庖丁人や下婢小者もいる。台所奉行さえいる。けれど、煮炊《にた》きはできない、香の物の刻み方は知らないというような奥方ではなかった。
きのうも今日も、負傷した将士へは、自身、その手当を見、食事の世話も、これへ来て、手ずから調理していたほどな夫人である。事なき日でも、良人の好みのために、調味や庖丁に親しむことは決して珍しいことではない。
貧しい日こそ人をつくる。殊に女の教養は、貧苦窮乏の冬日をこえて来た風雪の薫香《くんこう》でなければ、まことに根のない剪《き》り花《ばな》のそれにひとしい。
秀吉は、この夫人がむかしに変らず、襷がけ[#「がけ」に傍点]で立ち働く姿を、何か清々《すがすが》した心地で見とれていた。
いまでこそ、この家も、能登七尾《のとななお》に一城、この府中に一城、父子両方で二十二万石の雄藩をなしているが、清洲時代の貧乏は、隣の藤吉郎の家にも負けないくるしさで、米の一升借りはおろか、塩の一握りや、一夕《いつせき》の燈《とも》し油《ゆ》さえ、あったりなかったりで、
(おや、今夜は明りがついておるぞ)
と、隣家の富有な日が、すぐそれでも分るくらいな時もあった家である。
――が、その頃の苦節が、何と今日のこの奥方姿にあやうげのない香気となって生かされて来たことか。根のしっかりした教養美となって現われて来たことか。秀吉は、自分たち夫婦のその頃の生活も思い出されて、
(わが家の寧子《ねね》にも劣らぬ女房――)
と、心から見入ってしまった容子《ようす》であった。
が、それも束《つか》の間《ま》、利家の夫人は、忽ち、二品、三品、何かの菜を作り終えると、
「さ、こちらへ」
と、その膳部を、わが手にささげて、台所から外へ出て行った。
食物の行くところ、秀吉も、従わざるを得ない。
夫人はさっさと竈《かまど》部屋の横を通り、煤色《すすいろ》のこの囲いから外へ出た。西の丸へつづく庭山の辺り、赤松の疎林の下の一亭である。
後から従《つ》いて来た侍女《こしもと》たちは、すぐ附近の山芝のうえに毛氈《もうせん》を敷き、またほかに二つの膳部と銚子とを運んで来た。
「いかにお急ぎでも、あなた様へだけ、御膳をさし上げるわけにはまいりませぬ」
「やあ、御亭主と御子息も、御相伴《ごしようばん》くださるか、それは一だんかたじけない」
「野座敷にて、腰兵糧でも解くおつもりで……さ、どうぞ」
秀吉と対して、利家もそれへ坐った。
利長は、銚子を捧げた。
一亭はあるが、一亭は用いず、松風は吹けど、松風も耳外に措《お》いていた。酒は一酌をこえるなく、秀吉は、利家の妻が心入れの菜と冷飯二杯ほどを、そこそこ喰べすまして、
「満足満足。ねがわくば、この上にもじゃが、茶を|一碗▼《いちわん》」
と求めた。
亭には、用意がある。夫人はすぐそこへ寄って、汲み出して一碗▼を供した。
「さて、御内儀」
と、秀吉はそれを服《の》みながらの談合顔でいう。
「いろいろ、お造作にあずかったが、事のついでに、これより御亭主の又左どのを雇《やと》うて参りたいが、どうあろう、女房どのには」
あっさり[#「あっさり」に傍点]した話である。
が、もしこれを、羽柴方から前田家への、正面からの交渉と仮定してみたら、問題はまことに重大である。
当然、武門としての、体面上の問題も起り得るし、内部的には、意見の分裂も生じない限りはない。下手《へた》をすれば、成るか成らぬかの極めて危険な状態にも立ち至るだろう。何分、城壁ひとえの内と外では、両勢とも満を持して、いつでも火ぶた[#「ぶた」に傍点]を切るばかりに対峙《たいじ》しているところである。なお第一には、それでは多くの時≠要する。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
夫人は、晴れやかに笑った。
そしていうのであった。
「久しぶりに、亭主を借せ、のお口癖を伺いました。むかしから、宿の亭主を借りてゆくぞ――は、あなた様の、毎度の奥の手でいらっしゃいましたが」
「はははは」
秀吉も笑い、利家も笑った。
「のう、又左。女は古い遺恨とてなかなか忘れおらぬとみゆる。よく、おぬしを借り物にして飲みに出たことを、まだ、今のように申す。……ははは、御内儀、お湯加減はよろしかったが、ちと、苦《にご》うござったぞ」
と、|茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]《ちやわん》をもどして――
「が、むかしとちがう今日のはなし。御内儀に異存なくば、亭主にも否やあるまい。ぜひ北ノ庄へ同道な仕《つかまつ》ろう。――御子息孫四郎どのは、おふくろ様の伽《とぎ》に、あとへ残し置かるるがよい」
談笑の間、事はすでに、きまったものと見、秀吉はどしどし独りぎめにきめていた。
「そこで、御子息はのこすも、御亭主にはぜひ、先駆けして欲しいものよ。又左は戦巧者《いくさこうじや》、較《くら》ぶべき者はない。――そして、めでたく帰陣の日には、ふたたびここに立ち寄り、その折は、御内儀が迷惑と申されても、五三日も逗留、ずいぶんわがままもして見しょう所存じゃ。いまより馳走を頼みおくぞ。……どれ、明朝の発向、暇もなければ、今日はこれで」
と、秀吉は早や立って別れをつげた。
一家の者は台所口まで送って行った。その途中で、夫人は云った。
「孫四郎は、おふくろの伽《とぎ》に残せとの、仰せではございましたが、わたくしはまだそんな年でも、そんな淋しがりやでもございませぬ。城の留守にも、守るに案じのない武者も多くおりますことゆえ、どうぞ、主《あるじ》と共におつれ遊ばして下さいませ」
利家も、それに同意だった。
翌朝出立の時刻も、打合わせも、秀吉と家族の者の忙しい歩みの間にきまっていた。
「次のお立寄りを、きっとお待ち申しておりまする」
夫人は、台所口に留まって見送り、父子はなお、大手まで送って行った。
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虞氏《ぐし》と楚王《そおう》
彼が、前田家を辞して、城外の自陣へ帰った当夜である。
営所へ、柴田方の大物ふたりまでが、捕虜となって曳かれて来た。
一名は、佐久間|玄蕃允盛政《げんばのじようもりまさ》。
もうひとりは、勝家の養子、柴田勝敏であった。
いずれも、山づたいに北ノ庄まで落ちて行こうとする途中捕われたものという。
玄蕃允は、負傷していた。夏は破傷風《はしようふう》をおこしてすぐ膿《のう》を持つ。落武者のよく用いる非常療法に灸治《きゆうじ》がある。玄蕃允も、山中の農家へ立ち寄って、
(もぐさ[#「もぐさ」に傍点]をくれぬか)
と、頼み、傷口のまわりへ、所きらわず灸をすえた。
原始的な療法に似ているが、蛆《うじ》のわくほどな大傷も、それによると細胞や皮肉の快復が著しく強力になるという。また、当時の武者輩も、革《かわ》足袋《たび》、武者わらんじ[#「わらんじ」に傍点]で湖沼を跋渉《ばつしよう》したりした後など、足に水むし[#「むし」に傍点]を病む者が多かったが、それにもよく灸は用いられた。傷口の場合と同じように、水むしの陣地を、灸で包囲し、病巣を火攻めで殲滅《せんめつ》しつくすのである。
玄蕃允が、他念なく、灸をすえている間に、土地の百姓は、ひそかに語らい合い、
(捕《つか》まえて、褒美にあずかろうではないか)
と、その夜、二将を泊めて、寝小屋を包囲し、猪縛《いのしししば》りにして、曳いて来たものだった。
秀吉は、それを聞いて、
(大出来といいたいが、百姓にしては、出来過ぎている所業――)
と、あまり喜悦の様子もなく、却って、百姓たちの期待とはまったく反対な厳科をもって彼らに酬《むく》うたことは先に記したとおりである。
翌二十三日。
秀吉は、いよいよ、勝家の本拠地、北ノ庄へ馬を進めた。
前田父子も、参加した。
この日も、先鋒《せんぽう》は堀久太郎秀政。
府中から北ノ庄までは、行程わずか五里余りである。当日午後にはもう越前第一の都府、北ノ庄の城下は、九頭龍川《くずりゆうがわ》の畔《ほとり》にも、足羽山《あすわやま》の要地にも、秀吉方の兵馬を充満していたのであった。
途中、徳山|則秀《のりひで》の一族や、不破光治《ふわみつはる》(勝光の父)などの、すでに風を望んで、陣門に降って来た者もすくなくない。
秀吉は、足羽山に陣し、水も漏らさぬさしずを下して、北ノ庄城を完全に包囲させた。
それの成るやいな、秀政の一隊をもって、外廓の一端を破らせた。
そして、昨夜、生け擒《ど》りとした玄蕃允《げんばのじよう》盛政と、勝敏とを、城壁の近くへ曳き出して、
「匠作《しようさく》どの、これ見給え」
と、攻め鼓《つづみ》を打って、城中にある勝家の耳を責めた。
「御子息、権六勝敏どの。ならびに、玄蕃允盛政も、はやかくの如し。何ぞ、最期の御一言にてもありたくば、それへ出て申されい」
二度、三度、呼ばわらせたが、城中は寂たるままで、何の答えもない。相見るに忍びずとしてか、勝家も姿を現わさなかった。――もちろんこれは秀吉が、戦わずして城兵の士気を沮喪《そそう》せしめんとした策たることは明らかである。
勝家はその前日、途上、前田利家と一別をつげて、北ノ庄へ帰ってはいたが、夜へかけて散り散りに還って来た残兵、留守居衆、非戦闘員など合わせても、およそ三千人を出なかった。
加うるに今、玄蕃允と勝敏が、敵の手に捕われていたのを知っては――さすがの勝家も、
(わが事やむ)
と、観念のほかなかったであろう。
寄手の攻め鼓はやまない。夕方までには、外廓の総構えも悉《ことごと》く破られて、城壁を隔つことわずか十五間か二十間の近くまで満地すべてこれ羽柴勢の甲冑《かつちゆう》となっていた。
にもかかわらず、城内は、依然として静かなままだった。そのうちに寄手の攻め鼓も休み、夜に入って、城中と城外に、使者らしき部将の往来があったりしたので、
(さては、勝家助命の運動か、降伏の使者か)
などの噂も撒《ま》かれたが、また、そうでもないらしい城中の空気でもあった。
宵過ぎると、それまで、墨のようであった本丸に、華々と、灯がともり出した。北曲輪にも西の丸にもである。いや、必死の武者ばらが防戦に夜詰している櫓《やぐら》にさえ、狭間《はざま》狭間にさえ明るい灯が映《は》えている。
「はて?」
寄手は不審がった。
が――まもなくその謎は解かれた。
鼓の音が聞えて来たからである――また笛の音が流れて来たからである。さらに、北国|訛《なま》りを帯びた郷土の唄まで聞えて来たので、
「おお読めた。城中では、こよいを最後と、あわれ、名残の宴を楽しんでおるものとみゆるわ」
城外の寄手すら、この夜は、多感なるものがあった。
――想い起される永禄の頃。
当時の、織田幕将のひとり柴田権六勝家が、江州長光寺の城に拠《よ》って、佐々木|承禎《じようてい》の強兵八千の包囲猛攻をうけ、ついにその水の手を断たれても、なお、
(――水は銅盤《どうばん》にたたえて、庭上に捨つるほどあり)
の態を、誘降の敵使に示し、敵使のどぎも[#「どぎも」に傍点]を抜いて追い返した――あの若き権六勝家の気概《きがい》や、いま何処《いずこ》にある?
なお。
長光寺城中の実状、いよいよ水に窮し、兵馬みな渇《かつ》して、乾き死なんとするや、蓄蔵の大瓶《おおがめ》三個の水を、枯喪《こそう》して生色なき城兵のまん中に担ぎ出させ、
(卿《けい》ら、渇望《かつぼう》の水、飽くほど飲むべし。これやこれ、末期《まつご》の水ぞ)
と、その貪《むさぼ》るにまかせ、兵みな唇《くち》を雫《しずく》し、眼底を濡らすを見るや、大《おお》薙刀《なぎなた》の石づき[#「づき」に傍点]を、なお余《あま》せる巨瓶《おおがめ》の腹にさし向け、
(瓶よ聞け、われら武門、いやしくも水に窮して、枯魚の如く死ぬべきや――。渇《かわ》かば啜《すす》るべし、敵兵|万斛《ばんこく》の血しお!)
と、豪語し、その大瓶を、粉ともなれとばかり、突き砕いた上、
(それ、出よ)
と、城門を押し開いて、敵中へ斬り込み、必死一千の鎬《しのぎ》の火、却って八千の大軍を走らせ、死ぬべく斬って出た道を、却って、凱歌の大道として、意気揚々本国へ還って来たという――ああ、当年の瓶破柴田《かめわりしばた》の名は、そも、いまは何処に褪《あ》せ去ったか。
今日の城方といえ、寄手といえ、もとはみな同じ織田|麾下《きか》の将士である。勝家のむかしを知らぬ者はない。それだけに感無量なものがあった。
この夜、北ノ庄の城中では、最後の饗宴がひらかれていた。本丸天守の内には、勝家と夫人、その女子たちを中心に、一族|股肱《ここう》の歴々をあわせて、八十余名、咫尺《しせき》の外に敵軍をひかえながら、燭も明々と居流れていた。
「こうひとつにお揃いのことは、元日の御祝賀でもないことよの」
中村|文荷斎《ぶんかさい》の言に、これも一族の柴田弥右衛門が、笑って云った。
「明ければ、死出の元日。こよいは、この世の大つごもり……」
燭の数も、人々の笑声も、日頃の宴とちがうところはない。ただ鎧《よろい》具足の列座であるだけが蕭殺《しようさつ》たる気を漂《ただよ》わせていないこともない。
そのなかに、夫人お市の方と、妙齢十七を頭とする三人の息女たちの粧《よそお》いが、何かあり得ないものがあるようで、鮮《あざ》らかで、また余りに臈《ろう》やかであった。
わけて、十一という末姫が、膳部《ぜんぶ》の馳走や人々の賑わいにはしゃい[#「はしゃい」に傍点]で、喰べちらしたり、姉に戯れたりしているのを見ると、死もよそに酒宴している武骨の輩も、折々、あらぬ方へ眼をやりがちであった。
勝家も、すごしていた。何遍となく、誰彼へ、杯を与え、
「玄蕃《げんば》も、おらば」
と、ふと淋しさをもらしたが、たまたま、座中で玄蕃允の失敗を悔やんでいる者の言を聞くと、却って、
「玄蕃の咎《とが》めだては止めい。万々、この勝家の不覚にほかならぬ。――それを聞くは、勝家として、身を責めらるるより辛う思う」
と、いった。
そして殊さらに、飲め飲めと左右にすすめ、櫓々《やぐらやぐら》の武者たちへも、庫中の銘酒を豊富に配って、
「名残を存分にせよ。高吟《こうぎん》も苦しからず」
と伝えさせた。
櫓々から、唄が聞え、笑声が流れてくる。ここの勝家の前でも、鼓が鳴り、小舞の銀扇が、優雅な線を描いた。
「むかし、右府(信長)様には、何ぞというとすぐ立って舞われ、匠作《しようさく》もせずやと、よう強《し》いられたものじゃが、不器用を愧《は》じ、つい致さなんだが、今にして思えば惜しいことを致したわ。こよいのためにも、せめて、一さしは、習うておくであったにのう」
勝家は、そんな述懐《じゆつかい》を洩らした。
思うに、彼の胸にはいま頻りに、旧主が懐かしまれていたのであろう。
それと、また。
当時の一卒|猿面郎《さるめんろう》のために、かく絶望のほかない窮地に追い詰められたとはいえ、せめて世に恥なきような死に花だけでもと、ひそかに念じていたに違いない。
彼やまだ五十四歳。武将としては、これからともいえるのに、往年の概もなく、徒《いたず》らに死に花のみを心がけて、
(この世の名残を尽さん)
と、死の饗宴のみを潔《いさぎよ》くしていたのは一体どうしたことだろう。座には、一族|股肱《ここう》の者八十余名はあり、櫓々にはなお一死を辞せざる鉄甲二千以上は優に数えられるのに、賤ケ嶽の一|蹉跌《さてつ》以来、彼自身が自身のうちで負けた≠ニ観念していたことは、畢竟《ひつきよう》するに、玄蕃允の若気以上、北ノ庄滅亡の最大な敗因ではあるまいか。
往年の彼を知るもの、誰か今日、柴田老いたりの歎なきを得よう。――長光寺城一砕の大甕《おおがめ》も、ここに至っては、可惜《あたら》、何の精彩《せいさい》も見ることはできない。世間の土中に過去現在未来する無数の糞甕《くそがめ》と、彼もまた変るところのない、一個の凡甕《ぼんよう》と化していたのであろうか。
杯はめぐり、まためぐり、数樽《すうたる》の酒も、夜とともに涸《か》れてゆく。
唄に鼓《つづみ》あり、舞に銀扇あり、人に歓声笑語もあるが、いかんせん、悲愁の気は掃《はら》うことができない。
折々、氷室《ひむろ》のような沈黙と、夜気に墨を吐く燭のゆらめきが、座中八十余名の酔顔を、酒の気もないように白々と見せるのだった。
「まだ夜は深い。明けるには間もあり、城外の敵も、闃《げき》として密《ひそ》まりおれば、充分にお過ごしなされ。――お心おきなく」
小島|若狭守《わかさのかみ》ひとりは、酒宴のうちも、たえず天守の廊を巡って、敵のうごきを監視していた。そして、心ゆくまで、名残を惜しまれよと、折々ここへ情況を告げていたのである。
その若狭守の声だった。――それへ来たのは何者か、と室外で咎《とが》めている。答える者のことばには、新五郎でございまする、と聞えた。するとふたたび若狭守の声で、
「やっ、伜《せがれ》かっ……。参ったるか……」
と、いうのが聞えた。何か烈しくうけた感動を、抑えきれないような様子が、目に見ぬ室内の人々までハッとさせた。
「父上っ。……参りました」
次のことばが聞えたとき、酒席の杯は、悉《ことごと》く下におかれていた。
(はて。誰であろう?)
みな、眼と眼を見あわせた。勝家も、きき耳たてているふうだった。
――が、まもなく、静かな跫音《あしおと》が室のすぐ外まで来ていた。小島若狭守は自分のうしろに、ひとりの若者を連れていた。その若者のかぼそい武者姿を見たとき、勝家以下みな、ふたたび眼をみはってしまった。なぜならば、若狭守のうしろに見えたのは、久しい間、病身のため出仕もならず、家にあって療養していたため、誰の記憶にもいまは忘れられていた――若狭守の一男、当年十八歳の小島新五郎にちがいないからであった。
「おねがいにござりまする」
父の若狭守は、勝家の前へ、こう平伏していた。
「愚息新五郎こと、永々|御恩禄《ごおんろく》を喰《は》みながら、病《やまい》のため、柳ケ瀬表へも、御供つかまつらず、このまま、家にあるのは、無念と申し、薬餌《やくじ》に別れをつげて馳せ参りました由。――何とぞ伜《せがれ》めにも、明日最期の御供、おゆるし下しおかれますように」
勝家は感動に盈《み》ちた気色をうごかして、新五郎をひとみで招き、
「主従は、二世ぞ」
と、即座に杯を与えた。
この病若武者は、翌日、追手門の扉に、
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小島若狭守男新五郎十八歳
柳ケ瀬表に不参たりといえども今日忠義を全うする也
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と大書して、猛火と乱軍の中に奮戦し、生来の病骨も、その終りを、義に孝に、薫々《くんくん》たるものとして果てた。
さきには毛受家照あり、いま小島新五郎があり、亡家の中にも、不亡の士魂は少なくなかった。
かかる士魂を多く擁しながら、遂に、大廈《たいか》の崩壊を坐視のほかなき態《てい》にあった勝家の、家長としての自責は蓋《けだ》しどのようであったろう。――燭は三更、宴はまだ果てず、幼い息女たちは、母の膝に凭《もた》れたり、居眠ったりし始めていた。
息女たちには、この宴も、やがて退屈にたえないものとなっていたらしい。
末の姫は、いつか母の膝を枕にすやすや眠り入っていた。お市《いち》の方《かた》は、その子の髪をまさぐりながら、終始、涙をこらえているに精いっぱいの容子に見える。
中の姫もそろそろ居眠りをし始め、ただ姉姫の茶々《ちやちや》のみが、さすがに母の想いを察し、この夜の宴が何であるかをも知って、いじらしい程、冴《さ》えた面をしていた。
母に似て、むすめ達は、みな美貌であったが、わけて姉姫の茶々は、織田家の血脈にある高貴な香を、その妙齢と、天質の美にあわせ備え、見る者の眼を傷ましめずにおかなかった。
勝家は、ふと、
「あどけなさ[#「あどけなさ」に傍点]よ」
と、末姫の寝顔へいった。そしてこれらの弱い者、幼い者たちの身について、お市の方へ、こう諮《はか》った。
「お身は、信長公の御妹、この勝家の室《しつ》へ移られてからも、まだ一年には満たぬ御縁じゃ。――子らを連れて、夜明けぬ前に、城を出らるるがよい……。富永新六郎を添えて、秀吉の陣所まで届け参らそう」
お市の方は、涙して答えた。
否とよ……。と泣いていう。
武門に嫁《とつ》ぐからには、かかることに会うも、覚悟の前、宿命の業、今さら驚いてはおりませぬ。
この期《ご》において、城を出よとは、むしろお情けないおことばです。筑前の陣門へ頼って、いのちを助からんなどは、思いもよらぬこと――とのみ、袖《そで》の裡《うち》の面を振っているらしく眺められた。
が、勝家は、かさねて、
「――いやいや、薄縁なこの勝家へ、御貞節はうれしく思うが、元々、三人の息女らも、浅井殿(長政)の遺子。また秀吉とても、主筋の御妹にあたらるる御許《おもと》ら母子に、つれなかるべきはずもない。……そう致されよ、早々、お支度されよ」
と、促《うなが》してやまず、
「新六郎、これへ」
と、座中の侍を呼び、意をふくませて、さらに、そのことをすすめたが、お市の方は、否とのみ、面を振って、どうしてもここを去らなかった。
「それまでのお志とあらば、無碍《むげ》のお計らいも、却って如何でしょう。せめて、何も知らぬ姫君たちだけでも、お館《やかた》の御意のように、御城外へ出し参らせては……」
と、衆臣のひとしくいうことばに、彼女もそれには同意の容子《ようす》で、さらばと、膝に寝ていた末姫も揺り起し、にわかに、侍を添えて、城外へ送ることになった。
茶々は、母にすがって、
「嫌じゃ……。嫌じゃ……、母様と御一緒に……」
と、離るべくもない身もだえをなしたが、勝家に云い聞かされ、母に諭《さと》され、なお狂わしきまで歎いてやまぬ姿を、侍の新六郎に隔てられて、むりやりに外へ伴われて行ってしまった。
三人の息女たちの泣く声が、遠くに行くまで聞えた。夜はすでに四更に近かった。歓宴《かんえん》ならぬ歓も尽き、武者たちは早や具足の革紐《かわひも》を締め直し、打物|把《と》って、持場持場の最後の死所へ散り始めた。
勝家夫妻と、一門数輩は、相携えて、本丸の奥へ移った。
お市の方は、小机をよせて、辞世《じせい》の墨をすった。
勝家も、歌ひとつ遺した。
帳裡《ちようり》の燭《しよく》は、ほの暗く、楚王《そおう》と虞氏《ぐし》の恨みも偲《しの》ばれた。時鳥《ほととぎす》は明け近きを告げていた。
[#改ページ]
童女抄《どうじよしよう》
同じ夜――
夜は同じながら、人の夜はひとつでない。敗者、勝者、余りにも持つ明日はちがう。
秀吉は、夕刻、足羽山《あすわやま》の本陣を、さらにすすめて、市街の一端、九頭龍川《くずりゆうがわ》をうしろに、床几場《しようぎば》をさだめ、
(夜の白み次第に、総がかりのこと――)
と、万端の令をすませて、心しずかに、明くるを待っていた。
市街もわりに平穏である。
二、三箇所に火災は起ったが、これも兵燹《へいせん》ではなく、狼狽した市民の過失火とわかっており、むしろこの大きな篝《かがり》をもって、城兵の奇襲を監視する便となすように、終夜、燃えるに委せてあった。
宵に、秀吉から堀秀政へ渡されていた軍令は、すぐ五、六十通複写されて、
「陣々に、掲示するように」
と、各番手の部将へ交付されていた。
その箇条は次の通りである。
掟《オキテ》 之 事
[#ここから1字下げ]
一 進退何事モ母衣《ホロ》ノ者、使番次第トシ、其法ニ依ルベキ事
一 濫妨《ランバウ》ス可《ベ》カラズ、並ニ酒家ニ入ルマジキ事
一 疎《マダ》ラ駈《ガ》ケスマジキ事
一 勝利ニ誇ル可カラザル事
一 合戦ヲ心ニ備ヘ、夜討ノ用意アルベキ事
[#ここで字下げ終わり]
宵から夜半までの間に、一時、陣々へも噂がひろまったように、秀吉の営内に、さまざまな人物の出入りがあったことは確かであり、そのため、勝家の助命運動が行われているとか、即時開城になるとか、取沙汰もあったが、夜半過ぎるも、当初の作戦方針には、何の変更も見なかった。
早くも、陣々には、夜明け近きを思わせるものがうごいた。
そのうちに、貝が鳴った。霧をやぶる太鼓の音が、鼕々《とうとう》、全陣地を揺るがし始めた。
すでに東の空は明るい。
総攻撃は、予定どおり、寅《とら》の一点(午前四時)の時刻も狂いなく開始されたのだ。城壁に面した先手の銃声からまずその火ぶたは切られ出した。
バチバチと、凄まじい霧の中の音だったが――どうしたのか、その銃声も、一番手の喊声《かんせい》も、間もなく、はた[#「はた」に傍点]と熄《や》んでしまったため、
「はて、何か?」
と、尠《すく》なからず全軍の動きをためらわせた。
そのとき、母衣《ほろ》の者(伝令)が一騎――霧を衝いて、秀吉の床几場と、堀秀政の陣地とのあいだを、鞭打って往復していた。
程なく。
城外の柳の馬場から、三名の女子を伴った一名の敵の侍が、秀政の配下や母衣《ほろ》の武者に導かれて、徒歩《かち》で、市街の方へ出て来るのが見られた。
「鉄砲止め。撃ち方止め」
と、母衣の士だけは騎馬で、注意ぶかく先に触れて通った。
「オオ。城中から出て来た落し人か……」
兵は、目をそばだてた。
これが、信長の姪《めい》にあたる、三人の姫たちとは知らないまでも、霧に濡れゆく六ツの袂《たもと》の可憐さにみな見送っていた。
姉は妹の手をひき、その妹は、末の妹を宥《いた》わりつつ、石ころ道を爪さき立てて歩いた。
降人の作法として、穿《は》き物《もの》を取らないのが礼なので、姫たちも、絹足袋のまま土を踏んでいた。
「痛い、痛い……」
末の姫は、歩こうとしない。お城へ帰りたいとばかりいう。
城中から付き添って出た富永新六郎は、だましすかして、背なかに負った。
「新六、どこへゆくの」
背の姫は、顫《おのの》くのだった。美しい死体を負っているような冷たさに、新六郎まで、生きた心地もなく涙で答えた。
「よい小父《おじ》様のいらっしゃる処へ――」
「嫌、嫌。……」
末姫は、泣き出した。
十三の姉、十七の姉は、ふたりして、懸命に慰める。
「後から、お母《かあ》さまも、おいで遊ばすでしょう。ネ……新六」
「え。いらっしゃいますとも」
とつこうつ――ようやく、秀吉の陣所のある松原のほとりまで来た。
秀吉は、帷幕《いばく》を出て、松の下に佇《たたず》んでいた。
――近づくのを、見ていたものとみえる。
「お伴《ともな》い致しました」
送って来た秀政の家臣が、城中から渡された経緯のあらましを報告する。秀吉は、受け取った、と答え、すぐ姫たちのそばへ歩み寄った。
「……よう似ておらるる」
彼が胸にえがいて写した鏡は、信長の面影か、お市の方の姿か、ともかくそう呟《つぶや》いて、
「よい御子な」
と、頻りに見惚《みと》れていた。
茶々は、淡紅梅《うすこうばい》の袂《たもと》に、鉢の木帯の房《ふさ》を、優雅に結び垂れていた。中の姫は、刺繍《ししゆう》の大模様の袖に、臙脂《えんじ》の帯。末の姫も劣らぬ粧《よそお》いに、それぞれ小さな金の鈴に、伽羅《きやら》の匂い袋も提げていた。
「お幾つじゃの?」
秀吉が問うたが、三人とも答えない。むしろ、唇を白うして、触るれば、露とばかり、涙をこぼしそうだった。
「ははは」
意味もなく、笑って見せ、
「姫たち、怖がることはない。これからは、この筑前と遊ぼうぞ」
秀吉は、自分の鼻を指した。
初めて、中の姫が、すこし笑った。彼女だけが、猿を連想したのかも知れない。
が、その時。
早や、朝空の下だった北ノ庄城の周囲全面にわたって、前にもました銃声と喊声《かんせい》が一時に地を揺るがし始めた。
姫たちは、城壁の煙を見て、
「お母あさま。お母あさま」
と、絶叫し、泣きまどった。
「女童《めわらべ》たちを、怖がらぬ方へ連れてゆけ」
秀吉は、それを家臣に託して、馬をッ、と烈しく呼びたて、直ちに、城の方へ駈け向った。
後に。――女童たちも長じて。
一の姫の茶々は、秀吉の側室に入って淀君《よどぎみ》となり、次の姫は、京極高次《きようごくたかつぐ》の正室に。また末の姫が、徳川秀忠夫人となって、家光を生んだことなど、戦国|数奇《すうき》の運命の綾《あや》は、史によって、人みなのよく知るところである。
九頭龍川《くずりゆうがわ》の水をひいた外廓の二重|濠《ぼり》は、容易に寄手の近づくを、ゆるさない。
が、外濠もついに潰《つい》えると、城兵は、大手の唐橋を、わが手で焼き落した。
火災が、多門|櫓《やぐら》に移り、付近の兵舎にも飛火した。
城兵の抗戦は、予想外に烈しかった。
前夜からの寄手には、はや勝ったも同様という気分が、否み難くあったためでもある。
「怖いのは敵でなく、その驕《おご》りじゃ」
これは秀吉が陣々に高札させておいた通り、尠《すく》なからず気を遣《つか》ったところである。そのため、彼は、今朝来、先鋒軍の中に立ち交じって、直接、指揮に当っていた。
正午、外城が陥ちた。
寄手は諸門から、本丸へなだれ入った。
しかもなお、勝家以下、北ノ庄一門の首脳者は、悉《ことごと》く天守の一閣に拠《よ》って、あらゆる防禦戦を策した。この天守は、九層造りの、鉄扉《てつぴ》石柱で、堅牢《けんろう》無比なものだった。
寄手の犠牲は、朝からのすべてよりも、却って、ここへ来てこの一刻に、その幾倍をも出した。
加うるに、城庭殿廊、悉く火の海である。
秀吉は、ここへ入って来た。
「一応、残らず退《ひ》け」
埒《らち》は明かぬと見たか、攻めあぐねている各手の兵を退かせ、
「まず、ひと息入れるのだ」
と、云った。
しかし、その間に彼は、直属の精鋭中からも、また各隊の内からも、屈強な士ばかり数百人を選出し、鉄砲は、一切持たせず、手槍打物ばかりとして、
「秀吉、これにて見ん。――天守の内へ斬り入れ」
と命じて、一斉に放った。
特に選ばれたこの槍手一隊は、忽ち蜂のように閣をつつんで、やがて天守内へ躍り入っていた。
閣の三重、四重、五重の廊からも、真ッ黒な煙が噴き出した。
「よしっ! ……」
秀吉が大きく云ったとき、天守の千本|廂《びさし》は、巨大な焔の傘となっていた。
それは、勝家の最期を告げる閃光《せんこう》でもあったのである。
勝家は、眷族《けんぞく》八十余名と共に、閣の三重四重あたりで、寄手の屈強を引きつけ突き伏せ、最後の最後まで、血辷《ちすべ》りするほど奮戦していたが、一族の柴田弥右衛門、中村|文荷斎《ぶんかさい》、小島若狭守などが、
「早や、早や……御用意を」
と、促すので、五重へ駈け上って、お市の方と居を共にし、まずその死を見て後、自身は文荷斎の介錯《かいしやく》のもとに、腹掻っ切って果てたもののようである。
時に、申《さる》の刻《こく》(午後四時)。
閣は、炎々一夜中、信長が越前経営以来のものたる、九頭龍河畔の輪奐《りんかん》と、幾多の昨夢《さくむ》や千魂《せんこん》を弔うごとく燃えつづけていたが、一灰と化した焼け跡からは、ほとんど、彼らしいものの何物も見出すことは出来なかったという。
死後を見らるるなきように。
と、周到《しゆうとう》な用意の下に、焼き草を閣上につめて、みずから焼き尽したためといわれている。
そのため、勝家の死は、首級によって確認することができず、
「もしや?」
などと臆説《おくせつ》する声さえ一時あったが、秀吉はほとんど無頓着で、翌二十五日は、もう加賀へ向っていた。
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阿修羅《あしゆら》の伜《せがれ》
加賀の尾山城(金沢)は、きのうまで、佐久間|玄蕃允《げんばのじよう》の領だった所である。
北ノ庄の落城がつたわると、この地方も風を望んで羽柴軍に降った。
秀吉は、戦わずして、尾山城へ入った。
――が、勝てば勝つほど、進めば進むほど、彼は、
(――時に、馬謖《ばしよく》を斬るも辞せず)
の儼《げん》を示して、軍紀の弛《ゆる》みを警戒していた。
かたがた、その意図は、勝家を征しても、なお勝家に類する前面の曲者《くせもの》を、無言に威圧し終らんとするものもあった。
富山城にある佐々成政《さつさなりまさ》がそれである。彼こそ、無二の柴田党で無二の秀吉嫌い、また秀吉|蔑視《べつし》の男でもある。
元来、佐々は、尾張春日井郡平井の城主で、門地からいっても、秀吉の比ではない。
過去、信長の経営下にあった北陸出征中も、柴田の副将格として、自他共に任じ、勝家が柳ケ瀬出陣のときは、越後の上杉景勝の抑えや、内治万端の後々をたのまれて、
(ここに成政あり)
と、北陸の留守に、睨《にら》みをきかしていた彼でもあるのだ。
いま、勝家すでに滅び、北ノ庄も陥ちたとはいえ、生来の猛気と、秀吉嫌いを標榜《ひようぼう》していた意地からしても、
(たとえ、勝家の轍《てつ》をふむまでも、まだ無傷の兵力と、残余の柴田党を糾合《きゆうごう》して、抗戦を長びかせば、そのうちに、四囲の変化も起ろう)
と、死力をその方へ賭《か》けて来る可能性は多分にある。
秀吉は、わざと、その意地を衝《つ》かなかった。威容《いよう》を示して、敢えて攻めず、
(彼の来るを待つ)
と、していた。いわば、成政にたいして、ここは考え所だろうが――と、思案の余地を与えておいたものともいえる。
その間に、秀吉は、却って、越後の上杉|景勝《かげかつ》へむかって、積極的に盟約《めいやく》をうながしていた。
対上杉策には、先に、滝川征伐以前に、密使をやって音問《いんもん》を通じ、打つべき手は打ってあったが、さらに、以後推移の実状を告げて、
(尊堂の近況如何に)
と、敢えて具体的な意志表示を求めたのである。
北越にはみずから、北越の鎮をもって任ずる謙信以来の上杉家が、高く持《じ》しつつ、しかも独自の経略をもって、この大風雲期を乗り越えてゆかんとする風があった。
景勝は、家臣石川|播磨守《はりまのかみ》を遣って、その戦捷《せんしよう》を祝し、また、秀吉の会盟の意にこたえては、
(北越の山河、昨今多忙、他日親しく拝姿の日もあらん)
と、謹んでいわせた。
秀吉と上杉家との間に、友好関係の見られる限り、富山の佐々成政が抗戦をもくろむ余地はまったくない。成政は、志を偽《いつわ》って、ついに秀吉へ降を申し出た。――そして、自身の次女を、利家の次男利政へ嫁《とつ》がせることを約して、本領|安堵《あんど》というところに落着いた。
こうして、北ノ庄以北のことは、ほとんど戦うことなくして、勝利の余勢で平定したといってよい。
四月二十五日、彼は、富山の城中で、慰労の宴を催した。いよいよ軍を還すためである。その席に、越後の使い、石川播磨守もいた。
石川播磨守は、すでに使節としての公務も終っていたので、越後表に帰ることになっていたが、秀吉に留められて、きょうの宴のために、帰国を一日のばして列席していたものだった。
「あなたのお顔は、戦場で篤《とく》と見覚えておるが、それがしをば、お忘れか」
酒、酣《たけなわ》となり、座、崩れる頃、又左衛門利家は、彼の前へ寄って、杯を乞うた。
「なかなか」
と、播磨守は、献酬《けんしゆう》のあいだに打ち笑って、
「――天正九年十月、成願寺《せいがんじ》の激戦に、立烏帽子《たてえぼし》の前立に、黒革《くろかわ》のよろいを朱にさせ、苦戦の味方を叱咤しておられた片目の大将の指揮振りは、いまもって、眼底にあり、忘れるどころではございませぬ」
と、いった。
利家は、膝を打って、
「さればよ、その折、いつも将棋の駒の旗さし物を見せ、上杉勢のまッ先に出て、味方をなやます強槍の一将こそ、越後の石川播磨なれと聞くからに、慥《しか》と、見覚えてお槍先を試みんと窺《うかが》いおったが、ついに拝面の機もなく、今日、ここでお膝を交えるとは……」
「いや、又左どのは、御幸運でござったよ」
「ははは、何の、播磨どのこそ、またなき命拾いをなされたのじゃ。――以後のお首は儲《もう》けものと申すもの。そのつもりで、今日はしたたかに参られい」
と、座中一番の大盃《たいはい》を酌人に取らせて、播磨守の手にもたせた。
「これはこれは、冥加至極《みようがしごく》」
越後武者で、五合入りや一升入りに怯《ひる》むものはない。
播磨守は、雫《しずく》も余さずのみほした。
あなた、こなた、思い思いに座を寄せて歓語していた人々も、みなその飲み振りをながめていたが思わず、
「や。――見事」
と、諸方でいった。
秀吉も、見て、
「播磨。もひとつ」
と、傍らの飾り盃を取った。
それは、上戸が見ただけでも、ちょっと首を傾けそうなもので、前城主の玄蕃允が、勝家から拝領したという由来のある城付きの大盃だった。
播磨守は、仰ぎ見て、
「ありがとう存じまする」
と、拝したが、酌人が、秀吉の手からそれを取次いで来ようとすると、
「少々、お待ち下さい」
と、押し留めた。
「その御盃なれば、ぜひ、他にいただかせたい者がおりますが……その者に、お遣《つか》わし給われば、一だんと、忝《かたじけの》うござりますが」
と、やや改まっていった。
秀吉は、不審そうに、見まわした。
「誰へじゃ。……この盃を、播磨が特に取らせてくれいと、望むのは」
「いや、これには、おりませぬ者で――」
「いないのか」
「てまえが、供のうちに連れておる者で……。もしおゆるし給わるなれば、これへ呼んで、お目通りいたさせたく思いますが」
「よいとも、すぐ呼べ」
秀吉は、気軽かったが、またすぐ播磨守へ訊ねていた。
「……が、その者は、そちの家僕か。景勝殿のさむらいか」
「いや、阿修羅《あしゆら》の伜《せがれ》でございまする」
「ほ。阿修羅の伜とな」
「はい」
「阿修羅の……?」
秀吉は変な顔をした。
播磨守が、酒興の戯れをいっているものと、疑ったからである。
が、やがて播磨守が、侍|溜《だま》りから呼び入れて来たのを見ると、それはまだ十二、三の愛くるしい少年だった。
「播磨。かような童に、この大盃をやってくれとは、いかなる訳か。よも酒顛童子《しゆてんどうじ》の伜ではなかろうに」
秀吉も、戯《たわむ》れた。眼をその少年にあつめた席上の酒客も悉《ことごと》く笑った。
ところが、ひとり石川播磨守だけは、眼に涙すらたたえて、その少年を傍らに寄せ、秀吉へ目見得《めみえ》の礼をとらせながら、さて、こう述べた。
「――去《い》ぬる天正七、八、九年の北越陣に参加の衆は、なおお忘れあるまいが、この小伜は、当時、わが上杉家の一将として、魚津城《うおつじよう》に拠《よ》り、織田どのの遠征軍たる――柴田一族、佐々《さつさ》、前田などの大軍を一手にひきうけて、しかも数年が間、寄手をなやませ、さしもの鬼柴田をも、攻めあぐましめた越後武者――竹股《たけまた》三河守|秀重《ひでしげ》の一子なのでございます」
播磨守の真面目《まじめ》さに、人々はみな雑語をひそめて聞き入った。
殊に、魚津城の竹股三河守の遺子と聞いて、衆目は一そうその少年の姿にひかれた。
播磨守は、なお、次のように、当年の思い出を物語った。
――孤城魚津も、堅守防戦のかいなく、やがては遂に、陥ちる日が来た。
そのとき城将三河守秀重は、全城の火となるを見、われ敵にこの城を委《まか》すからには、われまた、敵将勝家の首を獲《え》ずにおくべきやと、炎を出て、敵中へ駈けこみ、乱軍の中に倒れ伏して、勝家を狙っていた。
勝家、それとも知らず、早や落城も完《まつた》しと、馬を進めて、入城せんと通った。
時に、突として、累々《るいるい》の死骸の中から起き上がった満身鮮血の一武者は、
(知らざりしか勝家。竹股三河守、汝をここに待つこと久し。いで、その首を)
と、猛風一念の槍、さながら飛豹《ひひよう》のごとく、飛びかかった。
しかし、多勢に無勢、無念っ――の声は敢えなく鉄桶《てつとう》の敵に隔《へだ》てられてしまった。三河守は、怒れる眼に血をそそいで、いまはこれまでと、見えたが、血路に天を仰いで、
阿修羅《あしゆら》王に
われ劣らめや やがて又
生れて取らむ
勝家が首
と、辞世《じせい》を詠じ、二度三度、喉《のど》も破れよとくり返した。そして、
(よく詠《よ》んだ)
と、自讃して、呵々《かか》一笑したかと思うと、眼前の敵手を待たず、みずから首刎《くびは》ねていた――という。
魚津はついに陥ちたりとはいえ、上杉家の士は、われら上杉衆の中に、この竹股三河守を持ったことを、非常な誇りとしていたこというまでもない。
で、石川播磨守は、こんどの使節の旅の途次、その隠れたる遺子をさがして、越後へつれ戻るべく、列の中に加えていたわけであるとも、話のあとで、つけ加えて云った。
満座の武将は、杯をおいて、聞き澄ましていた。秀吉も、頷《うなず》き頷き聞き終った。そして、播磨守から乞われた大盃を取ると、
「阿修羅の伜。――もそっと寄れ」
と、さしまねいた。
竹股秀重の遺子三之助は、秀吉の手からそれを拝領した。もとより少年なので、酒をでなく、盃その物を与えられたのである。
「この盃は、三河守の一念にたいし、供養《くよう》のため、そちの家へくれるものじゃ。父を鑑《かがみ》に、父に劣らぬ、よいさむらいになれよ」
感じやすい少年の顔はほの紅く燃えていた。
播磨守は、三之助と共に、厚く礼をのべ、この夕、越後へ帰国した。
秀吉は、翌日、軍を回《まわ》して、北ノ庄に到り、五月一日には、北陸の諸将にたいして、新領地の加封所属を発表した。
尾山の城(金沢)は、前田利家経営に移した。秀吉は、利家の友誼《ゆうぎ》に酬《むく》ゆるに、加賀の石川、河北の二郡を附したほか、子息の利長にも、松任《まつとう》四万石を与え、代りに、府中の城は、これを収めた。
加賀の江沼を、溝口秀勝に。能美郡《のみごおり》を、旧どおり村上|義明《よしあき》に。――総じて地着きの豪族は、そのまま、旧領において、これをみな丹羽長秀に属せしめた。
また特に、秀吉が意を用いたのは、丹羽長秀の功であった。
北ノ庄に在る日の一日、彼は、五郎左衛門長秀の手を取って、
「君の厚志《こうし》なくば、豈《あに》、今日の事あらんや。いまその功を口に陳《の》べ、労を謝せんとするも、思い極《きわ》まって、いわんと欲するも語極まる……」
と、手を取って、ただ落涙するばかりであった――と、「丹羽家家譜」には記してある。
果たして、秀吉がそこまで云ったかどうか、わからないが、とにかく彼が、最大な厚意をもってしたことは疑いない。
即ち、若狭《わかさ》、近江《おうみ》の旧領へ、新たになお、越前全州と加賀二郡を附与《ふよ》し、
「爾今は北陸探題《ほくりくたんだい》として、筑前を扶《たす》けられよ」
と、辞気甚だ謙で、贈るところは頗る大きく、かつ、子息鍋丸にまで、柴田伝来の莞爾《かんじ》≠フ銘のある名刀を与えたりなどしている。
このほか、直属の旗本諸侯などへも、大規模な論功行賞があったのはいうまでもないが、それはもっと後日になってからである。
北陸の後図《こうと》一切をすまして、秀吉の戦捷軍が、長浜まで還ってきたのは、五月五日、端午《たんご》の日だった。
あやめ太刀、節句祝いも、将士にさせて、滞城二日間。
秀吉は、その間に、岐阜方面の始末を聴取した。
その後、岐阜城は専ら、稲葉一鉄らの兵が、攻撃を続行していたが、柴田の大敗が聞えてから、神戸信孝《かんべのぶたか》以下、城兵の士気はまったく沮喪《そそう》し、加うるに、城中には、一鉄の甥《おい》の斎藤|利堯《としたか》とか、稲葉|刑部《ぎようぶ》などの、いわゆる美濃同族が多くいたので、それらは皆、城を出て、羽柴方に属してしまった。
結局、留まるもの、わずか二十七人という窮状におち入って、ついに三七信孝も、城を遁《のが》れ、長良川から船に投じて、木曾川を降り、尾張知多へ落ちて行った。
「豊鑑」や「武家事紀」などの記載によると、
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――三七信孝、柴田をこそ頼み給ひしに、亡びにしかば、草の根を絶たれしやうにて、郎党どもみな落ち失《う》せ、日ごろ恵み深かりし者ばかり残り留れり。
三介信雄、尾張の勢を具して、城を囲み給ひぬ。使を走らかし、尾張の方へ御座せよとたばかり給へば、城を出で、川舟にのりて、知多《ちた》の宇津美《うつみ》におはせし也。そこにて、信雄のずさ中川勘右衛門を遣《つか》はし、自害し給へとありしかば、かねてかくこそと思ひしとて、静かに、事どもしたためおき、手づから刀の刃かき合せ、自害ありけり。
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とあって、信孝の身は、その兄弟の織田信雄が、巧みに導き出して、最期の処置をつけていることになっている。
もちろん指図をしたのは、秀吉である。主筋の信孝を、直接、自軍で手をくだすのは好もしくないので、信雄の手をかりて、こうしたのであることもいうまでもない。
このことにたいし、世上、秀吉の不臣を咎めた史評も少なくないが、山鹿素行《やまがそこう》の「武家事紀」などは、秀吉が毛利と和談し、山崎に光秀を討ち、清洲《きよす》会議に臨んだ時は、まだ決して、天下を奪う志はなかったものだと云い、ただ、信義の向うところ、止むを得ざる道を行ったものだが、天下の大事|一《ひと》先ず終って後――信雄、信孝の公達《きんだち》を始め勝家、一益らの旧重臣の作略が、悉《ことごと》く信義に欠けており、また智謀も疎で、却って、天下|併呑《へいどん》の競望と素地《そじ》とを、秀吉に与えてしまったものだ、と説いている。
そして、なお素行の同書には、
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――秀吉の是を奪ふに非ず。信雄、信孝の之を与ふる也。
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と、この問題に結論を下している。
おおむね、衆評もこの結論には、異論ないもののようであるが、中国から山崎戦へかけての頃は、まだ天下に望みなかったという一事だけは、果たしてどうであろうか。
ともかく、信雄といい、信孝といい、この兄弟の凡庸《ぼんよう》だけは争えない。もし、兄弟心をひとつにするとか、或いは、どっちか一人でも英武にして時潮を知る眼を具《そな》えていたら、決してこんな破局は見なかったであろう。
信雄のお人よしな庸劣《ようれつ》さにくらべれば、信孝はなお聊《いささ》かは骨があった。才略なき鼻ッぱしには過ぎなかったが、尾張の野間《のま》まで逃げのびて、そこの一寺で腹を切った最期のもようも、さすがに、
(こうなること――)
と、覚悟していた様子で、めめしくはなかった。
かつて、野間の安養院には、寺蔵の墨梅の古画一幅があり、織田信孝が自刃の時、室の床に掛けられていたものといわれていた。血痕の刎《は》ねが見えて、往時を偲ばせ、見るも哀れな一幅であるとて、後に、狩野衲永《かのうのうえい》がそれに一詩を題したという。
夜窓《やそう》如夢《ゆめのごとく》到西湖《せいこにいたる》
月下《げつか》見花《はなをみて》思老逋《ろうほをおもう》
忽《たちまち》有鐘声《しようせいあり》来呼醒《こせいきたる》
挙頭半幅墨梅図《きよとうはんぷくぼくばいのず》
信孝。その年二十六。
自刃したのは、五月七日といわれている。
その七日。
秀吉は安土へ立ち、十一日は坂本に駐《とど》まった。
伊勢の滝川一益も、やがて遂に降った。
秀吉は彼に、茶の湯料にと、近江の地で、知行五千石を与え、敢えて昨非の罪を、深く追求しなかった。
[#地付き]新書太閤記 第九巻 了
吉川英治歴史時代文庫30『新書太閤記(九)』(一九九〇年七月刊)を底本