吉川英治
新書太閤記(七)
[#表紙(表紙7.jpg、横140×縦140)]
目 次
雛《ひな》の客《きやく》
武人宗治《ぶじんむねはる》
備中《びつちゆう》に入《い》る
城乗《しろの》り一番《いちばん》
市《いち》
元祐《もとすけ》の妻《つま》
さみだれ雲《ぐも》
土と人
饗《きよう》 宴《えん》
心《しん》 闇《あん》
鳰《にお》の宿《やど》
わくら葉《ば》
叡山復興《えいざんふつこう》
昼《ひる》ほととぎす
薬狩《くすりが》り
白河越《しらかわご》え
愛宕《あたご》参籠《さんろう》
鬮《くじ》
みじか夜
無用《むよう》の用《よう》
翠紗《すいしや》の内《うち》
老《おいの》 坂《さか》
本能寺界隈《ほんのうじかいわい》
夜《よ》ばなし
南《みなみ》
燈情風心《とうじようふうしん》
九本旗《くほんばた》
鼓《こ》 譟《そう》
一杓《いつしやく》の水《みず》
推《すい》 参《さん》
寂《じやつ》 火《か》
遠浦帰帆《えんぽきはん》
檄《げき》
二条三門記《にじようさんもんき》
近衛殿《このえどの》の屋根《やね》
いのち
又学舎《ゆうがくしや》
波波波《なみなみなみ》
家康《いえやす》の場合《ばあい》
雲団々《くもだんだん》
憤《ふん》 涙《るい》
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新書太閤記(七)
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雛《ひな》の客《きやく》
備前《びぜん》岡山の城はいま旺《さか》んなる改修増築の工事にかかっている。
ここの町を中心として、吉備平《きびだいら》の春を占めて、六万の軍馬が待機していた。
「いったい戦争はあるのかないのか」
熟《う》れる菜《な》の花《はな》を見、飛ぶ蝶に眠気《ねむけ》を誘われ、のどかな町の音響や、城普請《しろぶしん》の鑿《のみ》の音など聞いていると、将士は無為《むい》に飽いて、ふとそんな錯覚すら抱くのだった。
三月上旬の三日。――すでにかの甲州《こうしゆう》方面では、信長、信忠の指揮下に、大軍甲信国境からながれこんで、ちょうどこの日、武田|勝頼《かつより》は運命の非を知って、その拠城|新府《しんぷ》にみずから火を放ち、簾中《れんちゆう》そのほか一門の女性までが、天目山《てんもくざん》のさいごへさして、炎々の下から離散を開始していた日である。
だが、ここの岡山は、折ふし上巳《じようし》の節句《せつく》とて、どこのむすめ[#「むすめ」に傍点]も女房たちも、桃の昼に化粧《けわい》をきそい、家の内には、宵に燈《とも》す雛《ひな》まつりの灯や、盃事《さかずきごと》の調べなどして、同じ天《あめ》の下《した》ながら、地上はまるで別な世かのように平和であった。
「おや。お早打《はやうち》が」
二騎、町木戸から、ほこりを立てて、城門の方へ駈け去った馬蹄《ひづめ》の音にも、さして事々しく、天下の急変の前駆《ぜんく》とは、耳そばだてる者もなかった。
――が、城門の前へ、弾丸のように駈けついた使者は、
「黄母衣《きぼろ》の者、山口|銑蔵《せんぞう》ですッ」
「同じく、松江伝介。ただ今もどりました」
と、番の者へいう大声にも息を喘《あえ》いで、こんどは二人同音に、
「甲州御陣へお使いして、今日帰着。通りますッ」
と、どなる。
番の将士がわらわらと出て来てふたりの側へ寄り集まった。何事かと思うと、たちまち一人の将は、
「やあ、御苦労。御大儀」
と、ふたりの肩をたたいてねぎらい、その部下たちは、馬を取って、内へ曳き入れ、また使者の袖や背の埃《ほこり》を払ってやるのもあるし、汗拭《あせふき》を与えて宥《いたわ》るもあるし、口々に、
「お早いことで」
「遠国から一息に、大変だったでしょう」
「さあ、あれにて、湯なと召し上がれ」
と、その労を慰めた。
だが、使者は、髪なで直すと、すぐ足を早めて、
「一刻もはやく、君前におこたえをすまさねば」
と、馬をそこに捨てて、もう足は駈けていた。
秀吉はそのとき、岡山城の本丸の一室で、ことし元服したばかりの宇喜多|直家《なおいえ》の子秀家と共に、その秀家の妹たちから招かれて、雛《ひな》のお客になって遊んでいた。
八郎という幼名を、秀吉から名をもらって、秀家と改め、加冠《かかん》したのはついこのあいだである。秀吉はこの遺子《いし》たちを遺《のこ》して死んだ直家の心を思いやって、わが子のように、日常左右においていた。
その妹たちはなお幼い。もとより雛のお客のもてなしは、侍《かしず》く女たちがすべてするのであったが、秀吉は彼女たちが|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》として離れないほど歓《よろこ》んで見せた。兄妹はいつのまにか自分たちのよい友達みたいに思って、秀吉の背なかへ絡《から》みついたり、小さい手に杯を持って、
「もう参れぬ。参れぬ」
と、酔うた振りして謝りぬく秀吉の唇へ、むりにそれを押しつけたりして、さながら狆《ちん》と狆のように戯《ざ》れ合《あ》っていた。
福島市松が次の間まで来て秀吉へ告げた。
「殿。……殿」
「なにか」
「先頃、甲州御陣までお遣わしあそばした使者たち両名。ただいま戻りました」
「お。山口|銑蔵《せんぞう》、松江伝介のふたりが帰って来たか」
これは人知れず待ちかねていたものらしく、屹《きつ》と、われに回《かえ》ったような容子《ようす》を示し、
「鷺《さぎ》の間《ま》へ待たせておけ」
と、すぐ起ちかけた。
秀家の妹や女童《めわらべ》たちは、まだ戯れて止まず、その袖を持ったり、肩にからんで、
「いや。いや」
と、かぶりを振り、駄々をこね、秀吉が困った顔をすると、なお離さなかった。
「市松、市松」
「鷺の間へ参るついでに、わしがいいつける。そちは、この女童《めわらべ》たちと遊んでいてやれ」
「……は」
「なんという顔をするのか」
「それがしは、女の子などと、遊ぶ術《すべ》は知りませぬ」
市松ももう一かどの大人と自負している。そんな御用を承るのは武人の心外であるといわぬばかり。また、いつまでも洟《はな》をたらしていた頃のおつもりでは迷惑|仕《つかまつ》る――と云いたげな構えである。
秀吉はくつくつ笑って、
「遊ぶ術《すべ》など知らんでもよい。わしの代りにここへ坐って、雛《ひな》の客になっておればよいのだ。女童《めわらべ》たちの玩具《おもちや》になって神妙にしておればすむ」
「戦陣の我慢ならば、如何ようにもいたしますが、左様な忍耐は市松のよくするところでございません。余人に仰せつけねがわしゅう存じます」
「女の子はきらいか。そちは」
「はい。きらいです。どうかすると撲《なぐ》りたくなることもあります」
ちか頃、家中でも、また宇喜多家の諸臣のあいだでも、市松は評判がよい。鳥取城や上月城《こうづきじよう》で、功《てがら》をあらわしたことも聞えている。将来ある若武者、よい骨がら[#「がら」に傍点]である。などと多少おだて[#「おだて」に傍点]気味な声も当人の耳にはいっている。そんな加減か、めっきり成人し、顔にはぼつぼつ面皰《にきび》まで誇示している。時々、秀吉にも手におえ[#「おえ」に傍点]ないことがある。自分と秀吉とは親戚のあいだだという気持がそのうらにあることはいうまでもない。
秀吉は舌打ちして、
「たれだ。廊下にいるのは」
「虎之助にございます」
「ああ。そちがいい。虎之助これへ来い」
「はい」
「聞いていたであろう。於市めは嫌だと申す。おまえ、代りにここにおれ。雛の客になってつかわせ」
「はい」
「よいか」
「かしこまりました」
秀吉が起ったので、市松もあわてて起った。唯々《いい》としてそこへ坐った虎之助を軽蔑《けいべつ》するように、しり[#「しり」に傍点]目をその背へくれて。
鷺《さぎ》の間《ま》は密室である。何か極秘の用談だけを訊くところとされている。山口銑蔵と松江伝介がそこへ入って慎んでいるとすぐ、
「帰ったか」
と、秀吉もすぐ座についた。
銑蔵はふところから一書を取り出して秀吉の前にさしおいた。元より二重三重に桐油《とうゆ》紙につつんである。自身、秀吉は上紙《うわがみ》をのぞき、また封を切って、
「ああ、久しぶりに、御筆蹟を拝む」
と、まず披《ひら》くに先だって、額《ひたい》に押しいただいた。織田右府信長の直書《じきしよ》であることはいうまでもない。
見終って、
「たしかに」
と、秀吉は、信長の書を、自身のふところに奉じ、それから使いの労を犒《ねぎら》った。
「大儀であった。退《さが》って休息いたすがいい。――が、信州甲州にあるお味方は、みな赫々《かつかく》と戦果をあげておるか」
「ほとんど、破竹の勢いと申してもよいほどでございます。私どもが立ち帰る頃、すでに信忠卿の軍は、諏訪口《すわぐち》へ入ったと聞えておりました」
「さすがは、御威光である。信長公みずから御出馬の戦《いくさ》。そうなくてはならん。右府様にもいよいよお元気にお見上げ申したか」
「はい。このたびの甲州入りは、時も春、峡山《きようざん》の花見にひとしい。帰途は東海道に出、富士見物の御予定などと――これは侍側の方々から伺ったことですが、余裕綽々《よゆうしやくしやく》たる御陣中の様であると承りました」
「そうか。いや大儀。はやくやすめ」
任務をこれでおわった二人は、初めて疲労を姿にあらわしながら退出した。
が、秀吉はなおそこにいた。襖絵《ふすまえ》の白鷺《しらさぎ》を見つめている。白鷺の眼だけに黄色い彩具《えのぐ》が塗ってあった。鷺が彼を睨んでいるようでもある。
「……やはり官兵衛かな。官兵衛をつかわすしかあるまい」
つぶやくと、小姓を呼びたてた。石田佐吉《いしださきち》がまかり出た。佐吉もめっきり成人して、いよいよ端麗《たんれい》な小姓振りであった。
「お召しあそばしましたか」
「呼んだ。……二の丸に、黒田官兵衛が詰めておるはず。それと、蜂須賀彦右衛門とを、同時に呼んで来てくれい」
「どこへ御案内いたしますか」
「これにおる。これへでよろしい」
秀吉は、ふたたび、ふところの書を取り出して見ていた。それは書簡ではない。秀吉から求めた誓紙である。
いま彼は、ここに坐《い》ながらも、六万の兵は優にうごかすことができる。しかもなおすぐそこの国境を突破して備中へ入ることをひかえていた。備中に入らずして、毛利を破砕することは当然できないことだから、そこに何らか、大きな障碍《しようがい》を感じているものと思われる。
わざわざ使いを信長の許へ送って、信長の誓紙を求めたのも、実にそのためだった。彼は、その障碍を、戦わずして除こうとしていた。つまり備中国境にある敵の防禦線七城をつらねてその中核塁をなしている高松の城。それをまず衂《ちぬ》らずに抜こうと苦心していたのであった。
「やあ。これへ」
黒田官兵衛のすがたが見えると、秀吉は気軽にすこし席を譲《ゆず》った。室は狭いのである。次に彦右衛門もそっと入って、官兵衛と並んですわる。
「上様の誓紙が今しがた届いた。ついては、いつも難渋《なんじゆう》なことのみ頼むが、高松城まで参って欲しい」
「拝見いたしてもよろしいでしょうか」
「御一見あれ」
官兵衛は、その人に対するような礼儀をもって、誓紙の内を見た。
志を翻《ひるがえ》して、織田の軍門に降伏するならば、戦後、備中、備後の両国に多分の領地を宛《あ》て行《が》わん。神明に誓って違背《いはい》はない。そういう意味の墨付《すみつき》で、すなわち信長から高松城の守将、清水長左衛門|宗治《むねはる》へあてて示すものであった。
「拝見いたしました」
「これを携《たずさ》え、すぐにも出立してくれ。彦右衛門、御身も副使として、官兵衛とともに高松城まで参るように。――そして清水宗治に会うた上は、官兵衛にぬかりはあるまいが、極力説いて、味方に降伏させるよう努《つと》めい。このお墨付を示さば、いかに彼とて、うごかぬことはあるまい」
至極、楽観的な顔していうのである。その秀吉の意中がふたりには酌《く》みかねた。秀吉は心からこのお墨付一通で、敵の清水宗治の離反を実現できるものと信じているのだろうか、それとも、べつに意があるのであろうか――と。
「行け。すぐに」
秀吉はかさねて促《うなが》す。
もとより異議をいっているところではない。黒田官兵衛も、蜂須賀彦右衛門も、
「かしこまりました」
直ちに座を立った。
起ちかける両名へ、秀吉はなおこう云い足した。
「ともあれ、城中の士気配備、よく見てまいるように。――そして供は大勢を連れぬがよい。市松、虎之助のふたりほど伴《ともな》ったらよかろう。なるべく和《なご》やかに扮装《いでた》って」
「はい」
ふたりは去る。
秀吉もそこを出て、ふたたび奥の雛《ひな》の間へ帰って来た。
はて、もう誰もいないのか。
と、彼は襖《ふすま》の外であやしんだ。あんなにはしゃい[#「はしゃい」に傍点]でいた女童《めわらべ》たちの声が少しもしない。ひそとして、無人のように感じたからであった。
市松がうしろから手をのばして彼の前の襖《ふすま》を開けた。
見れば、秀家もいる。また秀家の妹も、ほかの女童も侍女《こしもと》たちも、いることはそこにいた。
けれどひどく前とは空気がちがっていた。みな黙りこくって、雛壇の前に坐っている雛の客に眼をすえていた。秀吉の代りとして、そこにいよと命じられた小姓の加藤虎之助は、
(主命もだし難く……)
といわんばかりな顔して、迷惑を怺《こら》えながら、厳然と、両手を膝において坐っていた。孤軍の中に、一方の口をひとりで守っているような眼で、侍女《こしもと》や女童《めわらべ》たちを睨みすえていた。
膝のまえに、菓子の高坏《たかつき》がおいてあるが、手もふれてない。盃に酒がついであるが、飲みほしてもない。
初めはいろいろ、からかわれたとみえて、頬に白粉《おしろい》をつけられたり、背に紙きれをさげられたりしているが、虎之助は、
(おかしくもないことをするものだ)
と、相手にもならずに、この構えのまま、さっきからただ忠実に君命のみを守っていたものと思われる。眼だけをうごかして、秀吉のすがたを仰ぐと、救われたように、吐息をついた。
「大儀大儀」
秀吉は笑って彼の任を解いた。そして、もうよいから、すぐ支度して、市松とともに、高松城へゆく使者に従《つ》いてゆけと命じた。
「ありがとう存じます」
籠から放される鳥のように、出ないうちから羽搏《はばた》きをした。秀吉はなお懇《ねんご》ろにこう喩《さと》した。
「敵の中へ使いに行くということは大事なものであるぞ。その方たちが笑われるようなこといたすと、秀吉も敵に笑われるのであるぞ。さりとて、今見たように、鯱《しやち》こ張《ば》ってのみおると、あれは小胆者ぞと敵に肚を押し測《はか》られるぞ。途々《みちみち》も、木戸の要害、兵糧の運輸、地についておる車の輪の痕《あと》から、城中に入ってはなおさらのこと、将士の眼《まな》ざし、防塁の備え、草木のたたずまいに至るまで、よくよく眼をとどかせて来ねばならん。その方たちをつかわすのは勉強のために遣《や》るのであるぞ。よいか、心して行って参れよ」
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武人宗治《ぶじんむねはる》
馬首を北方に向けて、城外数里の先へ出ると、満目の山野には、
「いくさだ」
と感じるものが漲《みなぎ》っていた。
岡山から敵の高松城までは一日足らずの行程。騎馬なのでなお早めに行き着こう。黒田、蜂須賀の両使に、随行の市松、虎之助、そのほかを加えておよそ十名ばかりの一行だった。
重厚な味方の前線陣地を行き抜けて、吉備山脈《きびさんみやく》の彼方《かなた》に赤い西陽を仰ぐころから、一行はしばしば、
「とまれッ」
「どこへ参る」
と、山蔭や林の暗がりから咎《とが》めをうけた。もう出会うものは、敵の人ばかりだった。ここには岡山の城下に見るような春もない、人もない。田に百姓の影すら見あたらなかった。
敵の前線から城下の柵門《さくもん》へ早馬の駈けてゆくのが見られた。城内のさしずを仰いだものらしい。やがて迎えに来た部将の案内に従って、使者たちは柵門に入りまた城門へかかった。
高松の城は平城《ひらじろ》だ。大手へかかる道の左右までが田圃《たんぼ》や野である。深田の中に一叢《ひとむら》の林と堤《どて》と石垣を構え、そこから石段を登るごとに本丸の狭間《はざま》や剣塀《つるぎべい》が頭の上へ近づいてくる。
本丸に入ると、さすがに国境七城の主城だけのものはあって、城中はかなり広く、守兵二千余人を容《い》れながらなお寂《せき》たるものがある。
いや、いまこの城内には、その二千余の兵以外に、なお三千余人の人命を収容していた。総計五千余人の大世帯となっていることは確実だった。
それはすでに籠城を決意した清水|宗治《むねはる》が、領土下の農民と女子老幼のすべてをみな城中へ収容したためで、以《もつ》て、疾《と》くからこの一城に拠《よ》って、東軍数万の怒濤をふせぎ、一戦を決せんとするの覚悟は明らかだった。
一室へ通ったのは、使者の黒田官兵衛と蜂須賀彦右衛門の二人だけである。官兵衛は例のごとく片脚不自由な身なので、杖を持たぬ室内では殊にひどく跛行《びつこ》をひく。
茶も出た。菓子も出る。
「しばらく、御休息くださいませ。ただいますぐ主人がお目にかかりますれば」
退《さが》ってゆく二十歳《はたち》足らずの小姓らしき者へ、使者の二人はしずかな眼をそそいでいる。襖際《ふすまぎわ》の作法行態《さほうぎようたい》、平常と変りはない。召使の者にこれだけの落着きがあるからにはと、城中一般の心がまえ、また守将宗治のたしなみも、まずは充分に窺《うかが》われる。
やがてのこと。
「長左衛門宗治にござる。羽柴どのからお使いに見えられた由。ようこそ」
それへ来て、容態ぶりもなく、坐った人がある。
年五十がらみ。腰がひくく、粗服をまとい、左右にも物々しい家臣などは並べず、十二、三の子どもひとりを小姓としてうしろに置いているだけだった。もし帯刀とその小姓をのぞけば、この近傍の庄屋《しようや》とも変りはない。それほどに覇気《はき》や衒気《げんき》のみじんも見えない人がらであった。
「これは」
と官兵衛は、却って、威容ぶらない敵将に、敢えて慇懃《いんぎん》な心づかいをした。
「初めてお目にかかる。それがしども両名は、羽柴家の臣、黒田官兵衛」
「また、蜂須賀彦右衛門ともうす者」
挨拶をうけるごとに、宗治は、あいそのよい眼でうなずいた。――このぶんでは、この人なら、或いは、説き落せるかも知れぬ。ふたりの使者は、ひそかに唇《くち》をぬらしていた。
「蜂須賀どの。あなたからひとつ主命の趣《おもむき》を、宗治どのへおはなし下さらぬか」
官兵衛はこう譲《ゆず》った。正使格の自分から口を切るのが当然とは承知しているが、相手の温雅淳朴《おんがじゆんぼく》なすがたを見て、自分よりは年上の、そして気の練《ね》れている彦右衛門が、懇《ねんご》ろに利害を説いたほうが効果的とその場で考えたからである。
「では、それがしから申しあげますが」
彦右衛門は、辞退なく、こういうと、すこし宗治のほうへ膝をにじりすすめて、
「何事も腹蔵なく御談合を願えと、主人より申しつけられて来たままをただお伝えするに過ぎませんが、およそ益なき戦《いくさ》は避けられるだけ避けたいと願うのが主人の本旨にござりまする。いま東西の両軍ここにまみえ、お許《もと》には七城の壕塁《ごうるい》を連《つら》ねて、国境のお守りに当っておられますが、すでに中国の帰趨《きすう》は決したものということは充分お心のうちにはお分りであろうと存ずる。数をもっていえば、東軍は優に十五万の兵力はうごかし得るのに較べて、恐らく西軍毛利方は、残余の兵力をことごとく挙げても、四万五、六千から、乃至五万といえば精いっぱいなところでしょう。しかのみならず毛利家との連携《れんけい》の越後上杉、甲州武田、叡山《えいざん》、本願寺などの盟国もみな亡び去って、それらの与国《よこく》も毛利家も一つの名分として謳《うた》っていた旧幕府の形態も、公方《くぼう》という人物も、もう昨日のものとなって、その存在は地にないものではありませぬか。いったい毛利方としては、今日、何をもって、名分となし、この中国を焦土に化しても戦おうとするのか。われらには存じ寄る儀もござりませぬ。それにひきかえ、わが織田全軍のいただく右府信長公におかせられては、かたじけなくも親しく禁門の護りを命ぜられ、朝廷の御信任も弥篤《いやあつ》く、君臣の分を明らかになし、上《かみ》宸襟《しんきん》をやすめ奉り、下《しも》衆民にしたわれて、いましようやく長い戦乱の闇を出て世も黎明《れいめい》を祝《ことほ》ぎながら、一宇《いちう》万生のすがたに復そうとしているところです。……いや、ちと喋舌《しやべ》りすぎましたが、まあそういった情勢です。いつわりのないところです。かかる日に当って、申しては失礼ながら、其許《そこもと》のごときお人を、また無辜《むこ》の百姓、老幼から多くの将士までを、みすみすこの城とともに田土の底へ埋め去るなど……これは何としても惜しい。この犠牲なく処置する工夫もあらばと、主人筑前には心をいため、先にも一応のおすすめはいたしたなれど、其許《そこもと》の容《い》れたもうところとならず、面目を欠いたここちも致されたらしいが、なお重ねて、もう一度、最後の御談合を遂げてみよとの仰せに、今日ふたたび両名して罷《まか》りこしたわけでござる。いかに主人筑前が、真実、心を尽してのおすすめかは、官兵衛どのよりさらにお聞きとりねがいたい」
次には、官兵衛がいう。
かねて携《たずさ》えて来た秀吉の添状《そえじよう》に、信長の誓約書を添えて示したうえ、
「決して、利をもって説くというのではなく、士を惜しむ主人秀吉と、士を愛する右府信長公のお心とをこれに示されたものとして、篤《とく》御賢慮をうながしたい。すなわち、あなたのお考え一つでは、備中備後の二ヵ国を進ぜようとまでの御誓紙でござる。如何でしょう、宗治どの」
「…………」
宗治は、誓紙に一礼した。しかし手にとって開こうともせず、そのまま正使の前に返して、
「寔《まこと》に、寔に、過分なおことばやら恩賞のお約束やら、何と申してよいか、お礼のことばもない。毛利家より日頃頂戴の禄《ろく》は正直七千石に足らないものを。ましてや老齢に近いこの田舎《いなか》侍をば。――いやありがたいことでござる。お志だけはくれぐれも忝《かたじけの》う存ずる。忝う存じ奉る」
うん[#「うん」に傍点]とはいわない。
ただ腰ひくく清水|宗治《むねはる》は、そう繰り返しているのみだった。
沈黙がつづく。
そのうちに、何か手持ぶさたを覚えてきたのは、使者側のふたりだった。
宗治としては、それ以上、何を説かれても、
「ごもっとも。ごもっともで」を温和に、辞低く、繰り返しているにすぎない。
彦右衛門の老巧も、官兵衛の才気も、この相手には用をなさないかたちであった。
が、使者としては、その壁をも抜く意気で、なお説く限りは説き、最後の努力としてもう一言、
「この方から申しあげることは、すべてを申しあげ尽してござるが、貴公として、何ぞ、特に御希望とか、条件を附したいとか、お考えがあるなれば、承って、お取次もいたそう、またお力になりたい所存でござるが、御腹蔵ないところ、お聞かせたまわるまいか」
と、いわゆる膝詰《ひざづめ》に、宗治の本音《ほんね》を押してみた。
「腹蔵なくと仰せあるか」
宗治は、呟《つぶや》くように、そういってから、眼を、ひたと二人へ等分に向けた。
「さらば、聞いて戴きますかな。それがしが望みというは、せっかく人として生れ、人の生涯の終りにも近づきおれば、この期《ご》にあたって、人たるの道を踏み外《はず》したくない、という一義《いちぎ》に極まりまする。わが毛利家といえども、一天の下《もと》、蒼生《そうせい》の一藩、あなた方の御盟主たる右府様にも、禁門へたいし奉る臣情においては、優《まさ》るとも劣るものにはございませぬ。不肖《ふしよう》宗治は、その毛利家に属し、碌々為《ろくろくな》すなき身を、多年七千石の高禄《こうろく》をたまわり、一族みな恩養にあずかって、今日この変にあたり、国境の守りを命ぜられたこと、ひとえに主家の御信任によるところと、この日頃、生きがいありと、朝夕たのしく暮しておるところでござる。――さるをいま、小利に眼をくれて、羽柴どののお扱いをうけ、右府様の麾下《きか》に参って、二ヵ国の領主に坐ろうとも、所詮《しよせん》所詮、近頃のような心楽しき日が送れようとは思われぬ。ましてや、信義に背《そむ》き、主家を売り、何のかんばせあって、宗治、天下の士民に面《おもて》を向けられましょうか。……小さくは、それがしの家庭においても、妻にも子にも、甥《おい》にも姪《めい》にも、左様なことは、人の皮をかぶった者のすることと、日頃より教育もしておりますれば、自身で自身の家風をやぶる儀にも相成りまする。はははは、そんなわけですから、折角の御好誼《ごこうぎ》とはぞんずるが、おはなしの儀は、なかったものと、お忘れくださるように羽柴殿へも、よしなにお伝えたまわりたい。篤くお礼は申しあげる」
「……そうですか。むむ」
肚のそこから唸《うめ》くように頷《うなず》くと、官兵衛はすぐ明瞭にいった。
「もはやおすすめは仕《つかまつ》らぬ。彦右衛門殿、立ち帰るといたそう」
「ぜひもない」
彦右衛門は、自分たちの努力の至らなかったことを嘆息した。しかしその気持はここへ臨んでからのものである。清水長左衛門宗治は決して利にはうごくまいと観《み》ていたのは、ふたりとも前から予期していたことではあった。
「闇夜《あんや》は途中が危険。こよいは城内にお泊りあって、早朝にお帰りあってはいかが」
宗治はひきとめた。それも単なる世辞でなくうけとれた。実篤な人物かな。敵ながら正直にそう推服《すいふく》できる。
「いや、主人も返辞を待ちかねておりますれば」
と、使者たちは、松明《たいまつ》だけを乞いうけて帰途についた。宗治は、途中、間違いを生じてはならぬと、家臣三名を添えて、前線の境まで送らせた。
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備中《びつちゆう》に入《い》る
往復とも、使者の一行は、眠らずに帰って来た。
岡山へ帰るとすぐ、官兵衛、彦右衛門のふたりは、秀吉のまえにあった。
「招降の儀は、不調に終りました。さすが宗治《むねはる》の決意は、固うござります。これ以上、いかにお手をくだいても、談合は無用と存ぜられます」
清水宗治の云い分なども、つぶさにそのまま、秀吉に達した。
使いの返辞は、平凡がよい。そのあいだに使いの者の主観や感情の混入するなく、ありのまま、有体《ありてい》の報告が、最上とされている。
「さもあろう」
秀吉は、意外ともせず、ひとまず眠るがいい、疲れたであろう、そち達、一睡《いつすい》の後、あらためて寄ろうと云った。
「では、休息して、ふたたび参りまする」
二人は、秀吉の居室を退《さが》る。
秀吉はなお、一隅に、これも眠たげに畏《かしこ》まっている虎之助、市松を見て、
「両名」
「はい」
「何を見て来た」
「敵中、いろいろ、見て参りました」
市松の答えである。
虎之助は、正直に、
「どこへ眼を注《そそ》いでも、さして敵の気配は窺《うかが》えません」
と、いった。
秀吉は、そのいずれも、是とも非ともいわず、
「たくさん寝て来い」
と、室から放した。
午《ひる》を過ぎてから、べつな部屋に、秀吉はまた官兵衛、彦右衛門、そのほか、六、七名の将をあつめて謀議《ぼうぎ》していた。宇喜多秀家も若年ではあるが、当然、一方の大将として、ここには参加していた。
「――敵の七城は、ここと、ここと、これであります」
秀家と官兵衛とは、専ら地理を説明していた。秀吉の眼を落している絵図面へいま傍らから解説を加えているのは官兵衛だった。
「高松の城から西北三里余に、足守《あしもり》と申す町があります。そうです、その辺にござります。――その足守の裏山に、宮路《みやじ》の一城があり、これには乃美元信《のみもとのぶ》が兵五百余をもってたて籠《こも》っておる筈。また、そこより少し東に、冠山《かむりやま》の城があり、これには林|重真《しげざね》が守備をなし、兵数は三百五、六十と見れば間違いのないところでしょう」
「して、高松の主城には」
「平常、ここには、やはり六、七百の兵力しかなかったのですが、毛利方の末近《すえちか》左衛門が、約二千の兵をひきつれて来援し、城下の農民女子老幼を悉《ことごと》く収容しておりますので、頭数にすれば五千から六千人のあいだかと考えられます」
「そうか。そんなにおるか」
ここで、そうか――と呟《つぶや》いた秀吉の独《ひと》り語《ごと》のうちには、後に思い合わせると、すでにこの一瞬、彼の胸には、或る大計がもう立っていたものらしかった。
「その他は」
「高松から半里ほど東南に、加茂《かも》の城があり、これには、兵約千人を擁《よう》して、桂広繁《かつらひろしげ》が守り固めておりまする。さらに、山陽道の道をへだてて、半里の先に、日幡景親《ひはたかげちか》が守るところの日幡《ひはた》の城、これにも兵約千人余。――また、南松島の城には、梨羽中務丞《なしはなかつかさのじよう》の兵八百。なお一里ほど先には、井上有景《いのうえありかげ》が千人をもって、南庭瀬《みなみにわせ》の城を頑強《がんきよう》にかため、国境の道の喉首《のどくび》を、後生大事と守備しております」
「……なるほど、七城|連環《れんかん》か」
秀吉は、絵図のうえから面《おもて》をあげて、くたびれたように胸を伸ばした。
その日、甲州方面から、早打が入った。戦況報告である。
この月十一日、武田一門、勝頼以下、天目山《てんもくざん》に滅亡し了《おわ》んぬ――ということ。また、甲府占領接収のこと。信長公を始め味方の中軍は上諏訪《かみすわ》に進駐、近く甲府御入城の予定――などの事柄であった。
「お早いこと哉《かな》」
秀吉は顧みて、中国攻略の難にひきくらべ、前途はなおこれからだがと思った。
「硯《すずり》を」
と、求めて、とりあえず、信長へ宛てて、戦捷《せんしよう》の賀状を書いた。かたわら、中国の状況をしるし、また清水宗治を招降の策は断念した旨をそれに伝えた。
三月のなかば頃。姫路に待機していた秀吉直属の二万は、岡山へ入って来た。それへ宇喜多の兵一万を合わせ、総勢三万の装備は完《まつた》くととのい、いよいよ備中へ進軍した。
「このたびの挙は、よほど慎重にお懸りとみえる」
秀吉の心を、たれもみなそう忖度《そんたく》した。
一里ゆくにも、偵察《ていさつ》の結果を待ち、二里進むにも、偵察して進んだ。
甲州方面の迅速な戦果と、赫々《かつかく》たる大勝の報は、もう一卒まで聞いている。で、この慎重な行動を中には飽き足らなく思って、高松城や、その余の小城のごときは、この三万を以てすれば一撃の下に――などと逸《はや》り切る声もないではなかったが、
「なるほど」
実地の戦場にのぞみ、ふかく敵の布陣が分ってみると、いかにこんどの戦《いくさ》が重要であり、また必勝の地を占めるまででも難しいことがよく頷《うなず》けた。
秀吉はまず、高松城の北方遠くにある一高地――龍王山《りゆうおうざん》に陣した。
ここから、真南に、高松の城を俯瞰《みおろ》す。
すると、敵の七城の位置と、主城の高松と、唇歯《しんし》の関係をなしている地勢が一目にわかる。
のみならず、さらに遠く、芸州吉田の毛利の本国を中心とし、伯耆《ほうき》、備中《びつちゆう》、その余にわたる敵国のうごきを大観し、吉川元春《きつかわもとはる》の軍、小早川|隆景《たかかげ》の軍、毛利輝元《もうりてるもと》の軍などが、これへ来援してくる場合の大勢をもあらかじめ察するに便であった。
龍王山の本陣 一万五千人
平山村附近 羽柴秀勝五千人
八幡山 宇喜多衆一万人
大別して秀吉の陣はこうわかれていた。秀吉はまず主力戦に入るまえに、
「高松の右翼、宮路と冠《かむり》の二城。左翼の加茂、日幡《ひはた》の二城。こう両翼を取り除くを先とする。たれか宮路の城を一気に攻め落す自信のあるものはないか」
ことばの下に。
「それがしが」
「私が」
「てまえにお命じを」
と、諸将は争って、この緒戦の先鋒《せんぽう》に選ばれんことを願った。
その中に、福島市松もあった。小姓組から名乗り出たのは彼一名だった。
「市松。お汝《こと》、行く気か」
「おいいつけ下されば。……はい」
「自信があるのか」
「ちと心外なおたずねです」
「ははは。よかろう。たかだか四、五百たてこもっている砦《とりで》。小姓どもが攻め取るには手頃であろう。行って来い。福島市松にこれは命じておく」
市松は勇躍した。
人々の羨望《せんぼう》する眼を身に感じながら、すぐ準備のため、座を立ったのはよいが、その際、彼の持前として、ついいわずともよいことをいったので、人々は心のうちで、
(生兵法《なまびようほう》と生意気、ふたつを具備した市松、下手《へた》を踏まねばよいが)
と、危うがった。
いわでもよいことというのは、
(不肖、一策を持っていますから、部下は多くを要しません。百名か百五十名もつれて参れば充分です)
と、得意になって、その場で秀吉へいったことである。
秀吉は、苦笑をもちながら、ただ頷《うなず》いた。市松が生意気づいて来たことは彼も充分知っている。また市松が、幕下の若い将校たちのあいだでは、憎まれ出していることも分っている。けれど秀吉は公平に彼の才能と押し強い気性も買っているのである。ただ時折、
(殿とおれの家とは、むかしから親類だった。だから今でも親戚関係だ)
を、ややもすると、鼻にかける気味があるので、その鼻ののびる頃にはヘシ折る必要がある。それだけが困り者と思われる以外、いまではこの男も一《ひと》かど[#「かど」に傍点]秀吉|麾下《きか》の異色であった。
年も虎之助より年上で、ことし二十三、四歳になる。功名を望むこと火よりも旺《さかん》といっていい。
「腰兵糧《こしひようろう》はつけたか。いでたちは身軽がいいぞ。絶壁へとりついても、進退の邪《さまた》げられぬように。――馬。馬は無用だ、みんな徒歩《かち》で行く。おれも歩く」
百五十の手勢をならべ、彼は武将として、一場の訓示と、注意とを垂れた。
戦《いくさ》はもうこの中国へ来てから充分に体験ずみである。天正六年、初手《しよて》の中国入りに、別所家の剛の者、末石弥太郎《すえいしやたろう》の首をあげたときが、十八歳の初功名といわれているから、実際の場へのぞんでの強さも、当人の自慢するだけのものはあるらしい。
「出発まで休んでおれ」
準備が終ると、市松は、営中へかくれてしまった。
秀吉の前に出ている。これより行って参りますという挨拶を述べていたのだった。
「市松」
「はッ」
「敵の砦《とりで》へかかってからよりは、途中が危ない。途中の覚悟はよいか」
「だいじょうぶです」
「たれぞに、もう三百も兵をつけて、後詰《ごづめ》に添えてやろうか」
「それには及びません」
「よし、行け」
市松はむっとした顔して出て行った。このむかっ[#「むかっ」に傍点]腹も、秀吉を親類のおじさんと心のどこかで考えているところから起るものらしい。
宮路の砦《とりで》は、足守《あしもり》とよぶ小さい町の裏にあたる。足守の人家を横に見て、その山麓《さんろく》に近づいたのはもう夜だった。夜をかけて遮二無二《しやにむに》道もない山を登りつめる。ここはかなり高地である。
「しまった。身を沈めろ」
銃声を聞いたので、市松は、部下全体に、うごくなといった。そしてなお低声《こごえ》で、
「この山のうえに、水之手《みずのて》がある。城の者が命の綱としている蓄水池《ちくすいち》だ。そこへ出るまでは、いくら撃たれても、斬って出るな。おれが、よしというまで、勝手に斬って出てはならんぞ」
と、かたく戒《いまし》めた。
この砦の弱点は、確かに、市松が眼をつけたその飲料水の溜《ため》にあった。
彼は、そこへ奇襲して、水之手番《みずのてばん》の兵、二、三十名を撃ち取り、つづいて、
「水門を破壊しろ。池の堤を切りくずせ」
と、命じた。
山上から中腹の城内へ、津波《つなみ》のように濁水が押し流れて行った。
「水之手へ敵が襲った」
と聞くと、城中の兵は、戦わないうちから士気を失ってしまった。なぜなら、そこを占領されては、一滴の飲用水も他から求め得ない地勢にあるからだった。
「あんな所へ、どうして敵が現われたろう」
城将の乃美元信《のみもとのぶ》は、守備の誤算にうろたえた。彼としては、万全な備えをしていたつもりだったに違いない。
「水之手を奪回《だつかい》しろ」
当然、こう下知《げち》して、城兵をまとめてみたが、山城に位置していながら、奇襲の敵は、自分たちより高い所にいるのだった。それに下を防ぐことのみに専念していた構えが、逆に頭上から敵をうけたので、ほとんど、戦意は昂《あが》らない。
それでも、山上へ向って、すこし登りかけると、市松の手勢は、岩、樹木、石ころ、思いのままを、下へ落した。
そんなことを、六、七度もくりかえしている間に、人声がしなくなった。市松は、真っ先に、
「突っ込め」
槍を向けたまま駈け下りた。
果たして、城兵はみな逃げ去っている。守将の乃美元信《のみもとのぶ》も見えなかった。
逃げるに際して、敵が城へ火を放って逃げたのは勿論である。山城なので風当りも強い。みるまに、大きな焔と黒煙が立ちのぼった。
「この煙は、龍王山からもよく見えるはず。もう陥《お》ちたかと、味方はみな、この方らの神速に舌を巻いているだろうよ」
士卒とともに、腰兵糧を解いて、空腹をみたしながら、市松は愉快そうに云った。
きのうから寝ていないので、交代で一睡した。午睡からさめてみた頃、焼けるにまかせておいた砦《とりで》も、三分の一を焼いて、下火になっていた。
一部の兵をのこして、その晩、市松は龍王山へ引っ返した。秀吉に会って報告したのは次の日である。ずいぶん褒めてもらうつもりで市松は得々と戦況をはなした。もとより秀吉も機嫌のわるいわけはないが、さりとて市松が期待したほど賞揚《しようよう》もしてくれない。
「そうか。よくいたした」
それっきりである。
これきりか、といわぬばかりな顔して、市松がなお水之手奇襲の着想を誇らしげに談じていると、
「もしあの砦へ、麓《ふもと》からかかって参るようだったら、そちは武将の資格なしと見ていたが、でもよく気がついた。なお精励《せいれい》せい、やがて、一《ひと》かど[#「かど」に傍点]になれるだろう」
と秀吉はいって、あとは周囲の人々と、ほかのはなしをしていた。
「退《さが》りますが……他には別に?」
市松が起ちかけると、
「むむ。休息して、次の命を待て」
彼のうしろ姿は、見送られもしなかった。黒田、蜂須賀、その他の帷幕《いばく》と、彼は何か凝議中《ぎようぎちゆう》である。それはみな小声と小声に交わされているので、極く身近のもの以外には、何を相談しているのかわからなかった。
福島市松は、おもしろくない。隊を解いて、部下へも、休めを令し、自分は空《あ》いている幕《とばり》へ入って、ごろりと寝ていた。
幕の蔭で、虎之助の声がする。ざわざわと、大勢して何か行動の準備中らしい。市松は、幕のすそを揚げてのぞきこんだ。
「於虎《おとら》。どこへ行くのだ?」
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城乗《しろの》り一番《いちばん》
虎之助は具足の緒《お》をむすんでいた。彼もことし二十二の若者とはなっている。市松と同様に、三木城攻略、そのほかにおいて、初陣《ういじん》もすみ、一《ひと》かど[#「かど」に傍点]の働きもしていた。
総じて、ここ五年にわたる中国陣は、秀吉の子飼《こがい》の小姓、或いは、家中の子弟などの、武将の雛鳥《ひなどり》たちにとっては、絶好なる実戦の練習場となったことは、次の時代を負って出た人材の多くが、まだこの頃には、みな年少十六、七歳から二十歳《はたち》だい[#「だい」に傍点]であったところからも見のがせないことである。
とはいえ、秀吉の小姓部屋にも、いつか洟《はな》たらし[#「たらし」に傍点]は一人もいなくなった。一柳市助《ひとつやなぎいちすけ》の息で一柳四郎の十五というのが最年少であった。蜂須賀彦右衛門の子家政も二十三歳。藤堂高虎が二十七。後の刑部《ぎようぶ》――大谷平馬|吉継《よしつぐ》が十九歳となっている。仙石権兵衛などはすでに三十をこえて、小姓部屋の雛仲間《ひななかま》から巣立ち、一方の指揮官として、淡路や四国へ派遣されたりしていた。
思うに、秀吉も充分意識的に、これら子飼の少年をその才能によって、随時適所に、使ってみていることは慥《たし》かである。そして、
(これはもの[#「もの」に傍点]になる。これはここに使える)
などその素質を見とどけておき、かたがた、生死の大道場で、朝夕にこれらの次の中堅《ちゆうけん》を孜々錬成《ししれんせい》の真っ最中であったということもできよう。
「市松、おぬしこそ、陣中も憚《はばか》らず、何でごろごろ怠けているのか」
問われたことには答えず、虎之助は、具足を着け終ると、こういって、幕《とばり》の裾をふり向いた。
その幕の隣から福島市松は、腹這《はらば》いのまま覗きこんで、今なお姿勢もあらためないのである。で、頭から幕をかぶって、頬杖つきながら物をいっているような恰好だった。
「おれは、いいのさ」
市松は傲慢《ごうまん》にいう。
虎之助に対するとき、いつもこう兄貴顔するのは、彼の持前でもあった。
「ゆるゆる休めと、殿から公然おゆるしをいただいた体だ。おとといから昨日にかけ、たった一日半夜で宮路山の城を陥し、このたび備中入りの魁《さきがけ》に第一の功をあらわした俺だ。ただ怠けているのとはちがう」
と、いよいよ大きな鼻をして、
「ところで、貴様はどこへ行くのか。いやに武者振りばかり作っているじゃないか」
やはり気になるものとみえ、じろじろ虎之助の支度を見、また、辺りの部下たちを見まわしていた。
市松が見まわしたのもむりはない。虎之助と共に、頻りと身支度に余念ない侍たちは、みな忍《しの》びの者ばかりだった。
甲賀|侍《ざむらい》の美濃部《みのべ》十郎。伊賀侍の柘植《つげ》半之丞《はんのじよう》などの顔も見える。
「え。おい。どこへ行くのか」
市松はとうとう起き上がって、こっちの幕《とばり》へ来た。
「いえないよ。行き先は」
虎之助は、意地わるく、明かさなかった。
「なぜいえぬ」
市松はくってかかる。後輩に対してこの先輩は常に敬意を強要した。
「軍の機密。あとで分る」
「あとなら聞く必要はない。機密とは、敵の間者に対することだ。おれに機密をまもる必要があるか」
「まず味方をあざむけと、孫子《そんし》か何かにありました」
「生意気をいうな。こら、どこへ行くんだ。於虎、いえ、いわんか」
「では、敵へもれたら、貴公が密報したとするが、よろしいか」
「よろしい」
「それほどまで、責任をとるなら告げます。おさしずのあり次第に、冠《かむり》の城へかかるべく待機しているところなので」
「なに、冠へ」
「いかにも」
「冠には、先日から杉原七郎左衛門の手勢千五百が、攻め向っている。七城中の堅固、なかなか杉原どのの手にもおえぬと、苦戦が報ぜられておるのだぞ」
「そのような由です」
「そこへ貴様などが、何の足《た》し前にまいるか」
「わかりません」
「わからずに戦場へ出るやつがあるか」
「ひたすら殿のお旨《むね》にあることでしょう。虎之助は、殿が行けと仰っしゃれば、地もくぐり天も翔《か》けてみせます」
「これだけの人数をつれてか。わずか二十名ほどしかおらんではないか」
「人数など問うところではありません」
「いちいちおれの鼻面《はなづら》をこする[#「こする」に傍点]ような物云いばかりするやつだ。於虎、貴様は同郷の後輩だから親切に教えてやろうと、俺は好意を示しているのだぞ」
「戦《いくさ》だけは一命仕事、いのちを抛《ほう》りだして、してみること以外には、ひとのはなしや、ものの書《ほん》からも楽に学ぶことはできません」
「勝手にせい」
市松が、背を向けたとき、
「加藤どの。殿が、すぐ来いと、呼んでおられる」
平野権平《ひらのごんぺい》が来て呼びたてた。
「はいッ」
と、素直に虎之助はその姿へつづいてゆく。
市松はなおあとに立って、甲賀侍の美濃部《みのべ》十郎にはなしかけていた。
「冠山《かむりやま》は、日幡《ひはた》よりも宮路山より要害な城と聞く。杉原どのの手勢すら難攻にあぐね[#「あぐね」に傍点]ているのだ。奇襲するにせよ、よほどな決意でかからぬと不覚をとるぞ」
誰も感心した顔もしない。美濃部も柘植《つげ》も黙笑して聞いているだけである。市松は手持不沙汰に立ち去った。
虎之助はなかなか君前から帰って来なかった。備中平《びつちゆうだいら》にはきょうも赤々と陽が落ちかけていた。敵の主城高松城のあたりに薄い炊煙《すいえん》がたちのぼっている。
「いざ。行こう」
虎之助の声がした。片鎌《かたかま》の槍《やり》を持って一同のうしろへ来ていた。この槍は、彼が十八歳のとき、鳥取城の搦手《からめて》で功名をたて、その折、秀吉にねだ[#「ねだ」に傍点]って拝領した彼のまたなき愛槍であった。
冠山の城は、地勢は嶮《けん》、守将は剛、出城として、充分守るに足る資格をそなえていたが、ひとつ欠陥があった。
城中の将が、和を欠いていることである。具体的にいえば、守将|林重真《はやししげざね》の部下黒崎団右衛門と松田九郎兵衛とが、平常から私党を擁《よう》して、合戦となるや事ごとに、意見の一致を欠いていることだった。
秀吉はあらかじめこの弱点を偵知《ていち》していたが、杉原七郎左衛門の手勢にこれを攻めさせると、さしも不和な城兵も、そのときだけは一体に結束して、猛烈に寄手に当ってくるのだった。
今暁《こんぎよう》も――である。
秀吉は、その杉原隊へ、
(朝駈けして、一揉《ひとも》みに、揉みつぶせ)
と、厳命を出し、少なくも午《ひる》頃までには、陥落の報があるかと、期待していたものらしい。
ところが、夥《おびただ》しい損傷をうけたのみで、依然、城は陥《お》ちない。攻めれば攻めるほど、城兵の結束は強固を示してくる。彼の要害がものをいうので、所詮、急にこれを陥すことは不可能に近い、と使番《つかいばん》のつぶさな報告であった。
虎之助にたいして、秀吉からひそかに、
(忍びの者をつれて、城中へ入れ。城中に流言を放ち、あわよくば、火をつけて逃げて来い)
という命が出たのはそれからのことだった。
伊賀、甲賀の者の役目は、いつも攪乱戦《こうらんせん》か偵察だった。極めて小隊をもって敵の内部に入りこみ、流言蜚語《りゆうげんひご》を放ったり、水之手や火之手を脅《おびや》かしたり、あらゆる手段で敵の神経を衝き、自信を掻きみだすのである。
いわば陰性の戦《いくさ》だ。華々しくない。勇ましくない。――それと甲賀侍や伊賀侍を部下として駆使《くし》するのは甚だつかいにくい。この組の者にはこの組特有な底意地のわるさと専門の智能と、そして陰性な気性をもっている者ばかりだからである。
誰も嫌がるこの乱波《らつぱ》の役をいいつけられて、虎之助はいま、冠山《かむりやま》の城へ近づいた。
自分の家来はわずか六人しかつれていない。あと二十名は使いにくい忍びの者だった。ここも山城なので、虎之助が裏山へかかろうとすると、甲賀侍の美濃部十郎が、
「加藤どの」――と耳のそばへ口をよせていう。
「寄手から見て、敵の弱点と思われるほど、敵も用心しています。うっかり裏山へは登れませぬ。まず支度をしますから、すこしお待ちになるがよい」
十郎は、手下を招いて、同じように耳打ちした。
四、五名の忍びが、大手の方へ、風のように消えて行った。
しばらくすると、野良犬の吼《ほ》えあう声がけんけん[#「けんけん」に傍点]と遠い闇に聞えた。
大手の狭間《はざま》から二、三発、小銃の音がする。――遥かに退《ひ》いている寄手の陣、杉原隊のあたり、墨を流したような夜気もにわかにうごくかのような気配が感じられた。
「もうよい頃合い。ぼつぼつ登りにかかるとしましょう。敵中の注意はいま悉《ことごと》く大手にそそがれている。どうです、いまの犬の啼き声は、人間とは思われますまい」
美濃部十郎はそんなことを語りながら先に立った。日頃でも敵の中に半分、味方の内に半分、両棲《りようせい》を常としている伊賀、甲賀の者は、すこしも敵地深く入って来たというような危惧《きぐ》を持たないもののようである。坦々《たんたん》たる自分の家の庭でも歩くように攀《よ》じのぼって行く。
搦手《からめて》に北之門がある。
裏山の絶壁と、その門とのあいだに、細長い谷が繞《めぐ》っていた。もちろん人工の空壕《からぼり》である。
虎之助と、伊賀、甲賀の者は、その底を這っていた。
「大将」
十郎はまた虎之助の耳元へ口をよせた。息子のような若い虎之助に向かって、飽くほど戦《いくさ》の場数を踏んで来た老甲賀武士が、わざとそう呼ぶことばの中には、単なる敬称ともちがう子ども扱いに似た揶揄《やゆ》がいくらかふくんでいた。
「あなたは、ここにおればよい。敵城の中というものは、よほど胆《きも》がすわって来ないと、どんな小城でも、勝手のわからないものだ。どうしたって、逆上《あが》ってしまいますからな」
「…………」
「いくら巧みに忍びこんでも、ひとりが中でどじ[#「どじ」に傍点]を踏むと、全体の者が、動きがとれなくなる。足手纏《あしてまと》いだ。それにあなたは、今夜の大将だから、これにいて、吉左右《きつそう》をお待ちくだされば、それでよい。決して、あなたの御使命を為損《しそん》じるようなことはせぬ」
こう囁《ささや》くと、美濃部十郎や柘植《つげ》半之丞の輩《ともがら》は、仲間だけで、野鼠《やそ》のように、壕《ほり》の底を走り去った。そして北之門から百間ほど先に、やや塀の低いところを見つけて、そこから城内へ忍びこむつもりらしく、一《ひと》かたまりになって、前後を窺《うかが》っていた。
すると、虎之助は、家来の者の肩車に乗って、壕の上へ這い上がった。つづいて二、三名が、彼と共に上がって来る。
壕の上で、また人間の踏み台を作った。ひとりが這う。ひとりがその背中へ乗る。その肩の上に虎之助が立つ。
手が、塀の上にとどくと、虎之助は身を弾《はず》ませて、家来の肩から離れた。すぐひとりが下から片鎌《かたかま》の槍をその手へ渡す。
虎之助は、槍を左の小脇に持ちかえた。そして城内を望みながら、
「冠山《かむりやま》の城へ、一番に乗り入る者。羽柴筑前守の小姓、加藤虎之助清正ッ」
と、大音にどなった。
姿はとたんに城内に跳びこんでいる。不意をくったのは搦手《からめて》の城兵だったことはいうまでもないが、むしろより以上あわてたのは彼方の塀の下に寄って、草のそよぎにも神経をつかっていた伊賀、甲賀の仲間だった。
「あッ。無茶なッ」
「ばッ、ばかなまねを」
罵《ののし》ってみたが、追いつかない。いかに敵の虚を衝くにせよ、総体で二十六、七人の小勢で、むらがる敵の中へ入ってどうする気だ。命知らずにもほどがあると、呆れかえるよりは腹が立ってしまったのである。
とはいえ、虎之助ひとりを見殺しにして、逃げ帰ることもできない。美濃部十郎は、舌打鳴らしながら、
「飛びこめ。こうなったら、存分|暴《あば》れて帰るしかない」
手下にいって、無二無三、塀へ取りついた。人の性根というものは、こういうとき、遺憾なく出るものである。十郎はその手下へ、飛びこめ、と命令しながら、また終りに、帰ることをいっている。
同じ侍でも、伊賀、甲賀の者には、行ったきり、死んだきり、という信条はないことになっている。いかなる辱《はじ》をしのんでも艱苦《かんく》しても、生きて還って来ることが、使命の完《まつと》うになる役儀だからである。
「美濃部十郎ッ。二番乗り」
彼が、忌々《いまいま》しげに、大声で呼ばわったとき、それを奪うように、彼方の塀の上でも、
「城乗り二番! 加藤虎之助家来。飯田覚兵衛ッ」
と同時に名乗って、城中へ躍りこんだ者があった。
この搦手《からめて》には、城方の一将、松田九郎兵衛の手勢が守っていた。
あわてふためいて、
「北之門だ。いや水門だ」
と、右往左往する混乱ぶりが闇のなかにもよくわかる。
虎之助は、その片鎌《かたかま》の槍をしごいて、敵兵二、三名を引っかけた。
うしろから、続いて来るものがある。頻りに、敵を斬って自分のあとについてくる。
振り向いているいとまはないが、虎之助は心のうちで、
(覚兵衛だな)
と、知っていた。
飯田覚兵衛という家来は、彼が十七のときに召し抱えたものである。その頃、長浜の城で木村|大膳《だいぜん》の手に属し、主人秀吉から初めて三百七十石の禄をもらったとき、虎之助はそのうち百石を割《さ》いて、山城八幡村から一名の浪人をよんで抱えた。それが飯田覚兵衛だった。
(まだ幾人もの郎党をお持ちにならなければならないのに、三百七十石のうち、てまえ一人がその三分の一も戴いてしまっては)
と、覚兵衛はひどく迷惑がったが、虎之助は、
(いや、その十倍も百倍も与えなければ、おまえほどの男前《おとこまえ》の者に、主人顔はできない。小身のうちは、それだけでゆるしておけ)
と、ほとんど長上に対するような礼をもって抱えていた。
(この人のためには)
と、覚兵衛が誓っていたことは無言のうちにもあらわれていた。以後、いついかなる戦場でも、覚兵衛の影が、虎之助の影から離れていたことはない。
その覚兵衛の眼から見ても、前にある虎之助の働きぶりには、何の不安もなかった。覚兵衛はもちろん虎之助よりずっと年上だし、戦争の場数も多く踏み、浪人してもよい主人をと心がけて容易に仕えなかったほどであるが、彼は実にいまの主人には心から惚れこんでいた。
(――このお若い主人の豪胆は天質のものだ。単に大豪の質があるのみか慈悲もおふかい)
ひとたび仕えれば自分の生命《いのち》も自分の生命ではない。覚兵衛が心のちかいには、この大豪にして慈悲ある青年の将来を天寿にいたるまで生かしてみたい念願がある。そのためにはいつでも主人の生命《いのち》に代って自分の生命を打ち捨てる覚悟でいた。そこにこの主従はむすばれていた。
「あッ。おのれッ」
覚兵衛は、本能的に、ひとりの敵へとびかかった。おそろしく敏捷精悍《びんしようせいかん》な敵が、虎之助のうしろへまわって、長巻《ながまき》を振りかぶり、あわや斬り下ろそうとしていたのを見つけたからであった。
地ひびきがした。
血漿《けつしよう》のけむる中に、主従は顔見あわせ、にこと笑った。
覚兵衛は注意した。
「そこらはもう砦《とりで》の本丸に近いようです。ちと深入りしすぎはしませんか」
虎之助はかぶりを振って、
「一気に、わざと、城の真っただ中まで駈けて来たのだ。覚兵衛、呶鳴《どな》れ、呶鳴ってあるけ」
「喚《わめ》けとは」
「搦手《からめて》の守りは、城将の松田九郎兵衛とみえた。その九郎兵衛と日頃から不和な黒崎団右衛門が、城内から裏切りを起したように、云い触れて駈けまわれ」
「承知しました」
ふたりはまた、乱脈に駈け惑《まど》う城兵のなかを、縦横に斬って通りながら、こもごもに声を放った。
「裏切者、裏切者ッ」
「団右衛門の組が火を放《つ》けて歩いておるぞ。黒崎団右衛門の手の者に油断するなッ」
平常の内訌《ないこう》は、こういう時、収拾のつかない混乱となって現われた。
城兵は城兵を疑い、共に防ぐ味方でありながら、味方同志が恐れ合って、敵をよそに同志討ちを演じ、果ては、城をすてて、思い思いな口から逃散《ちようさん》し出した。
この頃、大手方面でも、
「すわ、搦手《からめて》の辺りから、奇襲して城内へ入った味方の一手があるとみゆるぞ。突っこめ、正面から」
と、先頃から攻めあぐねていた杉原七郎左衛門の手勢も、無二無三、城壁へとりついた。
ここの一番乗りは、杉原の郎党山下九蔵という者だった。
しかしそのときすでに城兵の大半は潰走《かいそう》し、前日までの頑強性は失われた後のことなので、正確なる城乗り一番の軍功は依然|搦手《からめて》からはいった虎之助の上にあることはいうまでもない。
こうして、この夜、冠山《かむりやま》の城も陥ち、城将の林|重真《しげざね》も、城と運命を共にした。
虎之助は、あとの始末を、杉原七郎左衛門の手に委《まか》せて、龍王山へもどるとすぐ、秀吉のまえに出て、
「おいいつけの度を超えて、つい独断、立ち働きいたしました。万一仕損じたみぎりは、生きて帰らないつもりでしたが、思いどおり城が陥ちたので立ち帰りました。御命令に違背《いはい》の罪、どうぞお叱り置きねがいまする」
と、いった。
秀吉は、否と、頭《こうべ》を振り、
「違背ではない。万一、敵の搦手に接近して、敵に間隙《かんげき》があれば、そう致すであろうとぞんじたゆえ、特に、思慮勇気ふたつあるそちをさし向けたのだ。よしよし。……このたびは二人ともよくいたしたぞ」
と、賞《ほ》めた。
だが、二人ともとは、もう一名誰のことをさしたのか、虎之助が顔を上げて見まわすと、秀吉のかたわらに、福島市松が見えた。それまでやや仏頂面《ぶつちようづら》していた市松が、急に顔を赧《あか》らめて、はっと指先を下へつき、喜色を姿にかがやかしている。
「褒美は他日みなとともにつかわすであろう。当座のしるしまでに」
市松にも、虎之助にも、同様な感状が下りた。虎之助が感状をうけたのは中国陣に臨んで以来、これで二度目であった。
宮路、冠山の二城を失って、七城連環の敵の外輪は、その防禦陣に歯の抜けたような揺《ゆる》ぎを呈し出した。一歯を失えば両歯がゆらぐ。秀吉は努めて味方の兵を消耗せずに、次々の歯を抜いてゆこうとするもののようであった。
それからまもなく、また加茂の城が、ほとんど手ぬらさずに、羽柴軍の手に帰した。これは、守将の生石中務《なまいしなかつかさ》を東軍に内応させ、無血占領の効を収めたものだった。
高松の城についで頑強と思われたのは、日幡《ひはた》の城である。ここには城兵が千余人もたてこもり、中国の豪将日幡|景親《かげちか》がおり、また軍監《ぐんかん》としては、毛利家の一族|上原元祐《うえはらもとすけ》がこれを扶《たす》けていた。
これをいかに陥《おと》すかの問題である。三万の味方全部を配置して、敵の諸城をして完《まつた》く反撃に出るの余地もなからしめながら、龍王山の中軍、秀吉のいるところには、なお一万五千の大兵をそなえ、余裕を充分に示威《じい》しながらも、彼は敢えてその大兵をみだりに用いて功を急ごうとはしない。
「何か、あれは。……陣外に賑やかな音曲が聞えるではないか」
営中の幕《とばり》をあけて、秀吉はぶらりと出て来た。耳に喧《かしま》しいばかり笛や鉦《かね》や太鼓の音がする。戦陣ながら晩春の真昼、彼も作戦に倦《う》んだか、にこにこしながらその音曲につられて顔を見せたのであった。
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市《いち》
小姓の脇坂甚内《わきざかじんない》や片桐助作《かたぎりすけさく》や石田佐吉《いしださきち》など。また侍たちも各※[#二の字点、unicode303b]の幕囲いから飛び出して来て、秀吉のそぞろ[#「そぞろ」に傍点]歩きに従った。
「あれは、旅芸人の群れが、ふもとの市《いち》に、小屋を掛けて、人寄せをしている音曲でございましょう」
蜂須賀彦右衛門の子、小六家政がそう答えた。
小六という名は、蜂須賀代々の名で、父のものであったが、いまは青年家政が譲《ゆず》りうけてそう称《とな》えている。
「ほう。この麓に、いつのまに市などができたか」
見にゆくつもりか、秀吉は龍王山の坂道をのぞいていた。何の予告もなく、彼が陣外へ逍遥《しようよう》して来るのを見て、哨戒《しようかい》の兵たちは、眼をみはっていた。
「実に、早うござります。商人《あきゆうど》というものは」
生駒甚助《いこまじんすけ》が、傍《かたわ》らから答えた。これは近侍中での老武士で、世態を観《み》る眼をそなえている。
「ここへ御本陣がさだめられたと知ると、翌《あく》る日はもう近村の男女が、働きを求めに来たり、残飯を乞いに来たり、野菜、菓子、針や糸の類まで売りに参ります。さらに御滞陣が十日にわたると、ぼつぼつ露店《ほしみせ》を並べ出し、洗濯女や一杯売りの酒瓶屋《さかがめや》も集《つど》い、やがて半月ともなれば、こんどは遠郷近国からも、あらゆる商人《あきゆうど》どもが寄って来て、忽ち、市を開き、市を目あて[#「あて」に傍点]に、旅の芸人までが寄って来るというわけで、はやここの麓《ふもと》には、小さな町ほども人々が賑わって生業《なりわい》をいたしおるのでございまする」
生駒甚助の説明は親切であった。
「そうか。そうか」
秀吉は満足らしい。
家に客が多いのを喜ぶのと同じような気もちで、自分の本陣のまわりに、そうした庶民が集まって来るのは彼として嬉しいらしい。
「……なるほど」
と、その実景を、彼はほどなく麓に近い高所から眼に見ていた。
軍の行動をさまたげない範囲に一劃《いつかく》を区ぎって、市を許可してあるらしい。そこに見られる掛小屋だの露店《ほしみせ》の数は社寺の賽日《さいにち》を思わせるほど雑鬧《ざつとう》している。もちろんここを中心とする三万の将士を顧客《こきやく》として始まったものであろうが、その人間を目標にまた人間が集まって複数的な繁昌を呈しているのであった。
「……なんと、盛んなものではございませんか」
と、甚助は、秀吉の下にひざまずきながら、彼の面《おもて》を仰いで、
「諸国に戦《いくさ》は多く、戦のあるところ、かならず本陣も置かれますが、こういう景観《けいかん》が見られるのは、まったくわが殿の陣せられるところにのみ見られる現象でございまする。……殿御自身におかれても、このような光景は、いかなる戦陣の場所でも、御覧になったことはござりますまい」
「……む、む。ないな」
「決して、諂《おもね》るわけではございませんが、たしかに、殿の御人徳によるものかと存ぜられます。それとこの中国において、わが羽柴軍が、ふかく民心を得た証拠とも申されましょう」
「…………」
足もとの声をそら[#「そら」に傍点]耳にして、秀吉の眼はただ下の市の賑《にぎわ》いに見とれている。ひそかに彼は、主君信長に従って赴いた北陸や伊勢の陣を思いくらべていた。
ひとたび、信長の征馬行くところは、秋霜《しゆうそう》の軍令と、罰殺《ばつさつ》の徹底に、草木も枯れる概がある。ために、信長その人について、深い理解をもち得ない敵国の民衆は、織田軍と聞けば、涙も仮借《かしやく》もないものと一途《いちず》に怖れおののいて、その幕営をめぐって市が立つどころか、求めても、人は逃げてしまうし、捜《さが》しても、物資は地下に蔵《かく》されてしまう。
秀吉は多年、それを見て、それに倣《なら》うことを避けていた。また彼の性格からも、信長のようにはできなかった。
まもなく秀吉のすがたは市のなかを歩いていた。もちろん微行して。
旅芸人の一群が、鄙《ひな》びた曲楽にあわせ、刀玉取《かたなたまとり》という曲芸を演じている。ここには戦場の陰影も恐怖もなく、無数な顔がただ|※[#「口+喜」、unicode563b]々《きき》としてそれを見ている。
秀吉は見物人の喝采《かつさい》している旅芸人の手元よりは、べつな方へ眼を逸《そ》らしていた。その視線をうけているのをまだ気づかずに、これも頻りに芸人の刀玉取に見恍《みと》れながらにこにこしていた若い旅支度の商人風な男がある。
男は、見物人の輪の向う側に腰かけていた。側には大きな荷物をおいて、片肱《かたひじ》を凭《もた》せ、ひどく屈託のない若々しさを顔にたたえて、ときどき、大口あいて笑ったり、自分の鼻を抓《つま》んでみたりしている。
「オ。弥九郎がおる」
秀吉はつぶやいて、
「小六」
と、そばに佇《たたず》んでいる蜂須賀家政へそっといいつけた。
「向う側の木の根に腰かけて、けらけら笑うておる色黒い痩せがたの若者。そちは覚えないか」
「見たようにもぞんじますが」
「泉州の弥九郎じゃ。後から本陣へ召しつれて来い」
云いのこすと、秀吉は他の者に守られて、先へ山へ帰った。
小六家政も、あとから程なく登って来た。弥九郎という若い商人をうしろに連れて。
「来たか」
秀吉は営中の楯《たて》を敷きならべた上に毛皮を展《の》べさせて坐っていた。茶道衆に命じて一ぷく求めていたためである。信長から拝領した名碗《めいわん》をこんな所へも持って来て無造作に用いている。――それを茶道衆の手へもどして、
「ここへでいい。すぐ」
と、家政へいう。
家政は、念を押して、
「ここへ召し連れますか」
と、たずね、秀吉のうなずきを見て、すぐ弥九郎を呼び入れた。
「はいはい。恐れ入ります。……お座所は、こちらでいらっしゃいますか」
幕《とばり》の外から弥九郎の声がする。堺《さかい》ことばの軽快な語尾と商人《あきゆうど》らしい気ばたらきが、みじかい辞《ことば》の中にも鮮明に働いている。
「お久しゅうございました」
はるか下に手をつかえたときは、さすがに能《あた》う限り身を低め、額《ひたい》も地につかぬばかり平伏した。
秀吉は、見て。――近習の輩《ともがら》へいった。
「しばらくそち達は、退《さが》っておれ」
ここを起つのは何か不安なように、弥九郎の姿へ警戒の眼をそそいでゆく侍臣もあった。けれど間もなくこの幕のうちは、秀吉とこの若い一商人とふたりきりになっていた。
「寄れ。もそっと」
「おそれ入ります」
「弥九郎」
「はい」
「この辺へ何しに来ていたか」
「商用で参りました」
「薬は売れるか」
「宇喜多様にも、黒田様にも、諸所の御陣中で、大量にお買上げをいただいておりますゆえ、このたびは店の者どもも総出でこちらに出向いておりまする」
「来たらなぜ筑前の所へも、稀《たま》には顔を見せぬか」
「御陣務のおさまたげと存じまして。――けれど、御家臣衆のそれぞれの御陣所へは、欠かさずに御用を伺いながら廻っておりますので」
「そうか」
と、間をおいてから、秀吉はまたいった。
「では、毛利方のあちこち[#「あちこち」に傍点]の城へも、商用に歩くであろうな。日幡《ひはた》の城などへも、折々は商いに参るかの」
弥九郎の眸《ひとみ》は、ちょっと慌てたような光をうごかした。
けれど、この若者には、ひどく豪胆《ごうたん》な一面があるらしい。
いったい堺そだちの商業人は、荒胆《あらぎも》の戦国武将たちをも、そう眼中には措《お》かないくらいな独自の豪毅《ごうき》を持っている。よくいえば海外との交流に自然、養われている大気|闊達《かつたつ》な風であり、悪くいえば財力を背景とし、経済的に訓練されたするどい智能が、どんな場合にも肚の底に人を喰った観察をなすほどな余裕をもっていることだった。
まだ三十にも届かないこの小伜《こせがれ》の弥九郎にすら、秀吉は、それを見る。
(これも堺人的《さかいじんてき》な才物)
と、その一言半句、ひとみの働きまでを、彼はながめ入った。
弥九郎は、小鬢《こびん》のあたりへ、手をやって、しきりと自分の襟《えり》を撫《な》でた。
「どうも、恐れ入りました。お察しのとおり、商人でございますから、御註文をうければ、おことわりはいたしませぬ。日幡《ひはた》の城へも、冠山《かむりやま》の城へも、先頃は御用品を届けに参りました。――けれど近頃は伺いません。何分、御軍勢がとりまいておられますゆえ、易々《やすやす》、往来はゆるされませんので、はい」
明快に答えてから、急に、
「そうそう。このたびは、宮路の城も冠山の城も、早速お手に入れられ、御戦果のほど、まことにおめでとう存じあげまする。中国の百姓町人はみな今日では、一日もはやく御平定の日をみて、御仁政の下に安心して働けるように、と心から祈っております。世辞《せじ》ではございませぬ。このことは、市《いち》に集まってくるあの賑いを御覧《ごろう》じましても、おわかりでございましょうが」
と、云い足した。
秀吉は疑わない。弥九郎のことばを、その顔いろは、すらすら受け容れている。――が、次に彼の云い出したことは、弥九郎もちょっと予想していなかった問題だった。
「そちに訊いたら詳《くわ》しくわかろう。日幡の城には、中国の豪勇日幡|景親《かげちか》が主将として坐り、その軍監《ぐんかん》として、毛利|元就《もとなり》の妾腹《しようふく》のむすめ聟《むこ》、上原|元祐《もとすけ》が彼を扶《たす》けているかたちだが、一方は毛利の外戚《がいせき》、一方は剛骨《ごうこつ》な勇将、こうふたりが一城にあって、折合はうまくついているかの。城兵などの評判はどうじゃ。そこらの内輪《うちわ》を、ちと聞きたいのだが……もしそちに、日幡への義理合《ぎりあい》があっては正直を語れまい。語れぬものならむり[#「むり」に傍点]に訊こうともいわんが……どうじゃな弥九郎」
「あちらへの義理合などは、決してございません。薬種をお納めいたしたのも、数回はございますが、日幡家の老職、竹井|惣左衛門《そうざえもん》様と、てまえどもの養家の先代が少々の縁故がございましたためで、てまえ自身も日幡景親様へは、直接お目にかかったこともない程度でございますから」
弥九郎はなお、この話題こそ、相手の人が自分をここへ招いた重点と覚《さと》ったので、ことばの不足を云い加えて、
「――むしろ、てまえどもといたしましては、御当家こそ、ずいぶん前々からの大切なお出入り先と心得ておりまする。殿にはもうお忘れかもしれませんが、いちばん初めにお目にかかりましたのは、もう十三、四年も前、たしか信長様が、初めて堺へ兵をお入れ遊ばした年で――わたくしもまだ堺の生家小西屋におり、年も十二、三歳の頃でございました」
「そうそう。そちはなかなかきびきび[#「きびきび」に傍点]した小僧であった」
「殿が、小西屋の店へお立ち寄りくださいまして、店頭で遊んでいた私の頭《つむり》を撫で。――この小蛙《こかわず》は人怯《ひとお》じせぬ面《つら》がまえしておるわ。どうだ、侍にならんか。――そう仰っしゃって下すったことを、ただ今でもよく覚えておりまする」
思い出を語られると、秀吉もつりこまれて、懐かしそうに笑った。
「そうか、あの時、そんなことを申したかなあ」
「子ども心に沁《し》みたことは、妙にいつまでも、忘れないもので」
弥九郎は、ぽつんと、ことばを切って、黙った。
横道へ逸《そ》れた話を、後へ戻して、秀吉から質問をうけたことについて、答を胸の中で纏《まと》めているらしい。
やがてまた口を開いた。
「日幡の城の内情について、聞き及んでいる要点のみ申しあげます。ただし多くは人の風評、真偽は御賢慮をもってお判じ下さい」
「む、む」
「ひと口に申せば、日幡城の内輪は、うまく一致していないそうです。主将たる景親殿と、軍監の元祐《もとすけ》殿と、いつも命令二途より出て、たがいに固執し、論議するといったような場合が多く、老職の竹井惣左衛門様も、ほとほと、困ったものと、てまえ如き者にまで、嘆息を見せられたことがありました」
「上原元祐の妻も、日幡の城内に住んでおると聞いておるが」
「あの奥方は、さすがに毛利|元就《もとなり》様の血をうけ、御妾腹から出たお方ではありますが、賢夫人であると、評判のよいお人です」
「良人の元祐の人物は」
「これは、とるに足らないお人ではないかと思われます。自分の妻が元就公のむすめだということを鼻にかけて、何事につけても、格式ばかりやかましくいう。これも両将不和の一因とか聞き及んでおりますが」
「ウム、なるほど」
あらかじめ偵知していたことと、弥九郎のはなしとは、よく一致していたらしい。
秀吉は、ひとみを大きくして、もういちど深く顎《あご》をひいた。
「弥九郎」
「は」
「もっと、前へ寄れ。これからの談合じゃ」
「はい」
怯《おく》せず、弥九郎は、前へすり寄った。ほとんど、膝もふれあう程まで。
「何事でございますか」
「どうだ、侍にならんか。――これは十数年前にも、小西屋の店さきで、そちの頭を撫でながらいったという、わしの言葉手形を、ここで実行することになるわけだが」
「……左様ですな」
うん[#「うん」に傍点]と、すぐにはいわないのである。弥九郎は熟慮してから答えた。
「――成ってもよろしゅうございますが」
「が――と濁《にご》るのは、成ってもよし成りたくもなし、というわけか」
「忌憚《きたん》なく申しあげます。御承知のとおりてまえは、堺の薬種問屋、小西屋|寿徳《じゆとく》の次男と生れ、のちに岡山御城下の同業の家へ養子として参り、たえず堺と中国を往来し、諸家へ、薬をお納めしておりますが、これはなかなか悪い身分ではございません」
「……ふム」
へん[#「へん」に傍点]なことをいう臆面《おくめん》のない男だと、秀吉は、感心しているような、またすこし、鼻白《はなじろ》んだような面持《おももち》で、まじまじと、弥九郎の唇《くち》もとを見まもった。
弥九郎は、当然なことを、当然いっているような態度である。
「人様には、腰を低め、身には粗服、足にはわらじ[#「わらじ」に傍点]で、こう忙《せわ》しくしておりましても、これで心はなかなか楽しいのでございます。申してはちと憚《はばか》りありますが、中国御陣のお蔭で、外傷の薬、そのほかの薬種は、おもしろいほど売れますし、将来は海外とも交易し、あちらの薬種香料なども買い入れ、ずいぶん商人として大きく働ける時代でございますからな。――ここで商《あきな》いの道を捨て、侍衆の端について、槍の持ちようから習い覚え、戦場の中をまごまごして見ましょうとも、どうも大した自信は持てそうもありません。これは考えものでございますな。子どもの時なら一も二もなく仰せに従ったでしょうが、唯今では急に御返辞はいたしかねます」
大きくても小さくても、町人は町人として、社会的にはっきり階級づけられている今日である。さむらいに取り立ててやるといえば、随喜《ずいき》して、仰せにしたがうというのが人情であり常識であった。
ところが、小西屋弥九郎は、そうでない。
この逢いがたい時代に逢って、将来大いに、武家には成す理想が多いというなら、同様に、商売としても千載一遇の時、何もさむらいに転じなくとも、自分は自分の職をもって、この時代に充分、希望も生きがい[#「がい」に傍点]も持ち得ている者。――せっかくながら簡単には御返辞いたしかねるというのであった。
「むむ。そうか」
秀吉は一応|唇《くち》をつぐんだ。
これが堺人士の特徴というものだろう。本来ならば、利害をこえて、不つつかな身にありがたいお言葉、犬馬の労をとり申さんとか、お眼鑑《めがね》にこたえ奉らんとか、打算を捨てて答えるのが普通なのに、将来の利害をあきらかに云い立てて、
(よく考えたうえで)
という返答は、近頃、武門の間では聞き馴れないことであった。
けれど秀吉は、それを不愉快らしくは少しも聞かなかった。むしろこういうはっきり[#「はっきり」に傍点]した男も大いによろしい。いったん義によって然諾《ぜんだく》しながら後になって利害損得にぐちぐち[#「ぐちぐち」に傍点]いうよりは遥かにまし[#「まし」に傍点]である。それにこういう特徴も大いに用いどころがあるし、使うには使いよいことなども考えられた。いや多分にそういう男だということは、知っての上の交渉であるから、さして不快とする理由もなかったのである。
「弥九郎。商人《あきゆうど》というものは、目さき[#「さき」に傍点]が大事ということをよく申すが、目さき[#「さき」に傍点]とは、目の前という意味ではあるまいな。見越し、先行きということではないか」
「仰っしゃるとおりでございます」
「すると、そちの見越しは、ちと目の前に滞《とどこお》りすぎておる。なぜ、先行きの大利を考えん。商売として立っても男児の仕事は大いにあろうが、十間間口を五十間に広げ、三戸前《みとまえ》の土蔵を百棟の土蔵に増してみたところで知れたものではないか。一国一城の主となるのとは大へん趣《おもむき》がちがう。働きがい[#「がい」に傍点]がちがう。男と生れた生涯の幅もちがうが、どうだな」
「もとよりその辺はよく分っておりますが」
「当座の禄《ろく》も、喰えぬほどな微禄は与えぬ。古参並に扱ってやろう。戦場の往来が不得手ならば、筑前のうしろに控えて、帳面|算盤《そろばん》を持っておるもよろしい。軍のうちには汝のような才能も必要なのだ。いや、とかく麾下《きか》のさむらいどもは、陣頭へ出て、華々《はなばな》と生死の中をくぐりたがってのみいてこまる。糧米や軍需の数字を按《あん》じ、帷幕《いばく》の蔭に経営の苦心をするなどはさむらいの潔《いさぎよ》しとする仕事でないようにみな嫌っていかん。というて、それに不適な才能をむりに持って来ても、これは当人の天性をつかいころすことになるからな。そこでそちのような人間も、大いに重用され得る理由が生じてくる」
「殿。……御返辞申しあげまする。てまえのような者でも、お用いいただければ、お役に立ちそうに思われて来ました。御奉公することにいたしましょう。何とぞ弥九郎の生涯を、不足なく使いきったと後に思し召すように、充分お召しつかい下さいまし」
「承知したか」
「何のかのと、自分の申し分ばかり云いたてて恐れ入りました」
「左様なこと詫《わ》びるに及ばん。随身のうえは、早速にも、そちに命じることがある。いわば奉公始め。弥九郎。まず一働《ひとはたら》きしてみせい」
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元祐《もとすけ》の妻《つま》
小西屋弥九郎《こにしややくろう》は、暇《いとま》を乞うていちど岡山へ帰った。けれどまたすぐ帰陣して、その日から秀吉に仕える身となった。
小西弥九郎|行長《ゆきなが》とみずから称《とな》え、ここに一《ひと》かどの侍になったが、弥九郎は、髪も姿も、前の町人作りのまま、秀吉の命をうけて、間もなくどこかへ立ち去った。
数日の後、彼は、日幡城の中にある竹井|惣左衛門《そうざえもん》の邸へ、客として訪れていた。
密談半夜に及んで、そっと城中から帰った。
惣左衛門は、軍目付《いくさめつけ》上原|元祐《もとすけ》の家老である。弥九郎が去ると、ひそかに元祐の前に出て、
「昵懇《じつこん》の小西弥九郎ともうす者がぜひお取次ぎを得たいとて、夜前、この一書をたずさえて手前を訪ねてまいりました。一応、殿のお目にだけは入れておくと答えて帰しましたが」
云いながら、ふところから秀吉の書簡を出して、元祐のまえに供えた。
元祐は精読した。
主人が、それを見て、どんな気色《けしき》を顔に示すだろうか。それを、惣左衛門は、うわ目づかいに、窺《うかが》っていた。
まんざらでない顔色である。秀吉の手紙はもちろん招降の書簡で、内応して、城をわたすなら、信長に取り次いで、戦後充分な恩賞をもって酬《むく》おう。備中一国は貴下に呈してもよい。そう認《したた》めてある。
「惣左《そうざ》」
「はい」
「そちはどう思う」
「てまえは、ただ殿と、生死をともにいたすもの。殿の御意《ぎよい》のままに従いまする」
惣左衛門のことばは、すでに元祐《もとすけ》の中にうごいている心をすすめているのと同じであった。
が、さすがに、元祐も迷っていた。容易に決意はつかなかった。
惣左衛門が重ねていう。
「何分、ここの城主、日幡どのが、あのように頑迷では、いかに防いでも、落城の日の遠からぬことだけは確かです。それにひきかえ、敵の秀吉はこの中国においても、日増しに衆望を昂《たか》めているようで……」
と、主人の眉をまた見つめていたが、元祐もむしろそれに同意らしく窺《うかが》われたので、次のことばにはもう忌憚《きたん》なく自分の意思を述べた。
「ひとたび落城を見てからでは万事休すです。御最期か、生捕《いけど》りの憂き目を見るかの二つを出ません。お意《こころ》あるなればいまのうちで」
「むむ。……惣左。そちもそう考えるか」
「思慮の乏しい日幡|景親《かげちか》どのと共に惨敗を喫するよりは、むしろ……と」
「料紙と硯《すずり》をかせ」
元祐は、筆をとって秀吉へ返簡を書いた。
内応のこと承知と。
「惣左。ではこれを」
「はッ」
「覚《さと》られるな。景親《かげちか》に」
「何のぬかりが」
惣左はふところへ入れた。
小西弥九郎が、一商人として、種々の薬品を納入に来たのは次の日だった。城内では、欠乏を告げていた品なので、彼の労を多とし平常に倍する値を払った。
代価は、惣左衛門の手から払われた。金子《きんす》のうちに上原元祐の返書もつつみ込まれてあった。
「ありがとう存じます」
弥九郎は、公然、日幡城から出て行った。その足ですぐ彼が龍王山の陣地へ急いで行ったことは、不覚にも、日幡景親の手勢は気づかなかった。
滅亡に終るものは、たいがいな場合、外敵よりも内敵にその素因がある。内部に禍《わざわ》いの根のない限りは、外敵も乗ずることはできないからである。
日幡の城はすでに病《やまい》を内に持っていたものだった。小西弥九郎を躍らせた秀吉の策は、単にその患部へ外から熱を加えたにすぎない。果然、内訌《ないこう》の疾患は遂に膿《うみ》を出した。
城将日幡景親と、軍監の上原|元祐《もとすけ》のあつれき[#「あつれき」に傍点]、味方同志の暗闘や中傷、それをめぐって策動する下部層の士気のみだれなど――城下に秀吉の大軍を迎え、背後に毛利家の興亡をにないながら、この中の人心は、人心の真美も純熱もあらわすことができないで、いたずらに人心の弱点――私慾、私憤、私闘といったような醜いものばかりを助成するような形態の下にあった。
捨てておいても、当然、瓦解《がかい》するものだったにちがいない。――けれど弥九郎の往来は、急転直下《きゆうてんちよつか》、その日を早めた。
あれから間もない一夜。
「――即死された」
「たれだ、下手人は」
「城中に容易ならぬ裏切者がひそんでおるぞ。油断すな、面々」
声から声へ、騒然たることばが伝えられ、夜の明けるまで鎮《しず》まることを知らなかった。
城将の日幡景親が、北曲輪《きたぐるわ》の防備を巡視中、何者かに、鉄砲で狙撃《そげき》されたのである。
敵の弾《たま》にではない。明確に、味方の弾だ。鼎《かなえ》のわくような混乱と物議が果てしなく夜を徹し、そのあげくは、
「日頃、景親どのと不和な上原|元祐《もとすけ》のさしがね[#「さしがね」に傍点]にちがいない」
「元祐の家老、竹井惣左衛門があやしい。先頃から薬売りの小西屋弥九郎と幾度か密会し、彼をもって、寄手の羽柴勢となにか連絡《れんらく》をとったような形跡《けいせき》もみえる」
「元祐の邸《やしき》へ行け。ともあれ、押しかけて、彼らの本心をたたいてみれば顔色でも知れる」
景親の郎党たちは、集結して、上原の住居へ殺到した。
夜来の騒動を、同じ城内にいながら、軍監たる上原元祐が知らないはずはない。にもかかわらず、元祐はゆうべから誰にも顔を見せていない。
「元祐を出せ」
「元祐に会おう」
日幡の郎党は、門を囲んで、怒号し合った。
「出ぬからには、やましい覚えがあるのであろう。われら長年の主人をうしない、しかも城下に大軍の敵を持ち、やり方もない鬱憤《うつぷん》をもってこれへ参ったもの。押し入って元祐の首を挙げるがいいか」
邸内にも、上原の郎党がひしめいている。何事か凝議《ぎようぎ》している動揺が感じられる。するとやがて、家来に門をひらかせて、静かに立ちあらわれた女性がある。
「しずまりなさい。城外の寄手に覚《さと》られたら何としますか」
上原元祐の妻である。手に薙刀《なぎなた》をかかえていた。
元祐の妻としては、反感をいだいている日幡の郎党も、この婦人が、毛利|元就《もとなり》の血をうけた妾腹の子であることは知っている。その点において、この女性の一声は、彼らの怒りを一時にせよ宥《なだ》めるに効があった。
「夜来の変には、女であるわたくしとて、共々、胸をいためているところです。もし良人や、わが家の家中に、そのような異端《いたん》を味方のうちに招いたものがあるなれば、あなた方のお手はかりませぬ。……今も今とて、そのことを、取りただしているところでした。しばし、調べのつくあいだ、静かに始末をお待ちください」
いうと、元祐の妻は、ふたたび門の扉《と》を閉めさせて、邸の内へかくれてしまった。
「立ち帰ったか」
元祐《もとすけ》は、室内へもどって来た妻にたずねた。
彼の妻は、涙の中から、良人の顔を蔑《さげす》むごとく、恨むごとく、じっと見てから、
「いいえ」
と、だけ答えた。
そして、しとやかに、
「惣左衛門をこれへお召し下さいませ」
と、願った。
元祐の近侍は、すぐ家老の竹井惣左衛門をつれて来た。そして、惣左のすがたが縁に見えると、
「入るに及びません」
と、夫人みずから室の外へ出て行った。
とたんに、するどく、
「不忠者!」
と、夫人の叱る声がそこに聞えた。元祐は愕《おどろ》いて座を立って室外へ顔を出した。見れば、夫人は隣室から携《たずさ》えて出た薙刀《なぎなた》の一颯《いつさつ》の下に、竹井惣左衛門を手討ちにしていたのである。
「あッ。そ、そなたは、何で惣左を……。何で?」
蒼白な面《おもて》の裡《うち》に、元祐は、抑《おさ》え難い怒りを燃やしていう。
「お席へおもどり遊ばせ」
立ち騒ぐ近侍をしりぞけて、彼の妻は、一室を閉めきった。夫婦ただ二人となった。
手をつかえると、妻は、おろおろと泣きわなないた。しかし、もう泣くまいとするもののように、彼の妻は、やがて涙を拭《ぬぐ》って、良人《おつと》へ迫った。
「御一緒に、相果てましょう」
「……な、なに」
元祐は、つめよる妻の膝から膝を退《さ》げた。
彼の妻は、ふたりの間に、懐剣を置いた。そして真心を声涙にこめて説いた。
「いかに日頃から御意見の相違があるとは申せ、竹井惣左衛門に命じ、日幡どのを暗討《やみう》ちさせるとは何事でござりますか。――しかもその前に、敵の秀吉に気脈を通じ、利に惑《まど》わされて、味方を売る諜《しめ》し合わせを遊ばしての上とは……」
「た、たれが一体、そのようなことを云い触らしたか」
「あなた様の妻です。あなた様のお心が分らいでどうしましょう。はや門外には、景親どのの郎党がお首を所望に来ておりまする。妻がお側におりながらやみやみお首級《しるし》を人の辱《はずかし》めに任せるわけにはまいりませぬ。わたくしもお供いたしまする。潔《いさぎよ》く、罪を詫びて、お腹をお召しあそばしませ」
「腹を切れと。――奥方《おく》。そちは気でもちごうたか」
「元就《もとなり》のむすめです。亡父《ちち》の遺訓には、利を求めて名を捨てよとはございません。あなた様とて、毛利家に忠義のゆえをもって、わたくしを娶合《めあ》わされ、さらにまたこの度は、輝元様の目鑑《めがね》をもって、軍目付《いくさめつけ》にこの城へさし向けられたお立場ではありませぬか。……いかなる天魔がわが良人をこうも浅ましい者にはなしたかと、人の心の頼りなさが情けなく思われまする。……あれ、あの声、門の外にひしめくお味方の罵《ののし》る声をお聞き遊ばせ。生きれば生きるほどお身の辱《はじ》です。毛利家の名を汚しまする。さ。お急ぎ遊ばしますように」
血相をこめて、迫ると、元祐はなお死を惜しんで、ふいに逃げかけた。
「御卑怯なッ」
夫人は、良人へ抱きついた。鮮血が走った。
それから程経て、彼女の美しい死骸は、城廓《じようかく》の東の丘に発見された。良人元祐の首を前に置き、一枝の花を供えて、そのまえで見事に自害していたのである。
俯伏《うつぶ》した黒髪は、西の方、毛利の本国|芸州《げいしゆう》の方へ向いていた。
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さみだれ雲《ぐも》
一城一城、連環《れんかん》の小城は、かくて箇々に潰滅《かいめつ》された。
のこるは一つ、高松城の主力のみが、ここにぽつねんと孤立のすがたになった。
もとよりこうした頽勢《たいせい》は、高松城の清水|宗治《むねはる》から、毛利家へ向って頻々《ひんぴん》と、
「事態いよいよ急。一刻もはやく御援軍を」
と、飛書、早馬、相継ぐ急使をもって、訴えられたこともちろんであるが、いかんせん、事情は急速に毛利の軍勢をして、ここへ反転進出してくるのをゆるさなかった。
なぜならば、小早川|隆景《たかかげ》は、筑前の立花や豊後の大友宗麟《おおともそうりん》などと交戦中であった。吉川|元春《もとはる》は、鳥取城を中心とする敵勢力の山陰展開にたいしその処置に忙殺されていた。また、主将毛利輝元にしても、こう両翼の一致と、対秀吉軍の大方針が決せぬうちは、その本国吉田山の城をめったに揺るぎ出ることも当然ならない。
輝元を中心に、その両川《りようせん》の意見が一致し、毛利家はじまって以来の、大戦端を予測しながら、全軍四万が方向を転じて、この備中の境へ出てくるまでには、どうしてもなお半月以上の日数はかかる。
「極力いそぐ。かならず大軍をもって援軍に赴く。ただ問題はそれまでの防ぎだ。頑張りだ。高松の一城だに頑としておれば、敵は芸州へ一歩も入ることはできぬ。――清水宗治以下の一心一致をくれぐれ頼みまいらすぞ」
輝元の側近は、輝元のことばとして、度々の使者にこう答えた。激励した。またその一線の任と籠城《ろうじよう》の意義がいかに大きく重いかを説いて、声援鞭撻《せいえんべんたつ》、怠りもなかった。
元春や隆景からも、宗治へあてて、同じような激励と、そして急援の準備にかかっている消息は幾度か連絡されていたはずである。けれど、やがてその通信は、中断され、杜絶《とぜつ》した。
四月二十七日からである。
「今は」
と、秀吉は、周到な用意のもとに、すべての邪魔をのぞいて、いよいよ残る一城高松の包囲を行動しはじめた。
龍王山の本陣一万五千はなおうごかない。
平山の高地へ、羽柴秀勝が五千をひきいて進出し、八幡山には、宇喜多秀家の一万が戦気を昂《たか》めていた。
宇喜多勢の背後には、秀吉の譜代《ふだい》と見られる諸将が陣していた。盤上の駒組《こまぐみ》は一応まずととのったかたちである。宇喜多のうしろへ譜代を配したのは、なおまだ宇喜多の配下にふた心を抱く者が絶無とはかぎらない――万一に備えてであることはいうまでもない。
包囲形勢をとったその日から、寄手と城兵のあいだには、もう先鋒で一部隊の衝突があった。
「――今朝、池の下口での合戦では、宇喜多どのの家士の中、戦死傷あわせて五百余名とかぞえられ、城兵の損害は約百に足らず。うち八十余名は悉《ことごと》く討死。のこる数名のみ生捕《いけど》りましたが、それらもみな全身に深傷《ふかで》を持ち、はや五体もきかぬまま捕われた者どもでありました」
前線を視察して、例の輿《こし》に乗ってもどって来た黒田官兵衛が、龍王山の秀吉の前に来て、序戦の第一日からすさまじい激戦であった模様をつまびらかに話していた。
秀吉はうなずきながら、
「道理、道理。こんどは、血を見ずに陥《おとしい》れるわけにはまいらぬ。……しかし、宇喜多勢も、よく戦うとみえる」
と、いった。――宇喜多の先陣は、その心底と戦闘力を彼の目から試されているものだった。
すぐ五月に入った。
梅雨《つゆ》の空は、むし暑く掻《か》き曇ったり、そうかと思うと、ただならぬ照りつけかたをする。
序戦に、大損害をうけた宇喜多勢は、あれから五日間、夜ごと夜ごと和井元口《わいもとぐち》の附近に、こっそり塹壕《ざんごう》を掘っていた。
二日の朝。この辺に攻め口取って、城へ挑《いど》んだ。
清水|宗治《むねはる》の麾下《きか》は、宇喜多の兵が、城戸や石垣近くへ寄りたかって来るのを見ると、
「うじ虫めが」
と、口ぎたなく罵《ののし》った。
ひとたびは、毛利家に属し、転じては秀吉の先鋒となって、かつての味方へ攻めて来るものに対し、必然な憤怒をおぼえるのだった。
腕を扼《やく》し、歯がみをして、しばし見ていたが、機を計って、城門をひらくと、
「うじ虫を追っ払え」
「いや一匹も生かして帰すな」
怒濤を作って、討って出た。
この怒濤のなかには、戦いを凄惨《せいさん》にする太い感情が波打っている。猛烈な槍の走り、唸《うな》ってゆく太刀のきらめき。それが、思う敵とぶつかるやいな、すぐ惨烈な血けむりとなって、いたるところに、
「来たかッ」
「うぬ」
一騎一騎、一兵一兵。組む、刺し交《ちが》える、或いは、首をあげる、その首を奪うなど、到底、ほかの戦場では見られぬほどな猛闘が演じられだした。
「退《ひ》けッ。退けッ」
土けむりの中で、宇喜多の部将のしゃがれ[#「しゃがれ」に傍点]声が聞えると、彼方《かなた》此方《こなた》の散兵も、わっと鬨《とき》を合わせて退《ひ》いて行った。
城兵は、眦《まなじり》をあげたまま、
「突っこめ」
「あの旗印の見える所まで」
と、宇喜多の中軍をも、この図にのって、踏みつぶすばかりな意気で追い捲《まく》して行った。
――と。先の平地に、一線の塹壕《ざんごう》が見えた。しまったと、先頭に立っていた城方の部将は足をすくめたが、のめる[#「のめる」に傍点]ばかり追いかけてゆく兵には大地も見えなかった。しかし塹壕の一線近くまで近づくやいな、そこの蔭からいちどに起った銃声と硝煙《しようえん》が、たちまち城兵の姿をばたばた[#「ばたばた」に傍点]と野に倒した。
「誘いだ。敵の誘いにのるな。身を伏せろッ。身をッ――」
そしてはまた、
「撃たせて、弾《たま》の間合《まあい》を見、その隙に、飛びこめ」
と、励ましあい、幾人かの犠牲は覚悟の前として、わざと起って、弾雨を浴び、敵の銃手が、次の弾ごめ[#「ごめ」に傍点]をする瞬間を計っては塹壕へ近づき、ついには坑《あな》の中へ飛び込んで、ここに血みどろな土中戦が行われた。
……雨となった。その夜から。
龍王山の陣々は、旗も幕《とばり》も濡れびたっている。秀吉は陣小屋にかくれて、鬱陶《うつとう》しい五月雨雲《さみだれぐも》を廂《ひさし》の外にみながら、だいぶ晴々しくない顔をしていた。
「虎之助――」
と、うしろを顧みて、
「雨の音か、人の跫音《あしおと》か。木戸の方が騒《ざわ》めいておる。見て来い、何事か」
「はい」
虎之助はすぐここへ帰って来て主人に答えた。
「ただ今、黒田どのが、戦場からお帰りになられたのです。途中、輿《こし》を担う者が、この雨のため、坂道で足を辷《すべ》らし、そのため官兵衛様には、輿の上からしたたかに振り落され、蓑《みの》をかぶせられて、御家来がたの背に負われて今おもどりのところでした。皆して、それをお詫びしますと、黒田どのには、おかしげに笑いこけて、腰が痛いぞ、とお手でさすりながら、お小屋の内へ這《は》ってお入りなされました」
あの、脚の不自由な身をして、この雨中にも、前線へ出ていたのか。今さらのことではないが、秀吉も、官兵衛の倦《う》まない精力には、ほとほと感心していた。
「程なくお見えになりましょう」
虎之助は、委細の返辞を終ると、次へ退《さが》って、炉《ろ》の中へ、太い薪《まき》を入れていた。
ぼつぼつ蚊が出はじめてきた。雨のふる日は、わけてうるさい。蒸し暑いうえに暑くはあるが、炉の中の薪は蚊いぶしになる。
「けむいのう。うう。けむたいぞ」
呟《つぶや》きながら、そこらにいる小姓組の若者たちの中を、跛行《びつこ》の人が、案内もなく秀吉の室へ通って行った。
官兵衛である。もう彼方《かなた》の室では、その官兵衛と秀吉との談笑が、梅雨じめり[#「じめり」に傍点]をふきとばしている。どちらも負けずに声が大きいのだった。
「何を笑うているのだろ」
小姓組の面々も、炉《ろ》ばたで湯をのみながら、くつろいでいた。――申しては勿体ないが、御主君のあの笑い声を聞くと、うち[#「うち」に傍点]のおやじが御機嫌だと、共々愉快になってしまう。――そうここの若い者は、常に主君の部屋に対して敏感に喜憂をともにしているのだった。
「きっと、あのことでしょうよ」
石田佐吉が、腰をさするまね[#「まね」に傍点]すると、福島市松が、
「それ、それ」
といって、膝をたたいた。
「なんだ」
「何かあったのか」
片桐助作やその他が、眼をまろくして聞きたがる。この五月雨《さみだれ》に、陣中至って無聊《ぶりよう》なところだ。若い者は話題に渇《かわ》いている。
「於虎《おとら》から聞いたのだが」
と、市松は例の横柄《おうへい》な顎《あご》をもって、虎之助をさしながら、今しがた、黒田官兵衛が、帰陣の途中、輿《こし》を担《にな》う者が、坂道に足をすべらせ、そのために官兵衛が輿から落ちたというはなしを、かなり誇張を加えて、一同に語った。
「それは、愉快」
といったのは、加藤孫六。それからまた、
「見たかったな。黒田どのが転げたところを」
と、奥へ聞えそうな声して笑ったのは、平野権平であった。
お気のどくな――とはたれもいわなかった。
いわないはずである。この若者|輩《ばら》にたいしては、相当、つね日頃から官兵衛は、苦言や鞭撻《べんたつ》を加えている。ときどき、仲間へ入って来て、
(どうだ)
というような親しみも見せてくるのだが、もっぱら敬遠して、親しまないことにしている。というわけは、酔いでもすると、痛烈に、若い連中を頭からこなしつけるからである。
(いまに見ていろ)
悪意や宿意では決してない。いい意味をもって、ここの若い連中は、ひそかに他日を期している。いつかいちどは、黒田官兵衛をして、舌を巻かせ、
(先輩とて、あまりに、今の若い者などと、大口はきくまじきものなり)
という戒《いまし》めを、事実をもって、目に見せてくれねばならんと、誓っているのだった。
「お小姓衆」
坊主あたまが一つ、けむたそうに煙の中に畏《かしこ》まった。茶道衆のひとりである。市松がふりむいて、
「おい。なんじゃ」
と、無頼漢《ぶらいかん》のような口のききかたをした。
「殿のおことばです」
そう聞くと、若者たちは、みな具足の着込みであったが、一斉に坐り直して、もう戯《ざ》れ口《ぐち》もひそめてしまった。
「――黒田様とおはなし中、しばらく小姓溜《こしようだま》りの方へ、退《さが》っておるようにとの仰せです。何か大事なおはなしがおありらしく……」
「むずかしかろうか」
と、秀吉。
「むずかしいと思います」
官兵衛はいう。
沈黙がつづくと、ふたりのあいだには、粗雑な陣中の仮普請《かりぶしん》のため、廂《ひさし》からあふれ落ちる五月雨の音のみが蕭条《しようじよう》と耳につく。
「要は、日数の問題でしょう。二回の総攻撃を試みて、およそ短期力攻の至難なことは知れました。さらば、長陣を覚悟し、悠々《ゆうゆう》、包囲するとしますか、それにも必然、大きな危険が予測される。――毛利方四万という本国勢の急援が間に合って、高松城と連絡《れんらく》をとり、呼応してお味方へ攻勢を展開してくるおそれのあることです」
「む、む。……それゆえに筑前もちとこの入梅には滅入《めい》っておる。官兵衛、何ぞ名策はないか」
「きのうも今日も、前線をめぐり歩き、敵城の位置、四囲の地勢をつらつら見ますに、ここで乾坤一擲《けんこんいつてき》という大策は、ただ一つしかありません」
「高松の陥ちるか否かは、敵にとっても、味方にとっても、ただ一城を争うだけの問題ではない。ここが落ちれば、芸州吉田山の毛利の府は、はやわが掌中のものにひとしく、ここで蹉跌《さてつ》いたせば、五年にわたる中国攻略の業《わざ》も一敗地に崩《くず》れを来《きた》すであろう。――大策こそよけれだ。官兵衛、お汝《こと》の考えは何か。次の間《ま》の輩《やから》も遠ざけてあれば、忌憚《きたん》なくいって欲しい」
「おそれながら、殿にも、腹中の一案はおもちでしょう」
「ないこともない」
「さきにお伺いいたしましょう」
「お汝《こと》も書け」
傍らの硯《すずり》をよせて、自分も筆をとり、官兵衛にも料紙を与えた。
秀吉の書いたのを取って、官兵衛が見た。「水」と一字書いてある。官兵衛が書いたのを取って秀吉が見た。それには二字「水攻《みずぜめ》」としてあった。
「はははは」
「あははは」
笑いながら、ふたりは、丸めた紙くずを、袂《たもと》へ入れて、
「官兵衛。人の智というものは、やはり人の智以上には出ぬものだの」
「左様仰せられますが、高松の城は、平野と耕田の底地に位置し、四囲には手頃な山々をひかえ、加うるに、足守川《あしもりがわ》をはじめとし、大小七つの河川《かせん》が八方へ奔馳《ほんち》しています。これをあつめて平地の一ヵ所に注げば、あの城を、湖水の底となすことも、さして至難ではありません。けだし、活眼の士でなければ思いも及ばぬ大規模な作戦であります。殿が早くもそれへお心づきあったことは敬服にたえませんが、なおかつ、何ゆえ、その実行を御躊躇《ごちゆうちよ》あそばしておられますか」
「されば、古来、火攻めをもって攻城に成功したためしは幾多もあるが、水攻めをもって功をとげた例はほとんどない」
「三国時代、後漢の戦記には見たように思いますが。そうそう、わが朝でも、天智天皇の三年、九州|水城《みずき》の城において、唐軍の来寇《らいこう》にたいし、堤を築き水をみなぎらせ、これを切って氾濫《はんらん》せしめ、一挙に唐軍を押し流そうと作戦したとか――何かの記に見たことがありました」
「いやいや、それも実行までに及ばず、唐軍が退いたらしい。これを行えば、実に、秀吉がまったく前古に類《たぐい》なき戦法をとるわけになる。で実は――ちと入念を要するゆえ、地理数字にくわしい奉行人《ぶぎようにん》どもに命じて、それに要する土木の人員、日数、費用などをあらまし調べさせておるところじゃ。官兵衛、お汝《こと》の胸算用《むなざんよう》では、いったい幾日をもって、どれほどな人員をもって成し得ると考えておるか。ひとつ成算《せいさん》を聞かしてもらいたいが」
秀吉が求めているのは、単なる案でなく、具体的な数字と、誤りのない設計の確証であった。
「ごもっともです。それらの腹案については、てまえの家臣の中にも、いささか才覚ある者がおりまして、精《くわ》しく工事の計数を立ておりますれば、その者をこれへお召しくださるなら、直々《じきじき》、明瞭なお答えができ得るかとぞんじます。――この官兵衛より御献策申しあげたものの、つまりはその男の算数と設計とに基づいてのことでございますから」
官兵衛の言に、
「その家臣とは?」
秀吉がかさねて問う。
「吉田六郎太夫と申す者です」
「いま、在陣か」
「おりまする」
「では、すぐ呼べ」
そう命じてから、秀吉は、
「実は、わしの手許《てもと》にも一名、そういう工事の差配《さはい》や土地の事情に通じている男をひとり留めおいてある。同時にこれへよんで、吉田六郎太夫と合議させてはどうだろう」
「けっこうです。して、そのお人は?」
「家中ではないが、備中玉島の郷士《ごうし》で千原《せんばら》九右衛門という。いま陣中ではもっぱらこの附近の絵図面などを製《つく》らせておるが」
「それは、至極よい人物。ぜひこれへお召し寄せを」
「――おいッ。誰か来い」
秀吉は手をたたいた。
みな遠く退《しりぞ》けて、近侍も小姓もいないので、手の音は容易にとどかない。雨音もそれを邪《さまた》げている。秀吉は自分で起って、次の間《ま》まで歩み、戦場で出すような大声して、
「おういッ。たれかおらぬかッ」
と、陣小屋のうちへどなった。
あわただしく跫音《あしおと》が近づく。愕《おどろ》いたとみえ、それも四方からだった。秀吉は何か、二、三人にいいつけてから、厠《かわや》へはいった。雨はいよいよ降りつのる。
吉田六郎太夫が来る。また、千原九右衛門もまかり出る。
「こちらでおひかえを」
小姓は、べつな広い部屋へ、ふたりを案内した。洞然《どうぜん》として、そこは暗い。かなりたってから、燭台がところどころに配られた。
秀吉と官兵衛とは、なおさっきからの部屋で密談をつづけていた。――ほどなく、陣外からこの雨中を、蜂須賀彦右衛門が上がってくる。
さらに、浅野弥兵衛、木下備中守、生駒《いこま》甚助、堀久太郎。また山内猪《やまのうちい》右衛門《えもん》一豊《かずとよ》などもよばれて同じ広間のほうへ通る。
ほどなく秀吉と官兵衛とは、相伴《あいともな》って、この席へあらわれた。ここへ臨むまでに、二人の間には、すでに基本の方針は一致していたこと勿論である。要するに、これから開かれようとする軍議は、その原案を基礎として千原、吉田両人の持つ実際的な知識に諮問《しもん》し、同時に、人員の配備と、軍全体の戦闘も、すべてそれへ一転集中させるためのものであることはいうまでもない。
「雨中、大儀だった」
と、まず参集の諸将へいって、秀吉からそのことについて口をきり出したとき、遠い陣地にある羽柴秀勝、同小一郎秀長などの一族から宇喜多秀家、杉原|家次《いえつぐ》にいたるまでも、帷幕《いばく》の諸将はあらまし顔をそろえた。
仙石権兵衛、森勘八、一柳市助、山下九蔵、堀尾茂助、蜂須賀家政、黒田吉兵衛(松寿丸改名)といったような中堅の士は、ゆるされて次の細長い部屋にいならんでいた。
軍議は夜に入った。
いつのまにか雨はやんだらしいが、やんだ後のむしあつさはよけいであった。燭台の灯は山霧にぼやけ、蝋燭《ろうそく》はいくたびか継ぎ足された。そのあいだ秀吉も官兵衛も一碗の白湯《さゆ》すら求めなかったので、茶道衆だけは用もなかった。
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土と人
「水攻《みずぜめ》」を決行するとなると、龍王山《りゆうおうざん》の本陣では、すべてに便が悪い。また遠すぎる。
石井山は高松城の東に見える高地で、距離も程よく、ほとんど、敵城と直面するの位置にある。
準備として、秀吉はまず、そこへ本陣を移した。五月七日のことである。
翌八日。
「縄取始《なわとりはじ》めをする。九右衛門も来い。六郎太夫もつづけ」
と、秀吉は幕僚《ばくりよう》、六、七騎をつれて山を降り、はるか高松城の西――その城を右手《めて》にのぞみながら、足守川《あしもりがわ》の門前とよぶ地点まで遠乗りした。一汗ぬぐって、
「九右衛門」
と、よび、
「石井山の山鼻から、この門前までの距離は」
「一里足らず。くわしく申し上げれば、二十八町余にござります」
「そちの図面をかせ」
千原九右衛門の手からそれを取って、築堤《ちくてい》の工事と、四方の地勢とを見くらべる。
ここに佇《た》って観《み》ると。
西は、吉備《きび》から足守川の上流の山地へ、北は龍王山から岡山境の山々まで。そして、東は石井山、蛙《かわず》ケ鼻《はな》の山端《やまはず》れにわたって――実に南の一方をのぞくほかは、ふところ深い天然の湾形をなしている。
その平野の湾のまん中にぽつねん[#「ぽつねん」に傍点]と高松の城は、平城式《ひらじろしき》構築を示している。
秀吉の眼には、その平地の畑も田圃《たんぼ》も馬場も人家も、すでに悉《ことごと》く水面に見えていた。かかる眼で観《み》るとき三方の山岸は、曲線の多い磯や岬《みさき》とながめられるし、高松城はまさに人工的な一孤島ということができる。
「うむ。よかろう」
図面を九右衛門に返し、実地に対しても、自信をふかめると、秀吉は、ふたたび馬にのって、
「帰るぞ」
と、幕僚たちの上に呼ばわってから、工事奉行、吉田六郎太夫、千原九右衛門のふたりへ云った。
「ここの山際《やまぎわ》から、彼方《かなた》、石井山の蛙《かわず》ケ鼻《はな》の下まで、筑前が馬を走らすゆえ、その馬蹄のあとを、築堤の縄とり[#「とり」に傍点]とせい。よろしいか」
「しばらくお待ちを」
ふたりは、附近の民家へ、人夫をはしらせ、何ごとか早急にいいつけ終ってから、秀吉に再度答えた。
「よろしゅうございまする」
「よいか。さらば、こう引け」
と秀吉は、まっすぐに東へ馬を向けて駈けだした。
門前――福崎《ふくさき》――原古才《はらこざい》――その辺までは竿《さお》を置いたように直線を描き、原古才から蛙ケ鼻までは幾ぶん弓なり[#「なり」に傍点]に内ぶところを拡げてゆく。
九右衛門と六郎太夫は、騎馬の幕僚たちと、秀吉とのあいだを馬で追いながら、時々、何か白い粉を落して行った。麦の粉か小米《こごめ》の粉であろう。白い線が地にのこる。
振り向くと、その後を辿《たど》ってもう幾人かの人夫が、築堤線に杭《くい》を打っていた。
秀吉は、蛙ケ鼻へ立って、
「これでよかろう」
左右へいった。
いま引いて来た一線を堤と見、これに七川の水を入れると、ちょうど半開きになった蓮《はす》の葉形の巨大なる湖ができあがる。――人々は初めて地形の認識をよび起され、この備前、備中の境あたりも、遠い太古のむかしには、やはり海だったのではなかろうかなどと急に考え出した。
戦闘は開始された。血の戦いではない。土とのたたかいである。
築堤の長さは。
二十八町二十間という距離。
また、堤《どて》の幅は。
上で六間。下の地面部はその倍の十二間という厚さ。
問題は、高さである。この高さは水攻めとする対象の高松城と比例せねばならない。実に、水攻めの成功を確信し得る素因《そいん》は、なによりもその高松城が平城《ひらじろ》式なる上に、石垣もわずか二間しかないところにあった。
で、築堤の厚みも、その高さ四間という基本から割り出したのである。――四間の高さいっぱいに水をみなぎらせれば、城の石垣を浸《ひた》して、なお二間の水嵩《みずかさ》を、城廓のうちへ氾濫《はんらん》せしめることができるという計算になる。
が、土木というものは、いつの場合でも、予定日数より早かったという例は稀である。
ここに、黒田官兵衛も、もっとも頭を悩ました問題は、工事にしたがう人力であった。
もちろんその大部分は、土着の農民に求めなければならないが、近郷の部落には、いまやその人口はすこぶる稀薄だった。
なぜならば、敵の守将清水|宗治《むねはる》は、籠城と同時に、農民の家族五百余を、城内へ収容していたし、また領外へ分散したものも少なくない。
(御領主さまと、生死をともにするならば)
と、城内にたて籠《こも》った農民は、日頃から宗治をしたっている善良|淳朴《じゆんぼく》な民であり、部落にのこっている者の多くは、素質のわるい怠け者か、あわよくば戦場|稼《かせ》ぎを考えている不純分子が多かったのである。
もちろん宇喜多家の協力もあるので、岡山方面からも人力は徴発して来た。数千人をこえる頭数は、まず忽ちにして集まったといってよい。しかし官兵衛の悩みは、その頭数をそろえる事務ではなく、この人力の結集から最高度な能率をあげさせることにある。
「どうだ、工事の捗《はかど》りは」
巡視のたびに、吉田六郎太夫をよんで訊く。
六郎太夫もそれについては、
「どうも、御予定の日どりまでには、難しくぞんぜられます」
と、沈痛に答えるしかなかった。
この計数家の企画的にはすぐれた頭脳も、数千の人員の――しかも度し難いあぶれ者まで交《ま》じっている雑人《ぞうにん》たちの心理から――誠意と汗をひき出す方法は割り出すことができなかった。
で、築堤二十八町余のあいだ、五十間おきに小屋をたて、総数三十二ヵ所の監視所から常備の将士が督励《とくれい》にあたっていたが、単なる督励そのものでは、蟻《あり》のごとく土を担《にな》い鋤鍬《すきくわ》をふるっている数千の者に、何の拍車も加え得なかった。
しかも、秀吉が掲げている期日は、極めて無理な短期間であった。そして、
「是が非でも」
と、その期間内の竣工《しゆんこう》を部下に求めてやまないのである。
「毛利の援軍四万は、吉川、小早川、輝元の本軍と、三部隊にわかれ、刻々、国境に近づきつつあります。すでにその先鋒《せんぽう》の一部は、某《なにがし》の村落まで来たという情報もありまする」
朝に夕に、飯を噛むまも、そういう飛報を耳にしている秀吉である。またその心中をよく知っている官兵衛である。昼夜兼行の労働につかれはてて、もう昼中はのろのろとしか、うごかない数千の人夫を見ると、官兵衛の胸は、この頃の梅雨雲《つゆぐも》のようにいらいらせずにいられなかった。
予定としては、大体、全工事を半月以内に完成したい。いや絶対に、その期間内に、築堤を終らなければ、毛利の来援とともに、この計画はまったく無意味に帰してしまうのみか、味方の統率上には、大なる破綻《はたん》を来すおそれすらある。
二日。三日。すでに五日。
「いかん。どうかせねばならん。こんな遅々たる捗《はかど》りようでは、半月はおろか、五十日、百日をかさねても、全長二十八町二十間という堤はできまい」
官兵衛は坐視していられなくなった。奉行の吉田六郎太夫も、千原九右衛門も、ほとんど、不眠不休のすがたで、工事監督や人夫の鞭撻《べんたつ》にあたってはいるが、いかにせん使役する人夫は、不満不服のかたまりといってもよい占領地下の敵国民である。また、ふてぶてしいあぶれ者の交《ま》じりである。比較的おとなしい人夫までを、何かにつけて、煽動《せんどう》し、怠業《たいぎよう》の仲間にひき入れ、故意に予定を支障させて、表には出し得ない卑屈な反抗を、当事者の狼狽と、秀吉軍の敗北という結果に見て、故意に満足しようとしている始末のわるい人間群であった。
「怠《なま》けるやつは、何者だ」
官兵衛は、ついに、自身、杖をついて、工事場に立った。
ようやく、幾町かの一部出来かけた堤の新しい土の山に立って、その怖ろしげな眼を、数千の人夫のうえに、|炯々《けいけい》とくばった。
そして、少しでも、怠けているものを見出すと、ちんば[#「ちんば」に傍点]に似気ない迅《はや》さをもって、いきなりその人夫のそばへ駈け寄って行き、
「働けッ。なぜ怠けるッ」
杖をふるって、打ちすえた。
人夫たちは、ふるえあがって、
「ちんばの鬼武者が見ているぞ」
と、働き出した。けれど、その眼のとどく所においてのみである。
苛烈な厳《げん》をもって彼らの汗を強要すれば、彼らにはまた特有な彼らの怠ける戦法は幾らでもある。さすがの官兵衛も、手を焼いた。数千の人夫の、しかも広い工事場の範囲にわたって、そうそう眼も鞭《むち》もとどきかねるからであった。いかに数百人の目付をそれへつけて叱咤《しつた》させてみても、決して、能率は上がって来ないことを知った。
「所詮《しよせん》、予定のうちに、終ることは、不可能です。――万全を期すために、工事なかばに、毛利の援軍は、これへ着くものと、あらかじめ作戦上に、お覚悟を願っておきたいものでございます。……いや雑人《ぞうにん》どもをよく使うことは、用兵以上、むずかしいもので」
秀吉の前に出て、官兵衛はついに、こう訴えた。そして心からその至難を痛嘆した。
秀吉はだまって指折りかぞえていた。秀吉の心中にもただならぬ焦躁はある。たとえば、やがて空をおおう夕立雲が、すぐ山向うに見えているように、毛利の大軍の近づきは、刻々予報されていた。
「官兵衛、そう落胆するにはあたらぬ。まだまだ、七日の余裕はある。何とかできようが」
「日は予定のなかばをこえているのに、工事はまだ三分の一も進みませぬ。何条《なんじよう》、あとわずかな日数で総工事が成りましょう」
「いや、できる」
秀吉は、決して、官兵衛の言を肯定しない。およそ官兵衛の献言にたいして、彼がこうつよく否定したことは初めてといっていい。
「かならずできる。ただし三千の人夫が、三千の力だけしか出さないでいてはできない。ひとりが三人前、五人前の労力を出せば、三千の人夫は、万余の力になる。それを督する侍どもとても同じように、一人が十人分の気力をふるい出せば、何事か成らぬという理由があろう。――官兵衛。こういたせ、秀吉も一応工事場へ臨むであろうから」
何事か、秀吉はささやいた。
翌日の朝頃である。
突然、黄母衣《きぼろ》の使番が、工事場をかけめぐって、全員に、工事の中止を命じ、
「一同、あの小旗の見える下へ集合しておれ」
という命が下った。
「なんだろう?」
人夫頭は、寄々《よりより》、首をひねりながら、ともあれ小旗の立っている堤《どて》の下へ集まった。
ゆうべから徹夜で土をかついでいた人夫も、いま交代して、堤の土盛りにかかり出していた人夫も、すべてその組々の親方に従って、一ヵ所に蝟集《いしゆう》した。
土の色とも人の色ともわからない数千人の頭数が、
「おい、なんだね」
「なにがあるんだ?」
と、半ば不安に駆られていながら、しかも虚勢を失わず、彼らの通有性である戯《ざ》れ言《ごと》や揶揄《やゆ》を露骨な態度に示したまま、黒々と人波をゆるがしていた。
そのうち急にひそ[#「ひそ」に傍点]となった。小旗のわきにすえてあった床几《しようぎ》へ秀吉の姿が倚《よ》ったからである。小姓、旗本などが左右にわかれて厳《おごそ》かに控える。人夫達から日頃、憎悪の的になっているちんば[#「ちんば」に傍点]の鬼武者黒田官兵衛は、すこし離れた所に、竹の杖をついて立っている。
やがて、その官兵衛が、堤《どて》の上から数千人のうえへ、大声で告げた。
「筑前守様の御上意で、きょうはお前たちの所存《しよぞん》を訊いてやれとのお言葉だ。かねて汝らも知るがごとく、築堤の日限ははや半ばをすぎておる。然るに、工事は遅々《ちち》として進まない。その原因は、一にお前がたが業に対して、死力をふるい出していないからだと、筑前守様は仰せられる。――そこでだ。一体お前がたの間には、どういう不満があるのか、何が不足なのか、どうしてくれと望むのか、それを忌憚《きたん》なく、きょうは訊いてつかわすためにこれへ集合を命じた次第である」
「…………」
官兵衛はしばらくここで舌を休めながら、数千の頭をながめていた。所々の頭と頭が、何かささやき合っている。明らかに全体も動揺している。眼と眼を見あわして。
「組々の親方どもは、人夫達の気もちを充分に弁《わきま》えておるであろう。このときを逸《いつ》しては、汝らの願い事を、殿のお耳へじか[#「じか」に傍点]に聞いて戴く折はないぞ。――どの組からでもよい、五、六名これへ出て来て、一同の代表として、不足不満、希望を申せ。筋目の正しいことなれば聞きとどけてつかわすであろう」
すると、大勢の人夫の中から、見るからに不逞《ふてい》な面《つら》がまえをした半裸体の大男が、ここで仲間へ顔を売ろうという気か、のしのし堤《どて》の上へあがって行った。
それを見ると、また三、四人の土工頭が、
「いおうじゃねえか。ああ仰っしゃるんだ。なにも、びく[#「びく」に傍点]つくこたあねえ」
と、強《し》いてあたりへ豪語を払いながら、これまた、堤の上に立った。
「これだけか。代表は」
「へい」
と、各※[#二の字点、unicode303b]、床几《しようぎ》間近なので、膝をついて、土下座しかけると、官兵衛は、
「坐るに及ばん」
と、制して、
「きょうは篤《とく》と、その方どもの不満を訊いてやるとの殿の思し召だ。せっかく土工一同のかわりに立って御前にまかり出ながら、いいたいこともいえないではこちらも困る。要するに、この工事が、期日までに成るも成らぬも、一にその方たちの働き如何にかかっておること。遠慮なく、日頃、その方たちの胸にかくしておる鬱憤《うつぷん》なり不平なりを、ここであきらかに申したてて欲しいのだ。――まず、一番さきにこれへ出た右側の男から申してみい。さあさあ、遠慮なくいうてくれ」
と、官兵衛もきょうはくだけた調子ではなしかけた。
ここでこの工事に従った人夫たちが、どの程度の給与をうけていたかを一瞥《いちべつ》しておくのもむだ[#「むだ」に傍点]ではあるまい。
「武将感状記《ぶしようかんじようき》」の記載によると、総工費の支用は、
銭《ぜに》六十三万五千四十|貫文《かんもん》
米六万三千五百余石
を要したと書いている。
が、この巨額な米や金が、秀吉の陣中に用意してあるわけではない。征旅《せいりよ》五年にわたる中国陣では、多くの敵産も獲《え》ているが、より以上莫大な数字にのぼる軍費を遣《つか》っている。そうそう無限に安土からそれを仰ぐのも秀吉の本意でない。
また、この総費用をまかなう米と金の一部ぐらいは、宇喜多家の城庫にもあることはある。だが、それは万一の備えとして、涸渇《こかつ》させたくなかった。また今、宇喜多家からそれを取り上げることは、山陽方面の経済上からみても人心の影響から考えても、決して善策でない。
では、ない金、ない米を、秀吉はどう捻出《ねんしゆつ》したろうか――である。
あきらかな資料はないが、およそこういう局面にゆきあたるのは軍政上ままある慣いだ。秀吉はまずこの地方の米を帳付《ちようつけ》(軍票)で買い上げたにちがいない。
後払い制度の軍札以外には、占領地の山とか田とかをお墨付《すみつき》として、功労があるとか、献納物をしたとかいう、所の庄屋や豪農などへ下附したであろうことも疑いない。
また、それらの者を差配《さはい》として、土着民の協力をうながしつつ、まず極力、陣中に物資を収めていた。
しかし、この政策は、多少強権をもってするので、なるべくは現在の占領地内では無理をせぬことに命じてある。実施の目標とされた地方は、やがて毛利の援軍が来て布陣するであろうと思われる国境の街道に面した村々、また長良山《ながらやま》、岩崎、日差山《ひざしやま》などのあいだに散在するたくさんな部落だった。
大軍の敵の到来に先だって、まず敵の食糧を味方へ引き上げておくという、作戦上の意義も多分にふくまれているのである。
「物」は「金」だ。秀吉はこんどの工事にあたって、人足の賃銀を、一日割の日傭《ひよう》(日給)にせず、請負《うけおい》制度にして、その募集とともにこういう高札を立てて約束した。
土俵一俵運ぶごとに
銭百文、米一升与う
これは優に、当時の労銀としては、農民の一日以上の収入にあたる。土工の手間賃としても破格なものだった。汗を惜しまず体力の精かぎり働けば、一日のうちに平常の半月分の稼ぎをすることも易々《いい》たるものだ。うわさを聞いて、
「ひと稼《かせ》ぎ」
と、たちまちこの仕事場へ人力が蝟集《いしゆう》してきた理由の第一はその効果だといってよい。
けれど、収入の歩《ぶ》が好ければ歩がよいで、彼らは決して、無限には働かない。むしろ小さな慾の足りるところで汗を惜しんで、あとは懶惰《らんだ》を楽しみたがる。こうまでして自分たちを優遇する雇用者にたいし、その恩を謝すよりも、その逼迫《ひつぱく》している急場の足もとをつけこみ、故意に怠《なま》けてはそれを揶揄《やゆ》し、鞭《むち》で強《し》いられれば俄然不平を鳴らすというふうであった。
――人情、ぜひもないところ。
と、秀吉はかなり寛大にこの状態をみていた。腹からのあぶれ[#「あぶれ」に傍点]者もいるが、ほとんどは占領下の民である。きのうまで、領主と仰いでいたものから俄かに離れて、まったく人情風習も馴《な》じまない他国の陣営に雇われてきているのである。むしろ不憫《ふびん》ともいうべき者、
「むりもない」
と、秀吉はその無智を哀れみこそすれ、決して、怒ってはいない。
しかしこのままでは、当然、全作戦の意図は、行わるべくもないので、遂に黒田官兵衛に旨をふくめて、きょうの事とはなったのである。
「名代《みようだい》ども。人夫一同に代ってこれへ出たからは、云い怯《お》じいたしておっては、折角、何の意味もなすまい。望むことなり、日頃の不満なり、何なりと申したててはどうか」
二度まで、官兵衛にこう促《うなが》されると、不平分子の代表として、そこの堤に立った五名の土工|頭《がしら》のうちのひとりが、云い出した。
「では、仰せに甘えて、申しますが、どうか御立腹下さらないで。……ひとつ、その……よろしくお聞き届けをねがいたいんで」
「よし、よし。何だ」
「土俵一俵はこべば米一升、銭百文くださるってんで、実あ、てまえども、何千人てえ貧乏人は、よろこんでお雇《やと》われ申したわけでございますが、なんのこった、その約束がちがうじゃねえか……ッてなところがその、下司根性《げすこんじよう》と申しやすか、こちとらを始め、ここにいるみんなが皆の不服なんで」
「これこれ。かりそめにも、羽柴筑前守さまの名をもって、高札した約定に、御違背ないはずだ。その方たちは、一箇一俵運ぶたびに、お焼印のある竹串《たけぐし》をもらい、それを夕刻お勘定場で、約束どおりいただいておらんのか」
「そりゃ旦那、戴いちゃあおりますが、一日十俵二十俵運んでも、お勘定場のお払いは、現米《げんまい》一升に銭百文きり。あとはみんな後払いの、軍札《ぐんさつ》と米券《べいけん》でござんしょ」
「そうだ」
「そいつがどうも困るんで。……へい。稼《かせ》いだものは稼いだだけ、米でも金でもようございますから、現《げん》の物《もの》でいただかなくちゃ、こちとら、日稼ぎの貧乏人は、女房子を食わしちゃゆかれませんので」
「米一升に、銭百文あれば、その方たちの暮しでは、ふだんの収入《みいり》よりもはるかによいはずではないか」
「ごじょうだんを仰っしゃっちゃいけません。牛や馬じゃあるめえし、年がら年中、こんなに働いていたひにゃ、体が了《お》えてしまいまさ。――それを合点の上で、羽柴様のおいいつけに従い、日頃の何倍も夜昼なく働いているんでございますから、この後には、酒も飲みたし、うまい物も食いたいし、借金も返そう、女房に夏着の一枚もと、慾と道づれなればこそ、無理な仕事もやれるんでさ。それを、日頃の相場とたいして変りねえ駄賃で追ッ払われちゃ、精も根も続きッこはございません」
「はてさて、わからぬやつ。わが羽柴軍は、その方たち領民へ臨むに仁政を旨《むね》とし、不愍《ふびん》をもってこそおるが、まだかつて、苛政《かせい》を布《し》かれたためしはない。いったい、汝らのぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]申すところは、どこにあるのか」
「へへへへへ」
五名の土工たちは、みなあざ[#「あざ」に傍点]笑った。不逞《ふてい》な面《つら》がまえを揃えて、こんどは口々に、
「旦那。文句は云いませんから、働いただけを払っておくんなさい。軍札だの、米券だのと、紙屑をいただいたって、腹はふくれやしません。第一この戦《いくさ》に、羽柴様が負けたひ[#「ひ」に傍点]には、その紙屑を持って、いったい何処の誰から金を引き換えてもらうんですか」
「心配いたすな。その儀なら」
「おっと、待っておくんなさい。――戦《いくさ》にはきっと勝つからとおっしゃるんでござんしょう――とんでもねえこった。御大将や旦那がたは、命を賭けたばくちでござんしょうが、そんなばくちに、半口乗るこたあ、こちとらあ、真っぴらおことわり申しますぜ。……なあオイ、みんなッ、そうじゃねえか」
堤《どて》の上から手を振って、数千の人夫に合意を求めると、たちまちわあっ[#「わあっ」に傍点]とそれに応じて、見える限りの人間の頭と手とが波のように騒ぎだし、
「やれ! やれ! しっかりッ」
と、名代たちを応援した。
「それだけか。不平は」
官兵衛のことばに、五名は、
「へい。まず一番に、それからかた[#「かた」に傍点]をつけていただきたいもんで」
と、衆を恃《たの》んで、怖れ気もなく云いたてた。
「成らんッ!」
官兵衛は、初めて、ほんとの声をふりしぼった。竹の杖を投げるやいな、陣刀を抜いて一人を真二つに斬り、逃げるのを追って、また一人斬った。同時に、うしろにいた吉田六郎太夫も、千原九右衛門も太刀を払って、抜打ちに、他の三名を鮮血の中に打ち果していた。
黒田官兵衛、千原九右衛門、吉田六郎太夫、こう三人が手分けして、電瞬《でんしゆん》に、五名を斬ったわけになる。
その迅《はや》さと、意外とに打たれて、数千の人夫は、墓場の草のようにひそ[#「ひそ」に傍点]としてしまった。
それまでの横着そうな面《つら》がまえも、不平の声も、反抗的な眼つきも、一瞬に拭《ふ》き消されて、ただ土色の無数な顔が、胆《きも》を失ったようにむらがっているに過ぎなかった。
五ツの死骸を地上におきながら、官兵衛、九右衛門、六郎太夫は、なお雫《しずく》する血がたなを手にさげたまま、それらの無数な頭の上を無気味な眼でながめていた。
「――改めて、一同へいうが」
と、やがて官兵衛はありったけな声を張って告げた。
「おまえたちの名代、五名の者は、いまこれへ呼んで、その云い分なるものを聞いてつかわした。そしてかくのごとく明瞭な返辞を与えたわけである。――が、まだほかに申し分もあろう。これへ出て云いたいものを抱いておる輩《やから》もあるに相違ない。――次には、誰だ。われこそ、一同を代表して、何かいおうと思うものは、いまのうちに出て来るがいい」
「…………」
「出ろ。出て来ないか」
「…………」
「もはや、云い分はないのか。あらば、誰でも、これへ出て申せ」
「…………」
官兵衛は、またしばらく口をつぐんで、彼らの反省するいとまを与えていた。無数の顔のうちには明らかに恐怖のいろを悔《く》いにかえている者もみえた。そこで官兵衛は、はじめて、血がたなの糊《のり》をぬぐって、陣刀の鞘《さや》におさめ、その威容を正しながら、かつ顔いろをやわらげてこう人夫一同へ諭《さと》した。
「五名の者につづいて、誰もあとから出て来ないのを見れば、おそらくおまえ方の本心は、この五人とは違うものと思われる。そう解釈して、これからは、こちらの云い分をいってつかわすが……どうだ、異存はないか」
数千の顔は、救われたように、声をそろえて、それに答えた。――毛頭異存などはございません。元々わしらは何も知りません。また、不平や不満をいった覚えもありません。ただ、そこへ上がって御成敗をうけた頭株の連中に嗾《そその》かされて怠《なま》けただけに違いございません。――どうかわしらはどんなにでも御命令に服して働きますからごかんべん下さいまし。
数千の者が口々にいうので、がやがやと大きい声、小さい声が波打つばかりで、どの顔がどんなことをいってるか分らないが、ともかく全体の者の気もちだけは聞きとれた。
「よしよし。……しずまれ」
官兵衛は、手を振って、制しながら、
「そうだろう。さもあるはずとわしも思う。難しいことは説かぬが、要するにお前がたは、はやくよい御政道の下に、安民楽土という境遇を得、妻子とともに、楽しく働いてゆければゆきたいのだろう。――それを、目前の小さい骨惜しみや利慾にとらわれていたら、お前たち自体で、おまえたちの望む日の来るのを邪魔しているようなものになるぞ。また、これだけは固く信じるがいい。わが織田右府様より御派遣の羽柴軍は、絶対に、毛利にやぶるるものではないということをだ。毛利こそはいかに大国でも、はや凋落《ちようらく》の運命にある国。これは毛利が弱いわけではなく、時の大勢というもの。またわが織田軍は、朝廷に仕えて、よく禁門の御心《みこころ》を体し、もっともよく、いまの諸国を統一し、治めるものとの、御信頼もあつい武門であるがためでもある。どうだ、わかったか」
「わかりました」
「では、働くかッ」
「働きます。どんなにでも、働きまする」
「よしッ……」
と、つよくうなずくと官兵衛は、秀吉の床几《しようぎ》の方をふりむいて、
「人夫一同、あのように申しておりますれば、何とぞこのたびだけは、御寛大をもちまして」
と、大勢になり代って詫びを述べた。
秀吉は床几を立って来た。ひざまずいた官兵衛や奉行たちへ何か命じている。と、忽ちそこへ勘定方の武士に率《ひき》いられた足軽たちが重そうに銭叺《ぜにかます》をかついで来た。一荷や二荷ではない。何十という叺《かます》の山、いや銭の山がまたたくうちに積まれた。
なお茫然と、恐怖や悔いにつつまれている人たちへ向って、官兵衛がふたたび云った。
「ふかくとがめるな、汝らは元来|不愍《ふびん》なものである。仲間のうちの二、三の悪者に嗾《そその》かされ、心にもなく不平を鳴らしたにすぎぬ者。――そう筑前守様にはおおせられて、他意なく働くからには、酒代《さかて》も充分とらせて励ませとの御沙汰だ。ありがたくお礼をのべて、酒代をいただき、すぐ仕事にかかれ」
足軽に命じて、そこにある限りの叺《かます》を、悉《ことごと》く破らせると、銭の山は雪崩《なだれ》をなして堤上をうずめた。
「いくらでも掴《つか》めるだけ掴んで行け。ただし一人一掴みずつだぞ」
云い渡したが、なお狐疑《こぎ》して、たれひとり出て来ようとはしない。眼と眼を見あわせ、仲間と仲間とささやき合い、依然、銭の山は置かれてあった。
「はやい者勝ちであるぞ。なくなった後に不服を申すな。一人一つかみずつ下されるものゆえ、掌《て》の大きい者は大きく生れたが得《とく》というもの。小さい掌の者は落着いて取りこぼさぬように戴くがよい。あわてて損するな。そして、少しも早く仕事に就け」
もう人夫たちは疑わなかった。彼の笑顔《えがお》と冗談のなかに真実を知ったからである。前のほうにいた人夫たちの一群が銭の山へ駈け寄った。余りにある銭に竦《すく》んだようにちょっとためらったが、ひとりが先んじて一掴《ひとつか》み取って退《さが》ると、同時に、わあっと凱歌《がいか》のような歓声があがった。
たちまち、銭か人か土のかたまりか分らないような混雑が起った。しかしただひとりも誤魔化そうとする者はなかった。日頃の狡《ずる》い心も不平も、このときはどこかへ投げやった人間のみになっていた。そして一つかみの酒代を持つと、さながら生れ変った人間のようになって、各※[#二の字点、unicode303b]脱兎《だつと》のごとく自分自分の仕事の持場へ駈け出していた。
力づよい鍬《くわ》や鋤《すき》を入れるひびきが満地に起りだした。
「それッ」
とばかり土を担《かつ》ぐにも、もっこ[#「もっこ」に傍点]へ棒を入れるにも、土俵を肩へ担《にな》うにも、気あいがはいる、精神がふるい興《おこ》る。
彼らにも、出してみれば、その精神があったのである。ここからしぼり出る汗は、その者の心をいよいよ愉快にさせ爽快《そうかい》にさせる。そして彼ら自体のうちから、
「くそッ、二十八町ぐらいな堤築《どてつき》が、あと四日や五日もあるに出来ねえでどうするものか。みんなあ、大洪水のときを思い出してやろうぜ」
「そうだ。出水《でみず》の時の防ぎをやる気ならこんなものは何でもねえ」
「やろうぜ。根かぎり」
「やろうとも。へたばる[#「へたばる」に傍点]ものか」
その日の半日だけでも、工事は、その前の五日分にも勝《まさ》るほど目ざましく捗《はかど》り出した。
仲間と仲間も、もうむだ[#「むだ」に傍点]口一つきく者はない。たまたま、生爪《なまづめ》でも剥《は》がしたのが、まごついてでもいると、
「泣きッ面《つら》するな、男らしくもねえ」
と、彼ら自身が立派に励ましあい、また仲間の自治を保っていた。奉行の鞭《むち》も、官兵衛の杖も、いまは無用のものでしかない。
かがりは夜を焦《こが》し、土けむりは昼を晦《くら》くして、二十八町二十|間《けん》の大堤《おおどて》の工事もいまは余すところわずかとなった。そしてこの陸の築港も完成に近づきつつある一面、なお、高松城附近の七ヵ所の河川《かせん》では、べつにここにも劣らない難事業がすすめられていた。
それは。
河川の水路を変えて、そのすべてを、やがて大堤《おおどて》のうちへ注《そそ》ぎ入れる傍系工事だった。
この方面にも、武士、足軽、人夫などあわせると、二万に近い人員がうごかされている。
わけても、難事業と見られるのは、足守川《あしもりがわ》の堰止《せきど》め工事と、鳴谷川《なるやがわ》の引き込み工事とであった。
「いかにせん、このところ山岳地方の大雨に、日々|水嵩《みずかさ》を増し、これを堰止《せきと》めようにも、工事の術《すべ》もありません」
足守川の受持奉行から秀吉へしばしば苦境を訴えて来た。秀吉はこれを官兵衛に諮《はか》ったが、官兵衛にも、名案はない。なぜならばその前日、家臣の吉田六郎太夫とそこを視察して、至難を知っていたからである。
「何分にも、その烈しさは、およそ二、三十人して動かし得るほどな大石を無数に落しても、忽ち押し流されてしまうほどな激流ですからな」
官兵衛すらそう嘆じるのみだったが、秀吉は、
「ともかく現場を見て」
と、足守《あしもり》へ急いで行った。
しかし実地に立って、すさまじい奔濤《ほんとう》を見ては、なおさら自己の小智に圧倒を感じるばかりだった。
六郎太夫が来て云った。
「上流の森林を伐《き》って、葉の茂ったままの大木を矢つぎ早に押し流してみたら、或いは堰止《せきと》まるかも知れませぬ」
献策を用いて、約半日、数千の人夫を森林に入れ、夥《おびただ》しい材木を葉付のまま川へ投じてみたが、その枝と枝と交錯して、水の淀《よど》むに役立つかと見えるのも一瞬で、何の効《こう》もないことがわかった。
「さらば、ちと大仰《おおぎよう》ではございますが、かようになされては如何」
と、六郎太夫が第二に立てた案は、数千人の足軽人夫をもって、大船三十艘を下流から曳きあげ、これへ大岩巨石を積んで、ほどよき地点へ沈めるという計画である。
「よかろう」
ものものしい光景はその日のうちに現出した。しかしこれも、それらのおおぶねを水に逆らって上流へ曳いて来ることは到底不可能で、ついに陸上に板を敷き、その上に油を流して、えいや、えいや、地上を曳船《ひきふね》して来て、すなわち予定どおりこれを足守川の堰口《せきぐち》へ石とともに沈めることができた。
この策は成功した。
ときすでに、一里にわたる大築堤《だいちくてい》も、一方にできあがっていたので、ここに堰《せ》かれた激流は、水けむりの方向を変えて、とうとうと、高松城をめぐるひろい田野や民家のある平地へ目がけて、奔馳《ほんち》して行った。
同じ頃、他の七川の水も、ひとしく注ぎこまれた。ただ鳴谷川の引き込みだけがなおその難工事のため、間に合わなかったに過ぎない。
五月七日から工を起して、実に十四日目。わずか半月足らずで完成を見たのである。――よもやと思っていたにちがいあるまい。吉川、小早川などの毛利がたの援軍四万が、すぐそこの国境の山々まで着いたのは、すでに高松城のまわりが、いちめんな泥湖《どろうみ》となった翌五月二十一日のことだった。
その二十一日の朝、秀吉は、石井山の本陣に立って、諸将とともに、
「あな、目ざまし」
と、一夜のうちに変貌した泥湖《どろうみ》を見ていた。
壮観といおうか、惨憺《さんたん》といおうか、夜来の雨を加えて、濁り漲《みなぎ》った水は、高松城ひとつを、その湖心にぽつん[#「ぽつん」に傍点]と残しているほかは、その石垣も、闊葉樹《かつようじゆ》の森も、刎橋《はねばし》も、屋敷町の屋根も、部落も、田も畑も、道も、水底にかくして、なお刻々、水嵩《みずかさ》を増していた。
「足守はどの辺?」
秀吉の問いに、官兵衛が、はるか西に煙っている一叢《ひとむら》の松林を指さして、
「御覧《ごろう》じませ、あの辺りの堤が、百五十間ほど切ってあります。足守の本流を堰《せ》かれた水は、彼処《かしこ》からあふれこんでおりまする」
「――すると、あの北にある小高い山が、虎之助清正のおる陣所だな」
「そうです」
「敵の左翼、長良山《ながらやま》とは、最も近い。――於虎《おとら》も腕をうずかせておろう」
秀吉は眼を、そのまま、遠い山々の線に沿って、西から南へとうつしていた。
国境、真南の空に、日差山《ひざしやま》が見える。
きょうの夜明けとともに、この山には小早川|隆景《たかかげ》の旌旗《せいき》が無数に見出された。おそらく夜のうちに着いて陣営を布《し》いたものであろう。ここの兵力だけでも二万は下るまいと察しられる。
すこし離れた天神山にも、先鋒の一部隊が出ているらしい。その日差、天神の山あいを、山陽街道が通っている。
また、毛利輝元の本軍は、福山の半腹に先鋒をおき、そこから西へかけ猿掛城《さるかけじよう》あたりを中心に、後詰《うしろまき》をそなえていた。その兵力は約一万余。
さらに。吉川元春の一万騎がある。
これは岩崎山、寺山、長良山などに散開して全軍の羽翼をなし、もっとも敏捷《びんしよう》に軽変のふくみを持って備えていた。
「隆景も、元春も、あれへ着いて、今暁この泥湖《どろうみ》に対し、どんな感を抱いたやらと、敵ながら思いやられます。さだめし、足ずり[#「ずり」に傍点]して、無念がっておりましょう」
官兵衛がそういって、秀吉の顔を見たとき、秀吉はうしろを振り向いていた。
鳴谷川の工事場から、そこの水奉行《みずぶぎよう》たりし者の子息と家来とが、使いとしてここに見え、平伏したまま泣いていた。
「どうした?」
秀吉が訊くと、その一名が、
「今暁、鳴谷川の現場において、お奉行には、申し訳がないと、このとおりお詫びの一通を書き遺し、見事にお腹を召して果てました」
と、いう。
そこの引き込み工事は、二百六十六間の山を切り拓《ひら》くという難工事だったため、あと五十余間をのこして、遂に、今暁までに間に合わなかったのである。工事督励の任にあたった水奉行は、その責任感から自害したものであった。
秀吉は、その息子という者の姿を見つめていた。手足はもちろん髪も顔も泥に汚れている。やさしく、側へ招きよせて、
「おまえは、腹を切るなよ。父の菩提《ぼだい》は、戦場で弔《とむら》え。よいか」
と、その汗くさい背をかるくたたいた。
奉行の息子は、手ばなしで哭《な》きだした。また、雨が来る。ひくく降りた密雲からもう白い雨の縞《しま》が泥湖《どろうみ》へそそぎはじめていた。
五月二十二日の夜。すなわち毛利の援軍が国境まで着いた翌晩のことである。
小雨ふる闇の泥湖《どろうみ》を、怪魚のようによく泳いで、堤《どて》の一部へ這いあがったふたりの男がある。
ぐわらぐわらと鳴子や鈴が烈しく鳴った。水際《みずぎわ》や堤《どて》のうえには、ほとんど茨《いばら》のように篠《しの》や柴《しば》を結いかけ、それへ縦横に縄が渡してあったからである。
そして、長堤一里の間、五十間おきには、番小屋があり、赤々とかがりを焚《た》いていたので、たちまち番兵が駈けつけ、格闘《かくとう》のすえ、一名は捕えられ、一名はついに逃げてしまった。
「城中の兵か、毛利の使いか、ともあれ、御吟味あるべき者です」
番所の将は、捕えた男を、石井山の本陣へ送った。
秀吉は陣屋の灯火《ともしび》をよせて書面をかいていた。
使番の佐柿弥《さかきや》右衛門《えもん》は旅装をととのえて、下に控えている。秀吉の書面ができたらすぐそれを携《たずさ》えて早打に立つべく命じられているものらしい。
「いかがなさいます」
山内一豊《やまのうちかずとよ》が、縁先から秀吉へ尋ねた。召し捕った敵の男を、その廂《ひさし》の下にひきすえているのである。
秀吉は、うむ、うむ、とうなずきながら、とうとう書状の終りまで書いてしまった。そして封までしてから、
「どれ、どれ。どんな男か」
と、縁先へ出て来た。
佐柿や山内が、左右へ燭《しよく》をもち出した。そして、雨の落ちる廂《ひさし》の下に、傲然《ごうぜん》と、両腕を縛《いまし》められている敵兵をながめて、
「これは城兵ではないな。毛利の陣中から高松の城へ使いを命じられたものであろう。何も持っていないか」
と、一豊にたずねた。
一豊は、下調べに当って、男の懐中から見出したという一片の書状を秀吉のまえにさし出した。あの泥湖《どろうみ》を泳ぐあいだも水に浸《ひた》らぬように、それは小さい尹部徳利《いんべとくり》に詰めてかたく栓《せん》をほどこし、さらに油紙で入念にくるんで肌へつけていたということも云い添えた。
「……ふム。これは城主の宗治《むねはる》から、隆景《たかかげ》と元春へ宛てた返書らしい。灯《あかり》を、もそっと手もとへ」
秀吉は披《ひら》いて黙読していた。
その返書の文面から察しると、毛利の援軍が、見るかぎりな泥湖《どろうみ》に当面して、いかに失望落胆したかがよく窺《うかが》われる。
折角これまで、大軍をもって急援に駈けつけて来たが、四方満々の水に囲まれた高松の城へは如何とも救いの手をのばす策がない。――如《し》かず、一時羽柴軍へ降伏して城中数千の生命をたすけ、然る後、時期を見て本国へ帰って来い。
察するにまずこんな意味の密書を、隆景と元春の名で城中へ届けたものにちがいない。
それに対して、いま秀吉が手に入れた宗治の返書は、こう答えているのであった。
[#ここから2字下げ]
われら城中の者を、不愍《ふびん》と思し召され、まことに御仁慈のこもった御命ではありますが、この一城は、今や全中国の要《かなめ》、高松の落ちることは、即《そく》、毛利家の失墜を意味します。せっかくながらわれら元就《もとなり》公以来|恩顧《おんこ》のともがらは、敵に凱歌《がいか》を売って一日たりと生きのびんなどという者は、匹夫の端に至るまで思いもしておりません。みなこの城と共に死なんの覚悟で籠城を固めておるのです。どうかわれらにお懸念《けねん》なく、そちらのお味方御一統にも、どうかここ興亡のさかいに千載の悔いをおのこしあらぬように、万全のお備えを祈っております。
[#ここで字下げ終わり]
孤城のうちの宗治は、こういう返辞の下に、却って援軍の味方を、励ましているのであった。
捕われた毛利の臣は、秀吉の訊問にたいして、思いのほか率直に答えた。――すでに宗治の返書を敵に読まれている以上、頑《かたく》なに隠しだてしたところで無益と覚《さと》っているものらしい。
「逃げ去ったもう一名の使者は誰か」
という質問にも、その男は、
「吉川家の臣、転《うたた》小四郎」
と、明白に答え、
「汝は」
と、訊かれて、
「同じく、山澄六蔵《やますみろくぞう》」
と告げ、少しも悪びれない。
秀吉もまた、そう執《しつ》こく[#「こく」に傍点]根掘り葉掘りはしなかった。士を辱《はずかし》めずという程度である。大局から観《み》て無用なことは無用に附し、むしろ彼の気もちはべつな方へはたらいていた。
「一豊《かずとよ》」
「はい」
「いいだろう。もうよい。この武士は縄を解いて、陣外へ放してやれ」
「え。放しますか」
「泥湖《どろうみ》を泳ぎ渡って、寒げにみゆる。粥《かゆ》など喰べさせて、途中、また捕まらぬよう、持宝院《じほういん》下まで、送ってやれ」
「かしこまりました」
山内一豊は、縁を下りて、彼の縄を解いてやった。当然、死を覚悟していたにちがいない山澄六蔵は、却って、急に度を失っていた。一豊にうながされて、秀吉のほうへ黙礼し、早々に起ちかけると、秀吉はまたよびかえして、
「そちの主人、吉川元春どのには、近ごろも健在かな。このたびはまた、馬之山《うまのやま》以来の対陣と相成った。筑前がよろしく申しおったと伝えてくれよ」
と、いった。
六蔵は坐り直していた。秀吉の恩に感じて、心から頭《かしら》を垂れた。
「申し伝えまする」
「それと、毛利どのの帷幕《いばく》には、参謀を承《うけたまわ》って、恵瓊《えけい》という軍僧が出入りしておらるるであろう。安国寺の恵瓊《えけい》というて」
「はい。おられまする」
「久しゅう会わぬ。あの御房《ごぼう》へも、会うた節には、よろしくたのむ」
雨の中を、戸外の人影が立ち去ると、秀吉はすぐ佐柿《さかき》弥右衛門を室内に顧《かえり》みて、
「いまの書状は持ったか」
「確《しか》とおあずかり申しました」
「大事な機密もしたためてあるし、かたがた、右府様(信長)へ直々《じきじき》お目にかけるもの。途中の変に心してまいれよ」
「ぬかりはございませぬ」
「いま捕われて来た吉川家の臣にせよ、そちに劣らぬ覚悟をもって使いに立ったにちがいない。しかも捕われてかくの如く、清水宗治と吉川元春との意志は手にとるごとく筑前に読みとられてしもうた。くれぐれも、要意のうえに要意をしてゆけよ」
「はいッ……」
「では、大儀だが、すぐ立て」
「おいとまをいただきまする」
佐柿弥右衛門もやがて退《さが》った。
秀吉はひとり燭《しよく》に対していた。こよい弥右衛門に託して安土へ急がせた書簡は、急遽《きゆうきよ》、信長自身の来援をこの地に仰ぐためのものだった。
孤城高松の運命は、もう網《あみ》の中の魚に似ている。
それを救うべく、毛利輝元、小早川隆景、吉川元春の総将から全軍も、挙げてこれへ会同《かいどう》している。
時なる哉《かな》。中国の覇業《はぎよう》は今、この一挙に完成しよう。秀吉は、この壮観を、信長にも見せたいと希《ねが》った。また、この重大なる勝敗のわかれを、決定的に確保するためにも、信長の出馬を仰ぐことが万全と信じたのであった。
[#改ページ]
饗《きよう》 宴《えん》
――一転、眼を移して、安土《あづち》の府のきょうこの頃を眺めるならば。
ここの城市の景観と、中国の戦陣とは、一脈の繋《つな》がりもない別天地かと、疑われるほどな相違がある。
香りの高い新鮮な文化。
それに相応《ふさわ》しく華麗豪放な往来人の姿。燦爛《さんらん》たる大天守の金碧《こんぺき》を繍《ぬ》いつづる青葉若葉、――ここでは中国に見られたあの泥土の闘いも人の汗も、遠いものにしか考えられない。
五月十五日から、十六、十七、十八、十九日の頃といえば、まさに高松城を孤立化するために、あの大築堤《だいちくてい》を前提とする水攻めの計が実行にうつされて、秀吉以下、黒田官兵衛その他不眠不休に、その工を督《とく》していたあいだである。
その時分を、この安土では、さながら盆と正月を、一度に迎えたような賑《にぎわ》いで、全城全市、盛装していた。
何事ぞといえば。
この安土城に信長が一箇の大賓《たいひん》を迎えるためであった。
それほどな大賓とは、一体誰か。
もとよりかくれもない人ではあるが、今日信長からこれほどな礼遇をうける人として、あらためてその人を想念にのぼすときは、世のなかも革《あらた》まって来たが、人も進み時代の先駆もみな、ようやく大人《おとな》になって来たものだという感がなきを得ない。
すなわち、五月十五日、府に着いて、安土の城へはいったその大賓《たいひん》とは、徳川家康、ことし四十一になる人だった。
表面の称《とな》えは、
「十三年ぶりに上方見物を」
というにあったが、信長が甲州|凱旋《がいせん》の道を東海道に選んで、多分に彼の好遇と歓待《かんたい》に甘えて帰った後、わずかまだ一ヵ月を出ないうちのことであるから、信長としては、その返礼の意味をふくめ、家康としては、さらにその効を大にすべく、また、ようやく革新統業《かくしんとうぎよう》の第二段階に入ったこの際に、将来の大策について怠るべきときでないとして、彼としては実にめずらしく、大がかりな行装《ぎようそう》と列伍をしたがえて、公式に訪れたものであった。
宿所は城下の大宝院。
接待の奉行は惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》光秀《みつひで》。
信長の息《そく》信忠も、中国へ加勢にゆく支度中だったが、信長は、
「何を措《お》いても珍客には」
と、彼をも督して、その振舞のために手つだわせ、京都、堺の商賈《しようこ》に命じては、あらゆる佳肴鮮味《かこうせんみ》の粋をあつめた。そして、十五日から十七日まで、三日にわたる大饗宴を予定した。それについて、
(いったい、信長公ほどなお方が、どうして、八ツも年下な、しかもその国がら[#「がら」に傍点]とて、貧しい弱小からやっと近年勢威を示し出した徳川殿などへ、これ程までな御歓待をなさるのか。何か弱いしりでもおありなのか)
坊間《ぼうかん》、多少こんな取沙汰がないでもなかった。
或る者は、いう。
(あたりまえなことを、異《い》なように云いなさんな。織田徳川の同盟は、そもそも二十余年の誼《よし》みではないか。この譎詐権謀《けつさけんぼう》だらけな乱世の下に、二十余年来も、おたがいに猜疑《さいぎ》せず、違約せず、争わず、信義の交わりをつづけて来ただけでも、こんなうれしいことはないじゃないか。何の理窟や理由が要《い》ろう。それだけでも信長公としては、心から歓《よろこ》びあう値打があるというものだ)
(いやいや、それもあるが、甲州御凱旋の時の、お礼心であろう)
(何の何の、そんな小さい意味ではない。信長公は将来いよいよ中国から九州、九州から海外へまでも、御雄飛なさろうというお気もちがある。それには、関東以北を、徳川殿の手にゆだねて、後顧《こうこ》の憂いなく、西へも南へも進出できる構えをまず立てねばならぬ。そうした御談合などもぽつぽつ運んでいるにちがいないよ)
等、等、等。庶民たちの臆測《おくそく》にも、時によって、ばかにならない含蓄《がんちく》がある。
実をいえば、家康の参向《さんこう》は、信長にとって、折から、出先の客、というものであった。
これより前に、秀吉との打合わせもあって、彼は近日、自身中国へ出馬し、中国もまた甲州のごとく、一挙に席巻《せつけん》し、一気に統治の実をあげてしまおうと、息《そく》信忠もつれてゆく予定で安土へ呼び、今や出陣の準備に忙しい最中であったのである。
――にもかかわらず。
ひとたび安土の大賓《たいひん》として家康を待つや、それらの大事も抛《なげう》って、心から客を迎え、また全家中の臣もことごとく、その接待のために用いて、
「最善をつくせよ。お客をして寸毫《すんごう》の不興もあらしむるな」
と、ほとんど軍令と異らない意気をもっていいつけた。
宿舎の結構、調度の善美、朝暮の佳酒《かしゆ》珍膳など、もちろんのことだが、信長が家康にうけてもらいたいものは、やはり市井人の長屋交際とか、田舎人《いなかじん》の炉辺の馳走とも違わない、その「物」よりは「心」であったこというまでもない。
信長にこの「こころ」があったればこそ、二十余年の同盟がこの乱世に完《まつと》うされて来たともいえよう。また家康のほうからいわせれば、恃《たの》む味方としては、ずいぶん気骨の折れる相手だが、時によってのわがままも、得手勝手《えてかつて》も、皮を剥《む》いた信長の真底には、利害|一《いつ》てんばり[#「てんばり」に傍点]のみでない、真実と呼び得るもの。――それがあるのを知っているので、稀《まれ》には、三斗の酢《す》を呑まされるようなことがあっても、まずまずと、飽くまでこの人を立て、この人に従《つ》いてゆこうという気もちを持ち続けたものであろう。
そうして、この両者の、同盟二十余年間のうち、いずれが得《とく》をし、いずれが損をなしたかを、極めて第三者的にながめるならば、それは両方の得であったといい得る。
もし、青年立志のとき、早くから、信長が家康を盟友《めいゆう》としていなかったら、今日、安土の府の厳存《げんそん》を見ることなど、思いもよらないし、またもし、家康が信長の援助を得ていなかったら、その生い立ちから栄養不良の児みたいであったあの弱小三河の国が、よく以後の四隣の圧迫に耐え得てきたかどうか。たとえば、長篠《ながしの》の一戦を考えてみただけでも、猛虎のまえの一片の餌《え》でしかなかったのではないかと思われる。
心交と利害。こう二つの結びあいを離れて、さらにふたりの性格を箇々にながめてみると、なおその友誼《ゆうぎ》を完《まつと》うし合った底に、津々《しんしん》たる両者の人間の味が噛みしめられる。
一言にしてそれをいえば。
信長には、用心ぶかい家康などには、到底、空想もなし得ない経綸《けいりん》の雄志《ゆうし》と、壮大極まる計画があった。理想に伴《ともな》う実行力があった。
これを反対に、信長から家康を観《み》るに、自分の持たない特徴を多分に持っていることを認めていたにちがいない。辛抱づよい、困苦に耐える、奢《おご》らない、誇らない。また織田家の宿将とのあいだにも、かりそめに摩擦《まさつ》を起さない。分を知って野望をあらわさず、よく内に蓄えて、同盟国に危うさを気労《きづか》わせない。そして同じ敵対国にたいしては、常に重きをなしているから無言の防塁《ぼうるい》はつねに織田の後方を確乎《かつこ》として扶翼《ふよく》している。
いわば理想的な友国であり、個人としては頼もしい知己だった。二十余年間にあったあらゆる辛苦と危機を顧みるとき、信長は家康を、
(わが糟糠《そうこう》の妻)
とも思ったに相違ない。安土第一の殊勲者とも心では称《たた》えていたろう。その人に報《むく》うきょうの饗宴であり礼遇である。彼としてはなお足らないほどな気はしても、過ぎるとは思わなかったにちがいない。
――けれど、主人側の余りな緊張が、時によって、却って客をはらはらさせるような場合は、世上一般の饗宴にもまま例のあることである。
その日、客の家康は、安土山上の総見寺の舞楽殿で、猿楽能《さるがくのう》を見物した。桟敷《さじき》には、近衛《このえ》殿もおられたし、主人役の信長のほか、穴山梅雪、長雲、友閑、夕菴《せきあん》、長安などの年寄衆、小姓衆、そのほか徳川家の家臣もいながれて陪観《ばいかん》していた。
梅若《うめわか》太夫《だゆう》が、大織冠《たいしよつかん》、田歌《でんか》の二番を舞った。出来栄えよく、主客はやんやと褒《ほ》め囃《はや》した。
で、梅若太夫へかさねて、
「お能を御覧に入れよ」
と、命が下った。
ところが、どうしたのか、能のほうは、不出来であった。謡《うたい》のことばを忘れて、二、三度もつかえたりした。
やや興をそがれたが、そのあとをすぐ幸若《こうわか》八郎九郎太夫が、和田のさかもりを舞って、鮮やかに舞い納めたので、主賓の家康始め、一同みな興じ入って、梅若太夫の些細《ささい》な落度などは、たれも心にとめていなかった。
殊に家康は、主《あるじ》のこの馳走に、心からの歓びを示すことに怠りなく、自分の家臣を楽屋へ使いに立てて、
「いずれも結構に拝見した。わけて幸若の舞は、もう一さし見たいほどである」
と讃辞を言伝《ことづ》けさせ、梅若、幸若のふたりへ、金子《きんす》百両、帷子《かたびら》五十を祝儀《はな》として贈りとどけた。
しかし楽屋では、同時に、それどころでない騒ぎが起っていた。――というのは、梅若の能の失態《しつたい》にたいして、信長から、
「大切な尊客の前において、不用意なる能をお目にかけなどしたは、醜《みぐる》しき曲事《くせごと》たるばかりでなく、芸者《げいしや》として、平常の心がけの不つつかによる。芸道の鍛錬《たんれん》も、武家の兵法も、変りあるべきでない。見せしめのため、梅若太夫の首を刎《は》ねい」
という叱責《しつせき》が、家臣|菅屋《すがや》九右衛門、長谷川竹《はせかわたけ》の両人から厳《おごそ》かにここへ沙汰され、楽屋中の者は、色を失って、打ち顫《ふる》えながら詫び入っていたところなのである。
家康のとりなしで、後にようやく、信長も怒りを解いて、
「ゆるしおく」
とはいったが、そのため、一時はみなどうなるかと、きょうの宴楽《えんらく》も仇《あだ》に思われたほどだった。
しかし、他人《ひと》が衝撃をうけたほどは、信長自身は、その不快をいつまでも持っているわけでもなかった。その証拠には梅若の過怠《かたい》をゆるすと、
「褒美を惜しんでの叱言《こごと》にはあらず――」
といって、森蘭丸を楽屋へやり、幸若同様に梅若へも、金子拾枚の祝儀《はな》を与えている。
また、こういう歓待の行き過ぎもひとえに信長が客へたいしての、誠意のあふれにほかならないと思われる例には、その翌日、高雲寺御殿での馳走には、右大臣信長自身が、家康のまえに、饗膳《きようぜん》を据えた一事を見てもわかることである。
――が、家康は、かくまで自分をなぐさめてくれる信長以下、接待役の丹羽《にわ》長秀、堀久太郎、菅屋九右衛門などの真心に無上な感謝を抱きながらも、時折、ふと物足らないものを覚えて、ついそれを座談のうちに信長へ質《ただ》してしまった。
「御馳走役として、初めから私へ附けおかれた日向殿《ひゆうがどの》(光秀)にはいかが致されたか。きょうも見えず、きのうの御能拝見にも見うけず、おとといも姿を見なかったようにぞんずるが……?」
家康の問いに、信長は、
「ああ、光秀のことをお訊ねであるか。彼は、都合によって、十五日の夜、坂本へ帰城いたした。……そうそう、にわかのこととて、御宿所へ、挨拶に参じるいとまもなく、安土を退去いたしたものとみゆる」
至極すずやかなのだ。そう答える信長の眉にも容子《ようす》にも、ほとんど、何らの特殊的な感情といったようなものはあらわれていない。
実のところ家康はすこし心配もしていたのである。巷間《こうかん》、噂まちまちで、変な揣摩臆測《しまおくそく》も行われているからだった。しかし今、信長のあっさりした返辞やこだわり[#「こだわり」に傍点]のない姿を見ては、巷《ちまた》の取沙汰はすべて無用な思い煩《わずら》いに過ぎないものと否定された。また、そうあるべき筈とも彼の常識で考えられた。
ところがその夜、家康が自身の宿所大宝院へ帰ってから、酒井|左衛門尉《さえもんのじよう》、石川|伯耆《ほうき》などの家老たちが、家中の人々が聞き知ったところを蒐《あつ》めてのはなしによると、惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》光秀の帰国については、そう軽々とは聞き流せない複雑性があるようにまた考え直されて来たのである。
まず、衆説を取りまとめた真相というのは、大体、次のような事柄が、光秀の急なる帰国の原因となったことは確かだった。
それは。――家康の着いた十五日のこと。信長は予告なしに饗応奉行《きようおうぶぎよう》の台所屋敷へ臨検《りんけん》した。このところ安土は照入梅《てりにゆうばい》のような蒸暑さであったせいか、乾物《かんぶつ》や生魚の臭《にお》いがぷんぷんと鼻へ襲った。のみならず堺《さかい》や京から大量に集荷した食糧が、解きかけてあったり積んであったり、ひどく散らかっていた。内容がどんな珍味佳肴《ちんみかこう》であろうと用捨《ようしや》なく蠅《はえ》は群れたかってくる。信長の顔にも肩にもそれはたかる。
「くさい。くさい」
突然、門内へ姿を見せたときから彼の呟《つぶや》きは不機嫌を吐き出していた。つづいてずかずか調膳の大部屋へ入って来て、また一語を誰へともなくぶつけた。
「何事だ、この埃《ほこり》は。この不始末は。かような物ぐさい所で賓客《ひんきやく》の膳をしつらえるつもりか。ましてやこの時節、腐敗した物などお客にすすめられようか。取り捨ていッ、取り捨ていッ、腐った魚などは……」
不意ではあるし、思いがけない人のすさまじい叱言《こごと》に、饗膳方の小役人たちが、顛倒狼狽《てんとうろうばい》の状は、気のどくなほどであった。
材料の蒐集やら調度食器の配合などに頭を使って、このところ幾日かはほとんど寝る間もなく家中や組の者を督《とく》してきょうもここに懸命に努めていた光秀は、信長の声に、初めは耳を疑っていたが、家臣から、
「お成りです」
と聞くや、びっくりして君前に出で、低頭平伏して、ここに満ちている異臭も決して魚類が古いためではないことなど説明し出した。
「云い訳はよせ」
と信長は抑えて、
「一切、取り捨ててしまえ。こよいの御馳走は他の物をもってする」
と、耳もかさずに、帰ってしまった。そのあと、光秀がまだ茫然と腰が抜けたように坐っているところへ、使者が来て、
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其方儀《そのほうぎ》、中国表へ、先陣として出勢すべきの旨、仰せ出さる、則《すなわち》、即刻|御暇《おいとま》被下《くださる》もの也
[#ここで字下げ終わり]
という状一通が手渡された。
珍膳|美肴《びこう》を山と集めて、こよい大賓の盛燭《せいしよく》に照らさるべく、すでにあらかた調えられていた馳走の数々から木具魚台《きぐさかなだい》までが、その晩、明智家の家臣達の手によって裏門から運び出され、まるで芥《あくた》か犬猫の死骸でも棄てるように、どぼんどぼん、安土の濠《ほり》へ投げ棄てられていた。みな無言で、みな悲涙をためて、ただ黒い濠水《ほりみず》の面《おもて》へ、こみあげる感情をたたきこんでいた。
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心《しん》 闇《あん》
夜となると、ここの邸内の古い大池には、蛙《かわず》の声が喧《やかま》しい。
沈湎《ちんめん》とただ独り、燭《しよく》にうつむいて、物思わしく在る人に、
(何を考えこむか)
と、蛙の声は、問うて揶揄《やゆ》するごとく、また同情してともに嘆くが如く、或いは、その愚痴《ぐち》を嗤《わら》うようにも、聞きようによって、どのようにも聞える。
「たれも入るな」
とでも命じてあるのだろうか、この広い座敷に、燭一つ、光秀一人、ほかに小姓の影すらみえない。
ひそやかに、側を通るのは、仄暗《ほのぐら》い微風だった。まだ初夏、湿度はあるが、夜風はすずしい。
「…………」
つねにも増して、この夜、この人の顔いろは、すぐれていなかった。甚だしく蒼白い。
燭のゆらぐたび、鬢《びん》の毛《け》も立つようにうごいている。それが惨《さん》として、そそけ立つかに見えるほど、憂悶《ゆうもん》の陰がその姿に濃い。
「――ああ」
嘆息《たんそく》は彼の癖であった。何事にまれ胸中を打ち割って他に語るとか、憂いを磊落《らいらく》に霧散《むさん》してしまうとかいうことのできない彼は、それを独り――ああという一語によってせめてもの自慰《じい》としていた。
しかし同じ嘆息にしても、ああ――と満腔《まんこう》から鬱《うつ》を天へ吐きすてるのもあるし、われとわが身へ、ああと歎いて、世の憂いをいよいよ身一つに蒐《あつ》めてしまうものとがある。光秀のは、後者の場合に陥《おちい》りやすかった。
「…………」
ふと彼は、信長が名づけたところのその「きんか頭」を重そうに上げていた。前庭の闇を正視した。樹林のあいだに遠く見える幾つもの灯――それを見つめていた。
思うらく。安土の城中はいま饗宴第一夜の歓語談笑に華やいでいる頃であろう。主賓の徳川殿以下、浜松の家臣と、安土衆の面々とが、綺羅星《きらぼし》といながれている様も思いやらるる。饗応奉行《きようおうぶぎよう》には、自分のほかに、二、三名も任命されていることゆえ、こよいの宴に事欠くことはなかったにちがいない。――多少、料理や膳具に模様がえはあったとしても。
「このまま御命令どおり、安土を立つべきか。また、もう一度、お城へ伺候して、御挨拶をのべた後立ち去るべきがほんとか」
光秀はさっきからそんな些事《さじ》に迷っていたのだった。事務に過《あやま》ちないことにも思案のかかるほど彼の明晰《めいせき》なあたまもこよいは少し労《つか》れていた。
些末《さまつ》な事務が、重大な問題に考えられ、その判断を追えば追うほど、いずれにしたらよいのか分らなくなった。――それは彼が彼の性格をもって、信長の気心をつきとめようと焦《あせ》っているところに起因しているのである。
ああと、思わず出る嘆息のなかには、その困難に逢着《ほうちやく》している苦しさが多分にあった。君臣という絶対なものを措《お》いて、彼をして正直にいわせるならば、
(あんな気心の知れない人が世の中にあるだろうか。いったい、どうしたらあの人の気にかなうのか。実に難しい。無類に気難しい人だ)
と、信長を評したいにちがいない。いや、もっともっと深刻に信長の心理を剔抉《てつけつ》し、皮肉な解剖《かいぼう》を加えていうかもしれない。人間の心理を察し、人生を批判することなどにかけて、普通人以上な眼と判断力をそなえている光秀のことなのである。強《し》いてその眼を掩《おお》い、その思考をみずから晦《くら》くすることはできない。
ただひとつ、その人が、主君であることによってのみ、彼は、自己の批判を慎み怖れていることができた。
「妻木《つまき》、妻木」――光秀は呼んで、にわかに左右の襖《ふすま》をながめた。
「伝五でもよい。伝五はいないか」
けれどやがて、襖をあけて手をつかえた者は、藤田伝五でもなし、妻木《つまき》主計《かずえ》でもなかった。側臣のひとり四方田政孝《しほうでんまさたか》なのである。
「両名とも、無駄になった御饗応の物のあと始末やら、お引き払いの俄か支度に忙殺され、ほとんど席にすがたを見る間もありません。何ぞ御用なれば、政孝に仰せつけ下さいましょう」
「そうか。……いやその方でもよい。お城まで供して来い」
「お城へ。お城へお上がりになられますか」
「やはり退去の前に、いちど信長公に御挨拶して去るのが穏当《おんとう》であろう。支度せい」
その決意のまた鈍《にぶ》らぬうちにと、強《し》いて自分を駆り立てるように、光秀はすぐ身づくろいに起ち上がった。
政孝は、うろたえ顔に、
「夕刻、或いはそのために、御登城もあろうかと、御意を伺いましたところ、急の御命、登城しているいとまもない。右大臣家へも徳川殿へも御挨拶せずに立ち退《の》くとの仰せに、実は、お供方にもその由を伝え、御小人《おこびと》もすべて跡かたづけの方にかかっております。……しばし、しばらくのあいだ、お待ちねがいとうぞんじまする」
「いやいや、供人など、多くは要らぬ。そちひとりでも足る。馬を曳け」
光秀は、玄関へ出た。
そこまで通って来るあいだの部屋にも家来のすがたはなかった。ただあわただしく、二、三の小姓が従《つ》いて来たのみである。
しかし一歩外へ出ると、そこらの木蔭やら厩《うまや》の蔭などに、三々五々とかたまり合って、何事か額《ひたい》をあつめている家中の者の影が黒々見えた。いうまでもなく、きょう突然、饗応役を免ぜられて、即日、中国出立をいいつけられたことにたいしては、光秀以上、明智の全家中は、
「理不尽《りふじん》である」
と、いい。
「あまりに酷《ひど》いお沙汰だ」
と、哭《な》き。
「故意に、われらの主人をお辱《はずかし》めなさるものとしか考えられない」
など、寄々《よりより》に恨み合い、悲涙をたたえ合い、甲府以来、信長へ対して頓《とみ》につのらせていた忿懣《ふんまん》やら反感に油をそそいで、いまやそれは、危険な発火作用を帯びるやも知れないまでに|※[#「酉+(囚/皿)」、unicode919e]醸《うんじよう》していた。
すでに甲府出征中、下諏訪《しもすわ》の陣所で、主人の光秀が、衆人のなかで耐えがたい辱《はずかし》めに遭《あ》ったということは、家中全般、隠れもなく知ることであった。どういうわけで右大臣家には近年事ごとにかくも主人光秀をいびり[#「いびり」に傍点]給うのかと、彼らは、親を視《み》るごとく、光秀の苦悩を見て、
「きょうこの頃のおからだの勝《すぐ》れぬのも、無口におなり遊ばしたのも、すべてそのため――」
と、平常一日でも、胸を傷《いた》めないで来た日はなかったほどなのである。
きょうの衝動は、いままでのどんな場合よりも、最も大きい。なぜならば、徳川殿という曠《はれ》の大賓をむかえ、浜松の家中にも、京の貴紳《きしん》にも、織田家の宿将たちにも、のこらず知れ渡ることだからである。ここで恥辱をこうむることは、天下に恥をさらすにひとしい。恥を思うとき、彼らは、武門の中に生きてゆくに耐えなかった。
「お馬を――」
あわただしく、四方田政孝が、光秀の方へ、駒を曳き出してゆく姿にすら、彼らはまだ気もつかずにいた。それほど家中の者すべてが何へも手がつかない心地で、ただ彼方《あなた》此方《こなた》に立評議《たちひようぎ》をつづけていた。
光秀が門を出ようとすると、そこの門前で駒を降りていた人がある。信長の使者、青山与三《あおやまよぞう》であった。
「やあ、日向《ひゆうが》どの、お立退《たちの》きか」
「いやいや、ま一度お城へ罷《まか》り出て、右府様にも徳川殿へも、御挨拶をして去らんかと考えまして」
「さるお気労《きづか》いもあろうやと、わざわざそれがしへ、御口上をもってお使いに命ぜられましたから、火急の中を、強《し》いて御登城には及び申さぬ」
「なに、かさねてのお使いとな」
にわかにまた、邸《やしき》の内へもどった。そして席を正し、慎んで、上意を聞いた。
信長の旨として、青山与三は告げた。
「今日お振舞役を免ぜられ、お暇《いとま》を下さるる趣《おもむき》は、さきにお達し致した通りであるが、中国|御発向《ごはつこう》の先陣として、其許《そこもと》の赴かるる方向について、再び、次のようにお沙汰がありました。よく聞きおかれたい」
「……はッ」
「明智一勢には、軍旅を取りいそぎ、日ならぬうち、但馬《たじま》より因幡《いなば》へ入り候え。敵毛利輝元の分国、伯州《はくしゆう》、雲州《うんしゆう》へも、構えなく乱入に及ばれい。油断あるな、猶予《ゆうよ》あるな。早々、丹波へ帰国、陣用意をととのえ、高松城包囲中の羽柴秀吉にたいし、山陰道より側面|牽制《けんせい》のふくみあって然るべし。――信長自身もやがて間もなく後詰《ごづめ》に西下あらん。おくるるな、軍略の機を万が一にも外《はず》すな。……以上のとおりなおことばでありました」
光秀は、拝伏したまま、
「かしこまりました」
と、答えた。
それがわれながら余りに小声で卑屈らしく感じたのか、光秀は胸をあげて、与三の面《おもて》を正視しながら、
「君前へは何とぞ宜《よ》しなに」
と、語音を昂《あ》げて云った。
青山与三は、その眼をすぐ逸《そ》らしてしまった。光秀の細かい神経は、それほど自分の面《おもて》に、視《み》るに耐えない陰があるのかと、反射的に傷《いた》みを抱いたが、
「では、御機嫌よく」
与三は起って、すぐ立ち帰った。
それを見送りに出る。玄関から立ちもどる。そのあいだの光秀には、人まばらな邸内を吹き抜ける夜風に浮いて、何となく踵《かかと》が畳についていない。
「……つい数年前までは、お暇《いとま》を賜わって帰る夜までも、立《た》ち際《ぎわ》にはまいちど顔を見せよ。茶なといたさん、朝立ちなれば朝まだきにも城へ来いと、諄《くど》いばかり仰せを重ねられた信長公が……なんとてはかく光秀がお嫌いになられたのか。青山与三をおつかわしあったのも、光秀の顔を見るのがお嫌《いや》なので、こちらからの登城を避けるお心から出たものではなかろうか」
考えまい、思うまい。そう努めれば努めるほど、何たる愚痴、心は綿々《めんめん》と、声なき独り言を、腐水《ふすい》の泡つぶのようにつぶやいて熄《や》まない。
「――誰が観《み》ん、この花も、はや無用」
彼は、床の間の、大きな瓶《かめ》へ手をかけた。見事に挿《い》けてあった花も、彼の腕にみだれ、瓶の口からこぼれる水は、縁側まで滴々と音をさせて運ばれて行った。
「はや行くぞッ。立つぞここを。支度はよいかッ」
そこから大声で家中の者へ呼ばわりながら、光秀は、その壺《つぼ》を、両手で斜めに、肩のあたりまでさしあげた。そして庭さきの平たい沓《くつ》ぬぎ石を目がけて、力まかせに叩きつけた。
陶土《とうど》の破片、水のしぶき、それが快然《かいぜん》たる一爆音を発して、光秀の面《おもて》から胸へ刎《は》ね返った。光秀は、濡れた顔を、夜空へあげて、呵々《かか》と笑った。独りで笑っていた。
夜は深い。じっとり霧がこめて、いとど蒸暑《むしあつ》い夜だった。
家中は残らず旅装をととのえ終った。荷梱《にごり》は馬の背に、弓道具は扈従《こじゆう》の手や肩に、そして先発から供の末まで、門外に出て、すでに隊伍を立てていた。
雨雲の低い空を望んで、頻りに馬が嘶《いなな》き合う。供頭は、駈け歩きながら、
「雨具は用意したか」
と、注意をくばり、ふたたび門内を覗《のぞ》いて、
「こよいは、星明りだにない。それに降り出せば、悪路となろう。松明《たいまつ》はすこしよけいに用意されたがよいぞ」
と、誰やらへ呶鳴《どな》っていた。
職責上、供頭の声だけが、やや張りを帯びているだけで、鉛のように重くるしいものが、家中全体をおおっていた。箇々に見ても、さむらい達の面《おもて》は、こよいの空のように暗澹《あんたん》としていた。険をふくんだ眸《ひとみ》、涙をたたえた眸、悲痛な光を潜めた眸、悶々としてものいわぬ眸。
――たれの目もかれの目も、決して、平静ではない。
そのうちに、光秀の声がした。大玄関前の駒寄《こまよせ》を離れて、一塊《ひとかたまり》の騎馬の影が此方《こなた》へ流れて来る。
「なんの坂本までは、見えているほど近い距離。一雨《ひとあめ》あるとも、一鞭《ひとむち》の間に着いてしまう。――懸念すな。懸念すな」
案外明るい主人の声を聞いて供の面々は、却って意外な気がした。
この日の夕方。すこし微熱があるとかで、典医《てんい》から薬を上げたということを聞いていた側臣たちが、もし夜半の雨にでも逢《あ》われては、と案じて云ったことばに対して、光秀があたりの者へ答えながら、また、門内門外に佇《たたず》んでいる家中たちへも、わざと聞えるように云った声であった。
光秀のすがたを見ると、供の者は、松明《たいまつ》の火へ松明の先を蒐《あつ》めて一つの火から無数に増やした。そして続々、焔《ほのお》を曳いて先頭から歩き出した。
半里も進むと、果たして、白い雨のすじが闇を截《き》って来た。盛んに赤い煤煙《ばいえん》を噴く松明の焔へも、
……ぷつ、ぷつ、ぷつ
と、ひと粒ひと粒、雨が音をたててはじけた。
「安土のお城に、まだ人々は寝《いね》もせず、夜を更《ふ》かしているとみゆる」
光秀は、雨を見なかった。駒を立てて、湖岸のあとを振り向くと、そこには墨のような宇宙にもなお巍然《ぎぜん》たる大天守があった。雨の夜はよけいに光るという屋上の黄金の鯱《しやち》は、この闇夜に何を睨んでいるのかと思われる。
そして舎殿楼閣《しやでんろうかく》の沢山な火は、湖に映じて寒いほど戦《おのの》いていた。
「殿、殿。降りだして来ました。お風邪《かぜ》をひどくするといけません」
主人の馬わき[#「わき」に傍点]へ、馬をすり寄せて、側臣のひとり藤田伝五は、光秀の背へ雨具を着せかけた。
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鳰《にお》の宿《やど》
まだ五月雨《さみだれ》ぞらの定まりきれないせいか、今朝も琵琶湖《びわこ》は模糊《もこ》として、降りみ降らずみの霧と小波《さざなみ》に、視界のものはただ真っ白だった。
が、道は思いのほか泥濘《ぬか》っている。馬の睫毛《まつげ》まで濡れ雫《しずく》であった。全軍の将士は黙りこくったまま、夜来の雨とこの道を冒《おか》して、蕭条《しようじよう》といま坂本までたどりついた。右は湖水の三津《みつ》の浜《はま》、左は叡山延暦寺《えいざんえんりやくじ》への登り坂。人々の着ている蓑《みの》は、吹きおろす風、返す風に、みな針鼠《はりねずみ》のように戦《そよ》ぎ立った。
「おお、あれまで、左馬介《さまのすけ》様がお迎えに出ておられまする」
四方田《しほうでん》政孝は、主人の日向守《ひゆうがのかみ》光秀にささやいた。湖畔の城、坂本城が、もう一行のまん前に見えたときである。
光秀は早くから気がついていたようにかろく頷《うなず》いた。
――安土からこの坂本まで、振り向けばまだうしろに見えそうな近くであるにかかわらず、彼は千里も歩いて来たかの如く疲れきった面《おもて》をしていた。そして従兄弟《いとこ》の明智|左馬介《さまのすけ》光春が住むこの城の前に立つと、
(やれやれ、着いたか……)
と、まるで虎口をのがれて来たかのような思いを抱いた。
しかし扈従《こじゆう》の面々は、光秀のそうした胸のうちよりは、光秀が時折に咳声《しわぶ》く容子《ようす》を見て、より以上な心配を寄せ、
「お風邪《かぜ》のおからだで、この雨気のなかを夜徹《よどお》しのお歩行《かち》。お疲れもひと方ではござりますまい。城内へお入りあそばしたら一刻もはやく身を温めてお寝《やす》みなされますように」
と、口々に云い合った。
「そうしよう。そうしよう」
まことに彼は素直な主人であった。家来たちの忠言をよく肯《き》き、またよく一同の心配を分ってくれる。こうした主従の情には蜜《みつ》のごときものがあった。
馬の口取は、藤田伝五。大手の松原前にかかると手綱《たづな》をとめ、介添《かいぞ》えして鞍わきへ立つ。そして光秀が降りると、馬を部下にあずけ、自分は主人に添って、濠橋《ほりばし》へ歩いてゆく。
そこに光春の家臣が堵列《とれつ》していた。ひとりの老臣は、傘をひらいて、恭《うやうや》しくさし出した。それを四方田政孝がうけ取って主人の上に翳《さ》しかける。藤田伝五は、光秀の蓑《みの》を持つ。
光秀は濠橋のうえを歩んで行った。濠の水は湖水とつづいている。欄《おばしま》の下をのぞくと、水は青く、橋杭《はしぐい》の根をめぐって、白い水鳥が、花を撒《ま》いたように游んでいた。このあたりの汀《なぎさ》にたくさんいる鳰《にお》であった。
「今暁からお待ち申しておりました」
城門へ出て迎えていた従兄弟《いとこ》の左馬介光春は、そこに数多《あまた》並んでいた諸士をうしろに数歩出て、まず礼を行い、そこから先導して大玄関へ入った。
家中の老臣から諸士など、次に続々と奥へかくれてゆく。光秀について来た側臣の重なる人々も、そこで泥土《どろ》の手足を洗い、濡れ蓑《みの》を積んで、十幾名かは、本丸のほうへ通されて行った。
そのほかの多くの家来は、まだ濠の外にとどまって、馬を洗い、小荷駄《こにだ》をととのえ、これからの宿営や配備に混雑しているとみえる。馬のいななきや喧騒《けんそう》する人声が遠くに聞えていた。
その頃もう光秀は一室で衣服を着かえていた。従兄弟《いとこ》の住居《すまい》は、さながらわが家のような居ごこちだった。どの部屋からも湖が見える。松原が見える、或いは叡山《えいざん》が望まれる。ここの本丸は絶好な景勝の地にあった。
けれど誰がいまこの自然を愛するだろうか。叡山《えいざん》は過ぐる元亀二年の信長の一令によって大焼打にあったまま、今なお山上の七|堂伽藍《どうがらん》も中堂も山王二十一社も当年の灰燼《かいじん》を積んで、復興の目鼻もついていないという。
従って、麓《ふもと》の町屋すら、つい近年にいたって、ぼつぼつ建ち始めた程度である。森蘭丸の父森三左衛門が悲壮な討死をとげた宇佐山の城址《しろあと》もこの近くであったし、浅井朝倉などの大軍と織田勢が取り合って死屍《しかばね》を積んだ比叡の辻の戦場も遠くない。
思いを過去のそういう跡にめぐらせば、山水の美は、却って鬼哭《きこく》を心に聴かしめる。
いま光秀は、ここに坐して、五月雨《さみだれ》の雨滴《うてき》の中に、冷々《ひえびえ》と、そうした感傷の思い出を心に聴き、また従兄弟の光春は、彼の目に触れない遠い小間《こま》で、炉の火加減をのぞき、釜師《かまし》与次郎が作るところの名釜《めいふ》のあたたかな沸《たぎ》りを聞き、ひたすら茶境に浸《ひた》ろうとしている。
一つの城に、異なる二つの心が住んだ。光秀と光春とは、まだ光春が弥平次《やへいじ》といっていた幼い頃からほとんどひとつ家に育ち、それからの久しい困窮《こんきゆう》も、戦場の艱苦も、家庭の中の楽しみも、共にして来た上の従兄弟でもあったから、長じて後、疎遠《そえん》になりがちな兄弟などよりも、はるかに骨肉的な情愛をもち合っている仲だったが、生れながらの性格だけは一つのものに縒《よ》りあうことはできない。今朝なども、こう二人は、ひとつ軒に住むとすぐ、かくの如くすぐその心のとおり違った姿をもってしばらく隔てていたのだった。
「どれ。……もうお召しかえもすんだ頃であろう」
やがて光春は、独り語《ごち》して、釜のまえを起った。
そして濡れ縁をわたり、橋廊下をこえ、従兄弟の室として宛《あ》てがった幾部屋のうちのひとつへ、静かに入って行った。
隔てた部屋には、光秀の側臣たちの居住まう気配が聞えるが、そこにいたのは光秀ただひとりであった。
正坐してじっと湖を見ていた。
「いかがでしょう。およろしければ、あちらの茶室で、ともあれ、一ぷくさしあげたいとぞんじますが」
光春が、そのために、これへ迎えに来た意を告げると、光秀は夢からさめたような面持《おももち》を向けて、
「茶か」
と、つぶやいた。光春はいささか得意そうに、
「ちか頃、京の与次郎へたのんでおいた一作がようやく出来て参りました。蘆屋《あしや》のような典雅《てんが》な地紋などありませぬが、よい具足を見るようなあらあらとした味のもの。釜の新しきは悪しといいますが、さすがに与次郎、湯味《ゆあじ》も天妙《てんみよう》の古きものにも劣りませぬ。殿がお越しのせつはぜひそれでと心がけていた際、今暁、突然安土から御帰国とのお報らせに、さっそく炉に火を入れてお待ちしていたようなわけで」
「いや、せっかくだが、茶も欲しくない」
「では、お風呂のあとにでも」
「風呂もやめておこう。ともあれ、左馬、一睡《いつすい》させてくれ、慾はない」
つねづね聞き及んでいることも多々ある。光秀の心事を解するに全く晦《くら》い左馬介光春でもなかった。
殊にこんどの唐突な帰国については、彼も解《げ》せぬものを抱いていた。信長公が安土の城に大賓として迎えた家康の饗応に、その数日のあいだの接待役として惟任《これとう》日向守光秀が任ぜられたことは、世間にかくれなく沙汰されたところである。
にもかかわらず、その饗宴の第一日を前にして、突然、光秀の役目を解かれたのはどういうわけか。当の賓客たる家康はなお安土にいるのに、接待役を交代させられて、急遽《きゆうきよ》、本国へ引き揚げて来た光秀には、いったい如何なる身辺の変が起ったのか。
左馬介も、這般《しやはん》の消息はまだふかく聞いていないが、今暁、ここの城門をたたく者があって、云々《しかじか》の由を、寝耳に聞かせられたときから、彼としては、
(さてはまた何事か、信長公の感情にふれたな)
と察して、光秀の顔をここに見るまでは、ひそかに胸を傷《いた》めていたものであった。
案のじょう[#「じょう」に傍点]今朝城門に迎えたときから、光秀のけしきはすぐれて見えなかった。しかしこの人のこういう深刻な陰を眉目《びもく》に見るのは、左馬介としてさほどな驚異ではなかった。なぜなら広い世の中にも、自分ほど光秀の性情をよく知っているものはないはずと、彼は信じて疑わないだけの過去を持っていたからである。
十六、初めて加冠《かかん》して、十兵衛光秀と彼が名乗った頃、左馬介光春はまだ九歳ぐらいで、名も弥平次とよばれ、元服の席のもようを珍しげに、母のそばから眺めていたものであった。
その加冠の儀式も、十兵衛光秀という名を選んで与えた者も、実に、左馬介の父|三宅光安《みやけみつやす》であった。光秀の実の親たちは土岐《とき》一族の名流であったが、早くから両親も亡《な》く、両親の住んでいた明智城も亡《ほろ》び果てていた。そして叔父にあたる左馬介の父三宅光安の手許で養育されたのである。
ふたりは七歳《ななつ》ちがいだった。幼少から一つ家で、机をならべて書を読み、燈火を共にして箸をとった。従兄弟《いとこ》とはいえ、情においては、兄弟よりも深いものがあった。三十余年後の今とても。
義は主従であるが、情愛としては、兄とも慕っている。おそらく光秀としても左馬介を家臣とみるよりは弟と思う情のほうが濃いであろう。故に、他人には示さない顔いろも、彼にはわがままに現わしもする。それは寧《むし》ろ左馬介光春にはうれしいことであった。
「――いや、ごむりもありません。安土から夜を徹《とお》しての馬上では。……おたがいに、五十を境にしてくると、若いときのようには体も持てませぬな。では、ともあれ御寝所へお入りあってゆるりとお休み遊ばすがよろしいでしょう。用意は申しつけてありますから」
強《し》いもせず、逆らいもせず、左馬介は彼の意のままにうながした。
「そうする」
と、光秀は口少なく、そこを起って、まだ朝の間の気はい[#「はい」に傍点]が漂う蚊帳《かや》のうちへ身を入れた。
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わくら葉《ば》
光秀が眠りについた後、やがて左馬介が退《さ》がって来ることを予期して、その姿を待ちうけたように、一室の杉戸の端近く座をしめていた天野源右衛門、藤田伝五、四方田政孝の三名が、
「あ。もし……」
と、呼びとめて、ひとしく手をつかえ、
「恐れ入りますが、しばしそれがしどもへ、お顔を拝借ねがわれますまいか。折り入っての儀で」
と、常にない容子《ようす》でいった。
むしろそれは、左馬介のほうでこそ、待っていたことのごとく、
「おそろいで、茶室のほうへ渡られぬか。殿にはお寝《やす》みになられたので、釜の火がむだ[#「むだ」に傍点]になるかと思うていたところだった。如何《いかが》であるな」
「お茶室なれば、人を遠ざける要もなく、至極結構でございますが」
「では、ご案内しよう」
「というても、われら武骨者ぞろい、茶は弁《わきま》えもいたしませぬし、また今日は、そうしたお心入れをいただく程、心にゆとりも持ちませぬが」
「さもおざろう。各※[#二の字点、unicode303b]の胸底もいささか左馬介とてお察しはしておる。さればこそ、語るには、茶室がよいのではあるまいか。お気づかいなく――」
左馬介は導いてゆく。
人々は後についた。そして狭い壁と障子明りの中に坐り合った。
釜の湯はよく練れてさっきよりはその沸《たぎ》りも和《なご》やかに聞かれる。左馬介の武勇は幾多の戦場でたれも目に見ているが、炉の前の人とは何か別人のような気がされるのであった。どこといってその武勇が姿の上にはあらわれていないからである。
「では、茶は参らせぬことにする。源右《げんえ》どの、政孝《まさたか》どの。折り入って、おはなしとは」
こう促《うなが》されて、三名はややかたくなった顔を見合わせていたが、その中でも最も剛直《ごうちよく》な感情家らしい藤田伝五が、
「左馬介様。……無念です。おはなし申すにも、無、無念が、先に立って」
左の手を膝がしらから下へ辷《すべ》らせると、われにもなく右の肱《ひじ》を曲げて涙の目をかくした。
と、共に、ほかの二人も眼をしばたたいた。伝五のように泣きはしなかったが、瞼《まぶた》はかくしようもなく赤らんだ。
「何事があったのか」
左馬介は却って冷静を示した。火を見るべく予期していたのが、水を見たように三名ははっとわれに回《かえ》った。自分たちの瞼を見ながらこういう顔いろを先ず示すようでは、この人に共感を求めることも期待を持つのもむだ[#「むだ」に傍点]に近い気がして来た。そしてこう行き過ぎた感情を顧《かえり》みては、もう語ろうとする内容も自然|内輪《うちわ》にならざるを得なかった。
「思いもよらぬ急な御帰国に、何か右府様(信長)のごきげんでも損《そこ》ねしやと、実はこの左馬介も案じていた。いったい如何なるわけで、饗応のお役を不意に免ぜられたのか。忌憚《きたん》なくはなしてくれい」
頻《しき》りと、左馬介はそういうが、なお三名の胸を焦《こ》がしている烈火とは、到底、差のあるものであった。
三名はこもごもに訴えた。
まず、藤田伝五が、
「わが御主君たるゆえに、非には目をふさぎ、理には事を曲げて、強《し》いて忿怒《ふんぬ》の言を弄《ろう》し、信長公を故なく恨《うら》む仔細では断じてございませぬ。――まったくこのたびの御罷免《ごひめん》ばかりは、いかなる御事情によるものか、何の落度を理由と召されたものか、右大臣家のお心のほど、われらずれ[#「ずれ」に傍点]には解するにも苦しみまする。奇怪至極《きつかいしごく》ともうすしかありません」
嗄《か》すれ途切れることばの渇《かわ》きを救って、四方田政孝《しほうでんまさたか》が次を述べた。
「――が、一応はそれがしどもも、胸をなでて、御政治向きの都合かとも考えてもみましたが、どう見まわしても、左様な点は思い合わせられず、では軍の作戦上かといえば、それらの大策は疾《と》くより信長公の御胸中に確《しか》とあるべきはずで、徳川殿の御饗応にあたり、その日に迫って、ひとたび接待役に任ぜられた者の役目を剥《は》ぎ、余人にそれを振り代えるなどという内輪の不統一を、何でわざわざお客殿に示す必要がありましょう」
天野源右衛門も口をそろえて、
「――御両所のいわれた通り、そう観じて参りますと、もはやわれらには、ただひとつの理由にあらざる理由しか考えられませぬ。すなわち年来わが御主君にたいして事ごとに邪視あそばしておられる信長公の執拗《しゆうね》きお憎しみが……ついに、ついに、かくばかり露骨となられ、事ここにいたらしめたものであると。――われら、明智家の輩《ともがら》は、いまはそう観念のほかなき心地に追い詰められておりまする」
ここで三名は口をつぐんだ。
これ以上、云いたいことは、山ほどあった。
たとえば、甲州打入りの際、諏訪《すわ》の陣所で、主人光秀に飲めない酒をむりに強《し》いて、酒興のうえとはいえ、廻廊の板敷へ面《おもて》を捻《ね》じ伏せて、
「きんか頭。きんか頭、飲め」
と衆人|稠座《ちゆうざ》のなかで御折檻《ごせつかん》のあったことや、安土の城内でもしばしば同様な辱《はずかし》めを加えられて来た例や、或いは、日頃といえ、光秀といえば目のかたきに嘲蔑《ちようべつ》し憎悪されている実証が他家の侍たちの中にすら語り草になっている空気だの、思い出せば限《き》りもない。
けれど、今日以前のことは、改めて告げるまでもなく、主人の光秀とはほとんど一心同体といってもさしつかえない一族中での一族、左馬介光春が知っていないはずはないので、政孝も源右衛門も敢《あ》えてよけいな言は吐かなかったのである。
ところで、その左馬介光春は、始終を聞き終るとともに、少しも変る色なき面《おもて》のまま、静かにひとつ頷《うなず》いて、
「では、殿の御帰国は、なんら、これという理由もなき御罷免《ごひめん》のためであったか。……いや、それを聞いて大きに安心した。右大臣家の御気色による首尾不首尾は他家たりともありがちのこと。まずよかった、よかった」
と、むしろ慶賀《けいが》するような口吻《こうふん》をもって答えた。
三名はさっと眉色《びしよく》を変えた。わけて伝五は唇のあたりの筋をひっ吊るように顫《ふる》わせて、つと[#「つと」に傍点]その膝へつめ寄った。
「まず、よかったとは。――心得ぬ仰せ。左馬介様。それは、一体、いかなる意味を御意あそばすか」
「繰り返すまでもあるまい。わが殿の落度に非ずして、信長公の御気色悪しきためならば、また御機嫌のよい折に、御不興を取りもどすこともできよう」
「そ、それでは……」
と、伝五は、いよいよ早口となって、
「あなた様には、わが殿をもって、ひたすら信長公の御機嫌を取りむすぶお伽芸人《とぎげいにん》の輩《やから》と同視しておいでられますか。明智日向守様ともある武門を、それでよいとお考え遊ばすのか。何ら、御無念とも、恥辱《ちじよく》とも、またかくて自滅の淵《ふち》へ追いやらるるとも、お感じになりませぬか」
「伝五。そちのこめかみ[#「こめかみ」に傍点]の青筋は、ちと太り過ぎておるぞ。気を落着けい」
「昨夜も一昨夜も、一睡もしておりませぬ。あなた様のごとく、冷然とはあり得ない。非道、嘲笑、恥辱、忍耐、あらゆる無念の沸《たぎ》り立つ油釜《あぶらがま》の中に煮られておる明智主従です」
「……だからいうのだ。まず胸をなでて、二夜三夜は熟睡してみたがよい」
「ば、ばかな仰せを」
かりそめにも主君の従兄弟《いとこ》たるお方ぞと戒《いまし》めながらも、藤田伝五はついに喰ってかかった。
「ひとたび泥塗られた武門の恥は拭《ぬぐ》い難《がた》しというのに、わが殿も家中も、あの安土のじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬殿のために、何遍、それを怺《こら》えて来たことか。きょうも衆人環視の中でかくありしと、涙を抑えて語らるる殿光秀さまを取り囲み、主従なだめ合うては、泣き明かした夜も幾夜かござる。――ましてこの度は、ただ単に、饗応役をお奪《と》り上げになられたのみならず、すぐそのあとの命令では、――本国へ立ち帰って出陣の準備をなせ、中国にある秀吉を側面から援けるふくみをもって、毛利の分国たる山陰諸国へさっそくに攻めかかれ。と、まるでわれら明智の一勢を、猪鹿《しししか》を追う勢子《せこ》か猟犬《いぬ》のように見ての陣沙汰《じんざた》。どうしてこの気持のまま戦場へ赴かれるものぞ。これこそあのじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬殿の恐るべき例の策智《はかりごと》だ」
「つつしめ。じゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬殿とは、誰をさして?」
「わが殿を見れば人前でも、きんか[#「きんか」に傍点]頭きんか[#「きんか」に傍点]頭と常に呼ばわるあの信長公のことです。そのじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬時代から左右に輔佐《ほさ》して、今日の安土の大を成さしめた織田家の功臣林佐渡どのといい、佐久間|父子《おやこ》といい、ようやくその地位|封禄《ほうろく》に酬われる日にいたれば、たちまち些少の罪をとらえて死に処し、或いは追放さるるなど――あのじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]馬殿の奥の手は、いつも追い落しときまっておるのだ」
「だまれ。右大臣家にたいして、恐れ多い雑言《ぞうごん》。そち達と同席はできない。立て、立て」
ついに左馬介も怒って、こう叱りつけたとき、人が来たのか、病葉《わくらば》が散るのか、かすかな気配《けはい》が庭に聞えた。
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叡山復興《えいざんふつこう》
敵性人は絶対にいないはずの廓内《かくない》でも、防諜上には、日夜細心な警戒を怠っていない。これだけは例外なく、どこの城も同じといえる。
茶室といえ露地やそこらの附近には、庭見《にわみ》の侍がかならず佇《たたず》んでいた。――今、にじり[#「にじり」に傍点]口の外まで来て、沓《くつ》ぬぎの前に額《ぬか》ずいた庭番はそれであろう。一通の書面を内なる主人へ手渡して後も、やや久しいあいだ蟇《ひき》のように身うごきもせずそこにひかえていた。
やがて光春の声が、ようやく内から聞えた。
「返書をとあるゆえ、認《したた》めてつかわすが、すぐとは参らぬ。使いの僧は、待たせておけ」
閉めてあるままのにじり[#「にじり」に傍点]口へ向って庭番は、
「かしこまりました」
と、ていねいに礼をして、草履《ぞうり》の音も偸《ぬす》むように、露地の木の間を戻って行った。
その後は――
光春も、三名も、またしばらく、溶け合わない気もちのまま、じっと、黙りあっていた。
時折、どこやらで、ぽと、ぽと――と大地を撞木《しゆもく》で叩くような音がした。その軽い響きだけがわずかにここの沈黙を救っていた。
梅の実《み》がしきりに落ちるのであった。また梅雨雲《つゆぐも》がすこし断《き》れたか、障子の腰へつよい陽ざし[#「ざし」に傍点]が不意に映《さ》した。
「どれ。おいとまして、退《さ》がろうではないか。……何やら御用の生じた御様子でもあれば」
友を促《うなが》して、この機《しお》にと、四方田《しほうでん》政孝が、退《さ》がりかけると、光春は、いま三人の目の前でつつみ隠す風もなく繰りひろげて読んでいた手紙を巻き返しながら、
「まだ、よかろうに」
ほほ笑みながらいったが、
「いや、おいとま仕《つかまつ》ります」
「まことに、お邪《さまた》げいたしました」
源右衛門も伝五も、袖をつらねて、次へ辷《すべ》った。そしてあとの襖《ふすま》を閉めきると、やがて橋廊下の方に、薄氷《うすごおり》でも踏みやぶってゆくような冷たい跫音《あしおと》を消して行った。
光春も、程経《ほどへ》てから、やがてそこを出て来た。そして廊下を歩みながら侍部屋へ声をかけた。
小姓までが慌《あわ》てて彼のあとに従ってその居室へ入った。光春はすぐ料紙《りようし》と硯《すずり》を求め、もう書くべき文言は頭のうちに出来ていたものの如く、苦もなく筆を走らせた。
「返書じゃ。これを横川《よかわ》の和尚《おしよう》の使いに持たせて帰せ」
と、侍臣のひとりに渡すと、もうその用件には何の顧念《こねん》ないように、ほかの家臣を顧みて、
「光秀様には、あれからずっと、御熟睡しておらるるようか?」
と、たずねた。そして、
「御寝所はいとお静かのように窺《うかが》われまする」
と聞くと、初めて、
「そうか」
と、眉をひらいて、自分もともに心の安まったような顔をした。
十九、二十日、二十一日と、それからの数日を、光秀はなすこともなく、坂本城に過していた。
すでに中国出陣の命をうけている身である。なお多少の余日はあるにしても、一刻もはやく居城の丹波亀山《たんばかめやま》へ帰って、家中に動員を令し、万端の準備をいそぐべきではあるまいか。
「その途中にこうして、幾日も無為《むい》においで遊ばしては、いよいよ安土《あづち》への聞えもよろしくあるまいに」
光春は直言したかった。
しかし光秀の心気を思うと、それも云い出し得ないのである。藤田伝五や四方田政孝などが痛言した――この気持のままでは戦場へ赴《ゆ》けない――という悶々《もんもん》たるものは、光秀の胸にも勿論あるにちがいない。
――とすれば、静かに、ここに滞留している幾日かの小閑こそ、光秀にとっては、何よりも先にしている出陣の用意かもしれないと思いやられもする。そうだ、そうあるはずと、光春はあくまでも、光秀のつよい理性と日頃の聡明を信じていた。
――今日も。
いかにお過しかと、彼がそっと光秀の居室をうかがってみると、光秀は毛氈《もうせん》のうえに筆洗や墨池《ぼくち》をならべ、一巻の絵手本をひろげて、他念なく画《え》の稽古をしていた。
「ほ。これは」
光春は側へ坐った。そして光秀にこの余裕があることを、心からよろこんで、共にこの境地を楽しもうとした。
「や、左馬介か。見てはいけない。まだ人前で描ける画《え》ではない」
光秀は筆を置いてしまった。
そして五十以上の人とは見えないような羞恥《はにか》みを示して、困ったように、あたりの描き反古《ほご》までかくしてしまった。
「ははは。これはお邪《さまた》げになりましたか。手本にお用いの画巻は、誰の筆ですな。狩野《かのう》山楽《さんらく》にでもお命じになったもので?」
「いや、海北友松《かいほうゆうしよう》」
「友松ですか。あの仁《じん》はちか頃どうしておりましょう。とんとこの辺でも消息を聞きませぬが」
「先頃、甲州陣の折、ふと宿所へ訪ねてみえたが、あくる朝、夜もあけぬ間に、また飄然《ひようぜん》と立ち去ってしもうた。これはそのとき彼が画いたものだ」
「変り者ですな」
「いや、ひと口に、変り者というては当るまい。志節《しせつ》一貫、竹のごとく心の直《すぐ》な男だ。武士は捨てても武士らしい人物と思う」
「斎藤|龍興《たつおき》の旧臣と聞いておりますが、その旧主にたいして、今なお節を曲げない点を、お賞《ほ》めあそばすのでございますか」
「安土の御普請《ごふしん》にあたって、右大臣家からお招きがあっても、彼のみはおことわりして、名利にも権勢にも屈しなかった。何ぞ、亡主の仇《あだ》の障壁《しようへき》を画《えが》かんや――という気概《きがい》を抱いておるものとみゆる」
そのとき光春の家臣が、何か用ありげに、うしろへ来て坐ったので、二人とも口をつぐんだ。
光春は振り向いて、何か――と取次の者にたずねた。手に一通の書簡と、奉書の嘆願書らしいものを重ねて、当惑顔に、そこへ控えた侍は、
「また御城門まで、横川《よかわ》の和尚の弟子が参りまして、強《た》って、もう一応、この書面を御城主へ取り次いで欲しいと申し、何と刎《は》ねつけても、命をかけて来たお使いですからといって、立ち帰りません。いかが致したらよろしいものでございましょうか」
と、光春の顔いろを惧《おそ》れながらいった。
「なに。また来たのか」
かろく舌打ちをして、
「先頃も横川の和尚へは、光春みずから返書を与えて、嘆願の趣《おもむき》は、到底、相かなわぬ儀なれば、無用にいたせと、篤《とく》と答えてつかわしたのに、その後も、二度三度と、執《しつ》こく書面を持たせて城門まで参るそうな。聞きわけのない法師ではある。――構えて、取り上げるな。何といおうが、突っ返して、追っ払うがよい」
と、いった。
取次の侍は、
「はい。はい」
とのみで、自分が叱られたように、倉皇《そうこう》と、書面も願書も、そのまま手に持って退《さ》がって行った。
すると、光秀はすぐその後で、こう訊いた。
「横川の和尚とは、叡山の亮信阿闍梨《りようしんあじやり》のことではないか」
「さようでございます」
「すぐる歳《とし》、元亀二年の秋、叡山《えいざん》焼打の折には、この光秀も一手の先鋒《せんぽう》を命ぜられ、山上の根本中堂、山王二十一社、そのほかの霊社仏塔、悉《ことごと》くを焔《ほのお》となし、刃向う僧兵のみか、稚子上人《ちごしようにん》、凡下《ぼんげ》高僧、老幼男女のさべつなく、これを斬って、火に投じ、ふたたびこの深山《みやま》には、人はおろか、草木の芽も出まじと思わるるほど、掃滅殺戮《そうめつさつりく》のかぎりを為《な》し尽したが……もういつしかそこには、また生き残りの法師たちが帰って来て、生きる道を求めておるとみゆるの」
「さればです。人伝《ひとづ》てに聞きますと、山上は依然、荒涼として廃墟のままだそうですが、その後、横川の和尚|亮信《りようしん》や、宝幢院《ほうとういん》の詮舜《せんしゆん》や、止観院《しかんいん》の全宗《ぜんそう》や、また正覚院《しようかくいん》の豪盛《ごうせい》とか、日吉《ひえ》の禰宜《ねぎ》行丸《ぎようがん》などの硯学《せきがく》たちが、諸方に散亡《さんぼう》していた山徒をよびあつめ、あらゆる手段《てだて》を尽して、山門復興の運動をしておるようでございます」
「信長公のおられるうちは、まずその実現はむずかしかろうな」
「――と、彼らも知って、多くの力を、堂上の諸卿に向け、主上より綸旨《りんじ》をもって信長に諭《さと》し給わらんものと、だいぶ烈しい運動を試みたらしゅうございますが、それも勅許になる見込みなく、近頃ではもっぱらただ民力にありとなして、諸国を勧進《かんじん》し、諸家の門をたたき、山王七社の仮殿の建立をなしつつあるとか聞き及んでおりまする」
「では。……先日から再三、お許《もと》に使いをよこしておる横川《よかわ》の和尚《おしよう》の用向きも、何かそれについての嘆願じゃの」
「いえ」
光春は急に眸をあらためて、光秀の面《おもて》をしずかに見つめた。
「実は、お耳に入れるまでもない儀と、この左馬介《さまのすけ》が独断で刎《は》ねつけておりましたが――そうお訊ねをうけましては、つつみ立てしておるも如何《いかが》。あらためて申しあげてしまいます。まこと横川の和尚から再三の申入れは、あなた様が当城に御逗留中と知って、ぜひ光秀様に、いちどお目通りさせて欲しいと、この光春を介して、切なる願いを申し入れて来たわけでござりました」
「亮信阿闍梨《りようしんあじやり》が、折り入って、この日向守に会いたいといっておるのか」
「それと、もう一通の嘆願書には、山門復興の勧進に、惟任《これとう》日向守様の尊名をも、御拝借ねがいたいということでございました。……が、その二つとも、もちろんお肯《き》き入れはかなわぬにきまっておる儀であると申して、私から固く断っておいた次第でございます」
「それ程、相成らぬ儀と、断っても断っても、なお再三再四、城門へ来て、命をかけてもと使いの僧までが申しおるとは……。不愍《ふびん》な心根ではある」
「…………」
「左馬介」
「はい」
「勧進の連名に、光秀が名をかしては、安土の君にたいして、畏れあるが、阿闍梨《あじやり》に会うてつかわすぐらいは、べつに憚《はばか》ることもあるまいが」
「いや、御無用になされませ。山門焼打に一手の大将をお勤めになったあなた様が、何の必要あって今日、生き残りの法師とお会い遊ばす要がありましょう」
「その節は、敵であったが、いまの叡山は、まったく無力化して、安土に対しても降伏|恭順《きようじゆん》を誓うておる良民ではないか」
「かたちの上では確かにそうです。しかし伝教《でんぎよう》以来の宝塔|仏舎《ぶつしや》を灰燼《かいじん》とされ、万を数える師弟骨肉を殺戮《さつりく》された衆徒や有縁《うえん》の者どもが、何で、まだ生々しい当年のうらみを、心から忘れておりましょうか」
「さればこそだ……」
光秀は、ほっと大きな息を天井へ吐いて、
「当年、わしもまた、信長公の御命やむなく、その狂炎《きようえん》の一ツとなって、山徒の悪僧のみか、無辜《むこ》の老幼僧俗まで無数に刺し殺した。……今日、それを思うと、この胸は、さながら当年の燃ゆる山の如く呵責《かしやく》される」
「つねに仰っしゃる大乗的《だいじようてき》なお考えに似げないおことば。叡山《えいざん》ばかりのことではありますまい。興る者、亡ぶ者、春去れば秋の来るように繰りかえしている地上の相《すがた》です。一殺多生、一山を焼いても、五山百峰の法《のり》を明らかに照らしめれば、わたくしたち武人の殺《さつ》は、決して敢《あ》えなく無辜《むこ》の命や文化を亡ぼすものでは、決してないはずと存じまする」
「いかにも、その通りだ。それしきの道理を弁《わきま》えぬ身でもないが、一個の情として、今日の叡山にたいして、わしは一滴の涙を禁じ得ないここちがするのだ。……左馬介。公《おおやけ》の惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》としては憚《はばか》りあろうが、ひとりの凡人が、御山の址《あと》を弔《とむら》う意味でなら何のさしつかえもあるまい。わしは明日、微行《しのび》でそっと山へ行きたい。そして横川の和尚に一片の布施《ふせ》をして戻りたいと思うが……どうであろう?」
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昼《ひる》ほととぎす
その夜、光春は、眠りについてからも、独り思い煩《わずら》った。
(何であのように、叡山《えいざん》の者に御執心を持たるるか)
と、光秀の心事を疑い、また明日は微行《しのび》で山へ登りたいという光秀のいぶかしい思い立ちに対して、
(飽くまでお止めすべきか。それとも、御意《ぎよい》にまかせておいたがよいか)
と、夜もすがら、とつこうつ、思案していたものであった。
(山門再興のことなどには、今のお身として、一切触れないに限るし、横川の和尚とお会いあるなどは、なおさらよろしくないことだ)
とは、彼の胸だけには、はっきり考えを決めていたが、なぜか光秀は、光春が独断で、亮信阿闍梨《りようしんあじやり》の使いを拒んでいたことにも、山徒の嘆願書を突っ返したことについても、余りよろこばない顔いろであったのみか、根本的に光春の処置とは喰いあわない考え方を抱いているらしく思われた。
(今の叡山を対象に、いったい何事を胸に夢みておらるるのか?)
そこに光春は多分な不安と疑惑を抱いた。明らかにこれは反信長行為と誹《そし》られる好材料になろう。しかも中国陣への発向を前にして何の必要もない道くさ[#「くさ」に傍点]でもある。
(止《と》めよう。なんと仰せられても、お止めしよう)
そうきめて、彼は瞼《まぶた》をとじた。面《おもて》を冒《おか》して諫止《かんし》するからには、多少、光秀から気まずい激語をうけようとも、いかに立腹されようとも、断乎《だんこ》として、その袂《たもと》を抑えきろう。――そう決心して眠りに入ったのであった。
ところが。
翌《あく》る朝は常より早目に起きたにもかかわらず、彼がうがい手洗《ちようず》をつかっていると、もうどかどかと早暁《そうぎよう》の大廊下から玄関へと、人の跫音《あしおと》がながれてゆく気配であった。光春は侍をよびたてて、早口にたずねた。
「いま、誰が出て行ったのか」
「日向守様でいらっしゃいます」
「なに、光秀様が」
「はい。山支度の軽いお身装《みなり》で、天野源右衛門どのただひとりをお供に召され、日吉《ひえ》の下までは馬で飛ばさんと、お語らい遊ばしながら、いまお玄関で草鞋《わらじ》を召していらせられます」
「さては、夜の明けぬ間に、はやお支度であったか」
彼は、どんな朝でも、欠いたことのない神前の朝拝と、仏間の称名《しようみよう》とを、この朝に限って、怠ってしまった。
倉皇《そうこう》、室にもどるやいな、衣服大小を身に正して、大玄関まで駈けて行った。
――が、すでに光秀主従は、そこを立ち出てしまったあとで、見送りに出た数名の側臣たちが、朝の顔をそろえて、
「梅雨《つゆ》もここらで霽《あ》がりであろう」
と、大廂《おおびさし》からすぐ仰げる四明《しめい》ケ嶽《だけ》の白雲を仰ぎ合っているところであった。
城外の松原はまだ明けきれぬ朝霧に湖《うみ》の底《そこ》でも行くようであった。
人をのせた二頭の馬が、その中を軽い脚さばきで駈けぬけてゆく。鵜《う》か、烏か、二騎をかすめて大きく翼を搏《う》った。
「源右。日和《ひより》はたしかだの」
「このぶんならば、山もかならず晴れておりましょう」
「久しぶり気も清々《すがすが》しい」
「御気分をお麗《うるわ》しゅうするだけでも、きょうの山詣《やまもう》では、無意味ではございません」
「なによりは、横川の和尚に会うてつかわしたい。それだけだ、光秀の用向きは」
「こちらからわざわざ山上へお越しあっては、さぞかし恐懼《きようく》いたしましょう」
「坂本城へ招いては、やはり人目がうるさい。山上人なき所で、極く密《ひそ》かに、会うのが望みじゃ。源右衛門、そちがよいように計らえよ」
「人目は山よりも麓《ふもと》にありましょう。惟任《これとう》日向守様がお登りになったなどと、里人のうわさにかかっては面白くありません。日吉あたりまでは、ひたすらそのお頭巾《ずきん》を眉深《まぶか》にしておいで遊ばしませ」
「かようにか」
と、光秀は、顔から頭に巻いている布《きれ》を一そう深くつつみなおして、ほんの眉と唇元《くちもと》だけを見せて振り向いた。
「身装《みなり》はお粗末、鞍もただの武者用に過ぎない物。これなれば誰が仰いでも、惟任光秀様とは思いも寄りますまい」
「源右、そちも怠るな。余り慇懃《いんぎん》に侍《かしず》きおると、それだけでも怪しまれようぞ」
「ははは。いかにも、そこまでは気がつきませんでした。これからは無造作にいたしまする。無礼をお咎《とが》め下さいますな」
つい両三年ほど前からやっと仮屋|普請《ぶしん》の軒並みが建ち始めて、やや旧観の坂本宿を復活して来たばかりの街道を駈けぬけて、延暦寺道《えんりやくじみち》の登りに向いかけた頃、ようやくうしろの湖水に、朝の陽《ひ》が燿《かが》やきはじめた。
「途中、乗りすてたお馬は、いかが致しておきましょう」
「日吉神社のあたりには、仮御社《かりみやしろ》も建ちかけておるという。その辺りには、農家もあろう。さなくば、日吉における工匠《たくみ》にでも預けて参ればよろしかろう」
「や……。たれか後ろの方で呼ぶ声がいたしはしませぬか」
「追うて来た者があるとすれば、それはかならず左馬介《さまのすけ》光春であろう。光春はきのうわしの微行《しのび》を止めたい顔しておった」
「温順誠実、稀に見るお人でござります。武人には優し過ぎる程な」
「……お、見よ源右。やはり左馬介じゃ。麓のほうからただ一人して駒を追いあげて参る」
「あの御容子《ごようす》では、なお強《た》ってでも、殿をお止め申すつもりかも知れませんが、はや、これまでお出ましあった上は……」
「もとより彼が何と申そうと、引っ返す心はない……。いや、恐らく彼はもう止めまい。止めるくらいなら城門でわしの轡《くつわ》をつかもう。あれ見い、左馬介も山支度をして参った。光秀とともに、きょう半日を山巡《やまめぐ》りなとせんものと、思い直して追いかけて来たにちがいない」
光春の心を覚《さと》るもの光秀ほどな者はなく、また光秀の心を知るもの光春ほどな者は世にない。
――果たして、その左馬介光春は、もうここへ来る前に、強《し》いて光秀に逆らうよりは、共に一日を山で送って、彼に大過なきように側にいて努めるに如《し》かず――と、思い直して来たものだった。
で、駒を近づけて来たときから、極めて明るい面《おもて》を見せて、
「お早い、お早い。何というお早いことです。今朝ばかりは、左馬介も不意をうけて、尠《すく》なからずあわてました。……こう早暁にお登りとは思いませんでしたので」
「いやいや、左馬介。お許《もと》を供に連れ参ろうとは、光秀も思うていなかったのじゃ。そのように追って来るほどならば、前夜に約しておいたものを」
「それがしが不覚でした。たとえお微行《しのび》にせよ、従者の十騎くらいは具され、茶や弁当の用意なども持たせて、悠々《ゆうゆう》お出ましのものとのみ独り合点しておりましたために」
「は、は、は。つねの遊山なれば、そうありたいが、きょうの山詣《やまもう》では、飽くまで往年の業火《ごうか》のあとを弔い、無数の白骨に一片の回向《えこう》をもせばやと思う菩提《ぼだい》の心にほかならない。――酒壺珍味《しゆこちんみ》をさげて登ってはすむまいが」
主人の光秀がそういう横顔を、天野源右衛門はつよい眸《ひとみ》で見つめていた。左馬介はそのことばを少しも疑わない様子で、
「きのうは何かとお気にさわるような儀を申し上げたかもしれませんが、それがしは生来の小心者とて、この際、ただただ安土への聞えの悪《あ》しからぬようにと希《ねが》う余りに申し上げたまでに過ぎません。かく御軽装にて、ふと菩提《ぼだい》のお心が、山へお運びを促《うなが》したものとあれば、たとえ信長公のお耳へ入ろうと、よも深いお咎《とが》めはございますまい。実はこの光春も、つい坂本の近くに在城いたしながら、まだいちどもその後の山上を見ておりませぬ。きょうはお供をいたしながら、諸所一見できるのも、時あっての倖《しあわ》せとぞんじまして、後をお慕いして来ました。源右どの、さあお先へお立ちなさい」
と、駒をうながした。
そして光春は、光秀と馬首をならべて、彼の心を飽かしめないように、道々に見える草の花を説いたり、新樹のみどりの鮮やかさを語ったり、数々の鳥の音を聞きわけて鳥の習性を話してみたり、あたかも楽しまない病人の機嫌をとる婦人のように、細やかな心づかいを傾けていた。
「そうか。……むむ。……いかにもな」
光秀もその真情にたいしては、膠《にべ》ない顔はできなかったが、左馬介の語ることのほとんどが自然の風物であり人事以外のことだった。光秀の心にはどうしても染まって来ないものばかりだった。光秀とても決して自然の美や雅懐《がかい》を解さないものではなかったが、いかにせん彼の心はなお寝ても起きても絵筆を持ってみても、人と人との葛藤《かつとう》の中にあった。修羅相剋《しゆらそうこく》の人間社会にあった。瞋恚怨念《しんいおんねん》の炎の裡《うち》にあった。昼《ひる》時鳥《ほととぎす》の啼きぬくこの山道にかかっても、彼のこめかみ[#「こめかみ」に傍点]は、安土退去以来の血が太くつきあげたまま、いまなお決して鎮《しず》まってはいないのであった。
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薬狩《くすりが》り
ひとたび、本能寺の濠《ほり》に、狂兵の矢石《しせき》が飛び、叛逆《はんぎやく》の猛炎が、一夜の空を焦《こ》がしてから後には――世人はあげて今さらのように、事前の光秀のこころを――その変心の時と動機を、いろいろに揣摩臆測《しまおくそく》しあった。
或る者は、
(彼の逆心はもう長年のものだ)
と云い、また或る者は、
(いや、安土を退去して、亀山城に帰国してからだ)
と、例証《れいしよう》をひいて説き、またもっと穿《うが》った者は、
(亀山に帰国してからの一夜、愛宕《あたご》の社に参籠《さんろう》して、神鬮《みくじ》を引いたそのときに、むらむらとわいた出来心だ。その証拠にはその夜から彼の態度というものが変っている。当夜、連歌師《れんがし》の紹巴《じようは》などを交《まじ》えて百韻《ひやくいん》を催した席でも、
時はいま天《あめ》が下知る五月《さつき》かな
と大胆に胸中のものを吐いているし、またその晩は同室に寝た紹巴にたびたび起されているほど夜どおし魘《うな》されていたということを見ても、彼の大それた逆心がこの日から胸に醸《かも》されたものだということができる)
とも縷々詳説《るるしようせつ》している。
どれもこれも、その解釈するところを聞けば、なるほどと頷《うなず》ける説ばかりである。では、それらのうちのどれか一説が真に光秀の本心とその変化を云いあてたものかといえば、これまた一概にそうだと決定し得ない理由も他《ほか》にないことはない。
およそ深秘《しんぴ》なものは人のこころのうごきである。あの聡明と年配の分別をもちながら、敢えて晩節の生涯を逆賊の名に堕し去るの盲挙《もうきよ》をなさしめたその原因が何であったか? ――という謎と同様に、彼の変心が、いつの日いかなる時にということは、おそらく彼の胸にとり憑《つ》いた魔もの以外にそれを知ることは困難だといってよかろう。
けれど、今日までの史家が、史証だけを頼って推定した以上幾つかの時機において、彼が逆心を抱いたとなすのは、なお軽率をまぬがれない。
なぜならば光秀の心境にとっては最も重視されなければならない安土退去の五月十七日の夜から、坂本滞留中の五月二十六日までの十日間というものは、従来、全く史家にも閑却《かんきやく》されているからである。
光秀の叛逆《はんぎやく》がまったくの暴挙で、長年にわたる計画の下《もと》に行われたものでないことは、前夜の事情と、作戦の踏襲《とうしゆう》によってこれだけは明確に断言してよい。
――とすれば、彼の胸に、魔が憑《つ》いたのは、まさに安土退去の後だ。そのときの衝動こそ、彼の一代の修養も理性も微塵《みじん》となって去喪《きよそう》していたものにちがいない。――帰国途上の坂本の城に逗留《とうりゆう》十日という空間は――かくして光秀の心理にとっては、朝に夕に、一刻一刻に魔となっては人に回《かえ》り、菩提《ぼだい》となりまた羅刹《らせつ》となり、正邪ふた道の岐路に、右せんか左せんかと夜も日も懊悩《おうのう》しつづけていたものに間違いはないであろう。
いま、彼はその一日を、叡山《えいざん》へ登って行った。もちろんこの間といえ、彼の心は、寸時も一道に安まってはいなかった。行けども行けども、迷いの岐路を見くらべていた。
かつてこの山の盛時を思うと、何という寂寥《せきりよう》さであろう。権現川《ごんげんがわ》にそい、東塔坂《とうとうざか》をのぼって行くあいだも、ほとんど、人らしいものには行き会わなかった。
変らないのは、鳥の音ばかりである。ここは古くから百鳥《ももどり》の仙境といわれているほどなので、慈悲心鳥《じひしんちよう》の声もする、仏法僧《ぶつぽうそう》も稀れに聴かれる。耳をすませば瑠璃鳥《るりちよう》、深山頬白《みやまほおじろ》、くろつぐみ、駒どり、ひよどり、また昼《ひる》時鳥《ほととぎす》までが、谺《こだま》するばかり啼《な》き交《か》わしているのだった。
「ひとりの僧も見えぬ」
文殊堂《もんじゆどう》の址《あと》に立ったとき、光秀は憮然《ぶぜん》としてつぶやいた。今さらのように、信長の威と、その武力による駆逐《くちく》の徹底に、愕《おどろ》いたかのような顔いろであった。
「左馬介」
「おつかれでございましょうに」
「なんの。……どうしたものだ。この山上にも、さらに人影はないではないか。中堂のほうへ参ってみよう」
なぜか少なからず失望した様子である。彼としては、いかに信長の表面的な制圧《せいあつ》があっても、山徒の潜勢力は、もっと目にも見える復興を山上に現わしているものと思っていたらしいのである。
だが、やがて中堂の焼け跡、また大講堂や山王院や浄土院のあたりを経巡《へめぐ》ってみても、そこにはかつての堆《うずたか》い焦土がそのままあるだけであった。ただ学寮附近に、山小屋にひとしい幾棟かが建っていて、香煙のにおいもするので、天野源右衛門をして内を窺《うかが》わせてみたが、四、五の山僧が炉の粥鍋《かゆなべ》をかこんでいるだけで、
「たずねてみましても、横川《よかわ》の亮信阿闍梨《りようしんあじやり》は、これにおらぬ由でございます」
と、いうことであった。
「横川の和尚が不在なれば、たれか以前の碩学《せきがく》とか長老とかはおらんのか」
ふたたび、光秀はそういって、問わせてみたが、源右衛門の伝えて来た返辞には、
「さるお方は、ひとりも山にはおらないそうでございます。山上へまかるにも、いちいち京都|詰《づめ》のお奉行か、安土のおゆるしを得ねば許されず、また山上の常住は、限られた平僧と堂衆のほかは、今なおお認めなき掟《おきて》とやらで」
それを光秀は聞きながして、
「いや、掟は掟であるが、宗門の熱意というものは、水をかけたら消える火のようなものでは決してない。思うに、われらをやはり安土の武士と見、かたく秘しておるのであろう。横川の和尚はじめ生き残りの長老たちは、いまなお山上のどこかに住んで、平常は人目を避けておるものにちがいない。……決して左様な心配のあるものではないとよく諭《さと》して、もういちど訊ねて来い」
「はい」
源右衛門が行きかけると、左馬介はそれを止めて、
「わしが参ろう。源右のいかつい問いかたでは、山僧どもが、よう物を申すまい。――光春が参ってねんごろに問うてみまする」
ことばの半分は、光秀へ向って告げ、光秀のうなずきを見ると、彼は小屋のほうへ歩き出した。
ところが、その光春のもどりを待っているあいだに、光秀は、会おうともせぬ人物に、はからずもここで会ってしまった。
鶯茶《うぐいすちや》の投げ頭巾《ずきん》に、同じ色の道服を着、白脚絆《しろきやはん》のわらじを穿《は》いている。
年は七十をこえているが、唇《くち》は少年の如く紅《あか》く、眉は白雪、さながら鶴に道服を着せたような老人であった。
ふたりの下僕《しもべ》と、ひとりの童子をつれ、四人づれで今、四明《しめい》ケ嶽《だけ》の谷道から上って来たのであるが、ふと光秀のすがたを見かけると、
「おう、日向《ひゆうが》どのではないか」
と、一目してその人とすぐ知ったらしく、供の者をうしろへおいて、無造作に側へ来て話しかけた。
「お久しいことでおざった。やれやれ、これはまた、思いがけぬ所で、思わぬお方にお会いするものではある。安土においでて、寸暇《すんか》もなくお勤めと伺っていましたが、きょうはまた、どうしたお序《ついで》で、かかる無人の山中へわたらせられたか」
老齢に似もやらず、非常によく透る音声《おんじよう》の持主である。そして白い眉もその唇《くち》もとも、屈托《くつたく》なくたえず微笑をたたえている。
それにひきかえて光秀は少なからず狼狽《ろうばい》の容子《ようす》であった。この明るい老人の眉には、眩《まぶ》しいような眼をさまよわせて、その答えも平常の彼とも思えないほど紊《みだ》れていた。
「や。どなたかと存じたら……曲直瀬《まなせ》殿か。なんの光秀とて、徒然《つれづれ》の日もおざる。数日来、坂本の城に滞在中とて、山でも少し渉《わた》りあるいたら、梅雨《つゆ》じめりの鬱気《うつき》も少し散じようかと思うて」
「稀に、大岳《たいがく》を踏んで、自然に接し、気を洗うのは、何よりの心養、またおからだの薬です。……お見うけするところ、ひと頃よりは、心身ともおつかれの体《てい》に見うけられる。病《やまい》のため、お暇《いとま》を乞うて、御帰国の途中でもあらせらるるか」
針のように眼を細めていう。なぜかこの眼の前には欺《あざむ》けないものを感じさせられる。曲直瀬道三《まなせどうさん》、名は正盛《まさもり》、字《あざな》は一渓《いつけい》。当代かくれのない名医であった。
足利|義輝《よしてる》がまだ室町将軍として健在であった頃から、すでに医として、道三の名は洛内《らくない》に高く、その寵遇もうすくなかった。管領《かんりよう》の細川も松永|弾正《だんじよう》も三好|修理《しゆり》も、みな彼の手にかかっていたものだし、わけて禁中の御信任もあつく、余暇を施薬院《せやくいん》の業に尽し、また後輩のために学舎を設け、高齢七十余歳というになお少しも倦《う》むところがない。
ここ久しく会わなかったが、光秀はこの大医と、安土の城内でいくたびか同席したことがある。そのうち二度ほどは茶席であった。信長は、茶の相手にもよく彼を招いたが、病気といえばすぐ、
(道三を呼べ)
と、いうのが寝つくよりも先で、常に左右にいる典医《てんい》よりも、彼への信頼のほうがはるかに篤《あつ》いようであった。
けれど道三は由来、権者に召し抱えられるのは好まない質《たち》だし、住居は京都にあるので、そのたびごとに安土まで通うのは、いくら丈夫といってもなかなか有難迷惑のようであった。
光春は小屋まで行かずに戻って来た。急に天野源右衛門が呼び返しに来たからである。
源右衛門は小声で、
「どうも、まずいお人に出会うてしまいました」
と、歩みながら囁《ささや》いたが、光春はやがて曲直瀬道三《まなせどうさん》のすがたを見て近づくと、むしろ僥倖《ぎようこう》のように、
「これはおめずらしい。一渓《いつけい》老ではありませんか。いつも壮者をしのぐばかりなお元気。きょうは京都からお登りでしたか。何か、御遊山のお連れとでも?」
などと日頃の親しみを示して、光秀との話の仲へ立ち交じった。
はなし好きな道三は、この山上に思わぬ知己を拾って、いとど愉快そうに、
「春から夏の四、五月。秋の末の九、十月頃には、毎年こうして、山登りを欠かしたことがない。この峰谷々には、本草のなかでも貴重な薬種が勿体ないほどたくさんあるのでな」
と、遠くにひかえている供の一人をさし招いて、携《たずさ》えている籠の内から、
「これは、山うずら。これは、あけぼの草。これは、錦《にしき》ごろも。これは、菊ごけ。これは、なるこ百合《ゆり》……」
と、採取した百合科《ゆりか》や龍胆科《りんどうか》や蘭科《らんか》植物などの薬草を種々《くさぐさ》そこへ取り出して、その医効を説明したり、また本草の由来を聞かせたりして、
「信長公は何事にも、新しいもの好きでいらっしゃるし、わけて海外文明には、鋭感なお方なので、安土の南蛮学校にいる紅毛人の医者に命ぜられて、伊吹山《いぶきやま》のふもとに、薬園をもうけられ、西洋薬草を七、八十種も植えおかれておらるるが、何もそうまでせんでも、この叡山《えいざん》だけでもまだわれらの眼に見出されぬ深秘《しんぴ》の薬種がどれほどあるかわからない。かつてこの山の聖《ひじり》が、眼にふれた千種《ちぐさ》の薬を百首の歌に詠《よ》み入れた『天台採薬歌《てんだいさいやつか》』という冊子《さつし》が中堂に所蔵されていたと聞いたことがあるので、ぜひ一覧したいものと思うていたが、そのうちにあの元亀二年の兵燹《へいせん》で、かくの如くみな焦土《しようど》となってしもうた。……かえすがえすもその『天台採薬歌』を見ずにしまったことだけは、今もって残り惜しい気がしてならぬ」
と、語り来って語り飽きない道三であったが、ただ終始沈黙がちであるばかりか、はなしの間にも、どこかに空虚《うつろ》の窺《うかが》える光秀の容子《ようす》にだけは、彼も時折気にかかってならないらしく、その横顔へ、しばしば医家らしい眼をそそいでいる。
で、話題はまた、いつか光秀の健康に及んで来て、
「光春殿から伺えば、日向《ひゆうが》殿には、近日、中国へ御出陣とのこと。よほどお体を大事にお保ちあるように。人間五十をこえると、いかにお丈夫でも、自然の生理は否《いな》み難《がた》く、いろいろな変革が体に起る大機でもありますからな……」
と、ことば以上、憂いをふくめて、くれぐれも注意した。
「そうでしょうか」
光秀は、強《し》いて一笑に附しながら、道三の注意へ他人事《ひとごと》のように答えた。
「先頃、かろい風邪《かぜ》気味ではありましたが、生来強健のほうでべつにこれという病《やまい》も覚えませんが」
「いや、そうもいえない」
道三は、自家の医学と体験の権威をもって、それを否定した。
「病《やまい》を病と自覚している病人はつねに意を用いているからまだよいが、あなたのように無病を過信していると、まま大きな過ちに陥《おちい》る。充分お気をつけなさい」
「では、どこが光秀の宿痾《しゆくあ》であろうか」
「お顔の色を見、お声を聞いただけでも、尋常な御容態でないことはすぐわかる。どこといえる宿痾《しゆくあ》ならまだしも、おそらく五臓すべてにお労《つか》れが来ているのではあるまいか」
「労れがあろうと仰せなれば、それは自身でも頷《うなず》けます。年来の転戦、君側の勤め。いやもう、無理に無理を押して来た体ですからな」
「日向殿の如き知識の人へ、こういうのは釈迦《しやか》に説法《せつぽう》であろうが、よくよく御養生あるがよろしい。肝《かん》、心《しん》、脾《ひ》、肺《はい》、腎《じん》の五臓は、五志、五気、五声にあらわれて、色にも出《い》で、ことばにも隠せぬものでおざる。たとえば、肝を病めば、涙多く、心をやぶれば、恟々《きようきよう》としてものに恐れ、脾《ひ》をわずらえば、事ごとに怒りを生じやすく、肺の虚《きよ》するときは憂悶《ゆうもん》を抱いて、これを解《げ》す力を失う。また腎《じん》弱まれば、よく歓び、即座にまた悲しむ。……」
じっと、道三は、光秀の顔色を見つめた。病人でないことを自信して光秀は、その言を聞こうとは思わなかった。強《し》いて微笑に紛《まぎ》らわせていようとすると、不快になり不安になり、理由なき焦躁《しようそう》に駆られてくる。で、努めて答えずに、この老人とはやく別れる機会を見つけたいような面持《おももち》であった。
しかし曲直瀬道三は、自身がいおうとすることを、決して途中で云《い》い濁《にご》すようなことはなかった。そうした光秀のひとみや気色を覚《さと》りながらも、なお話をつづけて、切言した。
「あなたにお会いしたときから気にかかったのは、あなたの皮膚の相色《そうしき》であった。何を憂い、何を恐れておらるるか。――しかもお眼は怒脈《どみやく》をひそめ、匹夫《ひつぷ》のごとき怒りと、婦人のような涙とを、一眼のうちにたたえておられる。――夜、手足の爪まで凍《こご》えるような冷えをお覚えなさらぬか。しかも耳は鳴り、唾液《だえき》は渇《かわ》き、口中に棘《いばら》を咬《か》むようなお心地はあらせられぬか」
「まま眠りかねる夜もありましたが、昨夜はよく寝《やす》みました。何くれとなくお心づけ、辱《かたじけの》うござった。出陣の後も、何か薬餌《やくじ》を摂《と》りましょう」
と、光秀はこれを機《しお》に、左馬介や源右衛門を顧みて、参ろうかと道を促《うなが》しながら、また、
「そのうちに改めて使いをつかわしますゆえ、何ぞ、持薬をお授けください。いや、途上まことに失礼いたした」
と、のがれるように先へ別れて行った。
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白河越《しらかわご》え
この日、明智の家中|進士《しんし》作左衛門は、一小隊の従者をつれて、遅《おく》れ走《ば》せに、安土《あづち》から坂本城へ引き揚げて来た。
主人光秀の退去が、事|遽《にわ》かであったため、あとに残って、残務の整理や邸の始末をすまして来たものである。
待ちもうけていたように、彼が旅装を解くやいな、一室に彼を囲んで、妻木《つまき》主計《かずえ》、藤田伝五、並河《なみかわ》掃部《かもん》、四方田政孝《しほうでんまさたか》、三宅藤兵衛、村上和泉守などの人々が、
「あとの情勢はどうか」
「御退去のあと、安土では、どんな噂が交わされておるか」
などと膝つめよせて訊ねた。
作左衛門は切歯《せつし》して云った。
「過ぐる十七日の御退去以来、きょう二十五日まで、わずか八日の間だったが、明智家の禄《ろく》を喰《は》む身にとっては、針の莚《むしろ》に三年もすわっているような辛抱だった。――あのあと俄《にわ》かにがらん[#「がらん」に傍点]とした饗応《きようおう》屋敷の門外を通ってゆく安土の小身どもや町の者までが声高に――これが日向《ひゆうが》殿の空屋敷か、道理で腐った魚のにおいがする、こう不首尾とけち[#「けち」に傍点]が続いては、もうきんか[#「きんか」に傍点]頭の光もここらで萎《しぼ》むであろうなどと憚《はばか》らぬ雑言《ぞうごん》が、耳をふさいでも、朝夕に聞えて来るしのう……」
「それほど御不評か」
「安土の膝下《ひざもと》に生きておる輩《やから》じゃ、たれひとり信長公の処置を、無理とも悪いともいう者はない。一に殿への誹謗《ひぼう》ばかりだ」
「上層の面々には多少ものの分った人もあろう。そういう方面のうわさはどうか」
「いや、以後の数日は、ただもう大賓の徳川殿をもてなすことで、安土城内は持ちきっている。その徳川殿にも、急に饗応《きようおう》の奉行がかわったので、不審に思われたか、信長公にむかい――明智どのの姿が見えぬがどう召されたか――と訊ねられたそうじゃ。すると信長公は、事もなげに、あれは国許《くにもと》へ帰したと、眼のうちにも入れてないような御返辞であったという」
「…………」
聞く者はみな唇《くち》を噛んだ。進士作左衛門はなお語をつづけて、安土の重臣間には、主人光秀の失意をむしろ快となす空気が多分にあること。また信長自身の胸にも、ふたたび昔日《せきじつ》の寵遇はわが主人にないばかりか、明智家の領地までを、他の僻地《へきち》へ移封《いほう》させるお心がないとも断じきれないものがある。
これも噂には止まるが、火のない所に煙は立たない。安土の奏者《そうしや》森蘭丸が、往年この坂本で戦死した森三左衛門の次男であるところから、ひそかに現在の美濃の領からこの坂本へ領地がえになりたい希望を抱いているし、すでに信長公からその黙約をうけているという沙汰すらある。
で、このたびの山陰道への出軍令は、主人光秀に、その地方を攻め取らせて、現地の山陰にそのまま明智家を封じ、後あらためて坂本附近の――地理的にも安土のすぐ側にある――この要地は蘭丸へ下されるものではないかと観察している者も決して尠なくない。
「その証拠には」
と作左衛門は、この十九日に信長から明智家に伝達された軍令状を例にひいて、さらに眦《まなじり》を裂いた。
進士《しんし》作左衛門が云い出すまでもなく、この十九日附け発令で、安土から明智家に手交《しゆこう》された軍令状というものは、光秀のみならず全家中をして、憤怒《ふんぬ》せしめたものだった。
いまその全文を見るならば、
[#ここから2字下げ]
この度、備中の国へ、後詰《ごづめ》のため、近日、彼国《かのくに》に出馬あるべきに依り、先手の各※[#二の字点、unicode303b]、我に先だって戦場にいたり、羽柴筑前守の指図を相待つ可《べ》き者也。
池田惣三郎殿 同紀伊守殿 同三右衛門殿 堀久太郎殿 惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》殿 細川|刑部大輔《ぎようぶたゆう》殿 中川瀬兵衛殿 高山右近殿 安部仁右衛門殿 塩川|伯耆守《ほうきのかみ》殿
[#ここで字下げ終わり]
天正十年五月十九日
[#地付き]信 長 判《はん》
とある。
かりそめにも軍令状に過ちのあるはずはない。また祐筆《ゆうひつ》などの私情によって左右されるわけも絶対にない。信長公のさしずであり、故意なること明白であると、明智家の将士は、この廻状に接したとき、悲憤、怒涙をしぼって、
(御当家は当然、池田や堀などの上位であって、羽柴、柴田と同格に扱わるるのが、従来の慣《なら》いであった。――だのに、それらの諸将の下に、主君のお名を記し、あまつさえ秀吉の指揮をうけよというに至っては、武門に加えられる侮辱《ぶじよく》の最大なるものだ。饗応役|褫奪《ちだつ》の恥を、軍令状の中にまで及ぼし、明智家の不面目を戦陣にまで曝《さら》さるる苛酷《かこく》なお仕打というしかない)
と、恨み合ったものである。
進士作左衛門は、このことが、やはり安土一般の人士にも、相当注意されているらしいと、自己の観察をつけ加えて、
「必定《ひつじよう》、領土がえが行われて、この坂本四郡は、やがて蘭丸へ下される思し召しであろうなどという風説の出所《でどころ》も、軍令状の表に示された格下げの御意志を、みなが敏感に読みとって、沙汰し廻るものと考えられる。……何しても、心外千万なことだ。無念というも云い足りぬ」
語り終っても彼はなお幾たびも、膝にかためている拳《こぶし》を眼へやっては、暗然と、鳥肌のようになった面《おもて》をそむけていた。
折ふし黄昏《たそが》れていたので、各※[#二の字点、unicode303b]の居ずまいと壁を繞《めぐ》って夕闇がふかくたちこめ、その後は、たれひとり口をきく者もなく、ただ頬をつたう涙ばかりが白く見えたが、このとき大廊《たいろう》にあたって侍たちの跫音《あしおと》が聞えたので、さては、殿のお帰りと、人々はあらそって出迎えに出てしまった。
ひとり進士作左衛門だけは、召しのあるまで、旅装も解かずにひかえていた。終日、山を歩いて戻った光秀は、風呂に入り、夜食をとってから、作左衛門を招いた。
席には、左馬介《さまのすけ》しかいなかった。作左衛門はこのとき初めて、まだ家中には誰にも洩らしていない報告を一つつけ加えた。
それは、信長が、いよいよ月の末二十九日に、安土を発向、京都に一泊して、直ちに西下するという日取の決定や準備の聞き込みであった。
きょうはすでに二十五日。
この二十九日には、信長が安土を立つと聞いては、光秀もさすがに、ここ七日間の逗留《とうりゆう》を顧みて、心をせかれずにはいられなかった。
「して、安土御本城のお留守居衆などの顔ぶれも決まったようか」
作左衛門はそれに答えて、
「お留守には津田源十郎どの、加藤兵庫どの、蒲生《がもう》右兵衛|大輔《たゆう》どの、野々村又右衛門どの、丸毛兵庫守《まるもひようごのかみ》どのなど、御本丸守り、二の丸詰の方々まで、数十将におさしずあらせられたように承りました」
聞き入る光秀の耳はその眸とともに、彼の聡明と観察の叡智《えいち》を象徴《しようちよう》していた。作左の一語一語にうなずきを与えながら、
「また、御発向のお供には」
と、たずねた。
「誰々と、いちいち審《つまびら》かには聞き及びませんが、左右の御近臣数名と、お小姓衆三、四十人ほどお召し連れとのみ伺いましたが」
「なに、ただ四、五十名の軽装で御上洛とか」
信長の発向としては余りに軽々しい。むしろ疑うべきだと、思い惑《まど》ったものか、光秀のひとみはそのせつなに、燭を横に見ながら、|炯《けい》として妖《あや》しくかがやいた。
光春は一語も吐かずにひかえていたが、光秀がそれきり沈黙をつづけているので、進士作左衛門に向って――
「退《さ》がって、旅装を解き、夜食なとすましたがよかろう」
と、ねぎらった。
あとは光春と光秀のふたりとなった。自己の分身も同様なこの骨肉にたいして、光秀は何やら心を割って語りたいような素振《そぶり》でもあったが、とかく光春のことばは光秀にそれを吐かしめないのみか、切に、一刻もはやく中国へ出陣して、これ以上信長公の忌諱《きき》に触れることのないようにと、一にも信長、二にも信長と、ただ服従と奉公一念をすすめる以外にないのであった。
この正道一義な従兄弟《いとこ》の性格は光秀としても四十年来、たのみがいある男よと、力にもし、愛して来た性情である。いまとてもそうした光春なればこそ、
(わが一族中の随一の者)
と信頼しているのだった。
だから、彼のそうした態度に対しては、いかに内心自分のいまの気もちにそぐわぬものであっても、光秀はそれに怒ることも圧伏を加えることもできなかった。沈々と黙し合うことややしばしの後、光秀は唐突に、
「そうだ、こよいのうちにも、先発を出して、亀山の家中の者どもに、はや陣用意を触れさせておこう。左馬介、計《はか》ろうておくりゃれ」
と、云い出した。
光春はよろこんで立った。
その夜たちまち並河《なみかわ》掃部《かもん》、村上和泉守、妻木|主計《かずえ》、藤田伝五などの将は、一部隊をひきいて、亀山城へいそいで行った。
四更《しこう》の頃、むく[#「むく」に傍点]と、光秀は刎《は》ね起きて、臥床《ふしど》のうえに坐っていた。
夢でも見たのか。
或いは、なにかまた、否と思い直してしまったものか。しばらくすると、ふたたび衾《ふすま》を被《かず》いで、枕に顔を埋め、努めて眠ろうとしているもののようであった。
霧か、雨か。
湖の波騒《なみさい》か、四明颪《しめいおろ》しか。
夜もすがら大殿の廂《ひさし》を繞《めぐ》る嵐気《らんき》が絶えない。枕頭の燭は、風もないのに、ものの気に揺れ、光秀の閉じている瞼《まぶた》のうえにゆらゆら明滅を投げかける。
光秀は寝返りを打った。みじか夜のこの頃とはいえ、彼にはなかなか明けるに遅い夜々であった。――がようやく、そのまま寝息に入ったかに思われたが、ふとまた夜具を掻《か》い退《の》けて、がば[#「がば」に傍点]と半身を起し、
「於香《おこう》。於香はいるか」
と小姓部屋へ呼びたてた。
遠くのふすまが辷《すべ》る。宿直《とのい》の山田香之進が音もなく入って来て平伏した。光秀は一言、
「又兵衛にすぐ来いと申せ」
いいつけるとそのまま、独り沈吟《ちんぎん》していた。
さむらい部屋の者は、みな眠ってはいたが、同僚の一隊は宵のうちにもう亀山へ立ったし、主人光秀もつづいていつ出発を触れ出すやも知れないしする気持から、家臣はみな常ならぬ緊張を抱いて、各※[#二の字点、unicode303b]、旅装を枕許《まくらもと》へおいて横になっていた。
「お召しでございますか」
四方田《しほうでん》又兵衛はすぐ見えた。これは屈強な若者であり、四方田政孝の甥《おい》でもあるので、光秀が眼をかけていた侍である。――もっと近くへ寄れと、眼《まな》ざし[#「ざし」に傍点]でよびよせてから、光秀は声をひそめて何事かいいつけていた。
はからずも光秀から直接に機密な命をうけた若者は、異様な感激を満面に示して、
「行って参ります」
と、主君の信頼に、身をもってこたえた。
その若さを、頼もしくも、気遣《きづか》いにも思うように、
「夜の明けぬまに早く行け。明智の士というと、人目が多いぞ。不つつかをすな、ぬかるな」
――又兵衛の退がった後も、なお夜の白らむには間があった。光秀がほんとに眠りついたのは、それからであったらしい。
いつになく彼は日の三竿《さんかん》にいたるまで寝所から出て来なかった。亀山への出発はおそらく今日と察して、それも早朝に触れ出されるであろうと待機していた家臣たちには、主君のこの常ならぬ朝寝坊がひどく意外なようであった。
「きのうは終日《ひねもす》、山をあるき、昨夜は近来になく熟睡した。そのせいか、きょうは寔《まこと》に気分がよい。風邪《かぜ》も本格的に癒《なお》ったとみえる」
午《ひる》ごろ、光秀のうるわしい声が広間に聞えていた。家臣たちの間にはそれを自分たちの健康のように歓びあう容子《ようす》が漂《ただよ》っていた。そして間もなく側臣からこういう令が伝えられて来た。
――こよい酉《とり》の下刻、当所を御出立、白河越え、洛北《らくほく》を経《へ》、亀山へ御帰国|被遊《あそばさる》。御用意とどこおりなきように。
亀山へ供して行く将士の同勢は三千に余った。夕べ迫ると、光秀も旅装をととのえて、本丸の広間に臨み、この日にかぎって、光春の家族たちと一緒に晩の食事をした。
「お門《かど》立ちの祝《ことほ》ぎにと、奥方や老人どもが、いささか、丹精《たんせい》こらした膳部です。何もございませぬが、彼らの心根を召し上がっていただければ、どんなに歓ぶかわかりませぬ」
と、左馬介《さまのすけ》光春からいわれたので、光秀も、その心を酌《く》んで、
「中国へ出陣すれば、またいつの日帰るとも知れぬ。では久しぶりに御内方《おうちかた》と共にいただこうか」
と望んだところから、出立を間際にして、急にこういう団欒《だんらん》になったのであった。
光春の夫人は、妻木|主計《かずえ》のむすめである。光秀の家庭は子沢山で有名なものだが、光春と夫人の妻木氏のあいだには、八歳になる乙寿丸《おとじゆまる》しかない。
老人としては、叔父の長閑斎光廉《ちようかんさいみつかど》がいる。洒落《しやらく》な老人で、ことし六十七になるが、病《やまい》も知らず、冗談ばかりいって、いまも乙寿丸をそばに置いてからかっていた。
この気さくな老人のみは、始終、にこにこしていて、明智一族の今ぶつかっている暗礁《あんしよう》も知らず、春の海をゆく船に老いの余生を託しきって、しかも安心しぬいているような姿なのである。
「賑やかで、もうわが家へ帰ったようなここちがする。老人、この杯を、光忠にやってくれ」
光秀は、二、三|献《こん》すごしたそれを、手近な光廉入道にわたすと、光廉はそれを、傍らにいる甥《おい》の明智次右衛門光忠にわたした。
光忠は八上の城主で、きょうここへ会したばかりである。三人|従兄弟《いとこ》のうちではいちばん年下であった。
「ありがたく戴きました」
光秀の前へ進んで、光忠は杯を返した。光春の夫人が銚子《ちようし》を持って注《つ》いだ。そのとき、光秀の手がびくりと震えた。太鼓《たいこ》の音に愕《おどろ》くような光秀でもないのに、表の方で鳴った太鼓とともに何か顔いろまですこしうごいたように見えた。
「はや酉《とり》の刻でおざれば、御人数の衆へ寄場《よりば》へ集まれと、供頭が触れておる太鼓でござりましょうで」
ふと眼をこちらへ向けていた光廉入道がそういうと、光秀はそれまでの機嫌を一ぺんに沈めて、
「知っておる」
と苦《にが》そうに終りの杯をのみほした。
半刻《はんとき》の後には、彼はすでに馬上だった。星青き夜空の下、三千の人馬と、炬火《たいまつ》の数が、うねうねと湖畔の城を出《い》で、松原を縫《ぬ》い、日吉坂を登って、四明《しめい》ケ嶽《だけ》の山裾《やますそ》へかくれてゆく。
左馬介光春は、城頭から見送っていた。彼は坂本の家中だけで一戦隊を編成し、後から亀山へ赴《おもむ》いて本軍と合する予定になっている。
この夜は二十六日、明ければ二十七日という間を、光秀以下の人馬は、眠らずに歩いていた。そして四明ケ嶽の南から寝しずまった京都の町を西方の盆地に見出したのが、ちょうどその両日の境にわたる真夜中の頃だった。
白河越えは、これから瓜生山《うりゆうざん》の尾根へ降って、一乗寺の南へ出る道。――ここまでは登りづめであったのが、あとは一路|降《くだ》って行くばかりとなる。
「やすめ」
次右衛門光忠は、光秀の旨をつたえて人馬に令した。
光秀も馬を降り、床几《しようぎ》を取りよせて、しばらくこの嶺《みね》のいただきに休息した。昼ならばここから一眸《いちぼう》になし得る京洛《けいらく》の町々も、特徴のある堂塔《どうとう》や大きな河をのぞいては、ただ全市の輪郭が闇の底おぼろに望まれるだけだった。
「四方田又兵衛はまだ追いついて来ておらぬか」
側にいる四方田政孝にたずねたのである。が、その甥《おい》の行く先は、政孝こそ、光秀へ問いたいことであった。
「昨夜から見えませぬが、殿より何かお使いを命ぜられたのではございませんか」
「そうだ」
「どこへ参りましたので」
「やがて分ろう。――もし戻って見えたら、歩行中でもかまわぬから、すぐわしの馬側《うまわき》へよこしてくれ」
「畏《かしこま》りました」
政孝はふかく訊ねなかった。何事にも御腹蔵のない主君が口に出したくないことなら触れないのが道であると考えたからである。
口をつぐむと、光秀のひとみはまた、墨のような京洛の屋根を、飽かずに眺めていた。夜霧の流れが濃くなり淡《うす》くなるせいか、それとも夜眼の馴れてくるためだろうか、次第にそこの建物なども判別されて来る。わけて二条城の白壁はほかの何物よりも明らかだった。
当然、光秀の凝視は、その白い一点にとらわれた。そこには、信長の子、三位中将信忠がいる。また数日前に安土を辞して上洛した徳川家康も泊って、大勢の案内衆や接待役に囲繞《いによう》されながら歓待の幾夜かを過ごしたであろうなどということも――思うまいとしてもすぐ想像にのぼって来る。
「徳川どのにも、はや京を立たれたろうな」
呟《つぶや》くような主人の問いに、政孝が答えて、
「いまは大坂に御滞在かと存ぜられます。そのような御予定と承っておりましたが」
「……む。む」
それきりであった。このことばには、後もなく、前もない。
「さ、行こう。馬を――」
光秀は不意に起つ。諸将はあわてた。
この不意打から受ける部下の狼狽は、光秀一箇の心が、箇のまま発作的に行動するため起る波紋であった。そのまえに政孝へ云っていた首尾のないことばと同じもので、この数日間の光秀には、時々、一家中という大勢から遊離《ゆうり》して、一藩の主脳でも一列の主体者でもない、孤《みなしご》のごとき一箇の人間として挙止《きよし》するような姿がまま見られた。
しかし彼に続く将士は、
「降《くだ》りは早いぞ」
「馬を躓《つまず》かすな」
と、夜道の難にも怯《ひる》まず、主君をかこみ、友を戒《いまし》め合い、洛外へ向ってひたすら道を捗《はかど》っていた。
人馬三千の列が、下加茂《しもかも》の河原まで来て立《た》ち淀《よど》んだとき、人々は期せずして、うしろを振り向いた。光秀も振り顧《かえ》った。
眼のまえの加茂川に映《は》え燿《かがや》いた紅波《こうは》を見て、後ろなる三十六峰の背から朝陽《あさひ》が昇ったのを知ったからである。
「朝のおしたくは河原で遊ばしますか、西陣へ行っておしたためなされますか」
兵糧方の部将が、光忠の側へ来て、朝食のことをたずねていた。光忠は光秀の内意を訊くため少し駒を寄せかけたが、そのとき四方田政孝と光秀が駒をならべて、いま通って来た白河の方を凝視《ぎようし》している容子《ようす》だったため、しばらく此方にさしひかえていた。
「政孝。あれは又兵衛ではないか」
「そのようでございますな」
光秀と政孝のひとみは、彼方《かなた》から急いで来る一騎を待っているものらしく、朝霧を衝《つ》いて、その影が近づいて来ると、
「おお、やはり又兵衛であった」
と、光秀は心待ちにしていた彼をそのままそこに待ちながら、左右の将に向って、
「さきへ渡れ。わしは一足あとから河をこえる」
と、云った。
前隊の列はもう一部分加茂の浅瀬をひろって、対岸へ渡っていた。諸将は光秀のそばを去ると、つづいて清冽《せいれつ》の中へ白い水泡《すいほう》のすじを作って、続々、徒渉して行った。
それを機《しお》に、光忠がたずねた。
「お弁当はどこでおつかい遊ばしますか。西陣なれば便宜《べんぎ》もございますが」
光秀は一言に、
「みな空腹であろうが、町中は好ましくない。北野まで参ろう」
もうそのとき、これへ近づいた四方田又兵衛が、十間ほど彼方に駒を降りて、河原の杭《くい》に手綱を巻いていた。
「光忠も、政孝も、わしにかまいなく、先に越えて、河向うで待っていよ。すぐ参る」
最後の二人までを、そういって遠ざけた後、光秀は初めて、又兵衛の方に向い、顔をもってさしまねいた。
「寄れ。もっと近う寄れ」
「……はいっ」
「どうであった。安土のもようは」
「さきに承りました進士作左衛門どのの御報告に間違いはないようでございます」
「再度、そちを遣《つか》わしたのは、二十九日御上洛の儀、またお供の勢《せい》など確かなところを見極めにやったのだ。――ないようでござります、などという曖昧《あいまい》なことでは何の効《かい》もない。確実か、否か、はっきり復命せい」
「二十九日、安土御発向のこと、これは確かです。お供方には、主なる大将方の御名も聞えず、ただ御近衆お小姓たち四、五十名としか触れ出されておりません」
「して、御在京中の御宿所は」
「本能寺《ほんのうじ》の由にござりまする」
「なに。本能寺」
「はい」
「二条城ではないのか」
「たしかに、本能寺とのこと、いずれでも沙汰されておりました」
また叱られないようにと気をつけて、又兵衛は、特にはっきりと答えた。
[#改ページ]
愛宕《あたご》参籠《さんろう》
巨大な山門を中心として、附近に多くの末院がそれぞれ土塀をかまえ門を持っている。眼のとどく限り掃《は》いたような土肌《つちはだ》をしているここの松原全体がひとつの禅苑《ぜんえん》をなして、梢《こずえ》からこぼれ[#「こぼれ」に傍点]る陽《ひ》も幽《かす》かな鳥の声も、その静寂を助けている。
馬をここにつないで、光秀以下明智家の将士は、朝と午《ひる》とを兼ねた弁当をつかった。加茂《かも》河原《がわら》あたりで朝食をとるべきなのに、北野まで我慢して来たので、時刻がそういう半端《はんぱ》になってしまったのである。
将士はみな一日分の腰兵糧を携帯していた。生味噌と梅干と玄米《くろごめ》の飯という簡単なものであったが、夜来の空腹は、これに舌鼓《したつづみ》を打って睦《むつ》み合うに充分なほど、人々の慾を謙虚《けんきよ》にしていた。
「――これは惟任《これとう》日向守《ひゆうがのかみ》様の御人数ではいらせられませぬか」
妙心寺の塔頭大嶺院《たつちゆうだいりよういん》の僧が三、四人してこれへ茶を運んで来た。そして、
「おさしつかえなくば、何の用意もございませぬが、寺中の一院を、御休息所にお宛《あ》て下さいますように」
と、つけ加え、
「いずれ住持が、間もなく、御挨拶をかねて、御案内に罷《まか》り出《い》でまする」
と、携《たずさ》えて来た湯茶を侍臣にあずけて帰りかけた。
光秀は、小荷駄《こにだ》の者が、簡単に張りめぐらした幕の陰に床几《しようぎ》をすえて、いま食事もすまし、祐筆《ゆうひつ》の者に、何か一通の手紙を口述して書かせていたが、
「妙心寺の僧よな。ちょうどよい使い。呼びもどせ」
と、小姓にいいつけ、僧たちが遥かにひざまずくと、祐筆の手になったその書面を託して、
「連歌師《れんがし》の里村紹巴《さとむらじようは》の宅まで、この一通を大急ぎで届けおいてくれぬか」
と、いった。
そしてすぐ床几をたたませて、馬の側へ立ち寄り、
「いとまなき途中であれば、寺中の和上《わじよう》たちにもお目にかからず罷《まか》りこえる。よろしく申し伝えてくれい」
と、すぐ出発を令して立ち去ってしまった。
昼中は暑かった。仁和寺《にんなじ》から嵯峨《さが》へとかかる平坦《へいたん》な道は、殊に乾いて、真夏のような草いきれが埃《ほこり》と共に馬の足もとから燃えてくる。光秀は黙々として、終始、渇《かつ》も訴えなければ左右とも語らなかった。
が、彼は彼自身と、間断なく問いつ問われつしていたのである。天地間の何者も窺《うかが》い得ないほどな大事を、彼は彼と対立して、胸の中に論争の激流を渦《うず》まかせていた。そしてそのことの可能性やら、世人の輿論《よろん》やら、または一朝不成功に帰した場合までの結果を、彼らしい用心ぶかさをもって綿密《めんみつ》に考えつめていたものだった。
払えども払えどもたかって来る馬蠅《うまばえ》のように、それはもう心の内から追いきれない彼の白日夢《はくじつむ》となっていた。かかる悪夢が、いつの間に彼の毛穴から忍び入って満身の邪気となったものか、彼の聡明《そうめい》ももう反省する力をすでに欠いていた。
光秀は、五十五年の生涯のうちで今ほど、自己の聡明を、ふかく恃《たの》み、またかたく信じたときはなかった。
客観的には、彼の知性というものが、いまほど危ない亀裂《きれつ》を呈した例《ためし》はあるまいと思われるのに、彼自身には、その正反対が信じられていた。
(――自分の思慮には水の漏《も》るほどな錯誤《さくご》もない。誰がいま光秀のこの腹中を知ろう)
ひとり綿密に練っていたその腹中の企図《きと》も、坂本にいたあいだはまだ、実行にうつすべきか、実行すべきでないか、迷いは半々であったが、今暁、下加茂の河原で、四方田又兵衛から二度目の確報を聞くとともに、光秀はぞく[#「ぞく」に傍点]と身の毛をよだてて、
(――今だ)
と、心のうちに決して、
(天、光秀にこの時を与え給うものである)
という、自我の妄信《もうしん》を強く抱いた。
信長が扈従《こじゆう》わずか四、五十名の軽装で、本能寺に泊るという――またとないその絶好な機会こそ、彼の心を囚《とら》えた魔のささやきといってさしつかえない。いかなる大胆な人間も謀《たく》み得ないほどなことを、今は小心そのものの光秀が、咄嗟《とつさ》に実行しよう――と思い極めるに至ったのは、彼の積極性ではなく、むしろ彼以外のものだった。
人は各自の意志によって生きもし動きもしていると思っているが、その人以上の何ものかの力が人をうごかしているという儼然《げんぜん》たる宇宙の理は、人間はどうしても否《いな》みきれない。いまの光秀とてもそれくらいなことは考える。そして彼はこの機会と自分の腹中のものに、天の味方を信じながら、半面絶えず、天を怖れ、下加茂から嵯峨《さが》まで来る半日の道にも、それのみ心にかかりだしていた。自分の一挙一動に天の眼《まなこ》がそそがれているような恐怖に近い心理だった。
「六右衛門。六右衛門」
清涼寺《せいりようじ》を過ぎ、北嵯峨の松尾神社の前まで来たとき、彼は近衆《きんじゆ》のうちの東《あずま》六右衛門をよび出して、
「そちはこれから愛宕《あたご》の山上へ参って、威徳院の行祐《ぎようゆう》どのに伝えよ。明日、光秀参拝のうえ、同夜は光秀と日ごろ親しき輩《ともがら》四、五名|集《つど》うて、歌夜籠《うたよごも》り仕《つかまつ》りとう存ずると。――俄かに房を騒がせぬためじゃ。そちは明夜まで山上に留まっておるがよかろう」
さきには、京都の紹巴《じようは》に招き状を送り、いまは愛宕の参籠《さんろう》を先触れさせていた。彼は、天の味方を信じながら、天の眼《まなこ》をあざむくことに、自己の聡明を駆使《くし》していた。
列は、桂川《かつらがわ》を渡り、松尾の間道をこえ、その夕方、陽《ひ》もとっぷり暮れたころ、亀山の本城へ着いた。
城主の帰国を知った亀山の町民は、夜空も染まるほど篝火《かがりび》に祝いの心を見せていた。事実ここの領民は旧国主の波多野氏《はたのし》時代よりも、いまの善政に悦服《えつぷく》し、光秀の徳になついていた。
おまえ見たかや
おしろの庭は
いつも桔梗《ききよう》の
花が咲く
こんな民土の謡《うた》が興《おこ》ったのも、正に明智領になってからである。こよいも濠《ほり》をこえ、狭間《はざま》をこえて、城下の謡《うた》が本丸まで聞えていた。
「長々の留守居、ご苦労であった。光秀もまずかくの通り健在、歓んでおくりゃれ」
彼は城中に入るとすぐ、大広間を用いて、斎藤|内蔵助《くらのすけ》以下、多くの留守居衆に謁《えつ》を与え、各※[#二の字点、unicode303b]から挨拶をうけて後、初めて奥曲輪《おくぐるわ》に入った。
何十万石という住居はあっても、賑《にぎ》やかな家族はいても、戦国の武将はひとり光秀のみでなく、誰もひとしく、家庭に帰って楽しむような日は、一年のうちに指折るほどしかなかった。少し長陣の合戦には、二年も三年も帰らなかった。
故にひとたび、父なる人が|稀※[#二の字点、unicode303b]《たまたま》のすがたを、そこに見せた夜の奥曲輪というものは、たいへんな賑わいであった。夫人も和子《わこ》も老いたる叔父叔母の輩《ともがら》まで嬉々《きき》として、侍女《こしもと》たちの顔から燈火《ともしび》の色まで華《はな》やぎ立ち、その陽気なことは到底、節句や正月の比ではない。
わけて光秀は子福者《こぶくしや》で、女子は七女まで、男子は十二男まで持っている。もちろんそれらの子たちの三分の二はもう他家へ嫁《とつ》いだり養子となっているが、まだまだ小さいのも幾人かいたし、叔母の子やら、誰れやらの孫というのも養っているので、夫人の煕子《てるこ》は、いつも笑って、
(いったい私は、幾歳《いくつ》になったら子どもたちのお世話から離れることができるのでしょう)
と、述懐《じゆつかい》している程だった。
戦死した一族の子も引き取っているし、また光秀の子ではあっても、自分の腹をいためていない子もその中にはいたのである。けれどこのひとは細川藤孝が常に褒《ほ》めてやまない賢夫人であって、齢《よわい》五十になってもそうした乳《ち》のみ児や腕白に取り巻かれている境遇を心から甘受《かんじゆ》して、むしろ生涯の満足としているような姿だった。
かつて、まだ光秀が、江湖を浪々して、病中の薬代にも、旅籠料《はたごりよう》にも窮していたとき、彼女がみどりの黒髪を切って金に換え、その急場を切りぬけて、良人《おつと》の素志《そし》を励ましたことなどは――彼女自身はおくび[#「おくび」に傍点]にも語ったことはないが、三ばんめの娘|伽羅沙《がらしや》の良人《おつと》細川|忠興《ただおき》の父――細川藤孝は酔うとよくこのはなしを持ち出して、光秀の苦笑を求めたものだった。
坂本以来、いや安土以来、彼は初めてなぐさめられた。彼のその夜の眠りは円《まど》かであった。あくる日となっても、なお嬉々《きき》たる子たちや、貞節な妻の笑顔は、どれほど彼の棘々《とげとげ》しい心をなだめていたかしれない。
「やはりわが家はよいな」
沁々《しみじみ》と、いまの幸福を顧みてもみる光秀であった。
けれど、一夜を過して、そのために、彼の心の奥のものが、何かの変化を来たしていたろうかといえば、それは少しも変っていなかった。むしろ、より以上胸中の秘事に、べつな野望を加えて、その実行を勇気づけていたかとも思われる。
浪人時代から連れそうて来た糟糠《そうこう》の妻が、いまの境遇に満足しきって、子ども相手に他念ない姿を見ては、
(まだまだこんな程度でおまえの良人《おつと》は終るものではない。いまに将軍家の御台所《みだいどころ》とも仰がれる身にしてやるぞ)
と思い、また一族の老幼をながめても、
(やがてみなそれぞれ、天下人のお身内と、諸人から敬《うやま》われる身になる者たちぞ。こんな田舎《いなか》びた館《やかた》からあの安土にも優《まさ》る所へ住まわせたら、これ以上、どんなに狂喜することだろう)
と空想したりして、自己の画策にふと恍惚《こうこつ》となる寸間もあった。
この日、彼は午過《ひるす》ぎからわずかな従者を具して、城外へ出た。身装《みなり》も軽装だし、常に左右におく重臣すら連れていない。けれど特に触れなくても、城門の将士にいたるまで、
「こよいは愛宕《あたご》へ御参籠《ごさんろう》あるそうな」
と、その目的を弁《わきま》えていた。
――中国出陣の前に、一夜を愛宕山に詣《もう》で、武運長久を祈り、かたがた、日頃の友を招いて、参籠の一夕を、連歌なといたして、大いに心養して参ろうと思う。
とは、きのう亀山へ来る途々《みちみち》からすでに、光秀の口からたびたび洩らされていたことばであった。
従って、このことは、
二十七日、亀山御着
二十八日、愛宕|御参詣《ごさんけい》
二十九日、御帰城
というふうに、主人の予定行動として、家中一般へは、あらためて触れるまでもない儀と知れ渡っていたのである。
戦勝祈願の参詣といい、都から風雅の友を招いての連歌の催しといい、光秀の風懐《ふうかい》と余裕を疑うものは誰とてない。日頃の光秀の人がら[#「がら」に傍点]に照らしてみても、この際、
(お心ばえ[#「ばえ」に傍点]として、さもありそうなこと)
としていた。
従者二十人ほどに、側臣五、六騎。鷹野《たかの》に行くよりも身軽だった。保津川を渡り、丹波口から水尾《みずのお》へ上ってゆく。道は嵯峨《さが》村の本道から登るよりもはるかに嶮《けわ》しい。
前日、東六右衛門をもって威徳院《いとくいん》まで知らせてあるので、水尾村には、山上の僧や神官たちが出迎えに出て待っていた。光秀は、その人々へ、乗りすてた駒をあずけると、すぐ僧の行祐《ぎようゆう》にたずねた。
「紹巴《じようは》は来ておるか。……なに、もう疾《と》くに登って待っておるとか。いや、それは満足。そして都の歌詠《うたよ》みたちも、幾名か連れて来ておろうな」
[#改ページ]
鬮《くじ》
歌道や茶の友には、礼儀のほかに、階級を超《こ》えた心と心の親しいものがある。行祐《ぎようゆう》はすこし仰山《ぎようさん》な手真似《てまね》で答えた。
「いや、紹巴《じようは》どのも、慌《あわ》てられたにちがいございません。何しろお誘いのお文《ふみ》を手にしたのが、きのうの夕方に近い頃だそうで、しかも場所がこんな不便な所です。誰を誘うてみても余りに急なので埒《らち》はあかず、やむなく御子息の心前《しんぜん》どのに、お弟子の兼如《けんによ》と御姻戚《ごいんせき》の里村|昌叱《しようしつ》どのを加え、お三名だけを連れて来られましたが――前後の時日を伺ってみれば、なるほどずいぶん御無理なお誘いのようで」
「ははは、そうか、そんなにこぼしておったか」
そんなことも、歌よむ仲間には、興の一つらしく、光秀は他念もない容子《ようす》でおかしがりながら、
「無理とは知ったが、いつも駕籠《かご》の迎え、馬の送りで、いと重々しゅう扱っておるから、稀《まれ》には風流の交《まじ》わりらしく、苦労して集まるのも、一だんと好かろうかと存じて、場所も此処、時も不意に、誘うたのじゃ。……しかしさすがは里村|紹巴《じようは》、仮病《けびよう》を装《よそお》うてのがれもせず、嵯峨口からでも五十余町もある山を、あたふたと登って参ったところは、似而非《えせ》風流《ふうりゆう》ではない。わが友とするに足る漢《おとこ》だ」
行祐《ぎようゆう》、宥源《ゆうげん》の二僧を先に、東《あずま》六右衛門やその他の従者をしりえに、光秀もまた高い石段を上っていた。そして少し平地を歩むかと思うとまた次の高い石段があった。
上るに従って、杉や檜《ひのき》の青い闇が深まってゆくのと、夏の日の空が桔梗色《ききよういろ》にたそがれてくるのと重なって、忽ち夜に近い心地がしてきた。そして一歩一歩、山上の冷気は、麓《ふもと》とは甚だしい差のあることを肌に思わせてくるのでもあった。
「つい、失念しておりましたが、紹巴どのからお詫《わ》びおきして賜われと、お言伝《ことづ》てを聞いていました。途中までお迎えに伺うべきですが、きょうの御登山は、おそらく御祈願事第一と存じますゆえ、山廟《さんびよう》へのお詣《まい》りがおすみ遊ばした頃、ごあいさつに伺いますからと――」
威徳院の客殿に入ってから、行祐がこう伝えると、光秀は黙ってうなずいて見せた。そして一杯の白湯《さゆ》を飲み終るとすぐ、
「何よりはさきに氏神に祈願し、愛宕《あたご》権現《ごんげん》に参詣いたしたい。まだ夕方の仄明《ほのあか》るい間に」
と、案内を求めた。
道は掃き清めてある。禰宜《ねぎ》は先に立って、拝殿の階《きざはし》を踏み、神《み》あかしを燈《とも》した。
光秀は、額《ぬか》ずいた。やや久しいあいだ祈念をこらしていた。
榊《さかき》の風が、三度、颯《さつ》、颯、颯と彼の頭上を払った。神官はまた彼の前に神酒《みき》の土器《かわらけ》を置いた。
光秀は、その後で、
「当社は、火神《ひのかみ》を祭ると、伺っておるが、左様であるか」
「仰せのとおりにございます」
「火神《ひのかみ》には、火のもの断ちをして祈れば、霊験《れいけん》疑いなしと聞くが如何であろう?」
「はい、はい。――仰せの通り古来からよくそのように申し伝えられておりますが」
と神官は、光秀の質問には、明答を避けながら、その問いを、却《かえ》って光秀へ向けて云った。
「火避《ひよ》け火断《ひだ》ちをすれば、火神の霊験で必ず願望が成るとは、里人の信仰ですが、そのような伝説は、いったい何から由来したものでございましょうか」
巧《たく》みに話題を転じて、神官のはなしは、いつのまにか神社の縁起に及んでゆく。
当社には、貞観《じようがん》四年頃の旧記もあるということから、またここは松尾の雷神《いかずちがみ》の神別所で遠いむかしは、丹波山城の国境もふくめて、この地方一帯を「阿多古《あたこ》」と称《とな》え、阿多古の神山と仰がれていたが、いつの世の頃からか、朝日ケ嶽、大鷲《おおわし》ケ峰、高尾山、鎌倉山、龍上《たつかみ》などの峰々に仏舎宝塔が建って以来は、五台の仏地としての方がより世上へ聞えが高くなり、修験道の優婆塞《うばそく》たちが天狗《てんぐ》を修める道場ともなるに至って、いまではかくの如く神仏併祭のお山となっておりまする――などということから、また、
「――御承知でもございましょうが、盛衰記に――柿本《かきのもと》の紀僧正《きのそうじよう》は日本第一の天狗と成って愛宕山《あたごやま》の太郎坊と申さるる也――と見えますのは、当山の太郎坊の縁起とされております。もっと古くは、大宝年中、役《えん》の小角《おづの》が、嵯峨《さが》山の奥に住みたもうとあるは、この御山なりと、申す説などもございまして、修験者《しゆげんじや》たちにいわせると、いまでもなお当山には天狗が棲んでおると、真《まこと》しやかに奇蹟を説《と》いて、少しも疑いを容《い》れませぬ」
耳をかしているのかいないのか、その長いはなしの間を、光秀は拝殿の奥にゆらぐ神《み》あかしを見つめていた。そして黙然と起つともう階《きざはし》を降《くだ》っていた。すでに宵闇《よいやみ》がふかい。彼はその足で愛宕権現に賽《さい》し、僧たちを白雲寺の前に残して、今度はただひとり、彼方の将軍地蔵の御堂へ詣《まい》った。そして、そこでは番僧から神鬮《みくじ》をうけていた。
神鬮《みくじ》は、凶《きよう》と出た。
彼はまた求めた。
二度めの神鬮も凶であった。
しばらくは石のように凝然《ぎようぜん》としている光秀であったが、次には僧に乞うて、自分の手に神鬮筥《みくじばこ》を受け、額《ひたい》に捧げて瞑目《めいもく》した。そして自己の祈念を自己の手で振った。
大吉
と、鬮《くじ》にあらわれた。
光秀は去った。御堂を離れて待っている人々のほうへ歩いて来た。人々は彼が神鬮《みくじ》をひいている様子を、あだかも彼の気まぐれか興味のように遠くから眺めていた。なぜならば光秀の理念的な性格と、その知識人をもって誇りとする彼が何事を判別するにせよ、それを神鬮に託すようなことはあり得ないと決めていたからである。太郎坊の客院であろう、若葉のあいだに、一際《ひときわ》白々と燭《しよく》が見られた。紹巴《じようは》やほかの輩《ともがら》には、歌会硯《うたすずり》に墨などすりつつ、佳吟《かぎん》を想うのほか、はや他事もない宵らしい。
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みじか夜
やがて西之坊の広間で、光秀を主とする饗膳《きようぜん》の宵が過された。ここでは紹巴《じようは》やその連れもひとつになり、また山房の住持たちも席に交《まじ》わった。
放談|哄笑《こうしよう》、一しきりは、杯よくめぐり、談《はなし》もよくはずんで、連歌などは、どうでもよいような興じ方であったが、
「夏の夜は短うおざる。余《あま》り更《ふ》けては、百韻《ひやくいん》の成らぬまに、夜が明けてしまいましょう」
と、ここの院主|行祐《ぎようゆう》が、頃をはかって湯潰《ゆづけ》を出し、ともあれ彼方へと、用意の雅席へ、人々をうながして起った。
べつの部屋には、歌莚《うたむしろ》ができていた。各※[#二の字点、unicode303b]の褥《しとね》の前に、懐紙も、筥硯《はこすずり》も、さあ名吟をたくさんお詠《よ》みなさい、とすすめぬばかりに備えられている。
紹巴や昌叱《しようしつ》はこの道の達人である。わけて里村紹巴は、宗祇《そうぎ》、宗長以来の聞えを当代に持っている者で、信長にも愛せられ、秀吉とも親しく、茶道では堺の宗易とは昵懇《じつこん》だし、顔のひろいことにおいては、無類の社交人でもある。
「さあ、殿、ひとつ御発句《ごほつく》を……」
光秀へすすめていう。
しかし光秀はまだ懐紙に手もふれていないし、その肱《ひじ》は、脇息《きようそく》に託し、その面《おもて》は、若葉時特有なそよぎを持つ庭面《にわも》の闇へ向けていた。
「御執筆はどなたかの?」
紹巴は、歌の席に、場馴《ばな》れている。なにくれとなく心をくばり、また席の空気を、息づまるような佗《わび》しさにさせまいとする。
座敷の隅に、小机を抱えていた明智家の士、東《あずま》六右衛門が、
「不束《ふつつか》ですが、主君のお申しつけ、もだし難く、私が認《したた》めまする」
と、紹巴へ答えた。
紹巴は、如才《じよさい》ない調子で、
「御謙遜でしょう、あなたのお筆ならば、勿体ない程のものです。これなどは――」
と、子息の心前《しんぜん》をさして、
「歌の真似詠《まねよ》みは小賢《こざか》しゅうとも、書とあっては、不勉強なので、ひと前には出せないような文字しか書けません」
父の悪口を、心前は笑いにまぎらして、
「それは御無理です。東どののお父上は、明智家随一の能書家《のうしよか》と伺っております。その御子息ですからね」
「すると、おまえの悪筆も、父親のせいか」
「似ないでは、子として、不孝とぞんじまして」
「やりおる」
と紹巴は苦笑して、光秀のほうへ、身をのばしながら、
「――殿。こういう不所存者《ふしよぞんもの》でございますよ。ちと、お叱り下さい」
と、告げ口した。
「…………」
光秀は、こちらを向いて、にたりと笑ったが、親子の戯れを、よく聞いていたのか否か、あいまいな顔いろであった。
こよいの彼はどことなく変っていた。けれど平常が寡黙《かもく》で生真面目《きまじめ》なほうだから、だれもそれを怪しまなかった。
「御苦吟の体《てい》でございまするな」
「発句か」
「さればで」
「いや、できた」
と、光秀は筆を取った。
まず、ひとりが起句《きく》を詠むと、次の者が脇句《わきく》をつける。また受けて前句《まえく》を出すと、他の者が下の句を附けてゆく。
こうして百韻《ひやくいん》なり五十韻まで歌い連ねてゆくのだった。文台の執筆者は巻に記して、後で披講《ひこう》する。
当夜の連歌会では、光秀の発句に始まって百韻に及び、終りの揚句《あげく》も光秀の附句《つけく》で結ばれたが、後まで伝えられた聯詠《れんえい》はわずか十吟にも足らない。
ときはいま天《あめ》が下知《したし》る五月《さつき》かな
と、光秀が発句《はつく》すると、
水上《みなかみ》まさる庭の夏山
と、威徳院の行祐がつけ、次に紹巴が、
花落つる流れの末を堰《せき》とめて
と、詠《よ》み、以下、
風は霞《かすみ》をふき送る風 宥《ゆう》 源《げん》
春もなほ鐘の響や冴《さ》えぬらむ 昌《しよう》 叱《しつ》
片敷《かたし》く袖はありあけの霜 心 前
うら枯れになりぬる草の枕《まくら》して 兼《けん》 如《によ》
聞《きく》に馴《なれ》たる野べの松虫 行 澄
などとあって終りに心前の、
色も香も酔《ゑひ》をすすむる花の下
なる詠《えい》に対して、光秀が苦吟の末、
国々はなほ長閑《のどか》なる時
と附けて百韻を結んだといわれている。
参籠《さんろう》の歌会であるから、詠巻《えいかん》は愛宕権現に納められたはずで、本来この巻は世に伝わりそうなものであるが、本能寺変の後、秀吉から吟味をうけた紹巴が、これを愛宕から取り出して、
(このように夜もすがら百韻に興じ明かしたに相違ございません。日向《ひゆうが》どのの歌でも、後になって見ればこそ、この時、逆意の兆《きざ》しすでにありと、察しることもできましょうが、虚心風吟《きよしんふうぎん》の席、誰があんな大事を予知することができましょう。たとえば明智家の家中すら大部分は本能寺の朝まで、日向どのの胸の中は知らなかったではございませんか)
と、縷々《るる》、弁証《べんしよう》して、巻は秀吉の手もとへ差し出したままとなったので、以後の伝来は不明になったものという。
すべて、当夜のことは、秘中の秘とされたものか、謎が多い。
紹巴《じようは》が秀吉に差し出した巻には、光秀の発句、
「――天が下知[#「知」に傍点]る」を「天が下なる[#「なる」に傍点]」と書き直してあったというが、これもどうであろうか。
また、光秀が、苦吟のうちに、粽《ちまき》の皮を剥《む》かずに口へ入れたとか、或いは、紹巴へ向って、
(本能寺の堀は、浅きか深きか)
と訊ねたところ、紹巴が、
(あら勿体《もつたい》なし)
と答えたとか、いかにも真《まこと》しやかではあるが、これらも乱後の噂にすぎまい。一日にして天下の相貌《そうぼう》を一変させた大乱であったから、あとの噂は真偽も紛々《ふんぷん》と一しきり巷雀《ちまたすずめ》を賑わしたにちがいない。同時に紹巴は、彼こそ未然に光秀の計画を知っていた唯一人だ――という嫌疑を一時濃厚にかけられたであろうことも想像するに難《かた》くない。
さて、会の後。
もちろんその晩は、みな威徳院の房に泊まったのであるが、部屋数も少ないので、紹巴は光秀の寝室のすぐ隣に眠った。
夏の夜ではあり、心やすい歌の友というので、境のふすまも払ってある。紹巴は枕につく前に、
「山上《やまのうえ》は蚊もいませんから、今夜は快く眠れましょう。どうも都は蚊が多くて……」
などと問わず語りをしていた。
寺僧が燭《しよく》を消して退《さ》がると、光秀はすぐ寝入っていたように思われた。紹巴のつぶやきにも何の返辞も返さずに――。
枕に顔をあてがうと、戸外《おもて》の山風は樹々を揺すり、屋の棟《むね》を吠えめぐって、さながら天狗の喊《とき》の声《こえ》かと怪しまれてくる。光秀は火神《ひのかみ》の拝殿で聞いた神官の話がふと思い出されて、漆黒《しつこく》の宇宙に跳梁《ちようりよう》する天狗の姿を脳裡《のうり》に描いていた。
天狗が火を咥《くわ》えて飛ぶ。
大天狗、小天狗、無数の天狗がみな火となって、黒風に翔《か》けまわり、その火が落ちて、火神の御社が、忽ちまた団々たる炬火《きよか》となる。
――眠りたいものだ。眠ろう。
光秀は思う。彼は夢見ているわけではない。にもかかわらず脳膜《のうまく》はそんな幻想を描いてやまないのである。
寝返りを打つ。
そして、今日はと考える。明ければ二十九日と意識する。夢は天狗と化し、うつつは安土の城を考える。二十九日、二十九日、信長は安土を立ってこの日京都に向う。
うつつと夢のさかいがなくなってゆく。寝入るともなく醒《さ》めているともない彼だった。そしてその浅い半睡半醒《はんすいはんせい》のうちに、彼と天狗のけじめ[#「けじめ」に傍点]もなくなっていた。
天狗は雲を踏んで天下を見まわした。一朝の大事を挙げたとき天下はいかなる動きをなすかを俯瞰《ふかん》しておく用心のためである。そして天狗の観《み》るところ、悉《ことごと》くみな自己に有利であった。
まず中国の秀吉は吉川《きつかわ》、小早川《こばやかわ》の大軍と、いまや四つに組んだかたちで、高松の城に釘づけとなっている。もし款《かん》を毛利家に通じ、彼に利をもってすれば、あわれ遠征宿年にわたる羽柴秀吉以下の軍は、中国の地を墳墓《ふんぼ》として、ふたたび都を顧《かえり》みることはできまい。
いま大坂にあるらしい徳川家康は無二の世渡り上手、すでに信長|亡《な》しと見たら、彼の向背《こうはい》もただわが誘いの如何によろう。一《いつ》たんの憤《いきどお》りはなすであろうと思われる細川藤孝も、わが娘の舅《しゆうと》たり、年久しき刎頸《ふんけい》の友《とも》でもある。嫌とはいうまい、協力しよう。
肉がうずく、血が鳴る。久しく忘れていた青年の血が、ふたたび甦《よみがえ》って来たかのように耳までが熱い。――天狗は寝返った。枕の音とともに、うーむとわれ知らず呻《うめ》いた。
「……殿」
となりの部屋から紹巴が身をもたげて声をかけた。
「殿……。どうか遊ばしましたか」
光秀はかすかにそれを知っていたが、わざと返辞をしなかった。
紹巴はすぐ元の寝息に回《かえ》っている。みじか夜はすぐ明け放れた。起きるやいな、光秀は人々と別れて、まだ朝霧もふかいうちに下山した。
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無用《むよう》の用《よう》
左馬介《さまのすけ》光春が亀山へ来て、合したのは三十日であった。彼の坂本勢だけでも少なくないところへ、所在の明智衆が近郡からそれぞれ分に応じた人数と家の子を伴《ともな》って集合しているため、城下は兵と馬に埋められ、辻々には輜重《しちよう》の車馬が輻輳《ふくそう》して道も通れぬほどである。急に真夏を思わせて陽《ひ》はかんかんと照りつけ、行儀のわるい荷駄《にだ》人夫が物売り店にたかって盛んに喰ったり喚《わめ》いたりしているかと思えば、兵糧《ひようろう》を載せた牛車を挟《はさ》んで足軽同士の口喧嘩だ。それを見物している女子供の輪と足もとの馬糞牛糞に蠅も唸《うな》りをあげて巡《めぐ》っている。
光春は馬上から見て通った。
景観《けいかん》すでに常ならぬものがあった。一歩、城門に入ればなおさらである。
「つづいて、お体はおよろしゅうございますか」
まずは光秀に会った。
「このとおりだ」
光秀は莞爾《かんじ》として見せた。坂本頃よりは、ずっとにこやかである。血色もよい。
「御発足《ごはつそく》のお日取は」
「少しのばして、月の初め出陣ときめた。物事始まるの日、朔日《ついたち》こそよからめと存じて」
「六月一日ですか。して、安土の方へは」
「その旨、沙汰《さた》申した。が、右大臣家には、すでに御入洛《ごじゆらく》であろう」
「二十九日の夕、つつがなく京都にお入りの由です。信忠公には妙覚寺に、右大臣家には本能寺を御宿所として」
「そうとな……」
低く、語尾も消して、光秀はそのまま黙る。
光春はすぐ起《た》って、
「奥曲輪《おくぐるわ》の女房方も和子《わこ》たちにも久しぶりでお目にかかって来ましょう」
「まず、旅装でも解いて、身を休めたがよい」
ねぎらいながら、光秀は立ち去る従兄弟《いとこ》の背を、飽くなく見送っていた。そのあとでは、吐きも嚥《の》みもできないような胸の閊《つか》えを満面にみなぎらしていた。
次の間のまた次の一室では、髪の毛の白さでもすぐその人とわかる斎藤《さいとう》内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》が、諸将と膝を寄せ合って、軍役帳《ぐんえきちよう》や書類をくりひろげ、何か凝議《ぎようぎ》していたが、やがて彼一名、光秀の前に来てたずねた。
「……仰せの、小荷駄大荷駄ともすべて、前日の三十日に、山陰へ向けて、先に出発させますか?」
「荷駄? ……むむ、あのことか。いや先発させるのは、皆までには及ぶまい。一部でいい」
そこへ、ひょこりと、実にひょこり[#「ひょこり」に傍点]とした姿で――光春とともに今日着いたばかりの叔父|長閑斎《ちようかんさい》がここを覗《のぞ》いて、
「おや、おりませんな。坂本の殿には、どこへ行かれたか。はて何処に?」
と、きょろきょろ見まわした。いつもながら腹の立つほど陽気で楽天顔をしている老人だった。
出陣の間際《まぎわ》であろうと、主君や家中にどんな心配があろうと、いつも変らないおひゃらく[#「おひゃらく」に傍点]な老人よ――と観《み》られて、本丸の諸将からは、一箇の無用人視《むようじんし》されている明智長閑斎も、ひとたび向きをかえて、ひょこひょこ奥曲輪の局《つぼね》へ顔をあらわすと、ここでは絶対的な人気で、女房たちから沢山な和子とそのお相手の童《わらべ》まで寄ってたかって、
「オオ、おひゃらく様がお越しなされた」
「おひゃらく様。いつお見え」
と、起《た》っても、坐っても彼のまわりから嬉々《きき》たる声と茶目が離れないのであった。
「おひゃらく様。今夜はお泊り?」
「おひゃらく様。御飯はまだ?」
「おひゃらく様。お茶を召せ」
「おひゃらく様。抱いてえ」
「お歌を謡《うた》って聞かせてえ」
「踊って見せていの」
膝にのる。じゃれる。からみつく。そのうちに耳の穴をのぞいて、
「おひゃらく様のお耳には、お耳の中から毛が生えている」
「一ぽん、二ほん」
「三ぼん、四ほん……」
節をつけて歌いながら、女童《めわらべ》たちが耳の毛を抜いていると、男の子は、背中へ跨《また》がって、
「お馬になれ。お馬になってヒンと嘶《な》け」
と、白髪頭《しらがあたま》を圧し伏せる。
「ひん、ひん、ひん」
長閑斎は甘んじて這い歩くのである。そしてくしゃみ[#「くしゃみ」に傍点]をした途端に、背中の子が落馬した。侍女《こしもと》も傅人《もり》も、腹をかかえて笑いこける。
奥の一間で何かしめやかに話しこんでいた光秀の夫人と左馬介光春も、此方を振り向いて、誘い込まれるように笑っていた。
夜に入っても、この笑いさざめきは止まない。光秀のいる本丸とここでは、さながら氷雪にとざされた冬の野と、春の国ほどな相違があった。
「叔父上には、お年もお年、戦陣へお出向きあるよりは、ここにござあって、和子や女子たちの、後顧《こうこ》の者をお傅《も》り下されたほうがありがたい。大殿にも私からそう申しあげておきましょう」
奥曲輪から退《さ》がる折、光春がいうと、長閑斎は、
「わしに果せるお役目はまずそれくらいかも知れんな。何しろこのとおり皆が離さんしのう」
と、顧みて苦笑しながら、局中《つぼねじゆう》の者を集めて、夜は夜で、得意の「むかし噺《ばなし》」をせがまれ、盛衰記の一節を、おもしろおかしく物語っていた。
出陣までの余す日はあと一日しかない。その夜のうちにも総評議があるかと予期していたが、本丸は寂《じやく》としているので、彼は二の丸へ入って寝た。
次の日は、月の晦日《みそか》。光春は終日、心待ちに控えていたが、依然そのことの沙汰はない。夜に入るも何ら本丸の空気にうごきはなく、家臣をやって様子を訊かせると、光秀はすでに寝所へ入って眠ったという。
「……はて?」
光春はあやしんだ。しかし彼も眠るほかなかった。
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翠紗《すいしや》の内《うち》
――だいぶ眠ったという気もちがする。従って夜はすでに丑満《うしみつ》の頃おいであろう。左馬介光春はふと眼をさました。
ひそひそ、人声がする。
眼がさめたのはそのためだった。ふた間ほど隔てた宿直《とのい》部屋《べや》あたりである。
やがて人跫《ひとあし》が近づいて来る。そして静かにふすまが開いた。彼からものをいわぬうちに光春のほうで、
「なにか」
といったので、眠っているとのみ思っていた宿直《とのい》の侍はすこし戸惑《とまど》いしたらしい。
あわてて、ぺたと手をつかえて告げた。
「大殿光秀さまが、御本丸でお待ちうけの由でございます。折り入って御対談あそばしたいとの御意に、時ならぬお迎えが参られました」
「お、そうか」
何のためらいもなく、光春はすぐ寝床を出た。顔を洗い、うがいをすませ、髪には笄《こうがい》を与えた。そして衣服を改めながら、
「いま、何刻《なんどき》か」
と、たずねた。
「子《ね》の上刻《じようこく》でございます」
「三更《さんこう》か」
室を出る。廊は暗い。その墨のような廊の杉戸口に踞《うずく》まっている髪の白い人影を見て、光春はさらにこの時ならぬ迎えの容易ならぬことを察した。迎えの者は光秀の側近くいる常の小侍でもなかった。老臣の斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》である。
「御老体か」
「……おお、これは」
「深更に大儀だな」
利三は紙燭《ししよく》を持って先に立つ。幾巡《いくめぐ》りする廻廊の長い間行き合う人もない。
本丸もまた寝しずまっていた。しかし奥の限られた一劃《いつかく》だけには、ただならぬ気が充ちていた。二、三の部屋にも人の起きているらしい様子があった。
「お座所は」
「夜のお間《ま》でございます」
利三は、寝所の畳《たたみ》廊下の口で、紙燭を消した。そして光春へ促《うなが》すような眼をしながらそこの重い戸を開けた。
光春が入ると、すぐ後は閉められた。寝室までになお三つの部屋があった。そのいちばん奥にだけ仄青《ほのあお》い燭の光が洩れている。光秀はそこにいた。近習《きんじゆ》も小姓も見えない。ただ独り白絽《しろろ》の小袖を着、太刀、脇息《きようそく》を寄せて坐っていた。
燭の影がことさら青く見えたわけは、光秀のまわりに翠紗《すいしや》の|蚊帳《かや》が広く繞《めぐ》っていたからであった。その翠紗の蚊帳は、眠るときは四方とも垂れるようになっているものだが、今は前の一面だけを開いて、|蚊帳竹《かやだけ》の上へ幕のように掛けてある。
「左馬介《さまのすけ》。ずっと寄ってくれ」
「はい」
と、にじり寄って、
「――何御用ですか」
「折り入っての談合だが。……お汝《こと》。この光秀に、命をくれぬか」
答えない。左馬介光春は、ものいう口を忘れたかのように、いつまでも、答えない。
彼のそのひとみと。
光秀の異様な耀《かがや》きをおびたひとみと。
一穂《いつすい》の燭を横にして、凝視を相交《あいか》わしていることも、依然であった。
「…………」
「…………」
命をくれぬか――という光秀のことばは簡にして明である。坂本以来、夢寐《むび》の間も、光春が心ひそかに惧《おそ》れていたものは、実に、光秀がいつか自己に敗れて、この言をなすのではあるまいかという予感であった。
こよい、ついに光秀は、自分に向って、それを口に出した。光春としては必ずしも唐突なる驚きには打たれない。しかし何といっても満身をめぐる血しおが氷のように凝結する感じに蔽《おお》われたことは否めない。
――怖ろしいお人ではある。
今さらのようにその人を見るのだった。幼少十二、三歳ぐらいから衣食住も共にし、長じては戦陣の生死も共にして来た仲なのに、今日、あらためて知るというのも甚だ迂闊《うかつ》のようであるが、明智日向守光秀なる人間のうちに、かかることを思い立つ素質があろうとは、やはり彼にはどうしても信じられないことだったのである。
「……光春。いやか」
沈痛極まるかすれ[#「かすれ」に傍点]声が、やがてまた光春の耳を訪《と》うた。光春は、なお答えなかった。
「…………」
光秀もまた沈黙しつづけた。
その顔の何という蒼白さであろう。これは、翠紗《すいしや》の|蚊帳《かや》のせいでもない。燭のゆらぐ加減でもない。光秀の心のうちにあるものの色であり影であろう。
もし光春が、いやです! と云い断《き》るならば、光秀はあらかじめ思い極めていることを即座に行わなければなるまい。ふかく思慮するまでもなく、光春もそれを直感している。知りぬいている。
|蚊帳《かや》越しではあるが、九尺の大床の脇《わき》には、武者隠しの小襖《こぶすま》がある。その金砂子《きんすなご》は、内に秘《かく》してある刺客《せつかく》の呼吸と殺気とに気味悪く燦々《きらきら》しているではないか。
また、右側の大襖のとなりもかた[#「かた」に傍点]という物音ひとつ聞えないが、さっき自分をこれへ導いて来た斎藤利三が唾《つば》をのんで聞き耳たてている気がする。その内蔵助《くらのすけ》利三のほかにも、素槍《すやり》をかかえ刃《やいば》を握りしめた幾名かの者が同じように身を硬《こわ》めていることは慥《たし》かである。――光春の感覚はあきらかにそれを見抜いている。
こういう中へ、かりにも自分という者を引き入れて、そしてただ一言いのちをくれぬかという光秀のつきつめている心の底を窺《うかが》うと、光春には、その無情も、その陰険《いんけん》な仕打も、恨む気にはなれなかった。
――愍《あわ》れが先に立ってである。
こうも思い詰《つ》めてしまわれたものか。あの聡明《そうめい》な人が。あの理性に富んだ人が。いったい自分が幼少から見ていた明智十兵衛という者はいずこに失《う》せてしまったものかと、いまはその人間の形骸《けいがい》のみを見つめているような心地しか持てないのであった。
「光春。――返辞は?」
われともない容子《ようす》で、光秀はにじり寄って来た。光春は、彼のその息づかいに、重病人の熱のようなものを感じた。
「わたくしに、一命をくれぬかとは、そも如何なるわけですか。左馬介には解《げ》しかねますが」
初めて彼はこう答えた。
それは決して、光秀が欲している、言下の然諾《ぜんだく》を、巧く交わそうとしたのでもないし、また、彼の胸底を見ぬいていながら、わざと空とぼけたわけでもない。
彼にはまだ、未練があった。どうかしてこの人を、そんな暴挙《ぼうきよ》と不徳の思い立ちから引き戻したいと希《ねが》う――最後の望みを捨てきれなかったのである。
が、光秀のまなじりは、彼のそのことばによって、なおさらこめかみ[#「こめかみ」に傍点]の青い筋と結ばるばかりになった。
「……お汝《こと》。それをわしに問うのか」
声も常ならずかすれがちに、
「安土退去このかた、光秀の胸に怏々《おうおう》として霽《は》れやらぬものあることを、お汝《こと》としたことが、察してはいなかったのか。――左馬介《さまのすけ》」
「ほぼお察しはしていました」
「然らば何で……。何も、多言は要しまい。いやか、応かでよろしい。まずその返辞からさきに聞かせい」
「殿」
「…………」
「殿――」
「…………」
「あなた様こそ、何でお口を結ばれておられますか。かりそめにも、ここの御一言は、明智一族の浮沈にはとどまりますまい。事天下にかかわりましょう。あなた様とて、はっきりお答えください。殿!」
「なにか」
「どう遊ばしました。あなた様ともあるお方が……」
はらはらと落涙して、光春は畳へ手を落しかけたが、やにわに光秀の膝のそばまですり寄って、
「わたくしは今宵ほど人間というものが解らなくなったことはございませぬ。おたがいにまだ幼少と若年の頃、父の家に、机をならべて、何を読み、何を学んで参りましたか。この国の先賢《せんけん》の遺書に主君を弑《しい》してもよしなどという辞句《じく》が、一字でもあったでしょうか」
「光春。しずかにいえ」
「何洩《なにも》れましょう。武者隠しの内も、襖《ふすま》のとなりも、あなた様のお声を待つ刺客《せつかく》の刃あるのみです。――殿、御聡明なるわが殿。わたくしは、一日たりと、あなた様の叡智《えいち》をお疑いしたことはありません。けれど、坂本以来のあなた様は、まるで別人のようにお変りあそばしていた……。それほど自己にお弱いあなた様でもないはずですのに」
「もう遅い。光春、諫言《かんげん》なれば止《や》めにいたせ」
「申します」
「むだだ」
「たとえむだでも、申しあげずにはおられません。……残念です。口惜しゅうございまする」
よよと、光春はひれ伏した両手の上に泣きふるえた。
そのとき、武者隠しの襖《ふすま》が、がたと鳴った。
事難《ことむずか》しいと見て、内に潜《ひそ》んでいる刺客《せつかく》が、腕をうずかせたためかもしれない。だが、光秀の口からはなお何の合図もない。光秀は、自分の前に泣き伏した光春を見まいとするもののように、凝然《ぎようぜん》、面《おもて》をそむけていた。
「書は人いちばい読み、理性は誰よりも明るく、お年も人の分別《ふんべつ》ざかりを越えて、何事にまれ、お弁《わきま》えのないことはないあなた様だけに……愚鈍な光春は、いいたいにも、いう言葉に困ります。けれど私ごとき者でさえ、忠孝の二字だけは読んで、心に咬《か》んで、血に入れておりまする。たとえ万巻の書が胸中におありであろうと、これを見失われては、何もなりますまい」
「…………」
「殿。聞いていて下さいますか。――名族《めいぞく》土岐源氏《ときげんじ》のながれを汲んだおたがいの血しおは、ひとつものだと信じて申し上げるのです。ひとたび家門の名をけがしては、あまた御先祖がたの霊にたいし、生める親たちにたいしても、大不孝ではございませぬか。しかもあなた様はいま、何人の子の親御様でいらせられますか」
「…………」
「嫁《とつ》がれている御息女や、他家の御養子となられている御子息たちも、またあと幾人もの幼い者まで――いや子々孫々にいたるまでが、あなた様のお心ひとつで、いかに世の果てまでも、辱《はじ》ある思いをして行かなければならないかを……」
「数えれば限《き》りはない。左馬介、この光秀の思い立ちは、あらゆるものを超えている。何事も万々承知だ。しかもなお光秀は決して思い歇《や》もうとはせぬ。堪忍に堪忍をかさね、考えに考えぬいたあげくである。よせ。むだな諫言《かんげん》はよせ。お汝《こと》のいうぐらいな思慮は、夜ごと夜ごと、光秀たりと、繰り返しては、思いに思うた。……ああ、ただ一|言《こと》、顧みて五十五年の道を見れば、この身が、武門にだに生れなければ、かくも悩むまい。またかかることも思い立つまい」
「さ。その武門なればこそです。たとえいかほど御堪忍なり難いことあろうと、かりそめにも、主君に対し奉っては」
「信長たりと、足利義昭《あしかがよしあき》を追っている。また叡山《えいざん》の焼打、幾多の悪業《あくごう》は人も知るところだ。見よ彼の宿老、林佐渡、佐久間右衛門|父子《おやこ》、荒木村重。ひとの末路とのみは思えぬ」
「あわれ、殿。丹波六十万石を下され、惟任《これとう》の姓をも賜わって、一門なに不足なく、かくある御恩をも思いたまえば」
この語は、それまで、井の水のようであった光秀を、いちどに奔河《ほんが》の形相《ぎようそう》にさせた。
「これしきの恩禄《おんろく》が何だ。光秀に才なくばこれもあるまい。しかも、その働きを、用い尽せば、彼の目には、安土に飼える狆《ちん》か、無用の贅物《ぜいぶつ》としか見えなくなって参るのだ。わしを秀吉ずれの下におき、山陰へ討ち入れとの令は、すでにやがて来る明智家の運命を予報しておるものでなくて何ぞ。――身、武門にそだち、男として土岐源氏《ときげんじ》の血をうけながら、やわか、信長ずれの駆使に身を屈《かが》め、生涯を終ろうや。光春、お汝《こと》には読めぬか、信長の腹ぐろさが」
「…………」
憮然《ぶぜん》と口をとじた後、光春はたずねた。
「その御意志は、御左右の中の誰と誰に、お打ち明けになりましたか」
「――されば、お汝《こと》を除いては光忠、光秋のほかに……」
と、光秀はここでほっと息をついで、
「腹心の者、妻木《つまき》主計《かずえ》、藤田伝五、四方田政孝、並河《なみかわ》掃部《かもん》……村上和泉守、奥田左衛門、三宅藤兵衛、今峰頼母《いまみねたのも》……。そのほか、溝尾庄兵衛《みぞおしようべえ》、進士《しんし》作左衛門、斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》……などにも語っておる」
「その十三名だけでございますか」
「天野源右衛門の名は挙げたかの、まだか。……源右衛門にも告げたと思う。若輩であるが、特殊な使いを命じたため、四方田又兵衛も、光秀の心底を、或る程度、覚《さと》っておるものと思われる」
「――ああ」
左馬介光春は、聞き終るとともに、天井を仰いで長嘆した。そして、
「今さら何をか申しましょうや。御自身以外へ、さまでお洩らし遊ばしている以上は」
光秀の膝がつと[#「つと」に傍点]光春の膝へ迫った。いきなり詰め寄ったのである。すぐ左の手は光春の襟元をつかみ、
「否《いや》か」
右手《めて》は小剣の柄《つか》をにぎって、恐ろしい力で締めた。
「応《おう》か」
「…………」
押されるたび、光春の首は、骨のないように、仰向《あおむ》いたまま、左右にうごいた。その面上から飛びちる珠《たま》は涙だった。
「この期《ご》になって、否も応もあるものではございません。……殿がまだ、余人にこれをお洩らしあそばさぬ前なら知らぬこと」
「では、承知してくれるか。……わしと共に、起《た》ってくれるか」
「あなた様と光春とは、ふたりであって一人も同じです。あなた様なくも生きていようとする光春ではございません。主従の名においても、血縁の上からも、同根同生、ここまでの生涯も共に参りましたからには、この先の運命も元より共にする覚悟ではございまするが。……ああ、それにしても」
「案ずるな光春。乾坤一擲伸《けんこんいつてきの》るか反《そ》るかだが、かく一同に語ろうて、この日向《ひゆうが》が起つからには、勝算は胸にあることだ。事成ればそなたにも、坂本の小城一つを持たせてはおかぬ。尠なくも、われに次ぐ栄爵《えいしやく》と数ヵ国の太守《たいしゆ》はお汝《こと》にも約されておる」
「ええ。そ、そんな、問題ではありませんっ」
つかまれている襟元の手を振りほどいて、光春はいきなり光秀の体を畳へ突きとばした。
「わ、わたくしは、……わたくしは、哭《な》きたい。……殿、哭《な》かせて下さい」
「何を悲しむ。ばかめ」
「ああ。……ばか!」
「ばかっ」
「ば、ばかっ」
「ばかだっ。そちは」
「ばかだ! あなたは」
ふたりは罵《ののし》りあいながら、しかも互いに男の力でひし[#「ひし」に傍点]と相擁《あいよう》して哭《な》いていた。そのまま慟哭《どうこく》していた。
武者隠しの内でも、となりの襖《ふすま》の蔭でも、ひとしく啜《すす》り哭《な》く声が揺れていた。
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老《おいの》 坂《さか》
気象《きしよう》も夏、気温も夏、夏はすっかり本格になった。
わけて六月|朔日《ついたち》は近年にない暑さだった。朝から雲一つなく照りつづけ、午過《ひるす》ぎてからは北の空の一方は雲の峰に蔽《おお》われたが、なお暮れるまで夕陽《ゆうひ》の熱と光は丹波の山河を焦《や》いていた。
亀山の町はこの日を期して、がらん[#「がらん」に傍点]としてしまった。あれほどいた兵馬|輜重《しちよう》が、いちどに城下外へ出て行ったためである。
その鑓鉄砲《やりてつぽう》の列や、銃丸火薬そのほかの軍用品を積んだ輸送部隊が、汗の顔に焦《や》けつくような黒鉄《くろがね》のかぶとをいただき、旗さし物を負い、武者わらんじを踏みしめて、きょう本国の地を立つと見るや、町の者、郷土の老幼たちは、沿道に群れ立って、
「あれ。角屋敷《かどやしき》の次郎丸様もゆく。御池前《おいけまえ》の旦那さまも、馬に召されて行かっしゃる」
「村越様もあの御老年で」
「笈川《おいかわ》様の若さまも」
と、日頃出入りの屋敷屋敷の恩人や知己をさがして、声かぎりその武運を祈り、勲功《いさお》を励まし、あわれ百姓町人でなくば、その列について、自分たちも尾《つ》いて行きたいような感情をあらわして、歓送の手を打ち振っていた。
が――誰が予測し得たろうか。このときまだ送る者も送られる将士も、この出陣が、中国進攻の門出ではなく、本能寺《ほんのうじ》を衝《つ》く一歩のものであったことを。
光秀と、帷幕《いばく》の十三、四将のほかは、まだたれひとり知る者はなかったのである。
城外の東に平らかな田野がある。遠いむかしは大枝山《おおえやま》から生野《いくの》を経て裏日本へ出る駅路《うまやじ》のあった跡だという。篠村八幡《しぬむらはちまん》の森を中心として、この辺りを能篠畑《のしぬばたけ》とも、篠野《しぬの》の里《さと》とも称《よ》んでいる。
北に保津川《ほづがわ》の一水を隔てて、愛宕山《あたごやま》や龍ケ嶽の諸峰をのぞみ、南は明神ケ嶽、東は大枝山というふうに、山裾から山裾にかこまれている一盆地だ。――亀山を離れた軍馬のながれ、旌旗《せいき》の列は、前後して、続々とこの一地点に集まったのである。
まさに、申《さる》の刻(午後四時)。
血のような西陽《にしび》と草いきれの中で、いんいんと、高く低く、貝の音が次々に答え合って、鳴りぬいていた。
それまでは屯々《たむろたむろ》に、ただ蝟集《いしゆう》していたに過ぎない全兵員が、忽ち草を蹴って立ち、列伍を正し、おおよそ三段にわかれて、旌旗粛然《せいきしゆくぜん》と勢揃いの態《てい》をととのえた。
能篠畑《のしぬばたけ》の地表は、兵と旗と馬で埋《う》められた。一瞬、馬のいななき以外、天地は声をひそめた。四山の濃い青葉や浅いみどりは、匂うばかり戦《そよ》いで、人間の肺の中まで染まるかのような青い夕風が無数の面《おもて》を吹いた。
ふたたび貝が鳴った。彼方《かなた》の森の中からである。程なくそこの篠村八幡の境内から光秀以下、騎馬の幕僚《ばくりよう》たちが、西陽《にしび》を斜めに、燦々《さんさん》として騎歩しずかに、各部隊を閲《えつ》しながら順次こなたへ近づいて来るのが見られた。
彼の閲兵《えつぺい》のすむ間、将士は鉄《くろがね》の列そのものだった。そして各※[#二の字点、unicode303b]、馬上の光秀を、目の前に仰いだ兵は、卒伍の端まで、
(よい大将を持った。よい主人の下《もと》についた)
ことを今さらのように誇りとも感じ、幸福にも思った。
光秀は白地|銀襴《ぎんらん》の陣羽織に黒革《くろかわ》の具足を纏《まと》っていた。縅《おど》しの糸は総萌黄《そうもえぎ》であった。太刀も佳《よ》く、良い鞍をすえていた。常の彼よりはこの日の彼は非常に若々しく見られた。もっともこれは彼のみのことではない。ひとたび身に甲冑《かつちゆう》を着ければ、武将に年齢はないからである。十六、七歳の初陣の武者と伍しても、老いは見せじ、老いても劣らじ、と心を粧《よそお》うのが武門の人々だった。
わけて今日の彼には、この全軍勢の誰よりも必死なものが胸ひそかに誓われていた。故に、一兵一兵を視《み》てゆく眼ざしにも、悽愴《せいそう》の気に近い光があったにちがいない。総帥《そうすい》たる人のその気魂《きこん》は当然また全軍の兵気に映《うつ》らずにいない。――およそ明智軍として、今日まで馳駆《ちく》した大小二十六、七度の戦場のいずこへ臨んだときよりも、この日の勢揃いには、すでに毛穴のそそけ立つような緊張があった。無言のうちに誰もみなただならぬ行くての戦場を予感していたといってもさしつかえない。平時の凡身とちがい、生還を期さない出陣に際しては、どんな卒伍の者であろうと、これくらいな霊感はみな抱く。――そしてその無数なる霊感は霧のごとく蕭殺《しようさつ》たるものをみなぎらし、各部隊の上にはためく水色桔梗《みずいろききよう》の九本旗にも、雲を搏《う》つようなすがたがあった。
光秀は馬をとどめて、傍らの斎藤利三にたずねていた。
「総人数は何程になったか」
「一万七百。小荷駄、大荷駄の者を加えれば、一万三千に達しましょう」
うなずいて、間《ま》を措《お》いて。――やがて次に、
「物頭《ものがしら》どもをこれへ」
と、いった。
槍隊、鉄砲隊、長柄《ながえ》隊など、およそ部将格以上の者が、それぞれの隊首を離れて、一令の下に、光秀の馬前に集まった。
光秀は駒を退《さ》げた。代って、一族の明智光忠が、四方田《しほうでん》政孝や妻木|主計《かずえ》の宿将を左右に引いて前へすすみ、
「これは京都の森|於蘭殿《おらんどの》から昨夜到来した書状であるが、心得のため、物頭ども一同へ達しおく」
と、馬上で奉書をひらき、
「――右府様|御諚《ゴジヨウ》ニハ、中国ヘノ陣用意出来候エバ、家中ノ士馬、旌旗《セイキ》ノ有様、御覧成サレ度キ御旨《オムネ》ニ候間、早々、人数召連レラレ罷《マカ》リ上《ノボ》リ候エ。……と、かようにある」
と、読み聞かせた後、
「依って、道は篠野《しぬの》から大枝山《おおえやま》、老坂《おいのさか》へ出る。武者立ちは、酉《とり》の上刻(午後五時)。はや、間もないによって、兵糧をつかい、馬にも飼い、また休息もとって、ぬかりなく時刻に備えおくように」
と、重ねて云い渡した。
一万三千の人数が兵糧をつかう一しきりの野面《のづら》の景は、壮観でもあり、和《なご》やかでもあった。
そのあいだに、使番《つかいばん》が、
「比田《ひだ》帯刀《たてわき》どのお召しです」
「堀与次郎どの、御本陣で召されます」
「村越三十郎どの。お召し」
さっき馬前に呼ばれた部将中の主なる人々が再度、光秀のいる八幡の森の中へ呼ばれて行った。
ここは薄暮の日蔭と、ひぐらしの声に、涼気は水のようだった。
いましがた拝殿の方で、柏手《かしわで》の音が聞えた。光秀以下、幕僚たちも揃って、神前へ願文《がんもん》を籠《こ》めたものらしい。
――思いあわせると。
この篠村《しぬむら》八幡へは、かつて元弘の頃、足利高氏《あしかがたかうじ》も、願文を籠《こ》めたことがある。高氏はこの駅路《うまやじ》に来て旗を立て、勅命にこたえ奉るなりと声明して、一挙京都に入り、六波羅《ろくはら》を陥《おと》した。高氏の部下が矢を納めたという矢塚《やつか》も遠くない。
敵こそ違え、測《はか》るに光秀の胸には、こここそは足利氏が室町十数代の基をなした発足の地という由縁《ゆかり》をかならず想起していたであろう。こういう古蹟《こせき》なので、従来、室町幕府は代々ここの社《やしろ》には特別な崇敬と保護を寄せていた。光秀がその由来に無知なわけもない。
昭々たる神のみ前に、光秀は自己なるものを、いかに辱《はじ》なく持とうとしたろうか。
腹心の家臣が、眦《まなじり》を裂き、いかに哭《な》いてこの挙をすすめたとしても、彼と信長との間の私憤私恨だけでは、なお顧みて安んじきれないものがあろう。
いつ自分も、荒木村重や佐久間|父子《おやこ》のような末路に終るかもしれないという危惧《きぐ》不安が――窮鼠《きゆうそ》の如く、生きんがために、一転この先手を打たせるに至ったものだ――という自己弁護も、彼の良心を頷《うなず》かせるまでの理由にはなるまい。
ここからわずか五里。目と鼻のさきに当の怨敵《おんてき》は、いとも軽装で逗留している。またなき機会だ、絶好な天運だとする――出来心にも似た野望と自身で意識しては、なおさら神のみ前に祈願はこめられまい。
が、彼の頭脳は、以上のすべてを別として、ほかに自分を正当づける理由を索《さが》すのに、さして困難はしなかった。
それは二十余年来の信長の悪い半面だけを罪状として数えることである。わけて信長の極端な文化破壊と旧制度の変革をもって、もっとも大罪として世に問うことだった。
文化人光秀の知性のすみには、多年信長の部将として働いて来ながらも、なお旧文化や旧制度への愛惜《あいせき》が整理しきれず澱《よど》んでいた。そしてその跛行的《はこうてき》精神を天下一般のもののように誤認し、狭い知性の池に溺れている知性に過ぎないものとはみずから覚《さと》り得なかった。
再度、何事の召しであろうと、怪訝《いぶか》り顔に、各隊の部将たちは、呼び込まれた幕囲いの中に、膝つめ合せてひかえていた。
光秀の床几《しようぎ》に、まだ光秀のすがたは見えない。いま神前に御祈願中であるから、やがて程なく、これへ渡られるであろうと小姓組の者がいう。
そのうちに、幕を払って、
「やあ」と会釈し、また、
「おう」と、眼顔で挨拶しながら、近側の重臣たちが次々とこれへ入って来た。並河|掃部《かもん》、進士作左衛門、妻木|主計《かずえ》などである。最後に光秀は、老臣斎藤|利三《としみつ》、一族の光春、光忠、光秋などと一緒にすがたをあらわし、中央の床几に倚《よ》った。
「これだけか、物頭《ものがしら》一同は」
「左様です」
と、溝尾《みぞお》庄兵衛の答え。
三宅藤兵衛と今峰|頼母《たのも》は、そのとき奥田|左衛門尉《さえもんのじよう》を振り向いて、何か目じらせした。そして三名ともつい[#「つい」に傍点]と幕の外へ立ってゆく。はてなと怪しむまに、囲いの外は一隊の兵が取り巻いてしまったらしい。光秀の面《おもて》にもその用意が読まれたし、宿将たちの眼からも明らかにこの中へ無言の警戒が注がれだした。
やがて光秀が口をきって、
「家中は一体、わけてわが手足と恃《たの》む旗本どもに、かかる備えをして、談合に及ぶは、水くさしと思うであろうが、天下の大事、われらの浮沈、今に期す大事を打ち明けるためぞ、悪しく思うな」
と、冒頭して、重々しく意中を打ち明けはじめたのである。
身を硬《こわ》めて、その唇《くち》もとを仰いでいた部将たちは、いつか自己をも見失っていた。
「この身、まだわずか三千石より一躍二十五万石を拝領、以後、近江《おうみ》丹波にわたるこの位置、公私何くれとなき重恩、右大臣家のこの光秀に施されたる御恩は決して忘れるものではないが」
と、彼はまずそれからいって、次に、明智家が報じた数々の功を称《たた》え、一転して、信州|上《かみ》ノ諏訪《すわ》で折檻《せつかん》をうけたこと、以後たびたび不興にふれ、高家《こうけ》大名たちの前では、忍び得《う》べからざる辱《はじ》を蒙《こうむ》って来たこと。かつは先頃、家康の馳走役を剥《は》がれ、世上一般のわらい草に供され、あまつさえ、中国出陣の上は秀吉の下風につけといわぬばかりな軍令をうけるに至っては、武門として、今は堪忍なり難い切迫というのほかはないということ。
さらに、それから、信長のために多年功労をささげては自滅し去った人々の先例をあげ、彼の無残|苛烈《かれつ》な性格の一面を抉《えぐ》り、また叡山《えいざん》焼打のこと、義昭追放の件、そのほか彼の覇道的《はどうてき》な猛進をもって、信長こそ道義の敵、文化の破壊者、制度と伝統を紊《みだ》す国の賊子《ぞくし》であるとなして、その末に、
「この程、光秀は一切を思い断《た》って、こういう述懐の一首を詠じた。そちたちはいかに聴くか。――心知らぬ人は何とも云はばいへ、身をも惜しまじ名をも惜しまじ」
自分の歌を微吟《びぎん》してゆくうちに光秀は、われとわが身をあわれむような心地になって、はらはらと落涙した。宿老旗本、囲いの中の者すべて、みな嗚咽《おえつ》し、或いはすすり泣いた。中には鎧の袖を咬《か》んで俯《う》っ伏す者さえあった。
中に、哭《な》かない者が一人いた。老将斎藤利三である。
さっきから耳かたむけて聞いていたが、光秀の言に、彼はまだ不備を見出していた。――全軍の中堅たる部将一同に、ここで天地神明にかけての誓いをなさしめるべくは、さっきからの光秀の言は、余りに述懐的だし、理論にわたり過ぎているし、また反対に、感傷に紊《みだ》れている。
で、内蔵助|利三《としみつ》は、一同の悲涙と無念とを、血の誓約へ、一つに結びつけるため、突として、こう提言した。
「いかに各※[#二の字点、unicode303b]。われら風情をも、恃《たの》むべき輩《やから》と思《おぼ》し給えばこそ、かほどの大事をも、お胸を割って、打ち明け下されたものと存ずる。君恥かしめらるれば臣死す。やわか殿おひとりのみに苦患《くかん》をおさせ申そうや。人は知らず内蔵助利三ごときは、あとも短き老い骨、一夜たりとも、己が主君を、天下様と仰ぎ、ひいてはお怨み積る右府信長公の滅落をこの目に見たら、もう死んでも思いのこりはない。――何と、そこらの若い方々にはどうじゃ」
すぐ左馬介光春が唱《とな》えた。
「ことわざにも、天知る地知る我知る人知る、と申すたとえもあるに、悉《ことごと》く殿の股肱《ここう》とはいえかく大勢の中において、いったんお口にお出し遊ばされた以上は、何で今のおことばをふたたび世に包めましょうや。――さもあらば何の評議や要《い》り申さん。ただ驀《まつ》しぐらの道ひとつ。斎藤どのならずとも、死に遅れはせぬ。のう各※[#二の字点、unicode303b]」
異口同音に、物頭たちは、おうっと答えた。おうっと一声にいう以外、ことばを知らないような感情の閃光《せんこう》が、面々の眸《ひとみ》に見えた、ひッ吊れた唇《くち》に見えた、膨《ふく》らんだ鼻腔《びこう》に見えた、また呼吸に見えた、打ち顫《ふる》える手脚に見えた。
「よしっ」
光秀が床几《しようぎ》を立つと、人々もその感動に乗って身をゆるがした。重臣たちは、出陣の吉例として口々に、
「目出度き御思《おんおぼ》し召《め》しを立たせられ、事|成就《じようじゆ》は必定《ひつじよう》にござりまする。室町家累代《むろまちけるいだい》御信心浅からぬ当八幡宮におかれても、御願《ぎよがん》をおききいれあらんこと、疑いもありませぬ」
と、賀を述べた。
四方田《しほうでん》政孝は、
「はや、酉《とり》の刻」
と、空を仰いで、発足《はつそく》の心支度を人々へうながしながら、
「これよりは、野路山路、およそ京まで五里、おそくもほのぼの明けには、本能寺をひた巻きになし得る。――その本能寺を五刻《いつつ》前(午前八時)にお片づけあって、二条の御所をも、一手をもってお討ち果しあれば、諸事、朝飯前に一決しましょう」
と光秀や光春へ向っても、確信にみちた口吻《くちぶり》で話していた。もとよりこれはここに始まった献策《けんさく》でも評議でもない。中堅の部将たちへ、すでに天下の事はわが掌《て》にありと、血ぶるいを励ますためである。
酉《とり》の下刻。山かげの道はすでに暗い。
鉄甲の人馬、一万三千余は、流れをなして黒々と王子村をすぎ、やがて老坂《おいのさか》へかかった。その夜の星の夥《おびただ》しさ。都も同じ下だった。
[#改ページ]
本能寺界隈《ほんのうじかいわい》
本能寺の空濠《からぼり》には、西陽《にしび》が赤く落ちていた。六月|朔日《ついたち》は、一日じゅう京都もひどく照りついて、かなり深い濠の底まで、ところどころ泥の乾《かわ》きを見せていた。
東西の築土《ついじ》一町余。
南北の築土二町。
濠はそれに併行《へいこう》して、幅は二間をこえ、通例のもの以上築土も高い。いわゆる町の城廓のそれとなき様式をこの本山日蓮宗八|品派《ぽんは》の寺域もまた踏襲《とうしゆう》していた。
で、往来からは、わずかに中心の伽藍《がらん》と、十数坊の大屋根が仰がれるだけで、外部からは窺《うかが》うこともできなかったが、ただ寺域の一隅にある有名な「さいかちの木」だけはどんな遠方からもよく見えた。その喬木《きようぼく》を指して、
本能寺の森
ともいい、また、
さいかちの藪《やぶ》
とも称《よ》んで、東寺の塔ほど、よい目じるしになっていた。
その高い梢《こずえ》が夕日に染まるたび、きまってたくさんな鴉《からす》が一しきり噪《さわ》ぎぬくのだった。臈《ろう》たけた人々がいかに潔癖《けつぺき》に雅《みやび》やかを守っても、夜の野良犬と夕方の鴉と朝の牛の糞《ふん》だけは除かれなかった。
もっともそれが今の京都をあらわしている文化の横顔といえるかも知れない。本能寺そのものも、外観はできているようだが、内部にはまだ多くの空地を残していた。天文年間の焼亡以前にはあったという二十坊舎の輪奐《りんかん》の美を完成するにはなお多大な普請《ふしん》を要するし、現に建築中の部分もあった。
また、外の本能寺界隈を見まわしてもそうである。惣門《そうもん》前通りから四条の方へ寄った往来は、所司代の第宅《ていたく》もあり、武家の小路もあり、町も整って、都らしくなるが、北側の錦小路《にしきこうじ》あたりは、今なお整理されない貧民窟《ひんみんくつ》が、室町《むろまち》の世頃をそのまま、島のように残っていて、そこの狭い往来などは、いまもってむかしの呼名の「尿小路《いばりこうじ》」で通っている。
宇治拾遺《うじしゆうい》にいう
[#ここから2字下げ]
清徳トイウ聖《ヒジリ》アリケリ、多食ノ人ナリ、四条ノ北ナル小路ニ、シ散ラシケレバ、下司《ゲス》ナドモ穢《キタ》ナガリ、尿《イバリ》小路トツケタリケルヲ――
[#ここで字下げ終わり]
四条の南に綾小路《あやこうじ》があるゆえ、それと対比して以後は錦小路と呼ぶべしと、官から申しつけが出たことなどもあったらしい。だが、その面影は今も失われず、「さいかちの木」の鴉とこことは朝晩にがやがやと物音たかい生活力を昂《あ》げていた。
「ばてれんが来たよ」
「ばてれんが行くよ」
「きれいな鳥籠持って、南蛮寺《なんばんじ》の坊《ぼ》んさんが通るよ」
ひん曲った板屋廂《いたやびさし》の下や、荒壁と荒壁の路地のあいだから、この界隈《かいわい》の子達が、あせも[#「あせも」に傍点]だの腫物《できもの》だの、鼻くそ光りの顔をもって、羽の強い虫みたいにいま飛び出して来た。
三人のばてれんは、声をきくと微笑をもって、友人達を待つように歩を緩《ゆる》めた。
南蛮寺はここから遠くない四条坊門にあった。この界隈の貧民窟には、朝《あした》に本能寺の勤行《ごんぎよう》が聞え、夕べには南蛮寺の鐘が鳴りひびいた。
本能寺の門は厳《いか》めしく、本能寺の僧衆はみな怖い顔して歩いているが、南蛮寺のばてれん達は、この汚い裏町を歩くときも、愛嬌《あいきよう》を撒《ま》いて行くのを忘れない。
腫物《おでき》の子を見れば、その頭《つむり》を撫でて療法を教え、病人のある家をのぞけば度々見舞って施《ほどこ》して去る。夫婦喧嘩は犬も喰わないというが、南蛮寺のばてれんが通りかかればその夫婦喧嘩にまで立ち入って、懇《ねんご》ろに裁《さば》いてやる。
裁かれた夫婦者にはべつにありがたくも何ともないが、物見高い近所|合壁《がつぺき》やまわりの見物は実に感心する。ばてれんは親切だ。ものがよく分る。ほんとに世の中のために働いている。できないことだ。やっぱり神の使徒《つかい》というだけのものはある――などと。
日頃にも彼らは単純に感心しているのである。ばてれんの社会救済事業は洛中洛外の野や橋の下にいる貧民や病人にまで及んでいて、その寺内には施療所だの養老院に似た組織まで設けているからだった。おまけにそこのばてれんはみな子供好きである。必然、子供の親はばてれんをみな神のようにいう。
ところが、このばてれんも、ふと往来で本能寺の僧と行き会いなどすると、なかなか子供に撒《ま》いているような愛嬌は示さない。一敵国と見ている国の人間と出会ったように、じろと、碧眼《へきがん》を、投げたのみで通ってゆく。
だから尿小路《いばりこうじ》の狭い路を遠まわりしても、なるべく本能寺の門前は通らないようにしている彼らだったが、昨日今日だけは、その本能寺のうちへ、身を屈《かが》めて日参しなければならなかった。さきおとといの二十九日の夜から、そこは右大臣信長の宿営となり、彼らにとっても、この日本で一番怖い人間が、つい目と鼻のさきに逗留《とうりゆう》しているからである。
今も。
名知らぬ南方の小禽《ことり》を黄金《こがね》の鳥籠に入れたものと、ばてれん達が本国から連れて来た料理人に製《つく》らせた南蛮菓子を器《うつわ》に容《い》れた物とを捧げて、三名のばてれんは、これから信長の台下までそれを献上に行く途中であるらしかった。
「ばてれんさん。ばてれんさん」
「その鳥、なんていう名?」
「その筥《はこ》ん中、何?」
「菓子ならおくれよ」
「おくれよ。ばてれん」
尿《いばり》小路の子供たちは、忽ち道を阻《はば》めて、寄りたかったが、三名のばてれんは、うるさい顔もせず、片語《かたこと》の日本語でにこにこ諭《さと》しながら歩いていた。
「これ、右大臣様へ上げる。勿体ない。みんなに上げるお菓子、南蛮寺へお母さんと来たとき上げる。いま、ありません」
それでも、なお、後に尾《つ》いたり先へ廻ったり、ぞろぞろ取り巻いて来るうちに、その中のひとりの子が、本能寺の角《かど》の空濠《からぼり》の中へ、ぽしゃんと蛙《かわず》のような音をさせて落ち込んでしまった。
水はないので溺れる気づかいはないようだが、濠の底は沼に似た泥である。今そこに落ちた子は泥鰌《どじよう》のように|※[#「足+宛」、unicode8e20]《もが》いたため、あれよと上で騒いでいる間に、すぐ一命の危険となった。
大人でも落ちたがさいごやすやすと上がれない石垣だ。広大な、本能寺の地域を平均何尺か地盛りしたほどの土を浚《さら》った溝渠《こうきよ》である。また万一の備えにも、この濠は、重要な意味をもつので、深ければ深いほどよいわけでもある。水の漲《みなぎ》っている雨の夜など、よく凡下《ぼんげ》の酔っぱらいなどが落ちこんで、中には溺死した暢気者《のんきもの》すらある濠であった。
「たいへんだよ」
「おうちの腕白《わんぱく》が本能寺の濠へ落ちたとさ」
逸《いち》はやく、誰か知らせたとみえる。尿小路の近所合壁は、鼎《かなえ》のわくような騒ぎで、親たちは跣足《はだし》で飛び出す。隣の夫婦や裏の老人も出て来る、娘も走る、犬も尾《つ》いてゆく。文字どおりたいへんなことだった。
だが、その人達が、濠《ほり》ばたまで来て見たときは、すでにその子は救われていた。掘りたての蓮根《れんこん》みたいに上げられて、わんわん泣きぬいていた。
それと二人のばてれんも、手や衣服を泥だらけにしていた。もう一名のばてれんは、咄嗟《とつさ》に濠の中へ飛びこんだとみえて、これは後からようやく這い上がって来たが、ほとんど手も顔も分らない姿になっていた。
「わアい。ばてれんさんが鯰《なまず》になったい。赤いお髯《ひげ》も泥ンこだい」
子供たちはそれを見て、囃《はや》したり手を叩いたり、よろこび廻ったが、救われた子の親たちは、決して信徒でもないだろうに、
「神さま」
と、鯰《なまず》たちの足もとへ額《ぬか》ずき、掌《て》を合わせたままありがた涙にくれていた。
そのほか黒山のようになった人だかりからも、口々にばてれんの徳を称《たた》える声が揚った。自分たちの純朴《じゆんぼく》をもって、単純にみな随喜した。
「よいでしたね。この子には、天主様《デウスさま》のお守りがありました」
ばてれん達は折角これまで来たのにという悔いも惜しみも見せず、無駄になった献上の品々を抱えて、そのまま、後へ引っ返して行くのであった。彼らの碧《あお》い眼には、一箇の信長も、一箇の町の子も目的の対象としては、同じものに過ぎなかった。それがまた、この界隈《かいわい》の長屋から長屋へ話のたね[#「たね」に傍点]になって、なお後々、どれほど大きな感激の波動になって行くかをも彼らはよく知っていた。
「――宗湛《そうたん》。見たろうが」
「いや、感心しました」
「怖いの。あの宗門は」
「怖い。ほんとに考えさせられますな」
顔見あわせて、こう嘆声を交わし合う声が聞えた。――その後の、ほかに人なき濠ばたにである。
ひとりは三十前後、ひとりはずっと年配をこえた老人だ。親子と見れば見えないこともない。堺《さかい》町人の大物とも少し趣は異るが、どこか大まか[#「まか」に傍点]な幅と教養の奥行きがその人柄に感じられる。とはいえ勿論ふたりとも、ただ見ればただの町人ではあった。
ひとたび信長が泊まると、寺も単なる寺ではなくなってしまう。二十九日の夜以来、本能寺の惣門《そうもん》は、車駕輻輳《しやがふくそう》して、出入りの諸人の雑鬧《ざつとう》は驚くべきものであった。
まさに、今この人の一謁《いちえつ》を得ることは、天下の大事でもあるようなふうだった。そして信長の一顧《いつこ》の言、或いは一笑にでも触れて退《さ》がれば、献物の珍器|宝什《ほうじゆう》や美酒|佳肴《かこう》の百倍千倍にも値いするものを獲たような歓びを抱いてみな帰り去るのである。いわゆる御威光というものだろうか、人界に稀な人として自然に寄る徳望というものだろうか。いずれにせよ、不思議なばかり奕々《えきえき》たる人気の彩霞《さいか》が、本能寺の惣門から甍《いらか》にまで棚曳《たなび》いているのは事実である。夜霧へ映《は》え射《さ》すそこからの天明《そらあか》りは、尿小路《いばりこうじ》の裏町からも仰がれるほどだった。
またこの両三日中の訪問者には、京都の名だたる貴紳《きしん》を網羅《もうら》しているといってよい。菊亭晴季《きくていはるすえ》を始め、徳大寺、飛鳥井《あすかい》、鷹司《たかつかさ》の諸卿。また九条、一条、二条の諸家も訪れ、きょう朔日《ついたち》の午《ひる》頃には近衛前久《このえさきひさ》夫妻がおそろいで見えた。これはだいぶ長時間いて戻ったが、その間にも聖護院の門跡《もんぜき》、諸山の僧、都下の富豪や諸職の名ある人々など、個人または公人として出入の絶え間もなかった。
「叔父さん。すこし此方《こちら》でひかえましょう。誰かまた御門へ入られるようですから」
「春長軒どのじゃろ。供の衆がそう見える」
ふたりは足を止めた。
さっき濠ばたの角では、大勢の見物の中に交じって佇《たたず》み、尿小路の子やばてれん達が去ると、またぶらぶら濠のふちに沿って、惣門《そうもん》の方へあるいて来た彼《か》の二人の町人であった。
惣門の前には、今所司代の村井|長門守《ながとのかみ》(春長軒)が供の者をひかえて佇んでいた。ちょうど内から出て来た貴人の輿《こし》に遠慮しているふうだった。間もなく輿《こし》、駕籠《かご》の行列につづいて、武者ぶりよい男が、二、三頭の鹿毛《かげ》や葦毛《あしげ》の駒を曳いて出て行った。武者たちは長門守の顔を見ると馬の口輪を片手に、辞儀して通った。
長門守の姿はその混雑が終ってから惣門の内へかくれた。また、それを見届けてから、二人の町人も、遠くからそろそろそこへ向って行った。
もちろん惣門の固めは厳重を極めている。出入する人々のすがたには見られない戦時下の眼光が鎗や長柄とともに光っているのだ。衛士《えじ》すべて甲冑《かつちゆう》を帯し、怪しと見ればすぐ大喝《だいかつ》して糺《ただ》す。
「待てっ。どこへ行く」
二人の町人もこれを浴びた。
年上の老人が慇懃《いんぎん》に、
「博多《はかた》の宗室でござりまする」
まず、頭を下げると、次の若い町人もそれに倣《なら》って、
「博多の宗湛《そうたん》にござりまする」
と、いった。
番士たちには、それだけでは分らない顔つきがあったが、奥の衛士小屋《えじごや》の前で番頭《ばんがしら》の侍が、どうぞ、どうぞ、と笑顔で通行を促《うなが》していた。
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夜《よ》ばなし
表御堂《おもてみどう》が建築の中心となっているが、人の中心は信長の座所にあった。本堂|内陣《ないじん》横の橋廊下をこえ、さらに大廊下に従って、墨絵《すみえ》の間《ま》、金碧《こんぺき》の間《ま》、何の間と、幾つも数えて行かなければ、彼の声は洩れ聞えて来ない。
その信長の声のする所、外にはせんかん[#「せんかん」に傍点]と庭園の泉流《せんりゆう》がせせらぎ、向う側の幾坊の棟《むね》からは、折々、明るい女性たちの嬌笑《きようしよう》が風に送られて来た。それはまた訪客たちの耳にもふと和《なご》やかな気《き》やすさを与え、峻烈《しゆんれつ》をもって鳴る主《あるじ》の一面に、べつな親しみを抱かせた。
「――そうか。……するとあすの朝はもはや住吉の浦から立つわけだな。老練な五郎左の佐《たす》けおることだ。諸事、安心いたしておると五郎左にも伝えおけ、信孝にもいえ。やがて中国で対面するであろう。信長も近日には下る」
信長のことばに、額《ひたい》を畳につけたまま、見上げも得ずにいる侍は、お座之間の次に姿を置いていた。いまし方《がた》これへ、信長の三男信孝と丹羽《にわ》長秀の書をもたらして来た大坂表からの使いである。
その神戸《かんべ》信孝、丹羽五郎左衛門、津田信澄などの一軍は信長に先だって、諸般の軍備をととのえ、明朝兵船で住吉からまず阿波《あわ》へ渡ることになっている。――その報告やら、また数日前に、大坂を去って堺へ入った旅行中の徳川家康の様子をも併《あ》わせて告げて来たものだった。
「では、お暇《いとま》をいただきます」
使者は信長へ、また信長と対座していた織田家の嫡子《ちやくし》信忠へ向っても、はるかに礼をして、それから少し膝の向きをかえ、なお一段低い所にいる所司代の村井長門守へも、同様に辞儀をしてからようやく退出して行く。
信長は、急に、気づいたように、暮色を見まわして、
「暮れたぞ。西窓のすだれを捲け」
と、小姓にいい、
「お汝《こと》の宿所も暑いか」
と、信忠にきいた。
信忠は父よりすこし先に入洛《じゆらく》して、二条城のそばの妙覚寺を宿舎としていた。父が入洛の夕も、きのうも今日もここへ詰めて、いささか疲れぎみでもある。で、きょうはもう暇を告げる考えでいたが、それを犒《ねぎら》う心か、信長が、
「こよいは内々で静かに茶でも喫《の》もう。きのう一昨日の両日は夜まで客だった。余りに閑《ひま》なきは精神《こころ》の貧困を来す。遊んでゆけ、おもしろい人間にひきあわせてやる」
と引き止めるまま、否《いな》みもならず侍《じ》していた。
けれど、子としてのわがままをもしいわして貰えるなら、信忠はこうも云いたかったであろう。――それがしは生年《しようねん》二十六歳、父の如くにはまだ茶も解しきれません。わけてこの戦国に閑《かん》を偸《ぬす》んで悠々風雅のみこれ事としている茶人なるものを忌《い》むこと甚だしいのです。折角おひきあわせて戴いても、茶人ではありがたくもありません。正直、一刻もはやく、弟信孝にもおくれぬよう、中国の戦陣に立ちたい武者心が逸《はや》り立つのみであります――と。
長門守も、きょうは所司代としてではなく、春長軒という、一箇の知人として、信長に招かれたらしいが、やはりどこか君臣という固さと職掌《しよくしよう》の範囲から解かれず、座談もどこかぎごち[#「ぎごち」に傍点]ない。
このぎごち[#「ぎごち」に傍点]なさが、信長の嫌いの一つである。兵馬倥偬《へいばこうそう》の日常、政務の繁劇《はんげき》と、門客の出入りと、睡眠不足と、あらゆる公人的な規矩《きく》から寸分でも解かれて、ほっと一息つく間に、こういう光秀的な慇懃《いんぎん》に対していると遣《や》りきれない気がしてくるらしい。
すると、ふと、秀吉が思い出されてくる。
あれは屈託がない。と、慕わしくさえなって来るのだった。
「長門」
「はっ」
「子息はどうした。見えぬのか」
「伴《つ》れ参りましたが、不束者《ふつつかもの》、わざと控えさせておきました」
「つまらぬ遠慮をする」
信長はつぶやいた。今夜は息子も連れて来いといったのは、気軽に語るためだ。君臣の接見ではない。
が、呼べともいわず、
「はて、博多の客衆は、どうしたかの」
信忠と長門をそこへ置いたまま彼は立って奥へ入りかけた。
小姓部屋で坊丸の声がしていた。何か兄の蘭丸に叱言《こごと》をいわれているらしかった。蘭丸兄弟は三名とも小姓組にいる。これはよく兄弟喧嘩の因《もと》となるらしい。すでに森三左衛門|可成《よしなり》の子もみな成人したと今さら思い出されて来る。近頃それについて誰いうとなく、明智領の坂本四郡を父の遺領なるために蘭丸が欲しがっている、という風聞などがちらちら聞える。もってのほかなことだと、信長は今も思う。――しかしそういう世上の誤解をとくためにも、彼自身のためにも、いつまでも若衆めいた小姓姿をさせておいて近側に置くのはいけないことでもあると反省してみたりする。
「庭面《にわも》をおひろい遊ばしますか」
ふと、縁に佇《たたず》んでいたので、すぐその蘭丸が小姓部屋から走り出て、沓脱石《くつぬぎいし》に穿物《はきもの》をそろえた。こういう気転と、使うに物柔らかなことが、つい側へおく人間には程よいので、いつか十数年も使い馴れたが、見遣《みや》りながら、
「いや、庭へ出るのではない。措《お》け、措け」
と、控えさせて、
「暑かったのう、今日は」
「まことに照りつけました」
「厩《うまや》の馬はみな元気か」
「馬も少々弱り気味です」
「そうだろう。蜀《しよく》の劉備《りゆうび》ではないが、信長の髀肉《ひにく》もすこし肥《こ》えたからの」
と、ふと中国の空でも遠く思いやるか、夕星《ゆうずつ》仰いで深い眼を澄ましていた。
蘭丸は何ということもなく、信長のその横顔をじっといつまでも仰ぎ見ていた。信忠もうしろに来て佇《たたず》んでいたが、その人のあるも忘れて眺めていた。あたかも今生《こんじよう》の名残のように。
もし彼の霊能《れいのう》がその霊に自覚を持っていたならば、その時のふしぎな心理と、何ものか肌にそそけ立つような感じを、特にもっと意識してみたであろう。後に時刻をかがなえば、まさにその頃、明智光秀の軍は篠村《しぬむら》八幡を出て、老坂《おいのさか》の麓《ふもと》あたりへ来ていた時分であった。
大台所から吐かれる夕煙が寺内にたち籠《こ》め始めた。一切の煮焚《にたき》から炊《かし》ぎや風呂も薪《たきぎ》である。宵にかかる前の一刻はここばかりでなく洛中洛外が炊煙《すいえん》をたなびかせているのだった。これを東山あたりから眺めると壮観なものがある。
信長は風呂所で水を浴びていた。ここのも屋形造《やかたづく》りの蒸風呂で、汗を流して出たあとで水をかぶる。流し場は十坪もある広さで、高い切窓の竹格子に夕顔の蔓《つる》が白い花を一つ見せていた。
小姓達はいわゆるお湯殿《ゆどの》部屋二間にひかえている。衣服から髪までさばさばそこであらためて彼は橋廊下を戻って来た。と、その下から犬のように跳び出して、宵闇の庭面《にわも》に土下座した小者がある。その顔は闇より黒く、歯ばかり白く見えたので、
「誰だ」
思わず足をすくめた。
笑いながら後ろで小姓が答えた。
「くろんぼ[#「くろんぼ」に傍点]の御小人《おこびと》でございまする」
「あの黒冠者《くろかじや》か。時々、黒には脅《おど》かされるの」
信長も苦笑した。
半年ほど前、新しく日本へ来たばてれんの一行は南から連れて来た黒人の奴隷《どれい》を安土《あづち》へ献上した。人間の献上物とは珍しい。もし自分が黒人国の王であるなら、たとえどんな貧家の子たりと、外国への音物《いんもつ》に領土の人間は用いないであろうにと、彼はそのとき左右の者に語ったが、若い黒人は、なかなか愛嬌者に見えたので、御小人《おこびと》の中に預け、外出の時など、例の南蛮笠にモール織の羽織を着、馬のあとには、この黒人を供に連れ歩いたりなどしていた。
蘭丸が来て告げた。
「博多の宗室どのと宗湛《そうたん》どののお二人が、いつなとお越し賜わるようにと、お茶室の方にひかえられておりまする」
「もう見えていたのか」
「まだ明るいうちから見えられて、お茶室から露路の掃除、縁の雑巾《ぞうきん》がけまで、すべて人手を借らずお二人でなされ、宗室どのは水を打ち花を活《い》け、宗湛どのは自身台所へ出られて、さし上げるお膳部のおさしずをなさるなど、傍目《はため》にも並ならぬお心入れのようでした」
「なぜ告げなかったか」
「いや、御両所のおことばには、席は御宿所でもお招きは我らでいたすこと、われらの亭主役なれば、構えて時刻までは、お取次なくとの仰せに、わざと申し控えておりました」
「なんぞまた、趣向《しゆこう》しているとみゆるな。信忠にも伝えたか。長門にも」
「これからお誘いに参りますので」
蘭丸が去ると、信長は一室に入って、すぐまたその足を一坊の茶室へ向けた。
特に数寄屋《すきや》めいた建物はない。席は書院であり、屏風《びようぶ》をめぐらして小間囲《こまがこ》いを作ってある。
客は信長、信忠、村井春長軒父子、燭はすずやかに、囲いのうちは、人もなきかの如くひそやかであった。
けれどやがて茶事もすんで、広間へ座を移すと、客なく亭主なく、話は果てなく弾《はず》み、夜の更《ふ》けるのも忘れているかのようであった。
ここでは、茶の「寸法」も「清寂《せいじやく》」も措《お》いて、客亭主、わけ隔てないくつろぎだけに、話も自然|多岐《たき》にわたった。
信長はまた健啖《けんたん》だった。茶室でも一通り満腹したろうに、広間へ移ってからも、彼の前に供えられる木皿《きざら》や高坏《たかつき》はみな空《から》になってゆく。わけて紅玉《べにだま》を溶かしたような葡萄酒《ぶどうしゆ》を愛飲《あいいん》し、時々、菓子器に盛ってある南蛮菓子を取っては食べ、かつ語るのであった。
「いちど宗室を案内とし、宗湛を供に連れて、ぜひ南を廻ってみたいものだ。宗室はさだめし幾度か巡ったことがあるのだろう」
「いや、この年にいたるまで、まだついぞ」
「ないのか」
「思いつつ行かれませぬ」
「宗湛は、若いし、健康に見ゆる。そちは行ったか」
「私もまだでございます」
「ふたりとも、まだ南を知らんのか」
「はい。持船の水夫《かこ》、店の者たちは、絶えず往来しておりますが」
「さりとは商売|冥利《みようり》のわるい。……信長などは望んでもまだ日本を離れてよい日を得ないゆえ、ぜひもないが、お汝《こと》らは、船も持ち、出店も持ち、便《びん》も常にありながら、なぜ参らぬか」
「天下の御事とは、忙しさがちがいますが、やはり何とはなく、家事にさえぎられ、つい一年二年とは、国を離れかねまする。……いずれ右府様にも、宇内《うだい》のことが、ひとまず御決着の日には、ぜひ宗湛とてまえとが、御案内に立ちまして、御一巡あそばしませ」
「ぜひ参ろう。宿願の一つとしておこう。――が宗室、その日までお汝《こと》は生きているか」
小姓に葡萄酒を酌《つ》がせながら、信長が、老人の彼をからかうと、宗室も負けてはいないで、
「いやそれよりも、どうかてまえの生きているうちに、あなた様の御統業《ごとうぎよう》を、一日もお早く、宇内《うだい》に確《しか》とお示しください。そのほうが余り遅れますと、てまえもそうそうお待ちしきれないかも知れません」
といった。
信長は微笑をもって、
――「間もないことだ」
というような面《おもて》をして見せた。宗室から逆襲をうけたかたちであるが、こういう歯《は》に衣《きぬ》を着《き》せないことばは、たまたま、信長をしてたいへん愉快にさせるものだった。
このほか、座談のうちには、信長の宿将たりともいえないような思い切った直言や、諷諫《ふうかん》を、宗室という男は、平気でいって退《の》けるのである。連れの宗湛もまだ若いくせになかなか辛辣《しんらつ》なことをいう。
側にいた子息の信忠も、所司代の村井春長軒|父子《おやこ》も、それには時々はらはらして、
(あんなことを申し上げてよいものか)
と、虎威《こい》を窺《うかが》う程だった。
同時に、いったい、博多の町人というこの宗室、宗湛のふたりは、なにをもってかくまで信長の信寵《しんちよう》をうけているのだろうかを、注意せずにいられなかった。
単に茶人なるゆえをもって、茶友としてそれを信長がゆるしているものとは考えられない。
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南《みなみ》
もちろん信長は詳《くわ》しいに違いないが、たまたま、安土《あづち》で見かけたり、人のうわさや茶室づきあいの程度の者では、こう二人の町人が、いったい何の理由で、諸侯以上にも信長の寵《ちよう》と信用を得ているのか、その素姓《すじよう》と本質の理解に苦しむのは当然である。
――こよいは、おもしろい者に会わせてやる。
と、かねていわれていた信忠にしてさえ、時折には、面白くも何ともない顔つきが見える。
ただ信長と彼らのあいだに、ひとたび南のはなしが弾《はず》むと、これは信忠にも興があった。事々に耳新しく、彼の若い夢やら大志を駆りたてた。
ふかい理解のあるなしにかかわらず、南は今や知識ある者の関心の一つだった。眼ざめた天正の文化は、その本質の日本性に、急潮な海外からの文物に刺戟《しげき》されていた。鉄砲渡来以後の目ざましい社会面の変り方はそれによるものである。ぽるとがる、いすぱにや、などから相次いで渡って来た夥《おびただ》しいばてれん達がその媒介者であった。
南の知識も、当初はもっぱら、そのばてれん達によって伝えられて来たものが多いが、ここに今宵いる島井宗室の如きは、必ずしも、それから示唆《しさ》を得て今の家業を創《はじ》めたものではない。
同行の神谷宗湛《かみやそうたん》の父の紹策《しようさく》などは、もう天文初年頃から朝鮮へも渡っているし、中国にも行き、厦門《アモイ》、柬蒲寨《カンボジヤ》などとも交易していた。
それ以前の家の業はいわゆる鉱山師《やまし》で、石見《いわみ》銀山の採掘《さいくつ》をもっぱらにしていたものだが、同じ富を掘るものなら海外の無限な天地に求めるべきだと、貿易へ転業したのである。
「海の彼方だ。物は南にある」
と、頻りに彼を示唆したものは、後に西方から来たばてれんではなく、その地理上、当然、九州博多の一端を巣としていたわが和寇《わこう》の輩《ともがら》だった。
で、宗湛はその父の遺業をうけて、今では呂宋《ルソン》、暹羅《シヤム》、柬蒲寨《カンボジヤ》の数ヵ所に、支店まで設けていた。南支の櫨《はじ》の実を移入して、製蝋《せいろう》の法を開き、内地の夜の燈火をより明るくしたのも彼であり、海外の冶金術《やきんじゆつ》を入れて改良を加え、いわゆる南蛮鉄の製錬《せいれん》を齎《もたら》したのも彼だといわれている。が、人もしその功を称《たた》えれば、
「そんな小さいことではまだお賞《ほ》めにあずかる程なものではありませんよ」
と、むしろ辱《は》じ入るように辞を低めるのが常だった。
島井宗室も、同じ海外貿易を業とする町人で、宗湛の家とは親戚にあたっている。九州の諸大名でこの家の金を借りていない者はない。港には十数|艘《そう》の大船と数百の小船を持ち、家には常にたくさんな武士と水夫《かこ》とも商人ともつかない男を養っている。彼らは疾《と》くに八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》の船旗を下ろしていたが、海洋を見ること平野を視《み》るごとき胆《たん》と、小事に顧みることなく爛々《らんらん》の眼をたえず海潮の彼方に向けて、男児の業はそこにありとしている気質とは、今もまだ決して変っていない。
とにかく、ここでは一茶人にすぎないが、島井宗室も神谷宗湛も九州の家にはそういう事業をもっている人々だった。
総じて、ひとり武門の出にかぎらず、天正という今の世代を観《み》るに、町人の部門にも、実に、人物は在る。
武門に信長、秀吉、家康があれば、町の部門にも、町人の信長、町人の秀吉、町人の家康がいる。
それも九州博多ばかりでなく、堺《さかい》にはいわゆる堺商人の称もあるほど、天王寺屋|宗及《そうきゆう》、千宗易、松井友閑など、当代の武将に伍しても、人物達識決して見劣りしない傑物は、何人となく数えられる。
地勢上、博多町人は、進取の気宇《きう》と、呑海《どんかい》の豪気に秀《ひい》で、堺町人は経営の才と、文化性に富み、またこれを政治に結ぶことを忘れない特性をもっていた。
貿易家とも呼べようし、政商ともいえるであろうそれらの町人に対して、信長は表面茶遊をもって接しているが、戦国下の経済から文化政策、対外国の諸問題、たとえば対ばてれん策、或いは、将来の海外雄飛にわたる抱負《ほうふ》までを、何くれとなく諮問《しもん》していた。
信長の海外知識は、ほとんど、これらの人々から、茶をのむ間に、学び取ったものといっても、過言でないほどである。
いまも信長が、はなしに我を覚えなくなると、南蛮菓子へ手を出して、幾つでも食べる様子を見て、島井宗室が、
「それには、砂糖という物を用いてありますから、お寝《やす》みの前に、たくさんはおよしなさい」
と、注意すると、信長は、
「砂糖はどくか」
と、訊《たず》ね返した。
宗室はそれに答えて、
「どくにはなっても、薬にはなりますまいな。いったい蛮土《ばんど》の物は濃厚《のうこう》で、日本の物は淡味《たんみ》です。菓子でも、干柿《ほしがき》や糯《もち》の甘味で、十分舌に足りていたものが、砂糖に馴れると、もうそれでは堪能《たんのう》しなくなります」
「九州にはもうだいぶ砂糖が渡って来ておるか」
「あまり輸入《いれ》ません。じゃがたら砂糖一斤に、黄金一片の引き換えでは、余りにこちらの割があいませんから。――そのうちに砂糖黍《さとうきび》を舶載《はくさい》して、暖地に移植してみたらと考えていますが、莨《たばこ》と同様これも国内に拡まっていいものか悪いものか、考えさせられます」
「そちらしくもない」
信長は一笑した。
「狭く考えるな。善いも悪いも、一括《いつかつ》されて、舶載されて来るのが、文化の特質だ。低きへ水のつくように。ここ当分は、とうとうと西洋南洋からいろいろ雑多に入って来るだろう。いまやそれの東漸《とうぜん》は止まらない勢いにある」
「御気性として、その広大なおこころは分りますが、それに委《まか》せておいてもよろしいものでしょうか。……と致せば、てまえどもの商売はたいへんやりよいわけですが」
「よいとも、新しい物はどしどし輸入《いれ》るがいい」
「ははあ」
「そのかわり、噛んで吐き出せよ」
「吐き出せとは」
「よく噛んで、よい質は胃に摂《と》り入れ、滓《かす》は吐き出してしまうことだ。それを四民が心得ておりさえすれば、何を舶載しようと仔細はない」
「いけません、いけません」
宗室は手を振った。頭から反対なのである。信長の言に対して、しかも国政の方針へ、彼は、ずばずば私見を述べるのであった。
「天下人のお大気《たいき》としては、まさにそうあるべきでしょうが、近頃、心痛に堪えないものを見ておりますゆえ、にわかに御同意はできません」
「何を見てか?」
「異教の蔓延《まんえん》です」
「ばてれんの問題か。宗室、お汝《こと》も寺にたのまれたの」
「ちと、お蔑《さげす》みが過ぎましょう。大徳寺なども、こちらのほうがよいお客様ですよ。真実、国を憂いてのことでございます」
宗室は真面目に、国政上の進言を呈した。――きょう連れの宗湛《そうたん》と本能寺へ来る折、空濠《からぼり》に落ちた子どもを見かけた事実を例にあげた。それに対する三名のばてれんの行動が、いかに殉教的《じゆんきようてき》で、庶民を感動させなければ措《お》かないものだったかを、まず話して、
「ここわずか十年ともいわぬうちに、大村、長崎はもとより九州、四国の辺土、また大坂、京都、堺などにかけても、先祖からの仏壇を捨てて、耶蘇教《やそきよう》に帰依《きえ》する者がどれほどあるか底知れませぬ。右府様にはただ今、何を日本へ舶載しようと、噛んで吐き出せばよいと仰っしゃいましたが、宗門の儀だけは、さようにも参りますまい。噛めば噛むほど、魂までが、異教の風に化して、磔《はりつけ》になろうと、首を打たれようと、異教を改めることは致しませぬでな」
信長は黙ってしまった。これは問題が深刻で一言にいうには大き過ぎるという顔いろである。
彼は、叡山《えいざん》を焼き、根来《ねごろ》を攻め、日本在来の教団に対しては、かつての平相国《へいしようこく》すらなし得ない暴をもって慴伏《しようふく》させて来た。弾圧などという、手ぬるいものではない。業火を降《くだ》し、剣殺をもって臨み、為に一応の処理はついたかに見えるが、今なおその怨みは決して信長在る地上からは消ゆべくもあるまいことを誰よりも彼自身が知っていた。
その半面、宣教師らには、南蛮寺の建立をゆるし、布教を公認し、折々の饗宴にも招いたり、これを高野や根来《ねごろ》の僧から見れば、彼はいったい、いずれを異国人として見ているのかと、大呼したいくらいなものがあったにちがいない。
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燈情風心《とうじようふうしん》
信長は説明を忌《い》む。何につけ説明しきってしまうことが嫌いである。云いかえれば、人と人との直感を尊ぶ、というよりも、楽しむといった方が適切かもしれない。
「宗湛《そうたん》――」
と、こんどは向きをかえて、新たな相手へ、
「どうだな、お汝《こと》の考えは。お汝は若い、老宗室とはおのずから違うものがあるだろう」
宗湛は慎重な面《かお》をして、しばらく燭を見ていたが、はっきり答えた。
「やはり右府様の仰せられたように、異教のことも、噛んで吐き出す、で宜《よろ》しいのではないかと思われます。いや唯今、そう、ふと覚《さと》りました」
「それよ。それ」
信長はわが意を得たもののごとく、転じてその眼を宗室へ、
「案じるな、大きく掴《つか》め。いにしえ、道真公《みちざねこう》が、和魂漢才《わこんかんさい》と唱《とな》えて、時人の弊風《へいふう》と、遣唐使《けんとうし》の制を戒《いまし》めたことがあるが、唐風の移入も、西欧の舶載《はくさい》も、春なれば春風の訪れ、秋なれば秋風の湿《しめ》り、この国の梅や桜の色は変らぬ。むしろ池水に雨が注《そそ》げば池を新たにする。――本能寺の濠《ほり》を以て海洋を測《はか》るから間違ってくる。そうじゃないか、宗室」
「いや、分りました。まこと、濠は濠で」
「海の外は、海の外よ」
「老ゆれば、いつか島井宗室も、濠の蛙《かわず》となりましたかな」
「どうして、そちは鯨《くじら》だ」
「いや、とんと、眼幅《がんぷく》の狭い鯨ではありました」
濠ということばから思い出されたか、気がつくと、伽藍《がらん》の天井高く、夜気《やき》は更《ふ》けて、遠くに、濠の蛙の声がする。
「誰《た》ぞ、白湯《さゆ》を持て」
うしろに居眠っている小姓へいいつけて、信長はなお夜に飽かない顔をしていた。もう食べもせず飲みもせず、夜噺《よばなし》の興があるだけだった。
「お父上」
信忠は、膝を辷《すべ》らしかけて、
「夜もだいぶ更けました。わたくしは、お暇《いとま》をいたします」
「まだよい。まだよい」
いつになく信長はとめた。
「二条ではないか。更けたとてすぐそこだ。春長軒はすぐ門前。博多の客殿は、まさか博多へ帰りもなるまい」
「いえ、てまえだけは」
と、島井宗室も帰る体《てい》を示して、
「明朝、会う約束の者がございますゆえ」
「では、泊るのは宗湛ひとりであるか」
「わたくしは、宿直《とのい》を仕《つかまつ》ります。茶室のあと片づけも仕残しておりますから」
「宗湛の泊るのは、信長のためではあるまい。大事な道具を携《たずさ》えて来ておるため、道具の宿直《とのい》に残るのであろう」
「御賢察《ごけんさつ》にたがいませぬ」
「正直に云いおるわ」
一笑してから、ふと後ろの床を振り向いて、壁間の一幅《いつぷく》を飽かず見つめ出した。
「……さすがに、この牧谿《もつけい》はよいの。近頃の眼福。信忠もよう観《み》ておけ。これがかねて噂にも聞く牧谿の遠浦帰帆之図《えんぽきはんのず》。なんと宗湛《そうたん》は、憎い名幅を所持なす男ではないか。――が、この男、かほどな名画を持って、持ち負けせぬ男かどうかの?」
突然、宗湛、大口あいて笑い出した。これでこの男の面目は躍如《やくじよ》と見えた。眼に信長もない笑い方である。
「宗湛、何を笑う」
すると宗湛は傍人を顧みて、
「ごらんなさい。右府様がまた例の神算鬼謀《しんさんきぼう》をもって、わたくしが所持の牧谿《もつけい》の一幅を、召し上げようとなされていられる。……この男が、遠浦帰帆《えんぽきはん》など持って、持ち負けせぬかな? などというお言葉は、そろそろ乱波《らつぱ》を放って、敵国を攪乱《こうらん》しにかかっているものです。――叔父御あなたの御秘蔵の楢柴《ならしば》の茶入れもお気をつけなさいよ」
と、なお笑い止まない。
これは中《あた》っていた。さっきから信長の眼はそれを明らかに渇望《かつぼう》している。けれど、島井家の楢柴の茶入れも、神谷家に伝来する牧谿の遠浦帰帆も、ともに博多の名物として有名なものだけに、信長も無碍《むげ》に云い出しかねていたのである。
が、いま、持主の宗湛のほうからこれを表面化してくれたのは、さほどお望みならば進上してもよい――と約束してくれたも同様だと信長は考えた。なぜならば、こう傍若無人に人を笑っておいて、そのあげくその人の欲する物は与えないという情理はあり得ないからである。
で、信長も、
「はははは、いや宗湛も隅にはおけない。信長の年頃ともならば、やがては遠浦帰帆を持っても然るべき茶人となり得よう。それまでは安土へ預け置くことじゃな」
と、戯れの裡《うち》に、真意を吐いた。
「これは、いずれに置くのが正しいか、数日後、堺《さかい》の宗易どの、宗及どのなどともお会いしますから、よく一同で熟議しておきましょう。まったくは、筆者の牧谿その人に糺《ただ》すのが、いちばんですが」
信長の機嫌はいよいよ麗《うるわ》しい。それからも侍臣が燭《しよく》を剪《き》ること数度だったが、白湯《さゆ》のみ飲みながらなお時の移るも知らない。
夏の夜とて、伽藍《がらん》の蔀《しとみ》も扉もみな開け放してある。
そのためか、燈火の火色はたえず揺らぎ、夜霧の暈《かさ》がぼっとかかって、牧谿|画《えが》く遠浦帰帆の紙中の墨にまで滲《にじ》みあうような湿度であった。
もし誰か、燈火占《とうかうらない》をなすものがいて、この夜の灯に対していたら、すでに何かの凶兆《きようちよう》が、夜霧の暈《かさ》や丁子《ちようじ》の明暗にも、卜《うらな》われていたかも知れない。
表の寺門を叩く音がした。程経て近習から、中国の戦場からお飛脚がいま到着と披露してくる。
それを機《しお》に、信忠が立ち、宗室も辞した。
「……帰るか」
信長もついに一緒に起って、橋廊下のこなたまで共に歩いた。
「御寝《ぎよし》なされませ」
信忠はもういちど、橋廊下から父の影を振り向いた。
村井春長軒|父子《おやこ》は、その側に、紙燭《ししよく》を持って佇《たたず》んだ。もとより何の予感があったわけではないが、父子が今生の永別を一瞬惜しみあうために、その紙燭はしばし夜風に燃えているようだった。
本能寺十余坊の堂舎伽藍《どうしやがらん》は、墨のように寝沈んで、夜は子《ね》の下刻《げこく》(午前一時)を過ぎていた。
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九本旗《くほんばた》
老坂《おいのさか》。――ここから先は山城国《やましろのくに》になる。
丹波口《たんばぐち》から登りつめて、右すれば、山崎天神馬場から摂津《せつつ》街道、一路備中の国へつづく。
左に降りれば、沓掛《くつかけ》、桂川《かつらがわ》をこえて、道はそのまま京へ入る。
光秀はここに立った。まさに頂《いただき》である。あたかもこの日までの彼の人生の如くここまで登りつめた。
道はふた筋ある。
なおまだ、彼の前にはそのいずれでも選べば選び得る二つが、最後のものとして岐《わか》れ目を示していた。
だが、一眸《いちぼう》に入る夜色は、もう何らの反省を彼に強《し》いるものでもなかった。むしろ宇宙は、この一箇の人間に宿命づけたものをもって、明日からの大きな世の一転革《いちてんかく》を約しているもののように、静かな星のまたたきを見せていた。
「…………」
休めの令は下っていないが、光秀の駒が止まったため、また彼のすがたが星空を衝《つ》いてじっと鞍上《あんじよう》に坐ったまま、しばらく動きもせぬために、それを仰いで、前後にきらめく諸将の甲冑《かつちゆう》も、あとに続く夥《おびただ》しい鉄甲の影、旗の影、馬匹の影も、黒々と立《た》ち淀《よど》んで、そのあいだに汗を拭い、草鞋《わらじ》の緒《お》を見、馬の口輪を持ちかえなどしていた。
「そこらに、清水が湧いているな。ちょろちょろ水音がするが」
一万三千という大部隊では、列の末の方は、まだ頂上に遠い坂道の途中に歩を止めていた。組々の部将は当然近くにいるが、中軍の幕将や光秀のすがたは伸び上がっても遥かで見えない。――命令もなし、何のために行軍が停頓《ていとん》しているのか、もちろん足軽組あたりには分らなかった。
「あった。……水がある」
ひとりが、道に沿っている崖の肌を探《さぐ》って、ようやく暗がりの岩蔭に小さいせせらぎを見つけると、われもわれもと、そこへ寄って、竹の水筒へ清水を満たした。
「これで天神馬場までは助かる」
「兵糧は山崎か。いや夜が短いから、海印寺《かいいんじ》あたりで暁《あ》けるだろうな」
「日中は馬も疲れるから、なるべく夜のうち朝のうちに、道を捗《はかど》るお考えではないかな」
「そうありたいものだ。中国までは」
足軽たちはもとよりそれ以上の士分でも、物頭格《ものがしらかく》の部将以外、まだ何も知らなかった。
戦場はまだ遠い――としていたのである。組頭《くみがしら》の耳に入らぬ程度の囁《ささや》きや笑い声はそのゆとりを現わしている。中で一名、腹痛を訴えている兵があった。出陣早々もう病苦を訴えるのは何事だと同僚たちが咎《とが》めつつも励ますと、
「いや俺は、ふた月も前から腸を病み通しで、いまだに本復していないのだ。だがなあ、この御陣に洩れてはと、歯を食いしばって出て来たのさ。――老親《としより》にも女房子にも、稀《たま》には、帰って功名ばなしの一つも聞かせ、一合のお扶持《ふち》でも御加増に逢って、歓ばせてやりたいからな」
列は前へ揺るぎ出した。粛々《しゆくしゆく》、行軍の足なみに回《かえ》る。その頃から素槍《すやり》を引っさげた部将が、一倍大股な足どりで、絶えず隊側を監視しつつ進んだ。
左へ左へ。しかも黙々と。
軍馬は老坂《おいのさか》の分水嶺《ぶんすいれい》を東へさして降《くだ》り始めた。西、中国への道へ折れたものは一兵もない。
(……はてな)
怪しみは眼から眼へ光った。だが怪訝《いぶか》る者もまた続いた。彼ら末輩は、ただ翻《ひるがえ》る旗を仰いだ。
――この旗の赴《おもむ》く道に間違いはないのだ! と。
戛《かつ》、戛、戛、石ころを蹴る馬のひづめに坂路《はんろ》の急は度を加えてくる。たまたま、谷へ落ちてゆく石の響きはひどく大きい。
すでに一万余の隊列は、どうどうと、何物にも阻《はば》められない滝津瀬《たきつせ》の水にも似ていた。加速度に脚は早くなってくる。堰《せ》くも止まらず、阻《はば》めるも堰《せ》かれず、遂に、赴《ゆ》くところまで赴くものとなった。
汗か露か。具足の肌着はすぐ濡れる。焔々《えんえん》、馬も人も、その喘《あえ》ぎに燃えてゆく。大枝《おおえ》の山間を繞《めぐ》りまた降って、淙々《そうそう》と聞く渓流のすぐ向うに、松尾山の山腹が壁のように迫って見えたときである。
「やすめ」
「腰兵糧を解け」
「馬にも草を飼え」
「火は焚《た》くな」
令から令が伝えられて来た。
ここはまだ山腹の沓掛《くつかけ》の部落である。僅か十数戸の山樵《やまがつ》や炭焼の小屋があるにすぎない。にもかかわらず、中軍の警戒は甚だきびしく、麓《ふもと》の方にも、過ぎて来た道の方にも忽ち哨戒隊《しようかいたい》が配置された。
「どこへ行くっ」
「水を取りに渓《たに》へ降ります」
「隊伍を離れてはならぬ。他の者の竹筒から貰え」
崖道《がけみち》でこんな声もする。
士卒は腰兵糧を解いて黙々それに向い始めたが、口に噛む間の私語《ささやき》がだいぶ聞える。この山中で時ならぬ腹拵《はらごしら》えは何のためだろうと怪しみ合うのであった。すでに夕方|篠村《しぬむら》八幡を立つ折に一食は解《と》いてある。
なぜ山崎なり橋本なりで、夜も明けた頃、人里で馬を繋いではいけないのか。
彼らにはその疑いが解《げ》せないと共に、どこまでも今なお中国へ向うのだという気持そのままでいたのだった。――なぜならば中国道には、老坂《おいのさか》の分れに限らず、この沓掛《くつかけ》からも、右折すれば、大原野を経て山崎、高槻《たかつき》へ出ることはできるからであった。
だが、ふたたびここを立つと全軍の歩みはわき目もせず真っ直ぐに塚原へ降り、川島村へ出で、すでにして眼の前には、全軍おおかたの将士にとっては、真に思いもかけなかった桂川《かつらがわ》のながれを四更《しこう》の空の下に見ていた。
「あ、桂川だ」
「桂川?」
俄然《がぜん》、士卒は譟《さわ》ぎ始めた。こう来ればこう出る当然な歩みをして来ながら、われにもあらぬ眼をみはって、一颯《いつさつ》、冷風に吹かれるや否、惣勢《そうぜい》足なみを竦《すく》み止めた。
「しずまれっ」
「立《た》ち譟《さわ》ぐな。濫《みだ》りに私語するな」
馬上の物頭《ものがしら》幾名かが、動揺の見えた全軍に大呼しつつ駈け繞《めぐ》る。
水明りに、また川風に、水色|桔梗《ききよう》の九本旗は長竿《ながさお》を弓となすばかり、はためき鳴った。
「源右衛門、源右衛門」
騎馬の一将が高々と手を挙げて呼びぬいている。一隊の部将として右翼の端のほうにいた天野源右衛門は、お召しと感じたので、馬を隊伍の中へおいて此方《こなた》へ駈けて来た。
光秀は河原に立っていた。
炯々《けいけい》たる幕将たちの眼もとは源右衛門へ注《そそ》がれた。霜鬢《そうびん》白き斎藤|内蔵助《くらのすけ》の面《おもて》、ほとんど仮面かとも見えるほど悲壮な気稟《きひん》をおびている左馬介光春《さまのすけみつはる》の顔。諏訪飛騨守《すわひだのかみ》、御牧《みまき》三左衛門、荒木山城守、四方田《しほうでん》但馬守《たじまのかみ》、村上|和泉守《いずみのかみ》、三宅《みやけ》式部、そのほか幹部たちの夥《おびただ》しい甲冑《かつちゆう》の影が幾重にも光秀を囲んで、鉄桶《てつとう》のごときものを作っていた。
いうまでもなく、ここの幹部だけには、やがて二刻《ふたとき》とは経たないうちに、天下に何事が突発するか分っている。天下の何人たりと知るよしもない地異人乱《ちいじんらん》を、未然に知っているということのいかに空怖《そらおそ》ろしきものであるかを、さすがにここにいる面々とて、その眉目《びもく》なり五体なり、また、ことばの五声に包みおおせている者はない。
「寄れ。源右」
光秀自身からであった。近々とさしまねいて、
「はや夜明けも程なかろうず。そちは一隊をひきいて先へ川を渡れ。西七条から堀川へ出よ。仔細は、味方の内より駈け抜けて、万一、本能寺へ事を告ぐる者などもあれば、直ちに、これを斬って捨てる事一つ。また未明のうちとて、早立ちの旅人やら京に通う物売りなどは疾《と》く往来しているやも知れぬ。これに要意あるべき事一つ。――以上だ。すぐ先を駈けい」
「承知仕りました」
「あ、待て――」
と呼びとめて、また、
「同じ要意のために、疾《と》く、保津《ほづ》の宿より山中の間道を経て、北嵯峨《きたさが》へ降り、地蔵院より西陣の道を備えつつゆく味方がある。忠秋、藤田伝五、並河《なみかわ》掃部《かもん》たちの一隊だ。霧を隔てて同志打ちすな。桔梗旗《ききようのはた》一本、竿《さお》横ざまに携《たずさ》えて行け」
と、かさねて云った。
命令は緻密《ちみつ》である。声は切れるように鋭い。いまや高度に働いている光秀の頭脳と、裂《さ》けん一歩の前まで緊張している満身の血管がそれによっても分るほどであった。
天野源右衛門の手勢数百が、ざぶざぶと、桂川を徒渉《としよう》してゆくのを見て、明け空近い旗風の下の一万余人は、いよいよ不安を募《つの》らせた。
光秀は馬上へ回《かえ》った。
以下、続々駒の背へ移る。
わずかな遑《いとま》でも、すぐ駒を降りて、甲冑の重さを背から除いてやるのが、馬に対する武将の思《おも》い遣《や》りでもあり、また戦場を前にしての細心な備えでもあった。
「心得を触れおく。――聞き洩らして不覚すな」
光秀の側から物頭の一名が口へ掌《て》を囲んで、二度三度、大声を繰り返していた。
「馬の沓《くつ》を切り棄てろっ」
触れの声の第一番から高く聞え渡った。
「よいかっ。馬の沓は切り棄てにいたせよ。――徒歩立《かちだ》ちの面々はすぐ新しきわらじを穿《は》け。山道で弛《ゆる》んだ緒《お》をそのままに穿いているなよ。緒はゆるく確《しか》と結べ。水に浸《つか》って足を食われぬ程に」
大音声《だいおんじよう》ではあるが、物頭は噛んで含めるように、繰り返し繰り返し、その声もつぶれきるほど風の中で告げるのだった。
「――鉄砲組の者どもは、火縄切り、尺五寸に切り揃えろ。その口々に火をわたし、火さき五本ずつ逆《さか》さに提げて、かりそめにも、手ぬかりあるな。兵糧|殻《がら》、身まわりの物、些細なりと、四肢のうごきに荷となるものは、何なりと後を思わず、川のうちへ投げ捨てろ。ただ得物得物のほか持つな」
触れは終った。
愕然《がくぜん》たる気色《けしき》が、全軍の上に、川波より明らかにうごいた。同時に騒然たるものが湧いた。声ともつかない、行動ともつかない。右を見、左を見、しかも私語は禁じられているので、ただその顔と顔との、何とも名状し難い、声なき声であった。
だが、どこを見廻しても、命令後、一瞬の間《ま》も措《お》かず、忽ち行動は起されていた。それも迅速《じんそく》極まるもので、日頃の訓練にも勝《まさ》るこの一斉な外面だけを眺めては士卒個々の心のなかに、前にいったような、遅疑《ちぎ》、不安、驚愕《きようがく》などが譟《さわ》いでいるとは一見思われない程ですらある。
馬の沓《くつ》、火縄、わらじの緒、身拵《みごしら》えの構えまで、一瞬の動作が、大きな一体のすがたで忽ち終ると斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》は、老人とはいえ、百戦に鍛えた武者声をはりあげて、次の如き云い渡しを、文書から読み伝えるように云い渡した。
「――歓《よろこ》ばれよ面々。今日よりして、わが殿、惟任《これとう》日向守様には、あやまりなく天下様にお成り遊ばさるるにてあるぞ。ゆめ疑うな。足軽、草履取の末とても、勇みよろこび候え」
声はその位置から遠い足軽草履取の端にまでよく届いた。死せる如くみな呼吸《いき》をとめていた。――が、この一呼吸の後にあらわれたものは、歓びでもなく、喊呼《かんこ》でもなく、哭《な》くが如き蒼白な戦慄《せんりつ》と無言の硬直であった。
内蔵助は、眼を閉じてなお一倍、われをも励ますかのように叱咤に似たことばで告げた。
「今日を措《お》いてあるまじき日はまさに明けようとするぞ。手柄あれ各※[#二の字点、unicode303b]。侍分《さむらいぶん》にはわけても恃《たの》み参らすぞよ。よし斃《たお》るるも、兄弟子《きようだいこ》ある者には、跡職《あとしき》の儀は申すに及ばず、兄弟子なき者どもとて筋目筋目の縁を尋ね出し、後々の跡目恩賞は決して相違あるものではない。尤《もつと》も働きの高下にはよるが」
終りに至って、内蔵助の語気は著しく昂《あが》らなかった。これはもとより光秀の命による布告で、彼としては何となく、自身の心にそぐわ[#「そぐわ」に傍点]ぬものがあったのではあるまいか。
「いざ、渡れ」
天はまだ暗い。
桂川の流れは、一時、徒渉《としよう》の陣馬の堰《せき》にせかれて、対岸まで幾条となく白々と逆捲《さかま》いた。
振り返れば、もう桂川の中には、余《あま》している人数もない。
濡れ草鞋《わらじ》を踏み叩いて、全軍は身ぶるいした。身は濡らしても、火縄を濡らした兵はなかった。
膝ぶしまで浸《つ》けた清冽《せいれつ》は氷よりも冷たいものだった。そのあいだにも将士は思い思いの考えを抱いたに違いない。――徒渉にかかる前に物頭と老臣から云い渡された戦闘に入ることばについて。
(さては、徳川殿を討つのだ)
こう判断していた兵がまだ大部分であったろう。漠《ばく》として、
(いま討つべき者としたら、徳川家康を措《お》いては、手近にはいない)
と、思いつつまた一方で、
(それにしては、今日よりわが殿が、天下様に成られるとはどういう意味か)
を頻りに考えた。
そこまで思い及びながら、まだなお念頭に、信長の名は敵として思い出されて来ないほど、彼ら明智一家の将士は道義人倫に一筋な者どもだった。迂遠《うえん》といえばいえるが、その道義に固められて来た頑固な一筋気は、物頭格より組頭、組頭よりは小頭、小頭よりは足軽草履取といったような末の者ほどそうであった。これを無智単純と見、或いは慾に釣《つ》られての附随《ふずい》とし切るのは、この場合、余りにも傷《いた》ましい数《すう》である。
「おお、明けてきた」
「はや夜明けだ」
ちょうど如意《によい》ケ嶽《たけ》と東山のあいだあたりに当るだろう。一朶《いちだ》の雲の縁《ふち》がキラと真っ赤に映《は》えた。
ひとみを凝《こ》らすと、京都の町も、暁闇《ぎようあん》の底に、見えないことはない。だが、老坂や三草《みくさ》の丹波|堺《ざかい》をふりむくと、まだ鮮明な星が数えられた。
「や、死骸だ」
「……ここにも」
「おっ、彼処《かしこ》にも」
道はすでに京都の西七条の入口に近い。東寺の塔の下までも、所々の藁屋根《わらやね》や森を除く以外、右も畑、左も青田、いちめん露をおびた耕地であった。
その道傍《みちばた》の松の根方や、往来の真ん中や、いたる所に死骸が倒れていた。みなこの近くの農民らしい。茄子《なす》の花の中へ、眠っているような顔を伏せて、笊《ざる》を抱いたまま一太刀に斬り殺されていた若い娘もある。
血しおは今こぼされたばかりに見える。朝露よりも新しい。思うに本軍の前を先駈けして行った天野源右衛門の手勢が、早起きする農民たちの姿を田や畑に見かけて、大事のためには代えられじと、その無辜《むこ》を愍《あわれ》みながらも、逃げるを追って刺し殺し去ったものにちがいない。
地に鮮血を見、空に鮮紅な雲を仰いだとき、光秀は、手の鞭《むち》をやにわに挙げて、
「本能寺へいそげ。本能寺を覆《おお》い包め。――光秀の敵は、四条本能寺と、二条|妙覚寺《みようかくじ》の内に在《あ》るぞ。行けッ、行けっ。踏みおくるる者は斬るぞ」
鐙《あぶみ》の革も断ち切れんばかり鞍腰《くらこし》上げて絶叫した。
それを戦機として、水色|桔梗《ききよう》の九本旗は、三旗ずつ三部隊にわかれ、七条口を突破して、中町の木戸木戸を踏みやぶり、いちどに洛内《らくない》へ混み入った。
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鼓《こ》 譟《そう》
時をあわせて、五条の木戸、四条三条筋の木戸木戸へも、明智軍は駈け分れて殺到した。
まだ霧こそ深いが、東山のうえは紅々《あかあか》と黎明《れいめい》に染められている頃なので、往来人のために、常のごとく木戸の潜《くぐ》りは開かれていた。
その潜《くぐ》りからどう[#「どう」に傍点]と、馬も人も、槍も鉄砲も、押し合って混み入ろうとした。旗竿《はたざお》は寝かして通った。この混雑をながめた部将は、
「押すな、慌《あわ》てるな。後の隊はしばらく潜りの外に待て」
と、一応、むりに抑えて、大扉《おおど》のかんぬき[#「かんぬき」に傍点]を抜き、八文字に開け放してから、
「それ、通れ」
と、大声で励ました。
本能寺の濠《ほり》に迫るまでは、枚《ばい》を銜《ふく》んで、喊声《かんせい》を発すな、旗竿も伏せてゆけ、馬も嘶《いなな》かすな――と軍令されていたが、ひとたび木戸を突破して、町なかへ駈け入るや否、明智の部下はすでに、半ば狂乱の状態をあらわしていた。
前の方で、わあっと、吾れもなきかのような声があがると、駈けつづく中ほどでも、わあっと叫び、後の方でも、わあっと呼応した。
その喊声《かんせい》のつむじは、何とも名状しがたい卒伍《そつご》の感情をふくんでいた。怒るが如く、猛《たけ》るが如き中に、悲痛|哭《な》くが如き絶叫も交じっていた。
町々はまだしずかな朝霧につつまれて眠っていたし、ここにはなお侵《おか》すべからざる聖域のあることは、卒伍の端といえど深くわきまえている。
よし、いかなる匹夫下郎《ひつぷげろう》にせよ、都といえばすぐ、大君のおわします都、華《はな》の都、文化の都――と、あらゆる意味においての平和と伝統への尊敬がその観念のなかに泛《うか》び出ずにはいられない。
――行け、本能寺へ。
反《そむ》き得《え》ない主命に従い、また武門同士の後ろ見できぬ気持に押し押されて、彼ら卒伍の者たちは、いまや自分自分の踏み込み難い観念の一線からまず眼をつぶって踏み越える気もちであった。――わあっという声の中に血をもっているような声のあらしは、そのせつなに、彼の脳膜《のうまく》を半狂態にして捲《ま》き揚ったものである。
「なんじゃ?」
「何事かよ?」
愕《おどろ》いて、彼方《かなた》此方《こなた》の家で、戸の音も聞えたが、外を見ると、みな首をひそめ、もとのように急いで戸をたててしまった。
こうして七条、四条、三条の各方面から本能寺へひた寄せに押し縮《ちぢ》めて来た幾部隊かのなかで、もっともはやく本能寺へ接近したのは、明智|左馬介《さまのすけ》光春、斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》などの率《ひき》いる一軍で、わけて利三のすがたは、その中でもかなり先方に見られて、
「霧の小路はうす暗い。抜け駈けせんと、町辻を踏みたがえるな。――本能寺の森は、さいかち[#「さいかち」に傍点]の木が目印《めじるし》ぞ。その大竹藪《おおたけやぶ》を、雲のすきに目あてとせよ。あれだ。あれこそ、本能寺のさいかち[#「さいかち」に傍点]の木」
と、この朝をもって老いの武者声の一期《いちご》と誓っているもののように、馬上、天をつくばかり指揮の手を振っていた。
べつに明智光忠の率いる第二軍と称するものの行動がある。これは三条筋へあふれて、煙のごとく辻々をよぎり、二条妙覚寺へさして包囲形を作りながら取り詰めた。いうまでもなくそこに宿泊している信長の長子信忠を、本能寺方面と、ときを同じゅうして、討ち果すためである。
ここと本能寺との距離はいくらもない。すでにその頃、暁闇《ぎようあん》をへだてて、本能寺方面の空には何とも形容し難い物音が揚りはじめていた。いんいんと吹き鳴らす陣貝の音や鉦鼓《しようこ》のとどろきも聞えた。それは、天を震い地を揺るがすといっても、決して誇張ではないほど、この世の相《すがた》をただならぬものにした。およそこの朝、洛内の全市民は、寝耳に水をあびて刎《は》ね起きたか、家の者に絶叫されて、飛び起きなかった者もあるまい。
禁裡の諸門をめぐる公家《くげ》たちの、常にはひっそりしている第宅《ていたく》の地域ですら、忽ちさまざまな物音や人声が騒然と起った。それらのものと鼓譟《こそう》する軍馬のひびきで、一瞬、京都の空はぐわうと鳴るような思いがあった。
けれど、市民の狼狽《ろうばい》はせつなの寸間だけで、堂上やしきも一般民家も事態を知った直後には、却って、寝しずまっていた前よりも、ひっそりとしてしまった。もちろん人っ子ひとり往来をあるく影もない。
外はまだなお、ようやく咫尺《しせき》に人顔の見わけがつく程度であったから、妙覚寺へ向った第二軍は、べつの小路から迂回した味方の影を敵と疑ったり、また部将が、
「号令のあるまでは撃つな」
と、かたく戒《いまし》めても、辻の曲り角へ来ると、気の逆上《あが》っている卒は、忽ちパチパチと霧の中を銃を盲射《もうしや》し始めていた。
硝煙《しようえん》を嗅《か》ぐと、なおさら彼らの気はそぞろに猛《たけ》り紊《みだ》れた。この状態は、何度戦場を踏んだ卒でも、捨身になりきれるまでの間には、どうしても一度は通る気持だった。
「おっ、彼方《あつち》で貝や鉦《かね》が聞える。――始まったぞ、本能寺の方は」
「やっているな」
「やっているっ」
彼らは自分の足が地についているかいないかも覚えなかった。駈けつつもまだこんな声が誰の口からともなく衝《つ》いて出るほど前面に何の抵抗も現われていないのに、満身の毛穴はそそけ立ち、その鳥肌になった顔や手に冷たい霧があたって知覚もないようなここちであった。なにか、声を発しないではいられないような気もちに揺《ゆ》りあげられた。
為に、妙覚寺の築土《ついじ》を見ないうちに、ここでも、わっと喊声《かんせい》をあげてしまった。突如として、部隊のさきの方でも、わあっと答え、また金鼓乱鉦《きんこらんしよう》を急拍子に鳴らし始めた。
光秀は第三軍にいた。
彼のいるところ即《そく》本営といってよい。その本陣は堀川に駐《とど》まっていた。一族の十郎左衛門忠秋、御牧《みまき》三左衛門、荒木山城守、諏訪飛騨守《すわひだのかみ》、奥田宮内《おくだくない》などに取り巻かれ、床几《しようぎ》はそこにおいてあったが、一刻《いつとき》もその床几に倚《よ》っていなかった。そして全身を耳にして、雲の声、霧のさけびを望みながら、たえず二条方面の空を見ていた。
刻々、朝雲の紅《あか》さは漲《みなぎ》っていたが、まだ火もあがらない、煙も見えない。
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一杓《いつしやく》の水《みず》
信長は、ふと眼ざめた。
何に刺戟されたというわけではない。熟睡のあと、いつもの朝のごとく、極めて自然に、醒《さ》めかけたのである。
早起きは彼の習性であった。どんなに遅く寝ても、未明に眼をさますことは、若年からの生活が自然に躾《しつ》けてくれたものだった。それともうひとつ彼には彼特有な習性があった。
眼がさめたとたん――まだ眼がさめたともはっきり意識せず、もちろん枕から顔もあげないうちのことである。だからそれは、夢から現《うつつ》へ転じる電瞬のような秒間であるが、その短いあいだに、彼の頭の中では、実に、さまざまな想念が、あたかも電光《いなずま》のごとき速度で往来するのであった。
多くは、幼時から今日までの、あらゆる体験と、現在の生活にたいする反省をなしている場合が多いが、将来の理想とか、明日《あした》の備えとか、或いはその日に成し果たそうとすることなども、その夢うつつの間に、考えるともなく考えるのである。
習性というよりは先天的なものかもしれない。幼少すでに彼は稀代《きたい》な空想児だった。だが生《お》い育つに従って、荊棘《けいきよく》の現実は、空想の子を空想の中にのみ夢みさせておかなかった。現実は艱難《かんなん》また艱難を与えて、彼に荊棘を切り拓《ひら》く快味を教えた。
試《ため》されては剋《か》ち、剋《か》っては試されつつある成長の期間に、遂には、与えられる艱難を征服するだけに止まらず、求めて艱難へ突入し、艱難をうしろに振り向くときの愉快な人生を、人生の最大なよろこびとなすことを覚えた。さらに、それから得た自信に固められた信念は、いつか世人の常識をはるか超えた上に住むような心態《しんてい》になっていた。安土《あづち》以後にいたっては、およそ、彼の限界には、いやまだ構想中の思界においても、不可能というものはなかった。なぜならば、彼の今日までの業は、ことごとくみな世人の常識外に出て、不可能を可能として来たことばかりといってもよいほどの道だったからである。
――今朝も。
眼はさめても、なお意識まではさめきれず、血管のなかにはまだ夜来の酒気もそのまま香《かお》っているかのような夢中と現身《うつしみ》の境に、彼の脳裡《のうり》には、南方の島々や高麗《こうらい》の沿海や、ゆくてに大明国《だいみんこく》をさしている大船列や、その船楼に立つ自分のすがただの、宗及や宗室のすがたまでも描かれていた。いやもうひとりそこにはぜひ秀吉もいなければならないなどと思ったりした。生涯のうちいつかはと実現を期していた日も遠くない心地がしていた。
彼の意中ではすでに、中国九州の統一のごときは、終生の事とするに足らないとしていたのである。
「……明けたな」
つぶやいて、寝所を出た。
廊へ出る所の重い杉戸は、工匠《たくみ》の精巧《せいこう》な工夫で、引くと自然に、キリキリッと閾《しきい》が啼《な》くようになっている。遠い小姓部屋の者も、それを聞けば、すぐにがば[#「がば」に傍点]と眼をさますのであった。
油で拭き磨いたような太柱や板縁を、紙燭《ししよく》の光がてらてらと揺れうごいて来る。お目ざめ――と覚《さと》って、厨《くりや》のわきのお手水《ちようず》の間《ま》へ足を急がせて来る小姓の森|坊丸《ぼうまる》、魚住勝七、祖父江孫丸《そふえまごまる》などであった。
その途中、寝殿の北廊下のほうで、カタンと切窓の蔀《しとみ》を上げる音が聞えた。小姓たちは、
「殿?」
と、思ったのか、足をとめて、覗《のぞ》くように、そこの袋廊下を振り向いた。けれど奥に見えた人影は、涼やかな大模様の帷子《かたびら》に、住吉の松と吉野の桜を染めわけたうちかけを掛けて、その背までみどりの黒髪をうしろへ辷《すべ》らせている女性であった。
蔀《しとみ》をあげたそこの窓に、桔梗《ききよう》色の暁空《あけぞら》が切り抜いたように望まれた。そして吹き入る風にその人の黒髪が揺れ、小姓たちの佇《たたず》んでいるところまで、伽羅《きやら》の香《にお》いが送られて来た。
「あ、あちらに」
小姓たちは駈け出した。厨《くりや》の方に水音を聞いたからである。
庫裡《くり》の寺僧も起き出ていないので、当然、天窓《たかまど》も大戸もまだ開け放されてはいない。それにおそろしく広い厨《くりや》の土間や板の間には、まだ昨夜の闇と蚊うなりもそのまま残されているので、夏の朝の何ともいえない温蒸《うんじよう》がむっと顔の脂《あぶら》を撫でるのであった。
信長はその甚だ爽《さわ》やかでない一刻《ひととき》が人いちばい嫌いである。彼が寝所を出たと思うと、いつも小姓たちが駈け寄るのも間にあわないほど、朝のうがい手水《ちようず》は迅速だった。いまも仮の便殿に入ると、筧《かけひ》の注いでいる大甕《おおがめ》のかたわらへ寄って、自身小桶をつかんで塗《ぬ》りの盥《たらい》にそれを汲み入れ、まるで鶺鴒《せきれい》のようにあたりを水だらけにしながら、せっかちに顔を洗いぬいていた。
「あ、お袖が濡れまする」
「お水をおかえいたしましょう」
小姓たちは恐懼《きようく》して、ひとりは慌《あわ》てて信長のうしろからその白綾《しろあや》のたもとを持ち、またひとりは水を汲みあらため、さらに一名は手ぬぐいを捧げてその足もとにひざまずく。
ときを同じゅうして、侍部屋の人々も、宿直《とのい》の間を立ち、御殿の妻戸を開けているかのような気配だったが、折ふしはるか表御堂《おもてみどう》の方にあって、ただならぬ物音がしたと思うと、遠くからこの奥殿へ向って、だ、だ、だ、だっと烈しい跫音《あしおと》がとどろいて来た。
信長は、鬢《びん》の毛のしずくもそのままきっと振り向いた。そして、
「見て来いっ。坊丸」
と、性急に命じてから、その後で、手にしている布で面《おもて》をつよく拭きこすっていた。
「表御堂《おもてみどう》の御番衆が、争いでも起したのでございましょう」
そのときもう彼の後ろへ来て侍列《じれつ》していた山田弥太郎、今川孫二郎、薄田《すすきだ》与五郎などは、問われるともなくこう答えたが、信長は否《いな》ともいわず頷《うなず》きもしなかった。そしてその眼は一瞬、深淵《しんえん》の水にも似て、外へ求める光よりも、彼自身の内に澄んで、自身の記憶の中のものを探し求めるかのように耀《かがや》いていた。
それは実に束《つか》の間であった。
表御堂ばかりでなく、ここの客殿も、棟から棟へつづく十幾坊の堂舎も、たとえば地殻から揺りあげて来た地震《ない》の力にでも委《まか》されているかのように、何とも名状しがたい物音と凄愴《せいそう》の気にくるまれて来たのであった。
「……?」
こういうとき、いかなる人間の思力も、他に紊《みだ》されずにはいられない。信長の面色も血を退《ひ》いていた。近衆小姓の面々もさっと色を失っていた。
それも呼吸の数にすれば、わずか七息か十息の間に過ぎない佇立《ちよりつ》であったろう。忽ちすぐ近くの大廊下を非常な迅さで駈け過ぎようとした人影があった。烈しい声でつづけさまに、
「殿っ、殿っ」
と、その血まなこは、あらぬ方へ求める人を捜《さが》していた。
小姓たちは、一斉に、
「森どの、森どの。殿は、こちらですぞ」
と、声を合わせて、居どころを示し、信長自身もまた、
「於蘭《おらん》、於蘭、どこへ参る」
と、呼ばわった。
「おうっ、そこにおいで遊ばしましたか」
森蘭丸なのである。のめるようにひざまずいた彼の姿を見ただけで、信長はすでに五体の皮膚から感じていたこの異様なるものの気はいが、決して表御堂のさむらい達の争いや厩者《うまやもの》の喧嘩などという生やさしいことではないことをなおさら強く覚《さと》った。
「於蘭、何事が起ったのだ。そも、何を騒動しておるのか」
早口にこう問うと、蘭丸もまた、より早口に、
「――明智の者が推参《すいさん》いたしたのです。まぎれもなき桔梗旗《ききようのはた》を振り譟《さわ》いで」
「なにっ、明智?」
愕然《がくぜん》と出た一語には、まったく予測も夢想もしていなかった驚き方が、余すところなく現われていた。しかし、それによって起る肉体の異様なる衝動も感情の憤激《ふんげき》もことごとく彼の唇《くち》もとにきっと結び止められたまま表面の彼なるものは常の信長とそう変らない程に平静を保ちながら、やがて次の一語をその唇から唸《うめ》くように洩らした。
「明智か。……是非もない」
身をひるがえすと、信長は居間の内へ駈け入った。蘭丸もその後を慕《した》いかけたが、五、六歩立ち戻って、うろうろする小姓の面々へ、
「各※[#二の字点、unicode303b]は、はや出合え。坊丸には今、縁まわりの大戸妻戸など、めったに開け放つなと、云い触れさせた。諸所の戸口に立ちふさがり、殿の身近に、敵を寄らすな」
と、叱咤《しつた》した。
そのことばも終らぬうちに、雨の土砂でも横ざまに打《ぶ》っつけて来るように、厨《くりや》の戸や近くの窓などへ、ばしゃばしゃッと矢や弾丸《たま》がそそがれて来た。板戸を深く射抜いた矢は、そのするどい鏃《やじり》の光をすでに何本も植えて、屋内の者へ戦いを宣していた。
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推《すい》 参《さん》
六角の南、錦小路《にしきこうじ》の北、洞院《とういん》の西、油小路の東、本能寺の四面両門はもう明智勢の甲冑《かつちゆう》と、先途《せんど》を争う寄せ声で埋まっていた。
が、濠《ほり》を前にしているので、一見難なく見えるそこの築土《ついじ》へも、たやすくは取り付かれなかった。槍、旗竿《はたざお》、鉄砲、長柄《ながえ》などの林が犇《ひし》めき動いているに過ぎなかった。
「なんの」
「われこそ」
と、無碍《むげ》に逸《はや》って、その中から築土の根がたへ跳んだ者も、跳び損ねた者も、例外なく濠の中へ落ち込んでしまった。具足の重みもあるため、そこへ落ちたがさいご、腰の辺まで異臭を持つおはぐろ[#「おはぐろ」に傍点]のような泥土の沼に埋められ、あがいても叫んでも、戦友すら顧《かえり》みてくれないのである。
錦小路|側《がわ》の一部隊は、すぐ附近の貧民窟《ひんみんくつ》の民家をぶちこわしにかかっていた。潰《つぶ》された家の下から嬰《あか》ン坊《ぼう》を抱いた女や老人や子どもらが、貝殻の中から逃げるやどかり[#「やどかり」に傍点]みたいに逃げ散った。またたく間に、明智勢は柱を運んで濠へ渡し、戸板や屋根をもって濠を埋めた。
どっと、われがちに築土へたかる。鉄砲組は銃をそろえて、その上から内部の伽藍《がらん》へ向って、第一弾を撃ちこんだ。
そのときまだ本能寺の境内も、諸坊の建物も張合いのないほどひっそりしていた。表御堂《おもてみどう》の扉《と》もすべて閉まっていて、この内に目ざす敵が在るや否やを疑わしめるほどだった。
この朝の火の手と煙は、本能寺の外の尿小路《いばりこうじ》から先に揚ったのである。ぶちこわされた家屋の下にあった火気が忽ちいぶり出して苦もなく次々の板屋建てを焼いていった。そのためにこの一劃《いつかく》の貧しい住民はおたがいに踏み殺し合うような騒ぎを捲き起して、泣き喚《わめ》きながら一物も持たずに河原や町の中へあふれ出した。
これを正反対の惣門《そうもん》の方から望むと、あだかもその煙は、すでに裏門を突破した味方が、庫裡《くり》へ火を放《つ》け始めたかのように思われた。で、正門の前へ雲集した第一軍の主力は、
「裏門の味方におくるるな」
と、猛《たけ》り合《あ》い、刎橋《はねばし》の此方でただ時を移しているかのごとく揉《も》み揺れている将校の一団にたいして、
「踏みつぶせ」
「押し通れ。何をしている」
と、うしろの卒伍から呶鳴る声すら沸《わ》いていた。
これはそこに立った三宅式部《みやけしきぶ》や村上和泉守などが、門内の番士へ向い、
「これは中国へ下る明智の軍勢に候うが、右大臣家の尊覧《そんらん》を仰ぐため、勢揃いして罷《まか》り越え候。御開門を乞《こ》う」
と、奇略を試みて、惣門の扉《と》を敵に開かせようとしていたために、却って手間取っているものだった。
けれどもとよりこれほどな空気を門衛の将士が不審に思わぬわけもないし、また信長の意も伺わず一存で開門する理由もない。
「待て」
と、一言聞えたのみで、それきり門内の声のないのは、急を表御堂へ告げて、咄嗟《とつさ》の防禦に狂奔《きようほん》しているものに違いなかった。
これしきの濠《ほり》を越えるのに計《はかりごと》を用いるなど、もどかしと見て犇《ひし》めいていた後ろの将士は、そことはべつに、どうと前列を押して、
「かかれ、かかれ。何を猶予《ゆうよ》」
「築土《ついじ》へ取りつけ」
と遮二無二、槍の一番口を取ろうと競《きそ》い合って、怯《ひる》む者は、押《お》し除《の》け押し倒した。
為に、前列の一部はいやおうなく、濠の中へ突き落された。わっと濠の底でも上でも喊声《かんせい》を沸《たぎ》らせる。ほとんど故意に、そこをまたうしろの組が押す。また落ちる。また押し雪崩《なだ》れる。――みるまに空濠の一ヵ所は泥土にまみれた人草で埋まった。
「御免」
と、一人の若い母衣武者《ほろむしや》が、その人間のかたまりを踏みつけて築土の根がたへ跳びついてゆく。
それに倣《なら》って、また一人が、
「踏まれていろ、踏まれていろ」
と、呶鳴りながら、槍の石突《いしづき》を突きながら、踏み渡って、早くも築土のうえへしがみついた。
濠の中の人草は、刎《は》ね出そうとする泥鰌《どじよう》のように揉《も》み合ったが、その背を、肩を、頭の上を、次々に味方の者の武者|草鞋《わらじ》が踏みこえてゆくので、惨たる犠牲になっている。
しかしその隠れたる勲功者のために、はやくも本能寺の墻壁《しようへき》の上には、明智の三羽鴉《さんばがらす》と呼ばるる古川九兵衛、箕浦大《みのうらおお》内蔵《くら》、安田作兵衛の輩《ともがら》が、
「一番っ」
と、誇って呼ばわる声がとどろき、またそれらの者といずれが先か後かも疑わるる程、むらがり攀《よ》じた武者たちのうちには四方田又兵衛、堀与次郎、川上久左衛門、比田《ひだ》帯刀《たてわき》などの勇姿も見えた。
当然、築土《ついじ》の内側には、すでに門側の衛門小屋や厩《うまや》の辺りから駈けつけた織田のさむらい達が、得物《えもの》を選ばず押っ取って、奔河《ほんが》の決潰《けつかい》をふせぎに当ったが、まさに切れた堤《つつみ》を手で支えんとする業《わざ》にも似ていた。
それらの刀槍をまるで無視して、ひらりひらり跳び降りて来た明智の先手は、接戦たちまち幾つかの死骸を踏みこえ、敵の血しおに彩《いろど》った姿をもって、
「右大臣家|御一方《おんひとかた》こそ、ただわれらの目ざすところ」
と、なすもののように、表御堂や客殿をさして驀《まつ》しぐらに駈け進んだ。
表御堂の広縁や客殿の高欄《こうらん》のあたりからは、それへ向って、叫ぶ風そのままな矢唸《やうな》りが吹いて来る。距離は弓に有利な矢ごろ[#「ごろ」に傍点]であったが、矢の多くは武者に中《あた》らず、土を掘り、地を辷《すべ》り、或いは遠く築土に刎《は》ね返った。
その中に、寝衣《ねまき》一つで、或いは半裸体で、しかも得物《えもの》も持たず、やらじと甲冑の敵に組みついている猛者《もさ》も見えた。これらの番士は非番の暇を得て、夏の夜の暑さに心からくつろいで寝ていた者どもであったが、その出遅れを恥じてか、ほとんど、体当りの勇気だけで、明智の武者をいささかなりと食い止めんものと、死力を発していた。
しかし防ぐべくもあらぬ鉄甲の怒濤《どとう》はすでに、伽藍《がらん》の大廂《おおびさし》の下までひたひた迫《せま》り襲《よ》っている。
いちど室内へ駈けもどった信長は、白綾の小袖の上に、大口《おおぐち》の袴《はかま》を穿《うが》ち、奥歯を咬《か》むほどな力で、その紐《ひも》を結んでいた。
「弓を。弓をっ」
そのあいだに、二度三度、こう求めて、誰やらがひざまずいて、眼の前に捧げる弓を、引っ奪《た》くるように掴《つか》むや否、
「女どもは落ちよ。女は遁《のが》れてゆくも苦しゅうない。足手まといになるな」
と、云い捨てて妻戸の外へおどり出た。
彼方《あなた》此方《こなた》、踏みやぶる戸障子の物音をも衝《つ》きぬいて、女たちの泣きさけぶ声、呼び交《か》う悲鳴が、一層、ここの揺れる甍《いらか》の下を凄愴《せいそう》なものにしていた。部屋部屋を逃げまどい、廊を奔《はし》り欄《おばしま》を越えなどする彼女らの狂わしい裳《もすそ》や袂《たもと》は、その暗澹《あんたん》を切って飛ぶ白い火、紅《くれない》の火、紫の火にも見える。
そしてそこらの蔀《しとみ》にも柱にも欄にも、矢や弾丸《たま》の来ない所はない。すでに信長が広縁の一角まで出て射戦しているので、その姿に集注してくるものが奥へ外《そ》れて来るらしかった。
「匹夫《ひつぷ》が」
と、一矢《いつし》を放ち、
「推参《すいさん》な」
と、眦《まなじり》を切っては一矢を射る。――その信長の戦いを見ては、怖ろしさに、自分を見失っている女たちですら、ここを落ちて行くにも行けない気がして、声かぎりに哭《な》くのであった。
――人間五十年、化転《ケテン》ノウチヲ較《クラ》ブレバ、夢幻《ユメマボロシ》ノ如クナリ。とは、彼が好きな小唄舞の一節であり、若年に持った彼の生命観でもある。彼は決して、今朝の寝ざめを、天変地異とは思っていない。人間同士のなかにはあり得る出来事であり、それが今や、自分の前に来ているという観念でしかない。
とはいえ、彼は、はやくもその観念の眼をふさいで、
(もうだめだ。最期だ)
とはしなかった。むしろここで死んでなろうかという猛気に燃ゆる戦いぶりであった。生涯の大業としている胸中の理想はまだ半ばも遂げていないのである。この中道に敗れんか、余りにも無念だ。この一朝《いつちよう》に死なんか、余りにも残念なのだ。つがえては切って放つ一弦《いちげん》一弦の弓鳴りはその憤りを発するに似ている。しかもその弦《つる》もほつれ、弓も折れようとしていた。
「矢を。矢がない。矢を持て」
彼は、うしろへ叫びつつ、そこらの廻廊に落ちている敵の外《そ》れ矢まで拾って射た。そのとき練紅梅《ねりこうばい》の鉢巻して、大模様の片袖をかいがいしく脱ぎ絡《から》げたひとりの女性が一抱《ひとかか》えの矢を運んで来てその一本を彼の手に捧げた。信長は見て、
「阿能《おのう》か。もうよい。落ちろ落ちろ」
と、烈しく顎《あご》で追いやった。けれど阿能局《おのうのつぼね》は、信長の右手へ次々に矢を渡して、叱られても去らなかった。
腕よりは、気稟《きひん》である。弓勢《ゆんぜい》というよりは気魄《きはく》である。信長が射る矢は、
(匹夫の冥加《みようが》となせ。天下取《てんかとり》の矢の根を賜わるぞ)
と、いうが如き豪壮《ごうそう》な矢唸《やうな》りがあった。しかも阿能局の運んで来た矢数も忽ち射尽してしまったほど、矢つぎ早であった。
寺内の庭上、そこかしこ、彼の矢に中《あた》って、斃《たお》るる敵が見えた。けれど矢風を冒《おか》して、
「右大臣家と見奉る。いまはのがれ難きところ。いさぎよく御《み》首級《しるし》をさずけ給え」
と呼ばわり呼ばわり、そこの欄《おばしま》の直下へ或いは橋廊下へ攀《よ》じのぼって彼の側面から、必死と迫って来る甲冑の敵は、ちょうど此寺《ここ》のさいかち[#「さいかち」に傍点]の木に朝晩群れる鴉《からす》のようであった。
もちろん、信長を中心に、そのうしろ、その横の廻廊では、
「寄せじ」
とする近衆小姓の刃《やいば》が、必死の火を降らしていた。
森蘭、森力、森坊の兄弟三人もそこにいた。魚住勝七、小河《おがわ》愛平、金森|義入《ぎにゆう》、狩野《かの》又九郎、武田喜太郎、柏原《かしわばら》兄弟、今川孫二郎なども終始主君のそばから離れずに斬りふせいでいた。
すでに討死をとげて、廊壁を血にそめている屍《かばね》には、飯河《いいかわ》宮松がある、伊藤彦作がある、久々利《くくり》亀之助がある。中には、敵と組んだまま、重なり合って、相討ちをとげている者も見える。
一方、表御堂番衆の組は、本堂を戦場として、敵を御殿に近づけまいと、さっきから猛烈な血戦を起していたが、御殿へ通じる橋廊下の口を敵勢に取られそうなので、総勢といっても、わずか二十名たらず、一手になって奥へ駈け集まって来た。
そのために、橋廊下へ踏みのぼった明智の武者は、挟撃《きようげき》に遭《あ》って、突き立てられ、斬り落され、その下に屍《かばね》を積んだ。
なおまだそこに無事だった信長の姿を見るなり、表御堂の面々は、われを忘れて叫んだ。
「いまのうちに。おうっ、今の間にこそ。一刻もはやく、ここをお立《た》ち退《の》きあらせられませ」
「ばかなっ」
信長は、弓を捨てた。弓も折れ矢も尽きていたのである。
「退《ひ》ける所かは、退ける所でもない。長柄《ながえ》をかせ」
彼は、そう叱咤すると、臣下の得物を引っ奪《た》くって、獅子のように廻廊を走った。彼方の欄《おばしま》に手をかけて、登ろうとした敵の一武者を見、その真っ向へ一撃を下したのである。
明智方の川上久左衛門は、槇《まき》の木の蔭から半弓を引きしぼっていた。矢は信長の臂《ひじ》に刺さった。信長はよろめいて、うしろの蔀《しとみ》に背を支えられた。
が、これしきの傷手《いたで》に、信長はまだ屈するものではない。かつて彼が四十三歳の天正四年、大坂|若江《わかえ》の合戦のときなどは身すでに大納言右大将という高位であったにかかわらず、足軽の中に交《ま》じって駈けまわり、足にも鉄砲をうけ、身にも太刀傷をうけつつ、わずか三千の兵で、一万五千の大敵を衝《つ》きくずした例もある彼である。死は怖れないが、いたずらに死を急ぐ彼ではない。また、貴人の名分にとらわれて、敵の雑兵と戦うに怯《きよう》なる右大臣家でも決してない。
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寂《じやつ》 火《か》
そのとき、ちょうどその頃といえる。西の築土《ついじ》の外でも、小戦闘が起っていた。
本能寺附近にあった所司代邸の内から打って出た春長軒村井長門守|父子《おやこ》とその家来小者の一勢が、明智軍の包囲を外から衝《つ》いて、正門の内へ駈け入ろうと試みたものであった。
前の夜、春長軒父子は、信忠などとともにおそくまで信長の前に語らい、官邸に帰って眠ったのはかれこれ三更《さんこう》に近かった。
そのための熟睡も、今朝の不覚《ふかく》をなした原因といえよう。彼の職分としても、尠なくとも明智勢が洛内へ足を踏み入れると同時にこの変を知るべきであった。また知るや否、すぐ前の本能寺へ寸前にでも急を告げていなければならない。
何もかも油断だった。だが油断は実に信長ひとりだけでなく、市中に宿泊し、或いは在邸していた者すべてにあったといってよい。
「何事か外が騒がしいようで」
と、初めに起されたときも、春長軒はまだ、かかる大事とは覚《さと》らず、
「喧嘩でもあるか。見て来い」
と、配下にいった。それから悠々《ゆうゆう》起床にかかる間、土塀門の屋根上で、小者が、
「錦小路あたりに煙が立ちのぼっております」
というのを聞いても、
「また、尿小路《いばりこうじ》の失火か」
と、舌打ちして呟《つぶや》いた程だった。
それほど世は泰平《たいへい》と錯誤《さくご》していたのである。ゆうべも今朝も、実に変らぬ戦国下の一日であり、その中の都でもあることを、ふと忘失していたのである。
「なに。明智勢が?」
と、仰天《ぎようてん》したのは、それから一瞬ともいわない直後であって、
「すわ」
と、ほとんど着のみ着のままで、一度は邸外へ躍り出たのであった。
ただ見るほどの暗い朝霧の中いちめんに、濛々《もうもう》と立ちけぶっている物の具きびしい騎馬|剣槍《けんそう》を見るや、長門守はまた急いで邸内に引っ返し、よろい櫃《びつ》を覆《くつが》えして、具足を着こみ、打物とって、
「つづけ」
と、子息二人、その余の者、ひっくるめて、三、四十人を手兵とし、信長の側へ駈けつけようとしたものであった。
とはいえもちろん、本能寺を中心として、八方の大路小路《おおじこうじ》は、明智の諸部隊が手分けして、瞬時に交通を遮断していた。衝突は西の築土《ついじ》の角あたりから始まって、猛烈な白兵戦を展じ、哨戒《しようかい》の一小隊を衝きくずして、惣門のやや近くまで迫ったが、ひとたび明智方の中堅《ちゆうけん》がそれを顧みて、
「小癪《こしやく》な」
と、槍を揃えて来るや、ほとんど、歯も立たないほど突き立てられ、長門守|父子《おやこ》も傷を負うし、小勢の味方は半数に打ち減らされてしまったので、
「この上は、妙覚寺へ参って、信忠卿と一手にならん」
と、道をかえて奔《はし》り出した。
振り向いて、本能寺の大屋根を仰ぐと、そのとき初めて、雷雲のような真っ黒な煙が、噴きのぼっていた。
坊中へ火を放った者は、寄手の明智か、信長の家臣か、また信長自身か、今は到底、それらの行動をつぶさに見分け得るようなここの状況ではない。
煙は、表御堂からも、殿中の一室からも、大台所からもほとんど同じ頃に噴き出した。
大台所では、小姓の高橋虎松と、二、三の者が、鬼もあざむくような奮戦をしていた。
ここでは納所《なつしよ》の僧が、疾《と》く起きていたらしく、僧の影はひとりも見えないが、二斗|炊《だ》きの大釜をかけた竈《かまど》の下には、薪《まき》が焚《た》きつけてあった。
虎松は、大土間の戸口に立ち、混み入る明智の者を、のっけに二人まで突き刺し、槍を奪われて、多数に立ち向われるや、板敷へ上がって、厨房《ちゆうぼう》の器具を手あたり次第投げつけて防いだ。
針阿弥《しんあみ》という茶道の者、平尾久助という年少の小姓も、切《き》っ先《さき》をそろえて、彼とともに力戦した。武装もせぬ弱冠《じやつかん》の敵が、わずか三、四名に過ぎないのだと見縊《みくび》りながらも、多くの甲冑《かつちゆう》武者は、容易にそこの板縁まで踏みのぼることができないでいた。
「何を手間取っているか」
部将らしい一武者は、ここを覗《のぞ》くと、竈《かまど》の下の火の薪《まき》をつかみ出して、いきなり高橋虎松や針阿弥などの面《おもて》を狙って投げつけた。また、納戸《なんど》の内へも投げ入れ、天井へも抛《ほう》りあげた。
「奥へ」
「奥にこそ」
信長が目標である。途端に、どどどっと押し上がり駈け入り、武者|草鞋《わらじ》は薪《まき》の火を踏み散らして屋内へ分れた。その後はもうここかしこ蔦《つた》紅葉《もみじ》のように柱やふすまを這う火であった。ふたたび動くことなき虎松や針阿弥《しんあみ》の姿にも火がついていた。
厩《うまや》の方面は騒々しい。十頭ほどの馬が床を蹴り羽目板《はめいた》を打って狂いぬいている。うち二頭ほどはついに横木を外《はず》して外へ暴れ出した。これは狂奔して、明智勢の中へ飛びこんで行ったが、あとの馬は、火を見ていよいよいななき猛《たけ》っているのみだった。
厩方のさむらい矢代《やしろ》勝介、伴《ばん》太郎左衛門兄弟、村田吉五などはそこを去って、信長の姿の見えた御殿の階下に立ち、ここを最後の奉公場所としてみな討死の枕をならべた。
逃げようとすれば逃げられないこともなかった厩中間《うまやちゆうげん》の端にいたるまで、それらの組頭《くみがしら》について二十四人|悉《ことごと》く戦って死んだ。虎若、小虎若、弥六、彦一、岩、藤《とう》九、小駒若《ここまわか》などという御小人《おこびと》たちである。日頃は名もなき輩《ともがら》といわれていたのが、血を以てする奉公の一日には、禄《ろく》の隔《へだ》てにも官位の高さにも劣らぬことを無言で示した。
健気《けなげ》にもゆかしい男は、町中の宿所にいた湯浅甚助《ゆあさじんすけ》と小倉|松寿《しようじゆ》の二小姓である。変を知るやふたりとも、本能寺の中へ駈けつけて来た。おそらくは明智勢の混雑のなかを無二無三|紛《まぎ》れこんで入ったものであろう。すでに煙にくるまれている信長の居間近くまで飛びこんで来るや否や、
「甚助まいりましたっ」
「松寿っ、駈けつけました」
叫びつつ、求めつつ、出会う敵と、斬りむすんでいた。
明智方の進士作左衛門は、湯浅甚助を突き伏せた。
血に染んだ大槍をひっさげて、二間三間踏みこえてゆくと、味方の箕浦大《みのうらおお》内蔵《くら》の影を煙の中に見た。
「大内蔵か」
「おうっ」
「お手柄は?」
「まだ、まだ」
たがいに信長の姿を求めているのである。いや競《きそ》っているといったほうがいい。すぐ相別れて煙の下を潜《くぐ》ってゆく。
火はすでに屋根裏へも廻っているらしく、ぐわうと伽藍《がらん》の中は鳴っている。甲冑《かつちゆう》に触《さわ》れば皮革や金具が手に熱く覚えるほどだった。――が、それにしても見わたすところ、瞬時にして、人影が見えなくなった。ありと見れば屍《かばね》であり、いると思えば、明智の同衆である。その明智の人数も、棟木《むなぎ》に火がついたというので、あわてて外へ溢《あふ》れ出たものが多い。
事実、なお中に踏み止まって、彼方《かなた》此方《こなた》と駆けている者は、時には煙に咽《む》せ、時には火塵《かじん》をかぶっていた。燃え切れた金襴《きんらん》やら板切れに火のついたものが、襖《ふすま》も扉も踏み外《はず》された広間のうちを霏々《ひひ》と吹きみだれ、さながら焼け野のように明るくしていた。
奥の小間や控えの辺りは、それに反して濛々《もうもう》と晦《くら》い。濃い煙で、中廊下も袋廊下も見さだめ得ないほどだった。
森蘭丸は、いま閉《た》て籠《こ》めた一間の杉戸を、その背で守るが如く抑えて、凝然《ぎようぜん》と突っ立っていた。
血ぬられた槍を手に、右を見、左を見、跫音《あしおと》と感じれば、すぐ槍を向けた。
「……お声はまだか」
室内の気《け》はいにも、彼は全身を耳にしていた。たった今、そこへ駈け入った白きものの影こそ、右府信長にちがいない。
寺中一円に火を見、また側近の者があらまし討死を遂げて行く最後の一瞬まで、彼は戦いきった。敵の雑兵《ぞうひよう》をも相手にして雑兵の如き奮戦すら敢えてした。「名もなき者に首を取られんことの口惜し――」などという生やさしい名聞などは彼の顧慮《こりよ》するところでない。――死のうは一定《いちじよう》だ。いのちを惜しむのではない。いのちの持つ大業を惜しむのだ。
二条妙覚寺は近い。所司代邸はすぐそこだ。市中に在宿の侍たちもある。万が一にもあれ、外からの連絡があれば、血路をひらき得ないこともないと彼は思う。そういう閃《ひら》めきと、いや謀叛人《むほんにん》はあのきんか[#「きんか」に傍点]頭である。明智ほどな者が、かかることを仕出来《しでか》すからには、水も漏らさぬ用意の上であろう。所詮は覚悟のときか。――とする二つのものも、彼の脳裡《のうり》には闘っていたであろう。
枕をならべて討死した扈従《こじゆう》の面々の骸《むくろ》をあわれと見やりながら、ついにそれらの者の死を生かし得ない刻々に取り巻かれて、信長もついに、
「今は」
と、戦うを休《や》め、蘭丸を外において、そこの一室へ退いたのであった。
「――内で、信長の声が聞えたら、信長が自害をとげたものと思え。空骸《むくろ》にはすぐ襖《ふすま》を積み火を加えよ。それまで敵をここへ踏み入らすな」
蘭丸へ向って、信長はこう告げてある。
杉戸の口は固い。四方の障壁にはまだ恙《つつが》ない金碧《きんぺき》の絵画が眺められる。どこからともなく薄煙は流れ入るが、火焔が伝わって来るには微《かす》かな遑《いとま》がありそうである。
――死に就くのだ。あわてるには及ばない。
誰か自分へいっているような心地がする。そこへ入るやいな、彼は四囲の熱気よりも喉《のど》の渇《かつ》を焦《や》けるように思った。そして崩るる如く、座敷の中央に坐りかけたが、思い直してすぐ一段高い長四畳ほどの床の間へ坐した。下は平常、臣下の坐るところと限られていたからである。
一杯の水を喉《のど》へ下ろしたという仮想《かそう》を持って、彼は慥《しか》と精神を丹田《たんでん》に落着けるべく努めた。そのために膝を正し、姿をととのえ、平常ここにあって衆に君臨するときのままな自分を保とうとした。
あらい呼吸が鎮まるにはやや遑《いとま》があったが、心は、
――これで死ぬのか。
と自分でさえ疑われるほど平静であった。呵々《かか》と、一笑を発したいようなものすら覚える。
――おれも抜かった。
と思い、光秀のきんか[#「きんか」に傍点]頭を想像してみても、いまは何の憤《いきどお》りも出ない。あれも人間だから怒ればこれくらいなことはやるだろうと思った。それにつけても自分の油断は嘲《わら》うべき一代の失策だったし、彼の怒りも愚かなる暴挙《ぼうきよ》に過ぎないことを愍《あわ》れんだ。あわれ光秀、汝もまた、幾日をおいて、予のあとを追わんとするや、と問うてみたい。
左の手に鎧通《よろいどお》しの鞘《さや》を持った。右手《めて》でそれを抜いた。
――急ぐことはない。
なお自分で自分に云い聞かせる。火はまだこの部屋に燃えついていない。
瞑目《めいもく》した。
すると、物心ついた少年時代から今日までのことが、それを千里の駒に乗って見て来るように頭に映《うつ》った。
それは非常に長い時間を要するかのようであるが、事実は一瞬の呼吸のうちに過ぎない。死なんとする刹那、人の生理は、異常な機能を働かせて自己の通って来た全生涯に、平常の追想に似た訣別《けつべつ》をなすものらしい。
「悔いはない」
信長は大声で云った。
そして眼をひらくと、四壁の金泥《きんでい》と絵画は赤々と燦《かがや》いていた。格天井《ごうてんじよう》の牡丹《ぼたん》の図も炎であった。
一声、悔いはないと、外にまで聞えたので、蘭丸はすぐ駈け入って来た。白綾《しろあや》の小袖は鮮血を抱いてすでに俯っ伏している。蘭丸は武者隠しの小襖《こぶすま》を引いて柩《ひつぎ》へ納める如く信長の屍《かばね》を抱え入れ、ふたたび静かにそこを閉めて、床の間から退《さ》がった。そして彼もすぐ屠腹《とふく》すべく短刀をにぎったが、なおその室がまったく焔と化しきるまでは、らんらんたる眼をくばって信長の屍《しかばね》を守っていた。
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遠浦帰帆《えんぽきはん》
ひとりの卑怯者《ひきようもの》もいなかった。ひとりの死汚《しにぎたな》い者も出なかった。悉《ことごと》くみな信長に殉《じゆん》じた。外泊していた者まで駈けつけて来て、主君の側に忠誠の枕をならべた。
昨夢一燼灰《さくむいちじんのはい》
枕頭鳥《ちんとうとり》不啼《なかず》
さいかち[#「さいかち」に傍点]の木の藪《やぶ》へ逃げこんで辛《から》くも難をまぬかれた寺僧のひとりは、茫然《ぼうぜん》、口のなかで呟《つぶや》いた。
男女を合わせて、侍童から厩中間《うまやちゆうげん》の端まで加えれば、信長の扈従《こじゆう》百余名はいたはずであるが、本能寺|全伽藍《ぜんがらん》、ただ見るぐわうぐわう燃える一炬《いつきよ》となったときは、一箇の人影も、一声の絶叫《ぜつきよう》もなかった。火は水の如く寂《じやく》たるものだった。
百霊の痛恨《つうこん》は思いやられる。悲惨はいうもおろかである。さはいえまた、極《きわ》まりなく美しい生命の業火《ごうか》よとも仰がれた。
ただしその炎へ身を挺《てい》しなかった人々もないことはない。それらはもちろん武門以外の者に限られていた。本能寺常住の老僧や庫裡《くり》の僧たちは逸早く禍《わざわ》いをまぬかれた。明智勢の方でも寺僧を殺戮《さつりく》する意志はないので、僧形《そうぎよう》の者と見れば、むしろ積極的に脱出を援《たす》けたのである。
あわれなのは女達だった。火とともに信長から「落ちよ、逃げよ、女どもに仔細《しさい》はない」と追われるように急《せ》かれても、彼女たちにはここを遁《のが》れ出る道があろうとは思えなかった。寺僧の群れと一緒に明智軍の中を駈け抜けても、武者|輩《ばら》は婦女子になど目もくれなかったであろうが、怖ろしくて近づきも得ず、ただ火の下を逃げ惑《まど》ったのはぜひもない。
これは、後に分ったことであるが、それでも彼女たちの大部分は、一命を取りとめ得ていた。
火が鎮まって後、池の中からぞろぞろ這い上がって来たのである。被衣《かずき》やうちかけなどを濡らして頭からかぶったまま、蓮《はす》の如く池の中に浸《ひた》って、焼け落ちる伽藍《がらん》と信長の終焉《しゆうえん》を目のあたりに見つつ、
(この世のことか)
と、茫然、火の粉の下に半ば自失していたものである。
やがて一纏《ひとまと》めにされて、明智勢の手で拉《らつ》し去られた女たちの中には、阿能局《おのうのつぼね》なる女性はいなかった。ほとんど奥仕えの侍女や雑婢《ぞうひ》たちに過ぎない。それゆえに、阿能局なる女性が信長の側にいたかいないかすら疑問視された。当時のうわさはそれを悼《いた》み合っても、名は伝説に付されて証《あか》すべきものも後にない。
滑稽なる道化者が、この中で独りその愕《おどろ》きを慎みなく踊って見せたのは皮肉である。それは信長の愛僕であった例の黒奴《くろんぼ》の黒助であった。彼は弥助《やすけ》という日本名までもらっていたが、日本の武将と武将の変乱に殉じる理由は毛頭《もうとう》ないし、当人には何が何だか分らない出来事にちがいない。何処《どこ》をどう逃げたか、横ッ飛びに駈けて、近くの南蛮寺へ飛びこんで行った。
折ふし師父カーリオンも、そのほかのばてれん[#「ばてれん」に傍点]も、その朝の鐘や祈祷もわすれ果てて、みな二階の露台に立ち並び、本能寺の火事を見物していたところだった。すぐ門前の往来を駈ける騎馬武者や避難する貧民の群れなども、南蛮風な柵の外に影絵のように眺められた。
例外な存在者としては、ほかにもう一名あった。婦女子でもない、外国人でもない、堂々たる男子である。
昨夜、本能寺に泊った客、博多《はかた》の神谷宗湛《かみやそうたん》だった。
宗湛が眠りに就いたのは、信長よりもおそかったはずである。席の後始末、道具の片づけなどをすまし、臥床《ふしど》に入って間もないことだったにちがいない。
何はともあれ、彼の身辺へも矢弾《やだま》が飛んで来たろうし、事態の重大も直感したろう。だが、この胆太《きもふと》い海外貿易家の若い博多町人は、
(ほう、これは大浪《おおなみ》だ。凡《ただ》の暴風《しけ》ではないぞ)
と、呟《つぶや》くかのような眼をして、衣服を着、帯をしめた後も、寝床《とこ》をたたんで、しばらくは一室の中に坐っていた。
そのうちに、明智衆の謀叛《むほん》と聞え、とたんに火の手を見たので、
(これはいけない)
と、思ったらしく、自分の泊っていた南坊から長い廊橋を駈け出した。
武者にもぶつかった。信長の小姓ともすれちがった。あやうく矢風にも掠《かす》られた。
二度ほど、物につまずいて、勢いよくころんだ。べとりと掌を血の中へ辷《すべ》らせた。気づいてみると、よろい武者と小姓衆のひとりが打ち重なっている。
死者のすがたが眼に映《うつ》ると、宗湛はみずから辱《は》じた。
自分は武門でない。ここで斬り死にする任はない。恩顧《おんこ》のある信長に対して義をもって殉じるよりも、なお価値の高い使命が、町人にはべつにある。だからここを遁《のが》れ出ることは不義でも恥でもないが、戸惑いうろたえて逃げたといわれては尠なくも博多町人の不名誉である。何のため日頃、茶道などに心入れしているかともいわれては、茶人の名折れともふと思った。
そこまで、駈けて来たのは、ゆうべ深更まで信長と語り合っていた茶席の広間へ行こうとしたのであるが、そのときまでは、ただそこに置いてある自分の道具のひとつが惜しかった心理に過ぎなかった。けれどこう意識してから後は、正しくべつな理由をもって、彼はそこの座敷へ入っていた。
近くの廻廊では、戦っているし、ふた間ほど先の部屋まで火は移っていた。それをよそにして彼は床の間の前へ立った。信長の乞いに委せて遠く博多から携《たずさ》えて来て鑑賞に供えた家伝来の幅《ふく》、牧谿《もつけい》の遠浦帰帆之図《えんぽきはんのず》は、たちこめる煙の中にも、名画の気品をすこしも譟《さわ》がしてはいなかった。
これを失うことは自己の一財を失うというような小さなものではなく、ふたたび生るるなき名画と国の宝を失うものである。宗湛は慥《しか》とそう意志しながら静かに壁間の懸物《かけもの》を外《はず》して巻き、箱にまで納めて、それを小脇に持った。
人心地もないかの如く、先を争って遁《のが》れ出て行く寺僧の群れも見たが、彼にはどことなく何も危険はないという信念があった。――で、悠々《ゆうゆう》と、明智衆の剣槍を掻きわけて、惣門の外へ通ってしまったのであったが、彼の確信に過《あやま》りなく、何の危難にも遭《あ》わず、ひとりの武者にも咎《とが》められなかった。
宗湛はその足ですぐ三条の茶屋四郎次郎の家へ行った。
「おはよう。御主人はもうお目ざめですか」
四郎次郎の家族たちはみな家の外へ出て、本能寺のほうに立ち昇る黒煙を眺めていたので、まずこう問うと、
「おや、宗湛さまですか。どうぞお上がり下さいまし」
主《あるじ》の弟夫婦があわてて奥へ告げにゆく。
この辺に住む者はまだ詳《くわ》しいことを知らないらしい。つい目と鼻のさきながら、ただの火事かのように見物していた。近くの小橋だの河原に具足をつけた明智方の哨兵《しようへい》が立っていたが、それも本能寺にある信長の警備の兵と考えて不審に思う者もないらしい。
「いえいえ。今朝はちと急ぎますから、お庭口から通させて戴きます」
宗湛は庭から入った。ここの主《あるじ》の茶屋四郎次郎もいわば自分たちと同業の海外貿易家のなかまである。茶屋の本店は堺《さかい》にあり、堺の納屋衆《なやしゆう》の一人であるが、多くは京都に住んで、加茂《かも》の清流に臨む閑雅な寮で、余生を楽しんでいる閑人かのように表面は見えるが、実は政治の中心地にあって、武門や堂上に接するためのここは支店ともいえる住居なのであった。
庭へ通ると、その四郎次郎は縁先で草鞋《わらじ》を穿《は》きかけていた。ふと、宗湛の姿を見ると、いきなり大声で先から云った。
「や。驚いたじゃろ、宗湛どの」
「いや、驚きましたよ。えらい所へ泊りあわせて」
「まったく、えらいことになったの。天下はどうなるか、ちょっと先が知れなくなった」
「もうご存じでしたか」
「いま知ったのじゃ。里村紹巴《さとむらじようは》から使いをよこしてくれたので」
と、紹巴の文を出して見せた。
「して、御主人には、これからどちらへ?」
「泉州まで行きます」
「御本宅へ」
「いや、ちと……」
と、四郎次郎は云い濁《にご》しながら、よほど先を急ぐとみえてもう立ちかけた。
宗湛は携えていた遠浦帰帆之図《えんぽきはんのず》の箱をそこへさし置いて、
「ご迷惑でございましょうが、これをしばしお宅へ預かっておいて下さいませぬか。実は私もこれから中国まで急に下りたいと思いますので」
「ほ、中国へ」
四郎次郎はあいての顔を見た。
にこと、うなずいて、
「ええ、私は中国へ急ぎます。あなたは泉州まで。――そこまで御一緒に出かけましょうか」
家の者に草鞋《わらじ》を乞うて、宗湛もすぐそこで旅装をととのえた。
徳川家康は、その後、京都大坂を経て、いまは泉州附近に滞留中と聞えている。茶屋四郎次郎は平常から家康を将来の人と見て接近し、常に何くれとなくその恩顧《おんこ》もうけていた。
中国にはいま誰がいる?
ふたりは不問《とわず》不語《かたらず》のうちに、次代の期待をべつの人間に賭《か》けていたのである。そしてそこは一緒に出たが、淀《よど》附近まで行くと、
「では、ここで」
「途中、気をつけたがよい。いやお互い様に」
と、西と東へ袂《たもと》を分った。
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檄《げき》
この朝、明けかけた空は、ふたたび暗くなった。本能寺から立ちのぼる煙は全市の上を蔽《おお》い、町筋は人影ひとつ見えず、蕭殺《しようさつ》の気にみちていた。
凝然《ぎようぜん》、うごかざる兵二千騎は、堀川の堤に集結したまま、ひとしく一天の黒煙を仰ぎ合っていた。
光秀を中心として、ここに帷幕《いばく》している荒木山城守、奥田|宮内《くない》、諏訪《すわ》飛騨守、御牧《みまき》三左などの諸将も、
「吉左右《きつそう》はいかに?」
と、先手《さきて》の情勢を刻々に案じながら、まさに、かたず[#「かたず」に傍点]を呑むの思いで、伝令の騎馬を待つのであった。
すでにその使番は二度までもここへ、
――お味方は築土《ついじ》をこえ、一斉に御堂内へ雪崩《なだ》れ入って候。
と伝え、すぐ後からまた、
――全殿に火を放《つ》け、右大臣家の側衆もあらまし討ち取り、当の御方《おんかた》の御首《みしるし》を挙ぐるもやがてのうちに候わん。
とも報じてはいたが、それ以後の伝令はまだない。
で、本陣の将士は、
「十のうち九つまでは、もうわが軍のものだ。わが事成れり」
という勝色《かちいろ》の中にどよめいていたが、帷幕《いばく》のうちの光秀は、祐筆《ゆうひつ》を側へひき寄せて、次々に書状を認《したた》めさせ、それに自身が花押《かおう》して、また、側臣と何か密議しているなど、多忙と緊張の極に、ほとんど、現《うつつ》も知らぬ容子《ようす》であった。
それでも本能寺の空に煙を見るまでは、彼も、万一を気づかって、諸将とともに、堤の上に佇《たたず》んで、眸《ひとみ》を一天に凝《こ》らしていたのであるが、立ち昇る噴煙を彼方に見、すぐ第一の伝令を聞くやいな、
「よし」
と、ひとり大呼して陣幕《とばり》のうちに入り、それからは、刻々の戦況よりは、べつな方面に向って、大きく頭脳をはたらかせていたものである。
ここにおいての味方の勝ちと、信長の死とは、もう決定的なものと観《み》てよい。それに顧念《こねん》しているにはあたらない。
主将の頭脳は、より大局に対して、間髪《かんはつ》を措《お》かずに、第二のそなえを天下に布《し》く必要がある。この勝利を決定づけ、この大機を政治づけるためにである。
遠くは相州小田原の北条家へ。
四国の長曾我部元親《ちようそかべもとちか》へも、彼はすでに、この帷幕から書簡を持たせて急使を立てた。
いうまでもなく、内容は、
(――天、信長を討つ。呼応して起たれよ。ここにおいて協力あらば、後日|共栄《きようえい》あらん)
という檄《げき》である。
泉州|鷺《さぎ》ノ森の本願寺一門、伊賀上野の筒井順慶《つついじゆんけい》、山陰の細川藤孝《ほそかわふじたか》、その子|忠興《ただおき》などの親族から、近畿《きんき》のこれと思う有力者には、悉《ことごと》く飛檄《ひげき》した。
特に、大軍と思う先方には、光秀自身、筆をとって書いた。いま秀吉と対峙《たいじ》している中国の毛利家にたいして、直接、毛利輝元へ宛てて、その檄文にもいちばい想を凝《こ》らした。
「原平内と、雑賀弥八郎《さいがやはちろう》を呼べ」
持たせてやる使いの者まで、彼自身が名ざして、数ある家中のうちでも一《ひと》かどの士と恃《たの》める男を選んだ。
原平内という士《さむらい》は、もと山中|鹿之介《しかのすけ》の部下で、尼子《あまこ》再興のため、光秀を介して信長へ働きかけ、以後久しく明智家へ寄っていたいわば客臣ともいえる筋目の者だった。
が、尼子一族も主人鹿之介も、中国の戦いに先駆《せんく》して、織田勢の至難な先鋒をつとめていたにかかわらず、ひとたび毛利の大軍が、その孤塁をつつむや、信長の令は、前後の懸引《かけひき》と利害の大小をにらみあわせて、鹿之介たちのたてこもっていた前衛基地|上月《こうづき》の城に、秀吉の救援をとどめ、みすみすそれを敵中へ捨児《すてご》としてしまった。ために、尼子氏は絶え、鹿之介も死んだ。
そのときの織田方の仕方を、ゆるすべからざる不信義、また無情なりとして、以来、原平内の信長にたいする恨みというものは骨髄《こつずい》に徹していたのである。
いま光秀が、その平内を帷幕《いばく》へ招いて、
「これは毛利殿へあてた重要な密書であるが、そちならばと見込んで申しつける。すぐ大坂へ出て、海路|芸州《げいしゆう》へ渡り、同所の杉原|盛重《もりしげ》どのの手を介して、毛利殿へお取次を乞え。一日一刻も争うぞ。いそいで立て」
と、いいつけると、さっきから本能寺の煙を仰いで、右大臣家の末路こそ心地よし、と狂喜していたほどな原平内は、
「身の面目」
とばかり勇躍して、すぐここの陣中から大坂方面へ急いで行った。
しかしこの大事を託すに、光秀は彼一箇の使いをもって、万全なものと、安んじてはいなかった。
彼の出たあとですぐにまた、同文の書状を、雑賀弥八郎にさずけ、
「陸路、潜行して、これを毛利家へ届けよ」
と、命じた。
摂津から、備前までの間、いま陸路の交通は、秀吉の軍に扼《やく》されている。海路芸州へ行くよりは至難中の至難といわねばならない。
「死を賭《と》して果しまする」
弥八郎もまたすぐ本陣を離れたが、彼は途中で姿を変えた。その変装ぶりは彼の知人と出会っても分らないほど巧妙であった。すなわち竹の杖の中に密書を秘し、盲人となって、摂津から先は夜も昼もとぼとぼ歩いて行ったのである。光秀が特に彼を選んだのは、雑賀弥八郎《さいがやはちろう》は、そういう潜行には打ってつけな隠密組《おんみつぐみ》の逸材《いつざい》だったからである。
一方に戦い、一方に政治し、檄《げき》の文章や使いのことにまで、こうして緻密《ちみつ》な頭脳をはたらかせていたので、光秀の面色は今暁、京都に入るまえの凄愴《せいそう》な眉から、さらにいちばいの必死と「われにもあらぬ」ものを加えて、側へ寄るのも怖いような形相《ぎようそう》となっていた。
――が、自身は努めて、平静にあろうとするもののように、語気は至ってしずかに、
「まだ左馬介光春から、次の使いはないか」
と、心ひそかに信長の首級《しゆきゆう》を確実に挙げたかどうか、たえず一縷《いちる》の気がかりとしているようであった。
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二条三門記《にじようさんもんき》
信長の長子信忠の、その暁の愕《おどろ》きこそ、思いやらるるものがある。
――時刻をやや遡《さかのぼ》って、一転、ここで彼の宿所|妙覚寺《みようかくじ》へうつる。
朝まだほの暗い一天にただならぬ鼓《こ》や喊《とき》の声《こえ》を聞いて、信忠たちが刎《は》ね起きたときは、すでにここも明智勢の囲みのうちにあったことは、本能寺と変りはない。
しかしここには、本能寺よりも多くの手勢が屯《たむろ》していた。約五百六、七十人の兵力はあった。忽ち明智|謀叛《むほん》と分り、敵近し、とも聞えたので、その騒ぎは言語に絶したものだったが、それでもまたたく間に全員戦闘の部署《ぶしよ》につき、
(ここで防ぐか、斬って出るか?)
の信忠の命を待っていた。
いうまでもなく、明智の主力は、本能寺へそそがれている。妙覚寺の兵力は本能寺以上とは事前に知れているが、ここへ向けられたのは明智光忠の第二軍で、その兵数は、第一軍よりはるかに少ない。
(右府の御首《みしるし》を挙げれば、直ちに援軍を割《わか》ち得る。それまではただ信忠を遁《のが》さぬことを旨となせ)
光忠が光秀からうけた作戦はこうであった。必死の兵六百余人がいのちを振りかざして、一角の突破に邁進《まいしん》して来れば、その約四倍はある光忠の軍といえど、水も漏らさぬ包囲はなかなか保し難い。
で、明智方でも、ここの攻撃には、本能寺のような急襲猛突をとらなかったため、信忠以下は驚愕《きようがく》のうちにも、なお鎧具足《よろいぐそく》に身をかため、前後の策を議するいとますらあった。
議といっても、この期《ご》に、区々《まちまち》な意見の出ようはずはない。
「本能寺へ」
「何よりは、信長公の御身を」
と、そこへ合流して、ひとつに守りを固めた上の思案と、信忠以下、全軍は即時に、ここを捨てて本能寺へ急ごうとしたのである。
だが、それほどに急いだようでも、事実においては遅すぎていた。――信長や信長の扈従《こじゆう》の面々などは、具足をつけるいとまはおろか、太刀や槍を取る間もなく敵とまみえていたくらいだった。――いかに距離は近いにせよ、ここの人々が、具足をまとったり、隊伍を整《ととの》えて駈け出ようとした時では、たとえ駈けつけて行っても、時間として、信長を救うべき機はすでに逸《いつ》していたものといってよい。
この迅速《じんそく》を欠いたのは、信忠の罪ではなく、ここに却って六百余という兵数があったための遅れである。六十人の兵が狼狽《ろうばい》するよりは六百の兵が一度にあわてる混雑のほうが大きい。六十の小人数ならば裸でも猪突《ちよとつ》して行ったかもしれないが、六百の軍なるために、武装をととのえ、隊伍を成し、なまじ軍隊としてうごき出したために、時遅れたのはぜひもないことだった。
かくて信忠とその将士が、今し妙覚寺を発せんとしているとき、彼方から十人たらずの人影が、乱髪蒼面《らんぱつそうめん》、各※[#二の字点、unicode303b]血に濡れて駈けて来た。本能寺に入ろうとして入るを得ず、ついにここへ落ちて来た所司代《しよしだい》の村井春長軒|父子《おやこ》とその家来であった。
すでに本能寺は、敵の鉄桶《てつとう》の内であり、信長の一身を、絶望のほかなきものと、春長軒|父子《おやこ》から聞いて、信忠は、
「無念」
と、唇を咬《か》みふるわせ、
「大不孝の子とはなったか……」
と、悲涙をたたえた。
「中将様。お気を慥《しか》とお持ちあそばせ。お気をたしかに」
誰かに、うしろから抱き支えられて、彼はそのとき、それを聞くとともに、よろめきかけていたことを自分の身に知った。
同時にその喪心《そうしん》を強く反撥《はんぱつ》していたのも彼自身だった。
(信長の子だ、織田信長の子ではないか。三位中将信忠ともあるものが、女々《めめ》しく哭《な》いているときではない)
しかしまた、彼方の空の黒煙と火を見ると、彼の脳裡《のうり》も狂気せんばかり燃え熾《さか》った。あの煙の下、あの火の下に、なお父やある。父や亡《な》きかと。
あたりの土塀や梢《こずえ》やまた路面などへ、もう敵から撃って来る小銃弾や矢が異様な物音をあげ始めている。彼を囲む諸将は、楯となって、信忠を守りながら、
「このうえは早、ぜひもありませぬ。血路を斬りひらいて安土《あづち》へお急ぎあるこそ、万全の策と思われます。安土へだにお入りあれば、あとの手段は如何ようともつきましょう程に」
と、口々にすすめた。
まだうしろから支えている一武将の手を、信忠は腹立たしげに振り払って云った。
「父の生死もたしかめ参らせずに、子としてここを一歩でも去れようか。――しかもかくばかり謀《はか》った明智が、むざと信忠を通そうはずもない。わが武門と、子の道とは、ここで戦えるかぎり戦うしかない」
さらに、きっと振りむいて、
「備《そな》えろ。敵は近い」
と、全将士へ向って叫んだ。
彼の気魄《きはく》に励まされて、一戦の決意はすぐ一致した。とはいえ、この土塀ひとえの妙覚寺では防ぐよしもない。すぐ間近には二条城がある。二条城こそ、たてこもるには屈強と信忠にすすめ、諸将は先にそこの門へ向って駈け出した。
妙覚寺と二条御所との間は、外濠の広い道一すじ隔てているだけだった。
かつては、ここに室町幕府の営があった。足利義昭《あしかがよしあき》を追放した後、信忠の父信長が、旧館を破毀《はき》して、新たに造営を加え、入洛《じゆらく》の折は、ここを宿所としていたこともあるが、いまは恐れ多い御方の御所となっていた。
正親町《おおぎまち》天皇《てんのう》の皇子、誠仁《さねひと》親王がここにおいで遊ばすのであった。――で、信忠の臣は恐懼《きようく》しつつも、まず御門へ事情を訴え、おゆるしを仰いでそれへ混み入った。
この移動を邪《さまた》げんとするもののように、すでに外濠の道路の一角では、明智勢と殿軍《しんがり》のあいだに血戦が捲き起されていた。
が、折ふし続々と、市中の味方でここへ駈けつけて来る者も多く、小勢の織田方にとっては尠なからぬ気勢を添え、そのあいだ信忠も無事に二条城へ移ることができた。
本能寺が手狭《てぜま》のため、市中の宿舎に、わかれわかれに泊っていた麾下《きか》の士もかなりあったのである。
信長の馬廻り衆、小沢六郎三郎は、烏帽子屋町《えぼしやまち》に泊っていた。その明け方、本能寺の変を聞いて、刎《は》ね起きるやいな、
「不覚不覚」
と、われとわが身を叱りながら、具足をまとい、表へ駈け出そうとすると、宿の亭主も家人も、
「もうあの通りな火の手で、信長公も御生害《ごしようがい》あそばし、御近習衆もひとり残らずお討死と沙汰しております。妙覚寺の方も明智の軍勢がいっぱいで、辻々も通れますまい。ここで犬死なされるよりは、屋根裏へでも隠れておいでなさいませ。きっとお匿《かくま》い申しますから」
と、日頃の誼《よし》みからみな袖をとらえて引きとめた。
小沢は一礼して、
「ありがとう、御好意はありがたく思うが、そう聞けばなおさらのこと、一歩もいそいで信忠卿と一手になって御奉公の最後を尽さねばならない。長々世話になったが、みなの息災を祈るぞ」
袂《たもと》を払って、うしろ見もせず、往来へ駈け出して行った。
よほど日常から徳望のあった士とみえ、あれよ、六郎三郎様が死にに行くわ、と近所の者までみな表に出て、そのうしろ姿へ涙の眼を送り合っていたという。
このほか、町中の宿舎に思い思いに泊っていた面々には――野々村三十郎、菅屋《すがや》九右衛門、猪子《いのこ》兵助、福富平左衛門、毛利新助、篠川兵庫《ささがわひようご》などがあった。
猪子兵助や毛利新助などは、古参の馬廻り衆で、すでに桶狭間《おけはざま》の合戦頃からその勇名は聞えている士だった。とりわけ毛利新助という名は、その折、今川義元へ槍をつけた殊勲者として知らぬ者はない。
戦場に立てば、これらの人々とて、各※[#二の字点、unicode303b]一《ひと》かどの部将である。これらの者が、せめて本能寺の近くに泊っていたら、ああやすやすと、明智勢に事を成さしめもしなかったであろうが、いかにせん皆ちりぢりに、そしてまた距離もあった。
で、この上はと、それらのすべての者は、期せずしてこの妙覚寺へ駈けつけて来た。折から、信忠以下、二条城内へ転陣のところだったので、その妨害戦に出た明智の先鋒《せんぽう》と、織田方のしんがりとの烈しい序戦に、まず真っ先に、その人々の助勢が大いに功を立てた。
忽ち、その場で討死するもあり、傷《て》を負って敵の中へ捲き込まれてしまった者も少なくないが、かくて大部分の者は、機をはかって、驀《まつ》しぐらに城門のほうへ退き、最後の刎《は》ね橋《ばし》を上げてしまった。
妙覚寺にいた信忠の手兵約六百と、市中から駈け集まった約三百余人をあわせて、総数一千の将士はかくてその死ぬ所をこの朝に持った。
明智方では、信忠の手勢が、妙覚寺を脱して、二条城へたてこもろうとは、少しも予期していなかった。
親王の御名において、そこはまったく戦場の外ときめていたものである。
「しまった」
という困惑のいろが、一時明智軍をつつんだ。主将の明智光忠も、
「入れたか。不覚な」
と、先手の妨害の手ぬるさを責めて、敵が城門を固めぬうちにと、すぐ城の三門へ兵をわけて、これを包囲にかかった。
西門、東門、南門の三つがあった。
濠《ほり》は深く、幅も広い。本能寺のそれとはちがって満々と水をたたえている。どこかに自然と湧水《ゆうすい》があるとみえて、蒼々《あおあお》と漣《さざなみ》たてて澄んでいた。
「いるのか、敵は」
すでにかたく鉄扉《てつぴ》を閉じている城門と、濠の距離とを眼で測《はか》りながら光忠はつぶやいた。そう疑われるほど、四囲の空気はしいんとしていた。
すると城内の石倉の上の櫓《やぐら》から一本の矢が濠をこえて来た。並河《なみかわ》掃部《かもん》が拾い取ってすぐ光忠へ捧げに来た。矢文《やぶみ》が結《ゆ》いつけてあったからである。
三位中将信忠の名をもって、寄手にしばしの休戦を申し入れて来たものだった。
要旨は、
――当御所には、親王様若宮様がおいであそばされる。暁の御夢《おんゆめ》をおどろかし奉ったことすら恐懼《きようく》にたえないのに、このままわれらが合戦に及ぶにおいては、金枝玉葉《きんしぎよくよう》の御身にいかなるお怪我《けが》や思わざる不敬あるやも測《はか》り難《がた》い。
依って、まずは双方とも、しばらく弓矢をひかえ、宮様方を他へ移し参らせたうえで存分、いさぎよく血戦いたそうではないか。寄手の意嚮《いこう》は如何に。
というのであった。
「もとより異存のあるべき」
と、光忠はすぐ返答に及ぼうと思ったが、並河、藤田、松田などの幕将たちの言を容《い》れ、
――しばらく待て。
と城中へ矢文を返しておいてから、すぐ使番を走らせて、堀川の本陣にある光秀に意見を訊きにやった。
そのとき光秀は、初めの陣地をうごいて、二条の近くまで移っていた。
本能寺は、落去したので、いまはただ、ここあるのみと、同時に令を発して、本能寺方面の人数を割《さ》いて、すぐ二条城へ向い、光忠に協力せよとも伝えていたところだった。
信忠の申し入れを読むと、
(さすがは信長の子だ)
と、言外に感動をあらわしながら、快諾《かいだく》すべき旨を伝え、かつまた、
「宮家の御移徙《ごいし》ある折には、いささかのあやまちもなきように、軍の端々《はしばし》にいたるまで充分に触れ伝えおけよ」
と、戒《いまし》めた。
命をうけるや、光忠は直ちに、その旨を城中へ返答した。時、ようやく卯《う》の刻《こく》ごろ(午前六時)本能寺の煙をうしろにして、その方面からの軍勢も続々これに加わり、濠の水の繞《めぐ》るかぎり明智の兵馬を見ぬ所はないまでに包囲も成った。
やがて、休戦の不気味なしじま[#「しじま」に傍点]の一瞬を。
親王、若宮の御ふた方、女官|扈従《こじゆう》を召しつれて、お心もそぞろに、東の御門を出でられ、畏《かしこ》くも内裏《だいり》まで徒歩《かち》でお移りになられた。
唐橋までは、城中の将士がお守り申しあげ、濠の外から先は、明智方の将が護衛して、甲冑《かつちゆう》の中をお通り遊ばして行ったのである。
血まなこの将兵と剣槍のあいだを女官たちや、まだおいとけない若宮には、いかばかり恐ろしげなお気もちで通られたことか。
が、この朝、父信長を失い、また自身の命も目前に迫っている際に、信忠はよくこの処置に沈着であったものといってよい。
敵将光秀も、さすがは信長の子と感じたらしいが、死せる信長も、まだ漲《みなぎ》りつつある余煙の天《そら》から「よくした」と、ながめていたかとも思われる。
織田氏|族葉《ぞくよう》の一将校――まだ生年《しようねん》二十六歳に過ぎない信忠に、この沈勇の処置と、臣子の道あきらかな態度のあったことは、いったい何によるものだろうか。
日頃の教養か、ゆうべの茶道の心態が役立ったのか。それとも夙《つと》に中国の役に参陣して、秀吉などと共に多少生死の境を味わった戦陣生活の賜ものか。
そのどれもみな彼を教養したものの一つではあろう。けれど全部とはいえない。むしろ根本的なものは、彼の生れた家の家風と血液にある。
ひとたび旗を中原《ちゆうげん》に立ててからの彼の父信長という人は、いずこに戦っても、一戦果せば直ちに上洛《じようらく》して禁門に戦果を奏《そう》し、国のよろこびあれば歓びを闕下《けつか》に伏奏《ふくそう》し、日本の武威ととのえば馬揃えをなして上覧に供し、四民に示すに禁裡の造営をもってし、その石を運ぶにはみずから石に乗って群集に石を曳かせ、麾《き》を振り、そして事実を見せて、大君に仕え奉ずる臣子の楽しみと歓喜とを大衆に教えもし、自身もしかと信念していた人であった。
時人《じじん》の一部には、いや後の或る史家なども、彼のそうした行動をさして、信長の勤皇は、人心収攬《じんしんしゆうらん》の一策であり、政治的に皇室の尊厳《そんげん》を認めて、功利的にそれに努めたものであるなどという評を下している者もあるが、これは政治経世の業を視《み》るに、すべてを時の司権者の策であり、理智の略でありとする利口者の見解であって、日本の臣民大衆には、君臣ひとつのながれもなく、それに因《よ》る情念もなしとする謬見《びゆうけん》に過ぎない。もし信長の勤皇が、彼一箇の功利や方便のものであったら、いかに彼が御所造営のため、みずから石に乗って麾《き》を振っても、その巌《いわお》をうごかす四民の力は民衆の中から出なかったにちがいない。またその庶民が、彼とともにあのように歓び歌うわけもない。
その信長の勤皇はまた実に先代の信秀から血にうけたものであった。――いま信秀の孫信忠が、その血液の命ずるまま、臣子の道を正しく踏んで誤らなかったのは、まさに織田三代の家風であり、武門の一臣として、ただ自然にありのままに、日頃の日本心《やまとごころ》をあらわしたものに過ぎない。
閑話休題《かんわきゆうだい》。――ここで少しばかり作者の駄説《だせつ》をゆるされたい。
いったいに後の史家が、戦国期の武門の人々をさして、多くが、国家観念の欠如《けつじよ》を云い、勤皇精神に似たものはあるが、真の勤皇はない、統一のための方便であり、政治的仕組みの上になしたもので、彼らのうちにあるのは、その封建的主従の道義のみだとなす説が強い。
毛利元就《もうりもとなり》も然り、上杉謙信《うえすぎけんしん》も然り、本願寺も然り、みな皇室に献金もし、御造営にも手つだい、綸旨《りんじ》にも恭順《きようじゆん》している。が、それはこの時期の傾向であり、ひとり、信長の業でもなく、ただ信長はより徹底し、一貫して、それへ積極的につとめ、以《もつ》て、統一の中枢《ちゆうすう》となしたものであるともいう。
こういう一時の史家の流行説は、戦国武人のために、その寃《えん》をここに雪《そそ》いでおかねばならない。なるほど室町時代を通じての皇室への仕《つか》えの怠《おこた》りは言語道断なものがあるが、信長以後、黎明期《れいめいき》の時人は、あきらかな日本的自覚と国家観をすでに呼びもどしていたことを、自分は信じて疑わないものである。
現わされた行為をもって、政治的意識によるとか、経世の方略であるとかいって片づけてしまっては、臣子の赤誠はあとかたもなくなってしまう。彼らの尊皇は、世をあざむくの偽善であるということにもなる。
史家はなぜもっと深く行為の底を流れている本然《ほんねん》の血液を観《み》てやろうとはしないのか。伝統すでに二千年、ときには建武《けんむ》の前後、室町末期のごとき、世風の壊敗《かいはい》、人心のすさびなど、嘆かわしい一頃《ひところ》はあったにせよ、皇室への臣民の真心にはかわりはなかった。幕府の為政者にその久しい妄念《もうねん》があれば、その間は、民草の家の一戸一戸のうちに、村々の神社の森の一叢《ひとむら》一叢に、その不朽をちかう精神は無言に守られていたのである。
御所の造営とか、何かの御仕え物の献納などでも、それが元就とか、謙信とか、信長とか、時代の代表者によってなされると、史上に記録もされ、批判的な眼で、あらぬ意思まで忖度《そんたく》されたりするが、世にも聞えず、記録もされぬ無名の民草の奉仕にいたっては、絶え間なく限りなく、世代を問わず続けられていたものと私は観る。
それらは皆、一升の小豆《あずき》か、一籠《ひとかご》の蔬菜《そさい》か、或いは一本の木材に過ぎないものであったかもしれないが、名もない田舎の郷士だの田野の民が、伝手《つて》を求めて、ひそかに御所へ献納を希《ねが》い出ている例《ためし》も多い。
信長の父信秀が、伊勢の神垣《かみがき》へ御仕《みつか》えしたり、禁裡《きんり》への奉仕につとめたのも、要するに、こういう田野の人々と同じ心のものだった。日本の家に伝えられている家風のものを、家の主《あるじ》として心がけから行為へ現わしたものにほかならない。
信長もまた、そうした家から生れ、この民草の中から出た一民である。形の大小は論ずるに足らない。彼の勤皇も一民の勤皇だった。元就も然り、謙信も然りである。この国土と家の家風をうけた子が、なんで武権政争の事とそれとを混同しようか。勤皇はただそれを奉じ得た身のよろこびである。
――たった今、主人信長を弑逆《しいぎやく》した光秀すら、信忠から書を以て、親王の御移徙《ごいし》を仰いだうえで決戦せんとの申し入れには、欣然《きんぜん》、応諾の旨を答えている。いかに私闘混騒、生死を賭けている中でも臣子の大道たるこの一事だけは見失っていない。
さればこそ光秀は、この日から十一日目の後、小栗栖《おぐるす》の山村で、土民の竹槍をうけ、死なんとするや、部下の者に、筆をとらせ、
順逆《じゆんぎやく》無二門《にもんなく》 大道《だいどう》徹心源《しんげんにてつす》
五十五|年夢《ねんのゆめ》 覚来《さめきたれば》帰一元《いちげんにきす》
と、最後の一語を吐いたといわれているが、まさに彼にとっては、本能寺の挙は、順逆《じゆんぎやく》に問われる問題ではないとしていたものであろう。
信長も一臣子、自分も一臣子。真の大義と、一臣の大道とはまったくべつにありとなして、独り天に誓っていた悲心があったにちがいない。
だが、すでに主《しゆう》を殺す。これは、武門と武門の道義がゆるさない。いかに情を酌《く》むも民衆もまたゆるさないことだ。故に、この道義と秩序を破壊したひとりの民を裁《さば》く者も、また民の中なる者だった。
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近衛殿《このえどの》の屋根《やね》
休戦の約は解《と》かれた。
戦闘開始。
期せずして、一鼓《いつこ》の下《もと》、城中からも、寄手からも、わっと武者声がわいた。
とき、すでに陽は高い。夏の朝だ。朝からかん[#「かん」に傍点]と照りつけている。
城兵の一隊は、つい今し方、親王のおわたりあった唐橋の大手門から、槍をそろえて突き出して来た。
これは、そこにあった藤田伝五と並河|掃部《かもん》の両部隊が、攻口を争って、混み合って来たため、その機先《きせん》を制した反撃であった。
――が、城兵も寄手も、顔を見あうと、唐橋の中ほど約三間ほどを、まったくの空虚にして、双方とも、ふいにその出足を、はた[#「はた」に傍点]と止めてしまった。
そして、束《たば》ねたような無数の槍の穂だけが、ぎらぎらと陽を刎《は》ね返《かえ》し、その燦光《さんこう》で武者たちの塊《かたま》りもけむるばかり、ただ、にらみ合っていた。
「…………」
「…………」
声なき中に異様な声がある。しかもその最前列の武者には、天地みな音もないような心地がした。いかに場数を踏んだ武者でも、この一瞬には耳に音なく、眼に何ものも見えず、胆《きも》はすくみ、具足で固めた脛《すね》までも、わななき顫《ふる》えるのをどうしようもないという。
しかし、もとよりそれは短い短い一瞬のことである。たとえ顫《ふる》えている踵《かかと》でも、一寸でも退《ひ》きはしない。じりじりと前へ出ている。勿論、彼も刻《きざ》むように、足の先で近づいてくる。
「うわうっ」
と、ひとり誰かが、怒濤《どとう》の中へ飛び入るように吠えて、だっと出る――。間髪《かんはつ》を入れず、だっと味方の四、五名も続く。
それに気押《けお》されて、敵の前側の列が、ぐっと凹《くぼ》んだせつなが、血の吹きとぶ途端である。敵たりとも、凹《くぼ》んだきりではいない。すぐ逆巻く波がしらを作って、蔽《おお》いかぶさるようにぶつかってくる。
橋上すでに渦巻いて、血は欄《おばしま》にとび、濠《ほり》にながれ、死屍《しし》を踏む者、また死屍へ重なり合うとき、明智方は彼方の濠《ほり》ばたから、銃をそろえて城兵を狙撃《そげき》し出した。
「踏みこめ」
「突きすすめ」
彼を圧《あつ》して、明智勢は城門の下までむらがり駈けた。
城方の将士は、力尽きて、その中へ追い込まれたが、つけ入る明智の兵を、せつなに断つため、どん[#「どん」に傍点]と咄嗟《とつさ》に鉄扉《てつぴ》を閉めたのである。
ところが、なお城門の外にふみとどまっていた織田方の武者が四人ほどあった。その中に小沢六郎三郎もいた。うしろ見しない者どもではあるが、城門を内から閉められたので、まったく敵中に置き去られた運命とはなった。しかし彼らは寧《むし》ろそれを強味とするかの如く、橋上を突破して、ついに敵のまっただ中へ躍り込み、行くところを血にそめた。
わけても小沢六郎三郎は、濠ばたに立って指揮に夢中になっていた明智の一将を目がけ、たしかにその敵へも一太刀与えた上、八方から寄る槍の中に、男らしい戦死をとげていた。
城中の兵は、唐橋門の下へむらがり寄る敵へ、瓦《かわら》を投げ、石を飛ばし、小銃弾を集中した。
局限されている攻口なので、明智の将士たちは、おびただしい屍《かばね》をそこに積んだ。ついには攻めあぐねて、
「立ち直れ。立ち直れっ」
一たん橋上から後退すると、織田兵はすぐ城門をひらいて、死者|手負《てお》いを踏みこえ踏みこえ、槍をそろえて突き出て来た。
敵味方おたがいに、かつて安土に在《あ》る日には、顔も見知りあい、友の交わりをなしていた仲の者も多い。それだけになお、この戦いは切っ先から火を降らし、槍を折り太刀をくだき、まさに、肉親に怒る肉親の格闘《かくとう》のごとき、凄まじいものを現出した。
明智光忠は、左の肩のあたりに、一《ひと》すじ矢を負った。駈けよる郎党に、矢を抜かせながらも、混戦中の味方を声もひしげるほど、励ましていると、猪《いのしし》のように味方を掻き分けて来た一名の勇士が、
「日向《ひゆうが》の甥《おい》よな」
と、いきなり突いて来た。
深股《ふかもも》を突かれたので、横ざまに倒れた。二番目の槍は、顔へむかって来た。その千段のあたりをつかんで、刎《は》ね起きようとしたとき、彼の旗本が、駈けあつまって、その敵を滅茶滅茶に斬り伏せた。
自分の身から血があふれ、敵の血も頭から浴びてしまったので、光忠は全身|紅《くれない》になってしまった。気がつくと、部下の兵は、自分の足をもち、頭をささえて、どんどん陣外へ向って駈けてゆくので、
「どこへ連れてゆくかっ。わしをどこへ運ぶかっ」
と、叫びつづけた。
従《つ》いて来る二、三の旗本たちが、口をそろえて、
「お気をたしかにお怺《こら》えください。傷は浅うございます」
というと、光忠は歯がみをして、なお暴れながら、
「ば、ばかをいえっ。これしきの傷が何だ。戦場へ返せ。返せと申すにっ」
と、もがいた。
けれどもかなり重傷だったので、大地へこぼされて行く血しおとともに、その声も次第に弱まった。
光忠が退くと、光秀はすぐ本能寺を引き揚げて来た四方田政孝《しほうでんまさたか》をその手の大将に補充して、
「時移すな」
と、そう急攻撃を命じた。
政孝は、大手へ臨むとすぐ、
「そこらの木を伐《き》って、濠の中へ抛《ほう》りこめ」
と、士卒を督した。
六、七十本の木材が濠の中へ落された。それを筏《いかだ》に組んでいるいとまもなく、明智の猛士たちは跳び渡って、石垣の下へゆく。そして石垣の隙に、足懸《あしがか》りを打ちこんでは、上へ上へと攀《よ》じのぼった。
しかし、ここの石垣はふつうの石垣組とややその線がちがっている。二条城の普請《ふしん》の当初、光秀も奉行の一員として加わっていたので、彼は独特な築城技能をもって石垣の縦《たて》の線に、弓なりの反《そ》りをもたせて築いてあった。
そのために今、明智の士卒は途中までは登ってゆけたが、ようやく上の近くまで達すると、自分の体の重量でみな下へ落ちてしまうのだった。
光忠に傷《て》を負わせて、同時に斬り死にした織田家の士は猪子《いのこ》兵助だといわれている。村井春長軒も、唐橋門の下で討死にした。
しかし明智勢がもり返せば、また忽ち鉄門を閉めてしまうし、石垣は所詮《しよせん》、攀《よ》じのぼる術《すべ》もないし、寄手はあせるほど犠牲を増し、また攻め疲れるのみだった。
裏門の搦手《からめて》でも、同じような戦況がくり返されていた。かくて午《ひる》近くなるほど、暑さも加わり、石垣も焦《こ》げ、甲冑も焦げ、こぼるる血しおもすぐ黒くなった。
「ここに引きよせられたまま、日を過しては一大事である」
光秀は焦躁《しようそう》した。馬を曳かせて跨《また》がると、自身、本陣を出て、濠ばたを半巡した。たちまち城のほうから彼を狙《ねら》って小銃弾や矢が集まってくる。左右の者が諫《いさ》めるまでもなく、光秀はすぐ引っ返して来て、
「城の北隣りに見ゆるあの大屋根は、たしか近衛殿《このえどの》のお館《やかた》であったかと思う。三左衛門、一走り走って、御挨拶いたして来い。しばしお屋根を、拝借いたしたいと」
御牧《みまき》三左衛門をそれへさし向けるとすぐ、荒木山城守、奥田宮内《おくだくない》の二将に、
「弓組、鉄砲組をひきつれて、あの大屋根へのぼらせ、城内へ矢弾《やだま》を撃ちこめ」
と、命じた。
この策は、的確だった。そこへ登ると、平城《ひらじろ》なので、充分、内部へ狙い撃ちができる。城中の兵には、たしかに致命的なものだった。
さだめし驚きもし、迷惑もしたろうと察しられるのは、屋根を借りられた近衛家である。しかもここの当主夫妻はつい昨日かおとといの昼、牛車《くるま》を打たせて本能寺へ信長を訪ねてもいる。信長とは長年|昵懇《じつこん》な近衛前久《このえさきひさ》が住んでいるのだった。
当然、城中からも、矢や鉄砲がそこへ注《そそ》がれる。双方とも大砲を持たないだけがまだ仕合せである。由来光秀は銃器の研究にかけては、随一の知識でもあったから、坂本や亀山には、その備えもあったろうが、目標が本能寺と妙覚寺であり、こういう攻城戦をなそうとは予期しなかったせいもあろうか、ここの陣中では使用されていない。
だが、やがて城内の一角からまっ黒な煙が揚がり出した。石垣を登るのに成功したか、三門のうちどこかを突破したか、忽ち構えのうちに乱入した明智勢の影が見え出した。
「陥《お》ちる。いや陥ちた」
光秀は鞍つぼを叩いて、こう叫びつつ西門の前まで駈け寄った。もう矢弾《やだま》も来ない。まさに城兵は逼塞《ひつそく》したとみえる。光秀はかたわらを顧みて、
「光秋《みつあき》もかかれ。飛騨《ひだ》も行け」
と、総攻撃をうながした。
西門、東門、南門、すべて今は突破され、混み入った明智勢は、いたる所で、少数の敵を大勢でつつんでは撃つ殲滅戦《せんめつせん》にかかった。
城内にも一《ひと》すじの内濠《うちぼり》があったが、そこは溝渠《こうきよ》のような幅しかない。累々《るいるい》と重なりあう死骸の血が、そこの水まで紅《あか》くした。
「信忠卿のお首こそ」
「信忠どのを」
と、ここでもそれを合言葉にしつつ、すでに構えの奥近く迫った明智の将士は、建物へ火を投げてその煙の下を突き進み、或いは、火の中から出て来る者を待ってこれを討った。
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いのち
信忠は奮戦した。信長の子らしく最後の最後まで戦った。すでに守る一門を破られても、なお血けむりの下を退《しりぞ》かなかった。
けれど、福富平左衛門、野々村三十郎、赤座七郎右衛門、篠川兵庫《ささがわひようご》など、みな彼の楯《たて》となっては殪《たお》れて行った。
「今は」
と、彼も死所《ししよ》を心がけた。
ふり向くと、館《やかた》の建物は黒けむりにつつまれている。それへ向って、彼が驀《まつ》しぐらに駈けるのを見ると、団平八、桜木伝七、服部《はつとり》小藤太《ことうた》なども、あとを慕《した》った。
そのほか、遠方《おち》此方《こち》にいた水野九蔵とか、山口半四郎とか、逆川《さかがわ》甚五郎とか、小姓衆や侍たちも、みな煙の内へかくれこんだ。
「玄以《げんい》、まだいたか」
信忠は、館の中まで従《つ》いて来た前田玄以のすがたを認めると、こう叱った。烈しい声で、彼がここに留まっているのをなじった。
「なぜ逃げのびて行かぬか」
「はい」
「はいではない。そうこうするうちに、機を逸《いつ》しように。……早く去れっ」
「はい……」
「いうことをきかぬやつだ。わしの主命だ。落ちて行ったとて、卑怯《ひきよう》とは誰もいうまい」
「せめて、御最期なりとも、見届けませぬうちは、なんとしても、退《の》きかねまする」
「まだそんなことをいっておるか。……死は必定だ。もののふの死にふたいろはない。無益に時を移すよりも、わしのいいつけたことを完《まつと》うせい」
「……では、これをもちまして」
前田|玄以《げんい》は泣きながら出て行った。あとに残って死すべき人々は涙も持たないのに、生き長らえるべく出て行く者は涙にぬれて行くのだった。
彼のうけた使命は、
(そちひとりは、岐阜城へ赴《おもむ》いて、この急変を家中に告げ、わが子の三法師《さんぼうし》を守って、後図《こうと》を善処してくれい)
という信忠の遺命にあったのである。
これほどな中でも、脱け出そうとすれば脱出できるものとみえる。前田玄以はどう落ちて行ったか、ともかく遺命を守って、後、三法師を奉じて清洲《きよす》へ移っている。そしてなおずっと後年には、秀吉の五奉行の一員の中に彼の名が見える。
玄以《げんい》を追いやると、信忠はそこに居合う旗本小姓たちの面々へ、
「さらばここで、その方たちも思いのままよい死所を得るがよい。主従は二世という、また次の世でめぐり会おう」
と、別れを告げ、鎌田新介ひとりを従えて奥殿へ駈け入った。
「御生害とみゆる」
家臣たちは、せめてその間だけでも、敵を寄せつけまじとして手分けして口々に立った。そしてその口々の防ぎを最後の奉公としてみな血に伏した。
信忠は奥へ入ると、
「新介。介錯《かいしやく》をいたせ」
と、いいつけ、また、
「わしの死骸は、板縁をあげて床下へかくし、すぐ火をかけろ」
と、死後の処置まで命じ終ると、すぐ正坐して見事に割腹《かつぷく》した。
主命のままに、鎌田新介は、涙をふるって信忠の介錯《かいしやく》をつとめて、その死骸を、板縁の下へかくした。
縁の板を、もとの通りに並べてもなお、
「敵兵に見出されはしまいか? ……」
と、危惧《きぐ》されてならなかった。
煙はいちめんにたちこめてくるが、火はまだ容易に奥殿まで燃えて来そうもないからである。
「あれほど、御自身のなきがらを、厳に敵の目に曝《さら》すなと仰っしゃったものを」
彼は外へとび出した。何か燃えつきやすいものを持って来て、自分でここへ火をかけようと考えたのである。
庭づたいに、築山の裏を這って、じめじめした北の隅までゆくと、庭番の者が、日頃に枯れ枝を払って束《たば》ねては積んでおいた柴《しば》の囲いがあった。新介は何気なくその柴の束把《たば》をくずして左右の腋《わき》へ抱え込もうとした。
すると、その囲いの中で、
「……あっ?」
という人間の声がした。
見ると、敵ではない。――味方も味方、御一族の織田源五郎長益《おだげんごろうながます》だった。
戦いをよそに、ただ一人この中に柴をかぶって潜《ひそ》んでいたものらしいのである。この人は、信長の舎弟にあたる者だが、信長とは似ても似つかない「怖《こわ》がり坊どの」であった。どうして武門になど生れたろうかと、不平ではなく、腑甲斐《ふがい》なき自分をつねに自分で嘆いているおひとでもある。しかし非常に気心がよく出来ている人間なので、信長も愛し、信忠もこの叔父は立てていたが、今暁以来、よほどびっくりしたものとみえ、軍中にも影も見せず声もしなかったので、いずれ逸早《いちはや》くどこかへ逃げたものとのみ皆思っていたらしかった。
「…………」
新介は、気のどくで、その人のすがたへ何も物がいえなかった。くずれた柴をもとのように積み直して、ほかの方へ向いて行った。
――あさましいお人ではある。
彼は心のうちで源五郎殿を蔑《さげす》んだ。一瞬は唾棄《だき》してやりたいような憤《いきどお》りすら覚えた。……が、こんもり茂った木蔭の下の古い石井戸の口をみると、鎌田新介は無自覚に足をとめていた。
「この中に隠れていれば?」
と、彼もまた、われにもあらず命が惜しくなっていた。
――という気持が、ふと、影のように映《さ》したとき、彼はもう日頃の武門のたしなみも一切無意義なものにしていた。さながら臆病者のごとく、釣瓶《つるべ》にすがって古井戸の中へ辷《すべ》るが如く影を沈めてしまった。そこの冷気はいよいよ生の執着《しゆうちやく》をつのらせ、急にわくわくと総身がふるえて来た。
半刻《はんとき》も経ったろうか。もう剣槍のひびきもなく、館もあらまし焼け落ちたかと思われる頃、井戸のふちで明智の兵の声がした。
「や、いるぞ、一匹」
「井戸の中か」
鎌田新介は、南無三と思ったが、飛び出すこともできなかった。上の兵は覗きこんで、
「いるいる。たしかに一匹|潜《ひそ》んでいる。どうせ、獣《けもの》のようなやつだ。なぶり殺しにしてやれ」
三、四本の槍さきが、井戸の中へ逆さに向けられた。どぼんと高い水音を深い闇の底に聞くと、明智の兵はどっと嗤《わら》った。「いのち」こそ、ただ捨てどころ一つで、その生涯の美も醜もきまる。末代、その人間も価値づけられる。
鎌田新介とて、一《ひと》かどのさむらいに間違いなかったろうに、可惜《あたら》その「いのち」を死に際《ぎわ》の寸隙《すんげき》に惑《まど》わしめたため、逆臣と世間でののしる明智の部下からさえ、
(獣にひとしいやつ)
と、嗤《わら》い蔑《さげす》まれたあげく、抵抗ひとつできず、刺し殺されて、古井戸の鬼と化してしまった。
けだし人間の本性は、誰にせよ死にたいしては弱い。故に、いさぎよければ美しいものである。またそれを超《こ》えた境地が絶大な強さともなるのであった。だからまた、武門といわず、禅門の者も、あらゆる芸能の士も、その生死無境を目がけて、弱い自己をみがきもし、修養にも幾年月の苦行を敢《あ》えてするのであるが、これも到底、生半可《なまはんか》では、いざという大事なときに、鎌田新介のような醜《しゆう》を演じないとはなかなか云いきれない。
(修行はできている。なんの、死を視《み》ることは生も変りがあるものか)
などと自負している生修行《なましゆぎよう》こそ却って往々にして、やり直しのきかない末代までの不覚をとるものである。むしろ平生において自分の覚悟のほどを危ぶんでいるくらいな者のほうが誤りが少ない。それがむしろまったく、雑智《ぞうち》や生分別《なまふんべつ》などなく、素朴ありのままな生き方か死に方かである。
けれど、本能寺でも、二条城においても、鎌田新介などは例外な者であった。武門といっても無数なさむらいである。このひとりをもって織田家のさむらい達の名は少しも日頃を辱《はずかし》めてはいない。たまたま、泥土にまみれて汚く踏まれる花はあっても、満山の落花の偉観には少しも関《かか》わりないようにである。
同じ日、同じ刻限だが、例外でも、こういう勇壮な、そして麗《うるわ》しい例外もある。
もと、安藤伊賀守の身内で、松野|平介《へいすけ》という一士があった。伊賀守が信長の不興を蒙《こうむ》って、先年追放されたとき、
(平介は見どころある者なれば留めおけ)
という信長の特旨から、以後領地をもらって一《ひと》かどの待遇をうけていた。
本能寺変の前日、平介は近郷の知人の家に泊っていた。今暁、乱を知って、宙をとんで駈けて来たが、元より間にあうはずもない。
すぐ妙覚寺へ行ったが、ここの一隊もすでに二条へたてこもり、城内は濛煙《もうえん》につつまれている様子。はや落去の後だった。
「よしこの上は、ここにおいて、最後の戦いをなし、信長公、信忠卿のおあとを慕いまいらせん」
と、妙覚寺の大門の前にただ一名で立ちはだかり、彼方《かなた》にどよめ[#「どよめ」に傍点]いている明智勢にたいして、
「やあアい」
と、まず大音で呼びかけ、
「――汝ら、まだ勝鬨《かちどき》をあげるは早いぞ。信長公の一兵まだここに罷《まか》りある。乱賊どもの首|一束《ひとたば》持たぬうちは、泉下《せんか》の御主君にお目にかかってもあの世で手持ち不沙汰。いざ来い。松野平介の一卜槍うけて末代の語りぐさとなせ」
と、頻りに敵軍をさしまねいていた。
落城の煙を仰いで、濠ばたの明智勢はもう傷口の手当をし合ったり、息休めをしていた。
松野平介の声は、たしかにそこまで聞えている。ときどき、明智の兵は、妙覚寺のほうを振り向いた。
「変なやつがいる?」
とでも思っているのか、たれも相手に立って来ない。
平介は、業《ごう》を煮《に》やし、味方が寺内に残して行った鉄砲を持ち出して来て、狙い撃ちに、明智の兵を三、四人撃った。
俄然《がぜん》、土けむりが、此方《こなた》へ向って駈けて来た。そして妙覚寺の大門を包囲したが、まさか平介ひとりとは思わないので、
「油断すな。寺内に残兵がひそんでおる」
と、ひしめきつつも、容易に近づく者もなかった。
平介は、槍を把《と》り直して、最前の大言をもういちど繰り返して、
「冥途《めいど》のみやげに手頃な首はどれだ。どれもこれも愍《あわ》れむべき細首。逆に組し、乱の手先に働いて末始終、胴によくつながっている首はあった例《ため》しがないぞ。どうせ捨てるものなら潔《いさぎよ》く松野平介の槍をくらって、せめてもの名残にしろ」
と、らんらんと睨《ね》め廻《まわ》した。
妙覚寺にはまだ敵が残っているという沙汰に、附近にいた斎藤|内蔵助《くらのすけ》利三《としみつ》の一部隊が、すぐ加勢に駈けつけた。
ところが、敵はただ一名で、しかもその一名の敵に、すでに幾人か討たれ、なおまだ仕止めかねているというので、内蔵助利三が、
「いかなる者か」
と、訊ねると、松野平介という者ですとの答え。
利三は驚いた。松野平介とは年来の眤懇《じつこん》だからである。あんな気持のよい男を死なしてはならない。にわかに、旨《むね》をそこへ伝えさせて、利三自身すぐそこへ馬をとばして来た。
(なる程、平介だわえ)
と、味方の囲みをわけて馬を前へ出し、まず、
「松野平介ではないか」
と、ふだんの通り呼びかけた。平介は、
「利三来たか。汝なれば、泉下《せんか》へ伴《ともな》って、信長公へごらんに入れる首としてややふさわしい。日頃の友とて、今日の悪行はゆるしがたい」
と、きびしく槍を構え直した。利三は苦笑をゆがめて、
「平介にはまだ聞き及びないか。本能寺はもとより、当二条城もはや落去。今しがた信忠卿にも御生害あった。天下はこの半日に一変いたしたのであるぞ。何を血迷うて吠ゆるか。日頃の誼《よし》みをもって内蔵助利三が案内申そうほどに、まず御本陣へおざれ」
「なにしに?」
「日向守様に、御挨拶をなすがよい。利三口添えするであろう」
「見損のうたか、斎藤老人。おぬしのむかしの友松野平介はそんな男ではない。一《いつ》たん流浪なすべき身を信長公に拾われ、今日ある御恩を、何で弊履《へいり》のごとく捨てられようか。武門とはこうしたものだ。見よ、おれのさいご」
だっと、真っ直ぐに駈け出して来た。そして利三のそばまで、達しないうちに、むらがる敵刃と渡り合って、血けむる中に壮烈な戦死をとげた。
「惜しい。実に惜しい男を」
と、利三にも光秀にも、後までしきりに惜しまれたが、その松野平介も、もし利三に誘《いざな》われて、明智の陣門に降伏しても、そのいのちはやはり後十日のものでしかなかったであろう。なぜならば、明智そのものが十日の後には亡《ほろ》んでいるからである。
洛中はよく落首が立つ。殊にこんな騒乱《そうらん》のあとに宣伝される。奇蹟的に助かって逃げた織田源五郎|長益《ながます》だの、古井戸で犬死した鎌田新介などは悪しざまに謳《うた》い囃《はや》された。
その中で、たれか妙覚寺の土塀に、こんな今様《いまよう》めいたのを書いたのがあった。
いのちよく持て
いつくしめ
花とかおって散る日には
さっときれいで
あるように
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又学舎《ゆうがくしや》
朝の一《いつ》ときは、夜のままみな戸をおろして、死の街かのように、ひっそりしていた洛内《らくない》の市民も、やがて午《ひる》近くには、いちどに往来へ出はじめて、大路|小路《こうじ》の辻々には、かならず人が群れているし、常には人通り少ない道筋まで、日頃の十倍もぞろぞろと人が流れてゆく。
光秀はさすがに民衆の心理を察して、まだ本能寺や二条城のけむりが墨の如く天を蔽《おお》っているうちに、全市へ向って、軍令をかかげた。
それによって、市民は事態の真相を知り、愕《おどろ》きもしたろうが、また安心もしたらしいのである。――そして、家々みな戸をあけると、用のない者まで辻にあふれ出し、あちこちの風聞《ふうぶん》を耳に拾って歩くのであった。
「立たないで下さいっ。歩いて下さいっ。見ていたっておもしろいものじゃない」
「水を撒《ま》きますぞ。退《ど》かないと泥水がかかりますぞ」
又学舎《ゆうがくしや》の門人たちは、門前にたかって覗《のぞ》きこんだり、塀の穴をさがしている弥次馬を追うのに、大汗をかいていた。
「閉めてしまえ、閉めてしまえ。もう怪我人《けがにん》もこれ以上は収容できない」
玄関わきで、べつの門人がどなっている。
見わたすと、なるほど、広い邸のうちは、庭も屋内も、板敷もところ狭きまで、うめき声と、負傷者のすがたで埋まっている。
ここは白河道へ通じる松原の一角で、市民は、又学舎《ゆうがくしや》とよび慣れているが、庭園の柴門には翠竹院《すいちくいん》の板額《はんがく》が見えるし、講堂には、啓廸堂《けいてきどう》の額がある。
あるじの曲直瀬道三《まなせどうさん》が、その著書「啓廸集《けいてきしゆう》」を脱稿《だつこう》したのは天正二年のことである。翠竹院の号はその折、叡覧《えいらん》の光栄に浴したうえ、彼の本邦医学に寄与した功労を嘉《よみ》したもうて、朝廷から下賜《かし》あらせられたものとか、都の人々も聞いている。――で、俗称するは勿体《もつたい》ないとしてであろう、又学舎《ゆうがくしや》が通り名になっていた。
「なぜ、門を閉めるか」
その本邦医学の泰斗《たいと》、曲直瀬道三は、今暁からまだ朝飯もたべていないはずである。上着のもろ肌を脱ぎ、下着の袖を片だすき[#「だすき」に傍点]に結んで、多くの門下生を指揮し、いまや屋の下にみちている多くの負傷者を、ひとりひとり手当していた。
「開けておくと女子供までが覗《のぞ》きに寄って、うるさくてかないません」
門生が、外で答えると、
「往来の者が覗くぐらいは、邪魔にもならん。まだまだ落人《おちゆうど》も通ろう。怪我人もよろ這《ぼ》うて通ろう。門を閉じておいては、それらの衆が気づかずに過ぎてしまう。――容《い》れる場所がなかったら薬干《くすりほ》し場《ば》へも莚《むしろ》をしいて、はいれる限りお容《い》れせい」
道三はそう告げてから、また諸所に横臥《おうが》している怪我人を見まわった。金創《きんそう》の洗滌《せんじよう》やら、繃帯《ほうたい》やら、くすり塗布に当っている門生たちと共に、自分も負傷者の治療へかかった。
彼のきれいな白髯《はくぜん》は、負傷者の血しおに染み、彼の懸命な面《おもて》には、空腹を喞《かこ》つ容子《ようす》もなく、また、天下の大乱すら知らないもののようだった。
幸いにも、又学舎《ゆうがくしや》には、たくさんな門生がいた。もともとここは、道三が後進を誘掖《ゆうえき》すべく興《おこ》した医の塾だからである。
それらの若い学徒を励まして、門をひらき、全舎を提供して、ここに本能寺の負傷者や二条城の合戦からよろ[#「よろ」に傍点]這い落ちて来る武者たちを収容し始めたのは、実に、戦いが始まると同時の夜明け頃からだった。
一《ひと》しきり、風が西へ変ったころは、この辺、風下《かざしも》になったので、附近のやしきでは、火の粉をおそれ、避難の準備に恟々《きようきよう》としていたものだが、曲直瀬道三は、
(燃え移って来たら、怪我人を負うて先へ移ればよい。それまでは)
と、学生たちを外に立たせて、怪我人をかかえ入れ、眼のまわるような忙しさに、この半日を、ほとんど、われなく人なく、必死の治療に過していたのだった。
初め、ここの医学生たちは、
「明智の兵など容《い》れるな。逆賊の家来などを手当する医学は学んでいない……」
などと昂奮にまかせて罵《ののし》り合っていたものだったが、師の道三から、
「ばかを申せ。わしは仁なき医学を教えた覚えはない。明智の家来とて、主に仕え、その主に命じられた以上、まことにやむを得ないことであったろう。何も知らぬ軽輩ほど、それと知ったせつなには半狂乱にもなり、死にもの狂いに戦ったことであろう。そう思えば、むしろ気のどくなのは明智方の人々、わけて可憐《いじら》しいのは足軽小者の心根じゃ。――汝ら、医に志しながら、もののあわれも弁《わきま》えぬほどなら、医者学問などは止めてしまえ」
と、一場の訓諭《くんゆ》をうけたので、若い学徒は、たちまち師の大度に習って、織田家の士であろうと、明智兵であろうと、けじめ[#「けじめ」に傍点]なく収容にかかったのみか、焼け出された貧民街の怪我人や迷子まで容《い》れて労《いたわ》った。
従って、白昼二ヵ所の合戦中、そこで織田明智の両勢が、互いにしのぎを削り、切っ先に火をふらして戦っていたが、ここの一宇の屋根の下では、敵味方枕をならべて、うめきの中に顔を見あい、しかもひとりの仁者の手から差別なく温かな手当をうけていたのである。
「おう、おう。これはこれは、よくこそこの火急の中になされておられる。足のふみ場もないが、さすがは道三どの、ありがたいところにお気づき下されたの」
これは負傷者ではない。日頃から親しい主《あるじ》の友人とみえる。門内へ入って来るなり、訪れの代りにこう独りで云いながら、負傷者の莚《むしろ》のあいだを通りぬけ、奥の講堂の縁先へ来てまた云った。
「道三どの。手伝おうか」
「やあ、紹巴《じようは》どのか。まずあがれ。この際じゃ、そこからでも」
「こんな折じゃ、お邪《さまた》げしてはすまぬが、何せい喉《のど》が渇《かわ》いた。白湯《さゆ》一杯たまわらぬか」
連歌師《れんがし》の里村紹巴《さとむらじようは》は、裾の埃《ほこり》をたたいて上がった。彼の草履も顔じゅうの汗も、さすがに今日だけは、日頃に似ず真っ黒によごれていた。
紹巴の訪れをしお[#「しお」に傍点]に、道三も朝から初めて一息ついた。
「ここへ円座《えんざ》を持て」
と、門人にさしずして、書物ばかり積んである一室に対坐して、白湯を呑み合いながら、
「さて、どうなるのじゃ、この後は――」
と、お互いに、顔見あわせた。
紹巴は、二条はまださかんに焼けているが、今暁の本能寺のすさまじい焔は御覧になったかと訊ねた。
道三はかぶりを振って、
「何も見ぬ。まだ、一歩も外へすら出ぬ。そんな暇はない」
と、邸中《やしきじゆう》の負傷者をながめ、
「戦《いくさ》と同時に、ここも戦《いくさ》の場《にわ》となった。ただ気づかわるるは、御所のあたりじゃが」
「いや、あのあたりは、別条もございませぬ」
「とはいえ、本能寺や二条の火の粉は、禁裡《きんり》の御苑《ぎよえん》にふりそそいだであろう。恐れ多いことではある」
「恐れ多いといえば、二条御所の親王様や若宮様には、戦いの中をおひろいで禁裡へお移りあらせられた。ふと道ばたに伏し拝み、余りの勿体なさにわれを忘れて、近くの公家《くげ》やしきの門を叩き、ありあう破《や》れ牛車《ぐるま》を曳き出してそれへおすすめ申しあげ、無我夢中で禁門のあたりまで牛を打っていそいだが……あとで思うと、いかに非常の中といえ、近々と御裳《おんもすそ》をとり参らせなどいたして、まだいまも身の縮《ちぢ》む思いが失《う》せぬ」
「それは機転《きてん》。よいことをなされた」
むしろ称《たた》えるごとく道三が云ってくれたので、紹巴《じようは》もすこし胸撫でおろした容子《ようす》であった。
しかし道三はその次に、この友が事変の直前に、光秀と愛宕《あたご》権現《ごんげん》で一夜を過《すご》していることについて、本気になってこう責めた。
「どうしてその折、日向守《ひゆうがのかみ》が大それたことを仕でかす気ぶりでも、その動作やことばの端でもわからなかったか。聞けば日向守としては不審な連歌《れんが》も詠まれたとかいうではないか」
「それは無理ですよ」
紹巴もむき[#「むき」に傍点]になって打ち消した。
「臣として主を弑逆《しいぎやく》するなどということは、この紹巴《じようは》のあたまには考えようとしても考えられぬ。たとえ変だと気づいても自分の道義が合点しません。自分の中にないものを未然に感づけといってもそれは無理で……それが咎《とが》められる程ならわしはむしろあなたを責めたい」
「どうして」
「日向守が坂本城におる間、一日|叡山《えいざん》のうえで会ったといわれたことがある」
「今思えば、たしかにあのときすでに日向守の容体には、ただならぬ脈搏《みやくはく》があらわれておった」
「なぜそれを黙っておられましたか」
「病人のことじゃもの。わしにいわせれば、光秀の謀叛《むほん》は、一夜に大熱を発した狂病じゃよ。熱を起すも病症をあらわすも、その心身に素因《そいん》を持っているからであるが、まあ半分は病勢が手伝ったのじゃ。さもなくてこんな日本一の莫迦《ばか》を日本一の理性家が仕出来《しでか》し得ようか」
光秀を評して――日本一の利口者が日本一の莫迦《ばか》をやった――という曲直瀬道三のことばに対して、紹巴も、
「いや大きに」
と、共鳴の容子《ようす》だったが、道三の声が憚《はばか》りないので、こうして同じ屋の棟の下にいる明智方の負傷者たちに聞えはしまいかと、気の立っているそれらの人々の耳を怖れるように、また気のどくがるような眼《まな》ざしで近くの部屋部屋を見まわした。
けれど、道三はいっこうおかまいなく、
「日向守の日頃を、常識の人、知性の人とみるときは、欠けるところのない教養をそなえ、織田どのの一将としてほとんど非の打ち所もない。またよく天下の人心を察知し、信長公がこれまでやって来た統業の功罪をひそかに批判し、それを称《たた》える者も多い半面には、その犠牲となった者や、うらむ者も世にはたくさんある点を冷静に算出して、その数を味方なりと考え、この時期において、公を弑逆《しいぎやく》するの機をとらえた彼の頭のはたらきは、まことに賢いものだというほかはない。……しかしじゃな。ひるがえって、その野望が成るものか、成らぬものか。旗上げの名分をどう称《とな》える気か。彼は、その名分も理論で捏《こ》ね上げられるものと思っておるらしいが。……ばかな。たれが、そんなややこしい理論|構説《こうせつ》に耳をかそう。名分とは、民の直情に合致するものだ。大義とは、民のなかに持っている鉄則の信条じゃ。この標的《まと》を外《はず》しては、戦《いくさ》も政治もうまく運ぶわけはない。かりそめにも、逆と呼ばれる旗を持っては、たとえ、日向守がどれほど努力しようと、もうこの先は見えすいておる」
碗《わん》の中にのこっている冷《さ》めた白湯《さゆ》をのみほして、道三はなお云った。
「――それだけでも、利口者の莫迦《ばか》を証するには充分だが、日向守一箇についていえば、もっともっと彼の愚は大きくなる。それは、もう彼もずいぶん功を立てたろうが、主家の恩寵《おんちよう》は眷族《けんぞく》におよび、丹波、近江にかけて、六十万石に封ぜられ、酬《むく》わるるに何の不足もない。しかも自分の心ひとつで、まちがえば一瞬のまに、わが身のみか、眷族《けんぞく》の妻子老幼から、家中の将士の家族までを、いかなる運命に投げこむか……それを思えば、いかなる堪忍とてもできぬことはない。大家族の家長としてもじゃ。何も知らぬ末々の者や女子《おんなこ》どものために、世に対してはつらい涙ものんで、しかも大船に乗せたここちの安心を与えておくのが、家の主《あるじ》ではないか。――そもそも主人の統業にたいし、その情熱に与《く》みして来ながら、おりおり批判的な眼で主人を見たりなどしていたことが怪《け》しからぬ。あれやこれ、いえばまあ限りもないが、要するに、日向守の逆事は、知性に疲れた智者の破綻《はたん》じゃ。それと、五十五の坂にかかった人間の生理的な焦躁とか、我慢のおとろえとか、脾《ひ》、肝《かん》、心《しん》、腎《じん》、肺《はい》の五臓の衰気も多分に手伝うていることは疑いもない。――もし彼が老いてもいよいよ健康であるか、或いは、もう十歳も若かったら、決してこんなばかをやって、天下を騒がすことはしまい」
道三の長ばなしについ聞き入っていたが、紹巴はふと、べつな方に騒がしい人声を聞いた。――と思うまに、ひとりの門生があわただしく廊下を駈けて、道三をさがしに来た。
門生はそこに師の道三を見つけると、あわただしく告げていう。
「早くも都下一帯に、残党狩りが始まりました。もちろん明智の衆が、なお全市には織田方の士が潜伏しおるものと見ての追求です。さきほどから町ごとに、各戸へわたってきびしい検察《けんさつ》だそうですが、ただ今、ここへもやって参りました」
道三はその門生の浮き腰な容子《ようす》をたしなめた。
「来てもよいではないか。家探しいたすなら致すで、よくご案内いたしてあげろ」
「……でも」
「何をうろたえているか」
「ここに収容してある三分の一ほどは、織田方のさむらい衆でありますので」
「わしが手をかけた怪我人《けがにん》には指もささせはせぬ。よもまた、それらの傷負《てお》いを拉《らつ》して行こうとは検察の明智衆もいうまい」
「ところが今、それでお玄関で争っているのです。残党狩りの衆は、たとえ瀕死の重傷者であろうと、織田のさむらいは、引っ立てて行くといって肯《き》きません。――拒《こば》むなら拒んでみよ、町にかかげてある軍令に照らして、このやしきをも焼き払うぞと、あれ、あのような声で威嚇《いかく》しておりまする」
「……そうか」
道三はそばにいる紹巴へ、会釈をして、
「ちょっと、中座いたすが、おゆるしを」
と、云いながら起った。
その面《おもて》を見あげて、紹巴は、
「ま、門生たちに、委《まか》せておかれてはどうか。明智の武者は気が立っておるにちがいない。お怪我《けが》でもしてはならぬ」
「ご心配に及ばぬ」
道三《どうさん》は玄関へ出て行った。
武者たちは玄関にいなかった。家人の案内にも及ばず中門から庭へ入っていた。そしてたくさんな負傷者を見まわすと、やや冷静にかえった様子で、どれが明智の家臣か、どれが織田の武士《さむらい》か、見分けるにちょっと困難な顔つきをしていた。
で、端のほうから、負傷者に訊問《じんもん》をし始めようとしていたところだった。
「残党のおしらべか。ご苦労にぞんずる」
検察の武者たちは、道三の声にふり向いた。白髯痩躯《はくぜんそうく》、鶴のような老医家のすがたに明智の部将も、いんぎんに礼を返した。
「当家の主《あるじ》か」
「されば道三でおざる」
「それがしは、並河《なみかわ》掃部《かもん》の手についておる山部《やまのべ》主税《ちから》であるが、今暁来の合戦に、味方の傷負《てお》いをおいたわり下されたこと、明智の殿の御名をもってお礼をいう」
「医として、為《な》すことを為したまでのこと。ごあいさつで痛み入る」
「しかし、お囲いの中には、織田の臣もだいぶ交じっておるらしいが、布告のとおり、織田にゆかりある者は、女子年少といえ、一応は連れてまいる。いわんや傷負《てお》いはまさしく合戦に立って刃向った敵。……ひとり残らず、即座に、お引き渡しあれ」
「いけない。ひとりとて、渡すことはできぬ」
道三は拒んだ。
門外にもまだいるらしいが、居あわせた十数名の武者は、彼のまわりを取り巻いていた。
「なに。渡さぬと」
まわりを囲んでいる者の具足や太刀は音をさせてひしめいた。
が、曲直瀬道三《まなせどうさん》は、部将の山部主税の面《おもて》を見ているのみで、その眸《ひとみ》もうごかさなかった。
「渡すの、渡さないの……というのは、少しおかしかろう。ここにいる多くの傷負《てお》いは、たとえ織田衆であろうと、明智衆であろうと、いずれは皆、主人のためと、さむらいの名にかけて、よく戦って怪我した衆である。品物ではない。物とは違う。――ひとつひとつ尊いいのちじゃ。わしはそれを治療する医家であるから、わしの門に入れた以上は、健康にしてあげぬうちは出すことはできない」
「この戦時、しかも敵の残党を詮議《せんぎ》しておる此方《このほう》にたいして、御辺《ごへん》のいっていることは、まるで平時の医者の言だ。いまはそんなことに耳をかしているいとまはない。織田の傷負《てお》いはのこらず引っ立ててまいるからご承知ねがいたい」
「そんな承知はできません」
「なぜ」
と、ついに山部主税もその顔に殺伐《さつばつ》な気をあらわした。
道三は却って微笑をふくんで、諭《さと》すようにそのいきりたつ相手をなだめた。
「考えてみなさい、明智どのが乱の直後、早速に市中へかかげた軍令というのを聞いても、わが軍は決して天下をうらむ者ではなく、織田殿の年来の悪弊《あくへい》を討ったに過ぎず、わけても朝廷を仰ぎ奉るの念にはもとより変るところあるべき理はないと唱《とな》えておるではないか。そしてこれからは、租税《そぜい》の地子銭《じしせん》も軽くする。大いに善政も布《し》く。だから市民は安心して、常のとおり家業に励めと、高札《こうさつ》に令しておられるではないか」
「…………」
「刀折れ矢尽きて、医家の垣の内に療治をうけている兵は、もう主を失った浪人じゃ。ただの一民じゃよ。いや元々から朝廷の御民《みたみ》であった者どもではないか。まして医家の眼から見れば、織田もない、明智もない、ひとしき御民としか見えん。御覧あれ。そこここには、明智衆の傷負《てお》いと、織田衆の傷負いと、枕をならべておるが、もうこの垣の内では、互いに、斬り結ぼうともしておらん。呻《うめ》きと、痛手の顔をむしろお互いに、憐れみ合うかのごとく、黙って、顔見あわせているではないか。……彼も御民の子、これも御民の子、あらそい難い一つ血をもっている証拠じゃ。なお分らなければ、わしの書斎までござれ。むかし楠木正行《くすのきまさつら》が渡辺橋の合戦の折、足利《あしかが》の大軍を討って、暗夜の河中に溺れんとした足利の兵を救いあげて諭《さと》しおる一条が――あの太平記の中にある。貸して進ぜるから太平記を読んでみるとよろしい」
部将の山部は辟易《へきえき》した顔つきであった。この老医家が朝野に重んぜられていることも知っているし、そのいうところも大所に立っていることばなので、自分たちの単なる威嚇《いかく》や小理窟ではとても背が届きかねる。
で、やむなく彼は一案を出してこう促《うなが》した。
「ご足労だが、ひとつそれがしと同道して、御本陣までお歩き下さらぬか。そして直接、日向守様へ何とでも申しあげてみられるがよい。それがまたいちばんよい方法とも考えられる」
「お供してもよいが、この通り大勢の生命《いのち》をかかえ、猫の手もかりたいほど忙しい折じゃ。――あなたの部下を走らせて、ありのままを、御本陣に伝え、日向どののお指図を聞かせて下さい」
道三はこういって、それにも従わないのである。
残党狩りの一組は、部将の山部主税が、やむを得ぬ容子《ようす》のもとに、
「然らば、後刻もう一度、沙汰に及ぶであろう。織田方の傷負《てお》いは、そのあいだ預けおく」
と、いうことばを機《しお》にして、どやどやと立ち去った。
――どうなることか?
と、ひそかに案じていたらしい織田方の負傷者たちは、やがて彼が縁を通って奥へ入ってゆく姿を、仰臥《ぎようが》したままの眸で拝むように見送っていた。
「どうなすった?」
紹巴は案じていたので、彼の顔を見るとすぐ訊ねた。道三はべつだん、どうという容子《ようす》もなく、
「帰ったよ」
と、いった。
けれど、それから間もなく紹巴が辞しかけると、彼はにわかに、
「お頼みがあるが」
と、声をひそめた。
「何ですか」
「実は、さきほど明智衆が調べに来たとき、わしにも胸のうちに弱味があった。というのは、この家のうちに負傷者でもない落人《おちゆうど》がひとり匿《かく》まってある。彼らが出直して来たときは見出されるかも知れぬ。すまぬが、一時お宅へお供申し上げて、適当な頃、どこかへお隠しして下さらぬか」
「誰ですか、その落人とは」
「承知してくれるなら打ち明けるが」
「もとよりこの紹巴とて信長公の御恩顧にあずかって参った者。またあなたという友を裏切るわけもない」
道三は耳をつけて囁《ささや》いた。
「……信長公の御舎弟、あの源五郎どのだよ」
「…………」
紹巴は目をまるくしたが、だまって頷《うなず》いた。そして帰る折には、台所門からひとりの男を連れて出て行った。男は医者仲間の恰好《かつこう》を作っていたが、織田源五郎|長益《ながます》なることは、見る者が見れば分ったであろう。
たそがれ迫る頃おい、さきの残党狩りの部将山部|主税《ちから》は、果たして、ふたたび門を叩いた。
けれどこんどは、駕籠《かご》をしたがえて、いんぎんなる迎えであった。最前の卒爾《そつじ》をふかく詫びて、おことばのままを主人光秀に伝えたところ、却って、医家の仁はさもあるべきだと、非常な御感銘であったとも告げ――
「その儀は、構いなしとの仰せでしたが、今日の合戦に御一族の光忠様にも、二条の東門で深傷《ふかで》を負われておりますし……かたがた、日向守様にも甚だしいおつかれにあらるる由で、まことに御足労ながら、妙心寺の営内まで、御来診《ごらいしん》下さるまいかとのおことばです。……お乗物もそなえて参りました。恐れ入るが、お越しねがいとう存ずる」
と、鄭重《ていちよう》なる頼みだった。
道三は承知した。――その晩、六月二日夜の陰々たる洛中を剣槍に守られて通ったものは、実に一般の市民としては彼ひとりあるのみだった。
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波波波《なみなみなみ》
二日のその朝。
まだ事変の最中《さなか》に、博多《はかた》の宗湛《そうたん》とともに、京都を立ち、その宗湛と、淀《よど》の船つき場でわかれて、堺《さかい》へ急いでいた茶屋四郎次郎は、焦《い》りつける田舎《いなか》道の炎天を枚方《ひらかた》から二里ほども来ると、彼方から埃立《ほこりた》てて来る一隊の兵馬を見かけた。
「もう、この辺にも本能寺のことが知れ渡ったか。それにしても早い駈けつけよう。……明智の与党か。織田の衆か」
――いずれ変を知った近郷のさむらいが、家の子を伴《ともな》って、戦場へいそぐものと独りぎめして、四郎次郎は身を畦《あぜ》の横へ避けていた。
すると、通りかけたその隊の中から、思いがけなくも、大将らしい者が、彼へことばをかけた。
「四郎次郎ではないか。どこへまいる」
ひょいと、畦《あぜ》から仰ぐと、それは彼がこれから今日の大変を今日のうちにも告げ知らせたいと、こうして急ぎつつある意中の人、徳川殿の身内でも、錚々《そうそう》たる直臣《じきしん》のひとりだった。
「おう、本多《ほんだ》様でいらっしゃいましたか。あなた様こそどちらへ」
「京都までまかり上る」
「では、本能寺へ」
「いかにも」
「どうしてそのように迅《はや》くお知りになりましたか」
「知ったかと?」
「今暁《こんぎよう》の変を」
「はて。……四郎次郎、はなしが遠い。もっと寄れ」
本多|忠勝《ただかつ》はさしまねいた。
はなしの辻褄《つじつま》があわないので、さてはまだ知らないなと思ったので、四郎次郎はすぐ彼の鞍《くら》わきへ寄った。そして声をひそめて、
「信長公にお会い遊ばすおつもりで行かれますか」
と、訊ねてみた。
「そうだ」
忠勝はじっと四郎次郎の顔を見ながら、その眼の中のものを何とは知らず、ただこれは何事かあったなという予感を持って読みとった。
四郎次郎は一《いつ》そう声をひそめて一言に告げた。
「右大臣家には、もはやこの世のお方ではありませぬ。今からでは御空骸《おんなきがら》だけにお会いすることもかないますまい」
「……?」
忠勝はいつも持っている自慢の槍を抱えたまま馬上に胸を伸ばした。そして青田の果て遠く枚方《ひらかた》の堤から京都方面を凝視《ぎようし》していた。
夏の雲が、ふわと遊んでいる。ここからは二条の煙もわからなかった。
「みなの者、木蔭へ寄って、しばし休め」
すこし先に、藪《やぶ》があった。忠勝も駒を降りた。そして木蔭の床几《しようぎ》に、四郎次郎とただふたりきりになると、彼は、
「おぬし、かりそめならぬことをいうが、よも間違いや戯《たわむ》れではあるまいな」
と、念を入れた。
「何でかりにも、そのようなことを」
四郎次郎こそ、ここまで来るには、命がけだったのである。冗談どころの沙汰ではない。
「本能寺はもちろん、今頃はもう二条のお構えも陥《お》ちておりましょう。――この辺りは初夏の空と青田の何知らぬ静けさですが――洛内は夜が明けても夜のままで、降る火の粉と馬蹄の音のほか、人影ひとつ見ることはできません。もとより洛外への道々はきびしく断たれ、ずいぶん怖い思いもいたしました」
彼は真相をつぶさに語った。
忠勝は何よりも、
「謀叛人《むほんにん》は」
と訊ね、明智と聞くと、初めて得心の色を示した。――それならあり得ないことではないという容子《ようす》で。
しかしその予感も、こう突然、表面の事実にあらわれたとなると、忠勝も驚愕《きようがく》した。さしあたって、いま京都への途中にある自己の進退にも迷った。
「ではお許《もと》は、乱と同時に、急いで来たのだな」
「一刻も早くお館《やかた》のお耳に入れたいとぞんじまして。……右大臣家|亡《な》き以上、さしずめ天下は乱脈の相を呈しましょう。それに処するお館の御思慮は重大ですからな」
「よくぞ。よくぞ」
と、忠勝は惜しみなく賞《ほ》めて、同時に自分もここから引っ返すことに肚《はら》をきめた。
彼の主人家康の、ここ数日間の動静はどうかと見ると――月の末(五月二十八日まで)は京都見物に過し、二十九日には堺《さかい》へ向い、晦日《みそか》には、堺奉行所の公式の饗応《きようおう》に招かれたり、また松井友閑《まついゆうかん》の案内で、遊覧などに送っている。
明けて六月一日も堺|泊《どま》り。
その朝は、今井宗及《いまいそうきゆう》の宅で、朝茶の招きがあり、種々の名器など見て、午《ひる》すぎの半日は諸所の寺院など見てまわった。
その晩、家康は、
(右府様にも、そろそろ御上洛ある頃。安土以来のお礼を申しあげねばなるまい。――先発として忠勝には一足先へ立て)
と命じ、その本多忠勝が、出発のあいさつをうけてから、客舎に就寝したのであった。
忠勝が堺を出たのは、まだ真っ暗な早暁《そうぎよう》であったから――以後の主君の動静はわからない。が、恐らくは今日もまだ、堺に御逗留《ごとうりゆう》ではないかと想像されていた。
四郎次郎とともに、彼は堺へ引っ返したが、家康はもう堺にいなかった。
土地《ところ》の人々は、
「午《ひる》すこし前、急に、右大臣家とお会い遊ばす急用が起ったと触れ出されて、お昼食その他の御予定も一切|抛《なげう》たれ、慌《あわ》ただしゅう京都へお立ちになった」
という。
けれど、この頃には、もう誰からともなく、本能寺の変は聞えていたので、堺には騒然たる人心の動揺が見られた。
「――はて、それならば、途中でお目にかかっているわけだが?」
忠勝は首をかしげた。直臣の忠勝にすら行く先が解《と》けなかったのであるから、今日知った異変の報とともに、堺の人々が、家康の行方不明をも語り合わせて、一《いつ》そうその騒ぎに臆測《おくそく》を加えていたのは無理もないことであった。
堺附近の人心に徴《ちよう》しても、本能寺変の一事が、いかに天下を震駭《しんがい》させたかは、想像以上なものがある。
こういう場合の民心の動揺は、得《え》てして行き過ぎに奔《はし》りたがる。
或る者は、
「今からまた、世の中は前のような大乱になるだろう」
と云い、またある者は、
「室町末頃の群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》がふたたび実現する」
と称し、なおその間に、
「もう、どこそこでは、合戦が始まっている」
などと果てしない噂も生じ、いずれにせよ、畿内《きない》はもちろん、中国方面でも、関東でも北越でも、地上に戦いの行われない所はなくなるであろう。そしてなお容易には、このまま明智光秀が一夜に取って替《かわ》ったものを、ゆるすことではあるまいというのが、一般の観測でもあり、また恟々《きようきよう》と、明日を怖れる所以《ゆえん》でもあった。
そしてその騒然たる不安と浮説は、三日は二日よりも強く、四日は三日よりも濃く、日のたつに従って、全国的なものとなった。――つまり、報道される地域が拡まってゆく相《すがた》と、それを知ることによって次々に起って来る地方の新しき事件とが、相搏《あいう》ち、相称《あいとな》え、一波万波のしぶきをいよいよ人心に駆りたてるからである。
で、事変後の数日、その余波のもっとも高そうな人と地理と情勢とを、いまその禍乱《からん》を離れて、天下の全面を高所から大観してみると、帰するところ、どこもかしこも、愕《おどろ》きの余りに、
――如何にこの大変動に処すべきか。
は、誰もまだ混沌《こんとん》として、明らかに帰趨《きすう》を見とおしている者は、ほとんどないような有様としかいえない。
まず、信長|麾下《きか》の宿将たちの立場を見るに、第一に指を屈すべきは柴田勝家《しばたかついえ》であるが、折から彼は、越中に出征中で、本能寺の事あった翌日六月三日でさえ、まだ京都の凶変を知らずに、上杉方の魚津城《うおづじよう》を懸命に攻めたてていた。
木曾、信州を経て、事変の真相が裏日本いったいへ聞えて来るまでには、尠なくも、三、四日を要していたろう。
勝家は、この驚愕に打たれるとすぐ魚津を退《ひ》いて、
「ひとまず北《きた》ノ庄《しよう》へ」
と、自国の本城へ帰ったし、彼とともに、戦列に加わっていた佐々成政《さつさなりまさ》も前田利家《まえだとしいえ》も、各※[#二の字点、unicode303b]、急潮の退《ひ》くごとく引きあげた。
利家は能登《のと》の七尾《ななお》へ、成政は越中の富山へ。そして勝家は北ノ庄にひとまず旗を収めたが、かかるあいだの各人の天下観も、自己の処する方針も、箇々同じものでなかったろうことは想像に難くない。
その際、利家から勝家へ、
「即刻、上洛して、明智と一戦なすべきでしょう」
と、勧告の使者があったとも伝えられ、或いは反対に、勝家から前田勢に、
「すぐ、京へ入らん。御辺も続け」
と、出兵を促《うなが》したが利家は対上杉軍との懸引《かけひき》を理由に、それをことわったという説も行われている。
いずれにせよ、裏日本の事態は、柴田勝家にとって、迅速な行動をゆるさないものではあったが、余りに憂いて、諸所へ兵を配し後顧《こうこ》に備えてから、ようやくにして彼が江州《ごうしゆう》へ越えて来た頃には――時すでにおそしで、天下の変貌はまったく勝家の予想とは相反するものを旬日のまに招来していたのであった。
柴田勝家はしばらく措《お》いて。
東国にある滝川一益《たきがわかずます》はどうこの大転機をうけ取ろうか。
彼の立場も、地理的には非常にまずい所にあった。
上州厩橋《じようしゆううまやばし》といっては、たとえ光秀討伐を志しても、ちょっとには駈けつけられない。
本能寺の急変を告げて来た書状を彼が見たのも、月の九日ごろだったという。この飛脚もちと遅い。かほどな天下の大事である。早馬に早馬を継いで、昼夜駈けさせれば、もっと日数は短縮されるはずである。
――が、その使いを派した安土の留守居衆からして、すでに混乱|狼狽《ろうばい》していたので、日頃の駅伝《えきでん》組織も完全な用を果していなかった。それと、どうせ知れることながら、一日でも多く秘密を保とうとしていたせいもある。
「きのうきょう。頻りに信長公が死なれたという噂があるが、実否如何であるか」
小田原の北条家から彼へこう訊ねて来たのが、十一日のことだったとあるほどゆえ、以ていかに関東方面の報道は遅鈍《ちどん》なものだったかがわかる。
要するに、駅伝よりも、それら武将間の早打よりも、民衆の耳から耳への沙汰がいちばん迅速だったのである。
一益《かずます》の場合は、その動きのつかなかったことも、恕《じよ》さなければならなかった点は多い。
上州は新領地だった。そしてまた彼が赴任《ふにん》したのも日が浅い。殊に、小田原の北条というものは到底ふだんでも安心していられる存在ではない。
だから彼は、変を聞いても、動かなかった。いや動き得なかった。――にもかかわらず北条は、月の中旬には、
「事を成すは今にある」
となして、上州高崎の境へたいして侵略を開始していた。
同時につい先頃、織田軍によって、武田そのものをも跡かたもなく攻め潰《つぶ》した甲州方面でも、物情騒然《ぶつじようそうぜん》、蜂の巣をついたような妄動《もうどう》があらわれ出した。固守、攻略、合流、分離の争乱が随所に起った。
それらの新領地におかれていた蘭丸の兄の森|長可《ながよし》も、河尻秀隆《かわじりひでたか》も、毛利秀頼《もうりひでより》も、いずれはみなこの大地震にも似た地表の変動にその位置を失い、戦歿、流亡、惨たる末路にただよった。
要するに、この三月、信長が取ったばかりの旧武田の新領は、全部、一夜にしてふたたび、その所有者を変えたといってよい。
機を見て小利をむさぼるに敏なこの行動者は何処の何者ともいえないほど無数である。が、大なるもの北越の上杉、小田原の北条、そしてその慾望の触角は、柴田勝家の境へも、徳川家康の界《さかい》へも、ほとんど見さかいなき相《すがた》で侵攻を開始し、まさに、天下再乱の恐慌《きようこう》を思う民衆の予想は中《あた》っているかとも思われるばかりであった。
「しかし、たとえどうあろうと、信長公にもっとも近い血族のうちから、なぜただ一人の毅然《きぜん》たる者も立たないのか。名分ある旗をかかげないのか」
とは、民衆の中にある斉《ひと》しき焦躁《しようそう》であった。その気もちは、信長の第二子|北畠信雄《きたばたけのぶお》と、三男|神戸信孝《かんべのぶたか》の在《あ》るにたいして、当然抱かずにいられない一般の同情でもあったのである。
安土本城の留守居衆は、この際において、どう処したろうか。
地理的に見ても、京都とは、目と鼻のさきである。おそらく同日の夕刻には、すべてのことは、安土へ分っていたにちがいない。
蒲生《がもう》賢秀《かたひで》の所へは、早くも同夜ひそかに光秀から手を廻して、招降《しようこう》の書が届けられていたともいう。
「ばかな」
と、彼が顧《かえり》みなかったことはいうまでもない。彼は、信長の夫人|生駒《いこま》氏以下、主君の眷族《けんぞく》を奉じて、翌三日には、郷里蒲生の東郡《あずまごおり》にある日野城へ退《ひ》き移った。
そしてその子|氏郷《うじさと》とともに、居城日野に堅守《けんしゆ》のそなえを急ぎ、一方伊勢の松ケ崎城にある信長の第二子北畠信雄へ、
(御遺族にたいして、光秀の来襲あるは必定《ひつじよう》、急遽、援軍をこれへ派し給え)
と、早打した。
そのときすでに、北畠信雄は、軍勢を催していた。――が、これはそのためではなく、やはり中国出兵の用意だったのである。
変を知るや、ここにも驚愕と顛動《てんどう》と方針の狼狽が起った。とりあえず、信雄は、蒲生家の一女子を人質にとって援軍を派した。
かつまた、自分も、
「父|右府《うふ》のうらみ、いかで晴らさずにおこうや」
と、悲壮なる決意の下に、江州土山まで進んでみたが、背後の領内伊勢にも、途上の伊賀地方にも、表裏二態をとって、応変《おうへん》の凶兆ただならないものがある。
信雄は、右顧左眄《うこさべん》して、
「もし、光秀と結ぶ者が、ふいに江州一円に蜂起《ほうき》しては? また伊勢の後ろに起っては?」
と、もっぱらその鎮圧と、形勢を見まわす方に、せっかくの意志を奪われて、むなしくこの進撃の時機を逸し去った。そして、彼方《かなた》此方《こなた》の小乱に打ち向い、一死一番、大義と大道へましぐらに赴《おもむ》くことをなさずにしまったのである。
これを見ても分るように、絶対に光秀を忌避《きひ》して、光秀を逆賊となす者のある一面には、暗に、彼の連絡《れんらく》にたいして黙契《もつけい》をもってこたえ、情勢の進展とにらみ合わせて、明智側に拠《よ》って立とうとする諸豪族も決して少なくはなかった。
とりわけ、大坂城にあった織田信澄《おだのぶずみ》は、光秀の女婿《じよせい》でもあるし、その父の織田信行は、かつて信長の成敗《せいばい》をうけている。一族とはいえ、父を信長に殺されているその子の信澄である。――彼こそはかならず味方に応ずるであろう。――光秀は当然、彼が大坂表から呼応するであろうことを期していた。
六月二日の本能寺変の当日。
折も折、その信澄は、信長の第三子|神戸《かんべ》信孝や、丹羽《にわ》長秀などと共に、阿波、中国への出軍の装《よそお》い成って、今しも住吉の浦から兵船に乗ろうとしているところだった。
「京都に大変が勃発《ぼつぱつ》した」
そう聞えるや、全軍、なすことを知らず、早くも逃散《ちようさん》する兵さえ続出した。丹羽長秀は、信孝と謀《はか》って、ひとまず大坂城へもどり、五日の夜、ふいに信澄を襲って、これを千貫櫓《せんがんやぐら》で刺し殺してしまった。――打ち洩らされた信澄の部下の少数は京都へ奔《はし》って、直ちに明智軍に投じた。
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家康《いえやす》の場合《ばあい》
結局、一信長の死は。
――為に、天下みな、驚愕《きようがく》顛動《てんどう》して、一夜に変る世態世路を、踏み迷い、踏みうろたえぬ者もなし。
という実状というほかはない。
平常は一方の知識たり、歴乎《れつき》たる武将であっても、かかる場合は、ほとんど、例外はなかった。
むしろ、枢要《すうよう》な位置にあるものほど、また、生《なま》なかの知識ある者ほど、
(どうなるか? どうせんか?)
に迷いと狼狽は甚だしかったといってよい。――あの徳川家康においてすらなおかつそうであったところを見ても。
急に、堺を引き払って、何処《いずこ》へともなく立ち去った家康の一行をさがし廻った茶屋四郎次郎と本多忠勝はようやく、
(河内の飯盛《いいもり》辺を、それらしい御同勢が東の方へいそいで行かれた)
という噂を路傍でひろい、その晩、尊延寺《そんえんじ》に泊っているのをつきとめて、急いで行ってみたが、ここにもすでにいない。
寺僧のはなしによると、
「よほどお急ぎとみえ、ここでは御休息をなされたきりで、夜道をとおして、草内《くさち》の方面へまた立たれました」
とある。
追いついたのは翌日の三日で、信楽《しがらき》の里のいぶせき山寺に、家康はつかれて昼寝していた。
寺のまわりには、老臣の酒井忠次《さかいただつぐ》、石川数正《いしかわかずまさ》、井伊直政《いいなおまさ》などが、物々しく、警戒していた。平和な旅行中の出来事だったので、重臣はみな扈従《こじゆう》していたが、兵はいくらも連れていない。故に、上下のわかちなく非常の装いをして、榊原康政《さかきばらやすまさ》なども、素槍《すやり》をかかえて、自身、方丈《ほうじよう》の外に立っていた。
「京都より、逐一《ちくいち》、御報告のため、茶屋四郎次郎が、お慕いして参りました。なお、本多殿も、四郎次郎と途中で行き会い、唯今、これへ帰られましてございまする」
康政が、小姓をとおして、家康の耳へ入れた。
――忠勝が戻ったらすぐ起せ。
と云いおいて家康は、昼寝の手枕にほんのわずかな間を横になっていたのである。
「なに、四郎次郎が来たか」
これはよほど欣《うれ》しかったらしい声だった。
なにぶんにも、詳しいことは少しもまだ分っていない。彼はなによりもそれを知りたかったのである。
起き出て、あわただしく顔を洗い、もとの方丈《ほうじよう》へもどってみると、二人はもう通されて平伏していた。
「右大臣家の御生害はまぎれなきことか。兵乱はなお京都だけに止まっておるか。途中の人心のもようはどうか」
それらの質問にたいして、茶屋四郎次郎は、知る限りのことを、つぶさに伝えた。といっても、昨日の午《ひる》頃までの情勢しか彼にも分らないので、その範囲にとどまるものであったが、昨日以来、ひたすら本国岡崎さして、道のみ急いでいた家康にとっては、それだけでも、大体の全貌を知る上に、よほど明瞭な判断を持つことができた。
次の間まで住持が来ていた。
人々はそれを知ると口をつぐんだ。家康はふり向いて、
「調《ととの》うたか」
と訊ねた。
住持は答えて、
「御案内申しあげまする」
と促《うなが》した。
家康は住持について起ちながら、みなも来い、と云った。何か先にいいつけておいたことがあるらしい。康政も忠勝も四郎次郎も従って行った。そこはこの田舎寺《いなかでら》の小さい本堂であった。
「外におる忠次や直政もこれへ呼べ」
家康のことばに、寺の附近を警備していた酒井忠次や井伊直政なども席に列した。仰ぐと、この藪寺《やぶでら》のいぶせき厨子《ずし》に昼の燈明が白々ゆらいで見える。そして壇の正面に右大臣織田信長の俗名を誌《しる》した紙|位牌《いはい》が置かれてあった。
(さては仮に御弔《おんとむら》いをなされる思し召か)
家臣たちは家康の心を察し、また世の変転を観じながら、ひそと坐っていた。
住持が型のような礼拝を行ったあとで、家康は香炉の前へすすんで久しいあいだ合掌した。ながるる涙も頬に乾いてしまうであろう程な長い瞑目《めいもく》であった。
酒井忠次や石川数正、以下井伊、榊原《さかきばら》、本多などの人々も順々それにならった。そしてまたしばらく対坐のまま黙然と無量の感を抱きあっていた。
住持はしずかに去ってゆく。廻廊の下にいる警固の武士の槍のさきが見えるだけで、茶屋四郎次郎ひとりを除くほかは、主従水入らずの徳川家だけの者になった。
「……まだ、ほんとのような心地がせぬ。四郎次郎の口から慥《しか》と実状を聞いても」
家康はつぶやいた。声のうちにも嘆息も聞える。しかし彼のひとみは何らの懐疑《かいぎ》もたたえてはいない。この大きな事実を誰よりも正確に見つめている眼である。そして少し若禿《わかは》げを呈している大きなおでこが、どういう考えをいま抱蔵《ほうぞう》しているか、余人をして容易に窺《うかが》わしめないような緊《し》まりきった顔をしていた。
「……夢のように存ぜられます」
「なんとも。……右大臣家のお心を察すれば察する程、刹那の御無念。……どうあったかと思われまして」
人々もみな嘆声した。喞《かこ》ちあえば限りもなく思い出がわく。安土でその人の舞を拝見したり、哄笑を聞いたのも、つい十日ほど前のことである。
だが、家康は、人々の余りな詠嘆《えいたん》は好まない容子《ようす》であった。家臣としても実はそんな余裕はなかった。果たしてこれから無事に三河まで帰り着けるか否かすら、みな疑問の中だった。途中の安全は扈従《こじゆう》の誰にも確信はないのである。――にも関《かか》わらず、危険を冒《おか》しても、浜松まで帰ろう。後図《こうと》の何をなすにしても、ひとまず本国へ立ち帰った上で――と、急に堺を去ったものの、地方の情勢は都会以上険悪であったし、山野には早くも土寇《どこう》の出没もあるらしい。その中を軽装にしてしかも小勢な一行が、この際、主人の一命を守って三河まで押し通ろうということは、ほとんど天助を祈るしかない冒険だったのである。
――いわば信長の奇禍《きか》は、惹《ひ》いて直ちに、家康のこの災難ともなって来たわけであるが、彼やまさに、四十になったばかりの男ざかりである。うろたえはしていない。眼前の困憊《こんぱい》などは、次の、大きな意欲の膨《ふく》らみにうち消されて、むしろ歓びですらあった。
縷々《るる》と、香炉からのぼる香煙をながめては、
(右府の死を一期《いちご》として、世の中はこれで大きくひとつまわった)
と考える。なによりも彼はそれを思う。
現実をはなれて家康の思考はない。これは幼少からのものだ。今とて、そうである。表面の彼と、肚《はら》の彼とは、見たとおりのものではない。
昨夜来、信長の死が信ぜられた時から、これを家臣たちが眺めていると、しばしば、人の無常を嘆じ、多年の盟国《めいこく》たり親友たる信長の非業《ひごう》な死をかなしんで、その傷心のあまりには、ふと、腹でも切って、故人に、殉《じゆん》じそうな気ぶりすら見られたのである。
だが、きょうの家康は、やや逞《たくま》しくなっていた。家臣たちはそれを見て、
(お気を取り直されたものとみえる)
と、ひそかに慶《けい》し合っている容子《ようす》だが、家康のほんとの肚のなかは、宿老たちよりは遥かに老熟《ろうじゆく》しているのである。そんな燈心のようなかぼそい[#「かぼそい」に傍点]神経をとおして、この生涯に一度あるかないかという世の大転機を観《み》ている者ではなかった。
(右府|亡《な》きあとは、たれがその統業を継ぐか、天下人たる者か)
もう一《ひと》すじ眉毛を置いてもおかしくないほど広い額《ひたい》の中では、もうこれが考えられていた。彼は彼の胸中問にたいして、
(気のどくだが光秀ではない)
と、あきらかに断定をつけ、そして、当然のように、独りこう答えていた。
(自分を措《お》いて、ほかに誰があるものか)
織田、徳川というものは、年来の盟国である。盟国の仇《あだ》として旗幟《きし》をかかげるとせんか、その名分は諸侯へ檄《げき》を飛ばすに足る。さらにそれへ、信長の遺子ひとりを守り加えるならば、以て外は光秀を圧し、内は旧織田軍を包括《ほうかつ》して、自然、次代の中心勢力を持つにいたるであろう。――たとえ、織田の遺臣中に二、三の野望家があらわれることを予期しておいても、さして思慮実力とも両全といえる程な人物は見あたらない。丹羽、柴田、滝川、羽柴――まずどれもこれも急には活動できまい。できたとしてもさしておそれるに足るほどな者はいない。
家康はそう観《み》ていた。諸事、肚の底にそれを深く据えておいてのことばであり行動であるのだった。しかし扈従《こじゆう》の面々には、やはり眼前の問題――この危地をどうして無難に三河まで切り抜けて通ろうか――のほうが、もちろん重大に苦慮されていた。それがまた、普通人の普通でもある場合だった。
「道を見に参った物見のものが帰りました、あちらへ控えさせておきましょうか」
小姓のひとりが、家康のそばへ来てたずねた。家康は、頷《うなず》いてみせた。待たせておきますか、と小姓はもう一度念を押した。家康はかさねて頷《うなず》いた。
そのとき石川数正が、ふと言葉をさし挟《はさ》んだ。
「物見の者の報告を、さきに聞きとり遊ばしてはいかがですか。如何なる変が待ちうけておるやも測られませぬゆえ」
すると家康は笑った。
「いや、いまの取次の容子《ようす》では、そんな憂いはない。もし異変を知って帰って来た物見なれば、必定《ひつじよう》、その血相は取次に移り、取次の語気は、またその凡《ただ》ならぬものをこれへ移して来たであろう。いまの小姓の気《け》ぶり[#「ぶり」に傍点]では、問わずとも、さしたる異常のないことを無言にも語っておる」
数正は赤面した。同じ気持であった他の宿老は、救うように、話題をほかへ紛《まぎ》らした。
「いったい、光秀ほどの者が逆意を仕果して、それが天下に容《い》れられるものと思っておるのであろうか」
家康は黙って、聴く立場を取った。家臣の評も概して一般と異ならないものだった。何よりは光秀が君臣の道義を破壊した点をみな非難した。
「殿のお考えは」
終りに榊原康政が問うた。ほかの家臣も、主人の光秀観を知りたい態《てい》であった。
「一言にいえば、光秀はあの賢才《けんさい》を抱きながら、いつのまにか、たった一つの美徳を心に失っていた」
家康はそう前提して、
「謙虚《けんきよ》を失っておる」
と、いった。
康政が、かさねて、
「けれど、日向守《ひゆうがのかみ》には平常もずいぶん慇懃《いんぎん》な方で、人いちばい謙虚に見うけられましたが」
と得心のゆかない顔を示すと、家康はなお否定して、次のような感想を加えた。
「それは彼が努《つと》めてきた教養の結果で、本質ではなかったのだろう。知性の人にはままある姿だ。……が、ついに彼はその一面を持ち切れなくなった。知って放擲《ほうてき》したか、思い上がりが磨滅《まめつ》させたか、とまれ謙虚を失ったのは、一代あれほど蓄《たくわ》えて来た知識をすべて鼠《ねずみ》に喰わせてしまったようなものだ。謙虚だにあればたとえ事情心情如何にあろうと、あの暴挙には決して出られぬ。――およそわれらが謙虚を打ち捨ててよい時は敵陣へ駈け入る時だけだ」
家臣はみな傾聴《けいちよう》していた。そこで康政がふたたび、
「暴とはいえ、光秀の乾坤一擲《けんこんいつてき》は、ひとまず図に中《あた》ったかたちですが、このまま、うまく後の画策《かくさく》がすすむでしょうか」
聞くと、家康は、まるで問題にしていないように笑って云った。
「すでに、おのれに敗《やぶ》れている者が、何で外に勝てるものか。いわんや、世を統《す》べて、まとめ上げることなどができるわけはあるまい」
この席はこれで起《た》った。そしてもとの方丈《ほうじよう》へ移ると、家康はすぐ待たせてある物見の男を、縁さきへ招いて、あちこちの情勢を聞きとった。
諸方に物見を放って、昨日から家康が耳に蒐《あつ》めた情報は少なくない。けれど肝腎《かんじん》な京都、安土方面のうごきは、皆目《かいもく》知れない。交通が遮断《しやだん》されているためと、彼は観察を下していた。
それらの詳細も知りたいはもちろんであったが、さし当っては、帰国までの通路にあたる地方の領主の志向と、土匪《どひ》の出没や一揆《いつき》の有無などが重大だった。その形勢によって、帰国の道を選ばないと、みずから求めて網に入る魚となる惧《おそ》れが多分にあるからである。
「宇治方面は、まださして騒がしい動きも見えませぬ。あれから信楽《しがらき》へ出られ、伊賀へとかかれば、おそらくまだ明智勢の手は廻っておるまいかと察しられます」
午《ひる》まえに聞いた物見の言も、いま戻って来た物見の報告も大体に同じであった。家康は、それに対して、
「郡山《こおりやま》の筒井順慶《つついじゆんけい》は、なお奈良に留《とど》まっておるか、奈良を出た様子か」
と、糺《ただ》した。物見は、
「なお奈良に滞在したままでおりますが、家臣の井戸良弘《いどよしひろ》どのは、筒井家を代表して、光秀と会うために、京都へ入ったとか、行くとかいう噂がありました」
と答えた。
「そうか。よろしい」
その程度で、物見の男は退けた。そして家康はまた、左右の重臣たちと額《ひたい》をよせて、ひそかに協議し始めた。もとよりこれからの道すじをどう取るかのことだったのであろう。
この草内《くさち》に留まって一休みしたのは、夜来の疲れもあったが、かたがた、筒井順慶《つついじゆんけい》の向背が気懸《きがか》りだったことにもよる。筒井家と明智家とは姻戚の関係がある。光秀の一子十次郎は筒井順慶の養子となっていた。当然、こんどの挙には、事前から両家のあいだに黙契《もつけい》があったのではないかと考え得られる理由があった。家康はそれを恐れたのである。
しかもその筒井順慶は、これまた中国出陣の命をうけていて、居城|郡山《こおりやま》を発し、装備された軍団を擁《よう》して奈良まで来ているのだ。時をまたず、いつでもすぐその意志を行動に移す備えができている。それだけに、小勢にしてしかも武装もない家康主従としては、甚だ不気味な存在にちがいなかった。
「奈良に滞陣したまま、きょうもまだ動かず、わずかに槇島《まきしま》の井戸良弘を京都へ行かせているようでは、事前に明智方と諜《しめ》し合わせがあったものとは思えぬ。……なお数日の形勢を見、光秀の勢いが日に増して加わらば光秀につき、不利と見たら鉾《ほこ》を収めてべつに策を求めようとしているのが順慶の肚《はら》ではないかの、わしはそう観《み》るが」
家康の見とおしに宿老たちもみな服した。その見極めさえつけば、宇治を通って、伊賀越えの間道をいそぎ、伊勢へ出て、海路、三河へ渡るのが、困難な道ではあるが、もっとも安全のように考えられる。
「こういう時に迷うていたら限《き》りもあるまい。寧ろ、時が大事だ。一時も早いがよい。それと決めよう」
物事について非常によく考える人でもあるが、また時には、驚くべき放胆《ほうたん》と不敵を示す家康であった。そう一決を下すと、彼はすぐ云った。
「腹がすいた。寺僧に湯漬を命じておけ。そのまに支度して黄昏《たそがれ》とともにこの寺を立とう」
一行わずか五十人足らずの主従であった。そのうち騎馬の者は六、七名。小姓侍をあわせて三十名とはいない。あとは乗換馬を曳《ひ》いたり、荷を持ったりしている足軽小者である。
もし土寇《どこう》の群れにでも襲われれば、たちどころに包囲され、全滅するほかはなかった。乱を見れば忽ち蜂起《ほうき》して、好餌《こうじ》を漁《あさ》りまわる土匪《どひ》の徒や野武士の集団は、故信長の遺業がここまでになっていても、まだまだ決して根絶されてはいない。天文《てんもん》、永禄《えいろく》の世頃から見れば、ずいぶん減《へ》って来てはいるが、なお少し山間僻地《さんかんへきち》に入れば、さながら百鬼夜行のごときものと随所に出会うのが常であった。
――果たして。
家康の一行が、信楽《しがらき》から伊賀へと向って来たときあとから追いついて来た家士の一名が、その戒《いまし》めともなる生々しい一事件を告げた。
「同じ泉州に居られた穴山梅雪どのは、御一行がお立ち遊ばした一刻あとから堺《さかい》を立たれ、甲州へお帰りあるべく、山城の草内《くさち》まで同じ道を御通過なされたらしく思われますが、途上の者の語るのを聞くと、草内附近で大勢の野武士に襲撃され、敢えなく打ち殺されたということでござります。……いよいよ大乱の余波は山野の隅々まで揺れ寄せて来たようです。――先々、御油断はなりません」
折も折、穴山梅雪の非業の死は一行の者の胆をすくなからず寒からしめた。山城国《やましろのくに》あたりですらすでにそんな凶相《きようそう》があらわれ出した以上、これからかかる伊賀山中の柘植《つげ》地方や加太越《かぶとご》えあたりの間道はその危ないこと、思いやらるるものがある。
「心配すな。かかる時はいたずらに、心を労《つか》うも及ばぬことだ、ただ天に順じ、一路まどわず急ぐに如《し》くはない」
家康はつかれも知らぬ容子《ようす》である。元来が健康な体質でもあるが、より以上、頑健を誇っている家臣の者がすでに喘《あえ》ぎ出していた。堺以来、昼夜もわかたず急いでいたし、眠るまも、お互いに見張りし合って、草に臥し、石に枕して、わずかに休む程度に過ぎなかった。
しかし、ここにただ一つの力を得たのは、先年故あって徳川家を去り、以後|牢人《ろうにん》していた本多正信が、郎党十名ほど連れて、家康を伊賀|山麓《さんろく》に迎え、そこから、先導《せんどう》に立って、道案内に努めてくれた一事である。
扈従《こじゆう》の人々は、口々に、
「まこと、地獄で仏」
と、云い合ったが、家康はかくべつなよろこびも示さず、
「正信であったか。大儀」
といったのみであった。
ようやく伊勢に入り、船で三河の大浜へ渡りこえた。
人々は初めて蘇生《そせい》の思いをした。
時は六月の五日。堺からわずか中三日で帰国したのである。
まったく身をもってこの大難中をのがれて来たといってよい主君を迎えて、徳川家の家中はみな泣かんばかり狂喜した。
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雲団々《くもだんだん》
六月|朔日《ついたち》以降、二日も三日も、京都及び近畿地方はほとんど晴天で、照りつける暑さだったが、中国地方の気象《きしよう》は、概して晴曇《せいどん》半ばしていた。
五月末は、大雨がつづいた。六月に入ってのここ両三日も、山岳地方は依然荒れ気味で、西南の風がつよく、南から北へ移行する乱雲に照ったり曇ったりの空をなお持ち続けていた。
(ごろごろと、ひと雷鳴《かみなり》やって来れば、梅雨もここらで霽《あ》がる頃だが)
とは、この長雨と黴《かび》に飽々《あきあき》した一般の喞《かこ》ち言《ごと》であったが、備中高松の一城を、長囲攻略中の羽柴軍にいわせれば、
(もっと降れ。いつぞやのような豪雨が、二夜も三夜も降り流せ)
と、なお八大龍王の暴威を祈りたい程だった。
雨こそはいま、この戦場を決定づけていた。秀吉の作戦は、その設計どおり、全面積約百八十八町歩にわたる渺茫《びようぼう》の泥湖《でいこ》を作りあげていた。
孤城、高松の城は、その大湖沼《だいこしよう》のなかに、ぽつねんと水漬《みずつ》いている。はるかその附近に、禿頭病《とくとうびよう》者の髪の毛の如く見えるものは、森であり並木であり、ところどころの木々だった。
城下の民家もわずかに屋根だけを水面にとどめていた。低地の農家などはすでにその屋根すら現わしていない。分解された無数の木材は濁流のままうごき出して、この大湖沼の周囲を浮游《ふゆう》していた。
流木の迅《はや》さを見てもわかるとおり、一夜にして出現したこの人工の泥湖は、いまなお刻々|水嵩《みずかさ》を増している。足守川《あしもりがわ》と長良川《ながらがわ》の二|川《せん》を合したものが、どうどうと注ぎ込まれているのである。一見、黄濁《おうだく》のさざなみはただ満々と静止しているかに見えるが、水際《みずぎわ》の渚《なぎさ》を少し見ていると、見ている間にも一寸二寸と、周囲の岸が侵《おか》されてゆくのもわかる程だった。
「きょうは暢気者《のんきもの》がおるぞ。――あれを見ろ。そち達と似合いの暢気者が」
秀吉は馬の背から、うしろにいる小姓たちの一組へ云った。
――どこに?
と、問いたげな顔をして、小姓たちは皆、馬上の主人が指す方を見た。
なるほど、泥湖の流木のうえに、たくさんな鷺《さぎ》が止まって遊んでいた。
石田佐吉、大谷平馬、一柳市助の弟など、まだ十三、四歳から十六、七歳の小粒組は、首をすくめて、くすくすと笑った。
「わしたちは、鷺かしら?」
すると、中で年上の、森勘八郎がいった。
「戦いの中でも、よく遊んでばかりおるゆえ、殿さまがああ仰っしゃったのだ」
小粒組は、負けていない。
「じゃあ、勘八どのは、なんだろう」
「鴉々《からすからす》。鴉の勘八どのだ」
そんな、子どもらの戯れをうしろ耳にしながら、秀吉はのたりのたり馬を打たせて帰って行く。
いつものように、傘、馬印《うまじるし》、以下五十騎ほど連れて陣廻りをして来たもどりである。
それは、六月三日の夕方。
彼はまだ何も知ろうはずはない。
秀吉は日々の陣廻りを欠かさなかった。ほとんど日課としていた。
五十騎、或いは百騎を従え、ときには子ども(小姓)も連れ、長柄《ながえ》の大傘を翳《かざ》させ、燦々《さんさん》と、馬印《うまじるし》を立てて練り歩く彼の「御通過」を仰ぐと、味方の兵は、
――うちのおやじが通る。
そう思った。見かけない日は何となく物足らなかった。
秀吉もまた、右顧左眄《うこさべん》。
――やっているな。
汗や泥にまみれている兵、食うにたえない程な物を美味《うま》そうに喰べている兵、常にどこか笑いをもって退屈を知らない兵。そうした若々しい生命のかたまりを眺めない日はものさびしい。
かがなえば、この中国へ一司令官として軍務について以来、五年にわたる長い戦陣生活であった。上月城《こうづきじよう》、三木城《みきじよう》、その他、各地の転戦苦闘は言語に絶えるものがあった。戦いの困苦や危険のほか、主将としての精神的苦境にも幾たびとなく遭《あ》った。
あの気むずかしい信長へ遠くから仕《つか》えて、つねに三軍のうちにその主君|在《あ》るかのごとく慎み、信長をして、満足させ、安心させておくだけでも、容易なる気苦労ではない。
いわんや、信長の周囲、味方の諸将のうちにすら、彼の出頭を、余り快《こころよ》しとしない、幾多の人間的内争もあるにおいてはである。
しかし、秀吉は、
――ありがたい。
と、この五年間のあらゆる艱難《かんなん》にたいして、朝、太陽を拝むときの、あの心のままで、感謝していた。
こんな試煉《しれん》は、求めて得られるものではない。そも、いかなる思し召があって、天はかかる百難また百難をこの身に与えて下されつつあるのかを、ひとり考えることもあった。
ひいてはなお。
生れつき余り丈夫でもない肉体なのに、この矮短《わいたん》な一|小躯《しようく》をもっても、それに剋《か》って来られただけの意志を作っておいてくれた幼少時の貧苦と、世路の逆境にも、沁々《しみじみ》ありがたさを思う日もあった。
そして彼は今や、この世へ「人」として生れ出た意義の無限大を覚えるとともに、生きている日々が、楽しくてならない「時」と「年頃」に到っていた。
だから彼が放つ声は、
――やあ。やってるな。
という何でもないことばでも、将士の心をして愉快にさせた。辛くても、喰わないでも、彼とともに暮す日を最大のよろこびに思わせた。
そのくせ、彼の顔は決してにこにこ[#「にこにこ」に傍点]ものではない。石井山の本陣にあっても、なかなか十日に一ぺんの湯浴《ゆあ》みもできず、皮膚は五年越しの戦場|焦《や》けにくすぶり、赤っぽい髯《ひげ》はとかくもじゃもじゃたまりがちであった。
いま敵の高松城へは水攻めの計をまったく施し終って、信長の西下を待つのみとなっているものの、長良川の一水をへだてた日差山《ひざしやま》その他には、毛利の吉川《きつかわ》、小早川《こばやかわ》軍の三万余が近々と孤城の援《たす》けに来ているのである。――それらの山地にある対峙中の敵陣からは、秀吉が陣廻りに歩いている傘や馬印も、陽《ひ》の晴れ間には、よく見えるはずであった。
彼の列はやがて石井山の麓《ふもと》へ来ていた。龍王山《りゆうおうざん》から移って後、本陣はこの上の持宝院《じほういん》に置かれてあった。
「お帰りあそばされませ」
一ノ木戸に迎える者、山内猪《やまのうちい》右衛門《えもん》一豊《かずとよ》であった。同様、二ノ木戸にある者、浅野弥兵衛長政《あさのやへえながまさ》。
若葉の夕闇に、ここかしこ、陣屋の炊煙《すいえん》が上がっていた。どんな幽邃《ゆうすい》な寺院も、ひとたび軍馬の営となると、そこは忽ち旺盛《おうせい》な日常生活の厨房《ちゆうぼう》や馬糞《ばふん》のぬかるみになった。
「おいよ。馬を取れ」
山門の前で秀吉は降りた。藤堂与《とうどうよ》右衛門《えもん》高虎《たかとら》、ことし二十七である。走り寄って、
「いただきます」
と、手綱をうけて、厩《うまや》の方へ曳いてゆく。
秀吉はなお、雑士《ぞうし》たちのあいだをぶらぶら歩いて、
「おいよ」
と、また声をかけた。
四、五人の兵が炊事用の薪《まき》を伐《き》っていたのである。そのなかに桜の木もあった。秀吉はそれをさしていうのだった。
「なるべく、雑木を捜《さが》して伐《き》れよ。桜は伐るな。花見する日の百姓がさびしかろうて――」
それから門側の一柳市助の陣屋をちょっと覗《のぞ》いて、炊事番が何か煮ている大釜のにおいを嗅《か》ぐと、
「うまそうだな」
と、左右の部将とともに笑い、この頃はまずい[#「まずい」に傍点]という物は知らなくなったなどと語りながら出て行ったが、ふと、右側の陣幕《とばり》のすそに屈《かが》まっているいとも小さい幼な武者を見かけて、
「この童《わつぱ》は、たれの子か」
と、訊ねた。
一柳市助が、恐縮顔に答えた。
「私のいちばん末の弟です」
「ほ。……幾歳《いくつ》になる」
「十三に相成ります」
「名は」
「名は四郎右衛門と申します」
「かわいそうに、爺《じじい》みたいな名じゃないか」
「このたび、中国へお供仰せつけられ、家を出る折は、もっと小そうございましたが、連れて行けとせがんで、どうしても肯《き》きません。足手まといと存じましたが、許してやるについて、いずれ叔父の名跡《みようせき》を継ぐ者でございますゆえ、四郎右衛門と名のらせましたもので」
「そうか。足手まといなどと申すな。戦陣に加えてさえおけば、武者だましいは自然と備わる。小さいほどいいわさ。幼少のうちほどいい。……これ童《わつぱ》、於四郎《おしろう》というか」
秀吉は、歩み寄った。四郎右衛門はその前に、はやちょこねん[#「ちょこねん」に傍点]と地に坐って礼儀していた。が、その膝に、兵士の陣笠をかかえて、何か大事そうにしていた。
「何だ、それは? ……何を拾っていたのじゃ」
「はい。桜ンぼ[#「桜ンぼ」に傍点]を拾っておりました」
「なるほど。だいぶ赤く実《な》っておるな」
――秀吉は暮れかかったあたりの梢《こずえ》を仰ぎ、いきなり四郎右衛門の膝にある陣笠の中へ手を伸ばして、
「甘《うま》いか。……ウム、これは甘い」
ふた粒三粒、それを口に噛みながら、本堂のほうへ立ち去った。
本堂は桐紋《きりもん》の幕に囲まれていた。それも、廻廊も、階《きざはし》も、梅雨|湿《じめ》りで水気を含んでいないものはない。
秀吉の歩んでゆく所、甲冑《かつちゆう》の人影が、次々出迎えた。営中はすでに仄暗《ほのぐら》く、随所、短檠《たんけい》の灯やかがりが点《とも》っている。彼は、客殿とみゆる一室にようやく坐った。
「おつかれも嵩《かさ》みましょう」
しとねを並べて、一客が坐していた。堀久太郎秀政《ほりきゆうたろうひでまさ》である。
信長の下向《げこう》に先だって、中国に着く予定の日取やら、陣営の準備、ほか万端を、秀吉と打合わせておくため、一足さきに、これへ来ているものだった。
「いや、戦陣生活もよく身についた。近頃はとんと、不自由とか、疲れとかを覚えない」
秀吉はそう笑って、
「稀《たま》に、安土《あづち》へ上がると、御主君までおいたわり下さるが、ふいに厚い衾《ふすま》などに寝ると、却って寝苦しゅうて、よう眠れぬ。……具足のまま、手枕かって、戦いのひまに、ごろりとやる一睡《いつすい》の味は、戦場ならでは貪《むさぼ》れぬ無上のものでな」
――その語につづいて、
「食事はなされたか」
「まだでございますが」
「では、いっしょに戴こう」
と、小姓を顧み、
「支度をいそがせい」
――と命じながら、
「彦右衛門は、いかがいたした?」
と、たずねた。小西弥九郎が、それに答え、
「蜂須賀どのは、此寺《ここ》の一僧をつれて、どこぞへお出かけになりました。多分――」
と云いかけるのを打ち消して、秀吉はまた、
「茂助も見えんか」
と、つぶやき、夜食のお相伴《しようばん》の者を求めるように見まわした。
「その堀尾どのには、実はてまえから御足労をねがって、近村の庄屋寄合いへ、お出向きを願ったので」
と、弥九郎が云い足すと、
「何しに」
と、秀吉は理由を質《ただ》した。
弥九郎は自分の役儀上、この近村から軍糧の徴発《ちようはつ》に当っていたが、とかく庄屋や百姓たちのあいだに、不正や非協力的言動が絶えないので、堀尾茂助に行ってもらって、庄屋どもを大いに叱ってもらうつもりで――と、実状を説明した。
「そう百姓たちを狡《ずる》いものと、頭から見るな――」
秀吉は却って弥九郎を叱った。
「本来、純なものだ。小利は知っても大利を覚《さと》らないほど素朴なものだ。また、不正不正というが、これもぜひもないことよ。およそ、戦いの世には、人の神性も飽くまで高く顕《あら》われるが、人の弱点や小悪の性《さが》も、それと同じ程度に、平時よりも容易に横行しやすい。――その神性はいよいよ昂《たか》まるように、その悪質はこれを出ぬようにするのが、まつりごとと申すものぞ。叱るばかりが能ではない。百姓のよいところもふかく観《み》ていたせよ」
「はい」
「久太郎どの。あちらで飯を食おうか」
秀吉は、秀政とともに、方丈《ほうじよう》へ入った。――ちょうどその頃である。岡山道の飯倉の木戸で、早馬を降りた一人の使いが、番の武者たちに囲まれていたのは。
この往還《おうかん》は、岡山から秀吉の石井山へも通じるし、日幡《ひばた》を越えて、小早川隆景の陣営、日差山《ひざしやま》へ行くこともできる道である。
当然、ここの木戸は、いわゆる抑《おさ》え口《ぐち》として、守備厳重だった。
「――長谷川宗仁《はせがわそうにん》様からの使いですッ。怪しい者ではない。京都を二日の昼立って、いま着いたのだ。決して、うろん[#「うろん」に傍点]な者ではない」
きびしく、そこの武者たちに、左右から腕を組まれて、暗い道を行くあいだも、飛脚の男は、のべつ、囈言《うわごと》みたいに、さけび続けていた。
彼の脚もとと、疲れきっているその体とを親切に左右から扶《たす》けながら歩いている武者たちは、
「何をいうか」
と、笑って、
「たれも、怪しんで、馬から引き下ろしたわけじゃない。早馬から降りたとたんに、腰が抜けて歩けぬ様子だから、介添《かいぞえ》して、連れて行ってやるのではないか」
「だが、この道は?」
と、飛脚は、なお肩越しに、うしろを見たり、前の闇に、足をすくめて、
「いったい、どこへ行くのでござる。どこの道で」
「知れたこと。石井山の御本陣へまいるのであろうが」
「では、あなた方は、まちがいなく、羽柴殿の麾下《きか》ですか。毛利方の者ではありませんな」
「先にこっちで訊いたことを、今度は自分から訊いていやがる。はははは。この飛脚、よほどどうかしておるぞ。逆上《あが》ッておる」
送りの武者たちが、顧《かえり》み合うと、飛脚の男は、ぐた[#「ぐた」に傍点]と、坐りかけてしまった。
「おいッ。どうした」
ひとりが松明《たいまつ》を近づけて、彼の顔の前でいぶした。
「あッ。いけない。――気を失っている」
武者たちはあわてて、附近の小川から泥水を掬《すく》って来てその唇《くち》へ飲ませたり、飛脚の背を打ったりした。
「おいッ。しっかりしろ。――いま気を失っちゃいかんぞ。本陣はまだだぞ」
飛脚の顔はまッ青である。うなずきうなずき歩き出した。
飲まず食わず、きのうから早馬に鞭《むち》打って来たものらしい。そう思うと、初めはよい程に、おもちゃに扱っていた武者たちにも、
(――ただ事ではない)
と、思われ出した。
すぐこのことは、山麓にある山内猪《やまのうちい》右衛門《えもん》の隊から浅野弥兵衛に伝達され、中途から弥兵衛の部下が、半病人の飛脚を受け取って、やがて本堂の下まで伴《ともな》った。
営中の夜もすでに、更《ふ》けて、所々のかがり火のほか、墨の如き夜色である。――番に立った浅野の家来の足もとに、飛脚の男は、ふたたび失神《しつしん》したように地上に平たくなっている。
桜の実《み》か、毛虫か、時々そこらに、ぽとりと、何か落ちる音がしていた。
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憤《ふん》 涙《るい》
夜は亥《い》の刻(午後十時)頃であった。
まだ秀吉は起きていた。
食事後。折ふし何処からか立ち帰って来た蜂須賀彦《はちすかひこ》右衛門《えもん》を見ると、彼と堀秀政だけを伴って、陣中の居室としている書院へ移っていた。
そこでの鼎坐《ていざ》はだいぶ長かった。小姓たちまでみな退けて、極く内輪《うちわ》の密談らしく思われた。ひとり許されていた連歌師の幽古《ゆうこ》のみが、頃をはかって、陰で茶筅《ちやせん》の音をたてていた。
そのとき、たたたたと小走りな足刻《あしきざ》みが遠くから聞えた。かたく人払いを命じられているので、杉戸口《すぎとぐち》まで来ると、当然、その跫音《あしおと》は小姓溜《こしようだま》りの咎《とが》めに会って、遮《さえぎ》られているふうである。
一方はひどく急《せ》きこんで来た様子だし、一方は血気《けつき》生意気ざかりの年少者ばかりなので、何かことばの弾《はず》みから喧嘩でも始まったような声もしてくる。
「幽古……何だ?」
秀吉のいる所からこう問われて、幽古は耳をすましたが、
「何か、わかりませぬ。小姓衆と御番衆らしく思われますが」
「見てこい」
「はい」
炉辺の物をそのまま、幽古はすぐ起って行った。
見ると、表御番の士《さむらい》と思いのほか、浅野長政《あさのながまさ》自身なのである。
だが、小姓|溜《だま》りの年少者たちは、たとえ長政殿だろうが、誰だろうが、お人払いの中は、断じて取次はできない。それを、取次がぬなら押し通るぞ、などと威嚇《いかく》するのは怪《け》しからぬ。通るものなら通ってごらんなさい、小姓たりとも、ここに控えているのは、伊達《だて》や飾り物ではありませんぞと、負けずに息まいているのだった。
「まあ、まあ。お静かに」
幽古は、まずきかん[#「きかん」に傍点]坊の小姓たちから宥《なだ》めておいて、
「浅野様。何事でございますか」
と、たずねた。
弥兵衛は手につかんでいる状筥《じようばこ》を示して、京都からたった今着いた早馬の使いの容子《ようす》、ただ事ならず思われるので、何かお人払い中と聞くが、すぐこの由を、殿のお耳へ入れてもらいたいと云った。
「お待ちくださいまし」
幽古は奥へかけこんで行ったが、すぐ引っ返して来て、
「どうぞ」
と、導いた。
弥兵衛は流し目に、横の部屋を見ながら通った。その中の小姓たちは急に黙って、皆、そっぽ[#「そっぽ」に傍点]を向いたまま知らん顔していた。
「弥兵衛か」
短檠《たんけい》を遠ざけて、秀吉はこなたへ膝を向け直した。
「はい。おはなし中とは承りましたが」
「何の、早馬ともあれば。――して、たれからの状だ」
「長谷川|宗仁《そうにん》からの由でございますが、ともあれ、御披見《ごひけん》を」
長政はそれを差し出した。姫路革《ひめじがわ》の状筥《じようばこ》の朱漆《しゆうるし》に短檠の灯がてら[#「てら」に傍点]と照った。
「はて。宗仁から早馬とは、何事であろう?」
秀吉は、状筥を取り上げながら、堀秀政の顔を見てつぶやいた。
秀政も、同様に、
「解《げ》せませぬな」
と、小首を傾《かし》げるのであった。
長谷川宗仁といえば、信長の茶道衆《さどうしゆう》である。日頃からさして親しくもしていないし、わけて茶道の者が突然この陣中へ早馬を打って書状をよこすというのはおかしい。
しかもまた、弥兵衛長政がいうところによれば、その飛脚は、昨二日の正午《しよううま》の刻《こく》に京都表を立って、いま三日夜の亥《い》の刻《こく》にここへついた者だというのである。
京都からこの地まで七十里余の道を、ざっと一日|半夜《はんや》で来たことになる。飛脚としても、これは容易な迅《はや》さではない。おそらく途中飲まず食わず、夜も駈けとおして来たものにちがいない。
「彦右衛門。燭《ひ》を、もすこし横へ寄せてくれい」
秀吉はやや身を屈《かが》めた。
宗仁の書面は彼の指に解《ほぐ》れた。極めて短文であり、また非常な走り書である。――が、一読|卒然《そつぜん》として、秀吉の頸《えり》もとの毛は、燈火にそそけ立っていた。
「…………」
「…………」
各※[#二の字点、unicode303b]控え目に膝を退《さ》げて坐っていたが、秀吉の頸《うなじ》から耳のあたりまで、さっと色が変ったので、久太郎秀政も、弥兵衛長政も、彦右衛門正勝も、思わず身を前へのばして、
「……殿。……殿ッ。いかがなされましたか」
こう三人の者に左右から訊かれたとたんに、秀吉ははっ[#「はっ」に傍点]とわれをよびかえしていた。一読してせつなに眼もかすみ、心気も昏《くら》くなっていたのであった。
そしてふたたび、書中の文言《もんごん》を疑うように、眼《まなこ》をそれへ努《つと》めてみたが、疑うべくもない文字の上へ、はや滂沱《ぼうだ》と涙がさきにこぼれていた。
「――これは。何としてのおん涙ですか」
「常にもない御容子《ごようす》」
「宗仁の書中。何事かおかなしみのことでも告げてまいりましたか」
この際、三名が、ひとしく察し取ったことは、長浜《ながはま》にのこしている秀吉の老母の身であった。
陣中、稀《まれ》にでも、国元のはなしが出るときは、かならず老母のことをいう秀吉であった。秀吉が母を語るときは、小姓部屋の子どもらともかわらない思慕をあらわしていうすがたを誰もみな眼に見ている。
――さてはと、すぐそのひとの危篤《きとく》か死去に連想したのであったが、やがて涙をぬぐって、秀吉が襟《えり》を正した容子《ようす》を仰ぐと、悲痛な色のうちにも甚だしい厳粛な気と怒りをふくんでいる。その烈しい憤怒《ふんぬ》、きびしい涙は、母子の悲情に打たれたものでは到底ない。
「……秀吉。ことばをもっていま告げる力もない。久太郎どのにも、正勝も、長政も、これへ寄って見られい」
なお彼は、面《おもて》をそむけて、しばしば肱《ひじ》を曲げては哭《な》いた。
三名とも霹靂《へきれき》に打たれたような面《おもて》である。――久太郎秀政も、彦右衛門正勝も、弥兵衛長政も、茫然、自失しないばかりに。
信長の死。信忠の戦死。
いまのいままで、考えられもしなかったことが、儼《げん》として事実を示し、早打状は、目に見るごとく、昨二日朝の本能寺の実状を急報している。
――あり得ることか。世の中とはかくも不測《ふそく》なものなのか。一瞬《いつとき》は驚く心すら痺《しび》れて、涙も出なければ、声も出ない。
わけて秀政は、ここへ来る直前に、信長とは、親しく会いもし、何かと直接に、指命もうけて来たのであるから、ほとんど、信じられないように、幾度も幾度もその飛脚文を見まもっていた。
その秀政も涙にくれ、彦右衛門も落涙して、ここの一燈は、涙に掻き消えるかと思われるばかり暗澹《あんたん》な夜色に沈みきってしまおうとした。
――と。秀吉はむずむず[#「むずむず」に傍点]とからだをうごかし出した。坐り直したのである。そしてすこし力《りき》むような顔して大きく唇をむすんだかと思うと、ふいに、
「おういッ。誰か来いッ」
と、遠い小姓部屋へ呶鳴った。
天井をつきぬくようなその声には、日ごろ胆太《きもぶと》い蜂須賀彦右衛門も堀秀政もとび上がるほどびっくりした。第一、その秀吉も共々涙のそこに沈んで、身も世もなく泣きぬれていた態《てい》だったので、よけいに胆をつぶされたのもむりではなかった。
「はあいッ」
返辞と共に、小姓部屋から元気のいい跫音が飛んで来る様子である。その跫音と、秀吉の声のために、秀政も、正勝も、とたんに悲嘆をふき飛ばされてしまった。
「――お召しですか」
「参ったのは誰だ」
「石田佐吉でございます」
答えながらなり[#「なり」に傍点]の小さい佐吉は、次の間のふすまの陰からもっと進んで、畳のまん中まで出て隣室の一燈へ向って手をつかえ直した。
「佐吉か。よかろう、おまえでもよかろう」
「はい」
「官兵衛孝高《かんべえよしたか》の陣屋まで一と走り行って来い。官兵衛にちと、話があるから、寝る前に、顔を見せい、と申せばよい」
「それだけでよろしゅうございますか」
「それだけでよい。――黒田の陣屋だぞよ。暗夜だから間違えるなよ」
「はい」
「待て待て。皆は、何しておるか」
「退屈しております。戦いがないのは辛《つら》いものと皆で話しておりました」
「幽古《ゆうこ》は、次におるか」
「おりまする」
「小姓部屋へ菓子など与えて、おでこ[#「おでこ」に傍点]押しでも腕相撲でも取れと申してやれ。こよいはちと夜更《よふ》かしせねばならぬゆえ、あれ達の居眠りふさぎに」
「かしこまりました」
「佐吉。行け」
「行ってまいります」
秀吉こそ、ゆるされるなら声をあげて泣きたい今であろう。
信長にまみえたのは、年まだ十八歳のときからだ。その手で頭も撫でられ、この手で草履《ぞうり》もつかんで仕えた人である。
いまやその主君は亡《な》い。
信長と彼とのあいだは、他人《ひと》の思うような単なる主従観念では決してない。血もひとつ、信念もひとつ、死生もひとつと期していたのである。はからずもその主はさきだち、われのみなお生命ある身かと、それをあらためて秀吉は意識するほどだった。
(――君はわれを知る。われを知り給うものまた君を措《お》いて世にあらじ。本能寺に御最期の火裡《かり》一瞬、君の御心中に、われを呼び給い、われに遺託《いたく》ありしこと必せり。われ秀吉、微身たりとも、君が怨念《おんねん》と遺託に、なんで応《こた》え奉らずにあるべきや)
彼はひとりこの夜誓った。いたずらなる嘆きをいわなかった。それをいうならば、痛涙に身をただよわし、慟哭《どうこく》に血を吐いても、なお足らない。思うはただ死せる信長が、死の直前に、何を自分に遺命されたか――ということのみである。
あきらかに、彼は主君の無念を知ることができた。日頃の主君に徴しても、いかにここまでの統業を半途《なかば》にして世を去ることの残念であったかをも、惻々《そくそく》胸に酌《く》むことが出来た。
――それを思うとき秀吉はたとえ寸分たりと嘆いてなどいられなかった。後図《こうと》をいかにすべきやなど考えているいとまもなかった。身は中国にあるが、勃然《ぼつぜん》、心はすでに敵明智光秀へ向き直っていた。
そして。
眼前の敵、高松城をいかに処理するか。毛利の大軍三万余をどう捌《さば》くか。なおまたその大敵と四つに組んでいるかたちにあるこの陣地から、どうして一刻も早く上方《かみがた》への転進を策すか。かつ、光秀を打ち破るかなどの――考えれば、山また山の如く横たわっている幾多の難問題に対しても、秀吉は今、もそもそと坐り直したときに、
(深く考えるにも及ばぬ。天機は寸秒《すんびよう》の間にもうごく。何よりはすぐ行動だ。着々、実行あるのみ。一難一難、身をもって当りつつ、その都度、ずばずば考えを決してゆけばよい)
と、肚をすえてしまったもののようである。俗にいう――ここ千番一番のかねあい[#「かねあい」に傍点]――とする生涯の大覚悟は眉にも見え唇にもうかがわれた。
「そうだ。――飛脚の男はどこへ置いたか」
石田佐吉が去るや否、ほとんど、いとまを措《お》かず、秀吉は、浅野弥兵衛に訊いていた。弥兵衛が、
「士《さむらい》どもに命じ、御本堂の下に、控えさせておきました」
と答えると、秀吉は蜂須賀彦右衛門に眼くばせして、
「御辺《ごへん》、その男を台所へ伴《ともの》うて、飯なと食わせ、一室へ監禁して、誰にも会わせぬように始末しておけ」
といいつけた。
彦右衛門が心得顔に、起つのを見て、弥兵衛が、その儀なれば自分が参りましょうか、というと、秀吉は顔を振って、
「いや、弥兵衛にはべつに申しつけることもあれば、しばし待て」
と、云った。
「弥兵衛には、これよりすぐに、麾下《きか》の士の目きき足きき選《え》りすぐって、京都表から毛利領へ通ずる往来という往来、間道という間道に、水も漏《も》らさぬような手配をなせ。要路は遮断《しやだん》いたすもよい。怪しの者と見たら引ッ捕えろ。さなき者と見ても、一応は厳しく持物や素姓《すじよう》を検《あらた》めろ。――この儀は、大事中の大事であるぞ。いそげ。念を入れて」
秀吉は半眼のまま、一息にこういいつけ終った。
浅野弥兵衛はすぐ出て行った。あとには、堀秀政と、歌人の幽古だけが残った。
「幽古。何刻《なんどき》だな? いまは」
「亥《い》の下刻(午後十一時)とも相成りましょうか」
「きょうは、三日だったな」
「左様でございまする」
「あすは四日か」
ひとり呟《つぶや》いて、
「四日。五日」
ふたたび睫毛《まつげ》を半眼にふさいで、何か数うるごとく膝のうえで指をうごかしていた。
「久太郎」
「はッ」
つい先刻までは、久太郎殿といい、秀政殿と敬称していたが、このときから秀吉は無意識か意識してか、呼び捨てにしていた。
秀政もそれに対して、何の感情をさし挿《はさ》む余裕もなかった。むしろこうして見ている間にも、その人間が一変してゆくかのように思われる秀吉の威圧にたいしては、みずからも手をつかえて答えざるを得ないような感じすら受けていた。
「――秀政とて、こうしてはおられませぬ。何がな、お指図くだされたい」
「いや、もうしばし、ここにいて欲しい」
と、秀吉は彼の焦躁《しようそう》をなだめてから、
「やがて、官兵衛|孝高《よしたか》も見ゆるであろう。――そのいとまに、飛脚の処置、どういたしたかちと心《こころ》がかり、彦右衛門が参っておるが、念のため見て来てくれぬか」
「承知しました」
秀政は起ってすぐ寺の大台所へ行ってみた。
飛脚の男は、厨《くりや》のすぐそばの小部屋で、がつがつと湯漬飯を掻《か》っ込んでいた。
きのうの午《ひる》頃から、飲まず食わずだったこの男は、腹いっぱい食べ終ると、
「ああ」
と、独り胃を伸ばしていた。
すんだのを見て、
「飛脚。こちらへ来い」
彦右衛門が手招きして、庫裡《くり》の一室へ連れて行った。塗籠《ぬりごめ》の経蔵《きようぞう》である。ゆっくり寝《やす》むがよいと宥《いたわ》って、男を中へ導くと、彦右衛門は外から錠《じよう》を卸《おろ》してしまった。
久太郎秀政は、そのときそっと側へ来て、彦右衛門の耳へささやいた。
「万一、お味方の中たりと、京都の変が漏れてはと、あちらでお案じの態《てい》だ。いっそいまの飛脚は……」
と、殺意を目にあらわすと、なぜか彦右衛門はかぶりを振った。そして、そこから、数歩を移してから、
「あのままでも、おそらく死ぬ。食っては堪《たま》らない。他愛なく死ぬものですよ」
と、云い足して、経蔵の方を片手で拝んだ。
[#地付き]新書太閤記 第七巻 了
吉川英治歴史時代文庫28『新書太閤記(七)』(一九九〇年七月刊)を底本