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宮本武蔵(六)
[#地から2字上げ]吉川 英治
目 次
空の巻(つづき)
|通《つ》|夜《や》|童《どう》|子《じ》
一指さす天
この師この弟子
|土《ど》|匪《ひ》|来《らい》
|征《せい》 |夷《い》
|卯《う》|月《づき》の|頃《ころ》
入城府
|蠅《はえ》
かたな談義
道草ぎつね
|懸人《かかりゅうど》
|飛《ひ》 |札《さつ》
|仮《か》|名《な》がき|経典《きょうてん》
|血《ち》|五月雨《さみだれ》
|心形無業《しんぎょうむぎょう》
|雀羅《じゃくら》の|門《もん》
|街《まち》の|雑《ざっ》|草《そう》
二天の巻
|衆《しゅう》 |口《こう》
虫しぐれ
|鷲《わし》
青い柿
露しとど
空の巻(つづき)
|通《つ》|夜《や》|童《どう》|子《じ》
そこは|下総《しもうさの》|国《くに》行徳村からざっと一里程ある寒村だった。いや村というほどな|戸《こ》|数《すう》もない。一面に|篠《しの》や|蘆《あし》や雑木の生えている|荒《こう》|野《や》であった。里の者は、|法《ほう》|典《てん》ケ|原《はら》といっている。
|常陸《ひ た ち》|路《じ》の方から今、ひとりの旅人が歩いて来る。|相《そう》|馬《ま》の|将《まさ》|門《かど》が、|坂《ばん》|東《どう》に暴勇をふるって、矢|唸《うな》りを|恣《ほしいまま》にした頃から、この辺りの道も|藪《やぶ》もそのままにあるように|蕭々《しょうしょう》としたものだった。
「――はてな?」
|武蔵《む さ し》は、行き暮れた足を止めて、野路の|岐《わか》れに立ち迷っていた。
秋の陽は野末に落ちかけ、ところどころの野の水も赤い。もう足元も|仄《ほの》|暗《ぐら》く、草木のいろも定かでない。
武蔵は、|燈《ひ》を探した。
ゆうべも野に寝た。おとといの夜も山の石を枕に寝た。
四、五日前、|栃《とち》|木《ぎ》あたりの峠で豪雨にあい、それから後、少しからだが|気《け》|懶《だる》い。|風邪《かぜ》|気《け》などというものは知らなかったが――なんとなくこよいは夜露がもの|憂《う》いのである。|藁《わら》|屋《や》の下でもよい。灯と、温かい|稗《ひえ》|飯《めし》がほしかった。
「どことなく潮の香がする……。四、五里も歩けば海があるとみえる。……そうだ、潮風を|的《あて》に」
と、彼はまた、野道を歩いた。
しかし、その勘があたるかどうかわからない。もし海も見えず家の灯も見えなければ、こよいも秋草のなかに、萩と|添《そい》|寝《ね》をするしかないと思う。
赤い陽が沈みきれば、こよいも大きな月がのぼるであろう。満地は虫の|音《ね》に耳もしびれるばかりだった。彼一人の静かな|跫《あし》|音《おと》にさえ|愕《おどろ》いて、虫は武蔵の|袴《はかま》や刀のつかにも飛びついてくる。
自分に風流があるならば、この行き暮れた道をも楽しんで歩くことが出来ように――とは思うのであったが、武蔵は、
(汝、楽しむや)
と、自分へ訊ねて、
(|否《いな》)
と、自分で答えるしかない気持であった。
――人が恋しい。
――食物がほしい。
――孤独に|倦《う》みかけた。
――修行に肉体がつかれかけている。
と正直に思う。
元より、これでいいとしている彼ではない。|苦《にが》い反省を抱きつつ歩いているのだ。――木曾、|中《なか》|山《せん》|道《どう》から江戸へと志して、その江戸にはいること僅か数日で、再び|陸奥《みちのく》の旅へ去った彼であった。
ちょうどあれから一年半余――武蔵は先に|逗留《とうりゅう》し残した江戸へこれから出るつもりなのである。
なぜ、江戸を後にして、|陸奥《みちのく》へいそいだか。それは|諏《す》|訪《わ》の宿で会った仙台家の家士|石《いし》|母《も》|田《だ》|外《げ》|記《き》の後を追ったのであった。自分の知らぬまに、旅包みの中にあった大金を、外記の手へ返すためであった。あの物質の恩恵を受けておくのは、彼にとって、大きな心の負担であった。
「仙台家へ仕える程なら……」
武蔵は、|自《じ》|尊《そん》をもつ。
たとい修行に疲れ、|食《しょく》に|渇《かわ》いて、|露《ろ》|衣《い》|風《ふう》|身《しん》の|漂泊《さ す ら》いに行き暮れていても、
「おれは」
と、そのことを考えると、微笑がわいてくる。彼の大きな希望は伊達公六十余万石を挙げて迎えてくれても、まだ、満足とはしないに違いなかった。
「……おや?」
ふと、足の下で、大きな水音がしたので、武蔵は踏みかけた土橋に立ち止って、暗い小川の|窪《くぼ》を|覗《のぞ》きこんだ。
なにか、ばちゃばちゃと水音をたてている。まだ野末の雲が赤いだけに、|川《かわ》|崖《がけ》の|窪《くぼ》はよけいに暗く、土橋の上に|佇《たたず》んだ武蔵は、
「|河《かわ》|獺《うそ》か?」
と、眼を|凝《こ》らした。
しかし、彼はすぐ、幼い土民の子を、そこに見出した。人間の子とはいいながら、河獺と大差のない顔をしていた。怪しむように、その子は土橋の上の人影を下から見上げている。
そこで武蔵が、声をかけた。子供を見ると言葉をかけたくなるのは、彼には、いつものことで、特に理由のあることではない。
「子ども、何しているのだ」
すると土民の子は、
「|泥鰌《どじょう》」
とだけいって、またざぶざぶ|小《こ》|笊《ざる》を小川に|浸《ひた》して振っていた。
「あ、泥鰌か」
なんの意味もないこんな会話も、この|曠《こう》|野《や》の中では親しくひびく。
「たくさん捕れたか」
「もう秋だから、そういないけど」
「拙者に少し分けてくれぬか」
「泥鰌をかい?」
「この手拭にひとつかみほど包んでおくれ。銭はやる」
「折角だけど、きょうの泥鰌は、お|父《とっ》さんに上げるんだから|遣《や》れないよ」
|笊《ざる》を抱えて小川の窪から飛びあがると、子供は、野萩の中を|栗鼠《りす》みたいに駈け去ってしまった。
「……|迅《はし》こい奴」
武蔵は、取残されたまま苦笑をうかべていた。
自分の幼い時の姿が思い出された。友達の又八にもあんな時があったなあと思う。
「……城太郎も、初めて見た頃は、ちょうどあのくらいな|童《わっぱ》だったが」
――さて、その城太郎はその後どうしたろうか。何処に何をしていることぞ?
お|通《つう》と共に|迷《はぐ》れてから、その年から数えれば足かけ三年目――あの時十四、去年で十五、
「ああ、もうあれも、十六歳になる」
彼はこんな貧しい自分をも、師とよび、師と慕い、師として仕えてくれた。――だが自分は彼に何を与えたか。ただ、お通と自分とのあいだに挟まりながら、旅路の苦労をさせたにすぎない。
武蔵はまた、野中に|佇《たたず》んだ。
城太郎のこと、お通のこと、さまざまな|追憶《おもいで》に、しばらくつかれを忘れて歩いていたが、道はいよいよ分らない。
ただ|倖《しあわ》せなことには、秋の月がまんまると空にある。啼きすだく虫の音がある。こんな夜にお通は笛をふくのが好きだったと思う。……虫の音が皆、お通の声、城太郎の声に聞えてくる。
「……お。家がある」
灯を見つけた。武蔵は、しばらく何もわすれて、その一ツ灯へ向って歩いた。
近寄ってみると、まったくの一ツ|家《や》で、傾いた軒よりも、すすきや萩の背のほうが高く見える。大きな露と見えるのは、やたらに壁を這っている夕顔の花だった。
彼が近づくと、突然、大きな鼻息を鳴らして怒るものがあった。家の横につないであった裸馬である。馬の気配ですぐ知ったとみえ、明りのついている家の中から、
「誰だっ」
と呶鳴る者があった。
――見ると、|先刻《さ っ き》、|泥鰌《どじょう》を分けてくれなかった子どもである。これはよくよく縁があると、武蔵は思わず微笑んで、
「泊めてくれぬか。夜明けにはすぐ立去るが――」
いうと、子どもは、先刻とはちがって、武蔵の顔や姿をしげしげ眺めていたが、
「あ。いいよ」
と、素直に|頷《うなず》いた。
これはひどい。
雨が降ったらどんなだろう。月明りが屋根からも壁からも洩る。
旅装を解いても、掛ける|釘《くぎ》もなかった。床板に|蓆《むしろ》は敷いてあるが、そこからも風が洩る。
「おじさん、先刻、|泥鰌《どじょう》が欲しいといったね。泥鰌、好きかい」
童子は、前に|畏《かしこま》って訊く。
「…………」
武蔵は、それに答えるのを忘れて、この子供を見つめていた。
「……何を見ているのさ」
「|幾歳《い く つ》になるの」
「え」
と、童子はまごついて、
「おらの年かい?」
「うむ」
「十二だ」
「…………」
土民の中にもよい|面魂《つらだましい》の子があるもの――と武蔵はなお|惚《ほれ》|々《ぼれ》と見るのであった。
洗わない蓮根みたいに|垢《あか》で埋まった顔をしている。髪は|蓬《ぼう》|々《ぼう》と伸びて、小鳥の|糞《ふん》みたいな匂いがする。しかし、よく肥えていることと、|垢《あか》の中にくるりと光っている眼のきれいなことはすばらしい。
「|粟《あわ》|飯《めし》も少しあるよ。|泥鰌《どじょう》も、もうお|父《とっ》さんに上げたから、喰べるなら、下げて来てやるよ」
「すまないなあ」
「お湯ものむのだろ」
「湯も欲しい」
「待っといで」
童子は、がたぴしと、板戸をあけて、次の部屋にかくれてしまう。
柴を折る音や、七輪をあおぐ音がする。家の中は忽ち煙で充ちてくる。天井や壁にたかっていた無数の昆虫が煙に追われて外へ出て行く。
「さ、できた」
無造作に、食べ物が|床《ゆか》へじかに並んだ。塩からい|泥鰌《どじょう》、黒い味噌、粟飯。
「うまかった」
武蔵がよろこぶと、人の|欣《よろこ》びを童子もよろこぶ性質とみえ、
「うまかったかい?」
「礼をのべたいが、この|家《や》の|主《あるじ》はもうお|寝《やす》みかの」
「起きてるじゃないか」
「どこに」
「ここに」
と、童子は、自分の鼻を指さして、
「ほかに誰もいないよ」
と、いう。
職業を訊くと、以前は少しばかり農もやっていたが、親がわずらってから、農はやめて自分が|馬《ま》|子《ご》をして稼いでいるという。
「……ああ油がきれてしまった。お客さん、もう寝るだろう」
明りは消えたが、月洩る家は何の不便もなかった。
うすい|藁《わら》ぶとんに、木枕をかって、武蔵は壁に添って寝た。
とろとろと眠りかけると、まだ風邪気が抜けきらないせいか、軽い汗が毛穴にわく。
そのたびに武蔵は、夢の中で雨のような音を聞いた。
夜もすがら啼きすだく虫の音は、いつか彼をふかい|睡《ねむ》りに誘った。――もしそれが|砥《と》|石《いし》を|辷《すべ》る刃物の音でなかったら、その深い眠りは覚めなかったに違いない。
「……や?」
彼は、ふと、身を起していた。
ずし、ずし、ずし――と微かに小屋の柱がうごく。
板戸の隣で、|砥《と》|石《いし》へ物を当てている力がひびいて来るのである。何を|研《と》いでいるのか? ――それは問題でない。
武蔵はすぐ、枕の下の刀を握った。すると、隣の部屋から、
「お客さん、まだ寝つかれないのかい?」
どうして自分が起きたのを、隣の部屋で知ったろうか。
童子の敏感に|愕《おどろ》きながら、武蔵は、その答えを|外《はず》して、斬り返すように、|此方《こ な た》からいった。
「この深夜に、なんで|其方《そち》は、刃物など|研《と》いでいるのか」
すると少年は、げらげら笑いながら、
「なアんだ、おじさんは、そんなことに|恟《びく》|々《びく》して、寝つかれなかったのかい。強そうな恰好をしているけれど、内心は臆病なんだなあ」
武蔵は、沈黙した。
少年の姿を借りた|魔《ま》|魅《み》と、問答でもしているような気持に打たれたからである。
ごし、ごし、ごしっ……と童子の手はまた、|砥《と》|石《いし》のうえに動いているらしい。不敵な今の言葉といい、|砥《と》を揺する底力といい、武蔵はいぶからずにいられなかった。
「……?」
で、板戸の隙間から覗いてみたのである。そこは台所と、|蓆《むしろ》を敷いた二坪の寝小屋になっている。
引窓から白い月明りが|映《さ》しこんでいる下に、童子は、|研《とぎ》|桶《おけ》を据え、刃渡り一尺五、六寸の|野《の》|差刀《ざし》を持って、一心に|刃《やいば》をかけているのであった。
「何を斬るのか」
隙間から武蔵がいうと、童子は、その隙間をちょっと振向いたが、一言も発せず、なお懸命に研いでいる。そしてやがてのこと、|晃《きら》|々《きら》と|刎《は》ね返す光と|研《とぎ》|水《みず》のしずくを|拭《ぬぐ》いあげて、
「おじさん」
と|此方《こ な た》を見て訊ねた。
「これでね、おじさん。人間の胴中が、二つに斬れる?」
「……さ。腕に依るが」
「腕なら、おらにだっておぼえがある」
「一体、誰を斬るのか」
「おらのお|父《とっ》さんを」
「何……?」
武蔵は、|愕《おどろ》いて、思わずそこの板戸を開け、
「|童《わっぱ》。|戯《たわむ》れにいったか」
「だれが、冗談など、いうものか」
「父を斬る? ……それが本気ならおまえは人間の子ではない。こんな|曠《こう》|野《や》の一ツ家に、野鼠か土蜂のように育った子にせよ、親とは何かぐらいなことは、自然分っていなければならない。……|獣《けもの》にすら親子の本能はあるに、おまえは親を斬るために、その刀を研いでいた」
「ああ……。だけど、斬らなければ、持って行けないもの」
「どこへ」
「山のお墓へ」
「……え?」
武蔵は改めて眼を壁の隅へ向けた。|先刻《さ っ き》からそこに気になるものを見ていたが、まさか、少年の父の死骸とは思いもつかなかったのである。熟視すると、死骸には、木の枕をさせ、上から汚い百姓着がかぶせてある。そして一碗の飯と水と――さっき武蔵にもくれた|泥鰌《どじょう》の煮たのが木皿に盛って|供《そな》えてある。
この仏は、生前|泥鰌《どじょう》が、無二の好物であったとみえる。少年は、父が死ぬと、父が一番好きな物は何であったかを考え――もう秋も半ばというのに、懸命に、泥鰌をさがして、あの小川で洗っていたものにちがいない。
――とも知らずに、
(泥鰌を分けてくれぬか)
といった自分の心ない言葉が武蔵は恥ずかしく思い出された。同時にまた、父の遺骸を、山の墓地へ持って行くのに、一人の力では運ばれないから、死骸を両断して持って行こうという――この童子の剛胆な考え方に、舌を巻いて、しばらくその顔を見つめてしまった。
「いつ死んだのだ? ……おまえの父は」
「今朝」
「お墓は遠いのか」
「|半里《はんみち》ばかし先の山」
「人を頼んで、寺へ持って行けばよいではないか」
「おかねがないもの」
「わしが、|布《ふ》|施《せ》をしよう」
すると、童子は、かぶりを振っていった。
「お父さんは、人から物を恵まれるのは、嫌いだった。お寺も嫌いだった。――だから、いらない」
一言一句、この少年のことばには、奇骨がある。
父という仏も、察するに、|凡《ただ》の|田《でん》|夫《ぷ》|野《や》|人《じん》ではなかろう。|由縁《よし》ある者の末にちがいはない。
武蔵は彼のことばに任せ、山の墓所へ、仏を運ぶ力だけ貸した。
それも、山の下までは、仏を馬の背にのせて行けばよいのであった。ただ|嶮《けわ》しい山道だけ、武蔵が仏を背負って|上《のぼ》った。
墓所といっても、大きな栗の木の下に、丸い|自《じ》|然《ねん》|石《せき》が一つ、ぽつねんとあるだけで、ほかに|塔《とう》|婆《ば》一つない山だった。
仏を|埋《い》け終ると、少年は花を手向け、
「|祖父《お じ い》も、|祖母《お ば あ》も、おっ母さんも、みんなここに眠ってるんだぜ」
と、|掌《て》をあわせた。
――何の宿縁。
武蔵も共に仏の冥福を念じて、
「墓石もそう古くないが、おまえの祖父の代から、この辺に土着したとみえるな」
「ああそうだって」
「その以前は」
「|最《も》|上《がみ》|家《け》の侍だったけど、|戦《いくさ》に負けて落ちのびる時、系図も何もみんな焼いちまって、何もないんだって」
「それほどな家柄なら墓石にせめて、祖父の名ぐらい刻んでおきそうなものだが、|紋印《もんじるし》も年号もないが」
「祖父が、墓へは、何も書いてはいけないといって死んだんだって。|蒲生《が も う》|家《け》からも、|伊達《だて》|家《け》からも、|抱《かか》えに来たけれど、侍奉公は、二人の主人にするものじゃない。それから、自分の名など、石に彫っておくと、先の御主人の恥になるし、百姓になったんだから、紋も何も彫るなっていって、死んだんだって」
「その祖父の、名は聞いていたか」
「|三《み》|沢《さわ》|伊《い》|織《おり》というんだけれど、お父さんは、百姓だから、ただ三右衛門といっていた」
「おまえは」
「三之助」
「身寄りはあるのか」
「姉さんがあるけれど、遠い国へ行っている」
「それきりか」
「うん」
「明日からどうして生きてゆくつもりか」
「やっぱり|馬《ま》|子《ご》をして」
と、いってすぐ、
「おじさん。――おじさんは武者修行だから、年中旅をして歩くんだろ。おらを連れて、何処までもおらの馬に乗ってくれないか」
「…………」
武蔵は|先刻《さ っ き》から、白々と、明けてくる曠野を見ていた。そして、この|肥《ひ》|沃《よく》な野に住む人間が、どうして、かくの如く貧しいかを考えこんでいた。
|大《おお》|利《と》|根《ね》の水の、|下総《しもうさ》の|潮《うしお》があって、坂東平野は幾たびも泥海に化し、幾千年のあいだ、富士の火山灰はそれを埋め――やがて|幾《いく》|世《よ》をふるうちに、|葭《よし》や|蘆《あし》や雑木や|蔓《つる》|草《くさ》がはびこって、自然の力が人間に勝ってしまう。
人間の力が土や水や自然の力を自由に利用する時、はじめてそこに文化が生れる。坂東平野はまだ人間が自然に圧倒され、征服され、人間の智慧の|眸《ひとみ》は、茫然とただ天地の大をながめているにすぎない。
陽がのぼると、そこらを、小さい野獣が跳ぶ、小鳥が|刎《は》ねる。未開の天地では、人間よりも、鳥獣のほうが、自然の恵みを、より多く|享《う》け、より多く楽しんでいるかに見えた。
やはり、子どもは、子どもである。
土の下に、父を葬って帰るさには、もう父のことを忘れている。いや忘れてもいまいが、葉の露から昇る曠野の日輪に、生理的に、悲しみなどは、吹きとんでいた。
「なあ、おじさん、いけないかい。おらは、今日からでもいい――。この馬に、何処までも乗って行って、何処までも、おらを連れて行ってくんないか」
山の墓所を降りてからの帰り途――
三之助は、武蔵を、客として、馬にのせ、自分は、馬子として、手綱を引いていた。
「……ウム」
と、うなずいてはいるが、武蔵は明瞭な返辞はしない。そして心のうちでは、この少年に、多分な望みをかけていた。
けれど、いつも|流《る》|浪《ろう》の身である自分が先に考えられた。果たして、自分の手によって、この少年を幸福にできるかどうか、将来の責任を、自分に問うてみるのであった。
すでに、城太郎という先例がある。彼は、素質のある子だったが、自分が流浪の身であり、また自分にさまざまな|煩《わずら》いがあるために、今では、手元を離れて、その行方もわからない。
(もし、あれで悪くでもなったら――)
と、武蔵は、いつもそれが、自分の責任でもあるかのように、胸をいためている。
――しかし、そういう結果ばかり考えたら、結局人生は、一歩も、あるくことが出来ない。自分の寸前さえ分らないのである。ましてや、人間の子、ましてや、育ってゆく少年の先のこと、誰が、保証できよう。また、|傍《はた》の意志をもって、どうしよう、こうしようと思うことからして、むりである。
(ただ、本来の素質を、|研《みが》かせて、よい方へ歩む導きをしてやるだけなら――)
それならば、できると彼も思う。また、それでいいのだと、自身に答えた。
「ね、おじさん、だめかい、いやかい」
三之助は|強請《せが》む。
武蔵は、そこでいった。
「三之助、おまえは、一生涯、馬子になっていたいか、侍になりたいか」
「それやあ、侍になりたいさ」
「わしの弟子になって、わしと一緒に、どんな苦しいことでもできるか」
すると、三之助は、いきなり手綱を|放《ほう》り出した。何をするのかと見ていると、露草の中に坐って、馬の顔の下から、武蔵へ両手をついていった。
「どうか、お願いです。おらを侍にしてください。それは死んだお|父《とっ》さんもいい暮していたんだけど……きょうまで、そういって、頼む人がなかったんです」
武蔵は、馬から降りた。
そしてあたりを見廻した。一本の枯れ木の手頃なのを拾い、それを三之助に持たせて、自分も有り合う木切れを取って、こういった。
「師弟になるかならぬか、まだ返辞はできぬ。その棒を持って、わしへ打ち込んで来い。――おまえの手すじを見てから、侍になれるかなれないか決めてやる」
「……じゃあ、おじさんを打てば、侍にしてくれる?」
「……打てるかな?」
武蔵はほほ笑んで、木の枝を構えてみせた。
枯れ木をつかんで立ち上がった三之助は、むき[#「むき」に傍点]になって、武蔵へ打ちこんで来た。武蔵は、|仮借《かしゃく》しなかった。三之助は、何度も、|蹌《よろめ》いた。肩を打たれ、顔を打たれ、手を打たれた。
(今に、泣き出すだろう)
と思っていたが、三之助は、なかなかやめなかった。しまいには、枯れ木も折れてしまったので、武蔵の腰へ武者ぶりついて来た。
「|猪《ちょ》|口《こ》|才《ざい》な」
と、わざと大げさに、武蔵は彼の帯をつかんで、大地へたたきつけた。
「なにくそ」
と、三之助はまた、|刎《は》ね起きてかかってくる。それをまた、武蔵は、つかみ寄せて、高々と、日輪の中へ|双《もろ》|手《て》で差し上げながら、
「どうだ、参ったか」
三之助は、|眩《まぶ》しげに、宙で|もが[#「もが」は「足偏」+「宛」Unicode=8e20]《もが》きながら答えた。
「参らない」
「あの石へ、叩きつければ、おまえは死ぬぞ。それでも参らないか」
「参らない」
「強情な奴だ。もう、貴様の敗けではないか。参ったといえ」
「……でも、おらは、生きてさえいれば、おじさんに、きっと勝つものだから、生きているうちは参らない」
「どうして、わしに勝つか」
「――修行して」
「おまえが十年修行すれば、わしも十年修行して行く」
「でも、おじさんは、おいらよりも、年がよけいだから、おらよりも、先へ死ぬだろう」
「……む。……ウム」
「そしたら、おじさんが、|棺《かん》|桶《おけ》へはいった時に、|撲《なぐ》ってやる。――だから、生きてさえいれば、おらが勝つ」
「……あッ、こいつめ」
真っこうから一撃喰ったように、武蔵は、三之助のからだを、大地へ|抛《ほう》り|出《だ》したが、石のところへは、投げなかった。
「……?」
ぴょこんと|彼方《か な た》に立った三之助の顔をながめて、むしろ愉快そうに、武蔵は手を叩いて笑った。
一指さす天
「弟子にする」
武蔵は、その場で、三之助に言葉をつがえた。
三之助の|欣《よろこ》びは、非常なものだった。子供は、欣びをつつまない。
二人は、一度、家へ戻った。――|明日《あ し た》はもうここを去るというので、三之助は、こんな|茅屋《あばらや》でも、自分まで三代も住んだ小屋かとながめて、夜もすがら、|祖父《お じ い》の思い出や、|祖母《お ば あ》や|亡母《はは》のことなどを、武蔵へ話して聞かせた。
そうして、翌る日の朝。
武蔵は、支度して、先へ軒を出ていた。
「――|伊《い》|織《おり》、伊織。はやく来い。持って行くような物は何もあるまい。あっても、未練を残すな」
「はい。今参ります」
三之助は、後ろから、飛び出して来た。着のみ着のままの支度である。
今、武蔵が、「伊織」と彼を呼んだのは、彼の祖父が、最上家の臣で、三沢伊織といい、代々伊織を称して来た家だと聞いたので、
(おまえも、わしの弟子となって、侍の子に返った|機《しお》に、祖先の名を|襲《つ》いだがよい)
と、まだ元服には早い|年齢《とし》であったが、ひとつの心構えを抱かせるために、ゆうべからそう呼ぶことにしたのであった。
しかし、今飛び出して来た姿を見ると、足にはいつもの|馬《ま》|子《ご》|草鞋《わ ら じ》を|穿《は》き、背中には、|粟《あわ》|飯《めし》の弁当風呂敷を背負って、尻きり着物一枚、どう眺めても、侍の子ではない、蛙の子の旅立ちである。
「馬を遠くの樹へ持って行って|繋《つな》いでおけ」
「先生、乗って下さい」
「いや、まあいいから、|彼方《あ っ ち》へ繋いで帰って来い」
「はい」
きのうまでは、何かの返辞も、ヘイであったが、今朝からは急に、ハイに変っている。子供は、自分を改めることに、何のためらいも持たなかった。
遠くへ馬を繋いで、伊織はまた、そこへ帰って来た。武蔵は、まだ軒下に立っている。
(何を見てるんだろう?)
伊織には、不審であった。
武蔵は、彼の|頭《つむり》に、手を乗せて――
「おまえは、この|藁《わら》|屋《や》の下で生れた。おまえの|肯《き》かない気性、屈しない魂は、この藁屋が育ててくれたものだ」
「ええ」
と、武蔵の手をのせたまま、小さい|頭《つむり》はうなずいた。
「おまえの祖父は、二君に仕えぬ節操をもって、この野小屋にかくれ、おまえの父は、その人の晩節を|全《まっと》うさせるために、百姓に甘んじて、若い時代を、孝養に送り、そして、おまえを残して死んだ。――けれどおまえはもう、その親も送って、きょうからは一本立ちだ」
「はい」
「偉くなれよ」
「……え、え」
伊織は、眼をこすった。
「三代、雨露をしのがせて貰った小屋に、手をついて、別れをいえ、礼をのべろ。……そうだ、もう名残はよいな」
いうと、武蔵は、屋内へはいって、火を|放《つ》けた。
小屋は見るまに、燃えあがった。伊織は、熱い眼をして見ていた。その|眸《ひとみ》が、余り悲しげなので武蔵は、|説《と》いて聞かせた。
「このままにして立ち去れば、後には野盗や|追《おい》|剥《はぎ》が住むにきまっている。それではせっかく忠節な人の跡が、|社会《よのなか》を毒する者の便宜になるから焼いたのだ。……分ったか」
「ありがとうございます」
見ているうちに、小屋は|一《ひと》|山《やま》の火となり、やがて、十坪もない灰に|化《な》ってしまった。
「さ。行きましょう」
伊織はもう先を|急《せ》く。少年の心は、過去の灰には、何の感奮もなかった。
「いや、まだまだ」
武蔵は、首を振ってみせた。
「まだって? ……これからまだ、何をするんですか」
伊織は、いぶかしそう。
その不審顔を笑って、
「これから、小屋を建てにかかるんだよ」
と、武蔵がいう。
「え? どうしてだろ。……たった今、小屋を焼いちまったのに」
「あれは、きのうまでのおまえの御先祖の小屋。きょうから建てるのは、われわれ二人の|明日《あ し た》から住む小屋だ」
「じゃあ、またここへ住むんですか」
「そうだ」
「修行には出ないんですか」
「もう出ているではないか。わしも、おまえに教えるばかりではなく、わし自身が、もっともっと修行しなければならないのだ」
「なんの修行?」
「知れたこと、剣の修行、武士の修行――それはまた、心の修行だ。伊織、あの|斧《おの》をかついで来い」
指さす所へ行くと、いつの間にか、そこの草むらの中には斧だの|鋸《のこぎり》だのまた、農具などだけが、炎をかけずに、取り残されてあった。
伊織は、大きな斧をかつぎ、武蔵の歩む後に|尾《つ》いて行った。
栗林がある。そこには松も杉もあった。
武蔵は、肌を脱ぎ、斧を|揮《ふる》って樹を|伐《き》り出した。|丁々《ちょうちょう》と、生木の肉が白く飛ぶ。
――道場を拵える? この平野を道場に修行する?
伊織には、いくら説明されても分る程度しか分らなかった。旅へ出ないで、この土地に止まることが何だかつまらない。
どさっ――と樹が|仆《たお》れる。次々に斧が仆してゆく。
血のさした武蔵の栗色の皮膚には、黒い汗がりんりと流れ出した。この日頃からの|惰《だ》|気《き》、|倦《けん》|怠《たい》、孤愁などはみな汗となって流れるかのようだ。
彼は昨日の未明、一個の農民で終った伊織の父の墓のある山から――坂東平野の未開をながめて、|勃《ぼつ》|然《ぜん》と、今日のことを、思い立ったのであった。
(しばらく、剣を|措《お》いて、|鍬《くわ》を持とう!)
という発願だった。
剣を|研《みが》くべく――禅をする、書をまなぶ、茶にあそぶ、画を描く、仏像を彫る。
鍬を持つ中にも、剣の修行はあるはずだと思う。
しかも、この|広《こう》|茫《ぼう》な大地は、さながらそのまま行道を待つ絶好な道場であり、また鍬と土には、必ず開墾が生じ、その余恵は、幾百年の末まで、幾多の人間を養うことにもなる。
武者修行は、由来、|行乞《ぎょうこつ》を本則としている。人の|布《ふ》|施《せ》に依って学び、人の軒端をかりて雨露をしのぐことを、禅家その他の|沙《しゃ》|門《もん》のように、当りまえなこととしている。
けれど、一|飯《ぱん》の尊さは、一粒の米でも一|茎《くき》の野菜でも、自分で|栽《つく》ってみて初めてわかることである。それをしない坊主のことばがまま口頭禅としか聞えないように、布施で生きている武者修行が剣のみを|研《みが》いても、それを治国の道に生かすことを知らず、また、|社会《せ け ん》ばなれな武骨一偏になってしまい易いことも当然である――と武蔵は思った。
武蔵は、百姓の|業《わざ》は、知っている。母と共に、幼い頃は、郷士屋敷の裏畑へ出て、百姓のすることもしたものだった。
けれど、今日からする百姓は、朝夕の|糧《かて》のためではない、心の糧を求めるのだった。また、|行乞《ぎょうこつ》の生活から、働いて喰らう生活を学ぶためだった。
さらにまた、|野茨《のいばら》や沼草の繁茂にまかせ、洪水や風雨の暴力にも、すべて自然に対して、|諦《あきら》めの眼しか持たない農民に――子々孫々、骨と皮ばかりの|生活《く ら し》を伝えて来ながらも、依然、眼をひらかない彼らに、身をもって、自分の考えを、植えつけてやろうという望みもかけた。
「伊織、縄を持って来て、材木をしばれ。――そして河原の方へ曳いてゆけ」
|斧《おの》を立てて、ほっと、汗を|肱《ひじ》で拭いながら、武蔵は命じた。
伊織は、縄を結びつけて、材木を曳いた。武蔵は、斧や|手《て》|斧《おの》で、面皮をとる。
夜になると、手斧|屑《くず》で|焚《たき》|火《び》をし、火のそばに、材木を枕にして寝る。
「どうだ伊織、おもしろいだろうが」
伊織は正直に答えた。
「ちっとも、おもしろいことなんかないや。百姓するなら、先生の弟子にならなくたって、できるんだもの」
「今におもしろくなる」
秋が|更《ふ》けてゆく。
夜ごとに、虫の音は減って行った。草木は枯れてゆくのである。
もうその頃には、この法典ケ原に、二人の寝小屋が建ち、二人は毎日、|鋤《すき》と|鍬《くわ》を持って、まず足元の一坪から開墾し始めた。
もっとも、それにかかる前に、彼は一応この附近一帯の荒地を足で踏んで、
(なぜ、この天然と人とが離反したまま雑木雑草に|委《まか》されているか)
を考査してみた。
(水だ)
と、まず第一に、治水の必要が考えられた。
小高い所に立ってみると、ここの荒野は、ちょうど応仁以後から戦国時代にわたる人間の社会みたいな図であった。
ひとたび、坂東平野に大雨がそそぐと、水は各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、勝手に河を作り、流れたい方へ奔流し、激したいままに石ころを動かす。
それらを収める主流というものがないのだ。天気の日眺めると、それらしいものは幅の広い河原を作っているが、天地の大に対する包容力が足らないし、元々、あるがままに出来た河原なので、秩序もないし、統制もない。
もっとなくてならないのに無いものは、群小の水を集めて、一体に指してゆくべき方角を持たないのだ。主体自らが、その折々の気象や天候にうごかされて、或る時は、野にあふれ、或る時は、林を貫き、もっと甚だしい時は、人畜を|冒《おか》して、|菜《さい》|田《でん》まで泥海にしてしまう。
(容易でないぞ)
と、武蔵は、踏査した日から思った。
それだけに、彼はまた、非常な熱と興味をこの事業に抱いた。
(これは政治と同じだ)
と思う。
水や土を相手に、ここへ|肥《ひ》|沃《よく》な人煙をあげようとする治水開墾の事業も、人間をあいてに、人文の|華《はな》を咲かせようとする政治|経《けい》|綸《りん》も、なんの変りもないことと考える。
(そうだ、これはおれの理想とする目的と、偶然にも合致する)
この頃からのことである。――武蔵は剣に、おぼろな理想を抱き始めた。人を斬る、人に勝つ、飽くまで強い、――といわれたところで何になろう。剣そのものが、単に、人より自分が強いということだけでは彼はさびしい。彼の気持は満ち足りなかった。
一、二年前から、彼は、
――人に勝つ。
剣から進んで、剣を道とし、
――おのれに勝つ。人生に勝ちぬく。
という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであったが、それでもなお、彼の剣に対する心は、これでいいとはしない。
(|真《まこと》に、剣も道ならば、剣から悟り得た道心をもって、人を生かすことができない筈はない)
と、|殺《さつ》の反対を考え、
(よしおれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみでなく、この道をもって、治民を|按《あん》じ、経国の|本《もと》を示してみせよう)
と、思い立ったのである。
青年の夢は大きい、それは自由である。だが、彼の理想は、今のところ、やはり単なる理想でしかない。
その抱負を実行に移すには、どうしても政治上の要職に就かなければできないからだ。
しかし、この荒野の土や水を相手としてそれをやる分には、要職もいらなければ、衣冠や権力をもって臨む必要もない。武蔵は、そこに熱意と歓びを燃やしたのであった。
木の|根《ね》|瘤《こぶ》を掘る。また、石ころを|篩《ふる》う。
高い土を崩してならし、大きな岩は、水利の|堤《どて》にするために並べる。
そうして日々、|晨《あした》は未明から、夕方は星のみえる頃まで、武蔵と伊織とが、|孜《し》|々《し》として、法典ケ原の一角から開墾に従事していると、時折、河原の向うに、通りがかりの土民たちが立ち止って、
「何をしてるだ?」
と、いぶかり顔に、
「小屋あ、ほっ建てて、あんな所に、住む気でいるのか」
「ひとりは、死んだ三右衛門とこの|餓《が》|鬼《き》でねえけ」
うわさが拡がる。
|嘲《わら》う者ばかりでもなく、中にはわざわざやって来て、親切に呶鳴ってくれる者もあった。
「そこなお侍よう、おめえッちら、そんなとこを、せッせと|開墾《きりひら》いても、だめなこったぜよ。いっぺん|暴風雨《あらし》がやって来て見さっせ、百日の|萱《かや》だがなあ」
幾日か経って、また来てみても、黙々と、伊織を相手に、武蔵が労働しているのを見ると、親切者も少し、腹を立てたように、
「おウい。くそ骨折って、つまらねえところに、水|溜《たま》りを|拵《こしら》えるでねえだ」
また――数日おいて来てみたところ、相変らず、二人の耳のないような姿が働いているので、
「|阿《あ》|呆《ほう》よっ」
と、こんどは、ほんとに怒ってしまい、そして武蔵を、ふつうの智恵のない馬鹿者と見なして、
「|藪《やぶ》や河原に、喰える|物《も》ンの芽がでるくらいならよ、おらたちゃあ、|太陽《てんとう》さまに腹あ干して、笛ふいて暮らすがよ」
「|飢《き》|饉《きん》|年《どし》は、ねえわい」
「止めさらせ、そんなとこ、掘りちらすなあ」
「むだ骨折る奴あ、くそ袋もおんなじだよ」
鍬を打ち振りながら、武蔵は土へ向ったまま笑っている。
たしなめられてはいたが、伊織は時々、むッとして、
「先生、あんなこと、大勢していってるよ」
「ほっとけ、ほっとけ」
「だって」
と伊織は、小石をつかんで、|抛《ほう》りそうにするので、武蔵はくわっと眼をいからせて、
「これッ。師のことばを聞かぬやつは、弟子ではないぞ。――何する気かっ」
と、叱りつけた。
伊織は耳がしびれたようにハッとした。けれど、手に握った石は素直に捨てられもせず、
「……畜生っ」
と、近くの岩にたたきつけて、その小石が、火花を出して、二つに割れて飛んだのを見ると、何だか悲しくなってしまい、|鋤《すき》をすてて、しくしくと泣き出してしまった。
(泣け、泣け)
といわないばかりに、武蔵は、それも|抛《ほう》っておく。
すすり泣いていた伊織は、だんだん声を高めて、果ては、天地にただ独りいるように、声をあげて、大泣きに泣き出した。
父の死骸を二つに|断《き》って、山の墓所へひとりで埋めに行こうとしたくらいな剛気を持っているかと思うと、泣けばやはり、から子供であった。
――お|父《とっ》さん!
――おっ母さん!
――|祖父《お じ い》。|祖母《お ば あ》っ。
届かぬ地下の人へ、届けよとばかり、訴えているかのように、武蔵には、強く胸を打ってくる。
この子も孤独。われも孤独。
余りの伊織の泣き声に、草木も心あるもののように、|蕭々《しょうしょう》と、冷たい風に、|黄昏《たそがれ》近い曠野は|晦《くら》く|戦《そよ》ぎはじめた。
ポツ、ポツ、とほんとの雨もこぼれて来て――。
「……降って来た。ひと|暴《あ》れ来そうだぞ。伊織、はやく来い」
|鍬《くわ》や|鋤《すき》の道具をまとめて、武蔵は小屋の方へ駈け出した。
小屋の中へ飛びこんだ時は、雨はもう真っ白に、天地を一色に降りくだいていた。
「伊織、伊織」
後から|尾《つ》いて来たものとばかり思っていたところ、見ると彼の姿は、側にもいない、軒端にも見えない。
窓から眺めやると、凄まじい|雷光《いなびかり》が、雲を斬り、|野《の》|面《づら》をはためき、それに眼をふさぐ瞬間――思わず手は耳へ行って、五体に|雷神《かみなり》のひびきを聞くのであった。
「…………」
竹窓のしぶきに顔を濡らしながら、武蔵は|恍《こう》|惚《こつ》と、見とれていた。
こういう豪雨を見るたびに、風のすさぶ度に、武蔵は、もう十年近い昔になる――七宝寺の千年杉を思い出す、|宗彭沢庵《しゅうほうたくあん》の声を思い出す。
まったく自分の今日あるのは、あの大樹の恩だと思う。
その自分が、今は、たとえ幼い童子にせよ、伊織という一弟子を持っている。自分に果たして、あの大樹のような無量広大な力があるか、沢庵坊のような肚があるか。――武蔵は顧みて、自分の成長を思うと気恥ずかしい心地がする。
だが、伊織に対しては、どこまでも自分は千年杉の大樹の如くであらねばならぬと思う。沢庵坊のような|酷《むご》い慈悲も持たねばならぬと思う。また、それが、かつての恩人に対しての、いささかな報恩ではないかとも思った。
「……伊織っ、伊織っ」
外の豪雨に向って、武蔵は再三再四呼んでみた。
何の返辞もない。ただ|雷《いかずち》と、どうどうと軒先の水音が騒がしいのみである。
「どうしたのか」
武蔵すら、出てみる勇気もなく、小屋に閉じこもっていたが、そのうちに、はたと雨が小やみになったので、外へ出て見まわすと、何という強情な性質の童子だろうか、伊織はまだ依然として、前にいた耕地の所から一尺も動かずに立っているのだった。
(すこし|白痴《ばか》か)
とすら、疑えないこともない。
あんぐりと口を開いて、|先刻《さ っ き》、大泣きに泣いたままな顔をして、――もちろん頭からズブ濡れになって、泥田になった耕地に|案山子《かかし》みたいに立っているのだ。
武蔵は、近くの、小高い所まで駈けて行って、思わず、
「ばかっ」と、叱った。
「はやく小屋へはいれ、そんなに濡れては体に毒だ。ぐずぐずしておると、そこらに河が出来て、戻れなくなるぞ」
――すると、伊織は、武蔵の声をさがすように見廻して、にやりと笑って、
「先生は、あわてもンだなあ。この雨はやむ雨だよ。この通り、雲が|断《き》れて来たじゃないか」
と、一指を天にさしていった。
「…………」
武蔵は、教える子に、教えられたような気がして、沈黙していた。
だが、伊織は、単純なのである。――武蔵のようにいちいち考えていったりしたりしているのではない。
「おいでよ、先生。まだ明るいうちにゃ、だいぶ仕事ができるよ」
と、その姿のままで、また、前の労働をつづけ始めた。
この師この弟子
ここ四、五日青空をみせて、ひよ[#「ひよ」に傍点]、もず[#「もず」に傍点]の高音に穂すすきの根の土も乾きかけて来たかと思うとまた、野末の果てから背のびをした密雲が、見るまに坂東一帯を、|日蝕《にっしょく》のように暗くしてしまった。伊織は、空を見て、
「先生、こんどは、ほんものが|襲《や》ってきたよ」
と、心配そうにいった。
いううちにも、墨のような風が吹く。帰る所へ帰り遅れた小鳥は、ハタキ落されたように地に墜ち、草木の葉はみな葉裏を白く見せて|戦《おのの》き立つ。
「一降り来るかな?」
武蔵が訊くと、
「一降りどころじゃないぜ、この空は――。そうだ、おらは村まで行って来よう。先生は道具をまとめて、早く小屋へ引揚げたほうがいいよ」
空を見ていう伊織の予言は、いつも|外《はず》れたことがない。今も、武蔵へそういい残すと、野分をよぎる鳥のように、見え隠れして草の海をどこともなく駈けて行った。
果たして、風も雨も、伊織のいったとおり、いつものとは変って、兇暴に|募《つの》ってくる。
「――何処へ行ったのか」
武蔵はひとり小屋へ帰ったが、案じられて時々外を見た。
きょうの豪雨は常と違う。おそろしい雨量である。そして一瞬にハタとやむ。やんだかと思うと前にも増して降ってくる。
夜になった。
雨はよもすがらこの世を湖底としてしまうかとばかり降りぬいた。ほっ建て小屋の屋根はいくたびも飛ぶかと危ぶまれ、屋根裏に|葺《ふ》いてある杉皮が、いっぱいに散りこぼされた。
「困ったやつ」
伊織はまだ帰らない。
夜が明けてもなお見えない。
いや夜が白みかけて、きのうからの豪雨のあとを見渡すと、なおのこと、伊織の帰りは絶望された。日頃の|曠《こう》|野《や》は、一面の泥海となっている。所々、草や木が、|浮《うき》|洲《す》のように見えるだけだった。
ここの小屋は、やや高い所を選んであるので、幸いに、|冒《おか》されないが、すぐ下の河原は、濁流が押し流れて、さながら大河の奔激である。
「……もしや?」
武蔵はふと案じ出した。その濁流に流されてゆく|種《さま》|々《ざま》な物を見て、ゆうべ闇夜に帰ろうとした伊織が、|過《あやま》って、溺れでもしてしまったのではあるまいか――と聯想されたからである。
だが、彼はその時、ごうごうと地も空も水に鳴る|暴風雨《あらし》の中で、伊織の声をどこかに聞いた。
「せんせーいっ。……先生ーッ」
武蔵は、鳥の浮巣みたいにみえる|彼方《か な た》の|洲《す》に、伊織らしい影を見た。いや伊織にちがいない。
何処へ行ったのか、彼は牛の背に乗って帰って来たのだ。牛の背には自分のほかに、何か縄で|絡《から》げた大きな荷物を、後先に|縛《くく》しつけている。
「おおう……?」
と見ているまに、伊織は、牛を濁流へ乗り入れた。
濁流の赤いしぶきと|渦《うず》は忽ち彼と牛をつつんでしまう。流され流され、やっと、|此方《こ な た》の岸へ着くと牛も彼も、身ぶるいしながら、小屋のある所へ駈け上がって来た。
「伊織! 何処へ行ったのだ」
半ば怒るように――半ばほっとしたように、武蔵がいうと、伊織は、
「何処へって、おら、村へ行って、食い物をうんと持って来たんじゃないか。この|暴風雨《あらし》は、きっと半年分も降ると思ったから。――それに暴風雨がやんでも、この|洪水《みず》はなかなか|退《ひ》かないにきまってるもの」
武蔵は、伊織の悧発なのに|愕《おどろ》いたが、考えてみれば彼が悧発なのではない、自分が鈍なのである。
天候の悪兆候をみたら、すぐ食物の準備を考えておくことは、野に住む者の常識で、伊織は、|嬰児《あ か ご》の時から、こういう場合を、何度も、経験しているにちがいない。
それにしても、牛の背から下ろした食物は、少ないものではない。|莚《むしろ》を解き、|桐油《あ ぶ ら》びきの紙を解いて伊織が――
「これは|粟《あわ》、これは|小豆《あ ず き》、これは|塩《しお》|魚《うお》――」
と、幾つもの袋をならべ、
「先生、これだけあれば、ひと月やふた月、水が|退《ひ》かなくっても、安心だろ」
と、いう。
武蔵の眼には涙が|溜《たま》った。|健《けな》|気《げ》よとも|忝《かたじけな》いともいいようがない。自分はここを開拓して、農土に寄与するものと、ただ気概のみを高く抱いて、自分の|餓《う》えるのを忘れていたが、その飢えは、この小さい者に依って、からくも|凌《しの》がれているのだった。
だが、自分たち師弟を、狂人呼ばわりしている村の者が、どうして、食物を施してくれたろうか。村の者自身さえ、この洪水では、自身の飢えにおののいているに違いない場合に。
武蔵が、その不審を|糺《ただ》すと、伊織は事もなげに、
「おらの|巾着《きんちゃく》を預けて、徳願寺様から借りて来た」
と、いう。
「徳願寺とは?」
と聞くと、この法典ケ原から一里余り先の寺で、いつも彼の|亡父《ちち》が、
(おれの|亡《な》き後、独りで困った時は、この巾着の中にある砂金を少しずつ|費《つか》え)
といわれていたのを思い出し、常に、肌身に持っていたその巾着を預けて、寺の|庫《く》|裡《り》から借りて来たのだ――と、伊織はしたり[#「したり」に傍点]顔に答える。
「では|遺物《か た み》ではないか」
と武蔵がいうと、
「そうだ、古い家は焼いちゃったから、お|父《とっ》さんの遺物は、あれと、この刀しかない」
と、腰の|野《の》|差刀《ざし》を撫でる。
その野差刀も、武蔵は一見したことがあるが、生れからの野差刀ではない。無銘とはいえ、名刀の部に入ってよい品である。
思うに、この子の|亡父《ちち》が遺物として、肌身に持たせておいた巾着にも、少しの砂金ばかりでなく、何か由緒ある物ではなかろうか――それを食物の|値《あたい》に、巾着ぐるみ預けて来たのは、やはり子どもらしいが――また、|可憐《いじ》らしい、と武蔵は思った。
「親の遺物など、滅多に、人に渡すものではない。いずれわしが、徳願寺へ行って、貰い返してやるが、以後は、手離すではないぞ」
「はい」
「ゆうべは、その寺に、泊めてもらったのか」
「和尚さんが、夜が明けてから帰れといいましたから」
「朝飯は」
「おらもまだ。先生も、まだだろう」
「ウム。|薪《まき》はあるか」
「薪なら、くれてやる程あるよ。――この縁の下は、みんな薪だよ」
|蓆《むしろ》を巻いて、床下へ首を突っ込むと、日頃、開墾するうちに心がけて運んだ木の|根《ね》|瘤《こぶ》だの、竹の根だのが、山をなすほど|蓄《たくわ》えてある。
こんな幼い者にでも経済の観念がある。誰がそれを教えたか。まちがえばすぐ飢え死ぬ未開の自然が生活の師であった。
|粟《あわ》|飯《めし》をたべ終ると、伊織は、武蔵の前へ一冊の書物を持って来て、
「先生、水が|退《ひ》かないうちは、どうせ仕事にも出られないから、|書《ほん》を教えてください」
と、|畏《かしこ》まっていった。
外は、その日も終日、吹き|歇《や》まない|暴風雨《あ ら し》であった。
見ると、論語の一冊である。これもお寺で貰ったのだという。
「学問をしたいのか」
「ええ」
「今までに、少し|書《ほん》を読んだことがあるか」
「すこし……」
「誰に教わった」
「お|亡父《とっ》さんから」
「何を」
「小学」
「すきか」
「すきです」
伊織は、その体から知識を燃やしていった。
「よし、わしの知ってる限り教えてやろう。わしに及ばない所は、今に、学問のよい師を見出して就くがよい」
暴風雨の中に、ここの一軒だけは、素読の声と講義に一日暮れて、屋根はふき飛んでも、この師弟は、びくとも膝を立てそうもなかった。
翌日も雨。次の日も雨。
それがやむと、野は湖水になっていた。伊織は、むしろ欣んで、
「先生、今日も」
と、|書《ほん》を出しかけると、
「|書《ほん》はもういい」
「なぜ」
「あれをみろ」
武蔵は、濁流を指さして、
「河の中の魚になると、河が見えない。余り書物に|囚《とら》われて書物の虫になってしまうと、生きた文字も見えなくなり、|社会《よのなか》にもかえって暗い人間になる。――だから今日は、|暢《のん》|気《き》に遊べ、おれも遊ぼう」
「だって、きょうはまだ、外へも出られないぜ」
「――こうして」
と、武蔵はごろりと横になって手枕をかいながら、
「おまえも、寝ころべ」
「おらも、寝るのか」
「起きているとも、足を投げ出すとも、好きにして」
「そして何するんだい」
「話をしてやろう」
「|欣《うれ》しいなあ」
と、伊織は、腹這いになって、魚の尾のように、足をばたばたさせ、
「何の話?」
「そうだな……」
武蔵は自分の少年時代を胸にうかべ、少年の好きそうな合戦の話をした。
多くは源平盛衰記などで聞き覚えた物語である。源氏の没落から平家の全盛にくると、伊織は憂鬱だった。雪の日の|常磐《と き わ》御前に、眼をしばたたき、鞍馬の|遮《しゃ》|那《な》|王《おう》牛若が、僧正ケ谷で、夜ごと、|天《てん》|狗《ぐ》から剣法をうけて、京を脱出するところへくると、
「おら。義経は好きだ」
と、|刎《は》ね起きて、坐り直した。そして、
「先生、天狗ってほんとにいるの」
「いるかも知れぬ。……いやいるな、世の中には。――だが、牛若に剣法を授けたというのは、天狗ではないな」
「じゃあ何?」
「源家の残党だ。彼らは、平家の|社会《よのなか》に、公然とは歩けなかったから、皆、山や野にかくれて、時節を待っていたものだ」
「おらの、|祖父《お じ い》みたいに?」
「そうそう、おまえの|祖《そ》|父《ふ》は、生涯、時を得ず終ってしまったが、源家の残党は、義経というものを育てて、時を得たのだ」
「おらだって――先生、祖父のかわりに、今、時を得たんだろ。……ねえそうだろう」
「うむ、うむ!」
武蔵は、彼のその言葉が気に入ったとみえ、いきなり伊織の首を寝たまま抱きよせて、脚と両手で手玉に取って天井へ差し上げた。
「偉くなれ。こら」
伊織は、|嬰児《あ か ご》が欣ぶように、|擽《くすぐ》ッたがって、きゃッきゃッといいながら、
「あぶないよ、あぶないよ先生。先生も僧正ケ谷の天狗みたいだなあ。――やあい天狗天狗、天狗」
と上から手をのばし、武蔵の鼻を|抓《つま》んで戯れ合った。
五日たっても十日たっても、雨はやまなかった。雨がやんだと思うと、野は洪水に|漲《みなぎ》って、容易に濁流が|退《ひ》かないのである。
自然の下には、武蔵も、じっと|沈《ちん》|吟《ぎん》しているしかない。
「先生、もう行けるぜ」
伊織は太陽の下へ出て、今朝から呶鳴っている。
二十日ぶりで、二人は道具を|担《かつ》いで、耕地へ出て行った。
そしてそこに立つと、
「あっ……?」
と、ふたりとも茫然としてしまった。
二人が|孜《し》|々《し》として開拓しかけた面積などは、なんの跡形も残していない。大きな石ころと、一面の砂利であった。前にはなかった河が幾筋もできて小さな人力を|嗤《わら》うが如く、|奔《ほん》|々《ぽん》と、その大石や小石を|弄《もてあそ》んでいた。
――阿呆。|狂人《きちがい》。
土民たちが|嘲《わら》った声も思い出される。思い知ったのである。
手の下しようもなく、黙然と立っている武蔵を見上げて、伊織は、
「先生、ここはだめだ。こんな所は捨てて、もっと|他《ほか》のよい土地を探そう」
と、策を述べる。
武蔵はそれを|容《い》れない。
「いやこの水を、|他《ほか》へ引けば、ここは立派な畑になる。初めから地理を按じて、ここと決めてかかったからには――」
「でもまた、大雨が降ったら」
「こんどは、それが来ないように、この石で、あの丘から堤をつなぐ」
「たいへんだなあ」
「元よりここは道場だ。ここに麦の穂を見ぬうちは、尺地も|退《ひ》かぬぞ」
水を一方に導き、|堰《せき》を築き、石ころを|退《の》けて、幾十日の後には、やっとそこに、十坪の畑が出来かかった。
けれど、一雨降ると、一夜のうちに、また元の河原になってしまった。
「だめだよ先生。むだ骨ばかり折るのが、何も、|戦《いくさ》の上手でもないだろ」
武蔵は、伊織にまでいわれた。
でも、耕地を変えて、ほかへ移る考えは、武蔵は持たなかった。
彼はまた、雨後の濁流と闘って、前と同じ工事をつづけた。
冬に入ると、|屡々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《しばしば》、大雪が降った。雪が融けると、また濁流に荒らされてしまう。年を越えて、翌年の一月、二月になっても、二人の汗と|鍬《くわ》から一|畝《せ》の畑も生れなかった。
食物がなくなると、伊織は、徳願寺へもらいに行った。寺の者もよくいわないとみえて、戻って来ると、伊織の顔つきに、憂いが見えた。
そればかりでなく、この二、三日は武蔵も|根《こん》|負《ま》けしたか、鍬を持たないのである。防いでも防いでも濁流になる耕地に立って、終日黙然と何か考えこんでいた。
「そうだ! ……」
或る時、何か大きな発見をしたように、武蔵は伊織へいうともなく、
「きょうまでおれは、土や水へ対して、|烏《お》|滸《こ》がましくも、政治をする気で、自分の経策に依って、水をうごかし、土を|拓《ひら》こうとしていた」
と、|呻《うめ》きだした。
「――間違いだった! 水には水の性格がある。土には土の本則がある。――その物質と性格に、素直に|従《つ》いて、おれは水の従僕、土の保護者であればいいのだ。――」
彼は今までの開墾法をやり直した。自然を征服する態度を改めて、自然の従僕となって働いた。
次の|雪《ゆき》|融《どけ》にも、大きな濁流が押しよせたが、彼の耕地は、被害から残された。
「これは政治にも」
と、彼は悟った。
同時に、旅手帳へも、
――世々の道に|反《そむ》かざる事。
と、自戒の一句を覚え書きしておいた。
|土《ど》|匪《ひ》|来《らい》
長岡|佐《さ》|渡《ど》は、度々この寺へ姿を見せる|大《おお》|檀《だん》|那《な》の一人だった。彼は、名将の聞えの高い|三《さん》|斎《さい》|公《こう》――|豊《ぶ》|前《ぜん》|小《こ》|倉《くら》の城主細川|忠《ただ》|興《おき》の家職であるから、寺へ来る日は、もちろん縁者の命日とか、公務の小閑に、杖を曳いて来るのである。
江戸から七、八里あるので、一泊になる場合もある。従者はいつも侍三名に小者一名ぐらい召連れ、身分からすれば極めて質素であった。
「寺僧」
「はい」
「あまりかもうてくれるな。心づくしは|欣《よろこ》ばしいが、寺で贅沢をしようとは思わぬでの」
「恐れいります」
「それよりは、わがままに、くつろがせて貰いたい」
「どうぞお気ままに」
「無礼を許されよ」
佐渡は、横になって、白い|鬢《びん》ずらへ手枕をかった。
江戸の藩邸は、彼の体を寸暇もなく忙殺させる。彼は、寺詣りを口実に、ここへ|遁《のが》れてくるのかもしれない。野風呂を浴びて、|田舎《い な か》|醸《づく》りの一|酌《しゃく》をかたむけた後、手枕のうつらうつらに、|蛙《かわず》の声を聞いていると、何もかも|現《げん》|世《ぜ》のものでなくなるように忘れてしまう。
こよいも佐渡は|此寺《ここ》へ泊って、|遠蛙《とおかわず》の音を聞いていた。
寺僧は、そっと、|銚子《ちょうし》や膳を下げてゆく。従者は、壁際に坐って明りの|瞬《またた》きに、手枕の主人が、風邪をひきはすまいかと、案じ顔にながめていた。
「ああよい心地。このまま|涅《ね》|槃《はん》に入るかのようじゃ」
手枕をかえた|機《しお》に、侍が、
「おかぜを召すといけません。夜風は露をふくんでおりますから」
注意すると、佐渡は、
「捨てておけ。戦場で鍛えた体、夜露でくさめ[#「くさめ」に傍点]をするような気遣いはない。この暗い風の中には、菜の花のにおいが|芬《ふん》|々《ぷん》とする――|其方《そち》たちにも|香《にお》うか」
「とんと、分りませぬ」
「鼻のきかぬ男ばかりじゃの。……ははははは」
彼の笑い声が大きいせいでもあるまいが、その時、|四辺《あ た り》の蛙の声がハタと止んだ。
――と思ううち、
「こらっ、|童《わっぱ》ッ! そんなところへ立ってお客様のお居間をのぞいてはならん」
佐渡の|哄笑《こうしょう》よりも、遥かに大きい寺僧のがなり[#「がなり」に傍点]声が、書院の横縁で聞えた。
侍たちは、すぐ立って、
「何じゃ」
「何事じゃ?」
と見まわした。
その影を見ると、誰か、小さな跫音がバタバタと|庫《く》|裡《り》の方へ逃げて行ったが、|咎《とが》めた僧は、後に残って、頭を下げていた。
「お詫びいたしまする、何せい土民の親なし子、お見のがし下さいませ」
「|覗《のぞ》き見でもしておったのか」
「そうでござります。ここから一里ほど先の法典ケ原に住んでいた馬子のせがれでございますが、|祖父《お じ い》が以前、侍であったとかで、自分も大きくなるまでに、侍になるのだと口癖に申しております。――で、貴方がたのようなお武家様を見かけると、指を|咥《くわ》えて、覗き見をするので困りまする」
座敷の中に寝ころんでいた佐渡は、その話にふと起き直って、
「そこの|御《ご》|房《ぼう》」
「はい。……アアこれは長岡様で、お目ざめに」
「いやいや|咎《とが》め立てではない。――その|童《わっぱ》とやら、おもしろそうな奴。|徒然《つれづれ》の話し相手には、ちょうどよい。菓子でも|遣《と》らせよう。これへ、呼んでおくれぬか」
|伊《い》|織《おり》は、|庫《く》|裡《り》へ来て、
「おばさん、|粟《あわ》がなくなったから取りに来たよ。粟を入れておくれ」
と、一斗もはいる|穀袋《こくぶくろ》の口を開けて、呶鳴っていた。
「なんじゃこの餓鬼は。まるで貸した物でも取りに来るように」
大きな暗い台所から、寺の婆やは呶鳴りかえした。
いっしょに洗い物を手伝っていた|納《なっ》|所《しょ》坊も、口をそろえて、
「お住持が、かあいそうじゃから遣れと仰っしゃるので、くれて遣るのじゃぞ。なんだ、大きな|面《つら》して」
「おらの顔、大きいかい」
「物貰いは、あわれな声を出して来るものだ」
「おらは、物乞いじゃない。和尚さんに、|遺物《か た み》の|巾着《きんちゃく》を預けてあるんだもの。――あの中にゃあ、おかねもはいっているんだぞ」
「野中の一軒家の、馬子のおやじが、どれ程なおかねを餓鬼に|遺《のこ》すものか」
「くれないのかい、粟を」
「だいいちおまえは阿呆だぞ」
「なぜさ」
「どこの馬の骨かわからない|狂人《きちがい》|牢《ろう》|人《にん》にこき使われて、あげくに、喰い物までおまえが|漁《あさ》って歩くなどとは」
「大きなお世話だい」
「田にも畑にもなりッこないあんな土地を|掘《ほじ》くり返して、村の衆は皆わらってござるぞ」
「いいよウだ」
「おまえも少し、|狂人《きちがい》にかぶれてきたな。あの牢人者はお|伽《とぎ》|草《ぞう》|子《し》の黄金の塚でもほん気にして、野たれ死にするまで、掘りちらしているだろうが、おまえはまだ鼻たれ[#「たれ」に傍点]ンぼのくせに、今から自分の墓穴を掘るのは早いじゃないか」
「うるさいな、粟を出しておくれよ、はやく、粟をおくれよ」
「アワといわないで、アカといってみろ」
「アカ」
「んべ! ……だ」
|納《なっ》|所《しょ》坊は、調子に乗って|揶揄《か ら か》いながら、眼の玉を|剥《む》いて、ぬっと顔を突き出した。
ぐしゃっと、濡れ雑巾のようなものが、その顔へ貼りついた。納所坊は、きゃっと悲鳴をあげて青ざめた。彼の大嫌いな大きなイボ|蟇《がえる》であった。
「このお|玉杓子《たまじゃくし》め」
納所坊はおどり出して、伊織の首根ッこをつかまえた。そこへ奥に泊っている|檀《だん》|家《か》の長岡佐渡様がお召しになっている――というべつな寺僧の迎えであった。
「なにか、粗相でもあったのか」
と、住持までが、案じ顔してそこへ来たが、いえいえただ佐渡様が|徒然《つれづれ》に呼んでこいと仰っしゃるまでで――と聞いて、
「それならよいが」
と住持はほっとしたが、なお、心配は去らないとみえて、伊織の手を引っぱって、自身、佐渡の前へ連れて来た。
書院の隣室には、もう夜の|具《もの》が|展《の》べてある。老体の佐渡は、横になりたかった所だが、子どもが好きとみえて、伊織が、ちょこなんと住職のそばに坐ったのをみると、
「|幾歳《い く つ》じゃな」
と、訊ねた。
「十三。ことしから、十三になりました」
と伊織は、相手を心得ている。
「侍になりたいか」
と、訊かれると、伊織は、
「うん……」
と|頷《うなず》いた。
「では、わしの屋敷へ来い。水汲みから、|草《ぞう》|履《り》|取《とり》を勤めあげたら、末は若党に取立ててやろう程に」
というと、伊織は、黙ってかぶり[#「かぶり」に傍点]を振った。そんな筈はない、きまりが悪いのじゃろう、明日は江戸へ連れて帰る――と重ねて佐渡がいうと、伊織は、|納《なっ》|所《しょ》坊がしたように、アカンベーをして、
「殿様、お菓子をくれなければ嘘つきだぜ。はやくおくれよ、もう帰るんだから」
住職は青くなって、眼から離した彼の手を、ピシャリと打った。
「叱るな」
と、佐渡は、住職の気遣いを、かえって|窘《たしな》めて、
「侍は嘘をつかぬ。今、菓子を|遣《と》らすであろう」
と、従者に、すぐいいつけた。
伊織は、それを貰うと、すぐ|懐中《ふところ》へ入れてしまった。佐渡がそれを見て、
「なぜ、ここで喰べぬか」
と、訊ねると、
「先生が、待ってるから」
「ホ……先生とは?」
佐渡は、異な顔をした。
もう用はないといった|容《よう》|子《す》で、伊織は答えずに、その部屋から|素《す》|迅《ばし》ッこく飛出してしまった。長岡佐渡が笑いながら寝所へはいってゆく姿へ、住職は、再三再四、低頭平身していたが、やがて、追いかけるように、|庫《く》|裡《り》へ来て、
「小僧、どうしたか」
「今、粟を背負って、帰ってゆきましたが」
と、そこにいる者の答え。
耳を澄ますと、真っ暗な外の何処かを、頓狂な木の葉笛の音が流れてゆく――
[#ここから2字下げ]
ぴき、ぴー
ぴッぴッき、ぴーの
ぴよ助、ぴゅー
[#ここで字下げ終わり]
伊織は、いい歌を知らないのが残念だった。馬子の唄う|謡《うた》は、木の葉の音に乗らないのである。
お盆になると、踊りにうたうこの地方の歌垣から|転《てん》|訛《か》したような|謡《うた》も、木の葉笛には複雑すぎてだめだった。
結局、彼は、|神楽《か ぐ ら》|囃子《ば や し》の|律調《し ら べ》を頭に描きながら、木の葉を|唇《くち》に当て、しきりと妙な音を吹きたてて道の遠さを忘れて来たが、やがて法典ケ原の近くまで来たかと思う頃、
「おやっ?」
と、唇の木の葉を、|唾《つば》と一緒に吐き出して、同時にがさがさと傍らの|藪《やぶ》へ這いこんでしまった。
二筋の野川は、そこから一つになって、部落の方へ流れている。その土橋のうえに三、四人の大男が、顔を寄せて何かひそひそ声を交わしているのである。
伊織は、その人間たちを見たとたんに、
「――あっ、来た」
と、先おととしの秋の|晩《くれ》|頃《ごろ》の、或る事を思い出したのであった。
子を持つこの辺の母親は、ふた言めにはすぐ、
(山神さまの|輿《こし》へ入れて、山の衆へくれっちまうぞ)
と、子を叱る。
小さい頭に|沁《し》みついたその怖さを――伊織も忘れていない。
ずっと昔は、その山神様の白木の|輿《こし》が、ここから八里も十里も先の山の|社《やしろ》に、何年目かの順番が廻って来ると、据えられたもので、土民は、|報《し》らせをうけると、稼ぎ|蓄《た》めた五穀やら、大事な娘までも、因果をふくめて化粧させ、わざわざ|松明《たいまつ》行列を作って、そこへ納めに行ったものだそうであるが、|何時《いつ》頃からか、山神様の正体は、やはり人間だと分ってから、土民のほうも|狡《ずる》をきめこんで怠ってしまった。
ところが、戦国以来は、その山神様の徒党が、山の|社《やしろ》に白木の輿をおいて報らせても、|貢物《み つ ぎ》が来ないので、|猪《しし》|突《つ》き槍だの、熊射ち弓だの、斧だの手槍だの、なるべく土民が見ただけでも縮み上がってしまいそうな武器を携え、三年目とか二年目とか、物資の貯えられている状態を見ておいて、自身の方から、部落部落へ、出張して来るようになって来た。
この辺には、その|兇匪《きょうひ》の群れが、先おととしの秋やって来た。――その時の惨たる光景で、|幼心《おさなごころ》にも怖かった記憶が、今――土橋の上の人影を見ると共に、いなずまのように彼の頭に呼び起されたのであった。
――やがてのこと。
彼方からまた、|一《ひと》|群《むれ》の人間が、隊伍を作って野を駈けて来た。
「おうい」
と、土橋の上の影が呼ぶ。
「おおうい」
と、野の声が答える。
声は、幾つも、方々から聞えて来て、|夜霞《よがすみ》の果てへ流れてゆく。
「……?」
伊織は、息づまるような眼をみはって、|藪《やぶ》の中から覗いていた。いつのまにか、土橋を中心として、約四、五十名の|土《ど》|匪《ひ》が真っ黒にかたまっているのだった。そして、|一《ひと》|群《むれ》一群が、何やら首を寄せて|凝議《ぎょうぎ》していたが、或る手筈が整ったものとみえ、
「それ――」
と、首領らしい男が手をさし挙げると、一|群《ぐん》のいなご[#「いなご」に傍点]のように、そのすべてが、村の方へ向って、一散に駈けて行った。
「たいへんだ!」
と、伊織は、藪の中から、首を伸ばして、怖ろしい光景を目に描いた。
平和な|夜霞《よがすみ》につつまれて、眠りに落ちていた村には、忽ち、|消魂《けたたま》しい|夜《よ》|鶏《どり》の啼き声が起り、牛が鳴き、馬がいななき、|老人《としより》や子どもの泣き|喚《わめ》くのが、手にとるように聞えだした。
「そうだ……徳願寺に泊っているお侍さまへ」
伊織は、藪を飛びだした。
そしてこの大変を、そこへ|報《し》らせようと思って、|健《けな》|気《げ》にも、後へ戻りかけると、もう人影は見えないとばかり思っていた土橋の陰から、
「やいっ」
人間の声がした。
伊織は、つンのめるように、逃げだしたが、大人の足には及ばなかった。そこに張番していた二人の|土《ど》|匪《ひ》のために、襟がみをつかまえられてしまった。
「どこへ行く」
「なんだ、てめえは」
――声をあげて、わアと泣いてしまえばいいのである。だが、伊織には、泣けなかった。自分の襟がみを吊るしあげている逞しい腕を、|生《なま》|半《はん》|可《か》、|引《ひっ》|掻《か》きなどしたので、|土《ど》|匪《ひ》は、この小さい者にも疑いぶかい眼を光らした。
「こいつ、おれたちを見かけて、何処かへ、知らせに行くつもりか何かだぞ」
「そこらの田に叩ッこんでしまえ」
「いや、こうして置こう」
土橋の下へ、彼は蹴落された。すぐ後から飛び下りて来た|土《ど》|匪《ひ》は、彼を、|橋《はし》|杭《ぐい》に|縛《くく》りつけてしまった。
「よし」
と、見捨てて、二人は上へ跳ね上がって行った。
ごうん、ごうん……と寺の鐘が鳴りだした。もう寺でも、土匪の襲来は知ったものとみえる。
村の方に、火の手が揚がった。土橋の下を流れる水が、血のように赤く染まってみえる。|嬰児《あ か ご》の泣き声が走る。女の悲鳴がながれてくる。
そのうちに、伊織の頭の上を、ぐわらぐわらと、車の|轍《わだち》が通った。四、五名の土匪は、牛車や、馬の背に、盗んだ財物を満載して、そこを駈け通るのだった。
「畜生ッ」
「なにを」
「おらの|嬶《かか》を返せ」
「|生命《い の ち》しらずめ」
何か――土橋の上で始まった。土民と土匪との格闘だった。凄まじい|呻《うめ》き声や跫音が、そこでみだれ合う。
――と思うまに、伊織の前へ、|朱《あけ》にまみれた死骸が、一つまた一つ――と続けさまに蹴落されて来て、彼の顔へ、しぶきを浴びせかけた。
死骸は流れて行き、まだ息のある者は、水草につかまって、岸へ這い上がった。
|橋《はし》|杭《ぐい》に縛られて、|眼《ま》のあたりにそれを見ていた伊織は、
「おらの縄を解いてくれ。おらの縄を解けば、|敵《かたき》を取ってやるぞ」
とさけんだ。
斬られた土民は、岸へは這い上がっても、水草の中に|俯《う》っ伏したままで動かなかった。
「おいっ、おらの縄を解かないか。村の者を助けるんだ。おらの縄を解け」
伊織の小さい魂は、その小さい身を忘れて大喝した。意気地ない土民を叱咤して、命令するようにいった。
昏倒した者は、まだそれでも気がつかなかった。そこで伊織は、もう一度、自分の力で自分の縄目を切ろうとするらしく、懸命にもがいてみたが、|所《しょ》|詮《せん》、切れる筈はなかった。
「おいッ」
彼は、体を|摺《ず》らして、伸びるだけ足を伸ばし、昏倒している|負傷《て お い》の肩を蹴った。
泥と血にまみれた顔を上げて――土民は、伊織の顔を、にぶい眼で見た。
「はやく、この縄を解くんだよ、解くんだよ」
土民は、這って来た。そして伊織の縄を解くと、そのまま、こときれてしまった。
「見てろ」
伊織は、土橋の上を見て、唇を噛んだ。|土《ど》|匪《ひ》たちは、追って来た百姓を皆、そこで殺害してしまったが、財物を乗せた牛車の|轍《わだち》が、土橋の腐った所へめり[#「めり」に傍点]込んでしまったので、それを引き出すのに騒いでいた。
伊織は、水に沿って、|河《かわ》|崖《がけ》の陰を夢中で走った。そして、浅瀬を渡って向う側へ這いあがった。
彼は、一目散に、野を駈けた。田も畑も家もない法典ケ原を半里も駈けた。
武蔵と二人で住んでいる丘の小屋へやがて近づいた。見ると小屋の側に誰か立って空をながめている――武蔵であった。
「先生――っ」
「おお、伊織」
「すぐ行ってください」
「どこへ」
「村へ」
「あの火の手は?」
「山の者が|襲《よ》せて来たんですよ。先おととしも|襲《き》た奴が」
「山の者? 山賊か」
「四、五十人も」
「あの鐘の|音《ね》はそれを告げておるのか」
「はやく行って、たくさんな人を、助けてやって下さい」
「よしっ」
武蔵は、一度小屋の中へ引っ返したが、すぐ出て来た。足拵えをして来たのである。
「先生、おらの後に、|従《つ》いといでよ。おらが案内するから」
武蔵は、首を振って、
「おまえは、小屋で待っておれ」
「え、どうして」
「あぶない」
「あぶなかないよ」
「足手|纏《まと》いじゃ」
「だって、村へゆく近道を、先生は知るまい」
「あの火が、よい道案内。よいか――小屋の中でおとなしく待っているのだぞ」
「はい」
仕方なしに、伊織はうなずいたが、今までの、正義に|昂《たか》ぶった小さい魂は、飛躍のやりばを失って、急にぽつねんと、淋しい顔をしてしまった。
村は、まだ焼けていた。
その炎に、赤く見える|野《の》|面《づら》を、鹿のように駈けてゆく影が、武蔵であった。
|征《せい》 |夷《い》
親や良人は殺され、子は見失って、|数《じゅ》|珠《ず》つなぎに捕われてゆく|贄《にえ》の女たちは、オイオイと手放しに泣きながら、野を追い立てられて行った。
「やかましいっ」
「歩かねえか」
|土《ど》|匪《ひ》たちは、|鞭《むち》を振って、彼女らを|撲《なぐ》りつけた。
ひいイっと、一人が仆れる。|繋《つな》がっている前の女、後ろの女も仆れる。
|土《ど》|匪《ひ》は、綱をつかんで、引起しながら、
「こいつら、|諦《あきら》めのわるいやつらだ、|稗《ひえ》|粥《がゆ》をすすって、痩せ土を耕しながら、骨と皮ばかりになっているより、おれ達と暮してみろ、世の中が面白くて堪らなくなるから」
「面倒だ、その綱を、馬に繋いでしょッ引かせろ」
馬の背には、どの馬にも|掠《かす》めて来た財物や穀類が山と積んである。その一頭へ|数《じゅ》|珠《ず》つなぎの綱の端を結びつけ、そして、馬の尻をぴしぴし打った。
女たちは悲鳴をあげながら、駈ける馬と一緒に駈け出した。仆れる者は黒髪を地に引き摺って、
「腕が抜けるッ、腕が抜ける――」
とさけんだ。
わははは、あははは、大笑いしながら、土匪たちは、その後から一団になって|尾《つ》いて行った。
「やいやい、こんだあ少し早すぎら。加減しろやい」
後ろからいううちに、馬も女の群れも止まった。――だが馬の尻を打っていた土匪の仲間は、うんともすんとも答えなかった。
「あれ、こんだあ止めて待ってやがる。ドジめ」
げらげら笑う声がすぐそれへ近づいて行った。|嗅覚《きゅうかく》のつよい彼らは、すぐぷんと血のにおいをそこに感じた。――オヤ? と眼もいっせいに|竦《すく》み合った。
「だ、だれだッ」
「…………」
「だれだッ、そこにいるなあ」
「…………」
彼らが認めた一個の人影は、のそのそと草を踏んで向って来た。手に提げている|白《しら》|刃《は》からは、霧のように血のにおいが立っていた。
「……や、や」
前の者から|踵《かかと》を|退《ひ》いて、ず、ず、ず、と後ろへ押し合った。
武蔵は、その間に、賊の人数を目づもりで、ざっと十二、三人と読んで、その中にも、|手《て》|強《ごわ》そうな男へ眼をつけていた。
|土《ど》|匪《ひ》たちは山刀を抜きつれた。また、|斧《おの》を持った男は横へ飛んで来た。|猪《しし》|槍《やり》の穂も、それと共に、斜めから武蔵の|脾《ひ》|腹《ばら》を|窺《うかが》うように低くつめ寄って来る。
「いのち知らずめ」
と、ひとりが|喚《わめ》く。
「――一体うぬあ、どこから来た風来人だ。よくも、仲間のものを」
いっている間に、
「……ぐわッ」
|斧《おの》を持っていた右側の男が、舌でも噛んだような声を出して、武蔵の前をよろよろと泳ぎ抜けた。
「知らぬかッ」
と、血けむる中で、武蔵は刀の切先を引きざまにいった。
「おれは、良民の土を護る、|鎮《ちん》|守《じゅ》の神のおつかいだ!」
「ふざけるな」
|掠《かす》め|去《さ》った|猪《しし》|突《つ》き槍を捨てておいて、武蔵は、山刀の群れの中へ一刀をかざして、駈け入った。
土匪が、自分らの力を過大に盲信し、ただ一名だという点に、敵を|侮《あなど》りきっているうちは、武蔵も苦戦であった。
けれど|眼《ま》のあたりに、その一名のため、仲間の多数が駈け散らされ、ばたばたと|斃《たお》れ出した事実を見ると、土匪どもは、
(こんなことが一体あることか)
と、|錯《さく》|乱《らん》し始め、
(おれが)
と、気負って進む者から、次々に、醜い|死屍《しかばね》を、|曝《さら》して行った。
駈け入って、一当て当ってみると、武蔵にはおよそ当面の敵の力量がもうわかっている。
数ではなく、一団の力をである。多数を制する剣法は、彼の得意とはしないまでも、彼にとっては、生死を賭した中にのみ学び得る大きな興味ではあった。個々の試合には体得し得ないものを、多数の敵から教えられるからであった。
で――彼はこの場合、最初、ここを離れた|彼方《あ ち ら》の場所で、|数《じゅ》|珠《ず》つなぎの女たちを馬に引かせていた一人の土匪を血まつりに斬り捨てた時から、敵の山刀を奪って用い、まだ、自分の帯びている大小は、使っていなかった。
こんな|鼠《そ》|賊《ぞく》を斬るのに、自己のたましいともする刀を|穢《けが》すまでもない――というような高踏的な考えからではなく、もっと実際的な、武器の愛護を念とするからであった。
相手の|得《え》|物《もの》は雑多である。それと闘えば忽ち刃こぼれを生じる、刀の折れる|惧《おそ》れも勿論ある。また最後の絶対的な場合に、身に帯びる物がないために、不覚をとるような例はいくらもある。
だから彼は、容易に自分の物は抜かない。これはいつの場合でもである。敵の武器を奪って敵を斬る。その神速の技に、彼は知らず知らず練磨も積んでいた。
「うぬ、覚えてろ」
土匪は、逃げはじめた。
約十名余りが五、六人になって、元来た方へ走って行った。
村には、まだ沢山な仲間が残って、|狼《ろう》|藉《ぜき》の限りを尽している最中であろう。思うに、そこへ逃げ戻って、他の猛獣どもを|糾合《きゅうごう》し、|捲土重来《けんどちょうらい》して眼にもの見せてやろうというつもりとみえる。
武蔵は一応、そこで自分も一息入れた。
そして先ず後へもどって、数珠つなぎにされて、野に仆れている女たちの|縛《いまし》めを斬りほどき、まだ起てる気力のある者に、起てない者を介抱させた。
彼女らは、もう礼をいう口さえ失っている。武蔵のすがたを仰いで、ただ|唖《おし》のように、こもごも手をつかえて泣くばかりだった。
「もう安心するがよい」
武蔵はまずいって――
「村には、まだおまえたちの親や子や良人が残っているのだろう」
「ええ」
と、彼女らは|頷《うなず》く。
「それも救わなければなるまい。おまえ達だけが助かって、老いた者や、子たちが助からなかったら、おまえ達はやはり不幸だろう」
「はい」
「おまえ達は、自分を護り、人を救い合う力を持っている筈なのだ。その力をお前たちは、結びあうことも、出すことも知らないので、賊にいたされるのだ。わしが手伝ってやるから、おまえ達も剣を持て」
と彼は、|土《ど》|匪《ひ》がそこらへ落して行った武器を拾い|蒐《あつ》め、彼女らの手にめいめい持たせて、
「おまえ達は、わしに|尾《つ》いて来ればよい。わしがいう通りになっておれ、炎と賊の中から、親や子や良人を救いに行くのだ。皆の上には、|鎮《ちん》|守《じゅ》の神様が加勢についている。怖れることはない」
と、いいきかせ、土橋を渡って、村の方へ近づいて行った。
村は焼けている。しかし、民家が散在しているため、火の手は一部らしい。
道は火光に赤く|映《は》えて、影法師が地にうつる程だった。武蔵が、彼女らを|率《ひき》いて、村へ近づいてゆくと、
「おう」
「われか」
「いたのか」
と、そこらの物陰に逃げ|潜《ひそ》んでいた土民たちが、次々に集まり寄って、たちまち、何十名かの一団になった。
彼女らは、わが親、わが兄弟、わが子などの姿に出会うと、抱き合って号泣した。
そして、武蔵を指さし、
「あのお方に」
と、助けられた仔細を、|訛《なま》りのひどい言葉に――しかし心からの歓びを現わして告げるのだった。
土民たちは、武蔵を見て、初めは皆、異様な眼をした。なぜならば、法典ケ原の|狂人《きちがい》牢人よと、常々、自分たちが、|口汚《くちぎたな》く|嘲笑《あざわら》っていた人だからである。
武蔵は、その男どもへも、先ほど、彼女らに告げた時と同じ言葉をもって教え、
「皆、得物を|把《と》れ。――そこらに有り合う、棒切れでも、竹でも」
と、命じた。
ひとりも|反《そむ》く者はなかった。
「村を荒している賊は、すべてで何十人ぐらいいるか」
「五十名ばかしで」
と、誰か答える。
「村の戸数は」
と訊くと、七十戸ほどはあるという。まだ大家族的な遺風のある土民であるから、一戸当り少なくも十名以上の家族はあるとみていい。すると約七、八百名の土民が住んでいるわけで、そのうち幼児と老人と病人をのぞいても、男女五百名以上の壮者はいるであろう。それが五、六十名の土匪のために、年ごとの収穫を掠奪され、若い女や家畜など、|蹂躪《じゅうりん》し尽されても、
「しかたがない」
と、|諦《あきら》めなければならない理由が、武蔵には発見できない。
それは、為政者の不備にもあるが、また彼ら自身に、自治と武力のないせいもある。
武力のない者に限って、ただ漫然と武力に絶対な恐怖をもつが、武力の性質を知れば、武力はそう恐いものではなく、むしろ平和のために在るものである。
この村に、平和の武力を持たせなければ、この惨害は根を絶つまい。武蔵は、今夜の土匪を討つことが目標ではなく、それがすぐ意図されていた。
「法典ケ原の牢人様。さっき逃げ込んで行った賊が、大勢ほかの仲間を呼んで、今こっちへやって来るだぞ」
駈けて来た一人の土民が、武蔵と村の者へ、手を振って、急を告げた。
得物は持っても、山の暴れ者は怖ろしいと先入主になっている土民たちは、すぐ浮き腰になって、動揺しはじめた。
「そうだろう」
武蔵は、まず彼らに安心を与え――そして命令した。
「道の両|側《わき》へかくれろ」
土民たちは、われがちに木の陰や畑にかくれた。
武蔵は一人残って、
「やがて来る賊は、わし一人で迎えて闘う。そしてわしは、一度逃げる」
彼らのかくれた左右を見まわして独り言のようにいう。
「――だが、お前たちはまだ出て来なくともよい。そのうちに、わしを追いかけて来た賊が、反対にまたここへ、|散《ちり》|々《ぢり》に逃げて来るにちがいない。その時は、お前たちがわっと声をあげ、不意に横から衝け、足を払え、真っ向を|撲《なぐ》りつけろ。――そしてまた|潜《ひそ》んでは出、隠れては出、一匹も余さず打ちのめすのだ」
いっている間に、もう彼方から|一《ひと》|群《むれ》の土匪が、魔軍のように殺到した。
彼らのいでたちや隊伍ぶりは、まるで原始時代の軍隊みたいだった。彼らの眼には、徳川の世もない、豊臣の世もない、山は彼らの天地であり、里は彼らのあらゆる飢えを一時に満たす所だった。
「あ、待て」
先頭の一人が、足を止めて、後に続くなかまの者を制した。
二十名も来たろうか、稀れな|大鉞《おおまさかり》を|提《さ》げたのや、|錆《さ》びた|長《なが》|柄《え》をかかえ込んだのが、赤い火光をうしろに背負い、黒々と立ち|淀《よど》んで、
「いたか」
「あれがそうじゃねえか」
すると、中のひとりが、
「オオ、あれだ」
と、武蔵の影を指さした。
約十間ほど隔てて、武蔵は、道を|塞《ふさ》いで突っ立っていた。
これほどな殺到に、いっこう無感覚な様子で、彼が立っているのを見ると、この猛獣の群れも、
(おや、こいつ?)
と一応、自分の威勢を疑ってみたり、彼の態度に不審を起して、足をとめずにいられなかった。
――が、それは僅かな間だった。すぐずかずかと二、三名が進み出で、
「うぬか」
と、いった。
|爛《らん》とした眼で、武蔵は近づいた者を見つめた。彼の眼に縛り寄せられたように、賊も武蔵を|睨《ね》めすえたまま、
「うぬか、おれたちの邪魔に来た野郎というのは」
武蔵が、一言、
「――そうだッ!」
いった時は、ぶら下げていた彼の剣が、賊を真っ向に割りつけていた時であった。
わっ――と|動揺《どよ》めいた後は、もう誰彼の見わけもつかなかった。小さな|旋風《つ む じ》の中に、かたまり合って吹かれてゆく|羽《は》|蟻《あり》の群れみたいに乱闘が始まったのだ。
しかし、片方は水田だし、片方は並木の|堤《どて》になっている道なので、地の利は、土匪どもに不利で、武蔵には絶好だった。それに土匪は、兇猛ではあるが、武器の統一も、訓練もないので――これを|一乗寺下《いちじょうじさが》り|松《まつ》の決戦の時から思うと――武蔵はまだ生死の境にふみこんでいる心地はしなかった。
それと彼は、機を見て、|退《ひ》くことを考えていたせいもあろう。吉岡門下の大勢と闘った時は、一歩も「|退《ひ》く」などという考えはもたなかったが、今はその反対に、彼らと互角に闘おうなどとは毛頭思っていないのである。ただ彼は兵法の「策」をもって彼らを|馭《ぎょ》そうとしているのである。
「あっ、野郎」
「逃げやがったッ」
「逃がすな」
土匪たちは、駈けてゆく武蔵を追いつめ追いつめて――やがて野の一端にまで誘われて来た。
地の利は、さっきの狭い場所よりも、ここの何物もない広い野原の方が、武蔵には当然不利に見えたが、武蔵は、|彼方《あ っ ち》へ逃げ、|此方《こ っ ち》へ駈け、彼らの密集を存分に分散させてから、突然、攻勢に変った。
「かっッ」
一|颯《さつ》!
また一颯!
血しぶきから血しぶきへ、武蔵の影は|跳《と》び移ってゆく。
|麻《お》|幹《がら》を斬るという言葉はあながち誇張ではない。斬られるものが、狼狽のあまり半ば|喪《そう》|心《しん》してしまい、斬る者は手に入って、斬るごとに無我心業の境になってゆくのである。土匪どもは、物々しいいでたち[#「いでたち」に傍点]ほどもなく、わっと、元の道へ逃げ出した。
「――来たっ」
「来たぞ」
道を挟んで、物陰にかくれていた土民たちは、そこへ逃げて来る賊の跫音を聞くと、
「わッ」
と、いちどに|蜂《ほう》|起《き》して、
「こなくそ」
「けだものめが」
竹槍、棒、雑多な得物を|揮《ふる》いながら、押しつつんでは撲り殺した。
そしてまたすぐ、
「かくれろ」
と、身を伏せ、やがて|散《ちり》|々《ぢり》になって来る賊を見ると、再び、わっと包んで、
「野郎」
「野郎」
|蝗《いなご》を退治るような衆の力で、賊の個々を、一人一人打ちのめしてしまった。
「こいつら、口ほどもねえがよ」
土民たちは、|遽《にわか》に、気負い出した。そこらに数えられる賊の死骸を見て、今までは観念的に、ないと思っていた力が、自分たちにもあると新しく発見したのだった。
「また、来たぞ」
「ひとりだ」
「やってしまえ」
土民たちは、|犇《ひし》めいた。
駈けて来たのは、武蔵だった。
「おう、違う違う。法典ケ原の御牢人だ」
彼らは、将を迎える従卒のように、道の両側へ身を交わして、武蔵の|朱《あけ》にまみれた姿と、手の血刀を見まもった。
血刀の刃は|鋸《のこぎり》のように刃こぼれしていた。武蔵はそれを捨てて、落ちている賊の槍を拾った。
「賊の死骸が持っている刀や槍を、おまえたちも拾って持て」
彼がいうと、土民の若者たちは、われがちに武器を拾った。
「さ、これからだ。おまえ達は力を|協《あわ》せて、自分の村から賊を追い払え。自分の家と家族を|奪《と》り戻しに行け」
そう励ましながら、武蔵は先頭に駈け出した。
もう|怯《ひる》んでいる土民は一人もなかった。
女や老人や子供までが、得物を拾って、武蔵の後から走って行った。
村へはいると、昔ながらの大きな農家が、今、|熾《さかん》に燃えていた。土民の影も、武蔵の姿も、木も道も、真っ赤に見えた。
家を焼いた火が竹林へ燃えついたとみえ、青竹の爆裂する音が、パンパンと、炎の中で凄まじくはねている。
また、何処やらで、|嬰児《あ か ご》のさけび声がする。火を見て狂う牛小屋の牛の|唸《うな》りも物凄い。――しかし、降りしきる火の粉の中には、一人も賊の影が見えなかった。
武蔵はふと、
「どこだ、酒のにおいがする所は?」
と、土民にたずねた。
土民たちは、煙にばかり|晦《くら》んでいたので、酒のにおいを感じなかったが、そういわれて、
「|酒《さか》|甕《がめ》に酒をたんと貯めてあるのは、|村長《おさ》の家しかねえが」
と、いい合った。
賊は、そこを|屯《たむろ》にしていると武蔵は教え、一同へ、策を授け、
「わしに続け」
と、また駈けた。
その頃、|彼方《あ っ ち》|此方《こ っ ち》から戻ってきた村の者は、もう百名を越えていた。床下や、|藪《やぶ》の中に逃げこんでいた者も、次第に出て来て、彼らの団結は、強大になるばかりだった。
「|村長《おさ》の家はあれだ」
土民たちは、遠くから指さした。形ばかりの土塀に囲まれ、村では大きな家だった。近づいて行くと、そこらに酒の泉でも流れているように、酒の香が鼻を打ってくる。
土民たちが、附近の物陰へ隠れ込まないうちに、武蔵は、土塀をこえて、ただ一人、土匪の|本《ほん》|拠《きょ》としている農家の中へはいって行った。
|土《ど》|匪《ひ》の首領と、|主《おも》なる者は、広い土間の中に|屯《たむろ》して、|酒《さか》|甕《がめ》を開け、若い女をとらえて、酔いつぶれていた。
「あわてるな」
土匪の首領は、なにか怒っていた。
「|多《た》|寡《か》がひとりの邪魔者が出たからって、おれの手を|煩《わずら》わすまでのことはあるめえ、てめえ達の手で片づけて来い」
そんな意味らしい言葉だった。そして今ここへ急を告げに来た手下を、頭から叱りとばしているのだった。
――その時、首領は、異様な声をすぐ外に聞いた。|炙《あぶ》った鶏の肉を裂き、酒を|仰飲《あお》っていた|周《まわ》りの賊も、
「やっ、なんだ?」
一斉に突っ立ち、また無意識のうちに、得物をつかんだ。
その瞬間、彼らの前面は、心に何のまとまりもない|虚《うつろ》になっていた。そして不気味な絶叫の聞えた土間の入口にばかり気を|奪《と》られていた。
武蔵はその時、|疾《と》くに家の横手へ走っていた。そして母屋の窓口を見つけると、槍の|柄《え》を足懸りとし、家の内へ飛び込んで、土匪の首領の後ろへ立った。
「おのれかっ、賊の|首領《か し ら》は」
声に振向いたとたん、彼の胸いたは、武蔵の突き出した槍に縫い|貫《とお》されていた。
|獰《どう》|猛《もう》なその男は、
「うわっ」
と、血にまみれながら、その槍をつかんで起ちかけたが、武蔵が軽く手を離したので、胸に槍を突き立てたまま土間へ転げ落ちた。
もう彼の手には、次にかかって来た賊の手から引っ|奪《た》くった刀があった。それで一人を浴びせ、一人を突くと、蜂の子の出るように、土匪はわれがちに土間の外へ跳び出した。
その群れへ、武蔵は、刀を投げつけて、すぐその手へまた、死骸の胸いたから槍を抜いて持った。
「うごくな」
鉄壁でも――という勢いで彼は槍を横にしたまま外へ駈け出した。|竿《さお》で水面を打ったように、土匪の群れは、さっと分れたが、もう槍の自由な広さである。武蔵は|樫《かし》の黒い|柄《え》が|撓《しな》うほど、それを振っていた、また突いてはねとばした、また上から|撲《なぐ》りつけた。
|敵《かな》わぬと思った土匪は、土塀の門へ向って逃げ出したが、そこは得物を持った村の者が|犇《ひし》めいていたので、塀をこえて、外へ転び落ちた。
多くは、そこで皆、村の者に打ち殺された。おそらく逃げた者も、片輪にならなかった者は少なかったであろう。村の者は、老いも若きも、女も、生れて初めての声を出して、しばらくは凱歌に狂い、少し経つと、わが子や、わが妻や、父母たちを見つけ合って、|欣《うれ》し泣きに抱き合っていた。
すると誰かが、
「後の仕返しが怖い」
といった。土民たちは、またそれに|動揺《どよ》めきだしたが、
「もう、この村には来ぬ」
と、武蔵が|諭《さと》したので、やっと落着いた顔いろを取り戻した。
「――だがお前たちは、過信するな。お前たちの本分は、武器ではない|鍬《くわ》なのだ。|穿《は》きちがえて、生なかな武力に誇ると、土匪より恐ろしい天罰が下るぞ」
「見て来たか」
徳願寺に泊りあわせていた長岡佐渡は、寝ずに待っていた。
村の火は、原や沼の|彼方《か な た》に、すぐ間近く見えていたが、もう火の手は|鎮《しず》まっていた。
ふたりの家臣は、
「はっ、見届けて参りました」
と、口を揃えていった。
「賊は、逃げたか。村の者の被害は、どんなふうだ」
「われわれが、駈けつける|遑《いとま》なく、土民たちが、自分の手で、賊の半ばを打ち殺し、後は追いちらしましたようにござります」
「はてな?」
佐渡は、のみこめない顔つきである。もしそうだとすれば、佐渡は、自分の主人細川家の領土の民治についても、だいぶ考えさせられることがある。
とにかく今夜はもう遅い。
そう考えて、佐渡は、|臥床《ふ し ど》へ入ってしまったが、|翌《よく》|朝《あさ》は江戸へ帰る身なので、
「ちと、廻りになるが、ゆうべの村を通って参ろう」
と、駒をそこへ向けた。
徳願寺の寺僧が一名、案内に付いて来た。
村へかかると、佐渡は、二人の従者を顧みて、
「そち達は昨夜、何を見届けて来たのか。今、道ばたで見かけた賊の死骸は、百姓が斬ったものとは見えんが」
と、不審を抱いた。
村の者は、寝ずに、焼けた家やそんな死骸を片づけていたが、佐渡の馬上姿を見ると、みな家の中へ逃げこんだ。
「あ、これ。何かわしを思い違いしておるぞ。誰かすこし話の分りそうな土民を一名つれて来い」
徳願寺の僧が、どこからか一人連れて来た。佐渡はそれで初めて昨夜の真相を知ることが出来、
「そうだろう」
と、うなずいた。
「して、その牢人というのは、何という者か」
佐渡が、重ねて訊くと、その土民は首をかしげて、名は聞いたことがないという。佐渡は、ぜひ知りたいというので、寺僧はまた、聞き歩いて、帰って来た。
「宮本武蔵という者だそうでござります」
「なに、武蔵」
佐渡はすぐ、ゆうべの少年を思い起して、
「では、あの|童《わっぱ》が、先生と呼んでいたものだの」
「平常、あの子供を相手に、法典ケ原の荒地を開墾し、百姓のまね事などをしておる、風の変った牢人にござります」
「見たいな、その男を」
佐渡は、つぶやいたが、――藩邸に待っている用事が思い起されて、
「いや、また参ろう」
と、駒をすすめた。
|村《むら》|長《おさ》の門まで来ると、ふと佐渡の目をひいた物がある。今朝建てたばかりのような、真新しい制札に、墨色まで水々と、こう書いてあるのだった。
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村の者心得べき事
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鍬も剣なり
剣も鍬なり
土にいて乱をわすれず
乱にいて土をわすれず
|分《ぶん》に依って一に帰る
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又常に
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世々の道にたがわざる事
[#ここで字下げ終わり]
「ウウム……誰が書いたか、この高札は」
|村《むら》|長《おさ》が出て来て、地に平伏しながら答えた。
「武蔵さまでござりまする」
「おまえ達に、分るのかこれが……」
「今朝、村の衆が、みな集まっている中で、このわけを、よく説いて下さいましたで、どうやら分りまする」
「――寺僧」
佐渡は振向いて、
「戻ってよろしい。ご苦労であった。残念じゃが、心が|急《せ》く。また来るぞ、おさらば」
と、駒を早めて去った。
|卯《う》|月《づき》の|頃《ころ》
当主の細川三斎公は、|豊《ぶ》|前《ぜん》小倉の本地にいて、江戸の藩邸にいることはなかった。
江戸には、長子の|忠《ただ》|利《とし》がいて、補佐の老臣と、たいがいなことは、裁断していた。
忠利は|英《えい》|邁《まい》だった。年歯もまだ、二十歳を幾つも越えてない若殿なので、新将軍秀忠を|繞《めぐ》って、この新しい城府に移住していた天下の|梟雄《きょうゆう》や豪傑的な大名のあいだに伍しても、父の細川三斎のこけん[#「こけん」に傍点]を落すようなことは決してなかった。むしろ、その新進気鋭なことと、次の時代に活眼をもっている点では、諸侯の中の新人として、戦国育ちの腕自慢ばかりを事としている|荒《あら》|胆《ぎも》な老大名よりは、遥かに立ち|勝《まさ》っているところもある。
「――若殿は?」
と、長岡佐渡は探していた。
御書見の|間《ま》にも見えない。馬場にもお姿はない。
藩邸の地域はずいぶん広かったが、まだ庭などは整っていない。一部には元からの林があり、一部は|伐《ばつ》|木《ぼく》して馬場となっている。
「若殿は、どちらにお|在《い》で遊ばすな」
佐渡は、馬場の方から戻りながら、通りかかった若侍にたずねた。
「お|的《まと》|場《ば》でござります」
「ああお弓か」
林の|小《こ》|径《みち》を縫って、その方角へ歩いてゆくと、
――ぴゅうん
と、|快《こころよ》い矢うなりがもう的場の方に聞える。
「おう、佐渡どの」
呼びとめる者があった。
同藩の岩間角兵衛である。実務家で|辣《らつ》|腕《わん》で、重く見られている人物だった。
「どちらへ」
と、角兵衛は寄って来た。
「御前へ」
「若殿は今、お弓のお稽古中でござるが」
「|些《さ》|事《じ》ゆえ、お弓場でも」
行き過ぎようとすると、
「佐渡どの、お急ぎなくば、ちとご相談申したいことがあるが」
「なんじゃの」
「立話でも――」
と、見まわして、
「あれで」
と、林の中の数寄屋の|供《とも》|待《まち》へ誘った。
「ほかではないが、若殿との間に、何かのお話が出た折に、ひとり御推挙していただきたい人物があるのじゃが」
「御当家へ奉公したいという人間かの」
「いろいろな|伝手《つて》を求めて、同じような望みを申し入れて来る者が、佐渡どのの所へなども沢山あろうが、今、てまえの邸に置いてある人物はちと少ない人物かと思うので」
「ほ。……人材は御当家でも求めておるのじゃが、ただ、職にありつきたい人間ばかりでなあ」
「その|手輩《て あ い》とは、ちと質からして違う男でござる。実はそれがしの家内とは縁故もあって、|周防《す お う》の岩国から来てもう二年もわしの|邸《やしき》にごろごろしているのじゃが、何としても、御当家に欲しい人物でしてな」
「岩国とあれば、|吉《きっ》|川《かわ》|家《け》の牢人かの」
「いや、岩国川の郷士の子息で、佐々木小次郎といい、まだ若年でござるが、|富田流《とだりゅう》の刀法を|鐘《かね》|巻《まき》|自《じ》|斎《さい》にうけ、|居《い》|合《あい》を吉川家の食客片山|伯《ほう》|耆《きの》|守《かみ》久安から|皆《かい》|伝《でん》され、それにも甘んじないで自ら|巌流《がんりゅう》という一流を立てたほどの者で」
と、口を極めて角兵衛は、その人間を佐渡に|頷《うなず》かせようとする。
誰でも、人物の推薦には、一応このくらいには肩入れするものである。佐渡はそう熱心に聞いていなかった。――むしろ彼は、彼の意中に、一年半も持ち越したまま、つい忙しいままに忘れていた、べつな人間を、ふと思い出していた。
それは、|葛《かつ》|飾《しか》の法典ケ原で開墾に従事している、宮本武蔵という名であった。
武蔵という名は、彼の胸に、あれ以来、忘れ得ないものになって深く刻まれていた。
(ああいう人物こそ、御当家でお|抱《かか》えになっておくとよいが)
と、佐渡は、|密《ひそ》かに胸に秘めていたのであった。
だがもう一度、法典ケ原を訪れ、親しくその人物を見極めた上で、細川家へ推挙するつもりでいたのである。
今――思い出してみると、そういう考えを抱いて帰った徳願寺の一夜から、いつか、一年の余も経っていた。
公務の忙しさにも|紛《まぎ》れ、あれきりまた、徳願寺へ詣る折がなかったためである。
(どうしているか)
と、佐渡がふと、ひとの話から思い出していると、岩間角兵衛は、自分の|邸《やしき》に置いている佐々木小次郎の推薦に、佐渡の助力を期待して、なおしきりと小次郎の履歴や人物を話して、彼の賛同を求めた末、
「御前へ参られたら、どうぞひとつ、|貴方《あ な た》からもお口添えを」
と、くれぐれも頼んで立ち去った。
「承知した」
と、佐渡は答えた。
けれど彼の胸には角兵衛から頼まれた小次郎のことよりも、やはり武蔵という名に何となく心が惹かれていた。
|的《まと》|場《ば》へ行ってみると、若殿の|忠《ただ》|利《とし》は、家臣を相手に、|旺《さかん》に弓をひいていた。忠利の射る矢は、一筋一筋、おそろしく正確で、その矢うなりにも、気品があった。
彼の侍者が、或る時、
(これからの戦場では、鉄砲がもっぱら用いられ、槍が次に使われ、太刀、弓などは、余り役立たぬように変遷しておるようにござりますから、お弓は、武家の飾りとしても、作法だけの御習得でよろしくはないかと存じますが)
と、|諫《いさ》めた時、忠利は、
(わしの弓は、心を|的《まと》に射ておるのだ。戦場へ出て、十や二十の武者を射る稽古をしているように見えるか)
と、かえってその侍者に反問したという若殿である。
細川家の臣は、大殿の三斎公には勿論、心から心服していたが、そうかといって、その三斎公の余光に伏して、忠利に仕えている者は一人もなかった。忠利の身辺に近侍している者は、三斎公が偉くあってもなくっても、問題ではなかった。忠利その人を心から、英主と仰いでいるのだった。
――これはずっと晩年の話であるが、その忠利をどんなに藩臣が畏敬していたかというよい話がある。
それは細川家が|豊《ぶ》|前《ぜん》小倉の領地から熊本へ移封された時のこと――その入城式に、忠利は熊本城の大手の正門で駕籠を下り、衣冠着用のまま、|新莚《あらむしろ》に坐って、今日から城主として坐る熊本城へ向って手をついて礼拝したそうである。――すると、その時、忠利の|冠《かんむり》の|紐《ひも》が城門の|蹴放《けはなし》――つまり門の|閾《しきい》――に|触《さわ》ったというので、それから以後忠利の家臣は勿論、代々の家来も皆、朝夕、この門を通行するのに、決して真ん中を|跨《また》ぐことはしなかったということである。
当時の一国の国守が「城」に対してどれほど厳粛な観念を抱いていたか、また、家臣がその「|主《しゅ》」に対して、どれほどな尊崇を抱いていたか、この一例はよくその辺の侍の気持を示している話であるが、壮年時代から既にそうした気宇のあった忠利であるから、その君へ家臣を推挙するにしても、うかつな者は、当然、推薦し|難《にく》かった。
長岡佐渡はお弓場へ来て忠利の姿を見ると、すぐさっき岩間角兵衛へわかれ際に、うっかり、
(承知いたした)
と、いってしまった軽率なことばを胸に悔いていた。
若侍の中に|立《た》ち|交《ま》じって、競射に汗をながしている細川忠利は、やはり一箇の若侍としか見えないほど無造作な姿だった。
今、一息ついて、何か侍臣たちと哄笑しながら、弓場の|控《ひかえ》へ来て、汗を|拭《ぬぐ》っていたが、ふと老臣の佐渡の顔を見かけて、
「|爺《じい》、そちも一射、試してみないか」
と、いった。
「いや、このお仲間では、|大人《お と な》げのうて」
と、佐渡も戯れると、
「何をいう。いつまでわし達を|角髻《あげまき》の子供と見おって」
「されば、てまえの|弓《ゆん》|勢《ぜい》は、山崎の御合戦の折にも、|韮山城《にらやまじょう》の|城《しろ》|詰《づめ》の折にも、しばしば大殿の御感にあずかった、極めつきの弓でござる。的場のお子供衆の中ではお慰みになりませぬ」
「はははは、始まったぞ、佐渡どののご自慢が」
侍臣たちが笑う。
忠利も苦笑する。
肌を入れて、
「何か用か」
忠利は、真面目に返った。
佐渡は、公務の用向きを、ちょっと耳に入れて、その後で、
「岩間角兵衛から、誰か御推挙の人物がある由でございますが、その|仁《じん》を、御覧になりましたか」
と、訊ねた。
忠利は、忘れていたらしく、いやと、顔を振ったが、すぐ思い出して、
「そうそう。佐々木小次郎とかいう者を、頻りと、推挙しておったが、まだ見ておらん」
「御引見なされてはいかがでござりますな。有能の人物は、諸家でも、争って高禄をもって誘いますゆえ」
「それほどな者かどうか?」
「ともかく、一度、お召寄せのうえで」
「……佐渡」
「は」
「角兵衛に、口添えを頼まれたかの」
と、忠利は苦笑した。
佐渡はこの若い殿の英敏を知っているし、自分の口添えが、決してその英敏を|晦《くらま》すものでないことも分っているので、ただ、
「御意」
と、いって笑った。
忠利はまた、|弓《ゆ》|掛《がけ》を手に|嵌《は》めて、侍臣の手から弓を受取りながら、
「角兵衛の推挙いたした人物も見ようが、いつか、そちが夜話しに申した、武蔵とかいう人物も一度見たいものだな」
といった。
「若殿には、まだご記憶でございましたか」
「わしは覚えておるが、そちは忘れておったのではないか」
「いや、その後はついぞ徳願寺へも、|詣《もう》でる折がございませぬために」
「一箇の人材を求めるためには、|忙《せわ》しい用を|省《はぶ》いても苦しゅうあるまい。他用の|序《つい》でになどとは、|爺《じい》にも似あわぬ横着な――」
「怖れいりました。したが、諸方より御奉公申したいと、御推挙も多い所、それに若殿にも、お聞き流しのようでござりましたゆえ、ついお耳に入れたまま、怠っておりましたが」
「いやいや、余人の|眼鏡《め が ね》なら知らぬこと、爺の眼で、よかろうというその人物。わしも心待ちにしていたのじゃ」
佐渡は、恐縮して、藩邸から自分の邸に帰ると、すぐ駒の支度をさせ、従者もただ一人連れたきりで、|葛《かつ》|飾《しか》の法典ケ原へいそいだ。
こよいは、泊っていられない。すぐ行ってすぐ帰るつもりである。心が|急《せ》くので、徳願寺にも立ち寄らず、長岡佐渡は、駒を早めた。
「源三」と従者を顧みて、
「もはやこの辺りが、法典ケ原ではないかの」
|供侍《ともざむらい》の佐藤源三は、
「てまえも、そうかと存じますが――まだここらには、御覧の通り、青田が見えますから、開墾しておる場所は、もそっと、野の奥ではございますまいか」
と、答えた。
「――そうかの?」
もう徳願寺からかなり来ている――これより奥へすすめば、道は|常陸《ひ た ち》|路《じ》へかかってしまう。
陽が暮れかけた――青田には、白い|鷺《さぎ》が、粉のようにこぼれたり舞い立ったりしている。河原のへりや、丘の陰や、ところどころに、|麻《あさ》も植わっている。麦も|戦《そよ》いでいる。
「おお、御主人様」
「なんじゃ」
「あれに沢山、農夫がかたまっておりますが」
「……ム? ……なるほど」
「訊ねてみましょうか」
「待て。何をしているのか、代る代るに地へ|額《ぬか》ずいて、拝んでおる様子ではないか」
「ともあれ、参ってみましょう」
源三は、馬の口輪をつかみ、河原の浅瀬を瀬ぶみしながら、主人の駒をそこへ導いた。
「これ、百姓たち」
声をかけると、彼らはびっくりした眼をして、群れを崩した。
見ると、そこに一箇の掘建小屋がある。また、小屋の横には、鳥の巣箱ほどな、小さい御堂が出来ていて、彼らは、それを拝んでいたのだった。
一日の労役を終えた土民たちは、およそ五十名もそこにいた。めいめいがもう帰る|間《ま》|際《ぎわ》であったらしく洗った道具を携えていた。そして何かがやがやいっていたが、その中から一人の僧が出て来て、
「これはこれは、|誰方《ど な た》かと存じましたら、お|檀《だん》|家《か》の長岡佐渡様ではございませぬか」
「おう、おぬしは、昨年の春、村に騒ぎのあった折、身の案内に立たれた徳願寺の僧侶じゃの」
「さようでござります。今日もご参詣でございましたか」
「いやいや、ちと思い立って急に出向いて来たまま、真っ直にこれまで参ったのじゃ。――早速に訊ねたいが、その折、当所で開墾していた牢人の武蔵と申す者と――伊織という|童《わっぱ》は――今でも健在かの?」
「その武蔵様は、もうここにはいらっしゃいませぬ」
「なに、いない?」
「はい、つい半月ほど前に、ふと何処かへ、立ち去っておしまいになりました」
「何ぞ、|事情《わけ》でもあって、立ち|退《の》いたのか」
「いえ。……ただその日だけは皆の衆も仕事を休んで、このように水ばかり出ていた荒地が、青々と、新田に変りましたので、青田祭りの欣びをいたしました。――すると、その翌朝はもう、武蔵様もあの伊織も、この小屋に姿が見えなかったのでござりまする」
と、その僧侶は、まだそこらに武蔵様がいるような気がしてなりませぬ――といいながら、次のような仔細を話すのであった。
あの時以来。
|土《ど》|匪《ひ》を|懲《こ》らし、村の治安が強固になり、めいめいの生活が平和に|回《かえ》ると、誰ひとりこの地方では、武蔵の名を呼び捨てにする者はなかった。
――法典の御牢人さま。
とか、または、
――武蔵さま。
とか敬称して、今まで|狂人《きちがい》扱いにしたり、悪口を叩いた者も、彼の開墾小屋へ来て、
(わしにも、お手伝いをさせて下され)
というように、変ってしまった。
武蔵は、誰にも平等に、
(ここへ来て手伝いたい者は手伝え。豊かになりたい者は来い。自分だけ喰って死ぬことは|鳥獣《とりけだもの》もする。少しでも、子孫のために、自分の働きを|遺《のこ》して行こうとする者はみんな来い)
そういうと忽ち、
(わしも、わしも)
と、彼の開墾地には、日々四、五十人ずつ、手空きの者が集まった。農閑期には、何百人も来て、心を|協《あわ》せて、荒地を|拓《ひら》いた。
その結果、去年の秋には、今までの|出《で》|水《みず》もそこだけは防ぎ止め、冬には土を耕し、春には|苗《なわ》|代《しろ》に|種子《たね》を|蒔《ま》き水を引き、この初夏には、わずかながら新田に青々と稲もそよぎ、麻も麦も一尺の余も伸びていた。
土匪は来なくなった。村の者は気をそろえてよく働き出した。若い者の親たちや女房たちは、武蔵を神のように慕い、草餅や初物の野菜ができると、小屋へ運んで来た。
(来年は、田も畑も、この倍になるぞ。その次の年には、三倍になる)
と彼らは、土匪征伐と村の治安に信念を持つと共に、荒地の開墾にも、すっかり信念を持った。
その感謝の|溢《あふ》れから、村民たちは、一日仕事を休んで、小屋へ酒壺をかついで来た。そして、武蔵と伊織を取り巻いて、里|神楽《か ぐ ら》の太鼓や笛をあわせて青田祭りをしたのであった。
その時、武蔵がいった。
「わしの力じゃない。おまえ達の力だ。わしはただ、おまえ達の力を引出してやっただけのものじゃ」
そして、その祭りに来あわせていた徳願寺の僧へ、
「わしの如き、一介の|漂泊士《ひょうはくし》を、皆が頼りにしていては、末が心もとない。――いつまでも、今の信念と一致が|縒《より》の戻らぬように、これを、心の|的《まと》としたがよかろう」
と、一体の|木《き》|彫《ぼり》の観世音を包みから出して授けた。
その翌朝――来てみると武蔵はもう小屋にいなかった。伊織を連れて、行く先も告げず、夜明け前に、何処かへ旅立ったものと見え、旅包みもなかった。
「武蔵さまがいない!」
「どこぞへ、消えてしまいなすった――」
土民たちは、慈父を見失ったように、その日は、仕事も手につかず、ただ彼のうわさと哀惜に暮れた程だった。
徳願寺の一僧は、武蔵のことばを、思い当って、
「それでは、あの方にすむまいぞ、青田を枯らすな。畑を|殖《ふ》やせ」
と、一同を励ました。そして小屋のそばに、小さい堂を作り、そこへ観音像を納めると、土民たちは、いわれるまでもなく、朝夕仕事にかかる前、仕事の終った後には、武蔵へ挨拶するように、必ずそこへ|額《ぬか》ずいた。
――僧の話はそれで終った。だが、長岡佐渡の悔いはいつまでも、胸を噛んで、
「……ああ遅かった」
卯月の夜は、|草《くさ》|靄《もや》にぼかされて来た。佐渡は、むなしく駒を返しながら、
「惜しいことをした……こういう怠慢は、ひとつの不忠も同じこと。……遅かった、遅かった」
何度も口のうちで|呟《つぶや》いた。
入城府
両国という地名も橋が出来てから後のことである。まだ両国橋も、その頃はなかった。
けれど、|下総領《しもうさりょう》から来る道も、奥州街道から|岐《わか》れて来る道も、後の橋の|架《か》けられた辺りへ来て、大川に突き当っていた。
渡し場には、関門と呼んでよいくらいな、厳しい木戸があった。
そこには、江戸町奉行の職制ができてから、初めての初代町奉行、青山|常陸《ひたちの》|介《すけ》|忠《ただ》|成《なり》の手の者が、
「待て」
「よろしい」
などと、いちいち通行人|検《あらた》めをしていた。
(ははあ、だいぶ江戸の神経も、|尖《とが》っておるな)
と、武蔵はすぐ思った。
三年前、中山道から江戸へ足を入れて、すぐ奥羽の旅へ向った時、まだ、この都市の出入りはさほどでなかった。
それが、急激にこう厳重になったのはなぜか?
武蔵は、伊織を連れて、木戸口に順々に並んでいる間に考えた。
都市が都市らしくなって来ると必然に、人間が|殖《ふ》える、人間の中の|種《さま》|々《ざま》な善業悪業が|相《そう》|剋《こく》し合う。制度が|要《い》る、制度の法網を|潜《くぐ》る方も活溌になる。そして栄えを祈る文化を打ち建てながら、その文化の下で、もう浅ましい生活や慾望が血みどろで地上に噛み合う。
それもあろう。
がまた、ここが徳川家の将軍所在地となると共に、大坂方に対する警戒も、日に増して厳密を要するのであろう。――何しろ大川を隔てて見ても、この前、武蔵が見た江戸とは、家々の屋根が|殖《ふ》えていることや、緑が目立って減っていることだけでも、|隔《かく》|世《せい》の感があった。
「御牢人は――?」
そう呼ばれた時は、もう|革袴《かわばかま》を|穿《は》いた二人の木戸役人に、武蔵は、|懐中《ふところ》から背や腰の――体じゅうを撫でまわされていた。
べつな役人が、側から厳しい目で詰問した。
「御府内へ、何用を帯びて行かっしゃるか」
武蔵はすぐ答えた。
「何処とて、|的《あて》もなく歩く修行者でござる」
「|的《あて》もなく?」
と、|咎《とが》め立てして、
「修行するという的があるではないか」
「…………」
苦笑を見せると、
「生国は?」
と、たたみかける。
「|美作《みまさか》吉野郷宮本村」
「主人は」
「持ちませぬ」
「然らば、路用その他の出費は、誰から受けておらるるか」
「行く所でいささか余技の彫刻をなし、|画《え》などを書き、また寺院に泊り、乞う者があれば|太刀《たち》|技《わざ》もおしえ、人々の合力に依って旅しておりますが……それもない時には、石にも臥し、草の根や木の実を喰ろうておりまする」
「ふーム……。で、いずれからお越しなされた」
「|陸奥《みちのく》に半年あまり、|下総《しもうさ》の法典ケ原に、百姓の|真似《まね》|事《ごと》して、二年ほどを過ごし、いつまで、土いじりもと存じて、これまで、参ってござります」
「連れの|童《わっぱ》は」
「同所で拾い上げた|孤児《みなしご》――伊織と申し、十四歳に相成ります」
「江戸で泊る先はあるのか。無宿の者、縁故のない者は、一切入れぬが」
|限《き》りがない。後ろにはもうたくさんな往来人がつかえている。素直に答えているのも|莫迦《ばか》らしく、ひとにも迷惑と考えて、武蔵は答えた。
「あります」
「何処の、誰か?」
「柳生|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》|宗《むね》|矩《のり》どの」
「何、柳生どのへ」
役人は、ちょっと、鼻白んで黙った。
武蔵は、おかしく思った。柳生家とは、われながら、いみじくも思い付いたものだと自分で感心する。
かねて|大和《や ま と》の柳生石舟斎とは、面識はないが、|沢《たく》|庵《あん》を通じて相知る仲である。問い合せられても、
(そんな人間は知らぬ)
とは柳生家でも答えまい。
ひょっとしたら、その沢庵も江戸表へ来ているような気がする。石舟斎には、遂に、|面《めん》|謁《えつ》も遂げず宿望の一太刀も合せなかったが、その|嫡子《ちゃくし》で――かつ柳生流の|直流《じきりゅう》を|享《う》け、秀忠将軍の指南に就任して来ている但馬守宗矩には、ぜひとも、会いもしたいし、試合も受けてみたい。
そう、日頃から思っていたのが――思わず直ぐ行く先かのように、木戸役人の質問に出てしまったのである。
「いや、それでは、柳生家に御縁故のあるお方でござったか。……失礼いたした。何分、うろんな侍どもが、御府内に入り込むため、牢人方と見れば、|一《ひと》|際《きわ》、厳密な取調べを要す――という上司からの厳達なので」
役人は、こう言葉も態度もあらためて、後の調べは、ほんの形式だけですまし、
「お通りなさい」
と、木戸口から送った。
伊織は後から|尾《つ》いて来て、
「先生、なぜ侍だけ、あんなにやかましいんだろ」
「敵方の|間《かん》|者《じゃ》に備えてであろうな」
「だって、間者なら、牢人のふうなんかして、通るもんか。お役人って、頭がわるいね」
「聞えるぞ」
「たった今、|渡船《わ た し》が出ちまったよ」
「待つ間に富士でも眺めておれというのだろう。――伊織、富士が見えるぞ」
「富士なんて、めずらしくないや。法典ケ原からだって、いつも見えるじゃないか」
「きょうの富士はちがう」
「どうして」
「富士は、一日でも、同じ姿であったことがない」
「同じだよ」
「時と、天候と、見る場所と、春や秋と。――それと観る者のその折々の心次第で」
「…………」
伊織は、河原の石を拾って、水面を切って遊んでいたが、ひょいと跳んで来て、
「先生、これから、柳生様のお屋敷へ行くんですか」
「さあ、どうするか」
「だって、あそこで、そういったじゃないか」
「一度は、行くつもりだが……|先《さき》|様《さま》は、大名だからの」
「将軍家の御指南役って、偉いんだろうね」
「うむ」
「おらも大きくなったら、柳生様のようになろう」
「そんな小さい望みを持つんじゃない」
「え。……なぜ?」
「富士山をごらん」
「富士山にゃなれないよ」
「あれになろう、これに成ろうと|焦心《あせ》るより、富士のように、黙って、自分を動かないものに作りあげろ。世間へ|媚《こ》びずに、世間から仰がれるようになれば、自然と自分の値うちは世の人がきめてくれる」
「渡船が来たよ」
子供は、人に遅れるのが嫌いだ。伊織は、武蔵をさえ捨てて、真っ先に乗合の|舷《ふなべり》へ跳び移った。
広い所もあれば、狭い所もある。河の中には|洲《す》もあるし、流れの早い瀬も見える。何しろ当時のすみだ川は、自由気ままな姿であった。そして両国はもう海に近い入江であり、波の高い日は、濁流が両河岸を|浸《ひた》して、|平常《ふ だ ん》の二倍にも見える大河になった。
渡船の|棹《さお》は、ガリガリと、川底の砂利を突いてゆく。
空の澄んだ日は、水も澄み切って、|舷《ふなべり》から魚の影が覗かれた。赤く|錆《さ》びた|兜《かぶと》の鉢金などが、小石の間に埋っているのもまま見えた。
「どうだろう、このまま天下泰平に治まるものだろうか」
|渡船《わ た し》の中の話である。
「そうは行くめえなあ」
と、ひとりがいう。
その連れが、連れの者の言葉に裏書して、
「いずれ、|大戦《おおいくさ》さ。――なけれやそれに越したことはねえが」
話は、|弾《はず》みかけて弾まなかった。中には、よせばいいにという顔して水を見ている者もある。役人の耳が怖いからだった。
だが、お|上《かみ》の怖い目や耳を|掠《かす》めながら、民衆はそういう物へ触れるのを好む。わけもなくただ好むのである。
「その証拠には、ここの渡船の木戸調べでもそうだ。こう往来|検《あらた》めが厳しくなったのは、つい近頃のこったが、それというのも、上方からどしどし隠密が入り込んでいるからだという噂だぜ」
「そういえば、この頃、大名屋敷へよくはいる盗賊があるそうだ。――外聞に洩れては、見っともないので、はいられた大名は皆、口を拭いているらしいが」
「それも、隠密だろうぜ、いくら金の欲しい奴でも、大名屋敷などは、|生命《い の ち》を捨ててかからなければはいれねえ所だ。ただの泥棒である筈はねえ」
渡船の客を見渡すと、これは江戸の一縮図といっていい。|鋸《おが》|屑《くず》を着けている材木屋、上方流れの|安《やす》|芸《げい》|人《にん》、|肩《かた》|肱《ひじ》を突ッ張っている無法者、井戸掘りらしいひとかたまりの労働者、それとふざけている売笑婦、僧侶、虚無僧――そして武蔵のような牢人者。
船が着くと、それらの人々がぞろぞろと、流れになって、岸へ上がって行く。
「もし、御牢人」
武蔵を追いかけて来た男があった。見ると、船の中にいた背のずんぐりした無法者で――。
「お忘れ物をなすったろう。こいつあ、おめえさんの膝ッ子から落ちたんで、拾って来たが」
と、赤地錦の――といっても余りに古びて|金《きん》|襴《らん》の光よりは、|垢《あか》|光《びか》りの方がよけいにする巾着の耳を|抓《つま》んで、武蔵の顔の前へ出した。
武蔵は、顔を振って、
「いや、てまえの所持品ではありませぬ。誰ぞ、ほかの乗合の衆の物でござろう」
いうと、その横合から、
「ア、おらのだ」
と、無法者の手から、いきなりそれを|奪《と》って、|懐中《ふところ》へ仕舞った者がある。
武蔵の側にいると、あまり背の違いがあるので、よく見ないと気がつかないほど小さい、伊織であった。
無法者は、怒った。
「やいやい、いくら|汝《てめえ》の物だって礼もいわずに、引ッ|奪《た》くるという奴があるか。もいちど、今の巾着を出せ。改めて三べん廻ってお辞儀をしたら|返《け》えしてやるが、さもなければ、河ン中へ、叩っ込んでしまうから」
無法者の怒りようも大人げなく思われたが、伊織の仕方も重々よくない。――だが子供のことであるから自分に免じて|寛《ゆる》してくれ、と武蔵が代って|詫《あやま》ると、無法者は、
「兄か、主人か、何か知らねえが、じゃあおめえの名を聞いておこう」
と、いう。
武蔵は、辞を低く、
「名乗るほどの者ではありませんが、牢人宮本武蔵という者です」
すると、無法者は、
「えっ?」
と、目をみはって、しばらく凝視していたが、
「これから気をつけろ」
伊織へ|一《ひと》|言《こと》、捨て|科白《ぜ り ふ》を置いて、さっと身を|翻《かわ》すように立去ろうとした。
「待てっ」
処女のように柔和だった者の口から、こう不意に一|喝《かつ》くって、無法者はびくっとしながら、
「な、なにしやがんでい」
つかまれている脇差のこじりを|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ払おうとして振向いた。
「汝の名を申せ」
「おれの名」
「ひとの名を聞いたまま、会釈もなく立ち去る法があろうか」
「おらあ、|半瓦《はんがわら》の身内のもんで、|菰《こも》の十郎ってんだ」
「よし、行け」
突っ放すと、
「覚えてやがれ」
と、菰はのめッたまま素っ飛んで行った。
伊織は、自分のかたきを打って貰ったように、
「いい気味だ、弱虫」
またとない頼母しい人のように武蔵を見上げて、その側へくッついた。
町へと、歩き出しながら、
「伊織」
「はい」
「今までのように、野原に住んで、|栗鼠《りす》や狐が|隣近所《となりきんじょ》のうちはよいが、このように多くの人の住んでいる町なかへ来たら、礼儀作法を持たねばならぬぞ」
「はい」
「人と人とが円満に住んでゆければ地上は極楽だが、人間は生れながら神の性と、悪魔の性と、誰でも二つ持っている。それが、ひとつ間違うと、この世を地獄にもする。そこで、悪い性質は働かせないように、人なかほど、礼儀を重んじ、体面を尊び、また、お上は法を設けて、そこに秩序というものが立ってくる。――おまえが|先刻《さ っ き》したような不作法は小さいことだが、そういう秩序の中では人を怒らせるのだ」
「はい」
「これから、何処へどう旅して行くか知れぬが、行く先々の|掟《おきて》には素直に、人には礼儀をもって|対《むか》うのだぞ」
噛んで含めるようにいい聞かせると、伊織は、|何《なん》|遍《べん》もこっくりして、
「分りました」
と、早速に言葉もていねいになったり、取って付けたようなお辞儀もしてから、
「先生、また落すといけませんから、これを、済みませんが、先生のふところに持っていて下さい」
と、さっき|渡船《わ た し》の中へ忘れてしまうところだった|襤褸《つ づ れ》の巾着を、武蔵の手に預けた。
それまでは、かくべつ気にも止めなかった武蔵は今、手にしてふと思い出した。
「これはお前が父から|遺物《か た み》にもろうた品ではないのか」
「ええそうです。徳願寺へ預けておいたら、今年になって、お住持さんが、黙って返してくれた。おかねも元のままはいっているよ。なにか|要《い》る時には、そのおかね、先生が|費《つか》ってもかまわないよ」
「ありがとう」
武蔵は、伊織へそういった。
他愛もない言葉ながら、伊織の気持は|欣《うれ》しいものだった。彼は自分の|侍《かしず》いている先生が、いかに貧しいかを、子供ごころにも常に案じているふうなのだ。
「では、借りておくぞ」
おしいただいて、武蔵は、彼の巾着を|懐中《ふところ》に預かった。
そして歩きながら思うには、伊織はまだ子供だが、幼少から、あの痩せた土と|藁《わら》の中に生れ、|審《つぶ》さに生活の困窮を|舐《な》めてきたので、童心の中にもおのずから「経済」というものの観念が、つよく養われている。
それに較べると、武蔵は自分ながら、自分には「かね」を軽視し、経済を度外視している欠点があることに気づく。
大きな経策には関心をもつのであるが、自己の小さい経済には、ほとんど無関心なのである。そして幼い伊織にさえその「私の経済」には、いつも心配を|煩《わずら》わしている。
(この少年は、自分にはない才能を持っているようだ)
武蔵は、馴じむほど、伊織の性格の中に、次第に磨かれてくる聡明をたのもしく思った。それは彼自身にもまた、別れた城太郎にもないものだと思った。
「どこへ泊ろうな、今夜は」
武蔵には、|的《あて》がない。
伊織は、めずらしげに、町ばかり見廻していたが、やがて異郷の中に、自分の友達でも見つけたように、
「先生、馬がたくさんいるよ。町の中にも馬市が立つんだね」
と軽い昂奮をして指さす。
|博《ばく》|労《ろう》が集まって、博労茶屋や博労宿が無秩序に|殖《ふ》えだしたので、近頃「ばくろ|町《ちょう》」と呼ばれている辻の辺りから――馬の背が無数に並んでいる。
|市《いち》へ近づくと、|馬《うま》|蠅《ばえ》と人間がわんわんいっている。関東|訛《なま》りの、あらゆる地方語で|喚《わめ》いているので、なんの意味やら分らない騒音になっている。
従者をつれた武家の者が、頻りと名馬を探し求めていた。
世間に人材が乏しいように、馬の中にも、名馬が少ないものとみえ、その侍は、
「もう帰ろうわえ、一匹も殿へお|薦《すす》めできるような馬はおりやせん」
こういい放って、馬の間から大股に身を|反《そ》らした時、はたと、武蔵と正面に出会った。
「おう」
と、その侍は、胸を|反《そ》らし、
「宮本|氏《うじ》ではないか」
武蔵もその顔を見つめて、同じように、
「おう」
と、顔を|綻《ほころ》ばせた。
それは|大和《や ま と》の柳生ノ庄で、親しく新陰堂へ招かれたこともあるし、一夜を剣談に|更《ふ》かしたこともある――柳生石舟斎の高足木村助九郎であった。
「いつから江戸表へござったな。意外な所で、お目にかかったのう」
と、助九郎は、武蔵のすがたを見て、武蔵が今なお、修行の|途《と》にまみれている様子を見て取ったようにいった。
「いや、たった今、|下総領《しもうさりょう》から来たばかりです。大和の大先生にも、その後、お|健《すこ》やかでおられますか」
「ご無事でござる。したが、もう何分、ご高齢でな」
といって、すぐ、
「いちど但馬守様のおやしきにも、お越しがあるとよい。お|紹介《ひ き あ》わせもしようし……それに」
と助九郎は、何の意味か、武蔵の|面《おもて》を見つめながら、にっと笑った。
「貴公の美しい落し物が、お邸へ届いておるぞ。ぜひ一度、訪ねてござらっしゃい」
――美しい落し物。
はて? 何だろう。助九郎は|仲間《ちゅうげん》を連れてもう往来の向う側へ、大股に移っていた。
|蠅《はえ》
ここは裏町――つい今し方、武蔵の|彷徨《さ ま よ》っていた|博労町《ばくろちょう》の裏通りである。
隣も|旅籠《は た ご》屋、その隣も旅籠屋、一町内の半分が、汚い旅籠屋であった。
泊り賃が安いので、武蔵と伊織はそこへ泊った。ここの家にもあるが、何処の旅籠屋にも、|馬《うま》|舎《や》が付きものになっていて人間の宿屋というより、馬の宿屋といったほうが近かった。
「お侍さま、表の二階だと、少しは|蠅《はえ》が少のうございますで、部屋をお取替いたしますべ」
と、博労でない客の武蔵を、ここの旅籠では少し持ち扱い気味。
勿体ない、きのうまでの開墾小屋の生活から較べれば、ここはこれでも畳のうえ。――にも|関《かかわ》らずつい、
(ひどい蠅だなあ)
と|呟《つぶや》いたのが、気にでも|障《さわ》ったふうに、旅籠のかみさんの耳にはいったものとみえる。
だが――好意のままに、武蔵と伊織は、表二階へ移った。ここはまた、かんかんと|西《にし》|陽《び》が|映《さ》している。――すぐそう思うだけでも、気持が贅沢に変っているのだと思いながら、
「よしよし。ここでいい」
と、独り|宥《なだ》めて落着いた。
ふしぎなのは人間をつつむ文化の雰囲気である。つい昨日までいた開墾小屋では、強い西陽は|苗《なえ》の育ちを思い、あしたの晴朗な気が|卜《ぼく》されて、この上もない光明であり希望であった。
汗の肌にたかる蠅を、土に働いている時は気にもならないし、むしろ、
(おまえも生きているか。おれも生きて働いているぞ)
といいたいくらい、自然の中に生命を持つ友達にさえ思えるのに、大河を一つ越えて、この|熾《さかん》な勃興都市の一員となるとすぐ、
(西陽があつい。蠅がうるさい――)
などという神経と共に、
(なんぞ|美味《うま》い物でも喰いたいなあ)
と、思う。
そういう人間の横着な変り方は、伊織の顔にもありありと出ている。むりもないことには、すぐ横隣で博労の一群れが、鍋に物を煮て、騒がしく酒を飲んでいるのだ。法典の開墾小屋では、|蕎麦《そば》を喰べたいと思えば、春先|種子《たね》を|蒔《ま》き、夏花を見て、秋の暮に実を乾し、ようやく冬の夜粉を|挽《ひ》いて喰べるのだが、ここでは手一つ叩いて、打ってもらえば、|一《いっ》|刻《とき》もすると、蕎麦が出てくる。
「伊織、蕎麦を喰おうか」
武蔵がいうと、
「うん」
と、伊織は|唾《つば》をのんで|欣《うれ》しそうに|頷《うなず》く。
そこで|旅籠《は た ご》のかみさんをよんで、|蕎麦《そば》を打って貰えるかと|計《はか》ると、|他《ほか》のお客からもご注文があるから、きょうは打って上げてもいいという。
蕎麦のできて来る間、西陽の窓に頬杖ついて、下の往来をながめていると、すぐ|斜《すじ》|向《むこ》うに、
[#ここから2字下げ]
|御《おん》たましい|研所《とぎどころ》
|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》門流|厨《ず》|子《し》|野《の》耕介
[#ここで字下げ終わり]
と読める板が軒先に出ている。
それを先に見つけたのは、眼のはやい伊織で、さも驚いた顔しながら、
「先生、あそこに、御たましい研所と書いてあるけれど、何の商売でしょう?」
「本阿弥門流とあるから、刀の|研《とぎ》|師《し》であろう。――刀は武士のたましいというから」
そう答えて、武蔵は、
「そうだ、わしの刀も、いちど手入れしておかねばなるまいな。後で、訊ねてみよう」
と、呟いた。
その時、|襖隣《ふすまどなり》で、なにか喧嘩が始まった。いや喧嘩ではなく、賭博のもつれで、なにか|紛争《あらそい》が起ったらしいのだ。――武蔵は、なかなか来ない蕎麦の待ち遠しさに、手枕をかって、とろとろしていたが、ふと眼をさまして、
「伊織。隣の衆へ、少しお静かにしてくださいと申せ」
といいつけた。
そこの境を開ければ、すぐ事は済むが、武蔵の横になっている姿が先に見えるので、伊織は、わざわざ廊下へ出て、隣の部屋へ、いいに行った。
「おじさん達、あんまり騒がないでおくれよ。|此方《こ っ ち》に、おらの先生が寝ているんだから」
すると、
「何?」
と、博労たちは、賭博の|紛争《も つ れ》に血ばしった眼を、一|斉《せい》に伊織の小さい姿へ移した。
「なんだと、小僧」
伊織は、その無礼に、むっとして口を|尖《とが》らしながら、
「蠅がうるさいから、二階へ越して来たら、またみんなが騒いでいて|喧《やかま》しくってしようがないや」
「てめえがいうのか、てめえの主人でも、そういって来いといったのか」
「先生がさ」
「いいつけたんだな」
「誰だって、うるさいよ」
「ようし、てめえっちのような、兎の|糞《くそ》みてえなチビに、挨拶しても仕方がねえ、後から、|秩《ちち》|父《ぶ》の熊五郎が返答にゆくから引っ込んでろ」
秩父の熊か|狼《おおかみ》か分らないが、なにしろ|獰《どう》|猛《もう》そうなのが、その中に二、三人いる。
その|手輩《て あ い》に睨まれて、伊織はあわてて帰って来た。武蔵は、手枕の|肱《ひじ》へ薄く眼をつぶって眠っている。その|裾《すそ》に西陽もだいぶ|陰《かげ》って、足の先と、|襖《ふすま》の端の残り陽に、大きな蠅が真っ黒にたかっていた。
起してはいけないと思って、伊織はそのまま黙って、また往来を|視《み》ていた。――しかし、隣の部屋の|喧《やかま》しさは前と少しも変りはない。
こちらから持って行った抗議の衝動をうけて、賭博の紛争は沙汰止みになったらしいが、その代り今度は団結して、無礼にも、境のふすまを細目に開けて覗いたり、暴言を放ったり、|嘲笑《あざわら》ったりしているのだった。
「ええこう、どこの牢人か知らねえが、江戸の真ン中へ風に吹かれて来やがって、しかも博労宿にのさばりながら、うるせえもねえもンじゃねえか。うるせえなあ、おれっちの持ち前だ」
「つまみ出しちまえ」
「わざと、ふてぶてしそうに、寝ていやがるぜ」
「侍なんぞに、驚くような骨の細い博労は、関東にゃいねえってことを、誰か、よく聞かして来いよ」
「いっただけじゃだめだ、裏へ|抓《つま》み出して、馬の小便で顔を洗わせちまえ」
すると|先刻《さ っ き》の――秩父の熊とか鷹とかいう男が、
「まあ、待て。ひとりや二人の|乾《ほし》|飯《い》ざむらい、騒ぐにゃ当らねえ。おれが懸合いに行って、|謝《あやま》り証文を取って来るか、馬の小便で顔を洗わせるか、かた[#「かた」に傍点]をつけてやるから|汝《てめえ》たちは静かに呑みながら見物していろやい」
「おもしれえ」
と、博労たちは、|襖《ふすま》の陰に鳴りをしずめた。
その者たちから見ると、頼みがいある|面《つら》だましいを持った博労の熊五郎は、腹帯を締め直して、
「へい、御免なすって」
と、|間《あい》の襖をあけ、上眼づかいに、相手を見ながら、膝で這いずりこんだ。
武蔵と、伊織のあいだに、|誂《あつら》えておいた|蕎麦《そば》がもう来ていた。大きな|塗《ぬり》の蕎麦箱の中に、蕎麦の玉が六ツ並んでいて、その一山を、|箸《はし》で|解《ほぐ》しかけていた所である。
「……あ、来たよ先生」
伊織はびっくりして、そこを|退《の》いた。熊五郎は、その後へ、大あぐらを掻いて坐りこみ、両手の|肱《ひじ》を膝へついて、|獰《どう》|猛《もう》な|面《つら》がまえを頬杖に乗せながら、
「おい牢人。喰うなあ後にしちゃあどうだ。胸につかえているくせに、何も落着きぶって、無理に喰うにゃあ当らねえだろうに」
――聞えているのかいないのか、武蔵は笑いながら、次の箸にまた蕎麦をほぐして、|美味《うま》そうに|啜《すす》りこんだ。
熊はかん筋を立てて、
「止せっ」
と、ふいに呶鳴った。
武蔵は、箸と、蕎麦汁の茶わんを持ったまま、
「そちは、誰だ?」
「知らねえのか。博労町へ来ておれの名を知らねえ奴あ、もぐりか、つんぼぐれえなものだぞ」
「拙者もすこし耳が遠いほうだから、大きな声でいえ。どこのなにがしだ」
「関東の博労なかまで、秩父の熊五郎といやあ、泣く子もだまる暴れ者だが」
「……ははあ。馬仲買か」
「侍あいての商売で、生き馬を扱ってる人間だから、そのつもりで挨拶しろい」
「なんの挨拶?」
「たった今、その|豆《まめ》|蔵《ぞう》をよこしやがって、うるせえとか、|喧《やかま》しいとか、きいたふうな|御《ご》|託《たく》を並べやがったが、うるせえな博労の地がね[#「がね」に傍点]だ。ここは殿様|旅籠《は た ご》じゃねえぞ、博労の多い博労宿だ」
「心得ておる」
「心得ていながら、おれっちが遊び事をしている場所へ、何でケチをつけやがるんだ。みんな腐って、あの通り、壺を蹴とばして、てめえの挨拶を待っているんだ」
「――挨拶とは?」
「どうもこうもねえ、博労の熊五郎様、|他《ほか》一統様へ宛て、|詫証文《わびじょうもん》を書くか、さもなけれや、てめえを裏口へしょッぴいて、馬の小便で|面《つら》を洗わしてくれるんだ」
「おもしろいな」
「な、なにを」
「いや、おまえ達の仲間でいうことは、なかなかおもしろいと申すのだ」
「たわ言を聞きに来たんじゃねえ。どっちとも、はやく返答しろい」
熊は、自分の声に、昼間の|酔《よい》をよけいに顔へ出して呶鳴った。額の汗が、西陽に光って、見る者の眼にも暑苦しい。それでもまだ、熊は|威《い》|嚇《かく》が足らないと思ったか、胸毛だらけな|諸《もろ》|肌《はだ》を脱いで、
「返答に依っちゃ、ただは|引《ひき》|退《さ》がらねえぞ。さ、どっちとも、早く|吐《ぬ》かせ」
|肚《はら》|巻《まき》から出した短刀を、|蕎麦《そば》箱の前へ突き立てて、あぐらの|脛《すね》をさらに大きく組み直した。
武蔵は、笑みをつつみながら、
「――さ。どっちにしたがよいかなあ」
汁茶碗の手を少し下げ、箸の手を蕎麦箱へ伸ばして、蕎麦のたま[#「たま」に傍点]にたかっている|塵《ごみ》でも取っているのか、何か|挟《はさ》んでは、窓の外へ|抛《ほう》っていた。
「…………」
てんで相手にされていないふうなので、熊は青筋を太らせて、ぐいと眼だまを|剥《む》き直したが、武蔵はなお黙然と、蕎麦のうえの塵を箸で取り|退《の》けている。
「……?」
ふと、その箸の先に気のついた熊は、剥いた眼を、いやが上にも大きくして、息もせずに、武蔵の箸に、気もたましいも抜かれてしまった。
|蕎麦《そば》の上にたかっている黒いものは、無数の蠅であった。武蔵の箸が行くとその蠅は、逃げもせず、黒豆を挟むように素直に挟まれてしまうのだった。
「……|限《き》りがないわい。伊織、この箸を洗って来い」
伊織が、それを持って、外へ出ると、その隙間に、博労の熊も、消えるように隣の部屋へ逃げこんで行った。
しばらくごそごそしていたかと思うと、またたくまに、部屋替えをしたものとみえ、|襖《ふすま》の向うには人声もしなくなった。
「伊織、せいせいしたな」
笑い合って、蕎麦を食べ終えた頃、夕陽も|陰《かげ》って、|研《とぎ》|屋《や》の屋根の上に、細い夕月が見えていた。
「どれ、おもしろそうな前の研師へ|研《とぎ》を頼みに行って来ようか」
だいぶ荒使いをして|傷《いた》めている無銘の|一《ひと》|腰《こし》――それを|提《ひっさ》げて、武蔵が立上がった時、
「お客さん、どっかのお侍が手紙を置いて行かしゃりましたが」
と、黒い|梯《はし》|子《ご》だんの下から、宿のおかみさんが、一通の封書をつき出した。
(はて、何処から?)
と封の裏を見ると、
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[#ここで字下げ終わり]
とただ一字しか書いてない。
「使いは?」
武蔵が問うと、宿のおかみさんは、もう帰りましたといいながら、帳場に坐る。
梯子だんの途中に立ったまま武蔵は封を切ってみた。「助」の字は、きょう馬市で出会った木村助九郎のこととすぐ読めた。
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けさ程のお出会い、殿のお耳に入れ候処、|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》様、
なつかしき男と|被仰《おおせな》され候
お越しの日、いつ頃にやとのおことば、折返してお便り待入申候
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]すけくろう
「お|内儀《かみ》、そこの筆をかしてくれぬか」
「こんなので、よろしゅうございましょうか」
「うむ……」
と帳場のわきへ立ち寄って、助九郎の手紙の裏へ、
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武辺者には、ほかに用もなし。ただたじま|守《のかみ》様、御試合たまわるなれば、何時なりと|伺《し》|候《こう》申すべく候
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]政  名
政名というのは武蔵の名のりである。そう書いて巻き直し、封も先の裏をつかって、
[#ここから2字下げ]
柳生どの御内
助どの
[#ここで字下げ終わり]
と宛てて書く。
梯子だんの下から見上げて、
「伊織」
「はい」
「使いに行ってくれ」
「どこへですか」
「柳生但馬守さまのお|邸《やしき》へ」
「はい」
「所はどこか、知っておるまい」
「聞きながら参ります」
「む、賢い」
と、武蔵は頭をなでて、
「迷わずに行って来いよ」
「はい」
伊織はすぐ草履を|穿《は》く。
宿のおかみさんはそれを聞いて、柳生様のお邸なら誰でも知っているから、聞きながら行っても分るが、ここの本通りを出て、街道をどこまでも真っすぐに行き、日本橋を渡ったら、河に沿って左へ左へとおいで――そして|木挽町《こびきちょう》と聞いて行くんだよと、親切に教えてくれる。
「あ。あ。わかったよ」
伊織は、外へ出られるのが|欣《うれ》しかった。しかも使いの行く先が、柳生様だと思うと、手を振って歩きたくなった。
武蔵も、草履を|穿《は》いて、往来へ出た。――そして伊織の小さい姿が、博労宿と鍛冶屋の四つ角を左へ曲がったのを見届けて、
(すこし|賢《かしこ》すぎる)
と、ふとそんなことを思いながら――宿の|斜《すじ》|向《むか》いの「|御《おん》たましい|研所《とぎどころ》」の板が出ている店を|覗《のぞ》いた。
店といっても、格子のないしもた|家《や》みたいな構えで、商品らしい物は何も見あたらない。
はいるとすぐ、奥の|細《さい》|工《く》|場《ば》から台所まで|繞《めぐ》っているような土間だった。右側は一だん高い|框《かまち》になっていて六畳ばかり敷いてある。そして、そこを店とすれば、店と奥との|堺《さかい》には、|注連《しめ》が張り廻してあるのが――すぐ武蔵の眼についた。
「御免」
と、武蔵は土間に立った。――わざわざ奥へ向っていったのではない。――すぐそこの何もない壁の下に、たった一つある頑丈な刀箱に頬杖をついて、絵に描いた|荘《そう》|子《し》のように、居眠りをしている男がある。
それが亭主の|厨《ず》|子《し》|野《の》|耕《こう》|介《すけ》という男らしいのである。肉の薄い、そして|粘《ねん》|土《ど》のような青い顔には研師のようなするどさも見えない。|月代《さかやき》から|顎《おとがい》までは、怖ろしく長い顔に見えた。その上にまた、長々と、刀箱から|涎《よだれ》をたらして、何時覚むべしとも見えない|体《てい》なのである。
「ごめん!」
少し声を張って、武蔵はもう一度、荘子の寝耳を訪れた。
かたな談義
武蔵の声が、ようやく耳にはいったとみえ、|厨《ず》|子《し》|野《の》|耕《こう》|介《すけ》は、百年の眠りから今|醒《さ》めたように、おもむろに顔を上げて、
「……?」
おや、といいたげに、武蔵のすがたを、まじりまじり眺めている。
|程《ほど》|経《へ》て、
「いらっしゃいまし」
やっと、自分が居眠っていたところへ客が来て、何度も起されたことを|覚《さと》ったらしい。にたりと、|涎《よだれ》のあとを|掌《て》でこすって、
「何か御用で」
と、膝を直していう。
怖ろしく|暢《の》んびりした男である。看板には「|御《おん》たましい|研所《とぎどころ》」と高言しているが、こんな男に武士の魂を研がせたら、とんだ|鈍《なまく》ら|刀《がたな》になってしまうのではあるまいか――一応案じられもする。
だが、武蔵が、
「これを」
と、自分の一腰を差し出して、|研《と》ぎをかけてもらいたいというと、耕介は、
「拝見いたします」
さすがに、刀に|対《むか》うと、痩せた肩を、|突《とっ》|兀《こつ》と|聳《そび》え立て、片手を膝に、片手を伸ばして、武蔵の腰の|刀《もの》を取って、|慇《いん》|懃《ぎん》に頭を下げた。
人間が来た時には、ぶあいそに下げもしなかった頭を、刀に対しては、まだそれが名刀か鈍刀かも知れないうちから――まず鄭重にこの男は礼儀をする。
そして懐紙をふくみ、|鞘《さや》をはらって、静かに、肩のあいだに白刃を立てながら、せっぱから切先まで、ずっと眼をとおしているうちに、この男の眼は、どこからかべつな物を持って来て|篏《は》めこんだように、|爛《らん》として、|耀《かがや》きだした。
ぱちんと、鞘におさめ、何もいわずにまた、武蔵の顔を見ていたが、
「お上がりくだされい」
ずっと膝を|退《ひ》いて、初めて円座をすすめる。
「では」
と、武蔵は辞退せずに上がって坐った。
刀の手入れも手入れであるが、実をいえば、ここの板看板に|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》門流としてあったので、|京出《きょうで》の|研《とぎ》|師《し》に違いないと思うと同時に、恐らく本阿弥家の|職方《しょくかた》長屋の一門下であろうとも考えられ、その後久しく消息を欠いている光悦はご無事か――また、いろいろ世話になった光悦の母|妙秀尼《みょうしゅうに》もご息災か――そうしたことも聞けるであろうと思って、にわかに、|研刀《とぎ》の頼みをかこつけて来たわけであった。
だが耕介は、元よりそんな縁故を知ろうはずもないので、並扱いにしているにちがいないが、武蔵の腰の|刀《もの》を見てから、どこか改まって、
「お刀は、重代のお持ち|刀《もの》でござりますか」
と、訊く。
武蔵は、いやべつにそんな来歴のある品ではないと答えると、耕介はまた、では戦場で使った刀か、それとも常用の刀かなどと訊ね、武蔵が、
「戦場で使ったことはない。ただ、持たないには|勝《まさ》ろうかと、常に帯びている刀で、銘も素姓もない|安刀《やすがたな》でござる」
と、説明すると、
「ふむ……」
と、耕介は、相手の顔を見まもりながら、
「これを、どう|研《と》げというご注文ですか」
と、いう。
「どう研げとは?」
「斬れるように研げと仰っしゃるのか、斬れぬ程でもよいと仰っしゃるのか」
「元より、斬れるに越したことはない」
すると耕介は、さもさも驚嘆するような顔をして、
「え。この上にも」
と、舌を巻いていった。
斬れるべく研ぐ刀である、斬れるだけ斬れるように研ぐのが研師の腕ではないか。
武蔵が|不審《い ぶ か》り顔に、耕介の顔を見ていると、耕介は首を振って、
「てまえには、この刀は、お研ぎできません。どうか|他《ほか》へ研ぎにやって下さるように」
と、武蔵の腰の|刀《もの》を押しもどした。
わけのわからない男、なぜ研げないというのかと、断られた武蔵は、やや不快な顔いろをつつめなかった。
――で、彼が黙っていると、耕介も、ぶあいそに、いつまでも、口を|緘《つぐ》んでいる。
すると門口から、
「耕介どん」
と、近所の者らしい男が覗きこんで――
「お宅に、|釣《つり》|竿《ざお》があったら貸しておくれぬか。――今なら、そこの河端に、上げ|汐《しお》に乗って、うんとこさと魚が来て跳ねているので、いくらでも釣れるでな、釣ったら晩のお菜を分けて上げるから、釣竿があったら貸して下され」
と、いった。
すると耕介は、他にも、機嫌のわるいものが胸にあったところとみえて、
「わしの家には、殺生をする道具などはないっ。ほかで借りたがいい」
と、呶鳴った。
近所の男は、びっくりしたように行ってしまった。――そして後は、武蔵を前に、|苦《にが》りきっているのであった。
だが、武蔵は、漸くこの男のおもしろさを見出していた。そのおもしろさというのは、才や機智のおもしろさではない。古い|陶器《やきもの》に見立てていうならば、巧みも|見《み》|得《え》もない土味を|剥《む》き出しに、どうなと見たいように見てくれとしているノンコウ茶碗か|唐《から》|津《つ》徳利みたいな味の男だった。
そういえば、耕介の横びんに|薄《うす》|禿《はげ》があって、鼠に|齧《かじ》られたような|腫物《できもの》に、|膏《こう》|薬《やく》が貼ってあるところなど――|窯《かま》の中で|傷《きず》になった|陶器《やきもの》の自然のくッつき[#「くッつき」に傍点]とも見えて、一だんと、この男の|風《ふ》|情《ぜい》を増して見えないこともない。
武蔵は、こみあげて来るおかしさを、顔には見せぬ程に|和《なご》んで、
「御主人」
と|程《ほど》|経《へ》ていった。
「はい」
と気のない答えよう。
「――なぜこの刀は、研げないのでござろうか。研いでも|効《か》いのない|鈍刀《なまくら》というわけであろうか」
「うんにゃ」
と、耕介は首をふって、
「刀は、持主のそこもと様が、誰よりようご存じじゃろが、|肥《ひ》|前《ぜん》|物《もの》のよい刀でおざる。――ですがの、実をいえば、斬れるようにというお望みが気にくわんでな」
「ほ。……なぜで」
「誰も彼も、およそ刀を持って来る者が、一様にまずいう注文が――斬れるように――じゃ。斬れさえすればいいものと思うておる。それが気に喰わぬ」
「でも、刀を研ぎによこすからには」
いいかける武蔵のことばを、耕介は、手で抑えるような恰好をして、
「まあ、待たっしゃい。そこのところを説くと話は長くなる。わしの家を出て、門の看板を読み直してもらいたい」
「|御《おん》たましい|研所《とぎどころ》――としてござった。|他《ほか》にまだ読みようがござりますか」
「さ。そこでござる。わしは刀を研ぐとは看板に出しておらぬ。お侍方のたましいを研ぐものなりと――人は知らず――わしの習うた|刀研《かたなとぎ》の宗家では教えられたのじゃ」
「なるほど」
「その教えを奉じますゆえ、ただ斬れろ斬れろと、人間を斬りさえすれば偉いように思うているお侍の刀などは――この耕介には研げんというのじゃ」
「ウム、一理あることと聞え申した。――してそういう風に子弟に教えた宗家とは、何処の誰でござるか」
「それも、看板に|誌《しる》してあるが――京都の|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》|光《こう》|悦《えつ》さまは、わしの師匠でございます」
師の名を名乗る時は、それが自分の誇りのように、耕介は猫背をのばして|昂《こう》|然《ぜん》というのであった。
そこで武蔵が、
「光悦どのなら、実は自分も面識のある間で、|母《はは》|御《ご》の妙秀尼様にもお世話になったことがある」
と、その当時の頃の思い出を一つ二つ話すと、|厨《ず》|子《し》|野《の》|耕《こう》|介《すけ》は非常な驚き方をして、
「ではもしや貴方は、一乗寺下り松で、一世の剣名を|轟《とどろ》かせた、宮本武蔵様ではございませぬか」
と、眼をすえていう。
武蔵は、彼のことばが、誇張に聞えて、少しむず|痒《がゆ》く思いながら、
「されば、その武蔵でござる」
いうと耕介は、貴人へ|対《むか》い直すように、ずっと席を|退《さ》げて、
「よもや武蔵様とは知らず、先ほどから|釈《しゃ》|迦《か》に説法も同様な過言――どうぞ真っ平おゆるしのほどを」
「いやいや、御亭主のお話には、拙者も教えられるふしが多い。光悦どのが、弟子に|諭《さと》されたという言葉にも、光悦どのらしい味がある」
「ご承知の通り、宗家は室町将軍の中世から、刀のぬぐいや|研《とぎ》をいたして、|禁《きん》|裡《り》の|御《ぎょ》|剣《けん》まで承っておりまするが――常々師の光悦が申すことには――由来、日本の刀は、人を斬り、人を害すために鍛えられてあるのではない。|御《み》|代《よ》を|鎮《しず》め、世を護りたまわんがために、悪を|掃《はら》い、魔を追うところの|降《ごう》|魔《ま》の剣であり――また、人の道を|研《みが》き、人の上に立つ者が自ら|誡《いまし》め、自ら|持《じ》するために、腰に帯びる侍のたましいであるから――それを|研《と》ぐ者もその心をもって研がねばならぬぞ――と|何日《いつ》も聞かされておりました」
「む。いかにもな」
「それゆえ、師の光悦は、よい刀を見ると、この国の泰平に治まる光を見るようだと申し――悪剣を手にすると、|鞘《さや》を払うまでもなく、身がよだつと、嫌いました」
「ははあ」
と、思い当って、
「では、拙者の腰の|刀《もの》には、そんな悪気が御亭主に感じられたのではありませんか」
「いや、そうした|理《わけ》でもございませんが、てまえが、この江戸へ下って、多くの侍衆から、お刀を預かってみますと、誰あって、刀のそういう大義を分ってくれるお人がないのでござります。ただ、四つ胴を払ったとか、この刀は、|兜金《はちがね》から脳天まで切ったとか、斬れることだけが、刀だとしているような風でござります。で――、てまえはほとほと、この商売が|厭《いや》になりかけましたが、いやいやそうでないと思い直し、数日前から、わざと看板を書きかえて、|御《おん》たましい|研所《とぎどころ》と|認《したた》めましたが、それでもなお、頼みに来る客は、斬れるようにとばかりいって見えますので、気を腐らしていた所なので……」
「そこへ、拙者までが、|又《また》|候《ぞろ》同様なことをいって来たので、それでお断りなされたのか」
「あなた様の場合は、また違いまして――実は先ほど、お腰の物を見たせつなに、余りにひどい刃こぼれと、むらむらと、|拭《ぬぐ》いきれない無数の|精霊《しょうりょう》の|血脂《あ ぶ ら》に――失礼ながら、益なき殺生をただ誇る|素《す》|牢《ろう》|人《にん》が――といやな気持に打たれたのです」
耕介の口を|藉《か》りて、光悦の声がそこにしているように、武蔵は、さし|俯向《う つ む》いて聞いていたが、やがて、
「おことばの数々、よう分りました。――なれどお案じ下さるまい、物心ついてより持ち馴れている刀なので、その刀の|精神《こ こ ろ》を特に考えてみたこともなかったが、今日以降は、よく胸に銘じておきまする」
耕介は、すっかり気色を好くして、
「ならば、研いでさし上げましょう。いや、あなた様のような侍のたましいを、研がせていただくのは研師の|冥加《みょうが》と申すもので」
と、いった。
いつか|燈火《あ か り》が|点《とも》っている。
刀の|研《とぎ》を頼んで、武蔵が戻ろうとすると、
「失礼ですが、代りの差料をお持ちでござりますか」
と、耕介がいう。
ないと答えると、
「では、たいして良い刀ではございませんが、|一《ひと》|腰《こし》、その間だけ、宅にある物をお用い下さいまし」
と、奥の部屋へ招く。
そして刀|箪《だん》|笥《す》や刀箱から、耕介が選び出した数本をそれへ並べて、
「どれでも、お気に召した物を、どうぞ」
と、いってくれた。
武蔵は、眼も|眩《くら》む心地がして、選び取るのに迷った。元より彼も、良い刀は欲しかったが、今日まで、彼の|貧《ひん》|嚢《のう》ではそれを望んでみる余裕すらなかった。
けれど、良い刀には、必然な魅力がある。武蔵が今、数本の中から握り取った刀には、|鞘《さや》の上から握っただけでも、何かしら、それを|鍛《う》った刀鍛冶の魂が手にこたえてくるような気がした。
抜いて見ると、案のじょう、吉野朝時代の作かと思われるにおいの|麗《うるわ》しい刀である。武蔵は自分の今の境遇や気持には、やや優雅に過ぎるかと思ったが、燈下にそれを見入っているまに、もうその刀を手から離すのも惜しい気がして、
「では、これを――」
と、所望した。
拝借するといわなかったのは、もう是非に|関《かか》わらず、返す気持が起らなかったからである。名工の|鍛《う》った名作には、人の気持をそこまでつかむ怖ろしい力が必然あるのであった。武蔵は心のうち、耕介の返辞を待つまでもなく、どうかしてこれを、自分の持物にしたいと思った。
「さすがに、お目が高い」
耕介は後の刀を、仕舞いながらいった。
武蔵は、その間も、所有慾に|煩《はん》|悶《もん》した。売ってくれといえば、莫大な刀であろうし……などと思い惑ったが、どうしても抑えきれなくなって、いい出した。
「耕介どの、これを拙者に、お譲りくださるわけにはゆかないでしょうか」
「差上げましょう」
「お代は」
「てまえが求めた元値でよろしゅうございます」
「すると何程」
「金二十枚でございます」
「…………」
武蔵は、よしない望みと、よしない煩悶を、ふと|悔《く》いた。そんな金のある身ではなかった。で、彼はすぐ、
「いや、これは、お返しいたしましょう」
と、耕介の前へ戻した。
「なぜですか」
と、耕介はいぶかって――
「お買いにならずとも、いつまでも、お貸し申しておきますから、どうかお使いなさいまして」
「いや、借りておるのは、なおさら心もとない。一目見ただけでも、持ちたいという慾望にくるしむのに、持てぬ刀と分りながら、しばしの間身に帯びて、またそちらへ返すのは辛うござる」
「それほど、お気に召しましたかな……」
と耕介は、刀と武蔵とを見くらべていたが、
「よかろう、それまでに、恋いなされた刀なら、|此刀《これ》はあなたへ嫁にあげるとしよう。その代りに、あなたも手前に、何か、身に応じたことをして下さればよい」
|欣《うれ》しかった。武蔵は遠慮なく、まず貰うことを先に決めた。それから礼を考えるのであったが、無一物の一|剣《けん》|生《せい》には、何も|酬《むく》いる物がなかった。
すると耕介が、あなたは彫刻をなさるそうで、そんなことを、師の光悦から聞いていましたが、何か、観音像のような物でも、ご自分で彫った物があったら、それを手前に下さい。それと取換えということにして、刀は差上げましょう――と、彼の|工《く》|面《めん》|顔《がお》を、救うようにいってくれた。
手すさびの観音像は、久しく旅包みに負って持ち歩いていたが、法典ケ原に|遺《のこ》して来たので、今はそれもない。
で数日の余裕を与えてくれれば特に彫っても、この刀を所望したい――と武蔵がいうと、
「元より、直ぐでなくても」
と、耕介は当然のこととしているのみか、
「|博《ばく》|労《ろう》|宿《やど》にお泊りなさるくらいなら、てまえどもの細工場の横に、中二階の一|間《ま》が空いておりますが、そこへ移っておいでなさいませんか」
と、願ってもないことだった。
では、|明日《あ し た》からそこを拝借して、事の|序《ついで》に観音像も彫りましょうと、武蔵がいうと耕介も|欣《よろこ》んで、
「それでは一応、そこの部屋を見ておいて下さい」
と、奥へ案内する。
「然らば」
と、武蔵は|従《つ》いて行ったが、元よりさして広い家でもない。茶の間の縁を突き当って五、六段のはしごを上がると、八畳の一室があり、窓のわきの|杏《あんず》の|梢《こずえ》が、若葉に夜露をもっていた。
「あれが、|研《とぎ》をする仕事場なので――」
と|主《あるじ》が指さす小屋の屋根は、|牡蠣《かき》の貝殻で|葺《ふ》いてあった。
いつの間に|吩咐《い い つ》けたのか、耕介の女房がそこに|膳《ぜん》を運んで来て、
「まあ、一|献《こん》」
と、夫婦してすすめる。
杯が交わされてからは、客でもなく|主《あるじ》でもなく、膝をくずして、お互いに|胸襟《きょうきん》をひらき合ったが、話は、刀のほかには出ない。
その刀のこととなると、耕介は眼中に人もない。青い頬は少年のように|紅《あか》らみ、口の両端に|唾《つば》を噛み、ともすれば、その唾が相手へ飛んで来ることも意に介さない。
「刀は、わが国の神器だとか、武士のたましいだとか、皆口だけでは仰っしゃるが、刀をぞんざいにすることは、侍も町人も神官も、みな甚だしいものですな。――てまえは或る志を抱いて、数年間、諸国の神社や旧家を訪れ、古刀のよい物を|観《み》ようものと歩いたことがありますが、古来有名な刀で満足に秘蔵されている物が余りに|尠《すく》ないので悲しくなりましたよ。――例えば、信州|諏《す》|訪《わ》神社には三百何十|口《ふり》という古来からの奉納刀がありますが、この中で、|錆《さび》ていなかったのは、五|口《ふり》ともありませんでしたな。また、|伊《い》|予《よの》|国《くに》の大三島神社の|刀蔵《かたなぐら》は有名なもので、何百年来の所蔵が三千|口《ふり》にも上っておりますが、凡そ一ヵ月も|籠《こも》って調べたところ、三千口のうち光っている刀は十口ともなかったという、実に呆れた有様です」
――それからまた、彼は、こうもいう。
「伝来の刀とか、秘蔵の名剣とか、聞えている物ほど、ただ大事がるばかりで、|赤鰯《あかいわし》にしてしまっているのが多いようです。かあいい子を盲愛しすぎて、お馬鹿に育ててしまう親のようなものですな。いや人間の子は、後からでも良い子が生れるから、数の中には、世間の賑わいに、少しはお馬鹿が出来てもいいかも知れませんが、刀はそうは参りませんぞ――」
と、ここでは口ばたの|唾《つば》をいちど収め、眼の光を改めて、痩せた肩をいちだんと|尖《とが》り立てる。
「刀は、刀ばかりはですな。どういうものか、時代が下るほど、悪くなります。室町から下って、この戦国になってからは、|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、鍛冶の腕が|荒《すさ》んで参りました。これから先も、なおなお、悪くなって行くばかりじゃないかと思われるんで――古刀は大事に守らなければいけないとてまえは思う。いくら今の鍛冶が、|小《こ》|賢《ざか》しく、真似てみても、もう二度と、この日本でもできない名刀を――実に、|可惜《あ た ら》くやしいことじゃございませんか」
と、いうと、何思ったか、ふと立ち上がって、
「これなども、やはり|他《よそ》から|研《とぎ》を頼まれて、預かっている名刀の一つですが、ごらんなさい、惜しい|錆《さび》をわかせています」
と、怖ろしく長い太刀作りの一刀を持ち出して来て、武蔵の前へ、話題の実証として置いた。
武蔵は、その長剣を何気なく見て、はっと驚いた。これは佐々木小次郎の所有する「物干竿」にちがいなかった。
考えてみれば不思議はない。ここは|研《とぎ》|師《し》の家であるから、誰の刀が預けられてあろうとも、べつだん奇とするには当らない。
けれど、佐々木小次郎の刀を、ここで見ようとは思いがけないことと、武蔵は追想に耽りながら、
「ほ、なかなか|長刀《ながもの》でござりますな。これほどな刀を差しこなす者は、相応な侍でございましょう」
と、いった。
「さればで」
と、耕介も合点して、
「多年、刀は|観《み》ていますが、これほどな刀は、まあ|尠《すく》ない。ところが――」
物干竿の|鞘《さや》をはらい、みね[#「みね」に傍点]を客の方へ向けて|柄《つか》を手渡しながら、
「ごらんなさい、惜しい|錆《さび》が三、四ヵ所もある。しかし、そのままだいぶ使ってもいる」
「なるほど」
「幸い、この刀は、鎌倉以前の稀れな名工の鍛刀ですから、骨は折れますが、|錆《さび》の曇りも|脱《と》れましょう。古刀の錆はサビても薄い|膜《まく》にしかなっておりませんから。――ところが近世の新刀となると、これほど錆させたらもうだめですわい。新刀の錆は、まるで|質《たち》のわるい|腫物《できもの》のように|地《じ》|鉄《がね》の|芯《しん》へ腐りこんでいる。そんなことでも、古刀の鍛冶と、新刀の鍛冶とは、|較《くら》べ|物《もの》になりはしません」
「お納めを」
と、武蔵もまた、刃を自分のほうに向け、みね[#「みね」に傍点]を耕介の方にして刀を返した。
「失礼ですが、この刀の依頼主は、この|家《や》へ、自身で見えましたか」
「いえ、細川家の御用で伺いました時、御家中の岩間角兵衛様から、戻りに|邸《やしき》へ寄れと申され、そこで頼まれて参りましたので。――何か、お客の品だとかいいましたよ」
「|拵《こしら》えもよい」
|燈《ともし》の下に、武蔵がなお、しげしげと見入りながら|呟《つぶや》くと、
「太刀作りなので、今までは肩に負って用いていたが、腰へ差せるように、|革《あらた》めてくれという注文ですが、よほどな大男か、腕に覚えがないと、この|長刀《ながもの》を腰にさして扱うには難しい」
と、耕介も、それを見ながら、呟くようにいった。
酒も体にまわり、だいぶ|主《あるじ》の舌もくたびれて来たらしい。武蔵は、この辺でと思い立ち、|程《ほど》よく辞去して|戸外《お も て》へ出てきた。
外へ出てすぐ感じたことは、町の何処一軒も起きていない暗さであった。そう長い時間とも思わなかったが、案外長坐していたものとみえる。夜はもうよほど|更《ふ》けているに違いなかった。
しかし|旅宿《やど》はすぐ|斜《すじ》|向《むか》いなので何の苦もない。開いている戸の間からはいって、寝臭い暗闇を撫でながら二階へ上がった。――そして伊織の寝顔をすぐ見ることであろうと思っていたところ、二つの蒲団はしいてあるが、伊織の姿は見えないし、枕もきちんと並んでいて、まだ人の|温《ぬく》みに触れた気配もない。
「まだ帰らぬのであろうか」
武蔵は、ふと、案じられた。
馴れない江戸の町――どこをどう道に迷っているのかもわからない。
梯子だんを降り、そこに寝そべっている寝ずの番の男を揺り起して訊ねると、寝ぼけ|眼《まなこ》で、
「まだ帰っておいでなさらねえようですが、旦那と一緒じゃなかったのでございますか」
と、武蔵が知らないことを、かえって|不審《い ぶ か》り顔にいう。
「――はてな?」
このまま寝られもしない。武蔵は再び|漆《うるし》のような外の闇へ出て、軒下に立っていた。
道草ぎつね
「ここが|木挽町《こびきちょう》か」
と、伊織は疑った。
そして途々、道を教えてくれた者に対して、
「こんな所に、お大名の家なんかあるものか」
と、腹を立てて独り思った。
彼は、河岸に積んである材木に腰かけて、|火《ほ》|照《て》った足の裏を、草でこすった。
材木の|筏《いかだ》は、堀の中にも、水が見えないほど浮いていた。そこから二、三町先の|端《はず》れはもう海で、闇の中に、|潮《うしお》の白い|仄《ひら》めきだけしか見えはしない。
それ以外は、|渺《びょう》とした草原と、近頃、埋めたばかりの広い土だった。もっとも其処此処と、ポチポチ|灯《あか》りの影は見えるが、近づいて見ると、それは皆、|木《こ》|挽《びき》や|石《いし》|工《く》の寝小屋だった。
水に近い所には、材木と石ばかりが、山をなしていた。考えてみると、江戸城も|旺《さかん》に修築しているし、市街にもどんどん家屋が建って行くので、町というほど、木挽の小屋が集まっているのも道理である。けれど、柳生但馬守ともある人の|邸《やしき》が、こんな職人小屋の部落と並んであるのは変だ――いやあるものじゃない――と伊織の幼い常識でも考えられるのであった。
「困ったな」
草には夜露がある。板みたいに硬くなった草履を脱いで、|火《ほ》|照《て》った足で草を|弄《なぶ》っていると、その冷たさに、体の汗も乾いてきた。
尋ねる邸は知れないし、余りに夜も更けてしまって、伊織は、帰るにも帰れなかった。使いに来て、使いを果さずに帰ることは、子ども心にも、恥辱に思われた。
「宿屋のおばあが、いい加減なことを教えたから悪いんだ」
彼は、自分が、|堺町《さかいちょう》の芝居町で、さんざん道草をくって遅くなったことは、頭から忘れていた。
――もう訊く人もいない。このまま夜が明けてしまうのかと思うと伊織は、突然悲しくなって、木挽小屋の者でも起して、夜の明けないうちに、使いを果して帰らなければならないと、責任感に責められて来た。
で――彼はまた、歩き出した。そして掘建小屋の灯を頼りに歩き出した。
すると、一枚の|菰《こも》を、番傘のように肩に巻いて、その掘建小屋を覗き歩いている女があった。
鼠鳴きして、小屋の中の者を、呼び出そうとしては、失望して、|彷徨《さ ま よ》っている売笑婦であった。
伊織は、そういう種類の女が、何を目的にうろついているのか、元より知らないので、
「おばさん」
と、馴々しく声をかけた。
壁みたいな白い顔をしている女は、伊織をふり|顧《かえ》って、近くの酒屋の|丁《でっ》|稚《ち》とでも見違えたのか、
「てめえだろ、さっき、石をぶつけて逃げたのは」
と、睨みつけた。
伊織は、ちょっと、驚いた眼をしたが、
「知らないよ、おらは。――おらはこの辺の者じゃないもの」
「…………」
女は歩いて来て、ふいに、自分でおかしくなったように、げたげた笑いだした。
「なんだい。何の用だえ」
「あのね」
「かあいい子だね、おまえ」
「おら、使いに来たんだけど、お|邸《やしき》が分らないで困っているんだよ。おばさん、知らないか」
「どこのお邸へゆくのさ」
「柳生但馬守様」
「何だって」
女は、何がおかしいのか、下品に笑い|転《こ》けた。
「柳生様といえば、お大名だよおまえ」
と女は、そんな大身の所へ用があって行くという伊織の小さな身なりを、|見《み》|下《くだ》してまた笑った。
「――おまえなんぞが行ったって、御門を開けてくれるもんかね。将軍様の御指南番じゃないか。中のお長屋に、誰か知ってる人でもあるのかえ」
「手紙を持って行くんだよ」
「誰に」
「木村助九郎という人に」
「じゃあ、御家来かい。そんなら話は分ってるけれど、おまえのいってるのは、柳生様を懇意みたいにいうからさ」
「どこだい、そんなことはいいから、お邸を教えておくれよ」
「堀の向う側さ。――あの橋を渡ると、紀伊様のおくら屋敷、そのお隣が、|京極《きょうごく》主膳様、その次が加藤喜介様、それから松平|周防《すおうの》|守《かみ》様――」
女は、堀の向うに見える、浜倉だの、塀だのの棟を、指で数えて、
「たしか、その次あたりのお屋敷がそうだよ」
と、いう。
「じゃあ、向う側も、|木挽町《こびきちょう》っていうのかい」
「そうさ」
「なあんだ……」
「人に教えてもらって、なあんだとは何さ。だけど、おまえは可愛い子だね。あたしが、柳生様の前まで、連れて行って上げるからおいで」
女は、先に歩き出した。
|傘《からかさ》のお化けみたいに、|菰《こも》をかぶっている姿が、橋の中ほどまでゆくとすれ|交《ちが》った酒くさい男が、
「ちゅっ」
と、鼠鳴きして、女の|袂《たもと》に戯れた。
すると女は、連れている伊織のことなどは、すぐ忘れて、男のあとを追いかけて行き、
「あら、知ってるよこの人は。――いけない、いけない、通すもんか」
男を|捉《とら》えて、橋の下へ、引きずり込もうとすると、男は、
「はなせよ」
「いやだよ」
「かねがないよ」
「なくてもいいよ」
女は、モチみたいに男にねばりついたまま、ふと、伊織の呆ッ気にとられている顔を見て――
「もう分ってるだろ。わたしはこの人と用があるんだから先へおいで」
と、いった。
だが伊織は、まだ不思議な顔して、大人の男と女が、むき[#「むき」に傍点]になって争っている|状《さま》を眺めていた。
そのうちに、女の力が勝ったものか、男がわざと曳かれて行くのか、|男女《ふ た り》は橋の下へ、一緒に降りて行った。
「……?」
伊織は、不審を覚えて、こんどは橋の欄干から、下の河原をのぞいた。浅い河原には雑草が|萌《も》えていた。
ふと、上を見廻すと、女は、伊織が覗きこんでいるので、
「ばかッ」と、怒った。そして、|打《ぶ》ちかねない顔つきをして、河原の石を拾いながら、
「ませてる餓鬼だね」
と、投げつけた。
伊織は、胆をつぶして、橋の彼方へ、どんどん逃げだした。曠野の|一《ひと》ツ|家《や》に育った彼だが、今の女の白い顔ほど、|恐《こわ》いものを見たことはなかった。
河を背なかにして、倉がある、塀がある。また、倉がつづく、塀がつづく。
「あ、ここだ」
伊織は、独り言に、思わずそういった。
浜倉の白壁に、二階笠の紋が、夜目にもはっきり見えたからだ。柳生様は二階笠ということは、|流行《は や り》|歌《うた》でよく唄うので、はっと思い出したのであろう。
倉のわきにある黒い門が、柳生家にちがいない。伊織は、そこに立って、閉まっている門をどんどん叩いた。
「何者だっ」
叱るような声が、門の中から聞えた。
伊織も、声いっぱい、
「わたくしは、宮本武蔵の門人でございます。手紙を持って、使いに参りました」
と、呶鳴った。
それからも、ふた|言《こと》|三《み》|言《こと》、門番は何かいったが、子供の声をいぶかりながら、やがて、門を少し開けて、
「なんだ今時分」
と、いった。
その顔の先へ、伊織は、武蔵からの返事をつき出して、
「これを、お取次して下さい。ご返事があるなら、貰って帰ります。なければ、置いて帰ります」
門番は、手に取って、
「なんじゃ……? ……おいおい子ども、これは、御家中の木村助九郎様へ持って来た手紙じゃないか」
「はいそうです」
「木村様はここにはおらんよ」
「では、どこですか」
「|日《ひ》ケ|窪《くぼ》だよ」
「へ。……みんな木挽町だって、教えてくれましたが」
「よく世間でそういうが、こちらにあるお邸は、お住居ではない。お蔵やしきと、|御《ご》|普《ふ》|請《しん》お手伝いのためにある材木の御用所だけだ」
「じゃあ、殿様も御家来方も日ケ窪とやらにいるんですか」
「うむ」
「日ケ窪って、遠いんですか」
「だいぶあるぞ」
「どこです」
「もう御府外に近い山だ」
「山って?」
「|麻《あざ》|布《ぶ》村だよ」
「わからない」
伊織はため息をついた。
だが、彼の責任感は、なおさら彼をこのままで帰る気持にはさせない。
「門番さん、その日ケ窪とやらの道を、絵図に書いてくれないか」
「ばかをいえ。今から、|麻《あざ》|布《ぶ》村まで行ったら、夜が明けてしまうぞ」
「かまわないよ」
「よせよせ、麻布ほど、狐のよく出る所はない。狐にでも|化《ば》かされたらどうするか。――木村様を知ってるのかおまえは」
「わたしの先生が、よく知っているんです」
「どうせ、こう遅くなったんだから、米倉へでも行って、朝まで、寝てから行ったらどうだ」
伊織は、爪を噛んで、考えこんでしまった。
そこへ蔵役人らしい男も来て、仔細を聞くと、
「今から、子供一人で、麻布村へなど行けるものか。辻斬りも多いのに――よく博労町から一人で来たものだな」
と、つぶやき、門番と共に、夜明けを待てとすすめてくれた。
伊織は、米倉の隅へ、鼠のように、寝かしてもらった。しかし彼は、余りに米が沢山にあるので、貧乏人の子が黄金の中へ寝かされたように、少しとろとろとすると|魘《うなさ》れていた。
寝るともう直ぐ、正体もない顔つきは、伊織も、まだやはり他愛のない少年でしかない。
蔵役人も、彼を忘れてしまい、門番からも忘れられて、米倉の中にぐっすり眠り込んだ伊織は、翌る日の|午《ひる》も過ぎた頃、
「おや?」
がばと、|醒《さ》めるなり直ぐ、
「たいへんだ」
と、使いの任務を思い出して、狼狽した眼をこすりながら、|藁《わら》と|糠《ぬか》の中から飛び出して来た。
陽なたへ出ると、彼は、ぐらぐらと眼が|眩《まわ》った。ゆうべの門番は、小屋の中で、|午《ひる》の弁当を喰べていたが、
「子ども。今起きたのかい」
「おじさん、日ケ窪へ行く道の絵図を書いておくれよ」
「寝坊して、|慌《あわ》てたな。お|腹《なか》はどうだ?」
「ペコペコで、眼がまわりそうだよ」
「ははは。ここに一つ、弁当が残っているから喰べてゆくがいい」
――その間に、門番は、麻布村へ行くまでの道すじと、柳生家のある日ケ窪の地形を、絵図に書いてくれた。
伊織は、それを持って、道を急ぎだした。使いの大事なことは、頭に|沁《し》みているが、ゆうべから帰らないで、武蔵が心配しているだろうということは、少しも考えていなかった。
門番の書いてくれた通り、|夥《おびただ》しい市街を歩き、その町を貫いている街道を横ぎって、やがて江戸城の下まで行った。
この辺は、何処も|彼処《か し こ》も、夥しい|濠《ほり》が掘られ、その|埋《うめ》|土《つち》の上に侍屋敷だの、大名の豪壮な門ができていた。そして濠には、石や材木を積んだ船が、無数にはいっているし、遠くみえる城の石垣や|曲《くる》|輪《わ》には、朝顔を咲かせる助け竹のように、丸太足場が組まれてあった。
日比谷の原には|鑿《のみ》の音や、|手斧《ちょうな》のひびきが、新幕府の威勢を謳歌していた。――見るもの、耳に聞えるもの、伊織には、めずらしくない物はなかった。
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|手《た》|折《お》るべい
武蔵の原の
りんどう、|桔梗《ききょう》
花はとりどり
迷うほどあるが
あの|娘《こ》思えば
手折れぬ花よ
露しとど
ただ|裾《すそ》が濡れべい
[#ここで字下げ終わり]
石曳き|普《ぶ》|請《しん》の石曳きたちは、おもしろそうに歌っているし、鑿や手斧が、木屑を飛ばしている仕事にも、彼は、足を止められて、思わず道草を喰っていた。
新しく、石垣を築く、物を建てる、創造する。そうした空気は少年の魂と、ぴったり合致して何となく、胸がおどる。空想が飛びひろがる。
「ああ、早く、|大人《お と な》になって、おらも城を築きたいな」
彼は、そこらに監督して歩いている侍たちを見て、恍惚としていた。
――そのうちに、濠の水は、|茜色《あかねいろ》にそまり、|夕鴉《ゆうがらす》の啼く声をふと耳にして、
「あ。もう陽が暮れる」
と、伊織はまた、急ぎ出した。
眼をさましたのが、|午《ひる》過ぎである。伊織は一日の時間を、きょうは勘違いしていた。気がつくと、彼の足は、地図をたよりに、あたふたと急ぎ出し、やがて、麻布村の山道へさしかかっていた。
暗やみ坂とでも|称《い》いそうな、|木《この》|下《した》|闇《やみ》を登りきると、山の上には、まだ西陽があたっていた。
江戸の麻布の山まで来ると、人家は稀れで、わずかに、彼方此方の谷底に、田や畑や農家の屋根が、点々と見えるに過ぎない。
遠いむかし、この辺りは、|麻《あさ》|生《お》う里とも、|麻《あさ》|布《ふ》|留《る》|山《やま》とも|称《よ》ばれ、とにかく麻の産地であったそうだ。――|天慶《てんぎょう》年中、|平将門《たいらのまさかど》が、関八州にあばれた頃は、ここに源|経《つね》|基《もと》が|対《たい》|峙《じ》していたことがあり、またそれから八十年後の長元年間には、平|忠《ただ》|恒《つね》が叛乱に際し、源頼信は征夷大将軍に補せられて、鬼丸の御剣を賜わり、討伐の旗をすすめて、ここ麻|生《お》う山に陣を張り、八州の兵をまねき集めたともいい伝えられている。
「くたびれた……」
一息に上って来たので、伊織はつぶやきながら、芝の海や、渋谷、青山の山々、今井、|飯《いい》|倉《ぐら》、三田、あたりの里を、ぼんやり見廻していた。
彼のあたまには、歴史も何もなかったが、千年も生きて来たような木だの、|山《やま》|間《あい》を流れてゆく水だの、ここらの山や谷のたたずまいは、麻|生《お》う|往古《む か し》、平氏や源氏のつわもの|輩《ばら》が、野に生れた道の――武家発生の|故郷《ふるさと》だった時代の景色を――何とはなく感じさせるものが、まだ残っていた。
どーん
どん、どん、どーん
「おや?」
どこかで太鼓の音がする。
伊織は、山の下をのぞいた。
鬱蒼とした青葉の中に、神社の屋根の|鰹木《かつおぎ》が見える。
それは今、登って来る時に見て来た、|飯《いい》|倉《ぐら》の大神宮さまだった。
この辺には、御所のお米を作る|御《み》|田《た》という名が残っていた。そして伊勢大神宮の|御厨《みくりや》の土地でもあった。飯倉という地名も、そこから起ったのであろう。
大神宮さまとは、どなたを|祀《まつ》ったものであるか。これは伊織もよく知っていた。武蔵に就いて勉強しない前からだって、それだけは知っていた。
――だからこの頃急に、江戸の人たちが、
(徳川様、徳川様)
と、|崇《あが》め奉るようにいうと、伊織はへんな気もちがした。
今も、たった今、江戸城の大規模な改修工事をながめ、大名小路の|金《こん》|碧《ぺき》さんらんたる門や構えを見て来た眼で――ここの暗やみ坂の青葉の底に、そこらの百姓家の屋根と変らない――ただ鰹木と|注連《しめ》だけが違う――|佗《わび》しいお宮を見ると、|猶《なお》|々《なお》、へんな気もちがして、
(徳川のほうが偉いのかしら)
と、単純に|不審《い ぶ か》った。
(そうだ、こんど、武蔵さまに訊いてみよう)
やっと、そのことは、それで頭にかたづけたが、肝腎な柳生家の屋敷は? ――さてここからどう行くのか。
これはまだちっともはっきりしていないのである。そこで彼はまたふところから門番にもらった絵図を出し、ためつすがめつ、
(はてな?)
と、小首を|傾《かし》げた。
何だか、自分のいる位置と絵図とが、ちっとも、符合しないのだ。絵図を見れば、道が分らなくなり、道を眺めると、絵図が分らなくなる。
(変だなあ)
よく陽のあたる障子の中にいるように、辺りは陽が暮れるほど反対に、明るくなって来る気がするが――それへ薄っすらと|夕《ゆう》|靄《もや》がかかって、眼をこすってもこすっても、|睫《まつ》|毛《げ》の先に、虹みたいな光が|遮《さえぎ》ってならなかった。
「けッ! こん畜生っ」
何を見つけたか。
伊織は、やにわに跳ね飛んで、いきなり後ろの草むらを目がけ、いつも差している野刀の小さいので抜き打ちに斬りつけた。
ケーン!
と、狐が躍った。
草と、血とが、虹いろの夕陽の|靄《もや》に、ぱっと舞った。
枯れ尾花のように、毛の光る狐だった。尾か脚かを、伊織に斬られて|甲《かん》だかい啼き声を放ちながら|征《そ》|矢《や》みたいに逃げ走った。
「こん畜生」
伊織は、刀を持ったまま、やらじとばかり追いかける。狐も|迅《はや》い、伊織も迅い。
|傷負《て お い》の狐は、すこし|跛行《び っ こ》をひく気味で、時々、前へのめる様子なので、しめたと思って、近づくと、やにわに神通力を出して、|何《なん》|間《げん》も先へ跳んでしまう。
野に育った伊織は、母の膝に抱かれていた頃から、狐は人を|化《ば》かすものだという実話を沢山に聞かされていた。|野《の》|猪《じし》の子でも兎でもむささび[#「むささび」に傍点]でも愛すことが出来たが、狐だけは憎かった、また、|怖《こわ》かった。
――だから今、草むらの中に居眠りしていた狐を見つけると、彼は、とたんに、道に迷っている自分が、偶然でない気がした。こいつに|誑《たぶら》かされているのだと考えたのである。――否、すでに|昨夜《ゆ う べ》から、この狐が、自分のうしろに|憑《つ》き|纏《まと》っていたに違いないという気持さえ|咄《とっ》|嗟《さ》に起った。
|忌《いま》|々《いま》しいやつ。
殺してしまわないとまた|祟《たた》る。
そう思ったから伊織はどこまでも追いかけたのであったが、狐の影は、忽ち、雑木の生い茂った崖へ跳びこんでしまった。
――だが伊織は、|狡《こう》|智《ち》に|長《た》けた狐のことだから、そう人間の眼には見せて、実は自分の後ろにかくれておりはしないかと、そこらの草むらを、足で蹴ちらしながら、|詮《せん》|議《ぎ》してみた。
草にはもう夕露があった。赤まんま[#「まんま」に傍点]とよぶ草にも、ほたる草の花にも露があった。伊織は、へなへなと坐りこんで、|薄《はっ》|荷《か》|草《そう》の露を|舐《な》めた。口が|渇《かわ》いてたまらなかったのである。
それから――彼はようやく肩で息をつきはじめた。とたんに滝のような汗がながれてくる。心臓が、どきどきと、あばれてうつ。
「……アア、畜生、どこへ行ったろう?」
逃げたら逃げたでいいが、狐に|傷《て》を負わせたことが、不安になった。
「きっと、何か、仇をするにちがいないぞ」
という覚悟を、持たざるを得なかった。
果たせるかな。――すこし気が落着いたと思うと、彼の耳に、妖気のこもった|音《ね》が聞えて来た。
「……?」
伊織は、キョロキョロ眼をくばった。|化《ば》かされまいと、心を固めた。
妖しい音は近づいて来る。それは笛の音に似ていた。
「来たな……」
伊織は、眉に|唾《つば》を塗りながら、用心して起ち上がった。
見ると、彼方から女の影が|夕《ゆう》|靄《もや》につつまれてくる。女は、|羅衣《うすもの》の|被衣《か つ ぎ》をかぶり、|螺《ら》|鈿《でん》|鞍《ぐら》を置いた駒へ横乗りに|騎《の》って、手綱を、鞍のあたりへただ寄せあつめていた。
馬には、音楽が分るとかいうが、いかにも笛の音が分るように、馬上の女がふく横笛に聞き|恍《と》れながら、のたり、のたりと、|緩《のろ》い脚を運んで来るのだった。
「化けたな」
と、伊織はすぐ思った。
うすづく陽を|背後《う し ろ》にして、馬上に笛をすさびながら来る被衣の麗人は、まったく彼ならでも、この世の人とも思えなかった。
伊織は、青蛙のように、小さくなって、草むらに|屈《かが》みこんでいた。
そこはちょうど、南の谷へ降りる坂道の角になっていた。――もし女が馬上のまま、ここまで来たら、不意に斬りつけて、狐の正体を|剥《は》いでやろう――と、そう考えていたのである。
真っ赤な日輪は今、渋谷の山の端に沈みかけて、|覆《ふく》|輪《りん》をとった夕雲が、むらむらと宵の空をつくりかけていた。地上はもう夕闇だった。
――おつうどの。
ふと、何処かで、そんな声がしたようだった。
(――おつウどの)
伊織は、口のうちで、口真似してみた。
疑ってみると、その声も、何だか人間放れのした五音であった。
(仲間の狐だな)
狐の友が、狐をよんだ声にちがいない。――伊織は、近づいて来る騎馬の女を、狐の化けたものと、飽くまで信じて疑わないのであった。
草の中からふと見ると、馬の背へ横乗りになった麗人は、もう坂の角まで来ていた。この辺りには、樹が少ないので、馬上の姿は、宵闇の地上からぼかされて、上半身は、赤い夕空に、くッきりと明瞭に描かれていた。
伊織は、草むらの中に、身づくろいをしながら、
(おらの隠れていることを知らないな)
と、思って、刀をかたく持ち直していた。
そして彼女が、もう十歩ほど出て、南の方の坂道を降りかけたら、飛び出して、馬の尻を斬ってやろうと考えていた。
狐というものは大概――化けている|象《かたち》から何尺か後ろに身を置いているものだと――これも幼少からよく聞いていた|俚《り》|俗《ぞく》の狐狸学を思い出して、伊織は|固《かた》|唾《ず》をのんでいたのである。
だが。
騎馬の女性は、坂の口のてまえまで来ると、ふと、駒を止めてしまい、吹いていた笛を、|笛嚢《ふえぶくろ》に納めて、帯のあいだに|手《た》|挟《ばさ》んだ。――そして――眉の上に当る|被衣《か つ ぎ》の端に手をかけて、
「……?」
何か、探すような眼をして、鞍の上から見まわしているのであった。
――おつうどのう。
またしても、どこかで同じ声が聞えた。――と思うと、馬上の佳人は、ニコと白い顔を|綻《ほころ》ばせて、
「お。――|兵庫《ひょうご》さま」
と、小声にさけんだ。
するとやっと、南の谷から、坂道を上って来たひとりの侍の影が――伊織の眼にも分った。
――オヤッ?
伊織は、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
何とその侍は、|跛行《び っ こ》をひいているではないか。さっき、自分が斬りつけて逃がした狐も跛行だった。察するところ、この狐めは、自分に脚を斬られて逃げた狐のほうに違いない。よくもよくもこう|巧《うま》く化けて来たものと――伊織は舌を巻くと共に、ぶるぶるッと、身ぶるいを覚えて、思わず、|尿《いばり》を少し洩らしてしまった。
その間に、騎馬の女と、跛行の侍は、何か、ふた|言《こと》|三《み》|言《こと》話していたが、やがて侍は馬の口輪をつかんで、伊織のかくれている草むらの前を通りすぎた。
(今だ!)
と、伊織は思ったが、体がうごかなかった。――のみならずその|微《かす》かな身動きをすぐ気どったらしく、馬のそばから振り|顧《かえ》った跛行の若い侍は、伊織の顔を、ぐいと睨みつけて行った。
その|眼《まな》ざしからは、山の端の赤い日輪よりも、もっとするどい光が、ぎらりと射したような気がした。
で――伊織は、思わず草の中に|俯《う》ッ|伏《ぷ》してしまった。生れてから十四の年まで、こんな怖いと思ったことはまだなかった。自分の位置を覚られる|惧《おそ》れさえなかったら、わっと、声をあげて泣き出したかも知れなかった。
|懸人《かかりゅうど》
坂は急であった。
兵庫は、駒の口輪をつかみ、|反《そ》り|身《み》になって馬の脚元を|撓《た》めながら、
「お通どの、遅かったなあ」
鞍の上を振り仰いでいった。
「――参詣にしては、余り遅いし、日も暮れかかるので、叔父上は案じておられる。――で、迎えに来たわけだが、何処ぞへ、廻り道でもして来たのか」
「ええ」
お通は、鞍の前つぼへ、身を|屈《かが》めながら、それには答えず、
「|勿《もっ》|体《たい》ない」
と、いって、駒の背から降りてしまった。兵庫は、足をとめて、
「なぜ降りるのじゃ。乗っておればよいのに」
と、顧みる。
「でも、あなた様に口輪を|把《と》らせて、|女《おな》|子《ご》のわたくしが……」
「相変らず遠慮ぶかいなあ。さりとて、女子に口輪をつかませて、わしが乗って帰るのもおかしい」
「ですから、二人して、口輪を|把《と》って参りましょう」
と、お通と兵庫は、駒の|平《ひら》|首《くび》を挟んで、両側から口輪を持ち合った。
坂を降りるほど、道は暗くなった。空はもう白い星だった。谷の所々には、人家の明りがともっている。そして渋谷川の水が音をたてて流れてゆく。
その谷川橋のてまえが、|北《きた》|日《ひ》ケ|窪《くぼ》であり、向うの崖を、南日ケ窪とこの辺では|称《よ》んでいる。
その橋手前から北側の崖一帯は、看栄|稟《りん》|達《たつ》|和尚《おしょう》の創始されたという、坊さんの学校になっていた。
坂の途中に今見えた「|曹洞宗《そうとうしゅう》大学林|栴《せん》|檀《だん》|苑《えん》」と書いてあった門がその入口なのである。
柳生家の邸は、ちょうど、その大学林と向い合って、南側の崖を占めているのであった。
だから、谷あいの渋谷川に沿って住んでいる農夫や、|小《こ》|商人《あきんど》たちは、大学林の学僧たちを北の衆とよび、柳生家の門生たちを南の衆と呼んでいた。
柳生兵庫は、門生たちの中に交じっているが、宗家石舟斎の孫にあたり、但馬守からは|甥《おい》にあたるので、ひとり別格な、そして自由な立場にあった。
|大和《や ま と》の柳生本家に対して、ここはまた、江戸柳生と称されていた。そして本家の石舟斎が、最も可愛がっていたのは、孫の兵庫なのだった。
兵庫は二十歳を出ると間もなく、加藤清正に懇望されて、破格な高禄で、いちど肥後へ召抱えられてゆき、禄三千石を|喰《は》んで熊本へ居着くことになっていたが――関ケ原以後の――いわゆる関東お味方組と、|上《かみ》|方《がた》加担の大名との色わけには、複雑極まる政治的な底流があるので去年、
(宗家の大祖父が危篤のため)
というよい口実を得た折に、いちど大和へ帰り、その以後は、
(なお、修行の望みあれば)
と称して、それなり肥後へ帰らず、一両年のあいだ諸国を修行にあるいて、去年からこの江戸柳生の叔父の許に、足をとめている身であった。
その兵庫は、ことし二十八歳であった。折から、この但馬守の屋敷には、お通という一女性も居合わせた。年頃の兵庫と、年頃のお通とは、すぐ親しくなったが、お通の身の上には複雑な過去があるらしいし、叔父の眼もあるので、兵庫はまだ、叔父にも彼女にも、自分の考えは、一度も口に出したことはなかった。
――だが、なおここで、説明しておかなければならないことは、お通がどうして、柳生家に身を寄せていたかということである。
武蔵の側を離れて、お通が、その消息を絶ってしまったのは、もう足掛け三年も前――京都から木曾街道を経て、江戸表へ向って来た――あの途中からのことだった。
福島の関所と、奈良井の宿のあいだで、彼女を待っていた魔手は、彼女を脅迫して、馬に乗せ、山越えを押して、甲州方面へ逃げのびた足どりだけは前に述べておいた。
その|下《げ》|手《しゅ》|人《にん》は、まだ読者の記憶にもそう遠くはなっていない筈の――例の|本《ほん》|位《い》|田《でん》|又《また》|八《はち》であった。お通は、その又八の監視と|束《そく》|縛《ばく》をうけながらも、|珠《たま》を|抱《いだ》くように、貞操を護持して、やがて武蔵、城太郎など、行き|迷《はぐ》れた人々が、それぞれの道を|辿《たど》って江戸の地を踏んでいたであろう頃には――彼女も江戸にいたのであった。
何処に。
また、何をして。
と――今それを|審《つぶ》さに書き出すとなると、再び、二年前に|遡《さかのぼ》って語り直さなければならなくなるから、ここでは、以下簡略に、柳生家へ救われた経路だけを概説することに|止《とど》めておく。
又八は、江戸へ着くと、
(とにかく喰う道が先だ)
と、職を捜した。
元より、職をさがして歩くにも、お通は一刻も放さない。
(上方から来た夫婦者で――)
と、どこへ行っても、自称していたのである。
江戸城の改築をしているので、|石《いし》|工《く》、左官、大工の手伝いなどならその日からでも、仕事があったが、|城《しろ》|普《ぶ》|請《しん》の労働の辛い味は、伏見城でもさんざん|嘗《な》めているので、
(どこか、夫婦して働けるような所か、家にいてやる筆耕みたいな仕事でもありますまいか)
と、相変らず、優柔不断なことばかりいい歩いているので、多少肩身を入れかけてくれた者も、
(いくら江戸でも、そんな虫のいい、お前方の注文どおりな仕事があるものか)
と、あいそをつかして、見向きもされなくなってしまうという風であった。
――そんなことで、幾月かを過ごすうち、お通は、努めて、彼に油断させるよう、貞操にふれない限りでは、何でも、素直になっていた。
そのうち、彼女は或る日、往来を歩いていると、二階笠の紋をつけた|挟《はさ》み箱や塗り|駕籠《かご》の行列に行き会った。路傍に避けて礼を執る人々の|囁《ささや》きを聞くと、
(あれが、柳生様じゃ)
(将軍家のお手をとって、御指南なさる|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》様じゃ)
――お通はふと、大和の柳生ノ庄にいた頃を思い出し、柳生家と自分との|由縁《ゆ か り》を考え、ここが大和の国であったらなどと、|儚《はかな》い頼りを胸に抱いて、その時も、又八が側にいたので茫然と見送っていると、
(オオ、やはり、お通どのだ。――お通どの、お通どの)
と、路傍の人々の散らかる中を捜し求めて、後ろからこう呼び止めた人がある。
今、但馬守の駕わきに歩いていた|菅《すげ》|笠《がさ》の侍で――何と、顔を見合えば、柳生ノ庄でよく見知っている――石舟斎の高弟木村助九郎ではないか。
慈悲光明の|御仏《みほとけ》が救いの使いを向け給うたかとばかり――お通は、取り|縋《すが》って、
(オ。あなたは)
と、又八を捨てて、彼のそばへ走り寄った。
その場から、彼女は、助九郎に連れられて、日ケ窪の柳生家へ救われて行った。もちろん|鳶《とんび》に油揚を|攫《さら》われた形の又八も、黙っている筈はなかったが、
(話があるなら、柳生家へ来い)
と、助九郎の一言に、口惜しげに|唇《くち》をひん[#「ひん」に傍点]曲げたまま、例の|臆《おく》|心《しん》と、柳生家の名に、ぐ[#「ぐ」に傍点]の音もいえず見送ってしまったわけである。
石舟斎はいちども江戸表へは出て来なかったが、秀忠将軍の指南役という大任をうけて、江戸に新邸を構えている但馬守の身は、本国柳生ノ庄にいながらも、たえず案じているらしかった。
今、江戸はおろか、全国的にまで、
(御流儀)
といえば、将軍家の学ぶ柳生の刀法のことであり、
(天下の名人)
といえば、第一指に、誰しも、但馬守|宗《むね》|矩《のり》を折るほどであった。
けれど、その但馬守でも、親の石舟斎の眼から見れば、
(あの癖が出ねばよいが)
とか、
(あの気ままで勤まろうか)
などと、昔ながらの子供に思えて、遠くから、明け暮れ取りこし苦労をしていることは、およそ剣聖と名人の|父子《お や こ》も、|凡《ぼん》|愚《ぐ》と俗才の父子も、その|煩《ぼん》|悩《のう》さにおいては何のかわりもない。
殊に、石舟斎は、昨年あたりから|病《やまい》がちで、そろそろ天寿をさとると共に、よけいに、子をおもい、孫の将来についての|念《おも》いが深くなって来たようであった。また、多年自分の側においた門下の四高足、出淵、庄田、村田なども、それぞれ越前家だの、|榊原《さかきばら》家だの、|知《ち》|己《き》の大名へ推挙して、一家を立てさせ、この世の|暇《いとま》の心支度をしているかに見えた。
また、その四高足の中の一人、木村助九郎を|国《くに》|許《もと》から江戸へよこしたのも、助九郎のような世馴れた者が但馬守のそばにいれば、何かと役に立つであろうという、石舟斎の親心からであった。
以上で、ざっと、柳生家のここ両三年の消息は伝えたと思うが、そうした江戸柳生の新邸へ――否、もっと家庭的に、但馬守の|許《もと》には、ひとりの女性と、ひとりの|甥《おい》とが、どっちも、|懸人《かかりゅうど》として身を寄せていたのである。
それが、お通と、柳生|兵庫《ひょうご》とであった。
助九郎がお通を連れて来た場合は、それが石舟斎に|侍《かしず》いていたこともある女性なので、但馬守も、
(心おきなく、|何日《いつ》までも足を留めておるがよい。奥向きの用なども手伝うてもらおう)
と、気軽であったが、後から甥の兵庫も来て、共に寄食するようになると、
(若いふたり)
という眼をもって|視《み》なければならなくなったので、何か、絶えず家長としての気ぼねを抱くようになっていた。
――だが、甥の兵庫という人物は、|宗《むね》|矩《のり》とちがって、至って気楽な性質とみえ、叔父がどう見ようが思おうが、
(お通どのはいい。お通どのはわしも好きだ)
と、いって|憚《はばか》らないふうであった。しかし、その好きだ――というにも多少の|見《み》|得《え》はつつんでいるとみえ、
(妻に)
とか、
(恋している)
とか、そんなことは、叔父にもお通にも、決して口に出すことはなかった。
さて。
――その二人は今、駒の口輪を挟んで、とっぷり暮れた日ケ窪の谷へ降り、やがて南面の坂を少し上ると、すぐ右側の柳生家の門前に足をとめ、兵庫がまずそこを叩いて、門番へ呶鳴った。
「平蔵、開けろ。――平蔵。――兵庫とお通さんのお戻りだぞ」
|飛《ひ》 |札《さつ》
|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》|宗《むね》|矩《のり》は、まだ四十に二つ間があった。
彼は、|俊敏《しゅんびん》とか剛毅とかいう|質《たち》ではなかった。どっちかといえば|聡《そう》|明《めい》な人で、精神家というよりも、理性家であった。
その点が、|英《えい》|邁《まい》な父の石舟斎とも違っていたし、|甥《おい》の兵庫の天才肌とも多分に違っていた。
大御所家康から柳生家に、
(誰ぞひとり、秀忠の師たるべき者を江戸へさし出すように)
と、いう|下《か》|命《めい》があった時、石舟斎が、子や孫や甥や門人や、多くの一門からすぐ選んで、
(|宗《むね》|矩《のり》、参るように)
と、いいつけたのも、宗矩の聡明と温和な性格が、適していると見たからであった。
いわゆる御流儀といわれる柳生家の|大《たい》|本《ほん》とするところは、
――天下を治むる兵法
であった。
それが石舟斎の晩年の信条であったから、将軍家の師範たるものは、宗矩のほかにないと推挙したのであった。
また、家康が、子の秀忠に、剣道のよい師をさがして、それに就かせたのも、剣技に長じさせるためではなかった。
家康は、自分も奥山|某《ぼう》に師事して、剣を学んでいたが、その目的は、
(見国の機を悟る――)
にあると常にいっていた。
だから御流儀なるものは、従って、個人力の強い弱いの問題よりも、まず大則として、
――天下統治の剣
であること。また、
――見国の機微に悟入する
のが、その眼目でなければならなかった。
だが、勝つ、勝ちきる、飽くまで何事にも打ち勝って生き通す――ことが剣の発足であり、また最後までの目標である以上、御流儀だから個人試合においては弱くてもよいという建前はなり立たない。
いや、むしろ、他の諸流の誰よりも、柳生家はその威厳のためにも、絶対に、優越していなければならなかった。
そこに、絶えず、宗矩の苦悶があった。――彼は、名誉を負って江戸へ上ってから一門のうちで一ばん恵まれた幸運児のように見えているが、事実は、最も辛い試練に立たされていたのだった。
「甥は|羨《うらや》ましい」
と、宗矩はいつも、|兵庫《ひょうご》の姿を見ては、心の|裡《うち》でつぶやいた。
「ああなりたいが」
と思っても、彼には、その立場と性格から、兵庫のような自由にはなれないのだった。
その|兵庫《ひょうご》は今、|彼方《か な た》の橋廊下を越えて、|宗《むね》|矩《のり》の部屋のほうへ渡って来た。
ここの邸は、豪壮を尊んで建築させたので、|京大工《きょうだいく》は使わなかった。鎌倉造りに|倣《なら》わせて、わざと田舎大工に|普《ふ》|請《しん》させたものである。この辺は樹も浅く山も低いので、宗矩はそうした建築の中に住んで、せめて、柳生谷の|豪《ごう》|宕《とう》な|故郷《ふるさと》の家を|偲《しの》んでいた。
「叔父上」
と、兵庫がそこをさし覗いて、縁に膝まずいた。
宗矩は、知っていたので、
「兵庫か」
中庭の坪へ眼をやったままで答えた。
「かまいませぬか」
「用事か」
「べつに用でもございませぬが……ただお話に伺いましたが」
「はいるがよい」
「では」
と、兵庫は初めて|室《へや》へ坐った。
礼儀の実にやかましいことは、ここの家風であった。兵庫などから見ると、祖父の石舟斎などには、ずいぶん甘えられる所もあったが、この叔父には寄りつく|術《すべ》がなかった。いつも端然と、真四角に坐っていた。時には、気の毒のような気持さえするほどだった。
宗矩は、ことば数も|尠《すく》ないたちであったが、兵庫の来た|機《しお》に、思い出したらしく、
「お通は」
と、訊ねた。
「戻りました」
と、兵庫は答えて、
「いつもの、氷川の|社《やしろ》へ参詣に行って、その帰り道、|彼方《あち》|此方《こち》、駒にまかせて歩いて来たので、遅くなったのだと申しておりました」
「そちが迎えに行ったのか」
「そうです」
「…………」
宗矩は、それからまた、|短《たん》|檠《けい》に横顔を照らされたまま、しばらく口を|緘《つぐ》んでいたが、
「若い|女《おな》|子《ご》を、いつまで邸に止めおくのも、何かにつけ、気がかりなものだ。助九郎にもいっているが、よい折に、暇を取って、どこぞへ身を移すようにすすめたがよいな」
「……ですが」
兵庫は、やや異議を抱くような|口吻《くちぶり》で、
「身寄りもなにもない、|不《ふ》|愍《びん》な身の上と聞きました。ここを出ては、|他《ほか》に行く所もないのではございますまいか」
「そう思い遣りを懸けたひには限りがない」
「心だての好いものと――|祖父《お じ い》|様《さま》も仰せられていたそうで」
「気だてが悪いとは申さぬが――何せい若い男ばかりが多いこの邸に、美しい女がひとり立ち交じると、出入りの者の口もうるさいし、侍どもの気もみだれる」
「…………」
暗に自分へ意見しているのだ、とは兵庫は思わなかった。なぜなら、自分はまだ妻帯していないし、またお通に対しても、そう人に訊かれて恥じるような不純な気持は持っていないと信じているからだった。
むしろ、兵庫は、今の叔父のことばを、叔父自身が、自身へいっているように思われた。宗矩には格式のある権門から|輿《こし》|入《いれ》している妻室があった。その妻室は、表方とはかけ離れていて、宗矩と|琴《きん》|瑟《しつ》が和しているかいないかも分らないほど奥まった所に生活しているが――まだ若いし、そうした深窓にいる女性だけに――良人の身辺にお通のような女性が現われたことは、決して、よい眼で見ていないことは想像に|難《かた》くないことであった。
こん夜も、浮いた顔いろでないが――時々、宗矩が、表の部屋で、ただひとり|寂然《じゃくねん》としている姿など見ると、
(何か奥であったのではないか)
と、兵庫のような、独身者の神経にも、思い|遣《や》られることがある。殊に、宗矩は、真面目な|質《たち》だけに、女のいうことばだからといって、大まかに、
(黙っておれ)
と、一|喝《かつ》しておくことができない|良人《お っ と》であった。
表に対しては、将軍家師範という大任を感じていなければならない良人はまた、妻室へはいっても何かと|要《い》らない気をつかわなければならなかった。
――といって、そんな顔いろも愚痴も人には示さない宗矩だけに、ふと、|沈《ちん》|湎《めん》と独りの想いに耽ることが多かった。
「助九郎とも、相談してお|煩《わずら》いのないようにしましょう。お通どののことは、てまえと助九郎におまかせおきください」
叔父の心を察して、兵庫がいうと、宗矩は、
「はやいがよいな」
と、つけ加えた。
その時、用人の木村助九郎がちょうど、次の間まで来て、
「――殿」
と、|文《ふ》|筥《ばこ》を前に、灯影から遠く坐った。
「なんじゃ」
振顧ると、その宗矩の|眼《まな》ざしに向って、助九郎は膝をすすめ直して告げた。
「お国|許《もと》から、ただ今早馬のお使いが到着いたしました」
「――早馬?」
宗矩は、思い当ることでもあるように、声を|弾《はず》ませた。
兵庫も、すぐ察して、
(さては)
と、思った。しかし口に出していいことではないので、無言のまま助九郎の前から文筥を取次ぎ、
「何事でございましょうか」
と、叔父の手へ渡した。
宗矩は、手紙を|披《ひら》いた。
本国柳生城の家老――庄田喜左衛門からの早打であって、筆のあとも走り書きに、
[#ここから2字下げ]
大祖(石舟斎)さま御事
又々、御風気のところ
此度は御模様ただならず
畏れながら|旦《たん》|夕《せき》に危ぶまれ申候
然し|乍《なが》ら、猶御気丈に|在《おわ》し、
たとえ身不慮のことあるも、
但馬守は将軍家指導の大任あるもの故、
帰郷に及ばずとの仰せに候
さは仰せられ候ものの臣下の者、
談合のうえ、とりあえず|先《まず》は飛札かくの如くにござ候
月   日
[#ここで字下げ終わり]
「……御危篤」
宗矩も、|兵庫《ひょうご》も、|呟《つぶや》いたまま、しばらく暗然としていた。
兵庫は、叔父の顔いろの中に、もうすべてが解決しているのを見た。こういう場合にあたっても|惑《まど》わず乱れず、すぐ|肚《はら》のきまるところは、やはり宗矩の聡明な点に依るものといつも感服する。兵庫となると、ただ|徒《いたず》らに、情がみだれて、祖父の死に顔だの、|国《くに》|許《もと》の家来たちの嘆きだの――そうしたものばかり見えて|時《じ》|務《む》の判断はつかなかった。
「兵庫」
「はあ」
「わしに代って、すぐに|其方《そち》は発足してくれぬか」
「承知いたしました」
「江戸表の方――すべて何事もご安心なさるように――」
「お伝えいたします」
「ご看護もたのむ」
「はい」
「早打の様子では、よほどおわるいらしい。神仏の御加護をたのみ参らすばかり……急いでくれよ。お枕べに、間にあうように」
「――では」
「もう行くか」
「身軽な拙者。せめて、こんな時のお役にでも立たねば」
兵庫は、そういって、すぐ叔父に|暇乞《いとまご》いをし、自分の部屋へ|退《さ》がった。
彼が、旅支度をしている間に――もう国許の凶報は、召使の端にまで分って、邸内には、どこともなく、人々の|憂《うれ》わしげな気もちが|漂《ただよ》い合った。
お通も、いつのまにか旅支度をして、彼の部屋を、そっと訪れ、
「――兵庫様。どうぞ私も、お連れ遊ばしてくださいませ」
と、泣き伏して頼んだ。
「できないまでも、せめて、石舟斎様のお枕べに参って万分の一の御恩返しでもさせて戴きとうございます。柳生ノ庄でも深い御恩をうけ、江戸のお邸においていただいたのも、恐らくは、大殿様の御余恵と存じあげておりまする。……どうぞ、お召し連れ下さいますように」
兵庫は、お通の性質をよく知っていた。叔父なら断るであろうと思いながら、彼は、その願いを断れなかった。
むしろ、|先刻《さ っ き》宗矩からの話もあったところなので、ちょうどよい折かも知れないとさえ考えられて、
「よろしい。しかし、一刻も争う旅。馬や|駕《かご》を乗りついでも、わしに|尾《つ》いて来られるかな」
と、念を押した。
「はい。どんなにお急ぎ遊ばしても――」
と、お通は|欣《うれ》しげに、涙をふいて、兵庫の身支度をいそいそ手伝った。
お通はまた、|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》|宗《むね》|矩《のり》の部屋へ行って、自分の心もちを述べ、長い月日の恩を謝して、暇乞いをすると、
「おお、行ってくれるか。そなたの顔を見たら、さだめし御病人もお|欣《よろこ》びになるであろう」
と、宗矩も異存なく、
「大事に参れよ」
路銀や小袖の|餞別《はなむけ》など、何くれとなく、さすがに離情をこめて心づけてくれる。
家臣たちは、門をひらき、|挙《こぞ》ってその両側に並行して見送った。
「おさらば」
と、兵庫は一同へあっさり挨拶を残して出て行く。
お通は腰帯を|裾短《すそみじか》にくくり、|塗《ぬり》の市女笠に、杖を持っていた。――その肩に藤の花を|担《にな》わせたら、大津絵の藤娘になりそうな――と人々はその|優婉《た お や》かな姿が、あしたからここに見られないのを惜しんだ。
乗物は、|駅路《うまやじ》の行く先々で、雇うことにして、夜のうちに、三軒家あたりまでは行けようと兵庫とお通は、日ケ窪を立った。
まず大山街道へ出て、玉川の|渡船《わ た し》を|経《へ》、東海道へ出ようと兵庫はいう。お通の塗笠には、もう夜の露が濡れ|初《そ》めていた。草深い|谷《たに》|間《あい》|川《がわ》に沿って歩くと、やがてかなり道幅のひろい坂へかかった。
「道玄坂」
と、兵庫が独り言のように教える。
ここは鎌倉時代から、|衝要《しょうよう》な関東の往来なので、道は|拓《ひら》けているが、|鬱《うっ》|蒼《そう》とした樹木が左右の小高い山をつつみ、夜となると、通る人影は稀れだった。
「さびしいかね」
兵庫は、大股なので、時々足を止めて待つ。
「いいえ」
にこ[#「にこ」に傍点]として、お通は、そのたびに幾分か脚を早めた。
自分を連れているために、柳生城の御病人の枕元へ着く日が、少しでも遅れてはすまないと心のうちに思う。
「ここは、よく山賊の出たところだ」
「山賊が」
彼女が、ちょっと、眼をみはると、兵庫は笑って、
「昔のことだ。和田|義《よし》|盛《もり》の一族の道玄太郎とかいう者が、山賊になって、この近くの|洞穴《ほらあな》に住んでいたとかいう」
「そんな怖い話はよしましょう」
「さびしくないというから」
「ま、お意地のわるい」
「はははは」
兵庫の笑い声が、|四辺《あ た り》の闇に|木《こ》|魂《だま》する。
なぜか兵庫は、心が少し浮いていた。祖父の危篤に|国《くに》|許《もと》へいそぐ旅路を――済まないと責めながらも、|密《ひそ》かに、楽しかった。思いがけなく、お通とこんな旅をすることのできた機会を、|欣《よろこ》ばずにいられなかった。
「――あらっ」
何を見たか、お通は、ぎくと脚をもどした。
「なにか?」
兵庫の手は無意識に、その背を|庇《かば》う。
「……何かいます」
「どこに」
「おや、子供のようです。そこの|道《みち》|傍《ばた》に坐って。……何でしょう、気味のわるい、何か、独り言をいって、|喚《わめ》いているではございませんか」
「……?」
兵庫が近づいて見ると、それは今日の暮れ方、お通と邸へもどる途中、草むらの中にかくれていた見覚えのある童子であった。
兵庫とお通のすがたを見ると、
「――あっ」
何を思ったか、伊織は、やにわに跳ね起きて、
「ちくしょうッ」
と、斬りつけて来た。
「あれっ」
お通がさけぶと、お通へも、
「狐め。この狐め」
子供の小腕だし、刀も小さいが、|侮《あなど》り|難《がた》いのは、その血相である。なにか、|憑《の》り移っているように|蒐《かか》って来る向う見ずな切先には、兵庫も、一歩|退《ひ》かなければならなかった。
「狐め。狐め」
伊織の声は、老婆みたいにシャ|嗄《が》れていた。兵庫は不審に思って、彼の鋭鋒を、そのなすがままに避けて、しばらく眺めていると、やがて、
「――どうだッ!」
伊織は、その刀を|揮《ふる》って、ひょろ長い一本の灌木をズバリと斬り、木の半身がばさっと草むらへ仆れると、自分も共に、へなへなと坐って、
「どうだ! 狐」
と、肩で息をついているのであった。
その|容《よう》|子《す》が、いかにも、敵を斬って血ぶるいでもしているような|体《てい》なので、兵庫は初めて|頷《うなず》きながら、お通を顧みて微笑した。
「かあいそうに、この|童《わっぱ》は、狐に|憑《つ》かれているらしい」
「……ま、そういえば、あの恐い眼は」
「さながら狐だ」
「助けてやれないものでしょうか」
「|狂人《きちがい》と馬鹿は|癒《なお》らないが、こんなものはすぐ癒る」
兵庫は、伊織の前へ廻って、彼の顔をじいっと、|睨《ね》めつけた。
くわっと、眼をつりあげた伊織はまた、刀を持ち直して、
「ち、畜生、まだいたかっ」
起ち上がろうとする出鼻を、兵庫の大喝が、彼の耳をつきぬいた。
「ええーいッ」
兵庫はいきなり、伊織の体を、横抱きにして駈け出した。そして坂を下ると、さっき渡った街道の橋がある。そこで、伊織の両脚を持って、橋の下から欄干の外へ吊り下げた。
「おっ|母《か》さあん!」
|金《かな》|切《きり》|声《ごえ》で、伊織はさけんだ。
「お|父《とっ》さん!」
兵庫はまだ、離さずに、吊り下げていた。すると三声目は、泣き声で、
「先生っ。たすけて下さいっ」
といった。
お通は後ろから駈けて来て、兵庫の|酷《むご》い仕方に、自分の身が苦しむように、
「いけません、いけません、兵庫さま! よその子を、そんな|酷《むご》いことをしては――」
いう間に、兵庫は、伊織の体を橋の上へ移して、
「もうよかろう」
と、手を離した。
わあん、わあん……と伊織は大声で泣き出した。この世に自分の泣き声を聞いてくれる者が一人もないことを悲しむように、愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、声をあげて泣いた。
お通は、そばへ寄って、彼の肩をそっと触ってみた。もう先刻のように、その肩は硬く尖っていなかった。
「……おまえ、どこの子?」
伊織は、泣きじゃくりながら、
「あっち」
と指さした。
「あっちって、どっち」
「江戸」
「江戸の?」
「ばくろ町」
「まあ、そんな遠方から、どうしてこんな所へ来たの」
「使いに来て、迷子になっちまったんだ」
「じゃあ、昼間から歩いているんですね」
「ううん」
と、かぶりを振りながら、伊織はすこし落着いて答えた。
「|昨日《き の う》からだい」
「まあ。……二日も迷っていたのかえ」
お通は、|憐《あわ》れを|催《もよお》して、笑う気にもなれなかった。
彼女は、重ねて、
「そして、お使いとは、どこへお使いに?」
訊くと、伊織は、訊いてくれるのを、待っていたように、
「柳生様」
と、言下だった。
そしてそれ一つだけは、|生命《い の ち》がけで持っていたように、|揉《も》み苦茶になった手紙を、|臍《へそ》の辺りから取り出し、|上《うわ》|書《がき》の文字を星に透かして、
「そうだ、柳生様の中にいる、木村助九郎様ってえ人へ、この手紙を持って行くんだよ」
と、さらにいい加えた。
ああ、伊織は何でその手紙を、折角、親切な人へ、ちょっとでも見せないのか。
使命を重んじているのか。
または、目に見えない運命の何ものかがこんな場合、物の陰にいて、わざとそうさせずにいるのか。
伊織が、彼女のすぐ前で、|皺《しわ》だらけにして握っている手紙は、お通にとって、|七夕《たなばた》の星と星とよりも稀れに、ここ幾年、夢にのみ見て、会いも得ず、便りもなかった人の――天来の機縁に恵まれるものではないか。
それをまた。
――知らないということはぜひもない。お通もべつに、眼をとめて、見ようともせず、
「兵庫さま、この子は、お邸の木村様を尋ねて来たのだそうです」
と、あらぬ方へ、顔を向けてしまう。
「ではまるで、方角ちがいを|彷徨《さ ま よ》っていたな。――だが子供、もう近いぞ。この川の流れに沿ってしばらく行くと、左の方へ登りになる。そこの|三《みつ》|叉《また》|道《みち》から、|巨《おお》きな|女男《め お と》|松《まつ》のある方を望んでゆけ」
「また、狐に|憑《つ》かれないように」
と、お通は危ぶむ。
だが、伊織は、ようやく霧のはれたような心地がして、もう大丈夫と自信を持ったらしく、
「ありがとう」
と、駈け出した。
渋谷川に沿って、少し行ったかと思うと、彼は、足をとめて、
「左だね。――左の方へ登るんだね」
と、念を押しながら、指さしていう。
「うむ」
兵庫は|頷《うなず》きを送って、
「暗い所があるぞ。気をつけて行けよ」
――もう返辞もしない。
伊織の影は、若葉のふかい|丘《おか》|道《みち》の中へ、吸われるように隠れ去った。
兵庫とお通は、まだ橋の|欄《らん》に残って、何を見送るともなく見ていた。
「鋭いな、あの|童《わっぱ》は」
「賢いところがありますね」
彼女は、胸の中で、城太郎と思いくらべていた。
彼女の描いている城太郎は、今の伊織に少し背を足したぐらいなものであるが、数えてみると、今年はもう十七歳になる。
(どんなに変ったろう)
と、思う。
ひいてはまた、武蔵を恋う痛いような物思いが、胸さきへ|募《つの》りかかって来たが、
(いや、ひょっとしたら、思いがけない旅先で、かえってお目にかかれようも知れぬ)
と、|儚《はかな》い頼みに|紛《まぎ》らわしてしまうべく、この頃は、恋の苦しみに耐えることにも馴れた心地である。
「おう急ごう。こよいは仕方がないが、この先々では、もう道ぐさはしておられぬぞ」
兵庫は、自分を|誡《いまし》めていう。どこか|暢《のん》|気《き》な兵庫には、そういう弱点のあることを、自分でも感じているらしいのだ。
――かくてお通も、道を急いだが、心は道の|辺《べ》の草にも|措《お》いて、
(あの草の花も、武蔵さまが踏んだ草ではなかろうか)
などと、連れにも語れぬ想いばかりを独り胸に描いては歩いた。
|仮《か》|名《な》がき|経典《きょうてん》
「オヤ、おばば、手習いか」
今、外から戻って来たお|菰《こも》の十郎は、お杉ばばの部屋をのぞき込むと、呆れたようなまた感心したような――顔をした。
そこは、|半瓦《はんがわら》弥次兵衛の家。
ばばは振向いて、
「おいのう」
と答えたのみで、うるさそうにまた、筆を執り直し、何か書き物に余念がない。
お菰は、そっと側へ坐って、
「なんだ、お|経文《きょうもん》を写しているんだな」
と、|呟《つぶや》く。
ばばが耳も傾けないので、
「もういい年よりのくせに、今から手習いなんぞして、どうするつもりだ。あの世で手習い師匠でもする気かえ」
「やかましい。写経は、無我になってせねばならぬ。|去《い》んでくだされ」
「今日は外で、ちと耳よりな拾い物をしたので、はやく聞かしてやろうと思って帰って来たのに」
「後で聞きましょう」
「いつ終るのか」
「一字一字、|菩《ぼ》|提《だい》の心になって、ていねいに書くので、一部書くにも三日はかかる」
「気の永げえこったな」
「三日はおろか、この夏中には、何十部も|認《したた》めましょう。そして|生命《い の ち》のあるうちには、千部も写経して世の中の親不孝者に、|遺《のこ》して死にたいと思っているのじゃ」
「へエ、千部も」
「わしの悲願じゃ」
「その写した経文を、親不孝者へ遺すというのは、いったいどういう|理由《わけ》か、聞かしてもらいてえもんだな。自慢じゃねえが、こう見えても、親不孝の方じゃあ、おれも負けねえ組だが」
「おぬしも、不孝者か」
「ここの部屋にごろついている極道者は、みんな親不孝峠を越えて来た崩れにきまってらアな。――孝行なのは、親分ぐれえのもんだろう」
「嘆かわしい世の中よの」
「あはははは。ばあさん、ひどくおめえ|悄《しょ》|気《げ》てるが、おめえの子も、極道者とみえるな」
「あいつこそ、親泣かせの骨頂。世に、又八のような不孝者もおろうかと、この|父母恩重経《ぶもおんじゅうぎょう》の写経を思い立ち、世の中の不孝者に読ませてやろうと悲願を立てたが――親泣かせは、そんなにも、多いものかのう」
「じゃあ、その父母恩重経とやらを、生涯に千部写して、千人に|頒《わ》けてやる気か」
「一人に|菩《ぼ》|提《だい》の|胚子《たね》をおろせば、百人の衆を化し、百人に菩提の苗を生ずれば、千万人を化すともいう。わしの悲願は、そんな小さいものじゃない」
と、お杉はいつか筆を|擱《お》いてしまって、傍らに重ねてある写し終りの薄い写経五、六部のうちから一冊をぬいて、
「――これを|其方《そ な た》に与えますから、暇のあるたびに|誦《よ》んだがよい」
と、|恭《うやうや》しく授けた。
お|菰《こも》は、ばばの真面目くさった顔に、ぷッとふきだしかけたが、鼻紙のように|懐中《ふところ》へねじこむわけにもゆかず、写経を|額《ひたい》に当てて、ちょっと拝む恰好をしながら、
「ところで」
と、身を交わすように、急に話のほこ[#「ほこ」に傍点]をすげ替えた。
「――おばば、てめえの信心が届いたか、今日、|外《そと》|出《で》の先で、おれはえらい奴に|出《で》ッ|会《く》わしたぜ」
「何。えらい者に会ったとは」
「おばばが、|仇《かたき》とねらって探している、宮本武蔵という野郎よ。――隅田川の|渡船《わ た し》から降りた所で見かけたんだ」
「えっ、武蔵に出会ったと?」
聞くと、ばばはもう、写経どころではない。机を押しやって、
「して、どこへ行きましたぞえ。その行く先を、突き止めてくれたかよ」
「そこは、お|菰《こも》の十郎だ、抜け目はねえ。野郎と別れるふりをして、横丁にかくれ、後を|尾行《つけ》てゆくと、ばくろ町の|旅籠《は た ご》でわらじを脱いだ」
「ウウム、ではこの|大工町《だいくちょう》とは、まるで目と鼻の先ではないか」
「そう近くもねえが」
「いや近い近い。きょうまでは、諸国をたずね、幾山河を隔てている心地がしていたのが、同じ土地にいるのじゃもののう」
「そういやあ、ばくろ町も日本橋のうち、大工町も日本橋の内、十万億土ほど遠くはねえ」
ばばは、すっくと立って、袋戸棚の中をのぞきこみ、かねて秘蔵の伝家の短い一こしを|把《と》ると、
「お菰どの、案内してたも」
「どこへ」
「知れたことじゃ」
「おそろしく気が永げえかと思うとまた、怖ろしく気が短けえなあ。今からばくろ町へ出向く気か」
「おいの。覚悟はいつもしていることじゃ。骨になったら、|美作《みまさか》の吉野郷、本位田家へ骨は送ってくだされ」
「まあ、待ちねえ。そんなことになったひにゃあ、折角、耳よりな手懸りを見つけて来ながら、おれが親分に叱られてしまう」
「ええ、そのような、気遣いしておられようか。いつ武蔵が、旅籠を立ってしまわぬとも限らぬ」
「そこは、大丈夫、すぐ部屋にごろついているのを一匹、張番にやってある」
「では、逃がさぬことを、おぬしがきっと保証しやるか」
「なんでえまるで……それじゃあこっちが恩を着るようなものじゃねえか。――だがまあ仕方がねえ、年よりのことだ、保証した保証した」
と菰は、なだめて、
「こんな時こそ、落着いて、もちッとその写経とやらをやっていなすっちゃどうだ」
「弥次兵衛どのは、きょうもお留守か」
「親分は、講中のつきあいで、|秩《ちち》|父《ぶ》の|三《みつ》|峰《みね》へ行ったから、いつ帰るか分らねえ」
「それを待って、相談をしてはおられまいが」
「だから一つ、佐々木様に来てもらって、ご相談をしてみなすっちゃどうですえ」
翌る日の朝。
ばくろ町へ行って、武蔵の張番に立っている若い者からの|諜報《ちょうほう》によると、
(武蔵はゆうべ|晩《おそ》くまで、旅籠の前の刀屋へ行って話しこんでいたらしいが、今朝は旅籠を引払って|斜《すじ》|向《むか》いの|刀研《かたなとぎ》|厨《ず》|子《し》|野《の》|耕《こう》|介《すけ》の家の中二階へ移った)
とある。
お杉ばばは、それ見たことかといわんばかりに、
「見やれ、先も生きている人間じゃ、じっと、|何日《いつ》まで一つ所にいるものかいの」
と、お|菰《こも》へいって、今朝は、|焦《いら》|々《いら》と、写経の机に坐りかねている|容《よう》|子《す》。
だが、ばばの気性は、お菰も|半瓦《はんがわら》の部屋の者も、今では皆よく知りぬいている所となっているので、気にもかけず、
「いくら武蔵だって、羽が生えているわけじゃなし、まあそう、|焦心《あせ》りなさんなッてえことよ。あとで、お|稚《ち》|児《ご》の小六が、佐々木様の所へ行って、|篤《とく》と相談して来るといっているから――」
菰がいうと、
「なんじゃ、小次郎殿のところへ、|昨夜《ゆ う べ》行くといっていながら、まだ行っていないのか。――面倒な、わしが自身で行って来る程に、小次郎殿の|住居《す ま い》は何処か教えてたも」
と、ばばは、自分の部屋にあって、もう身支度に|忙《せわ》しない。
佐々木小次郎が江戸の住居は、細川藩の重臣で岩間角兵衛が邸内の|一《ひと》|棟《むね》――その岩間の私宅というのは、|高《たか》|輪《なわ》街道の|伊《い》|皿《さら》|子《ご》坂の中腹、俗に「月の|岬《みさき》」ともいう地名のある高台で、門は赤く塗ってある。
――と、眼をつぶっても行けるように、半瓦の部屋の者が、教えて聞かすと、
「わかった。分った」
お杉ばばは、年よりの|鈍《どん》を、若い者たちから見くびられたように取って、
「造作もない道、|行《い》て来る程に、後をたのみますぞ。親分どのもお留守、わけて火の用心に気をつけての」
草履の|緒《お》を|結《ゆ》い、杖をつき、腰には伝家の一こしを差し、半瓦の家を出て行った。
何か用をして、ふと、出て来た菰の十郎が、
「おや、ばあさんは」
見廻して、訊ねると、
「もう、出かけましたぜ。佐々木先生の|住所《と こ ろ》を教えろというから教えてやると、早のみこみに、たった今」
「しようのねえ婆さんだな。――おいおい小六|兄哥《あ に い》」
広い若者部屋へ、声をかけると、遊び事をしていたお稚児の小六が、飛び出して来て、
「なんだ|兄弟《きょうでえ》」
「なんだじゃねえ、おめえが呑み込んだまま、ゆうべ佐々木先生の所へ行かなかったものだから、ばあさんが、|癇癪《かんしゃく》を起して、一人で出かけちまッたじゃねえか」
「自分で行ったら、行ったでいいだろう」
「そうもゆくめえ。親分が|帰《け》えって来てから、告げ口するにちげえねえ」
「口は達者だからな」
「そのくせ、体はもう、|蟷螂《かまきり》みてえに、折ればポキリと折れそうに痩せこけてやがる。気ばかり強いが、馬にでも踏まれたら、それっ|限《き》りだぞ」
「ちぇっ、世話がやけるな」
「すまねえが、今出かけて行ったばかりだから、ちょっくら、追いかけて行って、小次郎先生の|住居《す ま い》まで、連れて行ってやってくれよ」
「てめえの親の面倒さえ見たことがねえのに」
「だから、|罪《つみ》|亡《ほろ》ぼしにならアなあ」
遊び事を半ばにして、小六はあわてて、お杉のあとを追いかけて行った。
|菰《こも》の十郎は、おかしさを噛みながら、若者部屋へはいって、ごろりと、片隅に寝ころんだ。
部屋は三十畳も敷ける広さで、|藺莚《いむしろ》が敷いてあり、|大刀《どす》、手槍、|鈎《かぎ》|棒《ぼう》などが、手を伸ばす所にいくらでも備えてある。
板壁には、ここに|起《おき》|臥《ふし》する無法者の|乾児《こ ぶ ん》が、手拭だの、着替えだの、火事頭巾だの、|襦《じゅ》|袢《ばん》だのを雑多に釘へ掛けつらね、中には、誰も|着《き》|手《て》のいるわけがない、|紅絹《もみ》|裏《うら》のあでやかな女小袖なども掛け、|蒔《まき》|絵《え》の鏡立ても、たった一つ置いてあった。
誰かが、或る時、
(何だ、こんな物を)
と、|外《はず》そうとすると、
(外しちゃいけねえ。それは佐々木先生が掛けといたんだから)
と、いったことがある。
理由を|糺《ただ》すと、
「野郎どもばかりを大勢部屋に詰めておくと、|癇《かん》が立って、ふだんのケチなことにばかり殺気立ち、ほんとの死に場所へ出てから役に立たねえと、先生が親分へいっていたぜ」
と、説明した。
しかし――女の小袖と蒔絵の鏡台ぐらいでは、なかなかここの殺気は|和《なご》むべくもない。
「やい、|胡《ご》|魔《ま》|化《か》すな」
「だれが」
「てめえがよ」
「ふざけるな、いつおれが」
「まあ、まあ」
今も、大部屋の真ん中では、壺か|加《か》|留《る》|多《た》か、半瓦の留守をよいことにして、賭け事にかたまっている連中の|額《ひたい》から、その殺気がもうもうと立ち昇っている。
|菰《こも》は、その|態《てい》を見て、
「よくも飽きもせず、やってやがるなあ」
ごろんと仰向けに寝て、脚を組んだまま、天井を見ていたが、わいわい連の勝った負けたに、昼寝もならない。
そうかといって、三下の仲間にはいって彼らのふところを|搾《しぼ》ってみたところではじまらないので、眼をつむっていると、
「ちぇっ、きょうは、よくよく芽が出ねえ」
と、矢も|弾《たま》も尽き果てたのが、惨澹たる顔をして菰のそばへ来ては共に、ごろんと枕を並べる。一人|殖《ふ》え、ふたり殖え、ここへ来て寝ころぶのは皆、時利あらずの惨敗組だった。
ひとりがひょいと、
「菰の|兄哥《あ に き》これやあ何だい」
彼の|懐中《ふところ》から落ちていた――一部の|経文《きょうもん》へ、手をのばして、
「お経じゃねえかこれやあ。がらにもねえ物を持ってるぜ。|禁厭《まじない》か」
と、めずらしがる。
やっと少し眠くなりかけていた|菰《こも》は、しぶい眼をあいて、
「ム……それか。そいつあ、本位田のばあさんが、悲願を立てて、生涯に千部写すとかいってる写経だよ」
「どれ」
少し文字の見えるのが、手へ奪って、
「なるほど、ばあさんの|手蹟《て》だ。|児童《こ ど も》にも読めるように、|仮《か》|名《な》まで振ってあら」
「じゃあ、|汝《てめえ》にも、読めるか」
「読めなくってよ、こんな物」
「ひとつ、節をつけて、|美《い》い声で|誦《よ》んで聞かせてくれ」
「じょうだんいうな。小唄じゃあるめえし」
「なあにおめえ、遠い昔にゃあ、お経文をそのまま、|歌謡《うた》にうたったものだあな。――|和《わ》|讃《さん》だってその一つだろうじゃねえか」
「この文句は、和讃の節じゃあやれねえよ」
「何の節でもいいから聞かせろッていうに。聞かせねえと、取っちめるぞ」
「やれやれ」
「――じゃあ」
と、そこで男は、余儀なく仰向けのまま、写経を顔の上にひらいて、
[#ここから2字下げ]
仏説|父母恩重経《ぶもおんじゅうぎょう》――
かくの如くわれ聞けり
ある時、ほとけ
王舎城の|耆《ぎ》|闍《しゃ》|崛《くつ》山中に
菩薩、|声聞《しょうもん》の衆といましければ
|比《び》|丘《く》、|比《び》|丘《く》|尼《に》、|憂《う》|婆《ば》|塞《そく》、|憂《う》|婆《ば》|夷《い》
一切諸天の人民
龍神鬼神など
法を聴かんとして来り集まり
一心に宝座を|囲繞《いにょう》し
またたきもせで尊顔を
仰ぎ|瞻《み》たりき――
[#ここで字下げ終わり]
「なんのこッたい」
「比丘尼ってえな、近頃、鼠色におしろいを塗って、|傾《けい》|城《せい》|町《まち》より安く遊ばせるという、あれとは違うのか」
「しっ、黙ってろい」
[#ここから2字下げ]
|是《こ》の時、ほとけ
|乃《すなわ》ち法を説いて|宣《のたま》わく
一切の善男子善女人よ
父に慈恩あり
母に悲恩あり
そのゆえは
人のこの世に生るるは
宿業を因とし
父母を縁とせり
[#ここで字下げ終わり]
「なんだ。おやじと、おふくろのことか。お|釈《しゃ》|迦《か》なんぞも、知れ切った|御《ご》|託《たく》しか並べやしねえ」
「|叱《しっ》……。うるせえぞ|武《たけ》」
「みろ、|誦《よ》み手が、黙っちまったあ。聞きながらトロトロいい気持で聞いていたのに」
「よし、もう黙ってるから、先を|謡《うた》えよ。もっと、節をつけて――」
[#ここから2字下げ]
――父にあらざれば生れず
母にあらざれば|育《いく》せず
ここをもって
気を父の|胤《たね》に|稟《う》け
形を母の|胎《たい》|内《ない》に|托《たく》す
[#ここで字下げ終わり]
|誦《よ》み手は、行儀わるく、仰向けの寝相をかえて、鼻くそ[#「くそ」に傍点]をほじりながら――
[#ここから2字下げ]
この因縁を以ての故に
|悲《ひ》|母《も》の子を|念《おも》うこと
世間に|比《たぐ》いあることなく
その恩、未形に及べり
[#ここで字下げ終わり]
こんどは、余り皆、黙っているので|誦《よ》む方が、張合いがなくなって、
「オイ聞いているのか」
「聞いてるよ」
[#ここから2字下げ]
始め|胎《たい》を受けしより
|十《と》|月《つき》をふるの間
|行《ぎょう》、|住《じゅう》、|坐《ざ》、|臥《が》
もろもろの苦悩をうく
苦悩|休《や》む時なきが故に
常に好める|飲《おん》|食《じき》|衣《え》|服《ふく》を得るも
欲執の念を生ぜず
一心ただ安く|生産《しょうさん》せんことを思う
[#ここで字下げ終わり]
「くたびれた、もういいだろ」
「聞いてるのに、なぜやめるんだよ。もっと|謡《うた》えよ」
[#ここから2字下げ]
月|充《み》ち日足りて
|生産《しょうさん》の時いたれば
|業《ごう》|風《ふう》ふきて|是《これ》を|促《うなが》し
|骨《ほね》|節《ふし》ことごとく痛み苦しむ
父も心身おののき|懼《おそ》れ
母と子とを憂念し
諸親|眷《けん》|族《ぞく》みな苦悩す
すでに生れて草上に|堕《お》つれば
父母、欣び限りなく
猶、|貧《ひん》|女《にょ》の|如《にょ》|意《い》|珠《じゅ》を得たるが如し
[#ここで字下げ終わり]
初めはふざけていた彼らも、次第に意味が|酌《く》めて来ると、聞くともなく聞き惚れていた。
[#ここから2字下げ]
――その子、声を発すれば
母も此の世に生れ出たるに似たり
|爾来《それより》
母の|懐《ふところ》を|寝《ね》|処《どこ》とし
母の膝を遊び場とし
母の乳を|食物《しょくもつ》となし
母の情けを|生命《い の ち》となす
母にあらざれば、着ず脱がず
母|飢《う》えに|中《あた》る時も
|哺《ふく》めるを吐きて子に|啗《くら》わしめ
母にあらざれば養われず
その|闌《らん》|車《しゃ》を離るるに及べば
十指の爪の中に
子の不浄を食らう
……計るに人々
母の乳をのむこと
一日八十|斛《こく》
|父《ちち》|母《はは》の恩重きこと
天の|極《きわ》まり無きがごとし
[#ここで字下げ終わり]
「…………」
「どうしたんだい、おい」
「今、|誦《よ》むよ」
「オヤ、泣いてるのか。ベソを掻きながら誦んでやがら」
「ふざけんない」
と、虚勢を出してまたつづけた。
[#ここから2字下げ]
母、東西の|隣《りん》|里《り》に|傭《やと》われ
或は水汲み、或は火|焼《た》き
或は|碓《うすつ》き、或は|磨《うす》ひく
家に還るの時
未だ至らざるに
わが児家に啼き|哭《こく》して
我を恋い慕わんと思い起せば
胸さわぎ心|愕《おどろ》き
乳ながれ出でて|堪《た》うる|能《あた》わず
|乃《すなわ》ち、走り家に還る
児、遥かに母の来るを見
|脳《なずき》を|弄《ろう》し、|頭《かしら》をうごかし
|嗚咽《そらなき》して母に向う
母は身を曲げて、両手を|舒《の》べ
わが口を子の口に|吻《つ》く
両情一致、恩愛の|洽《あまね》きこと
|復《ま》たこれに過ぐるものなし
――二歳、|懐《ふところ》を離れて始めて行く
父に非ざれば火の身を焼く事を知らず
母に非ざれば|刀《はもの》の指を|堕《おと》すを知らず
三歳、乳を離れて始めて食らう
父に非ざれば、毒の命を落すを知らず
母に非ざれば薬の|病《やまい》を救うを知らず
父母、|外《そと》の座席に|往《ゆ》き
美味|珍羞《ちんしゅう》を得るあれば
みずから|喫《くら》わず|懐《ふところ》に収め
|喚《よ》びて子に与え、子の喜びを歓ぶ
[#ここで字下げ終わり]
「やい。……またベソを掻いてんのか」
「何だか、思い出しちまった」
「よせやい、てめえがベソを掻き掻き|誦《よ》むもんだから、おれっちまで、変てこに、涙が出て来やがるじゃねえか」
無法者にも、親があった。
粗暴な、|生命《い の ち》知らずな、その日暮しな、あらくれ部屋のゴロン棒も木の|股《また》から生れた子ではない。
ただここの仲間では平常、親のことなど口にすると、
(てッ、|女《め》|々《め》しい野郎だ)
と、片づけられるので、
(ヘン、親なんぞ)
と、|有《あ》ってもない顔をしているのを、|潔《いさぎよ》しとしている風なのだ。
その父母がふと今、彼らの心の底から|喚《よ》び起されて、急にしんみりしてしまったのであった。
初めは、鼻からちょうちんを出すように、ふざけた節をつけて、|謡《うた》に唄って|誦《よ》んでいた|父母恩重経《ぶもおんじゅうぎょう》のことばも、それがいろは[#「いろは」に傍点]のように平易なので、|誦《よ》むにつれ、聴くに従い、だんだん分って来たものとみえる。
(おれにも親があった)
ことを思い出すと、その身が、乳をのみ、膝に|這《は》った頃の、|幼心《おさなごころ》に返って――形こそ皆、腕枕をかったり、足の裏を天井にあげたり、|毛《け》|脛《ずね》をむき出したりして、ごろごろ寝転んではいたが、知らず知らず頬に涙を垂れていた者が|尠《すく》なくなかった。
「ヤイ……」
と、そのうちに一人が、|誦《よ》み|人《て》の男へいう。
「まだ、その先が、あるのか」
「あるよ」
「もちっと、聴かしてくれ」
「待てよ」
と|誦《よ》み|人《て》の男は、起きあがって、鼻紙で|洟《はな》をかんでから、こんどは坐って先を|誦《よ》んだ。
[#ここから2字下げ]
――子、やや成長して
|朋友《とも》と相交わるに至れば
父は子に|衣《きぬ》を|索《もと》め
母は子の髪を|梳《くしけず》り
|己《おの》が美好はみな子に捧げ尽し
|自《みずから》は|故《ふる》を着、|弊《やぶ》れたるを|纏《まと》う
――既に子、|婦《よめ》を|索《もと》めて
他の|女《おな》|子《ご》を家に|娶《めと》れば
父母をば|転《うたた》、疎遠にして
夫婦は特に親近にし
私房の中に語らい楽しむ
[#ここで字下げ終わり]
「ウーム、思い当るぞ」
と、誰かうなる。
[#ここから2字下げ]
……父母年|高《た》けて
気老い、力衰えぬれば
|倚《よ》る所の者はただ子のみ
頼む所の者はただ|婦《よめ》のみ
しかるに|朝《あした》より暮まで
未だ敢えて一たびも来り問わず
夜半|衾冷《ふすまひ》ややかに
五体安んぜず、|復《また》談笑なく
孤客の|旅寓《たび》に宿泊するが如し
――或は|復《また》、急に事ありて
|疾《と》く子を呼びて命ぜんとすれば
十たび|喚《よ》びて、九たび違い
遂に来りて給仕せず
却って怒り|罵《ののし》りていわく
老い|耄《ぼ》れて世に残るよりは
早く死なんに|如《し》かずと
父母聞きて|怨《おん》|念《ねん》胸に|塞《ふさ》がり
|涕《てい》|涙《るい》、|瞼《まぶた》を衝き目くらみ
|噫《ああ》、汝幼少の時
吾れにあらざれば養われざりき
吾れに非ざれば育てられざりき
|噫《ああ》、吾れ汝を……
[#ここで字下げ終わり]
「もう、おらあ、おらあ……|誦《よ》めねえから、誰か誦んでくれ」
経を|抛《ほう》って、|誦《よ》み|人《て》の男は泣きだしてしまった。
ひとりとして、声を出す者がない。横になっている者も、仰向けにひっくり|転《かえ》っている者も、|胡坐《あ ぐ ら》の中へ|鴨《かも》のように首を突ッこんでいる者も――
同じ部屋の、すぐ向うの組では、勝った敗けたの賭け事に、慾の餓鬼が修羅のまなじりを吊りあげているかと思えば――ここの一組は、がらにもない無法者が、しゅくしゅく|啜《すす》り泣いている。
その奇妙な部屋を見まわしながら入口に立って、
「|半瓦《はんがわら》は、まだ旅先から帰らぬのか」
佐々木小次郎が、ぶらりと訪れて、姿を見せた。
|血《ち》|五月雨《さみだれ》
一方では、賭け事に熱中しているし、ここでは皆、沈みこんで泣いているし、返辞をする者もないので、小次郎は、
「これ、どうしたのだ」
両腕で顔をおおい、仰向けに寝ている|菰《こも》の十郎のそばへ立つと、
「あ。先生で」
菰も、|他《ほか》の者も、あわてて眼を拭いたり|洟《はな》をかんだりして起上がり、
「ちっとも、存じませんで」
と、|間《ま》が悪そうに、揃って辞儀をする。
「泣いておるのか」
「いえ、なあに、べつに」
「おかしな奴だの。――|稚《ち》|児《ご》の小六は」
「おばばに|尾《つ》いて、今し方、先生のお|住居《す ま い》へ出かけましたが」
「わしの住居へ」
「へい」
「はて、本位田のばばが、わしの住居へ、何用があって出かけたのか」
小次郎の姿が見えたので、賭博に|耽《ふけ》っていた組も、あわてて散らかってしまい、|菰《こも》のまわりにベソを掻いていた連中も、こそこそ姿を消してしまう。
菰は、きのう自分が、|渡船《わ た し》口で武蔵に出会ったことから話して、
「|生《あい》|憎《にく》、親分が旅先なんで、どうしたものか、とにかく先生にご相談した上のことにしようというので出かけましたが」
――武蔵と聞くと、小次郎の眼には、ひとりでに|爛《らん》として燃えるものが|充《み》ちて来るのだった。
「ううむ、然らば武蔵は今、ばくろ町に|逗留《とうりゅう》しておるのか」
「いえ、|旅籠《は た ご》は引払って、そこのすぐ前にある|刀研《かたなとぎ》の耕介の家へ移ったそうで」
「ほ。それはふしぎな」
「何がふしぎで」
「その耕介の手許には、わしの愛刀|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》が|研《とぎ》に|遣《や》ってある」
「ヘエ、先生のあの長い刀が。――なるほどそいつあ奇縁ですね」
「実はきょうも、もうその研ができていてもよい頃と、取りに出かけて来たのだが」
「えっ、じゃあ耕介の店へ寄ってお|在《い》でなすったんで?」
「いや、ここへ立ち寄ってから参るつもりで」
「ああ、それでよかった。うッかり先生が知らずに行ったりなどしたら、武蔵が|気《け》|取《ど》って、どんな先手を打つかもしれねえ」
「なんの、武蔵如きを、そう恐れるには当らん。――だが、それにしても、ばばがおらねば何の相談もならぬが」
「まだ|伊《い》|皿《さら》|子《ご》までは行きますまい。すぐ、足の|迅《はや》い野郎をやって、呼び戻して参りましょう」
小次郎は、奥で待った。
――やがて|灯《ひ》ともし頃。
ばばが町駕に|舁《かつ》がれ、お|稚《ち》|児《ご》の小六と迎えに行った男はわきに付き、|慌《あわただ》しく戻って来る。
夜、奥では|凝議《ぎょうぎ》。
小次郎は、|半瓦《はんがわら》弥次兵衛の帰りを待つほどのことはない。自分がいるからには、助太刀して、きっと、ばばに武蔵を討たせてみるという。
菰もお稚児も、相手は近頃うわさにも上手と聞えた武蔵ではあるが、小次郎ほどの腕とは、どう高く買っても想像できない。
「じゃあ、やるか」
となる。
ばばは元より、
「おう、討たいでおこうか」
と、気がつよい。
けれどただ、ばばも|年齢《とし》だけは|如何《い か ん》とも仕方がない。伊皿子まで往復した疲れに、今夜は腰が痛いというのだ。――そこで小次郎の|研《とぎ》の刀を取りに行くのは差控え、|翌日《あす》の夜を待つことになった。
翌日の昼間。
彼女は|行水《ぎょうずい》を浴び、歯をそめたり、髪を染めたりした。
そして、|黄昏《た そ が》れとなれば、物々しくも|扮装《いでたち》にかかった。彼女の|死装束《しにしょうぞく》とする|白《しろ》|晒布《さ ら し》の肌着には、紋散らしのように、諸国にわたる神社仏閣の印が|捺《お》してある。
|浪華《な に わ》では住吉神社、京では|清《きよ》|水《みず》|寺《でら》、男山八幡宮、江戸では浅草の|観《かん》|世《ぜ》|音《おん》、そのほか旅の先々で受けた所の神々や諸仏天は、今こそ、自分の肌身を固め給うものと信じて、ばばは、|鎖帷子《くさりかたびら》を着たよりも、心丈夫だった。
――でも、|帯《おび》|揚《あげ》の中には、子の又八へ宛てた遺書を入れておくのを忘れていない。自分で|写経《しゃきょう》した「父母恩重経」の一部にそれを挟んで、ふかく秘めておく。
いや、もっと驚くべき用心は、金入れの底にはいつも、次のように書いた一札を入れていることである。
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わたくし事、老齢にてありながら、大望のためさすらい居り候えば、いつなん時、返り討たれんも知れず、行路に病躯をさらし候わんも計られず、その|砌《みぎり》は、御ふびんと思召し、このかねにていかよう共、御始末たまわりたく、途上の仁人とおやくにん様方へ、おねがい申上げおきそろ
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[#地から3字上げ]作州吉野郷士
[#地から1字上げ]本位田後家 す ぎ
自分の骨の届け先にまで心が届いていた。
さてまた、腰には一刀、|脛《すね》には|白《しろ》|脚《きゃ》|絆《はん》、手にも|手《てっ》|甲《こう》、|袖《そで》|無《なし》の上からさらにくけ[#「くけ」に傍点]帯をしかと締めなし、すっかり身支度が成ると、自分の居間の写経机に、一|椀《わん》の水を汲み、
「|行《い》んで来るぞよ」
と、生ける人へいうように、しばらく、|瞑《めい》|目《もく》していた。
おそらく旅で死んだ、河原の権叔父へ告げているのであろう。
障子を細目に、|菰《こも》の十郎は、そっと|覗《のぞ》いて、
「おばば、まだか」
「支度かの」
「もう、よさそうな時刻だから――小次郎様も待っている」
「いつでもよいがの」
「いいのか。じゃあ、こっちの部屋へ来てくれ」
奥では、佐々木小次郎と、お|稚《ち》|児《ご》の小六、それに菰の十郎を加えて、こよい助太刀三名、|疾《と》くから身支度して待っていた。
ばばのために床の|間《ま》の席は|空《あ》けてあった。ばばはそこへ備前焼の置物みたいに硬くなって坐った。
「|門《かど》|出《で》の祝いに」
と、三方の|土器《かわらけ》をとって、お稚児は、ばばの手に持たせ、銚子を|把《と》ってそっと|酌《つ》ぐ。
次に小次郎。
順に飲みわけて――ではと四名はそこの灯を消して立ち出でた。
おれも、てまえもと、こよいの|途《と》に、気負って助太刀をいい出した|乾児《こ ぶ ん》も多かったが、多人数はかえって足手まとい、それに夜とはいえ、江戸の町なか、世上の聞えもあるからと、それらの希望は小次郎が退けたのであった。
「お待ちなすッて」
と、|門《かど》を踏み出す四名の背なかへ、乾児のひとりが、カチカチと|切《きり》|火《び》を|磨《す》った。
外は、雨雲の空もよう。
ほととぎすのよく鳴くこの頃の闇であった。
犬がしきりと闇で吠える。
どこか四人の影に、|凡《ただ》|事《ごと》ならぬものが、|獣《けもの》の眼にもわかるとみえる。
「……はてな?」
暗い辻で、お|稚《ち》|児《ご》は後ろを振り|顧《かえ》った。
「なんだ、小六」
「変な奴が、さっきから、後を|尾行《つけ》て来るようなんで」
「ははあ、部屋の若い奴だな。なんでもかん[#「かん」に傍点]でも、助太刀に一緒に連れて行けと|強請《せが》んで|肯《き》かない奴が、一、二名いたではないか」
小次郎のことばに、
「しようのねえ奴だな。|斬《きり》|合《あい》が飯より好きだという野郎ですからね。――どうしましょう」
「|抛《ほ》っておけ。来るなと叱られても、|尾《つ》いて来るような人間なら頼もしいところがある」
で――気にも止めず、そのまま四名は、ばくろ町の角を曲がった。
「ム……そこだな。|刀研《かたなとぎ》の耕介の店は」
遠く離れて、向い側の|廂《ひさし》の下に小次郎は|佇《たたず》む。
もうお互いに、声をひそめて、
「先生は、今夜、初めて来たんですか」
「刀の研を頼む折は、岩間角兵衛どのの手から頼んだからな」
「で。どうしますか」
「先程、打合わせておいた通り、おばばも、其方たちも、そこらの物陰に|潜《ひそ》んでおれ」
「だが、悪くすると、裏口から逃げやしませんか、武蔵のやつ」
「大丈夫、武蔵とわしとの間には、意地でも|背後《う し ろ》を見せられぬものがある。万一、逃げたりなどしたら、武蔵は剣士としての生命を失うことになろう。だがあれは、それでも逃げるほど反省力のない男ではない」
「じゃあ両側の軒下に、わかれていますか――」
「家の中から、わしが武蔵を連れ出して、肩を並べながら往来を歩いて来る。足数にして、十歩ほども、歩いた頃に、わしが一太刀、抜き打ちに浴びせておくから――そこを、おばばに斬ってかからせるがよい」
お杉は、何度も、
「ありがとうござりまする……。あなた様のおすがたが、八幡の|御《ご》|化《け》|身《しん》のように見えまする」
と、|掌《て》をあわせて拝んだ。
自己の影を拝まれながら「|御《おん》たましい|研所《とぎどころ》」の|厨《ず》|子《し》|野《の》耕介の門口へ歩み寄って行った小次郎の心には、自分の行為に対する正義観が、他人には想像もつかないほど、大きく胸に拡がっていた。
彼と、武蔵のあいだには、初めから、そう宿怨というほどなことは何もなかった。
ただ、武蔵の名声が高まるにつれて、小次郎は、何となく|快《こころよ》くなかったし、武蔵はまた、小次郎の人よりもその力を、尋常でなく認めているので、彼に対しては、誰よりも特殊な警戒を抱いて迎えた。
それが数年も前から続いて来たのである。要するに、当初は双方がまだ若く、|衒《げん》|気《き》や覇気や壮気に充ちきっていた。そして力の互角した者同士が起しやすい摩擦から|醸《かも》された感情と感情のくいちがいに過ぎなかった。
だが――
顧みると、京都以来、吉岡家の問題を挟み、また、火を|咥《くわ》えて|彷徨《さ ま よ》って歩くような|朱《あけ》|実《み》という女性を挟み、今また、本位田家のお杉ばばという者を、その喰い|交《ちが》いの感情に挟んで、小次郎と武蔵とのこの世における面識は、宿怨といえないまでも、決して再び溶けないほどな、対立的な|渠《みぞ》を深めて来つつあることは|否《いな》み難い。
――ましてや、小次郎が、お杉ばばの観念を、そのまま自己の観念に加えて、あわれむべき弱者を|扶《たす》けるという形に似た自己の行為のもとに、自己の|歪《ゆが》んだ感情をも、正義化して考えるようになって来ては、もう二人の|相《そう》|剋《こく》は、宿命というほかあるまい。
「……寝たのか。……刀屋、刀屋」
耕介の店の前に立つと、小次郎は、閉まっているそこの戸を、かろく叩いた。
戸の隙間から明りが洩れている。店に|人《ひと》|気《け》はないが、奥では起きているに違いない――と小次郎はすぐ察していた。
「――どなたで?」
|主《あるじ》の声らしい。
小次郎は、戸の外から、
「細川家の岩間角兵衛どのの手から、|研《とぎ》を頼んである者じゃ」
「あ、あの長剣ですかな」
「ともあれ、開けてくれい」
「はい」
――やがて戸が開く。
じろりと、双方で|観《み》る。
耕介は立ち|塞《ふさ》がったまま、
「まだ|研《と》げておりませぬが」
無愛想にいう。
「――そうか」
と、返辞をした時は、小次郎はもう|関《かま》わず中へはいって、土間わきの部屋の|框《かまち》へ、腰をすえこんでいたのである。
「いつ研げる?」
「さあ」
耕介は自分の頬を|抓《つま》む。長い顔がよけいに伸びて眼じりが下がる。何か人を|揶《や》|揄《ゆ》しているように見え、小次郎はすこし|焦《いら》|々《いら》した。
「あまり日数がかかりすぎるではないか」
「ですから、岩間様にも、お断りしておいたわけで。日限のところは、おまかせ下さいと」
「そう長びいては困る」
「困るなら、お持ち帰りねがいたいもので」
「なに」
職人づれがいえる口幅ではない。小次郎は、そのことばや形を見て、人間の心を|覗《のぞ》こうとしないので、さては、自分の訪れを早くも知って、武蔵が背後にひかえていることを、この男、強がっているに違いないと受け取った。
で、かくなっては、早いがいいと考え、
「時に、話はちがうが、其方の家に、作州の宮本武蔵どのが泊っているということではないか」
「ほ……。どこでお聞きなさいましたな」
それには、耕介も少し不意を受けた顔つきで、
「おるには、おりますが」
と、いい|濁《にご》る。
「久しく会わぬが、武蔵どのとは、京都以来存じておる。ちょっと、呼んでくれまいか」
「あなた様のお名前は」
「佐々木小次郎――そういえばすぐわかる」
「何と仰っしゃいますか、とにかく申しあげてみましょう」
「あ、ちょっと待て」
「なんぞまだ」
「余り唐突だから、武蔵どのが疑うといけないが、実は、細川家の家中で、武蔵どのとよく似た者が、耕介の店におると話していたので、訪ねて来たわけだ。よそで一|献《こん》上げたいと思うから、お支度して来られるように、ついでに申してくれ」
「へい」
耕介は、|暖《の》|簾《れん》|口《ぐち》の見える縁を通って、奥へかくれた。
小次郎は後で、
(万一、逃げないまでも、武蔵がこっちの手にのらず、出て来ない場合にはどうするか? いっそ、お杉ばばに代って、名乗りかけ、意地でも、出て来ずにいられぬように仕向けるか?)
二段、三段の策までを、その間に考えていると――突然、彼の想像を遥かに跳び越えて、|戸外《お も て》の闇で、
「――ぎゃっ」
と、ただの肉声ではない。|直《じか》に他人の生命へもひびいて、ぞっと戦慄を覚えさせるような悲鳴が走った。
――しまったっ。
と、小次郎は|抛《ほう》り上げられたように、腰かけていた|店框《みせがまち》から突っ立った。
――こっちの策は破れた!
いや、策のウラを掻かれた!
武蔵はいつのまにか、裏口から|戸外《お も て》へまわり、お杉ばばや、|菰《こも》や、お|稚《ち》|児《ご》や、|手《て》|易《やす》い者へ先に挑戦して行ったらしい。
「よしっ、その分なら」
彼は、闇の往来へ、ぱっと躍り出した。
時は来た!
と、思う。
体じゅうの肉がぎゅっと|緊《しま》りながら、血ぶるいするように闘志がいきり立つ。
(いつかは剣を|把《と》って会おう)
それは|叡《えい》|山《ざん》から大津越えの峠の茶屋で、別れに誓ったことばである。
忘れてはいない。
その時が来たのである。
たといお杉ばばは返り討ちになっても、ばばの冥福には自分が武蔵の血をもって供養してやろう。
――と瞬間、小次郎の頭には、そんな義侠と正義の念が、火花みたいに突きぬけたが、十歩も跳ぶと、
「せ、先生っ」
道ばたに、苦悶していた人間が、彼の跫音に|縋《すが》って、悲痛な声でさけんだ。
「やっ、小六?」
「……|斬《や》られた! ……や、|斬《や》られました……」
「十郎は、どうした。……お|菰《こも》は」
「お菰も」
「なにっ」
見れば、そこから五、六間離れたところに、もう虫の息となっているお菰の十郎の|朱《あけ》にまみれた体が見出された。
見えないのはお杉ばばの影である。
だが、それを探す眼の|遑《いとま》もなかった。小次郎自身が、自身の警戒にそそけ立っているのだ。八方の闇がみな、武蔵のすがたである如く、彼の五体には構えを要した。
「小六、小六」
ことぎれかかるお|稚《ち》|児《ご》へ、彼は早口に呶鳴って、
「武蔵は――武蔵はどこへ行ったか。武蔵は?」
「ち、ちがう」
小六は、上がらない首を、地で振りながら、やっといった。
「武蔵じゃねえ」
「何」
「……む、武蔵が、相手じゃねえのです」
「な、なんだと?」
「…………」
「小六っ、もういちどいえ。武蔵が相手ではないというのか」
「…………」
お稚児はもう答えなかった。
小次郎の頭は、もんどり打ったように掻き乱れた。武蔵でなくて誰が、一瞬にこの二人を斬って捨てたか。
彼は、こんどは、菰の十郎の仆れているそばへ行って、血でびしょ濡れになっている襟がみをつかみ起した。
「十郎っ、|確乎《し っ か》りせいっ。――相手は誰だ、相手は、どっちへ行った?」
すると、菰の十郎は、びくっと眼を開いたが、小次郎の訊ねたこととも、この場合の事件とも、まったく関聯のないことを、|臨終《い ま わ》の息で、泣くように呟いた。
「おっ母あ、……おっ母あ……ふ、ふ、不孝を」
きのう、彼の血の中に|浸《し》みこんだばかりの「父母恩重経」が、破れた傷口から噴きこぼれたのである。
――小次郎は知らず、
「ちいっ、何をくだらぬ」
と襟がみを突き放した。
――と。何処かで、
「小次郎どのか。小次郎どのかよ」
と、お杉ばばの声がする。
声をあてに、駈け寄ってみると――これも無残な。
下水|溜《だめ》の中に、ばばは|墜《お》ち込んでいるのだった。髪や顔に、|菜《な》|屑《くず》だの|藁《わら》だのこびりつけて、
「上げて下され。はやく、上げて下され」
と、手を振っている。
「ええ、この|体《てい》は、いったい何としたことだ」
むしろ腹立ち|紛《まぎ》れである。力まかせに引ッぱり上げると、ばばは、雑巾のようにべたっと坐って、
「今の男は、もう何処ぞへ走ってしもうたか」
と、小次郎の問いたいことを、却って問う。
「ばば! その男とはそも、何者なのだ」
「わしには|理《わけ》が分らぬ――ただ先ほども、途中で誰か気づいたが、わし達の後を|尾行《つけ》て来たあの人影に違いない」
「いきなり、菰とお稚児へ、斬りつけて来たのか」
「そうじゃ、まるで|疾風《は や て》のようにな、何かいう間もない、陰から不意に出て来て、菰どのを先に|仆《たお》し、稚児の小六が、驚いて抜き合わす|弾《はず》みに、もう何処か斬られていたような」
「して、どっちへ逃げたか」
「わしも、|傍《そば》|杖《づえ》くって、こんな|汚《むさ》い所へ|墜《お》ちてしまったので、見もせなんだが、跫音はたしかに、あっちへ遠のいて行った」
「河の方へだな」
小次郎は宙を駈けた。
よく馬市の立つ空地を駈けぬけ、柳原の|堤《どて》まで出て見た。
|伐《き》った柳の材木が、原の一部に積んである。そこに人影と灯が見えた。近づいてみると四、五|挺《ちょう》の駕を置いて、駕かきが|屯《たむろ》しているのだった。
「オオ、駕屋」
「へい」
「この横丁の往来に、連れの者がふたり斬られて仆れている。それに下水溜りへ墜ちた老婆とがいるから、駕にのせて、大工町の|半瓦《はんがわら》の家まで送り届けておいてくれい」
「えっ、辻斬ですか」
「辻斬が出るのか」
「いやもう、物騒で、こちとらも、|迂《う》|闊《かつ》にゃ歩けやしません」
「下手人はたった今、そこの横丁から逃げ走って来たはずだが、其方たちは、見かけなかったか」
「……さあ、今ですか」
「そうだ」
「嫌だなあ」
駕かきは、|空《から》|駕《かご》の三挺を、残らず|舁《かつ》いで、
「旦那、駄賃はどちらで戴くんですえ?」
「半瓦の家でもらえ」
小次郎はいい捨てて、また、そこらを駈け廻った。河べりを覗いてみたり、材木の陰を|検《あらた》めてみたりしたが、どこにも見当らなかった。
(辻斬だろうか?)
少し戻ると|火《ひ》|除《よけ》|地《ち》の桐の木畑がある。そこを通って、彼はもう半瓦の家へ戻ろうと考えていた。出鼻の不首尾ではあるし、お杉ばばがいないでは意味がない。また、こう乱れた気持で武蔵と剣のあいだに相見ることは、避けるほうが賢明で、当ってゆくのは|愚《おろか》であると考えたからである。
すると。
桐林の道のわきから、ふいに刃らしい光がうごいた。ハッと眼を向ける間もなかった。頭の上の桐の葉が四、五枚ばさっと斬れて散りながら、その|迅《はや》い光はすでに彼の頭へ臨んでいた。
「――卑怯ッ」
と、小次郎はいった。
「卑怯でない」
と二の太刀は、ふたたび、彼の|退《ひ》いた影を追い――ばさっと青桐の木陰から、闇を破って、|跳《は》ね出した。
三転して、小次郎は、七尺も|跳《と》び|退《の》き、
「武蔵ともあろう者が、なぜ尋常に――」
と、いいかけたが、そのことばを途中から驚きの声に変えて、
「やッ、誰だっ? ……。おのれは何者だ。人ちがいするな」
と、いった。
三の太刀まで交わされた男の影は、はや肩で息をついていた。四の太刀はもう、自己の戦法の非を知って、中段にすえたまま、眼を刀の|鋩《ぼう》|子《し》に燃やし、じりじり迫り直して来るのである。
「だまれ。人違いなどいたそうか。|平《ひら》|河《かわ》|天《てん》|神《じん》境内に住む|小《お》|幡《ばた》勘兵衛|景《かげ》|憲《のり》が一弟子、北条新蔵とはわしがこと。こういったら、もう腹にこたえたであろうが」
「あっ、小幡の弟子か」
「ようもわが師を恥かしめ、また重ねて同門の友を、さんざんに討ったな」
「武士の|慣《なら》い、討たれて口惜しければ、いつでも来い。そういえば、佐々木小次郎、逃げかくれする侍ではない」
「おおっ、討たいでおくか」
「討てるか」
「討たいでか」
尺――また二寸――三寸。
詰め寄って来るのを見つめながら、小次郎はしずかに、胸をひらき、右手を腰の大刀へ移して、
「――来いっ」
と誘う。
はっと、その誘いに、相手の北条新蔵が、|戒《かい》|心《しん》を持ったせつなに、小次郎の体が――いや腰から上の上半身だけが――びゅっと折れて、|肱《ひじ》の|弦《つる》を切ったかと見えたが、
――ちりん!
次の瞬間に、彼の刀の|鍔《つば》は、彼の|鞘《さや》へ戻っていた。
むろん、|刃《やいば》は鞘を脱し、そして鞘へ返っていたのであるが、肉眼で見える速度ではない。ただ、一線のほそい光が、相手の北条新蔵の首すじのあたりへ、キラと、届いたか、届かないかと、思えたくらいなものであった。
だが――
新蔵の体は、まだ|股《また》を踏みひらいたまま立っているのだ。血らしいものは、どこにも流れてはいない。けれど、何かの打撃をうけたことは事実である。なぜなら、刀は中段に支えたまま持っているが、左の片手は、左の首すじを、無意識に抑えていた。
――と。その体を挟んで、
「あっ? ……」
これは、小次郎の声とも、後ろの闇でした声とも、どっちつかない所から起ったのである。小次郎もそれに依ってすこし|慌《あわ》て、闇の中から駈けて来た跫音も、それに依って、足を速めて来た。
「おおっ、どうなされた」
駈けつけて来たのは、耕介であった。棒立ちの男の姿勢が、すこしおかしいと思ったので、抱き支えようとすると、とたんに北条新蔵の体は、どたっと朽木だおれに、あやうく大地へ仆れかけた。
耕介は、両の手に不意の重みをかけられて驚きながら、
「やっ、斬られてるな。――誰か来てくれいっ。往来の衆でも、この近くのお人でも、誰か来てくれ。人が斬られているっ――」
と、闇へ向ってどなった。
その声と共に、新蔵の首すじから、ちょうど|蛤《はまぐり》の片貝ほど、肉を|削《そ》ぎとられている傷口が、ぱくと赤い口をあいて、こんこんと|温《ぬる》い液体を、耕介の腕から|裾《すそ》へそそぎかけた。
|心形無業《しんぎょうむぎょう》
ぼとっ――と、時折、中庭の闇で青梅の|実《み》の落ちる音がする。武蔵は、一|穂《すい》の|灯《ひ》に向って|屈《こご》みこんだまま顔も上げない。
|灯《ひ》|皿《ざら》から燃えゆらぐ小さな|燈火《ともしび》は、側近く|俯向《う つ む》いている彼の|蓬《ぼう》|々《ぼう》とした|月代《さかやき》を|鮮《あざ》らかに照らして余す所がない。彼の髪は毛の|硬《こわ》い|性《しょう》と見えた。そして油気がなくてやや赤っぽい。またよく見ると、その毛の根には、大きな|灸《きゅう》の|痕《あと》みたいな古傷がある。幼少の時に病んだ|疔《ちょう》という|腫物《できもの》のあとで、
(こんな育て|難《にく》い子があろうか――)
と、よく母を|嘆《なげ》かせたそのころの、きかない|性分《しょうぶん》の|痕《あと》は、まだ、まざまざと消えきらずにあった。
――彼は今、心のうちで、その母をふと思いうかべ、|刀《とう》の先で彫り刻んでいる顔が、だんだん母に似てくるように思われた。
「…………」
|先刻《さ っ き》。
いや、たった今し方。
ここの中二階の障子の外から、この|家《や》の|主《あるじ》の耕介が、はいるのを|憚《はばか》って、
(まだ、御精が出ていらっしゃいますか。ただ今、店先へ佐々木小次郎とかいう者がみえ、お目にかかりたいようなことをいっていますが、お会いなさいますか、それとも、もうお|寝《やす》みだと、ていよく断っておきましょうか……どうなさいますかな? ……どうにでも、お気のままに、返事をしておきますが)
二、三度、部屋の外でいったようには思ったが――武蔵はそれに返辞をしたかしないか――自分自身で|弁《わきま》えていない。
そのうちに、耕介が、
(あっ?)
と、何か物音を聞きつけて、|忽《こつ》|然《ぜん》と去ってしまったらしいが――それにもべつに気を|惹《ひ》かれず、武蔵はなお、依然として小刀の先を、八、九寸ほどな彫刻の木材に向けて、そこの小机から、膝から身のまわりまで、いっぱいな木屑にして|屈《かが》み込んでいるのであった。
彼は、観音像を彫ろうとしていた。――耕介から申し受けた無銘の名刀のかわりに――観音様を彫ってやる約束をしたので、きのうの朝から、それにかかっているのである。
ところで、その依頼について、|凝《こ》り|性《しょう》な耕介には、特別な望みがあった。
それは何かというと、
(折角あなたに彫っていただくものなら、自分が、年来秘蔵している古材があるので、それをお用い下さいませんか)
とて、|恭《うやうや》しく取り出して来たのを見ると、なるほど、それは少なくも六、七百年の年数は枯らしてあったろうと思われる一尺ほどな枕形の角材。
だが、こんな古材木の切れ端がなんで有難いのか、武蔵には|怪《け》|訝《げん》であったが、彼の説明を|口《こう》|吻《ふん》のままかりていうと、これなん|河内《か わ ち》石川郡東条|磯《し》|長《なが》の|霊廟《れいびょう》に用いられてあった天平年代の古材で、年久しく荒れていた聖徳太子の|御廟《ごびょう》の修築に、その柱の取代えをなしていた心なき寺僧や工匠が、これを割って|庫《く》|裡《り》の|竈《かまど》へ|薪《たきぎ》として運んでいたのを見かけ、旅先ではあったが、勿体なさの余り、一尺ほど切ってもらって来たものだとある。
木目はよし、小刀の|触《さわ》りもよいが、武蔵は、彼が珍重して|措《お》かないのみでなく、|失敗《し く じ》ると、懸け替えのない材で――と思うと、|刀《とう》の刻みが、つい硬くなった。
――がたんと、庭の|柴《し》|折《おり》を、夜風が|外《はず》す。
「……?」
武蔵は顔を上げた。
そして、ふと、
「伊織ではないかな?」
と、|呟《つぶや》いて、耳を澄ました。
案じている伊織が戻って来たのではなかった。また裏の木戸が開いたのも風のせいではないらしい。
|主《あるじ》の耕介が、呶鳴っていた。
「はやくせい、女房。なにを|呆《あ》っけにとられている。|刻《とき》を争うほど、重い怪我人じゃ。手当次第で助かるかもしれぬ。寝床? ――どこでもよいわ、はやく静かな所へ」
耕介のほかに、その怪我人を|担《にな》って、|尾《つ》いて来た人々も、
「傷口を洗う|焼酎《しょうちゅう》はあるか。なくば|自宅《うち》から取って来るが」
とか――
「医者へは、わしが飛んで行ってくる」
とか、ややしばらく、ごたごたしている気配であったが、やがてひと落着きすると、
「ご近所の衆、どうも有難うございました。どうやら、お蔭様で命だけは、取り止めそうな様子でございますから、安心して、お|寝《やす》みなすって下さいまし」
挨拶しているのを聞くと、どうやらここの|主《あるじ》の家族でも、不慮な災難に出会ったかのように――武蔵には思われた。
そこで、捨て置けない気がしたのであろう、武蔵は、膝の|木《き》|屑《くず》を払って、中二階の箱段を降りて行った。そして廊下のいちばん隅から灯りが洩れているのでさし|覗《のぞ》くと、そこに寝かしてある|瀕《ひん》|死《し》の|負傷《て お い》の枕元に、耕介夫婦が、顔を寄せていた。
「……オオ、まだ起きておいでなされましたか」
振返って、耕介は、そっと席をひらく。
静かに、武蔵も、枕元へ坐って、
「どなたでござるか」
燈下の蒼い寝顔をのぞきながら訊くと、
「驚きました……」
と、耕介はさも驚いたふうを示して、
「知らずにお|救《たす》けしたのでございますが、ここへ連れて来てみると、わたくしのお出入り先で、わたくしの最も尊敬している甲州流の軍学者、|小《お》|幡《ばた》先生の御門人ではございませんか」
「ホ。この|人《じん》が」
「はい。北条新蔵と|仰有《おっしゃ》いまして、北条|安房《あ わ の》|守《かみ》の御子息――兵学を御修行なさるために、小幡先生のお手許に、長年お仕えをしているお方でございます」
「ふーム」
武蔵は、新蔵の首に巻いてある白い|布《ぬの》をそっとめくってみた。今焼酎で洗ったばかりの傷口は赤貝の肉片ほど、見事に刀で|抉《えぐ》り飛ばされていた。|灯影《あ か り》は|凹《へこ》んだ傷口の底まで届き、|淡紅《とき》|色《いろ》の頸動脈はありありと眼に見えるほど、露出していた。
髪一すじ――とよくいうが――この|負傷《て お い》の|生命《い の ち》は、正に髪一すじの差で取り止めていた。それにしても、この凄い――冴え切った太刀の使い手は、いったい何者だろうか。
傷口に依って考えると、この太刀は、下からしゃくり[#「しゃくり」に傍点]上げて、しかも|燕《えん》|尾《び》に|刎《は》ね返したものらしい。さもなければこう鮮やかに、頸動脈を狙って、貝の肉を|削《そ》ぐように|抉《えぐ》れている筈はない。
――燕斬り!
ふと、武蔵は、佐々木小次郎が得意とする太刀の手を思いうかべ、とたんに先刻の、|主《あるじ》の耕介が自分の室の外から、その訪れを告げた声を――今になってハッと思いあわせたのであった。
「事情は、分っておるのか」
「いえ、何もまだ」
「そうであろう。――しかし、下手人は分った。いずれ、|負傷《て お い》が本復したうえで聞いてみるがよい。相手は佐々木小次郎と見えた」
武蔵はそういって、自身のことばに自身で|頷《うなず》くのであった。
部屋へ戻ると、彼は手枕で、木屑の中へごろりと横になった。
夜具が|展《の》べてないわけではないが、夜具の中にはいる気持がしないのである。
きょうで二日ふた晩。
伊織はまだ帰って来ない。
道に迷っているにしては永すぎる。もっとも使い先が柳生家であり、木村助九郎という知人もいるので、子供だし、まあ遊んで行けと、ひき止められて、いい気になっているのかも知れない――
で、案じながらも、それについては、さして心を労してはいないが、きのうの朝から、|刀《とう》を持って向っている観音像の彫りには、だいぶ心身のつかれを彼は覚えていた。
武蔵は、その彫りに向って、技巧を心得ている|玄人《くろうと》ではない。また、賢い逃げ道や、上手らしい小刀の|痕《あと》をつけて|誤《ご》|魔《ま》|化《か》してゆく方法を知らない。
ただ彼の心のなかには、彼の描いている観音の|象《かたち》だけがある。彼は、無念になって、その心のなかの|象《もの》を、木彫として現わそうとするだけに過ぎないが、その|真《しん》|摯《し》な狙いどころが、手となり、小刀の先の動きにまでくるあいだに、|種《さま》|々《ざま》な雑念が、狙うところの|心形《しんぎょう》を散漫に乱してしまう。
そこで彼は、折角、彫るところの物が、観音の形になりかけると、それを削って、また彫り直し、また乱れては、また彫り直し――何度もそれを繰り返しているうちに、ちょうど|鰹魚《か つ お》|節《ぶし》を|費《つか》い削ってしまうように、与えられた|天平《てんぴょう》の古材も、いつか八寸に縮み、五寸ほどに痩せ、もうわずかに、三寸角ぐらいまで、小さくしてしまっていた。
――|時鳥《ほととぎす》の声を二度ほど聞いたと思ううちに、彼は半刻ほど、とろとろと眠った。ふと眼をさますと、彼の健康な体力は、頭の隅々の疲労まで洗い去っていた。
「今度こそ」
と、起きると共にすぐ思う。
裏の井戸へ行って、顔を洗う、口を|嗽《すす》ぐ。そして彼は、もう暁に近い灯を|剪《き》り直し、気を|革《あらた》めて、また、彫刀を持ち直した。
サク、サク、サク……
と、眠らない前と、眠った後とでは、小刀の刃味までが違ってくる。古材の新しい木目の下には、千年前の文化が細やかな渦を描いている。もうこれ以上彫り損じては、この貴重な古材はふたたび木屑から一尺の角材に帰るよしもないのだ。どうしても、今夜はうまく彫り上げなければならないと思う。
剣を|把《と》って敵に立ち|対《むか》った時のように、彼の眼はらんらんとし、彼の小刀には力がこもっていた。
背も伸ばさない。
水も飲みに立たない。
夜が白んで来たのも――小鳥の声がし始めて来たのも――またこの家の戸が、彼の部屋を余す以外すべて開け放されたのもまったく知らずに――彼は|三《さん》|昧《まい》にはいっていた。
「武蔵さま」
どうしたのか? ――と案じて来たように、|主《あるじ》の耕介がうしろを開けてはいって来たので、彼は初めて、背ぼねを伸ばし、
「……ああ、だめだ」
初めて、小刀を投げていった。
見るともう、削り削りして痩せた木材は、その原型はおろか、|拇指《おやゆび》ほども残らず、すべて、木屑となって、彼の膝からまわりに、雪を積んだようになっていた。
耕介は、眼をみはって、
「……あっ、だめですか」
「ウム、だめだ」
「天平の古材は」
「みんな削ってしまった。――削っても削っても、木の中から、とうとう|菩《ぼ》|薩《さつ》のおすがたが出て来なかったよ!」
こう、われに|回《かえ》って、嘆声をもらすと、武蔵は初めて、|菩《ぼ》|提《だい》と煩悩の中間から地上へ放し落されたように、両手を頭の後ろに結んで、
「だめだ。これから少し禅でもやろう」
と仰向けに寝ころんだ。
そして、眠るべく目を閉じてから、やっと、種々な雑念が去って、なごんだ脳膜のうちに、ただ「|空《くう》」という一字だけが、うとうとと、頭の中に漂っていた。
朝立ちの客が物騒がしく土間から出てゆく。多くは|博《ばく》|労《ろう》たちだった。この四、五日立っていた馬市の総勘定も、きのうで片づいたとかで、ここの|旅籠《は た ご》もきょうから|閑散《ひま》になるらしい。
伊織は、今朝、そこへ帰って来て、すたすたと二階へ上がりかけると、
「もしもし。子ども衆」
と、宿の|内儀《かみ》さんが、帳場からあわてて呼ぶ。
梯子段の中途から、伊織は、
「なんだい」
と、振向いて、お内儀さんの|頭髪《あ た ま》の|禿《はげ》をそこから見下ろす。
「どこへ行きなさるのかね」
「おらか?」
「ああさ」
「おらの先生が二階に泊ってるから、二階へ行くのに、ふしぎはあるまい」
「へえ……?」と、呆れ顔して、
「一体、おまえさんは、|何日《いつ》ここを出かけたんだえ」
「そうだなあ?」
指を繰って――
「おとといの前の日だろ」
「じゃ、先おとといじゃないか」
「そうそう」
「柳生様とかへ、お使いに行くといっていたが、今帰って来たのかえ」
「あ。そうだよ」
「そうだよもないものだ、柳生さまのお邸は江戸の内だよ」
「おばさんが、|木挽町《こびきちょう》だなんて教えたから、とんだ廻り道をしちまったじゃないか。あそこは|蔵《くら》|屋《や》|敷《しき》で、|住居《す ま い》は麻布村の|日《ひ》ケ|窪《くぼ》だぜ」
「どっちにしたって、三日もかかる所じゃないじゃないか。狐にでも化かされていたんだろ」
「よく知ってるなあ。おばさん、狐の親類かい」
|揶揄《か ら か》いながら伊織が、梯子段をのぼりかけるのを、|内儀《かみ》さんはまた、あわてて止めて、
「もう、おまえの先生は、|此宿《ここ》には泊っていないよ」
「嘘だい」
伊織は、ほんとにせず、駈け上がって行ったが、やがてぼんやり降りて来て、
「おばさん、先生は、|他《ほか》の部屋へ代ったんだろ」
「もうお立ちになったというのに疑ぐりぶかい子だね」
「えっ、ほんとかいっ」
「嘘だと思うなら、帳面をごらんよ、この通り、お勘定だって済んでいる」
「ど、どうしてだろう、どうして、おらの帰らないうちに、立っちまったんだろ」
「あんまり、お使いが遅いからさ」
「だって……」
伊織は、ベソを掻き出して、
「おばさん、先生は、どッちへ立って行ったか、知らないか、何か、いい置いて行ったろ」
「何も聞いてないね。きっと、おまえみたいな子は、お供に連れて歩いても、役に立たないから、捨てられたんだよ」
眼いろを変えて、伊織は往来へ飛び出した、――そして西を見、東を見、空をながめて、ぽろぽろ泣き出した様子に、|中《なか》|剃《ぞり》の|禿《はげ》を|櫛《くし》の歯で掻きながら、お|内儀《かみ》はケタケタ笑った。
「嘘だよ、嘘だよ。おまえの先生は、すぐ前の刀屋さんの中二階へ引っ越したのさ。そこにいるから、泣かずに行ってごらん」
今度は、ほんとのことを教えてやると、その言葉が終るや否、内儀さんのいる帳場の中へ、往来から馬の|草鞋《わ ら じ》が飛びこんできた。
寝ている武蔵のすその方へ、伊織は|畏《おそ》る畏るかしこまって、
「ただ今」
と、いった。
彼を、ここへ通した耕介は、すぐ跫音をひそめて、|母《おも》|屋《や》の奥の病室へかくれた様子――
どことなく、きょうのこの|家《や》は|陰《いん》|気《き》だった。伊織にも、感じられる。
それに、武蔵の寝ているまわりには、木屑がいっぱい散らかっていて、|燈《とも》しきって、油の|渇《かわ》いた燭台もまだ片づけてない。
「……ただ今」
叱られることが、何よりも彼の心配であった。で、大きな声が出ないのであった。
「……誰だ」
武蔵がいう。
眼をあいたのである。
「伊織でございます」
すると武蔵は、すぐ身を起した。そして足の先にかしこまっている伊織の無事をながめると、ほっとしたように、
「伊織か」
と、いったが、それきり何もいわなかった。
「遅くなりました」
それにも何もいわず、伊織がふたたび、
「すみません」
と、お辞儀しても、べつだん次の問いを発せず、帯を締め直して、
「窓を明けて、ここを掃除しておけ」
いいつけて、出て行った。
「はい」
伊織は、家人に|箒《ほうき》を借りて、部屋の掃除にかかったが、なお、心配になるので、武蔵が何をしに行ったのかと、裏庭をのぞくと、武蔵はそこの井戸ばたで口を|嗽《すす》いでいた。
井戸端のまわりには、青梅の|実《み》がこぼれている。伊織は、それを見るとすぐ、塩をつけて|齧《かじ》る味を思った。そして、あれを拾って|浸《つ》けこんでおけば、一年中梅干に困らないのに、ここの人はなぜ拾って漬けないのかと考えたりした。
「耕介どの。怪我人の容態はどうじゃな」
武蔵は、顔を拭きながら、そこから裏の端の部屋へ、ことばをかけていた。
「だいぶ、落着いたようで」
と、耕介の声もする。
「おつかれでござろう。後で少し代りましょうかな」
武蔵がいうと、耕介は、それには及ばない由を答えて、
「ただ、このことを、平河天神の|小《お》|幡《ばた》|景《かげ》|憲《のり》様の塾まで、お知らせしたいと思いますが、人手がないので、どうしたものかと、それを案じておりますが」
と、相談する。
それなら、自分が行くか、伊織を使いに出すから――と武蔵がひきうけて、やがて中二階の箱段をのぼって来ると、部屋は手ばやくもう|掃《は》かれてある。
武蔵は、坐り直して、
「伊織」
「はい」
「使いの返事は、どうであったな」
――多分、いきなり叱られるに違いないと|惧《おそ》れていた伊織は、やっとニコついて、
「行って参りました。そして柳生様のお邸にいる木村助九郎様からここに、御返事をもらって来ました」
|懐《ふところ》の奥のほうから、返書の一通を出して、したり[#「したり」に傍点]顔をした。
「どれ。……」
武蔵は手を伸ばし、伊織は、膝をすすめてその手へ渡した。
木村助九郎からの返辞には、ざっと、こうした文言が|認《したた》めてあった。
(――せっかくの御所望ではあるが、柳生流は将軍家のお|止流《とめりゅう》。|何《なん》|人《ぴと》とも、公然の試合はゆるされない。しかし、試合としてお越しあるのでなければ、時に依って、主人|但《たじ》|馬《まの》|守《かみ》様が、道場で御挨拶のある場合もある。――なお、|強《た》って、柳生流真骨法に接したいというお望みならば、柳生兵庫様とお立合いになるのが最上と思うが――折わるく、その兵庫様には、本国|大和《や ま と》の石舟斎様の御病気再発のために、にわかに昨夜、大和へ向けてお立ちになってしまった。かえすがえす遺憾であるが、そういう御心配もある折なので、但馬守様を御訪問の儀も他日になされてはどうか)
と、結んで、
(その時にはまた、自分が御周旋申しあげてもよい)
と、追伸してある。
「…………」
武蔵は、ほほ笑みながら、長い巻紙をゆるゆる巻き納めた。
彼の微笑を見ると、伊織はよけい安心した。その安心をしたところで、窮屈な脚を伸ばして、
「先生、柳生さまのお|邸《やしき》は、|木挽町《こびきちょう》じゃないぜ。麻布の日ケ窪ってとこさ、とても大きくて、立派な家だよ。そしてね、木村助九郎様が、いろんな物を、ご馳走してくれた」
|狎《な》れて、話し出すと、
「伊織」
武蔵の眉が、すこし|難《むずか》しく変っている。その気色に、伊織はあわててまた、足を引っ込めて、
「はい」
と改まる。
「道を間違えたにせよ、きょうは三日目、あまり遅過ぎるではないか。どうしてこんなに遅く帰って来たか」
「麻布の山で、狐に化かされてしまったんです」
「狐に」
「はい」
「野原の一軒家に育って来たおまえが、どうして狐になど化かされたのか」
「わかりません。……けれど半日と一晩中、狐に化かされて、後で考えても、何処を歩いたのか、思い出せないんです」
「ふーム……。おかしいな」
「まったく、おかしゅうございます。今まで狐なんか、何でもないと思っていましたが、田舎より江戸の狐のほうが、人間を化かしますね」
「そうだ」
彼の|真面目《まじめ》|顔《がお》を見ていると、武蔵は叱る気も失せて、
「そちは、何か|悪戯《いたずら》したろう」
「ええ、狐が|尾行《つけ》て来ましたから、化かされないうちにと要心して、脚だか尻尾だか斬りました。その狐が、|仇《あだ》をしたんです」
「そうじゃない」
「そうじゃありませんか」
「うム、あだ[#「あだ」に傍点]をしたのは、眼に見えた狐でなくて、眼に見えない自分の心だ。……ようく落着いて考えておけ。わしが帰って来るまでに、その|理《わけ》を解いて、答えるのだぞ」
「はい。……けれど先生は、これから何処かへ行くんですか」
「|麹町《こうじまち》の|平《ひら》|河《かわ》天神の近所まで行ってくる」
「今夜のうちに、帰って来るんでしょうね」
「はははは、わしも狐に化かされたら、三日もかかるかも知れぬぞ」
きょうは伊織を留守において、武蔵は|梅雨《つゆ》ぐもりの空の下へ出て行った。
|雀羅《じゃくら》の|門《もん》
平河天神の森は、|蝉《せみ》の声につつまれていた。|梟《ふくろ》の声もどこかでする。
「ここだな」
武蔵は、足を止めた。
昼間の月の下に、物音もしない一構えの建物がある。
「たのむ」
まず玄関に立ってこう訪れた。|洞《どう》|窟《くつ》へ向ってものをいうように、自分の声が自分の耳へがあんと返ってくる。――それ程、|人《ひと》|気《け》が感じられなかった。
――しばらく経つと、奥の方から跫音がして来た。やがて彼の前に、取次の小侍とも見えぬ青年が、|提《さ》げ|刀《がたな》で立ち現れ、
「|誰方《ど な た》だな?」
立ちはだかったままでいう。
年ばえ二十四、五歳、若いが、|革《かわ》|足袋《たび》の先から髪の毛まで、一見して、|能《のう》もなく育って来た骨がら[#「がら」に傍点]でないものを備えていた。
武蔵は、姓名を告げて、
「|小《お》|幡《ばた》|勘《かん》|兵《べ》|衛《え》どのの小幡兵学所はこちらでございますな」
「そうです」
青年は、|膠《にべ》がない。
次にはさだめし、兵法修行のため諸国を遊歴しておる者で――と武蔵がいうに違いないと、見ているような|体《てい》だったが、武蔵が、
「御当家の一弟子、北条新蔵と申さるる|人《じん》が、仔細あって、ご存じの刀|研《と》ぎ耕介の家に救われて、療養中にござりますゆえ、右まで、耕介の依頼に依って、お|報《し》らせにうかがいました」
と述べると、
「えっ、北条新蔵が、返り討ちになりましたか」
と、青年は驚愕して、気を落着けると、
「失礼いたしました、わたくしは勘兵衛|景《かげ》|憲《のり》の一子、小幡余五郎にございます。わざわざのお|報《し》らせ有難う存じまする。まず、端近ですが御休息でも」
「いやいや、一言、お伝えすればよいこと、すぐお|暇《いとま》をいたす」
「して、新蔵の生命は」
「今朝になって、いくらか持直したようです。お迎えに参られても、今のところでは、まだ動かされますまいから、当分は耕介の家に置かれたがよいでしょう」
「何分、耕介へも、頼み入るとお|言《こと》|伝《づて》ねがいたい」
「伝えておきましょう」
「実は当方も、父勘兵衛がまだ病床から起ち得ぬところへ、父の代師範をつとめていた北条新蔵が昨年の秋から姿を見せませぬため、このように講堂を閉じたまま、人手のない始末、|悪《あし》からずお推察を」
「佐々木小次郎とは、何かよほどな御宿怨でもござるのか」
「私の留守中ゆえ、詳しくは存じませぬが、病中の父を、佐々木が恥かしめたとかで、門人たちの間に遺恨を|醸《かも》し、幾たびも彼を討とうとしては、かえって彼のために、返り討ちになる始末に、遂に、北条新蔵も意を決して、ここを去って以来、小次郎をつけ狙っていたものとみえまする」
「なるほど。それでいきさつが相分った。――しかし、これだけは御忠告しておく。佐々木小次郎を相手にとって争うことはおやめなされ。彼は、尋常に刃向っても勝てぬ相手、策をもってもなお勝てぬ相手。――|所《しょ》|詮《せん》剣でも、口先でも、策略でも、およそ一かどぐらいな器量の者では、太刀打ちにならぬ人物です」
武蔵が、小次郎の凡物でない点を揚げて称揚すると、余五郎の若い眸には、ありありと不快ないろが燃えた。武蔵は、それを感じるのでなおさら、未然の警戒を、繰返したくなって、
「誇る者には誇らしておくに限る。小さな宿怨に、大禍を招いてはなりますまい。北条新蔵が仆れたからには、自分がなどと重なる遺恨を追って、また、前車の血の|轍《てつ》をお踏みなさるなよ。愚かです、愚かなことです」
そう忠言すると、彼は、玄関先からすぐ帰って行った。
――その後で、余五郎は、壁に|倚《よ》りかかったまま、独りで腕を|拱《く》んでいた。
多感な|唇《くち》が、かすかに、
「残念な……」
と、|顫《ふる》えを洩らした。
「新蔵までが、とうとう、返り討ちにされたのか……」
うつろな眼で、天井を見る。広い講堂も|母《おも》|屋《や》も、今では、ほとんど無人のようにしんとしていた。
自分が旅先から帰って来た際には――新蔵はもういなかったのである。ただ、自分へ宛てた遺書だけがあった。それには、佐々木小次郎をきっと討って帰るとあった。討てなければ今生でお目にかかる折はもうあるまいとしてあった。
その、|希《ねが》わぬことの方が、今は、事実となってしまった。
新蔵がいなくなってから、兵学の授業も自然やすみとなり、世間の評は、とかく小次郎に加担して、この兵学所に通う者を卑怯者の集まりのように、また、理論だけで実力のない人間の|屯《たむろ》のように悪くいった。
それを、|潔《いさぎよ》しとしない者だの、父勘兵衛|景《かげ》|憲《のり》の病気や、甲州流の衰微を見て、長沼流へ移ってゆく者だの――いつのまにか門前はさびれてしまい、近頃では内弟子のほんの雑用をする者が二、三止まっているきりだった。
「……父にはいうまい」
彼は、すぐそう心に決めた。
「――後は後のことだ」
とにかく、老父の重病に手を尽すことが、子としては、今は最善なつとめだと思う。
しかし、その恢復は、到底、|覚《おぼ》つかないことだとは、医者からもいわれていることだった。
――後は後のこと。
と、そこで悲しい我慢が胸をさするのだった。
「余五郎っ。余五郎っ」
奥の病室から、こう父の声がその時聞えた。
子の眼からは、今にもと危ぶまれる病父も、何かに激して、子を呼ぶ時の声は、病人とも思われなかった。
「――はいっ」
あわてて、余五郎は、駈けて行った。
そして次の間から、
「お呼びですか」
ひざまずいて見ると、病人はいつも寝くたびれた時するように、自分で窓をあけ、枕を|脇息《きょうそく》にして、床のうえに坐っていた。
「余五郎」
「はい。ここにおります」
「今――門の外へ行った武士があったな。――この窓から、後ろ姿だけを見たのだが」
もう、父はそれを知っていたのかと、包んでいるつもりだった余五郎は、ややうろたえた。
「は……。では……ただ今見えた使いの者でございましょう」
「使いとは、どこから」
「北条新蔵の身に、ちと変事がござりまして、それを知らせに来てくれた――宮本武蔵とか申すお人です」
「ふム? ……宮本武蔵。……はてな、江戸の者ではあるまいが」
「作州の牢人とか申しておりましたが――お父上には只今の人間に、何ぞお心当りでもあるのでござりまするか」
「いや――」
勘兵衛景憲は、白い|髯《ひげ》のまばらに伸びた|顎《あご》の先をつよく振って、
「なんの|由縁《ゆ か り》も見おぼえもない。したが、この景憲も、若年からこの年まで、数々の戦場はおろか平時のあいだに、随分人らしい人は見たが、まだ真に武士らしい武士に出会うたのは|幾《いく》|人《たり》もない。――ところが、今立ち去った侍には、何か、心が|惹《ひ》かれた。――会いたい。ぜひその宮本殿とやらに会って話してみたい。――余五郎、すぐ追いかけて、これへ、ご案内申して来い」
あまり長く話してもいけない――と医者からも注意されている病人である。
――呼んでこい。
と、病人が、やや昂奮していうだけでも、余五郎は、父の容態に|障《さわ》りはしないかと、案じられるのだった。
「かしこまりました」
一応は、病人に従って、彼はこういったが立とうとはせず、
「しかしお父上、今のさむらいの何処がそんなにお気に召しましたか。この御病間の窓から、後ろ姿をご覧になっただけでしょうに」
「おまえには分るまい。――それが分る頃になると人間も、もはやこの通り|寒《かん》|巌《がん》|枯《こ》|木《ぼく》に近くなる」
「でも、何か|理由《わけ》が」
「ないこともない」
「お聞かせ下さいませ。余五郎などには後学にも相成りましょう」
「わしへ――この病人にさえ――今の侍は油断をせずに行った。それが偉いと思う」
「父上が、こんな窓の中に、お|在《い》でになることを、知る筈はありませぬが」
「いや、知っていた」
「どうしてでしょう」
「門をはいって来る時、そこで一足止めて、この家の構えと、明いている窓や明いていない窓や、庭の抜け道、その他、|隈《くま》なく一目に彼は見てしまった。――それは少しも不自然なてい[#「てい」に傍点]ではなく、むしろ|慇《いん》|懃《ぎん》にさえ見える身ごなしではいって来たが、わしは遥かにながめて、これは何者がやって来たかと驚いておったのじゃ」
「では、今の侍は、そんな|嗜《たしな》みのふかい武士でしたか」
「話したら、さだめし尽きぬ話ができよう。すぐ追いかけて、お呼びして来い」
「でも、お体に|障《さわ》りはいたしませんか」
「わしは、年来、そういう知己を待っていたのだ。わしの兵学は、子に伝えるため積んで来たのではない」
「いつも、お父上の仰っしゃっておらるることです」
「甲州流とはいうが、勘兵衛|景《かげ》|憲《のり》の兵学は、ただ甲州武士の方程式陣法を弘めてきたのではない。信玄公、謙信公、信長公などが、覇を争っていた頃とは、第一時世がちがう。学問の使命も違う。――わしの兵学は、あくまで小幡勘兵衛流の――これから先、真の平和を築いてゆく兵学なのだ。――ああ、それを誰に伝えるか」
「…………」
「余五郎」
「……はい」
「そちに伝えたいのは山々だ。だけど、そちは今の武士と、面と|対《むか》ってさえ、まだ相手の器量がわからぬほど未熟者じゃ」
「面目のう存じます」
「親のひいき目に見てすらその程度では――わしの兵学を伝えるよしもない。――むしろ他人の|然《しか》るべき者に伝えて、そちの後事を託しておこう――と、わしはひそかにその人物を待っていたのじゃ。花が散ろうとする時は、必然に、花粉を風に託して、大地へこぼして散るようにな……」
「……ち、父上、散らないでください。散らないように、御養生遊ばして」
「ばかをいえ、ばかを申せ」
二度繰り返して、
「はやく行け」
「はい」
「失礼のないように、よくわしの旨を申しあげて、これへ、お連れ申して来るのじゃぞ」
「はっ」
余五郎は、いそいで、門の外へ駈け出して行った。
――追って行ったが、武蔵の影はもう見えなかった。
|平《ひら》|河《かわ》天神の辺りを探し、|麹町《こうじまち》の往来まで出て行ったが、やはり見当らなかった。
「しかたがない。――また折があろう」
余五郎は、すぐ|諦《あきら》めた。
父がいうほど、彼にはまだ、武蔵がそれほど|優《すぐ》れた人間とは、受け取れなかった。
|年齢《とし》も、自分と同じくらいな彼が、たといどれ程、才分があったとしても、知れたものだとしか思われなかった。
それに、武蔵が帰り際に、
(佐々木小次郎を相手になさるのは愚かである。小次郎は凡物ではない。小さな宿怨はお捨てになったほうがお為であろう)
などといった言葉も、頭のどこかに|閊《つか》えている感じである。あたかも、わざわざ小次郎を称揚しに来たような印象を、余五郎は受けていた。
(何の!)
と、いう気持が、当然、それに対して、彼にはある。
小次郎に対しても抱くが如く、武蔵に対しても、それの軽いものを抱いているのだ。――いや、父に対してすら、従順には聞いていたが、心の|裡《うち》では、
(私とても、そうお父上が|見《み》|縊《くび》るほどな未熟ではございません)
と、|呟《つぶや》いた程だった。
一年、時には二年、三年と、余五郎も許された|暇《いとま》のあるたびに、武者修行にも歩いたり、他家へ兵学の内弟子となったり、時には、禅家へも通ったり、一通りな鍛錬は積んで来たつもりなのである。――それを父はいつまでも乳くさいように自分を|視《み》ている。そしてたまたま窓越しに見た武蔵のような若輩者を、おそろしく過賞し、
(すこし貴様も見ならえ)
と、いわないばかりな|口吻《くちぶり》であった。
「――戻ろう」
と、決めて、家のほうへ帰りながら、余五郎はふと淋しかった。
「親という者は、いつまでも子が乳くさく見えてならないのだろうな」
いつかはその父に、お前もそんなになったかといわれてみたい。しかし、その父は明日も知れない病身である。それが淋しかった。
「おう、余五郎どの。――余五郎どのじゃないか」
呼びかける声に、
「やあ、これは」
と、余五郎も|踵《きびす》を|回《かえ》して、双方から近づいて行った。
細川家の家士で、近頃はあまり見えないが、一頃はよく講義を聞きに来ていた|中戸川範太夫《なかとがわはんだゆう》であった。
「大先生の御病気はその後いかがでございますな。公務に追われて、ごぶさたを致しておりますが」
「相変らずでございます」
「なにせい、御老齢のことでもあるしの。……オオ時に、教頭の北条新蔵どのが、またしても、返り討ちにされたという噂ではござらぬか」
「もうご承知ですか」
「つい今朝方、藩邸で聞きましたが」
「ゆうべのそれを――もう今朝細川家で」
「佐々木小次郎は、藩の重臣、岩間角兵衛殿の|邸《やしき》に食客しておるので、その角兵衛どのが、早速、|吹聴《ふいちょう》したものでござろう。若殿の|忠《ただ》|利《とし》公すら、すでにご存知のようでござった」
余五郎の若さでは、それを冷静に聞いていることはできなかった。そうかといって、顔いろの動きを見られるのも嫌だった。さり気なく範太夫には別れて家へ戻ったが、その時はもう、彼の肚は決まっていた。
|街《まち》の|雑《ざっ》|草《そう》
耕介の妻は、|粥《かゆ》を煮ている。
奥の病人のためにである。
その台所を覗いて、
「おばさん、もう梅の|実《み》が黄色くなったよ」
と伊織が教えた。
耕介の妻は、
「ああ、|熟《う》れて来たね、|蝉《せみ》も啼き出すし」
と、なんの感激もない。
「おばさん、どうして、梅の実を漬けないのさ」
「小人数だもの。あれだけ漬けるには、塩だって沢山いるだろ」
「塩は腐らないけれど、梅の実は漬けとかないと腐っちまうじゃないか。小人数だって、戦争の時だの、洪水の時には、ふだんに要心しておかないと困るぜ。――おばさんは病人の世話で忙しいから、おらが漬け込んでやるよ」
「まあ、この子は、|大洪水《おおみず》の時のことまで考えているのかえ。子供みたいじゃないね」
伊織はもう、物置へ入って、|空《あき》|樽《だる》を庭へ持ち出している。そして梅の樹を仰いだ。
|他家《よそ》の世話女房を|窘《たしな》める程、子供に似げない才覚や生活の自衛を心得ているかと思うと、もうすぐ樹の肌に止っているミンミン|蝉《ぜみ》を見つけて、それに気を|奪《と》られていた。
そっと寄って、伊織は、蝉をおさえつけた。蝉は彼の|掌《て》の中で、老人の悲鳴みたいに啼き立てた。
自分の|拳《こぶし》をながめて、伊織は不思議な感に打たれている。蝉には血がない筈なのに、蝉の体は自分の掌よりも熱かった。
血がない蝉でも、死ぬか生きるかの境には、火のような熱を体から燃やすのであろう。――伊織は、そこまでは考えなかったが、ふと怖くなって、また可哀そうになって、その|掌《て》を大空へ上げて開いた。
蝉は、隣の屋根へぶつかって町の中へ|反《そ》れて行った――。伊織はすぐ梅の樹へのぼり出した。
かなり大きな樹だった。|恙《つつが》なく育った毛虫は、驚くほど美麗な毛を着て這っていた。天道虫もいたし、青葉の裏には、青蛙の子もはりついていた。小さい蝶も眠っていた。|虻《あぶ》も舞っていた。
人間の世界を離れた別な世界を覗いたように、伊織は、|見《み》|惚《と》れていた。いきなり梅の枝をユサユサ揺すって、昆虫の国の紳士淑女を|愕《おどろ》かすのは気の毒みたいな気がしたのかもしれない。まず薄く色づいた梅の|実《み》を一個|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》いで、ボリッと、|齧《かじ》った。
そして手近の枝から、揺すぶり始めた。落ちそうに見えていて、梅の実は案外落ちない。手の届く実は手で|むし[#「むし」は「てへん」+「劣」Unicode=6318]《むし》って、下の空樽へ|抛《ほう》り投げた。
「――あっ、畜生っ」
何を見たのか、伊織はふいにそう呶鳴って、家の横手の露地へ向って、ぱらぱらッと、三ツ四ツ梅の実を投げつけた。
垣根へ懸け渡してあった物干竿が、それと共に、大きな音を立てて地へ落ちた。続いて、|慌《あわ》てふためいた跫音が、露地から往来へ飛び出して行った。
きょうも、武蔵は外出していて、その留守中のことなのである。
細工場で、余念なく、刀を|研《と》いでいた耕介は、竹窓から顔を出して、
「なんだ? 今の音は」
と、眼をまるくした。
伊織は、樹の上から、飛び降りて――
「おじさん、露地の陰へ、また変な男が来て、しゃがみ込んでたよ。梅の実を|打《ぶ》つけてやったら、びっくりして、逃げてったけれど、油断してると、また来るかもしれないぜ」
と、細工場の窓へ告げた。
耕介は、手を拭きながら出て来て、
「どんな奴だった?」
「無法者だよ」
「|半瓦《はんがわら》の|乾児《こ ぶ ん》か」
「こないだの晩も、店へ押し|襲《か》けて来たろ。あんな|風《ふう》|態《てい》さ」
「猫みたいな奴らだ」
「何を狙いに来るんだろ」
「奥の怪我人へ、仕返しにやって来るのだ」
「あ。北条さんか」
伊織は、病人のいる部屋を、振返った。
病人は|粥《かゆ》を喰べていた。
その北条新蔵の|負傷《て き ず》も、もう|繃《ほう》|帯《たい》を|脱《と》っていい程に恢復していた。
「――御亭主」
新蔵がそこから呼ぶので、耕介は縁先へ歩いて行って、
「いかがですな」
と、|慰《なぐさ》めた。
食事の盆を片寄せて、新蔵は坐り直した。
「耕介どの。思わぬお世話に相成った」
「どういたしまして。仕事があるのでつい行き届きませんで」
「何かとお世話ばかりでなく、拙者を狙う|半瓦《はんがわら》の部屋の者が、絶えずこそこそ立ち廻るらしいな。長居するほど迷惑はかさむし、万一当家へあだ[#「あだ」に傍点]をするようでは、この上にも申し訳がない」
「そんなご|斟酌《しんしゃく》は……」
「いやそれに、この通り、体も恢復いたしたから、今日はもうお|暇《いとま》をしようと思う」
「え、お帰りですって」
「お礼には、後日改めてお伺いする」
「ま……お待ち下さい。ちょうど今日は、武蔵様も外へ出ていらっしゃいますから、帰った上で」
「武蔵どのにも、|種々《いろいろ》と手厚いお世話になったが、戻ったらよろしくいってくれい。――この通り歩行などにはもう少しも不自由はない程に」
「でも、半瓦の家にいる無法者たちは、いつぞやの晩、|菰《こも》の十郎と、お|稚《ち》|児《ご》の小六という者を、あなたのために斬り殺されたため、それを恨んで、あなたが一歩でも|此《この》|家《や》の軒下を出たら喧嘩をしかけようと、待ち構えておりまする。それで毎日毎夜、あの通りちょいちょい様子を覗きに来ておりますのに、それを承知で、お一人でここから帰すことはできませぬ」
「何の、菰やお稚児を斬ったのは、こちらには、堂々と理由のあること。彼らのうらみは逆恨みじゃ。それを、事を構えて仕懸けて参れば――」
「と、いっても、まだその体では心もとのうござりまする」
「ご心配は|忝《かたじけな》いが大事はござらぬ。御家内はどこにおられるか。御家内へも礼を申して……」
と、新蔵はもう、身支度を直して、立ち上がった。
ひき止めても、きかないので、夫婦もぜひなく、送り出すと、ちょうどその店先へ、|陽《ひ》に|焦《や》けた顔に汗をたたえて、武蔵が外から戻って来た。
出合いがしらの眼をみはって、
「や。北条どの、何処へ出かけられるか。――何、御帰宅と。――そういう元気になってくれたことは|欣《うれ》しいが、一人では途中が物騒。よい所へ戻って来た。拙者が|平《ひら》|河《かわ》天神までお送りしよう」
と、武蔵はいった。
一応は辞退したが、
「何。――まあよい」
武蔵は受けつけない。
で、好意に甘えて、北条新蔵は彼に|伴《つ》れられて、耕介の家を出た。
「久しく歩かれなかったから、ご大儀ではないか」
「何か、こう、地面が高く見えるようで、足を踏み出すのに、|蹌《よろめ》きまする」
「無理もない。平河天神まではだいぶある。|町《まち》|駕《かご》が来たら、あなただけお乗りなさい」
武蔵がいうと、
「申し遅れましたが、小幡兵学所へは帰りませぬ」
「では、|何処《ど ち ら》まで」
「……面目ない気もいたしますが」
と、新蔵はさし|俯向《う つ む》いて、
「――一時、父の許へ帰るといたしまする」
と、いった。そして、
「牛込です」
と、行く先を告げた。
武蔵は、町駕を見つけ、|強《た》って新蔵だけを乗せた。駕屋は、武蔵へもすすめたが、武蔵は乗ろうともしない。新蔵の駕のわきに付いて歩いて行くのだった。
「あ。駕へ乗せやがった」
「こっちを見たぞ」
「騒ぐな、まだ早い」
駕と武蔵が、|外《そと》|濠《ぼり》を見て右へ曲ると、町角に現われた一団の無法者が、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、|裾《すそ》をまくり、腕をたくし上げて、その後から、|尾《つ》いて行った。
|半瓦《はんがわら》の部屋の者である。今日の遺恨ばらしを待っていたぞという顔つき。どの眼もどの眼も武蔵の背と駕の中に飛びつきそうにぴかぴかしている。
牛ケ|淵《ふち》まで来た時である。駕の棒へ小石が一つカンと|刎《は》ね返った。それと共に、遠巻きに拡がった無法者の群れが、
「やいっ、待て」
「野郎、待て」
「待て」
「待て」
すでに前から|怯《おび》えていた駕かきは、かくと見るや、駕をおいて、横っ飛びに逃げ出した。その姿を越えて、また二ツ三ツ石つぶてが武蔵へ向って飛んで来た。
卑怯と見られることは無念なように、北条新蔵は、刀を抱えてすぐ、駕から這い出し、
「待てとは、わしか」
と、突っ起って、応戦の身構えを取った。武蔵は、彼の身を|庇《かば》いながら、
「用事をいえ」
石の飛んで来る方へいった。
無法者たちは、浅瀬を探るように、だんだん寄り詰めて来たが、
「知れたことっ」
叩き返すようにいって、
「その野郎を渡せばよし、小生意気なまねをすると、てめえも共に生命がねえぞ」
味方の言葉に気勢が揚がって、無法者たちはそこで、どっと殺気を|漲《みなぎ》らした。
――といって、誰あって、先に|大刀《だんびら》かざして斬りこんで来る者もない。また、武蔵の眼光がそうさせなかったともいえる。いずれにしろかなり距離をおいて一方は|吠《ほ》え、武蔵と新蔵は、それを眺めすえて沈黙していた。
「半瓦とか申す無法者の親分はその中におるのか。おるならばそれへ出てもらいたい」
時ならぬ時分に、武蔵がこういった。すると、無法者の中からも、
「親分はいねえが、部屋の留守は年寄役でおれが預かっている。おれは、|念《ねん》|仏《ぶつ》|太《た》|左《ざ》|衛《え》門《もん》という|老爺《お や じ》だが、何か挨拶があるなら聞いてやろう」
と、|白《しろ》|帷子《かたびら》を着て、|襟《えり》に大きな|数《ず》|珠《ず》を懸けている無法者の老人が、前へ進んで名乗った。
武蔵はいった。
「其方たちは、なんで、この北条新蔵どのに、恨みを抱くのか」
すると、念仏太左衛門は、一同に代って肩をそびやかした。
「部屋の兄弟分を二人まで叩っ斬られて、黙っていちゃあ、無法者の顔にさわる」
「だが、北条どのにいわせれば、その前に、|菰《こも》の十郎と|稚《ち》|児《ご》の小六とやらは、佐々木小次郎に手伝うて、小幡家の門人衆を、幾名も、闇打ちにしているというではないか」
「それはそれ、これはこれ、おれたちの兄弟分がやられた時は、おれたちの手で仕返しせねば、無法者の飯を喰って、男でござると歩いていられねえのだ」
「なるほど」
武蔵は、肯定を与えておいてからまた、いった。
「それは、おまえ達の住む世界ではそうだろう。だが、侍の世界は違う。――侍の中では、いわれのない意趣は立たぬ。|逆《さか》|恨《うら》みや|亦《また》恨みは、許されぬ。――侍は義を尊び、名分のために、復讐はゆるされているが、遺恨のための遺恨ばらしは、|女《め》|々《め》しい振舞いと笑うのだ。――たとえば、其方たちのような」
「何、おれたちの振舞いが、女々しいと?」
「佐々木小次郎を先に立て、侍として、名乗り来るなら分っておるが、手伝い人の騒ぎ立てを、相手に取るわけにはゆかぬ」
「侍は侍のごたく[#「ごたく」に傍点]。何とでもぬかせ。おれたちは無法者だ。無法者の顔を立てにゃあならぬ」
「一ツの世間に、侍の仕方、無法者の仕方、二ツが立とうとすれば、ここばかりではない、街のいたる所に、血まみれが生じる。――これを裁くものは奉行所しかない。念仏とやら」
「なんだ」
「奉行所へ参ろう。そして是非を裁いて戴こう」
「くそでもくらえ。奉行所へ行くくれえなら、|初《しょ》|手《て》からこんな手間ひま[#「ひま」に傍点]はかけねえ」
「おぬし、|年齢《とし》は|幾歳《い く つ》だ」
「何」
「よい|年齢《とし》して、若い者の先に立ち、好んで無益な人死にを見ようとするか」
「つべこべと、理窟はおけ。こう見えても、太左衛門、喧嘩に|年齢《とし》は取っていねえぞ」
――太左衛門が脇差を抜いたのを見ると、後ろにひしめいていた無法者たちも、一度に声をあげて、
「やッちまえ」
「|老爺《お や じ》を打たすな」
と、かかって来た。
武蔵は、太左衛門の脇差をかわして、太左衛門の|白《しら》|髪《が》|首《くび》のどこかをつかむと、大股に十歩ほど持って来て、|外《そと》|濠《ぼり》の中へその体を|抛《ほう》りこんでしまった。
そしてまた、無法者の群れへ駈け入ると、その乱争の間から、北条新蔵の体を拾って、横抱きに|攫《さら》い取り、彼らが、驚き|躁《さわ》ぐまに、早くも、牛ケ|淵《ふち》の原を駈け出して、九段坂の中腹あたりを、その遠い影は、小さくなって、駈け上がっていた。
牛ケ淵とか、九段坂とかいったのも、勿論ずっと後世の地名である。当時まだその辺は、蒼古とした樹林の崖や、外濠の淵へあつまる渓流だの、青い沼水を|湛《たた》えた湿地が見られるだけで、地名としても、こおろぎ橋とか、もちの[#「もちの」に傍点]木坂とか、極めて土俗的な称呼があるに過ぎなかったであろう。
――呆っ気にとられている無法者の群れを捨てて坂の中腹まで、駈けて来ると、
「もうよい。北条どの。さあ、逃げよう」
武蔵はいって、新蔵の体を、小脇から下ろし、ためらう彼を|促《うなが》して、なおも彼方へいそぎ出した。
無法者たちは、初めて、
「あっ、逃げたっ――」
と、われに|回《かえ》って、|遽《にわか》にまた、気勢を改め、
「逃がすな」
と、坂の下から、追い上がりながら、口々に|罵《ののし》った。
「弱虫」
「口ほどもねえぞ」
「恥を知れ」
「それでも侍か」
「よくも、部屋がしらの太左衛門を、お濠へ叩っこんだな。返せ、野郎」
「もう武蔵も、相手だ」
「ふたりとも、待てっ」
「卑怯者め」
「恥知らずめ」
「駄ざむらいめ」
「待たねえか」
――その他、あらゆる|罵《ば》|詈《り》|讒《ざん》|謗《ぼう》がうしろから飛んで来たが、武蔵は見向きもせず、また、北条新蔵にも、足を止めることを許さず、
「逃げるに|如《し》くはない」
と、呟いて逃げ出し、
「逃げるのも、なかなか楽ではない」
などと笑いながら、足のかぎり、彼らの追撃から|遁《のが》れてしまった。
振りかえってみると、もう追って来る影も見えない。病後の新蔵は、駈けただけでも、|蒼白《まっさお》になって、息を|喘《き》っていた。
「お疲れだな」
「い……いえ……さほどでもありませぬが」
「彼らの|罵《ば》|詈《り》に甘んじて、残念だと仰っしゃるのか」
「…………」
「はははは。落着いてから分って来ます。逃げるのも、時には、心地よいものだということが。……そこに流れがある。水で口でもお|嗽《すす》ぎなさい。そしてお宿までお送りしよう」
赤城の森はもう見えていた。北条新蔵の帰る家は、赤城明神の下だという。
「ぜひ、屋敷へ寄って、拙者の父にも会っていただきたい」
と、新蔵はいったが、武蔵は、赤土の土塀が見える段の下で、
「また、お目にかかる折もあろう。ご養生なさい」
と、いって、そこで別れて立ち去った。
――こういうこともあって、武蔵の名は、それから後、いやが上にも、江戸の街に有名になった。
――彼は、喰わせ者だ。
――卑怯者の張本だ。
――恥知らず、武士道よごしの骨頂だ。あいつが京都で吉岡一門を相手にしたなどというのは、よくよく吉岡が弱かったか、逃げの一手で、巧く逃げて、虚名を売ったに違いない。
有名とは、そうした悪評の有名であって、誰ひとり、武蔵を弁護する者もなかった。
なぜならば、その後、半瓦の部屋の者が、口を極めて、いいふらしたばかりでなく、街の辻々に、公然と、こういう立て札を幾十となく江戸中へ建てたからであった。
[#ここから2字下げ]
いつぞや、おら衆に、うしろを見せて、突ン逃げた、
宮本武蔵へ、物いうべい。
本位田のおばばも、|讐《かたき》と尋ねてあるぞ。おら衆にも、
兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]半瓦いちまきの者
二天の巻
|衆《しゅう》 |口《こう》
学問は朝飯前に。昼間は、藩の時務を見たり、時には江戸城へ詰めたり、その間に、武芸の|稽《けい》|古《こ》は随時にやるとして――夜はおおかた若侍相手に、打ち|寛《くつろ》いでいる|忠《ただ》|利《とし》であった。
「どうだな、何か近頃、おもしろい話は聞かぬか」
忠利がこういい出す時は特にあらためて、無礼講とゆるされなくても、家臣たちは、
「されば、こういう事がございますが……」
と、いろいろな話題を持ち出すのをきっかけに、――礼儀こそ|紊《みだ》さないが――家長を囲む一家族のように、|睦《むつ》み合うのが例であった。
主従という段階があるので、忠利も、公務の場合は、|峻厳《しゅんげん》な容態をくずさないが、晩飯の後など|帷衣《かたびら》|一《ひと》|重《え》になって、|宿直《と の い》の者たちの世間ばなしでも聞こうとする時は、自分も|寛《くつろ》ぎたいし、人をも寛がせたいのであった。
それに、忠利自身が、まだ多分に、一箇の若侍といったふうだから、彼らと膝を組んで、彼らのいいたいことを聞いているのが好きであった。好きばかりでなく、|世情《せじょう》を知るうえには、むしろ、朝の|経《けい》|書《しょ》よりも、活きた学問になった。
「岡谷」
「はあ」
「そちの槍は、だいぶ|上達《あが》ったそうだな」
「上がりました」
「自分で申すやつがあるか」
「人がみな申すのに、自分だけ|謙《けん》|遜《そん》しているのは、かえって嘘をつくことになりますから」
「ははは。しぶとい自慢よの。――どれほどな|腕《て》なみになったか、いずれみてやるぞ」
「――で、はやく、御合戦の日が来ればよいと、祈っておりますが、なかなか参りませぬ」
「参らずに、仕合せであろう」
「若殿にはまだ、近頃のはやり歌を、ご存じありませぬな」
「なんという歌か」
「――|鑓《やり》|仕《し》鑓仕は多けれど、岡谷五郎次は一の|鑓《やり》」
「うそを申せ」
忠利が笑う。
一同も笑う。
「あれは――名古谷山三は一の|鑓《やり》――という歌であろうが」
「ヤ。ご存じで」
「それくらい」
と、忠利は、もっと、下情の|通《つう》をいってみせようとしたが、慎んだ。そして、
「――ここでは、平常の稽古に、槍を致しておる者と、太刀を致しておる者と、いずれが多くあるな?」
と訊ねた。
ちょうど、七名いたが、
「拙者は槍」
と、答えた者が、五人で、
「太刀」
といった者は、七名のうち、二人しかなかった。
で、忠利は重ねて、
「なぜ、槍を習うか」
と、その者たちへ訊ねたところ、
「戦場において、太刀よりも利がござれば――」
と、一致した答えだった。
「では、太刀の者は?」
と、訊くと、
「戦場においても、平時においても、利がござれば」
と、太刀を稽古しているという二人が答えた。
槍が利か、太刀が利か。
これは、いつも、議論になることだったが、槍の者にいわせると、
「戦場では、平常の|小《こ》|技《わざ》の稽古などは、役には立たぬ。――武器は、体に扱える程度に、長いほど利である。殊に、槍には、突く手、|撲《なぐ》る手、引く手の、三益がある。槍はまた闘いに損じても、太刀の代りがあるが、太刀は、折れたり曲がったりしたら、それ|限《き》りではないか」
太刀の利を説く者は、
「いや、われわれは戦場だけを武士の働き場所と考えていない。常住坐臥、武士は太刀をたましいとして持っているので、太刀を習練するのは、常に魂を|研《と》いでいることになるゆえ、戦場で多少の不利はあっても、太刀を本位として武芸は|研《みが》くべきだと心得る。――その武道の|奥《おう》|義《ぎ》に達しさえすれば、太刀に依って得た練磨も、槍を|把《と》れば槍に通じ、鉄砲を持てば鉄砲に通じ――決して未熟な不覚はあるまいかと存じます。――一芸万法に通ずとか申しますれば」
これは、果てしない問題になりそうである。忠利は、どっちへも加担せずに聞いていたが、太刀に利があると、力説していた松下|舞《まい》|之《の》|允《すけ》という若侍へ、
「――舞之允。今のは、どうもそち自身の|口《こう》|吻《ふん》でない所があるぞ。誰の|請《うけ》|売《う》りだ」
と、いった。
舞之允は、むき[#「むき」に傍点]になって、
「いえ、てまえの持論で」
と、いったが、
「だめじゃ。わかる」
と、忠利に観破されて、
「実は――いつぞや、岩間角兵衛どのの、伊皿子のお住居へ招かれた節、同じ議論がわき、居合せた佐々木小次郎と申す、その家の|懸人《かかりゅうど》から聞いたことばでございます。――しかし、てまえの平常の主張と一致しておりますので、てまえの考えとして、申し上げた次第で、他を偽るつもりはございません」
と、白状した。
「それみい」
忠利は、苦笑しつつ、胸のうちで、ふと、藩務の一ツを思い出していた。
それは、かねて、岩間角兵衛から推挙している――佐々木小次郎という人間――を召抱えるか、否か、聞きおいてあるまま、いまだに宿題として、決めかねていたことである。
推薦者の角兵衛は、
(まだ若年ゆえ、二百石を下し置かれれば)
といっているが、問題は|禄《ろく》|高《だか》ではない。
一人の侍を養うことが、いかに重大か。殊に新参を入れる場合においては、なおさらであることは、呉々も、父の細川三斎からも、彼は教えられていた。
第一が、人物である。第二が、和である。いくら欲しい人間でも、細川家には、細川家の今日を築き上げた|譜《ふ》|代《だい》がいる。
一藩を、石垣に|喩《たと》えていうならば、いくら巨大な石でも、良質な石でも、すでに垣となって畳まれている石と石との間に、組み込める石でなければ使えないのである。均等のとれない物は、いかに、それ一箇が、得難い質でも、|藩《はん》|屏《ぺい》の一石とするわけにはゆかない。
天下には、|可惜《あ た ら》、そういう|角《かど》が取れないために、折角の偉材名石でありながら、野に|埋《うも》れている石が限りなくある。
殊に――関ケ原の乱後には、たくさんある筈であった。けれど、手頃でどこの垣へでも|嵌《はま》るような石は、抱える大名がその多いのを持て余し、これはと思う石には、|圭《けい》|角《かく》があり過ぎたり、|妥協《だきょう》がなくて、自己の垣へはすぐ持って来られないのが多かった。
そういう点で、小次郎が、若年者であってしかも|優《すぐ》れているということは――細川家へ仕官するには無難な資格であった。
まだ、石とまではならない、若い未成品だからである。
佐々木小次郎という者を思い出すと、細川忠利は、同時に、宮本武蔵なる者をも、自然胸の中で思いくらべた。
その武蔵のことは、初め、老臣長岡佐渡から聞いたのである。
かつて佐渡が、今夜のような|夜《よ》|伽《とぎ》の――君臣|団欒《ま ど い》の折に、ふと、
(近頃、変った侍をひとり、見出してござるが――)
と、例の法典ケ原開墾のことを話したのである。そして、その法典ケ原から立ち帰って来た次の折には、
(惜しいことに、その後、行方も相分りませぬ由で)
と、嘆息と共に復命した。
だが、忠利は断念しきれず、ぜひ見たいものだといって、
(心がけておるうちに、居所も知れよう。佐渡、なおも心がけよ)
と、命じておいた。
――で。忠利の胸には、岩間角兵衛から推薦の佐々木小次郎と、武蔵とが、いつのまにか、較べられていた。
佐渡の話を聞けば、武蔵のほうは武に|優《すぐ》れているばかりでなく、たとえ山野の部落にでも、開墾を教え、自治を|覚《さと》らせるなど、経策もあり、人物の幅もある。
また、岩間角兵衛にいわせれば、佐々木小次郎は、名門の子で、深く剣に参じ、軍法に通じ、まだ年ばえも若いのに、すでに|巌流《がんりゅう》という一派をすら自称しているとあるし、これも、ざら[#「ざら」に傍点]にある豪傑とは思われない。殊に、角兵衛以外の者からも、近頃、江戸における小次郎の剣名はしきりと聞くところであった。
隅田河原で小幡門下を、四人も斬って平然と、帰って行ったということ。
神田川の堤でも。――また、北条新蔵までも、返り討ちにしたというようなことが、よくうわさに上るのだった。
それにひきかえて、武蔵という名はとん[#「とん」に傍点]と聞かない。
数年前に、京都の一乗寺で、その武蔵が、吉岡一門の何十名を相手にして打ち勝った――というようなことは一時|喧《けん》|伝《でん》されたが、すぐその反対説が出て、
(あの噂は、|眉《まゆ》つば物だそうじゃ)
とか、
(武蔵というのは、売名家で、派手にはやったが、いざとなった場合は、|逸《いち》はやく、|叡《えい》|山《ざん》へ逃げこんだというのが真相らしいて)
とか。――その|他《ほか》、よい時にはすぐ一方から出る反動説が、間もなく、彼の剣名を|揉《も》み|消《け》してしまった。
いずれにしろ、武蔵の名が出るところには、何かすぐ悪評がまとっていた。――さもなければ、黙殺されて、彼という剣人などは、剣人の仲間に、いるかいないか、存在の程度すらない程だった。
それに、|美作《みまさかの》|国《くに》の山奥で生れ、名もない郷士の|伜《せがれ》では、誰も顧みる者はなかった。尾張の中村から秀吉が出ても、まだまだ世の中は階級を重んじ、血統を|衒《てら》う風習から少しも|脱《ぬ》けていなかった。
「……そうだ」
忠利は、思い出した手を、膝に打って、若侍たちを見廻しながら、武蔵について、居合す者たちに訊いてみた。
「誰か――そち達の中に、宮本武蔵という者を、存じておる者はないか。――何か、うわさでも訊いたことはないかな?」
すると直ぐ、
「武蔵?」
と、顔を見合せて、
「つい近頃、その武蔵の名は、街の辻々に出ておりますので、誰でも名だけは存じておりますが」
と、若侍のほとんどが、皆それを知っているような|口吻《くちぶり》だった。
「ほ。――武蔵の名が、辻々に出ておるとは、どうした|理《わけ》か」
忠利は、目をみはった。
「立て札に書かれてあるのでござる」
若侍のひとりがいうと、森|某《なにがし》が、
「その立て札の文言を、|他人《ひと》が写してゆくので、拙者も、おもしろいことと思うて、懐紙に写して参りました。――若殿、読みあげてみましょうか」
「ウム、読んでみい」
「これで――」
と、森某は、|反《ほ》|故《ご》を拡げて、
[#ここから2字下げ]
いつぞや、おら衆に、うしろを見せて、突ン逃げた、
宮本武蔵へ、物いうべい。
[#ここで字下げ終わり]
皆クスクス笑った。
忠利は、真面目だった。
「それきりか」
「いや」
と、森某は、
[#ここから2字下げ]
――本位田のおばばも、|讐《かたき》と尋ねてあるぞ。おら衆にも、兄弟ぶんの意趣があるぞ。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
[#ここで字下げ終わり]
と、読みつづけた。そして、
「これは、|半瓦弥次兵衛《はんがわらやじべえ》という者の、|乾児《こ ぶ ん》どもが書いて、各所に立てたものだそうで。――いかにも文言が、無法者らしいと、街の者は、|欣《うれ》しがっておりまする」
と説明した。
忠利は、ほろ苦い顔をした。自分が胸に持っていた武蔵とは、それでは余りに違うからである。その|唾《つば》は、武蔵が浴びているばかりでなく、自分の暗愚も|嘲《あざけ》られている気持がしたのであろう。
「ふム……武蔵とはそんな人物か」
忠利が、なお一|抹《まつ》の|諦《あきら》めかねたものをもって、そういうと、ほとんどが、|異《い》|口《く》|同《どう》|音《おん》に、
「どうも、つまらぬ男のようでござります」
といったり、
「いや、何よりも、よほどな卑怯者とみえまする。素町人などに、こうまで、恥かしめられても、いッこう姿を見せんそうですから」
と、一同がいった。
やがて、|自鳴鐘《とけい》が鳴ると、若侍たちは皆、退座した。忠利は、眠ってからも、考えていた。
けれども彼の考えは、あながち衆と一致していなかった。むしろ、
「おもしろいやつ」
と、思った。武蔵の立場になって、複雑に考えてみることに、興があった。
あくる朝、いつもの|経《けい》|書《しょ》の間で、受講をうけて、縁へ出ると、庭に、長岡佐渡の姿が見えた。
「佐渡、佐渡」
と、呼びかけると、老人は振り向いて、朝の礼儀を、庭先から|慇《いん》|懃《ぎん》にした。
「その後も、心がけておるか」
忠利のいい方が、佐渡には、唐突に聞えたとみえて、ただ眼をみはっていると、
「武蔵のことじゃよ」
と、忠利がつけ加えた。
「――はっ」
と、佐渡が頭を下げると、
「とにかく、見つけたら、いちど屋敷へ召連れい。人間が見たい」
――同じ日。
いつもの|弓《ゆ》|場《ば》へ、忠利が、|午《ひる》すこし過ぎ、姿をあらわすと、|的《まと》|場《ば》の控え所に、彼のすがたを待っていた岩間角兵衛が、それとなく、小次郎の推挙をまた、繰返した。
忠利は、弓を|把《と》りながら、うなずいて、
「忘れておった。――ウム、いつでもよい、いちどその佐々木小次郎とやらを、この弓場まで召連れて来い。――抱えるか、抱えぬかは、見たうえのことじゃが」
と、いった。
虫しぐれ
ここは伊皿子坂の中腹、岩間角兵衛が私宅の赤門の中。
小次郎の|住居《す ま い》は、その地内で、独立した手狭な一棟であった。
「おいでか」
と、|訪《おと》なう者があった。
小次郎は、奥に坐って、静かに、剣を|看《み》ていた。
愛剣の|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》――
これはここの|主《あるじ》の角兵衛に依頼して、細川家に出入りの|厨《ず》|子《し》|野《の》耕介へ|研《とぎ》にやっておいたものである。
ところが、あの事件。
その後、耕介の家とは、いよいよ|経緯《いきさつ》がまずくなったので、岩間角兵衛から催促してもらうと、今朝、耕介から送り届けて来たのである。
無論、|研《と》げてはいまい。
そう思って、小次郎は、座敷の真ん中に坐って、|鞘《さや》を払ってみたところが、研げていないどころではない――|晃《こう》|々《こう》と百年の冴えを|革《あらた》めて、|淵《ふち》の水かとも、深くて蒼黒い|鉄《かね》|肌《はだ》から――|燦《さん》として白い光が|刎《は》ね返したのである。
|痣《あざ》のようにあった、うすい|錆《さび》の|斑《はん》|紋《もん》も消えているし、血あぶらにかくれていた|錵《にえ》も、|朧夜《おぼろよ》の空のように、ぼうっと美しく現れていた。
「……まるで、見直してしまったな」
小次郎は、飽かず|看《み》|入《い》っていた。
ここの座敷は、月の|岬《みさき》の高台にあるので、芝の浜から品川の海は元より、|上総《か ず さ》|沖《おき》から湧きあがる雲の峰とも|坐《い》ながらに|対《むか》い合っていた。――その雲の峰の影も、品川の海の色も、剣の中に溶けていた。
「お留守かの。――小次郎どのはお|在《い》ででないか」
間を|措《お》いていた|戸外《そと》の声が、ふとまた、柴折戸からそう訪れていた。
「|誰方《ど な た》か」
刀を鞘におさめて、
「小次郎はおりますが、用事なら柴折から縁へ廻ってくだされい」
いうとすぐ、
「やれ、いるそうな」
と、いう話し声がして、お杉ばばと、一名の無法者が、縁先へ姿をあらわした。
「誰かと思うたら、ばば殿であったか。暑い日中を、よう見えたの」
「ご挨拶は後。――|洗足水《すすぎ》をいただいて、足を|浄《きよ》めたいが」
「そこに石井戸があるが、ここは高台なので、怖ろしく深いぞ。――|漢《おとこ》。ばば殿が、墜ちると事だ。|介《かい》|添《ぞえ》してやれ」
|漢《おとこ》――とよばれたのは、彼女の道案内に、|半瓦《はんがわら》の部屋から付いて来た下っ端である。
井戸で、汗をふいたり、足を洗って、やがてお杉ばばは、座敷へあがり、挨拶をすますと、吹き通す風に眼をほそめて、
「涼しい家じゃが、こんな家に閑居してござったら、よい怠け者になりはせぬか」
と、いった。
小次郎は、笑って、
「お息子の又八とは違う」
ばばは、ちょっと、淋しげな眼をしばたたいていたが、
「そうじゃ、何の土産もないが、これはわしが写経したもの、一部進ぜましょう程に、|閑《ひま》な時、|誦《よ》んでくだされ」
と|父母恩重経《ぶもおんじゅうぎょう》の一部をさし出した。
小次郎は、かねてばばの悲願を聞いていたので、それか――とよい程に眺めたのみで、
「そうそう。そこの|漢《おとこ》」
と、後ろにいる無法者へ向って訊ねた。
「いつぞや、わしが書いて|遣《つか》わした高札の文面。――あれを、方々へ建てておいたか」
|漢《おとこ》は、膝をのりだして、
「――武蔵出て来い。出て来ずば侍とはいわれまいが……っていう、あの高札でござんしょう」
大きく|頷《うなず》いて、小次郎は、
「そうだ。辻々へ手分けして、建てておいたか」
「二日がかりで、目抜きな場所へは、たいがい建てておきましたが、先生はごらんになりませんので」
「わしは、見る要もない」
ばばも、その話に、側から割りこんで――
「きょうもの、ここまで来る途中、その立札を見かけたが、札の建っている所には、街の衆がとり巻いて、くさぐさの噂ばなし。――よそ耳に聞いていても、胸がすいて、おもしろうござったわ」
「あの立札を見ても、名乗って出ぬとすれば、武蔵の侍はもう|廃《すた》れたも同じこと。天下の笑いぐさじゃ。ばば殿も、それでもう恨みは済んだとしてもよかろう」
「なんの。いくら人が|嗤《わら》おうと、恥を知らぬ|面《つら》の皮には、痛くも|痒《かゆ》くもあるまいに。――あのくらいなことでは、このばばの胸も晴れねば、|一《いち》|分《ぶん》も立ちませぬわえ」
「ふふム……」
と、小次郎は、彼女の一念を見やって、|笑《え》つぼに入りながら、
「さすがは、ばば殿、|幾歳《い く つ》になっても、初志は曲げぬの。いや見上げたもの」
と、|煽《せん》|動《どう》した。そして、
「時に、きょうござったのは、何用かな」
と、訊ねた。
ばばは、改まって告げた。――|他《ほか》でもないが、半瓦の家へ身を寄せてからもう二年余にもなる。いつまで、世話になっているのも本意でないし、あらくれ男どもの世話にも飽きた。折からちょうど、|鎧《よろい》の渡しの附近に、手頃な借家があいたので、そこへ移って、一軒構えるという程でもないが――一人|住居《ず ま い》がしてみたい。
「どうであろ?」
と、相談顔に、
「武蔵も、まだ当分は、出て来る様子もないしの、せがれの又八も、この江戸にはいるにちがいないが、居所が知れぬし……で、|国《くに》|許《もと》から金をよび、しばらく、そうしておりたいと思うが」
と、小次郎へ|計《はか》るのだった。
小次郎に、元より異議はない。そうするもよかろうという程度だった。
実をいえば、小次郎も、一時は興味もあり利用もしたが、この頃は、無法者達とのつきあいも、少々うるさくなって来た。|主《しゅ》|取《どり》をした後のことなども、計算に入れると、深入りは禁物だと思った。――で、近頃は、そこへの稽古にも、足を絶っているところだった。
岩間家の|仲間《ちゅうげん》をよんで、裏の畑から|西《すい》|瓜《か》を|採《と》らせ、ばばと|漢《おとこ》に馳走して、
「武蔵から、何か申して来た節は、すぐ当方へ使いをよこせ。――わしも近頃ちと体が忙しいから、当分は無沙汰じゃと思うてくれ」
そういって、二人を、陽の暮れぬうちと、追い立てるように帰した。
ばばが帰ると、小次郎は、ざっと室内を掃いて、|庭《にわ》|面《も》へ井戸の水を|撒《ま》いた。
|山《やま》|芋《いも》の|蔓《つる》や、夕顔の蔓が、垣から手洗い鉢の脚にまでからみついている。その白い花の一つ一つが、夕風にうごき出した。
「きょうも、角兵衛どのは、|宿直《と の い》なのか?」
母屋に煙る|蚊《か》|遣《や》りを眺めながら、小次郎は部屋の中に寝そべった。
|灯火《あ か り》はいらなかった。|燈《とも》してもすぐ風に消えるであろうし、やがて宵月が、海を離れて、彼の顔まで|映《さ》して来た。
……その頃である。
坂下の墓地から、垣を破って、この伊皿子坂の崖へ、一人の若い侍が、|紛《まぎ》れ込んで行ったのは。
いつも、藩邸へは騎馬で通っているので、岩間角兵衛は、坂の下まで来ると、そこで馬を捨てる。
彼の姿を見ると、寺門前の花屋が出て来て、馬を預かってくれるのだ。
ところが、きょうの夕方は、花屋の軒をのぞいても、|老爺《お や じ》が見えないので、自身で裏の樹へ|繋《つな》いでいると、
「おう、旦那様で」
老爺は、寺の裏山から駈けて来て、いつものように、彼の手から馬を受取りながら、
「――たった今、墓地の垣を破って、道もない崖へ上って行くおかしなお武家があるので、そこは抜け道ではござらぬ、と教えてやると、怖い顔して、こちらを振向いたまま何処ともなく行ってしまいましたが……」
と、問わず語りをして、
「あんなのが、近頃やたらに大名屋敷へ忍び込むといううわさの盗賊ではございますまいかの」
と、まだ気に懸けて、黒々と暮れた青葉の奥を見上げていた。
角兵衛は、気にもとめない|容《よう》|子《す》だった。大名屋敷へ、怪盗がはいるといううわさはあるが、細川家など見舞われたこともないし、当家に盗賊がはいったと、自らの恥を自らいう大名のあった|例《ため》しもないので、
「はははは。あれは、単なる噂にすぎない。寺の裏山などへもぐる盗賊なら、|多《た》|寡《か》の知れた小盗人か辻斬かせぎの牢人者であろう」
「――でも、ここらは、東海道の街道口に当りますので、他国へ逃げ出す奴が、よく行きがけの駄賃という荒仕事をやりますので、夕方など、風態のわるい人間を見ると、その晩は、嫌な気もちがいたしまして」
「変事があったら、すぐ駈けて来て、門をたたけ。うちの|懸人《かかりゅうど》どのは、そういう折を待ってござるが、出会わないので、毎日、|髀《ひ》|肉《にく》の|嘆《たん》をもらしているくらいだ」
「あ。佐々木様でございますか。あんな|優《やさ》姿でも、お腕はたいそうなものだと、この界隈の衆も、評判でござりまする」
小次郎のいい噂を聞くと、岩間角兵衛は、鼻が高い気がした。
彼は、若い者が好きだった。とりわけ現今の気風として、有為な青年を家に養うということは、侍として、高尚な美風とされていた。
一朝、事のある場合に、ひとりでもよけいに、|家《いえ》の|子《こ》|輩《ばら》をひき連れて、君侯の馬前へ出ることは平常のたしなみ|好《よ》き事になるし――また、その中でも、抜群な男ぶりの者は、主家へ推挙しても一つの奉公ともなるし、自己の勢力扶植にもなる。
自己を、考えるような奉公人では、侍奉公の者として、|頼《たの》|母《も》しくない家臣ではあるが、自己をまったく捨て切っている奉公人などというものは、細川家のような大藩にも、そう|幾《いく》|人《たり》もいるものではない。
さればといって、岩間角兵衛が、不忠者かといえば、決して一かどの武士以下の者ではない。ただ当り前以上に出ない|譜《ふ》|代《だい》の侍だった。平常の時務には、かえって、こういう人間が、人一倍、便利でよく働くものだった。
「戻ったぞ」
伊皿子坂は、ひどく急なので、わが屋敷の門へかかって、彼がこういう時には、いつも少し息を|喘《き》っている。
妻子は、|国《くに》|許《もと》へおいてあるので、元よりここは、男手と雇い女がいるばかり。――でも、|宿直《と の い》でない夕方には、彼の帰邸をおそしと待って、赤い門から玄関までの笹むらには、|打《うち》|水《みず》の露が光っていた。
「お帰りなさいまし」
出迎える召使たちへ、
「うむ」
と、|応《こた》えて、
「佐々木どのは、きょうは家におるか、それとも外出か」
角兵衛はすぐ訊ねた。
――今日は終日、家にいた様子だし、今も、寝転んで涼んでおります、と召使から聞いて、
「そうか。では、酒の支度をしての。支度ができたら、佐々木どのを、こちらへお呼びして参れ」
――その間に、風呂に入ってと、角兵衛はすぐ汗になった衣服を脱ぎ、風呂場で|浴衣《ゆ か た》になった。
書院へ出て来ると、
「お帰りか」
小次郎は、|団扇《う ち わ》片手に、先へ来て坐っていた。
酒が出る。
「まず、一|盞《さん》」
と、角兵衛は|酌《つ》いで、
「きょうは、|吉《よ》い事があるので、それをお聞かせしたいと存じてな」
「ほ。……吉い事とは」
「かねて、|其《そこ》|許《もと》の身を、御推挙しておいたところ、だんだん殿にも其許の噂を耳にされ、近日、連れてこいということになったのじゃ。――いやもう、ここまで運ぶには、容易ではない。何しろ、家中の誰や彼から、推挙しておる人間もずいぶん多いからの」
さだめし小次郎が|欣《よろこ》んでくれるに違いない。角兵衛は正直に期待していた。
「…………」
小次郎は、無言のまま、杯の端を|唇《くち》へつけて、聞いていたが、
「ご返杯」
そういったのみで、|欣《うれ》しそうな顔もしないのである。
だが角兵衛は、それを不服と思わないのみか、むしろ尊敬さえ抱いて、
「これで、お頼みをうけたそれがしも、|世《せ》|話《わ》|効《が》いがあったというもの。こよいは、祝杯でござる、お過ごしなさい」
と、さらに、|酌《つ》いでゆく。
小次郎は初めて、
「お心添え、かたじけない」
と、少し頭を下げた。
「いや何、|其《そこ》|許《もと》のような器量人をお家に|薦《すす》めるのも、御奉公の一ツじゃ」
「そう過大にお買いくだされては困る。元より、|禄《ろく》は望まず、ただ細川家は、|幽《ゆう》|斎《さい》公、三斎公、そして御当主|忠《ただ》|利《とし》公と、三代もつづく名主のお家。そうした藩に奉公してこそ、武士の働き場所と思うてお願いしてみたことでもあれば」
「いやいや、身共は少しも、其許の|吹聴《ふいちょう》はしないつもりだが、誰いうとなく、佐々木小次郎という名は、もう江戸表では隠れのないものになっておる」
「こうして、毎日、|懶《らん》|惰《だ》にぶらぶらしている身が、どうして、そう有名になったものか」
小次郎は自嘲するように、若々しい歯ならびを見せて、
「べつに拙者が、出色しているわけではない。世間に|似而非《えせ》|者《もの》が多いのでしょう」
「忠利公には、いつでも召し連れいと仰せられたが……して、|何日《いつ》、藩邸までお出向き下さるの」
「|此方《こ ち ら》も、|何日《いつ》なと」
「では、明日でも」
「よろしかろう」
と、当り前な顔つきである。
角兵衛は、それを見て、なおさら彼の人物の大きさに傾倒したが、ふと、忠利から念を押された一言を思い出して、
「しかし、君侯には、とにかく一度、人間を見た上でという仰せでござった。――とは申せ、それは形式で御仕官の儀は、もう九分九厘まで、きまったも同じようなものではあるが――」
と、小次郎へも、一応はと考えて、断っておいた。
すると、小次郎は、杯を下へおいて、角兵衛の顔をじっと正視した。そして、
「やめた。角兵衛どの、折角だが、細川家へ奉公は、見合せる」
|昂《こう》|然《ぜん》といった。
酔うと|鮮《せん》|紅《こう》になって、血のはち切れそうな彼の|耳《みみ》|朶《たぶ》であった。
「……ほ。なぜ?」
と角兵衛は、さも当惑そうに、彼を見まもった。
小次郎は一言、
「気にそまぬゆえ」
と、にべなくいったのみで、理由は口に出さないのである。
だが、小次郎が急に、不機嫌になったのは、角兵衛が今、君侯のお断りとして、
(召抱えるか否かは、当人を見た上で)
といった――その条件が気に|障《さわ》ったものらしかった。
(何も、細川家に抱えて貰わなければ、困る体ではない。何処へ持って行っても、三百石や五百石は――)
と、平常それとなく示している小次郎の誇りに、角兵衛のありのままな伝え方が、ぐいと当りが悪く|触《さわ》ったものに相違ない。
小次郎は、他人の気持に|関《かま》っていない|質《たち》だったから、角兵衛が当惑して困った顔をしていようが、自分をわがまま勝手な人間と思おうが、いっこう心にかけるふうもなく、食事を終ると、さっさとわが住む棟へ帰ってしまった。
|燈灯《ともしび》のない畳には、月明りが白く|映《さ》しこんでいた。小次郎はそこへあがるとすぐ、酔った体を仰向けに横たえて、手枕をかった。
「ふ、ふ、ふ……」
何を思い出したか、独りでこう笑いだしながら、
「とにかく、正直者だな、あの角兵衛は」
と、つぶやいた。
ああいったら、角兵衛が主君に対して困ることも――また、どう振舞っても、角兵衛が自分に対して怒らないことも――何もかもよく知りぬいている彼だった。
(禄に望みはない)
と、かねて自分からいってはあるが、彼の満身は、野望に満ちていた。その彼に禄の望みがないわけもなく、自分の力で能う限りの名声も、また立身も望んでいた。
さもなくて、何で、苦しい修行などやる必要があろう。立身のためだ、名を揚げるためだ、|故郷《ふるさと》へ錦を飾るためだ、そのほか人間と生れた|効《かい》をあらゆる点で満足させるためだ。そのためには、今の時代では何といっても兵法に優れることが出世の|捷径《はやみち》である。幸いにも、この時代に自分は剣にかけては|天《てん》|稟《ぴん》の質をもって生れて来た――と、こう彼は考えている。自尊心を持っている。また聡明なる処世の歩みとして歩んでいる。
だから、彼の一進一退は、すべてこの目的と|駈《かけ》|引《ひき》から、割り出されていた。そうした彼の眼から見ると、ここの|主《あるじ》の岩間角兵衛などは年こそ自分よりはずっと上だが、
(甘いものだ)
と、思わざるを得ないのであった。
――いつか小次郎は、そうした夢を抱いて、寝てしまった。月は畳の目を一尺もうごいたが、まだ醒めなかった。窓の|女《め》|竹《だけ》に絶えまなく涼風が|戦《そよ》いで、昼の暑さから解かれた肉体は、打たれても|醒《さ》める気色はなかった。
――すると、その頃まで、蚊の多い崖の陰にかくれていた一つの人影は、
(よし!)
と、頃を見定めたように、|燈《ひ》のない家の軒端まで、|蟇《がま》の這うように忍び寄って来た。
|凜《り》|々《り》しく|見拵《みごしら》えした武士であった。――夕刻、坂下の花屋の|老爺《お や じ》が挙動を怪しんで、寺の裏山へ見送ったという――あの若い武士がこの男であったのではあるまいか。
――這い寄って、
「…………」
その人影は、縁先から、ややしばらくのあいだ、じっと、屋内を|窺《うかが》っている。
月明りを避けて|屈《かが》んでいるので物音を立てない限り、そこに人間がいるとはちょっと分らないくらいだった。
「…………」
小次郎の|鼾声《い び き》が微かに聞える。――一時、ハタと|竭《や》んだ虫の音もふたたび何事もないように、そこらの草の露からすだき始めた。
やがて。
人影は、ぬっくと立った。
そして刀の|鞘《さや》を払うや否、ぽんと縁先へ跳ね上がって、小次郎の寝すがたへ向い、
「くわッ」
と、歯を喰いしばって、斬りつけたと思うと、小次郎の左の手から、黒い棒が|発《はっ》|矢《し》と|唸《うな》って、その小手を強く打った。
振り下ろした|刃《やいば》は、よほどな勢いであったとみえて、小手を打たれながらも、畳まで斬りさげた。
だが、その下に在った小次郎の姿は、水面を打たれた魚が|摺《す》り抜けて悠々と|他《ほか》を泳いでいるように、さっと、壁際へ身をよけて、此方を向いて立っていた。
手には、愛剣の物干竿を、二ツにして持っていた。――つまり左の手には鞘を。右の手にはその|抜刀《ぬ き み》を。
「誰だ」
こういった彼の|呼吸《いき》でも分ることは、小次郎がこの刺客の襲撃を、|疾《と》くから予感していたという点である。露のこぼれにも、虫の音にも、油断のない彼の姿というものが、壁を背にして、その時少しも|紊《みだ》れず見えた。
「わ、わしだッ」
それにひきかえて、襲った者の声は割れていた。
「わしでは分らん。名をいえ。――寝こみを襲うなどとは、武士らしくもない卑怯者め」
「小幡|景《かげ》|憲《のり》の一子、余五郎景政じゃ」
「余五郎!」
「おお……よ、ようも」
「ようも? 如何いたしたと申すのか」
「父が病床にあるのを、よい事にして、世間に小幡の悪口をいいふらし」
「待て。いいふらしたのは、わしではない。世間が世間へいいふらしたのだ」
「門人どもへ、果し合いの誘いをかけ、返り討ちにしおったのは」
「それは小次郎に違いない。――腕の差だ、実力の差だ。兵法の上では、こればかりは致し方ない」
「いう、いうなっ。|半瓦《はんがわら》とか申す無法者に手伝わせ……」
「それは二度目のこと」
「何であろうと」
「ええ、面倒な!」
小次郎は|癇《かん》|癖《ぺき》を投げて、一歩踏み出しながら、
「恨むなら、いくらでも恨め、兵法の勝負に、意趣をふくむは、卑怯の上の卑怯者と、よけい、もの笑いを重ねるのみか――またしてもそちの一命まで、申しうけるが、それでも覚悟か」
「…………」
「覚悟で来たかっ」
さらに一歩ふみ出すと、それと共に伸びた物干竿の切先一尺ほどに、軒の月が白く|映《さ》した。チカッと、余五郎の眼も|眩《くら》むばかり、白い|光《こう》|芒《ぼう》がそれから|跳《は》ねた。
きょう|研《と》ぎ上がって来たばかりの刀である。小次郎は、|渇《かわ》いた胃が|饗膳《きょうぜん》へ向ったように、相手の影を獲物として、じっと見すえた。
|鷲《わし》
ひとに仕官の斡旋を頼んでおきながら、主君とする人のことばが気に喰わないなどと、間際になって、わがままをこねる。
岩間角兵衛は、弱って、
(もう|関《かま》うまい)
と、思った。そして、
(後進を愛すのはよいが、後進の間違った考えまで、甘やかしてはいかん)
と、自省した。
けれど角兵衛は元々、小次郎という人間が好きだった。|凡《ぼん》|物《ぶつ》でないと打ち込んでいた。従って、彼と君侯のあいだに挟まって、困った当座は、腹も立ったが、数日経つと、
(いや、あれが彼の、偉いところかも知れぬ)
と、考え直して来た。
(|凡《なみ》の人物なら、お目見得といえば、|欣《よろこ》んで行くだろうに)
と善意に|酌《く》んで、むしろそれくらいな気概は、若い人間にあるほうが|頼《たの》|母《も》しいし、また、彼にはその資格があると、よけい小次郎が大きく見えて来た。
で、四日ほど後。
それまで、彼は|宿直《と の い》があったり、気色も|癒《なお》らなかったので、小次郎とも顔を合せなかったが、その朝、彼の棟をぶらりと訪れて、
「小次郎どの。――きのうも|御館《おやかた》から|退《さ》がろうとすると、忠利公がまだかと、|其《そこ》|許《もと》のご催促じゃ。どうじゃな、お|弓《ゆ》|場《ば》で会おうと仰せられるのじゃから、御家中の弓でもごらんになるつもりで、気軽に出かけては」
と、気をひいてみた。
小次郎がにやにや笑って答えないので、彼はまた、
「仕官をするなれば、一応お目見得をすることは、どこにでもある例じゃから、何も、|其《そこ》|許《もと》の恥辱にはなるまいが」
「だが、御主人」
「ふム」
「もし、気に入らぬ、断るといわれたら、この小次郎は、もう|古《ふる》|物《もの》になるではないか。小次郎はまだ、自分を商品のように売り歩くほど落ちぶれてはおり申さん」
「わしのいい方が悪かったのだ。殿の仰せは、そういう意味あいではなかったが」
「然らば、忠利公へ、どうお答えなさったの」
「――いやまだ、べつにどうとお答えはしておらぬ。それで、殿には殿で、心待ちにしておられるらしい」
「はははは。恩人のあなたを、そう困らせては相済まぬな」
「こよいも、|宿直《と の い》の日じゃ。また、殿から何か訊かれるかも知れぬ。そうわしを困らせずに、ともあれ一度、藩邸へお顔を出してもらいたいが」
「よろしい」
小次郎は、恩にでも着せるように、|頷《うなず》いて、
「行って上げましょう」
といった。
角兵衛は欣んで、
「では、今日にも?」
「左様、今日参ろうか」
「そうして欲しい」
「時刻は」
「いつでもという仰せでござったが、|午《ひる》すこし過ぎならお|弓《ゆ》|場《ば》へ出ておられるから、窮屈でもなし、気も軽く、拝謁できるが」
「承知した」
「相違なく」
と、角兵衛は、念を押して、先に藩邸へ出かけて行った。
その後で、小次郎は悠々身支度をした。|身《み》|装《なり》などは|関《かま》わない豪傑ふうなことを常にいっているが、彼は実はなかなか|洒《しゃ》|落《れ》|者《もの》で、非常に|見《み》|得《え》をかざる|質《たち》だった。
|羅衣《うすもの》の|裃《かみしも》、|舶《はく》|載《さい》|織《おり》の|袴《はかま》、草履も笠も新しいのを出させ、岩間家の|仲間《ちゅうげん》に、
「馬はないか」
と、訊ねた。
坂下の花屋の小屋に、主人の乗換馬の白が預けてあるからと聞いて――小次郎はその花屋の軒に立ったが、きょうも|老爺《お や じ》はいなかった。
そこで、|彼方《か な た》の境内を見ると、寺の横に、その花屋の老爺だの僧侶だの、近所の人々が大勢して何か首を集めて騒いでいた。
何があるのか――と小次郎もそこへ行ってみた、見ると、|菰《こも》をかけた一箇の死体が地上にある。それを、取り囲んでいる人々は、埋葬の相談をしているのだった。
死者の身許は分らない。
年頃は若い。
そして侍だという。
肩先から、思いきって深く斬られているのである。血しおは黒く乾いていた。持物は何もないらしい。
「わしは、この侍を、見かけたことがある。四日ほど前の夕方じゃった」
花屋の|老爺《お や じ》がいった。
「……ほ?」
と、僧侶や近所の人々は、彼の顔を見まもった。
老爺は、なおも、何か|喋舌《し ゃ べ》りかけたが、その時自分の肩を叩く者があるので、|振《ふ》り|顧《かえ》ると小次郎が、
「おぬしの小屋に、岩間殿の|白馬《しろ》が預けてあるそうだが、出してくれい」
「お、これは」
あわてて辞儀をして、
「お出ましで」
と、老爺は、小次郎と共に急いで家の方へ戻った。
小屋から、曳き出して来た月毛を撫でて、
「良い馬じゃな」
「はい。よいお馬でございまする」
「行って来るぞ」
老爺は、鞍の上へ移った小次郎のすがたを見上げて、
「お似あいなさいます」
小次郎は、巾着の中から、|若干《なにがし》かの金をつまみ出して馬上から、
「おやじ、これで、線香と花でも|供《あ》げておいてくれ」
「……へ? |誰方《ど な た》へ」
「今の死人へ」
小次郎は、そういって、坂下の寺門前から、|高《たか》|輪《なわ》街道へ出て行った。
ベッと、彼は馬上から|唾《つば》を捨てた。いやな物を見た後の不快な|生《なま》|唾《つば》がまだ残っていた。――四日前の月の夜、|研《と》ぎ上がったばかりの物干竿に、|斬《か》けた人間が、さっきの菰を|刎《は》ねて、馬の後から|尾《つ》いて来るような気がする。
「怨まれる筋はない」
彼は、心のうちで、自分の行為に、弁明していた。
炎天を打たせて、彼の白馬は、往来を払って行った。町家の者も、旅人も、歩いている侍も、彼の馬前を避けて、そして皆、振顧った。
実際、彼の馬上姿は、江戸の街へはいっても目につくほど立派だった。――どこのお武家だろうと、人々は見るのであった。
細川家の藩邸についたのは、約束どおり暑い真昼中だった。駒をあずけて、邸内へかかると、岩間角兵衛はすぐ飛んで来て、
「ようお|出《い》で下された」
と、まるで自分のことのように|犒《ねぎら》いながら、
「すこし、汗でも拭いて、お控えでおやすみ下さい。唯今、殿へお取次ぎをする間」
と、麦湯、冷水、煙草盆と、下へも|措《お》かない。
「では、お弓場へ」
と、間もなくべつの侍が案内をしに来る。勿論、彼が自慢の物干竿は家臣の手にあずけ、小刀のみで、|従《つ》いてゆく。
細川|忠《ただ》|利《とし》は、きょうもそこで、弓を射ていた。夏中、百射をつづけるというので、きょうもその幾日目かであった。
大勢の近侍が、忠利を取り巻いて、矢を抜きに駈けたり|介《かい》|添《ぞ》えしたり、また、|固《かた》|唾《ず》をのんで、弓鳴りを見まもっていた。
「手拭、手拭」
忠利は、弓を立てた。
汗が眼に流れこむほど、射疲れていた。
角兵衛は、その|機《しお》に、
「殿」
と、側へひざまずいた。
「なんじゃ」
「あれに、佐々木小次郎が参って御拝謁を待っております。おことばを戴きとうぞんじまする」
「佐々木? ああそうか」
忠利は眼もくれないで、もう次の矢を|弦《つる》に懸け、足をふみ開いて、|弓《ゆん》|手《で》を眉の上に|翳《かざ》していた。
忠利ばかりでなく、家臣たちも誰ひとり、控えている小次郎に、眼をくれる者はなかった。
やがて百射が終ると、
「水、水」
忠利は、大息でいった。
家臣たちは、井戸水を揚げて、大きな|盥《たらい》に水を|漲《は》った。
忠利は、諸肌をぬぎ、汗を拭いたり、足を洗った。|側《そば》から家来が、|袂《たもと》を持ったり、新しい水を汲んだり、介添えは怠りないが、それにしても、いわゆるお大名の仕草ともみえぬ野人ぶりであった。
|国《くに》|許《もと》にいる大殿とよばれる三斎公は茶人である。先代の幽斎は、それにもまして風雅な歌人であった。さだめし三代目の忠利公も、みやびたる|公《く》|卿《げ》|風《ふう》の人か、御殿育ちの若殿だろうと考えていた小次郎は、ちょっと、その体に、意外な眼をみはっていた。
よく拭きもしない足をすぐ草履にのせて、ずかずかと忠利は、|弓《ゆ》|場《ば》へ戻って来た。そして、さっきからまごついている岩間角兵衛の顔を見ると、思い出したように、
「角兵衛、会おうか」
と、|幕《とばり》の日陰へ|床几《しょうぎ》を置かせ、九曜の紋を後ろにして腰かけた。
角兵衛に|麾《さしまね》かれて、小次郎は彼の前にひざまずいた。人材を愛し、士を遇することに厚かったこの時代では、一応、謁見をうける者からそういう礼は|執《と》るが、すぐ忠利の方でも、
「|床几《しょうぎ》を|遣《つか》わせ」
と、いった。
床几を受ければ客である。小次郎は膝を上げて、
「おゆるしを」
会釈しながら、それへ腰をおろして、忠利と|対《むか》いあった。
「仔細、角兵衛から聞いておるが、生国は岩国と申すか」
「御意にござります」
「岩国の|吉《きっ》|川《かわ》広家公は|英《えい》|邁《まい》の聞えが高い。そちの父祖も、吉川家に随身の者か」
「遠くは|近江《お う み》の佐々木が一族と聞いておりますなれど、室町殿滅亡後、母方の里へひそみました由で、吉川家の|禄《ろく》は|喰《は》んでおりませぬ」
などと家系や、縁類などの質問があって後、
「侍奉公は、初めてか」
「まだ|主《しゅ》|取《どり》は存じませぬ」
「当家に望みがあるやに、角兵衛から聞いておるが、当家のどこがようて、望んだか」
「死に場所として、死に心地の好さそうなお家と存じまして」
「む、む」
忠利は、|唸《うめ》いた。
気に入ったらしく見える。
「武道は」
「|巌流《がんりゅう》と称します」
「巌流?」
「自身発明の兵法にござりまする」
「でも、|淵《えん》|源《げん》があろうが」
「富田五郎右衛門の富田流を習いました。また、郷里岩国の隠士で片山|伯《ほう》|耆《きの》|守《かみ》久安なる老人から、片山の居合を授けられ、かたがた、岩国川の|畔《ほとり》に出ては、燕を斬って、自得するところがございました」
「ははあ、巌流とは――岩国川のその|由縁《ゆ か り》から名づけたか」
「御賢察のとおりです」
「一見したいな」
忠利は、床几から、家臣の顔を見まわして、
「誰か、佐々木を相手に、起つ者はおらぬか」
と、いった。
この男が、佐々木か。近頃、よくうわさに上る、あの著名な人間なのか。
(それにしては、思いのほか、若いものだな)
と感心して、|先刻《さ っ き》から、忠利と彼との応接を見まもっていた家臣たちは、忠利が唐突に、
(誰か、佐々木を相手に、起つ者はないか)
といった言葉にまた、顔を見あわせた。
自然、その眼はすぐ、小次郎の方へ移ったが、彼には、迷惑そうな気色もなく、むしろ、
(望むところ)
と、いわんばかりな紅潮が|面《おもて》に見えた。
だがなお、さし出がましく、我がと名乗って、起つ者もないうちに、
「|岡《おか》|谷《や》」
と、忠利が、名指した。
「はっ」
「いつぞや、槍が太刀に勝る論議の出た折に、誰よりも、槍の説を取って|退《ひ》かなかったのは、そちであったな」
「は」
「よい折だ、かかってみい」
岡谷五郎次は、お受けすると、次に、小次郎の方へ向い直って、
「|不肖《ふしょう》、お相手に立ちまするが、おさしつかえございませぬか」
と、訊ねた。
小次郎は、大きく、言葉を胸で|肯《き》くように、|頷《うなず》いた。
「お願いいたしましょう」
|慇《いん》|懃《ぎん》な礼儀のあいだであるが、何かしらさっと肌じまるような|凄《せい》|気《き》がながれた。
幕の裡で、|的《まと》|場《ば》の砂を掃いていた者や、弓の整理をしていた人々も、それを聞いて、忠利のうしろへ皆、集まった。
朝夕、武芸を口にし、太刀や弓を|箸《はし》の如く持ち馴れている者にでも、稽古以外のほんとの試合などに立つ体験は、一生を通じて、そう何度もあることではなかった。
仮に――
(戦場へ出て戦うのと、平常の場合、試合に立つのと、どっちが怖いか)
ということを、ここにいる大勢の侍に、正直に告白させたら、十人が十人まで、
(それは試合だ)
というに違いないのである。
戦争は集団の行動だが、試合は|箇《こ》と箇の対立である。必ず勝たなければ、必ず死ぬか片輪になるのだ。足の|拇指《おやゆび》一つから髪の毛一筋までを味方として、自己の生命力を尽して戦い切らなければならない。――他人が戦っている間、ほっと一息を入れるというような余裕なども、試合にはない。
――|粛《しゅく》として、彼の友だちは皆、彼の挙止を見まもった。だが、五郎次が落着いているのを見ると、やや安心して、
(彼なら負けまい)
と、思った。
細川藩には、従来、槍術の専門家という者はいなかった。幽斎公三斎公以来、数々の戦場で人と|為《な》った者ばかりが君側なのである。足軽の中にさえ、槍の上手は沢山いた。槍を上手につかうなどということは、必ずしも奉公人の特別な技能ではなかった。だから特に師範役というような者はいらなかったといえるのである。
けれど、その中でも、岡谷五郎次などは、藩での|鑓《やり》|仕《し》といわれていた。実戦を踏んでいるし、平常の稽古や工夫も積んでいる老練家であった。
「しばし、ご猶予を」
と、五郎次は、主君と相手の者へ、そう会釈をして、静かに、|彼方《か な た》へ|退《さ》がって行った。もちろん身支度のためである。
|朝《あした》に笑顔で出て、夕方には死体で帰るかもしれない侍奉公の|嗜《たしな》みとして、きょうも、下帯から肌着まで、|垢《あか》のつかない|衣《もの》を着ていたということが、支度に退がる彼の心を、その時ふと、涼やかにさせていた。
身を開け放した姿で、小次郎は、突っ立っていた。
借りうけた三尺の木太刀を|提《さ》げ、|袴《はかま》の|襞《ひだ》もたらりと――|絡《から》げもせずに、試合の場所を選んで、先に待っていた。
|逞《たくま》しかった。誰が見ても、憎んで見てさえも、それは|凜《り》|々《り》しい男振りであった。
殊に、|鷲《わし》のごとく勇猛で、しかも美しい横顔には、平常と何の|異《こと》なるところも見えなかった。
(どうしたか?)
相手に立つ岡谷五郎次へは、家中の者の友情がわいた。小次郎の異彩を見るにつけ、彼の腕のほどが案じられ、彼が支度にかくれた幕の方へおのずと不安な眼がうごいた。
だが、五郎次は、落着きすまして身支度を終えていた。それになお、手間どっているわけは、槍の先に濡れ|晒布《ざ ら し》を、ていねいに巻きつけているためだった。
小次郎は、見やって、
「五郎次どの。それは何のお支度だな。てまえに対する万一のお気づかいなら無用なご配慮だが」
と、いった。
ことばは尋常に聞えるが、意味は|傲《ごう》|慢《まん》な放言に等しい。――今、五郎次が濡れ|晒布《ざ ら し》を巻いている槍は、彼が戦場で得意につかう短刀形の|菊《きく》|池《ち》|槍《やり》である。|柄《え》の長さ九尺余、手元から先は青貝塗りの|磨《とぎ》|出《だ》し、|菖蒲《あ や め》造りの刃先だけでも七、八寸はあろうという|業《わざ》|物《もの》なのだ。
「――真槍でいい」
それを見ながら、小次郎は、彼の徒労をすでに|嘲《わら》うかにいったのである。
「無用ですか」
キッと、五郎次が、彼を見ていうと、君侯の忠利も、君側にいる彼の友も、皆、
(ああいうのだ)
(かまわん)
(突き殺してしまえ)
と、いわんばかりに、眼でぎらぎらと、|使《し》|嗾《そう》した。
小次郎は、早くと、|促《うなが》すように、語気をこめて、
「そうだ!」
と、眼をすえた。
「然らば」
巻きかけた濡れ|晒布《ざ ら し》を解きほぐし、五郎次は長槍の中段をつかむと、ずかずかと進んで来て、
「お望みにまかせる。しかし、それがしが真槍を|把《と》る以上、|貴方《あ な た》も真剣を持っていただきたい」
「いや、これでいい」
「いや、ならぬ」
「いや」
と、小次郎は、彼の|呼吸《いき》を圧しかぶせて、
「藩外の人間が、いやしくも他家の君前で、真剣を|把《と》るなどという無遠慮は、慎まねばなりますまいが」
「でも」
五郎次がなお、心外らしく、唇をかむと、忠利は、彼の態度を、もどかしく思ったように、
「岡谷。卑怯ではない。相手のことばに任せ。|逸《はや》くいたせ」
明らかに、忠利の声の中にも、小次郎に対する感情がうごいていた。
「――では」
二人は、目礼を交わした。するどい血相が双方の顔に|映《うつ》り合った。とたんに、ぱっと五郎次から|跳《と》び|退《の》いた。
だが、小次郎の体は、モチ|竿《ざお》に着いた小鳥のように、|槍《やり》|柄《え》の下に添って、五郎次のふところへそのまま、つけ入って行った。
五郎次は槍を繰り出す暇がなく、ふいに身を向き|転《か》えると石突きの方で、小次郎の|襟《えり》がみの辺りを|撲《なぐ》り下ろした。
――ぱッん、と石突きの先が|谺《こだま》して宙へ跳ね返された。小次郎の木剣は、|咄《とっ》|嗟《さ》にまた、槍の勢いで上げられた五郎次の|肋《ろっ》|骨《こつ》へ向って、低く、噛みつくように唸って来た。
「ち。ち。ち!」
五郎次は、踏み|退《の》いた。
さらに横へ跳んだ。
息もつかず、また、避けた。また跳び交わした。
――だがもう、|鷲《わし》に追いつめられた|隼《はやぶさ》だった。つきまとう木剣の下に、|戛《かつ》|然《ぜん》と、槍が折れた。せつな、五郎次の魂がその肉体から、無理に|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ離されたような|呻《うめ》きがして、一瞬の勝負は、ついてしまった。
|伊《い》|皿《さら》|子《ご》の「月の|岬《みさき》」の家へ帰ってから、小次郎は、|主《あるじ》の岩間角兵衛にたずねた。
「ちと、やり過ぎましたかな? ――今日の御前では」
「いや|上乗《じょうじょう》でござったよ」
「忠利公には、わしの帰った後で、何というておられたかな」
「べつに」
「何か、いわれたろうが」
「何とも、仰せられずに、黙って、お座の間へお|出《い》でられた」
「ふむ……」
小次郎は、彼の答えに、不満足な顔を見せた。
「いずれ、そのうち、お沙汰があるでござろう」
角兵衛が、いい足すと、
「|抱《かか》えるとも、抱えぬとも、いずれでもいい。……だが、噂に|違《たが》わず、忠利公は、名君と見た。同じ仕えるなら――とは思うが、これも縁ものだからな」
角兵衛の眼にも、小次郎の|鋒《ほう》|鋩《ぼう》が次第に見えてきて、きのうから、少し気味わるくなった|面《おも》|持《もち》である。愛すべき若鳥と抱いていたのが、覗いてみたら、いつの間にか|懐中《ふところ》で鷲になっていた感じである。
きのう、忠利の面前では、少なくも四、五名は相手にしてみせるつもりだったが、最初の岡谷五郎次との試合が、余りに残忍であったせいか、
(見えた。もうよい)
と、忠利の声で、終ってしまったのである。
五郎次は、後で蘇生したというが、|怖《おそ》らく|跛行《び っ こ》になってしまったろう。左の|太《ふと》|股《もも》か腰部の骨は砕けた筈である。あれだけ見せておけば、このまま、細川家に縁はなくてもまず遺憾はないがと、小次郎はひそかに思う。
だが、未練はまだ、十分にある。将来、身を託す所として、伊達、黒田、島津、毛利に次いで、細川あたりは|慥《たしか》な藩である。大坂城という未解決な存在がまだ風雲を|孕《はら》んでいるので、身を寄せる藩に依っては、再び|素《す》|牢《ろう》|人《にん》に転落したり、|落人《おちゅうど》の憂き目にあう|惧《おそ》れは多分にある。奉公口を求めるにも、よほど将来を見通してかからないと、半年の|禄《ろく》のために、一生を棒にふるかも知れない。
小次郎には、その見通しがついていた。三斎公という者がまだ国元に光っているうちは、細川家は泰山の安きにあるものと見ていた。将来性も十分にあるし、同じ乗るなら、こういう親船に乗って新時代の|潮《うしお》へ、生涯の|舵《かじ》を向けてゆくことこそ賢明だと考えていた。
(だが、いい家柄ほど、|易《やす》|々《やす》と、抱えもせぬし)
小次郎は、やや|焦《いら》|々《いら》する。
何を思いついたのか、それから数日後のこと、小次郎は急に、
「岡谷五郎次どのを見舞って来る」
と、いって出かけた。
その日は|徒歩《かち》で。
五郎次の家は、|常盤《と き わ》|橋《ばし》の近くだった。彼は突然、小次郎の|慇《いん》|懃《ぎん》な見舞をうけて、まだ病床から起き上がれない身であったが、
「いや、試合の勝負は、腕の相異、わが未熟は恨むとも、なんで|其《そこ》|許《もと》を……」
と、微笑をみせ、
「おやさしい、お|労《いたわ》りをうけ、かたじけない」
と、眼に露を見せた。
そして小次郎が帰ると、枕辺に来ていた友へ、
「ゆかしい侍だ。|傲《ごう》|慢《まん》|者《もの》と思うたが、案外、|情誼《じょうぎ》もあり、礼儀も正しい」
と、洩らした。
小次郎は、彼が、そういうであろうことを、|弁《わきま》えていた。
ちょうど、来ていた見舞客の一名は、もう彼の思うつぼに、彼の敵たる病人の口から、小次郎の讃美を聞かされていた。
青い柿
二日おき、三日おきに、前後四たび程、小次郎は岡谷の家を見舞った。
或る日、魚市場から、生きた魚など、慰めにと、届けさせた。
夏は、土用に入った。
空地の草は、家を|蔽《おお》い隠し、乾いた往来には、のそのそ|蟹《かに》が這っている江戸だった。
――武蔵出てこい。出て来ずば、侍とはいわれまいが。
と、|半瓦《はんがわら》の者が立てた辻々の立札も、夏草の背にかくされ、或は雨で仆れたり、|薪《まき》に盗まれたりなどして、もう眼にふれる折もなかった。
「どこぞで、飯を」
と、小次郎は、空腹を思い出して、|彼方《あち》|此方《こち》、見まわした。
京とちがって、奈良茶というような家もまだない。ただ、空地の草ぼこりに、|葭《よし》|簀《ず》を立てて、
どんじき
と書いた旗が見える。
|屯《とん》|食《じき》――とは遠い時代、握り飯のことを|称《い》った名と聞いている。|屯食《たむろぐ》いという意味から生れた言葉であろう。だが、ここの「どんじき」とは一体何か。
葭簀の陰から這ってゆく煙は草にからみついて、いつまでも消えない。近づいてゆくと、煮物のにおいがする。まさか、握り飯を売るわけでもあるまいが、とにかく、喰べ物屋には違いない。
「茶をいっぱいくれい」
日陰へはいると、そこの腰かけに、ひとりは酒の茶碗、ひとりは飯茶碗を持って、がつがつ喰っている二人づれがある。
|対《むか》いあった腰かけの端へ小次郎は|倚《よ》った。
「おやじ、何ができるのか」
「めし屋でござります。酒もございまするが」
「どんじき――と看板に書いてあるが、あれは何の意味だな」
「皆さまがお訊きになりますが、てまえにも分らないので」
「おぬしが書いたのではないのか」
「はい、ここでお休みなされた旅の御隠居らしいお人が、書いてやるといって、書いて下さいましたので」
「そういえば、なるほど、達筆だな」
「諸国を、御信心に歩いているお方だそうで、木曾でも、よほど豪家な金持の御主人とみえましてな、|平《ひら》|河《かわ》天神だの、|氷《ひ》|川《かわ》神社、また神田明神などへも、それぞれ莫大な御寄進をして、それが、無二の楽しみだと仰っしゃっている御奇特人でございまする」
「ふム、何という者か、その|人《じん》の名は」
「奈良井の大蔵と仰っしゃいます」
「聞いたようだな」
「どんじき、などと、お書きくださって、なんの意味か、通じはしませぬが、そういう|有《う》|徳《とく》なお方の看板でも出しておいたら、少しは貧乏神の|魔《ま》|除《よ》けになるかと思いましてな」
おやじは、笑った。
小次郎は、そこに並んでいる瀬戸物鉢をのぞき、|肴《さかな》と飯を取って、|箸《はし》で蠅を追いながら、湯漬にして喰べ始めた。
前に腰かけていた二人の侍のうち――一人はいつの間にか立って、|葭《よし》|簀《ず》の破れ目から草原を覗いていたが、
「来たぞ」
連れを|振《ふ》り|顧《かえ》って、
「浜田、あの|西《すい》|瓜《か》|売《う》りじゃないか」
といった。
あわてて、箸をおいて、もうひとりの男も立ち上がった。そして葭簀へ顔を並べながら、
「む、あれだ」
と、何か物々しく|頷《うなず》いた。
草いきれの炎天を、西瓜売りは|天《てん》|秤《びん》を肩に歩いてゆく。
それを追って「どんじき」の葭簀の陰から出て行った牢人は、いきなり刀を抜いて、天秤の|荷《に》|縄《なわ》を払った。
――もんどり打つように西瓜と西瓜売りが前へ転んだ。
「やいっ」
|先刻《さ っ き》、どんじきの中で、浜田とか呼ばれていたもう一名の牢人が、すぐ駈けて、横から西瓜売りの首を|抓《つま》み上げた。
「お濠ばたの石置場で、このあいだまで、|茶汲女《ちゃくみおんな》をしていた娘を、おのれは、何処へ連れて行った。――いいや、|空《そら》|惚呆《とぼ》けてもだめだ。なんじが隠したに相違ない」
一人が責めると、一人が刀を鼻先へ突きつけて、
「いえ。|吐《ぬ》かせ」
「そちの|住居《す ま い》はどこだ」
と、|脅《おど》かし、
「こんな|面《つら》して、女を|誘拐《かどわか》すなどとは、もってのほかな奴だ」
と、刀の平で、西瓜売りの頬をたたいた。
西瓜売りは、土気色になった顔を、ただ、横に振るだけだったが、隙を見ると、憤然一方の牢人を突きとばし、|天《てん》|秤《びん》を拾って、もう一名の方へ、打ってかかった。
「やるかっ」
と、牢人は呶鳴って、
「こいつ、満ざら、ただの西瓜売りでもないぞ。浜田、油断するな」
「何、|多《た》|寡《か》の知れた――」
と、浜田|某《なにがし》は、打って来る相手の天秤を引っ|奪《た》くり、それへ叩き伏せてしまうと、西瓜売りの背中へ天秤を背負わせ、有合う縄で、棒縛りに、ぎりぎり巻きつけた。
――すると彼の|背後《う し ろ》の方で、猫の蹴られたような声と共に、どさっという地響きがしたので、何気なく振り顧ると、その顔へ、夏草の風がぱッと赤い細かい霧を持って来て、吹きつけた。
「――やっ!」
馬乗りになっていた西瓜売りの体の上から|跳《と》び|退《の》いた浜田某なる牢人は、あり得ないことを見たように、疑いの眼をみはって、|愕《がく》|然《ぜん》とさけんだ。
「何者だッ……な、なに者だっ|汝《おのれ》は……」
だが。
|蝮《まむし》のように、するすると、そういう彼の胸へ真っ直ぐに迫って来る刀の先は――冷然と、答えもしない。
佐々木小次郎なのである。
刀は、いうまでもなく、いつもの長刀|物《もの》|干《ほし》|竿《ざお》。|厨《ず》|子《し》|野《の》耕介が|研《と》|桶《おけ》に古い|錆《さび》|垢《あか》を落して|光《こう》|芒《ぼう》を改めて以来、近頃しきりと、血に|渇《かわ》いて、血をむさぼりたがっている刀である。
「…………」
|笑而《わらって》|不答《こたえず》――小次郎は、後ずさる浜田某をぐいぐい追いつめて夏草を|繞《めぐ》っていたが、ふと、棒縛りの目に遭っていた西瓜売りが、その姿を見るなり、さもさもびっくりしたように、
「あっ……佐々木……佐々木……佐々木小次郎どの。助けてくれっ」
と、大地から呶鳴った。
小次郎は、見向きもしない。
ただ、抜き合せたまま、後へ後へ、果てなく|退《さ》がってばかりいる浜田某の|呼吸《いき》を数えながら、死の淵まで押してゆくように、彼が一退すれば、彼も一進し、彼が横へ|旋《めぐ》れば、彼もさっと、横へ旋って、刀の先から|外《はず》さず押しつづけているのみだった。
もう青白くなって来た浜田某は、その耳に、佐々木小次郎の名を聞くと、
「えっ、佐々木?」
|遽《にわか》に、戸惑いし出し、くるくる|旋《まわ》ったかと思うと、ぱッと、逃げ出した。
物干竿は、宙を|刎《は》ね、
「何処へッ」
と、いうや否、浜田某の片耳を|削《そ》いで肩先から深く斬りさげてしまった。
彼がすぐ、縄目を切ってやっても、西瓜売りは、草むらから顔を起さなかった。
坐り直しはしたが――いつまでも|面《おもて》は上げないのである。
小次郎は、物干竿の血をぬぐい、|鞘《さや》に納めると、何かおかしくなったように、
「大将」
と、西瓜売りの|背《せな》を叩いた。
「何もそう面目ながらないでもいいじゃないか。――おいっ、又八」
「はあ」
「はあ、じゃあない、顔を上げろ。さてもその後は久しぶりだな」
「あなたも、ご無事でしたか」
「あたり前だ。――しかし、貴様は妙な商売をしておるじゃないか」
「お恥かしゅうございます」
「とにかく、西瓜を拾い集め――そうだ、あの、どんじき屋へでも、預けたらどうだ」
小次郎は原の中から、
「おおウい、おやじ」
と、|麾《さしまね》いた。
そこへ、荷や西瓜をあずけ、矢立を取出して、どんじきの掛障子のわきへ、
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空地の死体ふたつ
右、斬捨て候ものは
伊皿子坂月の|岬《みさき》住人
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佐々木小次郎
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後日の為のこす
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こう書いて、
「おやじ、ああしておいたから、其方に迷惑はかかるまい」
「ありがとう存じまする」
「あまり、有難くもないだろうが、死者の|由縁《ゆ か り》の者が来たら、|言《こと》|伝《づけ》てくれ。――逃げ隠れはせぬ、いつでも、御挨拶はうけるとな」
そして、|葭《よし》|簀《ず》の外にいる西瓜売りの又八へ、
「参ろう」
と、|促《うなが》して、歩き出した。
本位田又八は、|俯向《う つ む》いてばかりいた。近頃彼は、西瓜の荷を|担《にな》って、江戸城の|此処《ここ》|彼処《か し こ》にたくさん働いている石置場の人足や、大工小屋の|工匠《こうしょう》や、|外廓《そとぐるわ》の足場にいる左官などへ、西瓜を売ってあるいていた。
彼も、江戸へ来た当初は、お通に対してだけでも、男らしく、|一《ひと》修行するか、|一《ひと》事業やるか、壮志のあるところを見せていたが、何へかかっても、すぐに意志のへこたれてしまうことと、生活力の弱いことは、この人間の持ち前で、職を換えることも、三度や四度の数ではない。
殊に、お通に逃げられてからの彼は、よけい、薄志弱行の一途を|辿《たど》るばかりで、わずかに、各所の無法者のゴロ部屋に寝泊りしたり、|博奕《わ る さ》の立番をして|一《いっ》|飯《ぱん》を得たり、また、江戸の祭や|遊《ゆ》|山《さん》の年中行事に、その折々の物売りをしたり――とにかくまだ一ツの|定《きま》った職業すらつかんでいないのであった。
だが、それが不思議とも思わないほど、小次郎も、彼の性情は前から知っている。
ただ、どんじき屋へ、ああ書いておいた以上、やがて何とかいって来るものと心得ていなければならない心構えのために、
「いったい、あの牢人どもから、どんな恨みをうけたのか」
と、|理由《わけ》を|糺《ただ》すと、
「実は、女のことで……」
と、いい|難《にく》そうに、又八はいう。
又八が生活を持つ所、何か必ず女の事故が起っている。彼と女とは、よくよく前世から|業《ごう》のふかい悪縁でもあるのだろうと――小次郎すらも苦笑をおぼえ、
「ふム、相変らず貴様は色事師だの。して、その女とは、どこの女で、そしてどうしたという|理《わけ》か」
いい渋る口を割らせるのは骨だったが、伊皿子へ帰っても、かくべつ用を持たない彼には、女と聞くだけでも、|無聊《ぶりょう》をなぐさめられて、又八と会ったのも、拾い物のような気がしていた。
ようやく、又八が、打明けていう事情というのを聞くと、こうであった。
|濠《ほり》|端《ばた》の石置場には、お城の作事場に働いている者や往来の頻繁を当てこんで、何十軒といっていいほど、休み茶屋が、|葭《よし》|簀《ず》を張っている。
そこの一軒に、人目をひく|茶汲女《ちゃくみおんな》があった。飲みたくもない茶をのみにはいったり、喰べたくもない|心太《ところてん》を|啜《すす》ったりしにゆく連中のなかに、|先刻《さ っ き》の浜田某という侍の顔もよく見えていた。
ところが、自分も時折、西瓜を売上げた帰りになど、休みに寄るうち、或る時、娘がそっと|囁《ささや》くことには、
(わたしは、あのお侍が嫌いでならないのに、茶屋の持主は、あのお侍と遊びにゆけと、|此店《ここ》が閉まるとすすめるのです。あなたの家へ隠してくれませんか。女ですから水仕事や|綻《ほころ》びを縫うぐらいなことならしますよ)
と、いうので、|否《いな》む|筋《すじ》|合《あい》もないから、|諜《しめ》し合せて、自分の家へ、早速、娘を|匿《かくま》ってやっているので――ただそれだけの理由なので――と、又八は頻りとそこのところを繰返して言い訳する。
「おかしいじゃないか」
小次郎は、|頷《うなず》かない。
「なぜですか」
と、又八は、自分の話のどこがおかしいのかと、すこし反抗を見せて、突っこんでゆく。
小次郎は、彼の、|惚気《の ろ け》とも言い訳ともつかない長文句を、炎天に聞かされて苦笑いも作れず、
「まあいいわ。ともかく貴様の住居へ行って、ゆるゆる聞こう」
すると、又八は足を止めてしまった。ありありと、迷惑そうにその顔つきが断っているのである。
「いけないのか」
「……何しろ、ご案内申すような、家ではないので」
「なあに、かまわぬ」
「でも……」
又八は、謝って、
「この次にして下さい」
「なぜじゃ」
「すこし今日は、その」
よくよくな顔していうので、|強《た》ってともいわれず小次郎は急にあっさりと、
「ああそうか。然らば、折を見て、そちの方からわしの住居へ訪ねて来い。伊皿子坂の途中、岩間角兵衛どのの門内におる」
「伺います。ぜひ近日」
「あ……それはよいが、先頃、各所の辻に立ててあった高札を見たか。武蔵へ告げる|半瓦《はんがわら》の者どもが打った立札を」
「見ました」
「本位田のおばばも尋ねておるぞと、書いてあったろうが」
「は。ありました」
「なぜすぐに、老母をたずねて参らぬのじゃ」
「この姿では」
「ばかな。自分の母親に何の|見《み》|得《え》がある。|何日《いつ》、武蔵と出会わんとも限らぬではないか。その時、一子として、居合わせなかったら、一生の不覚だぞ。生涯の悔いをのこすことになるぞ」
彼の意見じみた言葉を、又八は素直に聞けなかった。|母子《お や こ》のあいだの感情は、他人の見た眼のようなのではない。――そう腹の|膨《ふく》れるように思ったが、たった今、救われた恩義のてまえ、
「はい。そのうちに」
と、渋った返辞をのこして、芝の辻でわかれた。
――小次郎は人が悪い。別れると見せて、実はすぐまた、引っ返していた。又八の曲がった狭い裏町を、見え隠れに|尾《つ》けて行った。
幾棟かの長屋がある。|藪《やぶ》や雑木を|伐《き》り|拓《ひら》いて、どしどし人間が先へ住み出したといったような、この附近の開け方であった。
道などは、後のことで、人が歩けば、それからつくし、下水なども、戸ごとから、行水の水や台所の汚水で、流るるままに出来たものが、自然小川へ落ちて行く――でいいとしている。
何しろ、急激に|殖《ふ》えてゆく江戸の人口は、それほど無神経でなければ納まりがつかなかった。その中で多いのは、やはり労働者であった。わけて河川改修と、|城《しろ》|普《ぶ》|請《しん》の仕事に就く者たちである。
「又八さん、帰ったのか」
隣の井戸掘りの親方がいった。親方は、|盥《たらい》の中にあぐらをくみ、横にした雨戸の上から首を伸ばしていったのである。
「やあ、行水ですか」
今、家へ戻って来た又八がいうと、|盥《たらい》の中の親方は、
「どうだい、わしはもう上がるところだが、一浴びやっては」
「有難うございますが、宅でもきょうは、|朱《あけ》|実《み》が沸かしたそうですから」
「仲がいいな」
「そんなでもございません」
「|兄妹《きょうだい》か、夫婦か、長屋の者もまだよく知らないが、一体どっちなんだね」
「へへへへ」
そこへ、彼女が来たので、又八も親方もだまってしまった。
朱実は、提げてきた大きな盥を、柿の木の下におき、やがて、手桶の湯をあけた。
「又八さん、加減を見てよ」
「すこし、熱いな」
車井戸の音がきりきりする。又八は裸で駈けてゆき、手桶の水を取って来て、自分でうめて、すぐ|入浴《はい》りこむ。
「ああいい湯だ」
親方はもう|浴衣《ゆ か た》になって、|糸瓜《へ ち ま》棚の下に|竹床几《たけしょうぎ》を持ち出し、
「きょうは、西瓜は売れたかい」
と、訊く。
「知れたもんですよ」
又八は、指の股に、血が乾いていたのを見出して、気味わるそうに、手拭で落していた。
「そうだろうな、西瓜なんぞ売るよりはまだ、井戸掘り人足になって|日傭稼《ひやといかせ》ぎしたほうが、楽だと思うが」
「いつも、親方が、おすすめしてくれますが、井戸掘りになると、お城のなかへはいるんですから、滅多に、家へ帰れないでしょう」
「そうさ。御作事方のお許しが出なくっちゃ、帰るわけにゆかねえな」
「それじゃあ、朱実がいうには、淋しいから、やめてくれといいますんでね」
「おい、のろけかい」
「決して、あたし達は、そんな仲じゃございません」
「そうめん[#「そうめん」に傍点]でも|奢《おご》りなよ」
「――ア痛っ」
「どうしたい」
「頭の上から、青い柿が落ちて来やがったんで」
「ははは。のろけるからよ」
親方は|渋《しぶ》|団扇《う ち わ》で、膝をたたいて笑った。伊豆の伊東の生れで、|運《うん》|平《ぺい》さんという名で|界《かい》|隈《わい》の尊敬をうけていた。年はもう六十すぎ、麻のようにもじゃもじゃした髪の毛をしているが、日蓮信者で朝夕は題目を|称《とな》え、若い者達を、子ども扱いにするだけの体力をもっている。
この長屋の入口に、
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お城御用あなほり土方|口《くち》|入《い》れ
いどほりうん平宅
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と立札にあるのは、この親方の家のことである。|城郭《じょうかく》の井戸の|開《かい》|鑿《さく》には、特別な技術がいるので、ただの井戸ほりではできない。そこで伊豆の|金《かな》|山《やま》ほりの経験のある自分が、工事の相談と人足の口入れに招かれて来たのである――とは、運平親方が、晩酌にやる|焼酎《しょうちゅう》のごきげんで、よく自慢する|糸瓜《へ ち ま》棚の下のはなしだった。
許可がなければ、家には帰さないし、仕事中も監視はつくし、留守宅の家族は、|人《ひと》|質《じち》同様、町名主や親方の束縛もうけるが、その代り、御城内仕事は、外の仕事より、体も楽だし、賃銀はざっと倍額にもなる。
工事が終るまで、寝泊りも、御城内の小屋でするから、|小《こ》|費《づか》いもつかいようがない。
――だからそうして一ツ、辛抱してから、それを|資本《も と で》に、西瓜など売らずに、何か商売でもする工夫をしてはどうか。
|隣家《と な り》の運平親方は、前から又八へ、よくそういってくれていたが、|朱《あけ》|実《み》は首を振って、
「もし、又八さんが、お城仕事へ行くなら、わたしはすぐ、逃げちまうからいい」
と、|脅《おど》すようにいった。
「行くもんか、お前ひとり置いて――」
又八も、そんな仕事はしたくないのである。彼がさがしているのは、体が楽で、もっと、体裁のいい仕事だった。
行水から彼が上がると、次には朱実が、囲いの戸板を|殖《ふ》やして、湯を|浴《あ》み、ふたりとも浴衣になってから今も、その話が出たが、
「少しぐらい金になるからって、|囚人《めしゅうど》みたいに、体を縛られる働きに出るなど、いやなこった。おれだって、いつまでも西瓜売りじゃいねえつもりだ。なあ朱実、当分貧乏暮しでも、辛抱しようぜ」
冷し豆腐に、|青《あお》|紫《じ》|蘇《そ》のにおう膳をかこみながら、又八がいえば朱実も、
「そうともさ」
と、湯漬を喰べながらいった。
「一生に一遍でもいいから、意気地のあるところを見せてやりなさいよ。――世間の人に」
朱実が、ここへ来てから、長屋では、夫婦者と見ているらしかったが、彼女は、こんな歯がゆい男を、自分の|良人《お っ と》に持とうとは思っていない――
彼女の、男を見る眼は、進んでいた。江戸へ来てから――殊に|堺町《さかいちょう》の遊びの世界に身を置いているあいだに――多くの|種々《いろいろ》な型の男を見ていた。
その朱実が、又八の家へ逃げて来たのは、一時の方便にすぎなかった。又八を踏み台にして、再び、立ってゆく空をさがしている小鳥だった。
――だが、いま又八に、お城仕事になど行ってしまわれるのは、都合が悪かった。というよりも、身の危険であった。|茶汲女《ちゃくみおんな》をしていた頃の男――浜田|某《なにがし》という牢人に、見つけ出される|惧《おそ》れがあるからである。
「そうそう」
飯が終ると、又八は、そのことについて、話し出した。
浜田につかまって、ひどい目に|遭《あ》っていたところを、佐々木小次郎に助けられ、その小次郎が、|此家《ここ》へ案内しろといってきかないので、閉口したが、とうとう|体《てい》よくいって、別れて来た――ということを|審《つぶさ》に、彼女の気を迎えるように、語り出したのである。
「えっ、小次郎に、出会ったんですって」
朱実は、もう顔いろを失いながら、息をついて、
「そして私が、ここにいるなどということをいったんですか。まさか、いいはしないでしょうね」
と念を押した。
又八は、彼女の手を、自分の膝へ取って、
「誰が、あんな奴に、おまえのいることなどいうものか。いったが最後、あの執念ぶかい小次郎がまた……」
――あっと、そこで、又八はふいに呶鳴って、自分の横顔を抑えた。
誰が|抛《ほう》ったのか。
裏の方から飛んで来た青い柿の|実《み》が一つ、ぐしゃっと、彼の顔に当ったのである。まだ固い青柿だったが、白い肉が砕けて、朱実の顔へもかかった。
もう夕月の|藪《やぶ》の中を、小次郎に似た影が、涼しい顔して、町の方へ立ち去った。
露しとど
「――先生」
と、伊織は追う。
その伊織の|背《せ》|丈《たけ》より、秋近い武蔵野の草は高かった。
「はやく来い」
武蔵は、振向いて、草の中を泳いで来る|雛《ひな》|鳥《どり》の跫音を時々待つ。
「道があるんだけれど、分らなくなっちまう」
「さすがに、十郡にわたるという武蔵野の原は広いな」
「どこまで行くんです」
「どこか、住み心地のよさそうな所まで」
「住むんですか、ここへ」
「いいだろう」
「…………」
伊織は、いいとも、悪いともいわない。野の広さと等しい空を見あげて、
「さあ? どうだか」
「秋になってみろ、これだけの空が澄み、これだけの野に露を持つ。……思うだに気が澄むではないか」
「先生は、やっぱり、町の中はきらいなんだな」
「いや、人中もおもしろいが、あのように、悪口の高札を辻々に立てられては、なんぼ武蔵が厚かましゅうても、町には居づらいではないか」
「……だから、逃げて来たの」
「ウむ」
「くやしいな」
「何をいうか、あれしきのこと」
「だって、どこへ行っても、先生のことを誰もよくいわないんだもの。おいらは、くやしいや」
「仕方がない」
「仕方がなくないよ。悪口をいうやつを、みんな打ち|懲《こ》らして、こっちから、文句のあるやつ出て来いと、|札《ふだ》を立ててやりたいや」
「いや、そんな、|敵《かな》わぬ喧嘩はするものじゃない」
「だって、先生なら、無法者が出て来たって、どんな奴が|対《むか》って来たって、負けやしないよ」
「負けるな」
「どうして」
「衆には負ける。十人の相手を打ち負かせば、百人の敵が|殖《ふ》え、百人の敵を追ううちには、千人の敵がかかってくる。どうして、|敵《かな》うものか」
「じゃあ、一生、人に|嗤《わら》われているんですか」
「わしにも、名には、潔癖がある。御先祖にもすまない。どうかして、嗤われる人間にはなりとうない。……だから、武蔵野の露にそれを捜しに来たのだ。どうしたら、もっと嗤われない人間になれるかと」
「いくら歩いても、こんな所に、家はないでしょう。あれば、お百姓が住んでるし……また、お寺へでも行って、泊めてもらわなければ」
「それもいいが、樹のある所へ行って、樹を|伐《き》り、竹を畳み、|茅《かや》を|葺《ふ》いて、住むのもよいぞ」
「また、法典ケ原にいた時のように?」
「いや、こんどは、百姓はせぬ。毎日、坐禅でもするかな。――伊織、おまえは|書《ほん》を読め、そしてみっしり太刀の稽古をつけてやろう」
甲州口の|立《たて》|場《ば》、|柏木《かしわぎ》村から野へはいったのである。十二所権現の丘から、|十《じっ》|貫《かん》|坂《ざか》とよぶ藪坂を下りてからは、ほとんど、歩いても歩いても、同じような野であった。夏草の波のなかに、消え消えになる細い道であった。
行くほどにやがて、笠を伏せたような、松の丘があった。武蔵はそこの地相を見て、
「伊織、ここに住もう」
と、いった。
行く所に天地があり、行く所に生活が始まる。鳥が巣を作るのから較べれば、二人の住む一庵を建てるのは、もっと簡素だった。近くの農家へ行って、伊織は一人の日雇いと、|斧《おの》、|鋸《のこぎり》などの道具をやがて借りて来た。
草庵とまではゆかない、ただの小屋でもない、妙な家が、とにかく数日の間に、そこに建った。
「|神《かみ》|代《よ》の家は、こんな物でもあったろうか」
武蔵は、外から、わが家をながめて、独り興に入っている。
木の皮と竹と|茅《かや》と板とで出来ている。そして柱は附近の丸木である。
その家の中の壁とか、小障子とかに、ほんのわずかばかり使用されている|反《ほ》|古《ご》紙が、ひどく貴重に見え、また、文化的な光と匂いをたたえ、やはり神代ではあり得ない住居を証拠だてている。
しかも、朗々と、|藺《い》のすだれの陰からは、伊織の読書の声がながれている。秋となっても、蝉の声はまだ|旺《さかん》だったが、到底、その伊織の声には|敵《かな》わない。
「伊織」
「はいっ」
はいっ――と返辞した時は、伊織はもう彼の足もとに来てひざまずいていた。
近頃、厳しく慣らした|躾《しつけ》である。
以前の|童弟子《わらべでし》、城太郎には、彼はこうしなかった。彼の振舞いたいように振舞わせ、それが、育つさかりの者には、よいことであり、人間を自然に伸ばすことだと考えていた。
武蔵自身がそう育てられて来たからである。――だが、年と共に、彼の考え方も変化して来た。
人間の本来の性質の中には、伸ばしてもいい自然もある。だが、伸ばしてはならない自然もある。
|放《ほ》っておくと、得て、伸ばしてはならない本質は伸び、伸ばしてもいい本質は伸びないものだった。
この草庵を建てるので、草や木を刈ってみても、伸びて欲しい植物は伸びず、|醜《しこ》|草《ぐさ》や邪魔な|灌《かん》|木《ぼく》は、刈っても刈っても、|蟠《はびこ》って仕方がない。
応仁の乱この方、世の中の|相《すがた》は、文字どおり乱麻であった。信長がそれを|刈《か》り、秀吉が|束《たば》ね、家康が地ならしと建築にかかりかけているが、まだ、まだ、危ないことは、|附火木《つ け ぎ》の火一ツで、天下を火となさんず気ぶりも|蒸《むし》|々《むし》と、西には満ちている。
だが、この永い乱麻の世相は、もう一転する|秋《とき》だろう。野性の人間が、野性を大きく買われる時代は過ぎた。武蔵があるいた|足《そく》|跡《せき》の範囲だけを見ても、将来、天下が徳川になろうが豊臣の|掌《て》に帰ろうが、人心の一致している方向はすでにきまっている。
それは、乱麻から整理へ。また、破壊から建設へ。――要するに、求めても求めなくても、次期の文化が、人心の上へひたひたと|潮《うしお》を上げているのである。
武蔵は、独り思うことがある。
(生れたのが、遅かった)
――と。
(せめて、二十年も早く生れていたら、いや十年でも、間に合ったかも知れない)
――と。
自分が生れた時がすでに、天正十年の小牧の合戦のあった年である。十七歳には、あの関ケ原であった。もう、野性の人間が用をなす時代はその頃から過ぎてしまったのだ。――今思えば、|田舎《い な か》から槍一本持って出て、一国一城を夢みるなどということは、おかしいほど、|時《じ》|代《だい》|錯《さく》|誤《ご》な田舎者の世間知らずであった。
|迅《はや》い。時勢は急流のように早い。|太《たい》|閤《こう》秀吉の出世が、津々浦々の青年の血へ響いて来た時には、もう太閤秀吉の|踏襲《とうしゅう》ではいけないのである。
武蔵は、伊織へ|訓《おし》えるのに、そう考えずにいられなかった。そのために、城太郎とはちがって、殊に、|躾《しつけ》を厳しくした。次の時代の侍を作り上げねばならぬと思った。
「先生。なにか御用でございますか」
「野末に大きな|陽《ひ》が落ちかけた。いつものように、木剣を|把《と》れ、稽古をつけてつかわそう」
「はいっ」
伊織は、二本の木剣を持って来て、武蔵の前におき、
「おねがい致します」
ていねいに頭を下げた。
武蔵の木剣は長い。
伊織の木剣は短い。
長い木剣は、|青《せい》|眼《がん》に、短い木剣も青眼に。いわゆる|相《あい》青眼にあって、師弟は|対《むか》い合っている。
「…………」
「…………」
草より|出《いで》て草へ沈むという武蔵野の陽は地平線に|仄《ほの》かな余映を残していた。草庵の後ろの杉林はもう暗かった。|蜩《ひぐらし》の声を仰ぐと細い月がその|梢《こずえ》に忍び寄っている。
「…………」
「…………」
稽古である。勿論、伊織は武蔵の構えを真似て、自分も構えているのであった。打ってもいい、といわれているので、伊織は打って行こうとするが、思うように体が動かせないのである。
「…………」
「眼を」と、武蔵がいう。
伊織は、眼を大きくした。武蔵がまたいう。
「眼を見ろ。……わしの眼をくわっと見るのだ」
「…………」
伊織は、懸命に、武蔵の眼をにらもうとする。
だが、武蔵の眼を見ると、自分のにらみは|刎《は》ね|退《の》けられて、武蔵のにらみを、受けてしまうのである。
それでもなお、じっと|怺《こら》えて、見つめていようとすると、頭が、自分の頭だか、ひとの頭だか分らなくなってしまう。頭ばかりでなく、手も脚も、五体すべて、うつつになってしまう。するとまた、
「眼を!」
と、注意される。
いつのまにか眼は、武蔵の眼の光から逃げるように、そわそわ動いているのだ。
はっと、それに心をあつめると、手に持っている木剣まで、伊織は忘れてしまうのだった。そして、短い木剣が、百貫の鉄の棒でもささえているように、だんだん重くなってくる。
「…………」
「眼。眼」
いいながら、武蔵が少しずつ前へすすんで見せる。
この時、伊織が、どうしても後へ|退《さ》がりたがるので、それを幾十度も、きょうまで叱られて来た。――で、伊織は、武蔵に|倣《なら》って、前へ出ようと努めるのだったが、武蔵の眼を見ていては、到底、足の|拇指《おやゆび》も、にじり出せないのである。
|退《さ》がれば、叱られる。進もうとするが、進めない。伊織の体が、くわっと熱くなる。人間の手につかまれた|蝉《せみ》の体みたいにくわっと熱くなる。
この時、
(何を!)
と、伊織の幼い精神の中にも、|鏘然《しょうぜん》と、|火《ひ》|華《ばな》が発しるのだった。
武蔵は、それを感じると、すぐ、彼の気を誘って、
「来いっ」
いいながら、魚が交わすように、さっと、肩を落しながら身を|退《ひ》いてやるのだった。
伊織は、あッといいながら、飛びかかる。――武蔵の姿はもうそこにはいない。――一転して振り向くと、自分のいたところに武蔵はいる。
そして、最初の時と同じ姿勢にまた、|回《かえ》るのであった。
「…………」
「…………」
いつかそこらは、しとどに夜露が|綴《つづ》っている。眉に似た月は、杉林の陰を離れ、そこから風の落ちてくるたびに、虫の音はみな息をひく。昼はさほどとも見えない秋草の花々も、顔を|粧《よそお》ってみな|霓裳羽衣《げいしょううい》を舞うかのように|戦《そよ》ぎ立つ。
「…………」
「よし、これまで」
武蔵が、木剣を下ろして、それを伊織の手へ渡した時、伊織の耳に初めて、裏の杉林のあたりに、人声が聞えた。
「誰か来たな」
「また、泊めてくれと、旅の人が迷って来たんでしょ」
「行ってみろ」
「はい」
伊織は、裏へ廻って行った。
武蔵は竹縁に腰かけて、そこから見える武蔵野の夜をながめていた。もう|穂芒《ほすすき》が穂をそろえ、草の波には秋の光がある。
「先生」
「旅人か」
「違いました。お客様です」
「……客?」
「北条新蔵様が」
「お。北条どのか」
「野道から来ればよいのに、杉林の中に迷いこんで、やっと分ったんですって。馬を向うに|繋《つな》いで、裏に待っておりますが」
「この家には、裏も表もないが――|此方《こ ち ら》がよかろう、お連れ申してこい」
「はい」
家の横へ駈け廻って、
「北条さん、先生はこちらにいます、こっちへお出でなさいまし」
伊織が呶鳴る。
「おう」
武蔵は、立って迎え、すっかり、壮健になった新蔵の姿にまず、|欣《よろこ》びの眼をみはった。
「ご無沙汰いたしました。怖らく人を避けてのお|住居《す ま い》とは察しながら、押して突然、お|邪《さまた》げ申しました。おゆるしのほどを」
新蔵のあいさつに、会釈しながら武蔵は、縁へ誘って、
「ま。お掛け下さい」
「いただきます」
「よく分りましたな」
「ここのお住居で」
「されば。誰にも告げてないはずだが」
「|厨《ず》|子《し》|野《の》耕介から聞いて承知いたしました。過日、耕介とお約束の観音様がお出来とかで、伊織どのが、届けられたそうで……」
「ははあ、ではその折、伊織がここの|住所《と こ ろ》を|喋舌《し ゃ べ》ったとみえる。……いやべつに、武蔵もまだ、人を避けて閑居するなどという|年齢《とし》ではありませぬが、七十五日も身を|潜《ひそ》めていたら、うるさい噂も冷めようし、従ってまた、耕介などに|禍《わざわ》いのかかる|惧《おそ》れもなくなろうかと思ったまでのことでござる」
「お詫び申さねばなりませぬ」
と、新蔵は、頭を下げて――
「みな、てまえのことからご迷惑を」
「いや、お身のことは、|枝《えだ》|葉《は》に過ぎない。原因はもっと遠いところにあるのです。小次郎とこの武蔵との間に」
「その佐々木小次郎のために、またしても、小幡老先生の御子息、余五郎どのが、殺害されました」
「えっ、あの子息が」
「返り討ちです。わたくしが仆れたと聞かれたので、一途に、|彼奴《き ゃ つ》を狙って、かえって落命なされたのでした」
「……止めたのに」
武蔵は、いつか小幡家の玄関に立った若い余五郎の姿を思いうかべ、|可惜《あ た ら》――と心のうちで、つぶやいた。
「しかし――御子息のお気もちも分るのです。門下はみな去り、かくいうてまえ[#「てまえ」に傍点]も仆れ、老先生も先頃病死なされました。――今は、というお気もちを抱いて、小次郎の家へ襲ってゆかれたものと察しられます」
「うむ。……まだわしの止め方が足らなかった。……いや止めたのが、かえって、余五郎どのの壮気をあべこべに駆りたてたかも知れぬ。かえすがえすも惜しいことを」
「――で、実はわたくしが、|小《お》|幡《ばた》家の跡を継がねばならぬことになりました。余五郎どののほかに老先生のお血筋もないので、すでに絶家となるところ、父|安房《あ わ の》|守《かみ》から柳生|宗《むね》|矩《のり》様へ実情を申しあげ、お骨折りで、師の家名だけは、養子の手続きを取って、残ることに相成りました。――しかし、未熟者のわたくしでは、かえって甲州流軍学の名家の名を、汚すようなものではないかと、それのみを|惧《おそ》れておりまする」
北条新蔵がことばの中に、父安房守といったのを、武蔵はふと、聞き|咎《とが》めて、
「北条安房守どのと申せば、甲州流の小幡家と並んで、北条流の軍学の宗家ではありませぬか」
「そうです、祖先は遠州に|興《おこ》りました。祖父は小田原の北条氏綱、氏康の二代に仕え、父は、大御所家康公に見出され、ちょうど三代、軍学をもって、続いて来ております」
「その、軍学の家に生れた|其《そこ》|許《もと》がどうして、小幡家の内弟子などになられていたのか」
「父の安房守にも、門人はあり、将軍家へも、軍学を御進講しておりますが、子には、何も教えませぬ。他家へ行って、師事してこい、世間から苦労を先に|習《まな》んで来い――と申すような風の父でありますゆえ」
新蔵の物ごしや、そういう人がらのどこかに、そう聞けば、|卑《いや》しくないところが見える。
彼の父は、北条流のながれを汲む三代目安房守|氏《うじ》|勝《かつ》であろう。そうすると、その母は、小田原の北条氏康の|女《むすめ》である。人品のどこかに、|下《げ》|賤《せん》でないものが、|仄《ほの》|見《み》えるのは、道理であった。
「つい、余談に|紛《まぎ》れましたが――」
と、新蔵はそこで辞儀をし直し、
「こよい、急に、お訪ねいたしたのも、実は、父安房守のいいつけで、本来、父の方からお礼に伺うところであるが、折からちょうど珍しいお客様も来あわせて、屋敷にお待ちいたしておるので、お迎えいたして来いと、いいつけられて参ったのでござりますが」
と、武蔵の顔いろを|窺《うかが》っていた。
「はて?」
武蔵は、まだ彼のことばが、よく|酌《く》めないらしく、
「珍しいお客が、|其《そこ》|許《もと》のおやしきで拙者を待ちうけているから来い――という仰せかな?」
「そうです。恐縮ながら、てまえがご案内いたしますほどに」
「これから直ぐに?」
「はい」
「いったい、その客とは、|誰方《ど な た》でござるか。武蔵にはとんと江戸には知己がないはずでござるが」
「御幼少からよくご存知のお方でござります」
「何、幼少から?」
愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、|解《げ》せない。
(誰だろう?)
幼少からといえば懐かしい。本位田又八か、或は、竹山城の侍か、父の旧知か。
ひょっとしたら、お通ではあるまいか? ――などと思いながらまた、その客とは一体誰かと訊くと、新蔵は窮した|容《よう》|子《す》で、
「お連れして参るまで、名は明かさずにおれ。会って意外と欣び合ったほうが興があるから――と申されるのです。……お越しくださいましょうか」
と、いうのである。
武蔵は、頻りと、その分らぬ客に会ってみたくなった。お通ではなかろう。そう思いながら、また、心のすみで、
(お通かも知れないし)
と、思われたりする。
「参ろう」
武蔵は立って、
「伊織。先に|寝《やす》め」
と、いった。
新蔵は、使いの面目が立ったと欣んで、早速、裏の杉林に|繋《つな》いでおいた駒を縁先まで曳いて来た。
駒の鞍もあぶみも、秋草の露に、しとどに濡れていた。
「どうぞお召しを」
と、北条新蔵は、馬の口輪をつかんで、武蔵へすすめた。
武蔵は、敢て辞退せず、|鞍上《あんじょう》の人になって、
「伊織、先に|寝《やす》め、わしの戻りは、|明日《あす》になるかも知れぬ」
伊織も、外まで出て、
「行っていらっしゃいまし」
と、見送った。
萩、|芒《すすき》の中を、馬上の武蔵と、口輪を持つ新蔵の影とが――やがて、いちめんな露の彼方へ沈んで行った。
伊織は、ぽかんと、独りぼッちになって、竹縁に腰かけていた。この草庵に、独り留守をすることも、珍しくはない。また、法典ケ原の一ツ家にいた頃のことを思えば、淋しくもない。
(眼。……眼)
伊織は、稽古のたび、武蔵からいわれることが、頭にこびりついて、今もすぐ、銀河の空を仰ぎながら、ぽかんと、それを考えていた。
(どうしてだろ?)
なぜ、武蔵の眼に睨まれると、あの眼を見ていられなくなってしまうのか、伊織には分らなかった。そして、少年の純な口惜しさが大人以上の一途となって、それを幼い思念で解こうとしていた。
そのうちに、彼は、草庵の前の一本の樹に|絡《から》んでいる|野《の》|葡《ぶ》|萄《どう》の葉蔭から、キラと、自分のほうを睨んでいる二ツの眼に出会った。
「……おや?」
生き物の眼である。それは師の武蔵が、木剣を持って自分を見る眼にも劣らない光を帯びている眼だった。
「……|むささび[#「むささび」は「鼬」の「由」を「吾」にしたもの。Unicode="#9f2f"]《むささび》だな」
伊織は、|野《の》|葡《ぶ》|萄《どう》の|実《み》へよく来るむささび[#「むささび」に傍点]の顔を覚えている。あの|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の眼が、草庵から|映《さ》す|燈《ひ》のせいか、妖怪のそれのように、怖ろしくぎらぎら光っているのだった。
「……畜生め。おいらが意気地がないと思って、むささびまでひとを睨んでやがるな。負けるか、おまえなどに」
伊織もまた負けない気になって、むささびの眼を、きつく睨み返した。
彼が、竹縁から、|両肱《りょうひじ》を張って、息もせずに、そうしていると、何と、感じたものだろうか、|依《い》|怙《こ》|地《じ》で、|猜《さい》|疑《ぎ》ぶかくて、執念づよい小動物は逃げもせず、かえって鋭い光をその眼に加え、じいっと、いつまでも、伊織の顔を見ているのである。
――負けるか! 汝ごときに。
と、伊織も、見つめる。
長い間を、まったく|呼吸《いき》もせずに、そうしていたのであったが、やがて、伊織の眼の力が、彼を、圧伏してしまったものか、|野《の》|葡《ぶ》|萄《どう》の葉が、カサと揺れたせつなに、むささびの影はどこへやら消えてしまった。
「ざまをみろ」
伊織は、誇った。
彼はびっしょり汗をかいていたが、何だか胸がせいせいして、こんど師の武蔵と立合う時には、今みたいに睨み返せばいいんだと思った。
彼は、|藺《い》すだれを下ろし、草庵の中で眠りについた。灯を消しても、藺すだれの隙間から、露明りが、青白く|映《さ》している。
――彼自身では、横になると同時に、すぐ眠りにはいった気がしていたが、頭の中には、何か光る珠のような物が、ぎらぎらしていて、それがだんだん、むささびの顔のように、夢うつつの境に見えて来るのだった。
「……ウウム。……ううむ」
何度も彼は|呻《うめ》いた。
そのうちに、どうしても、その眼が夜具の|裾《すそ》のほうにいる気がしてならないので、むくり起き直ってみると、果たして、薄明るい|蓆《むしろ》の上に、一匹の小動物が、くわっと自分を睨みつけているのだった。
「アッ、畜生っ」
枕元の刀を|把《と》って斬るつもりの伊織は、もんどり打って、刀と共に|転《まろ》び、さっと動いた|藺《い》すだれに、むささびの影が黒く止まっていた。
「畜生」
その藺すだれもズタズタに斬り、外の野葡萄も、乱離と斬って、なお、野を見廻していた伊織は、二ツの眼の行方を、天の一角に見つけた。
それは、青い大きな星だった。
[#地から2字上げ]宮本武蔵 第六巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫19『宮本武蔵(六)』(一九九〇年一月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。
|宮《みや》|本《もと》|武蔵《む さ し》(六)
電子文庫パブリ版
|吉《よし》|川《かわ》 |英《えい》|治《じ》 著
(C) Fumiko Yoshikawa 1936-1939
二〇〇一年八月一〇日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
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