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宮本武蔵(五)
[#地から2字上げ]吉川 英治
目 次
風の巻(つづき)
|菩《ぼ》|提《だい》一|刀《とう》
蝶と風
|道聴途説《どうちょうとせつ》
|連《れん》|理《り》の|枝《えだ》
|送春譜《そうしゅんふ》
|女《め》|滝《たき》|男《お》|滝《たき》
空の巻
|普《ふ》 |賢《げん》
|木《き》|曾《そ》|冠《かん》|者《じゃ》
|毒《どく》 |歯《し》
星の中
|導《どう》|母《ぼ》の|杖《じょう》
|一《いっ》|夕《せき》の|恋《こい》
|銭《ぜに》
|虫《むし》|焚《た》き
|下《くだ》り|女郎衆《じょろしゅう》
|火《ひ》|悪戯《いたずら》
|草《くさ》|雲雀《ひ ば り》
|草《くさ》|分《わけ》の|人《ひと》|々《びと》
喧嘩河原
かんな|屑《くず》
|梟《ふくろう》
風の巻(つづき)
|菩《ぼ》|提《だい》一|刀《とう》
|大四明峰《だいしめいのみね》の南嶺に高く|位《くらい》しているので、東塔西塔はいうまでもなく、|横《よ》|川《かわ》、|飯《いい》|室《むろ》の谷々も|坐《い》ながらに見える。三界のほこりや|芥《あくた》の大河も遠く霞の下に眺められ、|叡《えい》|山《ざん》の法燈鳥語もまだ寒い|木《こ》の|芽《め》|時《どき》を――ここ|無《む》|動《どう》|寺《じ》の|林《りん》|泉《せん》は|寂《じゃく》として、雲の去来のうえにあった。
「……|与《よ》|仏《ぶつ》|有《う》|因《いん》
……与仏有縁
……仏法僧縁
……|常楽我常《じょうらくがじょう》
……|朝念観世音《ちょうねんかんぜおん》
……暮念観世音
……念々|従《じゅ》|心《しん》|起《き》
……念々不離心」
誰か?
無動寺の奥まった|一《ひと》|間《ま》のうちから、|誦《じゅ》すともなく|唱《とな》うるともない十句|観音経《かんのんぎょう》の声が――声というよりはおのずから出る|呟《つぶや》きのように漏れてくる。
その独り|語《ごと》は、いつのまにか、われを忘れたかの如く高くなり、気がつくとまた、低くなった。
墨で洗ったような大床の廻廊を白い|衣《ころも》を着た|稚《ち》|児《ご》|僧《そう》が、粗末な|御《お》|斎《とき》の膳を眼八分にささげ、その|経音《きょうおん》の聞える奥の杉戸の内へ持って入った。
「お客様」
稚児僧は、膳を隅へおいた。
そしてまた、
「……お客様」
膝をついて呼んだが、呼ばれた者は、後ろ向きになったまま背をかがめており、彼の入って来たのも気づかない様子なのであった。
数日前の朝――見るかげもない血まみれな姿して、剣を杖に、ここへ|辿《たど》りついて来た一修行者。
といえば、もう想像がつこう。
この南嶺から東に|降《くだ》れば、|穴《あな》|太《ふと》|村《むら》白鳥坂に出るし、西に|降《くだ》ればまっすぐに修学院白河村――あの|雲母《き ら ら》|坂《ざか》や|下《さが》り|松《まつ》の辻につながる。
「……お|午餐《ひる》を持ってまいりました。お客様、ここへお膳をお置きいたします」
やっと、知ったように、
「オウ」
|武蔵《む さ し》は、背をのばし、振りかえって膳と稚児僧のすがたを見ると、
「おそれいります」
坐り直して、礼儀をした。
その膝には、白い木屑がちらかっていた。細かい木屑は、畳や縁にもこぼれている。|栴《せん》|檀《だん》かなにかの香木とみえ、微かににおう心地がする。
「すぐ召しあがりますか」
「はい、戴きます」
「じゃあ、お給仕申しましょう」
「|憚《はばか》りさまですな」
|飯椀《わん》をうけて、武蔵は食べにかかる。稚児僧はその間、武蔵のうしろにキラキラ光っている|小《こ》|柄《づか》と彼が今、膝のうえから下ろした五寸ほどの木材をじっと見ていたが、
「お客様、なにを|彫《ほ》っておいでになるんですか」
「仏様です」
「|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|様《さま》?」
「いいえ、観音様を彫ろうとしているのです。けれど、|鑿《のみ》の心得がないので、なかなかうまく彫れない。この通り指ばかり彫ってしまう」
手をだして、指の傷を見せると、稚児僧はその指よりも、武蔵の袖口から見える|肱《ひじ》の白い|繃《ほう》|帯《たい》に眉をひそめて、
「脚や腕のお|怪《け》|我《が》は、どんなでございますか」
「……ア。その方も、お蔭でだいぶよくなりました。御住持にも、どうかお礼をいっておいてください」
「観音様をお彫りになるなら、中堂へ参りますと、誰とかいう名人の彫ったという作のよい観音様がありますよ。御飯がすんだら、それを見に行きませんか」
「それはぜひ見ておきたいが、中堂まで、道はどれほどあろうかな」
|稚《ち》|児《ご》|僧《そう》は、答えていう。
「ハイ。ここから中堂までの道は、わずか十町ほどしかございません」
「そんなに近いのか」
そこで武蔵は、食事が終ると、そのお小僧に|伴《ともな》われて、東塔の|根本中堂《こんぽんちゅうどう》まで行ってみるつもりで、十幾日目で、久しぶりに大地を踏んだ。
もうすっかりよくなったつもりでも、土を踏んで歩いてみると、左の脚の|刀《とう》|痕《こん》がまだ|傷《いた》む。腕にうけた|傷《きず》|痕《あと》にも、山風が|滲《し》み入るここちがする。
けれど、|颯《さつ》|々《さつ》と、鳴りゆらぐ樹々のあいだに、山桜は散って飛雪を舞わせ、空はやがて近い夏の色を湛えかけている。武蔵は、|萌《も》え|出《いず》る植物の本能のように、体のうちから外へ向って|象《あら》われようとして|熄《や》まないものに、|卒《そつ》|然《ぜん》と、筋肉がうずいてくるのを覚えた。
「お客様」
と、稚児僧は、その頭を見あげ――
「あなた様は、兵法の修行者でいらっしゃいましょう」
「そうだ」
「なんで観音様なんか彫っているんですか」
「…………」
「お仏像を彫ることを習うよりも、その暇に、なぜ、剣の勉強をなさらないのです?」
童心の問いは時によると、|肺《はい》|腑《ふ》を刺す。
――武蔵は、脚と腕の|刀《とう》|痕《こん》よりも、その言葉に、ずきんと胸の|傷《いた》むような顔をした。まして、そう問うこのお小僧の年頃も十三、四。
下り松の根元で、闘いに入ろうとするや否、真っ先に斬り捨てたあの源次郎少年と――ちょうど年ばえも体の大きさも似て見える。
あの日。
幾人の|傷負《て お い》と、幾人の死者を作ったろうか。
武蔵は、今も、思い出すことができない。――どう斬ったか、どうあの死地を脱したのか、それもきれぎれにしか、記憶がない。
ただあれから後、眠りについても、ちらついてくるのは――下り松の下で、敵方の名目人である源次郎少年が、
(――怖いっ)
と、一声さけんだのと、松の皮といっしょに斬られて大地へころがった、あのいたいけな可憐な|空骸《なきがら》だ。
(|仮借《かしゃく》はいらぬ、斬れ!)
という信念があったればこそ、武蔵は断じて真っ先に斬ったのであるが――斬ってそしてこうして生きている後の彼自身は、
(なぜ、斬ったか)
と、そぞろに悔い、
(あれまでにしないでも)
と、自分の苛烈な仕方が、自分でさえ憎まれてならない。
われ事において、後悔せず
旅日誌の端に、彼はかつて、自分でこう書いて心の誓いに立てていた。――けれど源次郎少年のことだけは、いくらその時の信念をよび返して心に持ってみても、ほろ苦く、うら悲しく、心が|傷《いた》んでたまらなかった。剣というものの絶対性が――また修行の道というものの|荊棘《けいきょく》には、かかることも踏み越えてゆかねばならないのかと思うと、余りにも自分の行く手は|蕭条《しょうじょう》としている。非人道的である。
(いっそ、|剣《つるぎ》を折ろうか)
とさえ思った。
殊に、この|法《のり》の山に分け入って幾日、|迦陵頻伽《かりょうびんが》の|音《ね》にも似た中に|心《しん》|耳《じ》を澄まし、血しおの酔いから|醒《さ》め、われとわが身にかえってみると、彼の胸には、|菩《ぼ》|提《だい》を生じないではいられなかった。
手脚の傷の|癒《い》える日を待つつれづれに、ふと、観音像を彫りかけてみたのは、源次郎少年の供養のためというよりは、彼自身が自身のたましいに対する|慚《ざん》|愧《き》の|菩提行《ぼだいぎょう》であった。
「――お小僧」
武蔵はやっと、答える言葉を見つけ出していった。
「じゃあ、|源《げん》|信《しん》|僧《そう》|都《ず》の作だとか、弘法大師の彫りだとか、このお山にも|聖《ひじり》の彫った仏像がたくさんあるが、あれはどういうものだろう」
「そうですね」
稚児僧は首をかしげて、
「そういえば、お坊さんでも、絵をかいたり、彫刻をしたりするんですね」
と、|得《とく》|心《しん》したくない顔つきをしながら、|頷《うなず》いてしまう。
「だから、剣者が彫刻をするのは、剣のこころを|琢《みが》くためだし、仏者が|刀《とう》を持って彫るのは、やはり無我の境地から、|弥《み》|陀《だ》の心に近づこうとするためにほかならない。――絵を描くのも然り、書を|習《なら》うんでも然り、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、仰ぐ月は一つだが、|高《たか》|嶺《ね》にのぼる道をいろいろに踏み迷ったり、ほかの道から行ってみたり、いずれも皆、具相円満の自分を仕上げようとする手段のひとつにすることだよ」
「…………」
理に落ちかけると、お小僧はおもしろくなくなったとみえ、小走りに先へ駈けて、草むらの中の一|基《き》の石を指さし、
「お客様、ここにある|碑《ひ》は、|慈《じ》|鎮《ちん》和尚というお方が書いたんですって」
と、案内役の方に移る。
近づいて、|苔《こけ》の中の文字を|訓《よ》んでみると、
[#ここから2字下げ]
|法《のり》の水 あさくなりゆく
末の世を
おもへばさむし
|比《ひ》|叡《え》の山かぜ
[#ここで字下げ終わり]
武蔵はじっとその前に立ちつくしていた。偉大な予言者のようにその|苔《こけ》|石《いし》が見える。信長というおそろしく破壊的でまた建設者があらわれて、この比叡山にも|大《だい》|鉄《てっ》|槌《つい》を下したため、それ以後の五山は、政治や特権から放逐され、今では|寂《じゃく》として、元の法燈一|穂《すい》の山に|回《かえ》ろうとしているが、今なお、法師のうちには、戒力横行の遺風が残っているし、|座《ざ》|主《す》の位置をめぐって、|相《そう》|剋《こく》の権謀や争い事はやまないと聞いている。
俗生を救うためにある霊山が、人を救うどころか、却って俗生の人に飼われて、からくも|布《ふ》|施《せ》経済の習慣によって生きているという現在の風を思いあわせると――武蔵は無言の碑の前にあって、無言の予言を聞かないではいられなかった。
「サ、参りましょう」
先をうながして、お小僧が歩みかけると後ろから手をあげて、呼ぶ者があった。
無動寺の|仲間僧《ちゅうげんそう》である。
ふり|顧《かえ》る二人の前へ、その仲間僧は駈けて来て、まず、お小僧に向い、
「オイ|清《せい》|然《ねん》、おまえは一体、お客様をご案内して、どこへ行くつもりじゃ」
「中堂まで行こうと思って」
「なにしに」
「お客様が、毎日観音様を彫っているでしょう。ところが、巧くほれないと仰っしゃるもんだから、それなら中堂に、むかしの名匠が作ったという観音様があるから、それを見にゆきませんかといって――」
「では、きょうでなくても、いいわけだの」
「さ、それは知らないが」
武蔵へ|憚《はばか》って、あいまいにいうと、武蔵はそれを引き取って仲間僧へ詫びた。
「御用もあろうに、無断でお小僧を|伴《つ》れまいって悪いことを致したな。元より、きょうとは限らぬこと、どうぞお連れかえりください」
「いいえ、呼びにまいりましたのはこの稚児僧ではなく、あなた様におさしつかえなければ、戻っていただきたいと思いまして」
「なに、拙者に?」
「はい、折角、お出ましになった途中を、なんとも恐れ入りますが」
「誰か、拙者を訪ねて来た者でもあるのでござるか」
「――一応は、留守と申しましたが、いや今ついそこで見かけた、どうでも会わねばならぬから、呼び戻して来いというて、|頑《がん》として動かないのでございます」
――はて誰だろうか、武蔵は小首をかしげながらともかくも歩み出した。
山法師の横暴ぶりは、政権や武家社会からは、完全に追われていたが、|尾《お》|羽《は》|打《う》ち|枯《か》らしても、まだ山法師そのものの棲息は、この山に残存していることは勿論である。
雀百までの|喩《たと》えのとおり、未だにすがたも|革《あらた》まらないで、|高《たか》|木《ぼく》|履《り》をはき、大太刀を横たえているのがあるし、|長柄刀《ながえ》を小脇に持っているのもある。
それが一かたまり、ざっと十名ほど、無動寺の門前で、待ちかまえていた。
「……来た」
「あれか」
耳打ちし合いながら、|朽《くち》|葉《ば》|色《いろ》の|頭《ず》|巾《きん》や黒衣の影が、もうそこに近く見えて来た――武蔵と|稚《ち》|児《ご》|僧《そう》と、その二人を迎えに行った|仲間僧《ちゅうげんそう》のすがたとへ、じっと、視線をそろえた。
(何用だろうか?)
迎えに来た者が知らないのであるから、武蔵には元よりわかっていない。
ただ東塔山王院の堂衆だということだけは途中で聞いた。しかしその堂衆のうちに、一人として|知《しり》|合《あい》などはいそうもないのである。
「大儀じゃった。おぬしらに用はない。門内へ|退《す》ッ|込《こ》んでおれ」
ひとりの大法師が、|長柄刀《ながえ》の先で、使いにやった仲間僧と稚児僧とを追い払った。
そして武蔵へ向い、
「そこもとが宮本武蔵か」
と、訊ねた。
先が礼を|執《と》らないので、武蔵も直立したまま、
「されば」
と、|頷《うなず》いてみせた。
すると、その後ろから、ずいと一足進み出した老法師が、
「中堂|延暦寺《えんりゃくじ》の衆判により申しわたす」
と奉書でも読むような口調でいった。
「――叡山は浄地たり、霊域たり、怨恨を負うて逃避するものの潜伏をゆるさず。いわんや、不逞闘争の|輩《やから》をや――じゃ。ただ今、無動寺へも申しおいたが、即刻、当山より退去あるべし。違背あるにおいては、山門の厳則に照らして|断《だん》|乎《こ》処罰申そうぞ、左様心得られい」
「……?」
武蔵は、|唖《あ》|然《ぜん》として、相手の|厳《いか》めしさをながめていた。
なぜだろう。不審なわけだと思う。初めこの無動寺へたどりついて、身がらを依頼した折に、無動寺では念のため、中堂の役寮へ届けを出して、
(さし|閊《つか》えない)
という許可をうけ、その上で、自分の滞在を許してくれたのであった。
それを急に、罪人でも追うように追い立てるには、なにか、理由がなくてはならない。
「仰せの|趣《おもむき》は承知いたしました。支度もととのわず、今日はもはや明るい|間《ま》も乏しゅうござれば、明朝、発足つかまつりましょう。それまでの御猶予を」
武蔵は一応、そうおとなしく受けておいて、
「――しかし、これはなにか、|司直《しちょく》のお指図でござろうか、それとも当山の役寮の沙汰であろうか。先に、無動寺よりの届けには、滞在のこと苦しからずと、おゆるしあったものを、|遽《にわ》かな御厳命、甚だその意を得ぬが」
突っ込むと、
「おう、そう訊くならばいってつかわそう。役寮においては最初、下り松にて吉岡方の大勢をただ一名で相手にしたさむらいと、おてまえに、|満《まん》|腔《こう》の好意をもっていたのであるが、その後、いろいろと悪評が伝わり、お山に|匿《かく》まい置くべからず――という衆議になったからじゃ」
「……悪評」
武蔵は、さもあろうことのように|頷《うなず》いた。その後の吉岡方が、世間でどう自分をいいふらしているか――想像するに難くないからである。
ここで、そんな噂をまた聞きした人々と、なにをかいい争おう。
武蔵は冷やかにもういちど、
「わかりました。否やもござらぬゆえ、明朝は、必ず立ち|退《の》きまする」
答え放して、門内へはいろうとすると、その背へ、|唾《つば》するようにべつの法師たちが口々に|罵《ののし》った。
「見よ! |外《げ》|道《どう》」
「|羅《ら》|刹《せつ》め」
「馬鹿ッ」
「なんじゃと」
|憤《む》っとしたに違いない、武蔵は足を止め、そして自分に|嘲罵《ちょうば》をあびせた堂衆をねめつけた。
「聞えたか」
こういったのは今、武蔵のうしろから、外道と呶鳴った法師だった。武蔵は心外そうに、
「役寮の命とあるゆえ、神妙に仰せごとを受け申しておるに、口ぎたない|罵《ば》|詈《り》は心得申さぬ。わざとそれがしに喧嘩でも売ろうと召さるか」
「み仏に仕えるわれわれ、喧嘩など売る気はみじんもないが、おのずから|喉《のど》を破って、今のような言葉が出てしもうたのだから仕方がない」
すると、他の法師も、
「天の声だ」
「人をもっていわしめたのだ」
加勢するように、|喚《わめ》きかかった。
|蔑《さげす》みの眼と――|嘲罵《ちょうば》の|唾《つば》とが、武蔵の身にあつまった。武蔵は、耐えられない恥辱を感じた。しかし、いかにも自分に|挑《いど》むような彼らの態度に、固く自分を、警戒して黙っていた。
この山の法師といえば、舌長いことでは古来から有名である。堂衆というのはいわゆる学寮の生徒である。生意気ざかり、知識自慢、頭でっかちの|衒《げん》|気《き》|紛《ふん》|々《ぷん》なのが揃っているのだった。
「なんじゃ、里のうわさが大きいので、然るべき侍かと思うたが、こう見たところ、つまらぬ奴じゃ、腹でも立てて来ることか、|碌《ろく》に物もいえんではないか」
黙っていればいるで、なお、毒舌をふるうので、武蔵もやや色を|作《な》した。
「人をしていわしめるといわれたな。天の声といわれたな」
「そうだ」
|傲《ごう》|然《ぜん》と、いい押してくる。
「それは、なんの意味か」
「わからんのか。山門の衆判をいい渡されても、まだ気がつかんのか」
「……分らぬ」
「そうか。いや|汝《おのれ》の神経ではそうもあろうて。|愍《あわ》れむべき男は|汝《なんじ》だ。――だが、|輪《りん》|廻《ね》はやがて思い知るであろう」
「…………」
「武蔵。……そこ|許《もと》の世評はひどく悪いぞ。下山しても気をつけろよ」
「世評など、なにものでもござらぬ――いわしておけばいいのだ」
「ふふん、なにやら、自分が正しそうなことを」
「正しい! おれは|寸《すん》|毫《ごう》も、あの試合において、卑劣はしていない。……|俯仰《ふぎょう》して恥じるところはない」
「待て。そうはいわさん」
「どこに武蔵の卑屈があったか。卑怯未練をしたというか。剣に誓う、おれの戦いには、微塵も|邪《よこしま》はない!」
「|天晴《あ っ ぱ》れ顔して、大きくいいおるわ」
「ほかのことなら、聞き流しもするが、拙者の剣にかかわって、あらぬ|誹《ひ》|謗《ぼう》をいいたてると、許さぬぞっ」
「然らば、いおうか。この問いに対して明答できるものなら答えてみい。――なるほど、吉岡方は目にも余る大勢であった。敢然、一人であたって戦いぬいたそこ|許《もと》の元気というか、暴勇というか、|生命《い の ち》知らずなところだけは大いに買おう。えらいと|称《たた》えておいてもいい。――しかし、なにがゆえに、まだ十三、四歳の子供まで斬ったか。あの源次郎とよぶ幼少を、無残にも斬り伏せたか――」
「…………」
武蔵の|面《おもて》は、水をあびたように|悄然《しょうぜん》と、血のいろを失った。
「二代目清十郎は、片輪となって遁世し、舎弟伝七郎も、汝の手にかかって果て、後に残る血筋といえば……あの幼少源次郎しかないのだぞ。源次郎を斬ったのは、吉岡家に断絶を与えたも同様なのだ。……いかに武道の上とはいえ、血も涙もない仕方ではあるまいか。外道、|羅《ら》|刹《せつ》の名をもってして、まだいいたらぬ気がするわ! それでもおぬしは人間か、いや、この国の山ざくら花と|対《つい》に|称《い》われるさむらいといえるかどうじゃ」
じっと、さし|俯向《う つ む》いて沈黙しつづけている武蔵に対して、
「山門の憎しみもそのいきさつが知れて来たためじゃ、ほかのいかなる事情を|酌《く》んでも、あんな幼少を、敵の数に入れて斬った武蔵の心はゆるし難い。この国のさむらいとは、そんなものじゃない。もっと、強ければ強いほど、傑出していればいるほど、優しいもの、ゆかしいもの、また、もののあわれを知っているもの……。叡山は、汝を追う! 一刻もはやく、このお山を出て|失《う》せいっ」
あらゆる|罵《ば》|詈《り》、あらゆる|嘲蔑《ちょうべつ》――武蔵の胸には少なくもそう|応《こた》えた――を堂衆たちは彼に浴びせかけて、ぞろぞろと帰って行った。
「…………」
甘んじて、武蔵は、その|笞《しもと》をうけ、ついに黙りとおしてしまった。
――が、しかし、それに対して答えがなかったのではない。
(おれは正しい! おれの信念はちがっていない! あの場合、ただ、あれ以上に出るしかおれの信念を徹する仕方はなかったのだ)
彼は、心のうちで、いいわけでは決してない――今もこの信条は取ってうごかないのである。
では、なぜ源次郎少年を斬ったのか。
それに対して、彼は自分の胸のうちでは、明らかにいい切れる。
(敵の名目人とあるからには、それは敵の大将である。三軍の|旌旗《はた》である)
なぜ、それを切って悪いか。また、こういう理由もある。
(敵は、七十人からの人数であった。いかに、自分が|舎《しゃ》|利《り》となって戦っても、そのうち、十名も斬れば、善戦したものといわなければならない。だがもし、吉岡の遺弟ばかりを、たとえ二十人斬っても、残り五十人は、後で凱歌をあげるだろう。――だから自分が、勝名乗りを揚げるためにも、誰よりも真っ先に敵方の|旌《せい》|旗《き》であるところの大将首をまず先に挙げておく必要があったのだ。――全軍の護っている中心の|象徴《し る し》に、自分の一撃を下しておきさえすれば、たとえ、自分があの際、斬り死にしても、後に、自分の勝利は証拠だてられる)
もっと、もっと、彼をしていわしめるならば、剣の絶対的な法則とその性質からでも、理由はなお|幾《いく》|言《こと》もいうことができる。
けれど武蔵は、堂衆たちの|面《めん》|罵《ば》に対して、とうとう、それを一言もいわずにしまった。
なぜなら、それほどの理由をかたく信念しても、他人でない彼自身の胸のうちに何ともいえない寝ざめの悪さ――|傷《いた》ましさやら|慚《ざん》|愧《き》やらを――彼ら以上に、|生《なま》|々《なま》しく胸にもって|傷《いた》んでいるからである。
「……ああ、修行なんて、もう止めようか?」
うつろな眼をあげて、武蔵はなお、門前に立ちつくしていた。
暮れかかって来る夕風夕空の中に、白い山ざくらは散りまよっている。きょうまでの一心不乱も、その花びらのように|霏《ひ》|々《ひ》と砕けて宙にさまよう心地がする。
「……そして、お|通《つう》さんと」
彼はふと、町人の気楽さを思いうかべた。光悦や|紹由《しょうゆう》の住んでいる世間を考えた。
(いや! ……)
大股に、彼は、無動寺の中へ姿をかくした。
部屋にはもう明りがともっていた。ここも今夜かぎりに去らねばならない。
(巧拙は問うところでない、供養の心もちが、|菩《ぼ》|提《だい》へとどけば足りるのだ。――今夜のうちに彫り上げて、この寺に|遺《のこ》してゆこう)
武蔵は、|短《たん》|檠《けい》の下に坐った。
そして彫りかけの観音像を膝の上に抑え、|彫刀《こがたな》を|把《と》って、一念にまた、新しい木の屑を散らしはじめた。
――と、戸締りもない無動寺の大廊下へ、そっと這いあがって、のろまな猫のように、部屋の外にかがみこんだ者があった。
|短《たん》|檠《けい》の灯が|翳《くら》くなる……
|丁字《ちょうじ》を|剪《き》る。
すぐ、武蔵はまたかがみ込んで、|彫刀《こがたな》を|把《と》る。
宵のうちすでに、山は、深沈とふかい|静寂《し じ ま》に囲まれていた。サクリ、サクリと彫刀の鋭利な先で木を|削《そ》いでゆくのが微かに雪の積むほどにひびく。
武蔵はまったく彫刀の先に没しきっていた。彼の性情はなにへ対しても、一度それに向うと直ちに没頭しきってしまう。今――|刀《とう》を|把《と》って観音像を彫りにかかっているのを見ても、体がへとへとになりはしないかと思われるような情熱に燃えきっている。
「…………」
口のうちで唱えていた観音経の声が、我を忘れて次第に大きな声になってゆく、気がつくと急に声を落し、また、|燭《ひ》を|剪《き》っては、|一《いっ》|刀《とう》|三《さん》|礼《らい》のこころを像に向って|凝《こ》らした。
「……ウム、どうやら」
背を伸ばした時は、東塔の|大梵鐘《だいぼんしょう》が、二更を報じていた。
「そうだ、挨拶もせねばならぬし、この像も、今宵のうちに、住持におねがいしておこう」
ざっとした|荒《あら》|彫《ぼ》りではあった。けれど武蔵にとっては、自分のたましいを打ちこめ、|慚《ざん》|愧《き》の涙をもって、亡き一少年の冥福を祈りつつ彫りあげたものなのである。それを寺に|遺《のこ》しておいて、永く、自分の憂愁とともに、源次郎の霊を|弔《とむら》ってもらおうと発願したものであった。
で。――彼は彫り上げたそれを持って、やがて部屋を出て行った。
彼が去ると間もなく、入れ違いに|稚《ち》|児《ご》|僧《そう》がはいって来て、部屋の中の|塵《ちり》を|箒《ほうき》で掃き出した。そして夜具までのべた後、箒をかついで|庫《く》|裡《り》へ戻ってゆく。
――すると、誰もいないはずのそこの障子が、その後で、ズズズと静かに、すこし開いて、また閉った。
やがてのこと――
武蔵はなにも知らず帰って来たのである。住持から受けて来たらしい|餞《せん》|別《べつ》の笠、|草鞋《わ ら じ》など、旅装の|具《もの》を枕べにおき、|短《たん》|檠《けい》の灯を消して、|寝床《とこ》についた。
戸閉りはしないので、風はじかに四方にあたる。外の星明りに障子は|蒟蒻色《こんにゃくいろ》に明るくて、樹々の影が海原の|荒《すさ》びを思わせる。
……かすかな|鼾声《いびきごえ》になってゆく。武蔵は眠りについたらしい。
眠りのふかくなるほど、寝息も長く数えられた。と――隅の|小屏風《こびょうぶ》の端がすこし動き、ず……と猫のように背の|尖《とが》った人影が膝で這い寄って来る。
ふと、武蔵の寝息が|休《や》むと、人影はぺたっと、布団より薄べたくなり、じっと寝息の深度を測りながら、根気よく大事をとって機を待っている。
――突然! ふわりっと、黒い真綿でもかぶさるように、武蔵の上へその人影がのしかかったのである――と見えたかと思うや否や、
「うっ、うぬっ。思い知れやっ!」
いきなり――脇差の切ッ先であった。寝首の|喉《のど》へ、力まかせに、キッと走る。
すると、その切ッ先の行方も分らぬほど――だあんッ――と横手の障子に、その人間は飛んで行った。
重い風呂敷づつみのように投げつけられた人間は、ひッと一声|呻《うめ》いた|限《き》り、障子とともにもんどり打って、外の闇へ転がり落ちた。
投げつけたせつな、武蔵はその|曲《くせ》|者《もの》の体重が軽いのではっと思った。猫ほどしか|重量《め か た》のない曲者なのである。それに布で顔は包んでいたが、髪の毛も麻のように白かったし……。
だが、彼はそれには一顧もしないですぐ枕元の太刀をかかえ、
「待てっ」
と縁を飛び降り、
「折角の訪れ、ご挨拶を申すであろう。お返しなされ」
いいざま、大股に駈けて、闇の跫音を追いかけた。
しかし本気で追う気ではないらしく、乱れあって|彼方《か な た》へ散って行く白い刃影や法師頭巾の影を|嗤《わら》ってすぐ引っ返して来た。
投げつけられた|弾《はず》みに、ひどく体を打ったのであろう、お杉婆は大地に|呻《うめ》いていた。武蔵が戻って来たとは知ったが、逃げることも起つこともできなかった。
「……アッ。おばばではないか」
武蔵は抱き起こしてみた。
自分の寝首を狙いに来た首謀者が、吉岡の遺弟でも、この山の堂衆でもなく、老いさらぼうた同郷の友の母であったことは、彼にも意外であったとみえる。
「ああ、これで解けた。中堂へ訴え出て、わしの|素姓《すじょう》や、わしのことを、悪しざまに告げた者は、おばばであったのだな。|健《けな》|気《げ》な|老婆《としより》のことばと聞き、堂衆たちは一も二もなく信じたに違いない。また、同情もしたであろう……。その結果わしを山から追うことに決め、夜陰に乗じて、おばばを先達にここへ加勢にきたものとみえる……」
「……ウウム、くるしい、武蔵、もうこうなる上は、ぜひもない。本位田家の武運がないのじゃ。ばばの首を討て」
苦悶しながら、お杉はやっとそれだけいった。
しきりと|藻《も》がくのであったが、武蔵の力を拒むだけの力すらないのだった。打ちどころも|応《こた》えたに違いないが、もう三年坂の|旅籠《は た ご》をたつ頃から、お杉は|風邪《かぜ》をこじらしていて、微熱があったり、足腰が|懶《だる》かったりして、とかく健康もすぐれなかった|揚《あげ》|句《く》である。
その上、下り松へ行く途中、ああして又八から棄てられてしまったことも、さすがに老いの心へ大きな|傷《いた》|手《で》となり、体にも|利《き》いていたに相違ない。
「――殺せっ、この上は、ばばの首を斬れ」
と今、彼女がもがいていうのもそういう心理や肉体の衰えを考えてやると、あながち弱者のさけぶ捨てばちな狂言ではなく、真実、事ここにいたったと知って(もうこれまで)という観念のもとに、いっそ早く死にたいと願って、正直に|喚《わめ》いたものかも知れなかった。
だが武蔵は、
「おばば、痛いのか。……どこが痛い? ……わしがついているゆえ案じぬがよいぞ」
両の腕に、軽々と、彼女のからだを乗せ、自分の寝床の中へ運んで、その枕元に坐り、夜の明けるまで、看護していた。
夜が白みかけるとすぐ、お小僧が頼んでおいた弁当をつつんで持ってきてくれた。――しかし方丈からは、
「お|急《せ》き立てするようですが、|昨日《き の う》、中堂からやかましくいい渡されておりますゆえ、今朝はすこしも早く御下山をねがいます」
という催促。
もとより武蔵もそのつもりなのである。すぐ旅装して立ちかけたが、さて困ったのは病人の|老婆《としより》だった。
これを寺に計ると、寺でも、そんな者を残されて行っては迷惑といったような顔つきで、
「では、こうなされては|如何《い か が》です」
便宜をとってくれた。
大津の|商人《あきんど》が荷をのせて来た|牝《め》|牛《うし》がある。その商人は牝牛を寺にあずけたまま、丹波路へ|用《よう》|達《たし》にまわっているから、その牛の背を借りて、病人をのせ、大津へ下山されたがよかろう。そして牛は大津の渡船場なりあの辺の問屋場なりへ置いて行ってくれればいい――というのであった。
|四《し》|明《めい》ケ|岳《たけ》の天井を峰づたいに歩いて、|山《やま》|中《なか》を経て|滋《し》|賀《が》に下りてゆけば、ちょうど三井寺のうしろへ出ることができる。
「……ウウム……ウウム」
|婆《ばば》は時々、陣痛をこらえるように、牛の背で|呻《うめ》いていた。
その婆を乗せた|牝《め》|牛《うし》の手綱を持って、武蔵は、牛の先に歩いてゆく。
|振《ふり》|顧《かえ》って――
「おばば」
武蔵は、慰めていう。
「苦しければ少し休もうか。――おたがいに急ぐ旅ではないからな」
「…………」
牛の背に|俯《う》ッ|伏《ぷ》したまま、お杉婆は無言だった。その無言のうちには、|仇《かたき》と思う人間のために、こういう世話になるのを好まない性来の勝気が――むしろ無念そうに顔の底に潜んでいた。
で――武蔵が優しく|劬《いた》われば劬わるほど、
(なんの、|汝《おの》れなどに、|不《ふ》|愍《びん》をかけられて、怨みを忘れるような婆ではないぞ――)
と、|強《し》いて憎悪に努め、よけいに反感を|昂《たか》めるのだった。
けれど、まるで自分を呪うために長生きしているかのようなこの老婆に対して、なぜか武蔵はそれほど強い憎しみも|敵《てき》|愾《がい》|心《しん》も持たなかった。
力と力との対立では、余りに弱過ぎる敵であるせいもあろうが、その実、きょうまでの間に、|計《はか》られたり、|陥《おとしい》れられたり、武蔵が一番苦しめられた敵は、この最も腕力のない年寄りの敵対行為であった。――にもかかわらず、どういうものか、武蔵にはこの年寄りを、心から敵だと思うことができないのである。
では、まったく、眼中にないのかといえば、故郷ではひどい目に遭わされているし、清水寺の境内では、群衆の中で、|唾《つばき》せんばかり|罵《ば》|倒《とう》されているし――その他、きょうまでというもの、どれほどこの|老《ろう》|獪《かい》なばばのために、事を|邪《さまた》げられたり、|脛《すね》を|掬《すく》われるような思いを|嘗《な》めさせられているか知れないので、その折々には、
(おのれ、どうしてやろう)
と、八つ裂きにしてもあき足らないほど、憎くも思い、|憤《いきどお》りもするのであったが、さて――自分の寝首を掻かれ|損《そこ》なってみても、|心《しん》|底《そこ》から、
(悪婆!)
と、怒りにまかせて、この細ッこい|皺《しわ》|首《くび》を捻じ切る気にはなれなかった。
それに今度は、お杉婆そのものもまた、いつになく元気がない、ゆうべの|打《うち》|身《み》を痛がって|呻《うめ》いてばかりいるし、|辛《しん》|辣《らつ》な毒舌も振わないので、武蔵は一しお|不《ふ》|愍《びん》になり、はやく体だけでも丈夫にしてやりたいがと思うのだった。
「おばば――牛の背も辛かろうが、大津まで行けば何とか思案がつこうで、も少しの辛抱。……朝から弁当も食べていないが、腹は|空《す》いていないかな。……水でも飲みとうはないか。なに? ……|要《い》らぬ……そうか」
この峰づたいの天井から|眸《ひとみ》を四顧にやると、北陸の遠い山々から、|琵《び》|琶《わ》の|湖《うみ》はいうまでもなく、伊吹もみえ、近くは瀬田の唐崎の八景まで一つ一つ数えられる。
「休もう。――おばばも牛の背から降りて、すこし、この草の上に体を横にしてはどうか」
武蔵は、牛の手綱を、樹につないで、お杉婆を抱いて下ろした。
「ア痛、ア痛」
お杉婆は顔をしかめ、武蔵の手を拒んで、草の上に|俯《う》ッ|伏《ぷ》した。
皮膚は土色に、髪はそそけ立ち、このまま、ほっておけば絶え入りそうな重態にも見える。
「おばば、水は欲しゅうないか。……なんぞ、食べ物でも少し口へ入れてみる気はないか」
武蔵はしきりと案じて、その背を撫でてやりながら訊ねたが、強情な婆は、|頑《かたく》なに、首を横へ振って、水もいらぬ、食べ物もほしくないという。
「弱ったのう」
武蔵は途方に暮れ――
「ゆうべから、水一滴口に入れず、薬をやりたいとは思うが人家もなし……疲れてしまうばかりじゃないか。……おばば、せめて、わしの弁当を半分ほどでも食べてくれぬか」
「けがらわしい」
「なに。|穢《けが》らわしいと」
「たとえ、野末に行き倒れて、烏や|獣《けもの》の|餌《え》|食《じき》になろうとも、仇と狙うおぬし如き者から、飯などもろうて口に入れようか。馬鹿な――うるさいッ」
背を撫でている武蔵の手を、自分の背から|振《ふ》り|退《の》けて、婆はまた草の根にしがみついた。
「ウム」
武蔵は、腹が立たなかった。むしろ婆の気持に共感ができるのである。この婆の抱いている根本的な誤解さえ除くならば、自分の気持も婆によく分ってもらえるであろうにと、それだけがただ嘆息されるのであった。
自分の母の|病《やまい》のように、武蔵はなにをいわれても甘んじて受け、そして病人の駄々を|宥《なだ》めるような根気をもって、
「でも、おばば、このまま死んでしまっては、つまらないじゃないか。又八の出世も見なければ……」
「な、なにをいう!」
噛みつきそうに、婆は歯を|剥《む》いていった。
「そ、そのようなこと、おぬしの世話にならいでも、又八は又八でいまに一人前になって行くわ」
「……それはなって行くだろうと|俺《わし》も思う。だから、おばばも元気を出して、ともどもに、あの息子を励ましてやらねばなるまい」
「武蔵! ……|汝《わ》れは、|似非《えせ》善人じゃの。そのような甘い言葉に|騙《たぶら》かされて、怨みを解くようなわしではないぞ。……無駄なこと、耳うるさいわい」
とりつく島もない血相なのだ。たとえ好意にせよ、これ以上はかえって逆らうことになってしまおう。武蔵は、黙然と立って、婆と|牝《め》|牛《うし》をそこに残し、婆の眼にふれないところへ去って、弁当を|解《と》いた。
|柏《かしわ》の葉で巻いてある握り飯であった。飯の中には黒い味噌が入っている。武蔵には|美味《うま》かった。その美味さにつけても、どうかしてこれを半分でも婆が喰べてくれればよいがと思い――残りの少しをまた、柏の葉でつつんで|懐中《ふところ》に残しておいた。
すると、婆のそばで、話し声が聞える。
岩の蔭から振向いてみると、通りかかった里の女房であろう、|大《お》|原《はら》|女《め》のような|山袴《やまばかま》を|穿《は》き、髪は無造作に油けもなく束ねて肩へ|垂《さ》げている。
「なあ、お婆さんよ、わしの家にも、この間から病人が泊っていての、もうだいぶ|癒《よ》いが、この|牝《め》|牛《うし》の乳をやったらなおよくなろうと思うのさ。ちょうど|壺《つぼ》を持っているし、この牝牛の乳をすこし|搾《しぼ》らせてくれまいかのう」
女の話が、高声にひびく。
婆は顔をあげて、
「ほ、牝牛の乳が、|病《やまい》によいとは聞いていたが、その牛から乳がとれるかの」
と、武蔵に向ける時とはちがう|眼《まな》ざしを|耀《かがや》かして、そう訊ねていた。
|山《やま》|家《が》の女はなお婆となにかいい交わしている間に、牝牛の腹の下にかがみ込んで、抱えていた酒壺の中へ白い液を懸命に|搾《しぼ》り取っていた。
「有難うよ、おばあさん」
牝牛の腹の下から女は這い出した。|搾《しぼ》った乳の|瓶《かめ》を大事に抱えて、礼をいうとすぐ去りかけた。
「ア。――待たしゃれ」
お杉婆は、呼び止めた。ひどく|慌《あわ》てて手をあげたのである。
そして辺りを見廻した。武蔵のすがたが見えないので、婆は安心したもののように、
「|女《おな》|子《ご》。……わしにも、その牝牛の乳をくれぬか。ひと口、飲ませてくれまいか」
|渇《かわ》き切ったような声をふるわせていう。
お|易《やす》いことですと、女が乳の|瓶《かめ》をわたすと、婆は、瓶の口へ|唇《くち》をつけて、眼をつぶりながらそれを飲んだ。唇の端から流れた白い汁が、胸を垂れて、草にもこぼれた。
「…………」
胃に満ちるまで飲んでから、婆は、ぶるっと身をふるわせ、すぐ吐きそうに顔をしかめた。
「……ああ、なにやら不気味な味よの。したが、これでわしも、達者になれるかも知れぬ」
「おばあさんも、どこか体がお悪いのかえ」
「なあに、大したことはない。風邪熱のあったところを少し手ひどく転んでの」
いいながらお杉婆はひとりで起ち上がっていた。牛の背に乗せられて、ウンウン|呻《うめ》いていた病態はその時少しも見えなかった。
「|女《おな》|子《ご》……」
声をひそめて、寄り添いながら、もいちど鋭い眼を、武蔵のために配って、
「この山道を、真っすぐに行ったら、どこへ出るのじゃ」
「三井寺の上に出るがな」
「三井寺といえば、大津じゃの……。そこより|他《ほか》に、裏道はないか」
「ないこともないが、おばあさんは一体、どこへ行きなさるのじゃ」
「どこへでもかまわぬ。わしはただ、わしを捕まえて離さぬ悪者の手から逃げたいのじゃよ」
「四、五町ほど先へ行ったら、北へ降りる小道があるで、そこをかまわず降りて行けば、大津と坂本の間へ出るがな」
「そうか……」
と、婆はそわそわして、
「では、誰か後から追いかけて来て、お|許《もと》になにか訊いても、知らんというてくれよ」
いい捨てると、婆は、|怪《け》|訝《げん》な顔しているその女の歩みを追い越して、|跛行《び っ こ》の|蟷螂《かまきり》が急ぐように、先へ駈け去ってしまった。
「…………」
武蔵は見ていた。苦笑しながら岩蔭を起ってしずかに歩き出した。
|瓶《かめ》を抱えてゆく女房のうしろ姿が先へ見えた。武蔵が呼びとめると、女は立ち|竦《すく》んで、なにも問わないうちから、なにも知りませんと答えそうな顔つきをした。
だが武蔵は、そのことには触れないで、
「おかみさん、おまえの家は、この辺のお百姓か、それとも|木樵《き こ り》か」
「わしの家かえ? わしの家は、この先の峠にある茶店だが」
「峠茶屋か」
「ヘエ」
「ならば、なおのこと、都合がよい。おまえに駄賃をやるが、|洛《らく》|内《ない》まで一走り、使いに行ってくれないか」
「行ってもよいが、家に病人のお客人がいるでの」
「その乳は、わしが届けてやった上、おまえの家で、返事を待っているとしよう。ここからすぐ行ってくれれば、陽のあるうちに帰って来られよう」
「それやあ造作もねえこったが……」
「案じるな。わしは、悪者でもなんでもない、今の婆どのも、あの元気で走れるようなら心配ないから|抛《ほう》っておくのだ。……今ここで手紙を書く。これを持って、洛内の烏丸家まで行って来てくれ。返事はおまえの茶店で待っている」
武蔵は、矢立の筆を抜いて、すぐ手紙を|認《したた》めた。
お|通《つう》へ――である。
無動寺にいた幾日かのあいだにも、折あらば――と機を心がけていた彼女への便りを、
「では、頼むぞ」
と今、女に渡し、自分の牛の背にまたがって、そこから半里ほどを悠々と牛の歩みにまかせて歩いた。
ほんの走り書きの一筆であったが、使いに持たせてやった自分の手紙の中の文言を思い|泛《うか》べ――それを受けとるお通の胸をも想像して、
「二度と、会えようとは思わなかったが」
と、呟いた。
彼の|笑《え》|顔《がお》には、明るい雲が|映《は》えて見える。
生々と夏を待つ地上の何物よりも、晩春の|碧《へき》|落《らく》を|彩《いろど》る|虚《こ》|空《くう》何物よりも、彼の顔一つが、いちばん楽しそうであり、また、|溌《はつ》|剌《らつ》としていた。
「……この間のあの容態では、まだ病床にいるかもしれない。でも、わしのあの手紙が届いたら、すぐ起きて、城太郎とふたりして追いついて来るだろう」
牝牛は時々、草を|嗅《か》いで止まった。草の白い花も、武蔵には、星がこぼれているように見えた。
楽しいことだけしか考えられない今の武蔵であったが、ふと、
「おばばは? ……」
と、谷間を見渡し――
「一人でまた、仆れたまま苦しんでいるのじゃないか?」
などと心配してみたりする。――それもこれも、今なればこそある余裕だった。
もし人に見られたら恥かしいと思ったが、お通へやった手紙の中に、彼はこういう意味のことを書いたのである。
[#ここから2字下げ]
花田橋のときは、そなたが待った
こたびは、わたしがそなたを待とう
ひと足先に、大津へ出、瀬田の
唐橋に牛をつないでいる
くさぐさの話、その節
[#ここで字下げ終わり]
彼は、そう書いた自分の文言を詩のように、口のうちで幾たびも暗誦し、さて――くさぐさの話のたねまで今から胸に描いている。
峠の背に、旗亭が見えた。
「……あれだな」
と思う。
近づいて、彼は牛の背から降りた。手にはここの女房からの届け物である乳の入っている|瓶《かめ》を持っていた。
「ゆるせ」
軒先の|床几《しょうぎ》を占めると、|土泥竈《どべっつい》にせいろうをかけて、木を燃やしていた老婆が、ぬるい茶を汲んでくる。
武蔵は、その老婆に向い、ここの女房に逢って、途中から使いを頼んだ仔細を告げた。そして乳の瓶をも渡そうとすると、
「へえ、へえ」
とばかり聞いていた老婆は、耳が遠いのか、その瓶を持たされると、
「これはなんでござりまするか」
と、|不審《い ぶ か》った。
武蔵が、これは自分の曳いている牝牛の乳で、ここの女房が病人の客とやらへ飲ませたいためにこれへ|搾《しぼ》ったものだから、すぐその病人へ与えるがよかろうと、いい聞かせると、老婆は、
「ほう? ……乳でござりまするか……ほう?」
まだ分ったやら分らないような顔つきして、両手に瓶を支えていたが、やがて、処置に窮したように、
「――お客さあっ、奥のお客さあっ、ちょっくら来ておくんなされや。わしにゃあ、どうしてええか分らんがな」
狭い小屋の奥をのぞいて、唐突にどなった。
老婆に呼びたてられた奥の客なる者は、奥にはいなかった。
「――おう」
と、返事の聞えたのは裏口のほうで、やがてのそっと、一人の男が、茶店の横から顔を出して、
「なんだい、婆さん」
と、いった。
老婆はすぐ乳の|瓶《かめ》をその男の手へ渡した。けれど男は、その瓶を持ったまま、老婆の話を聞こうともしないし、乳をのぞいて見るでもない。
放心した人間のように、眼を武蔵の頬へ射向けているのだった。武蔵もまた、|凝然《ぎょうぜん》として、その男を見ている――
「……お、おうっ」
どっちからともなくこう|呻《うめ》いた双方の足が前へ出ていた。
そして顔と顔とを接し合って、
「又八じゃないかっ!」
武蔵がさけんだ。
その男は、本位田又八だったのである。
変らない昔の友の声に耳を打たれると、又八もわれを忘れて、
「――やっ。|武《たけ》やんか!」
と、彼もむかしの呼び慣れた名をもって呶鳴った。武蔵が手を伸ばすと、又八も、うつつに抱えていた乳の瓶を思わず手から落して抱きついた。
瓶は砕けて、白い液が二人の|裾《すそ》へ|刎《は》ねかかった。
「ああ! 何年ぶりだろう」
「関ケ原の|戦《いくさ》――あれからだ! あれから会っていないのだ!」
「……すると?」
「五年ぶりだ。――おれは今年二十二になったから」
「わしだって、二十二だ」
「そうだ、同い年だったなあ」
抱き合っている友と友を、牝牛の甘い乳の香がつつんでいた。|幼心《おさなごころ》を二人ともそれにも思い出されていたかもしれなかった。
「偉くなったなあ、武やん。――いや今では、そう呼ばれても自分みたいな気がすまいな。おれも武蔵と呼ぼう。いつぞやの下り松の働き、その前のことども、噂は始終耳にしていた」
「いや、恥かしい。まだまだおれは未熟者だ。世間の奴が、余りにも不出来すぎるのだ。――だが又八、この茶店に泊っているという客は、おぬしのことか」
「ウム……実は江戸表へ行こうと思って都を立ったが、少し、都合があって十日ばかり」
「じゃあ、病人というのは? ……」
「病人」
又八は|口《くち》|籠《ごも》って、
「あ――病人というのは、連れの者だ」
「そうか。……なにしろ無事な顔を見てうれしい。いつか、大和路から奈良へゆく途中で、城太郎からおぬしの手紙を受け取ったが」
「…………」
急に、又八は眼を伏せた。
あの時、手紙の中に、|傲《ごう》|語《ご》して書いた言葉の一つでも、実行されていないことを思うと、彼は、武蔵の前に、|面《おもて》を上げる勇気も出ない。
武蔵は、その肩に手をかけた。
ただわけもなく懐かしいのだ。
五年のあいだに生じた彼と自分との人間的な差などは念頭にもなかった。折もよし、ゆっくりと打ち|寛《くつろ》いで、心ゆくまで語りあいたいと思うのだった。
「又八、連れというのは、誰なのだ」
「いや……べつに、誰というほどの者でもないが、少しその……」
「じゃあ、ちょっと、外へ出ぬか。ここで余り|饒舌《し ゃ べ》るのも悪かろうゆえ」
「ウム、行こう」
又八も、それを望んでいたらしく、すぐ茶店の外へ歩き出した。
蝶と風
「又八、おぬしは今、なにをやって衣食しているのか」
「職業か」
「ウム」
「仕官の口には|外《はず》れるし、まだこれぞといえる仕事もしていないが」
「では今日まで、遊んで暮してきたのか」
「そういわれると思い出す……。俺はまったく、あのお甲のやつのために、大事な一歩を|過《あやま》ったものだ」
その|伊《い》|吹《ぶき》の|麓《ふもと》が思い出されるような草原へ出ると、
「坐ろう」
武蔵は、草にあぐらを組んだ。そして自分に対して、何となく、|負《ひ》け|目《め》を感じているような友の弱気を、むしろ歯がゆく思った。
「お甲のためだというが――又八、そういう考え方は男の卑劣だぞ。自分の生涯を|創《つく》ってゆくものは自分以外の誰でもない」
「それやあもとより、俺も悪い。……だがどういうのかなあ。俺は自分へ向って来る運命を、かわせないのだ。つい引き摺られてしまうのだ」
「そんなことで今の時代をどうして乗り切るか。たとえ江戸へ出てみても、江戸は今、諸国から腹の|空《す》いている人間が、眼を|研《と》いで集まっている新開地だ。とても人並なことでは立身も|覚《おぼ》|束《つか》なかろう」
「俺もはやく剣術でも修行すればよかったが」
「なにをいう。まだ二十二じゃないか。なんだってこれからだ。……だが又八、おぬしには剣の修行は人がらでない。学問をせい、そしてよい主君を求めて奉公の|途《みち》につけ、それが一ばんいいと思うな」
「やるよ……俺も」
草の穂をむしり取って、又八は歯に|咥《くわ》えた。心から彼も自分を恥じるのだった。
同じ山間に生れ、同じ郷士の子に生れ、年も同じなこの友に対して、たった五年の歩みの違いが、彼と自分と、こんなにも大きな差を作っていたかと思うと、堪らないほど、徒食の日が後悔されてくる。
噂だけを聞いて、武蔵にあわないでいたうちは、なんの|彼奴《あ い つ》がと、|多《た》|寡《か》をくくっていられたが、こうして五年ぶりで変った姿に出あってみると、いくら意地を張ってみても、又八はなにか友達らしくない威圧さえ彼から受けて、自分の影に|負《ひ》けめを抱かずにはいられない。そして常に胸に持っていた武蔵に対する反感も、気概も、自尊心までも同時に失って、ただ正直に自分の意気地なさばかり、|心《こころ》の|裡《うち》で責めるのであった。
「なにを考え込んでいるのだ――。おいっ、|慥《しっ》かりしろよ」
武蔵は、友の肩を打って、叩いてみても手に感じられるような、その軟弱な意思を叱った。
「いいじゃないか、五年道草をくったら、五年遅く生れて来たと思うのだ。だが、考えようによっては、その五年の道草も、実は尊い修行であったかもわかるまいが」
「面目ない」
「……オオ、話に夢中になって忘れていたが、又八、たった今おれは、おぬしの母親とそこで別れたのだぞ」
「えっ、おふくろと、あったのか」
「なぜ、おぬしは、あの母親の強気と我慢を、も少し血の中に貰って生れて来なかったのだ」
この不肖な子を見ていると、武蔵は、あの不幸な母親のお杉婆を、哀れと思わずにいられない。
(なんたるやつだ)
と、|腑《ふ》がいない又八の|銷沈《しょうちん》している姿が、|他人《ひと》|事《ごと》ならずに、眺められる。
(幼少から母にわかれて、母のない俺のみじめな寂しさを見ろ)
と、いってやりたい。
そもそも。
お杉婆が、あの|老齢《よ わ い》をもちながら、求めて旅の空に惨苦を|舐《な》めているのも、また、自分を|目《もく》して七生の仇敵とまで思いこんでいるのも、その根本の原因はただ一つ、
(又八が可愛い)
という以外の何ものでもない。その|他《ほか》に原因はないのだ。盲愛から生じた誤解であり、誤解から生じた執念でしかないのである。
淡い幼少の夢の中にしか母を知らない武蔵には、痛切にそれが分る。|羨《うらや》ましくてならないのだ。あの婆に|罵《ののし》られ、迫害され、|謀《はか》られて、一時の憤怒から醒めた後では、かえって胸を噛まれるほど孤愁の身にそれが羨まれた。
(――だから、婆の|呪《じゅ》|詛《そ》を|和《やわ》らげるには?)
と、武蔵は今、又八の姿を見ているうちに胸の中で、独り問うて独り答えた。
(この息子が、偉大になってくれればいいのだ。武蔵以上の人間になり、俺を見返して、|郷人《きょうじん》に誇ってくれたら、婆は、おれの首を討った以上、本望と思うだろう)
そう考えると、彼の又八に抱く友情は彼が|剣《つるぎ》に対するように、彼が観音像を彫る時のように、燃え上がらずにいなかった。
「なあ、又八。おぬしは思わないか」
その真実が、彼のことばを、友情の裡にも荘重にして、
「あんないいおふくろを持って、おぬしはなぜ、あのおふくろに、|欣《うれ》し|涙《なみだ》をこぼさせてやろうとはしないのだ。親のないおれから見ると、貴様は、勿体なさすぎるぞ。勿体ないということは、親を尊敬しないということじゃないのだ。人間の子の最大な幸福を持たせられていながら、折角の幸福を、余りにもおぬしは自分で踏みにじっている。――仮にだ、おれに今、あんなおふくろがあったとしたら、おれの人生は、何倍も暖かに|膨《ふく》らむだろう。身を|研《みが》くにも、功を立てるにも、どんなに張合いが持てるか知れないと思うのだ。なぜならば、親ほど正直に、子の功を|欣《よろこ》んでくれるものはないからだ。自分のしたことを、共々欣んでくれる者があるのは大きな張合いというものじゃないか。――それのある者には、|陳《ちん》|腐《ぷ》な道義の受け売りをしているように聞えるだろうが、こういう漂泊の空にある身でも、アアいい景色だなあと感じた時のような場合、側にもどこにもそれを語る者がいないということはその一瞬、実にさびしい心地の身になるものだぞ」
又八が、じっと耳を傾けて聞いてくれるので、武蔵も一息にそこまでいって、友の|手《て》|頸《くび》を握りしめた。
「又八っ……。そんなことは、おぬしだって、百も承知に違いない。おれは、友達として頼むのだ。同じ郷土で育ったのだ。……なあおいっ、関ケ原の合戦を望んで、槍を|担《かつ》いであの村を出た時の気持を、もいちどお互いに呼びかえして、勉強しようじゃないか。合戦は今、どこにもなく見えるが、関ケ原の役は|熄《や》んでも、平和の裏の人生の戦はあんなものどころか、いよいよ|修《しゅ》|羅《ら》と術策の|巷《ちまた》を作っているのだぞ。その中で、|克《か》ちきる道は、自分を|研《みが》くことしかない。……なあ又八、もいちど槍を|担《かつ》いで出かける気で貴様も、真面目に世の中と取ッ組んでくれよ。勉強してくれよ、偉くなってくれよ。貴様がやる気ならおれもどんな力でも貸す、貴様の|奴《ぬ》|僕《ぼく》になってもいい、ほんとに貴様がやるという誓いを天地に立ててくれるならば――」
結び合っている二人の手へ、又八はぼろぼろ涙をこぼした。湯のようにそれは熱かった。
これが母の意見だと、耳にたこ[#「たこ」に傍点]という顔を示して、いつも鼻で|嗤《わら》い返す又八であるが、五年ぶりで会った友の言葉には、強く本心を|衝《う》たれてつい涙すらこぼしてしまった。
「……分った、分った、有難う」
繰返して、手の甲で眼を|抑《おさ》え、
「今日を心の誕生日として、おれも生れ直す。とてもおれは、剣で身を立てる素質はなさそうだから、江戸表へ行くなり、諸国を遍歴するなりして、そのうちに良師に出会ったら、就いて学問を励むことにする」
「おれも、ともに心がけて、良い師と良い主人を見つけてやろう。なにも学問は|閑《ひま》でやるのじゃないから、主人に仕えながらでも|修《おさ》められることだし」
「なんだか、広い道へ出た気がする。――だが、困ったことが一つある……」
「なんだ。どんなことでも話してくれ、将来ともに、この武蔵にできることで、そして、おぬしの身のためになることなら、どんなことでもきっとする。――それがせめて、おぬしのおふくろを怒らせた、わしの罪の|償《つぐな》いだから」
「いい|難《にく》いなあ」
「|些《さ》|細《さい》な|秘《かく》しごとが、つい大きな暗い陰を作る。話してしまえ……間のわるいのは|一瞬《ひととき》だし、友達の間に、なんの|羞恥《は に か》むことがあるものではない」
「……じゃあいってしまうが」
「ウム」
「茶店の奥に寝ているのは、女の連れなんだ」
「女連れか」
「それも、実は……。アア、やっぱりいい|難《にく》いなあ」
「男らしくない奴だ」
「武蔵、気を悪くしないでくれ。おめえも知っている女だから」
「はてな? ……誰だ一体」
「|朱《あけ》|実《み》だよ」
「…………」
武蔵は、はっと思った。
五条大橋で会った朱実はもう以前の真っ白な野の花ではなかった。|媚汁《びじゅう》をたたえた毒草のお甲ほどにはまだ|荒《すさ》んでいないまでも、危険な火を|咥《くわ》えて飛んでいる鳥だった。あの時、自分の胸へすがって泣きながらそれを告白もしていたし、折からその朱実と、なにか関係のありそうな若衆|扮装《いでたち》の前髪が、キッと、橋の|袂《たもと》から白い眼で|睨《ね》めつけていたことなども思い出される。
武蔵が今、朱実と道連れと聞いて、友のためにハッと思ったのは、そうした複雑な事情と性格をもっている女性と、この弱気な友との人生の旅が、どんな暗黒の谷間へ入ってゆくことか、余りにも見えすいた不幸な道連れ――と直ぐ思われたからであった。
また、どうしてだろうか。お甲といい、朱実といい、|選《よ》りに選って、そういう危ない道連ればかりが、この男に付くのは。
「…………」
武蔵の黙っている|面《おもて》を、又八は、又八らしく解釈して、
「怒ったのか。……おれは|秘《かく》していては悪いから正直にいってしまったが、おめえの身に取れば、いい気持はしないだろうからな」
と、いった。
|憐《あわ》れむように、武蔵は、
「ばかな」
と、顔色を払って、
「余りにも、不運に出来ているのか、不運を自分で作るのか――と、おぬしのために、おれは茫然とするのだ。……お甲に|懲《こ》りておりながら、なんでまた……」
|口《くち》|惜《お》しくすら武蔵は思って、そのいきさつを|糺《ただ》すと、又八は、三年坂の|旅籠《は た ご》で出会ったことから、過ぐる夜、|瓜生《うりゅう》|山《やま》で再び会って、ふと出来心のように、江戸へ駆落ちする相談を決め、連れの母親を捨ててしまったことまで、ありのままに話して隠すところもない。
「ところが、おふくろの罰があたったのか、朱実の奴が、瓜生山で|辷《すべ》った時の|打傷《う ち み》が痛いといいだし、それからこの茶店でずっと寝込んでしまったというわけ。おれも後悔はしたが、もう追いつかないことだしなあ」
その|嘆息《ためいき》を聞けば、無理もない。火を|咥《くわ》えている鳥と、慈母の珠とを、この男は、取り替えてしまったのである。
そこへ、のっそり、
「お客さあ、ここにいなさったのけ」
|模《も》|糊《こ》として風貌のどこかに|耄《もう》|碌《ろく》した茶店の老婆が、両手を腰にまわし、お天気でも見に来たように空を見まわして、
「お連れの病人は、一緒に来ていなさらねえのかよ」
問う如くでもあり、問わざる如くでもある。
又八は直ぐ、
「朱実か。――朱実がどうかしたのか」
色を顔に出していう。
「寝床にいねえがな」
「いない」
「今し方までいただが」
武蔵には、なにか、説明はできないが、直感的に、思い当るものがあった。
「又八、行ってみい」
その又八に続いて、武蔵も茶店へ駈けもどり、彼女の寝床のあったという|穢《むさ》い一間を覗いてみると、老婆のことばに違うところがない。
「あっ、いけねえ」
又八は、きょろついて、叫んだ。
「帯もない、|履《はき》|物《もの》もない。――やッおれの路銀も」
「化粧道具は」
「櫛も、|釵《かんざし》も。どこへ|突《つ》っ|奔《ぱし》って行きやがったのだろう。おれを置き去りにしやがって」
たった今、将来の発憤を誓って、涙をこぼした顔に、|忌《いま》|々《いま》しさを|漲《みなぎ》らしていう。
老婆は、土間口から覗いて、独り語のように、
「なんたらことじゃ。あの娘ッ子はの、いうたら、お客さんに悪いかしらんが、ほんまの病気じゃのうて、|仮病《けびょう》して、|不《ふ》|貞《て》|寝《ね》していよったのだによ。|老婆《としより》の眼から見たらようわかるがの」
そんな声には耳もかさない。又八は茶店の横へ出て、峰を|蜿《うね》る白い道をぼんやり眺めていた。
もう花も黒く散りしいている桃の樹の下に、寝そべっている|牝《め》|牛《うし》が、思い出したように、長々と|欠伸《あ く び》|啼《な》きをする。
「…………」
「又八」
「…………」
「おい」
「ウム?」
「なにをぼんやりしているのだ。去った朱実が行く先、せめて少しでもよい身の落着きを得るように、二人して祈ってやろう」
「ああ」
と、気のない顔の前に、小さな風の渦がながれていた。黄いろい蝶が一つ、見えない渦の中に|弄《もてあそ》ばれながら、崖の下へ沈んで行った。
「さっき、おれを欣ばしてくれた言葉。あれは、おぬしのほんとの決心だろうな」
「ほんとだ、ほんとでなくて、どうするものか」
噛んだままの唇から、|慄《ふる》えを洩らすように、又八は呟いた。
|茫《ぼう》と遠くを見ている眸を奪いかえすように、武蔵はぐっと彼の手を引っ張って、
「おぬしの行く道は、自然に|拓《ひら》けてきた。もう、朱実の落ちて行った方角がおぬしの道じゃないぞ。おぬしはすぐ、これから足に|草鞋《わ ら じ》をつけて、坂本と大津の間へ降りて行ったおふくろを捜し廻れ。――あのおふくろを貴様は見失ってはならないぞ。さ、直ぐに行け」
と、眼につくそこらの|草鞋《わ ら じ》や|脚《きゃ》|絆《はん》など、彼の旅具を取って、軒端の|床几《しょうぎ》まで持ち出してやる。
さらにまた、
「金はあるか、路銀は。……少ないがこれを持って行ったらどうだ。おぬしが江戸表へ出て志を立てる気なら、おれも一先ず江戸まで共に行こう。また、おぬしのおふくろ殿には、改めておれも心から話したいこともある。おれはこの牛を曳いて、瀬田の唐橋に行っておるから、きっと後から連れ立って来いよ。――いいか、おばばの手を曳いて来いよ」
|道聴途説《どうちょうとせつ》
武蔵は後に残って、|黄昏《た そ が》れを待っていた、いや使いの戻りを待つのだった。
|午《ひる》過ぎの小半日を、さて退屈に思う。日は長いし、|飴《あめ》のように体は伸びを欲する。|緋《ひ》|桃《もも》の下に寝ている牝牛にならって、武蔵も、茶店の隅の|床几《しょうぎ》に横になっていた。
今朝は早かった、昨夜もろくに眠っていない。いつのまにか夢は二つの蝶になっている。一羽はお通だと夢の中で思っている。|連《れん》|理《り》の枝を|繞《めぐ》っている。
――ふと眼をさますと、いつのまにか、陽は土間の奥まで|映《さ》し込んでおり、寝ているうちに、居場所でも変ったかと思ったくらい、この峠茶屋に騒々しい声がしていた。
この下の谷間から石を切り出しているので、そこで働いている|石《いし》|切《きり》職人たちが、毎日の例によって|八刻《やつ》というと、ここへ甘い物をたべに来て、|一《ひと》|頻《しき》り番茶を飲みながら|饒舌《じょうぜつ》を|娯《たの》しむ。
「なにしろ、だらしがねえや」
「吉岡方か」
「あたりめえよ」
「ひどく|沽《こ》|券《けん》をおとしたものだなあ。あんなに弟子がいて、一人も刃の立つ野郎はいなかったのかしら」
「|拳《けん》|法《ぽう》先生が偉かったので、余り世間が買いかぶっていたのさ。なんでも偉いやつは初代に限るな。二代となるともうそろそろ|生《なま》|温《ぬる》くなり、三代でたいがい没落、四代目になっても、てめえと墓石のつり合っている奴アめったにねえ」
「おれなんざ、こう見えても、つり合ってるぜ」
「親代々、|石《いし》|切《きり》だからよ。おれがいってるのは、吉岡家の話だ。嘘だと思うなら、太閤様の後をみねえ」
それからまた、話はもどり、下り松で果し合いのあった朝、おれはあの近所だから見ていたという|石《いし》|切《きり》が現れる。
その石切はまた、自分の目撃談を、もう何十遍も何百回も人中で聞かせているとみえて、おそろしく語ることがうまい。
百何十名の相手を敵にまわし、宮本武蔵という男が、こうやって、こう斬りこんでと、まるで自分が武蔵になった気かなにかで、おそろしく誇張して話している。
隅の|床几《しょうぎ》の上に寝ていた本人は、まだその話の|酣《たけなわ》な頃には、深く|睡《ねむ》っていたので倖せだった。もし眼がさめていたら、噴飯に堪えないどころか、|面《おも》|映《はゆ》くてそこにいられなかったかも知れない。
ところが、それを聞いて甚だ面白くない顔をしている一組が、その前から軒先のべつな床几を占めて聞いていた。
中堂の寺侍三名と、その寺侍たちに、この峠茶屋まで見送られて来て、
(では、ここで――)
と|別辞《わ か れ》を交わしていた好青年である。若衆小袖を|旅《たび》|扮装《いでたち》に|凜《り》|々《り》しく|括《くく》り、前髪の|元《もと》|結《ゆい》も匂やかに、大太刀を背に負い、身の|拵《こしら》え、|眼《まな》ざしや構え、なにしろ花やかに見うけられる。
石切たちは、その風采に恐れをなして、床几を去り、|莚《むしろ》の方に番茶を運んで、無礼のないようにしていたが、下り松の|後日譚《ごじつがたり》は、そこへ移ってから、いよいよ調子づいて時々どっと笑ったり、またしばしば武蔵の名が|謳《うた》われた。
そのうちに、黙って聞いているに堪えない虫気が起ったのであろう、佐々木小次郎は、石切たちの方へ向って、
「これ、職人ども」
と、呼びかけた。
石切の職人たちは、小次郎のほうを振向いて、何事かと皆、居住いを直した。
風采花やかな若衆武士が、|先刻《さ っ き》から側には中堂の寺侍を二、三名も据え、威風は辺りを払うが如く見うけられていたので、彼らは、
「へい」
と一様に頭を下げた。
「これ、これ。唯今、知ったか振りして、|喋舌《し ゃ べ》っていた男、前へ出い」
小次郎は、鉄扇をもって、彼らの|頭《かしら》を|麾《さしまね》き、
「そのほかの者も、ずっとこっちへ寄れ。……なにも|恐《こわ》がらんでもよい」
「へ、へい」
「今、聞いておると、其方どもは、口を極めて、宮本武蔵を|讃《たた》えておるが、左様な出たらめを申し触らすと、以後承知せぬぞ」
「……は。……へい?」
「なんで武蔵が偉いか。其方どものうちにも、過日の件を目撃した者があるとのことだが、この佐々木小次郎もまた、当日の立会人として、親しくあの試合には双方の実情を|審《つぶさ》に検分いたしておる。――実はその後、|叡《えい》|山《ざん》に上り、根本中堂の講堂にては、一山の|学生《がくしょう》を集めて、その見聞と感想を演舌し、また、諸院の|碩《せき》|学《がく》たちの招請に応じても、自分の意見を|忌《き》|憚《たん》なく述べてまいったのだ」
「…………」
「然るに――其方たちが、剣の何物なるかも知らず、ただ形だけの勝敗を見、衆愚のうわさに惑わされて、武蔵如き者を稀世の人物だの、無双の達人だのと申すが、それでは、この小次郎が、叡山の大講堂で演舌した意見が、皆、嘘のように相成ってしまう。――無智な|凡《ぼん》|下《げ》どもの沙汰すること、取るにも足らんが、ここに居合わす中堂の方々にも一応聞いていただく必要があるし、また、汝らのいう誤った見方は、世上を害するものだ。――事の真相と、武蔵の人物をよう聞かせてやるから、耳の穴を掘って聞け」
「……へ。……はい」
「そもそも――武蔵とはどんな肚の男か。あの試合を仕かけた彼の目的からそれを|洞《どう》|察《さつ》すると、あれは武蔵の売名にやった仕事だ。自分の名を売るために洛内第一の吉岡家へ向って、うまく喧嘩を売ったもので、吉岡はその図に乗せられて彼の踏み台になったものとわしは|観《み》る」
「……?」
「なぜならば、初代拳法時代のおもかげもなく、京流吉岡が衰えていることは、誰にだってもう分っていたことなのだ。樹なら朽木、人間なら瀕死の病人にひとしい。|抛《ほ》っておいても自滅するものを、押し倒したのが武蔵なのだ。――そんな者を倒す力は誰にでもあるが、それを敢てやらないのは、もう今日の兵法者の仲間では、吉岡の力など眼中にもない情勢にあったからと、もう一つは拳法先生の遺徳を思い、さむらいの情けで、あの門戸ぐらいは|見《み》|遁《のが》しておいてやろうという気持もあったに相違ない。それを武蔵は、わざと声を大にし、事件を拡大し、都の大路に高札を立て、|巷《ちまた》の噂を高め、思うつぼに芝居を打って当てたのだ」
「……?」
「その心情のいやしいこと、|駆《かけ》|引《ひき》の卑屈なこと、挙げていえば限りもないが、清十郎と立会う時でも、伝七郎の時でも、一度として|彼奴《あ い つ》は約束の時刻を守った|例《ためし》がない。また、下り松の折なども、正面から堂々と闘わずに、奇道奇策を|弄《ろう》している」
「…………」
「なるほど、数の上で見れば、一方は大勢、彼は一人に違いなかった。しかし、そこに彼の|狡《こう》|智《ち》と、売名上手が|潜《ひそ》んでおる。世の同情は彼の期したとおり、彼の一身に集まった。――けれどあの勝負などは、わしの眼からみればまるで児戯にひとしい。武蔵は飽くまで|小《こ》|賢《ざか》しく|狡《ずる》く行動して、いい|汐《しお》|時《どき》にさっと逃げてしまった。――しかし、或る程度までは、かなり野蛮で強いことは強い。だが、達人だなどいう評判はあたらぬも甚だしい。――|強《し》いて達人というならば、武蔵は『逃げの達人』だ。逃げ足の|迅《はや》いことだけは、確かに名人といってもよい」
立て板に水を流すような小次郎の弁舌だった。|叡《えい》|山《ざん》の講堂でも、この弁をふるって演舌したことであろうと思われる。
「――|素人《しろうと》考えだと何十人と一人の闘いは、容易ならぬものと思うだろうが、何十人の力は、一人一人の実力が何十倍となったものでは決してない」
という論法から、小次郎は当日の勝負を、専門的知識にかけて、舌にまかせて論破する。
岡目八目という立場からいえば――武蔵のあれ程な善戦も、いくらでも非難することができた。
次にまたこの小次郎も、武蔵が名目人の一少年までを討ったということを、口を極めて、|悪《あく》|罵《ば》した。単なる罵倒にとどまらず、これを人道的にみて――また武士道の上からみて――剣の精神のうえからもゆるし難い人間であると断じつける。
さらに、彼の|生《お》い立ちや、郷里でやって来た行状だの――現に今も、彼を仇とねらっている本位田なにがしという老母があるはずだということにまで及んで、
「偽りと思うならば、その本位田の老母に聞いてみるがよい。わしは中堂に泊っている間に、親しくその老母とも会って聞き取ったことなのだ。もう六十にもなろうという純朴な|老婆《としより》から、|讐《かたき》と狙われているような人物がどうして偉いか。うしろ暗い仇持ちの人間を|賞《ほ》め|称《たた》え、それが世道人心によい風を及ぼすであろうかどうか。そぞろ寒心に堪えないものがあるのでわしはいうまでだ。――断っておくが、わしは吉岡方の縁者でもなければ、武蔵に意趣のあるわけでもない。ただ自分も剣を愛し、この道に身を|研《みが》くものであるゆえ、正しい批判をするまでの者じゃ。――わかったか、職人ども」
いい終って、さすがに|喉《のど》が|渇《かわ》いたか、小次郎は茶碗を取って、がぶりと一口に飲み、
「アア、だいぶ陽が傾いて来ましたなあ」
と、連れのものを顧みる。
中堂の寺侍たちは、
「そろそろ、お立ちにならぬと、三井寺までゆかぬうち、山道で暗くなりましょう」
と注意しながら、自分たちも、|痺《しび》れのきれかけた|床几《しょうぎ》を離れた。
|石《いし》|切《きり》の職人たちは、どうなることかと一言もなく|硬《こわ》ばっていたが、その|機《しお》を見ると、|白《しら》|洲《す》から解かれたように、われがちに起って谷間へ仕事に降りてゆく――
その谷間はもう紫ばんだ[#「ばんだ」に傍点]陽かげになり、ひよどりの声がけたたましく|谺《こだま》を呼ぶ。
「では、ご機嫌よう」
「また、ご上洛の折には」
と寺侍たちも、ここに小次郎の旅先を|餞別《はなむけ》して、中堂の方へ帰って行った。
小次郎は一人残って、
「ばあさん」
と、奥へ呼び、
「茶代をここへおくぞ。――それから、途中で暗くなった時の用意に、|火《ひ》|縄《なわ》を二、三本貰って行くからの」
老婆は、|夕《ゆう》|餉《げ》の物をかけた|土泥竈《どべっつい》の前にしゃがみ込んで、|焚《た》きつけにかかったまま、
「火縄けい。火縄ならそこの隅っこの壁にいくらでもかけてあるで、|要《い》るだけ持って行かっしゃい」
と、いう。
小次郎はずかずか茶店の奥へ入って、隅の壁にみえる火縄の束から二、三本引き抜いた。
――と、釘を|外《はず》れた火縄の束が、ばさっと下の|床几《しょうぎ》に落ちた。何気なく手を伸ばした時、彼は初めて気がついた。その床几の上に横たわっている人間の二本の脚もとから――顔の方をずっと見上げて、どきっと、|鳩尾《みずおち》に|当《あて》|身《み》を食ったような衝動をうけた。
――武蔵は、手枕の上から、眼を開けて、彼の顔を、まじまじと見ていたのである。
|弾《はじ》かれたように小次郎は|跳《と》び|退《の》いていた。ぱっと、無意識の敏捷さだった。
「……おう?」
と、いったのは武蔵。
白い歯を見せて、にやっと笑いながら、今眼が|醒《さ》めたように、やおらその後から身を起したのである。
やっと、床几を立ち上がった。そして軒先にいる小次郎の側へ歩いて来た。
「…………」
にこやかな|唇《くち》|元《もと》と、心の奥を|見《み》|透《すか》すような眼とを持って、武蔵は立った。小次郎もまた、笑みを持ってそれに応えようとしたが、意思と反対に、顔の筋は妙に硬ばってしまって、笑えなかった。
無意識に跳び退いた自分の敏捷を――必要のないあわて振りと――武蔵の眼が|嗤《わら》っているように取れたからである。また、自分が、|先刻《さ っ き》から石切たちに向って演舌していた事々を、武蔵も聞いていたに違いない――と思い、咄嗟にその狼狽も胸を|塞《ふさ》いだからであろう。
で――とにかく、小次郎の顔いろと態度は、すぐいつもの|傲《ごう》|岸《がん》な|風《ふう》の|裡《うち》へかえしてしまったが、一瞬は、しどろもどろだった。
「……や。武蔵どの。……これにいたのか」
「いつぞやは」
武蔵がいうと、
「おう、いつぞやは、眼ざましいお働き、|人《にん》|間《げん》|業《わざ》とも思われなかった。しかも、さしたるお怪我もなかったそうな。……|祝着《しゅうちゃく》の至りです」
負け惜しみの底に、苦い矛盾を肯定しながら、つい、こう小次郎はいってしまった。そして自分で吐いた言葉を自分で|忌《いま》|々《いま》しく思った。
武蔵は、皮肉であった。なぜなのか、この小次郎の|風《ふう》|采《さい》や態度に面と|対《むか》うと、彼は皮肉を|弄《ろう》したくなった。わざとのように|慇《いん》|懃《ぎん》に、
「その節は、立会人として、なにかとご配慮を。かつまた、ただ今は、いろいろ拙者に対して苦言を聞かしていただき、あれにて|他《よそ》ながら、有難いと思って聞いていました。――自分から考える世間と、世間が|観《み》ている自分の真価とは大きな違いがあるが、滅多にほんとの世間の声は聞かれない。それを|其《そこ》|許《もと》が、昼寝の夢に聞かせてくれたと思うと、|忝《かたじけな》い心地がする。――忘れずに|憶《おぼ》えておりますぞ」
「…………」
忘れずに憶えている――彼の一句に、小次郎は全身が鳥肌になった。これは穏やかな挨拶に似ているが、小次郎の胸に受けて聴けば遠い将来をかけて|番《つが》えて来た挑戦として当然に響く。
また。
(ここではいわぬが)
という含みも言葉の裡にある。
おたがいが、さむらいだ。虚偽をゆるさないさむらいであり、曇りを捨ておけない剣の修行者である。是非を舌の先で争ってみたところで、水掛論に終るしかあるまいし、それで済むほど小さい問題でもない。|尠《すく》なくとも、武蔵にとって下り松のあのことは、|畢《ひっ》|生《せい》の大事業であり、道に参進する者の|浄行《じょうぎょう》とも堅く信じているのである。そこに一点の不徳、一|毫《ごう》の|疚《やま》しさも抱いていない。
だが小次郎の眼からそれをみれば、あのような観察が起るし、小次郎の口からいわしめると、今いったような結論になる――とすると、この解決は、どうしても、武蔵が言外に含めたように、
(今はいわぬが、忘れぬぞ)
という、言葉の味をもって、未来を|番《つが》えておくほかにあるまい。
複雑な感情は働いていたにしても、佐々木小次郎もまた、まったく根底のない出たらめを放言したつもりではない。彼は自分の観たところから公正な判断を下したまでだと思っているし、いかに武蔵の実力をあの程度に見ても、その武蔵が自分以上の人間だとは今もなお決して思っていない彼であった。
「……ウム、よろしい。憶えているといった|其《そこ》|許《もと》の一言、小次郎も|慥《たしか》に覚えておこう。きっと忘れるなよ、武蔵」
「…………」
武蔵は黙ったまま、また微笑してうなずいた。
|連《れん》|理《り》の|枝《えだ》
|柴《し》|折《おり》|戸《ど》の入口から、城太郎は声張りあげて、
「お通さん、ただ今」
奥へ呶鳴っておいてから、彼は、そこの家を|繞《めぐ》っているきれいな流れの側に坐りこみ、ざぶざぶと|脛《すね》の泥を洗っていた。
|山《さん》|月《げつ》|庵《あん》。
|茅《かや》|葺《ぶ》きの合掌に、|木《もく》|額《がく》の白い文字が仰がれる。|燕《つばめ》の子が、そこらに白い|糞《ふん》をちらし、ピチピチと|囀《さえず》りながら、足を洗っている城太郎を見おろしていた。
「オオ、|冷《つめ》てえ。オオ冷てえ」
眉をしかめていながら、彼はいつまでも足を拭こうともせず、足で水を|弄《なぶ》っていた。
この水はすぐそこの銀閣寺の苑内から流れてくる|清《せい》|冽《れつ》なので、|洞《どう》|庭《てい》のそれよりも清く、|赤《せき》|壁《へき》の月のそれよりも冷たい。
だが、土は暖かく、彼の腰の下には、花すみれが|拉《ひし》がれていた。城太郎は眼を細めて、こういう日月の下に生を|享《う》けている身のほどを、ひとりで楽しんでいるらしく見える。
やがて彼は、濡れた足を草で拭いて、そっと縁側の方へ廻って行った。ここの家は、銀閣寺の別当|某《なにがし》の閑宅であったが、ちょうど|空《あ》いているというので、過ぐる夜の――武蔵と|瓜生《うりゅう》|山《やま》で別れたあの翌日から、烏丸家の口添えで、お通のためにしばらく借りうけたものだった。
で――お通は、あれ以来、ずっとここに|病《やまい》を養っていた。
勿論のこと、下り松における決戦の結果は|逐《ちく》一、ここにも伝わっている。
|黄《き》|母衣《ほろ》|組《ぐみ》のお使番のように、あの日、城太郎は下り松の戦場と、こことの間を、何十遍となく往復して、手にとる如く、お通の枕元へそれを報告していたからである。
城太郎はまた、彼女の今の体にとっては、|薬《やく》|餌《じ》よりもなによりも、武蔵の無事なことを伝えてやるのが、最善な良法であると信じていた。
その証拠には、お通は|日《ひ》|増《まし》に血色を|革《あらた》め、今では机に|倚《よ》って坐っていられるくらいにまでなっている。――一度はどうなるかと、城太郎すら心配したほどであった。おそらく、武蔵が下り松で死んでいれば気持だけでも、彼女もあのまま|逝《い》ってしまったに違いなかった。
「ああ、お|腹《なか》が|減《へ》った。――お通さん、なにしていたんだい」
お通は、彼の元気な顔を、眼に迎えて、
「わたしは朝からただ、こうして坐っていた|限《き》り」
「よく飽きないなあ」
「体は動かさないでも、心はさまざまに、遊ばせていますから。――それより城太さんこそ、朝早くから、どこへ行ったんですか。そこのお|重筥《じゅうばこ》の中に、きのう戴いたちまき[#「ちまき」に傍点]が入っているからお食べなさい」
「ちまき[#「ちまき」に傍点]は後にしよう。お通さんに先に|欣《よろこ》ばしてやることがあるから」
「なあに?」
「武蔵様ネ」
「ええ」
「|叡《えい》|山《ざん》にいるとさ」
「ア……叡山へ」
「きのうも、おとといも、その前も、毎日のように、おいら方々聞いて歩いていたんだよ。――するとね、きょう聞いたのさ。武蔵様は、|東《とう》|塔《とう》の無動寺に泊っているって」
「……そう。……ではほんとに御無事でいらっしゃるのだわ」
「そう分ったら、一刻も早くがいい、またどこかへ行っちまうといけないからね。おいらも今、ちまき[#「ちまき」に傍点]を食べたら支度するから、お通さんもすぐ支度をおしよ。――直ぐ行こう、これから訪ねて行こう、無動寺へ」
じっと、お通のひとみは、あらぬ方へ向いている。|庵《いおり》の|廂《ひさし》ごしに見える空へ心を遠くしているのである。
城太郎は、ちまき[#「ちまき」に傍点]を食べ、持つ物を身に持つと、再び、
「さ。行こうよ」
と、|促《うなが》した。
だが、お通が起つ気色もなく、いつまでも、坐っているので、
「どうしたんだい?」
やや不満と不平をあらわして問い詰めた。
「城太さん、無動寺へ行くのは、止しましょう」
「へエ?」
少し、おひゃら[#「おひゃら」に傍点]かすように、城太郎は|不審《いぶかり》を口に尖らして、
「なぜさ」
「なぜでも」
「ちぇッ、女って、これだから嫌になっちまう。飛んでも行きたいくせにして、さあ、その人のいる所が分ったとなると、今度はヘンてこに澄まして、止そうのなんのとしぶ[#「しぶ」に傍点]くるんだもの」
「城太さんのいう通り、飛んでも行きたいほどですけれど」
「だから、飛んで行こうというのに」
「けれど。……けれどね、城太さん。わたしはいつぞや瓜生山で、武蔵様とお目にかかった時、これが|今生《こんじょう》の最後だと思って、ありッたけな心の|裡《うち》を話してしまいました。武蔵様も、生きては再び会わないと仰っしゃいました」
「だけど、生きているんだから、会いに行ってもいいじゃないか」
「いいえ」
「いけないの?」
「下り松の勝負はついても、まだ武蔵様の心としては、ほんとに勝ったと思っているか、どんな用心をして叡山に身を|退《ひ》いていらっしゃるのかそのお気持は分りません。――それに、私へ仰っしゃったお言葉もあるし、私も、必死で|掴《つか》んでいたあのお方の|袂《たもと》を離して、もう、今生の|恩《おん》|愛《ない》を断ったと覚悟したのですから、たとえ、武蔵様の居所が分っていても、武蔵様のおゆるしがなければ……」
「じゃあ、このまま十年も二十年もお師匠様からなにもいって来なかったらどうする?」
「こうしています」
「坐ったきり、空を眺めて暮しているの」
「ええ」
「変な人だなあ、お通さんという人も」
「わからないでしょ。……だけどわたしには分っているの」
「なにが」
「武蔵様のお心がです。――瓜生山で最後のお別れをする前よりも、あの後になってからの方が、わたしには武蔵様のお心が、ずっと深く分って来たからです。それは、信じるということなのです。以前は、武蔵様を慕ってはいました。|生命《い の ち》がけで思っていました。城太さんの前だけれど、ほんとに苦しい恋をつづけて来ました。けれど、武蔵様をほんとに信じていたかといえば、どうだか分りませんでした。……今はもうそうではない。たとえ生きても死んでも、離れていても、お互いの心は、|比《ひ》|翼《よく》の鳥のように、|連《れん》|理《り》の枝のように、固くむすばれているものと信じていますから、ちっとも淋しくなんかない。……ただ武蔵様が、武蔵様のお心のままに、修行の道へすすんでお|出《い》で遊ばすように、祈っているばかりなんです」
黙って、おとなしく聞いていたと思うと、城太郎はいきなり呶鳴るようにいった。
「嘘いってらあ。――女って、嘘ばかりいってるんだ。――いいよ、じゃあもうきっとお師匠様に会いたいといわないね! これから先はいくらベソを掻いたって、おいらは知らないぜ」
この数日の努力を、無にされたように、城太郎は腹を立てた。そして晩まで口をきかなかった。
宵に入ると間もなくであった。|庵《いおり》の外に|松明《たいまつ》の赤い光が|映《さ》し、そこをほとほとと打叩くものがあった。
烏丸家の侍は、一通の手紙を城太郎の手に授けて、
「これは、お通どのが、まだお|館《やかた》にいられるものと考えて、武蔵どのが、使いに持たせてよこされたもの。――一応大納言様のお耳に入れると、すぐお通のもとに届けてつかわせとのことに、急いで持ってまいったのでおざる。――|併《あわ》せて大納言様よりも体を|愛《いと》しめとの御意、お伝え申しあげまする」
すぐ、使いは帰って行く。
城太郎はそれを手に、
「アア、お師匠様の字だ。もし、下り松で死んでいたらお師匠様ももうこの手紙は書けなかったんだなあ。……お通どのへ、と書いてあらあ。……だが、城太郎どのへとは書いてない」
お通は、奥から立って来て、
「城太さん。今、お|館《やかた》の人が持って来たのは、武蔵様からの手紙ではありませんか」
「そうだよ」
城太郎は意地を|歪《ま》げて、手紙を後ろにかくしながら、
「でも、お通さんには、用はないだろ」
「おみせ」
「いやだい」
「意地のわるい――そんなことをいわないで」
|焦《じ》れて、泣きそうになると、城太郎は手紙を彼女へ突きつけながら、
「それ御覧な。そんなに、見たがるくせにして。それを、おいらが会いに行こうといえば、痩せ我慢して、|嫌《いや》に気取ってみたりして」
お通にはもう、そんな言葉を聞いている耳はない。
|短《たん》|檠《けい》の下に繰りひろげている手紙と白い指先は、|燈《とう》|芯《しん》の火とともにおののいている。
心なしか、こよいは、灯も鮮やかに、|翳《くも》りなく|点《とも》って、なんとなく胸も花やぐようなと、|灯《ひ》|占《うら》をたてていたが――
[#ここから2字下げ]
花田橋では
お|許《もと》に待たせたが、
こたびは
わしが待つであろう
瀬田の湖畔に
牛をつないで
[#ここで字下げ終わり]
と、武蔵からの便り。まざまざと、その人の筆、墨のにおい。
墨の光までが、虹いろに見え、彼女のまつ毛には、きらきらと、珠の涙が咲いていた。
――夢かと思う。
あまりの|欣《うれ》しさに、頭も|茫《ぼう》として。――お通は、なんだか、この世のことでないような心地がしてならなかった。
|安《あん》|禄《ろく》|山《ざん》の叛乱に、兵車の|軌《わだち》のもとに|楊《よう》|貴《き》|妃《ひ》を失った|漢《かん》|皇《おう》が、のち貴妃を恋うのあまり、道士に命じて、魂魄をたずねさせ、道士はそれを、|上《かみ》は碧落の極み、下は黄泉にいたるまでさがしもとめ、遂に、海上の|蓬莱宮《ほうらいきゅう》中にその|花《か》|貌《ぼう》|雪《せっ》|膚《ぷ》の|仙《せん》|子《し》を見出して、帝の意をつたえたというあの|長恨歌《ちょうごんか》の|中《うち》にある、貴妃の驚愕と喜びの章が――そのまま自分のことでもあるように、お通は茫然として、短い手紙を、見も飽かず、繰りかえしていた。
「……待つ身となると、待つ間の時の長さ。そうだ、少しでも早くお目にかかって」
こう、城太郎へ向って、語りかけているつもりではあったのだが、もう彼女の歓びは彼女を|顛《てん》|倒《とう》させている。――相手へいったつもりでも、それは独り語の独り合点をしていたのである。
手早く身支度をし、|庵《いおり》の持主や、銀閣寺の僧や、世話になった人々へは、一筆ずつ礼の|辞《ことば》を置手紙にのこし、もう、足拵えまでして、先に|戸外《お も て》へ出た。
そして、家の中にぶっ坐って、|膨《ふく》れ|顔《がお》している城太郎に向い、
「城太さん、おまえはもう、|先刻《さ っ き》お支度をしていたからそれでいいんでしょ。……さ、早く出ておいで。後を閉めて行かなければならないから」
「知らない、おいらは。――どこへ行くのさ」
てこ[#「てこ」に傍点]でも動く顔つきではない。城太郎は、すっかりお|臍《へそ》をまげてしまった。
「城太さん、怒ったの」
「怒ったさ! 当り前だい」
「どうして」
「勝手だから、お通さんは。――おいらが折角捜し当てて来て、行こうという時には、行かないといっておきながら」
「でも、その|理由《わけ》は、よく話したでしょう。ところが今、武蔵様の方からお便りがあったんですもの」
「その手紙だって、自分だけで見て、おいらには、読ませてくれないじゃないか」
「アアほんとに、それは悪かった。御免よ、城太さん」
「もういいよ、もう見たくなんかない」
「そう、ぷんぷん怒らないで、この手紙を見ておくれ。ね、なんという珍しいことでしょう。あの武蔵様が、わたしに手紙を下すったことなんか、これが初めてです。また待っているから来いなんて、優しいことを仰っしゃってくれたのも、これが初めてです。――それからこんな歓ばしいことは、私にとっても、生れて初めてではありませんか。……だから城太さん、機嫌を直して、私を瀬田まで連れて行ってください。……ね、後生だから、そんなに|膨《ふく》れていないで」
「…………」
「それとも、城太さんは、武蔵様にもうお目にかかりたくないの」
「…………」
城太郎は黙って例の木刀を横に差し、|先《せん》|刻《こく》作っておいた風呂敷づつみを斜めに背負い、ぽんと、|庵《いおり》の外へ飛び出して、まごまごしているお通へ剣突くを食わせた。
「行くなら行くで、早くお出でよっ! 愚図愚図してると、|戸外《そと》から閉めてしまうぜ」
「まあ、怖い人」
それから二人は、志賀山越えの道を、夜にかけ歩き出したが、先に怒った手前がある、道は寂しいが、城太郎は口をきかない。
すたすたと、先を歩いて行きながら、そこらの木の葉を|むし[#「むし」は「てへん」+「劣」Unicode=6318]《むし》って、木の葉笛を吹いてみたり、俗歌を唄ってみたり、石を蹴ってみたり、なにか|遣《やり》|場《ば》のない気持を抱いているらしいので、お通がまた、
「城太さん、わたし、いい物持っていたのに、忘れていたのよ。あげましょうか」
「……なにさ」
「|笹《ささ》|飴《あめ》」
「……ふん」
「おととい、烏丸様から、いろいろお菓子を持たせてよこして下すったでしょう。それがまだ残っているのだけれど」
「…………」
くれとも、|要《い》らないともいわずに、城太郎が黙々と歩いて行くので、お通は、苦しい|喘《あえ》ぎを我慢して、側へ追いつき、
「城太さん、食べない? わたしも食べよう」
それからやっと、城太郎の機嫌がすこし直った。
志賀山越えを登りつめた時は、もう|北《ほく》|斗《と》は白く薄れて、雲は夜明けのたたずまいであった。
「|草臥《く た び》れたろ、お通さん」
「ええ、登りばかりだったから」
「もうこれからは、下り道だから、楽なものだよ。……ああ、湖水が見える」
「あれが|鳰《にお》の|湖《うみ》ね。……瀬田はどの辺?」
「あっち」
と指さして、
「待っているといっても、お師匠様は、こんなに早く行っているかしら」
「でも、まだ瀬田まで行くには、半日以上もかかるでしょう」
「そうだ、ここから見ると、すぐそこのようだけれど」
「少し休まない?」
「休もうか」
すっかり気持も解けたとみえ、城太郎はいそいそ休み場所をさがし歩いていたが、
「お通さん、お通さん、この樹の下だと朝露がなくっていいよ。ここへお|出《い》でよ、ここへ腰かけよう」
と、手招きした。
二本の|巨《おお》きな|合歓《ねむ》の樹の下だった。
|倚《よ》り合っている二本の喬木の下に腰をおろして、
「なんの樹だろ?」
城太郎がいう。
お通も、眸を上げながら、
「|合歓《ねむ》の樹です」
と教える。そして、
「わたしや武蔵様が、まだ幼い時分によく遊んだことのある、七宝寺というお寺の庭にも、この樹がありましたっけ。六月ごろになると、糸のような|淡紅《とき》|色《いろ》の花が咲いてね、夕月が出るころになると、あの葉がみんな重なり合って眠ってしまう」
「だから、ねむ[#「ねむ」に傍点]の木というのかしら」
「でも、文字で書くと、|眠《ねむる》という字は書きません、|合《あ》い|歓《よろこ》ぶと書いて、|合歓《ねむ》と|訓《よ》むんですの」
「どうしてだろ?」
「どうしてでしょうね。きっと誰かが|拵《こしら》えた|当《あて》|字《じ》でしょう。……だけど、この二本の樹の姿を見ると、そんな名がなくても、いかにも歓び合っているといったような姿じゃありませんか」
「樹なんか、歓ぶも悲しむも、あるもんか」
「いいえ城太さん、樹にも心があるんです。よく御覧、この山の樹々のうちにも、よく見ると、独り楽しんでいる樹もあるし、独り|傷《いた》ましそうに嘆いている樹もある。また城太さんのように、歌を|謡《うた》っているのもあれば、大勢して、世を怒っている樹の群れもあるでしょう。石でさえ、聞く人が聞けば物をいっているというくらいですもの、なんで樹にもこの世の生活がないといえましょう」
「そういわれてみると、そんな風にも見えてくるなあ。――するとこの|合歓《ねむ》の木なんか、どう思っているんだろう」
「わたしから見ると羨ましい樹に見えます」
「どうして」
「長恨歌を知ってるでしょう。白楽天という人の作った詩」
「ああ」
「あの長恨歌の終りのほうに――天に在っては願わくは比翼の鳥と|作《な》らん、地に在っては願わくは連理の枝と|為《な》らん――という句があるでしょ。あの連理の枝というのは、こんな樹のことをいうのじゃないかしらと、さっきから思っているんですの」
「連理って? ……何」
「枝と枝、幹と幹、根と根、二つの物でありながら、一つの樹のように仲よく立って、|天《あめ》|地《つち》の中に、春や秋を楽しんでいる樹のこと」
「なんだあ……自分と武蔵様のことをいってるんじゃないか」
「いけない、城太さん」
「勝手におしよ」
「――夜が明けてきた。なんという美しい|今朝《けさ》の雲だろう」
「鳥がお|喋舌《しゃべり》をし始めたね。ここを下りたら、おいら達も、朝飯を食べようぜ」
「城太さんも歌わない」
「なんの歌」
「白楽天といったので思い出したんです。いつか、城太さんが、烏丸様の御家来に教わっていた詩があったわね。覚えている? ……」
「|長干行《ちょうかんこう》か」
「ええ、あれ。あの詩を、聞かせて下さいな。|書《ほん》を読むような節で結構ですから」
「……|妾《シヨウ》ガ髪始メテ|額《ヒタイ》ヲ覆ウ
[#ここから3字下げ]
花ヲ折ッテ門前ニ|戯《タワム》レ
|郎《ロウ》ハ竹馬ニ騎シテ来リ
|牀《シヨウ》ヲ|遶《メグ》ッテ|青《セイ》|梅《バイ》ヲ|弄《ロウ》ス……」
[#ここで字下げ終わり]
城太郎はすぐ|口誦《く ち ず》さんで、
「この詩かい」
「そう。もっと続けて」
「……|同《トモ》ニ|長干《チヨウカン》ノ里ニ居リ
[#ここから3字下げ]
両小|嫌《ケン》|猜《サイ》ナシ
十四、君ノ|婦《フ》トナッテ
|羞顔《シユウガン》未ダ|嘗《カツ》テ開カズ
|頭《コウベ》ヲ|低《タ》レテ|暗《アン》|壁《ペキ》ニ向イ
千|喚《カン》一トシテ|廻《カエ》ラズ
十五、始メテ眉ヲ|展《ノ》ベ
願ワクハ|塵《チリ》ト灰ヲ|同《トモ》ニセン
常ニ存ス抱柱ノ信
|豈《アニ》|上《ノボ》ランヤ望夫台
十六、君遠クヘ行ク……」
[#ここで字下げ終わり]
城太郎はふいに起って、じっと聞き入っていたお通を|促《うなが》した。
「詩よりも、おいらは、お|腹《なか》が|減《へ》っちゃったい。早く、大津へいって朝飯を食べようよ」
|送春譜《そうしゅんふ》
まだ天地は濡れている。
家ごとの|炊《すい》|煙《えん》は、|曙《あ》けたばかりの町の上へ、|戦《いくさ》のように立ちのぼっていた。大津の宿駅は、湖北から石山までぼかしている朝がすみと、その|熾《さかん》な煙の下に見えてきた。
夜来、|飽《あき》|々《あき》するほど山道を歩いて来て――いや牛の歩みにまかせて来て、|黎《れい》|明《めい》と共に、人間のいる里に接した武蔵は、牛の背から思わず、
「オオ」
と、眼を、|拭《ぬぐ》って眺めた。
――同じ時刻に、お通と城太郎のふたりも、志賀山越えの道から、この大津の屋根を眺め、湖畔へ向って、希望の足を躍らせているはず――
峠の茶屋から峰を|繞《めぐ》って降りてきた武蔵は、今、三井寺の裏山から八|詠《えい》|楼《ろう》のある|尾《び》|蔵《ぞう》|寺《じ》|坂《ざか》にかかって来たが、お通はどこの道から降りて来るのやら。
湖畔の瀬田で落ち合うまでもなく、ひょいと、そこらで|打《ぶ》つかっても、そう偶然でないほど、時刻も道も、ほとんど同じように|辿《たど》って来たのであったが、武蔵の視野の前には未だ彼女の姿は見えなかった。
――といって、武蔵は決して、失望もしないし、会いそうなものだとも思っていなかった。
烏丸家へやった茶店の女房の返事によれば、お通は烏丸家にいないということであり、手紙は、烏丸家からお通の養生している先へこよいのうちに届けておくという消息であった。
その返事から考えると、自分の手紙が、お通の手にとどいたのは|昨夜《ゆ う べ》のうちとしても、あの体であるし、女のことゆえ、身支度もあろう。――まず早くても、そこを立つのは今朝あたり、約束の場所へ姿を見せるのが、今日の夕刻頃になるにちがいない。
そう武蔵は、胸づもりに、想像していた。
それに今はまた、これぞといって、先を急ぐ何事も心にはないし――牛の歩みも遅いと思わなかった。
|牝《め》|牛《うし》の|巨《おお》きな体は、山の夜露に濡れていた。朝の草の色を見ると、牛は頻りに草を食った。けれど武蔵は、それも牛の意のままにまかせていた。
――すると、民家と向い合っている|伽《が》|藍《らん》の辻に、なんとか桜と、名所|名《な》にでもありそうな桜の老木があって、その下の塚に、歌を刻んだ|碑《ひ》が見える。
誰の和歌か。――思い出そうともせず、武蔵は、そこを二、三町行き過ぎてからふと思い出して、
「そうだ……太平記の中で」
と、つぶやいた。
太平記は、彼の少年の頃の愛読書の一つだったので、或る箇所は、暗誦しているくらいだった。
で――今見かけたその|和歌《うた》から、少年の頃の記憶が|甦《よみがえ》って来たのであろう。|緩《かん》|々《かん》たる牛の背で武蔵はなにげなく、その|和歌《うた》の|載《の》っていた太平記の一章を、口のうちでそら読みした。
[#ここから1字下げ]
――志賀寺の|上人《しょうにん》は、手に|一《ひと》|尋《ひろ》の杖をたずさえ、眉に八字の霜を垂れ、湖水の波に|水《すい》|想《そう》|観《かん》を念じたもうに、折りふし、京極の|御息女《みやす》|所《どころ》、志賀の花園の帰るさを、上人ちらと見そめ給い、妄想起りて、多年の行徳も|潰《つい》え、火宅の執念に一切を|喪《うしな》い給う……
[#ここで字下げ終わり]
「少し忘れたな」
武蔵はそう思いながらまた、うろ覚えのまま、
[#ここから1字下げ]
――柴の|庵《いおり》に立ちかえり、本尊仏にむかい奉るといえども、観念の|床《ゆか》には妄想の|化《け》の|立《たち》そい、称名のおん声だに、|煩《ぼん》|悩《のう》の息とのみ聞えたもう。|暮《ぼ》|山《ざん》の雲をながむれば、君が|花釵《かんざし》かと心も憂く、|閑《かん》|窓《そう》の月にうそぶけば、|玉顔《ぎょくがん》われに笑み給うかと迷うも浅まし。
――今生の妄念ついに離れずば、往生の|障《さわ》りともなりぬべければ、|御息女《みやす》|所《どころ》に会い奉り、わが思いのふかき一端を申して、心やすく臨終もせばやと、上人杖をつき、御所へ参りて、|鞠《まり》の坪の|下《もと》に、一日一夜ぞ立ちたりける……
[#ここで字下げ終わり]
「おオいっ、旅の衆、牛に乗ってゆくおさむれえ」
誰か、その時、後ろから呼ぶ者があった。
いつか、牛は町の中にはいっていたのである。
問屋場の人足だった。
駈けて来て、牝牛の鼻づらを撫で、牛の頭越しに、武蔵を見あげて、
「おさむれえさん、無動寺から来なすったな」
といいあてる。
「ほ、よう知っているなあ」
「この|斑牛《ぶち》は、いつぞや荷を乗せて、山の無動寺へ行った|商人《あきんど》に、牛方なしで貸した牛だ。おさむれえさん、いくらか牛賃をおくんなせえ」
「なるほど、おまえが飼主か」
「おれの持牛じゃねえが、問屋場の牛小屋にいる牛だあな。|無賃《ただ》じゃいかねえぜ」
「よしよし、|飼料《かいりょう》をつかわそう。――だが、その賃さえ払えば、この牝牛は、どこまで曳いて参ってもよろしいのか」
「金さえ払えば、どこまで乗って行こうと、かまわねえさ。三百里先へ行こうと、道中の宿場問屋に渡しておいてさえくれれば、|下《くだ》りのお客が荷物を積んで、いつか大津の問屋小屋へ|帰《け》えって来ることになっているんだから」
「では、江戸表まで、いかほど払ったらよいのか」
「じゃあ、通り道だ、問屋場へ寄って、お名前を書いて行っておくんなさい」
なにかの支度にも好都合、武蔵はいわるるままにそこへ立ち寄る。
問屋場は打出ケ浜の|渡口《わ た し》|場《ば》に近かった。船着きから上がる者、乗る者、ここは旅人の|屯《たむろ》なので、|草鞋《わ ら じ》をひさぐ店もあるし、旅の|垢《あか》を落したり髪を整える備えもある。武蔵はゆっくり朝飯をすまし、まだ、早過ぎるとは思ったが、間もなく、牛の背の人となって、その問屋場から再び先へ立って行く。
瀬田はもう程近い。
湖畔のうららかな風光を、牛の足にまかせて行っても、大丈夫、|午《ひる》までにはそこへ着く。
(まだ、来ていまい)
武蔵はそう思い、そして、今度お通に会うことには、なにかしら心に安んじるものを抱いていた。
それは、彼女に対する彼の、安心であった。下り松の死地を乗り越える前までは、武蔵は、女性というものに、堅い構えを持っていた。お通に対しても同様な|危《き》|惧《ぐ》を抱いていた。
けれど、あの時の、お通の澄みきった態度、聡明な意思の処理を見てから、武蔵の彼女に対する気持は、ただの愛以上、深いものに改まっていた。
一般の女性を危惧するような眼で、お通をも危惧して来た自分の小心さが、彼女に対して済まなかったように今では思う。
そういう男の気持――安んじて女性にゆるしている気持――それは同じように、お通も、男性に対する信頼として、あれから後、胸のふかくに|抱《いだ》いていた。
武蔵はもう、何もかも、彼女にゆるしきっていた。今日会ったら、どんなことでも、彼女の願いなら|容《い》れてやろう。
剣を、|歪《ゆが》めない限りのことは。修行の道から堕落しない限りのことは。
今までは、それが|恐《こわ》かった。女の黒髪には、|剣《つるぎ》も鈍り、道も|喪《うしな》ってしまうものと、それを|惧《おそ》れていたのである。しかし、お通のような覚悟のいい、聞きわけのよい、理性と情熱の処理を誤らない女性ならば、決して、男性の道に情痴な|茨《いばら》を横たえはしない。なんの足手|纏《まと》いになるわけはない。――ただ溺るることを|誡《いまし》めて、自分さえ、乱れなければ。
(そうだ、江戸表まで一緒に行って、お通には、もっと女性として学ぶべき修養の道に就かせ、自分は城太郎を連れて、さらに高い修行の道にのぼろう。そして、或る時節が来たら――)
そんな空想に耽ってゆく武蔵の顔に、湖水の波紋の光が、幸福の笑みを投げかけるように、|揺《ゆら》|々《ゆら》と|映《は》えていた。
二十三間の小橋と、九十六間の大橋をつないでいる中之島には、古い柳の木があった。
瀬田の唐橋を、青柳橋とも呼ぶのは、その柳がよく旅人の目印にされるからであろう。
「あっ、来たよ」
と、その中之島の茶店から駈け出して、小橋の欄干につかまりながら城太郎は、一方には指をさし、一方の手では茶店の|床几《しょうぎ》をさしまねいて、
「お師匠様だっ。……お通さんお通さん、お師匠様が牛に乗って来たよ」
往来の旅人も、この少年が、なにをそんなに狂喜するのかと、眼をそばだてて|不審《い ぶ か》るほど、彼の足は|雀《こ》|躍《おど》りしていた。
「おお、ほんに!」
|転《ころ》ぶように駈けて来て、お通もそこに顔を並べる――
二人して、
「お師匠さまあっ」
「武蔵さま」
打ち振る笠、打ち振る手。
にこりとした武蔵の顔もはや間近であった。
牛はやがて、柳の木に繋がれる。――川を隔てて遠く見た姿には、狂喜の手を振ったり名を叫んだりしていたのに、その人の側に立つと、お通はもうなにもいい得ないのである。にこと眼で笑ったほかは、すべて城太郎が一人で引きうけて|喋舌《し ゃ べ》っていた。
「お師匠さま、もう傷は|癒《なお》ったの。おいら、お師匠様が牛に乗って来たから、あの時の傷がまだ痛んで歩けないので乗って来たのかと思ったよ。……え? どうしてこんなに早く来ていたかって。……そりゃあ、お通さんに聞いたほうが早いや。お通さんと来たらお師匠様、ほんとに勝手なんだからね。お師匠さまから手紙が来たら、この通り一遍に元気になってしまうんだもの」
「ふム、そうか、ふム……」
と武蔵も一々にこやかに|頷《うなず》いていたが、ほかに客もある茶店先、お通のことをいわれると、見合いに来た|聟《むこ》殿のように甚だてれ[#「てれ」に傍点]る。
裏に、藤棚で|掩《おお》われた小座敷がある。そこへ三名は|寛《くつろ》いだ。といっても相変らず、お通はもじもじしてばかりいるし、武蔵も無口に固くなってしまう。ありのままに歓び、歓びのままに|喋舌《し ゃ べ》り、この景地と|生命《い の ち》を楽しんでいるものは独り城太郎と、そして、藤の花に|噪《さわ》いでいる|虻《あぶ》と蜂ばかりだった。
「オヤいけない、石山寺の上があんなに暗くなりました。一雨来ますよ。もっと奥へおはいりなすって下さい」
茶店の亭主が、あわてて|葭《よし》|簀《ず》を巻き、雨戸を横に囲い始める。なるほど、|江《こう》の水はいつのまにか鉛色に見え、そよ風は雨気を|囁《ささや》きはじめて、藤の花の紫は、まさに死なんとする|楊《よう》|貴《き》|妃《ひ》の袂のように、|遽《にわか》に|咽《むせ》ぶような|薫《にお》いを散らして|顫《おのの》いている。
――サアッと、その弱々しい花から真ッ先に目がけられたように|石山颪《いしやまおろし》が小雨をぶっつけてくる。
「アッ、雷さまだぞ。ことしの初雷だ。お通さん、濡れちまうよ。お師匠さまも奥へおはいりなさいよっ、座敷のほうへさ。アアいい気持だ。この雨は、ちょうどいいや! ちょうどいいや」
なにが丁度いいのやら、深い意味でいうわけでは勿論ないが、そう彼にいい|囃《はや》されては、武蔵もよけいにはいり難い。お通も顔を|紅《あか》らめて、雨に砕ける藤の花と共に、縁の端に立って濡れていた。
「オオ、ひでえ!」
|菰《こも》をかぶって、白い雨の中を、傘みたいに飛んで来た男がある。
|四宮明神《しのみやみょうじん》の楼門の下へ馳け込むなり、ほっと、髪のしずくを撫でて、
「まるで、夕立だ」
と、|迅《はや》い雲あしへ|呟《つぶや》いた。
見るまに四明ケ岳も湖水も伊吹も乳色になって、ただ|滌々《じょうじょう》と雨の音しか耳になかった。――と思ううちに眸を|断《た》たれたように|雷光《いなびかり》を感じると、どこか近くに雷が落ちたらしかった。
「……あっ」
雷ぎらいの又八は、耳の穴をふさいで、楼門の雷神の下に縮こまっていた。
雲が|断《き》れると、嘘のように、|陽《ひ》が射してきた。雨がやみ、往来も元に|還《かえ》って、どこかで三味線の音さえ聞えだした。すると、|婀《あ》|娜《だ》なすがたの女が、向う側から往来を越えて来て、用ありげに、又八へ笑いかけた。
見かけない女である。
「あなた、又八様と仰っしゃるのでしょう」
そういうのだ。
又八が|不審《い ぶ か》って用事を問うと、今、家へ上がっていらっしゃるお客様が、あなたのお友達だそうで、二階からお姿を見かけ、ぜひ引っ張って来いというお|吩《いい》|咐《つ》けです、という。
いわれて見ると、なるほど、この神社の界隈には、|娼家《しょうか》らしい構えが幾軒も見える。
「……御用がおありならば、直ぐお帰りになってもよござんすから」
と、使いに来た女は、又八のためらいなどは無視して導いて行く。そして近くの|娼家《しょうか》へ引っ張って来ると、他の女たちも出て、足を洗ってくれるやら、濡れた着物を脱がすやら下へも|措《お》かない。
いったい、おれの友達というお客は誰かと訊いてみても、二階へ行ってみれば分ると、座興にするつもりで明かさない。
何分、雨に逢って、着物もずぶ濡れだから、一時|娼家《ここ》の物を借り着するが、実は今日瀬田の唐橋で約束の者が待っているはず。――で直ぐ帰るのだから、その間に衣類を乾かし、引き留めないでもらいたい。
「頼むぞ、いいか」
何度も念を押すと、
「はい、はい。よい|機《しお》に、きっとお帰し申しますよ」
女たちは、|安《やす》|請《うけ》|合《あ》いにいって、又八を梯子段の下から押し上げる。
(二階の客とは一体誰だろうか)
又八は頻りと考えてみたが思い当る者がない。けれどこういうところに場馴れない又八ではないし、またこういう雰囲気の中に入ると、彼の頭のつかい方や身ごなしは、ふしぎに冴えて精彩を発揮してくる。
「やあ、犬神先生」
いきなり先方の者からいった。人違いだったかと又八は|閾《しきい》ぎわで足を止めたが、座敷の中に坐っているその客を見ると、満ざら知らない人間ではなかった。
「や? ……おぬしは」
「お忘れか、佐々木小次郎を」
「犬神先生といわれたのは?」
「貴公のことさ」
「おれは本位田又八だが」
「そんなことは心得ているが、かつて六条松原の闇で、群犬に取り巻かれ、野良犬どもの中に坐って、百面相をしてござったのを思い出したから、お犬の神様と尊称申し上げ、犬神先生と呼んだのでござる」
「よしてくれ、冗談じゃあねえ。あの時は、ひどい目に遭わせやがったぜ」
「その代りに、きょうはよい目に遭わせてやろうと思い、迎えにやったわけだが、よく来てくれた。まあ、坐るがいい。――おい|女輩《おんなども》、この人に杯を|酌《さ》せ、杯を」
「瀬田で、待っている者があるから、すぐお|暇《いとま》する。……おっと、おい、そう酌してもだめだぜ、きょうは飲めない」
「瀬田で、誰が待っているのか」
「宮本という、おれの幼少からの友達で――」
と、いいかけるのを|引《ひ》っ|奪《た》くって、小次郎は早口に、
「なに、武蔵が。……ウウムそうか。峠の茶屋で約束したのか」
「よく知っているな」
「貴公の生い立ち、武蔵の経歴、みな詳細に聞いている。|其《そこ》|許《もと》の母親――お杉どのといわれたな――。|叡《えい》|山《ざん》の中堂でお目にかかったぞ。そしてつぶさにあの老母から、今日までの苦心を聞かされた」
「え。おふくろと会ったって? ……実あ、きのうから俺も捜し歩いているのだが」
「えらい|老母《としより》だ、見上げたもの。中堂の僧も皆、同情していた。わしも|屹《きっ》|度《と》、助太刀しようと、力づけて別れた」
杯を洗って、
「さ、又八。旧怨を|雪《すす》いで|酌《く》み交わそう。武蔵ぐらいな相手、恐れるな。広言ではないが、佐々木小次郎がついている」
頬を|紅《くれない》にして杯を出した。
だが又八は、手を出さない。
見栄っ張りな小次郎も、酔うとひとりでに、常の容態や端麗も構えから忘れてしまう。
「又八、なぜ飲まぬ」
「もうお|暇《いとま》だ」
左の手が走ると、ぐっと又八の腕くびをつかみ、
「いかん!」
「でも、武蔵と」
「ばかをいえ。貴様一人で、武蔵と名乗り合ったら、立ちどころに返り討ちだぞ」
「そんな|争《いさか》いはもうお互いに捨てたんだ。俺は、あの親友に|縋《すが》って、これから江戸へ行って真面目に身を立てるつもりだ」
「なに、武蔵に縋ってだと? ――」
「世間は武蔵を悪くいうが、それは俺のおふくろが悪くいい触らすからだ。おふくろは武蔵を思い違いしている。つくづく今度はそれが分った。同時に俺自身も悟った。おれはあの善友に|習《まな》んで、遅れ|走《ば》せだがこれから志を立てる所存だ」
「アハッハハハ。わははは」
小次郎は手を打って笑い、
「お人好し! おいっ、おふくろ殿もいっていたが、なるほど、貴様は世にも稀なお人好しだ。武蔵に|悉《ことごと》く|騙《だま》されたな」
「いや、武蔵は」
「まあ、黙れ、いうな。第一おふくろを裏切って|仇《かたき》に加担する不孝者がどこにあろう。他人の佐々木小次郎でさえ、あの|老母《としより》の言葉には義憤を感じ、将来助太刀をしようとまで誓っているのに」
「なんといわれても、おれは瀬田へ行く。放してくれ。――おい女ッ、着物が乾いたろう、おれの着物を出してくれ」
「出すなっ」
小次郎は、酔った眼を吊り上げて、
「出すときかないぞ。――これ又八、貴様武蔵とそうなるならば、一応、おふくろに会って、よく得心させてゆけ。おそらくあの|老母《としより》は、そんな屈辱に、合点はすまい」
「そのおふくろを捜しても見当らないので、一先ず俺は武蔵と一緒に、江戸表へ|下《くだ》ろうと思う。おれが一かどの人間になりさえすれば、すべての宿怨はひとりでに解けてしまう」
「その|口《こう》|吻《ふん》は、武蔵のいった口吻に違いない。あしたになったら、わしも共に捜して|遣《つか》わすから、とにかく、おふくろの意見を訊いた上でゆくがよい。そうして今夜は飲もう、嫌でもあろうが、小次郎に|交際《つ き あ》え」
もちろん、ここは|娼家《しょうか》、女達も皆、そういう小次郎に加勢して、又八の着物など返してくれるはずもない。
日が暮れる、遂に、夜も更ける。
しらふ[#「しらふ」に傍点]では小次郎に頭も上がらないが、酔えば俄然又八は、とら[#「とら」に傍点]になり得るのだ。見ていやがれという気で彼は宵から飲み始めた。酒の勢いを駆って、小次郎を|手《て》|古《こ》|摺《ず》らし、さんざん鬱憤をはらして|潰《つぶ》れてしまった。
寝たのが夜明け、眼をさましたのは既に|午《ひる》過ぎ。
小次郎はまだべつの部屋で熟睡しているという。|昨日《き の う》の|初《はつ》|雷《らい》できょうの陽ざしは一倍澄んでいる。又八は、まだ耳に新しい武蔵の言葉を思い|泛《う》かべ、ゆうべの酒を吐き出したくなった。
|階下《した》へ降りて、着物を出させ、それを身に|纏《まと》うと逃げるように|戸外《そと》へ駈け出した。そして瀬田の橋まで来て見た。
赤く濁った瀬田川の水に、石山寺の残んの花もこれ|限《き》りのように流され、藤茶屋の藤のふさも砕け、山吹も散っていた。
「牛を繋いで――といったが」
その牛は、小橋の|袂《たもと》にも、中之島にも見えなかった。
諸所を捜したあげく、中之島の茶店で聞くと、その牛に乗ったおさむらい様ならば、きのう店の閉まる頃までここに待ってござったが、夜に入ったので|旅籠《は た ご》へ移り、今朝またここへ来て、しばらく人待ち顔に|佇《たたず》んでおられたが、やがて手紙を|認《したた》めて、後からわしを尋ねて来た者があったら渡してくれいと軒先の青柳の枝に、書いた物を結びつけて先にお立ちになりました、という。
見ると、なるほど、白い|蛾《が》の止まっているように、柳の枝の結び文。
「済まなかった。――では一足先に立って行ったか」
又八は、|蛾《が》の翼を解いた。
|女《め》|滝《たき》|男《お》|滝《たき》
初夏に向ってゆく旅だ。木曾路の新緑を浴びて、|中《なか》|山《せん》|道《どう》を牛の足にまかせて行く。
(待っているぞ、後から追いついて来るがいい)
柳の枝に結び文を残して行った武蔵を慕って、又八は道を急いだが、草津まで行っても行き会わない、彦根、|鳥《とり》|居《い》|本《もと》まで来ても見当らない。
「ハテ、先に来過ぎてしまったのかな?」
|摺鉢峠《すりばちとうげ》では、峠の上で、半日往来を眺めていたが、その日も無駄。
牛に乗った武士と訊いても、牛馬に|騎《の》って行く旅人は多い。それに又八は、武蔵一人と思っていたが、武蔵には、お通、城太郎の道連れがあった。
|美《み》|濃《の》|路《じ》へ来ても知れないので、彼は、小次郎の言を思い出して、
「やっぱり俺は、お人好しかな?」
迷い出すと|限《き》りがない。
彼自身の惑いが、道を戻ったり、曲ってみたりするために、当然会えるはずの者に、よけいに行き会えないことになってしまう。
だが遂に、中津川の宿場端れで、彼は、先へ行く武蔵の姿を見つけた。
幾日目だろう。それは実に又八としては珍しいほどな熱意で追いついて来た目標だった。しかし彼は、武蔵の後ろ姿を見るとともに顔色を変えて武蔵を疑った。
牛の背に乗って行くのは、武蔵ではなくて、七宝寺のお通ではないか。――そのお通を乗せて牛の手綱を持って行くのが武蔵ではないか。
側にくッついてゆく城太郎の如きは、又八の眼中にはない、問題でもない。又八をして|猜《さい》|疑《ぎ》に|顫《おのの》かしめたものは、お通と武蔵との、|睦《むつま》じそうな姿だった。
今日までのどんな場合の憎悪の|嫉《しっ》|視《し》よりも、このせつなほど又八は、友の姿を悪魔に見たことはない。
「……アアやっぱり、思えばおれは、お人好しだったに|違《ちげ》えねえ。あいつに|唆《そそのか》されて関ケ原へ出かけた時から今日に至るまで。――だが俺も、こう踏みつけられちゃあ、|何日《いつ》までお人好しじゃいねえぞ。野郎、今にどうするか、覚えていろよ」
「暑い暑い。こんなに汗をしぼる山道って初めてだ。ここはどこ? お師匠様」
「木曾で一番の難所、|馬籠峠《まごめとうげ》へかかり出したのだ」
「きのうも二つ峠を越したっけねえ」
「|御《み》|坂《さか》と|十曲《とまがり》と」
「おらあ、峠に|飽《あき》|々《あき》しちゃった。はやく江戸の賑やかな所へ出たいなあ。ねえお通さん」
お通は、牛の背から、
「いいえ城太さん、わたしは|何日《いつ》までも、こんな人のいない所を歩くのが好き」
「ちぇっ、自分は、歩かないもんだからね。――お師匠様、あそこに滝が見えるよ、滝が」
「オオ、少し休もうか。城太郎、そこらへ牛を繋いで置け」
滝の音を心あてに、細道を分け入ってゆくと、滝つぼの崖の上には、人もいない滝見小屋があり、辺りには、霧に濡れた草の花が一面に咲きみだれていた。
「……武蔵様」
お通は、立札の文字を見て、その眼を武蔵に移してほほ笑んだ。|女男《め お と》の|滝《たき》とそれは読まれた。
大小二すじの滝が、一つ渓流へ落ちている。やさしいほうが|女《め》|滝《たき》とすぐわかる。歩けば休もう休もうというくせに、城太郎は少しも落着いてはいない。滝つぼの狂瀾や、岩間にぶつかってゆく奔流の|相《すがた》を見ると、その水と自分のけじめ[#「けじめ」に傍点]が分らなくなったように、躍り跳ねて、崖の下へ駈け下りて行った。
「お通さあん、魚がいるよ」
答えないでいると、
「石で|捕《と》れるよ。石をぶつけると、腹を出して浮くぜ」
やがてまた、しばらく経つと、
「わアあい」
と、飛んでもない方角に|谺《こだま》が聞え、なかなか戻って来そうもない。
山の端から陽が|映《さ》した。霧に濡れている草の花の上に、無数の小さい虹が描き出された。
滝見小屋の蔭に寄り添いながら二人は滝の音につつまれていた。
「どこまで行ってしまったんでしょう」
「城太郎か」
「ええ。ほんとに、しようのない子」
「そうでもないぞ、おれの子供時分にくらべると、まだまだ」
「あなたは、べつ者でしたもの」
「反対に又八はおとなしかったなあ。……又八といえば、とうとう|彼奴《あ い つ》、来なかったが、あいつこそ、どうしたのか」
「でも、わたしは、ほっとしました。もし又八さんが来たら、隠れてしまおうと思っていました」
「隠れる必要はない。話してわからない人間はないはずだ」
「本位田家の|母子《お や こ》は、すこしご気性がちがいます」
「お通さん……。おまえ、もいちど考えなおさないか」
「どういうふうに」
「思い直して、本位田家の人になる気はないかと訊くのさ」
お通はびくっと色を顔にうごかして、きっぱりいった。
「ありません!」
そして、蘭の花のように|紅《あか》らんだ|瞼《まぶた》から、みるまに涙がこぼれそうになった。
武蔵は、よしないことをいったと心のうちで悔いた。今さら、分りきったことなのだ。時が|経《た》って|冷《さ》めたり迷ったりする女性と同視されたように思って、お通は心外なのであろう。指で顔をおおって、微かに肩を|顫《ふる》わせた。
(……貴方のものです!)
白い|襟《えり》あしは、武蔵の目に、そう訴えているようだった。辺りの|若楓《わかかえで》の樹は、浅いみどりでここの場所を人目から隠している。
とうとう[#「とうとう」に傍点]と地軸を震わせている滝の音は、そのまま自分の血の音のように武蔵は思われた。滝つぼの狂瀾と奔流を見て、|遽《にわか》に駈け出して行った城太郎の本能と以たようなものが武蔵の体にも、もっと烈しい性能を帯びて|潜《ひそ》んでいる。
それにここ幾日の間、宿屋の|燈火《ともしび》の下に、らんらんたる太陽の|下《もと》に、お通の肉体を|種《さま》|々《ざま》な光で彼は見ていた。或る時は、|芙《ふ》|蓉《よう》の花のように汗ばんだ皮膚を、或る夜は|屏風《びょうぶ》をへだてていても漂ってくる黒髪のにおいを。――年久しく、|磐石《ばんじゃく》の|下《もと》に|虐《ひし》がれていた愛慾の芽はそうして、|遽《にわか》に彼の胸に育てられていた。草いきれのように|鬱《うっ》|陶《とう》しいものが、むらむらと、|眸《ひとみ》を曇らして来るのであった。
「…………」
ふいと、武蔵はそこを離れた。いや、逃げるようにであった。
お通を置き放して、|彼方《あ な た》の道もない草むらへはいって行った。なにか、突然くるしくなったのである。口から炎でも吐くように、|膨《は》ちきれそうな血を、体から少し捨ててでもしまいたいような心地だった。城太郎のように、暴れ出したかった。そして、まだ冬草の枯れたのが、背高く生い茂っている静かな陽だまりを見出すと、
「ああ」
と、そこへ身を投げて坐った。
お通は、どうしたのかと疑って、すぐ追いかけて来るなり、彼の膝に|縋《すが》りついた。堅くなって、沈黙していた武蔵の顔が恐く見えた。なにか怖ろしく不機嫌に見えておろおろした。
「どうしたんですか。武蔵様……武蔵様っ……。なにか、お気に|障《さわ》ったのなら、堪忍してください、堪忍して」
「…………」
「武蔵様っ、もしッ……」
彼が堅くなっていればいるほど――また、恐い顔をしていればいるほど、お通はその胸へ、必死にしがみついて、揺れ騒ぐ花のように、花の気づかない|香《におい》に彼を|咽《む》せ|返《かえ》らせた。
「――おいっ!」
武蔵はいきなりそういった。猛然と、彼の|巨《おお》きな腕はお通を抱きしめて枯草の中へ|仆《たお》れた。お通は白い|喉《のど》|首《くび》を伸ばして、声もあげ得ずに、彼の胸の中でもがいた。
|槙《まき》の樹に、尾の長い|縞《しま》|鳥《どり》が、まだ少し雪のある、伊那山脈の空をながめていた。
山つつじが|真《ま》っ|紅《か》に燃えている。――からんとして空は青い。枯草の下には、|深《み》|山《やま》すみれが匂っていた。
猿が啼く、|栗鼠《りす》がちらと跳ぶ、原始の地上だった。そこの|一《ひと》|叢《むら》の枯草は深く折れていた。悲鳴をあげたのではないが、悲鳴に近い驚きをあげて、お通は、
「いけないッ、いけませんッ、武蔵様ッ」
栗の|棘《とげ》みたいに自衛して、堅く身を縮めた。
「そ、そんなことっ……。貴方ともあろうお人が」
と、悲しげに、彼女が、|嗚《お》|咽《えつ》したので――武蔵はハッとした。焔の身に、ぞッと総毛立つような理智の冷たい声を浴びて、
「なななぜだっ? |何《なに》|故《ゆえ》だっ?」
|呻《うめ》きに似た彼の声こそ今にも泣き出しそうだった。誰も知らない秘密にせよ、これは男性には耐え難い侮辱と感じるのだ。|遣《や》り場のないその|憤《いきどお》りと恥かしさを、彼は自分へ怒るように|喚《わめ》いたのだった。
――だが、手を放した途端に、お通はもうそこにいなかった。小さい匂い袋が一つ、|紐《ひも》が切れて落ちている。彼の眼は茫然と、それを見て泣きかけていた。浅ましい自己のすがたを冷たく客観することができた。ただ分らないのはお通の心なのだ。お通の眸、お通の唇、お通のことば、お通の全姿――あの髪の毛までが、絶えず自分の情熱を誘いかけて、きょうに至ったのではないか。
自分で、男性の胸に火を|放《つ》けておきながら、火がつくと、びっくりして逃げてしまうのと同じである。故意ではないにしても、結果においては、愛する者を|欺《あざむ》き、|陥《おとしい》れ、苦しめ、恥かしめたことになるではないか。
「……ア、ア」
武蔵は、顔を俯つ伏せて、草へ泣き伏した。
きょうまでの|切《せっ》|瑳《さ》|琢《たく》|磨《ま》も、一敗地にまみれて、すべての精進苦行も、ここに空しく崩れてしまったかと思うと彼は悲しい。|童《わらべ》が|掌《て》の中の木の実を失ったように悲しいのだ。
自分に|唾《つばき》したいような|忌《いま》|々《いま》しさから、さも忌々しげな忍び泣きを洩らして大地へ伏していた。日輪へ対して顔を上げ得ないようにいつまでもそうしていた。
(おれは悪くない!)
自分の行為に対して、彼が心の中で頻りにそう呶鳴ってみるもののそれで心は澄んで来なかった。
(分らないっ、分らない)
彼には、|処女心《おとめごころ》の清純というものを、この時、|可憐《い と し》いと思うような余裕はなかった。たとえ|白《しら》|珠《たま》のように|顫《おのの》きやすく、感じやすく、|無《む》|碍《げ》なる人の手を恐れるものにしろ、それを女性の一生を通じて、ある期間だけにある、最高な心情の美であるとか、尊いものであるとかで、そんな|愛《いつく》しみを持って、今、この時、思い遣ることはできなかった。
しばらくの間――そうして俯ッ伏したまま、土のにおいを|嗅《か》いでいるうちに、彼はやや落着いた。むくりと起ち上がった。もう先刻の充血した眼ではない。その顔はむしろ蒼白かった。
――落ちているお通の匂い袋を、足の下に踏みにじって、じっと、山の声を聞くかのように|俯向《う つ む》いていたかと思うと、
「そうだ」
真っ直ぐに、滝のほうへ向って歩いて行った。あの下り松の剣の中へ、身を投げこんで行く時のように、濃い眉毛をがっきりと寄せて。
……鋭い小鳥の声が、|劈《つんざ》くように|翔《か》け去ってゆく。風のせいか滝の轟きが急に耳へついて、|一《いち》|朶《だ》の雲の|裡《うち》に、陽の光も|淡《うす》れて来たかのように思える。
――お通は、武蔵のいたその場所から、わずか二十歩ほどしか逃げていなかった。白樺の幹にひたと身をつけて、彼女は|先刻《さ っ き》からじいっとこっちを見ていたのである。自分が武蔵をそんなに苦しめたことが明らかに分ると、いまいちど、武蔵が自分の側に来てほしいと思った。さもなければ、自分から走り寄って詫びようかとも思って迷う様子であったが、しかし、|脅《おび》えた小鳥の心臓のように、まだ強い|戦慄《ふ る い》が止まないで、体は|他人《ひと》のもののようだった。
泣いていないお通の眼には、泣いている以上の、恐怖だの、迷いだの、悲しみだのが、掻き曇っていた。
この人こそと、信頼していた武蔵は、彼女が、自分の胸の中で、自分勝手に描いていた、幻想の男性ではなかった。
幻想の心臓の中に、忽然、|赤《せき》|裸《ら》の男性を見出した彼女は、死ぬかと思うほどな|愕《おどろ》きに打たれた。悲しくて悲しくてならなかった。
けれど、その恐怖と|慟《どう》|哭《こく》の中に、彼女はまだ、ふしぎな矛盾が残っていることを気づかない。
もし|先刻《さ っ き》の烈しい圧迫が、武蔵でなくて、他の男性であったとしたら、彼女の逃げ走った足は、決して、二十歩や三十歩ではなかったろう。
なぜ、二十歩ほどで足を止めて、後に心を惹かれているのか。――それのみでなく、やや動悸が落着いてくるに従って、彼女の心の中には醜い人間の本能の|相《すがた》を、他の男性のそれと、武蔵のそれとは、べつな物として、考えようとさえしていた。
(……怒ったんですか。……怒らないでくださいね。あなたが|嫌《いや》だったわけではありません。……怒らないで)
暴風に吹き飛ばされたような独りぼっちを感じながら、彼女の胸の中の言葉は、ひたすら詫びているのだった。――武蔵自身が、自責したり苦悶したりしているほどに、お通は、彼のなした烈しい行動を、醜く思ってはいなかった。他の男性のように浅ましくは思えないのである。
むしろ、ふと、
(なぜ、わたしは? ……)
自分の盲目的な恐怖が、淋しくすら考えられ、その刹那の火花のような血の狂いが、後になるほどなにか慕わしくさえ思い出された。
(……おや? どこへ? ……。武蔵様は)
いつのまにか、そこに見えない武蔵の影に、お通はすぐ、自分が捨てられたのではないかと思った。
(きっと、怒って。……そうだ、怒って。……あ、どうしよう?)
|恟《おど》|々《おど》と、彼女は歩いて、元の滝見小屋の所まで戻って来た。そこにも、武蔵の姿は、見当らなかった。ただ真っ白なしぶきが、滝壺から霧となって山風に吹きあげられ、満山の樹々を揺すぶって、絶え間のない滝のとどろきが、ぐわうと、耳を|塞《ふさ》ぐばかり冷ややかに|面《おもて》を打って来るだけであった。
すると、どこか高い所から、
「あっ、たいへんだ。お師匠様が滝へ身を投げたぞっ。――お通さアん!」
城太郎の声だった。
渓流を渡って、向う側の山の鼻に城太郎は立っていた。そこから|男《お》|滝《たき》の滝つぼをのぞいていたものらしく、突然、こう時ならぬ大声を発して、お通へ急変を告げたのだった。
滝の響きで、よく聞き取れないらしかったが、城太郎の方から見ていると、お通も何を見たか、ハッと急に血相を変え、深い滝道の――霧と|山《やま》|苔《ごけ》で|滑《すべ》りそうな断崖を――岩にしがみつきながら下へ降りてゆく様子である。
城太郎は|猿《ましら》みたいに、向う山の崖先から、スルスルと|藤《ふじ》|蔓《づる》につかまって、ぶら下がっていた。
お通も見た。
城太郎も見つけた。
――滝つぼの中にである。
|吼《ほ》え|哮《たけ》ぶ|飛沫《し ぶ き》や、真っ白な霧のために、初めは、石か人間かと怪しまれたが、二つの手の指を、胸の前にがっきと組合せ、五丈余りの滝の下に、じっと、|頸《うなじ》を垂れている|裸形《らぎょう》の者は、石ではない、武蔵であった。
お通は、|此方《こ な た》の絶壁の道の中途から――城太郎は、向う側の淵の岸から、それと見ると、われを忘れて、
「あッ、お師匠様っ、お師匠様アっ」
「武蔵さまっ――」
声かぎりに、呼び交わしたが、その二人の叫びに挟まれても、武蔵の耳には、もう、とうとう[#「とうとう」に傍点]と吼える滝の音のほかは、なにものの声も入るはずはなかった。
|蒼《あお》ぐろい滝つぼの水は、武蔵の乳のあたりまであった。百千の銀龍と|化《な》って、水は彼の顔や肩に咬みついてくる。千万の水魔の眼と|化《な》って、狂う渦は彼の脚を死の淵へ引きずり込もうとした。
「…………」
ハッと、ただ一つでも、弱い呼吸をつくか、心に|弛《ゆる》みが起れば、途端にその|踵《かかと》は|水《みず》|苔《ごけ》の底を滑って永久に帰れない|冥途《よみ》の激流へ送り込まれてしまうかも知れないのである。
しかも、頭上から落ちて来る滝の圧力は、何千貫という重さを負わされているような感じだった。肺も心臓も、|大《おお》|馬《ま》|籠《ごめ》の山々の下敷きになったように苦しかった。
――それでもまだ武蔵は、たった今、そこに振り捨てて来たお通の面影を、熱い血の中から忘れ去ることができなかった。
志賀寺の上人でさえ、同じ血を持っていた。|法《ほう》|然《ねん》の弟子|親《しん》|鸞《らん》も、同じ|煩《なや》みを持っていた。古来、事を成す人間ほど、生きる力の強い人間ほど、同時に、この生れながら負って来る苦しみも強くそして大きい。
弱冠十七歳の村童に、槍一本かつがせて、関ケ原の風雲へ駆け向かわせたのも、この血の熱である。沢庵の|鉄《てっ》|槌《つい》に感じ、法情の慈悲に泣いて、|翻《ほん》|然《ぜん》と人生に薄眼を開いて志を起したのも、この血の力である。孤剣、柳生城の伝統を|攀《よ》じのぼって、石舟斎に迫ろうとしたあの気概もこの血――また、下り松に行って眼にあまる敵の|白《はく》|刃《じん》|林《りん》を駈けちらしたのもこの血があればこそであった。
だが、その烈しいものが、お通という許された対象を通して、人間の本能に燃えつくと、彼が本来の野性は、ここ数年の間に、やっと少しばかり養い得たところの、修行や理性の力では、到底、制しきれないほど強いものとなって、狂い出し、乱れ出したのである。
この敵に向っては、さしもの剣も、何の用もなさないのだ。およそ、対象は、外にあって、形もあるが、この敵は、自己の中にあって、形がない。
武蔵は、狼狽したのだ。明らかに彼は、自分の心にあった大きな|陥《かん》|没《ぼつ》を知って、うろたえたのである。
そして、なくても困る、あっても苦しむ、すべての人間が|等《ひと》しく持っている血を――殊に異常な情熱にそれを|昂《たか》め得る血を――どう処理したらいいのか。まったく、武蔵自身でも、分らなくなって、物狂わしく、滝つぼの中に、身を投じたのに相違ない。――城太郎が刹那に見た眼も、お通へ向って、お師匠様が身を投げたと呶鳴った言葉も、そう誤りではなかったに違いない。
「――お師匠様アっ……お師匠様アっ」
と、その城太郎は、泣き声を出して、なおまだ叫びつづけていた。
彼の眼には、武蔵の生きんとする姿が、どうしても死なんとする姿にしか映らないのであろう。
「死ンじゃ嫌だっ、お師匠様っ、死なないで下さいっ」
自分もともに滝の痛みを|怺《こら》えているように、両手の指を固く組み合せ、滝の轟きと泣き声とを争っていたが、ふと向う側の絶壁を眺めると、その途中につかまってともに悲しんでいたお通が、いつの間にかどこにもその姿が見えなくなっていた。
「あらっ、変だっ。……お通さんも?」
|咄《とっ》|嗟《さ》、城太郎は、真っ白な泡つぶの流れてゆく水を見て、悲しげにうろうろした。
彼の解釈では――武蔵がなんのゆえか、滝つぼに入って、死ぬまでは上がって来そうもない|体《てい》なので、お通さんも、同じ流れの末に、身を投げたのではないかと疑ったのである。
――だがその悲しみの|逸《はや》まったことは彼も直ぐ気づいた。なぜならば、滝つぼの中の武蔵は、依然と五丈余の瀑布の下に打ちたたかれていたが、その肩から満身へ|漲《みなぎ》って来た力――|粗《あら》|鉱《がね》のような若い生命の力は――決して、|鞠《まり》の|坪《つぼ》に|佇《たたず》んだ志賀寺の上人のように、死を願って立っている姿ではない。かえって、大自然の|苔《こけ》の下から、心の|垢《あか》を洗って、もっと堅実に生き直ろう、|刎《は》ね起きようとしている姿であることが、城太郎にも、なんとなく|解《わか》って来たのだった。
その証拠には、いつもの武蔵の声が、やがて滝つぼの中から聞えてきた。もとより何を叫んでいるのかは分らなかった。|経文《きょうもん》のようでもあるし、自分を|罵《ののし》り怒っているようにも見えた。
峰の端から|映《さ》して来る夕陽が、滝つぼの一端にこぼれると、武蔵のもり上がっている肩の肉から、無数の小さい虹が、八方へ昇った。中でも大きい一条の虹は、滝よりも高く|噴《ふ》いて、空を貫いた。
「お通さアん!」
城太郎は|鮎《あゆ》のように飛んだ。岩から岩を伝わって、激流を渡り越え、|此方《こ な た》の絶壁へ移って来た。
(そうだ、なにも、お通さんが安心してるくらいなら、おいらの心配することはない。お師匠様の気持なら、心の奥まで、お通さんが知ってる筈だもの)
絶壁を|攀《よ》じて、彼は、|先刻《さ っ き》の滝見小屋から少し離れた所へのぼって来た。牛の手綱が解けたとみえ、それをズルズル引摺りながら、牛はそこらの草を食べていた。
ふと滝見小屋の方を眺めると、そこの|廂《ひさし》の下に、お通の後ろ帯だけがちらと見えた。――なにをしているのだろう? と疑いながら、|跫音《あしおと》を忍ばせて城太郎が近づいて行ってみると、お通は、誰見る者もないと思ってか、小屋の端に脱ぎ捨ててあった、武蔵の着物と大小を両手で胸に抱きしめ、よよと、声を洩らして泣いていた。
「……?」
ここにもまた、心の解らない人間がいるぞといわないばかりに、城太郎は|佇《たたず》んだまま、|唇《くち》を指へ当ててぼんやりしていた。お通が、胸へひし[#「ひし」に傍点]と|抱《かか》えている物が物であるから、城太郎も変な顔をしてしまった。それに、独り泣いている様子も常とはちがい、|凡《ただ》ならぬことが童心にも感じられたのであろう。声をかけずに、そっとまた、牛の遊んでいる方へ、抜き足して戻って行った。
牛は、白い草の花の中に寝そべって、夕陽に眼やに[#「やに」に傍点]を|泛《う》かべていた。
「……いったい、こんなことしていて、|何日《いつ》になったら、江戸へ行けるんだろうなあ?」
城太郎も仕方なしに、牛のそばへ寝ころんだ。
空の巻
|普《ふ》 |賢《げん》
木曾路へはいると、随所にまだ雪が見られる。
峠の|凹《くぼ》みから、|薙刀《なぎなた》なりに走っている白い|閃《ひらめ》きは、駒ケ岳の雪のヒダであり、|仄《ほの》|紅《あか》い木々の芽を|透《す》かして彼方に見える白い|斑《まだら》のものは、|御《おん》|岳《たけ》の肌だった。
だがもう畑や往来には、浅い緑がこぼれている。季節は今、なんでも育つ|盛《さか》りなのだ。踏んづけても踏んづけても、若い草は伸びずにいない。
まして城太郎の胃ぶくろと来ては、いよいよ、育つ権利を主張する。この頃殊に、髪の毛が伸びるように、背の寸法までが伸びそうに見えて、将来の大人ぶりも思いやられる風がある。
もの心つくと、世間の波へ|抛《ほう》り出されて、拾われた手はまた、|流《る》|転《てん》の人であった。勢い、旅から旅の苦労を|舐《な》め、どうしてもおませ[#「おませ」に傍点]になるべく環境が迎えてくるので仕方がないが、近頃、時々あらわす生意気さ加減には、お通もよく泣かされて、
(なんだってこんな子に、こう|馴《な》つかれてしまったのかしら)
と、ため息ついて、睨んでやることもある。
しかし|効《き》き目のあろうわけはない。城太郎は知り抜いているのだ。そんな|怖《こわ》い顔したって、心のなかでは、おいらが可愛くてならないくせに――と。
そういう横着と、今の季節と、飽くことを知らない胃ぶくろが、行く先々、食べ物とさえ見れば、
「よう、よう、お通さんてば。あれ買っておくれよ」
と、彼の足を、往来へ釘づけにしてしまう。
先ほど、通りこえた|須《す》|原《はら》の|宿《しゅく》には、木曾将軍の四天王、今井|兼《かね》|平《ひら》の|砦《とりで》の|址《あと》があるところから「|兼《かね》|平《ひら》せんべい」を軒並み売っていたため、とうとうそこでは、お通が根負けして、
「これだけですよ」
念を押して、買って与えたが、|半里《はんみち》と歩かない|間《うち》に、それもぼりぼり食べ終ってしまい、ややともすると、なにか物欲しそうな顔をする。
|寝《ね》|覚《ざめ》では、宿場茶屋の端をかりて、早目な昼めしを喰べたので、事なく済んだが、やがて一峠越えて、|上《あげ》|松《まつ》のあたりへかかると、
「お通さん、お通さん。干し柿が下がっているぜ。干し柿喰べたくないかい?」
そろそろ謎をかけ始める。
牛の背に乗って、牛の顔のように、お通が聞えない振りをしているので、|空《むな》しく、干し柿は見過ごしてしまったが、程なく木曾第一の|殷《いん》|賑《しん》な地、|信《しな》|濃《の》福島の町中へさしかかると、折から陽も|八刻《やつ》頃だし、腹も|減《へ》り頃なので、
「休もうよ、そこらで――」
と、また始め出した。
「ね、ね」
こう鼻で|捏《こ》ね出すと、駄々に|粘《ねば》りが出るばかりで、歩けばこそ、テコでも動く顔つきではない。
「よう、ようっ。|黄《きな》|粉《こ》|餅《もち》たべようよう。……嫌かい?」
こうなっては一体、ねだっているのか、お通を脅迫しているのか、分らない。彼女の乗っている牛の手綱は、城太郎の手に曳かれているため、彼の歩き出さぬうちは、どう|焦《いら》|々《いら》思っても、黄粉餅屋の軒先を、通り越えることができないからである。
「いい加減におしなさい」
遂に、お通も意地になってしまう。城太郎と共謀して、往来の地面を|嘗《な》めまわしている|牝《め》|牛《うし》の背から、眼にかど[#「かど」に傍点]を立てて、
「ようござんす。そんなに私を困らすなら、先へ歩いていらっしゃる武蔵様へ、いいつけて上げるから――」
そして彼女は、牛の背から降りそうな真似をしたが、城太郎は笑って見ている。止める真似もしないのである。
城太郎は、意地わるく、
「どうするの……?」
彼女が、先へ行く武蔵へ、いいつけに行かないことは、百も承知の顔つきでいう。
牛の背から降りてしまったので、お通は、仕方なしに、
「さ、はやくお喰べなさい」
と、黄粉餅屋の陰へはいって行く。
城太郎は威勢よく、
「餅屋のおばさん、二盆おくれ――」
呶鳴っておいてから、軒先の|馬《うま》|繋《つな》ぎに牛をつなぐ。
「わたしは喰べませんよ」
「どうしてさ」
「そんなに喰べてばかりいると、人間が|莫《ば》|迦《か》になりますから」
「じゃあ、お通さんのと、二盆喰べてしまうぜ」
「――まあ、呆れた子」
なんといわれようが、喰べているうちは、耳のないような城太郎の姿である。
がらにもない大きな木剣が、|屈《かが》みこむと|肋骨《あ ば ら》に|触《さわ》って、|欣《よろこ》ぼうとする官能の邪魔になる気がするのであろう、中途から、その木剣をぐるりと背中へ廻して、一度、むしゃむしゃやりながら往来へ眼を遊ばせた。
「はやく喰べてしまいませんか。よそ見などしていないで」
「……おや?」
城太郎は、盆に残っている一つを、あわてて口へ|抛《ほう》りこむと、なにを見たか、往来へ駈け出して、小手をかざした。
「もういいんですか」
|鳥目《ちょうもく》をおいて、お通も後から出て来ようとすると、城太郎は彼女を|床几《しょうぎ》へ押しもどして、
「待ちなよ」
「まだなにかねだるつもり?」
「今、|彼方《む こ う》へ、又八が行ったからさ」
「嘘」
お通は信じない。
「――こんな所を、あの人が通るわけがないではありませんか」
「ないかあるか知らないけれども、たった今、|彼方《む こ う》へ行ったもの。編笠をかぶっていたぜ。そして、お通さんは気がつかなかったかい。おいらとお通さんをじっと見てたよ」
「……ほんとに」
「嘘なら呼んで来ようか」
――飛んでもないことである。又八という名を聞いただけでも、彼女はまた、元の病人へ帰ったように、顔の血がさっと|退《ひ》いている程ではないか。
「いいよ、いいよ、心配しないでも、もし何かして来たら、先へ歩いている武蔵様のとこへ駈けて行って、呼んで来るから」
その又八を怖れて、いつまでもここにいれば、自分たちより何町か先へ歩いている武蔵とも、自然かけ離れてしまうことになろう。
お通は、再び牛の背に腰かけた。まだ、病後の体は決してほんとではない。ふと、今のようなことを聞いても、動悸がなかなかしずまらない。
「ね? お通さん。おいらには、ふしぎでならないよ」
ふいに城太郎はこういって、彼女の|褪《あ》せた唇を、思い遣りなく、牛の前から振り仰いだ。
「――何がふしぎかっていえばさ、|馬籠峠《まごめとうげ》の滝つぼの上までは、お師匠さんも口をきき、お通さんも口をきき、仲よく三人づれで来たのに、あれからこっち、ちっとも口をきかないじゃないか」
お通が答えないので、彼はまた、
「どうしてなのさ、え? お通さん。――道も離れて歩くし、晩もちがった部屋に寝るし……喧嘩でもしたのかい?」
――またよけいなことを訊く。
喰べ物のことをいわなくなったと思うと、今度はませ[#「ませ」に傍点]た口で休みなくお|喋舌《し ゃ べ》りなのだ。それもよいが、お通と武蔵との仲を、とやかくと|穿《うが》ってみたり、探ってみたり、からかってみたりする。
(子供のくせに)
と、お通は、胸に|傷《いた》いところであるだけに、真面目に答える気にはなれない。
こうして牛の背をかりて旅の出来るほどには、体のぐあいも|癒《よ》くなっては来たが、彼女の|病《やまい》以上の問題は、決してまだ解決はしていない。
あの|馬《ま》|籠《ごめ》峠の――|女《め》|滝《たき》と|男《お》|滝《たき》の|滝《たき》|津《つ》|瀬《せ》には、まだあの時の、自分の泣き声と、武蔵の怒った声が、どうどうと、|淙《そう》|々《そう》と|咽《むせ》び合って、そのまま二人の喰い違った気持を百年も千年も、この心が解けあわぬうちは、怨みに残していることであろう。
思うたびに、今でもそれが彼女の耳へ|甦《よみがえ》ってくる。
(なぜ私は?)
と彼女はあの折に、武蔵が自分へ迫って求めた烈しいそして率直な欲望を、自分もまた、満身の力で|拒《こば》んでしまったことを、幾たびも、
(なぜか? なぜか?)
と心の中で悔いてみたり、分ろうとする努力をしてみたり、頭から離れぬものとなっているが、果ては、
(男というものは、誰でもあんなことを、女に|強《し》いるものなのかしら?)
と、悲しくなり、浅ましくなり、年久しく独り抱き秘めていた恋の聖泉は、この旅先の女滝男滝の山を越えてから、その滝水のように狂おしく烈しく胸を揺りつづけるものと変っていた。
そして、もっと彼女自身、分らなくなっていることは、武蔵の強い抱擁を|交《か》わして逃げたくせに、その後の旅でも、こうして武蔵の姿を絶えず見失うまいとしながら、後に|尾《つ》いて行く|矛盾《むじゅん》であった。
勿論、あれからというものは、変に気まずくなって、お互いに口も滅多にきかないし、道中も並んでは歩かない。
しかし先へ行く武蔵の足も、後から来る牛の歩みに合せて、初めの約束の如く、江戸表まで共に出ようといった言葉を破棄してしまう考えはないらしく、城太郎のため時々道草をして遅くなっても、何処かで必ず待っていてくれた。
五町七辻の福島を|出《で》|端《はず》れると、|興《こう》|禅《ぜん》|寺《じ》の曲り角から登りになって、|彼方《か な た》に関所の|柵《さく》が見える。関ケ原の|戦《いくさ》から後は、牢人調べや女の通行がやかましいと聞いていたが、烏丸家からもらって来た手形がものをいって、ここも難なく通り、両側の関所茶屋から眺められながら牛に揺られて来ると、
「ふげん[#「ふげん」に傍点]て、なんだろう。――お通さん、ふげん[#「ふげん」に傍点]て何のこったい?」
と、城太郎がいきなり訊ねだした。
「今ネ。あそこの茶屋に休んでいた坊さんだの旅の者が、お通さんを指して、そういったんだよ。――牛に乗ったふげん[#「ふげん」に傍点]みたいじゃのう……ってね」
「|普《ふ》|賢《げん》|菩《ぼ》|薩《さつ》のことでしょう」
「普賢菩薩のことか。じゃあおいらは、|文《もん》|殊《じゅ》様だ。普賢菩薩と文殊菩薩は、どこでも並んでいるからね」
「食いしん坊の文殊様ですか」
「泣き虫の普賢様となら、ちょうど似合うだろう」
「また!」
とお通が、嫌がって顔を|紅《あか》らめると、
「文殊と普賢菩薩は、どうしてあんなに並んでるんだろう。男と女でもないくせに」
と、奇問を発する。
お寺で育ったお通であるから、それについてなら、説明はできるが、城太郎の執拗な反復を|惧《おそ》れて、ただ手短に、
「文殊は知慧を現し、普賢は|行願《ぎょうがん》を現している仏様です」
といった時、いつのまにか何処からか、|蠅《はえ》のように牛の尻尾へついて来た一人の男が、
「おいっ」
と、|尖《とが》った声で呼び止めた。
さっき福島で、城太郎がちらと見かけたという、本位田又八であった。
そこらで待ちうけていたものに違いない。
――卑劣な男。
お通は彼の顔を見るや、すぐこみあげてくる|侮《ぶ》|蔑《べつ》の念を、どうしようもない。
「…………」
又八は又八で、彼女のすがたを見ると、愛憎こもごも、血を駆け|巡《めぐ》って、おのずから|眉《み》|間《けん》に感情の|錐《きり》が立ち、まったく常識というものを欠いてしまう。
まして彼は、武蔵とお通が、京都を出てから連れ立っていた姿を見ている。その後、口もきかずよそよそしく歩いているのも、|畢竟《ひっきょう》、昼間だけ人目を|憚《はばか》っているに過ぎないものと見ていた。それだけに人目のない二人だけの時にはどんなに――と|瞋《しん》|恚《い》の|炎《ほむら》に燃えて邪推もされる。
「降りろ」
命じるように、彼は、牛の背に|俯向《う つ む》いているお通へやがていった。
「…………」
お通には答える言葉もない。|疾《と》うに心からない人なのだ。いやもう数年も前に、先の方から|許嫁《いいなずけ》という未来の日を破棄したあげく、先頃、京都の清水寺の谷間では、|刃《やいば》を持って自分を追い、危うく殺されかけた程、怖ろしい目に会わせられた人間。
答えるならば、
(今になって何の用が――)
という以外、挨拶がないではないかと、黙っている眼のうちに、いよいよ、彼に対する憎悪と|蔑《さげす》みが|漲《みなぎ》ってくる。
「おいっ、降りないか!」
又八は、二度さけんだ。
この息子も、あのお杉婆という母親も、村にいた頃からの口ぐせを未だに持って、もう許嫁でもなんでもない彼女へ、権ぺいに|吩《いい》|咐《つ》けがましくいうことが、今のお通には、|謂《いわれ》なく思われて、|憤《む》っと反感をあおられてならない。
「なんでございますか。わたくしには降りる用はございませんが」
「なに」
又八は、側へ来て、その|袂《たもと》をつかみ、
「なんでもいいから降りろっ。お前にはなくても、俺には用があるのだ」
声で脅すように、往来の|見得《みえ》もなく、そう呶鳴った。
――と、それまでは、黙って見ていた城太郎が、牛の手綱を捨てて不意に、
「嫌だっていうもの、無理じゃないか!」
又八に負けない声を出していっただけならよいが、手を出して、相手の胸いたを突いたから納まらない。
「おやっ――|此奴《こ い つ》」
又八は、踏み|蹌《よろめ》いた足を、草履の緒へかけ直すと、尻込みする城太郎へ、物々しい肩を|昂《あ》げて、
「なんだか、見たような鼻くそ[#「くそ」に傍点]だと思ったら、てめえは北野の酒屋にいた小僧ッ子だな」
「大きなお世話だ。自分こそあの頃は、よもぎの寮のお甲っていうおかみさんに、いつも叱られて、|小《ち》っちゃくなっていたくせに」
これは又八に取って何をいわれるより痛かったに違いない。ましてお通をそこにおいてはである。
「このチビ」
|掴《つか》みかかると、城太郎はすばやく、牛の鼻先から向う側へ逃げ廻って、
「おいらが鼻くそ[#「くそ」に傍点]なら、自分なんか何だい。鼻の下の長い|洟《はな》たれだろう」
もう勘弁ならぬという顔を示して、又八が近づくと、城太郎は牛を楯にして、二、三度、お通の下をぐるぐると逃げ廻ったが、とうとう襟がみをつかまれてしまい、
「さあ、もう一遍いってみろ」
「いうともッ」
長い木剣を半分まで引き抜いた時、彼の体は、並木の外の|藪《やぶ》へ、猫みたいに|抛《ほう》り飛ばされていた。
藪の下は、|畦《あぜ》の小川であった。城太郎は|泥鰌《どじよう》のようになって、元の並木へ這いあがった。
「……おやッ?」
往来を見廻すと、牛は、お通を背に乗せたまま、重い体を|揺《ゆ》さ|振《ぶ》って、彼方へ駈出しているではないか。
その手綱を引っ張りながら、手綱の一端をムチに打ち振り、共に砂を上げて、駈けてゆく影は、又八に相違ない。
「ちっ、畜生」
彼の血は、それを見るや、一時に頭へのぼって、自分の責任感と小さい力のみを奮い起し、急を他へ告げて、はやく策をとることを忘れてしまった。
動いているのであろうが、白い雲の帯は、動いているとも目には見えない。
|雲表《うんぴょう》にある駒ケ岳は、その広い|裾《すそ》の一つの波ともいえる丘に足を休めている一人の旅人へ、何か無言のことばをかけているように、鮮やかに仰がれた。
(はて。おれは何を考えていたろう?)
武蔵はふと、われに返って、わが身を見直した。
眼は山を見ながら、心はそこになく、お通のことばかりがつき|纏《まと》う。
彼には解けないのだ。
いくら考えてみても、|処女《お と め》ごころの真の|相《すがた》がわからない。
やがては、腹が立ってしまうのだった。なぜ彼女へ率直に迫ったことがいけないか。その火を自分の胸から呼び出したのは彼女ではないか。自分は、自分の情熱の|相《すがた》をそのまま彼女に見せた。すると彼女の手は、案に相違して自分を|刎《は》ね|退《の》け、自分を見下げ果てたもののように、身を|躱《かわ》してしまった。
あの後の|慚《ざん》|愧《き》、恥ずかしさ、|遣《や》り|場《ば》もない苦い男の気持。それを滝つぼに投げこんで、心の|垢《あか》を洗い上げたつもりであったが、日が経つに従い、またどうにもならない迷妄がわいてくる。幾度か、自分の愚を|嘲《わら》って、
(女など、振り切って、なぜ先へ行ってしまわぬか!)
武蔵は、自己に命じてみたが、それはただ、おろかな自分に、|言《い》い|訳《わけ》の虚飾をつけてみるに過ぎない。
江戸表に出て、|貴女《あ な た》は好きな道を習え、自分も志す所へ邁進して――と、暗に未来の誓いを与えて、こうして京都から立って来たについては、十分自分にも、責任がある。途中で振り捨てては行かれるものではないと思う。
(――どうなるのだ、こうして二人は。おれの剣は!)
山を仰いで、彼は唇を噛んでいた。余りにも小さい自分が恥じられてくる。そうして、駒ケ岳と|対《むか》い合っていることさえ苦しくなってくる。
「まだ来ない」
|耐《たま》りかねて、ぬっと立った。
それは、もう|疾《と》うに、後から見えて来なければならないはずの、お通と城太郎へいった|呟《つぶや》きである。
今夜は|藪《やぶ》|原《はら》で泊るといってあるのに、宮腰の宿場もまだ遥かてまえなのに、すでに陽は暮れかけているではないか。
ここの丘から見ていると、十町も先の森まで、一|眸《ぼう》に街道は見渡されるが、それらしい人影はいつまでも見出せない。
「はてな? ……。関所でなにか暇どっているのだろうか」
捨てて行こうかとすら惑いながら、その影が、うしろに見えなくなれば、武蔵はすぐ心配になって、一歩も先へは出られなかった。
そこの低い丘から彼は駈け降りた。この地方に多い放し飼いの野馬が、彼の影に|愕《おどろ》いたもののように、薄陽の原を八方へ逃げて飛ぶ。
「もしもし、お侍さま。あなたは牛へ乗った|女子衆《おなごしゅう》の、お連れ様じゃございませんか」
彼が、街道へ出るとすぐ、往来の一人が、そういいながら側へ寄って来た。
「えっ、その者に、なにか間違いでもござったか」
先のことばを聞かないうちに、虫の知らせか、武蔵は早口に問い返した。
|木《き》|曾《そ》|冠《かん》|者《じゃ》
さっき関所茶屋から程遠からぬ場所で、本位田又八が、お通の牛に|鞭《むち》|打《う》って、彼女ぐるみ、何処かへ|攫《さら》って行ったということは、目撃していた旅人の口から伝わって、もうこの街道筋では、隠れもない噂ばなしにのぼっている。
丘にいたため、それを知らずにいたのはかえって武蔵一人であった。
その武蔵は今、|倉《そう》|皇《こう》と、もと来た道の方へ駈け戻って行ったが、すでに事件が伝わってから半刻ほども経た後のことである。
――もし彼女の身に何らかの危急が襲ったとすれば、間に合うかどうか。
「亭主、亭主」
関所の|柵《さく》は、|六刻《むつ》で閉まる。それと一緒に、|床几《しょうぎ》をたたんでいた茶店のおやじは、後ろに立って、こう|喘《あえ》ぎ声でよぶ人影に、
「なにかお忘れ物でも?」
と、ふりかえった。
「いや、|半《はん》|刻《とき》ほど前に、ここを通った|女《おな》|子《ご》と少年を探しておるのだが」
「ああ、牛に乗った|普《ふ》|賢《げん》|様《さま》のようなお女中でございましたな」
「それだ。その二人を、|牢《ろう》|人《にん》|体《てい》の男が、|無《む》|体《たい》に連れ去ったというが、その行く先を知るまいか」
「見ていたわけではございませぬが、往来の噂では、この店の首塚のある所から横道へ曲って、|野《の》|婦《ぶ》|之《の》|池《いけ》の方へ、どんどん駈けて行ったと申しますが」
その指さす薄暮の中へ、武蔵の影はもう宙を飛んで|淡《うす》れて行く。
|途《みち》|々《みち》、聞きあつめた噂を綜合してみても、なんのために、何者が、彼女を|拉《らつ》して行ったのか、見当がつかない。
その下手人が又八であるなどとは、彼には想像もできなかった。いずれこの道中で後から追いついて来るか、江戸表で落合うかすることにはなっているが、いつぞや|叡《えい》|山《ざん》の無動寺から峰越えして大津へかかる途中の峠茶屋で五年越しの誤解を解き、お互いが|幼《おさな》友達の昔に返って、
(きょうまでのことは水に流して)
と手を握り、
(貴様も真面目になって、希望を持て)
と武蔵が励ませば、又八も目に涙すらたたえて、
(勉強する。きっと真人間になって|遣《や》り|直《なお》すから、おれを弟とも思って、これからは導いてくれ)
と、あれほど|欣《よろこ》んでいった又八。
その又八が? ――などとどうして疑われようか。
疑えば、戦後の各地に、職を求めながら職にも就けず、結局、浮浪の徒とよばれている牢人の中のよからぬ者か。或は、世の中の推移にかかわらず世間の抜け目ばかり|窺《うかが》っているゴマの灰とか、|人《ひと》|買《かい》とかいう、道中荒らしの|鼠《そ》|賊《ぞく》か。さもなければ、|剽悍《ひょうかん》なるこの地方の野武士か。
武蔵としては、そんなふうにしか下手人を考えられなかったが、それとて闇をつかむようなもので、|野《の》|婦《ぶ》|之《の》|池《いけ》の方角というだけを目あてに急いでみたが、陽が暮れると、冴え切った星空に反して、地上の暗さは、一尺先の足元も|覚《おぼ》つかない。
第一、野婦之池とか聞いたが、その池らしい所へもなかなか出て来なかった。そして田も畑も森も、ゆるい傾斜に乗って、道も少しずつ登り気味なのを考えると、すでに駒ケ岳の|裾《すそ》|野《の》を踏んでいるらしいが――と武蔵は立ち迷い、
「道を間違えたな?」
と、思った。
行く手を見失ったように――そうして広い闇を見まわしていると、駒ケ岳の巨大な壁を負って、|一《ひと》|叢《むら》の防風林に囲まれた農家から、なにか外で|焚《た》いている明りか、|竈《かまど》の火か、ぼうと赤い光が木立ちの垣に|映《さ》して見えた。
近づいて、そこの地内を覗いて見ると、武蔵にも見覚えのある|斑《まだら》の|牝《め》|牛《うし》が――ただしお通のすがたはどこにも見えないが――その牛だけは健在に、明りの|映《さ》している百姓家の|厨《くりや》の外に繋がれて、無事に啼いているではないか。
「……お? あの|斑牛《ぶち》だが」
ほっとして武蔵は胸をなで下ろした。
この|家《や》に、お通の乗っていた牛が繋がれているからには、お通の身も、共にここへ連れ込まれていることはもう疑う余地もあるまい。
だが。
この防風林の中の百姓家はいったい何者の|住居《す ま い》か。――不覚に踏み込んで、再度、お通を隠されるようなことになってはならないと、同時に、武蔵は戒心する。
で、しばらくの間、影を|密《ひそ》めて、中の様子を窺っていると、
「おっ|母《かあ》、いいかげんにもう止めんかい。眼がわるい眼が悪いといいながら、そんな暗れえとこでいつまで、仕事してるだ」
|薪《まき》や|籾《もみ》|殻《がら》の散らかっている隅の暗がりから、途方もない大声でいう者がある。
次の気配に耳を澄ましていると赤々と火の影の揺れているのは、|厨《くりや》の次の|炉《ろ》|部《べ》|屋《や》で、その部屋か、次の破れ障子の閉まっている辺りで、微かに、糸をつむぐ糸車の音がする。
しかし、すぐその音が止んだのは、おっ|母《かあ》と今呼んだ怖ろしく威張った息子のいうことを聞いて、すぐ仕事を片づけているものと思われた。
隅の小屋で、なにか働いていた息子は、やがてそこを閉めながらまた、
「今、足を洗うからすぐ飯が喰えるようにしといてくれえ、いいかあおっ|母《かあ》」
草履を持って、|厨《くりや》のそばを流れている|溝《みぞ》ぎわの石に腰かけ、二、三度足をざぶざぶやっていると、その肩へ、|斑《まだら》の|牝《め》|牛《うし》がのっそりした顔をつき出した。
息子は牝牛の鼻づらを撫でながら、いっこう返辞もない母屋の人へ向ってまた大きな声でいう。
「おっ|母《かあ》、後で手があいたら、ちょっとここへ来て見さっしゃい。おらあ今日、飛んでもねえ拾い物をして来たぜよ。――何だと思う? 分るめえが、牛だよ、しかもすばらしい牝牛だ。畑にも使えるし、乳も|搾《と》れる」
その言葉も、外に|佇《たたず》んでいた武蔵が、よく耳に入れて、その人間の何者かをもっと見届けていたら、後の間違いもなかったであろうに――|生《あい》|憎《にく》と彼はもうあらかたの空気を察して、この木立ち囲いの一軒の入口を求め、家の横へ迫っていた。
農家としては、かなり広そうだし、壁造りを見ても、旧家に間違いないが、小作もいない女気もない、|藁《わら》屋根も|苔《こけ》に朽ちながら、その|屋《や》|根《ね》|葺《ふき》の手も乏しい無人の家らしく思われた。
「……?」
明いている横の小窓。その小窓の下の石を踏み台にして、武蔵は、母屋の内をまずそっと|覗《のぞ》いてみた。
なにより先に、彼の眼を射たのは、黒い|長押《な げ し》に掛かっている一筋の|薙刀《なぎなた》だった。めったに民間にあっていい品物ではない。尠なくも、一かどの武将が手艶にかけた|業《わざ》|物《もの》で、|鞘《さや》の|揉《もみ》|皮《かわ》には金紋の|箔《はく》すら|朧《おぼ》ろに残って見える。
――さては。
と、武蔵は思い合わせて、よけいに疑いを深くした。
さっき、隅の小屋から足を洗いに飛び出した若い男の|面《つら》がまえは、ちらと|火《ほ》|影《かげ》に見ただけであるが、到底、|凡《ただ》|者《もの》の|眼《まな》ざしではなかった。
腰きりの野良着に、泥まみれな|脚《きゃ》|絆《はん》を|穿《は》き、一本の|野《の》|差刀《ざし》を腰にぶちこんでいるが、丸っこい顔に、そそけ立つ髪の毛を、眼尻あがりに藁でつかね、背は五尺五寸に足るまいが、胸の肉づきといい、足腰のよく地にすわっている動きといい、一見、
(こいつ|曲《くせ》|者《もの》)
と感じないでいられないものを武蔵は先に見ていたのである。
案のじょう、母屋には、百姓の持つべきでない|薙刀《なぎなた》などがある。そして、|藺《い》を敷いた床に人も見えず、ただ大きな炉の中に、ばちばちと|松《まつ》|薪《まき》が燃え、その煙は、一つの窓からむうっと外へ吐き出されてくる。
「……あっ」
武蔵は、|袂《たもと》で口をおおったが、忽ち|咽《むせ》んで、|怺《こら》えようとする程――|咳《せき》をしてしまった。
「誰じゃ?」
|厨《くりや》の中で、老婆の声がした。武蔵が窓の下にかがみ込んでいると、炉部屋にはいって来たらしく、再びそこで、
「権之助っ。――小屋は閉めたか。また、|粟《あわ》泥棒がそこらへ来て、くさめ[#「くさめ」に傍点]をしておるぞよ」
――来たら幸い。
まずあの|猪男《ししおとこ》を手捕りにして、お通をどこに隠したか詮議はそれからのことにしよう。
老婆の息子らしい勇猛そうなその男のほかに、いざとなれば、まだ二、三名の敵は飛び出すかも知れないが、彼さえ取ッちめれば、物の数ではない。
武蔵は母屋の中の老婆が、権之助権之助と呼び立てると共に、小窓の下を離れて、この家を囲む立木の一部に身を隠していた。
するとやがて、
「どこにっ?」
と、権之助とよばれた息子は、裏から大股に素ッ飛んで来て、もいちど|其処《そこ》で、
「おっ|母《かあ》、なにがいたんだ?」
と呶鳴って訊く。
小窓に、老婆の影が立って、
「その辺で、今|咳声《しわぶき》が聞えたがの」
「耳のせいじゃないか。おっ母はこの頃、眼も悪くなったし、耳もとんと遠くなったからなあ」
「そうでない。誰か、窓から家の内を覗き見していたに違いない。煙に|咽《む》せた声じゃった」
「ふうん……?」
権之助は、十歩二十歩、その辺を、あたかも城郭でも見廻るように歩いて、
「そういえば、何だか、人間臭いぞ」
と、|呟《つぶや》いた。
武蔵が|迂《う》|闊《かつ》に出なかった|理《わけ》は、闇に光る権之助の眼の実にらんらんと害意に燃えているためであった。
それと、足のつま先から胸いたにかけて、ちょっと当り難い構えを備えているので、それも不審に思い、何を持っているのか|得《え》|物《もの》を確かめるつもりで、彼の歩みまわる影を凝視していると、右の|手《て》|裡《うら》から小脇を後ろに抜け、約四尺ばかりの丸棒をしのばせていることが分った。
その棒も、そこらの|麺《めん》|棒《ぼう》やしん[#「しん」に傍点]|張《ばり》|棒《ぼう》を、有り合うまま、引っ抱えて来たものとは違い、一種の武器としての光を持っている。――のみならず、棒と、棒を持つ人間とが、武蔵から見ると、まったく二つにして一つのものとなっている。いかにこの男が、常にその棒と共に暮しているかが分るほどなのだ。
「やっ、|誰奴《ど い つ》だッ?」
ふいに棒は風を呼んで、権之助の背から前へ伸びた。武蔵はその唸りに吹かれたように、棒の先から、やや斜めに、身を移して立った。
「連れ人を引取りに来た」
――相手が、自分を|睨《ね》めすえたまま黙っているので、
「街道からこれへ|誘拐《かどわか》して来た|女《おな》|子《ご》と|童《わらべ》を返せ。――もし無事に戻して詫びるならば免じておくが、怪我などさせてあったら承知せぬぞ」
と、重ねていった。
この辺の塀といってもよい駒ケ岳の雪渓から、里とはひどく温度の差のある冷たい風が、星の下を、時折そよそよ忍んでくる。
「――渡せッ。連れて来いっ」
三度めである。
武蔵がその雪風よりも鋭い声で斬るようにいうと、|逆《さか》|手《て》に棒を握って、喰い付くような眼をすえていた権之助の髪の毛が、針ねずみのように、|颯《さ》っと立った。
「この|馬《ま》|糞《ぐそ》め! おれを|誘拐《かどわか》しだと?」
「おう、連れもない、|女童《おんなわらべ》と見くびって、これへ誘拐して来たに違いあるまい。――出せっ、隠した者を」
「な、なんだとッ」
権之助の体から突然、四尺余の棒が噴いて出た。――棒が手か、手が棒か、その|迅《はや》いことは眼にもとまらない。
武蔵は避けるより仕方がなかった。驚くべきこの男の練磨と|技《わざ》の体力を前にしては。
で、一応、
「おのれ、|後《のち》に悔ゆるな」
警告を与えておいて、自分は数歩|跳《と》び|退《の》いたが、不可思議な棒の使い手は、
「なにを、|洒《しゃ》|落《ら》くせえ」
と|喚《わめ》きながら、決して一瞬の|仮借《かしゃく》もするのではなかった。十歩|退《の》けば十歩迫り、五歩|躱《かわ》せば五歩寄ってくる。
武蔵は相手から跳び開く間髪ごとに、二度ほど、刀の柄へ手をやりかけたが、その二度とも、非常な危険を感じて、遂に、抜き放つ|遑《いとま》すらもない。
なぜならば、手を柄にかける一瞬でも、敵の前に|肘《ひじ》を|曝《さら》す隙となるからである。敵によって、そんな危険は感じない場合と、戒心する場合があるが、当面の相手が振りこんで来る棒の唸りは、武蔵が心で用意する行動の神経よりは遥かに迅速で、それへ無謀な勇をむりに|奮《ふる》って、
(この土民めが何者ぞ)
と、敢て誇れば、当然、棒の一撃にのめるであろうし、|焦心《あせ》りを持つだけでも、呼吸にうける圧迫から、身体のみだれをどうしようもなくなってしまう。
それにまた、もう一つ武蔵を自重させた理由は、相手の権之助なる人間が、一体何者か、咄嗟に、見当がつかなくなったことである。
彼の振る棒には、一定の法則があるし、彼の踏む足といい、五体のどこといい、武蔵から見て、これは立派な|金《こん》|剛《ごう》|不《ふ》|壊《え》の体をなしている。かつて出会った幾多の達人中にも考え出されないほど、この泥くさい|田《でん》|夫《ぷ》の体の爪の先までが、武術の「道」にかない、そして武蔵も求めてやまない、その道の精神力に光っているのだった。
――こう説明してくると武蔵にも権之助にも、お互いが敵を観る|間《ま》を持って悠々構えているように思われるであろうが、事実は寸秒に次ぐ寸秒で、わけても権之助の棒は、|眼《ま》ばたきする間も停止していない。
――おおうっ。
と、満身から息をしたり、
――えおおうッ!
と、|踵《かかと》を蹴って来たり、また、りゅうりゅうと棒の攻撃を改めてかかり直して来るたびに、
「この、どたぐそ」
とか、
「かったい坊め」
とか、口汚い方言で悪たれ[#「たれ」に傍点]つきながら、打ちこんで来るのであった。
いや、棒に限っては、打ち込むという言葉は当らない。――それは打ち込みもするし、|薙《な》ぎもするし、突きもするし、|旋《まわ》しもするし、片手でも使うし、両手でも使う。
また、太刀は|切《きっ》|先《さき》と、柄の部分とが、はっきり分れていて、その一方しか活用できないが、棒は両端が切先ともなり、穂先ともなって、それを自由自在に使いわける権之助の練磨は、|飴《あめ》|屋《や》が飴をのばすように、長くもし、短くもするのではないかと眼に怪しまれる程だった。
「|権《ごん》っ。気をつけいよ、その相手は、|凡《ただ》|者《もの》でないぞ!」
不意に、その時、母屋の窓から、彼の老母がこう叫んだ。――武蔵が敵に感じていることを、老母も息子の身になって、同じように感じているのであった。
「でえじょうぶだよっ、おっ|母《かあ》!」
権は、すぐ横の小窓から、母が案じながら見ていることを知って、その勇猛に拍車をかけたが、一|颯《さつ》のうなりを肩越しに|躱《かわ》してはいって来た武蔵の体が、権の小手をつかんだと思うと、|巨《おお》きな石でも|降《お》ろしたように、ずしんと地ひびきして権は背中で大地を打ち、足は高く星の空を蹴っていた。
「待たッしゃい! 牢人」
わが子の一命が今や危うしと思ったか、小窓に|縋《すが》っていた老母は、そこの竹格子を突き破って、凄まじい一声を武蔵に浴びせ、その血相は、武蔵の次の行動に思わずためらいを与えた。
その時、老母の髪の毛が逆立って見えたのは、肉親として、さもある筈のところであろう。
息子の権が投げられたことは、この老母には、非常な意外であったらしい。――投げつけた武蔵の手は当然、次の|咄《とっ》|嗟《さ》には、|刎《は》ね起きる権之助の真っ向へ、抜打ちに一太刀行くべきであった。
だが、そうではなくて、
「おう、待ってやる」
武蔵は、権之助の胸へ馬のりになり、なお、棒を離さない右の|手《て》|頸《くび》を足で踏みつけたまま老母の顔の見えた小窓を振り仰いだ。
「……?」
はッと、武蔵はしかしすぐ眼を|反《そ》らした。
なぜならば、老母の顔は、もうその窓に見えなかったからである。――組み伏せられながらも権之助は、絶えず武蔵の手を|外《はず》そうともがいているし、武蔵の制圧も届かない彼の二本の脚は、|空《くう》を蹴ったり、地へ突っ張ったり、その腰車の|脚《あし》|技《わざ》のあらゆる努力をあげて、敗地を|挽《ばん》|回《かい》しようとしているのだった。
それも決して、油断はできない上に、窓から消えた老婆の影は、すぐ|厨《くりや》の蔵からさっと走り出て来て、敵に組み敷かれている息子を|罵《ののし》っていうことには、
「何のざま[#「ざま」に傍点]じゃ、この不覚者が。母が助太刀して取らす、負くるな」
――窓口から待てという言葉だったので、武蔵は必ずや老母がこれへ来て、|額《ひたい》を地にすりつけて、わが子の助命を乞うのかと思っていたところ、案に相違して、九死一生の淵にある息子を励まし、なお戦おうというつもりらしい。
見れば、老母の小脇には、|皮《かわ》|鞘《ざや》を払った|薙刀《なぎなた》が星明りを吸って、後ろ隠しに持たれている。そして武蔵の背を|窺《うかが》いながら、
「ここな痩せ牢人めが、土民とあなどって、|小《こ》|賢《ざか》しい腕立てしやったの。ここをただの百姓家と思うてか」
と、いう。
背中へ迫られることは武蔵にとって苦手であった。組み敷いているものが生き物なので、自由に向き直るわけにゆかないのだ。権之助はまた、背中の着物も皮膚も破れるであろう程、地上を|摺《す》りうごいて、母に有利な位置を作ろうと、敵の下から|計《はか》っている。
「なアに、こんなもの。――おっ|母《かあ》、|心《しん》|配《ぺえ》しねえでもいい。あんまり近寄ってくれんな。今、刎ね|返《け》えしてみせる」
|呻《うめ》きながら、権がいうと、
「|焦心《あせ》るでない!」
と、老母はたしなめて、
「元よりこのような野宿者に負けてよいものか。御先祖の血をふるい起せ。|木《き》|曾《そ》|殿《どの》の|御《み》|内《うち》にも人ありと知られた太夫房|覚明《かくみょう》の血はどこへやったぞ」
すると、権之助は、
「ここに持っている!」
いいながら、首を|擡《もた》げて、武蔵の|膝行袴《たっつけ》の上から、|股《もも》の肉へ喰いついた。
すでに棒を離して、両手も下から働きかけ、武蔵をして何の技をする余地も与えないのだ。加うるに老母の影は、|薙刀《なぎなた》の光を曳いて、背中へ背中へと|狙《つ》け廻って来る。
「待てっ、老母」
遂にこんどは武蔵からそういった。争う愚が分ったからである。これ以上のことは、斬られるか、どっちかが死を受けなければ解決しない。
それまで行っても、お通が救われるとか、城太郎が助かるとかいうならよいが、その点はまだ疑いに過ぎないのである。――ともあれ一応穏やかに事情を打明けてみるのがいいのではあるまいか。
そう考えたので、武蔵はまず老母に向って、|刃《やいば》を|退《ひ》けというと、老母はすぐおうとはいわないで、
「権。どうしやるか」
と、組み伏せられている息子へ、和協の申し|出《い》でを、|容《い》れるか容れないか、相談するのであった。
|炉《ろ》の|松《まつ》|薪《まき》はちょうど燃え|旺《さか》っていた。この|家《や》の|母子《お や こ》が、そこへ武蔵を|伴《ともな》って来たことは、やがてあれから、話し合った末、双方の誤解が溶けたものであろう。
「やれやれ、危ないことではあった。とんだ行き違いからあのような――」
さも、ほっとしたように、老母はそこへ膝を折ったが、共に坐りかけた息子を抑えて、
「これ権之助」
「おい」
「坐らぬうち、そのお侍をご案内して、念のために、この|家《や》の内を|隈《くま》なくお見せ申したがよい。――今外で、お訊ねをうけた|女《おな》|子《ご》や|童《わらべ》が隠してないことを、よう見届けて戴くために」
「そうだ、おれが街道から、女など|誘拐《かどわか》して来たかと、疑われているのも残念。――お武家、おれに|尾《つ》いて、この家のどこでも改めてもらおう」
上がれ――と招ぜられたまま、武蔵はわらじを解いて、もう炉の前に席を占めていたが、母子の者の共々なことばに、
「いやもう、ご潔白は分りました。お疑い申した罪は、ご勘弁ねがいたい」
詫び入るので、権之助も間が悪くなって、
「おれも良くなかった。もっとそっちの用向きを|糺《ただ》した上で怒ればよかったのだが」
と、炉べりへ寄って、あぐらを組む。
だが武蔵としては、こう打解けたところで訊ねたい疑問がまだある。それは|先刻《さ っ き》、外から見届けておいた|斑《まだら》の|牝《め》|牛《うし》で、あれは自分が|叡《えい》|山《ざん》から曳いて来て、途中から病弱なお通のため道中の乗物に与えて、城太郎に、|確《しか》とその手綱を預けておいたものである。
その牝牛が、どうして、この|家《や》の裏に繋がれているのか?
「いや、そんな|理《わけ》なら、おれを疑ぐったのもむりはねえ」
権之助はそれに答えていう。――実は自分はこの辺に田を少しばかり持って百姓をしている者だが、夕方、|野《の》|婦《ぶ》|之《の》|池《いけ》から|鮒《ふな》を網に打って帰って来ると、池尻の川に一頭の牝牛が足を突っこんで|も[#「も」は「足偏」+「宛」Unicode=8e20]《も》がいている。
沼がふかいので、もがく程、牛は沼に|辷《すべ》り込み、その図ウ体を持てあまして、哀れな啼き声をあげている様子。引き上げてやって見ると、まだ乳ぶさも若い牝牛であるし、辺りをたずねても飼主の姿はみえぬし、てっきりこれは何処からか盗み出して来た野盗が持ち扱って、捨てて行ったものに違いあるまいと――独りぎめにきめてしまった。
「牛一匹あれば、ヘタな人間の半人前は野良仕事をするので、これはおれが貧乏で、おっ|母《かあ》にろくな孝養もできねえから、天が授けてくれたものと――あはははは良い気になって曳っぱって来ただけのものさ。飼主が分っちゃ仕方がねえ、牛はいつでも返すよ。だが、お通とか城太郎とか、そんな人間のこと、おらあ一切知らねえぞ」
話が分ってみると、権之助なるこの若者は、いかにも粗朴な|田舎漢《いなかもの》で、最初の間違いは、その率直な美点からむしろ起ったものといえる。
「じゃが旅のお侍、さだめしそれは心配なことでござろう」
と老母はまた老母らしく側から案じて、息子にいう。
「権之助、はよう晩飯を掻っこんで、その気の毒なお連れを一緒に探してあげい。野婦之池あたりにうろついていてくれればよいが、駒ケ岳のふところへでもはいりこんだら、もう|他国《よそ》|者《もの》の衆に知れることじゃない。――あの山には、馬や野菜物さえのべつ|攫《さら》ってゆく|野《の》|伏《ぶせ》りが、たんと巣を喰うているそうな。おおかたそんな|無頼《な ら ず》|者《もの》の|仕《し》|業《わざ》であろうが」
ぶすぶすと、|松明《たいまつ》の先っぽに風が燃える。
|巨《おお》きな山岳の裾は、風が来たと思うと、ぐわうと草木もふき捲いて、凄い|一瞬《ひととき》の鳴りを起すが、止んだとなると、ハタと息をひそめて、不気味なほど静かな星のまたたきばかりとなる。
「旅の者」
権之助は、手に持つ松明を挙げて後から来る武蔵を待ちながら――
「気の毒だが、どうしても知れねえのう。これから野婦之池までゆく途中、もう一軒、あの丘の雑木林のうしろに、|猟《りょう》をしたり、百姓したりしている家があるが、そこで訊いても知れなければ、もう探しようがねえというもんだが」
「ご親切に、|辱《かたじけな》い。これまで十数軒を訊き歩いても、なんの手懸りもなければ、これは拙者が方角ちがいへ来ているのであろう」
「そうかも知れねえ。女を|誘拐《かどわか》す悪党などというものは、悪智恵に|長《た》けているから、滅多に追いつかれるような方角へ逃げる筈はねえ」
もう|夜半《よ な か》を過ぎていた。
駒ケ岳の裾野――|野《の》|婦《ぶ》|村《むら》、樋口村、その附近の丘や林など、宵からおよそ歩き尽くしたといってもいい。
せめて、城太郎の消息でも知れそうなものだが、誰一人、そんな者を見かけたという者もない。
わけてお通の姿には特徴があるから、見た者があればすぐ知れるわけだが、どこで訊いても、
「はてねえ?」
と、気永に首をかしげる土民ばかりであった。
武蔵は、その二人の安否に胸を|傷《いた》めると共に、縁もゆかりもないのに、この労苦を|倶《とも》にしてくれる権之助にすまない気がしてくる。明日も野良へ出て働かなければならない体だろうにと思う。
「とんだ迷惑をおかけ申したのう。そのもう一軒を尋ねてみて、それでも知れぬとあれば、ぜひがない、|諦《あきら》めて戻るといたそう」
「歩くぐれいなこと、夜どおし歩いた所で、何のこともねえが、いったいその|女《おな》|子《ご》と|童《わらべ》というのは、お武家の召使か、それとも|姉弟《きようだい》たちかね」
「されば――」
まさか、その|女性《お ん な》の方は恋人で、子供は弟子とも、答えられないので、
「身寄りの者です」
と、いうと、そういう肉親の少ない身を淋しく考え出してでもいるのか、権之助は無口になって、ひたすら野婦之池へ出るという雑木の丘の細道を先に歩いて行く。
武蔵は今、お通と城太郎を案じる気持で、胸もいっぱいになっていたが、その中にも心のうちでは、この機縁を作ってくれた運命の|悪戯《いたずら》に――たとえ悪戯であろうと感謝せずにはいられなかった。
もしお通にその災難がかかって来なかったら、自分は、この権之助に会う機会はなかったろう。そしてあの棒の秘術も見る折がなかったに相違ない。
流転の中で、お通と行きはぐれてしまったことは、彼女の生命につつがない限り、やむを得ない災難と思うしかないが、もしこの世において、権之助の棒術に出会わずにしまったら、武芸の道に生涯する自分として、大なる不幸であったろうと思う。
――で、折もあらば、彼の素姓を問い、その棒術についても深く|糺《ただ》してみたいと|先刻《さ っ き》から考えていたが、武道のことと思うと、|不《ぶ》しつけに訊きかねて、つい折もなく歩きつづけていると、
「旅の者、そこに待っていろ。――あの家だが、もう寝ているにきまっているから、おれが起して訊いて来てやる」
木々の中に沈んで見える一軒の藁屋根を指さすと、権之助はひとりで、そこらの|崖《がけ》|藪《やぶ》を掻きわけ、がさがさと駈け降りて、そこの戸を叩いていた。
程なく戻って来た権之助が、武蔵へ向って告げることには。
どうも雲をつかむような返辞ばかり、ここに住む|猟師《りょうし》の夫婦も、こちらの尋ね事については、さっぱり要領を得ないが、ただ|内儀《かみ》さんが夕方、買物に出た帰り|途《みち》、街道で見かけたという話は、ことによると|一《いち》|縷《る》の手懸りといえるやも知れない。
その内儀さんの話によると、もう星の白い宵の|時刻《ころ》、旅人の影も途絶え、並木の風ばかりが淋しい道を、おいおいと泣き声あげながら、向う見ずに素ッ飛んでゆく小僧がある。
手も顔も泥まみれのままで、腰には木刀を差し、|藪《やぶ》|原《はら》の宿場の方へ駈けて行くので、内儀さんがどうしたのかと訊いてやると、
(代官所はどこにあるか教えておくれ)
となお泣いていう。
代官所へ何しに行くかと、根を掘って訊くと、
(連れの者が、悪者に|攫《さら》われて行ったから、|奪《と》り返してもらうんだ)
との答え。
それならば代官所へ行ってもむだなことだ。お役所という所は、誰か偉い人が旅で通るとか、|上《かみ》からのお|吩《いい》|咐《つ》けとでもあれば、てんてこ舞して、道の|馬《ば》|糞《ふん》を取って砂まで|撒《ま》くが、弱い者の訴えなどに、どうして本気に耳をかして捜してなどくれるものか。
殊に、女が|誘拐《かどわか》されたとか、|追《おい》|剥《はぎ》にあって裸にされたとかいう小事件は、街道筋には朝に夕にあることで、めずらしくもなんともない。
それよりは藪原の宿一つ先へ越して、奈良井まで行くとよい。町の四ツ辻だからすぐ知れる所に奈良井の|大《だい》|蔵《ぞう》さんというて、お百草を薬にして|卸《おろ》している問屋がある。その大蔵さんにわけをいうて頼めば、この人はお役所と反対に、弱い者のいうことほど、親切に聞いてもくれるし、正しいことなら、人のために身銭を切ってなんでもひき受けてくれるから――
|内儀《かみ》さんの言葉をそのまま、権之助は口うつしにそこまで語って、
「こういってやると、その木刀を差した小僧は、泣きやんでまた、後も見ずに駈けて行ったということなんだが――もしや連れの城太郎とかいう子供が、それじゃあるめえか」
「オオ、それです」
武蔵は、城太郎の姿を、見るが如く想像しながら、
「――すると、拙者が探しに来たこの方角と、まるで違った方へ行ったわけですな」
「それやあ、|此処《ここ》は駒の|麓《ふもと》だし、奈良井へ行く道からは、ずっと横へ入っている」
「何かと、お世話でござった。それでは早速、拙者もその奈良井の大蔵とかを、尋ねて参ろう。――お蔭で|微《かす》かながら、|緒口《いとぐち》の|解《ほぐ》れて来た心地がする」
「どうせ途中になるから、おれの家へ寄って、|一寝《ひとやす》みした上で、朝飯でも喰って立つといい」
「そう願おうか」
「そこの野婦之池を渡って、池尻へ出ると、半分道で|帰《け》えれる。今、断っておいたから、舟を借りてゆくとしよう」
そこから少し降りてゆくと、|楊柳《かわやなぎ》に囲まれた太古のような水がある。周囲ざっと六、七町もあろうか。駒ケ岳の影も、いちめんの星も、ありのままに、池の|面《おもて》に|泛《うか》んでいた。
なぜなのか、この地方にそう見えない楊柳が、この池の周りだけには生い茂っている。権之助は|棹《さお》を持ち、その代りに、彼の手にあった|松明《たいまつ》は武蔵が持ち、|辷《すべ》るように池の中央を横切って行った。
水の上を行く|松明《たいまつ》の火は、暗い水に映って、一倍赤々と見えた。――その流るる焔を、お通はその時、眼に見ていたのである。人の世の皮肉といおうか、飽くまで薄縁な二人の仲といおうか、場所も、そう遠くない所から。
|毒《どく》 |歯《し》
水に映る|火《ほ》|影《かげ》と、小舟の中に人のかざしている火と、深夜の池心を行く|松明《たいまつ》は、一つの光でありながら、ちょうど二羽の火の|鴛鴦《おしどり》が泳いでゆくように遠くからは見える。
「……オオ?」
お通がそれを知った時、
「やっ、誰か来る」
と、|狼狽《あ わ て》ぎみに、声を出して、お通の縄尻を引っ張ったのは又八で、大それたことをやるくせに、何か事にぶつかると、臆病な持ち前はすぐ体に出してしまう。
「どうしよう? ……そうだ、こっちへ来い。やいっ、こっちへ来やがれ」
そこは|楊柳《かわやなぎ》につつまれている|池《ち》|畔《はん》の|雨《あま》|乞《ごい》|堂《どう》であった。なにを|祠《まつ》ってあるか郷土の人もよく知らないが、ここで夏の|旱《ひでり》に雨を祈ると、うしろの駒ケ岳からこの|野《の》|婦《ぶ》|之《の》|池《いけ》へ沛然と天恵が降るということが信じられている。
「いやです」
お通は動くまいとする。
堂の裏手にひきすえられて、|先刻《さ っ き》から又八に、|責《せ》め|苛《さいな》まれていた彼女だった。
|縛《いまし》められている両手がきくものならば、及ばぬまでも、突きとばしてやりたいと思うがそれも出来なかった。隙があったら眼の前の池に飛びこんで、堂の棟に上がっている|絵《え》|馬《ま》のように、楊柳の幹を巻いて、|呪《のろ》う男を呑まんとしている蛇身になっても――と思うが、それも出来なかった。
「立たねえか」
又八は、手に持っている|篠《しの》を|鞭《むち》にして、お通の背を、いやという程打った。
打たれる程、お通は意志が強くなる。もっと打ってみろと望みたくなる。……黙って又八の顔を|睨《ね》めつけていた。すると又八は、気が|挫《くじ》けて、
「歩けよ、おい」
と、いい直す。
それでもお通が起たないので、今度は猛然と、片手で襟がみをつかみ、
「来いっ」
ずるずると、地を引き摺られながらお通が、池心の火へ向って、悲鳴をあげようとすると、又八はその口を手拭で縛って、引っ担ぐように、堂の中へ|抛《ほう》りこんだ。
そして、|木《き》|連《つれ》|格《ごう》|子《し》を抑えながら、彼方の火影がどう来るか|窺《うかが》っていると、その小舟はやがて雨乞堂から二町ほど先の池尻の入江へ|辷《すべ》り込んで、|松明《たいまつ》の火もやがてどこかへ立ち去ったらしい。
「……あ。いい按配」
ほっとして、それには胸を撫でたが、又八の気持はまだ落着きを得なかった。
お通の体は今、自分の手の中にあるが、お通の心はまだ自分の物となりきれない。心のない肉体だけを持ち歩いていることの実に大変な辛労であるということを、彼はつぶさに宵から経験した。
無理に――暴力をもっても、彼女のすべてを、自分のものにしてしまおうとすると、お通は死の血相を見せるのであった。舌をかみ切って死のうとするのである。それくらいなことはきっとやるお通であることは幼少から知っている又八なので、
(殺しては)
と、つい盲目な力も情慾も|挫《くじ》けてしまう。
(どうして俺をこんなに嫌い、武蔵を飽くまで慕うのだろうか。――以前は、彼女の心のなかに、俺と武蔵はちょうどあべこべであったものを)
又八は、分らなかった。武蔵より自分の方が、女に好かれる素質を持っているのに――という自信がどこかにある。事実彼は、お甲を始め、幾多の女に、そうした経験がある。
これはやはり武蔵が、最初にお通の心を誘惑し、手なずけてからは、折あるごとに、自分を悪くいって、お通につよい嫌悪を抱かせるようにしたためにちがいない。
そして自分に出会えば、自分にはいかにも友情の深いようなことをいって――
(俺は、お人好しだ。武蔵に|騙《たばか》られたのだ。その|偽《にせ》ものの友情に涙をこぼしたりなどして……)
と、彼は木連格子に|倚《よ》りかかりながら、|膳所《ぜぜ》の色街でさんざいわれた――佐々木小次郎の忠言を今、心のうちで呼び返していた。
今になって思いあたる――
あの佐々木小次郎が、自分のお人好しを|嗤《わら》い、武蔵の|肚《はら》ぐろいことをさんざん|罵《ののし》って、
(尻の毛まで抜かれるぞ)
といった言葉。
それが今、彼の心にぴったりする忠言として、|甦《よみがえ》って聞えて来る。
同時に、武蔵に対しての、又八の考えは一変した。これまでも、何度となく|豹変《ひょうへん》してはまた持ち直して来た友情ではあるが、今度は今までの憎悪に輪をかけて、
「よくも俺を……」
と、心の底からわき上がる|呪《のろ》いとなって、唇を深く噛んだ。
人を憎んだり|嫉《そね》んだりすることは、日常、人一倍烈しい|質《たち》の又八であるが、|呪《じゅ》|咀《そ》するほどの強い意力は、人を恨むことにすら出来ない|質《たち》の又八であった。
けれど今度という今度こそは、武蔵に対して、七生までの|仇《かたき》のような|怨《おん》|念《ねん》が|醸《かも》されてしまった。彼と自分とは、同郷の友として育ちながら、どうしても、生涯の仇に生みづけられて来た悪縁かのように思われて来るのだった。
|似非《えせ》|君《くん》|子《し》め。――と思う。
そもそも、あいつが自分を見るたびに、いかにも|真《まこと》しやかに、やれ真人間になれの、発奮しろの、手を取り合って世の中へ出ようのと、いう|口《こう》|吻《ふん》からして、思えば|面《つら》|憎《にく》い限りである。
その泣き落しにのせられて、涙をこぼしたかと考えると、又八は、|業《ごう》|腹《はら》でたまらない。自分のお人好しを、武蔵に見すかされて|翻《ほん》|弄《ろう》されたかのように、体じゅうの血が、|呪《のろ》いと口惜しさに|沸《たぎ》り立ってくる。
(世の中の善人なんていう者は、みんな武蔵のような|君《くん》|子《し》|面《づら》した奴ばかりだ。ようし、おれはその向うに廻ってやろう。くそ勉強して、窮屈をしのんで、そんな|似非《えせ》|者《もの》のお仲間入りは|真《ま》っ|平《ぴら》だ。悪人というならいえ。おれはその|悪《あく》|方《がた》へ廻って、一生涯、野郎の出世を|邪《さまた》げてくれよう)
何事につけ、いつもよく出す又八の根性ではあったが、今度の場合に限っては、彼が生れて以来胸に抱いた精神力のうちの最大のものであった。
――どんと、ひとりでのように、彼の足は、後ろの|木《き》|連《つれ》格子を蹴とばしていた。たった今、そこへお通を押籠めた前の彼と、外に立って|腕《うで》|拱《ぐ》みして入り直して来た彼とは、わずかな間に、ヘビが|蛇《じゃ》になった程、変っていた。
「――ふん、泣いてやがら」
雨乞堂の中の暗い|床《ゆか》を眺めやって、又八は、こう吐き出すように冷たくいった。
「お通」
「…………」
「やいっ。……さっきの返辞をしろ、返辞を」
「…………」
「泣いていちゃ分らねえ」
足をあげて、蹴ろうとすると、お通は早くもそれを感じて、肩を|躱《かわ》しながら、
「あなたへする返辞などはありません。男らしく、殺すならお殺しなさい」
「ばかをいえ」鼻で|嗤《わら》って――
「おらあ今、肚を決めた。てめえと武蔵とが、俺の生涯を誤らせたのだから、おれも生涯、てめえと武蔵とに、|復讐《しかえし》してやるのだ」
「うそをおいいなさい。あなたの生涯を間違えたのは、あなた自身です。それから、お甲という女のひとではありませんか」
「何をいやがる」
「あなたといい、お杉ばば様といい、どうして、あなたの家のお血すじは、そう他人を|逆《さか》|恨《うら》みするのでしょう」
「よけいな口をたたくな。返辞をしろといったのは、おれの家内になるか嫌か、それを一言聞けばよいのだ」
「その返辞ならば、何度でもいたしまする」
「おう|吐《ぬ》かせ」
「生きているあいだはおろかなこと、未来まで、わたくしの心に結んだお人の名は宮本武蔵様。そのほかに、心を寄せるお人があってよいものでしょうか。……まして|貴方《あ な た》のような|女《め》|々《め》しい男、お通は、嫌いも嫌い、|身《み》|慄《ぶる》いの出るほど嫌いでございます」
これ程にいえば、どんな男でも、殺すか、|諦《あきら》めるか、どっちかにするであろう。
お通はそういってから、なんだか胸がすいた。そして又八に、どうされてもやむを得ないと観念していた。
「……ウウム、いったな」
又八は、体のふるえを|怺《こら》えながら、努めて冷笑して見せようとした。
「それ程、おれが嫌いか。――はっきりしていていいや。――だがお通、おれもはっきりいっておくぜ。それは、てめえが嫌おうが好こうが、俺はてめえの体を、今夜から先は、自分のものにしてしまうということだ」
「……?」
「なにを|顫《ふる》えるんだ? ……ええおい、てめえも今の言葉は、相当な覚悟をもっていったのだろうが」
「そうです、私はお寺で育ちました。生みの親の顔すら知らない|孤児《みなしご》です、死ぬことなど、いつでも、そう怖いとは思っておりません」
「冗談いうな」
又八は、|傍《そば》へしゃがみ込んで、|反向《そむ》ける顔へ、意地悪く顔を持って行きながら、
「誰が殺す? ――殺してたまるものか。こうしておくのだ!」
いきなり彼は、お通の肩と左の|手《て》|頸《くび》をかたくつかまえた。そして着物の上から――彼女の二の腕のあたりを、がぶっと、深く噛みついた。
――ひいイっ、お通は思わず悲鳴をあげた。
身を|床《ゆか》にもがいて暴れた。そして、彼の歯を|も[#「も」は「てへん」+「宛」Unicode="#6365"]《も》ぎ離そうとするほど、彼の歯の|尖《さき》を肉へ深く入れてしまった。
|淋《りん》|漓《り》たる血しおが、小袖の下を這って、縛られている手の指先までぼとぼと垂れてきた。
又八は、それでもなお、|鰐《わに》のような|唇《くち》を離さなかった。
「…………」
お通の顔は、月明りでも受けているように、見るまに白くなってしまった。又八はぎょッとして、唇を離し、そして彼女の顔の猿ぐつわを|脱《と》って、彼女の唇を調べてみた。――もしや舌でも噛み切ったのではなかろうかと。
余りの痛さに、|喪《そう》|心《しん》したのであろう、鏡の曇りのような薄い汗が顔に浮いていたが、唇の中にはなんの異常もなかった。
「……おいっ、堪忍しろ。……お通、お通」
身を揺すぶると、お通は、われにかえったが、途端に、ふたたび体を床に転ばせて、
「痛い。……痛い。……城太さアん、城太さあん! ……」
と、うつつに叫び出した。
「痛てえか」
又八は、自分も蒼白になって肩で息をつきながらいった。
「血は止まっても、歯型の|痣《あざ》は何年も消えることじゃねえ。おれの、その歯の|痕《あと》を、人が見たら何と思う? ……。武蔵が知ったら何と考えるか。……まあ当分の間、いずれ俺の物となるてめえの体に、それを手付の証印として預けておくぜ。逃げるなら逃げてもいい。おれは天下に、おれの歯型のある女に触れた奴は、おれの|女讐《めがたき》だといって歩くから」
「…………」
|梁《うつばり》の|塵《ちり》を微かにこぼして、真っ暗な堂内の床には、よよと泣きむせぶ声ばかりだった。
「……止せっ、いつまで、泣いてやがって。気が|滅《め》|入《い》ってしまわあ。もう|苛《いじ》めねえから黙れ。……うむ、水をいっぺい持って来てやろうか」
祭壇から|土器《かわらけ》を取って、外へ出て行こうとすると、そこの木連格子の外に立って、誰か、覗き見していた者がある。
誰か? ――とぎょっとしたが、堂の外に見えた人影は、途端にあわてて逃げ|転《まろ》んで行く様子なので、又八は猛然と、木連格子を|排《お》して、
「野郎っ」
と、追い駈けて出た。
捕まえてみると、この附近の土民らしく、馬の背に、穀物の俵を積み、夜を通して、|塩《しお》|尻《じり》の問屋まで行く途中だという。そしてなお、|諄《くど》|々《くど》と、
「べつに、どういう|心算《つ も り》でもなく、お堂の中に、|女《おな》|子《ご》の泣き声が聞えたので、不審に思って、|覗《のぞ》いてみただけでござります」
と、言い訳して、|平《ひら》|蜘蛛《ぐも》のように、詫び入るだけだった。
弱い者にはどこまでも強くなれる又八であるから、忽ち、|反《そり》|身《み》になって、
「それだけか。――それだけの考えに相違ないか」
と、まるで代官のように威張っていう。
「へい、まったく、それだけのことで……」
と、一方が|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》ふるえ|顫《おのの》くと、
「うむ、それなら勘弁してつかわそう。だが、その代りに、馬の背の俵をみんな降ろせ。そして、俵のあとへ、あのお堂の中にいる女を|括《くく》しつけて、俺がもうよいという所まで乗せて行くのだ」
勿論、こんな無理を押しつける場合は、又八でない人間でも、必ず刀をひねくり返して見せることは忘れない。
|嫌《いや》|応《おう》なしの|脅《おど》しである。お通は馬の背中へ|括《くく》しつけられた。
又八は、竹を拾って、馬を曳く人間を|撲《なぐ》る|鞭《むち》としながら、
「こら土民」
「へい」
「街道すじへ出てはならねえぞ」
「では、どこへお越しなさるのでございますか」
「なるべく、人の通らない所を通って、江戸まで行くのだ」
「そんなことを仰っしゃっても無理でございまする」
「何が無理だ。裏街道を行けばいいのだ。さしずめ、|中《なか》|山《せん》|道《どう》を|避《よ》けて、伊那から甲州へ出るように歩け」
「それやあ、えらい山路で、|姥《うば》|神《がみ》から権兵衛峠を越えねばなりませぬで」
「越えればいいじゃねえか。骨惜しみすると、これだぞ」
と、馬を曳く人間へ、絶えず|鞭《むち》を鳴らして、
「飯だけはきっと喰わせてやるから、心配せずに歩け」
百姓は、泣き声になって、
「じゃあ旦那、伊那までお供いたしますが、伊那へ出たら放しておくんなさいますか」
又八は、かぶりを振った。
「やかましい。俺がいいという所までだ。その間に、変な素振りをしやがると、ぶッた斬るぞ。俺の|要《い》り|用《よう》なのは、馬だけで、人間なぞは、かえって邪魔くせえくらいなものだ」
道は暗い、山にかかるほど、|嶮《けわ》しくなってゆく。そして馬も人も疲れた頃、やっと|姥《うば》|神《がみ》の中腹までかかり、足もとに、海のような雲の波と、朝の光を微かに見た。
馬の背にしがみついたまま、|一《ひと》|言《こと》も物をいわずにきたお通も、朝の光を見ると、それまでの間に、もう心をすえてしまったかのように、
「又八さん。後生ですから、もうそのお百姓さんを放してやってください。この馬を返してあげて下さい。――いいえ、私は逃げはしませぬ。ただ、そのお百姓さんが可哀そうですから」
又八はなお、疑ぐっていたが、再三再四、お通が訴えるので、遂に、彼女を馬の背から解いて降ろした後、
「じゃあきっと、素直に俺について歩くな」
と、念を押した。
「ええ、逃げはしませぬ。逃げても、|蛇《へび》|歯《は》|型《がた》が消えないうちはむだですから――」
二の腕の|傷《いた》みをおさえながら、お通はそういって、唇を噛んだ。
星の中
いかなる場所でも場合でも、武蔵は、寝ようと思う時にすぐ眠り得る修養と健康を持っていた。しかしその時間は、至って短かった。
ゆうべも――
権之助の家へ戻って来てから、着のみ着のまま、|一《ひと》|間《ま》を借りて横になったが、小鳥の声がし始める頃は、もう眼をさましていた。
けれど昨夜、|野《の》|婦《ぶ》|之《の》|池《いけ》から池尻へ出て、ここへ戻って来たのがもう|夜半《よ な か》過ぎであった。あの息子も疲れているだろうし、老母もまだ眠っているに違いない。――そう察しられるので、武蔵は小鳥の声を耳にしながら、寝床の中で、やがて雨戸の音のするのをうつらうつらと待っていた。
――すると。
隣の部屋ではない。もう一間ほど先の|襖《ふすま》らしかった。そこで誰やら、しゅくしゅくと|啜《すす》り泣いている者がある。
「……おや?」
耳を澄ましていると、泣いているのは、どうやらあの|精《せい》|悍《かん》な息子らしく、時々、子どものように|慟《どう》|哭《こく》して、
「おっかあ、それやああんまりだ。おらだって、口惜しくねえことがあるものか。……おらのほうが、おっかあよりも、どんなに、口惜しいか知れねえけれど」
と、言葉も、とぎれとぎれにしか聞き取れない。
「大きななり[#「なり」に傍点]をして、何を泣く――」
こう|三《み》ツ|児《ご》でもたしなめるように、しっかりした声で――しかし静かに叱っているのは、かの老母に間違いなく、
「それ程、無念と思うなら、この後は心を|戒《いまし》めて、一心に道を|究《きわ》めて行くことじゃ。……涙などこぼして、見苦しい。その顔を拭きなされ」
「はい。……もう泣きませぬ。|昨日《き の う》のような不覚なざま[#「ざま」に傍点]をお目にかけました罪は、どうかお|宥《ゆる》し下さいまし」
「――とは叱りましたが、深く思うてみれば、|下手《へた》と|上手《じょうず》の差。また、無事がつづくほど、人間は|鈍《なま》るという。そなたが負けたのは、当り前なことかも知れぬ」
「そうおっかあにいわれるのが、なによりおらあ辛い。|平常《ふ だ ん》も朝夕に、お叱りをうけながら、|昨夜《ゆ う べ》のような未熟な負け方。あんなざまでは、武道で立つなどという大それた志も、われながら恥ずかしい。この上は、生涯、百姓で終るつもりで、武技を磨くよりは|鍬《くわ》を持ち、おっかあにも、もっと楽をさせまする」
何事を歎いているのかと、初めは武蔵も|他事《よそごと》に聞いていたが、どうやら、|母子《お や こ》の対象としている者は、自分以外の他人ではないらしい。
武蔵は、|憮《ぶ》|然《ぜん》として、寝床のうえに坐り直した。――なんというつよい勝敗への執着だろうか。
昨夕の間違いは、もうお互いの間違い事と、心に済ましているのかと思えば、それはそれとして、武蔵に負けたという点を、ここの|母子《お や こ》は、今もって、飽くまで不覚な恥辱として、涙にくれるほど無念がっているのである。
「……怖ろしい負けず嫌い」
武蔵は|呟《つぶや》いて、そっと次の部屋へかくれた。そして夜明けの薄い光の洩れているそのまた次の一室の内を、隙間からそっと|覗《のぞ》いてみた。
見ると、そこは、この家の仏間であった。老母は仏壇を背にして坐り、息子はその前に泣き伏している。――あの逞ましい大男の権之助が、母の前には他愛もなく顔をよごして泣いている。
武蔵が、ふすまの陰から見ているとも知らず、老母はその時また、何が気に|障《さわ》ったのか、
「なんじゃと、……これ権之助、今、なんといやったか」
ふいに、声を励まして、息子の|襟《えり》がみをつかんでいた。
年来の志望であった武道を捨てて、|明日《あ し た》からは、生涯百姓で終るつもりで孝養するといった息子のことばが――気に添わないのみか、かえって、老母の心を怒らせたものの如く、
「なに。百姓で終るとか」
息子の襟がみを膝へ引き寄せると、三ツ児の尻でもたたくように、彼女は、歯がゆそうに、権之助を叱るのだった。
「どうぞして、そなたを世に出し、まいちど家名を|興《おこ》させたいものと願えばこそ、母もこの年まで、世に望みを繋いでいたものを、このまま、草屋に朽ち終るほどなら、なんで幼少からそなたに書を読ませ、武道を励まし、|稗《ひえ》|粟《あわ》に細々生きてまで、露命の糸をつむいで来ようぞ」
老母は、ここまでいうと、子の襟がみを抑えたまま、声も|嗚《お》|咽《えつ》になってしまって――
「不覚を取ったら、なぜその恥をそそごうとは思わぬか。幸いなことには、あの牢人はまだこの家に泊っておる。眼をさましたら改めて手合せを望み、その|挫《くじ》けた気持に信念を取り戻したがよい」
権之助は、やっと顔を上げたが、|間《ま》が悪そうに、
「おっかあ、それが出来るほどならば、おらが何で弱音を吐くものか」
「常の|其方《そ な た》にも似あわぬこと。どうしてそのように意気地のうなりやったか」
「ゆうべも、半夜のあいだ、あの牢人を連れ歩くうち、絶えず、|一《ひと》|撃《う》ちくれてやろうと、狙い続けていたが、どうしても、打ち撲ることができなかった」
「そなたが、|怯《ひる》みを抱いているからじゃ」
「いいや、そうでねえ。おらの体にも|木曾侍《きそざむらい》の血は流れている。|御《おん》|岳《たけ》の神前に二十一日の祈願をかけ、夢想の中に、|杖《じょう》の使い方を悟ったこの権之助だ、なんで名もない牢人づれに――と、幾度も自分では思ってみるが、あの牢人の姿を見ると、どうしても、手が出ねえだ。手を出す先に、駄目だと思ってしまうのだ」
「|杖《じょう》をもって、必ず一流を立てますると、御岳の神に誓ったそなたが――」
「でも、よくよく考えてみると、今日までのことは皆、おらの独りよがりだった。あんな未熟で、どうして、一流を|興《おこ》すことなどできるものか。そのために貧乏して、おっかあに|飢《ひも》じい思いをかけるより、きょう限り、杖を折って、一枚の田でもよけいに|耕《たがや》したほうがいいとおらあ考えただが」
「今まで、多くの人々と手合せしても、一度として、負けたということのないそなたが、きのうに限って敗れたのも、思いように依っては、そなたの慢心を、御岳の神がお叱りなされて下されたのかも知れぬが、そなたが杖を折って、わしに不自由なくしてくれても、わしが心は、美衣美食で楽しみはせぬ」
そう|諭《さと》してから、老母はなおもいうのだった。奥のお客が|眼醒《めざ》めたら、改めてもう一度、|技《わざ》を競ってみるがよい。それでも敗れたら、お前の気の済むように、杖を折って、志を断つもよかろうが――と。
ふすまの陰で始終の事を聞いてしまった武蔵は、
(さて、困ったことが……)
と、当惑しながら、そっと去って、ふたたび自分の|寝床《とこ》のうえに坐りこんだ。
どうしたものだろう?
やがて、自分が顔を見せれば、必ず|母子《お や こ》の者から、試合を求められるに違いない。
試合えば、自分は、きっと勝つ。
武蔵はそう信じる。
けれども、今度もまた、自分に敗れたなら、あの権之助は、今日まで誇っていた|杖《じょう》の自信を失って、ほんとに志を断つであろう。
また、わが子の達成を、唯一の生きがいとして、貧困の中にも子の教育を忘れずに今日まで来た――あの母親の身になったら、どんなに落胆するだろうか。
「……そうだ、この試合は、|外《はず》すに限る。だまって、裏口から逃げ出そう」
縁の戸をそっと開けて、武蔵は外へ出た。
もう朝の|陽《ひ》が木々の|梢《こずえ》から薄白くこぼれている。ふと納屋のある片隅を見ると、きのうお通にはぐれて|此家《ここ》へ拾われて来た|牝《め》|牛《うし》が、今日は今日の陽を豊かに浴びて、そこらの草を喰べていた。
(おい、達者で暮せよ)
そんな気持がふと牛に向ってもわくのであった。武蔵は防風林の垣を出て、駒の裾野の畑道を、もう大股に歩いていた。
片方の耳はひどく冷たいが、今朝は|鮮《あき》らかに全姿を見せている駒の|頂《いただき》から落ちてくる風に、足元から払われて行くと、ゆうべからの疲れも|焦躁《しょうそう》も|颯《さ》っと遠方のものになってしまう。
仰ぐと、雲が遊んでいる。
ちぎれちぎれな無数の白い綿雲。各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]が、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]の|相《すがた》を持ち、気ままに自由に屈託なく、|碧空《あおぞら》をわがもの顔に戯れてゆく。
「――|焦心《あせ》るまい、あまりこだわるまい。会うも別れるも、天地の何ものかがさせている力だ。幼い城太郎にも、弱いお通にも、幼ければ幼いなりに、弱ければ弱いなりに、世間のなかの――それが神だともいえる――|善性《ぜんしょう》の人の加護があるであろう」
|昨日《き の う》から|迷《はぐ》れかけた――いや、|馬《ま》|籠《ごめ》の|女《め》|滝《たき》|男《お》|滝《たき》からずっと|外《そ》れがちに|彷徨《さ ま よ》ってばかりいた武蔵の心が――ふしぎにも今朝は、自分の歩むべき大道へ、しっかと返っている心地だった。お通は? ――城太郎は? ――とか、そんな眼の|傍《そば》のことのみでなく、死後の先までかけている生涯の道の行く手がこの朝――、彼には見えていた。
|午刻《ひる》過ぎごろ。
彼の姿は奈良井の宿場の中に見かけられる。軒先の|檻《おり》に生きた熊を飼っている|熊《くま》の|胆屋《いや》だの、獣皮を懸け並べた|百獣《ももんじ》|屋《や》だの、|木《き》|曾《そ》|櫛《ぐし》の店だの、ここの宿場もなかなかの|雑《ざつ》|鬧《とう》。
その熊の胆屋の一軒。なんの意味か「大熊」と看板に書いてある|角《かど》|店《みせ》の前に立って、
「ものを訊ねたいが」
と武蔵がのぞく。
後ろ向きに釜の湯を、自分で汲んで呑んでいた熊の胆屋のおやじが、
「はあ、何でござりますか」
「奈良井の大蔵殿というお人の店はどこであろうか」
「ああ、大蔵殿のお店ならば、これからもう一つ先の辻で――」
と、湯呑み茶碗を持ったまま、おやじは、|店頭《みせさき》まで出て来て道を指さしたが、折ふし、外から帰って来たとんぼ[#「とんぼ」に傍点]頭の|丁《でっ》|稚《ち》の顔を見かけると、
「これこれ。こちら様はの、大蔵殿のお店を尋ねて行かっしゃるという。あのお店構えは、ちょっと分らんによって、前まで、お連れ申して|来《こ》う」
と、いいつけた。
|丁《でっ》|稚《ち》は、|頷《うなず》いて、先にてくてく歩いてゆく。武蔵は心のうちで、その親切にも感じたが、かねて権之助から聞いていた言葉も思い合せて、奈良井の大蔵という者の徳望のほどが|偲《しの》ばれた。
お百草の|卸問《お ろ し》|屋《や》といえば、軒並みにある旅人相手の店の一つのようなものかと思って来たところ、見れば、まるで想像は|外《はず》れている。
「お侍さん、ここが奈良井の大蔵様のお宅でございますよ」
案内してくれた熊の胆屋の丁稚は、なるほど、側まで連れて来て貰わなければそれとも分るまいと思われる――目の前の|大《たい》|家《け》を指さして、すぐ走り戻って行った。
店と聞いていたが、|暖《の》|簾《れん》も看板も懸けてはない。|渋《しぶ》で塗った三間の出格子に、|二《ふ》た|戸《と》|前《まえ》の土蔵がつづき、その他は高塀で取り|繞《めぐ》らしてある。入口には、|蔀障子《しとみしょうじ》が|下《お》りていて、訪れるにも、ちょっと|億《おっ》|劫《くう》なほど、大きな|老舗《し に せ》の奥ふかさを持っている。
「ご免」
武蔵はそこを開けていう。
中は暗い。そして、醤油屋の土間のように広くて、冷たい日陰の空気が顔に触れた。
「どなたさまで――」
と、帳場|箪《だん》|笥《す》の隅から程なく立って来る者がある。武蔵は、後ろを閉めて、
「それがしは宮本と申す牢人者ですが、連れの城太郎――ようやく十四歳ほどの|童《わらべ》が、昨日か――ことによると今朝あたり――ご当家を頼って来たように途中で聞いて参りました。もしやご当家のお世話になってはおりますまいか」
武蔵のことばが終らないうちに、番頭の顔には、ああその子供か――という|頷《うなず》きが漂い、
「それはそれは」
と、丁寧に敷物をすすめたが、辞儀をした後の返辞は、武蔵を失望させるものだった。
「それは、残念なことをいたしましたわい。その子供なら、ゆうべ|夜半《よ な か》に、ここの表戸をどんどん叩きましてな――ちょうど手前どもの主人大蔵様には旅立ちの立ち振舞いで、まだ賑やかに大勢して起きておりました折なので――何事かと開けてみますと、ただ今、あなたのお訊ね遊ばしたその城太郎という子供が、門に立っておりましたようなわけで」
|老舗《し に せ》の奉公人の常として、実直すぎて|前《まえ》|措《お》きも|諄《くど》|々《くど》しいが、つづまる所、要旨は、次のようなことだった。
(この街道のことなら何でも奈良井の大蔵さんの所へ頼みに行け)
と、武蔵も誰かに教えられた通り、城太郎もまた、お通を|攫《さら》われたわけを告げて、此処へ泣きこんで来たところ、|主人《あ る じ》の大蔵がいうには、
(そいつは|容易《た や す》くないぞ。念のため、手配はしてやるが、この近くの野武士や荷持人足の|仕《し》|業《わざ》ならすぐ分るが、旅の者が旅の者を|誘拐《かどわか》したことだ。いずれ往来の街道を|避《よ》けて、間道へ出てしまったにちがいない)
そう見込みはつけたが、つい今朝方まで、八方へ人を派して、捜索したけれど、大蔵の予言のとおり、なんの手懸りも得られなかった。
|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、知れないとなると、城太郎はまた、ベソを掻き出したが、ちょうど今朝は、大蔵が旅立ちの日なので、
(どうだ、おれと一緒に歩かないか。そうしたら、|途《みち》|々《みち》も、そのお通さんとやらを探せるし、また、ひょいと、武蔵とかいうお前のお師匠さんに会えない限りもないからなあ)
|慰《なぐさ》め半分に、大蔵がいったところ、城太郎は地獄で仏に会ったように、ぜひ一緒に行くといい――一方もそれではと、急に連れて行く気になって、旅の空へ立ったばかり――という番頭の話なのである。
それも、時間にすれば、わずか|二刻《ふたとき》ばかりの違いなのに――
と、いかにも気の毒そうに、繰返していった。
二刻の差があっては、いくら急いで来たところで、間に合わなかったことは確実だが、それにしても――と武蔵は残念な気がする。
「して、大蔵殿のお旅先は、いずれでござろうか」
訊ねると、番頭の答えはまた、甚だ|漠《ばく》としたもので、
「ご覧の通り、手前どもの店は、表を張っておりませぬし、薬草は山で|製《つく》り、売子は春秋の二回に、仕入れた荷を背負って、諸国へ|行商《あきない》に出てしまいまする。それゆえ、|主人《あ る じ》は|閑《ひま》の多い体で、|間《ま》があれば神社仏閣に詣でたり、湯治に日を暮したり、名所を見たりするのが道楽なのでござりましてな――今度も、多分、善光寺から、越後路を見物して、江戸へはいるのではないかとは思いますが」
「では、お分りにならぬのか」
「とんともう、はっきりと、行く先をいって出た|例《ためし》のないお方で」
それから、番頭は、
「まア、お茶をひとつ」
と、一転して、店からそこまで、歩くにもかなりかかるような奥へ茶を取りにはいって行ったが、武蔵は、ここに落着いている気にもなれない。
やがて、茶を運んで来た番頭に向い、主人の大蔵の容貌や年配を訊いてみると、
「はいはい、道中でお会いなされましても、てまえどもの御主人なら、一目でお分りになるに違いございません。お年は五十二におなりでございますが、どうして、まだ屈強な骨ぐみで、お顔は、どちらかといえば|角《かく》で|赭《あか》ら|顔《がお》のほうで、それに|痘《ほう》|瘡《そう》の|痕《あと》がいっぱいござりましてな、右の|小《こ》|鬢《びん》に、少々ばかり|薄《うす》|禿《はげ》が見えまするで」
「|背《せ》|丈《たけ》は」
「並の方とでも申しましょうか」
「衣服は、どんな物を」
「これは、今度のお旅には、|堺《さかい》でお求めなされたとかいう唐木綿の|縞《しま》を着て行かれました。これは珍しいもので、まだ世間一般には着ているお方も稀でございますから、主人を追っておいで遊ばすには、何よりもよい目印になろうかと存じまする」
彼の人柄はそれであらまし分った。なおこの番頭を相手にして話をしていたら|限《き》りもあるまい。折角なので、茶を一|喫《きつ》するとすぐ武蔵はそこを出て、先へと急いだ。
明るいうちにはもう難かしいかも知れないが、夜を通して、|洗《せ》|馬《ば》から塩尻の宿場を過ぎ、今夜のうちに、峠まで登って待ちかまえていれば、その間に、二刻の|道《みち》|程《のり》は追い越し、やがて夜明けと共に、後から奈良井の大蔵と城太郎が通りかかるにきまっている。
「そうだ。先へ越えて、|彼処《あ そ こ》で待てば――」
|贄《にえ》|川《がわ》、洗馬も過ぎて、|麓《ふもと》の宿場までかかると、すでに陽はかげって、夕煙の這う往来に、軒ごとの|燈火《ともしび》が、春の|晩《くれ》ながら、なんともいえない山国の|佗《わび》しさを|瞬《またた》いている。
そこから塩尻峠の頂までは、なお二里以上はある。武蔵は、息もつかず登りつめた。そしてまだそう|更《ふ》けぬうちに、いの字ケ原の高原に立ち、ほっと息をつきながら、身を星の中に置いて、しばらく|恍《こう》|惚《こつ》となっていた。
|導《どう》|母《ぼ》の|杖《じょう》
武蔵はふかく眠った。
今、彼の眠っている小さい|祠《ほこら》の|廂《ひさし》には、|浅《せん》|間《げん》神社という額が見える。
そこは高原の一部から、|瘤《こぶ》のように盛り上がっている岩山の上で、この塩尻峠では、さし当って、ここより高い所は見当らない。
「おおうい。登って来いよ。富士山が見えるで」
ふいに耳元で人声がしたので、|祠《ほこら》の縁に手枕で寝ていた武蔵は、むっくりと起きあがって、いきなり|眩《まばゆ》い暁雲に眼を射られたが、人影は見えないで、はるか|彼方《か な た》の雲の海に、真っ赤な富士のすがたを見出した。
「ああ、富士山か」
武蔵は少年のように驚異の声を放った。絵に見ていた富士、胸に描いていた富士を、|眼《ま》のあたりに見たのは、今が生れて初めてなのだった。
しかも寝起きの唐突に、それを自分と同じ高さに見出して、|対《むか》い合ったのであるから、彼はしばらくわれを忘れ、ただ、
「――ああ」
というため息を胸の中に曳いて、|瞬《まじろ》ぎもせず眺め入っていた。
何を感じたのであろうか、そのうちに武蔵の|面《おもて》には涙の玉が|転《まろ》びはしっている。拭こうともしないで、その顔は朝の陽に|灼《や》かれて涙のすじまで紅く光って見えた。
――人間の小ささ!
武蔵は|衝《う》たれたのである。宏大な宇宙の下にある小なる自己が悲しくなったのであった。
明らかに彼の胸を割れば、一乗寺下り松で、吉岡の遺弟何十名という数を、まったく自己の一剣の下に征服してからは、いつのまにか彼の胸にも、
(世の中は甘いぞ)
と、ひそかに自負の芽が|萌《きざ》していた。天下の剣人と名乗る者は数あっても、およそ何程のものでもあるまいという慢心が首を|擡《もた》げかけていた。
だが。
たとい剣において、望むがごとき大豪となったところで、それがどれほど偉大か、どれほどこの地上で持ち得る|生命《い の ち》か。
武蔵は、悲しくなる。いや富士の悠久と優美を見ていると、それが口惜しくなってくる。
|畢竟《ひっきょう》、人間は人間の限度にしか生きられない。自然の悠久は真似ようとて真似られない。自己より偉大なるものが厳然と自己の上にある。それ以下の者が人間なのだ。武蔵は、富士と対等に立っていることが|恐《こわ》くなった。彼はいつのまにか地上にひざまずいていた。
「…………」
そして合掌していた。
合わされたふたつの|掌《て》を通して、彼は母の冥福を祈った。国土の恩を感謝した。お通や城太郎の無事を祈った。また神の天地のごとく、偉大なるわけにはゆかないが、人間として、小ならば小なりに偉くなりたい――と自己の希望をも心のそこで祈った。
「…………」
なお、彼は掌をあわせていた。
すると、
――ばか、なぜ人間が小さい。
と、いう声がした。
――人間の眼に映って初めて自然は偉大なのである。人間の心に通じ得て初めて神の存在はあるのだ。だから、人間こそは、最も|巨《おお》きな|顕《けん》|現《げん》と行動をする――しかも生きたる霊物ではないか。
――おまえという人間と、神、また宇宙というものとは、決して遠くない。おまえのさしている三尺の刀を通してすら届きうるほど近くにあるのだ。いや、そんな差別のあるうちはまだだめで、達人、名人の域にも遠い者といわなければなるまい。
合掌のうちに、武蔵がそんな|閃《ひらめ》きを胸に|享《う》けていると、
「なアるほど! よく見えらあ」
「お富士様が、このように拝める日は、すくのうござりますよ」
下から這い上がって来た四、五名の旅人たちが、手をかざして、ここの景観を|称《たた》え合っていた。その町人たちの中にも、山を単なる山としている者と、神として仰ぐ者と、|自《おのずか》らふたつあった。
|瘤《こぶ》|山《やま》の下の高原の道には、もう西と東から行き|交《か》う旅人の影が、蟻のように見下ろされる。
|祠《ほこら》の裏へ廻って、武蔵は、その道を見張っていた。――やがて奈良井の大蔵と城太郎が、麓から登って来るにちがいない。
そしてもし|此方《こ ち ら》で見つけ損ねても、先方があれを見落す気づかいはあるまい――と安心していた。
なぜならば、彼は入念に、この岩山の下の道ばたに、板切れを拾って、それへこう書いて目につく崖に立てかけて置いてあるからである。
[#ここから2字下げ]
奈良井の大蔵どの
御通過のみぎりは
お会い申したく、
上の|小祠《しょうし》にて、お
待ち申しおり候
[#ここから9字下げ]
城太郎の師  武  蔵
[#ここで字下げ終わり]
ところが、往来の多い朝の一刻を過ぎ、高原のうえに陽の高くなる頃まで待っても、似た人も通らないし、彼の立ててきた札を見て、下から声をかける者もない。
「おかしいなあ?」
と、|怪訝《い ぶ か》らざるを得ない気持に|囚《とら》われてしまう。
「来ないわけはないが?」
と、どうしても思う。
この高原の嶺を境にして、道は甲州、|中《なか》|山《せん》|道《どう》、北国街道の三方にわかれているし、水はみな北へ|駛《はし》って、越後の海へ落ちてゆく。
奈良井の大蔵が、たとい善光寺|平《だいら》へ出るにしても、中山道へ向うにしても、ここを通らないという理窟は考えられない。
だが、世間のうごきを、理窟で|推《お》してゆくと、とんだ間違いが往々に起る。何か急に、方角を変えたか、まだ手前の|麓《ふもと》に泊まっているかもしれない。腰に一日の用意は提げているが、朝飯と|午飯《ひるめし》をかねて、麓の宿場まで戻ってみようか?
「……そうだ」
武蔵は、岩山を降りかけた。
その時である。
岩山の下から、
「あッ、いたっ」
と、ぶしつけな呶鳴り方をした者がある。
その声には、殺気があった。おとといの晩、いきなり身をかすめた棒の唸りに似ていた。はっと思いながら武蔵が岩につかまりながら下を|覗《のぞ》くと、果たせるかな、声を投げて仰向いている眼はあの時の眼であった。
「――客人、追って来たぞ」
こう呼ばわる者は、駒ケ岳のふもとの土民権之助で、見ると、あの百姓家にいた母親までを連れている。
その老母を牛の背にのせ、権之助は、例の四尺ほどの棒と手綱を持って、武蔵の姿を|睨《ね》めあげていうのだった。
「客人! いい所で会った。だまって俺の宿から逃げ出したのは、こっちの肚を察して、|躱《かわ》したつもりだろうが、それでは俺の立つ瀬がねえ。もういっぺん試合をしろ。おれの|杖《じょう》をうけてみろ」
――降りかけた足を止めて、武蔵は岩と岩の間の急な細道の途中で、しばらく、岩に|縋《すが》ったまま、下を見ていた。
降りて来ない、と見たか、下なる権之助は、
「おっかあ、ここで見ていさっしゃい。なにも、試合するには、|平《ひら》|地《ち》と限ったこたあねえ。登って行って、あの相手を、眼の下へたたき落してみせる」
母の乗っている牛の手綱を放し――小脇の杖を持ち直して――やにわに岩山の根へ取りつこうとすると、
「これ!」
彼の母はたしなめた。
「いつぞやも、そのような|粗《そ》|忽《こつ》が不覚の|因《もと》ではないか。いきり立つ前に、なぜよう敵の心を読んでおかぬのじゃ。もし上から石でも落されたらどうしやる」
なお何か、|母子《お や こ》のあいだで、交わしている声は聞える。しかし意味は武蔵の所までは聞きとれない。
その間に、武蔵は肚を決めていた。――やはりこの挑戦は避けるに|如《し》くはないという考えである。
すでに自分は、勝っているのだ。彼の杖の技倆もわかっている。改めてなお勝つ要はさらにない。
のみならず、あの一敗を口惜しがって、母子してここまで自分の後を慕って来たところを見ると、|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、負けずぎらいな母子の恨みの程が怖ろしい。吉岡一門を敵とした例を見ても、怨みののこるような試合はすべきでない。益は少なくて、まちがえば、天命を縮めてしまう。
それにまた、武蔵は、子を盲愛するの余り人を呪う無知な老母の恐ろしさは、身にも骨にも沁みて、一日一度は必ず思い出すほどだった。
あの又八の母親――お杉ばばの影を。
何を好んで、また人の子の母から、呪いを買おう。どう考えても、これは逃げるの一手、ほかに当り|障《さわ》りなく通る道はなさそうに思われる。
で、彼は無言のまま、半ばまで降りて来た岩山を、またふたたび上へ向って、のそのそと登りかけた。
「――あっ、お武家」
その背へ、下からこう呼んだのは、気の荒い息子の方ではなく、今、牛の背を降りて地上に立った老母の方であった。
「…………」
声の力にひかれて、武蔵は足もとを振りかえってみた。
見ると、老母は、岩山の根の辺りに坐って、じっと自分を見上げている。武蔵の眸が下へ振向いたと知ると、老母は両手をついているのである。
武蔵はあわてて、向き直らずにいられなかった。一夜の恩にこそ預かっているが、そして、なんの礼ものべずに裏口から逃げ出してしまってこそいるが、この長上から、地へ両手をついて、辞儀されることは何もしていない。
(お老母、勿体ない、お手を上げてください)
そういいたそうに、武蔵は思わず、伸ばしていた膝を|屈《かが》めてしまった。
「――お武家、さだめし、|我《が》のつよい者、他愛ない奴と、お|蔑《さげす》みでございましょうの。恥かしゅうござりまする。しかし……遺恨の、|自惚《う ぬ ぼ》れのと、思い|募《つの》るのではございませぬ。年頃、杖をつかい馴れて、師もなく、友もなく、またよい相手に巡り会わぬこの|伜《せがれ》を、|不《ふ》|愍《びん》と思し召して、もう一手のお教えをうけたいのでござりまする」
武蔵はなお、無言であった。けれど老母が、届きかねる声を一心に張って、こう下からいう言葉には、耳を洗って聞かなければならない|真《まこと》がこもっていた。
「このままお別れ申しては、どうにも残念でござります。ふたたび貴方のようなお相手に会えるやらどうやら。――なおなお、あの見苦しい敗れ方のままでは、この子も、この母も、以前は名だたる武門であった御先祖に、どう顔向けがなりましょう。意趣ではございませぬぞ。敗けるにしても、あれではただの土民がねじ伏せられただけのものでござります。折角、巡り会うた貴方のようなお方から、なにも得ずに過ぎては、それこそ口惜しい限りでございます。わしは、それを伜に叱って連れて参りました。――どうぞわしの願いをかなえて|試《し》|合《あ》ってやって下されい。お願い申しまする」
いい終ると、老母は、武蔵の|踵《かかと》を拝むように、また、大地へ両手をつかえていた。
武蔵は黙って降りて来た。そして|道《みち》|傍《ばた》の老母の手を取って、牛の背へ押しもどし、
「権どの、手綱を持て、歩きながら話そう。――|試《し》|合《あ》うか、試合わぬかは、わしも歩きながら考えるとして」
と、いった。
次に彼は、黙々と、その背を母子の者に向けて歩いて行く。話しながら歩こうといったのに、その沈黙は変らない。
武蔵が何を迷っているか、権之助にはその肚が|酌《く》めないのである。疑いの眼を彼の背へ光らしている。そして一歩でも|距《へだ》つまいとするもののように、|遅《のろ》い牛の脚を叱咤しながら|尾《つ》いて行った。
|嫌《いや》というか。
応か。
牛の背の老母もまだ不安そうな顔に見えた。そして、十町か二十町も高原の道を歩いたかと思う頃、先に歩いていた武蔵が、
「ウム!」
と独り返辞をしながら、くるりと、|踵《きびす》をめぐらし、
「――立合おう」
と、いきなりいった。
権之助は手綱を捨て、
「承知か」
即座にもと思ったらしく、もう足場を見まわすと、武蔵は、意気ごむ相手を眼の外に|措《お》いて、
「じゃが――母御」
牛の背へいうのである。
「万が一のことがあってもよろしいか。試合と斬合とは持ち物がちがうだけで、紙一重ほどの相違もないが」
念を押すと、老母は初めてにこと笑って、
「御修行者、お断りまでもないことを仰せられる。|杖《じょう》を|習《まな》び出してからもう十年。それでもなお、年下のあなたに負けるような伜であったら、武道に思いを断つがよい。――その武道に望みを断っては、生きるかいもないといいやる。さすれば、打たれて死んだとて当人も本望である。この母も、恨みにはぞんじませぬ」
「それまでにいうならば」
と、武蔵は、眸を一転して、権之助の捨てた手綱をひろい、
「ここは往来がうるさい。どこぞへ牛を繋いで、心ゆくまで、お相手いたそう」
いの字ケ原のまっただ中に、枯れかけている一本の|巨《おお》きな|落葉《から》|松《まつ》が見える。あれへと指して、武蔵はそこへ牛を導き、
「権どの。支度」
と、促した。
待ちかねていた権之助は、おうと武蔵の前に棒をひっ提げて立った。武蔵は直立したまま、相手を静かに見た。
「…………」
武蔵には木剣の用意がない。そこらの得物を拾って持つ様子もなかった。肩も張らず、二本の手は柔かに下げたままである。
「支度をしないのか」
今度は権之助からいった。
武蔵は、
「なぜ?」
と、反問した。
権之助は、|憤《む》っと、眼から出すような声で、
「得物を|把《と》れ、何でも好む物を」
「持っておる」
「無手か」
「いいや……」
首を振って、武蔵は、左の手をそっと忍ばすように、刀の|鍔《つば》の下へ移して、
「此処に」
といった。
「なに! 真剣で」
「…………」
答えは、唇の端に|歪《ゆが》めた微笑を以てした。低い一声、静かな呼吸の一つも、もう|徒《いたず》らに|費《つい》やすことはできないものになっている。
|落葉《から》|松《まつ》の根元へ、濡れ仏のように、べたっと坐り込んでいた老母の顔は、途端にさっと蒼ざめた。
――真剣で。
武蔵がいったために、老母は急に|動《どう》|顛《てん》したのであろうか。
「ア。待って|賜《た》も」
ふいに横からいった。
だが、武蔵の眼、権之助の眼、そう|双《ふた》つのものは、もうそれくらいな制止では、針程も動かなかった。
権之助の棒は、この高原の気をみんな吸って、一撃の唸りにそれを噴き出そうとするもののように、じっと小脇に含んで構え、武蔵の片手は、|鍔《つば》の下に|膠着《こうちゃく》したまま、相手の眼の中へ、自分の眼光を突っこむような眼をしているのである。
もう二人は、内面において、斬り結んでいるのである。眼と眼とは、この場合、太刀以上、棒以上に相手を斬る。まず眼を以て斬り伏せてから、棒か|刃《やいば》か、どっちかの得物がはいって行こうとするのである。
「待たッしゃれ!」
老母は、また叫んだ。
「――何か?」
と、答えるためには、武蔵は四、五尺も後へ身を退いていた。
「真剣じゃそうな」
「いかにも。――木剣でいたしても、真剣でいたしても、拙者の試合は同じことですから」
「それを止めるのではないぞえ」
「お分りならばよいが、剣は絶対だ……手にかける以上、五分までの、七分までの、そんな|仮借《かしゃく》があるものではない。――さもなくば、逃げるかがあるばかり」
「元よりのこと。――わしが止めたは、それではない。これほどな試合に、後で名乗り合わなんだことを悔やんではと――ふと思い寄ったからじゃ」
「うむ、いかにも」
「怨みではなし、しかし、どちらから見ても、会い難きよい相手、この世の|縁《えにし》。――権よ、そなたから名乗ったがよい」
「はい」
権之助は、素直に一礼して、
「遠くは、木曾殿の幕下、太夫房|覚明《かくみょう》と申し、その人を家祖といい伝えております。なれども、覚明は木曾殿の滅亡後、出家して、|法《ほう》|然《ねん》上人の|室《しつ》に参じておりますゆえ、その一族やも知れませぬ。年久しく、土民として今、私の代に至りましたが、父の世の頃、或る恥辱をうけ、それを無念におもいまして、母と共に誓いをたて、|御《おん》|岳《たけ》神社に参籠して、必ず、武道をもって世に立つことを神文に誓ったのです。――そして神前において、会得したこの杖術を、自ら|夢《む》|想《そう》流と称し、人はてまえを呼んで、夢想権之助といっております」
彼が口を結ぶと、武蔵も礼儀を返して、
「拙者の家は、|播州《ばんしゅう》赤松の支流、平田|将監《しょうげん》の末で、|美作《みまさか》宮本村に住し、宮本無二斎とよぶものの一子、|同苗《どうみょう》武蔵であります。さして、有縁の者もおりませず、また、元より武辺に身をゆだねて世にさすろう以上は、たとえこれにおいて、|其《そこ》|許《もと》の杖の下に、|敢《あえ》なく一命を終ろうとも、毛骨のお手数などはご無用な|業《わざ》です」
と、いった。そして、
「では」
と、立ち直ると、権之助も杖を|把《と》り直して、
「では」
と、応じた。
松の根もとに坐りこんだ老母はその時、息もしていないように見えた。
降りかかった災難とでもいうならばともかく、われから求めて、追いかけて来てまで、わが子を今、|白《しら》|刃《は》の前に立たせている。――常人には到底考えられない心理の中に、しかし、この老母は|自若《じじゃく》としているのだ。万人が何といおうが、自分だけは深く信じるところがあるもののような姿をして――。
「…………」
べたんと、坐ったまま、肩をすこし前へ落し、行儀よく両手を膝にかさねている。幾人の子を生み、幾人の子を|亡《な》くして、貧苦の中に耐えてきた肉体か、その姿はいかにも小さい。そして|萎《しぼ》みきっている。
――だが今、武蔵と権之助とが、何尺かの土の間に対峙して、
「では」
と、戦端を切ったせつなに、老母の眸は、天地の仏神が皆集まってそこから覗いているような、巨大な光を発した。
彼女の子は、すでに武蔵の剣の前に、その運命を|曝《さら》していた。武蔵が|鞘《さや》を払った瞬間に、権之助はもう自分の運命がわかったような気がして、体がさっと冷たくなった。
(はて、この人間は?)
と今、|観《み》えて来たのである。
いつぞや、わが家の裏で、不用意に闘って感得した敵とはまるでその|体《たい》が違う。文字でいうならば、彼は、草書の武蔵を見て、武蔵の人間を律していたが、きょうの厳粛で、一点一画もゆるがせにしない、武蔵の楷書の|体《たい》を見て、自分が敵を|量《はか》るに、意外なまちがいを抱いていたことを|覚《さと》ったのである。
また、それが覚れる権之助であるから、いつぞやは自信にまかせて、滅多打ちに振りこんだ|杖《じょう》も、きょうは、頭上へたかく振りかぶったまま――まだ一打の唸りすら呼び起すことができない。
「…………」
「…………」
いの字ケ原の|草《くさ》|靄《もや》は、かかるあいだに|薄《う》ッすらと|霽《は》れかけていた。遠くかすんでいる山の前を、一羽の鳥影が悠々と横ぎってゆく。
――ぱッと、二人のあいだの空気が鳴った。飛ぶ鳥も落ちるような見えない震動である。それはまた、杖が空気を|搏《う》ったのか、剣が大気に鳴ったのか、いずれともいえないことは、禅でいう、隻手の声は|如何《い か ん》というのと同じことである。
――のみならず双方の五体と|得《え》|物《もの》の一|如《にょ》なうごき方は、とても肉眼に依って見て取ることは難かしい。はっと、視覚から脳へそれが直感する一秒間の何分の一かわからない一瞬に、すでに眼に|映《うつ》る二人の位置と姿勢はまるで変っている。
権之助が振り落した一撃は、武蔵の体の外を|搏《う》ち、武蔵が小手を|翻《ひるがえ》して、中位から上位へ向けて|薙《な》ぎ上げた|刃《やいば》は、権之助の体の外とはいいながら、殆ど右の肩から|小《こ》|鬢《びん》の毛をかすめるくらいに|閃《ひらめ》いていた。
同時に、この場合も、武蔵の刀は、彼のみの持っている特質として、相手の身を|外《そ》れて行く所まで行くと、ヒラと、すぐ松葉|形《なり》に切先を返して来た。この返す切先の下こそ、いつも彼の相手の地獄となるところであった。
ために、第二撃を、敵に与える|遑《いとま》もなく、権之助は杖の両端を持って、武蔵の刀を、頭上で受け止めた。
かんと、彼の|額《ひたい》の上で、杖は鳴った。|白《しら》|刃《は》と杖とのこんな場合、杖は当然両断になってしまいそうなものだが、刃が斜めに来ない限り、決して切れるものでない。従って、受ける方にも、その手心があって、権之助が頭上へ横に|翳《かざ》した杖は、敵の手元へ深く左の|肱《ひじ》を突ッこみ、右の肱をやや高く折り曲げて、咄嗟、武蔵のみずおち[#「みずおち」に傍点]を、杖の突端で突かんとしながら受けたものであった。しかし武蔵の|刃《やいば》はたしかに止まったが、その捨て身な|迅《はや》|業《わざ》は、成功しなかった。――なぜならば、杖と刀とが、彼の頭上で、がっき[#「がっき」に傍点]と十字に噛み合ったせつな、|杖《じょう》の先と武蔵の胸のあいだには、惜しくも、ほんの一寸ほどな空間を残していたからである。
引きもならない。
押してもゆけない。
|無《む》|碍《げ》にそれをやろうとすれば、忽ち、|焦心《いら》だつほうが敗れるにきまっている。
これが、刀と刀との場合ならば、つば|競《ぜ》りというのであろうが、一方は刀でも、一方は杖である。
杖には|鍔《つば》がない、刃がない、また、切先も|柄《つか》もない。
けれど、丸い四尺の杖は、その全部が刃であり、切先であり、また、柄であるともいい得る。従って、これを上手に使われると、杖の千変万化なことは、到底、剣の比ではない。
剣の六感で、
(こう来るな)
というような測定をもったらとんだ目にあう。杖は、時によって、刀のような性格を持って、短槍と同じ働きもするからである。
十文字になった杖と刀の上から、武蔵が刀を引けない理由は、その予測がゆるされないからであった。
権之助の方はなおさらである。彼の杖は、武蔵の刀を、頭上に支えているのであるから、受身の|体《たい》であった。――引くはおろか、もし、満身の|気《き》|魄《はく》を、びくとでも|弛《ゆる》めたらば、
(得たり)
と、武蔵の刀は、そのまま一押しで、彼の頭を砕いてしまうであろう。
|御《おん》|岳《たけ》の夢想をうけて、杖の自由を体得したという権之助も、今はどうすることも出来なかった。
見ているまに、彼の顔は蒼白になって行った。下唇へ前歯がめりこんでいる。吊るしあがった眼じりから|脂汗《あぶらあせ》がねっとりと流れ出す。
「…………」
頭上に受けとめている杖と刀の十字が波を打ってくる。その下に、権之助の息が刻々に荒くなっていた。
――すると。
その権之助以上、蒼ざめた形相となって、松の根がたから凝視していた老母が、
「権ッ」
と、さけんだのである。
権――と絶叫した瞬間に老母はわれを忘れていたに違いない。坐っていた腰を伸び上げて、その腰を自分で|強《したた》かに打ちながら、
「腰じゃわえ!」
と|罵《ののし》って、そのまま血でも吐いたのか、前へのめってしまった。
武蔵も権之助も、ふたりとも石に|化《な》るまで離れそうにも見えなかった杖と刀が、とたんに、噛み合ったせつなよりも凄まじい力を持って、ぱッと離れた。
武蔵の方からである。
|退《ひ》いたのも、二尺や三尺ではない。右か左か、どっちかの|踵《かかと》が、土を掘ったような勢いであった。その反動、彼の体は七尺も後ろへ移っていた。
しかし、その距離は、権之助の飛躍と、四尺の杖に、すぐ迫られて、
「――あッ」
と、武蔵は辛くも横へ払い|退《の》けた。
死地から攻勢に立ったとたんに払い捨てられたので、権之助は、頭を大地へ突っこむような勢いで、だッと、前へのめった。そして、強敵に会った|隼《はやぶさ》が、死にもの狂いとなったように、髪逆立てた武蔵の眼の前に、明らかに、空いている背中を|曝《さら》してしまった。
一本の雨のような細い閃光が、その背を切った。――うううっと、仔牛のように|唸《うめ》きながら、権之助はなお、ととととと、三足ほど歩いてそのまま仆れ、武蔵も片手でみずおち[#「みずおち」に傍点]を抑えながら、草の中へ、どたっと、腰をついて坐ってしまった。
そして、
「――負けた!」
と叫んだ。
武蔵がである。
権之助は声もない。
前のめりに仆れたまま、権之助はいつまでも動かなかった。――それを見入っているうちに、老母も|喪《そう》|心《しん》してしまった。
「みね[#「みね」に傍点]打ちです」
武蔵は、老母へ向って、こう注意を与えた。それでもまだ、老母が起って来ないので、
「はやく、水をおやりなさい。御子息には、何処も怪我はない筈だ」
「……えっ?」
老母は、初めて顔を上げ、やや疑うように権之助の姿を見ていたが、武蔵のいうとおり、血にまみれてはいなかったので、
「オオ」
次には、|踉《よろ》めいて、いきなりわが子の体へ、|縋《すが》りついた。水を与え、名を呼んで、老母がその体を揺り動かすと、権之助は息をふき返した。――そして茫然と坐っている武蔵を見ると、
「怖れいりました」
いきなりその前へ行って土に|額《ぬか》ずいた。武蔵はわれに還ると共に、慌ててその手を握り取って、
「いや、敗れたのは、|其《そこ》|許《もと》ではない、拙者の方です」
彼は、|襟《えり》|元《もと》を|披《ひら》いて、自分のみずおち[#「みずおち」に傍点]を、二人へ見せた。
「|杖《じょう》の先が、赤い|痕《あと》になっているでしょう。もう少し入ったら、恐らく拙者の|生命《い の ち》はなかったに違いない」
いいながらも、武蔵はまだ、茫然としているのである。どうして敗れたかを理解し切るまでは。
同じように、権之助も老母も、彼の皮膚にある一点の紅い|斑《はん》|点《てん》をながめて、口もきけなかった。
武蔵は襟を合わせて、老母に訊ねた。――今、二人が試合のうちに、腰! と叫んだのは何のためか。あの場合、権之助殿の腰構えに、そも、どういう虚を見出されて、あんな声を発しられたのか。
すると、老母は、
「お恥かしいことじゃが、せがれはただ、あなたの刀を杖で支えるに必死となって、両足を踏まえておりました。|退《ひ》いても危ない、突いても危ない、絶体絶命の縛りに会っての。――それを横から見ておるうち、はっと、武術も何も判らぬわしにすら見えた虚がある。それは――あなたの刀に心のすべてを奪われていたから縛りに会ったのじゃ。手を引こうか、手をもって突こうかと、|逆上《う わ ず》っているので更に気がつかぬようじゃったが、あの体のまま、手もそのまま、ただ腰を落しさえすれば、自然に杖の先が、相手の胸元へどんと伸びる……そこじゃと、思うたので、何を叫んだのやら思わず口走ったのでござりました」
と、いう。
武蔵はうなずいた。よい教えを受けたと、この機縁に感謝した。
黙然と、権之助も聞いていた。彼にも何か会得するところがあったに違いない。これは、|御《おん》|岳《たけ》の神の夢想ではない、眼の前に、子が斬られるか生きるかの境を見て、現実の母が、愛の中からつかみ出した「窮極の活理」であった。
木曾の一農夫権之助、後に、夢想権之助と称して、夢想流|杖術《じょうじゅつ》の始祖となった彼は、その伝書の奥書に、
“|導《どう》|母《ぼ》の一手”
なる秘術を|誌《しる》して、母の大愛と、武蔵との試合を|審《つまび》らかにしているが「武蔵に勝つ」とは書いていない。彼は生涯、武蔵に負けたと人にも語り、その負けたことを尊い記録としていた。
それはそうと、この|母子《お や こ》の多幸を祈って別れ、いの字ケ原を去って、武蔵が|上《かみ》|諏《す》|訪《わ》の辺りまで行き着いたかと思わるる頃、
「この道筋を、武蔵という者が通らなかったであろうか。たしかに、この道へ来たわけだが――」
と、馬子の|立《たて》|場《ば》だの行き交う旅人に、|途《みち》|々《みち》|訊《きき》|合《あ》わせながら、後を慕ってゆく一名の武家があった。
|一《いっ》|夕《せき》の|恋《こい》
どうも痛む……。
みずおち[#「みずおち」に傍点]の中心を|外《そ》れて少し|肋《ろっ》|骨《こつ》にかかっている。夢想権之助からうけた|杖《じょう》の痛みである。
|麓《ふもと》か、|上《かみ》|諏《す》|訪《わ》のあたりに足をとめて、城太郎の姿を探し、お通の消息を知らねばならぬと思うのであったが、なんとなく気が冴えない。
彼は、下諏訪まで足を伸ばした。下諏訪まで行けば|温泉《ゆ》がある。そう思ってから急に真っ直に歩いたのである。
湖畔の町は、町屋千軒といわれていた。本陣の前の屋根のある風呂小屋が一ヵ所見えたが、後は往来|傍《ばた》にあって、誰が|入浴《はい》ろうと怪しむ者はない。
武蔵は、着物を立木の枝に懸け、大小を|括《くく》り付けた。そして、野天風呂の一つに体を|浸《つ》けて、
「ああ」
と、石を枕に、眼をふさいだ。
今朝から|革《かわ》ぶくろのように硬ばっていたみずおち[#「みずおち」に傍点]を、そうして湯の中で|揉《も》んでいると、眠くなるような快さが血管を|繞《めぐ》ってくる。
|陽《ひ》が傾きかけている。
|漁師《りょうし》の家でもあろうか。湖畔の家と家の間から見える水面には、|茜色《あかねいろ》の|淡《うす》|靄《もや》が立って、それも皆湯のように感じられる。二、三枚の畑を隔てたすぐそこの往来には、馬や人間や車の行き交う物音が頻繁であった。
と――その辺の油や荒物を売っている|小《ささ》やかな店先で、
「|草鞋《わ ら じ》を一足くれぬか」
と|床几《しょうぎ》を借りうけて、|足拵《あしごしら》えを直している侍がいっているのである。
「うわさはこの辺へも聞えておろう。京都一乗寺の下り松で、吉岡方の大勢を一身にうけ、近頃ではめずらしい、よい試合ぶりをした男だ。確かに通ったに違いないが、気づかなかったかの」
塩尻峠を越えると間もなくから、往来を訊いて歩いている例の武家であった。そのくせ、そうよくは知らないと見えて、問われた者から、服装や年頃などを反問されると、
「さあ、その程は」
と、あいまいなのである。
しかし、何の用があるのか、熱心は熱心で、そこでも見かけないという返辞を聞くと、ひどく落胆して、
「何とか、会いたいものだが……」
と、草鞋の|緒《お》をくくり終えても、まだ愚痴のように繰返している。
自分のことではないか。
武蔵は、畑越しに、湯の中からその武家を|篤《とく》と見ていた。
|旅《たび》|焦《や》けのしている皮膚――四十ぐらいな年配――牢人ではない|主《しゅ》|持《もち》である。
笠の|紐《ひも》|癖《ぐせ》でそそけているのかも知れないが、|小《こ》|鬢《びん》の毛が荒く立って、これが戦場に立ったら、|武《む》|者《しゃ》|面《づら》のほども|偲《しの》ばれる骨柄である。裸にしたら|鎧《よろい》ずれや具足だこで鍛え抜かれている体だろうとも思われる。
「はて……覚えがないが」
考えている間に、武家は立ち去ってしまった。吉岡の名を口にしたところから見て、事によったら、吉岡の遺弟ではあるまいかなどとも思ってみる。
あれだけの門下のうちだ。気骨のある人間もいよう。|奸《かん》|計《けい》をめぐらして、復讐しようとつけ狙っている者がないとはいえない。
体を拭き、衣服を着けて、武蔵がやがて往来へ姿を現すと、何処からか出て来た最前の武家が、
「お訊ね申すが」
と、ふいに彼の前に会釈して、しげしげと顔を見ながらいった。
「もしや尊公は、宮本殿ではござるまいか」
不審顔に、武蔵がただ|頷《うなず》くと、彼を|糺《ただ》したその武家は、
「やあ、さてこそ」
と、自分の六感に凱歌をあげて、また、さもさも懐かしげに、
「とうとうお目にかかることが出来、大慶至極。……いや何かしら、今度の旅では、何処かでお目にかかれるような気持が、初めからいたしておった」
と、独りで|欣《よろこ》んでいる。
そして武蔵が、何を問う|遑《いとま》もなく、とにかく今夜はご迷惑でも同宿ねがいたいといい、
「さりとて、決して不審な者ではござらぬ。こう申しては、|烏《お》|滸《こ》のようなれど、いつも道中には、供の者十四、五名は連れ、乗り換え馬の一頭も曳かせて歩く身分の者でござる。念のため名乗り申すが、奥州青葉城の|主《あるじ》、|伊達《だて》政宗公の臣下で、|石《いし》|母《も》|田《だ》|外《げ》|記《き》という者でござる」
とつけ足した。
意にまかせて伴われてゆくと、外記は湖畔の本陣に泊りを|定《き》め、通るとまず、
「風呂は」
と、自分で訊ねながら、すぐ自分で打ち消して、
「いや、尊公はもう、野天風呂でおすみじゃな。では失礼して」
と、旅装を解き、気軽に手拭を持って、出て行ってしまう。
おもしろそうな男ではある。しかし武蔵にはまだ分っていない。一体、何であんなに自分の後を尋ね、自分に親しみを持っているのか?
「おつれ様も、お召替えなさいませぬか」
と、宿の女が、どてら[#「どてら」に傍点]を出して彼へすすめる。
「わしは|要《い》らぬ。都合によっては、ここへ泊るか泊らぬか、まだ分らぬのだから――」
「おや、左様でございますか」
開け放してある縁へ出て、武蔵はようやく暮れてきた湖水へ|眸《ひとみ》をやり、その眸に、またふと、
「どうしたか?」
と物思わしく、彼女の悲しむ時の|睫《まつ》|毛《げ》などを、描いていた。
うしろで女中が膳をすえている物音が静かにする。やがて|燈火《あ か り》が背から|映《さ》す。そして|欄《てすり》の前のさざ波は、見ているうちに|濃《のう》|藍《らん》から真っ暗になってゆく。
「……はてな、この道へ来たのは、方角を取り違えたのではないか。お通は|誘拐《かどわか》されたという。女を誘拐す程な悪い奴が、こんな繁華な町へさしかかるわけはない」
そんなことを考えたりしていると、耳に彼女の救いをよぶ声が聞えるような気がする。何事も天意だと達観していながら、すぐ居ても立ってもいられない心地がしてくる。
「いや、どうも、大きに失礼を|仕《つかまつ》った」
|石《いし》|母《も》|田《だ》|外《げ》|記《き》が戻って来た。
「さ、さ」
と早速、膳の前へ、着座をすすめたが、自分だけのどてら[#「どてら」に傍点]姿に気づいて、
「尊公も、どうぞ、お着替えくだされい」
と、|強《た》っていう。
それを武蔵も、|強《た》って固辞して、常に樹下石上のおきふしに馴れている身、寝るにもこのままの姿、歩くにもこのままの姿、それでなかなか|寛《くつろ》げもすれば窮屈でもございませぬと答えると、
「いや、それよ」
と、|外《げ》|記《き》は膝を叩いて、
「政宗公のお心がけは、行住坐臥、やはりそこにござる。かくもあろうお人とは思っていたが、ウウムさすがは」
と、燈火を横にうけている武蔵の顔を、穴のあく程、見惚れているのだった。
そしてわれに返ると、
「いざ。おちかづきに」
と、杯を洗って、これからの夜を心ゆくまで楽しもうとするもののように、|慇《いん》|懃《ぎん》に一|献《こん》向ける。
辞儀だけして、手は膝においたまま、武蔵は初めて訊ねた。
「外記殿。これは一体どうしたご好意でござりますか。路傍の拙者を追って、このお親しみは?」
改まって、何のために? と武蔵から訊かれると、外記は初めて、自分の独りのみ込みに気づいたらしく、
「いや成程、ご不審はごもっともじゃ。――しかしべつだん意味はないので、|強《し》いて、何のために、路傍のそれがしが路傍の尊公に、かくまでも親しみを持つかと問わるるならば――一言で申さば――惚れたのでござるよ」
と、いってまた、
「あははは。男が男に、惚れたのでござるよ」
と、いい重ねる。
石母田|外《げ》|記《き》は、これで十分、自分の気持を説明したつもりらしいが、武蔵にとっては、少しも説明されたことにはならない。
男が男に惚れるということはあり得よう。けれど武蔵はまだ、惚れる程な男に会った経験がない。
惚れるという対象に持つには、沢庵は少し|恐《こわ》すぎるし、光悦とは住む世の中が|隔《へだ》たりすぎ、柳生石舟斎となるともう余りに先が高すぎて、好きな人とも呼びかねる。
かくて過去の知己を振向いてみても、男が惚れる男などが、そうある筈のものではない。――それをこの石母田外記は無造作に、
(あなたに惚れた)
と、自分へいう。
お|追従《ついしょう》であろうか。そんなことを軽々しくいう男はよほど軽薄と思ってもよい。
けれど外記の剛毅な風貌から見ても、そんな軽薄な徒ではないことは、武蔵にも何だか分る気がするのである。
そこで彼は、
「惚れたと仰っしゃるのは、いかなる意味でございましょうか」
|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、真面目に、こう問い直すと、外記はもう次にいうことばを待っていたように、
「――実は、一乗寺下り松のお働きを伝え聞いて、失礼ながら、今日まで、見ぬ恋にあこがれておったのじゃ」
「ではその頃、京都に|御逗留《ごとうりゅう》でございましたか」
「一月より上洛して、三条の|伊達《だて》屋敷におりましたのじゃ。あの一乗寺の斬合いがあった翌日、何気なくいつも参る烏丸光広卿をお|館《やかた》にたずねてゆくと、そこで|種《さま》|々《ざま》な尊公の噂。お館は一度、尊公とも会ったことがあると仰せられ、お年ばえや、|閲《えつ》|歴《れき》なども承って、愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]思慕のおもいに駆られ、どうかして一度、会いたいものと念じていた願いかなって――今度の|下《げ》|向《こう》に、計らずも尊公が、この道を下っているということを――あの塩尻峠に書いておかれた立札で承知したのでござる」
「立札で?」
「――されば、奈良井の大蔵とかをお待ちになる由を、札に書いて、道ばたの崖へ立てて置かれたであろう」
「ああ、あれを御覧になられたのですか」
武蔵はふと世の中の皮肉をおぼえた。――|此方《こ っ ち》で探し求める者とは巡り会わずに、かえって、思いがけない無縁の人にこうして探し当てられているとは――
だが、外記の心を聞いてみれば、この人の|衷情《ちゅうじょう》は身に過ぎて勿体ない。三十三間堂の果し合いといい一乗寺の血戦といい、武蔵にとっては、むしろ|慚《ざん》|愧《き》な|傷心《い た み》が多く、誇る気もちなどは毛頭ないが、あの事件は、相当世間の耳目を|聳動《しょうどう》して、うわさの波を天下に拡げているらしい。
「いや、それは面目ないことです」
武蔵は、心からいった。そして心から恥ずかしかった。こんな人に惚れられる資格など自分にないと思うのであった。
ところが外記は、
「百万石の|伊達《だて》武士のうちにも、よい侍はずいぶんいる。また、こう世間を歩いてみるに、剣の達人上手も少なくない。したが、尊公のようなのは稀でござろう。末たのもしいというのは尊公のような若者じゃ。まったくそれがしは惚れました」
と、称揚して|熄《や》まない。――そしてまた、
「で、今夜は、それがしが|一《いっ》|夕《せき》の|恋《こい》を遂げた訳。ご迷惑でも、どうか一|献《こん》お過ごしあって、存分、わがままをいってもらいたいのじゃ」
と、手の杯を洗い直した。
武蔵は心を開いて杯をうけた。そして例のごとくすぐ赤くなってしまう。
「雪国の侍は、みな酒が強うござるよ。――政宗公がおつよいので、勇将の|下《もと》、弱卒なしで」
と、|石《いし》|母《も》|田《だ》|外《げ》|記《き》は、まだなかなか酔うほどに行っていない。
酒を運ぶ女に、幾度か、灯を|剪《き》らせて、
「ひとつ今夜は、飲み明かし、語り明かそうではないか」
武蔵も腰をすえて、
「やりましょう」
と、笑みを含め、
「――外記殿は最前、烏丸のお|館《やかた》へはよく参ると仰せられたが、光広卿とご懇意でございますか」
「ご懇意という程でもないが――主人の使いなどで、しげしげ参るうちに、あのように|御《ご》|気《き》さく[#「さく」に傍点]なので、いつのまにか、|馴《なれ》|々《なれ》しゅう伺っておるので」
「|本《ほん》|阿《あ》|弥《み》光悦どののお|紹介《ひ き あ》わせで、私もいちど、柳町の扇屋でお目にかかりましたが、|公《く》|卿《げ》にも似あわぬ、快活な御気性と見うけました」
「快活? ……それだけでござったかの……」
と外記はすこしその評に不満らしく、
「もっと長く話してみたら、必ずあの|卿《きみ》が抱いている情熱と智性でもお感じになったであろうに」
「何分、場所が、遊里でござりましたゆえ」
「なるほど、それではあの|卿《きみ》が、世間を化かしている姿しかお見せなさるまい」
「では、あの方の、ほんとの|相《すがた》はどこにあるのですか」
何気なく、武蔵が問うと、外記は坐り直して、ことばまで改め、
「|憂《うれ》いの中にあるのでござる」
と、いった。
そして、なお、
「――その憂いはまた、幕府の横暴にあるのでござりまする」
と、いい足した。
湖水のゆるい波音のあいだに、白々と|燈《ひ》は揺れていた。
「武蔵どの。――尊公はいったい、誰のために、剣を磨こうとなされるか」
こんな質問は、受けたことがない。武蔵は率直に、
「自分のために」
と、答えた。
外記は大きく、
「ム。それでいい」
と|頷《うなず》いたが、またすぐ、
「その自分は、誰のために」
と、たたみかける。
「…………」
「それも自分のためか。まさか尊公ほどな|精進《しょうじん》を持つ者が、小さな自己の栄達だけでは、ご満足がなるまいが……」
話は、こんな|緒口《いとぐち》から始まったのである。いやむしろ外記がこんな緒口を自分でつくって、自分の話したい本心を|披《ひら》き出したといったほうが適切かも知れない。
彼の話によると、今、天下は家康の手に|帰《き》して、一応、四海万民みな泰平をたたえているやに見えるが、いったい、ほんとに民のために幸福な世の中が出来たろうか。
北条、足利、織田、豊臣――と長いあいだにわたって、いつも|虐《しいた》げられてきたものは、民と皇室である。皇室は利用され、民は|値《あたい》なき労力のみにこき使われ――両者のあいだにただ武家の繁栄だけを考えて来たのが、頼朝以後の武家政道――それを|倣《なら》った、今日の幕府制度ではあるまいか。
信長は、ややその|弊《へい》に気づき、|大《だい》|内《だい》|裡《り》を造営して見せたり、秀吉も後陽成天皇の行幸を仰いだり、一般を賑わし楽しませる庶民の福祉政策を取ったりもしたが、家康の政策が本意とする所は、飽くまで徳川家中心で、ふたたび庶民の幸福も皇室も犠牲にして、幕府ばかり|肥《こ》え太ってゆく専横時代がやって来るのではなかろうかと、世の|趨《ゆ》く先が案じられる――。
「それを案じている者は、天下の諸侯中でも、わが主君伊達政宗公より|他《ほか》にはござらぬ。――そして公卿では烏丸光広卿などで」
と、石母田外記は、いうのであった。
自慢というものは元より聞きづらいものだが、主人の自慢だけは聞いていても悪い気はしない。
わけてこの石母田外記は、主人自慢であるらしかった。今の諸侯の中で、心から国を憂い、また皇室へも、心から|直《すぐ》な心をよせている者は、政宗を|措《お》いて誰もいない――というのである。
「……ははあ」
武蔵はただそう|頷《うなず》く。
彼には、正直なところ、そう頷くだけの知識しかなかった。関ケ原の以後、天下の分布図は一変したが、
(世の中がだいぶ変ったな)
と思うだけで、秀頼方の大坂系大名がどう動こうとしているか、徳川系の諸侯が何を|目企《も く ろ》みつつあるか、島津や伊達などの惑星が、その中にどう厳存しているか――などという大きな時勢への眼は、改めて向けてみたこともないし、それらの常識は、至って浅かった。
それも加藤とか、池田とか、浅野、福島などといえば、武蔵にも、二十二歳の青年なみの観察は持っているが、伊達などというと、もう|漠《ばく》として、
(|表高《おもてだか》は、六十余万石だが、内容は百万石以上もある|陸奥《みちのく》の大藩)
という以外、これぞという知識も持ち合せていない。
だから、ははあと、|頷《うなず》くばかりで、時には疑い、時には、
(政宗とは、そんな人物か)
と、聞き入るのであった。
外記は、数々な例証をあげて、
「わが主人政宗は、一年二回は必ず国内の産物を挙げて、|近衛《こ の え》|家《け》の手より禁中へ献上なされる。――どんな戦乱の年でも、この伝献を怠られたことはござらぬ。――今度、自分が都へ上ったのも、その伝献の荷駄について上洛いたしたので、無事お役を果したので、帰り途だけ|閑暇《ひま》を賜わって、ひとり見物がてら仙台までもどる途中でござる」
といい、また――
「諸侯のうちで、城内に、帝座の|間《ま》を|設《しつ》らえてあるのは、わが青葉城があるばかりでござろう。御所の改築の折、古材木をいただいて、遠く船で運んで来たものとか申しまする。とはいえ、いとも質素なもので、主人は朝夕、遠く仰拝する室としているばかりでござるが、武家政道の歴史に|鑑《かんが》みて、一朝、見るに見かねる暴状でも世に行われれば、いつ|何《なん》|時《どき》でも、朝廷方の御名をかりて、武家をあいてに戦うお心を抱いておられるのじゃ」
外記は、そういってなお、
「そうじゃ、こういうお話もある。それは、朝鮮御渡海のとき――」
と、話しつづける。
「あの|役《えき》の折には、小西、加藤など、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]が功名争いして、いかがわしい聞えもござったが、政宗公のお態度はどうであったか。朝鮮陣中で、背に日の丸の旗差物をさして戦われたのは、政宗公おひとりでござったぞよ。お家の御紋もあるに、何故に左様な旗差物をお用いあるかと人が問われた時、公はこう仰せられた。――いやしくも海外に兵をひっさげて参った政宗は、一伊達家の功名などで戦い申そうか。また、一太閤のために働き申すのでもない。この日の丸の旗を|故郷《ふるさと》のしるしと見て身を捨て申す覚悟――とお答えになったとか」
武蔵は、何しろ興味ふかく聞いていた。外記は杯を忘れている。
「酒が冷えた」
外記は手をたたいて女を呼んだ。そしてなお、酒をいいつけそうなので、武蔵はあわてて、
「もう十分です。私は|湯《ゆ》|漬《づけ》を頂戴いたしたい」
固辞すると、
「……何の、まだ」
と外記は、残り惜し気に|呟《つぶや》いたが、相手の迷惑を思ったか、急に、
「では、飯を貰おうか」
と、女へいい直した。
湯漬を喰べながらも、外記はまだ頻りと主人自慢を話しつづけている。中で武蔵が心を傾けさせられたものは、政宗公という一箇の武辺を中心として、伊達藩の者がこぞって、
(如何に武士たるべきか)
と――武士の本分を、「士道」というものを、磨き合っている風の|旺《さかん》なことだった。
今の社会に、「士道」はあるかないか、といえば、武士の興った遠い時代から、漠とした士道はあった。けれど漠としたままそれは古い道徳となり、乱世のつづくうちに、その道義も乱れ果てて、今では太刀を持つ人間の間に、かつての古い士道さえ見失われてしまっている。
そしてただ、
(武士だ)
(弓取りだ)
という観念だけが、戦国のあらしとともに強まっているのみである。新しい時代は来つつあるが、新しい士道は立っていない。従ってその武士だ、弓取りだと自負する者のうちには、|屡々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《しばしば》、田夫や町人にも劣る下劣なのが見かけられる。勿論、そういう下劣なる武将は、自ら滅亡を招いてはゆくが、そうかといって、真に「士道」を|研《みが》いて、自国の富強の根本としてゆこうと自覚している程な将は――まだ豊臣系や徳川系の諸侯を見わたしても極めて少ないのではあるまいか。
かつて。
それは姫路城の天主の一室へ、武蔵が、沢庵のために、三年のあいだ幽閉されて、陽の目もみずに書物ばかり見ていたあの頃である。
あの沢山な池田家の蔵書の中に、一冊の写本があったことを覚えている。それには、
[#ここから2字下げ]
|不識庵様日用修身巻《ふしきあんさまにちようしゅうしんかん》
[#ここで字下げ終わり]
という|題《だい》|簽《せん》がついていた。不識庵とは、いうまでもなく、上杉謙信のことである。書物の内容は、謙信が自身の日用の修身を書きならべて、家臣へ示したものであった。
それを読んで武蔵は、謙信の日常生活を知ると共に、あの時代、越後の富国強兵ないわれを知った。――けれど「士道」というものにまではまだ思い至らなかった。
ところがこよい、石母田外記の話をいろいろ聞いていると、政宗はその謙信にも劣らない人物と思われて来るのみでなく、伊達一藩には、この|乱《らん》|麻《ま》の世の中にあって、いつのまにか、幕府権力にも屈しない「士道」を生み、それを磨き合っている風が|勃《ぼつ》|々《ぼつ》として、ここに在る、石母田外記一人を見ても、分る気もちがするのであった。
「いや、思わず、それがしばかり勝手なことを|喋舌《し ゃ べ》ったが……どうじゃな武蔵殿。いちど仙台へもお越しなさらぬか。主人は至って無造作なお方でござる。士道のある侍なら、牢人であろうと、誰であろうと、お気易くお会いなされる|質《たち》じゃ。それがしから御推挙もいたそう。ぜひおいでなされ。――ちょうどこうした御縁の折、何ならば、御同道申してもよいが」
膳を下げてから、外記は、熱心にこうすすめたが、武蔵は一応、「考えた上で」と答えて、|臥《ふし》|床《ど》にわかれた。
べつな部屋へわかれて、枕についてからも、武蔵は眼が冴えていた。
――士道。
じっと、そこに、思索をあつめているうちに、彼は、|忽《こつ》|然《ねん》と、それを自己の剣に|省《かえり》みて悟った。
――剣術。
それではいけないのだ。
――剣道。
飽くまで剣は、道でなければならない。謙信や政宗が唱えた士道には、多分に、軍律的なものがある。自分は、それを、人間的な内容に、深く、高く、突き極めてゆこう。小なる一個の人間というものがどうすれば、その生命を托す自然と|融合調和《ゆうごうちょうわ》して、天地の宇宙大と共に呼吸し、安心と|立命《りつみょう》の境地へ達し得るか、得ないか。行ける所まで行ってみよう。その完成を志して行こう。剣を「道」とよぶところまで、この一身に、徹してみることだ。
――そう心に決定をつかんでから、武蔵はふかく眠りに落ちた。
|銭《ぜに》
眼をさますと、武蔵はすぐ思い出す。――お通はどうしたろう。また、城太郎はどこを歩いているだろう。
「やあ昨夜は」
と、朝の膳で、石母田外記と顔をあわせる。忘れるともなく話に|紛《まぎ》れて、やがて|旅籠《は た ご》を立ち出ると、この二人も、|中《なか》|山《せん》|道《どう》を往還する旅人の流れの中に交じって行く。
武蔵は、その行き来の流れに、絶えず無意識のうちにも眼をくばっていた。
似た人の後ろ姿にも、はっとして、
(もしや?)
と、すぐそれかと思う。
外記も気がついたのか、
「|誰方《ど な た》か、お連れでも、お探しかの」
と、訊く。
「さればです」
と、武蔵は|掻《か》いつまんで|事情《わけ》を話し、江戸へ参るにしても、|途《みち》|々《みち》、その二人の安否を心がけて行きたいから、ここでべつな道を取りたいと、それを|機《しお》に、夜来の礼をのべて別れかけた。
外記は、残念そうに、
「折角よい道連れと存じたが、それではぜひもござらぬ。――したが、昨夜も|諄《くど》|々《くど》お話ししたが、ぜひ一度、仙台の方へお越しください」
「|忝《かたじけの》う存じます。――折もあらばまた」
「|伊達《だて》の士風を見ていただきたいのじゃ。さもなくば、さんさ|時雨《し ぐ れ》を聞くつもりでおざれ。歌もいやならば、松島の風光を|愛《め》でに渡らせられい。お待ち申すぞ」
そういって、一夜の友は、すたすたと和田峠の方へ一足先に行ってしまった。何となく心ひかれる姿だった。そして武蔵は心のうちで、いつか、伊達の藩地を訪ねてみようとその時思った。
その時代、こういう旅人に出会うことは、武蔵ばかりでなかったろう。なぜならば、まだ|明日《あす》をも知れぬ天下の風雲である。諸国の雄藩は頻りと人物を求めている。路傍からよい人物を見出して行って、主君へ推挙することは、家臣として、大きな奉公の一つだからであった。
「旦那、旦那」
後ろで誰か呼びかける。
一度和田の方へかかりながら武蔵がまた、足を|回《めぐ》らして、|下《しも》|諏《す》|訪《わ》の入口へもどり、甲州街道と中山道のわかれに立って、思案にくれていると、その姿を見かけて来た宿場人足たちの声なのである。
宿場人足といっても、|荷《に》|持《もち》もあれば馬曳きもあるし、これから和田へかけては登りなので、極めて原始的な山駕の駕かきもいる。
「――何か?」
と、武蔵はふり返った。
その姿を、無作法に眼で撫で廻しながら、人足たちは|木《もく》|像《ぞう》|蟹《がに》のような腕を|拱《く》んで近づいて来た。
「旦那あ。さっきからお連れを探している様子だが、お連れは|別《べっ》|嬪《ぴん》ですかえ。それともお供でもおあんなさるかね」
持たせる荷物もないし、|山駕《かご》を雇う気もない。
武蔵はうるさく思って、
「いや……」
と、首を振ったのみで、黙々と、人足たちの群れを離れて、歩みかけたが、彼自身まだ、
(西せんか? 東せんか?)
心に迷っている姿だった。
一度は、何事も天意にまかせて、自分は江戸表へと、心にきめたが、やはり城太郎をふと考え、お通の身を思うと、そうも行かない。
(そうだ、きょう一日だけでも、この附近を尋ねてみよう。……もしそれでも知れなければ、ひとまず|諦《あきら》めて先へ立つとして)
彼の考えがきまった時、
「旦那、もしや何か、お探しになることでもあるなら、どうせあっしらは、こうして陽なたぼッこして遊んでいるのでございますから、お指図なすっておくんなさいまし」
また、寄って来た人足の一人がいうと、|他《ほか》の者も、
「駄賃なんざあ、いくらくれとは申しません」
「一体お探しになっているのは、お女中でござんすか、ご老人ですかえ」
余りいうので、武蔵も、
「実は――」
と仔細を話して、誰か、そんな少年と若い女を、この街道筋で見かけた者はないかと訊くと、
「さあ?」
と、彼らは顔を見合わせ、
「誰もまだ、そんなお人は、見かけねえようですが、なあに旦那、こちとらが手分けをして、|諏《す》|訪《わ》|塩《しお》|尻《じり》の三道にかけて、探すとなれやあ造作アありませんぜ。|誘拐《かどわか》された|女《おな》|子《ご》だって、道のねえ所を越えてゆく筈はなし、そこは|蛇《じゃ》の道はヘビってもんで、訊き廻るにも、土地に明るいこちとらでなけれやあ分らねえ穴がございますからね」
「なるほど」
武蔵はうなずいた。大きにそれは理窟がある。土地にも不案内な自分が、いたずらに歩いてみたり焦躁するよりは、こういう|輩《やから》を使えば忽ち、二人の消息は分るかも知れない。
「――では頼む、ひとつ|其《その》|方《ほう》たちの手で、探してくれまいか」
率直にいうと、人足たちは、
「ようがす」
と、一斉にひき受けてから、しばらくがやがや手分けの評議をしていたが、やがて一名の代表者が前へ出て、|揉《もみ》|手《で》をしながら、
「ええ、旦那え。エヘヘヘ、|寔《まこと》に申しかねますが、なにしろ裸商売、こちとらあまだ、朝飯も喰べておりません。夕方までにゃあ、きっと、お尋ねのお人を突き止めますから、半日の日雇い賃と、わらじ銭とを、ちっとばかりやっておくんなさいませんか」
「おう、元よりのこと」
武蔵は当然に思って、貧しい路銀をかぞえてみたが、彼の要求する額には、その全部をはたいても足りなかった。
武蔵は金の貴重なことを人よりも身に沁みて知っている。なぜならば、孤独である。また旅にばかり暮しているから。――しかし武蔵はまた、金に執着を持ったことがない。それは、孤独の彼には、誰を扶養する責任もない。その身一つは、寺に宿り、野に臥し、時には知己の清浄を恵まれ、なければ喰べずにいても、そう|痛《つう》|痒《よう》には感じない。――そのうちに何とかなって来たのが今日までの流浪生活の常であった。
考えてみると、ここまで来た道中の|費《つい》えも、一切お通が見てくれたのだった。お通は、烏丸家から莫大な路銀を恵まれ、それをもって、道中の経済をしていた上、武蔵へもなにがしかの金を|頒《わ》けて、
(お持ちになっていらっしゃいまし)
と、渡してくれたものだった。
そのお通からもらった全部を、武蔵は人足たちに皆渡して、
「これでよいか」
といった。人足たちは、|掌《てのひら》へ銭を|頒《わ》け合って、
「ようがす。負けておきましょう。――じゃあ旦那は、|諏《す》|訪《わ》明神の楼門でお待ちなすっていておくんなさい。晩までにゃ、きっと、|吉《よ》いお|報《し》らせをいたしますから」
と、|蜘蛛《くも》の子みたいに散らかって行った。
八方、人手を分けて、探しているとはいえ、この一日を、空しく待っているのも智慧がないので、武蔵は武蔵で、高島の城下から、諏訪一円を歩き暮した。
お通と城太郎の消息を尋ね歩いていると、武蔵は、こうして暮れてゆく一日が惜しかった。彼の頭には、絶えず、この辺の地勢とか、水理とか、また、誰か聞えた武術家などはいないかなどと――そのほうへ頻りと心が動く。
だが、その両方ともに、大した収穫もなく、やがて|黄昏《たそがれ》頃、人足たちと約束した諏訪明神の境内へ来てみると、楼門の辺にも、まだ誰も来ている様子がない。
「ああ、疲れた」
|呟《つぶや》きながら、彼は楼門の石段へどっかり腰をおろした。
気づかれというのか、こんな呟きが、|嘆息《ためいき》のように出ることは滅多にない。
誰も来ない。
やや退屈を感じて広い境内を、一巡りしてまた戻って来た。
まだ約束した人足は一人も見えていなかった。
闇の中で、時々、|戞《か》つ、戞つ、と何か蹴るような響きがするので、武蔵は、時々、はっとわれに返るような眼をみはった。――それが気にかかるらしく、楼門の石段を降りて、ふかい木蔭の中にある一棟の小屋を|窺《うかが》ってみると、その中には、白い|神《しん》|馬《め》が繋がれているのだった。耳についた物音は、神馬が床を蹴って暴れる音だった。
「御牢人、なんじゃ」
馬に|飼糧《か い ば》をやっていた男が、武蔵の影を振向いて訊ねた。
「何ぞ、社家に御用事でもあるのか」
|咎《とが》めるような眼つきでいう。
そこで武蔵が、わけを話して、一応怪しい者でないことを弁明すると、|白丁《はくちょう》を着ているその男は、
「あははは。あははは」
腹を抱えて笑い止まないのである。
|憤《む》っとして武蔵が、何を笑うかというと、その男はなお笑って、
「あんたは、そんなことで、よう旅が出来なさるの。なんであの道中の|蠅《はえ》みたいな悪人足が、先に銭を取って、正直に一日中、そんなお人を探して歩いているものか」
と、いうのであった。
「では、手分けをして、探すといったのは嘘であろうか」
武蔵が|糺《ただ》すと、こんどはむしろ気の毒になったように、その男も真顔になっていった。
「お前さんは、|騙《だま》されたのじゃ。――道理で、きょう十人ばかりの人足が、裏山の雑木林で、昼間から車座になって、酒をのみながら|博奕《ば く ち》などしておった。おおかた、その連中であったかもしれぬ」
それから、その男は、この諏訪塩尻あたりの往還で、旅客が人足の悪手段にのって路銀をせしめられる|屡々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《しばしば》の実例を幾つも挙げて、
「わたる世間も同じ事ですよ、これからはよく御用心なさるがよい」
と、空になった|飼糧《か い ば》|桶《おけ》をかかえて、彼方へ行ってしまった。
武蔵は、茫然としていた。
「…………」
何か、大きな未熟を自己に発見したような気持で。
剣を持っては、隙がないと自負している自身も、世わたりの俗世間に立ち交じる、無智の宿場人足にも|翻《ほん》|弄《ろう》される自分でしかなかった――と明らかに世俗的な不鍛錬が分ってくる。
「……仕方がない」
武蔵はつぶやいた。
口惜しいとも思わないが、この未熟は、やがて三軍を動かす兵法のうえにも現れる未熟である。
これからは謙虚になって、もっと俗世間にも習おうと思う。
――そして彼はまた、楼門の方へ足を返して来たが、ふと見ると、自分の去った跡へ来て、誰か一人立っている。
「オ。旦那」
楼門の前で辺りを見廻していたその人影は、武蔵の姿を見つけると、石段を降りてきて、
「お探しになっているお人の、一方だけ分りましたから、お|報《し》らせに参りましたんで」
と、いった。
「え?」
武蔵はむしろ意外な顔して――よく見るとそれは、今朝、半日の駄賃をやって、八方へ手分けして走らせた宿場人足の中の一人であった。
たった今、
(|騙《だま》されたのだ)
と、|神《しん》|馬《め》|小《ご》|舎《や》の前で|嘲《わら》われて来ただけに、武蔵は、意外だったのである。
同時に彼は、自分から半日の駄賃と|酒代《さ か て》を|詐《さ》|取《しゅ》した十幾人もの人間が世間に満ちてはいるが、
(世間の全部が、|詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》ではない)
と分って、それが先ず、|欣《うれ》しかった。
「一方が分ったとは、城太郎という少年の方か、お通の方が知れたのか」
「その城太郎っていう子を連れている、奈良井の大蔵さんの足どりが分ったのでございます」
「そうか」
武蔵は、それだけでも、ほっと心の一面が明るくなった。
正直者の人足は、こう話した。
――今朝、駄賃をせしめた|仲《なか》|間《ま》の|手輩《て あ い》は、元よりそんな者を探すつもりは毛頭ないので、皆、仕事を怠けて、|博奕《ば く ち》に耽っているが、自分だけは、ご事情を聞いてお気の毒だと思い、一人で塩尻から|洗《せ》|場《ば》まで行って、立場立場の仲間に、尋ねあるいてみると、お女中衆の消息はさっぱり知れないが、奈良井の大蔵さんなら、ついきょうの|午《ひる》頃、|諏《す》|訪《わ》を通って、和田の山越えにかかって行ったということを、|中食《ちゅうじき》をした|旅籠《は た ご》|屋《や》の女中から聞きました――というのである。
「よく知らせてくれた」
武蔵は、この人足の正直と功労に対して、酒代を|酬《むく》いたいと思ったが、ふところに手を当ててみると、路銀はみなほかの|狡《ずる》い連中に取られてしまったので、考えてみると、今夜の飯代しか残っていない。
(――でも、何かやりたい)
と、彼はなお、考えた。
しかし、身につけている物で、|値《あたい》のある物などは何一つもない。彼は遂に、今夜は食べずにしのぐときめて、一度の飯代にと残しておいたわずかな銭を、|革巾着《かわぎんちゃく》の底を払って、皆、その男に与えてしまった。
「ありがとうございます」
正直者は、当然なことをして、過分な礼に会ったので、銭を|額《ひたい》に押しいただくと、ほくほくして立ち去った。
――もう一箇の銭もない。
武蔵は、無意識の中に、銭の後ろ姿を見送っていた。与えながら、与えた後は、ちょっと途方に暮れた気持になった。|空腹《すきばら》はもう夕刻から頻りに迫っていたのでもあるし――。
けれど、あの銭が、あの正直者に持ち帰られれば、自分の空腹をみたす以上、何かよいことに|費《つか》われるにちがいない。それからあの男は、正直に酬われることを知って、|明日《あ し た》もまた、街道へ出て、ほかの旅人へも正直に働くだろう。
「そうだ……この辺で一宿の軒端を借りて朝を待つより、これから和田峠を越えて、先へ行ったという奈良井の大蔵と城太郎に追いつこう」
今夜のうち和田を越えておけば、明日は何処かでその人と城太郎に出会うかも知れない。――武蔵は忽ち思い立って、やがて|諏《す》|訪《わ》の宿場を出はずれ、久しぶりに暗い道を、独りすたすたと夜旅の味を踏みしめて行った。
――独り夜を歩む。
武蔵は好きだった。
これは彼の孤独な生来から来るものかも知れない。自分の踏む|跫《あし》|音《おと》をかぞえ、耳に天空の声を聞いて真っ暗な夜道を、黙々と歩いていると、すべてをわすれて、楽しいのであった。
人中の賑やかな中にいると、彼のたましいはなぜか独り淋しくなる。淋しい|暗《やみ》|夜《よ》を独り行く時は、その反対に、彼の心は、いつも賑わしい。
なぜならば、そこでは、人中では心の表に現れないさまざまな実相が|泛《うか》んでくるからであった。世俗のあらゆるものが冷静に考えられると共に、自分の姿までが、自分から離れて、あかの他人を見るように、冷静に|観《み》ることができた。
「……オ。|燈《ひ》が見える」
しかし――
行けども行けども闇の夜道に、ふと一つの燈を見出すと、やはり武蔵もほっと思う。
人の住む|燈《ひ》!
われに返った彼の心は、人恋しさや、なつかしさに、|顫《ふる》えるほどだった。もうその|矛盾《むじゅん》を自分に問うている|遑《いとま》もなく、
「――|焚《たき》|火《び》をたいているらしい。夜露にぬれた|袂《たもと》をすこし乾かしてもらおう。ああ、腹もすいた。|稗《ひえ》|粥《がゆ》なとあらば無心して」
と、足はおのずとその燈へ向って急いでいる。
もう|夜半《よ な か》であろう。
諏訪を出たのは宵だったが、落合川の|渓《たに》|橋《ばし》を越えてからはほとんど山道ばかりだった。一の峠は越えたが、まだ先に和田の大峠と|大門峠《だいもんとうげ》が、星空に重なっている。
その二つの山の尾根と流れ合っている広い沢の辺りに、ポチと、|燈《ひ》が見えたのである。
近づいてみると、たった一軒の立場茶屋だった。|廂《ひさし》の先には「|馬《うま》|繋《つな》ぎ」と呼ぶ|棒《ぼう》|杭《ぐい》が四、五本打ち込んであり、この山中のしかも深夜に、まだ客があるのか、土間のうちからパチパチと火のはぜる音に|混《ま》じって、粗野な人声が洩れてくる。
「――さて?」
と、当惑した顔つきで、武蔵はその軒端に立ち迷った。
ただの百姓家か|木樵《き こ り》の小屋でもあれば、|暫《ざん》|時《じ》の休息も頼めるし、|稗《ひえ》|粥《がゆ》の無心ぐらいはきいてもくれるであろうが、旅人を相手に商売している茶店では、一ぱいの茶も、茶代をおかずに立つわけにはゆかない。
どう考えても、金はもう一枚の|鐚《びた》も持っていないのだ。しかし、温かそうな煙に混じって洩れる煮物のにおいは、彼の飢えをつよく思い出させて、もう到底、去り得ないほどだった。
「そうだ、仔細をいって、|彼品《あれ》でも、一飯の|値《あたい》の代りに取ってもらおう」
そう思いついた抵当の品というのは、背に負っている武者修行包みの中の一品だった。
「……ごめん」
彼がそこへ入るまでには以上のような当惑やら苦心のあげくであったが、中でがやがやいっていた連中には、まったく唐突な姿だったに違いない。
「……?」
びっくりしたように皆、黙ってしまった。そして彼の姿を、いぶかしげに見まもった。
土間の真ン中に大きな|自在鉤《じざい》が懸っている。土足のまま囲めるように|炉《ろ》は土へ掘ってあり、鍋には、|猪《しし》の肉と大根がふつふつ煮えていた。
それを|肴《さかな》に、|樽《たる》や|床几《しょうぎ》へ腰かけて、酒壺を灰へ突っこみながら、茶碗を廻していた野武士ていの客が三人。――|老爺《お や じ》は後ろ向きのまま今、漬物か何か刻みながら、その客たちと、馬鹿ばなしでもしていたらしい。
「なんだ?」
老爺に代って、そういったのは、中でも眼のするどい、五分|月代《さかやき》の男だった。
|猪《しし》|汁《じる》のにおいや、この家の暖かい火の気につつまれると、武蔵の|飢《き》|渇《かつ》は、もう一|刻《とき》もしのべなくなった。
居合せた野武士ていの男が、何かいったが、それに答えもせず、ずっと通って、空いている|床几《しょうぎ》の隅を占め、
「おやじ、湯漬でもよい、はやく飯を支度してくれい」
亭主は|冷《ひや》|飯《めし》と|猪《しし》|汁《じる》を運んで来て、
「夜どおしで、峠をお越えなされますか」
「ウム、夜旅じゃ」
武蔵はもう箸を取っている。
猪汁の二杯目を取って、
「きょうの昼間、奈良井の大蔵という者が、一名の|童《わらべ》を連れて、峠を越えて行かなかったであろうか」
「さあ、存じませんなあ。――藤次どのや、他の衆のうちで、そんな旅の者を見かけた者はございませんか」
おやじが、土間炉の|鍋《なべ》|越《ご》しに訊ねると、首を寄せて、|酌《つ》ぎ合ったり|囁《ささや》いたりしていた三名は、
「知らねえ」
|膠《にべ》もなく皆、顔を振った。
武蔵は満腹して、一|碗《わん》の湯をのみほし、体も温まると共に、さて食事の|価《あたい》が気がかりになった。
最初に、|事情《わけ》を告げて、それからにすればよかったが、|他《ほか》に三名の客が飲んでいるし、慈悲を乞うつもりでもないので、先に腹を拵えてしまったが、もし亭主がきき入れてくれなかったらどうしよう。
その時には、刀の|笄《こうがい》でも――と思いきめて、
「おやじ、|寔《まこと》に相済まぬ頼みだが、実は、鳥目を一銭も持ち合せておらぬ。――と申しても、無心を頼むわけではない、|此《この》|方《ほう》が持ち合せておる品物を、その価として取っておいてくれまいか」
いうと、案外気やすく、
「ええ、よろしゅうござりますとも。――したが、そのお品とは、なんでございますな」
「観音像じゃ」
「え、そんな物を」
「いや、|某《なにがし》の作というような品ではない。拙者が旅のつれづれに、梅の古木へ小刀|彫《ぼ》りで彫った小さい坐像の観世音。一飯の価には足らぬかもしれぬが……。まあ、見てくれい」
背に負っている武者修行包みの結び目を解きかけると、炉の向う側にいる三名の野武士たちは、杯を忘れて皆、武蔵の手を凝視していた。
武蔵は、包みを膝にのせた。それは|雁《がん》|皮《ぴ》の|紙《こ》|縒《より》に|渋汁《しぶ》を引いた一種の糸で、袋のように編んだ物である。武者修行して歩く者は皆、その袋へ、大事な物を押し籠めて負っているが、武蔵の包みの中には、今彼のいった|木《き》|彫《ぼり》の観音と、一枚の肌着と貧しい文房具しかはいっていなかった。
|編袋《あみぶくろ》の一方を持って、武蔵はそれを振り動かした。すると、中からずしりと、土間へ転がった物がある。
「……やっ?」
これは、茶屋のおやじとまた、炉の向う側にいた三名の口から出た声だった。――武蔵は自分の足元へ眼を落したまま、ただ|唖《あ》|然《ぜん》たる顔でしかない。
金の包みである。
慶長小判や銀や|金《こん》|色《じき》のかねが、そこらまで散らばった。
(――誰の金?)
と、武蔵は思った。
四人も、そう疑ぐっているらしく、息をのんで、土間の金へ、眼を奪われていた。
武蔵は、もう一度武者修行袋を振ってみた。すると、金の上へ、さらにまた、一通の書面がこぼれた。
怪しみながら|披《ひら》いてみると、それは|石《いし》|母《も》|田《だ》|外《げ》|記《き》の置手紙であった。
それもたった一行、
[#ここから1字下げ]
当座の御費用に|被成《な さ る》べく候   外 記
[#ここで字下げ終わり]
としか書いてない。
けれど少なからぬ金である。この一行が何をいっているか。武蔵にはわかる気もする。要するにこれは、伊達政宗ばかりでなく、諸国の大名がやっている一つの政策である。
有為の人材を常に召し抱えておくことはむずかしい。しかし時代の風雲は、愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、有為な人材を要望している。関ケ原くずれの浮浪人は、路傍に満ちて、禄を|漁《あさ》りあるいているが、さて、これはという人材は極めてない。あれば忽ち、家の子郎党の厄介者付きでも、何百石、何千石の高禄で、すぐ売れ口がついてしまう。
いざ|戦《いくさ》――という日でも、集まる雑兵はいくらでも集まるが、求めても|容易《た や す》く来ないような人物を、今は各藩で|血眼《ちまなこ》に探しているのだ。そして、これはと思う人物には、何らかの方法で、必ず恩恵を売っておく。或は|黙《もっ》|契《けい》をむすんでおく。
その、大物どころでは、大坂城の秀頼が、後藤又兵衛に捨て扶持をやっていることは天下の周知である。九度山に引籠っている|真《さな》|田《だ》|幸《ゆき》|村《むら》へ、年ごとに、大坂城からどれほどな金銀が仕送りされているかぐらいなことは――関東の家康でも調べ上げているところであろう。
閑居している|佗《わ》び牢人に、そんな生活費のいるはずはない。しかし、幸村の手から、その金銀はまた、零細な幾千人の生活費になってゆくのである。そこには、|戦《いくさ》のある日まで、遊んで暮している沢山な人間が町に隠れていることはいうまでもない。
一乗寺下り松のうわさから、後を追いかけて来た伊達家の臣下が、すぐ武蔵の人物に、食指をうごかしたことは当然すぎる。――既にこの金が、明らかに、外記の|底《そこ》|意《い》を証拠だてていると見て間違いはない。
――困った金である。
|費《つか》えば恩を買う。
なければ?
(そうだ、金を見たから、惑うのではないか。なければ、ないでもすむものを)
武蔵はそう思って、足もとに落ちている金を拾い集め、元通りに武者修行袋へつつみこんで、
「――では亭主。これを飯の代に、取っておいてくれい」
自分の手すさびに彫った|木《き》|彫《ぼり》の観世音をそこへ出すと、茶店の|老爺《お や じ》は、今度は甚だしく不平顔で、
「いけませんよ旦那、これやあ、お断りしますべ」
と、手を出さない。
武蔵がなぜ? というと、
「なぜって、旦那は今、持合せが一文もねえと仰っしゃるから、観音様でもいいといったのじゃが……見ればないどころか、持て余している程、お金を持ってござらっしゃるではねえか。どうか、そんなに見せびらかさねえで、お金で払っておくんなさいまし」
最前から、酒の酔をさまして、|固《かた》|唾《ず》をのんでいた三名の野武士は、おやじの抗議を、尤もだというように、後ろでうなずいていた。
自分の金ではない――というような弁解をしてみるのも、この場合は、愚の至りである。
「そうか……では仕方がない」
武蔵は、やむなく一箇の銀片を出して、おやじの手に渡した。
「はて、|剰銭《つり》がないが。……旦那様、もっと細かいお鳥目で下さいませ」
武蔵はまた、金を調べてみた。しかし包みは慶長小判と、それがいちばん小さくて安い|銀《ぎん》|片《ぺん》であった。
「|剰銭《つり》はいらぬ、茶代に取っておくがいい」
「それは、どうも」
と、おやじは急に打って変る。
もう手をつけた金なので、武蔵はそれを腹巻へ巻いた。そして、茶店のおやじから嫌われた木彫の観音像を、元のように、武者修行袋に入れて背中へ背負う。
「まあ、あたって行かっしゃれ」
と、おやじは|薪《まき》をくべ足したが、武蔵はそれを|機《しお》に、|戸外《そと》へ出た。
夜はまだ深い。けれど腹ごしらえもまずできた。
夜明けまでに、この和田峠から大門峠まで踏破してしまおうと思う。昼ならば、この辺りの高原は、|石楠花《しゃくなげ》やりんどうや薄雪草も数あるらしいが、夜はただ|渺《びょう》として、真綿のような露が地を這っているばかり。
花といえば、空こそ、星のお花畑とも見える。
「おおオいっ」
立場茶屋を離れておよそ二十町も来た頃である。
「――今の旦那あ、お忘れ物をなされたぞよ」
さっき茶店に居合せた野武士ていの中の一人であった。
側へ駈けて来て、
「早いお脚だの、あんたが出て行ってから、しばらくしてから気づいたのじゃ。――このお金は、あんたの物じゃろうが」
|掌《てのひら》に、一粒の|銀《ぎん》|片《ぺん》をのせて、武蔵に見せ、それを返そうと追いかけて来たのだという。
いやそれは自分の物ではあるまいと武蔵はいったが、野武士ていの男は、かぶりを振って、確かにあなたが金包みを落した時、この一片が土間の隅へ転がったものに違いない、と押し戻して来る。
数えて持っている金ではないので、そういわれてみると、そうかも知れないと武蔵は思うほかなかった。
で、礼をいって、それを|袂《たもと》に納めたが、武蔵は、この男の正直な行為が、なぜか少しも自分の感激に触れないことに気づいた。
「失礼じゃが、あんたは、武道を誰に|習《まな》びなされた」
用がすんでからも、男は要らぬ話をしかけて、側へついて歩く。それもおかしい。
「我流ですよ」
と、武蔵は、投げっ放しな語調でいう。
「わしも、今は山に籠ってこんな|業《わざ》をしておるが、以前は侍でな」
「ははあ」
「さっき居合せた者も皆そうじゃ。|蛟龍《こうりょう》も時を得ざれば空しく|淵《ふち》に潜むでな、みな|木樵《き こ り》をしたり、この山で、薬草採りなどして|生計《た つ き》をたてているが、時到れば、鉢の木の佐野源左衛門じゃないが、この山刀|一《ひと》|腰《こし》に、ぼろ|鎧《よろい》を|纏《まと》っても、名ある大名の陣場を借りて、日頃の腕を振うつもりじゃが」
「大坂方ですか、関東方でございますか」
「どっちでもいい。まずやはり旗色を見て加わらぬと、一生を棒にふるからなあ」
「はははは、大きに」
武蔵は、まるで相手にしない。なるべく足も大股に努めてみたが、男もそれにつれて大股になるので何の|効《か》いもない。
そしてなお、気になることには、自分の左側へ左側へと、男は好んで寄り添ってくるのだった。これは、心ある者は最も|忌《い》むところの、抜討ちを仕かける時の姿勢である。
――だが武蔵は兇暴な道連れの狙っているその左側を、わざと|空《あ》けて、甘んじて相手に|窺《うかが》わせておいた。
「どうじゃな修行者。もし嫌でなかったら、おれたちの|住居《す ま い》へ来て、今夜は泊ってゆかないか。……この和田峠の先には、大門峠がある。夜明けまでに越えるというても、道馴れない者にはどうして大変だ。これから先は、道も|嶮《けわ》しくなるばかりだし」
「ありがとう存じます。おことばに甘えて、泊めて戴きましょうかな」
「そうするがいい、そうするがいい。――だが何も、もてなしはないぜ」
「元より、体さえ横たえれば、それでいいのでございます。して、お|住居《す ま い》は」
「この谷道から、左の方へ五、六町ほど登った所さ」
「えらい山中にお住いですな」
「さっきもいった通り、時節の来るまで、世から隠れて、薬草採りをしたり、|猟師《りょうし》の|業《わざ》をまねたりして、あの者たちと三人して暮しているのじゃ」
「そういえば、後のお二人は、どうなされましたか」
「まだ立場で飲んでいるじゃろう。いつも|彼家《あ す こ》で飲むと酔いつぶれて、小屋まで担いで行く役がおれときまっているが、今夜は、面倒なので置いて来た。……おッと、修行者、そこの|崖《がけ》を降りるとすぐ|谿《たに》|川《がわ》の河原だ、あぶないから気をつけろよ」
「|彼方《む こ う》へ、渡るのですか」
「ム……その流れの狭い所の丸木橋を渡って、谿川づたいに、左へ登ってゆく……」
と、男は低い崖の途中に立ち止まっている様子だった。
武蔵は、振り向きもしない。
そして丸木橋を渡りかけていた。
崖の中途からぽんと跳んだ男は――いきなり武蔵の乗っている丸木橋の端に手をかけて、彼の姿を、激流の中へ振り落そうとして、持ち上げたが、
「何をする?」
と、河の中の声にぎょっとして首を上げた。
武蔵の足は、橋を離れて、|飛沫《し ぶ き》の中の岩の上に、|鶺《せき》|鴒《れい》が止まったように立っていた。
「――あッ」
|抛《ほう》り出した丸木橋の端が、白い|飛沫《し ぶ き》を途端に散らした。その水玉の傘が地まで落ちないうちに、河中の|鶺《せき》|鴒《れい》はぱっと跳んで返って、いわゆる抜く手も見せない間髪に、|狡《こう》|智《ち》に|長《た》けたその卑怯者を斬り|撲《なぐ》った。
――こんな場合、武蔵は、斬った死骸には眼もくれなかった。死骸がまだ|蹌《よろ》めいているうちに、彼の剣は、もう次の何ものかを待っている。彼の髪は、|鷲《わし》の|逆《さか》|毛《げ》のように立って、満山皆敵と|観《み》るもののようであった。
「…………」
果たして、ぐわあん! と谷間の|擘《さ》けるような音が渓流の向う側からとどろいた。
いうまでもなく、猟銃の|弾《たま》である。弾は|正《まさ》しく、武蔵の在った位置を、ぴゅんと通りぬけ、後ろの崖土の中へ|潜《もぐ》った。
弾が土の中へ入った後から武蔵も同じところへ仆れた。そして対岸の沢を見ていると、蛍の火みたいな赤いものがチラチラする。
――二つの人影が、そろそろと河べりまで這い出して来る。
一足先に|冥《めい》|土《ど》へ立った卑怯者は、後の二人の仲間は、立場の居酒屋でのみつぶれていると嘘をいったが、先へ廻って、待ち伏せの手ぐすね引いていたのである。
それも、武蔵の考えていた通りであった。
猟師だとか、|薬草《く す り》|採《と》りだとかいっていたのは勿論うそで、この山に巣喰う賊であることは疑ぐってみるまでもない。
けれど、さっき、
(時節が来るまで)
と、|途《みち》|々《みち》いった言葉は、ほんとであろう。
どんな盗賊でも、子孫まで盗賊でやって行こうと考えている者は一人もあるまい。乱世の方便としての世渡りに、諸国には今、山賊と野盗と市盗が急激にふえつつある。そして、いざ天下の合戦となると、これが皆、一かどの|錆《さび》|槍《やり》とボロ|鎧《よろい》をかついで、陣借りして、真人間に生き|甦《かえ》るのだ。――ただ惜しいかなこの|手輩《て あ い》は、雪の日、客に梅を|焚《た》いて、時節を待ちながらも時節を度外している|雅《が》|懐《かい》はないのである。
|虫《むし》|焚《た》き
|火《ひ》|縄《なわ》を口に|咥《くわ》え、一人は二度目の|弾《たま》|込《ご》めをしているらしい。
もう一人は、身を|屈《かが》めて、こっちを見ている。対岸の崖の下へ、武蔵の影が仆れはしたが、なお疑って、
「……大丈夫か」
と|囁《ささや》いているのだった。
鉄砲を持ち直したのが、
「確かだ」
と、うなずいて、
「|手《て》|応《ごた》えがあった」
という。
それで安心して、二人は丸木橋を頼って、武蔵の方へ渡って来ようとした。
鉄砲を持った方の影が、丸木橋の中ほどまでかかって来ると、武蔵は起き上がった。
「――あッ」
引金に懸けた指は、もちろん、正確を失っていた。どうんと、弾は空へ走って、ただ大きな|谺《こだま》を呼んだ。
ばらばらっと、二人は引っ返して、|谿《たに》|川《がわ》ぞいに逃げ出した。武蔵が追いかけてゆくと、|業《ごう》|腹《はら》になったものか、
「やいやい、逃げる奴があるものか、相手はひとり、この藤次だけでも片づくが、引っ返して助太刀しろ」
鉄砲を持たない方がけなげにもこういって立ち止まった。
自分で藤次と名乗っているし、物腰から見ても、これが|山《さん》|寨《さい》に住む賊の頭目であろう。
呼び返されて子分か分らぬが、もう一名の賊は、それに励まされて、
「おうっ」
と答え、火縄を|抛《ほう》りすてたと思うと、鉄砲を逆手にして、これも武蔵へかかって来た。
武蔵はすぐ感じた。これはそう根からの野武士ではない。わけても、山刀を揮って来た男の腕に多少筋がある。
――だが、彼のそばへ近づくと、賊の二人とも、一撃に|刎《は》ね飛ばされたように見えた。鉄砲を持った方の男は、完全に肩から|袈《け》|裟《さ》にふかく割りこまれて、渓流の|縁《ふち》から、だらんと半身落ちかけている。
口程もなく、藤次と名乗った賊の頭目は、小手の傷を抑えながら、逃足早く、沢から上へ駆け上ってゆく。
ざざざ、と土の落ちてくる後を|辿《たど》って、武蔵も何処までも、追って行った。
ここは和田と大門峠の境で、|山毛欅《ぶな》が多いままぶな[#「ぶな」に傍点]谷と呼ばれている。沢を登りつめた所に、|一《ひと》|叢《むら》の山毛欅につつまれた家があった。その家もまた、山毛欅の丸太で組み建てたような|巨《おお》きな山小屋に過ぎない。
ボッと、そこに|燈《ひ》が見えた――
家の内にも明りが|映《さ》しているが武蔵の眼に見えたのは、その家の軒先に、誰か、|紙燭《ししょく》を持って立ってでもいるらしい|燈《ひ》であった。
賊の頭目はばたばたっと、それへ向って逃げて行きながら、
「|燈《ひ》を消せっ」
と呶鳴った。
すると、|袂《たもと》で|燈《ひ》をかばいながら、|戸外《そと》に立っていた影が、
「どうしたのさ」
と、いった。
女の声であった。
「まあ、ひどい血になって――。|斬《や》られたのかえ。今、谷の方で鉄砲の音がしたから、もしやと思っていたら? ……」
賊の頭目は、うしろから迫る跫音に、振向きながら、
「ば、ばかっ。はやくその燈を消してしまえ。家の中の燈も」
と、息を|喘《き》って、また呶鳴った。
彼が、土間の中へ転げ込むと、女の影も、燈をふき消して、あわてて姿を隠してしまった。――やがて武蔵が、その前へ来て立った時は、家の中の明りも洩れず、手をかけてみても、戸はかたく閉まっていた。
武蔵は怒っていた。
だが、この怒りは、卑劣だとか|偽《あざむ》かれたとか、対人的に怒っているのではない。元より虫けらのような|鼠《そ》|賊《ぞく》と思いながら、社会的に|免《ゆる》しておけない気持がする。いわゆる公憤なのである。
「開けろっ」
いってみた。
当然、開ける筈はない。
足で蹴っても破れそうな雨戸だが、万一を|惧《おそ》れて、武蔵は戸から四尺ほど離れている。それへ手をかけて叩いたり、がたがた試みたりするような不用意は、武蔵でなくとも、多少心得のある人間のすべき|業《わざ》ではない。
「開けないか」
戸の中は、なお、しんとしている。
武蔵は|抱《かか》え易い程度の岩を両手に持った。いきなりそれを戸に向って|抛《ほう》りつけたのである。
戸の継ぎ目を狙ったので、二枚の戸が内側へ仆れた。その下から山刀が素っ飛び、続いて、一人の男が、這い起きて、家の奥へ逃げ|転《まろ》んでゆく。
武蔵が跳びかかって、その|襟《えり》がみをつかむと、
「あっ、|免《ゆる》せっ」
と、悪人が悪事に|失策《し く じ》ると、きまって|吐《ほ》ざく|脆《もろ》い声をあげた。
そのくせ、|平《ひら》|蜘蛛《ぐも》になって、|謝《あやま》るのではなく、間断なく隙を狙って、武蔵へ肉闘してくるのである。最初から武蔵も感じていたとおり、賊の頭目だけに、この男の|小《こ》|手《て》|技《わざ》には、かなり鋭いところがある。
その小手技を、ぴしぴし封じて、武蔵が許す気色もなく、|捻《ね》じ伏せかけると、
「く、くそっ」
猛然、この男は、生来の暴勇をふるい起し、短刀を抜いて、突っかけて来た。
引っぱずして、
「この|鼠《そ》|賊《ぞく》」
と|体《たい》を|抄《すく》い込み、どんと、次の部屋まで投げつけると、その脚か手が、炉の上の|自《じ》|在《ざい》|鉤《かぎ》へぶつかったのであろう。朽ち竹の折れる響きと共に、炉の口から、火山のような白い灰が|噴《ふ》き|騰《あが》った。
武蔵を近づけまいとして、その|濛《もう》|々《もう》と煙る中から、釜のふただの、薪だの、火箸だの、土器などを、所きらわず投げつけてくる。
――やや灰が落着いたところで、よく見ると、それは賊の頭目ではない。彼はすでに、どこか強く打ちつけたとみえて、柱の下に長く伸びているのである。
――それなのになお、
「畜生、畜生」
と、必死になって、手当り次第に、物を取っては、武蔵へ向って投げつけて来るのは、賊の妻らしい女であった。
武蔵は、すぐその女を組み敷いた。――女は組み敷かれながらもまだ、髪の|笄《こうがい》を|逆《さか》|手《て》に抜いて、
「畜生」
と、突きかけていたが、その手を、武蔵の足に踏まれてしまうと、
「――お前さん、どうしたのさ! 意気地のない、こんな若僧に」
と、歯がみをしながら、もう気を失っている賊の|良人《お っ と》を、無念そうに、叱咤していた。
「……あっ?」
武蔵は、その時、思わず身を離した。女は男以上に勇敢だった。刎ね起きざま、良人の捨てた短刀を拾って、再び、武蔵へ斬りつけて来たが、
「……おっ、おばさん?」
武蔵が意外な言葉を与えたので、賊の妻も、
「――えっ?」
息をひいて、|喘《あえ》ぎながら相手の顔をしげしげと――
「あっ、おまえは? ……。オオ|武《たけ》|蔵《ぞう》さんじゃないか」
今もまだ、幼名の武蔵を、そのまま自分へ呼ぶ者は、本位田又八の母のお杉ばばを|措《お》いて、誰があろう?
怪しみながら、武蔵は、そう馴々しく自分を呼んだ賊の妻を見まもった。
「まあ、|武《たけ》さん、いいお武家におなりだねえ」
さもさも懐かしそうな女のことばだった。それは、伊吹山のよもぎ[#「よもぎ」に傍点]造り――後には娘の|朱《あけ》|実《み》を|囮《おとり》に、京都で遊び茶屋をしていた、あの後家のお甲であった。
「どうして、こんな所にいるのですか」
「……それを訊かれると恥ずかしいが」
「では、そこに仆れているのは……あなたの良人か」
「おまえも知っておいでだろう。元、吉岡の道場にいた、|祇《ぎ》|園《おん》藤次の成れの果てですよ」
「あっ、では吉岡門の祇園藤次が……」
|唖《あ》|然《ぜん》としたまま、武蔵は、後のことばも出なかった。
師家の傾く前に、藤次は、道場の|普《ふ》|請《しん》にと集めた金を持って、お甲と駈落ちしてしまい、侍にあるまじき卑劣者と――当時京都で悪い噂を立てられたものだった。
武蔵も、小耳にはさんでいる。その成れの果てがこの姿か――と、|他人《ひと》の身の末とはいえ、淋しくならずにいられなかった。
「おばさん、早く介抱してやるがよい。あなたの亭主と知ったなら、そんな目に|遭《あ》わせるのではなかったが」
「穴でもあったらはいりたい気がする」
お甲は藤次のそばへ寄って、水を与え、傷口を縛り、そしてまだ半ばうつつな顔つきへ、武蔵との縁故を話した。
「えっ?」
と、藤次は、活を入れられたように白眼を上げて、
「じゃあ|其《そこ》|許《もと》が……あの宮本武蔵どのか。――ああ、面目ない」
さすがに恥は知っている。藤次は頭を抱え、それへ詫び入ったまま、しばらくは上げる|面《おもて》もない様子。
武門を落ちて、|山《さん》|沢《たく》の賊となって生きてゆくのも、大所から|観《み》てやれば、|流《る》|々《る》|転《てん》|相《そう》の世の中の泡つぶ、こうしてまで、生きてゆかねばならぬほどに落ちたのかと思えば、あわれともいえる、|不《ふ》|愍《びん》ともいえる。
武蔵はもう憎む気もちを忘れていた。夫婦の者は、時ならぬ|賓客《ひんきゃく》を迎えたように、|塵《ちり》を掃き、炉ぶちを拭いて、薪を新たにくべ足した。
「何もございませぬが」
と、酒など|燗《つ》ける様子に、
「もう、山の立場で、腹はできておる。かもうてくれるな」
「――でも、久しぶりに、山の夜語り、わたしの心づくしを喰べてくださいませ」
と、お甲は、炉の上に鍋などかけ、酒壺を取ってしきりにすすめる。
「伊吹山のふもとを思い出しますなあ」
外は、ごうごうと、峰の夜あらしであった。閉めきっても、炉の焔は、黒い天井へめらめらと背を伸ばす。
「もう、いうて下さいますな。……それよりも、朱実はその後、どうしたでしょうか。何か噂を聞きませんか」
「|叡《えい》|山《ざん》から大津へ出る途中の山茶屋で、数日、わずらっていたそうですが、連れの又八の持物を奪って、逃げてしまったとその折ちょっと耳にしたが……」
「では、あの子も」
と、お甲は自分の身にひき較べて、さすがに、暗い|面《おもて》を伏せた。
お甲だけではない。|祇《ぎ》|園《おん》藤次もふかく恥じ入った様子で、今夜のことは、まったく出来心に|他《ほか》ならないといい、他日、世に出た時は、必ず元の祇園藤次になってお詫びするから、どうか今夜のところは、水に流して見のがしてくれという。
山賊まがいの藤次が、以前の祇園藤次に返ったところで、大した変りばえもないが、それだけ道中の旅人は明るくなれよう。
「おばさん、あなたも、もう危ない世渡りは、よした方がいいでしょう」
|強《し》いられた酒に少し酔って、武蔵がこう意見すると、お甲も、
「なあに、あたしだって好きこのんで、こんなことをしているわけじゃないけれど、|京都《み や こ》|落《お》ちを極め込んで、御新開の江戸で一稼ぎと来る途中、この人が、|諏《す》|訪《わ》で|博奕《ば く ち》に手を出して、持物から路銀までみんなはたいてしまい、やむなく、元のもぐさ[#「もぐさ」に傍点]採りから思いついて、ここで薬草を採って町へ売っては喰べるような始末になってしまったのさ。……もう今夜に|懲《こ》りたから悪い出来心は起さないようにしますよ」
相変らず、この女は、酔うと以前の|婀《あ》|娜《だ》な調子が出る。
もう|幾歳《い く つ》だろうか。この女に|年齢《とし》はないようである。猫は家に飼うと人間の膝に媚態を作るが、これを山に放つと、暗夜にも|爛《らん》|々《らん》と光る|眼《まなこ》の持主となって、行路病者の生きた肉へも、野辺の送りの|柩《ひつぎ》を目がけても跳びついてくる。
お甲はそれに近い。
「……ねえ、お前さん」
と、藤次を顧みて、
「今、|武《たけ》|蔵《ぞう》さんから聞けば、朱実も江戸へ行ったらしい。わたし達も、何とか、人中へ出る算段をして、もう少し人間らしい暮しをしようじゃありませんか。あの|娘《こ》でも捕まえれば、また何とか商売の思案もあろうというものだし……」
「うむ、うむ」
と藤次は、膝を抱えて、生返辞を与えていた。
この男もまた、この女と同棲してみて、先にこの女から捨てられた本位田又八と、同じような後悔を、もう抱いているのではあるまいか。
武蔵は、藤次の顔が気の毒に見えた。そして又八の身を|憐《あわ》れみ――やがては自分も一度この女の招く魔の淵に誘われたことなども思い出されて、ふと肌がそそけ立つ思いがした。
「――雨ですか、あの音は」
武蔵が、黒い屋根を仰ぐと、お甲はほんのり酔ったながし眼で、
「いいえ、風がつよいから、木の葉や、木の小枝が、折れては降って来るんですよ、山の中というものは、夜になると、何か降らない晩はない。――月は出ても、星は見えても、木の葉が降ったり、山土がぶつけて来たり、霧が降ったり、滝の水がしぶいて来たり」
「おい」
藤次は、顔を上げて、
「――もうじきに夜が白んで来る頃だ。おつかれだろうから、あちらへ寝道具をのべて、おやすみになるようにしたらどうだ」
「そうしましょうかね。|武《たけ》|蔵《ぞう》さん、暗いから気をつけて来てください」
「では、朝までお借りしようか」
|武蔵《む さ し》は起って、お甲の後から暗い縁を|尾《つ》いて行った。
彼の寝た板小屋は、谷間の崖に建てた丸太の上に支えられていた。夜なのでよくわからないが、おそらく床下は、すぐ|千《せん》|仞《じん》の谷底へ通じているのではあるまいか。
霧が降ってくる。
滝水が吹きつけてくる。
ぐわうという度に、寝小屋は、船のようにうごいた。
――お甲は、白い足を、|簀《す》の|子《こ》にしのばせて、そっと、前の炉部屋へもどって来た。
炉の火を見つめて、考えこんでいた藤次が、するどい眼を振向けて、
「……寝たか」
と、問う。
「寝たらしいよ」
お甲は、側へ膝を立てて、
「どうする、え?」
と藤次の耳へいう。
「呼んで来い」
「やるかえ」
「あたりめえだ。慾ばかりじゃねえ、|彼奴《あ い つ》を|殺《や》ってしまえば、吉岡一門の仇を取ったということにもなる」
「じゃあ、行って来るよ」
どこへ行くのか。
お甲は、|裾《すそ》を端折って、|戸外《お も て》へ出て行った。
深夜である。深山である。真っ暗な風の中を、|驀《まっ》しぐらに駈けてゆく白い足と、うしろに流れる髪の毛とは、|魔性《ましょう》の|猫族《びょうぞく》でなくて何であろう。
|大《たい》|山《ざん》の|皺《しわ》に棲むものは、鳥獣ばかりとは限らない。彼女が駈け歩いた峰や沢や山畑の|遠方《おち》|此方《こち》から、忽ちにして、|簇《むらが》り集まって来た人間は、二十名以上もある。
しかもその行動には、訓練があった。地を|掃《は》いて来る木の葉よりも静かに、藤次の小屋の前に集まると、
「ひとりか?」
「|武士《さむらい》か」
「金は持ってるのか」
などと|密々囁《ひそひそささや》き交わし、|指《ゆび》|真《ま》|似《ね》や、眼くばせで、各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]、いつも通りの部署につくべく分れて行く。
|猪《しし》|突《つ》き槍や、鉄砲や、|大刀《どす》を持って、その一部は、寝小屋の外を|窺《うかが》い、また、半分は小屋のわきから絶壁を下りて、確か、谷底へ廻ったらしい。
なお、その中から、べつに二、三人の賊は、崖の中途を這って、ちょうど武蔵の眠っている小屋の下へ|辿《たど》りついた。
準備は出来たのである。
谷間へ|懸《かけ》|出《だ》してあるこの小屋は、つまり彼らの|罠《わな》なのである。その小屋は、|莚《むしろ》を敷き、たくさんな薬草の乾草を積み、|薬《や》|研《げん》や製薬の道具などわざと置いてあるが、それはここへ入れる人間の安眠剤であって、元より彼らの職業は、|薬刻《くすりきざ》みや、薬草を|乾《ほ》すことではない。
武蔵も、そこへ横になると、|快《こころよ》い薬草のにおいに、眠りを誘われて、手足の先にまで、|腫《は》れぼったい疲れが出て来たが、山で生れ、山で育った武蔵には、この谷間の|懸《かけ》|出《だ》し小屋に、一応、|頷《うなず》けないものがあった。
自分の生れた|美作《みまさか》の山々にも、薬草採りの小屋はあるが、薬草はすべて湿気を|忌《きら》う。こんな、|鬱《うっ》|蒼《そう》と雑木の枝をかぶって、しかも滝しぶきの来るような所に、|乾《ほし》|小《ご》|屋《や》は持っていない。
枕元には、|薬《や》|研《げん》|台《だい》の上に、|錆《さ》びた|鉄《かね》の|灯《ひ》|皿《ざら》がおいてある。その微かな燈心の揺らぎで見返しても――また合点のゆかないふしがある。
それは、|四《よ》|隅《すみ》の材木と材木との継ぎ目である。|鎹付《かすがいづ》けになっているが、その鎹の穴がやたらに見える。そして継ぎ目と、木の肌の新しい所とが一、二寸ずつ喰い違っている。
「ははあ」
彼の寝顔は、苦笑をうかべた。しかしまだ彼は木枕に顔をつけていた。――
しとしとと霧の音につつまれるように、ふしぎな気配をうつつに感じながら。
「……|武《たけ》|蔵《ぞう》さん。……寝たんですか。もうお|寝《やす》みかえ」
障子の外へ、そっと|摺《す》り寄っていうお甲の小声であった。
寝息を聞きすますと、すうと|其処《そこ》をあけて、お甲は、武蔵の枕元まで忍び寄り、
「ここへ、お水を置きますからね」
わざと、寝顔へ断りながら、盆をおいて、また静かに、障子の外へもどって行った。
|母《おも》|屋《や》を闇にして、待っていた祇園藤次が、
「いいか」
囁くと、お甲は眼に手つだわせて、
「ぐっすりだよ……」
藤次は、しめたというように、縁先から裏へ飛び出して、谷間の闇を覗きこみ、手に持っている火縄をチラチラ振って見せた。
それが合図であった。
武蔵の眠っている一棟の板小屋は、それと共に、崖の中途で、支えている|床柱《ゆかばしら》を|外《はず》され、ぐわうーんと凄い音をたてながら、棟も板も、乱離となって、|千《せん》|仞《じん》の底へ呑まれてしまった。
「それっ」
鳴りをひそめていた賊は、もう仕止めた|猟人《かりゅうど》が姿を見せるように、公然と、声をあげて、|猿《ましら》の如く思い思いに、谷底へ|辷《すべ》り降りて行った。
手に余る人間と見れば、彼らはいつも、こうして寝小屋もろとも、旅人を谷へ落して、その死骸からやすやすと、目的の物を|奪《と》り上げていた。
そして簡単な寝小屋はまた、次の日のうちに、絶壁へ|懸《かけ》|出《だ》して組むのであった。
谷底にも|一《ひと》|群《むれ》の賊が、先へ廻って待っていた。寝小屋の板や柱がばらばらに|墜《お》ちて来ると、彼らは、骨に跳びつく犬のように、それへ|集《たか》って、武蔵の死骸を求め始めた。
「どうした?」
上の人数も降りて来て、
「あったか」
と、共に探しまわる。
「見えねえぞ」
誰かいう。
「何が」
「死骸がよ」
「ばかあいえ」
しかしまた、やがて同じあぐねた声が放たれた。
「いねえや、はてな?」
誰よりも|血眼《ちまなこ》に藤次が呶鳴りつけた。
「そんな筈はねえ。途中の岩にぶつかって、|刎《は》ね飛ばされているのかも知れねえ。もっと、そっちも探してみろ」
その言葉の終らないうちに、彼の見廻している谷間の岩も水も|雪崩《な だ れ》の草も、いちめんに夕焼色にぱっと明るく染まった。
「――あっ?」
「――おやっ?」
賊は皆、|顎《あご》を空へ振り上げた。およそ七十尺もある絶壁である。その上に乗っていた藤次の住居は、棟、障子、窓、四方から真っ赤な焔を噴き出しているではないか。
「あれえっ。あれえっ。来ておくれよっ」
ただ独りで、気も狂わんばかりな悲鳴をあげているのは、お甲にちがいない。
「大変だ、行ってみろ」
道を|攀《よ》じ、藤づる[#「づる」に傍点]を攀じ、賊はまた、上へ這い上がった。断崖の上の一軒屋、焔と山風にはよい|弄《なぶ》り物だった。お甲はと見れば、火の粉をかぶりながら、近くの樹の根に後ろ手を|縛《くく》りつけられている。
いつの間に、どうして抜けたろうか。逃げたという武蔵が、賊には何だか信じられなかった。
「追っかけろ、これだけいれば――」
藤次はいう勇気もなかったが、武蔵を知らぬ他の賊はそのままではいる筈もない。|旋風《つ む じ》になってすぐ後を追った。
けれども武蔵の影はもう見当らなかった。道のない横道へ|外《そ》れたのか、樹の上で今度はほんとに熟睡でもしているのか、そうこうする|間《ま》に、美しい山の火事の中に、和田峠も大門峠も、白々と朝の姿を見せていた。
|下《くだ》り|女郎衆《じょろしゅう》
甲州街道には、まだ街道らしい並木も整っていないし、|駅《えき》|伝《でん》の制度も、頗る不完備であった。
その昔――というほど遠くもない、|永《えい》|禄《ろく》、|元《げん》|亀《き》、天正へかけての武田、上杉、北条、その他の交戦地であった軍用路を、そのまま後の旅人が往還しているだけで、従って、裏街道も表街道もありはしない。
上方から来た者が、もっとも弱るのは、|旅《りょ》|舎《しゃ》の不便で、一例をいえば、朝立ちの際に、弁当ひとつ拵えさせても、餅を笹の葉で巻いた物とか、飯をいきなり|柏《かしわ》の|乾《ほし》|葉《ば》でくるんで出すとか――藤原朝時代の原始的な|慣《なら》わしを、今でもやっているという風。
ところが、|笹《ささ》|子《ご》、初狩、|岩《いわ》|殿《どの》あたりの草深いそんな|旅籠《は た ご》|屋《や》でも、この頃の客の混みあう様は、|凡《ただ》|事《ごと》とも思えない。そしてその多くが上りよりも、下りの客だった。
「やあ、きょうも通る――」
と、|小仏《こぼとけ》の上で休んでいた旅人たちは、今、自分たちの後ろから登って来る一団の旅の群れを、これは|観《み》|物《もの》と、|道《みち》ばたで迎えていた。
やがて、がやがやとそれへ来た人数を見ると、なるほど、これは大変。
若い女郎衆だけでも、およそ三十名ぐらいはいよう。子守ッ子みたいな|禿《かむろ》ばかりでも五人、|中年増《ちゅうどしま》や婆さんや、男衆など合せると、総勢四十人からの大家族である。
その他、荷駄には、つづらや、長持や、一方ならぬ荷物を積み、この大家族の主人と見える四十がらみの男は、
「|草鞋《わ ら じ》まめ[#「まめ」に傍点]ができたら、草履に代えて、|緒《お》を縛ってあるけ。なに、もう歩けないと、何をいう。子どもを見なさい、子どもを」
と、坐りぐせのついている女郎衆を歩かせるのに、口を|酢《す》っぱくしている。
(今日も通る)
と|路《みち》ばたで声のするように、こうした|上《かみ》|方《がた》女郎衆の輸送は、三日にあげず通った。もちろん流れてゆく先は、新開発の江戸表である。
新将軍の秀忠が江戸城に坐ってから、いわゆる|御《ご》|新《しん》|開《かい》の|膝《ひざ》|下《もと》へは、急激に上方の文化が移動して行った。東海道や船路のほうは、ためにほとんど、官用の輸送や、建築用材の運搬や|大小名《だいしょうみょう》の往来でいっぱいで、こういう女郎衆の行列などは不便をしのんで、中山道や甲州筋を選ぶほかなかった。
きょうこれまで来た女郎衆の親方は伏見の人で、どういう|了見《りょうけん》か侍のくせに、遊女屋の主人となって、|目《め》|端《はし》や才覚も|利《き》くところから、伏見城の徳川家へ手づるを求め、江戸移住の官許を取って、自分ばかりでなく、他の同業者にもすすめて、続々と、女を西から東へ移動させている|庄司甚内《しょうじじんない》という者だった。
「さあ、休め休め」
|小仏《こぼとけ》の上まで来ると、甚内は程よい所を見つけ、
「すこし早目だが、ついでに、弁当をつかってしまおう。お|直《なお》婆さん、女郎衆や|禿《かむろ》たちに、弁当をくばっておくれ」
荷駄の上から、|一《ひと》|行《こう》|李《り》もある弁当が下ろされて、|乾《ほし》|葉《ば》|巻《まき》の飯が、一つ一つ渡されると、女郎たちは、思い思いにわかれてそれへ|貪《むさぼ》りつく。
どの女の皮膚も黄いろく、髪は、笠や手拭をかぶっても、みな白っぽく|埃《ほこり》になっている。湯茶もなく、ぽそぽそと、舌つづみ打っている姿には、行く末は|誰《た》が肌ふれん|紅《べに》の花――などという色も香もない。
「アア、お|美味《いし》かった」
親が聞いたら、涙をこぼすであろうような声を出して、しんから叫ぶ。
すると中の|妓《おんな》の二、三が、折ふし通りかけた旅すがたの若衆を見つけて、
「あら、いい恰好だ」
「ちょっとしてる」
などと囁き合っていると、べつな|妓《おんな》はまた、
「あの人なら、わたしゃあよく知っているよ。吉岡道場の門人衆と、たびたび来たことがあるお客だもの」
といった。
上方から関東といえば、関東の者が、みちのくを思うより遠かった。
(これからどんな土地で店を張るのやら)
と、心細い気持に|囚《とら》われている彼女たちは、たまたま、伏見で|馴《な》|染《じみ》の客が通ると聞いて、
「どの人さ」
「どの人さ?」
と、忽ち|姦《かしま》しい眼をそばだてた。
「大きな刀を背中へ懸けて、威張って歩いて来る若衆だよ」
「アアあの前髪の武者修行」
「そうそう」
「呼んでごらん、名前はなんていうの」
思いがけぬ小仏峠の上などで、自分がこんなに大勢の女郎衆に注目されているとは知らず、佐々木小次郎は、手を振って、荷駄や人足の間を通り抜けた。
すると、黄いろい声で、
「佐々木さん、佐々木さん――」
それでもまだ、まさか自分とは思わず、振向きもしないで行くと、
「前髪さん――」
と、来たので、これは|怪《け》しからぬことだと、眉をしかめて振り向いた。
荷駄の脚元に坐りこんで、弁当をつかっていた|庄司甚内《しょうじじんない》は、|妓《おんな》たちを叱りつけて、
「何じゃ、御無礼な」
といって、小次郎の姿を仰ぐと、これはいつか、吉岡の門人達が大勢して、伏見の店へあがった時、挨拶に出た覚えがあるので、
「これはこれは」
と、草をはたいて立上がり、
「佐々木様ではございませんか。どちらへお越しなさいますか」
「やあ、|角《すみ》|屋《や》の親方どのか。わしは江戸へ下向するが、問いたいのは、おぬしたちの行く先、大層な引っ越しじゃないか」
「てまえどもは、伏見を引払って、江戸の方へ移りますので」
「なぜあんな古い|廓《くるわ》を捨て、まだどうなるかも知れない江戸表へなど移るのだ」
「あまり|澱《よど》んでいる水には、|腐《す》えた物ばかり|湧《わ》いて、水草は咲きません」
「御新開の江戸へ行ったところで、|城《しろ》|普《ぶ》|請《しん》だの弓鉄砲の仕事はあろうが、まだ遊女屋などの、悠長な商売は成り立つまい」
「ところが、そうじゃございません。|灘波《な に わ》の葦を|拓《き》り開いたのも、太閤様より|妓《おんな》の方が先でございますからね」
「何よりも、住む家があるまいが」
「今、どしどし家を建てている町中の、|葭《よし》|原《わら》という沼地を、何十町歩と、私たちのために、お|上《かみ》から下さいました。――でもう|他《ほか》の|同業者《なかま》が、先へ行って地埋めをしたり、|普《ふ》|請《しん》をいたしておりますから、路頭に迷うような心配はございません」
「なに、徳川家では、おぬしのような者にまで、何十町歩という土地をくれているのか。――それは|無料《ただ》か」
「たれが、|葭《よし》の生えている沼地など、金を出して買うものがございましょう。そればかりでなく、普請の石材木なども、多分にお下げくださるので」
「ははあ……なるほど、それでは上方から、世帯を|担《かつ》いで、皆下るはずだ」
「あなた様も、何か、御仕官の口でもあって」
「いいや、わしは何も仕官は望んでいないが、新将軍の|膝《しっ》|下《か》となり、新しく天下へ政道を|布《し》く中心地ともなることだから、見学をしておかねばならない。もっとも、将軍家の指南役になら、なってもよいと思っているが……」
甚内は、黙ってしまった。
世間の裏、景気のうごき、人情の種々相にくわしい彼の眼から見て、剣術は上手かどうか知らないが――今の|口吻《くちぶり》では、語るに足らないと思ったのである。
「さあ、ぼつぼつ出かけようかな」
小次郎を|他《よそ》にして、一同へこう|促《うなが》すと、女郎衆の人数を読んでいたお直という奉公人が、
「おや、女郎衆の頭数が一人足らないじゃないか。いないのは一体誰だえ。――|几帳《きちょう》さんか、|墨《すみ》|染《ぞめ》さんか。ああそこに、二人ともいるね。おかしいねえ、誰だろう?」
まさか、江戸へ移住して行く女郎衆の同勢と、道連れになる気もないので、小次郎は先へ一人で歩き出したが、後に残った|角《すみ》|屋《や》の大家内は、一人の落伍者のために皆|其処《そこ》を立ちかねて、
「つい、その辺まで、私たちの中に、姿が見えていたのに」
「どうしたのであろ?」
「ひょっと、逃げたのではあるまいか」
などと頻りにうわさしては、二、三の者は、わざわざ探しに道を戻って行った。
その|噪《さわ》ぎに、小次郎へわかれを述べて、|此方《こ っ ち》へ顔を向けた親方の甚内は、
「おいおいお直、逃げたとは、誰がいったい逃げたのだ」
自分の責任でも問われたように、お直と呼ばれた年よりは、
「|朱《あけ》|実《み》という女でございますよ。……ほれ、親方様が、木曾路で見かけて、女郎にならぬかといって、お抱えになった、旅の娘っ子で」
「見えないのか――その朱実が」
「逃げたのじゃないかと、今、若い者が麓まで見つけに行きましたが」
「あの娘なら、何も証文を取って、|身《みの》|代《しろ》|金《きん》を貸したわけじゃなし、女郎になってもよいから、江戸まで連れて行ってくれろというし、|容貌《きりょう》も踏める玉だから|抱《かか》えようと約束したまでのこと。ここまでの旅籠代が少しばかり損は損だが、まあ仕方がない。そんな者は|抛《ほう》っておいて、出かけようぜ」
今夜八王子泊りとなれば、あしたは江戸に入ることができる。
少しは、夜にかかっても、其処まではと、親方の甚内は、|急《せ》き立てて先に立つ。
すると、道の傍らから、
「皆さん、どうもすみません」
と、探しぬいていた朱実が姿をあらわして、もう歩き出している一行の中へ交じって、自分も共に|尾《つ》いて歩きだした。
「どこへ行っていたのさ」
と、お直は叱るし、
「おまえさん、黙って横道へ行っちゃいけないよ。逃げるつもりならいいけれど」
と、朋輩の女郎たちはいかに心配したかということを、さも|大仰《おおぎょう》にいって、たしなめる。
「でもネ……」
と、朱実は、叱られても、怒られても、笑ってばかりいた。
「わたしの知った人が通ったから、会うのは嫌でしょう、だから、後ろの|藪《やぶ》の中へ、あわてて隠れてしまったの。そしたら、下が崖で、この通り|辷《すべ》っちまって……」
着物を破いたことだの、|肱《ひじ》をすりむいたことばかりいって、済みませんとはいっているが、少しも済まないような顔つきはしていない。
先に歩いていた甚内は、ふと小耳にはさんで、
「おい、娘っ子」
「わたしですか」
「ああ、朱実といったっけな。覚えにくい名前だな。ほんとに女郎衆になる気なら、もっと、呼びいい名にしなくちゃ困るが、おめえほんとに遊女になる覚悟か」
「遊女になるのに、覚悟なんているでしょうか」
「ひと月勤めてみて、いやになったら、やめるというような|理《わけ》にはゆかないからなあ。何しろ遊女になったら、客の求めることは|嫌《いや》|応《おう》はいえないのだ。それだけの決心がなくちゃ困る」
「どうせ、わたしなんか、女の大事な|生命《い の ち》ともいうものを、男の奴に、滅茶苦茶にされたんですから――」
「だからといって、もっと滅茶苦茶にしていいという法はない。江戸へ着くまでのあいだに、よく考えておくがいいよ。……なあに、途中の|小《こ》|遣《づか》いや|旅籠《は た ご》|銭《せん》ぐらいは、何も返してくれとは、いいはしないから」
|火《ひ》|悪戯《いたずら》
ゆうべ|高《たか》|尾《お》の薬王院に|草鞋《わ ら じ》を解いた何処かの御隠居がある。
下男に挟み|筥《ばこ》を|担《にな》わせ、もう一人、十五ぐらいな少年を供に連れ、
「参詣は明日とし、お宿にあずかり申したい」
と、|黄昏《た そ が》れ頃、薬王院の玄関へ立った者である。
今朝は|夙《と》く起きて、供の少年を連れ、一山を|巡《めぐ》って|午《ひる》近くに帰って来たが、ここも上杉、武田、北条以後、戦乱に荒れ果てているのを見て、
「御修理の屋根|葺《ふ》き料にも」
と、黄金三枚を寄進して、すぐ|草鞋《わ ら じ》をはきかけた。
薬王院の別当は、この奇特な人の少なからぬ寄進に驚いて、|倉《そう》|皇《こう》と見送りに出、
「お名前をどうぞ」
と、訊ねたところ、他の僧が、
「いえ、宿帳にいただいてございます」
と、それを示した。
見ると、
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木曾|御《おん》|岳《たけ》|山《さん》|下《した》百草房  奈良井屋大蔵
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とあるので、
「――あああなた様が」
と別当は見上げて、ゆうべからの粗略を、かえすがえす口惜しげに詫び入った。
奈良井の大蔵という名は、全国到る所の神社仏閣の寄進札に見かける名であった。必ず黄金何枚ずつか――或る霊場には、黄金何十枚という寄進をしている所もあった――それは道楽か、売名か、まったくの奉公心か、本人以外に分らないが、とにかく、今の世の中に変った奇特家として、別当も|夙《つと》にその名を聞いているものとみえる。
――で、|遽《にわか》に、ひき止めてみたり、宝物を御覧にと、すすめたりしたが、大蔵はもう供の者と門を出て、
「しばらく江戸におるつもりですから、またそのうち拝観に出ましょう」
と、辞儀して去る。
「では、山門まで、お送り申しあげましょう」
と、別当は|従《つ》いて来て、
「今夜は、府中でお泊りなされますか」
「いや、八王子でと思うているが」
「それならお楽に参れまする」
「八王子は今、|誰方《ど な た》の所領でござりますな?」
「ついこの頃から大久保長安様の御支配になりました」
「ああ、奈良奉行から移った――」
「佐渡のお|金山奉行《かねやまぶぎょう》も、御支配だそうで」
「えらい才人だからの」
山を下りると、陽の高いうちに、大蔵以下三人は、もう繁華な八王子二十五宿の往来に姿を見せて、
「城太郎、どこへ泊ろうかな?」
と、|巾着《きんちゃく》のように、腰へ|尾《つ》いて歩いている彼を振向く。
城太郎は、直ちに答えた。
「おじさん、お寺は止そうよ」
そこで、町の中でも一番大きな|旅籠《は た ご》と見える家構えを選んで、
「ごやっかいになるよ」
大蔵の人品もよし、|挟《はさ》み|筥《ばこ》まで担がせて歩いている旅客なので、
「おはやいお着きで」
中庭を隔てた奥の間へ通して、下へも|措《お》かない扱いである。
だが、やがて陽も暮れて、どやどやと客の混む頃おいになると、|主人《あ る じ》と番頭が顔を揃えて来ていうには――
「まことにご無理なお願いでございますが、よんどころのない大勢の相客で、下座敷はかえってお騒がしゅうございましょうから、ひとつ二階へお部屋がえを……」
と、恐縮して、頼むのだった。
「ああ、いいとも。ご繁昌で結構だ」
大蔵は、気軽に承知して、手廻りの荷物を持たせ、急に二階へ引っ越しとなったが、それと入れ|交《ちが》いに、ここへ入って来たのは|角《すみ》|屋《や》の女郎衆の同勢であった。
「さてさて。とんだ|旅籠《うち》へ泊りあわせたものだて」
大蔵は、二階へ来てから、こう愚痴めいて、自分の落着きを見まわした。
時ならぬ混雑に、いくら呼んでも、召使は来ない。お膳も来ない。
やっと、食事が来たと思うと、こんどはそれを|退《さ》げに来ない。
それに、どたばたと、|階下《した》も二階も忙しげな跫音が絶えなかった。腹も立つが、ああして目をまわしている雇人も気の毒と思うと、怒りもされないのである。
片づかない部屋の中に、奈良井の大蔵は手枕で横になっていたが、ふと、何か思い立ったように首を|擡《もた》げ、
「|助《すけ》|市《いち》」
と、下男を呼んだが、見あたらないので、
「城太郎、城太郎」
と、呼び直して坐る。
その城太郎もまた、何処へ行ったか、影が見えないので、部屋を出てみると、中庭を下へ臨んで、ここの|縁《えん》の|欄干《て す り》には、まるで花見でもしているように、二階の客が揃いも揃って、|階下《した》の奥座敷を見おろしながら、何やらわいわい騒いでいるのであった。
その中に|交《ま》じって、城太郎も一緒になって|階下《した》をのぞいていたのを見出し、
「これ」
と、|抓《つま》んで来て、
「何を見ているのだ」
と、大蔵が眼で叱ると、城太郎は、家の中でも離さずにいる長やかな木剣を、畳につかえて坐りながら、
「だって、みんな見てるんだもの――」
と、|尤《もっと》もなことをいう。
「みんなは、何を見ているのだい」
大蔵も多少、興をひかれていないわけでもない。
「何って……あの、|階下《した》の奥へ泊った、沢山な女の人を見ているんだろ」
「それだけか」
「それだけだよ」
「何がそんなものおもしろい」
「わからない」
城太郎は、|有《あり》|体《てい》に首を振る。
大蔵を落着かせぬ原因は、雇人の跫音よりも、|階下《した》へ泊り合せた角屋の女郎衆よりも、むしろそれを上から覗いている、二階の客どもの騒ぎにあった。
「わしは少し、町を歩いて来るからな、なるべく、部屋にいなくてはいけないよ」
「町へ行くなら、おいらも連れて行っておくれよ」
「いや、晩はいけない」
「なぜ」
「いつもいっている通り、わしの夜歩きは、遊びではない」
「じゃあ、何さ?」
「信心だ」
「信心は昼間しているからたくさんじゃないか。神様だって、お寺だって、晩は寝てるだろ」
「社寺をお参りすることばかりが信心ではない。ほかに祈願もあることでな」
と、相手にしないで、
「その|挟《はさ》み|筥《ばこ》から、わしの|頭陀袋《ずだぶくろ》を出したいが、開くか」
「開かない」
「助市が鍵を持っているはずじゃ、助市はどこへ行ったな」
「|階下《した》へ行ったぜ、さっき」
「まだ風呂場か」
「|階下《した》で、|女郎衆《おんなしゅう》の部屋をのぞいてたよ」
「あいつもか」
と、舌打ちして、
「――呼んで来い、早く」
大蔵は、そういって、帯を締め直しにかかった。
四十人からの同勢である。|旅籠《は た ご》の下座敷は、ほとんど、|角《すみ》|屋《や》の連中で占めている。
男たちは、帳場寄りの部屋に、|女郎《お ん な》たちは、中庭の向うの部屋に。
何しろ、賑やかを通り越して、|姦《かしま》しいこと|一《ひと》|方《かた》でない。
「あしたはもう、歩けんがなあ」
と、大根のような白い足に、大根おろしを|摺《す》って、足の裏の|火照《ほて》りに塗ってもらっている|傾《けい》|城《せい》もある。
元気なのは、|破《や》れ三味線を借りて来て|爪《つめ》|弾《び》きをしているし、皮膚の青白いのは、もう夜の|具《もの》を|被《かず》いで、壁に向って寝こんでいる。
「おいしそうだね、あたいにも、よこしなよ」
と、喰べ物を引ッ張りっこ。――また、|行《あん》|燈《どん》とさし向いで、|上《かみ》|方《がた》の空に残して来た|契《ちぎ》りある男へ、筆を走らせている|苦《く》|界《がい》の後ろ姿もある。
「あしたはもう江戸とやらへ、着くのかえ」
「どうだかね。ここで訊けば、まだ十三里もあるってえもの」
「勿体ないね、夜の|灯《あか》りを見ると、こうしているのは」
「おや、たいそう、親方思いだね」
「だって……。ああじれったい、髪の根がかゆくなった。|釵《かんざし》をおかし」
こんな風景でも、京女郎衆と聞くからに、男の眼はそばだったのであろう。風呂場から上がった下男の助市は、湯ざめをするのも忘れて中庭の植込み越しに、いつまでも、見惚れていた。
すると、後ろから耳を引張って、
「いい加減におしよ」
「ア痛」
と振向いて、
「なんだ、この城太郎め」
「助さん、呼んでるぞ」
「誰が」
「お前の主人がさ」
「うそいえ」
「うそじゃないよ。また、歩きに出かけるんだとさ。あの|小父《おじ》さん、年がら年中、歩いてばかりいるんだな」
「あ、そうか」
助市の後から、城太郎も駈出して行こうとすると、庭木の陰から思いがけなくも、
「城太さん――。城太さんじゃないの?」
と、呼ぶ者があった。
はっと、城太郎の眼が、真剣になって|振《ふり》|顧《かえ》った。何もかも忘れ切って運命に|尾《つ》いて歩いているかのようでも、彼の心のどこかには絶えず、見失った武蔵とお通の身を気にとめているらしかった。
今、呼んだのは、若い女の声であった。もしや? ――とすぐ胸がどきっとしたものとみえる。じっと、大きな八ツ手の陰をすかして、
「……誰?」
おずおず寄ると、
「わたし」
と、木陰の白い顔は、葉の下を|潜《くぐ》って、城太郎の前に立った。
「なアんだ」
がっかりしたように、城太郎がいい放ったので、朱実は舌うちして、
「なあに、この子はまあ」
と、自分の寄せかけた感傷のやり場を失って、憎そうに、城太郎の背を打った。
「ずいぶん久し振りじゃないの。どうして、お前、こんな所へ来ているの」
「自分こそ、どうしたのさ」
「あたしはネ……知ってるだろ。よもぎの寮の|養母《お っ か》さんとも別れちまって、それからいろんな目に会ってね」
「あの……大勢の女郎衆と、一緒なのかい」
「でも、まだ、考えてるの」
「何をさ」
「|傾《けい》|城《せい》になろうか、やめようかと思って」
こんな子供にと思っても、朱実には、こんな|嘆息《ためいき》を、ほかに聞いてもらう人はなかった。
「……城太さん、武蔵様は今、どうしていらっしゃるの?」
やがて、そっといったが、彼女が初めから訊きたいことは、むしろそれだけらしかった。
武蔵の消息を訊かれると、城太郎は、そのことなら、|此方《こ っ ち》から訊きたいところだと、いわぬばかりに、
「知らないよ、おいらは」
「なぜ、あんたが知らないのさ」
「お通さんとも、お師匠様とも、途中でみんな、|迷《はぐ》れてしまったんだもの」
「お通さんて――誰?」
朱実は、急に、彼のことばに、注意をかたむけ、そして、何か憶い出したように、
「……ああそうか。……あのひとは、いまだに武蔵様の後を追いまわしているのね」
と、|呟《つぶや》いた。
朱実が常に想像している武蔵は、行雲流水の修行者であった。|樹下石上《じゅげせきじょう》の人だった。それゆえに、いくら想いを懸けたところで、届き|難《がた》い心地がして、同時に、自分の|荒《すさ》びかけた境涯も顧みられ、
(|所《しょ》|詮《せん》、かなわぬ恋)
という弱気な|諦《あきら》めにつつまれてしまうのだった。
けれど、その武蔵の生活の影に、もうひとり、べつな女性の影が重なっていると想像すると――朱実の諦めは、到底、灰をかぶせられた|埋《うず》め火のままではない。
「城太さん、ここじゃ、他の人の目がうるさいから、|戸外《そと》へ行かない?」
「町へかい」
出たくて耐らなかった折なので、そう誘われると、一も二もない。
|旅籠《は た ご》の庭木戸をあけて、ふたりは宵の往来へ出る。
二十五宿といわれる八王子の|燈《ひ》は、今までの何処よりも繁華に見えた。|秩《ちち》|父《ぶ》や甲州境の山の影が、どっぷり町の西北を囲ってはいるが、ここに|纏《まと》まっている宵の|燈《ひ》には、酒のにおいだの――|博《ばく》|労《ろう》の声だの、|機《はた》|屋《や》のおさ[#「おさ」に傍点]の響きだの、問屋場役人の呶鳴る声だの、町芸人の|佗《わび》しい音楽だのがつつまれて、人間の|聚《じゅ》|楽《らく》を賑わしていた。
「あたし、お通さんていうひとのことは、又八さんからよく聞いてたけれど、いったい、どんな|女《ひと》――」
朱実は、ひどくそれが、気になり出したらしい。
武蔵のことは、ひとまず胸の隅へあずけておいて、彼女の胸には、お通という者に対して、何か、燃えるようなものが、|焦《いら》|々《いら》、立ちはじめていた。
「いいひとだぜ」
と、城太郎がことさらに――
「やさしくって、思いやりがあって、綺麗でサ――。おいら、大好きだ、お通さんは!」
と、いったので、朱実の胸はよけいに、或る脅威を感じてきた。
けれど、そういう脅威は、どんな女性でも決してあらわには顔色に出さない。反対に、彼女も、ほほ笑むのであった。
「そう、そんないいひと」
「ああ、そして、何でもよくできるよ、歌もよむし、字もうまいし、笛も上手だしね」
「女が、笛なんか上手だって、なんにもなりやしないじゃないの」
「けれど、|大和《や ま と》の|柳生《やぎゅう》の大殿様でも、誰でも、お通さんのことは|賞《ほ》めるぜ。……ただおいらにいわせれば、いけないことがひとつあるけれど」
「女には、誰にだって、いけない性分が沢山あるものよ。ただそれを、あたしみたいに、正直にうわべに出しているか、おしとやか|振《ぶ》って、うまく包んでいるかの違いしかありやしないものよ」
「そんなことないよ。お通さんのいけないのはたった一つしかないよ」
「どんな性分があるの」
「すぐ泣くんだよ。泣虫なのさ」
「泣くの。……まあ、どうしてそう泣くんでしょう」
「武蔵様のことを思い出しちゃあ泣くんだろ。一緒にいると、それだけが、陰気になって、おいら嫌いさ」
――もう大概に、相手の顔いろを見て|喋《しゃべ》ればいいのに、城太郎はおかまいなしに、まだこの上にも、朱実の胸はおろか、全身を|嫉《しっ》|妬《と》の火で焼きかねないほど――無邪気を通り越していた。
|眸《ひとみ》の底にも、皮膚にも、|蔽《おお》いきれない嫉妬のいろをたたえながら――なおなお、朱実は求めて訊きたがった。
「いったい、お通さんて、|幾歳《い く つ》なの?」
城太郎は、見較べるように、彼女の顔をながめて、
「|同《おんな》じぐらいだろ」
「わたしと?」
「だけど、お通さんの方が、もっと、綺麗で若いよ」
そのくらいでこの話題が打切れればよかったのに、朱実の方からまた、
「武蔵様は、人なみ以上、武骨だから、そんな泣虫のひとは嫌いだろう。そうだよきっと、そのお通ってひとは、泣いて男の気持をひきつけようとする――|角《すみ》|屋《や》の女郎衆みたいなひとに違いない」
どうかして、お通を、城太郎にだけでも、好く思わせまいと努めるのであったが、結果はかえって反対に、
「そうでもないぜ。お師匠様も、うわべは優しくしないけれど、ほんとは、お通さんが好きらしいんだよ」
とまで、いわせてしまった。
|凡《ただ》ならぬ顔いろはもうとうに通り過ぎている朱実であった。歩いている側に河でもあれば、すぐ飛びこんで見せてやりたいような火の塊りが胸へこみあげてくる。
これが、子供相手でもなければ、もっといってやりたいことはあるけれど、城太郎の顔いろを見ては、その張合いもない。
「城太さん、おいで」
ふいに、彼女は、町の辻から横町の赤い|燈《ひ》を見て、引っ張った。
「ア、居酒屋じゃないか、そこは」
「そうさ」
「女のくせにおよしよ」
「何だか、急に飲みたくなったのよ。ひとりじゃ間がわるいから――」
「おいらだって、間がわるいや――」
「城太さんは、何でも喰べたいものを喰べればいいじゃないか」
覗いて見ると、幸いにも、ほかの客はいないらしい。朱実は、河へ飛び込むよりもっと強い|盲目《め く ら》になって、中へはいるなり、
「……お酒を」
と、壁へ向っていった。
それから彼女は矢つぎばやに酒を体に|容《い》れた。城太郎が恐れて止めた頃には、もう城太郎の手におえなかった。
「うるさいね、何サ、この子は――」
と、|肱《ひじ》で振払って、
「もっと、お酒を……お酒をくださいな」
そのくせ、もう焔のような顔して、|俯《う》っ|伏《ぷ》しながら、息もくるしげなのである。
「いけないよ、やっちゃあ」
城太郎が、間に立って、心配そうに断ると、
「いいよ、お前はどうせ、お通さんが好きなんでしょ。……あたしはね、泣いて男の同情を買うような、そんな女、大っ嫌いさ」
「おいら、女のくせに、酒なんか飲むやつ、大っ嫌いだ」
「わるかったね。……お酒でも飲まなけれやいられないあたしの胸は……おまえみたいなチンチクリンには分りません――だよ」
「はやく勘定をお払いよ」
「おかねなんて、あるかとさ」
「ないのかえ」
「そこの|旅籠《は た ご》に泊っている、京の|角《すみ》|屋《や》の親方さんから貰っておくれ。どうせもう売った体……」
「アラ、泣いてら」
「わるいかえ」
「だって、お通さんの泣虫を、さんざん悪くいった癖に、自分で泣くやつがあるもんか」
「あたしの涙は、あのひとの涙とは、涙がちがいますよ。――アア面倒くさい、死んでやろうか」
ふいに身を起すと、|戸外《お も て》の闇を目がけて駈け出したので、城太郎は、びっくりして抱き止めた。
こういう女客も、稀にはあるとみえて、居酒屋の者は笑っていたが、ふと、隅に寝ていた牢人者が、むっくり|酔《すい》|眼《がん》をさまして見送っていた。
「朱実さあん。朱実さあん。――死んじゃいけないよ」
城太郎は追いかけてゆく。
朱実は先へ走ってゆく。
暗い方へ、暗い方へと。
先が闇であろうと、沼であろうと無鉄砲に駈けているもののように見えるが、朱実は、城太郎が泣き声だして、後ろで呼んでいることを知っている。
ひそかな|芽《め》|生《ば》えを乙女の胸にもちながら、その芽を、あらぬ男に――あの吉岡清十郎にふみにじられて――住吉の海へまっしぐらに駈けこんだ時には、ほんとに、死の|彼方《あ な た》まで行く気であったが――今の朱実には、その口惜しさだけがあっても、それまでの純真さはすでにない。
(誰が、死ぬものか)
と、自分へいいながら、ただわけもなく、城太郎が後ろから駈けて来るのが面白くて、世話をやかせてやりたいのだった。
「あっ、あぶないっ」
城太郎は、呶鳴った。
彼女の先に、|濠《ほり》の水らしいものが、闇に見えたからであった。
たじろぐ彼女を後ろからひしと抱き止めて、
「朱実さん、およしよ、およしよ。死んだってつまらないじゃないか」
引きもどすと、よけいに、
「だって、おまえだって、武蔵様だって、みんなあたしを、悪者のように思ってるじゃないか。あたしは、死んでこの胸に、武蔵様を抱いてゆく。……そして添わせるものか、あんな女に」
「どうしたのさ。何が、どうしたのさ」
「さあ、その濠の中へ、あたしを突きとばしておくれ。……よ、よ、城太さん」
そして両手を顔に当て、さめざめと、泣きぬくのであった。
城太郎は、その姿を見て、ふしぎな|恐《こわ》さに取り|憑《つ》かれていた。自分も泣きたくなったらしく、
「……ネ。帰ろう」
と、|宥《なだ》めると、
「ああ、会いたい。城太さん――探して来ておくれ。武蔵様を」
「だめだよ、そんな方へ歩いてゆくと」
「――武蔵様」
「あぶないッたら」
この二人が居酒屋の横町を駈け出した時から、すぐ後を|尾《つ》けて来た牢人者は、その時、狭い濠を|繞《めぐ》らした屋敷の角から、|嗅《か》ぎ寄るように歩いて来て、
「こら、子ども。……この女は、おれが後から送り届けてやる。お前は帰ってもいい」
と、朱実の体を、いきなり小脇に抱きしめて、城太郎を突き|退《の》けた。
|身《みの》|丈《たけ》のすぐれた三十四、五の男である。かなつぼ|眼《まなこ》に|青《あお》|髯《ひげ》のあとが濃い。関東風というのか、江戸へ近づくに従って、ひどく眼につくのが、着物や|裾《すそ》の短いことと、刀の大きいことだった。
「おや?」
見上げると、|下《した》|顎《あご》から右の耳へかけて、刀の切先で撫であげられた古傷が、桃の割れ目のように|歪《ゆが》んでいる。
(強そうなやつだぞ)
と思ったのであろう。城太郎は|生《なま》|唾《つば》をのんで――
「いいよ、いいよ」
朱実を連れ戻そうとすると、
「みろ、この女は、やっと虫が納まって、いい気持そうに、おれの腕の中に締められて寝てしまった。おれが連れて帰ってやる」
「だめだよ、おじさん」
「帰れっ」
「……?」
「帰らないな」
ゆっくり、手をのばして、城太郎の襟がみをつかむと、城太郎は、|羅生門《らしょうもん》の綱(渡辺綱のこと)が鬼の腕に耐えるように踏んばって、
「な、なにをするのさ」
「この餓鬼め、|溝《どぶ》の水を喰らって帰りたいか」
「なにをっ」
この頃は、体以上の木剣も、やや手について、ひねり腰に抜くがはやいか、牢人の横腰をなぐりつけた。
――しかし、自分の体も途端に、あざやかなもんどり[#「もんどり」に傍点]を宙に打って、|溝《どぶ》へは落ちなかったが、どこか、そこらの石にでもぶつけたらしく、ううむと|唸《うな》って、それなり動きもしなかった。
ひとり城太郎に限らず子供というものはよく気絶する。大人のような|遅《ち》|疑《ぎ》がないので、事にぶつかると、素純なたましいは、この世とあの世の境を、つい|弾《はず》みでも、超えてしまうのであろう。
「おーい、子どもう」
「お客さん」
「子ども……ウ」
耳元で、かわるがわるに呼ばれて、城太郎は、大勢の中に介抱されている自分を、ぱちぱち見まわした。
「気がついたかい」
皆に問われて、城太郎は、間がわるそうに、自分の木剣を拾うが早いか、歩き出した。
「これこれ、お前と一緒に出た|女《おな》|子《ご》はどうした」
宿屋の手代は、あわてて彼の腕をつかまえた。
そう訊かれて、彼は初めて、この人々が、奥に泊っている|角《すみ》|屋《や》の者と、|旅籠《は た ご》の雇人たちで、朱実を探しに来たものと知った。
誰が発明したのか、|重宝《ちょうほう》がられて上方でも流行っている「ちょうちん」と呼ぶ物が、もう関東にも来ているとみえ、それを持った男だの、棒切れを持った若者などが、
「おまえと、角屋の女子が、侍につかまって、難儀をしていると、知らせてくれた者があるのだ。……何処へ行ったかおまえは知っているだろうが」
城太郎は、首を振って、
「知らない。おいらは、何も知らない」
「何も? ……ばかをいえ、何も知らぬことがあるものか」
「何処か、|彼方《む こ う》のほうへ、抱えて行ったよ。それきりしか、知らない」
城太郎は、とかく返辞をいいしぶった。|関《かか》り合いになって、後で奈良井の大蔵に叱られることが|恐《こわ》かったのと、もう一つの理由は、相手に|抛《ほう》りつけられて、気絶してしまった不覚を、大勢の前でいうのが、|間《ま》がわるいのであった。
「どっちだ。その侍の逃げた方は」
「あっちだ」
指さしたのも、いい加減であったが、それっと、大勢が駈け出すとすぐ、ここにいた、ここにいたと、先で叫ぶ者がある。
|提燈《ちょうちん》や棒が駈け集まってみると――朱実はしどけない姿を農家の|藁《わら》|小《ご》|屋《や》らしい陰に|曝《さら》していた。その辺に積んである|乾《ほし》|草《くさ》の上に押し仆されていたものとみえ、人の跫音に驚いて、髪も着物も、わらや乾草だらけになって、起き上がっていたが、襟はひらいているし、帯はだらりと解けている――
「まあ、どうしたのじゃ」
提燈の明りに、それを見た人々は、すぐ或る犯行を直感したが、さすがに、口へいい出す者もなく、犯行者の牢人者を追うことも忘れていた。
「……さ、お帰り」
手をひくと、その手を払って、彼女は小屋の|羽《は》|目《め》へ顔を当てたまま、よよと、声をあげて、泣きじゃくった。
「酔っているらしいね」
「何でまた、|戸外《そと》で酒など?」
人々は、しばらく、彼女の泣くにまかせて、見まもっていた。
城太郎も、遠くからその様子を覗いていた。彼女がどんな目に遭ったのか、彼にははっきり頭に描くことはできなかったが、彼はふと、朱実とはまるで縁のない過去の或る体験を思いだしていた。
それは、|大和《や ま と》の柳生の庄のはたご屋に泊った時、はたごの小茶ちゃんという少女と、|馬糧《ま ぐ さ》小屋のわらの中で、|抓《つね》ったり、かじりついたりして、ただ|狆《ちん》ころのように、人の跫音を恐れるおもしろさを味わった――あの経験であった。
「行こうッ――と」
すぐ、つまらなくなって、城太郎は駈けだした。駈けながら、たった今、あの世のてまえまで行った魂を、この世に遊ばせて歌いだした。
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野なかの、野中の
|金《かな》ぼとけ
十六娘をしらないか
迷った娘を知らないか
打っても、カーン
訊いても、カーン
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|草《くさ》|雲雀《ひ ば り》
帰る|旅籠《は た ご》は、分りきったつもりでいたらしいが、向う見ずに飛んで来るうちに、
「おや、違ったかな?」
城太郎は初めて、自分の駈けている道に、疑いを抱き、前や後ろを見まわして、
「来る時には、こんな所は歩かなかったぞ」
と、やっと気がついたような顔つきである。
この辺には、古い|砦《とりで》の|蹟《あと》を中心に、一|廓《かく》の武家町がある。砦の石垣は、かつて他国の軍に占領されて、ひどく|壊《こわ》されたまま荒れているが、一部を修復して、今ではこの地方を支配する大久保長安の役宅か住居になっている模様である。
戦国以後に発達した|平《ひら》|城《じろ》とちがい、極めて旧式な――土豪時代の|砦《とりで》なので、|濠《ほり》も|繞《めぐ》らしてないし、従って城壁も見えない。唐橋もない。ただ、|漠《ばく》とした一面の|藪《やぶ》|山《やま》であった。
「あっ? ……誰だろう……あんな所から人間が?」
城太郎が|佇《たたず》んでいた道の片側は、|砦《とりで》の下を|繞《めぐ》っている侍屋敷の塀であった。
そして一方は、|田《たん》|圃《ぼ》と沼であった。――
その沼と田圃の|端《はず》れからすぐ、|嶮《けわ》しい藪山の裏が、|生《は》えたように急に|聳《そび》え立っている。
道もないし、石段も見えないから、恐らく、この辺は砦の|搦手《からめて》であろう。――だのに今、城太郎が見ていると、その藪山の絶壁から、綱を垂らして、降りて来る人間がある。
綱の先には、カギがついているとみえて、その綱の端まで降りてくると、足の先で、岩や木の根を探り、下から振ってカギを|外《はず》し、またさらに下へ綱をのばして、スルスルと降りて来る。
――そして遂に、|田《たん》|圃《ぼ》と山の境まで下がって来ると、その人影はいったん其処らの雑木|藪《やぶ》の中に見えなくなってしまった。
「なんだろ?」
城太郎の好奇心は、自分の身が宿場の灯から遠い所へ迷って来ていることをも忘れさせてしまった。
「……?」
だがもう、彼がいくら眼をまるくしていても、何も見えて来なかった。
それだけにまた、彼の好奇心は、そこを去りかねた様子で、往来の|樹《こ》|陰《かげ》にひたと身をつけて、やがて|田《たん》|圃《ぼ》の|畦《あぜ》を渡って、自分の前へ来そうな気のする――|先刻《さ っ き》の人影を待ちぬいていた。
彼の期待は|外《はず》れなかった。ずいぶん|時《とき》|経《た》ってからであったが、やがて、畦道からのそのそと|此方《こ っ ち》へ来る人間が見える。
「……なんだ|薪《まき》|拾《ひろ》いか」
他人の山の薪を盗む土民は、一背負いの薪のために、夜を選んで、随分あぶない崖も越えるが、もしそんな者だったら――と城太郎はふとつまらない待ちくたびれを感じた。しかし再び、驚くべき事実を|眼《ま》のあたりに見せられて、彼の好奇心は、満足を通り越え、恐怖の|顫《ふる》えに襲われた。
――田圃の|畦《あぜ》から往来端へ上がった人影は、彼の小さい影が、樹の陰にへばりついているとも知らず、悠々、彼の側を通って行ったが、そのせつな、城太郎はよくも、
「あっ!」
という声を出さなかったものである。
なぜなら、それは|慥《たし》かに城太郎が先頃から身を託している奈良井の大蔵に違いないからである。
けれど彼はまたすぐ、
「いや、|人《ひと》|間《ま》|違《ちが》いだろ?」
と、自分の眼で見た瞬間のものを、打ち消そうとした。
そう打ち消してみると、間違いかとも信じられた。――|彼方《か な た》へすたすたと行く後ろ姿を見れば、黒い布で顔をつつみ、黒い|膝行袴《たっつけ》や脚絆もはいて、足も身軽なわらじ|穿《ば》きではないか。
そして背中には、なにやら重たげな包みを|確乎《し っ か》と背負っている。その頑健な肩といい、腰ぼねといい、どうして、五十を越えた奈良井の大蔵であるものか――と、思われぬでもなかった。
見ていると、先へ行く人影は、また、往来から左の丘の方へ向って、曲がって行く。
べつに深い考えもなく、城太郎も後に|尾《つ》いて歩いていた。
どっちにしても、彼も、帰る方角をきめて、歩き出さなければならない場合にあったので、ほかに道を問う人影はなし、漫然、その男の後に|尾《つ》いて行ったら、宿場の|燈火《あ か り》が見えて来るだろう――ぐらいな思案にすぎなかったのである。
ところが。
先の男は、横道へはいると、|担《かつ》いでいた|嚢《ふくろ》のような物を、重そうに、|道標《みちしるべ》の下におろして、石の文字を読んでいた。
「あら? ……変だな……やっぱり大蔵様に似ている人だ」
それから城太郎は、いよいよ不審を増して、今度はほんとに、見え隠れに、その男を|尾行《つけ》てみる気になった。
男が、もう丘の道を登っているので、後から、|道標《みちしるべ》の|碑《ひ》の文字を読んでみると、
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首塚の松
このうえ
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と、彫ってある。
「ああ、あの松か」
その|梢《こずえ》は、丘の下からも仰がれた。後からそっと行ってみると、先に着いた男はすでに、松の根方に腰をおろし、煙草をつけて|喫《す》っている。
「いよいよ、大蔵様にちがいないぞ」
と、城太郎は|呟《つぶや》いた。
なぜならば、その頃、ここらの|田舎《い な か》の人や町人が、滅多に煙草など持っているはずがない。煙草の味を教えたのは、南蛮人だそうであるが、日本で栽培するようになってからでも、高価なので、上方あたりでも、よほど贅沢な者でなければ|喫《す》わない。値だんばかりでなく、日本人の体はまだ喫煙の害に馴れないので、|眩《めま》いを起したり、泡をふいたりする者が多いので、|美味《うま》いけれど、魔薬であると考えられている。
だから、奥州の伊達侯などは、六十余万石の領主であり、大の煙草の|好《すき》|者《しゃ》といわれているが、|祐《ゆう》|筆《ひつ》の|御日常書《ごにちじょうがき》によると、
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朝、お三ぷく
夕、|御《おん》四ふく
|御《ぎょ》|寝《しん》、ご一ぷく
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などと誌されてある。
そんなことは、城太郎の知ったわけのものでないが、城太郎にも、滅多な者が喫うべきものでないことは分っている。――また、それを奈良井の大蔵が、日常時をきらわず、陶器製の|煙管《き せ る》で喫っていたことも見ていた。もっとも大蔵が喫っているのは、木曾一の|大《たい》|家《け》の主人であるから、不審には思わなかったが、今、首塚の松の下で、スパリスパリと喫っている蛍火ほどな煙草の火には、恐ろしい疑念がわいた。
「何をしてるんだろ?」
彼は、冒険に|狎《な》れて来て、いつのまにか、かなり近くの物陰まで、這い寄ってながめていた。
やがてのこと。
悠々と、煙草入れを仕舞うと、男はぬっくと起ち上がった。そしてかぶっている黒い|布《ぬの》を|脱《と》ったので、顔もよく見えた。やはり奈良井の大蔵なのである。
覆面に使っていた黒布を、手拭のように腰に挟むと、彼は、大地にはびこっている巨松の根を、|一《ひと》|周《まわ》りぐるりと巡ってあるいた。そしてどこから拾い出したのか、手には、いつのまにか、一|挺《ちょう》の|鍬《くわ》を持っている。
「……?」
鍬を杖に立てて、大蔵はしばらく夜の景色でも眺めるように突っ立っている。城太郎もそれで気づいた。この丘は、町場のある本宿と、|砦《とりで》や屋敷ばかりの住宅地との境になっている丘であった。
「うむ」
大蔵は、独りでうなずいた。そしてやにわに、松の根の北側にある一個の石を転がし、その石のあった下を目がけて、ざくと、|一《ひと》|鍬《くわ》入れはじめた。
鍬を振りだした大蔵は、わき目もふらずに、土を掘りのけた。
みているうちに、人間の体が立ったままであらかたはいるぐらいな穴になった。――そこで彼は、腰の黒い手拭で、ひと汗拭いた。
「……?」
草むらの石の陰に、石みたいになって、眼をまろくしていた城太郎は、その人間が、大蔵にちがいないと見てはいるが、それでもまだ、自分の知っている奈良井の大蔵とは、人がちがう気がしてならなかった。世の中に、奈良井の大蔵という者が、二人いるような気がして来るのだった。
「……よし」
大蔵は、穴の中にはいって、地面から首だけ出して、そういった。
穴の底を、足で踏み固めているのだった。
自分を埋めて、土をかぶるつもりなら、止めなければならない――と城太郎は考えていたが、そんな心配はいらなかった。
穴から跳び出すと、彼は松の木の下に置いてあった|嚢《ふくろ》のような重い物を、穴のそばまで、ずるずる引き摺って来て、嚢の首を|括《くく》ってある麻の|紐《ひも》を解いている。
風呂敷かと思ったら、それは|革《かわ》の陣羽織であった。陣羽織の下に、もう|一《ひと》|重《え》、幕みたいな|布《ぬの》で包んである物を開けると、驚くべき黄金の|海鼠《な ま こ》があらわれた。二つ割りの竹の節のあいだに、|熔《と》かした黄金を流したもので、竹流しの|竿《さお》|金《きん》ともよぶ地金で、それが何本もあった。
それだけかと思っていると、彼はこんどは帯を解いて、腹巻だの、背中だの、体じゅうから、慶長判に|鋳《ふ》き上げてある金を、何十枚となく振りこぼした。それを手早く掻き集めて黄金の地金といっしょに、陣羽織にくるむと、穴の中へ犬の死骸でも蹴込むように、ずしーんと落した。
土をかぶせる。
足で踏みつける。
そして石を、元のとおりな位置へすえ、新しい|土塊《つ ち く》れが、そこらに目立たぬように、枯草や木の枝などを|撒《ま》きちらし、こんどは、自分の|身装《み な り》を、平常の奈良井の大蔵に変えているのだった。
|草鞋《わ ら じ》や|脚《きゃ》|絆《はん》や、不用になった物は、|鍬《くわ》にくくし付けて、人のはいらない藪の中へ投げこんだ。そして十徳を着、十徳の胸へ、雲水の掛けているような|頭陀袋《ずだぶくろ》をさげ、草履まで|穿《は》きかえると、
「アア、|一《ひと》|骨《ほね》だった」
|呟《つぶや》いて、丘の彼方へ、さっさと降りて行ってしまった。
その後で、城太郎はすぐ、生き埋めになった黄金のあとに立ってみた。どう見ても、掘りかえしたらしい|痕《あと》は残っていない。彼は魔術師の|掌《てのひら》を見つめるように、大地を見ていた。
「……そうだ。先へ帰っていないと、変に思われるぞ」
町場の|燈火《あ か り》が見えているので、もう帰り途の見当はついている。彼は、大蔵とちがう道をえらんで風の子みたいに丘から駈けだした。
何喰わぬ顔をして、旅籠の二階へあがり、自分たちの部屋へ入ってゆくと、いいあんばいにまだ大蔵は戻っていない。
ただ、|行《あん》|燈《どん》の下に、下男の助市が、|挟《はさ》み|筥《ばこ》へよりかかって、孤影悄然と、よだれをたらして眠っていた。
「おい、助さん、|風邪《かぜ》ひくよ」
わざと、揺り起すと、
「あ。城太か……」
助市は、眼をこすって、
「こんな遅くまで、御主人様へも無断で、わりゃあ何処へ行っていたのだ」
「何いってんだい」
城太郎はやり返して、
「おいらはもう、とっくの昔に帰っていたじゃないか。寝ぼけて、知りもしないくせに」
「嘘をつけ。わりゃあ、|角《すみ》|屋《や》の|妓《おんな》を引っぱり出して、外へ行ったというじゃねえか。――今から、そんなまねしやがって、末恐ろしいやつだ」
間もなかった。
そこへ奈良井の大蔵が、
「今もどったよ」
障子を開けて入って来た。
どう歩いても、十二、三里はある。陽のあるうちに江戸へ着こうとすれば、よほど早立ちをしなければならない。
角屋の一行は、まだ暗いうちに八王子を立った。奈良井の大蔵の組は、悠々、朝食をしたため、
「さて」
と宿を立ち出でたのが、もう陽のたかい時分。
挟み|筥《ばこ》の下男と、城太郎とは、例によって、お供に|従《つ》いていたが、きょうの城太郎は、ゆうべの事実があるので、何となく、大蔵に対する気ぶりが違っていた。
「城太」
大蔵はふり向いて、浮かない彼の顔つきへ、
「どうした、きょうは」
「へ? ……」
「どうかしたのか」
「どうもしません」
「ひどく、きょうに限って、むっつりしているじゃないか」
「はい……、大蔵様。実は、こうしていてはお師匠様にいつ行き会えるか分らないから、おいら、おじさんと別れて捜そうと思うんだけれど……いけないかな」
大蔵は|膠《にべ》なくいった。
「いけないな」
すると城太郎は、いつものように、|馴《なれ》|々《なれ》しく|縋《すが》りかけたが、急に手を引っ込めて、
「どうして」
と|恟《おず》|々《おず》いう。
「一ぷくしよう」
大蔵はそういって、武蔵野の草に腰をおろした。そして挟み|筥《ばこ》を|担《かつ》いでいる助市へ、先へ行けと手を振って見せる。
「おじさん、おいら、どうしても、お師匠様をはやく捜したいもの。だから一人で、歩いたほうがいいと思って――」
「いけないというのに」
難かしい顔を示しながら、大蔵は|陶器《すえもの》の|煙管《き せ る》で、すぱりとくゆらしながら、
「お前は、きょうから、おれの子になるのだ」
と、いった。
問題が重大なので、城太郎は|唾《つば》をのんだ。だが、大蔵はもうにやにや笑っているので、冗談をいわれたのだと解して、
「いやなこった。おじさんの子になんかなるのは嫌だ」
「どうして」
「おじさんは、町人だろ。おいらは|武士《さむらい》になりたいんだもの」
「奈良井の大蔵も、根を洗えば、町人ではない。きっと、偉い武士にさせてやるから、わしの養子になれ」
どうやら本気らしいので、城太郎は身ぶるいを覚えながら、
「なぜおじさんは、急にそんなことをいい出すのだい?」
――すると大蔵は、いきなり城太郎の手を引き寄せて、ぎゅっと、|羽《は》|交《がい》|締《じ》めに抱き込みながら、彼の耳へ、|唇《くち》をつけて、小声にいった。
「見たな! 小僧」
「……え?」
「見たろう!」
「……な、なにをさ」
「ゆうべ、おれがしたことを」
「…………」
「なぜ見た!」
「…………」
「なぜひとの秘密を見る!」
「……ごめんよ、おじさん、ごめんよ。誰にもいわないから」
「大きな声を出すな。もう見てしまったことだから、|叱言《こ ご と》はいわぬ。その代りに、わしの子になれ。それが嫌なら、可愛い奴だが、殺してしまわなければならぬのだ。――どうだ、どっちがいい?」
ほんとに殺されるかも知れないと思った。生れて初めて|恐《こわ》いというものに出会った気持であった。
「ごめんよ、ごめんよ。殺しちゃ|厭《いや》だい。死ぬのは厭だい」
抑えられた|雲雀《ひ ば り》のように、城太郎は、大蔵の腕の中で軽くもがいた。大きく暴れると、すぐに死の手が|圧《お》しかぶさってくるように|惧《おそ》れもするのであった。
そのくせ大蔵の手は、決して、彼の心臓がつぶれる程、強い力で締めつけているのではない。
やんわりと、膝のなかへ抱えこんで、
「じゃあ、おれの子になるか」
と、まばらな|髯《ひげ》を城太郎の頬へ|摺《す》りつけていう。
その髯が痛い。
そのやんわりとした力がとても怖ろしい。大人臭いにおいが体を|縛《しば》ってしまう。
どうしてだろう。城太郎にも分らなかった。危険というだけなら、これ以上あぶない目には何度も出会っているし、それに対しては、むしろ向う見ずな|性質《たち》なのに、声も手も出ないで、|嬰児《あ か ご》のように、大蔵の膝から逃げることができなかった。
「どっちだ。どっちがいい?」
「…………」
「おれの子になるか、殺されたほうがいいか」
「…………」
「これ、はやくいえ」
「…………」
城太郎はとうとうベソを掻き始めた。汚い手で顔をこするものだから、涙が黒いしずくになって小鼻のそばに|溜《たま》っている。
「なにを泣くか。おれの子になれば、倖せじゃあないか。|武士《さむらい》になりたければ、なおさらのことだ。きっといい武士に仕立ててやる」
「だって……」
「だってなんだ」
「…………」
「はっきりいえ」
「おじさんは……」
「うむ」
「でも」
「|焦《じ》れったい奴。男というものは、もっと何でもはっきり物をいうものだ」
「……だってね……おじさんの商売は、泥棒だろ」
もし大蔵の手が、軽くでもかかっていなければ、途端に彼は、雲をかすみと駈け出していたに違いないが、その膝が深い|淵《ふち》のように、起つこともできなかった。
「あはははは」
大蔵は、泣きじゃくる背を、ぽんとたたいて、
「だから、おれの子になるのは、嫌だっていうのか」
「……う、うん」
城太郎がうなずくと、彼はまた、肩をゆすって笑いながら、
「おれは、天下を盗む者かもしれないが、けちな|追《おい》|剥《はぎ》や空巣ねらいたあ違う。家康も秀吉も信長も、みな天下を|奪《と》った人間じゃないか。――おれに|従《つ》いて長い目で見ていると、今にわかって来る」
「じゃあおじさんは、泥棒でもないの」
「そんな割の合わない商売はしない。――おれはもっと太い人間さ」
もう城太郎の思案では、どう答えていいか、背が足りなかった。
大蔵は、膝の上から、ぽんと彼を離して、
「さあ、泣かずに歩け。きょうからはわしの子だ。可愛がってやる代りに、|おくび[#「おくび」は「口」+「愛」Unicode="#566f"]《おくび》にも、ゆうべのことをひとに|喋舌《し ゃ べ》るな。――|喋舌《し ゃ べ》るとすぐ、その首を捻じ切ってしまうぞよ」
|草《くさ》|分《わけ》の|人《ひと》|々《びと》
本位田又八の母が、江戸表へ来たのは、その年の五月末頃であった。
気候は、めっきり暑くなっていた。ことしは|空《から》|梅雨《つゆ》か、ひと粒の雨も見えない。
「こんな草原や|葭《よし》の多い沼地へ――なんでまたこんなに家が建つのじゃろ?」
江戸へ来て、彼女の第一印象は、そんな|呟《つぶや》きであった。
京の大津を出てから約二ヵ月近くもかかって、彼女はやっと今、着いたのである。道は東海道をとって来たものらしく、途中では、持病やら信心詣りやら、道草も多いので、都をば|霞《かすみ》とともに出でしかど――という歌どおり遥けくふり返られる。
|高《たか》|輪《なわ》街道には、近頃植えた並木や、一里塚もできていた。|汐《しお》|入《いり》から日本橋へゆく道は、新しい市街の幹線道路なので、わりあいに歩きよいが、それでも、石や材木をつんだ牛車がひっきりなしに通るのと、人家の|普《ふ》|請《しん》や、|埋《うめ》|地《ち》の土運びなどで、足もとも悪く、雨もふらないので、|濛《もう》|々《もう》と、白い|埃《ほこり》が立っている。
「――ア、なんじゃ?」
彼女は、目角を立てて、普請中の新しい民家の中を|睨《ね》めつけた。
中で笑う声がした。
左官屋が壁を塗っているのである。こて[#「こて」に傍点]の先から飛んできた壁土が、彼女の着物をよごしたのであった。
年は|老《と》っても、こういうことには我慢のならない|婆《ばば》であった。ついこの年頃まで、郷里では、本位田家の隠居で通った|権《けん》|式《しき》ぐせが、とたんに|憤《む》っと出るのである。
「往来の者へ、壁土をはね返しながら、詫びもせず、笑うているという法があろうか」
郷里の畑でこういえば、小作や村の者は、|慴伏《しょうふく》したものであった。しかし、御新開の江戸へ|遽《にわか》に流れて来て、荒い土をこねている左官屋職人は、こて[#「こて」に傍点]をうごかしながら鼻で笑った。
「なんだって。――変なばばあが、なにか、ぶつぶついってるぜ」
お杉婆は、いよいよ怒って、
「今、笑うたのは、いったい誰じゃ」
「みんなだよ」
「なんじゃと」
ばばが肩をいからせる程、職人たちは笑っていた。
年がいもない――よせばいいのにと、足を止めた往来の者は、はらはらしていたが、ばばの性格がそれではすまなかった。
黙って、彼女は土間の中へ入って行った。そして左官たちが、足場にして乗っている板へ手をかけながら、
「おのれであろうが」
と、板を|外《はず》した。
左官たちは、|漆《しっ》|喰《くい》板の泥を浴びて、板の上からころげ落ちた。
「こん畜生」
|刎《は》ね起きると、左官たちは、ひとつかみにしてしまいそうな|権《けん》まくで、お杉ばばの前に立ったが、
「さあ、外へ出い」
婆は、脇差に手をかけて、少しも年よりらしい|怯《ひる》みは見せない。
その勢いに、職人たちは、気をのまれてしまった。こんな婆さんがあろうかと意外であった。すがたや言葉づかいから考えて、侍のおふくろであることは知れているし、へたな真似をしては――と、急に|惧《おそ》れをなした顔いろである。
「この後、今のような無礼をしやると、承知せぬぞよ」
これでいいのだ、ばばは気がすんだとみえて、往来へ出て行った。往来の者は彼女のきかない気らしい後ろつき[#「つき」に傍点]を見送ってちらかった。
すると、かんな[#「かんな」に傍点]|屑《くず》を泥足にひきずった左官屋の小僧が、ふいに普請場の横から駈け出して行って、
「この、ばばめ」
いきなり、手桶のへどろ[#「へどろ」に傍点]を、彼女の体へぶちまけて、隠れてしまった。
「何するかっ」
振り向いた時は、もう|悪戯《いたずら》の下手人はいなかった。
自分の背に浴びた壁土に気づくと、彼女の顔は、無念そうなうちに、泣き出しそうな顔を|顰《しか》めて、
「何を笑う?」
と、こんどは、笑っている往来の者へ向って、いいちらした。
「げらげらと、何がおかしゅうて、笑い召さるのじゃ。老いぼれは、わしのみではないぞえ。おぬしらも、やがては年を|老《と》るのじゃぞ。はるばると遠国から越えて来たこのとしよりを、親切に|宥《いたわ》ろうとはせず、|捏《こ》ね土を浴びせたり、歯をむいて|嘲笑《あざわら》うたりするのが江戸の衆の人情か」
|罵《ののし》るために、往来はよけい足を止め、また|愈々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]《いよいよ》、笑い声を増すことが、お杉婆には分らぬらしい。
「お江戸お江戸と、日本じゅうでは今、この上もない|土地《と こ ろ》のように、偉いうわさじゃが、何のことじゃ、来てみれば、山を崩し、|葭《よし》|沼《ぬま》を埋め、堀を掘っては海の|洲《す》を盛っている|慌《あわた》だしい|埃《ほこり》ばかり。おまけに人情はすすど[#「すすど」に傍点]うて、人がらの|下品《げび》ていることは、京から西には見られぬことじゃ」
これで、婆は少し胸がすいたとみえる。なお笑う群衆を捨てて、|忌《いま》|々《いま》しげに、脚をはやめて行った。
町はどこを見ても、木口も壁も新しくて、ぎらぎらと眼を射るし、空地へ出ると、まだ埋めきれない土の下から、|葭《よし》や|蘆《あし》の根が枯れて|喰《は》み出している。乾いた牛の|糞《ふん》は、眼や鼻にはいる気がするのであった。
「これが江戸か」
彼女は、事々に、江戸が気に入らなかった。新開発の江戸の中でいちばん古い物が、自分の姿のように思われた。
実際、ここの土に活動しているものは、|悉《ことごと》くが若い者に限られていた。|店《てん》|舗《ぽ》を持っている主人も若いし、騎馬で歩いている役人も、編笠を抑えて大股に過ぐる侍も、労働者も、|工匠《こうしょう》も、物売りも、歩卒も部将も、すべてが若かった。若い者の天地だった。
「尋ねる者でもない旅なら、こんな所に、一日とて、居てくれるのではないが……」
ぶつぶついっているまに、婆はまた、足を止めた。ここもまた、堀を掘っているので、道を曲がらなければならなかった。
掘り出した土の山は、どんどんと、土車で運ばれてゆく。そうして、|葭《よし》や蘆が埋ってゆくそばから、大工は家を組み、大工のはいっているうちに、もう|白粉《おしろい》の女が、|暖《の》|簾《れん》の陰で眉を|刷《は》いていたり、酒を売ったり、|生薬《きぐすり》の看板をかけたり、呉服反物を積みあげていたりしていた。
ここらは以前の千代田村と日比谷村のあいだを通っている奥州街道の|田《たん》|圃《ぼ》|道《みち》が開けているので、もっと、江戸城の周囲に寄れば、太田|道《どう》|灌《かん》以後、天正の御入国以来のまとまった|大名小路《だいみょうこうじ》や屋敷町もあって、多少、城下としての落着きもあるのであったが、婆はまだ、そこへは足を踏んでいない。
そして、昨日今日、急拵えにできかかっている新開地を見て、江戸の全体を考えているので、ひどく落着かないのであった。
掘りかけている|空《から》|堀《ぼり》の橋のたもとに、ふとみると、一軒のほったて小屋がある。四方は|蓆張《むしろば》りで、|削《そ》ぎ|竹《たけ》を抑えに打ち、入口にのれん[#「のれん」に傍点]を掛けて、そこから一本の小旗が出ている。
見ると、一字、
「ゆ」
と書いてある。
永楽のびた[#「びた」に傍点]銭一枚を、湯番にわたして、ばばは、湯にはいった。汗をながすのが|目的《め あ て》ではなかった。|竿《さお》を借りて、|抓《つま》み洗いをした着物を小屋の横に|干《ほ》し、それの乾くあいだ、|襦《じゅ》|袢《ばん》一枚で、洗濯物の下にほそい|脛《すね》をかかえて、往来をながめていた。
時々、|干《ほ》し|竿《ざお》の着物を手で触ってみる。陽が強いのですぐ乾きそうに思われたが、なかなか乾かないのである。
襦袢一枚に、湯巻の上へ帯を巻いたきりで、これを待っているので、|見得《みえ》を知らないばばも、往来から見えないように、銭湯小屋の陰に、いつまでも|縮《ちぢ》まっていた。
すると、往来の向う側で、
「|幾《いく》|坪《つぼ》あるのだい、この地所は――安けれやあ相談に乗ろうじゃないか」
「総坪で、八百坪からござんすよ。値だんは、申し上げたより負かりません」
「高いなあ。すこし、べら棒じゃないか」
「どういたしまして、土盛りの人足賃だって、安かあございません。――それにサ、もうこの|界《かい》|隈《わい》には地所はありませんぜ」
「なあに、まだ、あの通り埋立てているじゃないか」
「ところが、|葭《よし》の生えているうちから、みんなあばき[#「あばき」に傍点]合いで、買手を待っている地所なんざ、十坪だってありませんや。――もっとも、ずっと隅田川の河原寄りなら幾らかありやすがね」
「ほんとに、八百坪あるのかい、この地面は」
「だから念のために、|縄《なわ》を引いてごらんなすって」
四、五名の町人どうしで、頻りと、土地売買の取引をしているのだった。
その値だんを、往来ごしに聞いて、お杉ばばは、眼をまろくした。田舎なら米のできる田が何十枚という値が、ここの一坪か二坪の値だった。
江戸の町人のあいだには今、熱病のように、土地売買の|思《おも》|惑《わく》が行われているので、こんな風景は、随所に見られるのであったが、
「米も|実《な》らなければ、町なかでもない地面を、どうしてここらの衆はあんなに買うのか」
と、彼女には、不思議でならなかった。
そのうちに取引の相談がまとまったのであろう。埋地に立っていた人影は、手打ちをして散らかって行った。
「――おやっ?」
ぼんやりと、そんな物を見ているうちに、誰か|背後《う し ろ》へ来て、自分の帯へ手を入れた者があるので、ばばはその手を|掴《つか》んで、
「泥棒っ」
と、さけんだ。
小出しの財布はもう帯の間を抜けて、土工か|駕《かご》かきらしい男の手に掴まれたまま、往来の方へ飛んでいた。
「――泥棒じゃっ」
自分の首を持って行かれたように、ばばは追い|縋《すが》って、男の腰へしがみついた。
「――来てくだされッ。往来の衆ッ。盗人じゃっ」
一つや二つ、顔を|撲《は》っても、容易にばばの手が離れないので、持て余した|掻《か》っ|攫《さら》いは、
「うるせえっ」
と、いいながら、足をあげて、ばばの|脾《ひ》|腹《ばら》を蹴とばした。
並たいていの老婆と心得たのがその小泥棒には不覚であった。うむうっ――と|呻《うめ》いてばばは仆れたものの、それと共に、|襦《じゅ》|袢《ばん》一重になっても差していた小脇差を、抜きざまに|酬《むく》いて、相手の足くびを斬っていた。
「ア|痛《い》ててて」
財布を持った小泥棒は、ちんばを曳いたままそれでも十間ばかり逃げたが、|夥《おびただ》しい血がこぼれるのを見て、貧血して、往来へ坐ってしまった。
今、埋地で土地の手打をして、一人の|乾児《こ ぶ ん》と共に歩いていた|半瓦《はんがわら》の|弥《や》|次《じ》|兵《べ》|衛《え》は、
「――やっ? そいつあこの間まで、部屋にごろついていた甲州者じゃねえか」
「そうのようです。財布を握っていますぜ」
「泥棒という声が聞えたが、部屋を出ても、まだ|手《て》|癖《くせ》がやまねえな。……おお|彼方《む こ う》に|老婆《としより》が仆れている。甲州者はおれが捕まえているから、あの|老婆《としより》を|労《いたわ》って来い」
半瓦は、そういうと、逃げかけるちんば[#「ちんば」に傍点]の襟がみを|抓《つま》んで、|螽《ばった》でも叩きつけるように、空地の方へ|抛《ほう》り出した。
「親分、そいつが、婆さんの財布を持っている筈ですが」
「財布はおれが|奪《と》り返して預かっている。としよりはどうした」
「たいして|怪《け》|我《が》もございません。気を失っていましたが、気がつくとすぐあの通り財布財布と|喚《わめ》いております」
「坐っているじゃねえか。起てねえのか」
「そいつに、|脾《ひ》|腹《ばら》を蹴とばされたんで」
「よくねえ奴だ」
|半瓦《はんがわら》は、小泥棒を|睨《ね》めつけて、|乾児《こ ぶ ん》の男へいいつけた。
「|丑《うし》。|杭《くい》を打て」
杭を打て――と聞くと甲州者の小泥棒は、刃物を当てられたより|顫《ふる》えあがって、
「親分、それだけは、どうぞご勘弁を。以後は改心して、よく働きますから」
ひれ伏して、拝んだが、半瓦は首を振って、
「ならねえ、ならねえ」
その間に、走って行った乾児は仮橋|普《ぶ》|請《しん》をしている大工を二人連れて来て、
「この辺へ打ってくれ」
と、空地の中ほどを足で示して大工へいう。
ふたりの大工は、そこへ一本の|杭《くい》を打ちこんで、
「半瓦の親分、これでようがすか」
「よしよし。野郎をそこへふん縛って、頭の上のあたりへ、板を一枚打ってくれ」
「なにか、お書きになるので」
「そうだ」
大工の墨つぼを借りて、それへ|差尺《さしがね》|筆《ふで》で、
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一ツ 泥棒一ぴき
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せんだって迄、半瓦の部屋の飯食い者、再度悪事のかど|之《これ》|有《あ》り候につき、雨ざらし|陽《ひ》ざらし、七日七晩きゅうめいさせ|置候《おきそうろう》ものなり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]大 工 町
弥 次 兵 衛
「ありがとう」
墨つぼ[#「つぼ」に傍点]を返して、
「すまねえが、死なねえ程に、弁当飯のあまりでも、時々エサをやっといてくれ」
と、|橋《はし》|普《ぶ》|請《しん》の大工や、近くで働いている土工たちへ頼んだ。
一同は口を揃えて、
「承知いたしました。たんと笑ってやりやしょう」
と、いった。
笑ってやるということは、町人社会でさえ、この上もない制裁であった。年久しく武家は武家と戦争ばかりしていて、民治や刑法がゆき届かないために、町人社会はそれ自体の秩序のために、こういう私刑の方法を持っていた。
新興の江戸政体には、もう町奉行の組織だの、大庄屋制度をそのまま|厳《いか》めしく延長したような職制や民治が体をなしかかっていたが、民間の旧習というものは、上ができたからといって、|遽《にわか》に余風が|革《あらた》まるものではない。
けれど、私刑の風などは、新開発の半途にある混雑な社会には、まだ当分あってもよいものとして、町奉行でも、べつにこれを取締ることはしなかった。
「|丑《うし》、そのとしよりへ、財布を返してやれ」
|半瓦《はんがわら》は、それをお杉ばばの手へ戻してから、また、
「かあいそうに、この年して、ひとり旅の様子じゃねえか。……着物はどうしたんだ」
「風呂小屋の横に、洗濯して、|乾《ほ》してありますが」
「じゃあ着物を持って、としよりを負ぶって来い」
「家へ連れて帰るんで?」
「そうよ、|盗《ぬす》っ|人《と》だけ|懲《こ》らしたってこのとしよりを捨てておいたら、またどいつかが悪い量見を起さねえとも限るまい」
|生《なま》|乾《がわ》きの着物を抱え、彼女を背なかに負ぶって、|乾児《こ ぶ ん》の男が、半瓦のあとに|尾《つ》いてそこを立ち去ると、往来につかえていた人垣も、ぞろぞろと東西へ崩れだした。
日本橋は、|竣工《でき》てからまだ一年も踏まれていなかった。
後の錦絵などで見るよりも、そこの河幅はずっと広くて、両岸から新しい石垣の|築《つき》|出《だ》しが築かれ、そこにまだ新しい白木の欄干が|架《か》かっていた。
鎌倉船や、小田原船が、橋の|際《きわ》までいっぱいにはいって行った。その向う河岸に、魚くさい人間がわいわいと市を立てている。
「……痛い。うう痛い」
ばばは、|乾児《こ ぶ ん》の背なかで、顔をしかめながらも、魚市場の人声に何事かと、眼をみはった。
半瓦は、乾児の背から、時々聞える|呻《うめ》きをふり向いて、
「もう|直《じ》きだよ、辛抱しねえ、|生命《い の ち》に別条があるじゃなし、余り|唸《うな》りなさんな」
往来の者が、頻りと振向くので、こう注意したのである。
それからは、おとなしくなって、ばばは|嬰児《あ か ご》みたいに、乾児の背へ顔を寝かせていた。
|鍛冶《かじ》町だの、槍町だの、|紺《こん》|屋《や》町だの、畳町だの、職人色に町がわかれていた。大工町の半瓦の家は、その中でひどく変っていた。屋根の半分が瓦で|葺《ふ》いてあるのが、誰の眼にもついた。
二、三年前の大火以後、町の家は|板《いた》|屋《や》|葺《ぶき》になったが、その以前は、|草《くさ》|葺《ぶき》屋根がおおかたであった。|弥《や》|次《じ》|兵《べ》|衛《え》は往来に向った方だけ、瓦で葺いたので、
(半瓦、半瓦)と、それが通り名になってしまい、自分も得意だった。
江戸へ移住して来た初めは、弥次兵衛はただの牢人者だったが、才気と|侠気《きょうき》が備わっているので、人を|御《ぎょ》すのが上手、町人になって、屋根|請《うけ》|負《お》いを始め、やがて、諸侯の|普《ふ》|請《しん》人足を請負うようになり、また、土地の売買をやったりして、今では|懐手《ふところで》をして「親分」という特殊な敬称をうけている。
「親分」とよばれる特殊な権力家は、新しい江戸には今、彼のほかにも、|簇《ぞく》|生《せい》してきた。しかし彼はその中でも顔のひろい「親分」であった。
町の者は、武家をさむらいと尊敬するように、彼らの一族をも「男|伊達《だて》」と敬称して、むしろ武家の下風にある自分たちの味方の者としていた。
この男伊達も、江戸へ来てから、風俗だの精神は大いに変化したが、江戸の町から発生した|生《は》え抜きではない。|足《あし》|利《かが》の末の乱世には、もう|茨組《いばらぐみ》などという徒党があって――もちろんそれは男伊達などとは敬称されなかったが、「室町殿物語」などによると、
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ソノ装束ハ、|赤《セキ》|裸《ラ》ニ|茜染《アカネゾメ》ノ下帯、|小《コ》|王《ワウ》打チノ上帯ハ幾重ニモマハシ、三尺八寸ノ|朱《シユ》|鞘《ザヤ》ノ刀、柄ハ一尺八寸ニ巻カセ、二尺一寸ノ|打刀《ウチガタナ》モ同ジニ仕立テ、頭ハ髪ヲツカミ乱シ、荒縄ニテ鉢巻ムズトシメ、|黒《クロ》|革《カハ》ノ|脚《キヤ》|絆《ハン》ヲシ、|同《ドウ》|行《カウ》常ニ二十人バカリ、熊手、|鉞《マサカリ》ナド|担《ニナ》フモアリテ……
[#ここで字下げ終わり]
そして群集はそれを見ると、
(当時聞ゆる|茨組《いばらぐみ》ぞ、あたりへ寄るな、物いうな)
と、|怯《お》じ|怖《おそ》れて、道をあけて通したほどな威勢であったとある。
その茨組は、口には王義を唱えながら、時には、
(|物《もの》|奪《と》り強盗は武士の慣い)
と出かけ、市街戦の時には、|乱《らっ》|破《ぱ》に化けて、敵へも味方へも節操を売りなどしたため、平和になると、武家からも民衆からも追われてしまい、素質の悪いのは、山野に封じこめられて|追《おい》|剥《はぎ》|稼《かせ》ぎに落ち、|性骨《しょうぼね》のある者は、新開発の江戸という天地を見つけて、ここに起りかけてある文化に眼ざめ、
(正義を骨に、民衆を肉に、義と侠の男らしさを皮にして――)
新興男伊達なるものが、いろいろな職業や階級の中から今、名乗りをあげているのだった。
「帰ったぞ、どいつか、出て来ねえか。――お客さまをお連れ申しているのだ」
半瓦は、自分の家に入ると、大まかな町屋造りの奥へ向って、こう呶鳴った。
喧嘩河原
よくよく居心地がよいとみえ、お杉ばばが|半瓦《はんがわら》の家に|起《おき》|臥《ふし》を始めてから、月日はいつか一年半も巡っている。
その一年半の間、ばばは何をしていたかというと、体が、がっしり|癒《なお》ってからは、
(思わず長いお世話になりましたわいの。もうお|暇《いとま》をせにゃならぬ)
と、今日は明日はと、いい暮して来たに過ぎない。
しかし、暇を乞おうにも、|主人《あ る じ》の半瓦弥次兵衛とは、めったに顔を合わすこともない。たまたま、いたと思えば、
(まあまあ、そう気のみじかいことをいわずに、ゆるりと、|敵《かたき》をさがしなされ。身内の者も、絶えず心がけているのだから、追っつけ、武蔵の居所をつきとめ、ばば殿に、助太刀しようというているのに)
そういわれると、彼女もまた、ここの軒から立つ気も失せる。
初めのうちは、およそ江戸という土地がら[#「がら」に傍点]や風俗を、|忌《い》み嫌っていた彼女も、この半瓦の家に一年半も過ごすうちに、
(江戸の人の親切さ)
を身に沁みて、
(何という、気ままな暮し)
と、目を細めて、この土地の人間を眺めるようになっていた。
わけても、半瓦の家はそうだった。ここには百姓出の怠け者もいるし、関ケ原くずれの牢人も、親の金を|蕩《とう》|尽《じん》して逃げて来た極道者も、おととい牢屋から出て来た|入《いれ》|墨《ずみ》|者《もの》もいるが――それが弥次兵衛という戸長の|下《もと》に、大家族式な生活を営み、ざッかけない、|粗《あら》っぽい、極めて不しだらな――中にも整然たる階級を持って、
(男を磨きあう)
ということを|御《み》|神燈《あ か し》に立てて、一種の|六《む》|方《ほう》|者《もの》道場を世帯としているのだった。
この六方者道場には、親分の下に|兄哥《あ に き》があり、兄哥の下に|乾児《こ ぶ ん》があり、その乾児のうちにも古参新参の区別がやかましく、他の客分格だの、仲間の礼儀作法も、誰が立てたともなく、非常に厳密であった。
(ただ遊んでござるのが退屈だったら、若い者の世話などみてくれると有難い)
と、弥次兵衛にいわれたところから、お杉ばばは、|一《ひと》|間《ま》にあって、沢山ながさつ[#「がさつ」に傍点]者の洗濯とか、縫物などを、お針子を集めて来ては、整理してやっている。
(さすがに、|士《さむらい》のご隠居だ。本位田家とやらも、相当な家風を持った家筋とみえる)
がさつ[#「がさつ」に傍点]者は、噂し合った。お杉ばばの厳格な起居と家政ぶりは、ひどく彼らを感嘆せしめた。また、それが六方者道場の風紀を正すうえに役立った。
六方者ということばは、無法者にも通じる。|柄《つか》の長い大小を突出し、二本のから[#「から」に傍点]|脛《ずね》と、二本のこじりを突っ張って歩く男だて[#「だて」に傍点]の姿から来た町の|綽《あだ》|名《な》なのである。
「宮本武蔵という侍が立ち廻ったら、すぐあのばば殿へ知らせてやれ」
半瓦の身内は、等しくこう心がけていたが、すでに一年半からになるが、その武蔵の名は|杳《よう》としてこの江戸には聞かなかった。
半瓦弥次兵衛は、お杉ばばの口から、その意志や境遇を聞いて、甚だしく同情を抱いたのである。で、彼の持った武蔵|観《かん》は、当然、お杉ばばの武蔵観であった。
「えらい婆殿だ。憎むべき野郎は武蔵とやらだ」
そうして彼は、お杉ばばのために、裏の空地へ一室を建ててやったり、家にいる日は、|朝夕《ちょうせき》、挨拶に出たりして、賓客に仕えるように、このばばを大事にした。
乾児が、彼に訊ねた。
「お客を大事になさるのはいいが、親分ともあろう者が、どうして、そんなに鄭重になさるんですかえ」
すると、半瓦はこう答えた。
「この頃おれは、他人の親でも年よりを見ると、親孝行がしたくなるんだ。……だから俺が、どんなに、自分の死んだ親には、親不孝だったか分るだろう」
町なかの野梅は散った。江戸にはまだ桜はほとんどなかった。
わずかに、山の手の崖に、山桜が白く見られる。近年、|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》の前に、桜の並木を移植した奇特家があって、まだ若木ではあるが、ことしはだいぶ|蕾《つぼみ》を持ったという。
「ばば殿、きょうは一つ、浅草寺へお供しようと思うが、行く気はないか」
半瓦の誘いに、
「おう、観世音は、わしも信仰じゃ。ぜひ|伴《つ》れて行ってたも」
「では――」
と、いうので、お杉ばばも加えて、乾児の|菰《こも》の十郎に、お|稚《ち》|児《ご》の小六の二人に弁当など持たせて、京橋堀から舟に乗った。
お|稚《ち》|児《ご》といえば優しげに聞えるが、これが向う傷のある肉のかたじまりな、いかにも喧嘩早い生れつきに出来ているような小男で、|櫓《ろ》はうまい。
堀から隅田のながれへ漕ぎ出すと、半瓦は、|重筥《じゅうばこ》を開けさせて、
「おばあさん、実は今日は、わしのおふくろの命日なのです。|墓《はか》|詣《まい》りといっても、|故郷《くに》は遠国なので、|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》へでもお詣りして、何か一つ、今日は善いことをして帰ろうと思うのだ。……だから遊山のつもりで、|一献《ひ と つ》|飲《や》りましょう」
と、杯を持って、|舷《ふなべり》から手をのばし、大川の水を|杯《はい》|洗《せん》にしてさっと|雫《しずく》を振って婆へ|酌《さ》した。
「そうか。……それはそれは優しいお心がけじゃな」
お杉はふと、自分にもやがて来る命日を考えた。それはすぐ、又八を考えることでもあった。
「さ、少しは|飲《い》けるでしょう。水の上だが、わしらがついているから、安心して酔うておくんなさい」
「御命日なのに、酒をのんでも、悪いことはござりませぬか」
「|六《む》|方《ほう》|者《もの》は、嘘や飾りの儀式が大嫌い。それに|此方人《こちとら》は、門徒だから、物知らずでいいのです」
「久しゅう、酒も飲まなんだ。――酒はたべても、このように、|暢《のび》|々《のび》とはのう」
お杉は、杯を重ねた。
|隅田宿《すみだじゅく》の方から流れてくるこの大河は満々として広かった。|下《しも》|総《うさ》寄りの岸の方には、|鬱《うっ》|蒼《そう》とした森が折り重なり、河水に樹の根の洗われている辺りは、水もまっ蒼な日陰の|瀞《とろ》になっている。
「オオ、|鶯《うぐいす》が啼きぬいて」
「梅雨頃には、昼間も、昼ほととぎすが啼きぬくが……まだ|時鳥《ほととぎす》は」
「ご返杯じゃ。……親分様、きょうは婆もよい供養のおこぼれにあずかりましたわえ」
「そう、|欣《よろこ》んでくれると、わしも有難い。さあ、もっと重ねぬか」
すると、|櫓《ろ》を|漕《こ》いでいるお稚児が、羨ましそうに、
「親分、こっちへも、少し廻してもらいてえもので」
「てめえは、櫓がうまいから連れて来たのだ。行きに飲ますとあぶねえから、帰りにはふんだんに飲め」
「我慢は辛いものだ。大川の水がみんな酒に見える」
「お稚児、あそこで網を打っている船へ寄せて、|肴《さかな》を少し買い込め」
心得て、お稚児が漕ぎよせて、|漁師《りょうし》にかけ合うと、なんでも持って行きなされと、漁師は船板を開けてみせる。
山国で老いたお杉ばばには、目をみはるほど珍しかった。
船底にバチャバチャ生きている魚を見ると、鯉、|鱒《ます》がある。すずき、|鯊《はぜ》にくろ鯛がある。手長えびや|鯰《なまず》もある。
半瓦は、|白《しら》|魚《うお》をすぐ醤油につけて喰べ、彼女にもすすめたが、
「生ぐさは、よう喰べぬ」
と、ばばは首を振って、おぞけをふるった。
舟は間もなく、隅田河原の西へついた。河原を上がると、波打ち際の森の中に、すぐ浅草観音堂の|茅《かや》|葺《ぶき》屋根が見えた。
人々は河原へ降りた。ばばは少し酔っている。年のせいか舟から足を移すのに、よろめく気味であった。
「あぶない、手をとろう」
半瓦が手をひくと、
「なんの、やめてくだされ」
婆は手を振る。
年より扱いが元から嫌いな|性《たち》なのである。|乾児《こ ぶ ん》の|菰《こも》の十郎とお稚児の小六は、舟をつないで後から|従《つ》いた。河原は|渺々《びょうびょう》として眼の限り石ころと水であった。
するとその河原の石ころを起して、|蟹《かに》でも捕まえているらしい子供が、たまたま、河から上がった珍しい人影を見て、
「おじさん、買っとくれ」
「ばばさん、買っとくれよ」
と、半瓦とお杉のまわりに集まって来て、うるさく|強請《せが》む。
子供が好きとみえて、半瓦の弥次兵衛はうるさがりもせず、
「なんだ|蟹《かに》か。蟹なんざいらねえよ」
子供らは、一斉に、
「蟹じゃないよ」
と、着物の裾をふくろにしたり、ふところに入れたり、手に持っている物を示して、
「矢だよ、矢だよ」
と争っていう。
「なんだ、|鏃《やじり》か」
「ああ、鏃だよ」
「浅草寺のそばの|藪《やぶ》に、人間や馬を埋めた塚があるよ。お詣りする人は、そこへこの鏃を上げて拝むよ。おじさんも上げてくれよ」
「鏃は要らない。だが、銭をやるからいいだろう」
半瓦が、銭を与えると、子供たちはまた、散らかって、鏃を掘っていたが、すぐ附近の|藁《わら》屋根の家から、子供たちの親が出て来て、銭だけを取り上げて行った。
「ちぇっ」
半瓦は、嫌な気がしたとみえ、舌打ちして、眼をそらしたが、ばばは|恍《こう》|惚《こつ》と、広い河原の眺めに見惚れていた。
「この辺から、あのように|鏃《やじり》がたんと出るところを見ると、この河原にも、合戦があったのじゃろうのう」
「よくは知らぬが、|荏《え》|土《ど》の庄といわれていた頃、|戦《いくさ》がたびたびあったらしいな。遠くは、治承の昔、源頼朝が、伊豆から渡って、関東の兵をあつめたのもこの河原。――また、南朝の|御《み》|世《よ》の頃、新田|武蔵《むさしの》|守《かみ》が|小《こ》|手《て》|指《さし》ケ原の合戦から駈け渡って、|足《あし》|利《かが》方の矢かぜを浴びたのもこの辺りだし――近くは、天正の頃、太田|道《どう》|灌《かん》の一族だの、千葉氏の一党が、幾たびも興り、幾度も亡んだ跡が――この先の石浜の河原だそうな」
話しながら、歩き出すと、|菰《こも》の十郎とお|稚《ち》|児《ご》のふたりは、もう|浅《せん》|草《そう》|寺《じ》の|御《み》|堂《どう》の縁へ行って、先に腰かけている。
見れば、寺とは名のみの、ひどい|茅《かや》|葺《ぶき》|堂《どう》が一宇と、僧の住むあばら屋が、堂の裏にあるだけに過ぎない。
「……なんじゃ、これが江戸の衆がよくいう金龍山浅草寺かいな」
ばばは、一応失望した。
奈良京都あたりの古い文化の遺跡を見た眼には、余りにも原始的であった。
大川の水は、洪水の時、森の根を洗って|浸《ひた》るとみえ、御堂のすぐ側まで、平常でも、|支《わか》れ水がひたひたと寄せていた。御堂を囲む木は皆、千年も年経ったような喬木であった。――何処かでその喬木を仆す|斧《おの》の音が、怪鳥でも啼くように、時々、コーン、コーンとひびく。
「やあ、おいでなされ」
不意に、頭の上で、挨拶する声が聞えた。
(――誰?)
と驚いて、ばばが眼をあげてみると、御堂の屋根の上に坐って、|茅《かや》で屋根の修繕をしている観音堂の坊主たちであった。
半瓦の弥次兵衛の顔は、こんな町の端にも知られていると見える。下から挨拶を返しながら、
「ご苦労様。きょうは、屋根でござりますかな」
「はあ、この辺の木には、|巨《おお》きな鳥が棲んでおりますでな、|繕《つくろ》っても繕っても、茅をついばんでは、巣へ持って行ってしまうので、雨漏りがして弱りますわい。……今|降《お》りますゆえ、しばらく、おやすみ下さいませ」
|神燈《みあかし》をあげて、堂の中へ坐ってみると、なるほど、これでは雨も漏ろう、壁からも屋根裏からも星のように、昼の明りが洩れてみえる。
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|如日虚空住《にょにちこくうじゅう》
|或《わく》|被《ひ》|悪《あく》|人《にん》|逐《ちく》
堕落|金《こん》|剛《ごう》|山《せん》
|念《ねん》|彼《ぴ》|観《かん》|音《のん》|力《りき》
不能損一毛
|或値怨賊遶《わくじおんぞくにょう》
各執刀加害
|念《ねん》|彼《ぴ》観音力
|咸《げん》即起慈心
|或《わく》|遭《そう》王難苦
|臨刑欲寿終《りんぎょうよくじゅじゅう》
念彼観音力
刀尋|段《だん》|々《だん》|壊《ね》
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半瓦と並んだお杉は、|袂《たもと》から、|数《ず》|珠《ず》をとり出し、もう無想になって、|普《ふ》|門《もん》|品《ぼん》を|称《とな》えていた。
初めは|低声《こ ご え》であったが、そのうちに半瓦や|乾児《こ ぶ ん》がいることも忘れ果てた有様で、朗々と声の高まるにつれて、顔の形相も、物に|憑《つ》かれたように変ってしまう。
一巻を|誦《よ》み終ると、打ちふるえる指に数珠を押し揉み、
「――衆中八万四千衆生、|皆《かん》|発《ぱつ》|無《む》等々、|阿耨多羅三藐《あのくたらさんみゃく》三|菩《ぼ》|提《だい》|心《しん》。――南無大慈大悲|観《かん》|世《ぜ》|音《おん》|菩《ぼ》|薩《さつ》――なにとぞ、ばばが一念をあわれみたまい、一日もはやく、武蔵を討たせたまえ。武蔵を討たせたまえ。武蔵を討たせたまえ」
それからまた、|遽《にわか》に、声も体も沈めて、ひれ伏しながら、
「又八めが、よい子になり、本位田家の栄えまするよう」
彼女の祈りが終った様子をさし覗いて、堂守の僧が、
「あちらへ、湯を沸かしておきました。渋茶などお上がり下さいまし」
半瓦も乾児も、ばばのために、しびれをさすりながら起ち上がった。
乾児の十郎は、
「もう、ここなら、飲んでもようございましょう」
許しをうけると早速、堂裏にある僧の住居の縁側に、弁当をひろげ、舟で買い求めた魚などを焼いてもらって、
「この辺に、桜はねえが、花見に来たような気がするぜ」
と、お|稚《ち》|児《ご》の小六を相手に、すっかり落着きこむ。
半瓦は、|布《ふ》|施《せ》をつつんで、
「お屋根料の|足《た》しに」
と、|若干《なにがし》かを寄進したが、ふと壁に見える参詣者の寄進札のうちに、眼をみはった。
寄進の多くは、今彼がつつんだ程度の金か、それ以下の額であったが、中にたったひとり、ずば抜けた篤志家がある。
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黄金十まい
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しなの奈良井宿 大 蔵
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「お坊さん」
「はい」
「さもしいことをいうようだが、黄金十枚といっちゃ当節大金だ。いったい奈良井の大蔵というのは、そんな金持かな」
「よう存じませんが、昨年、年の暮に、ぶらりとご参詣なさいまして、関東一の|名《めい》|刹《さつ》が、このお|相《すがた》はいたましい、ご|普《ふ》|請《しん》の折には、お材木代の端に加えてくれといって、置いて行かれましたので」
「気持のいい人間もあるものだな」
「ところが、だんだん聞きますと、その大蔵様は、湯島の天神へも、金三枚ご寄進なさいました。神田の明神へは、あれは|平《たいら》の|将《まさ》|門《かど》公を|祠《まつ》ったもので、将門公が|謀《む》|叛《ほん》|人《にん》などと伝えられているのは、甚だしいまちがいだ。関東が開けたのは、将門公のお力もあるのに――といって黄金二十枚も献納したということでございますが、世には、ふしぎな奇特人もあるもので……」
と――その時、河原と寺内との境の森を、向う見ずに、ばらばらと駈け込んで来る|狼《ろう》|藉《ぜき》な|跫《あし》|音《おと》があった。
「|童《わっぱ》どもっ。遊ぶなら河原で遊べ、寺内へ入って来て乱暴するじゃないっ」
番僧は、縁側に立って、こう呶鳴った。
駈け込んで来た子供らは、|目《め》|高《だか》の群れのように、その縁側へと集まって来て口々に、
「たいへんだよ、お坊さん」
「何処かのお侍さんと、何処かのお侍さん達が、河原で喧嘩してるよ」
「一人と四人で」
「刀を抜いて」
「はやく行ってごらんよ」
番僧たちは、聞くとすぐ草履へ足を下ろして、
「またか」
と、|呟《つぶや》いた。
すぐ駈け出そうとしたが、半瓦やお杉たちを顧みて、
「お客様方、ちょっと失礼いたします。なにせい、この辺の河原は、喧嘩には足場がよいので、なんぞというと、果し合いの場所になったり、|誘《おび》き出しだの、|撲《なぐ》り合いだの、絶えず血の雨のふる所でしてな。――その度に、お奉行所から始末書を求められますので、見届けておかぬと」
子供たちはもう、河原の森の|際《きわ》へ行って、なにか声をあげて昂奮している。
「斬合か」
嫌いでない半瓦の|乾児《こ ぶ ん》二人も、その半瓦も、駈けて行った。
お杉ばばは、一番後から森を抜けて、河原境の樹の根に立って見渡した。――だが、彼女の足がおそかったので、彼女がそこへ出てみた時は、なにも、それらしい者は見えなかった。
また、あれほど|躁《さわ》いでいた子供も、駈け出した大人も、その他この界隈の漁村の男女も、皆、森の際や|木《こ》の|間《ま》がくれに、しいんと、|生《なま》|唾《つば》をのんでしまって、声一つ立てる者がない。
「……?」
婆はいぶかしく思ったが、すぐ彼女も、同じように息をひそめ、ただ凝視の眼を、じっとすえていた。
見わたす限り、石ころと水ばかりな広い河原であった。水は澄んだ空と同じ色をしていた。燕の影が、その天地を独り自由に|翔《か》けている。
――見ると今、そのきれいな流れと、石ころの道を踏んで、彼方から澄ました顔をして歩いて来る一名の侍がある。人影といっては、それしか見当らない。
侍はまだうら若い男で、背に大太刀を負っているのと、|牡《ぼ》|丹《たん》|色《いろ》の|舶《はく》|載《さい》|地《じ》の武者羽織を着ている|体《てい》がひどく派手やかであった。そして、かくも大勢の眼に、木陰から見られているのを、知ってか知らずにいるのか、いっこう無関心らしく、ふと、立止まった。
「……ア。ア」
と、その時、ばばの近くにいた傍観者が、低い声をもらした。
ばばも、はっと、眼をひからした。
牡丹色の武者羽織が立ちどまった所から、約十間ほど後に、四つの死骸が、算をみだして、斬りふせられていたことがわかった。喧嘩の勝敗はもうそれでついていたのである。四人に対して、一人の若い武者羽織の方が、決定的に、勝ちを占めたものらしい。
ところが、まだその四人のうちには、|薄傷《う す で》の程度で、多少|呼息《いき》のある者があったとみえ、牡丹色の武者羽織が、ハッと振向くと、そこの死骸から、人魂のように、血まみれな一箇が、
「まだッ、まだッ。勝負はまだだっ。逃げるなっ」
と、追いかけて来た。
武者羽織は、向き直って、尋常に待ちかまえていたが、火の玉のような|負傷《て お い》が、
「まだ、お、お、おれはまだ、生きてるぞっ」
|喚《わめ》いて、斬りかかると、|此方《こ な た》は、一歩|退《ひ》いて、相手を泳がせ、
「これでも、まだかっ」
|西《すい》|瓜《か》を割ったように、人間の顔が斬れてしまった。斬った刀は、武者羽織の背中に負っていた「物干竿」とよぶ長剣であったが、肩越しに、|柄《つか》を持った手も、斬り下げた手元も、眼には見えないほどな|技《わざ》であった。
刀を|拭《ぬぐ》っている。
それから、流れで、手を洗っている。
度々、この辺で、斬合を見つけている者でも、その落着きぶりに、|嘆息《ためいき》をもらしたが、また余りにも、|凄《せい》|愴《そう》なものに打たれて、なかには観ているだけで、蒼ざめてしまった者もある。
「…………」
とにかく誰も、その間、一語を発しる者もなかった。
手を拭いた牡丹色の武者羽織は身を伸ばして、
「岩国川の水のようだ。……|故郷《くに》を思い出すなあ」
と、つぶやいて、しばらく、隅田河原のひろさや、水をかすめて飛び|翻《かえ》る燕の白い腹を見送っていた。
――やがて彼は、急に足を早めた。もう死骸が追いかけて来る憂いはなかったが、後の面倒を考えたらしい。
河原の|水《みな》|瀬《せ》に、彼は、一|艘《そう》の小舟を見つけた。|櫓《ろ》も付いているし、恰好な乗物と思ったのであろう。それへ乗って、繋いでいる綱を解きかけるのであった。
「やいっ、侍」
半瓦の乾児の、|菰《こも》の十郎とお|稚《ち》|児《ご》の小六の二人だった。
こう木の間からいきなり呶鳴って、河原の水際へ駈け出して行き、
「その舟を、どうする気だ」
と、|咎《とが》めた。
武者羽織の体には、近づくとまだ|血腥《ちなまぐさ》いにおいが感じられた。|袴《はかま》にもわらじの緒にも、返り血がこびりついていた。
「……いけないのか」
解きかけた|繋綱《も や い》を放して、その顔がにっと笑うと、
「あたりめえだ。これは、俺たちの|持《もち》|舟《ぶね》だ」
「そうか。……駄賃をやったらよろしかろう」
「ふざけるな、俺たちは、船頭じゃあねえ」
たった今、そこで四人を一人で斬り捨てた侍に対して、こういう口がきける気の|暴《あら》さは、お稚児や|菰《こも》の口を借りて、関東の勃興文化がいうのである。新将軍の威勢や江戸の土がいうのである。
「…………」
悪かったとはいわない。
しかし、牡丹色の武者羽織も、それに横車は押せなかったと見え、小舟から出ると、黙ってまた河原を|下流《しも》の方へ歩き出した。
「小次郎どの。――小次郎どのじゃないか」
お杉はその前に迫って立っていた。顔を見あわすと、小次郎は、やあといって、初めて|凄《せい》|愴《そう》な青白さを、顔から捨てて笑った。
「いたのか。こんな所に。――いや、その後は、どうしたかと思うていたが」
「身を寄せている半瓦の|主《あるじ》や若い者と、観世音へ参詣にの」
「いつであったか、そうそう、|叡《えい》|山《ざん》でお目にかかった折、江戸へと聞いていたので、会いそうなものと思うていたが、こんな所でとは」
と、振りかえって、|呆《あっ》|気《け》にとられている菰やお稚児を眼でさしながら、
「では、あれが婆殿の連れの者か」
「そうじゃ。親分というお人は出来ている人間じゃが、若い者たちは、ひどくがさつ[#「がさつ」に傍点]揃いでの」
ばばが小次郎と馴々しく立話しを始めたことは、衆目をそばだたせたばかりでなく、半瓦の弥次兵衛も、意外であった。
で、半瓦はそれへ来て、
「なにか唯今、|乾児《こ ぶ ん》の者が、不作法を申しあげたらしゅうございますが」
と、丁寧に詫び、
「てまえどもも、もう帰ろうとしている所、何ならば、お急ぎの先まで、舟でお送り申しましょう」
と、すすめた。
かんな|屑《くず》
帰りの小舟の中。
同舟という言葉があるが、ひとつ舟に身を託すとなれば、いやでもお互いに心の|溶《と》けあうものである。
まして、酒もある。
新鮮な|魚《ぎょ》|鱗《りん》もある。
それに、婆と小次郎とは、以前からふしぎに、気心も合い、その後の話も積もるほどあって、
「相変らず、御修行かの」
と、ばばがいえば、
「そちらの大望はまだか」
と、小次郎が訊く。
ばばの大望とは、いうまでもなく「武蔵を討つ」ことにあるが、その武蔵の消息が、この頃はとんと知れないので――といえば、小次郎が、
「いや、昨年の秋から冬頃までの間に二、三の武芸者を訪れたうわさがある。まだ多分、江戸表にいるにちがいない」
と、小次郎が力づける。
|半瓦《はんがわら》も口を出して、
「実は、手前も及ばずながら、ばば殿の身の上を聞いてお力添えをしておりますが、武蔵とやらの足どりが今のところ皆目、分らねえので」
と、話は婆の境遇を中心としてそれからそれへ結びつき、
「どうぞ、これからご懇意に」
と、半瓦がいえば、
「わしからも」
と、小次郎は、杯を洗って、彼のみでなく、|乾児《こ ぶ ん》たちへも、順々に廻して|酌《つ》ぐ。
小次郎の実力は、たった今、河原で見ているので、打ち解けると、お|稚《ち》|児《ご》も|菰《こも》も、無条件に尊敬をはらった。また、半瓦の弥次兵衛は、自分の世話している婆の味方というので、|肝《かん》|胆《たん》を照らし合うところがあり、婆は婆でまた、多くの後ろ楯に囲まれて、
「渡る世間に鬼はないというが――ほんに小次郎殿といい、半瓦の身内の衆といい、わしのような老いさらぼうた者を、ようして|賜《た》もる志……何というてよいやら。これも観世音の|御《ご》|庇《ひ》|護《ご》でがなあろう」
と、|洟《はな》をかまないばかり、涙ぐんでいうのだった。
話がしめっぽくなりかけたので半瓦が、
「――時に小次郎様。最前、あなた様が河原で討ち果しなすった四人は、あれはどういう人間どもでござりますな」
と、訊ねると、待っていたように、小次郎が、それからの得意な雄弁であった。
「アア、あれか――」
と、先ず最初は事もなげに一笑して、
「あれは、|小《お》|幡《ばた》の門に出入りする牢人で、先頃から五、六回ほど、わしが小幡を訪れて議論しておると、いつも横合から口をさし挿み、軍学上のことばかりか、剣についても|小《こ》|賢《ざか》しくいうので、さらば隅田河原に来い、幾名とでも|立《たち》|対《むか》って、|巌流《がんりゅう》が秘術と、物干竿の斬れ味を見せて進ぜるといったところ、今日五名して待つというので出向いたまでです。……一人は立合うとたんに逃げおったが、いやはや、江戸には、口ほどもないのが多くて」
とまた、肩で笑う。
「小幡というのは?」
と、訊ね返すと、
「知らんのか。甲州武田家の|御《ご》|人《じん》|小《お》|幡《ばた》入道|日浄《にちじょう》の末で――|勘《かん》|兵《べ》|衛《え》|景《かげ》|憲《のり》。――大御所に拾い出され、今では秀忠公の軍学の師として、門戸を張っておる」
「アアあの小幡様で」
と、|半瓦《はんがわら》は、そういう名だたる大家を、まるで友達のようにいう小次郎の顔を、見まもった。
そして心の|裡《うら》で、
(いったいこの若い侍は、まだ前髪でいるが、どんなに偉いのか?)
と、思った。
|六《む》|方《ほう》|者《もの》は、単純である。市井の事々は複雑だが、その中を、単純に生きようというのが、男だて[#「だて」に傍点]である。
半瓦はすっかり、小次郎に傾倒してしまった。
(この人は偉い)
と思うと、こういう持前の男だて[#「だて」に傍点]は、一本槍に惚れこんでゆく。
「いかがでしょう一つ」
と、早速にも、相談であった。
「てまえどもには、しょッ中、ごろついている若い奴らが四、五十人はおります。裏には空地もあるし――そこへ道場を建ててもよろしゅうございますが」
と、小次郎の身を自宅で世話をしたいらしい|意《い》|嚮《こう》を漏らすと、
「それは、教えてやってもいいが、わしの体は、三百石での、五百石でのと、諸侯から袖を引かれて、弱っているのだ。自分は、千石以下では奉公せぬ所存で、まだ当分は――今の|邸《やしき》に遊んでおるが、その方の義理もあるから、急に身を移すわけにもゆかぬ。――そうだな、月に三、四度ぐらいならば、教授に出向いて|遣《つか》わそう」
と、いう。
それを聞くと、半瓦の|乾児《こ ぶ ん》は、いよいよ小次郎を大きく買った。小次郎のことばには、常に、単純でない伏線で自己宣伝が|潜《ひそ》んでいるが、それを噛みわけないのである。
「それでも結構です。ぜひ一つお願い申したいもので」
辞を低くして、
「また、お遊びに」
と半瓦がいえば、お杉ばばも、
「待っていますぞよ」
と、小次郎のことばをつがえた。
小次郎は京橋堀へ舟が曲る角で、
「ここで降ろしてくれ」
と、|陸《おか》へ上がった。
小舟から見ていると、|牡《ぼ》|丹《たん》|色《いろ》の武者羽織は、すぐ町中の|埃《ほこり》にかくれてしまった。
「たのもしい人だ」
と半瓦はまだ感心していたし、ばばも、口を極めて、
「あれが、|真《まこと》の武士じゃろう。あのくらいな人物なら、五百石でも、大名の口がかかりましょうわえ」
と、いった。
そして、ふと、
「せめて又八も、あのくらいに、人間が出来てくれれば……」
と|呟《つぶや》いた。
それから五日程後、小次郎はぶらりと、半瓦の家へ遊びに来た。
四、五十名もいる|乾児《こ ぶ ん》が、代る代る彼のいる客間へ、挨拶に出て来た。
「おもしろい|生活《く ら し》をしておるものだな」
小次郎は、そういって、心から愉快になったらしい。
「ここへ、道場を、建てたいと思いますが、ひとつ地所を見てくださいませんか」
と、半瓦は、彼を誘って、家の裏へ連れ出した。
二千坪ぐらいの空地だった。
そこには、|紺《こう》|屋《や》があって、染め上げた|布《ぬの》を、たくさんに干していた。その地所は、半瓦が貸しているので、いくらでも広く取れるというのである。
「ここなら、往来の者が、立ちもすまいし、道場などは要るまい。野天でいい」
「でも、雨降りの日が」
「そう、毎日は、わしが来られないから、当分、野天稽古としよう。……ただし、わしの稽古は、|柳生《やぎゅう》や町の師匠などより、うんと手荒いぞ。――|下手《へた》をすれば、片輪もできる。死人もできる。それをよく承知しておいてもらわんと困るが……」
「元より、合点でございます」
半瓦は、乾児を集めて、承知の旨を誓わせた。
稽古日は、月三回、三の日と極めて、その日になると、半瓦の家へ小次郎の姿が見えた。
「|伊達《だて》|者《しゃ》の中にまた一倍の伊達者が加わった」
と、近所では噂した。小次郎の派手姿は、何処にいても、人目立った。
その小次郎が、|枇《び》|杷《わ》の長い木太刀を持って、
「次。――次!」
と、呼ばわりながら、紺屋の干し場で、大勢に稽古をつけている姿は、なおさら、目ざましかった。
いつになったら元服するのか、もう二十三、四歳にもなろうというのに、相変らず前髪を捨てず、片肌ぬぐと、眼を奪うような桃山|刺繍《ぬい》の|襦《じゅ》|袢《ばん》を着、掛け|襷《だすき》にも、紫革を用いて、
「枇杷の木で打たれると、骨まで腐ると申すから、それを覚悟でかかって来い。――さっ、次の者、来ないか」
|身装《み な り》の|艶《あで》やかなだけに、言葉の|殺《さつ》|伐《ばつ》なのが、よけい凄くひびく。
それに稽古とはいえ、この指南者は、少しも|仮借《かしゃく》しないのだ。きょうまでにこの空地の道場は、稽古初めをしてから三回目だが、半瓦の家には一人の片輪と、四、五人の怪我人ができて、奥で|唸《うな》って寝ている。
「――もうやめか、誰も出ないのか。やめるならわしは帰るぞ」
例の毒舌が出始めると、
「よしっ、一番おれが」
と、溜りの中から、ひとりの|乾児《こ ぶ ん》が、口惜しがって立ちかけた。
小次郎の前へ出て来て、木剣を拾おうとすると、――ぎゃっと、その男は、木剣も持たずにへたばってしまった。
「剣法では、油断というものを最も|忌《い》む。――これはその稽古をつけたのだ」
小次郎は、そういって、|周《まわ》りにいる三、四十人の顔を見まわしている。皆、|生《なま》|唾《つば》をのんで、彼の厳しい稽古ぶりに|顫《おのの》いた。
へたばった男を、井戸端へ|担《かつ》いで行って、水をかけていた乾児たちは、
「だめだ!」
「死んだのか」
「もう|呼吸《いき》はねえ」
後から駈け寄る者もあって、がやがや騒いでいたが、小次郎は、見向きもしなかった。
「これくらいなことに恐れるようでは、剣術の稽古などはしないがいい。お前らは、|六《む》|方《ほう》|者《もの》だの|伊達《だて》|者《もの》だのといわれて、ややもすると、喧嘩するではないか」
|革《かわ》|足袋《たび》で、空地の土を踏んで歩きながら、彼は講義口調でいう。
「――考えてみろ、六方者。おまえらは、足を踏まれたからといっては喧嘩をし、刀のこじりに|触《さわ》ったといってはすぐに抜き合うがだ――いざ、改めて、真剣勝負となると、体が固くなってしまうのだろう。女出入りや意地張りの、ツマらぬことには|生命《い の ち》も捨てるが、大義に捨てる勇を持たない。――なんでも、感情と鼻っぱりで起つ。――それじゃあいかん」
小次郎は、胸を伸ばして、
「やはり修行を経た自信でなければ、ほんものの勇気でない。さあ、起ってみろ」
その広言を|凹《へこ》ましてやろうと、一人が後ろから|撲《なぐ》りかかった。しかし、小次郎の体は地へ低く沈み込み、不意を襲った男は前へもんどり打った。
「――|痛《いて》えっ」
と、叫んだままその男は坐ってしまった。|枇《び》|杷《わ》の木剣が、腰の骨に当った時、がつんといった。
「――もう今日はやめ」
小次郎は、木剣を|抛《ほう》り出して、井戸端へ手を洗いに行った。たった今、自分が木剣で撲り殺した|乾児《こ ぶ ん》が、井戸の流しに、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]みたいに白っぽくなって死んでいたが、その顔のそばで、ざぶざぶと手を洗っても、死人には、気の毒という一言もいわなかった。――そして、肌を入れると、
「近頃、たいへんな人出だそうだな、|葭《よし》|原《わら》とやらは。……お前たちは皆、明るいのだろう。誰か今夜案内せぬか」
と、笑っていった。
遊びたい時は、遊びたいというし、飲みたい時は、飲ませろという。
|衒《てら》いとも見えるが、率直だともいえる。小次郎のそういう気性を、半瓦はいい方に買っている。
「|葭《よし》|原《わら》をまだ見ねえんですか。そいつあ一度は行って見なくちゃいけねえ。手前がお供をしてもいいが何しろ死人が一人出来ちまって、そいつの始末をしてやらなけれやなりませんから――」
と、弥次兵衛は乾児のお|稚《ち》|児《ご》と|菰《こも》の両名に金を預けて、
「ご案内してあげろ」
と、小次郎に付けて出した。
出かける際、彼らは親分の弥次兵衛からくれぐれも、
「今夜は、|汝《てめえ》たちが遊ぶんじゃねえ。先生のご案内をして、よく観せてお上げ申すのだぞ」
といわれて来たが、|門《かど》を出るとすぐ忘れて、
「なあ兄弟、こういう御用なら、毎日仰せつかってもいいなあ」
「先生、これから時々、葭原が見てえと、仰っしゃっておくんなさい」
と、はしゃいでいる。
「はははは。よかろう、時々いってやる」
小次郎は先に歩む。
陽が暮れる途端に、江戸は真っ暗だった。京都の端にもこんな暗さはない。奈良も大坂も、もっと夜は明るいが――と江戸へ来て一年の余になる小次郎でも、まだ足元が不馴れだった。
「ひどい道だ。|提燈《ちょうちん》を持って来ればよかったな」
「|廓《くるわ》へ提燈なんぞ持ってゆくと笑われますぜ。先生、そっちは堀の土を盛りあげてある土手だ。下をお歩きなさい」
「でも、水溜りが多いではないか。――今も|葭《よし》の中へ|辷《すべ》って、草履を濡らした」
堀の水が、|忽《こつ》|然《ねん》と、赤く見え出した。仰ぐと、川向うの空も赤い。一|廓《かく》の町屋の上には、柏餅のような晩春の月があった。
「先生、あそこです」
「ほう……」
眼をみはった時、三人は橋を渡っていた。小次郎は渡りかけた橋をもどって、
「この橋の名は、どういうわけだな」
と、|杭《くい》の文字を見ていた。
「おやじ橋っていうんでさ」
「それはここに書いてあるが、どういうわけで」
「庄司甚内ってえおやじがこの町を開いたからでしょう。|廓《くるわ》で|流行《はや》っている小唄に、こんなのがありますぜ」
|菰《こも》の十郎は、|廓《くるわ》の灯に浮かされて、低い声で唄い出した。
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おやじが前の竹れんじ
その|一《ひと》|節《ふし》のなつかしや
おやじが前の竹れんじ
せめて一夜と|契《ちぎ》らばや
おやじが前の竹れんじ
いく世も千代も契るもの
ちぎるもの……
仇にな引くな
切れぬ|袂《たもと》を
[#ここで字下げ終わり]
「先生にも、貸しましょうか」
「何を」
「こいつで、こう顔を隠してあるきます」
と、|稚《ち》|児《ご》と|菰《こも》のふたりは、|茜染《あかねぞめ》の手拭を払って、頭からかぶった。
「なるほど」
と、小次郎も|真《ま》|似《ね》て|袴腰《はかまごし》に巻いていた|小豆《あ ず き》色の|縮《ちり》|緬《めん》を、前髪のうえからかぶって、顎の下にたっぷり結んで下げた。
「|伊達《だて》だな」
「よう似合う」
橋を渡ると、ここばかりは、往来も|燈《ひ》に染まり、格子格子の人影も、織るようであった。
|暖《の》|簾《れん》から暖簾へ、小次郎たちはわたり歩いていた。
|茜染《あかねぞめ》の暖簾や、紋を染めぬいた浅黄の暖簾などもある。或る|楼《うち》の暖簾には、鈴がついていて、客が割って入ると、|鈴《すず》の|音《ね》を聞いて、遊女たちが、窓格子まで寄って来た。
「先生、隠したってもうだめですぜ」
「なぜ」
「初めて来たと仰っしゃいましたが、今、はいった|楼《うち》の遊女の中で、先生の姿を見ると、声を出して|屏風《びょうぶ》の陰へ、顔をかくした女があった。もう泥を吐いておしまいなせえ」
菰もお稚児も、そういうが、小次郎には覚えがなかった。
「はてな。どんな女が……?」
「|空《そら》|恍《と》ぼけたって、もういけません。|登楼《あが》りましょう、今の|楼《うち》へ」
「まったく、初めてだが」
「|登楼《あが》ってみれば分るこってさ」
今出て来たばかりの|暖《の》|簾《れん》の内へ、二人はもう引っ返している。大きな三ツ|柏《がしわ》の紋を三つに割って、端に、|角《すみ》|屋《や》としてある暖簾であった。
柱も廊下も、寺のように大まか[#「まか」に傍点]な建築だが、まだ縁の下には枯れない|葭《よし》が埋まっているのである。なんの|煤《くす》みもなければ|床《ゆか》しさもない。家具も|襖《ふすま》も、すべてが目に痛いほど新しかった。
三人が通ったのは、往来に向いた二階の広座敷であったが、前の客の|残《ざん》|肴《こう》やら鼻紙などが、まだ|掃《は》きもせず散らかっている。
下働きの女たちは、まるで女の労働者のように、ぶっきら棒にそれを片づける。お|直《なお》という年寄が来て、毎晩、寝る間もない忙しさで、こんなことが三年も続いたなら死ぬかも知れませんという。
「これが|遊廓《く る わ》か」
と、小次郎は、|夥《おびただ》しい天井のふし[#「ふし」に傍点]だらけなのを眺めて、
「いや、殺伐な」
と、苦笑した。するとお直は、
「これはまだ|仮《かり》|普《ぶ》|請《しん》で、いま裏の方に、伏見にも京にもないような本普請にかかっているのでございますよ」
と、弁解する。そしてじろじろ小次郎を見ながら、
「お武家様には、どこかでお目にかかっておりますよ。そうそう昨年、私たちが伏見から下って来る道中で」
小次郎は忘れていたが、そういわれて、|小仏《こぼとけ》の上で出会った|角《すみ》|屋《や》の一行を思い出し、その|庄司《しょうじ》甚内が、ここの|主《あるじ》ということも分って、
「そうか。……それは浅からぬ縁だ」
と、やや興に入る。菰の十郎は、
「それやあ、浅くねえわけでしょう。何しろ、|此楼《ここ》には、先生の知っている女がいるんだから」
と、|揶《や》|揄《ゆ》して、その遊女をはやくここへ呼んでくれとお直へいう。
こんな顔の、こんな衣裳の、と菰が説明するのを聞いて、
「ああ、わかりました」
お直は立って行ったが、いつまで待っても、連れて来ないのみか、菰とお稚児が廊下まで出てみると、なんとなく楼内が|躁《さわ》がしい。
「やいっ、やいっ」
二人が手をたたいて、お直を呼び、どうしたのだと極めつける。
「いないんでございますよ。あなたが呼べと仰っしゃった遊女が」
「おかしいじゃねえか、どうしていなくなったんだ」
「今も、親方の甚内様と、どうもふしぎだと、話しているのでございます。以前も、小仏の途中で、お連れのお武家様と甚内様が話していると、その間に、あの|娘《こ》の姿が見えなくなってしまったことがあるんでございますからね」
|棟《むね》|上《あ》げをしたばかりの|普《ふ》|請《しん》|場《ば》であった。屋根は|葺《ふ》きかけてあるが、壁もない、羽目板も打ってない。
「――|花《はな》|桐《ぎり》さん、花桐さん」
遠くのほうで呼ぶ声がする。山のように|溜《たま》っているかんな[#「かんな」に傍点]|屑《くず》や、材木の間を、何度も、自分を探しまわる人影が通った。
「…………」
|朱《あけ》|実《み》はじっと息をころして隠れていた。花桐というのは、角屋へ来てからの自分の名である。
「……いやなこった。誰が出てやるものか」
初めは、客が小次郎と分っていたので、姿を隠したのであるが、そうしている間に、憎らしいものは、小次郎だけではなくなった。
清十郎も憎い、小次郎も憎い、八王子で、酔っている自分を|馬糧《ま ぐ さ》小屋へ引きずりこんだ牢人者も憎い。
毎夜のように、自分の肉体をおもちゃにして行く遊客たちもみな憎い。
それはみんな男というものだ。男こそは|仇《かたき》だと思う。同時に彼女はまた、男を探して生きている。武蔵のような男を――である。
(似ている人でもいい)
と、彼女は思った。
もし似ている人に出会ったら、愛の真似事をしても、慰められるだろうと朱実は思っていた。だが、遊客の中に、そんな者は見つからなかった。
求めつつ、恋しつつ、だんだんにその人から遠くなるばかりな自分が朱実にはわかっていた。酒はつよくなるばかりだった。
「花桐っ……。花桐」
|普《ふ》|請《しん》|場《ば》とすぐくっ付いている角屋の裏口で、親方の甚内の声が近く聞え、やがて空地の中へは、小次郎たち三名の姿も見えている。
さんざん詫びをいわせたり、文句をいったあげく、三名の影は空地から往来の方へ出て行った。多分、あきらめて帰ったものと見える。朱実は、ほっとして、顔を出した。
「――あら花桐さん、そんな所にいたのけ?」
台所働きの女が、頓狂な声を出しかけた。
「……|叱《し》っ」
朱実は、その口へ手を振って、大きな台所口を|覗《のぞ》きながら、
「|冷酒《ひや》でひと口くれないか」
「……え。お酒を」
「ああ」
彼女の顔いろに怖れをなして、かたくち[#「かたくち」に傍点]へ|満《なみ》|々《なみ》と|注《つ》いでやると、朱実は、眼をつむって、|器《うつわ》と共に、白い|面《おもて》を仰向けにのみほした。
「……ア、何処へ。花桐さん、何処へ」
「うるさいね、足を洗ってあがるんだよ」
台所の女は、安心して、そこを閉めた。けれど朱実は、土のついた足のまま、有合う草履に足をかけて、
「ああいい気もち」
ふらふらと、往来のほうへ歩み出した。
赤い|灯《ほ》|影《かげ》に染まっている往来を、たくさんな男ばかりの影が、ぞめき合ってながれていた。朱実は|呪《のろ》うように、
「なんだいこの人間たちは」
と、|唾《つば》をして、そこを走った。
すぐ道は暗くなった。白い星が堀の中に浮いている。――じっと覗きこんでいると、後ろのほうから、ばたばたと駈けて来る跫音がする。
「……あ、角屋の|提燈《ちょうちん》らしい。ばかにしてやがる、あいつらはあいつらで、ひとが路頭に迷っているのをいい気になって、骨まで|削《けず》らせて|稼《かせ》がせる気なんだろう。――そしてあたい達の血や肉が、普請場の材木になりゃあ世話あないや。……誰がもう帰ってやるものか」
世間のあらゆるものが敵視されるのであった。朱実は、まっしぐらに、|的《あて》もなく闇の中へ駈け去った。髪についていたかんな[#「かんな」に傍点]屑が一ひら、闇の中にひらひら動いて行った。
|梟《ふくろう》
したたかに小次郎は酔っていたのである。もちろん、その程度に、どこかの|揚《あげ》|屋《や》で遊びぬいた|挙《あげ》|句《く》に違いない。
「肩……肩だおい……」
「ど、どうするんで? 先生」
「両方から肩を貸せというのだ――もう、あるけない」
|菰《こも》の十郎とお|稚《ち》|児《ご》の小六の肩にすがって、汚れた|夜《よ》|更《ふ》けの|色《いろ》|街《まち》を、|蹌《そう》|踉《ろう》ともどって来るのだった。
「だから、泊ろうと、おすすめしたのに」
「あんな|楼《うち》に、泊れるか。……おい、もういちど、角屋へ行ってみよう」
「およしなさい」
「な、なぜ」
「だって、逃げ隠れするような女を、むりに、つかまえて、遊んだって……」
「……む。そうか」
「惚れているんですか、先生はその女に」
「ふ、ふ、ふ、ふ」
「何を思い出しているんで」
「おれは、女になど、惚れたことはないな。……そういう|性格《たち》らしい。もっと、大きな野望を抱いているから」
「先生の望みってえのは?」
「いわずとも知れている。剣を持って立つ以上、剣の第一人者にならずにはおかない。――それには将軍家の指南になるのが上策だが」
「|生《あい》|憎《にく》と……もう柳生家があるし……小野|治《じ》|郎《ろう》|右衛《え》|門《もん》という人も近頃、御推挙されましたぜ」
「治郎右衛門……あんな者が。……柳生とて|惧《おそ》るるには足らん。……見ていろ、わしは今に、|彼奴《き ゃ つ》らを蹴落してみせる」
「……あぶねえ。先生、自分の足元の方を、気をつけておくんなさいよ」
もう|廓《くるわ》の灯は、後ろだった。
通う人影もとんとない。行きがけにも悩んだ掘りかけの堀端へ出て来たのである。盛り上げた土に柳の木が半分も埋まっているかと思うと、一方は低い|蘆《あし》や|葭《よし》の水たまりがまだ残っていて、白い星の影が|更《ふ》けている。
「|辷《すべ》りますぜ」
この|堤《どて》から下へ、厄介者を|担《かつ》いで、菰とお稚児が降りかけた時だった。
「――あっ」
叫んだのは、小次郎であったしまた、その小次郎に、突然、振り飛ばされた|両人《ふ た り》でもあった。
「何者だっ」
と、小次郎は、|堤《どて》の腹へ、仰向けに身を伏せながら、再び呶鳴った。
その声を、びゅっと、虚空へ斬りながら、背後から不意を襲った男の影は、自分の足先を、余勢に踏み|外《はず》して、これも、あっ――といいながら下の沼地へ飛びこんでしまった。
「わすれたか、佐々木」
と、何処かでいう。
「よくもいつぞやは、隅田河原で同門の四名を斬りすてたな」
べつな者の声である。
「おうっ」
小次郎は、|堤《どて》の上へ跳ね上がって、そこらの声を見廻した。――見ると、土の陰、木の陰、蘆の中、十人以上の人影が数えられた。彼がそこに立ったと見ると、すべてが、むらむらと|刃《やいば》を向けて、足元へ寄りつめてきた。
「――さては、|小《お》|幡《ばた》の門人どもだな。いつぞやは、五人で来て四人を失い、こん夜は何名で来て何名が死にたいのだ。望みの数だけ斬ってやろう。……卑劣者めッ、来いっ」
小次郎の手は肩越しに、背なかの愛剣、物干竿の|柄《つか》に鳴った。
|平《ひら》|河《かわ》|天《てん》|神《じん》と背なか合せに、森を負っている屋敷だった。旧家の|草《くさ》|葺《ぶき》屋根へ、新しい講堂や玄関を継ぎ建てて、小幡勘兵衛|景《かげ》|憲《のり》は、軍学の門人を取っていた。
勘兵衛は元、武田家の|家《け》|人《にん》で、甲州者の中でも武門の聞えの高い小幡入道|日浄《にちじょう》の流れである。
武田の滅亡後久しく野に隠れていたが、勘兵衛の代になって家康に召出され、実戦にも出たが、病体だし、もう老年なので、
(願わくは、年来の軍学を講じて、余生を奉じたい)
と、今の所へ移ったのである。
幕府は、彼のためにも、下町の一区画を宅地として与えたが、勘兵衛は、
(甲州出の武辺者が、|華《か》|奢《しゃ》な邸宅が軒を並べている間に住むのは、不得手でござれば――)
と、辞退して、平河天神の古い農家を屋敷構えに直し、いつも病室に閉じこもって、近頃は、講義にも滅多に顔を見せない。
森には、|梟《ふくろう》が多くいて、昼間も梟の声がする程なので、勘兵衛は、
|隠士梟翁《いんしきょうおう》
と自ら名乗り、
(わしも、あの仲間の一羽か)
と、わが病骨を、さびしく笑ったりしていた。
病気は今でいう神経痛のようなものであった。|発《ほっ》|作《さ》が起ると、坐骨のあたりから半身が猛烈に痛むらしい。
「……先生、少しはおよろしくなりましたか。水でも一口おあがりなされては」
いつも彼の側には、北条新蔵という弟子がつき添っていた。
新蔵は、北条|氏《うじ》|勝《かつ》の子で、父の遺学を継いで、北条流の軍学を完成するために、勘兵衛の内弟子となって、少年の頃から、|薪《まき》を割り水を|担《にな》って、苦学して来た青年だった。
「……もうよい。……だいぶ楽になった。……やがて夜明け近くであろうに、さだめし眠たかろう。やすめ、やすめ」
勘兵衛の髪の毛は、まっ白であった。体は、老梅のように痩せて|尖《とが》っている。
「お案じくださいますな。新蔵は、昼寝しておりますから」
「いや、わしの代講ができる者は、そちのほかにはない。昼間も、なかなか眠る間もあるまい……」
「眠らないのも、修行と存じますれば」
新蔵は、師の薄い背中をさすりながら、ふと、消えかける|短《たん》|檠《けい》を見て、|油壺《あぶらつぼ》を取りに起った。
「……はての?」
枕に|俯《う》つ|伏《ぷ》していた勘兵衛が、ふと肉の|削《そ》げた顔をあげた。
その顔に、灯が冴えた。
新蔵は、油壺を持ったまま、
「何でござりますか?」
と、師の眼を見た。
「そちには聞えないか……水の音だ……石井戸の辺りに」
「オオ……人の気配が」
「今頃、何者か。……また、弟子部屋の者どもが、夜遊びに出おったのかもしれぬ」
「おおかた、そんなことかと存じますが、一応見て参りまする」
「よく、|窘《たしな》めておけ」
「いずれにせよ、お疲れでございましょう。先生は、おやすみなされませ」
夜が白みかけると、痛みもやみ、すやすや寝つく病人であった。新蔵は、師の肩へ、そっと寝具をかけて、裏口の戸を開けた。
見ると、石井戸の流しで、|釣《つる》|瓶《べ》を上げて、二人の弟子が、手や顔の血を、洗っていた。
北条新蔵は、それを見ると、はっとしたらしく眉をひそめた。|革《かわ》|足袋《たび》のまま石井戸の側まで駈け出して、
「出かけたな! 貴様たちは」
と、いった。
その言葉には、あれほど止めたのに――と叱っても今は及ばないものを見た嘆息と驚きがこもっていた。
石井戸の陰には、二人が背負って来た|深傷《ふ か で》の門人が、もう一名、今にも息をひきとりそうに、|呻《うめ》いていた。
「あっ、新蔵殿」
手足の血を洗っていた同門の二人は、彼の姿を仰ぐと、男泣きに泣き出しそうな|皺《しわ》を顔に刻んで、
「……ざ、残念です!」
弟が兄に訴えるような、甘えた|嗚《お》|咽《えつ》と、歯がみをして叫んだ。
「馬鹿っ」
|撲《なぐ》らないだけがまだいい新蔵の声だった。
「馬鹿者っ」
と、もう一度つづけて、
「――貴公たちに討てる相手ではないから|止《よ》せと、再三再四、わしが止めたのになぜ出かけたか」
「でも……でも……。ここへ来ては、病床の師を|辱《はずか》しめ、隅田河原では、同門の者を四名も討った――あの佐々木小次郎づれ[#「づれ」に傍点]を、何でそのままに置けるものでしょうか。……無理ですっ、意地も抑え、手も抑えて、黙って|怺《こら》えていろと仰っしゃる新蔵殿の方が、ご無理というものです」
「何が無理だ」
年こそ若いが、新蔵は小幡門中の高足であり、師が病床にあるうちは、師に代って弟子達に臨んでいる位置でもあった。
「貴公たちが出向いていい程なら、この新蔵が真っ先に行く。――先頃からたびたび道場へ訪れて来て、病床の師に、無礼な広言を吐きちらしたり、われわれに対しても、傍若無人な小次郎という男を、わしは怖れて捨てておいたのではないぞ」
「けれど、世間はそうは受けとりません。――それに、小次郎は、師のことや、また兵学上のことまでも、|悪《あ》しざまに、各所でいいふらしているのです」
「いわせておけばいいではないか。老師の真価を知っている者は、まさか、あんな青二才と論議して、負けたと誰が思うものか」
「いや、あなたはどうか知りませんが、われわれ門人は、黙っていられません」
「では、どうする気だ」
「|彼奴《き ゃ つ》を、斬り捨てて、思い知らせるばかりです」
「わしが止めるのもきかずに、隅田河原では、四人も返り討ちにあい、また今夜も、かえって彼のために敗れて帰って来たではないか。――恥の上塗りというものだ。老師の顔に泥をぬるのは、小次郎ではなくて、門下の各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]たちだという結果になるではないか」
「あ、あまりなお言葉。どうして吾々が、老師の名を」
「では、小次郎を討ったか」
「…………」
「今夜も、討たれたのは、恐らく味方ばかりだろう。……各々[#「々」は底本では二の字点DFパブリW5D外字=#F05A]にはあの男の力がわからないのだ。なるほど、小次郎という者は、年も若い、人物も大きくはない、粗野で高慢な風もある。――けれど彼が持っている天性の力――何で鍛え得たか――あの物干竿とよぶ大剣をつかう腕は、否定できない彼の実力だ。|見《み》|縊《くび》ったら大間違いだぞ」
喰ってかかるように、門下の一人は、そういう新蔵の胸いたへ不意に迫って来た。
「――だから、|彼奴《き ゃ つ》に、どんな振舞いがあっても仕方がないと仰っしゃるのですか。――それほど、あなたは、小次郎が怖ろしいのでござるかっ」
「そうだ。そういわれても仕方がない」
新蔵は、|頷《うなず》いて見せながら、
「わしの態度が、臆病者に見えるなら、臆病者といわれておこう」
――すると、地に|呻《うめ》いていた|深傷《ふ か で》の男が、彼と二人の友の足元から苦しげに訴えた。
「水を……水をくれい」
「お……もう」
二人が、左右から掻い抱いて、|釣《つる》|瓶《べ》の水を|掬《すく》ってやりかけると、新蔵があわてて止めた。
「待て。水を|遣《や》っては、すぐこときれる」
二人がためらっている間に、|負傷《て お い》は首をのばして釣瓶にかぶりついた。そして水を一口吸うと、釣瓶のなかに顔を入れたまま、眼を落してしまった。
「…………」
朝の月に、|梟《ふくろう》が啼いた。
新蔵は、黙然と立ち去った。
家にはいると、彼はすぐ師の病室をそっと|窺《うかが》った。勘兵衛は|昏《こん》|々《こん》とふかい寝息の中にある。ほっと胸をなでて、彼は自分の居間へ|退《さ》がった。
読みかけの軍書が机のうえに開いてある。書に親しむ間もない程、毎夜の看護である。そこへ坐って、自分の体に|回《かえ》ると、同時に夜ごとのつかれが一時に思い出された。
机の前に、腕を|拱《く》んで、新蔵は思わず太い息をついた――自分を|措《お》いて今、誰が老いたる師の病床を見る者があろう。
道場には幾人かの内弟子もいるが、皆、武骨な軍学書生である。門に通う者はなおさら、威を張り、武を談じ、孤寂な老師の心情をふかく|酌《く》んでいる者は少ない。ややともすれば、ただ外部との意地や争闘にのみ走りやすい。
すでに今度の問題にしてもそうである。
自分の留守のまに、佐々木小次郎が、何か兵書の質疑で、勘兵衛に|糺《ただ》したいことがあるというので、門人が彼を師の勘兵衛に会わせたところ、教えを乞いたいといった小次郎が、かえって、|僭《せん》|越《えつ》な議論をしかけて、勘兵衛をやりこめるために来たかのような|口吻《くちぶり》なので、弟子たちが、別室へ彼を|拉《らつ》して、その|不《ふ》|遜《そん》をなじると、かえって小次郎は大言を放ち、そのうえ、
(いつでも相手になる)
と、いって帰ったとかいうのが原因なのである。
原因は常に小さい。しかし結果は大きなことになった。それというのも小次郎がこの江戸で、小幡の軍学は浅薄なものだとか、甲州流などというが、あれは古くからある|楠流《くすのきりゅう》や唐書の|六《りく》|韜《とう》を焼直して、でッち上げたいかがわしい兵学だとか、世間で悪声を放ったのが、門人の耳に伝わって、よけいに感情が悪化したせいもあるが、
(生かしてはおけぬ)
と、|小《お》|幡《ばた》の門人がこぞって、彼に復讐をちかい出したのであった。
北条新蔵は、その議が持ち上がると、最初から反対した。
――問題が小さい事。
――師が病中にある事。
――相手が軍学者でない事。
それからもう一つ、老師の子息の余五郎が旅先にいることも理由として、
(断じてこちらから喧嘩に出向いてはならぬ)
と、|戒《いまし》めて来たのであった。――にもかかわらず、先頃は新蔵に無断で隅田河原で小次郎と出会い、また、それにも|懲《こ》りず衆を語らって、ゆうべも、小次郎を待ちぶせ、かえって|手《て》|酷《ひど》い目に遭って、約十名のうち生きて還ったのは幾人もない様子なのである。
「……困ったことを」
新蔵は、消えかける|短《たん》|檠《けい》へ、何度も嘆息をもらしては、また、腕ぐみの中に|面《おもて》を沈めていた。
机に|肘《ひじ》をのせて|俯《う》つ|伏《ぷ》したまま、北条新蔵はうとうとと眠ってしまった。
ふと醒めると、何処かで騒がしい人声が|幽《かす》かに聞える。すぐ門弟たちの|寄《より》|合《あい》だと分った。明け方のことが、それと共に、頭にはっと|甦《よみがえ》った。
――だが、声のする所は遠かった。講堂を|覗《のぞ》いても誰もいない。
新蔵は、草履を|穿《は》いた。
裏へ出て、若竹のすくすくと青い竹林を越えると、垣もなく、平河天神の森へつづいてゆく。
見るとそこに、大勢してかたまっているのは、案のじょう、小幡軍学所の門下生たちだった。
明け方、石井戸で傷を洗っていた二人は、白い布で腕を|頸《くび》に吊っている。そして蒼白な|面《おもて》を並べて、同門たちに、ゆうべの惨敗を告げているのだった。
「……では何か、十名も行って、小次郎一人のために、その半分までも返り討ちになったというのか」
一人が問うと、
「残念だが、何分、|彼奴《き ゃ つ》が物干竿と|称《よ》んでいるあの|大《おお》|業刀《わざもの》には、どうしても、刃が立たんのだ」
「村田、|綾《あや》|部《べ》など、ふだん剣法にも、熱心な男なのに」
「かえって、その二人などが、真っ先に、割りつけられ、後もみな|深傷《ふ か で》|薄傷《う す で》。|与《よ》|惣《そ》|兵《べ》|衛《え》など、ここまで気丈に帰って来たが、ひと口、水をのむと、井戸端でこときれてしまった……。かえすがえす無念でならぬ。……御一同、察してくれ」
暗然と、皆、口をつぐんでしまう。平常、軍学に傾倒しているこの派の人々は、いわゆる剣というものを、あれは歩卒の|習《まな》ぶもので、将たる者の励むことではないように思っている者が多かった。
それが|端《はし》なくこんな事態を生じて、一人の佐々木小次郎に|出《で》|会《あい》を仕掛けながら、二度まで、多くの同門が返り討ちになってみると、痛切に、ふだん軽蔑していた剣法に自信のないのが悲しまれてきた。
「……どうしたものか」
と、そのうちに誰か|呻《うめ》く。
「…………」
重い沈黙の上に、きょうも|梟《ふくろう》が啼いている。――と、突然、名案が|泛《う》かんだように一人がいった。
「おれの|従弟《い と こ》が、柳生家に奉公している。柳生家へご相談して、お力を借りてはどうだろう」
「ばかな」
と、幾人もいった。
「そんな外聞にかかわることができるか。それこそ、師の顔に泥を塗るようなものだ」
「じゃあ……じゃあどうするか?」
「ここにいる人数だけで、もう一度佐々木小次郎へ、出会い状をつけようではないか。暗闇で待ち伏せるなどということはもうしない方がよい。いよいよ、小幡軍学所の名折れを増すばかりだ」
「では、再度の果し状か」
「たとい、何度敗れても、このまま|退《ひ》くわけにはゆくまい」
「もとよりだ。……だが、北条新蔵に聞こえるとまたうるさいが」
「勿論、病床の師にも、あの秘蔵弟子にも、聞かしてはならない。――では、|社《しゃ》|家《け》へ参って、筆墨を借り、すぐ書面を|認《したた》めて、誰か一名、小次郎の手許へ使いに立つとしよう」
腰を上げて、大勢がひっそりと、平河天神の社家のほうへ歩みかけると、先に歩いていたのが不意に、あッと口走って、身を|退《ひ》いた。
「……や?」
誰の足も皆、とたんに棒立ちに|竦《すく》んでしまった。そして眼は――一様に平河天神の拝殿の裏にあたる――古びた廻廊の上へ、うつろに|注《そそ》がれた。
陽あたりのよい壁に、|青《あお》|梅《うめ》の|実《み》のついた老梅の影が描かれていた。そこの|欄《らん》に、片足をのせて、佐々木小次郎は、|先刻《さ っ き》から、森の集まりを見ていたのであった。
大勢の顔は、一瞬、|胆《きも》を奪われて、蒼白い|腑《ふ》|抜《ぬ》けになっていた。
そして、自分たちの眼を疑うように、廻廊の上に小次郎を見あげ、声を出すのはおろか、|呼息《いき》も止まったように、身を|硬《こわ》め合っている。
小次郎は、|傲《ごう》|岸《がん》な微笑を含んでその人々を|見《み》|下《くだ》しながら、
「今、そこで聞いていれば、まだ|懲《こ》りもせず、この小次郎へ果し状を付けるとか付けぬとか、談合しておられたな。――使いの世話には及ばんことだ。わしは昨夜の血の手も洗わず、いずれ揺り返しがある筈と、卑怯者の後を慕って、この平河天神へ来て夜明けを待ちあぐねておった」
例の壮烈な舌を|呵《か》して、一気に小次郎はこういったが、それに気を呑まれて、大勢の顔からぐ[#「ぐ」に傍点]の|音《ね》も出ないので、また――
「それとも小幡の門人らは、果し合いをするにも、大安とか仏滅とか、|暦《こよみ》と相談でなければ出来ないのか。昨夜のように、相手が|酩《めい》|酊《てい》して帰る途中を待ち伏せして、|暗《やみ》|討《う》ちをしかけなければ刃物はぬけないと申すのか」
「…………」
「なぜ黙っている。生きている人間は一匹もおらぬのか。一人一人来るもよし、|束《たば》になってかかるもよし、佐々木小次郎は、汝らごときが、たとい鉄甲に身を固め、|鼓《つづみ》を鳴らして|襲《よ》せて来たとて、|背後《う し ろ》を見せるような武芸者ではないぞ」
「…………」
「どうしたっ」
「…………」
「果し合いは、見合せか」
「…………」
「骨のある奴はいないのか」
「…………」
「聞け。よく耳に留めておけ、刀法は富田五郎左衛門が歿後の弟子、抜刀の|技《わざ》は、片山|伯《ほう》|耆《きの》|守《かみ》|久《ひさ》|安《やす》の秘奥をきわめて、自ら|巌流《がんりゅう》とよぶ一流を工夫した小次郎であるぞ。――書物の講義ばかり|齧《かじ》って、|六《りく》|韜《とう》がどうの|孫《そん》|子《し》が何といったのと、架空な修行しておる者とは、この腕が違う、胆が違う」
「…………」
「貴様たちは、平常、小幡勘兵衛から何を学んでいるか知らぬが、兵学とは何ぞや? わしは今、その実際を汝らに、身をもって教訓してつかわしたのだ。――なんとなれば、広言ではないが、ゆうべのような暗討ちに出会えば、たとい勝っても、大概な者なら|逸《いち》|早《はや》く安全な場所へ引揚げて、今朝あたりは、思い出してホッとしておる所だ。――それを、斬って斬って斬り捲り、なお、生きのびて逃げるを追い、突然、敵の本拠に現れ、|足《そっ》|下《か》らが善後策を講じる間もなく不意を衝いて、敵の|荒《あら》|胆《ぎも》を|挫《ひし》ぐという――この行き方が、つまり軍学の極意と申すもの」
「…………」
「佐々木は、剣術家ではあるが軍学家ではない。それなのに軍学の道場へ来てまで、|小癪《こしゃく》をいうなどと、誰やら|何日《いつ》か|此《この》|方《ほう》を|罵《ば》|倒《とう》した者もいたが、これで佐々木小次郎が、天下の剣豪であるばかりでなく、軍学にも達していることが、よく分ったろう。……あはははは。これはとんだ軍学の代講をしてしまった。この上、商売ちがいの|蘊《うん》|蓄《ちく》を傾けては病人の小幡勘兵衛が|扶《ふ》|持《ち》ばなれになろうも知れん。……ああ|喉《のど》が|渇《かわ》いた。おい小六、十郎、気のきかぬ奴だ。水でも一杯持って来い」
振向いていうと、拝殿の横で、へいと威勢のよい答えがする。|菰《こも》の十郎とお|稚《ち》|児《ご》の小六の二人だった。
|土器《かわらけ》へ水を|酌《く》んで来て、
「先生。やるんですか、やらねえんですか?」
小次郎は、飲みほした|土器《かわらけ》を、茫然としている小幡の門人達の前へ投げつけて、
「訊いてみろ。あのぼやっとした顔に」
「あははは。なんてえ|面《つら》だ」
小六が|罵《ののし》ると、十郎も、
「ざまあ見やがれ。意気地なしめ。……さ先生、行きましょう。どう見たって、一匹でも、|蒐《かか》って来られる|面《つら》はないじゃアございませんか」
ふたりの|六《む》|方《ほう》|者《もの》を連れた小次郎の姿が、肩で風を切って、平河天神の鳥居の外へ消えてゆくまで――物陰から北条新蔵は見送っていた。
「……おのれ」
新蔵はつぶやいた。
それと共に、|苦汁《くじゅう》をのむような|堪《かん》|忍《にん》の|顫《ふる》えが体のなかを廻った。しかし今は――
「今に見ろ」
と、念じておくよりほか彼にはなかった。
出鼻を逆に衝かれて、拝殿の裏に立ち|竦《すく》んでしまった大勢の者は、まだ一語を洩らす者もなくしん[#「しん」に傍点]と白けたまま、かたまっていた。
小次郎が弁じ立てて行ったように、まったく、彼らは小次郎の戦法に乗ぜられてしまったのだ。
一度、臆病風に吹かれた顔に、最初の活気はもう|甦《よみがえ》って来なかった。
同時に、心頭に燃えるほどだった彼らの怒りも、|女《め》|々《め》しい灰になってしまったらしい。誰あって、小次郎の後ろ姿へ向って、
(おれが)
と、進んで追って行く者もなかったのである。
そこへ、講堂の方から、|仲間《ちゅうげん》が駈けて来て、今、町の|棺《かん》|桶《おけ》|屋《や》から棺桶が五つも届いて来ましたが、そんなに棺桶を注文したのでしょうか――と訊ねて来た。
「…………」
口をきくのも嫌になったように皆、それにも答える者がない。
「棺桶屋が、待っておりますが……」
と|仲間《ちゅうげん》の催促に、初めて一人が、
「まだ取りにやった死骸が届かぬから、よく分らぬが、多分、もう一つぐらい要るだろうから、後のも頼んで、届いたのは、物置へでも一時仕舞っておけ」
と、重たい|口吻《くちぶり》でいった。
やがて棺桶は、物置のなかにも積まれ、めいめいの頭の中にも、その幻影が、一個ずつ積まれた。
講堂で、|通《つ》|夜《や》が営まれた。
病室へは知れぬように、極めてそっと送ったが、勘兵衛もうすうすわけを知ったらしく見える。
しかし、何も訊かないのだ。
そこへ|侍《かしず》いている新蔵もまた、何も告げなかった。
激していた人々は、その日から殆ど|唖《おし》みたいに黙って|暗《あん》|鬱《うつ》になり、誰よりも消極的で、誰からも臆病者に見えていた北条新蔵のひとみには、もう我慢ならないといったようなものが常に底に燃えていた。
そうして彼は独り、
(今に、今に)
と、来る日を待っていた。
その待つ日の間に、彼はふと、或る日、病師の枕元から見える|巨《おお》きな|欅《けやき》の木の|梢《こずえ》に、一羽の|梟《ふくろう》が止まっているのを見つけた。
その梟は、いつ眺めても、同じ所の|梢《こずえ》にとまっていた。
昼間の月を見ても、どうかすると、その梟は、ほうほうと啼くのであった。
夏を越えると、秋ぐちから、師の勘兵衛の|病《やまい》は|篤《あつ》くなった。余病が出たのである。
(近い、近い)
と、梟の声が、師の死期を知らせるように、新蔵には、聞えてならない。
勘兵衛の一子|余《よ》|五《ご》|郎《ろう》は旅先にあったが、変を聞いて、すぐ帰ると書面でいって来た。――その人の着くのが早いか、死の迎えが早いか――と憂えられていたこの四、五日であった。
どっちにせよ、北条新蔵には、自分の決意を果す日が近づいたのであった。彼は、もう|明日《あす》は師の子息余五郎がここへ着くという前夜、遺書を残して小幡軍学所の門にわかれを告げた。
「無断で立ち去ります罪は、どうぞお|宥《ゆる》し下さいまし」
樹陰から、老師の病間へ向って、彼はいんぎんな挨拶を残して行った。
「もはや明日は、御子息余五郎様が御帰宅ゆえ、ご病間のことも、安心して去りまする。――したが、果たして、小次郎の|首級《し る し》をさげて、御生前に、再びお目にかかれるや否や。……万一にも、私もまた、小次郎の手にかかり、返り討ちになった時は、一足先に死出の山路でお待ちしておりまする」
[#地から2字上げ]宮本武蔵 第五巻 了
本電子文庫版は、吉川英治歴史時代文庫18『宮本武蔵(五)』(一九八九年一二月刊)を底本としました。
作品中に、身体の障害や人権にかかわる差別的な表現がありますが、文学作品でもあり、かつ著者が故人でもありますので、そのままとしました。ご了承ください。
|宮《みや》|本《もと》|武蔵《む さ し》(五)
電子文庫パブリ版
|吉《よし》|川《かわ》 |英《えい》|治《じ》 著
(C) Fumiko Yoshikawa 1936-1939
二〇〇一年八月一〇日発行(デコ)
発行者 野間省伸
発行所 株式会社 講談社
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