吉川英治
新書太閤記(三)
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目 次
春《はる》の客《きやく》
洲《すの》 股《また》
龍《りゆう》 呼《こ》
大器《たいき》の相《そう》
山川皆兵《さんせんかいへい》
一擒一縦《いつきんいつしよう》
竹中半兵衛《たけなかはんべえ》
病孫子《びようそんし》
山中人《さんちゆうじん》
桃《とう》 源《げん》
竿頭一瓢《かんとういつぴよう》
母《はは》に侍《じ》す
隣交遠計《りんこうえんけい》
密《みつ》 客《きやく》
桔梗咲《ききようさ》く
春風行《しゆんぷうこう》
伊勢軍功帳《いせぐんこうちよう》
於市《おいち》・於虎《おとら》
大 義
二十一日記
七番楽《しちばんがく》
建設の音
堺町人《さかいちようにん》
名《めい》 器《き》
北《ほく》 征《せい》
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新書太閤記(三)
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春《はる》の客《きやく》
永禄《えいろく》五年の正月、信長は二十九歳の元旦を迎えた。
まだほの暗いうちに、彼は起って浴室にはいると、水浴《みずあ》みして身を浄《きよ》めていた。
井水《せいすい》はかえって暖かく、白いものが立ち昇っているが、それを汲み上げる間に、水桶の底は凍りついてしまう。
「おお、寒!」
井戸のまわりで、小姓たちが思わず白い息と一緒につぶやくと、
「しッ」
と、近習《きんじゆ》の侍が叱った。
信長の耳へはいると、何がと、叱られるからである。まだ元日であるから些細《ささい》なことでごきげんを損《そこ》ねてもならぬという惧《おそ》れからであった。
「水をもて。水をもて」
汲んで運ぶのが間にあわないほど、浴室の中ではそれをかぶる水音がしぶき、元気のよい信長の声が聞えていた。
「それ、お出まし」
と、聞えると、近習や小姓らが追うにあわてるほど、信長の姿はもう次のことに移っている。
その朝、彼は衣服を正して、清洲城《きよすじよう》のうしろの林へ歩んだ。霜ふかい木の間道には、莚《むしろ》を敷き通してあった。
この城の歴史よりも古くからある国柱《くにのみはしら》の神前に坐《ざ》して、彼は拝跪《はいき》して体じゅうが凍るのもわすれていた。
彼はその時、信長でもなく、国主でもなかった。皇天《こうてん》の下、后土《こうど》の上に、いかなる恵みか、人間という生命《いのち》をむすんだ一個の血ある物でしかなかった。
こうした生命を何のために生かしきろうか。いうまでもなく皇天后土に帰すべきであると彼も知るのだった。元朝の一瞬《ひととき》、わけてそれを深く思うべく、彼はそうして霜に坐る例をみずから立てた。そして京都のほうへ向って伏し拝んだ。
起って、歩を移すと、そこから遠からずして祖廟《そびよう》のまえに出る。ここは信長が居城してから造った先祖の御霊廟《みたまや》である。
おそらくは、生前、
(この痴児《ちじ》、今の乱世に生れて、どうして国を持って、生きてゆけるだろうか?)
と、案じぬいたままで世を去ったであろうと思われる彼の父、織田信秀の霊も、そこにあった。
水を捧げ、香華《こうげ》と共に、元旦の供物《くもつ》をそなえ終ると、信長は、侍臣や小姓たちを顧みて、
「あっちへ行っておれ」
と、いった。
「はッ」
と、段を下り、十歩ほど退って、列立していると、信長はまた、
「もっと、ずっと彼方へ、去《い》んでおれ」
と、手を振った。
まったく人気《ひとけ》がなくなると、信長は父の石の前で、何やら生ける人へものいうようにいって、やがては、懐紙を取り出して両眼を拭《ぬぐ》っていた。
彼の父が生きていた頃の彼は、人も知るが如き痴狂児《ちきようじ》といわれ、父の死後も長年、うつけの殿で通っていた程なので――今日に至るまでも信長はめったに仏事供養《ぶつじくよう》などしたことがない。自分を苦諫《くかん》して自刃した平手中務《ひらてなかつかさ》のためには、さすがに政秀寺《せいしゆうじ》まで建立《こんりゆう》してやった。だが、父の霊前に手を合わせたりすることは、信心ぎらいといってよいほどした例《ため》しがなかった。家臣たちも、そんな姿の信長を平常に見ることはほとんどなかった。
けれど、石となった父に会うと、彼はただ掌《て》を合わせただけではいられなかった。痴狂児の本性に返ったように、石へ呼びかけ、石へ向ってつい泣いてしまうのだった。
故に、信長はそんな愚かさを、家臣たちに見せなかった。見えない遠くまで遠ざけて、今もただひとり祖先を拝した。
初鴉《はつがらす》の高音《たかね》に、木々の梢《こずえ》は、紅《くれない》を映《さ》しかけていた。
元朝の例をすまして、信長が本曲輪《ほんぐるわ》の広庭を、大玄関のほうへ迂回《うかい》して来ると、中門あたりからその辺まで、埴輪《はにわ》土器のような泥にまみれた武将とその部下が、暁天の下に、白い息を髯《ひげ》に凍らせて、粛然《しゆくぜん》と整列していた。
「…………」
信長のすがたを見ると、将兵の列は、ざぐ[#「ざぐ」に傍点]と、具足ひびきを揃えて頭《ず》を下《さ》げた。
「大儀」
信長もいう。
そして、犒《ねぎら》った。
「はやく休息するがよい。そして暢々《のびのび》、正月をいたすがよい」
これは明けて去年の何月かに美濃《みの》へ向けて出陣した後、そのまま木曾川の東岸に長陣していたのが、年暮《くれ》に帰還を命じられ、ちょうどその朝未明に帰城して来たものであった。
美濃への出陣は、去年の秋ぐちから再三のことであって、その都度、木曾川の国境を、衝《つ》いては引き、また越えては退《さが》り、彼の反撥《はんぱつ》を小当《こあた》りにあたってみるような小競《こぜ》り合いを繰り返していたものである。
先に、柴田隊の部将柴田勝家も、佐久間隊の佐久間|信盛《のぶもり》も帰っていた。後にはほとんど物見隊ぐらいな兵数しか残っていない筈である。
(美濃入《みのい》りは取り止めか)
と、沙汰する向きもあったが、信長は半歳の目的は一応|収《おさ》め得たとしていた。また、国境から大部分の兵を退《ひ》いても、大事なしと観《み》ていた。
なぜならば、去年八月、斎藤義龍《さいとうよしたつ》の病死と聞えたのは、その後、敵の戦意や諜報《ちようほう》から見ても、もはや確実なことだったからである。
義龍の子、龍興《たつおき》に至っては、その暗愚を、信長は僥倖《ぎようこう》とはしているが、問題にはしていない。それを討つにはまた、自分には舅《しゆうと》にあたる道三山城守を弑《しい》したる逆子を誅《ちゆう》す――という人道の旗がある。
ただ信長が大事をとっているのは、彼にはまだ、道三山城守以来の富強と良い家臣のあることだった。今川義元を討ったとはいえ、にわかに織田の富強や兵数が激増したわけでは少しもないのだ。東野勝って西野に一敗を喫《きつ》すれば、きのうの田楽狭間《でんがくはざま》はむしろ笑うべき一朝《いつちよう》の夢花醒散《むかせいさん》となってしまう。
(まず三河と御和議あって)
これは重臣たちの献言もあり、彼としても意を得た策であった。去年半歳のうちの最も大きな収穫は、そうして松平元康《まつだいらもとやす》との和盟が成立したことだった。
この松の内。
その松平元康は三河から清洲城へ会見に来る予定になっている。信長は大いに歓待に努めようとその日を楽しんでいた。重《おも》なる臣下を美濃境から呼びもどしたのは、当日の盛儀をして出来るかぎり旺《さか》んにしたいという考えからでもあった。
やがて。信長は内にはいる。
長いあいだ主君の姿を見なかった武士たちは、信長のすがたが殿中の広縁へ遠ざかるまで、眸《ひとみ》をこらして見送っていたが、
「やすめ。――各※[#二の字点、unicode303b]の詰所へ退《さが》り、休息のうちに、沙汰に及ぼう。その上で随意お暇をいただくがよい」
部将の命令で、隊は解かれ、黒々とくずれた武者たちの上に、初日《はつひ》は大きく昇っていた。その中に足軽約五十名ほどを連れて、城内の隅のほうへ行く木下藤吉郎の姿もあった。
留守組の同僚が彼方《かなた》から来て、真正面に出会っても、
(やあ、木下)
と、うっかり呼びかけないほど、彼の顔は陽焦《ひや》けしていた。髯《ひげ》はあまり生《は》えない性《たち》であるが、肌は薪《まき》のように荒れ、兜摺《かぶとず》れに額は禿《は》げて、鼻のあたまや頬は赤く霜《しも》げ、歯と眼ばかりが白かった。
「正月だなあ。どうだ、帰るお城があるというのは、何といいものじゃないか」
部下の足軽たちへそう話しかけながら行く彼のその顔は――しかし、初日の出よりらんらんと元気であった。
寧子《ねね》は良人の長い留守のあいだに、養父浅野又右衛門の家から、良人の家、桐畑の小さい屋敷のほうへ、すべての荷物と共に、引き移っていた。
これは初めから談合の上のことであった。
聟入《むこい》りという形で婚儀は挙げたが、藤吉郎の一身は、浅野家を継ぐには事情がゆるさない。いずれ中村の母や家族も迎え取らねばならぬ総領《そうりよう》である。寧子も長女ではあるが、下には妹のおや屋もいることだし――というような話から、新夫婦は舅姑《しゆうと》の許《もと》を離れて、べつに住むようになったのである。
だが、おや屋は姉のそばを離れ難《がた》なに、年暮《くれ》から桐畑のほうへ遊びに来ていた。寧子が急に人妻らしい変りようをしているのに、おや屋は相変らず鞠《まり》ばかりついてよく唄っていた。
花のつゆほど
なれそめて
富士の雲ほど
立つ名やの
鞠《まり》は時々、垣より高く弾《はず》む。元日の霜はうららかに溶《と》け始めていた。
花にあらしも
吹かば吹け
君のこころの
よそへ散らずば――
「や屋さん」
垣の内の水屋で姉の声だった。
鞠を手に留めて、
「はアい。なんです」
「あなたお幾歳《いくつ》になったんですか」
「十――四」
「御近所の方がわらいますよ。箏《こと》でも弾《ひ》くか、お書初《かきぞめ》でもなさい」
「笑ってもかまわないの。お姉さまのようになると、もう鞠《まり》はつけないでしょ」
木綿藤吉《もめんとうきち》
米、五郎左
かくれ柴田に
のけ佐久間
「や屋さん――」
「またあ。なんですか」
「そんな唄、謡《うた》うもんじゃありませんというのに」
「あら」
「およしなさい。町の流行唄《はやりうた》なんか。もっといい鞠唄《まりうた》があるでしょ」
「お姉さまは、ほんとに勝手ですね。この唄は、お姉さまが町から覚えて来て、わたしに教えたんでしょ」
おや屋の理窟に負けてしまったのか、垣の内の声は黙ってしまった。
おや屋は、垣の隙間へ顔を寄せて、台所に見える姉の姿へ、
「奥様。若奥さま。――木綿藤吉の若御寮《わかごりよう》さま。どうしてお黙り遊ばしてしまったのですか」
と、からかった。
浅野家の弓長屋以上、ここは隣近所が耳近いのである。寧子《ねね》は顔を真《ま》っ紅《か》にしてしまい、
「――や屋さん」
と、睨《ね》める真似《まね》して、家の奥へかくれ込んでしまった。
「ホホホホ、お姉さまが、お姉さまが」
おや屋は欣《うれ》しがって、思わず鞠《まり》を宙へ抛《ほう》った。ぽんとつくと、前よりまた高く上がった。またつく。またつきながら道を歩き出した。
すると誰か、出会い頭の武者が手を出してその鞠《まり》をついた。下手くそな手につかれた鞠はすぐ横へ飛んで行ってしまった。おや屋は、まろい眼をみはって、
「あら」
と、その武者の顔を睨んだ。
よく見ると、それは姉聟《あねむこ》の藤吉郎であった。ゆうべ一夜、城内に過して、二日の今朝帰宅して来たのだが、まだ戦場姿のままなので、まったくよくよく見ないと分らないような顔をしていた。
「お姉様あッ。お義兄《にい》さまが帰りましたよ。お義兄さまが」
駈けこんで来たおや屋が、絶叫に近い声で家へ告げた。
もとより藤吉郎の帰りは前から知れていた。お城へはきのう着いたが、何かとお役目向きの相談や始末もあり、こん夜は城内に泊るが明日《あす》は帰る――との良人の使いをうけて、寧子《ねね》は、今朝から待ちわびていた。
朝の化粧も、何かの家事、常と変らないつもりでも、どこかいそいそする風が、おや屋の眼にもわかるとみえて、おや屋まで浮き立って、姉をからかったり、鞠を抱いて外へ出てみたりしていたところなのである。
寧子は、おや屋のあわただしい告げを聞くと、
「ごんぞ。旦那さまが、お帰りになりましたぞえ」
若党のごんぞへ伝え、自分も共に立って、門口に出迎えた。
おや屋も、姉の側に立った。下僕《しもべ》も立った。下婢も立った。皆で五、六人の、これが木下家の総家内であった。
先触れしたおや屋から一足遅れて、藤吉郎はにこにこしながら歩いて来た。小人数の家族ながら、また、小《ささ》やかな一戸の主《あるじ》だが、その瞬間は厳粛であった。一城の主の凱旋《がいせん》も気もちの上では同じものだった。寧子《ねね》の態《てい》に倣《なら》って、みな膝まで手をさげて、心から頭を下げた。
「帰った」
藤吉郎がいうと、
「お帰りあそばしませ」
家族も声を揃えた。
寧子の眼はうるんでいる。
瞼《まぶた》のなかの白珠《しらたま》に、正月二日の陽がきらきらしていた。
「寧子。留守中、ご苦労であった。陣中からやった手紙は見たか」
「いただきました」
「あれには、当分、帰国もおぼつかないと認《したた》めたが、この正月に、皆の顔が、こうして見られようとは、わしも思わなかったのだ。……いや、きれいになったな」
と、我が家の様や、門前の箒目立《ほうきめだ》った往来など見まわして、
「やはり妻はよいものだ。よく人は戦場では独り者のほうが、心おきなく戦えるなどと申すが、嘘だな。真《まこと》の良い女房なら、留守城《るすじろ》には女房がおるという安心のあったほうが、どれほど戦場で気づよいか知れぬ」
「……ま。仰せられますこと」
寧子《ねね》は、笑靨《えくぼ》へかけて、眼のうちの白珠をほうりこぼした。欣《うれ》し泣《な》きして、良人と共に家へ上がった。
独身でいた頃の家とは同じ家でもまるで見違える。塵《ちり》一つない。どこを見ても、妻の手が光っていた。
その光のうちでも、藤吉郎の心の奥所《おくが》まで映《さ》した大きな光は、まだ檜《ひのき》の板も新しい神棚の一穂《いつすい》の神灯《みあかし》であった。また、次の間の仏壇の灯《あかり》であった。
設けられてある主人の褥《しとね》に坐るまえに、彼は、神榊《みさかき》の下に坐して、両手をつかえ、また退って、次の間の仏壇へ詣《もう》でて掌《て》をあわせた。
もとより独身の頃は、神棚もなかった。仏壇もなかった。同時に、家中に映《さ》すこんな耀《かがや》きもなかった。
仏壇といっても、寧子はまだ良人の遠祖も近親の故人も知らなかったので、ただ一体の弥陀如来《みだによらい》の持仏《じぶつ》をそこに祀《まつ》っただけのものである。けれど黙拝した良人はそれで満足したらしい容子《ようす》なので、密《ひそ》かに心を安んじた。
そうしてやがて、具足も脱ぎ、小袖を着て、自分の体になると、藤吉郎は、
「さあ、正月だ。寧子、わがままいうぞ。まっ先に風呂だ。何、沸いているか。剃刀《かみそり》も備えておけよ。……それから喰べたい。そちの炊《た》いた飯が喰いたい」
身を斜めに、坐りくずして、長々と足腰を伸ばした。
中村から送り届けてよこしたという、母が手搗《てつき》の餅も喰べた。寧子が心をこめた種々《くさぐさ》の料理も喰べた。屠蘇《とそ》も酌《く》んだ。
「めでたい」
それで彼は寝てしまった。大満足の寝顔であった。
二、三日は年賀の訪客が来る。答礼に出かける。またたく間に、松の内もはや過ぎようとする。
六日の朝だ。彼は早朝から出仕した。正装だが草鞋《わらじ》、脛穿《はばき》という支度である。持足軽五十名ほど引きつれて熱田まで出向いたのである。
熱田の町の清潔《きれい》さ。その朝は街道筋も塵一つない。小溝《こみぞ》の水までが美しく底を見せていた。
宿駅の入口から熱田の宮のあたりにかけ、沿道には織田家の人数が整列して待ちもうけていた。
やがて今日。
清洲城へ参向《さんこう》あるという三河岡崎の松平|元康《もとやす》を出迎えるためにであった。
信長からのお迎えとして、ここまで人数をひいて出向いていた名代役は、林佐渡、滝川|一益《かずます》、菅谷《すがや》九郎右衛門の三重臣であった。
藤吉郎も、そのうちの何の組かにはいっていた。けれど、彼の人数の如きは、遥か下《しも》の方にあって、町屋の軒端に佇《たたず》み、主君の貴賓《きひん》が通る往来の馬糞《ばふん》を掃き取らせたり、野良犬を追ったり、辻の戒《いまし》めに気を配ったりしているに過ぎないのである。
宮の森に陽《ひ》もうらうらと高くなった頃おいである。松平元康の先駆は、足なみ揃えて街道を打たせて来た。弓の列である。
すこし距《へだ》てて、一群の騎馬隊が燦々《さんさん》と手綱轡《たづなくつわ》をそろえて来るのが見えた。中ほどにある年歯《ねんし》まだ二十一、二歳の弱冠が元康その人だった。何か用もなげに通りすがった人のように、平然と鞍上《あんじよう》に揺られていた。
けれど前後を取り囲んでいる三河|譜代《ふだい》の面々は、さすがに鉄のように硬《こわ》ばった顔をしていた。一髪《いつぱつ》の隙もない緊張を示していた。石川数正、酒井忠次の両家老以下が固めている。
いかに和議は成っても、盈《み》ち溢《あふ》るる春光と、平和は謳《うた》われても、ここの地上は、四十年以来、互いに父祖の代から鎬《しのぎ》を削《けず》り合って来た敵地である。初めてこうして四十年ぶりに、平和な服装で国境を越えたのである。感慨なきを得なかった。――と同時に、まだ心の底からの安心はなし得なかった。
社前へかかる。
元康は馬を降りた。
休息――
信長から向けられた出迎えの者に対して挨拶がある。そしてふたたび列はすすんだ。三河衆の供人《ともびと》は、総勢で百二十騎と数えられた。
元康の随臣《ずいしん》たちも、清洲の町へはいると、初めて和《なご》んだ眸《ひとみ》となった。城下の空気で分るものがあった。清洲の住民は、元康の姿を仰ぐに冷淡でなかった。心から和盟《わめい》の成立を歓び、平和の客、春の貴賓《きひん》――として元康の一行を迎え合った。
城内にはいると、信長は、自身本丸に出迎えて、
「お、お」
その人へ、莞爾《かんじ》と、笑みを向けた。
元康は、駒をあずけて、同じように微笑をたたえつつ、信長の前に立った。
「元康です」
どちらも若い。
元康は二十一歳、信長は明けて二十九歳だった。
その元康は、まだ乳母の手を離れない六歳の頃に、この織田家に人質《ひとじち》として送られたことがあった。――それから正に十五年目。きょうは平和の客、春の貴賓として、この盛儀に迎えられているのである。元康自身よりも、その間の忍苦辛酸《にんくしんさん》を忘れられない三河譜代の老臣たちは、万感こもごも胸にせまって、ひそかに瞼《まぶた》を熱くしながら、若い両|太守《たいしゆ》の交歓《こうかん》をながめていた。
客殿には、やがて饗宴が張られた。今の織田家の富力として、きょうの国賓には、最大な礼を執《と》った。善尽《ぜんつく》し、美尽《びつく》したものであった。
信長は、主賓《しゆひん》の元康と並んで坐った。いずれが上座、いずれが下座という態《てい》もなかった。たえず二人がにこやかに笑み交わしている様が、遥か末席の群臣からも眺められた。
藤吉郎も、時折、遠くその光景を見ることができた。しかし、彼の席は、客殿の末も末――そして一段下がった廊下外《ろうかそと》であった。
けれど、おながれの杯は、廊下外の詰侍《つめざむらい》の列にまで、やがて順に廻って来た。藤吉郎の手に、それが渡って来たのは、何百人目か知れなかった。
「いや、こんな吉《よ》い日《ひ》はない」
「何と泰平な」
「御当家にとっては、まず何十年ぶりで、こういう平和に恵まれたことか。先代信秀様以来、まずないことじゃろ」
「それは、三河殿にとっても、同様な儀でござろう。千秋万歳。――もう一献《いつこん》、お廻しねがいたいもので」
廊下外は気楽でもある。ひそかに主賓の下馬評《げばひよう》さえ種々《さまざま》に囁《ささや》かれていた。
或る者は、元康の人品を、寡言温容《かげんおんよう》だが、武略にかけてはどうかといい、或る者は、元康その者より、きょう従《つ》れている随臣の中に、秀《ひい》でた骨《こつ》がらの者がある。家臣に良いのがいるのだろうといった。
是々非々、観《み》る眼《め》はいろいろであった。
藤吉郎は、それらの囁きを、種々《さまざま》に周囲に聞いていたが、誰の評にも、
(よく観《み》た)
と、感心するような言葉は聞かれなかった。
彼は彼だけに観たところを独り胸にたたんでいた。
彼が感じたところは、元康が、飽くまで信長と対等にいることだった。
下りもしなければ、思い上がってもいない、対等の姿であった。
本来なれば、こうある筈はないのである。元康は、織田家に大敗をうけた今川義元の人質《ひとじち》だし、しかもその一幕下《いちばつか》に過ぎなかった者なのだ。
国力からいっても、三河の財政は、織田家のそれよりも、遥かに悪い状態ではないか。それが桶狭間の敗戦後、わずか満《まる》二年と経《た》たない間に――戦捷国《せんしようこく》の織田家をして、これ程な待遇を設けさせ、二十九歳の信長と平等に席を取って、少しも見劣りのしない二十一歳の元康という者は、そう簡単に端倪《たんげい》すべき者ではない。
――そう、藤吉郎は考えて、ふと廊下外の板敷に畏《かしこ》まっている自分の年齢を、思うともなく胸のうちで呟いている。
「おれも、一つとって、この春は二十七になったのか」――と。
身分は足軽五十人預り。年は二十七。体はまず健康、中村の里には、なんでも欣《よろこ》んでくれる母はいるし、家には良い女房がいる我れ――。藤吉郎は何の不平も覚えない。むしろ今日の自分をも祝福し、これも君公の恩である。もし信長が、十年前、庄内川のほとりで縋《すが》った自分を拾い上げてくれなかったならば――と、お流れの一献《いつこん》もあだ[#「あだ」に傍点]には飲めなかった。信長の眼が見ているといないとに関《かか》わらず、心から押しいただいて飲み乾した。
宴も酣《たけなわ》の頃――
主賓と、信長とは、款晤《かんご》のあいだに、
「もし、松平殿が天下の将軍とならば、織田はその幕下に従いましょう。もし織田家が天下の将軍となったら、松平殿は織田の幕下に従い給え」
とか約束したなどと、後に側近者は云い伝えたが、真偽のほどは信じられない。なにせよそれ程に、両者の款晤が親密に見えたことは、事実に相違ないけれど――。
それはさておき。織田の群臣が一驚《いつきよう》を喫《きつ》したのは、この会盟《かいめい》が行われたすぐ翌日、元康は、今川領の上《かみ》ノ郷《ごう》の城を攻め、城主の鵜殿長照《うどのながてる》を斬って、もう陣頭の人となっていたことであった。
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洲《すの》 股《また》
その年の三月だった。
百花の匂いも、春光も閉じこめて、評定《ひようじよう》の間《ま》は、暗かった。
昼だが、所々に、燭《ひ》が置いてある。出入口には、見張の侍が眼光を研《と》ぎ立てていた。
「誰でもよい。意見あらば、意見を述べよ」
信長の声であった。
「…………」
寂《せき》としているのだ。
居流れている家中の顔に、所々の燭ばかりが赤く揺らぐ。
外には、春やうららかに、小鳥の声が遠くする。――しかし、ここの薄暗い燭とたくさんな侍どもの顔は、戦気に燃えていた。
「所存はないのか。何も――」
かさねての声の時である。
「愚見、ござりますが」
「勝家か」
「はい」
柴田勝家が述べた。
「ただ今、仰せ出しの――洲股《すのまた》に御築城のお企て、寔《まこと》に、御智略《ごちりやく》にはござりますが、ちと、無謀かとも存ぜられます」
「智略なりとも賞《ほ》め、無謀なりともいい、どっちなのだ勝家。忌憚《きたん》なくいえ」
「されば、あの地形に、味方の一塁を築くなど、所詮《しよせん》、いうべくして行われぬことと思われまするので」
「なぜ?」
「地勢険悪、自然の力には人も抗し得ませぬ。――また、敵もおめおめと見てはおりませぬ。必然、無数の犠牲《にえ》の者を出して、結果は遂に、不成就《ふじようじゆ》に終ること火を見るよりも明らかかと思われます」
勝家の意見につづいて、
「同様に考えられます」
「柴田殿の御意見、至極と思われます」
「自分儀も」
「てまえも」
などと述べるのが大多数であった。信長は、むむ――と唇《くち》をむすんでしまう。気に入らないのだ。しかし、衆智《しゆうち》は、自分の考えに合致しない。無謀という勝家の説に、ほとんどが、同意見らしい。
老臣林佐渡も。
一族の織田勘解由《おだかげゆ》も、名古屋因幡守《なごやいなばのかみ》も。――佐久間も、丹羽《にわ》も。
その衆智へ糺《ただ》しながら、実は信長の心こそ、衆智へ合致しないのであった。衆智はいつも常識である。信長が欲しているのは、一見常識らしい常識ではなく、もっと飛躍した智慧《ちえ》の新鮮を求めているのである。
新しい智慧も、またすぐ常識化してしまうが、信長はそうした経験ずみの智識をもって常識家ぶる者の多い衆智に、いつも飽き足らないのであった。
その問題の洲股《すのまた》というのは、尾濃《びのう》の国境で、美濃の攻略には、どうしてもこの辺の要害に、織田の足溜《あしだま》りが欲しいところなのである。
雪が解けて、二月に入ると、ふたたび美濃入りの征軍は、続々、国境へさし向けられていた。
十九条《じゆうくじよう》あたりに兵を置いて、時折、敵の虚を窺《うかが》い、諸所に放火したり、奇襲的な小さい効果を狙っては、引き揚げて来たりしているが、そんな程度では、義龍|亡《な》く、龍興暗愚なりといっても、大国美濃は微動もしないのである。どうしても、確乎《かつこ》とした要害を占めて、腰をすえてかかるためにも、洲股に味方の一城が欲しいのであった。
だが、いかに砦造《とりでづく》りでも、一城はそう簡単には築けない。しかも敵国の目前でする仕事だし、一朝《いつちよう》雨でも降り続けば木曾川と洲股川の両大河は氾濫《はんらん》して、忽ちそこらは洪水となってしまう地形でもある。――そんな機を敵に計られて大挙襲いかかって来られたら、援兵は間にあわないし、よしや援軍が来たところで、どうしようもなく全滅となってしまおう。
――というのが勝家らの唱える常識であった。常識はいつも動かし難い真理のように、知識人の雄弁によってよけい論陣の楯《たて》になった。
一応、意見として、聞いている顔はしていたが、信長は、勝家などのいう理論に、決して肯定《こうてい》したのではない。
むしろ不満であった。方程式の常識論など聞く耳は持たぬ、といったような風さえ窺《うかが》える。
しかし、信長には、信念はあっても、彼らの常識論を云い破るだけの論拠が見つからないらしかった。単に不満なる意思を面《おもて》に漲《みなぎ》らせるしかない沈黙であった。
「…………」
当然、評議の席は、沼のように声をひそめてしまう。
勝家や林佐渡らの主張と、それに飽き足らない主君の顔つきとが、一同の口を封じてしまった如く、しばらく、しん[#「しん」に傍点]としていた。
「お。――藤吉郎」
突然、信長が、名をさした。
遥か、末席のほうにいた彼の顔を、信長の眼は、見つけたように呼びかけた。
「藤吉郎。そちの意見はどうなのか。遠慮なく、そこにて申してみい」
「はッ……」
返辞が聞えた。
しかし、上座の重臣たちには、それを振り向いても、姿が見えないほど、遠い末席であった。
「申してみい」
重ねて信長がいう。
自分の意思を、自分に代って述べそうな者は、信長の眼で、この大勢の家中にも、彼しかなかったのであった。
「柴田様、林様、その他、重臣方の御意見は、さすがに事理分明《じりふんみよう》、ごもっともな御意見と拝聴いたしました」
藤吉郎は、そう云いながら、席から少し摺《ず》り出して、信長のほうへ、両手をつかえていた。
「――なれど、人の思慮に及ぶ程のことならば、敵も測《はか》って、対策をいたしますゆえ、兵法とは申されませぬ。敵の予測し得ない上に出て戦い、敵の思慮の及ばぬ所に備えをするのでなければなりません。――その点から、洲股《すのまた》の築砦《ちくさい》は、断じて、打つ手だと思います。水を恐れては、河に築城はできません。敵を恐れては、敵国へ討ち入ることはできません。誰の眼にも、至難、無謀と見えることをも、至難でなく、無謀でなく、人智と誠をもって、行い通してゆくところに、御勝利があるものと存じます」
「ウむ。……むむ!」
信長は、何度もうなずいた。
そしてなお、黙り返っている一同の上を見わたして、今度は、意見を問うのではなく、厳命するようにいった。
「美濃へ打ち入らんには、洲股に一塁を築いて足がかりとする他に兵法はない。誰にてもあれ、この信長のために身命を捨つる覚悟をもって、洲股に一城を築いて見せる者はないか。成し遂げた者をば、美濃攻めの先登《せんとう》第一の武勲とするであろう」
「…………」
藤吉郎は、一度すすめた膝を、人々の間へまた退《ひ》いて、それには関知しないような顔をして、真っ直ぐに向いていた。
彼が、心の裡《うち》で、
(多分、今に――)
と、臆測していた通りに、やがて柴田勝家が信長の厳命に応じて、
「それ程までに、殿の御決意の固き上は、臣下として、何をとやかく論議いたしましょうや。君命山より重し。われわれ重臣どもとて、徒《いたず》らに、敵を恐れ、大河に気をのまれて、お諫《いさ》めした次第ではござりませぬ」
と、いった。
勝家はわざと、藤吉郎の名も口にしなかった。彼から見れば、論議の相手などにするのは、不快でもあり、また藤吉郎を認めることになるからだった。
そしてまた、藤吉郎などへ、君命が下らないうちにとあわてて、佐久間信盛《さくまのぶもり》こそ適任であろうと推薦した。信長もそれを容《い》れて、即座に信盛へ三千の兵と、五千の人夫と、多額な軍費を授けて、洲股へ立たせた。
雨期にはいった。
尾濃《びのう》の山野は、毎日、五月雨《さみだれ》の底に浸《ひた》されていた。
「どうしているだろう? ……洲股へ出向いた組は」
「築城の方は、少しは進んでおるのだろうか」
霽《は》れ間《ま》のない雨空を仰いでは、清洲の人々は噂していた。
五千の人夫と、三千の兵をつれて、佐久間信盛が洲股《すのまた》へ立ったのは、ちょうど三月の初旬頃であったから、もう二月余りは過ぎている。
出発の際、
「不肖、大任を受けて、築城に取りかかる以上は、遅くも、夏までには仕遂げて帰る」
と、信盛は傲語《ごうご》して発《た》ったそうだが、その後は一向に捗々《はかばか》しい消息も聞えなかったのである。
すると、尾張の領内でも、庄内川や各地の河川が氾濫《はんらん》して、夥《おびただ》しい水害が案じられていた折も折、
「洲股の御工事は、築きかけた材木も石も職人小屋も、一夜のうちに皆、洪水《こうずい》に押し流されてしまった」
という早打ちが御城内へ着いた由が、早くも一般の耳から耳へと伝えられていた。
案のじょう[#「じょう」に傍点]、その夜から翌日へかけて、惨憺《さんたん》たる敗走者が国境を退いて清洲へ辿《たど》り着いて来た。
佐久間信盛以下の将兵や人夫たちであった。
聞けば――
洪水《おおみず》だけの惨害で逃げ帰って来たのではない。美濃の兵は、今日この頃の雨期を待っていたものらしく、洲股一円が、濁流に浸《ひた》されると、筏軍《いかだぐん》を組織したり、かねて河を越えさせて、山野に隠しておいた奇兵を呼号《こごう》したりして、佐久間信盛の陣へ一斉に襲撃して来た。
尾張勢は、一たまりもなく、大敗の憂き目を見てしまった。築城中の洲股の陣地と、何百という戦死者とを捨てて、ほとんど、命からがらの態《てい》で、清洲へ退いて来たものであった。
洪水に溺れ死んだり、或いは、敵の手に討たれた者など、総数九百余名の犠牲者が数えられ、そのほか、五千の人夫は、その半分の数も、生死不明で、清洲へも帰って来ないのが多かった。
「自然の力には勝てぬ」
信盛は、近親の者に、そう嘆声を洩らしたが、信長への報告を終ると、責めを待つ気で、謹慎していた。
信長は、しかし、信盛の大敗を咎《とが》めなかった。不可抗力であるとして、
「勝家。代れ」
と、即日、柴田勝家を総軍の奉行として、再出発させた。
だが、その勝家も、やがてまた、美濃の奇襲と、雨さえ降れば出る水に苦しめられて、何の効《こう》も挙げずに帰って来た。
「無理だ。――そもそもが無謀な計画というものだ。誰が采配《さいはい》をとったところで、あんな地の理の悪い、しかも、敵国の眼と鼻の先へ、城を築くなんていう無法が仕遂げられるものではない。美濃の斎藤に人間がいないならまた、別問題だが」
勝家がいわせなくても、生きて帰って来た者はみな、口を合わせて築城の至難を云い、連日の苦戦を訴え、そのことの無謀を非難した。
だが、信長は、そういう輿論《よろん》に挫《くじ》けて、思い止まる性質ではなかった。
「勘解由《かげゆ》。代って参れ」
三度目の任命は、信長の従兄弟《いとこ》の織田|勘解由左衛門《かげゆざえもん》に下った。もう一族の者を遣《や》る以外に、適当な人物もなかったからである。
けれどその勘解由左衛門も、任地へ着いて、まだ築城の石や材木もろくに運ばない間に、鳴海附近の激戦で、部下半数と共に、枕をならべて戦死してしまった。
佐久間、柴田、織田勘解由とつづいて、三将共に、築城には失敗するし、敵には惨敗をうけるし、兵の死傷は夥《おびただ》しい数にのぼるし――城内城下の輿論《よろん》は俄然、
「初めから知れている暴挙《ぼうきよ》だ。それにも懲《こ》りず、暴挙を押しなさる」
と、暗《あん》にではあるが、責めを主君に帰して、信長の不明を難じる声はようやく昂《たか》まって来た。
「桶狭間《おけはざま》の僥倖《ぎようこう》が、かえってお家の害になった。勝って慎《つつし》むのお考えなく、思い上がっておいでられるのだ」
密《ひそ》かには、そこまで、露骨にささやく家中もあった。
しかし、そうそうは国費もつづくまい。お従兄弟《いとこ》の勘解由《かげゆ》様まで戦死されては、いかな無理押しの御気性でも、こんどは悔いを噛まれたにちがいない――。
戦歿者の葬儀なども終って、一片《ひとかた》づきすると、秋風がふき始めた。輿論に耳のないような沈黙を見せて信長は夏の終りを過した。柴田、佐久間など、一時不首尾に悄気《しよげ》ていた面々が、
「どうだ、分ったろう」
と、いわぬばかり、秋と共に、そろそろ大きな顔して、殿中を歩いていた。
その殿中を今、足早に、
「木下氏は。木下氏は?」
詰《つめ》の間《ま》ごとをのぞいて探している近習があった。
「木下は、これにおります」
何処からか出て来て、藤吉郎が、何か君側の用向きを承ると、近習は、
「おはやく」
と、念を押して立ち去った。
藤吉郎は、心のうちで、
(遂に、来たな)
と、独《ひと》り頷《うなず》いたことだった。
彼は、ちょっと小部屋にかくれて刀の笄《こうがい》で髪をなでつけた。そしてすぐ信長の前へ出るべく行った。
遂に来たもの――とはいうまでもなく洲股《すのまた》の問題と、彼は直感していた。当然これはいつか自分へ廻って来る! ほとんど信じて疑わなかったものである。
果たして、信長は、彼のすがたを前に見ると、すぐいいつけた。
「藤吉郎。この度はそちに命じる。明日中に、洲股へ発足《ほつそく》せい」
「……はッ」
藤吉郎の受ける態《てい》を、信長は見つめていた。そして重ねて、
「どうじゃ?」
「身に過ぎた大任ですが、ありがたくおうけいたしまする」
「奇計があるか」
「いや、べつに」
「ないのか」
「奇計はございませぬ。ただいささか、成算《せいさん》はござりますが」
「その成算を聞こう。いかなる成算なあるか」
「築城の成らぬ原因は、水治と地の理の不利でござりましょうが」
「難渋《なんじゆう》はそれじゃと皆申しおる」
「自然の力には、私も抗し得ませぬ。先の三将方も、水治の難は御承知でありながら、工事のいたし方を仄聞《そくぶん》するに、その自然の力へ向って、人力で打ち勝とうとなされたようです。間違いは、その精神の持ち方にあると存ぜられます――手前は凡人ゆえ、飽くまで、水の心のままに、水のうごきたいままに、水を導いて、水治の効を仕遂げてみる考えでございます」
「水の心とは」
「雨水の溢《あふ》るるにも、大河の奔流にも、水その物には心があります。小さき人智人力をもって、その本然の心を無理にせき[#「せき」に傍点]止めたり、歪《ゆが》めたりしようとすれば、一朝《いつちよう》の暴風雨《あらし》には、必ず怒れる洪水となって、工事の石材木はおろか、無数の人命をも、押し流してしまうに決っておりまする」
「藤吉郎」
「は」
「そちは、わしに政道を説《と》いておるのか」
「いえ、洲股の築城のことでございます」
「難事は、水害の邪《さまた》げのみではないぞ。築城中にも、うるさく襲《よ》せ来る美濃の兵に対しても、そちは何ぞ慥《しか》とした勝算があるか」
「その儀は、お気づかいには及びませぬ。自分においても、それはさして重大には心得ておりませぬ」
「重大でないと」
「さればです」
藤吉郎は、信長の真剣な面《おもて》を、微笑《ほほえ》みで見上げて、
「佐久間様、柴田様、勘解由《かげゆ》様と――御当家にても名だたるお方達がみな、相つづいて惨敗して退《ひ》いた後でござります。――敵は勝ちに狎《な》れて、気も驕《おご》り、慢じぬいているところへ、織田家の末輩でも、まだ微禄弱年のわたくしが四度目の将として参れば、おそらく敵は嗤《わら》うでありましょう」
「む、む!」
「やよ見よ、織田の家中でも足軽に毛の生えたようなのが来おった。いかなる城を築く気か、この度は思うがままに築かせて、出来上ったところを一挙に踏みつぶしてやれ。――こう敵は考えるやと思われます」
「いや。そちの考えどおりに来なかった時は」
「臨機応変《りんきおうへん》」
「む。違いない」
「――が、殿。藤吉郎の想像は多分間違いないかと察しられます。敵に策士あれば、こちらに城を築かせておき、然る後に攻め取って、織田家が美濃入りの足がかりにせんための物を逆に――美濃が尾張を併《あわ》せ呑まんず足場とするぐらいな智者は――斎藤家にもあるべきにござります」
「なるほど。――では改めて問うが、そちはそれ程な成算をもちながら、なぜ洲股《すのまた》の評議のあった当初に、進んでその経策を述べ、自身大役をひきうけて出なかったか」
「いや、私とても、まッ先に洲股《すのまた》へ赴いたら、柴田様や佐久間様と同じように、辛《から》き目《め》にあわされておりましょう。武略にかけては所詮《しよせん》あの方々に及ぶべき私ではございません。……それに」
彼が、ことばの息をついだ機《しお》に、信長はやや斜めに胸を反《そ》らし、何か感じ入った態《てい》をした。――それは、自分を偉く見せようとか、得意気に調子づくとかいう、誰にもあり勝ちな飾り気の全く見えない――余りにも正直すぎるくらいな藤吉郎の淡々たる舌の音に、妙味というか、呆れたというか、とにかく信長の心でもちょっと推《お》し量《はか》り切れないものが、信長の顔を包んでしまったように見えた。
(この男、油断ができない)
と、信長がひそかに胸でつぶやいている間に、藤吉郎はもう至って虚飾も云い廻しも知らないような言葉で、
「――ですから手前は、実を申せば、わざと御評議の当初には、さし控えておりましたわけです。……いや、ちと前後しましたが、わたくし如き末輩がまた、柴田、佐久間様などをさし置いて、第一に洲股築城の大役など拝して赴いたとしたら、家中の方々も、殿の眼鑑《めがね》とばかりは申しません。余りに、依怙《えこ》とも評されましょう。――しかし、今日となれば、誰も羨《うらや》み誹《そし》る者はございますまい。猿めも、あの折口を出した咎《とが》で、洲股へ遣らるるわと、小気味よく申すことでしょう。故に敵へも味方へも、今日、藤吉郎がおいいつけを受けることは最も時機を得たものと存ぜられます」
「…………」
眼を閉じて聞いていると、信長は、自分のために世事兵政にも長じている軍師が、洲股を例にひいて、講義でも聴かせているようにすら思われたが、眼をひらけば、そこには、人いちばい頭《ず》の低い、足軽五十人|頭《がしら》でしかない一個の平侍《ひらざむらい》が、ぺたと、平伏しているに過ぎなかった。
「よし。――赴《ゆ》け――」
信長は、傍らの塗筥《ぬりばこ》を小姓の手から授けた。特に、采配《さいはい》を賜わったのである。藤吉郎は初めて、信長から一個の将として許されたのであった。
「寧子《ねね》ッ。帰ったぞ」
時ならぬ良人の帰宅に、
「おや。常とはお早いお退《ひ》け時《どき》のようでございますが」
出迎えると、
「いやいや、またすぐお城へ引っ返さねばならぬ。寸時、別れに来たのだ」
藤吉郎は奥へ坐っていう。
侍の妻には、常にいつ来るかも知れない「別れ」の予測と心構えがある。寧子《ねね》の眉は、微かに悲しんだ。
「お別れとは」
「明日、洲股《すのまた》へ発足する」
「え……洲股へ」
絶望に近いものが寧子の胸を墨のように濁した。
「――が、心配すな。むしろそなたを歓《よろこ》ばそうと思うてちょっと帰宅したのだ。近いうちにな」
と、藤吉郎は、右の掌《て》のひらを出して、寧子へ示した。
「この掌《て》に、一城が乗るであろうよ。わしもとうとう一城の主《あるじ》になれる。元より小城だが、城は城」
「…………」
寧子は、解《げ》せない顔だった。それを藤吉郎は笑って、
「解《げ》せまい、まだこの世にない城だからな。これからわしが行って、自分で築く城だからな。はははは」
坐ったかと思うと、湯一つ飲んで、もう彼は立っている。
「留守たのむぞ。中村の母者人《ははじやびと》へ、何ぞの便りを怠るな。舅姑御《しゆうとご》たちへよしなに。……よいか、それから」
召使はいないかと、藤吉郎は見まわした。そして、自分と共に立ちかける寧子の顔を――その頬を――両の手で抑えて、
「そなたも、風邪《かぜ》ひくな」
「…………」
かつて、女々しい涙など見せたことのない寧子が、頬を良人《おつと》の手に抱かれたまま、ぽろりと、涙をこぼした。
余りに良人が快活なのは、むしろ妻に不安を抱かせまいとする心やりであろう。洲股へ出陣して生きて還った将士は稀れである。
そう思いつめたのだった。
「…………」
藤吉郎も、いつまでも、寧子の頬を抑えていた。じっと見つめた。初めて妻の涙を見たからである。
「馬鹿」
いきなり、もっと深々と、胸の中へ、妻の顔を抱きしめてやってから、彼は、そう云いながら邪《じや》けん[#「けん」に傍点]なように突っ放した。
「――何を泣く。やがて一城の主《あるじ》の夫人《おく》ともなる者が、はははは」
大股に、濡縁まで出て、
「ごんぞ居るか。ごんぞ」
若党を呼び立てると、
「はいッ。御用にござりまするか」
ごんぞは、駈け寄って、彼の眼下にひざまずいた。
「この書面を持って、大急ぎで使いいたせ」
もう城内で認《したた》めて来たものらしい。懐《ふところ》の中にそれはもう書かれてあった。
「どちらへでござりますか」
「密封ゆえ、宛名は封の下に認《しる》しておいたが、海東《かいとう》郡の蜂須賀《はちすか》村までだ」
「蜂須賀村へ」
「小六殿の屋敷をおまえ知らないか。土豪の小六殿だ」
「あの、野武士の……」
「うか[#「うか」に傍点]とでも、失礼な言辞あってはならぬぞ。わしが今、御城内から乗って来た馬が門辺《かどべ》に繋《つな》いであろう。それへ跨《また》がり、直ぐ飛んで行って来い」
「はッ。心得ました」
「御返辞は、城内へ持って参れよ。もう家にはおらぬから――」
その晩は、すでに武装し、藤吉郎は、城内に詰めていた。
新たに、彼へ大任が降《くだ》ったと、早くも知れ渡って、家中の取り沙汰は、紛々《ふんぷん》と喧《やかま》しい。
是々非々、種々《さまざま》だが。
勿論、非となす者が多い。
だが具足に五体と胆心を固めた藤吉郎は、非難、反目、嘲侮《ちようぶ》、一切に耳もないかの如く、城内|武者溜《むしやだま》りの床場《ゆかば》に床几《しようぎ》を置き、夜もすがら出兵の人員、隊伍、荷駄、軍需などにわたって指図していた。
まず城内なので、もとよりその発令は信長から直接に出ていた。信長も奥にあって、今夜は眠らずにいるらしかった。絶えず藤吉郎の手元へ、伝言や書付の指令が来た。
そのうちに、一部下が、
「ただ今、ごんぞとやら申すお屋敷の若党が、お使い先より早馬にて立ち帰りましたが」
と告げて来る。
もう四更《しこう》に近い頃だった。
藤吉郎は、待ちかねていたかの如く、彼のすがたを見るなり早口に、
「早かったぞ、ごんぞ。して小六殿はいたか、わしの書面、手渡したか」
「は、慥《たし》かに。――これに御返事も携《たずさ》えて参りました」
「大儀だった。帰れ」
「はい。では直ぐに、お暇を」
「このまま明日《あす》は出発する。留守中、寧子《ねね》の身まわりなど、頼むぞよ」
ごんぞが去ると間もなく、またも信長からの近習《きんじゆ》が駈けて来て、
「すぐに」
と、何か召し呼ばれた。
急ぎ足に、藤吉郎は本丸へ行った。信長は、屋外に幔幕《まんまく》を張らせ、そこを参謀本部として、時稀《ときたま》傍らの茶屋で休息をとるくらいな程度で夜を徹《あ》かしていた。
「藤吉郎です」
幕《とばり》を覗くと、そこには丹羽《にわ》、柴田、佐久間、その他の重臣がみな詰め合っていた。じろりと冷ややかな眼が、一斉に、新しく抜擢《ばつてき》された一将校の彼に注《そそ》がれた。
「なんじゃ? 木下」
「殿のお召しと承って参ったのですが」
「ふム? ……。殿には今、ややお疲れのていで、お茶屋にはいって御休息中じゃが」
「そうですか。……では」
踵《くびす》を回《めぐ》らして、彼は木立のあいだの茶亭を窺《うかが》った。
侍女に茶を立てさせて、信長は一服のんでいた。藤吉郎の声がすると、すぐ起って、茶室の端に腰をかけ直した。
「藤吉郎か。――そちは信長が授けた三千の兵数を、不要なりと称して、わずか十分の一の三百名に書き改め、その指図書《さしずがき》をば、重臣どもへ突き返したそうだが、一体、如何なる所存か。柴田、佐久間の老巧ですら、三千の兵と五千の人夫を引き具して、あの敗北を遂げたものを。――いかにその方に奇略ありとも、よも三百の小人数で、使命を完《まつと》うする目算もあるまいが」
「いえ。ないわけでは決してございませぬ」
「あると申すか」
「年々の御戦費、相つぐ敗戦の苦杯。この上にも、国財を濫費《らんぴ》しては、戦いに勝っても、御内政に敗れましょうが」
「なんの、この期《ご》に」
「いや、御財政のみでなく、先には多くの人命を洲股《すのまた》に捨てさせております。これ以上、大事な兵を粗末に失うことは、賢明な策ではございますまい。――故に、藤吉郎が指揮する上は、敵の食を喰《く》らい、敵地の資材をもって築き、御家人以外の人力を用いて、洲股の一城は築き上げたい所存なのでござりまする」
味方の兵力を費やさず、また、領土の資財を消耗せずに、目的を完成してみせる考えで――という藤吉郎のことばに、たいがいなことは呑み込む信長も、
(猿。正気か)
と、疑うような顔をした。
その顔いろを敏察《びんさつ》して、
「お案じ遊ばされますな」
藤吉郎は先ずいって、その秘中の秘策を打ち明けるべく、信長へ人払いを願った。
「そち達も、遠く退《の》いて、木の間木の間を見張っておれ」
信長は、小姓へ命じ、さて、主従二人きりとなって。
「藤吉郎。――敵地の資材をもって敵地に築くというのは、余にも分るが、味方の兵を用いず損《そこ》なわずに戦わんとは、余にも解《げ》せぬことである。――左様な奇略があるなれば、信長、膝を屈しても、そちに訓《おし》えを乞うであろう」
「何の畏れ多い」
藤吉郎は、一層、地へ面《おもて》をつけて、
「実は、てまえ少年の頃、食を求めて、美濃、近江《おうみ》、伊勢――また御領内の近傍など、諸国どこ晦《くら》くなく漂泊《さまよ》い歩きましたうちに、海東郡に住む土豪の野武士どもとは、わけて懇意にいたしました。――御存じやも知れませぬが、蜂須賀村の小六と申す者の屋敷に、わずかながら下僕《しもべ》働きしていた縁故などもござりまして」
「むむ。それで……?」
「彼らは、時を得ない草莽《そうもう》の悍勇《かんゆう》でござります。武勇あれど、用いる人がありません。導く智者に会いません。また、御領主なる者があるゆえに、可惜《あたら》、頭上の風雲も、むなしく見過して、髀肉《ひにく》を嘆じている輩《やから》です」
「…………」
「ですから、時に、暴を働き、治を紊《みだ》し、徒党となっては群盗と変じ、散じては良民を掠《かす》め、野伏《のぶせ》り野武士などの名をもって呼ばれていますが、その本質は豪放任侠《ごうほうにんきよう》です。社会の縄墨《じようぼく》を逸した飄骨《ひようこつ》と精悍《せいかん》なだけに、よくそれを導けば、天下の良民とはいかなくても、乱に用いて乱を治めるには足る者どもでございます」
「ふう……ム」
「それらの野武士は、御領下だけでも、三、四千人はおりましょう。小幡《おばた》、御厨《みくりや》、科野《しなの》、篠木《しのき》、柏井《かしわい》、秦川《はたがわ》などの各所に辺在して、各※[#二の字点、unicode303b]、上には頭目をいただき、武器馬具も盗み蓄《たくわ》え、すわといえば、天下の稲を喰らい、領主なく国境なく、奔放野馬のごとく、また、流るるに道を選ばない出水の濁流の如く、世を害す惧《おそ》れもあります」
「…………」
「彼らを用いないのは嘘です。国政の怠りでもあります。疾《と》くからそう存じていましたが、物が物だけに、好い機会もなかったのですが、この度こそは殿のおために――いやもっと大きくは天下万民のために、これを用い、同時に一兵たりと徒《いたず》らに損ずべからざる御|直臣《じきしん》の兵をば、より有為な秋《とき》に備えておかねばなるまいと愚考いたした次第にござりまする。――何とぞ、藤吉郎の秘策、御採用たまわって、諸事の采配《さいはい》、大処より御覧あそばして、おまかせおき下さりますように」
「……よし。よしッ」
と、いうばかりで、信長は、他《ほか》に言葉も知らなかった。ただ頷《うなず》くのみだった。
――暁天《ぎようてん》。
木下藤吉郎を将とする、荷駄隊《にだたい》を加えても、約六百にも足りない兵は、西の国境へ向って発足した。
――遂に誰も、彼がふたたび生きて還る人間とは信じなかった。
[#改ページ]
龍《りゆう》 呼《こ》
「なんじゃろ?」
沿道の領民は、のんびりと見送っていた。まさか洲股《すのまた》へ出征の軍とは思いつかないのである。
木綿《もめん》藤吉
米《こめ》、五郎左
かくれ柴田に
のけ佐久間
と、唄にも聞えているその木綿藤吉が、きょうは馬上、人数の先頭に、大将となって通って行く。
人数もわずかだ。
それに、旗鼓《きこ》堂々といいたいが、何となく士気も振わない。生気《せいき》がない。
柴田、佐久間などが、先に洲股へ向った時は、まさに旗鼓堂々、大へんな勢いのものであった。それから較《くら》べれば、領内の巡視か、前線の一部の交代ぐらいにしか考えられない。
「おうーいッ」
清洲《きよす》から一、二里。
井之口《いのくち》を過ぎ、正願寺附近まで軍が進んで来た頃、後から追いついて来る一騎があった。
「おういッ。待てえッ」
隊の後方にある荷駄頭《にだがしら》が、
「や。前田殿だ」
側の兵を前列へ走らせて、すぐ藤吉郎のほうへ伝えた。
休め――という命令が前方から隊を一貫してくる。清洲を立ってまだ汗ばむ程も歩いていないのだ。隊伍隊伍の物頭《ものがしら》たちも気のない顔である。勝算のない出征だ。卒伍《そつご》のうちの顔いろを見渡しても、不安と無戦意が漲《みなぎ》っている。
「おい、休むのだ」
「もうか」
「よけいなことをいうな。休むならいつだっていいさ」
馬をあずけ、隊伍の間を颯爽《さつそう》と通って行った犬千代の耳にも、士卒達のそんな声が入った。
「やあ、犬千代どのか」
藤吉郎は見かけるなり、馬上からざく[#「ざく」に傍点]と飛び降りて,自分からも歩み寄った。
「犬山の方面はどんな情勢ですな」
先に問われてしまったので、犬千代も何か急に用あり気であったが、
「まだ片づかぬ。一時、退軍せいとの仰せに、軍を退《ひ》いて空《むな》しゅう、帰って来た」
と、手短に告げた。
その犬山の方面――にも先頃から織田家の内憂《ないゆう》があった。
犬山の城主|下野守《しもつけのかみ》信清《のぶきよ》は、織田一族だが、信長に対して反抗を持ちつづけて来た。葉栗郡《はぐりぐん》の和田とか、丹羽《にわ》郡の中島|豊後《ぶんご》とか、清洲《きよす》で用いられない不平組を語らって、叛旗《はんき》をひるがえし、密《ひそ》かに美濃の斎藤家へ内通していた。同族だけに、始末のわるい存在なのである。
で、信長はこれを討たんと決心したが、後方から無限に美濃の斎藤方が援《たす》けるので、それに向った岩室長門《いわむろながと》が戦死を遂げたり、同族いたずらに血を流すのみで、戦《いくさ》のけじめ[#「けじめ」に傍点]はつかなかった。
「そうか。この際、一時陣を退《ひ》けと御命令になったか。――それは賢明な御分別だ」
藤吉郎は、清洲の空を見ながら呟《つぶや》いた。
「いや、それよりもだ」
と、犬千代は突っ込むように云い出した。
「――これから向われる貴公の戦場こそ、織田家の興亡のわかれ目だ。ほかならぬ木下殿のことと、わしは信頼しておるが、家中の不評、御城下の不安、ひと通りでない。心配のあまり追いかけて別辞を申しに来たが、よいか木下。――将となって一軍を指揮するとなると、今までの貴公とは、その双肩に負ってゆく責任もちがうし、軍配の手心もよほど変るぞ。――いいのか木下。腹構えは」
「安《やす》んじてくれ」
覚悟のほどを、慥《しか》とうなずいて見せながら、藤吉郎は重ねていった。
「一策があるのだ!」
だが犬千代は、その一策を聞くと、それこそ不安なのだといわぬばかり眉をひそめ、
「おぬし、君命をうけるとすぐ、手飼のごんぞ[#「ごんぞ」に傍点]に馬を与え、蜂須賀《はちすか》村へ使いに飛ばせたそうじゃの」
「聞いたか。秘中の秘を」
「実は、寧子《ねね》どのから」
「洩れるはやはり女の口。怖いな」
「いや出陣の祝いに、門《かど》をさし覗《のぞ》いたところ、今朝未明に熱田の宮へ詣でて、おぬしの武運を祈って戻ったところとか、ちょうどごんぞ[#「ごんぞ」に傍点]も居合わせたのでふと話のはしに出たのじゃ」
「然らば、てまえの腹中も、語るまでもなく、御明察がついたでござろう」
「読めておる。――しかし大丈夫かの、頼みの相手方は、常軌《じようき》を逸した野武士の徒だぞ。下手《へた》に組んで手を咬《か》まれるようなことはないか」
「その辺、仔細はない」
「では、何と好餌《こうじ》をもって、条件としたか知らぬが、おぬしの書状に対して、蜂須賀村の野武士の頭目は、うんと承諾の旨を答えて来たのか」
「他言を憚《はばか》る」
「ム。機密か」
「これを見てくれ」
具足の下から一札《いつさつ》の手紙を取り出して、藤吉郎は黙って犬千代の手に渡した。昨夜ごんぞ[#「ごんぞ」に傍点]が齎《もたら》した蜂須賀小六の返書なのである。犬千代はそれを黙読していたが、書面を返しながら、驚きの眼を相手の顔にすえたまま、しばらくいう言葉を知らなかった。
「お分りであろ」
「木下」
「なにか」
「分ったが、それは断り手紙ではないか。蜂須賀の一族は、先代以来、斎藤家とは切っても切れぬ旧縁のある間がら[#「がら」に傍点]――織田に加担《かたん》は義において出来ぬと、明白に断りの書いてあるものを、おぬしどう読んだのだ」
「字の如く」
「……?」
「いや済まぬ」
ふいに頭を下げて、
「てまえの重任を案じて、これまで後を追って、そうお訊ね下さる友誼《ゆうぎ》に対して、甚だ不挨拶《ぶあいさつ》を申すようで恐れ入るが、いささか思案もござれば、どうぞ御懸念なく、留守方のお勤め、慥乎《しつか》とお守りねがいたい」
「それ程までに申すなら、自信もあることだろう。――しからばお元気に参られよ」
「忝《かたじけな》い」
藤吉郎は、側の侍へ、
「前田どのの駒を曳け」
と、いいつける。
「いや、御会釈に及ばん。先へお召しなさい」
「ごめん――」
と、彼が馬上へかえった時、犬千代の駒もそこへ曳かれて来た。
「おさらば」
馬上から、もいちど会釈して、藤吉郎はそのまま駒を進めた。彼の旗さし物には、まだ何の印《しるし》もなかった。無地の赤旗が、幾旒《いくりゆう》か兵馬のあいだに立って、犬千代の茫然《ぼうぜん》たる眼の前を流れて行った。
……さらば。
との声ももう届かないが、半町も行ってから、藤吉郎はまた、犬千代の姿を振り向いていた。初秋の明るい陽が、笑っている白い歯を見せているではないか。強《し》いてではない、いかにも自然に、その顔は笑って征《ゆ》くのだ。
赤とんぼ[#「とんぼ」に傍点]の潮流が、青空を清々《すがすが》に旋《めぐ》ってゆく。――犬千代は黙々と、ひとり駒を清洲の方へかえして行った。
苔《こけ》の深さに驚かされる。
立ち入ること禁断の寺院の苑《にわ》のように、ここの土豪屋敷の広い庭にも、何百年か知れない青苔が一面にながめられる。
石の陰には叢竹《そうちく》。
泉には芙蓉《ふよう》の花。
秋の昼である。閑寂そのものであった。
「よくも続いて来たものだ」
庭へ降り立つと、小六正勝はいつもそう思う。応永《おうえい》、大永《たいえい》の昔から住んで来て、今に至るまでの祖先と現在のつながりを思う。
「おれの代も、遂にろくな家名も興さず終るのかな。……だが今の時勢に、これだけの物を失《な》くさずに持ちこたえて来ただけでも、御先祖は諒《りよう》としてくれるかもしれぬ」
そう慰めながらも、一面には、自分の本質のうちに、なお慰めきれない髀肉《ひにく》の嘆《たん》が常にあるらしく見られる彼であった。
そういう静かな日の彼や、四方|鬱蒼《うつそう》に囲まれた一城郭にも等しい旧家のたたずまいを眺めただけでは、ここの主《あるじ》が、海東郡の野に潜《ひそ》む二千余の豺狼《さいろう》を飼って、尾濃《びのう》の闇を股にかけて働き、戦国の裏道に出没して、領主の力でも抜くことの出来ない地盤と勢力を、牢固《ろうこ》として持っている野武士の頭領《かしら》とは、考えられない姿であった。
「亀《かめ》一」
庭を歩いていた小六は、ふいに母屋《おもや》の一つの部屋へ向って呼んだ。
「亀一ッ、支度して来い」
ことし十二歳になった小六の嫡男《ちやくなん》亀一は、父の声を聞くと、
「はいッ」
すぐ袴《はかま》の股立《ももだ》ち取って、室内から二本の稽古槍を抱えて庭へ降りて来た。
「何しておったか」
「書《ほん》を読んでました」
「書物ばかり読み耽《ふけ》って、いっこう武道はおろそかではないか」
「…………」
亀一は眼をふせた。
小六の豪骨とは違って、柔和で智的な質であった。
自分の跡目に、こういう世間並には良い総領を持った小六は、かえって憂いであった。
配下二千余の野武士は、ほとんど無学の反骨が多いのだ。精悍豪猛《せいかんごうもう》な野人ぞろいなのだ。それを統馭《とうぎよ》できなければ蜂須賀一族は支えてゆけない。猛獣の仲間では、弱肉強食は当然の理だからである。
で小六は、自分と似ない子を見るたび、
(これでは行く末のほども)
と、亀一の柔順な天性や好学な才を、むしろ嘆いて、暇さえあれば庭へ立たせ、自身の猛気や勇壮の血を、武芸によって注《そそ》ぎ込もうとするのだった。
「槍を持て」
「はい」
「いつものように構えて、父を父と思わず突ッかかって来い」
小六も槍を向けた。
子とも思わないような眼で。
「――行くぞッ!」
恐ろしい父の声に、亀一は気の弱い眸《ひとみ》を恟《すく》めて、後へ退《さが》りかけた。
とたんに仮借《かしやく》なき父の稽古槍は、亀一の肩を烈しく突いた。亀一は、あッと叫ぶなり、槍を抛《ほう》って、仰向けざまにもんどり[#「もんどり」に傍点]打ち、そのまま昏倒してしまった。
「――あれッ、酷《ひど》い」
彼の母の松波《まつなみ》は、一間のうちから、われを忘れて庭面《にわも》へ駈け下り、亀一の体を抱きあげて、おろおろと、
「どこぞ打ちはしなかったか。……亀一よ、亀一よ」
良人《おつと》の余りな手荒を恨むが如く、水よ薬よと、下僕《しもべ》たちへ呼び立てた。
「ばかッ」
小六正勝は、妻を叱って、
「何を泣く、何を宥《いたわ》る。おまえがそのように育てるから、亀一も柔弱になるのだ。死にはせぬ。――寄るな、あッちへ行っておれ」
水や薬を持って来た下僕《しもべ》達も、小六の峻厳《しゆんげん》なその顔つきに、空《むな》しく遠くから見ているだけだった。
妻の松波は、涙を拭いた。その懐紙で、抱いている亀一の唇から流れる血を抑えた。父の槍で突き飛ばされた弾《はず》みに、唇《くち》を噛んだか、石にでも打ったものであろう。
「痛かろ。……どこぞ、ほかにも打った所はないか」
どんな無理も不平も、その場では、良人へ口応《くちごた》えはせぬ妻であった。いや時代の家風《かふう》だったといってよい。
ただ、涙になる。
亀一は、ようやく、気がついて、
「癒《なお》りました。もうなんでもありません、母上、あッちへ行って下さい」
槍を持って、痛みを噛《か》み怺《こら》えながら、再び起ちかけると――その健気《けなげ》ぶりが、初めて父の心にかなったか、
「よしッ」
小六はにこ[#「にこ」に傍点]と面《おもて》を和《やわ》らげ――
「その意気で来い」
と、さらに励ました。
するとその時、家人《けにん》の者が慌《あわ》ただしく中門から廻って来て、小六へ向って告げることには、ただ今、織田信長の使者と称する者が――使者にしては供も連れずただ一名で御門に駒を繋ぎ、ぜひ密々《みつみつ》お目にかかりたいとの申し入れですが――何と計らったものでしょうか。
「それがまた、変な男で……」
と、取次の家人《けにん》は、云い足した。
「ただ一名、ずかずか門内へはいって来るなり、彼方《かなた》此方《こなた》を無遠慮に眺めまわし、ああ懐かしいなア、などといったり、いつも変らず山鳩が啼《な》いているの、この柿の木が大きくなったのと――独り合点にたわ[#「たわ」に傍点]言を呟《つぶや》いている態《てい》、どうも織田家の使者とは受け取れぬ容子《ようす》もあるので」
小六も、首を傾《かし》げて、
「はてなあ……?」
しばらく間を措《お》き――
「姓名は」
「木下藤吉郎と申しました」
「ふ、ふ、ふッ……」
にわかに、不審が解けたように、
「そうか。いや分った。先頃、書面をよこした織田の家来か。会う用はない。追い返せ」
さもこそ――と、家人は頭領《かしら》のことばに頷《うなず》いて、一蹴《いつしゆう》すべく意気ごんで駈け戻って行った。
「おねがいがござります」
松波は、その機《しお》に、
「亀一のお稽古は、今日だけおゆるし下さいませ。まだ顔いろが蒼《あお》うござります。唇も腫《は》れ上がって見えますれば」
「ム。……では連れて行け」
小六は、妻の手へ、槍と子とを預けたが、
「余り甘やかすな。また、良いことに思うて、書物ばかり与えるな」
と、いいつけた。
彼もそのまま書院のほうへ歩み出し、沓石《くつぬぎ》へ草履《ぞうり》を捨てかけた。――ところへまた、先刻《さつき》の家人《けにん》が、首を振りながら駈けて来て、
「お頭領《かしら》、いよいよ不審な男です。どうしても立ち帰りません。のみか、いつの間にやら、脇門《わきもん》を通って、厩《うまや》の方へ勝手に立ち入り、馬番や庭掃除の者などつかまえて、馴々しく雑談などしております」
「抓《つま》み出《だ》せ。織田家の廻し者など、なぜ容赦《ようしや》しておくか」
「いや仰っしゃるまでもなく、武士《さむらい》部屋の面々も出て、戻らねば土塀越しに抛《ほう》り出すぞと、脅《おど》しつけましたところ、もう一遍取り次いでくれ、十年前、矢矧川《やはぎがわ》(矢作川)でお目にかかった日吉《ひよし》といえば、きっと思い出していただけよう――などと云い、てこ[#「てこ」に傍点]でも動く面構《つらがま》えではございません」
「――矢矧川で?」
どうしても思い出せないのである。矢矧川といい、日吉といい、十年も前の路傍の一|些事《さじ》は、小六正勝にとってもう念頭にもなかった。
「お覚えはございませんか」
「ない」
「ではいよいよ怪しい奴。苦しまぎれの詭弁《きべん》とみえます。心得ました。そう分れば、こッぴどい目に遭わせて、馬もろとも、叩き撲《なぐ》って、清洲《きよす》へ追ッ返してくれましょう」
度々の取次を煩《わずら》わされて、家人は業腹《ごうはら》でもあった。
見ておれ――という顔つきを持って、その姿が中の木戸まで駈け出した時、なお、書院の沓石《くつぬぎ》に立ったまま考えていた小六が、
「待て」
と、呼びとめた。
「あ。何かまだ?」
「ウム。ちょっと待て。……ことによるとその男は、猿ではないかな」
「猿。――そういえば、自分でも、日吉で分らなければ、猿とお告げくださいなどといっていましたが」
「さては、猿か」
「ご承知なので」
「――とすれば、屋敷にもしばし飼いおいて、庭掃きや亀一の守《もり》などさせ、眼《め》はし[#「はし」に傍点]のきいた童《わらべ》であったが」
「けれど、織田信長の使者で来たというのは、おかしなわけで」
「解《げ》せぬが。――身装《みなり》は」
「一《ひと》かど[#「かど」に傍点]です」
「ふーム?」
「物の具に、陣羽織を着、よほど遠路からでも来たように、鞍あぶみまで露や泥にまみれ、弁当行李《べんとうごうり》や旅具など結《ゆ》いつけておりました」
「……ま。通してみろ」
「通しますか」
「念のため、面《つら》を見てくりょう」
小六正勝は、そのまま縁に腰かけ、やがて来る者を待っていた。
織田信長の居城|清洲《きよす》とこことは、わずか数里の間近であった。もちろん織田領の内であるはずだが、小六正勝は信長にゆるさなかった。かつて織田家の禄《ろく》とては一粒も喰《は》んでいないのである。
父祖このかた、美濃の斎藤家とは、扶《たす》け合ってきた仲だ。野武士とて義はかたい。いやむしろ義と侠《きよう》と然諾《ぜんだく》の風を重んじることは、乱世の武門よりまさっている。殺伐掠奪《さつばつりやくだつ》はその業としても、一族は親子のような関係に結ばれていて、不義軽薄をゆるさない。
彼は、その鉄則の上にある、大家族の家長なのだ。
先に、山城守|道三《どうさん》は、養子の義龍《よしたつ》に殺され、その義龍も去年病死したりして、美濃は内紛《ないふん》に次ぐ内紛のみだれにあり、事実、小六への影響としても、道三の在世中は仕送っていた年々の禄米《ろくまい》や何かの手当も、その後は絶えているのである。
もっともそれは、斎藤家の意志よりも、織田方の作戦が、当然、美濃との通路を遮断《しやだん》しているためでもあった。
小六はしかし、糧道は断《た》たれても、義は断たなかった。むしろ反織田の気勢を昂《たか》め、近年では犬山城の下野守《しもつけのかみ》信清《のぶきよ》と通じて、暗に信長への離反を扶け、織田領内の攪乱《こうらん》を企てたりしている闇の謀将でもあった。
「連れ参りました」
中の木戸から取次がいう。
万一があっては――という用心からであろう、表方にいる彼が手飼の野武士五、六名が、物々しく一人の客を囲んで通して来た。
じろと、小六は見遣《みや》りながら、
「これへ」
と、大きく頤《あご》を引いた。
やがて小六の前に、一個の平凡なる男が立った。挨拶も平凡な世間なみに、
「どうもしばらくでした」
と、一礼していう。
小六は、その顔を、穴のあくほど見ていたが、
「おう、やはり猿だ。なるほど。面貌《おもざし》はそう変ってもいない」
と、つぶやいた。
思っていた程は変っていない面《おも》ざしにひきかえて、余りにも変った藤吉郎の姿には、彼の眼も驚かないでいられなかった。
十年前の矢矧《やはぎ》川の一夜を、小六は今、はっきり思い出した。
裾《すそ》の短い、白木綿の着もの一枚に、頸《くび》や手足も旅垢《たびあか》にまみれ、泊るに銭もなく、飢えて川辺の舟に寝ていたらしいが、手下の者が揺り起すと怖ろしく気のつよい大言を放ったので、
(こいつは?)
と、手下の向けた提《さ》げ龕燈《がんどう》で、まじまじと見つめたその時の、奇異な少年のすがたを――小六は今、ありありと眼に思い泛《うか》べていた。
「いや、その後はつい」
藤吉郎は、腰低く、以前の自分と――今の自分と、なんらの隔《へだ》ても意識しない容子《ようす》で、
「つい、ごぶさた致しました。いつも御健勝のていで何よりです。亀一様にも、さだめしお身大きくおなりでございましょうな。御内室様も、お変りございませんか。……いやもう、十年一瞬、ここへ伺ってみると、何もかもお懐かしいものばかりで」
と、いった。
そして心から懐かしげに庭の樹々を見まわしたり、屋《や》の棟《むね》を仰いだりして、あの石井戸の水を毎朝汲んだものだとか、そこの石の側で、あなたに叱られたことがあったとか、亀一様を背負ってよく蝉捕《せみと》りをしましたとか――そんな回顧ばかり語り出した。
が――小六の容子《ようす》は、そんな思い出ばなしに少しもうち溶けなかった。たえず彼の一挙一動に眼をそそいで、やがて言葉も厳《いか》つく、
「猿」
と、昔ながらに呼んで、
「汝《われ》は、侍になったのか」
と――姿を見れば知れきっていることを、敢えてたずねた。
それをまた、藤吉郎は、少しも不快らしくもせず、
「はい、ご覧の如く、まだ微禄ですが、どうやら武士の端となりました。お欣びください。――実は今日は、かたがた、それも欣んでいただこうと思い、遥々《はるばる》、任地の洲股《すのまた》の陣から、そっと駈け抜けて参ったのです」
と、いった。
小六は、苦笑して、
「御時勢はありがたいな。汝《われ》のような男でも、侍に抱えてくれる者がある。――主人は誰か」
「織田《おだ》上総介《かずさのすけ》信長《のぶなが》様です」
「あの、じゃじゃ馬か」
「時に」
藤吉郎は、ちょっと、語気をかえて、
「つい、私事の余談のみ先に申しあげましたが、今日は、信長の一家臣木下藤吉郎、実はひそかにわが君の上意を帯《たい》してこれへ参りました」
「そうか。汝《われ》が使者か」
「通ります。――御免」
いうと、藤吉郎は、陣《じん》草鞋《わらじ》を脱ぎすて、小六の腰かけていた縁先の沓石《くつぬぎ》から、ずっと上がって、書院の床《とこ》の間をうしろに、自分で上座を取って悠《ゆ》ったりと坐りこんだ。
「ほう」
小六は、縁に腰をかけたまま、動かなかった。
上がれともいわれないのに、ずかずか踏み上がって、書院の上座へ大きく坐った藤吉郎の姿を、そこから振り向いて、
「猿」
と、呼んだ。
さっきは答えたが、今度は答えない。藤吉郎は、じろと眼を向けただけである。
小六は、稚気《ちき》を嘲《わら》うように、
「おいおい猿。汝《われ》は、遽《にわ》かに容態を構え直したが……ははあ、今までは、一個人として挨拶したが、これからは信長の使者という格式であるぞ――というわけか」
「そうです」
「では、すぐ帰れ」
「…………」
「立ち去れッ。猿!」
小六は、沓石《くつぬぎ》へ突っ立った。語気の荒さ、その眼《まな》ざしも、今までの彼ではなかった。
「汝《われ》の主人信長は、この蜂須賀村も、領土の内と心得ておるかしらぬが、蜂須賀村はおろか、海東郡のあらましは、小六正勝の手で治まっているのだ。その小六は祖先|累代《るいだい》、信長から一粒の粟《あわ》だに喰わせてもらった覚えはない。――領主|面《づら》しておれに臨むなどは片腹いたい骨頂だ。帰れッ猿。慮外なまねすると、蹴殺すぞ」
はったと、睨《ね》めつけて、
「――帰ったらそう申せ。信長とおれとは対等だ。小六に用あらば、自身で来いと。――わかったか、猿ッ」
「わかりません」
「なに」
「あわれむべし、あなたもやはり無智な野武士の頭領《かしら》に過ぎなかったか」
「なッ、なにをッ、小ざかしい」
小六は飛び上がって、書院の中に突っ立ち、太刀のつかに手をかけて臨み直した。
「猿、もう一度ほざいてみろ」
「お坐りなさい」
「だまれ」
「いや、お坐りあれ。藤吉郎が申さんとする儀は」
「やかましいッ」
「いや、それがしは、あなたの無智|蒙昧《もうまい》をひらいてやるのだ。教えるのだ。坐れ」
「こいつが!」
「待てッ小六殿。太刀をもって藤吉郎を両断するなどは、場所はここ、腕はあなたのこと、何も急ぐにあたるまい。――しかし、それがしを斬ってしまったら、誰があなたに教える者があるか」
「ば、ばかなことを」
「ともあれ坐れ。お坐りなさらんか。小さい我執《がしゆう》をお捨てなさい。真心もって、藤吉郎が今、あなたに告げ申さんとする儀は、一信長や、一蜂須賀など、そんな小さい、猫の額《ひたい》のような論議をしようというのではおざらん――まずお互いに、この日本に生まれ会うたことからのはなしだ。あなたにとって、信長は領主でないと仰っしゃった。いや至極の言だ、ごもっともなお言葉だ。藤吉郎も同感でおざる。――しかし不届きなのは、蜂須賀村ならおれの領土だという、あなたのお考えだ。間違っている!」
「なにが間違っているか」
「蜂須賀村はおろか、尾張一国はおろか、津々浦々、いかなる辺土たりとも、一尺の土たりとも、おれの物だという土は、この国においてはないはずでおざる。――ありと申すかッ。――それともありと申すのか、小六」
「……む、むむ」
「畏れ多くも、国土の上にしろし召す大君についてかく語り――いやかく教えているこのほうの前に、太刀をつかんで棒立ちに突っ立っておる不作法があろうか。野人礼をしらずといえ、あなたも二千の野武士の頭《かしら》ではないか。――坐って聴け!」
肚の底からというよりも、彼の最後の一喝《いつかつ》は、満身から発したように耳を打った。
すると、家の奥まった所からである。ふいに、
「小六殿、坐れッ。坐らにゃ悪いぞ」
と、呶鳴った者があった。
――誰だろうか?
主《あるじ》の小六正勝も振り向いた。藤吉郎も驚いて声のした方へ、眼をみはった。
すると。
中庭から映《さ》す青い明りに、そこの奥廊下の口に佇《たたず》んでいる者が見えた。半身は壁の蔭である。誰やら知れないが、法衣《ころも》の袖らしいのがちらと見えるのである。
「や。恵瓊《えけい》どのだな」
小六がいうと、
「そうじゃ」
と、彼方で答え、
「――室の外より失礼なさし出口であるが、御両所の高声に、何を云い争っておられるかと案じられてのう」
幾ぶん笑いをふくんでいるらしく、なおもそこに佇《たたず》んだまま、恵瓊《えけい》とよばれた僧はいうのだった。
小六は、穏やかに、
「いやそれは、とんだお耳ざわりであったろう。お案じ下さるまい。今すぐ、この猪口才《ちよこざい》な使者めをつまみ出してしまいますれば」
「あッ、待てッ小六殿」
それまで、立ち入るのを憚《はばか》っていた室のしきいを、恵瓊は思わず踏みこえて来て、
「慮外《りよがい》あるな」
と、たしなめた。
此邸《ここ》に客として泊っていた旅僧でもあろうか、まだ四十前後の中年の僧だった。武士のような筋骨と、太い眉をもっている。わけて眼につくのは、その大きな朱《あか》い唇《くち》であった。
小六は、わが家の客僧が、かえって藤吉郎へ味方するような口吻《くちぶり》に、
「和尚《おしよう》。何が慮外か」
と、正視した。
「さればじゃ。そこにおらるる使者の言葉にはそむき得ぬ道理がある。この郷土も、尾張一国も、すべて一信長や一蜂須賀のものではない、万乗《ばんじよう》の君《きみ》のしろしめすものであるという――木下殿の言に、否《いな》と、あなたは云い断《き》れるか」
「…………」
「仰せられまいが。……その国是《こくぜ》に不満なりといわば、万乗の君に、逆意を抱くも同じことであると、またも、彼の雄舌に捲《ま》くし立てられるにちがいない。それゆえ、一応はお坐りあって、真理に屈し、使者の口上を篤《とく》とお聞きなされた上で、追い返すもよし、容《い》れるもよし、御思案あったがよかろうと野衲《やのう》は存ずるのじゃが……」
小六も決して、無学文盲の野人ではない。日本の国風がどういうものか、自分たちの血液が、どこから流れ伝えて来て自己となり家系となっているか、そうした国学の初歩ぐらいは、十二歳の亀一の読書にさえあることだった。
むしろ余りに弁《わきま》えすぎているために、かえって馴れて、日常には改めて考えてみもしないことであったのだ。
「恐れいりました。たとえ申す者が誰であろうと、大義の理に楯《たて》をついた小六は愚かしいことでござった。改めて、使者の口上を聞いてくれましょう」
彼が落着いて坐り直したのを見ると、客僧の恵瓊《えけい》も、満足して、
「では、この席に居るなど、野衲《やのう》こそ慮外でおざれば、あちらへ引き退っておることにします。……が、小六どの、その使者へお返辞を与える前に、ちょっと、わしの部屋までお顔を貸してもらいたい。ちと、おはなしがおざれば」
と、云い残して去った。
小六はそれへうなずいて――さて、使者の藤吉郎へ、改めて膝を向け、
「猿。いや、信長の使者どの。……いったいこの小六正勝に、なんの用事か。手短に承ろう」
と、云い直した。
[#改ページ]
大器《たいき》の相《そう》
彼は、思わず唇《くち》を湿《しめ》した。三寸不爛《さんずんふらん》の舌頭をもって、よくこの男を捉《とら》え得るか得ないか、今が、わかれ目であると思った。
洲股《すのまた》の築城も。
自分の全生涯も。
ひいては、主家の興亡も、すべてこの男が、うん[#「うん」に傍点]というか、否というかに、賭けられている今だと思うと、
「実は」
と、固くならずにいられなかった。
「――余の儀でもありませんが、先頃、ごんぞ[#「ごんぞ」に傍点]と申す小者をもって、一応、御意向を伺ってみたあのことについてです」
云い出す、のッけ[#「のッけ」に傍点]に、
「その儀なれば、返書いたした通り、はっきり断る。此方《こちら》の返書は、見ないのか、見たのか」
膠《にべ》もなく、小六は、彼の口上《こうじよう》の出ばな[#「ばな」に傍点]をヘシ折った。
「見ました」
相手の強硬を感じると――藤吉郎は素直にひとつ頭を下げ直して、
「が、あの折は、それがしが私の書信。今日は信長公のお旨として、お伝えするのでござる」
「誰からの乞《こ》いであろうと、織田家に加担する意志はない。小六の返書に二種《ふたいろ》はないのだ」
「では、可惜《あたら》この地に、御先祖がお遺《のこ》しあった門地を、あなたは御自身の代で、滅亡に導くお考えですか」
「なに」
「お怒りなされますな。小さくは、この藤吉郎も、十年前に一宿一飯の御恩のあるお邸《やしき》です。大きくは、時勢のうえより見て、あなたのような人物が、野に隠れて、用いられずにあるのが遺憾《いかん》でなりません。公私両面から考えて、蜂須賀の門地を、孤立自滅させてしまうのは残念と存じましたゆえに――かくは推参いたしたのです。いや、蜂須賀のために、私は、昔の御恩返しに、活路をひらきに参ったのです」
「藤吉郎」
「はい」
「おまえはまだ若い。舌三寸をもって主君の使いをする資格などはない。相手の腹立つようなことばかりいう。おれもおまえのような小僧を相手に怒りたくもない。よいかげんに帰ったらどうだ」
「使いを果さぬうちは帰りません」
「その熱意は買ってやるが、こけ[#「こけ」に傍点]の強引《ごういん》というものだ」
「ありがとうございます。しかし、こけ[#「こけ」に傍点]の一心という語もよく味わって下さい。人力を絶した大業は、たいがいこけ[#「こけ」に傍点]の一心に似ておりまする。そのくせ賢者も余り賢明な道のみは選ばない。たとえば、あなたは私より賢明だと信じているでしょう。然るに、これを局外から見ると、馬鹿が屋根に坐って火事を見物しておるようなものです。四隣に火が燃えひろがっているのに、まだ頑張っている。――わずかに、二千の野武士を持って」
「猿! そちは|愈※[#二の字点、unicode303b]《いよいよ》、おれの一刀を、細首に望んでいるのか」
「なんの! 危ないのは、あなたの首です。――義を立てるにも相手にこそよれだ。美濃の斎藤、何者ですか。君臣父子兄弟のあの内紛、骨肉同士が殺戮《さつりく》し合って来たあの暴状。人倫《じんりん》の腐敗も、あれほどなのは、他国では見られない図でしょう。あなたには、お子はないのか。御一族もないのか」
「…………」
「さらに、頭《こうべ》を回《めぐ》らして、東海三河をごらんなさい。松平元康どのは、すでに、織田家とは、切っても切れない盟約を結んでおりますぞ。斎藤家崩壊の時、この蜂須賀村にいて、今川家を頼らんか、三河の遮断《しやだん》あり、伊勢を恃《たの》まんか、織田の包囲があって、あなたは、誰を幹として、子枝孫葉《ししそんよう》の家門を守っておいでになるか。――孤立、自滅、それしかないではありませんか」
小六はもう沈黙していた。
あきれたように。
また、藤吉郎の雄弁に、やや気を呑まれてしまったように。
が――しかし藤吉郎は、飽くまで誠意を面《おもて》にあらわしていうので、相手を睥睨《へいげい》したり、演舌をふるっている態度は決してない。訥々《とつとつ》と解く真心が、熱となって、雄弁に聞えるのだった。
「かさねて、御賢慮を願います。天下の人、心ある者、誰ひとり斎藤一族の不倫と紊政《びんせい》に、眉をひそめぬ者はありません。その不義暴逆な国へ味方して、自ら孤立を招き、自ら滅亡を遂げたところで、誰があなたを武門の本道に殉《じゆん》じた人だと称《たた》えましょう」
「…………」
「如《し》かず、この際、御先代以来の悪縁を斎藤家と断ち切って、それがしの主人、信長様に一度お会いなさい」
「…………」
「当代、海内《かいだい》に弓取多しといえども、信長様ほどな人物はありません。釈迦《しやか》に説法ですが、あなただって、今の時勢が、このままでいるとはお思いになりますまい。畏れ多くはあるが、足利《あしかが》将軍家も、もうぜひなき末路《まつろ》とはお考えになりませんか」
「…………」
「応仁の乱れ以来、幕府に服さず、管領《かんりよう》に統治できず、地方地方へひっ込んだまま、各※[#二の字点、unicode303b]、自領をかため、手兵を養い、弓矢を研《と》ぎ、鉄砲を蓄えなどしているのは、あだ[#「あだ」に傍点]事ではございません。――その多くの群雄の中に、誰が、旧《ふる》い制度を一新し、誰が次の時代を建て直すか――それを知ることが、今日の生き方ではございませんか」
「……ウウム」
初めて、ひとつ、小六は自分に不承不承うなずいた。
「さ。ここです」
藤吉郎は、膝をつめよせて、
「います! こういう時代には、きっと次の人物はいるものです。ただ、凡眼に見えないだけだ。現に、あなたの眼前には織田信長様という英主が立っている。……ただそれをあなたは、斎藤家への義理だてなどと、小義に惑《まど》って、大義を見のがしているだけだ。惜しいとそれがしは思うのです。あなたのためにも、信長様のおためにも」
「…………」
「些事《さじ》小事は、頭から拭《ぬぐ》い去って、大きく、大処《たいしよ》からお考え下さい。――時に折もよしです。不肖藤吉郎は、この度、洲股《すのまた》の築城を仰せつかり、これを足がかりとして、美濃打ち入りの先陣を承ったのです。謀将勇将、織田家にも決して乏しくはありません。その中から、それがし如き軽輩を、思いきって御登用ある一つを見ても、信長様が世評のような凡君でないことがお分りでしょう。――しかも仰せには、洲股《すのまた》の一城は、それを築き遂げた者に取らすであろう。その方、築き坐りに城主となるべし――という下命です。藤吉郎たる者、手に唾《つば》して、起たずにはおられません」
「…………」
「今を措《お》いて、われわれこの秋《とき》に生れた者が、いつ起つ時がありましょう。さはいえ、一個の力ではどうにもならない。そこであなたを引き出しに来たのです。歯《は》に衣《きぬ》着せずと申します。自分はあなたをこの機会にこそ用うべきだと思い、一命を賭《と》して引き出しに参ったのでござる。まちがえば死も覚悟のうえでござる」
「…………」
「――が、手ぶらでは参りません。さしずめ、御配下への手当やら軍費として、些少《さしよう》ではありますが、三|駄《だ》の駒に金銀を積んで来ました。御受領くださればありがとうぞんじまする」
藤吉郎が云い終った時である。書院の庭さきから小六に向って、
「叔父上」
と、云いながら平伏した、見つけない武士があった。
「わしを、叔父とは?」
小六は怪しみながら、庭さきの武士に眼をこらした。
平伏していた男は、
「お久しゅうござりまする」
と、面《おもて》を上げた。
ぎょっとしたにちがいない。それは隠せない驚きをうけた顔だった。小六は思わずいった。
「やッ? ……。そちは甥《おい》の渡辺天蔵《わたなべてんぞう》ではないか」
「面目もございませぬ」
「どうして、これへは」
「生きて再びお眼にかかる折もあるまいと思っておりましたが、木下様のお情けで、今日のお使いに、駒の口取《くちとり》を申しつけられ、これへお供して参りました」
「なに。供をして」
「叔父御に叛《そむ》いて、蜂須賀村を出奔して以後、久しく甲斐《かい》の武田家に身を寄せ、乱波《らつぱ》の者(隠密《おんみつ》)の仲間に働いておりましたが、織田の動静を探って来いと命じられ、三年ほど前、清洲の城下に立ち廻っていたところを,織田殿の侍に観破されて召し捕えられ、久しく牢舎《ろうしや》に抛《ほう》りこまれていたのを木下様のお計《はか》らいで、救われたのでござりました」
「では……今はこの木下殿に随身しているのか」
「いえ、牢舎から免《ゆる》された後は、木下様のお口添えで、やはり御城内におるがんまく[#「がんまく」に傍点]という細作衆《さいさくしゆう》の下に働いておりましたので。……この度、木下様が洲股《すのまた》へ御出陣とあるので、望んでお供を仰せつかったのでござります」
「ふふ……む」
小六の眼は、茫然《ぼうぜん》と、そういう甥《おい》の変った姿を、見ているばかりだった。
変ったのは、姿よりも、甥の天蔵の性格だ。一族のうちでも、兇暴野蛮で手におえなかった甥が、何《なに》さま、見ちがえるばかり礼儀も正しく、眼《まな》ざしも和《なご》やかに、前非を悔いて詫びているのである。
十年。――実に十年前だ。
八ツ裂きにしても!
と、この甥の悪行《あくぎよう》に怒って、遠く甲州境まで、一族をつれて成敗《せいばい》に追いまわしたものである。
その時の憤《いきどお》りは、今の天蔵の実直な眼を見ていると、思い出すこともできない。――血縁の情ばかりではない。天蔵自身の人間がまるで変っているからである。
「おう、ついまだ、後のはなしと思って、申しあげずにおりましたが――甥御どのの御勘気《ごかんき》は、この藤吉郎に免じ、どうぞ許してあげて戴きとうござる。すでに今日では、天蔵どのも、非のない織田の家中。御自身でも、ふかく以前の罪を詫びて、ただ日頃、叔父御へ合わせる顔もない。蜂須賀村へ帰るには、ただ平然と、以前の面をさげては帰れぬと、あなたへ謝罪する折を口ぐせに申しているので――他事ながら、これもちょうど折かと、わざと、それがしの駒の口取させて伴《つ》れ参りましたわけ。……血は水よりも濃いとか。叔父甥のあいだがら、どうぞ、以前の如く、御一族|睦《むつ》まじく、行く末の御繁栄をお計りあるように」
藤吉郎に、側からそう取《と》り做《な》されると、小六も、十年前の甥の罪を威猛《いたけ》だかに、今いう気にもなれなかった。
藤吉郎は、小六の虚心《きよしん》になった隙を外さず、
「天蔵。――荷駄に積ませてきた金銀を、御門内に運び入れたか」
と、訊ねた。
その天蔵へ物をいう時は、当然、部下に命じる言葉であった。
「はい。降ろしました」
「そうか。では、お目録と共にお眼にかけよう。小者に申して、これまで運んで参るように」
「はッ」
と、天蔵が行きかけると、小六はあわてて、
「待て天蔵。それを受けては、この小六正勝の立場がない。織田家に随身を約したことになる。――熟考いたす間、しばらく待て」
遂に、彼の顔いろは、苦悶をさえ呈して来た。そういうとつい[#「つい」に傍点]と起って、奥へかくれてしまったのであった。
急に家の内がしんとしたように静かだった。一間《ひとま》へ戻って、旅の日誌か何かつけていた恵瓊《えけい》は、ふと起って、
「小六殿」
と、彼の居間を窺《うかが》った。
見えないので、また、
「こちらか」
持仏堂をのぞくと、小六は、先祖の位牌《いはい》を前に、腕ぐみして坐っていた。
「どう御返辞なされたか。信長殿のお使いに」
「まだ帰りおらぬ。応対しておればおるほど面倒なので抛《ほ》ッたらかしてある」
「帰るまい。あの容子《ようす》では」
恵瓊が口をつぐむと、小六もいつまでも沈黙していた。
この客僧の恵瓊というのは、字《あざな》は瑶甫《ようほ》、安芸《あき》の国沼田の産れで、京都東福寺に入って僧となった者である。
両三年前から、東福寺を出て諸国を巡錫《じゆんしやく》し、乞われて、しばらく駿府《すんぷ》の家人の第宅《ていたく》にいたが、義元の死後、内政ぶりもおもしろくないし、禅語に耳をかす者などは稀れなので、いつの頃か、そこを去り、折ふし蜂須賀村へ来たところ、小六正勝の家に法要があったので、そのまま半月ほど逗留《とうりゆう》していたのであった。
「小六どの」
「何か」
「聞けば、きょう見えた使者は、以前この家に下僕《しもべ》として飼われていた男じゃそうだな」
「猿とのみで、名も知らねば、どこの馬の骨かも知れぬのを、矢矧《やはぎ》川のあたりで、拾うて来て召し使っていたことがある」
「それが悪い」
「悪いとは」
「あなたの頭から、その観念が抜けきれぬ。猿々と、顎《あご》で追い使っていた頃の先入主《せんにゆうしゆ》が邪《さまた》げて、今のあの男の正しい相《すがた》が見えなさらぬのじゃ」
「そうであろうか」
「わしは、きょうほど驚いたことはない」
「何で?」
「あの使者の顔を見た途端にじゃ。あの顔は、世にいう異相《いそう》というものだ。わしは好んで骨相を学び、人の相を観《み》るのを業とはせぬが、その骨相人品をもって、その人間の人となりを察し、独り胸にたたんでおくと、他日意外な役に立つことがある。――で驚いたのだ」
「あの猿顔に」
「そうじゃ。あの男はへた[#「へた」に傍点]をすると、後日、天下をうごかす程な人間になるかもしれぬ。この日本《ひのもと》の国でなければ、帝王の相といってもよいくらいだ」
「……客僧。何をいうか」
「だから、お笑いになろうと思って、先にお主《あるじ》の頭についてお断りを告げておいたのじゃ。先入主をお除きなさい。人を観るには、眼で見ずに、肚で観ることだ。――もし今日、あの使者を拒んで帰したならば、あなたは百年の悔いをのこしますぞ」
「どうして客僧には、左様な信念をもって、こんな他人の大事を断言できるのか」
「人相のみで申すのではありません。最前からのあの使者の言には耳を傾けて聴くべきものがあるからです。時勢の方向をとるに当って、正義正道を説くところは、神仏の旨にもかなっておる。しかも、あなたの嘲蔑《ちようべつ》とあの権《けん》まく[#「まく」に傍点]にも屈せず、誠心誠意、相手を説破せんとするあの情熱は正直者です。あの容態《ようたい》は大器です。必ず後に大きくなる器《うつわ》と、野衲《やのう》は信じて疑いません」
小六は急に、身を退いた。そして正しく両手をつかえ、
「おことばに伏します。虚心坦懐《きよしんたんかい》、自分と彼の人物とを、ふかく思い較べてみれば、明らかに、てまえが劣っておるようでござる。過去現在の小我を一切すてて、即座に快い返辞を与えてやりましょう。――客僧の御忠告のほども忝《かたじけの》う存ずる」
云いきって、自分でもそこに、新しい時流への方途を見出したように、眸をかがやかした。
[#改ページ]
山川皆兵《さんせんかいへい》
夜であった。藤吉郎が蜂須賀村を訪れたその日の夜である。
たった二騎に、口取の男が一人、闇をついて、蜂須賀村から清洲《きよす》へ走って行った。
それが、小六正勝と藤吉郎のふたりであったことは、まだ誰も知らない。
また。
深夜、城内の一室で、信長がその二人を引見《いんけん》して、長時間にわたる密談を交わしたことも、極く一部の者と、その晩、馬の口取として尾《つ》いて行った渡辺天蔵のほかは知る者もなかった。
翌日――
小六の手書《しゆしよ》が、蜂須賀村から八方へ飛んだ。
檄《げき》を手にした面々は、
「何事か」
と、本家格の小六のやしきへ馳せつけた。
篠木郷《しのきごう》の河口久助。
科野《しなの》村の長井|半之丞《はんのじよう》。
柏井《かしわい》の青山新七。
秦川《はたがわ》の日比野六太夫。
守山《もりやま》の梶田隼人《かじたはやと》。
小幡郷《おばたごう》の住人松原|内匠《たくみ》。
といったような顔ぶれである。
いうまでもなくみな野武士だ。多年小六の下にあって、将軍の下に大名のあるが如く、村、部落、山里などの縄張《なわばり》縄張に、各※[#二の字点、unicode303b]手飼の狼《おおかみ》武士を養って、事ある日ばかり待っている者どもなのである。
そのほか。
小六の弟七内、同又十郎、叔父、従兄弟《いとこ》から遠縁の一族までが、寄り合っていた。
一同が、眼をみはったのは。
この中に、十年前の一族の反逆者、御厨《みくりや》の渡辺天蔵がいたことであった。
席、定まってから、
「実は――」
と、小六は、自分の重大な決心と、これまでの斎藤家加担を絶縁して、今日から織田家に味方する旨を、一同へ告げ渡した。
「それと、天蔵のことだが」
と、同時に、彼が復帰するようになった仔細も、明瞭にはなした。
終りに、
「不服な者もあろう。なお斎藤家に、未練をのこす者もあろう。そういう者は、強《し》いては止めぬ。遠慮なく去って、この由、斎藤方へ内通するも、小六は恨まぬ」
といった。
けれど誰も、席を立つ者はいなかった。――とはいえなお、それこそ願うところと、異口同音な気勢も立たなかった。
折ふし、藤吉郎は、主人の小六に断って、座の中央に出て来た。
そして、挨拶にかねて、こういう言葉を告げた。
「洲股《すのまた》の城は、築き取りにせよと、主君信長様から申されています。今日まで各※[#二の字点、unicode303b]はずいぶん会心な仕事もなされたろうが、一城というものを奪い取ったことがござるか。それとまた、世は変ってゆく。いつまで、各※[#二の字点、unicode303b]が勝手に住んでおられるような山野はなくなる。そうならねばまた、世の進歩ではない。室町将軍に御政治の力がないから、野武士などといって、生きてもゆかれるが、その将軍家も、はやあのままに在《お》わされまい。天下は一変する。次の時勢がくる。――各※[#二の字点、unicode303b]が各※[#二の字点、unicode303b]の生涯のみでなく、子々孫々のためにも、一家を興し、常道の武門へ帰り、正しき武士道の人となる機会は、今を措《お》いてあるまいとぞんずる」
彼の言が終っても、まだ一座は寂《じやく》としていた。不平不満の漲《みなぎ》っている気ぶりではない。平常、無考えに暮していた人々も、何かふかく魂を打たれたのである。
「異存ござらぬ」
松原《まつばら》内匠《たくみ》が口を切ったのをきっかけに、続いて、また続いて、
「異存なし」
「てまえも」
「この方も」
初めて、一堂の声が一つに和した。
やるからには生命を的《まと》にやろうと、野の精猛《せいもう》はみな眉を昂《あ》げていう。
木を伐《き》る斧《おの》のひびき。
その木を木曾川の淵《ふち》へ押し落す旺《さか》んなる水しぶき。筏《いかだ》を組む。筏を突き流す。
流れる筏に沿ってずっと下流に来ると、北と西から揖斐川《いびがわ》と藪川《やぶかわ》の水も合して、そこに水脈縦横のだだッ広い洲が見渡される。濃尾《のうび》両国の州界である。
洲股《すのまた》だった。墨股《すのまた》とも書く。
「十訓抄《じつきんしよう》」に、
[#ここから2字下げ]
唐《から》には、蜀江《しよくかう》とて、錦《にしき》を洗ふ所と、詩歌にも作るところあり。日本《ひのもと》のすのまたなどのやうに広く、いかめしう人も通はぬ大川《たいせん》なり。
[#ここで字下げ終わり]
などとあるのを見ても、この辺りの原始的な光景はおよそ想像がつこう。
前に、佐久間、柴田などが、みな同じ轍《てつ》をふんで失敗を繰り返した築城の地は、尾張寄りのそこの一角だった。
「ばかなムダ骨。石船で大海でも埋《うず》まると心得てやがる」
対岸の東|美濃《みの》から、小手《こて》をかざして見ている斎藤方の兵は、またもかと、笑止がっていた。
「四度目がやって来たぞ」
「ほ。……性懲《しようこ》りもなく」
「まあ見ていてやれ」
「誰だ、こんどの亡者《もうじや》の奉行《ぶぎよう》は。敵ながらあわれなもの。名だけでも覚えておいてやろう」
「木下藤吉郎とかいうそうだが……聞いたこともない」
「藤吉郎。それなら猿の方が通りがよい。織田家の軽輩で、多分今でも、五十貫か六十貫そこそこの足軽小頭のはずだが」
「そんな微賤《びせん》なやつが奉行か。さては敵も本気じゃない」
「計略か」
「そうだと思う。ここの一点に美濃の注意をひきつけておいて、他の方角から突《とつ》として渡り越えて来るという作戦もある」
いくら対岸の工事を見ていても、本気にされないのは、むしろ美濃方の兵自身であった。
ここ約一ヵ月。
蜂須賀一族の精猛《せいもう》をひいて、任地につくや否、すぐ着工し始めてから、二、三度の大雨はあったが、むしろ材木|筏《いかだ》をながすによく、洲《す》は一夜に洗い流されても、
「なんの」
とばかり気を協《あわ》せて、太陽の曇りだす日が先か、ここに一郭《いつかく》の盛り土を築き上げてしまうのが先か、天力勝つか、人力勝つか、とばかり二千の野武士は、寝食もわすれて働いていた。
蜂須賀村を発《た》つ時の二千の野武士は、ここへ来ると五、六千になっていた。野武士が友の無頼《ぶらい》を呼びあつめ、無頼の者がまた、遊んでいる人間を、どこからともなく引っ張って来て、
「洲を掘れ。石を積め」
「土をかつげ。土嚢《どのう》を盛れ」
「水途《みずみち》へ水を導け」
と、藤吉郎の采配も必要としないほど、機敏に、頭を働かせて、日一日と、眼に見えるばかり仕事は捗《はかど》っていたのだった。
もとより山野の疾駆《しつく》には生まれながら馴れぬいている野武士である。治水の法、土塁《どるい》の築法などは、かえって藤吉郎などより心得ていること万々なのだ。
その上、
「やがてこの土は、おれたちの住む所となるのだ」
という彼らの慾望もある。なおまた、懶惰放縦《らんだほうじゆう》な生活から一躍して、真実の働きを自身に知った満足と快味もある。
「もう洪水《おおみず》になろうと、この川が幾つ集《よ》って逆巻《さかま》こうと、びくともする土ではないぞ」
まだ一月と経たぬ間に、城地に余る面積は築き盛られて、陸との道路も完全につながれた。
「……はてな?」
対岸ではまた、うららかな顔が、小手をかざし合っていた。
「すこしは恰好がついて来たらしいな。――むこう河岸《がし》も」
「敵の工事か」
「ウム。まだまだ城らしい石垣は築ききれないが、土盛りは、だいぶ進んだぞ」
「大工、左官は見えない」
「そこまでには、まだ百日もかかるだろう」
美濃方の雑兵たちは、退屈のやり場に見物していた。
河幅は広い。
晴れた日ほど、大河の水面から昇るうすい川靄《かわもや》がぎらぎら光って、遠目ではよく見極められないが、どうかすると、城工事の掛声や石を切る音などが、対岸から風にのって聞えてくる日もある。
「こんどは、奇襲をやらないのかな。工事の中途を狙って」
「やらぬらしい。不破平四郎《ふわへいしろう》様からも、厳命だ」
「何と」
「鉄砲一つ撃つことならぬ。敵に存分、働かせておけと」
「城のでき上るまで、見物しておれというお達しか」
「今までの御方針は、敵が城を築きかけると、奇襲をかけてぶッ潰《つぶ》し、また、新手が来て、七分ぐらいまで、工事が進んだと見ると、一挙に襲《よ》せて、木ッぱみじんにしてくれたが、こんどは、最後の仕上げがすむまで、腕ぐみして見ておれという軍令だ」
「どうするのだろう」
「奪《と》るのさ。勿論」
「なるほど。敵に築かせておいて、そっくり頂戴するのか」
「作戦はそこらしい」
「いや、妙策だ。織田方でも柴田とか佐久間とかは、ちと手強いが、こんどの将は、木下藤吉郎とか、足軽に毛のはえたようなのが頭《かしら》だから……」
好きに舌を動かして喋舌《しやべ》っていると、ひとりが、叱《し》ッ――と眼くばせする。他の者もあわてて番所の小屋へはいる。また、歩哨に立つ。
上流から一艘の舟を棹《さお》さして来て、美濃側の岸へ上がった、虎髯《とらひげ》の武将がある。三、四名の従者も下り、一頭の乗馬も後から曳き下ろされた。
「虎が来た」
「鵜沼《うぬま》の虎が来た」
番所の雑兵は、眼顔でささやき合っていた。この川すじ数里の上流にある鵜沼城の主将で――美濃《みの》の猛将といわれている大沢治郎左衛門《おおさわじろうざえもん》なのである。
虎が来た――といえば、稲葉山の城下でも泣く子もだまるというくらい、恐い者の代名詞になっていた。その大沢治郎左衛門が、虎髯《とらひげ》の中から眼鼻を出して、むっそりと歩いて来たので、番所の兵は、眸《め》もうごかさずに緊張していた。
「不破《ふわ》殿はおらるるか。平四郎殿は――」
治郎左衛門のことばに、
「はッ。御陣所です」
「呼んで来い」
「はッ」
「この方《ほう》から陣所へお訪ねしてもよいが、ここのほうが、おはなしするに場所の都合がよいから、来てくれいと申して、すぐ呼んで来い」
「はッ。承知しました」
雑兵は、駈けて行った。
間もなく。
その雑兵に、五、六名の部下を従えて、不破平四郎は、大股に川岸へ向って来た。
――チ。虎めが、何を?
と、面倒臭がッているように、いかにも不機嫌な歩きつきで来る。
敵が築城中である洲股《すのまた》の西岸――その真正面から、左右二里余にわたる地域に、常備およそ六千の兵を配置して、その指揮作戦の一切を、稲葉山の本城から命ぜられている不破平四郎|種賢《たねかた》だった。
「不破殿。ご足労をかけたな」
「陣中、労などいとわぬが、この方に御用とは何か」
「あれについてだが」
大沢治郎左衛門の指さす対岸の彼方へ、不破平四郎は眼を導かれながら、
「洲股の敵か」
「いかにも。――朝夕おぬかりなく御監視とは思うが」
「仰せまでもなく、当所一円はこの方の持場、御安心ねがいたい」
「――と、先にいわれると申し難《にく》いが、この大沢も上流の地ながら一方の固めは受け持っておる。鵜沼口《うぬまぐち》のみ守ればいいというものではない」
「もとよりのこと」
「で、時折は、舟を泛《うか》べ、または沿岸を歩いて、下流まで状況を見に参るが、今日まいって一驚を喫した。――もう手遅れと申してもよい程なのに、御陣地を窺《うかが》えばのんびりしたもの。何かお考えあってのことか」
「手遅れとは、何がであるか」
「敵の築城の意外に進んでいることを申す。――ここの岸より何気なく一見しただけでは、まだ二重堤《にじゆうどて》、縄取内《なわどりうち》の土盛り、それと石垣が半ばぐらいしか出来上っておらぬように見えるが、あれは、敵の計《はかり》と申すもの」
「ふム」
「おそらく、背後《うしろ》の山地のふところ辺りでは、すでに城郭の巨材は、大工の手で組むばかりに仕上げられ、櫓《やぐら》、塀まわりはいうに及ばず、濠橋《ほりばし》から内部の建具一切も、あらかた出来ているものと、この治郎左は睨んでおるが」
「ふふム……なるほど」
「今のうちならまだ、敵は昼の工事のため夜は疲れ、兵備らしい布陣も怠たり、足手まといな人夫職人どもも雑居していることゆえ、上流下流正面の三方より、闇夜《あんや》をついて、総押しに河を渡って夜討ちをかければ、禍根《かこん》も抜くこともできようが、油断しておると近いうちに、夜が明けてみたら対岸|洲股《すのまた》に、一夜のうちに忽然《こつぜん》と、牢固《ろうこ》たる一城がいつのまにか聳《そび》えていたというような――不覚をとらんものでもありませぬぞ」
「いかにも」
「ご承知か」
「あはははは。いや大沢氏、貴公はそれを案じて、わざわざこの方を、陣前へ呼びつけられたのか」
「眼があるのかないのか、疑われ申したゆえ、この河べりでご説明してあげようと存じたればだ」
「お口が過ぎよう。貴公こそ武将として、お気の毒なほど浅慮《あさはか》至極だ。洲股の敵城は、こんどはわざと敵の思うまま工事をすすませているのでござる。お覚《さと》りがつかぬか」
「知れたこと。存分に築城させ、後より乗《の》っ奪《と》って、かえって美濃が尾張を制圧するの足場としようという計であろう」
「その通りである」
「稲葉山のおさしずはそうあった。けれど、敵を知らぬ危うい作戦。治郎左衛門には、味方の滅亡を座視しておれぬ」
「どうして味方の滅亡となるか。平四郎には解《げ》せぬ」
「耳をすまして、対岸から流れてくる石工や人夫の掛け声、種々《さまざま》な物音をつつんだ音響、また築城の進みようなど注意しておればわかる。山川《さんせん》みな兵となって働いているような活気だ。――これまでの佐久間、柴田などとちがい、こんどの采配《さいはい》ぶりには魂がはいっている。織田でもよほどな人物が、指揮に当っておるに相違ない」
「うわははは」
とうとう不破平四郎は腹をかかえてしまい、買被《かいかぶ》るなと、治郎左衛門を揶揄《やゆ》した。
味方と味方同士でも、必ずしも心は一つと限っていない。治郎左衛門は、虎髯の中で、大きく舌うち鳴らして、
「止《や》んぬる哉《かな》だ。笑え、笑って見ておれ。思い知るから――」
云い捨てて、駒を呼び、四、五の家来たちと共に、憤然と立ち去ってしまった。
美濃にも、具眼の人物がいないではない。
大沢治郎左衛門の予言は、中《あた》っていた。
それから十日と経たない後にである。洲股《すのまた》の城は、わずか二夜か三夜のうちに急速に工が進み、
「早いなあ。ばかに」
と、美濃方の兵が、朝起きるたび、河べりで眼をこすっている間に、巍然《ぎぜん》たる一城の威容を作りあげていた。
不破平四郎は、手に唾《つば》して、いった。
「いざ、せしめ[#「せしめ」に傍点]に行こうか」
夜襲、渡河戦《とかせん》には、熟練しているここの隊だった。例によって、闇夜、一挙に洲股へ襲《よ》せかけた。
ところが、前とはまるで手応《てごた》えがちがっている。待ちかまえていた藤吉郎以下、蜂須賀勢の野武士二千は、
「この城は、おれたちの汗と精魂だ。くれて堪るか」
と、いう意気である。
戦法もほとんどちがう。ひとりひとりの太刀も、以前の佐久間、柴田の部下の比ではない。まるで狼《おおかみ》である。
戦っている間に、美濃方の筏《いかだ》や舟は、大半、油をそそがれて焼かれてしまった。利あらず――と見て、不破平四郎が、
「退《ひ》けッ」
と、声を嗄《か》らした時は、もう遅かった程である。
新しい石垣の城下から河べりの洲《す》へかけて、千に近い死骸を捨てたまま命からがらな逃げざまであった。それも一部で、帰る筏を焼かれた兵は、下流上流へ逃げるしかなく、それをまた、
「やるな」
と、蜂須賀兵が、追い打ちにし尽した。山野を駈け馴れている野武士の軽捷《けいしよう》には、逃げきれるはずもなかった。
一夜を措《お》いて。
不破平四郎はまた、以前に倍した兵力で、洲股を奪取《だつしゆ》によせかけた。
暁だった。
洲股の洲も河水も、赤くそまった。陽《ひ》ののぼる頃、城の中では、
「今朝は一しお、朝飯がうまいぞ」
と、凱歌《がいか》をあげていた。
平四郎は躍起になり、風雨の夜を待って、三度目の総攻撃をもくろんだ。その折は、下流、上流の、美濃方の兵をあげて、
「この一戦に」
と、襲いかかった。
ただ上流では鵜沼《うぬま》城の大沢治郎左衛門の兵だけが、彼の総攻めの計に応じなかった。
洲股川の濁流|逆《さか》まく闇夜、さしもの城方の野武士勢も、初めて味わったほどな惨鼻《さんび》な戦争をした。
味方の死傷もかなり出たが、美濃方は、完膚《かんぷ》なきまでの惨敗を、その夜、記録してしまった。
それに懲《こ》りたか。
永禄五年のその年は、遂に年の暮れるまで二度と、美濃からの襲撃もなかった。
かかる間に、藤吉郎は、なお残りの内部と外装の工事をほとんど完成させて、翌六年の一月早々は、蜂須賀小六を伴《ともな》って、信長の居城へ報告がてら、年頭の祝賀に帰っていた。
主君の居城にも、大きな変化がその間にあった。
かねてから計画は進んでいたのであるが、地勢水利の悪い清洲をすてて、小牧山へ居城を移したことである。
城下の民衆も、みな信長について、新城の膝下《しつか》へ移転し、小牧山には新しい町屋が旺《さか》んに興りつつあった。
藤吉郎を、その新城に見ると、信長は労を犒《ねぎら》って、
「約束である。洲股城には、そのままその方が住め、禄五百貫を与えよう」
と、いった。
さらに、非常な機嫌で、主従雑談の末、それまで名乗《なのり》を持たない、木下藤吉郎に、
秀吉《ひでよし》。
という名をも与えた。
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一擒一縦《いつきんいつしよう》
築き取りにするがいい。
首尾よく工を成し遂げたらその城はおまえのものだ。
信長と云い交《か》わした当初の約束は確かにそうだったが、竣工《しゆんこう》を告げに帰ると、
――そのまま住め。
とはいったが、与えるとはいわれなかった。
同じようなものだが、藤吉郎秀吉は、まだ一城の主《あるじ》たるの資格はゆるされないものと思った。
なぜならば、自分の推挙《すいきよ》で、新たに織田家の家臣となった蜂須賀小六に対しても、
「秀吉の後見《こうけん》として、そちも洲股《すのまた》に詰めておるように」
と、命があったからである。
主君とはそうしたものか、などという不平を抱く代りに、藤吉郎は、
「新規にいただきました五百貫の恩地は、斬り取りいたしとう存じますが」
と、願い出て、信長のゆるしを得ると、もう正月七日は、洲股の城にいた。
「味方の一兵一卒も損せず、主君の領土の一木一石も用いずに、築きあげたこの城だ。五百貫の禄地も、敵から斬り取って、天禄《てんろく》を喰おう。――秀吉はそう存ずるが、彦《ひこ》右衛門《えもん》や、一同の考えはどうか」
帰ると、諸士へ計《はか》った。
蜂須賀正勝は、旧名の小六を捨てて、この正月から、彦右衛門正勝と改めていた。
「おもしろい」
彦右衛門は、今では全く藤吉郎に心服していた。信長から「後見に」とはいわれても、ほとんど、臣下の礼を執って、さらに旧縁にこだわ[#「こだわ」に傍点]らなかった。
「さらば」
と、奇略の兵を放って、その月から近郷の領地を攻めにかかった。もちろん斬り取りする領土は美濃《みの》のものであった。
信長から与えられた禄高は、五百貫であったが、斬り取りした領地は千貫に余っていた。
信長は聞いて苦笑した。
「あの猿一匹で、美濃一国を奪《と》るに足りる。苦情をいわぬ男も世にはあるものだ」
地盤はできた。
気はすでに美濃を呑んでいる。
けれど、敵の本城、稲葉山から遠い飛領《とびりよう》などは斬り取りできても、さて一水《いつすい》を隔てた斎藤家の本領は、さすがに頑《がん》としたところがある。
洲股《すのまた》の新城を足場として前後二回ほど、信長は突破を試みたが、全然、手ごたえもなかった。鉄壁へぶつかる感じである。
藤吉郎も、彦右衛門も、
「むしろ当然」
と、していた。
なぜならば、こんどは敵も必死をそこに集結しているからである。大国の富強をあげてこの一水《いつすい》を守りとしている。尾張の微勢では、正攻法で抜けるわけはなかった。
それに。
敵は、築城のなった後、前の不覚に懲《こ》りている。藤吉郎秀吉というものを見直していた。
(猿、猿とはいうが、微賤に身を起して、織田家でも、余りよくも用いられなかったくせに、奇略縦横《きりやくじゆうおう》、よく部下をつかう有能の士だ)
と、彼の評ばんはかえって織田家以上に、敵方へ高くなっているせい[#「せい」に傍点]もあって、
(油断ならず)
と、いっそう敵の布陣は強化していたわけだった。
二度の失敗に、信長は、後詰《ごづめ》の出兵をひかえたのみでなく、一応兵をのこらず小牧山《こまきやま》へ退《ひ》いて、その年は、待とうとした。
藤吉郎はしかし待たなかった。彼は、美濃平野から中部山脈を一眸《いちぼう》にする城に立って、
「どうしたら美濃を」
と、腕ぐみしていた。
彼の呼び起そうとする大兵は、小牧山になく、洲股になく、彼の胸三寸のうちに住んでいた。
城の望楼《ぼうろう》を下りて、自分の居間にもどると、藤吉郎は、
「彦右衛門はおるか」
と、訊ね、部下の者が、いる由を答えると、
「ちと、相談がある。彦右衛門にすぐ来てくれまいか――といってくれ」
と、いいつけた。
蜂須賀彦右衛門正勝は、信長の命で、後見としてこの洲股にいることになったので、守将の藤吉郎の配下についたわけであるが、藤吉郎の家臣ではない。それに以前の旧縁もあるので、藤吉郎も粗略《そりやく》には扱わなかった。
「お呼びの由だが、何か御用かな」
彦右衛門は、すぐ見えた。
蜂須賀村にいた頃の小六正勝とちがって、彼は、礼儀正しかった。
藤吉郎の前へ出ても、以前の関係などにこだわるふうもなく、自分よりずっと若い藤吉郎を、守将と立てていた。
「もっと寄ってもらいたい」
「では、御免を」
「おまえ達は、退《さが》っておれ。おれが呼ぶまで――」
と、藤吉郎は側にいる侍を遠ざけて、
「……折り入って、相談だが」
「は、何事の?」
「その前にだ」
と、声を落し――
「美濃の内状は、この藤吉郎よりも、お手前のほうが通じておると思うが、今なお、美濃が大国の強固を保って、この洲股といえども、枕を高くしていられない底力は――一体どこにあるのだろうか」
「人物でしょうか」
「ウム。その人物だが。――もとより暗愚な斎藤|龍興《たつおき》という国主の力ではあるまい」
「美濃の三人衆といわれておる人々が、秀龍、義龍時代からの旧盟を守って、今日でも、斎藤家を援《たす》けておるため――といっても過言でありますまい」
「その三人衆とは」
「ご承知とぞんずるが――厚見郡《あつみごおり》鏡島《かがみじま》の城主、安藤|伊賀守範俊《いがのかみのりとし》」
「ウム」
と、藤吉郎は、手を膝において、頷《うなず》きと共に、指を一つ折る。
「安八郡《あんぱちごおり》曾根《そね》の城主、稲葉伊予守通朝《いなばいよのかみみちとも》」
「むむ」
「次いでは、同じく安八郡大垣の城主、氏家《うじいえ》常陸介《ひたちのすけ》です」
「ほかには」
「……さあ?」
彦右衛門は小首を傾《かし》げて、
「その他に、美濃の大人物といえば、不破郡《ふわごおり》岩手《いわて》の人、竹中半兵衛|重治《しげはる》ですが、これは数年前に、仔細あって、主家斎藤家へ出仕を絶ち、今では栗原山の山中に閑居しておるゆえ、考慮のうちへ入れなくてもよいでしょう」
「するとまず、今のところその三人衆の力が、専ら美濃の国力を支えておるといってもよいかな」
「――と、この方は信じるが」
「相談は、そこだが、その支えを抜き取る工夫はあるまいか」
「ないでしょう!」
彦右衛門はほとんど断言して、
「真の人物は、然諾《ぜんだく》を重んじ、名利では動かない。たとえば、其許《そこもと》の丈夫な歯を三本抜けるかというに、これは抜けないにきまっていましょう」
「そうも限らぬ。法をもってすれば」
と、藤吉郎は軽くうけ、
「この洲股《すのまた》の築城中敵はしばしば、総攻めをやって来たが、その折、薄気味のわるい敵が一方にいた」
「はて。誰であろう」
「いつもじっとしたままで、動いて来ない敵だ。――ここより何里か上流の鵜沼《うぬま》の城主」
「あ、大沢治郎左衛門ですな。鵜沼の虎といわれている猛将です」
「あの男に……その虎に……何か近づく縁引はあるまいか」
「ないこともありませぬ」
「あるか」
「治郎左衛門の弟に、大沢《おおさわ》主水《もんど》なる者があります。年来の懇意ですが」
「お手前と」
「自分とも。弟の又十郎とも」
「それは、ありがたい」
手を打たんばかりな欣びが、藤吉郎の相好《そうごう》をくずした。
「どこにおるのか、その主水《もんど》なる者は」
「ただ今でも、稲葉山の城下に仕えておると思いますが」
「又十郎を、密使にやって、主水と連絡がとれまいか」
「必要とあれば、遣《つか》わしましょう――」
と、彦右衛門は答えてから、
「御用向きは」
「主水《もんど》を用いて、大沢治郎左衛門を、斎藤家から離反させ――そしてまた、その大沢治郎左衛門を用いて、美濃三人衆の人物を、一人一人歯を抜くように抜いてゆくという順序だが」
「三人衆は抜けますまいが、幸いなことには、主水は兄とちがって、利慾に敏《さと》い人間ですから、これは利をもってすれば、使えましょう」
「いや、鵜沼の虎を動かすには、主水だけでは力が足らぬ。あの虎をこっちの檻《おり》へ入れるには、もうひとり脇役《わきやく》が要る。それには、お手前の甥《おい》、渡辺天蔵《わたなべてんぞう》を働かせようと思うが」
「至極でござる。――が、その二人を用いて、如何なる妙策がおありかな」
「こうだ。彦右衛門」
藤吉郎は、自分からすり寄って、蜂須賀彦右衛門の耳へ、低声《こごえ》でなにか策略をささやいた。
「……ムム。なるほど」
と、呻《うめ》いたきりで、彦右衛門は、しばらく、相手の顔を見まもっていた。
同じ頭脳《あたま》をもちながら、どこからそんな鬼謀《きぼう》と鋭い神算がひらめくものかと、自分の頭脳《あたま》とくらべて、呆れ顔であった。
「早速にも、又十郎、天蔵の両名をさし向けたいが」
「心得申した。敵地へ入ることゆえ、夜半《よなか》を待って、河を渡らせましょう」
「両名へは、御辺《ごへん》からつぶさに、策をさずけ、注意などしてもらいたいが」
「その儀も」
と、呑みこんで、彦右衛門は、守将の部屋を退《さが》って出た。
今のところ、この城中の兵は、大半以上、元蜂須賀村の野武士の出が、侍となって固めているが、彦右衛門の弟、蜂須賀又十郎だの、甥の渡辺天蔵なども、武者溜《むしやだま》りのうちにいた。
その二人は、彦右衛門から使命をうけて、旅《たび》商人《あきんど》に変装し、その日の真夜半《まよなか》、どこへともなく城から出て行った。
いうまでもなく、目的地は、敵国の本拠地――稲葉山の城下にある。
天蔵も又十郎も、そうした使命には元来、打ッてつけの生い立ちである。
間もなく、二人は、使命を果して、ふたたび洲股へ帰って来た。
その間、約一ヵ月。
大河をへだてて、美濃の気はいをながめていると、噂は、そろそろ聞えて来た。
(鵜沼《うぬま》の虎はくさいぞ)
(前から治郎左衛門は、尾張へ内通していたのだ)
(だから、洲股の築城中も、不破平四郎の指揮に服さず、総がかりといっても、兵を動かさなかったのだ)
そういう噂である。
また、こういう風説もとんだ。
(近いうちに、大沢治郎左衛門は、稲葉山城へ呼びつけられ、その責めを問われるもようだ)
(鵜沼の城地も、没収をくうだろう。――稲葉山へ、虎を呼びよせておいてから)
美濃の国中に、それはいかにも真《まこと》しやかに喧伝《けんでん》された。
――喧伝の火元は、いうまでもなく渡辺天蔵。いや、洲股城に坐っている藤吉郎その者であった。
「もう頃合の時分だろう。彦右衛門、鵜沼へ参ってくれまいか」
「密使ですか」
「書面は認《したた》めておいた。大沢治郎左衛門にわたして貰いたい」
「承知しました」
「要は、彼を誘うにある。そのまえに日と場所を打ち合わせ、この藤吉郎も出向いて、治郎左衛門と会うまでに、事を運んでもらえば重畳《ちようじよう》であるが」
「委細、心得ました」
藤吉郎の書簡をもって、蜂須賀彦右衛門は、ひそかに鵜沼城を訪れた。
洲股の密使と聞いて、城主の大沢治郎左衛門は、
「はて。何事か」
と、首をかしげた。
鵜沼の猛虎――といわれる豪勇な彼も、近頃は、怏々《おうおう》と心の楽しまない顔だった。病気と称して、一切、人を避けているのである。
稲葉山の斎藤龍興からは、先頃からしきりと、
――出仕あるべし。
と、召状《めしじよう》が来ていた。
一族も家臣も、彼が、それに応じて稲葉山へ行くことを惧《おそ》れていたが、治郎左衛門自身も、病《やまい》と称して、出向く気ぶりは見えなかった。
ここへも当然、風説は聞えて来た。彼は一身の危険をおぼえていた。讒臣《ざんしん》どもの策謀を恨んでいた。また、斎藤家の紊乱《ぶんらん》と主君の不明を嘆いてもいた。――が、どうしようもない。つめ[#「つめ」に傍点]腹を切らねばならぬ日が目に見えていた。
そこへ。
敵の洲股《すのまた》城から、蜂須賀彦右衛門の密《ひそ》かな訪れだったので、ふと、
「――会ってみようか」
と、心がうごいた。
木下藤吉郎からの手書が渡された。治郎左衛門は一読すると、すぐ焼きすてた。そして口で、彦右衛門に返辞した。
「近日、改めて、場所と日とを、当方よりお示し申すゆえ、藤吉郎殿にも、お出向きねがいたい」
それから半月ほど経《た》った。
鵜沼《うぬま》から洲股へ、知らせが届いた。藤吉郎は、彦右衛門のほか、気のゆるせる部下を、わずか十名ばかり連れて、指定の場所まで赴いた。
場所は、ちょうど鵜沼と洲股との中間あたりで、ただの民家だった。双方の家来たちは、岸に残って附近の見張に立ち、藤吉郎と治郎左衛門と、二人きりで、木曾川の上に小舟を出した。
膝と膝をつき合わせて、どんな密談が交わされたか。
大河の水にまかせた一葉の小舟は、かなり長時間、世の耳目《じもく》から遠ざかって、明媚《めいび》な風光のうちに漂《ただよ》っていた。
会見は、無事終った。
洲股城へ帰ってから、
「七日のうちに来るだろう」
藤吉郎は、彦右衛門の耳へ、それだけ洩らした。
果たして。
幾日かの後。大沢治郎左衛門は、極秘の裡《うち》に、洲股へ見えた。藤吉郎は、慇懃《いんぎん》にこれを迎えて、城内の兵も知らないうちに、即日、彼を伴《ともな》って、小牧山へ向った。
そして、先に一人で、信長に謁《えつ》し、
「美濃の猛虎といわるる斎藤方の大沢治郎左衛門を召しつれて参りました。彼はすでに、私の説破によって、変心を抱いております。斎藤家を見限って、御当家に属したい気もちに充分なっておりますゆえ、殿から直接、何かおことばを賜われば、得がたき猛将一名と、鵜沼一城は、手ぬらさずに織田の勢力に加わることと相成りましょう。――どうか、会ってやって戴きとうぞんじまする」
と、いった。
信長は、驚き顔のうちにも、彼のはなしを、仔細《しさい》に検討している気ぶりだった。
なぜ主君は歓んでくれないのだろうか。――藤吉郎としては、すこし不足である。
自分の功を誇るのではないが、美濃の猛虎といわれる治郎左衛門を、敵の歯列から抜き擒《と》って、主君の見参にまで引いて来たのは、大きな土産《みやげ》のつもりであった。当然、信長も歓《よろこ》んでくれるものと思っていた。
――が、考えてみると。
これは、信長と謀《はか》ってした仕事ではなかった。
藤吉郎の着想であり、諸事、彼の独りぎめで運んだ仕事であった。
(その点かな?)
どうもそうらしく、信長の顔いろが見られた。
――出すぎる釘《くぎ》は打たれる。
ということばがあるが、それを自分の信条に直して、
――出過ぎる釘は打ッておけ。
と、心得ている人は、この主君である。藤吉郎もそこはよく弁《わきま》えている。
だから彼は、信長の眼に、自分のあたまが、釘のあたまのように、眼につくことは常々警戒していたところである。――とはいえ、味方のためと知れていることを、拱手《うでぐみ》して、なさずにいる――ということもできなかった。
「ま、ともあれ、会ってくれよう。――呼べ」
ようやく、信長の不承不承らしい、許容であった。
「はッ、ではこれへ」
図《ず》を外《はず》さず、藤吉郎は別間に控えさせておいた治郎左衛門を連れて来た。
「おう、御成人なされましたなあ。殿には初めてと思し召されましょうが、治郎左衛門がお姿を拝すことは、きょうが二度目でござる。――初の御拝姿《ごはいし》は、今より十年前、富田《とんだ》の正徳寺《しようとくじ》において、わが故主、斎藤道三山城守様と、聟舅《むこしゆうと》のお出会いをなされました――その折、お供のうちに加わって、あれが尾張の信長殿かと、遠くからお眼にかかったことでござった」
治郎左衛門のことばに、
「そうか。そうであったか」
と、信長は口尠《くちすく》ない。
その間に、治郎左衛門の人物を観ているふうであった。
治郎左衛門は、敢えて、諂《へつ》らわなかった。
また、卑《いや》しく媚《こ》びもせず、
「敵ながら、近年のお働きぶりは、治郎左衛門も、よそながら感じ入ってござる」
とか、
「初めて、富田の正徳寺で、お姿を見た折は、お十六ぐらいな、腕白の殿と見申したが、今日、小牧のお城へ来て、一瞥《いちべつ》いたすに、士規《しき》整然として、以前の世評とは打って変った御家政ぶり、近年の隆々たるお勢いも、故《ゆえ》あるかなと、思いあたってござる」
とか、雑談ぶりも、対等の人とはなすような態度であった。
嫌味がない。
虚心坦懐《きよしんたんかい》である。
猛勇一方のみでなく、人がら[#「がら」に傍点]もなかなかいい。藤吉郎は、そう思って、治郎左衛門をながめていたが、
「追って、日を改めて、またゆるゆる御見《ぎよけん》に入ろう。今日は信長も多事なれば」
と、信長はあっさり会見を終って立ってしまった。
そして後から、藤吉郎だけを、奥へ召し入れて、何か密《ひそ》かに云い渡した。
何をいわれて来たか、藤吉郎の顔いろは、ひどく困惑していた。
だが、治郎左衛門には、何も告げず、その夜は、自分が歓待役となって、小牧山に一夜を明かし、
「いずれ詳しいことは、立ち帰ってから」
と、ふたたび彼を伴《ともな》って、自分の居城|洲股《すのまた》へさして行った。
洲股の城へ帰ると、
「治郎左衛門どの。あなたに対して、藤吉郎、真《まこと》に申しわけのない立場になった。死をもってお詫びする所存であるが」
と、ただ二人きりとなって、人なき一室で、藤吉郎はこう彼にはなした。
「自分は、主君信長様におかれても、必ず自分同様の気もちで、喜んで貴公をお味方に迎えてくれるものと信じ――かくの如くお誘い申したが――主君の貴殿に対するお考えはまるで違っていた」
嘆息《ためいき》と共に、彼は吐き出して云った。
そしてその後を、ややしばし、沈湎《ちんめん》とさしうつ向いているのだった。
治郎左衛門も、信長と会って、あまり信長の感じがよくなかったことは、自分でも覚《さと》っていたので、
「ひどく、ご当惑らしいが、一体どうしたわけでござるか。治郎左衛門も決して、強いて信長殿の禄《ろく》を喰《は》まねば生きてゆけぬというわけではなし、お気軽く打ち明けてもらいたい」
「実は……それだけならよろしいが」
藤吉郎は、口渋《くちしぶ》っていたが、急に肚《はら》を決めたように、膝を改めて、
「――いや、なにもかも、底を割って、おはなし申してしまおう。こういうわけだ、治郎左衛門どの。それがしが立ち帰る折、主君信長様には、密《ひそ》かに自分を一室へ召されて、藤吉郎、そちは兵法の反間苦肉《はんかんくにく》ということを知らぬな、というお叱言《こごと》なのだ。美濃に聞えの高い大沢治郎左衛門ほどな人物が、なんでその方ごとき者の口舌《こうぜつ》に安心して、信長に降ってくるわけがあろうぞ――とこう意外な仰せではないか」
「ムム。なるほど」
「さらにまた、仰せらるるには――鵜沼城の大沢こそは、多年のあいだ国境の将として、美濃を守りとおし、尾張を苦しめとおして来た敵門の虎だ。おそらくは、そちこそ大沢の口舌に騙《たば》かられて、不敵な彼奴に操《あやつ》られておるにちがいない――と、お疑いあそばしてな」
「……む、むう」
「彼を、小牧山へ長く滞留させおくことも、味方の内状を存分に探らせておくようなもの。すぐ洲股のほうへ連れ戻れ。――連れ戻った上は」
ごく[#「ごく」に傍点]と、喉《のど》のつかえたように、藤吉郎はそこで一息切って、治郎左衛門の顔を見つめた。治郎左衛門も、さすがに、やや動じた顔いろを示しながら、
――そして?
と、後の言葉を、促《うなが》すように、相手の眼をみまもった。
「――申し難《にく》いが、君命でござれば、左様お聞きねがいたい。実は、洲股へ貴公をつれ戻ったら、城中に閉じこめて、治郎左衛門を斬ってしまえ。絶好な機《しお》である。抜かるな……と、かように主君より励まされて来たのでござる」
「…………」
猛虎といわれる治郎左衛門も、身を顧みれば、一兵も持ってはいないし、ここは敵の城内であった。鳥肌のようになった襟《えり》の毛すじが、そそけ立って見えた。
藤吉郎は、語をつづけて、
「――が、自分としてはです、その主命に奉じれば、あなたに誓った前約を破ることになる。武士道の信義を自《みずか》らふみにじることになる。――これは出来ぬ。――と申して、武士の信義を欠くまいとすれば、主命に反《そむ》くことと相成る。藤吉郎、進退ここにきわまったここちでござる。それゆえ、小牧山からもどる途中も、途々《みちみち》、怏々《おうおう》と心も楽しまず、さだめし御不審にも思われたでござろうが、どうか、御疑念をはらして下さい。今は、心もさわやかに、自身、解決を持っておりますから」
「どう? ……どう胸をすえたといわれるのか」
「藤吉郎の腹一つ切って、其許《そこもと》へも、また御主君へも、双方へお詫びする所存。それしかありません。……治郎左衛門どの、今夕は、おわかれの一盞《いつさん》を酌《く》もう。その後で、藤吉郎は自決する。きっと貴公へ討手《うつて》のかからぬよう引きうける。貴公は、夜陰《やいん》にまぎれて、ここを逃げ落ちてください。――それがしの身にかまわず、どうぞ安心して!」
「…………」
始終を黙然《もくねん》と聞いていた治郎左衛門の眼は、涙でいっぱいになった。
虎と綽名《あだな》のある剛骨な半面には、人なみ以上な涙もろさと、義に感じる性情が強かった。
「……かたじけない」
拳《こぶし》を、眼にあてると、彼は洟《はな》をすすった。これが千軍万馬の中の猛将だろうかと、怪しまれるくらいだった。
「だ……だが藤吉郎どの、お身が腹を切るなどとは、もってのほかだ。切るといっても、治郎左衛門は、切らすわけに参らぬ」
「でも。そう致すしか、あなたへお詫びのことばもないし、なお、君公へ対しても」
「いや、何と仰せあろうとも、おん身に腹を切らして、拙者ひとり助かっては、義に欠ける。――てまえの武士が立たぬ」
「あなたを説いて、誘うたのもこの藤吉郎。主君の思し召しのほどを、考え過《あやま》ったのも、この藤吉郎でござる。さすれば右へも左へも、それがしが罪を謝して切腹するのは当然です。どうか、お止め下さるな」
「何の、過誤《あやまち》といえば、この治郎左衛門の浅慮《あさはか》にもあったことだ。尊公が腹を切るには及ばん。――尊公の義心に愛《め》でて、治郎左衛門の首は、尊公へ進上する。いざ、後ともいわず、拙者の首を、小牧山へお持ちあるがよい」
治郎左衛門は、脇差に手をかけて、即座に、自決しようとした。
藤吉郎は、あわてて、その手を、固くとらえ、
「あッ、なにを召さるか」
「離しなさい」
「離しません。あなたに屠腹《とふく》させるくらいなら、何を苦しみましょうか」
「分ッている。だからこの首を進上するのだ。もしお身が卑劣な手を構えて、この首を所望と参れば、大沢治郎左衛門とて、死人の山をきずいても逃げてみせるが――お身の義心に感じ入ったゆえ」
「ま、しばらく……しばらく考えさせて下さい。――そうだ、お互いに死ぬのを争ってみてもぜひないこと。治郎左衛門どの、それ程まで、この藤吉郎をお信じ下さるなら、ここに、あなたも私も生きて、なおなお、武門の面目も立つ一策があるが、何と、もう一歩、織田家へ加担《かたん》を見せてくださるお心はありませんか」
「もう一歩とは」
「……つまり信長様のお疑いは、あなたの人物を重く見ておられるためです。ですから、ここであなたが一働《ひとはたら》き、織田家のためにお味方たるの事実をお示し下さるものなら、お疑いも解け、従って、あなたも私も……」
急に、彼は声をひそめた。そして自分の思案を、治郎左衛門の耳へささやいた。
――その夜。
大沢治郎左衛門は、洲股城を出て、どこへともなく立ち去った。
彼が、藤吉郎から授けられた策とは何であったろうか。
それは、誰も知るよしもなかったが、後になって自然に分った。斎藤方の柱石といってもよい西美濃《にしみの》の三人衆――稲葉伊予守《いなばいよのかみ》、安藤伊賀守《あんどういがのかみ》、氏家《うじいえ》常陸介《ひたちのすけ》の三名が、相伴《あいともな》って、織田家へ随身を申し入れて来たことで――その人々を説きまわって手引きの役目をした者は即ち、大沢治郎左衛門だったからである。
当然、藤吉郎も腹を切らず、治郎左衛門の首尾もよく、信長は居ながらにして美濃の四名将を味方に加えた。信長の智か、藤吉郎の才か。こうふたりの君臣のあいだは、微妙な心機《しんき》と心機にあるらしく、傍《はた》からは眼に見ていても、模糊《もこ》としていて、どっちの腹芸なのかわからなかった。
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竹中半兵衛《たけなかはんべえ》
西へ一歩を占めたと思うと、南に一顧《いつこ》の不安がわいていた。
伊勢である。北畠一族の勢力であった。
清洲から小牧山へ、信長が城を移したと見ると、北畠一族の蠢動《しゆんどう》が目立ってきた。
「誰を押《おさ》えに」
と、信長は始終、それへも心を労していた。
勢州《せいしゆう》の押えには、滝川一益《たきがわかずます》に如《し》く者はなかった。彼は、分別者ではあるし、三河の松平家とは昵懇《じつこん》であるから、なにかにつけ、任《まか》しておくことができる。
「なにしても、美濃を収めてしまわぬうちは――」
それにつけ信長は、このところやや焦心《あせ》りだした。
洲股《すのまた》一城を作るにも、かなり大きな犠牲を払ったし、年月も費やしたので、当然、彼の思索は、常に、そこへ充血していた。
(――舅《しゆうと》山城守|道三《どうさん》の怨みをはらし、不義不倫の醜族《しゆうぞく》を討ち、悪政の下にあえぐ良民を救う!)
と、号して、天下へ公言した戦《いくさ》の趣旨も、こう歳月が経っているまには、自然ことば[#「ことば」に傍点]に腐りが生じる。
(どう墜《おと》すか)
と、後ろでニヤニヤ見ている感じのある三河の松平に対しても、鼎《かなえ》の軽重を問われるというものである。織田の実力を、この程度と計られることは、せっかく結び得た織田松平|連携《れんけい》の盟約をふたたび危うくしない限りもない。
で――信長は、どうしても、あせりぎみになった。味方の陣営へ、大沢治郎左衛門を加え、西美濃の三人衆を引きこんでも、単にそれだけでは、さしたる喜色にもなれなかった。
「一挙《いつきよ》に」
と、軍議にかかった。
桶狭間《おけはざま》このかた、信長のこの「一挙に――」という信念は、何かにつけ、以前より強くなったようである。従って、藤吉郎などは常に、その反対な考えをもつ場合が多くなった。この年、夏の初めに起った「一挙美濃入り」の軍議にも、始終、彼はだまって末席にいた。
「そちは如何に思うか」
と、訊かれた時、初めて、
「まだ、機は熟さないかと、思われます」
と、答えた。
非常に信長の意にそまない返辞だった。信長は咎《とが》めるように、
「鵜沼《うぬま》の虎を用いて、西美濃の三人衆だに降《くだ》してしまえば、美濃は、居ながらにも自滅するように申したのは、そちではないか。なぜ、まだ時が早いというか」
「そうは参りませぬ。美濃は、おそれながら御当家の何十倍も富強です」
「前には、人材のかど[#「かど」に傍点]を申し、こんどは富強をあげて云い恐れおる。そうしては、いつの日か、美濃攻めをやり果せようか」
信長はもう彼にものを問わなかった。そして軍議は、すすめられた。
驚くべき大軍が、小牧を発し、洲股を陣地として、美濃へ向けられたのは夏だった。
河を越えて、敵地へはいっての戦いは、一月の余にわたった。その間、たくさんな戦傷者が、後方へ送り返された。いつまでも、味方の勝報はなかった。
戦いつかれた軍は、ただまっ黒になって、将士みな口をむすんだまま憂暗《ゆうあん》な顔をもって、小牧山へ帰って来た。
「どうだった? 戦いは」
留守の者に訊かれると、誰もみな、重い首を、だまって横に振るだけだった。
信長も、以来、沈黙していた。戦いは、いつも桶狭間《おけはざま》のようには行かないものであると、ひとり教えられていたにちがいなかった。
洲股の城も静かに、ただ蕭々《しようしよう》と、大河の秋の訪れに吹かれていた。
「――彦右衛門」
「はッ」
唐突だった。
何を思い出したか、藤吉郎から急に訊《たず》ねだしたのである。
「以前の小六党の野武士だった中には、諸国の生れが雑多にいたろうが、その中に美濃者もずいぶんあろうな」
「おりまする」
「不破郡《ふわごおり》の生れの者はいないだろうか」
「調べてみましょう」
「む。いたらこれへ呼んでくれまいか」
藤吉郎は、居間にいた。
すると蜂須賀彦右衛門は、やがて以前の野武士だった組のうちから、佐屋桑十《さやくわじゆう》という男を庭さきへ拉《らつ》して来た。
三十がらみの強そうな男に見えた。洲股《すのまた》へ来てからは、普請《ふしん》にも働き、厩方《うまやかた》の役について、今では、実直な家中の一名だと、彦右衛門から云い添えた。
「佐屋桑十というか」
「はい」
「美濃の不破郡の産か」
「垂井《たるい》の在でござる」
「では、あの辺の地理にはくわしかろうな」
「二十歳《はたち》までは、故郷《くに》におりましたゆえ、少しは」
「縁者はないか」
「妹がおりまする」
「なにしておる」
「土地の農家に嫁《かたづ》いておりまして、もう子もあろうと存じます」
「帰りたくないか、一度は」
「そんな気は起りませぬ。野武士の兄が帰って来たと聞えると、妹が、良人の縁者や世間へ、辛い思いをすると思われますから」
「――が、それは以前のこと、今では洲股城の家中、ひとかどの侍、何のひけ目もなかろうではないか」
「しかし、不破郡は、西美濃の要地でございますぞ。敵国へなにしに」
「ア、なるほど、そうであったな」
藤吉郎は、分りきっていることに、何度も頷《うなず》いて――その頷きのうちに意を決めたらしく、
「しからばその方に、わしの供をいいつける。なるべく人眼立たぬ身なり[#「なり」に傍点]して――旅支度であるぞ――宵の口までに、もう一度、この庭先の木戸まで来ておれ」
と、いいつけた。
――後で。
「にわかに、どこへお出《い》でになるお考えか」
蜂須賀彦右衛門は、不審そうに訊ねた。
その耳へ、藤吉郎は、声をひそめて、
「実はな。……栗原山《くりはらやま》まで」
と、囁《ささや》いた。
彦右衛門は、本気かと、疑うような眼をして彼の面《おもて》を見直した。――先頃から藤吉郎の腹中に、何があるかは、およそ推量をつけていたが、
――栗原山まで。
と、出かける意思を聞いては、一驚せずにいられなかった。
その栗原山には今、近頃の孔明《こうめい》か楠《くすのき》の再来かのようにいわれている斎藤家の旧臣、竹中半兵衛重治《たけなかはんべえしげはる》が閑居している。
その半兵衛重治の人間についてだの、また、斎藤家との関係などを、先日からしきりに詮索《せんさく》していた藤吉郎であったので、
(さてはまた、鵜沼の虎や三人衆を抜いて、織田の軍門へ駒を繋《つな》がせた筆法で――)
とは、およそ見当もついていたが、まさか藤吉郎自身が、敵地ふかくはいって、その栗原山を訪ねる気でいようなどとは、考えられもしなかった。
「ほんとにお出向きになるお心ですか」
「されば」
「真実?」
「何で念を押さるるか」
藤吉郎は、さしたる危険とも大事とも、思っていないふうであった。
「初めて、お身にだけ、意中を明かしたわけだが、内密に行って参ろうと思う。数日のあいだ、留守をたのむ」
「おひとりで……?」
「いや、最前の佐屋桑十を一名連れよう」
「あの男、ひとりの供では、まるで素肌で行くも同じこと。そうして単身敵地へおはいりあって、果たして、栗原山の半兵衛|重治《しげはる》を、首尾ようお味方へ招くことができればよいが」
「それは、むずかしい」
と、独《ひと》り語《ごと》のように呟《つぶや》いて、
「――が、うごかしてみせるつもりだ。こちらが真心をもって参れば、たとえ半兵衛重治が、どれほど斎藤家に対して、金鉄のごとき誼《よし》みをむすんでおろうとも」
彦右衛門はふと、自分が、蜂須賀村で説破された時の、藤吉郎の熱意と弁舌を思いうかべた。
けれど、その雄弁と、熱意とをもってしても、竹中半兵衛を、栗原山から招き降ろすことができるかどうか。
いや、下手《へた》をすれば、山を降りても、半兵衛重治の去就《きよしゆう》は、いずれへつくか不明と見るのが穏当である。織田家でなくて、かえって斎藤家の陣門へ追い込んでしまうかもしれないのだ。そういう惧《おそ》れは多分にある。
現に、風説では。
彼半兵衛は、栗原山に隠れて、閑雲野鶴《かんうんやかく》を友に、世外の隠士となり澄してはいるが、一朝《いつちよう》、旧主斎藤家の危急存亡の時とあれば、いつでも、陣頭に立つであろうとの世評もあるし、――いや事実すでに先頃からの織田軍の大襲《たいしゆう》を退けたのも、彼が、陣頭にこそ立たないが、栗原山から十州の戦雲を大観して、いちいち存慮を斎藤方に通じ、軍機の秘策を授けているからである――と、真《まこと》しやかに伝える者すらある。
――むずかしい。
と、藤吉郎自身がいったとおりの気もちを、彦右衛門は、より以上に同感しながら、大きく呻《うめ》いて、
「むずかしい! ……。それはむずかしいお望みだ」
と、いった。
そして、藤吉郎の考えを、諫《いさ》めたいような顔をした。
すると、
「いやなに」
藤吉郎は、急に、自分からむずかしげな顔を解いて、
「――そうまた、案じたものでもない。すべて、むずかしいことは、存外、やさしく、やさしいと見えることが、実は非常にむずかしいもの。――要は、藤吉郎の真心が、半兵衛に通じるか否かにあろう。相手が相手ゆえ、下手な策や小細工はせぬつもりだ」
と、気軽を示した。
そしてもう密かな旅支度をしはじめているのである。おそらくは、無駄と思いながら、彦右衛門は、止めることもできなかった。なぜならば、日一日と、彼は藤吉郎に対して、その智略にも度量にも、尊敬を増して、自分以上の器《うつわ》と信じ、人間的に、今では自分より一目《いちもく》も二目も上に見ているからであった。
夕方になった。
本丸の木戸口まで、約束どおり佐屋桑十《さやくわじゆう》は旅支度をして来て佇《たたず》んでいた。藤吉郎も、その桑十に劣らない粗末な身支度をして、
「では、彦右衛門、後はたのむぞ」
と、ついそこらへでも出かけるように、旅立ってしまった。
洲股《すのまた》から栗原山までは、そう遠くもない。約十里もあろうか。晴れた日は、養老の峰つづきに、模糊《もこ》と見えるくらいな距離である。
だが、一水《いつすい》の彼方《かなた》は、三本木の砦《とりで》、川並の砦、杭瀬《くいせ》の砦、大垣の城地と、往来という往来、すべて敵の要塞《ようさい》でないところはない。
で――藤吉郎は、遠く道を迂回して、養老郡の山づたいに、不破《ふわ》へはいった。
郷土人の人情や特性を知ろうとするならば、その郷土の山川風土《さんせんふうど》を先に見るに如《し》くはない。
不破郡は、美濃の西部山岳の麓《ふもと》であり、京街道への喉《のど》くびに当っている。
関ケ原の秋草は美しい。
無数の川が、静脈《じようみやく》のように縦横に走っている。
古い歴史と、数々の物語は、しかしみな血なまぐさい過去の碑《ひ》として、秋草の根に残っている。
養老の峰々は、江州との国境をなし、伊吹《いぶき》の山には、たえず雲が去来していた。
竹中半兵衛|重治《しげはる》は、この辺に生れた。――生れたのは稲葉山だというが、幼少から、その多くは伊吹|山麓《さんろく》の岩手で育った。
岩手には、父|重元《しげもと》以来の岩手城を持っていた。
砦《とりで》造りの山城であるが、小なりといえども一城の子であった。
天文《てんもん》四年の生れとあるから、彼は今年まだ二十九歳、白面の一軍学書生でしかない。
信長より一つ下、秀吉より一つ年上であった。
――だのに、もう乱世の功名を見限って、栗原山に一庵《いちあん》をむすび、風月をたのしみ、古人の書を友とし、詩を作り、薪《たきぎ》を割って、たまたま訪れる客にも、決して会わないという――里では噂だった。
よほどな変り者か。
偽者《にせもの》か。
そういわれていい筈なのに、かえって、半兵衛の名は、美濃一国に、人々から尊敬の的《まと》になっているのみか、敵国の尾張まで薫《かんば》しく聞えている。
「見たい」
これが藤吉郎の第一の念願であった。胸に計っている成功はむしろ第二義的であった。
「会って、彼という人物を、親しくみたい」
偽らない気もちはそれである。同じ世に生れあわせた人間の仲間に、そういう稀有《けう》な人傑《じんけつ》がいるのを、会いもせずに過ぎてしまうのは口惜しい――。ましてそれを敵に廻したら、遂に、そういう人傑を、殺すことに熱中しなければならなくなる。そんな遺憾《いかん》はあるまい。
人生の大不幸だ。
「彼が、人を避けて会おうが会うまいが、とにかくおれは行って会う」
藤吉郎の信念だった。成功を祈らない。不成功も思わない。
淡《たん》、雲の如し――という気もち。
関ケ原を経て、垂井《たるい》の宿《しゆく》までかかると、供の佐屋桑十が、
「お道がちがいますよ。栗原山はこの宿場から東へ行くので」
「いや、西だ西だ」
藤吉郎は、先に立って、伊吹山の方へすたすた急いだ。
「どっちが道案内か」
と、桑十は舌打ちした。そう行っては、まるで方角が反対だからである。
しかし、やがて一里ほど行き着いた所で、桑十は初めて、藤吉郎の心がわかった。
そこは不破郡のうちの岩手郷――半兵衛重治が生《お》い立った郷土だったからである。
藤吉郎は、伊吹神社に参籠《さんろう》の者と称して、土地の田舎《いなか》宿に二日ほど泊っていた。そしてその一晩、
「国への土産《みやげ》ばなしに、土地の古老から、めずらしい話など聞きたい。わしが酒を買うから、老人でも若者でも、夜分に遊びに来てもらえんか」
と、旅籠《はたご》のあるじへ頼んだ。
旅のお武家衆が、酒を馳走してくれるそうなと、土地の老人や若い衆たちは、炉ばたへ遊びに来た。藤吉郎は、べつにまた、銭を与えて、亭主に蕎麦《そば》など打たせ、炉べりで酒を温めながら、まず自分から諸国の噺《はなし》をいろいろ持ち出し、やがて酒も程よくまわった頃、
「時に、前の御城主だった竹中半兵衛様とは、いったいどんなお方か」
と、ぼつぼつ、それについて、郷土の者のはなしを耳袋《みみぶくろ》へ集めはじめた。
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病孫子《びようそんし》
菩提山《ぼだいさん》――
それは、この郷《さと》の、岩手城のある山だった。
半兵衛重治《はんべえしげはる》の幼名を、菩提丸とよんだのは、それに因《ちな》んだのかもしれない。
母なる人がたいへん信仰家だったから、或いは、仏教のほうから名づけたのかも分らない。
いずれにせよ、重治は、幼少から違っていた。天才的な子だった。
天才は、一種の畸形《きけい》であるというが、半兵衛重治も病弱だった。――青年の頃になると、その病骨は、なお、はっきり現われて来た。
腺病質《せんびようしつ》という体つきである。痩《や》せぎすで、色白く、耳は美しいばかり紅い。
菩提山に雪がふると、
「――こう寒うては、お城の若様がまた、お咳《せき》を喘《せ》いてばかりいることだろう」
と、領民はすぐ思い出して噂するほど、弱々しかった。また、春になると、
「若様がお馬場へ通る」
と、里の娘たちは、山桃の木にかこまれているお厩門《うまやもん》から出てゆく、城主の嫡子《ちやくし》のすがたを、畑から見るのを、楽しみにしていた。
絵に描いたようだった。
馬のり袴《ばかま》に、桔梗色《ききよういろ》の袖無《そでなし》を羽織り、朱房《しゆぶさ》の鞭《むち》を手にして――伊吹の牧へよく乗りまわしに出るのだった。
十六。
何かの戦いに、初陣した。
「お弱い」
と、いう噂は消されて、武勇の名が高くなった。
学問好きで、書物ばかり読んでいるという風にばかり聞いていた里人《さとびと》は、
「あの細いお体に、具足を着けるだけでも、傷々《いたいた》しい程なのに」
と、彼の武勇を不審がった。
二度目、三度目と、半兵衛重治の出陣が重なるにつれて、その武勇は、敵の首を上げたり、乱軍の中を斬ってまわる武力ではなくて、智謀の勇だということがわかった。
「武門に生れながら体がお弱いので、弓や槍を把《と》っては人におくるるであろうと、早くから孫呉《そんご》の学問にお志しになったものとみえる」
と、家臣の者はいった。
禅へも心をよせた。
菩提山下に一寺を建てて、智識と聞けば、遠くからも招いた。旅の禅僧なども、絶えず泊っていた。
それでも足りないで、半兵衛は京都の大徳寺へ度々|参禅《さんぜん》した。――そして、戦《いくさ》と聞くや、いつも早馬で帰って来て、合戦に加わった。
戦場に出る時の扮装《いでたち》は、いつもきまっていて、それがまた、有名になった。
虎御門《とらごもん》
という太刀は、彼の愛用の銘刀だった。
具足は、馬の皮の裏をわざと表につかって、それへ漆《うるし》をかけた物であるから、粒漆《つぶうるし》が粗目《あらめ》に出て、渋い好みであった。それを浅黄色の木綿糸で縅《おど》したのを着ていた。
兜《かぶと》も、古鉄《ふるがね》の地味な物で、前立《まえだて》に日月が輝いているきりだった。
陣羽織も、青黄の木綿筒袖《もめんつつそで》で、何の刺繍《ぬい》も模様もなかった。
こういう好みにも、彼の性格がうかがえるが、そんな質素な姿でも、一たび陣頭に半兵衛が立つと、
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ワカ殿、魁《サキガケ》ニオ在《ハ》セバ、軍中、何トナク、重キヲナシ、卒伍ノ端々《ハシバシ》マデモ心ヲ安ンジケリ
[#ここで字下げ終わり]
とは、半兵衛に尾《つ》いて従軍した家中の者の日誌にも、見えるところである。
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軍ヲ見給フコト、神ノ如ク、戦フヤ果断、守ルヤ森厳、度量ハ江海《カウカイ》ノ如ク、オン眼ハ常ニ和《ナゴ》ミ給ヒ、イカナル困難ノ時ニアリトモ、徒《イタヅ》ラニ狂躁《キヤウサウ》ノ御唇《オクチ》ヲヒラキ給ヘル例《タメ》シアルコトヲ知ラズ
[#ここで字下げ終わり]
家中の者の筆記なので、幾ぶん贔屓目《ひいきめ》があるとしても、その片鱗《へんりん》は窺《うかが》うことができよう。
――そういったような半兵衛重治の人がらであった。
その半兵衛がまた、つい最近、美濃一国を驚倒《きようとう》させたはなしがある。
事件は、美濃の内部の不統一を暴露するものなので、当時、他国へは、極秘にされていたが、尾張の隠密の耳には、疾《と》くに通っているはずである。
ことしの正月のことだった。
美濃の各将は、稲葉山の城へのぼって、主将斎藤|龍興《たつおき》に、例年のとおり拝賀の礼を執った。
その後、豪華なる酒宴となってから、酒のうえの激論が始まった。
それは、龍興が、あまりに時勢に晦《くら》く、奢《おご》り長じ、こういう席にさえ、日ごろの寵姫《ちようき》を侍《はべ》らせて、すぐに、
(十二の琴《きん》をならべて、女どもに弾《ひ》き競《きそ》わせよ)
とか、
(小姓どもは皆、女すがたして、紅梅白梅をかざし、飛騨踊《ひんだおど》りをしてみせよ)
とか――また、侍たちにさえ、馬になれの、曲飲《きよくの》みをしろのと、ばかげた座興ばかりを求めて、その強《し》いることも極端なので、遂に、黙視できない色をなして、安藤伊賀守が、
(おそれながら、一年の計は、元旦《がんたん》にあるといいます。しかも時勢はあすもしれぬ今日、御酒《ごしゆ》もおたわむれも、程はよけれど、ちと、お心を国境に向けられて、戦場に起《お》き臥《ふ》す士卒たちのことも思うていただきとうござる。――それを思えば、ここのお景色も見ておられませぬ。何がめでたいやら、この稲葉城には、惻々《そくそく》と、滅亡の影が這い寄って来るここちで、それがしなど、酔いもいたしませぬ)
と、直言を吐いた。
龍興の顔が青くなった。それ程でなくても、すぐ眉に針を立てる人である。我儘《わがまま》放埒《ほうらつ》は、父義龍と似ているが、義龍ほどな剛愎《ごうふく》もなし経綸《けいりん》もない彼だった。
(ふ。不吉なッ)
共に血相をかえながら、龍興の側から云ったのは、日根野備中守《ひねのびつちゆうのかみ》という重臣のひとりだった。
(祝賀の席上、稲葉山に滅亡の影が迫っているなどとは。……慮外《りよがい》も慮外。……伊賀殿には、御当家の亡ぶのを、願うてあらッしゃるのか!)
それからの激論だった。
伊賀は、国境の危ないことを、近頃、敵の手に築きあげられた洲股の城を実証として、忌憚《きたん》なく述べたてた。
敵の強さは、毫《ごう》も怖るるにたりないが――と前提して、龍興の行状、国内の不統一、民心の怨嗟《えんさ》、眼にみえない亡兆《ぼうちよう》を一々あげて、
(これでも亡びない国があれば、てまえは甲冑《かつちゆう》などはぬぎ捨て、瓜《うり》を作って、寝て暮します)
と、痛言した。
同じ気もちの者も多いが、みな酒の気をさまして沈黙していた。龍興はいつのまにか、美女に囲まれて、奥へ立ってしまっていたが、やがて、侍臣に令を伝えて来て、
(お召しである)
とのことに、安藤伊賀は、近習に囲まれて、本丸の一室へはいって行ったが、龍興は、いなかった。
気がついてみると、四方の杉戸もすべて開かない。
壁ごしに、
(伊賀どの。主命である。謹慎して、お沙汰を相待て)
と、いう日根野備中の声だけがやがて聞えただけであった。
うまうまと、監禁されたのである。だが、殺しもせず、切腹も強いられなかった。こう強圧的な処分はしたものの、備中守にも龍興にも、内心|憚《はばか》られる人間がひとりいた。
それは、安藤伊賀守の娘聟《むすめむこ》――菩提山《ぼだいさん》の城主竹中半兵衛だった。病身なので、酒ものまず、また始終一言も発せず、席に沈湎《ちんめん》とひかえていたからであった。
病骨とはいえ、半兵衛重治の日頃を知っている者は、舅の安藤伊賀守が監禁された、と知っては、
(よも、このままではすむまい)
と、見ていた。
ところが、やがて半兵衛は、面色もうごかさず、
(弟。お暇しようか)
と、傍らの実弟久作を促《うなが》して、静かに席を立ち、水の引くように、城を退《さが》ってしまった。
龍興は、後で、
(なぜ彼も捕えなかったか)
と、日根野備中を責めたが、事実は、半兵衛の立ち方があまりにも静かで、まるで女性の如くしとやかだったので――備中守ばかりでなく、並居る他の諸将も、気をのまれたというのか、つい放心したまま見送ってしまったのであった。
(必定《ひつじよう》――怨みをふくんで、謀叛《むほん》するにちがいない。備えをなさぬうち、菩提山をとり囲んで、彼奴《きやつ》の城を召し上げてしまえ)
龍興の命に、日根野備中は、すぐ稲葉山の兵をひいて、不破郡の岩手へ向った。
ところが、半兵衛重治は、それに一矢《いつし》も酬《むく》わぬのみか、
(病中なので――)
と、代りの使者を立てて詫びを入れ、弟の竹中久作を人質《ひとじち》として稲葉山へ渡し、飽くまで従順な証《あかし》をみせた。
菩提山も、山下の城も、一月中は雪に埋《う》もれている。その千尺の雪の下に、病孫子《びようそんし》半兵衛は、門を閉じて、慎んでいた。
――こえて二月の二日。
彼は、かねて云い合わせておいたものとみえ、屈強の兵、わずか十六名を具し、身には、常用の馬の裏皮の粒塗胴《つぶぬりどう》を着こみ、青黄木綿の筒袖陣羽織に、虎御門の一刀を佩《は》いて――突《とつ》と、実に突如として――
(稲葉山の城を、この手に取ってみせん)
と、豪語して出かけた。
それより二日ほど前に。
稲葉山にはいっている人質の弟久作から、持病再発、家伝の薬を持たせて、看護の者四、五名送られたし――という手紙が来ていた。その時、さし向けた家来は、ちょうど前日あたり城内へ着いた頃であった。
夜半だった。
半兵衛は、十六名の家来のうしろに佇《たたず》み、先頭の者が、城門をたたいていう。
(久作様、御危篤との急報によって、馳せつけました)
警護の番士は、
(それは不審である。看護の衆は先に薬を持って通った)
と、いう。
(御危篤だ。火急の折。なんでも通せ)
(なんでもとは何事。通すことはならん)
(通せ)
(通さん)
押問答は、二、三名にまかせておいて、その間に、半兵衛重治以下、十三名ほどは、井口城の胸突坂《むなつきざか》を駈け上り、二の丸門も同様な手段で突破し、本丸の中門まで来ると、先にはいっていた腹心の家来が、仮病《けびよう》を称《とな》えていた久作と共に、内から開いた。
(竹中半兵衛重治、ただ今登城――君公に直諫のことこれあるなり。まず、佞臣《ねいしん》ばらに眼にもの見せてくれん)
彼の大音声に驚いて、次々と出て来た者、六、七名まで斬り伏せられた。番頭《ばんがしら》斎藤飛騨守《さいとうひだのかみ》、長井《ながい》新八郎、新五郎の兄弟などである。折わるく日根野備中は居合わせなかった。
その突風一瞬のまに、重治の部下|竹中善左衛門《たけなかぜんざえもん》は、鐘《かね》の丸《まる》へ駈け上って、鐘を打ち鳴らした。
城兵も斎藤龍興も、身内の侍が急を城下の直参《じきさん》へ告げたものとばかり思っていたところ、何ぞ計らん、如月《きさらぎ》の寒夜をいんいんと鳴り渡った鐘と共に、稲葉山の山下を十重二十重にかこんだ兵は、半兵衛重治の手勢千余と舅《しゆうと》安藤伊賀守の家中二千あまりの軍馬だった。
龍興の狼狽《ろうばい》ぶりは、これまた、後々までの語り草だった。
彼は驚きのあまり、半兵衛を糺《ただ》すこともせず、また、一矢《いつし》も酬《むく》わず、わずかな側臣と、一部の城兵に守られて、命からがら祖先の城を立ち退き、稲葉郡黒野村の鵜飼城《うがいじよう》へ逃れてしまった。
こうして半兵衛重治は、たった十六人の郎党をもって、稲葉山城を占領してしまったが、もとより謀叛《むほん》の心ではないので、城下に呼んだ三千の兵には、厳として軍律を立て、また、岐阜《ぎふ》の町々、近郷にわたっては、
(――立ち騒ぐことはない、おまえたちは稼業《かぎよう》を守っておればよい。これは国内大乱とはちがう。安心して土着しておれ)
と、いう意味の布告をまわし、寺院などへは殊に書状を添えて、村々の百姓へよく諭示《ゆし》するように伝えた。
だから稲葉山城は一夜にして空城《あきじろ》となっても、半兵衛重治がそれに坐って、城下の平和はすこしも紊《みだ》れなかったが、四隣の国々は、その実相を知ると、彼の鬼謀胆略《きぼうたんりやく》に驚倒した形で、この機《しお》に――とばかり争って彼に款《かん》を通じて来た。
いわく。
――美濃を分《わ》け奪《ど》りにしようじゃないか。こっちからも物資兵力をいくらでも貸すから。
いわく。
――この機《おり》に、断乎、龍興を打ってしまうがよい。そして足下と国境の約を定めて、共に長く栄えるの計を立てようではないか。
また、いわく。
――足下が、余の国と結ばなければ、余の兵力は、龍興を援護するかもしれない。
などとあらゆる恫喝《どうかつ》や好餌《こうじ》を携《たずさ》えて、浅井、朝倉、武田、北畠などの使者が、半兵衛を自国へ引き入れにやって来たが、半兵衛はそのどれへも、同じ笑いをもって、
(何をうろたえてお見舞にお越しくだされたか。ほんの些細なる内政の些事《さじ》でござる。其許《そこもと》たちの御主君が、半兵衛を御覧なされたいならば、戦場までお越したまわりたい。いつなりとも半兵衛推参、お目にかかり申すであろう)
と、答えた。
彼を引き入れに行った使者のうちには、織田家の使者もあった。信長は、書をもって、
――美濃半国を与うるが、この際、随身の意はないか。
と、云い遣ったのである。
勿論、半兵衛に突っ返された。
半兵衛は、間もなく、自分の意思を、主君へも、天下に向っても、明らかにしてみせた。
城を、龍興に返し、何もいわずに、越前の浅井家へ去ってしまったのである。しばらく、そこに食客していた。
浅井家でも引き留められたが、袂《たもと》を払って、故郷の岩手へもどって来ると、自分の居城を、叔父の竹中|重利《しげとし》にあずけて、
(――自分の一命も、年来|研鑽《けんさん》してきた兵学も、それを捧げ尽くすべき主を見失って、なんだか近頃は、世の中がつまらなくなった。――霧を吸って、机に頬づえをつき、ぼんやり山でも見て暮そうと思う)
と、一族の者に述懐し、
(これからは、心のまま、不自由のないところにも楽しみ、また、不自由の中にも楽しむ――という気で独り送りたいから、わしの住居《すまい》へは、誰も訪《おとの》うてくれるな。出家したと思うてくれ)
そう云い残して、菩提山《ぼだいさん》の城も捨て、妻子も捨て、ただひとり栗原山へ登ってしまった。
山に一庵《いちあん》をむすび、みずから薪《たきぎ》を割り水を汲《く》んで、孤寂《こじやく》な山中人になりきっているとは――樵夫《きこり》や猟夫《りようし》などの口から風のたよりには聞えて来るが、郷《さと》の者も、旧臣たちも、まだ誰もゆるされて、その後の半兵衛に親しく会った者はないのであった。
――以上、旅籠《はたご》の炉ばたに膝をくんで、郷土の人たちから聞き取った話のうちには、藤吉郎がすでに知っていたこともあるし、初めて耳にすることもあった。
いずれにせよ、竹中半兵衛なる人間の輪郭と精神とは、およそながら藤吉郎の胸に頷《うなず》けたにちがいない。
「旦那さまア、何でいったい半兵衛様のことを、そう根ほり葉ほり訊きたがりなさるのだね」
旅籠の主《あるじ》も、村の者も、果てはすこし不審《いぶか》って彼に訊ねた。
「わしは見たとおり、武道で世に立つ考えで、諸国を廻遊しておる者だから、半兵衛重治殿について、一年でも二年でも、軍学の修行を遂《と》げたい気でな、実はそれでやって来たわけだ」
「ははあ、弟子入りなさろうというお考えでかな」
「そうじゃ」
「それやあ断られるにきまっているがな。わざわざ栗原山まで登って追っ返されたら、ばか見ますぞい。止《や》めなされ止めなされ」
口を揃えてみないった。――そういう領民たちの印象から推して想像してみても、半兵衛重治の人間嫌いは、かなり徹しているとみえる。
人一倍、人間くさい自覚を持っている藤吉郎は、そこを訪《と》わぬうちから、半兵衛と自分との対面を想像してみて、思わず苦笑のこみあげてくるのを覚えた。
「――対面とまで行けばもうしめたものだが」
先は雲みたいなものである。名利《みようり》を捨て去った人間というもの程どうにも動かし難いものはない。
顧《かえり》みて藤吉郎は、偽らない自分に問うてみると、わずか年も一つちがいでしかない半兵衛に対して、赤面を覚えるが、名利というも瀟洒《しようしや》に過ぎるほど、慾望だらけ煩悩《ぼんのう》だらけである。
たとえば今、洲股《すのまた》の一城を、あっさり捨てきれるかといえば、決して捨てられない。可愛い寧子《ねね》を捨てられるかといえば、なおなお捨て得ない。
妻はおろか、一人の家来でも、なかなかあっさりは捨て切れない彼から考えると、半兵衛は会わぬ先からたしかに苦手と思われた。
「そんな苦手へ向って、こんな苦労をなぜするか」
藤吉郎は、それも自分へ質問してみた。
翌日、岩手を立ち、晩は、南宮山《なんぐうざん》の麓村《ふもとむら》に一宿し、そこへただ一名の供の佐屋|桑十《くわじゆう》も残して、まったくただ一人、いよいよ栗原山へ登りにかかった日も、途中幾たびか、
「――何でそんな苦手な人間を、無理に山を降《くだ》らしに出かけるか」
を考えてみた。
要するに藤吉郎自身、藤吉郎という人間をよくよく検《あらた》めてみると、途方もない大慾《たいよく》の容器《いれもの》なのである。喜怒哀楽とよぶ愚かなものはみんな盛り上げている盤《ばん》である。花鳥風月にも、恋慕の情にも、骨肉の愛にも、ひとしく心を動かし涙を催《もよお》さずにいられない大凡物《だいぼんぶつ》なのである。
この大慾の凡物を、持って生れて、誰がもて余しているかといえば、他人ではない。彼自身である。――そこで彼は、持て余すまい、よく生かそうと、自己の天性を自己の努力で錬冶《れんや》している。鞴《ふいご》の火みたいな熱意を不断にそれへかけている。――今、登っている栗原山もその熱意が踏んでゆくのである。
――が、それだけで彼の大慾は完成できない。藤吉郎はそれを知っている。自分の求めているのは、自分とまったく反対な名利なき人物であった。凡物とはあべこべな非凡であった。
それも偽者《にせもの》でないことだ。非凡、恬淡《てんたん》の士は、何も天下とまでいわなくても、織田家にだけでも尠《すく》なくないが、すぐ剥《は》げやすい君子ばかりだから、使うとなっては、その使う道に困る。
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山中人《さんちゆうじん》
そう高い山ではない。一名を岡ケ鼻というのでもおよそ知れよう。
その栗原山は、南宮山のつづきで、親に倚《よ》り添う子のような形をしていた。
頂の近くまで来て、
「ああ、美しい」
詩人でない藤吉郎も、思わず恍惚《こうこつ》として、落日の荘厳に打たれていた。――つるべ落しという秋の陽が、もう暮れかけて来たのである。
――余談にわたるが。
後年、関ケ原の役の折には、この南宮山には毛利の軍勢が陣し、栗原山には長束正家《なつかまさいえ》、山下には長曾我部盛親《ちようそかべもりちか》と、いずれも西軍方が布陣して、家康の東軍を窺《うかが》ったものであったが、一たび石田三成《いしだみつなり》の主隊の潰乱《かいらん》から、いちどに鬨《とき》を揚げて敗走している。豊家にとって恨み多き古戦場の一つになっている。
今。若い藤吉郎は、そこに立っているけれど、自分の死後、ここに豊家の瓦解《がかい》を早めた関ケ原役の陣が布《し》かれようなどと、神ならぬ身、どうして思ってもみよう。
青野ケ原の彼方《かなた》、美濃《みの》近江《おうみ》の山々の陰《かげ》へと――荘美な夕雲の彩《いろ》だけを残して、刻々、沈んでゆく落日の大悲光こそ、さながら、やがて大坂城に、雄図《ゆうと》の多恨と身辺の情恨を遺《のこ》して、人寿の命ずるところ、遂に世を辞し去らねばならなかった自分自身の――後の相《すがた》にもそのままであるなどとも――もとより若い彼は空想もしなかった。
彼の頭は今、
「どうしたら半兵衛|重治《しげはる》を、味方にすることができるか」
しか考えていない。
つい、そう考えるが、また、
「いやいや、策士に策をもって当るなど、下《げ》の下策《げさく》。白紙になって会うにかぎる。虚心坦懐《きよしんたんかい》、ただ自分のこの一生懸命だけを云ってみよう」
と、肚を持ち直すのだった。
ところが肝腎な半兵衛の住居《すまい》がまだ知れない。いずれ侘《わび》しき草庵だろうが、陽の暮れるまで見当らなかった。藤吉郎もまた、急がなかった。暗くなれば自然、燈火《ともしび》がどこかに灯《とも》ろう。徒《いたず》らに歩いて方角を過《あやま》つよりもその方が楽で早いというもの。そう思っているらしい。とっぷり暮れるまで、岩根に腰かけて休んでいた。
やがて一つの沢窪《さわくぼ》を隔てた彼方《かなた》に、ポチと灯が見当った。うねうねと登り下りする細道を辿《たど》って、ようやくそこに行きついた。
赤松にかこまれた中腹の平地である。破《や》れ垣《がき》の一草庵と思いきや、粗末な荒土ながら土塀がひろく繞《めぐ》らしてある。近づけば、燈火も点々、三つ四つは奥のほうに見える。
案内を乞わなくても、塀はあるが厳《いか》めしい門扉《もんぴ》などはない。竹編戸《たけあみど》があるばかりだ。風に揺々《ゆらゆら》とうごいて半ば開いている。
「……これは広い」
藤吉郎は、黙ってはいりこんだ。そこから中が松ばやしである。門から奥のほうまで細道がついている。松落葉のこぼれているほか、塵《ちり》一つない感じである。
小半町もすすむと、ようやく、家らしいものがあった。
牛が啼《な》いている。
牛部屋があるとみえる。
パチパチと火のはぜる音がして、煙がその辺りから、立ちこめてくる。藤吉郎は立ちどまった。沁《し》みる目をこすっていたのである。
しかし、一陣の山風がくると、煙はさっときれいに拭《ぬぐ》い去られてしまう。見れば、竈《かまど》小屋で一人の童子が、竈の下へ枯杉など焚《た》きつけているのだった。
「誰だッ?」
童子は、そこに佇《たたず》んでいる藤吉郎の影を見つけると、怪しんで寄って来た。
「お召使か」
「おらか。……そうだよ」
「自分は尾州織田家の臣、木下藤吉郎というものだが、お取次をねがいたい」
「誰にさ」
「御主人に」
「いないよ。お留守だよ」
「…………」
「ほんとにお留守だってば」
「…………」
「お帰り」
童子は、去ってまた、竈《かまど》の前にすわりこむと、薪《まき》などくべて、振り向きもしない。
山上の夜霧は冷《ひや》やかだった。藤吉郎は、冷たい旅衣を撫でながら、
「小父さんにも、すこしあた[#「あた」に傍点]らせておくれ」
と、童子と並んで、竈《かまど》の前にしゃがみこんだ。
――へんなヤツ。
と、いわないばかり、童子は彼の横顔を、白い眼で一瞥《いちべつ》したきりで、答えもしない。
「寒いな、夜分は」
「山の上だもの。寒いさ」
「お小僧。これ……」
「ここは寺じゃないぜ。おらは半兵衛先生のお弟子だ。お小僧じゃない」
「はははは」
「何を笑うのさ」
「いや、悪かった」
「お帰りよ。知らない人なんか黙って竈小屋へ入れたなんて分ると、先生から後で叱られちまう」
「いや、小父さんが後で、先生によく謝《あやま》っておくからいい」
「会う気かい」
「それやあ、ここまで登って来たのだから、会わないうちは山を下りるものか」
「図々しいなあ、尾張者は。第一、小父さんは尾張者じゃないか」
「いけないのか」
「尾張者は、先生は嫌いだよ。おらだって嫌いだ。敵国じゃないか」
「うーむ、そうだっけな」
「白ぱッくれて、小父さんは、美濃《みの》へ何か探りにでも来たんじゃないか。ただの旅ならさッさと通ったがいいよ。笠の台があぶないぜ」
「これより先へ通りようはない。ここのお住居《すまい》へだけ来たんだから」
「なにしに来たんだい」
「入門しに参ったのだ」
「入門。――おらみたいに先生の弟子になる気かい」
「うん……。お前とも兄弟|弟子《でし》になろうじゃないか。いずれ仲よくしなければならない二人だ。意地のわるいこといわずに先生へ取次いでくれ。飯の焦げないように、竈《かまど》の下は、わしが見ていてやるから」
「いいよ。嫌だよ」
「意地がわるいなあ。……あれあの通り、奥で先生のお咳《せき》の声がするじゃないか」
「それやするさ。先生は夜になると咳が出るんだ。体が弱いから……」
「それ御覧。さっきはお留守だといったくせに」
「いても留守でも同じだよ。どこの国のどんな人が訪ねて来たって、会った例《ため》しはないんだから」
「じゃあ、時節を待とう」
「うん……またおいで」
「いや、この竈《かまど》部屋は暖かくていいから、しばらく逗留《とうりゆう》させておいてもらおう」
「冗談お云いよッ。帰れッてば! ……」
ほんとに怒りだしたとみえ、童子は突っ立ちざま一喝《いつかつ》をくらわせた気で云った。けれど竈の赤い火に、てらてら[#「てらてら」に傍点]揺れ浮いている藤吉郎の笑顔を睨んでいると、いくら怒ろうとする眼も怒れなくなった。
童子は、彼の顔を、じっと睨みつけているうちに、初めは――イヤな奴、と思っていた感情が、だんだんそうでもなくなって来た。
「小熊《こぐま》ッ。小熊ッ」
折もよくその時。
たしかに半兵衛重治と覚《おぼ》しき声が童子を呼びたてていた。
童子は、その声に、びりっとした身ごなしで、
「――はいッ」
藤吉郎を置き捨てて、厨《くりや》から奥へ駈けこんで行ってしまった。
なかなか戻って来なかった。そのうちに竈の上の大鍋から焦《こ》げくさい匂いが漂《ただよ》いだした。
他人《ひと》の喰べる物とは思われず、藤吉郎はあわてて蓋《ふた》の上の杓子《しやくし》をつかみ、大鍋の底をかきまわした。干栗《かちぐり》や乾菜《かんさい》などが交じっている玄米粥《くろごめがゆ》であった。貧乏性とよく人に笑われたりするが、彼は貧農の家に生れたので、米つぶを見ると、母の汗を見るごとく、おろそかに思えなかった。侍になった今でも、茶碗の飯に向うたび、中村の母が思い出された。
「どうしたのだ、あの童子は。……焦げる、焦げる。こいつはいかん」
有り合う雑巾《ぞうきん》を取って、焼けている大鍋のつる[#「つる」に傍点]を掴《つか》んで持ち上げた。そして竈のわきへ下ろしかけた時である。火の中の竹のふし[#「ふし」に傍点]でも刎《は》ねたように――ずどんッ……と鉄砲の音が壁土をゆさぶった。
音に驚いて、竈小屋の暗い隅から、栗鼠《りす》やら鼬《いたち》やらはしこい[#「はしこい」に傍点]獣の影が、もんどり打って外へ逃げた。――が、藤吉郎は、大鍋をのぞいたまま、及び腰になって粥《かゆ》の底をなおかきまわしていた。
「ア。ありがと……。小父さん」
「おお、小熊どのか。焦げつきそうであったから鍋を下ろしておいた。煮加減《にかげん》もよいらしい」
「もうおらの名を覚えたんだね。小父さんは」
「今、奥のほうで、半兵衛先生が、そう呼んだろ。……どうだ、ついでに先生へ、取次いでくれたか」
「呼ばれたのは、ほかの用さ。取次いだって、むだなことを、先生に聞かせても、怒られるだけだから止めた」
「はてさて、お前は師のいいつけを守ることが固いなあ。感心だ、感心だ」
「ちぇッ、痩《や》せ我慢をいっていらあ」
「いや、その通り、おれにとっては歯がゆいが、わしが師ならそう褒《ほ》める。……だから嘘じゃない」
すると、やや離れている厨《くりや》の板敷に、誰か、紙燭《しそく》を持って立った。小熊小熊と、そこで呼ぶ声に、藤吉郎もふり向いてみると、あたりの煤《すす》けた闇をそこだけ切り抜いたように、霞に小桜染の小袖を着、それへ紅梅色の腰衣《こしご》をまとった十七、八の麗《うるわ》しい処女《おとめ》のすがたが、その白い手に持たれている明りの中に揺々《ゆらゆら》と見えた。
「なんですか。――おゆう様」
小熊は、もうその前へ行って、用事をうけていた。用が足ると、小桜ぼかしの袖は、灯《ひ》と共に、暗い廊をすべって、壁のうしろへ隠れてしまった。
「今のは誰?」
藤吉郎が訊くと、
「先生の妹御さまだ」
と、その美を、わが師の庭の花と誇っているらしく、小熊は、これだけは非常に素直な返辞をした。
「頼む。どうか念のため、一度でよいから奥へ取次いでくれ。いけないといったら帰るから――」
「ほんとに帰るかい」
「帰る」
「きっとだな」
小熊は、念を押して、とうとう奥へ行ってくれた。けれど直ぐ戻ってくると、鼻くそ[#「くそ」に傍点]を抛《ほう》るように云った。
「いや[#「いや」に傍点]だとさ。客に会うのは一切嫌だって。……案のじょう叱られちまッた。さあ小父さん、帰っておくれ。これから先生に御飯をさし上げるんだから」
「では今夜は帰ろう。そして改めてまた、出直そう」
素直に折れて、藤吉郎が立ち去りかけると、その背へ、
「来てもだめだよ」
小熊は浴びせて云った。
藤吉郎は黙々と戻った。彼は闇も厭《いと》わず麓《ふもと》まで下りて行った。供の佐屋|桑十《くわじゆう》を残してある農家まで行って寝た。
翌る日、起き出ると、彼はまた、山支度して山へ登った。そして日の暮れ方、
「頼もう」
と、きのうと同じように、半兵衛重治の山屋敷を訪れていた。
きのうは厨《くりや》働きの童子などを相手にしすぎたので、きょうは玄関と覚《おぼ》しい入口へかかって訪れてみた。
ところが、
「おう」
と、答えて出て来たのは、きのうと変らない小熊だった。
「ヤ。また来たね、小父さん」
「きょうはお会いねがえるであろうかいかがか。先生の御意《ぎよい》を伺ってもらいたい」
小熊は、奥へ取次いだのか、取次がないで云っているのか、すぐ取って返して来て、
「断ると仰っしゃった」
と、相変らず膠《にべ》もない。
藤吉郎は、ていねいに、
「然らばまた、ごきげんの宜しい折に、伺い直そう」
と、帰った。
一日おいて、また登って来た。
「今日はお会い下さろうか」
小熊は、形のごとく、奥とそこを往復して、
「度々うるさい、と仰っしゃった」
と、ありのまま、断った。
その日も、藤吉郎は黙然《もくねん》と帰った。こういうふうに何べんか訪問した。しまいには、彼の顔を見ると小熊は笑ってばかりいて、
「小父さん、根気がいいね。だが、いくら根《こん》よく来てもむだだぜ。この頃は奥へ取次いだって、先生も怒るより笑っていらっしゃる。てんで相手にしないんだよ」
と、いった。
少年は親しみやすい。彼と彼とは、もう憎み合えない馴《な》じみになっている。藤吉郎は、そういわれても、また翌る日は登って来た。
麓《ふもと》で待っている佐屋|桑十《くわじゆう》は、主人の気持が知れなかった。竹中半兵衛|何者《なにもの》ぞ、こんどはおれが行って、今日までの無礼を詰問《なじ》ってくれたい――などと腹を立てた。
それは、数えると、ちょうど十度目の訪問だった。その日は、風雨がひどく、蕭々《しようしよう》と寒くさえあった。藤吉郎は、桑十にも泊っていた農家の者にも、懇切にひき止められたのであるが、蓑笠《みのかさ》を借りうけて押して登って行ったのである。
夕方、行きついて、例のごとく門に立って訪《おとな》うと、
「はい。……誰方《どなた》様ですか」
めずらしくその夕べ初めて、半兵衛の妹といつか小熊から聞いた女性が出て来た。
「毎々、うるさくお訪《たず》ね申し、先生の御意に敢えて逆《さか》らうようにて、恐縮いたしておりますが、主君の使いに立ち、お眼にかからぬうちは、帰国もなりがたい者でござる。使いして君命を辱《はずかし》めずとは、侍奉公の身の当然にてもござれば、二年でも三年でも、お心にかなうまでは、お訪ねする覚悟でござる。――それにてもなお、かないがたき時は、腹を切るまでときめておりまする。――あわれ、人一倍、武門の辛さも御承知の半兵衛重治どのと存じ上げ奉る。……よろしゅうお言葉添えのほどを、あなた様よりも」
破《や》れ廂《びさし》から雨だれの烈しく落ち飛沫《しぶ》いている下に、藤吉郎はうずくまって訴えた。感動しやすい若い女性は、それだけでもう心がうごいたようだった。
「お待ちなされませ」
優しくいって、奥へかくれた。しかし、再び見えると、さも気の毒そうに告げた。
「なんとも、兄の頑固《かたくな》ではございますが、折角ながら、お引き取りくださいませ。如何ようにお通いくださいましても、会うのは嫌と、申し断《き》っておりますゆえ――」
「……そうですか」
藤吉郎は、さも落胆したように俯向《うつむ》いた。また、強要もしなかった。その肩を、廂《ひさし》の雨だれが打ちたたいた。
「止むを得ません。では、また、改めて、御気分のよい折を待ちましょう」
笠をかぶって雨の中を、悄然《しようぜん》と帰りかけた。
そしていつもの松林の小道を縫い、土塀の外へ出た時である。
「――小父さんッ」
小熊が追いかけて来た。そして彼に告げた。
「会うとさ! 会って上げるとさ! 戻って来るといいよ」
「えッ、では半兵衛先生が、わしに会って下さるとか」
藤吉郎は、小熊と一緒に、足を早めて戻って来た。――が、そこには、半兵衛の妹のおゆうが待っていて、
「いいえ、あなたの御誠意に感じて、兄が、会わねば悪いとは云い出しましたが……それも今夕《こんゆう》ではございません。きょうは、この雨さに、臥床《ふしど》の中におりますから、他日、こちらから迎えをさしあげた折、来ていただきたいと申しますので」
と、断った。
藤吉郎が思うには、おそらくこれは、この女性が、自分を気の毒と思い、自分の去った後で、兄の半兵衛へ縋《すが》って取り做《な》してくれたのではあるまいか。――ふと、そんなことを思った。
「いつでも、よろしい日、お使いを賜われば参じます」
「お宿は」
「ふもとの南宮村の百姓、大きな欅《けやき》の木のある茂《も》右衛門《えもん》が家に泊っております」
「では、雨でも霽《は》れましたら」
「お待ち申しています」
「お寒いでしょう、雨にぬれて。――竈《かまど》部屋で、お袖でも乾かし、粗末ですが、芋粥《いもがゆ》なと召し上がって行ってください」
「いえ、他日の参上を楽しみに、お暇《いとま》いたします」
彼は、雨を衝いて、山を下りて行った。
雨は翌日も、次の日も、降りつづけた。栗原山は、白雲につつまれたままで、使いの沙汰もなかった。
ようやく霽《は》れ上がって、山の秋色はすっかり新たになった。はぜ[#「はぜ」に傍点]、漆《うるし》の木などの、早い紅葉《もみじ》が真っ紅になりだした。
「小父さん、迎えのお使いに来たよ」
朝だった。小熊は、茂右衛門の門へ、牛を曳いてやって来た。
「御案内申してこいと先生が仰っしゃった。きょうはお客さんだから乗物まで曳いて来た。これに乗って来てください」
と、いうのである。
それと、半兵衛からの、招き状一通。披《ひら》いてみると、
[#ここから2字下げ]
草隠《そういん》の病骨へ、度々、おもの好きなるお訪《たず》ね、おこころざしもだし難く、粗茶ひとつ献《けん》じ参らすべく、待ち申し上げ候
[#地付き]栗山隠士《りつざんいんし》
尾州|風客《ふうかく》どのへ
[#ここで字下げ終わり]
すこし人を喰ったような文言《もんごん》である。会わぬうちから、ずいぶん交際《つきあ》い難《にく》い人物らしく窺《うかが》える。藤吉郎は、なんと読んだか、
「では、せっかくの乗物、いただいて参ろうか」
牛の背へまたがった。
小熊は山へ向って歩き出した。きょうの南宮山から栗原山は、秋空に鮮やかであった。この麓《ふもと》へ来てからこんな鮮明な山容を仰ぐことは、初めてだった。
やがていつもの土塀門《どべいもん》へ近づいて来ると、そこに佇《たたず》んで、客を待ち顔の佳人《かじん》の姿が見えた。いつぞや見た折よりも、美しく身躾《みだしな》みをしたおゆうであった。
「あ。これはわざわざ」
藤吉郎はあわてて、牛の背を降りて、そこからは、彼女の案内に導かれた。
通されて、彼は、一室にぽつねんと置かれていた。
筧《かけひ》の水音が淙々《そうそう》と耳を洗う。
風竹が窓を撲《う》っている。
まことに山中の閑居らしい。粗土《あらつち》と松の丸柱にすぎない床の間を見ると、
夢
という一字の横幅《よこふく》が懸かっている。誰か禅家の筆蹟らしい。
(……よく退屈せずに住んでいられるなあ――)
偽らない気持で彼はそう思った。ここの主人の心事が怪しまれた。自分には三日も住んでいられまいと思う。こうしている間でさえ、体が持て余されてくる。
耳は、松風や禽《とり》の音《ね》に洗われていても、頭は、洲股《すのまた》へ駈け、小牧山へ通い、血は風雲に沸々《ふつふつ》と騒いでいる。まったくここの「寂《じやく》」と彼とは、べつ物であった。
「やあ、お待たせしました」
うしろで若い声がした。それが主人の竹中半兵衛だった。若い――それはかねてから知っていることだったが――声に接して特にまた、そんな気がした。
主人が、末座にすわって、挨拶しかけたので、藤吉郎はあわてて、
「いや恐れ入る。どうぞ、どうぞ……。初めてお目にかかります。それがしは尾州織田家の臣木下」
と、云いかけるのを、半兵衛は物やわらかに抑えて、
「かた苦しい挨拶は略そうではありませんか。きょうお迎え申したのも、そんなつもりではありませんから」
藤吉郎は、何か先手を打たれた気がした。自分がいつも人へいう手を、主《あるじ》に先へいわれてしまったからである。
「拙者が、この山家《やまが》の亭主半兵衛です。きょうはようお越しくだされた」
「いや、ずいぶん、執《しつ》こくお門を叩いて、さぞうるさく思われたでしょう」
「はははは。正直、迷惑|仕《つかまつ》った。しかしお眼にかかってみれば、其許《そこもと》のようなお客と、稀《たま》に会ってみるのも、気ばらしというもの、きょうはごゆるりなさい」
座をかえて、半兵衛は、藤吉郎へも席をすすめ、
「お客人は、いったい何を求めて、こんな山家《やまが》へお越しでござったか。ここはいわゆる――山中長物なし、ただ禽《とり》の音《ね》あるのみ――ですが」
座は、客より下へ取っているが、眼は微笑をたたえて、風来の客を、ほんの気慰みに扱っているという容子《ようす》。
藤吉郎は、ここでじっと、無遠慮な眼をもって、彼を見つめた。
なるほど、丈夫な体ではないらしい。肉は薄く、面《おもて》は蒼《あお》い。しかし、皓歯明眸《こうしめいぼう》である。わけて唇の紅いのが眼につく。
総じて、人品のいいことは、生い立ちのよいせいにあろう。物静かである。話は小声のほうで微笑をもってものをいう。――けれど、このままがこの人間のありのままかどうか疑問である。
たとえば今日の山は、山と戯れて遊びたい気のするほど平和であるが、いつぞやの暴風《あらし》には、谷は吼《ほ》え木々はさけんで吹き飛ばされそうだった。
「いや、御主人、実はですな」
一瞬、藤吉郎も、眼を笑いのうちに溶《と》かすと、すこし肩を突き出して云った。
「あなたをお迎えに来たのでござる。主君の命で。――どうですか、山を降りませんか。隠居は老後にでも出来ようではありませんか。それも、凡物なら知らぬこと、あなたのような有為《ゆうい》な材が、こんな山中に早くから閑居なさろうとしても、それは世の中がゆるすことではありません。どうせいつかは御仕官になるにきまっている。……とすれば、わが主君、織田信長様をおいて、天下に誰かありましょう。織田家へ随身をおすすめに参ったのでござる。いかがでしょう、もう一度、戦雲の中に立ってみるお気持はありませんか」
半兵衛は、にやにや聞いているのみであった。
笑而《わらつて》不答《こたえず》
という姿である。
藤吉郎が呶々《どど》と説く舌先も、こういう相手には甚だ熱意が削《そ》がれる。柳に風である。聞いているのかいないのか分らない。
「…………」
彼はしばらく舌を納めて、何とでも半兵衛が云い出すのを素直に待っていた。
そして飽くまで、策なく、虚飾《きよしよく》なく、白紙でこの人に対そうと、自分を持していた。
「…………」
そのうちに半兵衛の手からハタハタと軽い風が立てられている。傍らへ寄せた白土の煎茶炉《せんちやろ》へ、さっきから三つ四つの炭の欠《か》けらをついでいたが、火箸を置くと、風雅な唐《から》団扇《うちわ》を把《と》って、塵《ちり》のたたぬ程に炉の口を煽《あお》いでいるのだった。
火がおこる。
瓶《びん》の湯が沸《たぎ》る。
その間に、茶巾《ちやきん》をもって、主客の小さい煎茶《せんちや》茶碗を拭《ぬぐ》う。
沸《たぎ》る湯の音に湯かげんを聞き計っているらしい。
手ぎれいである。そつ[#「そつ」に傍点]がない。しかしずいぶん気が永い。藤吉郎は足のしびれを感じだしたが、その間、次のことばを云い出す隙が見つからなかった。
気がつけば、自分が縷々《るる》と述べたことなどは、松風《まつかぜ》の彼方《かなた》に飛んでしまっている。半兵衛の耳に何も残っていないらしい。
「あいや。ただ今申しあげたことについての、御返辞はどうでござりましょう。禄高《ろくだか》や待遇のお酬《むく》いを申したてて、利をもって誘うなどは、あなたの御出廬《ごしゆつろ》を促《うなが》す道でないと信じますゆえ、左様な条件がましき儀は一切申しません。――ただ小国ながら、後日、天下に為《な》すあるお方は、わが御主君を措《お》いて他にないことと、あなたの如き人物を、山家《やまが》に朽《く》ちさせておくことは、この乱世に、勿体《もつたい》ないことであると、世のためにも」
云いかけた時、主人の膝がしらが、きっと向いたので、思わず息をつぐと、半兵衛は、静かに、茶托《ちやたく》をさしのべて、
「茶なと一つ」
と、いった。
そして、自分の掌《て》へも小さい茶碗を受けて、舐《な》めるように、茶をすすっている。そのほかに何の心もないように、幾口にも味わっている。
「お客どの」
「は」
「蘭《らん》はお好きでありませんか。春蘭《しゆんらん》もよいが、秋蘭もなかなかよい」
「蘭……? 蘭と申すと」
「蘭の花ですよ。これから三、四里も山の深くへはいると、断崖絶壁に、太古の露をふくんだ蘭があります。それを下僕《しもべ》の小熊に採らせて、一鉢、移してみましたが――お眼にかけましょうか」
「い、いや」
あわてて藤吉郎は止めた。
「無用です。てまえには」
「ホ。左様かな」
「生来の武骨者で」
「武骨なれば、なおさら稀《まれ》には、蘭の一花にでも対して、静かに慰められたがおよろしかろう」
「――と、思うこともないではござらぬが、家にあっても、夢は戦野を駈けているくらいに、自分はまだ少壮血気です。織田家の微臣に過ぎません。そういう閑人《ひまじん》の気もちは理解いたしかねる」
「いや、そうか。無理もないこと。――だが其許《そこもと》のような人間を、そう齷齪《あくせく》と、功利に疲らせて、御自身勿体ないと思わぬかな。――山中人の人生にも、なかなか深い意義もある。どうでござる、洲股《すのまた》など捨てて、其許《そこもと》も、この山へ一庵をむすんで引き移って参られぬか」
正直は愚にもひとしいものだろうか。無策ということは結局|知慧《ちえ》なしを意味するものか。ただ誠意ばかりでは人の心を打たないものなのか。
「……分らなくなった」
藤吉郎は、黙々、山を降りて行った。――空しくである。
遂に空しく、彼は、半兵衛の住居《すまい》から帰るしかなかった。
「なんの、多寡《たか》が……」
反感に燃える眼で、後を見た。今は憤りしかない。未練もない。きょうの初対面は、てい[#「てい」に傍点]よく翻弄《ほんろう》されて帰されたものである。
「いや、二度と会うものか――二度目には戦場で、半兵衛の首を下へ置かせて、床几《しようぎ》から検分してやる」
そう思った。
唇を噛んで誓った。
礼をつくし、恥をしのび、幾たびも下げた頭と、通い歩いたこの道が癪《しやく》である。
楽しまない。悶々《もんもん》と思う。
もう一度、振り向いて、
「きりぎりす奴《め》」
何の意味でもなく罵《ののし》った。多分、半兵衛の蒼白い顔と痩《や》せた体が思い出されたからであろう。
憤然、早足になった。
そして片側に断崖をのぞむ曲り角へかかると、半兵衛の家を立つまで怺《こら》えていたものを、ふいに思い出したらしく、断崖に立って谷間へ尿《いばり》を放った。
一条の白虹《はつこう》は、途中から颯々《さつさつ》の霧となって飛んだ。
藤吉郎は、放心して、天を仰ぎながら用をたしていたが、すむと直ぐ、
「愚痴はやめた!」
と、いった。
そしてもっと足早に麓《ふもと》まで駈け降りて行った。
茂右衛門の家へ帰ると、
「桑十《くわじゆう》桑十。思わず長旅になったが、明日は帰国いたそうな。朝早く立つとしようぞ」
と、いった。
その元気な顔いろに、供の佐屋桑十は、さては竹中半兵衛殿とよいお話になったに違いない、と察してともどもよろこんでいた。
自分と桑十に、茂右衛門の親子など加えて、その夜は立ち振舞いして寝こんだ。
何も考えず彼は眠った。桑十はその鼾声《いびき》に驚いて時折眼をさました程だった。――が、考えてみると、毎日、栗原山の上まで通った肉体の疲れと心労は、傍眼《はため》に見ていてさえ並大抵ではなかった。いっぺんに御疲労が出たのであろう――そう知ると桑十のような武骨者でも、涙ぐまれて来た。
「少しでも、人の上に立とうとするには、たいへんなものだなあ」
沁々《しみじみ》、主人の努力を感じた。けれどその結果が失敗に終ったことは知らないのである。
夜が白むか白まないうちに、藤吉郎はもう旅支度をすましていた。露をふんで村を出た。村の土民の家さえまだ寝ているのが多かった。
「待て、桑十」
ふいに彼は立ちどまった。日の出のほうへ向って黙然《もくねん》と突っ立っているのだ。海のような朝霧の上に、栗原山はまだ黒かった。そのうしろから赫々《かつかく》と日輪の昇ろうとする彩雲がうごいているのである。
「……いや、間違った!」
藤吉郎はつぶやいた。
「得難い人物を得ようとしてわしは来たのだ。得難いのは当然だ。……わしの誠意がまだ足りないのかも知れぬ。大事をなすにこんな小さい度量では」
彼は、くるりと振り向いて、
「桑十。わしはもう一遍、栗原山へ上る。――そちは先へ帰国せい」
いうと、にわかに、道をもどって、朝霧の山裾《やますそ》へさしてどんどん行ってしまった。
彼は今日も山へかかった。いつになく早目に中腹まで上って来た。すると半兵衛の閑居にもう程近い山芝の広やかな沢辺《さわべ》で、
「おや?」
と、彼方《かなた》から声がした。
半兵衛の妹のおゆうと小熊であった。彼女は草籠《くさかご》を腕にかけて牛へ乗り、小熊は、手綱を曳いていた。
「驚いたなあ、呆《あき》れた小父さんだなあ。――もう懲々《こりごり》したろうから、今日は来まいって、先生も仰っしゃっていたのに」
と、小熊はさもさもびっくりしたように眼をみはっていう。
牛の背から下りて、おゆうはいつもと変りなく挨拶したが、小熊は、
「小父さん。今日ばかしは、ほんとによしてくれよ。きのう小父さんと会って話しこんだものだから、先生はゆうべ熱が出たって仰っしゃっていた。今朝だって、ご機げんが悪くって、おらまでがお叱言《こごと》だ」
と、訴えた。
「失礼なことを」
おゆうは、彼をたしなめ、藤吉郎へも詫びていった。――決して兄は、あなたにお会いしたために臥《ふ》せったわけではないが、すこし風邪心地らしく、きょうは臥床《ふしど》にいるので、お越しの趣《おもむき》は伝えておくが、どうか悪しからず今日のところは……と、それとなく彼の訪ねを断った。
「それはご迷惑でしょう。思い止まって立ち帰りますが……」
と、懐中《ふところ》から矢立《やたて》を出して、懐紙《かいし》へこう書いた。
閑中《カンチユウ》ニ閑《カン》ナシ
鳥獣ニ委《イ》シテ可
人中ニ幽《ユウ》アリ
市井更ニ寂《ジヤク》
山雲無心
シカモ自ラ去来ス
一骨|埋《ウズ》ム所
豈《アニ》青山《セイザン》ニ限ラン
詩になっていないことは自分でも万々知っているが、自分の「志《し》」ではあった。その後へ、もう一筆加えて、
岫《しゆう》を出づ雲のゆく方《え》はいずこにや。西に候《そろ》か。東に候か。
「厚顔無恥な者と、さぞお嗤《わら》いでござろうが、これが最後でござる。ただ一筆の御返辞をこれにて待ちます。その上にも、君命果し難き時は、この沢辺《さわべ》にて、切腹して相果てまする。何とぞ、もう一度のお取次を」
きのうよりも今日の彼は、まったく真剣であった。切腹ということばも、詭弁《きべん》でなく、その熱意からわれ知らず出てしまったのである。
蔑《さげす》むよりも彼女はむしろ同情を深めて、その文《ふみ》を兄の病床へ持って帰った。
半兵衛は一眼見たままで、うんもすんもいわなかった。小半日も瞑目《めいもく》していた。夕方になった。きょうも月の夜に入りかけた。
「小熊。牛を曳け」
急に云い出したのである。外出する様子におゆうは驚いて、布子《ぬのこ》や胴服《どうふく》を厚く兄の身へ着せた。
半兵衛は、牛に乗って出て行った。小熊を道案内に沢へ下りてゆくのだった。見ると、彼方《かなた》の芝地に、飲まず喰わず、なお、禅坊主のようにあぐら[#「あぐら」に傍点]をくんで坐っている者の影が月下に見える。
遠方から猟師《りようし》が見つけたら狙いそうな恰好である。半兵衛は牛を降りて、つかつかとそこへ近づいて行った。そして藤吉郎の前へ自分も坐った。慇懃《いんぎん》に頭を下げていった。
「客どの。きょうは失礼した。病骨の山中人に過ぎないこの方へ、さりとは、何を見どころに御執心か、勿体《もつたい》ない御礼儀ではある。士はおのれを知る者のために死すとかいう。あだ[#「あだ」に傍点]にはいたさん。心に刻《きざ》みおく。――したがかりそめにも、ひと度は斎藤家に随身いたした半兵衛でござる。信長には仕え申さん。――あなたに仕えよう。おん身に、この痩せすがれた病骨を進ぜよう。――それ申しに、これまで参った。過日来の失礼はゆるされよ」
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桃《とう》 源《げん》
久しく戦いもない。
尾濃《びのう》両国は、いずれも守備をかため、雪と木枯らしに、この冬はまかせていた。
すこし平和と見ると、旅行者の数や、荷駄《にだ》の交通は目立って多くなった。
正月を越え、やがて桃李《とうり》の芽《め》や花が色づくと、街道の庶民は、百年でもこのままな無事がつづくように思って、欠伸《あくび》していた。
稲葉山城の白壁にも、日永《ひなが》の陽があたっている。惰気《だき》と倦怠《けんたい》の陽炎《かげろう》が、そこの白壁にも見てとれる。そんな日に、絶頂の山城《やまじろ》を麓《ふもと》から仰ぐと、
(なんだって、あんな高い嶮岨《けんそ》な上へ、不便をしのんで城を建てたものか)
と、その心理が怪しまれるくらいだった。
城下の民は、敏感だった。自分たちの中心が緊張していればすぐそれを感じ、惰気にみちていれば、彼らも共に惰気に満ちる。――いくら高札ばかり朝夕に建てても、ほん気には取らないのである。
龍興《たつおき》は眠っていた。
桃園の茶亭《ちやてい》で、手枕のまま酔いつぶれていた。春の真昼である。鍋鶴《なべづる》やら水禽《みずどり》やら近くの泉で啼いている。霏々《ひひ》として花が飛ぶ。囲まれた本丸とはいえ、峻《そそ》り立つ山の上なので、風のない日は少ないといってよい。
「殿は?」
「殿はどう遊ばされた?」
一族の斎藤九郎右衛門、それと長井隼人《ながいはやと》のふたりがさがしていた。
後宮の美姫《びき》三千とはいわない。けれど、一笑すれば百媚《ひやくび》生ず、といえるぐらいな美人は何人かある。侍女老女まで入れると、その数も桃園の桃より多い程だ。――それが群をなして、ただ一人の惰眠児《だみんじ》が醒《さ》めるのを、ぽつねんと、することもなく毛氈《もうせん》や床几《しようぎ》にならんで待っていた。
「おつかれとみえ、お茶屋のうちで、お寝《よ》り遊ばしていらっしゃいます」
「酔うておいでか」
九郎右衛門と隼人《はやと》は、咽《む》せそうな女たちの間から、茶亭のうちを覗いた。
龍興は、鼓《つづみ》を枕に、長くなっていた。――顔見合わせて、
「では、後刻にでもまた」
去りかけると、
「誰じゃ。男の声がするわ」
龍興は、紅い耳を擡《もた》げて、
「九郎右衛門でないか。隼人もいたか。なにしに。……ここは花見の席、さては酒が欲しいな」
ふたりは、密談で来たらしいが、そういわれてからでは、敵国の情報などと固くなって告げるのも控えられた。
(夜にでも)
と、窺《うかが》っていると、夜も酒宴。
(明日にでも)
と、待っていると、明日も真昼を豪華な管絃の会である。
政務を見る日は、七日に一度もなかった。諸事老臣まかせである。――が幸いにも、その中には、斎藤家三代にわたって、この乱国の中に、主家の勢威を維持して来た老練の士や古強者《ふるつわもの》も多くいた。今を支《ささ》えている力であった。
主君の龍興は龍興としておいて、その重臣層は、決して、春眠を貪《むさぼ》ってはいなかった。たえず織田家の情勢をそこに集めている。
長井隼人《ながいはやと》の手から放った間諜の報告によると、織田家でも、昨年夏の大敗に懲《こ》りて、もう再起も覚《おぼ》つかないと自覚したか、この春は信長も、都から茶道の紹鴎《じようおう》を招いて茶会に暮したり、紹巴《しようは》をよんで連歌百韻《れんがひやくいん》を催したり、至って無事を恃《たの》んでいる――との消息だった。
信長が美濃を望むのは、義元が尾張の攻略を必要としたように、そこが中原《ちゆうげん》へ進出する段階だからである。単に一美濃の併呑《へいどん》が、目的ではない。
斎藤家の老臣は、最近の信長が、極めて生活を楽しんで、他意もない様子と聞いて、
「もはや、美濃入りは、兵や軍費を失うばかりと、あきらめ果てたものとみえる」
という計数的な判断を下していた。要するに、その消耗と収穫とがひき合わないから断念するに至ったものだろうという考え方であった。
ところが、その小康状態は、夏の終りまで持たなかった。
七月の盂蘭盆会《うらぼんえ》をすぎるとすぐ聞えてきた。小牧山から尾張の各郡への飛札の使いが頻々《ひんぴん》と飛ぶ。
近く、大兵を催す模様らしい。
城下も何となく色めいている。旅人の検察はきびしくなった。臣下の深夜登城も多い。馬匹《ばひつ》の徴発《ちようはつ》が行われた。具足師へ修理に出してある鎧《よろい》や物の具を家中の侍はみな催促に争っている。等、等、等、相次ぐ情報なのである。
「信長は」
そこを質《ただ》すと、
「いや、城内は相かわらずで、深更まで狭間《はざま》に明々《あかあか》と燈火《ともしび》が望まれ、どうかすると濠水《ほりみず》に、悠長な能管《のうかん》の音や小鼓《こつづみ》の鳴りひびいていたりすることもありますが」
と、小牧山の城下から帰って来た諜報の者も、確たる自信はないようなことをいう。
それが、月の末、八月に近づくと、俄然、
「信長の兵、大挙して、およそ一万余、続々と西上。木曾川の東岸一帯に陣し、洲股《すのまた》城を根城として、今にも、押し渡らんず気勢に見えますぞ」
と、なった。
時流に驚かない無関心に狎《な》れている人間は、驚くとなると、驚くのに極端である。
龍興は、誰よりも、躁《さわ》ぎたてて、まだ適当な対策を持たない老臣重臣の面々を、一層、狼狽させた。
「一万とは嘘であろう。織田家に一万の兵を動かす力はない。また、今までの合戦でも、そんな大兵を催した例はない」
龍興は、そんなことをいった。それは事実にちがいなかった。しかし、今度は、その織田家が一万の兵を集合して、現に、かくかくの配置と部将をそろえて来たに相違ないと、諜者の調べを表にして見せると、龍興は、初めて、
「すわ。あの向う見ずが、大《おお》博奕《ばくち》を打つ気で襲《よ》せおったぞ。……ど、どうするか、それを追い退《の》けるには」
と、骨髄から恐怖して、重臣たちへ諮《はか》った。
そして、困った時の神恃《かみだの》みで、平常は好ましからぬ親爺《おやじ》どもとして、主君から敬遠している美濃の三人衆――安藤伊賀守、稲葉|伊予守《いよのかみ》、氏家《うじいえ》常陸介《ひたちのすけ》などへ、急使をやって、招けと命じた。
「仰せまでもなく、疾《と》く使いは馳せてありますが、今もって、そのうちの誰一名、駈けつけて参りませぬ」
重臣の答えに、
「さらば、催促《さいそく》をやれ」
と、龍興自身が、筆を執って、それぞれへ早馬を飛ばせた。
それでも来ないのだ。三人衆のうち、ただの一名も、稲葉山城へ駈けつけて来る者がない。
「鵜沼《うぬま》の虎はどうした」
「彼奴《きやつ》は、前々より不審な仮病《けびよう》を称《とな》えて、ひき籠《こも》っておりますれば、当然、あて[#「あて」に傍点]にはなりません」
「そうだ……」
と、龍興は何か天来の妙策でも思いついたか、重臣たちの愚をわらうように、急に元気づいて云った。
「栗原山へ使者をやったか。半兵衛を呼べ。……何。なぜ早く迎えをやらぬか。この期《ご》に、怠慢な、――すぐ遣《や》れ、直ぐに」
重臣たちは、すぐ答えた。
「いや、仰せを待つまでもなく、栗原山の竹中氏へは、事態の急をつぶさに告げて、数日前から、度々、下山あるようにと、催促の使者を出しておりますが」
「動かぬのか」
と、龍興は急《せ》きこむ。
そして、不平そうに、
「なぜじゃ。なぜ半兵衛は、すぐにも菩提山《ぼだいさん》の手勢をひいて、駈けつけぬのじゃろう。……彼は、忠臣のはずなのに」
と、つぶやいた。
忠臣という者は、ふだんは真っ直ぐなことばかりいって、苦々しげな顔のみ見せておもしろくないが、一朝有事《いつちようゆうじ》の時には、どう退けられていても、誰より真っ先に駈けつけるのが当然なものと、龍興はのみこんでいるふうだった。
すでにその半兵衛重治は、一度主君をこの城から追うほどな手酷《てきび》しい諫言《かんげん》……ではなく実行をもって、龍興を懲《こ》らしめている。そして龍興を迎えて、城を返すと共に、
(こんな城が恃《たの》むに足りないことはお分りでしょう)
と、一言残して、山へ去った者である。同時に、自身の菩提山の城までも、叔父へ譲って、無禄の一隠士になった者だ。その際、
(そうか、半兵衛は、隠居して山へかくれたか。あの病身では、奉公も気《け》うといのであろう)
と、彼の辞表を認めて、秋の破《や》れ扇《おうぎ》ほども惜しまなかったのは、誰でもない、龍興自身であった。
半兵衛が去ったからには、半兵衛の舅《しゆうと》も、一族の者も、自然、登城の足も遠ざかるであろうと、むしろさばさばした顔で、忘れ果てていた龍興だった。
とはいえ――彼は忠臣だから、かつてのことはともかく、来る筈である。来なければならないと、彼は不平に思うのだった。
「もう一度、使いを立ててみよ。まだ、余に対して、何か怒っているのかもしれぬ」
無駄――とは思ったが、重臣たちは、四度か五度目の使者を、栗原山へ向けた。
使者は、悄然《しようぜん》と帰って来て、
「ようやく、お眼にはかかりましたが、半兵衛様には、御催促の書面を拝して、一言のお答えも、それにはございませぬ。ただ、はらはらと落涙なされて……世にも御不愍《ごふびん》な太守《たいしゆ》ではある――と溜息《ためいき》をもらされたきりでござりました」
と、復命した。
それを聞いて、龍興は、
「なに、わしを不愍だと。何のことじゃ、それは」
漠然《ばくぜん》と、ただ揶揄《やゆ》されたように受け取ったらしい。憤《む》ッと色をなして、
「病人など恃《たよ》りにすな」
と、老臣を叱咤した。
いや、そうした往復に、日を過している遑《いとま》もなかった。すでに織田軍の大兵は、木曾川の渡渉《としよう》を開始し、斎藤家の軍勢とのあいだに、猛烈な河中戦が捲き起されていた。
刻々に、稲葉山城へは、
「お味方不利」
と、ばかり告げる敗報が来た。
龍興は、不眠症にかかって、眼も常に澄まない色をしていた。
城内も俄然、混雑と憂色にあふれて、彼は、本丸の桃園に幕をめぐらし、床几《しようぎ》をすえ、綺羅《きら》びやかな武具と直臣をまわりにいっぱい置いて、
「軍勢が不足なれば、諸郡へ向ってさらに催促を重ねい。城下の兵力は十分か。浅井家へ味方を借らずともよいか。大丈夫か」
恟々《きようきよう》と声ばかり疳《かん》だかく、むしろ士気を自分の動悸と共に怯《ひる》ますような言葉をしばしば口すべらせた。
心ある老臣は、龍興のそうした心理を武士たちに反映させまいと始終、傍らにいて苦心した。
夜に入ると、もうこの稲葉山から見える距離まで、戦いの火は西進して来た。――攻め入るに従って、民家に火を放ってくる織田軍の焔《ほのお》の潮《うしお》だった。
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竿頭一瓢《かんとういつぴよう》
南は厚見《あつみ》、加納《かのう》の平野から、西は合渡《こうど》、鏡島《かがしま》など長良川の流脈へわたって、織田軍の攻進は、日夜進んでいた。
八月の炎暑だった。
夜は夜で、焼きたてる町や村々の火が、空を焦《こ》がしていた。
破竹の勢い――ということば通り、はやくも月の七日頃には、敵の本城地、稲葉山へ近く迫った。
その配置を見ると、
先鋒《せんぽう》は案内者として
木下藤吉郎の兵約一千。
二番
柴田|権六《ごんろく》勝家、森三左衛門の手兵およそ二千余。
三番
池田勝三郎、佐々《さつさ》内蔵助《くらのすけ》、前田孫四郎|利家《としいえ》の二千人。――軍監《ぐんかん》は梁田出羽守《やなだでわのかみ》。
これに次いでは、信長の本陣をめぐって、尾州の精鋭が旗下として三千。
後陣は、佐久間|信盛《のぶもり》が、二千余人をひきいる。
総人数一万余という。
一万という兵力は、織田信長として、この時、初めて持った大兵なのである。
彼の覚悟のほどもそれで分る。尾張として、これは名実共に、挙国一致の動員だった。ここに敗れれば、尾張もなく織田もないのである。
しかも、ここまでは、攻め入ったが、稲葉山城の天嶮《てんけん》に迫ると、戦いは進まなかった。連日、苦戦に落ちた。
自然の要害がものをいいだして来た。それに斎藤家三代に仕えた強豪も多い。わけて織田軍のみじめだったのは、武器の差であった。国富の程度がまるでちがう彼には、鉄砲という新鋭な武器がかなり蓄《たくわ》えてあった。織田方にはない鉄砲組というものが、すでに斎藤家には組織されていて、城下へ寄手を寄せつけては、山腹から狙い撃ちにした。
早くから美濃の鉄砲組が発達していたのは、遠い以前に斎藤家を牢人《ろうにん》してしまったが、ここに明智十兵衛光秀《あけちじゆうべえみつひで》なる篤学な一青年がいて、かつて、鉄砲の研究に没頭し、その基礎を遺《のこ》して行った貢献なのである。
それはともかく、織田軍は、連日の炎暑と苦戦に、ようやく疲れだしてきた。――もしもこの際、斎藤家と近江《おうみ》なり伊勢なりと連絡をとって、背後を襲う者があらわれたら、一万の屍《かばね》は、ふたたび故郷を見ることはできなかった。
何よりも不気味なのは、ちょうど寄手の総軍を後ろから見ている形に、屹然《きつぜん》と、夏の雲を負って聳《そび》えている栗原山から南宮山――また、菩提山《ぼだいさん》などの動きだった。
「いや、その方面は、御懸念には及びません」
時折、本陣へ見える木下藤吉郎は、自信をもって、しきりというが、信長は不安だった。
「遠巻きの戦法も不策、短気にかかって兵を損じるのも不策。いかにせば稲葉山の天嶮《てんけん》を墜《おと》すことができるか」
信長は、苦慮した。
陣中の評議は繰り返されたが、名案とてはなかった。その結果、藤吉郎の一策が用いられて、彼は一夜、先鋒《せんぽう》の隊からすがたを消した。
彼が、寄手の中に見えなくなってから、一日|措《お》いた次の日頃であった。稲葉山城の山脈のすそが遠く東南四、五里の果てに尽きて――鵜沼《うぬま》街道と飛騨《ひだ》の山街道とが山中で交叉《こうさ》している辺りを起点として、わずか十名ほどな腹心の武者輩《むしやばら》を従え、そこからさらに、裏谷へはいって、汗みどろに、瑞龍寺山《ずいりゆうじさん》の一峰へよじ登ってゆく彼の姿が見出された。
一行十名ばかり。
間道の嶮《けわ》しさは言語に絶している。
誰もこの峰口が、遠く稲葉山城の搦手《からめて》まで、続いているものとは、聯想もされないほど、距離も距離だし、一峰一峰絶縁された形になっている。
藤吉郎のほかには。
蜂須賀彦《はちすかひこ》右衛門《えもん》、弟又十郎、梶田隼人《かじたはやと》、佐屋|桑十《くわじゆう》、稲田|大炊《おおい》、青山新七などの、かつての小六党の人たち。
それに、先頃、藤吉郎に心服して、ふかく彼の恩義を感じている鵜沼《うぬま》の虎《とら》――大沢治郎左衛門が、先に立って、
「その大岩の根から谷へ。――彼処《かしこ》の渓流をこえて向うの沢へ」
と、案内して進んだ。
谷も道も窮《きわ》まったかと思えば、そこの絶壁へすがる藤蔓《ふじづる》があった。
峰をめぐって、もう彼方《かなた》の山へ渡る術《すべ》もないかと思えば、熊笹《くまざさ》のうちに、微《かす》かな隠れ道が谷へ通じている。
「もはや搦手《からめて》までは、二里ほどの山道。この山絵図《やまえず》を辿《たど》ってお越えあれば、城の水門へ行き当たりましょう。――お別れいたしとうはなけれど、お許しにあまえて、それがしはここにて」
治郎左衛門は、途中で一行と別れ、ひとり後へ帰って行った。
元来が義に強い男である。藤吉郎に心服して、今は二心ない者とはいえ、一度は主人とした斎藤家である。その本城の間道《かんどう》へ道案内に立つことは、心中苦しそうだった。
藤吉郎は、その心根を察したので、わざと途中から帰したのである。
ひと休みして、
「どれ、進もうか」
残る九人は、また、黙々と歩みつづけた。
二里といえば近いが、道なき道である。少し行っては、
「山絵図、山絵図を」
と、藤吉郎は、それと首っぴきになって、隠し道をさがした。
「……はてな?」
辺りの山容と山絵図とが、どう見較べても合わなくなった。何より眼じるしの渓流の水脈もちがっている。
「迷ったぞ、戻れ」
そのうちに、陽《ひ》は沈みかけてくる。暑さはずん[#「ずん」に傍点]と楽にはなったが、的確な方向はつかめなかった。
道に迷う労はさしても思わなかったが、藤吉郎の胸には、稲葉山の正面にある味方との間に、諜《しめ》し合わせてある戦機がある。明日の夜明けという時刻に狂いが起ると、寄手たる味方に大きな手違いを与えてしまう。――それが刻々に案じられた。
「――あッ? 待った」
稲田|大炊《おおい》が手を振ったのだ。突然なので、みなぎく[#「ぎく」に傍点]とした。
「灯が見える!」
と、大炊は、一同の注意を求めた。こんな山中に――しかも敵城の間道にあたる所に、めったな燈火《ともしび》のあるわけはない。おおかたもう城近く来ていて、敵方の山見張の小屋でもあるに違いない。
「そうだ」
「気をつけろ」
油断を戒《いまし》め合いながら、一行はすぐ身を伏せた。何といっても、野武士時代の鍛《きた》えがあるので、どれもみな敏捷《びんしよう》だった。歩くにも、攀《よ》じるにも、もっとも困難らしいのは、藤吉郎であった。
「殿、殿、――これへおつかまりなさい」
彦右衛門は、岩山の途中から、彼の前へ、槍の柄を伸ばした。藤吉郎がそれにすがると、彦右衛門は、片手に彼を引き揚げながら、一つの断崖をよじ登った。
高原へ出た。
さっき見た一つの燈火《ともしび》は、そこから西の山の裂け目に、夜の濃くなるほど明らかに瞬《またた》いていた。
間道の番所があれに見える一点の灯とすれば、――当然、道はそこ一筋と限られているに違いない。
「いずれにしても」
と、一同は、そこを突破することに、肝をきめた。
「――が、待て」
と、藤吉郎は、早くも気負う面々を制して云った。
「番小屋の人数は、およそ知れたもの。怖るるに足らぬが、怖いのは、稲葉山へ合図をされることだ。狼火場《のろしば》があれば、いずれ小屋の近くゆえ、そこを探って第一に二人ほど立て。それから討ち洩らした番士が、急を告げに駈け出すことだ。その抑えに、半分はすぐ裏手へ立て」
黙って、各※[#二の字点、unicode303b]の影は、頷《うなず》き合った。もう獣《けもの》みたいに地を這い歩いて行くのだった。
燈火《ともしび》の光は近くなった。
窪地《くぼち》を渡って、そこの谷ふところへ這い上った。
意外だったのは、ぷーんと麻畑《あさばたけ》の麻が香《にお》ってきたことである。
蕎麦《そば》畑もある。
山葱《やまねぎ》や芋《いも》も生《は》えている。
「……はてな」
麻畑の中で、藤吉郎は首をひねった。小屋の屋根作りや畑の様子が、どうも番士の小屋とは思われなかった。
「……逸《はや》まるな。見て参る」
藤吉郎は、麻の中を、麻のざわざわ騒がぬ程に、そっと這って行った。
小屋の中が見えた。ただの土民の家でしかない。ひどい茅屋《あばらや》である。
じっと、麻畑から窺《うかが》うと、うす暗い燈火の中に、二つの人影が見える。
ひとりは老いたる母とみえ、莚《むしろ》のうえに平たくなって寝ていた。また、も一人はその子とみえて、老母の腰を揉んでいるのだった。
「…………」
藤吉郎は、鎧《よろい》や、太刀に固めている身もわすれて、息もせず見惚《みと》れていた。
老母の髪はもう白く、子は逞《たく》ましいが、まだ十六、七歳にしか見えない。
「…………」
彼は、その母と子が、他人《ひと》の姿とは思われなかった。突然、中村のわが母と、自分の少年の頃とを、見せられた心地がしていた。
「……おや?」
母の腰を揉んでいた若者は、急に鋭い目をしていった。
「おっ母さん、ちょっと待って下さいよ。……何だか変だ」
「なんじゃ、茂助《もすけ》」
と、老母も身を起した。
「急に、虫の音が、はた[#「はた」に傍点]と啼《な》き止みましたが」
「また、物置ヘかかりに来た獣《けもの》じゃろ」
「いいえ」
強くかぶりを振って、
「獣ならば、灯影《ほかげ》のさしているうちは寄りつきません」
ずかずかと、縁ばたまで、出て来たと思うと、いつ持ったか、若者の手には山刀が抱《かか》えられていた。
「誰だッ、そこに忍んでいるやつは!」
――声と共に、
「静かにせいッ」
藤吉郎は、麻畑の中から、ざっと青い色を戦《そよ》がせて突っ立った。
「……?」
驚くかと思いのほか、若者は、ひとみを凝《こ》らして、じっと彼のほうを見ていたが、やがて、
「……なアんだ。誰かと思ったら、樫原砦《かしはらとりで》のお侍さんか」
と、つぶやいた。
藤吉郎は、それには答えず、振り向いて、後ろにひそむ人々へ、手を振って号令した。
「小屋をつつめ。家の中から駈け出す者は、斬り伏せいッ」
十名近い具足の武者は、麻畑《あさばたけ》から身を起して、咄嗟《とつさ》に小屋の裏表をかこんだ。
「なんだ? ……。物々しげにおらの家など取り巻いて」
茂助とよばれた若者は、そうつぶやく間に、自分の前へ歩み寄って来る藤吉郎へ、咎めるようにまたいった。
「この家には、おれとおふくろ様と、たんだ二人しかいやしない。親ひとり子ひとりだ。何も仰山《ぎようさん》そうに、取りかこむことはあるまい。いったい何の用だい。――え、お侍さん」
縁に突っ立ったままそういっている眼《まな》ざしは、慌《あわ》てるどころか、むしろ落着きすぎている。睥睨《へいげい》している。
藤吉郎は、縁の端へ、腰をかけ込んで、話しかけた。
「いや若者、念のためにいたしたことだ。驚かしてすまなかったな」
「何もおらは驚きはしない。けれど母者人《ははじやびと》は、びッくりなされた。――謝《あやま》るならおらのおふくろ様に謝るがいい」
不敵なことをいう。
ただの土民とは思われなかった。藤吉郎は、小屋の内を見まわした。
「これ、これ、茂助よ。お武家さまに向うて、何を失礼なことばかりいうぞや。もし……誰方《どなた》様やら存じませぬが、世間の衆と交《まじ》わりも断《た》って、礼儀もわきまえぬわがままな山家者《やまがもの》の子でござります。どうぞ、おゆるしくだされませ」
老母は、すこし進んで、子に代って藤吉郎へ詫《わ》び入った。
「お。……お許《もと》が、この若者のおっ母さんか」
「はい。……さようでござりまする」
「礼儀もわきまえぬ山家者の子といわれたが、どうして、お許《もと》のことば遣《づか》いも、この若者の面《つら》だましいも、世のつねの土民とは見うけられぬ」
「いいえ、もうお恥かしい山家暮し、冬は猟《かり》をし、夏は炭薪《すみまき》を里に出して、細々すごしている親子でござります」
「今はそうでしょう。けれど、以前はそうではおざるまい、尠なくも、お許《もと》は由緒《ゆいしよ》ある者の御家内であったにちがいない。――てまえは斎藤方の家臣ではないが、仔細あってこの山間にさまようて来た者。お許たちに害意はない。さしつかえなくば御素姓をお明したまわらぬか」
――と。
母のそばへ坐り直していた茂助がふいに訊ねだした。
「お武家さま。あなたも尾張|訛《なまり》があるね。尾張ですか」
「むむ。わしは中村の生れだが」
「えッ、中村。じゃあそう遠くもない。おらは丹羽《にわ》郡|御器所《ごきそ》の生れだ」
「ほ。……然らばおぬしとは同国だのう」
「尾州の御家士なら何でも申します。――父は、堀尾頼母《ほりおたのも》と申し、わたくしは幼名小太郎、今は茂助といっております。父は長らく丹羽郡小口の砦《とりで》にいて、信長様の御一族の織田下野守信清様に仕えていました」
「ヤ、それは奇縁。信清様の臣下とあれば、信長様の御家中も同じこと」
「――ですが、信清様には、或る御不平から、一族の信長様に弓をひき、斎藤家に利用されて、美濃へ内通なされました」
「そうだ。……岩室長門《いわむろながと》どのが戦死し、つづいて前田犬千代――今の前田孫四郎|利家《としいえ》どのが、討手を命ぜられて、御一族の仲にありながら、多年の合戦であった」
「私の父も、その戦いで相果て、また、主家も遂に亡びました。――そこで一人の母と共に、美濃の知るべを頼ろうと、この山里まで来ましたが、所詮《しよせん》、美濃と尾張とは、ゆく末合戦の絶えない国、美濃の恩を食《は》めば、尾張へ弓を引かねばならず、尾張に住めば、信長様に敵対した謀叛人《むほんにん》の家来の果てよと嘲《あざけ》られます。――で、この山中に小屋を建て、自分で耕《たがや》し、自分で着て、細々ながら母を養うて来た次第でございまする」
この若者が、後年の堀尾茂助吉晴《ほりおもすけよしはる》だった。
もっと詳しくいえば、尾張|御器所《ごきそ》の人、堀尾吉久の子で、幼名|仁王丸《におうまる》、のち小太郎といい、結髪して茂助と改む――というから、或いは、瑞龍山《ずいりゆうざん》の山家に土民となっていた頃は、まだ小太郎と称していたかもわからない。
藤吉郎秀吉と彼との主従の縁はこの時に結ばれたものだったが、それから賤《しず》ケ嶽《たけ》七本槍のひとりにも名が見えるし、晩年には出雲《いずも》、隠岐《おき》の二ヵ国二十四万石を領し、六十九歳で世を終るまでの四十余年間というものは、戦場を馳駆《ちく》して武名の聞えを取った人だが、生涯、武人のよく云いたがる「手がらばなし」というものは、人に語ったことがなかったという風な性格だった。
それはともかく。
藤吉郎は、茂助を見、茂助|母子《おやこ》の口から、その身の上など聞いているうちに、
(これはよい者に会った)
と、心中大きな歓びを感じていた。
彼が、洲股《すのまた》に一つの地位というものを得てから、渇《かわ》いた田へ水を引くように求めているのは、人間だった。人間の中の人物だった。
その人材に対しても、彼のは、
(ひとつ使ってみてから、使えたら、使おう)
と、いうような行き方ではなかった。
(この男)
と、見込んだら、いきなりつかみ取って、抱擁してから後、徐々に、自分の使い物とするといった気合いだった。女房を持つにもそれで行った。
古い陶瓷《とうじ》や絵画や仏像などを鑑識する者が、その芸術を感得して判断するよりも、もっと鋭敏なそして迅《はや》い「勘」をもって、彼は人品の真偽を観《み》わけた。
「いや、お身の上、よく分った。ところで茂助とやらの母御。あなたはわが子を、まさか生涯、山家の炭焼や猪追《ししお》いにしておく気ではあるまいが。――どうじゃ、この息子をわしにくれんか。御老母の身ぐるみ、貰いうけようではないか。――とはいえわしも大身ではない。織田信長様の家来、木下藤吉郎という者。知行《ちぎよう》は低いが、まだこの通り、若いのが取柄《とりえ》といおうか。わし自身がまだ槍一すじで、これから世に出ようとしておる者ゆえ、申さば主従|共《とも》苦労でゆこうというのだ。――どうだ、嫌か」
と、藤吉郎は、母子のすがたを等分に見ながらいった。
茂助は、
「えッ、わたしを」
と、眼をまろくした。
老母もまた、夢かとばかり歓《よろこ》んで、
「同じ御奉公いたすにも、織田様の御家中へ仕えるなれば、汚名をうけた軍《いくさ》に果てた亡き良人《つま》も、どんなに歓ぶことかしれませぬ」
と、はや涙さえ湛《たた》え、
「――茂助よ。おうけして、父上の敢《あえ》ない汚名をそそいで賜《た》も」
と、いった。
もとより茂助に異存はない。立ちどころに、主従の約束はなった。――なると同時に、藤吉郎はこの若年な新参へ、
「実は、稲葉山城の搦手《からめて》へ忍ぼうと志して来たが、道に迷い、ここに山絵図はあるが、空《むな》しく途方にくれておる。奉公初めには、ちと大役だが、そちに案内役を申しつける。勤めてみよ」
と、命じた。
茂助は、なかなか返辞をしなかった。藤吉郎の持っている山絵図を一見させてくれという。そしてしばらくそれを見て思案していたが、やがてようやく、折り畳んだそれを藤吉郎の手へもどしながら、答えた。
「かしこまりました」
そして、また、
「皆さま、腹ごしらえはいかがですか。弁当は二食分お持ちですか」
と、訊ねた。
携《たずさ》えて来た腰兵糧《こしひようろう》も道に迷ったので、もう尽きていたところだった。
「搦手《からめて》の水の手までは、わずか二里半ばかりですが、どうして、二食分ぐらいの弁当は持たねばなりません」
茂助は、さっそく稗飯《ひえめし》を炊《た》き、味噌梅干など添えて、自分とも、十人分ほどの弁当を作った。
麻縄《あさなわ》一すじ、輪にして持ち、腰には燧打道具《ひうちどうぐ》、父譲りの伝来の刀、身軽に装《よそお》って、
「じゃあ母上、お供して参ります。いきなり合戦に出会うなどということは、御奉公には幸先《さいさき》のよいことですが、武運次第では、これがお別れにならないとも限りません。……その折りは、茂助はなかった子と、おあきらめ下さいまして」
さすがに、別れるとなると、母子は切なそうであった。藤吉郎は、見ているに堪えなかった。軒端を離れて、麻畑から真っ暗な山の根を見まわしていた。
老母は、いざ[#「いざ」に傍点]と立ち出て行く息子を、
「茂助、茂助」
と、呼び返して、
「これに水を入れて、持っておいで。途中、必ずお渇《かわ》きになるに違いない」
と、壁に吊《つ》ってあった大きな瓢《ふくべ》を外して手渡した。
「これはよい物を」
と、藤吉郎のみでなく、彦右衛門も他の者もよろこんだ。
これまでの途中も、水に窮したことは一通りではなかった。瑞龍山《ずいりゆうざん》一帯、巌石《がんせき》の峨々《がが》たる山なので、清水のわき出ている場所は極めて少ない。
そしてまた、峰の上へ出れば出るほど、水が乏しい。大きな瓢《ふくべ》なので、この一|瓢《ぴよう》に水を張って行けば、十人の渇《かつ》をしのぐには充分足りる。
小屋を出て闇を歩き出した。絶壁へかかると茂助は鉤縄《かぎなわ》を投げて、岩松の根にかけ、自分が先へよじ登っては、一同を引っぱり上げた。
「ここは間道のまた間道です」
と、茂助はいった。
「もすこし楽に越えられる所もありますが、それへ出ると、槻谷《けやきだに》の砦《とりで》だの、赤川洞《あかがわどう》の番所だのという、幾ヵ所もある見張へひッかかりますからね」
そう聞いて、藤吉郎は、さっき山絵図を示した時、茂助が、それを見つめたまま、容易に承知の返辞をしなかった彼の用意の程がわかった。
「まだ童《わらべ》くさいところもあるが、浅からぬ心支度のあるやつ」
と、藤吉郎は、心のうちで、なお、茂助に愛を増した。
一|瓢《ぴよう》の水は、みな十名の者の汗になってしまった。夜もやがて明け近いのではないかと思われる頃、茂助も大汗を拭いて、
「こう疲れきっていては、戦《いくさ》もできないでしょう。ここで一寝入りなされてはどうですか」
と、計った。
藤吉郎は、
「寝るもよいが――」
と、頷《うなず》きながら、一体、ここはどの辺か、城の搦手《からめて》までは、まだ余程あるのかと訊くと、
「つい、そこの下です」
と、茂助は、真下の谷を指さした。
「えッ。そこか」
驚いて、一同が気色《けしき》立つと、茂助は手を振って制した。
「もう大きな声も出してはいけません。ひょっと風の方角では城内へ聞えます」
「…………」
藤吉郎は、そこの谷間へのぞむ岩角《いわかど》まで這っていった。谷間を埋《うず》めている樹々の闇は、底知れぬ湖のようだった。じいっと、いつまでも、眸《ひとみ》をこらして見ていると、その樹々のあいだに、たしかに巨大な石の壁や柵《さく》や蔵屋根《くらやね》のような影が、見える気もする。
「ム! ……。ここはもう敵の真上とみえる。よし、一寝入りとしよう。夜の白むまで」
彼を始め十人は、籠手《こて》を枕に大地へ寝た。茂助は、もう水のない瓢《ふくべ》を、手拭で巻いて、藤吉郎の枕にと、そっと主人の頭の下へ当てがった。
一刻《いつとき》も寝たろうか。
その間、茂助だけは一人眠らずに、少し離れた所に突っ立っていた。
「オオ……」
その茂助が、声を放ったので、藤吉郎はすぐ首をもたげて、
「なんだ、茂助」
茂助は、東を指さして、
「太陽が昇るところです」
と、答えた。
いわれてみると、夜は白みかけている。この山頂のほかは、すべて雲の海の渺々《びようびよう》であった。すぐ真下だという稲葉山城の裏谷さえ何も見えない。
「明けた」
「夜が明けた」
呼び合いながら、蜂須賀彦右衛門も起きる。弟の又十郎も起きる、稲田|大炊《おおい》も起きる、梶田|隼人《はやと》、長井半之丞らも起きあがる。
「さッ、打ち入りましょう」
はや武者ぶるいして、具足の緒《お》や足ごしらえなど直しにかかると、
「いや待て。それよりは、飯を喰っておくことだ」
藤吉郎は、腰をすえ直した。
ゆうべ茂助の小屋を立つ時、用意してきた二食分は、ちょうど今朝の一食でおしまいになる。
水はもう瓢《ふくべ》になかった。しかし陽出《ひい》づる雲の大海をながめながら柏《かしわ》の葉でつつんだ稗《ひえ》飯を喰う味は、生涯、忘れ得まいと思われるほど美味《うま》かった。
喰い終る頃、うっすらと、下の谷間は霧が霽《は》れかかって来た。敵の搦手《からめて》だ。――蜀《しよく》の桟道《かけはし》を思わすような蔦葛《つたかずら》の這った桟橋《かけはし》が見える。絶壁が見える。巨大な青苔《あおごけ》の生《は》えた石垣やら柵《さく》なども見える。
そこは、陽あたらずの沢――とよんでもいいほど、暗くて、悽愴《せいそう》な風がたえず吹いていた。
「のろし筒《づつ》は」
藤吉郎が見まわすと、梶田隼人がすぐ答えた。
「てまえが携《たずさ》えています」
「そうか。――それを茂助にあずけて、のろしの打ち揚げ方をよく教えておけ」
「は。……茂助どの」
「はい」
「これへ来い」
隼人は、のろし筒と、硝薬《しようやく》入れとをそこへ出して、茂助に伝授していた。
「茂助、心得たか」
藤吉郎は、やおら立つと、そしてもう一度、茂助に念を押した。
「これから、わし達が、搦手《からめて》の水門口を見つけて、そこから斬って入るが、そちはここで耳を澄ましておれ。――そして何でも大声が聞えて来たら、途端にここから、のろしを揚げるのだ。よいか、ぬかるな」
「分りました」
茂助は、合点して、のろし筒のそばに立ちながら、勇み立って谷へ下りてゆく主人たちを見送っていた。
――が、少し不平そうな顔つきでもあった。茂助も従《つ》いて行きたいのである。
雲の海は、怒濤《どとう》の相《すがた》を起しはじめた。――やがて濃尾《のうび》の平野はその下から鮮《あきら》かに見え出してくる。
忽ち、真夏の朝だ。朝からひどく照りつける。
稲葉山の城下は――長良《ながら》の水も、町屋の辻も、すぐ眼の下だった。けれど人影といったらまったく人ッ子ひとり見えなかった。
「……どうなされたろう?」
陽《ひ》は高くなる。
茂助は、気が気ではなかった。――やはり初めて戦《いくさ》に臨むせいだろうか、胸ばかりわくわくしていた。
すると、突然。ダ、ダ、ダダダンと、銃音《つつおと》が谺《こだま》して聞えた。茂助は、その途端から夢中だった。しかし、自分の手で中天へ打ち揚げたのろし[#「のろし」に傍点]の煙が、シュルッと碧《あお》い空へ烏賊《いか》が墨をふいたように流れたのを、その眼は、確かに見とどけていた。
天から降ってでも来たように――である。
城内の搦手《からめて》に八、九人の敵が歩いていた。
それも至って、落着き払った顔して、雑草の生《お》い茂っている広い空地を、彼方《あなた》此方《こなた》、見まわしながら歩いて来たのである。
で、初めは。
その姿を見つけた稲葉山城の兵たちも、味方とばかり思って、附近の薪倉《まきぐら》だの、籾蔵《もみぐら》などの棟の下で、屯《たむろ》しながら、朝の兵糧《ひようろう》を喰って、雑談などしていた。
連日の戦とはいっても、それはこの広い城郭にあっては、大手の正面だけのことで、ここの搦手といったら、ほとんど、閑古鳥《かんこどり》や昼《ひる》時鳥《ほととぎす》の声さえするほど寂《じやく》とした天嶮だった。――どうかすると、遠く大手の七曲《ななまが》り口や井之口《いのくち》坂の方で、バチバチ小銃の音が聞えて来たりすることはあるが、搦手を守備しているわずかな兵は、
(やっとるな)
ぐらいなもので、飽くまで、ここらは戦争|圏外《けんがい》と心得ていた。
兵糧をつかいながら、藤吉郎たちの影を眺めていた斎藤家の兵は、それでもやがてふと、不審そうな眼を向け始めた。
「おい。何だろ」
「あれへ来た衆か」
「むむ。……変にうろうろしておるじゃないか。あれ、柵際《さくぎわ》の番所を覗《のぞ》いておるぞ」
「お表から誰方《どなた》か見廻りに来られたのだろう」
「誰方《どなた》だろう」
「さ? ……平時《いつも》とちがって物の具をつけると分らなくなる」
「オヤ。……一人が竈《かまど》部屋から燃えさしの薪《まき》を持って行ったぞ。何をなさるつもりだろう」
箸を持ったまま、見ていると、火のついた薪を持って走った一人は、薪倉の中へはいって山と積んであるそこの柴へ火を放《つ》け始めた。
一人に倣《なら》って、
また一人、また一人、続いて炎を運んでは、他の倉へも投げこんだ。
「――てッ、敵だッ!」
屯《たむろ》していた城兵が、初めて、飛び上がって絶叫したのが、おかしかったのか、彼方《かなた》に立っていた藤吉郎と蜂須賀《はちすか》彦右衛門は、振り向いて、にっと笑った。
城兵は、度を失って、
「たッ、たいへん」
と、叫んだり、
「こ、ここだッ。出合えッ」
と、喚《わめ》いたりしたが、急に藤吉郎たちへ、かかって来る者もなかった。
嘘みたいに悠々と、藤吉郎主従の者は、予定どおりな行動を終った。
「それッ」
後は、血戦あるばかりである。
敵も、忽ち、
「なにッ」
「なにッ。敵だと」
武者|溜《だま》りの辺りから――また、水門口の方面からも、どっとここへ殺到した。
七つ八つ棟《むね》を並べている倉庫からは、もう濃い黒煙《くろけむり》を吐いていた。
堀尾茂助《ほりおもすけ》の打ち揚げた狼火《のろし》の音がその上で響いた。
藤吉郎は、彦右衛門と他一人を連れたのみで、煙に紛《まぎ》れて、城壁の内側を西へ西へ傍見《わきみ》もせず走り、やがて七曲り口の木戸へくると、
「ここだッ、ここだッ、打ち破れッ」
と、絶叫しながら、途中、敵の雑兵を斬って奪い取った槍の先へ、夜来、携《たずさ》えて来た例の瓢《ふくべ》をくくりつけたのを――塀越しに振り上げ振り上げしては呶鳴った。
すでに。
のろし[#「のろし」に傍点]を見るや否、城下に機を待ちかまえていた織田軍は、七曲り口、百曲り口、井之口坂の大手の登り三道を攻め詰めて、その一手は、早くも七曲りの木戸の外まで押しよせていたのであった。
随所に、相当な激戦はあったけれど、脆《もろ》くも、稲葉山は半日のまに陥落してしまった。
その原因は。
第一に、搦手《からめて》の出火に、城内が一時に混乱したこと。
第二には、誰が云い出したともなく、
(裏切者があるぞ)
と、いう声が伝わったこと。
事実は、藤吉郎たちが喚《わめ》いたのを、狼狽した城兵が、一層狼狽して伝えたのであるが、ために、同士討ちなども起って、落城を早めた。
第三には。
これは重大な敗因と後で分ったことであるが、何者の献策《けんさく》か、暗愚な龍興は、この日より疾《と》く前から、城外へ出て戦っている将兵の妻子だの、富豪な町人の家族だの、城下の老幼男女を、城に満ちるほど、人質《ひとじち》として山へ上げてしまったのである。
将士の妻子は、
(敵へ降伏せぬため)
という督戦《とくせん》のつもりで入れ、また町人百姓は、すべて自国の富財であるから、これも敵に利用されぬためという考えのもとに行われた策だったが、何ぞ計らん、この献策をなした稲葉伊予守《いなばいよのかみ》は、すでに藤吉郎と結んでいて、軍事的に加勢はできないが、裏面からお援《たす》けしようという黙契《もつけい》のもとになされた反間《はんかん》の計《けい》だったのである。
そのため、城内の混乱は、よけいに甚《はなは》だしかったし、肉薄して来た寄手に、充分な抗戦もできなかった。
さらにまた、機を見るに敏な信長は、かねて龍興の性格を見ぬいているので、乱戦中に、早くも使者をもって、龍興へ書面でこう云って遣《や》った。
[#ここから2字下げ]
不倫《フリン》ノ家、今日、天譴《テンケン》ノ火裡《カリ》ニ有リ、又、我兵馬ニツツマレ終ンヌ。領民ヒトシク炎雲ニ慈雨ノ兆《キザシ》ヲ見、城下スデニ歓声タカシ。
サハ云エ、君ハ余ガ妻ノ甥《オイ》ナリ。余ハ、年来君ノ小心ト暗愚ヲ憐《アワレ》ム者、強イテ虐刀《ギヤクトウ》ヲ加ウルニ忍ビズ。ムシロ生涯、生キルノ扶持《フチ》ヲ歓《ヨロコ》ンデ恵マン。生ヲ望ミ給ワバ、降ヲ乞ウテ、速刻、余ガ軍門ニ使サレヨ。
[#ここで字下げ終わり]
案のじょう[#「じょう」に傍点]、龍興はその一書を手にすると、忽ち降伏の旨を云いやって、一族、斎藤九郎右衛門、日根野備中《ひねのびつちゆう》、長井隼人《ながいはやと》、牧村丑之助《まきむらうしのすけ》、その他三十余名の側臣だけをつれて、城外へ出てしまった。
信長は、それに保護の兵をつけて、海西《かいさい》郡まで送って放ち、龍興の弟新五郎を立てるならば、後日、斎藤家の祭祠《まつり》を絶やさぬだけの地は与えようと約した。
こうして、稲葉山は落ちた。美濃の泰山北斗《たいざんほくと》といわれた城は落ちた。
尾濃《びのう》二ヵ国を併《あわ》せ得て、信長の領有する地は、一躍、百二十万石にのぼった。
小牧山から稲葉山へ、信長は三度目の城を移した。
同時に、岐阜《ぎふ》と改め、城も、岐阜城と呼び改めた。
ここに一人、斎藤家にも、薫《かんば》しい武士がいた。堂洞《とうどう》の城主|岸勘解由《きしかげゆ》だった。
彼は、主家の滅亡を見、信長からも随身を諭《さと》されたが、それに答えて、
「尊命は謝すが、亡家の庭にも、一本の桜はあってしかるべく存ずる。不遜《ふそん》ながら、伝来の一矢《いつし》を酬《むく》い参らせて、敢えて散り申す」
尾張の大兵をうけて、善戦半月の余、矢弾《やだま》尽きるの日、勘解由は、炎の中で静かに、夫婦|対《むか》いあってさし交《ちが》えた。
信長は、碑を建ててやった。戦後も、この武士のはなしをよく口に出した。
初秋の九月。
藤吉郎は、洲股《すのまた》へさして帰城した。この戦から、彼は初めて、馬印《うまじるし》を主君からゆるされた。行軍の秋をてらてら耀《かがや》いてゆく竿頭《かんとう》の一|瓢《ぴよう》がそれであった。
[#改ページ]
母《はは》に侍《じ》す
一頃《ひところ》から見ると、清洲《きよす》の町はさびしくなっていた。人口も減り、大きな商家や侍屋敷の数も目立って減《へ》ってきた。
けれど、そのさびれ方には、脱穀《だつこく》の満足が耀《かがや》いていた。あらゆる生命の原則どおり、生みの母胎《ぼたい》はその任務だけを果すと、やがて老いに帰して安んじなければならない――信長というものが、いつまで郷土に膠着《こうちやく》していないことは、郷土自体にはさびれ[#「さびれ」に傍点]でも、大きな意味で、みな歓びとしているからであった。
ここにも。
そうした母胎の人がひとり老いていた。
藤吉郎の生みの母だ。
彼女は、ことしもう五十一歳にもなる。今は、嫁の寧子《ねね》といっしょに清洲の侍小路《さむらいこうじ》の邸で静かに老いを養っている身であるが、つい二、三年前まで中村にいて百姓をしていたので、土に荒れた手はまだ指の節も太く、藤吉郎をかしらに四人の子を生んだので、歯はだいぶ抜けて来たが、髪などはそう白い程でもない。
陣中の藤吉郎から、手紙が来れば、それにはきっと、
[#ここから2字下げ]
腰のお痛みはいかがですか。灸治《きゆうじ》をお続けになっていますか。母上には、以前のお暮しのくせがおありで、喰べ物というと、何を上げても「勿体ない勿体ない」がお口ぐせで、いっこう御自身の栄養にはお考え遊ばされぬので、それが遠くにいても心配です。どうか寧子《ねね》にいいつけて、朝暮魚鳥などもお摂《と》りください。そして長生きしてください。
藤吉郎の今のお願いはそれ一つです。なにせい私は鈍物なれば、母上が長生きして下さらねば、自分の思っているような御孝養をいたしたいにも、間に合わないようなことになりはしないかと案じられるのでございます。
幸いにわたくしは、陣中も病気知らずで、武運にも毎度めぐまれ、殿さまのお覚えもまずよい方ですから、息子のことはさらさら御懸《ごけ》ねんなく、ひたすら御自身の御養生と、日々のおたのしみをもっぱらお努めありますように。
[#ここで字下げ終わり]
美濃入りした後も、陣中からそういったような手紙が何十ぺん、この邸へは訪れて来たか数も知れない程だった。
そのたびに、老母は、
「寧子《ねね》よ、この便りを見やい。いつも子どものようなことを書いて」
と、嫁に示せば、寧子もまた、自分へ来た良人の手がみを母にみせて、
「なかなか、わたくしへ下さるお手紙は、こんなお優しくはございません。火の元の用心、留守中の女のつとめ、それとお母様への心がけなど」
「あの子もなかなか如才《じよさい》ないところがあるでの。そなたへの手紙と、母への手紙と、ひとつは厳しゅう、ひとつは優しゅう、両方合わせて見ればちょうどよいように書き分けてあるのじゃろう」
「ホホホホ。ほんにそうかも知れませぬ」
寧子《ねね》は心から良人の母によく侍《かしず》いた。いや良人の母といっては当らない。生れながらこの母の腹から自分も出たように、折には甘えもし、戯れもし、笑って暮すことに努めた。
その老母の歓ぶのは、なんといっても、藤吉郎の便りだった。――それがここ久しく絶えていたので案じていたところへ、きょう洲股《すのまた》から書面が届いた。けれどなぜか、今日のは彼女への一通だけで、母に宛てた分はなかった。
良人の今までの例では、母にだけ来て、妻の自分には来ないで、母への文の端書《はしがき》ぐらいにすましてあるようなことはある。
けれど。
妻にのみよこして、母へ来ない例は、今までにはなかった。――何か、変ったことでもあって、母に案じさせまいためではあるまいか。寧子《ねね》はふとそう考えた。
で。――自分の部屋でひとりその封を切ってみると、いつになく長文で、
殿さま美濃入国つつがなくお遂げ被遊《あそばされ》
と、前文して、自分の洲股凱旋《すのまたがいせん》のことを次に誌《しる》し、さて、それから用向きに移って、次のような文意が認《したた》めてあった。
かねがね母上をもそもじをも、自分の側に迎えて、共に朝夕暮すことは大きな希《ねが》いであったが、ようやく自分も一城の主《あるじ》として、今日領するところ五万石、馬印をもゆるし賜わり、まずまず母上をお迎えしても、御不自由はさせない程になったと思う。
しかし、かねて母上は、御自身がわしの足手まといとなっては、主君への御奉公に事欠くような惧《おそ》れもあるやにお考えなされ、|旁※[#二の字点、unicode303b]《かたがた》また、御自身は百姓ばば[#「ばば」に傍点]じゃ、今のくらしでも身にすぎたなどと、いつも口ぐせに仰せられている。
故にきっと、藤吉郎から申し上げても、また何のかのと、お否《いな》み遊ばすにちがいない。
わが御主君の大志はなかなかもって、現状ぐらいで、御満足していらっしゃるものではない。その大志の殿に随身する藤吉郎もまた驥尾《きび》に附して、洲股《すのまた》はおろか、やがては中原《ちゆうげん》へも働きに出るように相成ろう。
御奉公もさることながら、藤吉郎のいのちがけの働きも、母上のおよろこびと、そもじの幸福を見たいのが張り合いでもある。そもじの孝養も、わしがお側にいる以上とは思うものの、藤吉郎も戦乱の余暇、稀れには、母のおひざにも甘え、そもじらと夕餉《ゆうげ》を興じたく切々に思う日もあるぞかし。
そこをよう、そもじより母上へ説《と》いて、今の住居《すまい》をひき払い、近日中にも、洲股城のほうへお移りあるようおすすめして欲しい。
家財の始末、小荷駄など、よきように申しつけおけば、そのままになし置かれ、当方より蜂須賀彦右衛門、堀尾茂助などを遣《つか》わすゆえ、ただ迎えの駕籠《かご》にお身を入れてお越しあればよい。
以上。――良人の手紙は、その終りに、返辞を待つと結んであった。
「どう仰っしゃるかしら?」
それは、寧子にも、分らなかった。良人のいいつけは、重大であると思った。
「寧子《ねね》よ、寧子よ、ちゃっと、ここへ来てみなされ」
折ふし、屋敷の裏のほうで、老母のよぶ声がした。
「はいッ」
縁を下りて、彼女は、裏へ出て行った。みると老母は、邸内の空地《あきち》を耕《たがや》して菜園とした畑で、きょうも百姓の持つ鍬《くわ》を把《と》って、秋《あき》茄子《なす》の根土を掻いているのだった。
まだ昼なかは残暑。
畑の土いきれは殊に暑い。鍬を持つ老母の手には汗塩が光っていた。
「まあ、このお暑いのに」
寧子はつい、そう口に出てしまう。
常々、老母がいう、
(百姓は、好きですること。必ず気遣《きづこ》うてくれるな)
ということは、何度も聞いていながら、百姓育ちでない、また、百姓の真味を知らない彼女には、それはただ労働するという姿にしか見えなかった。
でもこの頃は、だんだんに老母がなぜ百姓を止《や》めないか――その心もちが少し分りかけて来たような気もする。
何かにつけて、老母はよく、
(土の恩)
ということを口にする。
貧苦の中に、四人の子を大きく仕上げ、自分もこの年まで、ともあれ飢死《うえじに》もせず生きて来られたのは、土の御恩だというのであった。
そして朝は、太陽へ拍手《かしわで》を鳴らして拝む。
それも、中村時代からの習慣にしていることだという。
以前の生活を忘れまい。
急に、美衣美食に狎《な》れ、土と太陽の恩を忘れたら、きっと罰があたって、病《やまい》にかかろう。
そんな述懐をもらしたこともあるが、もっと、口には出さないで、子や子の妻などへ、暗に訓《おし》えている大きな意味もあるに違いなかった。――寧子《ねね》も、その程度には、老母の心を酌《く》んではいた。
「オオ、寧子か。これを見てたも」
彼女のすがたを見ると、老母は鍬をおいて、自分の丹精をうれし気に指《さ》して、
「秋茄子がこのように、たくさんに実《な》った。またすこし摘《つ》んで、冬の間に喰べられるよう漬けこんで置こう。いつもの籠を持って来てすこし|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いでたも」
「はい」
寧子は戻って来ると、二つの籠の一つを母に渡し、畑の土に母と並んで、自分も|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》いでは籠へ入れた。
「お昼寝もなさらずに、御丹精あそばすので、邸では、お汁の実《み》や漬物は、みんなお母あ様の栽《つく》った物で足りておりまする」
「出入りの商人《あきんど》たちは、いぶかしく思うておろうの」
「召使から聞いて、それはお楽しみにもなり御養生にもなり、経済にもなるし、ほんによいことだと、いっているそうでございます」
「吝嗇《りんしよく》のためにするように考えられては、藤吉郎という、この家の主《あるじ》の障《さわ》りになる。そうした向きで用のない商人には、せいぜいなんぞ他の物を買うてとらすがよい」
「そうしておりまする。――ああそれからお母あ様、こんな所で申しては恐れ入りますが、つい今し方、洲股《すのまた》から御書面が参りました」
「ほ、あの子から?」
「ええ。……けれど今日は、母上様へのお宛名はなく、わたくしへだけ参りました」
「どちらでもいい。……して、相変らず、無事か。ここ久しゅう便りがなかったのは、美濃よりお引き揚げのためであったの」
「左様でござりまする。ついては、この度はもう一城の主《あるじ》とゆるされ、領地も五万石ほどはあり、なお馬印《うまじるし》まで御主君より賜わったからには、もう母上様をお側に迎えてもよいように考えるから、そなたからおすすめして、是非、近日中に洲股城へお移り遊ばすように……。そう細々《こまごま》と、わたくしへお申しつけのお手紙でございまする」
「ほ。……それはめでたい。あの子のどこが殿様のお気に召してやら、夢のような出世ではあるが、図にのって、踏み外してくれねばよいが」
子の吉事を聞けば聞くで、その吉事の儚《はかな》く終らぬように、親心はまた、それを案じるのであった。
睦《むつ》まじく畑に並んだ老母と嫁の手に、|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》がれた茄子《なす》は、七ツ、十、二十といつか籠を瑠璃色《るりいろ》に埋めた。
「お母あ様。お腰が痛うございましょうに」
「なんの、わしの体は、こうして一日少しずつなと働いた方が、かえって工合がよい」
「わたくしも、お母あ様に習って、時折、畑のお手伝いをさせて戴いてから、瓜《うり》だの茄子だの、朝な朝な汁の菜を摘《つ》むのに、楽しみを覚えて参りました。……洲股城へ移ってからでも、お城には広い地がありますから、畑作りは止めないで、よけい精出していたしましょう」
「ホ、ホホホホ」
老母は、土に汚れた手の甲を、口へあてて、
「そなたも、藤吉郎と同じように如才《じよさい》がないの。もう洲股へ引き移るものと、いつの間にやら決めていやる」
「母上さま」
寧子《ねね》は改まって、畑の上へ、指先をつかえながら、
「どうぞ、寧子からも、おねがい申しまする。良人の気もちを、かなえて上げて下さいまし」
すると老母は、あわてて寧子の手を取って、額《ひたい》に頂《いただ》かぬばかりに、
「勿体ない勿体ない。わしのわがままをそなたまでが」
「いいえ、お母あ様の思《おも》い遣《や》りは、よう分っておりますなれど」
「年よりの我《が》と、腹立ててたもるまいぞ。わしが洲股へ行かぬというのは、あの子のためを思うてじゃ。また、御主君への御奉公を欠かすまいと思うてじゃ」
「良人も、それはよく合点でござります」
「それでのうても、あの子の早い出世に、中村の猿がとか、水呑み百姓の伜《せがれ》がとか、そねみの多い中にある藤吉郎じゃ。むくつけき百姓婆が、お城の奥で、畑打ちなどしていたら、あの子の家来達も、主人を軽んじ、ひいては藤吉郎も辛かろう……」
「いえもし、お母あ様。それは取り越し苦労と申すものでござります。見えを飾り、人の聞えを気にする性《たち》の人なら知らぬこと、良人は、そんな毀誉褒貶《きよほうへん》に心を左右されるお方ではありません。――従って、良人に付いている家来衆とても」
「そうかの……。こんな姿が、一城の主《あるじ》の母ぞと臨んでも、あの子の顔には障《さわ》るまいか」
「そんな小さい人物の良人ではございません」
寧子《ねね》のことばが、余りきっぱりしていたので、老母は驚きの眼をみはり、やがて、その眼から、滂沱《ぼうだ》として、欣《うれ》し涙をこぼしてしまった。
「すまぬこというたの。寧子よ、ゆるして下されや」
「さあ、お母あ様、陽も暮れますゆえ、手足などお洗《すす》ぎ遊ばして」
寧子は、二つの重い籠を、両手にさげて、先へ歩いた。
夕方の清掃にかかる。召使と共に、寧子も箒《ほうき》を持つ、雑巾をかける。殊に、老母の部屋の一切は、努めて、彼女の手で何もかもするようにしていた。
灯をともす。
そして夕餉《ゆうげ》の膳。
姑《しゆうと》と嫁とのほかに、藤吉郎の分も朝夕、必ず陰膳《かげぜん》として、床の前にすえて喰べる。
「お腰でも揉みましょうか」
時折、神経痛を病むのが、老母の持病であった。秋ぐちの夜風にふれると、痛みを訴えることが多かった。
寧子に脚をさすってもらいながら、老母はすやすや寝入ったかと思われたが、その間、考えぬいていたのであろう。やがて起き直って、寧子へいった。
「のう嫁御。そなたもさだめし、あの子の側で暮したかろうに、わしのみ我儘《わがまま》いうてゆるしてたも。――明日でもよい、洲股へ返書を出して下され。母も洲股へ引き移りたい程に、迎えの衆を、急いでよこして貰いたいと」
待ちかねていた妻からの返書が届くとすぐ、藤吉郎は、蜂須賀彦右衛門、堀尾茂助、他三十名ほどの家中を、
――母上お迎え役
として駕籠や馬など持たせ、即日、清洲《きよす》へ遣《つか》わした。
「明日は、母をこの城へ」
母の居間はどこが良いか、どうしたら母が楽しむだろうか。――
彼は子供のように待った。
すると、その清掃された城門へ、母の駕籠より一日早く、思いもうけぬ珍客が訪れた。
客は、粗服に眉深《まぶか》な笠をかぶり、従者も二人ほどしか連れていない。しかも一人は若い女性であり、一人は童《わらべ》だった。
「お眼にかかれば分る」
とのことに、ありのままを、武士から藤吉郎へ通じると、彼は何か思い当ったとみえて、
「さては」
と、自身ですぐ城門まで出迎えに駈けて来た。
「おうッ、これは」
「やあ、しばらくでござった」
案のじょう[#「じょう」に傍点]、客は、栗原山の竹中半兵衛|重治《しげはる》だった。
供の童子は小熊《こぐま》。女性は半兵衛の妹のおゆうなのである。
「身内はこれだけでござる。一族はなお、菩提山《ぼだいさん》の城に数多《あまた》あれど、すでに一度、世を捨てた半兵衛には、主縁も族縁も断《た》ったにひとしい者どもです。――藤吉郎殿とはかねてのお約束。時節も参ったかのように存ぜられるゆえ、山の一庵を捨てて、ふたたび人中へ下りて来ました。身内とも三名の浪々の者、御随身の端《はし》へお加え下されようか」
「…………」
藤吉郎は、膝の辺りまで手を下げて、心の底から、
「こは余りな御謙遜です。前もって、一書お知らせを賜われば、すぐにも自身、山までお迎えに参じましたものを」
「何の。多寡《たか》の知れた山《やま》住居《ずまい》の牢人《ろうにん》一名が、御奉公に参るのに、迎えなどは」
「ともあれ、どうぞ」
先に立って、彼は、半兵衛を奥に招じ、下座に着いて語ろうとすると、半兵衛は固く上座を拒んで、
「それでは、それがしが随身いたそうとする意志にそむく」
と、いって肯《き》かない。
藤吉郎もまた、
「いやいや、自分には、御身の上に立って、召し抱えるなどという器量《きりよう》はない。主君信長に御推挙申して、自分はあなたを師としてこれから学びたいと思っている」
と、衷心《ちゆうしん》からいう。
半兵衛は、否《いな》! と明瞭に頭を振って、
「初めから申した通り、それがしは信長様に随身の心は毛頭ない。旧主斎藤家への義理立てのみでなく、もしこの半兵衛が信長様に仕えたら、また必ず君家を去らねばならぬ気がするのです。――仄《ほの》かに聞き知る御性質と、この半兵衛自身の至らぬ性格を思いあわせて、双方に益なき主従となるような予感がいたされるのでござる。その辺、あなたには何となく気心が措《お》けないでよい。生来のわがままも我意も大きく容《い》れて下さる気がする。――そうした木蔭でなくては身を寄せても寄せきれぬ半兵衛でござる。どうか、御家中の端《はし》と思うて戴きたい」
飽くまで、半兵衛は、そういってきかなかった。
「では、どうか、藤吉郎のみでなく、家中一般の軍学の師として、心おきなく、おとどまり下さるように」
そんなところで、二人は妥協《だきよう》がついたとみえ、夜は、燈下に酒を酌み合って、更《ふ》けるのも忘れて楽しげに話しこんでいた。
翌日は、彼の母が、洲股《すのまた》に着く日であった。藤吉郎は従者を連れて、城外一里余の柾木村《まさきむら》の端《はず》れまで、母の駕籠《かご》を迎えに出ていた。
村端れの民家に駒を繋いで、藤吉郎主従は、やがて着くはずの老母の駕籠を待っていた。
壁と屋根ばかりな茅屋《あばらや》へ、領主が休息したので、村民は、ひどく恐縮して、あわてて床几《しようぎ》や蓆《むしろ》を持ち出して供えるやら、村長《むらおさ》の娘が盛装して接待するやら、時ならぬ騒ぎだった。
晩秋の空は碧《あお》い。
民家の籬《まがき》には、菊がにおい、銀杏《いちよう》の梢《こずえ》には、鵙《もず》が高啼《たかな》いていた。
「中村を思い出すなあ」
藤吉郎は、側にいる家来へいった。何につけても、彼は郷土を忘れていない。
そのうちに、村の腕白や洟《はな》たらしが、蜂の子みたいに集まって来た。木蔭や藪《やぶ》の中から覗《のぞ》いて、
「殿さまだよ、あの人」
「違うよ、こっちの人だよ」
「立派だなあ」
「いい馬だなあ」
初めは畏れて遠くから囁《ささや》いていたが、そのうちに、そこらを駈け廻ったり、何か、遊戯を始めて、わいわい騒ぎ出した。
村長《むらおさ》の紋付を着た老人が、
「これッ」
と、呶鳴りつけて、
「御領主さまの前で、わいら、なんというこッちゃ。あッちへ行きおれッ。行きおらぬと、棒をくらわすぞ」
と、追い払った。
藤吉郎は、手をあげて、
「アア、これこれ叱るな。子ども達は、見馴れぬわれらを見て、はしゃ[#「はしゃ」に傍点]いでおるのだ。遊ばしておけ。遊ばしておけ」
と、いった。
家来に命じて、彼は、蒔絵《まきえ》をした塗物の器《うつわ》を膝へ取り寄せた。それは、駕籠《かご》の中のお慰みにと、母のために用意して来た菓子だったが、
「子ども、菓子をやる。――ここへ来い」
と、さしまねいた。
名主《なぬし》に叱られた腕白どもは、彼方《かなた》に立ち並んだまま竦《すく》んでいたが、一人も前へは出て来なかった。
――といって皆、菓子は欲しいし、領主は恐《こわ》いし、という顔していた。
「これ、一番チビの洟《はな》たれ、来いよ。恐いことはない。菓子を遣《つか》わすからこれへ来い」
指を咥《くわ》えながらチビは前へ出て来た。そして藤吉郎の手から菓子をもらうと、逃げるように戻ってゆく。
順々に、藤吉郎は、一つかみずつ菓子を頒《わ》け与えた。その光景を、腕白の親どもは、土下座して、涙しながら眺めていた。
「親どもにも、何か取らそう」
一封の金子《きんす》を、村の老人たちへといって、家来から名主《なぬし》へ下げた。近頃、乱世の時勢に、稀有《けう》な御仁慈ではあると、村長はびっくりして、村中へ触れまわった。
「よい御領主よ」
村中は、生ける氏神が降《くだ》って来たように、遠くから彼を拝した。氏神様は、陽気な性質とみえて、家来や村人を相手に、頻りと話しかけたり笑ったりしている。
そのうちに、並木端れまで出ていた家来の二、三が駈けて来て、
「御老母さまのお列が、はや彼方《あなた》に見えて参りました」
と、注進する。
「おお」
藤吉郎の面《おもて》には、つつみきれない歓びが耀《かがや》いた。
民家の軒下を立って、並木口まで彼は歩いた。もう、母の駕籠は、ついそこに来ていた。
附き添いの武士たちは、出迎えに出ている主人の姿を見ると、一斉に馬から降りた。
蜂須賀彦右衛門は、すぐ老母の駕籠わきへ寄って、
「藤吉郎様が、わざわざこれまでお出迎えに来ておいでなされます」
と、告げた。
「おお……」
駕籠のうちから、もう懐かしさがいっぱいな老母の声だった。
「降ろしてたも。――降りましょう」
いう言葉さえ忙《せわ》しかった。
駕籠を停《と》める。
武士たちは、左右に膝を折って、一様にみな頭《かしら》を下げた。
寧子《ねね》は先に、乗物を出て、老母の駕籠の側へ寄って手を取った。――と、その老母の足の先へ、急いで草履を揃えた侍の顔をふとみると、それは良人の藤吉郎であった。
「…………」
何をいう遑《いとま》もないし、胸がつまって、寧子は、眼をもって、良人に挨拶しただけである。
老母は、子の手を取って、
「一城のお主《あるじ》が、勿体ない。家中方もおるところ、そう気遣《きづか》いせぬものじゃ」
と、額《ひたい》に当てて拝まないばかりにいった。
「お健《すこ》やかなお顔を見て、藤吉郎安心いたしました。気遣いするなとの仰せですが、母上は、家庭の母上、きょうの私は、武将としてお出迎えに出たわけではありませんから、お案じには及びません」
「そうかの」
老母は、駕籠の外に立った。わが子以外の侍は、すべて地に指をついているので、その前を立って歩むも眩《まば》ゆい気がした。
「おつかれでしょう。ここでしばらく休息なされませ。もう洲股《すのまた》の住居《すまい》までは、一里ほどしかございません」
老母の手をひいて、民家の軒先の床几《しようぎ》まで誘《いざな》った。
老母は、いわるるまま、腰をかけて、真っ黄いろな銀杏《いちよう》並木から、秋の空をながめていた。
(涙もろくおなりになったようだ)
と、藤吉郎はひそかに、母の健康ぶりを見まもるのだった。しかし、母の手は中村にいた頃のように陽《ひ》やけで黒くなっていた。
「……夢のような」
やがて呟《つぶや》いた母の独り言に、母がうっとりしている気もちが察しられた。――そういわれて、藤吉郎もまた、改めて歳月が顧みられた。
けれど彼には、夢のような――とは感じられなかった。はっきりと現実の歩みを過去にも見るのだった。ここへ来た今日の日は、当然、行き着いた道中の一宿駅という気もちなのである。
「おめでとうござりまする」
「およろこばしゅうござりましょう」
いつとなく、領主が母を郷里から迎えたのだと知れ渡って、村の老幼はここへ集まって来て、遥かから土下座して祝いをのべた。
餅をついてくる。
茶を煮てささげる。
また、古い鈴を持った媼《おうな》が、めでたい舞とか、土俗的な舞いぶりにつれて唱歌したり――村中をあげての歓待であった。
しばし休んで、駕籠と馬と人の列は、やがてまたそこを立って、洲股《すのまた》へ向って行った。
「おお、きれい!」
「きれいなお駕籠」
散る銀杏《いちよう》の葉の光と、秋の陽《ひ》の中で、子ども達は、囃《はや》しながら踊っていた。
平和だった。
武士が列伍《れつご》を組めば、忽ち、火は空を焦がし、矢弾《やだま》は地をゆるがすのが、この頃のあたりまえだったので、子どもらの眼にも、それはまたなく綺麗に見えたものであろう。
やがて。
洲股の城が見えた。
白い夕靄《ゆうもや》のうちに、本丸の灯が三つ四つきらめいていた。
いや、城門のあたりには、篝《かがり》や松明《たいまつ》が、真っ赤なほど、出迎えにならんでいた。――一家の歓びは、一城の歓びだった。また、領土全体の歓びとなっていた。
なぜか彼は、父のことについては、人にも語らず、平常、慕う風も見えなかった。
母には人一倍、孝心の篤《あつ》い彼なのに――と、ひそかに不審《いぶか》る者もあったが、こんどその老母と妻とを洲股城へ呼び迎えるに際しても、父なる人については、何の沙汰も聞えなかった。
「おれは中村の近くなので、その筑阿弥《ちくあみ》という人をよく知っているが」
と、城内の侍《さむらい》部屋で、元小六党のひとりだったという家臣が、或る折、同僚に囁《ささや》いた談片などによると、いささかその辺の消息が解けないでもない。
彼の養父筑阿弥は、その後も相かわらず不身持《ふみもち》であったらしい。いわゆる女房泣かせの極道《ごくどう》をし尽くし、大酒と遊惰《ゆうだ》に健康をそこねて、もう数年前に――藤吉郎がどこか戦場に出ている留守の間に、中村の茅屋《あばらや》で病死したというのが、村の者のいっている真相であった。
だから中村辺では、筑阿弥をよくいう者はひとりもないが、藤吉郎の母には、最後までよく貞節をつくしたと、誰も称《たた》えて、同情を寄せた。
藤吉郎の立身が、追々と、故郷の人々へ知れるに従って、
「やはり幼い時から、どこか日吉どのは違っていたからのう」
などとにわかに、彼の母は、村の者の追従《ついしよう》や世辞につつまれたものだった。
そうした郷土の人々は、藤吉郎のはなしをするにも、養父の筑阿弥のことは、おくび[#「おくび」に傍点]にも口に出さなかった。かえって、
「――弥《や》右衛門《えもん》どのが生きてござったらなあ」
と、みないった。
藤吉郎が、筑阿弥の実子ではなくて、先夫の木下弥右衛門の子だということは、中村の者は誰でも知っているからである。
しかし、その実父についても、後の継父《けいふ》についても、藤吉郎が今日、余り口に出さないのは、
「いうては、母上が、人知れずお辛かろう」
と、母の胸のうちを思い遣っているからであった。
それは、後になって、城内の家臣たちにも、無言のうちに分った。
老母と寧子《ねね》が、洲股《すのまた》へ移ってから翌月のこと。
藤吉郎の家庭にはまた、三人の肉親が来て、ひとつに暮すことになった。
その一人は、姉のおつみ。
それから義弟の小竹《こちく》と、末の義妹《いもうと》とであった。
おつみはもう三十になろうとしていた。しかもまだ嫁《とつ》がない身であった。藤吉郎はこの姉に、約束がある。
(おっ母を頼むよ。おらが偉くなったら、姉やに、繻珍《しゆちん》の帯を買って、きっと、お嫁入りさせてやる)
と、少年の折、一家の貧窮を託して、郷土を去る時に姉にいった約束である。
彼は、その実行を、妻に相談した。翌年、妻の縁家の木下弥助《きのしたやすけ》を、おつみの良人として、城内で結婚させた。その弥助が、後の三好《みよし》武蔵守《むさしのかみ》一路《かずみち》だった。
だが。
父を同じゅうする姉以上、藤吉郎が心をつかったのは異父弟の小竹と末の義妹《いもうと》だった。
小竹は、改名させて、小十郎と名のらせ、士分の中に加えた。後の大和《やまと》大納言秀長《だいなごんひでなが》はこの人である。
末の義妹《いもうと》は――それはもっと後のことだが、家康へ嫁《とつ》いで間もなく病死した。
こうして今、一家揃ってみると――母は明けて、五十一、姉は三十歳、弟は二十四、妹は二十一だった。
「みんな大きくなりましたなあ……」
藤吉郎は、母へいった。そして母の満足な顔を見るのが、彼の欣びだった。また、明日への大きな張合いだった。
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隣交遠計《りんこうえんけい》
尾濃《びのう》の二州を併《あわ》せれば、優に百二十万石の大国。
きょうの信長は、もう昨日の信長ではなかった。
稲葉山《いなばやま》は、岐阜《ぎふ》と改め、信長は岐阜城にすわった。
永禄《えいろく》八年の新春。
岐阜城第一に迎えた春の献賀《けんが》にと、丹波《たんば》長谷《はせ》の城主赤沢|加賀守《かがのかみ》は、自分の秘蔵する名鷹《めいよう》二羽のうちの一羽を、わざわざ使者に託して送ってきた。
赤沢加賀守は、放鷹《ほうよう》の名人として、また、鷹をよく飼う名家として、その頃、著名な人だった。
信長もまた、少年の時から、鷹狩は好きだと聞いていたので、凡《なみ》ならぬ好意を示してきたわけである。
ところが。
信長は、使者を泊めて歓待《かんたい》もし、充分、謝意ものべたが、その使者の見ているところで、
「この名鷹《めいよう》はしばらくの間、青空へあずけておこう」
と、放してしまった。
そして再び庭へ下りて来ても、見ているだけで、飼わせなかった。
使者は、案じて、
「何か、お気にでもさわったことがありましょうか」
と、たずねた。
「否《いな》とよ」
信長は、莞爾《かんじ》として、次のようにいった。
「――ご覧《ろう》ぜよ、今や、朝廷の御衰微、四海の騒乱、百姓たちも安んぜぬ世の様を。信長は、赤沢殿以上、放鷹は大好きでござるが、思うに、今はこれを玩《もてあそ》ぶ時でもありますまい。――他日、近く旗を京都に上《のぼ》せ、諸州の群雄どもをしずめ、上《かみ》の御宸襟《ごしんきん》をやすめ奉った上には、心ゆくまで、長閑《のど》けき空へ鷹も心も放ちとうぞんずる」
そしてまた、
「赤沢殿のおこころざしはありがたくいただいた。使者にも大儀であった」
と腰の刀《もの》など遣《と》らせて帰したということが――この春にはあった。
鷹仲間の同じ趣味の公卿《くげ》などへそのことばが云い伝えられたとみえる。
後に、それを聞いた、京都の人たちの間では、
「尾濃《びのう》二ヵ国を得るのに、十年もかかった信長が、天下に志のあるようなことをいうたそうだが、二ヵ国十年の割で行ったら、いったい何十年後のことになるやら。――いやその前に、自分が十万億土へ旅立たねばよいが」
と、一頻《ひとしき》りに、堂上《どうじよう》間の笑いばなしになったという。
何ぞ知らん――。わずかそれから三年後には、京都の足利|義昭《よしあき》将軍は、もう信長を頼らなければならなくなっていた。
けれど。
信長のことしあたりの生活を身近に見ている者でも、嗤《わら》う方《ほう》がほんとの気がした。――天馬空を行くような、希望への駈足は、すこしも見えない。
むしろ、岐阜《ぎふ》城へすわってからは、寛々《かんかん》たる春日を送っていた。以前のように、鷹狩やまた、夜の踊などには出かけないが、いつも君側は静かである。
晩春――
花は、おぼろ月の大廂《おおびさし》から、彼の居眠る脇息《きようそく》の近くまで散りこんできた。
「……あ。そうだ」
何を思い出したか、急に彼は一書をしたためて洲股《すのまた》へ使者をやった。
近頃、藤吉郎も一城の守将となって、常に、呼べばいつでもハイと答えるところにいないのは、信長にもやや淋しいふうであった。
洲股《すのまた》川の大江《たいこう》を渡って、信長の召状は、藤吉郎の城門へ届けられた。
ここも、この春は、平和に暮れて、松風の築山陰《つきやまかげ》には、山藤《やまふじ》の花が白々|揺《ゆ》れていた。
本丸の広庭を抱いたその築山のうしろ方《かた》には、先ごろ普請《ふしん》した新しい講堂風の建物と、一棟の添屋《そえや》があった。
小さい棟には竹中半兵衛と妹のおゆうが住んでいた。
大きな講堂作りの棟のほうは、家中の者の修養|練武《れんぶ》の床《ゆか》として建てられたものだった。竹中半兵衛を師として、朝《あした》には論語、孝経《こうきよう》などの講義が開かれ、昼は、槍術や太刀を励みあい、夜は更《ふ》くるまで灯《ひ》をかかげて、半兵衛は、孫呉《そんご》の軍学を説いた。
一藩の士風を、まずここから叩き直そうとするように、半兵衛は熱意をもって、若い諸士の教養に当った。
守将の藤吉郎からしてそうであるが、ここの家中は小六党出の野育ちな武士が中心となっている。
藤吉郎は、自分を顧みて、自分に欠けているがために、平常、持とうと心がけているものを、彼らにも持たせなければならないと考えた。野育ちの強さだけでは、行く末、自分のものとして、ほんとに役立つ家来にはなれない。そう憂いていたからである。
で。――竹中半兵衛を迎えると共に、彼は、自分も半兵衛に入門の礼を執《と》り、講舎を建て、一藩の軍学師範と仰いで、家中の教育を一任した。
士風は、大いに革《あらた》まった。半兵衛が、孫子や論語を講じる時には、蜂須賀《はちすか》彦右衛門なども、聴講の床《ゆか》に、欠かさず姿を見せた。
ただ恨むらくは、かんじんな半兵衛|重治《しげはる》が、相変らず壮健でない。そのため時々休講して、家中の者を失望させた。
きょうも、昼は勤めたが、夜学の講義は休むといって、半兵衛は、黄昏《たそが》れるとすぐ北の戸を閉めさせた。木曾の上流からくる夕風は、晩春といっても、半兵衛の病骨にはなお寒いらしかった。
「お兄上さま。奥へ臥床《ふしど》をのべておきました。お寝《よ》り遊ばしてはいかがですか」
おゆうは、兄が持薬の煎《せん》じぐすりを、机のそばへおいて、相変らず閑《ひま》さえあれば、書物に眼を曝《さら》している半兵衛へそっと云った。
「いや。大して体が悪いわけではない。殿からお招きがあろうも知れぬと思われるので、講義を休んだのだ。――寝る支度よりは、お召しがあったら直ぐ出仕の相成るよう、衣服など揃えておけ」
「おや……左様でございましたか。なんぞきょうは、御本丸に、お集会《あつまり》のことでも」
「ちがう」
半兵衛は煎薬《せんやく》の熱いのをすすりながら、
「先ほど、戸を閉める折、そなたが告げたことではないか。お使者の小旗を立てた舟が、江《こう》を渡って、岐阜《ぎふ》よりお城の門へ着いたようじゃと」
「あの。そのことでございますか」
「岐阜《ぎふ》より殿へ御状《ごじよう》があったとすれば、いつどんな御用の起らぬ限りもない。たとえ半兵衛にお招きがなくても、帯を解いて寝《やす》んでは相すむまい」
「ここの御城主様は、お兄上さまを師とあがめ、お兄上さまはまた、先様《さきさま》を殿と敬《うやま》って、一体どちらがほんとやら分りませぬが……お兄上さまにはやはりあのお方へ御奉公をしきるお覚悟でございますか」
半兵衛は、ほほ笑みそうな眼をつぶって、天井を仰ぎ、
「――つい、そうなったなあ。男にとって恐いものは、男に見込まれることだよ。傾国の美には迷わぬが……」
云いかけた時である。果たして、本丸の使いが来て、半兵衛殿にすぐお越しありたいと、藤吉郎の旨を告げて帰った。
何か、独り黙考している藤吉郎の前へ、小侍が、
「竹中殿がお見えなされました」
と、告げた。
藤吉郎は、オオと顔を上げ、すぐ室《へや》の外まで迎えに立った。
そして席へ戻ると、
「夜中、お呼び立てして、相すみませぬ。先生には近頃、御容体はいかがですな」
と、いった。
半兵衛は、自分を師として、飽くまで鄭重《ていちよう》に扱う藤吉郎の容子《ようす》をしげしげと見入っていたが、
「意外な御斟酌《ごしんしやく》ではある。御主人たるあなたが、そのように仰せられては、半兵衛は何と御挨拶してよいやらわからぬ。――なぜ、半兵衛見えたかとは仰せ下さらぬか。――そのようなお気遣《きづか》いは、臣職にある者には、むしろ迷惑にぞんずる。構えて、私を先生などと呼ぶ儀は、今後おやめ願いとうござる」
「いや。そうか。――なるほど、かえってよくないかな」
「半兵衛の如き者を、さまで眼の中にお入れ遊ばす殿でもないかと思いますが」
「はははは、そうでもない。わしは無学だ、お身は学識がある。わしは野から生《は》えた人間だ。お身は菩提山《ぼだいさん》の城主の子だ。そういったような差かなあ。――何となく一目措《いちもくお》けるよ」
「とすれば、半兵衛の不徳と申さなければなりません。以後、気をつけます」
「まあよい。追々と、主従といったことになろう。藤吉郎がもそっと偉《おお》きくなればな」
いっていることはまるで他愛もない。これで一城の守将かとおかしくなるほど、余りに権式《けんしき》張らなさ過ぎる。殊に、半兵衛に対しては、自分の愚も無学もまる[#「まる」に傍点]裸にして見せた。学問も少しはありそうな、肚もできているような、そんな虚飾は、少しも持たなかった。
「時に。お召しの御用は」
半兵衛が、促《うなが》すと、
「そうだ」
急に気づいて、藤吉郎は云い出した。
「実は、岐阜城の信長様から、今夕御書面が到来。はて、何事やらんと、拝披《はいひ》いたしてみると、御文言《ごもんごん》はわずか数行、
小閑《シヨウカン》、岐阜ニ得ルモ忽チ倦《ウ》ム
風雲オサマッテ更ニ風雲ヲ望ム
花鳥風月マダ友ニアラズ
今歳《コンサイ》ノ計策《ケイサク》ソレ如何《イカニ》
――こんなお質《たず》ね事が書いてあるのだ。どう御返書を認《したた》めたらよいだろう」
「お答えは、一行で足りましょう。――お質《たず》ねの御意中は明白ですから」
「ム。それは自分にも分っておるが……。一行で、どうお答えするか」
「隣交遠計《りんこうえんけい》」
「……隣交遠計と?」
「さればです」
「ムム。なるほど」
「岐阜《ぎふ》を得られて、今年は内政を整え、兵馬を養うて、さらに他日を待つ時であると――こう信長様にはお考え中のものと思われますゆえ」
「そのおつもりに相違はない。……が、ああいう御気性、平日たりとも、無為《むい》に過しておられぬままに、その計策を問うておよこしなされたものだ」
「遠きを計《はか》り、近きと結ぶ、今は絶好な機会かと思われます」
「それには?」
「いささか愚考もありますが、そういうことには、それがしよりは、あなた様のほうが、縦横の御才器と申すもの。……まず隣交遠計の四字だけを、お答えの書中にいたして、上使をお帰しあって後、折を見て、直々《じきじき》に、岐阜城へ御献策あるがよろしかろうと存ぜられます」
「その隣交はまず何処の国とむすぶがよいか、二人の意中を、試みに紙片に書いて、見合わせようではないか」
藤吉郎のことばに、
「では、愚考を」
と、半兵衛が先に誌《しる》して出すと、藤吉郎も懐紙へ一筆つけて取り換えた。
披《ひら》き合ってみると、
甲州《こうしゆう》
甲斐《かい》武田家
と、符節《ふせつ》をあわせたように、一致していた。
「あはははは」
「ははは」
二人は笑った。――二人とも同じことを考えていたことが愉快だった。
藤吉郎は、それと共に起《た》って、夜食を共にしようと、半兵衛を促《うなが》した。
客殿に煌々《あかあか》と燭が燈《とも》っていた。岐阜城の使者を上座に、母堂や奥方の寧子《ねね》などもいて、客をもてなしているのだった。
「やあ、失礼いたした。ひどくお静かではないか。お使者どの、どうぞおくつろぎ下さい。こよいは一つ充分に」
彼が坐ると、燈《ひ》もにわかに華やいで、席は陽気になった。
この頃の良人は、前から見るとだいぶ酒量もすすんでいるらしい。――寧子はそう思いながら、良人の円転|滑脱《かつだつ》な酒席ぶりを、見ない振りして眺めていた。
客を歓ばせ、老母を笑わせ、そして自分自身を、実に楽しんでいる彼であった。藤吉郎のそうした姿を見ると、酒とは縁のない半兵衛さえ、つい、杯の縁《へり》に唇ぐらいは触れてみたくなった。
そのうちに、姉婿《あねむこ》の木下弥助《きのしたやすけ》も見え、小十郎も交じった。また、家臣の蜂須賀彦右衛門やら、誰彼も連なって、沸《わ》くがごとき盛宴となった。
――と思うと、いつのまにか、藤吉郎はそこにいない。
少し酒を醒ましに出たのであろう。母を寧子《ねね》に預けて寝所へ見送るとひとり築山を歩いていた。
桜の若木が、ことしは少し花をもったが、他愛なく散りはてて、ただ夏近い山藤のにおいが、鼻をうつばかりそこらの闇に蒸《む》れていた。
「ア。――待て」
「はい」
「誰じゃ。木蔭にいたのは」
「……はい」
「おう、半兵衛の妹、おゆうではないか。――何していた」
「あまりに、兄のお退《さが》りが遅うございますので、病弱な兄、もしやと」
「兄思いだのう。――いや兄妹《はらから》の仲の美しいのは、見よいもの」
藤吉郎は側へ来た。彼女はあわてて、手をつきかけたが、藤吉郎は、無造作に、その手を握って、
「おゆう、わしをあの木蔭の茶室まで、連れて行け。……足許《あしもと》もおぼつかないほど酔うてしまった。そなたの手で、茶を一ぷくもらおう」
「……ま、お手を。……勿体ない、お離し下さい」
「いいよ。いいよ。かまわんというに」
「そ、そんなことを、遊ばしてはいけません」
「大事ない」
「……あれ」
「何を躁《さわ》ぐ、耳こすりじゃ、そっと申そうものを、はて、心ない声を出すものかな」
「いけません」
そこへ半兵衛が退《さが》って来た。藤吉郎も気づいて、あわてておゆうから離れた。半兵衛は呆れ顔して佇《たたず》んでいたが、
「殿。なんの御酔狂《ごすいきよう》でござりますか」
「やあ」
と、藤吉郎は、頭へ手をやった。そして自分の愚を笑うのか、人の無粋《ぶすい》を嗤《わら》うのか、大口をあいて、
「いや、何。隣交遠計だ。気にするな、気にするな」
その後。秋頃となってから。
蜂須賀彦右衛門が、半兵衛にはなしを持って来た。それは、
「お妹のおゆう殿を、御母堂のお侍女《こしもと》に上げてくれないか」
ということだった。
藤吉郎は夏から信長の岐阜《ぎふ》城へ出仕のままで留守だった。で、半兵衛が、
「それは、誰からのお望みで?」
と、問うと、主人自身が、岐阜城から書面をよこしての指図だという。
「御孝心の篤《あつ》い殿なので、お留守中も、御母堂のことのみお案じあって、心ばえのよい侍女《こしもと》を――とお名ざしで申し越されたとのことです」
「それは、妹にとって、名誉なことではござるが、妹の胸を聞いた上で」
と、半兵衛は、一応ふくんでおくに止めて、べつの日、おゆうにそのことをはなしてみた。
おゆうは、聞くと、身を縮めて怖れた。それは、いつか晩春の夜、築山の木蔭で、主君に戯れられたことを未だに脅《おび》えていたからであった。
「嫌か」
訊くと、
「どうぞ。なんとか、お断りして」
とのみで、おゆうは、涙さえうかべた。主君の命と聞いただけに、顫《わなな》いて答えるのだった。
「泣かいでもよい。お断りすればよいのだ」
半兵衛も、強《し》いる気はない。妹の怖れているところもわかっている。
余りに瑾《きず》のない|茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]《ちやわん》は、かえって風情がないとかいうが、どうも、わが主君にも、困った瑾《きず》がある。それも茶※[#「怨の上部/皿」、unicode76cc]の風情とか、人間味とか、観方《みかた》によっては、おもしろいとも眺められるが、女性の潔癖からは、到底男の持つこの瑕は、おもしろいなどと解されるはずもない。
まして、菩提山《ぼだいさん》の城にいては深窓の姫として育てられ、自分と山住居《やまずまい》してからは、世間の表裏も知らない深山《みやま》の処女《おとめ》である。こんな話でさえすぐ涙をうかべる妹である。――半兵衛は、無理もないと、そのままを、彦右衛門まで伝えて断っておいた。
この秋も、無事である。
城内の武士は、毎日一堂に集まって、半兵衛、彦右衛門などを中心に、武を練り、領土を見廻って、藤吉郎はなくても、よく留守していた。
一面、岐阜《ぎふ》の方の動きを見ると、藤吉郎の献策が用いられた結果か、いわゆる隣交遠計の方針が、その外交に活溌にあらわれだしていた。
甲州武田は、常に、織田家にとって、背すじの寒い脅威だったが、その武田家と縁談が結ばれて、信玄《しんげん》の第四子|勝頼《かつより》へ、信長の女《むすめ》が近く嫁ぐことに運ばれていた。
嫁君は、芳紀《ほうき》十四、国色無双な佳人とは聞えているが、ほんとは信長の生みの子ではなく、家臣遠山|内匠《たくみ》の室から養女としたものだった。
が、婚儀の後、信玄には、いたく気に入ったらしかった。勝頼との間に、信勝を生んだ。
織田家は北境の守りにしばらく安堵《あんど》を保った。けれど、その嫁君は、信勝を生むと産褥熱《さんじよくねつ》で死んだ。
信長はまた、嫡男《ちやくなん》の信忠に、信玄の第六女を娶《めと》って、両国のくさび[#「くさび」に傍点]を弛《ゆる》めまいと努めた。
なお。
三河の松平元康――徳川氏と改称して同時に名も家康《いえやす》と改めた彼の許へも、婚約をすすめて、軍事的な盟約を、さらに親族的な結びで強めた。
その婚約の成立した時、家康の長男竹千代九歳、信長の女《むすめ》もわずか九歳だった。
近江《おうみ》のお屋形《やかた》といわれる佐々木六角の一族とも、婚約政策がむすばれた。――で、岐阜城はここ両三年、ほとんど、祝い事で忙しかった。心なき侍は、もう自分らの生涯には、戦争もあるまいなどと思い込むほど、泰平に明け、泰平に暮れていた。
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密《みつ》 客《きやく》
顔の見えないほど眉深《まぶか》な笠をかぶっている。背の高い四十前後の武士である。身なりや足拵《あしごしら》えから見ると、旅馴れている遊歴の武芸者らしい。後ろから見てもどことなくその体には隙《すき》がない。
今――
岐阜《ぎふ》の釜座町《かまざまち》の辻で、彼は、中食《ちゆうじき》などすまして出て行った。頻《しき》りに町の軒ならびを眺めながら行く。何を求めるのでもない。ただ時々、
「変ったなあ」
と、口の裡《うち》で呟《つぶや》いていた。
仰ぐと、町のどこからでも、岐阜城の巍然《ぎぜん》たる城壁が見える。――笠の縁《へり》に手をかけると、それにもややしばし見恍《みと》れている。何か、感慨に耐えないものがあるらしい。
ふと、すれ交《ちが》った商家の妻らしい女は、彼の姿を振り向いて立ち止まった。そして供の手代《てだい》らしい男と、頻りに小首をかしげて何か囁《ささや》き合っていたが、やがておそるおそる近づいて、
「もし……。まことに、往来中で失礼でございますが、もしやあなた様は、明智光安様の甥御《おいご》様ではいらっしゃいませぬか」
と、訊ねた。
ちょっと、驚いた態《てい》だったが、武芸者は、言下に、
「ちがう!」
云い放って、大股に、先へ歩き出した。
……が、数十歩も去ると、彼の方から振り向いて、まだ自分を見送っている女の姿へ、
「鎧師春斎《よろいししゆんさい》の娘であったな。……もう人妻となったとみえる」
道を曲った。
それから一刻《いつとき》も後。
彼の姿は、また、長良川《ながらがわ》の畔《ほとり》に見えた。旅程でも考えているのか、岸の草むらに腰を下ろして水を見ている。いつまでもいつまでも飽《あ》かずに見入っている。
葦《あし》が蕭々《しようしよう》と鳴る。
うそ寒い秋の陽《ひ》は、もう舂《うすず》きかけていた。
「お武家」
誰か、後ろへ来ていた。肩を打たれて振り仰ぐと、一人ではない。織田家の家中であろう、そして恐らくは常に城下をそれとなく見廻って歩いている警備の役人であろう。三人連れである。
「何しておられる?」
無事な訊ね方である。けれど、眼を揃えて彼の上に注《そそ》いでいる三名の顔つきは、十分に、疑いを湛《たた》えていた。
「ちと歩きつかれたので休んでおる。織田家の役人衆でお在《わ》すか」
と、彼も穏やかに、草の塵《ちり》を払いながら立っていう。
「いかにも」
と、役人口調になった。
「何処より参られて、何処まで行かるるか」
「越前より参ってござる。この岐阜城のお内に、縁故の者がおりますゆえ、会う伝手《つて》を求めておりますので」
「御家中の士に」
「いや」
「でも今、そういわれたろうが」
「藩士ではありませぬ。奥向《おくむ》きに仕えておる女子《おなご》でござる」
「お名は」
「路傍ではちと」
「其許《そこもと》の姓名は」
「それも……」
「道ばたでは憚《はばか》りあると申さるるか」
「左様です」
「では、お望みに任せて、われらの奉行屋敷まで案内いたそう」
他国の間諜と認めたのであろう。態《てい》よく拉《らつ》して行こうとした。無益な抵抗をさせないように、一名はわざと、道の向うへ声をかけた。支配頭《しはいがしら》と見えて騎馬の侍が一名と、十人ばかりの歩卒が佇《たたず》んでいた。
「願うてもないこと。……然らばご案内していただこう」
武芸者はすぐ歩き出した。
長良川の渡船口《わたしぐち》をはじめ、城下内の警固、旅行者の検索《けんさく》など、ここも他国と同じで相当に厳密である。
信長が居を移してから、何分にもまだ年月は浅いし、斎藤家時代とは、市政も諸般の法令も一新しているので、奉行の公務は非常に多い。しかも一部からは厳重すぎるといわれるほど、細心な警備を尽していても、まだしばしば、斎藤家の残党という者が、城下民の中に紛《まぎ》れていたり、他国の隠密の仕事の足痕《あしあと》を、後から発見したりすることが、のべつ[#「のべつ」に傍点]といっていいほどあった。
森三左衛門|可成《よしなり》は、その奉行役として、適任ではあったが、武士は誰しも、こういう文官的な任務よりも、戦場に押しやられる方が好ましかった。
「おつかれでござりましょう」
私邸に引き揚げると、ほっと一日の吐息《といき》が出る。彼の妻は、毎夜、そうした顔いろを迎えた。
「きょうお留守に、御城内から、ついでのお使いがあったとやらで、蘭丸《らんまる》からお父上さまへと、お手紙が参っておりまする」
「ほ……。そうか」
蘭丸と聞くと、可成《よしなり》の顔は綻《ほころ》んだ。まだ乳くさい幼少からお城へ上げてある子だった。もとより何のお役にも立たないのは知れているが、愛らしい者と、信長から眼をかけられて、お側へ出してあった。それでも近頃はお小姓の中に交《ま》じって、どうやら何か勤めているらしいので、可成《よしなり》も、城内の便りは楽しみの一つだった。
「何の便りでございましたか」
「いや、無事なことと、殿様のごきげんのよいことのみしか書いてない」
「いつぞや、池田様のおはなしでは、蘭丸は風邪《かぜ》ごこちとか、幾日か、殿様のお側にも見えなんだとの仰せでしたが、病気のことは、何か書いてございませぬか」
「至極、元気と書いてある」
「あの子は、人いちばい賢うございます。親に案じさせまいと、気をつこうているのでございましょう」
「そうだろう。まだ他愛ない年ごろとはいえ、始終、君側におるのも気の張るものだ。いきおい年よりは賢《さか》しゅうなる」
「たまには、家に戻って、甘えたいことも思いましょうに」
取次の小侍が、そこへ見えてこう告げた。――お帰邸の後ですぐ、役所のほうに、ちと面倒が起ったので、夜中ではあるが、ご相談に来ました――というのである。村山仙映《むらやませんえい》、池貝監物《いけがいけんもつ》、堀越《ほりこし》内臓八《くらはち》のお三名で、と来訪者の名をもならべて、
「お通しいたしますか、それとも……?」
取次は、返辞を待った。
皆、部下の者である。可成《よしなり》は、考えるまでもなく、
「すぐ通せ」
と、答えておいて、やがて客間へはいった。
「何事か」
「実は」
池貝監物《いけがいけんもつ》が、同僚に代って、自分たちの処置でゆかないために――と前提して云い出した。
「日暮れ近くのこと、これにいる堀越殿が、長良川《ながらがわ》の辺《ほと》りで、一名の怪しげな武芸者ていの男を捕えて参りましたので」
「うむ」
「役所へ曳いて参るまでは、至って神妙でござりましたが、取調べにかかると、頑として、姓名も生国《しようごく》もいわず、ただ当所の奉行《ぶぎよう》森殿に会えば申そう。怪しい者ではない。御城内の奥向《おくむ》きには、自分の縁故ある婦人も、清洲《きよす》御在城の頃から長く勤めておる。……委細は御奉行に会わねば何事も語れぬと、こう申す一点張りなのでござる」
「はてな。年頃は」
「四十ぐらいかと思われます」
「人品は」
「至って爽《さわ》やかな男振りで、どうも諸処をうろつき歩く武芸者とは受けとれません」
どういう打ち合わせになったのか。三名の下役達は、何か慌《あわ》ただしげに帰って行った。
可成《よしなり》は、老臣を呼び、何やら密《ひそ》かに云いふくめる。
間もなく、前《さき》の三名が、一人の男を役所から移して来た。夕刻、嫌疑をうけて曳かれた武芸者である。仄暗《ほのぐら》い廊下の灯《あか》りをよぎって、その影は、ただ一人、奥の書院へかくれた。
書院の上座には、すでに褥《しとね》や、客を遇するものが備えてあった。武芸者は、老臣にすすめられるまま、黙然、それに着座した。
「ただ今、主人可成が、間もなくお眼にかかりますれば」
老臣は、退《さが》ってゆく。
焚《た》きこめてある香がどこともなく香《にお》う。しかもこれは、それがどんな名木であるかを嗅《か》ぎわけてくれる貴賓でもなければ、可惜《あたら》、勿体ないほどな馳走である。――と、解するや否や、ここへ来てはよけい旅垢《たびあか》の眼だつ武芸者は、なお、黙然たるまま主《あるじ》の気はいを待つこと久しい。
昼は、笠につつまれていた面貌も、今は、燈火《ともしび》のそばに静かにまたたかれている。なるほど、役人が疑ったように、諸国を旅してあるく武芸者にしては、色白に過ぎる。――眸も常に太刀打ちを業《わざ》としている者らしからず静かで温和である。深く冷たくさえ見える。
楚々《そそ》と、茶を運んで来た女子があった。彼の前へ、無言で茶を供え、無言で襖《ふすま》のかげに吸われてゆく。それも召使とは思えなかった。誰か、家族のうちのひとりだった。よほどの賓客《ひんきやく》でもなければ、こういう鄭重《ていちよう》な礼は執《と》らない。
「お待たせいたした」
主《あるじ》の森可成《もりよしなり》は、そこへ来て、初めて客を見た。
――果たして。
と、心のうちに頷《うなず》くもののように、重ねて、慇懃《いんぎん》に、初対面の挨拶をした。
武芸者も、物腰しずかに、褥《しとね》を下がって、
「あなたが、森三左衛門殿におわすか。自分身勝手のため、役人方に手数を煩《わずら》わして恐縮でござった。それがしは、越前朝倉家の領内よりひそかに参りました者。明智十兵衛光秀《あけちじゆうべえみつひで》といいます。お見知りおき下さい」
「やはり明智殿であられたか。下役どもの無礼はおゆるしあれ。今し方、この方の耳にはいったので驚いて、早速お迎えしたわけでござる」
「彼処《かしこ》では、姓も生国も申し上げなかったはずでござるが、どうして、それがしとお分りになりましたか」
「城内の奥向きには、姪《めい》にあたる婦人が長く御奉公しておると、仰せられた由、それを聞いてすぐ、さてはと読めました。尊公の姪とは信長様の御正室――つまり亡き斎藤道三様の御息女にあたらせられる御方が、美濃《みの》よりお輿入《こしいれ》の折に従《つ》いて来た頃より、ずっとお側に仕えておいである萩路《はぎじ》どののことでござろうが」
「いかにも。――これはまた、お詳《くわ》しいのに驚き入った」
「役目柄でござる。奥向きにある多くの老女、侍女《こしもと》の端《はし》まで、その生国、家系、縁類などは、平常、調べてありますので」
「いや、御尤《ごもつと》もなことではある」
「萩路《はぎじ》どのの御素姓も同様。道三山城守様の滅亡の折、美濃を落ち去ったまま便りの知れぬ叔父がある。明智城の明智十兵衛光秀という者と、いつも御主君の夫人《おくがた》様に喞《かこ》ち語りをしておいであると、それがしまでが洩れ伺っておる。――下役どもより聞いた御年配、骨柄《こつがら》、きょう半日の城下でのお歩きの様子など、思いあわせて、尊公との推察は、よも外《はず》れぬものと、自信をもってお迎えしたわけでござる」
「御明察。さすがは」
光秀も、初めて解けて打ち笑うと、可成《よしなり》も、自分の考えが的中したので、愉快そうに微笑した。
「――が。明智殿にはそも、何の御用で、はるばる、越前からこの御城下へは?」
と、可成《よしなり》は改まって訊ねた。
光秀は、眸を澄ました。
――急に、声を落して、
「辺りに、お人は」
と、襖《ふすま》を見まわした。
「お気づかいはない。召使どもは遠ざけてあります。襖ごしに、気はい致した者は、てまえが無二の腹心とする老臣一名。……廊下の口を見張っております者で、他に誰もおりません」
「では。お耳に入れるが、実は、この身には、将軍家|義昭《よしあき》公の親書と、室町《むろまち》家の名族、細川藤孝《ほそかわふじたか》どのの書面とを帯びております。――いずれも、信長様へお宛てなされたものです」
「えッ。……将軍家から」
「越前の朝倉家には、元より極秘。――途々《みちみち》の諸大名にも覚《さと》られては一大事なのです。これまで参る途上の辛苦は、お察しにあずかりたい」
「……ふウむ」
可成《よしなり》は、思わず呻《うめ》いた。
多年、乱脈な暴状をきわめていた室町幕府の内輪《うちわ》もめがまた、自爆を喚《よ》んで、三好《みよし》、松永の両党が、将軍義輝を殺したのは、その年の前年六月だった。
将軍家に弟が二人ある。
ひとりは鹿苑寺《ろくおんじ》の周嵩《しゆうこう》で、これも三好、松永の党に殺された。もう一名は、南都|一乗院《いちじよういん》で門主《もんず》をしていた覚慶《かくけい》である。
覚慶も当然危うかったが、細川藤孝と謀《はか》って、守兵を酒で欺《あざむ》いて逃亡したのだった。
これが義昭である。
逃亡後、しばらく江州《ごうしゆう》あたりに身をかくし、還俗《げんぞく》して、兄義輝の後を継いで、十四代将軍を名乗ったものである。年は二十七歳だった。
――それから。
流浪の将軍家は、和田とか、六角家とかの、大名の家を、転々と身を寄せてあるいた。もとより、食客で世を過すのが目的ではない。
三好、松永の討伐《とうばつ》。
家職と勢力の挽回《ばんかい》。その二つが目標であることはいうまでもなかった。
越後の上杉|謙信《けんしん》にまで、遠く檄《げき》をとばして、援助を求めた。
行く先々の大小名へはいうまでもなく、事を謀った。
けれど、天下の大事である。松永、三好の両党は、中央の権をにぎっているし、名は将軍家といえ、義昭は、流浪の高等食客にすぎない。兵力はもとよりのこと、金力もない。また、声望も甚だないのだ。
誰しも、これは考えこむ。
孤舟は、琵琶《びわ》湖を渡って、北陸へ流離した。
若狭《わかさ》から越前へ移って、そこの朝倉義景《あさくらよしかげ》へ身を寄せたところ、ここに、朝倉家の家中には容《い》れられず、不遇を喞《かこ》っていた一人物がいた。
明智光秀だった。
光秀と、細川藤孝との縁は、その時に初めて結ばれたのであった。
――光秀は、藤孝と知った機縁から、この岐阜城下へ、密書を帯びて来るまでになった事情を、
「ちと、話は長くなりますが、まず其許《そこもと》に聞きおいて戴いて、逐一、君前までお伝えにあずかりたいのでござる。……もとより携《たずさ》えておる将軍家の御書は、信長様のお手以外、何人《なんぴと》にも、間接にはお渡しいたすことは相成りませんが」
と、前提して、まず自分の立場を明らかにするために、明智城をすてて美濃から越前へ落ちて行った当時からのことを、彼らしい静かなことばと、明晰《めいせき》な筋みちを追って、順々とはなしだした。
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桔梗咲《ききようさ》く
ここ十年の余、光秀は、つぶさに世の辛酸《しんさん》をなめて来た。
元来が知識人で、机上の学問にのみ囚《とら》われやすかった彼も、
(生きた修行をした)
と、今となれば、与えられた逆境に感謝しているものの、その間の流浪、困窮の時代は、ずいぶん長かった。
弘治《こうじ》の美濃《みの》の内乱に、父祖以来の明智城も火中に失って、従兄弟《いとこ》の弥平治光春《やへいじみつはる》と、ふたりきりで越前へ落ちて行ったものである。そこの穴馬在《あなうまざい》では、数年の間、蟄伏《ちつぷく》したまま、素姓の知れない一牢人として、百姓の子に読書習字など教えて細々に暮していた。
(いつまで、こうしていても)
と、その後、呼び迎えた妻とも相談して、身一つで、諸国の遍歴に出た。
(よい主もあらば。よい機会もあれば)
と、世に出る道を求めながら、一方には、他日に備えるための兵学者的な眼をもって、国々の士気や経済や城塁などを視《み》て歩いた。
その足跡《あしあと》は余りに広くて審《つまび》らかでないが、彼が、遊歴の地を多く西国方面に求めたことは慥《たし》かであろう。なぜならば、中国以西の地は、文化の移入が最も早く、わけて彼が年来研究の題目としている鉄砲についても、新しい知識にふれる機会が当然に多いからである。
中国では、こういうことにも出会った。
毛利家の家臣の桂某《かつらなにがし》なる者が、山口の城下で挙動不審な一旅行者を捕えた。
それが光秀であった。
ここでも、隠密の嫌疑をうけたのであるが、光秀は、自分の素姓、境遇、志望などを、少しもつつまずに語って、天下周遊の間に、見聞してきた諸国の群雄の状況からその批判までを、淀《よど》みなくのべたてた。
訊問に当った桂|某《なにがし》は、その該博《がいはく》に驚いて、すっかり彼に傾倒してしまった。
で、主人の元就《もとなり》に、
(たしかに、異材と思います。召し抱えておかれたら、他日、必ず為《な》すある人物とぞんじますが)
と、推挙した。
人材を求めていることは、どこも同じだった。自国を去る人材は、他国へついて、いつか自国の敵を重からしめるからである。
元就《もとなり》も、聞いて、さっそく見ようということになった。光秀は、一日、吉田城へ上った。
翌日、家臣の桂|某《なにがし》は、ひとり君前に出て、元就の内意を伺った。
「いかがでしたか」
「うん。……なるほど、あれくらいな侍はめったにはなかろう。時服《じふく》、黄金など与えて、鄭重に、領外へ送り出すがよい」
「は。……が、何か、御意《ぎよい》に召さぬかどでもございましたか」
「ムム。英雄にも、真の英雄と梟雄《きようゆう》とがある。梟雄に学才などあれば、かえって、自身を破滅し、主家を毒そう。――人相などはそう信じられぬかも知れぬが、あの侍の頂骨《ちようこつ》の突出しているのが何となく気にくわぬ。沈着、明眸《めいぼう》、ことば静かに話してなどいると、ひき込まれるような魅力があり、真に惚々《ほれぼれ》する侍だが、わしはむしろ中国武士の鈍骨《どんこつ》を愛する。鈍骨武士のなかに置いたら群鶏一鶴《ぐんけいいつかく》ともいえるほど目立つ侍だろうが、それゆえに、敢えてわしは彼を忌《い》む」
そういったそうである。
元就の評は、余りに、後年の光秀の運命を予言して、的中しすぎているから、多少、後人が尾ひれを加えて伝えたものであろうが、とにかく、毛利家では彼を抱《かか》えなかった。
芸州《げいしゆう》を去った光秀は、肥前肥後の山野を跋渉《ばつしよう》して、大友家の領内をも視《み》たろう。海外の天地も、海を隔てて想像したろう。海路、四国へも出、長曾我部《ちようそかべ》氏の兵法も窺《うかが》ったろう。――そして再び越前の貧屋へ帰ってみると、糟糠《そうこう》の妻は留守のまに病死し、従兄弟《いとこ》の光春も、他家へ流寓《りゆうぐう》し、赤貧は以前のままな赤貧であった。
この間、およそ六年。
彼は、まだ自分の前途に、一縷《いちる》の明りさえ見られなかった。
その後ふと、彼は、
「そうだ、三国《みくに》の園阿御房《えんあごぼう》を訪ねてみよう」
と、一人の知己を、その暗黒な境遇の中で思い出した。
越前|船坂《ふなさか》の称念寺《しようねんじ》の僧である。文通などしたことがあって、わずかに知り合っている仲ではあったが、頼って行ってみた。
園阿《えんあ》は、彼の人物を愛してか、非常によく面倒をみてくれた。称念寺の門前に、一軒借りて、光秀はまたしばらくここでも寺子屋の先生として、蟄伏《ちつぷく》していた。
そのうちに、この地方では、春秋の訪れと同様にしばしばある一向宗《いつこうしゆう》の乱が、彼が移住した後も、のべつに起った。
ここは、朝倉義景の領で、その居城がある。一乗谷にある。光秀はもとより寺子屋の師匠が能事ではない。彼は一、二年のうちに、かなり国主の内政や、この地方特有な争乱などに精通した。
或る年。
加州《かしゆう》の境《さかい》へ、宗徒討伐に向った朝倉軍は、冬季をこえての長陣となった。光秀は、日頃、世話になっている園阿《えんあ》へ、
「ちと、愚考があるので、朝倉家へ献策してみたいと思いますが、誰方《どなた》がよろしかろう」
と、訊ねた。
園阿は、彼の志を知っているので、
「よく衆智を用いる人は、まず御一族では、朝倉景行《あさくらかげゆき》どのでしょう」
と、教えた。
光秀は、自分の寺子屋を、園阿に託して、戦場へ行った。もとより何の伝手《つて》もない。ただ一片の献策書を持って、朝倉景行の陣を訪れたのである。
献策書は、郎党の手から景行の手許へ渡ったかどうか、それも分らず、彼は約ふた月ばかり、陣地に拘禁《こうきん》されていた。
「――自分の言を用いているな」
光秀は、幕舎のうちに囚《とら》われていても、およそ、陣のうごきや、外の兵気で、察していた。
景行は、初めのうち、彼を疑って、捕えておいたのであるが、苦戦の打開しようもなくて、試みに、光秀の献言した戦法によってみると、確実に、味方の戦いに利のあることが立証されて来たので、
「さては、まったく、誠意をもって戦法を忠言してくれた人物とみえる」
と、改めて、彼をひいて会ってみると、弁舌明晰《べんぜつめいせき》、沈厚《ちんこう》な人がらで、何さま文武両道の博識と思われたので、陣地に養って、時折、左右に招いていた。
――が容易には、幕下《ばつか》としてゆるさぬふうが見えるので、光秀はまた、
「それがしに、一|挺《ちよう》の鉄砲をおかし賜わらば、必ず敵の中核を撃ちとめてお眼にかけるが」
と、常に豪語などしない彼が、かなり思い切ったことをいった。
それにも、景行は、一応疑いを抱いた様子だったが、
「貸し与えろ」
と、許して、ひそかに、光秀の背後には、目附《めつけ》の士をつけておいた。
一挺の鉄砲は、なお、朝倉家の富有をもっても、非常に貴重にみられていた時代である。光秀は恩を謝して、それを持つと、歩卒に交《ま》じって、前線に出、乱軍となると、敵地へふかく駈けこんだまま姿をかくしてしまった。
「さてはやはり内情をさぐりに来た敵のまわし者だったか」
と、彼の失踪《しつそう》を後から聞いた景行は、目附の者に、なぜその背を、弓でも鉄砲でもで、撃ち止めてしまわなかったかを詰問《なじ》った。
すると、数日の後、敵の猛将、坪坂伯耆守《つぼさかほうきのかみ》が、戦線を巡視中に、何者かに、鉄砲で狙撃《そげき》され、敵の士気はにわかにみだれているという報がはいった。
そこへ、光秀が、ひょっこり帰って来た。そして景行《かげゆき》に会うや否、叱咤して促《うなが》した。
「何故、全軍を押し出して、敵を蹴ちらしてしまわぬのですか。この機を、拱手《きようしゆ》して眺めているようなことで、一軍の将といわれましょうや」
光秀の言に、嘘はなかった。敵地へふかくはいって、ただ一人で敵の勇将坪坂|伯耆守《ほうきのかみ》を、鉄砲で狙撃して帰って来たことも、戦後、確認された。
朝倉景行は、一乗谷へ帰ると、その由を、主君の義景《よしかげ》にはなした。
義景は、光秀を見て、
「当家に仕えぬか」
といった。
そして彼が鉄砲の妙手と、景行から聞いていたので、城下の安養寺境内に、|射※[#「土+朶」、unicode579c]《あずち》を築いて、鉄砲を撃たせてみた。
光秀は、鉄砲を撃つ技《わざ》よりも、鉄砲の製作、解体、硝薬《しようやく》などの学問に詳しかったし、自分の自信もそれにあったが、
「これを撃つ技などは、卒伍《そつご》のすることで、自分の能事ではありません」
などといっては、折角の機会を逸するので、義景の前で、弾《たま》百発を乞《こ》い、内六十八発を、的《まと》にあてて技《ぎ》を示した。
義景は嘆賞して、
「ぜひ、当家に止まれ」
と、城下に邸宅を与え、禄《ろく》千貫を供し、家中の子弟百人を選抜して彼の下に、新しく鉄砲組を組織した。
光秀は、逆境を脱した。
正直に、義景の恩に感じ、また自分の努力に、一層の自信を持った。――まったく朝倉家に仕官してからの幾年かは、他意なく、この恩遇《おんぐう》と幸運に怠るまいと努めたのだった。
その急激な忠勤ぶりは、やがて同列の者から忌《いと》われだした。たださえ、べつな眼でみられやすい新参であるのに、光秀に諂《へつら》えない自負心があるし、知識人らしい持前のにおいがある。どんな話題にも、動作にも、そうした洗練や頭脳のよさが、誰の眼にも映るのである。――郷臭《ごうしゆう》の濃い一族や、譜代《ふだい》の臣にはそれが気にそまないで、
「小賢《こざか》しげな」
とか、
「智者ぶっておる」
とか、
「偽君子」
とか、とかく事ごとに、彼への毛ぎらいが、彼のいない所というと、口の端にのぼった。
自然、彼の君前のお覚えも、次第によくなくなって来たし、仕事もうまくいかなかった。元来、冷たい彼が、冷たい人々の眼にかこまれた形だった。
この際、義景が、特に彼を庇護《ひご》すればべつだが、義景の周囲には、名族だけに、一門や重臣の隔ては多く、それに年々の一向宗の騒乱《そうらん》では、それと和睦《わぼく》したり戦ったり、藩情の複雑なことは、他国に例を見ないほどであるし、何よりも、光秀の顰蹙《ひんしゆく》していたのは、主君の閨門《けいもん》のおさまらない点であった。
多くの寵妾《ちようしよう》をめぐって、君側の争いがからんでいるのだ。――これは何の縁故なく、一朝に身を寄せた光秀などが、どう憂いてみたところでどうにもなるものではない。
「……過《あやま》った」
彼は、衣食に足りてくると、大きな悔いに悩みだした。
逆境を脱することに急いだがために、せっかく多年風波の大河と闘って渡って来ながら、その這い上がる岸を過《あやま》った――と、後には怏々《おうおう》と楽しまない日ばかりを過して、
「一生を棒にふッたか」
と、さえ臍《ほぞ》をかむことが、度々であった。
そういう憂鬱《ゆううつ》が、胸中から上に出て来たように、折も折、彼は小瘡《こがさ》という皮膚病をわずらいだした。それは人目にもわかる程だったので、むしろ幸いにして、主君に暇《いとま》を乞い、山代《やましろ》の温泉へ行って、病《やまい》よりはむしろ心の鬱《うつ》を忘れようとしていた。そして、
「久しく園阿《えんあ》どのへも無沙汰しているが、そうだ、この暇に」
と、思い立って、山代からまた、三国へまわり、一日、園阿と共に小舟を泛《うか》べて、津の御島《みしま》へ遊んだ。
園阿は詩僧であった。よく詩をつくる。光秀もまた、多少風流を解すので、舟遊《しゆうゆう》のうちの話も合う。
「光秀どの、こうして、自然の子となって、天地の間に、悠々の一舟を泛《うか》べ、水にまかせて遊んでいると、ほんとに、生きている味がするでしょう」
「久しぶり憂悶《ゆうもん》を忘れました。愚かな日常の齷齪《あくせく》が、われながら嘲《わら》えて来ます」
「どうです。今の御心境のままを日常に持っては。――朝倉家に身を置くはいいが、わずかな禄米《ろくまい》や小功を争って、醜《みぐる》しい内争に禍《わざわ》いされているよりは、こうして悠々と、生涯を棹《さお》さしては」
「とは、思いますが」
「できませんなあ。はははは……いうはやすいが」
「しかし、今度は考えましたゆえ、もう鬱々と、毎日無益な悶《もだ》えに送るのはやめます」
「仕官がいやになったら、いつでも称念寺へ帰っておいでなさい。寺子屋の子供たちは、いつでもあなたを、お師匠さんとして欣《よろこ》んで迎えよう」
光秀も、この日は、心が寛々《ひろびろ》とした気がした。朝倉家の内紛の中に身を置いて、内紛の醜《みにく》さに気をくさらしているのは、わざわざ糞土《ふんど》の中へ行って糞土を罵《ののし》っているのと同じ愚であると知った。それに反して、貧しい寺子屋の師匠が、いかにきれいな尊い境遇であるかをも、沁々《しみじみ》知った。
夜は、島へ上がって、御島神社《みしまじんじや》の神官|治部大輔《じぶたゆう》の社家に泊った。その晩、園阿《えんあ》と治部大輔と三人して、百韻《ひやくいん》の連歌《れんが》を試みたが、その席で、光秀がきょう舟中の作というのを、そっと園阿に示した。
潮越の根あがり松といふを見て、
わが身にあたる風もかくやと、
みち潮の
こしてや洗ふ
あらがねの
土もあらはに
根上りの松
「なるほど」
園阿《えんあ》はうなずいたが、是とも非ともいわない。光秀は、和歌もよむし、連歌もするが、詩僧の彼から見ては、「武人にしては――」という程度で、そう秀歌と称《たた》えるほどの作もなかった。
園阿を伴《ともな》って、彼はまた、山代《やましろ》温泉の客舎へもどった。園阿は元より気ままな身であった。――随所楽《ずいしよにたのしむ》――という姿で、そこでも里の人々からすぐ慕われていた。
光秀のほうがそれより前から長く逗留しているのに、旅舎の者でも、湯小屋の往き帰りに会う人々でも、彼には、黙ってお辞儀するだけだった。尊敬はするが、慕うまでにはならない。裸と裸の人間同士で暮すこうした山の温泉《ゆ》にいると、親しまれないのも、一つの淋しさであった。
そのうちに、旅人の口から、京都の大変がここへも伝わって来た。
「三好、松永の徒党が、室町御所を襲って、将軍義輝公を殺した――」
と、いう風聞である。
「将軍家が殺されたら、天下はまた乱れだすのじゃないか。一体、どんなことになって行くのか」
と、山の中でも、人々は恟々《きようきよう》と、都の噂に囚《とら》われていた。
それを、光秀は、湯小屋で聞いていたが、宿へ帰るや否、園阿に向って、
「大丈夫たる者が、こんな山中に閑日を偸《ぬす》んでいる時勢ではありませんでした。御僧はどうぞ、ごゆるりと湯治《とうじ》してお戻り下さい。それがしは、急に思い立つこともありますゆえ、一足先に立ちますから」
と、旅装もあわただしく、越前一乗谷の城下へ帰ってしまった。
園阿は、その後で、
「無理もない。――だが、実は人いちばい強いあの人の野心が、よい縁にめぐまれて、真っ直ぐに伸びれば大したものだが」
と、つぶやいて、後から独りで津の称念寺へ立った。
京都の大乱は、天下の大乱である。当然、主家にも、余波があろう。何かと、変に備えて、公務も忙しくなっているにちがいない。
光秀は、それを思い、また、
「いたずらに世を拗《す》ねて、小事に気を腐らしているなど、壮者として恥ずべきだ」
と、自分をも顧みて、翻然《ほんぜん》と、朝倉家の城下へ帰ったのである。
皮膚病は、山代の温泉《ゆ》で、すっかり癒《い》えていた。さっそく、義景《よしかげ》の君前に出て、
「長らく怠りましたが、病《やまい》も癒えましたれば、立ち帰って参りました」
と、お礼に出たが、
「よく癒えた。よく帰った」
とも、義景はいわなかった。
ただ、
「そうか」
と、一言あったのみで、何となく、君前もおもしろくなく、光秀は引き退《さが》った。
その後、お召しもない。
変だ? ――と思って帰藩後の様子をいろいろ察してみると、彼の留守中に、彼のあずかっている鉄砲組にも、代役が立っているし、四囲の空気すべて、彼のために不利な形に変っていた。
義景の彼に対する信頼も、近頃はまるで以前と変ってみえた。光秀は、ふたたび憂悶《ゆうもん》に囚《とら》われだした。――そういう事々が、彼の澄んだ眼には、余りに見えすぎるための憂鬱症であった。たとえば人間の視力というものも、人並みに見えるのはよいが、人の肉眼には見えない微細な黴《かび》や虫や塵《ちり》ほこりがもし見えたら、その人間の不幸であるように――彼の澄明《ちようめい》な頭脳には、余りにも、周囲の音なきうごきや闇の争いまでが見えすぎて、かえって彼を憂鬱な殻《から》に閉じこめさせてしまう傾きがあった。
ために、皮膚病は癒《い》えても、心の黴《かび》はまた彼の心を腐らしてきた。彼はほとんど門を閉じた幽囚《ゆうしゆう》の人も同様に、冷んやりした邸の奥に、毎日、なすこともなく、書物ばかり読み耽っていた。
何かといえば、彼は書物へ心を潜《ひそ》めた。それが最もいいことであると彼は信じているふうだった。書物によって、聖賢の道を辿《たど》れば、なおさら、世間に腹が立って、よけい世間と遠ざかることは意識しながらも、なお、彼の高潔な趣味と修養の心掛けは熄《や》まなかった。
彼には|愈※[#二の字点、unicode303b]《いよいよ》、世間から超然とした学識が蓄えられた。ひそかに誇るところが高かった。
折からここに、彼の幽愁《ゆうしゆう》の門をたたいた人物がある。――光秀にとって、それは思いがけない出来事だった。
「そっと、お会い申したいが」
と、先から足を運んで来たことさえ、実に、天来の訪れといってよい。
客は、細川|藤孝《ふじたか》だった。
室町管領《むろまちかんりよう》家の系流という名門の人である。光秀は驚いて、自身で出迎え、
「かかる茅屋《あばらや》へ」
と、恐懼《きようく》して、席を拝した。
藤孝は、気がるく、
「園阿《えんあ》どのと、お親しいそうでござるな。実は、上人《しようにん》にお会いした折、金ケ崎の御城下へ参られたら、ぜひ、明智殿とお会いなされと、其許《そこもと》のおうわさをよく承っていたので、御城内へ上がるたび、気をつけていたが、近頃はとんと御閑役《ごかんやく》の由で、お眼にかかる折もなく、きょうはふと徒然《つれづれ》のまま、お訪ねしたわけでおざる。……どうぞ、お構い下されぬように」
と、温厚のうちにも、初対面から親しみのあることばだった。
藤孝の人品は、光秀の気もちに、しっくり合った。藤孝には、名門の品位と、知識人の香《かお》りがした。久しく人らしい人に会わないと嘆じていた彼は、この賓客《ひんきやく》に、心からの歓びを寄せたが、それにしても、藤孝の来訪は、いったい何事かしらと、心のうちで疑った。
細川藤孝は、晩年、幽斎《ゆうさい》とも号して、細川藩にとって中興《ちゆうこう》の祖ともいえる業績を遺《のこ》した人物である。
ひそかに、光秀の許《もと》を訪れたその頃は、管領家の流れを汲《く》む家すじとはいえ、彼もまた漂泊《ひようはく》の一志士に過ぎなかったのである。
三好、松永の乱に趁《お》われて、諸国を逃げあるいていた亡命の将軍家|義昭《よしあき》は、先頃から若狭《わかさ》の武田義統《たけだよしむね》を頼って来て、そこに身を寄せ、
「乱賊どもを、京都から追い、家職の権を奪《と》り回《かえ》すため準備の御微行《ごびこう》である」
と、称《とな》えて、頼みがいある大名を、ひそかに物色しているところだった。
寺を出て還俗《げんぞく》したばかりの若い義昭、しかも名ばかりの将軍家を擁《よう》して、諸州の大名に、義を説き、奮起を促《うなが》して、惨憺《さんたん》たる逆境を今――いかに切り抜けるかに一人苦しんでいたのが、細川藤孝だったのである。
「朝倉家こそは、お味方として、必ず起とう。若狭《わかさ》、越前の二州が参ずれば、北陸の諸豪は、競って旗下に馳せ加わろう」
藤孝は、こう目算を抱いて、将軍家の手書を帯び、その密々《みつみつ》な運動のために、過日来、若狭からこの金ケ崎城下へ来て、幾たびとなく、太守《たいしゆ》の義景《よしかげ》にもまみえ、藩老の私邸へも訪れ、ほとんど、寝食も忘るるばかり、その成功に努めていた。
――が、藩論はいつまで経っても一決しなかった。老臣の多くも、
「お断りある方が然るべくぞんじます」
と、いう意向だし、義景自身も、気がすすまなかった。
いかに藤孝から、義を説かれても、大勢を諭《さと》されても、孤立無援の亡命将軍を旗として、中央と争ってみる気にはなれなかった。――その兵力や財力がないのではなく、彼自身も、藩老のすべても、現状の維持に汲々《きゆうきゆう》としていたからであった。
炯眼《けいがん》な藤孝は、
「これはだめだ」
と、はやくも朝倉家の内争や閨閥《けいばつ》のうるさい事情を観《み》ぬいて諦《あきら》めてはいた。けれど、すでに義昭と侍臣の一行は、若狭を発って、この城下へ移ってしまった。朝倉家でも、厄介者と、心では大いに迷惑がったが、将軍家という名に対して、そう粗略《そりやく》にもできないので、城下の一寺を当分の客舎にあて、態《てい》よくもてなしてはいるものの、一日も早く、この地を退去あるように祈っているふうだった。
――今日、突然。
藤孝の来訪をうけた光秀も、そこまでの事情はうすうす聞いていた。しかし、不遇無力な自分を、そんな苦しい逆境にある藤孝が、なんで訪れて来たか、見当がつかなかった。
「和歌をおたしなみだそうですな。……園阿《えんあ》どのから、其許《そこもと》と御島《みしま》へ遊んだ折のお作というのを拝見しました」
藤孝のはなしは、そんなことから始まった。心に苦労がある人ともみえない。どこまでも温和でにこやかな人品だった。
「いや、お恥かしい」
謙遜でなく、光秀は真《しん》から顔を紅《あか》らめた。なぜならば、藤孝が歌道に達していることは、都はおろか地方にまで聞えているくらいだからである。
その日は。
和歌のはなしから始まって、国学に及び、文学を語り、飛鳥《あすか》、奈良朝あたりの仏教美術から近頃わけて流行の茶事《ちやじ》を評し、一転して、笛、蹴鞠《けまり》のこと、また食味や旅のはなしなどにまでくだけて、夜に入るも知らなかったが、やがて燈《ともし》を見ると、
「いや初めてのお訪ねとも覚えず、ついはなしの面白さに」
と、長居を詫《わ》びて帰ってしまった。
光秀は、その後でも、
「……はてな?」
燭《しよく》を見つめて、独り考えこんでいた。
それからも、藤孝は、二、三度遊びに立ち寄った。
――が、いつも話題は、連歌《れんが》の評やら、茶事の閑談から出なかった。
ところが、或る日。――それは小雨のそぼ降る日で、武家やしきの奥まった室は、昼間も灯の欲しいほどうす暗く、そして湿《しめ》やかな折だったが、いつになく、藤孝はきっと改まって、
「時に。きょうは、折入って、其許《そこもと》のお胸を叩いてみたいことがあるが……。何と、藤孝の申す秘事に、お耳をかし賜わろうか」
と、云い出した。
光秀は、むしろ、いつか彼がこう切り出すものと、待っていた程なので、
「それがしをお信じあって、秘事をもお語《かた》らい下さる以上、それがしとても誓って秘密を守りましょう。何なりと、御隔意《ごかくい》なく、おはなし願いたい」
と、答えた。
藤孝は、大きく頷《うなず》いて、
「そう仰せある其許《そこもと》には、先頃から藤孝が、何故に、こうしてお訪ねいたしておるかを、すでに、その御炯眼《ごけいがん》で、疾《と》くお察しのこととはぞんずるが……。実は、われら将軍家に扈従《こじゆう》の輩《ともがら》、当国の朝倉殿こそは、唯一のお味方たる大名と、頼みにいたしぬいて、今日まで内々、数度の交渉やら、お縋《すが》りもいたしたなれど、最後の御返辞、延々《のびのび》のまま、いつになるとて御一決のもようは相見えません」
「……むむ」
「その間に、朝倉殿の内政、御事情など、静かに観《み》てあれば、それも道理、孤立の公方家《くぼうけ》を擁《よう》し、天下を敵とするも起つなどという、御気概もあろう筈はなし、縋《すが》るわれらが、無理ということが、よく分って参った。……ところで」
と、藤孝は、まるでいつもの彼とは、別人のような語気をもって、
「朝倉殿をおいて――然らば諸州の大名中では――一体、誰をかその人と恃《たの》むべきでしょうか。今の天下に、真に恃《たの》みがいある武将といえば、そも、誰を指すでしょうか。――聞説《きくならく》、貴方は若年より足跡諸国に遍《あまね》く、また失礼ながら藤孝も、一《ひと》かど御見識ある具眼の士と敬服している次第です。何分、かくいう私などは、身長く紛乱《ふんらん》の京都にあって、時勢の中心にはおりながら、かえって魚に河が見えないように、新しい時流には晦《くら》い気がします。そもそも、この朝倉家などを、唯一のお味方と思って来ただけでも、その愚を悟りました。――どうでしょう、貴殿の御腹蔵のないお考えでは。また、そういう武将はないでしょうか」
「ありましょう」
「ありますか」
藤孝は、眼をかがやかした。
じっと、膝においていた手を、光秀はゆるめて、指で、畳へかいて見せた。
織田信長
「……岐阜《ぎふ》城の?」
藤孝は息をのんだ。見つめていた畳の上から光秀の顔へ眸をあげて、ややしばし口をとじていたが、
「さすがは」
と、頷《うなず》いて、それから二人は、織田信長という人について、かなり長い間、お互いの意見を交わした。
光秀は、自身、幼年から斎藤家に身をおいて、旧主道三山城守に扈従《こじゆう》して、その聟君《むこぎみ》たる彼の人間も眼に観《み》ているので、いうところには、根拠があった。
――それから数日の後である。将軍|義昭《よしあき》の宿舎となっている寺院の裏山で、光秀は藤孝と落ち合って、彼の手から、信長へ宛てた将軍家の親書を受け取った。
光秀は、その夜、その足ですぐ一乗谷の城下から旅へ去った。勿論、邸も家人《けにん》も捨てて、二度とこの地へは帰らないつもりであった。
朝倉家では、翌日、
「光秀、失踪《しつそう》」
と、騒ぎだした。
追討ちを向けたが、もう領内には見えなかったのである。
その前から、将軍義昭の扈従《こじゆう》細川藤孝が、二、三度、彼の邸を訪れたことなどもあると聞えたので、太守朝倉義景は、
「さては、光秀を使嗾《しそう》して、他国へ使いさせたにちがいない」
と、暗に、将軍義昭を責めて、これを領外へ趁《お》いたてた。
藤孝は、かねてこうなることは、察していたので、むしろよい機《しお》と、越前から近江へ越え、浅井長政《あさいながまさ》の小谷城《おだにじよう》へ一行と共に身を寄せて、光秀からの吉報を待っていた。
――こうして、光秀は、岐阜の城下へはいって来たわけだった。将軍義昭の親書をふところに、途中幾たびとなく生命の危険にも曝《さら》されたが、今――ようやくその目的の半ばを達して、森可成《もりよしなり》の私邸に、その使命と抱負を、主《あるじ》の可成としめやかに対座し、つぶさに語って、信長へ取次を乞うまでの夜に辿《たど》り着いたのであった。
永禄《えいろく》九年十月九日。
宿命の日といおうか。
それより前に、森三左衛門の密々な取次があって、仔細《しさい》は信長の耳に聞き届けられていた。
で、光秀の登城となり、彼と信長とが、岐阜城中で、初めて対面した日であった。
光秀は三十九歳。
信長は六ツ下の三十三であった。
次の間には、猪子兵助《いのこひようすけ》、森三左衛門、その他が詰めていて、光秀を、客として斡旋《あつせん》した。
「細川殿の手翰《しゆかん》、ならびに将軍家の御書、篤《とく》、披見《ひけん》いたした。不肖信長を、恃《たの》みに思《おぼ》しめさるるからには、この信長に能《あた》うかぎりなお力にはなり申そう。――使者にも遠路大儀であった」
信長のことばに、
「微身、鴻毛《こうもう》の一命を賭《と》し、天下のおん為めぞと、身に過ぎたるお使いに立ち、計らずも、ありがたき御承諾のおことばを賜わりまして、長途の艱苦《かんく》も打ち忘れ、何やら身もうつつか夢かと疑われて、ただ欣《うれ》し涙のみこぼれて参りまする」
と、光秀は平伏して答えた。
この時の彼の気もちに偽りはなかった。いや云い足りないくらいであった。その誠実なすがたに、信長は眼をそそいでいた。また、挙止《きよし》進退、明晰《めいせき》なことばつき、床《ゆか》しげな才識。――語れば語るほど、見入れば見入るほど、
「ものの役に立つべき者――」
と、信長は思った。
彼は、頼もしい漢《おとこ》と思うと、打ち込む性情《たち》であった。佐久間、柴田、前田、そして藤吉郎などという幕下は、皆、信長が真実、打ち込んでいる漢《おとこ》たちだった。それゆえに、君臣のあいだは、単なる主従を超えて、もっと強固な、もっと深い心情でむすばれていた。
「聞きしに勝《まさ》る太守《たいしゆ》」
光秀も、そう見た。
こういう主君に、生涯をささげて働きたいと念じた。
今、その望みは達しられた。
信長は、夫人の側仕えに、光秀の姪《めい》がいると聞いて、彼女にも会わせ、また、夫人の口添えもあったりして、ここに、明智の裔族《えいぞく》光秀は、織田家の下に属して、士隊長として新規《しんき》四千貫――美濃|安八郡《あんぱちごおり》の一部をその領地として、召抱えとなった。
また。
江州《ごうしゆう》浅井家まで来ている将軍の一行に対しては、それから間もなく、光秀を案内者とし、人数をさし送り、岐阜城へ迎え入れた。
信長は、諸国で厄介者《やつかいもの》扱いにされて来たこの亡命の将軍家を、自身、国境まで出迎えた。城門では、その轡《くつわ》さえ取って、大賓《たいひん》の礼を執った。人は嗤《わら》うも、彼は、義昭の駒の轡《くつわ》を取ったとは思うまい。天下の轡を取ったのである。これからの風雲は、右へ向けるも、左へ向けるも、その轡を持った彼の拳《こぶし》一つにあった。
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春風行《しゆんぷうこう》
何事か、あると、
「光秀を呼べ」
信長の寵用《ちようよう》は、日にまして加わった。
光秀も、安八郡の郷邸にいることは少なく、信長の座右《ざう》に、彼のすがたを見ぬ日は稀なくらいだった。
同じように、信長のそばに、影の形に添うように従《つ》いている美童があった。姓は森、名は蘭丸《らんまる》。
或る折。
「あなたは、森可成《もりよしなり》どのの御子息だそうですな」
光秀からはなしかけた。
蘭丸は、まだ乳臭《にゆうしゆう》の小姓だったが、新参は下に見るふうが一般にあるので、
「え。そうです」
と、身なり[#「なり」に傍点]の小さいくせに、鷹揚《おうよう》にうなずいた。
光秀は、世馴れていて、
「いや、お父上に、よう似ておいでなので、初めて、君側にお見かけした時から、もしやと思っていました。――先頃、岐阜《ぎふ》の御城下へ着いたその日に、御尊父の邸へわらじを解き、何かとお世話になった者でござる。浅からぬ御縁でもある。どうぞ、この後はよろしく」
と、謙譲《けんじよう》に挨拶した。
蘭丸は、それにも、
「あ、そう」
と、頷《うなず》いたきりだった。
しかし、君側の人々の頭《ず》の高いのは、近習でも小姓でも、皆そうなので、光秀は、この美童ばかりが、高慢とは思わなかった。
むしろ、すずやかな眼《まなこ》や、聡明そうな唇締《くちじ》まりを、知性のある美だと眺めて、彼も愛した。
その後、蘭丸も、父の可成から光秀の為人《ひととなり》を聞いたとみえて、初めてのようではなくなった。殿中の侍たちの中でも、尊敬する侍の一人として、光秀へ接するようになって来た。
主君といい、君側といい、出入する諸将といい、みな若々しく、なにか、希望にはちきれているのがわかる。光秀はひそかに、
「かくてこそ」
と、うなずいた。
そして、朝倉家を思い、遠くは亡家斎藤時代の、美濃を思いあわせて、
「こんどこそ、死を捧げても惜しくない御主君に出会った」
と、機縁に感謝していた。
明け暮、居心地のよい奉公だった。光秀は、一日ごとに、織田の家臣として、奉公の日が重なってゆくのが楽しみだった。家中の者とも、たいがい顔も見知り合い、新参として特に視《み》る者もいつかなくなった。
明けて、永禄十年。
伊勢《いせ》からの早打ちがつづいた。
それは、二月下旬。
「光秀。――桑名《くわな》の滝川一益《たきがわかずます》より、頻々《ひんぴん》、援軍の催促《さいそく》である。そちも、出向いて、ひと手勲《てがら》いたして来い」
彼は召されて、信長からそういう恩命をうけた。
――恩命。
まったく、随身してまだ一年と経たない彼に、伊勢陣に参加せよというのは、特別な恩命であった。
平日十年の城内勤めよりも、一日の戦場の働きを、武士は誰でも希《ねが》っているのである。そういう家中も多い中から、
「征《ゆ》け」
と、命じたのは、信長としても、思いきった抜擢《ばつてき》であった。
光秀は、勇躍して、伊勢路へ向った。もちろんまだ大部隊の将ではない。約百五十騎ほどの士頭《さむらいがしら》としてである。
途中、洲股《すのまた》川を南へ渉《わた》ると、一城が眼についた。木下藤吉郎の洲股城である。その一軍は、船を降りると、城内の味方から、湯茶|兵糧《ひようろう》などの接待をうけた。
戦野はまだ遠い。
兵たちは、のどかな大河を前に、兵糧を楽しんで喰べた。
馬にも、若草を喰《は》ませ、河原へひいて、水を飼ったりしていた。
「池田はどこにおらるるか」
その中へ、小柄な侍が、にこにこ微笑みながら歩いて来た。誰もそれが、洲股城の守将藤吉郎とは思わないので、
「池田とは誰か」
と、かえってその無礼を咎《とが》めるように、ぞんざいに云った。
「これは、池田勝三郎の隊ではなかったのか」
勝三郎|信輝《のぶてる》は、隊の主将である。それを呼び捨てにするので、兵は、彼の顔を見まもった。
どこかで見た気がする。
木下殿――と囁《ささや》いた者があって、初めて気づいたらしく、あわてて一人が駈けて行った。
河原を上がって来た武将がある。旧友の池田勝三郎だった。
「やあ」
と、まずいう。
藤吉郎も、同じく、
「やあ」
で、済まし合う。
「城内から、湯茶兵糧のお手当、かたじけない」
「日がゆるせば、一夜は、当城へ泊ってもらいたいが」
「いや、そうもならぬ。滝川|一益《かずます》から援軍の催促で、にわかに、伊勢路への発足《ほつそく》だ」
「御苦労にぞんずる。――が、大したこともあるまい」
藤吉郎は軽くいう。
「そうでもない。あの智者――武勇もある一益が、桑名、蟹江《かにえ》の二城の兵力で、伊勢の北八郡、南五郡の北畠の大軍と対峙《たいじ》するので、もう支えきれぬと、悲鳴をあげての矢の催促だ」
「ははは。あの方面も、だいぶ長陣だしなあ」
「それに、何といっても、敵は、伊勢の国司として、顕家《あきいえ》以来の旧《ふる》い名族だ。――今の大納言具教《だいなごんとものり》という当主も、長袖《ちようしゆう》の家の子とは侮《あなど》れぬ。衣冠を脱した甲冑《かつちゆう》の英雄だ。国中の名望もあるらしいし」
「たいへん敵に感心しておるのう。名族の子が偉かったら、藤吉郎など、何者ということになるな」
「いや、おぬしへいっているのではない。大納言|具教《とものり》の眼からすれば、斯波《しば》家の一|被官《ひかん》、織田家のごとき、また、その一家人にすぎぬ滝川|一益《かずます》のごとき、相手にとるも、汚《けが》れというだろう」
「いや、きのうをまだ今日だと思っている、そんなのは、天下になお、たくさんいる。頼もしいな」
「……そうだ」
勝三郎は、振り向いて、
「頼もしいといえば、こんどの陣に、一士隊長として、信長公から特に出陣を命じられて、おれの隊に伴《ともな》って来た男がある。……これも、名家の子だが、いちど落魄《おちぶ》れて出直した男だから、少々、骨ぐみができておる。会ってみるか」
「誰だ」
「姓は明智《あけち》、名は十兵衛光秀という。……ずっと以前には、明智ノ庄《しよう》の城主で、斎藤道三山城に与《くみ》していたものだが、義龍に亡ぼされて、諸州を流浪《るろう》し、先年、将軍|義昭《よしあき》の密書をたずさえて、信長様を頼って参った者だが」
「あ。その人か」
勝三郎が呼びにやった兵が帰って来て、その後から、光秀は歩いて来た。
武人らしい姿勢である。きりッとして、主将の勝三郎の傍らに立った。
「明智どの」
「はッ」
「お紹介《ひきあ》わせしておこう。これにおらるるのが、洲股《すのまた》の守将、木下藤吉郎どのだ」
「あ。そうですか」
光秀は、一歩前へ出た。
藤吉郎も、すこし動いて出た。初めて、お互いに、相見《あいまみ》えたのである。
光秀と、藤吉郎とは、ふた言《こと》三言の、雑談をかわしたに過ぎなかった。時間もなかった。
勝三郎はすぐ、
「出発しよう。命令を伝えてくれい」
光秀へいった。
光秀は、藤吉郎へ、
「では、御免」
会釈して駈け去った。
堤上へ立って、組々の小頭へ、出立の用意を伝えているその声、その行動、いかにも敏速に、よい将校に見られた。
「……お気に入ったろう、信長様には」
藤吉郎は、此方《こなた》から、その姿を見ながら云った。勝三郎はうなずいて、
「御家中も、いよいよ多士済々《たしせいせい》だ。尾濃二国に御領土も拡まって、今では、織田全軍を挙げるとなれば、二万はうごかせよう」
「小さいな」
藤吉郎の返辞に池田勝三郎は、かえって会心《かいしん》な笑みをもらした。そして、馬上に移り、また会おうと別れ去った。
街道を蜿蜒《えんえん》と、南へつづいてゆく軍馬のうえに、春風がながれていた。勝三郎は、洲股の領下を出離れるまで、沿道の百姓老幼が、歓呼して軍を送る熱意に驚いた。通過する領地によっては、畑の遠くに鍬《くわ》を持ったまま百姓は百姓、兵隊は兵隊といったふうに、知らぬ顔して働いている地方もある。いや、明けても暮れても戦乱が多く、戦争に麻痺《まひ》している土民の神経としては、そうにでもならなければ、悠々《ゆうゆう》、土に鍬《くわ》を把って、春の仕事を秋のみのりに待ってなどいられないのもむりではなかったのである。――で、彼はなおさら、藤吉郎の領土下が、そうでないのに一驚を喫したのである。
ここでは、城主と領民と、甲冑《かつちゆう》の人間と鍬《くわ》をもっている人間とが、正しく一つ血につながっている相《すがた》だった。
「やりおるなあ。彼も」
馬上でつぶやいた。
光秀も、それを眼に見た。
そして、さっき城下で会った、風采《ふうさい》のあがらない一人物を思いうかべていた。
伊勢境の戦雲は、その援軍が着いた頃から、俄然《がぜん》、戦況は激しくなった。
しかし、北畠一族の抗戦力には侮《あなど》り難いものがあった。池田勝三郎の考えていたとおり、彼の力に底のふかい根強さがあった。
二月ほどは過ぎた。
その間も、援軍は南下したが、四月の半《なか》ばとなると、信長から洲股《すのまた》へ書が飛んで、
――伊勢に赴《おもむ》け。
との命が、彼にも下った。
計らずも、先に行った旧友や新参の明智などと伍《ご》して、彼も、伊勢に戦うこととはなったのである。
「母上。――行って参ります」
出陣の朝、彼は、鎧《よろ》い立《た》った自分のすがたを、老母の室へ見せに行った。
「お健《すこ》やかに」
老母も、寧子《ねね》と共に、本丸の端《はず》れまで、彼を送った。
一族――もうそういえるだけの者が、彼を城門に、ひしひし待っていた。
馬上、ゆらりと、城門を離れつつ、彼は本丸を振り仰いだ。
母は、築山《つきやま》へのぼっていた。妻もいた。女たちはみんなそこに一かたまりとなって、花のごとく群れていた。
「自信がある。わしが征《ゆ》けば、伊勢は三月か四月で片づこう。夏はまた、ここへ戻ってみえる。なに、死なん。……戦《いくさ》なんてそういと易《やす》く死ねるものじゃない。母上をたのむよ」
見送りのため、城下|端《はず》れまで、駒を並べつつ従《つ》いて来た義弟《おとうと》の小十郎に、彼は、平時のように話しかけていた。
一瓢《いつぴよう》――まだ一瓢の馬じるしは、彼の馬前に燦《さん》としていた。
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伊勢軍功帳《いせぐんこうちよう》
いつまでも、燃《も》え限《き》れない籾殻《もみがら》の煙や米の焼ける匂いが野をつつんでいた。ゆうべから夜明けにかけてようやく占領した部落に、織田軍の本部はもう移っていた。
真《ま》っ紅《か》な桃畑も黒く見える。負傷者の群れがそこに呻《うめ》きあっていた。負傷した将兵は半分気が狂《ちが》っているように、
「何だとッ。逆襲《さかよ》せが来たッ?」
「おれを起たせろ」
「これしきに、斃《たお》れて堪《たま》るか。もういちど行って、一働きせねば」
天を向いて喚《わめ》いていた。
莚《むしろ》を敷きならべ、何十人となく、朱《あけ》になって寝かされているのである。もとより身動きもできない深傷《ふかで》ばかりだが、気が立っているので、口だけは、各※[#二の字点、unicode303b]、今も戦っているように、怒号もすれば、歯ぎしりもする。そして、どの眼も、刮《かつ》と大きく、真昼の雲をにらんでいる。
桃畑の端れに、庄屋の家がある。家は大半焼け落ち、焼け跡の井戸のそばには牝牛が焼け死んでいた。悲しげにうろついている仔牛《こうし》の声が耳につく。すぐ側の陣幕から顔を出した将が、
「うるさいな。おいッ、この仔牛をどうかしろ」
と、呶鳴ると、足軽の一人が、槍の柄で仔牛のしりを力まかせに打った。仔牛は、菜種畑《なたねばたけ》へいっさんに駈けたが、畦《あぜ》の小川に落ちて、なお悲しげに啼きぬいていた。
幕《とばり》の外に立っている歩哨《ほしよう》の兵が、それを見て笑った。――が、急に、厳粛な顔へ戻って、内から聞える声に耳を欹《た》てた。
楯や陣幕を繞《めぐ》らしたそこの本部の中では、さっきから激論が交《か》わされていた。夜明け方、轡《くつわ》をならべてこの村へはいった各部隊の将星たちが、端《はし》なくも、これからの作戦上に、意見の相違を来して、互いに譲らないためらしい。
滝川一益は、桑名、蟹江《かにえ》の二城を指揮して、早くから伊勢と対峙《たいじ》していたこの方面の主将であるから、彼の決裁《けつさい》に待っていいはずであるが、さて、
「いずれにも一理はある」
と、のみで、敢えて彼はそのどっちへも、賛否《さんぴ》を明らかにしなかった。
論争は、ここ二十日《はつか》ほどの間に、前後して、伊勢の戦野に参加した新鋭の援軍の将たちの間に闘わされて、一部は、
「伊勢の南を先に席巻《せつけん》して高岡の城は、後にすべし」
と、いう意見であり、一方は、
「いや、敵が難攻不落と恃《たの》む高岡の城こそ、先へ懸《かか》って攻め落すべきである」
と、いう二者の対立だった。
前者の意見を抱く人々には、
熱田《あつた》の加藤図書《かとうずしよ》、愛知郡の飯尾隠岐守《いいおおきのかみ》、岐阜城の物頭《ものがしら》早川|大膳《だいぜん》、篠田右近《しのだうこん》、春日井《かすがい》郡から馳せ加わった下方左近将監《しもかたさこんのしようげん》――などがある。
「やすき地を先に攻めて、至難の地を後にまわすのは、遠征の策ではない。北伊勢の嶮《けん》、高岡の城だに墜《おと》してしまえば、恃《たの》みの中心をうしなって、余の北畠一族は、四散滅裂すること、火を見るよりも瞭《あきら》かである」
との説をもって、それらの人の意見に反対しているのは、つい四、五日前から参戦した木下藤吉郎であった。
最も遅く参戦したものが、最も強硬に自説を云い張るので、それも多少、前者の部将たちの感情を刺戟していた。
「智略の聞えある木下殿のお説とも覚えられぬ。高岡の城は、北畠随一といわれる豪将山路弾正《ごうしようやまじだんじよう》がこれを守り、その兵は強く、地勢は嶮《けん》、いかで口先で貴公がいわるるように簡単に陥《おちい》ろうか。――味方の全軍が、わずか一城に懸って、日を過すうちに、神戸《かんべ》、一色《いつしき》の敵軍が、退路を断って、包囲して来たら何と召さるか」
飯尾|隠岐《おき》、下方左近|将監《しようげん》などの老練の将は、藤吉郎の策を若い逸《はや》り気《ぎ》として、叱るが如く云った。
「いや、それがしは、木下殿のお説を至極と思う」
とて、彼を支持する者も一部にはあった。
池田勝三郎信輝。
その他二、三の将である。明智光秀も、その中にいた。けれど新参だし、わけてまだ一士隊長にすぎない光秀は、当然、作戦の議に、嘴《くちばし》をいれる資格はない。池田隊附の一将校として、信輝のうしろに黙然と立っていただけである。
議論は、果てしがない。
といって問題は、重大である。全軍の死活は、この二つの方針を、右するか左するかにかかっていた。
滝川|一益《かずます》は、思慮ふかい男である。この上は信長の意見を仰いで決するほかあるまいという。
岐阜《ぎふ》城まで、早馬をとばせば、日数とても幾らもかかるまい。高岡へ攻めかかるにしても、南伊勢へ進路をとるにしても、この附近の敵を掃蕩《そうとう》するには、なお幾日かはかかる。
「――その間に、御返辞もつくし、なお、熟慮の暇《いとま》もあれば」
こう一益が、中庸《ちゆうよう》を取ったので、論議は熄《や》んだ。
そして急使の馬が、岐阜へ数騎急いだ。
ところがその晩。
一度、退《ひ》いた敵軍は、闇《やみ》と地の利を計って、逆襲してきた。滝川一益の隊は、その中軍を衝《つ》かれて、二里も退いた。
その他、飯尾《いいお》、加藤、下方《しもかた》などの織田軍は、連絡を失って、支離滅裂《しりめつれつ》した。――夜が明けてみると、死者、傷者、夥《おびただ》しい数にのぼったのみか、ここ七日ほどで、せっかく有利に進んで来た全線の体形が、まったく乱れてしまった。
「木下隊と、池田隊が見えぬ。――全滅したのではないか」
敗色の濃い織田軍のうえに、さらにこんな聞えが高まった。
一益は驚いて、調べさせていると、飯尾|隠岐守《おきのかみ》と下方左近|将監《しようげん》のふたりが、陣地から伝令をよこして、
「――昨夜、乱軍中、木下、池田の二隊のみ、敵の右翼を突破して、敵の北地へふかく進んでしまった。察するところ、我説《がせつ》を曲げず、君命を待たず、高岡の城へかかる考えと思われる。――如何すべきや?」
と計ってきた。
やむなく、一益は、
「この上は、彼らを先鋒《せんぽう》とし、われわれは後巻《うしろまき》して、進むほかあるまい。さもなくば、戦いの後、木下、池田を見殺しにしたといわれよう」
不平もあったが、ために、織田方はひきずられた形で、木下、池田の先鋒に従って、午後から動き出した。
そして、敵の高岡城へ、もう四、五里という辺りまで来てみると、いちめん空は黒けむりに塞《ふさ》がっていた。
物見をやって、
「合戦か。何の火か」
見せにやると、その物見が見届けて来たはなしには、
「木下殿の隊は、高岡城下の町屋へ火を放ち、池田隊は、手分けして、田や畑をふみあらし、穀倉を封じ、城内への通路へ柵《さく》を結《ゆ》い、すべて高岡城を繞《めぐ》るものを取払って、孤立にする作戦の下に働いています」
とのことだった。
「敵は」
と、問えば、
「城兵は、しばしば出て、それと戦ってはいますが、この風に、火の手のまわり早く、町屋や部落のみか、野も山へも、燃え拡がって来たので、城門を閉じ、飛火の防ぎに、手も廻らぬ様子に見えます」
と、物見は答えた。
夜に入ると、風はやんだが、火はなお燃えやまず、数里の後方に陣していても、兵馬の影が赤く見える程だった。
六昼夜も燃えつづいた火に、高岡城はまったくの裸城《はだかじろ》となった。城外の田野民屋《でんやみんおく》、みな焼け野原と化してしまった。
藤吉郎の軍三千は、遠く退《ひ》いて、後はただ城内との交通を固く遮断《しやだん》しているだけに過ぎなかった。
北伊勢八郡の兵は、みな城主|山路弾正《やまじだんじよう》の手足だったが、城内との連絡が取れないため、その力は区々《まちまち》に分裂されてしまった。
「潰滅《かいめつ》の兆《ちよう》が見えてきた。その方面の敵は、不肖《ふしよう》池田勝三郎が当って蹴ちらしてみせる」
藤吉郎と行動を共にした池田隊は、その機に乗じて、北八郡の大兵へ、敢然、軍を進めて行った。
後陣の滝川、加藤、早川、下方《しもかた》などの諸隊は、先鋒軍の木下、池田の二隊が、今に全滅の傷手《いたで》を負って退くだろうと、味方ながら、むしろ冷《ひや》やかに見ていたが、そのうちに、岐阜《ぎふ》本城から早打ちが戻って来て、
「高岡の城を先に攻め陥《おと》すこそ上策なれ。猶予《ゆうよ》あるな」
との指令であった。
同時に、
「一挙、伊勢を併合《へいごう》せん」
という意気ごみで、信長自身、約五千の軍旅を整え、伊勢へ向って、出陣してくるとの報もあった。
一益たちは、自分らの意見とは案に相違した信長の指令に、にわかにあわてだして、木下、池田の二隊に協力し始めたが、こんどは藤吉郎が、
「味方より手出しあるな。敵より弓、鉄砲など射かけてきても、退《ひ》くはよいが、相手に出るな」
と、厳命した。
十日も経った。城兵どもは決戦に焦心《あせ》ってきたが、寄手はただ裸城のまわりを遠巻きして、
「一日経てば、一日の勝ち」
と、戦いを避けていた。
やがて、信長の本軍が着いた。――池田勝三郎の隊は、北伊勢の山岳地方へふかくはいったまま、消息がたえていたので、
「ここはよし。彼の軍を救援に赴《ゆ》け」
と、下方左近|将監《しようげん》、加藤|図書《ずしよ》、早川|大膳《だいぜん》など無慮《むりよ》七、八千の兵力をその方へ割《さ》いて、愈※[#二の字点、unicode303b]、本格的な伊勢攻略を開始した。
そして、当面の高岡城へは、
「明朝、夜明け方より、総攻撃にうつれ」
と、命を発した。
「いけません」
藤吉郎がまた、反対を唱えた。
「糧道を断たれ、城外との連絡を断たれて、孤立の城兵は、上下みな死を決しています。まして伊勢の俊傑《しゆんけつ》、城将山路|弾正《だんじよう》は、よく兵を用い、武略に長《た》け、誓って、一死を共にしようとしている者どもばかりです。――これに当れば、お味方の損傷は少なくてはすみません。いや、屍山血河《しざんけつが》を見ても、なお、墜《お》ちないかもしれません」
信長は、聞くと怒った。
「何だ。今となってその説は、それは滝川|一益《かずます》などが大事を取って申した説で、汝《そち》の策は、それに反対であったはずではないか」
「そうです。――しかし、それも次の一策があってのことです」
「次の策とは」
「それがしに、使いをお命じ下さるなれば、敵をも救け、味方の一兵をも損ぜず、平和|裡《り》に、高岡の一城を、主君《との》のお手に収めて参ります」
「よし、行け。――総攻めの日は明後日の朝まで待とう。その間に、見事、血を見ずに城を陥すか」
「広言ながら――」
藤吉郎は、翌日、郎党ひとりに馬の口輪《くちわ》を把《と》らせ、ただ一名、焼け野原をトコトコ駈けて、高岡城の濠際《ほりぎわ》まで来た。
敵の高岡城をそこに仰ぐと、藤吉郎は、駒を降りて、郎党の手に手綱をあずけ、ひとり濠の縁《ふち》まで進んで行った。
「城方の衆へ物申すッ」
大音をはりあげて云いだした。右手を、口のそばに翳《かざ》し、片方の肱《ひじ》を鎧腰《よろいごし》につがえて、
「それがしは、織田信長の臣、洲股《すのまた》の木下藤吉郎なる者でござるが、主命を奉じ、城主山路殿に直々《じきじき》会い申さんために、これまで参った。――山路弾正殿に、御意《ぎよい》得とうぞんずる。山路殿はそれにお在《わ》さぬや!」
と、呼ばわった。
そして、返事は如何に? と見ていると、城の狭間《はざま》や土塀のうえや櫓《やぐら》のあたりに、忽ち無数の首が集まって、藤吉郎の方をながめていた。
「何だ? 変なやつが来て、濠端《ほりばた》でどなっているぞ」
と、その短身|小躯《しようく》な風采と、それに似ない大胆不敵ぶりとを、怪訝《いぶか》り合って騒《ざわ》めいているもののようであった。
いつまでも、返辞がないので、藤吉郎はふたたび、
「やあやあ、北伊勢の衆には、耳がないのでござるか。織田の臣、木下藤吉郎なる者、これまで参った由、早々、弾正《だんじよう》殿へお伝えあれや」
――云いも終らぬうちだった。彼の足もとの濠水《ほりみず》に、二、三発の銃弾が魚のはねたように水をあげた。
藤吉郎は、一尺も動かなかった。耳のそばを、ひゅるッ――と掠《かす》めた弾もあった。
鉄砲の音はすぐ止《や》んだ。城兵はもとより狙撃したのではない。彼の度胸を試してやろうと揶揄《からか》ったものである。その間に、城主の耳へ報じられていたものとみえて、山路弾正のすがたが、櫓《やぐら》に見えた。
弾正も、そこから大音で、
「木下藤吉郎とやら、山路弾正はこの方であるが、信長の使いとは、何事を申しに来たか。両軍合戦のまっただ中、信長から慇懃《いんぎん》をうくる理由はないが、それにて申してみるがよい」
と、いった。
藤吉郎は、遠く一礼して、
「いや、いやしくも某《それがし》は、戦いに勝った織田方の使者でござる。貴下は、孤塁に拠《よ》って、なお千余の勇猛を擁《よう》し、北畠家の忠臣をもって任じておらるるが、事実において、敗軍の将である。――敗軍の将が、勝利の使者を、城下に見下《みくだ》して、物を問うも異なものである。――ここでは主君の意を申すわけに相成らん。それがしを城内へ迎え、正当の礼を執《と》られたい」
聞くと、弾正は、
「あははは。わはは。――見たところは小さいが、愉快な大言を吐く男ではある。敗軍の将とは誰をさしていうか」
と、手を打って笑った。
城主の笑い声に、何の意味ともしらず、彼方《かなた》此方《こなた》で、城兵たちも笑った。藤吉郎は、黙然《もくねん》と、満城からわき起る嘲笑をあびて立っていたが、やがてまた、
「憐《あわ》れや山路殿には、武勇にかけては、伊勢随一の聞えもあるが、惜しいかな、匹夫《ひつぷ》の勇《ゆう》とみゆる。――死ぬばかりが勇者なりと心得ておらるるとみゆる」
「なに」
弾正は、怒った声で、
「この弾正を、匹夫と申したな」
すかさず、その怒気へ、藤吉郎は早口で、云い返した。
「匹夫はまだ、生命《いのち》の貴きを知っている。貴下のごときは、生命知らずの野猪《やちよ》に過ぎん。――この城にしがみついて、後《あと》幾日の生命を保《たも》ちうるとお思いあるか。城下の十方はすべて焦土、糧道なく、水の手は涸《か》れ、しかも援軍の来るお見こみもまずあるまい。――曳かれものの小唄よ、はははは」
彼の笑い声も、負けずに大きかった。その白い歯が、濠《ほり》をへだてた城楼からも見えた。
なに思ったか、弾正は、
「おもしろい。然るべき男とみえる。鄭重《ていちよう》に案内して、城中へ通せ」
櫓《やぐら》にいあわせた左右の者にいいつけた。
濠《ほり》の唐橋は、焼け落ちていた。やがて一人の部将が大手門のわきから筏《いかだ》を出させ、十名ばかりの兵を乗せて迎えに来て、
「織田家のお使者。殿が会おうと仰っしゃる。お乗りなさい」
と、下から云った。
藤吉郎は、駒と郎党一人を、そこに残し、ただ一人、それへ乗った。
城内の通路は、左右、槍ぶすまであった。餓死《がし》しても守りきると覚悟している城内の将兵だけに、一人の藤吉郎を見ても、その眼は殺気立っていた。
櫓《やぐら》の下辺りに、城主山路弾正は床几《しようぎ》をおいて待っていた。
藤吉郎は、敵の主将を、初めて間近かに見たが、会うとすぐ、
「正直な人物らしい」
と、好感を持った。
山路弾正も、悪びれぬ彼の態度に、案外、好意のある面《おもて》を示していた。――お互いが戦場というものをおいて、対峙《たいじ》すれば、夜叉《やしや》ともなり鬼神ともなるが、人間として、肌《はだ》近く会うとなると、そんな眦《まなじり》をつりあげていられないのみか、かえって非常な親しみさえ覚えるものだった。
英雄英雄を知る――という瞬間の感能も勿論その中に働いていた。
「最前は、無礼なことを申しあげたが、おゆるしねがいたい」
挨拶の後で、藤吉郎がいうと、弾正は、武人肌というのか、至極あっさりと、
「いや、無礼はお互いだ。こっちで笑ったから、お身も笑ったのであろう。単身、敵の城下へ来て、笑えないものだ。よくぞお笑いあった」
と、かえって賞《ほ》めた。
藤吉郎も、賞め返して、
「かねて伊勢衆は、北畠|大納言《だいなごん》殿という長袖《ながそで》の家中、およそは柔弱ぞろいならんと存じていたが、この一城の堅固な御意志、織田方にても、さすがに伊勢にも武士ありと、みな感じ合って、お噂は高うござる」
弾正は、そういわれると、顔赤らめて、
「自分の死は決しておるものの、ここを抜かれては、君家の滅亡と、心許《こころもと》のう存じおる。弾正がある間は、織田勢とて、北伊勢を恣《ほしいまま》にはさせぬが、この城の潰滅は、大納言家《だいなごんけ》の滅亡となろう」
「いや。それには及ぶまいと思いますが」
「及ばぬとは」
「御忠節を曲げよとは申しませぬが、御忠義の奉じ方に、他の道もあると思うのです。――仰せのとおり、大納言家の領域は広しといえども、また、名門の御家系は旧《ふる》しといえども、貴所ほどな武勇忠節の士が、幾人とありましょうか。われわれ敵方より見ても、この一城だに陥《おと》せば、北伊勢は崩れ、北伊勢を攻め奪《と》って、一挙、神戸《かんべ》の本城をとり囲めば、神戸御一族は、失礼ながら、網の中から魚を獲るようなものと、作戦着々取りすすめておる次第でござる」
「ムムム」
弾正は、それを否定しなかった。彼も、自国の運命を知っていた。
「しかも、如何《いかん》せん、恃《たの》むこの一城も、もはやこのままでは、半月を出でず、落城のほかはござるまい。貴所以下、城兵すべて、餓死か、斬って出て全滅するか。……惜しむべきものと、即ち、主人信長の意をうけて、それがし、降伏をおすすめに来たのでござる。忠義にも、小義と大義とがござる。願わくば、大忠を選んで、城兵の命もたすけ、主家北畠御一族の将来もよろしきように、お考えをめぐらされんことを、使者藤吉郎からも、かくの通り、おねがいするわけでござる」
彼のことばは、智弁に聞えなかった。むしろ訥々《とつとつ》としていたが、ただ一生懸命に誠意を伝えようとするところが、よく相手の心をうごかした。
彼はまた、利害ばかりを相手に説かなかった。
容《かたち》を改めて、
「万民のため」
を説いた。
なお、信長の覇《は》を、
「信長一身のためにあらず」
と、天下の乱を指摘し、一人の英雄を立てて、この紊《みだ》れを一応ひとつに戻す統業《とうぎよう》の必要を説いた。
弾正は、彼のいうその点に、最も共鳴した。自分もそれを理想していたので、主君北畠大納言を擁《よう》して中原《ちゆうげん》に臨まんものと、献策したこともあるが、北畠家の位置は、国として、気候は温順であり、山海の産物に富み、あまりに恵まれすぎているために、かえって大志を抱く士は少なく、無事を守って逸楽《いつらく》の生を偸《ぬす》もうとする者のみが多い。――ところが今初めて、貴下の主君信長にその志があるのを聞く。敵とはいえ、天下万民のためには愉快である。
弾正は、そういって、
「左様な主君の旗下に働かるる貴公は、倖せ者である。侍と生れて、まことに、働きがいのあることであろう」
と、羨《うらや》んだ。
藤吉郎はすかさず、
「信長の軍門に降を乞うと思わば武士の意気地もござろう。大義につきたまえ。大義の門に駒を繋ぐはまた、士道の本分でもあるまいか」
と、口を極めて、彼の降伏をすすめた。
「考えておこう」
遂に、弾正も、そこまで云い出したので、藤吉郎は、
「御出城あらばいつにても、藤吉郎が一命にかえて、君前へのお執《と》りなしは仕る。ゆめ、犬死を召さるな」
と、その日は帰った。
帰ると信長に、
「数日を出ないうちに、山路弾正は開城して、自身ここの陣門に駒をつなぎましょう」
と、報告した。
果たして、その通りだった。弾正は、信長を訪ねて、北畠家の安泰《あんたい》を乞い、城兵の助命を願い出た。
そして、自身は、
「御成敗《ごせいばい》を賜わりたい」
と、神妙に死を乞うたが、信長はゆるして、即日、高岡の城を収めた。
軍功帳の第一に、藤吉郎の勲功《くんこう》が記録された。
その第二筆には、新参の明智十兵衛光秀の功が記された。
光秀は、池田勝三郎の隊に伍して転戦していたが、彼ももともと、卒伍《そつご》に交じって、槍先の首ばかりを争っている男ではなかった。
「少々、思い寄りもござれば、数日それがしの一身に、離陣の儀、おゆるしありたい」
と、池田勝三郎に乞うて、暇をもらい、暗夜、ただ一騎で陣地を去り、敵地へ深くはいって行った。
彼は、諸国を武者修行して歩いていた当時から、伊勢の内部が、小党分立で、神戸《かんべ》の北畠家を中心に固まっている内容の脆弱《ぜいじやく》を見ぬいていた。
そこに、彼の乗ずる策があったのである。彼は、何か確としたあて[#「あて」に傍点]のあるもののように、暗い野を一騎で急いでいた。
「待てッ」
「どこへ行く」
「何者だッ。敵だろう」
忽ち、彼の前後に、刀槍《とうそう》が閃《ひら》めいた。当然、どこかで出会うであろうと、予測していた敵兵である。光秀は、駒を止め、
「各※[#二の字点、unicode303b]は、木股権之介《きまたごんのすけ》どのの手下か」
と、訊ねた。
「ちがう」
と、敵のひとりが云い放つと、間髪を容れずにまた、
「然らば、持福寺左内《じふくじさない》どのが組の者か」
と、重ねてきいた。
「ちがう、ちがう!」
敵の兵は、威猛高《いたけだか》に、
「怪しげな奴。降りろッ」
と、馬の腹へも槍を向けた。
光秀は、躁《さわ》ぐ色もなく、
「――では、上《かみ》ノ条《じよう》五郎《ごろう》どのの手の者か。それとも、庄司予十郎《しようじよじゆうろう》どのの手下か。飯村典膳《いいむらてんぜん》どのか、小森小十郎どのの手飼か」
と、たて続けに、伊勢の土豪の名を云いならべた。
余りに味方の土豪をよく知っているので、敵の兵も、さては織田の侍ではなかったのかと、やや気をゆるして、
「いかにも、俺《おれ》たちは、員弁《いなべ》郡の土豪、庄司予十郎が手飼の者だが、汝はいったい何処の何者か。そして何処へ行くか」
と、訊ね直した。
光秀は、隠しもせず、
「それがしは、織田家の臣、明智十兵衛というものだが、わが禅学の恩師で、員弁《いなべ》郡の持福寺におらるる勝恵上人《しようえしようにん》をお訪ねしてゆく途中である」
と、いった。
「上人へ何の用か」
との問いに、
「敵国なれど、近くまで出陣して参ったものを、お眼にもかからず、矢弾《やだま》を師の在《お》わす郷《さと》へ射ち込むのは、師弟の情、忍び難いここちがいたすので、これから御挨拶をしに行こうと存ずる」
と、答えた。
彼を囲んだ兵は、伊勢の家中の士ではなく、土豪の兵だったので、臨機《りんき》にそういったのであった。勝恵上人が、この地方で、よく土民の尊敬をうけていることを知っていたからである。
「どうしよう?」
相談しているらしかったが、上人の許《もと》へゆくものを討っては、上人にすまないという者が多かった。結局、
「案内してくれる」
と、いう口実で、約十名ばかりの土豪兵は、彼を監視《かんし》しながら、持福寺まで従《つ》いて来た。
光秀は、旧知の勝恵《しようえ》に会って、諄々《じゆんじゆん》と、両国の合戦が、北畠家に不利であることを説いた。また、無辜《むこ》の百姓たちを徒《いたず》らに苦しめるものであることを力説した。
「どうか、上人《しようにん》のお徳をもって、近郷の土豪に、利害を説いて戴きとうござる。今のうち織田家に随身あることの得策を、上人のお口から申して戴ければ、この地方は、戦禍なくすむというものですから」
勝恵は、彼の乞いを容《い》れて、近郷の土豪を説いて廻った。ために、日々手勢をひいて、織田軍に投降する者が続出した。
光秀の功も大きかった。
伊勢はこうして、席巻《せつけん》された。自国の過半を、またたく間に失って、大納言北畠|具教《とものり》も、遂に、和を乞うしかなかった。
信長は、和を容《い》れて、具教の助命を認めたが、後年また、北畠父子が叛《そむ》いたので、その機会をとらえて、信長の次男の茶筌丸《ちやせんまる》――後の信雄を、北畠家へ養子に入れ、三男の信孝《のぶたか》を、神戸具盛《かんべとももり》の後継ぎにすえ、伊勢八郡は名実ともに、彼の版図《はんと》に収められてしまった。
帰陣、また、出陣。
伊勢全土の平定までには、その年の八月にわたり、再度の出陣は、翌る年の十一年までかかったが、いつも軍功帳の初筆から一、二の座を争っていたのは、光秀と藤吉郎の名であった。
「はて。明智《あけち》という人間は」
と、藤吉郎が、その人物に注目し始めたのと、光秀が、
「風采《ふうさい》を見たところでは、何気ない男ともみえるが、織田家中で、出色の人物といえば、まず第一に木下」
と、心ひそかに、彼の名を強記しだしたのとは、その伊勢陣の頃からだった。
光秀は、やがて、禄五千貫、五百騎の侍大将として、信長から重用されていた。
[#改ページ]
於市《おいち》・於虎《おとら》
きょうは良人《おつと》の姿にも、閑日の寛《くつろ》ぎが見える。久しぶり暢々《のびのび》とした家庭の主人らしく、妻の眼にもながめられた。
伊勢陣から凱旋《がいせん》して、洲股《すのまた》の居城へ着いたのは、十日も前であったが、帰城早々、将士の賞罰とか、藩務を聴くとか、藤吉郎は間断なく公務に取りまかれていて、彼のからだは、妻のものでもなく、老母のものでもなかった。
「もうよい程にしておこう。余り細かしいことまでわしに訊《き》きにくるな。表の用務は彦右衛門に、軍事は竹中半兵衛に、家事は舎弟の小十郎に問え」
藤吉郎も、聴けば限《き》りない用務に飽いたらしい。きょうは家臣達へそういって一切を抛《なげ》やった姿である。
独り自分の居間にいた。
行儀のよい城主ではない。家臣からは「殿《との》」と呼ばれているが、彼自身はいわゆる殿様になり澄ましていなかった。時々|褥《しとね》の外へ二本の脚を長々と伸ばして、ごろりと横になる。
手枕のまま、何事か按《あん》じているらしく、眼をつぶる。寝るまでもない。
とまた、腹這《はらば》いになって、ぽかんと、庭面《にわも》を見たりしていた。
そして、この小閑に、体を遊ばせてみると、すぐ体をもてあます自身に気づいて、
「おれは、何という、無芸無趣味な人間だろう」
と、自分で感心したりした。
「身に較べるのも勿体ないが、信長様は、総じて多趣味、また御器用でいらっしゃる。小舞や鼓《つづみ》は上手、連歌もなさる、茶事もお好き。そういうこととなると、おれには、はて、何の能《のう》があるかしらて?」
考えてみると、彼は、およそ何も持たなかった。
「ぜひないことだ。信長様の育ちと、おれの生い立ちと、きょうまで通って来た日月がちがっている。いかに茨《いばら》の中の御苦難はこえて来ても、おれほどな道ではなかった」
彼はまた、ぼんやりと、過去の艱難《かんなん》を思い出していた。中村の田にある百姓たちの顔が一つ一つ頭に泛《うか》んでくる。松下嘉兵衛《まつしたかへえ》はどうしたろうなどとその後を思う。また、垢《あか》じみた白木綿の旅衣《たびごろも》一枚で歩いていたあの頃の自分が眼に見えてくる。
「勿体ない」
急に、彼は坐り直して、今日の恩を、改めて考えた。
君恩に報《むく》おうと思う。
天地の恩に酬《こた》えねばならぬと知る。
――が、なお黙然《もくねん》と、廂《ひさし》ごしに空を見ていた。するとふと、彼の頭のうちにも、一片の雲みたいな想念が泛《うか》んだ。先頃伊勢陣でつぶさにその働きを見た明智光秀という人物への連想である。
その人間のことは、時々、思い出すのである。深く感心しているからであった。
「たしかに傑出《けつしゆつ》している。織田家の中では、あの新しい知識はわけても光っている」
今もそう思うことに変りはなかった。けれど、光秀の頭脳には感服しても、その人間まで好きにはなれなかった。主君の信長と光秀とは、性格的にも、近いものがあるやに思われるが、自分と彼とは、いつまでも、親しくなれない人間のような気がした。
「オ……。お独りで」
そこへ妻の寧子《ねね》が見えた。
寧子は黙想に耽《ふけ》っている良人の側へ、おそるおそる坐って、そっとたずねた。
「なんぞ、御思案でもしていらっしゃいましたか」
藤吉郎は、顔を解《と》いて、
「いや、ぼんやりしていたまでのことよ。時々ぼんやりするも、薬かと思うてな」
と、笑った。
「余りにお忙しいので、傍目《はため》にも、お体が案じられまする」
「いや、忙しいから、健康なのだ。病気する遑《いとま》もない」
「わたくしよりは御老母様が、稀れには、奥へ渡らせて、表の御用から離れるがよいと、お喞《かこ》ち遊ばしていらっしゃいます」
「そうそう。母上にも、凱旋《がいせん》の日、お顔を拝したのみで、不沙汰申しあげていたの」
「侍の家庭《いえ》とは、淋しいものよ。母と子でさえ、一年《ひととせ》のうち、幾日朝夕を共にすることがあろうぞ、などとお留守中も、時折、仰っしゃっていらっしゃいました」
「……そうか」
と、藤吉郎もやや淋しげに、
「孝行はむずかしいのう。……そのうちにまたすぐ、岐阜《ぎふ》のお召しが参ろう。こうしているのも束《つか》の間《ま》、どれ、きょうは一日、母上の側で遊ぼうか」
「わたくしからもお願いいたしまする」
と、寧子《ねね》は、良人の気を迎えて、にこやかに誘いながら、
「それと、先頃、御郷里の中村から、御親類のおえつさまというお方が、幼い者をつれて、御老母様を頼ってお越しなされておりまする」
「中村のおえつと?」
「はい。殿さまのお暇ができたら、お眼にかかって、親しくお願いのことがあるとか申されて、もう四、五日ほど前から、御老母様の許に逗留《とうりゆう》して、お待ちになっておられます」
「はて、おえつ? ……誰であろうか」
藤吉郎は、しきりと、小首をかしげていたが、
「ま。参ろう」
と、妻と共に、母の住む奥の丸へと足を運んで行った。
寧子《ねね》は、局《つぼね》へはいると、老母に向って、
「お連れ申し上げました」
と、答えた。
老母は、この数日、藤吉郎の顔を見なかったので、寧子を使いにやって、誘わせたのであった。
「おう、見えましたか」
自分の側に、褥《しとね》も設けて、待ちわびている風だった。
藤吉郎は、母と並ぶと、
「おゆるし下さい。具足を解いてから、まだ風呂にも、一度か二度しかはいらぬ始末です。――が、もう万端、用事はいいつけました。きょうは一日、寧子や女どもを交《まじ》え、母上のお側で遊び暮しましょう」
「一日だけかの」
老母も、浮いて、戯《たわむ》れ顔《がお》に、
「寧子《ねね》よ。こよいは藤吉郎を、奥の丸に泊めて、帰さぬがよいぞ」
と、いった。
顔を紅《あか》らめながら、
「畏《かしこ》まりました。母上様のおゆるしがないうちは、お表へお帰し申すことではございませぬ」
と、寧子もいう。
藤吉郎は、わざと丁寧に、
「何といわれても、伺候《しこう》を怠った罪は、親には不孝、女房には無情、申しわけもなし。かくの如く、謝《あやま》り入り奉る」
と、頓首《とんしゆ》した。
「ホホホホ」
「ははは」
老母も、妻も侍女も、居合わした舎弟の小十郎も、笑いくずれた。
藤吉郎は、それからも、軽口や冗談ばかりいって、しまいには老母が、
「もうやめてたも。おかしゅうて、おかしゅうて、お腹《なか》の皮がいとうなるがの」
と、涙をこぼすほど、皆を笑わせていた。
そのうちに、藤吉郎はふと、片隅の方に、ちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]と坐っている七歳《ななつ》ばかりの男の児と、その側にある貧しげな後家風《ごけふう》の女に気がついて、
「おや?」
と、眼をとめた。
藤吉郎が、オヤと、眼を注《そそ》ぐと、子を連れた後家は顔を紅らめて、俯向《うつむ》いた。
彼は、大きな声で、
「それにいるのは、藪山《やぶやま》の叔母御ではないかな――母上、あれなる後家どのは、中村の光明寺の山にいた叔母御でしょう」
と、側の老母へ向ってたずねた。
老母は、うなずいて、
「よう覚えておいでたの。いかにも、藪山の加藤弾正《かとうだんじよう》どのへ嫁《かたづ》いた、おえつじゃがな」
と、いった。
「おう、やはり藪山の叔母御でしたか。――何でそんな所に、小さくなって、おざるのか。はて、遠慮ぶかい」
手をあげて招きながら、
「こちらへ、こちらへ」
さも懐かしげに、彼は呼ぶ。
おえつは、いよいよ身を小さくして、俯向《うつむ》いているばかりだった。
鄙《ひな》びた後家姿を、じっと竦《すく》めて、
年も、四十をこえた頃。
もう二十年も見なかった人なのである。藤吉郎にとっては、母の妹にあたる「おえつ」さんであった。
そのむかし、藤吉郎も日吉とよばれていた頃は、若い叔母のおえつさんは、美人であった。――その美しさは、窶《やつ》れた中にも、どこかまだ仄《ほの》かに残っている。
日吉が、光明寺の小僧にやられた時、この叔母は、すぐ下の藪山の加藤|弾正《だんじよう》と恋仲で、やがて、夫婦になったが、間もなく、その良人の弾正は、戦場で大怪我して、不具になってしまった。
日吉の父、弥《や》右衛門《えもん》と、ちょうど同じような運命だった。
おえつさんは、貞節だった。日吉は、貞節な叔母の美しい姿を、今でも覚えている。
――けれどあの頃は、日吉にとっては、決して温かい叔母さんではなかった。
村中で鼻つまみの腕白者が、寺小僧から追ん出されたり、茶わん屋から放逐《ほうちく》されたり、評判のわるいこと甚だしかったので、若い叔母さんは、そんな腕白が、身内にいるということを、良人の弾正《だんじよう》へ、ひどく肩身せまく思って、日吉が家へ顔を出すと、
「叱《しつ》。お帰り」
と、犬か猫でも追うように、良人にかくして、帰れということばかり責めていたものである。
猫といえば――
日吉が、茶わん屋を出されて、藪山《やぶやま》のやしきへ、叔母を頼って行った日、猫が飯をたべているのを眺めて、沁々《しみじみ》、羨《うらや》ましく眺めながら、自分の空腹《すきばら》には、一|椀《わん》の冷飯も与えられないのを、天地に喞《かこ》ったこともある。
考えれば、それから二十年。――渺茫《びようぼう》と長かった気もするし、わずか二十年――という気もする。
いずれにせよ、なつかしい人ではあった。猫の飯のことなど、すぐ思い出されはしても、何らの怨恨《えんこん》などではない。むしろ、恩を謝したい。
「…………」
藤吉郎は、じっと、その人を見ているうち、眼に熱いものがあふれてきた。――母とは最も近い肉親である。妹である。母はひそかに、不遇なこの妹の身をも、常々案じていたろうに、いまだかつて、自分に何もいったことがない。自分に対して、気がねをしておいでになったものとみえる。
「寧子《ねね》」
「はい」
「わしが幼い時、たくさん可愛がっていただいた叔母御だ。なぜ、あんな片隅に、おかまいせずにおくか。お褥《しとね》を、こちらへ移せ」
「幾たびも、おすすめ申しあげましたが、固くご遠慮遊ばしていらっしゃいます。あなた様からも、どうぞ、おすすめを」
「叔母さま。こちらへおいでなさい。……そこでは、ご挨拶がなりかねる。年月は変ろうとも、縁に変りはない。ご窮屈な辞儀は無用。さあ、さあ、これへ」
おえつはようやく、少しばかり膝をすすませて、
「お久しゅうござります」
と、両手をつかえ、そして初めて、藤吉郎の面《おもて》を、しげしげと見上げた。
藤吉郎も、つくづく見て、
「もう四、五日ほど前からご逗留《とうりゆう》じゃとな」
「はい。……」
「早くお眼にかかればよかった。忙しさに、知らなんだ」
「こんな、お恥かしい身なりで、お訪ねして参るのも、気が怯《おび》えましたなれど」
「何の、何の。よう来て下された。変られたのう、さすがに」
「あなた様こそ、夢のようなお変りよう、お慶《よろこ》び申しあげまする」
「叔母御には、お幾歳《いくつ》になられたかな」
「もう四十を三つほどこえました」
「それや若い。これからじゃ。……おつれあいの加藤弾正どのには、わしが幼少の時すでに、戦傷をうけて日常寝ておざったが、その後、ご本復になったかな」
「一時は癒《い》えて、起居《たちい》もできるまでになりましたが、つい四、五年前、この子が生れてから程なく、余病のために亡くなりました」
「そうそう。そのような噂を耳にしたこともあったが、郷里の皆の衆にも疎遠にすぎて申しわけない。――では、それなる童《わらべ》は、弾正どのの遺子《わすれがたみ》か」
「はい。この子が、かたみとなりました」
「よい子ではないか」
「腕白者でございます」
「いや、面目ないぞ。わしの昔をいわれるようだ。――幾歳《いくつ》になるか」
問われると、おえつは、側にぽかんとしているわが子の膝をついて、
「殿さまのお訊《たず》ねじゃ。お答えしやれ」
と、教えた。
「え。なに」
雷《かみなり》の申し子みたいに、赤っ毛で色の黒い男の子は、欄間《らんま》の金碧《きんぺき》だの、侍女《こしもと》たちの衣裳だの、畳の縁《へり》だの、きょときょとしていたが、母に膝をつかれて、甘えるように、母の肩へ顔をすり寄せた。
「不作法な」
と、おえつは、睨《ね》めるまねして、
「殿さまへ、両手をつかえて、お答え申しあげるのじゃ。そなたの年は幾歳《いくつ》と、お訊ね遊ばしていらっしゃる」
いうと、藤吉郎の方を見て、にやにや笑いながら、
「七歳《ななつ》だい」
と、いった。
「七歳か」
と、藤吉郎は、笑ってしまった。自分の腕白時代を見るような気がしたのである。
「名は何という」
「虎之助《とらのすけ》」
「ふム。強そうな名だの」
「…………」
虎之助は、ふいに、ぴょいと起ちかけた。庭の方に、何か見て、すぐ飛び出そうとしたのである。
「これ」
おえつは、抑えて、
「実は、この子をお手もとの小者になと、召し使っていただきたいと思いまして、はるばる、中村から伴《つ》れて参りました。――父の弾正は、侍でしたから、どうかこの子も、行く末は侍の端《はし》になとしてやりたいと思いまする。それが、亡き良人には、せめてもの手向《たむ》けにもなろうかと……」
おえつは、片手に、腕白を抱きながら、畳へ涙をこぼしていった。
藤吉郎は、頷《うなず》き頷き聞いていたが、彼女の言葉が切れると、
「よいとも。わしの手もとにまかせておけ。当人の器量にあるが、何か一人前には仕立ててくれる。――虎之助、これへ来い」
と、さし招いた。
「はいッ」
待っていたように虎之助は前へ出て、藤吉郎へお辞儀をした。そして、後ろの母親を振り向いてからまた、手をつかえ直した。
殿さまの前へ呼ばれたらこうするのですよ、とあらかじめ教えられていたものだろう。――それを見ているおえつの眼は、いかにも愛《いと》しそうである。また、心配そうである。
「なかなかきかん坊らしいの」
藤吉郎はつぶやいて、側にいる寧子《ねね》や老母と共に、微笑んだ。
「虎之助」
「はいッ」
「もそっと、前へ来い」
「はい」
「侍になりたいか」
「ええ」
「侍の御奉公は、朝《あした》に死に、夕べに死に、始終命がけの御奉公だぞ。出来るか」
「できます」
「そなたの父、加藤|弾正《だんじよう》どのも侍だった。立派な侍になって、母御を安心させてやれよ」
「…………」
虎之助は、黙って頷《うなず》いたが、座中の人々の眼がみな自分に注《そそ》がれているのを気づくと、急に、羞恥《はにか》んで、もじもじした。
おえつは、泣いていた。欣《うれ》しさが余って涙がとまらなかった。――藤吉郎は、左右を見まわして、
「誰か。小姓組の堀尾茂助《ほりおもすけ》に、市松を連れて来いと申せ」
と、いいつけた。
その間に、
「虎之助へ、菓子をやれ」
と、いった。
寧子《ねね》が、菓子を与えると、虎之助は、それを見まもっていたが、我慢できなくなったとみえて、手を出してボリボリ喰べ始めた。
母親のおえつは、
「これ、虎之助」
顔を紅《あか》らめながら、うしろで不作法を叱りかけたが、寧子や老母が、
「気遣《きづか》うには及ばぬ。そっとしておいたがよい」
と、いってくれたので、遠くからただ、はらはらと眺めていた。
そこへ堀尾茂助が、自分のうしろに十三、四歳の小姓を伴《ともな》って、東の縁から座敷へはいり、遥か下《しも》に畏《かしこ》まった。
「お召しでございましたか」
茂助が手をつくと、うしろの小姓も、それを倣《なら》って、不器用に手をつかえた。
虎之助より年もずっと上だし、身なりも大きいが、その少年も見るからに、まだ土臭い田舎《いなか》出の芋《いも》の子みたいな顔していた。色の黒いところに疱瘡《ほうそう》の痕《あと》があって、かなつぼ[#「かなつぼ」に傍点]眼《まなこ》の鼻大《はなでか》という不《ぶ》縹緻者《きりようもの》であった。
「市松に、よい友達が来た。ひきあわせて遣わすから、これへ出て、虎之助と並ぶがよい」
藤吉郎がいうと、市松は羞恥《はにか》んで、眼ばかりぎょろぎょろさせていた。小姓組の腕白を十人ばかり預かって、兄分格となっている堀尾茂助が、小声で、
「殿さまの前へ進んで、あの子のわきに坐ればよいのだ……」
と、市松に教える。
市松は、虎之助のわきへ来て坐ったが、横目で、芋《いも》の子が芋の子をじろじろ見ていた。
「叔母御。――この腕白をご存じじゃろが。これは、二寺《ふたつでら》の宿で、桶屋《おけや》などしていた遠縁の新左衛門が小伜《こせがれ》で、市松という童《わつぱ》だが」
「まあ――」
おえつは、遠くから見まもって、さも驚いたように、
「ではそのお子が、新左衛門様のお伜《せがれ》でございましたか。良人が亡くなった時、手をひいておくやみに来られましたが……。あの子がまあ、いつの間に」
「去年から仔細《しさい》あって、わしの手に引き取っておるが、これがまた、一通りな童《わつぱ》ではない。……ここでは、きつう羞恥《はにか》んで、神妙に畏まっておるが」
藤吉郎が笑うと、寧子《ねね》も老母もみな笑いだした。二人の芋《いも》の子《こ》同志は、いっこう面白くもない顔つきして、横目と横目で、お互いの鼻の恰好などを見合っていた。
市松の親も、以前は侍で、信濃《しなの》福島の出であった。
親の新左衛門は、尾州二寺へ移住して、桶大工《おけだいく》を業とし、
――結句《けつく》、町人が気らく。
と、何の野望も抱かず、桶のそこを叩いていたが、子の市松は、幼少から烈しい気性だったので、
「どこか、良い縁故はないものか。厩者《うまやもの》でも、台所働きでも、武家奉公でさえあれば、どこへでもやるが」
と、その腕白をもてあまして、日頃から心がけていた。
すると、市松が、ことし十四になったばかりの正月、蟹江川《かにえがわ》の支流で、他家《よそ》の中間《ちゆうげん》を斬った。
正月の酒にたべ酔って、橋のたもとに寝ていた足軽の足を、遊びに熱していた市松が過《あやま》って踏みつけたのである。
足軽は怒って、
「この小僧め」
と、市松をつかまえてひどく蹴とばした。
市松は、頭をかかえて、散々に弄《もてあそ》ばれていたが、やがて、切れた凧《たこ》のように、わが家へすッ飛んで来ると、父親が細工場《さいくば》で使っている刀の折れを鉈《なた》にしたのを持って、また出て行った。
正月なので、仕事場には誰もいなかったし、近所の者も気づかなかった。市松は、顔いろを変えて橋の袂《たもと》へもどって来た。
足軽はもういなかった。
方々、探し歩いていると、村の居酒屋からひょっこり出て来た。市松は、後ろから駈けて行って、
「この足めッ」
と、足軽の脛《すね》を、鉈《なた》で撲《なぐ》りつけた。
足軽は、わッと、ちんば[#「ちんば」に傍点]をひいて、蹌《よろ》けて行った。
「ざまア見ろ」
市松は逃げ出しながら、
「ばかッ。ひょッとこ。意気地なし。冷飯くい」
出放題に罵《ののし》った。
足軽は、火の如く怒って、この餓鬼《がき》めがと、追いかけたが、脛《すね》の痛みに、脆《もろ》くも躓《つまず》いてまた倒れた。
市松は、戻って来て、
「覚えたか。思い知ったか」
と、足軽の頭へ、幾つも鉈《なた》をふり下ろして、塩辛《しおから》のようにしてしまった。
当然、事件になった。
足軽の主人という武士が、桶大工《おけだいく》の新左衛門の家へ、何度となく強談《ごうだん》に来て、
「小伜《こせがれ》を渡せ」
と、いう。
渡したら子は殺されるかもしれないと思うので、新左衛門夫婦は、百方、人を頼んで、ようやく、
「出家させる」
と、いう条件で、生命《いのち》だけは、事なきを得た。けれど市松は、
「坊さんになるくらいなら死んじまう」
と、わいわい泣く。
いかに脅《おど》しても賺《すか》しても肯《き》かないのである。――すると身寄りのうちで、いっそ蜂須賀《はちすか》村の彦右衛門様にお願いしてはとすすめる者があった。
この頃はとんと依頼も来ないが、以前は蜂須賀家へはよく仕事にも行ったことがある。新左衛門は、市松をつれて、訪ねて行った。ところが主《あるじ》の彦右衛門も、一族の多くも、あらかた洲股《すのまた》の方へ移っているというので、思いきって、洲股城まで頼って行った。
藤吉郎の実父|弥《や》右衛門《えもん》と彼とは、親戚《しんせき》の縁故もあったからである。彦右衛門はまた、主君に告げて、この父子《おやこ》をひきあわせた。
藤吉郎は、ひきうけて、
「台所へおいて、飯喰わせておけ。走り使いなどさせて見て、心利《こころき》いたる見所があれば、茂助の手にかけ、小姓役を見習わすがよい」
と、親を帰した。
やがて、桶屋の子は、先祖の旧姓を名乗って、福島市松とよばれていた。
市松と虎之助を並べておいて、藤吉郎はふたりへいった。
「仲よくいたせよ」
「はい」
「於市《おいち》は、年上であるぞ」
「はい」
「新参の於虎《おとら》を、よく面倒みてやらねばいかぬ」
「はい」
「では、退《さが》れ――」
と、いってまた、堀尾茂助へ、
「何分まだ稚《いとけな》いが、そちの組へ預けておく。よく仕込んで与えよ」
と、いいつけた。
元服前の小童は、それを呼ぶのに、女子のように、名の頭字《かしらじ》に「お」をつけて、市松を於市《おいち》とか、虎之助を略して於虎という風によぶのは、その頃の慣《なら》わしだった。
於市と於虎は、主君へお辞儀をすますと、茂助の後に従《つ》いて退《さが》って行った。
虎之助の母は、うしろ姿を見送って、また、涙をたたえていた。
「親の案じるようなものではおざらぬ。すぐ城内の者にも馴れよう。叔母御、安心するがよい」
藤吉郎はなお、寧子《ねね》に向って、於虎の母へ、城内の住居を与え、何かと平常も談《はな》し相手になってやるがよいと云い足した。
於虎の母は、
「御恩は忘れませぬ」
と、彼の温情をふし拝んだ。
こういう例は、彼女の場合のみではなかった。縁故をたどって、彼を頼ってくる者に、彼は一視同仁《いつしどうじん》だった。百川を容《い》れる大海のように、芥《あくた》も容れ清流も容れた。
ひと月も経《た》つと、於虎は、馴れるどころか、生来の面目をあらわして、城内第一の腕白者と名を取ってしまった。木登り屋根登りはする、小姓組の小さい仲間を泣かす、悪戯《わるさ》はする、逃げることはまたおそろしく素迅《すばし》ッこい。
於虎が現われてから、於市は、自分の名声を奪われたように、忽ち彼を敵視した。
「やい。於虎」
「なんだい」
「ちょっと来い」
「どこへさ」
「どこへでもいいからちょっと来い。ちび[#「ちび」に傍点]のくせにお前は生意気だぞ」
人のいない奥庭へ、於市は於虎を引ッ張って行った。そして、拳《こぶし》をかためて、於虎の頭の上にそっと乗せた。
「於虎、やい」
「…………」
「この拳をみろ」
「…………」
於虎は、頭のうえの於市の拳を、額《ひたい》ごしに見あげながら、
「見えない」
と、いった。
「――見えないと」
於市は、拳の尖《とが》った所で、於虎の頭をぐりぐり[#「ぐりぐり」に傍点]押した。於虎は、顔を顰《しか》めた。
「どうだ。……見えなければ、これで味が分ったろう。おれの拳はそっとやっても、こんなもんだ。ちび[#「ちび」に傍点]の新参のくせに、あまりのさばると、このお拳に風をくれて、ぐわんと、くらわすぞ」
「…………」
「欲しいか」
於虎はまた、顔を顰《しか》めながら、その顔を横に振った。
「これから、わしのいうことをきくか」
「きく」
「わしに反《そむ》かないか」
「うん」
「じゃあ、きょうだけは、堪忍してやる。こんど生意気なまねしたら、石垣の下へ投げ飛ばすぞ」
於市は、威張って先に歩いた。於虎は、彼の威嚇《いかく》にすこし恐れをなしたらしく、悄《しお》れ返って従《つ》いて行ったが、指の先にまろめていた鼻くそを、於市の襟元《えりもと》へポンと弾《はじ》いて、くすりと口を抑《おさ》えて笑っていた。
[#改ページ]
大 義
信長に身を寄せた漂泊の将軍家|義昭《よしあき》は、その後、岐阜《ぎふ》の城下|西《にし》ノ店《たな》の立正寺を宿所と定められて、一行はそこに起《お》き臥《ふ》ししていた。
見得坊《みえぼう》で、小心で、権式ばかり高く持ちたがりながら、庶民の中に生々《いきいき》と動きかけている時流にはまだ醒《さ》めない足利家《あしかがけ》の君臣は、すこし境遇が落着くと、すぐ貴族臭をあらわして、
「喰い物がまずい」
とか、
「夜の具《もの》がお粗末すぎる」
とか、
「かような狭き寺門の内では、仮の御宿所とはいえ、公方《くぼう》様の御威厳にもかかわる」
などと、いろいろな不自由や不足をならべ出して、信長の側衆へ、
「もっと、御待遇を改めていただきたい。さし当って、新将軍のお館《やかた》なども、どこか景勝《けいしよう》の地を選んで御造営にかかってもらいたいが」
と、申し入れた。
信長は、その要求を聞くと、彼らの根性を憐《あわ》れんだ。早速、義昭の家臣らを招いて告げた。
「将軍家のお住居《すまい》が手狭であるから、新館造営にかかって欲しいとのお望みだそうであるが……」
「されば、唯今の宿所では、御不自由も多く、将軍家のお住居としても、あまりに外見が貧しゅうござれば」
「はて、さて」
信長は蔑《さげす》むように、それに答えた。
「――卿《けい》らは、何と悠長なお考えでおられるのか。将軍家がこの信長に頼られたのは、信長に拠《よ》って、京師の奸党《かんとう》三好松永の徒を一掃し、失地を奪回し、室町幕府の御家統を正さんとするにあったのではおざらぬか」
「はッ」
「不肖ながら、その大任を一諾《いちだく》いたした以上は、信長は、疾《と》く近日にも、その実現を考えておる。――なんで将軍家のお館など建てておる暇《いとま》を持とうや。――それとも卿らは、ふたたび都へ帰って天下に立つお望みもすてて、この岐阜の景勝の地に、悠々、巨館を造営して、生涯を信長の食客となって若隠居でもしたいというお心か」
義昭の側臣らは、一言もなく、引《ひ》き退《さが》った。
それからは、余り不平がましい要求もしなかった。
信長の大言は、決して偽りではないことが、間もなく証明された。
秋、八月に入ると、尾濃《びのう》二ヵ国の各将へ、出兵の令が下った。
九月五日まで、約三万の軍旅は整え終った。そして七日にはもう岐阜《ぎふ》から続々と、出発していた。
京都へ、京都へと。
――出発の前夜、城内の大宴の席で、信長は将士を激励していった。
「果てしない国内の騒乱と、群雄《ぐんゆう》の割拠《かつきよ》は、果てしない民衆の塗炭《とたん》である。万民の苦しみは、一天の大君の御悩《おんなや》みであることはまたいうまでもない。先《さい》つ年《とし》、万里小路惟房卿《までのこうじこれふさきよう》をお使いとして、微臣信長に、密勅を賜わったが、今また、信長|上洛《じようらく》の催しを叡聞《えいぶん》あらせられて、ひそかに、優渥《ゆうあく》なる御綸旨《ごりんじ》と、金襴《きんらん》の戦袍《せんぽう》とを賜わった。――わが織田家は、父信秀の代より今日まで、武門の奉公は一に禁門の御守護にありと、その精神を鉄則としておる。故に、このたびの上洛も、大義の軍であって、私の行動ではない。一日もはやく叡慮《えいりよ》を安んじ奉らねばならぬ。――時は秋、汝らの飼馬《かいば》も肥えておろう。各※[#二の字点、unicode303b]、信長が旨《むね》を旨として、おくるるな、違《たご》うな、あだ[#「あだ」に傍点]に死ぬな。粉骨砕身《ふんこつさいしん》、大君のいます都まで押し進めよ」
出陣の宣言に、将士はみな勇躍した。中には、信長の声も終らぬうち、感極まって、泣いている将もあった。
この壮図《そうと》には、かねて信長と攻守同盟を結んでいる三河の徳川家康(前・松平元康)も、手勢一千人を派して参加した。
「三河殿のよこした兵数は余り少ない。うわさに違《たが》わず、三河殿は狡《ずる》い」
と、全軍の門出で、多少、非難の声があった。
信長は笑って、
「三河は今、内治と経済を調整《ととの》えるに、他意のない折である。兵を多くよこせば、失費も多い。そこで非難は浴びても、費用を惜しまれたものだろうが、さりとて彼も尋常な武将ではない。さだめし、よこした将士は粒よりの精兵《せいへい》だろう」
と、敢えて咎《とが》めなかった。
果たして、一千の三河兵と、その部将松平勘四郎は、尾濃三万の中に伍して、どこの戦いに会しても、負《おく》れはとらなかった。いつも先鋒に立って、味方の道をひらき、その潔《いさぎよ》さは、家康の名を一層重からしめた。
天気は毎日、好晴だった。
三万の兵馬は、秋ばれの下に黒々とつづいた。先陣が江州の柏原《かしわばら》に着いても、後陣はまだ垂井《たるい》や赤坂を通っているほどその列は長かった。
旌旗天《せいきてん》を覆《おお》う。
文字どおりな大行軍である。
平尾《ひらお》の宿をすぎ、高宮にかかった頃、前方から、
「使者でござるッ。京師《けいし》の使者でござる」
と、叫びながら、馬をとばして来た三名の武将があった。
急使は、
「織田どのに拝謁《はいえつ》したい」
と、乞い、三好|義継《よしつぐ》と松永久秀《まつながひさひで》の書面を携《たずさ》えていた。
本陣へ伝えると、信長は、
「引いて来い」
と、そのまま使者に会ったが、書面のうちにある和睦《わぼく》を乞うという主旨は、敵の奸計《かんけい》とにらんで、
「いずれ、返辞は、信長が京都へ上った節にいたす。書中にては、三好松永の両所のお心も明らかにお酌《く》みできぬゆえ、信長が京都の陣門へお訪ねあらば、いつにても会おうとお伝えおかれよ」
と、使者にいって、追い返した。
翌暁《よくぎよう》の十一日。
日の出を合図に、先鋒は愛知川《えちがわ》を押し渉《わた》っていた。そして翌朝はもう観音寺の城と、箕作城《みつくりじよう》の二つへ攻めかけていた。
観音寺には、江南の豪族、佐々木|承禎《じようてい》がいたし、箕作城には、その子の佐々木六角が立て籠《こも》っていたからである。
佐々木一族は、三好や松永党と通じていて、前に、新将軍|義昭《よしあき》が、そこへ身を寄せた時、義昭を計って殺そうとしたことさえある。
当然、ここ琵琶湖《びわこ》を一方に、江州の連山を南に扼《やく》した街道の要地で、彼らは、かつて永禄の三年、織田信長が今川義元の上洛《じようらく》の途上をついて、一挙に粉砕した時のように――こんどは信長をここに撃滅してみせると豪語して待っていた。
で、佐々木六角は、自分の箕作城の守備を、吉田|出雲守《いずものかみ》にあずけ、自分は父のいる観音寺に合体して、そこを本営として、和田、日野その他、領土の塁濠《るいごう》十八ヵ所に、防禦の陣を遺憾《いかん》なく布《し》いていた。
高地から小手をかざしながら信長は、
「見事な敵の布陣かな。兵書に著《あらわ》してある通りだ」
と、笑った。
そして、佐久間信盛、丹羽長秀《にわながひで》の二将に、
「箕作《みつくり》に向え」
と、令を下し、その先鋒には、三河の松平隊をつけて、さて、その際にもまた、
「このたびの上洛は、私の戦いとは異なる旨、発向《はつこう》の前夜、篤《とく》と申し聞けたとおりである。大義の弓矢たることを全軍心にとめて、逃ぐる者は殺すな。益なき民家は焼くな。能《あと》う限りに、刈入れまえの田はふみ荒すな」
と云い渡した。
[#改ページ]
二十一日記
まだ琵琶湖の水も見えない朝霧のうちからであった。
霧を衝《つ》いて、黒々と、三万の兵馬はうごき出していた。
丹羽、佐久間などの隊が、箕作《みつくり》城へ攻めかかった合図を、信長は狼火《のろし》で知ると、
「本陣を和田山へ移せ」
と、四辺《あたり》へ下知《げち》した。
和田山も敵の要害である。もちろん敵軍が充満している。そこへ我が本陣を移せという。――信長の命令は、戦えとか、攻めろとか、奪《と》れとかいう言葉も略して、無人の地を行く気概でいるのであった。
「なに、信長が自身で襲《よ》せたと」
和田山の守将山中山城守は望楼から呼ばわる物見に大声で答えるなり、砦《とりで》にひそむ味方の全体へ、
「これぞ天の与えというもの。――観音寺、箕作《みつくり》の両城は、尠なくも、一ヵ月はきっと支え得る。そのまに松永三好の軍勢やら、湖北の味方が、信長の退路を断つ。――だが、信長が死を急いで、自身わが砦へかかって来たのは、まさに、絶好の機《おり》。武門の運をとり逃がすな。信長の首を打って取れや」
と、剣をたたいて演舌した。
「うわあッ」
全軍は、それに応えた。
信長にどれほど智謀の士が多くとも、三万の兵が捨身で来ようと、佐々木一族の鉄壁は、必ず一ヵ月以上はそこで喰い止めるだろうと――それは彼らの信念でもあったし、また、四隣の強国の一致した観察であったのだ。
――が、和田山一帯の丘陵は、それから半日の間に、銃煙と土けむりと雄《お》たけび[#「たけび」に傍点]の中に、陥落してしまった。
ただ見るいちめんの戦塵の中に、
「この一期《いちご》」
と、ばかり和田山を中心に馳駆《ちく》しているのは、ほとんど、信長の兵のみだった。二刻《ふたとき》余りも戦うと、脆《もろ》くも、山中山城守の部下は、先を争って、附近の耕地や、山や、湖畔や、八方へ敗走してしまった。
「追うなッ、追うな」
信長の声は、もう和田山の上に在《あ》った。逸《いち》はやく立てた旌旗《せいき》が午《ひる》近い太陽の下に鮮やかに見える。血と泥にまみれた将士は、追々に麾下《きか》へ集まった。そして、勝鬨《かちどき》をあげて、午の兵糧を喰った。
箕作方面から何度となく伝令が来た。丹羽、佐久間の先手となってかかった三河の松平勢は、血を浴びて勇戦しているところとある。
刻々、味方に有利な報が信長の手に集まった。
まだ陽《ひ》も落ちぬまに、箕作落城の報がはいった。
黄昏《たそがれ》に近づくと、観音寺の城の方面に、黒煙があがった。木下藤吉郎、その他の手勢が、もう城に迫ったとみえる。
「いざ行け」
総攻撃の令が下る。信長も陣をうつし、箕作その他の全軍も、一せいに観音寺へ押しつめた。
宵闇《よいやみ》の迫る頃には、もう一番乗り二番乗りの名のりが敵の城壁をこえていた。忽ち城内の一角から炎があがる。――冴《さ》えた秋の夜空は星と火の粉に満ちていた。
破竹! というも愚かな程だった。
寄手《よせて》はなだれ込む。
区々《まちまち》に、凱歌が揚がってゆく。――それは敵の佐々木一族には、余りに無情な秋風の声と聞えたであろう。わずか一日のまにこの堅塁《けんるい》が陥《おち》るとは誰も予期していなかった。和田山の塁、箕作《みつくり》の出城、十八ヵ所の要害も、この急激な怒濤のまえには、何の防ぎにもならなかった。
宇多源氏《うだげんじ》以来の名門、佐々木六角や承禎《じようてい》入道をはじめ、一族やら女子供は、あわれ闇につまずきながら、争って、炎の城から石部城の方へ落ちて行った。
「落人《おちゆうど》どもは、落ち行くままに見のがしておけ、まだ明日の敵が先にある」
信長は、彼らの生命ばかりでなく、彼らが搬出《はんしゆつ》して行ったという夥《おびただ》しい財宝にも眼もくれなかった。――道くさ[#「くさ」に傍点]は、信長の好むところでなかった。彼の心はもう中原《ちゆうげん》にあるからである。
観音寺の城は、本丸で焼け止まった。信長は入城すると、すぐ、
「大いに兵馬を休ませるがよい」
と、軍を犒《ねぎら》った。
けれど、彼は休まなかった。具足も解かず一夜を眠って、翌る日となるともう重臣をあつめて評議である。また、領内への布告を命じたり、それから、
「義昭《よしあき》公を、岐阜よりお迎え申して、守山にお置きするがよい」
と、不破《ふわ》河内守《かわちのかみ》を、にわかに、そこから立たせたりした。
きのうは陣頭に立って戦い、きょうは政務を執るに忙しい彼であった。
柴田修理、森三左衛門、蜂屋兵庫頭《はちやひようごのかみ》、坂井右近の四将を、臨時に江州の奉行、代官等に任じて、翌々日は、もう湖水を渡って、大津へ進軍する兵船の準備や、諸般の命令に、食事も忘れているほどだった。
ところへ、近侍《きんじ》が、
「木下殿が今朝から、お眼通りを願い出ていますが」
と、隙《すき》を見て告げた。
「そうそう、忘れておった。何事か、すぐ通せ」
信長は、湯漬を喰べていたが、思い出して、箸を置くと、すぐ表の書院へ出て行った。
藤吉郎がひかえていた。
が、彼は横の方に。
そして信長の坐った正面には、見たことのない武将が平服で手をつかえていた。その側には十二、三歳になるかと思う少年を伴《ともな》っている。少年は、信長が出て来ると、平伏するのも忘れて、何か、恍惚《こうこつ》と信長のすがたを見とれていた。
「御主君に申しあげます――」
と、藤吉郎から信長へ伝えた。
「これに連れて参りました侍は、佐々木六角殿の旗下《きか》でも、かねて勇名の聞えていた日野城の主《あるじ》、蒲生《がもう》賢秀《かたひで》どの。――また、側にひかえているのは、御嫡子《ごちやくし》鶴千代《つるちよ》どのでございます」
「ほ。蒲生《がもう》どのか」
信長は、見直した。
賢秀《かたひで》父子は、藤吉郎から紹介《ひきあ》わされると、もういちど慇懃《いんぎん》に礼をし直して、
「多年仕えていた主君佐々木家の本城に、敵将たるあなたを拝すのは、武士として、心外この上もありませんが、夜来、寄手の将の木下殿より懇々《こんこん》と、時勢の赴《ゆ》くところを説かれ、大義のため小義をすてよとのおすすめに屈し、遂に、これへ同道いたしました。――それがしは敗軍の一将、また、老先《おいさき》もない老朽ですが、一子鶴千代は、何とか世のお役にも立つ者になれかしと、常々、多少訓育して来た者にござります。賢秀には、切腹をお与え下さるとも怨みには存じませぬ。ただ鶴千代の将来だけを、何分、お願いいたしたい余りに、恥をしのんで参ったわけでござる」
賢秀のことばを、信長は、眼をつむって聞いていた。敗れた降将のことばには、勝軍《かちいくさ》の中では聞かれない、人間の真実がこもっていた。
「お案じあるな」
と、信長は眼をひらき、そして賢秀の連れている子をじっと見つめた。鳳顔紅唇《ほうがんこうしん》の美童である。信長は、思わずさけんだ。
「これは麒麟児《きりんじ》だ」
そして藤吉郎の方へ、
「よい子ではないか。のう藤吉郎、そちは何と見る。これは栴檀《せんだん》の香りがするぞ。わが家の聟《むこ》にいたしてもよい程な」
嘘とも思えない声であった。
「これへ、これへ」
鶴千代を自分のそばにさし招き、その頭《つむり》を撫でながら、なお、幾度もいった。
「行く末、信長の三女を娶《めあ》わそう。よい夫婦《みようと》ができよう。――賢秀、親元のそちには、異存ないか」
敗軍の将は、男泣きして、黙然《もくねん》と頭《かしら》を畳へ伏せていた。藤吉郎も自分の計らいが、戦果に功を挙げたばかりでなく、思わぬ花を結んだので、心から主君に礼をのべた。
――後に。
老獪《ろうかい》徳川家康に座を譲らせ、関白秀吉にさえ憚《はばか》られ、奥州《おうしゆう》の独眼龍政宗《どくがんりゆうまさむね》を、僻地《へきち》に封じこめた智謀雄略の風流武人、蒲生《がもう》氏郷《うじさと》は、実にこの子だった。この鶴千代だったのである。
庶民は水、政治は器《うつわ》といえよう。それに示す政道さえ公明ならば、水は器の中の平和に住むことを好む。
近江へ突入して、観音寺や箕作《みつくり》へ攻めかかったのが十二日。――そして二十五日にはもう信長の軍は、戦後の始末から領政《りようせい》の布告まですべてをすまして、
――一路中原へ!
と、琵琶湖の東岸から兵船をそろえて、大津へ出立していた。
たくさんな兵船の準備から、糧草や兵馬の積込みも、すべてが庶民の協力だった。
信長の武威にも勿論|慴伏《しようふく》したが、より以上、江州の民衆が、一致して彼を支援したのは、
「この人なら」
と、何となく恃《たの》みがいある政治ぶりを見たからであった。
一時、戦火に狼狽して、
「どうなるか」
と、恐れうろたえた民心をつかんで、信長は、迅速《じんそく》に、
「安堵《あんど》せよ」
と、いう公約を与えたのみであった。
こういう場合なので、細かい政綱《せいこう》などは立てている遑《いとま》もない。また、後からすぐ改変するような細目にわたる政策などは無用でもあった。信長の秘訣は、
――迅速に。明らかに。そして庶民に安心を与える。
以外にはなかった。
安心は、信頼であった。乱国の民衆が、心から欲しているのは、決して、水も洩らさぬ政治を施す手腕家でもない。聖賢の道をそのまま政道に布《し》く賢人でもない。そういう人では間にあわないのである。
乱世だ、乱調子の世だ、これを撓《た》め統《す》べるには、多少自分たちに辛《つら》くてもよい、厳格|峻烈《しゆんれつ》に臨まれてもいい。――その代りに、
この人なら!
と、信じられる人に拠《よ》って安心を求めたいのである。応仁以来ものの十年と落着いたことのない安心をこの土に渇《かわ》き望んでいるのだった。
智者は口ぐせによくいう。
(――こんな乱調子な時勢に施す政治などというものは実に難しい。誰が出てやっても今ほど政道の難しい時はあるまい)――と。
けれどまた、その反対に、どこかでこういう識者もある。
(いや、それはあべこべ[#「あべこべ」に傍点]だ。――今ほど政治のやりよい時はあるまい。なぜならば、世が平和に倦《う》んでいる時ほど、庶民は勝手な熱や小理窟をならべたり、些細《ささい》なことをも誹謗《ひぼう》したがるものだが、近頃はそうでない。民心は艱難《かんなん》を覚悟し、乱脈から統一に返るのを望みぬいている。何人《なんぴと》でも、真実と英邁《えいまい》と明らかな指導をもって、われに従えと呼号すれば、それが国家の大道と知る以上、こぞって、その指のさす所へ従《つ》いて行きたがっている。多少の異議|誹謗《ひぼう》はあっても、大義大道のためと、虫をころして服従一致を望んでいるものを――何で今の時代を難しい時勢というのか。出る人物が出さえすれば、晨《あした》に旭日《きよくじつ》を仰ぐようなものではないか)――と。
これも、一理はありそうに聞える。何しても、信長の行き方は、そうした民情にぴったりしていた。時勢に対して活眼を持ち、意識してそうやっているのか、それとも、彼自身の生れながらの才分や性格のままやっていることが、時勢に適合しているのか、とにかく万民の一端に、
――待望の人がでた!
という感じを、彼は、江州の新領土に植えつけて、湖を船で渡って行った。
湖上の風は秋を覚えさせた。無数の兵船のゆく後に、水は美しく長い波紋を描《か》いていた。
将軍家|義昭《よしあき》の船も、二十五日、守山から湖水を渡って、三井寺《みいでら》の下に着いた。
先着した信長は、
「ここにおいて一戦はまぬがれまい」
と、三好、松永の襲来を予期していたが、彼が陣頭に立つほどな抵抗もなかった。
で、義昭を、三井寺の極楽院《ごくらくいん》に迎えて、
「もはや上洛いたしたも同様でござる」
と、慰めた。
二十八日。
「今日ぞ」
とばかり信長は、いよいよ上洛の軍をすすめ、逢坂山《おうさかやま》をこえた。
粟田口《あわたぐち》まで来ると、ふいに隊伍が止まった。信長のそばに在った藤吉郎が、前へ駈け出してゆくのと、先発の隊伍から明智光秀が足を早めて戻って来たのと同時であった。
「何事か」
「勅使です」
「え。勅使」
信長に伝えると、信長も驚いて、あわてて駒から降りた。
万里小路中納言惟房《までのこうじちゆうなごんこれふさ》と立入左京頼隆《たちいりさきようよりたか》の二使は、やがてそれへ来て、叡慮《えいりよ》を伝えた。信長は拝伏して、
「野人信長、弓矢をとるの他《ほか》、能もございません。ただ父信秀の代より、久しく禁門の騒塵《そうじん》を憂い、御宸襟《ごしんきん》の安からぬ代《よ》を嘆じておりましたが、今日、僻地《へきち》より上洛して、衛門の任にあたること、武門の誉れ、一族の欣《よろこ》び、これに如《し》くものはありません」
と、謹んで奉答した。
三万の兵も、信長とひとつに、粛として、叡慮《えいりよ》にこたえまつらんと無言のうちに誓った。――醍醐《だいご》、山科《やましな》、宇治方面から伏見にいたるまで、半日のうちに、尾濃《びのう》の兵馬を見ない所はなくなった。
信長は、東福寺に陣し、義昭は東山の清水寺《きよみずでら》へはいった。
即日。
市中には布告が立った。
警備、巡察の手配は、最も迅《はや》かった。昼の番、菅谷九《すがやきゆう》右衛門《えもん》。夜の番、木下藤吉郎。ふたりが市中巡視の任に当った。
織田軍の一名の兵が、居酒屋で酒をのんだ。戦捷《せんしよう》の兵は驕《おご》りやすいものである。鱈腹《たらふく》食べ酔って、
「これでいいだろう」
と、半分にも足らない小銭を抛《ほう》って出て行った。
亭主が、追いかけて、
「困ります」
と、縋《すが》るのを、その兵が、ぽかッと撲《なぐ》りつけて、肩で風を切って行った。巡視中の藤吉郎が、ふと見つけたので、
「召し捕れ」
と、部下へ命じた。
本陣の東福寺へ突き出すと、信長は、よくしたといって、兵の具足を奪《と》りあげ、東福寺門前の大木に縛りつけた。
そして、その罪状を明記し、七日間|曝《さら》した上で首を刎《は》ねろと命じた。
東福寺の門前は、日々、夥《おびただ》しい往来だった。多くは京都の豪商や公卿《くげ》たちであった。また、社寺の使い、用度の品を搬《はこ》びこむ商人、何しても雑沓《ざつとう》だった。
「何じゃろ?」
皆、一度はそこに足を止めた。そして高札と、大木の根に縛《いまし》められている人間とを見くらべた。
「お味方の兵でも、犯せば仮借《かしやく》をなさらない。稀有《けう》なことじゃ」
洛中《らくちゆう》の庶民は、信長の公平と、法令の峻厳《しゆんげん》に感じ合った。かねて諸処の公札に、
――一銭を掠奪しても馘《くびき》る
と書いてある法文が、信長の軍自体から先に励行されているのを見た。一般の布告に掲げられた厳重な法律にも、誰ひとり不平はつぶやかなかった。
「一銭切。――一銭切じゃ」
そんな言葉が、当時、庶民のなかに流行《はや》った。
岐阜を発したのが九月七日――それからわずか二十一日目には、もうこうして、信長の姿は、中原にあったのであった。
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七番楽《しちばんがく》
「すこし客に飽いたな」
信長は、藤吉郎を顧みて、欠伸《あくび》を見せた。
東福寺の庭は佳《い》い。泉石の奥は紅葉でまっ赤だった。
藤吉郎をつれて一巡《ひとめぐ》り逍遥《しようよう》して来て、座に返るとすぐ、
「誰様のお越しですが」
とか、
「某《なにがし》が御機嫌うかがいにとて参りましたが」
と、客の刺《し》を通じる取次の者が待ち構えていていう。
「ゆるせ。今日のみは、信長もちと疲労というて、取り次ぐな」
門前市をなすとは、ここ数日間の東福寺本陣の景観だった。
酒を担《にな》わせ、財を車にのせ、名器名物を捧げて、上は月卿雲客《げつけいうんかく》の貴紳《きしん》から、富豪や名のある町人たちまで、いったい何のために、御機嫌伺いの参賀のと、こんなに押しかけてくるのだろうか?
信長は苦笑を禁じ得ない。
――と、ともに、思い起されるのは、七年前、東国の田舎《いなか》武士に扮《ふん》して、ひそかに京の形勢を窺《うかが》いに来た頃のことである。――あの頃は、信長の首なら狙っても奪《と》ろうという人間はあっても、先から財宝などを贈ってくる者は天下になかった。
それと、おかしいのは、彼は依然として変らない彼であるのに、東福寺へ参候して帰る人間といえば、争って、信長を賞《ほ》めることを、あだかも自分の誇りみたいにしていることだった。
「――会って来たが、なるほど、聞きしに勝る人品《じんぴん》だ。大した器量人だ」
「わしもきのうお目にかかってきたが、実に偉《えら》ぶらないお方で、旧知のごとくもてなして下すった」
「四海の騒乱《そうらん》も、あの方が出たからには、これで治まるだろう」
ひと月前までは、|※[#「口+愛」、unicode566f]《おくび》にも出なかったことばを、俄然、信念化して、賞《ほ》め称《たた》える言葉をさがし合った。
信長は、一日ましに昂《たか》まってゆく自分への声望に、むしろ驚いたほどである。
そして、民心というものを、種々《さまざま》な形で、眼に見ているここちがした。
たとえば。
彼は、宿年の志でもあったし、父信秀の教育も、身にしみているので、洛内に入ると、何よりも先に、朝廷の門に伺候して、微衷《びちゆう》の伝奏を仰ぎ、同時に、黄金百枚、絹二百匹、綿三百|把《ぱ》、米千五百俵の献上を願い出て戻って来たところ、忽ち、
「信長は、勤王の志が篤《あつ》い」
「彼こそは勤王の武将である」
などと、それに対する過大なうわさが聞え渡ったので、ただ当然なことを、しかも早速にして戻ったに過ぎない信長は、何か非常に世評に対して面目ない気がした。
――と、思うと一方には。
なお、熾烈《しれつ》な敵もあった。
大魚が池中にはいったので古い池水は氾濫《はんらん》した。摂河泉《せつかせん》の村々や、山地へかくれた三好松永の残党や、その与党たちだった。
極く近い地では、山城《やましろ》の乙訓郡《おとくにごおり》青龍寺の城に、岩成《いわなり》主税介《ちからのすけ》。
高槻城《たかつきじよう》には入江左近。
武庫郡《むこごおり》の小清水には篠原右京《しのはらうきよう》。
富田の普門寺城《ふもんじじよう》には細川《ほそかわ》掃部介《かもんのすけ》。
そのほか、池田の池田城に池田筑後守とか、尼ケ崎の荒木村重《あらきむらしげ》とか、河内の三好《みよし》下野《しもつけ》、同|笑岩入道《しようがんにゆうどう》とか、遠くは大和の信貴山《しぎさん》の多門城に、なお蟠踞《ばんきよ》している松永弾正久秀などまで、敵地を見やれば、彼が踏破《とうは》した土地や洛中洛外の面積よりは、遥かに広い地域にわたっていた。
もちろんそれらの敵は、隙《すき》さえあれば、一挙、京師をついて、軍旅の織田方を殲滅《せんめつ》せんと、日々夜々、虚《きよ》を窺《うかが》っているものだった。
「尼ケ崎の荒木村重という敵方の将が、平服にて、しかもただ一名、木下殿に会いたいとて訪ねて参られましたが、なにかご存じのあることにございましょうか」
折ふし、こんどは、藤吉郎への取次であった。
取次へは返辞もせずに、藤吉郎は信長のほうへ手をつかえた。
「ちょっと、お眼通りをいただけましょうか」
「誰に」
「私を訪ねて来た荒木村重に――でござります」
「敵の将と、そちはいつ内通していたか」
信長は微笑する。
「つい近頃です。陣中の暇《いとま》を見て、私から説き伏せに参り、いちどわが御主君に会えとすすめておいたのでござる」
「まめ[#「まめ」に傍点]だのう」
「陣頭へ駒をのり出すばかりが戦いではありませぬから」
「しかし――きょうは誰にも訪客には会わぬと申し出してある。きょうはそちだけ会って、泊るものなら寺内へ泊めておけ。明日会おう」
「いや、それなら帰します。彼はいやしくも一城の主《あるじ》、若年ながら摂津《せつつ》の尼ケ崎に拠《よ》って、よく士気を治め、畿内《きない》の老雄に呼びかけ、胆斗《たんと》の如き男です。お味方にとって最も怖るべき敵のひとりでしょう。不肖《ふしよう》の眼では、あの男を敵方にまわしておいては、将来の大計にも不利と考えたので、礼を執って、今日の来訪を約しておいたのです。――御当家の開運を見て、にわかに、酒や財物を贈って、門前にうようよと市《いち》をなして来る客とは物がちがいまする」
「そちはひどく敵方の将を賞《ほ》めそやすの」
「敵でも、よい人物には、人間として、尊敬をはらいまする。荒木|村重《むらしげ》は、賞めてよい男と信じますので」
「通せ」
「ありがとう存じまする。――これへ通せ」
と、そのままを、取次へいう。
村重はやがて、侍たちに囲まれてはいって来た。その物々しさを、藤吉郎は、客に対して気の毒に思ったか、
「お退《さが》りあってよろしい」
と、主君の身辺は、自分がひきうけて保証するかのような信念でいった。
静かに、みな退《さが》った。しかし、隣室や信長のわきの武者隠しには、勿論、息をこらして万一に備えている武士がいることはいうまでもない。恐ろしいのはむしろ、単身平服で坐っている荒木村重でなければならなかった。
けれど村重は、平然と胸を反《そ》らしていた。年はわずか二十二歳だというが、体躯は小さく、容貌は魁偉《かいい》だ。幼少の頃、疱瘡《ほうそう》でも煩《わずら》ったか、瞼《まぶた》の片方が抓《つま》んだような、いわゆる「眼ッぱ」になっていて、しかも色は黒いし、痩《や》せ骨の尖《とが》っている体つきで、見るからに人好きのしない風采であった。
藤吉郎が余り賞めたせいもあろうが、信長は、
――こんな男か。
と、興もなげであった。一応の挨拶はしたが、無口で無愛想な顔をいつまでも疣蛙《いぼがえる》みたいにそこに据えているのが、信長は何か小癪《こしやく》にさわってきた。――小癪にさわるというような、誰とでも対等になって働く青年じみた感情は、まだまだ多分にある信長なのである。
「村重。餅は嫌いか」
いきなり云い出したので、不敵者の村重もその眼ッぱ[#「ッぱ」に傍点]の眼を、びくと上げて、
「は。餅はよく喰《く》らいまする」
と、答えた。
「近うよれ。餅を進上いたそう」
脇差を抜いて、信長は、その切っ先に、自分の前にあった菓子の一片をつきさした。――そして村重の方へ突き出した。
「頂戴いたします」
村重は静かにすすんで、顔へ刀の届く処で手をつかえた。おそらくは両手を出すかとみていると、
「どうぞこれへ」
と、大きく口を開きながら信長の顔を見た。歯までが、乱杭歯《らんぐいば》で、黄いろくて、汚い口であるが、その顔は神色自若《しんしよくじじやく》として、わずかの愛嬌さえたたえていた。
餅の切れが、村重の口へはいると、信長は脇差を納めて、
「あは、は、は」
と、高く笑った。
村重は口をうごかしながら、餅をよく噛んでいたが、ようやく、嚥《の》みくだしてから、
「…………」
にやり[#「にやり」に傍点]と声なく笑った。
信長はすぐ好きになった。小さな憎悪はいつもこう急転するのが彼の常だった。
「藤吉郎。これは、そちの賞《ほ》めた通り、おもしろい男よ。奥でもてなして遣《つか》わせ。信長も後で臨もう」
と、いった。
藤吉郎は、彼を奥へ連れた。信長のいない所で、どうだと訊ねた。村重は、
「べつに……」
と、変哲《へんてつ》もない顔したが、すぐつけ加えて、
「其許《そこもと》のすすめにまかせ、仕えてもよい」
と、答えた。
荒木村重の離脱に、摂河泉《せつかせん》の三好、松永党の陣形は、動揺を蔽《おお》えなかった。
青龍寺の岩成一族も、城を開いて、投降した。
伊丹《いたみ》、池田、芥川《あくたがわ》、小清水、高槻《たかつき》などの諸城も、次々に織田の掃討軍《そうとうぐん》の威力に整理されていった。
三好の残党は、病人の足利|義栄《よしひで》をかかえて、海路を阿波《あわ》へ逃げ落ち、松永|弾正《だんじよう》久秀も、とうとう屈して、信長の陣門に、降を乞うた。
例によって、信長の政治的な方面も、戦闘と併行していた。いや、彼の戦時政治は、常に戦争の先を越していた。
討伐した土地の所領は、すべて将軍|義昭《よしあき》に返した。すこしも私しなかった。特に――落魄《おちぶ》れた義昭に従《つ》いて、多年、節義を曲げなかった旧臣たちへは――その配分を重くしてやるように計らった。
が、軍旅の費《つい》えにと、義昭もたっていうので、大津、草津、泉州境のすこしばかりな飛地を、信長はうけた。
義昭は、あらためて将軍職についた。宣下《せんげ》は十月半ばにあった。征夷大将軍《せいいたいしようぐん》をかねて、参議に任じられ、左馬頭《さまのかみ》に叙された。
「信長にも、何とぞ恩爵《おんしやく》を降《くだ》したまわりとうござります」
義昭は、参内の上、奏上した。
やがて信長にも、従《じゆ》四|位下《いのげ》右兵衛督《うひようえのかみ》へ、任命の沙汰があった。
が、信長は、
「身に余る恩命」
と、固辞して受けない。義昭は信長の気が知れなかった。不足かと、恐れたり邪推したりしたが、そんな気ぶりもないのである。
「余が困る」
あまり義昭が泣き言《ごと》いうので、信長は、前《さき》の恩命よりずっと低い従《じゆ》五|位下《いのげ》弾正忠《だんじようのちゆう》という微官をうけた。
将軍宣下の大宴がやがて催されることになった。同月二十四日ときまる。
古例では、その日、十二番の散楽《さんがく》を演じることになっている。足利歴代の盛儀で、およそ文武の百官は招待に洩れることはない。華麗善美な祝典だった。
「散楽は、七番に止めておかれては如何でござる」
信長が義昭に忠告した。
義昭は、古例を知らぬ武人の言と聞いたか、
「十二番でなければならぬ。十二番のものである」
と、主張した。
「古例はそうであろうと、新例をお立てなさい。平和はまだ洛中洛外だけのこと、各地の逆徒は、一時、影を潜《ひそ》めておるが、掃滅《そうめつ》され尽したのではありません。――真の泰平ぞという日が来たら、万民と共に、七日七夜、百番の舞を演じぬくもよいでしょう」
義昭は、黙って、彼の言に服した。大宴が無事に終ると、彼はまた信長にすすめた。
「副将軍か、管領《かんりよう》か、二職のうちいずれかに就任してくれまいか」
「切に、お免《ゆる》しのほどを」
京都警護の兵だけを残して、その月の二十八日には、信長はもう帰国の途についていた。――まるで日帰りの狩猟《かり》から帰る人のような身軽さに、都の人々は呆《あき》れていた。
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建設の音
――突然、京都の町なかで、喊声《かんせい》が起った。
春も明けたばかりの正月四日の真昼だった。何の心構えもない市民の耳に、
「戦争だッ」
と、いう声のみが聞えた。どこでどんなふうに戦争が始まっているのか、狼狽する市民の影ばかりで、武者らしい者も見えないのに、
「たいへんだッ」
「逃げろ。片づけろ」
町の軒並は、家鳴《やな》りをさせて、度を失っていた。
京都の市民ほど戦禍をなめているものはない。国家の治乱興亡の灰燼《かいじん》は、そのまま京都の土であった。国乱のあるたび、京都は兵燹《へいせん》に見舞われた。
こんども。信長の大軍が洛中へはいったせつなは、市民はもう悲痛な観念をしたものだった。木曾の山軍|源義仲《みなもとのよしなか》が、都入りをした折の――破壊的な暴威だの、掠奪《りやくだつ》だの、婦女子の難などを思い出して、戦慄《せんりつ》していたものだった。
ところが、信長は義仲ではなかったのである。市民は甦《よみが》えった。――そしてこの年暮《くれ》を平和のうちに送ったのも、信長の徳とし、この正月、婦人が夜道を歩かれるのも、織田軍のお蔭と随喜していた。
年暮《くれ》の半ばから末に。
泉州から河内《かわち》の奥あたりで、三好の残党がまた騒いでいると噂はあったが、
(洛中には、市民を護ってくれる織田軍がいる)
と、かたく信頼して、何の不安も抱かなかった。
――が、実際は、そう多くの兵は残されていなかったのである。洛中洛外の警備に、わずか二千の兵がいたきりだった。
敵の残党は、偽装して、市中にもたくさん潜伏していた。信長の本軍が、岐阜《ぎふ》へ帰ると、
「――手薄」
「今だ」
と、密報は、諸処の残党の仲間へ、逸《いち》はやく聞えていた。
信長を窺《うかが》う敵は、三好松永の党ばかりではない。美濃を逐《お》われた斎藤|龍興《たつおき》とその一族もある。つい先頃亡ぼされた佐々木一族やその他もある。
河内から泉州辺に、斎藤龍興が姿を見せ始めた。重臣の長井|隼人《はやと》が側についている。これが三好松永の敗残軍と結んで、
「虚を衝け」
と、なった。
それが年暮《くれ》の乱だったが、市中警固の一方に当っていた藤吉郎は、固く戒《いまし》めて、市民にも知らせなかった。しかし、戦況は刻々と味方に不利で、敵は一万余人にもなり、年をこえて洛外へ近づいて来た。
その防ぎに当っているまに、市中に潜《もぐ》っていた残党と、潜行して来た敵の一部隊が、突然四日の昼――本国寺の濠《ほり》をぐるりと取りまいて、
「わあッ」
と、武者声あわせて、そこの土塀へかかり出したのであった。
本国寺には将軍の義昭《よしあき》がいたからである。
まだ入洛《じゆらく》早々なので、幕府の政庁も将軍の第宅《ていたく》も普請《ふしん》にかかっている間がない。――その館《やかた》のできるまでを、新将軍は、本国寺を仮の住居としていたのである。
前将軍|義輝《よしてる》は、松永|弾正《だんじよう》のために、不意討ちをうけて、その居館の焔の下で斬死《きりじ》にした。――またもその酸鼻《さんび》な殺戮《さつりく》が、真昼中、太陽の下に演じられるかと、本国寺のなかは既に名状もできない混乱に陥《お》ちた。
急を聞いて、
「――すわ」
と、駈けつけて来た藤吉郎の一隊と、奇襲の敵軍とのあいだに、忽ち市街戦が始まった。それは本国寺と七条道場との通路の辻であった。市街戦は午頃《ひるごろ》から夕方に迫っても、なお続いていた。
附近の民家の戸や壁まで血に染まった。血のついた家が焼かれていった。
しかも勝敗はまだつかない。
警備軍の織田兵は、初めから少数だったが、藤吉郎の指揮によって、辛《から》くも持ちこたえていたのである。それだけにまた、味方の苦戦はいうまでもない。
すると、薄暮の頃。勝ち誇って殖《ふ》えるばかりだった残党軍が、一角から崩れだした。――と思うと、それが木ッ葉|微塵《みじん》となって、粉砕され始めたのも実に早かった。
「退《ひ》けッ」
「ひき揚げだッ」
悲壮な敗将の声をつつんで、一瞬に逃げくずれて行った後の大地を見ると、刀の折れ、柄ばかりの長刀《なぎなた》、錣《しころ》のちぎれ、草鞋《わらじ》、燃え残りの旗竿《はたざお》、鼻紙、ふんどしなどまで、散らばっていた。
「木下殿はおいでか。――木下殿はッ? ――」
夕闇の中で呼ばわる者がある。それは突然、本国寺横の小路や附近の横あいから加勢に出た三、四百人の兵の中からであった。
「おうッ」
藤吉郎は、汗の光る顔を振り向けて答えた。
敵が逃げるとすぐ彼は、
「民家の火を消せ。――敵は追わんでもよい、火の手を、町へひろげるな」
と、さしずに狂奔《きようほん》していたので、その顔からも、湯気が立っていた。
「どなたの隊でござる。――ご助勢に駈けつけて下されたのは」
近づいて行くと、
「先頃は」
と、黒縅《くろおどし》の鎧《よろい》に身をかためた一将が、にやにや笑いながら士卒の中から出て来た。
荒木|村重《むらしげ》であった。
「や。其許《そこもと》か」
「変を聞いて、尼ケ崎から駈けつけて参った。消火にも手伝いたいし、将軍家のお見舞いもしたいところだが、逃げ足ついた敵を追いこめば、まだいくらでも首が獲《と》れる。おさしずを仰ぎたい」
「かたじけない。頼む」
「では」
村重は、もう整然と、隊伍を作って部下へ、
「追えるだけ追いつめろッ」
と、陣刀を一揮《いつき》した。
村重は、その先へ立って、淀川から伏見方面まで敵を駈けちらした。河へ墜《お》つる者、首を授ける者、残党軍は、途々《みちみち》千人に近い味方の屍《かばね》を捨てて行った。
正月の六日。大雪の日であった。
岐阜《ぎふ》へ早打ちが着いた。本国寺の変や、畿内《きない》にうごく残党軍の状態が報じられたのである。
「由々しい大事」
と、信長はいった。
将軍の身も案じられたが、より以上、折角、自分のすえた一|礎石《そせき》が、中原《ちゆうげん》から空《むな》しくなることを惧《おそ》れた。
「猶予はならぬ。時移すな」
すぐ軍馬の令。常の如く、その日も、城門を駈け出したのは、信長が真っ先だった。
つづいて十騎ほど。またしばらくして二十騎、三十騎と後を追った。
雪は行くほど深い。思うままに続けない者が多かった。信長は、駒を止め、
「馬借りの者ども、いちど馬を降りよ」
と、いって、めいめいの鞍側《くらわき》についている兵糧やら軍用の荷物の重量を、自身で検《あらた》めてまわり、重すぎるのは軽い方へ負担を分けさせ、公平に直して、
「急げッ」
と、また鞭打った。
そんな大雪というのに、翌日はもう瀬田の大橋を渡りこえ、三日の道程《みちのり》を、二日で都へついてしまった。
「織田殿が六条へお入りあった」
と、聞え渡るだけでも、洛中《らくちゆう》は明るくなった。殿上人も庶民も安心した。
彼の鉄軍は、洛外から畿内《きない》へわたって、ふたたび時《とき》の氏神《うじがみ》の威力を示した。
――が、信長は、
「自分が来たのは、そんな草賊どもを相手にしようためではない」
と、いわんばかりに、もうべつな仕事に取りかかっていた。
二条城の焼け跡に、大工事が始まった。濠《ほり》を深くし、石を起し、東北一町も取りひろげて、将軍|義昭《よしあき》のために、居館を新築してやろうというのである。
それも実に迅《はや》いのである。美濃、尾張、江州を初めとし、五畿内その他を併《あわ》せて、十四ヵ国の人力と用材を徴発しての、大建築ではあったが、四月六日というと、もう落成式を挙げて、
「ここへお坐りなさい」
と、将軍家を移していた。
その時、義昭は彼の手を押しいただいて、
「あなたは、自分にとって、父にも勝《まさ》る御方である」
と、いった。
心の底から出た声であろう。竣工《しゆんこう》移館の盛宴の席で、彼はみずから銚子を捧げて、
「御身のためにも祝おう」
と信長に酌《しやく》をした。
彼にそのように歓ばれて、信長も愉快であったと見えて、
「与一郎。猩々《しようじよう》を舞え」
と、従《つ》れている小姓へいった。
細川与一郎、ことし七歳、細川|藤孝《ふじたか》が子である。
「はいッ」
立って、猩々を舞うと、信長は小鼓《こつづみ》を取って、自身、拍子《ひようし》を打った。
「やんや、やんや」
戦国の豪傑たちは、他愛なく喝采《かつさい》した。与一の姿も愛らしや。信長が鼓構《つづみがま》えの所作《しよさ》も善《よ》い哉《かな》。――満堂思わず手をたたく。
この与一郎こそは、後の細川三斎、越中守|忠興《ただおき》であった。
それから二日。――わずか二日の後には、信長は、さらに、もっと厳粛な奉仕にかかっていた。
禁裡《きんり》の修築である。
四月八日に、その鍬《くわ》初めの式は挙げられたが、着京以来、彼は、夜の小閑に、杯も持たなかった。
宮殿の絵図面など、みな自分でひいた。そして普請《ふしん》奉行の島田弥右衛門、朝山日乗《あさやまにちじよう》、村井貞勝などを幾たびも呼びよせて、相談もしていた。
物にかまわない彼であるが、皇居の御工事は、すべて古式に拠《よ》った。大工にはみな烏帽子《えぼし》を戴かせ、素襖《すおう》を着せ、用材は清浄を守らせ、かりそめにも不敬不浄をゆるさなかった。
予算一万貫、工人二万、京都の富豪たちにも、賦課《ふか》を申しつけた。――そして彼は虎の毛皮の行縢《むかばき》を穿《うが》ち、時には、手に白刃《はくじん》をさげて、外門の工を見廻った。
彼の名望が余り高いので、或る時、一市人が、女の被衣《かずき》をかぶって、彼の側近く寄り、
(どんなお顔の人か)
と、さし覗《のぞ》いて行った。
信長は、知らないようであったが、黙って後ろから歩み寄ると、被衣のうえからその首を刎ね落してしまった。優しい人かと思えば恐い。物にかまわない野人かと思えばひどく厳粛でもある。彼の命令は肯《き》き過ぎられるくらい肯《き》いた。清洒《せいしや》なる彼の歩みが向いて来ると、誰もみなピリッとした。
洛中の市政も同様に行われた。また、彼の勢力範囲の街道の関所は、みな取り除いて、通行を自由にさせた。さらにまた、従来武家が掠《かす》め占《と》っていた禁裡の御料地へ回収令《かいしゆうれい》を発して、朝廷にお返しした。
やがて近いうちには、信長も岐阜《ぎふ》へ帰国するであろうという噂を聞いて、将軍家は、あわてて信長へ希望した。
「誰か一名、武略あって、平時の護りにも足る器量人を、京都守備の将として、留《とど》めておかれたい」
後の治安の心配である。
信長にも、その点は、彼以上に考えている。勲功を競いやすい幕下の諸将は、早くも洩れ聞いて、
「誰がお眼鑑《めがね》にのぼるか」
と、人選の下馬評がもう区々《まちまち》であった。
これは重任である。第一に禁門の衛軍であらねばならぬ。将軍家の守備も務め、市民の平和も確保し、また、一面には信長の陣代として、公卿《くげ》と公方《くぼう》との間や、微妙な政治的のうごきも観《み》ていて、これを信長のほうへ、座《い》ながらにでも、分るように諜報する機関ともならなければならない。
「まず丹羽《にわ》殿あたりかな」
「いや柴田殿だろう」
「おれは五郎左衛門殿に白羽の矢が立つと思う」
丹羽五郎左衛門長秀が第一に人気があった。次いでは柴田勝家だった。
ところが、誰の予想も中《あた》らなかった。――みな、唖然としたものだった。木下藤吉郎秀吉に命ぜられる! と、聞えたからである。
「あんな、俗姓《ぞくせい》さえ覚つかない百姓出を」
「京都守備の重任にとは」
「あれが、御主君のお眼鑑による織田軍中の人物とは」
それぞれ多分な嫉視《しつし》反感をふくんだ声であった。
「譜代《ふだい》の重臣も多いに」
と、その重臣仲間にも、羨望《せんぼう》反感がおおえなかった。いかに人材の御登用とはいえ、旧功の臣は、立場がないと、面《おもて》に色をあらわしていう者もある。中でひとり、
「もっともだが、主君の御観察に、これまでとて、一度でも誤った例《ため》しはない。小智の論は慎むべきだ」
佐久間|信盛《のぶもり》だけは、穏やかにそう宥《なだ》めていたという。
何事にも今は革新の意志に燃えて怯《ひる》まない信長なので、ズバと、思いどおりやってしまったが、旧臣たちの不平や異議には、事実、一時は当惑もした程だった。しかしそれをすぐ歪《ゆが》めたり退《ひ》いたりする彼ではない。
「藤吉郎、就任の御挨拶ないたして参れ」
と、即日いいつけた。
藤吉郎は、さっそく義昭《よしあき》の館《やかた》へ出向いて、将軍家に謁《えつ》を乞う――と、執事《しつじ》の上野|中務大輔《なかつかさのたゆう》まで申し出た。
「御任命のよしは承《うけたまわ》ったが、将軍家に謁するには、先例格式があって、おてがるには参らぬ。追って、出頭日の通知状が届いたら、改めて、礼服着用のうえお越しなさい」
と、執事のことばに、
「異なことを仰せられる」
藤吉郎は、日常の武装のままだったが、態度を正していった。
「輦轂《れんこく》の下《もと》、一日とて、守備なくてはかないませぬ。しかも、戦乱の余燼《よじん》が熄《や》んだかに見えるのは、洛中だけのこと。不肖、信長の陣代として、変に備うる者どもは、まだ夢寐《むび》の間も、この具足わらじすら脱いでは寝てもおられぬのでござる。――それがしが長袖|長袴《ながばかま》など着て、のそのそしている間に、一朝、先頃の如き事変でも勃発したらいかがなさる。旧例故実は、しばらくの間、旧人のあなた方の中でお守りあればよい」
執事は、彼の権まくに驚いて、義昭へ取り次いだ。
将軍家は、破天荒《はてんこう》な例外として、藤吉郎に謁《えつ》をゆるした。藤吉郎は、彼の盃を受けて、しかも粗暴にはならず、また信長の臣として、卑屈にもならず、室町家の臣たちが見まもっている中を、あっさりと帰って来た。
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堺町人《さかいちようにん》
この一月頃から、冬の海をのり越えて、続々、堺《さかい》の浦へ上陸した兵は、いつのまにか、大漁《たいりよう》の魚のように、堺港《さかいみなと》の町々にあふれ、その影を見ない所はないほどな数にのぼっていた。
これは阿波《あわ》三好党とよぶ四国の兵で、去年、京都から駆逐された十河《そごう》一族が中心である。都落ちの時、病人の足利|義栄《よしひで》をつれて阿波へ逃げた十河存保《そごうまさやす》が、総指揮に当っている。
南之荘《みなみのしよう》の南宗寺《なんそうじ》を本営とし、市中の役所を軍政所として、阿波三好党は、辻々に公札をたて、自分たちの意志を表明していた。
その要旨は、
[#ここから2字下げ]
――信長|入洛《じゆらく》の事、聞き及ぶが如く也。偽《ぎ》将軍を擁立《ようりつ》し、四民を欺瞞《ぎまん》せんとするも、政事《まつりごと》を私《わたくし》し、その暴虐《ぼうぎやく》ぶりは、日を趁《お》うて蔽《おお》い難《がた》いものがある。
輦轂《れんこく》の下《もと》、一日もはやく、賊を潰滅して、上《かみ》を安んじ奉り、四民の安堵《あんど》をはかるのは、われらの任と信ずるものである。
また、堺港《さかいみなと》は、本邦と海外とを結ぶ唯一の交易地でもあり、唐船《からふね》蛮船《ばんせん》の入津《にゆうしん》も絶えない折から、長く乱脈な状態の下に業を停止されてあるのは、国家の損耗《そんもう》でもある。
とりわけ当所は、以前から松永|弾正《だんじよう》殿の奉行する采地《さいち》。町民も協力して侵略者に当り、たとえ尺地寸財たりとも、賊に利すような行為をしてはならない。
違背《いはい》する者は断罪に処す。
[#ここで字下げ終わり]
一時は、今にもここへ、信長の大軍が殺到するような流言が飛んだので、港町は、混乱をきわめ、
「すわ」
と、南北|堺《さかい》の町民は、女子供や老人などは、みな根来《ねごろ》、粉河《こかわ》、槇尾《まきお》などの由縁《ゆかり》のある田舎へ、逃がしてしまった。
それとまた――
ここは遠い大内氏の時代から、南蛮《なんばん》、中国、琉球《りゆうきゆう》などとの交易の要港で、経済的には、旧《ふる》くから日本のどこの都会よりも発達していたので、富豪が軒をならべていた。京都や諸国の城下では見られない異色のある文化も、ここにだけ爛漫《らんまん》と濃く新しさを誇っていた。
経済地の恐慌《きようこう》は、不景気よりも何よりも戦争の跫音《あしおと》だった。――足弱の避難につづいて、堺の財貨は、日々、堺の外へ搬出《はんしゆつ》されて行った。
けれどそれは、阿波三好党の反信長軍から、多額な「矢銭《やせん》」を徴発《ちようはつ》された後だったから、黄金としては、ほとんど少なかった。――多くは貿易の商品と家財と――それと天下の名品はここに集まっているといわれる程な――堺町人たちの秘蔵している茶器|骨董《こつとう》などであった。
その一騒動がすむと、町は急にがらん[#「がらん」に傍点]と物音も変って来た。若い女の姿がぱったりと見られなくなった。そして、北之荘《きたのしよう》の端《はず》れだの、遠く市中を離れた丘と丘とをつなぐ所などに、毎日、塹壕《ざんごう》が掘られ始めた。
道路という道路には、柵《さく》を組んだり、櫓《やぐら》を築いたり、物々しい戦備にほじくり返された。常に海外の風にふかれている土地がら[#「がら」に傍点]というか、総じて、物事には敏感で、社交に長《た》け、日常生活にも垢抜《あかぬ》けしていて――いわゆる文化人肌をもって誇っていた堺町人も、にわかに、この大変に遭遇して、日頃の顔いろもなく、
「どうなることか」
と、喪心《そうしん》したり、いたずらに猛《たけ》ってうろうろしているのが、大部分の者の状態だった。
――とはいえ、由来、堺の町人には、大きな誇りと、権威のあったものである。
武力の世に対する黄金の力だった。土地の経済的優位であった。
室町幕府も、衰微につれて、幾たびとなく、堺から金子《きんす》を借りなければならなかった。その都度、それと交換条件に、租税や民政などに、特殊な例外を許したのが、いつとなく堺港をして自治体の特権地域にしてしまったのである。
商港の海浜には、納屋棟《なやむね》がたくさん建ち並んでいた。この納屋持ちの豪商たちを納屋貸衆といって、堺では指折りの家とされている。その内から、十人衆という者を挙げて、この十人衆が、公事《くじ》訴訟から、許された範囲の町の自治は何事も扱っていた。
千宗易《せんのそうえき》(後の千利休《せんのりきゆう》)も、その一軒であった。
彼はもう五十に近い、男の分別ざかりという年配であった。だから十人衆の会所のうちでも能登屋《のとや》とか臙脂屋《えんじや》とかいう古老は別格としても、何かむずかしい問題となると、
「宗易《そうえき》どのに分別を」
と、彼の頭をかりなければならない程だった。
小さいといえば小さい町の自治だが、宗易の頭脳は、誰よりも明断に富んでいた。
「まったく頭脳《あたま》がよい」
と、彼への尊敬が一致している点で、従来、異論|区々《まちまち》にもつれやすかった十人衆制度も、たいがい宗易の意見でぴた[#「ぴた」に傍点]とおさまっていた。
「根からお好きなのじゃ。こういう公事《くじ》訴訟や政道向きの仕事がな」
そう彼を評す人もある。
町人であるよりは政治家であると、誰かが自分を評したのを、いつか宗易が耳にした折、
「お戯れでしょう」
と、彼は、にんやり笑って、辺りの人々へ、自分のことばで、こう自分を評したということである。
「わたくし程、世の中にあて嵌《はま》り難《にく》い人間はないらしい。皆さんとは仲よく交際《つきあ》えもし、温厚であるなどといわれているが、どうして、対世の中となると、わたくしの叛骨《はんこつ》はどうにもなりません。自分ながら怖い。だから父の千与兵衛は、わたくしの性質を見ぬいて、まだ私がなや[#「なや」に傍点]の与四郎さんと呼ばれていた少年の頃から、武野紹鴎《たけのじようおう》様のところへ、茶など稽古に通わせました。また、弱年からの禅学の師、大徳寺の笑嶺《しようれい》様も、与四郎も茶をやるか、それはよい、ぜひぜひつづけさせるように。さもなければ、あの太骨《ふとぼね》は、一商家などに大人しくしておるものか。やがて途方もない夢など抱いて、果ては、乱世の巷《ちまた》に、屍《かばね》を横たえよう。人相などをあて[#「あて」に傍点]にいうではないが、剣難《けんなん》の相がある、いや性格がある。――茶杓《ちやしやく》茶碗《ちやわん》を守り神のように持たせ、一|炉《ろ》の中をじっと見つめて、その途方もない夢や太骨へ灰をかぶせて、埋《うず》め火《び》のように無事に、静かに一生涯を全うするようにお育てなさるがよい――と、そうくれぐれも、わたくしの両親へいったことがあるそうです。ですから以来ずっとこの年まで、茶を離れずにおりまする。およそ私の愚昧《ぐまい》のほどお推量くださいまし」
自分で愚昧といっているだけ、なおさら人は彼を愚とは見ない。むしろ深さの知れない井戸をのぞくように、彼の肚には、何かこんこんといつでも水が湧いているように見ていた。
その宗易《そうえき》は、今、北之荘の町端れを歩いていた。
堺の今は、昼も夜半《よなか》のようで、今にも戦火につつまれるかのように戦慄していたが、彼の顔いろは、春の陽《ひ》につやつやしているし、身なりもふだんの通りであった。
「――こらッ、こらッ、それへ参る町人、納屋宗易《なやのそうえき》、待て」
近くで塹壕《ざんごう》掘りを督励していた土まみれな侍が、駈け寄って、彼の前に立ちはだかった。
「この戦乱に、何をうろついている。こうしてわれわれが、必死に防禦《ぼうぎよ》の空壕《からぼり》を掘っておるのを、おもしろげに、見歩いているやつがあるか」
気が立っているのはお互いやむを得ないが、余り頭ごなし[#「ごなし」に傍点]というものである。鎧《よろい》具足をつけていない人間は、みな遊んででもいるような叱言《こごと》は受け取れない。
宗易《そうえき》は、だまって、しばし相手の顔を見ていたが、
「あなた方は、一体、ここで何をなすっておいでなさいますか?」
「なに。――分らんのか、眼に見えないか。信長の襲撃に備え、塹壕《ざんごう》を掘り、やぐらを築《つ》き、あれ見ろ、百姓どもの老幼まで、加役《かえき》に徴発されて、働いておる状《さま》を」
「私とても、同様でございます。槍大剣は持ちませんが、平常、町役の一人に挙げられておりますので、こんな時こそ堺港の文化と、ここに住む町人お百姓たちの安全を計らなければ、日頃の信望に申しわけがないと、日々夜々、心配しておりまする」
「口だけだろう。その悠長そうな身装《みなり》は何事だ。なぜ坑掘《あなほ》りの人足でも指揮せぬか。兵糧の運搬でも手伝わんか」
「私の任でございません。この際、私は私のすることがあろうと探しております」
「たわけめが、探している間に敵が襲《や》って来るわ。そのためにうろついていたのか」
「いえ、何がなよい茶花《ちやばな》を一枝見つけて、手折って帰りたいと思いまして」
「茶花を。……なんだ、茶花とは」
「茶事に用いまする。こよい日頃の町役の十人を招いて、この際ですから、ただ一枝の花だけを馳走に、釜をかけて、篤《とく》と話したいとぞんじまして――その花を求めに、ついかような所まで歩いて参りましたわけです」
「町役をよんで茶をやる気か? ……。こら、正気でいう返辞か」
言語道断といわぬばかりな眦《まなじり》である。宗易がすましているので、揶揄《からか》われたという気持もうけたに違いない。
「おいッ、ちょっと来てくれ」
怒気をたたえた面《おもて》を振り向けて、彼方の空壕《からぼり》工事の下から同僚の武者を呼び出した。――その間も、宗易を逃がさぬように、きッと側に寄り添っている。
「なんだ?」
「何事か」
集まって来た同僚に、宗易を咎《とが》めた武士は、宗易の申し立てを、もっと悪意を加えた意味で、云々《しかじか》と告げた。
「十人衆の納屋宗易《なやのそうえき》か」
武士たちは、尖《とが》った眼で、宗易のすがたを、頭から足もとまで見おろしながら――不届きな云いぐさ[#「ぐさ」に傍点]だ、不埒《ふらち》な町役である。また、われわれの戦備を冷眼視したり、この騒動の中に、茶事などやって合戦をよそ[#「よそ」に傍点]事にしているからには、疾《と》くより織田方に内通している人間かも知れぬ――などと口々に罵《ののし》った。そして、一人の口から、
「斬ッちまえ!」
と、いう声まで出たが、
「いや一応、御陣所まで引っ立てて糾問《きゆうもん》のうえにすべきだろう。織田方に誼《よし》みを通じておるやつならなおさらのことだから」
それには一人の異議もなく、引ッ立てろ、とばかり、もう宗易の背を突くやら、恐い眼が、
「歩けッ」
と、彼を拉《らつ》した。
宗易は、自分の答えを「よしなき事をしてける――」と、多少悔いないでもない面持《おもも》ちであったが、もう仕方がなかった。武士たちの血が、異常に昂《たか》まっているとおり、彼とても、この日頃は大きな昂奮につつまれていたのである。――それ故に、一枝の花でも見て、寸閑、茶に落着こうとしたのであるが、その通りな云い方が、相手に曲解をうけたのであった。
そこは、市外に近い、蒼古《そうこ》とした禅刹《ぜんさつ》の門だった。十河存保《そごうまさやす》の陣所として、鉄槍や武者の影に埋まっている。宗易は、前後を囲まれながら、槍ぶすまの門を、静かに通った。
町に女と子供の影が見えないので、淋しいのみか、ひどく殺伐《さつばつ》である。太陽は爛《らん》として、町の上にあるが、どこ一軒、商売をしている家もない。ただ夜半《よなか》のような風が往来を通ってゆく。
帯屋《おびや》も閉まっている。酒屋の戸も閉《た》ててある。物売りの声もしない。
――が、めずらしく、ここの一軒だけは開《あ》いていた。南之荘《みなみのしよう》のと或る町辻で、軒ばを見れば、廂《ひさし》の低い古板に、
御かたな鞘《さや》 ぬし宗祐《そうゆう》
と、見える。
塗師《ぬし》の店だった。往来に向かっている店がそのまま仕事場になっている。刀の鞘塗《さやぬり》が主で、茶器家具などは、頼まれれば、しないこともないといったふうな主《あるじ》で、その主はまた、
(おもしろい変り者)
で、その看板以上、堺の町では通り者であった。変り者には違いない。
今にも戦争が始まる、織田軍が侵入してくると、昼ながら堺の殷賑《いんしん》もまるで墓場のようにさびれているのに、塗師《ぬし》の亭主だけは、きょうも漆桶《うるしおけ》と共に、ぽつねんと、薄暗い店に坐っている。
その亭主はもう五十がらみ。――と、人はいうが、もっと老人《としより》なのか、もっと若いのか、見当のつかない男で、話せば飄逸《ひよういつ》で元気で、わけて若い者をつかまえ、女ばなしなどは好きだし――風貌だけで見れば、歯は抜けているし、すこし猫背だし、魚の骨みたいに体には肉がないし、しじゅう水ッ洟《ぱな》はすすっているし、無精《ぶしよう》で、うす汚いこと、仕事場の漆《うるし》ベラや、砥《と》の土や、漆茶碗などと見分けのつかない程である。
看板名には、
塗師宗祐《ぬしそうゆう》
と、あるが、宗祐は、実は彼の風雅の道の号で、人は誰も「宗祐さん」とはよんでくれない。
(あれで、あの男にも、風流気があるんだから可愛いよ)
などと世間にいわれているが、その方では、この男のほうが、かえって世間より自信がありそうで、
(おまえ達に、風流の道など、何がわかる)
と、云いたげであった。
彼のもっとも自信のあるのは「香道《こうどう》」で、香は、その道の大家|志野宗心《しのそうしん》に教えをうけたものだという。また、茶道は、もう数年前に亡くなっている人だが、この町の武野紹鴎《たけのじようおう》について、一通りは学んでもい、その方では、この町の大きな魚問屋でまた、十人衆の一人でもある千宗易と、同門下であった。
しかし、何といっても、茶や香道などでは、世間は彼を認めていない。世人が彼に尊敬を払っているのは、やはり本業の漆工《しつこう》で、わけてもその鞘作《さやづく》りと塗りの上手にあった。
彼の手に作られた鞘は、実に鞘すべりがよいというので、「そろり鞘」と、珍重されていた。それがいつか通称となって、今では誰も彼をさして、杉本新左衛門《すぎもとしんざえもん》殿とか、杉本|宗祐《そうゆう》さんとか、本姓や雅号を呼んでくれる者はない。
――塗師《ぬし》の曾呂利《そろり》
とか。
――曾呂新どの
とかの方が通っている。
生地は泉州《せんしゆう》大鳥郡《おおとりごおり》の者とか、三河の産とかいうはなしだが、いずれにしても、堺に住み馴れてからだいぶ古い。
いや、古いのは、主《あるじ》ばかりでなく、その古家も年久しい。店に彼のすがたの見えない時は、きまって、風流過ぎるとも云いたいほど軒傾いた母屋《おもや》の小部屋で、新左衛門は、釜一つ茶碗一つと共に、悠々自適していた。――彼には子も妻もなかった。時々、仕事のあいまに、独りで茶を点《た》て茶をのむのを楽しみとしていた。
その小部屋に、新左衛門は今、ぽつねんと休んでいた。
屋根裏に、鼠の駈けまわる音がする。奥の女どもは弟子をつけて、粉河《こかわ》の身寄りへ落してやったので、家には、今、鼠と彼しか住んでいないわけである。
「ちょめッ」
新左衛門は、屋根裏の悪戯者《いたずらもの》を睨んで、せっかくそれへ持ち出しておいた茶布巾《ちやふきん》と茶碗をもういちど洗いに立った。微《かす》かな塵《ちり》が落ちたものとみえる。
水瓶《みずがめ》のそばで水音がしていた。――と、思うと、茶碗を持ったまま、水屋の口から往来のほうへ、首を出してどなった。
「道安《どうあん》さん。道安さん。――どこへお出かけじゃ、お寄りなされ」
ちょうど、破れ垣の外を通りかかった往来の人影が、垣ごしに、彼へ答えた。
「曾呂利《そろり》どのか。おぬしは、田舎へ逃げもせず、まだ家に残ってござったのか」
「逃げたところで詮《せん》ないことじゃ。やりかけの仕事もあるしの」
「どうなさる、この町が合戦になったら」
「縁の下にでも潜《もぐ》っているか。……それくらいしか考えていない。……まあ、寄って、話して行きなされ。そこの木戸は、押せば開く」
「喉が渇《かわ》いた。湯なといただこうか」
道安は、十坪ばかりのそこの庭へはいって来た。
見れば、まだ若いのに、道安は跛足《びつこ》であった。――千宗易《せんのそうえき》の長男であるから、いわゆる大家の若旦那の風はあるが、そうした体なので、依怙地《えこじ》できかない気性だといわれている。
けれど、新左とは、仲がよかった。新左とはなしている時には、すこしも彼のつむじ[#「つむじ」に傍点]曲りは出なかった。
「ああ。くたびれた」
ぬれ縁の端へ、腰をおろすと、新左は、上がれ、上がれとすすめる。新左も、自分の年齢《とし》から見れば息子のようなこの跛足《びつこ》の青年を愛していた。
「どうして、きょうは、そんな落着きこんではいられない。白湯《さゆ》でいい。一碗くだされ」
「なにがそんなにお忙しいのじゃ。お店のほうも、この騒ぎでは、休みでおざろうに」
「当りまえなことばかり云いなさるな。店の稼業《かぎよう》どころではない。……そうだ、曾呂利どの、おまえは見かけなかったか」
「誰を……?」
「わしの父を」
「宗易《そうえき》さまか」
「そうじゃ」
「はて。――今し方まで、店に坐っていたが、通った者は、甲冑《かつちゆう》を着たお侍と、兵糧運びばかりじゃった」
「どこへお出《い》でなされたやら。……どう探しても見えぬのじゃ」
「あの方のことだ。天王寺屋の宗久《そうきゆう》どのか、油屋へでも立ち寄って、話しこんでおられはせぬか」
「いやいや、その衆はみな、こん夜のお客に、わしの家へ招いてあるのじゃ。それなのに、茶室の裏庭から、ぶらりと出られたまま、お帰りがない」
「こん夜、何があるのじゃな」
「おまえと似て、わしの父も、変っている。十人衆のおなかまを招いて、茶事をなさると仰っしゃるのだ」
「やれやれ、行きたいな。――なんでわしは招かれなかったか」
「暢気《のんき》なことをいうではない。今にも、戦いが、この堺が、兵火に焼き立てられるかと、みんな恟々《おどおど》している中に、招かれたお客こそ、どんなに迷惑であろうと、お察ししているのじゃ」
「……が、かんじんな御亭主がおらいでは」
「だから、困り果てているのじゃ。もう、とつこうする間に、黄昏《たそが》れかけてもくるし……」
道安は、新左の汲んでくれた白湯の茶碗を掌《て》に抱きながら、夕迫る空をながめていた。
「堺の町の運命も、どうなるやら知れぬというのに、わしの父も父だが、曾呂利どのも、相変らずだの。なぜ、逃げぬのじゃ」
「なぜというたとて、仕事を捨てて、逃げられようか」
「戦争が襲《や》って来るんだよ、戦争が」
「わかっているが、あいにくと、塗りかけている筥《はこ》ものや棗《なつめ》などが溜《たま》っている」
「そんなもの、この町が、戦争となったら、どうなるものか」
「でも、田舎《いなか》へ逃げて、お百姓の穀《こく》を喰いつぶしているよりはましじゃろが」
「茶事につかう棗《なつめ》など仕上げたところで、こんな際では、取りに来る客もあるまい」
「あってもなくても、わしらは、仕事に向って坐っているのが天職じゃ。そのうちに世間のほうで、自然ぐるりと一廻りして、店の前にも、客の来る日がやって来ようで」
「ははは」
道安は笑ったが、笑っていられない父の身を思い出して、
「こうしてはいられない」
と、茶碗を返した。
新左は、彼の落着かない様子をながめて、
「宗易様を、何でそのように、眼いろを変えて探してござるのじゃ」
「さっきも話したとおり、この物騒な時も時、こん夜、茶事をなさると仰っしゃって、十人衆のお仲間を招いてあるに――ぶらりと、裏庭から何処ぞへ出て行かれたまま、もう夕方にも近いのにお帰りがない。……もしものことでもありはせぬか、それも案じられて、家中手分けして尋ねているのだ」
「まだまだ、流《なが》れ弾《だま》は飛んで来ぬ。大丈夫、死んではおるまい」
「あたり前なことをお云いでない。ひとの心配をまぜ[#「まぜ」に傍点]返すものではないよ」
「いえいえ、心配ごとというのは、一番悪い成り行きを先に考えておけば、たいがい安心のなるものでな」
――すると、垣の外に、人影がさした。若い女の着物がちらと透《す》いて見える。嫁《とつ》いで来て間もない道安の新妻であった。
「あなた。……あなた」
小声で呼ぶ――。世間馴れない嫁なので、垣の外に佇《たたず》みながら、良人と新左と話しこんでいる様子に、気がねをしたり、また急いでいるふうだった。
「――知れました。ようやく今、お父さまの居どころが。どうぞ、お帰りくださいませ、みんなも待っておりますから」
道安は、振り向いて、
「おう、おきぬか。何、父の居どころが知れたって。……お帰りになったのか」
「いえ、まだお帰りにはなりませぬが……」
と、おきぬの声には、憂いがこもっていた。そして後ろの辻を振り向いて、道安のすがたを探しているらしい店の者を、手招きしていた。
道安はあわただしく、
「曾呂利どの、お邪魔したな。悪いことはいわないから、おまえも、はやく家を閉めて、田舎へでも逃げたがいいよ」
跛足《びつこ》をひいて、彼は垣の外へ出て行った。そして、往来に待っていたおきぬが寄って来るとすぐ訊いた。
「どこにいたと知れたのか、父は」
「南宗寺のお坊さまが、青くなって、知らせに駈けつけて来てくれましたので」
「南宗寺? ……。あそこは今、阿波三好党《あわみよしとう》の大将の十河讃岐守《そごうさぬきのかみ》様がたくさんな兵をおいて、御本陣としているそうではないか」
「その御本陣へ、お父様が、何の科《とが》か、武者たちに囲まれて、曳かれておいでになったと――お坊さま方も、たいへん心配して、何よりはと、家へ知らせてくれたのでございまする」
「えッ。……武者にかこまれて、あそこの陣所へ曳かれて行ったと。そ、それは、たいへんだ」
道安は、足が不自由なので、常にそれを人眼にも、新妻の眼にも、努めて隠すようにして歩くのが癖だったが、そんな用意も捨てて、おきぬや手代《てだい》よりも先に、跛足《びつこ》をひいて家へ急いだ。
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名《めい》 器《き》
招きの時刻に違《たが》わず、きちんと席に揃うのも、茶の礼儀であり、客の心がけの一つでもあった。
その日、亭主側の宗易の身に、思わぬ事件が起ったのを少しも知らない当夜の客たちは、道安の帰った頃、もう広間のほうに揃っていた。
そして、等しく、
「それは大変なことになりましたなあ。何しても御心配でしょう。どういう罪で、お曳かれになったのか、それが分らぬうちは、御陣所へ嘆願にも出られぬし……」
茶事どころではない。宗易の家族から、事情を聞いた人々は、やがてそうした凶事《きようじ》が、同じ十人衆として名を連ねている自分らの身にもふりかかって来るのではないかと、色を失って、嘆息の体《てい》を並べていた。
薩摩屋宗二《さつまやそうじ》、油屋紹佐《あぶらやしようさ》、銭屋宗納《ぜにやそうのう》などというこの土地の旧家、豪商の主人たちが、客の顔ぶれであった。
あわただしく、そこへ、
「どうも、まことに失礼をいたしまして」
戻って来た道安が、一応、人々へ挨拶を施してから、
「ご足労をかけぬうち、皆様の方へも、早くお知らせ申し上げればよろしゅうござりましたに、つい、うろたえの余り、父の居所を探す方へばかり気をとられておりましたので」
詫び入るのを、客は皆、口をそろえて、それどころではないと、慰めた。そして、
「宗易どのには、いったいどういうかど[#「かど」に傍点]で、御陣所へ引っ立てられたのでしょうか。何ぞ、お心当りはありませぬか」
と、こもごも、憂いを湛《たた》えて訊ねた。
「さ。それが、少しも合点が参りませぬ。父は、今度の騒動となりましてからも、常と変りなく、港の会所へ詰めては、町の公務を執り、また、家事の始末は、一切をわたくしどもへ申しつけ、さて、一同へ申しますには。――一般の町の衆とちがい、自分は日頃から堺《さかい》の町政にあずかる者、こういう場合に、町の衆の信望を裏切っては申し訳ない。一身一家の安危は顧みていられない。町の運命を最後まで見届けねばならぬ。兵火のため、堺港が灰とならば、わが身も共に灰ともなれ、ひとりの町民でも踏み止まっているうちは立《た》ち退《の》かれぬ。――かように申しておりました」
「なるほど。宗易どのの御気性ではそうあろう。会所に見えても、そう御決心のほどをいわれておるので、わし達も、励まされて、踏み止まっているわけじゃが、きっと今夜は、茶事にことよせて、何ぞ大事な御相談があるものじゃろうと思って来たわけじゃが」
「こんな際とて、お招きしても、何もおもてなしはないが、せめて良い花でも一枝……と、庭面《にわも》をながめていたそうでございますが、心に適《かな》う花もなかったか、裏木戸からふい[#「ふい」に傍点]と出て行ったままだったとか、後で聞きました」
「お体に怪我《けが》でもなければよいが、気の立っている武者たちに連れられて、御本陣まで曳かれて行ったとすれば、何しても、由々《ゆゆ》しい御心配。……この上は、南宗寺の和尚のお力にでも縋《すが》ってみるほかは、よい思案もあるまいが」
誰の顔も、暗かった。不吉ばかり予感されて、いたずらに、嘆息《ためいき》と嘆息が、よけい家族の憂いを深くさせるのみであった。
すると、道安の嫁のおきぬが、母屋の渡り縁の辺《ほと》りで、何か大きな声を放った。つづいて、家族や召使たちの声がこもごも聞えた。
「お帰りじゃ」
「御無事に。……おお」
「旦那さまが」
「お父さまが」
狂喜に弾《はず》む口々の声なのである。
「えッ? ……。宗易どのが、おもどりになられたと」
客たちも、道安も、思わず腰をうかせて、そのまま庭へ走り出てみた。――ほっと眉はひらきながらもなお、嘘のようなここちもするのであった。
宗易は帰って来た。裏庭の木戸口から、昼間、そこから出て行った時の姿と、少しも変らない態《てい》で、静かに、わが家の庭へはいって来た。
ただ。――変ったことに見られたのは、三、四名の具足をつけた武者が、眼を光らせて、物々しそうに、その宗易の後前《あとさき》について、警固して来たことだった。
ひそやかな茶庭の木々は、その青苔《あおごけ》を、見つけない武者わらんじ[#「わらんじ」に傍点]に踏まれて、物恟《ものおび》えでもしたように、その具足の人影や、主《あるじ》の肩に、チラと、木の葉を降りこぼしていた。
「おう……。これはよう」
宗易は、息をのんで見まもっている客たちの方へ、そのまま足を移して来た。
「凡《ただ》ならぬ時節がら[#「がら」に傍点]の中を、こよいは曲げてお越しくだされ、一しおありがとうぞんじまする。実は、出先にちと不測《ふそく》の事が起りまして、十河《そごう》殿の御陣所へ捕われてゆき、そのため、お迎えの礼を欠きました。おゆるしの程を」
彼のあいさつは、もう茶事の亭主として、客を迎えているのであった。
客はなお、唖然として、何を問うことも、できなかった。
宗易は、次に、自分の後ろに立っている警固の武者へ、
「しばらくの間、あちらにて、お控えねがいとうござる。――それとも、茶席にお入り下さるなれば、お客方と御一緒に、一ぷくさしあげますが」
と、いった。
眼と眼を交わして、何か囁《ささや》いていた武者たちは、
「しからば、木戸の口と、母屋《おもや》の出入口とに、見張っておるぞ。早くすませよ」
云い捨てて、立ち去った。
「……どうぞ、お寛《くつろ》ぎあって」
と、宗易は、客を元の座に招じて、それから改めてまた、
「毎日、町のために、ご心労でござりましょう。わけてこういう際は、誰しもつい顛倒《てんとう》して、よい思案のあってよいお人まで、かえって出ないものでござる。お互いが、茶の幽寂《ゆうじやく》の中から、堺《さかい》の町を、どうしたら救い出せるか。冷静に、考え合ってみる時ではないか。そう存じましたので、風雅が主ではございませぬが、茶事を利用させていただいたわけです。……しばし、失礼いたしますが、その間に、篤《とく》と、皆さまのご名智をも、お整え置きくださいますように」
宗易は、そういうと、席の支度に立ちかけた。
「あ。……もし」
客のひとり油屋|紹佐《しようさ》は、一同になり代って、茶もいただきたいが、それ以上、あなたの今夜の境遇が、実に案じられる。御帰宅はあっても、まだ陣所から附人《つけびと》の武者が附いているのは、どうしたわけであるか? ――まだ罪をゆるされてお帰りになったわけではないのか? ――それから先に安心させて下さいと訊ね始めた。
すると宗易は、
「今は、堺の町全体が、どうなるかという別れ目です。堺港が灰となるのは、まだ惜しみませんが、これは国家の大きな損失となりましょう。――わたくし一身の安危など、些細《ささい》も些細、お心にかけていただく程のものではありません」
そう笑って、しかし――と、また云い足した。
「お心懸りになっては、折角の茶にも障《さわ》りますから有態《ありてい》申し上げましょう――実は、お察しの通り、真に免《ゆる》されたのではございませぬ。十河《そごう》殿の面前にて、厳しく糾問《きゆうもん》をうけていましたが、各※[#二の字点、unicode303b]とのお約束の茶事、空《むな》しく違《たが》えては、宗易が恥、いかがせんかと、心を砕きました。――で、大将十河殿にむかい衷情《ちゆうじよう》を訴えてみましたところ、茶人の量見はわからぬが武士にも約束を重んずる義はある。二刻《ふたとき》の間だけ、帰宅をゆるしてやろう。客をすましたら再び陣所へ曳くぞ。――かようなことで戻って来たわけでした――偶然にも茶人の約束を違《たが》えぬ風と、武士が然諾《ぜんだく》を重んじる節義とが、相通じたのは欣《うれ》しいことではございませんか」
やがて、客は主《あるじ》に促《うなが》されて、素朴な茶室のうちへはいった。
宗易は、亭主として、点前《てまえ》に坐ったが、茶杓《ちやしやく》の手さき、釜の注水《つぎみず》の音、少しも乱れていなかった。
順々に、茶わんを押しいただいて、茶味のうちに浸《ひた》り入ると、客もみな宗易と同じように、この頃にない落着きを取りもどしていた。
「時に、こういう所で、密談するのも異《い》なものですが、時が時――」
と、宗易は、声をひそめて、堺の町を救うについて、ここに一策があるがと、自分の考えをのべて、一同の協力を求めた。
「わしの観《み》るところでは、今は必定《ひつじよう》、世の中が一転しようとしているところでないかと思う。室町将軍の御制度のままで、またこの紊《みだ》れたままで、なお幾世も過ぎてゆかれようとは思われぬ」
と、冒頭《まえおき》して――
「では、誰がなるぞ。そうお考えであろう。わしにも確《しか》とは見えていない。けれど昨年来、京都に進軍して来ている織田殿の仕方を見ると、織田殿こそ、次の時勢をひいてゆくお方ではないかという気がする。――なによりは、末はともあれ、将軍家を立てておき、そして、入洛《じゆらく》の第一に、皇居の修築をなされた。それも思いきって、大規模になされた。朝廷の御料地が、地方の武家に掠《かす》めとられてあるのを、悉皆《しつかい》、返上する令を発したりなどされた――。なんとなく、わしらが心に望みながら、わしたち庶民の力だけでは、為《な》し得ないことを、あのお方は、どしどしとやってゆく。庶民の心になり代ってやってゆく。こうあっては、誰が何といっても、天下の民望が、やがては織田殿を、天下の信長公と、かつぎあげてしまうのは、当然な成り行きでしょう。――その勢いを阻《はば》めに立つ者は、亡ぶばかりです。時流から抛《ほう》り出されてゆくのみです。過去のものと、すべて過去へ、置き去られてゆくだけでございましょう」
「…………」
みな黙って頷《うなず》いている。
釜の湯がひそやかに鳴っている。――ふしぎな静寂のうちに、ふしぎな理を客は説かれていた。なぜならば、室町制度の長い伝統が、やがて一変するなどということは、こうなってもまだ堺《さかい》町人の常識では、考えられないことだったからである。
「今思うと、この堺は、去年織田殿の軍が、入洛した当時に、みずから作ってしまった今日の危急だったという気がします。――あの折、織田殿の名をもって、この堺へも、二万金の賦課《ふか》がいい渡されたのです。それを、背後にある三好党の使嗾《しそう》で、わしたち堺の代表者は、きっぱり刎《は》ねつけました。――そして、三好党の残党を入れ、織田軍が襲《よ》するものなら、結束して一戦も辞すまいなどと、強がりましたが、年が明けると、果たして、織田殿は二度目の上洛を機として、堺へ軍をすすめて来ました。……考えてみると、嗤《わら》うべき不明といえましょう。時流へ逆行して、みずから滅亡を招いている愚者は、かくいう宗易をはじめ、堺の十人衆というものではありますまいか」
宗易から、諄々《じゆんじゆん》と説かれて、伝統の根のふかい土地の首脳も、初めて、そうかと悟った。
――では、どうして、危急に迫った堺を兵火の禍《わざわ》いから救うかと問われて、宗易は、直ちにいった。
「てまえは、やがて直ぐ、また、十河《そごう》の陣所へ曳かれなければなりません。ですから、誰方《どなた》でもよろしい。先年、織田殿から仰せつかった賦課金二万金を船積みして、ひそかに、港を脱け出して、堺の町民は異心のない旨をちかい、何とか、兵火にかかることだけはないように、御思案を仰ぐのです。――わたくしは先ずその発議者として、自分の蔵は開《あ》け放ちます。どうか方々にも、合力《ごうりき》を惜しまれず、こよいのうち二万金を作って、船出していただきたいのでございます。――この議をお諮《はか》り申すために、実は、一釜かけてお招き申したわけでした。どうぞ御助力をねがいまする」
公方家《くぼうけ》再興のため。
という名目で、去年、信長から発令された賦金《ふきん》は、もとより堺だけに課せられたわけではない。
畿内《きない》の繁栄地は、その人口や経済力に応じて、それぞれ上納をいいつけられた。
寺院は、わけて多額な賦課を割りあてられ、石山本願寺だけで五千貫、奈良は三千貫も徴発された。
その比例でゆけば、堺にいい渡された二万貫は、その富力から見ても、決して苛酷《かこく》でも、難題でもなかったのである。
――まして、信長の用途は、世間へはっきりしていた。内裏《だいり》の修築にも莫大な工費をかけていることは、耳にも聞き眼にも見ていた。
それを、堺だけが、
「御命は奉じかねる」
と、断ったのである。
その上、市外に塹壕《ざんごう》を掘ったり、櫓《やぐら》など築いて、防戦の用意怠りなく、
「ござんなれ」
と、強がったのである。
信長の気性、激怒したにちがいない。一挙、京都から襲《よ》せて来るかと、去年も騒いだが、その時は、来なかった。堺など、眼の中にもないように、岐阜へ帰ってしまったのである。――が、今度、再度の上洛には、捨てておかない動きが見えた。急遽《きゆうきよ》、阿波三好党が、海をこえて、加勢に上陸したのも、その気配が早くも聞えたからであった。
こうして、堺は、武力と武力のあいだに、板ばさみとなっている現状だった。――この際、堺の文化を、破壊から救い得れば、それはただ町民のためばかりではない。宗易がいう通り、国家の損失を救うという大きな意義にもかなうわけである。
――今宵。
人々は、宗易のことばと、茶室に在《あ》る落着いた思慮から、初めてそう心づくと、誰ひとり、宗易の提案に、異議をはさむ者もなかった。
その晩のうちに。
各※[#二の字点、unicode303b]の私財から会所の公有金、そのほか悉皆《しつかい》、堺の現金を寄せあつめて、密かに、船へ移した。
船へは、宗易の弟|千宗巴《せんのそうは》、銭屋宗納《ぜにやそうのう》が、使いとして乗った。奈良の浪人、土門《つちかど》源八郎も、附き添って行った。暗い波騒《なみさい》の真夜半《まよなか》、船は、三好党の見張りの眼をしのんで、沖へまぎれ去った。
その船は、夜明け方には、もう大坂の安治川《あじがわ》へはいっているだろう。――そしてそこから、誰か上陸《あが》って、信長の陣へ駈け込む。――堺の領民のほんとの総意を訴え出る。
「これでいい」
宗易は、安心した。同時に、死も覚悟していた。
勿論、彼だけは、茶室を出ると、再び、三好党の陣所へ引っ立てられていたので、その後の指図には当っていなかった。
いかめしい武士に囲まれて、十河存保《そごうまさやす》の陣屋のうちに寝ながら、
「今頃は、首尾よく、船は岸を離れたろうか。夜明け頃には、織田殿の陣所へ、使いが行き着いておろうか」
などと想像してみるのであった。――そしていずれにせよ、自分の一命は、その事の発覚と共に、ないものと、観念していた。
朝となると。
朝飯も与えられず、武士たちが来て、尾《つ》いて来いという。
南宗寺の南縁へ彼は曳かれていった。
「それに控えて、お答え申しあげろ」
と、ひき据えられ、宗易は、茶室に坐るように、静かに座に着いた。――見まわせばまわりには、十河《そごう》一族の三好方が、長柄、素槍を立てならべ、また、縁には武将たちが詰めあい、正面には、大将の讃岐守存保《さぬきのかみまさやす》が坐して、すべての眼が、自分ひとつに集まっていた。
「宗易。昨夜は、茶事をすまして帰ったか」
と、存保はやがて、口を開いた。宗易が、それに対して、礼をのべると、存保はすぐ、
「その折、いかなる話をしたか。客は誰と誰であったか」
と、詰問しはじめた。
きのうの自分と、きょうの自分と――宗易はわれながら別人のように思えた。きのうの身はなお、堺《さかい》の町の運命を案じると、死にきれない焦躁《しようそう》を覚えた。
きょうの彼は、そうでなかった。もう心にかかるものはない。死に徹しているここちがする。
(いつでも……)――と。
笑嶺和尚《しようれいおしよう》に導かれた禅の味境のありがたさを今感じる。また、日頃の茶がこんなところにも役立っていることにも気づいて感謝の念がわく。
さて。彼は答えた。
「益なき御詮議《ごせんぎ》は、無用になされませ。なぜならば、いずれにしても、やがて織田殿の軍勢はこれに参ります。いかに抵抗してみたところで、三好方のお力で、支えきれる兵馬ではありません。あのお方の軍勢は時の力であり、こなたの濠《ほり》や防塁は、いたずらに、旧い殻を固守する時勢に盲目な反抗《てむか》いにすぎませんから――」
阿波三好党の主将たる十河存保が怒ったことはいうまでもない。
――けれど、宗易が、余りに平然とそれをいったので、気をのまれて、その嚇怒《かくど》も、ひとみの底に、憤《む》ッと見えただけだった。
が、一瞬の間を措《お》いて、
「おのれ、吐《ほ》ざいたな!」
存保のことばと同時に、
「ぶッ、不礼者ッ」
身をふるわせて、あたりの部将たちは、陣刀のつか[#「つか」に傍点]を掴《つか》んで立った。
宗易は、ながめ廻して、
「わたくしは、思うままを、信念で申し上げてみたまでです。町人ゆえ、兵法のことはよく弁《わきま》えませんが、敗れると分っている戦《いくさ》をしてよいという兵法はなかろうと思いまする。時勢のながれに逆らって負けない戦もあり得ません。そうしたら|御各※[#二の字点、unicode303b]《ごめいめい》の死も犬死、兵火の厄《やく》にかかる民財も無駄ごと、従って、無名の戦を好んだということになりましょう。無名の戦、それは乱です。乱を敢えてなす者は乱賊と呼ばれましょう」
静かなことばで、諄々《じゆんじゆん》というのでつい[#「つい」に傍点]終りまでいわせてしまうのであった。存保《まさやす》は、怒気をこえて、蒼白になっていた。武将たちの中には、もう彼の側へ迫って、太刀を抜きかけた者もあった。
「待てッ。――この者の口吻《くちぶり》では、ひとり宗易のみならず、ゆうべの茶室に寄った十人衆の町役どもはみな疑わしい。敵に内通しておるやも知れぬ。――他の者もみな引ッ縛《くく》って来い。つき合わせた上で、ずらりと首を打ち落してくりょう」
大将の意見は、一時の憤怒にまかせないで、さすがに賢明であると部将たちも思った。すぐ町へ向って、ふた手三手にわかれた小部隊が、十人衆を捕えに向った。
宗易は、ここの食堂へ抛《ほう》りこまれた。禅刹《ぜんさつ》の食堂はがらん[#「がらん」に傍点]として太い丸柱と四壁のほか何もなかった。宗易は、柱の下に、瞑目して坐っていた。牢の如く閉めこんであるので、昼も夜もなかった。
ここの兵が、召捕えに向っても、もうゆうべの友達は、明け方を期して、各※[#二の字点、unicode303b]身を潜《ひそ》めているはずなので、宗易は、そのことについても憂いはなかった。
堺の町も、九分どおり兵火はまぬかれるものと、安心していた。今日にも、信長の軍勢は堺へ殺到しよう。身を潜めたゆうべの十人衆の仲間は、それと共に、内部から呼応して、織田軍のために、通路をひらき、あらゆる便宜を与えて、協力する手筈にもなっている。
「……ああ。あれは鬨《とき》の声らしい。遠い海鳴りのような」
宗易は、何ものも見えない暗黒の中に、やがて近づく堺の黎明《れいめい》と、同時に、自分の死とを見つめていた。
宗易の瞑目《めいもく》はつづいた。
食堂の闇は、夜も昼もけじめ[#「けじめ」に傍点]がない。
暴風《あらし》のような外界の物音が遠くからつつんで来る。宗易は、その寂寞《せきばく》の中から、織田軍と三好党の戦いを――また刻々、推移してゆく世間の相《すがた》を、眼で見るように体じゅうに感じていた。
織田軍は、堺へ突入して来たらしい。
続いて、要所の占領を完遂したものと思われた。それは、この寺域の十河《そごう》一族の陣営が、極度な混乱に墜ちたかと思うと、やがて墓場の如く人気《ひとけ》もなくなって、総勢、先を争って逃げ出して行った物音でわかった。
その逃げ際に、
「そうだ。宗易めの処分を」
と、気づいた十河存保《そごうまさやす》の部将が、彼を刺殺《しさつ》せよと、命じたにちがいない。
「……?」
食堂の重い扉《と》をあけて、中を窺《うかが》いに来たふたりの武士があった。殺気にみちた眼でぎょろぎょろ見まわした後、手に白刃をさげて、入りこんで来た。
「…………」
宗易は自分を殺しに来た人影をじっと見ていたが、五歩ほど前に彼らが立った途端に、師の笑嶺和尚《しようれいおしよう》の喝《かつ》に倣《なら》って、肚の底から大喝した。
「豎子《じゆし》ッ。推参《すいさん》!」
洞窟《どうくつ》の中みたいに、声は、ぐわん[#「ぐわん」に傍点]と食堂の四壁に反響した。すると兵は、足もとを掬《すく》われたかのように跳び上がって、何をうろたえたか、ひとりは宗易の頭上の丸柱へ刀をぶつけ、一人はその刀を用いもせず、あわてふためいて外へ逃げて行ってしまった。
間もなく。また、甲冑《かつちゆう》の武士が、なだれ入って来た。しかしそれは、織田方の将だった。宗易が、無事にここにいたと知れると、十人衆の油屋《あぶらや》や銭屋《ぜにや》や薩摩屋《さつまや》などの友達が、こぞって駈けつけ、共々彼を救い出した。
いや、宗易は、外界の光を仰ぐと、救われた身を顧みる先に、
「おお、堺《さかい》が救われた!」
と、思った。
織田軍の兵や、茶の友達に守られて、久しぶり家に帰る途《みち》すがらも、涙がこぼれてならなかった。
堺の平和は還って来た。――続々と町民の女や老幼も、近郷の避難先からもどって来た。
その年の四月|朔日《ついたち》。
織田信長は、土地の旧家、松井友閑《まついゆうかん》の宅にのぞんで、十人衆の人々に眼通りをゆるした。同時に、土地がら多い天下の名器を一室に見て、その中から所望の物を携《たずさ》えて帰った。
天王寺屋《てんのうじや》宗久の所持であった菓子絵、松島の壺《つぼ》、油屋の柑子口《こうじぐち》、久秀の鐘の絵、薬師院の小松島やその他の茶碗茶入れなどであった。もちろん召し上げられるとは云い条、それぞれ代物《だいぶつ》の金銀は下げ渡された。
同時に、信長は、堺の町政、自治の制度などを、すべて改変して自分の手に収め、堺の代表者たちからは、謝罪文と誓紙とを入れさせて、なお、向後の町の公役には、その人々をそのまま命じた。
こうして信長は、一ぷくの茶の間に、大きな収穫をして引き揚げたが、その折、彼の傍らにいたひとりの男は、後に、信長へ向ってこういった。
「御主君。あなたは、せっかく宝の山に臨みながら、まだ、大きな名器を見のがして、拾い残しておいでになりましたな」
それは、当日もいた木下藤吉郎であった。信長は、眼をみはって、
「何。もっとよい名器があったと申すか」
「ありましたとも。――千宗易《せんのそうえき》という人間です。あんな名器を、なぜお眼に止められなかったか。惜しいことでした。もっとも、後となっても、遅くはありませんが」
「ウむ、うむ。……なるほど、あれはいい茶碗だった。そのうち所望しよう」
ふたりは、頷《うなず》きあって、微笑《ほほえ》んだ。
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北《ほく》 征《せい》
信長の京都進出以来、天下の耳目《じもく》は、彼の行動にばかり気をとられていた。
眼に見えて、時流のうちに新人旧人が入れ代ってゆく。法令が改まってゆく。世態《せたい》風俗までが徐々に変ってゆく。
(ここはどうなるだろう?)
たいがいな者が、自己の小さな生活の周《まわ》りしか見なかった。
それも、恟々《きようきよう》として、劇《はげ》しい法令の出るたび、一喜一憂していた程度であるから、この中央の激変から、ひいては次の時代への大きな推移に、確《しか》と、見とおしをつけていた者は尠《すく》ないし、その機会をつかんで、信長の進出を、直ちに、自分の進出とし――自分の千載一遇《せんざいいちぐう》とした者など、ほとんど稀れだといっていい。
が――家康は抜け目なかった。
信長が、堺《さかい》の始末もつけて、再度、岐阜《ぎふ》へ帰ってから、ふと、
「三河の近状は?」
と、心のうちから振り向いてみると、いつのまにか、三河はもうかつての弱小貧困な三河ではなくなっていた。
「家康も、やりおるな」
と、ひそかにその抜け目のないことに、舌を巻かずにいられなかった。
家康は、同盟国の織田が、自分に背後を守らせて、中原《ちゆうげん》へ出ている間を、ただ甘んじて、尾濃《びのう》の裏門の番犬に安んじてはいなかった。
むしろ、好機|措《お》くべからずとして、活溌な外交と、兵力を用いて、今川義元のあとの――今川|氏真《うじざね》の勢力を、駿河《するが》遠江《とおとうみ》の二国からまったく駆逐《くちく》してしまったのである。――もとよりそれは独力ではなく、織田家とむすぶ一方、彼もまた、甲州の武田信玄と款《かん》を通じて、
「駿《すん》、遠《えん》の二国を分け取りに」
という盟約の下になされたことであった。
氏真《うじざね》は、暗愚だったので、徳川家へも、武田家へも、兵を向けられるよい口実を多く与えていた。いかに乱国でも、名分のない戦《いくさ》はできなかったし、また、名分のない戦が遂に勝てないことは、将たるほどの人物なら、誰でも弁《わきま》えぬいているので、そういう名分を敵につかまれる政治をしていた氏真は、何といっても、先の見えない暗愚な将でもあり、故義元にとっては、不肖《ふしよう》な世継《よつぎ》であったといわれても仕方がない。
で、大井川を境に、駿河一円は、武田家の有《もの》となり、遠州は、徳川家の領になった。
永禄十三年の正月、家康は、岡崎の城に、竹千代をおいて、自分は遠州の浜松のほうへ移った。
二月になると、信長から祝賀の使者が来た。
「自分も去年は、宿志を展《の》べて、いささか寸功を挙げたが、御身におかれても、一躍、遠州の肥沃《ひよく》を御領土に加えられて、歓びこの上もない。併せて、織徳《しよくとく》両家の同盟のうえにも、一層、強固を加えたものと存ぜられる」
そういった意味に、書中の祝詞《しゆくし》は陳《の》べられてあった。
こえて、その月の二十五日、家康は、信長の誘いで、京都へ上ることになった。――洛中の春を愛《め》でながら、花の下《もと》に、少々日頃の疲れを慰め合おうではないか。――表面はそういうことだったが、同盟の二国主が、伴《つ》れ立っての上洛なので、世上ではまた、
「何事かあるな」
と、政治的な眼で見ていた。
けれど、信長のこんどの旅は、実に華美でまた悠長であった。途々《みちみち》、家康のために、鷹《たか》を放って、終日《ひねもす》、野に鷹狩をして遊んだり、夜は、里人《さとびと》の俚謡《りよう》や土俗舞を客舎に演じさせて酒宴したり、いかにもただ旅を楽しむための旅としか見えなかった。
信長と家康が着京の日、京都守備の任にある木下藤吉郎は、大津までそれを迎えに出た。
「これは、藤吉郎秀吉と申し、清洲《きよす》以来の家臣でござる」
信長が家康へひきあわせると、
「いや、疾《と》くから存じています。初めて、この方《ほう》が清洲へ伺った折、大玄関へ迎えに立たれた諸士の中におられた。あれはもう桶狭間《おけはざま》の御合戦の翌々年、だいぶ前になりましたな」
と、家康は、しげしげ藤吉郎をながめて笑う。藤吉郎は、その記憶力のよいのに驚いた。
家康はことし二十九。主君信長は三十七歳。――そして自分は、三十五になる。まさに十年まえのことだと思う。
京都に落着くと、信長は第一に、改修中の御所の工事を督励《とくれい》に行った。
「来春までには、内裏《だいり》にいたるまで、悉皆《しつかい》、落成の予定にござります」
と、朝山日乗《あさやまにちじよう》、島田弥右衛門の両奉行は、案内に立って陳《の》べた。
「費《つい》えを惜しむな。久しい御荒廃の後じゃ」
信長がいうのを、そばで聞いていた家康が、
「かくも、未曾有《みぞう》な御奉公を事実の上にあらわし得たあなたは、まことに、うらやましいお立場である」
と、いった。
信長は、謙遜せず、
「そうです」
と、自分でも認めるようにうなずいた。
去年|入洛《じゆらく》の時は、朝廷の御料地の回収令を出したが、ことし信長はまた、
(末代までも御賄《おんまかな》いの調《みつぎ》の絶えないように)
と、朝廷の御経済を、今までの料地上納《りようちじようのう》から金本位に訂正した。――つまり洛中洛外の諸商人に、公金を依託して、その金利を年々収めることにしたのである。
公領から上がる御料では、なおまた各地の乱に乗じて、武力や土寇《どこう》のため掠《かす》め取られる惧《おそ》れがあり、それでは真に宸襟《しんきん》を安んじ奉ることにならないと考えたからであった。
こうして、御所の造営と共に、朝廷の経済も革《あらた》まった。応仁以来の妖雲も、天の一角から明るくなった。天皇の宸悦《しんえつ》あらせられたことはいうまでもない。信長の心からな忠誠はまた、より多く、民衆の心を打った。
上《かみ》を安んじ、下《しも》の和楽をながめながら、信長もその間《ま》に、この二月の春を、家康と共に、心から楽しんだ。
花に遊び、茶を点じ、舞楽をなし、うつつなき人のようによく遊んだ。
誰か知ろう、実は、そのあいだに、彼の心には、次の苦艱《くかん》を突きぬく用意ができていたのである。
信長が、行動を起した時は、もう新たな事態が地上に建っている時で、実は彼が手枕で眠っている間に、その設計と次に打つ手はあらまし形を進めているのであった。
四月の二日。
突然、招状をうけて、諸将は義昭《よしあき》将軍の第《てい》に会合した。評定の間《ま》の広やかな席いっぱいに、人々は、何事かと列していた。
「越前の朝倉家について」
と、信長は、その席上で初めて、この二月以来秘めていた意中を打ち割って、一同へ諮《はか》った。
「彼は、昨年来、幾たびの催促《さいそく》にも、将軍家の令を無視し、また、朝廷あることを知らず、皇居の御造営にも、一材の奉仕すらしておらぬ――しかも身は柳営《りゆうえい》の御相伴《ごしようばん》衆として、譜代《ふだい》、職にありまた、天恩に浴しながら、一門の栄華と遊惰しか思わない有様である。――その罪を糺《ただ》し、誅伐《ちゆうばつ》の兵をひいて、信長自身、参ろうと存ずる。各※[#二の字点、unicode303b]の考えはどうあるか」
信長の言は、信長個人の言とは聞えない。大義の声である。大義に対して、
「否」
と、いう者はない。
将軍家の直属のうちには、多少、朝倉家と旧交のある者もあり、暗に、庇護していた者もあるが、大義の代弁者に、
「それは理がちがう」
ともいえなかった。また、大部分の者が、信長の言下に、
「一議にも及ばず」
という賛意を率直にあらわしたので、その大勢に圧《お》されて、口をつぐんでしまうほかはなかった。
朝倉攻め! 北国遠征!
大きな問題だったが、一決したのは、極めて短時間のうちであった。
しかも、軍旅は即日に発令されて、その月二十日にはもう江州坂本に勢ぞろいは催され、近畿、尾濃《びのう》の兵に、徳川家康の三河武士八千を加えて、およそ十万と称する軍勢が、鳰鳥《におどり》の渚《なぎさ》に遊ぶうららかな晩春四月の湖畔数里にわたって、雲霞《うんか》のごとく集まった。
信長は、閲兵《えつぺい》して、
「見よ。北国の山々の雪も消えた。ゆくては、これからが春のさかりだぞ」
と、北の山脈を指さした。
藤吉郎も、若干《じやつかん》の兵をひいて、その軍にあったが、
「さてはこの春、徳川殿と都で遊んでおられたのは、北国越えの雪解《ゆきげ》を待っておられたのだな」
と、うなずいたことだったが、より以上、信長の才腕と思ったのは、家康を都見物と誘っておいて、それとなく自分の実力と業績を認識させ、家康のほうから進んで加勢を惜しまぬように仕向けた主君の肚芸《はらげい》であった。
「またたく間だ! 世の乱脈も、あの御器量の掌《て》に、忽ち統一されよう」
藤吉郎は、そう信じた、そしてこの戦《いくさ》の意義を、必然、やらなければならない戦であることを――誰よりもよく分っていた。
しかし、藤吉郎ぐらいな階級の将校たちの間では、そういう着眼などはさて措《お》いて、もっぱらこんな会話がやりとりされていた。
「徳川殿に従う三河衆は、尾濃の将士に笑わるるなと、各※[#二の字点、unicode303b]、腕を撫《ぶ》しておるそうな。われわれとても同様、三河武士におくれては名折れだ。末代にかけて恥かしい。しっかりやろうぞ」
励みあって、まだ戦場に臨まぬうちから、名と功《てがら》を競っていた。
軍の方向は。
江州高島郡から若狭《わかさ》の熊川をこえて、越前の敦賀《つるが》をさして進むのだった。行く行く、敵の砦《とりで》や関を焼き立て、山また山をこえて、月のうちに、敦賀まで攻め入った。
朝倉方では、
「よも、ここまでは」
と、かなり多寡《たか》をくくっていたのである。つい半月前まで、洛中の花に、洛外の花に、うつつなく遊び暮していた信長が、にわかな軍備にかかったと早打があってもまだ、月のうちに、その旗幟《きし》を、自分の領内で見ようなどとは、夢にも思われなかったのである。
王族より出て、但馬《たじま》の豪族となり、足利尊氏《あしかがたかうじ》を扶《たす》けて、後、越前一国を領し、文明年間から、ここに根を張り拡げて、
北国随一の旗頭
と、自他共にゆるし、室町将軍の御相伴《ごしようばん》衆という位置、また、財力に豊かな点や、兵力の多数を恃《たの》んで、
(ならぶ者なき北土の名門)
と、驕《おご》っていた朝倉家であり、当主の義景であった。
すでに、信長は敦賀《つるが》まで来た、と聞いた時も、まだ義景は、
「うろたえるな。何ぞ、間違いであろう」
と、注進の者を、叱りつけたほどであった。
敦賀を陥《おと》した織田軍は、そこを根拠地として、金ケ崎と、手筒《てづつ》の二城へ、攻略の手をのばした。
「光秀は、いずれの手勢にあるか」
信長の訊ねに、
「明智どのは、手筒《てづつ》ケ峰《みね》の先鋒をうけたまわっておりまする」
と、側の者が答えた。
「呼びかえせ」
伝令の黒母衣《くろほろ》を負った一騎が、命をおびて、すぐ本陣から急いだ。
「何事か」
と、光秀は、いそいで前線から引っ返して来た。信長は、彼のすがたを見ると、
「そちは、越前に永く住いしていたこともあり、わけてこの地方から朝倉家の本城一乗谷の地の理には悉《くわ》しいはずであるに、何故、信長に献言もせず、小さい先鋒の功名などを争っておるか」
と、いった。
光秀は、はっと、何か胸のうちを信長に衝《つ》かれたように、頭を下げて、
「御命《ぎよめい》なれば、いつなりと、地の図をひいて、尊覧《そんらん》に供えます」
「なぜ、いいつけを待たねばせぬか」
「御軍勢のうちに加わりながら、異心あるやに似たような申し方にござりますが、たとえ、わずかな年月でも、かつて朝倉家の粟を喰《は》んだことのある光秀。――御推量くださらばありがとうぞんじます」
「う、うむ」
信長は、かえって、彼の心根を欣《よろこ》んだ。そういう心根は、やがて自分にも、頼もしい家臣といえるからである。
「では、改めて命じる。手許にあるこの絵図は、余りに粗雑でもあり、どうやらだいぶ間違うている個所もあるやに思われる。そちの所持する地の図と、照しあわせ、加筆してさし出すように」
「承知いたしました」
光秀の手には、信長の手許のものとは、比較にならないほど、細密な地図があった。彼は、いちど退って、休息した後、自分の地図のほうを信長へ献じた。
「そちは、余の帷幕《いばく》にいて、地勢を按《あん》じ、また、参謀として、軍議にもあずかるがよい」
信長は、以来、彼を本陣から離さなかった。
朝倉方の一将、匹田右近《ひつたうこん》が守るところの手筒《てづつ》ケ峰《みね》の城は、まもなく陥落した。――けれど、金ケ崎は、たやすく陥《お》ちなかった。
金ケ崎の城には、朝倉義景の一族の朝倉|景恒《かげつね》が踏みとどまっている。景恒は、当年わずか二十七歳の弱冠であったが、幼少の時、僧になっていたのを、
(あの筋骨と、天生の武略を、僧門におくのは惜しい)
といわれて、還俗《げんぞく》を強いられ、直ちに、一城を持たせられたほど、朝倉家の中でも、群をぬいていた人物だった。
佐久間、池田、森などという織田の驍将《ぎようしよう》が指揮する四万余の兵にかこまれながら、なお景恒は、時々、余裕のある姿、顔を、城の櫓《やぐら》に見せて、
「ものものしや」
と、微笑していた。
「なんの、一気に!」
と、ばかり、森、佐久間、池田の先鋒が、総攻撃にかかって、城壁へ、血しぶきを打《ぶ》つけて、蟻《あり》のごとくしがみついた終日の戦いの後――その死者をかぞえてみると、敵方三百余人に対して、味方の死骸は、八百をこえていた。
しかも、金ケ崎の城は、その夕べも、大きな夏の月の下に、厳然《げんぜん》と、不抜《ふばつ》な相《すがた》を持っていた。
「これは陥ちない。――いや、陥ちても、味方の勝利にはなりません」
藤吉郎は、その夕方、信長の前へ来て云った。信長の顔にも、やや焦躁があった。
「どうして、この城を陥《おと》しても、味方の勝利にならんというか」
こういう場合は、信長も自然、不きげんでないわけにいかなかった。
「さればです」
と、藤吉郎はすぐ答えて――
「この一城を陥したところで、越前が亡ぶわけではありません。この一城を抜いたところで、にわかに、わが君の武威が増すわけでもありません」
信長は、彼の弁を、云《い》い塞《ふさ》ぐように、早ことばで、
「だが、金ケ崎を突破せずに、前へ進むことはなるまい。左様な無謀は、好んで腹背に敵をまわし、自ら死地に入るものだ」
「もとより、そんな無策を、おすすめ申す次第ではありません」
云いかけて、藤吉郎は、ふと横をふり向いた。
そこに家康が来て、佇《たたず》んでいたからである。
彼は、家康のすがたを見ると、あわてて身を退《ひ》いて一礼した。――そして家康のために、敷物を持って来て、信長のそばへ座をすすめた。
「かまいませんか」
家康は、信長へたずねてから、藤吉郎の設けた席へ坐った。けれど藤吉郎には、一顧《いつこ》の会釈《えしやく》もしなかった。
「何か御協議中のようでござるが……」
家康がいうと、
「いや、これにおる者が――」
と、信長は藤吉郎を頤《あご》でさして、金ケ崎の攻撃は意味のない戦だというので――と、やや面《おもて》を和《やわ》らげて、ありのまま、家康に語った。
家康は、
「うむ。むむ……なるほど」
と、うなずきながら、じっと、藤吉郎の顔ばかり見ていた。
主君の信長より、八ツも年下の家康であるが、藤吉郎の眼には、あべこべ[#「あべこべ」に傍点]に見えてならなかった。――自分を正視しながら、幾度もうなずいている振りや眼《まな》ざしは、どうしても二十《はたち》だい[#「だい」に傍点]の人と思えなかった。四十にも五十にもなる大人《おとな》のような感じをうけた。
「それは、木下の申す言葉に、この家康も同感です。――これ以上金ケ崎一城に、日を費やすのも、兵を損じるのも、策を得たものではありませぬ」
「では、なにか、それをなさずに、敵の本拠へ迫る御案がありますか」
「まず、木下へいわせてごらんなされい。その男、何か考えておるに違いありますまい」
「藤吉郎」
「はい」
「そちの策を申せ」
「策などありません」
「なに」
驚きの眼をしたのは、信長だけではなかった。家康もすこし異《い》な面持《おももち》をした。
「城内、三千の兵をもって、お味方の十万の大軍もうけようと、決死の念にかたまっている城壁です。小城とはいえ、容易に陥ちるわけもなく、また、策など用いても、ぐら[#「ぐら」に傍点]つく筈はありません。――ただ人間の真情と誠意だけは、先も人間である以上、感じるだろうと思われるだけです」
「始まったな」
信長は、それ以上、ここで藤吉郎の舌をうごかさせたくなかった。礼を厚く、最高の味方とは遇しているが、家康はあくまで三遠二ヵ国の主将であって、織田家の内輪の人ではない。――また、藤吉郎が何を考えているか、綿密に語るのを聞いた上でなければ、彼を信じられないほど、藤吉郎の器量を知らない信長でもなかった。
「よい。もうよい。――何か思うところがあるなら、そちに任す。やりのけてみい」
「ありがとうぞんじまする」
何でもないことのように、藤吉郎はひきうけて出て行った。
彼が単身、敵の城中へ行って、城将の朝倉|景恒《かげつね》と会っていたのは、その夜だった。
「君も、兵家の子なら、戦《いくさ》の目先は見えていよう。勝敗の数はもはや歴然、これ以上、頑固な抵抗は、ただ惜しむべき士卒を屍《かばね》にするだけである。わけて、それがしは御身の犬死を惜しむ。――それよりは、きれいに城を開いて後退し、御主君の朝倉義景どのと合し、ふたたび新戦場でお眼にかかろうではないか。城内の財宝、武具、女子ども、すべてそれがしが身にひきうけて、安々とお送り申すであろう」
と、彼は、まだ二十七歳という若い城主の景恒に、胸を割って告げたのであった。
「戦野をかえて、他日また、改めて出会おうとはおもしろい」
景恒は、彼の勧告をいれて、城を出た。
藤吉郎は、十分、士礼を執って、敵の退却に、あらゆる便宜を与え、城外一里まで見送った。
金ケ崎の始末は、わずか一日半で片づいた。しかし信長は、藤吉郎から、
「かように致しました」
と、いう報告をうけると、
「そうか」
と、いっただけで、大して賞《ほ》めもしなかった。
信長の顔いろから察しると、余りに彼の働きは、
「出来《でか》し過ぎておる」
と、思っているような容子《ようす》であった。
殊勲は殊勲としても、そこには程度がある。誰が認めても、藤吉郎の大功は、否定すべくもない大功にちがいないが、その上にも信長が、
「よくした。出来《でか》した」
と、褒《ほ》めそやしたら、先に八百余の兵を死なせて、敵の数倍にあたる軍勢で攻めに攻めても、陥《おと》すことのできなかった池田、佐久間、森などの諸将は、何の顔容《かんばせ》あって信長にまみえんや――という面目もない立場になってしまう。
藤吉郎もまた、信長以上、そういう諸将の気もちには、敏感なほうである。――で、彼はその報告に際しても、それを自分の考えでしたこととはしなかった。信長の命に依ってしたように、後から云いたした。
「おいいつけの如く、諸事、取り運んだつもりでございますが、何分、急な御秘命、不手際《ふてぎわ》のところは、お宥《ゆる》しを仰ぎまする」
と、詫びて退《さが》った。
諸将のほかに、家康も信長のそばにいた。家康は、
「……むむ」
と、肚のそこで、嘆息しながら、藤吉郎の退《さが》ってゆく後ろ姿を見入っていた。
家康は、この時から、自分と年配もそう隔てていない、怖るべき人物が、同じ時代に生れ合わせていることを知った。
――一方。
金ケ崎を捨てて退陣した朝倉|景恒《かげつね》は、一乗谷の本城に合して、ふたたび信長の軍と地をかえて、雌雄を決せんと急いで来ると、その途中で、朝倉義景が、二万の兵をひいて、金ケ崎の救援に駈けつけて来るのと出会った。
「しまった」
と、景恒は、敵の勧告に従って、城を出たことを悔いたが、間に合わなかった。
「なぜ、戦わずに城を捨てた」
と、義景は憤《いきどお》ったが、ぜひなく両軍を併《あわ》せて一乗谷の本城へひっ返した。
信長は、大挙して、木目峠《きのめとうげ》まで押しよせてきた。
そこの嶮《けん》を突破すれば、朝倉家の根拠地は、もう眼の下にあったのである。
ところが。
飛報は、織田の遠征軍を、愕《おどろ》かせた。
朝倉家とは、祖先以来、互いに結び合っている江州の浅井長政が、湖北の兵をすぐって、退路を断《た》った――という早打だった。
また、それに呼応して、甲賀の山地から、先に信長のために敗亡を喫した佐々木|六角《ろつかく》も起って、
――織田の側面を突け。
とばかり、続々、兵をすすめて来るともいう。
遠征軍には、腹背の敵である。前面の朝倉勢は、そのせいか、士気|旺《さか》んで、ともすれば、一乗谷を出て、猛烈に反撃して来そうな勢いに見えた。
「――死地に入った」
信長は、直感した。兵法の上から見れば、まさに、自分のひきいている遠征の大兵は、完全に、必殺の方位《ほうい》を破っている。敵国の中に墓を求めているに等しいことを覚《さと》った。
そう彼がにわかに恐れたのは、佐々木六角や浅井長政が、背後を扼《やく》したというだけのものではない。信長が骨髄から恐怖したのは、この地方に夥《おびただ》しい巣窟《そうくつ》を持っている本願寺門徒の僧兵がみな、
「侵略者を討て」
と、反信長の旗幟《きし》を、諸方で翻《ひるがえ》したと聞えたからであった。
突。天候が変ったのである。
遠征軍は、沖へ出た舟だ。
「総退却!」
方針はすぐきまった。
けれど十万の大退口《おおのきぐち》を、どうとるか、由来、前進はやすく、後退は難しい、と兵家も訓《いまし》めている。――まちがえば、全軍|殲滅《せんめつ》の憂き目に遭う。
「殿軍《しんがり》の役、それがしにお命じください。そして殿には、多勢を連れず、朽木谷《くちきだに》の間道から、夜にまぎれて、死地を脱せられ、暁へかけて、その余の味方も、一路京へおひき揚げあるがよいかと思います」
一|刻《とき》たてば、一刻ほど危険は濃くなってくる。
その日の夕方。
信長は、森、佐々《さつさ》、前田などの旗本に、わずか三百の手勢をつれたのみで、道もない山間《やまあい》や渓谷《けいこく》を伝い、熊川から朽木谷方面へ、夜どおし逃げた。
幾たびか、門徒の僧兵や、土賊に襲撃され、二日ふた晩ほどは、まったく飲みも喰いも眠りもしなかった。――そして四日目の夕方ようやく、京都へ帰りついたが、何しろほとんどの者が、半病人のように疲れはてていたという。
が、まだそれらの人々は、いい方であった。もっとも悲壮だったのは、自分から殿軍《しんがり》をひきうけて、味方の大軍が、退口《のきぐち》を取った後も、わずかな手勢と共に、金ケ崎の孤塁に残った藤吉郎であった。
さすが、その時ばかりは、日頃から彼の立身をそねんで、詭弁家《きべんか》であるとか、成上がり者とか、陰口ばかりいっていた同僚の将も、
「たのむぞ」
「おぬしこそは、織田家の柱石《ちゆうせき》だ。真《まこと》の武士だ」
などと、それぞれ心から訣別《けつべつ》の辞をのべに来て、銃器、弾薬、食糧などを、みな彼の陣へ、与えて行った。墓場へ花や供物《くもつ》を捧げるように、置いて行ったのであった。
「二度とこの世では――」
去る者も、残る者も、真実そう思ったことであろう。そして、信長が朽木越えした夜の翌朝から、白昼にかけて、柴田勝家、坂井右近、蜂屋兵庫《はちやひようご》、池田勝三郎などの面々、九万の味方は、徐々に退口《のきぐち》を落ちて行った。
それと見て。
朝倉勢が、追撃にかかると、藤吉郎は、その側面をつき、背後を脅《おびや》かし、とうとう首尾よく味方の全軍を、死地から脱出させ終ると、金ケ崎の城に籠《こも》って、
「我れここに終らん」
と、決死の意気を示して、固く城門をとじて、あるだけの食糧を喰べ、眠るだけの眠りをとって、この世の名残《なごり》を告げているかに見えた。
寄手は、朝倉家の猛将、毛屋《けや》七左衛門であったが、決死の兵にぶつかって多くの味方を損じるよりもと、遠巻きにして、完全な包囲形を作っていた。
ふた晩めの、夜半だった。
「夜襲ッ」
と、聞えたので、さてはと、かねての備えを展開して、慌《あわ》てもせず、闇にうごく敵を、総軍で押しつめると、寡兵《かへい》な木下方は、さんざんに敗れて、逸《いち》はやく、金ケ崎の城中へ、逃げこんでしまった形勢である。
「敵はもはや、死を観念し、死のうと躁《さわ》ぎはじめたぞ。この機を衝《つ》けッ。――明け方までに攻め落せ!」
ひたひたと濠際《ほりぎわ》に詰め寄せ、筏《いかだ》を組み、水を渡り、何千の兵が、またたく間に、石垣へ取りついた。
そして、七左衛門の叱咤《しつた》したとおり、夜明けと共に、金ケ崎を陥《おと》した。
――だが、なんたることだろう。
城中には、木下勢は、一兵もいなかった。旗は立っている、煙もうごいている。馬匹も嘶《いなな》いていた。けれど藤吉郎はいなかった。
ゆうべの夜襲は、夜襲が目的ではなかったのである。城中へ逃げこむと見せて、藤吉郎を先に、殿軍《しんがり》の一隊は、風の如く、万死の中から活路《かつろ》を求めて、すでに、国境をめぐる山岳の彼方へ、
「死ぬな! 死ぬな!」
と、ばかり、今朝あたりは、朝陽《あさひ》を仰ぐ遑《いとま》もなく、逃げに逃げぬいている頃だった。
毛屋七左衛門ともある猛将とその士卒は、もちろん唖然《あぜん》としたままで、彼を見送ってはいなかった。
「手配を」
「追い討ちをッ」
と、すぐ諸方へ伝令を飛ばしながら、木下勢を追いかけた。
藤吉郎以下の者は、三国山脈の深くへ退路をとり、一夜中、飲まず喰わずの退却をつづけていたが、
「虎口《ここう》はまだ脱したとはいえないぞ。弛《ゆる》むな、居眠るな、渇《かつ》を考えるな。――ただ生きよう生きようという大慾を出せ」
と、誡《いまし》めながらなおも歩きつづけていた。
案のじょう[#「じょう」に傍点]毛屋勢は追いついて来た。敵の喊声《かんせい》をうしろに聞くと、藤吉郎は、
「あわてなくともよい」
初めて、少しの間の休息を号令し、そしてまた、士卒へ告げた。
「ばかな敵だ。高地にあるわれわれへ、谷間から鬨《とき》をあげて、登ってきた。味方も疲れているが、敵は、怒りにまかせて追って来たから、なお、疲労しているにきまっている。――程よい所まで登って来たら、岩石を投げ浴びせろ、槍をそろえて突き落せ」
彼の事理明白なことばに、疲れてはいたが、部下は、自信を持った。
「来いッ」
と、待ちかまえたものである。
毛屋七左衛門の追討は惨憺《さんたん》たる失敗に帰した。岩石や槍の下に、無数の犠牲者を積んでしまった。
「退《ひ》けッ、退けッ」
と、声もしゃ[#「しゃ」に傍点]嗄《が》れ果てた号令が、敵方の谷間で聞えた。――藤吉郎もまた、真似《まね》るように、
「それッ、今だッ、退《ひ》けや、退けや」
と、南の低地へ向って逃げ出した。
残兵をひきいて、毛屋勢はまた追って来た。実に執念ぶかいのである。しかし、その追討ちの敵はもう余力もよほど弱っていたが、若狭《わかさ》の高島郡から江州への中山越えにかかる山中で、突然、この地方の本願寺門徒の僧兵が襲撃して来て、
「通すな」
「やるな」
と、道を遮《さえぎ》り、道を交《か》わせばまた、左右の沢や森林から、矢を放ち、石を投げ、虚を突いて、うるさく攻めて来た。
「参った――」
と、藤吉郎も、思いかけた。
だが、生きんとする大慾心をふるい起すのはこの時だと、へたばり[#「へたばり」に傍点]かける肉体を反撥《はんぱつ》して、
「運不運、死も生も、天にまかせて西の沢から駈け下りろッ。渓流に沿って逃げるのだッ。あの水は琵琶《びわ》湖へさして落ちてゆく。あの水の早さほど走れよかし。――命びろいは、早いもの勝ちだぞ!」
戦えとはいわないのである。いかに藤吉郎でも、二日二晩の不眠不休をつづけている飢餓《きが》の兵を用いて、法師武者《ほうしむしや》の数知れない伏兵を打ち破ろうなどとは思わない。
むしろ、この際、彼の胸は、このいじらしい手勢の中から、一兵でもよけいに助けて都まで帰してやりたい――。そういう気もちでいっぱいだった。
大慾は大勇猛心を出す。生きようとする以上の勇気はない。藤吉郎の命令一下、
「わあッ」
と、飢《う》え疲れた兵も、凄まじい勢いで、一方の沢を逆落《さかおと》しに突破した。
無茶である。戦法とも捨身ともいえない乱暴さだった。なぜならば、檜林《ひのきばやし》の窟《いわや》には、やぶ蚊のように、僧兵がかくれていたのだ。わざわざ敵の中を駈けて通ったようなものだった。
が、かえってそれが、敵の虚をついて、用心ぶかい敵の伏兵陣を支離滅裂《しりめつれつ》に踏みやぶったのである。駈け込む時は、てんやわんや[#「てんやわんや」に傍点]であったが、渓流に沿って南下する方角は一致していた。
「琵琶湖が見えた!」
「命はあったッ」
喊呼《かんこ》して、翌る日は、京都へはいった。しかし、信長の館《やかた》に近づくと、一人として、槍を杖にも、立って歩ける兵はなかった。
おとといから、信長以下、続々と辿《たど》りついて来る将士を迎えるに忙《せわ》しかったそこの門と、留守の侍たちは、涙しながら彼らを肩に扶《たす》け、水や薬を与え、そして口々に慰めた。
「ありがとう。お礼をいいます。……よくぞ生きて還って下された。神にみえる。あなた方の姿が、神々に見える……」
[#地付き]新書太閤記 第三巻 了
吉川英治歴史時代文庫24『新書太閤記(三)』(一九九〇年五月刊)を底本