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宮本武蔵(七)
[#地から2字上げ]吉川 英治
目 次
二天の巻(つづき)
四賢一燈
|槐《えんじゅ》の門
さいかち坂
|忠明発狂始末《ただあきはっきょうしまつ》
もののあわれ
|撥《ばち》
魔の|眷《けん》|属《ぞく》
|八《や》|重《え》|垣《がき》|紅葉《も み じ》
下り荷駄
|漆《うるし》 |桶《おけ》
|兄弟弟子《きょうだいでし》
大 事
|柘榴《ざ く ろ》の|傷《いた》み
|夢《む》 |土《ど》
花ちり・花開く
逃げ水の記
栄達の門
天 音
|円明《えんみょう》の巻
|春《はる》|告《つげ》|鳥《どり》
|奔《ほん》 |牛《ぎゅう》
|麻《あさ》の|胚子《たね》
|草《くさ》 |埃《ぼこり》
童心|地描図《ちびょうず》
|大《だい》 |日《にち》
|古今逍遥《ここんしょうよう》
|紐《ひも》
二天の巻(つづき)
四賢一燈
一
どこかで、|神楽《か ぐ ら》|笛《ぶえ》の音が、遠く聞えるようでもある。夜祭でもあるのか、|篝《かがり》の火花が、森のこずえに、うす赤く|映《さ》している。
馬でこそ、一|刻《とき》だったが、口輪を|把《と》って付いて来た北条新蔵には、この牛込まで、かなりの道であったに違いない。
「ここです」
|赤《あか》|城《ぎ》|坂《ざか》の下。
一方は赤城神社のひろい境内であり、坂の道を隔てて、それに劣らぬ広い土塀をめぐらした宅地がある。
土豪の門のような、そこの構えを見て、|武蔵《む さ し》は|鞍《くら》を下り、
「御大儀」
と、新蔵へ手綱を返す。
門は開いていた。
彼が曳き込む駒のひづめが|戛《かつ》|々《かつ》と邸内へひびくと、待ちもうけていたらしく、|紙燭《ししょく》を手にした侍たちが、
「お帰り」
と、出迎えて、彼の手からまた駒を受けとり、そして客の武蔵の先に立って、
「ご案内いたしまする」
と、新蔵と共に樹々の間を縫って、大玄関の前まで来る。
すでに、そこの式台には、左右に明るい燭台を備え、用人らしい者以下、|安房《あ わ の》|守《かみ》の召使がずらりと|頭《ず》を下げていた。
「お待ちうけでござります。どうぞそのまま」
「――御免」
武蔵は、箱段を上って、家人の導くままに歩いた。
ここの家造りは変っていた。階段から階段へ、上へばかり登って行くのである。赤城坂の崖へ依って、|櫓組《やぐらぐ》みに幾部屋も、積み上げられてあるのであろう。
「しばらく、御休息を」
一室へ通して侍たちは|退《さ》がってゆく。武蔵はそこへ坐るとすぐこの部屋の高い位置に気づいた。庭の崖先から真下に、江戸城の北の|濠《ほり》が見え、城壁をつつむ丘陵の森と対して、昼間はさぞと、ここからの展望も|偲《しの》ばれるのであった。
「…………」
音もなく、|火《か》|燈《とう》|口《ぐち》のふすまが開く。
美しい小間使が、|楚《そ》|々《そ》と、彼の前に、菓子、茶、煙草などのもてなしを供え、無言のまま|退《さ》がって行った。
その|艶《あで》な帯や裾が、壁から出て壁へ吸われてゆくようにかくれると、後には、ほのかな|香《にお》いだけが|漂《ただよ》って、ふと武蔵に、「女」なるものを、忘れていた胸から思い起させた。
しばらくすると、小姓を|従《つ》れた|主《あるじ》がそこへ現れた。新蔵の実父安房守|氏《うじ》|勝《かつ》である。武蔵のすがたを見ると、非常に|馴《なれ》|々《なれ》しく――いや自分の息子たちと同年輩なので、やはり子どものように見えるのであろうか、
「や。ようお越し」
と、|厳《いかめ》しい辞儀などを略して、小姓の|設《しつら》えた敷物へ、武将らしくあぐらをくみ、
「――聞けば|伜《せがれ》の新蔵が、いかい御恩になったそうな。お越しを願うて、礼をいうなどは、逆礼じゃが、ゆるされい」
と、扇の先に、手を重ねて、高い|頭《ず》をちょっと下げた。
「恐れ入る」
と、武蔵も、かろい会釈をして、安房守の年輩を見ると、もう前歯は三本も抜けているが、皮膚の|艶《つや》は、老人ぎらいな負けん気をあらわし、少し白いのも交じってはいるが、太い|口《くち》|髯《ひげ》を、左右へ生やして、その髯がまた、歯のない唇のまわりの梅干|皺《じわ》を巧くかくしているのであった。
(子沢山な老人らしい。そのせいか、若い者にすぐ親しまれそうな人である)
武蔵はそう感じながら、彼もまた気軽にすぐ訊ねた。
「御子息から伺えば、私を存じおるお客が御当家に来合せておられる由。いったい|誰方《ど な た》でござりますか?」
二
「今、お会わせする」
安房守は落着いて――
「よう|其《そこ》|許《もと》を知っている人だ。――偶然にも、二人が二人とも、よく知っておる」
「では、客どのは、お二人とみえますな」
「どちらも、わしとは親しい友達、実はきょう御城内で出会ったのじゃ、そしてここへ立寄られて、よも山の話のうちに、新蔵が挨拶に出たことから、|其《そこ》|許《もと》のうわさが始まった。――すると、客のひとりの方が、|遽《にわ》かに、久し振りで会いたいという。また一方も、会わせて欲しいという」
そんなことばかり述べたてていて、安房守もなかなか客が|何《なん》|人《ぴと》であるか明かさないのであった。
だが、武蔵は、うすうす解けて来た心地がした。にっと、|微笑《ほ ほ え》みながら試みに、
「わかりました。|宗彭沢庵《しゅうほうたくあん》どのではございませぬか」
と、いってみると、
「やあ、あてたわ」
果たして、安房守は、小膝を打って、
「よう、お察しじゃ。いかにも、きょう御城内で出会うたのは、その沢庵坊。おなつかしかろう」
「その後は、実に久しく、お目にかかりませぬ」
一人の客が、沢庵であることはこれで分った。だが、もう一名は誰か、思い当りもない。
安房守は、案内に立って、
「ござれ」
と、部屋の外へ導いた。
そして外へ出ると、また、短い階段を上り、|鉤《かぎ》の手に曲っている廊下を、奥深くはいって行った。
その辺で、ふと、先にいた安房守の姿が見えなくなった。廻廊も階段もひどく暗いので、勝手を知らぬ武蔵の足が、遅れがちであったせいもあろうが――それにしても、気の短い老人ではある。
「……?」
武蔵が足を止めて|佇《たたず》んでいると、|燈《あか》りの|映《さ》している|彼方《あ な た》の座敷らしい内から、
「|此方《こ な た》じゃ」
と安房守がいう。
「お」
眼は答えたが、武蔵の足は、一歩もそこから出ていない。
|燈《あか》りの流れている縁側と、彼の立っている廊下との間を、約九尺ほどの闇が中断していて、そこの暗い壁の露地に、武蔵はなにか好ましからぬ物の気配を感じたのである。
「なぜござらぬ? ――武蔵どの、|此方《こ ち ら》じゃよ、早う渡られい」
安房守は、また呼んだ。
「……はい」
武蔵は、そう答えずにいられない所に立っている。だが、彼はやはり前へ歩まなかった。
静かに、足を|回《めぐ》らして、十歩ばかり戻ると、庭先へ出る|手洗《ちょうず》|口《ぐち》がある。そこの|沓脱石《くつぬぎ》にある|木《ぼく》|履《り》を|穿《は》いて、庭づたいに|廻《めぐ》って、安房守が呼んでいる座敷の前へ出て行った。
「……あ。そこから」
と安房守は、何か、出し抜かれたような顔して、座敷の端から|振《ふ》り|顧《かえ》った。武蔵は意にもかけず、
「……おう」
と、座敷の内へ呼びかけて、床の正面に坐っている沢庵へ、心の底から笑顔を向けた。
「おう」
と、同じように、沢庵も眼をみはり、席を立って迎えながら、
「武蔵か」
と、これも懐かしそうに、待っていた、待っていた、と何度も繰返していうのだった。
三
さて、久しい|邂《かい》|逅《こう》である。二人とも、しばらくは、見飽くことなく、お互いの姿をただ眺め合うばかりであった。
しかも、場所も場所。
武蔵にとっては、なんだか、この世の対面とも思われぬ心地がするのだった。
「――まず、その後の事ども、わしから話そうか」
と沢庵はいう。
そういう沢庵は、昔ながらの、|粗《そ》まつな僧衣で、決して|金《きん》|襴《らん》も、珠も、飾ってはいないが、どこか以前の彼とは、風貌もちがっているし、ことばの|角《かど》もまろくなっている。
武蔵が、かつての野育ちから洗われて、昔ながらの一野人でも、どこかに温厚を加えて来たように、沢庵もようやく、その人間に、風格というようなものや、禅家の深みを備えて来たものであろう。
もっとも、武蔵とは、|年齢《とし》も十一も違う。やがて沢庵は、四十に近いのである。
「この前、お別れしたのは、京都であったのう。――京都以来か。あの折、わしは母の危篤で、|但馬《た じ ま》へ帰った」
こう語り出して、
「母の|喪《も》に服すこと一年、まもなく旅へ出て、泉州の南宗寺へ身を寄せ、後には大徳寺へも参じ、また、光広卿などと共に、世の|流《る》|転《てん》をよそに、歌行脚よし、茶三|昧《まい》よし、思わず数年を暮して来たが近頃、岸和田の城主、|小出右京進《こいでうきょうのしん》が下向に同道して、ぶらと、江戸の開けようを、ありのままいえば、見物に来たのじゃが……」
「ほ、では、近頃のお下向でござりましたか」
「右大臣家(秀忠)とは、大徳寺でも、二度ほど会うているし、大御所には、しばしば|謁《えつ》しておるが、つい江戸には、こん度が初めて。――して、お|許《もと》には」
「私もつい、この夏の初め頃から――」
「だが、だいぶもう、関東でも、おぬしの名は、有名なものじゃの」
武蔵はぞっと、背すじに恥を覚えながら、
「悪名ばかり……」
と、|俯向《う つ む》いた。
沢庵は、その|体《てい》をしげしげ眺め入って、彼の「たけぞう」時代の姿を思い出しているらしかった。
「いや何、おぬしぐらいな年頃に、早くも、美名の高いのは、むしろどうかな? ……。悪名でも|関《かま》うまい。不忠、不義、逆徒――そんな悪名でない限りは」
と沢庵はいって、
「さて、次には、そちらの修行――また、今の境遇など、訊きたいが」
と、問い出した。
武蔵は、この数年のあらましを語って、
「今もって、未熟、不覚、いつまで、真の|悟入《ごにゅう》ができたとも思われませぬ。――歩めば歩むほど、道は遠く深く、何やら、果てなき山を歩いている心地でございまする」
と、述懐した。
「む。そうなくては」
と、むしろ沢庵は、彼の嘆息を正直な声として、|欣《よろこ》びながら、
「まだ三十にならぬ身が、道のみ[#「み」に傍点]の字でも、分ったなどと高言するようじゃったら、もうその人間の|穂《ほ》は止まりよ。十年先に生れながら、野僧なども、まだまだ、禅などと話しかけられると、背すじが寒い。――だがふしぎと、世間がこの|煩《ぼん》|悩《のう》|児《じ》をつかまえて、法を聴聞したいの、教えを乞いたいのという。お|許《もと》など、買いかぶられていないだけに、わしよりは、素裸じゃな。法門に住んで怖いのは、人を、ややともすると、生仏かのように、|崇《あが》めこむことじゃよ」
ふたりが、話に熱しているまに、いつか、膳や|銚子《ちょうし》などが、運ばれて来ていた。
「……おう、そうそう。安房どの、亭主役じゃ。もう|一《ひと》|方《かた》の客をお呼びして、武蔵どのへ、|紹介《ひきあわ》せてもらいたいの」
と、沢庵が気づいていう。
膳は、四客分くばられてある。そしてここにいるのは、沢庵、安房守、武蔵と三名だけである。
姿の見えぬもう一名の客とは誰か?
武蔵には、もう分っていた。しかし彼は黙って控えていた。
四
沢庵にそう催促されると、安房守は、少しあわてた顔いろで、
「お呼びするかの?」
と、ためらった。
そして、武蔵の方を見て、
「ちと、こちらの画策が、|其《そこ》|許《もと》に見事、|観《み》やぶられた形でな――。いささか、発案者のわしが、面目のうて」
と、意味ありげに、言い訳を先にする。
沢庵は、笑って、
「敗れたからには、|潔《いさぎよ》う、|兜《かぶと》をぬいで、打ち明けてしまったがよろしかろう。――ほんの、座興の|企《たくら》み、北条流の宗家じゃとて、そう権式を張っておるにも当るまいて」
と、いった。
「元より、わしの負けだ」
安房守は、そう|呟《つぶや》いたが、まだ不審ないろをその顔に残して、自分の企みを割って話すと共に、武蔵へ向って、次のような質問をした。
「――実は、|伜《せがれ》の新蔵からも、沢庵どのからも、お身様の人間は、よう承って、その上、お迎え申したことじゃが、失礼ながら、今の御修行がどれほどなものか、それは知るよしもなし、またお目にかかって、言葉の上で伺うよりも、まず先に、無言のうちに拝見いたそうかと――ちょうど居合わせた|仁《じん》も然るべきお方ゆえ、|如何《い か が》? と計ったところ、|畏《かしこ》まったと、すぐ呑みこまれて――|真《まこと》は、あれなる暗い廊下の|壁《かべ》|露《ろ》|地《じ》に、そのお方が、刀の鯉口を切って、お待ちしていたものでござる」
安房守は、今さら、人を試すようなことをした|所《しょ》|為《い》を、自ら恥じているように、そこで、謝罪の意を示して――
「……それゆえに、実はわざと、てまえが|此方《こ ち ら》から、渡られい、渡られい、と幾度も、|罠《わな》へ|誘《いざな》うつもりで、お呼びしたのじゃが。――それをあの時、お許には、どうして、後へ戻って、庭さきから、|此室《ここ》の縁側へと、お廻りになられたのか? ……それが伺いたいものじゃて」
と、武蔵の顔を見入っていうのだった。
「…………」
武蔵は、ただ|唇《くち》の辺に、にやにやと笑いを|湛《たた》えるのみで、どうとも、その解説を与えなかった。
そこで、沢庵がいうには、
「いや、安房どの。そこが軍学者のお許と、剣の武蔵どのとの差じゃな」
「はて、その差とは」
「いわば、智を基礎とする|兵理《ひょうり》の学問と、|心《しん》を|神《しん》|髄《ずい》とする剣法の道との、勘の相違でござりましょう。――理からいえば、こう誘う者は、こう来なくてはならぬはずという軍学――。それを、肉眼にも、肌にも触れぬうちに、察知して、未然に、危地から身を|避《よ》ける剣の心機――」
「心機とは」
「禅機」
「……では、沢庵どのでも、そうしたことがおわかりになるかの」
「さあ、どうだか」
「何にしても、恐れ入りました。わけて、世の常の者ならば、何か、殺気を感じたにしても、度を失うか、または、覚えのある腕のほどを、そこで見しょうという気になろうに――後へもどって、庭口から木履をはいてこれへお見えになった時は、実はこの|安房《あわ》も、胸がどきっと致しました」
「…………」
武蔵自身は、当然なことと、彼の感服にあまり興もない顔つきだった。むしろ、自分が|主《あるじ》の|目企《も く ろ》みの裏を掻いたために、いつまでも、この座敷にはいり|難《にく》くて、壁の外に|佇《たたず》んでいる者が気の毒になったので、
「どうぞ、|但馬《たじまの》|守《かみ》様に、お席へお着きくださるよう、これへ、お迎えを願いまする」
と、いった。
「ええ」
これには、安房守ばかりか、沢庵もちょっと驚いて、
「どうして、但馬どのと、お許に分っておるのか」
と、訊ねた。
武蔵は、但馬守に、上座を譲るべく、席を|退《さ》がりながら、
「暗うはござりましたが、あの壁の陰にひそ[#「ひそ」に傍点]と澄んでいた剣気、またここのお顔ぶれといい、但馬様を|措《お》いて、余人であろうとは思われませぬ」
と、答えた。
五
「むむ、御明察」
と、安房守が感嘆して、|頷《うなず》いて見せると、沢庵も、
「その通り、但馬守どのに相違おざらぬ。あいや、物陰のお人、もう知れておる。これへござあってはどうか」
室外へ向っていうと、そこで笑い声がひびいた。やがてはいって来た柳生|宗《むね》|矩《のり》と武蔵とは、いうまでもなく、初対面であった。
その前に、武蔵はすでに、末席に身を|退《ひ》いていた。但馬守のためには、床の間の席が|開《あ》けてあったが、彼はそこへ坐らずに、武蔵の前へ来て、対等の挨拶をした。
「身が、又右衛門宗矩でござる、お見知りおき下さい」
武蔵もまた、
「初めて御意を得ます。作州の牢人、宮本武蔵と申す者、何分、この後は御指導を」
「先頃、家臣木村助九郎から、お|言《こと》|伝《づ》ても承ったが、折わるく、|国《くに》|許《もと》の父が大患での」
「石舟斎様には、その後の御容態、いかがにございまするか」
「|年齢《とし》が年齢でござれば、いつとも……」
と、語尾を消して、
「いや、あなたのことは、その父の手紙にも、また沢庵どのからも、よく聞いておりました。――わけて、唯今のご要意には感じ入る。不作法には似たれども、かねがねこの身へ御所望の試合も、これで果したと申すもの。お気に|障《さわ》られな」
温厚な風が、武蔵の貧しい姿を|和《やわ》らかにつつむのであった。うわさに違わず、但馬守は聡明な達人であると、武蔵もすぐ感じた。
「おことば、痛み入りまする」
武蔵は自然、彼の挨拶以上に、身を低くして、そういわざるを得ない。
但馬守は、たとえ一万石でも、諸侯の列に|在《あ》る人である。その家格からいっても、遠く|天慶《てんぎょう》年代から柳生ノ庄の豪族として知られ、しかも将軍家の師ではあり、一介の野人にすぎない武蔵とは、比較にならない権門の出である。
同席して、こう語りあうことすらが、すでに当時の人の観念では破格であった。だが、ここには旗本学者の安房守もいるし、また、野僧の沢庵も、極めて、そういう隔てにはこだわ[#「こだわ」に傍点]らずにいるので、武蔵も救われた心地で坐っていた。
やがて、杯を持つ。
銚子を|酌《く》み交わす。
談笑がわく。
そこには、階級の差もない、|年齢《とし》のへだてもない。
武蔵は、思うに、これは自分への待遇ではなく、「道」の徳であり、「道」の|交《まじ》わりなるがために、許されているのである。
「そうだ」
沢庵は、何を思い出したか、杯を下におきながら、武蔵へ、
「お|通《つう》はどうしておるの? ……近頃」
と、ふいに訊ねだした。
その唐突な問いに、武蔵は、ちょっと顔を紅らめ、
「どうしておりますやら、その後はとんと……」
「とんと、知らんのか」
「はい」
「それは|不《ふ》|憫《びん》。あれも、いつまで知らぬままにはしておけまい。|其《そこ》|許《もと》としても」
宗矩がふと、
「お通とは、柳生谷の父の許にもいたことのあるあの|女《おな》|子《ご》のことか」
と、いう。
「そうじゃ」
沢庵が代って答えると――それならば今、甥の兵庫と共に、|国《くに》|許《もと》へ行って、石舟斎の|看護《み と り》をしてくれている筈――と宗矩が話し、
「武蔵どのとは、そんな以前からの、お知り合いか」
と、眼をみはる。
沢庵は、笑った。
「お知り合いどころではおざらぬよ。はははは」
六
兵学家はいるが、兵学の話はしない。禅僧はいるが、禅のぜ[#「ぜ」に傍点]の字もいわない。剣の但馬守、剣の武蔵もいながら|先刻《さ つ き》から、剣道のことなどは、おくびにも話題には上らないのである。
「武蔵どのには、ちと|面《おも》|映《は》ゆかろうが」
と、沢庵が、かろく|戯《たわむ》れながら断って、一頻り今、話の種にしていたのは、お通のことで、彼女の生い立ちやら、武蔵との間がらを打ち明けて、
「この|男女《ふ た り》は、いずれどうにかせねばならぬが、野僧の役には向かぬ。ひとつ御両所のお力添えを借りるのじゃな」
と、それを基礎に、暗に武蔵の身の落着きを、但馬守と安房守へ計るような、沢庵の口うらであった。
ほかの雑談のうちにも、
「もう、武蔵どのも御年輩。一家を構えられてもよかろう」
と、但馬守もいい、安房守も共に、
「御修行も、これまで積めばもう十分――」
と、口を|協《あわ》せて、それとなく武蔵に、長く江戸へ|留《とど》まることを最前からすすめているのであった。
但馬守の考えでは、今すぐではなくても、お通を柳生谷から呼び戻し、武蔵に|娶《めあわ》せて、江戸に一家を持たせたら、柳生、小野の二家に加えて、三派の剣宗が|鼎《てい》|立《りつ》し、目ざましいこの道の隆盛期を、この新都府に興すであろうと思うのであった。
沢庵の気もちも、安房守の好意も、ほぼそうした考えに近かった。
殊に、安房守としては、子息の新蔵が受けた恩義に|酬《むく》いるためにも、
(ぜひ、武蔵どのを将軍家御師範の列に御推挙したい)
と、いう考えを抱いていて、それは新蔵を使いにやって、武蔵をここへ呼び迎える前に、話し合っていたことなのである。
(一応、彼の人間を見て)
というので、話は決まっていなかったが、武蔵を試した但馬守には、もうそれも分っている筈だし、素姓、性格、修行の履歴などは、沢庵が保証するところであるから、これにも、誰も異議はない。
ただ、将軍家の師範に推挙する場合は、当然、旗本に列しなければならない。これには、三河以来の譜代者がたくさんいて、徳川家が、今日を|為《な》してから新規に抱える者に対しては、とかく白眼視する傾きもあり、近頃、うるさい問題も起っているので――難といえばただそこに難関はある。
だが、これも沢庵が口添えしたり、両人の推挙があれば、通らないこともなかろう。
もう一つの困難と想像されるのは家柄のことである。武蔵は勿論、系図書などは持っておるまい。
遠祖は赤松一族で、平田|将監《しょうげん》の|末《まつ》|裔《えい》とはあっても、確証はなし、徳川家との縁故もない。――あるのはむしろ反対に、無名の一戦士としてではあったが、関ケ原の折、槍一筋でも持って、徳川の敵に立ったという不利な経歴ぐらいなものである。
だが、関ケ原以後、たとえ敵方であった牢人でも、ずいぶん召抱えられている例はある。また、家格のことも、小野治郎右衛門のごときは、伊勢松坂にかくれていた北畠家の一牢人であったのが、|抜《ばつ》|擢《てき》されて、今では将軍家師範となっている前例もあるので、これとて案じるほどの障害にはならないかもしれない。
「――とにかく、推挙してみようが、ところが、かんじんな、|其《そこ》|許《もと》の肚は、どうおざるな」
沢庵が、こう話の結びへ持って来て、武蔵に|糺《ただ》すと、
「身に過ぎたお心添えにござります。――なれどまだ、この身一つの|埒《らち》すらあかぬ未熟者」
いいかけると、
「いやいや。それゆえ、もう|埒《らち》をつけてもよかろうと|薦《すす》めるのじゃ。一家を構える気はないのか。お通もあのままにしておくつもりか」
沢庵は率直に問いつめた。
七
お通をどうするか。それを問われると、武蔵は、責められる心地がする。
(不運となるとも、わたしはわたしの心で)
とは、彼女が、沢庵へもいったことだし、武蔵にも常にいっていることばであったが、ひとは許さない。
ひとは、男の責任とする。
女が、女自身の心でうごいて来ても、その結果のいいわるいは、男のせいにあると|観《み》る。
――自分のせいではない。などとは武蔵も決して思いはしなかった。いや思いたくない心のほうが強い。やはり彼女は恋にひかれて来たと思う。そして、恋の罪は、ふたりが負うべきものと知っていた。
けれど、さて、
(彼女の身をどうするか)
と、なると、武蔵には、胸のうちだけでも、的確な答が出て来ない。
その根本には、
(まだ、一家など構えるのは、自分としては早過ぎる)
と、いう考えが、|潜《ひそ》んでいるからであった。入れば入るほど、深い、遠い、剣の道へのひたむきな欲求が、そのために少しも、|紛《まぎ》れようともしないからであった。
もっと、打割っていえば。
武蔵の胸には、法典ケ原の開墾からこっち、剣に対するそれまでの考えが一変して、まったく従来の剣術者とは観点のちがった方へ、彼の探求は向って来ている。
将軍家の手をとって、剣を教えるよりは土民百姓の手をとって、治国の道を切り拓いてみたい。
征服の剣、殺人の剣は、かつての人々が|揮《ふる》って、その行くところまで行きついている。
武蔵は、開墾地の土に親しんでから、その上へ行く剣を、道を――どんなにつきつめて考えてみたことか。
修める、護る、磨く――この生命と共に、人間が|臨終《い ま わ》の|際《きわ》まで、抱きしめていられるような剣の道が立つとしたら――その道をもって、世を治めることはできないか、民を安んぜしめることは不可能か。
それからは――彼は敢て、単なる剣技を好まなくなった。
いつか|伊《い》|織《おり》に手紙をもたせて、但馬守の門を|窺《うかが》わせたのも、かつて、柳生の大宗を仆すべしとなして、石舟斎に挑んだような、浅い覇気では決してなかった。
で――武蔵の今の希望としては、将軍家の師範となるよりは、小藩でもよい、政機に参与してみたい。剣の持ち方を説くよりも、正しい政治を|布《し》いてみたい。
|嗤《わら》うだろう。
おそらく今までの剣術者が、彼の抱負を聞いたら、
(大それた!)
と、いうか、
(若いやつだ)
と、一笑するか、さもなければ、政治に触れたら人間は堕落する、殊に純潔を尊ぶ剣は曇ってしまう――と、彼を知る者なら、彼のために、惜しむであろう。
ここにいる三名の人々も、自分の真底をいえば皆、前のうちのどれか一つの言を|為《な》すにちがいないと、武蔵にもそれは分っている。
で――武蔵は、ただ未熟を理由として、何度も、断ったが、
「まあ、よい」
沢庵は、簡単にいうし、安房守もまた、
「とにかく、悪いようにはいたさぬ。われわれに任しておかれい」
と、のみ込んでしまう。
|更《ふ》けてくる――
酒は尽きないが、|燭《しょく》は時々、灯の|暈《かさ》をかぶった。そのたびに、北条新蔵は、灯を|剪《き》りに来て、ここの話を耳に挟み、
「まことに、よいお話で。皆様の御推挙が通り、それが実現すれば、柳営武道のためにも、武蔵どののためにも、もう一|夕《せき》、宴を張って、お杯を挙げてもよろしゅうございますな」
と、父へもいい、客たちへもいった。
|槐《えんじゅ》の門
一
――今朝、起きてみると、姿が見えないのである。
「|朱《あけ》|実《み》」
又八は、台所から首を出して、呼んでみた。
「……いねえぞ?」
小首を傾げる。
前から、予感がないでもなかったので、押入を開けてみると、ここへ来てから作った、彼女の新しい衣裳もない。
又八は、顔いろを変え、すぐ土間の草履を|穿《は》いて、外へ出た。
隣家の、井戸掘り親方の運平のうちも|覗《のぞ》いてみたが、見えなかった。
又八は、いよいよあわて気味に、
「うちの朱実を知りませんかね……」
長屋から、往来の角まで、|訊《き》き歩いて出て行った。
「見たよ、|今朝《けさ》」
と、いう者がある。
「ア。炭屋のおかみさんですか、どこで見かけましたか」
「いつもと違って、|美麗《き れ い》におめかししているので、何処へといったら、品川の親類までといっていたが」
「え。品川へ」
「あっちに、身寄りがあるのかえ」
この|界《かい》|隈《わい》では、彼を亭主とおもい、彼も亭主顔しているので、
「へい。……じゃあ、品川へ行ったのかもしれません」
追いかけて――というほど強い執着ではない。なんとなく、ほろ|苦《にが》いのだ。舌打ちをしたいような|忌《いま》|々《いま》しさがやたらに着きまとう。
「……勝手にしやがれ……」
|唾《つば》をして、又八はつぶやいた。
そのくせ、ぶらんと放心した顔つきで、浜のほうへ歩いて行った。浜は、芝浦街道を横ぎると、ついそこだった。
|漁師《りょうし》の家がまばらにある。朝、朱実が飯を|炊《た》いているまに、浜へ来て、網からこぼれる五、六|尾《ぴき》を|葭《よし》に通し、|提《ひつさ》げて帰ると、ちょうどお膳ができていたものである。
その魚が、砂の上に、今朝もこぼれていた。まだ生きているのもある。だが、又八は拾う気も出なかった。
「どうなすったえ、又さん」
背を打たれて、おや誰か、と振向いてみると、五十四、五の|肥《ふと》り|肉《じし》な町人が、豊かな福相に、|眼《め》|皺《じわ》をたたえて笑っていた。
「あ。表の質屋の旦那でしたか」
「朝はいいね、|清《すが》|々《すが》しくて」
「ええ」
「毎日、朝めし前には、こうして海辺をお|徒歩《ひろ》いかね。養生にはいちばんいいからな」
「どういたしまして、旦那のような御身分なら、歩くのも養生かもしれませんが……」
「顔いろがよくないな」
「へえ」
「どうかしたのかい」
「…………」
又八は、一握りの砂を拾って、風の中へ|撒《ま》いていた。
急場の算段をしに行くたびに、又八も朱実も、いつもこの質屋の旦那とは、店で顔を突きあわせていた。
「そうだ。いつか折があったらと思い思い、いい|機《しお》もなく過ぎていたが、又さん、おまえ今日は、|商《あきな》いに行くのかい」
「なんですか。行ったって行かなくたって、|西《すい》|瓜《か》や梨を売っていたんじゃ、どうせ|埒《らち》はあきやしません」
「|鱚《きす》を釣りに行かないか」
「旦那――」
と、又八は、悪いことでも詫びるように、頭を掻いて、
「あっしゃあ、釣はきらいですが」
「何さ、嫌いなら、釣らなくてもいい。――そこにあるのは|家《うち》の持舟だが、ただ沖まで出てみるだけでも、気が晴れるぜ。|棹《さお》ぐらいは突けるだろう」
「へい」
「まあおいでよ。おまえに、小千両も儲けさせてやろうという相談だ――。嫌かい」
二
芝浦の浜から五町も沖へ出たが、そこらもまだ、|棹《さお》の立つほど浅かった。
「旦那、あっしに、金を儲けさせてやるってえのは、一体どんなお話ですか」
「まあ、|悠《ゆる》りと……」
と、質屋の旦那という男は、|巨《おお》きな体を、ずしりと小舟の|胴《どう》の|間《ま》に坐らせて、
「又さん、そこの釣竿を|舷《ふなべり》から出しておくといいな」
「どう出しておくんで?」
「釣をしていると見えるようにさ。――海の上だって、あの通り人目があらあな。用もない舟で、二人が首を突き合せていたら、疑われるだろうじゃないか」
「こうですか」
「む、む、それでいい……」
と、|陶器《すえもの》|作《づく》りの|煙管《き せ る》に、上等なたばこをつめて、くゆらしながら、
「わしの肚をはなす前に、又八さんに訊くが、おまえの住んでいる長屋の衆などは、この|奈《な》|良《ら》|井《い》|屋《や》をどう噂しているね?」
「お宅のことですか」
「そう」
「質屋といえば、|因《いん》|業《ごう》ときまっているが、奈良井屋さんは、よく貸してくれる。旦那の大蔵様は、苦労人でいらっしゃると……」
「いや、そんな質屋稼業のことでなく、この奈良井屋の大蔵を」
「よいお人だ、お慈悲ぶかい旦那だと、まったく、お世辞ではなく皆申しておりますが」
「わしが、信心家だということは誰もいわないか」
「さ、それだから、貧乏人を|庇《かば》って下さるのだろうと、そのことは、ご奇特なことだと、いわない人はございません」
「奉行所の|町《まち》|方《かた》などが、なにかわしについて、聞き歩いたようなこともないかね」
「そんなことは……どういたしまして、あるわけがない」
「はははは、つまらないことを訊くと思うだろうな。だが、実をいえば、この大蔵は、質業じゃない」
「へ……?」
「又八」
「へえ」
「金も小千両と|纏《まと》まった大金となると、おまえの生涯にも、二度と、そんな運にぶつかるかどうかしれないぜ」
「……多分、それやあ、そうでございましょうね」
「つかまないか、ひとつ」
「何をで?」
「その大金の|蔓《つる》を――だ」
「ど、どうするんです」
「おれに約束すればよい」
「へ……へい」
「するか」
「します」
「途中でことばを|違《たが》えると首がないぞ。金は欲しかろうが、よく考えて返辞をしたがよい」
「何を――いったい――やるんですか?」
「井戸掘りだ。仕事は、造作もないこった」
「じゃあ、江戸城の中の」
大蔵は海を見まわした。
材木や伊豆石や、|城《しろ》|普《ぶ》|請《しん》の用材をつんだ船が、誇張していえば、|舳《じく》|艫《ろ》をつらねてといえるほど、江戸湾に、それぞれの藩旗を並べていた。
藤堂、有馬、加藤、|伊達《だて》――中には細川家の船旗も見える。
「……勘がいいなあ、又八」
大蔵は、|煙草《た ば こ》をつめ直して、
「その通り――ちょうどおめえの|隣家《と な り》には、井戸掘り親方の運平が住んでいるし、その運平から、いつも井戸掘り人足になれとすすめられてもいるだろう。渡りに舟というものじゃねえか」
「それだけでげすか。……井戸掘りに行きさえすれば、何かあっしに、|大《おお》|金《がね》の授かることがあるんでしょうか」
「ま。……あわてるな、相談というなあ、それからだよ」
三
――晩に忍んで来い。|前《まえ》|金《がね》として黄金三十枚、耳をそろえて渡してやろう。
そう約して別れた。
又八の頭には、大蔵のいったその言葉しか、残っていない。
その代償として、
(やるか)
と大蔵から持ち出された条件に対しては、その内容を|漠《ばく》|然《ぜん》と呑みこんで、
(やる!)
と、いったことだけしか後に覚えていないのである。しかし、そう答えた時、怪しく|顫《ふる》えた唇には、まだ|微《かす》かな|痺《しび》れが残っている気はしているが――
何としても、又八にとっては、金が魅力であった。しかも途方もない額である。
年来の不運はその金だけで埋め合せがつく。そして生涯の生活を保証される。
いや彼の心には、そうした慾望そのものよりも、きょうまで、自分を小馬鹿にした世間の、ありとあらゆる奴らに、
(どうだ)
と、見返した顔をしてやりたい――とする、その魅惑のほうが強かったに違いない。
舟から|陸《おか》へもどって、長屋の家に帰って、ごろんと、仰向けに寝ころんだ後も――頭の中を|占《し》めているのは、金の魔夢であった。
「そうだ、運平さんに、頼んでおかなくっちゃあ……」
思いついて、|隣家《と な り》をのぞいたが、運平親方は出かけていない。
「じゃあ、晩にまた」
と、家へ帰って来たが、熱病に|憑《つ》かれたように、落着かなかった。
それからやっと、彼は、海の上で質屋の大蔵に命じられたことを思い出して、ぶるぶると人もいない裏藪や表の露地を見まわした。
「いったい、何だろ? あの人は……」
今になって、それを考えてみるのだった。それと共に、舟の上で大蔵から命じられたことを思い出してみた。
井戸掘り人足は、江戸城の中の、西の丸|御新城《ごしんじょう》とよぶ|作《さく》|事《じ》|場《ば》へはいる。――と、そんなことまで大蔵は知っていて、
(機を|窺《うかが》って、新将軍の秀忠を鉄砲で|撃止《しと》めろ)
と、いうのであった。
また。
それに使う短銃は、こちらの手で城内へ|埋《い》け込んでおく。
その場所は、|紅葉《も み じ》|山《やま》下の西の丸裏御門の内にある、樹齢数百年という|巨《おお》きな|槐《えんじゅ》の木の下とし、そこに、鉄砲も火縄も、併せて隠しておくから、掘り起して、密かに狙え――ともいった。
もちろん、作事場の監視は厳密にちがいない。奉行、|目《め》|付《つけ》などの警戒も元よりであろうが、秀忠将軍は若くて|闊《かっ》|達《たつ》だ。よく侍側を従えて|普《ふ》|請《しん》|場《ば》へも現れるという。そんな折、飛び道具なら瞬間で目的を果すことができよう。
|咄《とっ》|嗟《さ》の騒ぎに乗じてすぐ火を放ち、西の丸の外濠へ飛びこめば、そこにはわれわれの仲間が救いの手を伸ばしているから、|屹《きつ》|度《と》助け出してやる――
ぽかん、と天井を見ながら又八は、大蔵から|囁《ささや》かれた声を、頭の中で繰返していた。
肌がそそけ立ってくる。
あわてて、|跳《は》ね起きて、
「そうだ、とんでもないこった。今のうちに断って来よう!」
と、気がついたが――また、あの時、大蔵から、
(――こう話したからには、もしお前さんが、嫌だといえば、気の毒だが、おれの仲間が三日のうちに、きっと寝首をもらいにゆくぜ)
と、いわれたのが、その時の凄い眼つきと共に、そこらに見えて来る気がした。
四
西久保の辻を、高輪街道の方へ曲って、もう|夜《よ》|半《なか》の海が、横丁の突き当りに見えている四つ|角《かど》。
いつも見る質屋倉の壁を、横に仰いで、又八は露地の裏木戸をそっと叩いた。
「|開《あ》いているよ」
中ですぐ誰かがいう。
「お……旦那で」
「又八さんか。よく来てくんなすった。倉へ行こう」
と、雨戸をはいって、廊下づたいに、すぐ土蔵の中へ導かれた。
「さ、坐るがいい」
|主《あるじ》の大蔵は、|蝋《ろう》|燭《そく》|立《たて》を、長持の上において、|肱《ひじ》をかけた。
「隣の運平親方のところへ行ってみたかね」
「へい」
「で――どうしたい?」
「承知してくれました」
「いつ、お城へ入れてくれるというのか」
「あさって、新規の人足が、十人ばかりまたはいるそうで、その時に、連れて行ってやろうといってくれました」
「じゃあ、その方は、きまったんだな」
「町名主と、町内の五人組の衆が、|請《うけ》|判《はん》を|捺《お》してくれさえすればいいことになっております」
「そうか。はははは。おれもこの春から、町名主のすすめで、|強《た》ってといわれて、その五人組のひとりになっているんだ。……そのほうは心配なし通るぜ」
「へ。旦那も」
「何を驚いた顔しているんだ」
「べつに、驚いたわけじゃございませんが」
「はははは、そうか、おれみたいな物騒な人間が町名主の下役をする、五人組衆にはいっているので|呆《あき》れたというわけか。――金さえあれば、世間はおれみたいな人間でも、やれ奇特人の、慈悲ぶかいのと、こっちで嫌だといっても、そんな役付まで持ちこんで来るんだよ。――又さん、おめえも、金をつかむこったぜ」
「へ、へい」
又八は、何かしら、急に胴ぶるいをしながら、早口を|吃《ども》らせていった。
「や、やります! だ、だから手付の金をおくんなさい」
「お待ち」
手燭と一緒に立って、大蔵は倉の奥へ首を入れ、棚の手文庫から三十枚の|黄《こ》|金《がね》を|鷲《わし》づかみに持って来た。
「|入《いれ》|物《もの》を持っているか」
「ございません」
「これにでも巻いて、胴巻へしっかり抱いてゆくがいい」
そこらにあった|更《さら》|紗《さ》の|襤褸《ぼろ》を投げてやる。
――と、又八は数えもせず巻き込んで、
「何か、受取でも、書いて参りましょうか」
「受取?」
思わず笑って、
「可愛らしい正直者だのう、おめえは。受取はいい。間違ったら、そこに持っている首を|抵当《かた》にもらいに行くばかりだ」
「じゃあ、旦那、これでお|暇《いとま》を……」
「待て待て。|手付金《て つ け》だけ受取ったからいいやで、忘れるなよ、きのう海の上で、いいつけたことを」
「覚えております」
「御城内の西の丸裏御門の内――そこにある|巨《おお》きな|槐《えんじゅ》の樹の下だぞ」
「鉄砲のことで?」
「そうだ。近いうちに、|埋《い》けにやるからな」
「え。誰が埋けにゆくんで」
又八は、|解《げ》せない顔して、眼をみはった。
五
口入れ親方の運平の手から、町名主や五人組の|請《うけ》|判《はん》付きで、身ひとつで御城内にはいるのさえ並たいていな厳しさではないのに、どうして外部から鉄砲や|弾薬《たまぐすり》などを持ちこむことができるのか。
そして、約束どおり半月後に、西の丸裏御門の内の|槐《えんじゅ》の下へ、|誂《あつら》えたように、|埋《い》けておくなどということは、|神《かみ》|業《わざ》でもなければ、なしうる筈のものではない。
又八が、そう疑って、まじまじと大蔵の|面《おもて》を見つめていると、
「ま、その方のことは、おめえが気を|揉《も》まなくてもいいから、おめえは、自分の役割だけをしっかりやってくれ」
と、大蔵は深くいわず、
「まだ、ひき受けたものの、おめえも|恟《おど》|々《おど》しているだろうが、御城内へはいってから、半月も働いているまには、自然、|肚《はら》もすわってくる」
「自分も、それを頼りに思っていますが」
「その肚が、ぐっと出来てから、うまく|機会《おり》をつかむのだな」
「へい」
「それと、抜かりはあるめえが、今渡した金だ。仕遂げてしまう後までは、どこか人目にかからぬ所へ隠しておいて、手をつけちゃあならねえぞ。……とかく未然に事の破れるのはいつも金からだからの」
「それも考えておりますから、ご心配には及びません。……ですが旦那、首尾よく仕遂げた後で、|後《あと》|金《がね》はやれねえなんて苦情は出やしますまいね」
「ふ、ふ。……又さん、口幅ったいようだが、この奈良井屋の|蔵《くら》には、金なんざ、千両箱であの通り重ねてある。眼の楽しみに眺めてゆくがいい」
手燭を揚げて、大蔵は|埃《ほこり》だらけな蔵の隅を一巡した。
|膳《ぜん》|箱《ばこ》だの、|鎧《よろい》びつだの、何の箱か知れないものが雑然とみえた。又八は、よく見もしないで、
「お疑いしたわけじゃございませんが」
と、言い訳して、なお、半刻ばかりそこに密談していたが、やがて、やや元気になって、元の裏口からそっと帰って行った。
彼が、出て行くとすぐ、
「おい、|朱《あけ》|実《み》」
大蔵は、灯りのついている障子の内へ、顔を入れて、
「あの足ですぐ、金を|埋《い》けに行ったろうよ。試しに|尾《つ》けて行ってみな」
湯殿口から、誰か出てゆく跫音がした。見ると今朝、又八の家から姿を消したばかりの朱実ではないか。
近所の者に出会って、
(品川の親類へゆく)
などといったのは、勿論、彼女のでたらめであった。
質ぐさを抱えて、何度か、|此処《ここ》へ通ううちに、|主《あるじ》の大蔵の眼は、いつのまにか、朱実を|擒《とりこ》にして、朱実の今の境遇や心もちまで、聞いてしまった。
もっとも、彼と彼女とは、近頃初めて会ったわけではない。彼女が、中山道を江戸下りの女郎衆と共に、八王子の宿まで来た時、そこで泊り合せた|旅籠《は た ご》で、彼女は、城太郎の連れだという大蔵を見かけていたし、大蔵は二階から、陽気な一座の中に、朱実の姿を見て、薄ら覚えに記憶はしていたのである。
(女手がなくて、困っているところだが)
と、大蔵が謎をかけると、朱実は一も二もなくここへ逃げて来てしまった。
大蔵にとれば、その日から、朱実も役に立ち、又八も役に立つのであった。又八の始末はすると前からいっていたが、思い合すと、それが今日のことらしかった。
……何も知らない又八の影は、朱実の先を歩いて行った。いちどわが|家《や》へ戻って|鍬《くわ》を持ち出し、夜もすがら|裏《うら》|藪《やぶ》のあたりを歩いていたが、やがて、西久保の山へ上って、その金を|埋《い》けていた。
朱実が、それを見届けて来て、大蔵に告げると、大蔵はすぐ出て行った。――そして彼が帰って来たのは明け方だったが、掘出して来た金を、土蔵の中で調べてみると、三十枚渡した黄金が、どう数えても二枚不足しているので、損失でもしたように、頻りと小首をかしげていた。
さいかち坂
一
悲心の闇、|悲《ひ》|母《も》の迷い、風流を解すおばばではないが、秋の虫、萩すすき、前にはゆるい大川のながれ。――こうした中に身を置いては、彼女も、もののあわれに誘われぬ人間ではあり得ない。
「いるのか」
「誰じゃ」
「|半瓦《はんがわら》の部屋のもんだよ。|葛《かつ》|飾《しか》から野菜物がたくさん届いたから、ばば殿のところへも|頒《わ》けてやれと親方が仰っしゃるんで、|一《ひと》|背負《しょ》い持って来た」
「いつも、お心深いことのう、弥次兵衛どのによろしゅういって下されよ」
「どこへ置こうか」
「水口の流し元へ置いといて下され。後で仕舞うほどに」
小机の側に灯を|掲《かか》げて、彼女はこよいも筆を執っている。
千部写経の悲願をたてた、例の|父母恩重経《ぶもおんじゅうぎょう》の|行《ぎょう》を積んでいるのであった。
この浜町の原の一軒家をかりうけて、昼間は、病人に|灸点《きゅうてん》をして困らぬながら|糊口《くちすぎ》の|生業《なりわい》もし、夜は静かに写経などして、ひとり暮しの気易さに馴れてからは、持病も久しく起らないし、この秋は、体もめっきり若返ったふうである。
「あ。ばば殿」
「なんじゃ」
「夕方、若い男が、訪ねて来なかったかい」
「灸点のお客か」
「うんにゃ、そうでもねえ様子だったぜ、なんだか用ありげに、大工町の部屋へ来て、おばばの引っ越し先を教えてくれといって来たが」
「|幾歳《い く つ》ぐらいな男かの」
「そうさ、二十七、八かな」
「|面《おも》ざしは」
「どっちかといえば丸っこい――そう背は高くなかったな」
「ふム……」
「来なかったかい、そんな人は」
「来ぬがの……」
「ばば殿のことばと、|訛《なまり》もよく似ていたから、|国《くに》|者《もの》じゃねえかと思ったが。……じゃあ、お寝み」
使いの男は、帰って行った。
その跫音が去るとまた、やんでいた虫の音が、雨のようにこの家をつつんだ。
ばばは、筆を|擱《お》いて、灯の|暈《かさ》を見つめていた。
ふと、彼女が思いだしたのは、|燈火《ともしび》の|占《うらな》いであった。
明けても暮れても|戦《いくさ》ばかり多かった彼女の娘時分には、戦に出ている夫とか、子とか、兄弟とかの便りを知る|術《すべ》もないし、また、自分たちの|明日《あ し た》も知れぬ運命に|顫《おのの》いて、よくその頃の人々は「|燈《とう》|火《か》|占《せん》」というものを口にしていた。
宵ごとに|点《とも》す灯を見て、灯の|暈《かさ》が華やかに|映《さ》しているから吉事があるとか、灯の色に紫色の陰があるから誰か死んだ知らせに違いないとか、灯が松葉のようにはぜ[#「はぜ」に傍点]たから待ち人が来るとか……。
そうして、憂いたり、喜んだりした。
遠い娘時代の|流行《はや》り事であるから、彼女ももうその占い方さえ忘れていた。けれど、こよいの灯は、なんとなく、彼女に|吉《よ》い事があるように、そよめき立っている気がする。そう思うせいか、ぽっと、虹いろの|暈《かさ》まで|映《さ》して美しい。
「もしや、又八じゃないか」
そう思うともう、筆も持っていられない。彼女は|恍《こう》|惚《こつ》と、愚かなる子の面影をえがいて、|半《はん》|刻《とき》や一刻は、身も世もわすれてそれのみを考えていた。
がさっ――と裏口で何やら物音がして、ばばの、うつつを|醒《さ》ました。また|悪戯《いたずら》な|鼬《いたち》でもはいって、台所を荒しているのであろうと、ばばは、|灯《あかり》を持って立って行った。
さっき、男が置いて行った野菜物の上に、何か、手紙のような物が見える。何気なく|披《ひら》いてみると二枚の|黄《こ》|金《がね》がつつんであって、その包み紙に、
[#ここから1字下げ]
まだ会う顔も候わず、もう半年ばかりの不孝、平におゆるしをと、そっと窓よりお別れを告げて、立ち去り申し候
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]又 八
と書いてあった。
二
草を蹴って駈けて来た一人の|殺《さつ》|伐《ばつ》な風を帯びた侍が、
「浜田、違ったのか」
と、寄って来るなり|喘《あえ》いでいった。
大川端に立って、河原を見まわしていた方の侍は二人で、浜田とよばれたのは、まだ部屋住みらしい若者で、
「むむ……違った」
と、|呻《うめ》きながら、なお、何者かを探すように、ぎらぎらと眼をくばっていた。
「たしかに、|彼奴《あ い つ》とみえたが」
「いや船頭だった」
「船頭か」
「追いかけて来たところ、あの船へはいってしもうた」
「でも、何ともしれぬぞ」
「いや調べてみた。まったく別人なのだ」
「はてな?」
と、こんどは三人して、河べりから浜町の原を振り向いて、
「夕方、大工町でちらと見かけて、確かに、この辺までは追いこんだものを。――逃足の早い奴」
「どこへ|失《う》せたか」
川波の音が、耳につく。
三名はなお|佇《たたず》んだまま、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、闇の中へ耳目を放っていた。
――すると。
又八……。又八……。
少し|間《ま》を|措《お》いて再び、原の何処かを、同じ声がながれて行った。
「又よう……。又八っ……」
初めは、耳のせいと疑っていたのであろう。三名とも黙っていたが、急に、眼を見あわせて、
「や。又八と呼んでおるぞ」
「|老婆《としより》の声だが」
「又八といえば、|彼奴《あ い つ》のことではないか」
「そうだ」
浜田という部屋住みの若者がまっ先に駈け出し、後の二人もつづいて駈けた。
声を目あてに、追いついたのは造作もなかった。先は、老婆の足である。それに、彼らの跫音を聞くと、かえって、お杉ばばは、自分の方から駈け寄って、
「その中に、又八は居やらぬか」
と、呼びかけた。
三名は、ばばの両手、|襟《えり》がみを、三方からつかんで、
「その又八を、われわれも追い廻しておるのだが、一体、そちは、何者だ」
返辞の前に、
「何しやるッ」
と、ばばは、怒った魚のように、|棘《とげ》を立てて、彼らの手を振り|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ、
「おぬしらこそ、何者じゃ」
「われわれか、われわれは小野家の門人。これにおるのは、浜田|寅《とら》|之《の》|助《すけ》だ」
「小野とは何じゃ」
「将軍秀忠公の御師範、小野派一刀流の小野治郎右衛門様をしらぬのか」
「しらぬ」
「こいつ」
「待て待て、それよりは、このばばと、又八の縁故を先に聞け」
「わしは、又八の母じゃが、それがどうぞしたか」
「では、おのれは、西瓜売りの又八の母か」
「何をほざく。他国者と|侮《あなど》って、西瓜売りとはようもいやったの。|美作《みまさかの》|国《くに》|吉《よし》|野《の》|郷《ごう》竹山城のあるじ|新《しん》|免《めん》|宗《むね》|貫《つら》に仕えて|郷《ごう》|地《ち》百貫、|歴乎《れ つ き》とした本位田家の子、わしはその母じゃぞ」
耳もかさず、一人が、
「おい、面倒だ」
「どうする?」
「引っ|舁《かつ》げ」
「|人《ひと》|質《じち》か」
「おふくろとあれば、取りに来ずにはいられまい」
それを聞くと、ばばは、骨ばった体を|反《そ》らして、|蝦《しゃ》|蛄《こ》のように暴れた。
三
おもしろくないこと|夥《おびただ》しい。佐々木小次郎は、不平に腹が|膨《ふく》れていた。
寝ぐせがついて、近頃は寝てばかりいる。月の|岬《みさき》の例の家だった。寝るといっても、寝るべき時刻に寝るようにして寝ているのではなかった。
「|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》も泣くだろう」
それを抱いて、仰向けに、畳へじかに転がりながら|鬱《うつ》|勃《ぼつ》たる独り言なのである。
「この名刀、この腕の持主が、五百石に足らぬ|扶《ふ》|持《ち》を取りかね、いつまでも|懸《かか》り|人《ゆうど》で朽ちているとは」
そういって、|戛《かつ》|然《ぜん》と、抱いていた物干竿の|柄《つか》を鳴らし、
「盲め!」
と、寝なりに宙を|薙《な》ぎ払った。そして、大きな半円を描いた光はすぐ、鞘の内へ、生き物のように|潜《ひそ》み込んでいた。
「あざやかでございますな」
と、縁先から、岩間家の|仲間《ちゅうげん》が――
「居合のお稽古でございますか」
「ばかをいえ」
小次郎は、|腹《はら》|這《ば》いに寝返って、畳の上に落ちている虫の体を、爪の先で、ぽんと縁先へ|弾《はじ》き飛ばした。
「こいつが、|灯《あかり》へ飛びついて来てうるさいから、手討にしたのだ」
「ア、虫を」
|仲間《ちゅうげん》は、それへ顔を近づけて、眼をまろくした。
|蛾《が》に似た虫である。柔らかい羽も腹もきれいに斬れて半分になっていた。
「|寝床《とこ》を敷きに来たのか」
「いえ……つい申しおくれました。左様ではございません」
「なんだ」
「大工町の使いの者が、手紙をおいて帰って行きました」
「手紙……どれ」
|半瓦《はんがわら》弥次兵衛からであった。
この頃、そこにも余り関心がない。少しうるさくなったのである。寝そべったまま、彼はそれを|披《ひら》いた。
ちょっと、彼の顔色がうごいて来た。――|昨夜《ゆ う べ》からお杉ばばの行方が知れなくなったとある。そのためきょうは一日中、部屋の者|総《そう》|出《で》で探し、やっと、所在は知れたが、自分らの手に及ばない所へ運ばれているので、ご相談申しあげる次第ともある。
それが分ったのは例の、どんじき[#「どんじき」に傍点]屋の|懸障子《かけしょうじ》に、小次郎がいつぞや書いておいた文句を、誰か|捺《な》|摺《す》り消して、こう新しい墨で書かれてあったからだという。
[#ここから2字下げ]
佐々木どのへ申す
又八の母預り置く者、
|小《お》|野《の》|家《け》|内《うち》、浜田|寅《とら》|之《の》|助《すけ》なり
[#ここで字下げ終わり]
――弥次兵衛の手紙にはそんなことまで|細《こま》|々《ごま》書いてあった。小次郎は読み終ると、
「……来たな」
眸を天井へ上げながら、口の|裡《うち》でいった。
きょうまで、その小野家の内から、沙汰のないのが物足らない所であった。二名のそれらしい侍を、どんじき[#「どんじき」に傍点]屋の側の空地へ斬り捨てて来た時、公明正大にあそこの|懸障子《かけしょうじ》へ、自分の姓名を後日のため、書いて来たものを――と心待ちに思っていたところである。
――来たな。
と、|呟《つぶや》いたのは、その反響がやっと出て来たほくそ[#「ほくそ」に傍点]笑みから思わず洩れた声なのだ。彼は、縁先へ立って、夜空を見まわした。――雲はあるが、降りそうもない。
それから間もなく。
高輪街道から駄賃馬に乗って行く小次郎の姿が見かけられる。駄賃馬は|晩《おそ》く、大工町の半瓦の家に着いた。彼は弥次兵衛から委細を聞きとり、翌る日の肚をきめて、その夜はそのまま部屋へ泊ったらしかった。
四
以前は、|神《み》|子《こ》|上《がみ》|典《てん》|膳《ぜん》と|称《い》っていたが、関ケ原の戦後、秀忠将軍の陣旅で、剣法講話をしたのが機縁で、幕士に加えられ、江戸の神田山に宅地をもらって、柳生家とならんで師範に列し、姓も、小野|治《じ》|郎《ろう》|右衛《え》|門《もん》|忠《ただ》|明《あき》とかえたのである。
それが神田山の小野家だった。神田山からは、富士がよく見えるし、近年、駿河衆が移住して来て、邸宅の地割がこの辺に当てられたので、この山一帯を、近頃は|駿《する》|河《が》|台《だい》とも呼び始めている。
「……はて。|皀莢《さいかち》|坂《ざか》と聞いて来たが」
小次郎は、そこを登りきって、|佇《たたず》んだ。
きょうは富士が見えない。
崖ぷちから深い谷を覗く。樹々の|透《す》き間を|淙《そう》|々《そう》とゆく谷川が望まれる。お茶の水の流れだった。
「先生、ちょっと、探してきますから、ここにお待ちなすって」
と、道案内について来た半瓦の若い者は、ひとりで何処かへ駈けて行った。
しばらくすると戻って来て、
「分りました」
と告げる。
「何処だ」
「やっぱり、今、登って来た坂の途中ですぜ」
「そんな屋敷があったかな」
「将軍家の御指南と聞いていたんで、あっしゃあ、柳生様のような屋敷かとばかり思っていたら、さっき右側に見えた汚い古屋敷の土塀がそうなんでさ。――あそこは以前、何とかいう|馬奉行《うまぶぎょう》がいた屋敷だと思ってたが」
「そうだろう。柳生は一万一千五百石。小野家はただの三百石だからの」
「そんなに違うんで」
「腕はちがわないが、家柄がちがう。――柳生などはその点では、先祖が七|分《ぶ》禄を取っているようなものだ」
「ここです……」
と、足を止めて指さすのを眺め、
「なるほど、ここか」
と、小次郎も立ち止まって、まずその家構えをしばらくながめていた。
馬奉行時代の古い土塀が、坂の途中から裏山の|藪《やぶ》へかけて|繞《めぐ》らしてある。地内はかなり広いらしく|扉《と》のない門から奥をのぞくと、母屋の裏に道場らしい、木の色の新しい建て増しの棟もみえる。
「帰っていい」道案内の男へいって――
「晩までに、お杉ばばの身を受取って帰らなかったら、小次郎も骨になったと思え――と、弥次兵衛へ伝えておけ」
「へい」
男は、|振《ふ》り|顧《かえ》りながら、|皀莢《さいかち》|坂《ざか》の下へ、駈け降りて行った。
柳生へは、近づいて行っても無駄である。彼を負かして、彼の名声を、自分の名声へ転じようと計っても、柳生は、お|止流《とめりゅう》である。将軍家流である、という口実があるから、牢人剣士のそんな手に乗るようなことはしない。
それに反して、小野家の方は、無禄者でも、強豪の聞え高い者でも、随分、相手にとって試合にも応じると聞いている。どう転んでも三百石だ。柳生の|大名《だいみょう》剣法とちがって、殺伐なる実戦的鍛錬を、ここでは目標としているからでもある。
――しかし、小野家へ行って、小野派一刀流を|蹂躪《じゅうりん》して来たという者があったという|例《ためし》も聞かない。
世上では、柳生家を、尊敬している。けれど、強いのは、小野だと誰もいう。
小次郎は、江戸へ出て来て、それらの事情を知った時から、この|皀莢《さいかち》|坂《ざか》の門を、
(|何日《いつ》かは)
と、|密《ひそ》かに眼をつけていたのである。
――その門は今、彼の眼の前にあった。
|忠明発狂始末《ただあきはっきょうしまつ》
一
浜田|寅《とら》|之《の》|助《すけ》は、三河出身の――いわゆる|御譜代衆《ごふだいしゅう》で、小禄でも今の江戸では、それだけで、随分大きな顔をしていられる幕士のひとりだった。
今――
何気なく、道場わきの支度部屋と呼んでいる部屋の窓から、外を眺めていた同門の沼田|荷十郎《かじゅうろう》というのが、あっと、その寅之助の姿を眼でさがし求め、
「来たぞ、来たぞ」
小声で――ひどく早口に告げながら、道場の真ん中にいた彼のそばへ、飛んで来て、
「浜田。参ったらしいぞ。――参ったらしいぞ」
と、もう一度、告げた。
浜田は答えない。
ちょうど木剣をかまえて、ひとりの後輩へ稽古をつけていた折であるから――それを背中で聞いたまま、
「いいか!」
と、正面へ向って、こう攻撃の予告を与え、木剣を真っ直に伸ばして、だ、だ、だっ――と|床《ゆか》を鳴らして押して行った。
そして道場の北の隅まで、その勢いのまま行ったと思うと、どたっと、後輩はもんどり打って、木剣は|刎《は》ね飛ばされていた。
寅之助は、初めて振向いて、
「沼田。来たとは、佐々木小次郎がか?」
「そうだ。今、門をはいって来た……。すぐ見えるぞここへ」
「思いのほか、早くやって来たな。やはり、|人《ひと》|質《じち》が|利《き》いたとみえる」
「だが、どうする」
「何が」
「誰が出て、どう挨拶してやるかだ。充分、備えておらぬと、一人でここへやって来るほど剛胆な奴――不意に何をやり出すかもしれぬ」
「道場の真ん中へ通して坐らせるがいい。挨拶はおれがする。各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]は|周《まわ》りにいて黙って控えておれ」
「ウム。これだけいれば……」
と、荷十郎は居合わす人々を見まわした。
|亀井兵助《かめいひょうすけ》、|根《ね》|来《ごろ》|八《はち》|九《く》|郎《ろう》、伊藤孫兵衛、などの顔は、彼を気強くさせるものだった。そのほか、すべてで二十人足らずの同輩がここにはいる。
その同輩たちは皆、先頃からの|経緯《いきさつ》もよく知っていた。どんじき[#「どんじき」に傍点]屋の空地で斬り捨てにされた二人の侍のうちの一名は、ここにいる浜田|寅《とら》|之《の》|助《すけ》の兄に当る者だった。
寅之助の兄というのは、ろくでもない人間らしく、ここの道場でも評判のよくない男だったが、それにしても、佐々木小次郎に対する怒りは、小野派の者として、
(捨て|措《お》けない)
程度に|昂《たか》まっていた。
殊に浜田寅之助は、小野|治《じ》|郎《ろう》|右衛《え》|門《もん》が手塩にかけた門下中でも、前記の亀井、根来、伊藤などと共に、|皀莢《さいかち》|坂《ざか》の|驍将《ぎょうしょう》といわれている一人でもあるし、――小次郎がどんじき[#「どんじき」に傍点]屋の障子に|不《ふ》|遜《そん》な文句を書いて、公衆へ|曝《さら》してあるというのに――なおも、寅之助があれを|放《ほ》っておくようでは、小野派一刀流の名誉にも|関《かかわ》るがと、事件の成行きに注意を払うと共に、陰ながら|力《りき》んでいた場合でもあった。
そこへ、|昨夜《ゆ う べ》のこと。
寅之助や荷十郎などが、何処からか、ひとりの老婆を|担《かつ》ぎこんで来て、実は|云《しか》|々《じか》という話に、彼の同輩や後輩たちは、手を打って、
(それは、よい|人《ひと》|質《じち》を取って来られた。小次郎の方からやって来るように仕向けられたのは、さすがに兵法の|御《ご》|巧《こう》|者《しゃ》というもの。――参ったらさんざんに叩きのめしたあげく、鼻を|削《そ》いで、神田川の樹に|曝《さら》し者にしてやるのだな)
と、いい合った。そして、だが来るか、来まいか、などとつい今朝も、|賭《かけ》|事《ごと》のように噂していたものだった。
二
大部分の者が、来まい、と予想していた佐々木小次郎が今、荷十郎の言によれば、
――門をはいって来た。
と、あるので、
「何。来たと?」
居合せた人々の顔は、白木の板みたいに|硬《こわ》ばった。
浜田寅之助以下、広い道場の床を、しいんと開けて、|固《かた》|唾《ず》をのんでいた。
今に、道場の玄関へ、声がかかるか、今に小次郎の訪れがあるかと、待ち構えていたのである。
「……おい、荷十郎」
「うむ?」
「門をはいって来るところを確かに見たのか」
「見た」
「じゃあもう、これへ見えそうなものじゃないか」
「来んなあ」
「……遅すぎる」
「はて」
「人違いじゃなかったのか」
「そんなことはない」
|厳《いかめ》しく床を占めて、坐っていた面々も、ふと、間拍子が抜けて、自分の緊張に、自分で力負けを覚えかけて来た頃、ぱたぱたと、草履の音が、|控部屋《ひかえべや》の窓の外に止まって、
「御一同」
と、外から、同輩の顔が一つ、背伸びして、中を覗きこんだ。
「おう、何だ」
「待っていても、佐々木小次郎は、こっちへは見えぬぞ」
「おかしいな。でも、荷十郎がたった今、門内へ通って来たのを見たといっておるに」
「ところが、彼は、お|住居《す ま い》の方へ行ってしまって、どう奥へ|刺《し》を通じたものか、お座敷で、大先生と話しこんでいるのだ」
「えっ。大先生と」
これには先ず浜田寅之助が、どぎも[#「どぎも」に傍点]を抜かれた顔つきであった。
兄が斬り捨てにされたことも、原因を洗うと、ろくでもない兄の不行跡が必然に出て来るにきまっている。――で、師の小野治郎右衛門などには、|体《てい》よく告げてあったし、ゆうべ、浜町の原から、老婆を人質に取って来たなどということも、勿論、告げていないのである。
「おい、ほんとか」
「誰が、嘘をいう。――嘘だと思ったら、裏山の方へ廻って、庭ごしに、大先生のお書斎の次の客間をのぞいてみたまえ」
「弱ったなあ」
しかし|他《ほか》の者は、彼の嘆息をむしろ歯がゆく思った。小次郎が直接、師の治郎右衛門の|住居《す ま い》の方へ行ったにしろ――また、どんな|詭《き》|弁《べん》を|弄《ろう》して自分たちの師を|籠《ろう》|絡《らく》しようと考えているにしろ――堂々と対決して、彼の非を挙げ、こっちへ|引《ひ》き|摺《ず》って来てしまえばいいではないか。
「何を、弱ることがある。おれたちが行って、様子を見て来てやる」
道場の入口から、|亀井兵助《かめいひょうすけ》と|根《ね》|来《ごろ》|八《はち》|九《く》|郎《ろう》のふたりが、草履を|穿《は》いて出ようとした時であった。
住居の方から、何事か起ったように、顔いろを変えてこっちへ駈けて来る娘がある。――アアお|光《みつ》どの、と呟いてふたりは足を止め、道場の内にいた人々も、どやどやとそこへ出て、彼女のけたたましい声を、騒ぐ胸へ、受け取った。
「皆さん、来てください。伯父様がお客様と、|刃《やいば》を抜き合せて、外へ出ました。――庭先で、斬り合いを始めています」
三
お光は治郎右衛門|忠《ただ》|明《あき》の|姪《めい》である。彼が一刀流の伝をうけた師の弥五郎一刀斎の|妾《めかけ》の子をひき取って育てたのだ――と陰でいう者もある。或は、そうかも知れないし、嘘かもしれなかった。
それはとにかく、色白で愛くるしい娘だった。
おどろくと、そのお光が、
「伯父様が、お客様と、なにか大きな声をし合っていたかと思うと、庭で斬り合っているんです。――伯父様のことですから、万一のことはないでしょうが」
告げるのを、皆まで聞かず、亀井、浜田、根来、伊藤などの|主《おも》立った者が、
「やっ?」
と、いったのみで、何を問うまもなく、駈けて行った。
道場と住居とは離れていて、住居の庭へ行くには垣と|竹《たけ》|編《あみ》|戸《ど》の中門がある。一つ塀の中でありながら、こういう風に、棟が離れていたり、垣が|結《ゆ》ってあるのは、城郭生活の|慣《ならわ》しで、少し大きな侍の家となれば、これになお、手飼の者の長屋だの何だのが、加わっているのである。
「ヤ、閉まっている」
「何、開かない?」
ひしめいた門人達の力は、門の竹編戸を押し破ってしまった。そして、裏山を|抱《いだ》いている約四百坪ほどの山芝の|平《ひら》|庭《にわ》を見ると、師の小野治郎右衛門忠明は、日頃、持ち馴れている|行《ゆき》|平《ひら》の刀を抜いて、|青《せい》|眼《がん》――というよりはやや高目にひたと構え、かなり距離を|措《お》いてその向うには、|紛《まご》う|方《かた》なき佐々木小次郎が、物干竿の大剣を、|傲《ごう》|然《ぜん》、頭上に振上げたまま|眼《まなこ》を|炬《きょ》のようにしているのだった。
――はっと、その有様に誰も一瞬、眼が|眩《くら》んだ。そして四百坪からある芝庭の広さと、張りつめた空気は、線でも引いたように、他の人間を近づけしめなかった。
「…………」
|慌《あわ》てて来てはみたものの、門人たちは、遠く見守って、毛穴をそそけ立てているしかなかった。
立ち合っている双者の間には、断じて、横あいから、手出しを許さないほど、森厳なものがある。無知|蒙《もう》|昧《まい》な者ならそれへ、石でも|唾《つば》でも投げられるかもしれないが、|武士《もののふ》の家に生れて、童学からその教養に|躾《しつ》けられて来た者には――
「ああ」
と、真剣の荘厳に打たれ、そのせつなには愛憎も忘れて、ただ、見まもる気になるのだった。
けれど、それは一瞬の、忘失的作用にすぎない。すぐ感情は全身をくわっと|醒《さ》まして、
「うぬ」
「お助太刀」
とばかり二、三の者が小次郎の後ろへ駈け迫ろうとした。
すると忠明が、
「寄るなっ!」
と、叱咤した。
声も常とはちがう。霜のような気を帯びていた。
「……あ」
と、乗り出した身を|退《ひ》きながら彼らはふたたび、|徒《いたず》らに、手出しのならない刀の鯉口を握りしめているしかなかった。
――けれども、少しでも、忠明の方に、敗色が|兆《きざ》したら、耳をふさいで、四方から小次郎をつつみ、一気にずたずたに斬ってしまうつもりでいるらしい――めいめいのその|眼《まな》ざしであった。
四
|治《じ》|郎《ろう》|右衛《え》|門《もん》|忠《ただ》|明《あき》は、まだ壮健だった。五十四、五歳であろう。髪は黒く、見たところはなお四十代にしか見えない。
小づくりであるが、腰の|据《すわ》りがよく、四肢は伸び伸びして、全体の姿態に、少しの硬化もなく、また、小柄にも見えなかった。
小次郎は、それに|対《むか》って、まだ一太刀も|下《くだ》していない。いや、下し得ないというべきであろう。
だが、忠明は、彼を剣の先に立たせて見たせつなに、
(これは――)
と、|侮《あなど》り|難《がた》いものを感じ、|密《ひそ》かに、身をひき|緊《し》めながら、
(善鬼の再来か!)
とさえ思った。
善鬼――そうだ善鬼以来、こんな当るべからざる覇気を持った剣には久しく|遇《あ》ったことがない。
その善鬼というのは、彼がまだ青年の頃、名も|神《み》|子《こ》|上《がみ》|典《てん》|膳《ぜん》といって、伊藤弥五郎一刀斎に|従《つ》いて修行に歩いていた当時――同じ師に付いていた|恐《こわ》い|兄《あに》|弟《で》|子《し》だった。
善鬼は、|桑《くわ》|名《な》の船頭の子で、さしたる教養もなかったが、強いことは天性だった。後には、一刀斎でさえ、善鬼の剣を、|如何《い か ん》ともすることができなかった。
師が老いてゆくと、善鬼はその師を|見《み》|下《くだ》して、一刀流は自己の独創であるように誇称した。一刀斎は、善鬼の剣が、磨かれて行くほど、社会に害があって、益のない成行きをながめ、
(われ生涯の誤りは、善鬼にあり)
と嘆いた程だった。また、
(善鬼を見ると、おのれの内にある悪いものを、みな持って、躍っている化け物にみえる。――だから善鬼を見ると、自分という人間までが|忌《いま》わしくなる)
と、述懐したこともある。
しかし、典膳にとっては、その善鬼があったため、よい|鑑《かがみ》にもなり、励みにもなって、遂に、|下《しも》|総《うさ》の小金ケ原で、彼と試合して、彼を斬った。そして、一刀斎から、一刀流の印可伝巻を授けられたのであった。
――今。
佐々木小次郎を見て、彼はその善鬼を思いだしたのである。善鬼には、強さはあっても、教養はなかったが、小次郎には、それへ加うるに、当世的な鋭智があり、侍の教養も身についていて、それは彼の剣に、|渾《こん》|然《ぜん》と一つのものになっている。
それを、じっと見て、
(自分の敵するところではない)
と忠明はすぐ|潔《いさぎよ》く心のうちで、思い捨てた。
柳生に対してだって、彼は決して|卑《ひ》|下《げ》は抱いていない。今でも|但馬《たじまの》|守《かみ》|宗《むね》|矩《のり》の実力などは、そう高く買っていない彼ではあるが――今日という今日――佐々木小次郎という一介の若者に対して、彼は正直に、
(おれも、そろそろ時代に取り残されて来たかな?)
と、剣の老いを覚えたのである。
誰かのいった言葉に、
[#ここから2字下げ]
先人ヲ追イ越スハ|易《ヤス》ク
後人ニ超サレザルハ|難《カタ》シ
[#ここで字下げ終わり]
と、あるが、その語を、今ほど痛切に覚えたことはない。柳生とならび称されて、一刀流の全盛を見、老来やや人生に安んじているまに、社会の後からはもう、こんな|麒《き》|麟《りん》|児《じ》が生れつつあったのか――と、大きな驚きをもって、小次郎を見たものであった。
五
双方とも、固着したまま、姿勢の上にはいつまで、なんの変化も見えなかった。
だが、小次郎も忠明も、肉体の内には、怖ろしい生命力を消耗していた。
その生理的変化は、|鬢《びん》をつたう汗となり、鼻腔の|喘《あえ》ぎとなり、|青《せい》|白《はく》な顔色となって、今にも、寄るかと見えながら、剣と剣は、依然、最初の姿勢を持続していた。
「――|降《まい》ったっ」
忠明が叫んだのである。――叫びながら、|刀《とう》と身を、そのまま、ぱっと後ろへ|退《ひ》いたのであった。
けれど、その言葉が、待てっ、といったように響いたのかも知れなかった。小次郎の体は、とたんに、動物的な跳躍を|空《くう》にえがいていた。それと共に、|揮《ふ》り伸ばした物干竿は、忠明の姿を真二つに斬り下げたかのような|旋風《つむじかぜ》を起し、忠明の|髷《まげ》のもとどり[#「もとどり」に傍点]は、それを|交《か》わすに急なため、逆立って、ぷつりと、|元《もと》|結《い》の根が切れた。
――しかし、忠明が、肩を落しながら|刎《は》ね上げた|行《ゆき》|平《ひら》の切先もまた、小次郎の|袂《たもと》を、五寸ほど切り飛ばしていた。
「理不尽!」
|憤《いきどお》りは、門人たちの顔に、燃えあがった。
忠明が今、
(|降《まい》った)
と、いったことばで、双方の立合が、喧嘩ではなく、試合であったことは明白である。
だのに、小次郎は、むしろその隙を得たりとなして、|無《む》|下《げ》に斬って行った。
彼が、そういう不徳を敢てして出た以上、もう、手を|拱《こまね》いている必要はない。――|咄《とっ》|嗟《さ》に、その気持が一致して、行動へ移って行ったのである。
「うっ――」
「うごくな」
小次郎へ向って、すべてが、どっと駈け|雪崩《なだ》れた。小次郎は、|鵜《う》が飛ぶように、身の位置をかえていた。|巨《おお》きな|棗《なつめ》の樹が|平《ひら》|庭《にわ》の一方にあった。その幹の陰から姿をなかば見せて、おそろしくよく動く眼をぎらぎらさせながら呶鳴った。
「勝負。見たか」
――俺が勝ったぞという名乗りをあげたつもりであろう。忠明は彼方で、
「見えた」
と、答えた。そして門人達へ向い、
「ひかえろ」
と、叱った。
刀を|鞘《さや》におさめて、書斎の縁へもどると、彼は腰かけて、
「お光」
と、|姪《めい》を呼び、
「もとどり[#「もとどり」に傍点]を|結《あ》げてくれい」
と、ぱらぱらになった髪の毛を撫で上げていた。
お光に髪を上げさせているうちに、初めてほんとの|喘《あえ》ぎが出て来たらしく、忠明の胸は、汗に光っていた。
「ざっとでよい」
そして、お光を、肩越しに見て、
「あちらにいるお若い客へ、おすすぎを上げて、元の座敷へ、お上げ申しておけ」
「はい」
忠明はしかし――その客間へは通らなかった。草履を|穿《は》いて、門人たちの|面《おもて》を見まわし、
「道場の方へ集まれ」
と、命じて、自身が先に彼方へ歩いて行った。
六
どうした|理《わけ》なのか?
門人らには、分らないのである。第一、かりそめにも、師の治郎右衛門忠明が、小次郎に対して|降《まい》ったとさけんだのが、心外であった。
(あの一声は、きょうまでの無敵小野派一刀流の誇りを、一敗地にお|汚《けが》しなすってしまったものだ)
と、青白な|面《おもて》のうちに、怒りに似た涙をのんで、忠明の顔を、|睨《ね》めつけている門人もあった。
道場へあつまれ――と呼ばれてそこに坐った者は、約二十名ばかり、三列になって、板の間に、ぎしっと固くなって、坐っていた。
治郎右衛門は、上座の――一段高い席に、|寂《じゃく》と坐って、それらの顔をしばらく眺めていた。
「さてさて、わしも|年齢《とし》を|老《と》ったものである。つかの間に、時代も|遷《うつ》ってゆくな」
これが、やがて忠明の|唇《くち》から流れた――最初のことばだった。
「過去、自分の来た道を|顧《かえり》みてみると、師の弥五郎一刀斎様に仕えて、善鬼を|仆《たお》した頃が、自分の剣が最高な冴えを示した時であり、この江戸表に、門戸をもって、将軍家の御師範の|端《はし》に列し、世間から無敵一刀流とか、|皀莢《さいかち》|坂《ざか》の小野衆とか、いわれ始めた頃はすでに、わし自身の剣としては、|降《くだ》りへ来ている頃だった」
「…………」
門人達は、師が、何をいおうとしているのか、まだその意が|酌《く》めなかった。
で、|粛《しゅく》とはしているが、その|面《おもて》には、不平だの、疑惑だの、思い思いな感情がまだ動いていた。
「思うに」
忠明は、そこから|遽《にわか》に声を張って、今までの伏し目な|眼《まなこ》を、大きく見ひらいた。
「――これは誰にもある人間の通有性だ。安息に|伴《ともの》うてくる初老の|兆《きざ》しだ。この間に、時代は移ってゆく。後輩は先輩を乗りこえてゆく。若い、次の者が新しい道を|拓《き》り|開《ひら》いてゆく。――それでいいのだ。世の中は転変の間に進んでいるから。――だが、剣法では、それを許さぬ。老いのない道が剣の道でなければならぬ」
「…………」
「たとえば、伊藤弥五郎先生。今はもう、生きて|在《おわ》すや否や、その御消息だにないが、小金ケ原でわしが善鬼を斬った折、即座に、一刀流の|印《いん》|授《じゅ》をこの身にゆるし給い、入道して、そのまま山へはいられてしまわれた。そしてなお、剣、禅、|生《しょう》、死、の道を探って、大悟の峰に、分け登ろうと遊ばすお|口吻《くちぶり》が見えた。――それにひきかえて、この治郎右衛門忠明は、早くも、老いの|兆《きざ》しを現し、きょうのような|敗《おく》れをとったこと、師弥五郎先生に対しても、なんの|顔《かんばせ》があろうか。……きょうまでのわしが|生活《く ら し》などは、思わざるも甚だしいものであった」
堪らなくなったように、
「せ、先生っ」
|根《ね》|来《ごろ》八九郎が、|床《ゆか》からいった。
「敗れたと仰っしゃいますが、あのような|若年者《じゃくねんもの》に、敗れる先生ではないことを、われわれは日頃から信じております。今日のことは、なにか、ご事情でもあったのではござりませぬか」
「事情? ……」
一笑の|下《もと》に、かぶりを振って、
「かりそめにも、真剣と真剣との立合、その|間《かん》に、なんで、|微《み》|塵《じん》の情実など許そう。――若年者といわれたが、その若年者なるがために、わしは彼に負けたとは思わない、移っている時代に負けたと思うのだ」
「と、とは申せ」
「まあ待て」
静かに、|根《ね》|来《ごろ》のことばを抑え、また、大勢の同じ顔いろを見直して、
「手早く話そう。あちらには、佐々木殿もお待たせしてある。――そこで各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]へ、改めて、申し渡す儀と、わしの|希望《の ぞ み》を聞いてもらいたい」
七
――自分はきょう限り、道場から身を|退《ひ》こうと思う。世間からも身を隠す。隠居ではない。山中へ行って、弥五郎入道一刀斎先生の分け入った道の後をたずねる心で、なお、|晩《ばん》|成《せい》の|大《たい》|悟《ご》を期したい。
「これが一つの|希望《の ぞ み》」
と、治郎右衛門忠明は、弟子一同へ告げるのだった。
――弟子の中の伊藤孫兵衛は|甥《おい》にあたる者ゆえ、一子|忠《ただ》|也《なり》の後見をたのむ。幕府へは、その由を願い出で、自分のことは、|出家遁世《しゅっけとんせい》と届けておいてもらいたい。
「これが二つの頼みである」
といった。
次に、この機会に、いい渡しておくこととして、
「わしは、若輩の佐々木殿に負けたということを、そう恨みには思わぬ。しかし、彼の如き新進が他から出ているのに、まだ小野の道場から一名の|駿足《しゅんそく》も出ておらぬということは、ふかく恥じる。――これというのも、わが門下には、|御《ご》|譜《ふ》|代《だい》の幕士が多く、ややもすると、御威勢について思い上がり、いささかの修行をもって、すぐ無敵一刀流などと誇称して、よい気になっているせいと思う」
「あいや、先生。お言葉中にはござりますが、決して、われわれとても、そのような|驕慢怠惰《きょうまんたいだ》にのみ日を暮しているわけでは――」
と、|亀井兵助《かめいひょうすけ》が、その時、声ふるわせて、弟子の座からいうと、
「だまれ」
と、忠明は、彼の顔を睨まえて師の座から一言に|圧《あつ》して、
「弟子の怠りは、師の怠りである。わしはわし自身を|慚《ざん》|愧《き》して、自ら裁いておるのだ。――お身らすべての者が、|驕惰《きょうだ》だとは申さぬ。だが、この中には、そうした者もおると見た。その悪風を一掃して、小野の道場は、正しい、若々しい、時代の|苗《なえ》|床《どこ》とならねばならぬ。――そうせねば、忠明が身を|退《ひ》いて、改革いたす意味もないことになろう」
沈痛な彼の誠意は、ようやく弟子たちの|肺《はい》|腑《ふ》へ|沁《し》み|透《とお》ってきた。
弟子の座に居ならぶ者は、みな|頭《かしら》を垂れて、師の言葉を噛みしめながら、自分たちも反省した。
「浜田」
忠明が、やがていった。
浜田寅之助は、ふいに、名を指されて、
「はっ」
と、師の顔を見た。
忠明の眼は、彼をきっと|睨《ね》めすえていた。
寅之助は、その眼に、さし|俯向《う つ む》いてしまった。
「立て!」
「はい」
「立て」
「は……」
「寅之助、立たんかっ」
と、忠明は、声を励ました。
三列に坐っている弟子たちの中から、寅之助だけ直立した。彼の友達や後輩たちは、忠明の心を|測《はか》りかねて、しんとしていた。
「寅之助、おぬしを、今日限り、破門する。――将来、心を改め、修行を励み、兵法の|旨《むね》にかなう人間となった時は、また、師弟として会う日もあろう。――去れっ」
「せ、先生っ。|理由《わけ》を仰っしゃってください。拙者には、破門される覚えはございませぬが」
「兵法の道を|穿《は》きちがえているゆえに、覚えがないと思うのであろう。――他日よく、胸に手を当てて考えてみれば分ってくる」
「仰っしゃって下さい! 仰っしゃって下さい! 仰せなくば、寅之助、この席を去るわけには参りません」
|昂《たか》ぶった顔に、青すじを太らせて、彼はまたいい|猛《たけ》った。
八
「――然らば、いおう」
と、忠明は、やむなく、寅之助に破門をいい渡した理由を、その寅之助を立たせておいたまま、一同へも、釈明した。
「|卑怯《ひきょう》――は武士の最も|蔑《さげす》む行為である。また、兵法の上でも固く|誡《いまし》めておる。卑怯の振舞ある時は破門に処す、というのはこの道場の鉄則であった。――然るに、浜田寅之助は、兄を討たれながらいたずらに日を過ごし、しかも当の佐々木小次郎には、雪辱をなそうともせず、又八とやらいう西瓜売り風情の男を仇とつけ廻し、その者の老母を人質に取って来て、この邸内に押しこめておくなどとは――いやしくも武士のすることといえようか」
「いや、それも、小次郎をこれへ|誘《おび》き寄せる手段でいたしたのです」
寅之助が、躍起となって、抗弁しかけると、
「さ。それが卑怯と申すものじゃ。小次郎を討たんとするなら、なぜ自身、小次郎の|住居《す ま い》へゆくなり、果し状をつけて、堂々と、名乗りかけんか」
「……そ、それも、考えぬではござりませんでしたが」
「考える? 何をその|期《ご》に、猶予などを! ――衆を|恃《たの》んで、佐々木どのをこれへ|誘《おび》き寄せ、打たんとした卑劣は、お身の今いったことばで自白しておるではないか。――それにひきかえ、佐々木小次郎なる者の態度、見上げたものだと、わしは思う」
「…………」
「――単身わしの前へ来て、卑劣な弟子など、相手に取るに足らぬ。弟子の非行は師の非行、立ち合えとばかり、|挑《いど》みかかった」
弟子の座の人々は皆、さては、最前のいきさつは、そうした動機から起ったことかと――|頷《うなず》いた|気《け》|色《しき》だった。
忠明は言葉をつづけ、
「しかも、ああして、真剣と真剣とで、立ち向ってみた結果は、この治郎右衛門自身の中にも明らかに、恥ずべき非が見出された。わしはその非に対して慎んで|降《まい》ったといった」
「…………」
「寅之助、これでもそちは、自身を|省《かえり》みて、恥なき兵法者と思うか」
「……恐れ入りました」
「去れ――」
「去ります」
寅之助は、|俯向《う つ む》いたまま、道場の床を、十歩ほど|退《さ》がって、両手をつかえて坐り直した。
「先生にも、御健勝に」
「うむ……」
「御一同にも」
と、さすがに、声が暗くなって、後はかすかに、別れの挨拶をした。そして、|悄《すご》|々《すご》、どこへか立ち去った。
「――わしも、世間を去る」
と、忠明も立った。弟子の座の中に|嗚《お》|咽《えつ》がきこえた。男泣きに泣きだした者もあるのである。
愁然と、うなだれ合っている弟子達の頭を、ながめて、
「励めよ、皆」
忠明は、最後の――師の言として――師愛をこめていった。
「なにを憂い悲しむのか。おまえ達は、おまえ達の時代を、この道場へ、|溌《はつ》|剌《らつ》と迎え取らねばならぬ。明日からは謙虚になって、一層、精を出して磨き合えよ」
九
やがて――道場の方から|住居《す ま い》へ戻って、そこの客間へ姿を見せた忠明は、
「失礼いたした」
と、最前から控えている小次郎へ向って、こう中座を|詫《わ》びながら静かに坐った。
その顔いろには、なんの動揺も読まれなかった。平常と変った点はなかった。
「さて――」
と、忠明は口を切って、
「門人の浜田寅之助は、ただ今あちらで、破門をいい渡し、|向《こう》|後《ご》、心を改めて修行いたすよう、よく|訓《くん》|誡《かい》しておきました。――で、寅之助が人質に隠しおいた老婆の身も、当然、お帰しする考えであるが、|其《そこ》|許《もと》がすぐお連れ下さるか、それとも改めて、当方からお送り申そうか」
いうと、小次郎は、
「満足でござる。拙者がすぐ連れて戻ります」
今にもと、立ちかけた。
「そうきまれば――何もかも水に流して、一|献《こん》お|酌《く》み交わして戴きたい。――|光《みつ》っ、光っ」
と、手をたたいて、
「酒の支度を」
と、|姪《めい》へいいつけた。
さっきの真剣の立合で、小次郎はありったけの精神を消耗してしまったような気がしていた。その後、独りでぽつねんとここに待たされていた時間も長かったので、すぐ帰りたかったが、臆しているように思われてもと、腰をすえて、
「では、おもてなしに甘えようか」
と、杯を取った。
そして小次郎は飽くまで、忠明を眼下に見た。心で眼下に見ながら、口では、――自分も今日まで随分、達人にも出会ったが、まだ貴公のごとき剣に対したことはない。さすがに、一刀流の小野と音に響いただけのものはある――などと褒めて、おのれの優越感を、その上へもっと高めた。
若い、強い、覇気満々だ。酒を飲んでみても、|敵《かな》わないことを、忠明は体に感じてくる。
けれど、|大人《お と な》の忠明から彼を見ると、自分には|敵《かな》わないとは思いつつ、いかにも危ない強さ、若さであると思った。
(この素質を、よく磨けば、天下の|風《ふう》はこの人に|靡《なび》こう。――だが、悪くすれば、善鬼になる|惧《おそ》れがある)
そう惜しんで、忠明は、
(弟子ならば)
と、その忠言を|喉《のど》まで出しかけたが、遂に、何もいわなかった。
そして小次郎の言葉には、なんでも、謙虚に笑って答えた。
雑談のうちに、武蔵のうわさなども出た。
――近頃、忠明が聞いたこととして、北条安房守や僧沢庵の推薦で、また新たに、宮本武蔵という無名の一剣士が、抜擢されて師範の席に加わるかも知れない――という話なども、彼が洩らした。
「……ほ?」
小次郎は、そういったきりだったが、心の安からぬ顔いろをした。
|西《にし》|陽《び》を見て、彼が、
「帰る」
と、いい出したので、忠明は、姪のお光にいいつけ、
「お|老婆《としより》の手をひいて、坂の下までお送りして行け」
と、いった。
|恬《てん》|淡《たん》で、|真《まっ》|直《すぐ》で、柳生のように、政客との交わりなどもなく、粗朴な武士|気質《か た ぎ》の人で通って来た治郎右衛門忠明の姿が、江戸から見えなくなったのは、それから間もなくであった。
(将軍家にも、|直《じき》|々《じき》、近づける身なのに――)
(うまく勤め上げれば、いくらでも出世の先があったものを)
と、彼の|遁《とん》|世《せい》を|怪訝《い ぶ か》しがった世人は、やがて佐々木小次郎に彼が負けたということを誇大に取って、
(小野治郎右衛門忠明は、発狂したのだそうだ)
と、いい伝えた。
もののあわれ
一
恐かった。ゆうべの風は。
――あんな|暴風雨《あ ら し》って、生れて初めてだと、武蔵さえいった。
二百十日、二百二十日。
そういうものの|恐《こわ》さに善処することは、武蔵よりも細心で、よく知っている伊織は、ゆうべの|暴《あ》れが|襲《や》って来る前に、屋根へ登って、竹の押しぶち[#「ぶち」に傍点]を結びつけたり、石を乗せたりしておいたが、その屋根なども、|夜《よ》|半《なか》に吹き飛ばされてしまって、今朝見ても、どこへ行ったか、屋根の行方がわからない。
「アアもう|書《ほん》も読めなくなっちゃった」
崖の肌やら、|草《くさ》|叢《むら》やら、あちこちに、ベトベトになって散らばっている|書《ほん》の残骸をながめて、伊織は、何より未練そうに|呟《つぶや》いた。
だが、被害は、|書《ほん》どころではない。彼と武蔵の住む家さえ、跡形もなく|潰《ひし》がれて、手のつけようもない有様。
それを|他《よそ》に、武蔵はどこへ行ったやら、
(火を|焚《た》いておけ)
と、いって出たまま、まだ戻って来なかった。
「――|暢《のん》|気《き》だなあ。稲田の|出《で》|水《みず》を見物に行くなんて」
伊織は、火を焚き始めていた。その|薪《まき》は、わが家の|床《ゆか》や板壁である。
「今夜、寝る家だった」
と、考えると、煙が眼に沁みてくる。火は出来た。
武蔵は戻らない。
ふと見ると、そこらに、まだ割れていない|栗《くり》の|実《み》だの、風に叩きつけられて死んでいる小鳥の死骸などが眼についた。
朝飯に、伊織は、そんな物を火に|焙《あぶ》って喰べていた。
|午《ひる》|頃《ごろ》、武蔵は帰って来た。それから半刻ほどして、また後から、|蓑《みの》|笠《かさ》を着た村の人々がそろって来た。そして、お蔭で早く出水が|退《ひ》いたとか、病人が喜んでいるとか、かわるがわる礼をのべ出した。――いつも後始末では自分自分のことにばかり|懸《かか》って、争いになるのだが、今度は仰っしゃる通り、村人が一致して、誰の田だの、彼の家だのという|分《わ》け|隔《へだ》てなく、力を|協《あわ》せてやることにしたので、案外早く被害の取返しもつきそうで――などとも、中の老百姓が、礼を繰返していった。
「あ。そんな指図をしに行ったのか」
と、伊織は、やっと、武蔵が夜明けに出て行った用事が分った。
伊織は、武蔵のためにも、死んだ小鳥の毛をむしって|焙《あぶ》っておいたが、
「食い物は、わしらがとこに、幾らでもあるで」
と、甘い物、辛い物、何くれとなく運んで来る。
伊織の好きな餅もあった。
死んだ鳥の肉は|不味《まず》かった。自分だけの身を考えて、あわててそんな死肉で腹を|膨《ふく》らましてしまった伊織は後悔した。――自分を捨てて、大勢のために考えれば、食物はひとりでに、誰かが与えてくれるのだということを覚えた。
「家も、こんどは、|潰《つぶ》れぬように、わしらの手で建ってあげますでの、今夜は、わしが所へ来て寝さっしゃい」
と、年|老《と》った百姓は、いってくれる。
その老百姓の家は、この近村ではいちばん|旧《ふる》かった。ゆうべずぶ濡れになった、肌着や着物を乾かしてもらい、武蔵と伊織は、その晩、老百姓の家のお客になって寝た。
「……おや?」
寝てからのことである。
伊織は、隣に眠っている、武蔵の方へ、寝返りを打って、小声でいった。
「先生」
「……ウむ?」
「遠くの方で、|神楽《か ぐ ら》|囃子《ば や し》が聞えませんか――遠くの方で」
「聞えるようでもあり、聞えないようでもあるが」
「変だな。こんな|大《おお》|暴風雨《あ ら し》の後に、神楽の音が聞えるなんて?」
「…………」
寝息はするが、武蔵の返辞はしないので、伊織もいつか、眠ってしまった。
二
朝になって、
「先生。|秩《ちち》|父《ぶ》の|三《みつ》|峰《みね》神社って、そう遠くないんだってね」
「ここからでは、幾らもあるまいな」
「連れて行っておくんなさい。――お|詣《まい》りに」
なにを思い出したのか、今朝、急に伊織がいい出したのである。
わけを訊いてみると、彼は、ゆうべの神楽の音が気になって、起きるとすぐ、|此家《ここ》の老百姓に聞いてみたところ、ここから近い|阿《あ》|佐《さ》ケ|谷《や》村には、遠い昔から、阿佐ケ谷神楽といって、旧い|神楽《か ぐ ら》|師《し》の家があり、毎月、三峰神社の月祭りには、そこの家で調べを|奏《あわ》せて、秩父へ|出《で》|張《ば》ってゆくので、それが聞えて来たのだろうという説明だった。
音楽と舞踊との、壮大なものといえば、伊織は、神楽よりしか知らないのである。しかも三峰神社のそれは、日本三大神楽の一つといわれるほど、古典なものであると聞かされたので、彼は、矢も|楯《たて》もなく、秩父へ行ってみたくなった。
「よう、よう、先生」
と、伊織は甘えて、
「どうせ、まだ草庵は、五日や六日じゃ出来ないし……」
と、|強請《せが》んだ。
伊織にこう甘えられると、武蔵はふと、別れている城太郎を思い出した。
城太郎を|従《つ》れていると、城太郎はよく甘える。ねだったり、だだをこねたり、わがままをいって|手《て》|古《こ》ずらせたり――
だが、伊織には、滅多にそんなことがない。――時にはふと武蔵の方で、そのよそよそしさが淋しくなるほど、伊織にはその子供ッぽさがない。
城太郎とは、|生《お》い立ちや、性格の相違もあろうが、多くは、それは武蔵が|躾《しつ》けたものであった。弟子と師とのけじめ[#「けじめ」に傍点]を、伊織には、厳然とつけてきたからである。――|放《ほ》ったらかしにただ連れていた城太郎の結果に|鑑《かんが》みて、伊織には意識的に、師であろうとしているためだった。
その伊織が、めずらしく、甘えてねだると、武蔵は、
「……ウム」
生返辞して、考えてはいたが、
「よし、連れて行ってつかわそう」
伊織は|雀《こ》|躍《おど》りして、
「天気もいいし」
と、もうおとといの晩の空への怨みも忘れ果てて、俄かに、この|家《や》の老百姓に告げて、弁当を乞い|草鞋《わ ら じ》をもらい、
「さあ、参りましょう」
と、武蔵を|促《うなが》す。
老百姓は、お帰りの頃までに、草庵を建て直しておきます――といって送り出すし、|野《の》|分《わき》の後の水たまりは、まだ所々小さい湖水を作っているが、おとといの|暴《あ》れは嘘のように、|鵙《もず》は低く飛び、空の|碧《あお》さは、高く澄みきっている。
三峰の例祭は、三日間とある。こう決まって出て来ればもう、伊織とてそう急ぎもしない。間に合わぬ心配はないからである。
|田《た》|無《なし》の|宿《しゅく》の|草《くさ》|旅籠《は た ご》に、その日は早く泊り、|翌日《あ し た》の道も、まだ武蔵野の原だった。
|入《いる》|間《ま》|川《がわ》の水は三倍にもなっていた。平常の土橋は川の中に取残され、何の用もなさなくなっている。附近の住民達は、田舟を出したり、|杭《くい》を打ち込んだりして、両岸から橋を継ぎ足していた。
そこの通れるようになるのを待っている間に、伊織は、
「あらあら、|鏃《やじり》がたくさん落ちていら。|兜《かぶと》の鉢金もあるし。――先生、この辺は、|戦場《いくさば》の跡ですね、|屹《きつ》|度《と》」
出水に洗われた川砂を掘りちらして、伊織は、|錆刀《さびがたな》の折れだの、|性《しょう》の分らぬ|古《ふる》|金《がね》など拾って興がっていたが、そのうちに、
「あ……? 人間の骨」
と、手をすくめた。
三
武蔵は、それを見て、
「伊織。その白骨を、ここへ持って来い」
いちど、知らずに手には触れたが、伊織は、もう手を出す気になれない顔して、
「先生、どうするんです」
「人の踏まない所へ|埋《い》けてあげるのだ」
「だって、一つや二つじゃありませんよ」
「橋の|修繕《つ く ろ》いが出来る間の仕事にはちょうどよい。あるだけ拾い集めて――」
と、河原の背を見まわし、
「あの|龍胆《りんどう》の花のあたりへ|埋《い》けておきなさい」
「|鍬《くわ》がないのに」
「その折れ刀で掘れ」
「はい」
伊織はまず穴を掘った。
そして、拾い集めた|鏃《やじり》も|兜《かぶと》の古金も、白骨と一緒に、みな|埋《い》け終って、
「これでようございますか」
「ム。石をのせておけ。それでよい。――よい供養になった」
「先生、この辺に合戦のあったのは、|何日《いつ》|頃《ごろ》のことなんでしょ」
「忘れたか。おまえは|書《ほん》で読んでいるはずだがな」
「忘れました」
「太平記の中にある、元弘三年と正平七年の両度の合戦――新田義貞、義宗、義興などの一族と、|足《あし》|利《かが》|尊《たか》|氏《うじ》の大軍とが、しのぎを|削《けず》り合うた|小《こ》|手《て》|指《さし》ケ|原《はら》というのは、この辺りだ」
「あ、小手指ケ原の合戦のあった所か。そんなら何度も、先生の話を聞いているから知っています」
「では」
と、日頃の伊織の勉学力を試すように、武蔵は、
「その折、|宗《むね》|良《なが》親王が。――|東《あずま》の方に久しく|侍《はべ》りて、ひたすら|武士《もののふ》の道にたずさわりつつ、征東将軍の|宣《せん》|旨《じ》など下されしも、思いのほかなるように覚えて|詠《よ》み|侍《はべ》りし――と仰せられて、お詠みになった歌、伊織は|憶《おぼ》えておるかな」
「います」
伊織はすぐいって、空の碧さに、一羽の鳥影が、|漂《ただよ》ってゆくのを仰ぎながら、
「――思いきや、手も触れざりしあずさ弓、起き|臥《ふ》し我が身馴れむものとは」
武蔵は、ニコとして、
「そうだ、では。――同じ頃、武蔵の国に打ち越えて、小手指ケ原という所に――という|詞書《ことばがき》の条にある、同じ親王のお歌は?」
「……?」
「忘れたな」
伊織は負けん気に、
「待って、待って」
と、首を振った。
そして思い出すと、こんどはひとり|勝《かつ》|手《て》なふしをつけて朗詠した。
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君のため
世のため
なにか惜しからむ
すててかひある
いのちなりせば
[#ここで字下げ終わり]
「……でしょう。先生」
「意味は」
「わかってます」
「どう? わかってるか」
「いわなくたって、このお歌がわからなかったら、|武士《もののふ》でも日本人でもないでしょ」
「ウム。……だが伊織。それならお前はなぜ、白骨を持ったその手を、さも汚いように、先刻から|忌《いと》っているのか」
「だって白骨は、先生だっていい気持じゃないでしょ」
「この古戦場の白骨は皆、|宗《むね》|良《なが》親王のお歌に泣いて、親王のお歌どおりに奮戦して死んだ人々だった。――そうした武士たちの――土中の白骨が、眼には見えぬが、今もなお、|礎《いしずえ》となっていればこそ、この国はこんなにも平和に、何千年の|豊《とよ》|秋《あき》が護られているのではないか」
「ア、そうですね」
「たまたまの戦乱があっても、それはおとといの|暴風雨《あ ら し》のようなもので、国土そのものにはびくとも変化がない。それには、今生きている人々の力も大いにあるが、土中の白骨たちの恩も忘れては済むまいぞ」
四
武蔵の一語一語に、伊織は、何度もこっくりした。
「わかりました。じゃあ、今|埋《い》けた白骨に、お花を|供《あ》げて、お辞儀して来ましょうか」
武蔵は、笑って、
「何も、お辞儀はせんでもよい。心のうちに、今申したことさえ|刻《きざ》んでおれば」
「……だけど」
伊織はやはり気が済まなくなったらしい。秋草の花を折り集めて石の前に|捧《あ》げた。そして|掌《て》を合せかけたが、ふと振り顧って、
「先生」
と呼び、何か、ためらい顔にいい出した。
「――この土の中の白骨が、ほんとに、先生が今いったような、忠臣ならいいけれど、もし足利|尊《たか》|氏《うじ》の方の兵だったら、つまらないなあ。|掌《て》なんか合せてやるのは|癪《しゃく》にさわる――」
この返辞には、武蔵も窮した。伊織は、武蔵の明答がない限りは、滅多に掌をあわせない様子を示して、彼の顔をながめながら、その答えを待っていた。
――ふと、きりぎりすの声が耳につく。仰ぐと昼間の薄い月が目にとまった。しかし、伊織に与える返辞はなかなか見つからない。
やがて、武蔵はいった。
「十悪五逆の徒にも、仏の道では救いがある。即心即|菩《ぼ》|提《だい》――菩提に眼をひらけば、悪逆の徒も仏もこれを許し給うとある。――まして白骨となってしまえばもう」
「じゃあ、忠臣も逆賊も、死ねば同じものになるんですか」
「ちがう」
と、厳しく、そこに句点を打って、
「そう早合点してはならぬ。|武《ぶ》|士《し》は名を尊ぶ。名を|汚《けが》した|武士《さむらい》には、末世末代、救いはない」
「そんならなぜ仏様は、悪人も忠臣も、同じみたいなことをいうんですか」
「人間の本性そのものは皆、もともと、同じ物なのだ。けれど、名利や慾望に眼がくらんで、逆徒となり、乱賊となるもある。――それも憎まず、仏が即心即仏をすすめ、|菩《ぼ》|提《だい》の眼をひらけよかしと、千万の|経《きょう》をもって説かれているが、それもこれも、生きているうちのこと。――死んでは救いの手にすがれぬ。死してはすべて|空《くう》しかない」
「ああそうか」
分ったような顔して、伊織は、急に声に|弾《はず》みを出していった。
「――だけど、|武士《さむらい》は、そうじゃないでしょ。死んでも、|空《くう》ではないでしょう」
「どうして」
「名が残るもの」
「うむ!」
「悪い名を残せば悪い名が、――いい名を残せばいい名が」
「むむ」
「白骨になってもね」
「……けれど」
と武蔵は、彼の純真な知識慾が、一途に呑みこんでしまうことを|惧《おそ》れて、それにまたいい足した。
「だが、その|武士《さむらい》にはまた、もののあわれというものがある。もののあわれを知らぬ武士は、月も花もない荒野に似ている。ただ強いのみでは、おとといの晩の|暴風雨《あ ら し》も同じだ。――剣、剣、剣、と明け暮れそれを道とする身はなおさらのこと、もののあわれ――慈悲の心がなくてはならぬ」
伊織はもう黙っている。
黙って――土中の白骨に花を供え、素直に|掌《て》をあわせていた。
|撥《ばち》
一
|秩《ちち》|父《ぶ》の|麓《ふもと》から、|蟻《あり》のように絶えまなく、山道を登って行く小さい人影は、いちど、山を|繞《めぐ》る密雲の中へ皆、隠れてしまう。
その人々はやがて、山頂の|三《みつ》|峰《みね》|権《ごん》|現《げん》へ出て来た。そしてそこから空を仰ぐと、空には一|朶《だ》の雲もなかった。
ここは坂東四箇国に|跨《また》がって、|雲《くも》|取《とり》、白石、妙法ケ岳の三山に通う天上の町だった。神社仏閣の堂塔|門《もん》|屋《おく》の一郭につづいて、その別当だの社家だの、土産物屋だの、参詣茶屋だの、門前町があるし――まばらに散ってはいるが、神領百姓の|家《いえ》|数《かず》も七十戸からあるという。
「ア。|大《おお》|太《だい》|鼓《こ》が鳴った」
ゆうべから、武蔵と共に、別当の|観《かん》|音《のん》|院《いん》に泊っていた伊織は――食べかけていた|赤飯《こわめし》をあわてて掻っ込んで、
「先生、もう始まりましたよ」
と、捨てるように箸を置く。
「|神楽《か ぐ ら》か」
「見に行きましょう」
「ゆうべ見たから、わしはもういい。一人で行って来い」
「だって、ゆうべは、二座しかやらなかったでしょ」
「まあ、急がんでもいい。今夜は|夜《よ》|徹《どお》しあるというから」
なるほど、武蔵の木皿には、まだ|赤飯《こわめし》が食べ残っていた。それがなくなったら行くというに違いない。伊織は、そう思い直して神妙に、
「今夜も、星が出てますよ」
「そうか」
「このお山の上に、何千人という人がきのうから登ってるから、雨が降っちゃあ可哀そうだ」
武蔵は、|可憐《い じ ら》しくなって、
「じゃ、行って見るかな」
「ええ、行きましょう」
飛び上がって、伊織は先に玄関へ駈け出し、そこの|藁《わら》|草《ぞう》|履《り》を借りて、揃えておく。
別当所の前も、山門の両わきにも、|大《おお》|篝火《か が り》をどかどかと|焚《た》いていた。門前町の家ごとには、|門《かど》|々《かど》に|松明《たいまつ》をつけて、何千尺の山の上も、昼をあざむくばかりだった。
湖水のように深い色をした夜空には、銀河がキラキラ煙っていた。その|麗《うるわ》しい星明りと火光に煙ってうごく群衆は、|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》を|繞《めぐ》って、この山上の寒さを知らぬ人いきれにしていた。
「……あら?」
伊織は、その人混みに|揉《も》まれながら、きょろきょろして、
「先生はどこへ行っちまったんだろう。たった今、いたのに」
笛や太鼓が、山風に|谺《こだま》を呼んで|人《ひと》|足《あし》もいよいよここへ流れ集まっては来るが、神楽殿にはまだ、静かに、灯影と|帳《とばり》が揺れているのみで|舞《ぶ》|人《じん》はあらわれていなかった。
「先生――」
伊織は、人のあいだを|潜《くぐ》り歩いた。そしてやっと、武蔵の姿を見出した。
武蔵は、そこから少し先の|御《み》|堂《どう》の棟に打ち並べてある、沢山な寄進|札《ふだ》を仰いでいたのである。伊織が駈け寄って、
「先生」
と、袖を引いても、黙ったまま、仰向いて、見つめていた。
無数の寄進者からかけ離れて、|金《かね》|額《だか》も大きく、札も一倍と大きな板にこう書いてあったのが、彼の眼をはた[#「はた」に傍点]と引きつけたものだった。
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武州芝浦村
[#ここから4字下げ]
奈良井屋大蔵
[#ここで字下げ終わり]
「……?」
奈良井の大蔵といえば、かつて数年前、木曾から|諏《す》|訪《わ》のあたりへかけて、どれほど|尋《たず》ねたか知れない名である。
その大蔵が、|迷《はぐ》れた城太郎を|伴《つ》れて、他国へ旅立ったというのを聞いて――。
「武州の芝浦といえば?」
所もつい先頃まで、自分もいた江戸ではないか。ゆくりなくも今、大蔵の名を見出して、武蔵は茫然――別れた者たちを、思い出しているのだった。
二
常でも、忘れているわけではないが。
伊織が、日に日に、成長してゆくにつけても、何かにつけ、思い出されていたのだが――
「もう、夢のように、三年余りになる」
武蔵は、城太郎の年を、心のなかで数えてみた。
神楽殿の|大鼓《おおかわ》が、その時、急に高く鳴り出した。武蔵が、われにかえると、
「ア。もう|舞《や》ってる」
と、伊織は、心をもうそこへ飛ばして、
「先生、何を見てるんです」
「べつに、さしたることではないが――伊織、おまえは一人で神楽を見ておれ、ちと、用事を思い出したゆえ、わしは後から行く」
そういって、彼を追い|遣《や》り、武蔵はひとり、社家の方へ歩いて行った。
「寄進者のことについて、ちとお伺いいたしたいが」
と、いうと、
「ここでは、扱いませぬが、別当総役所へ、ご案内いたしましょう」
と、少し耳の遠い|老《ろう》|禰《ね》|宜《ぎ》が、先に立って、導いてゆく。
総別当|高雲寺平等坊《こううんじびょうどうぼう》という大きな文字が入口に|厳《いかめ》しい。宝蔵らしい白壁も奥に見える。神仏|混《こん》|淆《こう》で、一切ここを総務所としているらしかった。
老禰宜が、玄関で長々と何か告げている。
程なく非常に鄭重に、
「どうぞ」
と、役僧が、奥へ案内した。
茶が出る。見事な菓子が運ばれてくる。やがて、二の膳であった。また、美しい|稚《ち》|児《ご》が|銚子《ちょうし》を持って来て、給仕についた。
しばらくすると、|権僧正《ごんそうじょう》の|某《なにがし》というのが現れて、
「ようこそご登山下されました。山菜のみで、なにもお構いできませぬが、どうぞお|寛《くつろ》ぎあって――」
と、いんぎんにいう。
はてな?
武蔵は少し、勝手のちがう気持だった。
で、杯も手に取らず、
「実は、寄進者のことについて、ちとお調べ願わしく、参った者でござるが」
と、いい直すと、五十|恰《かっ》|好《こう》|肥《ふと》り|肉《じし》なその権僧正は、
「え?」
と、眼を|革《あらた》めて、
「調べとは」
と、さも|怪《け》|訝《げん》らしく、急に眼いろまで無遠慮にして、じろじろ武蔵のすがたを見廻した。
武蔵が、寄進札の中にある武州芝浦村の奈良井の大蔵というのは|何日《いつ》ここへ登山したのか、また、たびたび来る者か、その折は一名か、供を連れていればどんな者を連れているか? ――などと次々に訊ね出すと、僧正どのは怖ろしく不きげんになって、
「では、なんじゃな。|其《そこ》|許《もと》が寄進をなさろうというのではなく、寄進者の身元を洗い立てにござったのか」
|老《ろう》|禰《ね》|宜《ぎ》が聞き違えたのか、この僧正どのが早のみ込みしたのか――これはしたり、といわんばかりな顔をしてみせる。
「お聞き違えでござりましょう。拙者が寄進したいと申すのではなく、奈良井の大蔵という|仁《じん》のことについて」
いいかけると、
「それならそれと、玄関ではっきりいわっしゃればよいに。――見れば、御牢人らしいが、素姓もよう知れぬ者に、寄進者のお身元など、滅多にいうて、ご迷惑がかかっては困る」
「決して、左様なことは」
「まあ、役僧がどういうか、聞いてみなされ」
何か損でもしたように、僧正どのは、袖を払って、立ってしまった。
三
寄進者の台帳なるものを役僧が引っ張り出して、おざなりに調べてはくれたが、
「べつに、こちらにも、詳しいことは何も書いてない。お山には、度々|参《さん》|籠《ろう》してござるようじゃ。供の者が、|幾歳《い く つ》ぐらいか、そんなことまで分らんよ」
と、|膠《にべ》もない。
それでも武蔵は、
「お手数をかけました」
と礼をのべて外へ出た。そして|神楽《か ぐ ら》|殿《でん》の前へ来て、伊織の姿を探すと、伊織は群衆の後ろにいた。背が低いので、樹の上にのぼり、|梢《こずえ》に腰をかけて、神楽を見ているのだった。
彼は、武蔵がその樹の下へ来たことも知らない。全く放心して、神楽殿の|舞《まい》に|見《み》|恍《と》れている。
黒い|檜《ひのき》の舞台に、五色の|帳《とばり》が垂れていた。棟の四方に、|張《は》り|繞《めぐ》らしてある|注連《しめ》に、山風がそよとうごいて、|庭《にわ》|燎《び》の火の粉がチラチラ燃えつきそうに時折|掠《かす》める。
「…………」
武蔵もいつか、伊織と共に、舞台へ眼を向けていた。
彼にも、伊織とおなじ日があった。|故《ふる》|郷《さと》の|讃甘《さ ぬ も》神社の夜祭が、此処のような気がしてくる。群衆の人いきれの中には、お|通《つう》の白い顔があったり、又八が何か喰っていたり、|権《ごん》叔父が歩いていたり――そして自分の帰りの遅いのを案じて、子を探す母の姿が|彷徨《さ ま よ》っていたり――など、その頃の幼い幻影に、さながら、今、身をつつまれているのだった。
|舞台《まいゆか》に坐って、笛を構え、|撥《ばち》を|把《と》っている、古雅な|近衛《こ の え》|舎人《と ね り》たちの風俗を写した|山《やま》|神楽《か ぐ ら》|師《し》の、怪しげな衣裳も、|金《きん》|襴《らん》のつづれも、|庭《にわ》|燎《び》の光は、それを遠い神代の物に見せるのである。
ゆるい|大鼓《おおかわ》の|撥《ばち》|音《おと》が、あたりの杉木立にたかく|谺《こだま》する。それに|縺《もつ》れて、笛や太鼓の|前拍子《まえびょうし》がながれ、|舞台《まいゆか》には今、|神楽司《かぐらつかさ》の|人《ひと》|長《おさ》が、|神《かみ》|代《よ》|人《びと》の|仮面《めん》つけて――頬や|顎《あご》の塗りの|剥《は》げているその|貌《かお》を、おおらかに舞いうごかして――「神あそび」の|歌詞《うたことば》を|謡《うた》っていた。
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神がきの、みむろの山の
さか木葉は
神のみまえに、しげりあいにけり
しげりあいにけり
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|人《ひと》|長《おさ》が、一つの|詞《ことば》を|謡《うた》い終ると|舎人《と ね り》らは、|段拍子《だんびょうし》を入れ、|畳《たた》み拍子と、楽器をあわせて、|舞《まい》と楽と歌とが、ようやく一つの早い|旋《せん》|律《りつ》を描き出して、
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すめ神の、みやまの杖と、
やま人の、ちとせを祈り
きれるみ杖ぞ
きれるみつえぞ
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また――
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この|鉾《ほこ》は、いずこの鉾ぞ
|天《あめ》にます
|豊《とよ》おか姫の、宮の鉾なり
みやのほこなり
[#ここで字下げ終わり]
神楽歌の幾つかは、武蔵も幼い頃には覚えていたものである。自分が|仮面《めん》をつけて、故郷の|讃甘《さ ぬ も》神社の神楽堂で、舞ったりしたことなども、思い出された。
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よもやまの
人のまもりにする太刀を
神の|御《み》|前《まえ》に祝いつるかな
いわいつるかな
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その|歌詞《うたことば》を耳に聞いていた時である、武蔵の眼は、太鼓の座に、太鼓をたたいている|舎人《と ね り》の手をじっと見ていたが、
「あっ、あれだ! ……二刀は」
と、突然、辺りをわすれて大きく|呻《うめ》いた。
四
樹の|股《また》の上から、
「おや、先生、いたんですか」
伊織は、武蔵の呻いた声に、びっくりして|覗《のぞ》き下ろした。
「…………」
武蔵は、彼を、見上げもしなかった。神楽殿の|床《ゆか》を見ているのであるが、|周《まわ》りの人々のように舞楽に陶酔している眼ではない。むしろ怖いといえばいえもする眼ざしなのだ。
「……ウウム、二刀、二刀、あれも二刀も同じ理だ、|撥《ばち》は二つ、|音《ね》はひとつ」
|凝然《ぎょうぜん》として|腕《うで》|拱《ぐ》みを解かないのである。しかし彼の眉には、年来、胸にわだかまっていたものが解けていた。
それは、二刀の工夫であった。
生れながら、人間には、二つの手がある。けれど剣をとる場合には、人間はそれを一つにしか使っていない。
敵がそうだし、衆が皆、それを習性としているからいいが、もし、二つの手を、完全に二つの剣として働かして来た場合は一つの者はどうなるか。
実例はすでに武蔵の体験の中にある。それは一乗寺下り松の闘いに、吉岡方の大勢に対して、身一つで当って行った時である。あの時、戦いが終ってから気づいてみると、自分は両手に剣を持っていた。――右に大剣と、左の手に小刀を。
それは、本能がしたのである。無自覚のうちに二本の手が、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]あるだけの力を出して身を|護《まも》ったのである。生死の|境《さかい》が、必然に教えたのだ。
大軍と大軍との合戦でも、両翼の兵を完全に駆使しないで、敵に当るという兵法はあり得ない。まして一箇の体にはなおのことである。
日常生活の習性は、しらずしらず不自然を自然に思わせて、不思議ともしなくなるものである。
(二刀がほんとだ。むしろ、二刀が自然なのだ)
武蔵は、あの時以来、そう信じていた。
けれど、日常生活は日常の所作であり、生死の境は、生涯にそう何度もあるものではない。――しかも剣の極意は、その生死の要意を日常化するにある。
無意識でなく、意識あっての働き――
しかも、その意識が、無意識のように自由な働き――
二刀は、そうしたものでなければならぬ。武蔵は常にその工夫を胸に|抱《いだ》いていた。彼は自己の信念に、理念を加えて、動かない二刀の原理をつかもうとしていた。
それを、彼は今、はっと受け取ったのである。神楽殿の上で、太鼓をたたいている|舎人《と ね り》の二本の|撥《ばち》の手――二刀の真理をその音に聞いたのだった。
太鼓を打つ二つの撥は、二つであるが発する音は一つである。そして左と右――右と左――意識があって、意識がない。いわゆる|無《む》|礙《げ》自由の境である。武蔵は、胸の開けた心地がした。
五座の|神楽《か ぐ ら》は、|人《ひと》|長《おさ》の|歌詞《うたことば》から始まって、いつのまにか|舞人《ま い て》も入れ代っている。大まかな岩戸神楽もすすみ、|荒尊《あらみこと》の|鉾《ほこ》の舞につれて、早拍子の笛がさけび、鈴がりんりんと振り鳴らされた。
「伊織、まだ見ておるか」
武蔵が、梢を仰いでいうと、
「ええ、まだ」
と、伊織は、返辞もうわの空だった。神楽舞に魂を飛ばして、自分も舞い|人《びと》になったような心地でいた。
「|明日《あ し た》はまた、奥の院まで、|大《おお》|岳《だけ》を登らねばなるまいが、余り|晩《おそ》くならぬうちに戻って眠れよ」
いい置いて、武蔵は、別当の|観《かん》|音《のん》|院《いん》の方へ、ひとりで歩き出した。
――すると彼の後ろから、大きな黒犬に手綱をつけて、のそのそ|尾《つ》いて行く男があった。武蔵が、観音院の内へ入ると黒犬を連れたその男は後ろを見て、
「おい。おい」
と小声に、闇へ手招きした。
魔の|眷《けん》|属《ぞく》
一
犬は、|三《みつ》|峰《みね》のお使いであるというので、山では、権現様の|御《ご》|眷《けん》|属《ぞく》とよんでいる。
山犬のお|札《ふだ》だの、山犬の木彫だの、山犬の|陶器《すえもの》だの――を参籠者が下山の折、買ってゆくのもそのためである。
また、ほんもののお犬もこの山には沢山いた。
人に飼われ、|崇《あが》められてもいるが、この山中にいるので、自然生物を喰い、まだ山犬の本質が脱けきれていないような、鋭い|牙《きば》を持った犬ばかりである。
それらの|眷《けん》|族《ぞく》の祖先は、千余年前、大集団で、海の|彼方《か な た》から武蔵野へ移住して来た|高《こ》|麗《ま》民族の家族と共に、移って来たものと、それより以前から、|秩《ちち》|父《ぶ》の山にいた|純坂東種《じゅんばんどうしゅ》の山犬と、そう二種類の結合された血をもっている猛犬だということであった。
それはとにかく。
――武蔵の姿を別当の観音院の前まで|尾行《つけ》てきた男の手にも、一匹の犬が|麻《あさ》|縄《なわ》で曳かれている。今、男が闇へ手招きすると、|犢《こうし》のような黒犬も共に、闇の方を見てくんくんと鼻を鳴らし始めた。
彼が常に|嗅《か》ぎ馴れている人間のにおいが、近づいて来たせいであろう。
「しッ」
と、飼主は、手綱をちぢめて、尾を振る尻を一つ打った。
その飼主の顔も、|狛《こま》|犬《いぬ》に劣らない|獰《どう》|猛《もう》な容貌をそなえていた。顔に、|皺《しわ》の彫りが深く、五十歳がらみに見えるが、骨太な体は、もっと若い、いや若い者にもめずらしいほど|精《せい》|悍《かん》である。背は五尺そこそこだが、四肢の節々には、何処となく、当り難い弾力と闘志がこもっていて――いわば、この飼主も、連れている犬と同じように、まだ山犬の性が多分に脱化しきれない――野獣から家畜への過渡期にあるのと同様な――山侍の一人だった。
だが、寺に勤めている身なので、服装はきちんとしていた。胴服ともみえ、|裃《かみしも》ともみえ、羽織ともみえる物の上に、|腰《こし》|締《じめ》をむすび、|麻袴《あさばかま》をはき、足には、|祭礼《ま つ り》|穿《ば》きの、新しい|紙《かみ》|緒《お》のわら[#「わら」に傍点]草履をはいている。
「梅軒さま」
そっと、闇の中から寄って来た女はいった。
犬は、その|裾《すそ》へ、じゃれかかろうとするし――女は、そのために、或る距離しか近づきかねていた。
「こいつ」
梅軒は、|縄《なわ》の端で、こんどはやや強く、犬の頭を打って、
「お甲。……よく見つけたな」
「やはり、あいつでしょう」
「うむ。武蔵だ」
「…………」
「…………」
二人は、それきり口を|噤《つぐ》む。雲の|断《き》れ目の星を見ている。神楽殿の|早拍子《はやびょうし》が、黒い杉木立の奥に今、|旺《さか》んだった。
「どうします」
「どうかせねば」
「折角、山へ上って来たのに」
「そうだ、無事に帰しては、勿体ない」
お甲はしきりに眼をもって梅軒の決心をけしかける。梅軒はだが容易に肚がきまらないらしい。|眸《ひとみ》の奥でぎらぎらと何か思慮を|焦《や》いている。
|恐《こわ》い眼である。
しばらくして、
「藤次はいるか」
「え。祭の酒に酔って、宵から店で寝ておりますが」
「じゃあ、起しておけ」
「あなたは」
「何せい、おれは|勤務《つ と め》のある体だ。――御宝蔵の見廻りや用事を済まして、後から行くとしよう」
「じゃあ、宅の方へ」
「む。おぬしの店へ」
赤い|庭《にわ》|燎《び》のゆらぐ闇へ、二人の影はまた、別れ別れに消えて行った。
二
山門を出ると、お甲の足は、小走りになった。
門前町は二、三十戸ある。
多くは、土産物屋と、休み茶屋であった。
たまたま、煮物や酒のにおいの中に人声の賑やかな小屋もある。
彼女のはいった家も、そうしたふうの一軒で、土間には腰掛が並べてあり、軒先には「|御休処《おんやすみどころ》」としてある。
「うちの人は」
帰るとすぐ、彼女は、|床几《しょうぎ》に居眠っていた|雇人《やといにん》の小女へ訊いた。
「寝てるのかい」
叱られたと思って、小女はあわてて、何度もかぶりを振った。
「おまえじゃないよ。うちの人のことを訊くのだよ」
「あ。お旦那なら、眠ってござらっしゃります」
「それ、ごらんな」
舌打ちして、
「祭だっていうのに、こんな薄ぼんやりしているのは、うちだけだよ、ほんとに」
お甲は、そういいながら、暗い土間を見まわした。
表口で、雇い男と|老婆《としより》が、|明日《あ し た》の|赤飯《こわめし》を|泥竈《へつつい》にかけて|蒸《む》していた。そこから赤い|薪《まき》の火がゆらいで来る。
「もし、おまえさん」
お甲は、一つの床几の上に、長々と寝こんでいる姿を見かけて、側へ寄った。
「ちょっと、眼を醒ましておくれよ。――もしおまえさんたら」
軽く肩を持って、揺すぶると、
「なに」
むくりと、寝ていた男は、起き上がった。
お甲は、
「おや……?」
と、退いて、男の顔を見まもった。
それは、彼女の亭主の藤次ではなかった。丸っこい顔に、大きな眼をもった|在《ざい》|郷《ごう》の若者である。ふいに、見知らぬ女にゆり起されたので、きょろッと、その丸い眼でお甲を見つめた。
「ホ、ホ、ホ」
彼女は、自分のそそッかしさを笑いに|紛《まぎ》らして、
「お客様でしたか。どうも、相すみませんでした」
在郷の若者は、床几の下にすべり落ちている|菰《こも》を拾って、それを顔にかぶると、だまってまた、眠ってしまった。
木枕の前に、何か食べかけた盆と、茶碗がおいてある。菰の裾からにゅッと出ている二本の足には、土だらけな|草鞋《わ ら じ》が結いつけてあり、壁へ寄せて、この若者の持物らしい旅包みと、笠と、一本の丸杖とが、置いてあった。
「お客かえ、あの若い衆は」
小女に訊くと、
「はい。一眠りしたら、奥の院へ登りに行くだから、眠らせてくれといいなさるで、木枕を貸してあげましただ」
と、いう。
「そうならそうとなぜいわないのさ。うちの人と間違えてしまったじゃないか。一体、うちの人はどこに――」
といいかけると、かたわらの破れ障子の内から、片脚を土間におろして、体は|莚床《むしろゆか》へ横たえていた藤次が、
「べら棒な。ここにいる俺がわからねえのか。――てめえこそ、店を|空《あ》けて、どこをうろついているのだ」
と、寝起きの悪い声をして、起き上がった。
勿論この男は、かつての|祇《ぎ》|園《おん》藤次。彼も変り果てたものだが、まだ悪縁も切れずに連れ添っているお甲のほうも、さすがに、元の色香はなかった。男のような女になっていた。
藤次が怠け者なので、自然、女がそうならなければ、生活してゆかれないせいでもあろう。和田峠に|薬草《く す り》|採《と》りの小屋を懸けて、|中《なか》|山《せん》|道《どう》を往来する旅の者を|殺《あや》めては、慾を満たしていた頃はまだよかったが――
その山小屋の巣も焼き払われてしまったので、手足にしていた手下も散ってしまい、今では、藤次は冬場だけ|猟《りょう》を稼ぎ、彼女は、お犬茶屋の|内儀《かみ》さんだった。
三
寝起きのせいもあろうが、藤次の眼は、まだ赤く濁っていた。
その眼が土間の|水《みず》|瓶《がめ》を見ると、立って行って、|柄杓《ひしゃく》からがぶがぶと、|酔《よい》|醒《ざ》めを飲んでいる。
お甲は、|床几《しょうぎ》へ、片手をついて、体を|斜《しゃ》にして振向きながら、
「いくら祭だって、お酒も程々にしたがいい。――|生命《い の ち》が危ないのも知らず、よく外で、刃物につまずかなかったね」
「何」
「油断をおしでないということさ」
「何かあったのか」
「武蔵が、この祭に来ているのを、おまえ、知っておいでかえ」
「え。武蔵が」
「ああ」
「武蔵とは、あの宮本武蔵か」
「そうさ。きのうから、別当の観音院へ来て泊っているんだよ」
「ほ、ほんとか?」
水瓶いっぱいの水を酔醒めに浴びたよりも、武蔵の二字は、藤次の顔をいちどに|醒《さ》ましていた。
「そいつあ大変だ。お甲、てめえも店へ出ていないがいいぞ。野郎が、山を下りるまでは」
「じゃあおまえは、武蔵と聞いて、隠れている気かえ」
「また、和田峠の二の舞を、やるまでもねえだろう」
「卑怯だね」
お甲は、せせら笑って、
「和田峠でもそうだが、武蔵とおまえは、京都で、吉岡とのいきさつ以来、恨みのかさなっている相手じゃないか。女のわたしでさえ、あいつのために、後ろ手に|縛《くく》られて、住み馴れた小屋を焼き払われた時の口惜しさは、忘れてはいないよ」
「だが……あの時は、手下も大勢いたが」
藤次は、自分を知っていた。彼は、一乗寺下り松の人数のうちには加わらなかったが、その後、武蔵の手なみは、吉岡の残党の者からも聞いてもいたし――和田峠では、直接、体験もしていたし――到底、彼に対して、勝目は考えられなかった。
「だからさ」
お甲は、|摺《す》り寄った。
「――おまえ一人では無理だろうが、この山には、武蔵にふかい遺恨のある人が、もう一人いるだろうじゃないか」
「……?」
そういわれて、藤次も思い出したのである。彼女のいうその人というのは、山の総務所、高雲寺|平等坊《びょうどうぼう》の寺侍――総務所の宝蔵番を勤めている|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》のことをいったものに違いない。
ここに、茶店を持たせてもらったのも、その梅軒の世話からであった。
和田峠を追われて、旅へ出た末、ここの|秩《ちち》|父《ぶ》で、梅軒と知り合ったのが縁であった。
後になってだんだん話しあってみると、その梅軒は、以前、伊勢鈴鹿山の|安《あ》|濃《の》|郷《ごう》に住んでいて、ひところは多くの野武士を配下にもち、戦国のみだれに乗じて野稼ぎを働いていたが、その|戦《いくさ》もなくなったので、伊賀の山奥で、|鎌《かま》|鍛冶《かじ》となったり、百姓に化けたりしていたが、領主の藤堂家の藩政が統一されてくるにつれ、そういう存在もゆるされなくなったので、遂に時代の遺物たる野武士の集団を解散して、ひとり江戸へと志して来たが――その江戸にもない真向きな口があるが――と三峰に縁故のある者の紹介で、数年前から、総務所の宝蔵番に雇われたものだった。
ここよりもっと奥の武甲の深山には、まだまだ、野武士以上、|殺《さつ》|伐《ばつ》で未開な人間が、武器をもって棲息しているというので――要するに彼は、毒をもって毒を制するため――宝蔵番には真向きな人物として、抱えられたのである。
四
宝蔵には、社寺の宝物ばかりでなく、寄附者の浄財が、現金である。
この山中、それは常に、山の者の襲撃に、|脅《おびや》かされていた。
その宝蔵の番犬として、宍戸梅軒は、実に打ってつけな人物に違いなかった。
野武士、山の者などの、習性とか、襲撃法とか、そういうことにも通じているし、もっと重大な資格としては、彼は、|宍戸八重垣流《ししどやえがきりゅう》の|鎖鎌《くさりがま》の工夫者であり、鎖鎌を使わせては、天下無敵の達人といわれている。
前身が前身でなかったら、しかるべき主君もとれる人間だった。けれど、彼の血統は余りにどす[#「どす」に傍点]黒い。彼の血をわけた兄も、辻風典馬といって、伊吹山から野洲川地方へわたって、生涯、血なまぐさい中に|跳梁《ちょうりょう》した野盗の頭目であった。
その辻風典馬の死は、もう十年も以前になるが、武蔵がまだ「たけぞう」といっていた頃――ちょうど関ケ原の乱後――伊吹山の裾野で、武蔵の木剣のために血へど[#「へど」に傍点]を吐いて終ったものであった。
宍戸梅軒は、自分たちの没落の原因が、時代の推移と考えるよりも、その兄の死が、ケチのつき初めと考えていた。
で、|武《たけ》|蔵《ぞう》の名を、彼は、恨みの胸へ、彫りつけていた。
その後。
梅軒と武蔵とは、伊勢路の旅の途中、|安《あ》|濃《の》の山家で計らずも出会った。彼は、武蔵を必殺の|罠《わな》にかけたつもりで、寝首を狙った。
だが、武蔵は、死地をのがれて、姿を|晦《くら》ましてしまった。――それ以来、梅軒は、武蔵の姿を、見る時がなかったのである。
――お甲は、彼から幾度となくその話を聞いていた。同時に、自分たちの身の上も彼に洩らした。そうして梅軒との親密を濃くするために、武蔵への怨みを、よけいに強く語った。そんな時、
(今に。――永い生涯のうちには、きっと)
と梅軒は、あの眼を、|皺《しわ》のなかに凄く|潜《ひそ》めて、|呟《つぶや》くのが常だった。
そうした人間のいるこの山。――武蔵にとっては、恐らく、これ以上、危ない地上はない|呪《じゅ》|咀《そ》の山へ、きのう伊織を連れて、上って来たのであった。
お甲は、店の中から、その姿をチラと見て、おやと見送ったが、祭の雑沓に見失ってしまった。
で、藤次に計ろうとしたが、藤次は飲んで歩いてばかりいる。けれど、気懸りでならないので、宵の手すきに、別当の玄関を|窺《うかが》っていると、ちょうど、武蔵と伊織が、神楽殿の方へ出て行った。
いよいよ、武蔵にちがいない。
彼女は、総務所へ行って、梅軒を呼び出した。――梅軒は、犬を引っ張って出て来た。そして、武蔵が、観音院へ帰って行くまで、|背後《う し ろ》に|尾《つ》いて見届けていたわけであった。
「……ムム。そうか」
藤次は、それを聞いて、ようやく力を得た心地がした。梅軒がぶつかる気なら――と、やや勝目が考えられて来た。三峰の奉納試合に、梅軒が八重垣流の|鎖鎌《くさりがま》の秘を尽して坂東の剣術者をほとんど|総《そう》|薙《な》ぎに|葬《ほうむ》ったおととしの記憶などを思いうかべていた。
「……そうか。じゃあ、梅軒さまの耳へもそのことは入れてあるのだな」
「後で、御用がすんだら、ここへ来るといっていましたが」
「|諜《しめ》し合せにか」
「元よりでしょうね」
「だが、相手が武蔵だ。こんどこそ、よほど巧くやらねえと……」
胴ぶるいと共に、思わず大きな声が出たのである。お甲は、気がついて、薄ぐらい土間の片隅を振り|顧《かえ》った。そこの|床几《しょうぎ》には|菰《こも》をかぶった在郷の若者が、さっきから|鼾《いびき》をかいてよく眠っていた。
「|叱《し》っ……」
お甲に、いわれて、
「ア。誰かいたのか……?」
藤次は、自分の口を抑えた。
五
「……誰だ?」
「お客だとさ」
お甲は、気にかけなかった。
だが、藤次は、顔をしかめて、
「起して、出しちまえ。――それにもう、宍戸様が来る頃だろう」
と、いった。
それに越したことはない。お甲は小女にいいふくめた。
小女は、隅の床几へ行って、若者の|鼾《いびき》をゆり起した。そして、もう店を閉めるのだから出て行ってくれと、無愛想にいった。
「わあ、よく眠った!」
伸びをして、若者は土間に立った。旅ごしらえや、|訛《なま》りから見て、近郷の百姓とは思われない。何しろ、起きるなり、独りでにこにこして、丸っこい眼をしばたたき、はち切れそうな若い肉体をくるくる動かし、またたくまに、|菰《こも》を着、笠を持ち、杖をかかえ、旅ぶろしきを首に巻いて、
「どうも、お邪魔さん」
と、お辞儀して、外へ飛び出して行った。
「お茶代は置いて行ったのかい。変なやつだね」
お甲は、小女を振向いて、
「床几を、畳んでおしまい」
と、いいつけた。
そして彼女も、藤次も、|葭《よし》|簀《ず》を巻いたり、店の物を片づけ始めた。
そこへ、のっそりと、|犢《こうし》のような黒犬がはいって来た。梅軒の姿は、その後からであった。
「お、お越しで」
「どうぞ、奥へ」
梅軒は黙って、草履を脱ぐ。
黒犬は、そこらに落ちている喰い物を、|漁《あさ》り歩くのに|忙《せわ》しない。
荒壁の破れ|廂《びさし》だが、板縁を|架《か》けて、離れている。そこの一|間《ま》に|燈火《あ か り》がつく。梅軒は坐るとすぐ、
「……先ほど、神楽堂の前で、武蔵が連れの子供に洩らした言葉に依れば、明日は、奥の院へ登るつもりらしい。それから先に、|慥《たし》かめておこうと、そっと観音院へ寄って探って来たので遅くなった」
と、いった。
「じゃあ、武蔵はあしたの朝、奥の院へ……」
とお甲も藤次も息をのんで、|廂《ひさし》ごしに、|大《おお》|岳《だけ》の黒い影を、星空に見た。
尋常一様なことで、武蔵を打てないことは、藤次以上、梅軒は|弁《わきま》えていた。
宝蔵番のうちには、彼のほかに屈強な番僧が二人いる。同じく、吉岡の残党で、この神領に小さな道場を建て、部落の若い者に稽古などをつけている男もある。なお|糾合《きゅうごう》すれば、伊賀から随身して来た野武士で、今は転業している者など、十名以上はすぐ狩りあつめられよう。
藤次は、手馴れの鉄砲を持つがよいし、自分は、いつもの|鎖鎌《くさりがま》を用意して来ている。――ほか二人の番僧は槍を持ってもう先へ出たはずである。なお、出来るだけ味方を狩りあつめ、夜明け前に、大岳へゆく途中の|小《こ》|猿《ざる》|沢《さわ》の谷川橋で――われわれを待ち合す手筈になっているから、万々、これで|遺《い》|漏《ろう》はあるまいと、|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》はいうのだった。
藤次は、驚いて、
「へえ、もうそんな手廻しがついているので?」
と、疑わしい眼をした。
梅軒は、苦笑した。
梅軒をただの寺僧と見馴れているから意外とするのであろうが、前身の辻風典馬の弟黄平としてみれば、これくらいな早仕事は、眠りをさました|野《の》|猪《じし》が、山萩の|一《ひと》|叢《むら》に、風を起したほどにも足りないことだった。
|八《や》|重《え》|垣《がき》|紅葉《も み じ》
一
まだ、霧が深い――。
小さい残月も、谷から高く離れている。
大岳は眠っていた。
|淙《そう》|々《そう》、どうどう、ただ|躁《さわ》がしいのは、小猿沢の底を行く水である。
そこの谷川橋に、黒々と、霧につつまれた人影がかたまっていた。
「藤次」
と、|低声《こ ご え》に呼ぶ。
梅軒の声である。
同じ低声で、群れの中から、藤次が答える。
「|火《ひ》|縄《なわ》を濡らすな」
と、いう注意を梅軒がする。
|法衣《こ ろ も》をからげた山法師そのままな僧が、手槍を持って二人もこの殺伐な群れの中に交じっている。
あとは地侍や、ならず者の徒であろう。服装は雑多だが、|足拵《あしごしら》えは、どれを見ても、|軽捷《けいしょう》に馴れた装いである。
「これだけか」
「そうです」
「何名?」
お互いに、頭数を読み合う。誰が数えても、自分を加えて、十三名と読む。
「よしっ……」
梅軒はいって、行動する手筈をもういちどそこで|銘《めい》|々《めい》に、繰返した。銘々は、黙って|頷《うなず》いた。――そして、では行けとばかり、谷川橋から一筋道の辺りを指して、雲の中へ、掻き消えてしまった。
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是ヨリ三十一町
奥之院道
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谷川橋の|断崖《きりぎし》の|際《きわ》にある道しるべ石の文字が、白い残月に、微かに読まれて、その後はただ、|渓《たに》の水音と風だった。
人が去ると、その間、|潜《ひそ》んでいたものが、やがて樹々の|梢《こずえ》を渡って|躁《さわ》ぎだした。
これから奥の院まで、無数に見かける猿の群れだった。
猿は、崖の上から、小石を転がし、|蔓《つる》ぐさに|縋《すが》り、道まで出て来た。
橋を駈けまわる。橋の裏へかくれ込む。谷間へ飛ぶ。
霧は、その影を、追い廻すように、猿と戯れた。――もしここに一人の神仙が降りて、彼らに、仙語をもって、
(汝ら、生をうけて、何ぞこの|狭隘《きょうあい》の|山《さん》|谷《こく》に、雲と児戯するや。雲すでに起つ、雲に|駕《が》せよ。行くこと西方三千里、|廬《ろ》|山《ざん》に臥し|峨《が》|眉《び》|峰《ほう》を指さし、足を長江に|濯《すす》ぎ、気を大世界に吸う。生命真に伸ぶべし。われらと共に来らずや)
とでも呼びかけたら、雲はみな猿となり、猿はみな雲と|化《な》って、|漠《ばく》|々《ばく》、昇天し去って行くかもしれない。
――そんな幻想さえ催すほど、猿は、遊んでいた。残月の光に、その猿の形は霧へ映って、二つずつに見えた。
わんッ!
わん、わん、わんッ!
|突《とつ》――犬の声だった。
犬の声は、|谺《こだま》して、谷へ遠くひびいた。
とたんに、さながら秋の末の|黄櫨《はぜ》の葉が風に見舞われたように、猿は、一瞬に影をひそめてしまった。――そしてそこへ、かなり高い跫音をひびかせて、宝蔵番のために梅軒が飼っている黒犬が縄を切って|素《す》っ飛んで来た。
「くろっ、くろ|奴《め》!」
後から追って来たのは、お甲であった。
梅軒たちが、|大《おお》|岳《だけ》へ行ったのでそれを知って、縄を噛み切ったものとみえる。
二
彼女はやっと、|黒犬《くろ》の引きずって行く縄の端をつかまえた。|黒犬《くろ》はつかまると、彼女に|巨《おお》きな体を押しつけて|絡《から》みついた。
「畜生」
彼女は、犬が好きでない。振り|退《の》けながら、縄で打った。
そして、
「お帰り!」
と、元来た方へ曳き戻そうとすると、|黒犬《くろ》はまた、耳まで口を裂いて、
――うわんッ
と、吠え始めた。
縄はつかまえたが、彼女の力では動かなかった。無理に引っ張れば、|狼《おおかみ》のような|甲《かん》|高《だか》い声を|発《だ》して、吠えつづける。
「なぜこんな物を、連れて来たんだろう。宝蔵の犬小屋へ|繋《つな》いでおけばいいに」
と、彼女も|癇《かん》が起った。
こんなことをしている間に、もし別当の観音院を今朝立つ筈の――武蔵が早くも来かかったら、不審に思われるにちがいない。この犬が、この道に、うろうろしているだけでも、機敏な彼に|気《き》|遣《づか》われる|惧《おそ》れは十分にある。
「ちいッ、しようがないね」
お甲は、持て余した。
黒犬は吠えやまないのである。
「仕方がない――お|出《い》で。その代り、奥の院へ行ったら、吠えるんじゃないよ」
やむなく彼女は犬を曳いて、いや犬に曳かれて――先へ登った人々の道を後から|喘《あえ》いで行った。
それきり|黒犬《くろ》の吠える|谺《こだま》はして来なかった。|黒犬《くろ》は嬉々と、飼主の匂いを追って行ったのだろう。
一夜中、うごきやまずに動いていた霧が、谷間へ、厚ぼったい雪のように落着いて、武甲の山々や、妙法や、白石や、雲取の|相《すがた》が澄んで来ると、奥の院道も白み渡って、チチ、チチ、チチ……と小鳥の声が耳を洗う。
「先生、どうしてだろ?」
「何が」
「明るくなったのに、お日様が見えないもの」
「おまえの見ている方角は、西ではないか」
「あ、そうか」
伊織は、その代りに、月を見つけた。峰の|彼方《か な た》に落ちかけている|淡《うす》い月を。
「伊織」
「はい」
「この山には、おまえの親友がたくさんいるな」
「どこにですか」
「それ。あそこにも――」
武蔵が、指さした谷間の樹をのぞくと、親猿を真ん中にして、子猿が、かたまっていた。
「いたろう。はははは」
「何だあ……。だけど先生……猿は|羨《うらや》ましいなあ」
「なぜ」
「親がいるもの」
「…………」
道は|胸《むな》|突《つき》である。武蔵は黙って先へ|攀《よ》じ登って行く。――少し登るとまたやや平地になって来た。
「あの、いつか、先生に預けといた、|革《かわ》の|巾着《きんちゃく》――お父っさんのお|遺物《か た み》の――あれを先生はまだ持っていてくれますか」
「落しはせぬ」
「中を、見て下さいましたか」
「見ない」
「あの中に、お|神札《ま も り》の他に、書いた物もはいっているんですから、こん度、見てください」
「ウむ」
「あれを持っていた時分は、私にはまだ、難しい字は読めなかったけれど、今ならもう読めるかもしれません」
「何かの時、おまえ自身で、開けてみるとよい」
一歩一歩に夜は白んで来る。
武蔵は、道の草を見ながら踏んだ。自分の踏んで行く先に何者の|足《あし》|痕《あと》か、その草露はおびただしく汚れていた。
三
|蜿《うね》|々《うね》と、道は山を|旋《めぐ》り|巡《めぐ》って、やがて、東を望む平地へかかって来た。
とたんに、伊織は、
「あっ、日の出!」
指さして武蔵を|振《ふ》り|顧《かえ》った。
「オオ」
武蔵の顔も、|紅《くれない》に染まった。
見る限りが、雲の海である。坂東の平野も、甲州、上州の山々も雲の|怒《ど》|濤《とう》の中にうかぶ|蓬《ほう》|莱《らい》の島々であった。
「…………」
伊織は、口をむすんで、姿勢を正して|凝然《ぎょうぜん》と日輪を見ていた。
余りに大きな感動は、少年を|唖《おし》にさせてしまう。伊織は、何といっていいのか、分らなかった。
自分の体じゅうを|旋《めぐ》っている血液と、その太陽の赤いものとが、ひとつみたいな気がして来た。
だから伊織は、
(太陽の子だ)
と、自分を思ったが、それではまだ、彼の感動と、人間精神とが、ぴったりしなかった。
で、彼はなお黙って、|恍《こう》|惚《こつ》としていたが、突然、大きな声でどなった。
「|天照《あまてらす》|皇大神《おおみかみ》さまだ!」
振向いて、武蔵へ、
「ね、先生。そうでしょう」
「そうだ」
伊織は、両手を高く|翳《かざ》して、十本の指を透かしてみた。そして、またどなった。
「お日様の血も、おれの血も、同じ色だ」
その手で、伊織は、|拍手《かしわで》を打った。そして|俯《ふ》し拝みながら、心のなかで、じっと、
――猿には親がある。
――おれにはない
――猿には|大《おお》|神祖《み お や》がない
――おれにはある!
と、思って、歓びに|盈《み》ちあふれて来た。涙がながれかけて来た。
その涙の|疼《うず》きが、唐突に、伊織の手や足を動かし始めた。伊織の耳には、ゆうべの岩戸|神楽《か ぐ ら》が、雲の|彼方《む こ う》で聞えているのである。
「――タラン、タン、タン、タン。――どどん、どん……」
|笹《ささ》を拾って、舞い出した。
|神楽《か ぐ ら》|拍子《びょうし》に足を踏み、手を流し、そして、きのう覚えたばかりの神楽歌を|謡《うた》った。
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あずさ弓
はる来るごとに
すめ神の
|豊《とよ》のあそびに
あわんとぞおもう
あわんとぞ思う――
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気がつくと、武蔵はもう|彼方《あ な た》を歩いている。伊織は、あわてて駆け出した。
道はまた、樹林のあいだへはいって行く、――もう参道が近いのではあるまいか。樹々の姿におのずから統一がある。
|巨《おお》きな樹はみな、厚ぼったい|苔《こけ》をかぶっていた。苔には、白い花がたかっている。五百年も千年も生きて来たかと思うと、伊織は、樹にもお辞儀をしたくなった。
足|許《もと》はだんだん|熊《くま》|笹《ざさ》に狭められて来る。真っ赤な|蔦《つた》もみじが、眸を吸いつけた。樹の深い中はまだ暁闇であった。仰向いても、朝の光は、少ししか見られなかった。
――と、ふいに二人の踏んでいる大地が揺れたような気がした。そう思った瞬間、ずどんッ! 烈しい音響だった。
「あっ」
伊織は、耳を抑えて、熊笹の中へ|俯《う》ッ伏した。とたんに、うすい|弾煙《たまけむり》のながれた樹陰で、ぎゃッ――と、生き物が断末を告げる刹那の――あの不気味なさけび声が聞えた。
四
「伊織。立つな」
熊笹の中へ首を突っ込んでいる伊織へ、武蔵は、杉の樹陰から、そういった。
「――踏まれても、立つではないぞ」
「…………」
伊織は、返事もしなかった。
|煙硝《えんしょう》くさい煙は、うすい霧のように、伊織の背を越えて行った。――その彼方の樹、武蔵の横にある樹、また、道の行くて、道の|後方《う し ろ》――すべての物の陰には、槍の穂か、刃かが、|潜《ひそ》んでいた。
「……?」
物陰から|窺《うかが》っている者たちから見ると、瞬間に、武蔵のすがたが、何処へ行ったかと、戸惑いを覚えているらしかった。――そして、鉄砲の効果をも、確かめているのであろう。ガサともさせず、しばらく|窺《うかが》い合っていた。
今――ぎゃッといった凄いうめき声が、武蔵に与えた|手《て》|応《ごた》えかとも思ったが、その武蔵のいた辺りに、武蔵の姿は仆れていないし、それも彼らの出足をためらわせていたに違いない。
鉄砲の音と共に、熊笹の中に、熊の子みたいに、尻だけ出してじっとしている伊織の姿は、誰の眼にも見えた。――伊織はちょうど、八方の眼と、|刃《やいば》との、真ん中に置かれていた。
「…………」
起つでないぞ――と何処からかいわれたような気がしたが、毛の根に迫ってくるような恐さと、|鼓《こ》|膜《まく》がガンとした後の一瞬の、余りにもひそ[#「ひそ」に傍点]とした静かさに、つい、そうっと首を|擡《もた》げてみると、すぐ|側《そば》の|巨《おお》きな杉の樹陰に、|大蛇《お ろ ち》にも似た太刀が、ギラと見えた。
われを忘れて、
「せッ、先生っ。――たれかそこに、隠れてるぞ!」
と、伊織は絶叫してしまった。
そして、跳ね起きるなり、ぱっと無性に駈け出そうとすると、
「この餓鬼っ」
と、彼の見た刃が、そこの陰から躍って来て、悪鬼のように伊織の上へ、振りかぶった。
その横顔へ、ぐさっと、一本の|小《こ》|柄《づか》が突き立った。武蔵が、身を運んで救うに|遑《いとま》がなく、投げたものであることはいうまでもない。
「――うっ、く、くそっ」
槍を繰り出した法師である。武蔵はその槍を一方の手に引っつかんでいた。しかし、右の片手はなお、今小柄を放っただけで、完全に|空《あ》けて、次に備えていた。
およそどれ程の敵の数か、亭々たる木の幹に|遮《さえぎ》られて、それの明瞭でないのが、彼をして、軽々しく動かせない原因だった。
――するとまたも、どこかで、
「ぐわっ」
と、石でも頬張ったような|呻《うめ》きがした。
同時に思いがけない方で、武蔵とは関係なく、相手の中から裏切でも起ったのか、凄まじい格闘が始まった様子なのである。
「はて?」
武蔵が、それへ眸を|反《そ》らした|咄《とっ》|嗟《さ》、狙い澄ましていたもう一名の法師は、槍もろとも勢いよく彼へ向って、|驀《ばく》|進《しん》して来た。
「――おっ」
武蔵は、両脇へ槍をつかんだ。|互《たが》い|交《ちが》いに、槍と槍をもって、彼の体を挟んだ二人の法師は、|喚《わめ》き合って、味方へ、
「かかれッ」
「何してる!」
と、叱咤した。
その呶号より高く、
「何者だっ。何者がこの武蔵を討たんとはするのか。名乗れ。――名乗らずば、皆、敵と見るぞっ。この神域、血に|汚《けが》すは|畏《おそ》れあるが、|屍《かばね》を積むぞ」
と、いった。
つかんでいた二本の槍を振り廻すと、法師は二人とも跳ね飛ばされた。武蔵は飛びかかって、抜き打ちにその一人を斬り伏せ、身を|翻《ひるがえ》して、さらに、抜きつれてくる三名の白刃を迎えた。
五
道はせまい。
武蔵は、その道をいっぱいに、じりじり押した。
白刃をならべた三名に、横からまた二名ほど加わって、相手は、肩をすぼめ合いながら、|踵摺《かかとず》りに後へ後へと|退《さ》がって行った。
心もとないことには、伊織の姿が見えない。武蔵は、当面の敵へは単に、備えておくに|止《とど》めて、
「伊織っ……」
と、呼んでみた。
ふと見ると、杉林の中に、追い廻されている者がある。それが伊織だった。今討ち洩らした一名の法師が、槍を拾って、伊織を追い駈け廻しているのだった。
「ア、おのれ」
彼の救いに――その方へ武蔵が身を|外《そら》そうとすると、
「やるなッ」
どっと、前の五名は、|刃《やいば》をつらねて、間近へ斬り込んで来た。
疾風を起して、武蔵は、|対《むか》って来た刃へ、自身からも|対《むか》って行った。|怒《ど》|濤《とう》へ怒濤をぶつけたのである。|飛沫《し ぶ き》となって血は|刎《は》ね飛んだ。武蔵の体は、敵よりも低目に、そして彼の背はまるで渦に見えた。
血の音、肉の音、骨の音までがした。ふた声三声、つづけざまに絶鳴がその中に|交《ま》じった。右へ左へ、朽木仆れに|斃《たお》れた者のすべてが、胴から下を|薙《な》ぎられていた――そして武蔵の手には、右に大剣と、左に小剣が握られていた。
「――わっ」
二人ほどが、のめるように、逃げ出した。追いかけざま、
「何処へ」
ひとりの後頭部へ、左剣を浴びせた。
びゅっ――と黒い返り血が、武蔵自身の眼へ|刎《は》ねた。
武蔵は、左剣の手を顔へ――思わず眼へ当てた。とたんに、異様な金属の音が、後ろから、風を裂いて、その顔へ飛んできた。
――あっ、と無意識のまに彼の右剣が、それを払った。
いや、払ったと意識したのは、単なる意識でしかない。|鍔《つば》のあたりへぶんと噛みついた分銅に、彼が、
(しまった!)
と、心にさけんだ時はすでに、ガリガリガリッと、刀身と細い|鎖《くさり》とは、縄を|綯《な》うように、|縒《よ》られていたのである。
「武蔵っ」
鎌を、手元に持って、分銅|鎖《ぐさり》に相手の刀を巻きつけた|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》は、その鎖を張りながらいった。
「――忘れたか、おれを」
「おおっ?」
武蔵は、くわっと見て、
「――鈴鹿山の梅軒だな」
「辻風典馬の弟よ」
「あ。さては」
「知らずに登ったのがてめえの運のつきだ。針の山、地獄の谷、|亡兄《あに》の典馬が呼んでるから早く行け」
|絡《から》みついた分銅鎖は、武蔵の刀から離れなかった。
梅軒は、徐々に、その鎖を手元に|手《た》|繰《ぐ》り|溜《た》めた。――それは手元にある鋭い|利《と》|鎌《がま》を、次に|抛《ほう》ってくる用意であることはいうまでもない。
その鎌に対しては、武蔵は、左の小剣を持って備えていたが、今にして思えば、もし、右の大刀のみだったら、すでに身を防ぐ何物もなかったのである。
「ええいッ!」
梅軒の|喉《のど》は|膨《ふく》れて、顔と同じくらいな太さになった。こう満身から一声しぼり出したと思うと、鎖は、武蔵の右剣を――体ぐるみ、だッと前へ引き寄せた。
同時に、梅軒の体も、|一《ひと》|手《た》|繰《ぐ》り鎖を寄せて、踏みこんで来た。
六
はからずも、武蔵は今日という今日、一代の不覚を取ったものではあるまいか。
鎖鎌という特殊な武器。それに対する予備知識がないではないのに。
かつて。
この|宍《しし》|戸《ど》|梅《ばい》|軒《けん》の妻が、|安《あ》|濃《の》の鍛冶小屋で、その実物を持って、宍戸八重垣流の形をして、武蔵に見せたこともある。
その折、武蔵は、
(――ああ見事)
と、|見《み》|恍《と》れたものである。
妻ですらこのくらいにつかうとしたら良人の梅軒の|技《わざ》はどれ程か、と思ったものである。
同時に、この滅多に出合わない――天下に使い手も少ない、特殊な武器の性能の怖るべきものだということも、十分に、|弁《わきま》えたはずであった。
鎖鎌についての知識は、自分でも今日まで、知り得たものとしていた。
だが、知識というものが、いかに生死の大事などにぶつかった|咄《とっ》|嗟《さ》には、役立たないものか。――そう気づいた時すでに武蔵は、鎖鎌の持つ恐るべき性能に、完全に|囚《とら》われていた。
しかも、梅軒だけに、彼は全力を向けていられなかった。――|背後《う し ろ》からも、這い寄る敵を感じていた。
梅軒は、誇った。
鎖をしぼりながら、にゅっと歯で笑ったようだった。武蔵は、その鎖に|絡《から》まれている自分の大刀を離すことは知っていたが、機を計っていた。
二度目の、えおほッ、と|喚《わめ》いた声が梅軒の口から走った。彼の左の手にあった鎌は、それと共に武蔵の顔へ飛んで来た。
「オッ!」
武蔵は、|右手《めて》の剣を離した。
鎌は、彼の頭上をかすめ、鎌が消えると、分銅が飛んできた。――分銅が|外《そ》れると、鎌が飛んできた。
鎌か、分銅か。
そのどっちに対しても、身を|交《か》わすことは甚だしい危険だった。なぜならば、鎌を交わした位置へ、ちょうど、分銅の速度が間にあうようになるからだった。
体ぐるみ、武蔵は、絶えまなく位置を移した。それも、目にとまらないほどな|迅《はや》さをもってしなければならない。――また、後ろへ後ろへと、|狙《つ》け廻っている|他《ほか》の敵に対しても、身構えを必要とする。
(われ、遂に、敗れるか)
彼の五体は、|漸《ぜん》|次《じ》硬ばってくる。意識ではない、それは生理的にである。あぶら汗も流れないほど皮膚と筋肉とは、本能的に死闘するのだ。そして髪の毛も総身の毛穴も、そそけ立つのだった。
鎌と分銅に対して何よりの戦法は、樹を|楯《たて》とすることだったが、その樹へ近づく|遑《いとま》がなかった。――また、その樹の陰には、敵がいた。
――すると何処かで、きゃっ、と澄んだ悲鳴がながれた。
「あ。伊織?」
武蔵は、振り向けなかった。肚の底で、|葬《とむら》った。――その間にも、眸の前に、鎌が光り、分銅はおどって跳ぶ。
「くたばれ!」
梅軒の|喚《わめ》きではない。
武蔵がいったのでも勿論ない。――武蔵のうしろで何者かが、こう呶鳴ったのであった。
「武蔵どの、武蔵どの。何でそれしきの敵に、手間どりなさる。――|後《うし》ろ|巻《まき》は|某《それがし》が引受けました」
そしてまた、同じ声で、
「くたばれっ、|獣《けだもの》」
地ひびき――絶叫――熊笹を蹴荒す跫音――。何者か、|先刻《さ つ き》から|彼方《か な た》にかけ離れて、武蔵に助太刀していた者が、ようやく、隔てる相手を踏み破って、武蔵のうしろへその働きを移して来たらしいのであった。
七
(――誰か?)
と、疑った。思わざる後ろの味方であった。だが|慥《たし》かめている|遑《いとま》など元よりない。
武蔵は、|背《うしろ》を、安心した。
梅軒へ向って、一方に、心をあつめることができた。
だが、彼の手には、すでに小刀一本しかなかった。大剣は、梅軒の鎖に、噛み|奪《と》られていた。
迫ろうとすれば、梅軒は、すぐ感じて、後ろへ跳ぶ。
梅軒にとって、何よりも大切なのは、敵と自己との距離だった。鎌と分銅と、二分された鎖の長さが、彼の武器の長さである。
武蔵にすれば、その距離より一尺遠くてもよい。或は、一尺近くはいってもよいのである。――だが、梅軒はそうさせない。
武蔵は、彼の秘術に、まったく舌を巻いた。難攻不落の城に当って、攻めあぐねたような疲れを感じるのである。――だが、武蔵は彼の秘妙な|技《わざ》が、何に依って起るかを、戦いのあいだに|観《み》|破《やぶ》った。それは二刀流の原理と同じだからであった。
鎖は一本であるが、分銅は右剣であり、鎌は左剣である。そしてその二つの物を、彼は一如に使いこなしているのだった。
「|観《み》た! 八重垣流っ」
武蔵は、そう叫んだ。その声はもう、自分の勝利を信念していた。――飛んで来た分銅から五尺も後ろへ跳び|退《さ》がりながら、右手に持ちかえていた小剣を、敵へ|抛《ほう》りつけたのである。
梅軒の体は、彼を追って、前へ躍って来る姿勢にあった。――飛んで来た小剣に対して、梅軒はそれを払う何物もなかった。
思わず――あッと、身を捻じったのである。
小剣は、|反《そ》れて彼方の木の根に突き立った。――しかし、梅軒の分銅鎖は、彼が、急角度に身を捻じかわしたため、彼自身の体に、ぶんと一巻き|絡《から》みついた。
「ちっ」
悲壮なさけびが、梅軒の口から洩れたか否かの|咄《とっ》|嗟《さ》に、武蔵は、
「おうっ」
と、鉄球のように、梅軒の体に向って、自分の五体をぶつけていた。
梅軒の手は、刀のつかをつかみかけたが、武蔵の手が、その小手を|撲《なぐ》った。彼が離した刀のつかはもう武蔵の手に握られていた。
(――惜しいっ)
心のうちにそう念じながら、武蔵は、梅軒の大刀をもって、梅軒を真二つに斬り下げていた。|鍔《つば》から七、八寸どころから引き気味に深く割りつけたので、生木を裂く|雷《らい》のように、刀の|刃《は》は脳から|肋骨《あ ば ら》の何枚かまで|徹《とお》って行った。
「……ああ」
誰か後ろで、武蔵のその呼吸を、うけ継ぐように嘆声でいった者がある。
「からたけ割り。――初めて見ました」
「……?」
武蔵は、振り顧った。
四尺ほどな丸棒の杖をついて、一人の若い|田舎《い な か》|者《もの》が立っている。むっくり|肥《こ》えた肩を張り、丸々とした顔に、上気した汗をたたえ、白い歯を見せながら笑っているのである。
「やっ……?」
「わたくしです。――しばらくでござりました」
「木曾の、|夢《む》|想《そう》|権《ごん》|之《の》|助《すけ》どのではないか」
「意外でございましょう」
「意外だ」
「三峰権現のおひきあわせだと私は思います。また、わたくしに|導《どう》|母《ぼ》の|杖《じょう》を授けてくれた亡き母の導きもあるでしょう」
「……では、母御は」
「亡くなりました」
茫然たるまま、とりとめもなく、語りかけたが、
「そうだ。伊織が?」
と、武蔵の眼はすぐ、彼の姿を探した。すると、権之助は、
「お案じなさいますな。てまえが救って、あそこへ登らせておきました」
と、空を指さした。
伊織は、樹の上から、不審そうに二人をじっと見まもっていたが、その時、杉林の奥で、ワン、ワン! と猛犬の吠えたけびが、|谺《こだま》して来たので、
「おや?」
と、眼を|反《そ》らした。
八
手をかざして、伊織が、樹の上から、猛犬の吠えている方角をさがすと、ずっと奥の――杉林の|断《き》れ目から沢へかかる途中に、わずかな平地があって、そこに一匹の黒犬の影が眼にとまる。
黒犬は、樹に|繋《つな》がれていた。
そして側にいる、女の|袂《たもと》に噛みついている。
女は必死で、逃げようとしているが黒犬が離さない。
しかし、袂を|断《き》って、女は|転《まろ》ぶように草原を駈け出した。
梅軒の加勢に来て、さっき伊織を杉林の中で追い廻した法師が、頭から血を出して、槍を杖に、よろめきながら、女の先に歩いていたが、女は忽ち、|傷負《て お い》坊主を追いこして、麓の方へ、駈け下りて行った。
――わ、わ、わんッ
|先刻《さ つ き》から|血腥《ちなまぐさ》い風が、黒犬を発狂に近い|昂《たか》ぶりにさせたのかもしれない。|谺《こだま》が声をよび、声が谺をよび、陰々と、その吠えたけびは、止まなかった。
――と思ううち、遂に、猛犬はその縄を切って、黒い|鞠《まり》みたいに、女の逃げた方へ素ッ飛んで行ったが、その途中に、よろめきよろめき歩いていた|傷負《て お い》法師は、自分へ噛みついて来たと思ったか、いきなり槍を振りあげて、犬の顔をぶん撲った。
穂先で撲られたので、黒犬の顔が少し切れた。
――きゃんッ!
犬は横へ|反《そ》れて杉林へ駈けこんだ。それきり、吠える声もせず、影も見えなくなってしまった。
「先生」
伊織は、上から告げた。
「女が逃げてったよ。――女が」
「降りて来い、伊織」
「杉林の向うを、まだもう一人、|傷負《て お い》の坊主が逃げて行く。追いかけないでもいいんですか」
「もうよい」
――伊織がそこを降りて行った頃には、武蔵は、夢想権之助の口から、あらましの次第を聞いていた。
「女が逃げて行ったといいますから――きっと今申した、お甲にちがいありません」
権之助はゆうべ、彼女の茶店の腰掛に眠っており、|天《てん》|佑《ゆう》といおうか、|端《はし》なくも、彼らのきょうの|企《たく》み|事《ごと》を、すっかり聞いてしまったので、すぐ、そう察したのであった。
武蔵は深く謝して、
「――では、最初に物陰から鉄砲を撃った者を、打ち殺したのも、|其《そこ》|許《もと》でござったか」
「いや、私ではありません。――この|杖《じょう》です」
権之助は、|諧謔《かいぎゃく》を交じえて、笑いながら、
「彼らが討とうと計っても、余人ならぬ|貴方《あ な た》のこと、たいがいのことは拝見しておるところですが、鉄砲を持ち出す者があったので、夜明け前に、ここへ先廻りしていて、鉄砲を持った男の後ろにひそみ、狙いすましたところを後ろから、この杖で打ち殺しました」
――それから二人して、一応そこらの死骸を|検《あらた》めてみると、杖で打ち殺されている者が七名、武蔵が斬った者が五名、杖のほうが多かった。
「非は、こちらにないにせよ、ここは神域、不問ではすまされまい。神領の代官へ、自訴いたそうと思う。――その後のことも問いたし、こちらのことも語りたし、ではあるが、落着いた上として、一先ず観音院まで戻ろう」
だが。――その観音院まで戻らぬうちに、神領代官の役人たちが、谷川橋に|屯《たむろ》していたので、武蔵一人、それへ自訴した。役人たちは多少、意外な|体《てい》だったが、即座に、
「縄を打て」
と部下へ命じた。
(――縄を?)
武蔵は、予期しなかったことに驚いた。自訴した者に、無法だと思う。神妙な仕方を、暴で|酬《むく》われた気がした。
「歩けッ」
すでに、囚人の扱いである。武蔵は|怒《いか》ったが、間に合わなかった。役人たちの身支度からして物々しかったが、行くほどに|途々屯《みちみちたむろ》していた|捕《とり》|手《て》の|夥《おびただ》しさに驚いた。
門前町まで来るうちに、百人以上にもなって、縄付きの武蔵ひとりを|十《と》|重《え》|二十《はた》|重《え》に警固して行くのだった。
下り荷駄
一
「泣くな、泣くな」
権之助は、その泣き声を、抑えつけるように、伊織の顔を、|懐中《ふところ》へ抱きしめた。
「泣かいでもいい。――男じゃないか、男のくせに」
なだめ|賺《すか》すと、
「男だから……男だから、泣くんだい。……先生が|捕《つか》まって行った。――先生が縛られて行った」
と、権之助の|懐中《ふところ》を抜け、なお大きな口をあいて、空へ向って泣いた。
「捕まったのじゃない。武蔵どのから、自訴なされたのだ」
と、いってみたが、権之助も心のうちでは不安だった。
谷川橋まで出向いていた役人の群れが、なにしろ、物々しく殺気立っていたし、その他、十名、二十名ずつの|捕《とり》|手《て》が、幾組|屯《たむろ》していたろうか。
(神妙に、自訴して出た者を、あんなにしないでも)
と、思うしまた、疑われもする。
「さ、行こう」
伊織の手を引っ張ると、
「嫌っ」
伊織は、首を振って、まだ泣いていたいように、谷川橋から動かないのである。
「はやく来い」
「嫌だ。嫌だ。――先生を、呼んで来てくれなければいやだ」
「武蔵どのは、すぐお帰りになるにきまっている。――来なければ、置いて行ってしまうぞ」
――でもなお、伊織は動かなかったが、その時、|先刻《さ つ き》見た猛犬の|黒犬《くろ》が、あの杉林のあたりの生血を|啜《すす》り飽いたような顔して、勢いよくそこを駈け抜けて行ったので、
「あっ、おじさん!」
と、権之助のそばへ飛んで行った。
権之助は、この小がら[#「がら」に傍点]な少年が、かつては、|曠《こう》|野《や》の一軒屋にただ独りで住み、父の死骸を葬るのに、ひとりで持てないため、その|亡骸《なきがら》を自分で刀を|研《と》いで二つに斬ろうとしたくらい、不敵なたましいの持主とは知らないので、
「くたびれたのだろ」
と、慰めた。
そして、
「|怖《こわ》かったろう。むりもない。――負ぶってやろうか」
と、背中を向けた。
伊織は、泣きやんで、
「ああ」
と、甘えながら、彼の背中へ抱きついた。
祭は、ゆうべで仕舞だった。あれほどな人出が、木の葉を掃いたように下山して、三峰権現の境内も、門前町のあたりも、ひっそりしていた。
群衆の残して行った竹の皮や紙屑が、ただ小さい|旋風《つ む じ》に吹かれていた。権之助は、ゆうべ|床几《しょうぎ》を借りて寝た犬茶屋の土間の中を、そっと|覗《のぞ》きながら通った。
すると、背中の伊織が、
「おじさん。――さっき山にいた女のひとが、この家にいたぜ」
「いる筈だ」
権之助は、立ちどまって、
「武蔵どのが縛られるくらいなら、あの女が先に|捕《つか》まって行かなければ嘘だ」
といった。
たった今、家へ逃げ帰って来たお甲は、帰るとすぐ、有合う金や持物を身につけ、旅へ走る|身拵《みごしら》えに|慌《あわ》ただしかったが、ふと、|門《かど》に立った権之助の影に、
「畜生」
と、家の中から振り向いてつぶやいた。
二
伊織を負ぶったまま、軒下に立った権之助は、お甲の憎怨にみちた眼へ、
「逃げ支度かね」
と、笑い返した。
奥にいたお甲は、|憤《む》っと、立って来て、
「大きなお世話というものだよ。――それよりも、おい、|若《わか》|蔵《ぞう》」
「ホ。何だ」
「よくも今朝は、わたし達の裏を掻いて、武蔵へよけいな助太刀をおしだね。そして、わたしの亭主の藤次を打ち殺したね」
「自業自得。しかたがないというものだろう」
「覚えておいで」
「どうする」
権之助が、いうと、背中から伊織までが、
「悪者っ」
と、|罵《ののし》った。
「…………」
お甲はついと奥へはいってしまって、そこからせせら笑った。
「わたしが悪者なら、おまえたちは、|平等坊《びょうどうぼう》の宝蔵破りをした|大《おお》|盗《ぬす》ッ|人《と》じゃないか。いえ、その大盗ッ人の手下じゃないか」
「何」
背中の伊織を下ろして、権之助は土間へはいって来た。
「盗賊だと」
「白々しい」
「もう一度、申してみろ」
「わかるよ、今に」
「いえっ」
むずと彼女の腕をつかむと、お甲はいきなり隠していた|匕首《あいくち》を抜いて、権之助へ突きかけて来た。
例の|杖《じょう》は左に持っていたが、それも使うに及ばず、匕首を|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ取って、お甲を軒先へつきとばした。
「山の衆っ、来てくださいっ。宝蔵破りの仲間がっ――」
何で先刻からそういうのか、とにかくそう叫びながら、お甲は往来へ|転《まろ》び出した。
権之助は、くわっとして、|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ取った匕首を、その背へ向って、投げつけた。――匕首は彼女の肺を貫いた。きゃッと、|朱《あけ》になって、前へ仆れた。
――すると、何処に|潜《もぐ》っていたのか、猛犬の黒は、一声、大きく吠えながら、彼女の体へとびかかった。そして傷口から流れる血をすすっては、陰々と、雲に向って吠えた。
「あっ、あの犬の眼」
伊織はおどろいた。それは、発狂の相をあらわしていたからである。
だが、犬の眼どころではない。この山上の人間は、|今朝《けさ》から皆、それに近い眼いろをもって、何事か、騒いでいたのである。
夜も昼も、人と|燈《ひ》と|神楽《か ぐ ら》ばやしに|熱《ねつ》|鬧《とう》していた祭の混雑に乗じて、ゆうべの深夜から今朝までの間に、総務所の平等坊の宝蔵が、何者かのために、破られていたというのである。
勿論、外部の|仕《し》|業《わざ》であることは明瞭で、宝蔵のうちの古刀とか鏡とかには異状はなかったが、多年|蓄《たくわ》えられてあった砂金だの|海鼠《な ま こ》形の物だの、貨幣となっているものだのを合せておよそ何貫目というかねが一度に失われてしまったのだという。
単なる噂ではないらしい。この山上に、さっきも、あれ程な役人や捕吏が来合せていたということも、思い合せば、原因はその方にあったかもしれないのである。
いや、もっと|顕《けん》|然《ぜん》たる証拠には、お甲が、往来で揚げたわずか一声で、もうわらわらと駈け寄った附近の住民が、
「ここだ。この中だ」
「宝蔵破りの徒党が逃げこんでいる」
と、遠巻きにして、得物を持ったり、石を拾って、家のうちへ投げこんだりし始めた。それを見ても、山上の住民の興奮が、ただならぬものであることがわかる。
三
山づたいに二人はようやく逃げのびて来たのであった。そこは|秩《ちち》|父《ぶ》から入間川の方へ|降《くだ》る正丸峠の上だった。ここまで来るとやっと、自分たちを、
(宝蔵破りの盗賊の一類)
と、竹槍や|猪《しし》|鉄《でっ》|砲《ぽう》で追う住民も後に見えなくなった。
権之助と伊織とは、そうして自分らの安全は得たが、武蔵の安否はわからなかった。いや、よけい不安が濃くなった。今になって考えると、武蔵は、宝蔵破りの|巨《きょ》|魁《かい》と間違われて、縄をかけられたものであろう。そして彼が、べつなことで、自首した行為をも|穿《は》きちがえられて、秩父の獄へ曳かれて行ったに相違ないと思われた。
「おじさん、武蔵野が遠くに見えて来たよ。だけど、先生はどうしたろうな。まだ役人に捕まっているかしら?」
「ウむ……。秩父の|獄《ごく》|舎《しゃ》に送られて、今頃はさぞ難儀な目に遭っておいでだろう」
「権之助さん。先生を助けてあげることはできないの」
「できるとも。むじつの罪だ」
「どうか、先生を助けてあげてください。この通りおねがいします」
「この権之助にとっても、武蔵様は、師と同様なお方。頼まれなくても、きっとお助けする考えでいるが――伊織さん」
「え」
「小さいおまえがいては足手まといだ、もうここまで来れば、武蔵野の草庵とやらへ、一人でも帰れるだろう」
「あ。帰れることは帰れるけれど……」
「じゃあ。一人で先に戻っておれ」
「権之助さんは?」
「おれは秩父の町へもどって、武蔵様のご様子をさぐり、もし、役人どもが理不尽にいつまでも先生を獄につないだまま、むじつの罪に|墜《おと》し入れようとするならば、獄を破っても、お救いして来なければならない」
そういいながら、権之助が|抱《いだ》いていた例の|杖《じょう》を、大地について見せると、伊織は|疾《と》くからその杖の威力を知っているので、一も二もなくうなずいて、ここから別れて一人武蔵野の草庵へ帰っていることを承知した。
「賢い、賢い」
と、権之助は|賞《ほ》めて、
「無事に先生を救い出して、一緒に帰る日まで、おとなしく、草庵に留守をして待っているのだ」
そう|諭《さと》すと、彼は、|杖《じょう》を小脇に持ち直し、再び|秩《ちち》|父《ぶ》の方角へ向って行ったのであった。
で、伊織は、独りぼっちになった。けれど|寂《さび》しいなどとは思わない。元々、曠野で育った自然児である。それに三峰へ来る時と同じ道を戻って行くのであるから、道に迷う心配もなかった。
ただ、彼はやたらに眠かった。三峰から山づたいに逃げ廻って来るあいだ、ゆうべは一|睡《すい》もしていなかった。栗だの|菌《きのこ》だの小鳥の肉だの、喰べ物は喰べているが、峠の上へ出るまでは、まったく眠りをわすれていたのである。
秋の陽をほかほか浴びて、黙って歩いてゆくうちに、彼は慾も得もなく眠くなってしまい、ついに、坂本まで来ると、道わきへはいって、草の中へごろんと横になってしまった。
伊織の体は、何か、仏様の彫ってある石の陰にかくれていた。やがてその石の|面《おもて》に|西《にし》|陽《び》のうすれて来る頃、石の前で、誰かひそひそ話している声が聞えた。伊織は、その気配にふと目をさましたが、ふいに飛び出すとその人が驚くにちがいないと思って、寝たふりをつづけていた。
四
一人は石に、一人は木の切株に腰かけて、しばし休んでいる|体《てい》なのである。
そのふたりの乗用とみえ、少し離れたところの樹に、二頭の荷駄が|繋《つな》いであった。鞍には、二箇の|漆桶《うるしおけ》が両脇に積んであって、一方の桶には、
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西丸|御《ご》|普《ふ》|請《しん》御用
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|野《や》 |州《しゅう》 |御《おん》 |漆《うるし》 |方《かた》
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と、|札《ふだ》に書いてある。
その打札から考えをすすめれば、両名の侍は、江戸城の改築に関係のある|棟梁《とうりょう》の組下か、|漆奉行《うるしぶぎょう》の手の者かと思われる。
だが、伊織が草の陰からそっと|覗《のぞ》いてみたところでは、その二人とも|険《けわ》しい眼相を備えていて、なかなか悠長な役人|面《づら》などとは、|骨《こつ》がら[#「がら」に傍点]もちがう。
一方はもう五十を越えている老武士で、これは体つきも肉づきも、|壮《わか》い|者《もの》をしのぐばかり頑健なのだ。|菅《すげ》の一文字笠に夕陽がつよく反射しているため、その|紐《ひも》|下《した》の顔は、暗くてよく見えない。
また、それに向いあっている侍の方は、十七、八歳の痩せぎすな青年で、前髪立ちのよく似あう顔に、|蘇《す》|芳《おう》|染《ぞ》めの手拭を頬かぶりにして|顎《あご》で結び、何か、うなずいては、にこにこ笑って見せているのである。
「どうです、おやじ様、|漆桶《うるしおけ》の考えは、うまく行ったでございましょうが」
その前髪がいうと、おやじ様とよばれた一文字笠は、
「いや、貴さまもだいぶ、|巧《こう》|者《しゃ》になったな。さすがの大蔵も、漆桶までは気がつかなかった」
「だんだんのお仕込みでございますから」
「こいつ、皮肉なことをいう。もう四、五年も経ったら、今にこの大蔵のほうが、お前に|顎《あご》で使われるようになるかもしれぬ」
「それは当然そうなりましょうな。若い者は抑えても伸び、老いゆく者は、|焦心《あせ》っても焦心っても老いてゆくばかりで」
「焦心っているとみえるかの。貴さまの眼から見ても」
「お気のどくですが、|老《おい》|先《さき》を知って、やろうとなさっているお気もちが、|傷《いた》ましく見えまする」
「わしの心を|観《み》|抜《ぬ》くほど、貴さまもいつの間にか、いい若い者になったものよな」
「どれ、参りましょうか」
「そうだ、足もとの暮れぬうちに」
「縁起でもない。足もとはまだ十分に明るうございます」
「はははは、貴さまは血気に似あわず、よく|御《ご》|幣《へい》をかつぐの」
「そこはまだ、この道に日が浅いので、十分、舞台度胸がついていないせいでしょう。風の音にも、何となく、そわそわされてなりません」
「自分の行為を、ただの盗賊と同じように考えるからだ。天下のためと思えば、|怯《ひる》む|気《き》などは起らぬものじゃ」
「いつもいわれるお言葉なので、そう思ってみますものの、やはり盗みは盗みに相違ございません。どこやら後ろめたいものに襲われまする」
「何の、意気地のない」
|年《とし》|老《と》った方の一文字笠は、多少自分の心にも、そうした|怯《おび》えがあるらしく、|忌《いま》|々《いま》しげに、自分へいうとも連れの者へいうともなくつぶやいて、|漆桶《うるしおけ》のくくり付けてある荷鞍へ乗り移った。
頬かぶりの前髪も、身がるく鞍へとび乗った。そして、先に出ようとする馬の前を追い越し、
「露はらいは、先に出ましょう。何か見えたら、すぐ合図いたしますから、ご油断なく」
と、後の荷駄を|警《いまし》めた。
道は、武蔵野の方へ向って、南へと、|降《くだ》るばかりで、馬の|頭《かしら》も、笠も頬かぶりも、夕陽の陰へ、沈んで行った。
|漆《うるし》 |桶《おけ》
一
石のうしろに寝ていた伊織は、はからずも二人の話をそのまま聞いていたのであるが、ただ怪しげなと不審を起しただけで、話の内容を解くことはできなかった。
だが、荷駄に乗った二人がそこを立つと、伊織もすぐ後から歩き出した。
「……?」
一、二度、怪しむように、先の二人は馬の背から彼を振向いたが、年齢や姿を見極めて、警戒するに足る程な者でないと考えたか、それから後には、少しも意に介していない様子であった。
それと間もなく夜になって、|後《あと》も|前《さき》も見えなくなって来た。そして道は、武蔵野の一端に出るまでは、ほとんど、|降《くだ》りどおしであった。
「オ、おやじ様。あれに、|扇町屋《おうぎまちや》の灯が見えはじめて来ましたぞ」
と一方の、若い頬かぶりをした前髪の影が、鞍の上から指さした頃――ようやく道もやや|平《へい》|坦《たん》になり、行く先の平野には、入間川の水が、闇の中に|解《と》いた帯のように|蜿《うね》っていた。
先へ行く二人には何の警戒心もなかったようだが、後からついてゆく伊織は、子ども心にも、細心な気をくばって、二人に怪しまれないように注意していた。
(あの二人は泥棒にちがいない)
と――それだけは彼にも分っていたからである。
盗賊というものが、どんなに怖いか――これは彼の生れた法典村が一年おきに|匪《ひ》|賊《ぞく》に襲われて、その後は一箇の鶏の卵も、一升の|小豆《あ ず き》もなくなってしまう惨状なので、よく知りつくしていたし、また、平気で人間を殺すものだというような|漠《ばく》とした観念が幼少から|沁《し》みついているので、見つかったら殺されるような気がするのであった。
それほど怖いものならば、なぜ伊織は、はやく横道へでも曲がってしまわないか――と疑われるが、その彼は、|却《かえ》って反対に、二つの荷駄の影にくッついて、何処までも|尾《つ》いてゆくのであった。その理由はごく簡単であって、
(三峰の権現さまの|宝蔵《くら》をやぶって、たくさんなおかねを盗み出した盗賊は、きっとこの二人にちがいない)
と、心のうちで、決めてしまっているからである。
さっき石の後ろで、怪しいと思ったとたんに、伊織の頭にひらめいたのはそういう考えであった。少年の直感には、それをまた、反覆してみたり他を顧みたりしている迷いがない。てっきりこいつだと思いこんだらもう|一《いち》|途《ず》に、この二人こそ、三峰の怪盗でなければならなかったのである。
やがて彼も、荷駄の影も、扇町屋の宿場の中を歩いていた。後ろの荷駄に乗っている一文字笠は、先へゆく頬かぶりの前髪男へ手をあげて、
「城太、城太。この辺で腹を|拵《こしら》えて行こうではないか。馬にも|飼糧《か い ば》をくれねばならぬし、わしも、一ぷく煙草がつけたい」
と、鞍の上でいった。
うす暗い|燈《ひ》のもれている飯屋の外に、荷駄を|繋《つな》いで、二人は中へはいった。若い方の前髪男は、入口の端に腰かけて、飯をたべながらも、たえず荷駄の背を見張っているようであった。そして、自分が喰べ終るとすぐ外へ出て来て、こんどは二頭の馬に、|干糧《ほしぐさ》を飼っていた。
二
その間、伊織もよそで買喰いをしていた。そして荷駄の二人がまた、宿場の先へ進んで行くのを見ると、口をうごかしながら、後ろから追いかけて行った。
道はまた、暗くなった。しかし武蔵野の草から草の平地である。
鞍の上から、鞍の上を顧み合って、荷駄のふたりは、時々話しかけてゆく。
「城太」
「はい」
「木曾の方へ、前ぶれの飛脚は出しておいたろうな」
「手筈しておきました」
「では、首塚の松へ、木曾の衆が来て、こよい待ち合せているわけだの」
「そうです」
「時刻は」
「|夜《よ》|半《なか》といっておきましたから、これから参れば、ちょうどよい頃になりましょう」
老いたるほうは連れの者を城太とよび、若い方は一方を、おやじ様とよんでいる。
(この盗賊は親子だろうか)
伊織はそう考えて、なおさら怖ろしく思った。そしてもとより、自分の力では到底捕まえることはむずかしいが、二人の帰ってゆく|住《すみ》|家《か》をつきとめて、後から官へ訴えて出れば、自然、武蔵のむじつの罪もはれて、牢から解かれて来るにちがいない――と信じるのであった。
彼の考えているように、そううまく行くかどうかは疑問だが、三峰の怪盗と直感した彼の童心のひらめきは、そう見当違いなものでもないらしい。
あたりに人もなしと思って、大声で語り合ってゆく話しぶりといい、また、あれからのこの両名の行動といい、いよいよ怪しい節ばかりなのである。
川越の町はもう沼みたいにしいんと眠りに落ちていた。灯のない屋なみを横に見て、二頭の荷駄は首塚の丘へのぼって行った。登り口の道ばたに、
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首塚の松
このうえ
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と、|標《しる》した石があった。伊織はその辺から崖の中へ|紛《まぎ》れ込んだ。
丘の上には、|巨《おお》きな一本松がみえる。その松に一頭の馬が|繋《つな》いであった。そして松の根かたに三人の男が――旅支度をした牢人ていの者どもが――膝を抱えて待ちあぐねていたが、ふと立ち上がって、
「おう、大蔵様だ」
と、登って来た二頭の荷駄を迎えて、|凡《ただ》ならぬ親しみで|久闊《きゅうかつ》の情を|叙《の》べたり、無事を歓び合ったりしているのであった。
やがて、夜の明けぬうちにと、何事かいそぎ始めて、大蔵のさしずのもとに、一本松の下の|巨《おお》|石《いし》をとりのけると、一人は|鍬《くわ》をもってそこを掘り始めた。
|埋《うず》めておいた金銀が、土と共に掘り出された。盗むたびに、ここへ|隠《いん》|匿《とく》しておいたものとみえ、それは|夥《おびただ》しい額であった。
前髪に頬かぶりの――城太とよばれた若者もまた――ここまで乗って来た荷駄の背から、|漆桶《うるしおけ》をみな降ろし、|蓋《ふた》を破って、土のうえに中の物をぶちまけた。
漆桶の中から出たものは漆ではなかった。三峰権現の宝蔵から影を隠した砂金やなまこ[#「なまこ」に傍点]である。穴の中から掘り出したものと、それとを合せれば何万両という額にのぼる金銀がそこに積まれたのであった。
さて、それをまた、幾つものかます[#「かます」に傍点]に分けて詰込むと、三頭の馬の背に|縛《くく》しつけて、|空《から》になった|漆桶《うるしおけ》や、不用の物を、すべて|坑《あな》の中へ蹴込み、きれいに土をかぶせてしまった。
「これでよし、これでよし。――まだ夜明けにはだいぶ間がある。まあ、一ぷくつけようか」
大蔵は、そういって、松の根かたに坐りこみ、ほかの四名も、土を払って車座になった。
三
信心の|遍《へん》|歴《れき》にといって、木曾のお百草問屋の大蔵が、奈良井の本家を出かけてから、ことしで足かけ四年目になる。
彼の|足《そく》|跡《せき》は関東にあまねく、神社仏閣のある所で、奈良井の大蔵の寄進札を見かけない霊場はないくらいだが、この|奇《き》|特《どく》|人《じん》が、その金をどこから運んできているかは、誰も|詮《せん》|議《ぎ》をしてみた者はない。
のみならず、去年あたりからは江戸城下の芝あたりに居宅をもち、質店を構え、町の五人組衆の一人にまでなりすまして、町内の信望もあつい彼である。
その大蔵が、先には、本位田又八を芝浦の沖へ誘って、新将軍の秀忠を狙撃しないかと、金で|惑《まど》わして|喚《わめ》いたり、今はまた、三峰権現の祭に乗じて、宝蔵の金銀を盗み出し、首塚の松の根に|埋《い》けておいた数年間の稼ぎをも併せて、かます[#「かます」に傍点]に詰めこんで三頭の馬の背へぎっしり背負い込ませているのである。
世の中はおそろしい。およそ分らぬものは人間の表裏である。とはいえ、すべてをそう疑ぐっていたら|限《き》りもなくなって、遂には、自分というものまで|懐《かい》|疑《ぎ》しなければならなくなってしまう。
そこで、聡明であろうと、誰も心がけるが、たまたま、その聡明を欠いている又八などが、|敢《あえ》なくも大蔵の巧言にのせられて、金のために、おそろしい冒険へみずから向って行ってしまった。
恐らく、又八は今頃は、もう江戸城の中にいるだろう。そして大蔵と約束したとおり、|槐《えんじゅ》の木の下に|埋《い》けてある鉄砲を持ちだして、秀忠将軍を一発の|下《もと》に撃つ日を待っているにちがいない。
それが自己の破滅の日とも知らずに。
何にしても、大蔵は怪人物である。又八の如きが他愛なく|囮《おとり》になったのは当然でさえある。|朱《あけ》|実《み》も今は、彼に奉じる特殊な|側《そば》|女《め》となっているし――もっと驚くべきことには、武蔵が、手しおにかけて数年も愛育して来た少年城太郎までが、いつのまにか、年ばえも十八の前髪振りのいい青年になって、しかも大蔵のことを、
――おやじ様
と、敬称するような境遇になり果てている事実である。
いかにとはいえ、盗賊の彼につかえて、おやじ様と呼ぶほどな人間になったと――その城太郎の変りようを知ったら、武蔵よりは、あのお|通《つう》がどんなに嘆くことだろうか。
それはとにかく。
くるま座になった五名は、半刻近くもそこでいろいろな評議をこらしていた。その結果、奈良井の大蔵はもうこの辺で木曾へ姿をかくし、江戸へは戻らぬほうが安全だろうということになった。
しかし芝の質店の方には、家財などはともかく、焼いて捨ててしまわなければならない書類などもあるし、|朱《あけ》|実《み》も残して来たことだから、誰かその始末に一人はやらなければならないがというと、
「城太がよい。それには、城太をやるがいちばんです」
と、異口同音に決まってしまったのである。
で、やがて。
かます[#「かます」に傍点]を積んだ三頭の馬に、大蔵を加えた四名の木曾の衆は、まだ夜明け前の暗いうちに、そこから甲州路のほうへ|反《そ》れて立ち去ってしまい、城太郎はただひとりで、江戸のほうへ向って行ったのであった。
丘のうえには|暁《あけ》の|明星《みょうじょう》が、まだはっきり光っていた。すべての人影が去った後で、そこへ飛び出した伊織は、
「さあ、どっちへ|尾《つ》いて行ったらいいだろ?」
と迷った目をして、まだまだどっちを眺めても真暗な、|漆桶《うるしおけ》の中みたいな天地を見廻していた。
|兄弟弟子《きょうだいでし》
一
きょうも秋の空は澄みきっている。つよい|陽《ひ》が皮膚の下まで沁みこむように思える。夜盗などの仲間の者は、およそこうした清澄な白日の|下《もと》では、大手を振って歩けるものでないが、城太郎には、そんな暗い陰がすこしもない。
彼はあだかも、これからの時代に、大いに意志を|展《の》べようとする理想にみちた青年のごとく、武蔵野の昼をわがもの顔して歩いて行くのだった。
ただ時々、城太郎の目が、何か気にするように後ろをふり向いた。それとて、決して、うしろ暗い自分の陰に|脅《おび》えている目ではなく、妙な少年が、今朝、川越を出た時から、のべつ自分の後からちょこちょこ|尾《つ》いて来るからで、
(迷子かしら)
と考えたが、なかなか迷子になるような薄ぼんやりな顔つきではないし、
(何か用でもあるのか)
と待っていれば、どこかに影を|潜《ひそ》めてしまって、後から近づいて来る様子がない。
そこで城太郎も、これは油断がならないと思いだし、わざと道のない尾花の|叢《くさむら》へかくれて、少年の挙動を|窺《うかが》っていると、ふいに先の姿を見失った伊織は、
「……おやっ?」
と、そこへ来るなり狼狽の眼をせわしなくうごかし、頻りと、城太郎の影をさがしている様子なのである。
城太郎はきのうのように、例の|蘇《す》|芳《おう》|染《ぞめ》の手拭を頬かむりに|顎《あご》でしばっていたが、尾花の中からその時すっくと立って、
「小僧」
と、ふいに呼びかけた。
小僧小僧とよく呼ばれたのは、つい四、五年前までの城太郎自身であったが、今は、ひとをそう呼ぶような背丈に彼もなっていた。
「……あっ」
伊織はおどろいて、無意識に逃げかけたが、所詮、|逃《に》げ|了《お》おせないことを知ったとみえて、
「なんだい?」
平気な顔して――わざと先の方へとことこ歩き出して行った。
「おいおい、何処まで行くんだ。おいチビ、待たないか」
「何か用?」
「用は、そっちにあるんじゃないか。かくしてもだめだ。川越からおれを|尾行《つけ》て来たのだろう」
「ううん」
――首を振って、
「おら、|十二社《じゅうにそう》の中野村まで帰るんだよ」
「いいや、そうじゃない。たしかにおれを|尾行《つけ》て来たに違いない。いったい、誰に頼まれたかいえ」
「知らないよ」
|逃《に》げッ|尻《ちり》になるのを、城太郎は手をのばして、その|襟《えり》もとをつかみよせ、
「いわないか」
「だって……だっておら……何も知らないんだもの」
「こいつめ」
と、すこし締めて、
「おのれは、役所の手先か誰かに頼まれたに違いあるまい、|密偵《いぬ》だろう、いや密偵の子だろう」
「じゃあ……おらが密偵の子に見えるなら……おまえは|盗《ぬす》ッ|人《と》かい?」
「何」
ぎょっとして、城太郎が、その顔を|睨《ね》めつけると、伊織は、彼の手を|外《はず》して、首と体を地へすくめたかと思うと、ぱっと風を起して、彼方へ逃げ出して行った。
「――あっ、こいつ」
城太郎もすぐそれを追う。
草の彼方に、土蜂の巣をならべたような|藁《わら》屋根が幾つか見える。|野《の》|火《び》|止《どめ》の部落であった。
二
この部落には、|鍬《くわ》|鍛冶《かじ》が住んでいるとみえて、どこかで|鎚《つち》の音が、かあーん、てえーん、|長閑《の ど か》に聞える。赤い秋草の根には、|土龍《も ぐ ら》の掘りちらした土が乾き、民家の軒に干してある洗濯物のしずくがぽとぽと落ちていた。
「泥棒っ、泥棒っ」
道ばたにふいに、呶鳴っている子があった。
|干《ほし》|柿《がき》の吊るしてある軒下だの、暗い馬小屋の横からだの、わらわらと人が駈けて出た。
伊織はその人々へ、手をふり廻して、
「|彼方《む こ う》から今、おらを追いかけて来る頬かぶりの男は、|秩《ちち》|父《ぶ》で権現様の宝蔵破りをした泥棒のひとりだから、みんなして捕まえてください。――あら、あら、来たよ来たよこっちへ」
と、大きな声して告げた。
部落の人たちは、余りに唐突な彼のわめきに、最初はあっ|気《け》にとられていたが、伊織の指さす方を見ると、なるほど、|蘇《す》|芳《おう》|染《ぞめ》の手拭を|顎《あご》で結んだ若い侍が、|此方《こ な た》へ向って宙を飛んでくる。
けれども百姓達は、依然として、その近づいてくるのをただ見ているだけの様子なので、伊織はまた、
「宝蔵破り、宝蔵破り。嘘じゃない。ほんとにあれは、秩父の大泥棒の片割れだよ。はやく捕まえないと逃げちまう!」
と、さけんだ。
そうして伊織は、勇気のない兵を指揮する将みたいに、声をからしたが、部落の穏やかな空気はなかなか震動しない。|暢《の》んびりした顔をならべた百姓たちは、ただ彼の叫びに、うろたえの眼と、|怖《おど》|々《おど》した|挙動《そ ぶ り》をすこし見せたばかりで、手を|拱《こまね》いているのだった。
そのうちにもう城太郎のすがたは、すぐ眼の前へ来てしまったので、伊織はいかんともする|術《すべ》がなく、|栗鼠《りす》のようにすばやくどこかへ隠れこんでしまったらしかった。――それを城太郎は知っていたか知らないか分らないが、じろりと、道の両わきに居並ぶ部落の者を眺めながら、ここでは足もゆるやかに、
(手出しをする者があるなら出て来い――)
と、いわんばかりに落着きすまして、悠々と通り抜けて行ったのである。
その間、部落の者は、息もしないで、彼の姿を見送っていた。宝蔵破りの泥棒とどなった声を聞いているので、どんな兇猛な野武士かと思っていたらしいが、案に相違して、まだ十七、八の目鼻だちもよく、|凜《り》|々《り》しい青年なので、何かのこれは間違いにちがいないと、先にどなった少年の|悪戯《わ る さ》をむしろ憎んだほどであった。
一方の伊織は、あんなに声をからしても、誰も、泥棒に向おうとする正義の人がいないので、大人の卑劣さに愛想をつかしたが、さりとて、自分の力ではどうにもならないことも知っているので、これは早く中野村の草庵に帰ってあの近所の懇意な人々にも告げ、官へも訴えて、捕まえてやろうと考えた。
で、|野《の》|火《び》|止《どめ》の部落の裏から、しばらくは畑や道のない草むらを急いだ。そして程なく、覚えのある杉ばやしを彼方に見、もう十町も行けば、いつぞやの|暴風雨《あ ら し》にこわれた草庵の跡――と、心をおどらして駈けだしたのである。
すると彼の前に、横手をひろげた者がある。横道からふいに出て来た城太郎であった。伊織はとたんに、頭から水を浴びたような気がしたが、ここまで来ればもう自分の国のように気が強かったし、逃げてもだめだと思ったので、跳び|退《の》きながら、腰に帯びている|野《の》|差刀《ざし》を抜きはらい、
「ア、畜生」
と、|獣《けもの》が出て来たように、|空《くう》を切って、|罵《ののし》った。
三
刃物を抜いたにしろ、|多《た》|寡《か》の知れたチビと見くびって、城太郎は無手でいきなり跳びかかった。
襟がみをつかんでしまうつもりであったが、伊織は、
「――ちイ!」
と、さけびながら、城太郎の小手をすりぬけて、横へ十尺も跳びのいてしまった。
「いぬ[#「いぬ」に傍点]の子!」
城太郎は、|忌《いま》|々《いま》しい顔をして、迫って行ったが、ふと、自分の右手の指先から、たらたらと温いものが垂れるので、何気なく|肱《ひじ》を上げてみると、二の腕あたりに二寸ばかりの太刀傷をいつのまにか受けていたのであった。
「ヤ。やったな」
城太郎は伊織を睨む目を新たにした。伊織は、いつも武蔵から教えられた通りに|刀《とう》を構えた。
眼。
眼。
眼。
いつも師からやかましくいわれている力が、伊織のひとみへ無意識にぐっと上がった。顔じゅうを眼にしたような伊織の顔だった。
「生かしておけない」
睨み負けしたように城太郎が|呟《つぶや》いて、かなり長い腰の|刀《もの》を抜いて見せた時である。まさかと、そうなってもまだ、幾分|多《た》|寡《か》をくくっていた伊織が、最初に敵の小手を切ったことに、すっかり自信をもったらしく、ぱっと|野《の》|差刀《ざし》を振りかぶって、斬りつけて来た。
その跳びつき方も、常々、武蔵へかかってゆく仕方と同様であるから、それは受けはしたものの城太郎には、意外な圧倒感を、腕にも精神的にも、受けたことに間違いない。
「生意気なっ」
もう城太郎も全力だった。殊にどうしてか、宝蔵破りの件を知っているこのチビは、自分たち一類のためにも生かしておけないと思った。
躍起になって、斬りつけてくる伊織の攻勢を無視して、城太郎は、まっ向に一太刀あびせてやろうと押して行った。けれど、伊織の|敏捷《びんしょう》は、はるかに城太郎に勝るものがある。
「|蚤《のみ》みたいな小僧だ」
と、城太郎は思った。
そのうちに、伊織はふいに駈け出した。逃げるのかと思うと、踏み|止《とど》まってまたかかってくる。こんどは城太郎が意気ごむと、巧みに|外《はず》して、また逃げるのだった。
|賢《さか》しくも伊織はそうして、徐々に敵を村のほうへ誘って行こうとするらしいのである。そして遂に、草庵の跡に近い雑木林の中へまで連れこんだ。
西陽はとうに薄れかけていたので、林の中はもうじっとりと夕闇がこめていた。先へ走りこんだ伊織を追って、城太郎はするどい血相をもって追いかけて来たが、彼のすがたが見当らないので、一息つきながら、
「チビめ、どこへ|潜《もぐ》ったか」と、見まわしていた。
すると、側の大きな樹のこずえから、樹皮の|塵《ちり》がはらはらとこぼれて、彼の襟くびに|触《さわ》った。
「そこだな」
と、城太郎は、宙を見あげてどなった。こずえの空はこんもりと暗く、白い星が一つ二つ見えるだけだった。
四
|梢《こずえ》の上からは何の答えもない。|雫《しずく》が降って来るだけだった。城太郎は思案していたが、伊織が逃げ上がっていることは確かと見極めたらしく、|巨《おお》きな幹へ抱きついたと思うと、注意ぶかく|攀《よ》じ登って行った。
果たして、がさっと樹の空で何か動いた。
追い上げられた伊織は梢の|頂《いただき》へ向いて猿みたいに這ったが、もうそれから先は、伝ってゆく枝もなかった。
「小僧っ」
「…………」
「翼がなければもう逃げられぬぞ。|生命《い の ち》を助けてくれといえ。そしたら、助けてやらぬこともない」
「…………」
梢の|股《また》に、伊織の影は、小猿みたいに縮まっていた。
そろ、そろ、と下から城太郎は登り詰めて行った。だが、飽くまで伊織が黙っているので、その足のあたりへ手を伸ばし、|踵《かかと》をつかもうとしたのである。
「…………」
伊織はなお、黙ったまま、もう一つ上の枝へ足を移した。で、城太郎は、彼が足を|退《の》けた枝へ両手をかけ、
「うぬ」
と、身を伸ばしかけると、伊織は待っていたように、右手に隠していた刀で、その横枝の股を|発《はつ》|矢《し》と上から撲った。
生木の枝は、|刃《やいば》を当てられると共に、城太郎の|重量《め か た》を加えて、めりッと大きな響きを発し、あッと彼の影が、木の葉の中でよろめいたと思うと、幹を離れた枝と城太郎の体は、一つになってどさッと大地へ落ちて行った。
「どうだ、泥棒」
伊織は、宙からいった。
傘をひらいて落ちたように、木の枝が、木の枝に|障《さえぎ》られつつ墜ちて行ったので、城太郎はどこも大地に打ちはしなかったが、
「やったな、よくも!」
と、ふたたび宙を睨むと、今度は|豹《ひょう》が木を|攀《よ》じてゆくような勢いで、伊織の足の下に迫った。
伊織は、刀を下へ向けて、滅茶滅茶に枝の間をふり廻していた。|双《もろ》|手《て》が使えないだけに、城太郎も|無《む》|碍《げ》にはそれへ近づけなかった。
体は小さいが、伊織には智がある。|年齢《とし》が上だけに、城太郎は相手を呑んでいる。といって、こんな樹の上では、いつまで|埒《らち》はつかなかった。いや、体の小さい伊織のほうが、位置からいってもかえって利があった。
そうしているうちに、この林の杉木立の彼方で、尺八をふく人間があった。もちろんその人間が見えるわけでもないし、|何処《い ず こ》と定かにも分らないが、とにかくその|音《ね》が二人の耳にとどく距離のうちで、その夜、尺八をふいている者があることに間違いはなかった。
伊織も城太郎も、その音を聞くと一瞬、争いをやめて、真っ暗な木の葉の宇宙で、毛穴から|呼吸《いき》をし合っていた。
「……チビ」
城太郎は、沈黙から|回《かえ》ると、ふたたび伊織の影へ向って、こんどは少し|諭《さと》すようにいった。
「見かけによらない強情なところは、感心なものだといっておこう。誰にたのまれて、おれの後を|尾行《つけ》たのか、それさえ白状したら|生命《い の ち》は助けてやるがどうだ」
「あか[#「あか」に傍点]といえ」
「何」
「こう見えても、宮本武蔵の一の弟子、|三《み》|沢《さわ》伊織とはおいらの名だ。泥棒に|生命《い の ち》乞いなどしたら、先生の名をよごすじゃないか。あか[#「あか」に傍点]といえ。ばか」
五
城太郎はびっくりした。その大木から大地へ|抛《ほう》り出されたさっきよりも驚いた。余り意外だったので、自分の耳を疑ったくらいだった。
「な、なんだって。もう一ぺんいってみろ、もう一ぺん」
そう訊き直す彼の言葉が、度を|外《はず》してふるえていたので、伊織は、自分の|名《な》|乗《のり》に誇りすら持って、
「よく聞け、宮本武蔵の一の弟子三沢伊織といったのだ。おどろいたか」
「おどろいた」
城太郎は、神妙に|兜《かぶと》をぬいだ。そして、なかば疑いと親しみとを持って、
「おいっ、お師匠さまは、ご丈夫か。そして今は、どこにいらっしゃるのだ」
「なんだと」
こんどは伊織が気味わるがって、じりじりと寄って来る彼を、|避《よ》けながら、
「――お師匠さまだと。武蔵さまは、泥棒の弟子など持っていやしないぞ」
「泥棒とは人聞きが悪い。この城太郎は、そんな悪心は持っていない」
「エ。城太郎」
「ほんとに、おまえが武蔵様の弟子なら、何かの折、噂に出たこともあるだろう。おれがまだ、おまえみたいに小さい頃、何年もおれは武蔵さまの側に|侍《かしず》いていたのだ」
「嘘っ、嘘をいえ」
「いや、ほんとだ」
「そんなて[#「て」に傍点]にのるものか」
「ほんとだというのに」
師の武蔵に|抱《いだ》いている日頃の情熱をそのまま示して、城太郎はいきなり伊織の側へ寄り、伊織の肩を抱きよせようとした。
伊織には、信じられない。城太郎が自分の体へ手を廻して、おまえとおれとは兄弟|弟《で》|子《し》であるといったことばを、すぐ智恵に訴えた伊織は、わるく受け取ってしまって、まだ|鞘《さや》に納めずにいた刀で、城太郎のわき腹を一突きに突いてしまおうとした。
「あっ、待てったら!」
城太郎は、窮屈な|梢《こずえ》のあいだで、危うくその手元をつかんだが、とたんに、樹から手を離して、体の全部で伊織がかかって来たため、伊織の襟くびにしがみついたまま、梢に踏ンばって起ちあがってしまった。
当然、ふたつの体は、|双《もろ》|仆《だお》れになって、宙から無数の木の葉と梢とを折りちらして、大地へどさッと墜ちて来た。
この場合は、先に城太郎が墜ちた時と違って、ひどく重量と速度をかけて墜落したため、二羽の若鳥は、うーむと、胸を|反《そ》りあったまま、ふたりとも其処にいつまでも気を失っていた。
ここの雑木林は杉林につづいている。その杉林の|断《き》れ目に、いつぞやの|暴風雨《あ ら し》で|壊《こわ》れたままの、武蔵の草庵はあった。
だが、武蔵が|秩《ちち》|父《ぶ》へ立つ朝、村人が言葉をつがえたとおり、その日から、壊れた草庵は、大勢して建て直しにかかっていた。
――で、もう屋根と柱だけは新しくなっていた。
武蔵はまだ帰らないのに、その壁も戸もない屋根の下に、今夜は|燈火《ともしび》がついている。きのう江戸表から水見舞だといって来た|沢《たく》|庵《あん》が、武蔵の帰るまで待とうといって、独り泊っているのである。
独りということはしかしこの世の中ではあり得ないこととみえる。沢庵がここにぽつねんと|灯《ひ》を|点《とも》していると、ゆうべはまったく独りで過ぎたが、こよいはもうその|灯《ほ》|影《かげ》を見かけて、一名の旅の|薦《こも》|僧《そう》が、夕飯を食べますので、湯をいただかせてくれといって立ち寄った。
さっき雑木林のほうまで聞えた尺八は、この老いたる薦僧が沢庵へ聞かせたものであろう。時刻もちょうど、彼が|柏《かしわ》の葉につつんだ弁当の飯粒を|嘗《な》め終った頃であったから。
大 事
一
眼病なのか、老眼で衰えきっているのか、|薦《こも》|僧《そう》は、何をするにも手さぐりであった。
べつに沢庵から望んだわけでもないのに、一曲ふきましょうといって吹いた尺八も、素人の手すさびのように|下手《へた》だった。
けれど沢庵は、こういうことをその間に感じた。彼の吹いている尺八には、非詩人の詩のように、無技巧な真情がある。|平仄《ひょうそく》には合っていないが、どういう気もちで吹いているか、その心のほどは十分に汲みとれるのであった。
ではこの老い朽ちたる世捨人の|薦《こも》|僧《そう》は、いったいどういうものをその|破《や》れ竹から訴えようとしているのかというと、それはただ|懺《ざん》|悔《げ》の二字に尽きるものであった。序の歌口から吹き終るまで、ほとんど、懺悔して泣いてばかりいるかのような竹の音なのである。
じっと、沢庵は、それを聞いているうちに、この薦僧の通って来た生涯がどんなものであったかが分るような心地がした。偉い人間といっても凡人といっても、人間の内的な生涯などというものはそう変りのあるものではない。偉人と凡物の相違は、その等しい人間的な内容や|煩《ぼん》|悩《のう》を超えて現れた表示のすがたであって、この|薦《こも》|僧《そう》と|沢《たく》|庵《あん》とでも、一|管《かん》の竹をとおして、形なく心と心を触れてみれば、いずれも過去は同じように、煩悩に皮をかぶせた人間でしかなかったのである。
「はてな、どこかでお見かけしたようだが……」
その後で沢庵が呟いたのである。すると薦僧も、眼をしばたたいて、
「そう仰せられますなら、わたくしも申しまするが、最前からてまえも何だか、聞いたようなお声に思われてなりませんのです。もしやあなたは、|但馬《た じ ま》の|宗彭《しゅうほう》沢庵どのではありませぬか。|美作《みまさか》の吉野|郷《ごう》では七宝寺に長らく逗留してお|在《い》でた……」
といいかける言葉の途中から、沢庵もはっと思い出したらしく、隅にあったほの暗い灯皿の|芯《しん》をかきたてて、じっと、薦僧のまばら[#「まばら」に傍点]に光る白い|髯《ひげ》や、|削《そ》げた頬を見つめていたが、
「あ。……青木丹左衛門どのじゃないか」
「おう、ではやはり、沢庵どのでございましたか。おお穴でもあればはいりたや。変り果てたこの身のすがた。宗彭どの、むかしの青木丹左と思って見てくださるな」
「意外や、ここでお目にかかろうとは。――もう十年の前になるのう、あの七宝寺の頃からは」
「それをいわれると、|氷《ひ》|雨《さめ》を浴びるように辛うござる。もう野末の白骨にひとしい丹左なれど、ただ子を思う闇にさまようて、生きながらえておりまする」
「子ゆえにと? その子とは、そも何処にいて、どう暮しておるのか」
「うわさに聞けば、そのむかしこの青木丹左が、|讃甘《さ ぬ も》の山に狩り立てた上、千年杉の梢に|縛《くく》し上げて苦しめた――当時のたけぞう[#「たけぞう」に傍点]――その後宮本武蔵とよぶ人の弟子となって、この関東へ来ておるということなので」
「なに、武蔵の弟子」
「されば――そう聞いた時の|慚《ざん》|愧《き》――面目なさ――。どの|面《つら》さげてその人の前にと、一時はもう子も忘れ、武蔵にもこの姿を見せまいと、深く|怖《お》じ恐れておりましたが、やはり会いとうて会いとうて……もう指折りかぞえれば城太郎もことし十八。その成人ぶりさえ一目見れば、死んでも心残りはないと、恥も意地も打ち捨てて、先頃からこの|東路《あずまじ》をさがし歩いているわけでございまする」
二
「では、城太郎というあの|童弟子《わらべでし》は、お|許《もと》の子でおざったか」
このことは、沢庵にはまったく初耳であった。どうしてか、あんな知合いでいながら、ついぞお通からも武蔵からも、その|生《おい》|立《た》ちについては、何も聞いていなかった。
|薦《こも》|僧《そう》の青木丹左は、黙ってうなずいた。その|枯《こ》|渇《かつ》したすがたには、往年のどじょう|髭《ひげ》を|生《は》やした侍大将の威風も旺盛な慾望の影も思い出せないほどだった。沢庵は、ただ|憮《ぶ》|然《ぜん》として見るほか、慰める言葉もなかった。すでに人間の|脂《あぶら》ぎった殻から脱けて、|蕭条《しょうじょう》の野へかかっている晩鐘の人生に、お座なりな慰めはいえるものではないからである。
――といって、過去の|懺《ざん》|悔《げ》にのみ心を|傷《いた》めて、これから先の道はないように、骨と皮の身を持ち扱っている|相《すがた》も、見ていられない心地がする。この人間は、自己の社会的な地位から転落して、すべてに|滅《めっ》|失《しつ》した時に、|仏《ぶつ》|陀《だ》の救いとか、法悦の境というものがあることまで、見失ってしまったに違いない。勢いのよい時、羽振に乗って、人いちばい|権《けん》をふるったり意慾を|恣《ほしいまま》にしたけれど、こういう人間ほど、半面には、|頑《かたくな》なくらいな道徳的良心をもっているので、失脚すると共に自己の良心で、自己の余生を全く自身で|縊《し》め殺しているような心理になってしまったものらしいのである。
だから悪くすれば、彼は今、生涯の望みとしている――武蔵に会って一言の詫びをいうことと、わが子の成人ぶりを見て、その将来に安心を抱くことをしてしまえば――すぐそこらの雑木林へ行って、|明日《あ し た》の朝は、首を|縊《くく》って死んでいたというようなことにならないとも限らない。
沢庵は、そう思った。この男には、子に会わせるよりも先にまず、|仏《ぶつ》|陀《だ》に会わせてやらなければいけない。十悪の徒、五逆の悪人でも、救いを求めれば救うてくれる慈悲光の|弥《み》|陀《だ》尊仏に対面させてから後、城太郎に会わせてやって|晩《おそ》くはない。武蔵との|邂《かい》|逅《こう》は、なおさらそのうえである方が、この男にもよいし、武蔵にとっても心地がよかろう。
こう考えたので沢庵は、とりあえず丹左に向って、御府内の一禅寺を教えてやった。わしの名をつげてそこに幾日でも逗留しておるがよいというのである。そのうち自分が暇の時に出向いてゆるゆる話もしようし聞きもしよう。子息の城太郎については、心当りがないでもないから、他日必ずわしが尽力して会わせてやる。余りくよくよせず、五十歳、六十歳から先でも、長命を考える楽土もあれば、する仕事のある人生もある。わしが行くまで禅寺でちとそんなことでも和尚から聞いておかれるがよろしかろう。
――こんなふうに|諭《さと》して、沢庵は|態《わざ》とすげなく青木丹左をそこからほどなく立たせてやったのであった。その気もちが丹左の心にも映ったとみえ、丹左は何度も礼をのべ、|薦《こも》と尺八を背に負って不自由らしい眼を竹杖に頼りながら、壁のない家の|廂《ひさし》を離れて行った。
そこは丘なので、下へ降りる道の|辷《すべ》りやすいことを|惧《おそ》れ、丹左は林のほうへはいって行った。杉林の細道から、雑木林の細道へ、足は自然に導かれて行った。
「……?」
そのうちにふと、丹左の杖の先になにかつかえたものがあった。まったくの盲人ではないので、丹左は身を|屈《かが》めて見まわした。しばらくは何も見えなかったが、そのうちに|樹《こ》の|間《ま》を洩れる青い星の光に、二つの人間の体が、露にぬれたまま大地に横たわっているのが、薄っすらと分った。
三
どう思ったのか、丹左は、道をもどり出した。そして、元の草庵の|燈《ひ》をのぞいて、
「沢庵どの。……今お|暇《いとま》した丹左でござるが、この先の林の中に、若い者がふたり、樹から落ちて気を失ったまま仆れておりますが」
――こう告げると、沢庵は、|燈《ほ》|影《かげ》から身を起して来て外へ顔を出した。丹左は言葉を続けて、
「|生《あい》|憎《にく》、薬は持たず、この通り眼も不自由なため、水を与えることもできませぬ。近くの郷士の息子どもか、野遊びに来た武家衆の兄弟かとも思われる少年達です。|憚《はばか》りですが一つお救いに行って戴きとうござりますが」
といった。
沢庵は承知して、すぐ草履を|穿《は》いた。そして、丘の下に見える|茅《かや》|屋《や》|根《ね》へ向って、大きな声で誰か呼んだ。
屋根の下から人影が出て、丘の草庵を仰いでいる。そこに住んでいる百姓のおやじであった。沢庵はその影へ向って|松明《あ か り》と竹筒の水を用意してすぐ来いと|吩咐《い い つ》けた。
その|松明《たいまつ》の光がここへ|上《のぼ》ってくる頃、丹左は、沢庵から道を教えられて――今度は丘の道を下へ降りて行った。で、降りて行く丹左と、上って来る|松明《たいまつ》とは、坂の途中ですれ|交《ちが》いになった。
もし丹左が、最初に迷って行った道のとおり歩いて行けば、|松明《たいまつ》の下にわが子の城太郎を見出すことができたに違いなかったのに、江戸へ出る道を訊き直したために、かえって薄縁から薄縁の闇へわれから|辿《たど》って行ってしまった。
だが、それが不幸か|僥倖《ぎょうこう》かは、後になってのみ分ることで、人生の事々はすべて、回顧される時にならなければ、ほんとの薄縁とも不幸ともいわれないものであろう。
竹筒の水と松明とを持って早速やって来た百姓は、きのうも今日も、この草庵の修繕に手伝った村の者の一人で、何事があったのかと|不審《い ぶ か》り顔に、沢庵の後について、林の中へはいって行った。
やがてすぐ、その松明の赤い明りは、先に|薦《こも》|僧《そう》の丹左が見出したものを同じ所に見出した。――けれどつい|先刻《さ つ き》と今とは、その状態においては少し相違があって、丹左が発見した時は、城太郎も伊織も、打重なって仆れていたが、今見ると、城太郎は蘇生してそこに|呆《ぼう》|然《ぜん》と坐っており、そして側に仆れている伊織を手当てして訊きたいことを訊いたものか、このまま逃亡してしまったほうがよかろうか――と、迷ってでもいたらしく伊織の体へ片手をかけながら、じっと考えこんでいたのであった。
――そこへ松明の光と人の跫音を感じたので、城太郎は忽ち夜の|獣《けもの》のような鋭くて|迅《はや》い姿勢のもとに、いつでもぱっと|起《た》てるような身構えをしかけた。
「……おや?」
沢庵の立った側から、ぷすぷすと燃える松明を、百姓のおやじが突き出していた。城太郎は|咄《とっ》|嗟《さ》に、相手がさして警戒するほどな者でないと思って安心したらしく、身を落着けて、ただ、その人影を見上げた。
――おや? と沢庵がいったのは、気を失っているはずの者が、そこに坐っていたからであったが、双方からじっと姿を眺め合っているうちに、その「おや?」という一語は、そのまま重大な|愕《おどろ》きを両方に持つ言葉となっていた。
沢庵から見た城太郎は、余りに体も大きくなっていたし、顔も姿もちがっていたからややしばらくは分らなかったが、城太郎から見た沢庵は一目で沢庵とすぐ知れた筈であった。
四
「城太郎ではないか」
沢庵はやがて、眼をみはっていった。
自分を仰いだと思うと、その城太郎が、はっと、手をつかえてしまった|容《よう》|子《す》に、沢庵も眼を|注《そそ》いで、初めてそれと気づいたのであった。
「はい。……はい、さようでございまする」
沢庵の姿を仰ぐと、以前の|洟《はな》|垂《た》れ小僧に返って、彼はただ恐れ入るばかりな容子だった。
「ふうむ、そちがあの城太郎か。いつの間にやら大人びて、たいそう鋭い若者になったものよの」
彼の成人ぶりに|愕《おどろ》いて、沢庵は眺め入っていたが、何はともあれ、伊織を手当てしてやらなければならない。
抱いてみると体温はたしかである。竹筒の水を与えると、すぐ意識はよび戻した。伊織はあたりを見て、きょろきょろしていたが、突然大声を出して泣き出した。
「痛いのか。どこか、痛いのか」
沢庵がたずねると、伊織はかぶりを振って、どこも痛くはないが先生がいない、先生が|秩《ちち》|父《ぶ》の牢屋に連れて行かれてしまった。それが恐ろしいと、なお泣きじゃくって訴えるのだった。
彼の泣き方も訴え方も、余りに唐突であったから、沢庵も容易にその意味を汲むことができなかったが、だんだんと仔細を聞いて、なるほどそれは容易ならぬことが起ったものと、ようやく伊織と同じ憂いを抱くことができた。
するとそれを傍らで聞いていた城太郎は、身の毛をよだてたように、卒然と、|愕《おどろ》きを顔にみなぎらして、
「沢庵さま。申しあげたいことがあります。どこか人のいない所で……」
と、少し声をふるわせていい出した。
伊織は、泣きやんで、疑いの眼を光らしながら、沢庵へ寄り添うと、
「そいつは、泥棒の一類だよ。そいつのいうことは、嘘に決まってる。油断しちゃだめだよ、沢庵さん」
と指をさした。
城太郎が睨むと、伊織はなお、いつでもまた、戦ってやるぞという眼をもって、それに|酬《むく》いた。
「ふたりとも、喧嘩するな。おまえ達は、元々、兄弟|弟《で》|子《し》ではないか。わしの裁きにまかせて|尾《つ》いて来い」
道を引っ返して来ると、沢庵はふたりに命じて、草庵の前に|焚《たき》|火《び》を焚かせた。百姓のおやじは、用がすむと下の藁屋根へもどって行った。沢庵は火のそばに腰かけて、お前たちも仲よく焚火をかこめといったが、伊織はなかなかそこへ寄らないのである。泥棒の城太郎と兄弟弟子となることを敢て拒否するような顔つきなのだ。
だが沢庵と城太郎とが、|睦《むつ》まじく以前の話などしているのを見ると、伊織は軽いそねみを覚え、いつのまにか彼もまた、焚火のそばへ来てあたっていた。
そして沢庵と城太郎とが|低声《こ ご え》になって話しているのを黙って聞いていると、城太郎は、|弥《み》|陀《だ》の前で懺悔する|女《にょ》|人《にん》のように、|睫《まつ》|毛《げ》に涙さえ見せて、聞かれない先まで、素直にすらすらと自白しているのであった。
「……ええそうです。お師匠さまの側を離れてから足掛け四年にもなります。その間わたくしは、奈良井の大蔵という者の手に育てられ、その人の教えをうけ、またその人の大きな望みや世の中の行くてを常に聞くにつけ、この人のためなら生命を投げ出しても惜しくないという気持になりました。それから今日まで、大蔵どのの仕事を助けて参りましたが――でも泥棒呼ばわりなどは心外の極みです。わたくしも武蔵先生の弟子、おそばを離れてからでも、お師匠さまの精神とは、一日も別れてはいないつもりですから」
五
城太郎は、いいつづけた。
「――大蔵どのと私とは、天地の|神《じん》|祇《ぎ》に誓って、自分らの目的は、他人にもらすまいと約していますので、それが何かは、たとえ沢庵様であろうと、語るわけに参りませんが、お師匠さまの武蔵様が、宝蔵破りの|冤《えん》|罪《ざい》をきて、秩父の牢へお曳かれになったとあっては、知らぬ顔はしておられません。|明日《あ し た》にでもすぐ秩父へ行って、下手人はこの身であると、自首いたして、お師匠さまを|獄舎《ひ と や》から解いておもどし致します」
彼の語るのを、沢庵はだまったまま、ただ|頷《うなず》き頷き聞いていたが、その時ふと顔を上げ、
「では、宝蔵破りの仕事は、おまえと大蔵の|仕《し》|業《わざ》には相違ないのじゃな」
「はい」
城太郎のその答えは|俯仰《ふぎょう》天地に恥じないといったような語気を持っていた。
ぎらっと、沢庵は、その眼を見つめた。城太郎は、前の言葉に似ず、つい眼を伏せてしまった。
「じゃあ、やはり泥棒じゃないか」
「いえ。……いえ、決して、ただの盗賊ではありません」
「泥棒にふたいろも三いろもあるかの」
「でも、われわれは、私慾を持ちませぬ。公民のために、ただ公財を動かすだけです」
「わからんな」
沢庵は、ぽいと|抛《ほう》るようにいって、
「然らば、おまえのやっている盗みの種類は、義賊というようなものなのか。支那の小説などによくあるな。|剣侠《けんきょう》とか、侠盗とかいう怪物が。つまりあれの亜流だろう」
「その弁解をいたしますと、自然大蔵どのの秘密を|喋舌《し ゃ べ》ってしまうことになりますから、何といわれても、今は|隠《いん》|忍《にん》しておりまする」
「はははは。かま[#「かま」に傍点]にはかからんというわけだな」
「ともあれ、お師匠さまを救うために、私は自首いたします。どうぞ、後で武蔵様へも、御坊からよろしくお|取《とり》|做《な》しをねがいまする」
「そんな取做しは沢庵にはできぬ。武蔵どのの身は元より|冤罪《む じ つ》の|禍《わざわ》い、おぬしが行かいでも、解かれるにきまっておる。――それよりも、おぬしはもっと|仏《ぶつ》|陀《だ》に|直《じき》|参《さん》して、倖い、この沢庵をお取次に、真心の底を|御仏《みほとけ》に自首してみる心にはなれぬか」
「仏に?」
と、彼は考えてもみないことをいわれたように問い返した。
「さればよ」
と、沢庵は当然なことを|諭《さと》すように、
「おぬしの|口吻《くちぶり》を聞いておれば、世のためとか、人のためとか、偉そうじゃが、さし当って、|他人《ひと》|事《ごと》よりはわが事じゃろ、おぬしの|周《まわ》りに、誰も不倖せな者は残っておらぬかの」
「自己の一身など考えていては天下の大事はできませぬ」
「青二才」
沢庵は、一|喝《かつ》して、城太郎の頬をぐわんと|撲《なぐ》った。城太郎はふいを打たれて、頬をかかえたが、気をのまれたように|為《な》すことを知らなかった。
「自己が|基礎《もと》ではないか。いかなる|業《わざ》も自己の|発《ほっ》|顕《げん》じゃ。自己すら考えぬなどという人間が、他のために何ができる」
「いや、わたくしは、自己の慾望などは考えないといったのです」
「だまれ、おまえはおまえ自身が、人間としてまだ|酢《す》っぱい未熟者だということを|弁《わきま》えんか。世の中の|端《はし》ものぞかぬやつが、世の中を分った顔して|大《だい》それた大望などにうつつを抜かしているほど怖ろしいものはない。城太郎、おまえや大蔵のやっている仕事はたいがい読めた。もう訊かいでもいい――。|阿《あ》|呆《ほう》な餓鬼じゃ、なり[#「なり」に傍点]ばかり大きくなっても心の育ちはさらに見えん。何を泣く、何がくやしい、|洟《はな》でもちんとかむがよい」
六
寝ろといわれたのである。寝るしかなくなって、城太郎はそこらにある|莚《むしろ》などかぶって横になった。
沢庵も寝た。伊織も眠った。
だが城太郎は寝つかれなかった、獄窓にある師の武蔵のことが夜もすがら考えられて、すみません――と胸の上に|掌《て》をあわせて詫びた。
仰向いていると、|眦《まなじり》からつたう涙が耳の穴へながれこむ。横に寝返ってまた思う。お通さんはどうしたろうか。お通さんがいたらよけい合せる顔がない。沢庵の|拳《こぶし》は痛かったが、お通さんであったら打たない代りに、自分の胸ぐらを持って泣いて責めるにちがいない。
さはいえ、人には洩らさぬと、大蔵と誓った秘密は誰にも明かしようはない。夜が明けたらまた、沢庵から|折《せっ》|檻《かん》されるかもしれない。そうだ今のうちに抜け出そう。
「…………」
城太郎はそう考えてそっと身を起した。壁も天井もない草庵は抜けるには都合がよい。彼はすぐ|戸外《そと》へ出た。星を仰ぐ。急がないともう朝は近いらしい。
「――こら。待て」
歩みかけた城太郎は、後ろの声にぎょっとした。自分の影みたいに沢庵が立っているのだ。沢庵はそばへ来て、城太郎の肩へ手をかけた。
「どうしても、自首して出る気かの」
「…………」
城太郎はだまって|頷《うなず》いた。沢庵はあわれむようにいった。
「そんなに、犬死がしたいか。浅慮なやつだ」
「犬死」
「そうだ、おまえは、自分という下手人さえ名乗って出たら、武蔵どのを|免《ゆる》してもらえると考えているじゃろうが、世の中はそんなに甘くはない。おまえがわしにいわなかったことも、役所へ出れば残らず泥を吐かねば役人は納得せぬ。武蔵は武蔵として、|獄《ごく》|舎《や》に置いたまま、おまえの身は一年でも二年でも、生かしておいて|拷《ごう》|問《もん》にかける。――きまっていることだ!」
「…………」
「それでも、犬死でないと思うか。真に、師の|冤《えん》|罪《ざい》を|雪《そそ》ごうと思うならば、まずおまえ自身から身を|雪《そそ》いで見せねばなるまい。――それを役所で拷問にかけられてしたがよいか、それとも、この沢庵に向ってしたがよいか」
「…………」
「沢庵は|仏《ぶつ》|陀《だ》の一弟子、わしが訊いたとて、わしが裁くわけでも何でもない。|弥《み》|陀《だ》のお胸に問うてみる、取次ぎをして進ぜるのみだ」
「…………」
「それも嫌ならもう一つ方法がある。計らずもわしはゆうべ、おまえの父、青木丹左衛門にここで出会うたのじゃ。いかなる仏縁やら、すぐその後で子のおぬしにまた会おうとは。……丹左の行く先はわしが|知《しる》|辺《べ》の江戸の寺、どうせ死ぬならその父に一目会ってから行くがよかろう。そしてわしの言葉の是か非かも、父に訊ねてみたがよい」
「…………」
「城太郎。おまえの前に、三つの道がある。わしが今いうた三つの方法じゃ。そのどれなと選ぶがよい」
沢庵はいいすてて元の|塒《ねぐら》へはいりかけた。きのう伊織と樹の上で闘っていた時、遠く聞えた尺八の音を城太郎は耳に呼び返していた。それが父だったと聞いただけで、彼は父がその後どんな姿で、どんな気持で世の中を|彷徨《さ ま よ》っていたか、訊かなくても胸がこみあげてくるほど分っていた。
「お、まって下さいっ。……沢庵さん、いいます! いいます! 人にはいわぬと大蔵様とは誓ったことですが、|御仏《みほとけ》に……ほとけ様に一切を」
ふいにそう叫ぶと、彼は、沢庵の|袂《たもと》を持って、林の中へ引きもどしていた。
七
城太郎は自白した。暗闇の中で長い独りごとをいいつづけているように、一切を声にして、胸の奥から吐いてしまった。
沢庵はそれを、最初から終りまで、一口も挟まず聞いていた。
「もういうことは何もありません――」
と、城太郎が沈黙すると、初めて、
「それだけか」
と、いった。
「はい、これ|限《き》りです」
「よし」
沢庵もそれでまた黙ってしまった。半刻も黙っていた。杉林の上が水色に|暁《あ》けてきた。
|鴉《からす》の群れが|噪《さわ》がしい。|四辺《あ た り》は白々と露ッぽく見えて来た。沢庵はと見ると、くたびれたかの如く杉の根に腰かけている。城太郎は彼の|折《せっ》|檻《かん》でも待つもののように、半身木に|凭《もた》れてうつむいていた。
「……えらい者の仲間に引きこまれたものじゃな。この大きな天下の歩みが、どう動いてゆくかも見えぬとは、|不《ふ》|愍《びん》な者の集まりよの。だが、事を起さぬ前でまだよかった」
そう呟いた時の沢庵は、もうなにも|屈《くつ》|託《たく》した顔つきではなかった。彼はそんな物はありそうもない懐中から二枚の黄金を取り出した。そして城太郎にここからすぐ旅路へ立てというのである。
「一刻もはやくせぬと、そちの身ばかりか、親にも師にも、災難をかけることに相成ろうぞ。遠国へ|奔《はし》れ、思いきって遠国へ。――それも甲州路から木曾路は|避《よ》けて行くことじゃ。なぜならば、きょうの|午《ひる》下がりから先は、もうどの関所も|厳《きび》しゅうなる」
「お師匠様のお身はどうなりましょうか。わたくしのためにああなったと思うと、このまま他国へも」
「その段は、沢庵がひきうけておく。二年なり三年なり|余燼《ほとぼり》のさめた頃に、改めて、武蔵どのを訪ね、お詫びいたしたがよかろう。沢庵もその時にはとりなして進ぜる」
「……では」
「待て」
「はい」
「立ちがけに江戸に廻れ。|麻《あざ》|布《ぶ》村の|正受庵《しょうじゅあん》という|禅《ぜん》|刹《でら》に行けば、そちの父青木丹左が、ゆうべ先に行き着いておる」
「はい」
「これに大徳寺衆の印可がある。正受庵で笠や|袈《け》|裟《さ》をもらいうけ、一時、そちも丹左も、僧体になって共に道中をいそぐがよい」
「どうして、僧体にならなければいけませんか」
「あきれたやつ。自身犯している罪をすら知らぬのか。徳川家の新将軍を狙撃し、その|噪《さわ》ぎに乗じて、大御所の|在《お》わす駿府にも火を放ち、一挙にこの関東を混乱に|墜《おと》し|入《い》れて、事を|為《な》そうという|浅慮《あさはか》|者《もの》のお前は手先のひとりではないか。大きくいえば治安を乱す|謀《む》|叛《ほん》|人《にん》のひとり。捕まれば|縛《しば》り|首《くび》は当りまえじゃろが」
「…………」
「行け、|陽《ひ》の高くならないうちに」
「沢庵さま。もう|一《ひと》|言《こと》うかがいます。徳川家を仆そうとする者はどうして謀叛人でしょうか。豊臣家を仆して天下を|横《よこ》|奪《どり》する者は、なぜ謀叛人ではないでしょうか」
「……知らん」
沢庵は怖い眼で彼の理窟をただ睨みつけた。その説明は誰にもできないのである。城太郎を承服させるぐらいな理論を立てることは、沢庵にできないはずはなかったが、彼自身の得心できる理由がまず確然とつかめていないのだ。しかし一日一日と、徳川家に弓をひく者を謀叛人と呼んでもふしぎでない社会に変りつつあることは|見《み》|遁《のが》せない。そしてその大きな推移に逆らう者は、必ず汚名と悲運を|被《こうむ》って、時代の外へ影を没して亡んでしまうことも|顕《けん》|然《ぜん》とした事実であった。
|柘榴《ざ く ろ》の|傷《いた》み
一
その日、沢庵は伊織をしりに|従《つ》れていた。|赤《あか》|城《ぎ》|坂《ざか》の北条|安房《あ わ の》|守《かみ》の門へはいって行く。玄関わきの|楓《かえで》がいつぞやとは見まごうほど紅葉している。
「お|在《わ》すか」
小僧へ問うと、
「は。お待ちを」と、奥へ駈けこむ。
出て来たのは子息の新蔵だった。父は登城して不在ですがまずお上がり下さいと招じるのであった。
「御城中とな。ちょうどよい」
沢庵はそういって、すぐ自分もこれから御城内へ参るが、この伊織を、当分ここに留めておいてくれまいかと頼んだ。
「お|易《やす》いこと」
と、新蔵はちらと見てわらう。伊織とは知らない仲でもないからである。――そして御坊は御登城とあるならば、|駕籠《かご》を命じましょうと気をくばる。
「頼みたいの」
駕籠の用意のできるあいだ、沢庵は|紅葉《も み じ》の下に立って、|梢《こずえ》を仰いでいたが、思い出したように、
「そう、江戸の奉行職は、何といわれたの」
「町のですか」
「されば、町奉行という職制が、新たに設けられておるが」
「堀|式部少輔《しきぶしょうゆう》様でした」
駕籠が来る。|輿《こし》に似た|塗《ぬり》かごであった。いたずらをするなよと、伊織へいって、沢庵はそれへ身をまかせる。ゆらゆらと|紅葉《も み じ》の陰を、それはのどかに門外へ出て行った。
伊織はもうそこにいない。|厩《うまや》をのぞき込んでいる。厩は二棟あった。栗毛、|白《はく》|眉《び》、月毛、いい馬がたくさんいてどれもよく肥えている。伊織は、田へ出して働かせもしない馬を、どうしてこんなに多く飼っておくのかと、|武士《さむらい》の家の経済がふしぎに思われた。
「そうだ、|戦《いくさ》の時、使うんだな」
ようやくひとり解釈して、よくよく馬の顔を見ていると、馬の顔でも、武家の|飼《かい》|馬《うま》と野放しの野馬とは顔が違っていた。
馬は小さい時からの友だちだった。伊織は馬が好きだった。見ていても飽きないのである。
――すると玄関の方で、新蔵の大きな声がした。伊織は、自分が叱られたのかと思ってふり|顧《かえ》ったが、見ると玄関の前に、今門からはいって来たらしい細っこい老婆が、杖をたてて、きかない顔を、じっと、式台に立ちはだかっている北条新蔵へ向け合っているのだった。
「居留守をつかうとは何事をほざくか。そちのような見知らぬ老いぼれに、父が居留守をつかう要はない。いないからいないというたのだ」
老婆の態度が新蔵をむっとさせたらしかった。その語気にまた、老婆は年がいもない怒りを駆りたてて、
「お気に|障《さわ》ったか。安房どのを父といわれたところを見れば、おぬしが当家の御子息じゃろが、先頃からこのばばが、いったい何度この門をくぐっておるかご存じかの。――五度や六度ではおざらぬぞよ。そのたびごとに留守じゃ。居留守と思うもむりではあるまいが」
「何度、訪ねたかしらぬが、父はひとに会うのを好まぬほうだ。会わぬというのに、無理に来るほうがわるい」
「ひとに会うのは好まぬと。片腹いたい仰せ言じゃの。ではなぜ、おぬしの父は人中に住んでおざるのじゃ」
お杉ばばはまた、いつもの歯を|剥《む》きはじめて、きょうこそは会わぬうちは帰りそうもない顔つきなのであった。
二
てこ[#「てこ」に傍点]でも動かないという俗言がある。ばばの|面《つら》構えはそれであった。
|老婆《としより》と思って見くびる――という共通のひがみが、お杉にもある。いや人いちばい強いほうだ。それゆえに、見くびられまいとする緊張が、てこ[#「てこ」に傍点]でも動かない顔を|拵《こしら》えてしまうのである。
若い新蔵には、およそ苦手な応対であった。ヘタをいえば|揚《あげ》|足《あし》を取る。一|喝《かつ》や二喝ではおどろかない。時々、皮肉な歯を見せてせせらわらう。
無礼者っ。
と、|柄《つか》の|音《おと》でも聞かせてやりたくなるが、短気は負けだと思うし、またそんなことをしても効果があるかどうかも、このばばには疑わしいと思われた。
「――父は留守だが、まあ、それへ腰かけてはどうだな。わしで分る話なら、わしが聞いておこうではないか」
虫を抑えていってみると、これは新蔵が予期していた以上、|効《き》き|目《め》があって、
「大川の|畔《ほとり》から、牛込まで歩いて来るのも、容易ではないがの。実は足もくたびれているところ、おことばに甘えて掛けようか」
すぐ式台の端へ腰をおろして、脚をさすり出したが、舌の根はくたびれる気色もなく、
「これ、お息子よ。――今のように、物柔らかにいわれると、このばばも、つい大声したことが、面目のうなるが、それでは用向きを話すほどに、安房どのがお帰りなされたら、よう伝えてたもれよ」
「承知した。して、父の耳へ入れたいとか、注意したいとかいうた用件とは」
「ほかでもない。作州牢人の宮本武蔵がことじゃ」
「ム。武蔵がどうしたか」
「あれは十七歳の折、関ケ原の|戦《いくさ》に出て、徳川家に弓を引いた人間じゃ。しかも郷里には、数々の悪業をのこし、村では一人として、武蔵をよういう者はない。それに幾多の人を殺して、このばばにも|仇《あだ》と狙われて、諸国を逃げ廻っている悪い|素姓《すじょう》の浮浪人」
「ま、待て、|婆《ばば》」
「いいえいの、まあ、聞いて|賜《た》も。そればかりではない。わしが|伜《せがれ》の|許嫁《いいなずけ》のお通、それをまあ手なずけたりしての、友だちの女房ともきまった|女《おな》|子《ご》をば|誘拐《かどわか》して……」
「ちょっと、ちょっと」
新蔵は、手で抑えて、
「いったい、ばばの目的は何じゃ。武蔵の悪口をそうしていい歩くことか」
「あほらしい。天下のお為を思うてじゃ」
「武蔵を|讒《ざん》|訴《そ》することが、なんで天下のお為になるか」
「ならいでか」
ばばは開き直って、
「――聞けば、当家の北条安房どのと、沢庵坊の推挙で、どうあの口巧い武蔵が取入ったやら、近いうちに、将軍家の御指南役のひとりに加えられるという噂じゃが」
「誰に聞いたか、まだ御内定のことを」
「小野の道場へ行った者から、確かに洩れ聞いておる」
「だから、どうだと申すのか」
「――武蔵という人間は、今もいうた通りな札つき者、そのような侍を、将軍家のお側へ出すさえ|忌《いま》わしいのに、御指南役などとは、もってのほかとこの婆は申すのじゃ。将軍家の師範といえば、天下の師。おおまあ、武蔵などとは思うてもけがらわしい。身ぶるいが出ますわいの。……この身は、それを安房どのへ、お|諫《いさ》めに来たわけじゃ。分ったかの、お息子どの」
三
新蔵は信じている。武蔵をである。父や沢庵が将軍の師範へ推薦したことも、もちろんいい事をなされたと|欣《よろこ》んでいる。
で――ばばのいいぐさを、虫をこらえて聞いていても、おのずから顔いろが変っていた筈であるが、口ばた[#「ばた」に傍点]に|唾《つば》をこしらえて|喋舌《し ゃ べ》りだすと、お杉は相手の顔いろなどは眼に入らず、
「じゃに依って、安房どのに、お|諫《いさ》めしてお沙汰止みを計るのは、天下の為だと思いまする。そなた様もの、くれぐれ武蔵の巧い口にはのせられぬがようござるぞよ」
と、なお|饒舌《じょうぜつ》のとめどがない。
新蔵は、もう聞いているのが、不快になって、うるさいっ、と大喝してやろうと思ったが、それではまた、かえって|粘《ねば》り出すかも知れないと|惧《おそ》れて、
「わかった」
と、不快な|唾《つば》をのみころして追いたてた。
「話の趣、よく分った。父へもその由、伝えておくであろう」
「くれぐれもの」
と、念を押して、ばばはようやく目的を達したように、|藁《わら》|草《ぞう》|履《り》のしりを|摺《す》って、ひたひたと門の外へ出て行きかけた。
すると、どこかで、
「くそばば」
と、いった者がある。
足を止めて、
「なんじゃと」
ねめ廻して、そこらを探すと、樹陰に見えた伊織の顔が、ヒーンと、馬の真似して歯を|剥《む》いて見せながら、
「これでも喰らえ」
と、固い物を|抛《ほう》りつけた。
「ア痛」
ばばは、胸を抑えながら、地に落ちた物を見た。そこらに幾つも落ちている|柘榴《ざ く ろ》の実の一つが砕けていた。
「こいつ」
ばばは、べつに実を一つ拾って、手をふり上げた。伊織は、悪たれ[#「たれ」に傍点]をたたきながら逃げこんだ。|厩《うまや》のある角まで、ばばは追いかけて行ったが、そこから横をのぞいたとたんに、今度はやわらかい物が顔へいっぱいに|打《ぶ》つかってつぶれた。
馬の|糞《ふん》だった。ばばは、ベッベッと|唾《つば》をした。顔についているものを指で掻き落すと、ぼろぼろと涙が共にながれて来た。かかる憂き目にあうというのも、旅の空なればこそ、わが子のためなればこそ。――そう思うと老いの身をふるわせて口惜しく思うのであった。
「…………」
伊織は、遠くに逃げて、物陰から顔を出していた。|悄然《しょうぜん》とばばが泣いている姿を見ると、彼も急にしょんぼりして、大きな罪を犯したように恐くなった。
ばばの前へ行って、|謝《あやま》りたくなった。けれど伊織の胸には、師の武蔵の|悪《あっ》|口《こう》をさんざんいわれた|憤《いきどお》りがまだそれくらいで消えていなかった。けれどやはり|老婆《としより》の泣いている姿は彼に悲しかった。伊織は、複雑な気もちに|囚《とら》われて、指の爪を噛んでいた。
高い崖のうえの部屋で、新蔵が呼んでいる。伊織は救われたように、崖づたいに駈けて行った。
「おい、夕方の赤い富士山が見えるから来てみい」
「あ。富士山」
それで何もかも伊織は忘れてしまった。新蔵もまた、忘れ果てた顔していた。元よりきょうのことを父の耳へ伝えようなどとは、聞いているうちから思いもしないことではあった。
|夢《む》 |土《ど》
一
秀忠将軍はまだ三十をすこし出たばかりであった。父の大御所は一代の覇業をまず九分どおりまでは仕上げたというすがたで今は老いを駿府城に養っている。ここまでは父がした、後はおまえがやるのだと、将軍の職を秀忠は三十そこそこで父から任せられたのである。
父の業績は一代を通じての戦争であった。学問も修養も家庭生活も婚姻も、戦争の中でなかったことはない。その戦争はさらに|乾《けん》|坤《こん》|一《いっ》|擲《てき》な次の大戦争を大坂方とのあいだに|孕《はら》んではいるが、しかしそれはもう長い戦争の終局的なもので、その一戦で長い長い日本の春秋時代も、ほんとの平和に|回《かえ》るだろうと、一般の人心は|観《み》ているのである。
応仁の乱以後の長期な戦乱つづきである。世人は平和の招来に|渇《かわ》きぬいている。武家はとにかく庶民百姓は、豊臣でも徳川でもよい、ほんとの平和が建設されるものならば、というのが偽らない多くの気持であったにちがいない。
家康は秀忠に職をゆずる時、
(そちのなすことは何か)
と、|諮《し》|問《もん》したそうである。
秀忠はすぐ、
(建設にあると思います)
と、答えたので、家康は大いに安んじたということが側近から伝えられていた。
秀忠の信条は、そのまま今の江戸にあらわれている。大御所の認めていることでもあるし、彼の江戸建設は思いきって大規模で急速だった。
それに反して、太閤の遺孤秀頼を擁する大坂城では、戦争に次ぐ戦争の再軍備にせわしかった。将星はみな謀議の黒幕にひそみ、教書は密使の手から諸州に|奔《はし》り、際限もなく牢人や游将を抱え入れて、|硝弾《しょうだん》を積み槍をみがき、|濠《ほり》を深めて備えに怠りないのであった。
(今にも、また、合戦が)
と、|恟々《きょうきょう》たるものは、大坂城を中心とする五畿内の住民を通じての空気であり、また、
(これからは、ほっとできよう)
と、いうのが江戸城を|繞《めぐ》る一般市民の心理であった。
必然――
庶民のながれは続々と、不安な上方から建設の江戸へ移り出した。
それはまた一般が、|豊《とよ》|臣《とみ》中心を見すてて、徳川の治下を慕ってくるような人気のようにも見えた。
事実、乱国につかれた庶民は、豊臣方が勝って、なお戦乱がつづくよりも、ここで徳川家が終局を|収《おさ》めてくれたほうがよいと祈るようにもなっていた。
そういう世相は、関東上方のいずれに子孫を託すかと今、去就の半ばにある各藩の大名やその臣下の眼にも移って、日一日と、江戸城を中心とする|町《まち》|割《わり》や河川の土木や|城《しろ》|普《ぶ》|請《しん》には、新しい時代の力が味方した。
きょうも秀忠は、野支度で、旧城の本丸から新城の工事場のほうへ|吹《ふき》|上《あげ》の丘づたいに出て、作事場を一巡し、眼に耳に胸にひびいて高鳴る建設の騒音の中で時をわすれていた。
|侍《じ》|側《そく》には、土井、|本《ほん》|多《だ》、酒井などの閣臣や|近習衆《きんじゅうしゅう》をはじめ、僧侶などの姿も見え、秀忠はやや小高い所に|床几《しょうぎ》を呼び、そこに一休みしていた。
すると大工たちの働いていた|紅葉《も み じ》|山《やま》下のあたりで、
「野郎っ」
「野郎っ」
「野郎っ、待てっ」
と、|迅《はや》い跫音がみだれた。逃げ廻るひとりの井戸掘り人足を追って、七、八人の大工たちが、喧騒の中を喧騒して突き抜けて行った。
二
脱兎のように、一人の井戸掘り人足が逃げ廻って行く。材木の間にかくれ左官小屋の裏へ走り、またそこから飛び出して、土塀足場の丸太へ|攀《よ》じ付いて、外側へ跳ね飛ぼうとした。
「ふてえ奴」
追い詰めて来た土工のうちの二、三名はすぐ、丸太の上の人間の足をつかまえた。井戸掘り人足男は、|手斧《ちょうな》|屑《くず》の中へもんどり打ってころげ落ちた。
「こいつめ」
「胸くそのわるい」
「叩きのめせ」
胸いたを踏みつける。顔を蹴とばす。|襟《えり》がみをつかんで引き摺り出す。ふくろ叩きなのである。
「…………」
井戸掘りは、痛いとも何ともいわなかった。ただ大地が唯一の頼みのように、地面にへばりついている。蹴転がされても、襟がみをつかまれても、すぐへばりついて必死に地を抱きしめた。
「どうしたのだ」
すぐ|頭梁《とうりょう》の侍が来た。|職方目付《しょくかためつけ》も駈けつけて来た。そして、
「しずまれ」
と、押し分けた。
大工のひとりは、|昂《たか》ぶったことばで、職方目付に訴えた。
「|曲尺《まがりがね》を踏みつけやがったんです。曲尺はわっしどものたましいだ。お侍の|腰《こし》の|刀《もの》と同じでさ。そいつをこの野郎が」
「ま。しずかに申せ」
「これが、静かにできるものか。お武家が刀を土足でふまれたら、何となさいますえ」
「わかった。――じゃが、将軍様には今し方|作《さく》|事《じ》|場《ば》を一巡遊ばして、あれなるお休み所の丘に、只今|床几《しょうぎ》をおすえ遊ばしておられるところだ。お|目《め》|障《ざわ》りだ、ひかえろ」
「……へい」
一度は鳴りをしずめたが、
「じゃあ、この野郎を、|彼方《む こ う》へしょッ引いて行こう。こいつに|水《みず》|垢《ご》|離《り》とらせて、踏まれた|曲尺《まがりがね》に手をつかせて謝らせなくっちゃならねえ」
「|成《せい》|敗《ばい》は、|此《この》|方《ほう》らがする。おまえ達は、持場へ行って仕事にかかれ」
「ひとの曲尺を踏みつけておきながら、気をつけろといえば、謝りもせず、口答えをしやがったんです。このままじゃ、仕事にかかれません」
「分った、分った。きっと処分いたしてくれる」
と職方目付は、|俯《う》っ伏している井戸掘り人足の襟がみをつかんで、
「顔をあげい」
「……はい」
「や。そちは、井戸掘りの者じゃないか」
「……へ。そうです」
「紅葉山下の作事場では、お書物|蔵《ぐら》の工事と、西裏御門の壁塗りとで、左官、植木職、土工、大工などははいっておるが、井戸掘りは一名もいないはずだぞ」
「そうでさ」
と、大工たちは、職方目付の不審に、いい足して、
「この井戸掘りめ、|他人《ひと》の仕事場へ、きのうも今日もうろつきに来やがって、あげくの果て、大事な|曲尺《まがりがね》を泥足で踏ンづけたりなどしやがったから、いきなり頬げた[#「げた」に傍点]を一つくらわしてやったんです。すると、小生意気な口答えをしやがったので、仲間の者が、叩きのめせと、騒ぎ出したんで」
「そんなことはどうでもよいが。……これ、井戸掘り、何の用があって、そちは用もない西丸裏御門のお作事場などをうろついておったのか」
職方目付は、井戸掘りのまっ蒼な顔を見つめた。井戸掘りにしては男ぶりのよい又八の|容貌《かおだち》や、総じて|蒲柳《ほりゅう》な体つきも、そう気をつけて見られると、彼に不審を抱かせた。
三
|侍《じ》|側《そく》の士や閣臣たちや、僧侶や茶道衆や、秀忠の|床几《しょうぎ》のまわりには勿論多くの警固がついているが、さらにその小高い場所を中心にして、遠巻きに|要々《かなめかなめ》には、見張りの警戒が二重にそこを隔てている。
その見張役の者は、作事場の中の些細な事故にも、すぐ眼をひからせているので、何事かと、又八がふくろ叩きになった現場へ駈けて来た。
そして職方目付の者から説明を訊きとると、
「上様のお目ざわりになるから、お目に触れぬ方へ立ち去られたがよかろう」
と、注意した。
尤もな言葉であるから、職方目付は、大工頭梁の侍に計って一同をめいめいの仕事の持場へ追い遣り、
「この井戸掘り人足の男は、ほかにちと調べることもあるから」
と、又八の身は、目付方で処置を取ることとして|拉《らつ》して行った。
御作事奉行配下職方目付詰所というのは、工事場に幾つもある。現場監督の役人たちが休んだり交替で起居をしているほんの仮小屋だった。土間|炉《ろ》に|大《おお》|薬《や》|罐《かん》を掛けて、手すきの役人たちが、湯をのみに来たり、わらじを|穿《は》き代えにもどって来たりしている。
又八はその小屋の裏にくっ付いている、|薪《まき》|小《ご》|屋《や》の内へ|抛《ほう》りこまれた。薪ばかりでなく物置として|沢《たく》|庵《あん》|樽《だる》だの漬物樽だの、炭俵だのが、積んである。そこへ出這入りするのは、炊事をする小者だった。その小者たちは、|小屋仲間《こやちゅうげん》と|称《よ》ばれていた。
「この井戸掘り人足は、不審のかどがある者だから、取調べのすむまで押込めて注意しておれよ」
小屋仲間は、又八の監視をいいつけられたが、そう厳重に縄目などはかけなかった。罪人と決まっている者ならば、すぐその方の手へ渡すだろうし、またこの工事場そのものが、すでに江戸城の厳重な|濠《ほり》や城門のうちにあるので、その必要を感じないからであった。
職方目付はその間に、井戸掘り親方やまたその方の監督者に交渉して、又八の身元とか平常の素行など洗ってみるつもりらしかったが、それも彼の容貌が根からの井戸掘り人足らしくないというだけの不審で、べつにどういうことをしたというわけでもないから、小屋に|抛《ほう》りこまれた又八に対しては、そのまま幾日も調べがなかった。
――がしかし、又八自身は、その一刻一刻が死へ歩み寄っているような恐怖だった。
彼は、彼ひとりで、
「あのことが、|露《ろ》|顕《けん》したに違いない」
と、決めていた。
あのこととは、いうまでもなく、彼が奈良井の大蔵に|使《し》|嗾《そう》されて機をうかがっていた「新将軍|狙《そ》|撃《げき》」の|企《たくら》み事であった。
大蔵にその決行を迫られて、井戸掘り親方の運平らの口入れで城内へはいったからには、すでに又八の胸にはいち[#「いち」に傍点]かばち[#「ばち」に傍点]かの覚悟がついている筈であるが、又八はあれから今日に至るまで、幾度も、秀忠将軍の工事場御巡視の機会には出会っていながら、|槐《えんじゅ》の木の下に|埋《い》けてあるという鉄砲を掘り出して、将軍を狙撃するなどという大それたことは、彼には出来なかったのである。
大蔵に脅迫された時は、いやといえば即座に、殺されそうだったのと、金も欲しかったので、
(やる)
と、誓ってしまったが、江戸城の中へはいってみると、たとえこのまま一生涯、井戸掘り人足で終ろうとも、将軍家を狙うなどという怖ろしいことは、自分にはできないと思い直して、大蔵との約束も努めて忘れるように、土まみれになって、他の人足たちの間に働いていたのである。
――ところが彼にとって、そうしていられない|椿《ちん》|事《じ》がわき上がって来たのだった。
四
それというのは、西裏御門の内にある大きな|槐《えんじゅ》の木が、|紅葉《も み じ》|山《やま》御文庫の書庫を建てる都合で、ほかへ移し植えられることになったことである。
井戸掘り人足のたくさんはいっている|吹《ふき》|上《あげ》の作事場とそことは、だいぶ離れているが、槐の木の下には、かねて奈良井の大蔵が手をまわして、鉄砲を地下に|埋《い》けてあるということを又八は承知していたので、始終、そこには、人知れず注意を払っていたのだった。
で――彼は、|飯《めし》|休《やす》みの暇とか、朝晩の仕事の暇には、西裏御門のそばへ来て、槐の木がまだ掘り返されていないのを見ると、ほっとしていた。
そして、いつか人目のない隙に、その木の下を掘って、鉄砲を他へ捨ててしまおうと考え、ひとり苦慮していたのである。
だから彼が、そこで|過《あやま》って大工の|曲尺《まがりがね》を踏んづけ、大工らの怒りに会って追いまわされた時も、ふくろ叩きよりは、事の発覚がすぐ恐ろしかった。
その恐怖は、その後も去らず、暗い小屋の中で毎日つづいた。
槐の木はもう移し植えられたかもしれない。根を掘れば地下から鉄砲が発見される。当然、取調べが始まる――
(こんど曳き出される時には|生命《い の ち》がない)
又八は毎晩、夢うつつに、あぶら汗をかいた。|冥《めい》|途《ど》の夢を幾度も見た。冥途には、|槐《えんじゅ》の木ばかり生えていた。
或る夜、彼はまた、母親の夢をありありみた。おばばは、今の自分の境遇をあわれともいってくれず、|飼《かい》|蚕《こ》|笊《ざる》をぶつけて何か怒りわめいている。笊の中にいっぱいあった白い|繭《まゆ》を頭から浴びて、又八は逃げまわった。するとその繭のお化けのように白い髪をさかだてたおばばが、どこまでもどこまでも追いかけてくる。夢の中の又八はびっしょり汗をかいて崖から飛びおりたが――体はいつまでも下へつかないで|奈《な》|落《らく》の闇にふわふわしていた。
――ごめんなさいっ。
――おっ母さん。
子どものような悲鳴をあげたと思うと、彼は眼をさましていたのである。眼がさめるとまた、かえって夢よりも切実に|恐《こわ》い|現身《うつしみ》に|回《かえ》って、|惻《そく》|々《そく》と|責《せ》め|虐《さいな》まれた。
(そうだ……)
又八はこの恐怖から自分を救うために、ひとつの冒険へ|奮《ふる》って|起《た》った。それは、|槐《えんじゅ》の木がまだ無事でいるか、移植されたか、見届けてくることだった。
江戸城の要害は、小屋そのものにもあるわけではない。江戸城の外へ出ることはとてもできないが、この小屋から槐の木の側まで行ってみることは、さして困難ではあるまいと思いついたのだ。
もちろん小屋にも|鍵《かぎ》はかかっていた。けれど|不寝《ね ず の》|番《ばん》が付きッきりでいるわけではない。彼は|漬《つけ》|物《もの》|樽《だる》を踏み台にして、明り窓を破って外へ出た。
材木置場だの、石置場だの、掘り返してある土の山陰などを這って、又八は、西裏御門の辺りまで来た。そして、見まわすと、|巨《おお》きな槐の木は、まだ元の所に、そのまま立っていた。
「……ああ」
又八は、ほっと胸をなでた。まだこの木が根移しされていないために、自分の生命もつながっていたのだと思った。
「今だ……」
彼は、どこかへ行って、やがて|鍬《くわ》を拾って来た。そして槐の木の下を掘り始めた。自分の生命がそこから拾い出せるように。
「…………」
一鍬掘っては、その音のひびきに胸を騒がせて、鋭い眼が|四辺《あ た り》を見まわすのだった。
いいあんばいに見廻りも来ない。鍬は次第に大胆に振りつづけられた。そして穴のまわりに新しい土の山ができた。
五
土を掻く犬のように、彼は夢中でその辺りを掘り起した。だが、いくら掘っても、土中からは土と石しか出なかった。
(誰か先に掘り出してしまったのではあるまいか)
又八は懸念しだした。
そしてよけい、徒労の鍬を|揮《ふる》うことを、止められなかった。
顔も腕も、汗にぬれて、その汗に土が|刎《は》ねかかって、泥水を浴びたように、全身はくわっくわっと|喘《あえ》ぎぬいている。
|戛《かつ》――
戛――
つかれた鍬と、つかれた|呼吸《いき》とが、次第に|縺《もつ》れ合って、|眩《めま》いがしそうになって来ても、又八の手は止まらなかった。
そのうちに、何か、どすっと鍬の刃にぶつかった。細長い物が穴の底に横たわっている。彼は鍬を|抛《なげう》って、
「あった」
と、|坑《あな》へ手を突っこんだ。
だが、鉄砲ならば、|錆《さ》びぬように、油紙につつみこんで置くとか、箱に密閉してありそうなものだが、指先に|触《さわ》った物は、ちと変な感じのするものだった。
でも、幾分の期待をかけて、|牛《ご》|蒡《ぼう》を抜くように引っぱり出してみると、それは人間の|脛《すね》か腕らしい一本の白骨だった。
「…………」
又八は、もう鍬を拾う気力もなかった。何かまた、夢をみているのではないかと自分を疑った。
|槐《えんじゅ》の木を仰ぐと、夜露と星が|燦《きら》めいている。夢ではない。槐の一葉一葉だって数えられる意識がある。――確かにあの奈良井の大蔵は、この木の下に鉄砲を|埋《い》けておくといった。それを以て秀忠を撃てといった。嘘であろう筈はない。そんな嘘をいったって彼に何の|得《とく》もないことだから。――しかし、鉄砲はおろか|古《ふる》|鉄《がね》のかけらも出て来ないというのはどうしたわけだろうか。
「…………」
なければないで、又八の不安は去らない。掘りちらした槐のまわりを歩きだした。そして足で土を蹴ちらしてまだ探していた。
――すると誰か、彼のうしろへ歩き寄って来た者がある。今来た様子でなく、意地わるくさっきから物陰で彼のなすことを眺めていたらしかった。又八の背をふいに打って、
「あるものか」
と耳元で笑った。
軽く打たれたのではあるが、又八は背中から五体がしびれて、自分の掘った|坑《あな》の中へのめりそうになった。
「……?」
振向いて、じっと、しばらく|空虚《う つ ろ》な眼をすえていたが――あっ、とそれから初めて常態の神経に|回《かえ》って、|愕《おどろ》きを口から洩らした。
「――お|出《い》で」
|沢《たく》|庵《あん》は、彼の手を引いた。
「…………」
又八の体は硬直したまま動かなかった。沢庵の手をすら、冷たい爪の先で|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ去ろうとするのである。そして|踵《かかと》からぶるぶる|顫《ふる》えを走らせていた。
「来ないか」
「…………」
「お|出《い》でというに?」
きっと沢庵が眼をもって叱るようにいうと、又八は|唖《おし》のように、
「そ、そこを。……そこの、後を……」
と、|縺《もつ》れた舌でいいながら足の先で土を|坑《あな》へ落し、自分の行為を埋め隠してしまおうとするらしかった。
沢庵は、あわれむように、
「よせ。むだのことを。人間が地上に|描《か》いた諸行は、善業悪業ともに、白紙へ墨を落したように、|千《せん》|載《ざい》までも消えはしない。――今したことも足の先で、土をかければすぐ消えると――そんな考え方だから、おまえはぞんざいな人生をするのじゃろ。――さ! 来いっ。おまえは大それた罪を犯そうとした大罪人。沢庵が|鋸引《のこぎりび》きにして血の池へ蹴こんでくれる」
動かないので、彼は又八の耳たぶを持って引っ立てて行った。
六
彼が|脱《ぬけ》|出《だ》して来た小屋を沢庵は知っていた。又八の耳たぶを持ちながら、沢庵は小者たちの寝ている所を|覗《のぞ》き、
「起きんか。誰か起きんか」
と、戸をたたいた。
小屋|仲間《ちゅうげん》は起き出して来て、|不審《いぶかし》げに沢庵のすがたを見ていたが、いつも秀忠将軍の側について、将軍家とも閣老とも、臆面なくことばを交わしている坊さんかと、やがて|腑《ふ》に落ちた顔つきで、
「へい、何か」
「何かじゃないよ」
「へ……?」
「味噌小屋か漬物小屋かしらないが、そこをお|開《あ》け」
「その小屋には今、御不審の井戸掘りを押込めてございますが、何ぞお出しになる物でも」
「寝ぼけていてはいけない。その押し込め人は、窓を破って脱出しているではないか。わしが捕まえて来てあげたのだ。虫籠へきりぎりすを入れるような訳には参らぬから、戸をお開けというのだよ」
「あ。そいつが」
小屋|仲間《ちゅうげん》は|愕《おどろ》いて、泊り番の職方目付を起しに行った。
目付の侍はあわてて出て来て、怠慢のかどを|謝《あやま》りぬいた。閣老などのお耳に入らぬようにと、それも、沢庵へ繰返して頼むのだった。
沢庵はただ|頷《うなず》いてみせ、開けられた小屋の中へ又八を突きとばした。そして自分も共にはいり、中から戸を閉めてしまったので、目付も小屋仲間も、
(どうしたものか?)
と顔を見あわせ、去りも出来ず、外に|佇《たたず》んでいた。
すると沢庵がまた、戸の間から顔だけ出して、
「おぬしらのつかう|剃刀《かみそり》があるじゃろう。すまんがよく|磨《と》いで、剃刀を一|挺《ちょう》、ここへ貸しておくれんか」
と、いう。
何にするのかと疑ったが、この坊さんにそんなことを訊ねていいものか悪いものかの判断もつきかねるのである。ともあれ剃刀を|磨《と》いで持って来て渡すと、
「よしよし」
と、それを受取って、沢庵は中から、もう用事はないから|寝《やす》めという。命じるような言葉であるから、それに|反《そむ》いてはよくあるまいと、目付も小屋|仲間《ちゅうげん》も、めいめいの寝小屋へ|引《ひ》き|退《さ》がった。
中は暗い。
だが、破れた窓から星明りはかすかに|射《さ》す。沢庵は、|薪《まき》の|束《たば》に腰をおろし、又八は|莚《むしろ》のうえに首を垂れている。いつまでも無言であった。|剃刀《かみそり》は、沢庵の手にあるのか、そこらの上に置いてあるのか、気になりながらも、又八の目には見あたらない。
「又八」
「…………」
「|槐《えんじゅ》の下を掘ったら何が出たか?」
「…………」
「わしなら掘り出してみせる所じゃがのう。だが鉄砲ではないぞ。|無《む》から|有《う》をだ。|空《くう》なる|夢《む》|土《ど》から世の中の実相をだ」
「……はい」
「はい、というたところで、おぬしにはその実相も何も分っておるまいが。――まだ夢ごこちに違いない。どうせおぬしは|嬰児《あ か ご》のようなお人よし。噛んでふくめるように教えてやるほかはあるまいなあ。……これ、おぬしは今年|幾歳《い く つ》になる」
「二十八になりました」
「武蔵と同年じゃなあ」
そういわれると又八は、両手を顔にやって、しゅくしゅくと|哭《な》き出した。
七
泣きたいだけ泣かしておけといわぬばかりに、沢庵は黙ってしまった。そして又八の|嗚《お》|咽《えつ》がようやくしずまるとまた口を開いた。
「怖ろしいとは思わぬか。槐の木はおろか者の墓標になるところじゃった。おぬしは自分で自分の墓穴を掘っていた。もう首まで突っ込んでいたのだぞよ」
「――たっ、たすけて下さい。沢庵さまっ」
又八は、いきなり沢庵の|脛《すね》に、しがみついて叫んだ。
「眼、眼が……やっと醒めました。わたしは、奈良井の大蔵に|騙《だま》されたんです」
「いや、まだほんとに、眼がさめてはおるまい。奈良井の大蔵は、おぬしを騙したわけではない。慾張りで、お人よしで、気が小さくて、そのくせ並の者ではできぬ大胆なこともしかねない、天下一の愚か者を見つけたので、上手にそれを使おうとしたのだ」
「わ、わかりました。自分の馬鹿が」
「いったいおぬしは、あの奈良井の大蔵を、何者と思うて頼まれたか」
「分りません。それは今になっても、分らない|謎《なぞ》です」
「あれも関ケ原の敗北者の一人、石田|治《じ》|部《ぶ》とは|刎《ふん》|頸《けい》の友だった大谷|刑部《ぎょうぶ》の家中で、|溝《みぞ》|口《ぐち》|信《しな》|濃《の》という人間じゃ」
「げっ、では、お尋ね者の残党でしたか」
「さもなくて、秀忠将軍の御寿命を|窺《うかが》うわけはあるまいが。今さら、驚くおぬしの|頭脳《あ た ま》がわしには分らんのう」
「いえ、わたしにいったのは、ただ徳川家に怨みがある。徳川家の世になるより、豊臣の世になったほうが、万民のためになる。だから自分の怨みばかりでなく、世上のためだというような話で……」
「そういう折、なぜおぬしは、その人間の底の底まで、じっと考えてみないのか。|漠《ばく》と聞いて、漠とのみこんでしまう。そして自分の墓穴でも掘る勇気をふるい出す。怖いのう。おぬしの勇気は」
「ああ、どうしよう」
「どうしようとは」
「沢庵さま」
「離せ。――いくらわしにしがみついてももう間にあわぬ」
「で、でも、まだ将軍様へ、鉄砲を向けたわけではありませんからどうか、助けてください。生れ変って、きっと、きっと……」
「いいや、鉄砲を|埋《い》けに来る者に途中で故障が起ったため、間に合わなかったというまでのことだ。大蔵の手にまるめられ、|彼奴《き ゃ つ》の怖ろしい策をうけて、あの城太郎が、秩父から無事に江戸へもどっていたら、その夜のうちにも槐の木の下に、鉄砲が|埋《い》け込まれてあったかも知れぬのだ」
「え? 城太郎というのは。……もしや」
「いいや、そんなことは、どうでもよい。ともあれおぬしが|抱《いだ》いた大逆の|罪科《とが》は、法は勿論、神仏もゆるし給わぬところだ。助かろうなどとは考えるなよ」
「では、では、どうしても」
「あたりまえだ」
「お慈悲ですッ」
しがみついて泣き吠える又八を、沢庵は立ち上がりざま蹴放して、
「ばかっ」
と小屋の屋根も吹き飛ぶような|大《だい》|喝《かつ》を吐いて|睨《ね》めつけた。
|縋《すが》れない仏。|慚《ざん》|愧《き》しても救いの手を出してくれない|恐《こわ》い仏。
うらめしげに又八はその眼を見ていたが、がくと、観念の|首《こうべ》を垂れて、さらにさめざめと死を恐れて泣いた。
沢庵は、|薪《まき》のうえの|剃刀《かみそり》を手に取って、その頭へそっと触れた。
「又八……。どうせ死ぬなら、|容相《か た ち》だけでも、釈尊の|御《み》|弟《で》|子《し》になって|逝《ゆ》け。せめてもの|誼《よし》み、|引《いん》|導《どう》だけは授けて進ぜる。眼をふさいで、静かに膝をくむがよい。死も|生《しょう》も、その|瞼《まぶた》一皮、そう泣くほど恐いものではない筈じゃ。――善童子、善童子。嘆くまい。死によいようにわしがしてやる」
花ちり・花開く
一
閣老部屋はひとつの密室でもある。ここの政議が洩れないために、|幾《いく》|側《かわ》にも隔ての|間《ま》や縁が|繞《めぐ》っている。
先頃から、沢庵と北条|安房《あ わ の》|守《かみ》とは、度々、その席へ加わって、|終日《ひねもす》、何事か議を|凝《こ》らしていることが多かった。秀忠の裁可を得るために一同が秀忠の前に出たり、また、奥とそこの間を、|状筥《じょうばこ》の通う数も頻りであった。
「木曾からの使者がもどりました」
と、その日、表から閣老部屋へ報告がはいった。
閣老たちは、
「|直《じ》かに訊こう」
と、待ちかねていた|気《け》ぶりでその使者を、べつな部屋に通した。
使者は信州の松本藩の家来なのである。数日前に閣老部屋から早打が立って、木曾奈良井|宿《じゅく》の百草問屋で大蔵というものを召捕れという命が飛んでいた。――で、すぐ手を廻してみたところ、奈良井の大蔵一家は、とうに宿場の|老舗《し に せ》をたたんで、上方の方へ引移り、その行き先は知る者がない。
家宅捜索をした結果、町家にあるまじき武器弾薬や、大坂方ととり|交《か》わした書状などの始末し残った物が多少あったので、それは後から証拠品として小荷駄に積み、やがて御城中へ|齎《もたら》すことになっているが、取りあえず右のお|報《し》らせまでを早馬をもってお答えに参りました――というのであった。
「遅かったか」
閣老たちは、舌打ちした。打った大網に|雑魚《ざこ》もかからなかった時の感じとひとつである。
次の日。
これは閣老の中の酒井侯へ、酒井家の臣が、川越から来ての報告である。
「おいいつけに依りまして、即日宮本武蔵なる牢人の身は、|秩《ちち》|父《ぶ》の|牢《ろう》|舎《しゃ》より放ちました。折から、迎えに見えた|夢《む》|想《そう》権之助なる者に、|懇《ねんご》ろに、誤解の由を申して、引渡しましてござります」
このことはすぐ、酒井忠勝から、沢庵の耳に伝えられた。
沢庵は、
「|御《ご》|念《ねん》|入《い》りに」
と、かろく謝した。
自分の領地内のまちがい事なので、忠勝はかえって、
「武蔵とやらにも、|悪《あ》しゅう思わぬように」
と、詫び返した。
沢庵が胸に持って来たことは、こうして江戸城|逗留《とうりゅう》中に、一つ一つ片がついて行った。極く手近な、芝口の質屋――大蔵が住んでいた奈良井屋の跡にはもちろん町奉行がすぐ行って、家財秘密書類など残らず没収し、何も知らずに留守居をしていた|朱《あけ》|実《み》の身は奉行所の手に今、保護されている。
一夜、沢庵は、秀忠の室へ近づいて、秀忠に、
「こうなりました」
と、一切の始末を告げた。
そして、
「天下にはまだ無数の奈良井の大蔵がいることを、夢おわすれあってはなりません」
といった。
秀忠は、うむ、と強くうなずいた。この人にはものが分ると思うので沢庵はなお言葉をついで、
「その無数のものを、いちいち捕えて|詮《せん》|議《ぎ》|立《だ》ていたしていたら、詮議に暮れて、大御所の跡目をうけて二代将軍たるの御事業は遂になすいとまもございませぬぞ」
秀忠は、そう小心ではない。沢庵の一言は百言に噛みくだいて、自己の反省としているので、
「手軽に、処置しておけ。この度は、御坊の進言に依ること、御坊の処置にまかすであろう」
と、いった。
二
沢庵は、それについて、親しく礼の旨を述べた。
その後で、
「野僧も、思わず月余を、御府内に逗留いたしましたが、近いうちに|錫《しゃく》を|巡《めぐ》らし、|大和《や ま と》の柳生へ立ち寄って、石舟斎どのを病床に見まい、泉南から大徳寺へもどるつもりにござります」
と、併せて、別れの|辞《ことば》も、いっておいた。
秀忠は、ふと、石舟斎と聞いて、思い出を呼んだらしく、
「柳生の|爺《じい》は、その後、どんな容態かの」
と、訊ねた。
「このたびは、但馬どのも、おわかれぞと、覚悟のていに伺いました」
「では、むずかしいのか」
秀忠は、幼い頃、相国寺の陣中で、父の家康のそばに坐って謁見した、石舟斎|宗《むね》|厳《よし》のすがたと、自分の幼時とを、思い|泛《う》かべていた。
「次に」
と、その沈黙の|裡《うち》から、沢庵がもう一言いった。
「かねて閣老衆にも計り、おゆるしも得ている儀にござりますが、安房どのからも野僧からも、御推挙申し上げておきました宮本武蔵、御師範へお取立てのことも伏してお願い申しておきまする」
「うむ。そのことも聴きおいてある。かねて、細川家でも|嘱目《しょくもく》いたしていた人物とやら、柳生、小野もあるが、もう一家ぐらいは取立ておいてもよかろう」
これで何もかも、沢庵は用事がすんだ心地だった。間もなく彼は秀忠の前を|退《さ》がった。秀忠からは、いろいろな心入れの|賜《たま》|物《もの》があった。しかし沢庵は、その全部を城下の禅寺へ寄託して、いつもの一|杖《じょう》一|笠《りゅう》のすがたで帰った。
けれど、それでもとかく、人の口はさがないものであった。沢庵は政治に|嘴《くちばし》を入れるから、あれは野心を抱いているとか、或は、徳川家に|籠《ろう》|絡《らく》されて、大坂方の情報を時折|齎《もたら》す黒衣の隠密であるとか、いろいろな沙汰が陰ではあった。けれど沢庵自身には、土に働いている庶民の幸不幸はいつも心にあったが、一江戸城や一大坂城の盛衰などは、眼前の花が、開いたり散ったりするほどにしか、観じられていないのである。
ところで、将軍家にまた当分の別辞を述べ、江戸城から出て来る前に、沢庵は、ひとりの男を、弟子として連れて来た。
彼は、秀忠から任せられた権限で、退出する間際の足を、工事場の職方目付の小屋へ向けたのであった。そして、そこの裏手の小屋を開けさせた。
闇の中に、きれいに頭を丸めた若い坊さんが、ぽつねんと|俯向《う つ む》いて坐っていた。その|法衣《こ ろ も》はこの間、沢庵がここを訪れた翌日、人に持たして来て与えた物である。
「……あ」
若い|今《いま》|道《どう》|心《しん》は、戸口の光に射られると、|眩《まぶ》しげに顔をあげた。それは、本位田又八なのである。
「おいで」
沢庵は、外から手招きした。
「…………」
今道心は、立ち上がったが、脚が腐りかけてしまったように|蹌《よろ》めいた。
沢庵は、その手を、掻い抱いてやった。
「…………」
いよいよ刑罰に処される日が来た――と又八は観念しきった眼をふさいでいた。脚の|節《ふし》はがくがく|顫《ふる》えた。断刀の|莚《むしろ》が目のさきにちらついていた。|削《そ》げた青い頬に、ほろほろと涙がながれた。
「歩けるか」
「…………」
何かいったつもりだが、声は出なかった。沢庵に支えられている腕の上で、又八は力なく|頷《うなず》いたのみであった。
三
中門を出る、多門を通る、|平《ひら》|河《かわ》門をくぐる。幾つかの門や|濠《ほり》の橋を又八道心はうつつで越えた。
沢庵の後に|尾《つ》いて|悄《しお》|々《しお》と歩く彼の足つきは、|屠《と》|所《しょ》の|羊《ひつじ》という形容をそのまま思わせる姿だった。
――なむあみだぶつ
――なむあみだ、なむあみだ
――なんまいだぶ……
又八道心は、一歩一歩が、死の刑場へ近づいているのだと思って口のうちで|唱《とな》えていた。
それを唱えていると、死の|恐《こわ》さが少し忘れられて来るからだった。
|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、外濠へ出た。
山の手の屋敷町が見える。|日《ひ》|比《び》|谷《や》村あたりの畑や河すじの船が見える。下町の人通りが見える。
(ああ、この世だ)
又八は、改めて、そう観じずにいられなかった。そしてもいちど、あの浮世の中へ|漂《ただよ》ってみたいと思う|執着《しゅうちゃく》に、涙がぼろぼろながれて来た。
――なんまいだ
――なんまいだ
彼は眼をふさいだ。|唱名《しょうみょう》の声がだんだん|唇《くち》を破って大きくなって来た。果ては夢中だった。
沢庵はふり|顧《かえ》って、
「これ、はやく歩け」
|濠《ほり》にそって、沢庵は大手のほうへ|繞《めぐ》って行った。そして、原を斜めに横ぎって歩いた。又八は、千里もある心地がしていた。このまま道は地獄に続いているように、昼間も真っ暗な心地がした。
「ここで、待っておれ」
沢庵にいわれて、彼は原の中に|佇《たたず》んだ。原のそばには|常盤《と き わ》|橋《ばし》御門からつづいている掘割の水が土の色を|溶《と》かして流れていた。
「はい」
「逃げてもだめだぞ」
「…………」
もう半分死んでいるような顔を悲しげに|顰《しか》めて、又八道心は、うなずいた。
沢庵は原を出て、往来の向うへ渡って行った。すぐ前に、まだ職人が白土を塗りかけている土塀があった。土塀につづいて高い|柵《さく》があり、柵のうちには、|凡《ただ》の町家や屋敷構えとちがう黒い建物の棟が重なっていた。
「……あ。ここは」
又八道心は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。新しく建った江戸町奉行所の牢獄と役宅である。沢庵はそのどっちか分らないが一つの門の中へはいって行った。
「……?」
また、急にがくがく|慄《ふる》え出して来た脚は、彼のからだすら|支《ささ》えられなくなって、ぺたんとそれへ坐ってしまった。
どこかで、|鶉《うずら》が|啼《な》いている。ホロホロと昼の草むらに啼く鶉の声までが、もう|冥途《あ の よ》の|道《みち》の|辺《べ》のもののように聞えた。
「……今のうちに」
と、彼は逃げようかと考えてみた。自分の身体には、縄も手錠もかけてはない。逃げれば逃げられないこともない気がする。
いや、いや、もうだめだ。この原の鶉のように|潜《ひそ》んだところで、将軍家の威令で捜されたら隠れる草の根もあるわけはない。それに|頭《つむり》も|剃《そ》り、|法衣《こ ろ も》も着せられて、この姿ではどうしようもない。
――お|老母《ばば》っ。
彼は、胸のうちで、絶叫した。今さらながら、母の|懐中《ふところ》がなつかしい。母の手から離れさえしなかったら、こんな所で、首を|刎《は》ねられる落ち目にはならなかったであろうにとひし[#「ひし」に傍点]と思う。
お甲、|朱《あけ》|実《み》、お通、誰、誰、誰と彼が青春の相手に、|想《おも》ったり|狎《な》れ遊んだりした|女《おな》|子《ご》の数々も、今、死を前にして、思わぬではなかったが、胸のそこから呼んでいる名は、ただひとつだった。
「お|老母《ばば》っ、お老母っ……」
四
もう一度生きのびられるものだったら、今度こそはお|老母《ばば》にも|叛《そむ》くまい。どんな孝行でもしてみせる。
又八道心は、誓ってそう思ったが、それもよしない後悔にすぎない。
今にも、飛ぶ首――
|襟《えり》の寒さに又八道心は雲を見あげた。|時雨《し ぐ れ》もようの陽であった。|雁《がん》が二、三羽、翼の裏を見せてそこらの近い|洲《す》へ下りた。
(雁が|羨《うらや》ましい!)
逃げたい気もちがうずうずと体を|衝《つ》いて来た。そうだ、また捕まっても元々だと思う。彼はすごい眼で往来の向うの門を見た。沢庵はまだ出て来ない――
「今だ」
起ち上がった。
そして、駈け出した。
すると、どこかで、
「こらっ!」
と、呶鳴った者がある。
それだけで又八道心はもう必死の気を折られてしまった。思いがけない所に、棒を持って立っていた男がある。奉行所の刑吏だった。飛んで来るなりいきなり又八道心の肩さきを打ちすえて、
「どこへ逃げる!」
と、棒の先で、|蛙《かえる》の背なかを抑えるように突き立てた。
そこへ沢庵が見えた。沢庵のほかに、奉行所の刑吏が――|頭立《かしらだ》ったのから小者までぞろぞろ出て来たのである。
その一かたまりが又八の側へ寄って来た頃、さらにまたもう一名の縄付を曳いて四、五名の|牢《ろう》|舎《や》臭い人々が現れた。
頭立った役人は、|処刑《し お き》の場所を選定して、そこに二枚の|荒莚《あらむしろ》を敷かせ、
「では、お立会いを」
と、沢庵を|促《うなが》した。
刑の執行人たちは、ぞろぞろと|莚《むしろ》のまわりに立ち囲む。主な役人と沢庵には|床几《しょうぎ》が与えられた。
棒の先に抑えつけられていた又八道心は、
「起てっ」
と、どなられて体を|擡《もた》げた。だが、歩く力はもうなかった。それを|焦《じ》れったがって刑吏は、彼の|法衣《こ ろ も》の襟がみをつかんでずるずる莚の上まで引き摺って来た。
新しい|素莚《すむしろ》のうえに、又八道心は寒々した首を垂れた。もう|鶉《うずら》の啼き声も耳になかった。ただまわりの人々ががやがやいっているのを、壁を隔てて聞くように、遠い気持で意識するだけだった。
「……あ。又八さん?」
その時、誰か側でいった。又八はぎょろりと横を見た。――見ると自分と並んで|荒莚《あらむしろ》の上にひき据えられている女の囚人がある。
「ヤッ。……ああ|朱《あけ》|実《み》じゃないか」
いった途端に、
「口をきいてはならん」
と、二人の刑吏が間にはいって長い|麺《めん》|棒《ぼう》みたいな|樫《かし》の棒で、|男女《ふ た り》を隔てた。
沢庵のそばにいた頭立った役人は、その時、|床几《しょうぎ》から立って、何か|厳《おごそ》かな口調で、ふたりの罪状をいい渡した。
朱実は泣いていなかったが、又八は人前もなく涙をこぼした。で役人からいい渡された罪状もよく耳には通らないのであった。
「打てっ」
床几へつくと、すぐその役人は|厳《きび》しい声でいった。すると、|先刻《さ つ き》から割竹を持って後ろに|屈《かが》んでいた二人の小者が、躍り出して、
「|一《ひ》イっ、|二《ふ》ウ……。|三《み》イ!」
数えながら又八と朱実の背を撲り出した。又八は、悲鳴をあげた。朱実はまっ蒼な顔を|俯《うつ》|伏《ぶ》せたまま、歯の根で|怺《こら》えている|容《よう》|子《す》だった。
「|七《なな》ア! |八《や》ア! 九ツ!」
割竹は割れて、竹の先から煙が立つように見えた。
五
原の外の往来に、ぼつぼつ人が立ち止まって、遠くから眺めていた。
「なんでしょう」
「お|処刑《し お き》さ」
「ア。百叩きですか」
「痛いだろうな」
「痛いでしょうね」
「まだ百には、半分もあるよ」
「勘定していたんですか」
「……ア。もう悲鳴も揚げなくなってしまった」
棒をかかえて、刑吏がやって来た。その棒で草を叩いて、
「立っちゃいかんっ」
往来の者は、歩き出した。振顧ってみると、百叩きも終ったらしく、|撲《なぐ》り役の小者は、ささら[#「ささら」に傍点]のようになった割竹を|抛《ほう》りだして、|肱《ひじ》で汗をこすっていた。
「ご苦労でござった」
「御大儀で」
沢庵と、主なる役人とは、正しく礼儀を交わし合って、立ち別れた。
役人小者たちは、どやどやと奉行所の門内にはいり、沢庵はなおしばらく、|男女《ふ た り》の|俯《うつ》|伏《ぷ》している|莚《むしろ》のそばに|佇《たたず》んでいたが、黙然と――何もいわずに、原をよぎって、|彼方《か な た》へ行ってしまった。
「…………」
「…………」
|時雨《し ぐ れ》|雲《ぐも》の裂け目から、うすい陽が草にこぼれた。
人が去ると、|鶉《うずら》がまた啼く。
「…………」
「…………」
朱実も、又八道心も、いつまでもじっとうごかなかった。けれどまったく気絶してしまったわけではない。体じゅうは火みたいに痛んでいるし、また、天地に恥かしくて顔が上がらないのであった。
「……オ。水が」
朱実が先に|呟《つぶや》いた。
自分たちの|莚《むしろ》の前に、小さい手桶に|竹柄杓《たけびしゃく》が添えてある。この手桶は、|笞《むち》で打ちすえる奉行所にも、一|掬《きく》の情けはあるのだぞというように、無言の|相《すがた》を持ってそこにあった。
がぶっ……
かぶりつくように朱実は先にそれをのんだ。又八へすすめたのはその後からであった。
「……飲みませんか」
又八道心は、やっと手を伸ばした。ごくごくと水が|喉《のど》を通ってゆく――。役人もいない、沢庵もいない、彼はまだわれに返りきらない|面《おも》|持《もち》だった。
「又八さん……おまえ坊さんになったのかえ」
「……いいのかしら?」
「何が」
「お|処刑《し お き》はこれでいいんだろうか。わたしたちはまだ斬られていない」
「首なんか斬られてたまるものかね。|床几《しょうぎ》に掛けたお役人が、ふたりへ言い渡したじゃないか」
「何といって?」
「江戸表から追放を申しつけると。|冥途《あ の よ》へ追放でなくってよかったね」
「あっ。……じゃあ|生命《い の ち》は」
頓狂な声を出した。よほど|欣《うれ》しかったにちがいない。又八道心は起って歩き出した。朱実のほうを見もしなかった。
朱実は、手を髪へやって、乱れ毛を掻きあげていた。襟を直し、帯をしめ直した。そうしている間に、又八道心の姿はもう草の彼方に小さくなっていた。
「……意気地なし」
彼女は|唇《くち》を曲げてつぶやいた。割竹の|傷《いた》みが|疼《うず》くたびに、彼女はよけい世の中に強くなろうとした。その底には、数奇な運命にねじけて来た性格が、ようやく年を経て、|妖《よう》|冶《や》な花をもちかけていた。
逃げ水の記
一
もうこの屋敷へ預けられてから数日。
伊織は、|悪戯《いたずら》に飽きた。
「沢庵さんはどうしたのだろ?」
そう訊ねる彼のことばの裏には、沢庵の帰りよりは、師の武蔵を案じる憂いがこもっていた。
北条新蔵は、その気持を、いじらしく思って、
「父上もまだお|退城《さが》りにならぬから、ずっと、御城内にお泊りとみえる。――そのうちにお帰りはきまっておるから、また、|厩《うまや》の馬とでも遊んでいるがよい」
「じゃあ、あの馬、借りてもいい?」
「いいとも」
伊織は、厩へ飛んで行った。彼は、良い馬を選んで引っぱり出す。きのうも、おとといも、その馬には乗っていたが、新蔵には黙って乗って行ったのである。――けれど今日は許されたので大威張りであった。
馬に|跨《また》がると、伊織は|疾風《は や て》みたいに裏門から駈け出した。きのうもおとといも、彼の行く先はきまっていた。
屋敷町――畑道――丘――田や野や森や、晩秋の風物が見るまに駒のうしろになって行く。――そしてやがて、銀いろに光る武蔵野の|薄《すすき》の海が眼の前に|展《ひろ》がってくる。
伊織は駒を立てて、
「あの山の|彼方《む こ う》に――」
と、師のすがたを思う。
|秩《ちち》|父《ぶ》の連峰が、野の果てに横たわっていた。|牢《ろう》|舎《や》の中に|囚《とら》われている師の身を思うと、伊織の頬は濡れてくる。
涙の頬を、野の風が冷たく撫でる。秋の更けたことは、あたりの草陰に真っ赤な|烏瓜《からすうり》だの|草《くさ》|紅葉《も み じ》をみても知れる――。やがて、山の|彼方《む こ う》は、霜にもなろうに――と考えられたりする。
「そうだ! 会って来よう」
伊織は、思うとすぐ、馬のしりへ|鞭《むち》を加えた。
駒は、尾花の波を跳んで、またたくまに|半里《はんみち》も駈けた。
「いや、待てよ。ひょっとしたら草庵にお帰りになってるかもしれないぞ」
その日に限って、何となくそんな気がしたのである。伊織は、草庵へ行ってみた。屋根も壁も、壊れた所はみな|繕《なお》っていた。けれど中に住む人はなかった。
「おいらの先生を知らないかあっ……」
|刈《かり》|入《い》れをしている田の人影へどなってみた。附近の百姓たちは皆、彼のすがたを見ると、悲しげに首を振った。
「馬なら一日で行けるだろう」
どうしても彼は、秩父までの遠乗りを決心しなければならなかった。行きさえすれば、武蔵に会えると思い、|一《いち》|途《ず》にまた、野を駈け飛ばした。
いつぞや城太郎に追いつめられて覚えのある|野《の》|火《び》|止《どめ》の|立《たて》|場《ば》まで来た。ところが部落の入口には、乗馬や荷駄や、長持や|駕籠《かご》でいっぱいだった。道を|塞《ふさ》いで四、五十名の侍が、昼食をしている様子なのである。
「ア。通れないや」
往来止めではないが、通るには鞍から下りて、駒を曳かなければならないのである。伊織は、面倒と思って道を引っ返した。道に不便はない武蔵野の原であるし――
すると、飯を喰べかけていた|仲間《ちゅうげん》どもが、彼の駒を追いかけて来て、
「オイ、どん栗坊主。待て」
と、呼んだ。
三、四名つづいて駈け寄って来るのであった。伊織は、駒の首をめぐらして、
「なんだと?」
と、怒ってみせた。
なり[#「なり」に傍点]は小粒であるが、乗っている駒も鞍も、堂々たるものだった。
二
「降りろ」
|仲間《ちゅうげん》どもは、鞍の両側へ寄って来て、伊織を見あげた。
伊織は、何のわけか分らなかったが、仲間どもの|小《こ》|面《づら》が|癪《しゃく》にさわって、
「何さ。何も、降りなくたっていいだろう。――後へ戻るとこだもの」
「何でもいいから降りろ。つべこべいわずと」
「嫌だっ」
「いやだと」
いうより早く、ひとりの仲間が、彼の足を|抄《すく》いあげた。|鐙《あぶみ》に足の届いていない伊織の体は、苦もなく、馬の向う側へ転げ落ちた。
「御用のあるお方があちらで待っているのだ。ベソを掻かずに、早う来いっ」
襟がみをつかまれて、立場の方へずるずる引戻されて行った。――と、|彼方《か な た》から杖を立てて歩いて来た老婆がある。手をあげて、仲間どもを制しながら、
「ホホホホ。捕まったの」
と|快《こころよ》げに笑った。
「あ」
伊織は、真向きに、老婆のまえに立った。いつぞや北条家の邸内へ来た時、|柘榴《ざ く ろ》の|実《み》をぶつけてやったおばばではないか。見たところ、その折とは違って、|旅装《たびよそお》いも改まっているのだ。こんな沢山な侍たちの中に交じって、一体どこへ行く所なのだろうか。
いや、そんなことは、伊織に考えている|遑《ひま》はない。彼はただ、ぎょっとして、ばばが自分をどうする気かと恐れていた。
「|童《わつぱ》よ。おぬし、伊織とかいうたの。――いつぞやはこの婆に、ようも|酷《きび》しいまねをしやったな」
「…………」
「これ」
杖の先で、ばばは、彼の肩をとんと突いた。伊織は戦闘的に身を直したが、部落の中にはいっぱいな侍がいる。それが皆このばばの味方になったら|敵《かな》うはずはないと思って、眼に涙をたたえて|怺《こら》えていた。
「武蔵は、よい弟子ばかり持つことわいな。おぬしも、その一人かよ。ホホホホホ」
「な、なんだと……」
「よいわ。武蔵のことは、このあいだ北条どのの息子にも、口の|酢《す》くなるほどいうたあげくじゃ」
「お、おいらは、おまえなんかに用はないや。帰るんだ。帰るんだっ」
「いいや、まだ用はすまぬ。――いったい今日は、誰の|言《いい》|附《つけ》でわし達の後を|尾行《つけ》て来やったか」
「だれが、てめえなどの、後に|尾《つ》いてくるものか」
「口ぎたない餓鬼よ、|汝《わ》れの師匠は、そういう行儀を教えてか」
「よけいなお世話だい」
「その口から、泣きほざかぬがよいぞ、さあ来やい」
「ど、どこへさ」
「どこへでもよい」
「帰るんだ、おらあ、帰るっ」
「誰が――」
と、ばばの杖は|咄《とっ》|嗟《さ》、風を呼んでいきなり伊織の|脛《すね》を蹴った。
伊織は思わず、
「痛いっ」
と、いって坐った。
ばばの眼くばせのもとに、|仲間《ちゅうげん》たちは、ふたたび伊織の襟がみを持って、部落の入口の|粉《こな》|挽《ひき》|小《ご》|屋《や》の横へ連れこんだ。
そこにいたのは、|正《まさ》しくどこかの藩士に違いない。|野袴《のばかま》を|穿《は》いて、見事な大小をさし、|乗《のり》|換《かえ》|馬《うま》を傍らの木につないで、今、弁当を食べ終えたらしく、小者の汲んで来た|白《さ》|湯《ゆ》を|木《こ》|陰《かげ》で飲んでいた。
三
捕まって来た伊織を見ると、その侍はにやりと笑った。気味のわるい人である。伊織は|竦《すく》んで眼をみはった。――佐々木小次郎であったからである。
その小次郎へ、おばばは、得意そうに、
「見なされ、やはり伊織めであったがな。武蔵|奴《め》が、なんぞ肚に一物あって、わしらが後を|尾《つ》けさせたに違いはない」
と、|顎《あご》つき出して告げた。
「……ウむ」
小次郎も、そう考えているように、|頷《うなず》き合った。そして、|周《まわ》りにいる|仲間《ちゅうげん》たちを、ようやく退けた。
「逃げるといかぬ。逃げぬように、小次郎どの、|縛《くく》っておきなされ」
小次郎はまた、薄笑いをうかべて、顔を横に振った。――その笑い顔の前では、逃げることはおろか、起つこともできないと、伊織はあきらめていた。
「小僧」
小次郎は、当りまえな言葉で話しかけた。
「――今、ばば殿が、ああいうたが、その通りか。それに違いないか」
「ううん、ち、ちがう」
「どう違う?」
「おらはただ、馬に乗って、|野《の》|駆《が》けに来たんだ。――後なんか|尾《つ》けに来たんじゃないや」
「そうだろう」
と、小次郎は一応、得心して見せたが、
「武蔵も武士の端くれならば、よもそのような卑劣はすまい。……だが、突然わしとばば殿とが、打揃うて、細川家の家士のうちに|交《ま》じり、旅立つのを知ったとしたら、さだめし、何事かと武蔵も不審を起して……解けぬ疑いから……後を|尾《つ》けさせてみとうなるのも人情だ。むりはない」
と、独りぎめして、伊織のいいわけなど、耳に入れない。
伊織もまた、そういわれてから初めて、彼やおばばの境遇に、改めて不審を持った。二人の身に、何か最近、変ったことが起ったに違いない。
なぜならば、小次郎の特徴であった髪や|服装《み な り》も、前とは、人違いするほど変っていて、あの前髪も刈り込み、これ見よがしな派手な|伊達《だて》羽織も、地味な|蝙蝠《こうもり》|羽《ば》|織《おり》と|野袴《のばかま》とに変っているのである。
ただ、変らないのは、愛刀|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》だけで、これは太刀作りを、ふつうの拵えに直して横に|手《た》|挟《ばさ》んでいた。
ばばも旅支度だし、小次郎も|旅拵《たびごしら》えなのだ。そしてこの|野《の》|火《び》|止《どめ》の|立《たて》|場《ば》には、細川家の重臣岩間角兵衛以下、十名ぐらいな藩士とその家来や荷駄の者が今、昼食の休息を取っているのである。そういう道中の群れのうちに小次郎が、やはり一箇の藩士としているところを見ると、彼が前から志していた仕官の宿望が遂にかなって――望みの千石とはゆかないまでも――四百石とか五百石とか相応のところで折れ合い、推挙した岩間角兵衛の顔も立てて、細川家に召抱えられたものと推定しても|過《あやま》りはないであろう。
そう考えてくると、細川|忠《ただ》|利《とし》もまた、近く|豊《ぶ》|前《ぜん》の小倉に帰国の噂がある。三斎公が老年なので、忠利の帰国願いは、かなり前から幕府へ提出されていた。その許しが出たことは、いいかえれば、幕府が細川家を二心なきものと見極めた信頼の証拠であるとも、一般から思われていた。
岩間角兵衛だの、新参の小次郎だのの一行は、その先発として、本国|豊《ぶ》|前《ぜん》の小倉へ向う途中であった。
四
同時にまた、おばばの身にも、どうしても一度、郷里に帰らなければならない事情が起っていた。
跡取りの又八は家出し、大黒柱ともいうべき彼女は、ここ幾年も帰ったことはなく、親類中でも頼りとする河原の権叔父までが、旅先で落命しているので、郷里にある本位田家にも、その間、いろいろな問題が|溜《たま》っているには違いないのである。
で、おばばは、なお武蔵にもお通にも依然として他日の報復は期しているが、小次郎が豊前小倉まで下るのをよい|道《みち》|連《づ》れと頼んで、途中、大坂表に預けてある権叔父の遺骨を受け取り、郷里の宿題をひと片づけつけて、かたがた、年久しく怠っていた祖先の年忌やら、権叔父忌も一度やって、ふたたび目的の旅へ出直そうと決めたわけであった。
――だが、このばばのことであるから、武蔵に対しては、一時でもただ|見《み》|遁《のが》しては去らなかった。
小野家から小次郎に洩れ、小次郎から彼女の耳へはいった噂によると、武蔵は近く、北条安房や沢庵の推挙によって、柳生、小野の二家に加わって、将軍家師範の一員となるということだった。
それを小次郎から聞かされた時の、ばばの不快そうな顔色といったらなかった。そうなっては将来、手出しのし|難《にく》いものになるしまた、彼女の信念を訴えても、これを|阻《はば》むのは将軍家のためであり、そういう人間の出世を|覆《くつがえ》してやるのは、世道の見せしめであると思った。
で、彼女は、沢庵にだけは会えなかったが、北条安房守の玄関に立ったり、柳生家へわざわざ出向いたりして、極力、武蔵が取立てられることの非を鳴らした。推薦者の二家ばかりでなく、|手《て》|蔓《づる》のある限り、閣老たちの屋敷へも行った。そして武蔵の|讒《ざん》|訴《そ》をあの調子で|撒《ま》いて歩いたのである。
もちろん小次郎は、それを止めもしないしまた、|煽《せん》|動《どう》もしなかった。――けれど、おばばが一たんそういう目的に躍起を賭けると、|貫《つらぬ》かねば|熄《や》まなかった。町奉行や評定所へも、年来の武蔵の生立ちや行状など|悪《あ》しざまに書いて、それを投げ文にして|抛《ほう》りこんだくらいである。小次郎すら、余りいい気持がしないほど、その妨害運動は徹底していた。
(――わしが小倉へ参っても、いつか一度は、武蔵とまみえる日がきっと来る。また、いろいろな関係が、宿命的にもそうなっている気がする。ここはしばらくほっておいて彼が出世の|階《きざはし》を踏み外した後――どう落ちて来るか、見ていたがよいだろう)
小次郎からも、今度の小倉下向に、|行《こう》を共にするようにすすめた訳であった。ばばの心にはまだ又八への未練もあったが、
(あれも、今に眼がさめて、後を追うて来るじゃろう)
と、武蔵野の秋も暮れるこの頃を――|一《ひと》|先《ま》ずすべての迷妄から離れて、ここまで旅立って来たところだった。
だが。
そういう二人の一身上の変化などは、もとより伊織の知るところでもなし、いくら考えても、分ることではなかった。
逃げるにも逃げられないし、涙など見せては、師の恥になると思って彼は、恐ろしい中にも、じっと我慢して、小次郎の|面《おもて》を見つめていた。
小次郎も意識的に、その眼をにらみつけた。だが伊織は眼を|反《そ》らさないのである。いつか、草庵で独り留守していた折、むささび[#「むささび」に傍点]と睨めくらをしたように、鼻腔でかすかな息をしながら、|飽《あ》くまで小次郎の|面《おもて》を正視していた。
五
どんな目に遭わされるかと思っているらしい伊織の戦慄は、子ども心の憂いに過ぎなかった。
小次郎には、おばばのように、子どもと対等になる気など毛頭ない、まして今日の彼には地位もできていた。
「ばば殿」
と、ふと呼ぶ。
「おいの。なんじゃ」
「矢立をお持ちか」
「矢立はあるが、墨つぼが乾いておる。なんぞ筆が|要《いり》|用《よう》かの」
「武蔵へ、手紙を|認《したた》めようと思って」
「武蔵へと」
「されば。辻々へ|札《ふだ》を立てても、いっかと姿を見せぬし、また、|住居《す ま い》もとんと知れぬ武蔵へ――折からこの伊織は、打ってつけな使いではあるまいか。江戸を去るにあたって、一書、彼の手に届けておくのだ」
「何と書きなさる?」
「文飾などはいらぬ。また、わしが豊前へ下ることも、|人《ひと》|伝《づ》てに聞きおろう。要は、腕をみがいて汝も豊前へ下れというまでのことだ。生涯でもこちらは待つ。自信を得た日に来れ、というだけで意志は届こう」
「そのような……」
と、ばばは手を振って、
「――気の永いことは困る。作州の家へ帰っても、わしはまたすぐ旅に出るつもりじゃ。そしてこの両三年がうちには、きっと武蔵を討たねばならぬ」
「わしにまかせておけ。おばばの望みも、わしと武蔵との事の|序《ついで》に仕果して進ぜるからそれでよかろう」
「じゃが、なんせい、|老《と》る|年齢《とし》じゃ。生きているうちに、間に合わねば……」
「養生をなされ。長生きをして、わしが|畢《ひつ》|生《せい》の剣を持って、武蔵に|誅《ちゅう》を加える日を見るように」
受取った矢立を持って、小次郎は近くの流れに手を|浸《ひた》し、指のしずくを墨つぼにたらしていた。
|佇《た》ったまま、懐紙にさらさらと筆を走らせる。彼の文字は流達で、文辞には才気があった。
「これに飯粒が」
と、ばばは弁当|殻《がら》のそれを|木《こ》の|葉《は》の上に付けて出した。小次郎は封をして、表に宛名、裏に、
[#ここから2字下げ]
細川家家中佐々木巌流
[#ここで字下げ終わり]
と、書いた。
「小僧」
「…………」
「恐がらないでもよい。これを持って帰れ。そして中には大事な用向きが書いてあるから、きっと、師の武蔵へ手渡すのだぞ」
「……?」
伊織は、持って行ったものか、きっぱり断ったほうがいいものか、考えているふうだったが、
「……うん」
|頷《うなず》いて、小次郎の手から、それを|引《ひ》ッ|奪《た》くった。
そして、|屹《きつ》と、立ち上がって、
「こん|中《なか》に、何と書いてあるんだい、おじさん」
「今、おばばへ話したような意味だ」
「見てもいいかい」
「封を切ってはならん」
「でも、もしか先生に無礼なことでも書いてある手紙なら、おいらは、持って行かないぜ」
「安心せい。無礼なことばなどは書いてない。かつての約束は忘れておるまいなということと、たとえ豊前に下るとも、必ず再会の日を期しておるということが書いてあるだけだ」
「再会というのは、おじさんと先生と、会うことかい」
「そうだ、生死の境に」
と、うなずく小次郎の頬に、薄っすらと血が冴えた。
六
「きっと届けるよ」
伊織は、手紙を、|懐中《ふところ》へしまいこんだ。
そしてすばやく、
「あばよ!」
おばばと小次郎の間から六、七間も跳び離れて、
「ばかっ」
と、いい放った。
「な、なんじゃと」
ばばは、追おうとした。
だが、小次郎が手を抑えて離さなかったのである。小次郎は苦笑して、
「いわしておけ。子どものことだ……」
伊織は、もっと何か、胸につかえていたものをいおうとして、踏み止まったのであるが、眼は|口惜《くや》し涙にかすんで、急に|唇《くち》もうごかないのであった。
「なんだ小僧。――ばかといったようだが、それきりか」
「そ、それきりだいッ」
「あはははは。おかしな奴だ。はやく行け」
「大きなお世話だよ。見ていろ、きっと、この手紙は、先生に渡してやるから」
「おお届けるのだ」
「後で後悔するんだろ。おまえたちが、歯ぎしりしたって、先生が、負けるものか」
「武蔵に似て、負けない口をきく小僧|弟《で》|子《し》だ。だが、涙をためて、師の肩持ちをするところは|可憐《し お ら》しい。武蔵が死んだら、わしを頼って来い、庭掃きにつかってやる」
|揶揄《か ら か》ったのである。しかし伊織は骨の|髄《ずい》まで恥辱を覚えた。いきなり足もとの石を拾って、投げつけようとしたのである。その手を、無自覚に振りあげたせつな、
「餓鬼っ」
小次郎の眼が、はったと、自分のほうを見た。見たというよりは、眼の球がとびかかって来たような衝動だった。いつかの晩のむささび[#「むささび」に傍点]の眼などまだまだ弱いくらいだった。
「…………」
|敢《あえ》なく石を横へ捨てて、伊織は|無性《むしょう》に逃げ出していた。いくら逃げても逃げても恐さが振り捨てられなかった。
「…………」
武蔵野のまん中に、彼は息をきって坐りこんでいた。
二刻もそうしていた。
そのあいだに、伊織はおぼろげながら、わが師と頼む人の境遇を、初めて考えてみたのだった。敵の多い人だということが子供ごころにも分った。
(おいらも偉くなろう)
いつまで、師の身を無事に、そして永く師を奉じるためには、自分も一緒に偉くなって、師を護る力をはやく持たなければならないと思った。
「……偉くなれるかしら、おいらなんか」
正直に、彼は、自分を考えてみる。さっきの小次郎の眼光が思い出されてまた、ぞっと身の毛がよだったのである。
ひょっとしたら、自分の先生でも、あの人には|敵《かな》わないのじゃないかしら? ――そんな不安さえ抱きはじめた。そしたら、もっと自分の先生も勉強しなければ――と彼らしい取越し苦労を持った。
「…………」
草の中に、膝をかかえているまに、|野《の》|火《び》|止《どめ》の宿も、|秩《ちち》|父《ぶ》の連峰も、白い夕霧につつまれている。
そうだ。新蔵様は心配するかも知れないが、秩父まで行ってしまおう。|牢《ろう》|舎《や》にいる先生にこの手紙を届けよう。陽は暮れても、あの正丸峠を越えさえすれば――。
伊織は立って、野を見まわした。|俄《にわか》に、捨てた馬を思い出したのである。
「どこへ行ったろ? おいらの馬は?」
七
北条家の|厩《うまや》から曳き出して来た駒である。|螺《ら》|鈿《でん》の鞍がついている。野盗が見つけたら見逃しっこない|逸《いち》|物《もつ》なのだ。――伊織は捜しあぐねた果て、口笛をふきならして、しばらく草枯れの野末を見まわしていた。
水か霧か、うすい煙のようなものが、草の間を、低くうごいてゆく。――そこらに、駒の跫音がするような気がして駈けて行けば、駒の影もなく、水の流れもない。
「おや? |彼方《む こ う》に」
と、何やら黒いものの動くのを見て、また駈けてゆくと、それは|餌《え》を拾っていた|野《の》|猪《じし》だった。
野猪は、伊織のそばをかすめて、萩むらの中へ、|旋風《つ む じ》みたいに逃げ去った。――振向くと、|猪《しし》の通った後には、幻術師の杖が線を引いたように、|漠《ばく》として一すじの夜霧が白く地を這っている――
「……?」
だが、霧かと眺めているうちに、霧はせんかん[#「せんかん」に傍点]と水音を立て、やがて、小川のせせらぎの上に鮮やかな月の影を浮かべてくる。
「…………」
伊織は怖くなって来た。彼は幼時からいろいろな野の神秘を知っている。|胡《ご》|麻《ま》|粒《つぶ》ほどな天道虫にでも、神の意志があると信じている。うごく枯葉も、呼ぶ水も、追う風も、伊織の眼には、無心なものである物は一つもなかった。そうして有情の天地に触れると、彼の幼い心も、|行《ゆ》く|秋《あき》の草や虫や水と共に|蕭々《しょうしょう》とうら|寂《さび》しい|顫《ふる》えを鳴り立ててくる。
彼はふいに、大きく声をしゃくって、泣きはじめた。
馬が見つからないので、泣きたくなったわけでもない、急に父母のない身が悲しくなったとも見えない。|肱《ひじ》を曲げて顔に当て、その顔と肩をしゃくっては、歩き歩き泣いて行くのである。
こういう時、少年の涙は、彼自身にも甘かった。
人間以外の、星か、野の精が、もし彼に向って、
――何で泣くか。
と訊ねたら、彼は泣きやみもせずいうにちがいない。
――わからないや。分ることなら泣きなんかしないや。
それをもっと|宥《なだ》めすかして問いつめれば、彼は遂にこういうだろう。
――おいらは、|曠《ひろ》い野に出るとふいに泣きたくなることがよくあるんだ。そしていつも法典ケ原の一軒家がそこらにあるような気がしてならないんだよ。
独り泣く|病《やまい》のある少年には、独り泣くたましいの楽しみが同時にあった。泣いて泣いて泣きぬいていると、天地があわれと|労《いたわ》り慰めてくれるのである。そして涙が乾きかけてくると、雲の中を出たように心が晴々と冴え返ってくる。
「伊織。伊織ではないか」
「おお、伊織だ」
彼のうしろで突然そういう人声がした。伊織は泣き|腫《は》らした眼のまま道を振り向いた。ふたりの人影が夜空に濃く見えた。ひとりは馬の上なので、連れの者よりずっと姿が高く見えた。
八
「――ア。先生」
伊織は馬上の人の足元まで、のめるように駈け|転《まろ》んで行き、そしてもう一度、
「先生っ。先……先生」
あぶみ[#「あぶみ」に傍点]へ、しがみつきながら叫んだのであった。――だがふと、夢ではないかと疑うような眼をして、武蔵の顔を見上げ――また、馬のわきに|杖《じょう》をついて立っている夢想権之助の姿を見まわした。
「どうした?」
と、馬上から見おろしていう武蔵の顔は、月のせいか、いたく|窶《やつ》れて見える。だがその声は、彼がこの日頃、心に|渇《かわ》きぬいていた師のやさしい声に間違いなかった。
「――こんな所を、どうして独りで歩いていたのだい」
それは次にいった権之助のことばである。権之助の手は、すぐ伊織の頭の上へ来て、自分の胸へかかえ寄せた。
もし前に泣いていなかったら、伊織はここで泣いたかも知れなかったが、彼の頬は月にてらてら乾いていた。
「先生のいる|秩《ちち》|父《ぶ》へ行こうと思って……」
いいかけてふと、伊織は、武蔵の乗っている駒の鞍や毛並を見つめ、
「オヤ。この馬は……おいらの乗って来た馬だ」
権之助は、笑って、
「おまえのか」
「ああ」
「誰のか知らぬが、|入《いる》|間《ま》|川《がわ》の近くに、うろついていたので、お体のつかれている武蔵様へ、天の与えと、拾っておすすめ申したのだ」
「アア、野の神さまが、先生の迎えに、わざとそっちへ逃がしたんだね」
「だが、おまえの馬というのもおかしいではないか。この鞍は、千石以上の侍のものだが」
「北条様の|厩《うまや》の馬だもの」
武蔵は降りて、
「伊織、ではそちは今日まで、|安房《あわ》どののおやしきにお世話になっていたのか」
「はい。沢庵さまに連れられて――沢庵さまがいろといったんです」
「草庵はどうなっている」
「村の人たちがすっかり|繕《なお》してくれました」
「では、これから戻っても、|雨《あめ》|露《つゆ》だけはしのげるな」
「……先生」
「うむ。なんじゃな」
「|瘠《や》せた……どうしてそんなに瘠せたんですか」
「|牢《ろう》|舎《や》の中で、坐禅をしていたからの」
「その牢舎を、どうして出て来たんですか」
「後で、権之助から、ゆるゆる聞くがよい。ひと口にいえば、天の御加護があったか、|遽《にわ》かにきのう無罪をいい渡されて、|秩《ちち》|父《ぶ》の|獄《ごく》|舎《や》から放されたのじゃ」
権之助が、すぐいい足した。
「伊織、もう心配すな。きのう川越の酒井家から、急使が来て、平あやまりに謝り、むじつのお疑いが晴れたわけだ」
「じゃあきっと、沢庵さまが、将軍様に頼んだのかも知れないよ。沢庵さまはお城へ上がったきり、まだ北条様のおやしきへ帰らないから」
伊織は|遽《にわ》かにお|喋舌《し ゃ べ》りになった。
それから、城太郎と出会ったことや、その城太郎が、実の|父《おや》の|薦《こも》|僧《そう》と落ちて行ったことや、また、北条家の玄関さきへ、度々お杉ばばが訪れて、悪たい[#「たい」に傍点]を並べたことなどを――歩き歩き話しつづけていたが、そのおばばで思い出したらしく、
「あ。それからね、先生、まだたいへんなことがあるよ」
と、|懐中《ふところ》を掻い探って、佐々木小次郎の手紙を取り出した。
九
「なに、小次郎からの書状? ……」
|仇《あだ》と呼び合う者とはいえ、絶えたる者はなつかしい。まして、互いに|砥《と》|石《いし》となって|研《みが》き合っている仇である。
武蔵はむしろ、心待ちしていた消息でも手にしたように、
「どこで会ったか」
と、その|宛《あて》|名《な》|書《がき》を見ながら伊織に訊ねた。
「|野《の》|火《び》|止《どめ》の|宿《しゅく》で」
と、伊織は答え、
「――あの、恐いおばばも、一緒にいましたよ」
「おばばとは、本位田家のあの年よりか」
「|豊《ぶ》|前《ぜん》へ行くんだって」
「ほ……?」
「細川家のお侍たちと一緒でね……詳しいことはその中に書いてあるでしょう。――先生も、油断しちゃだめですよ。しっかりして下さい」
武蔵は書面を|懐中《ふところ》に仕舞う。そして伊織に黙って|頷《うなず》いてやる。だが、伊織はそれに|安《やす》んぜず、
「小次郎って人も、強いんでしょ。先生は何か怨みをうけているの? ……」
と、それからそれへと問わず語りに、きょうの始末を、|喋舌《し ゃ べ》りつづけた。
やがて何十日ぶりで、草庵にたどり着いた。早速に欲しいのが、火と食物。――夜は更けていたが、権之助が|薪《たきぎ》や水をあつめる間に、伊織は、村の百姓家へ走ってゆく。
火ができる。|炉《ろ》を囲む。
あかあかと燃える一|炉《ろ》をかこんで、久しぶりに互いの無事を見合う楽しさは、波瀾に|揉《も》まれてみなければ汲めない人生の悦楽だった。
「あら?」
伊織は、袖口にかくれている師の腕だの、襟元などに、まだ傷口の割れている|痣《あざ》が幾つもあるのを見つけて、
「先生、どうしたんです。身体じゅうに……そんなに」
|傷《いた》|々《いた》しげに、眉をしかめて、武蔵の肌の奥を|覗《のぞ》こうとすると、
「何でもない」
武蔵は、話を|反《そ》らして、
「馬にも、何かやったか」
「ええ、|飼糧《か い ば》をやりました」
「あの駒を、明日は北条どののお邸へ、かえして来なければいけないぞ」
「はい。夜が明けたら、行って参ります」
伊織は寝坊しなかった。|赤《あか》|城《ぎ》|下《した》の邸で、新蔵が心配しているに違いないと、|翌《あく》る|朝《あさ》は、真っ先に起きて|戸外《お も て》へとび出した。
そして、朝飯前に|一《ひと》|鞭《むち》と――駒の背にまたがるなり駈け出すと、ちょうど武蔵野の真東から、のっと大きな日輪が草の海を離れかけていた。
「ああ!」
伊織は、駒を止めて、驚きの眼をすえていたが、急に駒を返して、草庵の外から、
「先生、先生。早く起きてごらんなさい。いつかみたいな――|秩《ちち》|父《ぶ》の峰から拝んだ時みたいな――それはそれは大きなお|陽《ひ》さまが、きょうは、草の中から、地面を転がって来るように昇っていますよ。権之助さんも、起きて来て|拝《おが》んだがいいよ」
「おう」
と、武蔵がどこかでいう。武蔵はもう起きて、小鳥の声の中をあるいていた。行って来ます、と元気よく駈けてゆく|馬蹄《ひ づ め》の音に、武蔵が森から出て、|眩《まば》ゆい草の海を見送っていると、伊織の影は、一羽の|鴉《からす》が、太陽の火焔の真っただ中へ|翔《か》け入って行くように、またたく間に、小さくなり、黒い点になり、やがて燃えきって|溶《と》けてしまった。
栄達の門
一
一夜ごとに落葉がたまる。邸内を|掃《は》き、門を|開《あ》け、落葉の山に火をつけて、門番が朝飯を食べているころ、北条新蔵は、朝の素読と、家臣相手の撃剣の|稽《けい》|古《こ》をおえ、汗の体を井戸端で拭いて、ついでに|厩《うまや》の馬たちの機嫌を|覗《のぞ》きに来る。
「|仲間《ちゅうげん》」
「へい」
「栗毛はゆうべ帰らなかったな」
「馬よりは、あの子はいったい、何処へ行っちまったんでしょう」
「|伊《い》|織《おり》か」
「いくら子供は風の子だって、まさか夜どおし、駆け歩いているわけでもないでしょうに」
「心配はない。あれは、風の子というよりは、野の子だからな。ときどき、野原へ出てみたくなるに違いない」
門番の|爺《じい》がそこへ走って来て、彼に告げた。
「若旦那さま。お友達の方が大勢して、あれへお越しなさいましたが」
「友達が」
新蔵は歩き出して、玄関前にかたまっている五、六名の青年たちへ声をかけた。
「やあ」
すると、青年たちも、
「ようっ」
と|朝《あさ》|寒《ざむ》|顔《がお》を揃えて、彼の方へ近づいて来ながら、
「しばらく」
「お揃いで」
「ご健勝か」
「この通りだ」
「お怪我をなされたとうわさに聞いていたが」
「何。さしたるほどではない。――早朝から諸兄おそろいで、何事か御用でも」
「む、ちと」
五、六名は顔を見合わせた。この青年たちは皆、旗本の子弟とか、|儒《じゅ》|官《かん》の子息とか、それぞれ然るべき家の子であった。
また先頃までは、|小《お》|幡《ばた》|勘《かん》|兵《べ》|衛《え》の軍学所の生徒でもあったから、そこの教頭だった新蔵からすれば軍学のおとうと|弟《で》|子《し》にあたる者達である。
「あれへ行こうか」
新蔵は、平庭の一隅に燃えている落葉の山を指さした。その|焚《たき》|火《び》を囲み合って、
「寒くなると、まだここの傷口が痛んでな……」
と|頸首《えりもと》へ手を当てた。
新蔵のその刀傷を、青年たちはこもごも覗いて、
「相手はやはり、佐々木小次郎と聞きましたが」
「そうだ」
新蔵は、目にいぶる煙に、顔を|反向《そむ》けて、沈黙していた。
「きょうご相談に参ったのは、その佐々木小次郎についてでござるが……。亡師勘兵衛先生の御子息、余五郎どのを討ったのも、小次郎の|仕《し》|業《わざ》と、やっと昨日、知れましたぞ」
「多分……とは思っていたが、何か、証拠があがりましたか」
「余五郎どのの死骸が発見されたのは、例の芝|伊《い》|皿《さら》|子《ご》の寺の裏山でした。あれから吾々が、手を分けて|詮《せん》|議《ぎ》してみると、伊皿子坂の上には、細川家の重臣で岩間角兵衛という者が住まっており、その角兵衛の宅の|離室《は な れ》に、佐々木小次郎が起居していたことが知れたのです」
「……ム。では余五郎どのは、単身でその小次郎の所へ」
「返り討ちにおなりなされたのです。死骸として、裏山の崖から発見された前日の夕方、花屋のおやじが、それらしいお姿を、附近で見かけたということで……かたがた、小次郎が手にかけて、崖へ死骸を蹴込んでおいたことは、もはや疑う余地もございません」
「…………」
話はそこで|断《き》れて、幾人もの若い眸は、断絶した師家の怨みを、落葉の煙の中に悲痛に見つめ合っていた。
二
「で? ……」
新蔵は火にほてった顔を上げ、
「それがしに相談とは」
青年の一人が、
「師家の今後です。それと、小次郎に対するわれわれの覚悟のほどを」
|他《ほか》の者がまた、
「あなたを中心に決めておきたいというわけで」
と、いい足した。
新蔵は考えこんでしまう。――青年たちは、なお口をきわめて、
「お聞き及びかも知れぬが、佐々木小次郎は、折も折、細川|忠《ただ》|利《とし》公に抱えられ、すでに藩地へ向け旅立ったということだ。――遂に、吾々の師は憤死せられ、御子息は返り討ちにあい、しかも同門の多数も彼に|蹂躪《じゅうりん》されたまま、彼が栄達の晴れの退府を、空しく見ていなければならないのか……」
「新蔵どの、残念ではないか。小幡門下として、このままでは」
誰かが、煙に|咽《む》せる。落葉の火から白い灰が舞う。
新蔵は依然、黙りこくっていたが――果てしない同門たちの悲憤の|遣《や》り|取《と》りに、
「何せい拙者は、小次郎から受けた刀の|傷《きず》|痕《あと》が、この寒さに、まだしんしんと痛んでおる身。いわば恥多き敗者の一名だ。……さし当って、策もないが、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]としては一体、どうなさろうというお考えか」
「細川家へ談じ込もうと思うのです」
「何と」
「|逐《ちく》|一《いち》、|経緯《いきさつ》を述べて、小次郎の身がらを吾々の手に渡してもらいたいと」
「受け取って、どう召さる」
「亡師と御子息の墓前に、|彼奴《き ゃ つ》の|首《こうべ》を|手《た》|向《む》けます」
「縄付で下さればよいが、細川家でもそうはいたすまい。われわれの手で討てる相手なら、今日までにも|疾《と》うに討てている。――また、細川家としても、武芸に|長《た》けたところを買って召抱えた佐々木小次郎。各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]から渡せといっても、かえって小次郎の武技に|箔《はく》を付けるようなもので、そういう勇者なればなおさら、渡せぬと出るに違いない。いちど家臣とした以上、たとえ新規召抱えであろうと、おいそれと渡すような大名は、細川家ならずとも、何処の藩でもないと思うが」
「さすれば、やむを得ぬ。最後の手段をとるばかりだ」
「まだほかに手段があるのですか」
「岩間角兵衛や小次郎の一行が立ったのはつい昨日のこと。追いかければ道中で行き着く。貴公を先頭にして、ここにいる六名、そのほか小幡門下の義心ある者を|糾合《きゅうごう》して……」
「旅先で討つといわれるのか」
「そうです。新蔵どの、あなたも|起《た》ってください」
「わしは嫌だ」
「嫌だと」
「嫌だ」
「な、なぜです。聞けば貴公は、小幡家の|名跡《みょうせき》をついで、亡師の家名を再興すると、伝えられておる身なのに」
「自分の敵とする人間のことは、誰しも、自分より優れていると思いたくないものだが、公平に、われと彼とを較べれば、剣に依っては、|所《しょ》|詮《せん》われわれの手に|仆《たお》せる敵ではない。たとえ同門を糾合して、何十人で襲おうとも、いよいよ恥の上塗りをするばかり」
「では、指を|咥《くわ》えて」
「いやこの新蔵にせよ、無念は一つだ。ただわしは、時期を待とうと思う」
「気の永い」
一人が舌打ちすると、
「逃げ口上だ」
と|罵《ののし》る者もあって、もう相談は無用と、落葉の灰と新蔵をそこにのこして、血気な早朝の客は、わらわら帰ってしまった。
入れ違いに、門前で鞍から下りた伊織は、馬の口輪を引ッぱって、|戛《かつ》|々《かつ》と、邸内へ入って来た。
三
|厩《うまや》に駒を繋いで、
「新蔵おじさん。こんな所にいたの」
|焚《たき》|火《び》のそばへ、伊織は駈けて来た。
「おお帰ったか」
「何を考えているの。え、喧嘩したのかい、おじさん」
「なぜ」
「だって今、おいらが帰って来ると、若い侍たちが、ぷんぷん怒って出て行ったもの。|見《み》|損《そこ》なったの、腰抜けだのって、門を|振《ふ》り|顧《かえ》って、悪口を叩いて行ったよ」
「はははは。そのことか」
新蔵は笑い消して、
「それよりは、まあ焚火にでもあたれ」
「焚火なんかにあたれるものか。武蔵野から一息に飛ばして来たので、おいらの体は、この通り湯気が立っているよ」
「元気だな。ゆうべは何処に寝たか」
「ア。新蔵おじさん。――武蔵さまが戻って来たよ」
「そうだそうだな」
「なんだ。知ってるの」
「|沢《たく》|庵《あん》どのがいわれた。多分もう|秩《ちち》|父《ぶ》から放されて、戻っている頃だろうと」
「沢庵さんは?」
「奥に」
と、眼でさして、
「伊織」
「え」
「聞いたか」
「なにを」
「おまえの先生が出世なさる吉事だ。途方もない歓び事だ。まだ知るまいが」
「何。何。教えてよ。先生が出世するって、どんなことさ」
「将軍家御師範役の列に加わって一方の|剣《けん》|宗《そう》と仰がれる日が来たのだ」
「えっ、ほんと」
「|欣《うれ》しいか」
「うれしいとも。じゃあもう一ぺん、馬を貸してくれないか」
「どうするのだ」
「先生の所へ|報《し》らせに行って来る」
「それには及ばぬ。今日のうち正式に、閣老から武蔵先生へお召状がさがるはず。それを持って明日は、|辰《たつ》の口のお控え所まで参り、登城のおゆるしが出れば、即日、将軍家に|拝《はい》|謁《えつ》することになろう。――だから、老中のお使いが見え次第に、わしがお迎えに行かねばならぬ」
「じゃあ、先生が、こっちへ来るの」
「うむ」
うなずいて、新蔵は、そこを離れて歩き出しながら、
「朝飯は食べたか」
「ううん」
「まだか。はやく食べて来い!」
彼と話しているうちに、新蔵はいくらか|憂《ゆう》|悶《もん》が軽くなった。憤怒して去った友達の行く先に、まだ幾分かの気懸りは残していたが。
それから一刻ほど後、閣老からの使いが見えた。沢庵へ宛てた書簡と共に、明日、辰の口|伝《でん》|奏《そう》|屋《や》|敷《しき》の控え所まで、武蔵を召連れて、出頭あるようにという達しであった。
新蔵は、その旨をうけて、騎馬となり、べつに一頭の美々しい乗換馬を|仲間《ちゅうげん》に曳かせて、武蔵の草庵へ使者として出向いた。
「お迎えに」
と、訪れると、武蔵はちょうど、権之助を相手に、陽なたで小猫を膝にのせて、何か話していた折だったが、
「いやこちらから、お礼に出るつもりでいたところ」
と、そのまま、すぐ迎えの駒に乗った。
四
獄から解かれた武蔵にはまた、将軍家師範という栄達が待っていた。
だが武蔵は、それよりも沢庵という友、|安房《あ わ の》|守《かみ》という知己、新蔵という好ましい青年などが、自分のような、一介の旅人に、席を温めて待ってくれる志のほうに、遥かなありがたさと、人間の世の限りなき隣の恩を思わせられた。
翌る日。
すでに北条父子は、彼のために|一襲《ひとかさね》の衣服と、|扇《せん》|子《す》、懐紙などまで整えて、
「めでたい日、おこころ爽やかに行って参られい」
と、朝の膳は、赤い御飯、|魚頭《か し ら》つき、あだかもわが家の元服でも祝うかの如き心入れであった。
この温情に対して、また、沢庵の好意を酌んでも、武蔵は、自分の望みばかり固持していられなかった。
|秩《ちち》|父《ぶ》の獄中でも、ふかく考えてみたことである。
法典ケ原の開墾に従事して、およそ二ヵ年足らずのあいだ、土に親しみ、農田の人々と一緒に働いてみて、自己の兵法を、大きな治国や|経《けい》|綸《りん》の政治に|活《い》かしてみたいという野心はかつて本気で抱いてみたことであるが――江戸の実情と、天下の風潮、まだまだ決して、彼が理想するような所までには、実際において来ていない。
豊臣と徳川と、これは宿命的にも、大きな戦争をまだ敢てやるだろう。思想も人心も、為に、なお混沌たる暴風期を衝き抜けなければならない。そして関東か、上方か、いずれかに統一を見るまでは、聖賢の道も、治国の兵法も、いうべくして行われるわけはない。
明日にも、そうした大乱があるとする――その場合に、自分はいずれの軍へつくべきだろうか。
関東に加担するか。上方に走って味方するべきか。
それとも、世をよそに、山へ分け入って、天下の鎮まるのを、草を喰って待っているべきだろうか。
(いずれにせよ、今、将軍の一師範になって、それを以て、甘んじてしまったら、自分の道業もまずは知れたものといえよう)
朝の陽のかがやく道を、彼は式服を着、見事な鞍の駒にまたがり、栄達の門へと、そうして一歩一歩近づいておりながら、なお、心のどこかでは、満足しきれないものがあるのだった。
「下馬」
と、高札が見える。
伝奏屋敷の門だった。
玉砂利をしきつめた門前に、駒つなぎがある。武蔵がそこで降りていると、すぐ一名の役人と、馬預りの小者が飛んでくる。
「昨日、御老中よりの御飛札により、お召しを承って|罷《まか》りこした宮本武蔵と申すものでござる。控え所|詰《づめ》お役人方までお申し入れ願わしゅうございます」
この日、武蔵はもとよりただ一名であった。しばらく待つ間に、|此方《こ な た》へとべつな案内が先に立つ。
「お沙汰あるまでこれにお控えください」
蘭の|間《ま》とでもいうか、|絵襖《えぶすま》いちめんに春蘭と|小《こ》|禽《とり》が描いてある。長さ二十畳の広い部屋である。
茶菓が出る。
人の顔を見たのはそれだけで、後はおよそ小半日も待たされた。
襖の小禽は啼かず、描いた蘭は|香《にお》いもせぬ。武蔵は、|欠伸《あ く び》を催して来た。
五
やがて、閣老の一名であろう、|赭《しゃ》|顔《がん》白髪の見るからに凡庸でない老武士が、
「武蔵どので|在《お》わすか。長々お待たせして、無礼おゆるしを」
と、あっさりそれへ出て来て坐った。ふと仰ぐと、川越の城主である酒井忠勝であった。けれどここでは江戸城の一|吏《り》|事《じ》に過ぎないので、侍者一名を側につれただけで、至極格式に|囚《とら》われていないふうである。
「お召しに依って」
と、武蔵が――これは先方が威儀作ろうと否とにかかわらず――長者に対するいんぎんな礼を|執《と》って、ひたと、平伏しながら、
「作州牢人、|新《しん》|免《めん》|氏《し》の族、宮本無二斎がせがれ武蔵と申しまする者、将軍家御内意の趣に、御城門先までまかり出でましてござります」
忠勝は、肥えたふたえ|顎《あご》を、小さく何度も|頷《うなず》かせて、
「大儀、大儀でおざった」
と、受けた。
そしてややいい渋った面持に、気の毒そうな眼を持ちながら、
「時に――かねて沢庵和尚や|安房《あわ》殿などから、御推挙あった|其《そこ》|許《もと》の仕官の儀……。昨夜に至って、いかなる御都合変りにや、|遽《にわ》かにお見合せというお沙汰じゃ。――われらにもちと|解《げ》しかねるので、御事情のほど、また御再考もあらばと――実は今の今まで、御前において再評議もあったのじゃ。しかし折角のことではあったが、この度の儀は、やはり御縁のないこととなり終った」
といって、忠勝は慰めることばもないように――また、
「|毀《き》|誉《よ》|褒《ほう》|貶《へん》――浮世のありふれ事、前途のお気にさえられなよ。人事すべて、眼前を観ただけでは、何が幸不幸とも申されぬで」
――武蔵は、平伏のまま、
「……はっ」
と、なおひれ伏していた。
忠勝の言葉は、むしろ耳に温く聞えた。同時に胸の底から、わき出ずる感激が身をひたした。
反省はあっても、彼とて人間である。もし無事に任命があったら、このまま幕府の一吏事となって、かえって|大《たい》|禄《ろく》や栄衣が、剣の道業を、若木で枯らしてしまうかもしれない。
「お沙汰の趣、相分りました。ありがたく存じまする」
自然そういったのである。不面目などという気は毛頭なかった。皮肉もない。彼としては、将軍以上のものから、一師範役以上のもっと大きな任を――その時、神のことばをもって、胸に授けられていた。
神妙な――と忠勝はその|体《てい》をながめ入って、
「余事であるが、聞けば、|其《そこ》|許《もと》には武辺に似あわぬ風雅のたしなみもあるそうな。何ぞ、将軍家へお目にかけたいと思う。……俗人どもの中傷や陰口には、答える要もないが、かかる折、|毀《き》|誉《よ》|褒《ほう》|貶《へん》を超えて、たしなむ芸術に、己れの心操を無言に残しておくことは、少しも差しつかえなかろうし、高士の答えとわしは思うが」
「…………」
武蔵が、彼のことばを心に解いているうちに、忠勝は、
「後刻までに」
と、席を立った。
忠勝の言葉のうちには、毀誉褒貶とか、俗人たちの中傷とか陰口とかいうことが、幾度か、意味ありげに繰返されていた。――それに答える要はないが、潔白な武士の心操は示しておけ! 暗にそういったように武蔵には解かれた。
「そうだ、自分の面目は、泥に委そうと、自分を推挙し給わった人たちの面目をけがしては……」
武蔵は、広間の一隅にある純白な六曲|屏風《びょうぶ》に眼をとめた。やがてこの伝奏屋敷の溜りの小侍を呼び、酒井どのの仰せにまかせて一筆余技をのこして参りたいゆえ、もっとも|佳《よ》い墨と、古い朱と、少量の青い|顔料《え の ぐ》とをお貸し下げねがいたいといった。
六
子どもの頃は誰でも画を描く。画を描くのは、歌をうたうも同じだ。それが大人になるときまってみな描けなくなる。|生《なま》|半《はん》|可《か》な智恵や目が|邪《さまた》げるからである。
武蔵も、幼少の時は、よく画を描いた。環境の淋しかった彼は、特に画が好きだった。
だがその画も、十三、四から二十歳過ぎまでの間は、ほとんど忘れていた。――その後、諸国を修行中、多くは宿泊する寺院で、或る時は貴顕の邸宅で――しばしば、床の間の軸や壁画に接する機会が多くなり、描かないまでも、また、興味を持つようになった。
いつだったか。
|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》光悦の家で見た|梁楷《りょうかい》の|栗鼠《りす》に落栗の図を|観《み》――その粗朴なうちに持つ王者の気品と、墨の深さを、いつまでも忘れなかったりしたこともある。
多分、あの頃からであったろう。彼がふたたび画に眼をひらき出したのは。
北宋、南宋の|稀《き》|品《ひん》。また、東山|殿《どの》あたりからの名匠の邦画。それから現代画として行われている|山《さん》|楽《らく》だの|友松《ゆうしょう》だの|狩《か》|野《のう》|家《け》の人々の作品など、折あるごとに、武蔵は観てきた。
自然、その中に彼の好き|不《ぶ》|好《すき》があった。梁楷の豪健な筆触は、剣の眼から観ても巨人の力をうけるし、|海《かい》|北《ほう》友松は根が武人であるだけに、晩年の節操も、画そのものも師とするに足ると思った。
また、洛外の滝の本坊にいるという隠操の雅人、|松花堂昭乗《しょうかどうしょうじょう》の淡味な即興風のものにも心をひかれた。沢庵とも深い友達であると聞いて、さらに慕わしい気もちをその画に持っていた。――けれど自分の歩まんとする道とは――行く末は一つ月を見る所に落ち合うまでも、遠いべつな世に住む人のような気がするのでもあった。
で、時には。
人には示さぬものとして、|密《ひそ》かに自分でも描いてみたりした。だが彼も、いつの間にかやはり描けない大人になっていた。智が働いて、|性《しょう》が働かないのだ。巧く描こうとばかりして、真の|流露《りゅうろ》というものが現せない。
厭になって、もう止した。――だがまたふと、何かに感興をよび起されて、人知れず描いてみる。
|梁楷《りょうかい》を模し、友松を|倣《なら》い、時には松花堂の風をまねたりして――。しかし、彫刻は二、三人にも示したが、画はまだかつて、人に見せた|例《ため》しはない。
「……よし!」
それを今、彼は、描いてしまった。しかも六曲半双へ、一気に。
試合の後――ほっと息づくように胸をあげて、静かに、筆洗へ筆の先を沈めると、描きあげたわが画に一|顧《こ》もせず、伝奏屋敷の控えの広間から、さっさと退出してしまった。
「――門」
武蔵は、そこの豪壮な門を|跨《また》いで、ふと振り顧った。
入るが栄達の門か。
出るが栄光の門かと。
人はなく、まだ濡れている屏風のみが残されてあった。
いちめんに武蔵野之図が描いてあった。大きな旭日だけを、わが丹心と誇示するように、それだけに朱が塗ってあって、後は墨一色の秋の野だった。
酒井忠勝は、その前に坐ったまま、黙然と腕を|拱《く》んでいることしばし、
「ああ、野に虎を逸した」
と、独り|呻《うめ》いた。
天 音
一
武蔵は、何か思うところあったのか、その日、辰の口御門を去ると、牛込の北条家には戻らず、武蔵野の草庵へ帰ってしまった。
留守をしていた権之助は、
「オオ、お戻り」
と、すぐ駒の口輪を取りに外へ飛び出して来る。
いつになく|糊《のり》|目《め》のついた式服すがたの武蔵。美々しい|螺《ら》|鈿《でん》の鞍など――さては今日のうち登城もすみ、首尾も上々に、就任の沙汰はきまったものと、権之助は早のみこみして、
「おめでとうござりました。……はや明日からでも、御出仕でござりますか」
武蔵が坐ると、|藺席《いむしろ》のすそに彼も坐って手をつかえながら、欣びを述べるつもりで直ぐいった。
武蔵は笑って、
「いや、沙汰止みになった」
「えっ……?」
「よろこべ、権之助。今日になって、|遽《にわ》かにお取消しという沙汰」
「はて。|腑《ふ》に落ちぬことで。一体どういうわけでございましょう」
「問うに及ばん。理由など|糺《ただ》して何になろう。むしろ天意に謝していい」
「でも」
「其方まで、わしの栄達が、江戸城の門にばかりあると思うか」
「…………」
「――とはいえ、自分も一時は野心を抱いた。しかしわしの野望は、地位や禄ではない。|烏《お》|滸《こ》がましいが、剣の心をもって、政道はならぬものか、剣の悟りを以て、安民の策は立たぬものか。――剣と人倫、剣と仏道、剣と芸術――あらゆるものを、一道と観じ来れば――剣の|真《しん》|髄《ずい》は、|政治《まつりごと》の|精神《こ こ ろ》にも合致する。……それを信じた。それをやってみたかったゆえに、幕士となってやろうと思った」
「何者かの、|讒《ざん》|訴《そ》があったのか、残念でござりまする」
「まだいうか。|穿《は》きちがえてくれるな。一時は、そんな考えも抱いたことは確かだが、その後になって――殊に今日は、|豁《かつ》|然《ぜん》と、教えられた。わしの考えは、夢に近い」
「いえ、そんなことはござりませぬ。よい|政治《まつりごと》は、高い剣の道と、その|精神《こ こ ろ》は一つとてまえも考えまする」
「それは誤りはないが、それは理論で、実際でない。学者の部屋の真理は、世俗の中の真理とは必ずしも同一でない」
「では、われわれが|究《きわ》めて行こうとする真理は、実際の世のためには役立ちませんか」
「ばかな」
と、武蔵は|憤《いか》るが如く、
「この国のあらん限り、世の|相《さま》はどう変ろうと、剣の道――ますらおの|精神《こ こ ろ》の道が――無用な|技《わざ》|事《ごと》になり終ろうか」
「……は」
「だが深く思うと、|政治《まつりごと》の道は武のみが本ではない。文武二道の|大円明《だいえんみょう》の境こそ、無欠の政治があり、世を|活《い》かす大道の剣の極致があった。――だから、まだ乳くさいわしなどの夢は夢に過ぎず、もっと自身を、文武二天へ謙譲に仕えて|研《みが》きをかけねばならぬ。――世を|政治《まつりごと》する前に、もっともっと、世から教えられて来ねば……」
そういった後で、武蔵はにやにやと笑った。抑えきれない自嘲を洩らすように。
「……そうだ。権之助。|硯《すずり》はないか。硯がなくば、矢立を貸してくれい」
二
何か書面を|認《したた》めて、
「権之助。大儀ながら、使いに行ってもらいたいが」
「牛込の北条どののお邸へでございますか」
「そうだ。委細、武蔵のこころは書中にある。沢庵どの、安房どのへ、そちからも宜しゅうお伝え申しあげてくれい」
武蔵は、そう告げて、
「そうそう、ついでに伊織より預かりおる品、そちの手から彼へ、戻しておいてほしい」
取出して、書面と共に、権之助の前へさし出した物を見ると、それはいつか伊織から武蔵へ預けた――父の|遺物《か た み》という古い|巾着《きんちゃく》であった。
「先生」
権之助は、不審顔に、膝をすすめ――
「いかなる|理《わけ》でございますか。改まって、伊織からお預かりの品までを、|遽《にわ》かにお返しあるとは」
「誰とも離れて、武蔵はまた、しばらく山へ分け入りたい」
「山ならば山へ、町ならば町の中へ、何処までも、弟子として、伊織も手前もお供いたす所存にござりますが」
「永くとはいわぬ、両三年が間、伊織の身は、そちの手に頼む」
「えっ。……ではまったく、|隠《いん》|遁《とん》の御意思で」
「まさか――」
武蔵は笑いながら、膝を解いて、うしろに手をつかえ、
「乳臭いわしが、今から何で――。先にいった大望もある。あれやこれ、慾もこれから。迷いもこれから。――誰が歌か、こういうのがあった」
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なかなかに
人里近くなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
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武蔵が|口《くち》|誦《ず》さむのを、権之助は|頭《こうべ》を垂れて聞いたが、そのまま、使いの二品を懐中に、
「ともあれ、夜にかかりますゆえ急いで参ります」
「ウム。拝借の駒、お|厩《うまや》へお返し申しておいてくれい。衣服は、武蔵が|垢《あか》をつけたものゆえ、このまま頂戴いたしおくとな」
「はい」
「本来、辰の口より今日すぐに、安房どののお邸の方へ戻るべきなれど、この度のこと、お取止めの|御諚《ごじょう》あるからには、武蔵の身に、将軍家御不審あればこそである。将軍家に|直《じき》|仕《し》召さるる安房どのへ、これ以上の|御《ご》|昵《じっ》|懇《こん》は、おためにもならぬことと思うて――わざと草庵へ帰って来た。……この儀は、書中には|認《したた》めてないから、其方の口上にて、悪しからず伝えておいてくれるよう」
「承知いたしました。……とにかく手前も、今宵のうちに、直ぐ戻って参りますから」
もう赤々と野末に夕陽は沈みかけている。権之助は、駒の口輪を|把《と》って、道を急いだ。師のために貸し与えられた他家の鞍なので、返しにゆくには、勿論、その駒には乗らない。――誰も見てはいないし、空いている駒だが、曳いて歩くのであった。
赤城下に行き着いたのは、夜も|八刻《やつ》頃であった。
――どうしてまだ帰って来ないのか?
と、北条家では案じていたところなので、権之助はすぐ奥へ通され、書面も沢庵の手で、即座に封を切られた。
三
使いとして、権之助がここに見える前に、この席の人々は、武蔵の就任取止めの沙汰を、或る方面から洩れ聞いていた。
或る方面というのは、やはり幕閣の一員で、その者がいうには、|遽《にわ》かに、武蔵の登用が中止になった原因は、閣老のうちからも、また、奉行所方面からも、武蔵の素姓や行状について、|種《いろ》|々《いろ》、おもしろくない材料が、将軍家へ提出されたためだとある。
不合格となった、何よりもいけない点は、
――彼は仇持ちだ。
という風評が専らにあることだった。しかも非は彼にあって、彼を仇と狙って永年辛苦している者は、もう|六《む》|十《そ》|路《じ》をこえた老婆だと聞えたので――同情は|翕然《きゅうぜん》としてその年寄にあつまり、武蔵には反対なものが、御採用という機会に、一時に現れたものらしいとの話であった。
どうして、そんな誤解が生じたのかについては北条新蔵が、
(いや、そのことなら、その|策《て》で、当家の玄関へ、|執《しつ》こくやって参りましたよ)
と、留守中、本位田家のばばが、武蔵の悪たいを並べて立ち去ったことを、初めて、父と沢庵の耳に入れたのだった。
それで分った、原因が。
しかし、わからないのは、あんな婆の|触《ふ》れ|言《ごと》をそのまま信じる世間の|輩《やから》であった。それも居酒屋や井戸端の集合者なら知らぬこと、分別ぶった相当な人間が――しかも為政者ともある連中が――と、きょう半日は、|唖《あ》|然《ぜん》としていた折なのである。
所へ、武蔵の使いとして、権之助が書面を|齎《もたら》したので、さては、不平の|辞《ことば》かと|披《ひら》いてみると、
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委細、権之助よりお聞え上げ賜わるべし。さる人の歌に
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なかなかに
人里ちかくなりにけり
あまりに山の
奥をたづねて
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近頃おもしろく覚え候うて、又いつもの持病かや、旅にさまよい出で候
左の一首は、又の旅出に即興の腰折れ、おわらい賜わるべく候
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|乾《けん》|坤《こん》を
そのまま庭と
見るときは
われは浮世の
家の戸ざかひ
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なお、権之助が口上で、
「辰の口から一応は御当家へ帰って、委細、申しあげるのが順でございますが、すでに幕閣より、御不審の目をもって見られたる身が、心|易《やす》げに、御邸内に出入りする儀はいかがかと――わざと差控えて草庵へ戻りました由。これも師武蔵からの伝言でござりました」
そう聞くと、一しお、北条新蔵も、安房守も、名残が惜しまれて|遽《にわ》かに、
「何のご遠慮ぶかい。――このままでは、こちらの心も何となくすまぬ。沢庵どの、呼び迎えても来ぬかも知れぬ。これより駒をつらねて、武蔵野まで訪れようか」
起ちかけると、
「あ。お待ちください。手前もお供仕りますが、伊織へ返せと、師から申しつかって来た品があるので。――恐れ入りますが、伊織をこれへ、お呼びくださいませぬか」
と、彼へ手渡す例の古びた|革《かわ》の|巾着《きんちゃく》を、懐中から出して、それへおいた。
四
伊織はすぐ呼ばれて来て、
「はい。何ですか」
目ばやく、眼はもうそこに置いてある自分の革巾着を見つけている。
「これを、先生からお前にお返しになった。お前の父の|遺物《か た み》だから、大事に持てと仰っしゃった」
権之助は、それと共に、師の武蔵がしばらくわれわれと別れて御修行の途に上るから、おまえは今日以後、当分はわしと共に暮すことになろうということをもいい渡した。
伊織はすこし不服顔。
だが、沢庵がいるし、安房守もいるので、
「はい」
と不承不承うなずく。
沢庵は、その革巾着が、彼の父親の遺物と聞いて、伊織の素姓についていろいろ|糺《ただ》してみると、祖先は|最《も》|上《がみ》家の旧臣で代々三沢伊織と名乗る家柄だという。
何代前かに、主家の没落にあい、戦乱の中で一族は離散してしまい、その後は諸国を|漂泊《さ ま よ》って、父の三右衛門の代になってやっと|下《しも》|総《うさ》の法典ケ原に畑をもち、農夫となって住みついていたのだとも――伊織は問いに答えていう。
「ただ、よく分んないのは、おらに姉さんがあるっていったけれど、お|父《とつ》つぁんも、詳しいことをいわないし、お|母《つか》さんは、早く死んじまったから、何処の国にいるのか、生きているのか死んだのか、分んない」
率直な伊織の答えを聞きながら、沢庵はその|由《ゆい》|緒《しょ》ありげな革巾着を膝に取って、|先刻《さ つ き》からその中の|蝕《むしば》んだ書付や守り袋など、丹念に見ていたが、そのうちに、|愕《おどろ》きの眼をみはって、一紙片の文字と、伊織の顔とを、まじまじ穴のあくほど見較べた末に、
「伊織。その姉なら、父三右衛門の筆らしいこの書付に書いてあるが」
「書いてあっても、何のことか、おらにも、徳願寺のお住持でも分らないんです」
「よく分っておる。この沢庵には……」
と、その一紙片を人々の眼の前に拡げて沢庵が読んだ。文章は数十行に亘るが前の方は略して、
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――飢エ|仆《タオ》ルル共、二君ヲ求ムル心無ク、夫婦シテ流転年久シク、|賤《イヤ》シキ|業《ワザ》シテ歩クウチ、|一《ヒト》|年《トセ》中国ノ一寺ニ、一女ヲ捨テ、伝来ノ天音一管ヲ|襁褓《ム ツ キ》ニ添エテ、慈悲ノ|御廂《ミヒサシ》ニ、子ノ末ヲ祈願シ奉リテ又他国ニ|漂泊《サ ス ラ》ウ。
後、コノ下総原ニ一|茅《ボウ》ノ|屋《オク》ト田ヲ獲、年経ルママ思エドモ、山河ヲ隔テ、又消息ヲ絶ツノ今、カエッテ子ノ|幸《サチ》ニ如何アルベシナド思イ、イツシカ歳月ノ流レニマカセ|了《オワ》ンヌ。
浅マシキ哉、人ノ親。鎌倉右大臣モ歌イケル
[#ここから2字下げ]
ものいはぬ
|四《よ》|方《も》の|獣《けだもの》すらだにも
あはれなるかなや
親の子をおもふ
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サアレ二君ニマミエ、私ヲ負イ名ヲ争ウテ、武門ノ果ヲ汚サンヨリハ祖先モアワレト見ソナワシ給ウベシ。ワガ子モ亦、コノ父ノ子ゾカシ。名ヲ惜ムトモ、サモシキ|粟《アワ》食ベルナ。
[#ここで字下げ終わり]
「会うことができるぞ。この姉なら、わしも若年からよう知っておる。武蔵も存じておる。伊織、さあおまえも行け」
沢庵は、席を立った。
だが、その夜、武蔵野の草庵へ急いだ人々も、遂に武蔵とは会えなかった。
夜の明けかけた野末の果てに、一|朶《だ》の白雲を見たのみである。
|円明《えんみょう》の巻
|春《はる》|告《つげ》|鳥《どり》
一
ここは、|鶯《うぐいす》の名所。
|柳生《やぎゅう》の城のある柳生谷――
武者溜りの白壁に、二月の陽がほかりと|映《さ》して、|槍《やり》|梅《うめ》の影が一枝、静かな画になっている。
|南《なん》|枝《し》の|梅花《うめ》は誘っても、|片《かた》|言《こと》の|初《はつ》|音《ね》の声は、まだ稀にしか聞かれないが、野路や山路の雪が解けると共に、めっきり|殖《ふ》え出してくるのが、今、天下に|遍《あまね》き武者修行と称する客で、
――頼もう。頼もう。
の訪れだの、
――大祖|石舟斎《せきしゅうさい》先生に一手。
だの。また、
――てまえこそは何の|某《なにがし》が流れ汲む、何の誰それ。
だのといって、例の石垣坂の閉まっている門を無益に叩く者が、|寔《まこと》に|踵《くびす》を接して来るのである。
「どなたの|御《ご》|添《てん》|書《しょ》でお越しになろうと、宗祖は老年ゆえ、一切、お目にかかりませぬ」
と、ここの番士は、十年一日のごとく同じ言葉で、そういう客を謝辞している。
中には、
「芸道には、貴賤の差も、名人と初心の差も、道においては、ないはずでござろうに」
などと小理窟こねて、憤々として帰る武芸者もあるが、何ぞ知らん、石舟斎はすでに去年、世に亡き人になっていた。
江戸表にある長子の但馬守|宗《むね》|矩《のり》が、この四月中旬にならなければ公儀から|暇《いとま》をとって帰国できない事情にあるため――まだ|喪《も》を発せずに秘めてあるのだった。
心なしか、そう思って、吉野朝以前からというここの古い|砦型《とりでがた》の城を仰ぐと、四山の春は迫って来ているに|関《かか》わらず、どことなくしいんとして冷寂な感がある。
「お通さま」
奥の丸の中庭に立って、ひとりの小僧が、今、|彼方《あち》|此方《こち》の棟を見まわしていた。
「――お通さま。どこにお|在《い》ででございますな」
すると、一つの屋の障子があいた。室の中に|焚《た》き|籠《こ》められていた香の煙が、彼女と共に外へ流れた。百日の|忌《き》を過ぎてもなお、陽に会わないでいるせいか、梨の花のように白い|愁《うれ》いを顔に|湛《たた》えている。
「持仏堂でございます」
「お。またそれへ」
「御用ですか」
「|兵庫《ひょうご》さまが、ちょっと、来て欲しいと申されまする」
「はい」
縁づたいに、また、橋廊下を越えたりして、そこから遠い兵庫の部屋へ訪ねてゆく。――兵庫は縁に腰かけていたが、
「オオ。お通どの、来てくれたか、わしの代りになって、ちょっと挨拶に出てもらいたいが」
「どなたか……お客間に?」
「|先刻《さ つ き》から通って、木村助九郎が挨拶に出ておるが、あの長談義には閉口なのだ。殊に、坊主と兵法の議論などは参るからな」
「ではいつもの、宝蔵院様でいらっしゃいますか」
二
奈良の宝蔵院と柳生ノ庄の柳生家とは、地理的な関係からも、遠くないし、槍法と刀法の上からも、因縁が浅くなかった。
故石舟斎と、宝蔵院の初代|胤《いん》|栄《えい》とは、生前親しい間がらであった。
石舟斎の壮年時代に、真に悟道の眼をひらかせてくれた恩人は、|上泉《かみいずみ》伊勢守であったが、その伊勢守を、初めて柳生ノ庄へ連れて来て|紹介《ひ き あ》わせた者は、胤栄であったのである。
――だがその胤栄も、今は故人になって、二代|胤舜《いんしゅん》が、師法をうけ、宝蔵院流の槍なるものは、その後愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、武道興隆の時潮に乗って、時代の一角に、一つの|大《だい》|淵《えん》|叢《そう》をなしているのだった。
「兵庫どのが、お見えにならぬが、胤舜が参ったこと、お伝えくだされたかの」
今日しも、書院の客座に、二人の法弟を従えて、先刻から話している者が――その宝蔵院の二世|権律師《ごんのりつし》胤舜で、その応接に、下座にあるのが、柳生四高弟の一人、木村助九郎なのである。
故人との関係から、よくここへは訪れるのである。それも、忌日や法事などでなく、どうも兵庫をつかまえて、兵法を談じたいのが|目的《め あ て》らしいのだ。そしてあわよくば、故人石舟斎が、
(叔父の但馬も及ばず、祖父のわれにも|優《すぐ》れたるやつ)
と、眼の中へ入れても痛くないほど|鍾愛《しょうあい》して、上泉伊勢守から自身が受けた|新《しん》|陰《かげ》の相伝、三巻の|奥《おう》|旨《し》、一巻の絵目録など、すべてこれを生前に授けたと聴く、故人の孫の柳生兵庫に対し胤舜が自ら奉じるところの槍をもって、一手の試合を望んでいるらしい気ぶりも|仄《ほの》|見《み》えるのである。
それを悟ったか、兵庫は、彼の訪れにもここ二、三回、
(風邪ごこちにて)
とか、
(やむなき差しつかえで)
とかいって、避けている。
きょうも胤舜は、なかなか帰る気ぶりもなく、やがて兵庫が、席に見えるのを、何となく期待しているらしい。
木村助九郎は、察して、
「はい、最前、お伝えしておきましたゆえ、お気分さえよろしければ、ご挨拶に見えましょうが……」
と、何とつかず、いい濁していた。
「まだ、お風邪気かな?」
と、胤舜はいう。
「は、どうも……」
「平常、お弱くおられるか」
「御頑健な|質《たち》でおられますが、久しく江戸表にござって、山国の冬を越されたのは、近年ないことなので、馴れぬ寒さがこたえたのかも知れませぬ」
「頑健といえば、兵庫どのが、肥後の加藤清正公に見こまれて、高禄にて|聘《へい》せられた折――お孫のために故人の石舟斎様が、おもしろい条件をつけられたそうですな」
「はて。聞き及んでおりませぬが」
「拙僧も、先師胤栄から聞いたのですが、肥後殿へここの大祖がいわるるには、孫|奴《め》は、殊のほか短慮者ゆえ、御奉公を過っても、三度まで死罪のお|宥《ゆる》しをお含みおき下さるなら、差出しましょうといわれたそうな。……はははは、そのように、兵庫どのは、御短慮と見えるが、大祖にはよほどお可愛かったものとみえますな」
三
そこへ、お通が出て、
「これは、宝蔵院様でいらっしゃいますか。折悪く、兵庫さまには、江戸城へさし|上《のぼ》す何やらのお目録とかを|認《したた》め中で、失礼ながらお目にかかりかねる由にござりまする」
そう告げて、次の間まで用意して来た菓子、茶などを整え、
「|粗《そ》|葉《は》でござりますが……」
と、胤舜へ先に――居並ぶ法弟たちの前へもすすめた。
胤舜は、落胆顔して、
「それは残念な。――実はお目にかかってお告げ申したい大事があるのだが」
「何ぞ、てまえで|足《た》りる儀なればお伝え申しておきますが」
と、木村助九郎が|傍《わき》からいうと、
「やむを得まい。では|其《そこ》|許《もと》からお耳へ入れておかれい」
と胤舜は、やっと用談の本筋へはいった。
兵庫の耳へ入れたいというのはこうだ。この柳生ノ庄から一里ほど東――梅の樹の多い月ケ瀬の辺りは、伊賀上野城の領地と、柳生家の領と、ちょうど境になっているが、その辺は、山崩れやら、縦横の渓流や、部落も|飛《とび》|々《とび》で、確かな国境というものがない。
ところが。
伊賀上野城は従来、|筒《つつ》|井《い》入道|定《さだ》|次《つぐ》の所領であったものを、家康が没取して、これを|藤《とう》|堂《どう》高虎に与え、その藤堂藩は、昨年、入部してから、上野城を改築し、|年《ねん》|貢《ぐ》の改租やら治水やら国境の充実やら、目ざましく新政を|布《し》いている。
その勢いが余ってか、月ケ瀬の辺りへ近頃たくさんな侍を派し、勝手に小屋を建てたり梅林を伐採したり、勝手に旅人を|阻《はば》めたりして、柳生家の領土を侵害しているという噂が頻りと聞えてくる。
「――思うに御当家が|喪中《もちゅう》にあるのをよい|機《おり》として、藤堂家がわざと国境を押し出し、やがて勝手な所へ関の|柵《さく》でも構えてしまおうという考えかもしれぬ。いささか老婆心に過ぎたるようじゃが、今のうちに、抗議なさらねば、悔いても及ばぬことになりはしまいか」
|胤舜《いんしゅん》の話に助九郎は家臣の一人としても、
「よいお知らせを賜わりました。早速、取り|糺《ただ》して抗議いたしましょう」
と、厚く礼をのべた。
客が帰ると、助九郎は、さっそく兵庫の部屋へ出向いた。兵庫は聞いたが、一笑に附して、
「|抛《ほう》っておけ。そのうち叔父が帰国した時、処理するだろう」
と、いった。
だが、国境沙汰となれば、一尺の地でも、問題はゆるがせに出来ない。どうしたものか、他の老臣や四高弟の者にも計って、対策を講じなければなるまい。相手は藤堂という大藩だし、大事を取ってかかる要もある。
そう考えて、翌日を待っていると、その日の朝。
新陰堂の上の道場から、いつものように家中の若者へ一稽古をつけて、助九郎が出て来ると、外に立っていた炭焼山の小僧が、
「おじさん」
と、後から|尾《つ》いて来て、彼の腰へお辞儀をした。
月ケ瀬からずっと奥の|服部《はつとり》|郷《ごう》荒木村という僻地から、常に炭だの|猪《しし》の肉だのを――城内へ大人と一緒に|担《かつ》いでくる――|丑《うし》|之《の》|助《すけ》という十三、四歳の山家の子だった。
「おう、丑之助か。また道場を|覗《のぞ》きおったな。きょうは|自然薯《やまのいも》の|土産《み や げ》はないか」
四
彼の持って来る|山《やま》|芋《いも》は、この附近の山芋よりうまかった。で、助九郎が戯れ半分に訊くと、
「きょうは芋は持って来なかったけど、これをお通さんに持って来た」
と、丑之助は、手に提げていた|藁《わら》|苞《づと》を上げて見せた。
「|蕗《ふき》の|薹《とう》か」
「そんなもんじゃねえよ。生き物だ」
「生き物」
「おらが、月ケ瀬を通るたんびに|美《い》い声して啼く|鶯《うぐいす》がいるんで、眼をつけといて捕まえたんさ。お通さんにやろうと思って――」
「そうだ。そちはいつも、荒木村からこれへ来るには、月ケ瀬を越えて参るわけだな」
「ああ、月ケ瀬よか|他《ほか》に道はねえもの」
「では訊くが……。あの辺に近ごろ、侍が沢山入り込んでおるか」
「そんなでもねえが、いるこたあいるよ」
「何をしているか」
「小屋あ建って、住んで、寝てるよ」
「柵のような物を築いておりはせぬか」
「そんな事あねえな」
「梅の樹など伐り仆したり、往来の者を調べたりしておるか」
「樹を伐ったのは、小屋あ建てたり、|雪《ゆき》|解《げ》で流された橋を渡したり、|薪《たきぎ》にしたりしたんだろ。往来調べなんか、おらあ見たことねえが」
「ふうむ……?」
宝蔵院衆の話とちがうので助九郎は小首をかしげた。
「その侍たちは藤堂藩の人数と聞いたが、然らば何のために、あんな所へ出張って|屯《たむろ》しておるのか。荒木村などでの噂はどうだ?」
「おじさん、そりゃあ違うよ」
「どうちがう」
「月ケ瀬にいる侍たちは、奈良から追われた牢人ばっかしだよ。宇治からも奈良からも、お奉行に|趁《お》われて、住むとこがなくなったから、山ン中へ入って来たんさ」
「牢人か」
「そうだよ」
助九郎は、それで解けた。
奈良奉行として、徳川家の大久保長安が着任してから、関ケ原の乱後まだ仕官もせず職にもつかず、町で始末に困っていた遊民の侍を、各地から追ったことがある。
「おじさん。お通さんはどこにいるね。お通さんに、|鶯《うぐいす》を上げたいんだけど」
「奥だろう。――だが、こら丑之助。御城内を勝手に飛びあるいてはいかんぞ。貴様、百姓の子に似あわず、武芸好きだから、御道場を外から見ることだけは、特別にゆるしておくが」
「じゃあ、呼んで来てくれないかなあ」
「オ……。ちょうどよい。お庭口から|彼方《む こ う》へ行くのは、それらしいぞ」
「あっ。お通さんだ」
丑之助は、駈けて行った。
いつもお菓子をくれたり、優しい言葉をかけてくれる人である。それに|山《やま》|家《が》の少年の眼から見ると、この世の人とも思えない神秘な美しさを感じるのであった。
その人は振向いて、遠くからにこ[#「にこ」に傍点]と笑った。丑之助は駈け寄って、
「鶯を|捕《と》って来た。お通さんに上げるよ、これ――」
と、|苞《つと》を出して見せた。
「え。鶯……」
さぞ欣ぶかと思いのほか、彼女が眉をひそめたまま手を出さないので、丑之助は不平顔をした。
「とても|美《い》い啼きをする奴なんだぜ。お通さんは、|小《こ》|禽《とり》を飼うのは嫌いかい?」
五
「嫌いではないけれど、|苞《つと》に入れたり、籠に入れたり、鶯が可哀そうですもの。籠に入れて飼わなくても、ひろい天地に放しておけば、いくらでも|美《い》い|音《ね》を聞かしてくれるでしょ……」
彼女が、|諭《さと》すと、自分の好意を受けられなかったように不満だった丑之助も、
「じゃあ、放しちまおうか」
「ありがとう」
「放したほうが、お通さんは、|欣《うれ》しいんだろ」
「ええ。おまえが持って来てくれた気持は受けておきますから」
「じゃあ、逃がしちまえ」
丑之助は、晴々といって、|藁《わら》|苞《づと》の腹を破った。その中から一羽の鶯が|跳《は》ね出した。そして|征《そ》|矢《や》みたいに、城の外へ飛んで行った。
「ごらん。――あんなに欣んで行ったでしょ」
「鶯のことを、|春《はる》|告《つげ》|鳥《どり》ともいうんだってね」
「おや。誰に教えてもらいました?」
「そんなことぐらい、おらだって知ってらい」
「オヤ。ごめん」
「だからきっと、お通さんとこへ、何かいい便りがあるよ」
「まあ! わたしにも春を告げて来るような、よい便りがあるというの。……ほんとに心待ちに待っていることがあるのだけれど」
お通が歩み出していたので、丑之助も歩いた。けれどそこらは本丸の奥の|藪《やぶ》だたみなので、
「お通さん、何処へ、何しに行くつもりだったんだい? もうここはお城の山だぜ」
「余りお部屋にばかりおりますから、気を晴らしに、そこらの|梅花《うめ》を見に出たのです」
「そんなら、月ケ瀬へ行けばいいじゃないか。――お城の|梅花《うめ》なんか、つまらないや」
「遠いでしょ」
「すぐさ。一里だもの」
「行ってみたい気もするけれど……」
「行こう。――おらが|薪《たきぎ》を積んで来た牛が、この下に繋いであるから」
「牛の背へ」
「うん。おらが曳いて行くで」
ふと、彼女は心がうごいた。|苞《つと》の鶯のように、この冬は、城の外へ出なかった。
本丸から山づたいに、|搦手《からめて》の|雑《ぞう》|人《にん》|門《もん》の方へ降りて行った。そこの城門には、|常詰《じょうづめ》の番人がいて、いつも素槍を持って歩いているが、彼女の姿を見ると、番人も遠方から笑って|頷《うなず》いただけである。丑之助はもちろん|鑑《かん》|札《さつ》を持っている。だが、その鑑札を示す必要のないほど、彼も番人たちとは親しかった。
「|被衣《か つ ぎ》を着てくればよかった」
牛の背に乗ってから、彼女はそう気づいてつぶやいた。知ると知らぬに|関《かか》わらず、道ばたの軒から彼女を仰ぐ者や、行き会う百姓たちは、
「よいお|日和《ひ よ り》さまでございます」
と、ていねいに挨拶した。
だが、しばらく行くと、城下の家々もまばらになった。――そして後ろに柳生の城が山のすそに白く振り返られた。
「黙って出て来てしまったけれど、陽の明るいうちには帰れますね」
「帰れるとも。おらがまた、送って来るから」
「だって、おまえは、荒木村へ戻るのでしょ」
「一里ぐらい、何度往き来したって……」
話しながら行くうちに、城下端れの塩屋の軒で、塩と|子《こ》|猪《じし》の肉とを交換していた牢人ていの男が後からのそのそ追いついて来た。
|奔《ほん》 |牛《ぎゅう》
一
道は、月ケ瀬の渓流に沿って行くのである。行く程にまた、その道は悪くなるばかりだった。冬を越えた|雪《ゆき》|解《げ》のあとは、通る旅人も稀れだし、この辺りまで、|梅花《うめ》を探りに来る者などは殆どない。
「|丑《うし》|之《の》|助《すけ》さん。おまえ村から里へ来る時は、いつもここを通って来るの」
「ああ」
「荒木村からは、柳生へ出るよりも、上野の御城下へ出たほうが、何をするにも、近いんでしょ」
「けれど、上野には、柳生様みたいな剣法のお屋敷がないものなあ」
「剣法が好きかえ」
「うん」
「お百姓には、剣法はいらないじゃないか」
「今は百姓だけど、以前は百姓じゃねえもの」
「お侍」
「そうだよ」
「おまえも、お侍になる気?」
「アア」
丑之助は、牛の手綱を|抛《なげう》って、渓流のふちへ駈け下りた。
岩から岩へ|架《か》け渡してある丸太の端が、渓流に落ち込んでいるのを直して、戻って来た。
すると、後から歩いていた牢人ていの男が、先へ橋を渡って行った。橋の途中からも、向うへ渡ってからも、お通のすがたを、何度も不遠慮に|振《ふ》り|顧《かえ》って、すたすたと|山《やま》|間《あい》に隠れて行った。
「誰だろ?」
お通は、牛の背で、ちょっと不気味な気もちに襲われてつぶやいた。丑之助はわらって、
「あんな者恐いのか」
「恐かないけれど……」
「奈良から追われた牢人だよ。この先へ行くと、|山《やま》|住居《ず ま い》してたくさんいるぜ」
「大勢?」
お通は、帰ろうかと惑った。|梅花《うめ》はもう眼を|遣《や》る所に咲いていた。けれど|山《やま》|峡《あい》の冷気が肌身に|沁《し》みて、梅花に楽しむよりも、心は人里にばかり|牽《ひ》かれていた。
だが、丑之助の引く手綱は、無心に先へ先へ歩いている。そして、
「お通さん、後生だから、おらを木村様に頼んで、お城の|庭《にわ》|掃《は》きでも水汲みにでも、雇ってくれねえかなあ」
などといった。
丑之助の日頃の望みは、それにあるらしかった。祖先の名は菊村といい、親代々、|又《また》|右衛《え》|門《もん》を名乗って来たから、自分も侍になった上は、又右衛門と改める。そして菊村という名からは、偉い先祖が出ていないから、自分が剣法で家を立てたら、郷土の名を取って荒木を姓にし、荒木又右衛門と名のるつもりだ――などと姿に似げない抱負を述べる。
お通は、この少年の夢を聞くにつけ、城太郎はどうしたろうと、弟のように、別れた彼の身が考え出された。
(もう、十九か|二《は》|十《た》|歳《ち》)
城太郎の年をかぞえると、ふと彼女は堪らない淋しさに駆られた。自分の年を思い出したからである。月ケ瀬の|梅花《うめ》はまだ浅い春だったが、自分の春は過ぎようとしている。女の二十五を越えては――。
「もう帰りましょう。丑之助さん。元の道へ、返っておくれ」
丑之助は、|飽《あつ》|気《け》ない顔したが、いわるるまま牛の|頭《かしら》を向け直した。――と、何処かで、オオーイと呼ぶ声がその時聞えた。
二
さっきの牢人と、|他《ほか》にもう二人、同じ|風《ふう》|体《てい》の男が近づいて来て、お通の乗っている牛のまわりに、|腕《うで》|拱《ぐ》みして立ったのである。
「おじさん達。呼び止めて、何か用があるのかい」
丑之助はいったが、丑之助へは振り向く者もない。三人が三人とも、|卑《いや》しげな眼をお通へ集めて、
「なるほど」
と、|呻《うめ》き合っている。
そのうちに、一人がまた、
「ウーム、美人だ」
と、不遠慮にいって、
「――おい」
と、仲間を顧みた。
「おれはこの女を、どこかで見た覚えがあるぜ。多分、京都だと思うが」
「京都にはちがいあるまい。見るからに山里の女とはちがう」
「町でちらと見ただけか、吉岡先生の道場で見たのか、覚えはないが、|慥《たし》かに見たことはある女だ」
「おぬし、吉岡道場などに、いたことがあるのか」
「いたとも、関ケ原の乱後、三年ほどはあそこの飯を喰っていたものだ」
――何の用事か分らない。人を止めておいて、こんな雑談をし――そしてはじろじろとお通の体から顔を、さもしい眼で撫で上げている。
丑之助は、腹を立てて、
「おい。山のおじさん。用があるなら早くいってくんな。|帰《かえ》り|途《みち》の陽が暮れちまうから」
ぎょろりと、牢人の一人が、初めて丑之助を見、
「われやあ、荒木村から出て来る、炭焼山の小僧じゃねえか」
「そんなことが、用なのかい」
「だまれ。用事は、|汝《わ》れにあるわけじゃない。汝れは、さっさと帰る方へ帰れ」
「いわれなくても、帰るさ。|退《ど》いてくんな」
牛の手綱を曳きかけると、
「よこせ」
と、一人がその手綱をつかみ、そして恐い眼を丑之助へして見せた。
丑之助は、離さず、
「どうするのさ」
「用のある人を借りて行くのだ」
「どこへ」
「何処だろうが、黙って、手綱をよこせ」
「いけねえ!」
「いけないと」
「そうさ」
「こいつ、恐いということを知らねえのか。何か、つべこべいうぞ」
すると、他の二人も、|脅《おど》しの眼を揃え、肩をいからせ、
「何だと」
「どうしたと」
丑之助の|周《まわ》りにかたまって、|松《まつ》|瘤《こぶ》のような拳を突きつけた。
お通は、|顫《ふる》えあがって、牛の背へしがみついた。そして、丑之助の眉に、|凡《ただ》ならぬ出来事が起りそうな気色を見たので、
「――あれッ」
と、それに対して、制止しかけたが、丑之助はかえって彼女のそれに感情の|弦《つる》を切って、いきなり片足あげて、前の男を蹴とばしたせつな、彼の石頭は、斜めにいた牢人の胸いたへ|打《ぶ》つけて行って、その胸から敵の刀を抜き取るが早いか、自分のうしろへ向って、盲打ちに|薙《な》ぎ払った。
三
お通は、丑之助が気でも|狂《ちが》ったかと思った。丑之助の動作は、それほど、|迅《はや》くて、向う見ずな仕方だった。
だが、自分よりずっと|上《うわ》|脊丈《ぜい》のある三方の大人に|対《むか》って、彼がやった一瞬の身の動かし方は、同時に平等な打撃を相手に加えていた。
かん[#「かん」に傍点]の働きといおうか、少年の無鉄砲といおうか、理や法を持った大人がそれに出し抜かれた形であった。
うしろへ無法に振った刀は、うしろに立っていた牢人の胴へ強くぶつかった。――お通も何か|愕《おどろ》きを叫んだが、その牢人が、怒って吠えた声は、彼女の乗っていた牛を驚かすに足りる程だった。
しかも、仆れたその牢人の体から噴いた血が、牛の角から顔へ、霧のように走ったのである。
|傷負《て お い》の|呻《うめ》きにつづいて、一声、牛が吠えた。丑之助は、二度めの刀で、牛の尻を撲りつけた。牛はまた、大きく|吼《ほ》えて、彼女を乗せたまま猛然と駈けだした。
「うぬ」
「餓鬼っ」
二人の牢人は丑之助を追うのに急だった。丑之助は、渓流へ跳び下り、岩から岩へ逃げ移って、
「おらは、悪くねえぞ」
と、いった。
大人の飛躍は、到底、彼の比でなかった。
愚を悟って、
「小僧は後にしろ」
と、二人は急に、お通を乗せて行った牛の後を追い出した。
それと見ると、丑之助はまた、その後からどんどん駈けて、
「逃げるのかっ」
と、二つの背へ、声を投げた。
「何ッ」
口惜しげに、一つの顔が止まって振向いたが、
「小僧は後にしろ」
と、連れがまた、同じ言葉を繰返して、ひたむきに先へ跳んで行く|奔牛《ほんぎゅう》へ、足幅を|跳《と》ばし続けた。
彼女が先に手綱を引かれて来た時の道とちがって、牛は、闇夜を眼をつぶって駈けるように、|渓《たに》|河《がわ》沿いの道を離れ、低い山の背や尾根をめぐって――|笠《かさ》|置《ぎ》街道とよんでいる細道を果てなく駈けて行くのだった。
「――待てっ」
「待てえっ」
彼らは、牛より|迅《はや》い自信を持っていたが、平常の牛に対する考えは当らなかった。
奔牛は、|瞬《またた》く間に、柳生ノ庄に近く――いや柳生よりも奈良に近い街道まで、息もつかずに来てしまった。
「…………」
お通は、眼をふさいだきりだった。もし牛の背に、炭俵や薪を付ける荷鞍がなかったら、振り落されていたに違いない。
「おお、誰か」
「牛が狂うて行く」
「助けてやれ。|女《おな》|子《ご》が可哀そうな」
もう人通りのある街道を駈けているものとみえ、うつつな彼女の耳に、すれちがう往来の者の声は聞えるが、
「あれよ」
と、いうのみな、そうした人々の騒ぎも、忽ち、後へ後へと、流れ去ってしまうのだった。
四
もう|般《はん》|若《にゃ》|野《の》に近かった。
――生ける心地もないお通であった。止まる所を知らない奔牛の勢いであった。
どうなることか?
と、往来の者も、後振り向いて、お通の代りに声を揚げ合っていたが、その時、彼方の辻から、胸に|文《ふ》|筥《ばこ》を掛けた|何家《どこ》かの下郎が、牛の前に歩いて来た。
「――あぶないっ」
と、誰か注意したが、その下郎はなお真っ直に歩いていた。当然盲目的に進んで来た奔牛の鼻づらと、下郎の体とは、恐ろしい勢いで|打《ぶ》つかったように見えた。
「ア。牛の|角《つの》に突かれた」
「あほう!」
同情の余り、見ていた者は、かえってその下郎のぼんやりを|罵《ののし》った。
だが、奔牛の角に掛けられたと思ったのは、路傍の人たちの|錯《さっ》|覚《かく》だった。ばん――と何か音がしたのは、下郎の|平《ひら》|掌《て》が、途端に牛の横面をつよく|撲《は》りつけたのだった。
よほどな強打であったとみえ、牛は太い|喉《のど》くびを横へ上げて、ぐるりと半廻りほど廻ったが、猛然と、角を向け直したと思うと、前にも増した勢いで、また、駆け出した。
――けれど今度は、十尺とも進まぬうちに、奔牛の足は、ぴたと止まってしまった。そして口から|夥《おびただ》しい|唾《だ》|液《えき》と息を洩らして、巨きな体に、|喘《あえ》ぎの波を打たせておとなしくなっていた。
「お女中。はやく降りたがよい……」
下郎は、牛の後ろからいった。
この驚くべき働きに驚いた往来の者たちは、すぐわらわらと集まって来た。そして皆、下郎の足元に眼をみはった。――その片足が奔牛の手綱を踏んでいたからであった。
「……?」
|何家《どこ》の|下僕《し も べ》だろうか。武家の|仲間《ちゅうげん》のようでもなし、町家の|下男《し も べ》ともみえない。
|周《まわ》りに|集《たか》った者は、そんなことをすぐ考えている顔つきだった。――そしてはまた、下郎の足と、踏んでいる手綱を見て、
「えらい力じゃな」
と単純に舌を巻いていた。
お通は、牛の背から降りて、下郎の前に、頭を下げていたが、まだわれに|回《かえ》り切れない|容《よう》|子《す》だった。それに周りの人だかりにも気を縮めてしまい、その顔にも姿にも、容易に落着きがもどって来なかった。
「こんな素直な牛が、どうして暴れたものか」
下郎はすぐ牛の手綱を取って道ばたの木へ|縛《くく》しつけた。そして、初めて合点のいった顔をして、
「おう、尻に大怪我をしておるわ。刀で撲ったような大傷。……道理で、これでは」
牛の尻を眺めて、彼がそう|呟《つぶや》いている|間《ま》であった。辺りの人だかりを叱って、追い払いながら、
「や。そちはいつも、|胤舜《いんしゅん》御坊の供をしてみえる、宝蔵院の|草《ぞう》|履《り》|取《とり》ではないか」
と、そこへ立った侍がある。
急いで駈けつけて来たものとみえ、その言葉も|息《いき》|喘《ぎ》れに|弾《はず》んでいた。柳生の城の木村助九郎なのである。
五
宝蔵院の草履取は、
「よい所でお目にかかりました」
と、胸に掛けていた|革《かわ》|文《ふ》|筥《ばこ》を|外《はず》し、自分は、院主のお使いで、この書面を、柳生までお届けにゆく途中であるが、おさしつかえなければ、ここで|御《ご》|披《ひ》|見《けん》くだされまいかとて、それを手渡した。
「わしへか」
助九郎は、念を押して、手紙を|披《ひら》いた。きのう会った胤舜からの物で――読んでみると、
[#ここから1字下げ]
月ケ瀬にいる侍どものことについて、昨日申し上げた儀は、その後よく|取《とり》|糺《ただ》してみると、藤堂家の侍ではなく、浮浪の徒が冬籠りしていたものらしい。どうか拙僧の前言は誤聞として、取消していただきたい。念のために、取りあえず右まで。
[#ここで字下げ終わり]
といったような文意であった。
助九郎は、|袂《たもと》に納めて、
「ご苦労。書面の趣は、当方でも取調べたところ誤聞と相分って安心しておる程に、お案じないように――と、告げてくれい」
「では、道ばたで失礼でございましたが、てまえはこれで」
別れかけると、
「あ。待て待て」
助九郎は呼び止めて、やや言葉を改めていった。
「おぬし、いつ頃から、宝蔵院の下郎に住みこんだか」
「つい近頃の、新参でございます」
「名は」
「|寅《とら》|蔵《ぞう》といいまする」
「はてな?」
じっと見すえて――
「将軍家御師範の小野治郎右衛門先生の高弟、浜田|寅《とら》|之《の》|助《すけ》どのとはちがうかの?」
「えっ」
「それがしは、初めての|御《ぎょ》|見《けん》だが、お城のうちに、薄々お顔を知った者があって、胤舜御坊の草履取は、小野治郎右衛門が高弟の浜田寅之助じゃが? ――どうもそうらしいが? ――と噂をしていたのをちらと承ったが」
「……は」
「お人ちがいか」
「……実は」
浜田寅之助は、真っ赤な顔してさし|俯向《う つ む》いた。
「ちと……念願の筋がござりまして、宝蔵院の下郎に住み込みましたなれど、師家の面目、また、自分の恥。……どうか御内分に」
「いや何、さらさら御事情を伺おうなどとは存じも依らぬこと。……ただ日頃、もしやと思っていたので」
「|疾《と》くお聞き及びと存じまするが、仔細あって、師の治郎右衛門は道場を捨てて山へ隠れました。その原因は、この寅之助の不つつかにあったことゆえ、自分も身を落し、薪を割り水を|担《にの》うても、宝蔵院でひと修行せんものと、身許をかくして住み込んだわけ。――お恥かしゅう存じます」
「佐々木小次郎とやらのために、小野先生が敗れたということは、その小次郎が|吹聴《ふいちょう》しつつ、|豊《ぶ》|前《ぜん》へ下って参ったので、隠れもない天下の噂となっておるが、さては……師家の汚名を|雪《そそ》がんための御決心とみえる」
「いずれ。……いずれまた」
心から赤面に堪えぬように、草履取の寅蔵は、そういうと、|遽《にわか》に別れて、立ち去ってしまった。
|麻《あさ》の|胚子《たね》
一
「まだ帰らぬか」
柳生|兵庫《ひょうご》は、表の中門まで出て、お通の身を案じていた。
お通が、丑之助の牛に乗って何処かへ行ったまま、だいぶ時間が経ってからの騒ぎなのである――。
そのお通が、城内に見えないと気がついたきっかけも、江戸表から一通の飛脚状が兵庫の手に届いて、兵庫がそれをお通に見せようと姿を探し出したことからであった。
「月ケ瀬の方へは、誰と誰が見に行ったか」
兵庫の問いに、
「大丈夫です。七、八名駈けって行きましたから」
と、側にいる家来たちが、|等《ひと》しく口をそろえて答えた。
「助九郎は」
「御城下へ出ております」
「探しにか」
「はい。|般《はん》|若《にゃ》|野《の》から、奈良まで見て来るといって出られましたが」
「どうしたろう?」
少し|間《ま》を|措《お》くと、兵庫は大きな息をしていう。
彼は、お通に対して、|清《せい》|廉《れん》なる恋を抱いていた。特に、清廉なる――と自覚しているのは、お通が、誰を愛しているか、お通の胸をよく知っているからである。
彼女の胸には、武蔵という者が住んでいる。しかも兵庫は、彼女がすきだった。江戸の|日《ひ》ケ|窪《くぼ》から柳生までの間の長い旅路に――また、祖父の石舟斎が|臨終《い ま わ》のきわまで|枕辺《まくらべ》について世話してくれた間にも――兵庫はお通の性質を見とどけていた。
(かほどな女性に想われている男は、男の幸福の一つを持った者だ)
と、武蔵を|羨《うらや》ましくさえ思っているのである。
だが、兵庫は、他人の幸福を|密《ひそか》に奪おうなどという野心は抱けなかった。彼の考えや行動のすべては、武士道の鉄則に|拠《よ》ってなされていることなのである。恋をするにも、武士道を離れてはできなかった。
まだ相見たことはないが、お通が選んだ男性というだけでも、兵庫は、武蔵の人物を、想像できる気がした。――そして|何日《いつ》かは、お通を無事に、彼の手に渡してやることが、祖父の遺志でもあったろうし、自分の武士――武士の|仄《ほの》かな恋の遣り場とも――独り考えていたところである。
ところで。
きょう彼の手に届いた飛脚状は、江戸表の沢庵から出た手紙で、日付は去年の十月末に出ているが、どうして遅れたのか、年を越えて、今日のたった今、彼の手に届いたばかりなのだった。
それを見ると、
[#ここから1字下げ]
武蔵事、叔父御の但馬どの、矢来の北条どのなどの推挙により、愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、将軍家御師範座の一人に御登用と相極まり候て……云々。
[#ここで字下げ終わり]
の辞句が見える。
それのみか、武蔵も就任すれば、さっそく屋敷を持ち、身の|周《まわ》りの者もなくてはかなわぬ――。お通一名だけでも、先へ早々と、江戸表へ下向あるよう、諸事また次便に――というようなことが、書きつらねてあるのだった。
(どんなに欣ぶか!)
と、兵庫が、わが事のように、その手紙を持って彼女の部屋へ訪れたところが、お通の姿が、何処にも見えなかったという次第なのであった。
二
そのお通は、ほどなく助九郎に伴われて、帰って来た。
また、月ケ瀬の方へ行った侍たちは、丑之助と出会い、これも丑之助を連れて、やがて戻って来た。
丑之助は、自分が罪でも犯したように、
「堪忍してくんなされ。済まねえことをしたで」
と、一人一人へ、謝ってばかりいる。
そして直ぐにまた、
「おっ|母《かあ》が案じるで、おら、荒木村へもう帰りてえ」
と、いい出したが、
「ばかを申せ。今から帰ったらまた途中で、月ケ瀬の牢人どもに捕えられ、|生命《い の ち》はないぞ」
と、助九郎にも叱られ、侍たちにも、
「今夜は、御城内に泊めてやるから、明日帰れ、明日帰れ」
と、いわれて、小者と共に、|外《そと》|曲《ぐる》|輪《わ》の|薪《まき》|倉《ぐら》の方へ、追いやられた。
一室では、柳生兵庫が、江戸表からの便りをお通に示して、
「どう召さるか」
と、彼女の胸を問うている。
やがて四月の頃ともなれば、叔父の|宗《むね》|矩《のり》が、賜暇を得て、江戸表から帰国する。その折を待って叔父と共に江戸へ下るか――それとも、直ぐにも一人で立つ考えか。
そう訊ねるのだった。
沢庵の便りと聞くからにその墨の香さえ彼女にはなつかしい。
ましてや、その消息によれば、武蔵は近く幕府に仕え、一戸を江戸に構えることになろうとある。
巡り会えぬ幾年よりも、そう便りの知れたからには、一日も千秋の思いである。どうして、四月まで待てよう。
彼女は、飛びたつような心地を、頬の色にも秘め切れず、
「……明日にも」
と、|此所《ここ》を立ちたい希望を小声に洩らした。
兵庫も、また、
「さもあろう」
と、|頷《うなず》くのだった。
自分も、永くはここに留まっていない。年来、招かれている尾張の徳川義直公の|聘《へい》に応じて、ともあれ一度、名古屋まで行くつもりである。
――だがそれも、帰国の叔父を待って、祖父の本葬をした上でなければ去り難い。なるべく途中まででも送ってやりたいが、そういう訳だから、|其女《そ な た》が先に立つとすれば、一人旅をせねばならぬが、それでも、よいか。
去年の十月末に出した江戸の便りが、年を越えて今頃やっと着くほど、道中の|駅《えき》|逓《てい》も、宿々の秩序も、表面は穏やかに見えながら、まだ完全でない社会である。女のひとり旅は、|覚《おぼ》|束《つか》ない気もするが、それも|其女《そ な た》に覚悟があることならば――
こう兵庫が、念を押すと、
「……はい」
お通は、彼の親身も及ばない好意を、|沁《しみ》|々《じみ》、胸に受け取って、
「旅には、馴れておりますし、世間の辛さにも、少しは覚えがございまする。その辺のことは、どうぞお案じ下さいませぬよう」
さらば――と、その夜は彼女の身支度と、|小《ささ》やかな別れの宴に送って翌る日の朝。
きょうも、|梅《うめ》|日和《び よ り》だった。
助九郎やら誰やら、|馴《な》|染《じみ》の家臣たちは皆、彼女の旅立ちを見送るべく、中門の両側に立ち並んでいた。
三
「そうだ……」
と、つぶやいて、助九郎はお通のすがたを見ると共に、側の者へいった。
「せめて宇治あたりまで、牛の背で送って進ぜよう。ちょうど、ゆうべは丑之助も、御城内の|薪《まき》|倉《ぐら》に泊っている筈――」
と、直ぐ呼びにやった。
「それはよい所へ思いつかれた」
と人々もいって、別れの|辞《ことば》は|交《か》わしたが、しばらくお通を引き止めて、中門のほとりに待たせておいた。
だが、やがて戻って来た侍のことばには、
「丑之助は、見当りません。小者に訊くと、ゆうべのうち、あの闇夜を、月ケ瀬を越えて荒木村へ帰ったということでございます」
「……えっ。ゆうべのうち帰ってしまったと」
助九郎は、呆れた声を放った。
きのうの事情を聞いた者は、誰もみな、丑之助の剛胆さに、驚かない者はなかった。
「では、駒を曳け」
助九郎のいいつけに、小侍の一人はすぐ|厩《うまや》へ飛んで行った。
「いいえ、女の身で、お鞍などいただいては、勿体ない」
と、お通は辞退したが、兵庫も|強《し》いてすすめるので、
「では、おことばに甘えて」
と、小侍の曳いてきた一頭の月毛のうえに身を預けた。
駒は、お通を乗せて、中門から大手のゆるい坂を降り始めた。もちろん、|宇《う》|治《じ》までは、一名の小侍が、口輪を|把《と》って駒に|従《つ》いて行く。
お通は、駒の背から、人々の姿を振向いて、礼を返した。その顔に、崖から伸びている梅の横枝が|触《さわ》った。二、三輪、匂って散った。
「……おさらば」
と、声には出さなかったが、兵庫の眼はいっていた。坂の途中で散った梅のにおいが、その辺りまで微かにうごいて来た。兵庫はたまらない寂しさと――同時にその苦しい気持とは反対な彼女の幸とを祈っていた。
――見ているうちに、彼女のすがたは、城下の道へ小さくなって行った。兵庫はいつまでも立っていたので、彼のみをそこに置いて、辺りの者はみな去ってしまった。
(武蔵とやらは|羨《うらや》ましい)
寂しい胸の裡で、われとも非ず|呟《つぶや》いていた。――すると、彼のうしろに、いつの間にか、ゆうべ荒木村へ帰ったという丑之助が立っていた。
「――兵庫様」
「オ……。|童《わつぱ》か」
「はい」
「ゆうべ、帰ったのか」
「おっ|母《かあ》が、案じますで」
「月ケ瀬を通って?」
「はあ。あそこを越えずにゃ村へ行かれねえで」
「恐くなかったか」
「なんにも……」
「今朝は」
「けさも」
「牢人どもに見つからずに来たか」
「おかしいのだよ、兵庫様。|山《やま》|住居《ず ま い》していた牢人どもは、きのう|悪戯《わ る さ》をした女子が、後で柳生様のお城にいるお女中と分って、きっとこの後では、柳生衆が押しかけて来ると騒いで、夜のうちに、みんな山越えして何処へか行ってしまったとさ」
「ははは、そうか。……して、|童《わつぱ》。おまえは今朝、何しに来たな?」
「おらかい」
と、丑之助はやや|羞恥《は に か》んで――
「きのう木村様が、おらっちの山の|自《じ》|然《ねん》|薯《じょ》を|賞《ほ》めてくれたで、けさ早く、おっ母にも手伝ってもらって、山芋を掘って持って来たんさ」
と、いった。
四
「そうか――」
兵庫は初めて、寂しさを顔から払った。お通を失った瞬間の|空虚《う つ ろ》を、この純朴な山の少年に忘れ得たのである。
「ではきょうは、|美味《うま》いとろろ汁が喰えるというものだな」
「兵庫様も好きなら、またいくらでも掘って来るが」
「はははは。そう気遣うには及ばん」
「きょうは、お通様は」
「今し方、江戸へ立った」
「え。江戸へ。……じゃあ、きのう頼んでおいたこと、兵庫様にも木村様にも、話しておいてくれなかったかなあ」
「何を頼んだのか」
「お城の|仲間《ちゅうげん》に使ってもらいたいことを」
「仲間奉公をするには、まだ小さい。大きくなったら召使ってやる。どうして奉公したいのか」
「剣道が習いたいんだ」
「ふム……」
「教えて下さい。教えて下さい。おっ母が生きているうちに、上手になって見せなければ……」
「習いたいというが、そちはもう誰かに|習《まな》んでおるだろう」
「木を相手にしたり、獣を撲ってみたり、独りで木刀を|揮《ふ》って見たりしているだけだ」
「それでいい」
「でも」
「そのうちに、尋ねて来い。わしのいる所へ」
「いる所って何処」
「多分、名古屋に住むことになるだろう」
「名古屋。尾張の名古屋か。おっ母が生きているうちは、そんな遠くへは行けない」
おっ母、ということばを洩らすたびに、丑之助の眼には涙が見える。
兵庫も、何がなし、ひしと胸にこたえ、率然と、いった。
「来い」
「……?」
「道場へ通れ。兵法家として一人前になれる|質《たち》か、なれない質か、見てつかわす」
「えっ?」
丑之助は、夢かと、疑うような顔をした。このお城にある道場の古い大屋根は、彼の幼いたましいが、生涯の|憧憬《あこがれ》をもって常に仰いでいる希望の殿堂なのだ。
――そこへ通れ、という。しかも柳生家の門下でも家臣でもない一族の人から。
丑之助は、|欣《うれ》しさに、ただ胸が|膨《ふく》らんで口もきけなかった。兵庫はもう先に立っている。丑之助はちょこちょこ追いかけた。
「足を洗え」
「はい」
雨水の溜めてある池で、丑之助は足を洗った。爪についている土まで気をつけてこすり落した。――そして生れて初めて踏む、道場というものの床に立った。
床は鏡のようだった。自分の姿が映るかと思われる。――四面の|逞《たくま》しい板張、頑健な|棟《むな》|木《ぎ》。彼は威圧をうけて|竦《すく》んだ。
「木剣を持て」
兵庫の声までが、ここにはいると違うような気がした。正面脇の|侍溜《さむらいだまり》に、木剣のかかっている壁が見える。そこへ行って、丑之助は一筋の|黒《くろ》|樫《がし》を選んだ。
兵庫も取る。
兵庫はそれを、垂直に下げて、床の真ん中へ出た。
「……よいか」
丑之助は、持った木剣を、腕と平行に上げて、
「はいっ」
と、いった。
五
兵庫は木剣を上げなかった。右の片手に提げたまま、少し体を斜めに開いたのみである。
「…………」
それに対し、丑之助は木剣を中段に向け、体じゅうを、針鼠のように|膨《ふく》らました。そして、
(何を!)
ときかない顔に、眉をあげ、少年の血を|漲《みなぎ》らした。
――行くぞ!
と声ではない、瞳でくわっと、兵庫が気を示すと、丑之助はぎゅっと肩を|緊《し》めて、
「うむっ」
と、|唸《うな》った。
とたんに、兵庫の足が、だだだッと床を鳴らして、丑之助を追いつめ、片手の木剣は、丑之助の腰のあたりを、|横《よこ》|撲《なぐ》りに払った。
「まだッ」
丑之助は、呶鳴った。
そして、彼の足からも、後ろの羽目板でも蹴ったような響きを発し、どんと、兵庫の肩を跳び越えた。
兵庫は、身を沈めながら、左の手で、その足を軽く|掬《すく》った。――丑之助は自己の|迅《はや》|業《わざ》と自己の力で、竹とんぼ[#「とんぼ」に傍点]みたいに|旋《まわ》ったまま、兵庫の後ろへもんどりを打った。
カラカラ――と、手から離れた木剣が、氷の上を|辷《すべ》るように、彼方へ飛んでしまった。跳ね起きた丑之助は、なお屈せず、木剣を追いかけて、拾い取ろうとした。
「もうよい!」
兵庫が、|此方《こ な た》からいうと、丑之助は振向いて、
「まだッ」
と、いった。
そして持ち直した木剣を振りかぶって、今度は|鷲《わし》の子のような勢いで兵庫へ|対《むか》って来たが、兵庫が、ひたッと木剣の先を向けると、丑之助は、その姿勢のまま、途中で立ち|竦《すく》んでしまった。
「…………」
くやし涙を眼に溜めているのである。兵庫はじっとその様子をながめ、心のうちで、
(これは、武魂がある)
と、見込んだ。
だが、わざと眼を怒らせて、
「|童《わつぱ》っ」
「はいっ」
「|不《ふ》|埒《らち》な奴だ。この兵庫の肩を躍り越えたな」
「? ……」
「土民の分際で、|狎《な》れるにまかせて、不届きな仕方。――直れ。それへ坐れ」
丑之助は、坐った。
そして、何か|理《わけ》は分らないが、謝ろうと手をつかえかけると、その眼の前へ、兵庫はカラリと木剣を捨て、腰の刀を抜いて丑之助の顔へ、突き出していた。
「手討ちにする。|噪《さわ》ぐと、これを浴びせるぞ」
「あっ。おらを」
「首を伸べろ」
「……?」
「兵法者が、第一に重んじるのは礼儀作法である。土百姓の|童《わつぱ》とはいえ、今の仕方は堪忍ならぬ」
「……じゃあ、おらを、無礼討ちにし召さるというのけい」
「そうだ」
丑之助は、兵庫の顔を、しばらく見つめていたが、観念の|体《てい》をあらわして、
「……おっ母。おらあお城の土になるそうな。後で嘆かっしゃることだろうが、不孝者を持ったと思って、堪忍してくんなされ」
と、兵庫へつく手を、荒木村の方へついて、さて、静かに、斬られる首をさし伸べた。
六
兵庫はニコと|笑《え》んだ。そしてすぐ刀を|鞘《さや》におさめ、丑之助の背を叩いて、
「よし。よし」
といって|宥《なだ》めた。
「今のはわしの戯れだ。なんでそちのような|童《わつぱ》を手討ちになどするものか」
「え。今のは、|冗戯《じょうだん》なのけ」
「もう、安心するがいい」
「礼儀を重んじなければいけないといったくせに、その兵法者が、今みたいな|冗戯《じょうだん》をしてもいいのけい」
「怒るな。おまえが、剣で立つほどな人間になれるかなれないか、試すためにいたしたのだから」
「だって、おら、ほんとだと思った」
丑之助は初めてほっと息をついていった。同時に、腹が立ったらしいのである。無理もないと、兵庫も思い、|宥《なだ》め顔にまた訊ねた。
「そちは|先刻《さ つ き》、誰にも剣術は習わぬといったが、嘘であろう。――最初、わしがわざと羽目板の際までおまえを追いつめたが、たいがいの大人でも、あのまま、板壁を背負って、参ったという所なのに、そちはバッとわしの肩を越えて跳ぼうとした。――あれは三年や四年木剣を持った者でも、できる|技《わざ》ではない」
「でも……おいらは誰にも習ったことはないもの」
「嘘だ」
兵庫は信じない。
「いくら隠しても、誰か、そちには良い師匠があったに違いない。なぜ、師の名を申せぬのか」
問い詰められて、丑之助はだまり込んでしまった。
「よく考えてみい。誰かに、手ほどきをしてもらった者があるだろう」
――すると、率然と、丑之助は顔を上げた。
「アア。あるある。そういわれれば、おらにも、教えてくれたものがあったっけ」
「誰だ」
「人間じゃないんだ」
「人でなければ、|天《てん》|狗《ぐ》か」
「|麻《あさ》の|実《み》だよ」
「何」
「麻の実さ。あの鳥の餌にもやるだろ。あの麻の|胚子《たね》さ」
「ふしぎなことを申す奴。麻の実がどうしてそちの師か」
「おらの村にゃいねえが、少し奥へ行くと、伊賀衆だの、甲賀衆だのっていう、|忍《にん》|者《じゃ》のやしきが幾らもあるで――その伊賀衆たちが、修行するのを見て、おらも真似して、修行したんだ」
「ふウむ? ……麻の|胚子《たね》でか」
「あ、春先、麻の胚子を|蒔《ま》くんだよ。すると、土から青い芽がそろって出て来るがな」
「それをどうするのか」
「跳ぶのさ――毎日毎日、麻の芽を跳ぶのが修行だよ。あたたかくなって、伸び出すと、麻ほど伸びの早いものはないだろ。それを朝に跳び、晩に跳びしてると――麻も一尺、二尺、三尺、四尺とぐんぐん伸びて行くから、怠けていたら、人間の勉強の方が負けて、しまいには跳び越えられないほど高くなってしまう……」
「ほ! 貴様は、それをやったのか」
「アア。おらあ、春から秋まで、去年もやったし、おととしも……」
「道理で」
兵庫が、膝を打って感じ入っていた時である。道場の外から木村助九郎が、
「兵庫様。また江戸表から、このような書状がとどきましたが……」
と、いいながら、手にそれを持ってはいって来た。
七
書面は、やはり沢庵からで、
前便の件
|遽《にわか》に|模《も》|様《よう》|更《がえ》と|相《あい》|成《なり》
と、書き出してある通り、先に出した手紙の追いかけの第二便だった。
「助九郎」
「はっ」
「まだお通は、いくらも道は|捗《はか》どっておるまいな」
読み終ると、兵庫は何か、気の|急《せ》く|面《おも》もちで、急にいった。
「さ……。駒に乗っても、|徒士《かち》|供《ども》の付き添い、まだ二里とも参っておりますまい」
「では、すぐ追い着こう。ちょっと行って参る」
「あ。……何ぞにわかな御用でも」
「されば、この書面に依れば、将軍家でお召抱えの件は、何か、武蔵どのの身状に御不審とやらで取止めになったとある」
「え。お取止めに」
「――とも知らずに、江戸の空へ、あのように欣んで立って行ったお通へ、聞かしとうもないが、聞かせずにも|措《お》かれまい」
「では、手前が追いかけて参りましょう。その御書面を拝借して」
「いや、わしが行く、……丑之助、急に用事ができたから、また参れよ」
「はい」
「時が来るまで、志を磨いておれ。よく母親に孝養をつくして」
兵庫の身はもう外に在る。|厩《うまや》から一頭曳き出して、それへ乗ると、宇治のほうへまっしぐらに駈けていた。
だが――
彼はその途中で、ふと考え直した。
武蔵が、将軍家師範に成る成らないなどということは、彼女の恋にとっては何らの問題でもない。
彼女はただ、ひたむきに、武蔵と巡り会いたいのである――
ああして、四|月《がつ》も待たず、ひとりで立ったのを見ても。
書面を示して、
(一度、戻っては)
とすすめた所で、|空《むな》しく戻るはずもない。ただ|徒《いたず》らに、彼女の心を、折角な旅を、|暗《あん》|澹《たん》と、沈ませてしまうに過ぎまい。
「……待てよ」
兵庫は、駒を止めた。柳生城から小一里も来てからであった。もう一里も駈ければ、或は、追いつきもしよう。――だが彼は、その無益を悟った。
(武蔵と会って、二人が会った欣びのうちに語りあえば、こんなことは、|些《さ》|細《さい》な問題)
彼は、のどかに駒を柳生のほうへ引っ返した。
いや、路傍に芽ぐみ出した春の色はうららかだし、彼の姿ものどかには見えたが――彼のみが知る胸にはまた、|纏《てん》|綿《めん》たる後ろ髪を引くものがないではなかった。
(もう一目でも)
その未練があるからこそ、彼自身、駒をとばしてお通のあとを追ったのではなかったか。
そう問う者があれば、
(否――)
と兵庫は潔く顔を横にふることはできなかったに違いない。
さあれ兵庫の胸は、彼女の多幸を祈る気もちでいっぱいなのだ。武士にも未練はあり、また、愚痴がある。――だがそれは、武士道的に|諦《てい》|観《かん》しきってしまうまでのあいだの瞬間にすぎない。煩悩の境を、一歩転じれば身は春風に軽く、柳の緑は|眸《ひとみ》を|醒《さ》まし、またべつな天地がある。――恋のみが青春を燃やすものかは! ――時代は今、|偉《おお》きな|潮《うしお》の手を挙げて、世の|若《わか》|者《もの》|輩《ばら》を呼んでいるのだ。路傍の花に眼をくれるな! 日を惜しめ、そしてこの潮に乗りおくれるな! と。
|草《くさ》 |埃《ぼこり》
一
お通が、柳生を去ってから、はや二十日の余も過ぎた。
去る者は、日々にうとく、|萌《も》える春は、日々に濃くなる。
「だいぶ、人出だな」
「されば、今日あたりは、奈良にも稀れな|日和《ひ よ り》ですから」
「遊山半分か」
「ま。左様なもので」
柳生兵庫と、木村助九郎とであった。
兵庫は編笠をかぶり、助九郎は法師頭巾に似た物を顔に巻いている。元より|微行《し の び》である。
遊山半分か――といったのは、自分たちのことをさしたのか、道行く人々のことをいったのか、どっちにも聞えるが、二人の顔にはかるい苦笑がながれ去った。
お供は荒木村の|丑《うし》|之《の》|助《すけ》。――近ごろ丑之助は、兵庫に愛されて、前よりも|屡々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《しばしば》城へ見えるが、きょうは二人の供について、背に弁当の包みを負い、兵庫の換え草履一そく[#「そく」に傍点]腰に挟んで、なりの小さい草履取――という恰好して後から歩いてゆく。
この主従も、往来の人々も、いい合せたように皆、やがて町中のひろい野原に流れこんだ。野のそばに興福寺の|伽《が》|藍《らん》があり森が囲み、塔が|聳《そび》えてみえる。
また、野から彼方の|高畠《たかばたけ》には、坊舎や神官の住居がみえ、奈良の町屋は、その先の低地に昼間も|霞《かす》んでいた。
「もう済んだのかな?」
「いや、食休みでございましょう」
「なるほど、法師|輩《ばら》も、弁当をつこうておる。――法師も飯を喰うものとみえる」
兵庫がいったので、助九郎はおかしくなって笑い出した。
人はおよそ四、五百名もこの野に集まっていたが、野が広いので、まばらにしか見えない。
ちょうど、|春日《か す が》|野《の》の鹿のように、ある者は立ち、ある者は坐り、ある者はぶらぶら歩いている。
だが、ここは春日野ではなく、|旧《もと》平安三条の|内《ない》|侍《し》ケ|原《はら》であった。その内侍ケ原には、きょうは何か興行があるらしい。
興行といっても、都会をのぞいたほかは、小屋掛などすることは稀れにもない。めずらしい幻術師が来ても、|傀儡《く ぐ つ》師が来ても、|賭《かけ》|弓《ゆみ》や賭剣術が催されても、|野《の》|天《でん》であった。
きょうの催しは、そういうただの人寄せではなく、もっと真面目なものだった。宝蔵院の槍法師たちが集まって、年に一度、公開してみせる試合日なのだ。この試合に依って、平常の宝蔵院の|床《ゆか》に坐る席順がきめられるというので、大勢の法師や侍は、衆人の前でもあるし、ずいぶん烈しい戦闘をするということだった。
けれど今は、からんとして、野づらの空気は、至って|長閑《の ど か》であった。
ただ、野の一方に三、四ヵ所張ってある幕のあたりで、法衣|短《みじか》に|括《から》げあげた法師たちが|柏《かしわ》の葉でくるんだ弁当の飯を喰べたり、湯をのんだりしているだけである。悠長な――という言葉がそのまま当てはまる景色だった。
「助九郎」
「は」
「わしらも、何処かへ坐って、弁当でも解こうか。……だいぶ間がありそうだ」
「お待ちください」
助九郎は、手頃な場所を見まわしていた。
――すると、丑之助が、
「兵庫様、これへお坐りなさいまし」
と、何処からか、早速に一枚のむしろを持って来て、程よい所へ敷いた。
(|心利《こころき》きたる奴)
何かにつけ、兵庫は彼の機敏なことに感心したが――また、その気の|利《き》くことが、将来の大成という上には、すこし懸念される点でもあった。
二
主従三人は、むしろの上に坐って、竹の皮をひらいた。
|玄《くろ》|米《ごめ》のにぎり飯。
梅漬と味噌が添えてある。
「|美味《うま》い」
兵庫は、青空を喰うように、野天の弁当を楽しんだ。
「丑之助」
と、助九郎がいう。
「へい」
「兵庫様に、|白《さ》|湯《ゆ》を一椀上げたいな」
「じゃ、貰って来て上げようか。あそこの法師衆がいる溜りへ行って」
「ム。もらって来い……だが、宝蔵院衆へ、柳生家の者が来ているということは、黙っておれよ」
兵庫も、側から注意した。
「うるさいからなあ。挨拶にでもやって来られると」
「はい」
丑之助は、むしろの端から起ちかけた。――すると。
先刻から、彼方で、
「オヤ?」
と、野の芝地を見まわして、
「|莚《むしろ》がない。莚がない」
と、探している二人の旅の者があった。兵庫たちのいる所から、十間ほど離れた場所で、そこらには牢人者だの、女だの、町の者などが、まばらにいたが、旅の者が|失《な》くした莚は、誰も敷いていなかった。
「伊織。もういい」
探しあぐねて、一人がいった。
がっちりと、丸こい顔と固い筋肉をして、四尺二寸の|樫《かし》の|杖《じょう》を提げている男だった。
伊織の連れとあれば、これはいうまでもなく、|夢《む》|想《そう》|権《ごん》|之《の》|助《すけ》。
「もうお止し。探さないでもいい」
重ねて、権之助はいったが、伊織はなお諦めきれぬ顔して、
「|何奴《ど い つ》だろ。誰かがきっと、持って行ったにちがいないよ」
「まあいいよ。たかが|莚《むしろ》一枚」
「莚一枚でも、だまって持って行った心根が憎いもの」
「…………」
権之助はもう忘れて、草の上に坐りこみ、矢立を出して、昼前の旅の|小遣帳《こづかいちょう》をつけていた。
彼が、旅の間にも、こういうことを克明に|誌《つ》けるようになったのも、伊織と旅をし、伊織に感心してからのことである。伊織は、時には、子どもらしくなさ過ぎるほど、生活には用意ぶかかった。物を無駄にせず、|几帳面《きちょうめん》な|質《たち》で、自然、一|椀《わん》の飯にも、毎日の天候にも、感謝を知っていた。
――だからまた、人にも、違ったことは、許さない潔癖がある。この潔癖は、武蔵の手を離れて、人中へ出るほど育てられて来た。――で、一枚の|莚《むしろ》といえど、ひとの迷惑を思わず、無断で持って行った人間の心根を、伊織は憎んでやまないのであった。
「ア。――あいつらだな」
伊織は、遂に見つけた。
権之助が旅に持ち歩いている|寝莚《ねむしろ》を、平気で敷いて、弁当を喰べている三人の主従を。
「もし。――おいっ」
伊織は、そこへ駈けて行った。だが、十歩ほど手前で先ず立ち止まって、抗議の文句をまず考えていると、折ふし、湯を貰いに|起《た》った丑之助が、出合いがしらに、胸を寄せて、
「なんだい」
と、彼に答えた。
三
伊織は、明けて十四。丑之助は取って十三だった。しかし丑之助の方が、ずっと年かさに見えた。
「何だいとは、何だい」
伊織は丑之助の不作法を|咎《とが》めた。丑之助は、土地の者らしくないこの小さい旅人を鼻先で迎えて、
「そういったのが悪いか。|汝《てめえ》から呼んだから、何だと訊いたんだ」
「ひとの物を、黙って持って行けば、|盗《ぬす》|人《びと》だぞ」
「盗人。――こいつめ、おらを盗人だといったな」
「そうさ。おらの連れの人が、あそこへ置いた|莚《むしろ》を黙って持って行ったじゃないか」
「あの莚か。あの莚は、そこに落ちていたから持って来たんだ。なんだ莚の一枚ぐらい――」
「一枚の莚でも、旅人の身にとれば、雨をしのいだり、夜の|衾《ふすま》になる大事な物だ。返せ」
「返してもいいが、いい方が|癪《しゃく》に|触《さわ》るから返さねえ。盗人といった言葉を|謝《あやま》れば返してくれてやろ」
「自分の物を取返すのに、謝るばかがあるものか。返さなければ腕にかけても取るぞ」
「取ってみろ。荒木村の丑之助だぞ。|汝《てめえ》ッちに、負けて|堪《たま》るか」
「生意気いうな――」
と、伊織も負けていない。小さい肩を|聳《そび》やかしていった。
「こう見えても、わしだって兵法者の弟子だぞ」
「よし、後で|彼方《む こ う》へ来い。|周《まわ》りに人がいると思って大口を叩いても、人中を離れたら|立《たち》|対《むか》えまい」
「何を。その口を忘れるな」
「きっと来るか」
「何処へさ」
「興福寺の塔の下まで来い。助太刀など連れずに来い」
「いいとも」
「おれが手を挙げたら、来るんだぞ。いいか覚えてろ」
口喧嘩だけで、一時は別れた。丑之助はそのまま、湯を貰いに行ったのである。
何処からか彼が|土《ど》|瓶《びん》の湯を提げて戻って来た頃、野の真ん中には、|草埃《くさぼこり》が煙っていた。法師たちの試合が始まったのである。群衆は、大きな輪を作って、それを見物に詰め寄った。
輪のうしろを、土瓶を提げた丑之助が通った。権之助と並んで見ていた伊織は、振向いて、丑之助のほうを見た。丑之助は、眼で|挑《いど》んだ。
(後で来い!)
伊織も眼で答えた。
(行くとも。覚えてろ)
|内《ない》|侍《し》ケ|原《はら》ののどかな春も、試合がはじまると一変して、時々あがる黄色い|埃《ほこり》に、群衆は、武者押しのような声を揚げた。
勝つか負けるか。
勝つ位置へ自己を躍り上げる。
試合はそれだ。
いや時代がそれなのだ。
少年の胸にもそれが反映している。時代の中に育てられた彼らである。たとえ生れ出ても、生れながらの虚弱では一人前に成って行けないように、十三、十四の頃からして既に、|頷《うなず》けない屈伏はできない気骨に養われている。一枚の|莚《むしろ》が問題なのではない。
だが伊織にも、丑之助にも、大人の連れがあるので、しばらくは、その人達の腰について、野試合のさまを見物していた。
四
モチ竿のような長い槍を立てて、原の真ん中に|先刻《さ つ き》から立っている法師がある。
その法師にむかって、幾人も幾人も、槍を合せに出たが、みんな|刎《は》ね飛ばされたり、叩き伏せられたり、ほとんど手に合う者がなかった。
「|出《いで》|合《あ》い|給《たま》え」
法師は、後の者を、|促《うなが》しているのだ。
が、容易に出ない。
この際は、出ないことを賢明としているように、東の|幕《とばり》でも、西の|溜《たまり》でも、|固《かた》|唾《ず》をのんで、ただ法師に物をいわせていた。
「――つづく者がなくば、野僧は|退《さ》がり申すぞ。きょうの野試合において十輪院の南光坊が第一のこと御異存ないかな」
いい|触《ふ》らすように、西に向い、東へ向って、法師は挑んでいる。
十輪院の南光坊は、宝蔵院の流れを先の初代胤栄から|直《じ》かにうけて、いつか一派を興し、十輪院の槍と|称《とな》え、今の二代胤舜とは、反目している者だった。
怖れてか、争いを避けてか、胤舜は、きょうは姿を見せていない。病気ということが理由になっていた。南光坊は存分に、宝蔵院の現門下を|蹂躪《じゅうりん》し尽したかのように、やがて立てていた槍を横に直した。
「では、わしは|退《さ》がろう。――もはや敵なしじゃ」
すると、
「待った」
ぱっと、一僧が、槍を|斜《しゃ》に持ったまま、躍り出した。
「胤舜の門下、|陀《だ》|雲《うん》」
「お」
「お相手に」
「ござれ!」
二人の|踵《かかと》からぱっと土が煙る。跳び別れた途端、槍と槍は、もう生物のように|睨《ね》め|合《あ》っている。
(終りか)
と、失望していた見物は、歓呼をあげて狂った。
だが、群衆はすぐ、|窒《ちつ》|息《そく》したように黙った。カーンと強い音響を聞いた時、それは槍が槍の柄を打ったのかと思ったら、陀雲という法師の頭が、南光坊の槍で撲り飛ばされていたのである。
風に打たれた|案山子《か か し》のように陀雲の体は横に|仆《たお》れていた。わらわらと、|溜《たまり》から三、四名の法師が駈け出たので、さては喧嘩かと思っていると、陀雲の体をひっ担いで退がって行ったのである。
――後はまた、誇りに誇った南光坊が、いよいよ肩を|昂《あ》げて立っている姿しかなかった。
「|健《けな》|気《げ》|者《もの》が、まだ少しは、いるらしいな。――ござるならはやくござれよ。三人四人、束となって|蒐《かか》っても苦しゅうないが」
その時である。
溜の幕の陰に、|笈《おい》をおろした山伏がある。身軽になって、宝蔵院衆の前に出て、
「試合は、院中のお弟子方に限りましょうか」
と訊ねた。
宝蔵院の者は、口を揃えて、然らず――と答えた。
東大寺前と、猿沢の池の|畔《ほとり》に、高札を立ててある通り、道に志す武芸の道友とならば、|何《なん》|人《ぴと》といえど、手合せに|関《かま》いはないことになっているが、|往古《いにしえ》の荒法師以上、槍修行の荒法師ぞろいと聞えている宝蔵院の|野天行《のでんぎょう》に当って、
(われこそ)
などと自分から人前に恥をさらし、揚句に片輪者にされて|悄《すご》|々《すご》引っ込むような愚かなまねを――敢て自分からすすんで求めるような馬鹿者はいないのだ、という説明であった。
山伏は、列座の法師|輩《ばら》に、一応の辞儀をして、
「然らば、やつがれが一つその馬鹿者となってみとうござるが、木太刀を御拝借願われましょうか」
と、いった。
五
人の輪に|紛《まぎ》れて、|彼方《か な た》の野試合を眺めながら、兵庫は、
「助九郎。おもしろくなったな」
と、顧みた。
「山伏が出て来たようで」
「されば。もう勝敗は見えたも同じだの」
「南光坊が|優《まさ》っておりましょうか」
「いや、多分、南光坊は試合うまいよ。試合えば、彼も至らぬ奴じゃ」
「はて? ……左様でございましょうか」
助九郎には、|解《げ》せない面持である。
南光坊の人物は、よく知っている兵庫の言ではあるが、なぜ、今出てきた山伏と試合えば、至らぬ人間だろうか。
不審に思っていたが、ほどなく助九郎にも意味が分った。
その時、彼方では――
山伏の男が、借り受けた木剣を手にひっ提げ、南光坊の前へ進んで行って、
(いざ)
と、挑んでいた。その|体《てい》を見て、助九郎にも、初めて分ったのである。
大峰の者か、|聖護院《しょうごいん》派か、見知らぬ山伏だが、年ごろ四十前後の男で、鉄のような五体は、|修《しゅ》|験《げん》の|行《ぎょう》に|鍛《きた》えたというよりは、戦場で作ったものである。|生死《しょうじ》の達観のうえに出来上っている肉体なのである。
「お願いいたしましょうか」
山伏の言語は穏やかである。|眼《まなこ》も柔和であった。だが、この男は生死の境から外の物だった。
「|他者《よそもの》か」
と、南光坊は、|新《あら》|手《て》の敵を見直して、そういった。
「は。飛入りではござるが」
と、会釈すると、
「待たっしゃれ」
南光坊は、槍を立ててしまった。これはいけないと悟ったらしいのだ。|技《わざ》では勝てるかも知れないが、絶対に、勝てないものを、この新手に感じたのである。――それに当今の山伏には、氏素姓をかくして身を|韜《とう》|晦《かい》している人間も多いし、避けたほうが賢明と、考えたのであろう。
「|他者《よそもの》とは立合わぬ」
と、南光坊は、首を振った。
「いや、今あちらで、|掟《おきて》を伺ったところによれば」
と、山伏は、自分の出場が不当でない点を、穏やかにいって、なおも|強《し》いたが、南光坊は、
「人は人、拙僧は拙僧。――拙僧が槍は、いたずらに、諸人に勝たんためではおざらぬ。槍の中に|法《ほっ》|身《しん》を鍛錬しているこれは一つの仏行でござる。余人との試合は、好むところでおざらん」
「……ははあ?」
山伏は苦笑した。
何かまだ物いいたげであったが、人中でいうことを好まないふうで、然らばぜひもないことと、|溜場《たまりば》の法師に木剣を返し、素直に何処へか立ち去ってしまった。
それを|機《しお》に、南光坊も退場した。彼の逃げ口上を、溜の法師たちも見物も、卑怯だとささやいたが、南光坊は気にもかけず、二、三の法弟をつれて、凱旋の勇将のように、帰ってしまった。
「どうだ、助九郎」
「御明察の通りでしたな」
「その筈だ」
と、兵庫はいった。
「あの山伏は、おそらく|九《く》|度《ど》|山《やま》の一類だろう。|兜《と》|巾《きん》や|白衣《びゃくえ》を|鎧甲《よろいかぶと》に着かえれば、何の|某《なにがし》と、相当な名のある|古《ふる》|強者《つわもの》にちがいない」
群衆は思い思いに、散らかりかけていた。――試合が終りを告げたからであろう。――助九郎は|周《まわ》りを見まわして、
「おや、何処へ行ったか?」
と、つぶやいた。
「何だ、助九郎」
「丑之助の姿が見当りませんので――」
童心|地描図《ちびょうず》
一
約束だ。ふたりだけで出合う約束だ。
連れの大人たちが皆、野試合に気をとられている隙に、丑之助から、
(来い!)
と、眼合図をすると、一方の伊織は、連れの権之助にも黙って、人ごみから抜け出した。
同時に、丑之助もまた、兵庫や助九郎に悟られぬように、そこから駈け出して、興福寺の塔の下まで行った。
「やい」
「なんだ」
高い五重の塔の下に、小さい二人の兵法者が、睨み合った。
「|生命《い の ち》がなくなっても、後で恨むな」
伊織がいうと、丑之助は、
「|生《なま》アいうな」
と棒を拾った。
刀を持たないからである。
伊織は、持っていた。その刀を抜くや否、伊織は、
「こいつめ!」
斬ってかかった。
丑之助は跳び|退《の》いた。伊織は彼が|怯《ひる》んだと思って、ぶつかるようにまた、追いかけて斬りつけた。
丑之助はその途端に、伊織を麻の|胚子《たね》と思って跳び上がった。そして足は、伊織の顔を、宙で蹴とばしていた。
「わっ」
伊織は、片手で耳を抑えた。転んだ勢いはすぐ起きた勢いだった。
立ち直ると、刀を振りかぶった。丑之助も棒を振りかぶっていた。伊織は武蔵の教えも、平常、権之助から学んだことも忘れてしまった。こっちから打って行かなければ、彼から打たれると思った。
眼。眼。眼――とあれほど武蔵からやかましくいわれたことなどはもう念頭にもなく、その眼をつぶって、盲目的に、刀と共に相手へぶつかって行ったのである。待ち構えていた丑之助は、身を避けて、ふたたび|強《したた》かに、伊織を棒で、|撲《なぐ》り伏せた。
「ウウム……」
伊織は、もう|起《た》てなかった。刀を持ったまま地に|俯《う》っ|伏《ぷ》してしまった。
「勝ったぞ。おらが」
丑之助は、誇っていったが、伊織が動かなくなったので、急に、恐いものに襲われたように、山門の方へ駈け出した。
「――こらっ!」
四方の木立が|吼《ほ》えたように、誰かが彼の背へ向ってそう呶鳴った。また――声と一緒に四尺ばかりの|杖《じょう》が一本、風を切ってびゅッと泳いで行き、丑之助の腰の辺に杖の突端がコツンとあたった。
「痛っ」
丑之助は、横に転んだ。
すぐ杖の後から駈けて来た人間がある。いうまでもなく、伊織を探しに来た夢想権之助である。
「待て」
声が近づくと、丑之助は、痛む腰を忘れて、|脱《だっ》|兎《と》みたいに跳ね起きた。そして、十歩も駈けたかと思うと、その時、山門からはいって来たべつな者に、正面からぶつかった。
「丑之助ではないか」
「……あっ?」
「どうした」
木村助九郎であった。丑之助はあわてて、助九郎の後ろへかくれた。――で当然、彼を追って来た権之助と助九郎とは、何の予告もなく、いきなり眼と眼をまず激突させて、とたんに|対《たい》|峙《じ》の姿勢になってしまった。
二
眼と。そして、眼と。
そう二人のあいだに、|険《けわ》しい一瞬が発したせつなは、どんな争闘を捲き起すかと思われた。
助九郎の手は刀へ。権之助の手は杖へ。双方とも、ぴた[#「ぴた」に傍点]と。しかし――
それが事なく、次のような会話へ移って、この場の真相を知りあうことができたというのは、相手の人間を観てとる鋭い直観力を、幸いにも二人が持ち合せていたためだったといえよう。
「旅の者。――仔細は知らぬが、何でこのような|童《わつぱ》を、大人げもなく打ちのめそうといたすか」
「異なお訊ね。その前にあれなる――塔の下に仆れている連れの者を|御《ご》|覧《ろう》じ。その童のために、|強《したた》かに打たれ、気も失うて苦しんでおる」
「あの少年は、そちの連れの者か」
「されば――」
と、権之助はいってすぐ、言葉を|抛《ほう》り返すように、
「その|小童《こわつぱ》は、おてまえの召使でござるか」
「召使ではないが、拙者の主人が目をかけておる丑之助という者。……これ丑之助。何であの旅の人の連れ衆を打ちすえたか」
背中へ廻ってさっきから黙って|佇《た》っている彼を顧みて、
「正直に申せ」
と、助九郎が詰問すると、その丑之助が口をあかぬうちに、塔の下に仆れていた伊織が首をもたげて、彼方から、
「試合だよっ。試合だよ!」
と、さけんだ。
伊織は痛そうな体を、その言葉とともに起して歩いて来ながら、
「試合して、おらが負けたんだから、その子が悪いんじゃない、おらが弱いんだ」
と、いった。
助九郎は、伊織が負けたことを|怯《ひる》まず負けたといった姿へ、感嘆でも浴びせたいような眼をみはったが、
「おお。では約束のうえで尋常に打ち合ったのか」
微笑の眼をほそめ、一方の丑之助を顧みると、丑之助も今となってはやや|間《ま》がわるそうに、
「おいらが、あの衆のむしろ[#「むしろ」に傍点]を、あの衆のもんと知らねえで、黙って持って来たから悪かっただ」
と、|事情《わけ》を話した。
打たれた伊織ももう元気に|回《かえ》っている。訊いてみれば子どもらしい|経緯《いきさつ》だ。ほほ笑ましくさえなるものを、もし最前、権之助がここへ追い、助九郎が駈けつけて来た出合いがしらに、大人と大人とが、一歩退くことなく、武器で物をいったとしたら、|可惜《あ た ら》無用の血が、今頃はそこらを染めていたに違いなかった。
「いや、失礼いたした」
「お互いです。手前こそご無礼を」
「では、主人も|彼処《あ ち ら》で待っておるゆえ、ここで御免――」
「おさらば」
笑い合って、山門を出た。助九郎は丑之助を伴い、権之助は伊織を連れて。
興福寺の門前から、右と左に別れかけたが、権之助はふと戻って、
「あ。ちょっとお訊ねします。柳生ノ庄へは、どう参りましょうか。この道を真っ直でよいでしょうか」
助九郎は、振向いて、
「柳生の何処へ行かれるか」
「柳生城をおたずね|仕《つかまつ》ります」
「えっ、お城へ?」
と、止めた足をまた、助九郎は、権之助のほうへ戻して来た。
三
こうしたことから、計らずもお互いの身分と、身の上が知れた。
べつな所で、助九郎、丑之助のふたりを待ちつつ|佇《たたず》んでいた柳生兵庫も、やがてここへ来合せ、事情を聞くに及んで、
「さてさて、惜しいことを!」
と、嘆息した。
そして|遥《はる》|々《ばる》――江戸からこの大和路まで来た権之助と伊織を、|労《いたわ》りの眼でながめて、
「せめて、もう二十日も早く来たら」
と、何度となくいう。
助九郎も、頻りと、
「惜しい、惜しい」
を繰返して、今は何処やら知れぬ人の|行方《ゆ く え》を雲にながめるのだった。
もういうまでもないが、夢想権之助が伊織を連れてこれへ来たのは、柳生城にいると聞いたお通を訪ねて来たのである。
そのお通には自分の用向きではなく――先頃、北条安房守の宅で計らずも、伊織の姉なるものが話題にのぼり、それこそ実にお通という女性であると――同席の沢庵に教えられてから、思い立って来たことであった。
ところが。
かけちがって、そのお通は、およそ二十日ばかり前、武蔵を訪ねて、江戸へ立った。――悪い時にはぜひもないもので、今、権之助に江戸の消息を聞けば、武蔵その者もまた、権之助の立つ前に、すでに江戸を去ってしまい、知己身辺の者にすらその行方は知れていないという。
「迷うていような」
ふと、兵庫はつぶやく。
そして|何日《いつ》か、一度彼女を宇治の途中まで追って行きながら、呼び戻さずに帰ったことを――軽く悔いたりしながら、
「あわれ、どこまで不幸な」
と、わが淡い未練を人の恋に寄せて、何がなしばし物想わせられた。
――が。あわれはここにも一人いた。それらの話を、側で聞きながら、しょんぼり側に立っていた伊織。
(生れたっきり知らない姉)
と、観念していたうちは会いたくも淋しくもなかったが、
(世にある人)
と、教えられ、
(大和の柳生にいる)
と聞いてからは、|漂《ただよ》う海に一つの|陸《くが》を見つけたように、生れてから一遍に|溢《あふ》れわいた思慕と肉親への肌恋しさが――これは抑えるべくもなく、ずいぶん連れの権之助をも困らしたほど、きょうまでは楽しみにして、此処まで来たに違いないのである。
「…………」
今にも泣きたそうな顔しているが、伊織は泣かない。
泣くには何処か人のいない所へ行って大声で泣きたいのだ。――権之助が兵庫から|訊《たず》ねられて、いつまでも江戸の話をしているので――伊織は辺りの草の花など眼に拾いながら、大人の側からだんだん離れて行った。
「何処へ行くだい」
丑之助も、後から来た。なぐさめ顔に、伊織の肩へ手を廻して、
「泣いてんのけ?」
伊織はつよく首を振った。眼から涙が飛び散った。
「泣くもんか。そら、泣いてなんかいないよ」
「オヤ。|山《やま》|芋《いも》の|蔓《つる》があるぜ。山芋掘る|術《すべ》知ってるか」
「知ってらい。おらの|故郷《くに》にだって、芋はあら」
「掘り|競《くら》しようか」
丑之助にいわれて、伊織も|蔓《つる》を見つけて、蔓の根にしゃがみこんだ。
四
叔父|宗《むね》|矩《のり》の近状やら、武蔵の事ども。
それから、江戸の街々の変りようだとか、小野|治《じ》|郎《ろう》|右衛《え》|門《もん》が|失《しっ》|踪《そう》のうわさだとか。
訊けば、|限《き》りもなく、語れば語り尽きない。
この大和の山里では、たまたま江戸から来た者とあれば、その者の一語一語が、すべて耳新しい社会の知識であった。
――が、思わずも時を過ごしたので、兵庫も助九郎も、|陽《ひ》|脚《あし》に気がつき、
「ともあれ、城内へ来て、当分のうち|逗留《とうりゅう》なすっては」
と勧めたが、権之助は深く謝すのみで、
「お通さまがお|在《い》でにならぬ上は――」
と、このまま、先の旅へ|向《むか》いたい希望を告げる。
先の旅といっても、元より修行一筋の身ではあるが、実は、木曾の故郷で亡くした母の遺髪と|位《い》|牌《はい》を今もなお肌身に持っていて、何かにつけ気がかり。この|大和《や ま と》|路《じ》まで来たのを幸いに、ついでといっては勿体ないが、紀州の|高《こう》|野《や》|山《さん》か、河内の女人高野という金剛寺か、いずれかへ行って、位牌を預け、かたみ髪を仏塔へ納めなどして置きたいという。
「それもまた、名残惜しいことではあるが――」
強いて止めもならぬ気がして、さらばと別れを告げかけた時、ふと気がつくと、側にいたはずの丑之助がいない。
「おや――」
と権之助も見直して、これも伊織を探している。
「オオ、あんな所におる。二人とも、何を掘っているのか、地へしゃがみ込んで」
助九郎が指さす所を|見《み》|遣《や》ると――なるほど伊織と丑之助が、すこし間をへだてて、わき目もふらずに、土を掘っている。
大人たちは微笑んで、そっとその|背後《う し ろ》へ立っていた。
ふたりは気がつかない。|先刻《さ つ き》から|蔓《つる》の根を掘り下げ、折れ易い|自《じ》|然《ねん》|薯《じょ》を折らないように、芋のまわりを大事に|庇《かば》って、片腕が地へはいり込んでしまうほど、もう深い穴を作り合っていた。
「……あ」
そのうちに、|背後《う し ろ》でする人の気配に、丑之助は振向いた。伊織も笑い顔を向けた。
自分達の競争を大人達が見ていると意識すると、二人はよけい熱を出したが、すぐ丑之助が、
「抜けた」
と、長い|芋《いも》を、地上へ|抛《ほう》り出した。
伊織は、肩先まで入れて、黙々とまだ土の穴を掻いている。果てしのない様子に、権之助が、
「まだか。行ってしまうぞ」
と、いうと、伊織は老人のように腰を叩いて立ちながら、
「だめだめ、この芋は。晩までかかるよ」
と、未練を土の中に残して着物の泥をはたいた。
丑之助が、|覗《のぞ》いて見て、
「なんだ、こんなに掘れてるくせに。臆病な芋掘りだなあ。おらが抜いてやろうか」
手を出しかけると、
「いけないいけない。折れちまうよ」
と、伊織は拒んで、折角八分ぐらいまで掘り下げた穴へ、まわりの土を足で寄せ落し、元のように|埋《い》けてしまった。
「あばよ!」
丑之助は、|掘《ほ》り|採《と》った自分の芋を、自慢して肩へ|担《かつ》いだ。だが、その芋の先は完全でなかった。折れ口が白い乳を出していた。
「丑之助。負けたな。――打ち合ではそちが勝ったそうだが、芋掘りではそちの負けだぞ」
兵庫は、彼の頭を、ぐいと|抑《お》した。伸び過ぎる麦の育ちを踏んでやるように――ぐいと首根を|抑《お》していった。
|大《だい》 |日《にち》
一
吉野の桜も|褪《あ》せたろう。|道《みち》の|辺《べ》の|薊《あざみ》も咲きほうけて、歩くには少し汗ばむほどだが、牛の糞の乾くにおいにも、|寧《な》|楽《ら》のむかしや、|流《る》|転《てん》の|址《あと》が|偲《しの》ばれたりして、歩き飽かないこの辺りの道だった。
「おじさん。おじさん……」
伊織はうしろを振向いて、権之助の袖を引きながら、頻りと気にかけて、
「また、|尾《つ》いて来たよ。ゆうべの山伏が」
と、ささやいた。
権之助は、わざと、彼の注意に従わず、真っ直に向いたまま、
「見るな、見るな。――知らん顔をしておれ」
「だって、変だよ」
「なぜ」
「きのう柳生兵庫様達と、興福寺の前で別れた時から、間もなく、後になったり先になったり……」
「いいじゃないか。人間みな、思い思いに歩いているのだから」
「そんなら、宿屋なんか、べつな家へ泊ればいいのに、宿屋まで一つ所へ泊って」
「いくら|尾行《つけ》られても、盗まれるほどな金も持っていないし、心配はない」
「でも、命という物を持ってるから、|空《から》|身《み》とはいえないよ」
「ははは。命の戸締りはわしもしている。伊織は確かかな」
「おらだって」
見るな――と止められるほど、つい後ろが振向きたくなる。伊織は、左の手を、|野《の》|差刀《ざし》の|鍔《つば》の下から離さなかった。
権之助にしても、余りいい気持はしない。山伏の顔には見覚えがある。それはきのう宝蔵院の試合興行の折に、飛入りを望んで出て断られたあの山伏なのだ。どう考えてもこっちには付き|纏《まと》われる覚えがない。
「おや、いつのまにか、消えちまった」
また、伊織が振向いていう。権之助も|振《ふり》|顧《かえ》る。
「多分、飽きてしまったのだろう。やれやれ、さっぱりした」
その晩は、|葛木村《かつらぎむら》の民家に泊めてもらう。翌日は早目に、南河内の|天《あま》|野《の》|郷《ごう》にはいり、清流に沿っている門前町の低い軒ならびを覗き歩いて、
「木曾の奈良井から、この土地の|酒《さけ》|醸《づく》りの|杜《とう》|氏《じ》へお嫁に来ている、おあんさんという人の家を知りませんか」
と頼りない手がかりを頼りにして尋ね歩いた。
おあんさんというのは彼が|故郷《い な か》で知っている人だった。この天野山金剛寺の附近に|嫁《とつ》いでいるというので、彼女が分ったら、亡母の|位《い》|牌《はい》とかたみ[#「かたみ」に傍点]髪を金剛寺へ納めて供養して貰おうという考え。
もし分らなかったら高野へ行こう。高野は貴人の供養所として、余り名だたる大家の霊が寄っているそうなので、旅人の貧賤では心もとない気もするが、ここが駄目だったらともかく高野山へ預けに行こう。
そう思っていたところ、
「ああ、おあんさんかね。おあんさんなら杜氏屋敷のお長屋にいるがな」
と、案外早くそれが知れた。
門前町の何屋かの|内儀《かみ》さんである。親切に先へ立って、
「この門をおはいんなすったら、右側の四軒目で、杜氏の藤六さんのお家かとお聞きなされ。おあんさんの御亭主じゃげな」
と、教えてくれた。
二
どこの寺でも、「|葷《クン》|酒《シユ》山門ニ入ルヲ許サズ」は、法城の|掟《おきて》みたいになっているが、この天野山金剛寺では、坊舎で酒を|醸酒《つく》っている。
もちろん、世上へ出しているわけではないが、|豊《とよ》|臣《とみ》秀吉などが、ここの|寺《てら》|製《づく》りの酒を賞美して、諸侯のあいだにも「天野酒」といって知れ渡っているので、秀吉の亡き後は、その余風もだいぶ|廃《すた》っていたが、まだ年々|製《つく》って乞われる|檀《だん》|家《か》へ贈る|慣《なら》わしは残っていた。
「――そんなわけで、わしを始め十人ほどの職方が、お山に雇われて来ておりますのじゃ」
おあんさんの御亭主である杜氏の藤六は、その夜、客の権之助の不審を解いて、そんなことも話した。
それから、権之助の頼みについては、
「お|易《やす》いことじゃ。御孝心に依ることでもあれば、明日、僧正さまにおねがいして上げよう」
と、いってくれた。
翌る日、その家の|一《ひと》|間《ま》に起き出た頃は、もう藤六は見えなかったが、やがて|午《ひる》少し過ぎ姿を見せ、
「僧正さまにお願いしたら、さっそく承知して下された。わしに|従《つ》いてお|出《い》でなされ」
と、いう。
案内されて、権之助は藤六の後ろに従い、伊織は権之助の腰にちょこちょこついて行った。|四方《あ た り》は|幽《ゆう》|翠《すい》な峰で、散り残った山ざくらが白く、七堂|伽《が》|藍《らん》は、天野川の渓流が|繞《めぐ》るふところ谷にあり、山門へ渡る土橋から下をのぞくと、峰の桜が|片《へん》|々《ぺん》と流れにせかれて落ちてゆく。
伊織は、|襟《えり》を合せた。
権之助も、身が|緊《し》まった。何とはなく、|山《さん》|巒《らん》の気と、坊舎の荘厳に打たれたのである。
ところが、存外にも、
「お前様か。母御の供養をしてくれというのは」
と、本堂の上から気楽な調子でいった僧がある。
肥えて、背も高く、大きな足をした坊さんである。僧正というからには定めし|金《きん》|襴《らん》の|袈《け》|裟《さ》に|払《ほつ》|子《す》を抱き、威儀作ろった人かと思えば、これはこのまま|破《や》れ|笠《がさ》と杖をもたせて、世間の軒端に立たせても、恥かしくないそのままの人だった。
だが、藤六は、
「はい、お願いの儀は、この人でございまする」
と、堂下の大地にぺたりと|額《ぬか》ずいて、権之助に代って答えてるさま――やはりこの人が僧正だとみえる。
「…………」
権之助も、何か、あいさつをいって、藤六と同様に、ひざまずこうとすると、僧正はもう大きな足を、階段の下にありあわせた汚い|藁《わら》|草《ぞう》|履《り》へのせて、
「じゃあ、|大《だい》|日《にち》|様《さま》のほうへお越し……」
と、|数《じゅ》|珠《ず》ひとつ持って、先へ歩いてゆく。
五仏堂だの、薬師堂だの、|食《じき》|堂《どう》だのの堂塔のあいだを|繞《めぐ》って坊舎からすこし離れると、そこに|金《こん》|堂《どう》と多宝塔があった。
遅れて、後ろから追いかけて来た弟子僧が、
「お開けいたしますか」
と訊ね、僧正のうなずいた眼をみると、大きな鍵をもって、金堂の大扉をひらいた。
「お着座を」
と、|促《うなが》されて、権之助と伊織とは、二人きりでひろい|伽《が》|藍《らん》の中へ坐った。仰ぐと、台座からなお一丈の余もある|金《こん》|色《じき》の|大《だい》|日《にち》|如《にょ》|来《らい》が、天井で微笑をふくんでいた。
三
やがて内陣のうちから僧正は|袈《け》|裟《さ》をつけ直して出て来た。そして台座に坐って朗々と|経《きょう》をあげた。
先には、藁草履の見すぼらしい一山僧にしか見えなかったが、そこに坐ると、運慶の|鑿《のみ》の力にも劣らない権威を背なかに示している。
「…………」
権之助は、|掌《て》を胸にあわせ、亡き母の姿をまざまざと描いていた。
すると、一|朶《だ》の白雲が、|瞼《まぶた》を流れた。――そしてそこに塩尻峠の山や、高野の草が見えた。――武蔵は|戦《そよ》ぐ風をふんで、剣を抜いて立っている。自分は、|杖《じょう》を取って、それに対している。
野中の一本杉の下に、地蔵様のように、ちょこなん[#「ちょこなん」に傍点]と坐っている老母がある。
老母の眼のいかにも心配そうな――。そして今にも、剣と杖の間へ、跳びつきそうなその光。
子を案じる愛の眼。その時、母のすさまじい助言の一声から教えられた「|導《どう》|母《ぼ》の|杖《じょう》」の一手。
「……おっ|母《か》さん、今もあなたはあの時のような眼で、私の前途を案じて見ておいででございましょうな。だがご心配くださいますな。その折の武蔵どのは、幸いに私の乞いを|容《い》れて、お教えを下されているし、私もまだ一家を成す日は遠いかもしれませぬが、たとえ今がどんな乱世でも、子の道、世々の道は、踏み|外《はず》すことはいたしません」
こう念じつめて息をもじっとひそめていると、身の前に高々と在る大日如来のお顔が、母の顔そっくりに思われ、その|微笑《ほほえみ》までが、生ける日の母の笑いとなって胸に沁みてくる。
「……お」
ふと気づいて、|掌《たなごころ》を解くと、僧正はもういない。読経は終ったのである。傍らにいる伊織も、ぽかんと大日のお顔をふり仰いだまま起つのも忘れている様子なので「伊織」と、呼び醒まし、
「なんでそんなに|見《み》|恍《と》れている」
と訊ねたところ、われに返ったような顔して、伊織がいうには、
「だって、この大日様は、おらの姉さんに似てるんだもの――」
権之助は思わず、からからと笑って、まだ会ったこともないお通さんとかいう|其方《そち》の姉の顔がどうして分る? また、大日様のお顔は大日様のお顔で、こんな慈悲円満な具相をもった人がこの世にあろうはずはない。これは独り運慶のような名匠の|精進《しょうじん》が、たまたま、|鑿《のみ》の先に現し得た奇蹟のようなもので、決して俗界にあるものではない。
いうと――伊織は「だって、だって」となお強くかぶりを振って、
「おらは一度、江戸の柳生様のお邸へ使いに行って、|夜《よ》|半《なか》に|途《みち》に迷ってた時、そのお通様っていう人に会ってるもの。――あの時姉さんだと分っていたら、もっとよく見ておくんだったけれど、今じゃ思い出せなくなっちまった。……そう思ってたら、今、僧正さんがお経を上げているうち、|掌《て》を合してると、大日様が姉さんの顔になったんだよ。ほんとに、何かおらへいったような顔をしたよ」
「……ふうむ」
権之助は、もう否定できなかった。そして、いつまでも金堂の縁から離れ|難《がた》いここちがした。
ふところ谷は日暮れが早い。峠のかげにもう陽は沈み、多宝塔の屋根の|水《すい》|煙《えん》だけが、七宝の珠でちりばめたように、|燦《きら》|々《きら》と夕陽の端をうけている。
「ああ。死んだ母へ、及ばぬ|回《え》|向《こう》だが、きょうは生きてる身にも、善根のよい一日を送ったなあ。……血臭い世間は嘘のようだ」
|薄《はく》|暮《ぼ》のあいろに向って、二人はなお、そこの縁に腰かけていた。
四
どこかでサラサラと落葉を掃くような音がする。権之助が、
「おや」
と、右の崖を仰ぐと、崖の中腹に、室町風の古雅な観月亭と|廟《びょう》があって、狭い石ころ道は|苔《こけ》むして見え、その辺を縫ってなお、|幽《ゆう》|翠《すい》な山の上へつづいている。
ひとりは上品な|尼《あま》とも見える年とった婦人。
またひとりは、肉づき豊かな五十がらみの人物で、つつましき木綿着物に、|袖《そで》|無《なし》羽織を着、小桜の|革《かわ》|足袋《たび》に新しい|藁《わら》|草《ぞう》|履《り》をはき、|鮫《さめ》|柄《づか》の小脇差を一つ横たえて、武士とも町人ともみえず、ただ何処やら|床《ゆか》しげな風格のある人が、|竹箒《たけぼうき》を持って――ふと、腰をのばして立っている。
老尼のほうは、|白《しろ》|練《ねり》の絹の頭巾をかぶり、これも竹箒を手にして、
「……ほ。少しはきれいになったかのう」
と、掃いて来た山道や崖の|其処《そこ》|此処《ここ》を見まわしているらしい。
そこらは滅多に人も踏み入らなければ、かまう者もないとみえ、冬中の雪折れやら朽葉やらまた、鳥の|空骸《む く ろ》やらが、農家の|堆《つみ》|肥《ごえ》のように春とも見えず腐り積っているのであった。
「お母さん、だいぶおくたびれでしょう。陽が暮れましたし、あとは私がやりますから、もうお休みなされませ」
肥えた人のほうがいう。
老尼は、五十にも近いその者の母とみえるが、息子のことばをかえって笑って、
「わしは家にいても、働きつけておるせいか、つかれもせぬが、そなたこそ肥えてはいやるし、このようなことはしつけぬゆえ、土に手が荒れたであろう」
「はい。仰っしゃる通り、一日箒を持っていたので、|掌《て》にまめ[#「まめ」に傍点]ができました」
「ホ、ホ、ホ、ホ。……よい|土産《み や げ》のう」
「けれどお蔭で、きょう一日は、何ともいえぬ|清《すが》|々《すが》しい心で送りました。私たち|母子《お や こ》の貧しい御奉仕も、天地の御心にかなったしるしでございましょう」
「いずれ、こよいももう一夜、御本房に泊めていただくのじゃから、後はあしたにして、そろそろ戻りましょうかの」
「暗くなりかけました。足もとをお気をつけなさいまし……」
いいつつ、息子は、母の尼の手をとって、観月亭の小道から、権之助と伊織のやすんでいる金堂の横へ降りて来た。
人もなしと思っていた|黄昏《た そ が》れの金堂の縁に、ふと、人影が起ったので、老尼もその息子も、
「……誰?」
と、驚いたように、立ちどまったが――老尼はすぐ眼元にやさしい笑みをたたえ、
「御参籠でございますかの。今日も一日、よいお日でございましたの」
と、旅の者と見て、行きずりの挨拶をした。
権之助も、辞儀して、
「はい。母の供養にと|詣《もう》でましたが、あまり静かな夕暮なので、何か、|空虚《う つ ろ》になっておりました」
「それはそれは御孝心な」
と、いいながら老尼は、伊織のすがたへ眼を移して、
「よい|坊《ぼ》ンち……弟御かの」
と、|頭《つむり》を撫でて息子のほうを振顧って、
「|光《こう》|悦《えつ》、山で喰べた麦菓子が、まだ、そなたの|袂《たもと》に、すこし残っていたであろ。この子にやって下さらぬか」
と、いった。
|古今逍遥《ここんしょうよう》
一
光悦とよばれた老尼の息子は、紙につつんだ菓子を、袂から取出して、伊織に持たせ、
「残り物で失礼だが、よかったら喰べておくれ」
と、いった。
伊織は、|掌《て》に乗せたまま、どうしていいか、分からない顔つきで、
「おじさん、これ、貰っといてもいいの」
権之助にたずねた。
「いただいておけ」
と、権之助が、伊織にかわって、礼をのべると、老尼はまた、
「おことばの様子では、御兄弟でもないようじゃの。関東のお方らしいが、旅の道を、どこまでお越しなされるのか」
「果てない道を、果てなく旅しておりまする。お察しの通り、ふたりは肉親ではござりませぬが、剣の道においては、年はちがいまするが兄弟|弟《で》|子《し》の仲でござります」
「剣をお習いなされますか」
「はい」
「それは|一《ひと》|方《かた》ならぬ御修行。師のお方は、どなたかの」
「宮本武蔵と仰っしゃいます」
「え。……武蔵どの?」
「ご存じですか」
答えを忘れて、老尼は、
「ほう……」
と、ただ眼をみはり、何か思い出の中にいる様子、武蔵と知らぬ仲の人とは思われなかった。
するとこの老尼の息子も、なつかしい人の名でも聞いたかのように寄り添って来て、
「武蔵どのは今、どこにおられますな。その後のご様子は……」
などと、いろいろ訊ねだし、権之助がそれについて、知る限りの消息を話して聞かせると、いちいち母なる老尼と顔を見あわせて、うなずくのであった。
そこで、権之助から今度は、
「――して、貴方様は」
と、訊ねると、
「申しおくれました」
と詫びて、
「わたくしは京の|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の辻に住む光悦という者。また、これは母の|妙秀《みょうしゅう》でして、武蔵どのとは六、七年前に、ふとお親しくしていただいたこともあり、何かにつけ、日頃、おうわさ申し上げているものですから」
と光悦は、その頃の思い出ばなし二つ三つ|掻《か》いつまんで話した。
光悦の名は、|疾《と》く、刀の上において権之助も知っている。また、武蔵との交渉は、その武蔵から草庵の炉べりで聞いたこともある。思いがけぬ所で、思いがけぬ人に会うもの|哉《かな》。――と権之助も驚いた。
その驚きのうちには、京都でも然るべき家がらの母堂といわれる妙秀尼やまた、本阿弥光悦ともある人の|母子《お や こ》が、なんでこの山里の人も|訪《と》わぬ|伽《が》|藍《らん》などに来て、しかも寺の|雑《ぞう》|人《にん》すら怠っている山の朽葉などを、|竹箒《たけぼうき》を持って、こんな暗くなるまで掃除しているのだろうか?
その不審も、無意識のなかに、手伝っていたにちがいない。
――いつか|朧《おぼろ》な月が、多宝塔の水煙のあたりにさし昇っていた。行きずりの人でも人恋しい夜頃ではあるし、権之助は、去り|難《が》てな心地になって、
「おふた方には、この上の山や崖道を、|終日《ひねもす》、お掃除なされていた御様子。どなたか、御縁をひくお方の|碑《ひ》でもあるのですか。それとも御遊山のつれづれにでも……?」
と、訊ねてみた。
二
「なんの。なんの」
光悦は|頭《こうべ》を振っていう。
「この|厳《おごそ》かな聖地で、気まぐれなどと、|勿《もっ》|体《たい》ない」
相手の権之助が、何も知らずにいったにせよ、その曲解を甚だ|畏《おそ》れるもののように、彼は、|徒然《つれづれ》の腹ごなしに|箒《ほうき》など持っていたのではないことを弁明に努めて、
「あなたは、この金剛寺へは、初めてのお|詣《もう》でか。そしてこの|御《み》|山《やま》の歴史について、山僧から何もまだお聞きになっていないのか」
権之助は、ありのまま、
――然り。
そんなことの無智は、べつに武辺者の自己の恥辱とも考えず答えると、光悦は、
「では、|烏《お》|滸《こ》な沙汰ですが、私が山僧にかわって聞きかじりの|請《うけ》|売《う》りを少しご案内いたしましょうか」
と、|四辺《あ た り》を見まわし、
「よいあんばいに、|朧《おぼろ》な|月《つき》がさし昇って来ましたから、ここに立ったままでも絵図をさすように、この上の院のお墓、|御《み》|影《えい》|堂《どう》、観月亭。――また彼方の|求《ぐ》|聞《もん》|持《じ》|堂《どう》、|護《ご》|摩《ま》|堂《どう》、大師堂、|食《じき》|堂《どう》、|丹《に》|生《う》|高《こう》|野《や》神社、宝塔、楼門など、ほぼ一望にすることができましょう」
ひとわたり指をさして、光悦も共に、寂土の|朧《おぼろ》に|浸《ひた》り入った|態《てい》で説くのであった。
――|御《ご》|覧《ろう》ぜよ。あの松あの石。一木一草といえど皆、どこかにこの国の民くさと等しく、不屈な志操と伝統の優雅を姿にもち、また何かを訪う人に語らんとしているではありませんか。光悦は、草木の精に成り代って、草木がいわんとすることを|述懐《じゅっかい》してみたいと思うのでございます。
それは。
元弘、建武の頃から正平年間にわたる長い乱世にかけてこの|御《み》|山《やま》が、時には、|大塔宮護良《だいとうのみやもりなが》親王の戦勝祈願をこめらるる|大《たい》|炉《ろ》となり|帷《い》|幕《ばく》の密議所となり、また時には、楠正成たちの忠誠が守るところとなるかと思えば、京|六《ろく》|波《は》|羅《ら》の賊軍が、大挙して攻め|襲《よ》せる目標となったり、下って|足《あし》|利《かが》|氏《し》が世を|暴《ぼう》|奪《だつ》なし終った|乱《らん》|麻《ま》の時代となっては|偲《しの》び上げるも畏れ多いことながら、後村上天皇は、男山御脱出以来、軍馬の間を|彼方《あち》|此方《こち》と|御輦《みくるま》の|漂泊《さすらい》を経られて、やがてこの金剛寺を|行《あん》|宮《ぐう》に年久しく、山僧の生活も同様な御不自由をしのんでお|在《い》で遊ばした。
なお。それより前には。
この御山には、|光《こう》|厳《ごん》、|光明《こうみょう》、|崇《す》|光《こう》の三上皇も、|御《み》|幸《ゆき》していらせられたので、一山には、守護の武士たちや、|公《く》|卿《げ》たちも、|夥《おびただ》しい数にのぼり、賊軍の襲来に備える兵馬兵糧の|料《しろ》はもとよりのこと、永い年月のうちには、|供《く》|御《ご》の|炊《かし》ぎに奉る朝夕のものにも事欠いて、当時の様を|眼《ま》のあたりに見た|禅《ぜん》|恵《え》法印の|記《しる》したものを見れば、
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|坊《ボウ》|舎《シヤ》山房皆切払イ
損亡申ス|計《バカ》リ無シ
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と、嘆いております。
しかもその間、主上には寺の|食《じき》|堂《どう》を政庁に|充《あ》てられ、寒日も火なく、炎日もお|憩《いこ》いなく、政務をおとり遊ばしていたとやら。
光悦は、そこでふと、声をのんで、
「この辺り、あの食堂といい、|摩《ま》|尼《に》|院《いん》と申し、皆そうした御遺跡でないものはございません。この上にある、院のお墓というのも、|光《こう》|厳《ごん》|院《いん》法皇の御分骨をお|奠《さだ》めしてある霊地といい伝えておりますが、足利の世このかた、|御《み》|垣《かき》は仆れ、朽葉に|埋《うずも》れ、あまりに荒れはてておりますので――今日はふと、朝から母といいあわせて、院のお墓のあたりからそここことなく、お掃除をさせて戴いていたわけなのです。――もっとも、それも|徒然《つれづれ》であろうといわれれば、それまでのことですが」
と、|笑《え》みを含んでいった。
三
われ知らず権之助は、身のちぢまる思いをこうむり、|襟《えり》を正して聞き入っていた。いや、彼よりも、伊織はもっともっと厳粛なものにひき|緊《し》められた顔して――語る人光悦の|面《おもて》からわき目もふらない。
「――ですから北条氏から足利氏への長い長い乱世のあいだ、あの石、そこらの草木までみな、一系の皇統を護るため戦った物でしょう。石は、護国の|砦《とりで》となり、木々は、天皇の|供《く》|御《ご》の薪となり、草は兵の|衾《ふすま》となって」
光悦もまた、|真《しん》|摯《し》に聞いてくれる語り相手を見出して、|鬱《うつ》|懐《かい》の至情を吐きつくすように――去るに忍びない|面《おも》|持《もち》で夜空と寂土の万象を四顧しながら、
「――多分、その頃、賊軍と戦って、ここで草の根を喰べながら立て|籠《こも》っていた御親兵の一人か、或は、|降《ごう》|魔《ま》の剣を|把《と》って兵の中に働いていた僧兵のひとりかも知れません。……というのは、きょう私たち|母子《お や こ》が、院のお墓のあたりから山道を掃除して参りますと、とある|藪《やぶ》|中《なか》の石に、誰が刻んだか、こんな歌が彫ってあったのがふと見出されたのです。……
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|百《もも》|年《とせ》の|戦《いくさ》もなさん春は来ぬ
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世の民くさよ歌ごころあれ
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と、いうのです。――これを見て私はなお胸を打たれました。何十年という|戦《いくさ》の中の春秋に、何というゆとり[#「ゆとり」に傍点]でしょうか。強い護国の信念でしょうか。七たび生れてこの国を護らんと仰っしゃった大楠公の|御心《みこころ》は、名もない一兵にまで|沁《し》み|徹《とお》っていたものとみえまする。また、この優雅と、心のひろさがあったので、遂に、百年の|戦《いくさ》を経ても、ここの堂塔は今もなお、皇土のうえに厳然と在るのでございます。有難いことではございませんか」
と、いいむすぶ。権之助は、ほっと、息づきをし直しながら、
「いや、ここの|御《み》|山《やま》が、そういう尊い戦の|址《あと》とは、はじめて承知しました。知らぬことといいながら、先ほどは、|卒《そつ》|爾《じ》なおたずねを致しおゆるし下さい」
「いいや、もう……」
光悦は手をふって、
「実をいえば、手前こそ人恋しくいたところで、きょうもきのうも胸に|鬱《うつ》していたものを、誰かに語りたくてならなかった折なのです」
「また、つまらぬお訊ねをして、お笑いを受けるかも知れませぬが、光悦どのには、もうこの寺に永くご逗留でございますか」
「されば、今度は、七日ばかりになりまする」
「やはり御信仰で」
「いえ、母がこのあたりの旅が好きなのと、自分もこの寺に参ると、奈良、鎌倉以後の、|画《え》やら仏像やら|漆《しっ》|器《き》やら、いろいろ名匠の作品を見せていただけるので……」
|朧《おぼろ》な地に影を|曳《ひ》いて――光悦と妙秀尼、権之助と伊織、ふた組になって、いつか金堂から食堂のほうへ歩いていた。
「――ですが|明日《あ し た》の朝はもう立とうと存じます。武蔵どのにお会いになったら、どうぞまいちど、京の|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》の辻へ立ち寄ってくださるようお伝えおきを」
「承知いたしました。では、ごきげんよう」
「オ。おやすみ……」
山門の陰の月ささぬ闇を境にわかれて、光悦と妙秀尼は坊舎の方へ。――権之助は伊織と共に、山門の外へ出た。
土塀の外は、自然の|濠《ほり》を|繞《めぐ》らしたような渓流であった。そこの土橋へかかるや否、何か白いものが、物陰からさっと権之助のうしろへ襲いかかり――伊織はあッという間もあらず、土橋の外へ足を踏みはずしていた。
四
――ざんぶ!
|飛沫《し ぶ き》のなかに、伊織ははね起きていた。流れは|迅《はや》いが、水は浅い。
(何だろ?)
|咄《とっ》|嗟《さ》なのだ。どうして墜ちたのか、自分でもわからない。
だが、土橋の上を仰ぐと、そこから自分を|抛《ほう》り飛ばした勢いのものが、何ものをも|交《まじ》えず、真空の一|圏《けん》|内《ない》を作って|対《たい》|峙《じ》していた。
その一方は、権之助へふいに襲いかかった白いものだ。伊織がはね飛ばされて落ちたせつな――白いものと見えたのは、彼の|白衣《びゃくえ》であった。
「あっ、山伏?」
伊織は、さてこそ、来るものが遂に来たなと思った。何のゆえか、おとといから自分たちを|尾《つ》けていたあの山伏なのだ。
山伏の|杖《じょう》。
権之助も手馴れの杖。
ふいに打ってかかったが、権之助がさはさせじと、とたんに身の位置を変えたため、山伏は土橋をはさんで往来側の口に立ちふさがり、権之助は山門を背なかにして、
「何者っ?」
と、一|喝《かつ》を発し、
「人ちがいすなっ」
と、声するどく、|窘《たしな》めていた。
「…………」
山伏は何もいわない。人ちがいなどするかといった|体《てい》である。背には|笈《おい》を負い、|軽捷《けいしょう》を欠いた|扮装《いでたち》に見えるが、踏んまえている足は木が生えているように|慥《たし》かである。
この敵、ただ者に非ず――と見ながら権之助は、満身を気に|膨《ふくら》ませて、杖をうしろに|扱《しご》きながらもう一度、
「だれだっ。卑怯だっ。名を申せ。さもなくば、この夢想権之助へ、何の意趣で打ってかかるか、理由をいえ」
「…………」
山伏は、耳がないように、ただ|眼《まなこ》だけにらんらんと、人を|葬《ほうむ》るような炎をたいている。金剛わらんじ[#「わらんじ」に傍点]の足の指が、|百足《む か で》の背みたいに、一|縮《しゅく》一縮地をにじり詰めてくる。
「うぬ。もはや」
これは権之助が丹田で堪忍をやぶった|呻《うめ》きである。――彼の丸ッこい五体は、闘志に節くれだって、詰めよる山伏に対して、彼のほうからも|競《せ》りつめて行った。
――がつッと、物音が発したとたん、山伏の杖は、彼の杖のために、真二つに折られて、宙へすっ飛んでいた。
だが山伏は、手に残った杖の半分を、権之助の面部へ向ってすばやく投げつけ、権之助が、顔をふと交わした一瞬、腰の|戒《かい》|刀《とう》を抜いて飛燕のように躍りかからんとするかに見えた。
その時、その山伏が、
「あっ」
といったのと、伊織が渓流の瀬で、畜生っとさけんだのと、同時であって、山伏の足は五、六歩ほどそのまま、だだだだと土橋を往来のほうへ踏み退いた。
伊織の投げた石つぶてが、山伏の面部へ、したたかにあたったのである。悪くすれば左の眼であったかもしれない。とにかく山伏としては、思わざる方角から、致命的な傷手をうけたため、しまったと思ったに違いない。崩れた体勢をそのまま一転、足を変えるが早いか、寺の土塀と渓流のながれに沿って下町のほうへ|征《そ》|矢《や》のごとく逃げ去ってしまった。
岸へ跳び上がった伊織は、
「待て」
と、手の中に、まだ石を握っていて、追いかけそうにしたが、権之助に止められて、
「ざま、見ろ」
と、その石を、もう人影のない|朧《おぼろ》へ向って遠く投げた。
五
|杜《とう》|氏《じ》屋敷の藤六の家へもどってから、程なく、二人は寝どこへはいったが、さて二人とも、なかなか眠れない。
ぐわうぐわうと、峰の夜あらしが、|屋《や》の|棟《むね》を|繞《めぐ》って、|更《ふ》けるほど耳につくせいばかりでもない。
眠りと|現《うつつ》の境で、権之助は、光悦の言葉を脳裡にくりかえし、建武、正平のむかしを思い、また、現在の世へ思い到って、
(応仁の乱れから、室町幕府のくずれ、信長の統業、秀吉の出現と時勢は移り、――そしてその秀吉の亡い今は、関東大坂のふたつが、次の覇権を|繞《めぐ》って、あしたも知れぬ風雲を|孕《はら》んでいるが――|憶《おも》えば、世の中は、建武、正平のむかしと、どれほどな相違があろう)
そう考えるのだった。
(北条、足利の徒が、国家の大本をかきみだした最も|厭《い》むべき時代には、半面にまた、楠氏一族のような、また諸国の尊王武族のような、真の|日本《や ま と》|武士《もののふ》があらわれたが――今は――今の武門は――また武士道は?)
これでいいのか。
民心は、天下の司権が、信長、秀吉、家康とあわただしく、争奪されるのをながめているまに、まことの主上の|在《お》わすをすら、いつか思わぬようになり、民の帰一というものが、総じて、はぐれているような。
武士道も、町人道も、百姓道も――すべてが武家の覇権のためにあって、天皇の|大《おお》みたから[#「みたから」に傍点]である臣民の本分を、見失って来ているような。
気がつくと、彼は、
(社会は賑わしくなり、個々の生活は活溌になって来たろうが、この国の根本のものは、建武、正平の頃から、大してよくなって来てはいないのだ。大楠公の奉じた武士の道――抱いたであろう理想とは、まだまだ遠い世の中なのだ)
と、夜具の中に、横たえている身も熱くなり、|河内《か わ ち》の峰々や、金剛寺の草木が、|夜《よ》|半《わ》を吠えたけぶも、何やら、心あるもののように夢へ聞えてくるのだった。
――伊織は伊織でまた、
(何だろ、さっきの山伏は?)
と、あの白い幻像が、|瞼《まぶた》から消えないらしい。
そして、明日の旅が、何だかしきりと気づかわれ、
(|恐《こわ》いなあ)
と、つぶやいて、峰のあらしに|蒲《ふ》|団《とん》の襟をひきかぶった。
そのため、夢に大日様のお|微笑《ほほえみ》も見ず、尋ねる姉の面影もあらわれず――朝もぱちりとはやく眼がさめてしまった。
おあんさんと、藤六は、二人が今朝早く立つとのことに、暗いうちから朝めしや弁当の支度などしておいてくれて、いよいよ|此家《ここ》の門から立つとなると、
「喰べながらお歩き」
と、伊織へ、酒の|糟《かす》の焼いたのを、紙につつんでべつにくれた。
「お世話になりました。御縁もあらばまた――」
立ち|出《い》でると、峰には虹いろの朝雲がうごきかけ、天野川の流れからは、湯気のような水蒸気が立っていた。
その|朝《あさ》|靄《もや》をついて、ぴょいと、そこらの家から飛び出して来たひとりの身軽な|旅《たび》|商人《あきんど》は、権之助と伊織のうしろから、
「よう。お早いお立ちで」
と、元気よく、いかにも朝らしい声で、ことばをかけた。
|紐《ひも》
一
見も知らぬ男なので、権之助は、よい程にあいさつを返したのみ。伊織も、ゆうべのことがあるので、無言を守って歩いていると、
「お客さまは|昨夜《ゆ う べ》、藤六どんの所へお泊りでございましたな。藤六どんには、てまえも長年、お世話になっておりますよ。ご夫婦とも|寔《まこと》によくできたお人で」
などと旅商人の男は、もう連れになった気で、いよいよ|馴《なれ》|々《なれ》しくなる。
それもよい加減に聞きながしていると、また、
「木村助九郎さまにも、ごひいきになりまして、柳生のお城へも、時折には、御用を伺いに出たりいたしますが」
と、しきりに話の糸をひく。
「――女人高野の金剛寺へお|詣《まい》りになりました上は、ぜひ紀州高野山のほうへもお登りでございましょうが、もう山道の雪はございませんし、道の|雪崩《な だ れ》もすっかり直っておりますから、お登りには今がよい季節。きょうは|天《あま》|見《み》、|紀《き》|伊《い》|見《み》などの峠をゆるゆる越えて、こん夜は橋本か|学文路《か む ろ》でゆっくりお休みになるとちょうどよい頃合で――」
いうことがいちいち、余りこちらの消息に通じ過ぎているので、権之助は不審に思って、
「おぬし、何屋じゃな」
「てまえは、|打《うち》|紐《ひも》の売子でございます。この荷の中に――」
と、背に負っている小さい包みに首を曲げ、
「|組《くみ》|紐《ひも》の見本を持ちまして、近国遠国を注文を取って歩いておりますもので」
「ははあ、紐屋か」
「藤六どんの手づる[#「づる」に傍点]で、金剛寺のお|檀《だん》|家《か》なども、たくさんお世話していただきましてな。きのうも実は、例に依って、藤六どんの家へ泊めて貰うつもりでお寄りしました所が――こん夜はよんどころないお客が二人あるから、御近所の家で厄介になってくれと申され、同じ|杜《とう》|氏《じ》長屋の一軒で寝かして貰いましたわけで。……いえいえべつに|貴方《あ な た》|方《がた》のせいじゃございませんが、藤六どんとこへ泊ると、いつもよい酒をのませて貰えるので、寝るより実は、それが楽しみなんで……。はははは」
そう聞いてみれば、べつに不審に思う筋はない。権之助はむしろこの男が、附近の地理や風俗に|詳《くわ》しいのを幸いに、後学のため|耳袋《みみぶくろ》を養っておこうとするらしく、歩きながらの道々を、なにかと訊ねたり探ってみたり、いつか相手になっている。
すると天見の高原にかかって、紀伊見の峠から高野大峰のすがたが正面に見えてきた頃である。――おおウい、と後ろのほうから呼ばわる者がある。振り顧ると、連れの紐売りと同じような恰好をした旅商人の者がまたひとり、駈けて来て、
「杉蔵。ひどいじゃないか」
追いついて来るなり、息を|喘《せ》いていう。
「――今朝立つ時誘ってくれるというで、天野村の口で待っていたに、何で黙って行っちまうだ」
「アア源助か。……いや、すまないすまない。藤六どんとこのお客と連れになったもんで、うっかり声をかけるの忘れちもうた。ははは」
と、頭を掻いて、
「あまり旦那と、話がもててしまったもんで――」
と、権之助の顔を見て、また笑った。
やはり|打《うち》|紐《ひも》の売子仲間とみえ、その男と、旅先の売上だの、糸の相場のことなど、頻りと|喋舌《し ゃ べ》り合っていたが、そのうちに、
「ア。あぶねえ」
と、二人とも立ち止まった。
太古の大地震で割れた|痕《あと》のような断層の|断《き》れ|目《め》に、無造作な丸木が二本渡してあった。
二
「どうしたのか?」
と、二人の後ろへ寄って、権之助もそこに立つ。
旅商人の杉蔵と源助は、
「旦那、ちょっとお待ちなさいまし。ここの丸木橋が壊れていて、ぐら[#「ぐら」に傍点]つきますで」
「崖崩れか」
「それ程でもありませんが、|雪《ゆき》|解《げ》に石ころが落ち込んだまま、直してもないのでさ。往来人のため、ちょっと、動かないようにしますから、少し休んでいてください」
と、ふたりは早速、断層の崖ぎわへ身を|屈《かが》め、架け渡してある二本の|朽《くち》|木《き》|橋《ばし》の土台へ、石を噛ませたり、土を築いたりしている様子。
――奇特な心がけよ。
と、権之助は心のうちで感じていた。およそ旅の困苦は、常に旅をしている者ほど分っている筈だが、その旅馴れている者ほど、他の旅人の困苦などは|顧《かえり》みもせぬのが多い。
「おじさん達、もっと石ころを持って来てやろうか」
と、伊織も、二人の善行に手伝いを申し出て、せっせと、そこらの石など抱えて来たりしている。
断層の谷は、かなり深い。|覗《のぞ》いてみると二丈の余もありそうだ。高原なので、水は流れていないで、岩石や|灌《かん》|木《ぼく》で底は埋まっている。
そのうちに、
「よさそうだ」
と、旅商人の源助は、朽木橋の端にのって、足踏みして試みている。そして権之助へ、
「――ではお先に」
といい残し、ひょいひょいと身振りしながら、体の中心を取って向うへ素早く渡って見せた。
「さ。どうぞ」
残った杉蔵に|促《うなが》されて、次に権之助が歩み、その腰について、伊織も渡って行った。
そして――朽木橋のうえ足数にして――三歩か五歩も出たかと思うと、ちょうど断層の谷の真上のあたりで、
「あッ?」
「きゃっ!」
と伊織と権之助は突然、絶叫して、お互いの身を抱きあいながら立ち|竦《すく》んでしまった。
――何となれば、先に渡って行った源助は、かねて備えておいたものらしく、そこの|草《くさ》|叢《むら》のうちから一本の槍を取り出し、それを持ったと思うと、何げなく越えて来た権之助の方へ向けて、ぴたと白い穂先を突きつけていたのである。
――さては野盗か。
と、とむねを|衝《う》たれて、振りかえると、後になった杉蔵も、いつのまにどこから持ち出したか、同様に素槍を持って、伊織と権之助の背後を|脅《おど》かしているのだった。
「しまった!」
さしもの権之助も|悔《く》いの唇を噛みしめて、刹那の当惑に、髪の毛をもそそけだてた顔色だった。
前にも槍。
うしろにも槍。
二本の朽木は、からくも|愕《おどろ》きに|顫《おのの》く身を、断層の宙に支えているに過ぎない。
「おじさん! おじさん!」
無理もないが、伊織は絶叫をしつづけて、権之助の腰につかまっている。権之助はその伊織を|庇《かば》いながら、瞬間、眼をとじて、一命を天意にまかせてしまい、さて、いった。
「|鼠《そ》|賊《ぞく》ども! |謀《はか》ったなっ」
すると何処かで――
「だまれっ、旅の者」
と、太い声でいった者がある。それは彼をはさんで槍を向けている源助でも杉蔵でもなかった。
「……やっ?」
権之助がふと仰ぐと、向いの崖の上に、左の眼の上に|腫《は》れ上がった|青《あお》|痣《あざ》のある山伏の顔が見えた。その痣は、ゆうべ金剛寺の|渓《たに》|川《がわ》から、伊織の投げた石つぶてを、直ぐ二人に思い起させた。
三
「|慌《あわ》てるでない」
伊織へそういって、その優しさとは、別人のように、権之助は、
「くそっ!」
すさまじい敵意を吐いて、橋の左右へ、ぎらぎら眼をくばりながら、
「さては、昨夜の山伏の|詭《き》|計《けい》だったか。浅ましくもまた、卑劣な賊めら。人を見損のうて、|可惜《あ た ら》一命をむだにするな」
――彼と伊織を、左右から挟んでいる槍の持手は、その穂に気をこめて、狙いすましたまま、あぶない|朽《くち》|木《き》|橋《ばし》の上へは、一歩も出て来ないし、|先刻《さ つ き》から口もきかないのである。
絶体絶命、身うごきのつかない谷間の空の朽木橋に置かれた権之助が、怒髪天を|衝《つ》いて、死地から叫ぶすがたを、山伏は一方の崖から冷ややかに眺めて、
「賊とは何」
と、するどく|咎《とが》めた。
「程の知れた汝らの路銀などに目をくるる|徒《と》|輩《はい》と思うか。さような浅い眼では、敵地へ隠密に来る資格はないぞ」
「なにっ、隠密だと」
「関東者っ」
山伏は、|大《だい》|喝《かつ》して、
「谷へ、その棒を捨てろ。次に腰の大小を捨てろ。そして両手を後ろへまわし、おとなしく縄目にかかってわれわれの住居までついて来い」
「――ああ」
権之助は大きな息をついて、とたんに闘志の大半を失ったように、
「待て、待てっ。今の一言で初めて解けた。――何かの間違い事だろう。わしは関東から来た者に相違ないが、決して、隠密などではない。夢想流の一杖を一道として、諸国を修行しあるく夢想権之助という者」
「いうな、くどくどとそんないい抜け。どこに、自分は隠密なりと名のって歩く隠密があろうか」
「いや、まったく」
「耳は|仮《か》さん。この|期《ご》になって」
「では、あくまでも」
「ひッ|縛《くく》った上で、|訊《き》くことは訊く」
「益もない殺生したくない。もう一言申せ。何でわしが隠密か、その理由を」
「怪しげなる男、童子一名つれて、江戸城の軍学家北条|安房《あわ》の密命をうけて上方へ潜行す――と、関東の味方の者から|疾《と》く|通牒《つうちょう》のあったことだ。しかもここへ来る前、柳生|兵庫《ひょうご》や家臣の者とも、忍びやかに|諜《しめ》し合せて来たことまで見届けてある」
「すべて、根から間違いだ」
「|有《う》|無《む》はいわさん。行く先へ行ってから、いくらでも申せ」
「行く先とは?」
「行けばわかる」
「わしの意志だ。行かなかったら……?」
――すると。
橋の左右を|塞《ふさ》いでいた|旅《たび》|商人《あきんど》の杉蔵、源助と称するふたりが、槍の穂先へ、キラと|陽《ひ》を吸って、
「突き殺すまでだっ」
と、にじり寄った。
「何を」
いうとすぐ、権之助は、側へかかえよせていた伊織の背なかを、平手でどんと突いた。わずかにやっと、足を乗せて渡れるだけの幅しかない二本の丸木から、伊織は身をのめらしたので、
「――アッ」
声もろとも、二丈の余もある断層の底へ、自分から飛んだように、墜ちて行った。
|咄《とっ》|嗟《さ》に、また、
「わうっ」
吠えた権之助は、|翳《かざ》し上げた杖から風を起して、一方の槍へ、われとわが五体を、たたきつけるように、飛びかかって行った。
四
槍が槍の働きを十分に示すには、秒間の時と、尺地の距離とが|要《い》る。
構えてはいたが――
また、せつなを外さず、|繰《くり》|手《て》を伸ばしはしたが。
「しえっッ――」
と、|喉《のど》でわめいたのみで、完全に、杉蔵は空を突いてしまった。そして途端に、体ぐるみ自分へぶつかって来た権之助と、折り重なったまま、
――どさっ
と崖へ尻もちついた。
転がり合ったせつな、権之助の杖は左手にあった。杉蔵が跳ね起きようとする時、彼の右手の拳は、杉蔵の顔の真ん中を、一撃で突き|凹《へこ》ました。
ぐわっ
面部のどこからか血をふいて、歯ぐきを|剥《む》いて見せた顔は、実際、|凹《へこ》んだように見えた。権之助は、その顔を踏みつけ、一跳躍して、高原の平地へ立った。
そして、髪を逆立てて、
「来いっ」
と、杖を、次の者へ備えたが、死者の運命を打開したと思ったその瞬間こそ、実は、彼を待っていたほんとの死地だったのであった。
そこらの草むらから二筋三筋――ひゅっと、さなだ[#「さなだ」に傍点]虫のような|紐《ひも》が、草を撫でて飛んで来たのである。一筋の紐の先には、刀の|鍔《つば》が|結《ゆ》いつけてあった。また一筋の紐には、|鞘《さや》ぐるみの脇差がしばりつけてあった。分銅の代りに用いたのであろう。勢いよく走って来たそれは、権之助の足元だの、首のあたりへ|絡《から》みついた。
仲間の杉蔵が不覚を取ったと見て、すぐ断層の橋を渡って来た源助と山伏のほうへ向けて、咄嗟に構えていた杖とその手元へも、一筋、くるくるっと、|蔓《つる》のように巻きついた。
「あッ」
|蜘蛛《くも》の糸から脱れようとする昆虫のように、権之助の全身は、本能的に暴れたが、わらっと寄り|集《たか》って来た五、六名の人間は、完全に彼のもがく姿を、|蔽《おお》い隠してしまった。
手取り足取りである。――その人々が彼の体から離れて、
「さすがに|手《て》|強《ごわ》い」
と、ひと汗、拭き合った時には、もう、権之助は|鞠《まり》のように|縛《くく》られて、どうでもしろというように大地に|委《まか》せられていた。
その両手と胴とを幾重にも巻いた|縛《いまし》めの|紐《ひも》は、この近郷で――いや近頃はかなり遠国まで知れて来た丈夫な木綿の|平《ひら》|打《うち》|紐《ひも》で、|九《く》|度《ど》|山《やま》紐とも、|真《さな》|田《だ》紐ともよばれ、製品の販路を拡げて歩く売子も、何処へ行っても見かけるほど手びろく売り出されている紐だった。
今、草むらから不意に起って、権之助を|陥《かん》|穽《せい》に落して顔見あわせている、六、七名も、すべてその紐売りの|旅商人拵《たびあきんどごしら》えの者ばかりで、ただひとり山伏|扮装《いでたち》の男のみが、違っているだけだった。
「馬はないか、馬は」
山伏はすぐこう気を配って、
「九度山まで、引っ立てて歩くのも、途中がわずらわしい。馬の背に|縛《くく》りつけて、|蓆《むしろ》でも引っかぶせて行くとしては?」
と|諮《はか》ると、
「それがいい」
「この先の天見村まで行けば」
と、一同異議なく、権之助を追い立て追い立て、真っ黒にかたまって、雲と草の彼方へ、急いで行ってしまった。
――だがその後。
地の底から、冷たい風のふき上がるたびに人の声が、この高原の空をながれていた。断層の谷へ墜ちこんだ伊織のさけびであることはいうまでもない。
[#地から2字上げ]宮本武蔵 第七巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫20『宮本武蔵(七)』(一九九〇年一月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。
|宮《みや》|本《もと》|武蔵《む さ し》(七)
電子文庫パブリ版
|吉《よし》|川《かわ》|英《えい》|治《じ》 著
(C) Fumiko Yoshikawa 1936-1939
二〇〇一年九月一四日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
東京都文京区音羽二‐一二‐二一
〒112-8001
e-mail: paburi@kodansha.co.jp
製 作 大日本印刷株式会社
注
「二の字点」を「々」で代替しているのは、パブリHTML版に従っています。